Libo

皇极经世观物外篇衍义

宋 · 张行成

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

皇極經世書・観物外篇衍義(邵雍撰 宋張行成衍義)

易経易学典籍

術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。

皇極經世書・観物外篇衍義(邵雍撰 宋張行成衍義)

巻一 天地體用の数

天數五,地數五,合而為十,數之全也。天以一而變四,地以一而變四,四者有體也,而其一者無體也,是謂有無之極也。天之體數四而用者三,不用者一也。地之體數四而用者三,不用者一也。是故無體之一以況自然也,不用之一以況道也,用之者三以況天地人也。

天に属する数は五個あり、地に属する数もまた五個あり、両者が相合すればすなわち十で、これがこそ「数」の完整な形態である。天は「一」より出発して四に演じ、地もまた「一」より出発して四に演ず。この四者は皆形の指すべき実体ありて、それらを生出したあの「一」はしかし形体の指すべきなく、だから「有」と「無」の極至と称す。天の「体数」は四で、真に作用を起こすはただ三、別に一個が存して用いられない。地の「体数」もまた四で、作用を起こすは同じく三、同じく一個が存して用いられない。ここを以て、あの形体なき「一」は、用いて天地の未だ分かれざる時の自然本然を比況す。あの存して用いられざる「一」は、用いて万物を生成して自ら運作せざる「道」を比況す。そして実際に用いを起こす三は、則ち用いて天・地・人のこの三才を比況する。

體者八變,用者六變,是以八卦之象不易者四,反易者二,以六卦變而成八也。重卦之象不易者八,反易者二十八,以三十六變而成六十四也。故爻止於六,卦盡於八,策窮於三十六,而重卦極於六十四也。卦成於八,重於六十四,爻成於六,策窮於三十六而重於三百八十四也。

「体」に属する一系は八次の変化を経るを要し、「用」に属する一系は六次の変化を経るを要す。だから八卦の卦象の裏に、倒して見てもなお変わらざるは四個あり、すなわち乾・坤・坎・離である。正反相倒すればすなわち別の一卦と成るは両対あり、すなわち震と艮・巽と兌である。合わせてただ六個の卦象の変化なれど、八個の卦を生出す。六十四の重卦もまたこのごとし:倒して変わらざるは八個、正反相倒するは二十八対あり、合わせてただ三十六種の卦象の変化なれど、六十四卦を生出す。だから爻位は至りて多くとも六に止まり、単卦は至りて多くとも八に止まり、一爻の「策数」は至りて多くとも三十六に止まり、重卦は至りて多くとも六十四に止まる。単卦は三画より成りて八個、相重ねればすなわち六十四個と成る。一卦は六爻より成り、一爻の策数は三十六に窮尽し、六十四卦は各々六爻を具え、合計すればすなわち三百八十四爻。

天有四時,一時四月,一月四十日。四四十六而各去其一,是以一時三月,一月三十日也。四時體數也,三月三十日用數也。體雖具四而其一常不用也,故用者止於三而極於九也。體數常偶,故有四有十二。用數常奇,故有三有九。

もし「体数」に按って推算せば、一年に四時あり、一時に四ヶ月あるべく、一ヶ月に四十日あるべし。四に四を乗ずれば十六を得るも、しかし毎一層に皆その中の一份を減ずるを要するので、実際には一時はただ三ヶ月、一ヶ月はただ三十日のみ。四時・四月・四十日は「体数」に属し、三月・三十日は「用数」に属す。体数は四份を具足すとはいえ、その中に総じて一份が閑置して用いられないので、用いうるはただ三に至り、極処に推せばすなわち三に三を乗ずるの九である。体数は常に偶数で、因りて四あり十二あり。用数は常に奇数で、因りて三あり九あり。

大數不足而小數常盈者何也?以其大者不可見而小者可見也。故時止乎四,月止乎三,而日盈乎十也。是以人之肢體有四而指有十也。天見乎南而潛乎北,極於六而餘於七,是以人知其前,昧其後,而略其左右也。

なぜ大きな単位は常に不足に顕れ、小さな単位はかえって常に余裕あるか?大きな単位は渺茫として見えがたく、小さな単位はしかし歴歴として数えうるがゆえに。だから「時」はただ四に至り、「月」はただ三に至り、「日」はしかし満ちて十に至る。人身はまさにこの道理に照らす:四肢はただ四あり、手指はしかし十あり。天体は南方に顕現して北方に潜没し、昼夜の分際は六分に極まりて略ば余裕あって七分と為るので、人はただ身前を看清しえ、身後を見えず、左右の両側に対してもただ約略に照顧するのみ。

天體數四而用三,地體數四而用三,天克地地克天而克者在地,猶晝之餘分在地也,是以天三而地四,天有三辰,地有四行也。然地之火且見且隱,其餘分之謂耶?

天の体数は四にして実用は三、地の体数は四にして実用もまた三。天は地を克し地は天を克し、交互に相克して、克せられた結果は地の上に落つ——ちょうど白昼の多く出たあの一点の余分が地面上に落ちて計算されるがごとし。だから天は三を用い地は四を用いると言う:天上に日・月・星の三種の明辰あり、地上に水・火・土・石の四種の質行あり。ただ地上の火は時に顕現し時に潜蔵して、水土石のごとく常に在るに似ず——それはおそらくあの多く出た余分であろう?

乾七子,兌六子,離五子,震四子,巽三子,坎二子,艮一子,坤至陰,故無子。乾七子,坤六子,兌五子,艮四子,離三子,坎二子,震一子,巽剛,故無子。

先天卦位の次第に按って各卦の生ずる所の「子」を数える:乾に七子あり、兌に六子あり、離に五子あり、震に四子あり、巽に三子あり、坎に二子あり、艮に一子あり。坤は陰が極処に至ったので、生ずべき子なし。別に一種の排法あり:乾に七子あり、坤に六子あり、兌に五子あり、艮に四子あり、離に三子あり、坎に二子あり、震に一子あり。巽は剛を以て体と為すので、生ずべき子なし。前の説は純陰が独りで生ずる能わざるに就いて論を立て、後の説は純剛が独りで生ずる能わざるに就いて論を立て、各々一辺に拠って義を取る。

天有二正,地有二正,而共享二變以成八卦也。天有四正,地有四正,共享二十八變以成六十四卦也。是以小成之卦正者四,變者二,共六卦也。大成之卦正者八,變者二十八,共三十六卦也。乾坤坎離為三十六卦之祖,兌震巽艮為二十八卦之祖也。

天に二個の倒転して変わらざる正卦あり、すなわち乾と離。地にもまた二個の倒転して変わらざる正卦あり、すなわち坤と坎。この外に共用して両対の正反相倒する変卦あり、合わせてすなわち八卦と成る。重卦に推すれば、天に四個の正卦あり、地に四個の正卦あり、この外に共用して二十八対の正反相倒する変卦あり、合わせてすなわち六十四卦と成る。だから八卦のこの「小成」の数は、正卦四個・反覆相倒する二個で、共に六卦と為る。六十四卦のこの「大成」の数は、正卦八個・反覆相倒する二十八個で、共に三十六卦と為る。乾・坤・坎・離はあの三十六卦の祖で、兌・震・巽・艮はあの二十八卦の祖である。

乾坤七變,是以晝夜之極不過七分也。艮兌六變,是以月止於六,共為十二也。離坎五變,是以日止於五,共為十也。震巽四變,是以體止於四,共為八也。

乾坤は各々七度の変化あるので、昼夜長短の極限は七分を過ぎず——夏至は昼が七分を得夜が三分を得、冬至は則ち反対す。艮兌は各々六度の変化あるので、月の数目は六に止まり、陰陽両面が相合して共に十二ヶ月を成す。離坎は各々五度の変化あるので、日の数目は五に止まり、陰陽両面が相合して共に十日を成し、すなわち十天干である。震巽は各々四度の変化あるので、形体の数目は四に止まり、陰陽両面が相合して共に八を成し、すなわち八卦の体である。

卦之正變共三十六,而爻又有二百一十六,則用數之策也。三十六去四則三十二也,又去四則二十八也,又去四則二十四也,故卦數三十二位,去四而言之也。天數二十八位,去八而言之也。地數二十四位,去十二而言之也。四者乾坤坎離也,八者並頤中孚大小過也,十二者兌震泰既濟也。

卦の正卦と変卦は合計三十六で、この三十六卦は共に二百一十六爻あり——まさに「用数」の策で、すなわち《繋辞》の言う乾の策二百一十六である。三十六より四を減ずれば三十二を得、再び四を減ずれば二十八を得、再び四を減ずれば二十四を得る。だから「卦数三十二位」と言うは、三十六の裏より四を減じて講ずる。「天数二十八位」と言うは、八を減じて講ずる。「地数二十四位」と言うは、十二を減じて講ずる。減ずる所の四は、乾・坤・坎・離を指す。減ずる所の八は、この四卦の外にさらに頤・中孚・大過・小過を加える。減ずる所の十二は、則ちこの八卦の外にさらに兌・震・泰・既済を加える。

日有八位而用止於七,去乾而言之也。月有八位而用止於六,去兌而言之也。星有八位而用止於五,去離而言之也。辰有八位而用止於四去震而言之也。日有八位而數止於七,去泰而言之也。月自兌起者,月不能及日之數也。故十二月常餘十二日也。

日は八卦の位次に配して、用いうるはただ七に至る——あれは乾を除いて言う。月は八位に配して、用いうるはただ六に至る——あれは兌を除いて言う。星は八位に配して、用いうるはただ五に至る——あれは離を除いて言う。辰は八位に配して、用いうるはただ四に至る——あれは震を除いて言う。日はまた八位に配して数はただ七に至る——あれは泰を除いて言う。月の位次は兌より起算するを要し、まさに月行の度数が日行の度数に及ばざるを説明す——だから十二個の朔望月の外に常に十二日を剩下し、これがすなわち暦法が閏を置く由来である。

乾陽中陽,不可變,故一年只舉十二月也。震陰中陰,不可變,故一日之十二時不可見也。兌陽中陰,離陰中陽,皆可變,故日月之數可分也。是以陰數以十二起,陽數以三十起,而常存二六也。舉年見月,舉月見日,舉日見時,陽統陰也。是天四變含地四變,日之變含月與星辰之變也。是以一卦含四卦也。

乾は陽中の陽で、純にして再び変ずべからず——だから一年はただ十二ヶ月のこの一層を挙出して言う。震は陰中の陰で、純にして再び変ずべからず——だから一日の内の十二時辰に形迹の見ゆるなし。兌は陽中の陰、離は陰中の陽で、皆なお再び変ずべし——だから日と月の数目は能く分派して開ける。ここを以て陰数は十二より起算し、陽数は三十より起算して、二と六のこの両数は常に存して廃せず。「年」を挙出すればすなわち「月」を見、「月」を挙出すればすなわち「日」を見、「日」を挙出すればすなわち「時」を見る——これは陽が陰を統摂する道理である。すなわち天の四変は地の四変を包含し、日の変化は月と星辰の変化を包含するので、一卦の中に四卦を含む。

日一位,月一位,星一位,辰一位。日有四位,月有四位,星有四位,辰有四位,四四十有六位,盡此一變而日月之數窮矣。天有四變,地有四變,變有長也,有消也,十有六變而天地之數窮矣。日起於一,月起於二,星起於三,辰起於四,引而伸之,陽數常六,陰數常二,十有二變而大小之運窮矣。

日は一位を占め、月は一位を占め、星は一位を占め、辰は一位を占む。そして日の下にまた四位を分かち、月の下にまた四位を分かち、星の下にまた四位を分かち、辰の下にまた四位を分かつ——四四相乗して共に十六位を得、この一輪の変化を走り尽くせば、日月の数はすなわち窮尽す。天に四種の変化あり、地に四種の変化あり、変化の中に生長の一面あり、また消退の一面あり——十六変して後に天地の数はすなわち窮尽す。日は一より起こり、月は二より起こり、星は三より起こり、辰は四より起こる。このように照らして推衍して下れば、陽数は常に六を得、陰数は常に二を得——十二変して後に「大運」と「小運」の数もまたすなわち窮尽す。

三百六十變為十二萬九千六百,十二萬九千六百變為一百六十七億九千六百一十六萬,一百六十七億九千六百一十六萬變為二萬八千二百一十一兆九百九十萬七千四百五十六億。以三百六十為時,以十二萬九千六百為日,以一百六十七億九千六百一十六萬為月,以二萬八千二百一十一兆九百九十一萬七千四百五十六億為年,則大小運之數立矣。

三百六十が自乗一次して、十二万九千六百に変ず。十二万九千六百が自乗一次して、一百六十七億九千六百一十六万に変ず。一百六十七億九千六百一十六万が再び自乗一次して、二万八千二百一十一兆九百九十万七千四百五十六億に変ず。このように逐層に放大して後、再び三百六十を以て一「時」と為し、十二万九千六百を以て一「日」と為し、一百六十七億九千六百一十六万を以て一「月」と為し、二万八千二百一十一兆九百九十一万七千四百五十六億を以て一「年」と為せば、「大運」と「小運」の数目はこれに就いて立定す。

二萬八千二百一十一兆九百九十一萬七千四百五十六億分而為十二,前六限為長,後六限為消,以當一年十二月之數,而進退三百六十日矣。一百六十七億九千六百一十六萬分而為三十,以當一月三十日之數,隨大運消長而進退六十日矣。十二萬九千六百分而為十二,以當一日十二時之數,而進退六日矣。三百六十以當一時之數,隨小運之進退以當晝夜之時也。

二万八千二百一十一兆九百九十一万七千四百五十六億のこの「年」の数を分かちて十二限と為し、前の六限は生長に属し、後の六限は消退に属し、用いて一年の十二ヶ月に対応し、その間の進退は共に三百六十日。一百六十七億九千六百一十六万のこの「月」の数を分かちて三十份と為し、用いて一ヶ月の三十日に対応し、大運の消長進退に随いて共に六十日。十二万九千六百のこの「日」の数を分かちて十二份と為し、用いて一日の十二個の時辰に対応し、進退共に六日。再び三百六十を以て一個の時辰の数と為し、小運の進退に随いて、用いて昼夜の内の時刻に対応す。

十六變之數去其交數,取其用數,得二萬八千二百一十一兆九百九十一萬七千四百五十六億,分為十二限,前六限為長,後六限為消,每限得十三億九千九百六十八萬之一百六十七億九千六百一十六萬。每一百六十七億九千六百一十六萬年開一分,進六十日也。六限開六分,進三百六十日也。猶有餘分之一,故開七分,進三百六十六日也。其退亦若是矣。

十六変の得た総数は、彼此交錯重畳の「交数」を除去して、ただ真に作用を起こす「用数」を取れば、二万八千二百一十一兆九百九十一万七千四百五十六億を得る。それを分かちて十二限と為し、前の六限は生長に属し、後の六限は消退に属し、毎一限に十三億九千九百六十八万個の一百六十七億九千六百一十六万を得る。毎に一百六十七億九千六百一十六万年を過ぎればすなわち一分を開出し、六十日を前進す。六限に六分を開出し、三百六十日を前進す。この外になお一分の余数を剩るので、七分に開くを要し、共に三百六十六日を前進す。消退のあの一半もまた、この弁法に照らして倒して推す。

十二萬九千六百,去其三者,交數也,取其七者,用數也。用數三而成於六,加餘分故有七也。七之得九萬七百二十年,半之得四萬五千三百六十年,以進六日也。日有晝夜,數有誂朒,以成十有二日也。每三千六百年進一日,凡四萬三千二百年進十有二日也。二千一百六十年以進餘分之六,合交數之二千一百六十年,共進十有二分以為閏也。故小運之變凡六十,而成三百六十有六日也。

十二万九千六百のこの数は、その中の十分の三を去る——あれは交錯重畳の「交数」である。その中の十分の七を取る——あれがこそ「用数」である。用数はもともと三を以て基と為して六に成り、さらに一点の余分を加えるので、だから七である。十分の七を取れば九万零七百二十年を得、それの一半を取れば四万五千三百六十年を得、用いて六日を推進す。日は昼夜の両面に分かれ、数に盈縮の両勢あり、合わせてすなわち十二日と成る。毎に三千六百年に一日を推進し、四万三千二百年に則ち十二日を推進す。別に二千一百六十年を用いて余分の六を推進し、再び交数の占むる二千一百六十年を合上して、共に十二分を推進し、用いて閏余を安置す。だから小運の変化は共に六十次で、正しく三百六十六日を湊成す。

六者三天也,四者兩地也。天統乎體而托地以為體,地分乎用而承天以為用。天地相依,體用相附。

「六」は「参天」の三に一倍を加えて来たり、「四」は「両地」の二に一倍を加えて来たる——これがすなわち先天の学のいわゆる「加一倍法」である。天は「体」を総攬するも、しかし地の上に寄托してはじめて形体を顕し出しうる。地は「用」を分領するも、しかし天の運行を承受してはじめて作用の言うべきあり。天と地とは彼此相依傍し、体と用とは彼此相附麗して、一辺を缺けば皆成立しえない。

巻二 分長の数と体用の策

乾為一,乾之五爻分而為大有,以當三百六十之數也。乾之四爻分而為小畜,以當十二萬九千六百之數也。乾之三爻分而為履,以當一百六十七億九千六百一十六萬之數也。乾之二爻分而為同人,以當二萬八千二百一十一兆九百九十萬七千四百五十六億之數也。乾之初爻分而為姤,以當七秭九千五百八十六萬六千一百十垓九千九百四十六萬四千八京八千四百三十九萬一千九百三十六兆之數也。是謂分數也。分大為小,皆自上而下,故以陽數當之。

先天卦序の裏に乾は第一に居る。乾の第五爻が変じて分かち大有を出し、用いて三百六十のこの数に対応す。乾の第四爻が変じて分かち小畜を出し、用いて十二万九千六百のこの数に対応す。乾の第三爻が変じて分かち履を出し、用いて一百六十七億九千六百一十六万のこの数に対応す。乾の第二爻が変じて分かち同人を出し、用いて二万八千二百一十一兆九百九十万七千四百五十六億のこの数に対応す。乾の初爻が変じて分かち姤を出し、用いて七秭九千五百八十六万六千一百十垓九千九百四十六万四千八京八千四百三十九万一千九百三十六兆のこの数に対応す。この一路を「分数」と呼ぶ:大きなを剖分して小さなと為すは、皆上より下に推衍するので、陽数を拿ってそれに配す。

一生二為夬,當十二之數也。二生四為大壯,當四千三百二十之數也。四生八為泰,當五億五千九百八十七萬二千之數也。八生十六為臨,當九百四十四兆三千六百九十九萬六千九百一十五億二千之數也。十六生三十二為復,當二千六百五十二萬八千八百七十垓三千六百六十四萬八千八百京二千九百四十七萬九千七百三十一兆二千萬億之數也。三十二生六十四為坤,當無極之數也。是謂長數也,長小為大,皆自下而上,故以陰數當之。

坤の一辺より見れば則ち層層に加倍する「加一倍法」である:一が二を生じて夬と成り、十二のこの数に対応す。二が四を生じて大壮と成り、四千三百二十のこの数に対応す。四が八を生じて泰と成り、五億五千九百八十七万二千のこの数に対応す。八が十六を生じて臨と成り、九百四十四兆三千六百九十九万六千九百一十五億二千のこの数に対応す。十六が三十二を生じて復と成り、二千六百五十二万八千八百七十垓三千六百六十四万八千八百京二千九百四十七万九千七百三十一兆二千万億のこの数に対応す。三十二が六十四を生じて坤と成り、窮尽なき無極の数に対応す。この一路を「長数」と呼ぶ:小さなを滋長して大きなと為すは、皆下より上に推衍するので、陰数を拿ってそれに配す。

天統乎體,故八變而終於十六。地分乎用,故六變而終於十二。天起於一,而終於七秭九千五百八十六萬六千一百一十垓九千九百四十六萬四千八京八千四百三十九萬一千九百三十六兆。地起於十二,而終於二百四垓六千九百八十萬七千三百八十一京五千四百九十一萬八千四百九十九兆七百二十萬億也。

天は「体」を総攬するので、八次の変化を経て十六に終結す。地は「用」を分領するので、六次の変化を経て十二に終結す。天のこの一路は一より起算し、一直に七秭九千五百八十六万六千一百一十垓九千九百四十六万四千八京八千四百三十九万一千九百三十六兆に至るまで推す。地のこの一路は十二より起算し、一直に二百四垓六千九百八十万七千三百八十一京五千四百九十一万八千四百九十九兆七百二十万億に至るまで推す。

有地然後有二,有二然後有晝夜。二三以變,錯綜而成,故易以二而生數,以十二而起,而一非數也,非數而數以之成也。天行不息,未嘗有晝夜,人居地上以為晝夜,故以地上之數為人之用也。

地あってそうして後にはじめて「二」あり、「二」あってそうして後にはじめて昼と夜を分かち出しうる。二と三とが交互に変化して、錯綜配搭して万象を成すので、《易》は二より数を起こし、十二より位を立つ。「一」自体に至っては並びに数の裏に算えられない——それは数にあらざるとはいえ、一切の数はしかし皆それを靠ってはじめて生成す。天体は運行して停まらず、もともと並びに昼夜の別なし。人は地面上に住んで、日出日落を見てはじめて昼夜の名を立下したので、暦数はただ地面上に見る所の数を取って、人事の用と為す。

天自臨以上,地自師以上,運數也。天自同人以下,地自遯以下,年數也。運數則在天者也,年數則在地者也。天自賁以上,地自艮以上,用數也。天自明夷以下,地自否以下,交數也。天自震以上,地自晉以上,有數也。天自益以下,地自豫以下,無數也。天之有數起乾而止震,餘入於無者,天辰不見也。地去一而起十二者,地火常潛也,故天以體為基而常隱其基,地以用為本而常藏其用也。

先天卦図の上に於いて、天の一辺は自ら臨卦以上・地の一辺は自ら師卦以上は、「運数」に属す。天の一辺は自ら同人以下・地の一辺は自ら遯以下は、「年数」に属す。運数は天のあの一面に在り、年数は地のあの一面に在る。天は自ら賁以上・地は自ら艮以上は、「用数」に属す。天は自ら明夷以下・地は自り否以下は、「交数」に属す。天は自ら震以上・地は自ら晋以上は、「有数」に属す。天は自ら益以下・地は自ら豫以下は、「無数」に属す。天の有数は乾より起こりて震に止まり、その余は皆「無」の一辺に落ち入る——これは天上の辰が晦暗にして見えざるがゆえに。地の数は一より起算せずして十二より起算す——これは地中の火が常に潜伏するがゆえに。だから天は「体」を以て根基と為すも常に根基を隠し、地は「用」を以て根本と為すも常に作用を蔵す。

一時止於三月,一月止於三十日,皆去其辰數也。是以八八之卦六十四而不變者八,可變者七。七八五十六,其義亦由此矣。陽爻晝數也,陰爻夜數也,天地相銜,陰陽相交,故晝夜相雜,剛柔相錯。春夏陽多也,故晝數多夜數少,秋冬陰多也,故晝數少夜數多。

一時はただ三ヶ月を算え、一ヶ月はただ三十日を算うるは、皆「辰」に属するあの一份を除掉したである。だから八八相重ねた六十四卦の裏に、倒転して変わらざるは八個あり、変じうるはただ七類のみで、七に八を乗ずれば五十六を得——道理もまたここより来る。陽爻は白昼の数を代表し、陰爻は黒夜の数を代表す。天と地とは彼此相銜接し、陰と陽とは彼此相交入するので、昼夜は互相に参雑し剛柔は互相に錯列す。春夏は陽気多きがゆえに、昼の数多くして夜の数少なし。秋冬は陰気多きがゆえに、昼の数少なくして夜の数多し。

體數之策三百八十四,去乾坤坎離之策為用數三百六十。體數之用二百七十,去乾與坎離之策為用數之用二百五十二也。體數之用二百七十,其一百五十六為陽,一百十四為陰,去離之策,得一百五十二陽,一百一十二陰,為實用之數也。

「体数」の策は共に三百八十四あり、乾・坤・坎・離の四卦の占むる二十四策を除去して、剩る三百六十——これがすなわち「用数」である。体数の中に実際に動用するは二百七十で、再び乾と坎・離の策数を除去して、剩る二百五十二——これがすなわち「用数の用」である。体数の用の二百七十の裏面に、一百五十六は陽に属し、一百一十四は陰に属す。再び離卦の策数を除掉して、一百五十二陽・一百一十二陰を得——これがこそ実際に使用する数である。

蓋陽去離而用乾,陰去坤而用坎也。是以天之陽策一百十二,去其陰也。地之陰策一百十二,陽策四十,去其南北之陽也。極南大暑,極北大寒,物不能生,是以去之也。其四十為天之餘分耶?陽侵陰,晝侵夜,是以在地也。合之為一百五十二陽,一百十二陰也。陽去乾之策,陰去坎之策,得一百四十四陽,一百八陰,為用數之用也。

これは陽の一辺に於いて離を除いて専ら乾を用い、陰の一辺に於いて坤を除いて専ら坎を用いるがゆえに。だから天の陽策は一百一十二で——あれはその中の陰を除掉したである。地の陰策もまた一百一十二で、陽策は則ち四十——あれは南北両端の陽を除掉したである。南方の極処は酷暑にして、北方の極処は厳寒にして、万物は皆生長しえないので、除掉するを要す。あの余る四十は、おそらく天の余分であろう?陽が陰に侵入し昼が夜に侵入する——この一分はすなわち地の上に落つ。両下に合計しても、なお一百五十二陽・一百一十二陰である。もし陽の一辺に再び乾の策を除き、陰の一辺に再び坎の策を除けば、すなわち一百四十四陽・一百八陰を得——これがすなわち「用数の用」である。

陽三十六,三之為一百八。陰三十六三之為一百八。三陽三陰,陰陽各半也。陽有餘分之一為三十六,合之為一百四十四陽,一百八陰也,故體數之用二百七十,而實用者二百六十四,用數之用二百五十二也。

陽爻の策は三十六を取り、三倍之すれば一百八を得る。陰爻のこの一辺は同じく三十六を取り、三倍之してもまた一百八を得る。三陽三陰が相配して、陰と陽とはちょうど各々一半を占む。陽に別に余分の一份ありて、また三十六で、それを合い入れればすなわち一百四十四陽・一百八陰と成る。だから体数の用は二百七十で、真に用い得るは二百六十四で、「用数の用」は則ち二百五十二である。

卦有六十四而用止乎三十六,爻有三百八十四而用止乎二百一十六也。六十四分而為二百五十六,是以一卦去其初上之爻亦二百五十六也,此生物之數也,故離坎為生物之主,以離四陽,坎四陰,故生物者必四也。陽一百一十二,陰一百一十二,去其離坎之爻則二百一十六也,陰陽之四十共為二百五十六也。是以八卦用六爻,乾坤主之也。六爻用四位,離坎主之也。故天之昏曉不生物而日中生物,地之南北不生物而中央生物也。

卦は六十四个あるも実際に用いを起こすはただ三十六个のみ、爻は三百八十四个あるも実際に用いを起こすはただ二百一十六个のみ。六十四卦は毎卦に各々四份に分かれ、共に二百五十六を得る。毎卦の六爻より初・上の両爻を去りてただ中間の四爻を用いれば、六十四卦もまた二百五十六を得——これがすなわち「生物の数」である。だから離と坎とは生物の主宰である:離卦は上下相重ねて四個の陽あり、坎卦は上下相重ねて四個の陰あり——見れば生物の数は必ず四を以て準と為す。陽爻は一百一十二、陰爻は一百一十二で、離坎両卦の爻を去ればすなわち二百一十六を剩し、再び陰陽が各々余出した四十を合い入れて、共に二百五十六と為す。ここを以て八卦は六爻を足さねば用いられず、乾坤を以て主と為す。六爻はただ中間の四位を取り、離坎を以て主と為す。だから天は早晚昏暁の際に物を生ぜずして正午に物を生じ、地は南北両端に物を生ぜずして中央に物を生ず。

體數何為者也?生物者也。用數何為者也?運行者也,運行者天也,生物者地也。天以獨運,故以用數自相乘,而以用數之用為生物之時也。地偶而生,故以體數之用陽乘陰,為生物之數也。

「体数」は何を為すに用いるか?万物を生長するに用いる。「用数」は何を為すに用いるか?運行して息まざるに用いる。運行の一面は天に属し、生物の一面は地に属す。天は独自に運転するので、用数を拿って自ら相乗じ、再び「用数の用」を以て生物の時刻を定む。地は成双に配偶してはじめて生育しうるので、体数の用の裏の陽数を拿って陰数に乗じ、用いて生物の数目を定む。

天數三,故六六而又六之,是以乾之策二百一十有六。地數兩,故十二而十二之,是以坤之策百四十有四也。乾用九,故三其八為二十四,而九之亦二百一十六,兩其八為十六,而九之亦百四十有四。坤用六,故三其十二為三十六,而六之亦二百一十六,兩其十二為二十四,而六之亦百四十有四也。坤以十二之三,十六之四,六之一與半為乾之餘分,則乾得二百五十二,坤得一百八也。陽四卦,十二爻八陽四陰。以三十六乘其陽,以二十四乘其陰,則三百八十四也。

天の数は三なので、六六三十六に再び六を乗じて、乾の策二百一十六を得る。地の数は二なので、十二に再び十二を乗じて、坤の策一百四十四を得る。乾は九を用いるので、三個の八は二十四で、二十四に九を乗ずればまた二百一十六。両個の八は十六で、十六に九を乗ずればまた一百四十四。坤は六を用いるので、三個の十二は三十六で、三十六に六を乗ずればまた二百一十六。両個の十二は二十四で、二十四に六を乗ずればまた一百四十四。坤はまた十二の裏の三・十六の裏の四・六の裏の一份半を譲り出して、充して乾の余分と為す——よって乾は二百五十二を得、坤は一百八を得る。陽に属する四卦は共に十二爻あり、その中の八爻は陽・四爻は陰。三十六を用いて陽爻に乗じ、二十四を用いて陰爻に乗じて、合わせて正しく三百八十四。

體有三百八十四而用止於三百六十何也?以乾坤坎離之不用也。乾坤坎離之不用所以成三百六十之用也。故萬物變易而四者不變也,夫惟不變,是以能變也。用止於三百六十而有三百六十六何也?數之贏也。數之贏則何用也?乾之全用也。乾坤不用則離坎用半也。乾全用者何也?陽主贏也。乾坤不用者何也?獨陽不生,專陰不成也。離坎用半何也?離東坎西,當陰陽之半,為春秋晝夜之門也。或用乾或用離坎何也?主陽而言之,故用乾也。主贏分而言之,則陽侵陰晝侵夜,故用離坎也。陽主贏,故乾全用也。陰主虛,故坤全不用也。陽侵陰陰侵陽,故坎離用半也。是以天之南全見而北全不見,東西各半見也。離坎陰陽之限也,故離當寅,坎當申,而數常踰之者,蓋陰陽之溢也。然用數不過乎寅,交數不過乎申。

体数はもともと三百八十四あるも、用数はただ三百六十に至る——これは何のためか?乾・坤・坎・離の四卦が運用に参与しないがゆえに。またまさにこの四卦が用いられざるがゆえに、こそ三百六十の用を成全した。だから万物はたとえ変易して停まらざるとも、この四者は始終変わらず。ただその自身が変わらざるがゆえに、はじめて別の変化をして成立しえしむる。用数はただ三百六十に至るも、しかしまた三百六十六あり——多く出たは何を算うか?あれは数の盈余である。数の盈余は何の用処を為すか?あれは乾の全用である。なぜ乾は全用と言うか?陽は盈余を主るがゆえに。なぜ乾坤は用いずと言うか?孤陽は生ずる能わず、純陰は成す能わざるがゆえに。なぜ離坎はただ一半を用いると言うか?離は東に在り坎は西に在りて、まさに陰陽の中分の処に当たり、春分秋分・昼夜平分の門戶であるがゆえに。なぜ時に乾を用いると言い、時にまた離坎を用いると言うか?陽のこの一面に就いて論を立てれば、だから乾を用いると言う。盈余のあの一分に就いて論を立てれば、陽が陰に侵入し昼が夜に侵入するので、だから離坎を用いると言う。陽は盈余を主るので、乾は全く用いる。陰は虚耗を主るので、坤は全く用いない。陽は陰を侵し陰もまた陽を侵すので、坎離は各々一半を用いる。ここを以て天の南辺は全然として見え、北辺は全然として見えず、東西の両辺は則ち各々一半を見る。離坎は陰陽の界限なので、離は寅位に当たり坎は申位に当たる。そして実際の数は常にこの界限を越える——あれは陰陽の溢出する所有るがゆえに。ただ用数は総じて寅位を越えず、交数は総じて申位を越えない。

乾四十八,而四分之一分為陰所克。坤四十八,而四分之一分為所克之陽也。故乾得三十六而坤得十二也。陽主進,是以進之為三百六十日。陰主消,是以十二月消十二日也。順數之,乾一兌二離三震四巽五坎六艮七坤八。逆數之,震一,離兌二,乾三,巽四,坎艮五,坤六也。

乾の策数は四十八で、その中の四分の一は陰に克せられる。坤の策数もまた四十八で、その中の四分の一はまさに克せ去られたあの一份の陽である。だから乾は実に三十六を得、坤は実に十二を得る。陽は前進を主るので、推進して三百六十日を成す。陰は消退を主るので、十二ヶ月の裏に十二日を消去す。順に先天卦位を数えれば、乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八。倒して数えれば則ち震を一と為し、離と兌とは同じく二と為し、乾を三と為し、巽を四と為し、坎と艮とは同じく五と為し、坤を六と為す。

乾四十八,兌三十,離二十四,震十。坤十二,艮二十,坎三十六,巽四十。乾三十六,坤十二,離兌巽二十八,坎艮震二十。圓數有一,方數有二,奇偶之義也。六即一也,十二即二也。

各卦の配する所の策数は:乾四十八、兌三十、離二十四、震十。坤十二、艮二十、坎三十六、巽四十。もしただ陽策に就いて算えば、則ち乾三十六、坤十二、離・兌・巽各々二十八、坎・艮・震各々二十。円の数は一を以て根本と為し、方の数は二を以て根本と為す——これがすなわち奇と偶の分別である。六はただあの一が推衍して出たに過ぎず、十二はただあの二が推衍して出たに過ぎない。

天圓而地方,圓者數之起一而積六,方者數之起一而積八,變之則起四而積十二也。六者常以六變,八者常以八變,而十二者亦以八變,自然之道也。八者天地之體也,六者天之用也,十二者地之用也。天變方為圓而常存其一,地分一為四而常執其方。天變其體而不變其用也,地變其用而不變其體也。六者並其一而為七,十二者並其四而為十六也。陽主進,故天並其一而為七。陰主退,故地去其四而止於十二也,是陽常存一而陰常晦一也,故天地之體止於八,而天之用極於七,地之用止於十二也。圓者裁方以為用,故一變四,四去其一則三也。三變九,九去其三則六也。

天は円にして地は方である。円の数は一より起算して積して六と成り、方の数は一より起算して積して八と成り、変通の一層は則ち四より起算して積して十二と成る。六に属するは総じて六を以て一輪と為して変じ、八に属するは総じて八を以て一輪と為して変じ、十二のこの一路もまた八に随いて変ず——これらは皆自然の道理である。八は天地の共有する形体、六は天の功用、十二は地の功用である。天は方を裁削して円と成すも、しかし常にあの「一」を存留す。地は一を分かちて四と為すも、しかし始終その方正を執守す。天が変ずるは自己の体にしてその用を変ぜず、地が変ずるは自己の用にしてその体を変ぜず。六に存する所の一を加えればすなわち七と成り、十二に分かつ所の四を加えればすなわち十六と成る。陽は前進を主るので、天はあの一を併せ入れて七と成す。陰は退譲を主るので、地はあの四を減去して十二に止まる。これがすなわち陽は常に一分を存留して陰は常に一分を隠晦す。ここを以て天地の体は八に止まり、天の用は七に極まり、地の用は十二に止まる。円の一路は方形を裁削して自己の用を成就するを要するので、一は変じて四と為り、四はその中の一を減じればすなわち三。三は変じて九と為り、九はその中の三を減じればすなわち六。

方者展圓以為體,故一變三,並之四也,四變十二,並之十六也。故用數成於三而極於六,體數成於四而極於十六也。是以圓者徑一而圍三,起一而積六。方者分一而為四,分四而為十六,皆自然之道也。

方の一路は円形を铺展して自己の体を成就するを要するので、一は変じて三と為り、本身に連ねて合計すればすなわち四。四は変じて十二と為り、本身に連ねて合計すればすなわち十六。だから用数は三に於いて成立して六に至極し、体数は四に於いて成立して十六に至極す。ここを以て円形は直径一にして周長三で、一より起算して積して六と成る。方形は一を分かちて四と為し、再び四を分かちて十六と為す——これらは皆自然而然の道理である。

一役二以生三,三去其一則二也。三生九,九去其一則八也,去其三則六也。故一役三,三復役二也。三役九,九復役八與六也。是以二生四,八生十六,六生十二也。三並一則為四,九並三則為十二也,十二又並四則為十六。故四以一為本,三為用。十二以三為本,九為用。十六以四為本,十二為用。圓者六變,六六而進之,故六十變而三百六十矣。方者八變,故八八而成六十四矣。陽主進,是以進之為六十也。

一が二を駆使して三を生出し、三はその中の一を減じればすなわち還りて二に帰す。三が九を生出し、九はその中の一を減じればすなわち八、またその中の三を減じればすなわち六。だから一は三を駆使し、三はまた転じて二を駆使す。三は九を駆使し、九はまた転じて八と六を駆使す。ここを以て二は四を生じ、八は十六を生じ、六は十二を生ず。三に一を加えればすなわち四、九に三を加えればすなわち十二、十二に再び四を加えればすなわち十六。だから四は一を以て本と為し三を以て用と為し、十二は三を以て本と為し九を以て用と為し、十六は四を以て本と為し十二を以て用と為す。円の一路は六変して、六六が相推すので、六十変して三百六十を得る。方の一路は八変して、八八が相乗ずるので、六十四を成す。陽は前進を主るので、推進して六十を成す。

巻三 大衍蓍卦の数

蓍數不以六而以七,何也?並其餘分也。去其餘分則六,故策數三十六也。是以五十者,六十四卦閏歲之策也。其用四十有九者,六十卦一歲之策也,歸奇掛一猶一歲之閏也。卦直去四者何也?天變而地效之,是以蓍去一則卦去四也。

蓍策の用数はなぜ六を取らずして七を取るか?あの一点の余分を併せ入れたがゆえに。もし余分を去ればすなわち六なので、一爻の策数は三十六である。ここを以て大衍の数は五十で、六十四卦の閏歳の策に配す。その中の真に動用する四十九は、六十卦一歳の策に配す。揲蓍の時に余数を帰攏し一策を懸挂するは、まさに一年の中に一個の閏月を安插するがごとし。起卦の時に径直に四を減ずるに至っては、また何の道理か?天が先に変じて地が随いて效法するので、蓍策は一を減ぜば、卦数はすなわち相応じて四を減ず。

圓者徑一圍三,重之則六。方者徑一圍四,重之則八也。裁方而為圓,天所以運行。分大而為小,地所以生化。故天用六變,地用四變也。

円形は直径が一にして周長が三で、一倍を加えればすなわち六。方形は直径が一にして周長が四で、一倍を加えればすなわち八。方形を裁削して円形と成す——これが天の能く運行して息まざる所以。大数を剖分して小数と成す——これが地の能く生養化育する所以。だから天は六変を取って用と為し、地は四変を取って用と為す。

一八為九,裁為七。八裁為六,十六裁為十二,二十四裁為十八,三十二裁為二十四,四十裁為三十,四十八裁為三十六,五十六裁為四十二,六十四裁為四十八也。一分為四,八分為三十二,十六分為六十四,以致九十六分為三百八十四也。

一と八とが相併して九と為り、一分を裁削すればすなわち七と成る。四分去一の比例に照らして下に推す:八を裁して六と為し、十六を裁して十二と為し、二十四を裁して十八と為し、三十二を裁して二十四と為し、四十を裁して三十と為し、四十八を裁して三十六と為し、五十六を裁して四十二と為し、六十四を裁して四十八と為す。もし剖分の弁法に換えれば、則ち一を分かちて四と為し、八を分かちて三十二と為し、十六を分かちて六十四と為し、一路に推して九十六を分かちて三百八十四と為す——正しく六十四卦三百八十四爻の数に合す。

一生六,六生十二,十二生十八,十八生二十四,二十四生三十,三十生三十六,引而伸之,六十變而生三百六十矣,此運行之數也。四生十二,十二生二十,二十生二十八,二十八生三十六,此生物之數也。故乾之陽中策三十六,兌離巽之陽策二十八,震坎艮之陽策二十,坤之陽策十二也。

円の一路は:一が六を生じ、六が十二を生じ、十二が十八を生じ、十八が二十四を生じ、二十四が三十を生じ、三十が三十六を生ず。このように照らして推衍して下れば、六十変して三百六十を生成す——これを「運行の数」と呼ぶ。方の一路は:四が十二を生じ、十二が二十を生じ、二十が二十八を生じ、二十八が三十六を生ず——これを「生物の数」と呼ぶ。だから乾の陽中の策は三十六、兌・離・巽の陽策は二十八、震・坎・艮の陽策は二十、坤の陽策は十二である。

圓者一變則生六,去一則五也。二變則生十二,去二則十也。三變則生十八,去三則十五也。四變則二十四,去四則二十也,五變則三十,去五則二十五也。六變則三十六,去六則三十也。是以存之則六六,去之則五五也。五則四而存一也,四則三而存一也,三則二而存一也,二則一而存一也,故一生二,去一則一也。二生三,去一則二也。三生四,去一則三也。四生五,去一則四也。是故二以一為本,三以二為本,四以三為本,五以四為本,六以五為本。

円の一路は、一変して六を生じ、一を減じればすなわち五。二変して十二を生じ、二を減じればすなわち十。三変して十八を生じ、三を減じればすなわち十五。四変して二十四を生じ、四を減じればすなわち二十。五変して三十を生じ、五を減じればすなわち二十五。六変して三十六を生じ、六を減じればすなわち三十。だから全数を保留すればすなわち六個の六で、逐層に減去すればすなわち五個の五である。五は四に再び一を存して成り、四は三に再び一を存して成り、三は二に再び一を存して成り、二は一に再び一を存して成る。ここを以て一は二を生じ、あの一を去ればなお一を剩す。二は三を生じ、あの一を去ればなお二を剩す。三は四を生じ、あの一を去ればなお三を剩す。四は五を生じ、あの一を去ればなお四を剩す。だから二は一を以て本と為し、三は二を以て本と為し、四は三を以て本と為し、五は四を以て本と為し、六は五を以て本と為して、層層に相因りて生ず。

方者一變而為四,四生八,並四而為十二。八生十二,並八而為二十。十二生十六,並十二而為二十八。十六生二十,並十六而為三十六也。易之大衍何?數也。聖人之倚數也。天數二十五,合之為五十。地數三十,合之為六十。故曰五位相得而各有合也。五十者蓍數也,六十者卦數也。五者蓍之小衍,故五十為大衍也。八者卦之小成,則六十四為大成也。

方の一路は、一変して四と為り、四が八を生じ、もと有る四を併せ入れればすなわち十二。八が十二を生じ、もと有る八を併せ入れればすなわち二十。十二が十六を生じ、もと有る十二を併せ入れればすなわち二十八。十六が二十を生じ、もと有る十六を併せ入れればすなわち三十六。《易》の言う「大衍」とは何か?すなわち数で、聖人の依托して立てた所の数である。天数の一・三・五・七・九は合計二十五で、加倍すればすなわち五十。地数の二・四・六・八・十は合計三十で、加倍すればすなわち六十。だから《繋辞》は「五位相得して各々合あり」と言う。五十は蓍策の数、六十は卦爻の数である。五は蓍数の小衍なので、五十は大衍と称す。八は卦の小成なので、六十四は大成と称す。

蓍德圓,以況天之數,故七七四十九也,五十者存一而言之也。卦德方,以況地之數,故八八六十四也,六十者去四而言之也。蓍者用數也,卦者體數也。用以體為基,故存一也。體以用為本,故去四也。圓者本一,方者本四,故蓍存一而卦去四也。蓍之用數七,並其餘分,亦存一之義也。掛其一,亦去一之義也。

蓍の徳性は円に属して、用いて天の数を比況するので、七七四十九。五十と言うは、あの存して用いられざる一策をも算え入れた。卦の徳性は方に属して、用いて地の数を比況するので、八八六十四。六十と言うは、用いられざる四卦を減掉した。蓍は「用数」に属し、卦は「体数」に属す。用は体を以て根基と為すを要するので、一策を存留す。体は用を以て根本と為すを要するので、四卦を減去す。円は一を以て本と為し、方は四を以て本と為すので、蓍は一を存して卦は四を去る。蓍の用数は七で、あの点の余分を併せ入れた——またまさに「一を存す」の意である。揲蓍は先ず一策を懸挂す——またまさに「一を去る」の意である。

蓍之用數,掛一以像三,其餘四十八則一卦之策也。四其十二為四十八也,十二去三而用九,四三十二所去之策也。四九三十六所用之策也。以當乾之三十六陽爻也。十二去五而用七,四五二十所去之策也,四七二十八所用之策也,以當兌離之二十八陽爻也。十二去六而用六,四六二十四所去之策也,四六二十四所用之策也,以當坤之二十四陰爻也。十二去四而用八,四四十六所去之策也,四八三十二所用之策也,以當坎艮之二十四爻,並上卦之八陰為三十二爻也。是故七九為陽,六八為陰也。九者陽之極數,六者陰之極數,數極則反,故為卦之變也。震巽無策者,以當不用之數。天以剛為德,故柔者不見。地以柔為體,故剛者不生,是以震巽無策也。

揲蓍の用うる所の策は、先ず一策を懸挂して以て三才を象徴し、その余の四十八策はすなわち一卦の策で、四個の十二は正しく四十八である。十二の裏より三を減じて九を用いれば、四に三を乗じて十二を得は減去する策、四に九を乗じて三十六を得は所用の策で、用いて乾卦の三十六個の陽爻の策に対応す。十二の裏より五を減じて七を用いれば、四に五を乗じて二十を得は減去する策、四に七を乗じて二十八を得は所用の策で、用いて兌・離の二十八個の陽爻の策に対応す。十二の裏より六を減じて六を用いれば、四に六を乗じて二十四を得は減去する策、四に六を乗じて二十四を得もまた所用の策で、用いて坤卦の二十四個の陰爻の策に対応す。十二の裏より四を減じて八を用いれば、四に四を乗じて十六を得は減去する策、四に八を乗じて三十二を得は所用の策で、用いて坎・艮の二十四爻に対応し、再び上卦の八個の陰爻を合上して共に三十二爻。だから七と九とは陽に属し、六と八とは陰に属す。九は陽の極数、六は陰の極数で、数は極処に至れば必ず反転す——ここを以て九と六とがすなわち卦の変爻と為る。震・巽の両卦は策数に列せず——用いてあの用いられざる一分を充当す:天は剛健を以て徳と為すので、柔の一面は顕現せず。地は柔順を以て体と為すので、剛の一面は生発せず——ここを以て震巽に策数なし。

乾用九,故其策九也,四之者以應四時,一時九十日也。坤用六,故其策亦六也。奇數四,有一有二有三有四,策數四,有六有七有八有九,合而為八數,以應方數之八變也。歸奇合掛之數有六,為五與四四也,九與八八也,五與四八也,九與四八也,五與八八也,九與四四也,以應圓數之六變也。乾並餘分七為七政?

乾は九を用いるので、その策は九を以て準と為し、再び四を乗じて、用いて四時に対応し、一時は九十日。坤は六を用いるので、その策もまた六を以て準と為す。揲蓍の余る所の「奇数」に四種ありて、或いは一或いは二或いは三或いは四。爻を成す「策数」にもまた四種ありて、或いは六或いは七或いは八或いは九。両辺が合わさって共に八個の数で、用いて方数の八変に対応す。余策を帰攏して再び掛する所の策を合上すれば、その結果は共に六種あり:五は両個の四に配し、九は両個の八に配し、五は四と八に配し、九は四と八に配し、五は両個の八に配し、九は両個の四に配して、用いて円数の六変に対応す。乾があの一点の余分を併せ入れて七と成すは、おそらくいわゆる「七政」であろう?

奇數極於四而五不用,策數極於九而十不用,五則一也,十則二也,故去五十而用四十九也。奇不用五,策不用十,有無之極也,以況自然之數也。卦有六十四而用止於六十者何也?六十卦者,三百六十爻也。故甲子止於六十也,六甲而天道窮矣。是以策數應之。三十六與二十四合之則六十也,三十二與二十八合之亦六十也。

余奇の数は四に極まりて五は参与せず、爻を成す策は九に極まりて十は参与せず。五は実はすなわちあの一で、十は実はすなわちあの二なので、大衍は五十にして実際はただ四十九を用いる。奇は五を用いず、策は十を用いず——これは「有」と「無」の極至で、用いて自然而然の数を比況す。卦は六十四个あるも実用はただ六十に至る——これは何のためか?六十卦は共に三百六十爻あるので、甲子の一周はただ六十に至り、六個の甲子が走り尽くれば、天道の一輪もまた窮尽す。策数は正しくそれに相応じて応ず:三十六と二十四と相加えば六十、三十二と二十八と相加えればまた六十。

乾四十八,坤十二,震二十,巽四十,離兌三十二,坎艮二十八,合之為六十。蓍數全,故陽策三十六與二十八合之為六十四也。卦數去其四,故陰策二十四與三十二合之為五十六也。九進之為三十六,皆陽數也,故為陽中之陽。七進之為二十八,先陽後陰也,故為陽中之陰。六進之為二十四,皆陰數也。故為陰中之陰。八進之為三十二,先陰後陽也。故為陰中之陽。

乾四十八、坤十二、震二十、巽四十、離兌合わせて三十二、坎艮合わせて二十八。両両相配して、皆ちょうど合わせて六十と成る。蓍数は足を取りて減ぜざるので、陽策の三十六と二十八と相加えば六十四を得る。卦数は四を減ずるので、陰策の二十四と三十二と相加えば五十六を得る。九は四を用いて推進して三十六を得——純に陽数なので、「陽中の陽」と呼ぶ。七は四を用いて推進して二十八を得——先に陽にして後に陰なので、「陽中の陰」と呼ぶ。六は四を用いて推進して二十四を得——純に陰数なので、「陰中の陰」と呼ぶ。八は四を用いて推進して三十二を得——先に陰にして後に陽なので、「陰中の陽」と呼ぶ。

蓍四進之則百,卦四進之則百二十,百則十也,百二十則十二也。歸奇合卦之數得五與四四,則策數四九也。得九與八八,則策數四六也。得五與八八,得九與四八,則策數皆四七也。得九與四四,得五與四八,則策數皆四八也。為九者一變以應乾也,為六者一變以應坤也,為七者二變以應兌與離也,為八者二變以應艮與坎也。五與四四去掛一之數則四三十二也,九與八八去掛一之數則四六二十四也,五與八八,九與四八去掛一之數則四五二十也,九與四四,五與四八去掛一之數則四四十六也。故去其三四五六之數以成九八七六之策也。

蓍数の二十五は四を用いて推進すればすなわち一百、卦数の三十は四を用いて推進すればすなわち一百二十。一百は帰約すればすなわち十、一百二十は帰約すればすなわち十二。余策を帰攏して掛する所の策を合上すれば:五と両個の四を得れば、爻を成す策数はすなわち四に九を乗ず。九と両個の八を得れば、策数はすなわち四に六を乗ず。五と両個の八を得、或いは九と四・八を得れば、策数は皆四に七を乗ず。九と両個の四を得、或いは五と四・八を得れば、策数は皆四に八を乗ず。九を得るは一変して成り、用いて乾に対応す。六を得るは一変して成り、用いて坤に対応す。七を得るは二変して成り、用いて兌と離に対応す。八を得るは二変して成り、用いて艮と坎に対応す。五と両個の四は、掛する所のあの一策を除去して、四に三を乗じて十二を得る。九と両個の八は、掛する所の一策を除去して、四に六を乗じて二十四を得る。五と両個の八および九と四・八は、掛する所の一策を除去して、皆四に五を乗じて二十を得る。九と両個の四および五と四・八は、掛する所の一策を除去して、皆四に四を乗じて十六を得る。まさに三・四・五・六のこれらの数を減掉して、はじめて九・八・七・六のこれらの種の策を成就した。

天一地二天三地四天五地六天七地八天九地十,參伍以變,錯綜其數也,如天地之相銜,晝夜之相交也。一者數之始,而非數也。故二二為四,三三為九,四四為十六,五五為二十五,六六為三十六,七七為四十九,八八為六十四,九九為八十一,而一不可變也。百則十也,十則一也,亦不可變也。是故數去其一而極於九,皆用其變者也。五五二十五,天數也。六六三十六,乾之策數也。七七四十九,大衍之用數也。八八六十四,卦數也。九九八十一,玄範之數也。

天一・地二・天三・地四・天五・地六・天七・地八・天九・地十は、参伍して錯雑に変化し、交互に綜合してそれらの数目を成す——ちょうど天と地とが彼此相銜接し、昼と夜とが彼此相交入するがごとし。「一」は数の開端で、本身はしかし数と算えられない。だから二は自乗して四、三は自乗して九、四は自乗して十六、五は自乗して二十五、六は自乗して三十六、七は自乗して四十九、八は自乗して六十四、九は自乗して八十一。ただ独り一は自乗してもなお一の儘で、生変するに由なし。一百は帰約して十、十は帰約して一で、同じく生変するに由なし。だから数は総じてあの一を撇開して九に極るを要し、取る所は皆能く変ずる部分である。五五二十五は天数、六六三十六は乾の策数、七七四十九は大衍の用数、八八六十四は卦数、九九八十一は揚雄《太玄》と《洪範》九疇の用うる所の数である。

大衍之數,其算法之源乎?是以算數之起,不過乎方圓曲直也。乘數生數也。除數消數也。算法雖多,不出乎此矣。陰無一,陽無十。陽得陰而生,陰得陽而成,故蓍數四而九,卦數六而十也,猶干支之相錯,乾以六終而支以五終也。

大衍の数は、おそらく算学の源頭であろう?だから一切の算法の起点は、方・円・曲・直のこれらの形体に外ならない。乗法は生長の数に属し、除法は消減の数に属す。算法の名目は多しとはいえ、総じてこの範囲を跳び出せない。陰のこの一辺に一なく、陽のこの一辺に十なし。陽は陰を得着してはじめて生じえ、陰は陽を得着してはじめて成りうる。だから蓍数は四を以て基と為して九に成り、卦数は六を以て基と為して十に成る——まさに天干と地支とが交錯相配して、天干は六遍を輪し地支は五遍を輪して、同じく六十の上に終了するがごとし。

三四十二也,二六亦十二也,二其十二二十四也,三八亦二十四也,四六亦二十四也。三其十二三十六也,四九亦三十六也,六六亦三十六也。四其十二四十八也,三其十六亦四十八也,六八亦四十八也。五其十二六十也,三其二十亦六十也,六其十亦六十也,皆自然之相符也。四九三十六也,六六三十六也,陽六而又兼陰六之半,是以九也。故以二卦言之,陰陽各三也。以六爻言之,天地人各二也。陰陽之中各有天地人,天地人之中各有陰陽,故參天兩地而倚數也。

三に四を乗ずれば十二、二に六を乗ずればまた十二。両個の十二は二十四、三に八を乗ずればまた二十四、四に六を乗ずればまた二十四。三個の十二は三十六、四に九を乗ずればまた三十六、六に六を乗ずればまた三十六。四個の十二は四十八、三に十六を乗ずればまた四十八、六に八を乗ずればまた四十八。五個の十二は六十、三に二十を乗ずればまた六十、六に十を乗ずればまた六十——これらは皆自然而然に彼此吻合する。四九三十六、六六もまた三十六:陽はもともとただ六を得るも、また陰六の一半を兼取するので、九と成る。上下両卦に就いて言えば、陰陽は各々三爻を占む。一卦六爻に就いて言えば、天・地・人は各々両爻を占む。陰陽の中に各々天地人を含み、天地人の中に各々陰陽を含む——だから「天を参じ地を両として以て数を倚ぐ」と言う。

陽數一,衍之而十,十干之類是也。陰數二,衍之為十二,十二支十二月之類是也。一變而二,二變而四,三變而八卦成矣。四變而十有六,五變而三十有二,六變而六十四卦備矣。易有真數三而已矣,參天者三三而九,兩地者倍三而六。參天兩地而倚數,非天地之正數也。倚者擬也,擬天地正數而生也。

陽の数は一で、推衍して開けば十と成り——十天干の一類がすなわちこれ。陰の数は二で、推衍して開けば十二と成り——十二地支・十二ヶ月の一類がすなわちこれ。一変して二と為り、二変して四と為り、三変して八卦はすなわち成立す。四変して十六と為り、五変して三十二と為り、六変して六十四卦はすなわち斉備す——これがすなわち先天の学の層層に加倍する推法である。《易》の真の根数はただ三のみ:いわゆる「参天」とは、三と三と相乗して九を得る。いわゆる「両地」とは、三に一倍を加えて六を得る。「天を参じ地を両として以て数を倚ぐ」——倚げ出す所は並びに天地本来の正数にあらず。「倚」とはすなわち比拟で、天地の正数を比照して推生して出したものである。

易之生數一十二萬九千六百,總為四千三百二十世,此消長之大數,衍三十年之辰數即其數也。歲三百六十日,得四千三百二十辰,以三十乘之,得其數矣,凡甲子甲午為世首,此為經世之數,始於日甲月子星甲辰子。又云。此經世日甲之數,月子星甲辰子從之也。一十百千萬億,為奇天之數也。十二百二十千二百萬二千億二萬,為偶地之數也。

《易》の生ずる数は十二万九千六百で、合計四千三百二十世——これは消長の大数である。三十年の内の辰数を推衍して開けば、得る所は正しくこの数である。一年三百六十日は、共に四千三百二十個の時辰で、再び三十を乗じれば、すなわちこの数を得出す。およそ甲子・甲午の年を以て一世の開頭と為す——これがすなわち「経世の数」で、起る処は日が甲・月が子・星が甲・辰が子である。また言う:これは経世の中の「日甲」の数で、月子・星甲・辰子は皆それに随いて排定す。一・十・百・千・万・億のこの一列は、奇に属し、天の数である。十二・百二十・千二百・万二千・億二万のこの一列は、偶に属し、地の数である。

五十分之則為十,若參天兩之則為六,兩地又兩之則為四,此天地分太極之數也。復至乾凡百有十二陽,姤至坤凡八十陽。姤至坤凡百有十二陰,復至乾凡八十陰。陽數於三百六十上盈,陰數於三百六十上縮。

五十のこの数は、均し分かてばすなわち十。もし「参天」の三に照らして再び一倍を加えればすなわち六、「両地」の二に照らして再び一倍を加えればすなわち四——これがすなわち天地が太極を剖分して得た数である。先天円図の上に於いて、復卦より乾卦まで数えて共に一百一十二個の陽爻あり、姤卦より坤卦まで数えて共に八十個の陽爻あり。姤卦より坤卦まで数えて共に一百一十二個の陰爻あり、復卦より乾卦まで数えて共に八十個の陰爻あり。陽の数は三百六十の上にさらに盈余あり、陰の数は三百六十の上に則ち虧縮あり。

巻四 太極生化と人物の象

人為萬物之靈,寄類於走走陰也。故百二十。有一日之物,有一月之物,有一時之物,有一歲之物,有十歲之物,至於百千萬皆有之,天地亦物也,亦有數焉。

人は万物の中の最も霊性ある者で、もし物類に帰属せば、ただ「走」のこの一類に寄るのみ——しかも走は陰に属するので、人の定数は一百二十である。物は各々その久暫あり:ただ一日を活くるあり、ただ一月を活くるあり、ただ一時を活くるあり、一年を活くるあり、十年を活くるあり、乃至百年・千年・万年のも皆あり。天地自体もまた物なので、天地もまた同じくその定数あり。

卦之反對皆六陽六陰也,在易則六陽六陰者,十有二對也。去四正則八陽四陰,八陰四陽者,各六對也。十陽二陰,十陰二陽者,各三對也。

一個の卦とそれを倒転した「反対」の卦とを合わせて見れば、陰陽の総数は必ず六陽六陰である。《易》の六十四卦の中に、このように六陽六陰が自ら相配对するは共に十二対あり。乾・坤・坎・離の四個の正卦を除いて算えず——八陽四陰の一組・八陰四陽の一組は、各々六対あり。十陽二陰の一組・十陰二陽の一組は、各々三対あり。

圓者星也,曆紀之數其肇於此乎?方者土也,畫州並土之法其仿於此乎?蓋圓者,河圖之數。方者,洛書之文。故羲文因之而造易,禹箕敘之而作範也。

円なるは天上の星で、暦法紀年の数はおそらくここに発端するであろう?方なるは地上の土で、州域を划分し田土を丈量する弁法はおそらくこれに仿効するであろう?大抵円は《河図》の数に属し、方は《洛書》の文に属す。だから伏羲・文王はそれに依って《易》を推演出し、大禹・箕子はそれに依って《洪範》を叙述し成した。

太極既分,兩儀立矣。陽下交於陰,陰上交於陽,四象生矣。陽交於陰,陰交於陽,而生天之四象。剛交於柔,柔交於剛,而生地之四象,於是八卦成矣。八卦相錯然後萬物生焉。是故一分為二,二分為四,四分為八,八分為十六,十六分為三十二,三十二分為六十四。故曰。分陰分陽,迭用柔剛,故易六位而成章也。十分為百,百分為千,千分為萬,猶根之有乾,乾之有枝,枝之有葉,愈大則愈少,愈細則愈繁,合之斯為一,衍之斯為萬,是故乾以分之,坤以翕之,震以長之,巽以消之,長則分,分則消,消則翕也。

太極は一たび剖分されれば、両儀はすなわち立ち起る。陽は下に向かって陰に交入し、陰は上に向かって陽に交入して、四象はすなわち生出す。陽が陰に交じ陰が陽に交じて、天に属する四象を生出す。剛が柔に交じ柔が剛に交じて、地に属する四象を生出し、よって八卦は成立す。八卦が彼此交錯して、そうして後に万物ははじめて生出す。だから一は分かれて二と為り、二は分かれて四と為り、四は分かれて八と為り、八は分かれて十六と為り、十六は分かれて三十二と為り、三十二は分かれて六十四と為る。ここを以て《説卦》に言う:陰を分かちまた陽を分かち、輪りて柔と剛を用う——だから《易》に六位ありて文章を成す。さらに下に推せば、十は分かれて百と為り、百は分かれて千と為り、千は分かれて万と為る——ちょうど根の上に幹を生じ幹の上に枝を生じ枝の上に葉を生ずるがごとし:愈々大なるは愈々少なく、愈々細なるは愈々繁し。攏め合わせればただ一で、铺展して開けばすなわち万。だから乾は剖分を主り、坤は收合を主り、震は生長を主り、巽は消退を主る。長じて尽処に至ればすなわち分かつを要し、分かちて尽処に至ればすなわち消すを要し、消して尽処に至ればすなわち收合するを要す。

乾坤定位也,震巽一交也,兌離坎艮再交也,故震陽少而陰尚多也,巽陰少而陽尚多也,兌離陽浸多也,坎艮陰浸多也,是以辰與火不見也。一氣分而陰陽判,得陽之多者為天,得陰之多者為地,是故陰陽半而形質具焉,陰陽偏而性情分焉,形質又分,則多陽者為剛也,多陰者為柔也,性情又分,則多陽者陽之極也,多陰者陰之極也。

乾と坤とは各々定位に居り、震と巽とは陰陽が初次に相交じて成した。兌・離・坎・艮は再次に相交じて成した。だから震の陽はなお少なくして陰はなお多く、巽の陰はなお少なくして陽はなお多く、兌と離の陽は漸々増多し、坎と艮の陰は漸々増多す。まさにこのがゆえに、天上の辰と地中の火は皆隠れて見えない。混然たる一気が剖分して開けば、陰と陽とははじめて判然として別あり:陽を多く得たは天と為り、陰を多く得たは地と為る。だから陰陽の均平なる処には、形と質とはすなわち具備す。陰陽の偏勝する処には、性と情とはすなわち分明す。形質は更に下に分かれて、陽多きは剛と為り、陰多きは柔と為る。性情は更に下に分かれて、陽多きは陽の極、陰多きは陰の極である。

兌離巽,得陽之多者也。艮坎震,得陰之多者也,是以為天地用也。乾陽極,坤陰極,是以不用也。乾四分取一以與坤,坤四分取一以奉干,乾坤合而生六子,三男皆陽也,三女皆陰也。兌分一陽以與艮,坎分一陰以奉離,震巽以二相易,合而言之,陰陽各半,是以水火相生而相剋,然後既成萬物也。

兌・離・巽は陽を較多く得た者で、艮・坎・震は陰を較多く得た者なので、それらは能く天地に取られて用と為る。乾は陽が極処に至り、坤は陰が極処に至りて、太く純にして太く満ち——かえって用いられない。乾は自己の四分の裏より一分を取出して坤に交し、坤もまた自己の四分の裏より一分を取出して乾に奉還し、乾坤が交合して六子を生出す:三個の男卦は皆陽に属し、三個の女卦は皆陰に属す。兌は一陽を分出して艮に給し、坎は一陰を分出して離に奉し、震と巽とは則ち両爻を拿って互相に交換す。総じて見れば、陰と陽とはちょうど各々一半を得るので、水と火とがすでに相生しまた相克して、そうして後に万物ははじめて最終に生成す。

乾坤之名位不可易也,坎離名可易而位不可易也,震巽位可易而名不可易也,兌艮名與位皆可易也。離肖乾,坎肖坤,中孚肖乾,頤肖離,小過肖坤,大過肖坎,是以乾坤坎離中孚頤大小過皆不可易者也。

乾坤の卦名と卦位は皆移易すべからず。坎離の名は互換すべきも位は移すべからず。震巽の位は互換すべきも名は改むべからず。兌艮は則ち名も位も皆互換すべし。離の卦形は乾に近似し、坎の卦形は坤に近似し、中孚は乾に近似し、頤は離に近似し、小過は坤に近似し、大過は坎に近似す。だから乾・坤・坎・離・中孚・頤・大過・小過のこの八卦は、倒転しても皆形象を改変しない。

離在天而當夜,故陽中有陰也。坎在地而當晝,故陰中有陽也。震始交陰而陽生,巽始消陽而陰生,兌陽長也,艮陰長也。震兌在天之陰也,巽艮在地之陽也,故震兌上陰而下陽,巽艮上陽而下陰。天以始生言之,故陰上而陽下,交泰之義也。地以既成言之,故陽上而陰下,尊卑之位也。

離は天上に在るもしかし夜を主るので、陽の中に陰を含む。坎は地下に在るもしかし昼を主るので、陰の中に陽を含む。震は陽が初次に陰に交入して陽がはじめて生じ、巽は陽が開始して消退して陰がはじめて生ず。兌は陽が滋長し、艮は陰が滋長す。震と兌とは天の裏辺の陰に属し、巽と艮とは地の裏辺の陽に属するので、震兌は皆上爻を陰と為し下爻を陽と為し、巽艮は皆上爻を陽と為し下爻を陰と為す。天は万物の初生に就いて言うので、陰は上に在りて陽は下に在り——天地交泰の意を取る。地は万物のすでに成れるに就いて言うので、陽は上に在りて陰は下に在り——尊卑定位の意を取る。

乾坤定上下之位,離坎列左右之門,天地之所闔闢,日月之所出入,是以春夏秋冬,晦朔弦望,晝夜長短,行度盈縮,莫不由乎此矣。由下而上謂之升,自上而下謂之降。升者生也,降者消也,故陽生於下,陰生於上,是以萬物皆反生。陰生陽,陽生陰,陰復生陽,陽復生陰,是以循環而無窮也。

乾坤は上と下の方位を定下し、離坎は左と右の門戶に排成す。天地はここより開合し、日月はここより出入す。だから春夏秋冬の推移・晦朔弦望の円缺・昼夜の長短・日月行度の盈縮は、一つとしてこれに由らざるなし。下より上に向かうを「升」と呼び、上より下に向かうを「降」と呼ぶ。升は生長で、降は消退である。陽は下面より生起し、陰は上面より生起するので、万物は皆倒して生ず。陰は陽を生出し、陽は陰を生出し、陰はまた再び陽を生じ、陽はまた再び陰を生じて、因りて循環往復して窮尽なし。

陰陽生而分二儀,二儀交而生四象,四象交而生八卦,八卦交而生萬物,故二儀生天地之類,四象定天地之體。四象生日月之類,八卦定日月之體。八卦生萬物之類,重卦定萬物之體。類者生之序也,體者象之交也。推類者必本乎生,觀體者必由乎象。生則未來而逆推,像則既成而順觀。是故日月一類也,同出而異處也,異處而同象也。推此以往,物焉逃哉。

陰陽は一たび生じればすなわち分かれて両儀と為り、両儀が相交じて四象を生じ、四象が相交じて八卦を生じ、八卦が相交じて万物を生ず。だから両儀は天地のこの一類を生出し、四象は天地の形体を定下す。四象は日月のこの一類を生出し、八卦は日月の形体を定下す。八卦は万物のこの一類を生出し、重卦は万物の形体を定下す。「類」の講ずる所は生成の次序で、「体」の講ずる所は形象の交合である。物類を推求するは必ず生成の上より入手せねばならず、形体を観察するは必ず形象の上より入手せねばならぬ。生成を講ずるは、まだ到来せざるに就いて逆して推す。形象を講ずるは、すでに形を成したに就いて順に看る。だから日と月とは同じく一類に属し、同じく一源より出でて処る所は同じからず、処る所は異なるも形象は相同じ。この弁法に照らして推衍して下れば、天下の物はどれ一つとして逃げ出しえよう?

天變時而地應物,時則陰變而陽應,物則陽變而陰應,故時可逆知,物必順成,是以陽盈而陰隨,陰逆而陽順。語其體則天分而為地,地分而為萬物,而道不可分也。其終則萬物歸地,地歸天,天歸道,是以君子貴道也。

天の変ずる所は時令で、地の応ずる所は万物である。時令に就いて言えば、陰が先に変じて陽が来たりて相応ず。万物に就いて言えば、陽が先に変じて陰が来たりて相応ず。だから時令は逆して推算して預め知りうるも、万物は必ず順に生長してはじめて成就しうる。因りて陽は一たび盈満すれば陰はすなわち随い、陰は逆行するも陽はなお順行す。もし形体の層次に就いて言えば、天は地を分出し、地は万物を分出し、ただ独り「道」は分割すべからず。終了の処に至れば、万物は地に帰還し、地は天に帰還し、天は道に帰還す——だから君子の最も看重するは道である。

有變則必有應也,故變於內者應於外,變於外者應於內,變於下者應於上,變於上者應於下也。天變而日應之,故變者從天,而應者法日也。是以日紀乎星,月會於辰,水生於土,火潛於石,飛者棲木,走者依草,心肺之相聯,肝膽之相屬無他,變應之道也。本乎天者親上,本乎地者親下,故變之與應,常反對也。

変化あれば必ず回応あり:内裏が変じれば、外面が来たりて応ず。外面が変じれば、内裏が来たりて応ず。下辺が変じれば、上辺が来たりて応ず。上辺が変じれば、下辺が来たりて応ず。天が先に変じて日が随いて回応するので、変ずる一方は天に順従し、応ずる一方は日に效法す。ここを以て日は星を以て綱紀と為し、月は辰と相会合し、水は土の中より生出し、火は石の裏に潜蔵す。能く飛ぶは樹木の上に棲息し、能く走るは草叢の間に依附す。心と肺とは相連なり、肝と胆とは相属す——別の緣故なく、皆変と応の道理である。本源が天に在るは上方に親附し、本源が地に在るは下方に親附するので、変ずる一方と応ずる一方は、常に正しく相対反する位置に処す。

陽交於陰,而生蹄角之類也。剛交於柔,而生根荄之類也。陰交於陽,而生羽翼之類也。柔交於剛,而生支干之類也。天交於地,地交於天,故有羽而走者,足而騰者,草中有木,木中有草也。各以類而推之,則生物之類不過是矣。走者便於下,飛者利於上,從其類也。陸中之物水中必具者,猶影像也,陸多走,水多飛者,交也。是故巨於陸者必細於水,巨於水者必細於陸也。

陽が陰に交じて、蹄あり角あるの一類を生出す。剛が柔に交じて、草根木荄の一類を生出す。陰が陽に交じて、羽あり翼あるの一類を生出す。柔が剛に交じて、枝條主幹の一類を生出す。天が地に交じ、地が天に交じるので、羽毛を長ずるもただ走るのみのあり、脚を生ずるも能く騰躍するのあり、草叢の裏に木を長じ、樹木の間に草を生ず。各々その類に按って推衍して開けば、生物の種類はこれらに外ならない。能く走るは下に於いて活動に便にして、能く飛ぶは上に向かって騰擧に利あり——各々各々の類に随う。陸上に有る物類は水中にも必ず有り——ちょうど影子が本形を照るがごとし。陸上に走獣多くして水裏に飛ぶがごとき游物多きは、あれは天地が交錯した結果である。だから陸上に於いて巨大に長じたは、水裏に至れば必ず細小に。水裏に於いて巨大に長じたは、陸上に至れば必ず細小である。

巻四・下 物類相禀と人身の象

虎豹之毛猶草也,鷹鸇之羽猶木也。木者星之子,是以果實像之。葉陰也,華實陽也。枝葉軟而根幹堅也。人之骨巨而體繁,木之乾巨而枝葉繁,應天地之數也。

虎豹の身上の毛は、紋理が草のごとし。鷹鸇の身上の羽は、形状が樹木の枝葉のごとし。樹木は星の産児なので、果実の形状は星に取象す。葉は陰に属し、花と果実は陽に属す。枝葉は柔軟にして根幹は堅実す。人の骨骼は粗大にして肢体は繁多に、樹木の主幹は粗大にして枝葉は繁多に——まさに天地間の「愈々大なるは愈々少なく愈々細なるは愈々繁し」の定数に相応す。

動者體橫,植者體縱,人宜橫而反縱也。飛者有翅,走者有趾,人之兩手翅也,兩足趾也。飛者食木,走者食草,人皆兼之而又食飛走也。故最貴於萬物也。

能く動く身体は横にして、能く長ずる身体は竪である。人はもともと走獣のごとく横行すべきを、かえって竪立して行う。能く飛ぶは翅膀を長じ、能く走るは脚趾を長ず。人の両隻の手はすなわち翅膀で、両隻の脚はすなわち脚趾である。能く飛ぶは樹木の果実を食い、能く走るは草を食い、人は則ち両様を皆食い、しかも飛ぶの走るのも一併に食うので、万物の中に於いて最も尊貴である。

體必交而後生,故陽與剛交而生心肺,陽與柔交而生肝膽,柔與陰交而生腎與膀胱,剛與陰交而生脾胃,心生目,膽生耳,脾生鼻,腎生口,肺生骨,肝生肉,胃生髓,膀胱生血,故乾為心,兌為脾,離為膽,震為腎,坤為血,艮為肉,坎為髓,巽為骨,泰為目,中孚為鼻,既濟為耳,頤為口,大過為肺,未濟為胃,小過為肝,否為膀胱。

形体は必ず交合してそうして後に生成しうるので、陽と剛とが相交じて心と肺を生出し、陽と柔とが相交じて肝と胆を生出し、柔と陰とが相交じて腎と膀胱を生出し、剛と陰とが相交じて脾と胃を生出す。臓腑より再び五官形質を生出す:心は眼を生じ、胆は耳を生じ、脾は鼻を生じ、腎は口を生じ、肺は骨を生じ、肝は肉を生じ、胃は髄を生じ、膀胱は血を生ず。卦を以て配せば、則ち乾を心と為し、兌を脾と為し、離を胆と為し、震を腎と為し、坤を血と為し、艮を肉と為し、坎を髄と為し、巽を骨と為し、泰を眼と為し、中孚を鼻と為し、既済を耳と為し、頤を口と為し、大過を肺と為し、未済を胃と為し、小過を肝と為し、否を膀胱と為す。

天地有八象,人有十六象,何也?合天地而生人,合父母而生子,故有十六象也。心居肺,膽居肝,何也?言性者必歸之天,言體者必歸之地。地中有天,石中有火,是以心膽象之也。心膽之倒垂何也?草木者,地之體也。人與草木皆反生,是以倒垂也。

天地はただ八象あるのみで、人はしかし十六象ある——これは何のためか?天と地とを合してはじめて人を生じ、父と母とを合してはじめて子を生ずるを要するがゆえに。両下に相乗ずるので、人に十六象あり。心は肺の裏に蔵れ胆は肝の上に附するは、また何のためか?「性」を講ずるは総じて天に帰するを要し、「体」を講ずるは総じて地に帰するを要す。地の中に天を含み、石の中に火を含む——心と胆とはまさにこの象を取る。心と胆とはなぜ倒垂するか?草木は地の形体で、人と草木とは一様に皆倒して生ずるので、心胆もまた倒垂す。

口目橫而鼻耳縱,何也?體必交也。故動者宜縱而反橫,植者宜橫而反縱,皆交也。天有四時,地有四方,人有四支,是以指節可以觀天,掌文可以察地,天地之理具指掌矣,可不貴之哉!

口と眼とは横にして、鼻と耳とは縦である——これは何のためか?形体は必ず交錯して生ずるを要するがゆえに。だから能く動くはもともと縦長すべきをかえって横生し、能く長ずるはもともと横生すべきをかえって縦長す——皆交錯の緣故である。天に四時あり、地に四方あり、人に四肢あり。だから手指の骨節を見て以て天時を観察し、手掌の紋理を見て以て地理を体察しうる——天地の道理は皆この一双の手掌の中に具備す。どうして珍重を加えざらんや!

神統於心,氣統於腎,形統於首,形氣交而神主乎其中,三才之道也。人之四肢各有脈也,一脈三部,一部三候,以應天數也。心藏神,腎藏精,脾藏魂,膽藏魄。胃受物而化之,傳氣於肺,傳血於肝,而傳水穀於脬腸矣。

神は心に統摂し、気は腎に統摂し、形は頭に統摂す。形と気とが交會して、神はその中に主宰す——これがまさに天・地・人の三才の道理である。人の四肢は各々脈息あり、一条の脈は寸・関・尺の三部に分かれ、一部にまた浮・中・沈の三候あり——用いて天の数に対応す。心は神を蔵し、腎は精を蔵し、脾は魂を蔵し、胆は魄を蔵す。胃は飲食を承受して消化を加え、気を肺に輸し、血を肝に輸し、再び水穀の糟粕を膀胱と腸の中に伝す。

巻五 天地日月の運

天圓而地方,天南高而北下。是以望之如倚蓋,然地東南下,西北高。是以東南多水,西北多山也。天覆地,地載天,天地相函。故天上有地,地上有天。

天は円にして地は方で、天は南辺に高く北辺に低いので、望み上げれば一頂の斜めに倚る車蓋のごとし。地は則ち東南が低く西北が高いので、東南に水沢多く西北に山岳多し。天は地を覆蓋し、地はまた天を承載し、天と地とは彼此相包含するので、天の上に地あり、地の上にもまた天あり。

天渾。渾於上而不可測也。故觀斗數以占天也。斗之所建,天之所行也。魁建子,杓建寅,星以寅為晝也。斗有七星,是以晝不過乎七分也。天行所以為晝夜,日行所以為寒暑,夏淺冬深,天地之交也。左旋右行,天日之交也。

天体は浑然として一整で、高渾として上にあって測度するに由なし——だからただ北斗の度数を観察して以て天象を推占するのみ。北斗の斗柄の指す所の方位は、すなわち天の運行の到る所の処である。斗魁は子位を指し、斗杓は寅位を指すので、星暦は寅を以て一日の始と為して昼と算う。北斗は共に七星あるので、昼の分数は七分を超過しない。天体の運転は昼夜を造成し、太陽の行度は寒暑を造成す。夏は日行浅く冬は日行深きは、あれは天と地とが相交ずる表現である。天は左に旋り日は右に行くは、あれは天と日とが相交ずる表現である。

日朝在東,夕在西,隨天之行也。夏在北,冬在南,隨天之交也。天一周而超一星,應日之行也。春酉正,夏午正,秋卯正,冬子正,應日之交也。

太陽は早上に東にあり傍晚に西にあるは、あれは天体の運行に随う。夏は北に偏し冬は南に偏するは、あれは天地の交會に随う。天は転じて一周を満たしてなお一星の位次を多く走り過ぐるは、これは太陽の行度に相応ず。春は正しく酉位に当たり、夏は正しく午位に当たり、秋は正しく卯位に当たり、冬は正しく子位に当たるは、これは太陽の交會に相応ず。

日以遲為進,月以疾為退,日月一會而加半日減半日,是以為閏餘也。日一大運而進六日,月一大運而退六日,是以為閏差也。日行陽度則盈,行陰度則縮,賓主之道也。月去日則明生而遲,近日則魄生而疾,君臣之義也。

太陽は行くこと慢きを以て前進と算え、月亮は行くこと速きを以て退後と算う。日月は毎に交會一次すれば、一辺に半日を加え一辺に半日を減じ——これがすなわち「閏余」と成る。太陽は一個の大運に六日を推進し、月亮は一個の大運に六日を退後す——これがすなわち「閏差」と成る。太陽は陽に属する度数の上に行けばすなわち盈し、陰に属する度数の上に行けばすなわち縮す——これは賓と主とが相待する道理である。月亮は太陽を離れて遠ければすなわち光明を生出して行くこと慢く、太陽に靠近すればすなわち黒魄を生出して行くこと速し——これは君と臣とが相従する義理である。

陽消則生陰,故日下而月西出也。陰盛則敵陽,故月望而東出也。天為父,日為子,故天左旋,日右行。日為夫,月為婦,故日東出,月西生也。日月之相食,數之交也。日望月則月食,月掩日則日食,猶水火之相剋也。是以君子用智,小人用力。

陽は一たび消退すればすなわち陰を生出すので、太陽が西下する時に月亮は西辺より現出す。陰は一たび盛満すればすなわち以て陽と相抗するに足るので、月は望日に至ればすなわち東辺より升起す。天は父・日は子なので、天は左に旋りて日は右に行く。日は夫・月は婦なので、日は東方より升起して月は西方より明を生ず。日月が互相に虧食するは、行度が交會した結果である:太陽と月亮とが正しく相望めば則ち月は食され、月亮が太陽を遮掩すれば則ち日は食さる——ちょうど水と火とが互相に克制するがごとし。だから君子は行事に智を用い、小人は行事に力を用う。

日隨天而轉,月隨日而行,星隨月而見,故星法月,月法日,日法天。天半明半晦,日半贏半縮,月半盈半虧,星半動半靜,陰陽之義也。天晝夜常見,日見於晝,月見於夜而半不見,星半見於夜,貴賤之等也。月晝可見也,故為陽中之陰,星夜可見也,故為陰中之陽。

太陽は天に跟いて運転し、月亮は太陽に跟いて行し、星辰は月亮に跟いて顕現す。だから星は月に取法し、月は日に取法し、日は天に取法す。天は一半明にして一半晦、日は一半盈にして一半縮、月は一半満にして一半虧、星は一半動にして一半静——これらは皆陰陽相半の義理である。天は昼夜を分かたず常に見え、日はただ白昼に見え、月は夜裏に見えて一半の時に見えず、星は夜裏にもまたただ一半を見る——これは尊卑貴賤の等次である。月亮は白天にも見え得るので、陽中の陰である。星辰はただ夜裏に見え得るので、陰中の陽である。

天奇而地耦,是以占天文者,觀星而已,察地理者,觀山水而已,觀星而天體見矣,觀山水而地體見矣。天體容物,地體負物,是故體幾於到也。極南大暑,極北大寒,故南融而北結,萬物之死地也。夏則日隨斗而北,冬則日隨斗而南,故天地交而寒暑和,寒暑和而物乃生焉。

天の数は奇に属し、地の数は偶に属す。だから天文を推占するは、星象を看れば足り。地理を考察するは、山水を看れば足り。星象を看ればすなわち天の形体は顕現し、山水を看ればすなわち地の形体は顕現す。天の形体は能く万物を容納し、地の形体は能く万物を負載するので、単に形体に就いて論じても、また幾ばくか「道」に近し。南方の極処は酷暑にして、北方の極処は厳寒にして、南辺は熔融し北辺は凝結す——皆万物の死地である。夏は太陽が北斗に随いて北に偏し、冬は太陽が北斗に随いて南に偏するので、天地は交會して寒暑は調和し、寒暑調和して万物ははじめて生長し起る。

巻五・中 水火土石の性

天以剛為德,故柔者不見,地以柔為體,故剛者不生,是以震,天之陰也。巽,地之陽也。有陽而陰效之,故至陰者辰也,至陽者日也,皆在乎天,而地則水火而已,是以地上皆有質之物。陰伏陽而形質生,陽伏陰而性情生,是以陽生陰,陰生陽,陽克陰,陰克陽。陽之不可伏者,不見於地。陰之不可克者,不見於天。伏陽之少者,其體必柔,是以畏陽而為陽所用。伏陽之多者,其體必剛,是以御陽而為陰所用,故水火動而隨陽,土石靜而隨陰也。

天は剛健を以て徳と為すので、柔の一面は天上に見えない。地は柔順を以て体と為すので、剛の一面は地上に生発しない。ここを以て震は天の裏辺の陰で、巽は地の裏辺の陽である。常に先ず陽ありて、陰ははじめて随いて效法するので、陰の極処に至るは辰で、陽の極処に至るは日で、両者は皆天上に在る。地に至っては、ただ水と火とあるのみで、因りて地面上には尽く有形質の物あり。陰が陽を伏蔵すれば、形と質とはすなわち生出す。陽が陰を伏蔵すれば、性と情とはすなわち生出す。だから陽は陰を生じ陰は陽を生じ、陽は陰を克し陰もまた陽を克す。あの陽の伏蔵すべからざるは、則ち地上に出現しない。あの陰の克制すべからざるは、則ち天上に出現しない。伏する所の陽の少なきは、その体は必ず柔で、因りて陽を畏懼して陽に使用される。伏する所の陽の多きは、その体は必ず剛で、因りて能く陽を抵禦して陰に使用される。だから水と火とは動を好みて陽に随従し、土と石とは安静にして陰に随従す。

陽生陰,故水先成。陰生陽,故火後成。陰陽相生也,體性相須也。是以陽去則陰竭,陰盡則陽滅。金火相守則流,火木相得則然,從其類也。水遇寒則結,遇火則竭,從其所勝也。

陽は陰を生出するので、水は先に形を成す。陰は陽を生出するので、火は後に形を成す。陰と陽とは互相に生発し、体と性とは互相に依待するので、陽は一たび離去すれば陰はすなわち枯竭し、陰は一たび窮尽すれば陽はすなわち熄滅す。金と火とが相守ればすなわち熔流し、火と木とが相遇すればすなわち燃焼す——各々各々の類に随う。水は寒気に遇えばすなわち凝結し、火に遇えばすなわち乾竭す——皆能くそれに勝つ一方に順従す。

陽得陰而為雨,陰得陽而為風,剛得柔而為雲,柔得剛而為雷,無陰則不能為雨,無陽則不能為雷。雨柔也,而屬陰,陰不能獨立,故待陽而後興。雷剛也,而屬體,體不能自用,必待陽而後發也。

陽は陰を得着すればすなわち雨と成り、陰は陽を得着すればすなわち風と成り、剛は柔を得着すればすなわち雲と成り、柔は剛を得着すればすなわち雷と成る。陰なくばすなわち雨は下り成らず、陽なくばすなわち雷は打ち成らず。雨の性は柔にして、陰に帰属す。陰は独自に成立できないので、陽の来るを待ってはじめて興起す。雷の性は剛にして、体に帰属す。体は自ら発用できないので、必ず陽の来るを待ってはじめて発動す。

巻五・下 文王の易と卦位

至哉文王之作易也,其得天地之用乎?故乾坤交而為泰,坎離交而為既濟也。乾生於子,坤生於午,坎終於寅,離終於申,以應天之時也。置乾於西北,退坤於西南,長子用事而長女代母,坎離得位,震兌為耦,以應地之方也,王者之法其盡於是矣!

文王の《易》を作したは真に了不起なり——おそらく天地の「用」を深く得たのであろう!だから乾坤が相交じて泰卦と成り、坎離が相交じて既済卦と成る。乾は子位に生じ、坤は午位に生じ、坎は寅位に終り、離は申位に終る——用いて天の時序に対応す。また乾を西北に安置し、坤を西南に退到せしめ、長子の震をして当権用事せしめ長女の巽をして母に代わりて位を主らしめ、坎離は各々正位を得、震兌は両両に偶を成す——用いて地の方位に対応す。王者の為る天下を治むる法度は、尽くここに在る!

乾坤天地之本,坎離天地之用,是以易始於乾坤,中於坎離,終於既未濟。而否泰為上經之中,咸恆當下經之首,皆言乎其用也。坤統三女於西南,乾統三男於東北,上經起於三,下經終於四,皆交泰之義也。故易者用也。乾用九,坤用六,大衍用四十九,而潛龍勿用也。大哉用乎!吾於此見聖人之心矣。

乾坤は天地の根本で、坎離は天地の功用である。だから《易》は乾坤を以て篇を開き、坎離を以て中に居り、既済・未済を以て尾を收む。そして否泰は上経の中に居り、咸恒は下経の首に列す——講ずる所は皆一個の「用」の字である。坤は三個の女卦を統率して西南に居り、乾は三個の男卦を統率して東北に居る。上経は頭を「三」に起こし、下経は尾を「四」に收む——もまた皆天地交泰の意思を含む。だから《易》の講ずる所はすなわち「用」である:乾は九を用い、坤は六を用い、大衍は四十九を用い——しかるに初九は偏えに「潜龍勿用」と言う。「用」の意義は真に大なり!我はここより聖人の用心を見た。

乾坤交而為泰,變而為雜卦也。乾坤坎離為上篇之用,兌艮震巽為下篇之用也。頤中孚大小過為二篇之正也。易者,一陰一陽之謂也。震兌始交者也,故當朝夕之位。離坎交之極者也,故當子午之位。巽艮雖不交而陰陽猶雜也。故當用中之偏位。乾坤純陰陽也,故當不用之位。

乾坤が相交じて泰と成り、再び変じて下ればすなわち《雑卦》の列する種種の卦と成る。乾・坤・坎・離は上篇の功用で、兌・艮・震・巽は下篇の功用で、頤・中孚・大過・小過は則ち上下両篇の共同の正卦である。いわゆる《易》とは、言う所は一陰一陽の道理である。震と兌とは陰陽が初めて交じる卦なので、早晚東西の方位を占拠す。離と坎とは陰陽が交じて極処に至る卦なので、子午南北の方位を占拠す。巽と艮とは相交じざるとはいえ、陰陽はしかしなお混雑するので、用うべくして略ば偏する方位を占拠す。乾と坤とは純陽純陰なので、存して用いられざる方位を占拠す。

乾坤縱而六子橫,易之本也。震兌橫而六卦縱,易之用也。天之陽在南而陰在北,地之陰在南而陽在北,人之陽在上而陰在下,既交則陽下而陰上。辰數十二,日月交會謂之辰。辰,天之體也,天之體,無物之氣也。

乾坤は縦列して六子は横陳す——これは《易》の本体である。震兌は横陳してその余の六卦は縦列す——これは《易》の功用である。天は陽が南に在りて陰が北に在り、地は陰が南に在りて陽が北に在り、人は陽が上に在りて陰が下に在る。一旦交合すれば、すなわち陽は降りて下面に至り、陰は升りて上面に至る。辰の数は十二で、日と月とが交會する所在をすなわち辰と呼ぶ。辰は天の形体で、しかも天の形体は、原本ただ一団の实物なき気である。

天之陽在南,故日處之。地之剛在北,故山處之,所以地高西北,天高東南也,天之神棲乎日,人之神發乎目,人之神寤則棲心,寐則棲腎,所以象天,此晝夜之道也。雲行雨施,電發雷震,亦各從其類也。吹噴吁呵呼,風雨雲霧雷,言相類也。萬物各有太極兩儀四象八卦之次,亦有古今之象。雲有水火土石之異,他類亦然。

天の陽は南方に在るので、太陽はあそこに処す。地の剛は北方に在るので、山岳はあそこに処す。ここを以て地勢は西北を以て高と為し、天勢は東南を以て高と為す。天の神は太陽の上に栖息し、人の神は眼睛の上に顕発す。人の神は醒める時は心に栖り、睡る時は腎に栖る——まさに天に取象す。これがすなわち昼夜の道理である。雲は飄行し雨は降落し、電は閃発し雷は震動す——もまた各々各々の類に随う。吹・噴・吁・呵・呼のこの五種の気息は、風・雨・雲・霧・雷と正しく相類似す。万物は各自に皆太極・両儀・四象・八卦の層次あり、もまた各自に皆古と今の形象あり。雲に水に属し・火に属し・土に属し・石に属するの分別あるは、別の物類もまたこのごとし。

二至相去東西之度凡一百八十,南北之度凡六十。冬至之月,所行如夏至之日。夏至之月,所行如冬至之日。四正者,乾坤坎離也。觀其象無反覆之變,所以為正也。陽在陰中陽逆行,陰在陽中陰逆行,陽在陽中,陰在陰中,則皆順行。此真至之理,按圖可見之矣。草類之細入於坤。五行之木,萬物之類也。五行之金,出乎石也。故水火土石不及金木,金木生其間也。

冬至と夏至の両点の相距るは、東西方向に共に一百八十度、南北方向に共に六十度。冬至のあの月は、月亮の行う所の路線はまさに夏至の太陽のごとし。夏至のあの月は、月亮の行う所の路線はまさに冬至の太陽のごとし。いわゆる「四正」とは、乾・坤・坎・離を指す。それらの卦象を見れば、倒転しても並びに変化なきがゆえに、正と称す。陽が陰の中に処れば陽は逆して行し、陰が陽の中に処れば陰は逆して行す。陽が陽の中に処り陰が陰の中に処れば、皆順に行す。これは極めて真切の道理で、先天図に照らして一見すればすなわち明白す。草類の中の最も細小なるは坤に帰す。五行の裏の木は、万物の一類に属す。五行の裏の金は、石の中より出たる。だから水・火・土・石の四者は金木を牽連するを要せず、金と木とはただこの四者の間より生出したに過ぎない。

巻六 物類性情雑論

得天氣者動,得地氣者靜。陽之類圓,成形則方。陰之類方,成形則圓。木之枝幹,土石之所成也,所以不易。葉花,水火之所成,故變而易也。

天気を禀受するは動を好み、地気を禀受するは静を好む。陽に属する一類は気象が円に趨き、一旦凝じて形体を成せばかえって方なる。陰に属する一類は気象が方に趨き、一旦凝じて形体を成せばかえって円なる。樹木の枝と幹とは、土石の気の凝じ成した所なので、堅定にして変換せず。葉と花とは水火の気の凝じ成した所なので、時に随いて開落変換す。

東赤,南白,西黃,北黑,此正色也。驗之於曉午暮夜之時,可見之矣。冬至之子中,陰之極。春分之卯中,陽之中。夏至之午中,陽之極。秋分之酉中,陰之中。凡三百六十,中分之則一百八十,此二至二分相去之數也。

東方は赤・南方は白・西方は黄・北方は黒——これがこそ四方の正色である。拂暁・正午・傍晚・深夜の四個の時候を拿って験看すれば、すなわち見出しうる。冬至は子の正中に在りて、陰の極点である。春分は卯の正中に在りて、陽の中点である。夏至は午の正中に在りて、陽の極点である。秋分は酉の正中に在りて、陰の中点である。周天は共に三百六十度で、当中より剖けばすなわち一百八十度——これがすなわち二至と二分とが彼此相距る数である。

陽中有陰,陰中有陽,天之道也。陽中之陽,日也,暑之道也。陽中之陰,月也,以其陽之類,故能見於晝。陰中之陽,星也,所以見於夜。陰中之陰,辰也,天壤也。辰之於天猶天地之體也,地有五行,天有五緯,地止有水火,天復有日月者,月為真水,日為真火,陰陽真精,是生五行,所以天地之數各五,陽數獨盈於七也。是故五藏之外又有心包,絡命門而七者,真心離火,命門坎水,五藏生焉,精神之主,性命之根也。

陽の中に陰を含み、陰の中に陽を含む——これは天の道理である。陽中の陽は太陽で、暑熱の道を主る。陽中の陰は月亮で、それがなお陽の一類に属するので、白天にも見えうる。陰中の陽は星なので、ただ夜裏に顕現す。陰中の陰は辰で、あれは天上の空處である。辰が天に対するは、ちょうど形体が天地に対するがごとし。地上に水火土石の五行あり、天上有五緯星あり。地はただ水と火とあるのみで、天はしかし別に日と月とあり:月は真水、日は真火で、この一陰一陽の真精が、はじめて五行を生出す。だから天と地の数は各々五で、ただ独り陽数は多く出でて七と成る。ここを以て人身の五臓の外にさらに心包と命門とありて、合わせて七数と成す:真心は離火に属し、命門は坎水に属し、五臓はこれに由りて生ず——それらは精神の主宰・性命の根柢である。

乾者乾之義,陽也。支者枝之義,陰也。乾十而支十二,是陽數中有陰,陰數中有陽也。魚者水之族也,蟲者風之族也。目口凸而耳鼻竅,竅者受聲嗅氣,物或不能閉之,凸者視色別味,物則能閉之也,四者雖象於一,而各備其四矣。水者火之地,火者水之氣。黑者白之地,寒者暑之地。

「干」は樹幹の干の意を取り、陽に属す。「支」は枝條の枝の意を取り、陰に属す。天干は十個にして地支は十二個——見れば陽数の中に陰を含み、陰数の中に陽を含む。魚は水の族類で、虫は風の族類である。眼と口とは凸出して、耳と鼻とは空竅である:空竅は用いて声音を接受し気味を嗅辨し、外物は時にそれを堵ぎとめられない。凸出は用いて顔色を観看し滋味を分別し、外物はしかしそれを閉合しうる。この四者は各々ただ一物を象るとはいえ、その中にまた各々四様の功能を具備す。水は火の居する所の地で、火は水の化する所の気である。黒は白の居する所の地で、寒は暑の居する所の地である。

草伏之獸毛如草之莖,林棲之鳥羽如林之葉,類使之然也。石之花,鹽消之類也。水之物無異乎陸之物,各有寒熱之性,大較則陸為陽中之陰,而水為陰中之陽。日月星辰共為天,水火土石共為地,耳目鼻口共為首,髓血骨肉共為身,此乃五之數也。

草の裏に伏する野獣は、毛が草の茎に似たり。林の中に棲する鳥は、羽が林の葉に似たり——皆物類がそれをこのようにせしめた。石頭の上に開く花は、まさに鹽・硝の一類の物である。水裏の物と陸上の物とは並びに両様なく、各々寒性と熱性の分別あり。大略に言えば、陸は陽中の陰に属し、水は陰中の陽に属す。日・月・星・辰が合わさって天と成り、水・火・土・石が合わさって地と成り、耳・目・鼻・口が合わさって頭と成り、髄・血・骨・肉が合わさって身と成る——これらは皆「五」のこの数の裏に統摂される。

火生於無,水生於有。辰至日為生,日至辰為用,蓋順為生而逆為用也。易有三百八十四爻,真天文也。

火は「無」の中より生出し、水は「有」の中より生出す。辰より日に推すは生成の次序で、日より辰に推すは発用の次序である。大抵順に数えればすなわち生で、逆に数えればすなわち用である。《易》に三百八十四爻あり——あれは真に天上の文章である。

巻六・中 動植飛走の類

鷹鵰之類食生,而雞之類不專食生。虎豹之類食生,而貓犬之類食生又食穀,以類推之,從可知矣。馬牛皆陰類,細分之則馬為陽而牛為陰。飛之類喜風而敏於飛上,走之類喜土而利於走下。禽蟲之卵,果穀之類也,穀之類多子,蟲之類亦然。蠶之類,今歲蛾而子,來歲則子而蠶。蕪菁之類,今歲根而苗,來歲則苗而子,此皆一歲之物也。

鷹と雕の一類はただ活物を食い、鶏の一類は専ら活物を食わず。虎と豹の一類はただ活物を食い、猫狗の一類はすでに活物を食いまた穀子を食う。この弁法に照らして類推すれば、その余もまたすなわち知りうる。馬と牛とは皆陰類に属し、再び細分すれば則ち馬は陽に属し牛は陰に属す。能く飛ぶ一類は風を喜び、上に向かって飛ぶに善し。能く走る一類は土を喜び、下に向かって走るに便なり。禽鳥と昆虫の産む所の卵は、まさに草木の果実と穀粒に相當す。穀子の一類は子を結ぶこと多く、虫子の一類もまたこのごとし。蚕のこの一類は、今年は蛾にして卵を産み、明年は卵にして蚕を成す。蕪菁のこの一類は、今年は根より苗を生じ、明年は苗より子を結ぶ——これらは皆一年を以て一世と為す物である。

天之氣運北而南則治,南而北則亂,亂久則復北而南矣,天道人事皆然,推之歷代,可見消長之理也。在水者不瞑,在風者瞑。走之類上睫接下,飛之類下睫接上,類使之然也。在水而鱗,飛之類也,龜獺之類,走之類也。

天の気運が北より南に向かって推移すれば、天下はすなわち太平す。南より北に向かって推移すれば、天下はすなわち動乱す。乱れて久しければまた転じて北より南に向かうに帰る。天道と人事とは皆このごとし——歴代の興衰を拿って印证すれば、消長の道理はすなわち看清さる。水裏に生ずるは睡る時に眼を合わせず、風中に生ずるは睡る時に眼を合わすを要す。能く走る一類は上眼睫が下眼睫に接し、能く飛ぶ一類は下眼睫が上眼睫に接す——皆物類がそれをこのようにせしめた。水裏に生じて鱗甲あるは、実は飛の一類に属す。烏亀・水獺の一類は、実は走の一類に属す。

夫四象,若錯綜而用之,日月天之陰陽,水火地之陰陽,星辰天之剛柔,土石地之剛柔。飛之走,雞鳧之類是也,走之飛,龍馬之屬是也。陽主舒長,陰主慘急,日入盈度,陰從於陽。日入縮度,陽從於陰。

四象はもし交錯綜合して運用せば:日と月とは天の陰陽で、水と火とは地の陰陽で、星と辰とは天の剛柔で、土と石とは地の剛柔である。飛類に属して走に近きは、鶏と野鴨の一類がすなわちこれ。走類に属して飛に近きは、竜と馬の一類がすなわちこれ。陽は舒展生長を主り、陰は凄緊急促を主る。太陽が盈の度数に進入する時には、陰はすなわち陽に順従す。太陽が縮の度数に進入する時には、陽はすなわち陰に順従す。

神者人之主,將寐在脾,熟寐在腎,將寤在肝,正寤在心。天地之大寤在夏,人之神則存於心。水之族以陰為主,陽次之,陸之類以陽為主,陰次之,故水類出水則死,風類入水則死。然有出入之類,龜蟹鵝鳧之類是也。

神は人の主宰である:まさに入睡せんとする時に神は脾に在り、睡り熟する時に神は腎に在り、まさに醒めんとする時に神は肝に在り、完全に醒める時に神は心に在る。天地の最大の清醒は夏に在りて、人の神は則ち常に心裏に存す。水中の族類は陰を以て主と為して陽は其次に居り、陸上の族類は陽を以て主と為して陰は其次に居る。だから水族は水を出ればすなわち死し、風族は水に入ればまた死す。ただしも水陆出入の両便なるあり——烏亀・螃蟹・鵞・野鴨の一類がすなわちこれ。

天地之交十之三。天火無體之火也,地火有體之火也。火無體,因物以為體。金石之火烈於草木之火者,因物而然也。氣形盛則魂魄盛,氣形衰則魂魄亦從而衰矣。魂隨氣而變,魄隨形而止,故形在則魄存,形化則魄散。

天と地とが相交ずる分数は十分の三を占む。天上の火は形体なき火で、地上の火は形体ある火である。火はもともと体なく、外物を憑借してはじめてその体を成す。金石の打出す火は草木の焼出す火よりも更に猛烈なるは、まさに憑借する所の物が同じからざるがゆえに。気と形とが旺盛なれば、魂と魄ともまた旺盛なり。気と形とが衰竭すれば、魂と魄ともまた随いて衰竭す。魂は気に随いて変動し、魄は形に随いて止息す。だから形体がなお在れば魄はすなわち存留し、形体が化去すれば魄はすなわち消散す。

星為日餘,辰為月餘。星之至微如沙塵者,隕而為堆阜。藏者天行也,府者地行也,天地並行則配為八卦。八卦相錯者,相交錯而成六十四卦也。夫易,根於乾坤而生於姤復,蓋剛交柔而為復,柔交剛而為姤,自茲而無窮矣。

星は太陽の余気で、辰は月亮の余気である。星の裏の極めて細微にして沙塵のごときは、墜落して下ればすなわち堆りて丘阜と成る。五臓は天の運行に属し、六腑は地の運行に属す。天地は並行して悖らざるがゆえに、臓腑は相配してすなわち八卦に対応す。いわゆる「八卦相錯」とは、八卦が彼此交錯して六十四卦と成るを言う。《易》の根柢は乾坤に在りて、生発は姤と復とに在る:剛が柔に交入すればすなわち復卦と成り、柔が剛に交入すればすなわち姤卦と成り——ここより推衍して下ればすなわち窮尽なし。

龍能大能小,然亦有制之者,受制於陰陽之氣,得時則能變化,變變則不能也。一歲之閏六陰六陽,三年三十六日,故三年一閏。五年六十日,故五歲再閏。先天圖中,環中也。月體本黑,受日之光而白。水在人之身為血,土在人之身為肉。

竜は能く大きくも為り能く小さくも為るも、しかしまたそれを制服する物あり——それは総じて陰陽の気の節制を受く。時令を得着すればすなわち能く変化し、時令が当たらざればすなわち変じ成らず。一年の閏余は六陰六陽の共に十二日で、三年に積りて三十六日と成るので、三年に一個の閏月を安ず。五年に積りて六十日と成るので、五年の内に要して再び一個の閏月を安ず。先天図の要処は全く正中のあの一点に在り——すなわちいわゆる「環中」である。月亮の本体はもとは黒く、日光の照射を受けてはじめて白色を顕出す。水は人の身上に於いて血に化し、土は人の身上に於いて肉に化す。

膽與腎同陰,心與脾同陽,心主目,脾主鼻。陽中陽日也,陽中陰月也,陰中陽星也,陰中陰辰也。柔中柔水也,柔中剛火也,剛中柔土也,剛中剛石也。鼻之氣目見之,口之言耳聞之,以類應也。

胆と腎とは同じく陰に属し、心と脾とは同じく陽に属す。心は眼を主管し、脾は鼻を主管す。陽中の陽は日、陽中の陰は月、陰中の陽は星、陰中の陰は辰である。柔中の柔は水、柔中の剛は火、剛中の柔は土、剛中の剛は石である。鼻裏の呼出す気は眼睛が見え、口裏の説出す話は耳朶が聴こゆ——皆同類相応の緣故である。

倚蓋之說,崑崙四垂而為海,推之理則不然,夫地直方而靜,豈得如圓動之天乎?動物自首生,植物自根生,自首生命在首,自根生命在根。海潮者,地之喘息也,所以應月者,從其類也。震為龍,一陽動於二陰之下,震也,重淵之下有動物者,豈非龍乎?

一種の「倚蓋」の説法ありて、崑崙山が四面に下垂して海と成ると為すも、道理に按って推究すればしかしこのようにならず:地はもと方正にして安静なれば、どうしてあの円転運動する天のごとくであろうか?動物は頭より生じ始め、植物は根より生じ始む。頭より生ずるは、性命はすなわち頭上に係る。根より生ずるは、性命はすなわち根上に係る。海潮は大地の喘息で、それが月と相応ずる所以は、同じく一類に属するがゆえに。震卦は象を竜に取り、一陽が両陰の下に鼓動す——まさに震の卦形である。深々たる重淵の底下に能く動く物あり——あれは竜ではないか?

風類水類,大小相反。天之陽在東南,日月居之。地之陰在西北,火石居之。起震終艮一節,明文王八卦也。天地定位一節,明伏羲八卦也。八卦相錯者,明交錯而成六十四也。數往者順,若順天而行,是左旋也,皆已生之卦也,故云數往也。知來者逆,若逆天而行,是右旋也,皆未生之卦也,故云知來也。夫易之數,由逆而成矣。

風の一類と水の一類とは、大小がちょうど相反す。天の陽は東南に在るので、日月はあそこに居る。地の陰は西北に在るので、火と石とはあそこに居る。《説卦》の裏の「帝は震より出で……艮に於いて言を成す」のあの一節は、講ずる所は文王八卦である。「天地位を定む」のあの一節は、講ずる所は伏羲八卦である。「八卦相錯」と言うは、八卦が交錯して六十四卦と成るを講ず。「往く者を数うるは順なり」は、天に順いて行くで、すなわち左旋で、指す所は皆すでに生成した卦なので、「往を数う」と言う。「来たる者を知るは逆なり」は、天に逆いて行くで、すなわち右旋で、指す所は皆まだ生成せざる卦なので、「来を知る」と言う。《易》の数は、まさに逆推の裏より成立する。

巻六・下 卦象蔵府と経伝雑釈

堯典三百六旬有六日,夫日之餘盈也六,則月之餘盈也亦六,若去日月之餘十二,則有三百五十四,乃日行之數,以十二除之,則得二十九日。

《尚書・尭典》は一年を三百六十六日と言う。太陽の一辺の盈余は六日なれば、月亮の一辺の盈余もまた六日である。もし日月両辺の余数の共に十二日を皆減去せば、すなわち三百五十四日を剩し——これは日行の得る所の数である。十二を拿って除すれば、毎月にすなわち二十九日を得る。

素問肺主皮毛,心脈,脾肉,肝筋,腎骨,上而下,外而內也。心血腎骨交法也,交即用也。乾為天之類,本象也。為金之類,別象也。天地並行則藏府配,四藏天也,四府地也。

《素問》に言う:肺は皮毛を主り、心は血脈を主り、脾は肌肉を主り、肝は筋を主り、腎は骨を主る。これは上より下へ・外より内へと排下来たる次第である。心は血に配し腎は骨に配するは、用いる所は交互に取法する弁法で、いわゆる「交」はすなわち「用」である。乾が象を天の一類に取るは、それの本象である。象を金の一類に取るは、それの別象である。天と地とが並行して悖らざれば、臓と腑とはすなわち相配す:四臓は天に属し、四腑は地に属す。

乾奇也,陽也,健也,故天下之健莫如天。坤耦也,陰也,順也,故天下之順莫如地,所以順天也。震起也,一陽起也,起動也,故天下之動莫如雷。坎陷也,一陽陷於二陰,陷下也,故天下之下莫如水。艮止也,一陽於是而止也,故天下之止莫如山。巽入也,一陰入二陽之下,故天下之入莫如風。離麗也,一陰離於二陽,其卦錯,然成文而華麗也,故天下之麗莫如火,又如附麗之麗。兌說也,一陰出於外而說於物,故天下之說莫如澤。

乾は奇画にして、陽に属し、性は剛健なので、天下の最も剛健なるは天に過ぐるなし。坤は偶画にして、陰に属し、性は柔順なので、天下の最も柔順なるは地に過ぐるなし——それはまさに天に順承する。震は「起」で、一陽が下に起こり、起とはすなわち動なので、天下の最も動に善きは雷に過ぐるなし。坎は「陥」で、一陽が両陰の中に陥落し、陥とはすなわち下に往くなので、天下の最も下に往くは水に過ぐるなし。艮は「止」で、一陽がここに到ればすなわち停住したので、天下の最も能く止住するは山に過ぐるなし。巽は「入」で、一陰が両陽の下に鑚入するので、天下の最も深入に善きは風に過ぐるなし。離は「麗」で、一陰が両陽の間に附麗し、卦画が交錯相間して因りて文を成して華美を顕すので、天下の最も華麗なるは火に過ぐるなし——「麗」の字はまた兼ねて附着の意を取る。兌は「説」で、一陰が外に透露して万物を欣悦せしむるので、天下の最も能く人を欣悦せしむるは沢に過ぐるなし。

火內暗而外明,故離陽在外,火之用,用外也。水外暗而內明,故坎陽在內,水之用,用內也。人寓形於走類者何也,走類者,地之長子也。自泰至否,其間則有蠱矣。自否至泰,其間則有隨矣.

火は裏面が暗にして外面が明なので、離卦の陽爻は外に在り——火の功用は外に向かって発する。水は外面が暗にして裏面が明なので、坎卦の陽爻は内に在り——水の功用は内に向かって蔵する。人はなぜ形体を走獣のこの一類の裏に寄托するか?走獣は地の生じた長子なるがゆえに。泰卦より否卦に推すには、中間に必ず蠱卦を経るを要す。否卦より泰卦に推し回るには、中間に必ず随卦を経るを要す。

天有五辰,日月星辰與天為五。地有五行,金木水火與土為五。有溫泉而無寒火,陰能從陽而陽不能從陰也。有雷則有電,有電則有風,雨生於水,露生於土,雷生於石,電生於火,雷與風同為陽之極,故有電必有風。木之堅非雷不能震,草之柔非露不能潤。

天に五辰あり:日・月・星・辰に再び天本身を連ねて共に五と成す。地に五行あり:金・木・水・火に再び土を連ねて共に五と成す。世上に温泉あって寒火なし——見れば陰は能く陽に順従して陽は能く陰に順従せず。雷あればすなわち電あり、電あればすなわち風あり。雨は水より生じ、露は土より生じ、雷は石より生じ、電は火より生ず。雷と風とは同じく陽が極処に至った産物なので、電あれば必ず風あり。木質は堅硬にして、雷にあらざればすなわちそれを震動かさず。草性は柔弱にして、露にあらざればすなわちそれを潤して透らず。

巻七 道の体用と元亨利貞

陽尊而神,尊故役物,神故藏用,是以道生天地萬物而不自見也,天地萬物亦取法乎道矣。陽者道之用,陰者道之體,陽用陰,陰用陽,以陽為用則尊陰,以陰為用則尊陽也。

陽はすでに尊貴にしてまた神妙である:尊貴なるがゆえに、能く万物を役使す。神妙なるがゆえに、功用を蔵して形迹を露さず。ちょうど「道」が天地万物を生成して自己は並びに顕現せず、天地万物はしかし皆道に取法するがごとし。陽は道の功用で、陰は道の本体である。陽は陰を用いるを要し、陰もまた陽を用いるを要す。陽を以て用と為す時にはすなわち陰を尊崇し、陰を以て用と為す時にはすなわち陽を尊崇す。

陰幾於道,故以況道也。六變而成三十六矣,八變而成六十四矣,十二變而成三百八十四矣,六六而變之,八八六十四變而成三百八十四矣,八八而變之,七七四十九變而成三百八十四矣。

陰は道に近きがゆえに、それを拿って道を比況す。六変して三十六と成り、八変して六十四と成り、十二変して三百八十四と成る。もし六六を以て相推せば、則ち八八六十四変して三百八十四と成る。もし八八を以て相推せば、則ち七七四十九変して三百八十四と成る——路径は同じからざれど帰する所は一致す。

無極之前陰含陽也,有象之後陽分陰也,陰為陽之母,陽為陰之父,故母孕長男而為復,父生長女而為姤,是以陽起於復而陰起於姤也。性非體不成,體非性不生,陽以陰為體,陰以陽為體,動者性也,靜者體也。在天則陽動而陰靜,在地則陽靜而陰動。性得體而靜,體隨性而動,是以陽舒而陰急也。

無極のまだ判れざる前には、陰が陽を包含していた。象ある已に成れる後には、陽が陰を剖分する。陰は陽の母親で、陽は陰の父親である。だから母親は長男を孕育して復卦と成り、父親は長女を生出して姤卦と成る——ここを以て陽は復卦より起こり、陰は姤卦より起こる。性は体なくんばすなわち成立しえず、体は性なくんばすなわち生発しえない。陽は陰を以て体と為し、陰もまた陽を以て体と為す。動の一面は性で、静の一面は体である。天上に在れば則ち陽は動にして陰は静、地下に在れば則ち陽は静にして陰は動。性は体を得着すればすなわち安定して下り、体は性に随えばすなわち活動して起るので、陽は舒缓にして陰は急促である。

陽不能獨立,必得陰而後立,故陽以陰為基。陰不能自見,必待陽而後見,故陰以陽為唱。陽知其始而享其成,陰效其法而終其勞。

陽は単独に立つ能わず、必ず陰を得着してそうして後に立ち得住るので、陽は陰を当作して根基と為す。陰は自ら顕現しえず、必ず陽を待ってそうして後に顕現して出るので、陰は陽を当作して領唱のと為す。陽は事の開端を知って坐してその成を享け、陰は陽の法度を仿効して到底の労苦を承当す。

陽能知而陰不能知,陽能見而陰不能見也。能知能見者為有,故陽性有而陰性無也。陽有所不遍而陰無所不遍也,陽有去而陰常居也,無不遍而常居者為實,故陽體虛而陰體實也。天地之本,其起於中乎!是以乾坤屢變而不離乎中。人居天地之中,心居人之中,日中則盛,月中則盈,故君子貴中也。本一氣也,生則為陽,消則為陰,故二者一而已矣。四者二而已矣,六者三而已矣,八者四而已矣。是以言天不言地,言君不言臣,言父不言子,言夫不言婦也。然天得地而萬物生,君得臣而萬化行,父得子,夫得婦而家道成。故有一則有二,有二則有四,有三則有六,有四則有八。

陽は能く知るも陰は能く知らず、陽は能く見るも陰は能く見ず。能く知り能く見るは「有」と算うるので、陽の性は有に属して陰の性は無に属す。陽に照顧し到らざる処あれど、陰はしかし到らざる処なし。陽に離去する時あれど、陰はしかし常住して走らず。到らざる処なくまた常住して走らざるは「実」と算うるので、陽の体は虚にして陰の体は実である。天地の根本は、おそらく「中」より発端したであろう!だから乾坤は屢々変化しても始終中を離れない。人は天地の中に処し、心は人身の中に処す。日は中天に至れば最も盛んに、月は中分に至れば最も円なるので、君子は最も一個の「中」の字を看重す。本来ただ一団の気で、生長する時にはすなわち陽と呼び、消退する時にはすなわち陰と呼ぶので、両者は実はただ一のみ。四はただ両個の二に過ぎず、六はただ両個の三に過ぎず、八はただ両個の四に過ぎない。ここを以て天を言えばすなわち地を更に言うを要せず、君を言えばすなわち臣を更に言うを要せず、父を言えばすなわち子を更に言うを要せず、夫を言えばすなわち婦を更に言うを要せず。しかれども天は地を得着してはじめて万物生じ、君は臣を得着してはじめて万化行なわれ、父は子を得着し夫は婦を得着してはじめて家道成る。だから一あればすなわち二あり、二あればすなわち四あり、三あればすなわち六あり、四あればすなわち八あり。

有意必有言,有言必有象,有象必有數,數立則像生,像生則言著彰,言著彰則意顯,像數則筌蹄也,言意則魚兔也,得魚兔而忘筌蹄可也,舍筌蹄而求魚兔,則未見其得也。

意念あれば必定に言語あるを要し、言語あれば必定に形象あるを要し、形象あれば必定に数目あるを要す。数は一たび立定すれば形象はすなわち生出し、形象が生出すれば言語はすなわち顕豁し、言語が顕豁すれば意念はすなわち明白す。形象と数とはただ魚を捕る竹笱・兎を捉る網罟に過ぎず、言語と意念とがこそあの魚と兎である。魚である。魚兎を得て笱罟を忘るるは可なり。もし笱罟を丟開して空しく魚兎を求めれば、あれは誰か能く到手するを見たことがない。

天變而人效之,故元亨利貞,易之變也。人行而天應之,故吉凶悔吝,易之應也。以元亨為變,則利貞為應,以吉凶為應,則悔吝為變。元則吉,吉則利應之,亨則凶,凶則應之以貞,悔則吉,吝則凶,是以變中有應,應中有變也。變中之應,天道也,故元為變則亨應之,利為變則應之以貞。應中之變,人事也,故變則凶,應則吉,變則吝,應則悔也。悔者吉之先,而吝者凶之本,是以君子從天不從人。

天が先に変じて人がそれを效法するので、元・亨・利・貞は《易》の「変」である。人が先に行って天が彼に回応するので、吉・凶・悔・吝は《易》の「応」である。もし元亨を当作して変と為せば、則ち利貞は応である。もし吉凶を当作して応と為せば、則ち悔吝は変である。元は吉に帰し、吉はすなわち利ありて来たりて相応ず。亨の中に凶を伏して、凶はすなわち貞を以て相応ず。悔は終に吉に帰し、吝は終に凶に帰す。だから変の裏辺に応を含み、応の裏辺に変を含む。変の裏辺の応は天道に属するので、元を変と作せば則ち亨が来たりて相応じ、利を変と作せば則ち貞を以て相応す。応の裏辺の変は人事に属するので、変ずれば則ち凶に趨き、応ずれば則ち吉に趨き、変ずれば則ち吝を成じ、応ずれば則ち悔を成す。悔は吉の先声で、吝は凶の根苗なので、君子は天に順従して人に順従せず。

元者,春也,仁也,春者時之始,仁者德之長,時則未盛而德足以長人,故言德不言時。亨者,夏也,禮也,夏者時之盛,禮者德之文,盛則必衰而文不足救之,故言時不言德。故曰。大哉乾元而上九有悔也。利者,秋也,義也,秋者時之成,義者德之方,萬物方成而獲利,義者不通於利,故言時不言德也。貞者,冬也,智也,冬者時之末,智者德之衰,貞則吉,不貞則凶,故言德而不言時也。故曰。利貞者,性情也。

「元」は春に配し、仁に配す。春は四時の開端で、仁は衆徳の首長である。この時時令はまだ興盛せざれど、徳はすでに以て人を生養するに足るので、ただ徳に就いて言うて時に就いて言わず。「亨」は夏に配し、礼に配す。夏は四時の極盛で、礼は徳の文飾である。盛んなりて極処に至れば必定に衰えんとして、文飾はそれを救いえないので、ただ時に就いて言うて徳に就いて言わず。ここを以て《文言》はすでに「大なるかな乾元」と賛嘆し、また上九に悔ありと言う。「利」は秋に配し、義に配す。秋は四時の成熟で、義は徳の方正である。万物は剛に成熟して収獲する所有れど、義はしかし利と相通ぜざるので、ただ時に就いて言うて徳に就いて言わず。「貞」は冬に配し、智に配す。冬は四時の末尾で、智は徳の衰減である。能く正を守ればすなわち吉に、正を守らざればすなわち凶なので、ただ徳に就いて言うて時に就いて言わず。ここを以て《文言》は「利貞とは、性情なり」と言う。

道生天,天生地,及其功成而身退,故子繼父禪,是以乾退一位也。象起於形,數起於質,名起於言,意起於用。天下之數出乎理,違乎理則入於術,世人以數而入術,故失於理也。

道は天を生出し、天は地を生出す。功業がすでに成れるに及べばすなわち自ら後位に退居す——まさに児子が承継して父親が禅譲するがごとし。だから後天方位の上に於いて乾は一位を退譲するを要す。象は形に由りて起こり、数は質に由りて起こり、名は言に由りて起こり、意は用に由りて起こる。天下の数は皆「理」より出づ——一たび理に背けばすなわち「術」の裏に落ち入る。世人はただ数を当作して術数に用いるので、理の上に於いて失掉了した。

天可以理盡而不可以形盡,渾天之術以形盡天,可乎?精義入神以致用也,不精義則不能入神,不能入神則不能致用。為治之道必通其變,不可以膠柱,猶春之時不可行冬之令也。

天は理を以て窮めうるも、しかし形を以て窮められない。渾天家の弁法は形体を拿って天を窮めんと欲す——行き通らんか?義理を精研して以て神妙の境に進入し、そうして後にはじめて致用を談じうる。義理を精研せざればすなわち入神できず、入神できざればすなわち致用できない。天下を治理する道理は必ず権変に通達せねばならず、琴柱に膠住するがごとく成法を死守すべからず——ちょうど春天に冬天の政令を施行しえざるがごとし。

自然而然,不得而更者,內象內數也,他皆外象外數也。天道之變,王道之權也。卦各有性有體,然皆不離乾坤之門,如萬物受性於天,而各為其性也。其在人則為人之性,在禽獸則為禽獸之性,在草木則為草木之性。

およそ自然而然にして更改するに由なきは、「内象」「内数」に属す。この外のは皆「外象」「外数」である。天道の変化は、すなわち王道が権変を行う所以の根拠である。毎一卦に各々その性あり各々その体ありて、しかし皆乾坤のこの門戶を離れず。ちょうど万物が皆天のあそこより本性を禀受して、各自に一種の性と成るがごとし:人に在ればすなわち人の性、禽獣に在ればすなわち禽獣の性、草木に在ればすなわち草木の性である。

天以氣為主,體為次。地以體為主,氣為次,在天在地者亦如之。氣則養性,性則乘氣,故氣存則性存,性動則氣動也。堯之前,先天也。堯之後,後天也。後天乃效法耳。

天は気を以て主と為して体を以て次と為し、地は体を以て主と為して気を以て次と為す。およそ天に処するのと地に処するの事物もまた、この分別に照らす。気は能く性を滋養し、性は能く気に乗駕するので、気が存すれば性はすなわち存し、性が動けば気はすなわち動く。尭以前は「先天」に属し、尭以後は「後天」に属す。後天はただ先天を效法するに過ぎない。

巻八 神と性命の学

天之象數則可得而推,如其神用則不可得而測也。自然而然者,天也,唯聖人能索之。效法者,人也,若時行時止,雖人也,亦天也。生者性,天也。成者形,地也。日入地中,交精之象。

天の象と数とはなお推算し出しうるも、それの神妙の作用に至っては、測度するに由なし。自然而然にして本自このごときは天に属し、ただ聖人のみ能くそれを探索し到る。法度を仿効して後に行くは人に属するも、しかしもし当に行くべき時には行き当に止むべき時には止めば、人より出ずるとはいえ、実はすなわち天である。万物をして生出せしむるは性で、天に属す。万物をして形を成せしむるは形で、地に属す。太陽が地中に沈入するは、まさに天地が精気を交合する形象である。

體四而變六,兼神與氣也。氣變必六,故三百六十也。凡事為之極,幾十之七則可止矣。蓋夏至之日止於六十,兼之以晨昏,分可辨色矣。庶幾乎十之七也。圖雖無文,吾終日言未嘗離乎是,蓋天地萬物之理盡在其中矣。

本体は四にして変化は六なるは、あれは神と気とを皆算え入れた。気の変化は必定に六なので、推衍して三百六十と成す。およそ事を為して一定の地步に至れば、差不多く十分の七に満たればすなわち收住すべし。夏至のあの日は日照が六十刻に止まり、再び清晨と黄昏の両段を加えて、天色はなお物色を辨出しうる——あれは差不多く十分の七である。先天図の上には一個の字もないとはいえ、我が整天講説するも従来それを離れたことなし——天地万物の道理は、全くこの一张の図の裏に包むがゆえに。

氣一而已,主之者乾也,神亦一而已,乘氣而變化,出入於有無死生之間,無方而不測者也。不知乾,無以知性命之理。時然後言,乃應變而言,言不在我也。仁配天地謂之人,唯仁者真可以謂之人矣。生而成,成而生,易之道也。

気はただ一個で、それを主宰するは乾である。神もまたただ一個で、それは気に乗って変化し、有と無・生と死の間に出入して、定所なくして測度すべからず。乾を懂得せざれば、すなわち性命の道理を懂得するに由なし。当に説話すべき時に至ってはじめて説話するは、あれは変化に順応して言を発するで、話は並びに我に由って主を為さず。能く「仁」を天地と相配するこそ人と呼ばる——ただ仁者のみ真に一個の人と称するに配す。生じてまた成り、成りてまた生ず——これがすなわち《易》の道理である。

氣者,神之宅也。體者,氣之宅也。天六地四,天以氣為質,而以神為神,地以質為質,而以氣為神,唯人兼乎萬物而為萬物之靈,如禽獸之聲,以其類而各能其一,無所不能者,人也。推之他事,亦莫不然,唯人得天地日月交之用,他類則不能也。人之生真可謂之貴矣!天地與其貴而不自貴,是悖天地之理,不祥莫大焉。

気は神の居所で、体は気の居所である。天の数は六・地の数は四。天は気を以てそれの質と為して、神を以てそれの神と為す。地は質を以てそれの質と為して、気を以てそれの神と為す。ただ独り人は万物を兼備して万物の霊と成る。譬えば禽獣の鳴叫は、各々その類に按ってただ一種を発出しうるのみ。能くする所なきなきは、ただ人のみ。別の事情の上に推してもまたこのごとならざるなし:ただ人のみ天地日月の交合する功用を得着しうるも、別の物類はすなわち能わず。人は世に生まれて真に尊貴と言うべし!天地はすでにこの份の尊貴を人に給えど、人はしかし自重せざれば、あれはすなわち天地の道理に違背して、これより更不祥なるなし。

燈之明暗之境,日月之象也。月者,日之影也。情者,性之影也。心性而膽情,性神而情鬼。心為太極,又曰道為太極。形可分,神不可分。陰事大半,蓋陽一而陰二也。

灯火に明暗の界限あるは、まさに日月の形象である。月は日の影子で、情は性の影子である。心は性に属して胆は情に属し、性は神に近くして情は鬼に近し。心はすなわち太極で、また道はすなわち太極と言う。形体は剖分すべきも、神はしかし剖分すべからず。世間の陰に属する事情は一大半を占む——陽はただ一あるのみにして陰は二あるがゆえに。

冬至之後為呼,夏至之後為吸,此天地一歲之呼吸也。以物喜物,以物悲物,此發而中節者也。不我物則能物物。任我則情,情則蔽,蔽則昏矣。因物則性,性則神,神則明矣。潛天潛地,不行而至,不為陰陽所攝者,神也。

冬至以後は天地の呼気で、夏至以後は天地の吸気である——これがすなわち天地の一年の中の一呼一吸である。物の可喜なるに因りて喜び、物の可悲なるに因りて悲しむ——これがすなわち《中庸》の言う「発して中節す」である。物を据えて我有と為さざるは、はじめて真に万物を駕馭しうる。自己の私意を任凭するは、あれは情である。情あればすなわち遮蔽あり、遮蔽あればすなわち昏暗す。物の本然に順うは、あれは性である。性を見ればすなわち神に通じ、神に通ずればすなわち明澈す。能く天に潜入し地に潜入して、行かざるも至らざるなきなく、陰陽の拘束を受けざるは、あれはすなわち神である。

天之孽,十之一猶可違。人之孽,十之九不可逭。先天之學,心也。後天之學,跡也。出入有無死生者,道也。神無所在,無所不在,至人與他心通者,以其本於一也。道與一,神之強名也。以神為神者,至言也。

上天の降下した灾孽は、十分の裏の一分はなお躱開しうる。人の自ら造出した灾孽は、十分の裏の九分は逃れられない。「先天の学」の講ずる所は心で、「後天の学」の講ずる所は迹である。能く有無死生の間に出入するは、あれは道である。神に固定の所在なく、しかしまた無くんばあらざるなし。至人の能く他人と心意相通常なる所以は、大家が本原は同一個なるに就けばなり。「道」と「一」とは、皆勉強して神に安上した名字である。直に「神を以て神と為す」と説くが、最も恰当の話である。

身地也,本靜,所以能動者,血氣使之然也。生生長類,天地成功。別生分類,聖人成能。以物觀物,性也。以我觀物,情也。性公而明,情偏而暗。陽主闢而出,陰主翕而入。

身体は地に属し、本来は静で、動きうる所以は、血気がそれをこのようにせしめた。万物をして生生して已まず種類を滋長せしむるは、天地の成就した功業である。万物を辨別して開き分門別類すは、聖人の成就した能事である。物の立場に立って物を看るは、あれは性である。我の立場に立って物を看るは、あれは情である。性は公正にして明澈し、情は偏私にして昏暗す。陽は開辟を主りて外に向かって出、陰は收斂を主りて内に向かって入る。

日在於水則生,離則死,交與不交之謂也。陰對陽為二,然陽來則生,陽去則死,天地萬物生死主於陽,則歸之於一也。神無方而性有質。發於性則見於情,發於情則見於色,以類而應也。

太陽は水裏に落ちればすなわち生じ、水を離ればすなわち死す——言う所はまさに交と不交の分別である。陰と陽とは相対して二と成るも、しかし陽は一たび来ればすなわち生じ、陽は一たび去ればすなわち死す。天地万物の生死はすでに皆陽に由りて主を為されば、然れば根柢に帰し底に帰してなおただ一のみ。神に固定の方所なく、性はしかし依るべき質地あり。性の上より発出すればすなわち情に見え、情の上より発出すればすなわち顔色に見ゆ——これは同類相応の道理である。

以天地生萬物,則以萬物為萬物。以道生天地,則天地亦萬物也。人之貴,兼乎萬物,自重而得其貴,所以能用萬類。凡人之善惡,形於言,發於行,人始得而知之。但萌諸心,發於慮,鬼神已得而知之矣。此君子所以慎獨也。氣變而形化。

天地が万物を生ずるこの一層を看れば、万物はただ万物のみ。道が天地を生ずるこの一層を看れば、天地もまたただ万物の一に過ぎない。人の貴ぶべきは、万物の理を兼備するに在り。能く自ら看重すれば、はじめて真にこの份の貴を得着し、因りて能く万類を役使す。凡人の善と悪とは、言語の上に表現し行為の上に発作して、別人ははじめて知る。しかしだた心裏に剛に萌動し念慮の中に剛に発生せば、鬼神はすでに知る。これがまさに君子が謹慎に独处する所以の緣故である。気は一たび変化すれば、形もまた随いて変化す。

人之類,備乎萬物之性。人之神則天地之神,人之自欺,所以欺天地,可不戒哉?人之畏鬼亦猶鬼之畏人,人積善而陽多,鬼亦畏之矣,積惡而陰多,鬼不畏之矣。大人者,與鬼神合其吉凶,夫何畏之有?

人のこの一類は、万物の性を具備す。人の神はすなわち天地の神である。人が自ら欺瞞するは、天地を欺瞞するに等し——どうして戒懼せざらんや?人は鬼を怕れるも、実はまたまさに鬼が人を怕れるがごとし:人が善を積めば則ち陽気多くて、鬼もまた彼を怕れ、悪を積めば則ち陰気多くて、鬼はすなわち彼を怕れず。大人に至っては、能く鬼神とその吉凶を合す——あれはまた何か怕るべきあるか?

至理之學非至誠則不至,物理之學或有所不通,不可以強通,強通則有我,有我則失理而下入於數矣。心一而不分,則能應萬物,此君子所以虛心而不動也。聖人利物而無我。明則有日月,幽則有鬼神。夫聖人六經,渾然無跡,如天道焉。春秋錄實事,而善惡形於其中矣。

最高の道理を探究する学問は、至誠の地步に至らざればすなわち家に到らず。物理の学に至っては、時に想い通らざる処ありて、強いて貫通を求むべからず。強いて貫通を求めればすなわち「我」を摻入し、「我」あればすなわち理を失掉して、下に向かって術数の裏に落ち入る。心が専一にして分散せざれば、すなわち能く万物に応付す——これがまさに君子が虚心にして妄動せざる所以である。聖人は万物に利あって私我を存せず。明処に日月が照臨し、暗処に鬼神が鑑察す。聖人の作した六経は、浑然として一体にして斧鑿の痕迹を見えず——ちょうど天道のごとし。《春秋》はただ如実に事情を記載するも、善悪は自ずからその中に顕現す。

中庸之法,自中者天也,自外者人也。韻法闢翕者律天,清濁者呂地,先閉後開者,春也。純開者,夏也。先開後閉者,秋也。冬則閉而無聲。東為春聲,陽為夏聲,此見作韻者亦有所至也。銜凡冬聲也。

《中庸》の法度:内裏より自然に中に合するは天に属し、外面より勉強に中を求むるは人に属す。音韻の法度:開口と合口の分別は「律」に属し、天に配す。清声と濁声の分別は「呂」に属し、地に配す。先に閉じて後に開くは春声で、純然として開口は夏声で、先に開きて後に閉ずるは秋声で、冬天は則ち閉合して声なし。東韻は春声で、陽韻は夏声である——これに由りて韻目を制定した人にもまたその領会あるを見る。銜・凡の両韻はすなわち冬声である。

寂然不動,反本復靜,坤之時也,感而遂通天下之故,陽動於中,間不容髮,復之義也。不見動而動,妄也。動乎否之時,是也。見動而動則為無妄,然所以有災者,陽微而無應也。有應而動則為益矣。精氣為物,形也。游魂為變,神也。又曰。精氣為物,體也。游魂為變,用也。君子之學以潤身為本,其治人應物,皆餘事也。

寂然として動かず、本原に返帰して安静に復するは、あれは坤の時節である。一たび感応あればすなわち天下の故に貫通し、陽は中間に発動して、速きこと間に髪を容れず——あれは復の意義である。動くべき迹象を見ざるに動けば、すなわち「妄」で、すなわち否塞の時に妄動するである。動くべき迹象を見てはじめて動けば、すなわち「無妄」である。しかれども無妄卦はなお旧に灾あるは、陽がなお微弱にして上頭に相応ずるなきがゆえに。もし応ありて後に動けば、あれはすなわち益卦と成る。「精気は物を為す」の講ずる所は形で、「游魂は変を為す」の講ずる所は神である。また言う:「精気は物を為す」の講ずる所は体で、「游魂は変を為す」の講ずる所は用である。君子は学問を為して自身を潤沢するを以て根本と為し、人を治理し物に応接するに至っては、皆余事である。

巻八・下 聖賢論学と経伝評騭

剸割者,才力也。明辨者,智識也。寬洪者,德器也,三者不可闕一。無德者責人,怨人,易滿,滿則止也。能循天理動者,造化在我也。學不際天人,不足謂之學。人必有德器,然後喜怒皆不妄為,卿相為匹夫,以至學問高天下,亦若無有也。

能く果断に裁断するは、才力である。能く明白に辨析するは、智識である。能く寛厚弘大なるは、徳器である。この三様は一つも缺くべからず。徳なき人は一味に別人を責備し別人を埋怨し、また自満し易く——一たび自満すればすなわち止歩して前進せず。能く天理に依循して行動する人は、造化はすなわち自らの手裏に掌握される。学問を為してもし天と人とを貫通しえざれば、学問と称するに配せず。人は必ず先に徳器あって、そうして後に喜と怒とが皆妄発に至らず。あの時に至れば、たとえ身が卿相に居るとも匹夫たるとも、乃至学問が天下人より高くとも、彼の心裏にはこの回事あるがごとくなし。

得天理者不獨潤身,亦能潤心,不獨潤心,至於性命亦潤。曆不能無差,今之學曆者但知曆法,不知曆理,能布算者落下閎也,能推步者甘公石公也。落下閎但知曆法,揚雄知曆法又知曆理。顏子不遷怒不貳過,皆情也,非性也。不至於性命不足謂之好學。揚雄作玄,可謂見天地之心者也。

天理を得着した人は、ただ身体を滋潤するのみならず、心地をも滋潤しうる。ただ心地を滋潤するのみならず、性命をも一併に滋潤を得る。暦法は偏差なかるべくもあらず。いま暦を学ぶ人はただ暦法を懂れど、暦理を懂らず。布算に会するは落下閎で、推歩に会するは甘公・石公である。落下閎はただ暦法を懂れど、揚雄はしかしすでに暦法を懂りまた暦理を懂る。顔子は怒りを遷さず過を貳ならざるを做到したも、あれは皆なお情の上に在りて、性の上に在らず。学問が性命の地步に至らざれば、好学と称するに配せず。揚雄が《太玄》を作したは、天地の心を見た人と言うべし。

易無體也。曰。既有典常,則是有體也,恐遂以為有體,故曰不可為典要。既有典常,常也。不可為典要,變也。莊周雄辯,數千年一人而已。如庖丁解牛曰踟躕四顧,孔子觀呂梁之水曰蹈水之道無私,皆至理之言也。夫易者,聖人長君子消小人之具也。及其長也,闢之於未然。及其消也,闔之於未然。一消一長,一闢一闔,渾渾然無跡,非天下之至神,其孰能與於此?

《易》は固定の形体なきものである。ある人が言う:《繋辞》はすでに「典常あれば」と講ずれば、あれはすなわち体あるである。これは人が真にそれを当作して定体あると為すを怕るるがゆえに、また「典要と為すべからず」と言う。「典常あれば」の講ずる所は常で、「典要と為すべからず」の講ずる所は変である。庄周の雄弁は、幾千年にただこの一人のみ。譬えば《養生主》の写す庖丁の牛を解くは、躊躇満志し四面を環顧するを説到し、《達生》の写す孔子が吕梁の急流を看るは、水を蹈む道は私無きに在るを説く——皆極処に説到した道理である。いわゆる《易》とは、聖人が用いて君子を滋長し小人を消退する工具である。君子の当に長ずべき時には、早く事情のまだ形を成さざる時に彼の為に門路を開辟す。小人の当に消すべき時には、また早くまだ形を成さざる時に門を閉ざす。一消一長・一開一合して、浑然たる一片にして痕迹を留めず——天下の最も神妙なる人にあらざれば、誰か能くこの裏辺に参与しえよう?

大過本末弱也,必有大德大位然後可救,常分有可過者,有不可過者,大德大位,可過者也,伊周其人也,不可懼也。有大德無大位,不可過者也,孔孟其人也,不可悶也,其位不勝德耶?大哉位乎!待時用之宅也。復次剝,明治生於亂乎?姤次夬,明亂生於治乎?時哉時哉,未有剝而不復,未有夬而不姤者,防乎其防,邦家其長,子孫其昌,是以聖人貴未然之防,是謂易之大綱。

大過卦の卦象は首尾の両爻が柔弱にして中間が過盛で、必ず大徳ありまた大位ある人であってはじめて救い転じうる。常分に就いて論ずれば、行うべき非常の事あるもまた行うべからざるあり:大徳ありまた大位あるは、是れ可なり——伊尹・周公はすなわちこのようの人で、彼らは畏懼するを要せず。大徳あって大位なきは、是れ不可なり——孔子・孟子はすなわちこのようの人で、彼らもまた欝悶するを要せず——あなや位がその徳を承当するに足らざらんや?位の分量は真に大なり——それはただ時機を等候して発用する一間の屋子に過ぎない。復卦が剥卦の後に緊接するは、治世が乱世の中より生ずるを説明せんと欲するか?姤卦が夬卦の後に緊接するは、乱世が治世の中より生ずるを説明せんと欲するか?時機よ時機よ!従来剥し尽くして復さざるなく、また夬し尽くして姤さざるなし。能く当に防ぐべき処に早く設防すれば、国家はすなわち長久して子孫はすなわち昌盛す。だから聖人は最も事情のまだ発せざる前の予防を看重す——これを《易》の大綱と呼ぶ。

先天學,心法也。故圖皆自中起,萬化萬事生乎心也。所行之路不可不寬,寬則少礙。知易者不必引用講解,始為知易。孟子著書,未嘗及易,其間易道存焉,但人見之者鮮耳。人能用易,是為知易,如孟子可謂善用易者也。

「先天の学」は一套の心法なので、先天の諸図は皆正中より起算す——千変万化・千事万端は皆心の裏より生出するがゆえに。人の走る所の路は寛ならざるべからず——路が寛ければ阻碍は少なし。《易》を懂る人は、必ずしも能く経典を引據して講説するを以てこそ《易》を懂ると算うるを要せず。孟子が書を著すに、従来《易》に提及したことなかれど、《易》の道理はすなわち彼の書裏に在り——ただ見出し得る人が少なきのみ。能く《易》を身上に用うる、これがこそ《易》を懂ると算う。孟子のごときは、すなわち《易》を用うるに善き人と言うべし。

所謂皇帝王伯者,非獨三皇五帝三王五伯而已,但用無為則皇也,用恩信則帝也,用公正則王也,用知力則伯也。鬼神無形而有用,其情狀可得而知也,於用則可見之矣。若人之耳目鼻口手足,草木之枝葉花實顏色,皆鬼神之所為也。福善禍淫,主之者誰耶?聰明正直,有之者誰耶?不疾而速,不行而至,任之者誰耶?皆鬼神之情狀也。

いわゆる皇・帝・王・伯とは、並びに単に三皇・五帝・三王・五伯のあの幾人を指すにあらず:およそ無為を用いて世を治むるはすなわち皇で、恩徳信義を用いて世を治むるはすなわち帝で、公平正直を用いて世を治むるはすなわち王で、智謀気力を用いて世を治むるはすなわち伯である。鬼神は形体なくして作用あり——その情状は知りうるべく、作用の上よりすなわち見出しうる。譬えば人の耳目鼻口手足、草木の枝葉花実顔色は、皆鬼神の為した事である。善人に福を降し淫悪の人に禍を降す——この事を主持するは誰か?聡明にしてまた正直にして、この品格を具備するは誰か?急促せざるも自然に迅速にして、行かざるも自然に到達す——この事を担当するは誰か?これらは皆鬼神の情状である。

易有意象,立意皆所以明象,統下三者。有言象,不擬物,而直言以明事。有像象,擬一物以明意。有數象,七日八月三年十年之類是也。易之數窮天地始終,或曰,天地亦有始終乎?曰。既有消長,豈無終始?天地雖大,是亦形器,乃二物也。易有內象,理致是也。有外象,指定一物而不變者是也。

《易》に「意象」ありて、およそ意を立つるは皆卦象を顕明する為で、それは下面の三種を統摂す。「言象」ありて、具体の物を比拟せずして、ただ言語を用いて直接に事理を説明す。「像象」ありて、某一件の物を比拟して以て用意を顕明す。「数象」ありて、卦爻辞の裏の「七日」「八月」「三年」「十年」の一類がすなわちこれ。《易》の数は能く天地の始と終とを窮尽す。ある人が問う:天地にもまた始終ありや?答えて曰く:すでに消あり長あれば、どうして終始なからん?天地は広大とはいえ、もなお有の形の器で、ただ両件の物に過ぎない。《易》に「内象」あり——あれは義理の帰趣である。「外象」あり——あれは某一物を指定して固定して移らざるである。

在人則乾道成男,坤道成女,在物則乾道成陽,坤道成陰。神無方則易無體,滯於一方則不能變化,非神也。有定體則不能變通,非易也。易雖有體,體者象也,假象以見體,而本無體也。事無大小,皆有道在其間,能安分則謂之道,不能安分謂之非道。

人の身上に於いては、乾道は男を成就し坤道は女を成就す。物の身上に於いては、乾道は陽を成就し坤道は陰を成就す。神に固定の方所なきがゆえに、《易》にもまた固定の形体なし。一旦ある一方に滞留すれば、すなわち変化しえず——あれはすなわち神にあらず。一旦固定の体あれば、すなわち変通しえず——あれはすなわち《易》にあらず。《易》は体あるがごとく看ゆるも、いわゆる体は実はただ象のみ。象を借りて以て体を見出すも、本来は体なし。事情は大小を論わず、その間に皆道あり:能く本分に安んずるをすなわち道と呼び、能く本分に安んぜざるをすなわち道に合せずと呼ぶ。

正音律數行至於七而止者,以夏至之日出於寅而入於戌,亥子丑三時則日入於地,而目無所見,此三數不行者,所以比於三時也。故生物之數亦然,非數之不行也,有數而不見也。六虛者,六位也,虛以待變動之事也。六爻六卦,有形則有體,有性則有情。天主用,地主體,聖人主用,百姓主體,故日用而不知。

正音律の数は七に推して停住するは、夏至のあの日に太陽が寅時より升起して戌時に至りて落下し、亥・子・丑の三個の時辰には太陽はすでに地下に入りて、眼睛は何も見えざるがゆえに。あの三個の数が更に下に推さざるは、まさにこの三個の時辰を比拟す。だから生物の数もまたこのごとし:数が走り下りえざるにあらずして、数はありとはいえ見えざるがゆえに。いわゆる「六虚」とは、すなわち六個の爻位である。それを虚と言うは、空しくして変動の事の来たりて充実するを等候するがゆえに。六爻六卦に、形あればすなわち体あり、性あればすなわち情あり。天は「用」を主管し、地は「体」を主管す。聖人は「用」を主管し、百姓は「体」を主管するので、百姓は天天用いて自ら知らず。

法始乎伏羲,成於堯,革於三王,極於五伯,絕於秦。萬事治亂之跡無以逃此矣。神者,易之主也,所以無方。易者,神之用也,所以無體。循理則為常,理之外則為異矣。

世を治むる法度は伏羲に起こり、尭に成り、夏商周の三王の時に変革する所有り、春秋の五伯の時に極端に走向し、秦代に至ればすなわち断絶す。天下万事の治乱の形迹は、皆この条の線索を跳び出せず。神は《易》の主宰なので、固定の方所なし。《易》は神の功用なので、固定の形体なし。常理に依循するはすなわち「常」で、常理の外に出づるはすなわち「異」である。

火以性為主,體次之。水以體為主,性次之。陽性而陰情,性神而情鬼。易之首於乾坤,中於坎離,終於水火之交不交,皆至理也。

火は性を以て主と為して体を以て次と為し、水は体を以て主と為して性を以て次と為す。陽は性に属して陰は情に属し、性は神に近くして情は鬼に近し。《易》は乾坤を以て頭を開き、坎離を以て中に居り、既済・未済すなわち水火の交と不交とを以て結と為す——この裏辺は皆極めて精微の道理である。

太極一也,不動生二,二則神也,神生數,數生象,像生器。太極不動,性也,發則神,神則數,數則像,像則器,器之變,復歸於神也。

太極はただ一で、それ自身は動かざれど二を生出し、二はすなわち神である。神は数を生出し、数は象を生出し、象は器を生出す。太極の動かざるあの一面はすなわち性である。一たび発動すればすなわち神と成り、神あればすなわち数あり、数あればすなわち象あり、象あればすなわち器あり。そして器は一旦変化すれば、また重ねて神の裏に帰還す。

巻九 性命経史雑論

諸卦不交於乾坤者,則生於否泰,否泰,乾坤之交也。乾坤起自奇偶,奇偶生自太極。天使我有,是之謂命。命之在我之謂性,性之在物之謂理。朔易以陽氣自北方而生,至北方而盡,謂變易循環也。

およそ直接に乾坤と相交らざる卦は、すなわち否卦・泰卦の裏より生出す。そして否と泰とは、まさに乾坤の相交じた結果である。乾坤はまた奇画と偶画とより起こり、奇偶は則ち太極より生出す。上天は我をしてこの一身一世を有り得せしめた——これを「命」と呼ぶ。命が我の身上に落つればすなわち「性」と呼ぶ。性が物の身上に落つればすなわち「理」と呼ぶ。《尚書・尭典》の言う所の「朔易」とは、陽気が北方より生起して、また北方に到りて尽くるを指す——これがすなわち変易循環の意思である。

春陽得權,故多旱。秋陰得權,故多雨。元有二,有生天地之始者,太極也。有萬物之中各有始者,生之本也。天地之心者,生萬物之本也。天地之情者,情狀也,與鬼神之情狀同也。

春天は陽気が当権なので、旱多し。秋天は陰気が当権なので、雨多し。「元」に両層の意思あり:一層は天地を生出したあの総開端で、すなわち太極である。一層は万物が各々皆あるあの開端で、すなわちそれの生命の本根である。いわゆる「天地の心」とは、万物を生養する根本である。いわゆる「天地の情」とは、それが顕露し出した情状で、鬼神の情状と一様である。

莊子與惠子游於濠梁之上。莊子曰。條魚出游從容,是魚樂也。此盡己之性能盡物之性也。非魚則然,天下之物則然。若莊子者,可謂善通物矣。老子知易之體者也。無思無為者,神妙致一之地也。聖人以此洗心,退藏於密。太極,道之極也。太玄,道之元也。太素,色之本也。太一,數之始也。太初,事之初也。其成功則一也。

《荘子・秋水》は荘子と恵子とが濠水の橋上に遊玩するを記す——荘子曰く:白鰷魚の游び従容自在なるは、これがすなわち魚の快楽である。これがまさに能く自己の性を尽くし、因りてまた能く万物の性を尽くす。ただ魚のみこのごとしにあらず、天下の物は皆このごとし。荘子のごとき人は、物情に通達するに善しと言うべし。老子は《易》の「体」を懂得した人である。「思なく為なく」は、まさに神妙にして一に帰する境地で、聖人はこれを憑って自心を洗滌して、幽密の処に退蔵す。「太極」は道の極至で、「太玄」は道の本元で、「太素」は形色の根本で、「太一」は数の開端で、「太初」は事の起頭である。名目は同じからざるとはいえ、成就する所はしかし同じ一事である。

太羹可和,玄酒可漓,則是造化亦可和可漓也。易地而處則無我也。誠者主性之具,無端無方者也。至哉留侯,善藏其用。素問密語之類,於術之理可謂至矣。

太羹はもともと調味を加えざれど、しかしまた調和しうる。玄酒はもともとただ清水なるも、しかしまた摻淡しうる——見れば造化もまた同じく調和しうるべく稀釈しうべき。自己を対方の位置上に放到して設想すれば、「我」のこの一層の執着もまたすなわちなし。「誠」は本性を主持する憑借で、それは頭なし緒なし・方なし所なし。留侯張良は真に了不起にして、最も自己の作用を蔵するに善し。《素問》の裏のあの密語の一類の文字は、医術の道理に就いて言えば、極処に講到したと算うべし。

瞽瞍殺人,舜視棄天下猶棄敝屣也,竊負而逃遵海濱,而處終身,欣然樂而忘天下,聖人雖天下之大,不能易天性之愛。或問顯諸仁藏諸用,曰,若日月之照臨,四時之成歲,是顯仁也。其度數之然而不知其所以然,是藏用也。君子於易玩象,玩數,玩辭,玩意。

仮使瞽瞍が人を殺したらば、舜は天下を丟開するを一雙の破鞋を扔掉するがごとく看て、偸々と父親を背負い起して逃走し、海浜に沿って住み下来て、一辈子欣然として快楽にして天下を忘れん。見れば聖人はたとえ天下の大を縦有すとも、彼の天性の中の親愛を換掉しえず。ある人が「仁に顕し用に蔵す」をどう講ずべきと問う。答えて曰く:日月の照臨・四時の歳を成すのごときは、あれは「仁に顕し」である。その中の度数はこのごとくなるも人はそのこのごとくなる所以を知らざるは、あれは「用に蔵す」である。君子が《易》を読むには、その象を玩味し、その数を玩味し、その辞を玩味し、その意を玩味するを要す。

兌說也,其它皆有所害,惟朋友講習無,說於此,故言其極者也。中庸非天降地出,揆物之理,度人之情,行其所安,是為得矣。元亨利貞之德各包吉凶悔吝之事。雖行乎德,若違於時,亦或凶矣。

兌は欣悦である。別の欣悦は皆損害を帯来しうるも、ただ朋友の間の講論切磋のこの一種のみ害処なし——《兌卦》がそれを挙げて言うは、まさに欣悦の極致を標出せんと欲す。《中庸》の講ずる所の道理は並びに天上より掉り下り地里より冒出したにあらず:ただ事物の道理を衡量し人情の実際を体察して、自己の心裏の安穏なる事を做せば、すなわち得着したと算う。元・亨・利・貞のこの四種の徳は、各々吉・凶・悔・吝のこの四類の事を包含す。たとえ徳に依って做するも、もし時勢に違背すれば、またなお凶を招く可なり。

湯放桀,武王伐紂,而不以為弒者,若孟子言男女授受不親,禮也,嫂溺則援之以手,權也。故孔子既尊夷齊,亦與湯武,夷齊仁也,湯武義也,然唯湯武則可,非湯武則是篡也。陰者陽之影,鬼者人之影也。

商湯が夏桀を放逐し武王が商紂を討伐したを、人々はこれを君弑りと看做さず——道理はまさに孟子の言うがごとし:男女は授受に親しまざるは「礼」なれど、嫂子が水に落ちればすなわち手を伸べてそれを拉くを要するは、あれは「権」である。だから孔子はすでに伯夷・叔斉を尊崇し、また商湯と武王とを認可す:伯夷叔斉の守る所は仁で、湯武の行う所は義である。ただしこのごとき事はただ湯武の做すのみ行うべく、湯武にあらざる人に換えて做さば、あれはすなわち簒奪である。陰は陽の影子で、鬼は人の影子である。

巻九・上 春秋尽性と聖賢気象

秦穆公有功於周,能遷善改過,為伯者之最。晉文侯世世勤王,遷平王於洛,次之。齊威公九合諸侯,不以兵車,又次之。楚莊強大,又次之。宋襄公雖伯而力微,會諸侯而為楚所執,不足論也。治春秋者不先定四國之功過,則事無統理,不得聖人之心矣。春秋之間,有功者未見大於四國,有過者亦未見大於四國也,故四者功之首,罪之魁也。人言春秋非性命書,非也。至於書郊牛之口傷,改卜牛,牛死乃不郊,猶三望,此因魯事而貶之也。聖人何容心哉?無我故也。豈非由性命而發言也?又云春秋皆因事而褒貶,豈容人特立私意哉?又曰春秋聖人之筆,削為天下之至公,不知聖人之所以為公也。如因牛傷則知魯之潛郊,因初獻六羽則知舊潛八佾,因新作雉門則知舊無雉門,皆非聖人有意於其間,故曰春秋盡性之書也。

秦穆公は周室に功ありて、また能く過を改め善に遷りて、霸主の裏に於いて最も良きと算うべし。晋文侯は世世代代王事に勤しみ、周平王を洛邑に遷したは、次の一等である。斉桓公は九次諸侯を会合して兵車を動用せざるは、また次の一等である。楚荘王は勢力が強大なるは、更に次の一等である。宋襄公は霸主と号称すとも実力微弱にして、諸侯を会合してかえって楚国に拘執されたは、説くに値せず。《春秋》を研治する人はもし先にこの四国の功と過とを断定せざれば、事情に条理なく、また聖人の用心を摸着しえず。春秋の一代に、功あるはこの四国より大なるなく、過あるもまたこの四国より大なるなし——だからこの四家はすでに功労の首にして、また罪過の魁である。ある人は《春秋》は性命を講ずる書にあらずと言うも、この話は是ならず。ただ書中に郊祭の牛の口部傷受け他の牛を改卜すれど牛がまた死しよって郊祭を挙行せずしてなお三望の礼を行うを記すのこの一条を就拿て言えば、あれはまさに魯国の事に就いて貶責を加えるである。聖人はどこに私心を存するや?まさに彼が「我」なきがゆえに。これあなや性命の上より発出した言論にあらざらんや?また《春秋》は皆事情本身に就いて褒貶すると言うも、どうして人をして別に私意を立つるを容れんや?またある人は《春秋》は聖人の一笔一削して以て天下の最も公の書と成れると言うも、聖人が何を憑って能く公たるを明白せず。譬えば牛の傷受けた一事よりすれば、すなわち魯国に僭越の郊祭あるを知る。「初めて六羽を献ず」よりすれば、すなわち旧時に僭して八佾を用いたを知る。「新たに雉門を作す」よりすれば、すなわち旧時にもともと雉門なきを知る——これらは皆聖人が意を存してその裏に安排したにあらず。だから《春秋》は一部の性を尽くす書と言う。

易之為書,將以順性命之理者,循自然也。孔子絕四從心,一以貫之,至命者也。顏子心齋屢空,好學者也。子貢多積以為學,億度以求道,不能刳心滅見,委身於理,不受命者也。春秋循自然之理而不立私意,故為盡性之書也。

《易》のこの部書は、性命の道理に順いて講ずるを要し、すなわち自然に依循す。孔子は能く意・必・固・我の四病を絶去して心の欲する所に従い、一を以てそれを貫くは、あれは天命に通達した人である。顔子は能く心斎坐忘して屢々空しきもその楽を改めざるは、あれは好学の人である。子貢は多く積累を靠って学問と算え、揣度測算を靠って道を求めて、心机を剖去し成見を滅掉して、自身を理に交托しえざるは、あれは天命を承受せざる人である。《春秋》は自然の道理に依循して私意を摻入せざるので、もまた一部の性を尽くす書である。

初與上同,然上亢,不及初之進也。二與五同,然二之陰中不及五之陽中也。三與四同,然三處下卦之上,不若四之近君也。人之貴,兼乎萬物,自重而得其貴,所以能用萬類。至理之學非至誠則不至。素問陰符,七國時書也。

初爻と上爻とは同じく一類に属するも、しかし上爻はすでに亢極に到れりて、初爻のまさに上進するに如かず。二爻と五爻とは同じく一類に属するも、しかし二爻は陰位の中に居りて、五爻の陽位の中に居るに如かず。三爻と四爻とは同じく一類に属するも、しかし三爻は下卦の頂上に処して、四爻の君位に靠近するに如かず。人の貴ぶべき所以は、万物の理を兼備するに在り。能く自ら看重すれば、はじめて真にこの份の貴を得着し、因りて能く万類を役使す。最高の道理を探究する学問は、至誠の地步に至らざればすなわち家に到らず。《素問》と《陰符経》とは、皆戦国七雄の時候の書である。

顯諸仁,藏諸用,孔子善藏其用乎?莊荀之徒失之辯。伯夷義不食周粟,至餓且死,只得為仁而已。三人行必有師焉,至於友一鄉之賢,天下之賢,以天下為未足,又至於尚論古人,無以加焉。義重則內重,利重則外重。

「仁に顕し用に蔵す」——孔子はおそらく最も自己の作用を蔵するに善き人であろう?荘子・荀子のあの一路の人は、毛病は弁を好むに在り。伯夷は義を守りて周朝の糧食を食わず、餓えてまさに死せんとするに至るまで、もただ一個の「仁」の字を成就するに過ぎず。「三人同行せば必ず我師あり」——これに由りて上に推し、一郷の賢人を結交し、再び天下の賢人を結交す。なお天下の内に足らざるを嫌い、再び上に古人を評論す——この歩に至ればすなわち復加するに以てなし。義を看重する人は、内裏はすなわち重し。利を看重する人は、外面はすなわち重し。

巻九・中 学を論じ身を修むるの要

能醫人能醫之疾,不得謂之良醫,醫人之所不能醫者,天下之良醫也。能處人所不能處之事,則能為人所不能為之事也。人患乎自滿,滿則止也。故禹不自滿,假所以為賢,雖學亦當常若不足,不可臨深以為高也。人茍用心,必有所得,獨有多寡之異,智識之有淺深也。

能く別人も医し得る病を医好するは、良医と算うべからず。能く別人の医し得ざる病を医好する、こそ天下の良医である。同じく、能く別人の処置し得ざる事を処置すれば、もまた能く別人の做り成さざる事を做成しうる。人の最も怕るべき毛病は自満で、一たび自満すればすなわち止歩して前進せず。だから大禹は従来自満自大せず——まさにこのがゆえにはじめて賢と成り得た。たとえすでに学び在るとも、また常に不足を覚えるべく、深谷の辺上に立ってすなわち自ら以て高しと為すべからず。人はだた用心を肯んずれば、必定に得る所有り——ただ得る所に多少あるは、あれは智識の深淺同じからざるに過ぎない。

理窮而後知性,性盡而後知命,命知而後知至。凡處失在得之先,則得亦不喜。若處得在失之先,則失難處矣,必至於隕穫。人必內重,內重則外輕,茍內輕,必外重,好利好名無所不至。天下言讀書者不少,能讀書者少,若得天理真樂,何書不可讀,何堅不可破,何理不可精?

理を探究して窮尽してそうして後に性を知り、性を発揮して尽くしてそうして後に命を知り、命を知ってそうして後にこそ極処に至ると算う。およそ先に「失」を「得」の前面に擺いて打算する人は、真に得る時にもまた大喜せず。もし先に「得」を「失」の前面に擺いて打算すれば、一旦失えばすなわち自処しがたく、必ず頽廃して志を喪うに至らん。人は一定に内在を看重するを要し、内が重ければ外は自然に軽し。仮使内裏が軽ければ、外面は必定に重く、あればすなわち利を好み名を好みて、何事も做り出しうる。天下に読書を自称する人は少なくざれど、真に読書に会するはしかし少なし。もし真に天理の真楽を嘗えば、何の書か読みえざらん?何の難関か破りえざらん?何の道理か精しえざらん?

天時地理人事,三者知之不易。資性得之天也,學問得之人也。資性,由內出者也。學問,由外入者也。自誠明,性也,自明誠學也。伯夷柳下惠得聖人之一端,伯夷得聖人之清,柳下惠得聖人之和,孔子時清時和,時行時止,故得聖人之時。

天時・地理・人事のこの三様は、真に懂るは容易ならず。資質は天のあそこより得たるで、学問は人のあそこより得たるである。資質は内裏より生発して出で、学問は外面より灌注して入る。《中庸》の「誠より明く」と言うは、あれは性に属す。「明くより誠」と言うは、あれは学に属す。伯夷と柳下恵とは各々聖人の一端を得着す:伯夷は聖人の「清」を得着し、柳下恵は聖人の「和」を得着す。孔子は則ち当に清なるべき時に清く、当に和なるべき時に和し、当に行くべき時に行き当に止むべき時に止む——だから彼の得着したは聖人の「時」である。

太玄九日當兩卦,餘一卦當四日半。用兵之道,必待人民富,倉廩實,府庫充,兵強名正,天時順,地利得,然後可舉。老子五千言,大抵皆明物理。

《太玄》は九天を以て両卦に配当し、剩る一卦は四天半に配当す。兵を用うる道理は、必ず百姓の富足・倉廩の充実・府庫の豊盈・兵力の強盛・名義の正当・天時の順遂・地利の我に在るを待って、そうして後にはじめて起兵すべし。老子の五千言は、大体上は皆物理を闡明するに在り。

今有人登兩臺,兩臺皆等則不見其高,一臺高,然後知其卑下者也。一國一家一身皆同,能處一身則能處一家,能處一家則能處一國,能處一國則能處天下。心為身本,家為國本,國為天下本。心能運身,茍心所不欲,身能行乎?人之精神貴藏而用之,茍衒於外,則鮮有不敗者。如利刃,物來則剸之,若恃刃之利而求割乎物,則刃與物俱傷矣。

仮如ある人が両座の台に登上れば、両座の台が一様に高ければすなわち高下を見出せず。一座高くあって、はじめて別の一座が低きを顕出す。一国・一家・一身の道理もまた皆一様である:能く一身を安頓してはじめて能く一家を安頓し、能く一家を安頓してはじめて能く一国を安頓し、能く一国を安頓してはじめて能く天下を安頓す。心は身の根本で、家は国の根本で、国は天下の根本である。心は能く身体を駆使す——仮如心裏が願わざれば、身体はなお行き動かんか?人の精神は收蔵して使用するに貴し——もし一味に外に向かって炫耀すれば、失敗せざる少なし。ちょうど一把の利刃のごとし:物ありて跟前に送到せばはじめてそれを割断す。もし刀刃の鋒利なるを倚仗して主動に物を割らば、あればすなわち刀と物と両敗して倶に傷つく。

言發於真誠,則心不勞而逸,人久而信之。作偽任數,一時或可以欺人,持久必敗。人貴有德,小人有才者有之矣,故才不可恃,德不可無。天地日月,悠久而已。故人當存乎遠,不可見其邇。君子處畎畝,則行畎畝之事。居廟堂,則行廟堂之事,故無入不自得。

話は真誠より出でれば、心裏は労せずして安逸にして、日子一久なれば人は自然に彼を信ず。作假して機巧を弄すれば、一時は或いは人を騙し得るも、時間一長なれば必定に失敗す。人は徳あるに貴し。小人の裏にもまた才あるあり——だから才は倚仗すべからざるも、徳は缺少すべからず。天地日月は、ただ長久なるに過ぎず。だから人は眼光を放して遠くすべく、ただ眼前を看る能わず。君子は身が田畝の間に在れば、すなわち田畝の間の事を做し、身が朝廷の上に居れば、すなわち朝廷の上の事を做す——だからどの歩に至るとも皆自得しうる。

智數或能施於一朝,蓋有時而窮,惟至誠與天地同久。天地無則至誠可息,茍天地不能無,則至誠亦不息也。室中造車,天下可行,軌轍合故也,茍順義理,合人情,日月所照皆可行也。斂天下之善則廣矣,自用則小。

智謀権術は或いは一朝一夕に効を見る能くするも、しかし総じて尽頭に走り至る時あり。ただ至誠のみ能く天地と一様に久長なり。天地はもし無に帰しえば、至誠もまた停息しうる。仮如天地が無に帰しえざれば、あれば至誠もまた停息せず。屋子の裏に車を造して、造り成せばしかし天下を通行しうるは、軌轍の尺寸が相合するがゆえに。同じく、ただ義理に順い人情に合せば、およそ日月の照り到る処はすなわち皆行き通る。能く天下人の善を收集すれば、胸襟はすなわち寛広し。ただ自己一人の見に憑れば、格局はすなわち狭小す。

巻九・下 権変名実と経伝雑説

漢儒以反經合道為權,得一端者也。權,所以平物之輕重,聖人行權,酌其輕重而行之,合其宜而已,故執中無權者,猶為偏也。王通言春秋王道之權,非王通莫能及此。故權在一身,則有一身之權,在一鄉,則有一鄉之權,以至於天下,則有天下之權,用雖不同,其權一也。

漢代の儒者は「常経に違反して道に合す」を「権」と為した——あれはただ一頭を抓住したに過ぎない。いわゆる権とは、もと事物の軽重を称量する秤錘である。聖人の権を行うは、ただ軽重を斟酌して行いて、それらをして各々その宜しきに合せしむるに過ぎない。だからただ中道を執守することを知りて権を用いることを会せざるは、なお偏と算う。王通は《春秋》は王道の権と言う——王通を除いてはこの一層に説到する人なし。だから権は一身に在ればすなわち一身の権あり、一郷に在ればすなわち一郷の権あり、天下に推せばすなわち天下の権あり。施用の範囲は同じからざるとはいえ、あの「権」はしかし同一個である。

夫弓固有強弱,然一弓二人張之,則有力者以為弓弱,無力者以為弓強,故有力者不以己之力有餘而以為弓弱,無力者不以己之力不足而以為弓強,何不思之甚也?一弓非有強弱也,二人之力強弱不同也。今有食一杯在前,二人大餒而見之,若相遜,則均得食也。相奪則爭,非徒爭之而已,或不得其食矣。此二者皆人之情也,知之者鮮,知此則天下之事皆如是也。

弓はもともと強あり弱あれど、しかし同じ一张の弓を両個の人に拉かしむれば、気力の大なるはこの弓を軟と言い、気力の小なるはこの弓を硬と言わん。気力の大なるは肯んじて自己の気力余裕ありと承認せずして、偏えに弓を軟と言い、気力の小なるは肯んじて自己の気力不足と承認せずして、偏えに弓を硬と言う——これは何等の思量を肯んぜざるか!実は一张の弓に並びに強弱の別なく、両人の気力の強弱同じからざるのみ。また譬えば面前に一碗の飯を擺して、両個の餓え極まった人が同時に見れば:もし互相に謙譲すれば、両人は皆食い得着し、もし互相に争奪すれば、すなわち争端を起こさんとして、しかもただ争うのみならず、うまくいかざれば誰も食い得着せず。この両種の情形は皆人の常情なれど、懂得する人は少なし。これを懂得すれば、天下の事情もまた皆この様子である。

先天學主乎誠,至誠可以通神明,不誠則不可以得道。良藥不可以離手,善言不可以離口。事必量力,量力故能久。學以人事為大,今之經典,古之人事也。春秋三傳之外,陸淳啖助可以兼治。季札之才近伯夷,叔向子產晏子之才相等,管仲用智數,晚識物理,大抵才力過人也。

「先天の学」は誠を以て主と為す:至誠は以て神明に通じうるも、誠ならざればすなわち道を得着しえず。良薬は手を離るべからず、善言は口を離るべからず。事を為すは必ず力を量るを要し、力を量ってはじめて持久しうる。学問を為すは人事を以て大と為す——いまのいわゆる経典は、まさに古時の人事である。《春秋》を研治するには、《左伝》《公羊》《穀梁》の三伝の外に、唐人の陸淳・啖助の書もまた一併に研読すべし。季札の才具は伯夷に接近し、叔向・子産・晏子の才具は彼此相當す。管仲の用いたは智謀権術で、晚年に至ってはじめて物理に通暁した——大体上は才力が人に過ぐる人物である。

五霸者,功之首,罪之魁也,春秋者,孔子之刑書也,功過不相掩,聖人先褒其功,後貶其罪,故罪人有功亦必錄之,不可不恕也。新作兩觀,新者,貶之也,誅其舊無也,初獻六羽,初者,褒之也,以其舊潛八佾也。

五霸はすでに功労の首にして、また罪過の魁である。《春秋》は則ち孔子の一部の刑書である。功と過とは互相に掩盖しえず——聖人は先ず彼の功を褒揚し、再び彼の罪を貶責す。だからたとえ罪ある人とも、ただ功あれば必定に記録して、一分の恕道を存せざるべからず。「新たに両観を作す」は、一個の「新」の字を用いて、彼を貶す——従前にもともとこの東西なきを指責す。「初めて六羽を献ず」は、一個の「初」の字を用いて、彼を褒す——従前に僭して八佾を用いたがゆえに。

某人受春秋於尹師魯,師魯受於穆伯長,某人後復攻伯長,曰,春秋無褒,皆是貶也。田述古曰,孫復亦云,春秋有貶而無褒。曰。春秋禮法廢,君臣亂,其間有能為小善者,安得不進之也?況五霸實有功於天下,且五霸固不及於王,不猶愈於潛竊乎?安得不與之也!治春秋者,不辯名實,不定五霸之功過,則未可言治春秋。先定五霸之功過而治春秋,則大意立。若事事求之,則無緒矣。

ある人は尹師魯のあそこより《春秋》を学び、尹師魯はまた穆伯長のあそこより学び来たる。後にこの人はかえって穆伯長を攻駁して、《春秋》の裏に褒なく、全く皆貶と言う。田述古が言う:孫復もまた講じたり——《春秋》は貶ありて褒なしと。先生が言う:春秋の世は礼法廃弛し君臣紊乱して、その間にもし人ありて一点の小小の善事を做出しえば、どうして進許を加えざらん?何況や五霸は天下に実に功労あるをや。五霸は固より王者に及ばざれど、あの暗に僭竊する人に比すればずっと強きにあらずや?どうして彼に一分を許さざらん?《春秋》を研治する人は、もし名と実とを辨明せず五霸の功と過とを断定せざれば、なお《春秋》を治むと談じえず。先ず五霸の功過を断定し下来て後に《春秋》を治めば、大意はすなわち立ち得住る。もし一件一件に摳らば、かえって頭緒を理し出しえず。

凡人為學,失於自主張太過。平王名雖王,實不及一國之諸侯,齊晉雖侯而實潛王,皆春秋之名實也。子貢欲去告朔之餼羊,羊名也,理實也,名存而實亡,猶愈於名實俱亡。茍存其名,安知後世無王者作?是以有所待也。春秋為君弱臣強而作,故謂之名分之書。

凡人の学問を為すは、毛病は常に自作主張の太も過ぐるに出づ。周平王は名義上は天子なれど、実際上は一個の国の諸侯に如かず。斉・晋は名義上はただ侯なるも、実際上はしかし暗に王事を行う——これらは皆《春秋》の裏の名と実の問題である。子貢は告朔の時に供するあの一隻の活羊を撤掉せんと欲した——羊は「名」で、礼意はこそ「実」である。名存して実亡するは、総じてなお名と実とが一斉に亡掉するに勝る。姑く名を留めて置けば、どうして後世に王者の興起せざるを知らんや?だから一分を留下して等待するを要す。《春秋》は君弱く臣強きに因りて作られたので、それを一部の名分を講ずる書と称す。

聖人之難在不失仁義忠信而成事業,何如則可,在於絕四。有馬者借人乘之,舍己從人也。或問才難,何謂也。曰。臨大事然後見才之難也。曰。何獨言才?曰。才者天之良質也,學者所以成其才也。曰。古人有不由學問而能立功業者,何必曰學?曰。周勃霍光能成大事,唯其無學,故未盡善也。人而無學則不能燭理,不能燭理則固執而不通。

聖人の難処は、すでに仁義忠信を失掉せずしてまた能く事業を成就するに在り。どうしてはじめて做り到るか?すなわち意・必・固・我のこの四様を絶去するに在り。馬ある人が肯んじて別人に借りて騎らしむるは、あれはすなわち自己を捨てて他人に順從す。ある人が「才難」とは何の意思かと問う。答えて曰く:大事に臨みて、はじめて人才の難得なるを看出す。また問う:なぜ単に才を言うか?答えて曰く:才は上天の給えし好資質で、学は則ち用いてこの資質を成全する。また問う:古人にもまた学問に靠らずして能く功業を建立したあり——何ぞ必ずしも学を言うを要せん?答えて曰く:周勃・霍光は能く大事を成したも、まさに学問なきがゆえに、做りて完善ならざるを得たり。人はもし学問なくんばすなわち事理を燭照しえず、事理を燭照しえざればすなわち固執して通達せず。

人有出人之才必有剛克,中剛則足以立事業,處患難,若用於他,反為邪惡,故孔子以申棖為焉得剛,既有欲心,必無剛也。君子喻於義,賢人也。小人喻於利而已。義利兼忘者,唯聖人能之。君子畏義而有所不為,小人直不畏耳。聖人則動不踰矩,何義之畏乎?

常人に超出する才ある人は、必定に剛強の一面を帯す。この剛強を中正に用いれば、すなわち以て事業を建立し患難を担当するに足る。もし別の処に用いれば、かえって邪悪に変成す。だから孔子は申棖を評して「彼はどこに剛と算うべきや」と言う——彼はすでに嗜欲の心あれば、すなわち必定に剛ならざるがゆえに。君子は義を明白するは、あれは賢人である。小人はただ利を明白するのみ。能く義と利とを一斉に忘掉するは、ただ聖人のみ做り得る。君子は義を敬畏するので、ある事は肯んじて為さず。小人はただ畏懼する所なきに過ぎない。聖人に至っては、一擧一動皆規矩を越出せず——また何の義を畏懼するを用いんや?

為學養心患在不由直道,去利慾,由直道,任至誠,則無所不通。天地之道直而已,當以直求之,若用智數,由徑以求之,是屈天地而循人慾也,不亦難乎?事無鉅細,皆有天人之理,修身人也,遇不遇天也,得失不動心所以順天也,行險僥倖是逆天也。求之者人也,得之與否天也,得失不動心所以順天也,強取必得是逆天理也,逆天理者患禍必至。

学問を為し心地を養うは、毛病は正直の路を走らざるに在り。私利嗜欲を去掉して、正直の路を走り、一任に至誠すれば、すなわち通達せざるなきなし。天地の道はただ一個の「直」の字に過ぎず——すなわち直を拿ってそれを求むべし。もし智謀権術を耍して、小路を抄って求めば、あれは天地を委屈して人欲に遷就せしむる——あなや太も難からずや?事情は大小を論わず、裏辺に皆天に属し人に属する道理あり:自身を修養するは人の一辺で、遇えるか遇えざるかは天の一辺である。得失皆心を動かさざるは、まさに天に順う。鋌して険を走り僥倖するは、すなわち天に逆う。求めに往くは人の事で、得るか得ざるかは天の事である。得失に心を動かさざるは、まさに天に順う。必定に強取して到手せんと欲すれば、すなわち天理に違逆す——天理に違逆する人は禍患が必定に随いて来る。

魯之兩觀,郊天大禘,皆非禮也。諸侯茍有四時之禘,以為常祭可也,至於五年大禘,不可為也。仲弓可使南面,可使從政也。誰能出不由戶?戶,道也。未有不由道而能濟者也。不由戶者,鎖穴隙之類是也。多聞,擇其善者而從之,雖多聞,必擇善而從之,多見而識之。識,別也,雖多見必有以別之。

魯国の両観の建築、および郊して天を祭り大禘を挙行するは、皆礼に合せず。諸侯はもし四時の禘祭を行えば、常祭と当作すればなお説き通るべし。五年一次の大禘に至っては、すなわち為すべからず。孔子は仲弓をして南面して坐らしむべしと言う——意思は彼をして政に従わしむべきである。「誰か能く門に出でて門戶を経ざらん?」門戶はすなわち道である。従来道に由らずして走りて能く事を成すなし。門戶を走らざるは、あれはすなわち洞を鑽り隙を穿つ一類の行径である。「多く聞きて、その善き者を擇びてこれに従う」とは、聞くこと多しとはいえ、も必ず善を擇びて従うを要すを言う。「多く見てこれを識る」の「識」は分別の意思で、見ること多しとはいえ、も必ず分別する所有るを要すを言う。

落下閎改顓帝曆為太初曆,子云準太初而作太玄,凡八十一卦,九分共二卦,凡一五隔一四,細分之則四分半當一卦,氣起於中心,故首中卦。元亨利貞,變易不常,天道之變也。吉凶悔吝,變易不定,人道之應也。一陰一陽之謂道,道無聲無形不可得而見者也,故假道路之道而為名。人之有行必由於道。一陰一陽,天地之道也,物由是而生,由是而成也。

落下閎は《顓頊暦》を改めて《太初暦》と為し、揚雄は《太初暦》に依って《太玄》を作し、共に八十一首で、九分は共に両卦に当たり、一個の五日に一個の四日を隔てる。再び細分すれば則ち四日半に一卦を当つ。気は中心より起こるので、「中」首を以て先に居す。元・亨・利・貞は、変易して常を守らざるは、あれは天道の変である。吉・凶・悔・吝は、変易して固定せざるは、あれは人道の応である。「一陰一陽を道と謂う」——道は声なく形なく、見え得るにあらざるので、道路の「道」の字を借りて以て命名す:人は行走するに必ず路に由るを要するがゆえに。一陰一陽はすなわち天地の道で、万物はそれに由りて生じ、もまたそれに由りて成る。

顯諸仁者,天地生萬物之功,則人可得而見也。所以造萬物,則人不可得而見,是藏諸用也。十干天也,十二支地也,支干配天地之用也。易始於三皇,書始於二帝,詩始於三王,春秋始於五霸。自乾坤至坎離,以天道也。自咸恆至既濟未濟,以人事也。人謀人也,鬼謀天也,天人同謀而皆可,則事成而吉也。

「仁に顕す」とは、天地が万物を生育する功效は、人は見え得るを言う。それがどのように万物を造出するかに至っては、人はしかし見えず——あれはすなわち「用に蔵す」である。十天干は天に属し、十二地支は地に属す。干支が相配するは、まさに天地の功用の表現である。《易》は三皇に起こり、《書》は唐尭・虞舜の二帝に起こり、《詩》は夏商周の三王に起こり、《春秋》は五霸に起こる。乾坤より排して坎離に至るは、講ずる所は天道である。咸恒より排して既済・未済に至るは、講ずる所は人事である。人謀は人の一辺に属し、鬼謀は天の一辺に属す。天と人とが一同に謀劃して皆行うべしと言えば、事情はすなわち弁じ成されて吉を得る。

變從時而便天下之事,不失禮之大經。變從時而順天下之理,不失義之大權者,君子之道也。五星之說自甘公石公始也。人智強則物智弱。莊子著盜跖篇,所以明至惡,雖聖賢亦莫能化,蓋上智與下愚不移故也。魯國之儒一人者,謂孔子也。

時勢に随いて変通して、天下の事をして弁じ便利ならしめて、しかも礼の大経を失掉せず。時勢に随いて変通して、天下の理をして皆順ならしめて、しかも義の大権を失掉せず——これがすなわち君子の道である。金・木・水・火・土の五星の学説は、甘公・石公より開始した。人の智巧が強まれば、物の機巧はすなわち弱まる。荘子が《盗跖》篇を写したは、極悪の人はたとえ聖賢もまた感化しえざるを説明せんと欲す——上智と下愚とは移らざるがゆえに。いわゆる「魯国の儒はただ一人のみ」とは、指す所は孔子である。

天下之事始過於重猶卒於輕,始過於厚猶卒於薄,況始以輕始以薄者乎?故鮮失之重,多失之輕。鮮失之厚,多失之薄。是以君子不患過乎重,常患過乎輕,不患過乎厚常患過乎薄也。莊子齊物未免較量,較量則爭,爭則不平,不平則不和。無思無為者,神妙致一之地也,聖人以此洗心,退藏於密。當仁不讓於師者,進仁之道也。

天下の事は、開頭に做り過重すれば、末了にもなお軽に転じ、開頭に做り過厚すれば、末了にもなお薄に転ず。何況や開頭にすなわち軽く開頭にすなわち薄きをや?だから人は過重に失する少なく、多くは過軽に失し、過厚に失する少なく、多くは過薄に失す。ここを以て君子は做り過重するを憂慮せずして、ただ做り過軽するを憂慮し、人に待り過厚するを憂慮せずして、ただ人に待り過薄するを憂慮す。荘子は《斉物》を講ずるも、終竟には較量を免れず。一たび較量すればすなわち争い、一たび争えばすなわち平ならず、平ならざればすなわち和せず。「思なく為なく」こそ神妙にして一に帰する境地で、聖人はこれを憑って自心を洗滌して、幽密の処に退蔵す。「仁に当たりては師に譲らず」は、あれは仁に進む路径である。

秦穆公伐鄭敗,而有悔過自誓之言,此非止霸者之事,幾於王道,能悔則無失也。此聖人所以錄於書末也。劉絢問無為。對曰。時然後言,人不厭其言,樂然後笑,人不厭其笑,義然後取,人不厭其取,此所謂無為也。文中子曰。易樂者必多哀,輕施者必好奪,或曰,天下皆爭利棄義,吾獨若之何?子曰。舍其所爭,取其所棄,不亦君子乎?若此之類,理義之言也,心跡之判久矣,若此之類,造化之言也。

秦穆公は鄭を伐ちて失敗すれど、しかし悔過自誓の話を留下した——これはすなわち霸者の行径のみにあらずして、すでに王道に接近す。能く悔過すればすなわち大過失なし——これがまさに聖人が《秦誓》を《尚書》の末尾に收在せしめた緣故である。劉絢が「無為」とは何かを請問す。答えて曰く:当に説話すべき時にはじめて説せば、人はすなわち彼の話を厭煩せず。当に喜楽すべき時にはじめて笑えば、人はすなわち彼の笑を厭煩せず。義に合してはじめて取れば、人はすなわち彼の取を厭煩せず——これがすなわちいわゆる無為である。文中子王通が言う:太も容易に快楽する人は必定に悲哀多く、随変に施与する人は必定に掠奪を愛す。ある人が問う:天下人は皆利を争い義を棄つるに、我一个人はどう弁すべき?王通が言う:衆人の争う所を捨掉して、衆人の棄てる所を捡起す——もまた君子にあらずや?この一類の話は、理義を講ずる話である。心と迹とが両截に分かれてすでに久し。講じてこの一層に至れば、あれはすなわち造化を講ずる話である。

莊子氣豪,若呂梁之事,言之至者也。盜跖言事之無可奈何者,雖聖人亦莫如之何。漁父言事之不可強者,雖聖人亦不可強,此言有為無為之理,順理則無為,強則有為也。金需百鍊然後精,人亦如此。佛氏棄君臣父子夫婦之道,豈自然之理哉?

荘子の文気は豪邁にして、吕梁に於いて水を蹈むのあの件事を写すのごとき、真に極処に説到した話である。《盗跖》の講ずる所は無可奈何の事で、あの種の人はたとえ聖人もまた彼を拿って弁法なし。《漁父》の講ずる所は勉強し来られざる事で、あの種の境地はたとえ聖人もまた勉強しえず。これらの話の説く所はまさに有為と無為の道理である:理に順いて做せばすなわち無為で、勉強して做せばすなわち有為である。金子は百錬を経てはじめて精純に——人もまたこのごとし。仏家は君臣・父子・夫婦の道を拋棄す——これあなや自然の道理に合せんや?

志於道者,統而言之,志者,潛心之謂也,德者,得於己,有形故有據,德主於仁,故曰依。莊子曰。庖人雖不治庖,尸祝不越樽俎而代之,此君子思不出其位,素位而行之義也。晉狐射姑殺陽處父,春秋書晉殺其大夫陽處父,上漏言也,君不密則失臣,故書國殺。

「道に志す」のこの一句は総じて言う:いわゆる「志」とは、心をあそこに沈潜せしむるである。いわゆる「徳」とは、自己の身上に実に得る所ありて形迹の指すべきあるので、「徳に據る」と言う。徳は仁を以て主と為すので、接いて「仁に依る」と言う。荘子が言う:厨子はたとえ厨に下らざるとも、主祭の人は酒樽俎豆を越えて彼に代わりて做さざるなり。これがまさに君子の「思はその位を出でず」・本位に安んじて行う意思である。晋国の狐射姑が陽処父を殺したを、《春秋》はしかし「晋、その大夫陽処父を殺す」と写作す——あれは上頭が話を泄漏したがゆえに。君主が慎密せざればすなわち臣子を失掉するので、国家の殺したと記作す。

人得中和之氣則剛柔均,陽多則偏剛,陰多則偏柔。作易者其知盜乎?聖人知天下萬物之理而一以貫之。以尊臨卑曰臨,以上觀下曰觀。毋意,毋必,毋固,毋我,合而言之則一,分而言之則二,合而言之則二,分而言之則四,始於有意,成於有我,有意然後有必,必生於意,有固然後有我,我生於固,意有,心必先期,固不化我,有己也。記問之學未足以為事業。學在不止,故王通云,沒身而已。

人は中和の気を禀受すれば、剛と柔とはすなわち均平す。陽気が偏多すればすなわち剛に偏し、陰気が偏多すればすなわち柔に偏す。「《易》を作した人はおそらく盗の道理を懂得したか」は、聖人が天下万物の理に通暁して能く一を以てそれを貫くを言う。尊貴の身分を以て卑下に居臨するを、「臨」と呼ぶ。上面より下面を観照するを、「観」と呼ぶ。毋意・毋必・毋固・毋我のこの四条は、合わせて言えば一件で、分かちて言えば両件で、再び合わせて言えば両件で、再び分かちて言えば四件である。それは「意ある」に起こり、「我ある」に成る。意あってそうして後に必あり——必は意の裏より生出す。固あってそうして後に我あり——我は固の裏より生出す。意あれば、心裏に必定に先ず一個の期待を存す。固執して化せざれば、すなわち自己この一層の私あり。ただ記誦聞見の学問に靠るは、以て事業を成就するに足らず。学問は停止せざるに貴し——だから王通が言う:死して方に休む。

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