Libo

阿毘达磨俱舍论

唐 · 世亲造,玄奘译

アビダルマ倶舎論 巻第二 尊者世親造

仏家典籍

短いものは心経・金剛経・四十二章経・壇経から読み始められる。浄土は阿弥陀経・無量寿経・観経を見る。大乗の叙事と禅を見るなら、法華・維摩・楞厳・円覚・地蔵へ進む。

アビダルマ倶舎論 巻第一

尊者世親造

尊者世親(ヴァスバンドゥ)造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別界品第一

分別界品 第一

諸一切種諸冥滅,拔眾生出生死泥,

あらゆる種類の無明を滅尽し、衆生を生死の泥から引き抜かれた方、

敬禮如是如理師,對法藏論我當說。

かかる如理の師を私は敬礼し、対法蔵の論を説くべきである。

論曰:今欲造論,為顯自師其體尊高超諸聖眾,故先讚德方申敬禮。諸言所表謂佛世尊,此能破闇故稱冥滅。言一切種諸冥滅者,謂滅諸境一切品冥。以諸無知能覆實義及障真見,故說為冥。唯佛世尊得永對治,於一切境一切種冥,證不生法故稱為滅。聲聞獨覺雖滅諸冥,以染無知畢竟斷,故非一切種。所以者何?由於佛法極遠時處及諸義類無邊差別,不染無知猶未斷故。已讚世尊自利德滿,次當讚佛利他德圓。拔眾生出生死泥者,由彼生死是諸眾生沈溺處故,難可出故,所以譬泥。眾生於中淪沒無救,世尊哀愍隨授所應,正法教手拔濟令出。已讚佛德,次申敬禮。敬禮如是如理師者,稽首接足故稱敬禮。諸有具前自他利德,故云如是。如實無倒教授誡勗,名如理師。如理師言顯利他德,能方便說如理正教,從生死泥拔眾生出,不由威力與願神通。禮如理師欲何所作?對法藏論我當說者,教誡學徒故稱為論。其論者何?謂對法藏。何謂對法?頌曰:

論に曰く:これから論を造るにあたり、自らの師の体が尊く高く、諸の聖衆を超えていることを顕すため、まず徳を讃えてから敬礼を申す。「諸」の字が表すのはいわゆる仏世尊で、この方が暗闇を破るゆえに冥滅と称する。「一切種の諸冥を滅する」とは、いわゆる諸境の一切品の冥を滅することである。諸の無知が実義を覆い、真の見を障するゆえに冥と説く。ただ仏世尊のみが永遠の対治を得て、一切境・一切種の冥について不生の法を証したゆえに滅と称する。声聞・独覚も諸の冥を滅するが、染汚の無知は畢竟に断じられても、不染の無知はなお断ぜられていないゆえに、一切種ではない。なぜか。仏法が極めて遠い時処に及び、諸の義類に無辺の差別があるゆえ、不染の無知はなお断じられていないのである。すでに世尊の自利の徳の満ちたことを讃えたので、次に仏の利他の徳の円満なることを讃ずべきである。「衆生を拔きて生死の泥を出す」とは、あの生死は諸衆生の沈溺する処で、出ることが難いゆえに泥に譬える。衆生はその中に淪没して救いなく、世尊は哀愍して随宜に正法の教という手を授けて拔済し出さしめる。仏徳を讃えたので、次に敬礼を申す。「かくのごとき如理師を敬礼す」とは、頭を地に稽えて足に接するゆえに敬礼と称す。自利・利他の前の徳を具えるゆえに「かくのごとき」と称す。如実に・顛倒なく教授し誡励する者を如理師と名づける。「如理師」の語は利他の徳を顕し、よく方便して如理の正教を説き、威力や願神通によるのでなく生死の泥から衆生を拔き出すのである。如理師を礼して何をなすか。「対法蔵論を私は説かん」とは、学徒を教誡するゆえに論と称す。その論とは何か。いわゆる対法蔵である。対法とは何か。頌に曰く:

淨慧隨行名對法,及能得此諸慧論。

清浄なる慧とその随行とが対法と名づけられ、またこれを得る諸の慧と論と。

論曰:慧謂擇法,淨謂無漏,淨慧眷屬名曰隨行。如是總說無漏五蘊名為對法,此則勝義阿毘達磨。若說世俗阿毘達磨,即能得此諸慧及論。慧謂得此有漏修慧、思聞生得慧及隨行。論謂傳生無漏慧教。此諸慧論是彼資糧,故亦得名阿毘達磨。釋此名者,能持自相故名為法。若勝義法唯是涅槃,若法相法通四聖諦,此能對向或能對觀,故稱對法。已釋對法。何故此論名對法藏?頌曰:

論に曰く:慧とはいわゆる択法(法を簡択すること)で、浄とはいわゆる無漏であり、浄慧の眷属を随行と名づける。このように総じて無漏の五蘊を対法と名づけ、これが勝義のアビダルマ(対法:四諦に対して観察・択択する法)である。世俗のアビダルマを説くならば、これを得る諸の慧および論である。慧とは、これを得る有漏の修慧・思慧・聞慧・生得慧および随行である。論とは、無漏慧を伝え生ぜしめる教である。これらの慧と論はあの対法の資糧であるゆえに、またアビダルマの名を得る。この名を釈すれば:自相を持するゆえに法と名づく。勝義法はただ涅槃のみ、法相の法で通じれば四聖諦であり、これに対向しまたは対観しうるゆえに対法と称する。対法を釈した。なぜこの論を対法蔵と名づけるか。頌に曰く:

攝彼勝義依彼故,此立對法俱舍名。

あの勝義を摂し、あれに依るゆえに、ここに対法倶舎の名を立てる。

論曰:由彼對法論中勝義入此攝故,此得藏名。或此依彼、從彼引生,是彼所藏,故亦名藏。是故此論名對法藏。何因說彼阿毘達磨?誰復先說阿毘達磨,而今造論恭敬解釋?頌曰:

論に曰く:あの対法論中の勝義がこの中に摂せられるゆえに、これは蔵の名を得る。あるいはこれが彼に依り、彼から引き生じて、彼の蔵するところであるゆえに、また蔵と名づく。それゆえこの論を対法蔵と名づける。いかなる因縁であのアビダルマを説くのか。誰が先にアビダルマを説き、今論を造って恭敬してこれを解釈するのか。頌に曰く:

若離擇法定無餘,能滅諸惑勝方便,

択法を離れては、決して他に諸惑を滅する殊勝の方便はなく、

由惑世間漂有海,因此傳佛說對法。

惑によって世間は有の海を漂流する。ゆえに展転に伝えて仏は対法を説いた。

論曰:若離擇法,無勝方便能滅諸惑。諸惑能令世間漂轉生死大海,因此傳佛說彼對法,欲令世間得擇法故。離說對法,弟子不能於諸法相如理簡擇。然佛世尊處處散說阿毘達磨,大德迦多衍尼子等諸大聲聞結集安置。猶如大德法救所集無常品等鄔拕南頌,毘婆沙師傳說如此。何法名為彼所簡擇,因此傳佛說對法耶?頌曰:

論に曰く:択法を離れれば、諸惑を滅する殊勝の方便はない。諸惑は世間をして生死の大海に漂転せしめるゆえに、展転に伝えて仏はあの対法を説いた。世間に択法を得せしめんがためである。対法の説を離れては、弟子は諸法の相を如理に簡択することができない。しかるに仏世尊は処々に散説し、大徳迦多衍尼子(カーヤーニプトラ)等の諸の大声聞が結集して安置した。ちょうど大徳法救(ダルマトラータ)が集めた無常品等のウダーナ頌の如く、毘婆沙師はかく伝える。いかなる法があの簡択する所と名づけられ、これによって展転に伝えて仏が対法を説いたのか。頌に曰く:

有漏無漏法,除道餘有為,

有漏・無漏の法とは、道諦を除いたその余の有為で、

於彼漏隨增,故說名有漏。

それらにおいて漏が随増するゆえに、有漏と説く。

無漏謂道諦,及三種無為,

無漏とは道諦および三種の無為、

謂虛空二滅,此中空無礙。

いわゆる虚空と二滅であり、ここで空は無礙である。

擇滅謂離繫,隨繫事各別,

択滅とは離系で、繋がれる事に随って各別であり、

畢竟礙當生,別得非擇滅。

当生を畢竟に障するものは別に非択滅を得る。

論曰:說一切法略有二種,謂有漏、無漏。有漏法雲何?謂除道諦,餘有為法。所以者何?諸漏於中等隨增故。緣滅道諦,諸漏雖生而不隨增,故非有漏。不隨增義,隨眠品中自當顯說。已辯有漏。無漏云何?謂道聖諦及三無為。何等為三?虛空、二滅。二滅者何?擇、非擇滅。此虛空等三種無為及道聖諦,名無漏法。所以者何?諸漏於中不隨增故。於略所說三無為中,虛空但以無礙為性,由無障故色於中行。擇滅即以離繫為性,諸有漏法遠離繫縛證得解脫,名為擇滅。擇謂簡擇,即慧差別,各別簡擇四聖諦故。擇力所得滅名為擇滅,如牛所駕車名曰牛車,略去中言故作是說。一切有漏法同一擇滅耶?不爾。云何?隨繫事別。謂隨繫事量,離繫事亦爾。若不爾者,於證見苦所斷煩惱滅時,應證一切所斷諸煩惱滅。若如是者,修餘對治則為無用。依何義說滅無同類?依滅自無同類因義亦不與他,故作是說,非無同類。已說擇滅。永礙當生得非擇滅,謂能永礙未來法生。得滅異前,名非擇滅。得不因擇,但由闕緣。如眼與意專一色時,餘色聲香味觸等謝。緣彼境界五識身等住未來世畢竟不生,由彼不能緣過去境,緣不具故得非擇滅。於法得滅應作四句。或於諸法唯得擇滅,謂諸有漏過現生法。或於諸法唯非擇滅,謂不生法無漏有為。或於諸法俱得二滅,謂彼不生諸有漏法。或於諸法不得二滅,謂諸無漏過現生法。如是已說三種無為。前說除道,餘有為法是名有漏。何謂有為?頌曰:

論に曰く:一切法を説けば略して二種あり、いわゆる有漏と無漏である。有漏法とは何か。いわゆる道諦を除き、その余の有為法である。なぜか。諸漏がその中で等しく随増するゆえである。滅・道諦に縁ずるとき、諸漏は生ずるとも随増しないゆえに有漏ではない。随増しない義は随眠品で自ずから顕説すべきである。有漏を弁えた。無漏とは何か。いわゆる道聖諦および三種の無為である。三種とは何か。虚空と二滅である。二滅とは何か。択滅と非択滅である。この虚空等の三種の無為および道聖諦を無漏法と名づける。なぜか。諸漏がその中で随増しないゆえである。略説した三無為の中で、虚空はただ無礙を性とし、障がないゆえに色がその中を行く。択滅は離系を性とし、諸の有漏法が繋縛を離れて解脱を証するのを択滅と名づける。択とは簡択で、慧の差別であり、各別に四聖諦を簡択するゆえである。択の力によって得た滅を択滅と名づける。牛の駕する車を牛車と名づけるように、中間の語を略してかく説く。一切の有漏法は同一の択滅か。そうではない。どうか。繋がれる事に随って各別である。いわゆる繋がれる事の量に随い、離系の事もまたしかり。もしそうでなければ、苦を見て断ずべき煩悩の滅を証する時、一切の断ずべき煩悩の滅を証するはめになる。もしそうなら、其余の対治を修することは無用となる。いかなる義で滅に同類なしと説くか。滅は自ら同類因がなく、また他にも与えない義によるのであって、同類がないのではない。択滅を説いた。永く当生を礙することを非択滅を得るといい、いわゆる永く未来法の生を礙しうるものである。得る滅が前と異なるゆえに非択滅と名づく。得るに択によらず、ただ縁の欠けるによる。たとえば眼と意が一色に専らなる時、其余の色・声・香・味・触等は謝する。それらの境界に縁ずる五識身等は未来世に住して畢竟に生ぜず、それらは過去境を縁ずることができず、縁が具わらないゆえに非択滅を得る。法に対して滅を得ることに四句を作すべきである。あるいは諸法に対してただ択滅を得る、いわゆる諸の有漏の過去・現在の生法。あるいは諸法に対してただ非択滅、いわゆる不生の法の無漏有為。あるいは諸法に対して俱に二滅を得る、いわゆるあの不生の諸有漏法。あるいは諸法に対して二滅を得ない、いわゆる諸の無漏の過去・現在の生法。このように三種の無為を説いた。前に「道を除きその余の有為法を有漏と名づく」と説いた。有為とは何か。頌に曰く:

又諸有為法,謂色等五蘊,

また諸の有為法とは、いわゆる色等の五蘊で、

亦世路言依,有離有事等。

また世路・言依とも名づけ、有離・有事等とする。

論曰:色等五蘊,謂初色蘊乃至識蘊。如是五法具攝有為,眾緣聚集共所作故。無有少法一緣所生,是彼類故。未來無妨,如乳如薪。此有為法亦名世路,已行正行當行性故,或為無常所吞食故。或名言依,言謂語言,此所依者即名俱義。如是言依具攝一切有為諸法。若不爾者,應違《品類足論》所說。彼說言依十八界攝。或名有離,離謂永離,即是涅槃,一切有為有彼離故。或名有事,以有因故,事是因義。毘婆沙師傳說如此。如是等類是有為法差別眾名,於此所說有為法中。頌曰:

論に曰く:色等の五蘊とは、いわゆる初の色蘊から識蘊に至るまで。この五法は有為を具攝する。衆縁が聚集して共同で作すゆえ、また少法も一縁から生ずることなく、あの類であるゆえである。未来も妨げない、乳や薪の如く。この有為法はまた世路と名づく。已行・正行・当行の性であるゆえ、あるいは無常に吞食されるゆえである。あるいは言依と名づく。言とはいわゆる言語で、その依とする所は名と俱の義である。このように言依は一切有為諸法を具攝する。そうでなければ『品類足論』の説に違するはめになる。あの論は言依を十八界の所摂と説く。あるいは有離と名づく。離とはいわゆる永離で、すなわち涅槃であり、一切有為はあの離を有するゆえである。あるいは有事と名づく。因有するがゆえであり、事は因の義である。毘婆沙師はかく伝える。このような等類は有為法の差別の衆名で、この中に説く有為法についてのものである。頌に曰く:

有漏名取蘊,亦說為有諍,

有漏は取蘊と名づけ、また有諍とも説き、

及苦集世間,見處三有等。

および苦・集・世間、見処・三有等とする。

論曰:此何所立?謂立取蘊亦名為蘊。或有唯蘊而非取蘊,謂無漏行。煩惱名取,蘊從取生故名取蘊,如草穅火。或蘊屬取故名取蘊,如帝王臣。或蘊生取故名取蘊,如花果樹。此有漏法亦名有諍,煩惱名諍,觸動善品故、損害自他故、諍隨增故,名為有諍。猶如有漏亦名為苦,違聖心故。亦名為集,能招苦故。亦名世間,可毀壞故、有對治故。亦名見處,見住其中隨增眠故。亦名三有,有因有依三有攝故。如是等類是有漏法。隨義別名,如上所言。色等五蘊名有為法。色蘊者何?頌曰:

論に曰く:ここに何を立てるか。いわゆる取蘊を立ててまた蘊とも名づける。あるいはただ蘊であって取蘊ではないものがある、いわゆる無漏の行である。煩悩を取と名づけ、蘊が取から生ずるゆえに取蘊と名づく。草糠の火の如し。あるいは蘊が取に属するゆえに取蘊と名づく。帝王の臣の如し。あるいは蘊が取を生ずるゆえに取蘊と名づく。花果の樹の如し。この有漏法はまた有諍と名づく。煩悩を諍と名づけ、善品に触動するゆえ、自他を損害するゆえ、諍が随増するゆえに有諍と名づく。ちょうど有漏がまた苦と名づくように、聖心に違するゆえである。また集と名づく。苦を招きうるゆえである。また世間と名づく。毀壊しうるゆえ、対治あるゆえである。また見処と名づく。見がその中に住して随眠するゆえである。また三有と名づく。因有り依有り三有の所摂なるゆえである。このような等類は有漏法の義に随う別名である。如上に言える色等の五蘊を有為法と名づく。色蘊とは何か。頌に曰く:

色者唯五根,五境及無表。

色はただ五根・五境および無表である。

論曰:言五根者,所謂眼、耳、鼻、舌、身根。言五境者,即是眼等五根境界,所謂色、聲、香、味、所觸。及無表者,謂無表色。唯依此量立色蘊名。此中先應說五根相。頌曰:

論に曰く:五根を説くとは、いわゆる眼・耳・鼻・舌・身の根。五境を説くとは、眼等の五根の境界、いわゆる色・声・香・味・所触。および無表とは、いわゆる無表色(表示して他に知らしめる色ではないもの)。ただこの量に依って色蘊の名を立てる。ここでまず五根の相を説くべきである。頌に曰く:

彼識依淨色,名眼等五根。

あの識の依とする所の浄色を、眼等の五根と名づける。

論曰:彼謂前說色等五境,識即色、聲、香、味、觸識。彼識所依五種淨色,如其次第,應知即是眼等五根。如世尊說:苾芻當知,眼謂內處,四大所造淨色為性。如是廣說。或復彼者,謂前所說眼等五根,識即眼、耳、鼻、舌、身識。彼識所依五種淨色,名眼等根,是眼等識所依止義。如是便順《品類足論》。如彼論說:云何眼根?眼識所依淨色為性。如是廣說。已說五根。次說五境。頌曰:

論に曰く:「彼」とはいわゆる前に説いた色等の五境で、識とは色・声・香・味・触の識である。あの識の依とする五種の浄色が、この次第によって眼等の五根と知られるべきである。世尊が説く如く:比丘よ、眼とはいわゆる内処で、四大所造の浄色を性とすることを知るべし、と。このように広く説く。あるいはまた「彼」とは、いわゆる前に説いた眼等の五根で、識とは眼・耳・鼻・舌・身の識である。あの識の依とする五種の浄色を眼等の根と名づけ、眼等の識の依止とする義である。これは『品類足論』に順じる。あの論に説く如く:眼根とは何か。眼識の依とする浄色を性とする、と。このように広く説く。五根を説いた。次に五境を説く。頌に曰く:

色二或二十,聲唯有八種,

色は二または二十、声はただ八種、

味六香四種,觸十一為性。

味は六・香は四種、触は十一を性とする。

論曰:言色二者,一顯、二形。顯色有四:青、黃、赤、白,餘顯是此四色差別。形色有八,謂長為初不正為後。或二十者,即此色處復說二十,謂青、黃、赤、白、長、短、方、圓、高、下、正、不正、雲、煙、塵、霧、影、光、明、闇。有餘師說,空一顯色,第二十一。此中正者謂形平等,形不平等名為不正,地水氣騰說之為霧,日焰名光,月星火藥寶珠電等諸焰名明,障光明生於中餘色可見名影,翻此為闇。餘色易了故今不釋。或有色處有顯無形,謂青、黃、赤、白、影、光、明、闇。或有色處有形無顯。謂長等一分身表業性。或有色處有顯有形,謂所餘色。有餘師說:唯光明色有顯無形,現見世間青等色處有長等故。如何一事具有顯形?由於此中俱可知故。此中有者是有智義,非有境義。若爾,身表中亦應有顯智。已說色處,當說聲處。聲唯八種,謂有執受或無執受大種為因,及有情名、非有情名差別為四,此復可意及不可意差別成八。執受大種為因聲者,謂言手等所發音聲。風林河等所發音聲,名無執受大種為因。有情名聲謂語表業,餘聲則是非有情名。有說:有聲通有執受及無執受大種為因,如手鼓等合所生聲。如不許一顯色極微二四大造,聲亦應爾。已說聲處,當說味處。味有六種,甘、醋、醎、辛、苦、淡別故。已說味處,當說香處。香有四種:好香、惡香、等不等香,有差別故。本論中說香有三種:好香、惡香及平等香。已說香處,當說觸處。觸有十一,謂四大種、滑性、澁性、重性、輕性及冷、飢、渴。此中大種後當廣說。柔軟名滑。麁強為澁。可稱名重。翻此為輕。煖欲名冷。食慾名飢。飲欲名渴。此三於因立果名故,作如是說。如有頌言:

論に曰く:色が二と説くのは、一に顕、二に形である。顕色に四あり:青・黄・赤・白、其余の顕はこの四色の差別である。形色に八あり、いわゆる長を初めとし、不正を後とする。あるいは二十とは、この色処をまた二十と説く。いわゆる青・黄・赤・白・長・短・方・円・高・下・正・不正・雲・煙・塵・霧・影・光・明・暗である。其余の師の説に、空一の顕色を加えて第二十一とする。ここで正とはいわゆる形の平等で、形が平等でないのを不正と名づく。地・水・気の騰るを霧と説き、日の焔を光と名づけ、月・星・火薬・宝珠・電等の諸の焔を明と名づく。光明を障して生じ、その中で其余の色が見えるのを影と名づけ、これに翻るを暗とする。其余の色は了り易いゆえに今釈しない。あるいは色処に顕あって形なく、いわゆる青・黄・赤・白・影・光・明・暗。あるいは色処に形あって顕なく、いわゆる長等の一分の身表業の性。あるいは色処に顕あり形あり、いわゆる其余の色。ある師の説に:ただ光・明の色のみ顕あって形なく、現に世間の青等の色処に長等あるを見るゆえ、と。どうして一事に顕形を具えるのか。ここではともに知りうるゆえである。ここで「有」は有智の義で、有境の義ではない。もしそうなら、身表の中にもまた顕智があるはめになる。色処を説いたので、声処を説くべきである。声はただ八種。いわゆる有執受または無執受の大種を因とし、および有情名・非有情名の差別をもって四とし、これにまた可意および不可意の差別をもって八とする。執受大種を因とする声とは、いわゆる言・手等の発する音声である。風・林・河等の発する音声を無執受大種を因と名づく。有情名の声とはいわゆる語表業で、其余の声はすなわち非有情名である。ある人の説に:声は有執受および無執受の大種を因に通ずる、手・鼓等が合して生ずる声の如し、と。一つの顕色の極微が二の四大によって造られるを許さないように、声もまたしかるべきである。声処を説いたので、味処を説くべきである。味に六種あり、甘・醋・鹹・辛・苦・淡を分別するゆえである。味処を説いたので、香処を説くべきである。香に四種あり:好香・悪香・等香・不等香で、差別あるゆえである。本論の中では香に三種を説く:好香・悪香および平等香。香処を説いたので、触処を説くべきである。触に十一あり、いわゆる四大種・滑性・澁性・重性・軽性および冷・飢・渇である。ここで大種は後の文で広く説くべきである。柔軟を滑と名づく。粗強を澁とする。称り得るを重と名づく。これに翻るを軽とする。暖を欲するを冷と名づく。食を欲するを飢と名づく。飲を欲するを渇と名づく。この三は因において果の名を立てるゆえにかく説く。ある頌に説く如く:

諸佛出現樂,演說正法樂,

諸仏の出現は楽、正法を演説するは楽、

僧眾和合樂,同修勇進樂。

僧衆の和合は楽、共に修め勇進するは楽。

於色界中無飢渴觸,有所餘觸。彼界衣服,別不可稱,聚則可稱。冷煖於彼雖無能損而有能益。傳說如此。此中已說多種色處。有時眼識緣一事生,謂於爾時各別了別。有時眼識緣多事生,謂於爾時不別了別,如遠觀察軍眾山林、無量顯形珠寶聚等。應知耳等諸識亦爾。有餘師說:身識極多緣五觸起,謂四大種,滑等隨一。有說:極多總緣一切十一觸起。若爾,五識總緣境故,應五識身取共相境非自相境。約處自相,許五識身取自相境非事自相,斯有何失?今應思擇,身舌二根兩境俱至,何識先起?隨境強盛彼識先生;境若均平舌識先起,食飲引身令相續故。已說根境及取境相,無表色相今次當說。頌曰:

(論に続けて曰く:)色界の中には飢渇の触なく、其余の触あり。あの界の衣服は、分別すれば称るべからず、聚すれば称り得る。冷煖はそれらにおいて能損なしと雖も能益あり。伝説かくの如し。ここですでに多種の色処を説いた。ある時は眼識が一事に縁じて生ず、いわゆるその時は各別に了別する。ある時は眼識が多事に縁じて生ず、いわゆるその時は了別せず、遠く軍衆・山林・無量の顕形・珠宝の聚等を観察するが如し。耳等の諸識もまたこの如くと知るべし。ある師の説に:身識は極めて多く五触に縁じて起きる、いわゆる四大種・滑等の随一、と。ある人の説に:極めて多く総じて一切の十一触に縁じて起きる、と。もしそうなら、五識は総じて境に縁ずるゆえに、五識身は共相境を取って自相境を取らないはめになる。処の自相に約して、五識身は自相境を取って事の自相を取らないと許せば、これにいかなる過失があるか。今思択すべきである:身・舌の二根に両境が俱に至るとき、いずれの識が先に起きるか。境の強盛に随ってあの識が先生じ、境が均平ならば舌識が先に起きる。食飲が身を引いて相続せしめるゆえである。根境および取境の相を説いたので、無表の色相を今次に説くべきである。頌に曰く:

亂心無心等,隨流淨不淨,

乱心・无心等に随流する浄・不浄の、

大種所造性,由此說無表。

大種所造の性を、これによって無表と説く。

論曰:亂心者,謂此餘心。無心者,謂入無想及滅盡定。等,言顯示不亂有心。相似相續說名隨流。善與不善名淨不淨。為簡諸得相似相續,是故復言大種所造。毘婆沙說:造是因義,謂作生等五種因故。顯立名因,故言由此。無表雖以色業為性如有表業,而非表示令他了知,故名無表。說者顯此是師宗言,略說表業及定所生善不善色名為無表。既言無表大種所造,大種云何?頌曰:

論に曰く:乱心とは、いわゆるこの余の心。无心とは、いわゆる無想および滅尽定に入るもの。「等」の語は不乱の有心を顕す。相似相続を随流と名づく。善と不善とを浄・不浄と名づく。諸の得の相似相続を簡ぶがゆえに、また大種所造と説く。毘婆沙に曰く:造は因の義で、いわゆる生等の五種の因を作すゆえ、と。立名の因を顕すゆえに「由此」と説く。無表は色業を性とし有表業の如しと雖も、他に知らしめる表示ではないゆえに無表と名づく。「説」の字はこれが師の宗の言なるを顕す。略して表業および定所生の善・不善の色を無表と名づく。無表は大種所造と既に説いた。大種とは何か。頌に曰く:

大種謂四界,即地水火風,

大種とはいわゆる四界、すなわち地・水・火・風で、

能成持等業,堅濕煖動性。

持等の業を成じ、堅・湿・煖・動を性とする。

論曰:地、水、火、風能持自相及所造色,故名為界,如是四界亦名大種,一切餘色所依性故、體寬廣故。或於地等增盛聚中形相大故,或起種種大事用故。此四大種能成何業?如其次第能成持、攝、熟、長四業,地界能持,水界能攝,火界能熟,風界能長。長謂增盛或復流引。業用既爾,自性云何?如其次第即用堅、濕、煖、動為性,地界堅性,水界濕性,火界煖性,風界動性。由此能引大種造色,令其相續生至餘方,如吹燈光,故名為動。《品類足論》及契經言:云何名風界?謂輕等動性。復說輕性為所造色,故應風界動為自性,舉業顯體故亦言輕。云何地等?地等界別。頌曰:

論に曰く:地・水・火・風は自相および所造色を持しうるゆえに界と名づき、このように四界をまた大種と名づく。一切の其余の色の依とする性なるゆえ、体が広大なるゆえである。あるいは地等の増盛の聚中に形相が大なるゆえ、あるいは種種の大事の用を起すゆえである。この四大種はいかなる業を成じるか。この次第によって持・摂・熟・長の四業を成じ、地界は能持、水界は能摂、火界は能熟、風界は能長。長とはいわゆる増盛、あるいはまた流引である。業用既にこの如し、自性はいかに。この次第に堅・湿・煖・動を用いて性とし、地界は堅性、水界は湿性、火界は煖性、風界は動性。これによって大種が造色を引き、相続して余方に生ぜしめる、灯の光を吹くが如し、ゆえに動と名づく。『品類足論』および契経に説く:何を風界と名づけるか。いわゆる軽等の動性、と。また軽性を所造色と説くゆえに、風界は動を自性とすべく、業を挙げて体を顕すゆえにまた軽とも説く。地等とは何か。地等界を分別すれば。頌に曰く:

地謂顯形色,隨世想立名;

地とはいわゆる顕形色で、世間の想に随って名を立て、

水火亦復然,風即界亦爾。

水・火もまたこの如く、風はすなわち界にしてもまたしかり。

論曰:地謂顯形,色處為體,隨世間想假立此名。由諸世間相示地者,以顯形色而相示故。水火亦然。風即風界,世間於動立風名故。或如地等隨世想名,風亦顯形,故言亦爾。如世間說黑風團風,此用顯形表示風故。何故此蘊無表為後說為色耶?由變壞故。如世尊說:苾芻當知,由變壞故名色取蘊。誰能變壞?謂手觸故即便變壞。乃至廣說。變壞即是可惱壞義,故義品中作如是說:

論に曰く:地とはいわゆる顕形で、色処を体とし、世間の想に随って仮にこの名を立てる。諸の世間が地を示す相が、顕形色をもって相示するゆえである。水・火もこの如し。風はすなわち風界で、世間が動において風の名を立てるゆえである。あるいは地等の如く世間の想に随う名で、風もまた顕形なり、ゆえに「亦爾」と説く。世間が黒風・団風と説くが如く、これは顕形をもって風を表示するゆえである。なぜこの蘊は無表をもって後とし色と説くか。変壞するゆえである。世尊が説く如く:比丘よ、変壞するゆえに色取蘊と名づくと知るべし、と。誰が変壞するか。いわゆる手に触れればすなわち変壞する、乃至広く説く。変壞はすなわち悩壞しうる義ゆえに、義品の中にかく説く:

趣求諸欲人,常起於希望,

諸欲に趣求する人は、常に希望を起こし、

諸欲若不遂,惱壞如箭中。

諸欲が遂げられなければ、悩壊すること矢に中てられるが如し。

色復云何?欲所惱壞,欲所擾惱變壞生故。有說:變礙故名為色。若爾,極微應不名色,無變礙故。此難不然。無一極微各處而住,眾微聚集變礙義成。過去未來應不名色,此亦曾當有變礙故;及彼類故,如所燒薪,諸無表色應不名色。有釋:表色有變礙故,無表隨彼亦受色名。譬如樹動影亦隨動。此釋不然,無變礙故。又表滅時無表應滅,如樹滅時影必隨滅。有釋:所依大種變礙,故無表業亦得色名。若爾,所依有變礙故,眼識等五應亦名色。此難不齊。無表依止大種轉時,如影依樹光依珠寶。眼等五識依眼等時則不如是,唯能為作助生緣故。此影依樹光依寶言,且非符順毘婆沙義。彼宗影等顯色極微,各自依止四大種故。設許影光依止樹寶,而無表色不同彼依,彼許所依大種雖滅,而無表色不隨滅故。是故所言未為釋難。復有別釋彼所難言:眼識等五所依不定,或有變礙謂眼等根,或無變礙謂無間意,無表所依則不如是,故前所難定為不齊,變礙名色理得成就。頌曰:

(論に続けて曰く:)色とはまた何か。欲に悩壊せられる、すなわち欲に擾悩されて変壊が生ずるゆえである。ある人の説に:変礙するゆえに色と名づく、と。もしそうなら、極微は変礙がないゆえに色と名づけられるべきではない。この難は然らず。一つの極微も各処に住するものではなく、衆微が聚集して変礙の義が成ずる。過去・未来は色と名づけられるべきではないと言うが、これもかつて変礙があったゆえ、およびあの類であるゆえである。焼かれる薪の如し。諸の無表色は色と名づけられるべきではないと言うが、ある人の釈に:表色は変礙あるゆえ、無表はそれらに随って色の名を受ける、と。譬えば樹が動けば影も随って動く。この釈は然らず、変礙がないゆえである。また表が滅する時、無表も滅すべきである。樹が滅する時に影が必ず随って滅する如く。ある人の釈に:所依の大種が変礙するゆえに、無表業もまた色の名を得る、と。もしそうなら、所依に変礙あるゆえに眼識等の五も色と名づくべきである。この難は斉しくない。無表は大種に依止して転ずる時、影が樹に依り、光が珠宝に依るが如し。眼等の五識が眼等に依る時はそうではなく、ただ助生の縁を為すのみであるゆえ。この「影は樹に依り、光は宝に依る」の説は、また毘婆沙の義に符順しない。あの宗では影等の顕色極微は各自四大種に依止するゆえである。仮に影・光が樹・宝に依止すると許しても、無表色はあの依に同じからず、あの許す所依の大種が滅するとも無表色は随って滅しないゆえである。ゆえにその言は未だ難を釈したことにならない。また別の釈があの難に対して曰く:眼識等の五は所依が定まらず、あるいは変礙ある眼等の根、あるいは変礙なき無間の意、であるのに対し、無表の所依はそうではない。ゆえに前の難は定めて斉しくなく、変礙をもって色と名づける理が成就する。頌に曰く:

此中根與境,許即十處界。

ここで根と境とは、すなわち十処・十界と許す。

論曰:此前所說色蘊性中,許即根境為十處界,謂於處門立為十處。眼處色處廣說乃至身處觸處。若於界門立為十界,眼界色界廣說乃至身界觸界。已說色蘊並立處界,當說受等三蘊處界。頌曰:

論に曰く:この前に説いた色蘊の性の中、すなわち根と境が十処界と許される。いわゆる処門において十処と立てる。眼処・色処、広く説き乃至身処・触処。界門において立てれば十界、眼界・色界、広く説き乃至身界・触界。色蘊を説きあわせて処界を立てたので、受等の三蘊の処界を説くべきである。頌に曰く:

受領納隨觸,想取像為體,

受は触に随う領納をもってし、想は像を取るをもって体とし、

四餘名行蘊,如是受等三,

四蘊の余を行蘊と名づける。このように受等の三と、

及無表無為,名法處法界。

および無表・無為を法処・法界と名づける。

論曰:受蘊謂三,領納隨觸,即樂及苦、不苦不樂。此復分別成六受身,謂眼觸所生受乃至意觸所生受。想蘊謂能取像為體,即能執取青黃長短、男女怨親、苦樂等相。此復分別成六想身,應如受說。除前及後色、受、想、識,餘一切行名為行蘊。然薄伽梵於契經中說六思身為行蘊者,由最勝故。所以者何?行名造作,思是業性造作義強,故為最勝。是故佛說若能造作有漏有為名行取蘊。若不爾者,餘心所法及不相應,非蘊攝故應非苦集,則不可為應知應斷。如世尊說:若於一法未達未知,我說不能作苦邊際。未斷未滅說亦如是。是故定應許除四蘊餘有為行皆行蘊攝。即此所說受、想、行、蘊,及無表色、三種無為,如是七法於處門中立為法處,於界門中立為法界。已說受等三蘊處界,當說識蘊並立處界。頌曰:

論に曰く:受蘊とはいわゆる三で、触に随う領納、すなわち楽および苦・不苦不楽である。これをまた分別して六受身とする、いわゆる眼触所生の受から意触所生の受に至るまで。想蘊とはいわゆる能く像を取るを体とし、すなわち能く青・黄・長・短、男・女・怨・親、苦・楽等の相を執取するものである。これをまた分別して六想身とし、受の如く説くべし。前および後の色・受・想・識を除く其余一切の行を行蘊と名づく。しかるに薄伽梵(世尊)が契経の中で六思身を行蘊と説いたのは、最勝なるゆえである。なぜか。行は造作と名づけ、思は業性の造作の義が強いゆえに最勝となる。ゆえに仏は「能く有漏有為を造作する者を行取蘊と名づく」と説いた。そうでなければ、其余の心所法および不相応は蘊の所摂でないゆえに苦集でないはめになり、応知応断と為し得ない。世尊が説く如く:若し一法において未達・未知ならば、私は苦の辺際を作ること能わずと説く、と。未断・未滅についての説もまたこの如し。ゆえに必ず四蘊を除く其余の有為行はみな行蘊の所摂と許すべきである。すなわちここに説く受・想・行蘊、および無表色・三種無為、このような七法は処門において法処と立て、界門において法界と立てる。受等の三蘊の処界を説いたので、識蘊を説きあわせて処界を立てるべきである。頌に曰く:

識謂各了別,此即名意處,

識とはそれぞれの了別であり、これをすなわち意処と名づけ、

及七界應知,六識轉為意。

および七界はすなわち六識の転じて意となると知るべし。

論曰:各各了別彼彼境界,總取境相故名識蘊。此復差別有六識身,謂眼識身至意識身。應知如是所說識蘊,於處門中立為意處。於界門中立為七界,謂眼識界至意識界,即此六識轉為意界。如是此中所說五蘊,即十二處並十八界,謂除無表,諸餘色蘊即名十處,亦名十界。受想行蘊、無表、無為總名法處,亦名法界。應知識蘊即名意處,亦名七界,謂六識界及與意界。豈不識蘊唯六識身,異此說何復為意界?更無異法。即於此中頌曰:

論に曰く:各々に彼彼の境界を了別し、総じて境の相を取るゆえに識蘊と名づく。これにまた差別ありて六識身あり、いわゆる眼識身から意識身に至る。このように説く識蘊は処門において意処と立てると知るべし。界門においては七界と立て、いわゆる眼識界から意識界に至るまでで、すなわちこの六識が転じて意界となる。このようにここに説く五蘊は、すなわち十二処並びに十八界である。いわゆる無表を除く諸の其余の色蘊はすなわち十処と名づけ、また十界とも名づく。受・想・行蘊・無表・無為は総じて法処と名づけ、また法界とも名づく。識蘊はすなわち意処と名づけ、また七界とも名づく、いわゆる六識界および意界と知るべし。さて識蘊はただ六識身のみか、これに異なりて何を説いてまた意界と為すか。更に異法なし。すなわちこの中に頌に曰く:

由即六識身,無間滅為意。

すなわち六識身が、無間に滅して意と為るによる。

論曰:即六識身無間滅已,能生後識故名意界,謂如此子即名餘父,又如此果即名餘種。若爾實界應唯十七或唯十二,六識與意更相攝故,何緣得立十八界耶?頌曰:

論に曰く:すなわち六識身が無間に滅して已に、後の識を生ぜしめうるゆえに意界と名づく。いわゆるこの子はすなわち彼の父と名づけ、この果はすなわち彼の種と名づくが如し。もしそうなら、実の界はただ十七またはただ十二であるはずで、六識と意は更互に摂し合うゆえ、いかなる縁で十八界を立てるか。頌に曰く:

成第六依故,十八界應知。

第六の所依を成ぜんがためのゆえ、十八界を立てると知るべし。

論曰:如五識界別有眼等五界為依,第六意識無別所依,為成此依故說意界。如是所依能依境界,應知各六界成十八。若爾,無學最後念心應非意界,此無間滅後識不生,非意界故。不爾,此已住意性故、闕餘緣故,後識不生。此中蘊攝一切有為,取蘊唯攝一切有漏,處界總攝一切法盡。別攝如是,總攝云何?頌曰:

論に曰く:五識界に別に眼等の五界を依とするがある如く、第六意識には別の所依なし。ゆえにこの依を成ぜんがために意界を説く。このように所依・能依・境界は、各六界をもって十八となると知るべし。もしそうなら、無学の最後念の心は意界ではないはず、この心は無間に滅して後の識を生ぜざるゆえ、意界でないゆえ、と。そうではない。これは已に意性に住するゆえ、其余の縁を欠くゆえに後の識が生じないのである。ここで蘊は一切有為を摂し、取蘊はただ一切有漏を摂し、処界は総じて一切法を摂し尽くす。別摂はこの如し、総摂はいかに。頌に曰く:

總攝一切法,由一蘊處界,

一切法を総摂するは、一蘊・一処・一界による。

攝自性非餘,以離他性故。

自性を摂す、其余ではない。他性を離れるがゆえに。

論曰:由一色蘊意處法界,應知總攝一切法盡。謂於諸處就勝義說,唯攝自性不攝他性。所以者何?法與他性恆相離故。此離於彼而言攝者,其理不然。且如眼根,唯攝色蘊眼處眼界苦集諦等,是彼性故不攝餘蘊餘處界等,離彼性故。若於諸處就世俗說,應知亦以餘法攝餘。如四攝事攝徒眾等,眼耳鼻三處各有二,何緣界體非二十一?此難非理。所以者何?頌曰:

論に曰く:一色蘊・意処・法界によって、一切法を総摂し尽くすと知るべし。いわゆる諸処において勝義に就いて説けば、ただ自性を摂して他性を摂しない。なぜか。法は他性と恒に相離れるゆえである。離れて彼を説くことを摂とする理は然らず。たとえば眼根は、ただ色蘊・眼処・眼界・苦集諦等を摂するのみで、あの性であるゆえに其余の蘊・其余の処界等を摂しない。あの性を離れるゆえである。もし諸処において世俗に就いて説けば、其余の法をもって其余を摂するとも知るべし。四摂事が徒衆等を摂するが如し。眼・耳・鼻の三処は各々二あり、いかなる縁で界の体が二十一とならないのか。この難は理に非ず。なぜか。頌に曰く:

類境識同故,雖二界體一。

類・境・識が同じゆえ、二と雖も界の体は一。

論曰:類同者,謂二處同是眼自性故。境同者,謂二處同用色為境故。識同者,謂二處同為眼識依故。由此眼界雖二而一。耳鼻亦應如是安立。若爾,何緣生依二處?頌曰:

論に曰く:類が同じとは、いわゆる二処がともに眼の自性なるゆえ。境が同じとは、いわゆる二処がともに色を境とするゆえ。識が同じとは、いわゆる二処がともに眼識の依と為るゆえ。これによって眼界は二と雖も一である。耳・鼻もまたこの如く安立すべし。もしそうなら、いかなる縁で生の依を二処とするか。頌に曰く:

然為令端嚴,眼等各生二。

ただ端厳ならしめんがために、眼等は各々二を生ず。

論曰:為所依身相端嚴故,界體雖一而兩處生。若眼耳根處唯生一,鼻無二穴身不端嚴。此釋不然。若本來爾,誰言醜陋?又貓鵄等雖生二處,有何端嚴?若爾,三根何緣生二?為所發識明瞭端嚴。現見世間閉一目等,了別色等便不分明,是故三根各生二處。已說諸蘊及處界攝,當說其義。此蘊處界別義云何?頌曰:

論に曰く:所依の身の相を端厳ならしめるゆえに、界の体は一と雖も両処に生ず。もし眼・耳の根処がただ一を生ぜば、鼻に二穴なく身が端厳ならない。この釈は然らず。もし本来そうなら、誰が醜陋と説くのか。また猫・鴟等は二処を生ずと雖も、いかなる端厳があるか。もしそうなら、三根はいかなる縁で二を生ずるか。所発の識を明了端厳ならしめるためである。現に世間に見る如く一目を閉づれば、色等を了別するに分明ならない。ゆえに三根は各々二処を生ず。諸蘊および処界の摂を説いたので、その義を説くべきである。この蘊・処・界の別の義はいかに。頌に曰く:

聚生門種族,是蘊處界義。

聚・生門・種族が、蘊・処・界の義である。

論曰:諸有為法和合聚義是蘊義,如契經言:諸所有色,若過去若未來若現在、若內若外、若麁若細、若劣若勝、若遠若近,如是一切略為一聚,說名色蘊。由此聚義,蘊義得成。於此經中,無常已滅名過去、若未已生名未來、已生未謝名現在,自身名內、所餘名外。或約處辯,有對名麁、無對名細。或相待立。若言相待,麁細不成。此難不然,所待異故。待彼為麁未嘗為細、待彼為細未嘗為麁,猶如父子苦集諦等,染汙名劣、不染名勝,去來名遠、現在名近,乃至識蘊應知亦然。而有差別,謂依五根名麁,唯依意根名細。或約地辯,毘婆沙師所說如是。大德法救復作是言:五根所取名麁色,所餘名細色。非可意者名劣色,所餘名勝色。不可見處名遠色,在可見處名近色。過去等色如自名顯,受等亦然,隨所依力,應知遠近麁細同前。心心所法,生長門義是處義。訓釋詞者,謂能生長心心所法故名為處,是能生長彼作用義。法種族義是界義,如一山中有多銅鐵金銀等族,說名多界。如是一身或一相續,有十八類諸法種族,名十八界。此中種族是生本義。如是眼等誰之生本?謂自種類同類因故。若爾,無為應不名界,心心所法生之本故。有說:界聲表種類義,謂十八法種類自性各別不同,名十八界。若言聚義是蘊義者,蘊應假有,多實積集共所成故,如聚如我。此難不然,一實極微亦名蘊故。若爾,不應言聚義是蘊義,非一實物有聚義故。有說:能荷重擔義是蘊義,由此世間說肩名蘊,物所聚故。或有說者:可分段義是蘊義,故世有言:汝三蘊還,我當與汝。此釋越經,經說聚義是蘊義故,如契經言:諸所有色若過去等。廣說如前。若謂此經顯過去等一一色等各別名蘊,是故一切過去色等一一實物各各名蘊。此執非理,故彼經言:如是一切略為一聚說名蘊故,是故如聚,蘊定假有。

論に曰く:諸有為法の和合聚の義が蘊の義である。契経に説く如く:諸の所有の色は、若し過去・若し未来・若し現在、若し内・若し外、若し粗・若し細、若し劣・若し勝、若し遠・若し近、このように一切を略して一聚と為して、色蘊と名づくと説く、と。この聚の義によって蘊の義が成就する。この経において、無常已滅を過去と名づけ、未だ已生ならざるを未来と名づけ、已に生じて未だ謝せざるを現在と名づく。自身を内と名づけ、其余を外と名づく。あるいは処に約して弁ずれば、有対を粗と名づけ、無対を細と名づく。あるいは相待して立つ。相待と説けば粗细は成らないというが、この難は然らず、待する所が異なるゆえである。彼を待って粗と為して未だかつて細と為さず、彼を待って細と為して未だかつて粗と為さず。父子・苦集諦等の如し。染污を劣と名づけ、不染を勝と名づけ、去来を遠と名づけ、現在を近と名づく。乃至識蘊もまたこの如くと知るべし。但し差別あり、いわゆる五根に依るを粗と名づけ、ただ意根に依るを細と名づく。あるいは地に約して弁ず。毘婆沙師の説く所かくの如し。大徳法救はまたかく説く:五根の取る所を粗色と名づけ、其余を細色と名づく。可意ならざるを劣色と名づけ、其余を勝色と名づく。見るべからざる処を遠色と名づけ、見るべき処に在るを近色と名づく。過去等の色は自名に顕れたる如く、受等もまたこの如し。所依の力に随って、遠近・粗細が前に同じと知るべし。心・心所法の生長門の義が処の義である。詞の訓釈は、いわゆる能く心・心所法を生長するゆえに処と名づけ、能く彼の作用を生長する義である。法の種族の義が界の義である。一山中に銅・鉄・金・銀等の多族あるが如く、多界と名づくと説く。このように一身あるいは一相続に、十八類の諸法種族あるを十八界と名づく。ここで種族は生の本の義である。このように眼等は誰の生の本か。いわゆる自種類の同類因なるゆえ。もしそうなら、無為は界と名づくべきではない、心・心所法の生の本なりというゆえに。ある人の説に:界の声は種類の義を表す、いわゆる十八法の種類・自性が各別不同なるを十八界と名づく、と。聚義を蘊義と説けば、蘊は假有であるべし。多実の積集が共に成ずる所なるゆえ、聚や我の如し、というが、この難は然らず、一実の極微もまた蘊と名づくゆえである。もしそうなら、聚義を蘊義と説くべきでない、一実物に聚義あるに非ざるゆえ、と。ある人の説に:能く重い担を荷う義を蘊義とす、これによって世間に肩を蘊と名づく、物の聚る所なるゆえ、と。あるいは説く:分段しうる義を蘊義とす、ゆえに世に言あり:「汝は三蘊を還せ、我は当に汝に与えん」と。この釈は経に越す。経は聚義を蘊義と説くゆえ、契経に説く如く「諸の所有の色は若し過去等」と。広く前の如く説く。もしこの経は過去等の一一の色等が各別に蘊と名づくを顕すと説くなら、一切過去の色等の一一の実物が各々蘊と名づくはめになる。この執は理に非ず。あの経が説くゆえ:「このように一切を略して一聚と為して蘊と名づく」と説くゆえに、聚の如く、蘊は定めて假有である。

若爾,應許諸有色處亦是假有,眼等極微要多積聚成生門故。此難非理,多積聚中一一極微有因用故。若不爾者,根境相助共生識等應非別處,是則應無十二處別。然毘婆沙作如是說。對法諸師若觀假蘊,彼說極微一界一處一蘊少分;若不觀者,彼說極微即是一界一處一蘊。此應於分,假謂有分,如燒少衣亦說燒衣。何故世尊於所知境,由蘊等門作三種說?頌曰:

もしそうなら、諸の有色処もまた假有と許すべきである。眼等の極微は多く積聚して生門を成ずるゆえ、と。この難は理に非ず。多く積聚する中で一一の極微に因の用あるゆえである。そうでなければ、根境が相助けて共に識等を生ずるも別処に非ざるはめになり、このように便ち十二処の分別なきはめになる。しかるに毘婆沙はかく説く。対法の諸師が假蘊を観ずるならば、彼らは極微を一界・一処・一蘊の少分と説き、観ざらざれば極微をすなわち一界・一処・一蘊と説く。このは分においてしかり、假とは有分を謂う。少衣を焼くも衣を焼くと説くが如し。なぜ世尊は所知の境において蘊等の門によって三種の説をなしたのか。頌に曰く:

愚根樂三故,說蘊處界三。

愚・根・楽が三種なるゆえに、蘊・処・界の三を説く。

論曰:所化有情有三品故,世尊為說蘊等三門。傳說:有情愚有三種,或愚心所總執為我,或唯愚色、或愚色心。根亦有三,謂利、中、鈍。樂亦三種,謂樂、略、中,及廣文故。如其次第,世尊為說蘊處界三。何緣世尊說餘心所總置行蘊,別分受想為二蘊耶?頌曰:

論に曰く:所化の有情に三品あるゆえに、世尊は蘊等の三門を説く。伝説に:有情の愚に三種あり。あるいは心所を愚にして総じて我と執し、あるいはただ色を愚にし、あるいは色・心を愚にする。根にも三あり、いわゆる利・中・鈍。楽にも三種あり、いわゆる略・中および広文を楽うゆえ。この次第によって世尊は蘊・処・界の三を説く。いかなる縁で世尊は其余の心所を総じて行蘊に置き、別に受・想を分けて二蘊と為すか。頌に曰く:

諍根生死因,及次第因故,

諍の根・生死の因、および次第の因なるゆえに、

於諸心所法,受想別為蘊。

諸の心所法において、受・想を別に蘊と為す。

論曰:諍根有二,謂著諸欲及著諸見。此二受想,如其次第為最勝因,味受力故貪著諸欲,倒想力故貪著諸見。又生死法以受及想為最勝因,由耽著受起倒想故生死輪迴。由此二因及後當說次第因故,應知別立受想為蘊。其次第因,隣次當辯。何故無為說在處界,非蘊攝耶?頌曰:

論に曰く:諍の根に二あり、いわゆる諸欲に著することおよび諸見に著すること。この二の受・想がこの次第によって最勝の因と為る。受の力に味するゆえに諸欲を貪著し、倒想の力のゆえに諸見を貪著する。また生死の法は受および想を最勝の因とし、受に耽著して倒想を起すゆえに生死が輪廻する。この二因および後文に説くべき次第の因のゆえに、別に受・想を蘊に立てると知るべし。その次第の因は隣次に弁ずべし。なぜ無為は処界に説いて蘊の所摂としないのか。頌に曰く:

蘊不攝無為,義不相應故。

蘊は無為を摂さない、義が相応しないゆえに。

論曰:三無為法不可說在色等蘊中,與色等義不相應故。謂體非色乃至非識,亦不可說為第六蘊,彼與蘊義不相應故。聚義是蘊,如前具說。謂無為法,非如色等有過去等品類差別,可略一聚名無為蘊。又言取蘊為顯染依,染淨二依蘊言所顯。無為於此二義都無,義不相應故不立蘊。有說:如瓶破非瓶,如是蘊息應非蘊,彼於處界例應成失。如是已說諸蘊廢立,當說次第。頌曰:

論に曰く:三無為法は色等の蘊中に説くべからず、色等の義に相応しないゆえである。いわゆる体は色に非ず乃至識に非ず、また第六蘊と為すとも説くべからず、それらは蘊の義に相応しないゆえである。聚義が蘊なり、前に具説の如し。いわゆる無為法は、色等の如く過去等の品類差別あって、略して一聚と為して無為蘊と名づけうるものではない。また取蘊は染依を顕すと説き、染・浄の二依は蘊の言に顕れる所。無為はこの二義ともに無く、義に相応しないゆえに蘊に立てない。ある人の説に:瓶が破れれば瓶に非ざる如く、蘊が息めば蘊に非ざるべし、それらは処界において例して成失となるべし、と。このように諸蘊の廃立を説いたので、次第を説くべきである。頌に曰く:

隨麁染器等,界別次第立。

粗・染・器等に随い、界別に次第立つ。

論曰:色有對故諸蘊中麁,無色中麁唯受行相,故世說我手等痛言。待二想麁,男女等想易了知故。行麁過識,貪瞋等行易了知故。識最為細,總取境相難分別故。由此隨麁立蘊次第。或從無始生死已來,男女於色更相愛樂,此由耽著樂受味故,耽受復因倒想生故,此倒想生由煩惱故,如是煩惱依識而生。此及前三皆染汙識,由此隨染立蘊次第。或色如器、受類飲食、想同助味、行似廚人、識喻食者,故隨器等立蘊次第。或隨界別立蘊次第,謂欲界中有諸妙欲,色相顯了。色界靜慮有勝喜等,受相顯了。三無色中取空等相,想相顯了。第一有中思最為勝,行相顯了。此即識住,識住其中顯似世間田種次第。是故諸蘊次第如是。由此五蘊無增減過,即由如是諸次第因,離行別立受想二蘊,謂受與想於諸行中相麁生染、類食同助,二界中強故別立蘊。處界門中應先辨說六根次第,由斯境識次第可知。頌曰:

論に曰く:色は有対なるゆえに諸蘊中に粗なり。無色中の粗はただ受の行相なり、ゆえに世に「我が手等痛し」と言う。二に待って想は粗なり、男女等の想は了知し易いゆえ。行は識に過りて粗なり、貪・瞋等の行は了知し易いゆえ。識は最も細なり、総じて境の相を取って分別し難いゆえ。これによって粗に随いて蘊の次第を立つ。あるいは無始の生死より来り、男女は色において更互に愛楽す。これは楽受の味に耽著するゆえ、受に耽るはまた倒想に因りて生ずるゆえ、この倒想の生は煩悩によるゆえ、このように煩悩は識に依りて生ず。これおよび前の三はともに識を染污す。これによって染に随いて蘊の次第を立つ。あるいは色は器の如く、受は飲食に類し、想は助味に同じく、行は厨人に似て、識は食者に喩う。ゆえに器等に随いて蘊の次第を立つ。あるいは界別に随いて蘊の次第を立つ。いわゆる欲界中に諸の妙欲あって色の相が顕了、色界の静慮に勝喜等あって受の相が顕了、三無色中に空等の相を取って想の相が顕了、第一有中に思を最勝と為して行の相が顕了。これはすなわち識住、識がその中に住して世間の田種の次第に顕似す。ゆえに諸蘊の次第はこの如し。これによって五蘊に増減の過なし。すなわちこのような諸次第の因によって、行を離れて別に受・想の二蘊を立てる。いわゆる受と想は諸行中において相の粗にして染を生じ、食に類し助に同じ、二界中において強なり、ゆえに別に蘊を立つ。処界門中においてまず六根の次第を弁説すべし。これによって境・識の次第が知りうるゆえである。頌に曰く:

前五境唯現,四境唯所造,

前の五の境はただ現在、四の境はただ所造、

餘用遠速明,或隨處次第。

其余は遠・速・明を用い、あるいは処に随う次第。

論曰:於六根中,眼等前五唯取現境,是故先說。意境不定,三世無為,或唯取一或二三四。所言四境唯所造者,前流至此。五中前四境唯所造,是故先說。身境不定,或取大種、或取造色、或二俱取,餘謂前四。如其所應用遠速明,是故先說。謂眼耳根取遠境故,在二先說。二中眼用遠故先說,遠見山河不聞聲故。又眼用速,先遠見人撞擊鍾鼓後聞聲故。鼻舌兩根用俱非遠。先說鼻者,由速明故。如對香美諸飲食時,鼻先嗅香、舌後甞味。或於身中隨所依處上下差別說根次第,謂眼所依最居其上,次耳鼻舌身多居下,意無方處。有即依止諸根生者,故最後說。何緣十處皆色蘊攝,唯於一種立色處名?又十二處體皆是法,唯於一種立法處名?頌曰:

論に曰く:六根の中、眼等の前五はただ現境を取るゆえにまず説く。意の境は定まらず、三世・無為、あるいはただ一を取り、あるいは二・三・四を取る。「四境はただ所造」と説くのは、前に流れて此処に至る。五中の前四の境はただ所造なり、ゆえにまず説く。身の境は定まらず、あるいは大種を取り、あるいは造色を取り、あるいは二つを俱に取る。「余」とはいわゆる前の四。用うる所の遠・速・明の如く、ゆえにまず説く。いわゆる眼・耳の根は遠境を取るゆえに、二中にまず説く。二中で眼は用が遠なるゆえにまず説く。遠く山河を見て声を聞かざるゆえ。また眼の用は速なり。先に遠く人が鐘鼓を撞撃するを見て後に声を聞くゆえ。鼻・舌の両根は用ともに遠に非ず。まず鼻を説くは、速く明なるゆえ。香美なる諸の飲食に対する時、鼻は先に香を嗅ぎ、舌は後に味を嘗むるが如し。あるいは身中に依る所の処の上下差別に随いて根の次第を説く。いわゆる眼の依る所は最も上に居り、次いで耳・鼻・舌・身は多く下に居る。意は方処なし。あるいはすなわち諸根の生に依止するゆえに、最後に説く。いかなる縁で十処はともに色蘊の所摂なるに、ただ一種に色処の名を立てるか。また十二処の体はともに法なるに、ただ一種に法処の名を立てるか。頌に曰く:

為差別最勝,攝多增上法,

差別・最勝・多法摂・増上法のため、

故一處名色,一名為法處。

ゆえに一処を色と名づけ、一を法処と名づく。

論曰:為差別者,為令了知境有境性種種差別,故於色蘊就差別相建立十處不總為一。若無眼等差別想名,而體是色立名色處,此為眼等名所簡別,雖標總稱而即別名。又諸色中色處最勝,故立通名。由有對故,手等觸時即便變壞。及有見故,可示在此在彼差別。又諸世間唯於此處同說為色,非於眼等。又為差別立一法處,非於一切,如色應知。又於此中攝受想等眾多法故,應立通名。又增上法,所謂涅槃,此中攝故獨立為法。有餘師說:色處中有二十種色最麁顯故,肉、天、聖慧三眼境故,獨立色名。法處中有諸法名故、諸法智故,獨立法名。諸契經中,有餘種種蘊及處界,名想可得。為即此攝?為離此耶?彼皆此攝,如應當知。且辯攝餘諸蘊名想。頌曰:

論に曰く:「差別のため」とは、境・有境の性の種種の差別を了知せしめんがため、ゆえに色蘊において差別の相に就いて十処を建立して総じて一と為さず。もし眼等の差別の想名なく、体は色なるに立てて色処と名づけば、これは眼等の名に簡別せられて、総称を標すと雖もすなわち別名となる。また諸色中に色処は最勝なり、ゆえに通名を立つ。有対なるゆえ、手等が触るる時すなわち変壞し、および有見なるゆえ、此処彼処に在る差別を示すべし。また諸の世間はただこの処において同じく色と説き、眼等においてはせず。また差別のために一法処を立てて一切においてせず、色の如く知るべし。またこの中に受・想等の衆多の法を摂するゆえに通名を立てるべし。また増上法とはいわゆる涅槃、この中の所摂なるゆえに独り法と立つ。ある師の説に:色処中に二十種の色は最も粗顕なるゆえ、肉・天・聖慧の三眼の境なるゆえに独り色名を立つ。法処中に諸法の名あるゆえ、諸法の智あるゆえに独り法名を立つ、と。諸の契経中に、其余の種種の蘊および処界の名想は得るべきか。これはすなわちこの所摂か、それともこのを離れるか。それらは皆この所摂なり、応ずる如く知るべし。暫く其余の諸蘊の名想の摂を弁ず。頌に曰く:

牟尼說法蘊,數有八十千,

牟尼が説く法蘊は、数に八十千あり、

彼體語或名,此色行蘊攝。

その体は語あるいは名、これ色・行蘊の所摂。

論曰:諸說佛教語為體者,彼說法蘊皆色蘊攝。諸說佛教名為體者,彼說法蘊皆行蘊攝。此諸法蘊其量云何?頌曰:

論に曰く:仏教は語を体とすると説く諸師は、法蘊は皆色蘊の所摂と説く。仏教は名を体とすると説く諸師は、法蘊は皆行蘊の所摂と説く。これらの諸法蘊、その量はいかに。頌に曰く:

有言諸法蘊,量如彼論說;

ある人は諸法蘊を説く、量はあの論の説くが如し、

或隨蘊等言,如實行對治。

あるいは蘊等の言に随い、如実には行に対治する。

論曰:有諸師言:八萬法蘊一一量等《法蘊足論》,謂彼一一有六千頌,如對法中《法蘊足》說。或說:法蘊隨蘊等言一一差別數有八萬,謂蘊、處、界、緣起、諦、食、靜慮、無量、無色、解脫、勝處、遍處、覺品、神通、無諍、願智、無礙解等,一一教門名一法蘊。如實說者,所化有情有貪瞋等八萬行別,為對治彼八萬行故,世尊宣說八萬法蘊。如彼所說八萬法蘊皆此五中二蘊所攝,如是餘處諸蘊處界類亦應然。頌曰:

論に曰く:ある諸師の説に:八万の法蘊の一一の量は『法蘊足論』に等しく、いわゆるあの一一に六千頌ある、対法中の『法蘊足』の説くが如し、と。あるいは説く:法蘊は蘊等の言に随って一一差別の数が八万あり、いわゆる蘊・処・界・縁起・諦・食・静慮・無量・無色・解脱・勝処・遍処・覚品・神通・無諍・願智・無礙解等で、一一の教門を一法蘊と名づく、と。如実に説けば、所化の有情に貪・瞋等の八万の行の別あるゆえ、あの八万の行に対治するために世尊は八万の法蘊を宣説した。あの説く所の八万の法蘊はみなこの五中の二蘊の所摂なり。このように其余処の諸蘊・処・界の類もまたこの如しと知るべし。頌に曰く:

如是餘蘊等,各隨其所應,

このように其余の蘊等は、各々その応ずる所に随い、

攝在前說中,應審觀自相。

前の説く所に摂さる。審らかに自相を観ずべし。

論曰:餘契經中諸蘊處界,隨應攝在前所說中,如此論中所說蘊等,應審觀彼一一自相。且諸經中說餘五蘊,謂戒、定、慧、解脫、解脫智見五蘊,彼中戒蘊此色蘊攝,彼餘四蘊此行蘊攝。又諸經說十遍處等,前八遍處無貪性故,此法處攝;若兼助伴五蘊性故,即此意處法處所攝。攝八勝處應知亦爾。空、識遍處、空無邊等四無色處,四蘊性故,即此意處、法處所攝。五解脫處,慧為性故,此法處攝;若兼助伴,即此聲意法處所攝。復有二處,謂無想有情天處及非想非非想處,初處即此十處所攝,無香味故;後處即此意法處攝,四蘊性故。又《多界經》說界差別有六十二,隨其所應當知皆此十八界攝。且彼經中所說六界,地水火風四界已說,空識二界未說其相。為即虛空名為空界、為一切識名識界耶?不爾,云何?頌曰:

論に曰く:其余の契経中の諸蘊・処・界は、応ずるに随って前の説く所に摂さる。この論中に説く蘊等の如く、あれらの一一の自相を審らかに観ずべし。暫く諸経中に説く其余の五蘊、いわゆる戒・定・慧・解脱・解脱智見の五蘊について。あれらの中、戒蘊はこの色蘊の所摂、あの其余の四蘊はこの行蘊の所摂。また諸経に説く十遍処等、前の八遍処は無貪を性とするゆえにこの法処の所摂、もし助伴を兼ぬれば五蘊を性とするゆえにすなわちこの意処・法処の所摂。八勝処を摂することもまたこの如くと知るべし。空・識の遍処・空無辺等の四無色処は、四蘊を性とするゆえにすなわちこの意処・法処の所摂。五解脱処は慧を性とするゆえにこの法処の所摂、もし助伴を兼ぬればすなわちこの声・意・法処の所摂。また二処あり、いわゆる無想有情天処および非想非非想処。初の処はすなわちこの十処の所摂、香・味なきゆえ。後の処はすなわちこの意・法処の所摂、四蘊を性とするゆえ。また『多界経』は界の差別に六十二あると説く。その応ずるに随って、皆この十八界の所摂と知るべし。暫くあの経中に説く六界について。地・水・火・風の四界は已に説いたが、空・識の二界は未だその相を説かない。すなわち虚空を空界と名づけ、一切識を識界と名づくのか。そうではない。どうか。頌に曰く:

空界謂竅隙,傳說是明闇;

空界とはいわゆる竅隙で、伝説にこれ明暗とす、

識界有漏識,有情生所依。

識界は有漏の識、有情の生の所依なり。

論曰:諸有門窓及口鼻等內外竅隙,名為空界。如是竅隙云何應知?傳說:竅隙即是明闇,非離明闇竅隙可取,故說空界明闇為體。應知此體不離晝夜,即此說名隣阿伽色。傳說:阿伽謂積集色,極能為礙故名阿伽。此空界色與彼相隣,是故說名隣阿伽色。有說:阿伽即空界色,此中無礙故名阿伽。即阿伽色餘礙相隣,是故說名隣阿伽色。諸有漏識名為識界,云何不說諸無漏識為識界耶?由許六界是諸有情生所依故,如是諸界從續生心至命終心恆持生故。諸無漏法則不如是。彼六界中,前四即此觸界所攝,第五即此色界所攝,第六即此七心界攝。彼經餘界如其所應,皆即此中十八界攝。

論に曰く:諸の門窓および口鼻等の内外の竅隙を空界と名づく。このような竅隙をどう知るか。伝説に:竅隙とはすなわち明暗で、明暗を離れて竅隙は取るべからず、ゆえに空界は明暗を体とすと説く。この体は昼夜を離れざると知るべし、これをすなわち隣阿伽色(積集の礙色に隣り合う色)と名づくと説く。伝説に:阿伽とはいわゆる積集色、極めて能く礙となるゆえに阿伽と名づく。この空界色はあれらと相隣るゆえに隣阿伽色と名づくと説く。ある人の説に:阿伽はすなわち空界色、この中礙なきゆえに阿伽と名づく。すなわち阿伽色の余礙に相隣るゆえに隣阿伽色と名づくと説く、と。諸の有漏識を識界と名づく。なぜ諸の無漏識を識界と説かないのか。六界は諸有情の生の所依と許すゆえ、このように諸界は続生心より命終心に至るまで恒に生を持するゆえである。諸の無漏法はそうではない。あの六界中、前の四はすなわちこの触界の所摂、第五はすなわちこの色界の所摂、第六はすなわちこの七心界の所摂。あの経の其余の界はその応ずるが如く、皆この中の十八界の所摂なり。

説一切有部倶舎論 巻第一

アビダルマ倶舎論 巻第二 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別界品第一之二

分別界品 第一之二。

復次於前所說十八界中,幾有見、幾無見?幾有對、幾無對?幾善、幾不善、幾無記?頌曰:

さて前に説いた十八界の中、いくつが有見で、いくつが無見か。いくつが有対で、いくつが無対か。いくつが善で、いくつが不善、いくつが無記か。頌に曰く:

一有見謂色,十有色有對,

一の有見はいわゆる色、十の有色は有対、

此除色聲八,無記餘三種。

ここで色・声を除く八は無記、其余は三種。

論曰:十八界中色界有見,以可示現此彼差別。由此義準,說餘無見。如是已說有見無見。唯色蘊攝十界有對,對是礙義。此復三種:障礙、境界、所緣異故。障礙有對,謂十色界。自於他處被礙不生,如手礙手或石礙石或二相礙。境界有對,謂十二界法界一分諸有境法於色等境,故《施設論》作如是言:有眼於水有礙非陸,如魚等眼。有眼於陸有礙非水,從多分說,如人等眼。有眼俱礙,如畢舍遮、室獸摩羅及捕魚人、蝦蟇等眼。有俱非礙,謂除前相。有眼於夜有礙非晝,如諸蝙蝠鵂鶹等眼。有眼於晝有礙非夜,從多分說,如人等眼。有眼俱礙,如狗野幹馬豹豺狼貓狸等眼。有俱非礙,謂除前相。此等名為境界有對。所緣有對,謂心心所於自所緣。境界、所緣復有何別?若於彼法此有功能,即說彼為此法境界。心心所法執彼而起,彼於心等名為所緣。云何眼等於自境界所緣轉時說名有礙?越彼於餘此不轉故。或復礙者是和會義,謂眼等法於自境界及自所緣和會轉故。應知此中唯就障礙有對而說,故但言十有色有對,更相障故。由此義準說餘無對。若法境界有對,亦障礙有對耶?應作四句。謂七心界法界一分諸相應法是第一句。色等五境是第二句。眼等五根是第三句。法界一分非相應法是第四句。若法境界有對,亦所緣有對耶?應順後句,謂若所緣有對,定是境界有對。有雖境界有對而非所緣有對,謂眼等五根。此中大德鳩摩邏多作如是說:

論に曰く:十八界中、色界は有見なり。此処彼処の差別を示現しうるゆえ。この義に準じて其余を無見と説く。このように有見・無見を説いた。ただ色蘊の所摂の十界は有対なり。対は礙の義である。これにまた三種あり、障碍・境界・所縁の異なるゆえ。障碍の有対とは、いわゆる十色界。自が他処において礙せられて生ぜず、手が手を礙し、あるいは石が石を礙し、あるいは二が相礙するが如し。境界の有対とは、いわゆる十二界・法界一分の諸有境法が色等の境において礙なること。ゆえに『施設論』にかく説く:ある眼は水において礙ありて陸に非ず、魚等の眼の如し。ある眼は陸において礙ありて水に非ず、多分に就いて説けば人等の眼の如し。ある眼は俱に礙あり、畢舍遮・室獣摩羅および捕魚の人・蝦蟆等の眼の如し。ある眼は俱に礙に非ず、いわゆる前の相を除く。ある眼は夜において礙ありて昼に非ず、諸の蝙蝠・鵂鶹等の眼の如し。ある眼は昼において礙ありて夜に非ず、多分に就いて説けば人等の眼の如し。ある眼は俱に礙あり、狗・野干・馬・豹・豺狼・猫狸等の眼の如し。ある眼は俱に礙に非ず、いわゆる前の相を除く。これらを境界有対と名づく。所縁有対とは、いわゆる心・心所が自所縁において礙なること。境界と所縁とまたいかなる分別があるか。その法においてこれに功能あれば、すなわち彼をこの法の境界と説く。心・心所法が彼を執して起これば、彼は心等において所縁と名づく。どうして眼等が自境界・自所縁において転ずる時、礙ありと名づくと説くのか。彼を越えて其余においてはこれ転ぜざるゆえ。あるいはまた礙とは和会の義で、いわゆる眼等の法が自境界および自所縁において和会して転ずるゆえ。ここではただ障碍有対に就いて説くと知るべく、ゆえにただ十有色は有対と説くのみ、更互に相障するゆえ。この義に準じて其余を無対と説く。もし法が境界有対なら、また障碍有対か。四句を作すべし。いわゆる七心界・法界一分の諸相応法は第一句。色等の五境は第二句。眼等の五根は第三句。法界一分の非相応法は第四句。もし法が境界有対なら、また所縁有対か。順後句に作すべし。いわゆる若し所縁有対ならば、定めて境界有対なり。境界有対なるも所縁有対ならざるあり、いわゆる眼等の五根。ここで大徳鳩摩邏多(クマーララータ)はかく説く:

是處心欲生,他礙令不起,

ここの処に心が生ぜんと欲するに、他が礙して起こらしめざるを、

應知是有對,無對此相違。

有対と知るべし、無対はこれに相違す。

此是所許。如是已說有對無對。於此所說十有對中,除色及聲餘八無記,謂五色根、香、味、觸境,不可記為善不善性,故名無記。有說:不能記異熟果故名無記。若爾,無漏應唯無記。其餘十界通善等三,謂七心界與無貪等相應名善,貪等相應名為不善,餘名無記。法界若是無貪等性相應等起擇滅名善,若貪等性相應等起名為不善,餘名無記。色界聲界若善不善心力等起身語表攝,是善不善,餘是無記。已說善等。十八界中幾欲界繫、幾色界繫、幾無色界繫?頌曰:

(論に続けて曰く:)これは許す所なり。このように有対・無対を説いた。ここに説く十有対の中、色および声を除き、其余の八は無記なり。いわゆる五色根・香・味・触境は、善・不善の性と記すべからざるゆえに無記と名づく。ある人の説に:異熟果を記し得ざるゆえに無記と名づく、と。もしそうなら、無漏はただ無記のみとなるべし。其余の十界は善等の三に通ず、いわゆる七心界は無貪等と相応すれば善と名づけ、貪等と相応すれば不善と名づけ、其余を無記と名づく。法界はもし無貪等の性・相応等起・択滅ならば善と名づけ、貪等の性・相応等起ならば不善と名づけ、其余を無記と名づく。色界・声界はもし善・不善の心力による等起の身語表の所摂ならば、これ善・不善なり、其余は無記なり。善等を説いた。十八界中、いくつが欲界繋、いくつが色界繋、いくつが無色界繋か。頌に曰く:

欲界繫十八,色界繫十四,

欲界繋は十八、色界繋は十四、

除香味二識,無色繫後三。

香・味の二識を除き、無色繋は後の三。

論曰:繫謂繫屬,即被縛義。欲界所繫具足十八,色界所繫唯十四種,除香味境及鼻舌識。除香味者,段食性故,離段食慾方得生彼。除鼻舌識,無所緣故。若爾,觸界於彼應無,如香味境段食性故,彼所有觸非段食性。若爾,香味類亦應然,香味離食無別受用,觸有別用持根衣等,彼離食慾香味無用,有根衣等故觸非無。有餘師說:住此依彼靜慮等至見色聞聲,輕安俱起有殊勝觸攝益於身,是故此三生彼靜慮猶相隨逐,香味不爾,故在彼無。若爾,鼻舌彼應非有,如香味境彼無用故。不爾,二根於彼有用,謂起言說及莊嚴身。若為嚴身及起說用,但須依處,何用二根?如無男根亦無依處,二根無者依處亦無。於彼可無男根依處,彼無用故。鼻舌依處彼有用故,離根應有。有雖無用而有根生,如處胞胎定當死者。有雖無用而非無因,彼從何因得有根起?於根有愛發殊勝業。若離境愛,於根定然,彼離境貪應無鼻舌。或應許彼男根亦生,若謂不生由醜陋者,陰藏隱密何容醜陋?又諸根生非由有用,若有因力無用亦生。男根於彼雖為醜陋,設許有因於彼應起,男根非有,鼻舌應無。若爾,便違契經所說:彼無支缺,不減諸根。隨彼諸根應可有者,說為不減。何所相違?若不許然男根應有。如是說者,鼻舌二根於彼非無,但無香味,以六根愛依內身生,非依境界而得現起。其男根愛依婬觸生,婬觸彼無,男根非有,故於色界十八界中,唯十四種理得成立。無色界繫唯有後三,所謂意、法及意識界,要離色慾於彼得生,故無色中無十色界。依緣無故五識亦無,故唯後三無色界繫。已說界繫,十八界中幾有漏、幾無漏?頌曰:

論に曰く:繋とはいわゆる繋属、すなわち縛せらるる義である。欲界の所繋は具足して十八、色界の所繋はただ十四種、香・味の境および鼻・舌の識を除く。香・味を除くは、段食の性なるゆえ、段食の欲を離れて彼に生を得る。鼻・舌の識を除くは、縁ずる所なきゆえ。もしそうなら、触界は彼において無かるべし、香・味境が段食性なるが如く、彼の所有の触は段食の性に非ざるゆえ、と。もしそうなら、香・味の類もまたしかるべし。香・味は食を離れて別の受用なく、触には別の用ありて根・衣等を持す。彼は食欲を離れて香・味に用なく、根・衣等あるゆえに触は無に非ず。ある師の説に:此に住して彼の静慮等至に依って色を見声を聞く時、軽安と俱に起こる殊勝の触ありて身を摂益す。ゆえにこの三は彼に生ずるも静慮がなお相随逐す。香・味はそうに非ざるゆえに彼において無し、と。もしそうなら、鼻・舌は彼において有に非ざるべし、香・味境が彼に用なきが如く。そうではない。二根は彼において用あり、いわゆる言説を起しおよび身を荘厳す。もし身を厳し説を起す用ならば、ただ依処を須うのみ、何ぞ二根を用いん。男根なきも依処なきが無きが如く、二根なければその依処もなし。彼において男根の依処は無くて可なり、彼に用なきゆえ。鼻・舌の依処は彼に用あるゆえに、根を離れて有るべし。あるは用なくして根の生ある、胞胎の処にて定めて当に死すべき者の如し。あるは用なくして無因に非ず、彼は何の因よりか根の起を得たるか。根に愛ありて殊勝の業を発す。もし境の愛を離れて、根においては定然として、彼は境の貪を離れたれば鼻・舌なきべし。あるいは彼に男根もまた生ずと許すべし。もし生ぜざるは醜陋によると説かば、陰藏は隠密にしていかに醜陋を容れん。また諸根の生は有用によるに非ず、もし因力あれば用なくも生ず。男根は彼において醜陋と為すと雖も、設ひ因有りと許さば彼において起るべし。男根有に非ずんば鼻・舌も無かるべし。もしそうなら便ち契経の説に違す:「彼は支缺なく、諸根を減ぜず」と。彼の諸根に随い有るべきを、減ぜずと説く。何の相違かあらん。もしこの如く許さざれば男根は有るべし。このように説くは、鼻・舌の二根は彼において無きに非ず、ただ香・味のみ無し。六根の愛は内身に依りて生じ、境界に依りて現起せざるをもってなり。その男根の愛は淫触に依りて生ず、淫触は彼に無し、男根有に非ず。ゆえに色界の十八界中、ただ十四種のみ理得て成立す。無色界繫はただ後の三のみ、いわゆる意・法および意識界。色欲を離れて彼に生を得るゆえ、無色中に十色界なし。依・縁無きゆえに五識もまたなし。ゆえにただ後の三のみ無色界繫なり。界繫を説いた。十八界中、いくつが有漏、いくつが無漏か。頌に曰く:

意法意識通,所餘唯有漏。

意・法・意識は通ず、其余はただ有漏。

論曰:意及意識道諦攝者,名為無漏,餘名有漏。法界若是道諦無為,名為無漏,餘名有漏。餘十五界唯名有漏。如是已說有漏無漏。十八界中幾有尋有伺、幾無尋唯伺、幾無尋無伺?頌曰:

論に曰く:意および意識は道諦の所摂なるを無漏と名づけ、其余を有漏と名づく。法界はもし道諦・無為ならば無漏と名づけ、其余を有漏と名づく。其余の十五界はただ有漏と名づく。このように有漏・無漏を説いた。十八界中、いくつが有尋有伺、いくつが無尋唯伺、いくつが無尋無伺か。頌に曰く:

五識唯尋伺,後三三餘無。

五識はただ尋伺、後の三は三、其余は無し。

論曰:眼等五識有尋有伺,由與尋伺恆共相應,以行相麁外門轉故、顯義決定,故說唯言。後三謂是意、法、意識,根、境、識中各居後故。此後三界皆通三品,意界、意識界及相應法界,除尋與伺。若在欲界初靜慮中有尋有伺,靜慮中間無尋唯伺,第二靜慮以上諸地乃至有頂無尋無伺。法界所攝非相應法,靜慮中間伺亦如是。尋一切時無尋唯伺,無第二尋故、但伺相應故。伺在欲界初靜慮中三品不收,應名何等?此應名曰無伺唯尋,無第二伺故、但尋相應故。由此故言有尋伺地有四品法:一有尋有伺,謂除尋伺餘相應法。二無尋唯伺,謂即是尋。三無尋無伺,謂即一切非相應法。四無伺唯尋,謂即是伺。餘十色界尋伺俱無,常與尋伺不相應故。若五識身有尋有伺,如何得說無分別耶?頌曰:

論に曰く:眼等の五識は有尋有伺なり、尋伺と恒に共に相応するによる。行相の粗にして外門に転ずるゆえ、顕義を決定するゆえに「唯」の字を説く。後の三とはいわゆる意・法・意識、根・境・識中に各々後に居るゆえ。この後の三界は皆三品に通ず、意界・意識界および相応の法界、尋と伺を除きて。もし欲界・初静慮中にあれば有尋有伺、静慮中間には無尋唯伺、第二静慮以の諸地乃至有頂には無尋無伺。法界の所摂の非相応法は、静慮中間には伺もまたしかり。尋は一切時に無尋唯伺、第二の尋なきゆえ、ただ伺と相応するゆえ。伺は欲界・初静慮中において三品の収むる所に非ず、何と名づくべきか。これを無伺唯尋と名づくべし、第二の伺なきゆえ、ただ尋と相応するゆえ。これによって尋伺の地に四品の法あると説く。一有尋有伺、いわゆる尋・伺を除く其余の相応法。二無尋唯伺、いわゆるすなわち尋。三無尋無伺、いわゆるすなわち一切の非相応法。四無伺唯尋、いわゆるすなわち伺。其余の十色界は尋伺ともに無し、常に尋伺と相応せざるゆえ。もし五識身が有尋有伺なら、どうして無分別と説き得るか。頌に曰く:

說五無分別,由計度隨念,

五を無分別と説くは、計度・随念により、

以意地散慧,意諸念為體。

意地の散慧・意の諸念を体とするによる。

論曰:傳說,分別略有三種:一自性分別、二計度分別、三隨念分別。由五識身雖有自性而無餘二,說無分別,如一足馬名為無足。自性分別體唯是尋,後心所中自當辯釋。餘二分別如其次第。意地散慧諸念為體,散謂非定。意識相應散慧,名為計度分別。若定若散意識相應諸念,名為隨念分別。如是已說有尋伺等。十八界中幾有所緣、幾無所緣?幾有執受、幾無執受?頌曰:

論に曰く:伝説に、分別は略して三種あり。一自性分別、二計度分別、三随念分別。五識身は自性分別あるも其余の二無きがゆえに無分別と説く、一足の馬を無足と名づくるが如し。自性分別の体はただ尋のみ、後の心所中に自ずから弁釈すべし。其余の二分別はこの次第による。意地の散慧・諸念を体とす。散とはいわゆる定に非ず。意識に相応する散慧を計度分別と名づく。もし定もしくは散の意識に相応する諸念を随念分別と名づく。このように有尋伺等を説いた。十八界中、いくつが有所縁、いくつが無所縁か。いくつが有執受、いくつが無執受か。頌に曰く:

七心法界半,有所緣餘無,

七心・法界の半は有所縁、其余は無し、

前八界及聲,無執受餘二。

前の八界および声は無執受、其余は二。

論曰:六識意界及法界攝諸心所法,名有所緣,能取境故。餘十色界及法界攝不相應法,名無所緣,義準成故。如是已說有所緣等。十八界中九無執受,前七心界及法界全,此八及聲皆無執受。所餘九界各通二門,謂有執受、無執受故。眼等五根住現在世名有執受,過去未來名無執受。色香味觸住現在世不離五根名有執受,若住現在非不離根過去未來名無執受。如在身內除與根合,髮毛爪齒大小便利洟唾血等,及在身外地水等中色香味觸,雖在現世而無執受。有執受者,此言何義?心心所法共所執持攝為依處名有執受,損益展轉更相隨故。即諸世間說有覺觸,眾緣所觸覺樂等故。與此相違名無執受。如是已說有執受等。十八界中幾大種性、幾所造性?幾可積集、幾非積集?頌曰:

論に曰く:六識・意界および法界の所摂の諸心所法を有所縁と名づく、能く境を取るゆえ。其余の十色界および法界の所摂の不相応法を無所縁と名づく、義に準じて成るゆえ。このように有所縁等を説いた。十八界中、九は無執受、前の七心界および法界の全、この八および声はともに無執受。其余の九界は各々二門に通ず、いわゆる有執受・無執受あるゆえ。眼等の五根は現在世に住するを有執受と名づけ、過去・未来を無執受と名づく。色・香・味・触は現在世に住して五根を離れざるを有執受と名づけ、もし現在に住すれども根を離れざるに非ざる、および過去・未来を無執受と名づく。身内において根と合するを除く、髪・毛・爪・歯・大小便利・洟・唾・血等の如く、および身外の地水等中の色・香・味・触は、現世に在ると雖も無執受なり。有執受とはこの言いかなる義か。心・心所法が共に執持して依処と摂するを有執受と名づく、損益展転に更互に相随うゆえ。すなわち諸の世間の説く有覚触、衆縁の触るる所に覚の楽等あるゆえ。これに相違するを無執受と名づく。このように有執受等を説いた。十八界中、いくつが大種性、いくつが所造性か。いくつが可積集、いくつが非積集か。頌に曰く:

觸界中有二,餘九色所造,

触界中に二あり、其余の九色は所造、

法一分亦然,十色可積集。

法の一分もまたしかり、十色は可積集。

論曰:觸界通二,謂大種及所造。大種有四,謂堅性等。所造有七,謂滑性等,依大種生故名所造。餘九色界唯是所造,謂五色根、色等四境。法界一分無表業色亦唯所造。餘七心界法界一分,除無表色俱非二種。尊者覺天作如是說:十種色處唯大種性。彼說不然,契經唯說堅等四相為大種故。此四大種唯觸攝故,非堅濕等眼等所取,非色聲等身根所覺,是故彼說理定不然。又契經說:苾芻當知,眼謂內處四大種所造淨色,有色無見有對,乃至身處廣說亦爾。苾芻當知,色謂外處四大種所造,有色有見有對。聲謂外處四大種所造,有色無見有對。香味二處,廣說亦爾。觸謂外處,是四大種及四大種所造,有色無見有對。如是經中唯說觸處攝四大種,分明顯示餘有色處皆非大種。若爾,何故契經中言謂於眼肉團中若內各別堅性堅類,乃至廣說。彼說不離眼根肉團有堅性等,無相違過。《入胎經》中唯說六界為士夫者,為顯能成士夫本事,非唯爾所,彼經復說六觸處故。又諸心所應非有故,亦不應執心所即心,以契經言想受等心所法依止心故。又亦說有貪心等故。由此如前所說諸界大種所造,差別義成。如是已說大種性等。十八界中,五根、五境十有色界是可積集,極微聚故。義準餘八非可積集,非極微故。如是已說可積集等。十八界中,幾能斫、幾所斫?幾能燒、幾所燒?幾能稱、幾所稱?頌曰:

論に曰く:触界は二に通ず、いわゆる大種および所造。大種に四あり、いわゆる堅性等。所造に七あり、いわゆる滑性等、大種に依りて生ずるゆえに所造と名づく。其余の九色界はただ所造、いわゆる五色根・色等の四境。法界一分の無表業色もまたただ所造。其余の七心界・法界一分は、無表色を除き皆二種に非ず。尊者覚天(ブッダデーヴァ)はかく説く:十種の色処はただ大種性、と。彼らの説は然らず、契経はただ堅等の四相を大種と説くゆえ。この四大種はただ触の所摂なるゆえ、堅・湿等は眼等の取る所に非ず、色・声等は身根の覚ずる所に非ず。ゆえに彼らの説は理に定めて然らず。また契経に説く:比丘よ、眼とはいわゆる内処、四大種所造の浄色、有色・無見・有対、乃至身処も広説かくの如しと知るべし。比丘よ、色とはいわゆる外処、四大種所造、有色・有見・有対。声はいわゆる外処、四大種所造、有色・無見・有対。香・味の二処も広説かくの如し。触はいわゆる外処、これ四大種および四大種所造、有色・無見・有対。このように経中はただ触処が四大種を摂すると説くのみで、分明に其余の有色処は皆大種に非ずと顕示す。もしそうなら、なぜ契経中に「いわゆる眼の肉団中に、もし内に各別の堅性・堅類あらば」と乃至広く説くか。あれは眼根の肉団を離れて堅性等あると説くに非ず、相違の過なし。『入胎経』中にただ六界を士夫と説くは、能く士夫の本事を成ずるを顕さんがため、これらのみに限るに非ず。あの経はまた六触処を説くゆえ。また諸の心所は有に非ざるべきゆえ、また心所をすなわち心と執するもべからず。契経に想・受等の心所法は心に依止すと説くゆえ。また貪心等有りとも説くゆえ。これによって前の説くが如く、諸界は大種所造の差別の義成り。このように大種性等を説いた。十八界中、五根・五境の十有色界は可積集、極微の聚なるゆえ。義に準じて其余の八は非可積集、極微に非ざるゆえ。このように可積集等を説いた。十八界中、いくつが能斫、いくつが所斫か。いくつが能焼、いくつが所焼か。いくつが能称、いくつが所称か。頌に曰く:

謂唯外四界,能斫及所斫,

いわゆるただ外の四界が、能斫および所斫、

亦所燒能稱,能燒所稱諍。

また所焼・能称、能焼・所称には諍あり。

論曰:色香味觸成斧薪等,此即名為能斫所斫。何法名斫?薪等色聚相逼續生,斧等分隔令各續起,此法名斫。身等色根不名所斫,非可全斷令成二故。非身根等可成二分,支分離身則無根故。又身根等亦非能斫,以淨妙故如珠寶光。如能斫所斫體唯外四界,所燒能稱其體亦爾,謂唯外四界名所燒能稱。身等色根亦非二事,以淨妙故如珠寶光。聲界總非,不相續故。能燒所稱有異諍論,謂或有說:能燒所稱體亦如前,唯外四界。或復有說:唯有火界可名能燒,所稱唯重。如是已說能所斫等。十八界中幾異熟生、幾所長養、幾等流性、幾有實事、幾一剎那?頌曰:

論に曰く:色・香・味・触が斧・薪等を成ず、このをすなわち能斫・所斫と名づく。何の法を斫と名づけるか。薪等の色聚が相逼して続生するを、斧等が分隔して各々に続起せしむ、この法を斫と名づく。身等の色根は所斫と名づけず、全く断じて二と成さしむべからざるゆえ。身根等は二分と成すべからざるゆえ、支が身を分離すればすなわち根なきゆえ。また身根等も能斫に非ず、浄妙なるをもって珠宝の光の如し。能斫・所斫の体はただ外の四界なるが如く、所焼・能称の体もまたこの如し。いわゆるただ外の四界を所焼・能称と名づく。身等の色根もまた二事に非ず、浄妙なるをもって珠宝の光の如し。声界は総じて非ず、相続せざるゆえ。能焼・所称には異なる諍論あり。いわゆるあるいは説く:能焼・所称の体もまた前の如くただ外の四界、と。あるいはまた説く:ただ火界のみ能焼と名づくべく、所称はただ重のみ、と。このように能・所の斫等を説いた。十八界中、いくつが異熟生、いくつが所長養、いくつが等流性、いくつが有実事、いくつが一刹那か。頌に曰く:

內五有熟養,聲無異熟生,

内の五には熟・養あり、声に異熟生なく、

八無礙等流,亦異熟生性,

八は無礙で等流、また異熟生の性、

餘三實唯法,剎那唯後三。

其余は三、実はただ法界、刹那はただ後の三。

論曰:內五即是眼等五界。有異熟生及所長養無等流者,離異熟生及所長養,無別性故。異熟因所生名異熟生,如牛所駕車名曰牛車,略去中言故作是說。或所造業至得果時變而能熟,故名異熟。果從彼生,名異熟生。彼所得果與因別類,而是所熟,故名異熟。或於因上假立果名,如於果上假立因名。如契經說:今六觸處,應知即是昔所造業。飲食資助眠睡等持勝緣所益,名所長養。有說:梵行亦能長養。此唯無損,非別有益。長養相續常能護持異熟相續,猶如外郭防援內城。聲有等流及所長養無異熟生。所以者何?隨欲轉故。若爾,不應《施設論》說善修遠離麁惡語故,感得大士梵音聲相。有說:聲屬第三傳故,雖由彼生而非異熟。謂從彼業生諸大種,從諸大種緣擊發聲。有說:聲屬第五傳故,雖由彼生而非異熟。謂彼業生異熟大種,從此傳生長養大種,此復傳生等流大種此乃生聲。若爾,身受從業所生大種生故,應非異熟。若受如聲,便違正理。八無礙者,七心法界此有等流異熟生性。同類遍行因所生者是等流性,若異熟因所引生者名異熟生,諸無礙法無積集故非所長養。餘謂餘四:色、香、味、觸,皆通三種,有異熟生、有所長養、有等流性。實唯法者,實謂無為,以堅實故。此法界攝故,唯法界獨名有實。意、法、意識名為後三,於六三中最後說故。唯此三界有一剎那,謂初無漏苦法忍品,非等流故名一剎那。此說究竟非等流者,餘有為法無非等流。苦法忍相應心名意界、意識界,餘俱起法名為法界。如是已說異熟生等。今應思擇,若有眼界先不成就今得成就亦眼識耶?若眼識界先不成就今得成就亦眼界耶?如是等問,今應略答。頌曰:

論に曰く:内の五とはすなわち眼等の五界。異熟生および所長養あって等流なきとは、異熟生および所長養を離れて別の性なきゆえ。異熟因の生ずる所を異熟生と名づく。牛の駕する車を牛車と名づくるが如く、中間の語を略してかく説く。あるいは造じた業が果を得る時に至って変じて能く熟するゆえに異熟と名づく。果は彼より生ず、異熟生と名づく。彼の得たる果は因と別類にしてしかも熟する所、ゆえに異熟と名づく。あるいは因上に仮に果名を立つる、果上に仮に因名を立つるが如し。契経に説く如く:今の六触処は、すなわち昔の造じた業と知るべし、と。飲食の資助・眠睡・等持の勝縁に益せらるるを所長養と名づく。ある人の説に:梵行もまた能く長養す、と。これはただ損なきのみ、別に益あるに非ず。長養の相続は常に異熟の相続を護持しうる、外郭が内城を防援するが如し。声には等流および所長養ありて異熟生なし。なぜか。欲に随って転ずるゆえ。もしそうなら、『施設論』が「善く遠離の粗悪語を修するゆえに、大士の梵音声の相を感得す」と説くに違すべし。ある人の説に:声は第三伝に属するゆえ、彼によりて生ずと雖も異熟に非ず、と。いわゆるあの業より諸大種を生じ、諸大種より縁撃して声を発す。ある人の説に:声は第五伝に属するゆえ、彼によりて生ずと雖も異熟に非ず、と。いわゆるあの業が異熟の大種を生じ、これより伝じて長養の大種を生じ、これがまた伝じて等流の大種を生じてここに始めて声を生ず。もしそうなら、身受は業の生ずる所の大種より生ずるゆえに、異熟に非ざるべし。受が声の如くならば便ち正理に違す。八の無礙とは、七心・法界、これに等流・異熟生の性あり。同類・遍行の因の生ずる所は等流性、もし異熟因の引生する所を異熟生と名づく。諸の無礙法は積集なきゆえに所長養に非ず。余とはいわゆる其余の四:色・香・味・触、皆三種に通ず、異熟生あり・所長養あり・等流性あり。実はただ法とは、実とはいわゆる無為、堅実なるをもってなり。これは法界の所摂なるゆえに、ただ法界のみ独り有実と名づく。意・法・意識を後三と名づく、六三の中に最後に説くゆえ。ただこの三界のみ一刹那あり、いわゆる初の無漏の苦法忍の品、等流に非ざるゆえに一刹那と名づく。これは究竟の非等流を説くなり、其余の有為法に等流ならざるは無し。苦法忍の相応心を意界・意識界と名づけ、其余の俱起の法を法界と名づく。このように異熟生等を説いた。今思択すべし:もし眼界が先に不成就にして今成就を得る時、また眼識なりや。もし眼識界が先に不成就にして今成就を得る時、また眼界なりや。この如き等の問に、今略して答うべし。頌に曰く:

眼與眼識界,獨俱得非等。

眼と眼識界は、独得・俱得・非等なり。

論曰:獨得者,謂或有眼界先不成就今得成就非眼識,謂生欲界漸得眼根,及無色沒生二三四靜慮地時。或有眼識先不成就今得成就非眼界,謂生二三四靜慮地眼識現起,及從彼沒生下地時。俱得者,謂或有二界先不成就今得成就,謂無色沒生於欲界及梵世時。非者俱非,謂除前相。等謂若有成就眼界亦眼識耶?應作四句。第一句者,謂生二三四靜慮地眼識不起。第二句者,謂生欲界未得眼根及得已失。第三句者,謂生欲界得眼不失,及生梵世若生二三四靜慮地正見色時。第四句者,謂除前相。如是眼界與色界。眼識與色界得成就等如理應思,為攝如是所未說義,是故頌中總復言等。如是已說得成就等。十八界中幾內、幾外?頌曰:

論に曰く:独得とは、いわゆるあるいは眼界が先に不成就にして今成就を得るも眼識に非ず、いわゆる欲界に生じて漸く眼根を得、および無色に没して二・三・四の静慮地に生ずる時。あるいは眼識が先に不成就にして今成就を得るも眼界に非ず、いわゆる二・三・四の静慮地に生じて眼識が現起し、および彼より没して下地に生ずる時。俱得とは、いわゆるあるいは二界が先に不成就にして今成就を得る、いわゆる無色に没して欲界および梵世に生ずる時。非とは俱に非ず、いわゆる前の相を除く。等とはいわゆるもし眼界を成就せばまた眼識なりや。四句を作すべし。第一句とは、いわゆる二・三・四の静慮地に生じて眼識起こらず。第二句とは、いわゆる欲界に生じて未だ眼根を得ずおよび得て已に失う。第三句とは、いわゆる欲界に生じて眼を得て失わず、および梵世に生じ、もし二・三・四の静慮地に生じて正しく色を見る時。第四句とは、いわゆる前の相を除く。このように眼界と色界、眼識と色界の得・成就等は理の如く思うべし。この如く未説の義を摂さんがため、ゆえに頌中に総じてまた等と説く。このように得・成就等を説いた。十八界中、いくつが内、いくつが外か。頌に曰く:

內十二眼等,色等六為外。

内は十二の眼等、色等の六を外とす。

論曰:六根、六識十二名內,外謂所餘色等六境。我依名內,外謂此餘。我體既無,內外何有?我執依止故,假說心為我。故契經說:

論に曰く:六根・六識の十二を内と名づけ、外とはいわゆる其余の色等の六境。我の依を内と名づけ、外とはいわゆるこれの余。我の体既に無し、内外いずくんぞ有らん。我執の依止なるゆえに、仮に心を説いて我と為す。ゆえに契経に説く:

由善調伏我,智者得生天。

善く我を調伏するにより、智者は天に生ずるを得。

世尊餘處說調伏心,如契經言:

(論に続けて曰く:)世尊は余処において心の調伏を説く、契経に説くが如し:

應善調伏心,心調能引樂。

心を善く調伏すべし、心調らば能く楽を引く。

故但於心假說為我。眼等為此所依親近,故說名內。色等為此所緣踈遠,故說名外。若爾,六識應不名內,未至意位非心依故。至意位時不失六識界,未至意位亦非越意相。若異此者,意界唯應在過去世,六識唯在現在未來,便違自宗許十八界皆通三世。又若未來現在六識無意界相,過去意界亦應不立,相於三世無改易故。已說內外。十八界中幾是同分、幾彼同分?頌曰:

(論に続けて曰く:)ゆえにただ心において仮に我と説く。眼等はこれの所依にして親近なるゆえに内と説いて名づく。色等はこれの所縁にして疎遠なるゆえに外と説いて名づく。もしそうなら、六識は内と名づくべからず、未だ意位に至らざるは心の依に非ざるゆえ、と。意位に至る時は六識界を失わず、未だ意位に至らざるもまた意の相に越ゆるに非ず。もしこれに異ならば、意界はただ過去世に在るべく、六識はただ現在・未来に在るべくして、便ち自宗の十八界は皆三世に通ずと許すに違せん。また未来・現在の六識に意界の相無からば、過去の意界もまた立つべからず、相は三世において改易なきゆえ。内外を説いた。十八界中、いくつが同分、いくつが彼同分か。頌に曰く:

法同分餘二,作不作自業。

法界は同分、其余は二、作・不作の業なり。

論曰:法同分者,謂一法界唯是同分。若境與識定為所緣,識於其中已生生法,此所緣境說名同分。無一法界不於其中已正當生無邊意識,由諸聖者決定生心,觀一切法皆為無我。彼除自體及俱有法,餘一切法皆為所緣。如是所除亦第二念心所緣境,此二念心緣一切境無不周遍,是故法界恆名同分。餘二者,謂餘十七界皆有同分及彼同分。何名同分、彼同分耶?謂作自業、不作自業。若作自業名為同分,不作自業名彼同分。此中眼界於有見色已正當見名同分眼,如是廣說,乃至意界各於自境應說自用。迦濕彌羅國毘婆沙師說:彼同分眼但有四種,謂不見色已正當滅及不生法。西方諸師說有五種:謂不生法復開為二,一有識屬、二無識屬,乃至身界應知亦然。意彼同分唯不生法。色界為眼已正當見名同分色,彼同分色亦有四種,謂非眼見已正當滅及不生法,廣說乃至觸界亦爾。各對自根應說自用,應知同分及彼同分。眼若於一是同分,於餘一切亦同分。彼同分亦如是,廣說乃至意界亦爾。色即不然,於見者是同分,於不見者是彼同分。所以者何?色有是事,謂一所見亦多所見,如觀月舞相撲等色。眼無是事,謂一眼根二能見色,眼不共故,依一相續建立同分及彼同分。色是共故,依多相續建立同分及彼同分。如說色界,聲香味觸應知亦爾。聲可如色。香味觸三至根方取,是不共故,一取非餘。理應如眼等,不應如色說。雖有是理而容有共。所以者何?香等三界於一及餘,皆有可生鼻等識義。眼等不然,故如色說。眼等六識同分彼同分生不生法故,如意界說。云何同分、彼同分義?根境識三更相交涉故名為分,或復分者是已作用,或復分者是所生觸,同有此分故名同分。與此相違名彼同分,由非同分與彼同分種類分同,名彼同分。已說同分及彼同分。十八界中幾見所斷、幾修所斷、幾非所斷?頌曰:

論に曰く:法の同分とは、いわゆる一法界はただ同分のみ。もし境と識とが定めて所縁となり、識がその中に已生・正生の法ならば、この所縁境を同分と説いて名づく。一法界としてその中に已・正・当に生ぜんとする無辺の意識ならざるなし、諸の聖者が決定して心を生じ、一切法を観じて皆無我と為すゆえ。それらは自体および俱有法を除くの余、一切の法を皆所縁と為す。このように除かるる所もまた第二念心の所縁境なり、この二念の心は一切境に縁じて遍せざるなし。ゆえに法界は恒に同分と名づく。其余の二とは、いわゆる其余の十七界は皆同分および彼同分あり。何を同分・彼同分と名づくるか。いわゆる作業を作る・作業を作さざる。もし作業を作すを同分と名づけ、作業を作さざるを彼同分と名づく。ここで眼界は見るべき色を已・正・当に見るを同分眼と名づく。このように広く説き、乃至意界も各々自境において自用を説くべし。迦湿弥羅国の毘婆沙師の説に:彼同分の眼はただ四種あり、いわゆる色を見ずして已・正・当に滅す、および不生の法、と。西方の諸師は五種と説く:いわゆる不生法をまた開きて二とす、一は識属あり、二は識属なし。乃至身界もまたこの如くと知るべし。意の彼同分はただ不生法のみ。色界は眼に已・正・当に見らるるを同分色と名づく。彼同分色もまた四種あり、いわゆる眼の見る所に非ずして已・正・当に滅す、および不生法。広く説き乃至触界もまたこの如し。各々自根に対して自用を説き、同分および彼同分と知るべし。眼はもし一において同分ならば、其余の一切においても同分なり。彼同分もまたこの如し、広く説き乃至意界もまたこの如し。色は然らず、見る者においては同分、見ざる者においては彼同分。なぜか。色にこの事あり、いわゆる一の見る所にして多の見る所なり、月・舞・相撲等の色を観ずるが如し。眼にこの事無し、いわゆる一の眼根は二の能く色を見る者なり。眼は共に非ざるゆえ、一相続に依って同分および彼同分を建立す。色は共なるゆえ、多相続に依って同分および彼同分を建立す。色界を説くが如く、声・香・味・触もまたこの如くと知るべし。声は色の如くすべし。香・味・触の三は根に至りて才に取る、不共なるゆえ、一は取りて其余に非ず。理は眼等の如くあるべく、色の如く説くべからず。この理あると雖も而も共あるを容る。なぜか。香等の三界は一においても其余においても、皆鼻等の識を生ずべき義あるゆえ。眼等は然らず、ゆえに色の如く説く。眼等の六識は同分・彼同分に生・不生の法あるゆえ、意界の如く説く。どうして同分・彼同分の義か。根・境・識の三が更互に相交渉するゆえに分と名づく。あるいはまた分とは已に作用せしこと、あるいはまた分とは生ずる所の触、同じくこの分を有するゆえに同分と名づく。これに相違するを彼同分と名づく、非同分にして彼同分の種類の分に同じきゆえに彼同分と名づく。同分および彼同分を説いた。十八界中、いくつが見所断、いくつが修所断、いくつが非所断か。頌に曰く:

十五唯修斷,後三界通三,

十五はただ修断、後の三界は三に通ず、

不染非六生,色定非見斷。

不染・非六生・色は、定めて見断に非ず。

論曰:十五界者,謂十色界及五識界。唯修斷者,此十五界唯修所斷。後三界者,意界、法界及意識界。通三者,謂此後三界各通三種。八十八隨眠及彼俱有法並隨行得,皆見所斷,諸餘有漏皆修所斷,一切無漏皆非所斷。豈不更有見所斷法,謂異生性及招惡趣身語業等,此與聖道極相違故。雖爾,此法非見所斷,略說彼相,謂不染法非六生色,定非見斷。其異生性是不染汙,無記性攝,已離欲者斷善根者猶成就故。此異生性若見所斷,苦法忍位應是異生。六謂意處,異此而生名非六生,是從眼等五根生義,即五識等。色謂一切身語業等。前及此色,定非見斷。所以者何?非迷諦理親發起故。如是已說見所斷等。十八界中幾是見、幾非見?頌曰:

論に曰く:十五界とは、いわゆる十色界および五識界。ただ修断とは、この十五界はただ修の所断なり。後の三界とは、意界・法界および意識界。三に通ずとは、いわゆるこの後の三界は各々三種に通ず。八十八の随眠および彼の俱有法ならびに随行の得は皆見所断、諸の其余の有漏は皆修所断、一切の無漏は皆非所断。さてまた見所断の法あるか、いわゆる異生性および悪趣を招く身語業等、これは聖道と極めて相違するゆえ、と。然りと雖も、この法は見所断に非ず。略して彼の相を説けば、いわゆる不染法・非六生・色は、定めて見断に非ず。その異生性は不染污にして無記性の所摂、已に欲を離れ善根を断じたるもなお成就するゆえ。この異生性もし見所断ならば、苦法忍の位は異生ならん。六とはいわゆる意処、これに異なりて生ずるを非六生と名づく、これ眼等の五根より生ずる義なり、すなわち五識等。色とはいわゆる一切の身語業等。前およびこの色は、定めて見断に非ず。なぜか。諦理に迷ひて親しく発起するに非ざるゆえ。このように見所断等を説いた。十八界中、いくつが見、いくつが非見か。頌に曰く:

眼法界一分,八種說名見,

眼・法界一分、八種を見と説いて名づく、

五識俱生慧,非見不度故。

五識の俱生の慧は見に非ず、度せざるゆえ。

眼見色同分,非彼能依識,

眼の色を見るは同分、あの能依の識に非ず、

傳說不能觀,彼障諸色故。

伝説に観ること能わず、彼に障せらるる諸色なるゆえ。

論曰:眼全是見,法界一分八種是見,餘皆非見。何等為八?謂身見等五染汙見、世間正見、有學正見、無學正見。於法界中此八是見,所餘非見。身見等五,隨眠品中時至當說。世間正見,謂意識相應善有漏慧。有學正見,謂有學身中諸無漏見。無學正見,謂無學身中諸無漏見。譬如夜分晝分有雲無云,覩眾色像明昧有異,如是世間諸見有染無染。學無學見,觀察法相明昧不同。何故?世間正見唯意識相應,以五識俱生慧不能決度故,審慮為先決度名見。五識俱慧無如是能,以無分別是故非見。准此,所餘染無染慧及諸餘法非見應知。若爾,眼根不能決度,云何名見?以能明利觀照諸色故亦名見。若眼見者,餘識行時亦應名見。非一切眼皆能現見。誰能現見?謂同分眼與識合位能見非餘。若爾,則應彼能依識見色非眼。不爾,眼識定非能見。所以者何?傳說,不能觀障色故,現見壁等所障諸色則不能觀。若識見者,識無對故,壁等不礙應見障色。於被障色眼識不生,識既不生如何當見?眼識於彼何故不生?許眼見者眼有對故,於彼障色無見功能。識與所依一境轉故,可言於彼眼識不生。許識見者何緣不起?眼豈如身根境合方取而言有對故不見彼耶?又頗胝迦、瑠璃、雲母、水等所障云何得見?是故不由眼有對故,於彼障色無見功能。若爾,所執眼識云何?若於是處光明無隔,於彼障色眼識亦生。若於是處光明有隔,於彼障色眼識不生。識既不生,故不能見。然經說眼能見色者,是見所依,故說能見。如彼經言:意能識法。非意能識,以過去故。何者能識?謂是意識。意是識依,故說能識。或就所依說能依業,如世間說床座言聲。又如經言:眼所識色可愛可樂。然實非此可愛樂色是眼所識。又如經說:梵志當知,以眼為門唯為見色。故知眼識依眼門見。亦不應言門即是見,豈容經說以眼為見唯為見色?

論に曰く:眼は全きは見、法界一分の八種は見、其余は皆非見。いずれが八か。いわゆる身見等の五染污見・世間正見・有学正見・無学正見。法界中においてこの八は見、其余は非見。身見等の五は随眠品の中に时至りて説くべし。世間正見とは、いわゆる意識相応の善有漏慧。有学正見とは、いわゆる有学の身中の諸の無漏見。無学正見とは、いわゆる無学の身中の諸の無漏見。譬えば夜分・昼分に雲あり雲なきに、衆色の像を睹るに明昧異なるが如く、このように世間の諸見に染あり無染あり、学・無学の見は法相を観察するに明昧同じからず。なぜか。世間正見はただ意識に相応、五識の俱生の慧は決度し能わざるゆえ、審慮を先として決度するを見と名づく。五識の俱慧にかかる能なし、無分別をもってゆえに非見。これに準じ、其余の染・無染の慧および諸の其余の法は非見と知るべし。もしそうなら、眼根は決度し能わず、どうして見と名づくるか。能く明利に諸色を観照するをもってゆえにまた見と名づく。もし眼の見る所ならば、其余の識の行ずる時もまた見と名づくべし。一切の眼皆能く現見するに非ず。誰が能く現見するか。いわゆる同分の眼と識と合する位に能く見る、其余に非ず。もしそうなら、あの能依の識が色を見るにして眼に非ずとすべし。そうではない、眼識は定めて能見に非ず。なぜか。伝説に、障せらるる色を観ること能わざるゆえ。現に壁等に障せらるる諸色を見れば則ち観る能わず。もし識の見る所ならば、識は無対なるゆえ、壁等は礙せざれば障色を見るべし。障せられたる色において眼識生ぜず、識既に生ぜざればどうして当に見ん。眼識は彼においてなぜ生ぜざるか。眼の見るを許すは眼の有対なるゆえ、彼の障色において見の功能なし。識と所依と一境に転ずるゆえに、彼において眼識生ぜずと説きうべし。識の見るを許すは何の縁か起こらざる。眼は豈に身根の如く境合して才に取ると説いて有対なるゆえに彼を見ざるか。また頗胝迦・瑠璃・雲母・水等の障する所はどうして見るを得るか。ゆえに眼の有対によるに由らず、彼の障色において見の功能なし。もしそうなら、所執の眼識はいかに。もしこの処において光明隔たりなければ、彼の障色においても眼識また生ず。もしこの処において光明隔たりあれば、彼の障色において眼識生ぜず。識既に生ぜざれば、ゆえに見る能わず。しかるに経の説く眼の能く色を見るは、見の所依を説くなり、ゆえに能見と説く。あの経の説くが如し:意は能く法を識す、と。意の能く識するに非ず、過去なるをもってなり。何者か能く識する。いわゆるこれ意識。意は識の依なり、ゆえに能識と説く。あるいは所依に就いて能依の業を説く、世間に床座が声を言うと説くが如し。また経の説くが如く:眼の識する所の色は可愛可楽、と。しかるに実にはこの可愛可楽の色は眼の識する所に非ず。また経の説くが如く:梵志は知るべし、眼をもって門と為してただ色を見るのみ、と。ゆえに眼識は眼門に依りて見ると知る。門をすなわち見と説くべからず、豈に経の「眼をもって見と為し、ただ色を見るのみ」と説くを容れんや。

若識能見誰復了別?見與了別二用何異?以即見色名了色故,譬如少分慧名能見亦能簡擇。如是少分識名能見亦能了別。有餘難言:若眼能見,眼是見者,誰是見用?此言非難,如共許識是能了別,然無了者。了用不同,見亦應爾。有餘復言:眼識能見,是見所依故,眼亦名能見。如鳴所依故,亦說鍾能鳴。若爾,眼根識所依,故應名能識。無如是失。世間同許眼識是見,由彼生時說能見色,不言識色。毘婆沙中亦作是說:若眼所得、眼識所受說名所見。是故但說眼名能見,不名能識。唯識現前說能識色,譬如說日名能作晝。經部諸師有作是說:如何共聚楂掣虛空眼色等緣生於眼識?此等於見孰為能所?唯法因果實無作用,為順世情假興言說,眼名能見、識名能了,智者於中不應封著。如世尊說:方域言詞不應堅執,世俗名想不應固求。然迦濕彌羅國毘婆沙宗,說眼能見、耳能聞、鼻能嗅、舌能嘗、身能覺、意能了。於見色時,為一眼見、為二眼見?此無定準。頌曰:

もし識が能く見れば誰か了別する。見と了別との二用は何の異なるか。すなわち色を見るをもって色を了と名づくるを以てなり。譬えば少分の慧を能見と名づけまた能く簡択す。このように少分の識を能見と名づけまた能く了別す。あるいは余に難じて説く:もし眼が能く見れば、眼は見者にして、誰か見用なる、と。この言は難に非ず。共に識は能了別と許すが如く、しかるに了者無し。了用は同じからず、見もまたしかるべし。あるいは余にまた説く:眼識は能く見る、見の所依なるゆえに、眼をもまた能見と名づく。鳴る所依なるゆえに鐘も能く鳴らすと説くが如し。もしそうなら、眼根は識の所依なるゆえに能識と名づくべし。かかる失なし。世間は同じく眼識を見と許し、彼より生ずる時に能く色を見ると説き、識の色とは説かず。毘婆沙中にもまたかく説く:もし眼の得る所・眼識の受くる所は見る所と説いて名づく、と。ゆえにただ眼のみ能見と名づけて能識と名づけず。ただ識の現前を説いて能く色を識すとす、譬えば日を説いて能く昼を作すと名づくるが如し。経部の諸師にかく説く者あり:どうして虚空を楂掣して共に聚まり、眼・色等の縁が眼識を生ぜん。これらは見において孰れか能・孰れか所。ただ法の因果のみ実には作用無し。世情に順ぜんがため仮に言説を興す。眼は能見と名づけ、識は能了と名づく。智者はその中において封著すべからず。世尊の説くが如し:方域の言詞は堅執すべからず、世俗の名想は固く求むべからず、と。しかるに迦湿弥羅国の毘婆沙宗は、眼は能見・耳は能聞・鼻は能嗅・舌は能嘗・身は能覚・意は能了と説く。色を見る時において、一眼の見るか、二眼の見るか。これに定準なし。頌に曰く:

或二眼俱時,見色分明故。

あるいは二眼同時に、色を見ること分明なるゆえ。

論曰:阿毘達磨諸大論師鹹言:或時二眼俱見,以開二眼見色分明,開一眼時不分明故。又開一眼觸一眼時,便於現前見二月等,閉一觸一此事則無,是故或時二眼俱見。非所依別識成二分,住無方故不同礙色。若此宗說眼見耳聞乃至意了,彼所取境根正取時,為至不至?頌曰:

論に曰く:アビダルマの諸の大論師は皆説く:あるいは時に二眼が俱に見る、二眼を開きて色を見れば分明なり、一眼を開く時は分明ならざるゆえ、と。また一眼を開きて一眼に触るる時、便ち現前に二月等を見る。一を閉じ一に触れればこの事は無し。ゆえに或時は二眼俱に見る。所依別れて識が二分と成るに非ず、方に住せざるをもって礙色に同じからざるゆえ。もしこの宗が眼の見・耳の聞乃至意の了を説かば、彼の取る所の境に根が正に取る時、これ至るか至らざるか。頌に曰く:

眼耳意根境,不至三相違。

眼・耳・意の根の境は至らず、三はこれに相違す。

論曰:眼耳意根取非至境,謂眼能見遠處諸色,眼中藥等則不能觀。耳亦能聞遠處聲響,逼耳根者則不能聞。若眼耳根唯取至境,則修定者應不修生天眼、耳根,如鼻根等。若眼能見不至色者,何故不能普見一切遠有障等不至諸色?如何磁石吸不至鐵,非吸一切不至鐵耶?執見至境亦同此難。何故不能普見一切眼藥籌等至眼諸色?又如鼻等能取至境,然不能取一切與根俱有香等。如是眼根雖見不至而非一切,耳根亦爾。意無色故,非能有至。有執:耳根通取至境及不至境,自耳中聲亦能聞故。所餘鼻等三有色根,與上相違唯取至境。如何知鼻唯取至香?由斷息時不嗅香故。云何名至?謂無間生。又諸極微為相觸不?迦濕彌羅國毘婆沙師說不相觸。所以者何?若諸極微遍體相觸,即有實物體相雜過。若觸一分,成有分失,然諸極微更無細分。若爾,何故相擊發聲?但由極微無間生故。若許相觸,擊石拊手體應相糅。不相觸者,聚色相擊云何不散?風界攝持故令不散。或有風界能有壞散,如劫壞時。或有風界能有成攝,如劫成時。云何三根由無間生名取至境?即由無間名取至境,謂於中間都無片物。又和合色許有分故,相觸無失。由許此理,毘婆沙文義善成立。故彼問言:諸是觸物為是觸為因故生?為非觸為因故生?諸非觸物為問亦爾。彼就此理為不定答,有時是觸為因生於非觸,謂和合物正離散時。有時非觸為因生於是觸,謂離散物正和合時。有時是觸為因生於是觸,謂和合物復和合時。有時非觸為因生於非觸,謂向遊塵同類相續。尊者世友說:諸極微相觸即應住至後念。然大德說:一切極微實不相觸,但由無間假立觸名。此大德意應可愛樂。若異此者,是諸極微應有間隙。中間既空,誰障其行許為有對?又離極微無和合色,和合相觸即觸極微。如可變礙,此亦應爾。又許極微若有方分,觸與不觸皆應有分。

論に曰く:眼・耳・意の根は不至の境を取る。いわゆる眼は遠処の諸色を見うるが、眼中の薬等は観ること能わず。耳もまた遠処の声響を聞きうるが、耳根に逼るは聞くこと能わず。もし眼・耳の根がただ至境のみを取るならば、定を修する者は天眼・耳根を修生すべきでない、鼻根等の如く。もし眼が不至の色を見うるなら、なぜ一切の遠く障りある等の不至の諸色を普く見ること能わざるか。磁石が不至の鉄を吸うが、一切の不至の鉄を吸わざるは如何。見は至境を執するもまたこの難に同じ。なぜ一切の眼薬・籌等の至眼の諸色を普く見ること能わざるか。また鼻等の如く至境を取り能うとも、一切の根と俱有の香等を取ること能わず。このように眼根は不至を見ると雖も一切に非ず、耳根もまたこの如し。意は色無きゆえに、至を有し能わず。ある執に:耳根は至境および不至境を通じて取る、自耳中の声もまた聞きうるゆえ、と。其余の鼻等の三有色根は上に相違してただ至境を取る。どうして鼻はただ至香を取ると知るか。息を断ずる時は香を嗅がざるゆえ。何を至と名づくるか。いわゆる無間に生ずる。また諸の極微は相触するや否や。迦湿弥羅国の毘婆沙師は相触せずと説く。なぜか。もし諸の極微が遍体に相触すれば、すなわち実物の体が相雑するの過あり。もし一分に触れれば、有分の失を成ず、しかるに諸の極微は更に細分化なし。もしそうなら、なぜ相撃して声を発するか。ただ極微が無間に生ずるによるゆえ。もし相触を許さば、石を撃ち手を拊すに体は相糅すべし。相触せざるなら、聚色が相撃す時どうして散ぜざるか。風界が摂持して散ぜしめざるゆえ。あるいは風界に能く壊散するあり、劫の壊する時の如し。あるいは風界に能く成摂するあり、劫の成ずる時の如し。どうして三根は無間に生ずるによって至境を取ると名づくるか。すなわち無間によるをもって至境を取ると名づく、いわゆる中間に片物も無きがゆえ。また和合色は分あるを許すゆえに、相触しても失なし。この理を許すにより、毘婆沙の文義は善く成立す。ゆえにあの問に曰く:諸の触物は触を因として生ずるか、それとも非触を因として生ずるか。諸の非触物についての問もまたこの如し。あれらはこの理に就いて不定の答を為す。ある時は触を因として非触に生ず、いわゆる和合物が正に离散する時。ある時は非触を因として触に生ず、いわゆる离散物が正に和合する時。ある時は触を因として触に生ず、いわゆる和合物がまた和合する時。ある時は非触を因として非触に生ず、いわゆる向遊塵が同類に相続する如し。尊者世友(ヴァスミトラ)が説く:諸の極微が相触すればすなわち後念に至るまで住すべし、と。しかるに大徳の説く:一切の極微は実には相触せず、ただ無間によりて仮に触の名を立つ、と。この大徳の意はこそ愛楽すべきなれ。もしこれに異ならば、あの諸の極微は間隙あるべし。中間既に空なれば、誰かその行を障して有対と許さん。また極微を離れて和合色無し、和合相触すればすなわち極微に触れん。変碍しうる如く、これもまたしかるべし。また極微もし方分あらばと許すなら、触と不触と皆分あるべし。

若無方分,設許相觸亦無斯過。又眼等根,為於自境唯取等量,速疾轉故,如旋火輪見大山等?為於自境通取等量不等量耶?頌曰:

もし方分無からば、設ひ相触を許すともこの過無し。また眼等の根は、自境においてただ等量のみを取るか、速疾に転ずるゆえ、旋火輪の大山等を見るが如くか。それとも自境において等量・不等量を通じて取るか。頌に曰く:

應知鼻等三,唯取等量境。

鼻等の三はただ等量の境を取ると知るべし。

論曰:前說至境鼻等三根,應知唯能取等量境。如根微量,境微亦然,相稱合生鼻等識故。眼耳不定,謂眼於色有時取小如見毛端,有時取大如暫開目見大山等,有時取等如見蒲桃。如是耳根,聽蚊雷等所發種種小大音聲,隨其所應小大等量。意無質礙,不可辯其形量差別。云何眼等諸根極微安布差別?眼根極微在眼星上傍布而住,如香荾花清澈映覆令無分散。有說:重累如丸而住,體清澈故,如頗胝迦不相障礙。耳根極微居耳穴內旋環而住,如卷樺皮。鼻根極微居鼻頞內背上面下,如雙爪甲。此初三根橫作行度處無高下,如冠花鬘。舌根極微布在舌上,形如半月。傳說:舌中如毛端量,非為舌根極微所遍。身根極微遍住身分,如身形量。女根極微形如鼓𣞙,男根極微形如指𩎽。眼根極微有時一切皆是同分,有時一切皆彼同分,有時一分是彼同分餘是同分。乃至舌根極微亦爾。身根極微定無一切皆是同分,乃至極熱捺落迦中猛焰纏身,猶有無量身根極微是彼同分。傳說:身根設遍發識身應散壞,以無根境各一極微為所依緣能發身識。五識決定積集多微,方成所依所緣性故。即由此理亦說極微名無見體,不可見故。如前所說識有六種,謂眼識界乃至意識,為如五識唯緣現在意識通緣三世非世,如是諸識依亦爾耶?不爾,云何?頌曰:

論に曰く:前に説いた至境の鼻等三根は、ただ等量の境のみを取ると知るべし。根の微量の如く境の微もまたこの如し、相称合して鼻等の識を生ずるゆえ。眼・耳は定まらず。いわゆる眼は色においてある時は小を取り、毛端を見るが如く、ある時は大を取り、暫く目を開いて大山等を見、ある時は等を取り、蒲桃を見るが如し。このように耳根は、蚊・雷等の発する種種の小大の音声を聴き、その応ずる所に随って小大等量なり。意は質礙なし、その形量の差別を弁ずべからず。どうして眼等の諸根の極微の安布の差別か。眼根の極微は眼星の上に傍布して住す、香荾花が清澈に映覆して分散なからしむるが如し。ある人の説に:重累して丸の如く住す、体の清澈なるゆえ、頗胝迦の相障碍せざるが如し、と。耳根の極微は耳穴の内に居り旋環して住す、巻きたる樺皮の如し。鼻根の極微は鼻頞の内に居り背は上面は下、双爪甲の如し。この初三根は横に行度を作し処に高下なし、冠の花鬘の如し。舌根の極微は舌上に布く、形は半月の如し。伝説に:舌中に毛端量の如きあり、舌根の極微の遍する所に非ず、と。身根の極微は遍く身の分に住す、身形の量の如し。女根の極微の形は鼓𣞙の如く、男根の極微の形は指𩎽の如し。眼根の極微はある時は一切皆是同分、ある時は一切皆是彼同分、ある時は一分は彼同分にして其余は同分。乃至舌根の極微もまたこの如し。身根の極微は定めて一切都是同分無し、乃至極熱の捺落迦(地獄)中に猛焰が身に纏うとも、なお無量の身根極微は彼同分なり。伝説に:身根もし遍く識を発せば身は散壊すべし、無根の境各々一極微を所依・所縁と為して能く身識を発するを以てなり、と。五識は決定して多微を積集してこそ所依・所縁の性を成ずるゆえ。すなわちこの理によりてまた極微を無見体と名づくと説く、見るべからざるゆえ。前の説くが如く識に六種あり、いわゆる眼識界乃至意識。このごとく五識はただ現在に縁じ、意識は三世・非世に通じて縁ずるが如く、これらの諸識の依もまたこの如くか。そうではない。どうか。頌に曰く:

後依唯過去,五識依或俱。

後の依はただ過去、五識の依はあるいは俱なり。

論曰:意識唯依無間滅意,眼等五識所依或俱,或言表此亦依過去。眼是眼識俱生所依,如是乃至身是身識俱生所依,同現世故。無間滅意是過去依。此五識身所依各二,謂眼等五是別所依,意根為五通所依性,故如是說。若是眼識所依性者,即是眼識等無間緣耶?設是眼識等無間緣者,復是眼識所依性耶?應作四句。第一句,謂俱生眼根。第二句,謂無間滅心所法界。第三句,謂過去意根。第四句,謂除所說法。乃至身識亦爾,各各應說自根。意識應作順前句答,謂是意識所依性者,定是意識等無間緣。有是意識等無間緣,非與意識為所依性,謂無間滅心所法界。何因識起俱託二緣,得所依名在根非境?頌曰:

論に曰く:意識はただ無間滅の意に依り、眼等の五識の所依はあるいは俱なり。「或」の字はこれもまた過去に依るを表す。眼は眼識の俱生の所依、このように乃至身は身識の俱生の所依、同じく現世的ゆえ。無間滅の意は過去の依。この五識身の所依は各々二あり、いわゆる眼等の五は別の所依、意根は五の通所依性と為す。ゆえにかく説く。もし眼識の所依性なるものは、すなわち眼識等の無間縁か。設ひ眼識等の無間縁なるものは、また眼識の所依性か。四句を作すべし。第一句、いわゆる俱生の眼根。第二句、いわゆる無間滅の心所法界。第三句、いわゆる過去の意根。第四句、いわゆる説く所を除く。乃至身識もまたこの如し、各々自根を説くべし。意識は順前句の答を作すべし、いわゆるこれ意識の所依性なるは、定めて意識等の無間縁なり。意識等の無間縁なるも意識に所依性と為さざるあり、いわゆる無間滅の心所法界。何の因に識の起るは俱に二縁に托するに、所依の名は根に在りて境に非ず。頌に曰く:

隨根變識異,故眼等名依。

根の変に随い識が異なるゆえに、眼等を依と名づく。

論曰:眼等即是眼等六界,由眼等根有轉變故。諸識轉異,隨根增損識明昧故。非色等變令識有異,以識隨根不隨境故。依名唯在眼等非餘。何緣色等正是所識而名眼識,乃至意識不名色識乃至法識?頌曰:

論に曰く:眼等とはすなわち眼等の六界、眼等の根に転変あるゆえに諸識が転じて異なる。根の増損に随って識に明昧あるゆえ。色等の変が識を異ならしむるに非ず、識は根に随いて境に随わざるを以てなり。依の名はただ眼等に在りて其余に非ず。何の縁にか色等は正しく識せらるる所なるに、眼識と名づけ乃至意識は色識と名づけず乃至法識と名づけざるか。頌に曰く:

彼及不共因,故隨根說識。

彼および不共の因なるゆえに、根に随いて識を説く。

論曰:彼謂前說眼等名依,根是依故隨根說識。及不共者,謂眼唯自眼識所依,色亦通為他身眼識及通自他意識所取,乃至身觸應知亦爾,由所依勝及不共因故識得名。隨根非境,如名鼓聲及麥牙等。隨身所住眼見色時,身眼色識地為同不?應言此四或異或同,謂生欲界,若以自地眼見自地色,四皆自地。若以初靜慮眼見欲界色,身色慾界、眼識初定。見初定色,身屬欲界、三屬初定。若以二靜慮眼見欲界色,身色慾界、眼屬二定、識屬初定。見初定色,身屬欲界、眼屬二定、色識初定。見二定色,身屬欲界、眼色二定、識屬初定。如是若以三四靜慮地眼見下地色或自地色,如理應思。生初靜慮,若以自地眼見自地色,四皆同地見欲界色,三屬初定、色屬欲界。若以二靜慮眼見初定色,三屬初定、眼屬二定。見欲界色,身識初定、色屬欲界、眼屬二定。見二定色,身識初定、眼色二定。如是若以三四靜慮地眼見自地色或下上色,如理應思。如是生二三四靜慮,以自他地眼見自他地色,如理應思。餘界亦應如是分別。今當略辯此決定相。頌曰:

論に曰く:「彼」とはいわゆる前に説く眼等を依と名づけたる、根は依なるゆえに根に随いて識を説く。および不共とは、いわゆる眼はただ自の眼識の所依、色はまた通じて他身の眼識および通じて自他の意識の取る所。乃至身・触もまたこの如くと知るべし。所依の勝および不共の因によるゆえに識は名を得る。根に随いて境に随わず、鼓声および麦芽等を名づくるが如し。身に随い住する所の眼が色を見る時、身・眼・色・識の地は同じか同じからざるか。まさにこの四はあるいは異なりあるいは同じと説くべし。いわゆる欲界に生じて、もし自地の眼を以て自地の色を見れば、四は皆自地。もし初静慮の眼を以て欲界の色を見れば、身・色は欲界、眼・識は初定。初定の色を見れば、身は欲界に属し、三は初定に属す。もし二静慮の眼を以て欲界の色を見れば、身・色は欲界、眼は二定に属し、識は初定に属す。初定の色を見れば、身は欲界に属し、眼は二定に属し、色・識は初定。二定の色を見れば、身は欲界に属し、眼・色は二定、識は初定。このようにもし三・四の静慮地の眼を以て下地の色あるいは自地の色を見るは、理の如く思うべし。初静慮に生じて、もし自地の眼を以て自地の色を見れば、四は皆同地。欲界の色を見れば、三は初定に属し、色は欲界に属す。もし二静慮の眼を以て初定の色を見れば、三は初定に属し、眼は二定に属す。欲界の色を見れば、身・識は初定、色は欲界に属し、眼は二定に属す。二定の色を見れば、身・識は初定、眼・色は二定。このようにもし三・四の静慮地の眼を以て自地の色あるいは下・上の色を見るは、理の如く思うべし。このように二・三・四の静慮に生じて、自他地の眼を以て自他地の色を見るは、理の如く思うべし。其余の界もまたこの如く分別すべし。今略してこの決定の相を弁ずべし。頌に曰く:

眼不下於身,色識非上眼,

眼は身に下らず、色・識は眼に上らず、

色於識一切,二於身亦然。

色は識において一切、二は身においてもまたこの如し。

如眼耳亦然,次三皆自地,

眼の如く耳もまたこの如し、次の三は皆自地、

身識自下地,意不定應知。

身識は自・下地、意は定まらずと知るべし。

論曰:身眼色三皆通五地,謂在欲界四靜慮中,眼識唯在欲界初定。此中眼根望身生地,或等或上終不居下。色識望眼等下非上,下眼不能見上色故、上識不依下地眼故。色望於識通等上下,色識於身如色於識。廣說耳界應知如眼,謂耳不下於身,聲識非上耳,聲於識一切。二於身亦然,隨其所應廣如眼釋。鼻舌身三總皆自地,於中別者,謂身與觸其地必同。識望觸身或自或下,自謂若生欲界初定,生上三定謂之為下。應知意界四事不定,謂意有時與身識法四皆同地,有時上下。身唯五地,三通一切。於遊等至及受生時,隨其所應或同或異,如後定品當廣分別。為捨繁文故今未辯,前後再述用少功多。傍論已周,應辯正論。今當思擇,十八界中誰六識內幾識所識?幾常、幾無常?幾根、幾非根?頌曰。

論に曰く:身・眼・色の三は皆五地に通ず、いわゆる欲界および四静慮中に在り、眼識はただ欲界・初定に在り。ここで眼根は身の生ずる地に望んで、あるいは等しくあるいは上なるも終に下に居らず。色・識は眼に望んで等しくか下なるも上に非ず、下の眼は上の色を見る能わざるゆえ、上の識は下地の眼に依らざるゆえ。色は識に望んで等・上下に通ず、色・識が身においては色が識におけるが如し。広く耳界を説くも眼の如く知るべし、いわゆる耳は身に下らず、声・識は耳に上らず、声は識において一切。二は身においてもまたこの如し。その応ずる所に随い、広く眼の釈の如し。鼻・舌・身の三は総じて皆自地。その中の分別とは、いわゆる身と触とはその地必ず同じ。識は触・身に望み、あるいは自、あるいは下。自とはいわゆるもし欲界・初定に生ぜば、上の三定に生ずるをこれ下と謂う。意界は四事定まらずと知るべし。いわゆる意はある時は身・識・法と四が皆同地、ある時は上下。身はただ五地、三は一切に通ず。等至に遊ぶ時および受生の時、その応ずる所に随いあるいは同じくあるいは異なり、後の定品において広く分別すべきが如し。繁文を捨てんがためのゆえに今未だ弁ぜず、前後に再び述べるは用少なく功多し。傍論已に周らん、正論を弁ずべし。今思択すべし:十八界中、誰か六識の内、いくつの識の識する所か。いくつが常、いくつが无常か。いくつが根、いくつが非根か。頌に曰く:

五外二所識,常法界無為,

五は外の二の識する所、常は法界の無為、

法一分是根,並內界十二。

法の一分は根、ならびに内界の十二。

論曰:十八界中色等五界,如其次第眼等五識各一所識,又總皆是意識所識。如是五界各六識中二識所識。由此準知,餘十三界一切唯是意識所識,非五識身所緣境故。十八界中無有一界全是常者,唯法一分無為是常,義準無常法餘餘界。又經中說二十二根,謂眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根、女根、男根、命根、樂根、苦根、喜根、憂根、捨根、信根、勤根、念根、定根、慧根、未知當知根、已知根、具知根。阿毘達磨諸大論師,皆越經中六處次第,於命根後方說意根,有所緣故。如是所說二十二根,十八界中內十二界法一分攝。法一分者,命等十一、後三一分,法界攝故。內十二者,眼等五根如自名攝,意根通是七心界攝,後三一分意意識攝,女根、男根即是身界一分所攝。如後當辯。義準所餘,色等五界法界一分皆體非根。

論に曰く:十八界中の色等の五界は、この次第によって眼等の五識の各々一の識する所、また総じて皆意識の識する所。このように五界は各々六識中の二識の識する所。これによって其余の十三界は一切ただ意識の識する所と準知すべし、五識身の縁ずる境に非ざるゆえ。十八界中に全き常なる一界なし、ただ法界一分の無為は常なり。義に準じて無常の法は其余、其余の界。また経中に二十二根を説く。いわゆる眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根・女根・男根・命根・楽根・苦根・喜根・憂根・捨根・信根・勤根・念根・定根・慧根・未知当知根・已知根・具知根。アビダルマの諸の大論師は皆経中の六処の次第を越え、命根の後に意根を説く、有所縁なるゆえ。このように説く二十二根は十八界中、内の十二界・法の一分の所摂。法の一分とは、命等の十一・後三の一分、法界の所摂なるゆえ。内の十二とは、眼等の五根は自名の如く摂せられ、意根は通じて七心界の所摂、後三の一分は意・意識の所摂、女根・男根はすなわち身界一分の所摂、後に弁ずべきが如し。義に準じて其余の、色等の五界・法界一分は皆体は根に非ず。

説一切有部倶舎論 巻第二

アビダルマ倶舎論 巻第三

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別根品第二之一

分別根品 第二之一。

如是因界已列諸根,即於此中根是何義?最勝自在光顯名根,由此總成根增上義。此增上義誰望於誰?頌曰:

このように界に因りて已に諸根を挙げた。まさにここで根とはいかなる義か。最勝・自在・光顕を根と名づく。これによって総じて根の増上の義を成す。この増上の義は誰が誰に対するか。頌に曰く:

傳說五於四,四根於二種,

伝説に五根は四事において、四根は二種の事において、

五八染淨中,各別為增上。

五受と八根は染・浄中において、各別に増上と為る。

論曰:眼等五根各於四事能為增上:一莊嚴身、二導養身、三生識等、四不共事。且眼耳根莊嚴身者,謂若盲聾身醜陋故。導養身者,謂因見聞避險難故。生識等者,謂發二識及相應故。不共事者,謂能見色聞聲別故。鼻舌身根莊嚴身者,如眼耳說。導養身者,謂於段食能受用故。生識等者,謂發三識及相應故。不共事者,謂嗅甞覺香味觸故。女、男、命、意各於二事能為增上。且女、男根二增上者,一有情異、二分別異。有情異者,由此二根令諸有情女男類別。分別異者,由此二根形相言音乳房等別。有說:此於染淨增上故言於二。所以者何?本性損壞。扇搋半擇及二形人無不律儀無間斷善諸雜染法,亦無律儀得果離染諸清淨法。命根二者,謂於眾同分能續及能持。意根二者,謂能續後有及自在隨行。能續後有者,如契經言:時健達縛於二心內隨一現前,謂或愛俱、或恚俱等。自在隨行者,如契經言:

論に曰く:眼等の五根は各々四事において能く増上を為す:一に身を荘厳し、二に身を導養し、三に識等を生じ、四に不共の事。暫く眼・耳の根が身を荘厳するとは、いわゆるもし盲・聾ならば身は醜陋なるゆえ。身を導養するとは、いわゆる見聞に因りて険難を避くるゆえ。識等を生ずるとは、いわゆる二識およびその相応を発するゆえ。不共事とは、いわゆる能く色を見声を聞くに別あるゆえ。鼻・舌・身の根が身を荘厳するは眼・耳の説くが如し。身を導養するとは、いわゆる段食において受用し能うるゆえ。識等を生ずるとは、いわゆる三識およびその相応を発するゆえ。不共事とは、いわゆる香・味・触を嗅ぎ嘗め覚るゆえ。女・男・命・意は各々二事において能く増上を為す。暫く女・男根の二の増上:一に有情を異ならしめ、二に分別を異ならしむ。有情を異ならしむるは、この二根によって諸の有情に女・男の類の別あらしむるゆえ。分別を異ならしむるは、この二根によって形相・言音・乳房等の別あるゆえ。ある人の説に:これは染浄において増上なるゆえに二において説く、と。なぜか。本性の損壊せる扇搋(生まれつき男根なき者)・半択(淫を行じ能わざる者)および二形の人は、不律儀・無間・断善の諸の雑染法なく、また律儀・得果・離染の諸の清浄法もなきゆえ。命根の二とは、いわゆる衆同分において能く続しおよび能く持す。意根の二とは、いわゆる能く後有を続しおよび自在に随行す。能く後有を続するとは、契経に説くが如く:時に健達縛(中有の有情)は二心の内に随一を現前す、いわゆるあるいは愛に俱、あるいは恚に俱等、と。自在に随行するとは、契経に説くが如く:

心能導世間,心能遍攝受,

心は能く世間を導き、心は能く遍く摂受す、

如是心一法,皆自在隨行。

このように心の一法は、自在に随行す。

樂等五受、信等八根,於染淨中如次增上。樂等五受染增上者,貪等隨眠所隨增故。信等八根淨增上者,諸清淨法隨生長故。有餘師說:樂等於淨亦為增上。如契經說:「樂故心定」、「苦為信依」,亦「出離依喜及憂、捨」。毘婆沙師傳說如此。有餘師說:能導養身非眼等用,是識增上,識了方能避於險難,受段食故。見色等用亦非異識,故不共事於眼等根,不可立為別增上用,故非由此眼等成根。若爾,云何?頌曰:

(論に続けて曰く:)楽等の五受・信等の八根は、染・浄中において次いで増上す。楽等の五受は染の増上なり、貪等の随眠の随増する所なるゆえ。信等の八根は浄の増上なり、諸の清浄法の随って生長する所なるゆえ。ある師の説に:楽等は浄においてもまた増上を為す、契経に説くが如く「楽によりて心定まる」、「苦は信の依と為る」、また「喜および憂・捨に依りて出離す」と。毘婆沙師はかく伝説す。ある師の説に:能く身を導養するは眼等の用に非ず、これは識の増上なり。識了らばこそ能く険難を避け段食を受けんゆえ、と。色を見る等の用もまた識に異ならず、ゆえに不共事は眼等の根において別の増上用と立つべからず。ゆえにこれによりて眼等は根と成るに非ず。もし爾ならば如何。頌に曰く:

了自境增上,總立於六根,

自境を了るに増上ありて、総じて六根に立て、

從身立二根,女男性增上,

身より二根を立つるは女男性に増上あるゆえ、

於同住雜染,清淨增上故。

衆同分の住において、雑染において、清浄において増上あるゆえ。

應知命五受,信等立為根,

命と五受、信等を根と立つると知るべし、

未當知已知,具知根亦爾,

未知当知・已知・具知の根もまたこの如し、

於得後後道,涅槃等增上。

後後の道・涅槃等を得るにおいて増上あるゆえ。

論曰:了自境者,謂六識身。眼等五根於能了別各別境識有增上用,第六意根於能了別一切境識有增上用,故眼等六各立為根。豈不色等於能了識亦有增上應立為根?境於識中無增上用。夫增上用謂勝自在,眼於所發了色識中最勝自在故名增上,於了眾色為通因故,識隨眼根有明昧故。色則不然,二相違故。乃至意根於法亦爾。從身復立女男根者,女男性中有增上故。女男根體不離身根,身一分中立此名故。如其次第,女男性中,此女男根有增上用,此處少異餘處身根,故從身根別立為二。女身形類音聲作業志樂差別,名為女性。男身形類音聲作業志樂不同,名為男性。二性差別由女男根,故說女男根於二性增上,於眾同分住中命根有增上用,於雜染中樂等五受有增上用。所以者何?由契經說:於樂受貪隨增,於苦受瞋隨增,於不苦不樂受無明隨增故。於清淨中信等五根有增上用。所以者何?由此勢力伏諸煩惱引聖道故。言應知者,勸許一一各能為根,三無漏根於得後後道涅槃等有增上用。言亦爾者,類顯一一各能為根,謂未知當知根於得已知根道有增上用,已知根於得具知根道有增上用,具知根於得涅槃有增上用,非心未解脫能般涅槃故。等言為顯復有異門。云何異門?謂見所斷煩惱滅中未知當知根有增上用,於修所斷煩惱滅中已知根有增上用,於現法樂住中具知根有增上用,由此能領受解脫喜樂故。若增上故立為根者,無明等性應立為根,無明等因於行等果各各別有增上用故。又語具等應立為根,語具手足大小便處,於語執行棄樂事中如其次第有增上故。如是等事不應立根,由所許根有如是相。頌曰:

論に曰く:自境を了るとは、いわゆる六識身。眼等の五根は能く各別の境を了別する識において増上の用あり、第六の意根は能く一切境を了別する識において増上の用あり。ゆえに眼等の六は各々根と立つ。豈に色等も能了の識において増上ありて根と立つべからざらんや。境は識において増上の用なし。いわゆる増上用とは勝自在を謂う。眼は発する所の色を了る識中において最も勝自在なるゆえに増上と名づく、衆色を了るに通因と為るゆえ、識は眼根に随って明昧あるゆえ。色は然らず、二相違なるゆえ。乃至意根の法においてもまたこの如し。身よりまた女男根を立つるは、女男性中に増上あるゆえ。女男根の体は身根を離れず、身の一分中にこの名を立つるゆえ。その次第の如く、女男性中においてこの女男根に増上の用あり、此処は少しく其余の処の身根に異なるゆえに、身根より別に二と立つ。女の身形類・音声・作業・志楽の差別を女性と名づく。男の身形類・音声・作業・志楽の不同を男性と名づく。二性の差別は女男根によるゆえに、女男根は二性において増上と説く。衆同分の住中において命根に増上の用あり、雑染中において楽等の五受に増上の用あり。なぜか。契経に説くゆえ:楽受において貪が随増し、苦受において瞋が随増し、不苦不楽受において無明が随増す、と。清浄中において信等の五根に増上の用あり。なぜか。この勢力によって諸の煩悩を伏し聖道を引くゆえ。「知るべし」と説くは、一一が各々根と為りうるを勧め許さんがため。三無漏根は後後の道・涅槃等を得るにおいて増上の用あり。「もまたこの如し」と説くは、一一が各々根と為りうるを類して顕さんがため。いわゆる未知当知根は已知根の道を得るにおいて増上の用あり、已知根は具知根の道を得るにおいて増上の用あり、具知根は涅槃を得るにおいて増上の用あり。心未だ解脱せずして能く般涅槃するに非ざるゆえ。「等」の字はまた異門あるを顕さんがため。何を異門とするか。いわゆる見所断の煩悩の滅において未知当知根に増上の用あり、修所断の煩悩の滅において已知根に増上の用あり、現法の楽住において具知根に増上の用あり。これによって能く解脱の喜楽を領受するゆえ。もし増上なるによって根と立つるなら、無明等の性も根と立つべし、無明等の因が行等の果において各々別に増上の用あるゆえ。また語具等も根と立つべし、語具・手足・大小便処は語・執・行・棄・楽の事においてその次第の如く増上あるゆえ。この如き等の事は根と立つべからず、許す所の根にかかる相あるによる。頌に曰く:

心所依此別,此住此雜染,

心の所依・これの差別・これの住・これの雑染・

此資糧此淨,由此量立根。

これの資糧・これの浄、この量によって根を立つ。

論曰:心所依者,眼等六根。此內六處是有情本,此相差別由女男根,復由命根此一期住。此成雜染由五受根,此淨資糧由信等五,此成清淨由後三根,由此立根事皆究竟。是故不應許無明等及語具等亦立為根,彼無此中增上用故。復有餘師別說根相。頌曰:

論に曰く:心の所依とは、眼等の六根。これ内の六処は有情の本なり。これの相の差別は女男根により、また命根によりてこれ一期に住す。これ雑染を成ずるは五受根により、これ浄の資糧は信等の五により、これ清浄を成ずるは後の三根による。これによって根を立つる事は皆究竟す。ゆえに無明等および語具等もまた根と立つと許すべからず、彼にはこの中の増上の用なきゆえ。またある師は別に根の相を説く。頌に曰く:

或流轉所依,及生住受用,

あるいは流転の所依、および生・住・受用に、

建立前十四,還滅後亦然。

前の十四を建立し、還滅は後の八もまたこの如し。

論曰:或言顯此是餘師意,約流轉還滅立二十二根。流轉所依謂眼等六,生由女男從彼生故。住由命根,仗彼住故。受用由五受因,彼領納故。約此建立前十四根。還滅位中即約此四義類別故立後八根。還滅所依謂信等五,於三無漏由初故生,由次故住,由後受用,根量由此無減無增。即由此緣經立次第,不應語具於語為根,待學差別語方成故。手足不應於執行事各立為根,無異性故,謂即手足異處異相差別生時名執行故。又離手足亦有執行,如腹行類。是故手足不可於彼建立為根。出大便處於能棄事不應立根,重物於空遍墮落故,又由風力引令出故。出小便處於生樂事不應立根,即女男根起此樂故。又諸喉齒眼瞼支節應立為根,於能吞嚼開閉屈申有力用故。或一切因於自所作有力用故皆應立根,彼雖有用非增上故。不立根者,此語具等亦非增上不應立根。此中眼等乃至男根如前已說。命根體是不相應故,不相應中自當廣辯。信等體是心所法故,心所法中亦當廣辯。樂等五受、三無漏根,更無辯處故今應釋。頌曰:

論に曰く:「或」の字はこれは余師の意なるを顕す。流転・還滅に約して二十二根を立つ。流転の所依は眼等の六を謂う。生は女男による、彼より生ずるゆえ。住は命根による、彼に仗って住するゆえ。受用は五受の因による、彼が領納するゆえ。これに約して前の十四根を建立す。還滅の位中ではすなわちこの四義に約して類別するゆえに後の八根を立つ。還滅の所依は信等の五を謂い、三無漏において初によりて生じ、次によりて住し、後によりて受用す。根の量はこれによって減ずるなく増ずるなし。すなわちこの縁によりて経は次第を立つ。語具は語において根とすべからず、学の差別を待ちて語才に成るゆえ。手足は執・行の事において各々根と立つべからず、異性なきゆえ。いわゆるすなわち手足の異処・異相の差別生ずる時を執・行と名づくるゆえ。また手足を離れても執・行あり、腹行の類の如し。ゆえに手足は彼において根と建立すべからず。大便を出す処は能棄の事において根と立つべからず、重物は空中に遍く堕落するゆえ、また風力に引かれて出づるゆえ。小便を出す処は生楽の事において根と立つべからず、すなわち女男根がこの楽を起すゆえ。また諸の喉・歯・眼瞼・支節は根と立つべし、能く呑嚼・開閉・屈申することに力用あるゆえ、というも、彼は用あると雖も増上に非ざるゆえに根と立てず。この語具等もまた増上に非ざれば根と立てず。この中、眼等乃至男根は前に已に説いた。命根の体は不相応なるゆえに、不相応中において自ずから広く弁ずべし。信等の体は心所法なるゆえに、心所法中においてもまた広く弁ずべし。楽等の五受・三無漏根は更に弁ずる処なきゆえに今釈すべし。頌に曰く:

身不悅名苦,即此悅名樂,

身の悦ばざるを苦と名づけ、すなわちこれの悦ぶを楽と名づけ、

及三定心悅,餘處此名喜,

および三定の心の悦は、余処においてこれを喜と名づく、

心不悅名憂,中捨二無別,

心の悦ばざるを憂と名づく。中の捨は二に別なし、

見修無學道,依九立三根。

見・修・無学の道は、九に依りて三根を立つ。

論曰:身謂身受,依身起故,即五識相應受。言不悅者是損惱義,於身受內能損惱者名為苦根。所言悅者是攝益義,即身受內能攝益者名為樂根。及第三定心相應受能攝益者亦名樂根,第三定中無有身受,五識無故心悅名樂。即此心悅除第三定,於下三地名為喜根。第三靜慮心悅安靜,離喜貪故唯名樂根。下三地中心悅麁動有喜貪故,唯名喜根。意識相應能損惱受,是心不悅,名曰憂根。中謂非悅非不悅,即是不苦不樂受,此處中受名為捨根。如是捨根為是身受、為是心受?應言通二。何因此二總立一根?此受在身心,同無分別故。在心苦樂多分別生,在身不然,隨境力故。阿羅漢等亦如是生,故此立根,身心各別,捨無分別任運而生,是故立根,身心合一。又苦樂受在身在心為損為益,其相各異,故別立根。捨在身心同無分別,非損非益其相無異,故總立根。意樂喜捨信等五根,如是九根在於三道,如次建立三無漏根。謂在見道依意等九立未知當知根,若在修道即依此九立已知根,在無學道亦依此九立具知根。如是三名因何而立?謂在見道有未曾知當知行轉故,說彼名未知當知。若在修道無未曾知,但為斷除餘隨眠故,即於彼境復數了知,是故說彼名為已知。在無學道知己已知故名為知,有此知者名為具知。或習此知已成性者名為具知,謂得盡智、無生智故如實自知:我遍知苦,不復遍知。乃至廣說。彼所有根名為未知當知根等,如是已釋根體不同,當辯諸門義類差別。此二十二根中幾有漏、幾無漏?頌曰:

論に曰く:身とは身受を謂う、身に依って起るゆえ、すなわち五識の相応の受。悦ばざると説くは損悩の義、身受の内に能く損悩するを苦根と名づく。説く所の悦ぶは摂益の義、すなわち身受の内に能く摂益するを楽根と名づく。および第三定の心に相応の受は能く摂益するをもってもまた楽根と名づく、第三定中に身受なし、五識なきゆえに心の悦を楽と名づく。すなわちこの心の悦は第三定を除き、下の三地において喜根と名づく。第三静慮の心の悦は安静にして、喜貪を離るるゆえにただ楽根と名づく。下の三地中の心の悦は粗動にして喜貪あるゆえに、ただ喜根と名づく。意識に相応する能く損悩する受は、これ心の不悦、憂根と名づく。中とは悦に非ず不悦に非ず、すなわちこれ不苦不楽受、この処の中の受を捨根と名づく。このように捨根はこれ身受か、それとも心受か。まさに二に通ずと説くべし。何の因にこの二を総じて一根と立つるか。この受は身に在心に在るに、同じく分別なきゆえ。心に在る苦楽は多分別より生ず、身に在るは然らず、境の力に随うゆえ。阿羅漢等もまたこの如く生ず、ゆえにこれを根と立つるに身心各別なり。捨は分別なく任運に生ずるゆえに、根と立つるに身心を合一す。また苦楽受が身在り心在りて損と為り益と為るにその相各々異なるゆえに別々に根と立つ。捨は身心において同じく分別なく、損に非ず益に非ずその相異なきゆえに総じて根と立つ。意・楽・喜・捨・信等の五根、この九根は三道において、次いで三無漏根を建立す。いわゆる見道において意等の九に依りて未知当知根を立て、もし修道においてはすなわちこの九に依りて已知根を立て、無学道においてもまたこの九に依りて具知根を立つ。このように三名は何に因りて立つか。いわゆる見道において未だ曾て知らざる、当知の行転あるゆえに、彼を未知当知と説く。もし修道においては未だ曾て知らざるなく、ただ其余の随眠を断除せんがためのゆえに、すなわち彼の境においてまた数々了知す、ゆえに彼を已知と説く。無学道においては知已に已知なるゆえに知と名づき、この知あるを具知と名づく。あるいはこの知を習して已に性と成せるを具知と名づく、いわゆる尽智・無生智を得るゆえに如実に自ら知る:我遍く苦を知り、復た遍く知らず。乃至広く説くが如し。彼の所有の根を未知当知根等と名づく。このように已に根体の不同を釈し竟えた。まさに諸門の義類の差別を弁ずべし。この二十二根中、いくつが有漏、いくつが無漏か。頌に曰く:

唯無漏後三,有色命憂苦,

無漏なるはただ後の三。有色・命・憂・苦は、

當知唯有漏,通二餘九根。

ただ有漏と知るべし。二に通ずるは其余の九根。

論曰:次前所說最後三根,體唯無漏是無垢義。垢之與漏名異體同。七有色根及命憂苦一向有漏。七有色者,眼等五根及女男根,色蘊攝故。意樂喜捨信等五根,此九皆通有漏無漏。有餘師說:信等五根亦唯無漏,故世尊說:若全無此信等五根,我說彼住外異生品。此非誠證,依無漏根說此言故。云何知然?先依無漏信等五根建立諸聖位差別已說此言故。或諸異生略有二種:一內、二外。內謂不斷善根,外謂善根已斷。依外異生作如是說:若全無此信等五根,我說彼住外異生品。又契經說:有諸有情處在世間,或生或長,有上中下諸根差別。是佛猶未轉法輪時,故知信等亦通有漏。又世尊說:我若於此信等五根,未如實知是集沒味過患出離,未能超此天人世間及魔梵等,乃至未能證得無上正等菩提。乃至廣說。非無漏法可作如是品類觀察故,信等五根通有漏無漏。如是已說有漏無漏。二十二根中幾是異熟、幾非異熟?頌曰:

論に曰く:次前に説く所の最後の三根は、体はただ無漏、これ無垢の義。垢と漏とは名異なりて体同じ。七有色根および命・憂・苦は一向に有漏。七有色とは、眼等の五根および女・男根、色蘊の摂するゆえ。意・楽・喜・捨・信等の五根、この九は都て有漏・無漏に通ず。ある師の説に:信等の五根もまたただ無漏なり、世尊の説くゆえ:もし全くこの信等の五根無からば、我説かん彼は外の異生の品に住す、と。この誠の証に非ず、無漏根に依りてこの言を説くゆえ。どうしてこの如くと知るか。先に無漏の信等五根に依りて諸の聖位の差別を建立して已にこの言を説きしゆえ。あるいは諸の異生に略して二種あり:一に内、二に外。内とは善根を断ぜざるを謂い、外とは善根已に断ぜるを謂う。外の異生に依りてこのように説く:もし全くこの信等の五根無からば、我説かん彼は外の異生の品に住す、と。また契経に説く:諸の有情ありて世間に処し、あるいは生じあるいは長じ、上・中・下の諸根の差別あり、と。これ仏のなお未だ法輪を転を転ぜざりし時なり。ゆえに信等もまた有漏に通ずと知る。また世尊の説く:我もしこの信等の五根において、未だ如実に集・没・味・過患・出離を知らずんば、未だ能くこの天・人の世間および魔・梵等を超えず、乃至未だ能く無上正等菩提を証得せず。乃至広く説く。無漏の法はこのようの品類の観察を作すべからざるゆえ、信等の五根は有漏・無漏に通ず。このように已に有漏・無漏を説き竟えた。二十二根中いくつが異熟、いくつが非異熟か。頌に曰く:

命唯是異熟,憂及後八非,

命はただ異熟、憂および後の八は非、

色意餘四受,一一皆通二。

色・意・其余の四受は、一一皆二に通ず。

論曰:唯一命根定是異熟。若如是者,諸阿羅漢留多壽行此即命根,如是命根誰之異熟?如本論說:云何苾芻留多壽行?謂阿羅漢成就神通得心自在。若於僧眾、若於別人以諸命緣衣缽等物隨分佈施,施已發願,即入第四邊際靜慮,從定起已心念口言:諸我能感富異熟業,願皆轉招壽異熟果。時彼能感富異熟業,則皆轉招壽異熟果。復有欲令引取宿業殘異熟果。彼說前生曾所受業有殘異熟,由今所修邊際定力引取受用。云何苾芻捨多壽行?謂阿羅漢成就神通得心自在,於僧眾等如前佈施,施已發願,即入第四邊際靜慮,從定起已心念口言:諸我能感壽異熟業,願皆轉招富異熟果。時彼能感壽異熟業,則皆轉招富異熟果。尊者妙音作如是說:彼起第四邊際定力,引色界大種令身中現前,而彼大種或順壽行或違壽行,由此因緣或留壽行或捨壽行。應如是說,彼阿羅漢由此自在三摩地力,轉去曾得宿業所生諸根大種住時勢分,引取未曾定力所起諸根大種住時勢分,故此命根非是異熟,所餘一切皆是異熟。因論生論,彼阿羅漢有何因緣留多壽行?謂為利益安樂他故,或為聖教久住世故,觀知自身壽行將盡,觀他無此二種堪能。復何因緣捨多壽行?彼阿羅漢自觀住世於他利益安樂事少,或為病等苦逼自身。如有頌言:

論に曰く:唯一命根のみ定めて異熟なり。もしこのようなら、諸の阿羅漢が寿行を多く留めるこれが命根、このように命根は誰の異熟か。本論の説くが如く:何を苾芻の寿行を多く留むるとするか。いわゆる阿羅漢が神通を成就して心の自在を得、もし僧衆において、もし別人において、諸の命縁の衣・鉢等の物を随分に布施し、施し已って願を発し、すなわち第四の辺際静慮に入り、定より起き已って心念し口言す:諸の我が富の異熟業を感じうるを、願わくは都て転じて寿の異熟果を招かしめん、と。時に彼の富の異熟業を感じうるは、則ち都て転じて寿の異熟果を招く。また引き取らしめんと欲するは宿業の残りの異熟果なり。彼は前生に曽て受けたりし業に残りの異熟あるを、今修する所の辺際の定力によりて引き取りて受用すと説く。何を苾芻の寿行を多く捨つるとするか。いわゆる阿羅漢が神通を成就して心の自在を得、僧衆等において前の如く布施し、施し已って願を発し、すなわち第四の辺際静慮に入り、定より起き已って心念し口言す:諸の我が寿の異熟業を感じうるを、願わくは都て転じて富の異熟果を招かしめん、と。時に彼の寿の異熟業を感じうるは、則ち都て転じて富の異熟果を招く。尊者妙音がこのように説く:彼は第四の辺際の定力を起して、色界の大種を引いて身中に現前せしめ、しかして彼の大種はあるいは寿行に順いあるいは寿行に違う。この因縁によりてあるいは寿行を留めあるいは寿行を捨つ、と。まさにこのように説くべし。彼の阿羅漢はこの自在三摩地の力によりて、去りし曾て得たる宿業の生ぜし諸根大種の住時の勢分を転じて、未だ曾て得ざりし定力の起ぜし諸根大種の住時の勢分を引き取る。ゆえにこの命根は異熟に非ず、所余の一切は是れ異熟なり。論によりて論を生ず。彼の阿羅漢は何の因縁ありて寿行を多く留むるか。いわゆる他を利益し安楽せんがためのゆえ、あるいは聖教を久しく世に住せしめんがためのゆえ、自身の寿行の将に尽きんとするを観知し、他にこの二種の堪能なきを観ず。また何の因縁ありて寿行を多く捨つるか。彼の阿羅漢は自ら観ず、世に住して他に利益安楽の事少なし、あるいは病等の苦に逼されるに自身をもってす、と。頌に説くあるが如し:

梵行妙成立,聖道已善修,

梵行は妙に成立し、聖道已に善く修し、

壽盡時歡喜,猶如捨眾病。

寿尽くる時は歓喜す、衆病を捨つるが如し。

此中應知,依何處所誰能如是留捨壽行?謂三洲人女男相續,不時解脫得邊際定諸阿羅漢,由彼身中有自在定無煩惱故。經說:世尊留多命行、捨多壽行。命壽何別?有言:無別。如本論言:云何命根?謂三界壽。有餘師說:先世業果名為壽行,現在業果名為命行。有說:由此眾同分住名為壽行,由此暫住名為命行。多言為顯留捨多念,命行壽行非一剎那,命行壽行有留捨故。有說:此言為遮有一命壽實體經多時住。有說:此言為顯無一實命壽體,但於多行假立如是命壽二名。若謂不然,不應言行。世尊何故捨多壽行留多命行?為顯於死得自在故捨多壽行,為顯於活得自在故留多命行。唯留三月不增減者,越此更無所化事故,減此利生不究竟故。又為成立先自稱言我:善修行四神足故,欲住一劫或一劫餘,如心所期則便能住。毘婆沙師作如是說:顯今能伏蘊死二魔。世尊先於菩提樹下,已伏天魔煩惱魔故。傍論已竟,正論應辯。憂根及後信等八根皆非異熟,是有記故,餘皆通二。義準已成。謂七色意根除憂餘四受,十二一一皆通二類。七有色根若所長養則非異熟,餘皆異熟。意及四受若善染汙。若威儀路及工巧處並能變化,隨其所應亦非異熟,餘皆異熟。若說憂根非異熟者,此經所說當云何通?如契經言。:有三種業:順喜受業、順憂受業、順捨受業。依受相應言順無過,謂業與憂相應故名順憂受業,如觸與樂相應說名順樂受觸。若爾,順喜順捨受業亦應如是,一經說故。隨汝所欲,於我無違,異熟相應理皆無失,無逃難處。作此通經理實何因?憂非異熟,以憂分別差別所生,止息亦然;異熟不爾。若爾,喜根應非異熟,亦由分別生及止息故。若許憂根是異熟者,造無間業已因即生憂,此業爾時應名果已熟。亦應如是徵難喜根,若許喜根是異熟者,造勝福業已因即生喜,此業爾時應名果已熟。

(論に続けて曰く:)この中に知るべし、何の処所に依りて誰か能くこのように寿行を留め捨つるか。いわゆる三洲の人の女男の相続にして、時解脱を得ず辺際定を得たる諸の阿羅漢なり。彼の身中に自在の定ありて煩悩なきゆえ。経に説く:世尊は命行を多く留め、寿行を多く捨てたり、と。命・寿は何の別ぞや。言うに:別無し、本論の説くが如く:何を命根とするか。いわゆる三界の寿、と。ある師の説に:先世の業果を寿行と名づけ、現在の業果を命行と名づく、と。ある説に:これによって衆同分に住するを寿行と名づけ、これによって暫く住するを命行と名づく、と。「多」の字は留め捨つるが多念なるを顕さんがため、命行・寿行は一刹那に非ざればなり。命行・寿行に留め捨つるあるゆえ。ある説に:この言は一命寿の実体が多時を経て住すを遮るがため、と。ある説に:この言は一実の命寿体なきを顕さんがため、ただ多行において仮にかかる命寿の二名を立つ、と。もし然らずと謂わば、「行」と説くべからず。世尊は何の故にか寿行を多く捨て命行を多く留めたるか。死において自在を得たりと顕さんがためのゆえに寿行を多く捨て、活において自在を得たりと顕さんがためのゆえに命行を多く留む。ただ三月を留めて増減せざるは、これを越えて更に化すべき事なきゆえ、これを減ずれば生を利することが究竟せざるゆえ。また先に自ら称して言えるを成立せんがため:我善く四神足を修行す、ゆえに一劫あるいは一劫余に住せんと欲せば、心の期する所の如く則ち便ち住し得べし、と。毘婆沙師がこのように説く:今能く蘊・死の二魔を伏するを顕さんがためなり。世尊は先に菩提樹下において已に天魔・煩悩魔を伏せたるゆえ、と。傍論已に竟ん。正論を弁ずべし。憂根および後の信等の八根は都て異熟に非ず、是れ有記なるゆえ。其余は都て二に通ず。義準已に成れり。いわゆる七色・意根・憂を除く其余の四受、十二は一一皆二類に通ず。七有色根はもし所長養ならば則ち異熟に非ず、其余は都て異熟なり。意および四受はもし善・染污、もし威儀路および工巧処ならびに能変化ならば、その応ずる所に随いてもまた異熟に非ず、其余は都て異熟なり。もし憂根は異熟に非ずと説くなら、この経の説く所をまさにどう通ぜん。契経の説くが如く:三種の業あり:順喜受業・順憂受業・順捨受業、と。受に相応するに依りて順と説くは過なし、いわゆる業が憂に相応するゆえに順憂受業と名づく、触が楽に相応するに順楽受触と名づけるが如し。もし爾ならば、順喜・順捨の受業もまたこの如くなるべし、一経の説く所なるゆえ。汝の欲する所に随え、我に於いて違わず、異熟・相応ともに理は失われず、逃難の処なし。これを通ずる理は実に何の因ぞや。憂は異熟に非ず、憂は分別の差別の生ずる所なるを以て、止息もまたこの如し。異熟は爾らず。もし爾なら、喜根もまた異熟に非ずと説くべし、亦た分別より生じおよび止息するゆえ。もし憂根は是れ異熟と許さば、無間業を造り已って因より即ち憂を生ず、この業は爾の時まさに果已熟と名づくべし。まさにこの如く喜根をも征難すべし。もし喜根は是れ異熟と許さば、勝福の業を造り已って因より即ち喜を生ず、この業は爾の時まさに果已熟と名づくべし。

毘婆沙師鹹作是說:已離欲者無憂根故,異熟不然,故非異熟。若爾,應說離欲有情異熟喜根。何相知有?隨彼有相此相亦然,謂善喜根此位容有,無記異熟應類非無。於此位中憂一切種無容有故定非異熟,眼等八根若在善趣是善異熟,若在惡趣是惡異熟,意根隨在善趣惡趣是俱異熟,喜樂捨根隨在何趣是善異熟,苦根隨在善趣惡趣是惡異熟。於善趣中有二形者唯根處所,不善業招善趣色根,善業引故。如是已說是異熟等。二十二根中幾有異熟、幾無異熟?頌曰:

毘婆沙師は都てこのように説く:已に欲を離るれば憂根なきゆえ、異熟は然らず、ゆえに異熟に非ず、と。もし爾ならば、まさに欲を離れし有情は異熟の喜根あると説くべし。何の相にか有るを知る。彼の有相に随ってこの相もまたこの如し、いわゆる善の喜根はこの位に容れて有り、無記・異熟の類は無に非ざり。この位中に憂は一切種に容れて有るなく、ゆえに定めて異熟に非ず。眼等の八根はもし善趣にあれば善の異熟、もし悪趣にあれば悪の異熟。意根は善趣・悪趣に在るに随いて俱の異熟。喜・楽・捨根は何の趣に在るに随いても善の異熟。苦根は善趣・悪趣に在るに随いて悪の異熟。善趣中に二形あるはただ根の処所のみ、不善業は善趣の色根を招く、善業の引くゆえ。このように已に是れ異熟等を説き竟えた。二十二根中いくつが異熟あり、いくつが異熟なきか。頌に曰く:

憂定有異熟,前八後三無,

憂は定めて異熟あり。前の八、後の三は無く、

意餘受信等,一一皆通二。

意・其余の受・信等は、一一皆二に通ず。

論曰:如前所諍,憂根當知定有異熟,依唯越義頌說定聲,謂顯憂根唯有異熟兼具二義故越次說。具二義者,憂非無記,強思起故;亦非無漏,唯散地故。由此越次先說,憂根定有異熟。眼等前八及最後三定無異熟,八無記故,三無漏故,餘皆通二。義準已成,謂意根餘四受信等言等取精進等四根,此十一一皆通二類。意樂喜捨若不善善有漏有異熟,若無記無漏無異熟。苦根若善不善有異熟,若無記無異熟。信等五根若有漏有異熟,若無漏無異熟。如是已說有異熟等。二十二根中幾善、幾不善、幾無記?頌曰:

論に曰く:前に諍う所の如く、憂根は定めて異熟ありと知るべし。ただ越義に依りて頌に定の声を説く、いわゆる憂根はただ異熟ありて兼ねて二義を具するゆえを顕さんとて、次を越えて説く。二義を具するとは、憂は無記に非ず、強いて思の起るゆえ。もまた無漏に非ず、ただ散地なるゆえ。これによって次を越えて先に説く、憂根は定めて異熟ありと。眼等の前の八および最後の三は定めて異熟なし、八は無記なるゆえ、三は無漏なるゆえ。其余は都て二に通ず。義準已に成れり、いわゆる意根・其余の四受・「信等」の言は等しく精進等の四根を取る。この十一は一一皆二類に通ず。意・楽・喜・捨はもし不善・善有漏ならば異熟あり、もし無記・無漏ならば異熟なし。苦根はもし善・不善ならば異熟あり、もし無記ならば異熟なし。信等の五根はもし有漏ならば異熟あり、もし無漏ならば異熟なし。このように已に異熟有等を説き竟えた。二十二根中いくつが善、いくつが不善、いくつが無記か。頌に曰く:

唯善後八根,憂通善不善,

ただ善なるは後の八根。憂は善・不善に通じ、

意餘受三種,前八唯無記。

意・其余の受は三種、前の八はただ無記。

論曰:信等八根一向是善,數次雖居後,乘前故先說。憂根唯通善不善性,意及餘受一一通三,眼等八根唯無記性。如是已說善不善等。二十二根中幾欲界繫、幾色界繫、幾無色界繫?頌曰:

論に曰く:信等の八根は一向に是れ善、数の次は後に居ると雖も、前に乗じて先に説くゆえ。憂根はただ善・不善性に通ず。意および其余の受は一一三に通ず。眼等の八根はただ無記性。このように已に善・不善等を説き竟えた。二十二根中いくつが欲界の繫、いくつが色界の繫、いくつが無色界の繫か。頌に曰く:

欲色無色界,如次除後三,

欲・色・無色界は、次第に後の三を除き、

兼女男憂苦,併除色喜樂。

兼ねて女・男・憂・苦を除き、ならびに色の喜・楽を除く。

論曰:欲界除後三無漏根,由彼三根唯不繫故,準知欲界繫唯有十九根。色界如前,除三無漏兼除男、女、憂、苦四根,準知十五根亦通色界繫。除女男者,色界已離婬欲法故、由女男根身醜陋故。若爾,何故說彼為男?於何處說?契經中說。如契經言:無處無容女身為梵,有處有容男身為梵。別有男相,謂欲界中男身所有。無苦根者,身淨妙故,又彼無有不善法故。無憂根者,由奢摩他潤相續故,又彼定無惱害事故。無色如前,除三無漏、女、男、憂、苦,併除五色及喜、樂根,準知餘八根通無色界繫,謂意、命、捨、信等五根。如是已說欲界繫等。二十二根中幾見所斷、幾修所斷、幾非所斷?頌曰:

論に曰く:欲界は後の三無漏根を除く、彼の三根はただ不繫なるゆえ。準知して欲界の繫はただ十九根。色界は前の如く、三の無漏を除くに兼ねて男・女・憂・苦の四根を除く。準知して十五根もまた色界の繫に通ず。女・男を除くは、色界は已に淫欲の法を離れたるゆえ、また女男根によりて身は丑陋なるゆえ。もし爾ならば、何の故にか彼を男と説く。何の処にか説くや。契経中に説く。契経の説くが如く:女身の梵と為るは処無く容れず、男身の梵と為るは処ありて容る、と。別に男の相あり、いわゆる欲界中の男身の所有。苦根なきは、身の浄妙なるゆえ、また彼に不善法なきゆえ。憂根なきは、奢摩他(止)の潤う相続なるゆえ、また彼に定めて悩害の事なきゆえ。無色は前の如く、三の無漏・女・男・憂・苦を除き、ならびに五色および喜・楽根を除く。準知して其余の八根は無色界の繫に通ず、いわゆる意・命・捨・信等の五根。このように已に欲界繫等を説き竟えた。二十二根中いくつが見所断、いくつが修所断、いくつが非所断か。頌に曰く:

意三受通三,憂見修所斷,

意と三受は三に通じ、憂は見・修所断、

九唯修所斷,五修非三非。

九はただ修所断、五は修・非、三は非。

論曰:意、喜、樂、捨一一通三,皆通見、修、非所斷故。憂根唯通見修所斷,非無漏故。七色、命、苦唯修所斷,不染汙故、非六生故、皆有漏故。信等五根,或修所斷、或非所斷,非染汙故、皆通有漏及無漏故。最後三根唯非所斷,皆無漏故、非無過法是所斷故。已說諸門義類差別。何界初得幾異熟根?頌曰:

論に曰く:意・喜・楽・捨は一一三に通ず、都て見・修・非の所断に通ずるゆえ。憂根はただ見・修所断に通ず、無漏に非ざるゆえ。七色・命・苦はただ修所断、染污せざるゆえ、六生に非ざるゆえ、都て有漏なるゆえ。信等の五根はあるいは修所断、あるいは非所断、染污に非ざるゆえ、都て有漏および無漏に通ずるゆえ。最後の三根はただ非所断、都て無漏なるゆえ、無過の法は所断に非ざるゆえ。已に諸門の義類の差別を説き竟えた。何の界の初得にいくつの異熟根か。頌に曰く:

欲胎卵濕生,初得二異熟,

欲の胎・卵・湿生は、初め二の異熟を得、

化生六七八,色六上唯命。

化生は六・七・八、色は六、上はただ命。

論曰:欲胎、卵、濕生初受生位,唯得身與命二異熟根,由此三生根漸起故。彼何不得意、捨二根?此續生時定染汙故。化生初位得六七八,謂無形者初得六根,如劫初時。何等為六?所謂眼、耳、鼻、舌、身、命。若一形者初得七根,如諸天等。若二形者初得八根。豈有二形受化生者?惡趣容有二形化生。說欲界中初得根已。今次當說色無色界。欲界欲勝故但言欲,色界色勝故但言色。契經亦言:寂靜解脫,過色無色。色界初得六異熟根,如欲化生無形者說。上唯命者,謂無色界定勝生勝,故說上言。無色界中最初所得異熟根者,唯命非餘。說異熟根最初得已。何界死位幾根後滅?頌曰:

論に曰く:欲界の胎・卵・湿生の初の受生の位は、ただ身と命との二の異熟根を得、この三生は根の漸く起るゆえ。彼は何をか意・捨の二根を得ざる。この続生の時は定めて染污なるゆえ。化生の初位は六・七・八を得る。いわゆる無形なるは初め六根を得、劫初の時の如し。何等を六とするか。いわゆる眼・耳・鼻・舌・身・命。もし一形なるは初め七根を得、諸天等の如し。もし二形なるは初め八根を得。豈に二形ありて化生を受くる者あらんや。悪趣に二形の化生あるを容つ。欲界中の初得の根を説き已んぬ。今次いで色・無色界を説くべし。欲界は欲の勝なるゆえにただ欲と説き、色界は色の勝なるゆえにただ色と説く。契経もまた説く:寂静・解脱は色・無色を過ぎたり、と。色界は初め六の異熟根を得る、欲の化生の無形の説くが如し。上はただ命とは、いわゆる無色界は定勝・生勝なるゆえに上の言を説く。無色界中に最初に得る所の異熟根は、ただ命にして其余に非ず。異熟根の最初に得るを説き已んぬ。何の界の死の位にいくつの根が後に滅するか。頌に曰く:

正死滅諸根,無色三色八,

正しく死し滅する諸根は、無色は三、色は八、

欲頓十九八,漸四善增五。

欲は頓に十・九・八、漸は四、善は五を増す。

論曰:在無色界將命終時,命、意、捨三於最後滅。若在色界將命終時,即前三根及眼等五,如是八種於最後滅。一切化生必具諸根而生死故。若在欲界頓命終時,十九八根於最後滅,謂二形者後滅十根,即女男根並前八種。若一形者後滅九根,於女男中隨除一種。若無形者後滅八根,謂無女男,唯有前八。如是所說依頓命終。若漸命終後唯捨四,謂在欲界漸命終時,身、命、意、捨於最後滅,此四必無前後滅義。如是所說,應知但依染無記心而命終者。若在三界善心死時,信等五根必皆具有,故於前說一切位中其數皆應加信等五,謂於無色增至八根,乃至欲界漸終至九,中間多少如理應知。分別根中一切根法皆應思擇,二十二根幾能證得何沙門果?頌曰:

論に曰く:無色界に在りて将に命終せん時、命・意・捨の三が最後に滅す。もし色界に在りて将に命終せん時、すなわち前の三根および眼等の五、この八種が最後に滅す。一切の化生は必ず諸根を具して生・死するゆえ。もし欲界に在りて頓に命終する時、十・九・八の根が最後に滅す。いわゆる二形なるは後に十根を滅す、すなわち女・男根ならびに前の八種。もし一形なるは後に九根を滅す、女・男中の随一種を除く。もし無形なるは後に八根を滅す、いわゆる女・男なく、ただ前の八のみ。このように説くは頓の命終に依る。もし漸に命終すれば後にただ四を捨つ、いわゆる欲界に在りて漸に命終する時、身・命・意・捨が最後に滅す。この四は必ず前後の滅の義なし。このように説く所は、まさに染・無記の心によりて命終するに依ると知るべし。もし三界の善心に死する時は、信等の五根は必ず具有するゆえに、前に説く一切の位においてその数は皆信等の五を加うべし。いわゆる無色において八根に増し、乃至欲界の漸終は九に至る。中間の多少は理の如く知るべし。分別根中の一切の根法は皆思択すべし。二十二根のいくつかが能く何の沙門果を証得するか。頌に曰く:

九得邊二果,七八九中二,

九は辺の二果を得、七・八・九は中の二、

十一阿羅漢,依一容有說。

十一は阿羅漢、一に依りて容有と説く。

論曰:邊謂預流、阿羅漢果,於沙門果居初後故。中謂一來及不還果,此觀初後在中間故。初預流果由九根得,謂意及捨、信等五根、未知當知、已知為九。未知根在無間道,已知根在解脫道,此二相資得最初果。如其次第,於離繫得能為引因,依因性故。阿羅漢果亦九根得,謂意、信等五、已知、具知,及喜、樂、捨中隨一為九。已知根在無間道,具知根在解脫道,此二相資得最後果。如其次第,於離繫得能為引因,依因性故。中間二果,隨其所應,各為七八九根所得。所以者何?且一來果次第證者,依世間道由七根得,謂意及捨、信等五根;依出世道由八根得,謂即前七根、已知根第八。倍離欲貪超越證者,如預流果由九根得;若不還果次第證者,依世間道由七根得,依出世道由八根得。如前次第得一來果。全離欲貪超越證者,由九根得,如前超越得一來果。總說雖然而有差別,謂此依地有差別故,樂、喜、捨中可隨取一。前果超越唯一捨根。又次第證不還果者,若於第九解脫道中入根本地,依世間道由八根得。彼無間道捨受相應,解脫道中復有喜受,此二相資得第三果。於離繫得二因如前,依出世道由九根得,八根如前,已知第九,無間解脫此俱有故。豈不根本阿毘達磨問:由幾根得阿羅漢?答:十一根。云何乃言由九根得?實得第四,但由九根。而本論言十一根者,依一身中容有故說。謂容有一補特伽羅從無學位數數退已,由樂、喜、捨隨一現前,數復證得阿羅漢果。由斯本論說十一根,然無一時三受俱起,是故今說定由九根。於不還果中何不如是說?以無樂根證不還果,而於後時得有退義。亦無退已,由樂復得,非先離欲超證第三有還退義。此離欲果二道所得,極堅牢故。今應思擇,成就何根?彼諸根中幾定成就?頌曰:

論に曰く:辺とは預流・阿羅漢の果を謂う、沙門果において初・後に居するゆえ。中とは一来および不還の果を謂う、これ初・後を観ずれば中間に在るゆえ。初の預流果は九根によりて得る、いわゆる意および捨・信等の五根・未知当知・已知を九と為す。未知根は無間道に在り、已知根は解脱道に在り、この二は相資けて最初の果を得。その次第の如く、離繫の得において能く引因・依因性と為るゆえ。阿羅漢果もまた九根によりて得る、いわゆる意・信等の五・已知・具知、および喜・楽・捨中の随一を九と為す。已知根は無間道に在り、具知根は解脱道に在り、この二は相資けて最後の果を得。その次第の如く、離繫の得において能く引因・依因性と為るゆえ。中間の二果は、その応ずる所に随いて、各々七・八・九の根に得らる。なぜか。暫く一来果を次第に証するは、世間道に依りて七根によりて得る、いわゆる意および捨・信等の五根。出世道に依りては八根によりて得る、いわゆるすなわち前の七根に已知根を第八と為す。倍に欲貪を離れて超越に証するは、預流果の如く九根によりて得る。もし不還果を次第に証するは、世間道に依りて七根によりて得、出世道に依りて八根によりて得る、前の次第に一来果を得るが如し。全く欲貪を離れて超越に証するは、九根によりて得る、前の超越に一来果を得るが如し。総説はこの如しと雖も差別あり、いわゆるこれは地に依りて差別あるゆえに、楽・喜・捨中に随一を取るべし。前の果の超越は唯一の捨根。もし次第に不還果を証するに、もし第九の解脱道において根本地に入らば、世間道に依りて八根によりて得る。彼の無間道は捨受の相応、解脱道中にまた喜受あり、この二は相資けて第三果を得。離繫の得において二因は前の如し。出世道に依りては九根によりて得る、八根は前の如く、已知を第九と為す、無間・解脱はこれ俱有なるゆえ。豈に根本アビダルマの問わざらんや:いくつの根によりて阿羅漢を得るや。答えて曰く:十一根、と。どうしてただ九根によりて得ると説くや。実に第四を得るはただ九根による。しかして本論が十一根と説くは、一身中に容有に依りて説くゆえ。いわゆる容有、一の補特伽羅(有情)が無学の位より数々退り已って、楽・喜・捨の随一の現前によりて、数々復た阿羅漢果を証得す、と。このによりて本論は十一根と説く、しかれども一時に三受の俱に起る無きゆえに、今定めて九根によりて得ると説く。不還果中において何ぞこの如く説かざるや。楽根を以て不還果を証することなく、しかして後時において退る義を得るゆえ。もまた退り已って楽によりて復た得るなく、先に欲を離れて超えて第三を証するに還退の義あればなり。この離欲の果は二道の得る所、極めて堅牢なるゆえ。今思択すべし、何の根を成就するや。彼の諸根中いくつが定めて成就するや。頌に曰く:

成就命意捨,各定成就三,

命・意・捨を成就せば、各々定めて三を成就し、

若成就樂身,各定成就四,

もし楽・身を成就せば、各々定めて四を成就し、

成眼等及喜,各定成五根,

眼等および喜を成就せば、各々定めて五根を成じ、

若成就苦根,彼定成就七,

もし苦根を成就せば、彼は定めて七を成就し、

若成女男憂,信等各成八,

もし女・男・憂、信等を成就せば、各々八を成じ、

二無漏十一,初無漏十三。

二の無漏は十一、初の無漏は十三。

論曰:命、意、捨中隨成就一,彼定成就如是三根,非此三中隨有所闕可有成就。所餘根者,除此三根餘皆不定,謂或成就或不成就。此中眼耳鼻舌四根,生無色界定不成就,若生欲界未得已失亦不成就。身根,唯有生無色界定不成就。女男二根,生上二界定不成就,若生欲界未得已失亦不成就。樂根,異生生第四定及無色界定不成就。喜根,異生生三四定及無色界定不成就。苦根,若生色無色界定不成就。憂根,一切離欲貪者定不成就。信等五根,善根斷者定不成就。初無漏根,一切異生及已住果定不成就。次無漏根,一切異生見道無學定不成就。後無漏根,一切異生及有學位定不成就。於非遮位應知如前,所說諸根皆定成就。若成樂根定成就四,謂命、意、捨及此樂根。若成身根亦定成四,謂命、意、捨及此身根。若成眼根定成就五,謂命、意、捨、身根、眼根。耳鼻舌根應知亦五,前四如眼,第五自根。若成喜根亦定成五,謂命、意、捨、樂根、喜根。第二靜慮地生未得第三靜慮,捨下未得上,此成何樂根?當言成就第三靜慮染汙樂根,餘未得故。若成苦根定成就七,謂身、命、意、四受除憂。若成女根定成就八,七如苦說,第八女根。若成男根亦定成八,七如苦說,第八男根。若成憂根亦定成八,七如苦說,第八憂根。若成信等亦各成八,謂命、意、捨、信等五根。若成具知根定成就十一,謂命與意、樂、喜、捨根、信等五根及具知根。若成已知根亦定成十一,十根如上及已知根。若成未知根定成就十三,謂身、命、意、苦、樂、喜、捨、信等五根及未知根。諸極少者成就幾根?頌曰:

論に曰く:命・意・捨中の随一を成就せば、彼は定めてこのごとき三根を成就す。この三中の随一も闕きてあれば成就ありうべからず。所余の根とは、この三根を除きて其余は皆定まらず、いわゆるあるいは成就しあるいは成就せず。この中、眼・耳・鼻・舌の四根は、無色界に生ぜば定めて成就せず、もし欲界に生じて未だ得ず已に失うも成就せず。身根は、ただ無色界に生ぜば定めて成就せざるのみ。女・男の二根は、上の二界に生ぜば定めて成就せず、もし欲界に生じて未だ得ず已に失うも成就せず。楽根は、異生の第四定および無色界に生ずれば定めて成就せず。喜根は、異生の三・四の定および無色界に生ずれば定めて成就せず。苦根は、もし色・無色界に生ぜば定めて成就せず。憂根は、一切の欲貪を離れたるは定めて成就せず。信等の五根は、善根を断ぜるは定めて成就せず。初の無漏根は、一切の異生および已に果に住するは定めて成就せず。次の無漏根は、一切の異生・見道・無学は定めて成就せず。後の無漏根は、一切の異生および有学の位は定めて成就せず。非遮の位においては前の如く知るべし、説く所の諸根は皆定めて成就す。もし楽根を成ずれば定めて四を成就す、いわゆる命・意・捨およびこの楽根。もし身根を成ずればもまた定めて四を成ず、いわゆる命・意・捨およびこの身根。もし眼根を成ずれば定めて五を成就す、いわゆる命・意・捨・身根・眼根。耳・鼻・舌根もまた五と知るべし、前の四は眼の如く、第五は自根。もし喜根を成ずればもまた定めて五を成ず、いわゆる命・意・捨・楽根・喜根。第二静慮地に生じて未だ第三静慮を得ず、下を捨て未だ上を得ず、これは何の楽根を成ずるか。まさに第三静慮の染污の楽根を成就すと説くべし、其余は未だ得ざるゆえ。もし苦根を成ずれば定めて七を成就す、いわゆる身・命・意・四受にして憂を除く。もし女根を成ずれば定めて八を成就す、七は苦の説くが如く、第八は女根。もし男根を成ずればもまた定めて八を成ず、七は苦の説くが如く、第八は男根。もし憂根を成ずればもまた定めて八を成ず、七は苦の説くが如く、第八は憂根。もし信等を成ずればも各々八を成ず、いわゆる命・意・捨・信等の五根。もし具知根を成ずれば定めて十一を成就す、いわゆる命と意・楽・喜・捨根・信等の五根および具知根。もし已知根を成ずればもまた定めて十一を成ず、十根は上の如くおよび已知根。もし未知根を成ずれば定めて十三を成就す、いわゆる身・命・意・苦・楽・喜・捨・信等の五根および未知根。諸の極めて少なきはいくつの根を成就するか。頌に曰く:

極少八無善,成受身命意,

極めて少なく八、善無きは、受・身・命・意を成じ、

愚生無色界,成善命意捨。

愚の無色界に生ずるは、善・命・意・捨を成ず。

論曰:已斷善根名為無善。彼若極少成就八根,謂五受根及身、命、意。受謂能受,能領納故。或是受性故名為受,如圓滿性立圓滿名。如斷善根極少成八,愚生無色亦成八根。愚謂異生,未見諦故。何等為八?謂信等五、命、意、捨根。信等五根,一向善故總名為善。若爾,應攝三無漏根。不爾,此中依八根故,又說愚生無色界故。諸極多者成就幾根?頌曰:

論に曰く:已に善根を断ぜるを無善と名づく。彼はもし極めて少なければ八根を成就す、いわゆる五受根および身・命・意。受とは能受、能く領納するゆえ。あるいは是受の性なるゆえに受と名づく、円満の性に円満の名を立つるが如し。善根を断ぜるが極めて少なく八を成ずるが如く、愚の無色に生ずるもまた八根を成ず。愚とは異生を謂う、未だ諦を見ざるゆえ。何等を八とするか。いわゆる信等の五・命・意・捨根。信等の五根は一向に善なるゆえに総じて善と名づく。もし爾ならば、まさに三無漏根を摂すべし。爾らず、此中は八根に依るゆえ、また愚の無色界に生ずると説くゆえ。諸の極めて多きはいくつの根を成就するか。頌に曰く:

極多成十九,二形除三淨,

極めて多く十九を成ず、二形は三浄を除き、

聖者未離欲,除二淨一形。

聖者の未だ欲を離れざるは、二浄・一形を除く。

論曰:諸二形者具眼等根,除三無漏成餘十九。無漏名淨,離二縛故。二形必是欲界異生,未離欲貪故有十九。唯此具十九、為更有耶?聖者未離欲亦具十九,謂聖有學未離欲貪,成就極多亦具十九,除二無漏及除一形。若住見道,除已知根及具知根。若住修道,除未知根及具知根。女男二根隨除一種,以諸聖者無二形故。因分別界根非根差別,乘茲廣辯二十二根竟。

論に曰く:諸の二形は眼等の根を具し、三の無漏を除きて其余の十九を成ず。無漏を浄と名づく、二の縛を離るるゆえ。二形は必ず是れ欲界の異生、未だ欲貪を離れざるゆえに十九を有す。ただこれが十九を具するのみか、また有るか。聖者の未だ欲を離れざるもまた十九を具す、いわゆる聖の有学の未だ欲貪を離れざるは、成就の極めて多くもまた十九を具す、二の無漏を除きおよび一形を除く。もし見道に住すれば、已知根および具知根を除く。もし修道に住すれば、未知根および具知根を除く。女・男の二根は随一種を除く、諸の聖者に二形なきを以てなり。界によりて根・非根の差別を分別するに因り、これに乗じて広く二十二根を弁じ竟えり。

説一切有部倶舎論 巻第三

アビダルマ倶舎論 巻第四 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別根品第二之二

分別根品 第二之二。

今應思擇,一切有為如相不同,生亦各異,為有諸法決定俱生、有定俱生。謂一切法略有五品:一色、二心、三心所、四心不相應行、五無為。無為無生,此中不說。今先辯色決定俱生。頌曰:

今思択すべし、一切の有為は相に如いて同じからず、生もまた各々異なり、諸法に決定の俱生あるか。定の俱生あり。いわゆる一切法に略して五品あり:一に色、二に心、三に心所、四に心不相応行、五に無為。無為は生無し、此中に説かず。今まず色の決定俱生を弁ず。頌に曰く:

欲微聚無聲,無根有八事,

欲の微聚、声なく根なきは八事あり、

有身根九事,十事有餘根。

身根あるは九事、其余の根あるは十事。

論曰:色聚極細立微聚名,為顯更無細於此者。此在欲界無聲無根,八事俱生隨一不減。云何八事?謂四大種及四所造色、香、味、觸。無聲有根諸極微聚,此俱生事或九或十。有身根聚九事俱生,八事如前,身為第九。有餘根聚十事俱生,九事如前,加眼等一。眼耳鼻舌必不離身,展轉相望處各別故。於前諸聚若有聲生,如次數增九十十一,以有聲處不離根生,謂有執受大種因起。若四大種不相離生,於諸聚中堅濕煖動,云何隨一可得非餘?於彼聚中勢用增者明瞭可得,餘體非無。如覺針鋒與籌合觸,如甞鹽味與麨合味。云何於彼知亦有餘?由有攝熟長持業故。有說:遇緣堅等便有流等相故,如水聚中由極冷故有煖相起,雖不相離而冷用增,如受及聲用有勝劣。有餘師說:於此聚中餘有種子未有體相,故契經說:於木聚中有種種界。界謂種子。如何風中知有顯色?此義可信,不可比知。或所合香現可取故,香與顯色不相離故。前說色界香味並無,故彼無聲有六七八,有聲有七八九俱生。此可準知,故不別說。此中言事為依體說、為依處說?若爾何過?二俱有過。若依體說,八九十等便為太少,由諸微聚必有形色,有多極微共積集故。重性輕性定隨有一,滑性澁性隨一亦然。或處有冷有飢有渴,是則所言有太少過。若依處說,八九十等便為太多,由四大種觸處攝故應說四等,是則所言有太多失。二俱無過。應知此中所言事者,一分依體說,謂所依大種;一分依處說,謂能依造色。若爾,大種事應成多,造色各別,依一四大種故。應知此中依體類說,諸四大種類無別故。何用分別如是語為?語隨欲生,義應思擇。如是已辯色定俱生。餘定俱生今次當辯。頌曰:

論に曰く:色聚の極細なるに微聚の名を立つ、更にこれより細なるなきを顕さんがため。これは欲界に在り声なく根なきは、八事俱に生じて随一減ぜず。何を八事とするか。いわゆる四大種および四所造色・香・味・触。声なくして根ある諸の極微聚は、この俱生の事はあるいは九あるいは十。身根ある聚は九事俱に生ず、八事は前の如く、身を第九と為す。其余の根ある聚は十事俱に生ず、九事は前の如く、眼等の一を加う。眼・耳・鼻・舌は必ず身を離れず、展転に相い望む処が各別なるゆえ。前の諸聚においてもし声の生ずるあれば、次の如く増じて九・十・十一と為す、声ある処は根を離れて生ぜざるを以て、いわゆる執受の大種の因より起る有るゆえ。もし四大種は相離れずして生ずるなら、諸聚中の堅・湿・暖・動は、どうして随一のみ可得にして其余に非ざるか。彼の聚中に勢用の増するは明了に可得にして、其余の体は無きに非ず。針鋒を覚ると籌と合して触るるが如く、塩味を嘗むと麨と合して味うが如し。どうして彼においてもまた其余あるを知るか。摂・熟・長・持の業あるゆえ。ある説に:縁に遇えば堅等の流等の相あり、水聚中に極冷あるによりて暖相の起るが如く、相離れずと雖も冷の用が増すが如し、受および声の用に勝劣あるが如し、と。ある師の説に:この聚中に其余は種子ありて未だ体相なし、ゆえに契経に説く:木聚中に種種の界あり、界とは種子を謂う、と。いかにして風中に顕色あるを知るか。この義は信ずべし、比知すべからず。あるいは合する所の香は現に取るべきゆえ、香は顕色と相離れざるゆえ。前に説く色界は香味並びに無し、ゆえに彼は声なきは六・七・八、声あるは七・八・九が俱生す。これは準知すべし、ゆえに別に説かず。此中に事を説くは体に依りて説くか、処に依りて説くか。もし爾なら何の過ぞや。二俱に過あり。もし体に依りて説かば、八・九・十等は便ち太少と為す、諸の微聚は必ず形色あり、多の極微が共に積集するゆえ。重性・軽性は定めて随一あり、滑性・渋性もまた随一この如し。あるいは処に冷あり飢あり渇あり、是則ち言う所は太少の過あり。もし処に依りて説かば、八・九・十等は便ち太多と為す、四大種は触処の摂するゆえに四等と説くべし、是則ち言う所は太多の失あり。二俱に過なし。まさに此中に言う所の事は、一分は体に依りて説く、いわゆる所依の大種。一分は処に依りて説く、いわゆる能依の造色と知るべし。もし爾なら、大種の事はまさに多と成るべし、造色は各別にして一の四大種に依るゆえ。まさに此中は体類に依りて説くと知るべし、諸の四大種は類に別なきゆえ。何ぞかかる語を分別するを用とするや。語は欲に随いて生ず、義はまさに思択すべし。このように已に色の定の俱生を弁じ竟えた。其余の定の俱生は今次いで弁ずべし。頌に曰く:

心心所必俱,諸行相或得。

心・心所は必ず俱なり、諸行は相あるいは得。

論曰:心與心所必定俱生,隨闕一時餘則不起。諸行即是一切有為,謂色、心、心所、心不相應行。前必俱言流至於此,謂色心等諸行生時,必與有為四相俱起。言或得者,謂諸行內唯有情法與得俱生;餘法不然,是故言或。向言心所,何者是耶?頌曰:

論に曰く:心と心所とは必定に俱に生ず、随って一時闕けば則ち其余は起らず。諸行とはすなわち一切の有為、いわゆる色・心・心所・心不相応行。前の「必俱」の言はここに流れ至る、いわゆる色・心等の諸行の生ずる時、必ず有為の四相と俱に起る。「或いは得」と説くは、いわゆる諸行の内、ただ有情の法は得と俱に生ず。其余の法は然らず、ゆえに或と説く。向に心所を説く、何者ぞや。頌に曰く:

心所且有五,大地法等異。

心所は且つ五あり、大地法等の異なり。

論曰:諸心所法且有五品。何等為五?一、大地法;二、大善地法;三、大煩惱地法;四、大不善地法;五、小煩惱地法。地謂行處,若此是彼所行處,即說此為彼法地。大法地故名為大地,此中若法大地所有名大地法,謂法恆於一切心有。彼法是何?頌曰:

論に曰く:諸の心所法は且つ五品あり。何等を五とするか。一に大地法、二に大善地法、三に大煩悩地法、四に大不善地法、五に小煩悩地法。地とは行処を謂う、もしこれ彼の行処ならば、すなわちこれを彼の法の地と説く。大法の地なるゆえに大地と名づく、此中にもし法が大地の所有ならば大地法と名づく、いわゆる法は恒に一切心に有る。彼の法は何ぞや。頌に曰く:

受想思觸欲,慧念與作意,

受・想・思・触・欲、慧・念と作意、

勝解三摩地,遍於一切心。

勝解・三摩地、遍く一切心に在り。

論曰:傳說:如是所列十法,諸心剎那和合遍有。此中受謂三種領納:苦、樂、俱非,有差別故。想謂於境取差別相。思謂能令心有造作。觸謂根境識和合生,能有觸對。欲謂希求所作事業。慧謂於法能有簡擇。念謂於緣明記不忘。作意謂能令心警覺。勝解謂能於境印可。三摩地謂心一境性。諸心心所異相微細,一一相續分別尚難,況一剎那俱時而有。有色諸藥色根所取,其味差別尚難了知,況無色法唯覺慧取。如是已說十大地法。大善法地名大善地,此中若法大善地所有名大善地法,謂法恆於諸善心有。彼法是何?頌曰:

論に曰く:伝説に、このように列ねたる十法は、諸の心の刹那に和合して遍く有り、と。此中、受とは三種の領納を謂う:苦・楽・俱非、差別あるゆえ。想とは境において差別の相を取るを謂う。思とは能く心に造作あらしむるを謂う。触とは根・境・識の和合によりて生じ、能く触対有るを謂う。欲とは所作の事業を希求するを謂う。慧とは法において能く簡択有るを謂う。念とは縁において明記して忘れざるを謂う。作意とは能く心を警覚せしむるを謂う。勝解とは能く境において印可するを謂う。三摩地とは心の一境性を謂う。諸の心・心所は異相微細にして、一一相続して分別するもなお難し、況んや一刹那に俱時に有るをや。有色の諸の薬は色根の取る所にして、その味の差別もなお了知し難し、況んや無色の法はただ覚慧の取る所をや。このように已に十の大地法を説き竟えた。大善法の地を大善地と名づく、此中にもし法が大善地の所有ならば大善地法と名づく、いわゆる法は恒に諸の善心に有る。彼の法は何ぞや。頌に曰く:

信及不放逸,輕安捨慚愧,

信および不放逸、軽安・捨・慚・愧、

二根及不害,勤唯遍善心。

二根および不害、勤はただ善心に遍す。

論曰:如是諸法唯遍善心。此中信者令心澄淨。有說:於諦寶業果中現前忍許故名為信。不放逸者,修諸善法離諸不善法。復何名修?謂此於善專注為性。餘部經中有如是釋。能守護心名不放逸。輕安者謂心堪任性。豈無經亦說有身輕安耶?雖非無說,此如身受應知亦爾,如何可立此為覺支?應知此中身輕安者身堪任性。復如何說此為覺支?能順覺支故無有失。以身輕安能引覺支心輕安故。於餘亦見有是說耶?有,如經說:喜及順喜法名喜覺支。瞋及瞋因緣名瞋恚蓋。正見、正思惟、正勤名慧蘊。思惟及勤雖非慧性,隨順慧故亦得慧名,故身輕安順覺支故得名無失。心平等性、無警覺性說名為捨。如何可說於一心中有警覺性、無警覺性?作意與捨二相應起。豈不前說諸心心所其相微細難可了知。有雖難了,由審推度而復可知。此最難知,謂相違背而不乖反。此有警覺於餘則無,二既懸殊有何乖反?若爾,不應同緣一境,或應一切皆互相應。如是種類所餘諸法,此中應求,如彼理趣,今於此中應知亦爾。慚、愧二種如後當釋。二根者,謂無貪、無瞋,無痴善根慧為性,故前已說在大地法中,不重說為大善地法。言不害者,謂無損惱。勤謂令心勇悍為性。如是已說大善地法。大煩惱法地名大煩惱地,此中若法大煩惱地所有名大煩惱地法,謂法恆於染汙心有。彼法是何?頌曰:

論に曰く:このごとき諸法はただ善心に遍す。此中、信とは心を澄浄ならしむ。ある説に:諦・宝・業・果の中において現前に忍許するゆえに信と名づく、と。不放逸とは、諸の善法を修して諸の不善法を離る。また何を修と名づくるか。いわゆるこれは善において専注を性と為す。余部の経中にかかる釈あり:能く心を守護するを不放逸と名づく、と。軽安とはいわゆる心の堪任性。豈に経にも身軽安あると説く無からんや。説き無きに非ずと雖も、これは身受の如く知るべし、これもまたこの如し。いかにしてこれを覚支と立てうるか。まさに此中は身軽安とは身の堪任性と知るべし。又いかにしてこれを覚支と説くか。能く覚支に順ずるゆえに失なし。身軽安は能く覚支の心軽安を引くゆえを以て。余においてもまたかかる説あるを見るか。有り、経の説くが如く:喜および喜に順ずる法を喜覚支と名づき、瞋および瞋の因縁を瞋恚蓋と名づき、正見・正思惟・正勤を慧蘊と名づく、と。思惟および勤は慧性に非ざると雖も、慧に随順するゆえにもまた慧の名を得。ゆえに身軽安は覚支に順ずるゆえに名を得て失なし。心の平等性・無警覚性を捨と説き名づく。いかにして一心の中に警覚性・無警覚性ありと説きうるか。作意と捨との二が相応して起る。豈に前に諸の心・心所はその相微細にして了知し難しと説かざりしか。有るは難知と雖も、審かに推度するによりて又知るべし。これは最も知り難し、いわゆる相違背して乖反せざる。これに警覺あれば其余に於ては無し、二既に懸殊なれば何の乖反かあらん。もし爾ならば、同じく一境に縁すべからず、あるいは一切都互いに相応すべし。このごとき種類の所余の諸法は、此中に求むべし。彼の理趣の如く、今ここにおいてもまたこの如く知るべし。慚・愧の二種は後に釈すべきが如し。二根とは、いわゆる無貪・無瞋。無痴の善根は慧を性と為す、ゆえに前に已に大地法中に説き、重ねて大善地法と為して説かず。不害と説くは、いわゆる損悩なき。勤とは心を勇悍と為すを性とす。このように已に大善地法を説き竟えた。大煩悩法の地を大煩悩地と名づく、此中にもし法が大煩悩地の所有ならば大煩悩地法と名づく、いわゆる法は恒に染污心に有る。彼の法は何ぞや。頌に曰く:

痴逸怠不信,惛掉恆唯染。

癡・逸・怠・不信、惛・掉は恒にただ染なり。

論曰:此中痴者所謂愚痴,即是無明無智無顯。逸謂放逸,不修諸善,是修諸善所對治法。怠謂懈怠,心不勇悍,是前所說勤所對治。不信者謂心不澄淨,是前所說信所對治。惛謂惛沈。對法中說:云何惛沈?謂身重性、心重性,身無堪任性、心無堪任性,身惛沈性、心惛沈性,是名惛沈。此是心所。如何名身?如身受言,故亦無失。掉謂掉舉,令心不靜。唯有如是六種,名大煩惱地法。豈不根本阿毘達磨中說有十種大煩惱地法,又於彼論不說惛沈。何者十?謂不信、懈怠、失念、心亂、無明、不正知、非理作意、邪勝解、掉舉、放逸。天愛!汝今但知言,至不閑意旨。意旨者何?謂失念、心亂、不正知、非理作意、邪勝解,已說彼在大地法中,不應重立為大煩惱地法。如無痴善根慧為體故,非大善地法,彼亦應爾。即染汙念名為失念,染汙等持名為心亂,諸染汙慧名不正知,染汙作意勝解名為非理作意及邪勝解故說。若是大地法亦大煩惱地法耶?應作四句。第一句,謂受、想、思、觸、欲。第二句,謂不信、懈怠、無明、掉舉、放逸。第三句,謂如前說念等五法。第四句,謂除前相。有執邪等持非即是心亂,彼作四句與此不同。又許惛沈通與一切煩惱相應,不說在大煩惱地法。於誰有過?有作是言:應說在此,而不說者順等持故。彼謂諸有惛沈行者速發等持,非掉舉行。誰惛沈行非掉舉行?誰掉舉行非惛沈行?此二未嘗不俱行故。雖爾,應知隨增說行。雖知說行隨用偏增,而依有體建立地法,故此地法唯六義成,此唯遍染心俱起非餘故。如是已說大煩惱地法。大不善法地名大不善地,此中若法大不善地所有名大不善地法,謂法恆於不善心有。彼法是何?頌曰。

論に曰く:此中、癡とはいわゆる愚痴、すなわち是れ無明・無智・無顕。逸とは放逸を謂う、諸善を修せず、是れ諸善を修するの対治する所の法。怠とは懈怠を謂う、心の勇悍ならざる、是れ前に説く所の勤の対治する所。不信とはいわゆる心の澄浄ならざる、是れ前に説く所の信の対治する所。惛とは惛沈を謂う。対法中に説く:何を惛沈とするか。いわゆる身重性・心重性、身無堪任性・心無堪任性、身惛沈性・心惛沈性、これを惛沈と名づく、と。これは心所なり。いかにして身と名づくるか。身受の言の如し、ゆえにも失なし。掉とは掉挙を謂う、心を静ならざらしむ。ただこの六種のみを大煩悩地法と名づく。豈に根本アビダルマ中に十種の大煩悩地法を説き、また彼の論に惛沈を説かざらんや。何者が十ぞ。いわゆる不信・懈怠・失念・心乱・無明・不正知・非理作意・邪勝解・掉挙・放逸。天愛(デーヴァッタ)よ、汝今ただ言を知るのみ、至つて意旨に閑らず。意旨とは何ぞ。いわゆる失念・心乱・不正知・非理作意・邪勝解は、已に彼を大地法中に説き、重ねて大煩悩地法と立つべからず。無痴善根は慧を体と為すゆえに大善地法に非ざるが如く、彼もまたこの如し。すなわち染污の念を失念と名づけ、染污の等持を心乱と名づけ、諸の染污の慧を不正知と名づけ、染污の作意・勝解を非理作意および邪勝解と名づくと説くゆえ。もし是れ大地法なるはもまた大煩悩地法か。まさに四句を作すべし。第一句、いわゆる受・想・思・触・欲。第二句、いわゆる不信・懈怠・無明・掉挙・放逸。第三句、いわゆる前に説くが如き念等の五法。第四句、いわゆる前の相を除く。ある執に邪等持は非すなわち心乱に非ず、彼の四句を作るはこれと同じからず。また惛沈は一切の煩悩と相応に通ずと許すも、大煩悩地法中に説かず。誰にか過あらん。ある作す言:まさに此に説くべし、しかるに説かざるは等持に順ずるゆえ、と。彼謂う、諸の惛沈行あるは速やかに等持を発す、掉挙行に非ず、と。誰か惛沈行にして掉挙行に非ざる。誰か掉挙行にして惛沈行に非ざる。この二は未だ曾て俱に行らざることなきゆえ。然りと雖も、まさに随増に説く行と知るべし。説く行は用の偏増に随うと知ると雖も、しかして有体に依りて地法を建立す、ゆえにこの地法はただ六義に成り、これはただ染心に遍して俱に起りて其余に非ざるゆえ。このように已に大煩悩地法を説き竟えた。大不善法の地を大不善地と名づく、此中にもし法が大不善地の所有ならば大不善地法と名づく、いわゆる法は恒に不善心に有る。彼の法は何ぞや。頌に曰く:

唯遍不善心,無慚及無愧。

ただ不善心に遍す、無慚および無愧。

論曰:唯二心所但與一切不善心俱,謂無慚、愧,故唯二種名此地法。此二法相如後當辯。如是已說大不善地法。小煩惱法地名小煩惱地,此中若法小煩惱地所有名小煩惱地法,謂法少分染汙心俱。彼法是何?頌曰:

論に曰く:ただ二の心所のみだが一切の不善心と俱なり、いわゆる無慚・愧。ゆえにただ二種をこの地の法と名づく。この二法の相は後に弁ずべきが如し。このように已に大不善地法を説き竟えた。小煩悩法の地を小煩悩地と名づく、此中にもし法が小煩悩地の所有ならば小煩悩地法と名づく、いわゆる法は少分の染污心に俱なる。彼の法は何ぞや。頌に曰く:

忿覆慳嫉惱,害恨諂誑憍,

忿・覆・慳・嫉・悩、害・恨・諂・誑・憍、

如是類名為,小煩惱地法。

このごとき類を名づけて、小煩悩地法と為す。

論曰:如是類法唯修所斷,意識地起、無明相應、各別現行,故名為小煩惱地法。此法如後隨煩惱中當廣分別。如是已說五品心所。復有此餘不定心所,惡作、睡眠、尋、伺等法,此中應說。於何心品有幾心所決定俱生?頌曰:

論に曰く:このごとき類の法はただ修所断、意識地に起り、無明に相応し、各別に現行す、ゆえに小煩悩地法と名づく。この法は後の随煩悩中に於てまさに広く分別すべし。このように已に五品の心所を説き竟えた。復たこの余の不定の心所あり、悪作・睡眠・尋・伺等の法、此中に説くべし。何の心品においてかいくつの心所が決定に俱に生ずるや。頌に曰く:

欲有尋伺故,於善心品中,

欲に尋・伺あるゆえ、善心品中において、

二十二心所,有時增惡作。

二十二の心所、ある時は悪作を増す。

於不善不共,見俱唯二十,

不善の不共、見に俱なるはただ二十、

四煩惱忿等,惡作二十一,

四煩悩・忿等、悪作は二十一、

有覆有十八,無覆許十二,

有覆は十八あり、無覆は十二を許す、

睡眠遍不違,若有皆增一。

睡眠は遍く違わず、もし有らば皆一を増す。

論曰:且欲界中心品有五,謂善唯一。不善有二,謂不共無明相應及餘煩惱等相應。無記有二,謂有覆無記及無覆無記。然欲界心定有尋伺故,善心品必二十二心所俱生,謂十大地法、十大善地法,及不定二,謂尋與伺。非諸善心皆有惡作,有時增數至二十三。惡作者何?惡所作體名為惡作。應知此中緣惡作法說名惡作,謂緣惡作心追悔性,如緣空解脫門說名為空,緣不淨無貪說為不淨。又見世間約所依處說能依事,如言一切村邑國土皆來集會。惡作即是追悔所依,故約所依說為惡作。又於果體假立因名,如說此六觸處應知名宿作業。若緣未作事,云何名惡作?於未作事亦立作名,如追悔言我先不作如是事業,是我惡作。何等惡作說名為善?謂於善惡不作作中心追悔性。與此相違名為不善。此二各依二處而起,若於不善不共心品,必有二十心所俱生,謂十大地法、六大煩惱地法、二大不善地法,並二不定,謂尋與伺。何等名為不共心品?謂此心品唯有無明,無有所餘貪煩惱等。於不善見相應心品,亦有二十心所俱生,名即如前不共品說。非見增故有二十一,以即於十大地法中慧用差別說為見故。言不善見相應心者,謂此心中或有邪見、或有見取、或戒禁取。於四不善貪、瞋、慢、疑煩惱心品,有二十一心所俱生,二十如不共,加貪等隨一。於前所說忿等相應隨煩惱品,亦二十一心所俱生,二十如不共,加忿等隨一。不善惡作相應心品,亦二十一心所俱生,謂即惡作第二十一。略說不善不共及見相應品中唯有二十,餘四煩惱及隨煩惱相應品中有二十一。若於無記有覆心品唯有十八心所俱生,謂十大地法、六大煩惱地法,並二不定,謂尋與伺。欲界無記有覆心者,謂與薩迦耶見及邊執見相應,此中見不增,應知如前釋。於餘無記無覆心品,許唯十二心所俱生,謂十大地法並不定尋伺。

論に曰く:且つ欲界中の心品に五あり、いわゆる善は唯一。不善に二あり、いわゆる不共の無明の相応および其余の煩悩等の相応。無記に二あり、いわゆる有覆無記および無覆無記。しかるに欲界心は定めて尋・伺あるゆえに、善心品は必ず二十二の心所俱に生ず、いわゆる十大地法・十大善地法、および不定の二、いわゆる尋と伺。諸の善心は皆悪作有るに非ず、ある時は数を増じて二十三に至る。悪作とは何ぞ。悪く作すの体を悪作と名づく。まさに此中は悪作の法に縁じて悪作と説き名づくと知るべし、いわゆる悪作心に縁ずる追悔性。空解脱門に縁じて空と説き名づくが如く、不浄の無貪に縁じて不浄と為すが如し。また世間に所依の処に約して能依の事を説くを見る、一切の村邑国土皆集会し来れりと説くが如し。悪作はすなわち追悔の所依、ゆえに所依に約して悪作と為すと説く。また果体において仮に因の名を立つ、この六触処はまさに宿作業と名づくと知るべしと説くが如し。もし未だ作らざる事に縁ずれば、どうして悪作と名づくるか。未だ作らざる事においても作の名を立つ、追悔して我が先にこのごとき事業を作らざりしは是れ我が悪作と説くが如し。何等の悪作を善と説き名づくるか。いわゆる善悪において作らざる・作る中の心の追悔性。これと相違するを不善と名づく。この二は各々二処に依りて起る。もし不善の不共心品においては、必ず二十の心所俱に生ず、いわゆる十大地法・六大煩悩地法・二大不善地法、ならびに二の不定、いわゆる尋と伺。何等を不共心品と名づくるか。いわゆるこの心品はただ無明のみありて、所余の貪煩悩等なし。不善の見の相応する心品においても、また二十の心所俱に生ず、名はすなわち前の不共品の説くが如し。見は増さざるゆえに二十一有るに非ず、すなわち十大地法中において慧の用の差別を以て見と説き為すゆえ。不善の見の相応する心を説くは、いわゆるこの心中にあるいは邪見、あるいは見取、あるいは戒禁取あり。四の不善の貪・瞋・慢・疑の煩悩心品においては、二十一の心所俱に生ず、二十は不共の如く、貪等の随一を加う。前に説く所の忿等に相応する随煩悩品においても、二十一の心所俱に生ず、二十は不共の如く、忿等の随一を加う。不善の悪作に相応する心品も、二十一の心所俱に生ず、いわゆるすなわち悪作を第二十一と為す。略して説けば不善の不共および見の相応の品中にはただ二十のみあり、其余の四煩悩および随煩悩の相応の品中には二十一あり。もし無記の有覆心品においてはただ十八の心所俱に生ず、いわゆる十大地法・六大煩悩地法、ならびに二の不定、いわゆる尋と伺。欲界の無記の有覆心とは、いわゆる薩迦耶見(有身見)および辺執見と相応する、此中の見は増さず、まさに前の釈の如く知るべし。其余の無記の無覆心品においては、ただ十二の心所俱に生ずるを許す、いわゆる十大地法ならびに不定の尋・伺。

外方諸師欲令惡作亦通無記,此相應品便有十三心所俱起。應知睡眠與前所說一切心品皆不相違,通善不善無記性故。隨何品有即說此增,謂二十二至二十三,若二十三至二十四。不善無記如例應知。已說欲界心所俱生諸品定量,當說上界。頌曰:

(論に続けて曰く:)外方の諸師は悪作もまた無記に通ぜしめんと欲す、すなわちこの相応の品は便ち十三の心所俱に起る有り。まさに睡眠は前に説く所の一切の心品と皆相違わずと知るべし、善・不善・無記性に通ずるゆえ。何の品にか随って有ればすなわちこれを増すと説く、いわゆる二十二は二十三に至り、もし二十三は二十四に至る。不善・無記は例の如く知るべし。已に欲界の心所の俱生の諸品の定量を説き竟えた、まさに上界を説くべし。頌に曰く:

初定除不善,及惡作睡眠,

初定は不善を除き、および悪作・睡眠を除く、

中定又除尋,上兼除伺等。

中定はまた尋を除き、上は兼ねて伺等を除く。

論曰:初靜慮中於前所說諸心所法,除唯不善、惡作、睡眠,餘皆具有。唯不善者,謂瞋煩惱,除諂、誑、憍所餘忿等及無慚愧。餘皆有者,如欲界說。中間靜慮除前所除,又更除尋,餘皆具有。第二靜慮以上乃至無色界中除前所除,又除伺等。等者顯除諂、誑,餘皆如前具有。經說:諂誑極至梵天,眾相依故,上地無有。以大梵王處自梵眾,忽被馬勝苾芻問言:此四大種當於何位盡滅無餘?梵王不知無餘滅位,便矯亂答:我於此梵眾是大梵,自在作者、化者、生者、養者,是一切父。作是語已,引出眾外諂言愧謝,令還問佛。如是已說於諸界地諸心品中心所數量,今次當說於前所辯諸心所中少分差別。無慚無愧、愛之與敬差別云何?頌曰:

論に曰く:初静慮中に於て前に説く所の諸の心所法に、ただ不善・悪作・睡眠を除き、其余は皆具有す。ただ不善とは、いわゆる瞋の煩悩、諂・誑・憍を除く所余の忿等および無慚・愧。其余皆あるは欲界の説くが如し。中間静慮は前の除く所を除き、また更に尋を除き、其余は皆具有す。第二静慮已上乃至無色界中は前の除く所を除き、また伺等を除く。「等」は諂・誑を除くを顕し、其余は皆前の如く具有す。経に説く:諂・誑は梵天に極まり至る、衆相に依るゆえ、上地には無し、と。大梵王が自ら梵衆に処するに、忽ち馬勝苾芻(アシュヴァジット)の問わるる所と為りて曰く:この四大種はまさに何の位において尽滅して余無からん、と。梵王は余無き滅の位を知らず、便ち矯め乱して答えて曰く:我はこの梵衆において是大梵、自在の作者・化者・生者・養者、是れ一切の父なり、と。この語を作し已って、引きて衆の外に出でて諂言して愧謝し、還って仏に問えしむ。このように已に諸の界地の諸心品中の心所の数量を説き竟えた。今次いで前に弁ずる所の諸心所中の少分の差別を説くべし。無慚・無愧、愛と敬との差別は如何。頌に曰く:

無慚愧不重,於罪不見怖,

無慚愧は重んぜず、罪において怖を見ず、

愛敬謂信慚,唯於欲色有。

愛敬とは信・慚、ただ欲・色に有るのみ。

論曰:此中無慚無愧別者,於諸功德及有德者,無敬無崇、無所忌難、無所隨屬,說名無慚,即是恭敬所敵對法。為諸善士所訶厭法說名為罪,於此罪中不見怖畏說名無愧。此中怖言,顯非愛果能生怖故。不見怖言欲顯何義?為見而不怖名不見怖、為不見彼怖名不見怖?若爾何失?二俱有過。若見而不怖應顯智慧,若不見彼怖應顯無明。此言不顯見與不見,何所顯耶?此顯有法是隨煩惱為彼二因,說名無愧。有餘師說:於所造罪自觀無恥名曰無慚,觀他無恥說名無愧。若爾,此二所觀不同,云何俱起?不說此二一時俱起別觀自他。然有無恥,觀自時勝說名無慚。復有無恥,觀他時增說為無愧。慚愧差別翻此應知,謂翻初釋有敬有崇、有所忌難、有所隨屬說名為慚,於罪見怖說名為愧。翻第二釋,於所造罪自觀有恥說名為慚,觀他有恥說名為愧。已說無慚無愧差別。愛敬別者,愛謂愛樂,體即是信。然愛有二:一有染汙、二無染汙。有染謂貪,如愛妻子等。無染謂信,如愛師長等。有信非愛,謂緣苦集信。有愛非信,謂諸染汙愛。有通信愛,謂緣滅道信。有非信愛,謂除前三相。有說:信者忍許有德,由此為先方生愛樂,故愛非信。敬謂敬重,體即是慚,如前解慚謂有敬等。有慚非敬,謂緣苦集慚。有通慚敬,謂緣滅道慚。有說:敬者有所崇重,由此為先方生慚恥,故敬非慚。望所緣境補特伽羅,愛敬有無應作四句。有愛無敬,謂於妻子共住門人等。有敬無愛,謂於他師有德貴人等。有愛有敬,謂於自師父母伯叔等。無愛無敬,謂除前三相。如是愛敬欲色界有,無色界無。豈不信慚大善地法無色亦有?愛敬有二,謂緣於法補特伽羅,緣法愛敬通三界有。此中意說緣補特伽羅者,故欲色有,無色界無。如是已說愛敬差別。尋、伺、慢、憍差別云何?頌曰:

論に曰く:此中、無慚・無愧の別とは、諸の功徳および徳ある者において、敬無く崇無く、忌難する所なく、随属する所なく、説きて無慚と名づく、すなわち是れ恭敬の対敵する所の法。諸の善士の訶厭する所の法を罪と説き名づく、この罪中において怖畏を見ざるを無愧と説き名づく。此中の怖の言は、愛果に非ざるの能く怖を生ずるゆえを顕す。怖を見ずの言は何の義を顕さんと欲するか。見て怖れざるを見ざる怖と名づくるか、それとも彼の怖を見ざるを見ざる怖と名づくるか。もし爾なら何の失ぞや。二俱に過あり。もし見て怖れざればまさに智慧を顕すべし、もし彼の怖を見ざればまさに無明を顕すべし。この言は見と不見とを顕さず、何の顕す所ぞ。これは是れ法ありて随煩悩と為り彼の二の因と為るを顕し、説きて無愧と名づく。ある師の説に:造る所の罪において自ら観て恥なきを無慚と名づけ、他を観て恥なきを無愧と説き名づく、と。もし爾ならば、この二は観る所同じからず、どうして俱に起るや。この二が一時に俱に起りて自他を別に観ずとは説かず。しかるに恥なき有りて、自を観ずる時勝れるを無慚と説き名づく。復た恥なき有りて、他を観ずる時増するを無愧と説き為す。慚愧の差別はこれを翻して知るべし、いわゆる初の釈を翻せば敬有り崇有り、忌難する所有り、随属する所有るを慚と説き名づけ、罪において怖を見るを愧と説き名づく。第二の釈を翻せば、造る所の罪において自ら観て恥あるを慚と説き名づけ、他を観て恥あるを愧と説き名づく。已に無慚・無愧の差別を説き竟えた。愛敬の別とは、愛とは愛楽を謂う、体はすなわち是れ信。しかるに愛に二あり:一に有染污、二に無染污。有染とは貪を謂う、妻子等を愛するが如し。無染とは信を謂う、師長等を愛するが如し。信ありて愛に非ざるあり、いわゆる苦集に縁ずる信。愛ありて信に非ざるあり、いわゆる諸の染污の愛。信・愛に通ずるあり、いわゆる滅道に縁ずる信。信・愛に非ざるあり、いわゆる前の三相を除く。ある説に:信とは徳あるを忍許することなり、これを以て先と為して方に愛楽を生ず、ゆえに愛は信に非ず、と。敬とは敬重を謂う、体はすなわち是れ慚、前の解く慚の如く敬有等を謂う。慚ありて敬に非ざるあり、いわゆる苦集に縁ずる慚。慚・敬に通ずるあり、いわゆる滅道に縁ずる慚。ある説に:敬とは崇重する所有るなり、これを以て先と為して方に慚恥を生ず、ゆえに敬は慚に非ず、と。所縁の境の補特伽羅に望みて、愛敬の有無はまさに四句を作すべし。愛有りて敬無き有り、いわゆる妻子・共住の門人等において。敬有りて愛無き有り、いわゆる他師・徳ある貴人等において。愛有りて敬有る有り、いわゆる自の師・父母・伯叔等において。愛無く敬無き有り、いわゆる前の三相を除く。このように愛敬は欲・色界に有りて無色界には無し。豈に信・慚は大善地法にして無色にも有らざらんや。愛敬に二あり、いわゆる法と補特伽羅とに縁ずる、法に縁ずる愛敬は三界に通じて有り。此中の意の説くは補特伽羅に縁ずるを謂う、ゆえに欲・色に有りて無色界には無し。このように已に愛敬の差別を説き竟えた。尋・伺・慢・憍の差別は如何。頌に曰く:

尋伺心麁細,慢對他心舉,

尋・伺は心の粗細、慢は他に対して心挙ぐ、

憍由染自法,心高無所顧。

憍は自法を染するにより、心高くして顧る所なし。

論曰:尋伺別者,謂心麁細,心之麁性名尋,心之細性名伺。云何此二一心相應?有作是釋:如冷水上浮以熟酥,上烈日光之所照觸,酥因水日非釋非凝。如是一心有尋有伺,心由尋伺不遍細麁,故於一心俱有作用。若爾,尋伺是麁細因,非麁細體,如水日光是凝釋,日體非凝釋。又麁細性相待而立,界地品別上下相形,乃至有頂應有尋伺。又麁細性無別體類,不可依之以別尋伺。復有釋言:尋伺二法是語言行,故契經言:要有尋伺方有語言,非無尋伺此語言行。麁者名尋,細者名伺,於一心內別法是麁、別法是細,於理何違?若有別體類,理實無違;然無別體類,故成違理,一體類中無容上下俱時起故。若言體類亦有差別,應說體類別相云何。此二體類別相難說,但由上下顯其別相,非由上下能顯別相,一一類中有上下故。由是應知,尋伺二法定不可執一心相應。若爾,云何契經中說:於初靜慮具足五支。具五支言就一地說,非一剎那,故無有過。如是已說尋伺差別。慢憍別者,慢謂對他心自舉性,稱量自他德類差別,心自舉恃𣣋蔑於他故名為慢。憍謂染著自法為先,令心傲逸無所顧性。有餘師說:如因酒生欣舉差別說名為醉,如是貪生欣舉差別說名為憍。是謂慢憍差別之相。如是已說諸心心所品類不同俱生異相。然心心所於契經中隨義建立種種名想,今當辯此名義差別。頌曰:

論に曰く:尋・伺の別とは、いわゆる心の粗細、心の粗性を尋と名づけ、心の細性を伺と名づく。どうしてこの二は一心に相応するや。ある作す釈:冷水の上に熟酥を浮かべ、上に烈日の光の照触する所と為るが如く、酥は水・日に因りて釈するにも非ず凝するにも非ず。このように一心に尋有り伺有り、心は尋・伺によりて遍く細らず遍く粗ならず、ゆえに一心において俱に作用有り。もし爾ならば、尋・伺は粗細の因にして粗細の体に非ず、水・日光が凝・釈なるが如く、日の体は凝釈に非ざるが如し。また粗細の性は相待して立ち、界地の品別に上下相形し、乃至有頂もまさに尋・伺有るべし。また粗細の性に別の体類なく、これに依りて尋・伺を別つべからず。復た釈を説く有り:尋・伺の二法は是れ語の言の行、ゆえに契経に説く:要して尋・伺あって方に語言あらん、尋・伺無くんばこの語言の行無し、と。粗なるを尋と名づけ、細なるを伺と名づく、一心内において別の法は是れ粗、別の法は是れ細、理において何の違いかあらん。もし別の体類あらば、理実に違わず。しかるに別の体類無きゆえに、すなわち理に違うを成ず、一体類中に上下の俱時に起るを容れざるゆえ。もし体類にもまた差別ありと説かば、まさに体類の別相如何と説くべし。この二の体類の別相は説き難し、ただ上下によりてその別相を顕し、上下によりて別相を顕し能わず、一一の類中に上下あるゆえ。これによって尋・伺の二法は定めて一心相応と執すべからずと知るべし。もし爾ならば、いかにして契経中に説く:初静慮において五支を具足す、と。五支を具すの言は一地に就いて説く、一刹那に非ず、ゆえに過有ることなし。このように已に尋・伺の差別を説き竟えた。慢・憍の別とは、慢とは他に対して心の自挙の性を謂い、自他の徳類の差別を称量して、心自ら挙げ恃みて他を陵蔑するゆえに慢と名づく。憍とは自法を染着するを以て先と為し、心を傲逸にして顧る所なき性ならしむるを謂う。ある師の説に:酒に因りて欣挙の差別を生ずるを醉と説き名づくるが如く、このように貪に生ずる欣挙の差別を憍と説き名づく、と。是れを慢・憍の差別の相と謂う。このように已に諸の心・心所の品類の不同・俱生の異相を説き竟えた。しかるに心・心所は契経中において義に随い種種の名想を建立せり、今まさにこの名義の差別を弁ずべし。頌に曰く:

心意識體一,心心所有依,

心・意・識は体一なり、心・心所は依あり、

有緣有行相,相應義有五。

縁あり行相あり、相応の義は五あり。

論曰:集起故名心,思量故名意,了別故名識。復有釋言:淨不淨界種種差別故名為心,即此為他作所依止故名為意,作能依止故名為識。故心、意、識三名所詮,義雖有異而體是一。如心意識三名所詮義異體一,諸心心所名有所依所緣、行相相應亦爾,名義雖殊而體是一。謂心心所皆名有所依,託所依根故。或名有所緣,取所緣境故。或名有行相,即於所緣品類差別等起行相故。或名相應,等和合故。依何義故名等和合?有五義故,謂心心所五義平等故說相應,所依所緣行相時事皆平等故。事平等者,一相應中如心體一,諸心所法各各亦爾。已說心心所廣分別義。心不相應行何者是耶?頌曰:

論に曰く:集起するゆえに心と名づけ、思量するゆえに意と名づけ、了別するゆえに識と名づく。復た釈を説く有り:浄・不浄の界の種種差別なるゆえに心と名づけ、すなわちこれが他の作る所依止と為るゆえに意と名づけ、能依止と作るゆえに識と名づく。ゆえに心・意・識の三名の詮ずる所は、義は異なると雖も体は是一なり。心・意・識の三名の詮ずる所の義は異なり体は一なるが如く、諸の心・心所の有所依・所縁・行相・相応と名づくるもまたこの如し、名義は殊なれども体は是一なり。いわゆる心・心所は皆有所依と名づく、所依の根に托するゆえ。あるいは有所縁と名づく、所縁の境を取るゆえ。あるいは有行相と名づく、すなわち所縁において品類差別等に行相を起すゆえ。あるいは相応と名づく、等しく和合するゆえ。何の義に依りて等和合と名づくるか。五義あるゆえ、いわゆる心・心所は五義の平等なるゆえに相応と説く、所依・所縁・行相・時・事は皆平等なるゆえ。事の平等とは、一相応中に心体の一なるが如く、諸の心所法も各各またこの如し。已に心・心所の広き分別の義を説き竟えた。心不相応行は何者ぞや。頌に曰く:

心不相應行,得非得同分,

心不相応行は、得・非得・同分、

無想二定命,相名身等類。

無想の二定・命、相・名身等の類。

論曰:如是諸法心不相應,非色等性,行蘊所攝,是故名心不相應行。於中且辯得非得相。頌曰:

論に曰く:このごとき諸法は心に相応せず、色等の性に非ず、行蘊の摂する所、ゆえに心不相応行と名づく。その中に且つ得・非得の相を弁ず。頌に曰く:

得謂獲成就,非得此相違,

得とは獲・成就を謂い、非得はこれと相違し、

得非得唯於,自相續二滅。

得・非得はただ、自相续と二滅に於て。

論曰:得有二種,一者未得已失今獲、二者得已不失成就,應知非得與此相違。於何法中有得非得?於自相續及二滅中。謂有為法若有墮在自相續中有得非得,非他相續,無有成就他身法故。非非相續,無有成就非情法故。且有為法決定如是,無為法中唯於二滅有得非得。一切有情無不成就非擇滅者,故對法中傳說如是:誰成無漏法?謂一切有情,除初剎那具縛聖者及餘一切具縛異生,諸餘有情皆成擇滅。決定無有成就虛空,故於虛空不言有得,以得無故非得亦無。宗明得非得,相翻而立故。諸有得者亦有非得,義準可知,故不別釋。何緣知有別物名得?契經說故。如契經言:聖者於彼十無學法,以生以得以成就故,已斷五支,乃至廣說。若爾,非情及他相續亦應成就。所以者何?契經說故。如契經說:苾芻當知,有轉輪王成就七寶,乃至廣說。此中自在說名成就,謂轉輪王於彼七寶有自在力,隨樂轉故。此既自在說名成就,餘復何因知有別物?許有別物有何非理?如是非理,謂所執得無體可知,如色聲等或貪瞋等;無用可知,如眼耳等,故無容有別物名得。執有別物,是為非理。若謂此得亦有作用,謂作所得諸法生因,是則無為應無有得。又所得法未得已捨,界地轉易及離染故。彼現無得,當云何生?若俱生得為生因者,生與生生復何所作?又非情法應定不生。又具縛者,下中上品煩惱現起差別應無,得無別故。若由餘因有差別者,即應由彼諸法得生,得復何用?故彼所言得有作用,謂作所得諸法生因,理不成立。誰言此得作法生因?若爾,此得有何作用?謂於差別為建立因。所以者何?若無有得,異生聖者起世俗心,應無異生及諸聖者建立差別。豈不煩惱已斷、未斷有差別故,應有差別?若執無得,如何可說煩惱已斷及與未斷?許有得者斷未斷成,由煩惱得離未離故。

論に曰く:得に二種あり、一者は未得・已失して今獲し、二者は得已りて失わず成就す。まさに非得はこれと相違すると知るべし。何の法中に得・非得あるか。自相续および二滅中において。いわゆる有為法はもし自相续中に堕在する有れば得・非得あり、他相续に非ず、他身の法を成就するなきゆえ。非相续に非ず、非情の法を成就するなきゆえ。且つ有為法は決定してこの如し。無為法中はただ二滅において得・非得あり。一切の有情は非択滅を成就せざるなきゆえに、対法中にかく伝説す:誰か無漏法を成ずる。いわゆる一切の有情、初刹那の具縛の聖者および其余の一切の具縛の異生を除きて、諸の余の有情は皆択滅を成ず、と。決定して虚空を成就する有るなし、ゆえに虚空において得有りと説かず、得の無きを以て非得もまた無し。宗は得・非得を明かす、相を翻して立つるゆえ。諸の得あるはもまた非得あり、義準として知るべし、ゆえに別に釈せず。何の縁に別物あって得と名づくるを知るか。契経に説くゆえ。契経の説くが如く:聖者は彼の十無学法において生を以て得を以て成就するゆえに、已に五支を断ず、乃至広く説く、と。もし爾ならば、非情および他相续もまた成就すべし。所以者何。契経に説くゆえ。契経の説くが如く:苾芻当知、転輪王ありて七宝を成就す、乃至広く説く、と。此中は自在を成就と説き名づく、いわゆる転輪王は彼の七宝において自在の力有り、楽する所に随いて転ずるゆえ。これ既に自在を成就と説き名づく、其余は復た何の因に別物あるを知るや。別物あるを許すに何の非理かあらん。このようの非理あり、いわゆる執する所の得は体の知るべきなく、色・声等あるいは貪・瞋等の如く。用の知るべきなく、眼・耳等の如し。ゆえに別物ありて得と名づくるを容れず。別物あると執するは是れ非理と為す。もしこの得もまた作用有りと謂わば、いわゆる所得の諸法の生因と作る、是則ち無為は得なかるべし。また所得の法は未得にして已に捨てたり、界地の転易および染を離るるゆえ。彼は現に得無し、まさにどうして生ぜん。もし俱生の得を生因と為せば、生と生生とは復た何の作る所かあらん。また非情の法は定めて生ぜざるべし。また具縛なるは、下・中・上品の煩悩の現起の差別は無かるべし、得に別なきゆえ。もし余の因によりて差別あらば、すなわちまさに彼によりて諸法の生ぜしめん、得は復た何の用ぞ。ゆえに彼の言う所の得に作用有り、いわゆる所得の諸法の生因と作るは、理成立せず。誰かこの得は法の生因と作ると説くや。もし爾ならば、この得は何の作用有るや。いわゆる差別において建立の因と為す。所以者何。もし得なくんば、異生・聖者の世俗心を起すに、まさに異生および諸の聖者の建立の差別なかるべし。豈に煩悩の已断・未断に差別あるゆえに、まさに差別あるべからざらんや。もし得なしと執せば、いかにして煩悩の已断および未断と説きうるか。得あるを許すは断・未断成れり、煩悩の得は離れ未離れのゆえ。

此由所依有差別故,煩惱已斷未斷義成。謂諸聖者見修道力,令所依身轉變異本,於彼二道所斷惑中無復功能令其現起。猶如種子火所焚燒,轉變異前無能生用。如是聖者所依身中無生惑能名煩惱斷。或世間道損所依中煩惱種子亦名為斷,與上相違名為未斷。諸未斷者說名成就,諸已斷者名不成就,如是二種但假非實。善法有二:一者不由功力修得、二者要由功力修得,即名生得及加行得。不由功力而修得者,若所依中種未被損名為成就,若所依中種已被損名不成就。謂斷善者由邪見力損所依中善根種子應知名斷,非所依中善根種子畢竟被害說名為斷。要由功力而修得者,若所依中彼法已起生彼功力自在無損說名成就,與此相違名不成就。如是二種亦假非實。故所依中唯有種子未拔未損增長自在,於如是位立成就名,無有別物。此中何法名為種子?謂名與色於生自果所有展轉隣近功能,此由相續轉變差別。何名轉變?謂相續中前後異性。何名相續?謂因果性三世諸行。何名差別?謂有無間生果功能。然有處說,若成就貪便不能修四念住者。彼說:耽著貪煩惱者,不能厭捨,故名成就。由隨耽著貪愛時分,於四念住必不能修。如是成就遍一切種,唯假非實。唯遮於此名不成就,亦假非實。毘婆沙師說:此二種皆有別物實而非假。如是二途皆為善說。所以者何?不違理故、我所宗故。已辯自性,差別云何?且應辯得。頌曰:

(論に続けて曰く:)これは所依に差別あるゆえによりて、煩悩の已断・未断の義成れり。いわゆる諸の聖者は見・修道の力によりて、所依の身を転変して本に異ならしめ、彼の二道の断ずる所の惑中において復たこれを現起せしむる功能なし。種子の火の焚燒する所の、転変して前に異なりて生ずる能なきが如し。このように聖者の所依の身中に惑を生ずる能なきを煩悩断と名づく。あるいは世間道が所依中の煩悩の種子を損ずるもまた断と名づく、上に相違するを未断と名づく。諸の未断は成就と説き名づけ、諸の已断は不成就と名づく、このように二种はただ仮にして実に非ず。善法に二あり:一者は功力に由らずして修得し、二者は要して功力に由りて修得す、すなわち生得および加行得と名づく。功力に由らずして修得するは、もし所依中に種未だ損せられざれば成就と名づけ、もし所依中に種已に損せられれば不成就と名づく。いわゆる善を断ずるは邪見の力によりて所依中の善根の種子を損ずるを断と名づくと知るべし、所依中の善根の種子が畢竟に害せらるに非ざるを断と説き名づく。要して功力に由りて修得するは、もし所依中に彼の法已に起りて彼を生ずる功力自在に損なくんば成就と説き名づけ、これと相違するを不成就と名づく。このように二种もまた仮にして実に非ず。ゆえに所依中にただ種子の未抜・未損・増長・自在あるのみ、かかる位において成就の名を立つ、別物有ることなし。此中の何の法を種子と名づくるか。いわゆる名と色とが自果を生ずるにおいて所有の展転隣近の功能、これは相续・転変・差別による。何を転変と名づくるか。いわゆる相续中の前後の異性。何を相续と名づくるか。いわゆる因果性の三世の諸行。何を差別と名づくるか。いわゆる無間に果を生ずる功能有る。しかるに処有りて説く、もし貪を成就せば便ち四念住を修し能わず、と。彼説く:貪の煩悩に耽着するは、厭捨し能わず、ゆえに成就と名づく。随って貪愛に耽着する時分に、四念住において必ず修し能わざるゆえ。このように成就は一切種に遍す、ただ仮にして実に非ず。ただこれを遮るを不成就と名づくもまた仮にして実に非ず。毘婆沙師説く:この二种は皆別物ありて実にして仮に非ず、と。このように二途は皆善説と為す。所以者何。理に違わざるゆえ、我が宗とする所なるゆえ。已に自性を弁じ竟えた、差別は如何。且つまさに得を弁ずべし。頌に曰く:

三世法各三,善等唯善等,

三世の法は各々三、善等はただ善等、

有繫自界得,無繫得通四,

有繫は自界の得、無繫の得は四に通じ、

非學無學三,非所斷二種。

非学・無学は三、非所断は二種。

論曰:三世法得各有三種,謂過去法有過去得、有未來得、有現在得,如是未來及現在法各有三得。又善等法得唯善等,謂善不善及無記法,如其次第,有善不善無記三得。又有繫法得唯自界,謂欲色界無色界法,如其次第唯有欲色無色三得。若無繫法得通四種,謂無漏法總而言之得有四種,即三界得及無漏得。別分別者,非擇滅得,通三界繫。若擇滅得,色無色繫及與無漏。道諦得,唯無漏故。無繫法得,有四種。又有學法得唯有學,若無學法得唯無學,非學非無學得有差別,謂此法得總說有三,別分別者一切有漏及三無為皆名非學非無學法。且有漏法唯有非學非無學得,非擇滅得。及非聖道所引擇滅得亦如是,若有學道所引擇滅得即有學,若無學道所引擇滅得即無學。又見修所斷法,如其次第有見修所斷得。非所斷法得有差別,謂此法得總說有二,別分別者,諸無漏法名非所斷,非擇滅得唯修所斷。若非聖道所引擇滅得亦如是。聖道所引擇滅之得及道諦得,皆非所斷。前雖總說三世法各三,今應簡別其中差別相。頌曰:

論に曰く:三世の法の得は各々三種あり、いわゆる過去法に過去の得有り・未来の得有り・現在の得有り、このように未来および現在の法も各々三の得有り。また善等の法の得はただ善等、いわゆる善・不善および無記の法は、その次第の如く、善・不善・無記の三の得有り。また有繫の法の得はただ自界、いわゆる欲・色界・無色界の法は、その次第の如くただ欲・色・無色の三の得有り。もし無繫の法の得は四種に通ず、いわゆる無漏法は総じて言えば得に四種あり、すなわち三界の得および無漏の得。別に分別すれば、非択滅の得は三界の繫に通ず。もし択滅の得は色・無色の繫および無漏。道諦の得はただ無漏なるゆえ。無繫の法の得は四種あり。また学の法の得はただ学有り、もし無学の法の得はただ無学、非学非無学の得に差別あり、いわゆるこの法の得は総説して三あり、別に分別すれば一切の有漏および三の無為は皆非学非無学の法と名づく。且つ有漏法はただ非学非無学の得有り、非択滅の得。および非聖道の引く所の択滅の得もまたこの如し。もし有学道の引く所の択滅の得はすなわち有学、もし無学道の引く所の択滅の得はすなわち無学。また見・修所断の法は、その次第の如く見・修所断の得有り。非所断の法の得に差別あり、いわゆるこの法の得は総説して二あり、別に分別すれば諸の無漏法は非所断と名づく、非択滅の得はただ修所断。もし非聖道の引く所の択滅の得もまたこの如し。聖道の引く所の択滅の得および道諦の得は、皆非所断。前に総じて三世の法は各々三と説くと雖も、今まさにその中の差別の相を簡別すべし。頌に曰く:

無記得俱起,除二通變化,

無記の得は俱に起る、二の通の変化を除き、

有覆色亦俱,欲色無前起。

有覆の色もまた俱なり、欲色に前起なし。

論曰:無覆無記得唯俱起,無前後生,勢力劣故。法若過去得亦過去,法若未來得亦未來,法若現在得亦現在。一切無覆無記法得皆如是耶?不爾。云何?除眼耳通及能變化。謂眼耳通慧及能變化心,勢力強故、加行差別所成辦故,雖是無覆無記性收,而有前後及俱起得。若工巧處及威儀路極數習者,得亦許爾。唯有無覆無記法得但俱起耶?不爾。云何?有覆無記色得亦爾。謂諸有覆無記表色得亦如前,但有俱起。雖有上品而亦不能發無表故勢力微劣,由此定無法前後得。如無記法得有別異,善不善得亦有異耶?亦有。云何?謂欲界繫善不善色得無前起,唯有俱生及後起得。非得如得,亦有如上品類別耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:無覆無記の得はただ俱に起る、前後の生なし、勢力の劣なるゆえ。法はもし過去ならば得もまた過去、法はもし未来ならば得もまた未来、法はもし現在ならば得もまた現在。一切の無覆無記法の得は皆この如くか。この如くあらず。如何。眼・耳の通および能変化を除く。いわゆる眼・耳の通慧および能変化の心は、勢力強しゆえ、加行差別の成弁する所なるゆえ、是れ無覆無記性の収めらると雖も、しかして前後および俱起の得有り。もし工巧処および威儀路の極めて数習するは、得もまたこの如しを許す。ただ無覆無記法の得のみ但だ俱に起るか。この如くあらず。如何。有覆無記の色の得もまたこの如し。いわゆる諸の有覆無記の表色の得もまた前の如く、但だ俱起のみ。上品あると雖も能く無表を発せざるゆえに勢力微劣、これによって定めて法の前後の得なし。無記法の得に別異あるが如く、善・不善の得にもまた異あるか。亦有り。如何。いわゆる欲界繫の善・不善色の得に前起なし、ただ俱生および後起の得有り。非得は得の如く、もまた上の如き品類の別無きや。然らず。如何。頌に曰く:

非得淨無記,去來世各三,

非得は浄無記、去・来世は各々三、

三界不繫三,許聖道非得,

三界・不繫は三、聖道の非得を許し、

說名異生性,得法易地捨。

異生性と説き名づく、得法は地を易えて捨つ。

論曰:性差別者,一切非得皆唯無覆無記性攝。世差別者,過去未來各有三種,謂現在法決定無有現在非得,唯有過去未來非得,過去未來一一各有三世非得。界差別者,三界繫法及不繫法各三非得,謂欲界繫法有三界非得,色無色界繫及不繫亦爾。定無非得是無漏者。所以者何?由許聖道非得,說名異生性故。如本論言:云何異生性?謂不獲聖法。不獲即是非得異名,非說異生性是無漏應理。不獲何聖法名異生性?謂不獲一切,不別說故。此不獲言,表離於獲。若異此者,諸佛世尊亦不成就聲聞獨覺種性聖法,應名異生。若爾,彼論應說純言不要須說,此一句中含純義故,如說此類食水食風。有說:不獲苦法智忍及俱生法名異生性。不可難言道類智時捨此法故應成非聖,前已永害彼非得故。若爾,此性既通三乘,不獲何等名異生性?此亦應言不獲一切。若爾,此應同前有難。此難復應如前通釋。若爾,重說唐捐其功。如經部師,所說為善。經部所說其義云何?謂曾未生聖法相續分位差別名異生性。如是非得何時當捨?此法非得,得此法時或轉易地捨此非得。如聖道非得說名異生性,得此聖道時或易地便捨。餘法非得,類此應思。若非得得斷,非得非得生,如是名為捨於非得。得與非得,豈復有餘得與非得?應言此二各復有餘得及非得。若爾,豈不有無窮過?無無窮過,許得展轉更相成故。以法生時並其自體三法俱起,第一本法、第二法得、第三得得。謂相續中法得起故成就本法及與得得,得得起故成就法得,是故此中無無窮過。如是若善若染汙法,一一自體初生起時並其自體三法俱起,第二剎那六法俱起,謂三法得及三得得,第三剎那十八俱起,謂於第一第二剎那所生諸法,有九法得及九得得。如是諸得後後轉增。

論に曰く:性の差別とは、一切の非得は皆ただ無覆無記性の摂。世の差別とは、過去・未来に各々三種あり、いわゆる現在の法は決定して現在の非得なし、ただ過去・未来の非得あり、過去・未来は一一各々三世の非得あり。界の差別とは、三界の繫法および不繫法に各々三の非得あり、いわゆる欲界繫の法に三界の非得あり、色・無色界の繫および不繫もまたこの如し。定めて無漏の非得無し。所以者何。聖道の非得を許して異生性と説き名づくるゆえ。本論の説くが如く:何を異生性とするか。いわゆる聖法を獲ざる。不獲とはすなわち非得の異名、異生性は無漏と説くに非ざるは理なるべし。何の聖法を獲ざるを異生性と名づくるか。いわゆる一切を獲ざる、別に説かざるゆえ。この不獲の言は獲を離るるを表す。もしこれに異ならば、諸仏世尊も声聞・独覚の種性の聖法を成就せず、異生と名づくべし。もし爾ならば、彼の論は純の言を説きて要に須く説くべからざるか。この一句中に純の義を含むゆえ、こぐる食・水に食す・風に食すと説くが如し。ある説に:苦法智忍および俱生の法を獲ざるを異生性と名づく、と。道類智の時にこの法を捨てて非聖と成るべしと難ずべからず、前に已に彼の非得を永く害せるゆえ。もし爾ならば、この性既に三乗に通ずるに、何等を獲ざるを異生性と名づくるか。これもまた一切を獲ざると説くべし。もし爾ならば、これは前と同じ難あるべし。この難は復た前の如く通釈すべし。もし爾ならば、重ねて説くは唐捐してその功なし。経部師の如くは、説く所は善と為す。経部の説く所のその義は如何。いわゆる曾て未だ生ぜざる聖法の相续の分位の差別を異生性と名づく。このように非得は何の時にまさに捨つべきか。この法の非得は、この法を得る時あるいは転じて地を易えてこの非得を捨つ。聖道の非得を異生性と説き名づくるが如く、この聖道を得る時あるいは地を易えば便ち捨つ。余法の非得はこれに類して思うべし。もし非得に得断すれば、非得に非得生ず、このように非得を捨つと名づく。得と非得とに、豈に復た余の得と非得と有らんや。まさにこの二は各々復た余の得および非得有りと説くべし。もし爾ならば、豈に無窮の過有らざらんや。無窮の過なし、得は展転に更に相成ずるを許すゆえ。法の生ずる時にその自体を併せて三法俱に起るを以てなり、第一は本法、第二は法得、第三は得得。いわゆる相续中に法得の起るは本法および得得を成就するゆえ、得得の起るは法得を成就するゆえに、此中に無窮の過なし。このようにもし善、もし染污の法は、一一の自体の初めて生起する時にその自体を併せて三法俱に起り、第二刹那は六法俱に起り、いわゆる三法得および三得得、第三刹那は十八俱に起り、いわゆる第一・第二の刹那の生ずる所の諸法において、九法得および九得得あり。このように諸の得は後後に転じて増す。

一切過去未來煩惱及隨煩惱並生得善剎那剎那相應,俱有無始無終生死輪轉有無邊得,且一有情生死相續剎那剎那起無邊得,如是一切有情相續一一各別,剎那剎那無量無邊諸得俱起。如是諸得極多集會,無對礙故互相容受。若不爾者,一有情得虛空不容,況第二等。

(論に続けて曰く:)一切の過去・未来の煩悩および随煩悩ならびに生得の善は刹那刹那に相応し、俱に無始無終の生死輪転ありて無辺の得有り、且つ一有情の生死の相续に刹那刹那に無辺の得を起し、このように一切の有情の相续は一一各別にして、刹那刹那に無量無辺の諸の得が俱に起る。このように諸の得は極めて多く集会す、対礙なきゆえに互相に容受す。もし然らざれば、一有情の得も虚空に容れられず、況んや第二等をや。

説一切有部倶舎論 巻第四

アビダルマ倶舎論 巻第五 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別根品第二之三

分別根品 第二之三。

如是已辯得非得相。同分者何?頌曰:

このように已に得・非得の相を弁じ竟えた。同分とは何ぞ。頌に曰く:

同分有情等。

同分は有情の等なり。

論曰:有別實物名為同分,謂諸有情展轉類等,本論說此名眾同分。此復二種:一無差別、二有差別。無差別者,謂諸有情有情同分,一切有情各等有故。有差別者,謂諸有情界地趣生種姓、男女近事苾芻學無學等各別同分,一類有情各等有故。復有法同分,謂隨蘊處界。若無實物無差別相名同分者,展轉差別諸有情中,有情有情等無差別,覺及施設不應得有。如是蘊等等無差別覺及施設,如理應知。頗有死生不捨不得有情同分?應作四句。第一句者,謂是處死還生是處。第二句者,謂入正性離生位時,捨異生同分,得聖者同分。第三句者,謂是趣死生餘趣等。第四句者,謂除前相。若別有實物名異生同分,何用別立異生性耶?非異人同分,別有人性故。又非世間現見同分,以非色故。亦非覺慧所能了別,無別用故。世雖不了有情同分,而於有情謂無差別,故設有體亦何所用?又何因不許有無情同分?諸穀麥豆、金鐵菴羅半娜娑等,亦有自類互相似故。又諸同分展轉差別,如何於彼更無同分,而起無別覺施設耶?又應顯成勝論所執,彼宗執有總同句義,於一切法總同言智由此發生。彼復執有同異句義,於異品類同異言智由此發生。毘婆沙師作如是說:彼執與此義類不同,以說一物於多轉故。又縱於彼若顯不顯,然此同分必有實物,契經說故。如世尊言:若還來此得人同分,乃至廣說。雖有是說,而不說言別有實物名為同分。若爾,所說同分是何?即如是類諸行生時,於中假立人同分等,如諸穀麥豆等同分。此非善說,違我宗故。已辯同分。無想者何?頌曰:

論に曰く:別の実物ありて同分と名づく、いわゆる諸の有情の展転の類の等なり。本論はこれを衆同分と説く。これまた二種あり:一に差別無し、二に差別有り。差別無きとは、いわゆる諸の有情の有情同分、一切の有情は各々等しく有するゆえ。差別有るとは、いわゆる諸の有情の界・地・趣・生・種姓、男・女・近事・苾芻・学・無学等の各別の同分、一類の有情は各々等しく有するゆえ。復た法同分あり、いわゆる蘊・処・界に随う。もし実物の差別なき相を同分と名づくる無からば、展転に差別する諸の有情中に、有情は有情と等しく差別無しとの覚および施設は有るべからざりき。このように蘊等々の差別なき覚および施設は、理の如く知るべし。頗る死生して有情同分を捨てず得ざる者あらんや。まさに四句を作すべし。第一句とは、いわゆる是の処に死して還りて是の処に生ず。第二句とは、いわゆる正性離生の位に入る時、異生の同分を捨て聖者の同分を得。第三句とは、いわゆる是の趣に死して余の趣等に生ず。第四句とは、いわゆる前の相を除く。もし別に実物あって異生同分と名づくならば、何の用ぞ別に異生性を立てるや。異人の同分に非ざれば、別に人性有るゆえ。また世間の現見する同分に非ず、色に非ざるを以てなり。も覚慧の了別しうる所に非ず、別の用なきゆえ。世は有情同分を了せずと雖も、しかも有情において差別無しと謂う、ゆえに体あると設くとも何の用かある。又何の因に無情の同分あるを許さざるか。諸の穀・麦・豆、金・鉄・庵羅・半娜娑等も、また自類の互相似するゆえ。また諸の同分は展転に差別あれば、どうして彼において更に同分無くして、差別なきの覚・施設を起すや。またまさに勝論の執する所を顕成す、彼の宗は総同の句義あるを執して、一切法において総同の言智はこれによりて発生す。彼は復た同異の句義あるを執して、異なる品類において同異の言智はこれによりて発生す。毘婆沙師がこのように説く:彼の執とこれとは義類同じからず、一物を説いて多に転ずるを以てなり。また縦ひ彼において顕すとも顕さずとも、しかるにこの同分は必ず実物有り、契経の説くゆえ。世尊の説くが如く:もし還りてこの処に来たらば人の同分を得、乃至広く説く、と。この説有りと雖も、しかるに別に実物ありて同分と名づくとは説かず。もし爾ならば、説く所の同分とは何ぞ。すなわちかかる類の諸行の生ずる時、その中に仮に人同分等を立つ、諸の穀・麦・豆等の同分の如し。これは善説に非ず、我が宗に違するゆえ。已に同分を弁じ竟えた。無想とは何ぞ。頌に曰く:

無想無想中,心心所法滅,

無想は無想中に、心・心所法の滅する、

異熟居廣果。

異熟にして広果に居す。

論曰:若生無想有情天中,有法能令心心所滅,名為無想。是實有物,能遮未來心心所法令暫不起,如堰江河。此法一向是異熟果。誰之異熟?謂無想定。無想有情居在何處?居在廣果,謂廣果天中有高勝處,如中間靜慮,名無想天。彼為恆無想、為亦有想耶?生死位中多時有想。言無想者,由彼有情中間長時想不起故。如契經說:彼諸有情由想起故從彼處沒,然彼有情如久睡覺還起於想,從彼沒已必生欲界非餘處所,先修定行勢力盡故、於彼不能更修定故,如箭射空力盡便墮。若諸有情應生彼處,必有欲界順後受業。如應生彼北俱盧洲,必定應有生天之業。已辯無想。二定者何?謂無想定及滅盡定。初無想定其相云何?頌曰:

論に曰く:もし無想有情天中に生ぜば、法ありて能く心・心所を滅せしめ、無想と名づく。是れ実有の物、能く未来の心・心所法を遮りて暫く起らざらしむる、江河を堰くが如し。この法は一向に是れ異熟果。誰の異熟ぞ。いわゆる無想定の。無想有情は何の処に居するか。広果に居す、いわゆる広果天中に高勝の処あり、中間静慮の如く、無想天と名づく。彼は恒に無想か、それとも想有るか。生死の位中は多時想有り。無想と説くは、彼の有情は中間に長時想起らざるゆえ。契経の説くが如く:彼の諸の有情は想の起るによりて彼の処より没す、と。しかるに彼の有情は久しく睡覚せるが還りて想を起すが如く、彼より没し已って必ず欲界に生じて余の処所に非ず、先に修しし定行の勢力の尽くるゆえ、彼において更に定を修し能わざるゆえ、箭の空に射るの力尽きて便ち堕つるが如し。もし諸の有情が彼の処に生ずべくば、必ず欲界の順後受業あり。まさに彼の北倶盧洲(ウッタラクル)に生ずべきは、必定に天に生ずるの業あるべきが如し。已に無想を弁じ竟えた。二定とは何ぞ。いわゆる無想定および滅尽定。初の無想定のその相は如何。頌に曰く:

如是無想定,後靜慮求脫,

このように無想定は、後静慮にして脱を求め、

善唯順生受,非聖得一世。

善にしてただ順生受、聖に非ざるは一世を得。

論曰:如前所說有法能令心心所滅名為無想,如是復有別法能令心心所滅名無想定。無想者定名無想定,或定無想名無想定。說如是聲,唯顯此定滅心心所與無想同。此在何地?謂後靜慮,即在第四靜慮非餘。修無想定為何所求?謂求解脫。彼執無想是真解脫,為求證彼修無想定。前說無想是異熟故,無記性攝,不說自成。今無想定一向是善,此是善故,能招無想有情天中五蘊異熟。既是善性,為順何受?唯順生受,非順現後及不定受。若起此定後雖退失,傳說現身必還能起,當生無想有情天中,故得此定必不能入正性離生。又許此定唯異生得非諸聖者,以諸聖者於無想定如見深坑不樂入故。要執無想為真解脫,起出離想而修此定;一切聖者不執有漏為真解脫及真出離故,於此定必不修行。若諸聖者修得第四靜慮定時,為如靜慮亦得去來無想定不?餘亦不得。所以者何?彼雖曾習,以無心故,要大加行方便修得,故初得時唯得一世,謂得現在,如初受得別解脫戒。得此定已,第二念等乃至未捨亦成過去,以無心故,無未來修。次滅盡定其相云何?頌曰:

論に曰く:前に説く所の如く法ありて能く心・心所を滅せしめて無想と名づく、このように復た別法ありて能く心・心所を滅せしめて無想定と名づく。無想なるの定を無想定と名づけ、あるいは定の無想を無想定と名づく。「このように(如是)」の声を説くは、ただこの定の心・心所を滅するが無想と同じきを顕す。これは何の地に在るか。いわゆる後静慮、すなわち第四静慮に在りて其余に非ず。無想定を修するは何をか求むる所。いわゆる解脱を求む。彼は無想を真の解脱と執し、彼を証せんことを求めて無想定を修す。前に説く無想は異熟なるゆえに無記性の摂、自成とは説かず。今の無想定は一向に是れ善、これは善なるゆえに、能く無想有情天中の五蘊の異熟を招く。既に善性なれば、何の受に順ずるか。ただ順生受、順現・後および不定受に非ず。もしこの定を起して後退失すと雖も、伝説に現の身に必ず還りて能く起し、まさに無想有情天中に生ずべし、ゆえにこの定を得れば必ず正性離生に入る能わず。またこの定はただ異生の得て諸の聖者に非ざるを許す、諸の聖者は無想定において深坑を見るが如く入るを楽わざるを以てなり。要して無想を真の解脱と執し、出離の想を起してこの定を修す。一切の聖者は有漏を真の解脱および真の出離と執せざるゆえに、この定において必ず修行せず。もし諸の聖者が第四静慮の定を修得する時、静慮の如く去来の無想定をも得るや否や。其余もまた得ず。所以者何。彼は曽て習うと雖も、心無きを以て、要して大加行の方便によりて修得す、ゆえに初めて得る時はただ一世を得、いわゆる現在を得、初めて別解脱戒を受得するが如し。この定を得已って、第二念等乃至未だ捨てざるも過去と成る、心無きを以て未来の修なし。次に滅尽定のその相は如何。頌に曰く:

滅盡定亦然,為靜住有頂,

滅尽定もまたこの如し、静住を求めて有頂にあり、

善二受不定,聖由加行得,

善にして二受・不定、聖は加行によりて得、

成佛得非前,三十四念故。

仏成りて得て前に非ず、三十四念のゆえ。

論曰:如無想定,滅定亦然。此亦然聲,為例何義?例無想定心心所滅。如說復有別法能令心心所滅名無想定,如是復有別法能令心心所滅名滅盡定。如是二定差別相者,前無想定為求解脫,以出離想作意為先;此滅盡定為求靜住,以止息想作意為先。前無想定在後靜慮;此滅盡定唯在有頂,即是非想非非想處。此同前定,性唯是善非無記染,善等起故。前無想定唯順生受;此滅盡定通順生後及不定受,謂約異熟有順生受、或順後受、或不定受、或全不受。謂若於下得般涅槃,此定所招何地幾蘊?唯招有頂四蘊異熟。前無想定唯異生得;此滅盡定唯聖者得,非異生能起,怖畏斷滅故、唯聖道力所能起故、現法涅槃勝解入故。此亦如前,非離染得。由何而得?由加行得,要由加行方證得故。又初得時唯得現在,不得過去不修未來,要由心力方能修故。第二念等乃至未捨亦成過去。世尊亦以加行得耶?不爾。云何?成佛時得,謂佛世尊盡智時得,佛無一德由加行得,暫起欲樂現在前時,一切圓德隨樂而起,故佛眾德皆離染得。世尊曾未起滅盡定,得盡智時云何得成俱分解脫?於起滅定得自在故,如已起者成俱解脫。西方師說:菩薩學位先起此定後得菩提。云何此中不許彼說?若許彼說,便順尊者鄔波毱多《理目足論》。如彼論說:當言如來先起滅定、後生盡智。迦濕彌羅國毘婆沙師說:非前起滅定後方生盡智。所以者何?傳說菩薩三十四念得菩提故。諦現觀中有十六念,離有頂貪有十八念,謂斷有頂九品煩惱起九無間九解脫道,如是十八足前十六成三十四。一切菩薩決定先於無所有處已得離貪方入見道,不復須斷下地煩惱,於此中間無容得起不同類心,故諸菩薩學位不應起滅盡定。外國諸師作如是說:若中間起不同類心,斯有何過?若爾,便有越期心過。然諸菩薩不越期心。

論に曰く:無想定の如く、滅定もまたこの如し。この「もまたこの如し(亦然)」の声は、何の義を例せんか。無想定の心・心所滅を例す。復た別法ありて能く心・心所を滅せしめて無想定と名づくと説くが如く、このように復た別法ありて能く心・心所を滅せしめて滅尽定と名づく。このように二定の差別の相とは、前の無想定は解脱を求めんがため、出離の想の作意を以て先と為す。この滅尽定は静住を求めんがため、止息の想の作意を以て先と為す。前の無想定は後静慮に在り。この滅尽定はただ有頂に在り、すなわち是れ非想非非想処。これは前の定と同じく性はただ善にして無記・染に非ず、善の等起なるゆえ。前の無想定はただ順生受。この滅尽定は順生・後および不定受に通ず、いわゆる異熟に約して順生受あり、あるいは順後受、あるいは不定受、あるいは全く受けず。いわゆるもし下において般涅槃せん、この定の招く所は何の地のいくつの蘊か。ただ有頂の四蘊の異熟を招く。前の無想定はただ異生の得。此の滅尽定はただ聖者の得、異生の起し能うに非ず、断滅を怖畏するゆえ、ただ聖道の力の起しうる所なるゆえ、現法の涅槃に勝解入するゆえ。これもまた前の如く離染の得に非ず。何によりて得るか。加行によりて得、要して加行によりて方に証得しうるゆえ。また初めて得る時はただ現在を得、過去を得ず未来を修せず、要して心力によりて方に修しうるゆえ。第二念等乃至未だ捨てざるも過去と成る。世尊もまた加行によりて得るや。この如くあらず。如何。仏と成る時に得、いわゆる仏世尊は尽智の時に得、仏は一の徳も加行によりて得る無し、暫く欲楽を起して現前する時、一切の円徳は楽に随って起る。ゆえに仏の衆徳は皆離染の得。世尊は曾て未だ滅尽定を起さず、尽智を得る時にどうして俱分解脱と成り得たるか。滅定を起すに自在を得たるゆえ、已に起せるが如く俱解脱を成ず。西方の師説く:菩薩は学位において先にこの定を起して後に菩提を得、と。どうして此中に彼の説を許さざるか。もし彼の説を許さば、便ち尊者鄔波毱多(ウパグプタ)の『理目足論』に順ず。彼の論の説くが如く:まさに如来は先に滅定を起し後に尽智を生ずと言うべし、と。迦湿弥羅国の毘婆沙師説く:先に滅定を起して後に方に尽智を生ずるに非ず、と。所以者何。伝説に菩薩は三十四念に菩提を得るゆえ。諦の現観中に十六念あり、有頂の貪を離るるに十八念あり、いわゆる有頂の九品の煩悩を断ずるに九の無間・九の解脱道を起し、このように十八は前の十六に足して三十四を成す。一切の菩薩は決定して先に無所有処において已に貪を離れて方に見道に入り、復た下の地の煩悩を断ずるを須いず、この中間に同類ならざる心を起すを容れず。ゆえに諸の菩薩は学位において滅尽定を起すべからず。外国の諸師がこのように説く:もし中間に同類ならざる心を起さば、これに何の過かあらん。もし爾ならば、便ち期心を越ゆるの過あり。しかるに諸の菩薩は期心を越えず。

理實菩薩不越期心,然非不越無漏聖道。若爾,期心如何不越?謂我未得諸漏永盡,終不解斯結加趺坐。決定不越如是期心,唯於一坐時諸事究竟故。前說為善,我所宗故。雖已說二定有多同異相,而於其中復有同異。頌曰:

(論に続けて曰く:)理実に菩薩は期心を越えず、しかるに無漏の聖道を越えざるに非ず。もし爾ならば、期心はどうして越えざるか。いわゆる我未だ諸漏の永尽を得ずんば、終にこの結加趺坐を解かじ、と。決定してかかる期心を越えず、ただ一坐の時に諸事究竟なるゆえ。前の説を善と為す、我が宗とする所なるゆえ。已に二定に多の同異の相あるを説くと雖も、しかるにその中に復た同異あり。頌に曰く:

二定依欲色,滅定初人中。

二定は欲・色に依り、滅定の初めは人中なり。

論曰:言二定者,謂無想定及滅盡定。此二俱依欲色二界而得現起。若有不許亦依色界起無想定,便違此文。謂本論言:或有是色有,此有非五行。謂色纏有情或生有想天,住不同類心,若入無想定、若入滅盡定。或生無想天已得入無想,是謂是色有,此有非五行。由此證知,如是二定俱依欲色而得現起,是名同相。言異相者,謂無想定欲色二界皆得初起,滅定初起唯在人中。此在人中初修起已,由退為先方生色界,依色界身後復修起。此滅盡定亦有退耶?應言亦有。若不爾者,即便違害《鄔陀夷經》。經言:具壽!有諸苾芻先於此處具淨屍羅、具三摩地、具般羅若,能數入出滅受想定斯有是處。應如實知,彼於現法或臨終位,不能勤修令解滿足,從此身壞超段食天,隨受一處意成天身。於彼生已,復數入出滅受想定亦有是處。應如實知,此意成天身,佛說是色界,滅受想定唯在有頂。若得此定必無退者,如何得往色界受生?有餘部執:第四靜慮亦有滅定。依彼所執,滅定無退,此義亦成。第四靜慮有滅盡定,義必不成。所以者何?九次第定,契經說故。此若必然,如何得有超越定義?此定次第依初學說,得自在時隨樂超入。如是二定有多種異:謂地有異,第四靜慮有頂地故;加行有異,出離止息想,作意為先故;相續有異,異生聖者相續起故;異熟有異,無想有頂異熟果故;順受有異,順定不定生二受故;初起有異,二界人中最初起故。二定總以心心所滅為其自性,何緣但說名為無想、滅受想耶?二定加行中,唯厭逆此故,如亦知受等,唯名他心智。今二定中心久時斷,如何於後心復得生?毘婆沙師許過去有前心為後等無間緣。有餘師言:如生無色,色久時斷,如何於後色復得生?彼生定應由心非色,如是出定心亦應然,由有根身非由心起。故彼先代諸軌範師,鹹言二法互為種子。

論に曰く:二定を説くとは、いわゆる無想定および滅尽定。この二は俱に欲・色の二界に依りて現起を得。もしもまた色界に依りて無想定を起すを許さざる有らば、便ちこの文に違す。いわゆる本論に説く:あるいは是れ色有、此の有は非五行。いわゆる色纏の有情あるいは有想天に生じて、同類ならざる心に住し、もし無想定に入り、もし滅尽定に入らば、あるいは無想天に生じ已って無想に入るを得、是れを是の色有・此の有は非五行と謂う、と。これによって二定は俱に欲・色に依りて現起を得ると証知す、是れを同相と名づく。異相を説くは、いわゆる無想定は欲・色の二界に皆初めて起るを得、滅定の初起はただ人中に在り。これは人中において初めて修起し已って、退を以て先と為して方に色界に生じ、色界の身に依りて後に復た修起す。この滅尽定にもまた退あるか。まさに有りと説くべし。もし然らざれば、便ち『鄔陀夷経』に違害せん。経に説く:具寿!諸の苾芻ありて先にこの処において浄尸羅を具し、三摩地を具し、般若を具し、能く数々滅受想定に入り出ずる此の処有り、と。まさに如実に知るべし、彼は現法においてあるいは終の位において、能く勤修して解を満足せしむること能わず、この身壊れて段食天を超え、随って一処の意成天身を受く。彼に生じ已って、復た数々滅受想定に入り出ずるもまた是の処有り。まさに如実に知るべし、この意成天身は仏は色界と説き、滅受想定はただ有頂に在り。もしこの定を得れば必ず退無からば、どうして色界に往きて受生を得るや。ある余部の執:第四静慮にもまた滅定あり、と。彼の執する所に依れば、滅定に退無し、この義もまた成れり。第四静慮に滅尽定あるは、義は必ず成らず。所以者何。九次第定は契経の説く所なるゆえ。これもし必ず然らば、どうして超越の定義を得るや。この定の次第は初学に依りて説き、自在を得る時は楽に随い超えて入る。このように二定に多種の異あり:いわゆる地に異あり、第四静慮・有頂地なるゆえ。加行に異あり、出離・止息の想を作意して先と為すゆえ。相续に異あり、異生・聖者の相续の起るゆえ。異熟に異あり、無想・有頂の異熟果なるゆえ。順受に異あり、順の定・不定・生・二受なるゆえ。初起に異あり、二界・人中に最初に起るゆえ。二定は総じて心・心所の滅を以てその自性と為すに、何の縁に但だ無想・滅受想と名づけるか。二定の加行中にただこれを厭逆するゆえ、他の心智を知る受等のただ他心智と名づくるが如し。今二定中に心は久時断たるに、どうして後に心は復た生ずるを得るか。毘婆沙師は過去に前心ありて後の等無間縁と為るを許す。ある師の説に:無色に生ずるが如く、色は久時断たる、どうして後に色は復た生ずるを得るか。彼の生は定めて心によりて色に非ず、このように定を出づる心もまたこの如し、根ある身によりて心によりて起るに非ず、と。ゆえに彼の先代の諸の軌範師は、咸く二法は互いに種子と為すと説く。

二法者,謂心、有根身。尊者世友問論中說:若執滅定全無有心,可有此過。我說滅定猶有細心,故無此失。尊者妙音說此非理。所以者何?若此定中猶有識者,三和合故必應有觸,由觸為緣應有受想。如世尊說:意及法為緣生於意識,三和合觸俱起受想思。則此定中受想等法亦應不滅。若謂如經說受緣愛,然阿羅漢雖有諸受而不生愛,觸亦應爾,非一切觸皆受等緣。此例不然,有差別故。經自簡言:若無明觸所生諸受為緣生愛。曾無有處簡觸生受,故有差別。由此道理,毘婆沙師說滅定中諸心皆滅。若都無心,如何名定?此令大種平等行故說名為定,或由心力平等至此故名為定。如是二定為是實有、為是假有?應言實有,能遮礙心令不生故。有說:此證理不應然,由前定心能遮礙故。謂前定心與所餘心相違而起,由此起故,唯令餘心暫時不轉。此能引發違心所依令相續故,唯不轉位假立為定,無別實體。此唯不轉分位假定,入前出後兩位皆無,故假說此是有為攝。或即所依由定心引令如是起,假立為定。應知無想亦復如是,謂由前心與所餘心相違而起,由此起故,唯令餘心暫時不轉,唯不轉位假立無想,餘說如前。此非善說,違我宗故。已辯二定。命根者何?頌曰:

(論に続けて曰く:)二法とは、いわゆる心・有根身。尊者世友の問論中に説く:もし滅定に全く心なしと執せば、この過有るべし。我説く、滅定になお細心あり、ゆえにこの失なし、と。尊者妙音はこれを非理と説く。所以者何。もしこの定中になお識あらば、三和合なるゆえに必ず触あるべし、触を縁と為して受・想あるべし。世尊の説くが如く:意および法を縁と為して意識を生じ、三和合の触は受・想・思と俱に起る、と。則ちこの定中にも受・想等の法もまた滅せざるべし。もし経の説くが如く受は愛の縁と謂わば、しかるに阿羅漢は諸の受有ると雖も愛を生ぜず、触もまたまさにこの如くあるべし、一切の触は皆受等の縁に非ず。この例は然らず、差別あるゆえ。経は自ら簡別して説く:もし無明触の生ずる所の諸受を縁と為して愛を生ず、と。曾て処有りて触の受を生ずるを簡ばず、ゆえに差別有り。この道理によりて、毘婆沙師は滅定中に諸の心は皆滅すと説く。もし都て心無からば、どうして定と名づくるか。これは大種を平等に行らしむるゆえに定と説き名づく、あるいは心力によりて平等に此に至るゆえに定と名づく。このように二定は是れ実有か、是れ假有か。まさに実有と説くべし、能く心を遮礙して生ぜしめざるゆえ。ある説に:この証の理はまさに然るべからず、前の定心の能く遮礙するゆえ。いわゆる前の定心は所余の心と相違して起り、これによりて起るゆえに、ただ其余の心を暫く転ぜしめざらしむ。これは能く心に違する所依を引発して相续ならしむるゆえに、ただ転ぜざるの位を仮に立てて定と為す、別の実体なし。これはただ転ぜざるの分位の假定、入の前・出の後の两位は皆無し、ゆえに仮に説いてこれは有為の摂。あるいはすなわち所依が定心の引くによりてこのように起らしめ、仮に立てて定と為す。まさに無想もまた復たこの如しと知るべし、いわゆる前の心が所余の心と相違して起るによりて、これによりて起るゆえに、ただ其余の心を暫く転ぜしめざらしめ、ただ転ぜざるの位を仮に立てて無想と為し、余の説は前の如し。これは善説に非ず、我が宗に違するゆえ。已に二定を弁じ竟えた。命根とは何ぞ。頌に曰く:

命根體即壽,能持煖及識。

命根の体はすなわち寿、能く暖および識を持す。

論曰:命體即壽,故對法言:云何命根?謂三界壽。此復未了何法名壽?謂有別法能持煖識說名為壽。故世尊言:

論に曰く:命の体はすなわち寿、ゆえに対法に説く:何を命根とするか。いわゆる三界の寿、と。これまた未だ了せず、何の法を寿と名づくるか。いわゆる別法ありて能く暖・識を持するを寿と説き名づく。ゆえに世尊の説く:

壽煖及與識,三法捨身時,

寿・暖および識の三法が身を捨つる時、

所捨身僵仆,如木無思覺。

捨てらるる所の身は僵仆す、木の如く思覚なし。

故有別法,能持煖識相續住因說名為壽。若爾,此壽何法能持?即煖及識還持此壽。若爾,三法更互相持,相續轉故,何法先滅?由此滅故,餘二隨滅。是則此三應常無謝,既爾此壽應業能持,隨業所引相續轉故。若爾,何緣不許唯業能持煖識而須壽耶?理不應然,勿一切識從始至終恆異熟故。既爾,應言業能持煖,煖復持識,何須此壽?如是識在無色界中應無能持,彼無煖故。應言彼識業為能持,豈得隨情數為轉計?或說此識唯煖能持,或復說言唯業持識。又前已說。前說者何?謂前說言,勿一切識從始至終皆是異熟,是故定應許有別法,能持煖識說名為壽。今亦不言全無壽體,但說壽體非別實物。若爾,何法說名壽體?謂三界業所引同分住時勢分說為壽體。由三界業所引同分住時勢分相續決定隨應住時,爾所時住故,此勢分說為壽體。如穀種等所引乃至熟時勢分,又如放箭所引乃至住時勢分。有謂有行是德差別,依箭等生,由彼力故。乃至未墮恆行不息,彼體一故、無障礙故。往趣餘方急緩至時分位差別應不得有,又應畢竟無墮落時。若謂由風所障礙故,應初即墮或無墮時,能障礙風無差別故。有別實物能持煖識名為壽體,是說為善。為壽盡故死、為更有餘因?《施設論》說:有壽盡故死,非福盡故死。廣作四句。第一句者,感壽異熟業力盡故。第二句者,感富樂果業力盡故。第三句者,能感二種業俱盡故。第四句者,不能避脫抂橫緣故。又亦應言捨壽行故。壽盡位中,福盡於死無復功能,故俱盡時有死,說為俱盡故死。《發智論》說:此壽當言隨相續轉、為復當言一起便住?欲纏有情不入無想定、不入滅盡定,當言此壽隨相續轉。若入無想定、若入滅盡定及色無色纏一切有情,當言此壽一起便住。彼言何義?若所依身可損害故壽隨損害,是名第一隨相續轉。

(論に続けて曰く:)ゆえに別法ありて能く暖・識の相続して住する因を持するを寿と説き名づく。もし爾ならば、この寿は何の法か能く持する。すなわち暖および識が還りてこの寿を持す。もし爾ならば、三法は更に互相に持して相続し転ずるゆえに、何の法が先に滅するか。この滅するによりて其余の二も随って滅す。是則ちこの三はまさに常に謝する無かるべし。既に爾ればこの寿はまさに業の能く持するべし、業の引く所に随って相続し転ずるゆえ。もし爾ならば、何の縁にただ業の能く暖・識を持するを許さずして寿を須うるか。理はまさに然るべからず、一切の識が始より終に至るまで恒に異熟なるを勿れとせざるゆえ。既に爾れば、まさに業は能く暖を持し暖は復た識を持すと説くべし、何ぞこの寿を須いん。このように識は無色界中に在りては能持なかるべし、彼に暖なきゆえ。まさに彼の識は業を能持と為すと説くべし、豈に情に随い数を為して転計せんことを得んや。あるいはこの識はただ暖が能く持すると説き、あるいは復たただ業が識を持すと説き言う。また前に已に説きたり。前の説とは何ぞ。いわゆる前に説く、一切の識が始より終に至るまで皆是れ異熟なるを勿れとせよと、ゆえに定めて別法ありて能く暖・識を持して寿と説き名づくるを許すべし。今もまた全く寿体なしとは説かず、ただ寿体は別の実物に非ずと説く。もし爾ならば、何の法を寿体と説き名づくるか。いわゆる三界の業の引く所の同分の住時の勢分を寿体と説き為す。三界の業の引く所の同分の住時の勢分は相続して決定して住すべき時に随い、爾所の時住するゆえに、この勢分を寿体と説き為す。穀種等の引く所の乃至熟する時の勢分の如く、また箭を放つ引く所の乃至住する時の勢分の如し。ある謂う、行ありて是れ徳の差別、箭等に依りて生じ、彼の力に由るゆえに、乃至未だ堕せざる間は恒に行じて息まず、彼の体は一なるゆえ、障碍なきゆえ。往きて余方に趣くに急緩の至る時分の位の差別は有るべからず、またまさに畢竟に堕落の時なかるべし。もし風の障碍する所によると謂わば、まさに初めに即ち堕つべしくあるいは堕つる時無かるべし、能障碍の風に差別なきゆえ、と。別の実物ありて能く暖・識を持して寿体と名づくるは、是れを善説と為す。寿の尽くるを以て死するか、それとも更に余の因有るか。『施設論』に説く:寿の尽くるを以て死する有り、福の尽くるを以て死するに非ず、と。広く四句を作す。第一句とは、寿の異熟業を感ずる力の尽くるゆえ。第二句とは、富楽の果を感ずる業力の尽くるゆえ。第三句とは、能く二種の業を感ずるが俱に尽くるゆえ。第四句とは、能く枉横の縁を避脱せざるゆえ。またまさに寿行を捨つるのゆえを説くべし。寿尽の位中において福の尽くるは死において復た功能なし、ゆえに俱に尽くる時に死あるは、俱尽するを以て死すと説き為す。『発智論』に説く:この寿はまさに相続に随いて転ずと言うべきか、それとも復た一たび起りて便ち住すと言うべきか。欲に纏わる有情は無想定に入らず滅尽定に入らずんば、まさにこの寿は相続に随いて転ずと言うべし。もし無想定に入り、もし滅尽定に入るおよび色・無色に纏わる一切の有情は、まさにこの寿は一たび起りて便ち住すと言うべし。彼の言の義は何ぞ。もし所依の身が損害すべきゆえに寿も損害に随う、是れを第一の相続に随いて転ずと名づく。

若所依身不可損害如起而住,是名第二一起便住。迦濕彌羅國毘婆沙師言:初顯有障,後顯無障,由此決定有非時死。故契經說:有四得自體,謂有得自體唯可自害非可他害。廣作四句。唯可自害非他害者,謂生欲界戲忘念天意憤恚天,彼由發起增上喜怒,是故於彼殞沒非餘。又應說諸佛自般涅槃故。唯可他害非自害者,謂處胎卵諸有情類。俱可害者,謂餘多分欲界有情。俱非害者,謂在中有、色無色界一切有情及在欲界一分有情,如那落迦、北俱盧洲、正住見道、慈定、滅定及無想定,王仙、佛使,佛所記別——達弭羅、嗢怛羅、殑耆羅、長者子耶舍、鳩磨羅時婆——,最後身菩薩,及此菩薩母懷菩薩胎時,一切轉輪王及此輪王母懷輪王胎時。若爾,何故契經中言:大德!何等有情所得自體非可自害非可他害。舍利子!謂在非想非非想處受生有情。傳說所餘無色靜慮所得自體,可為自地聖道所害,亦上他地近分所害。有頂自上二害俱無,是故說為俱非可害。豈不有頂亦為他地聖道所害,應名他害?如是應說舉後顯初,如或有處舉初顯後,或復有處舉後顯初。云何有處舉初顯後?如契經說:如梵眾天是名第一樂生天。云何有處舉後顯初?如契經說:如極光淨天是名第二樂生天。彼經如聲顯譬喻義,可作是說舉一顯餘,喻法舉一顯同類故。此無如聲,不可例彼。若顯喻義方得有,如聲是則如聲,餘經應不有。如餘經說:有色有情身異想異,如人一分,天是第一識住。故知非喻亦有如聲。傍論且止。已辯命根,諸相者何?頌曰:

(論に続けて曰く:)もし所依の身が損害すべからざれば起きたるが如くして住す、是れを第二の一たび起りて便ち住すと名づく。迦湿弥羅国の毘婆沙師説く:初めは障有るを顕し、後は障無きを顕す、これによって決定して時ならざる死有り、と。ゆえに契経に説く:四の自得体を得るあり、いわゆる自自体を得る有りてただ自害すべく他害すべからざる、と。広く四句を作す。ただ自害すべく他害に非ざるとは、いわゆる欲界に生じて戯忘念天・意憤恚天、彼は上の喜怒を発起するによりて彼において殞没して其余に非ず。またまさに諸仏の自ら般涅槃するのゆえを説くべし。ただ他害すべく自害に非ざるとは、いわゆる胎・卵に処する諸の有情類。俱に害すべきとは、いわゆる其余の多分の欲界の有情。俱に害に非ざるとは、いわゆる中有に在る、色・無色界の一切有情および欲界に在る一分の有情、那落迦(地獄)・北倶盧洲・正しく見道に住する・慈定・滅定および無想定、王仙・仏使、仏の記別する所——達弭羅・嗢怛羅・殑耆羅・長者子耶舍・鳩磨羅時婆——、最後身の菩薩、およびこの菩薩の母が菩薩の胎を懐く時、一切の転輪王およびこの輪王の母が輪王の胎を懐く時。もし爾ならば、何の故に契経中に説く:大徳!何等の有情の得る所の自体は自害すべからず他害すべからざる。舍利子!いわゆる非想非非想処において受生する有情、と。伝説に所余の無色の静慮の得る所の自体は、自地の聖道の害する所と為りうべく、また上は他地の近分の害する所と為りうべし。有頂は自・上の二害俱に無し、ゆえに俱に害すべからずと説き為す。豈に有頂もまた他地の聖道の害する所なれば、他害と名づくべからざらんや。このようにまさに後を挙げて初を顕すと説くべし、あるいは処有りて初を挙げて後を顕し、あるいは復た処有りて後を挙げて初を顕すが如し。如何にして処有りて初を挙げて後を顕すや。契経の説くが如く:梵衆天の如く是れを第一の楽生天と名づく、と。如何にして処有りて後を挙げて初を顕すや。契経の説くが如く:極光浄天の如く是れを第二の楽生天と名づく、と。彼の経の「如(如)」の声は譬喩の義を顕す、かく説きて一を挙げて其余を顕すを作すべし、喩法は一を挙げて同類を顕すゆえ。これに「如」の声無し、彼を例すべからず。もし喩の義を顕して方に有り、「如」の声是れならば則ち「如」の声は其余の経には有るべからず。其余の経の説くが如く:色ある有情の身異なり想異なり、人の一分の如く天は是れ第一の識住、と。ゆえに喩に非ずしても「如」の声有るを知る。傍論は且つ止めん。已に命根を弁じ竟えた、諸の相とは何ぞ。頌に曰く:

相謂諸有為,生住異滅性。

相とは諸の有為の、生・住・異・滅の性。

論曰:由此四種是有為相,法若有此應是有為,與此相違是無為法。此於諸法能起名生,能安名住,能衰名異,能壞名滅。性是體義。豈不經說有三有為之有為相?於此經中應說有四,不說者何?所謂住相。然經說住異,是此異別名。如生名起,滅名為盡。如是應知,異名住異。若法令行三世遷流,此經說為有為之相,令諸有情生厭畏故。謂彼諸行生力所遷,令從未來流入現在。異及滅相力所遷迫,令從現在流入過去,令其衰異及壞滅故。傳說如有人處稠林,有三怨敵欲為損害,一從稠林牽之令出、一衰其力、一壞命根。三相於行應知亦爾。住於彼行攝受安立,常樂與彼不相捨離,故不立在有為相中。又無為法有自相住,住相濫彼故經不說。有謂:此經說住與異總合為一名住異相。何用如是總合說為?住是有情所愛著處,為令厭捨與異合說,如示黑耳與吉祥俱,是故定有四有為相。此生等相既是有為,應更別有生等四相。若更有相便致無窮,彼復有餘生等相故。應言更有,然非無窮。所以者何?頌曰:

論に曰く:この四種によりて是れ有為の相、法にもしこれ有らばまさに是れ有為、これと相違するは是れ無為法。これは諸法において能く起すを生と名づけ、能く安んずるを住と名づけ、能く衰うるを異と名づけ、能く壊するを滅と名づく。性は体の義。豈に経に三有為の有為相を説かざらんや。この経中においてまさに四ありと説くべし、説かざるは何ぞ。いわゆる住相。しかるに経の説く住異は是れこの異の別名。生を起と名づけ、滅を尽と名づくるが如し。このようにまさに知るべし、異を住異と名づく。法を行らしめて三世を遷流せしむるをこの経に有為の相と説く、諸の有情に厭畏を生ぜしむるゆえ。いわゆる彼の諸行は生の力の遷する所にして、未来より流入して現在に至らしむ。異および滅相の力の遷迫する所にして、現在より流入して過去に至らしめ、その衰異および壊滅せしむるゆえ。伝説に人ありて稠林に処するに三の怨敵ありて害を為さんと欲するが如し、一は稠林よりこれを牽きて出づらしめ、一はその力を衰えさせ、一は命根を壊す。三相の行においてもまたこの如く知るべし。住は彼の行において摂受し安立し、常に彼と相捨離せざるを楽うゆえに、有為相中に立てざる。また無為法に自相の住あるに、住相は彼に濫るるゆえに経に説かず。ある謂う:この経は住と異とを総合して一と為して住異相と名づくと説く、と。何の用ぞかく総合して説くや。住は有情の愛着する所の処、厭捨せしめんがため異と合して説く、黒耳を示して吉祥と俱にするが如し、ゆえに定めて四の有為相あり。この生等の相既に有為なれば、まさに更に別に生等の四相あるべし。もし更に相あらば便ち無窮を致さん、彼に復た余の生等の相あるゆえ。まさに更に有りと説くべし、しかるに無窮に非ず。所以者何。頌に曰く:

此有生生等,於八一有能。

これに生生等有り、八において一において能あり。

論曰:此謂前說四種本相。生生等者,謂四隨相,生生、住住、異異、滅滅。諸行有為由四本相,本相有為由四隨相,豈不本相如所相法一一應有四種隨相,此復各四展轉無窮?無斯過失,四本四隨於八於一功能別故。何謂功能?謂法作用或謂士用。四種本相一一皆於八法有用,四種隨相一一皆於一法有用。其義云何?謂法生時並其自體九法俱起,自體為一相隨相八。本相中生除其自性生餘八法,隨相生生於九法內唯生本生。謂如雌雞,有生多子有唯生一。生與生生,生八生一其力亦爾。本相中住亦除自性住餘八法,隨相住住於九法中唯住本住。異及滅相隨應亦爾。是故生等相復有相,隨相唯四無無窮失。經部師說何緣如是分析虛空?非生等相有實法體如所分別。所以者何?無定量故。謂此諸相非如色等有定現、比或至教量證體實有。若爾,何故契經中言:有為之起亦可了知,盡及住異亦可了知。天愛!汝等執文迷義,薄伽梵說義是所依。何謂此經所說實義?謂愚夫類無明所盲,於行相續執我我所,長夜於中而生耽著。世尊為斷彼執著故,顯行相續體是有為及緣生性,故作是說有三有為之有為相,非顯諸行一剎那中具有三相,由一剎那起等三相不可知故。非不可知應立為相,故彼契經復作是說:有為之起亦可了知,盡及住異亦可了知。然經重說有為言者,令知此相表是有為,勿謂此相表有為有,如居白鷺表水非無。亦勿謂表有為善惡,如童女相表善非善。諸行相續初起名生,終盡位中說名為滅,中間相續隨轉名住,此前後別名為住異。世尊依此說難陀言:是善男子善知受生、善知受住及善知受衰異壞滅。故說頌言:

論に曰く:これは前に説く四種の本相を謂う。生生等とは、いわゆる四の随相、生生・住住・異異・滅滅。諸行の有為は四の本相による、本相の有為は四の随相による。豈に本相は相する所の法の如く一一に四種の随相あるべし、この復た各々四ありて展転に無窮ならんや。この過失なし、四の本・四の随は八において一において功能の別あるゆえ。何を功能と謂うか。いわゆる法の作用あるいは士用と謂う。四種の本相は一一皆八法において用あり、四種の随相は一一皆一法において用あり。その義は如何。いわゆる法の生ずる時その自体を併せて九法俱に起る、自体を一と為し随相を八と為す。本相中の生はその自性を除きて其余の八法を生じ、随相の生は九法の内においてただ本生を生ず。いわゆる雌鶏の如く、多子を生ずる有りただ一を生ずる有り。生と生生とは、八を生じ一を生ず、その力もまたこの如し。本相中の住もまた自性を除きて其余の八法に住し、随相の住は九法中においてただ本住に住す。異および滅の相も随ってまさにこの如し。ゆえに生等の相に復た相あり、随相はただ四にして無窮の失なし。経部師の説く:何の縁にかく虚空を分析するや。生等の相に実法の体あるは分別する所の如くに非ず。所以者何。定量なきゆえ。いわゆるこの諸相は色等の如く定の現・比あるいは至教量に体の実有を証するに非ず。もし爾ならば、何の故に契経中に説く:有為の起もまた知るべし、尽および住異もまた知るべし、と。天愛よ!汝らは文を執して義に迷う、薄伽梵は義を説いて是れ所依と為す。何をこの経の説く所の実義と謂うか。いわゆる愚夫の類は無明の盲える所にして、行の相续において我・我所を執して、長夜その中に耽着を生ず。世尊は彼の執着を断ぜんがためのゆえに、行の相续の体は是れ有為および縁生の性なるを顕し、ゆえにこの説を作して三有為の有為相ありと曰う、諸行が一刹那中に三相を具有するを顕すに非ず、一刹那の起等の三相は知るべからざるゆえ。知るべからざるに非ずして相と立つべからず、ゆえに彼の契経は復たこの説を作す:有為の起もまた知るべし、尽および住異もまた知るべし、と。しかるに経に有為の言を重ねて説くは、この相は是れ有為を表すと知らしむ、謂う勿れこの相は有為の有を表すと、白鷺の居るは水の無きに非ざるを表すが如し。また謂う勿れ有為の善悪を表すと、童女の相が善・非善を表すが如し。諸行の相续の初めて起るを生と名づけ、終盡の位中を滅と説き名づけ、中間の相续の随転を住と名づけ、この前後の別を住異と名づく。世尊はこれに依りて難陀(ナンダ)に対して説く:是の善男子は善く受生を知り、善く受住を知りおよび善く受の衰異壊滅を知る、と。ゆえに頌に説く:

相續初名生,滅謂終盡位,

相续の初めを生と名づけ、滅とは終盡の位を謂い、

中隨轉名住,住異前後別。

中の随転を住と名づけ、住異は前後の別なり。

復有頌言:

復た頌に説く:

本無今有生,相續隨轉住,

本無くして今有るを生とし、相续の随転を住とし、

前後別住異,相續斷名滅。

前後の別を住異とし、相续の断ずるを滅と名づく。

又有頌言:

また頌に説く:

由諸法剎那,無住而有滅,

諸法の刹那により、住なくして滅あり、

彼自然滅故,執有住非理。

彼は自然に滅するゆえに、住あるを執するは理に非ず。

是故唯於相續說住,由斯對法所說理成。故彼論言:云何名住?謂一切行已生未滅,非生已不滅名剎那法性。雖《發智論》作如是說:於一心中誰起謂生?誰盡謂死?誰住異謂老?而彼論文依眾同分相續心說,非一剎那。又一一剎那諸有為法,離執實有物,四相亦成。云何得成?謂一一念本無今有名生,有已還無名滅,後後剎那嗣前前起名為住,即彼前後有差別故名住異。於前後念相似生時,前後相望非無差別。彼差別相云何應知?謂金剛等有擲未擲,及強力擲與弱力擲,速遲墮落時差別故。大種轉變差別義成。諸行相似相續生時,前後相望無多差別,故雖有異而見相似。若爾最後聲光剎那及涅槃時,最後六處無後念故應無住異,是則所立相應不遍有為。此不說住為有為相。其義云何?謂住之異。故若有住亦必有異,由此立相無不遍失。然此經中世尊所說,有為之相略顯示者,謂有為法本無今有,有已還無及相續住。即此前後相望別異,此中何用生等別物?云何所相法即立為能相?如何大士相非異於大士?角犎𩑶蹄尾牛相非異牛,又如堅等地等界相非異地等,遠見上升知是煙相非異煙體。此有為相,理亦應然。雖了有為色等自性,乃至未了先無後無相續差別,仍未知彼體是有為,故非彼性即有為相。然非離彼性,有生等實物。若離有為色等自性有生等物,復何非理?一法一時應即生住衰異壞滅,許俱有故。此難不然,用時別故,謂生作用在於未來,現在已生不更生故。諸法生已正現在時,住等三相作用方起,非生用時有餘三用,故雖俱有而不相違。且應思擇,未來法體為有為無,然後可成生於彼位有用無用。設許未來生有作用,如何成未來?應說未來相。法現在時生用已謝,如何成現在?應說現在相。又住等三用俱現在,應一法體一剎那中即有安住衰異壞滅。

(論に続けて曰く:)ゆえにただ相续において住を説く、これに由りて対法の説く所の理成れり。ゆえに彼の論に説く:何を住とするか。いわゆる一切の行の已生にして未滅、生已りて滅せざるを刹那の法性と名づくに非ず、と。『発智論』がこのように説くと雖も:一心において誰か起るを生と謂い、誰か尽くるを死と謂い、誰か住異を老と謂う、と。しかるに彼の論文は衆同分の相续の心に依りて説く、一刹那に非ず。また一一の刹那の諸の有為法に、実有の物を執するを離れて、四相もまた成れり。どうして成るを得るか。いわゆる一一の念は本無くして今有るを生と名づけ、有り已って還りて無きを滅と名づけ、後後の刹那が前前を嗣いで起るを住と名づけ、すなわち彼の前後に差別あるゆえを住異と名づく。前後の念の相似して生ずる時において、前後相い望んで差別無きに非ず。彼の差別の相は如何に知るべきか。いわゆる金剛等の擲つ有り未だ擲たざる有り、および強力に擲つと弱力に擲つと、速く遅く堕落する時の差別あるゆえ。大種の転変の差別の義成れり。諸行の相似して相续して生ずる時、前後相い望んで多くの差別なし、ゆえに異ありと雖も相似と見ゆ。もし爾ならば最後の声・光の刹那および涅槃の時、最後の六処に後念なきゆえに住異なかるべし、是則ち立つる所の相はまさに有為に遍せざるべし。これは住を有為の相と説かず。その義は如何。いわゆる住の異。ゆえにもし住有れば必ず異あり、これによって相を立つるに遍せざるの失なし。しかるにこの経中に世尊の説く所の有為の相は略して顕示するは、いわゆる有為法の本無くして今有り、有り已って還りて無くおよび相续して住す。すなわちこの前後の相い望む別異、此中に何の用ぞ生等の別物あるや。どうして相する所の法をすなわち能相と立てるか。如何にして大士の相は大士に異ならざらん。角・犎・胡・蹄・尾の牛の相は牛に異ならざるが如く、また堅等の地等の界の相は地等に異ならざるが如し、遠く上昇するを見て是れ煙の相と知りて煙体に異ならざるが如し。この有為の相は理もまたまさにこの如くあるべし。有為の色等の自性を了すると雖も、乃至未だ先無・後無の相续の差別を了せざれば、なお彼の体が是れ有為を知らず、ゆえに彼の性がすなわち有為の相に非ず。しかるに彼の性を離れては、生等の実物有るに非ず。もし有為の色等の自性を離れて生等の物有らば、復た何の非理かあらん。一法は一時にすなわち生・住・衰異・壊滅すべし、俱に有るを許すゆえ。この難は然らず、用の時別なるゆえ、いわゆる生の作用は未来に在り、現在に已に生ぜば更に生ぜざるゆえ。諸法は生じ已りて正に現在の時、住等の三相の作用は方に起る、生の用の時に其余の三の用有るに非ず、ゆえに俱に有ると雖も相違せず。且つまさに思択すべし、未来の法体は是れ有か無か、然る後に生は彼の位において用あり用なしと成るべし。設ひ未来の生に作用有りと許すとも、如何にして未来と成るか。まさに未来の相を説くべし。法は現在の時に生の用已に謝せり、如何にして現在と成るか。まさに現在の相を説くべし。また住等の三用は俱に現在に在れば、まさに一法体は一刹那中にすなわち安住・衰異・壊滅あるべし。

若時住相能住此法,即時異滅能衰壞者,爾時此法為名安住、為名衰異、為名壞滅?諸說住等用不同時,彼說便違剎那滅義。若言我說一法諸相用,皆究竟名一剎那。汝今應說,何緣住相與二俱生,而住先能住所住法非異非滅?若住力強能先用者,後何成劣而並本法俱遭異滅所衰壞耶?若言住相已起作用不應更起猶如生者,生應可然。夫生用者,謂引所生令入現在,已入不應復引入故。住不應爾。夫住用者,謂安所住令不衰滅,已住可令永安住故。由斯住相用應常起,不可例生令無再用。又誰障住用,令暫有還無?若言異滅能為障者,異滅力應強,何不於先用?又住用息,異滅本法自然不住,異滅二相何處如何而起作用?復有何事須二用耶?由住攝持,諸法生已暫時不滅。住用既捨,法定不住即自然滅,故異滅用更無所為。又應一法生已未壞名住,住已壞時名滅。理且可然。異於一法,進退推徵理不應有。所以者何?異謂前後性相轉變,非即此法可言異此。故說頌言:

(論に続けて曰く:)もし時に住相の能くこの法に住せしむるに、即時に異・滅の能く衰壊せしむれば、爾の時この法は安住と名づくるか、衰異と名づくるか、壊滅と名づくるか。諸の住等の用は同時ならずと説くは、彼の説は便ち刹那滅の義に違せん。もし我が説く一法の諸相の用は皆究竟を一刹那と名づくと説かば、汝今まさに説くべし、何の縁に住相は二と俱に生じて、しかも住は先に能く所住の法に住せしめて異にも非ず滅にも非ざるか。もし住の力強く能く先用すれば、後は何をか劣と成して併せて本法と俱に異・滅の衰壊する所に遭うや。もし住相は已に作用を起せば更に起るべからず生の猶ごとしと説かば、生はまさにこの如くあるべし。夫れ生の用とは、いわゆる所生を引きて現在に入らしめ、已に入れば復た引き入るべからざるゆえ。住はまさにこの如くあるべからず。夫れ住の用とは、いわゆる所住を安んじて衰滅せしめず、已に住せば永安住せしむべきゆえ。これに由りて住相の用はまさに常に起るべし、生に例じて再用なからしむべからず。また誰か住の用を障して、暫く有りて還りて無からしむるか。もし異・滅の能く障と為すと説かば、異・滅の力はまさに強し、何ぞ先用せざるや。また住の用息まれば、異・滅・本法は自然に住せず、異・滅の二相は何の処に如何にして作用を起さん。復た何の事か二の用を須うるや。住の摂持によりて諸法は生じ已って暫く滅せず。住の用既に捨てれば、法は定めて住せず即ち自然に滅す、ゆえに異・滅の用は更に為す所なし。またまさに一法は生じ已って未だ壊せざるを住と名づけ、住し已って壊する時を滅と名づくべし。理は且つこの如くあるべし。異は一法において進退に推徴するに理は有るべからず。所以者何。異とは前後の性相の転変を謂う、すなわちこの法をこれに異なりと説くべからず。ゆえに頌に説く:

即前異不成,異前非一法,

すなわち前に異なるは成らず、前に異なるは一法に非ず、

是故於一法,立異終不成。

ゆえに一法において、異を立つるは終に成らず。

雖餘部說遇滅因緣,滅相方能滅所滅法。而彼所說,應如有言:服瀉藥時天來令利。即滅因緣應滅所滅,何須別執有滅相為。又心心所許剎那滅,更不須待餘滅因緣,應滅與住用無先後。是則一法於一時中亦住亦滅不應正理,故依相續說有為相,不違正理善順契經。若生在未來生所生法,未來一切法何不俱生?頌曰:

(論に続けて曰く:)余部の説くは滅の因縁に遇いて滅相は方に能く所滅の法を滅すと雖も、しかるに彼の説く所は、言う有るが如し:瀉薬を服する時に天来たりて利せしむ、と。すなわち滅の因縁はまさに所滅を滅すべし、何ぞ別に滅相有るを執して為さんや。また心・心所は刹那滅を許す、更に余の滅の因縁を待つを須いず、まさに滅と住との用に先後なし。是則ち一法は一時中にもまた住しもまた滅す、正理なるべからず。ゆえに相续に依りて有為の相を説く、正理に違わず善く契経に順ず。もし生は未来に在りて所生の法を生ずれば、未来の一切法は何ぞ俱に生ぜざるや。頌に曰く:

生能生所生,非離因緣合。

生は能く所生を生ず、因縁の和合を離るるに非ず。

論曰:非離所餘因緣和合,唯生相力能生所生,故諸未來非皆頓起。若爾,我等唯見因緣有生功能,無別生相。有因緣合諸法即生,無即不生,何勞生相?故知唯有因緣力起。豈諸有法皆汝所知?法性幽微甚難知故,雖現有體而不可知。生相若無應無生覺,又第六轉言不應成,謂色之生、受之生等。如不應說色之色言。如責無生,乃至無滅皆如是責,隨其所應。若爾,為成空無我覺,法外應執空無我性。為成一二大小各別合離彼此有性等覺,應如外道法外執有數量各別合離彼此有等別性。又為成立第六轉言,應執別有色之聚性。又如說言色之自性,此第六轉言何得成?是故生等唯假建立,無別實物,為了諸行本無今有假立為生。如是本無今有生相,依色等法種類眾多,為簡所餘說第六轉言色之生受之生等,為令他知此生唯色非餘受等。餘例亦然。如世間說栴檀之香、石子之體,此亦應爾。如是住等隨應當知。若行離生相而得生者,虛空無為等何故不生?諸行名生由本無今有,無為體常有,何得言生?又如法爾不說一切皆有生,如是應許非一切法皆可生。又如有為同有生相,而許因緣望有為法或有功能或無功能。如是應許一切有為及無為法同無生相,而諸因緣望彼二法一有生用、一無生用。毘婆沙師說生等相別有實物,其理應成。所以者何?豈容多有設難者故便棄所宗?非恐有鹿而不種麥,懼多蠅附不食美團。故於過難應懃通釋,於本宗義應順修行。如是已辯諸有為相。名身等類其義云何?頌曰:

論に曰く:所余の因縁の和合を離るるに非ずして、ただ生相の力が能く所生を生ずるに非ず、ゆえに諸の未来は皆頓に起るに非ず。もし爾ならば、我らはただ因縁に生ずるの功能あるを見るのみ、別の生相なし。因縁合すれば諸法は即ち生じ、無ければ即ち生ぜず、何ぞ生相を労せん。ゆえにただ因縁の力の起る有るのみと知る。豈に諸の有法は皆汝の知る所ならんや。法性は幽微にして甚だ知り難きゆえ、現に体有ると雖も知るべからず。生相もし無くんば生の覚なかるべし、また第六転の言は成るべからず、いわゆる色之生・受之生等。説くべからざるが如し色之色の言。無生を責むるが如く、乃至無滅も皆この如く責む、その応ずる所に随え。もし爾ならば、空・無我の覚を成さんがため、法外に空・無我の性を執すべし。一・二・大・小・各別・合離・彼此・有性等の覚を成さんがため、外道の法外に数量・各別・合離・彼此・有等の別性あるを執するが如くすべし。また第六転の言を成立せんがため、まさに別に色之聚性あるを執すべし。また色之自性を説くが如く、この第六転の言は何を以て成るを得るか。ゆえに生等はただ仮に建立し、別の実物なし、諸行の本無くして今有るを了さんがため仮に生と立つ。このように本無今有の生相は、色等の法の種類の衆多に依りて、所余を簡ばんがため第六転の言・色之生・受之生等を説く、他にこの生はただ色にして余の受等に非ざるを知らしめんがため。余の例もまたこの如し。世間の栴檀之香・石子之体を説くが如く、これもまたまさにこの如し。このように住等も随って知るべし。もし行が生相を離れて生ずるを得るならば、虚空・無為等は何の故に生ぜざるか。諸行を生と名づくるは本無くして今有るによる、無為の体は常に有り、何を以て生を説かん。また法爾に一切は皆生あると説かざるが如く、このようにまさに一切法は皆生ずべきに非ずと許すべし。また有為は同じく生相あるが如く、しかして因縁は有為法に望みてあるいは功能ありあるいは功能なきを許す。このようにまさに一切の有為および無為法は同じく生相無しと許すべく、しかして諸の因縁は彼の二法に望みて一は生の用有り一は生の用無し。毘婆沙師は生等の相は別に実物有りと説く、その理はまさに成るべし。所以者何。豈に多く難を設くるのゆえに便ち宗する所を棄てんことを容れんや。鹿有るを恐れて麦を種えず、多くの蝿の附くを懼れて美团を食わざるに非ず。ゆえに過難においては勤めて通釈すべく、本宗の義においては順い修行すべし。このように已に諸の有為の相を弁じ竟えた。名身等の類のその義は如何。頌に曰く:

名身等所謂,想章字總說。

名身等とはいわゆる、想・章・字の総説。

論曰:等者等取句身文身。應知此中名謂作想,如說色聲香味等想。句者謂章,詮義究竟,如說諸行無常等章。或能辯了業用德時相應差別,此章稱句。文者謂字,如說𧙃阿壹伊等字。豈不此字亦書分名?非為顯書分製造諸字,但為顯諸字製造書分。云何當令雖不聞說而亦得解,故造書分,是故諸字非書分名。云何名等身?謂想等總說。言總說者是合集義,於合集義中說嗢遮界故。此中名身者,謂色聲香等。句身者,謂諸行無常、一切法無我、涅槃寂靜等。文身者,謂迦佉伽等。豈不此三語為性故,用聲為體,色自性攝。如何乃說為心不相應行?此三非以語為自性,語是音聲,非唯音聲即令了義。云何令了?謂語發名,名能顯義,乃能令了。非但音聲皆稱為語,要由此故義可了知,如是音聲方稱語故。何等音聲令義可了?謂能說者於諸義中已共立為能詮定量,且如古者於九義中共立一瞿聲為能詮定量。故有頌言:

論に曰く:「等」は句身・文身を等取す。まさに此中の名とは想を作るを謂う、色・声・香・味等の想を説くが如し。句とは章を謂う、義を詮じて究竟す、諸行無常等の章を説くが如し。あるいは能く業・用・徳・時の相応の差別を弁了す、この章を句と称す。文とは字を謂う、阿・壹・伊等の字を説くが如し。豈にこの字もまた書分の名ならんや。書分を顕さんがため諸の字を製造するに非ず、但だ諸の字を顕さんがため書分を製造す。いかにして聞説せずと雖も解を得せしめん、ゆえに書分を造る、ゆえに諸の字は書分の名に非ず。如何にして名等の身とするか。いわゆる想等の総説。総説と説くは是れ合集の義、合集の義において嗢遮(ウッダ)の界を説くゆえ。此中の名身とは、いわゆる色・声・香等。句身とは、いわゆる諸行無常・一切法無我・涅槃寂静等。文身とは、いわゆる迦・佉・伽(カ・カ・ガ)等。豈にこの三は語を性と為すゆえに、声を以て体と為し、色自性の摂ならんや。如何にして乃ち心不相応行と説くや。この三は語を以て自性と為すに非ず、語は是れ音声、ただ音声のみにて義を了せしむるに非ず。どうして了せしむるか。いわゆる語は名を発し、名は能く義を顕し、乃ち能く了せしむ。ただ音声のみを皆語と称するに非ず、これによりて義の知るべき有るを要す、かくのごとき音声は方に語と称す。何等の音声が義を知るべからしむるか。いわゆる能説の者は諸の義中において已に共に立てて能詮の定量と為す、且つ古者の九義中に於て共に一の瞿(ゴー)声を立てて能詮の定量と為すが如し。ゆえに頌に説く:

方獸地光言,金剛眼天水,

方・獣・地・光・言、金剛・眼・天・水、

於斯九種義,智者立瞿聲。

この九種の義において、智者は瞿声を立つ。

諸有執名能顯義者,亦定應許如是義名,謂共立為能詮定量。若此句義由名能顯,但由音聲顯用已辦,何須橫計別有實名?又未了此名,如何由語發,為由語顯、為由語生?若由語生,語聲性故,聲應一切皆能生名。若謂生名聲有差別,此足顯義,何待別名?若由語顯,語聲性故,聲應一切皆能顯名。若謂顯名,聲有差別,此足顯義,何待別名?又諸念聲不可聚集,亦無一法分分漸生,如何名生可由語發?云何待過去諸表剎那?最後表剎那能生無表。若爾,最後位聲乃生名,但聞最後聲應能了義。若作是執:語能生文、文復生名、名方顯義。此中過難應同前說,以諸念文不可集故。語顯名過,應例如生。又異語文,諸明慧者注心思擇莫辯其相。又文由語若顯若生,準語於名皆不應理。又若有執:名如生等與義俱生,現在世名目去來義不應得有。又父母等隨意所欲立子等名,云何可言名如生等與義俱起?又無為法應無有名,無生義故而不應許。然世尊說頌依於名及文生者,此於諸義共立分量。聲即是名,此名安布差別為頌。由如是義,說頌依名。此頌是名安布差別,執有實物不應正理,如樹等行及心次第。或唯應執別有文體,即總集此為名等身。更執有餘便為無用。毘婆沙師說有別物為名等身,心不相應行蘊所攝。實而非假。所以者何?非一切法皆是尋思所能了故。此名身等何界所繫?為是有情數、為非有情數?為是異熟生、為是所長養、為是等流性?為善、為不善、為無記?此皆應辯。頌曰:

(論に続けて曰く:)諸の名の能く義を顕すと執するは、また定めてかかる義の名を許すべし、いわゆる共に立てて能詮の定量と為す。もしこの句義は名によりて能く顕すならば、但だ音声によりて顕すの用已に弁ぜられ、何ぞ横に計りて別に実の名有るを須いんや。また未だこの名を了せず、如何にして語によりて発せらるるか、語によりて顕されるによるか、語によりて生ぜらるるによるか。もし語によりて生ぜば、語は声の性なるゆえに、声はまさに一切皆能く名を生ずべし。もし名を生ずる声に差別ありと謂わば、これ足りて義を顕す、何ぞ別の名を待たん。もし語によりて顕さば、語は声の性なるゆえに、声はまさに一切皆能く名を顕すべし。もし名を顕す声に差別ありと謂わば、これ足りて義を顕す、何ぞ別の名を待たん。また諸の念の声は聚集すべからず、もまた一法の分分に漸く生ずる無し、如何にして名の生は語によりて発せられんや。如何にして過去の諸の表刹那を待たんや。最後の表刹那は能く無表を生ず。もし爾ならば、最後の位の声は乃ち名を生ず、但だ最後の声を聞かばまさに能く義を了すべし。もし是の執を作さば:語は能く文を生じ、文は復た名を生じ、名は方に義を顕す、と。此中の過難はまさに前の説くに同じかるべし、諸の念の文は集めべからざるを以て。語の名を顕すの過は、まさに例して生ずるが如し。また異なる語・文は、諸の明慧の者が心を注ぎて思択するもその相を弁ずること莫し。また文は語によりてもし顕しもし生ずれば、語に準じて名において皆理なるべからず。またもし執有らば:名は生等の如く義と俱に生ず、と。現在の世の名は去来の義を目当てるべからず有るべからざりき。また父母等は意の欲する所に随い子等の名を立つ、どうして名は生等の如く義と俱に起ると説きうるや。また無為法はまさに名有るべからず、生の義なきゆえ、しかるに許すべからず。しかるに世尊の頌を説くは名および文の生ずるに依る、これは諸の義において共に立てたる分量。声はすなわち是れ名、この名の安布の差別を頌と為す。このようの義によりて、頌は名に依ると説く。この頌は是れ名の安布の差別、実物あるを執するは正理なるべからず、樹等の行および心の次第の如し。あるいはただ別に文体有るを執すべし、すなわち総じてこれを集めて名等の身と為す。更に其余有るを執すれば便ち無用と為る。毘婆沙師は別物有りて名等の身と為し、心不相応行蘊の所摂、実にして仮に非ずと説く。所以者何。一切法は皆是れ尋思の了しうる所に非ざるゆえ。この名身等は何の界の繫する所か。是れ有情数か、是れ非有情数か。是れ異熟生か、是れ所長養か、是れ等流性か。是れ善か、是れ不善か、是れ無記か。これ皆まさに弁ずべし。頌に曰く:

欲色有情攝,等流無記性。

欲・色の有情の摂、等流の無記性。

論曰:此名身等唯是欲色二界所繫。有說:亦通無色界繫,然不可說。又名身等有情數攝,能說者成非所顯義。又名身等唯是等流,又唯無覆無記性攝。如上所說,餘不相應所未說義今當略辯。頌曰:

論に曰く:この名身等はただ欲・色の二界の繫する所。ある説に:もまた無色界の繫に通ず、しかるに説くべからず、と。また名身等は有情数の摂、能く説くは成るも顕す所の義に非ず。また名身等はただ等流、またただ無覆無記性の摂。上の説く所の如く、其余の不相応の未だ説かざる義を今まさに略して弁ずべし。頌に曰く:

同分亦如是,並無色異熟,

同分もまたこの如し、ならびに無色の異熟、

得相通三類,非得定等流。

得・相は三類に通じ、非得・定は等流。

論曰:亦如是言,為顯同分如名身等,通於欲色有情等流無覆無記。並無色言,顯非唯欲色。言並異熟,顯非唯等流。是界通三,類通二義。得及諸相類並通三,謂有剎那等流異熟,非得二定唯是等流。唯言為明非異熟等。已說如是所未說義。無想、命根如前已辯。何緣不說得等唯是有情數攝?已說有情所成等故。何緣不說相通有情非有情數?已說一切有為俱故。餘所未說,隨應準知。

論に曰く:「もまたこの如し(亦爾)」の言は、同分が名身等の如く欲・色・有情・等流・無覆無記に通ずるを顕さんがため。「ならびに無色(並無色)」の言は、ただ欲・色のみに非ざるを顕す。「ならびに異熟(並異熟)」を説くは、ただ等流のみに非ざるを顕す。是の界は三に通じ、類は二の義に通ず。得および諸の相の類は並びに三に通ず、いわゆる刹那・等流・異熟あり、非得・二定はただ等流。「ただ(唯)」の言は異熟等に非ざるを明かさんがため。已にかくのごとき未だ説かざりし義を説き竟えた。無想・命根は前の如く已に弁じたり。何の縁に得等はただ有情数の摂と説かざるか。已に有情の成ずる所等と説けるゆえ。何の縁に相は有情・非有情の数に通ずと説かざるか。已に一切の有為は俱なりと説けるゆえ。其余の未だ説かざるは、随ってまさに準知すべし。

説一切有部倶舎論 巻第五

アビダルマ倶舎論 巻第六 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別根品第二之四

分別根品 第二之四。

如是已說不相應行。前言生相生所生時,非離所餘因緣和合,此中何法說為因緣?且因六種,何等為六?頌曰:

このように已に不相応行を説き竟えた。前に生相が所生を生ずる時、所余の因縁の和合を離れずと言う、此中の何の法を因縁と説き為すか。且つ因に六種あり、何等を六とするか。頌に曰く:

能作及俱有,同類與相應,

能作および俱有、同類と相応、

遍行並異熟,許因唯六種。

遍行ならびに異熟、因はただ六種を許す。

論曰:因有六種,一能作因、二俱有因、三同類因、四相應因、五遍行因、六異熟因,對法諸師許因唯有如是六種。且初能作因相云何?頌曰:

論に曰く:因に六種あり、一に能作因、二に俱有因、三に同類因、四に相応因、五に遍行因、六に異熟因。対法の諸師は因はただこの六種あるのみと許す。且つ初の能作因の相は如何。頌に曰く:

除自餘能作。

自を除きて其余は能作。

論曰:一切有為唯除自體,以一切法為能作因,由彼生時無障住故。雖餘因性亦能作因,然能作因更無別稱,如色處等總即別名。豈不未知諸漏當起,由已知故諸漏不生,智於漏生能為障礙;日光能障現覩眾星。如何有為唯除自體,以一切法為能作因?應知此生時,彼皆無障住,故彼於此是能作因。若於此生,彼能為障而不為障,可立為因。譬如國人以其國主不為損害,鹹作是言:我因國主而得安樂。若於此生彼無障用,設不為障何得為因?且如涅槃及不生法,普於一切有為生中;那落迦等有情相續於無色界諸蘊生中,有如非有無能障用,雖無障用而亦為因,如無力國王,亦得如前說。此即通說諸能作因,就勝為言非無生力。如眼色等於眼識等,生飲食於身種等於牙等。有作是難:若一切法無障住故皆能作因,何緣諸法非皆頓起?一殺生時,何緣一切非如殺者皆成殺業?此難不然。但由無障,許一切法為能作因,非由於生有親作力。有餘師說:諸能作因皆於果生有能作力。且涅槃等於眼識生,云何名為有能作力?意識緣彼為境而生或善或惡,因此意識後時眼識次第得生,展轉因故。彼涅槃等於眼識生有能作力,如是餘法由此方隅展轉應知有能生力。如是已說能作因相。第二俱有因相云何?頌曰:

論に曰く:一切の有為はただ自体を除きて、一切法を以て能作因と為す、彼の生ずる時に障して住せざるゆえ。余の因性もまた能作因なりと雖も、しかるに能作因は更に別称なし、色処等の総すなわち別名の如し。豈に未だ知らざる諸漏のまさに起らんとするに、已知によりて諸漏生ぜず、智は漏の生に能く障碍と為るが如く、日光は能く現に衆星を睹るを障するが如し。如何にして有為はただ自体を除きて、一切法を以て能作因と為すや。まさにこの生ずる時、彼は皆障して住せず、ゆえに彼は此において是れ能作因と知るべし。もし此の生において彼は能く障と為るも障と為らずんば、因と立つべし。譬えば国人はその国主の損害を為さざるを以て、咸くこの説を作す:我は国主に因りて安楽を得、と。もし此の生において彼に障の用無く、設ひ障と為らざるも何を以て因と為さん。且つ涅槃および不生の法は普く一切の有為の生中に於けるが如く、那落迦等の有情の相续は無色界の諸蘊の生中において、有るが如く非有の如く能く障の用無し、障の用無しと雖も而もまた因と為る、無力の国王もまた前の説くが如くを得るが如し。これはすなわち通じて諸の能作因を説く、勝に就いて言を為せば生力無きに非ず。眼・色等の眼識等におけるが如く、飲食の身におけるが如く、種等の牙等におけるが如し。ある作す難:もし一切法は障して住せざるゆえに皆能作因ならば、何の縁に諸法は皆頓に起らざるか。一の殺生の時、何の縁に一切は殺するが如く皆殺業と成らざるか。この難は然らず。但だ障無きに由りて一切法を能作因と許す、生において親しき作力有るに由るに非ず。ある余師の説に:諸の能作因は皆果の生において能作の力有り、と。且つ涅槃等の眼識の生において、如何にして能作の力有りと名づくるか。意識は彼を縁じて境と為して生じあるいは善あるいは悪、この意識に因りて後の時に眼識は次第に生ずるを得、展転の因なるゆえ。彼の涅槃等は眼識の生において能作の力有り、このように余の法もこの方隅によりて展転に能く生ずる力有ると知るべし。このように已に能作因の相を説き竟えた。第二の俱有因の相は如何。頌に曰く:

俱有互為果,如大相所相,

俱有は互いに果と為る、大相の所相の如く、

心於心隨轉。

心は心の随転において。

論曰:若法更互為士用果,彼法更互為俱有因。其相云何?如四大種更互相望為俱有因,如是諸相與所相法心與心隨轉亦更互為因。是則俱有因由互為果遍攝有為法,如其所應。法與隨相非互為果,然法與隨相為俱有因,非隨相於法。此中應辯。何等名為心隨轉法?頌曰:

論に曰く:もし法が更に互いに士用果と為れば、彼の法は更に互いに俱有因と為る。その相は如何。四大種の更に相い望みて俱有因と為るが如く、このように諸の相と所相の法、心と心の随転とも更に互いに因と為る。是則ち俱有因は互いに果と為るによりて有為法を遍く摂す、その応ずる所の如く。法と随相とは互いに果と為るに非ず、しかるに法と随相とは俱有因と為り、随相は法において然らず。此中にまさに弁ずべし。何等を心随転法と名づくるか。頌に曰く:

心所二律儀,彼及心諸相,

心所・二の律儀、彼および心の諸相、

是心隨轉法。

是れ心随転の法。

論曰:一切所有心相應法,靜慮無漏二種律儀,彼法及心之生等相,如是皆謂心隨轉法。如何此法名心隨轉?頌曰:

論に曰く:一切の所有の心相応法、静慮・無漏の二種の律儀、彼の法および心の生等の相、このように皆を心随転法と謂う。如何にしてこの法を心随転と名づくるか。頌に曰く:

由時果善等。

時・果・善等による。

論曰:略說由時果等善等,故說此法名心隨轉。且由時者,謂此與心一生住滅及墮一世。由果等者,謂此與心一果異熟及一等流。應知此中前一後一,顯俱顯共其義不同。由善等者,謂此與心同善、不善、無記性故。由此十因名心隨轉。此中心王極少猶與五十八法為俱有因,謂十大地法彼四十本相、心八本隨相,名五十八法。五十八中除心四隨相,餘五十四為心俱有因。有說:為心因唯十四法,謂十大地法並心本相。此說非善。所以者何?違《品類足論》所說故。如彼論言:或有苦諦以有身見為因,非與有身見為因,除未來有身見及彼相應法生老住非常諸餘染汙苦諦。或有苦諦以有身見為因,亦與有身見為因,即所除法。有餘師不誦及彼相應法。迦濕彌羅國毘婆沙師言:彼文必應作如是誦,或應準義知說有餘,諸由俱有因故成因彼必俱有。或有俱有非由俱有因故成因,謂諸隨相各於本法,此諸隨相各互相對。隨心轉法隨相於心,此諸隨相展轉相對。一切俱生有對造色展轉相對,少分俱生無對造色展轉相對。一切俱生造色大種展轉相對,一切俱生得與所得展轉相對。如是等諸法雖名俱有,而非由俱有因故成因,非一果異熟及一等流故。得與所得非定俱行,或前或後或俱生故。如是一切理且可然,而諸世間種等芽等極成因果相生事中,未見如斯同時因果,故今應說。云何俱起諸法聚中有因果義?豈不現見燈焰燈明芽影同時亦為因果。此應詳辯:為即燈焰與明為因、為由前生因緣和合焰明俱起?餘物障光明而有影現,如何說此影用芽為因?理不應然,隨有無故。善因明者說因果相,言若此有無,彼隨有無者,此定為因,彼定為果。俱有法中一有一切有、一無一切無,理成因果。俱起因果理且可然,如何可言互為因果?即由前說,此亦無違。若爾,如前所說造色互不相離,應互為因。

論に曰く:略して説けば時・果等・善等によりて、ゆえにこの法を心随転と説き名づく。且つ時によるとは、いわゆるこれは心と一の生・住・滅および堕して一世。果等によるとは、いわゆるこれは心と一の果・異熟および一の等流。まさに此中の前の一・後の一は、俱を顕し共を顕してその義同じからずと知るべし。善等によるとは、いわゆるこれは心と同じく善・不善・無記性なるゆえ。この十因によりて心随転と名づく。此中の心王は極めて少なくともなお五十八法と俱有因と為る、いわゆる十大地法・彼の四十の本相、心の八の本・随相、名づけて五十八法。五十八中に心の四随相を除きて、其余の五十四は心の俱有因と為る。ある説に:心の因と為るはただ十四法、いわゆる十大地法ならびに心の本相、と。この説は善に非ず。所以者何。『品類足論』の説く所に違するゆえ。彼の論の説くが如く:あるいは苦諦ありて有身見を以て因と為し、有身見と因と為さず、未来の有身見および彼の相応法の生・老・住・非常の諸の余の染污の苦諦を除く。あるいは苦諦ありて有身見を以て因と為し、もまた有身見と因と為す、すなわち除く所の法、と。ある余師は「および彼の相応法」を誦せず。迦湿弥羅国の毘婆沙師説く:彼の文は必ずこのように誦すべし、あるいはまさに義に準じて余有ると説くを知るべし、諸の俱有因によりて因と成るは彼は必ず俱有なり、と。あるいは俱有なれど俱有因によりて因と成るに非ず、いわゆる諸の随相は各々本法において、此の諸の随相は各々互いに対す。心に随転する法の随相は心において、此の諸の随相は展転に相対す。一切の俱生の有対の造色は展転に相対し、少分の俱生の無対の造色は展転に相対し、一切の俱生の造色・大種は展転に相対し、一切の俱生の得と所得とは展転に相対す。このごとき等の諸法は俱有と名づくと雖も、しかるに俱有因によりて因と成るに非ず、一果の異熟および一の等流に非ざるゆえ。得と所得とは定めて俱に行らず、あるいは前あるいは後あるいは俱に生ずるゆえ。このように一切の理は且つこの如くあるべし、しかるに諸の世間の種等・牙等の極成する因果相生の事中に、未だかくのごとき同時の因果を見ざりき、ゆえに今まさに説くべし。如何にして俱に起る諸法聚中に因果の義有るか。豈に現に灯焔・灯明・芽・影の同時にしても因果と為るを見ざらんや。これはまさに詳しく弁ずべし:即ち灯焔が明と因と為るか、それとも前生の因縁の和合によりて焔・明が俱に起るによるか。余の物が光明を障して影の現有る、如何にしてこの影は芽を以て因と為すと説くや。理はまさに然るべからず、有無に随うゆえ。因明に善い者は因果の相を説いて、もし此の有無あれば彼は有無に随う、此は定めて因、彼は定めて果と説く。俱有の法中は一有れば一切有り、一無ければ一切無し、理は因果を成ず。俱起の因果の理は且つこの如くあるべし、如何にして互いに因果と為ると説きうるか。すなわち前の説くによりて、これもまた違わず。もし爾ならば、前に説く所の造色は互いに相離れず、まさに互いに因と為るべし。

如是造色與諸大種心隨相等與心等法皆不相離,應互為因。若謂如三杖互相依住,如是俱有法因果義成。此應思惟,如是三杖為由俱起相依力住?為由前生因緣合力令彼三杖俱起住耶?又於彼中亦有別物繩鉤地等連持令住,此亦有餘同類因等,是故俱有因義得成。如是已說俱有因相。第三同類因相云何?頌曰:

(論に続けて曰く:)このように造色と諸の大種、心の随相等と心等の法とは皆相離れず、まさに互いに因と為るべし。もし三杖の互いに相依りて住するが如しと謂わば、このように俱有の法は因果の義成れり。これはまさに思惟すべし:かくのごとき三杖は俱に起る相依の力によりて住するによるか、それとも前生の因縁の合力によりて彼の三杖を俱に起り住せしむるによるか。また彼においてもまた別物の縄・鈎・地等有りて連持して住せしむ、これにもまた余の同類因等有り、ゆえに俱有因の義は成るを得。このように已に俱有因の相を説き竟えた。第三の同類因の相は如何。頌に曰く:

同類因相似,自部地前生,

同類因は相似にして、自部・自地の前生、

道展轉九地,唯等勝為果,

道は展転に九地、ただ等・勝を果と為し、

加行生亦然,聞思所成等。

加行生もまたこの如し、聞・思の成ずる所等。

論曰:同類因者,謂相似法與相似法為同類因,謂善五蘊與善五蘊展轉相望為同類因,染汙與染汙、無記與無記五蘊相望應知亦爾。有餘師說:淨無記蘊五是色果,四非色因。有餘師說:五是四果,色非四因。有餘師說:色與四蘊相望展轉皆不為因。又一身中羯剌藍位,能與十位為同類因。頞部曇等九位,一一皆除前位與餘為因,若對餘身同類十位,一一皆與十位為因。由此方隅外麥稻等,自類自類應廣思擇。若不許色為色同類因,彼執便違本論文所說。故本論說:過去大種、未來大種因增上等。為諸相似於相似法皆可得說為同類因?不爾。云何?自部自地唯與自部自地為因,是故說言自部自地。部謂五部,即見苦所斷乃至修所斷。地謂九地,即欲界為一靜慮、無色八。此中見苦所斷法還與見苦所斷為同類因非餘,如是乃至修所斷還與修所斷法為同類因非餘。於中一一,若欲界地還與欲界為同類因,初靜慮地與初靜慮為同類因,乃至有頂與有頂地為同類因;異地相望皆無因義。又此非一切。何者?謂前生唯諸前生與後相似生未生法為同類因。云何知然?本論說故。如《發智論》說:云何同類因?謂前生善根與後生自界善根及彼相應法為同類因。如是過去與餘二世,過去現在與未來等皆應廣說。然即彼論作是問言:若法與彼法為因,或時此法與彼非因耶?彼即答言:無時非因者,此依俱有、相應、異熟三因密說,故無有過。有謂未來正生位法定能與彼為同類因,是故彼文依最後位密作是答無時非因。彼於所難非為善釋。以未來法正生位前非同類因,後方成故。又若爾者,彼復問言:若法與彼法為等無間,或時此法與彼非等無間耶?彼即答言:若時此法未至已生。若如彼釋,應亦答言無時非緣,如何乃答若時此法未至已生。然彼復釋,為現二門,如彼處說,此亦應爾;如此處說,彼亦應爾。如是作文獲何功德?

論に曰く:同類因とは、いわゆる相似の法と相似の法とが同類因と為る、いわゆる善の五蘊は善の五蘊と展転に相い望みて同類因と為り、染污と染污、無記と無記の五蘊の相い望むもまさにこの如く知るべし。ある余師の説に:浄無記の蘊は五は色の果、四は色の因に非ず、と。ある余師の説に:五は四の果、色は四の因に非ず、と。ある余師の説に:色と四蘊とは相い望みて展転に皆因と為らず、と。また一身中の羯剌藍(かつらん)位は、能く十位と同類因と為る。頞部曇等の九位は一一皆前の位を除きて其余と因と為る、もし余の身の同類の十位に対せば、一一皆十位と因と為る。この方隅によりて外の麦・稲等は、自類・自類まさに広く思択すべし。もし色を色の同類因と為すを許さざれば、彼の執は便ち本論の文の説く所に違せん。ゆえに本論に説く:過去の大種、未来の大種の因、増上等、と。諸の相似は相似の法において皆同類因と説くを得るか。然らず。如何。自部・自地はただ自部・自地と因と為る、ゆえに自部・自地と説く。部とは五部を謂う、すなわち見苦所断乃至修所断。地とは九地を謂う、すなわち欲界を一とし、静慮・無色を八とす。此中の見苦所断法は還りて見苦所断と同類因と為りて其余に非ず、このように乃至修所断も還りて修所断法と同類因と為りて其余に非ず。その中の一一に於て、もし欲界地は還りて欲界と同類因と為り、初静慮地は初静慮と同類因と為り、乃至有頂は有頂地と同類因と為る。異地の相い望むは皆無因の義。またこれは一切に非ず。何者ぞ。いわゆる前生はただ諸の前生は後の相似の生・未生の法と同類因と為る。どうしてこの如くと知るか。本論の説くゆえ。『発智論』の説くが如く:何を同類因とするか。いわゆる前生の善根は後生の自界の善根および彼の相応法と同類因と為る、と。このように過去は其余の二世と、過去・現在は未来と等、皆まさに広く説くべし。しかるにすなわち彼の論に是の問を作して説く:もし法は彼の法と因と為る、あるいは時にこの法は彼と因に非ざるや、と。彼はすなわち答えて説く:時に因に非ざる無し、と。これは俱有・相応・異熟の三因に依りて密かに説く、ゆえに過有ることなし。ある謂う:未来の正生の位の法は定めて彼と同類因と為りうべし、ゆえに彼の文は最後の位に依りて密かに是の答を作し時に因に非ざる無しと、と。彼は難ずる所において善釈と為さず。未来の法は正生の位の前は同類因に非ず、後に方に成るを以てなり。またもしこのようにならば、彼は復た問うて説く:もし法は彼の法と等無間と為る、あるいは時にこの法は彼と等無間に非ざるや、と。彼はすなわち答えて説く:もし時にこの法は未だ已生に至らず、と。もし彼の釈の如くならば、まさにもまた時に縁に非ざる無しと答え説くべし、如何にして乃ち若し時にこの法は未だ已生に至らずと答えるや。しかるに彼は復た釈して、二門を現さんが為と為す、彼の処に説くが如くこれもまたこの如くあるべし、この処に説くが如く彼もまたこの如くあるべし。このように文を作して何の功徳を獲るか。

唯顯論主非善於文。是故應知前釋為善。若爾,何故《品類足》說:或有苦諦以有身見為因,非與有身見為因,除未來有身見及彼相應苦諦諸餘染汙苦諦。或有苦諦以有身見為因,亦與有身見為因,即所除法。彼文應說,除未來有身見相應苦諦。設有如彼說,由義應知非。復云何通《施設足論》?彼說諸法四事決定,所謂因、果、所依、所緣。應知彼文,因者謂能作、俱有、相應、異熟因。果者,謂增上、士用、異熟果。所依者謂眼等六根。所緣者謂色等六境。若爾,同類因應本無而有,許故無過。約位非體,由和合作用位果非體果。若同類因未來世有,如異熟因,當有何過?未來若有,本論應說。本論唯說能取與果諸同類因,故無有失。無如是義,以同類因引等流果此未來有,理必不然,無前後故。不應已生法為未生等流,如過去法非現在果。勿有果先因後過失故,未來世無同類因。若爾,異熟因應未來非有,不應異熟果因前及俱故。未來世法無前後故,無如是失,不相似故。謂同類因與果相似,若無前後應互為因,既互為因應互為果,互為因果與理相違。非異熟因與果相似,雖離前後而無上過,故同類因就位建立未來非有,若異熟因就相建立未來非無。言同類因唯自地者,定依何說?定依有漏。若無漏道展轉相望一一皆與九地為因,謂未至定、靜慮中間、四本靜慮、三本無色,九地道諦皆互為因。所以者何?此於諸地皆如客住不墮界攝,非諸地愛執為己有,是故九地道雖地不同而展轉為因,由同類故。然唯得與等勝為因,非為劣因,加行生故。且如已生苦法智忍還與未來苦法智忍為同類因,是名為等。又即此忍復能與後從苦法智至無生智為同類因,是名為勝。如是廣說,乃至已生諸無生智唯與等類為同類因,更無勝故。又諸已生見道修道及無學道,隨其次第與三二一為同類因。

(論に続けて曰く:)ただ論主が文に善ならざるを顕す。ゆえに前の釈を善と為すと知るべし。もし爾ならば、何の故に『品類足』に説く:あるいは苦諦ありて有身見を以て因と為し、有身見と因と為さず、未来の有身見および彼の相応の苦諦の諸の余の染污の苦諦を除く。あるいは苦諦ありて有身見を以て因と為し、もまた有身見と因と為す、すなわち除く所の法、と。彼の文はまさに説くべし、未来の有身見の相応の苦諦を除く、と。設ひ彼の説くが如くとも、義によりてまさに非と知るべし。復た如何にして『施設足論』を通ぜん。彼は諸法の四事の決定を説く、いわゆる因・果・所依・所縁。まさに彼の文を知るべし、因とは能作・俱有・相応・異熟因を謂う。果とは、増上・士用・異熟果を謂う。所依とは眼等の六根を謂う。所縁とは色等の六境を謂う。もし爾ならば、同類因はまさに本無くして有るべし、許すゆえに過なし。位に約して体に非ず、和合作用の位の果に由りて体の果に非ず。もし同類因は未来世に有らば、異熟因の如く、まさに何の過か有らん。未来にもし有らば、本論はまさに説くべし。本論はただ能く果を取り与える諸の同類因を説く、ゆえに失有ることなし。かくのごとき義無し、同類因は等流果を引くもこの未来に有るは、理は必ず然らず、前後なきゆえ。已生の法を未生の等流と為すべからず、過去の法が現在の果に非ざるが如し。果ありて先に因後の過失なからしめんがためのゆえ、未来世に同類因なし。もし爾ならば、異熟因はまさに未来は非有とすべし、異熟果の因は前および俱に非ざるべからざるゆえ。未来世の法は前後なきゆえに、かくのごとき失なし、相似せざるゆえ。いわゆる同類因は果と相似す、もし前後無くんばまさに互いに因と為るべし、既に互いに因と為ればまさに互いに果と為るべし、互いに因果と為るは理と相違す。異熟因は果と相似するに非ず、前後を離ると雖も上の過なし、ゆえに同類因は位に就きて建立して未来は非有、もし異熟因は相に就きて建立して未来は非無。同類因はただ自地と説くは、定めて何に依りて説くか。定めて有漏に依る。もし無漏の道は展転に相い望みて一一皆九地と因と為る、いわゆる未至定・静慮中間・四本静慮・三本無色、九地の道諦は皆互いに因と為る。所以者何。これは諸地において皆客の住するが如く界摂に堕せず、諸地の愛は己が有と執せざるゆえに、九地の道は地同じからざると雖も展転に因と為る、同類なるを以てなり。しかるにただ等・勝と因と為るを得て劣の因と為らず、加行生なるゆえ。且つ已生の苦法智忍は還りて未来の苦法智忍と同類因と為るが如く、是れを等と名づく。またすなわちこの忍は復た能く後の苦法智より至る无生智と同類因と為る、是れを勝と名づく。このように広く説き、乃至已生の諸の无生智はただ等類と同類因と為るのみ、更に勝無きゆえ。また諸の已生の見道・修道および無学道は、その次第に随いて三・二・一と同類因と為る。

又於此中諸鈍根道與鈍及利為同類因。若利根道唯利道因,如隨信行及信勝解時解脫道,隨其次第與六四二為同類因。若隨法行及見至非時解脫道,隨其次第與三二一為同類因。諸上地道為下地因。云何名為或等或勝?由因增長及由根故。謂見道等下下品等,後後位中因轉增長。雖一相續中無容可得隨信隨法行二道現起,而已生者為未來因。為唯聖道但與等勝為同類因?不爾。云何?餘世間法加行生者亦與等勝為因非劣。加行生法其體云何?謂聞所成、思所成等。等者等取。修所成等,因聞思修所生功德,名彼所成,加行生故唯與等勝為因非劣。如欲界繫,聞所成法能與自界聞思所成為同類因,非修所成因,欲界無故。思所成法與思所成為同類因,非聞所成因,以彼劣故。若色界繫聞所成法,能與自界聞修所成為同類因,非思所成因,色界無故。修所成法唯與自界修所成法為同類因,非聞所成因,以彼劣故。無色界繫修所成法,唯與自界修所成法為同類因,非聞思所成因,以無故劣故。如是諸法復有九品,若下下品為九品因,下中八因,乃至上上唯上上因,除前劣故。生得善法九品相望展轉為因,染汙亦爾。無覆無記總有四種,謂異熟生、威儀路、工巧處、化心俱品,隨其次第,能與四三二一為因。又欲界化心有四靜慮果,非上靜慮果下靜慮果因,非加行因得下劣果,如勤功力種稻麥等。勿設劬勞而無所獲。因如是義,故有問言:頗有已生諸無漏法非未生位無漏法因?有,謂已生苦法智品於未生位苦法忍品,又一切勝於一切劣。頗有一身諸無漏法前所定得非後生因?有,謂未來苦法忍品於後已生苦法智品,以果必無在因前故,或同類因未來無故。頗有前生諸無漏法非後已起無漏法因?有,謂前生勝無漏法於後已起劣無漏法,如退上果下果現前。又前已生苦法智得,於後已生苦法忍得非同類因,以彼劣故。

(論に続けて曰く:)また此中において諸の鈍根の道は鈍および利と同類因と為る。もし利根の道はただ利道の因、随信行および信勝解・時解脱の道の如く、その次第に随いて六・四・二と同類因と為る。もし随法行および見至・非時解脱の道は、その次第に随いて三・二・一と同類因と為る。諸の上地の道は下地の因と為る。如何にしてあるいは等あるいは勝と名づくるか。因の増長によるおよび根によるゆえ。いわゆる見道等の下下品等は、後後の位中において因は転じて増長す。一相续中に随信・随法行の二道の現起を容れ得る無しと雖も、しかるに已生のは未来の因と為る。ただ聖道のみが等・勝と同類因と為るか。然らず。如何。余の世間法の加行生もまた等・勝と因と為りて劣に非ず。加行生の法のその体は如何。いわゆる聞所成・思所成等。「等」は修所成等を等取す、聞・思・修に因りて生ずる所の功徳を彼の所成と名づく、加行生なるゆえにただ等・勝と因と為りて劣に非ず。欲界繫の如く、聞所成の法は能く自界の聞・思所成と同類因と為る、修所成の因に非ず、欲界に無きゆえ。思所成の法は思所成と同類因と為る、聞所成の因に非ず、彼の劣なるを以て。もし色界繫の聞所成の法は、能く自界の聞・修所成と同類因と為る、思所成の因に非ず、色界に無きゆえ。修所成の法はただ自界の修所成法と同類因と為る、聞所成の因に非ず、彼の劣なるを以て。無色界繫の修所成法は、ただ自界の修所成法と同類因と為る、聞・思所成の因に非ず、無きを以て劣なるを以て。このように諸法に復た九品あり、もし下下品は九品の因と為り、下中は八の因、乃至上上はただ上上の因、前の劣を除くゆえ。生得の善法は九品相い望みて展転に因と為り、染污もまたこの如し。無覆無記は総じて四種あり、いわゆる異熟生・威儀路・工巧処・化心の俱品、その次第に随いて、能く四・三・二・一と因と為る。また欲界の化心に四静慮果あり、上の静慮果は下の静慮果の因に非ず、加行の因は下劣の果を得るに非ず、勤め功力して稲・麦等を種うるが如し。労を設けて獲る所なからしむる勿れ。かかる義に因りて、ゆえに問を説く有り:頗る已生の諸の無漏法ありて未生の位の無漏法の因に非ざるか。有り、いわゆる已生の苦法智品は未生の位の苦法忍品において、また一切の勝は一切の劣において。頗る一身の諸の無漏法ありて前の定得は後生の因に非ざるか。有り、いわゆる未来の苦法忍品は後の已生の苦法智品において、果は必ず因の前に在ることなきを以て、あるいは同類因は未来無きゆえ。頗る前生の諸の無漏法ありて後の已起の無漏法の因に非ざるか。有り、いわゆる前生の勝の無漏法は後の已起の劣の無漏法において、上の果を退りて下の果が現前するが如し。また前の已生の苦法智得は、後の已生の苦法忍得において同類因に非ず、彼の劣なるを以て。

如是已說同類因相。第四相應因相云何?頌曰:

このように已に同類因の相を説き竟えた。第四の相応因の相は如何。頌に曰く:

相應因決定,心心所同依。

相応因は決定す、心・心所は同じく依。

論曰:唯心心所是相應因。若爾,所緣行相別者,亦應更互為相應因。不爾,所緣行相同者乃可得說為相應故。若爾,異時所緣行相同者應說為相應因。不爾,要須所緣行相及時同者乃相應故。若爾,異身所緣行相及時同者應說相應,如眾同觀初月等事,為以一言總遮如是眾多妨難,故說同依。謂要同依心心所法,方得更互為相應因。此中同言顯所依一,謂若眼識用此剎那眼根為依,相應受等亦即用此眼根為依,乃至意識及相應法同依意根,應知亦爾。相應因體即俱有因,如是二因義何差別?由互為果義立俱有因,如商侶相依共遊險道。由五平等共相應義立相應因,即如商侶同受同作食等事業,其中闕一皆不相應,是故極成互為因義。如是已說相應因相。第五遍行因相云何?頌曰:

論に曰く:ただ心・心所のみ是れ相応因。もし爾ならば、所縁・行相別なるも、まさにも更に互いに相応因と為るべし。然らず、所縁・行相の同じき乃ち相応と説くを得るゆえ。もし爾ならば、異時の所縁・行相の同じきはまさに相応因と説くべし。然らず、要して所縁・行相および時の同じきを須いて乃ち相応なるゆえ。もし爾ならば、異身の所縁・行相および時の同じきはまさに相応と説くべし、衆の同じく初月等の事を観ずるが如し。一言を以てかかる衆多の妨難を総じて遮らんがため、ゆえに同依と説く。いわゆる要して同じく依なる心・心所法にして、方に更に互いに相応因と為るを得。此中の同の言は所依の一なるを顕す、いわゆるもし眼識がこの刹那の眼根を用いて依と為せば、相応の受等もまた即ちこの眼根を用いて依と為す、乃至意識および相応法も同じく意根に依る、まさにこの如く知るべし。相応因の体はすなわち俱有因、このように二因の義は何の差別ぞ。互いに果と為るの義によりて俱有因を立つ、商侶の相依りて共に険道を遊ぶが如し。五の平等の共に相応する義によりて相応因を立つ、すなわち商侶の同じく受し同じく作す食等の事業の如く、その中に一を闕けば皆相応せず、ゆえに極成して互いに因と為る義なり。このように已に相応因の相を説き竟えた。第五の遍行因の相は如何。頌に曰く:

遍行謂前遍,為同地染因。

遍行とは前の遍なるを謂い、同地の染の因と為る。

論曰:遍行因者,謂前已生遍行諸法,與後同地染汙諸法為遍行因。遍行諸法,隨眠品中遍行義處當廣分別。此與染法為通因故,同類因外更別建立。亦為餘部染法因故,由此勢力餘部煩惱及彼眷屬亦生長故。聖者身中諸染汙法,豈亦用此為遍行因?迦濕彌羅國毘婆沙師說:一切染汙法,見所斷為因。故《品類足》說如是言:云何見所斷為因法?謂諸染汙法及見所斷法所感異熟。云何無記為因法?謂諸無記有為法及不善法。或有苦諦以有身見為因,非與有身見為因,廣說乃至,除未來有身見及彼相應法生老住無常諸餘染汙苦諦。若爾,云何通《施設足論》說?如彼論說:頗有法是不善唯不善為因耶?有,謂聖人離欲退最初已起染汙思,依未斷因密作是說。見所斷法雖是此因,而由已斷故廢不說。如是已說遍行因相。第六異熟因相云何?頌曰:

論に曰く:遍行因とは、いわゆる前の已生の遍行の諸法が、後の同地の染污の諸法と遍行因と為る。遍行の諸法は、随眠品中の遍行義の処にまさに広く分別すべし。これは染法と通因と為るゆえに、同類因の外に更に別に建立す。もまた余部の染法の因と為るゆえ、この勢力によりて余部の煩悩および彼の眷属もまた生長するゆえ。聖者の身中の諸の染污法も、豈にもこれを用いて遍行因と為さんや。迦湿弥羅国の毘婆沙師説く:一切の染污法は見所断を因と為す、と。ゆえに『品類足』にかかる言を説く:何を見所断を因と為る法とするか。いわゆる諸の染污法および見所断法の感ずる所の異熟。何を無記を因と為る法とするか。いわゆる諸の無記の有為法および不善法。あるいは苦諦ありて有身見を以て因と為し、有身見と因と為さず、広く説きて乃至、未来の有身見および彼の相応法の生・老・住・無常の諸の余の染污苦諦を除く、と。もし爾ならば、如何にして『施設足論』の説を通ぜん。彼の論の説くが如く:頗る法の是れ不善にしてただ不善を因と為す有るか。有り、いわゆる聖人の欲を離れて退するに最初の已起の染污の思、未断の因に依りて密かに是の説を作す。見所断法は是れこの因なると雖も、しかるに已断なるに由りて廃して説かず。このように已に遍行因の相を説き竟えた。第六の異熟因の相は如何。頌に曰く:

異熟因不善,及善唯有漏。

異熟因は不善、および善のただ有漏のみ。

論曰:唯諸不善及善有漏是異熟因,異熟法故。何緣無記不招異熟?由力劣故,如朽敗種。何緣無漏不招異熟?無愛潤故,如貞實種無水潤沃。又非繫地,如何能招繫地異熟?餘法具二,是故能招,如貞實種、水所沃潤。異熟因義如何可了?為異熟之因名異熟因?為異熟即因名異熟因?義兼兩釋,斯有何過?若異熟之因名異熟因,聖教不應言異熟生眼。若異熟即因名異熟因,聖教不應言業之異熟。兩釋俱通,已如前辯。所言異熟其義云何?毘婆沙師作如是釋:異類而熟是異熟義,謂異熟因唯異類熟。俱有等因唯同類熟,能作一因兼同異熟,故唯此一名異熟因。熟果不應餘因所得,果具二義方得熟名:一由相續轉變差別其體得生,二由隨因勢力勝劣時有分限。非彼俱有、相應二因所生果體,要由相續轉變差別方乃得生,由取果時即與果故。又非能作同類、遍行三因之果,亦由隨因勢力勝劣、時有分限,由善惡等窮生死邊果數數生、時無限故。由此但應作如是釋。變異而熟是異熟義,不應但異簡別餘因。於欲界中有時一蘊為異熟因共感一果,謂有記得及彼生等。有時二蘊為異熟因共感一果,謂善不善身業語業及彼生等。有時四蘊為異熟因共感一果,謂善不善心心所法及彼生等。於色界中有時一蘊為異熟因共感一果,謂有記得、無想等至及彼生等。有時二蘊為異熟因共感一果,謂初靜慮善有表業及彼生等。有時四蘊為異熟因共感一果,謂非等引善心心所及彼生等。有時五蘊為異熟因共感一果,謂是等引心心所法並隨轉色及彼生等。無色界中有時一蘊為異熟因共感一果,謂有記得、滅盡等至及彼生等。有時四蘊為異熟因共感一果,謂一切善心心所法及彼生等。有業唯感一處異熟,謂感法處,即命根等。若感意處,定感二處,謂意與法。若感觸處應知亦爾。若感身處,定感三處,謂身觸法。感色香味應知亦爾。

論に曰く:ただ諸の不善および善の有漏のみ是れ異熟因、異熟の法なるゆえ。何の縁に無記は異熟を招かざるか。力の劣なるゆえ、朽敗の種の如し。何の縁に無漏は異熟を招かざるか。愛の潤無きゆえ、貞実の種の水の潤沃なきが如し。また繫の地に非ず、如何にして繫の地の異熟を招き得んや。余の法は二を具するゆえに能く招く、貞実の種の水の沃潤する所の如し。異熟因の義は如何にして了すべきか。異熟の因を異熟因と名づくるか、それとも異熟が即ち因を異熟因と名づくるか。義は両釈を兼ぬればこれに何の過かあらん。もし異熟の因を異熟因と名づくれば、聖教は異熟生の眼を説くべからず。もし異熟が即ち因を異熟因と名づくれば、聖教は業之異熟を説くべからず。両釈は俱に通ず、已に前に弁ずるが如し。言う所の異熟のその義は如何。毘婆沙師がかく釈を作す:異類にして熟するは是れ異熟の義、いわゆる異熟因はただ異類に熟す。俱有等の因はただ同類に熟し、能作の一因は同・異熟を兼ぬ、ゆえにただこの一を異熟因と名づく。熟果は余の因の得る所なるべからず、果は二義を具して方に熟の名を得:一には相续・転変・差別によりてその体が生ずるを得、二には因の勢力の勝劣に随いて時に分限ある。彼の俱有・相応の二因の生ずる所の果体に非ざるは、要して相续・転変・差別によりて方に乃ち生ずるを得るに非ざればならず、果を取る時に即ち果を与えるゆえ。また能作・同類・遍行の三因の果に非ざるも、また因の勢力の勝劣に随い・時に分限あるに由らず、善悪等によりて生死の辺に窮まり果は数々生じ時に限なきゆえ。これによりて但だまさにかく釈を作すべし。変異して熟するは是れ異熟の義、まさに但だ異を以て余の因を簡別すべからず。欲界中においてある時は一蘊が異熟因と為りて共に一果を感ず、いわゆる有記の得および彼の生等。ある時は二蘊が異熟因と為りて共に一果を感ず、いわゆる善・不善の身業・語業および彼の生等。ある時は四蘊が異熟因と為りて共に一果を感ず、いわゆる善・不善の心・心所法および彼の生等。色界中においてある時は一蘊が異熟因と為りて共に一果を感ず、いわゆる有記の得・無想の等至および彼の生等。ある時は二蘊が異熟因と為りて共に一果を感ず、いわゆる初静慮の善の有表業および彼の生等。ある時は四蘊が異熟因と為りて共に一果を感ず、いわゆる等引に非ざる善の心・心所および彼の生等。ある時は五蘊が異熟因と為りて共に一果を感ず、いわゆる是れ等引の心・心所法ならびに随転の色および彼の生等。無色界中はある時は一蘊が異熟因と為りて共に一果を感ず、いわゆる有記の得・滅尽の等至および彼の生等。ある時は四蘊が異熟因と為りて共に一果を感ず、いわゆる一切の善の心・心所法および彼の生等。ある業はただ一処の異熟を感ず、いわゆる法処を感ず、すなわち命根等。もし意処を感ぜば、定めて二処を感ず、いわゆる意と法。もし触処を感ずればまさにこの如く知るべし。もし身処を感ぜば、定めて三処を感ず、いわゆる身・触・法。色・香・味を感ずるもまさにこの如く知るべし。

若感眼處定感四處、謂感眼處及身觸法。感耳鼻舌應知亦爾。有業能感或五或六或七或八或九或十或十一處,業或少果或多果故。如外種果或少或多,種果少者如穀麥等,種果多者如蓮石榴諾瞿陀等。有一世業三世異熟,無三世業一世異熟,勿設劬勞果減因故。有一念業多念異熟,無多念業一念異熟,此中所以如上應知。然異熟果無與業俱,非造業時即受果故。亦非無間,由次剎那等無間緣力所引故。又異熟因感異類果必待相續方能辦故。如是六因定居何世?因居世定。義雖已說而未頌攝,故應重辯。頌曰:

(論に続けて曰く:)もし眼処を感ぜば定めて四処を感ず、いわゆる眼処を感じおよび身・触・法。耳・鼻・舌を感ずるもまさにこの如く知るべし。ある業は能くあるいは五あるいは六あるいは七あるいは八あるいは九あるいは十あるいは十一処を感ず、業に少果あるいは多果あるゆえ。外の種果のあるいは少なくあるいは多きが如し、種果の少なきは穀・麦等の如く、種果の多きは蓮・石榴・諾瞿陀等の如し。一世の業に三世の異熟有り、三世の業に一世の異熟無し、労を設けて果は因に減ずるを勿れのゆえ。一念の業に多念の異熟有り、多念の業に一念の異熟無し、此中のゆえは上の如く知るべし。しかるに異熟果は業と俱に有る無し、業を造る時に即ち果を受くるに非ざるゆえ。もまた無間に非ず、次の刹那の等無間縁の力の引く所に由るゆえ。また異熟因は異類の果を感ずるに必ず相続を待ちて方に能く弁ずるゆえ。このように六因は定めて何の世に居するか。因は世に居して定まり。義は已に説くと雖も未だ頌に摂せず、ゆえにまさに重ねて弁ずべし。頌に曰く:

遍行與同類,二世三世三。

遍行と同類とは、二世、三世には三。

論曰:遍行、同類唯居過現,未來世無,理如前說。相應、俱有、異熟三因,於三世中皆悉遍有。頌既不說能作因所居,義準應知通三世非世。已說六因相別世定。何等為果對彼成因?頌曰:

論に曰く:遍行・同類はただ過・現に居す、未来世には無し、理は前に説くが如し。相応・俱有・異熟の三因は三世中に皆悉く遍有す。頌は既に能作因の居する所を説かず、義に準じて三世・非世に通ずと知るべし。已に六因の相の世の定を別えて説き竟えた。何等が果にして彼に対して因と成るか。頌に曰く:

果有為離繫,無為無因果。

果は有為は離繫、無為は因も果も無し。

論曰:如本論說:果法雲何?謂諸有為及與擇滅。若爾,無為許是果故則應有因,要對彼因乃可得說此為果故。又此無為許是因故亦應有果,要對彼果乃可得說此為因故。唯有為法有因有果,非諸無為。所以者何?無六因故、無五果故。何緣不許諸無間道與離繫果為能作因?於生不障立能作因,無為無生道何所作?若爾,誰果?果義如何?謂是道果,道力得故。若爾,道果應唯是得,道於得有能,非於擇滅故。不爾,於得於擇滅中,道之功能有差別故。云何於得道有功能?謂能生故。云何於滅道有功能?謂能證故。由此理故,道雖非滅因,而可得說擇滅為道果。既諸無為無增上果,如何可說為能作因?以諸無為於他生位不為障故立能作因。然無果者,由離世法無能取果與果用故。經部師說:無為非因,無經說因是無為故,有經說因唯有為故。何處經說?如有經說:諸因諸緣能生色者皆是無常。無常因緣所生諸色如何是常?廣說乃至識亦如是。若爾,無為亦應不與能緣識等作所緣緣。唯說能生故得作所緣緣,謂經唯說諸因諸緣能生識者皆是無常,不說一切為識緣者皆是無常,故不成難。豈不亦說唯能生因是無常故,不撥無為唯不障故為能作因。有契經中說無為法為所緣緣,無契經中說無為法為能作因故。不應立為唯不障因性,雖無經說亦無處遮。又無量經今已隱沒,云何定判無經說耶?若爾,何法名為離繫?即本論中所說擇滅。豈不先問:何謂擇滅?答是離繫。今問何法名為離繫?答是擇滅。如是二答更互相依,於此自性竟不能顯,故應別門開顯自性。此法自性實有離言,唯諸聖者各別內證,但可方便總相說言是善是常,別有實物名為擇滅亦名離繫。經部師說:一切無為皆非實有,如色受等別有實物,此所無故。若爾,何故名虛空等?唯無所觸說名虛空,謂於闇中無所觸對,便作是說此是虛空。

論に曰く:本論の説くが如く:果の法は如何。いわゆる諸の有為および択滅。もし爾ならば、無為は果なるを許すゆえに則ち因有るべし、要して彼の因に対して乃ちこれを果と説くを得るゆえ。またこの無為は因なるを許すゆえにもまた果有るべし、要して彼の果に対して乃ちこれを因と説くを得るゆえ。ただ有為法のみ因果有り、諸の無為に非ず。所以者何。六因無きゆえ、五果無きゆえ。何の縁に諸の無間道は離繫果と能作因と為るを許さざるか。生を障せずして能作因を立つ、無為は生無し、道は何の作する所か。もし爾ならば、誰の果ぞ。果の義は如何。いわゆる是れ道の果、道の力の得たるゆえ。もし爾ならば、道果はまさにただ得のみなるべし、道は得において能有り、択滅においてに非ざるゆえ。然らず、得において択滅中において、道の功能に差別有るゆえ。如何にして得において道に功能有るか。いわゆる能く生ずるゆえ。如何にして滅において道に功能有るか。いわゆる能く証するゆえ。この理に由るゆえに、道は滅の因に非ずと雖も、しかるに択滅を道果と説くを得。既に諸の無為は増上果無し、如何にして能作因と為ると説きうるか。諸の無為は他の生の位において障と為らざるを以て能作因を立つ。しかるに果なきは、世の法を離れて能く果を取り果を与うるの用なきゆえ。経部師説く:無為は因に非ず、因は無為と説く経無きゆえ、因はただ有為と説く経有るゆえ。何の処に経は説くや。経の説く有るが如く:諸の因・諸の縁の能く色を生ずるは皆是无常。無常の因縁の生ずる所の諸色は如何にして是れ常ならん、と。広く説きて乃至識もまたこの如し。もし爾ならば、無為もまたまさに能縁の識等と所縁縁を作るべからざらんや。ただ能く生ずるを説くゆえに所縁縁を作るを得、いわゆる経はただ諸因諸縁の能く識を生ずるは皆是无常と説き、一切の識に縁と為るは皆是无常とは説かず、ゆえに難を成さず。豈にもまたただ能生の因は是无常と説くゆえに、無為を撥せずしてただ障せざるを以て能作因と為さざらんや。契経中に無為法を所縁縁と為すと説く有り、契経中に無為法を能作因と為すと説く無きゆえ。まさにただ障せざるの因性と立つべからず、経に説く無しと雖もまた遮る処無し。また無量の経は今已に隠没し、如何にして定めて経の説無しと判ぜんや。もし爾ならば、何の法を離繫と名づくるか。すなわち本論中の説く所の択滅。豈に先に問わざらんや:何を択滅と謂う。答えて是れ離繫。今問う、何の法を離繫と名づくる。答えて是れ択滅。このように二答は更に互相依し、この自性において竟に顕す能わず、ゆえにまさに別門に開顕して自性とすべし。この法の自性は実有にして言を離る、ただ諸の聖者が各別に内に証す、但だ方便に総相を善是れ常と説くべきのみ、別に実物有りて択滅と名づきもまた離繫と名づく。経部師説く:一切の無為は皆実有に非ず、色・受等の別に実物有るが如く、これの無き所なるゆえ。もし爾ならば、何の故に虚空等と名づくるか。ただ触るる所無きを虚空と説き名づく、いわゆる闇中において触対する所無きに、便ち是の説を作してこれは虚空と曰う。

已起隨眠生種滅位,由簡擇力餘不更生,說名擇滅。離簡擇力,由闕緣故餘不更生,名非擇滅,如殘眾同分中夭者餘蘊。餘部師說:由慧功能隨眠不生,名為擇滅。隨眠緣闕後苦不生不由慧能,名非擇滅。離簡擇力此滅不成,故此不生即擇滅攝。有說:諸法生已後無,自然滅故,名非擇滅。如是所執非擇滅體應是無常,未滅無故。豈不擇滅擇為先故,先無後有應亦無常,非擇為先方有擇滅。如何擇滅亦是無常?所以者何?非先有擇後未生法方有不生。何者不生?本來自有,若無簡擇諸法應生,簡擇生時法永不起。於此不起,擇有功能,謂於先時未有生障,今為生障非造不生。若唯不生是涅槃者,此經文句當云何通?經言:五根若修若習若多修習,能令過去未來現在眾苦永斷。此永斷體即是涅槃,唯於未來有不生義非於過現,豈不相違?雖有此文而不違義。此經意說,緣過現苦煩惱斷故名眾苦斷。如世尊言:汝等於色應斷貪欲,貪欲斷時便名色斷及色遍智,廣說乃至識亦如是。過現苦斷義亦應然。設有餘經言斷過去未來現在諸煩惱者,準前理釋,義亦無違。或此經中別有意趣,過去煩惱謂過去生所起煩惱,現在煩惱謂現在生所起煩惱。如愛行中十八愛行,過去世起者依過去生說,未來現在應知亦爾。如是二世所起煩惱,為生未來諸煩惱故,於現相續引起種子,此種斷故彼亦名斷。如異熟盡時亦說名業盡,未來眾苦及諸煩惱,由無種故畢竟不生,說名為斷。若異此者,過去現在何緣須斷?非於已滅及正滅時,須設劬勞為令其滅。若無為法其體都無,何故經說:所有諸法,若諸有為若諸無為,於中離染最為第一。如何無法可於無中立為第一?我亦不說諸無為法其體都無,但應如我所說而有。如說此聲有先非有、有後非有,不可非有說為有故有義得成。說有無為,應知亦爾。

(論に続けて曰く:)已に起りし随眠の生ずる種の滅の位は、簡択の力によりて其余は更に生ぜず、択滅と説き名づく。簡択の力を離れて、縁の闕くるゆえによりて其余は更に生ぜず、非択滅と名づく、残りの衆同分中に夭するの余の蘊の如し。余部の師説く:慧の功能によりて随眠は生ぜず、択滅と名づく。随眠は縁闕けば後の苦は生ぜず慧の能に由らず、非択滅と名づく。簡択の力を離れてはこの滅は成らず、ゆえにこの不生は即ち択滅の摂。ある説に:諸法は生じ已って後に無し、自然に滅するゆえに、非択滅と名づく、と。このように執する所の非択滅の体はまさに是无常なるべし、未滅には無きゆえ。豈に択滅は択を先と為すゆえに、先無くして後有るはまさにもまた無常なるべきは、択を先と為して方に択滅有るに非ざらんや。如何にして択滅もまた是无常ならんや。所以者何。先に択有りて後に未生の法の方に不生有るに非ざればならず。何者が不生ぞ。本より各々自有り、もし簡抜無くんば諸法はまさに生ずべし、簡択の生ずる時は法は永く起らず。この不起において択に功能あり、いわゆる先時において未だ生障有らざるに、今生障と為りて不生を造るに非ず。もしただ不生を涅槃とせば、この経の文句はまさに如何に通ぜん。経に説く:五根はもし修しもし習いもし多く修習せば、能く過去・未来・現在の衆苦を永断せしむ、と。この永断の体はすなわち是れ涅槃、ただ未来において不生の義有りて過・現においてに非ず、豈に相違せざらんや。此の文有ると雖も而も義に違わず。この経の意の説くは、過現の苦の煩悩を縁じて断ずるゆえに衆苦断と名づく。世尊の説くが如く:汝らは色においてまさに貪欲を断ずべし、貪欲の断ずる時に便ち色断および色の遍智と名づく、広く説きて乃至識もまたこの如し、と。過現の苦断の義もまたまさにこの如し。設ひ余の経の過去・未来・現在の諸煩悩を断ずと説く有るも、前の理に準じて釈せば義もまた違わず。あるいはこの経中に別の意趣あり、過去の煩悩とは過去の生の起ぜし煩悩を謂い、現在の煩悩とは現在の生の起ぜし煩悩を謂う。愛行中の十八愛行の如く、過去世に起りしは過去の生に依りて説き、未来・現在もまさにこの如く知るべし。このように二世の起ぜし煩悩は、未来の諸煩悩を生ぜんがためのゆえに、現の相续において種子を引起す。この種の断ずるゆえに彼もまた断と名づく。異熟の尽くる時にもまた業尽と説き名づくるが如し、未来の衆苦および諸の煩悩は、種無きによりて畢竟に生ぜず、断と説き名づく。もしこれに異ならば、過去・現在は何の縁に断ずるを須いんや。已滅においておよび正に滅する時に於て、労を設けてその滅せしめんが為を須うるに非ず。もし無為法はその体都て無しとせば、何の故に経に説く:所有の諸法、もし諸の有為もし諸の無為、その中に離染は最も第一と為る、と。如何にして無の法を以て無中において第一と立てうるか。我もまた諸の無為法はその体都て無しとは説かず、但だまさに我が説く所の如くして有り。かの説くが如く:此の声は有りて先は非有、有りて後は非有、と。非有を有りと説くべからざるゆえに有の義は成るを得。無為有りと説くも、まさにこの如く知るべし。

有雖非有而可稱歎,故諸災橫畢竟非有名為離染。此於一切有非有中最為殊勝,為令所化深生欣樂,故應稱歎此為第一。若無為法唯非有者,無故不應名滅聖諦?且言聖諦其義云何?豈不此言屬無倒義。聖見有無皆無顛倒,謂聖於苦見唯是苦,於苦非有見唯非有,此於聖諦義有何違?如何非有而可立為第三聖諦?第二無間聖見及說,故成第三。若無為法其體唯無,空涅槃識應緣無境。此緣無境亦無有過,辯去來中當應思擇。若許無為別有實體,當有何失?復有何德?許便擁護毘婆沙宗是名為德,若有可護,天神定知自當擁護。然許實有,明虛妄計是名為失。所以者何?此非有體可得如色受等,亦非有用可得如眼耳等。又若別有,如何可立彼事之滅第六轉聲?由滅與事非互相屬,此彼相望非因果故。唯遮彼事,第六可成,彼事之無名為滅故。滅雖別有,而由彼事或得斷時方得此滅,可言此滅屬於彼事。何因此滅定屬此得?如契經言:苾蒭獲得現法涅槃。如何非有可言獲得?由得對治便獲永違煩惱,後有所依身故名得涅槃。復有聖教能顯涅槃唯以非有為其自性,謂契經言:所有眾苦皆無餘斷,各別捨棄盡、離染滅、靜息永沒。餘苦不續不取不生,此極寂靜、此極美妙,謂捨諸依及一切愛盡、離染滅,名為涅槃。云何不許言不生者依此無生故言不生?我等見此第七轉聲,於證滅有都無功力。何意故說依此無生?若依此言屬已有義,應本不生,涅槃常故。若依此言屬已得義,是則應許依道之得,故唯依道或依道得令苦不生。汝應信受。由此善釋經說喻言,如燈焰,涅槃心解脫亦爾。此經意說,如燈涅槃,唯燈焰謝,無別有物。如是世尊心得解脫,唯諸蘊滅,更無所有。阿毘達磨亦作是言:無事法雲何?謂諸無為法。言無事者,謂無體性。毘婆沙師不許此釋。若爾,彼釋事義云何?

(論に続けて曰く:)有りと雖も非有にして而も称嘆すべし、ゆえに諸の災横は畢竟に非有なるを離染と名づく。これは一切の有・非有中に於て最も殊勝、所化に深く欣楽を生ぜしめんがため、ゆえにまさにこれを称嘆して第一と為すべし。もし無為法はただ非有のみならば、無きゆえに滅聖諦と名づくべからざらんや。且つ聖諦のその義は如何と説く。豈にこの言は無倒の義に属せざらんや。聖は有無を見るに皆顛倒無し、いわゆる聖は苦においてただ苦と見、苦の非有においてただ非有と見る、これは聖諦の義において何の違いかあらん。如何にして非有にして而も第三の聖諦と立てうるか。第二の無間の聖見および説、ゆえに第三と成る。もし無為法はその体ただ無のみならば、空・涅槃の識はまさに無の境に縁ずべし。この無の境に縁ずるもまた過有ることなし、去来を弁ずる中にまさに思択すべし。もし無為は別に実体有りと許さば、まさに何の失か有らん。また何の徳か有らん。許せば便ち毘婆沙の宗を擁護す、是れを徳と名づく、もし護るべき有らば、天神は定めて自ずからまさに擁護せんと知るべし。しかるに実有を許すは、虚妄の計なるを明かす、是れを失と名づく。所以者何。これは体有るを色・受等の如く得べからず、もまた用有るを眼・耳等の如く得べからず。またもし別に有らば、如何にして彼の事之滅の第六転声を立てうるか。滅と事とは非ず互いに属するゆえ、此彼の相い望むは因果に非ざるゆえ。ただ彼の事を遮りて、第六は成るべし、彼の事の無を滅と名づくるゆえ。滅は別に有ると雖も、しかるに彼の事あるいは得・断の時に由りて方にこの滅を得る、この滅は彼の事に属すと説くべし。何の因にこの滅は定めてこの得に属するか。契経の説くが如く:苾芻は現法の涅槃を獲得す、と。如何にして非有にして獲得と説きうるか。対治を得れば便ち永く煩悩に違うを獲し、後有所依の身なるゆえに涅槃を得と名づく。復た聖教有りて能く涅槃はただ非有を以てその自性と為すを顕す、いわゆる契経に説く:所有の衆苦は皆余無く断たれ、各別に捨棄し盡し、離染し滅し、静息して永く没す。其余の苦は続がず取らず生ぜず、此は極めて寂静、此は極めて美妙、いわゆる諸の依を捨ておよび一切の愛の盡し離染し滅するを、涅槃と名づく、と。如何にして不生と説くを許さざる、この無生に依るゆえに不生と説くを説かざるか。我らはこの第七転声を見るに、滅を証する有において都て功力なし。何の意にかゆえにこの無生に依ると説く。もしこの言は已有の義に属すと依れば、まさに本より生ぜず、涅槃は常なるゆえ。もしこの言は已得の義に属すと依れば、是則ちまさに道の得に依るを許すべし、ゆえにただ道に依りあるいは道得に依りて苦を生ぜしめず。汝まさに信受すべし。この善釈によりて経の喩言を説く、灯焔の如く、涅槃は心の解脱もまたこの如し。この経の意の説くは、灯の涅槃の如く、ただ灯焔の謝するのみ、別に物有ることなし。このように世尊の心の解脱を得たるは、ただ諸蘊の滅するのみ、更に所有無し。アビダルマもまた是の説を作す:無事の法は如何。いわゆる諸の無為法。無事を説くは、いわゆる体性無き。毘婆沙師はこの釈を許さず。もし爾ならば、彼の釈する事の義は如何。

彼言事者略有五種:一自性事,如有處言:若已得此事,彼成就此事。二所緣事,如有處言:一切法智所知隨其事。三繫縛事,如有處言:若於此事愛結所繫,彼於此事恚結繫耶?四所因事,如有處言:有事法雲何?謂諸有為法。五所攝事,如有處言:田事宅事妻子等事。今於此中說因名事,顯無為法都無有因,是故無為雖實有物,常無用故無因無果。總論已竟。於諸果中應說何果何因所得?頌曰:

(論に続けて曰く:)彼の説く事には略して五種あり:一に自性の事、処有りて説くが如く:もし已にこの事を得れば、彼はこの事を成就す、と。二に所縁の事、処有りて説くが如く:一切法智の知る所はその事に随う、と。三に繫縛の事、処有りて説くが如く:もしこの事において愛結の繫する所ならば、彼はこの事において恚結は繫するか、と。四に所因の事、処有りて説くが如く:有事の法は如何。いわゆる諸の有為法。五に所摂の事、処有りて説くが如く:田の事・宅の事・妻子等の事。今ここに於ては因を以て事と名づく、無為法は都て因有ること無きを顕す、ゆえに無為は実に物有ると雖も、常に無用なるゆえに因なく果なし。総論已に竟ん。諸の果中においてまさに何の果が何の因の得る所かを説くべし。頌に曰く:

後因果異熟,前因增上果,

後の因の果は異熟、前の因は増上果、

同類遍等流,俱相應士用。

同類・遍は等流、俱・相応は士用。

論曰:言後因者,謂異熟因,於六因中最後說故,初異熟果此因所得。言前因者,謂能作因,於六因中最初說故,後增上果此因所得。增上之果,名增上果。唯無障住,有何增上?即由無障得增上名。或能作因亦有勝力,如十處界於五識身,諸有情業於器世界,耳等對於眼識生等,亦有展轉增上生力,聞已便生欣見欲故。此等增上,如應當思。同類、遍行得等流果,此二因果皆似因故。俱有相應得士用果,非越士體有別士用,即此所得名士用果。此士用名為目何法?即目諸法所有作用,如士用故得士用名,如世間說鴉足藥草醉象將軍。為唯此二有士用果、為餘亦然?有說:餘因亦有此果,唯除異熟,由士用果與因俱生或無間生,異熟不爾。有餘師說:此異熟因亦有隔越遠士用果,譬如農夫所收果實。異熟等果其相云何?頌曰:

論に曰く:後因を説くとは、いわゆる異熟因、六因中に最後に説くゆえ。初の異熟果はこの因の得る所。前因を説くとは、いわゆる能作因、六因中に最初に説くゆえ。後の増上果はこの因の得る所。増上の果は増上果と名づく。ただ障せずして住すに、何の増上かあらん。すなわち障無きによりて増上の名を得。あるいは能作因にもまた勝力あり、十の処界の五識身におけるが如く、諸の有情の業の器世界におけるが如く、耳等の眼識の生等に対するも、また展転の増上の生力あり、聞き已って便ち欣見の欲を生ずるゆえ。かくのごとき等の増上はまさに思うべきが如し。同類・遍行は等流果を得、この二の因果は皆因に似たるゆえ。俱有・相応は士用果を得、士の体を越えて別に士用有るに非ず、すなわちこの得る所を士用果と名づく。この士用の名は何の法を目するか。すなわち諸法の所有の作用を目す、士の用するが如きゆえに士用の名を得、世間の鴉足の薬草・醉象の将軍と説くが如し。ただこの二のみ士用果有りか、それとも余もまたこの如くか。ある説に:余の因にもまたこの果あり、ただ異熟を除く、士用果は因と俱に生じあるいは無間に生ずるに由り、異熟は然らざるゆえ、と。ある余師の説に:この異熟因にもまた隔越し遠き士用果あり、譬えば農夫の収むる所の果実の如し、と。異熟等の果のその相は如何。頌に曰く:

異熟無記法,有情有記生,

異熟は無記法、有情の有記の生ずる所、

等流似自因,離繫由慧盡。

等流は自因に似たり、離繫は慧の尽くるに由る。

若因彼力生,是果名士用,

もし因は彼の力に生ぜしむるなら、是の果を士用と名づく、

除前有為法,有為增上果。

前の有為法を除きて、有為は増上果。

論曰:唯於無覆無記法中有異熟果。為此亦通非有情數、唯局有情?為通等流及所長養?應知唯是有記所生,一切不善及善有漏能記異熟,故名有記。從彼後時異熟方起,非俱無間,名有記生。如是名為異熟果相。非有情數亦從業生,何非異熟?以共有故。謂餘亦能如是受用。夫異熟果必無有餘共受用義,非餘造業餘可因斯受異熟果。其增上果亦業所生,何得共受?共業生故。似自因法名等流果,謂似同類、遍行二因。若遍行因亦得等流果,何不許此即名同類因?此果但由地等染故,與因相似不由種類,若由種類果亦似因,此果所因乃名同類。故作是問:若是同類因亦遍行因耶?應作四句。第一句者,非遍行法為同類因。第二句者,他部遍法為遍行因。第三句者,自部遍法為遍行因。第四句者,除前諸相。由慧盡法名離繫果。滅故名盡,擇故名慧,即說擇滅名離繫果。若法因彼勢力所生,即說此法名士用果。如因下地加行心力上地有漏無漏定生,及因清淨靜慮心力變化心生,如是等類擇滅應言由道力得。諸有為法,除前已生,是餘有為之增上果。士用、增上二果何殊?士用果名唯對作者,增上果稱通對此餘。如匠所成,對能成匠,具得士用、增上果名;對餘非匠,唯增上果。於上所說六種因中,何位何因取果與果?頌曰:

論に曰く:ただ無覆無記法の中において異熟果あり。これは是れもまた非有情数に通ずるか、ただ有情に局るか。是れ等流および所長養に通ずるか。まさにただ是れ有記の生ずる所と知るべし、一切の不善および善の有漏は能く異熟を記す、ゆえに有記と名づく。彼より後の時に異熟は方に起る、俱・無間に非ず、有記生と名づく。このように名づけて異熟果の相と為す。非有情数もまた業より生ず、何ぞ異熟に非ざる。共有なるを以てなり。いわゆる其余もまた能くこのように受用す。夫れ異熟果は必ず其余の共に受用する義無し、其余の造する業を其余はこれに因りて異熟果を受くべきに非ざればなり。その増上果もまた業の生ずる所、何を以て共に受くるを得ん。共の業の生ずるゆえ。自因に似たる法を等流果と名づく、いわゆる同類・遍行の二因に似たる。もし遍行因もまた等流果を得れば、何ぞすなわちこれを同類因と名づくるを許さざる。この果は但だ地の等の染によりて、因と相似するも種類に由らず、もし種類に由りて果もまた因に似んば、この果の因する所は乃ち同類と名づく。ゆえに是の問を作す:もし是れ同類因ならばもまた遍行因か。まさに四句を作すべし。第一句とは、遍行の法に非ざるが同類因と為る。第二句とは、他部の遍の法が遍行因と為る。第三句とは、自部の遍の法が遍行因と為る。第四句とは、前の諸の相を除く。慧の尽くる法によりて離繫果と名づく。滅するゆえに尽と名づき、択するゆえに慧と名づく、すなわち択滅を説いて離繫果と名づく。もし法は彼の勢力に因りて生ずる所ならば、すなわちこの法を説いて士用果と名づく。下地の加行の心力に因りて上地の有漏・無漏の定が生ずるが如く、および清浄の静慮の心力に因りて変化の心が生ずるが如く、かくのごとき等類の択滅はまさに道の力によりて得たりと説くべし。諸の有為法は、前の已生を除きて、是れ其余の有為の増上果。士用・増上の二果は何の殊ぞ。士用果の名はただ作者に対し、増上果の称はこれに対して其余に通ず。匠の成ずる所の如く、能く成す匠に対しては、具に士用・増上果の名を得、これに対する余の匠に非ざるは、ただ増上果。上に説く所の六種の因中において、何の位に何の因が果を取り果を与えるか。頌に曰く:

五取果唯現,二與果亦然,

五因は果を取るはただ現、二の果を与うるもまたこの如し、

過現與二因,一與唯過去。

過・現は二因と果を与え、一は与うるはただ過去。

論曰:五因取果唯於現在,定非過去,彼已取故;亦非未來,彼無用故。亦應如是說,能作因非定有果,故此不說。俱有、相應與果亦爾,唯於現在,由此二因取果與果必俱時故。同類、遍行二因與果通於過現,過去可然。如何現在與等流果?有等流果無間生故。若果已生,因便過去,名已與果,不應更與。善同類因有時取果而非與果,應作四句。第一句者,謂斷善根時最後所捨得。第二句者,謂續善根時最初所得得,應說爾時續者前得。第三句者,謂不斷善根於所餘諸位。第四句者,謂除前相。又於不善同類因中亦有四句。第一句者,謂離欲貪時最後所捨得。第二句者,謂退欲貪時最初所得得,應說爾時退者前得。第三句者,謂未離欲貪於所餘諸位。第四句者,謂除前相。有覆無記同類因中亦有四句,於阿羅漢得時、退時、未得及餘,如理應說。無覆無記同類因中有順後句,謂與果時必亦取果。或時取果而非與果,謂阿羅漢最後諸蘊,約有所緣剎那差別。善同類因亦有四句。第一句者,謂善心無間起染無記心。第二句者,謂與上相違。第三句者,謂善心無間還起善心。第四句者,謂除前相。不善心等如其所應,亦有四句,準例應說。取果、與果其義云何?能為彼種故名取果,正與彼力故名與果。異熟與果唯於過去,由異熟果無與因俱及無間故。復有餘師,前五果外別說四果:一安立果,謂如水輪為風輪果,乃至草等為大地果。二加行果,謂如無生智等遠為不淨等果。三和合果,謂如眼識等為眼根等果。四修習果,謂如化心等為諸靜慮果。如是四果皆是士用、增上果攝。說因果已。復應思擇,此中何法幾因所生?法略有四,謂染汙法、異熟生法、初無漏法、三所餘法。餘法者何?謂除異熟餘無記法,除初無漏諸餘善法。如是四法,頌曰:

論に曰く:五因は果を取るはただ現在において、定めて過去に非ず、彼は已に取りたるゆえ、もまた未来に非ず、彼に用なきゆえ。まさにもまたこのように説くべし、能作因は定めて果有るに非ず、ゆえにここに説かず。俱有・相応の果を与うるもまたこの如し、ただ現在において、この二因は果を取り果を与うるに必ず俱の時なるゆえ。同類・遍行の二因は果を与うるに過・現に通ず、過去はこの如くあるべし。如何にして現在は等流果を与うるか。等流果の無間に生ずる有るゆえ。もし果已に生ぜば、因は便ち過去、已に果を与えたりと名づき、更に与うべからず。善の同類因に時有りて果を取るも果を与うるに非ず、まさに四句を作すべし。第一句とは、いわゆる善根を断ずる時の最後の捨てる所の得。第二句とは、いわゆる善根を続くる時の最初の得る所の得、まさに爾の時に続くるの前の得と説くべし。第三句とは、いわゆる善根を断ぜずして余の諸位における。第四句とは、いわゆる前の相を除く。また不善の同類因の中においても四句あり。第一句とは、いわゆる欲貪を離るる時の最後の捨てる所の得。第二句とは、いわゆる欲貪を退る時の最初の得る所の得、まさに爾の時に退るの前の得と説くべし。第三句とは、いわゆる未だ欲貪を離れざる余の諸位における。第四句とは、いわゆる前の相を除く。有覆無記の同類因の中にも四句あり、阿羅漢の得る時・退る時・未得および其余において、理の如くまさに説くべし。無覆無記の同類因の中に順後の句あり、いわゆる果を与うる時は必ずも果を取る。あるいは時に果を取るも果を与うるに非ず、いわゆる阿羅漢の最後の諸蘊、所縁有るの刹那の差別に約す。善の同類因もまた四句あり。第一句とは、いわゆる善心の無間に染・無記の心を起す。第二句とは、いわゆる上と相違す。第三句とは、いわゆる善心の無間に還りて善心を起す。第四句とは、いわゆる前の相を除く。不善の心等もその応ずる所の如く、もまた四句あり、例に準じてまさに説くべし。果を取る・果を与うるのその義は如何。能く彼の種と為るゆえに果を取ると名づき、正しく彼に力を与うるゆえに果を与うると名づく。異熟の果を与うるはただ過去において、異熟果は因と俱および無間なきに由るゆえ。復た余の師有りて、前の五果の外に別に四果を説く:一に安立果、いわゆる水輪が風輪の果と為るが如く、乃至草等が大地の果と為るが如し。二に加行果、いわゆる无生智等が遠く不浄等の果と為るが如し。三に和合果、いわゆる眼識等が眼根等の果と為るが如し。四に修習果、いわゆる化心等が諸の静慮の果と為るが如し。かくのごとき四果は皆是れ士用・増上果の摂。因果を説き已り。復たまさに思択すべし、此中の何の法は几の因の生ずる所か。法は略して四あり、いわゆる染污法・異熟生法・初の無漏法・三は余の法。余の法とは何ぞ。いわゆる異熟を除く其余の無記法、初の無漏を除く諸の余の善法。このように四法を、頌に曰く:

染汙異熟生,餘初聖如次,

染污・異熟生、其余・初聖は次の如く、

除異熟遍二,及同類餘生,

異熟・遍行の二を除き、および同類、其余の生ず、

此謂心心所,餘及除相應。

これは心・心所を謂い、其余および相応を除く。

論曰:諸染汙法,除異熟因,餘五因生。異熟生法,除遍行因,餘五因生。三所餘法,雙除異熟、遍行二因,餘四因生。初無漏法,雙除前二及同類因,餘三因生。如是四法,為說何等?謂心心所不相應行及色四法。復幾因生?如心心所所除因外及除相應,應知餘法從四三二餘因所生。此中染汙異熟生法,餘四因生。三所餘法,餘三因生。初無漏法,餘二因生。一因生法,決定無有。

論に曰く:諸の染污法は、異熟因を除きて、其余の五因の生ず。異熟生法は、遍行因を除きて、其余の五因の生ず。三の余の法は、双々に異熟・遍行の二因を除きて、其余の四因の生ず。初の無漏法は、双々に前の二および同類因を除きて、其余の三因の生ず。このように四法は、何等を説くを為すか。いわゆる心・心所・不相応行および色の四法。復た几つの因の生ずるか。心・心所の除く所の因の外および相応を除くが如く、まさに余の法は四・三・二の其余の因の生ずる所と知るべし。此中の染污・異熟生法は其余の四因の生。三の余の法は其余の三因の生。初の無漏法は其余の二因の生。一因の生ずる法は決定して有ること無し。

説一切有部倶舎論 巻第六

アビダルマ倶舎論 巻第七 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別根品第二之五

分別根品 第二之五。

廣說因已。緣復云何?頌曰:

広く因を説き已り。縁は復た如何。頌に曰く:

說有四種緣,因緣五因性,

四種の縁有りと説く、因縁は五因の性、

等無間非後,心心所已生,

等無間は後に非ず、心・心所の已生、

所緣一切法,增上即能作。

所縁は一切法、増上は即ち能作。

論曰:於何處說?謂契經中。如契經中說四緣性,謂因緣性、等無間緣性、所緣緣性、增上緣性。此中性者是緣種類。於六因內除能作因,所餘五因是因緣性。除阿羅漢臨涅槃時最後心心所法,諸餘已生心心所法是等無間緣性。此緣生法等而無間,依是義立等無間名。由此色等皆不可立等無間緣,不等生故。謂欲界色或無間生欲界色界二無表色,或無間生欲界無漏二無表色。以諸色法雜亂現前,等無間緣生無雜亂,故色不立等無間緣。尊者世友作如是言:於一身中一長養色相續不斷,復有第二長養色生,不相違害,故不可立等無間緣。大德復言:以諸色法無間生起或少或多,謂或有時從多生少,如燒稻稈大聚為灰。或時復有從少生多,如細種生諾瞿陀樹,根莖枝葉漸次增榮,聳幹垂條多所蔭映。豈不心所無間生時亦有少多品類非等?謂善不善無記心中,有尋有伺三摩地等,此於異類實有少多,然自類中無非等義,謂無少受無間生多,或復從多無間生少,想等亦爾,無非等過。豈唯自類前能為後等無間緣?不爾。云何?前心品法總為後品等無間緣,非唯自類。且於受等自體類中無少生多,以說等義。唯執同類相續者說,唯自類有等無間緣,心唯生心、受唯生受,乃至廣說。若從無染無間染生,此染心中所有煩惱,用先滅煩惱為等無間緣。如出滅定,心還用先滅正入滅定,心為緣故起。彼說非善,初無漏心應闕此緣而得生故。不相應行亦如諸色雜亂現前,故非等無間緣。三界及不繫可俱現前故,何緣不許未來世有等無間緣?以未來法雜亂而住無前後故。如何世尊知未來世此法無間、此法應生?比過現法而現知故。傳說世尊見從過去如此類業此類果生,是法無間生如是法。又從現在如此類業此類果生,是法無間生如是法。如是見已,便於未來諸亂住法,能正了達此法無間此法應生。雖如是知而非比智。

論に曰く:何の処において説くか。いわゆる契経中において。契経中の説く四の縁性の如く、いわゆる因縁性・等無間縁性・所縁縁性・増上縁性。此中の性とは是れ縁の種類。六因の内において能作因を除き、所余の五因是れ因縁性。阿羅漢の涅槃に臨む時の最後の心・心所法を除き、諸の余の已生の心・心所法是れ等無間縁性。この縁は生ずる法に等しくして無間、是の義に依りて等無間の名を立つ。これによりて色等は皆立つべからず等無間縁、等しく生ぜざるゆえ。いわゆる欲界の色はあるいは無間に欲界・色界の二の無表色を生じ、あるいは無間に欲界・無漏の二の無表色を生ず。諸の色法は乱雑に現前するを以て、等無間縁の生には乱雑無し、ゆえに色は等無間縁と立てず。尊者世友(ヴァスミットラ)は是の説を作す:一身中において一の長養色は相续して断えず、復た第二の長養色の生ずる有り、相違害せず、ゆえに等無間縁と立つべからず、と。大徳は復た説く:諸の色法は無間に生起してあるいは少なくあるいは多きを以て、いわゆるあるいは時に多より少を生ず、稲の藁の大聚を焼きて灰と為すが如し。あるいは時に復た少より多を生ず、細種の諾瞿陀樹を生ずるが如く、根・茎・枝・葉は漸次に増栄して、幹を聳え条を垂れて多く蔭映する所あり。豈に心所の無間に生ずる時にもまた少多の品類の等ならざる有らんや。いわゆる善・不善・無記の心中に、有尋・有伺の三摩地等あり、これは異類において実に少多あり、しかるに自類中に等ならざるの義無し、いわゆる少の受の無間に多を生ずる無く、あるいは復た多より無間に少を生ずる無し、想等もまたこの如し、等ならざるの過無し。豈にただ自類のみが前は後と等無間縁と為りうるや。然らず。如何。前の心品の法は総じて後の品と等無間縁と為る、ただ自類のみに非ず。且つ受等の自体の類中において少の多を生ずる無きは、等の義を説くを以て。ただ同類の相续を執するの説は、ただ自類のみ等無間縁有り、心はただ心を生じ、受はただ受を生じ、乃至広く説く。もし染に非ざるより無間に染生ずれば、この染の心中の所有の煩悩は、先の滅せる煩悩を用いて等無間縁と為す。滅定より出づるが如く、心は還りて先の滅せる正に滅定に入りし心を用いて縁と為すゆえに起る。彼の説は善に非ず、初の無漏心はまさにこの縁を闕きて生ずるを得るゆえ。不相応行もまた諸色の如く乱雑に現前す、ゆえに等無間縁に非ず。三界および不繫は俱に現前すべきゆえ、何の縁に未来世に等無間縁有るを許さざるか。未来の法は乱雑にして住して前後なきを以て。如何にして世尊は未来世のこの法は無間、この法はまさに生ずべしと知るか。過現の法に比して現に知るゆえ。伝説に世尊は過去より是の類の業・是の類の果の生ずるを見、是の法は無間にかくのごとき法を生ず。また現在より是の類の業・是の類の果の生ずるを見、是の法は無間にかくのごとき法を生ず。このように見已りて、便ち未来の諸の乱れ住する法において、能く正しくこの法は無間、この法はまさに生ずべしと了達す。かく知ると雖も而も比智に非ず。

由佛比類過去現在因果次第,便於未來亂住諸法能現了達,謂未來世如是有情造如是業招如是果,是願智攝故非比智。若爾,世尊未見前際,於後際法應不能知。有餘復言:有情身內有未來世果因先兆,是不相應行蘊差別。佛唯觀此便知未來,非要現遊靜慮通慧。若爾,諸佛便於未來占相故知,非為現證。故如經部諸師所言,世尊舉意遍知諸法非比非占。此說為善。如世尊說:諸佛德用、諸佛境界不可思議。若於未來無定前後次第安立,何故但言世第一法無間唯生苦法智忍不生餘法?如是廣說,乃至金剛喻定無間,唯生盡智不生餘法。若此法生繫屬彼法,要彼無間此乃得生,如芽等生要藉種等。然此非有等無間緣。諸阿羅漢最後心心所,何緣故說非等無間緣?無餘心等續此起故。豈不如是無間滅心亦名為意?後心無間識既不生應不名意,意是依所顯非作用所顯。此最後心有所依義,餘緣闕故後識不生,等無間緣作用所顯。若法此緣取為果已,定無諸法及諸有情能為障礙令彼不起,故最後心雖得名意,而不可說等無間緣。若法與心為等無間,彼法亦是心無間耶?應作四句。第一句者,謂無心定出心心所,及第二等二定剎那。第二句者,謂初所起二定剎那,及有心位諸心心所生住異滅。第三句者,謂初所起二定剎那,及有心位心心所法。第四句者,謂第二等二定剎那,及無心定出心心所生住異滅。若法與心為等無間,與無心定為無間耶?應作四句。謂前第三第四句為今第一第二句,即前第一第二句為今第三第四句。從二定出諸心心所,望入定心中間遠隔,如何為彼等無間耶?中間不隔心心所故。如是已釋等無間緣。所緣緣性,即一切法望心心所,隨其所應。謂如眼識及相應法,以一切色為所緣緣。如是耳識及相應法,以一切聲。鼻識相應以一切香。舌識相應以一切味。身識相應以一切觸。

(論に続けて曰く:)仏は過去・現在の因果の次第を比類するによりて、便ち未来の乱れ住する諸法に於て能く現に了達す、いわゆる未来世にかくのごとき有情はかくのごとき業を造りかくのごとき果を招く、是れ願智の摂なるゆえに比智に非ず。もし爾ならば、世尊は前際を見ずして、後際の法においてまさに知る能わざるべし。ある余の説に復た曰く:有情の身内に未来世の果因の先兆あり、是れ不相応行蘊の差別。仏はただこれを観ずれば便ち未来を知る、要して現に静慮・通慧を遊ぶに非ず、と。もし爾ならば、諸仏は便ち未来において占相によりて知る、現証と為すに非ず。ゆえに経部の諸師の言の如く、世尊は意を挙げて遍く諸法を知る、比にも非ず占にも非ず。この説を善と為す。世尊の説くが如く:諸仏の徳用、諸仏の境界は不可思議なり、と。もし未来において定の前後の次第の安立無くば、何の故にただ世第一法の無間にただ苦法智忍を生じて余の法を生ぜずと説くや。このように広く説き、乃至金剛喩定の無間に、ただ尽智を生じて余の法を生ぜず。もしこの法の生ずるは彼の法に繫属して、要して彼の無間にこれ乃ち生ずるを得る、牙等の生ずるに要して種等を藉るが如し。しかるにこれは等無間縁有るに非ず。諸の阿羅漢の最後の心・心所は、何の縁を以て等無間縁に非ずと説くや。余の心等が続いてこれを起すこと無きゆえ。豈にかくのごとき無間に滅する心もまた意と名づくらんや。後の心の無間の識は既に生ぜず、まさに意と名づくべからず、意は是れ依の顕す所にして作用の顕す所に非ず。この最後の心は有所依の義あり、余の縁の闕くるゆえに後の識は生ぜず、等無間縁は作用の顕す所。もし法はこの縁の取りて果と為す已れば、定めて諸法および諸の有情の能く障碍と為りて彼を起こさざらしむること無し、ゆえに最後の心は意の名を得と雖も、しかるに等無間縁と説くべからず。もし法は心と等無間と為れば、彼の法もまた心の無間なるか。まさに四句を作すべし。第一句とは、いわゆる無心定より出づる心・心所、および第二等の二定の刹那。第二句とは、いわゆる初めて起る所の二定の刹那、および有心の位の諸の心・心所の生・住・異・滅。第三句とは、いわゆる初めて起る所の二定の刹那、および有心の位の心・心所法。第四句とは、いわゆる第二等の二定の刹那、および無心定より出づる心・心所の生・住・異・滅。もし法は心と等無間と為れば、無心定と無間と為るか。まさに四句を作すべし。いわゆる前の第三・第四句を今の第一・第二句と為し、即ち前の第一・第二句を今の第三・第四句と為す。二定より出づる諸の心・心所は、入定の心に望みて中間遠く隔たる、如何にして彼と等無間と為るか。中間に心・心所を隔てざるゆえ。このように已に等無間縁を釈し竟えた。所縁縁性は、すなわち一切法の心・心所に望む、その応ずる所に随う。いわゆる眼識および相応法の如く、一切色を以て所縁縁と為す。このように耳識および相応法は一切声を以てす。鼻識・相応は一切香を以てす。舌識・相応は一切味を以てす。身識・相応は一切触を以てす。

意識相應以一切法為所緣緣。若法與彼法為所緣,無時此與彼非所緣,於不緣位亦所緣攝,被緣、不緣其相一故。譬如薪等,於不燒時亦名所燒,相無異故。心心所法如於所緣處、事、剎那三皆決定,於所依亦有如是決定耶?應言亦有如是決定,然於現在親附自所依,過去未來與所依相離。有說:在過去亦親附所依。如是已釋所緣緣性。增上緣性即能作因,以即能作因為增上緣故。此緣體廣名增上緣,一切皆是增上緣故。既一切法亦所緣緣,此增上緣何獨體廣?俱有諸法未嘗為所緣,然為增上故,唯此體廣。或所作廣名增上緣,以一切法各除自性與一切有為為增上緣故。頗有法於法全非四緣不?有,謂自性於自性,於他性亦有。謂有為於無為,無為於無為。如是諸緣於何位法而興作用?頌曰:

(論に続けて曰く:)意識・相応は一切法を以て所縁縁と為す。もし法は彼の法と所縁と為れば、時に此は彼と所縁に非ざる無し、縁せざる位においてもまた所縁の摂、縁せらる・縁せざるその相は一なるゆえ。譬えば薪等の如く、焼かざる時においてもまた所焼と名づく、相の異ならざるゆえ。心・心所法は所縁の処・事・刹那において三皆決定するが如く、所依においてもまたかくのごとき決定有るか。まさにまたかくのごとき決定有りと説くべし、しかるに現在においては親しく自所依に附し、過去・未来は所依と相離す。ある説に:過去においてもまた親しく所依に附す、と。このように已に所縁縁性を釈し竟えた。増上縁性はすなわち能作因、すなわち能作因を以て増上縁と為すゆえ。この縁の体は広し、増上縁と名づく、一切皆是れ増上縁なるゆえ。既に一切法もまた所縁縁なり、この増上縁は何ぞ独り体広ならん。俱有の諸法は未だ嘗て所縁と為らず、しかるに増上と為るゆえに、ただこの体広なり。あるいは所作の広きを増上縁と名づく、一切法は各々自性を除きて一切の有為と増上縁と為るを以てなり。頗る法の法において全く四縁に非ざる有るか。有り、いわゆる自性の自性において、他の性においても有り。いわゆる有為の無為において、無為の無為において。このように諸の縁は何の位の法において作用を興すか。頌に曰く:

二因於正滅,三因於正生,

二因は正滅において、三因は正生において、

餘二緣相違,而興於作用。

其余の二縁は相違して、作用を興す。

論曰:前說五因為因緣性,二因作用於正滅時。正滅時言顯法現在,滅現前故,名正滅時。俱有、相應於法滅位方興作用,由此二因令俱生果有作用故。所言三因於正生者,謂未來法於正生位生現前故,名正生時。同類、遍行、異熟三種,於法生位作用方興。已說因緣二時作用,二緣作用與此相違。等無間緣於法生位而興作用,以彼生時前心心所與其處故。若所緣緣能緣滅位而興作用,以心心所要現在時方取境故。唯增上緣於一切位皆無障住,故彼作用隨無障位一切無遮。已說諸緣及興作用。應言何法由幾緣生?頌曰:

論に曰く:前に説く五因を因縁性と為す、二因の作用は正滅の時においてす。「正滅時(正滅時)」の言は法の現在を顕す、滅の現前するゆえに、正滅時と名づく。俱有・相応は法の滅の位において方に作用を興す、この二因によりて俱生の果に作用有らしむるゆえ。言う所の三因は正生におけるとは、いわゆる未来の法は正生の位において生の現前するゆえに、正生時と名づく。同類・遍行・異熟の三種は、法の生の位において作用方に興る。已に因縁の二時の作用を説き、二縁の作用はこれと相違す。等無間縁は法の生の位において作用を興す、彼の生ずる時に前の心・心所がその処を与うるを以て。もし所縁縁は能縁の滅の位において作用を興す、心・心所は要して現在の時に方に境を取るを以て。ただ増上縁は一切の位において皆障して住せず、ゆえに彼の作用は障無き位に随いて一切遮る無し。已に諸縁および作用を興すを説き竟えた。まさに何の法は几の縁に由りて生ずるかを説くべし。頌に曰く:

心心所由四,二定但由三,

心・心所は四に由り、二定は但だ三に由り、

餘由二緣生,非天次等故。

其余は二縁に由りて生ず、天の次第等に非ざるゆえ。

論曰:心心所法由四緣生,此中因緣,謂五因性。等無間緣,謂前無間已生,非後心心所法。所緣緣者,謂隨所應,或色等五或一切法。增上緣者,謂隨所應,各除自性,餘一切法。滅盡、無想二定由三,除所緣緣,非能緣故。由因緣者,謂由二因:一俱有因,謂生等相;二同類因,謂前已生同地善法。等無間緣,謂入定心及相應法。增上緣者,謂如前說。如是二定,心等引生。礙心等起故,與心等但為等無間,非等無間緣。餘不相應及諸色法,由因、增上二緣所生。一切世間唯從如上所說諸因諸緣所起,非自在天我勝性等一因所起,此有何因?若一切成許由因者,豈不便捨一切世間由自在等一因生論。又諸世間非自在等一因所起,次第等故。謂諸世間若自在等一因生者,則應一切俱時而生非次第起;現見諸法次第而生,故知定非一因所起。若執自在隨欲故然,謂彼欲令此法今起、此法今滅、此於後時,是則應成非一因起,亦由樂欲差別生故。或差別欲應一時生,所因自在無差別故。若欲差別更待餘因不俱起者,則非一切唯用自在一法為因。或所待因亦應更待餘因差別方次第生,則所待因應無邊際。若更不待餘差別因,此因應無次第生義,則差別欲非次第生。若許諸因展轉差別無有邊際,信無始故,徒執自在為諸法因,不越釋門因緣正理。若言自在欲雖頓生,而諸世間不俱起者,由隨自在欲所生故,理亦不然。彼自在欲,前位與後無差別故。又彼自在作大功力,生諸世間得何義利?若為發喜生諸世間,此喜離餘方便不發,是則自在於發喜中既必待餘,應非自在。於喜既爾,餘亦應然,差別因緣不可得故。或若自在生地獄等無量苦具逼害有情,為見如斯發生自喜。咄哉!何用此自在為?依彼頌言,誠為善說。

論に曰く:心・心所法は四縁に由りて生ず、此中の因縁は、いわゆる五因の性。等無間縁は、いわゆる前の無間に已生、後の心・心所法に非ず。所縁縁とは、いわゆる応ずる所に随い、あるいは色等の五あるいは一切法。増上縁とは、いわゆる応ずる所に随い、各々自性を除きて、其余の一切法。滅尽・無想の二定は三に由り、所縁縁を除く、能縁に非ざるゆえ。因縁に由るとは、いわゆる二因に由る:一に俱有因、いわゆる生等の相、二に同類因、いわゆる前の已生の同地の善法。等無間縁は、いわゆる入定の心および相応法。増上縁とは、いわゆる前の説くが如し。かくのごとき二定は、心等の引き生ずる所。心等の起るを碍ぐるゆえに、心等と但だ等無間と為る、等無間縁に非ず。其余の不相応および諸の色法は、因・増上の二縁の生ずる所。一切の世間はただ上の説く所の如き諸因諸縁より起こる所、自在天・我・勝性等の一因の起こす所に非ず、これに何の因ぞ。もし一切の成るは因に由るを許すならば、豈に便ち一切世間の自在等の一因より生ずるの論を捨てざらんや。また諸の世間は自在等の一因の起こす所に非ず、次第等あるゆえ。いわゆる諸の世間はもし自在等の一因の生ぜるならば、則ちまさに一切俱時に生じて次第に起るに非ざるべし、現に諸法の次第にして生ずるを見る、ゆえに定めて一因の起こす所に非ずと知る。もし自在は欲に随うゆえにこの如しと執すれば、いわゆる彼の欲はこの法を今起らしめ、この法を今滅せしめ、これを後の時にせんとするは、是則ちまさに一因の起るに非ずと成るべし、もまた楽欲の差別に由りて生ずるゆえ。あるいは差別の欲はまさに一時に生ずべし、因する所の自在は差別なきゆえ。もし欲の差別は更に余の因を待ちて俱に起らざれば、則ち一切に非ずただ自在の一法を用いて因と為すに非ず。あるいは待つ所の因もまたまさに更に余の因の差別を待ちて方に次第に生ずれば、則ち待つ所の因はまさに辺際無かるべし。もし更に余の差別の因を待たざれば、この因はまさに次第生の義無かるべし、則ち差別の欲は次第に生ずるに非ず。もし諸因は展転に差別して辺際無しと許せば、無始を信ずるゆえに、徒らに自在を執して諸法の因と為す、釈門の因縁の正理を越えず。もし自在の欲は頓に生ずると雖も、而も諸の世間は俱に起らずと説けば、自在の欲の生ずる所に随うに由るゆえに、理もまた然らず。彼の自在の欲は、前の位と後と差別なきゆえ。また彼の自在は大いなる功力を作して、諸の世間を生じて何の義利を得るか。もし喜を発さんがため諸の世間を生ぜば、この喜は余の方便を離れて発せず、是則ち自在は喜を発する中において既に必ず余を待つ、まさに自在に非ざるべし。喜において既にこの如し、其余もまたまさにこの如くあるべし、差別の因縁は得べからざるゆえ。あるいはもし自在は地獄等の無量の苦具を生じて有情を逼害す、かくのごときを見て自ら喜を発生せんが為か。咄嗟なり!何ぞこの自在を用いて為さんや。彼の頌に説くに依るに、誠に善説と為す。

由險利能燒,可畏恆逼害,

険利にして能く焼くに由りて、畏るべく恒に逼害し、

樂食血肉髓,故名魯達羅。

血・肉・髄を食らうを楽う、ゆえに魯達羅(ルドラ)と名づく。

又若信受一切世間唯自在天一因所起,則為誹撥現見世間所餘因緣人功等事。若言自在待餘因緣助發功能方成因者,但是朋敬自在天言,離所餘因緣不見別用故。或彼自在要餘因緣助方能生,應非自在。若執初起自在為因,餘後續生待餘因者,則初所起不待餘因,應無始成,猶如自在。我勝性等隨其所應,如自在天應廣徵遣,故無有法唯一因生。奇哉世間不修勝慧,如愚禽獸,良足可悲。彼彼生中別別造業,自受異熟及士用果,而妄計有自在等因。且止破邪,應辯正義。前言餘法由二緣生,於中雲何大種、所造,自他相望互為因緣?頌曰:

(論に続けて曰く:)またもし一切世間はただ自在天の一因の起こす所と信受すれば、則ち是れ現に見る世間の余の因縁・人工等の事を誹撥せんと為す。もし自在は余の因縁を待ちて功能を助発して方に因と成ると説かば、但だ是れ朋敬して自在天の言、余の因縁を離れて別の用を見ざるゆえ。あるいは彼の自在は要して余の因縁の助けて方に能く生ずれば、まさに自在に非ざるべし。もし初の起るは自在を因と為し、余の後続の生は余の因を待つと執すれば、則ち初の起る所は余の因を待たず、まさに無始に成るべし、自在の猶ごとし。我・勝性等はその応ずる所に随い、自在天の如くまさに広く征遣すべし、ゆえに法有りてただ一因の生ずる無し。奇なりや世間は勝慧を修せず、愚なる禽獣の如く、良に悲むに足る。彼彼の生中において別別に業を造り、自ら異熟および士用果を受くるに、而も妄りに自在等の因有りと計う。且つ邪を破るを止めて、まさに正義を弁ずべし。前に余の法は二縁に由りて生ずと言う、その中において如何にして大種・所造は、自他相い望みて互いに因縁と為るか。頌に曰く:

大為大二因,為所造五種,

大は大と為して二因、所造と為して五種、

造為造三種,為大唯一因。

造は造と為して三種、大と為して唯一の因。

論曰:初言大為大二因者,是諸大種更互相望,但為俱有同類因義。大於所造能為五因。何等為五?謂生、依、立、持、養別故。如是五因,但是能作因之差別。從彼起故說為生因,生已隨逐大種轉故。如依師等說為依因,能任持故。如壁持畫說為立因。不斷因故說為持因。增長因故說為養因。如是則顯大與所造為起、變、持、住、長因性。諸所造色自互相望容有三因,所謂俱有、同類、異熟。其能作因無差別轉,故不恆數。俱有因者,謂隨心轉身語二業,非餘造色。同類因者,一切前生於後同類。異熟因者,謂身語業能招異熟眼根等果。所造於大但為一因,謂異熟因。身語二業能招異熟,大種果故。前已總說諸心心所前能為後等無間緣,未決定說何心無間有幾心生,復從幾心有何心起?今當定說,謂且略說有十二心。云何十二?頌曰:

論に曰く:初めに「大は大と為して二因」と説くは、是れ諸の大種が更に相い望みて、但だ俱有・同類因の義と為る。大は所造において能く五因と為る。何等を五とするか。いわゆる生・依・立・持・養の別あるゆえ。かくのごとき五因は、但だ能作因の差別。彼より起るゆえに生因と説き為し、生じ已って随逐して大種に随って転ずるゆえ、師等に依るが如く依因と説き為し、能く任持するゆえ。壁の画を持するが如く立因と説き為す。断えざる因なるゆえに持因と説き為す。増長の因なるゆえに養因と説き為す。このように就いて顕す、大は所造と起・変・持・住・長の因性と為るを。諸の所造色は自ら相い望みて三因有るを容れ、いわゆる俱有・同類・異熟。その能作因は差別の転ずる無きゆえに、恒に数えず。俱有因とは、いわゆる心に随転する身・語の二業、余の造色に非ず。同類因とは、一切の前生は後の同類と為る。異熟因とは、いわゆる身・語の業は能く異熟の眼根等の果を招く。所造は大において但だ一因と為る、いわゆる異熟因。身・語の二業は能く異熟の大種の果を招くゆえ。前に已に総じて諸の心・心所は前は後と等無間縁と為りうると説くも、未だ決定して何の心の無間に几つの心の生ずる有り、復た几つの心より何の心の起つる有るかを説かず。今まさに定めて説くべし、いわゆる且つ略して十二心有りと説く。何を十二とするか。頌に曰く:

欲界有四心,善惡覆無覆,

欲界に四心有り、善・悪・覆・無覆、

色無色除惡,無漏有二心。

色・無色は悪を除き、無漏に二心有り。

論曰:且於欲界有四種心,謂善、不善、有覆無記、無覆無記。色無色界各有三心,謂除不善,餘如上說。如是十種說有漏心。若無漏心唯有二種,謂學、無學。合成十二。此十二心互相生者,頌曰:

論に曰く:且つ欲界において四種の心有り、いわゆる善・不善・有覆無記・無覆無記。色・無色界は各々三心有り、いわゆる不善を除きて、其余は上の説くが如し。かくのごとき十種を有漏心と説く。もし無漏心はただ二種有り、いわゆる学・無学。合して十二を成す。この十二の心の互いに生ずるは、頌に曰く:

欲界善生九,此復從八生;

欲界の善は九を生じ、これは復た八より生ず、

染從十生四,餘從五生七;

染は十より四を生じ、其余は五より七を生ず、

色善生十一,此復從九生;

色の善は十一を生じ、これは復た九より生ず、

有覆從八生,此復生於六;

有覆は八より生じ、これは復た六を生ず、

無覆從三生,此復能生六;

無覆は三より生じ、これは復た能く六を生ず、

無色善生九,此復從六生;

無色の善は九を生じ、これは復た六より生ず、

有覆生從七,無覆如色辨;

有覆の生は七より、無覆は色の如くに弁ず、

學從四生五,餘從五生四。

学は四より五を生じ、其余は五より四を生ず。

論曰:欲界善心無間生九,謂自界四;色界二心,於入定時及續生位,如其次第生善染心;無色界一,於續生位。欲善無間生彼染心,不生彼善以極遠故。無色於欲四遠故遠:一所依遠、二行相遠、三所緣遠、四對治遠。及學無學,謂入觀時。即此復從八無間起,謂自界四,色界二心,於出定時從彼善起。彼染汙定所逼惱時,從彼染心生於下善,為依下善防彼退故。及學無學,謂出觀時。染謂不善、有覆無記,二各從十無間而生,謂十二中除學無學。於續生位,三界諸心皆可無間生欲界染心故。即此無間能生四心,謂自界四,餘無生理。餘謂欲纏無覆無記,此心從五無間而生,謂自界四及色界善,欲界化心從彼生故。即此無間能生七心,謂自界四,及色界二,善與染汙,欲界化心還生彼善,於續生位生彼染心。並無色一,於續生位此無覆心能生彼染。色界善心無間生十一,謂除無色無覆無記心。即此復從九無間起,謂除欲界二染汙心,及除無色無覆無記。有覆從八無間而生,除欲二染及學無學。即此無間能生六心,謂自界三,欲善不善有覆無記。無覆從三無間而起,謂唯自界,餘無生理。即此無間能生六心,謂自界三,欲無色染。無色界善無間生九心,謂除欲善及欲色無覆。即此從六無間而生,謂自界三及色界善並學無學。有覆無間能生七心,謂自界三及色界善、欲色界染。即此亦從七無間起,謂除欲色染及學無學心。無覆如色說,從三無間生,謂自界三,餘皆非理。即此無間能生六心,謂自界三及欲色染。學心從四無間而生,謂即學心及三界善。即此無間能生五心,謂前四心及無學一。餘謂無學從五無間生,謂三界善及學無學二。即此無間能生四心,謂三界善及無學一。說十二心互相生已。云何分此為二十心?頌曰:

論に曰く:欲界の善心は無間に九を生ず、いわゆる自界の四、色界の二心は入定の時および続生の位において、その次第の如く善・染の心を生じ、無色界の一は続生の位において。欲の善の無間に彼の染心を生じ、彼の善を生ぜざるは極めて遠きを以てなり。無色は欲において四の遠なるを以て遠し:一に所依の遠、二に行相の遠、三に所縁の遠、四に対治の遠。および学・無学、いわゆる観に入る時。即ちこれは復た八より無間に起る、いわゆる自界の四、色界の二心は、出定の時において彼の善より起る。彼の染污の定に逼悩せらるる時、彼の染心より下善を生ず、下善に依りて彼の退を防ぐを為すゆえ。および学・無学、いわゆる観を出づる時。染とは不善・有覆無記を謂う、二は各々十より無間にして生ず、いわゆる十二中に学・無学を除く。続生の位において三界の諸心は皆欲界の染心を無間に生ずべきゆえ。即ちこの無間は能く四心を生ず、いわゆる自界の四、其余は生ずるの理無し。其余とは欲に纏わる無覆無記を謂う、この心は五より無間にして生ず、いわゆる自界の四および色界の善、欲界の化心は彼より生ずるゆえ。即ちこの無間は能く七心を生ず、いわゆる自界の四、および色界の二、善と染污、欲界の化心は還りて彼の善を生じ、続生の位において彼の染心を生ず。ならびに無色の一、続生の位においてこの無覆心は能く彼の染を生ず。色界の善心は無間に十一を生ず、いわゆる無色の無覆無記心を除く。即ちこれは復た九より無間に起る、いわゆる欲界の二染污心を除き、および無色の無覆無記を除く。有覆は八より無間にして生ず、欲の二染および学・無学を除く。即ちこの無間は能く六心を生ず、いわゆる自界の三、欲の善・不善・有覆無記。無覆は三より無間にして起る、いわゆるただ自界のみ、其余は生ずるの理無し。即ちこの無間は能く六心を生ず、いわゆる自界の三、欲・無色の染。無色界の善は無間に九心を生ず、いわゆる欲の善および欲・色の無覆を除く。即ちこれは六より無間にして生ず、いわゆる自界の三および色界の善ならびに学・無学。有覆は無間に能く七心を生ず、いわゆる自界の三および色界の善、欲・色界の染。即ちこれもまた七より無間に起る、いわゆる欲・色の染および学・無学の心を除く。無覆は色の如く説く、三より無間に生ず、いわゆる自界の三、其余は皆是れ理に非ず。即ちこの無間は能く六心を生ず、いわゆる自界の三および欲・色の染。学心は四より無間にして生ず、いわゆる即ち学心および三界の善。即ちこの無間は能く五心を生ず、いわゆる前の四心および無学の一。其余とは無学を謂い五より無間に生ず、いわゆる三界の善および学・無学の二。即ちこの無間は能く四心を生ず、いわゆる三界の善および無学の一。十二の心の互いに生ずるを説き已り。如何にしてこれを分かちて二十心と為すか。頌に曰く:

十二為二十,謂三界善心,

十二は二十と為る、いわゆる三界の善心は、

分加行生得。欲無覆分四,

加行・生得に分かつ。欲の無覆は四に分かつ、

異熟威儀路,工巧處通果。

異熟・威儀路、工巧処・通果。

色界除工巧,餘數如前說。

色界は工巧を除きて、其余の数は前の説くが如し。

論曰:三界善心各分二種,謂加行得、生得別故。欲界無覆分為四心:一異熟生、二威儀路、三工巧處、四通果心。色無覆心分為三種,除工巧處,上界都無造作種種工巧事故。如是十二為二十心,謂善分六,無覆分八,無色界無威儀路等,餘數如上故成二十。威儀路等三無覆心,色香味觸為所緣境,工巧處等亦緣於聲,如是三心唯是意識。威儀路、工巧處加行亦通四識五識。有餘師說:有威儀路及工巧處所引意識,能具足緣十二處境。如是二十互相生者,且說欲界八種心中,加行善心無間生十,謂自界七,除通果心,及色界一加行善心,並學無學。即此復從八無間起,謂自界四,二善二染,及色界二,加行善心、有覆無記,並學無學。生得善心無間生九,謂自界七,除通果心,及色無色有覆無記。即此復從十一心起,謂自界七,除通果心,及色界二,加行善心、有覆無記,並學無學。二染汙心無間生七,謂自界七,除通果心。即此復從十四心起,謂自界七,除通果心,及色界四,除加行善與通果心,並無色三,除加行善。異熟威儀無間生八,謂自界六,除加行善與通果心,及色無色有覆無記。即此復從七無間起,謂自界七,除通果心。工巧處心無間生六,謂自界六,除加行善與通果心。即此復從七無間起,謂自界七,除通果心。從通果心無間生二,謂自界一即通果心,及色界一即加行善。即此亦從二無間起,謂即前說自色二心。次說色界六種心中,從加行善心無間生十二,謂自界六,及欲界三,加行、生得與通果心,並無色一加行善心,學無學心。即此復從十無間起,謂自界四,除威儀路與異熟生,及欲界二加行通果,並無色二,加行、有覆,學無學心。生得善心無間生八,謂自界五除通果心,及欲界二不善有覆,並無色一有覆無記。即此復從五無間起,謂自界五,除通果心。

論に曰く:三界の善心は各々二種に分かつ、いわゆる加行得・生得の別あるゆえ。欲界の無覆は四心に分かつ:一に異熟生、二に威儀路、三に工巧処、四に通果心。色の無覆心は三種に分かつ、工巧処を除く、上界には都て種々の工巧の事を造作するなきゆえ。このように十二を二十心と為す、いわゆる善は六に分かち、無覆は八に分かち、無色界には威儀路等無し、其余の数は上の如きゆえに二十を成す。威儀路等の三の無覆心は、色・香・味・触を所縁の境と為し、工巧処等もまた声に縁ず、このように三心はただ是れ意識。威儀路・工巧処の加行はもまた四識・五識に通ず。ある余師の説に:威儀路および工巧処の引く所の意識有りて、能く具足して十二処の境に縁ず、と。かくのごとき二十の互いに生ずるは、且つ欲界の八種の心中を説かば、加行の善心は無間に十を生ず、いわゆる自界の七、通果心を除き、および色界の一の加行善心、ならびに学・無学。即ちこれは復た八より無間に起る、いわゆる自界の四、二善・二染、および色界の二、加行善心・有覆無記、ならびに学・無学。生得の善心は無間に九を生ず、いわゆる自界の七、通果心を除き、および色・無色の有覆無記。即ちこれは復た十一の心より起る、いわゆる自界の七、通果心を除き、および色界の二、加行善心・有覆無記、ならびに学・無学。二の染污心は無間に七を生ず、いわゆる自界の七、通果心を除く。即ちこれは復た十四心より起る、いわゆる自界の七、通果心を除き、および色界の四、加行善と通果心を除き、ならびに無色の三、加行善を除く。異熟・威儀は無間に八を生ず、いわゆる自界の六、加行善と通果心を除き、および色・無色の有覆無記。即ちこれは復た七より無間に起る、いわゆる自界の七、通果心を除く。工巧処の心は無間に六を生ず、いわゆる自界の六、加行善と通果心を除く。即ちこれは復た七より無間に起る、いわゆる自界の七、通果心を除く。通果心より無間に二を生ず、いわゆる自界の一すなわち通果心、および色界の一すなわち加行善。即ちこれもまた二より無間に起る、いわゆる即ち前に説く自・色の二心。次に色界の六種の心中を説かば、加行の善心より無間に十二を生ず、いわゆる自界の六、および欲界の三、加行・生得と通果心、ならびに無色の一の加行善心、学・無学心。即ちこれは復た十より無間に起る、いわゆる自界の四、威儀路と異熟生を除き、および欲界の二の加行・通果、ならびに無色の二、加行・有覆、学・無学心。生得の善心は無間に八を生ず、いわゆる自界の五に通果心を除き、および欲界の二の不善・有覆、ならびに無色の一の有覆無記。即ちこれは復た五より無間に起る、いわゆる自界の五、通果心を除く。

有覆無記無間生九,謂自界五,除通果心,及欲界四,二善二染。即此復從十一心起,謂自界五,除通果心,及欲界三,生得善心、威儀、異熟,並無色三,除加行善。異熟威儀無間生七,謂自界四,除加行善與通果心,及欲界二,不善、有覆,並無色一,有覆無記。即此復從五無間起,謂自界五,除通果心。從通果心無間生二,謂自界二,加行通果。即此亦從二無間起,謂即前說自界二心。次說無色四種心中,加行善心無間生七,謂自界四,及色界一加行善心,並學無學。即此復從六無間起,謂自界三,唯除異熟,及色界一加行善心,並學無學。生得善心無間生七,謂自界四,及色界一有覆無記,並欲界二不善有覆。即此復從四無間起,謂自界四。有覆無記無間生八,謂自界四,及色界二加行有覆,並欲界二不善有覆。即此復從十無間起,謂自界四,及色界三生得、異熟與威儀路,並欲界三名如色說。異熟生心無間生六,謂自界三,除加行善,及色界一有覆無記,並欲界二不善有覆。即此復從四無間起,謂自界四。次說無漏二種心中,從有學心無間生六,謂通三界加行善心及欲生得,並學無學。即此復從四無間起,謂三加行及有學心。從無學心無間生五,謂前有學所生六中除有學一。即此復從五無間起,謂三加行及學無學。復有何緣?加行無間能生異熟、工巧、威儀,非彼無間生加行善,勢力劣故,非作功用所引發故。樂作功用引發工巧威儀轉故,不能順起加行善心,出心不由功用轉故,加行無間可能生彼。若爾,染汙無間不應生加行善,不相順故。雖爾,厭倦煩惱現行,為欲了知容起加行,欲界生得,以明利故。可有從彼學無學心,色界加行無間而起,非作功用所引發故,不能從此引生彼心。又欲生得以明利故,可從色染無間而生,色界生得不明利故,非無色染無間而起。

(論に続けて曰く:)有覆無記は無間に九を生ず、いわゆる自界の五、通果心を除き、および欲界の四、二善・二染。即ちこれは復た十一心より起る、いわゆる自界の五、通果心を除き、および欲界の三、生得善心・威儀・異熟、ならびに無色の三、加行善を除く。異熟・威儀は無間に七を生ず、いわゆる自界の四、加行善と通果心を除き、および欲界の二、不善・有覆、ならびに無色の一、有覆無記。即ちこれは復た五より無間に起る、いわゆる自界の五、通果心を除く。通果心より無間に二を生ず、いわゆる自界の二、加行・通果。即ちこれもまた二より無間に起る、いわゆる即ち前に説く自界の二心。次に無色の四種の心中を説かば、加行の善心は無間に七を生ず、いわゆる自界の四、および色界の一の加行善心、ならびに学・無学。即ちこれは復た六より無間に起る、いわゆる自界の三、ただ異熟を除き、および色界の一の加行善心、ならびに学・無学。生得の善心は無間に七を生ず、いわゆる自界の四、および色界の一の有覆無記、ならびに欲界の二の不善・有覆。即ちこれは復た四より無間に起る、いわゆる自界の四。有覆無記は無間に八を生ず、いわゆる自界の四、および色界の二の加行・有覆、ならびに欲界の二の不善・有覆。即ちこれは復た十より無間に起る、いわゆる自界の四、および色界の三の生得・異熟と威儀路、ならびに欲界の三は色の説くが如く名づく。異熟生の心は無間に六を生ず、いわゆる自界の三、加行善を除き、および色界の一の有覆無記、ならびに欲界の二の不善・有覆。即ちこれは復た四より無間に起る、いわゆる自界の四。次に無漏の二種の心中を説かば、有学心より無間に六を生ず、いわゆる三界に通ずる加行の善心および欲の生得、ならびに学・無学。即ちこれは復た四より無間に起る、いわゆる三の加行および有学心。無学心より無間に五を生ず、いわゆる前の有学の生ずる所の六中に有学の一を除く。即ちこれは復た五より無間に起る、いわゆる三の加行および学・無学。復た何の縁有るか。加行の無間は能く異熟・工巧・威儀を生じ、彼の無間は加行の善を生ぜざるは、勢力の劣なるゆえ、作功用の引発する所に非ざるゆえ。作功用を楽しみ工巧・威儀を引発して転ぜしむるゆえに、順い加行の善心を起す能わず、心を出づるは功用に由りて転ぜざるゆえ、加行の無間は能く彼を生ずべし。もし爾ならば、染污の無間はまさに加行の善を生ずべからず、相順ぜざるゆえ。爾りと雖も、煩悩の現行に厌倦して、了知せんと欲して加行を起すを容れ、欲界の生得は明利なるを以て。彼の学・無学心より、色界の加行の無間にして起る有るべし、作功用の引発する所に非ざるゆえに、能く此より彼の心を引生せず。また欲の生得は明利なるを以て、色の染の無間より生ずべし、色界の生得は明利ならざるを以て、無色の染の無間にして起るに非ず。

作意有三:一自相作意,謂如觀色變礙為相,乃至觀識了別為相,如是等觀相應作意。二共相作意,謂十六行相應作意。三勝解作意,謂不淨觀及四無量、有色解脫、勝處、遍處,如是等觀相應作意。如是三種作意無間聖道現前,聖道無間亦能具起三種作意。若作是說,便順此言,不淨觀俱行修念等覺分。有餘師說:唯從共相作意無間聖道現前,聖道無間通起三種修不淨觀調伏心已,方能引生共相作意,從此無間聖道現前。依此傳傳密意故說,不淨觀俱行修念等覺分。有餘復言:唯從共相作意無間聖道現前,聖道無間亦唯能起共相作意。若爾,有依未至定等三地證入正性離生,聖道無間可生欲界共相作意。若依第二第三第四靜慮證入正性離生,聖道無間起何作意?非起欲界共相作意,以極遠故。非於彼地已有曾得共相作意,異於曾得順決擇分。非諸聖者順決擇分可復現前,非得果已可重發生加行道故。若謂有別共相作意,順決擇分俱時已修,由繫屬彼是彼類故。如觀諸行皆是無常,觀一切法皆是非我涅槃寂靜,聖道無間引彼現前。毘婆沙師不許此義,違正理故。若依未至定得阿羅漢果後出觀心,或即彼地或是欲界。依無所有處得阿羅漢果後出觀心,或即彼地或是有頂。若依餘地得阿羅漢果後出觀心,唯自非餘地。於欲界中有三作意:一聞所成、二思所成、三生所得。色界亦有三種作意:一聞所成、二修所成、三生所得。無思所成,舉心思時即入定故。無色唯有二種作意:一修所成、二生所得。此中五種作意無間聖道現前,除生所得聖道,繫屬加行心故。聖道無間亦得發生,欲界生得以明利故。於前所說十二心中,何心現前幾心可得?頌曰:

(論に続けて曰く:)作意に三有り:一に自相作意、いわゆる色を観じて変碍を相と為すが如く、乃至識を観じて了別を相と為す、かくのごとき等の観の相応する作意。二に共相作意、いわゆる十六行の相応する作意。三に勝解作意、いわゆる不浄観および四無量・有色解脱・勝処・遍処、かくのごとき等の観の相応する作意。かくのごとき三種の作意の無間に聖道は現前し、聖道の無間にもまた能く具に三種の作意を起す。もし是の説を作さば、便ちこの言に順う、不浄観の俱行は念等の覚分を修す、と。ある余師の説に:ただ共相作意より無間に聖道現前し、聖道の無間には通じて三種を起し、不浄観を修して心を調伏し已りて、方に能く共相作意を引生し、此より無間に聖道現前す、と。この伝々の密意に依りて説く所、ゆえに説く、不浄観の俱行は念等の覚分を修す、と。ある余の説に復た曰く:ただ共相作意より無間に聖道現前し、聖道の無間にもまたただ能く共相作意を起すのみ。もし爾ならば、未至定等の三地に依りて正性離生に証入する有りて、聖道の無間に欲界の共相作意を生ずべし。もし第二・第三・第四の静慮に依りて正性離生に証入せば、聖道の無間に何の作意を起さん。欲界の共相作意を起すに非ず、極めて遠きを以てなり。彼の地において已に曾て得たる共相作意有るに非ず、曾て得たる順決択分に異ならざれば。諸の聖者の順決択分は復た現前すべからざるに非ず、果を得已って重ねて加行道を発生すべきゆえに非ざれば。もし別に共相作意有りて、順決択分の俱の時に已に修し、彼に繫属して是れ彼の類なるゆえと謂わば。諸行を観ずれば皆是无常、一切法を観ずれば皆是れ非我・涅槃寂静の如く、聖道の無間に彼を現前に引かん。毘婆沙師はこの義を許さず、正理に違するゆえ。もし未至定に依りて阿羅漢果を得て後に観を出づる心は、あるいは即ち彼の地あるいは是れ欲界。無所有処に依りて阿羅漢果を得て後に観を出づる心は、あるいは即ち彼の地あるいは是れ有頂。もし余の地に依りて阿羅漢果を得て後に観を出づる心は、ただ自のみ余の地に非ず。欲界中において三の作意あり:一に聞所成、二に思所成、三に生所得。色界にもまた三種の作意あり:一に聞所成、二に修所成、三に生所得。思所成無し、心を挙げて思する時に即ち定に入るゆえ。無色はただ二種の作意有りのみ:一に修所成、二に生所得。此中の五種の作意は無間に聖道現前す、生所得の聖道を除く、加行の心に繫属するゆえ。聖道の無間にもまた発生を得、欲界の生得は明利なるを以て。前に説く所の十二心中において、何の心の現前に几つの心の得べきか。頌に曰く:

三界染心中,得六六二種,

三界の染心中に、六・六・二種を得、

色善三學四,餘皆自可得。

色の善は三、学は四、其余は皆自の得べきのみ。

論曰:欲界染心正現前位,十二心內容得六心,彼先不成今得成故。由疑續善及界退還,欲界善心爾時名得。由起惑退及界退還得欲二心,不善有覆及得色界一有覆心。由起惑退得無色界一有覆心,及得學心。故名得六。色界染心正現前位,十二心內亦得六心。由界退還得欲界一無覆無記及色界三。色界染心亦由退得,由起惑退得無色界一有覆心,及得學心。故名得六。無色染心正現前位,十二心內唯得二心,由起惑退得彼染心及得學心,故名得二。色界善心正現前位,十二心內容得三心,謂彼善心及欲色界無覆無記,由昇進故。若有學心正現前位,十二心內容得四心,謂有學心及欲色界無覆無記並無色善。由初證入正性離生,及由聖道離欲色染。餘謂前說染等心餘,不說彼心正現前位得心差別。應知彼心正現前位,唯自可得。有餘於此總說。頌曰:

論に曰く:欲界の染心の正に現前の位において、十二心の内に六心を得るを容れ、彼は先に成らず今成るを得るゆえ。疑によりて善を続きおよび界に退還するに由りて、欲界の善心は爾の時に得と名づく。惑を起して退るおよび界の退還によりて欲の二心を得、不善・有覆および色界の一の有覆心を得。惑を起して退るによりて無色界の一の有覆心を得、および学心を得。ゆえに六を得と名づく。色界の染心の正に現前の位において、十二心の内にもまた六心を得。界の退還によりて欲界の一の無覆無記および色界の三を得。色界の染心もまた退に由りて得、惑を起して退るによりて無色界の一の有覆心を得、および学心を得。ゆえに六を得と名づく。無色の染心の正に現前の位において、十二心の内にただ二心を得のみ、惑を起して退るによりて彼の染心を得および学心を得、ゆえに二を得と名づく。色界の善心の正に現前の位において、十二心の内に三心を得るを容れ、いわゆる彼の善心および欲・色界の無覆無記、升進に由るゆえ。もし有学心の正に現前の位において、十二心の内に四心を得るを容れ、いわゆる有学心および欲・色界の無覆無記ならびに無色の善。初めて正性離生に証入するに由り、および聖道に由りて欲・色の染を離る。其余とは前に説く染等の心の其余を謂い、彼の心の正に現前の位の得心の差別を説かず。まさに彼の心の正に現前の位は、ただ自のみ得べしと知るべし。ある余の于此に総じて説く。頌に曰く:

慧者說染心,現起時得九,

慧者は染心を説く、現起の時に九を得と、

善心中得六,無記唯無記。

善心中には六を得、無記はただ無記。

於善心中應言得七,謂由正見續善根時,欲界善心起位名得。離欲界染究竟位中,頓得欲色無覆無記。得色無色三摩地時,彼二善心說名為得。初入離生位證阿羅漢時,學無學心說名為得。餘準前釋應知其相。為攝前義,復說頌言:

善心中においてまさに七を得と説くべし、いわゆる正見に由りて善根を続くる時に、欲界の善心の起る位を得と名づく。欲界の染を離るる究竟の位中において、頓に欲・色の無覆無記を得。色・無色の三摩地を得る時、彼の二の善心を得と説き名づく。初めて離生の位に入りて阿羅漢を証する時、学・無学心を得と説き名づく。其余は前の釈に準じてその相を知るべし。前の義を摂さんが為、復た頌言を説く:

由託生入定,及離染退時,

生を托し定に入るに由り、および染を離れ退する時、

續善位得心,非先所成故。

善を続くる位に心を得、先に成ぜし所に非ざるゆえ。

説一切有部倶舎論 巻第七

アビダルマ倶舎論 巻第八

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別世品第三之一

分別世品 第三之一。

已依三界分別心等。今次應說,三界是何?各於其中處別有幾?頌曰:

已に三界に依りて心等を分別し竟えた。今次にまさに説くべし、三界とは何ぞ。各々その中において処別は几つあるか。頌に曰く:

地獄傍生鬼,人及六慾天,

地獄・傍生・鬼、人および六欲天、

名欲界二十,由地獄洲異。

名づけて欲界の二十、地獄・洲の異なるに由る。

此上十七處,名色界於中,

この上に十七処、名づけて色界、その中に、

三靜慮各三,第四靜慮八。

三静慮は各々三、第四静慮は八。

無色界無處,由生有四種,

無色界に処無し、生に由りて四種有り、

依同分及命,令心等相續。

同分および命に依りて、心等をして相续せしむ。

論曰:地獄等四及六慾天並器世間,是名欲界。六慾天者,一、四大王眾天;二、三十三天;三、夜摩天;四、覩史多天;五、樂變化天;六、他化自在天。如是欲界處別有幾?地獄洲異,故成二十。八大地獄,名地獄異。一等活地獄、二黑繩地獄、三眾合地獄、四號叫地獄、五大叫地獄、六炎熱地獄、七大熱地獄、八無間地獄。言洲異者,謂四大洲:一南贍部洲、二東勝身洲、三西牛貨洲、四北俱盧洲。如是十二並六慾天、傍生、餓鬼處成二十。若有情界從自在天至無間獄,若器世界乃至風輪,皆欲界攝。此欲界上處有十七,謂三靜慮處各有三,第四靜慮處獨有八,器及有情總名色界。第一靜慮處有三者,一梵眾天、二梵輔天、三大梵天。第二靜慮處有三者,一少光天、二無量光天、三極光淨天。第三靜慮處有三者,一少淨天、二無量淨天、三遍淨天。第四靜慮處有八者,一無雲天、二福生天、三廣果天、四無煩天、五無熱天、六善現天、七善見天、八色究竟天。迦濕彌羅國諸大論師皆言:色界處但有十六。彼謂:即於梵輔天處有高臺閣,名大梵天,一主所居非有別地,如尊處座四眾圍繞。無色界中都無有處,以無色法無有方所,過去未來無表無色不住方所,理決然故。但異熟生,差別有四:一空無邊處、二識無邊處、三無所有處、四非想非非想處,如是四種名無色界。此四非由處有上下,但由生故勝劣有殊。復如何知彼無方處?謂於是處得彼定者,命終即於是處生故。復從彼沒生欲色時,即於是處中有起故。如有色界一切有情,要依色身心等相續。於無色界受生有情,以何為依心等相續?對法諸師說彼心等依眾同分及與命根而得相續。若爾,有色有情心等,何不但依此二相續?有色界生此二劣故。無色此二因何故強?彼界二從勝定生故,由彼等至能伏色想。若爾,於彼心等相續,但依勝定,何用別依?

論に曰く:地獄等の四および六欲天ならびに器世間、是れを欲界と名づく。六欲天とは:一に四大王衆天、二に三十三天、三に夜摩天(ヤーマ)、四に覩史多天(トゥシタ)、五に楽変化天、六に他化自在天。かくのごとき欲界の処別は几つかある。地獄・洲の異なるによりて二十を成す。八大地獄は地獄の異と名づく。一に等活地獄、二に黒縄地獄、三に衆合地獄、四に号叫地獄、五に大叫地獄、六に炎熱地獄、七に大熱地獄、八に無間地獄。洲の異を説くは、いわゆる四大洲:一に南贍部洲(ジャンブドヴィーパ)、二に東勝身洲、三に西牛貨洲、四に北倶盧洲。かくのごとき十二ならびに六欲天・傍生・餓鬼の処は二十を成す。もし有情界は自在天より無間獄に至り、もし器世界は乃至風輪に至るまで、皆欲界の摂。この欲界の上の処に十七有り、いわゆる三の静慮処は各々三有り、第四の静慮処は独り八有り、器および有情を総じて色界と名づく。第一の静慮処に三有り:一に梵衆天、二に梵輔天、三に大梵天。第二の静慮処に三有り:一に少光天、二に無量光天、三に極光浄天。第三の静慮処に三有り:一に少浄天、二に無量浄天、三に遍浄天。第四の静慮処に八有り:一に無雲天、二に福生天、三に広果天、四に無煩天、五に無熱天、六に善現天、七に善見天、八に色究竟天。迦湿弥羅国の諸の大論師は皆説く:色界の処は但だ十六有りのみ。彼の謂うに:即ち梵輔天の処において高台閣有りて大梵天と名づき、一の主の居する所にして別の地有るに非ず、尊の座に処し四衆の囲遶するが如し。無色界中には都て処有ること無し、無色の法は方所無きを以て、過去・未来・無表・無色は方所に住せず、理の決然たるゆえ。但だ異熟生に差別の四有り:一に空無辺処、二に識無辺処、三に無所有処、四に非想非非想処、かくのごとき四種を無色界と名づく。この四は処によりて上下有るに由らず、但だ生に由りて勝劣の殊有り。復た如何にして彼に方処なきを知るか。いわゆるこの処において彼の定を得れば、命終じて即ちこの処において生ずるゆえ。復た彼より没して欲・色に生ずる時、即ちこの処において中有が起るゆえ。有色界の一切の有情の如く、要して色身に依りて心等は相续す。無色界において受生する有情は、何を以て依と為して心等相续せん。対法の諸師は彼の心等は衆同分および命根に依りて相续を得と説く。もし爾ならば、有色の有情の心等は、何ぞ但だこの二に依りて相续せざる。有色界の生はこの二が劣なるゆえ。無色にこの二は何の因の故に強きか。彼界の二は勝定より生ずるゆえ、彼の等至は能く色想を伏するに由る。もし爾ならば、彼において心等の相续は、但だ勝定に依れ、何ぞ別の依を用いんや。

又今應說,如有色界受生有情同分命根依色而轉,無色此二以何為依?此二更互相依而轉。有色此二何不相依?有色界生此二劣故。無色此二因何故強?彼界此二種,從勝定生故。前說彼定能伏色想,是則還同心相續難。或心心所唯互相依,故經部師說無色界心等相續無別有依。謂若有因未離色愛引起心等,所引心等與色俱生依色而轉。若因於色已得離愛,厭背色故,所引心等非色俱生不依色轉。何故名為欲等三界?能持自相故名為界。或種族義,如前已釋。欲所屬界說名欲界,色所屬界說名色界,略去中言故作是說,如胡椒飲如金剛環。於彼界中色非有故名為無色。所言色者,是變礙義,或示現義。彼體非色立無色名,非彼但用色無為體。無色所屬界,說名無色界,略去中言,喻如前說。又欲之界名為欲界,此界力能任持欲故。色無色界應知亦然。此中欲言為說何法?略說段食婬所引貪。如經頌言:

(論に続けて曰く:)また今まさに説くべし、有色界の受生する有情の同分・命根は色に依りて転ずるが如く、無色においてこの二は何を以て依と為すか。この二は更に互いに相依りて転ず。有色においてこの二は何ぞ相依らざる。有色界の生はこの二が劣なるゆえ。無色にこの二は何の因の故に強きか。彼界のこの二種は勝定より生ずるゆえ。前に彼の定は能く色想を伏すと説く、是則ち還りて心の相续の難と同じ。あるいは心・心所はただ互いに相依る、ゆえに経部師は無色界の心等の相续に別の依無しと説く。いわゆるもし因ありて未だ色愛を離れずして心等を引起せば、引く所の心等は色と俱に生じ色に依りて転ず。もし因は色において已に離愛を得て色を厭背するゆえに、引く所の心等は色と俱に生ぜず色に依らず転ず。何の故に欲等の三界と名づくるか。能く自相を持するゆえに界と名づく。あるいは種族の義、前に已に釋せしが如し。欲の属する所の界を欲界と説き名づき、色の属する所の界を色界と説き名づく、中の言を略し去るゆえに是の説を作す、胡椒の飲の如く金剛の環の如し。彼の界中に於て色は有るに非ざるゆえに無色と名づく。言う所の色とは、是れ変碍の義、あるいは示現の義。彼の体は色に非ざれば無色の名を立つ、彼は但だ色を以て無為の体と為すに非ず。無色の属する所の界を無色界と説き名づく、中の言を略し去る、喩は前の説くが如し。また欲の界を欲界と名づく、この界の力は能く欲を任持するゆえ。色・無色界もまさにこの如く知るべし。此中の欲の言は何の法を説くを為すか。略して説けば段食・淫の引く所の貪。経の頌の説くが如く:

世諸妙境非真欲,真欲謂人分別貪,

世の諸の妙境は真の欲に非ず、真の欲とは人の分別の貪を謂う、

妙境如本住世間,智者於中已除欲。

妙境は本の如く世間に住し、智者はその中に於て已に欲を除く。

邪命外道便詰尊者舍利子言:

邪命の外道は便ち尊者舍利子(シャーリプトラ)に詰して曰く:

若世妙境非真欲,說欲是人分別貪,

もし世の妙境は真の欲に非ず、欲は人の分別の貪と説くならば、

比丘應名受欲人,起惡分別尋思故。

比丘はまさに欲を受くる人と名づくべし、悪しき分別・尋思を起すゆえ。

時舍利子反質彼言:

時に舍利子は反りて彼に質して曰く:

若世妙境是真欲,說欲非人分別貪,

もし世の妙境は是れ真の欲にして、欲は人の分別の貪に非ずと説くならば、

汝師應名受欲人,恆觀可意妙色故。

汝の師はまさに欲を受くる人と名づくべし、恒に可意の妙色を観ずるゆえ。

若法於彼三界現行,此法即說三界繫不?不爾。云何於中隨增三界貪者是三界繫?此中何法名三界貪?謂三界中各隨增者,今此所言同縛馬答。猶如有問縛馬者誰?答言馬主。即彼復問馬主是誰?答言縛者。如是二答皆不令解。今此所言不同彼答,謂於前說欲界諸處未離貪者,貪名欲貪,此所隨增名欲界繫。於前所說色無色中,隨其所應當知亦爾。或不定地貪名欲貪,此所隨增名欲界繫。諸靜慮地貪名色貪,此所隨增名色界繫。諸無色地貪名無色貪,此所隨增名為無色界繫。於欲化心上如何起欲貪?從他所聞,或自退失生愛味故。或觀化者自在勢力,於彼化心生貪愛故。若心能化香味二法,此能化心是欲界繫,色界心不能化作香味故。如是三界唯有一耶?三界無邊如虛空量,故雖無有始起有情,無量無邊佛出於世,一一化度無數有情令證無餘般涅槃界而不窮盡猶若虛空。世界當言云何安住?當言傍住,故契經言:譬如天雨滴如車軸,無間無斷從空下澍。如是東方無間無斷無量世界或壞或成,如於東方,南西北方亦復如是,不說上下。有說亦有上下二方,餘部經中說十方故。色究竟上復有欲界,於欲界下有色究竟。若有離一欲界貪時,諸欲界貪皆得滅離。離色無色應知亦爾。依初靜慮起通慧時,所發神通但能往至自所生界梵世非餘,所餘通慧應知亦爾。已說三界。五趣云何?頌曰:

(論に続けて曰く:)もし法は彼の三界において現行すれば、この法は即ち三界の繫と説かんや否や。然らず。如何にしてその中において随増する三界の貪は是れ三界の繫か。此中の何の法を三界の貪と名づくるか。いわゆる三界中の各々随増する所。今この言う所は縛馬の答に同じ。猶お問有るが如く、馬を縛るは是れ誰ぞ。答えて馬主と曰う。即ち彼は復た問う、馬主は是れ誰ぞ。答えて縛る所と曰う。かくのごとき二答は皆解せしめず。今この言う所は彼の答と同じからず、いわゆる前に説く欲界の諸処に於て未だ貪を離れざるは、貪を欲貪と名づき、これの随増する所を欲界繫と名づく。前の説く所の色・無色中において、その応ずる所に随いてまさにこの如く知るべし。あるいは不定の地の貪を欲貪と名づき、これの随増する所を欲界繫と名づく。諸の静慮地の貪を色貪と名づき、これの随増する所を色界繫と名づく。諸の無色地の貪を無色貪と名づき、これの随増する所を無色界繫と名づく。欲の化心において如何にして欲貪を起さんか。他より聞く所に由り、あるいは自ら退失して愛味を生ずるゆえ。あるいは化するの自在の勢力を観じて、彼の化心において貪愛を生ずるゆえ。もし心は能く香・味の二法を化すれば、この能化の心は欲界の繫、色界の心は能く香・味を化作する能わざるゆえ。このように三界はただ一つのみか。三界は無辺にして虚空の量の如し、ゆえに始めて起こる有情無しと雖も、無量無辺の仏は世に出で、一一に無数の有情を化度して无余の般涅槃界を証せしむるも而も窮尽せず猶お虚空の若し。世界はまさに如何に安住すると説くべきか。まさに傍に住すと説くべし、ゆえに契経に説く:譬えば天の雨の滴は車軸の如く、無間にして断えず空より下りて澍ぐが如し。かくのごとき東方は無間にして断えず無量の世界あるいは壊れあるいは成る、東方におけるが如く、南・西・北方も亦復たこの如し、上下を説かず。ある説にもまた上下の二方有り、余部の経中に十方を説くゆえ。色究竟の上に復た欲界有り、欲界の下に色究竟有り。もし一の欲界の貪を離るる有る時、諸の欲界の貪は皆滅離を得。色・無色を離るるもまさにこの如く知るべし。初静慮に依りて通慧を起す時、発する所の神通は但だ能く自ら生ずる所の界の梵世に往き至りて余に非ず、余の通慧もまさにこの如く知るべし。已に三界を説き竟えた。五趣は如何。頌に曰く:

於中地獄等,自名說五趣,

その中に地獄等、自名に説く五趣、

唯無覆無記,有情非中有。

ただ無覆無記、有情にして中有に非ず。

論曰:於三界中說有五趣,即地獄等如自名說,謂前所說地獄、傍生、鬼及人、天是名五趣。唯於欲界有四趣全,三界各有天趣一分。為有三界非趣所攝,而於界中說有五趣?有,謂善染外器中有,雖是界性而非趣攝。五趣體唯無覆無記,若異此者趣應相雜,於一趣中具有五趣業煩惱故。五趣唯是有情數攝,體非中有。《施設足論》作如是說:四生攝五趣,非五攝四生。不攝者何?所謂中有。《法蘊足論》亦作是言:眼界云何?謂四大種所造淨色是眼,眼根、眼處、眼界。地獄、傍生、鬼、人、天趣,修成中有。契經亦簡中有異趣。是何契經?謂《七有經》。彼說七有,謂地獄有、傍生有、餓鬼有、天有、人有、業有、中有。彼經中說五趣及因並趣方便,故趣唯是無覆無記,其理極成。簡業有因,異諸趣故。迦濕彌羅國誦如是契經:尊者舍利子作是言:具壽!若有地獄諸漏現前故,造作增長順地獄受業,彼身語意曲穢濁故,於㮏落迦中受五蘊異熟,異熟起已名那落迦,除五蘊法,彼那落迦都不可得。故趣唯是無覆無記。若如是者,《品類足論》當云何通?彼說五趣一切隨眠所隨增故。彼說五趣續生心中容有五部一切煩惱趣及入心。總說為趣,無相違失。譬如村落及村落邊總名村落。有說:趣體亦通善染。然《七有經》簡業有者,非別說故,定非彼攝。如五濁中煩惱與見別說為濁,非別說故,彼見定非煩惱所攝。如是業有雖亦是趣,為顯趣因,是故別說。若爾,中有亦應是趣。不爾,趣義不相應故。趣謂所往,不可說言中有是所往,即死處生故。若爾,無色亦應非趣,即於死處而受生故。既爾,中有名中有,故不應名趣。二趣中故名為中有,此若趣攝非中間故,是則不應說名中有。然彼尊者舍利子言異熟起已名地獄者,說異熟起方名地獄,非說地獄唯是異熟。

論に曰く:三界中において五趣有りと説く、即ち地獄等は自名の説くが如く、いわゆる前に説く所の地獄・傍生・鬼および人・天、是れを五趣と名づく。ただ欲界において四趣全く、三界は各々天趣の一分有り。三界有りて趣の摂する所に非ざるか、而も界中において五趣有りと説く。有り、いわゆる善・染・外器・中有は、界性なりと雖も而も趣の摂に非ず。五趣の体はただ無覆無記、もしこれに異ならば趣はまさに相雑すべし、一趣中において具に五趣の業・煩悩有るゆえ。五趣はただ是れ有情数の摂、体は中有に非ず。『施設足論』は是の説を作す:四生は五趣を摂す、五は四生を摂せず、と。摂せざるは是れ何ぞ。いわゆる中有。『法蘊足論』もまた是の説を作す:眼界は如何。いわゆる四大種の造る所の浄色是れ眼・眼根・眼処・眼界。地獄・傍生・鬼・人・天の趣は修成の中有。契経もまた中有と異なる趣を簡ぶ。是れ何の契経ぞ。いわゆる『七有経』。彼は七有を説く、いわゆる地獄有・傍生有・餓鬼有・天有・人有・業有・中有。彼の経中に五趣および因ならびに趣の方便を説く、ゆえに趣はただ是れ無覆無記、その理極めて成れり。業有の因を簡び、諸の趣に異なるゆえ。迦湿弥羅国にかくのごとき契経を誦す:尊者舍利子は是の説を作す:具寿よ!もし地獄の諸漏の現前するゆえに、順地獄受の業を造作し増長し、彼の身・語・意は曲にして穢濁なるゆえに、捺落迦(地獄)中において五蘊の異熟を受く、異熟起り已りて那落迦と名づく、五蘊の法を除きて彼の那落迦は都て得べからず、と。ゆえに趣はただ是れ無覆無記。もしかくのごとくならば、『品類足論』はまさに如何に通ぜん。彼は五趣は一切の随眠の随増する所と説くゆえ。彼は五趣の続生の心中に五部一切の煩悩の趣および入る心有るを容れと説く。総じて趣と説き為す、相違の失なし。譬えば村落および村落の辺を総じて村落と名づくるが如し。ある説に:趣の体はもまた善・染に通ず、と。しかるに『七有経』は業有を簡ぶは、別に説くゆえに、定めて彼の摂に非ず。五濁中において煩悩と見とは別に濁と説くが如く、別に説くゆえに、彼の見は定めて煩悩の摂する所に非ず。かく業有は趣なりと雖も、趣因を顕さんが為、是れを以て別に説く。もし爾ならば、中有もまたまさに是れ趣なるべし。然らず、趣の義に相応せざるゆえ。趣とは往く所を謂う、中有を所往と説くべからず、即ち死の処に生ずるゆえ。もし爾ならば、無色もまたまさに趣に非ざるべし、即ち死の処において受生するゆえ。既に爾れば、中有は中有と名づく、ゆえに趣と名づくべからず。二趣の中なるゆえに中有と名づく、これもし趣の摂ならば中間に非ざるゆえに、是則ちまさに中有と説き名づくべからず。しかるに彼の尊者舍利子の説く異熟起り已りて地獄と名づくるは、異熟の起るを方に地獄と名づくるを説く、地獄はただ是れ異熟と説くに非ず。

然復說言,除五蘊法彼那落迦不可得者,為遮實有能往諸趣補特伽羅故作是說,非遮餘蘊故作是言。毘婆沙師說:趣唯是無覆無記。有說:一向是異熟生。有餘師言:亦通長養。即於三界及五趣中,如其次第識住有七。其七者何?頌曰:

(論に続けて曰く:)しかるに復た説く、五蘊の法を除きて彼の那落迦は得べからずとは、実有の能く諸趣に往く補特伽羅(有情)有るを遮らんが為に是の説を作す、余の蘊を遮るに非ざるゆえに是の説を作す。毘婆沙師説く:趣はただ是れ無覆無記。ある説に:一向是れ異熟生。ある余師の説に:もまた長養に通ず、と。即ち三界および五趣中において、その次第の如く識住に七有り。その七とは是れ何ぞ。頌に曰く:

身異及想異,身異同一想,

身異および想異、身異にして同一の想、

翻此身想一,並無色下三,

これを翻して身・想一、ならびに無色の下三、

故識住有七,餘非有損壞。

ゆえに識住は七有り、余は損壊有るに非ず。

論曰:契經中說,有色有情身異想異,如人一分天,是第一識住。一分天者,謂欲界天及初靜慮,除劫初起。言身異者,謂彼色身種種顯形,狀貌異故。彼由身異,或有異身,故彼有情說名身異。言想異者,謂彼苦樂不苦不樂想差別故。彼由想異,或有異想,故彼有情說名想異。有色有情身異想一,如梵眾天謂劫初起,是第二識住。所以者何?以劫初起,彼諸梵眾起如是想:我等皆是大梵所生。大梵爾時亦起此想:是諸梵眾皆我所生。同想一因故名想一。大梵王身其量高廣,容貌威德言語光明衣冠等事,一一皆與梵眾不同,故名身異。經說:梵眾作是念言:我等曾見如是有情長壽久住,乃至起願:云何當令諸餘有情生我同分?於彼正起此心願時,我等便生彼同分內。梵眾何處曾見梵王?有餘師言:住極光淨,從彼天沒來生此故。云何今時不得第二靜慮,而能憶念彼地宿住事耶?若彼已得第二靜慮,云何緣大梵猶起戒禁取?有餘師說:住中有中,彼住中有中,無長時住義,以於受生無障礙故。如何梵眾可作念言:我等曾見如是有情長壽久住。是故梵眾即住自天,憶念此生前所更事,謂先見彼長壽久住,後重見時起如是念。有色有情身一想異,如極光淨天,是第三識住。此中舉後兼以攝初,應知具攝第二靜慮。若不爾者,彼少光天、無量光天何識住攝?彼天顯形狀貌不異,故名身一。樂非苦樂二想交參,故名想異。傳說彼天厭根本地喜根,已起近分地捨根現前;厭近分地捨根,已起根本地喜根現前。如富貴人厭欲樂已便受法樂,厭法樂已復受欲樂。豈不遍淨想亦應然?非遍淨天曾有厭樂,以樂寂靜曾無厭時;喜則不然,擾動心故。經部師說:有餘契經釋彼天中有想異義,謂極光淨有天新生,未善了知世間成壞。彼見下地火焰洞然,見已便生驚怖厭離:勿彼火焰燒盡梵宮令彼皆空上侵我處。

論に曰く:契経中に説く、色ある有情は身異なり想異なり、人・一分の天の如く、是れ第一の識住。一分の天とは、いわゆる欲界の天および初静慮、劫初の起るを除く。身異を説くは、いわゆる彼の色身の種種の顕形、状貌の異なるゆえ。彼は身異に由り、あるいは異身有るに由りて、ゆえに彼の有情を身異と説き名づく。想異を説くは、いわゆる彼の苦・楽・不苦不楽の想の差別あるゆえ。彼は想異に由り、あるいは異想有るに由りて、ゆえに彼の有情を想異と説き名づく。色ある有情は身異なり想一なり、梵衆天の如くは劫初の起るを謂い、是れ第二の識住。所以者何。劫初の起るを以て、彼の諸の梵衆はかかる想を起す:我等は皆大梵の生ずる所なり、と。大梵も爾の時にこの想を起す:是の諸の梵衆は皆我が生ずる所なり、と。同じく一因を想うゆえに想一と名づく。大梵王の身はその量高広にして、容貌・威徳・言語・光明・衣冠等の事は一一皆梵衆と同じからず、ゆえに身異と名づく。経に説く:梵衆は是の念を作して曰く:我等は曾てかくのごとき有情の長寿にして久しく住するを見たり、乃至願を起す:如何にしてまさに諸の余の有情をして我が同分に生ぜしめん、と。彼において正しくこの心願を起す時に、我等は便ち彼の同分の内に生じたり、と。梵衆は何の処に曾て梵王を見しや。ある余師の説に:極光浄に住せり、彼の天より没して此に生ずるを来たるゆえ、と。如何にして今の時に第二静慮を得ざるに、能く彼の地の宿住の事を憶念するや。もし彼は已に第二静慮を得なば、如何にして大梵に縁りて猶お戒禁取を起さんや。ある余師の説に:中有中に住す、彼は中有中に住して長時住の義無し、受生において障碍なきを以てなり。如何にして梵衆は念を作して可ならん、曰く:我等は曾てかくのごとき有情の長寿にして久しく住するを見たり、と。是れを以て梵衆は即ち自天に住して、此生の前に更えたる事を憶念す、いわゆる先に彼の長寿久住を見、後に重ねて見る時にかくのごとき念を起す。色ある有情は身一なり想異なり、極光浄天の如し、是れ第三の識住。此中に後を挙げて兼ねて以て初を摂す、まさに具に第二静慮を摂すと知るべし。もしこの如くならざれば、彼の少光天・無量光天は何の識住の摂か。彼の天は顕形・状貌は異ならず、ゆえに身一と名づく。楽と非苦楽の二想は交参す、ゆえに想異と名づく。伝説に彼の天は根本地の喜根を厭い、已に近分地の捨根を起して現前し、近分地の捨根を厭い、已に根本地の喜根を起して現前す。富貴の人が欲楽を厭い已って便ち法楽を受け、法楽を厭い已って復た欲楽を受くるが如し。豈に遍浄の想もまたまさにこの如くならんや。遍浄天は曾て楽を厭うこと有らず、楽は寂静にして曾て厭う時なきを以て、喜は則ち然らず、心を扰動するゆえ。経部師説く:余の契経有りて彼の天中の想異の義を釋す、いわゆる極光浄に新生の天有りて、未だ善く世間の成壊を了知せず。彼は下地の火焰の洞然たるを見、見已って便ち驚怖厭離を生ず:彼の火焰が梵宮を焼き盡して彼を皆空しくし上りて我が処を侵さんこと勿れ、と。

彼極光淨有舊生天,已善了知世間成壞,便慰喻彼驚怖天言:淨仙淨仙。勿怖勿怖。昔彼火焰燒盡梵宮,令其皆空即於彼滅。彼於火焰有來不來想及怖不怖想故名想異,非由有樂非苦樂想有交參故得想異名。有色有情身一想一,如遍淨天,是第四識住。唯有樂想故名想一。初靜慮中由染汙想故言想一,第二靜慮由二善想故言想異,第三靜慮由異熟想故言想一,下三無色名別,如經即三識住是名為七。此中何法名為識住?謂彼所繫五蘊四蘊,如其所應是名識住。所餘何故非識住耶?於餘處皆有損壞識法故。餘處者何?謂諸惡處第四靜慮及與有頂。所以者何?由彼處有損壞識法,故非識住。何等名為損壞識法?謂諸惡處有重苦受能損於識,第四靜慮有無想定及無想事,有頂天中有滅盡定能壞於識,令相續斷故非識住。復說:若處餘處有情心樂來止,若至於此不更求出,說名識住。於諸惡處,二義俱無。第四靜慮心恆求出,謂諸異生求入無想,若諸聖者樂入淨居或無色處,若淨居天樂證寂滅,有頂昧劣故非識住。如是分別七識住已。因茲復說九有情居。其九者何?頌曰:

(論に続けて曰く:)彼の極光浄に旧生の天有りて、已に善く世間の成壊を了知し、便ち彼の驚怖する天を慰喩して曰く:浄仙よ浄仙よ。怖るる勿れ怖るる勿れ。昔彼の火焰は梵宮を焼き盡して皆空しからしめて即ち彼において滅せり、と。彼は火焰において来・不来の想および怖・不怖の想有るゆえに想異と名づく、楽・非苦楽の想の交参有るに由りて想異の名を得るに非ず。色ある有情は身一なり想一なり、遍浄天の如し、是れ第四の識住。ただ楽想有るゆえに想一と名づく。初静慮中は染污の想に由りてゆえに想一と説き、第二静慮は二の善想に由りてゆえに想異と説き、第三静慮は異熟の想に由りてゆえに想一と説き、下の三の無色は名の別れ、経の如く即ち三の識住是れを名づけて七と為す。此中の何の法を識住と名づくるか。いわゆる彼の繫する所の五蘊・四蘊、その応ずる所の如く是れを識住と名づく。余は何の故に識住に非ざるか。余の処において皆識を損壊する法有るゆえ。余の処とは是れ何ぞ。いわゆる諸の悪処・第四静慮および有頂。所以者何。彼の処に識を損壊する法有るに由りて、ゆえに識住に非ず。何等を識を損壊する法と名づくるか。いわゆる諸の悪処に重き苦受有りて能く識を損し、第四静慮に無想定および無想事有り、有頂天中に滅尽定有りて能く識を壊して相续を断ぜしむるゆえに識住に非ず。復た説く:もし処に余の処の有情の心が来たり止まるを楽い、もし此に至りて更に出づるを求めざれば、識住と説き名づく。諸の悪処においては二義俱に無し。第四静慮は心は恒に出づるを求む、いわゆる諸の異生は無想に入らんを求め、もし諸の聖者は浄居あるいは無色処に入るを楽い、もし浄居天は寂滅を証するを楽う、有頂は昧劣なるゆえに識住に非ず。このように七識住を分別し已り。これに因りて復た九有情居を説く。その九とは是れ何ぞ。頌に曰く:

應知兼有頂,及無想有情,

まさに有頂を兼ね、および無想の有情を知るべし、

是九有情居,餘非不樂住。

是れ九の有情居、余は住することを楽わざるに非ず。

論曰:前七識住及第一有、無想有情,是名為九,諸有情類唯於此九欣樂住故立有情居。餘處皆非,不樂住故。言餘處者,謂諸惡處,非有情類自樂居中,惡業羅剎逼之令住故。彼如牢獄不立有情居。第四靜慮除無想天,餘非有情居,如識住中釋。前所引經說七識住,復有餘經說四識住。其四者何?頌曰:

論に曰く:前の七識住および第一有・無想有情、是れを名づけて九と為す、諸の有情類はただこの九において欣楽して住するゆえに有情居と立つ。余の処は皆非ず、住することを楽わざるゆえ。余の処を説くは、いわゆる諸の悪処、有情類の自ら居るを楽う中に非ず、悪業・羅刹(ラークシャサ)がこれを逼めて住せしむるゆえ。彼は牢獄の如く有情居と立てず。第四静慮は無想天を除きて、余は有情居に非ず、識住中の釋の如し。前の引く所の経は七識住を説く、復た余の経有りて四識住を説く。その四とは是れ何ぞ。頌に曰く:

四識住當知,四蘊唯自地,

四識住はまさに知るべし、四蘊はただ自地、

說獨識非住,有漏四句攝。

独りの識は住に非ずと説く、有漏の四句の摂。

論曰:如契經言:識隨色住,識隨受住,識隨想住,識隨行住,是名四種。如是四種其體云何?謂隨次第有漏四蘊。又此唯在自地非餘,識所依著,名識住故。非於異地色等蘊中識隨愛力依著於彼。如何不說識為識住?由離能住立所住故。非能住識可名所住,如非即王可名王座。或若有法識所乘御,如人船理說名識住。非識即能乘御自體,是故不說識為識住。毘婆沙師所說如是。若爾,何故餘契經言:於識食中有喜有染,有喜染故識住其中、識所乘御。又如何言前七識住五蘊為體?雖有是說,而於生處所攝蘊中不別分析,總生喜染故。識轉時亦名識住,非獨說識。然色等蘊一一能生種種喜染令識依著,獨識不然,故言非住。是故於此四識住中識非識住,於餘可說。又佛意說,此四識住猶如良田,總說一切有取諸識猶如種子,不可種子立為良田。仰測世尊教意如是。又法與識可俱時生,為識良田可立識住。識蘊不爾,故非識住。如是所說七種四種,識住雖殊而皆有漏。為七攝四、四攝七耶?非遍相攝。可為四句。謂審觀察應知二門體互寬陿得成四句,或有七攝非四攝等。第一句者,謂七中識。第二句者,謂諸惡處、第四靜慮及有頂中,除識餘蘊。第三句者,七中四蘊。第四句者,謂除前相。於前所說諸界趣中,應知其生略有四種。何等為四?何處有何?頌曰:

論に曰く:契経の説くが如く:識は色に随いて住し、識は受に随いて住し、識は想に随いて住し、識は行に随いて住す、是れを四種と名づく、と。かくのごとき四種のその体は如何。いわゆる次第に随いて有漏の四蘊。またこれはただ自地において余に非ず、識の依著する所は識住と名づくゆえ。異地の色等蘊中においては識は愛力に随い依著して彼にせざるに非ず。如何にして識を識住と説かざるか。能住を離れて所住を立つるに由るゆえ。能住の識は所住と名づくべからず、即ち王に非ざるは王座と名づくべからざるが如し。あるいはもし法有りて識の乗御する所ならば、人・船の理の如く識住と説き名づく。識は即ち自の体を乘御すること能わざるに非ず、是れを以て識を識住と説かず。毘婆沙師の説く所はかくのごとし。もし爾ならば、何の故に余の契経に説く:識食中において喜有り染有り、喜染有るゆえに識はその中に住し識の乗御する所、と。また如何にして前の七識住は五蘊を体と為すと説くか。是の説有ると雖も、しかるに生ずる処の摂する蘊中において別々に分析せずして総じて喜染を生ずるゆえ。識の転ずる時にもまた識住と名づく、独り識を説くに非ず。しかるに色等の蘊は一一に能く種種の喜染を生じて識を依著せしむ、独りの識は然らず、ゆえに住に非ずと説く。是れを以てこの四識住中において識は識住に非ず、余においては説くべし。また仏の意の説くは、この四識住は猶お良田のごとく、総じて一切の有取の諸識を説いて猶お種子のごとく、種子を以て良田と立つべからず。仰ぎて世尊の教意はかくのごとしと測る。また法は識と俱時に生ずべく、識の良田と為りて識住と立つべし。識蘊は然らず、ゆえに識住に非ず。かくのごとき説く所の七種・四種は、識住は殊なれど而も皆有漏。七は四を摂し、四は七を摂するか。遍く相摂するに非ず。四句を作すべし。いわゆる審かに観察すればまさに二門の体は互いに寛狭して四句を成るを得ると知るべし、あるいは七は摂して四は摂せず等。第一句とは、いわゆる七中の識。第二句とは、いわゆる諸の悪処・第四静慮および有頂中の識を除く其余の蘊。第三句とは、七中の四蘊。第四句とは、いわゆる前の相を除く。前に説く所の諸の界趣中において、まさにその生は略して四種有ると知るべし。何等を四とするか。何の処に何有るか。頌に曰く:

於中有四生,有情謂卵等,

その中において四生あり、有情は卵等を謂い、

人傍生具四,地獄及諸天,

人・傍生は具に四、地獄および諸の天、

中有唯化生,鬼通胎化二。

中有はただ化生、鬼は胎・化の二に通ず。

論曰:謂有情類卵生、胎生、濕生、化生,是名為四。生謂生類。諸有情中雖餘類雜,而生類等。云何卵生?謂有情類生從卵㲉是名卵生,如鵝孔雀鸚鵡鴈等。云何胎生?謂有情類生從胎藏是名胎生,如象馬牛豬羊驢等。云何濕生?謂有情類生從濕氣是名濕生,如蟲飛蛾蚊蚰蜒等。云何化生?謂有情類生無所託是名化生,如那落迦、天、中有等,具根無缺支分頓生,無而欻有故名為化。人傍生趣各具四種。人卵生者,謂如世羅鄔波世羅生從鶴卵,鹿母所生三十二子,般遮羅王五百子等。人胎生者,如今世人。人濕生者,如曼馱多遮盧鄔波遮盧,鴿鬘菴羅衛等。人化生者,唯劫初人。傍生三種,共所現見。化生如龍揭路荼等。一切地獄、諸天、中有,皆唯化生。鬼趣唯通胎化二種。鬼胎生者,如餓鬼女白目連云:

論に曰く:いわゆる有情類の卵生・胎生・湿生・化生、是れを四と名づく。生とは生類を謂う。諸の有情中は余の類雑なりと雖も、しかるに生類は等し。何を卵生とするか。いわゆる有情類の生は卵殻より出づ、是れを卵生と名づく、鵞・孔雀・鸚鵡・雁等の如し。何を胎生とするか。いわゆる有情類の生は胎蔵より出づ、是れを胎生と名づく、象・馬・牛・猪・羊・驢等の如し。何を湿生とするか。いわゆる有情類の生は湿気より起こる、是れを湿生と名づく、虫・飛蛾・蚊・蚰蜒等の如し。何を化生とするか。いわゆる有情類の生は托する所無し、是れを化生と名づく、那落迦・天・中有等の如く、根を具して支分欠けず頓に生ず、無くして欻に有るゆえに化と名づく。人・傍生の趣は各々四種を具す。人の卵生とは、いわゆる世羅・鄔波世羅の鶴の卵より生ぜしが如く、鹿母の生ぜし三十二子、般遮羅王の五百子等。人の胎生とは、今の日の世人の如し。人の湿生とは、曼馱多・遮盧・鄔波遮盧、鴿鬘・庵羅衛等の如し。人の化生とは、ただ劫初の人。傍生の三種は共に現見する所。化生は龍・掲路荼(ガルダ)等の如し。一切の地獄・諸天・中有は皆ただ化生。鬼趣はただ胎・化の二種に通ず。鬼の胎生とは、餓鬼の女が目連に対して説くが如し:

我夜生五子,隨生皆自食,

我は夜に五子を生み、生ずるに随いて皆自ら食らい、

晝生五亦然,雖盡而無飽。

昼に五を生ずるもまたこの如し、盡くすと雖も而も飽くこと無し。

一切生中何生最勝?應言最勝唯是化生。若爾,何緣後身菩薩得生自在而受胎生?現受胎生有大利故,謂為引導諸大釋種親屬相因令入正法。又引餘類令知菩薩是輪王種生敬慕心,因得捨邪趣於正法。又令所化生增上心:彼既是人,能成大義;我曹亦爾,何為不能因發正勤專修正法?又若不爾,族姓難知,恐疑幻化為天為鬼。如外道論矯設謗言:過百劫後當有大幻出現於世噉食世間。故受胎生息諸疑謗。有餘師說:為留身界故受胎生,令無量人及諸異類一興供養千返生天及證解脫。若受化生無外種故,身才殞逝無復遺形,如滅燈光即無所見。若人信佛有持願通能久留身,此不成釋因論生論。若化生身如滅燈光死無遺者,何故契經說化生揭路荼取化生龍為充所食?以不知故為食取龍,不說充飢。斯有何失?或龍未死暫得充飢,死已還飢。暫食何咎!於四生內何者最多?唯化生。何以故?三趣少分及二趣全、一切中有皆化生故。此中何法說名中有?何緣中有非即名生?頌曰:

(論に続けて曰く:)一切の生中に何の生が最も勝れたるか。まさに最勝はただ化生と説くべし。もし爾ならば、何の縁に後身の菩薩は生において自在を得たるに而も胎生を受くるか。現に胎生を受くるに大いなる利有るゆえ、いわゆる諸の大釈種の親属を引導して相因りて正法に入らしめんが為。また余の類を引きて菩薩は是れ輪王の種と知らしめて敬慕の心を生ぜしめ、因りて邪を捨てて正法に趣くを得せしむ。また化する所をして上の心を増せしむ:彼は既に人にして能く大義を成す、我らもまたこの如し、何をか因りて正勤を発して専ら正法を修すること能わざるや、と。またもし然らずんば、族姓は知り難く、恐らくは幻化して天と為り鬼と為ると疑わん。外道の論の矯め設けて謗る所の説くが如く:百劫を過ぎて後まさに大幻有りて世に出現して世間を啖食せん、と。ゆえに胎生を受けて諸の疑謗を息む。ある余師の説に:身界を留めんが為に胎生を受く、無量の人および諸の異類が一たび供養を興せば千返して天に生じおよび解脱を証せしめんが為、と。もし化生を受けば外種無きゆえに、身は纔かに殞逝すれば復た遺形無し、灯の光の滅すれば即ち見る所無きが如し。もし人は仏に持願の通有りて能く久しく身を留むと信せば、これは釋と成らず因論生論なり。もし化生の身は灯の光の滅するが如く死に遺す無しならば、何の故に契経に化生の掲路荼(ガルダ)が化生の龍を取りて以て食を充たすと説くや。知らざるを以て食の為に龍を取る、飢を充たすを説かず。これに何の失か有らん。あるいは龍は未だ死せず暫く飢を充たすを得、死已って還りて飢ゆ。暫く食う何の咎かあらん。四生の内に於て何者か最も多きか。ただ化生。何以故。三趣の少分および二趣の全、一切の中有は皆化生なるゆえ。此中の何の法を中有と説き名づくるか。何の縁に中有は即ち生と名づかざるか。頌に曰く:

死生二有中,五蘊名中有,

死・生の二有の中に、五蘊を中有と名づく、

未至應至處,故中有非生。

未だ至るべき処に至らざる、ゆえに中有は生に非ず。

論曰:於死有後、在生有前,即彼中間有自體起,為至生處故起此身,二趣中間故名中有。此身已起,何不名生?生謂當來所應至處,依所至義建立生名。此中有身其體雖起而未至彼,故不名生。何謂當來所應至處?所引異熟究竟分明,是謂當來所應至處。有餘部說:從死至生處容間絕,故無中有。此不應許。所以者何?依理教故。理教者何?頌曰:

論に曰く:死有の後に於て、生有の前に在りて、即ち彼の中間に自体の起る有り、生ずる処に至らんが為にこの身を起す、二趣の中間なるゆえに中有と名づく。この身は已に起れり、何ぞ生と名づけざる。生とは当来の至るべき処を謂う、至る所の義に依りて生の名を建立す。この中有の身はその体起ると雖も而も未だ彼に至らず、ゆえに生と名づけず。何を当来の至るべき処と謂うか。引く所の異熟は究竟にして分明、是れを当来の至るべき処と謂う。ある余部の説に:死より生の処に至るに間絶を容る、ゆえに中有無し、と。これはまさに許すべからず。所以者何。理と教に依るゆえ。理教とは是れ何ぞ。頌に曰く:

如穀等相續,處無間續生,

穀等の相续の如く、処は間無く続生し、

像實有不成,不等故非譬。

像は実有成らず、等しからざるゆえに喩に非ず。

一處無二並,非相續二生,

一処に二の并无し、相续に非ずして二生せず、

說有健達縛,及五七經故。

健達縛(ガンダルヴァ)有りと説き、および五七の経のゆえ。

論曰:且依正理中有非無。現見世間相續轉法,要處無間剎那續生。且如世間穀等相續,有情相續理亦應然,剎那續生處必無間。豈不現見有法續生,而於其中處亦有間?如依鏡等從質像生。如是有情死有生有,處雖有間何妨續生?實有諸像理不成故,又非等故為喻不成。謂別色生說名為像,其體實有理所不成。設成非等,故不成喻。言像不成故非喻者,以一處所無二並故。謂於一處鏡色及像並見現前,二色不應同處並有,依異大故。又陿水上兩岸色形,同處一時俱現二像。居兩岸者互見分明,曾無一處並見二色,不應謂此二色俱生。又影與光未嘗同處,然曾見鏡懸置影中,光像顯然現於鏡面,不應於此謂二並生。或言一處無二並者,鏡面月像謂之為二,近遠別見如觀井水,若有並生如何別見?故知諸像於理實無。然諸因緣和合勢力令如是見,以諸法性功能差別難可思議。已辯不成所以非喻。言非等故亦非喻者,以質與像非相續故。謂質與像非一相續,唯依鏡等有像現故,像與本質俱時有故。如死生有是一相續前後無間餘處續生,質像相望無此相續,以不相似故不成喻。又所現像由二生故,謂二緣故諸像得生:一者本質、二者鏡等。二中勝者像依彼生,生有無容由二緣起,唯有死有無別勝依,故所引喻非等於法。亦不可說以外非情精血等緣為勝依性,由化生者空中欻生,於中計何為勝依性?已依正理對破彼宗從死至生處容間絕,是故中有決定非無。次依聖教證有中有,謂契經言:有有七種,即五趣有、業有、中有。若此契經彼部不誦,豈亦不誦《健達縛經》?如契經言:入母胎者要由三事俱現在前,一者母身是時調適、二者父母交愛和合、三健達縛正現在前。除中有身,何健達縛?前蘊已壞,何現在前?若此契經彼亦不誦,復云何釋《掌馬族經》?如彼經言:汝今知不?

論に曰く:且つ正理に依れば中有は無きに非ず。現に世間の相续して転ずる法を見るに、要して処は間無く刹那に続生す。且つ世間の穀等の相续の如く、有情の相续も理もまたまさにこの如くあるべし、刹那の続生は処に必ず間無し。豈に現に法の続生する有りて、而もその中の処にもまた間有るを見ざらんや。鏡等に依りて質より像の生ずるが如し。かく有情の死有・生有は、処に間有ると雖も何ぞ続生を妨げんや。実に諸の像の有る理は成らざるゆえ、また等しからざるゆえに喩と為らず。いわゆる別の色の生ずるを像と説き名づく、その体の実有は理の成ずる所に非ず。設ひ成すとも等しからず、ゆえに喩と成らず。像の成らざるゆえに喩に非ずと説くは、一処所に二の并无きを以てなり。いわゆる一処において鏡の色および像は并びて現前に見ゆ、二色はまさに同じ処に并有るべからず、異なる大に依るゆえ。また狭き水上の両岸の色形は、同じ処にして一時に俱に二像を現す。両岸に居するは互いに分明に見、曾て一処に并びて二色を見る無し、まさにこの二色の俱に生ずと謂うべからず。また影と光とは未だ嘗て同じ処せず、しかるに曾て鏡の影中に懸置せられて、光の像は顕然と鏡面に現ずるを見たり、まさに此において二の并生を謂うべからず。あるいは一処に二の并无しと説くは、鏡面と月の像とをこれを二と謂う、近遠に別々に見るは井水を観ずるが如し、もし并生有らば如何にして別々に見るや。ゆえに諸の像は理において実に無しと知る。しかるに諸の因縁和合の勢力はかくのごとき見をせしむ、諸法の性功能の差別は難くして思議すべからざるを以て。已に成らざるゆえに喩に非ずを弁じたり。等しからざるゆえにも喩に非ずと説くは、質と像とは相续に非ざるを以てなり。いわゆる質と像とは一の相续に非ず、ただ鏡等に依りて像の現ずる有るゆえ、像と本質とは俱時有るゆえ。死・生有は是れ一の相续にして前後間無く余の処に続生するが如く、質像の相い望むにはこの相续無し、相似せざるを以て喩と成らず。また現ずる所の像は二の生ずるに由るゆえ、いわゆる二縁によりて諸の像は生ずるを得:一は本質、二は鏡等。二中の勝なるに像は彼に依りて生ず、生有は二縁に由りて起るを容れず、ただ死有有りて別の勝依無し、ゆえに引く所の喩は法に等しからず。もまた外の非情の精血等の縁を以て勝依の性と為すと説くべからず、化生は空中に欻に生ずるに由りて、その中において何をか勝依の性と計えんや。已に正理に依りて彼の宗の死より生の処に至るに間絶を容るを対破せり、是れを以て中有は決定して無きに非ず。次に聖教に依りて中有有るを証す、いわゆる契経に説く:有は七種有り、即ち五趣有・業有・中有、と。もしこの契経を彼部は誦せざれば、豈にもまた『健達縛経』を誦せざらんや。契経の説くが如く:母胎に入るは要して三事の俱に現前するに由る、一には母身は是の時に調適、二には父母の交愛和合、三は健達縛の正に現前す、と。中有の身を除きて何の健達縛ぞ。前の蘊は已に壞せり、何が現前せんや。もしこの契経を彼もまた誦せざれば、復た如何にして『掌馬族経』を釋せん。彼の経の説くが如く:汝今や知るや不や、と。

此健達縛正現前者,為婆羅門、為剎帝利、為是吠舍、為戍達羅?為東方來、為南西北?前蘊已壞不可言來,此所言來固唯中有。若復不誦如是契經,《五不還經》當云何釋?如契經說:有五不還,一者中般、二者生般、三無行般、四有行般、五者上流。中有若無,何名中般?有餘師執:有天名中,住彼般涅槃,是故名中般。是則應許有生等天;既不許然,故執非善。又經說有七善士趣,謂於前五,中般分三,由處及時近中遠故。譬如札火小星迸時,才起近即滅,初善士亦爾。譬如鐵火小星迸時,起至中乃滅,二善士亦爾。譬如鐵火大星迸時,遠未墮而滅,三善士亦爾。非彼所執別有中天,有此時處三品差別,故彼所執定非應理。有餘復說:或壽量中間、或近天中間,斷餘煩惱成阿羅漢,是名中般。由至界位或想或尋而般涅槃,故有三品:或取色界眾同分已即般涅槃,是名第一。從是次後受天樂已方般涅槃,是名第二。復從此後入天法會乃般涅槃,是名第三。入法會已復經多時方般涅槃,是名生般。或減多壽方般涅槃非創生時,故名生般。如是所說與火星喻皆不相應。所以者何?以彼處行無差別故。又無色界亦應說有中般涅槃,由彼亦有壽量中間般涅槃故。然不說彼有中般者,如嗢拕南伽他中說:

(論に続けて曰く:)この健達縛の正に現前するは、是れ婆羅門(バラモン)か、是れ刹帝利(クシャトリヤ)か、是れ吠舍(ヴァイシャ)か、是れ戍達羅(シュードラ)か。東方より来たるか、南・西・北か。前の蘊は已に壞せり来たると説くべからず、此の言う所の来は固にただ中有なり。もし復たかくのごとき契経を誦せざれば、『五不還経』はまさに如何に釋せん。契経の説くが如く:五の不還有り、一に中般、二に生般、三に無行般、四に有行般、五に上流、と。中有もし無くば、何を中般と名づけん。ある余師の執に:中と名づく天有りて、彼に住して般涅槃す、是れを以て中般と名づく、と。是則ちまさに生等と名づく天有るを許すべし、既にかくを許さざれば、ゆえに執は善に非ず。また経に七善士趣有りと説く、いわゆる前の五において、中般は三に分かつ、処および時の近・中・遠に由るゆえ。譬えば札火の小星の迸るる時、纔かに起りて近く即ち滅するが如し、初の善士もまたこの如し。譬えば鉄火の小星の迸るる時、起りて中に至りて乃ち滅するが如し、二の善士もまたこの如し。譬えば鉄火の大星の迸るる時、遠く未だ堕せずして滅するが如し、三の善士もまたこの如し。彼の執する所の別に中天有るに非ず、この時・処に三品の差別有るゆえに、彼の執する所は定めて理に応ぜず。ある余の説に復た曰く:あるいは寿量の中間、あるいは天に近き中間に、余の煩悩を断じて阿羅漢と成る、是れを中般と名づく、と。界の位に至りてあるいは想あるいは尋に由りて般涅槃するに由りて、ゆえに三品有り:あるいは色界の衆同分を取り已って即ち般涅槃す、是れを第一と名づく。是の次より後に天楽を受け已って方に般涅槃す、是れを第二と名づく。復た此の後より天の法会に入りて乃ち般涅槃す、是れを第三と名づく。法会に入り已りて復た多時を経て方に般涅槃す、是れを生般と名づく。あるいは寿を減じ多くして方に般涅槃するは創て生ずる時に非ず、ゆえに生般と名づく。かくのごとき説く所は火星の喩と皆相応せず。所以者何。彼の処行に差別なきを以て。また無色界にもまたまさに中般涅槃有りと説くべし、彼にもまた寿量の中間に般涅槃する有るゆえ。しかるに彼に中般有りと説かざるは、嗢拕南(ウッダーナ)の伽他の説くが如し:

總集眾聖賢,四靜慮各十,

衆の聖賢を総集し、四静慮は各々十、

三無色各七,唯六謂非想。

三無色は各々七、ただ六は非想を謂う。

故彼所執皆是虛妄。若復不誦如是等經,無上法王久已滅度,諸大法將亦般涅槃,聖教支離已成多部,其於文義異執交馳,取捨任情於今轉盛。哀哉汝等固守愚迷違理拒教,可傷之甚。諸有馮前理教為量,中有於彼實有極成。若爾,云何契經中說造極惡業度使魔羅,現身顛墜無間地獄。此經意說,彼命未捨,地獄猛焰已燒其身,因此命終受彼中有,乘茲乃墮無間地獄。由彼惡業勢力增強,不待命終苦相已至,先受現受、後受生受。何故經說:一類有情於五無間業作及增長已,無間必定生那落迦?此經意遮彼往異趣,及顯彼業定順生受。若但執文,應要具五方生地獄,非隨闕一或餘業因,便成大過。又言:無間生那落迦,應作即生不待身壞。或誰不許中有是生?那落迦名亦通中有,死有無間中有起時亦得名生,生方便故。經言無間生那落迦,不言爾時即是生有。若爾,經頌復云何通?如經頌言:

(論に続けて曰く:)ゆえに彼の執する所は皆是れ虚妄。もし復たかくのごとき等の経を誦せざれば、無上の法王は久しく已に滅度し、諸の大法将もまた般涅槃し、聖教は支離にして已に多部と成り、その文義において異執は交馳し、取舍は情に任せて今に於て転盛んなり。哀しいかな汝らは固く愚迷を守りて理に違い教を拒む、傷むべきの甚だしきなり。諸の前の理教を憑みて量と為す有りては、中有は彼において実に有ること極成す。もし爾ならば、如何にして契経中に極悪の業を造りて魔羅(マーラ)に使われて度ると説き、現の身は顛墜して無間地獄に入るや。この経の意の説くは、彼は命未だ捨てざるに、地獄の猛焰は已にその身を焼き、これに因りて命終じて彼の中有を受け、これに乘じて乃ち無間地獄に堕つ。彼の悪業の勢力の増強するに由りて、命終を待たずして苦相已に至り、先に現受を受け、後に生受を受く。何の故に経に説く:一類の有情は五無間業を作しおよび増長し已りて、無間に必定に那落迦に生ず、と。この経の意は彼の異趣に往くを遮り、および彼の業は定めて順生受なるを顕す。もし但だ文を執せば、まさに五を具して方に地獄に生ずるを要し、随って一を闕きあるいは余の業因あれば、便ち大過と成らん。もまた説く:無間に那落迦に生ずるは、まさに即ち生じて身の壞るるを待たざると作すべし、と。あるいは誰か中有は是れ生なるを許さざらん。那落迦の名もまた中有に通ず、死有の無間に中有の起る時にもまた生の名を得、生の方便なるゆえ。経は無間に那落迦に生ずと説く、爾の時に即ち是れ生有と説かず。もし爾ならば、経の頌は復た如何に通ぜん。経の頌の説くが如く:

再生汝今過盛位,至衰將近琰魔王,

再び生ずる汝は今盛位を過ぎ、衰に至りて将に琰魔王(ヤマ)に近づかんとす、

欲往前路無資糧,求住中間無所止。

前の路に往かんと欲すれど資糧無く、中間に住せんを求むるも止まる所無し。

若有中有,如何世尊言彼中間無有所止?此頌意顯彼於人中速歸磨滅無暫停義。或彼中有為至所生亦無暫停,行無礙故。寧知經意如此非餘?汝復焉知如餘非此?二責既等,何乃偏徵?二釋於經並無違害,如何偏證中有是無。凡引證言理無異趣,此有異趣為證不成。

(論に続けて曰く:)もし中有有らば、如何にして世尊は彼の中間に止まる所無しと説くや。この頌の意は彼が人において速やかに磨滅に帰して暫停の義無きを顕す。あるいは彼の中有は生ずる所に至らんと為しても暫停無し、行に碍げ無きゆえ。寧ぞ経の意はかくのごとくにして余に非ざるを知らんや。汝は復た焉んぞ余の此に非ざるが如くを知らんや。二の責め既に等し、何ぞ乃ち偏に征せんや。二の釋は経において並びて違害無し、如何にして偏に中有は是れ無しと証せんや。凡そ証を引きて理に異趣無きを言う、これに異趣有れば証と為りて成らず。

説一切有部倶舎論 巻第八

アビダルマ倶舎論 巻第九 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別世品第三之二

分別世品 第三之二。

當往何趣,所起中有形狀如何?頌曰:

まさに何の趣に往かんとするに、起る所の中有の形状は如何。頌に曰く:

此一業引故,如當本有形,

これは一の業の引くゆえ、当に来る本有の形の如し、

本有謂死前,居生剎那後。

本有とは死の前を謂い、生の刹那の後に居す。

論曰:若業能引當所往趣,彼業即招能往中有。故此中有若往彼趣,即如所趣當本有形。若爾,於一狗等腹中容有五趣中有頓起。既有地獄中有現前,如何不能焚燒母腹?彼居本有亦不恆燒?如暫遊園,況在中有。設許能燒,如不可見亦不可觸,以中有身極微細故,所難非理。諸趣中有雖居一腹,非互觸燒,業所遮故。欲中有量雖如小兒年五六歲而根明利;菩薩中有如盛年時形量周圓具諸相好,故住中有將入胎時照百俱胝四大洲等。若爾,何故菩薩母夢中見白象子來入己右脇?此吉瑞相,非關中有。菩薩久捨傍生趣故,如訖栗枳王夢所見十事:

論に曰く:もし業は能く当に往く所の趣を引けば、彼の業は即ち能く往く中有を招く。ゆえにこの中有はもし彼の趣に往かば、即ち趣く所の当に来る本有の形の如し。もし爾ならば、一の狗等の腹中において五趣の中有の頓に起るを容れん。既に地獄の中有現前せば、如何にして母腹を焚焼すること能わざらんや。彼の本有に居るもまた恒に焼かざらんや。暫く園に遊ぶが如く、況んや中有に在るにおいてをや。設ひ能く焼くを許すとも、見るべからざるが如く触るべからず、中有の身は極めて微細なるを以て、難ずる所は理に非ず。諸趣の中有は一腹に居ると雖も、互いに触焼するに非ず、業の遮る所なるゆえ。欲の中有の量は小児の年五六歳の如しと雖も而も根は明利なり。菩薩の中有は盛年の時の如く形量は周円にして諸の相好を具す、ゆえに中有に住して将に胎に入らんとする時に百倶胝の四大洲等を照らす。もし爾ならば、何の故に菩薩の母は夢中に白象の子の来たりて己の右脇に入るを見るや。これは吉瑞の相、中有に関らず。菩薩は久しく傍生趣を捨てたるゆえ、訖栗枳王の夢に見る所の十事の如し:

謂大象井麨,栴檀妙園林,

いわゆる大象・井・麨、栴檀の妙なる園林、

小象二獼猴,廣堅衣鬪諍。

小象・二の猕猴、広く堅き衣の鬥諍。

如是所夢,但表當來餘事先兆,非如所見。又諸中有從生門入,非破母腹而得入胎,故雙生者前小後大。法善現說復云何通?

(論に続けて曰く:)かく夢見る所は、但だ当来の余の事の先兆を表す、見る所の如くに非ず。また諸の中有は生門より入る、母腹を破りて胎に入るを得るに非ず、ゆえに双生は前は小にして後は大なり。法善の現に説くは復た如何に通ぜん:

白象相端嚴,具六牙四足,

白象の相は端厳にして、六牙四足を具し、

正知入母腹,寢如仙隱林。

正しく知りて母腹に入り、寝ること仙の林に隠るるが如し。

不必須通,非三藏故。諸諷頌言,或過實故。若必須通,如菩薩母所見夢相,造頌無失。色界中有量,圓滿如本有。與衣俱生,慚愧增故,菩薩中有亦與衣俱。鮮白苾芻尼由本願力故,彼於世世有自然衣,恆不離身隨時改變,乃至最後般涅槃時,即以此衣纏屍焚葬。所餘欲界中有無衣,由皆增長無慚愧故。所似本有其體是何?謂死有前、生有後蘊,總說有體是五取蘊。於中位別分析為四:一者中有,義如前說。二者生有,謂於諸趣結生剎那。三者本有,除生剎那死前餘位。四者死有,謂最後念。次中有前,有色有情具足四有,若在無色中闕具三。已說形量,餘義當辯。頌曰:

(論に続けて曰く:)必ずしも通ずるを須いず、三蔵に非ざるゆえ。諸の諷頌の説は、あるいは実に過ぎるゆえ。もし必ず通ずべければ、菩薩の母の見る所の夢相の如く頌を造りて失なし。色界の中有の量は、円満にして本有の如し。衣と俱に生ず、慚愧増するゆえ、菩薩の中有もまた衣と俱なり。鮮白の苾芻尼は本願の力に由るゆえに、彼は世世において自然の衣有りて、恒に身を離れず時に随いて改変し、乃至最後に般涅槃する時に、即ちこの衣を以て屍を纏い焚葬す。余の欲界の中有は衣無し、皆無慚愧を増長するに由るゆえ。似る所の本有のその体は是れ何ぞ。いわゆる死有の前・生有の後の蘊、総じて体有りと説くは是れ五取蘊。その中の位の別に分析して四と為す:一は中有、義は前の説くが如し。二は生有、いわゆる諸趣において結生する刹那。三は本有、生の刹那・死の前を除く其余の位。四は死有、いわゆる最後の念。次に中有の前に、色ある有情は具に四有を足し、もし無色中においては具に三を闕く。已に形量を説き、余の義はまさに弁ずべし。頌に曰く:

同淨天眼見,業通疾具根,

同類および浄天眼の見る所、業の通は疾く根を具し、

無對不可轉,食香非久住。

対無くして転ずべからず、香を食らい久しく住せず。

倒心趣欲境,濕化染香處,

倒心は欲境に趣り、湿・化は香処に染む、

天首上三橫,地獄頭歸下。

天の首は上り、三は横に、地獄は頭は下に帰す。

論曰:此中有身同類相見,若有修得極淨天眼亦能得見,諸生得眼皆不能觀,以極細故。有餘師說:天中有眼具足能見。五趣中有,人、鬼、傍生、地獄中有見四三二一,謂自下除上。一切通中業通最疾,𣣋虛自在是謂通義,通由業得名為業通,此通勢用速故名疾。中有具得最疾業通,上至世尊無能遮抑,以業勢力最強盛故。一切中有皆具五根,對謂對礙,此金剛等所不能遮,故名無對。曾聞析破炎赤鐵團,見於其中有蟲生故,應往彼趣中有已生,一切種力皆不能轉,謂不可令人中有沒餘中有起,餘類亦然。為往彼趣中有已起,但應往彼,定不往餘。欲中有身資段食不?雖資段食,然細非麁。其細者何?謂唯香氣,由斯故得健達縛名。諸字界中義非一故,而音短者如設建途及羯建途,略故無過。諸少福者唯食惡香,其多福者好香為食。如是中有為住幾時?大德說言:此無定限。生緣未閤中有恆存,由彼命根非別業引,與所趣人等眾同分一故。若異此者,中有命根最後滅時應立死有。設有肉聚等妙高山,至夏雨時變成蟲聚。應言諸中有漸待此時?為說從何方頓來至此?雖無經論誠文判釋,然依正理應作是言:有雜類生數無邊際,貪著香味壽量短促,彼諸有情因嗅此氣,貪香味故俱時命終,由愛覺先感蟲身業,同時於此受細蟲身。或多有情應俱生此,多緣未合住中有中,今遇多緣方頓生此。應俱生者定不異時,如有能招轉輪王業,要至人壽八萬歲時或過此時方頓與果,非於餘位。此亦應然。故世尊言:諸有情類業果差別不可思議。尊者世友言:此極多七日,若生緣未合,便數死數生。有餘師言:極七七日。毘婆沙說:此住少時,以中有中樂求生有故非久住,速往結生。其有生緣未即和合,若定此處此類應生,業力即令此緣和合。若非定託此和合緣,便即寄生餘處餘類,有說轉受相似類生。

論に曰く:この中有の身は同類は相見す、もし修得の極めて浄なる天眼もまた能く見るを得、諸の生得の眼は皆観ずる能わず、極めて細なるを以て。ある余師の説に:天の中有の眼は具足して能く見る、と。五趣の中有は、人・鬼・傍生・地獄の中有は四・三・二・一を見、いわゆる下より上を除く。一切の通中において業通は最も疾し、虚空を陵し自在なる是れを通の義と謂う、通は業に由りて得るを業通と名づき、この通の勢用は速きゆえに疾と名づく。中有は具に最も疾き業通を得、上は世尊に至るまで能く遮抑する無し、業の勢力は最も強盛なるを以て。一切の中有は皆五根を具す、対とは対礙を謂う、これは金剛等の遮る能わざる所、ゆえに無対と名づく。曾て炎赤の鉄団を析破してその中に虫の生ずる有るを見るを聞く、まさに彼の趣に往く中有已に生ずれば、一切種の力も皆転ずる能わざるべし、いわゆる人の中有をして没して余の中有を起さしむべからず、余の類もまたこの如し。彼の趣に往かんが為に中有已に起らば、但だまさに彼に往くべし、定めて余に往かず。欲の中有の身は段食に資るか否や。段食に資ると雖も、しかるに細にして粗に非ず。その細なるは是れ何ぞ。いわゆるただ香気のみ、これに由るゆえに健達縛(ガンダルヴァ、香を食する者)の名を得。諸の字界中に義は一に非ざるゆえ、而も音の短きは設建途および羯建途の如く、略するゆえに過なし。諸の少福なるはただ悪香を食し、その多福なるは好香を食と為す。かくのごとき中有は是れ几時か住するか。大徳説く:これに定限無し。生縁未だ合せざれば中有は恒に存す、彼の命根は別の業の引くに非ざるに由りて、趣く所の人等と衆同分一なるゆえ。もしこれに異ならば、中有の命根は最後に滅する時にまさに死有を立つべし。設ひ肉聚等の妙高山有りて、夏雨の時に至りて虫聚に変成せん。まさに諸の中有は漸にこの時を待つと説くか。是れ何の方より頓に来たりて此に至ると説くか。経論の誠文の判釋無しと雖も、しかるに正理に依りてまさに是の説を作すべし:雑類の生有りて数は辺際無く、香味に貪着して寿量は短促、彼の諸の有情は因りてこの気を嗅ぎ、香味を貪ずるゆえに俱時に命終し、愛覚に由りて先に虫身の業を感じ、同時に此において細虫の身を受く。あるいは多くの有情まさに俱に此に生ずべく、多縁未だ合せずして中有中に住し、今多縁に遇いて方に頓に此に生ず。まさに俱に生ずべきは定めて時を異にせず、能く転輪王の業を招く有るが如く、要して人の寿八万歳の時に至りあるいはこの時を過ぎて方に頓に果を与う、余の位においてに非ず。これもまたまさにこの如し。ゆえに世尊説く:諸の有情類の業果の差別は不可思議なり、と。尊者世友説く:これは極めて多くとも七日、もし生縁未だ合せざれば、便ち数えて死し数えて生ず、と。ある余師の説に:極めて七七日、と。毘婆沙に説く:これは少時住す、中有中において生有を求むるを楽うゆえに久住せず、速やかに往きて結生す。その生縁有りて未だ即ち和合せざるも、もし定めてこの処・この類まさに生ずべければ、業力は即ちこの縁をして和合せしむ。もし定めてこの和合の縁に托するに非ざれば、便ち即ち余の処・余の類に寄りて生ず、ある説に転じて相似の類生を受くと曰う。

且如家牛及狗熊馬,欲增次屬夏秋冬春,野牛野幹羆驢無定。前四中有若不遇時,如次轉生後四同類。豈不中有必無與生眾同分別,一業引故。如何可言轉受相似?

(論に続けて曰く:)且つ家牛および狗・熊・馬の如く、欲の増するの次は夏・秋・冬・春に属し、野牛・野干・罴・驢は定まり無し。前の四の中有はもし時に遇わざれば、次の如く転じて後の四の同類に生ず。豈に中有は必ず生ずる所と衆同分の別無からんや、一の業の引くゆえ。如何にして転じて相似を受くと説きうるか。

如是中有為至所生,先起倒心馳趣欲境,彼由業力所起眼根雖住遠方,能見生處父母交會而起倒心,若男緣母起於男欲、若女緣父起於女欲,翻此緣二俱起瞋心。故《施設論》有如是說:時健達縛於二心中隨一現行,謂愛或恚。彼由起此二種倒心,便謂己身與所愛合。所憎不淨洩至胎時,謂是己有便生喜慰,從茲蘊厚中有便沒,生有起已名已結生。若男處胎依母右脇向背蹲坐,若女處胎依母左脇向腹而住。若非男女住母胎時,隨所起貪如應而住。必無中有非女非男,以中有身必具根故。由處中有或女或男,故入母胎隨應而住,後胎增長或作不男。於此義中復應思擇,為由業力精血大種即成根依?為業別生根依大種依精血住?有言:精血即成根依,謂前無根中有俱滅,後有根者無間續生,如種與芽滅生道理。由斯初位名羯剌藍,亦妙順成此經文句:父母不淨生羯剌藍。又告苾芻:汝等長夜執受血滴增羯吒私。有餘師言:別生大種。如依葉糞別有蟲生,不淨聚中生羯剌藍,故說父母不淨生羯剌藍。故與彼經無相違失。如是且說胎卵二生,餘隨所應今次當說。若濕生者染香故生,謂遠嗅知生處香氣便生愛染往彼受生,隨業所應香有淨穢。若化生者染處故生,謂遠觀知當所生處,便生愛染往彼受生,隨業所應處有淨穢。豈於地獄亦生愛染?由心倒故起染無失。謂彼中有,或見自身冷雨寒風之所逼切,見熱地獄火焰熾然,情欣煖觸投身於彼。或見自身熱風盛火之所逼害,見寒地獄,心欲清涼投身於彼。先舊諸師作如是說:由見先造,感彼業時己身伴類馳往赴彼。又天中有首正上升如從坐起,人鬼傍生中有行相還如人等。地獄中有頭下足上顛墜其中。故伽他說:

(論に続けて曰く:)かくのごとき中有は生ずる所に至らんが為、先に倒心を起して欲境に馳趣す、彼は業力の起す所の眼根に由りて遠方に住すと雖も、能く生ずる処の父母の交会を見て倒心を起す、もし男ならば母に縁りて男の欲を起し、もし女ならば父に縁りて女の欲を起し、これを翻して二には俱に瞋心を起す。ゆえに『施設論』にかくの説有り:時に健達縛は二心中において随って一に現行す、いわゆる愛あるいは恚、と。彼はこの二種の倒心を起すに由りて、便ち己が身は愛する所と合すと謂う。憎む所の不浄の泄れて胎に至る時に、是れ己の有と謂い便ち喜慰を生じ、ここより蘊厚くして中有は便ち没し、生有起り已りて已に結生せりと名づく。もし男は胎に処すれば母の右脇に依りて背に向かい蹲坐し、もし女は胎に処すれば母の左脇に依りて腹に向かいて住す。もし男女に非ざれば母胎に住する時、起す所の貪に随いて応の如くして住す。必ず中有の女に非ず男に非ざる無し、中有の身は必ず根を具するゆえ。中有に処してあるいは女あるいは男なるに由りて、ゆえに母胎に入りて応に随いて住し、後に胎の増長してあるいは不男と作る。この義中において復たまさに思択すべし、是れ業力に由りて精血の大種が即ち根の依と成るか、是れ業が別に根依の大種を生じて精血に依りて住するか。ある説に:精血は即ち根依と成る、いわゆる前の根無きは中有と俱に滅し、後の根有るは無間に続生す、種と牙との滅生の道理の如し。これに由りて初の位を羯剌藍(かつらん)と名づく、もまた妙にこの経の文句を順成す:父母の不浄は羯剌藍を生ず、と。また苾芻に告ぐ:汝らは長夜に血滴の羯咤私を増すを執受す、と。ある余師の説に:別に大種を生ず、と。葉の糞に依りて別に虫の生ずるが如く、不浨の聚中に羯剌藍を生ず、ゆえに父母の不浨は羯剌藍を生ずと説く。ゆえに彼の経と相違の失なし。かくのごとき且つ胎・卵の二生を説く、余はその応ずる所に随い今次にまさに説くべし。もし湿生は香に染するゆえに生ず、いわゆる遠く嗅ぎて生ずる処の香気を知りて便ち愛染を生じ彼に往きて受生す、業の応ずる所に随い香に浄・穢有り。もし化生は処に染するゆえに生ず、いわゆる遠く観てまさに生ずべき処を知り、便ち愛染を生じ彼に往きて受生す、業の応ずる所に随い処に浄・穢有り。豈に地獄においてもまた愛染を生ぜんや。心の倒れるに由るゆえに染を起して失なし。いわゆる彼の中有は、あるいは自身の冷雨・寒風の逼切する所を見て、熱地獄の火焰の熾然たるを見て、情は暖触に欣じて彼に投身す。あるいは自身の熱風・盛火の逼害する所を見て、寒地獄を見て、心は清涼を欲して彼に投身す。先の旧き諸師は是の説を作す:先に造りし彼の業を感ずる時に己が身の伴類を見て彼に馳往すに由る、と。また天の中有は首は正しく上昇して坐より起つが如く、人・鬼・傍生の中有の行相は還りて人等の如し。地獄の中有は頭を下にし足を上にして顛墜してその中に入る。ゆえに伽他に説く:

顛墜於地獄,足上頭歸下,

地獄に顛墜して、足は上に頭は下に帰す、

由毀謗諸仙,樂寂修苦行。

諸の仙を毀謗したるに由りて、寂を楽い苦行を修すと雖も。

前說倒心入母胎藏,一切中有皆定爾耶?不爾。經言:入胎有四。其四者何?頌曰:

(論に続けて曰く:)前に倒心を以て母の胎蔵に入ると説く、一切の中有は皆定めてこの如くか。然らず。経に説く:胎に入るに四有り。その四とは是れ何ぞ。頌に曰く:

一於入正知,二三兼住出,

一は入において正知、二・三は兼ねて住・出、

四於一切位,及卵恆無知。

四は一切の位において、および卵は恒に無知。

前三種入胎,謂輪王二佛,

前の三種の入胎は、輪王・二仏を謂い、

業智俱勝故,如次四餘生。

業・智俱に勝れるゆえ、次の如く四は余の生。

論曰:有諸有情多集福業勤修念慧,故死生時念力所持正知無亂,於中或有正知入胎,或有正知住胎兼入,或正知出兼知入住。兼言為顯後必帶前。有諸有情福智俱少,入住出位皆不正知,入不正知住出必爾,順結頌法故逆說四。諸卵生者入胎等位皆恆無知。如何卵生?從卵而出。言入胎藏,以卵生者先必入胎。或據當來名卵生者,如契經說:造作有為。世間亦言:煮飯磨麨。故說卵生入胎無失。云何三位正不正知?且諸有情若福微薄,入母胎位起倒想解,見大風雨毒熱嚴寒,或大軍眾聲威亂逼,遂見自入密草稠林葉窟茅廬投樹牆下,住時見已住在此中,出位見身從此處出。若福增多入母胎位起倒想解,自見己身入妙園林升花臺殿居勝床等,住出如前。是謂三時不正知者。若於三位皆能正知,於入等時無倒想解,謂入胎位知自入胎,住出胎時自知住出。又別顯示四入胎者,且前三種謂轉輪王、獨覺、大覺,如其次第。初入胎者,謂轉輪王,入位正知,非住非出。二入胎者,謂獨勝覺,入住正知,非於出位。三入胎者,謂無上覺,入住出位皆能正知。此初三人以當名顯。何緣如是三品不同?由業智俱如次勝故。第一業勝,謂轉輪王宿世曾修廣大福故。第二智勝,謂獨勝覺久習多聞勝思擇故。第三俱勝,謂無上覺曠劫修行勝福智故。除前三種,餘胎卵生福智俱劣,合成第四。此中外道執我者言:若許有情轉趣餘世,即我所執有我義成。今為遮彼,頌曰:

論に曰く:諸の有情有りて多く福業を集め勤しく念慧を修す、ゆえに死生の時に念力の持する所にして正知して乱れず、その中に或るは正知して胎に入り、或るは正知して胎に住し兼ねて入り、或るは正知して出づ兼ねて入住を知る。兼の言は後に必ず前を帯ぶを顕さんが為。諸の有情有りて福智俱に少なく、入・住・出の位皆正知せず、入は正知せずして住・出は必ずこの如し、頌法を結ぶに順ざるゆえに逆に四を説く。諸の卵生は入胎等の位皆恒に知無し。如何にして卵生か。卵より出づ。胎蔵に入ると説くは、卵生は先に必ず胎に入るを以て。あるいは当来に拠りて卵生と名づく、契経の説く造作・有為の如し。世間もまた説く:飯を煮て麨を磨る、と。ゆえに卵生は胎に入ると説きて失なし。如何にして三位に正・不正知有るか。且つ諸の有情はもし福は微薄なれば、母胎に入る位に倒れし想解を起し、大風雨・毒熱・厳寒を見、あるいは大軍衆の声威の乱逼を見て、遂に自から密草・稠林・葉窟・茅庐に入りて樹・墙の下に投ずるを見、住する時に已にこの中に住せるを見、出づる位に身がこの処より出づるを見る。もし福は増多なれば母胎に入る位に倒れし想解を起し、自ら己が身の妙なる園林に入り華の台殿に升り勝れたる床等に居るを見、住・出は前の如し。是れを三時の不正知なると謂う。もし三位において皆能く正知せば、入等の時において倒れし想解無し、いわゆる胎に入る位に自ら胎に入るを知り、胎に住し出づる時に自ら住・出を知る。また別に四の入胎を顕示せば、且つ前の三種は転輪王・独覚・大覚を謂う、その次第の如し。初の入胎とは、いわゆる転輪王、入の位は正知して住・出に非ず。二の入胎とは、いわゆる独勝覚、入・住は正知して出の位に於て非ず。三の入胎とは、いわゆる無上覚、入・住・出の位皆能く正知す。この初の三人は当名を以て顕す。何の縁にこの如く三品不同なるか。業・智の俱に次第の如く勝れたるに由るゆえ。第一は業勝、いわゆる転輪王は宿世に曾て広大の福を修したるゆえ。第二は智勝、いわゆる独勝覚は久しく多聞・勝思択を習いたるゆえ。第三は俱勝、いわゆる無上覚は曠劫に修行の勝福・智なるゆえ。前の三種を除きて、余の胎・卵生は福智俱に劣り、合して第四を成す。此中の外道の我を執する説に曰く:もし有情の余の世に転趣するを許さば、即ち我が執する所の我有る義成れり、と。今彼を遮らんが為、頌に曰く:

無我唯諸蘊,煩惱業所為,

我無くしてただ諸蘊のみ、煩悩・業の為す所にして、

由中有相續,入胎如燈焰,

中有の相续に由りて、胎に入ること灯焰の如し、

如引次第增,相續由惑業,

引かれて次第に増するが如く、相续は惑業に由り、

更趣於餘世,故有輪無初。

更に余の世に趣く、ゆえに輪有りて初無し。

論曰:汝等所執我為何相?能捨此蘊、能續餘蘊,內用士夫此定非有,如色眼等不可得故。世尊亦言:有業有異熟,作者不可得。謂能捨此蘊及能續餘蘊,唯除法假。法假謂何?依此有彼有,此生故彼生,廣說緣起。若爾,何等我非所遮?唯有諸蘊,謂唯於蘊假立我名,非所遮遣。若爾,應許諸蘊即能從此世間轉至餘世。蘊剎那滅,於輪轉無能,數習煩惱業所為故,令中有蘊相續入胎。譬如燈焰雖剎那滅,而能相續轉至餘方。諸蘊亦然,名轉無失,故雖無我而由惑業諸蘊相續入胎義成。如業所引次第轉增諸蘊相續,復由煩惱業力所為轉趣餘世,謂非一切所引諸蘊增長相續脩促量齊,引壽業因有差別故。隨能引業勢力增徵,齊爾所時次第增長。云何次第?如聖說言:

論に曰く:汝らの執する所の我は是れ何の相ぞ。能くこの蘊を捨て、能く余の蘊を続く、内用の士夫はこれ定めて有るに非ず、色・眼等の得べからざるが如きゆえ。世尊もまた説く:業有りて異熟有り、作者は得べからず、と。いわゆる能くこの蘊を捨ておよび能く余の蘊を続くは、ただ法の假を除く。法假とは何を謂うか。此の有に依りて彼有り、此の生ずるゆえに彼生ず、広く縁起を説く。もし爾ならば、何等の我か遮る所に非ざる。ただ諸蘊有るのみ、いわゆるただ蘊において假に我名を立つ、遮遣する所に非ず。もし爾ならば、まさに諸蘊は即ち能くこの世間より余の世に転ずと許すべきか。蘊は刹那に滅し、輪転において能無し、数々煩悩・業の為す所を習うゆえに、中有の蘊をして相续して胎に入らしむ。譬えば灯焰は刹那に滅すると雖も、而も能く相续して余の方に転ず。諸の蘊もまたこの如し、転ずと名づけて失なし、ゆえに我無しと雖も而も惑業に由りて諸蘊の相续して胎に入る義成れり。業の引く所の如く次第に転増して諸蘊は相续し、復た煩悩・業の力の為す所に由りて余の世に転趣す、いわゆる一切の引く所の諸蘊の増長・相续にして修促の量斉しからざるに非ず、寿を引く業因に差別有るゆえ。能引の業の勢力の増微に随い、爾の時に齊らぎて次第に増長す。如何にして次第するか。聖の説くが如し:

最初羯剌藍,次生頞部曇,

最初は羯剌藍(かつらん)、次生は頞部曇(あつぶだん)、

從此生閉屍,閉屍生鍵南,

此より閉尸(へいし)を生じ、閉尸は鍵南(けんなん)を生じ、

次缽羅奢佉,後髮毛爪等,

次に鉢羅奢佉(はつらしゃきゃ)、後に髮・毛・爪等を発し、

及色根形相,漸次而轉增。

および色・根・形相、漸次にして転増す。

謂母腹中分位有五:一羯剌藍位、二頞部曇位、三閉尸位、四鍵南位、五缽羅奢佉位。此胎中箭漸次轉增,乃至色根形相滿位,由業所起異熟風力轉胎中箭令趣產門。如強糞團過量閟澁,從此轉墮劇苦難任。其母或時威儀飲食執作過分,或由其子宿罪業力死於胎內。時有女人或諸醫者,妙通產法善養嬰兒,溫以酥油睒末梨汁用塗其手執小利刀。內如糞坑最極猥賤雜穢充塞,黑闇所居無量千蟲之所依止,常流惡汁恆須對治,精血垢膩潰爛臭滑,不淨流溢鄙穢叵觀,穿漏薄皮以覆其上。宿業所引,身瘡孔中分解支節牽出於外。然此胎子乘宿所為,順後受業所趣難了。或復無難安隱得生,體如新瘡細軟難觸。或母愛子或餘女人,以如刀灰麁澁兩手,執取洗拭而安處之。次含清酥飲以母乳,漸令習受細麁飲食,次第轉增至根熟位,復起煩惱積集諸業。由此身壞,復有如前中有相續更趣餘世。如是惑業為因故生,生復為因起於惑業,從此惑業更復有生,故知有輪旋環無始。若執有始,始應無因;始既無因,餘應自起。現見芽等因種等生,由處及時俱決定故。又由火等熟變等生,由此定無無因起法。說常因論,如前已遣。是故生死決定無初,然有後邊由因盡故。生依因故,因滅壞時生果必亡,理定應爾。如種滅壞芽必不生。如是蘊相續,說三生為位。頌曰:

(論に続けて曰く:)いわゆる母腹中の分位は五有り:一に羯剌藍位、二に頞部曇位、三に閉尸位、四に鍵南位、五に鉢羅奢佉位。この胎中の箭は漸次に転増して、乃至色・根・形相の満位に至り、業の起す所の異熟の風力に由りて胎中の箭を転じて産門に趣かしむ。強き糞団の量を過ぎて悶渋するが如く、此より転堕して劇苦にして堪え難し。その母は或る時に威儀・飲食・執作の分を過ぎ、あるいはその子の宿罪の業力に由りて胎内に死す。時に女人あるいは諸の医有りて、妙に産法に通じ善く嬰児を養い、温なる酥油・睒末梨の汁を以てその手を塗り小なる利刀を執る。内は糞坑の如く最極猥賎にして雑穢充塞し、黒暗の居する所にして無量千虫の依止する所、常に悪汁を流して恒に対治を須い、精血は垢膩にして潰爛臭滑し、不浄は流溢して鄙穢にして見難し、穿漏の薄皮を以てその上を覆う。宿業の引く所にして、身の瘡孔中に支節を分解して外に牽出す。しかるにこの胎子は宿の為す所に乘じ、順後受の業の趣く所は了い難し。或るは復た難無く安隠にして生ずるを得、体は新瘡の如く細軟にして触れ難し。或るは母の子を愛するあるいは余の女人、刀の灰の如く粗渋なる両手を以て、執取して洗拭し而もこれを安処す。次に清き酥を含ませ母乳を以て飲ましめ、漸く細粗の飲食を習受せしめ、次第に転増して根熟の位に至り、復た煩悩を起して諸業を積集す。これに由りて身は壊れ、復た前の如き中有相续して更に余の世に趣く。かくのごとき惑業を因と為すゆえに生、生は復た因と為りて惑業を起こし、此より惑業は更に復た生有り、ゆえに輪の旋環するは始無きを知る。もし始有りと執せば、始はまさに因無かるべし、始は既に因無ければ、余はまさに自ら起るべし。現に芽等は種等を因りて生ずるを見る、処および時の俱に決定せるに由るゆえ。また火等に由りて熟変等は生ず、このに由りて定めて因無きの起法無し。常因の論を説くは、前に已に遣りたるが如し。是れを以て生死は決定して初無し、しかるに後辺有りて因の尽くるに由るゆえ。生は因に依るゆえに、因の滅壞する時に生の果は必ず亡ぶ、理は定めてまさにこの如くあるべし。種の滅壞すれば芽は必ず生生ぜざるが如し。かくのごとき蘊の相续は、三生を位と為すと説く。頌に曰く:

如是諸緣起,十二支三際,

かくのごとき諸の縁起、十二支・三際、

前後際各二,中八據圓滿。

前後際は各々二、中は八は円満に拠る。

論曰:十二支者,一、無明;二、行;三、識;四、名色;五、六處;六、觸;七、受;八、愛;九、取;十、有;十一、生;十二、老死。言三際者,一前際、二後際、三中際,即是過未及現三生。云何十二支於三際建立?謂前後際各立二支,中際八支,故成十二。無明行在前際,生老死在後際,所餘八在中際。此中際八,一切有情此一生中皆具有不?非皆具有。若爾,何故說有八支?據圓滿者。此中意說,補特伽羅歷一切位名圓滿者,非諸中夭及色無色,但據欲界補特伽羅。《大緣起經》說具有故。彼說,佛告阿難陀言:識若不入胎,得增廣大不?不也。世尊!乃至廣說。有時但說二分緣起,一前際攝、二後際攝。前七支前際攝,謂無明乃至受;後五支後際攝,謂從愛至老死,前後因果二分攝故。無明等支何法為體?頌曰:

論に曰く:十二支とは:一に無明、二に行、三に識、四に名色、五に六処、六に触、七に受、八に愛、九に取、十に有、十一に生、十二に老死。三際を説くは:一に前際、二に後際、三に中際、即ち是れ過・未および現の三生。如何にして十二支を三際において建立するか。いわゆる前後際は各々二支を立て、中際は八支、ゆえに十二を成す。無明・行は前際に在り、生・老死は後際に在り、余の八は中際に在り。この中際の八は、一切の有情はこの一生中に皆具すや否や。皆具するに非ず。もし爾ならば、何の故に八支有りと説くか。円満なるに拠る。此中意の説くは、補特伽羅は一切の位を歴るを円満なると名名づく、諸の中夭および色・無色に非ず、但だ欲界の補特伽羅に拠る。『大縁起経』は具有りと説くゆえ。彼の説くに、仏は阿難陀に告げて曰く:識はもし胎に入らざれば、増広を得るか否や。不なり世尊、と、乃至広説。或る時には但だ二分の縁起を説く、一は前際の摂、二は後際の摂。前の七支は前際の摂、いわゆる無明乃至受、後の五支は後際の摂、いわゆる愛より老死に至る、前後の因果は二分の摂するゆえ。無明等の支は何の法を以て体と為すか。頌に曰く:

宿惑位無明,宿諸業名行,

宿の惑の位は無明、宿の諸業を行と名づく、

識正結生蘊,六處前名色,

識は正に結生する蘊、六処の前は名色、

從生眼等根,三和前六處,

眼等の根を生ずるより、三和の前は六処、

於三受因異,未了知名觸,

三の受因を異にして、未だ了知せざるは触と名づく、

在婬愛前受,貪資具婬愛,

淫愛の前に在るは受、資具・淫愛を貪る、

為得諸境界,遍馳求名取,

諸の境界を得んが為、遍く馳求するを取と名づく、

有謂正能造,牽當有果業,

有とは正に能く造り、当の果有る業を牽く、

結當有名生,至當受老死。

当の有を結ぶを生と名づき、当の受に至るを老死。

論曰:於宿生中諸煩惱位,至今果熟,總謂無明,彼與無明俱時行故。由無明力,彼現行故。如說王行,非無導從,王俱勝故總謂王行。於宿生中福等業位,至今果熟,總得行名。初句位言流至老死。於母胎等正結生時,一剎那位,五蘊名識。結生識後、六處生前,中間諸位總稱名色。此中應說四處生前,而言六者,據滿立故。眼等已生,至根境識未和合位,得六處名。已至三和,未了三受因差別位,總名為觸。已了三受因差別相,未起婬貪,此位名受。貪妙資具婬愛現行,未廣追求,此位名愛。為得種種上妙境界,周遍馳求,此位名取。因馳求故,積集能牽當有果業,此位名有。由是業力從此捨命,正結當有,此位名生。當有生支,即如今識生剎那後漸增,乃至當來受位,總名老死。如是老死,即如今世名色、六處、觸、受四支。辯十二支體別如是。又諸緣起差別說四:一者剎那、二者連縛、三者分位、四者遠續。云何剎那?謂剎那頃由貪行殺具十二支,痴謂無明,思即是行,於諸境事了別名識,識俱三蘊總稱名色,住名色根說為六處,六處對餘和合有觸,領觸名受,貪即是愛,與此相應諸纏名取,所起身語二業名有,如是諸法起即名生,熟變名老滅壞名死。復有說者,剎那、連縛如《品類足》,俱遍有為。十二支位所有五蘊皆分位攝。即此懸遠相續無始說名遠續。世尊於此意說者何?頌曰:

論に曰く:宿生中において諸の煩悩の位は、今の果の熟するに至りて、総じて無明と謂う、彼は無明と俱時に行するゆえ。無明の力に由りて、彼は現行するゆえ。王の行を説くが如く、導従無きに非ず、王の俱に勝れるゆえに総じて王行と謂う。宿生中において福等の業の位は、今の果の熟するに至りて、総じて行の名を得。初句の位の言は老死に至るまで流る。母胎等において正に結生する時の一刹那の位は、五蘊を識と名づく。結生の識の後・六処の生の前の中間の諸位を総じて名色と称す。此中にはまさに四処の生の前を説くべく、而も六を説くは、満に拠りて立てるゆえ。眼等は已に生じ、根・境・識の未だ和合せざる位に至りて、六処の名を得。已に三和に至り、未だ三受の因の差別を了知せざる位を、総じて触と名づく。已に三受の因の差別の相を了知し、未だ淫貪を起さざる、この位を受と名づく。妙なる資具・淫愛を貪りて現行し、未だ広く追求せざる、この位を愛と名づく。種種の上妙の境界を得んが為に、周遍に馳求す、この位を取と名づく。馳求するゆえに因りて、能く当の果有る業を牽くを積集す、この位を有と名づく。この業力に由りて此より命を捨て、正に当の有を結ぶ、この位を生と名づく。当に有るべき生の支は、即ち今の識の生の刹那の後に漸増するが如く、乃至当来の受の位に至るまで、総じて老死と名づく。かくのごとき老死は、即ち今世の名色・六処・触・受の四支。十二支の体の別を弁ずることかくのごとし。また諸の縁起の差別は四を説く:一に刹那、二に連縛、三に分位、四に遠続。何を刹那とするか。いわゆる刹那の頃に貪を由りて殺を行ずれば十二支を具す、痴は無明を謂い、思は即ち是れ行、諸の境事を了別するを識と名づき、識と俱の三蘊を総じて名色と称し、名色に住する根を六処と説き為し、六処は余と対して和合して触有り、触を領するを受と名づき、貪は即ち是れ愛、これと相応する諸の纏を取と名づき、起る所の身・語の二業を有と名づき、かくのごとき諸法の起るは即ち生と名づき、熟変を老と名づき滅壞を死と名づく。復た説く有り、刹那・連縛は『品類足』の如く俱に遍く有為なり。十二支の位の所有する五蘊は皆分位の摂。即ちこの懸遠の相续の始無きを遠続と説き名づく。世尊は此において意の説くは是れ何ぞ。頌に曰く:

傳許約位說,從勝立支名。

伝えて許す、位に約りて説き、勝に従りて支の名を立つ、と。

論曰:傳許世尊唯約分位說諸緣起有十二支。若支支中皆具五蘊,何緣但立無明等名?以諸位中無明等勝故。就勝立無明等名,謂若位中無明最勝,此位五蘊總名無明。乃至位中老死最勝,此位五蘊總名老死。故體雖總,名別無失。何緣經說此十二支與《品類足》所說有異?如彼論說:云何為緣起?謂一切有為乃至廣說。素怛纜言因別意趣,阿毘達磨依法相說,如是宣說。分位、剎那、遠續、連縛,唯有情數。情非情等是謂差別。契經何故唯說有情?頌曰:

論に曰く:伝えて世尊はただ分位に約りて諸の縁起は十二支有りと説くを許す。もし支支中に皆五蘊を具せば、何の縁に但だ無明等の名を立つるか。諸の位中において無明等の勝れるを以て。勝に就きて無明等の名を立つ、いわゆるもし位中に無明の最も勝れたる、この位の五蘊を総じて無明と名づく。乃至位中に老死の最も勝れたる、この位の五蘊を総じて老死と名づく。ゆえに体は総なれども、名の別あるは失なし。何の縁に経の説くこの十二支は『品類足』の説く所と異有るか。彼の論の説くが如く:何を縁起とするか。いわゆる一切の有為、乃至広説、と。素怛纜の言は別の意趣に因り、阿毘達磨は法相に依りて説く、かく宣説す。分位・刹那・遠続・連縛は、ただ情数のみ。情・非情等是れを差別と謂う。契経は何の故にただ有情を説くか。頌に曰く:

於前後中際,為遣他愚惑。

前・後・中際において、他の愚惑を遣らんが為。

論曰:為三際中遣他愚惑?三際差別唯在有情。如何有情前際愚惑?謂於前際生如是疑:我於過去世為曾有非有?何等我曾有?云何我曾有?如何有情後際愚惑?謂於後際生如是疑:我於未來世為當有非有?何等我當有?云何我當有?如何有情中際愚惑?謂於中際生如是疑:何等是我?此我云何?我誰所有?我當有誰?為除如是三際愚惑,故經唯說有情緣起,如其次第說無明行及生老死並識至有。所以者何?以契經說:苾芻諦聽!若有苾芻,於諸緣起緣已生法,能以如實正慧觀見,彼必不於三際愚惑,謂我於過去世為曾有非有等。有餘師說:愛取有三亦為除他後際愚惑,此三皆是後際因故。又應知此說緣起門雖有十二支,而三二為性,三謂惑業事,二謂果與因。其義云何?頌曰:

論に曰く:三際中において他の愚惑を遣らんが為か。三際の差別はただ有情において有り。如何にして有情は前際に愚惑するか。いわゆる前際においてかくのごとき疑を生ず:我は過去世において曾て有りしか非有りしか。何をもって我は曾て有りしか。如何にして我は曾て有りしか。如何にして有情は後際に愚惑するか。いわゆる後際においてかくのごとき疑を生ず:我は未来世においてまさに有らんや非有らんや。何をもって我はまさに有らんか。如何にして我はまさに有らんか。如何にして有情は中際に愚惑するか。いわゆる中際においてかくのごとき疑を生ず:何等か是れ我。此の我は如何。我は誰の所有。我はまさに誰有らんか。かくのごとき三際の愚惑を除かんが為に、ゆえに経はただ有情の縁起を説く、その次第の如く無明・行および生・老死ならびに識より有に至るを説く。所以者何。契経に説くを以て:苾芻諦に聴け!もし苾芻は諸の縁起・縁已生の法において、能く如実の正慧を以て観見せば、彼は必ず三際において愚惑せず、いわゆる我は過去世において曾て有りしか非有りしか等、と。ある余師の説に:愛・取・有の三もまた他の後際の愚惑を除かんが為、此の三は皆是れ後際の因なるゆえ。またまさにこの縁起の門の説くは十二支有ると雖も、而も三・二を性と為すと知るべし、三は惑・業・事を謂い、二は果と因とを謂う。その義如何。頌に曰く:

三煩惱二業,七事亦名果,

三は煩悩、二は業、七の事もまた果と名づき、

略果及略因,由中可比二。

果を略しおよび因を略す、中に由りて二を比す可し。

論曰:無明愛取煩惱為性,行及有支以業為性,餘識等七以事為性,是煩惱業所依事故。如是七事即亦名果,義準餘五即亦名因,以煩惱業為自性故。何緣中際廣說果因?開事為五、惑為二故。後際略果,事唯二故。前際略因,惑唯一故。由中際廣可以比度前後二際,廣義已成故不別說,說便無用。若緣起支唯十二者,不說老死果,生死應有終;不說無明因,生死應有始。或應更立餘緣起支,餘復有餘,成無窮失,不應更立。然無前過,此中世尊由義已顯。云何已顯?頌曰:

論に曰く:無明・愛・取は煩悩を性と為し、行および有の支は業を以て性と為し、余の識等の七は事を以て性と為す、是れ煩悩・業の依る所の事なるゆえ。かくのごとき七の事は即ちもまた果と名づく、義は余の五に準じて即ちもまた因と名づく、煩悩・業を以て自性と為すゆえ。何の縁に中際は果因を広説するか。事を開きて五と為し惑を二と為すゆえ。後際は果を略す、事はただ二なるゆえ。前際は因を略す、惑はただ一なるゆえ。中際の広くに由りて以て前後の二際を比度すべし、広義は已成れるゆえに別に説かず、説けば便ち用無し。もし縁起の支はただ十二のみなれば、老死の果を説かざれば生死はまさに終有るべし、無明の因を説かざれば生死はまさに始有るべし。あるいはまさに更に余の縁起の支を立つべく、余は復た余有りて無窮の失と成らん、まさに更に立つべからず。しかるに前の過無し、此中意は世尊は義に由りて已に顕したり。如何にして已に顕したるか。頌に曰く:

從惑生惑業,從業生於事,

惑より惑・業を生じ、業より事を生ずるに於て、

從事事惑生,有支理唯此。

事より事・惑を生ず、有支の理はただ此のみ。

論曰:從惑生惑謂愛生取,從惑生業謂取生有、無明生行,從業生事謂行生識及有生生,從事生事謂從識支生於名色,乃至從觸生於受支,及從生支生於老死。從事生惑謂受生愛,由立有支其理唯此。已顯老死為事惑因,及顯無明為事惑果,無明老死事惑性故,豈假更立餘緣起支?故經言:如是純大苦蘊集。若不爾者,此言何用?

論に曰く:惑より惑を生ずは愛の取を生ずるを謂い、惑より業を生ずは取の有を生じ、無明の行を生ずるを謂い、業より事を生ずは行の識を生じおよび有の生を生ずるを謂い、事より事を生ずは識の支より名色を生ずるを謂い、乃至触より受の支を生じ、および生の支より老死を生ず。事より惑を生ずは受の愛を生ずるを謂う、有支を立つるに由りてその理はただ此のみ。已に老死は事・惑の因と為るを顕し、および無明は事・惑の果と為るを顕す、無明・老死は事・惑を性と為すゆえ、豈に假りて更に余の縁起の支を立てんや。ゆえに経に説く:かくのごとき純大苦蘊の集、と。もしこの如くならざれば、この言は何の用か有らん。

有餘釋言:餘契經說,非理作意為無明因,無明復生非理作意。非理作意亦取支攝,故亦說在此契經中。此非理作意如何取支攝?若言由此與彼相應,則愛無明亦應彼攝。設許彼攝,云何能證非理作意為無明因?若但彼攝即證因果,愛與無明亦彼攝故,應不別立為緣起支。

(論に続けて曰く:)ある余の釋に説く:余の契経に説く、非理作意は無明の因と為り、無明は復た非理作意を生ず。非理作意もまた取支の摂、ゆえにもまたこの契経中に説く。この非理作意は如何にして取支の摂か。もし此に由りて彼と相応すと説かば、則ち愛・無明もまたまさに彼の摂なるべし。設ひ彼の摂を許すとも、如何にして能く非理作意は無明の因と為るを証せん。もし但だ彼の摂なれば即ち因果を証せば、愛と無明ともまた彼の摂なるゆえに、まさに別に縁起の支と為して立てざるべし。

餘復釋言:餘契經說,非理作意為無明因,無明復生非理作意,非理作意說在觸時,故餘經說:眼色為緣生痴,所生染濁作意,此於受位必引無明故。餘經言:由無明觸所生諸受為緣生愛。是故觸時非理作意與受俱轉,無明為緣。由此無明,無無因過,亦不須立餘緣起支。又緣起支無無窮失,非理作意從痴生故。如契經說:眼色為緣生痴,所生染濁作意。餘經雖有如是誠言,然此經中應更須說。不須更說。如何證知?由理證知。何等為理?非離無明受能為愛緣,以阿羅漢受不生愛故。又非無倒觸能為染受緣,亦非離無明觸可成顛倒,阿羅漢觸非顛倒故。由如是理為證故知。若爾,便應有太過失。諸由正理可得證知,一切皆應不須更說,故彼所說不成釋難。然上所言,經不別說老死有果、無明有因,生死便成有終始者,此難非理,經意別故。亦非所說理不圓滿。所以者何?此經但欲除所化者三際愚故。由所化者唯生是疑:云何有情三世連續,謂從前世今世得生,今世復能生於後世。如來但為除彼疑情,說十二支如前已辯,謂前後中際為遣他愚惑。如世尊告諸苾芻言:吾當為汝說緣起法、緣已生法。此二何異?且本論文此二無別,以俱言攝一切法故。如何未來未已起法,可同過現說緣已生?云何未來未已作法,得同過現說名有為?由能作思力已造故。若爾,無漏如何有為?彼亦善思力已造故。若爾,就得涅槃應然。理實應言依種類說,如未變壞亦得色名,由種類同所說無失。然今正釋契經意者,頌曰:

(論に続けて曰く:)余は復た釋して説く:余の契経に説く、非理作意は無明の因と為り、無明は復た非理作意を生ず、非理作意は触の時に説く、ゆえに余の経に説く:眼・色を縁として痴を生じ、生ずる所の染濁の作意は、これは受の位において必ず無明を引くゆえ。余の経に説く:無明の触の生ずる所の諸の受を縁として愛を生ず、と。是れを以て触の時の非理作意は受と俱に転じ、無明を縁と為す。此の無明に由りて、無因の過無し、もまた余の縁起の支を立てるを須いず。また縁起の支は無窮の失無し、非理作意は痴より生ずるゆえ。契経の説くが如く:眼・色を縁として痴を生じ、生ずる所の染濁の作意、と。余の経はかくのごとき誠言有ると雖も、しかるにこの経中においてまさに更に説くを須うべし。更に説くを須いず。如何にして証知するか。理に由りて証知す。何等を理と為すか。無明を離れて受は能く愛の縁と為るに非ず、阿羅漢の受は愛を生ぜざるを以て。また無倒の触に非ざれば能く染受の縁と為るに非ず、もまた無明の触を離れて顛倒と成すべからず、阿羅漢の触は顛倒に非ざるゆえ。かくのごとき理を証と為すに由りてゆえに知る。もし爾ならば、便ちまさに太過の失有るべし。諸の正理に由りて証知を得べきは、一切は皆まさに更に説くを須いざるべし、ゆえに彼の説く所は釋難と成らず。しかるに上の言う所は、経は別に老死の果有り・無明の因有りを説かざれば生死は便ち終始有りと成る、此の難は理に非ず、経の意は別なるゆえ。もまた説く所の理は円満ならざるに非ず。所以者何。この経は但だ所化の三際の愚を除かんと欲すゆえ。所化は但だ是の疑を生ずに由りて:如何にして有情は三世連続せんや、いわゆる前世より今世に生ずるを得、今世は復た能く後世を生ず。如来は但だ彼の疑情を除かんが為に、十二支を説くは前に已に弁ずるが如く、いわゆる前・後・中際は他の愚惑を遣らんが為。世尊の諸の苾芻に告げて説くが如く:吾はまさに汝の為に縁起の法・縁已生の法を説かん、と。此の二は何の異なるか。且つ本の論文は此の二は別無し、俱の言は一切法を摂するを以て。如何にして未来の未だ已に起らざる法は、過・現に同じく縁已生と説きうるか。如何にして未来の未だ已に作らざる法は、過・現に同じく有為と説き名づくを得るか。能作の思の力は已に造るに由るゆえ。もし爾ならば、無漏は如何にして有為か。彼もまた善の思の力は已に造るゆえ。もし爾ならば、涅槃を得ればまさにこの如くあるべし。理実はまさに種類に依りて説くべし、未だ変壞せざるももまた色の名を得るが如く、種類同なるに由りて説く所は失なし。しかるに今正に契経の意を釋するは、頌に曰く:

此中意正說,因起果已生。

此中意は正に説く、因は起り果は已生と。

論曰:諸支因分說名緣起,由此為緣能起果故。諸支果分說緣已生,由此皆從緣所生故。如是一切二義俱成,諸支皆有因果性故。若爾安立,應不俱成。不爾,所觀有差別故。謂若觀此名緣已生,非即觀斯復名緣起,猶如因果父子等名。尊者望滿意謂:諸法有是緣起非緣已生,應作四句。第一句者,謂未來法。第二句者,謂阿羅漢最後心位過現諸法。第三句者,餘過現法。第四句者,諸無為法。經部諸師作如是白:此中所說為述己情、為是經義?若是經義,經義不然。所以者何?且前所說分位緣起,十二五蘊為十二支,違背契經,經異說故。如契經說:云何為無明?謂前際無智乃至廣說。此了義說,不可抑令成不了義。故前所說分位緣起,經義相違。非一切經皆了義說,亦有隨勝說。如《象跡喻經》:云何內地界?謂髮毛爪等。雖彼非無餘色等法,而就勝說。此亦應爾。所引非證,非彼經中欲以地界辯髮毛等成非具說,然彼經中以髮毛等分別地界,非有地界越髮毛等,故彼契經是具足說。此經所說無明等支,亦應如彼成具足說,除所說外無復有餘。豈不地界越髮毛等洟淚等中其體亦有,洟等皆亦說在彼經。如說復有身中餘物,設復同彼有餘無明,今應顯示;若引異類置無明中,此有何益?雖於諸位皆有五蘊,然隨此有無,彼定有無者可立此法為彼法支。或有五蘊而無有行——隨福、非福、不動行——、識乃至愛等,是故經義即如所說。所說四句理亦不然。若未來諸法非緣已生者,便違契經。經說:云何緣已生法?謂無明行至生老死。或應不許二在未來,是則壞前所立三際。有說:緣起是無為法,以契經言:如來出世若不出世,如是緣起法性常住。由如是意理則可然,若由別意理則不然。云何如是意?云何為別意?而說可然及不可然。

論に曰く:諸支の因の分は縁起と説き名づく、此に由りて縁と為りて能く果を起すゆえ。諸支の果の分は縁已生と説き名づく、此に由りて皆縁の生ずる所よりするゆえ。かくのごとき一切は二義俱に成る、諸支は皆因果の性有るゆえ。もし爾の安立なれば、まさに俱に成らざるべし。然らず、観る所に差別有るゆえ。いわゆるもし此を観じて縁已生と名づくれば、即ち斯を観じて復た縁起と名づくに非ず、猶お因・果・父・子等の名のごとし。尊者望満の意の謂う:諸法に是れ縁起にして縁已生に非ざる有り、まさに四句を作すべし。第一句とは、いわゆる未来の法。第二句とは、いわゆる阿羅漢の最後の心の位の過・現の諸法。第三句とは、余の過・現の法。第四句とは、諸の無為の法。経部の諸師はかくのごとき白を作す:此中の説く所は是れ己の情を述ぶるか、是れ経の義か。もし経の義ならば、経の義は然らず。所以者何。且つ前の説く所の分位の縁起は、十二の五蘊を十二支と為す、契経に違背す、経は異に説くゆえ。契経の説くが如く:何を無明とするか。いわゆる前際の無智、乃至広説。これは了義の説、抑して了義に成らざらしむべからず。ゆえに前の説く所の分位の縁起は、経の義に相違す。一切の経は皆了義の説に非ず、もまた随勝の説有り。『象跡喩経』の如く:何を内の地界とするか。いわゆる髮・毛・爪等。彼に余の色等の法無きに非ずと雖も、而も勝に就きて説く。此もまたまさにこの如くあるべし。引く所は証に非ず、彼の経中は地界を以て髮毛等を弁じて具説に非ざると成さんと欲するに非ず、しかるに彼の経中は髮毛等を以て地界を分別す、地界有りて髮毛等を越ゆるに非ず、ゆえに彼の契経は是れ具足の説。この経の説く所の無明等の支も、またまさに彼の如く具足の説と成るべし、説く所の外には復た余有る無し。豈に地界は髮毛等を越えて洟・涙等中にもその体有るや、洟等は皆もまた彼の経に説けり。復た身中の余の物有りと説くが如く、設ひ復た彼に同じく余の無明有らばも、今まさに顕示すべし、もし異類を引きて無明中に置かば、此に何の益か有らん。諸の位において皆五蘊有ると雖も、しかるに此の有無に随い、彼は定めて有無するを以て此法を彼の法の支と立つべし。あるいは五蘊有りて而行無し——福・非福・不動の行に随い——、識乃至愛等、是れを以て経の義は即ち説く所の如し。説く所の四句の理もまた然らず。もし未来の諸法は縁已生に非ざれば、便ち契経に違す。経に説く:何を縁已生の法とするか。いわゆる無明・行より生・老死に至る。あるいはまさに二の未来に在るを許さざるべく、是則ち前の立つ所の三際を壞す。ある説に:縁起は是れ無為の法、契経に説くを以て:如来は出世すとも若し出世せずとも、かくのごとき縁起の法性は常住なり、と。この意に由りて理は則ち可なり、もし別の意に由れば理は則ち然らず。如何にしてこの意か。如何にして別の意か。而も説いて可なりおよび不可なり。

謂若意說,如來出世若不出世,行等常緣無明等起非緣餘法,或復無緣故言常住。如是意說,理則可然。若謂意說有別法體名為緣起湛然常住,此別意說,理則不然。所以者何?生起俱是有為相故。非別常法為無常相可應正理。又起必應依起者立,此常住法彼無明等何相關預,而說此法依彼而立為彼緣起?又名緣起而謂目常,如是句義無相應理。此中緣起是何句義?缽剌底是至義,醫底界是行義。由先助力界義轉變,故行由至轉變成緣。參是和合義,嗢是上升義,缽地界是有義。有藉合升轉變成起,由此有法至於緣已和合升起,是緣起義。如是句義理不應然。所以者何?依一作者有二作用。於前作用應有已言,如有一人浴已方食。無少行法有在起前,先至於緣後時方起,非無作者可有作用。故說頌曰:

(論に続けて曰く:)いわゆるもし意の説くは、如来の出世も若し出世せざるとも、行等は常に無明等に縁りて起りて余の法に縁らず、あるいは復た縁無きゆえに常住と説く。かくのごとき意の説は、理は則ち可なり。もし意の説くは別に法体有りて縁起と名づき湛然として常住と謂わば、この別の意の説は、理は則ち然らず。所以者何。生・起は俱に是れ有為の相なるゆえ。別の常法は無常の相と為るは正理に応ずべからざるに非ず。また起は必ずまさに起に依りて立つべし、この常住の法は彼の無明等と何の関預かあらん、而もこの法を彼に依りて立ちて彼の縁起と為すと説くや。また縁起と名づきて而も常を目すと謂う、かくのごとき句義は相応の理無し。此中の縁起は是れ何の句義ぞ。鉢剌底(プラティ)は是れ至の義、医底(イティ)の界は是れ行の義。先の助力に由りて界の義は転変し、ゆえに行は至に由りて転変して縁と成る。参(サン)は是れ和合の義、嗢(ウッ)は是れ上升の義、鉢地(パッディ)の界は是れ有の義。有は合升に藉りて転変して起と成る、此に由りて法有りて縁に至り已に和合して升起す、是れ縁起の義。かくのごとき句義は理はまさにこの如くあるべからず。所以者何。一の作者に依りて二の作用有り。前の作用においてまさに已の言有るべし、一人の浴し已りて方に食する有るが如し。少しの行法も起の前に在有る無く、先に縁に至りて後の時に方に起る、作者無しにして作用有るべからざるに非ず。ゆえに頌に説く:

至緣若起先,非有不應理,

縁に至りてもし起先ならば、有に非ずして理に応ぜず、

若俱便壞已,彼應先說故。

もし俱ならば便ち已に壞る、彼はまさに先に説くゆえ。

無如是過。且應反詰聲論諸師:法何時起?為在現在、為在未來?設爾何失?起若現在,起非已生,如何成現?現是已生,復如何起?已生復起,便致無窮。起若未來,爾時未有,何成作者?作者既無,何有作用?故於起位即亦至緣。起位者何?謂未來世諸行正起,即於此位亦說至緣。又聲論師妄所安立作者作用,理實不成。有是作者,起是作用,非於此中見有作者。異起作用真實可得,故此義言於俗無謬。此緣起義,即是所說依此有彼有、此生故彼生,故應引彼釋緣起義。故說頌言:

(論に続けて曰く:)この如きの過無し。且つまさに反りて声論の諸師に詰すべし:法は何の時に起るか。是れ現在か、是れ未来か。設ひ爾らば何の失か有らん。起はもし現在ならば、起は已生に非ず、如何にして現と成るか。現は是れ已生、復た如何にして起らん。已生にして復た起れば、便ち無窮に致らん。起はもし未来ならば、爾の時は未だ有らず、何ぞ作者と成らんや。作者既に無ければ、何ぞ作用有らんや。ゆえに起の位において即ちもまた縁に至る。起の位とは是れ何ぞ。いわゆる未来世の諸行の正に起こる、即ちこの位においてもまた縁に至ると説く。もまた声論師の妄に安立する所の作者・作用は、理は実に成らず。有は是れ作者、起は是れ作用、此の中において作者有るを見るに非ず。起の作用に異なりて真実に得べく、ゆえにこの義は俗において説くは謬無し。この縁起の義は、即ち説く所の此の有に依りて彼有り、此の生ずるゆえに彼生ず、ゆえにまさに彼を引きて縁起の義を釋すべし。ゆえに頌に説く:

如非有而起,至緣應亦然,

非有にして起るが如く、縁に至るはまさにもまたこの如し、

生已起無窮,或先有非有,

生已って起れば無窮、あるいは先有すれば非有なり、

俱亦有言已,闇至已燈滅,

俱ならばもまた已の言有り、暗は至り已りて灯は滅せりと、

及開口已眠,若後眠應閉。

および口を開き已りて眠る、もし後に眠らばまさに閉ずべし。

有執:更以餘義釋難。缽剌底是種種義,醫底界是不住義。不住由種種,助故變成緣。參是聚集義,嗢是上升義,缽地界是行義。由嗢為先,行變成起。此說種種緣和合已,令諸行法聚集昇起,是緣起義。

(論に続けて曰く:)ある執に:更に余の義を以て難を釋す。鉢剌底は是れ種種の義、医底の界は是れ不住の義。不住は種種に由りて、助するゆえに変じて縁と成る。参は是れ聚集の義、嗢は是れ上升の義、鉢地の界は是れ行の義。嗢を先と為すに由りて、行は変じて起と成る。此の説くは種種の縁和合し已りて、諸の行法をして聚集して升起せしむ、是れ縁起の義、と。

如是所釋,於此可然。眼色各為緣,起於眼識等。此中種種聚集豈成?何故世尊說前二句,謂依此有彼有及此生故彼生。為於緣起知決定故。如餘處說,依無明有諸行得有,非離無明可有諸行。又為顯示諸支傳生,謂依此支有彼支得有,由彼支生故餘支得生。又為顯示三際傳生,謂依前際有中際得有,由中際生故後際得生。又為顯示親傳二緣,謂有無明無間生行,或展轉力諸行方生。有餘師釋:如是二句為破無因、常因二論,謂非無因諸行可有,亦非由常自性我等無生因故諸行得生。若爾,便成前句無用,但由後句此生故彼生,能具破前無因常因故。然或有執有我為依行等得有,由無明等因分生故行等得生。是故世尊為除彼執,決判果有即由生因。若此生故彼生,即依此有彼有,非謂果有別依餘因。謂無明緣行,乃至如是純大苦蘊集。軌範諸師釋此二句,為顯因果不斷及生,謂依無明不斷諸行不斷,即由無明生故諸行得生。如是展轉皆應廣說。有釋:為顯因果住生,謂乃至因相續有果相續亦有,及即由因分生故諸果分亦生。此欲辯生,何緣說住?又佛何故破次第說,先說住已而後說生?復有釋言:依此有彼有者,依果有因有滅。此生故彼生者,恐疑果無因生,是故復言由因生故果方得起,非謂無因。經義若然,應作是說,依此有彼滅無。又應先言因生故果生,已後乃可說依果有因滅無,如是次第方名善說。若異此者,欲辯緣起,依何次第先說因滅?故彼所釋非此經義。

(論に続けて曰く:)かくのごとき釋する所は、此において可なり。眼・色は各々縁と為りて、眼識等を起こす。此中の種種の聚集は豈に成らんや。何の故に世尊は前の二句を説くや、いわゆる此に依りて彼有りおよび此の生ずるゆえに彼生ず。縁起において決定を知るを為すゆえ。余の処の説くが如く、無明に依りて諸行の得有ること有り、無明を離れて諸行有るべからず。また諸支の伝生を顕示せんが為、いわゆる此の支に依りて彼の支の得有ること有り、彼の支の生ずるに由りて余の支の生ずるを得。また三際の伝生を顕示せんが為、いわゆる前際に依りて中際の得有ること有り、中際の生ずるに由りて後際の生ずるを得。また親伝の二縁を顕示せんが為、いわゆる無明有りて無間に行を生じ、あるいは展転の力に由りて諸行方に生ず。ある余師の釋に:かくのごとき二句は無因・常因の二論を破らんが為、いわゆる無因に非ずして諸行の有る可く、もまた常の自性・我等の無生の因に由らずして諸行の生ずるを得るに非ず、と。もし爾ならば、便ち前句は無用と成らん、但だ後句の此の生ずるゆえに彼生ずに由りて、能く具に前の無因・常因を破るゆえ。しかるに或るは執して我を依と為して有りて行等の得を有り、無明等の因の分の生ずるに由りて行等の生ずるを得。是れを以て世尊は彼の執を除かんが為に、果の有は即ち生因に由ると決判す。もし此の生ずるゆえに彼生ずれば、即ち此に依りて彼有りなり、果に別に余の因に依る有るを謂うに非ず。いわゆる無明は行に縁し、乃至かくのごとき純大苦蘊の集。軌範の諸師はこの二句を釋して、因果の断えずおよび生ずるを顕さんが為と為す、いわゆる無明に依りて断えざれば諸行断えず、即ち無明の生ずるに由りて諸行の生ずるを得。かくのごとき展転は皆まさに広説すべし。ある釋に:因果の住・生を顕さんが為、いわゆる乃至因の相续有れば果の相续もまた有り、および即ち因の分の生ずるに由りて諸の果の分もまた生ず、と。此は生を弁ぜんと欲す、何の縁に住を説くか。また仏は何の故に次第を破りて説き、先に住を説き已りて而も後に生を説くや。復た釈に説く:此に依りて彼有りとは、果に依りて因の滅無の有るを依る。此の生ずるゆえに彼生ずとは、果は因無くして生ずと疑わんことを恐れ、是れを以て復た説く、因の生ずるに由りて果方に起るを得、無因を謂うに非ず、と。経の義もしこの如くならば、まさに是の説を作すべし、此に依りて彼の滅無有り、と。またまさに先に因の生ずるゆえに果生ずを説き、已って後に乃ち果に依りて因の滅無有りと説くべし、かくのごとき次第方に善説と名づく。もし此に異ならば、縁起を弁ぜんと欲して、何の次第に依りて先に因の滅を説くか。ゆえに彼の釋する所は此の経の義に非ず。

復次云何無明緣行,廣說乃至生緣老死?我今略顯符順經義。謂諸愚夫於緣生法不知唯行,妄起我見及我慢執,為自受樂非苦樂故,造作身等各三種業,謂為自身受當樂故造諸福業,受當來樂非苦樂故造不動業,受現樂故造非福業。如是名為無明緣行。由引業力識相續流如火焰行,往彼彼趣憑附中有,馳赴所生結生有身,名行緣識。若作此釋善順契經分別識支通於六識,識為先故。於此趣中有名色生,具足五蘊展轉相續遍一期生,於《大因緣》、《辯緣起》等諸經皆有如是說故。如是名色漸成熟時,具眼等根說為六處,次與境合便有識生,三和故有順樂等觸。依此便生樂等三受,從此三受引生三愛,謂由苦逼有於樂受發生欲愛,或有於樂非苦樂受發生色愛,或有唯於非苦樂受生無色愛。從欣受愛,起欲等取。此中欲者謂五妙欲。見謂六十二見,如《梵網經》廣說。戒謂遠離惡戒。禁謂狗牛等禁。如諸離繫及婆羅門,播輸缽多般利、伐羅勺迦等異類外道,受持種種露形拔髮、披烏鹿皮、持髻塗灰、執三杖、剪鬚髮等無義苦行。我語謂內身依之說我故。有餘師說:我見我慢名為我語。云何此二獨名我語?由此二種說有我故,我非有故說名我語。如契經說:苾芻當知,愚昧無聞諸異生類,隨假言說起於我執,於中實無我及我所。於前四種,取謂欲貪。故薄伽梵諸經中釋,云何為取?所謂欲貪。由取為緣,積集種種招後有業,說名為有。如世尊告阿難陀言:招後有業說名為有,有為緣故。識相續流趣未來生,如前道理具足五蘊說名為生。以生為緣便有老死,其相差別廣說如經。如是純言,顯唯有行無我我所。大苦蘊言顯苦積集無初無後。集言為顯諸苦蘊生。毘婆沙宗如前已說。

(論に続けて曰く:)復た次に如何にして無明は行に縁し、広説して乃至生は老死に縁するか。我は今略して経の義に符順するを顕す。いわゆる諸の愚夫は縁生の法においてただ行なるを知らずして、妄に我見および我慢の執を起し、自ら楽・非苦楽を受けんが為に、身等各の三種の業を造作す、いわゆる自身に当の楽を受けしめんが為に諸の福業を造り、当来の楽・非苦楽を受けんが為に不動業を造り、現の楽を受けんが為に非福業を造る。かくのごときを無明は行に縁すと名づく。業を引く力に由りて識は相续の流れは火焰の行くが如く、彼彼の趣に往きて中有に憑附し、生ずる所に馳赴きて結生して身有るを、行は識に縁すと名づく。もしこの釋を作さば善く契経に順い識の支を分別して六識に通ず、識を先と為すゆえ。この趣中において名色生じ、具足して五蘊展転相续して一期生に遍し、『大因縁』・『弁縁起』等の諸経に皆かくのごとき説有るゆえ。かくのごとき名色は漸に成熟する時、眼等の根を具して六処と説き、次に境と合して便ち識の生有り、三和のゆえに順楽等の触有り。此に依りて便ち楽等の三受を生じ、此の三受より三愛を引生す、いわゆる苦の逼に由りて楽受において欲愛を発生する有り、あるいは楽・非苦楽の受において色愛を発生する有り、あるいはただ非苦楽の受において無色愛を生ずる有り。欣受の愛より、欲等の取を起こす。此中の欲とは五妙欲を謂う。見とは六十二見を謂う、『梵網経』に広説するが如し。戒とは悪戒を遠離するを謂う。禁とは狗・牛等の禁を謂う。諸の離系および婆羅門、播輸鉢多般利・伐羅勺迦等の異類の外道の如く、種種の露形・拔髮・披烏鹿皮・持髻・塗灰・執三杖・剪鬚髮等の無義の苦行を受持す。我語とは内身に依りて我を説くゆえ。ある余師の説に:我見・我慢を我語と名づく、と。如何にしてこの二は独り我語と名づくか。此の二種に由りて我有りと説くゆえ、我は有るに非ざるゆえに我語と説き名づく。契経の説くが如く:苾芻まさに知るべし、愚昧にして聞無き諸の異生類は、假の言説に随いて我執を起こし、その中に実に我および我所無し、と。前の四种において、取とは欲貪を謂う。ゆえに薄伽梵の諸経中の釋す、何を取とするか。いわゆる欲貪。取を縁と為すに由りて、種種の後有を招く業を積集し、有と説き名づく。世尊の阿難陀に告げて説くが如く:後有を招く業は有と説き名づく、有の縁と為すゆえ、と。識の相续の流れは未来の生に趣き、前の道理の如く具足して五蘊は生と説き名づく。生を縁と為すを以て便ち老死有り、その相の差別は広説は経の如し。かくのごとき純の言は、ただ行有りて我・我所無きを顕す。大苦蘊の言は苦の積集は初無く後無きを顕す。集の言は諸の苦蘊の生ずるを顕さんが為。毘婆沙の宗は前に已に説くが如し。

説一切有部倶舎論 巻第九

アビダルマ倶舎論 巻第十 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別世品第三之三

分別世品 第三之三。

無明何義?謂體非明。若爾,無明應是眼等。既爾,此義應謂明無。若爾,無明體應非有。為顯有體義不濫餘,頌曰:

無明は何の義か。いわゆる体は明に非ず。もし爾ならば、無明はまさに眼等なるべし。既に爾れば、この義はまさに明無と謂うべし。もし爾ならば、無明の体はまさに有に非ざるべし。体の有る義を顕して余に濫らざらんが為、頌に曰く:

明所治無明,如非親實等。

明の治する所の無明、非親・実等の如し。

論曰:如諸親友所對怨敵,親友相違名非親友,非異親友、非親友無。諦語名實,此所對治虛誑言論名為非實,非異於實、亦非實無。等言為顯非法非義,非事等性非異非無。如是無明別有實體,是明所治,非異非無。云何知然?說行緣故。復有誠證。頌曰:

論に曰く:諸の親友の対する所の怨敵の如く、親友に相違するを非親友と名づく、親友に異ならず、親友無きに非ず。諦の語を実と名づき、此の対治する所の虚誑の言論を非実と名づく、実に異なるに非ず、もまた実無きに非ず。等の言は非法・非義を顕さんが為、非事等の性にして異に非ず無きに非ず。かくのごとき無明は別に実体有りて、是れ明の治する所、異に非ず無きに非ず。如何にしてこの如くを知るか。行の縁と為すを説くゆえ。復た誠の証有り。頌に曰く:

說為結等故,非惡慧見故,

結等と為すを説くゆえ、悪慧に非ず見有るゆえ、

與見相應故,說能染慧故。

見と相応するゆえ、能く慧を染むと説くゆえ。

論曰:經說無明以為結縛、隨眠及漏、軛、瀑、流等,非餘眼等及體全無可得說為結縛等事,故有別法說名無明。如惡妻子名無妻子,如是惡慧應名無明,彼非無明有是見故。諸染汙慧名為惡慧,於中有見故非無明。若爾,非見慧應許是無明。不爾,無明見相應故。無明若是慧,應見不相應,無二慧體共相應故。又說無明能染慧故,如契經言:貪欲染心令不解脫,無明染慧令不清淨,非慧還能染於慧體。如貪異類能染於心。無明亦應異慧能染,如何不許?諸染汙慧間雜善慧令不清淨說為能染,如貪染心令不解脫,豈必現起與心相應方說能染?然由貪力損縛於心令不解脫,後轉滅彼貪燻習時心便解脫。如是無明染汙於慧令不清淨,非慧相應,但由無明損濁於慧。如是分別何理相違,誰復能遮自所分別。然異慧類別有無明,如貪異心,此說為善。有執煩惱皆是無明,此亦應同前理遮遣。若諸煩惱皆是無明,於結等中不應別說,亦不應與見等相應,見等不應自相應故。或亦應說無明染心,若謂此中就差別說,應於染慧不說總名。既許無明別法為體,應說此體其相云何。謂不了知諦實業果。未測何相名不了知?為異了知、為此非有?二俱有過,如無明說。此謂了知所治別法。此復難測,其相是何?此類法爾應如是說。如餘處言:云何為眼?謂清淨色眼識所依。無明亦然,唯可辯用。大德法救說此無明是諸有情恃我類性,異於我慢。類體是何?經言:我今如是知已、如是見已,諸所有愛、諸所有見、諸所有類性、諸我我所執、我慢執、隨眠,斷遍知故無影寂滅,故知類性異於我慢。寧知類性即是無明?不可說為餘煩惱故。豈不可說為餘慢等?若更於此巨細研尋,言論繁雜故應且止。名色何義?色如先辯,今唯辯名。頌曰:

論に曰く:経は無明を以て結縛・随眠および漏・軛・瀑・流等と為すと説く、余の眼等および体全く無くして得べからざるを結縛等の事と説くに非ず、ゆえに別の法有りて無明と説き名づく。悪き妻子を無妻子と名づくるが如く、かくのごとき悪慧はまさに無明と名づくべし、彼は無明に非ずして見の有るゆえ。諸の染污の慧を悪慧と名づく、その中に見有るゆえに無明に非ず。もし爾ならば、見に非ざる慧はまさに是れ無明と許すべし。然らず、無明は見と相応するゆえ。無明もし是れ慧ならば、まさに見と相応せざるべし、二の慧の体の共に相応する無きゆえ。また無明は能く慧を染むと説くゆえ、契経の説くが如く:貪欲は心を染めて解脱せしめず、無明は慧を染めて清浄ならしめず、慧は還りて慧の体を染むる能わざるに非ず、と。貪の異類の能く心を染むるが如し。無明もまたまさに慧に異なりて能く染むべし、如何にして許さざるか。諸の染污の慧は善慧に間雑して清浄ならざらしめて能染と説く、貪の心を染めて解脱せしめざるが如く、豈に必ず現起して心と相応して方に能染と説かんや。しかるに貪の力に由りて心を損縛して解脱せしめず、後に彼の貪の熏習を轉滅する時に心は便ち解脱す。かくのごとき無明は慧を染污して清浄ならしめず、慧に相応するに非ず、但だ無明の慧を損濁するに由る。このように分別するは何の理にか相違する、誰か復た能く自ら分別する所を遮らん。しかるに慧の類に異なりて別に無明有り、貪の心に異なるが如く、此の説を善と為す。ある執に煩悩は皆是れ無明、此もまたまさに前の理に同じく遮遣すべし。もし諸の煩悩は皆是れ無明ならば、結等の中においてまさに別に説くべからず、もまたまさに見等と相応すべからず、見等はまさに自ら相応すべからざるゆえ。あるいはもまたまさに無明は心を染むと説くべく、もし此中に就きて差別を説くと謂わば、まさに慧を染むるにおいて総名を説かざるべし。既に無明は別法を体と為すを許せば、まさに此の体のその相如何を説くべし。いわゆる諦・実・業・果を了知せず。未だ何の相を了知せずと名づくるかを測らず、是れ了知に異なるか、是れ非有か。二は俱に過有り、無明の説くが如し。此は了知の治する所の別法を謂う。此は復た測り難し、その相は是れ何ぞ。此の類の法爾はまさにこの如く説くべし。余の処の説くが如く:何を眼とするか。いわゆる清浄の色は眼識の依る所。無明もまたこの如し、ただ用を弁ずべきのみ。大徳法救(ダルマトラータ)はこの無明を説いて是れ諸の有情の我を恃む類の性、我慢に異なり、と。類の体とは是れ何ぞ。経に説く:我は今かくのごとく知り已り、かくのごとく見已り、諸の所有する愛、諸の所有する見、諸の所有する類性、諸の我・我所の執、我慢の執、随眠を断遍知するゆえに影無く寂滅す、ゆえに類性は我慢に異なるを知る、と。寧ぞ類性は即ち是れ無明と知らんや。余の煩悩と為すと説くべからざるゆえ。豈に余の慢等と為すと説くべからざらんや。もし更に此において巨細に研尋せば、言論は繁雑なるゆえにまさに且く止むべし。名色は何の義か。色は先に弁ずるが如く、今ただ名を弁ず。頌に曰く:

名無色四蘊。

名は無色の四蘊。

論曰:無色四蘊何故稱名?隨所立名根境勢力於義轉變,故說為名。云何隨名勢力轉變?謂隨種種世共立名,於彼彼義轉變詮表,即如牛馬色味等名。此復何緣標以名稱?於彼彼境轉變而緣。又類似名,隨名顯故。有餘師說:四無色蘊,捨此身已轉趣餘生,轉變如名,故標名稱。觸何為義?頌曰:

論に曰く:無色の四蘊は何の故に名と称するか。立つる所の名・根・境の勢力に随い義において転変するゆえに、ゆえに名と説く。如何にして名の勢力に随い転変するか。いわゆる種種の世に共に立つる名に随い、彼彼の義において転変して詮表す、即ち牛・馬・色・味等の名の如し。此は復た何の縁に名称を以て標するか。彼彼の境において転変して縁ず。また類は名に似る、名に随い顕るゆえ。ある余師の説に:四の無色蘊は此の身を捨て已って余の生に転趣し、転変すること名の如し、ゆえに名称を標す、と。触は何を義と為すか。頌に曰く:

觸六三和生。

触は六、三和の生。

論曰:觸有六種,所謂眼觸乃至意觸。此復是何?三和所生,謂根、境、識三和合故有別觸生。且五觸生可三和合,許根境識俱時起故。意根過去、法或未來、意識現在,如何和合?此即名和合,謂因果義成。或同一果故名和合,謂根境識三同順生觸故。諸師於此覺慧不同。有說:三和即名為觸。彼引經證。如契經言:如是三法聚集和合說名為觸。有說:別法與心相應,三和所生說名為觸。彼引經證。經言:云何六六法門?一、六內處;二、六外處;三、六識身;四、六觸身;五、六受身;六、六愛身。此契經中根境識外別說六觸,故觸別有。說即三和名為觸者,釋後所引六六經言,非由別說便有別體。勿受及愛非法處攝無如是失,離愛受觸別有所餘法處體故。汝宗離觸無別有三,可觸及三差別而說,雖有根境不發於識,而無有識不託根境。故已說三,更別說觸便成無用。有餘救言:非諸眼色皆諸眼識因,非諸眼識皆諸眼色果。非因果者別說為三,因果所收總立為觸。說離三和有別觸者,釋前所引如是三法聚集和合名觸。經言我部所誦經文異此,或於因上假說果名,如說諸佛出現樂等。如是展轉更相難釋,言論煩多故應且止。然對法者說有別觸,即前六觸復合為二。頌曰:

論に曰く:触は六種有り、いわゆる眼触乃至意触。此は復た是れ何ぞ。三和の生ずる所、いわゆる根・境・識の三の和合するゆえに別の触生有り。且つ五の触の生は三和合可なり、根・境・識の俱時に起るを許すゆえ。意根は過去、法はあるいは未来、意識は現在、如何にして和合せん。此即ち和合と名づく、いわゆる因果の義成れるを謂う。あるいは同一の果なるゆえに和合と名づく、いわゆる根・境・識の三は同じく順じて触を生ずるゆえ。諸師は此において覚慧同じからず。ある説に:三和は即ち触と名づく。彼は経を引きて証す。契経の説くが如く:かくのごとき三法は聚集和合して触と説き名づく、と。ある説に:別の法有りて心と相応し、三和の生ずる所を触と説き名づく、と。彼は経を引きて証す。経に説く:何を六六の法門とするか。一に六内処、二に六外処、三に六識身、四に六触身、五に六受身、六に六愛身、と。この契経中に根・境・識の外に別に六触を説く、ゆえに触は別有り。即ち三和を触と名づくと説くは、後の引く所の六六経の説を釋す、別に説くに由りて便ち別体有るに由らず。受および愛は法処の摂に非ざるかとの勿れこの如きの失なし、愛・受・触を離れて別に余の法処の体有るゆえ。汝の宗は触を離れて別の三無し、触る可きおよび三の差別にして説けば、根・境有ると雖も識を発せず、而も識有りて根・境に托せざる無し。ゆえに已に三を説いて、更に触を説けば便ち無用と成る。ある余の救いに説く:諸の眼・色は皆諸の眼識の因に非ず、諸の眼識は皆諸の眼・色の果に非ず。因果に非ざるを別説して三と為し、因果の収むる所を総じて触と立つ、と。三和を離れて別の触有りと説くは、前の引く所のかくのごとき三法の聚集和合して触と名づくを釋す。経に説く我が部の誦する経文は此に異なり、あるいは因上において假に果の名を説く、諸仏の出現の楽等を説くが如し、と。かくのごとき展転に更に相い難釋し、言論煩多なるゆえにまさに且く止むべし。しかるに対法は別の触有りと説く、即ち前の六触を復た合して二と成す。頌に曰く:

五相應有對,第六俱增語。

五は相応して有対、第六は倶に増語。

論曰:眼等五觸說名有對,以有對根為所依故。第六意觸說名增語。所以然者,增語謂名,名是意觸所緣長境,故偏就此名增語觸。如說眼識但能了青不了是青,意識了青亦了是青,故名為長。故有對觸名從所依,增語觸名就所緣立。有說:意識語為增上方於境轉,五識不然,是故意識獨名增語,與此相應名增語觸。故有對觸名從所依,增語觸名就相應立。即前六觸隨別相應復成八種。頌曰:

論に曰く:眼等の五触は有対と説き名づく、有対の根を所依と為すを以て。第六の意触は増語と説き名づく。かくのごとき所以は、増語は名を謂い、名は意触の縁ずる所の長の境、ゆえに偏に此に就きて増語触と名づく。眼識は但だ青を了して是れ青を了せず、意識は青を了しもまた是れ青を了すと説くが如く、ゆえに長と名づく。ゆえに有対の触の名は所依に従い、増語の触の名は所縁に就きて立つ。ある説に:意識は語を増上と為して方に境において転ず、五識は然らず、是れを以て意識は独り増語と名づき、此と相応するを増語触と名づく、と。ゆえに有対の触の名は所依に従い、増語の触の名は相応に就きて立つ。即ち前の六触は別の相応に随い復た八種と成る。頌に曰く:

明無明非二,無漏染汙餘,

明・無明・非の二、無漏・染污・其余、

愛恚二相應,樂等順三受。

愛・恚の二の相応、楽等の順する三受。

論曰:明無明等相應成三,一明觸、二無明觸、三非明非無明觸。此三如次,應知即是無漏染汙餘相應觸。餘謂無漏及染汙餘,即有漏善、無覆無記。無明觸中一分數起,依彼復立愛恚二觸,愛恚隨眠共相應故。總攝一切復成三觸:一順樂受觸、二順苦受觸、三順不苦不樂受觸。此三能引樂等受故,或是樂等受所領故,或能為受行相依故,名為順受。如何觸為受所領行?相依行相極似觸,依觸而生故。如是合成十六種觸。受何為義?頌曰:

論に曰く:明・無明等の相応して三を成す、一に明触、二に無明触、三に非明非無明触。此の三は次第の如く、まさに即ち是れ無漏・染污・其余の相応の触と知るべし。其余とは無漏および染污の余を謂い、即ち有漏の善・無覆無記。無明触の中に一分数起有り、彼に依りて復た愛・恚の二触を立つ、愛・恚の随眠と共に相応するゆえ。総じて一切を摂して復た三触と成す:一に順楽受触、二に順苦受触、三に順不苦不楽受触。此の三は能く楽等の受を引くゆえ、あるいは是れ楽等の受の領する所なるゆえ、あるいは能く受の行相の依と為るゆえに、順受と名づく。如何にして触は受の領する所の行か。相の依の行相は極めて触に似る、触に依りて生ずるゆえ。かくのごとき合して十六種の触を成す。受は何を義と為すか。頌に曰く:

從此生六受,五屬身餘心。

此より六受を生じ、五は身に属し余は心。

論曰:從前六觸生於六受,謂眼觸所生受至意觸所生受。六中前五說為身受,依色根故。意觸所生說為心受,但依心故。受生與觸,為後、為俱?毘婆沙師說俱時起,觸受展轉俱有因故。云何二法俱時而生?能生所生義可成立。如何不立?無功能故,於已生法餘法無能。此與立宗義意無別,如言二法俱時而生,能生所生義不成立;於已生法餘法無能,義意同前,重說何用?若爾,便有互相生失。許故非失。我宗許二為俱有因,亦互為果。仁雖許爾,而契經中不許此二互為因果。契經但說:眼觸為緣生眼觸所生受。曾無經說,眼受為緣生眼受所生觸。又此義非理,越能生法故。若法極成能生彼法,此法與彼時別極成。如先種後芽、先乳後酪、先擊後聲、先意後識等,先因後果非不極成。亦有極成同時因果,如眼識等,眼色等俱。四大種俱有所造色,此中亦許前根境緣能發後識。前大造聚生後造色,何理能遮?如影與身,豈非俱有。有說:觸後方有受生,根境為先,次有識起,此三合故即名為觸,第三剎那緣觸生受。若爾,應識非皆有受,諸識亦應非皆是觸。無如是失。因前位觸故,後觸位受生,故諸觸時皆悉有受,所有識體無非是觸。此不應理。何理相違?謂或有時二觸境別,因前受位觸生後觸位受。如何異境受從異境觸生?或應許受此心相應,非與此心同緣一境。既爾,若許有成觸,識是觸無受。於此位前有識有受而體非觸,緣差故然。斯有何過?若爾,便壞十大地法,彼定一切心品恆俱。彼定恆俱依何教立?依本論立。我等但以契經為量,本論非量,壞之何咎?故世尊言:當依經量。或大地法義非要遍諸心。若爾,何名大地法義?謂有三地:一有尋有伺地、二無尋唯伺地、三無尋無伺地。復有三地:一善地、二不善地、三無記地。復有三地:一學地、二無學地、三非學非無學地。

論に曰く:前の六触より六受を生ず、いわゆる眼触の生ずる所の受より意触の生ずる所の受に至る。六中の前の五は身受と説く、色根に依るゆえ。意触の生ずる所は心受と説く、但だ心に依るゆえ。受の生と触とは、是れ後か、是れ俱か。毘婆沙師は俱時に起ると説く、触・受は展転に俱有の因なるゆえ。如何にして二法は俱時に生ずるか。能生・所生の義は成立すべし。如何にして立てざるか。功能無きゆえ、已生の法において余の法は能無し。此は立宗と義意別無きが如し、二法は俱時に生ずると説くが如く、能生・所生の義は成立せず、已生の法において余の法は能無し、義意は前と同じ、重ねて説きて何の用かあらん。もし爾ならば、便ち互いに生ずるの失有らん。許すゆえに失に非ず。我が宗は二を俱有の因と為すを許し、もまた互いに果と為す。仁はかくを許すと雖も、而も契経中には此の二の互いに因果と為るを許さず。契経は但だ説く:眼触を縁と為して眼触の生ずる所の受を生ず。曾て経の説有らず、眼受を縁と為して眼受の生ずる所の触を生ず、と。またこの義は非理、能生の法を越ゆるゆえ。もし法は極成して能く彼の法を生ぜば、この法と彼とは時の別極成す。先に種にして後に芽、先に乳にして後に酪、先に撃にして後に声、先に意にして後に識等の如く、先の因・後の果は極成せざるに非ず。もまた極成の同時因果有り、眼識等の如く、眼・色等は俱なり。四大種は倶に造る所の色有り、此中にもまた前の根・境の縁は能く後の識を発すと許す。前の大造の聚は後の造色を生ず、何の理か能く遮らん。影と身との如く、豈に倶有に非ざらんや。ある説に:触の後に方に受の生有り、根・境を先と為し、次に識の起る有り、此の三の合するゆえに即ち触と名づき、第三の刹那は触に縁りて受を生ず、と。もし爾ならば、まさに識は皆受有るに非ざるを識すべし、諸の識もまたまさに皆是れ触に非ざるべし。この如きの失無し。前位の触を因するゆえに、後の触の位に受を生ず、ゆえに諸の触の時は皆悉く受有り、所有する識の体は触に非ざる無し。此はまさに理に応ぜざるべし。何の理にか相違する。いわゆるあるいは時有りて二の触は境別なり、前の受位の触に因りて後の触位の受を生ず。如何にして異境の受は異境の触より生ずるか。あるいはまさに受は此の心に相応するを許すべく、此の心と同じく一境に縁するに非ず。既に爾れば、もし成る触有るを許せば、識は是れ触にして受無し。此の位の前に識有り受有りて而も体は触に非ず、縁の差するゆえにこの如し。これに何の過か有らん。もし爾ならば、便ち十大の地法を壞す、彼は定めて一切の心品と恒に俱なり。彼の定めて恒に俱なるは何の教に依りて立つか。本論に依りて立つ。我等は但だ契経を以て量と為す、本論は量に非ず、これを壞す何の咎かあらん。ゆえに世尊説く:まさに経の量に依るべし、と。あるいは大地法の義は必ずしも諸の心に遍するを要せず。もし爾ならば、何を大地法の義と名づくるか。いわゆる三の地有り:一に有尋有伺地、二に無尋唯伺地、三に無尋無伺地。復た三の地有り:一に善地、二に不善地、三に無記地。復た三の地有り:一に学地、二に無学地、三に非学非無学地。

若法於前諸地皆有,名大地法。若法唯於諸善地中有,名大善地法。若法唯於諸染地中有,名大煩惱地法。如是等法各隨所應更代而生,非皆並起。餘說如是大不善地法,因誦引來,是今所增益,非本所誦。若於觸後方有受生,經云何釋?如契經說:眼及色為緣生於眼識,三和合觸俱起受想思。但言俱起不說觸俱,此於我宗何違須釋?又於無間亦有俱聲,如契經說:與慈俱行修念覺支。故彼非證。若爾,何故契經中言:是受是想是思是識,如是諸法相雜不離,故無有識離於受等。今應審思,相雜何義?此經復說:諸所受即所思,諸所思即所想,諸所想即所識。未了於此,為約所緣、為約剎那作如是說?於壽與煖俱時起中,亦有如斯相雜言故,例知此說定約剎那。又契經言三和合觸,如何有識而非三和?或是三和而不名觸?故應定許一切識俱悉皆有觸,諸所有觸無不皆與受等俱生。傍論已終,應辯本義。頌曰:

(論に続けて曰く:)もし法は前の諸の地に皆有れば、大地法と名づく。もし法はただ諸の善地中に有れば、大善地法と名づく。もし法はただ諸の染地中に有れば、大煩悩地法と名づく。かくのごとき等の法は各々その応ずる所に随い更代して生ず、皆并びて起るに非ず。余の説はかくのごとき大不善地法は誦を因りて引来り、是れ今の增益する所、本の誦する所に非ず。もし触の後に方に受の生有らば、経は如何に釋せん。契経の説くが如く:眼および色を縁と為して眼識を生じ、三和合の触は倶に受・想・思を起す。但だ倶起を説いて既に触と俱を説かず、此は我が宗において何の違するかあらん、釋を須いんや。また無間においてもまた倶の声有り、契経の説くが如く:慈と倶に行じて念の覚支を修す、と。ゆえに彼は証に非ず。もし爾ならば、何の故に契経中に説く:是れ受是れ想是れ思是れ識、かくのごとき諸法は相雑にして離れず、ゆえに識の受等を離るる有ること無し、と。今まさに審かに思うべし、相雑とは何の義か。この経は復た説く:諸の受くる所は即ち思う所、諸の思う所は即ち想う所、諸の想う所は即ち識する所、と。未だ此において了せず、是れ所縁に約りてか、是れ刹那に約りてかくの説を作すか。寿と暖との倶時に起る中においても、もまた斯の如き相雑の言有るゆえに、例して此の説は定めて刹那に約るを知る。また契経に三和合の触を説く、如何にして識有りて而も三和に非ざらん、あるいは是れ三和にして而も触と名づけざらん。ゆえにまさに定めて一切の識は俱に悉く皆触有りと許すべし、諸の所有する触は受等と倶に生ぜざる無し。傍論已に終る、まさに本義を弁ずべし。頌に曰く:

此復成十八,由意近行異。

此は復た十八と成る、意の近行の異なるに由る。

論曰:於前略說一心受中,由意近行異,復分成十八。應知此復聲,顯乘前起後。此意近行十八云何?謂喜、憂、捨各六近行。此復何緣立為十八?若由自性應但有三,喜憂捨三自性異故。若由相應應唯有一,一切皆與意相應故。若由所緣應但有六,色等六境為所緣故。此成十八,具足由三。於中十五色等近行名不雜緣,境各別故。三法近行皆通二種。意近行名為目何義?傳說喜等意為近緣,於諸境中數遊行故。有說喜等能為近緣,令意於境數遊行故。如何身受非意近行?非唯依意故不名近,由無分別故亦非行。第三靜慮意地樂根,意近行中何故不攝?傳說初界意識相應無樂根故,又無所對苦根所攝意近行故。若唯意地,何故經言:眼見色已,於順喜色起喜近行,廣說如經。依五識身所引意地喜等近行,故作是說。如依眼識引不淨觀,此不淨觀唯意地攝。又彼經言眼見色已乃至廣說,故不應難。若雖非見,乃至觸已而起喜憂捨,亦是意近行。若異此者,在欲界中應無緣色界色等意近行。又在色界應無緣欲香味觸境諸意近行。見色等言隨明瞭說,見色等已於聲等中起喜憂捨亦意近行,隨無雜亂故作是說,於中建立根境定故。為有色等於喜等三,唯能順生一近行不?有就相續非約所緣。諸意近行中幾欲界繫?欲界意近行幾何所緣?色無色界為問亦爾。頌曰:

論に曰く:前に略説せし一心の受中において、意の近行の異なるに由りて、復た分かちて十八を成す。まさに此の復の声は前に乘じて後を起すを顕すと知るべし。この意の近行の十八は如何。いわゆる喜・憂・捨の各々六の近行。此は復た何の縁に十八と立つるか。もし自性に由ればまさに但だ三有るべし、喜・憂・捨の三は自性の異なるゆえ。もし相応に由ればまさにただ一有るべし、一切は皆意と相応するゆえ。もし所縁に由ればまさに但だ六有るべし、色等の六境を所縁と為すゆえ。此が十八を成すは、具足して三に由る。その中の十五の色等の近行は不雑縁と名づく、境の各々別なるゆえ。三の法の近行は皆二種に通ず。意の近行の名は何の義を目すか。伝説に喜等は意の近縁と為りて、諸の境中において数々游行するゆえ。ある説に喜等は能く近縁と為りて、意をして境において数々游行せしむるゆえ。如何にして身受は意の近行に非ざるか。ただ意に依るに非ざるゆえに近と名づけず、分別無きに由るゆえにもまた行に非ず。第三静慮の意地の楽根は、意の近行中において何の故に摂せざるか。伝説に初界の意識の相応に楽根無きゆえ、また対する所の苦根の摂する意の近行無きゆえ。もしただ意地ならば、何の故に経に説く:眼の色を見已りて、喜に順ずる色において喜の近行を起す、広説は経の如し、と。五識身の引く所の意地の喜等の近行に依りて、ゆえに是の説を作す。眼識に依りて不浄観を引くが如く、この不浄観はただ意地の摂。また彼の経の説く眼の色を見已りて乃至広説は、ゆえにまさに難ずべからず。もし見に非ずと雖も、乃至触れ已りて喜・憂・捨を起すも、もまた是れ意の近行。もし此に異ならば、欲界中においてまさに色界の色等に縁ずる意の近行無かるべし。また色界においてまさに欲界の香・味・触の境に縁ずる諸の意近行無かるべし。色等を見るの言は明了に随いて説く、色等を見已りて声等の中において喜・憂・捨を起すもまた意の近行、雑乱無きに随うゆえに是の説を作し、其の中に根・境の定を建立するゆえ。為に色等は喜等の三において、ただ能く一の近行を順生するのみか否や。有りて相续に就きて所縁に約らず。諸の意近行中に几つかは欲界の繫か。欲界の意近行は几何の所縁か。色・無色界も為に問うこともまたこの如し。頌に曰く:

欲緣欲十八,色十二上三,

欲は欲に縁する十八、色は十二、上は三、

二緣欲十二,八自二無色,

二は欲に縁する十二、八は自、二は無色に縁し、

後二緣欲六,四自一上緣,

後の二は欲に縁する六、四は自、一は上に縁す、

初無色近分,緣色四自一,

初の無色の近分は、色に縁する四、自は一、

四本及三邊,唯一緣自境。

四本および三の辺は、ただ一は自境に縁す。

論曰:欲界所繫具有十八,緣欲界境其數亦然。緣色界境唯有十二,除香味六,彼無境故。緣無色境唯得有三,彼無色等五所緣故。說欲界繫已,當說色界繫。初二靜慮唯有十二,謂除六憂。緣欲界境亦有十二,除香味四,餘八自緣,二緣無色,謂法近行。三四靜慮唯六,謂捨緣欲界,境亦得有六。除香味二,餘四自緣,一緣無色,謂法近行。說色界繫已,當說無色繫。空處近分唯有四種,謂捨但緣色、聲、觸、法。緣第四靜慮,亦具有四種,此就許有別緣者說;若執彼地唯總緣下,但有雜緣法意近行。緣無色界唯一,謂法四根,本地及上三邊唯一,謂法但緣自境,無色根本不緣下故,彼上三邊不緣色故。不緣下義如後當辯。此意近行,通無漏耶?頌曰:

論に曰く:欲界の繫する所は具に十八有り、欲界の境に縁ずるその数もまたこの如し。色界の境に縁ずればただ十二有るのみ、香・味の六を除く、彼に境無きゆえ。無色の境に縁ずればただ三を得るのみ、彼に色等の五の所縁無きゆえ。欲界の繫を説き已って、まさに色界の繫を説くべし。初・二の静慮はただ十二有るのみ、いわゆる六の憂を除く。欲界の境に縁ずるもまた十二有り、香・味の四を除き、余の八は自ら縁し、二は無色に縁す、いわゆる法の近行。三・四の静慮はただ六のみ、いわゆる捨は欲界に縁し、境にもまた六有るを得。香・味の二を除き、余の四は自ら縁し、一は無色に縁す、いわゆる法の近行。色界の繫を説き已って、まさに無色の繫を説くべし。空処の近分はただ四種有るのみ、いわゆる捨は但だ色・声・触・法に縁す。第四静慮に縁するも、もまた具に四種有り、此は別の縁有るを許す説に就く、もし彼の地はただ総じて下に縁すと執せば、但だ雑縁の法の意近行有るのみ。無色界に縁ずるはただ一のみ、法の四根を謂い、本地および上の三辺はただ一のみ、法を謂い但だ自境に縁す、無色の根本は下に縁せざるゆえ、彼の上の三辺は色に縁せざるゆえ。下に縁せざる義は後にまさに弁ずべし。此の意近行は無漏に通ずるか。頌に曰く:

十八唯有漏。

十八はただ有漏。

論曰:無意近行通無漏者,故言十八唯是有漏。誰成就幾意近行耶?謂生欲界,若未獲得色界善心,成欲一切;初二定八,三四定四;無色界一。所成上界皆不下緣,唯染汙故。若已獲得色界善心未離欲貪,成欲一切;初靜慮十,餘說如前。初靜慮中唯成四喜,染不緣下香味境故。捨具成六,未至定中善心得緣香味境故。餘隨此理,如應當知。若生色界,唯成欲界一捨法近行,謂通果心俱。有說如是諸意近行,毘婆沙師隨義而立。然我所見經義有殊。所以者何?非於此地已得離染,可緣此境起意近行,故非有漏喜憂捨三皆近行攝。唯雜染者與意相牽數行所緣是意近行。云何與意相牽數行?或愛或憎、或不擇捨。為對治彼說六恆住,謂見色已不喜不憂,心恆住捨具念正智,廣說乃至知法亦爾。非阿羅漢無有世間緣善法喜,但為遮止雜染近行故作是說。又即喜等為三十六師句,謂為耽嗜出離依別。此句差別,大師說故。耽嗜依者,謂諸染受。出離依者,謂諸善受。如是所說受,有支中應知。義門無量差別,何緣不說所餘有支?頌曰:

論に曰く:意の近行の無漏に通ずる無し、ゆえに十八はただ是れ有漏と説く。誰か几つの意近行を成就するか。いわゆる欲界に生ぜば、もし未だ色界の善心を獲得せざれば、欲の一切を成じ、初・二の定は八、三・四の定は四、無色界は一。成ずる所の上界は皆下に縁せず、ただ染污なるゆえ。もし已に色界の善心を獲得して未だ欲貪を離れざれば、欲の一切を成じ、初静慮は十、余は説いて前の如し。初静慮中にただ四の喜を成ず、染は下の香・味の境に縁せざるゆえ。捨は具に六を成ず、未至定中の善心は香・味の境に縁ずるを得るゆえ。余は此の理に随い、その応ずる所の如く知るべし。もし色界に生ぜば、ただ欲界の一の捨の法近行を成ず、いわゆる通果の心と倶。ある説にかくのごとき諸の意近行は毘婆沙師の義に随いて立つる所。しかるに我が見る所の経の義は殊有り。所以者何。此の地において已に染を離るるを得て、此の境に縁じて意の近行を起すべからず、ゆえに有漏の喜・憂・捨の三は皆近行の摂に非ず。ただ雑染なるは意と相牽して数々所縁に行ずる是れ意の近行。如何にして意と相牽して数々行ずるか。あるいは愛しあるいは憎み、あるいは択せずして捨す。彼を対治せんが為に六の恒住を説く、いわゆる色を見已りて喜ばず憂えず、心は恒に捨に住して念を具し正智す、広説して乃至法を知るもまたこの如し。阿羅漢に世間の善法を縁ずる喜無きに非ず、但だ雑染の近行を遮止せんが為に是の説を作す。また即ち喜等を三十六の師句と為す、いわゆる耽嗜・出離の依の別を為す。この句の差別は大師の説くゆえ。耽嗜の依とは、いわゆる諸の染受。出離の依とは、いわゆる諸の善受。かくのごとき説く所の受は、有支中において知るべし。義門は無量の差別、何の縁に余の有支を説かざるか。頌に曰く:

餘已說當說。

余は已に説き、まさに説かんとす。

論曰:所餘有支,或有已說、或有當說,故此不論。此中識支如先已說,識謂各了別,此即名意處等。其六處支如先已說,彼識依淨色,名眼等五根等。行有二支,業品當說。愛取二支,隨眠品當說。此諸緣起略立為三,謂煩惱、業、異熟果事。應寄外喻,顯別功能。頌曰:

論に曰く:余の有支は、あるいは已に説き、あるいはまさに説かんとす、ゆえに此において論ぜず。此中の識の支は先に已に説くが如く、識とは各々了別を謂い、此即ち意処等と名づく。その六処の支は先に已に説くが如く、彼の識は浄色に依りて、眼等の五根等と名づく。行・有の二支は業品にまさに説かんとす。愛・取の二支は随眠品にまさに説かんとす。此の諸の縁起は略して三と立つ、いわゆる煩悩・業・異熟の果の事。まさに外の喩に寄せて、別の功能を顕すべし。頌に曰く:

此中說煩惱,如種復如龍,

此中に煩悩を説くは、種の如く復た龍の如し、

如草根樹莖,及如糠裹米;

草の根・樹の茎の如く、および糠の米を裹むが如し、

業如有糠米,如草藥如花;

業は糠有る米の如く、草薬の如く花の如し、

諸異熟果事,如成熟飲食。

諸の異熟の果の事は、成熟の飲食の如し。

論曰:如何此三種等相似,如從種子芽葉等生?從煩惱生煩惱業事,如龍鎮池水恆不竭。煩惱鎮業生續無窮,如草根未拔苗剪剪還生。未拔煩惱根趣滅滅還起,如從樹莖頻生枝花果。從諸煩惱數起惑業事,如糠裹米能生芽等,非獨能生。或得裹業能感餘生,非獨能感。惑如種等應如是知。如米有糠能生芽等,業有煩惱能招異熟。如諸草藥果熟為後邊,業果熟已更不招異熟。如花於果為生近因,業為近因能生異熟。業如米等,應如是知。如熟飲食但應受用,不可復轉成餘飲食。異熟果事既成熟已,不能更招餘生異熟。若諸異熟復感餘生,餘復感餘應無解脫。事如飲食,應如是知。如是緣起煩惱業事,生生相續不過四有:中、生、本、死,如前已釋。染不染義三界有無,今當略辯。頌曰:

論に曰く:如何にして此の三種の等しき相似なるか、種子より芽・葉等の生ずるが如くか。煩悩より煩悩・業・事を生ず、龍が池を鎮めて水は恒に竭きざるが如し。煩悩が業生を鎮めて続きて窮まり無し、草の根の未だ拔かれずして苗は剪々として還りて生ずるが如し。未だ煩悩の根を拔かざれば趣は滅して還りて起る、樹の茎より頻りに枝・花・果を生ずるが如し。諸の煩悩より数々惑・業・事を起こす、糠の米を裹むが如く能く芽等を生ず、独り能く生ずるに非ず。あるいは裹むの業を得て能く余の生を感ず、独り能く感ずるに非ず。惑は種等の如くまさにこの如く知るべし。米の糠有りて能く芽等を生ずるが如く、業は煩悩有りて能く異熟を招く。諸の草薬の果の熟するを後辺と為すが如く、業の果は熟し已りて更に異熟を招かず。花の果において生ずるの近因と為るが如く、業は近因と為りて能く異熟を生ず。業は米等の如し、まさにこの如く知るべし。熟したる飲食の但だ受用すべくして、復た転じて余の飲食と成るべからざるが如し。異熟の果の事は既に成熟し已りて、能く更に余の生の異熟を招かず。もし諸の異熟は復た余の生を感ぜば、余は復た余を感じてまさに解脱無かるべし。事は飲食の如し、まさにこの如く知るべし。かくのごとき縁起の煩悩・業・事は、生々相续して四有を過ぎず:中・生・本・死、前に已に釋せしが如し。染・不染の義と三界の有無と、今まさに略して弁ずべし。頌に曰く:

於四種有中,生有唯染汙,

四種の有中において、生有はただ染污、

由自地煩惱,餘三無色三。

自地の煩悩に由り、余の三は無色は三。

論曰:於四有中生有唯染。由何煩惱?自地諸惑。謂此地生,此地一切煩惱染汙此地生有。故對法者鹹作是言:諸煩惱中無一煩惱於結生位無潤功能。然諸結生唯煩惱力,非由自力現起纏垢。雖此位中心身昧劣,而由數起或近現行引發力故,煩惱現起。應知中有初續剎那亦必染汙,猶如生有。然餘三有一一通三,謂本、死、中三,各善染無記。於無色界除中有三,非彼界中有處隔別,為往餘處可立中有。頌中不說欲色二界,故知於中許具四有。有情緣起已廣分別,是諸有情由何而住?頌曰:

論に曰く:四有中において生有はただ染なり。何の煩悩に由るか。自地の諸の惑。いわゆる此の地に生ずれば、此の地の一切の煩悩は此の地の生有を染污す。ゆえに対法は咸く是の説を作す:諸の煩悩中に一の煩悩も結生の位において潤するの功能無き無し、と。しかるに諸の結生はただ煩悩の力、自ら現起する纏垢に由るに非ず。此の位中に心身は昧劣なりと雖も、而も数起あるいは近き現行の引発の力に由るゆえに、煩悩は現起す。まさに中有の初の続く刹那も必ず染污せりと知るべし、猶お生有のごとし。しかるに余の三有は一一に三に通ず、いわゆる本・死・中の三、各々善・染・無記。無色界においては中有の三を除く、彼界に中有の処の隔別有るに非ず、余の処に往かんが為に中有を立つべからざるを以て。頌中に欲・色の二界を説かざるは、ゆえにその中において具に四有を許すを知る。有情の縁起は已に広く分別し竟えた、是の諸の有情は何に由りて住するか。頌に曰く:

有情由食住,段欲體唯三,

有情は食に由りて住す、段・欲の体はただ三、

非色不能益,自根解脫故。

色は能く益せざるに非ず、自根・解脱するゆえ。

觸思識三食,有漏通三界,

触・思・識の三食は、有漏にして三界に通ず、

意成及求生,食香中有起。

意成および求生と、香を食する中有の起。

前二益此世,所依及能依,

前の二は此の世を益す、所依および能依を、

後二於當有,引及起如次。

後の二は当有において、引きおよび起こすを次第の如く。

論曰:經說:世尊自悟一法正覺正說,謂諸有情一切無非由食而住。何等為食?食有四種:一段、二觸、三思、四識。段有二種,謂細及麁。細謂中有食,香為食故。及天劫初食,無變穢故,如油沃砂散入支故。或細汙蟲嬰兒等食說名為細,翻此為麁。如是段食唯在欲界,離段食貪生上界故。唯欲界繫。香味觸三,一切皆為段食自體,可成段別而飲噉故,謂以口鼻分分受之。光影炎涼如何成食?傳說此語從多為論。又雖非飲噉,而能持身,亦細食所攝,如塗洗等。色亦可成段別飲噉,何緣非食?此不能益自所對根,解脫者故。夫名食者,必先資益自根大種,後乃及餘。飲噉色時,於自根大尚不為益,況能及餘,由彼諸根境各別故。有時見色生喜樂者,緣色觸生,是食非色。又不還者及阿羅漢解脫食貪,雖見種種上妙飲食而無益故。觸謂三和所生諸觸,思謂意業,識謂識蘊,此三唯有漏,通三界皆有。如何食體不通無漏?毘婆沙師作如是釋:能資諸有是其食義,無漏修生為滅諸有。又契經說:食有四種,能令部多有情安住,及能資益諸求生者。無漏不然,故非食體。言部多者,顯已生義,諸趣生已皆謂已生。復說求生為何所目?此目中有,由佛世尊以五種名說中有故。何等為五?一者意成,從意生故,非精血等所有外緣合所成故。二者求生,常喜尋察當生處故。三者食香,身資香食往生處故。四者中有,二趣中間所有蘊故。五者名起,對向當生暫時起故。如契經說:有壞自體起,有壞世間生。起謂中有。又經說:有補特伽羅已斷起結、未斷生結。於此經中廣說四句:離二界貪諸上流者為第一句,中般涅槃為第二句,諸阿羅漢為第三句,除前諸相為第四句。又部多者謂阿羅漢,餘有愛者說名求生。幾食能令部多安住?幾食資益求生有情?毘婆沙師說皆具四。

論に曰く:経に説く:世尊は自ら一法を悟りて正覚し正説せり、いわゆる諸の有情は一切に食に由るに非ざれば住すること莫し、と。何等を食とするか。食に四種有り:一に段、二に触、三に思、四に識。段に二種有り、いわゆる細および粗。細とは中有の食を謂う、香を食と為すゆえ。および天・劫初の食、変穢無きゆえ、油の砂に沃ぎて支に散入するが如きゆえ。あるいは細污の虫・嬰児等の食を細と説き名づく、此を翻して粗と為す。かくのごとき段食はただ欲界において有り、段食の貪を離れて上界に生ずるゆえ。ただ欲界の繫。香・味・触の三は、一切は皆段食の自体と為る、段別を成して飲啖すべきゆえ、いわゆる口・鼻を以て分分にこれを受く。光・影・炎・涼は如何にして食と成らん。伝説に此の語は多に従りて論ず、と。また飲啖に非ずと雖も、而も能く身を持す、もまた細食の摂する所、塗・洗等の如し。色もまた段別を成して飲啖すべく、何の縁に食に非ざるか。此は能く自ら対する所の根を益すること能わず、解脱するゆえに。夫れ食と名づくるは、必ず先に自根・大種を資益して、後に乃ち余に及ぼす。色を飲啖する時に、自根の大において尚お益と為さず、況んや能く余に及ぼさんや、彼の諸の根境は各別なるに由るゆえ。或る時に色を見て喜楽を生ずるは、色触の生ずるに縁る、是れ食にして色に非ず。また不還および阿羅漢は食貪を解脱せり、種種の上妙の飲食を見ると雖も而も益無きゆえ。触とは三和の生ずる所の諸の触を謂い、思とは意業を謂い、識とは識蘊を謂う、此の三はただ有漏、三界に通じて皆有り。如何にして食の体は無漏に通ぜざるか。毘婆沙師はかくの釋を作す:能く諸の有を資する是れその食の義、無漏の修生は諸の有を滅せんと為す、と。また契経に説く:食は四種有り、能く部多(ブータ、生まれた有情)の有情をして安住せしめ、および能く求生する諸の者を資益す、と。無漏は然らず、ゆえに食の体に非ず。部多を説くは、已生の義を顕す、諸趣に生じ已って皆已生と謂うゆえ。復た求生を説くは何を目するか。此は中有を目す、仏世尊は五種の名を以て中有を説くに由るゆえ。何等を五とするか。一に意成、意より生ずるゆえ、精血等の所有する外縁の合する所成に非ざるゆえ。二に求生、常にまさに生ぜんとする処を尋察することを喜ぶゆえ。三に食香、身は香の食を資りて生ずる処に往くゆえ。四に中有、二趣の中間の所有する蘊なるゆえ。五に起と名づく、当の生に対向して暫時起るゆえ。契経の説くが如く:壊れて自体の起る有り、壊れて世間の生ずる有り、と。起とは中有を謂う。また経に説く:補特伽羅有りて已に起結を断じて未だ生結を断ぜず、と。此の経中において広く四句を説く:二界の貪を離れたる諸の上流を第一句と為し、中般涅槃を第二句と為し、諸の阿羅漢を第三句と為し、前の諸相を除くを第四句と為す。また部多とは阿羅漢を謂い、余の愛有るは求生と説き名づく。几つの食か能く部多をして安住せしむる。几つの食か求生の有情を資益する。毘婆沙師は皆具に四と説く。

諸有愛者亦由段食為緣資益令招後有,以世尊說四食皆為病癰箭根老死緣故。亦見思食安住現身。世傳有言:昔有一父,時遭飢饉,欲造他方。自既飢羸,二子嬰稚,意欲攜去力所不任,以囊盛灰掛於壁上,慰喻二子云是麨囊。二子希望多時延命,後有人至取囊為開,子見是灰望絕便死。又於大海有諸商人,遭難敗船飲食俱失,遙瞻積沫疑為海岸,意望速至命得延時,至觸知非望絕便死。《集異門足》說:大海中有大眾生,登岸生卵埋於砂內還入海中,母若常思卵便不壞,如其失念卵即敗亡。此不應然,違食義故。豈他思食能持自身?理實應言卵常思母得不爛壞,忘則命終。起念母思在於觸位,諸有漏法皆滋長有。如何世尊說食唯四?雖爾就勝說四無失。謂初二食能益此身所依能依,後之二食能引當有能起當有。言所依者,謂有根身,段食於彼能為資益。言能依者,謂心心所,觸食於彼能為資益。如是二食於已生有資益功能最為殊勝。言當有者,謂未來生,於彼當生思食能引。思食引已,從業所燻識種子力後有得起。如是二食於未生有引起功能最為殊勝。故雖有漏皆滋長有,而就勝能唯說四食。前二如養母,養已生故;後二如生母,生未生故。諸所有段皆是食耶?有段非食,應作四句。第一句者,謂所飲噉為緣損壞諸根大種。第二句者,謂餘三食。第三句者,謂所飲噉為緣資益諸根大種。第四句者,除前諸相。如是觸等隨其所應,一一當知皆有四句。頗有觸等為緣,資益諸根大種而非食耶?有,謂異地無漏觸等。諸有食已捐食者身亦名為食,初資益故。毘婆沙說:食於二時能為食事,俱得名食:一、初食時能除飢渴;二、消化已資根及大。何趣何生各具幾食?五趣四生皆具四食。如何地獄有段食耶?鐵丸洋銅豈非段食?若能為害亦是食者,則與前說四句相違。又《品類足》言:云何為段食?

(論に続けて曰く:)諸の愛有るもまた段食を縁と為して資益して後有を招かしむ、世尊は四食は皆病・癰・箭・老・死の縁と為すと説くを以て。また思食の現身を安住するを見る。世に伝えて説有り:昔一の父有りて、時に飢饉に遭い、他方に造らんと欲す。自は既に飢えて羸え、二子は嬰稚にして、意は携え去らんと欲すれども力は任する所に非ず、嚢を以て灰を盛りて壁上に挂け、二子を慰喩して是れ麨の嚢と説く。二子は希望して多時に命を延ばし、後に人至りて嚢を取りて開かんと為し、子は是れ灰と見て望み絶えて便ち死す、と。また大海において諸の商人有りて、難に遭いて船敗れて飲食俱に失い、遥かに積沫を瞻りて海岸と疑い、意は速かに至らんと望みて命は時を延ぶるを得、至りて触れて非なりを知りて望み絶えて便ち死す、と。『集異門足』に説く:大海中に大衆生有りて、岸に登りて卵を生みて砂内に埋めて還りて海中に入る、母はもし常に思えば卵は便ち壞れず、その如く念を失せば卵は即ち敗亡す、と。此はまさにこの如くあるべからず、食の義に違するゆえ。豈に他の思の食は能く自身を持せんや。理は実にまさに説くべし、卵は常に母を思いて爛壊せざるを得、忘れれば則ち命終す。念を起して母を思うは触の位に在り、諸の有漏の法は皆滋長して有有り。如何にして世尊は食はただ四と説くや。爾りと雖も勝に就きて四を説きて失なし。いわゆる初の二食は能く此の身の所依・能依を益し、後の二食は能く当有を引き能く当有を起こす。所依を説くは、いわゆる根有る身、段食は彼において能く資益と為る。能依を説くは、いわゆる心・心所、触食は彼において能く資益と為る。かくのごとき二食は已生の有において資益の功能は最も殊勝なり。当有を説くは、いわゆる未来の生、彼の当に生ぜんとするにおいて思食は能く引く。思食は引き已りて、業の熏ずる所の識の種子の力より後有の起るを得。かくのごとき二食は未生の有において引起の功能は最も殊勝なり。ゆえに有漏は皆滋長して有有ると雖も、而も勝能に就きてただ四食を説く。前の二は養母の如し、已生を養うゆえ、後の二は生母の如し、未生を生ずるゆえ。諸の所有する段は皆是れ食か。段有りて食に非ず、まさに四句を作すべし。第一句とは、いわゆる飲啖する所は縁と為りて諸の根・大種を損壞す。第二句とは、いわゆる余の三食。第三句とは、いわゆる飲啖する所は縁と為りて諸の根・大種を資益す。第四句とは、前の諸相を除く。かくのごとき触等はその応ずる所に随い、一一にまさに皆四句有るを知るべし。頗る触等を縁と為して、諸の根・大種を資益して而も食に非ざる有るか。有り、いわゆる異地の無漏の触等。諸の食有りて已に食を捐ぬるの身もまた食と名づく、初めに資益するゆえ。毘婆沙に説く:食は二時において能く食事と為る、俱に食の名を得:一に初めの食の時に能く飢渇を除き、二に消化し已りて根および大を資す、と。何の趣の何の生か各々几つの食を具するか。五趣・四生は皆四食を具す。如何にして地獄に段食有らんや。鉄丸・洋銅は豈に段食に非ざらんや。もし能く害と為るもまた是れ食ならば、則ち前の説く四句と相違す。また『品類足』に説く:何を段食とするか、と。

謂能資益諸根大種,廣說乃至識食亦爾。彼說且依能資益者說名為食,故不相違。然地獄中熱鐵丸等,雖於食已能為損害,而能暫時解除飢渴,得食相故亦名為食。又孤地獄段食如人。故五趣中皆有四食。世尊所說:有人能施一百外道離欲仙食,若能施一贍部林中異生者食,其果勝彼。何謂贍部林中異生?有作是釋:所有一切住贍部洲諸有腹者。彼釋非理,說一言故。又於此中有施無量異生者食,理勝以食施少外道離欲仙人,何足為奇挍量歎勝?有言:彼是近佛菩薩。理亦不然,施彼獲福,勝施俱胝阿羅漢故。毘婆沙者說:此異生是已獲得順決擇分。此名與義亦不相應,曾無契經或本論說,得順決擇分居贍部林中,當知彼唯自所分別。後身菩薩居贍部林名彼異生。此說應理,爾時菩薩同離欲仙,故對彼仙挍量歎勝,雖施菩薩福勝無邊。乘前挍量且言勝百,理必應爾。由後世尊除彼異生,還將外道對預流向挍量勝劣。若不爾者,世尊則應將彼異生對預流向。已說有情緣起及住。如先所說壽盡死等,今應正辯。何識現前何受相應有死生等?頌曰:

(論に続けて曰く:)いわゆる能く諸の根・大種を資益する、広説して乃至識食もまたこの如し。彼の説くは且つ能く資益するに依りて食と名づけて説く、ゆえに相違せず。しかるに地獄中の熱鉄の丸等は、食已において能く損害と為ると雖も、而も能く暫時に飢渇を解除し、食の相を得るゆえにもまた食と名づく。また孤地獄の段食は人の如し。ゆえに五趣中に皆四食有り。世尊の説く所:人有りて能く一百の外道の欲を離れたる仙の食を施すとも、もし能く一の贍部林中の異生の食を施せば、その果は彼に勝れり、と。何を贍部林中の異生と謂うか。有りて是の釋を作す:所有する一切の贍部洲に住する諸の腹有る者。彼の釋は理に非ず、一の言を説くゆえ。また此の中において無量の異生の食を施す有りて、理は勝れて食を以て少なき外道の欲を離れたる仙人に施す、何ぞ足らん校量して勝を歎ずるを為さんや。ある説に:彼は是れ近仏の菩薩、と。理もまた然らず、彼に施して福を獲るは、倶胝の阿羅漢に施すに勝れるゆえ。毘婆沙の説:此の異生は是れ已に順決択分を獲得せる者。此の名は義とも相応せず、曾て契経あるいは本論の説く、順決択分を得て贍部林中に居る、無し、まさに彼はただ自ら分別する所を知るべし。後身の菩薩は贍部林に居りて彼の異生と名づく。此の説はまさに理に応ずべし、爾の時に菩薩は欲を離れたる仙に同じ、ゆえに彼の仙に対して校量して勝を歎ず、菩薩に施すと雖も福は勝れて無辺なり。前の校量に乘じて且つ百に勝ると説く、理は必ずまさにこの如くあるべし。後に世尊は彼の異生を除きて、還りて外道を将ちて預流向に対して勝劣を校量す。もしこの如くならざれば、世尊は則ちまさに彼の異生を将ちて預流向に対すべし。已に有情の縁起および住を説き竟えた。先の説く所の寿尽の死等の如く、今まさに正しく弁ずべし。何の識か現前して何の受か相応して死生等有るか。頌に曰く:

斷善根與續,離染退死生,

善根を断つと続くと、染を離れ退り死・生は、

許唯意識中,死生唯捨受,

ただ意識中において許す、死・生はただ捨の受、

非定無心二,二無記涅槃。

定に非ざる・無心の二、二は無記・涅槃。

漸死足臍心,最後意識滅,

漸に死するは足・臍・心、最後に意識は滅し、

下人天不生,斷末摩水等。

下は人・天に生ぜず、末摩・水等を断ず。

論曰:斷善續善離界地染,從離染退命終受生,於此六位法爾唯許意識非餘。所說生言應知亦攝初結中有。死生唯許捨受相應,捨相應心不明利故,餘受明利不順死生。又此二時唯散非定,要有心位必非無心。非在定心有死生義,界地別故、加行生故、能攝益故。亦非無心有死生義,以無心位命必無損。若所依身將欲變壞,必定還起屬所依心然後命終,更無餘理。又無心者不能受生,以無因故,離起煩惱無受生故。雖說死有通三性心,然入涅槃唯二無記。若說欲界有捨異熟,彼說欲界入涅槃心亦具威儀異熟無記。若說欲界無捨異熟,彼說欲界入涅槃心但有威儀而無異熟。何故唯無記得入涅槃?無記勢力微順心斷故。於命終位何身分中識最後滅?頓命終者意識身根欻然總滅,若漸死者往下人天。於足齊心如次識滅,謂墮惡趣說名往下,彼識最後於足處滅;若往人趣識滅於臍,若往生天識滅心處。諸阿羅漢說名不生,彼最後心亦心處滅。有餘師說:彼滅在頂,正命終時於足等處身根滅故意識隨滅。臨命終時身根漸滅,至足等處欻然都滅。如以少水置炎石上,漸減漸消一處都盡。又漸命終者,臨命終時多為斷末摩苦受所逼。無有別物名為末摩,然於身中有異支節觸便致死,是謂末摩。若水火風隨一增盛,如利刀刃觸彼末摩,因此便生增上苦受,從斯不久遂致命終。非如斬薪說名為斷,如斷無覺故得斷名。地界何緣無斯斷用?以無第四內災患故。內三災患,謂風熱淡水火風增隨所應起。有說:此似外器三災。此斷末摩天中非有,然諸天子將命終時,先有五種小衰相現:一者衣服嚴具出非愛聲;二者自身光明忽然昧劣;三者於沐浴位水渧著身;四者本性囂馳今滯一境;五者眼本凝寂今數瞬動。此五相現非定當死。復有五種大衰相現:一者衣染埃塵;二者花鬘萎悴;三者兩腋汗出;四者臭氣入身;五者不樂本座。

論に曰く:善根を断じ善を続き界地の染を離れ、染を離れて退り命終じて生を受くるに、此の六位において法爾にただ意識を許し余に非ず。説く所の生の言は初めて結ぶ中有を摂すと知るべし。死・生はただ捨受の相応するを許す、捨に相応する心は明利ならざるゆえ、余の受は明利にして死・生に順ぜず。また此の二時はただ散にして定に非ず、要して心の位有りて必ず無心に非ず。定の心に在りて死生の義有るに非ず、界地の別なるゆえ、加行の生なるゆえ、能く摂益するゆえ。もまた無心に在りて死生の義有るに非ず、無心の位において命は必ず損無きを以て。もし依る所の身は将に変壊せんと欲すれば、必定に還りて所依に属する心を起して然る後に命終す、更に余の理無し。もまた無心は能く生を受けず、因無きを以て、煩悩を起すを離れて生を受くる無きゆえ。死有は三性の心に通ずと説くと雖も、しかるに涅槃に入るはただ二の無記。もし欲界に捨の異熟有りと説かば、彼は欲界の涅槃に入る心もまた具に威儀・異熟の無記を説く。もし欲界に捨の異熟無しと説かば、彼は欲界の涅槃に入る心は但だ威儀有りて異熟無しと説く。何の故にただ無記は涅槃に入るを得るか。無記は勢力微にして心の断に順ずるゆえ。命終の位において何の身分中に識は最後に滅するか。頓に命終するは意識と身根とは欻然として総じて滅す、もし漸に死するは人・天に往き下る。足・臍・心において次第の如く識は滅す、いわゆる悪趣に堕することを下に往くと説き名づき、彼の識は最後に足の処において滅す、もし人趣に往かば識は臍において滅し、もし天に生ぜんと往かば識は心の処に滅す。諸の阿羅漢は不生と説き名づく、彼の最後の心もまた心の処に滅す。ある余師の説に:彼の滅は頂に在り、正しく命終する時に足等の処において身根の滅するゆえに意識は随って滅す、と。命終に臨む時に身根は漸に滅し、足等の処に至りて欻然として都て滅す。少しの水を以て炎石に置くが如く、漸減じ漸消えて一処に都て盡く。また漸に命終するは、命終に臨む時に多くは末摩を断つの苦受に逼めらる。別の物有りて末摩と名づく有る無し、しかるに身中において異なる支節有りて触るれば便ち死に致る、是れを末摩と謂う。もし水・火・風は一に随い増盛せば、利刀の刃の彼の末摩に触るるが如く、此に因りて便ち増上の苦受を生じ、斯より久しからずして遂に命終を致す。薪を斬るが如く断と説き名づくるに非ず、覚無きを断ずるが如きゆえに断の名を得。地界は何の縁に此の断の用無きか。第四の内の灾患無きを以て。内の三の灾患とは、いわゆる風・熱・淡は水・火・風の増するに随いその応ずる所に起る。ある説に:此は外器の三灾に似たり、と。此の末摩を断つは天中には有るに非ず、しかるに諸の天子は将に命終せんとする時に、先に五種の小衰相の現ずる有り:一には衣服・厳具は愛ならざる声を出し、二には自身の光明は忽然として昧劣し、三には沐浴の位において水滴は身に着き、四には本性は嚣馳なるを今は一境に滞り、五には眼は本は凝寂なるを今は数々瞬動す。此の五相現ずるも定めて死すべきに非ず。復た五種の大衰相の現ずる有り:一には衣は埃塵に染まり、二には花鬘は萎悴し、三には両腋に汗は出で、四には臭気は身に入り、五には本座を楽わず。

此五相現必定當死。世尊於此有情世間生住沒中建立三聚。何謂三聚?頌曰:

(論に続けて曰く:)此の五相現ずれば必定まさに死すべし。世尊は此において有情の世間の生・住・没の中に三聚を建立したまえり。何を三聚と謂うか。頌に曰く:

正邪不定聚,聖造無間餘。

正・邪・不定の聚、聖は無間を造る余。

論曰:一正性定聚、二邪性定聚、三不定性聚。何名正性?謂契經言:貪無餘斷,瞋無餘斷,痴無餘斷。一切煩惱皆無餘斷,是名正性。定者謂聖,聖謂已有無漏道生,遠諸惡法故名為聖,獲得畢竟離繫得故。定盡煩惱,故名正定。諸已獲得順解脫分者,亦定得涅槃,何非正定?彼後或墮邪定聚故。又得涅槃時未定故,非如預流者極七返有等。又彼未能捨邪性故,不名正定。何名邪性?謂諸地獄、傍生、餓鬼,是名邪性。定謂無間,造無間者必墮地獄,故名邪定。正邪定餘,名不定性。彼待二緣,可成二故。

論に曰く:一に正性定聚、二に邪性定聚、三に不定性聚。何を正性と名づくるか。いわゆる契経に説く:貪は无余に断ち、瞋は无余に断ち、痴は无余に断つ。一切の煩悩は皆无余に断つ、是れを正性と名づく、と。定とは聖を謂い、聖とは已に無漏の道の生ずる有るを謂い、諸の悪法を遠くするゆえに聖と名づき、畢竟の離繫の得を獲得するゆえ。定めて煩悩を尽す、ゆえに正定と名づく。諸の已に順解脱分を獲得せるも、もまた定めて涅槃を得、何ぞ正定に非ざらん。彼は後にあるいは邪定聚に堕するゆえ。もまた涅槃を得る時は未だ定まらざるゆえ、預流の極めて七返有等の如くに非ず。また彼は未だ能く邪性を捨てざるゆえ、正定と名づけず。何を邪性と名づくるか。いわゆる諸の地獄・傍生・餓鬼、是れを邪性と名づく。定とは無間を謂い、無間を造るは必ず地獄に堕つ、ゆえに邪定と名づく。正・邪の定の余を、不定性と名づく。彼は二の縁を待ちて、二を成すべきゆえ。

説一切有部倶舎論 巻第十

アビダルマ倶舎論 巻第十一 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別世品第三之四

分別世品 第三之四。

如是已說有情世間。器世間今當說。頌曰:

かくのごとき已に有情の世間を説き竟えた。器世間は今まさに説くべし。頌に曰く:

安立器世間,風輪最居下,

器世間を安立す、風輪は最も下に居り、

其量廣無數,厚十六洛叉,

その量は広くして数無く、厚さは十六洛叉(ラクシャ、億)、

次上水輪深,十一億二萬,

次の上の水輪は深く、十一億二万、

下八洛叉水,餘凝結成金,

下の八洛叉は水、其余は凝結して金を成す、

此水金輪廣,徑十二洛叉,

此の水・金の輪の広さ、径は十二洛叉、

三千四百半,周圍此三倍。

三千四百半、周囲は此の三倍。

論曰:許此三千大千世界如是安立形量不同。謂諸有情業增上力,先於最下依止虛空有風輪生,廣無數、厚十六億踰繕那。如是風輪其體堅密,假設有一大諾健那,以金剛輪奮威懸擊,金剛有碎風輪無損。又諸有情業增上力,起大雲雨澍風輪上,滴如車軸積水成輪。如是水輪於未凝結位,深十一億二萬踰繕那。如何水輪不傍流散?有餘師說:一切有情業力所持令不流散。如所飲食未熟變時,終不流移墮於熟藏。有餘部說:由風所持令不流散,如篅持穀。有情業力感別風起,搏擊此水上結成金,如熟乳停上凝成膜,故水輪減唯厚八洛叉,餘轉成金,厚三億二萬。二輪廣量其數是同,謂徑十二億三千四百半。周圍其邊數成三倍,謂周圍量成三十六億一萬三百五十踰繕那。頌曰:

論に曰く:此の三千大千世界のかくのごとき安立の形量の不同なるを許す。いわゆる諸の有情の業の増上の力に先ず最下において虚空に依止して風輪の生ずる有り、広さは数無く、厚さは十六億逾繕那(ヨージャナ)。かくのごとき風輪はその体は堅密にして、仮設して一の大諾健那(力士)有りて、金剛輪を以て威を奮い懸けて撃たば、金剛は碎くる有りて風輪は損無し。また諸の有情の業の増上の力に由りて、大きなる雲雨を起して風輪の上に澍ぎ、滴は車軸の如く水を積みて輪を成す。かくのごとき水輪は未だ凝結せざる位において、深さ十一億二万逾繕那。如何にして水輪は傍に流散せざるか。ある余師の説に:一切の有情の業力の持する所にして流散せざらしむ。飲食する所の未だ熟変せざる時に、終に流移して熟藏に堕せざるが如し。ある余部の説に:風の持する所に由りて流散せざらしむ、篅(し)の穀を持するが如し。有情の業力は別の風を感じて起り、此の水を搏撃して上に結して金を成す、熟乳の停まりて上に凝して膜を成すが如く、ゆえに水輪は減じてただ厚さ八洛叉、其余は転じて金と成り、厚さ三億二万。二輪の広量はその数は是同なり、いわゆる径は十二億三千四百半。その辺の周囲は数は三倍を成す、いわゆる周囲の量は三十六億一万三百五十逾繕那を成す。頌に曰く:

蘇迷盧處中,次踰健達羅,

蘇迷盧(スメル)は中に処し、次に逾健達羅(ユガンダラ)、

伊沙馱羅山,朅地洛迦山,

伊沙馱羅山(イーシャーダラ)、朅地洛迦山(カーディラカ)、

蘇達梨舍那,頞濕縛羯拏,

蘇達梨舍那(スダルシャナ)、頞湿縛羯拏(アシュヴァカルナ)、

毘那怛迦山,尼民達羅山,

毘那怛迦山(ヴィナタカ)、尼民達羅山(ニミンダラ)、

於大洲等外,有鐵輪圍山,

大洲等の外において、鉄の輪圍山有り、

前七金所成,蘇迷盧四寶,

前の七は金の成す所、蘇迷盧は四宝、

入水皆八萬,妙高出亦然,

水に入るは皆八万、妙高の出づるもまたこの如し、

餘八半半下,廣皆等高量。

余の八は半半に下り、広さは皆出たる量に等し。

論曰:於金輪上有九大山,妙高山王處中而住,餘八週匝繞妙高山。於八山中前七名內,第七山外有大洲等。此外復有鐵輪圍山,周匝如輪圍一世界。持雙等七唯金所成。妙高山王四寶為體,謂如次四面北、東、南、西,金、銀、吠琉璃、頗胝迦寶。隨寶威德色顯於空,故贍部洲空似吠琉璃色。如是寶等從何而生?亦諸有情業增上力。復大雲起雨金輪上滴如車軸,積水奔濤,其水即為眾寶種藏。由具種種威德猛風鑽擊變生眾寶類等。如是變水生寶等時,因滅果生,體不俱有,非如數論轉變所成。數論云何執轉變義?謂執有法自性常存,有餘法生、有餘法滅。如是轉變何理相違?謂必無容有法常住,可執別有法滅法生。誰言法外別有有法?唯即此法於轉變時異相所依名為有法。此亦非理。非理者何?即是此物而不如此,如是言義曾所未聞。如是變生金寶等已,復由業力引起別風,簡別寶等攝令聚集成山成洲,分水甘醎令別成立內海外海。如是九山住金輪上,入水量皆等八萬踰繕那,蘇迷盧山出水亦爾。餘八出水半半漸卑,謂初持雙出水四萬,乃至最後鐵輪圍山出水三百一十二半。如是九山一一廣量,各各與自出水量同。頌曰:

論に曰く:金輪の上に九の大山有り、妙高の山王は中に処して住し、余の八は周匝に妙高山を遶る。八山中において前の七は内と名づき、第七の山の外に大洲等有り。此の外に復た鉄の輪圍山有りて、周匝に輪の如く一世界を圍す。持双等の七はただ金の成す所。妙高の山王は四宝を体と為す、いわゆる次第の如く四面は北・東・南・西にして、金・銀・吠瑠璃(ヴァイドゥーリヤ)・頗胝迦(スパティカ)の宝。宝の威徳に随い色は空に顕れ、ゆえに贍部洲の空は吠瑠璃の色に似たり。かくのごとき宝等は何より生ずるか。もまた諸の有情の業の増上の力。復た大きなる雲起りて金輪の上に雨りて滴は車軸の如く、水を積みて奔濤し、その水は即ち衆宝の種蔵と為る。具に種種の威徳の猛風に由りて鑽撃して衆宝の類等を変生す。かくのごとき水を変じて宝等を生ずる時、因は滅して果は生じ、体は俱に有らず、数論の転変の成す所の如くに非ず。数論は如何にして転変の義を執するか。いわゆる有法の自性は常に存し、余の法の生ずる有り、余の法の滅する有りと執す。かくのごとき転変は何の理にか相違する。いわゆる必ず有法の常住を容れず、別に法の滅し法の生ずる有るを執すべからず。誰か法の外に別に有法有りと説く。ただ即ち此の法が転変の時において異相の依る所を有法と名づく。此もまた理に非ず。理に非ずとは是れ何ぞ。即ち是れ此の物にして而もこの如くならざる、かくのごとき言義は曾て聞かざる所。かくのごとき金宝等を変生し已りて、復た業力に由りて別の風を引起し、宝等を簡別して攝して聚集せしめて山を成し洲を成し、水を分けて甘・鹹と為して別に内海・外海を成立せしむ。かくのごとき九山は金輪の上に住し、水に入る量は皆八万逾繕那に等しく、蘇迷盧山の水を出づるもまたこの如し。余の八の水を出づるは半半に漸に卑し、いわゆる初の持双は水を出づる四万、乃至最後の鉄輪圍山は水を出づる三百十二半。かくのごとき九山の一一の広量は、各々自ら水を出づる量と同じ。頌に曰く:

山間有八海,前七名為內,

山の間に八海有り、前の七は内と名づき、

最初廣八萬,四邊各三倍,

最初は広さ八万、四辺は各々三倍、

餘六半半陿,第八名為外,

余の六は半半に狭く、第八は外と名づき、

三洛叉二萬,二千踰繕那。

三洛叉二万、二千逾繕那。

論曰:妙高為初、輪圍最後,中間八海,前七名內。七中皆具八功德水:一甘、二冷、三軟、四輕、五清淨、六不臭、七飲時不損喉、八飲已不傷腹。如是七海初廣八萬,約持雙山內邊周量,於其四面數各三倍,謂各成二億四萬踰繕那。其餘六海量半半陿,謂第二海量廣四萬,乃至第七量廣一千二百五十。此等不說周圍量者,以煩多故。第八名外,醎水盈滿,量廣三億二萬二千。頌曰:

論に曰く:妙高を初と為し、輪圍を最後と為し、中間に八海有り、前の七は内と名づく。七中に皆八功德の水を具す:一に甘、二に冷、三に軟、四に軽、五に清浄、六に臭からず、七に飲む時に喉を損せず、八に飲み已って腹を傷らず。かくのごとき七海の初は広さ八万、持双の山の内辺の周量に約り、その四面において数は各々三倍、いわゆる各々二億四万逾繕那を成す。余の六の海の量は半半に狭し、いわゆる第二の海の量の広さは四万、乃至第七は量の広さは一千二百五十。此等は周囲の量を説かざるは、煩多を以てなり。第八は外と名づき、鹹水は盈満し、量の広さは三億二万二千。頌に曰く:

於中大洲相,南贍部如車,

その中の大洲の相、南の贍部は車の如し、

三邊各二千,南邊有三半;

三辺は各々二千、南辺は三半有り、

東毘提訶洲,其相如半月,

東の毘提訶洲(ヴィデーハ)、その相は半月の如く、

三邊如贍部,東邊三百半;

三辺は贍部の如く、東辺は三百半、

西瞿陀尼洲,其相圓無缺,

西の瞿陀尼洲(ゴーダーニヤ)、その相は円にして欠け無し、

徑二千五百,周圍此三倍;

径は二千五百、周囲は此の三倍、

北俱盧畟方,面各二千等,

北の倶盧は方を畟め、面は各々二千等し、

中洲復有八,四洲邊各二。

中洲は復た八有り、四洲の辺に各々二。

論曰:於外海中大洲有四,謂於四面對妙高山。南贍部洲北廣南陿,三邊量等,其相如車。南邊唯廣三踰繕那半,三邊各有二千踰繕那。唯此洲中有金剛座,上窮地際下據金輪,一切菩薩將登正覺皆坐此座上起金剛喻定,以無餘依及餘處所有堅固力能持此故。東勝身洲東陿西廣,三邊量等,形如半月。東三百五十,三邊各二千。西牛貨洲圓如滿月,徑二千五百,周圍七千半。北俱盧洲形如方座,四邊量等,面各二千。等言為明無少增減。隨其洲相人面亦然。復有八中洲,是大洲眷屬,謂四大洲側各有二中洲。贍部洲邊二中洲者,一遮末羅洲、二筏羅遮末羅洲。勝身洲邊二中洲者,一提訶洲、二毘提訶洲。牛貨洲邊二中洲者,一舍搋洲、二嗢怛羅漫怛裡拏洲。俱盧洲邊二中洲者,一矩拉婆洲、二憍拉婆洲。此一切洲皆人所住。有說:唯一邏剎娑居。頌曰:

論に曰く:外海中において大洲は四有り、いわゆる四面において妙高山に対す。南の贍部洲は北は広く南は狭く、三辺の量は等しく、その相は車の如し。南辺はただ広さ三逾繕那半、三辺は各々二千逾繕那有り。ただ此の洲中に金剛座有り、上は地際に窮まり下は金輪に拠り、一切の菩薩は将に正覚に登らんとする時皆此の座上に坐して金剛喩の定を起す、余の依および余の処の所有する堅固の力は能く此を持する無きを以て。東の勝身洲は東は狭く西は広く、三辺の量は等しく、形は半月の如し。東は三百五十、三辺は各々二千。西の牛貨洲は円かにして満月の如く、径は二千五百、周囲は七千半。北の倶盧洲は形は方座の如く、四辺の量は等しく、面は各々二千。等の言は少しの増減無きを明らかに為さんが為。その洲の相に随いて人面もまたこの如し。復た八の中洲有りて、是れ大洲の眷属、いわゆる四大洲の側に各々二の中洲有り。贍部洲の辺の二中洲とは:一に遮末羅洲、二に筏羅遮末羅洲。勝身洲の辺の二中洲とは:一に提訶洲、二に毘提訶洲。牛貨洲の辺の二中洲とは:一に舍搋洲、二に嗢怛羅漫怛里拏洲。倶盧洲の辺の二中洲とは:一に矩拉婆洲、二に憍拉婆洲。此の一切の洲は皆人の住する所。ある説に:ただ一の邏刹娑(ラークシャサ)の居るのみ、と。頌に曰く:

此北九黑山,雪香醉山內,

此の北に九の黒山、雪・香醉山の内に、

無熱池縱廣,五十踰繕那。

無熱の池の縦広は、五十逾繕那。

論曰:此贍部洲從中向北,三處各有三重黑山。有大雪山在黑山北,大雪山北有香醉山。雪北香南有大池水,名無熱惱,出四大河:一殑伽河、二信度河、三徙多河、四縛芻河。無熱惱池縱廣正等,面各五十踰繕那量,八功德水盈滿其中,非得通人無由能至。於此池側有贍部林,樹形高大其果甘美,依此林故名贍部洲,或依此果以立洲號。復於何處置㮈落迦、大㮈落迦?何量有幾?頌曰:

論に曰く:此の贍部洲は中より北に向かい、三処に各々三重の黒山有り。大雪山有りて黒山の北に在り、大雪山の北に香醉山有り。雪の北・香の南に大池の水有りて、無熱悩と名づき、四の大河を出す:一に殑伽河(ガンガー)、二に信度河(シンド)、三に徙多河(シーター)、四に縛芻河(ヴァクシュ)。無熱悩の池は縦広正しく等しく、面は各々五十逾繕那の量、八功德の水はその中に盈満し、通を得るに非ざれば至る能う由無し。此の池の側に贍部林有りて、樹の形は高大にしてその果は甘美なり、此の林に依るゆえに贍部洲と名づく、あるいは此の果に依りて以て洲の号を立つ。復た何の処に捺落迦・大捺落迦(地獄)を置くか。何の量に几つ有るか。頌に曰く:

此下過二萬,無間深廣同,

此の下に二万を過ぎて、無間は深広同じく、

上七㮈落迦,八增皆十六。

上に七の捺落迦、八の増は皆十六。

謂煻煨屍糞,鋒刃烈河增,

いわゆる煻煨・尸糞、鋒刃・烈河の増、

各住彼四方,餘八寒地獄。

各々彼の四方に住し、余は八の寒地獄。

論曰:此贍部洲下過二萬,有阿鼻旨大㮈落迦。深廣同前,謂各二萬故。彼底去此四萬踰繕那。以於其中受苦無間,非如餘七大㮈落迦受苦非恆,故名無間。且如等活㮈落迦中,諸有情身雖被種種斫刺磨擣,而彼暫遇涼風所吹還活如本,由斯理故立等活名。阿鼻旨中無如是事。有餘師說:阿鼻旨中無樂間苦故名無間,餘地獄中有樂間起,雖無異熟而有等流。七㮈落迦在無間上重累而住。其七者何?一者極熱、二者炎熱、三者大叫、四者號叫、五者眾合、六者黑繩、七者等活。有說:此七在無間傍。八㮈落迦增各十六,故薄伽梵說此頌言:

論に曰く:此の贍部洲の下に二万を過ぎて、阿鼻旨(無間)の大捺落迦有り。深広は前と同じく、いわゆる各々二万なるゆえ。彼の底は此を去る四万逾繕那。その中において苦を受けて間無きを以て、余の七大捺落迦の苦を受くるは恒に非ざるが如くに非ず、ゆえに無間と名づく。且つ等活の捺落迦中の如く、諸の有情の身は種種の斫刺・磨擣を被ると雖も、而も彼は暫く涼風の吹く所に遇い還りて本の如く活す、此の理に由るゆえに等活の名を立つ。阿鼻旨中にはこの如き事無し。ある余師の説に:阿鼻旨中に楽の苦を間ずる無きゆえに無間と名づく、余の地獄中には楽の間起有り、異熟無しと雖も而も等流有り、と。七の捺落迦は無間の上に重累して住す。その七とは是れ何ぞ。一に極熱、二に炎熱、三に大叫、四に号叫、五に衆合、六に黒縄、七に等活。ある説に:此の七は無間の傍に在り、と。八の捺落迦の増は各々十六、ゆえに薄伽梵は此の頌を説きて曰く:

此八㮈落迦,我說甚難越,

此の八の捺落迦、我は甚だ越え難しと説く、

以熱鐵為地,周匝有鐵牆,

熱鉄を以て地と為し、周匝に鉄の墙有り、

四面有四門,關閉以鐵扇,

四面に四門有り、関閉して鉄扇を以てし、

巧安布分量,各有十六增,

巧みに分量を安布し、各々十六の增有り、

多百踰繕那,滿中造惡者,

多くの百逾繕那、中に満てて悪を造るを、

周遍焰交徹,猛火恆洞然。

周遍に焰は交徹し、猛火は恒に洞然たり。

十六增者,八㮈落迦四面門外各有四所:一煻煨增,謂此增內煻煨沒膝,有情遊彼才下足時,皮肉與血俱燋爛墜,舉足還生平復如本。二屍糞增,謂此增內屍糞泥滿,於中多有娘矩吒蟲,𭪿利如針身白頭黑,有情遊彼皆為此蟲鑽皮破骨𠯗食其髓。三鋒刃增,謂此增內復有三種:一刀刃路,謂於此中仰布刀刃以為大道,有情遊彼才下足時,皮肉與血俱斷碎墜,舉足還生平復如本。二劍葉林,謂此林上純以銛利劍刃為葉,有情遊彼風吹葉墜,斬刺支體骨肉零落,有烏駁狗摣掣食之。三鐵刺林,謂此林上有利鐵刺長十六指,有情被逼上下樹時,其刺銛鋒下上鑱刺,有鐵𭪿鳥探啄有情眼睛心肝爭競而食。刀刃路等三種雖殊,而鐵杖同故一增攝。四烈河增,謂此增量廣,滿中熱醎水,有情入中或浮或沒,或逆或順或橫或轉,被蒸被煮骨肉糜爛。如大鑊中滿盛灰汁置麻米等,猛火下燃,麻等於中上下迴轉舉體糜爛,有情亦然。設欲逃亡,於兩岸上有諸獄卒,手執刀槍禦捍令迴,無由得出。此河如塹,前三似園,四面各四增,故言皆十六。此是增上被刑害所,故說名增,本地獄中適被害已重遭害故。有說:有情從地獄出更遭此苦,故說為增。今於此中因論生論。諸地獄卒是有情不?有說:非情。如何動作?有情業力,如成劫風。若爾,云何通彼大德法善現說?如彼頌言:

(論に続けて曰く:)十六の増とは、八の捺落迦の四面の門外に各々四所有り:一に煻煨の増、いわゆる此の増内は煻煨は膝に没し、有情は彼に遊びて纔かに足を下す時、皮肉と血とは俱に焦爛して墜ち、足を挙げて還りて平かに復た本の如し。二に尸糞の増、いわゆる此の増内は尸糞の泥満ち、その中に多く娘矩咤の虫有りて、喙は針の如く利く身は白く頭は黒し、有情は彼に遊びて皆此の虫に皮を鑽り骨を破られ髄を唼食せらる。三に鋒刃の増、いわゆる此の増内に復た三種有り:一に刀の刃の路、いわゆる此の中において刀刃を仰ぎ布きて以て大道と為し、有情は彼に遊びて纔かに足を下す時、皮肉と血とは俱に断碎して墜ち、足を挙げて還りて平かに復た本の如し。二に剣葉の林、いわゆる此の林の上は純に銛利な劍刃を以て葉と為し、有情は彼に遊びて風は吹き葉は墜ちて、支体を斬刺して骨肉は零落し、烏・駮狗有りて摣掣してこれを食う。三に鉄刺の林、いわゆる此の林の上に利き鉄刺有りて長さ十六指、有情は逼められて樹に上下する時、その刺の銛鋒は下上に鑵刺し、鉄喙の鳥有りて有情の眼睛・心肝を探啄して争競して食う。刀刃の路等の三種は殊なれども、而も鉄杖は同じゆえに一の増に摂す。四に烈河の増、いわゆる此の増は量広く、中に熱き鹹水満ち、有情は中に入りてあるいは浮かびあるいは没し、あるいは逆らいあるいは順いあるいは横たわりあるいは転じ、蒸され煮られて骨肉は糜爛す。大きなる鑊中に灰汁を満て盛りて麻・米等を置き、猛火は下に燃ゆ、その中において上下に回転して挙体糜爛するが如く、有情もまたこの如し。設ひ逃亡せんと欲すとも、両岸上に諸の獄卒有りて、手に刀槍を執りて御捍して回らしめ、出づるに由無し。此の河は塹の如く、前の三は園に似たり、四面に各々四の増、ゆえに皆十六と説く。此は是れ増上に刑害せられる所、ゆえに増と説き名づく、本地獄中において適に害せられ已りて重ねて害に遭うゆえ。ある説に:有情は地獄より出でて更に此の苦に遭う、ゆえに増と為すと説く、と。今此の中において論に因りて論を生ず。諸の地獄の卒は是れ有情か否や。ある説に:情に非ず。如何にして動作する。有情の業力、成劫の風の如し。もし爾ならば、如何にして彼の大徳法善の現に説くに通ずるか。彼の頌の説くが如く:

心常懷忿毒,好集諸惡業,

心は常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、

見他苦欣悅,死作琰魔卒。

他の苦を見て欣悦し、死して琰魔の卒と作る。

琰魔王使諸邏剎娑擲諸有情置地獄者名琰魔卒。是實有情非地獄中害有情者,故地獄卒非實有情。有說:有情。若爾,此惡業何處受異熟?即地獄中,以地獄中尚容無間所感異熟,此何理遮?若爾,何緣火不燒彼?此定由業力所隔礙故,或感異大種故不被燒。熱㮈落迦已說有八。復有餘八寒㮈落迦。其八者何?一頞部陀、二尼剌部陀、三頞唽吒、四臛臛婆、五虎虎婆、六嗢缽羅、七缽特摩、八摩訶缽特摩。此中有情嚴寒所逼,隨身聲變以立其名。此八並居贍部洲下,如前所說大地獄傍。此贍部洲其量無幾,下寧容受無間等耶?洲如穀聚,上尖下闊,是故大海漸陿漸深。如上所論十六地獄,一切有情增上業感。餘孤地獄各別業招,或多或二或一所止,差別多種、處所不定,或近江河山邊曠野,或在地下空及餘處。諸地獄器安布如是,本處在下、支𣲖不定。傍生住處謂水陸空,本處大海,後流餘處。諸鬼本處琰魔王國,於此贍部洲下過五百踰繕那有琰魔王國,縱廣量亦爾,從此展轉散居餘處。或有端嚴具大威德,受諸富樂自在如天,或有飢羸顏貌醜陋,如是等類廣說如經。日月所居量等義者,頌曰:

(論に続けて曰く:)琰魔王は諸の邏刹娑をして諸の有情を擲ちて地獄に置かしむるを琰魔卒と名づく。是れ実の有情にして地獄中の有情を害するに非ず、ゆえに地獄の卒は実の有情に非ず。ある説に:有情。もし爾ならば、此の悪業は何の処に異熟を受くるか。即ち地獄中、地獄中は尚お無間の感ずる所の異熟を容るるを以て、此に何の理か遮る。もし爾ならば、何の縁に火は彼を焼かざるか。此は定めて業力の隔礙する所に由るゆえ、あるいは異なる大種を感ずるゆえに焼かるるを被らず。熱き捺落迦は已に八有りと説きたり。復た余の八の寒捺落迦有り。その八とは是れ何ぞ。一に頞部陀、二に尼剌部陀、三に頞唽咤、四に臛臛婆、五に虎虎婆、六に嗢鉢羅(ウッパラ、青蓮)、七に鉢特摩(パドマ、赤蓮)、八に摩訶鉢特摩(大赤蓮)。此中の有情は厳寒に逼められて、身に随いて声変じて以てその名を立つ。此の八は并びて贍部洲の下に居り、前の説く所の大地獄の傍の如し。此の贍部洲はその量は几許か無きに、下に寧ろ無間等を容受せんや。洲は谷聚の如く、上は尖り下は闊し、是れを以て大海は漸に狭く漸に深し。上の論ずる所の十六地獄の如く、一切の有情の増上の業の感ずる所。余の孤地獄は各別の業の招く所、あるいは多くあるいは二あるいは一の止まる所、差別は多種にして処所は定まらず、あるいは江・河・山の辺・曠野に近く、あるいは地下・空および余の処に在り。諸の地獄の器の安布はかくのごとし、本処は下に在り、支派は定まらず。傍生の住処は水・陸・空を謂い、本処は大海、後に余の処に流る。諸の鬼の本処は琰魔の王国、此の贍部洲の下に五百逾繕那を過ぎて琰魔の王国有り、縦広の量もまたこの如し、此より展転に余の処に散居す。あるいは端厳にして大威徳を具して、諸の富楽を受けて自在にして天の如く、あるいは飢えて羸えて顔貌は丑陋なり、かくのごとき等の類は広説は経の如し。日・月の居る所の量等の義は、頌に曰く:

日月迷盧半,五十一五十,

日・月は迷盧の半、五十一・五十、

夜半日沒中,日出四洲等。

夜半・日没・中・日出、四洲は等し、

雨際第二月,後九夜漸增,

雨際の第二の月、後の九に夜は漸に増し、

寒第四亦然,夜減晝翻此。

寒の第四もまたこの如し、夜減じ昼は此を翻す。

晝夜增臘縛,行南北路時,

昼夜の増は腊縛(ラヴァ)、南北の路を行く時、

近日自影覆,故見月輪缺。

近日に自ら影は覆う、ゆえに月輪の缺くるを見る。

論曰:日月眾星依何而住?依風而住。謂諸有情業增上力共引風起,繞妙高山空中旋環,運持日等令不停墜。彼所住去此幾踰繕那?持雙山頂齊妙高山半。日月徑量幾踰繕那?日五十一,月唯五十。星最小者唯一俱盧舍,其最大者十六踰繕那。日輪下面頗胝迦寶火珠所成,能熱能照;月輪下面頗胝迦寶水珠所成,能冷能照。隨有情業增上所生,能於眼身果花稼穡藥草等物,如其所應為益為損。唯一日月普於四洲作所作事、一日所作事為四洲同時不?不爾。云何?北洲夜半東洲日沒,南洲日中西洲日出。此四時等,餘例應知。日行此洲路有差別,故令晝夜有減有增。從雨際第二月後半第九日夜漸增,從寒際第四月後半第九日夜漸減,晝增減位與此相違。夜漸增時晝便漸減,夜若漸減晝則漸增。晝夜增時一晝夜增幾?增一臘縛。晝夜減亦然。日行此洲向南向北,如其次第夜增晝增。何故月輪於黑半末白半初位見有缺耶?世施設中作如是釋:以月宮殿行近日輪,月被日輪光所侵照,餘邊發影自覆月輪,令於爾時見不圓滿。先舊師釋:由日月輪行度不同現有圓缺。日等宮殿何有情居?四大天王所部天眾。是諸天眾唯住此耶?若空居天唯住如是日等宮殿,若地居天住妙高山諸層級等。有幾層級?其量云何?何等諸天住何層級?頌曰:

論に曰く:日・月・衆星は何に依りて住するか。風に依りて住す。いわゆる諸の有情の業の増上の力に共に風を引きて起り、妙高山を遶りて空中に旋環し、日等を運持して停まり墜ちざらしむ。彼の住する所は此を去ること几つの逾繕那か。持双の山頂は妙高山の半に齊し。日・月の径量は几つの逾繕那か。日は五十一、月はただ五十。星の最も小なるはただ一倶盧舍(一箭の地)、その最も大なるは十六逾繕那。日輪の下面は頗胝迦宝の火珠の成す所にして、能く熱し能く照らす。月輪の下面は頗胝迦宝の水珠の成す所にして、能く冷かに能く照らす。有情の業の増上の生ずる所に随い、能く眼・身・果・花・稼穡・薬草等の物において、その応ずる所の如く益と為し損と為す。ただ一の日月は普く四洲において作す所の事を作す、一日の作す所の事は四洲に同時か。然らず。如何。北洲は夜半にして東洲は日没し、南洲は日中にして西洲は日出づ。此の四時は等しく、余は例してまさに知るべし。日は此の洲を行くに路に差別有り、ゆえに昼夜に減有り増有らしむ。雨際の第二月の後半の第九日より夜は漸に増し、寒際の第四月の後半の第九日より夜は漸に減ず、昼の増減の位は此と相違す。夜の漸に増ずる時は昼は便ち漸に減じ、夜はもし漸に減ぜば昼は則ち漸に増ず。昼夜の増ずる時に一昼夜に几つを増ずるか。一腊縛を増ず。昼夜の減ずるもまたこの如し。日の此の洲を行くは南に向かい北に向かう、その次第の如く夜は増じ昼は増ず。何の故に月輪は黒半の末・白半の初の位において缺け有るを見るや。世の施設中にかくの釋を作す:月の宮殿は行きて日輪に近づくを以て、月は日輪の光の侵照する所となり、余の辺は影を発して自ら月輪を覆い、爾の時において円満ならざるを見せしむ。先の旧師の釋:日・月の輪の行度は同じからざるに由りて円缺を現ず、と。日等の宮殿は何の有情の居るか。四大天王の部する所の天衆。是の諸の天衆はただ此に住するか。もし空居の天はただこの如き日等の宮殿に住し、もし地居の天は妙高山の諸の層級等に住す。几つの層級有るか。その量は如何。何等の諸天か何の層級に住するか。頌に曰く:

妙高層有四,相去各十千,

妙高の層は四有り、相去ること各々十千、

傍出十六千,八四二千量。

傍に出づる十六千、八・四・二千の量。

堅手及持鬘,恆憍大王眾,

堅手および持鬘、恒憍・大王の衆、

如次居四級,亦住餘七山。

次第の如く四級に居り、もまた余の七山に住す。

論曰:蘇迷盧山有四層級,始從水際盡第一層相去十千踰繕那量,如是乃至從第三層盡第四層亦十千量。此四層級從妙高山傍出圍繞盡其下半,最初層級出十六千,第二、第三、第四層級,如其次第八、四、二千。有藥叉神名為堅手住初層級,有名持鬘住第二級,有名恆憍住第三級,此三皆是四大天王所部天眾,第四層級四大天王及諸眷屬共所居止故,經依此說四大王眾天。如妙高山四外層級四大王眾及眷屬居,如是持雙、持軸山等七金山上亦有天居,是四大王所部封邑,是名依地住四大王眾天。於欲天中此天最廣。三十三天住在何處?頌曰:

論に曰く:蘇迷盧山に四の層級有り、始めは水際より尽くすは第一层の相去ること十千逾繕那の量、かくのごとき乃至第三層より尽くすは第四層もまた十千の量。此の四の層級は妙高山より傍に出でて圍遶してその下半を尽くし、最初の層級は出づること十六千、第二・第三・第四の層級は、その次第の如く八・四・二千。薬叉の神有りて堅手と名づきて初の層級に住し、持鬘と名づく有りて第二の級に住し、恒憍と名づく有りて第三の級に住し、此の三は皆是れ四大天王の部する所の天衆、第四の層級は四大天王および諸の眷属の共に居止する所なるゆえ、経は此に依りて四大王衆天を説く。妙高山の四外の層級に四大王衆および眷属の居るが如く、かくのごとき持双・持軸の山等の七金山上にもまた天の居る有り、是れ四大王の部する所の封邑、是れを地に依りて住する四大王衆天と名づく。欲天中において此の天は最も広し。三十三天は何の処に住するか。頌に曰く:

妙高頂八萬,三十三天居,

妙高の頂は八万、三十三天の居る所、

四角有四峰,金剛手所住。

四角に四峰有り、金剛手の住する所。

中宮名善見,周萬踰繕那,

中の宮は善見と名づき、周り万逾繕那、

高一半金城,雜飾地柔軟。

高さ一半の金城、雑飾の地は柔軟なり。

中有殊勝殿,周千踰繕那,

中に殊勝の殿有り、周り千逾繕那、

外四苑莊嚴,眾車麁雜喜。

外に四苑荘厳、衆車・粗雑・喜。

妙池居四方,相去各二十,

妙なる池は四方に居り、相去ること各々二十、

東北圓生樹,西南善法堂。

東北に円生の樹、西南に善法の堂。

論曰:三十三天住迷盧頂,其頂四面各八十千,與下四邊其量無別。有餘師說:周八十千,別說四邊各唯二萬。山頂四角各有一峰,其高廣量各有五百。有藥叉神名金剛手,於中止住守護諸天。於山頂中有宮名善見,面二千半,周萬踰繕那,金城量高一踰繕那半,其地平坦亦真金所成,俱用百一雜寶嚴飾,地觸柔軟如妬羅綿,於踐躡時隨足高下,是天帝釋所都大城。於其城中有殊勝殿,種種妙寶具足莊嚴,蔽餘天宮故名殊勝,面二百五十,周千踰繕那。是謂城中諸可愛事。城外四面四苑莊嚴,是彼諸天共遊戲處:一眾車苑、二麁惡苑、三雜林苑、四喜林苑,此為外飾莊嚴大城。四苑四邊有四妙池,中間各去苑二十踰繕那,是彼諸天勝遊戲處,諸天於彼捔勝歡娛。城外東北有圓生樹,是三十三天受欲樂勝所。盤根深廣五十踰繕那,聳幹上昇枝條傍布,高廣量等百踰繕那,挺葉開花妙香芬馥,順風燻滿百踰繕那,若逆風時猶遍五十。順風可爾,云何逆燻?有餘師言:香無逆燻義,依不越樹界故說逆燻。理實圓生有如是德,所流香氣能逆風燻,雖天和風力所擁遏。然能相續流趣餘方,漸劣漸微近處便歇,非能遠至如順風燻。如是花香,為依自地隨風相續轉至餘方、為但燻風別生香氣?此義無定,諸軌範師於此二門俱許無失。若爾,何故薄伽梵言:

論に曰く:三十三天は迷盧の頂に住す、その頂は四面に各々八十千、下の四辺とその量は別無し。ある余師の説に:周り八十千、別説して四辺は各々ただ二万、と。山頂の四角に各々一峰有り、その高広の量は各々五百有り。薬叉の神有りて金剛手と名づき、此中に止住して諸天を守護す。山頂中において宮有りて善見と名づき、面は二千半、周り万逾繕那、金城の量の高さは一逾繕那半、その地は平坦にしてもまた真金の成す所、倶に百一の雑宝を用いて厳飾し、地の触れるは柔軟にして妬羅の綿の如し、践蹑する時に足に随いて高下す、是れ天帝釋の都する大城。その城中において殊勝の殿有り、種種の妙宝を具足して荘厳し、余の天宮を蔽うゆえに殊勝と名づき、面は二百五十、周り千逾繕那。是れを城中の諸の可愛の事と謂う。城外の四面は四苑の荘厳、是れ彼の諸天の共に遊戯する処:一に衆車苑、二に粗悪苑、三に雑林苑、四に喜林苑、此は外の飾りを為して大城を荘厳す。四苑の四辺に四の妙池有り、中間は各々苑を去る二十逾繕那、是れ彼の諸天の勝れたる遊戯の処、諸天は彼において勝を角して歓娛す。城外の東北に円生樹有り、是れ三十三天の欲楽を受くる勝所。盤根は深広五十逾繕那、聳干は上升して枝條は傍に布き、高広の量は等しく百逾繕那、葉を挺して花を開き妙香は芬馥として、風に順えば薫じて百逾繕那に満ち、もし風に逆らう時は猶お遍して五十。風に順えばこの如く可なり、如何にして逆らいて薫ずるや。ある余師の説に:香は逆薫の義無し、樹の界を越えざるに依りて逆薫と説くゆえ。理実は円生はこの如きの徳有り、流る所の香気は能く風に逆らいて薫ず、天の和風の力の擁遏する所と雖も。しかるに能く相续して余の方に流趣し、漸に劣り漸に微にして近き処に便ち歇む、能く遠く至るは風に順う薫の如くに非ず。かくのごとき花香は、是れ自地に依りて風に随いて相续して余の方に転ずるか、是れ但だ風を薫じて別に香気を生ずるか。此の義は定まること無し、諸の軌範師は此の二門において倶に失無しを許す。もし爾ならば、何の故に薄伽梵は説く:

花香不能逆風燻,根莖等香亦復爾;

花の香は能く風に逆らいて薫ぜず、根・茎等の香もまた復たこの如し、

善士功德香芬馥,逆風流美遍諸方。

善士の功徳の香は芬馥として、風に逆らいて流美して諸の方に遍し。

據人間香故作是說,以世共了無如是能。化地部經說此香氣,順風燻滿百踰繕那,若無風時唯遍五十。外西南角有善法堂,三十三天時集於彼詳論如法不如法事。如是已辯三十三天所居外器,餘有色天眾所住器云何?頌曰:

(論に続けて曰く:)人間の香に拠るゆえに是の説を作す、世は共にこの如きの能無きを了するを以て。化地部の経は此の香気を説く、風に順えば薫じて百逾繕那に満ち、もし風無き時はただ遍して五十。外の西南角に善法堂有り、三十三天は時に彼に集まりて如法・不如法の事を詳論す。かくのごとき已に三十三天の居る所の外器を弁じたり、余の色ある天衆の住する所の器は如何。頌に曰く:

此上有色天,住依空宮殿。

此の上の色天は、空の宮殿に依りて住す。

論曰:此前所說三十三天上有色諸天,住依空宮殿。云何名上有色諸天?謂夜摩天、覩史多天、樂變化天、他化自在天。及前所說梵眾天等有十六處,並前合有二十二天,皆依外器。如是所說諸天眾中,頌曰:

論に曰く:此に前の説く所の三十三天の上に色の諸天有りて、空の宮殿に依りて住す。如何にして上に色の諸天有りと名づくるか。いわゆる夜摩天・覩史多天・楽変化天・他化自在天。および前の説く所の梵衆天等の十六処有りて、并びて前に合して二十二天有り、皆外器に依る。かくのごとき説く所の諸の天衆中において、頌に曰く:

六受欲交抱,執手笑視婬。

六は欲を受くるに交・抱、手を執り笑い視るは淫なり。

論曰:唯六慾天受妙欲境,於中初二依地居天,形交成婬與人無別。然風氣洩熱惱便除,非如人間有餘不淨。夜摩天眾才抱成婬,覩史多天但由執手,樂變化天唯相向笑,他化自在相視成婬。毘婆沙師作如是釋:六天皆以形交成婬。世施設中說相抱等,但為顯彼時量差別。以上諸天欲境轉妙、貪心轉捷故使之然。隨彼諸天男女膝上,有童男童女欻爾化生,即說為彼天所生男女。初生天眾身量云何?頌曰:

論に曰く:ただ六の欲天は妙なる欲境を受く、その中の初の二は地居の天に依り、形を交えて淫を成すは人と別無し。しかるに風気は熱悩を泄らして便ち除く、人間の如く余の不浄有るに非ず。夜摩天の衆は纔かに抱きて淫を成し、覩史多天は但だ手を執るに由り、楽変化天はただ相い向かいて笑い、他化自在は相い視て淫を成す。毘婆沙師はかくの釋を作す:六天は皆形を交えて淫を成す。世の施設中に相抱等を説くは、但だ彼の時量の差別を顕さんが為。上の諸天は欲境は転じて妙に、貪心は転じて捷なるを以て之をしてこの如からしむ、と。彼の諸天の男女の膝上に随い、童男・童女有りて欻爾に化生す、即ち彼の天の生ずる所の男女と説き為す。初生の天衆の身量は如何。頌に曰く:

初如五至十,色圓滿有衣。

初めは五より十の如く、色は円満にして衣有り。

論曰:且六慾諸天初生,如次如五六七八九十歲人,生已身形速得成滿。色界天眾於初生時,身量周圓具妙衣服。一切天眾皆作聖言,謂彼言詞同中印度。欲樂生別云何應知?頌曰:

論に曰く:且つ六欲の諸天の初生は、次第の如く五・六・七・八・九・十歳の人の如く、生じ已って身形は速やかに成満を得。色界の天衆は初生の時において、身量は周円にして妙なる衣服を具す。一切の天衆は皆聖言を作す、いわゆる彼の言詞は中印度に同じ。欲・楽の生の別は如何にしてまさに知るべきか。頌に曰く:

欲生三人天,樂生三九處。

欲の生は三の人天、楽の生は三の九処。

論曰:欲生三者,有諸有情樂受現前諸妙欲境,彼於如是現欲境中自在而轉,謂全人趣及下四天。有諸有情樂受自化諸妙欲境,彼於自化妙欲境中自在而轉,謂唯第五樂變化天。有諸有情樂受他化諸妙欲境,彼於他化妙欲境中自在而轉,謂第六他化自在天。依受如生現前欲境故,依受如樂自化欲境故,依受如樂他化欲境故,於欲界中分別欲生差別三種。樂生三者,三靜慮中於九處生受三種樂,謂彼安住離生喜樂、定生喜樂,離喜樂故,長時安住、長時離苦、長時受樂,故名樂生。生靜慮中間都無喜樂應思,何故亦號樂生天?所說諸天二十二處,上下相去其量云何?頌曰:

論に曰く:欲の生の三とは、諸の有情有りて現前の諸の妙欲境を受くるを楽い、彼はかくのごとき現の欲境中において自在にして転ず、いわゆる全の人趣および下の四天。諸の有情有りて自ら化する諸の妙欲境を受くるを楽い、彼は自ら化する妙欲境中において自在にして転ず、いわゆるただ第五の楽変化天。諸の有情有りて他の化する諸の妙欲境を受くるを楽い、彼は他の化する妙欲境中において自在にして転ず、いわゆる第六の他化自在天。生の如く現前の欲境を受くるに依るゆえに、楽の如く自ら化する欲境を受くるに依るゆえに、楽の如く他の化する欲境を受くるに依るゆえに、欲界中において欲生の差別の三種を分別す。楽の生の三とは、三静慮中において九処に生じて三種の楽を受く、いわゆる彼は離生の喜楽・定生の喜楽に安住し、喜楽を離るるゆえに、長時に安住し、長時に苦を離れ、長時に楽を受く、ゆえに楽生と名づく。静慮の中間に生ずるは都て喜楽無くしてまさに思うべし、何の故にもまた楽生天と号するか。説く所の諸天の二十二処は、上下の相去るその量は如何。頌に曰く:

如彼去下量,去上數亦然。

彼の下を去る量の如く、上を去る数もまたこの如し。

論曰:一一中間踰繕那量,非易可數,但可總舉彼去下量,去上例然。隨從何天去下海量,彼上所至與去下同。謂妙高山從第四層級去下大海四萬踰繕那,是四大王本所住處,從彼上去三十三天,亦如彼天去下海量。如三十三天去下大海,上去夜摩天其量亦爾。如是乃至如善見天去下大海踰繕那量,從彼上去色究竟天亦與彼天去下海等。從此向上無復所居,此處最高名色究竟。有餘師說:彼名礙究竟天。彼謂礙名目積集色至彼礙盡,得究竟名。於下處生昇見上不?頌曰:

論に曰く:一一の中間の逾繕那の量は、易く数うべきに非ず、但だ総じて彼の下を去る量を挙ぐべく、上を去るは例してこの如し。何れの天の下の海を去る量に随うとも、彼の上の至る所は下を去ると同じ。いわゆる妙高山は第四層級より下の大海を去る四万逾繕那、是れ四大王の本の住する処、彼より上りて三十三天に至るも、もまた彼の天の下の海を去る量の如し。三十三天の下の大海を去るが如く、上りて夜摩天に至るもその量もまたこの如し。かくのごとき乃至善見天の下の大海を去る逾繕那の量の如く、彼より上りて色究竟天に至るももまた彼の天の下の海を去るに等し。此より向上すれば復た居る所無し、此の処は最も高くして色究竟と名づく。ある余師の説に:彼は礙究竟天と名づく。彼の謂うに礙とは目すは積集の色にして彼に至りて礙盡く、究竟の名を得、と。下の処に生じて升りて上を見るか否や。頌に曰く:

離通力依他,下無昇見上。

通力を離るるは他に依る、下は升りて上を見る無し。

論曰:三十三天由自通力,能從本處昇夜摩天;或復依他,謂得通者及上天眾接往夜摩。所餘諸天昇上例爾,若來若至下見上天。然下眼不能覩上界上地,非其境界故。如不覺彼觸,是故從上地來下地時非自身來,要作下地化。有餘部說:彼下地天隨樂亦能見上地色,如生此界下見上天。夜摩等天宮依處量有幾?有餘師說:此上四天依處,量同妙高山頂。有餘師說:上倍倍增。有餘師言:初靜慮地宮殿依處等一四洲,第二靜慮等小千界,第三靜慮等中千界,第四靜慮等大千界。有餘師言:下三靜慮如次量等小中大千,第四靜慮量無邊際。齊何量說小中大千?頌曰:

論に曰く:三十三天は自の通力に由りて、能く本処より夜摩天に升る、あるいは復た他に依る、いわゆる通を得たるおよび上の天衆の接して夜摩に往く。余の諸天の上に升るは例してこの如し、もし来りもし至りては下は上の天を見る。しかるに下の眼は上界・上地を睹ること能わず、その境界に非ざるゆえ。彼の触を覚せざるが如く、是れを以て上地より下地に来る時は自身にして来るに非ず、下地の化を作るを要す。ある余部の説に:彼の下地の天は楽うに随いてもまた上地の色を見ることを能くす、此の界に生じて下より上天を見るが如し、と。夜摩等の天宮の依処の量は几つ有るか。ある余師の説に:此の上の四天の依処は、量は妙高の山頂に同じ。ある余師の説に:上は倍倍に増す。ある余師の説に:初静慮の地の宮殿の依処は一の四洲に等しく、第二静慮は小千界に等しく、第三静慮は中千界に等しく、第四静慮は大千界に等し。ある余師の説に:下の三静慮は次第の如く量は小・中・大千に等しく、第四静慮は量は辺際無し。何の量に齊して小・中・大千を説くか。頌に曰く:

四大洲日月,蘇迷盧欲天,

四大洲・日・月、蘇迷盧・欲天、

梵世各一千,名一小千界;

梵世は各々一千、一の小千界と名づく、

此小千千倍,說名一中千;

此の小千の千倍を、一の中千と説き名づく、

此千倍大千,皆同一成壞。

此の千倍は大千、皆同じく一の成壞。

論曰:千四大洲乃至梵世,如是總說為一小千,千倍小千名一中千界,千中千界總名一大千,如是大千同成同壞。同成壞相後當廣辯。如外器量別,身量亦別耶?亦別。云何?頌曰:

論に曰く:千の四大洲より乃至梵世に至る、かくのごとき総説して一の小千と為し、小千の千倍を一の中千界と名づき、千の中千界を総じて一の大千と名づき、かくのごとき大千は成を同じくし壞を同じくす。同成壞の相は後にまさに広く弁ずべし。外器の量の別あるが如く、身量もまた別なるか。別なり。如何。頌に曰く:

贍部洲人量,三肘半四肘;

贍部洲の人の量は、三肘半・四肘、

東西北洲人,倍倍增如次。

東・西・北洲の人は、倍倍に増して次第の如し。

欲天俱盧舍,四分一一增;

欲天は倶盧舍、四分の一一に増し、

色天踰繕那,初四增半半;

色天は逾繕那、初め四は増して半半、

此上增倍倍,唯無雲減三。

此の上は倍倍に増す、ただ雲無きは三を減ず。

論曰:贍部洲人身多長三肘半,於中少分有長四肘。東勝身人身長八肘,西牛貨人長十六肘,北俱盧人三十二肘。欲界六天最下身量一俱盧舍四分之一,如是後後一一分增,至第六天身一俱盧舍半。色天身量初梵眾天半踰繕那,梵輔全一,大梵一半,少光二全,此上餘天皆增倍倍,唯無雲減三踰繕那,謂無量光天倍增二至四,乃至色究竟增滿萬六千。身量既殊,壽量別不?亦別。云何?頌曰:

論に曰く:贍部洲の人は身長多く三肘半、その中の少分は長四肘有り。東の勝身の人は身長八肘、西の牛貨の人は長十六肘、北の倶盧の人は三十二肘。欲界の六天の最下の身量は一倶盧舍の四分の一、かくのごとき後後に一一分増して、第六天に至りて身は一倶盧舍半。色天の身量は初めの梵衆天は半逾繕那、梵輔は全の一、大梵は一半、少光は二の全、此の上の余の天は皆倍倍に増し、ただ雲無きは三逾繕那を減ず、いわゆる無量光天は倍増して二より四に至り、乃至色究竟は増し満ちて一万六千。身量は既に殊なる、寿量は別なるか否や。もまた別なり。如何。頌に曰く:

北洲定千年,西東半半減,

北洲は定めて千年、西・東は半半に減じ、

此洲壽不定,後十初叵量。

此の洲の寿は定まらず、後は十・初は量るべからず。

人間五十年,下天一晝夜,

人間の五十年は、下天の一昼夜、

乘斯壽五百,上五倍倍增。

斯に乘じて寿は五百、上の五は倍倍に増す。

色無晝夜殊,劫數等身量,

色は昼夜の殊無く、劫数は身量に等しく、

無色初二萬,後後二二增,

無色の初は二万、後後に二二に増し、

少光上下天,大全半為劫。

少光の上下の天は、大全・半を劫と為す。

論曰:北俱盧人定壽千歲,西牛貨人壽五百歲,東勝身人壽二百五十歲,南贍部人壽無定限。劫減最後極壽十年,於劫初時人壽無量,百千等數不能計量。已說人間壽量長短。要先建立天上晝夜,方可算計天壽短長。天上云何建立晝夜?人五十歲為六天中最在下天一晝一夜,乘斯晝夜三十為月,十二月為歲,彼壽五百年。上五欲天漸俱增倍,謂人百歲為第二天一晝一夜,乘此晝夜成月及年彼壽千歲。夜摩等四隨次如人,二四八百千六百歲為一晝夜,乘此晝夜成月及年,如次彼壽二四八千萬六千歲。持雙以上日月並無,彼天云何建立晝夜及光明事?依何得成?依花開合建立晝夜,如拘物陀、缽特摩等。又依諸鳥鳴靜差別,或依天眾寤寐不同,依自身光明成外光明事。已說欲界天壽短長。色界天中無晝夜別,但以劫數知壽短長。彼劫壽短長與身量數等,謂若身量半踰繕那,壽量半劫;若彼身量一踰繕那,壽量一劫;乃至身量長萬六千,壽量亦同萬六千劫。已說色界天壽短長。無色四天從下如次壽量二四六八萬劫。上所說劫其量云何?為壞為成?為中為大?少光以上大全為劫,自下諸天大半為劫。即由此故,說大梵王過梵輔天壽一劫半。謂以成住壞各二十中劫,六十中劫為一劫半,故以大半四十中劫為下三天所壽劫量。已說善趣壽量短長。惡趣云何?頌曰:

論に曰く:北の倶盧の人は定めて寿千歳、西の牛貨の人は寿五百歳、東の勝身の人は寿二百五十歳、南の贍部の人は寿は定限無し。劫の減ずる最後は極寿十年、劫初の時において人の寿は無量、百千等の数を以て計量する能わず。已に人間の寿量の長短を説きたり。先に天上の昼夜を建立することを要して、方に天寿の短長を算計すべし。天上は如何にして昼夜を建立するか。人の五十歳を六天中の最下に在る天の一昼一夜と為し、斯の昼夜に乘じて三十を月と為し、十二月を歳と為し、彼の寿は五百年。上の五欲天は漸に倶に倍増す、いわゆる人の百歳を第二天の一昼一夜と為し、此の昼夜に乘じて月および年を成して彼の寿は千歳。夜摩等の四は次に随い人の如く、二・四・八・百・千・六百歳を一昼夜と為し、此の昼夜に乘じて月および年を成し、次第の如く彼の寿は二・四・八千・万六千歳。持双より上は日・月は并びて無し、彼の天は如何にして昼夜および光明の事を建立するか。何に依りて成るを得るか。花の開合に依りて昼夜を建立す、拘物陀・鉢特摩等の如し。また諸の鳥の鳴静の差別に依り、あるいは天衆の寤寐の不同に依り、自身の光明に依りて外の光明の事を成ず。已に欲界天の寿の短長を説きたり。色界天中は昼夜の別無く、但だ劫数を以て寿の短長を知る。彼の劫寿の短長は身量の数と等し、いわゆるもし身量は半逾繕那ならば、寿量は半劫、もし彼の身量は一逾繕那ならば、寿量は一劫、乃至身量は長万六千、寿量もまた一万六千劫に同じ。已に色界天の寿の短長を説きたり。無色の四天は下より次第の如く寿量は二・四・六・八万劫。上の説く所の劫はその量は如何。是れ壞か是れ成か、是れ中か是れ大か。少光より上は大全を劫と為し、自下の諸天は大半を劫と為す。即ち此に由るゆえに、大梵王は梵輔天の寿を過ぐること一劫半と説く。いわゆる成・住・壞は各々二十中劫を以てし、六十中劫を一劫半と為し、ゆえに大半の四十中劫を以て下の三天の寿する劫量と為す。已に善趣の寿量の短長を説きたり。悪趣は如何。頌に曰く:

等活等上六,如次以欲天,

等活等の上の六は、次第の如く欲天を以てし、

壽為一晝夜,壽量亦同彼。

寿を一昼夜と為し、寿量もまた彼に同じ。

極熱半中劫,無間中劫全,

極熱は半中劫、無間は中劫の全、

傍生極一中,鬼月日五百,

傍生は極めて一中、鬼は月日の五百、

頞部陀壽量,如一婆訶麻,

頞部陀の寿量は、一の婆訶麻の如く、

百年除一盡,後後倍二十。

百年に一を除きて盡き、後後は倍にして二十。

論曰:四大王等六慾天壽,如其次第為等活等六㮈落迦一晝一夜,壽量如次亦同彼天。謂四大王壽量五百,於等活地獄為一晝一夜,乘此晝夜成月及年,以如是年彼壽五百。乃至他化壽萬六千,於炎熱地獄為一晝一夜,乘此晝夜成月及年,彼壽如斯萬六千歲。極熱地獄壽半中劫,無間地獄壽一中劫。傍生壽量多無定限,若壽極長亦一中劫,謂難陀等諸大龍王。故世尊言:大龍有八,皆住一劫能持大地。鬼以人間一月為一日,乘此成月歲壽五百年。寒那落迦云何壽量?世尊寄喻顯彼壽言:如此人間佉梨二十成摩揭陀國一麻婆訶量,有置巨勝平滿其中,設復有能百年除一。如是巨勝易有盡期,生頞部陀壽量難盡。此二十倍為第二壽,如是後後二十倍增,是謂八寒地獄壽量。此諸壽量有中夭耶?頌曰:

論に曰く:四大王等の六欲天の寿は、その次第の如く等活等の六捺落迦の一昼一夜と為り、寿量は次第の如くもまた彼の天に同じ。いわゆる四大王の寿量は五百、等活地獄において一昼一夜と為り、此の昼夜に乘じて月および年を成して、かくのごとき年を以て彼の寿は五百。乃至他化は寿一万六千、炎熱地獄において一昼一夜と為り、此の昼夜に乘じて月および年を成し、彼の寿は斯の如く一万六千歳。極熱地獄は寿は半中劫、無間地獄は寿は一中劫。傍生の寿量は多く定限無し、もし寿の極長はもまた一中劫、いわゆる難陀等の諸の大龍王。ゆえに世尊は説く:大龍は八有り、皆一劫に住して能く大地を持す、と。鬼は人間の一月を以て一日と為し、此に乘じて月歳を成して寿は五百年。寒の那落迦は如何の寿量か。世尊は喩に寄せて彼の寿を顕して説く:此の人間の佉梨二十の摩揭陀国の一麻婆訶の量を成すが如く、巨勝を置きて平満してその中に在り、設ひ復た能く百年に一を除く有らん。かくのごとき巨勝は易く盡きる期有り、頞部陀に生ずるの寿量は盡き難し。此の二十倍を第二の寿と為し、かくのごとき後後に二十倍に増ず、是れを八寒地獄の寿量と謂う。此の諸の寿量に中夭有るか。頌に曰く:

諸處有中夭,除北俱盧洲。

諸の処に中夭有り、北倶盧洲を除く。

論曰:諸處壽量皆有中夭,唯北俱盧定壽千歲。此約處說,非別有情,有別有情不中夭故。謂住覩史多天一生所繫菩薩,及最後有佛記佛使隨信法行菩薩輪王,母懷彼二胎時,此等如應皆無中夭。

論に曰く:諸の処の寿量は皆中夭有り、ただ北の倶盧は定めて寿千歳。此は処に約りて説く、別の有情に非ず、別の有情の中夭せざる有るゆえ。いわゆる覩史多天に住する一生の繫する所の菩薩、および最後有・仏記・仏使・随信法行の菩薩・輪王、母の彼の二を懐する胎時、此等はその応ずる所の如く皆中夭無し。

説一切有部倶舎論 巻第十一

アビダルマ倶舎論 巻第十二 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別世品第三之五

分別世品 第三之五。

如是已約踰繕那等辯器世間身量差別。約年等辯壽量有殊,二量不同未說應說。此二建立無不依名,前二及名未詳極少,今應先辯三極少量。頌曰:

かくのごとき已に逾繕那等に約りて器世間の身量の差別を弁じたり。年等に約りて寿量の殊有るを弁ず、二量の不同は未だ説かずまさに説くべし。此の二の建立は名に依らざる無し、前の二および名は未だ極少を詳めず、今まさに先に三の極少量を弁ずべし。頌に曰く:

極微字剎那,色名時極少。

極微・字・刹那、色・名・時の極少。

論曰:分析諸色至一極微,故一極微為色極少。如是分析諸名及時至一字剎那,為名時極少。一字名者,如說瞿名。何等名為一剎那量?眾緣和合法得自體頃,或有動法行度一極微。對法諸師說:如壯士一疾彈指頃六十五剎那,如是名為一剎那量。已知三極少,前二量云何?今且辯前踰繕那等。頌曰:

論に曰く:諸の色を分析して一の極微に至る、ゆえに一の極微を色の極少と為す。かくのごとき諸の名および時を分析して一の字・刹那に至るを、名・時の極少と為す。一字の名とは、瞿の名を説くが如し。何等を一刹那の量と名づくるか。衆縁の和合する法は自体を得る頃、あるいは動法は一の極微を行度す。対法の諸師は説く:壮士の一の疾く弹指する頃の如く六十五刹那、かくのごときを一刹那の量と名づく、と。已に三の極少を知る、前の二の量は如何。今且つ前の逾繕那等を弁ず。頌に曰く:

極微微金水,兔羊牛隙塵,

極微・微・金・水、兎・羊・牛・隙の塵、

蟣蝨麥指節,後後增七倍,

蟣・虱・麦・指節、後後に七倍に増し、

二十四指肘,四肘為弓量,

二十四指は肘、四肘を弓量と為し、

五百俱盧舍,此八踰繕那。

五百は倶盧舍、此の八は逾繕那。

論曰:極微為初,指節為後,應知後後皆七倍增。謂七極微為一微量,積微至七為一金塵,積七金塵為水塵量,水塵積至七為一兔毛塵,積七兔毛塵為羊毛塵量,積羊毛塵七為一牛毛塵,積七牛毛塵為隙遊塵量,隙塵七為蟣,七蟣為一蝨,七蝨為穬麥,七麥為指節,三節為一指。世所極成,是故於頌中不別分別。二十四指橫布為肘,竪積四肘為弓謂尋,竪積五百弓為一俱盧舍,一俱盧舍許是從村至阿練若中間道量。說八俱盧舍為一踰繕那。如是已說踰繕那等。今當辯後年等量別。頌曰:

論に曰く:極微を初と為し、指節を後と為し、まさに後後は皆七倍に増すを知るべし。いわゆる七の極微を一の微の量と為し、微を積みて七に至りて一の金塵と為し、七の金塵を積みて水塵の量と為し、水塵を積みて七に至りて一の兎毛塵と為し、七の兎毛塵を積みて羊毛塵の量と為し、羊毛塵を積みて七して一の牛毛塵と為し、七の牛毛塵を積みて隙遊塵の量と為し、隙塵の七を蟣と為し、七の蟣を一の虱と為し、七の虱を穬麦と為し、七の麦を指節と為し、三節を一指と為す。世の極成する所、是れを以て頌中に別に分別せず。二十四指を横に布きて肘と為し、竪に四肘を積みて弓と為して尋と謂い、竪に五百弓を積みて一の倶盧舍と為す、一倶盧舍許は是れ村より阿練若に至る中間の道量。八倶盧舍を一の逾繕那と説く。かくのごとき已に逾繕那等を説きたり。今まさに後の年等の量別を弁ずべし。頌に曰く:

百二十剎那,為怛剎那量,

百二十の刹那、怛刹那の量と為り、

臘縛此六十,此三十須臾,

腊縛は此の六十、此の三十は須臾、

此三十晝夜,三十晝夜月,

此の三十は昼夜、三十の昼夜は月、

十二月為年,於中半減夜。

十二月を年と為し、其の中に半は夜を減ず。

論曰:剎那百二十為一怛剎那,六十怛剎那為一臘縛,三十臘縛為一牟呼栗多,三十牟呼栗多為一晝夜。此晝夜有時增、有時減、有時等。三十晝夜為一月,總十二月為一年。於一年中分為三際,謂寒、熱、雨各有四月。十二月中六月減夜,以一年內夜總減六。云何如是?故有頌言:

論に曰く:刹那の百二十を一の怛刹那と為し、六十の怛刹那を一の腊縛と為し、三十の腊縛を一の牟呼栗多(ムフールタ)と為し、三十の牟呼栗多を一の昼夜と為す。此の昼夜は或る時は増し、或る時は減じ、或る時は等し。三十の昼夜を一月と為し、総じて十二月を一年と為す。一年中に分かちて三際と為す、いわゆる寒・熱・雨は各々四月有り。十二月中に六月は夜を減ず、一年内に夜は総じて六を減ずるを以て。如何にしてこの如くか。ゆえに頌の説く有り:

寒熱雨際中,一月半已度,

寒・熱・雨の際中に、一月半は已に度り、

於所餘半月,智者知夜減。

余の半月の所において、智者は夜の減ずるを知る。

如是已辯剎那至年。劫量不同,今次當辯。頌曰:

かくのごとき已に刹那より年に至るを弁じたり。劫量の不同は、今次にまさに弁ずべし。頌に曰く:

應知有四劫,謂壞成中大,

まさに四劫有るを知るべし、壞・成・中・大を謂う、

壞從獄不生,至外器都盡,

壞は獄に生に生ぜざるより、外器の都て盡くるに至る、

成劫從風起,至地獄初生,

成劫は風の起るより、地獄の初生に至る、

中劫從無量,減至壽唯十,

中劫は無量より、減じて寿はただ十に至る、

次增減十八,後增至八萬,

次に増減は十八、後に増して八万、

如是成已住,名中二十劫,

かくのごとき成り已りて住す、中の二十劫と名づく、

成壞壞已空,時皆等住劫,

成・壊・壊已りて空は、時は皆住劫に等しく、

八十中大劫,大劫三無數。

八十中は大劫、大劫は三の無数。

論曰:言壞劫者,謂從地獄有情不復生至外器都盡。壞有二種:一趣壞、二界壞。復有二種:一有情壞、二外器壞。謂此世間過於二十中劫住已,從此復有等住二十,壞劫便至。若時地獄有情命終無復新生,為壞劫始。乃至地獄無一有情,爾時名為地獄已壞。諸有地獄定受業者,業力引置他方獄中,由此準知傍生鬼趣。然各先壞本處住者,人天雜居者與人天同壞。若時人趣此洲一人,無師法然得初靜慮,從靜慮起唱如是言:離生喜樂,甚樂甚靜。餘人聞已皆入靜慮,命終並得生梵世中。乃至此洲有情都盡,是名已壞贍部洲人。東西二洲例此應說。北洲命盡生欲界天,由彼無能入定離欲。乃至人趣無一有情,爾時名為人趣已壞。若時天趣四大王天隨一法然得初靜慮,乃至並得生梵世中。爾時彼天有情都盡,是名已壞大王眾天。餘五欲天例同此說。乃至欲界無一有情,名欲界中有情已壞。若時梵世隨一有情,無師法然得二靜慮,從彼定起唱如是言:定生喜樂,甚樂甚靜。餘天聞已皆入彼靜慮,命終並得生極光淨天。乃至梵世中有情都盡,如是名已壞有情世間。唯器世間空曠而住。餘十方界一切有情,感此三千世界業盡,於此漸有七日輪現,諸海乾竭眾山洞然,洲渚三輪並從焚燎,風吹猛焰燒上天宮,乃至梵宮無遺灰燼。自地火焰燒自地宮,非他地災能壞他地,由相引起故作是言。下火風飄焚燒上地,謂欲界火猛焰上昇為緣引生色界火焰。餘災亦爾,如應當知。如是始從地獄漸減乃至器盡,總名壞劫。所言成劫,謂從風起乃至地獄始有情生。謂此世間災所壞已,二十中劫唯有虛空,過此長時次應復有等住二十,成劫便至。一切有情業增上力,空中漸有微細風生,是器世間將成前相。風漸增盛,成立如前所說風輪水金輪等,然初成立大梵王宮乃至夜摩宮。後起風輪等,是謂成立外器世間。

論に曰く:壊劫を説くは、いわゆる地獄の有情の復た生ぜざるより外器の都て盡くるに至る。壊に二種有り:一に趣の壞、二に界の壞。復た二種有り:一に有情の壞、二に外器の壞。いわゆる此の世間は二十中劫に住することを過ぎ已りて、此より復た等しく住する二十有りて、壞劫は便ち至る。もし時に地獄の有情は命終して復た新生無ければ、壞劫の始めと為す。乃至地獄に一の有情無きに至れば、爾の時に地獄の已に壞れたりと名づく。諸の地獄有りて定めて業を受くるは、業力は他方の獄中に引き置く、此に由りて准して傍生・鬼趣を知る。しかるに各々先に本処の住するを壞り、人・天の雜居するは人・天と同じく壞る。もし時に人趣の此の洲の一人は、師無くして法爾に初静慮を得、静慮より起りて唱してかくの説を作す:生を離れたる喜楽は、甚だ楽しく甚だ静かなり、と。余の人は聞き已りて皆静慮に入り、命終して并びて梵世中に生ずるを得。乃至此の洲の有情は都て盡くる、是れを已に贍部洲の人を壞れたりと名づく。東・西の二洲は此に例してまさに説くべし。北洲は命盡きて欲界天に生ず、彼に入定して欲を離るる能無きに由る。乃至人趣に一の有情無きに至れば、爾の時に人趣の已に壞れたりと名づく。もし時に天趣の四大王天の一に随いて法爾に初静慮を得、乃至并びて梵世中に生ずるを得。爾の時に彼の天の有情は都て盡く、是れを已に大王衆天を壞れたりと名づく。余の五欲天は例して此の説に同じ。乃至欲界に一の有情無きに至れば、欲界中の有情の已に壞れたりと名づく。もし時に梵世の一有情に随いて、師無くして法爾に二静慮を得、彼の定より起りて唱してかくの説を作す:定生の喜楽は、甚だ楽しく甚だ静かなり、と。余の天は聞き已りて皆彼の静慮に入り、命終して并びて極光浄天に生ずるを得。乃至梵世中の有情は都て盡く、かくのごときを已に有情世間を壞れたりと名づく。ただ器世間は空曠として住す。余の十方界の一切の有情は、此の三千世界の業盡きたるを感じ、此において漸に七の日輪の現ずる有り、諸の海は枯竭し衆山は洞然とし、洲・渚・三輪は并びて焚燎せられ、風は猛焰を吹きて上は天宮を焼き、乃至梵宮も灰燼を遺す無し。自地の火焰は自地の宮を焼く、他地の灾の能く他地を壞るに非ず、相引起するに由るゆえに是の説を作す。下の火風は飄いて上地を焚焼す、いわゆる欲界の火の猛焰は上升して縁と為りて色界の火焰を引生す。余の灾もまたこの如し、その応ずる所の如く知るべし。かくのごとき始め地獄より漸に減じて乃至器の盡くるに至るを、総じて壊劫と名づく。言う所の成劫とは、いわゆる風の起るより乃至地獄に始めて有情の生ずるに至る。いわゆる此の世間は灾の壞する所已りて、二十中劫はただ虚空有るのみ、此の長時を過ぎて次にまさに復た等しく住する二十有るべく、成劫は便ち至る。一切の有情の業の増上の力に、空中に漸に微細の風生有り、是れ器世間の将に成らんとする前の相。風は漸に増盛して、前の説く所の風輪・水・金輪等を成立す、しかるに初めに大梵王の宮を成立し乃至夜摩の宮に至る。後に風輪等を起す、是れを外器世間を成立すと謂う。

初一有情極光淨歿,生大梵處為大梵王。後諸有情亦從彼歿,有生梵輔、有生梵眾、有生他化自在天宮。漸漸下生,乃至人趣俱盧、牛貨、勝身、贍部,後生餓鬼、傍生、地獄。法爾後壞,必最初成。若初一有情生無間獄二十中成劫應知已滿,此後復有二十中劫名成已住,次第而起,謂從風起造器世間,乃至後時有情漸住。此洲人壽經無量時,至住劫初壽方漸減。從無量減至極十年即名為初一住中劫,此後十八皆有增減,謂從十年增至八萬,復從八萬減至十年,爾乃名為第二中劫。次後十七例皆如是。於十八後,從十歲增極至八萬歲,名第二十劫。一切劫增無過八萬,一切劫減唯極十年。十八劫中一增一減,時量方等,初減後增故二十劫時量皆等。此總名為成已住劫。所餘成壞及壞已空,並無減增二十差別,然由時量與住劫同,準住各成二十中劫。成中初劫起器世間,後十九中有情漸住。壞中後劫減器世間,前十九中有情漸捨。如是所說成住壞空,各二十中積成八十,總此八十成大劫量。劫性是何?謂唯五蘊。經說三劫阿僧企耶精進修行方得成佛。於前所說四種劫中,積何劫成三劫無數?累前大劫為十百千,乃至積成三劫無數。既稱無數,何復言三?非無數言,顯不可數。《解脫經》說六十數中,阿僧企耶是其一數。云何六十?

(論に続けて曰く:)初めに一の有情は極光浄に没し、大梵の処に生じて大梵王と為る。後に諸の有情もまた彼より没し、あるいは梵輔に生じ、あるいは梵衆に生じ、あるいは他化自在の天宮に生ず。漸々に下に生じ、乃至人趣の倶盧・牛貨・勝身・贍部に至り、後に餓鬼・傍生・地獄に生ず。法爾に後に壞るるは、必ず最初に成る。もし初めに一有情の無間獄に生ずる二十中の成劫はまさに已に満ちたりと知るべし、此の後に復た二十中劫有りて成已住と名づき、次第にして起る、いわゆる風の起るより器世間を造り、乃至後時に有情は漸に住す。此の洲の人の寿は無量の時を経て、住劫の初に至りて寿は方に漸に減ず。無量より減じて極めて十年に至るを即ち初の一の住中劫と名づき、此の後の十八は皆増減有り、いわゆる十年より増して八万に至り、復た八万より減じて十年に至る、爾に乃ち第二の中劫と名づく。次の後の十七は例して皆この如し。十八の後において、十歳より増して極めて八万歳に至るを、第二十の劫と名づく。一切の劫の増すは八万を過ぎず、一切の劫の減ずはただ極めて十年。十八劫中の一増一減は時量方に等しく、初め減じ後に増ずるゆえに二十劫の時量は皆等し。此を総じて成已住劫と名づく。余の成壞および壞已りて空は、并びて減増の二十の差別無し、しかるに時量の住劫と同じくするに由りて、住に准じて各々二十中劫を成す。成中の初劫は器世間を起し、後の十九中は有情は漸に住す。壞中の後劫は器世間を減じ、前の十九中は有情は漸に捨つ。かくのごとき説く所の成・住・壞・空は、各々二十中は積みて八十を成し、此の八十を総じて大劫の量を成す。劫の性は是れ何ぞ。いわゆるただ五蘊。経に三劫阿僧企耶(无数)の精進修行して方に成仏を得と説く。前の説く所の四種の劫中において、何の劫を積みて三劫无数を成すか。前の大劫を累ねて十・百・千と為し、乃至積みて三劫无数を成す。既に无数と称す、何ぞ復た三を説くや。无数の言は不可数を顕すに非ず。『解脱経』は六十数中に阿僧企耶はその一数と説く。如何にして六十か。

如彼經言:有一無餘數始為一,一十為十,十十為百,十百為千,十千為萬,十萬為洛叉,十洛叉為度洛叉,十度洛叉為俱胝,十俱胝為末陀,十末陀為阿庾多,十阿庾多為大阿庾多,十大阿庾多為那庾多,十那庾多為大那庾多,十大那庾多為缽羅庾多,十缽羅庾多為大缽羅庾多,十大缽羅庾多為矜羯羅,十矜羯羅為大矜羯羅,十大矜羯羅為頻跋羅,十頻跋羅為大頻跋羅,十大頻跋羅為阿芻婆,十阿芻婆為大阿芻婆,十大阿芻婆為毘婆訶,十毘婆訶為大毘婆訶,十大毘婆訶為嗢蹭伽,十嗢蹭伽為大嗢蹭伽,十大嗢蹭伽為婆喝那,十婆喝那為大婆喝那,十大婆喝那為地致婆,十地致婆為大地致婆,十大地致婆為醯都,十醯都為大醯都,十大醯都為羯臘婆,十羯臘婆為大羯臘婆,十大羯臘婆為印達羅,十印達羅為大印達羅,十大印達羅為三磨缽耽,十三磨缽耽為大三磨缽耽,十大三磨缽耽為揭底,十揭底為大揭底,十大揭底為拈筏羅闍,十拈筏羅闍為大拈筏羅闍,十大拈筏羅闍為姥達羅,十姥達羅為大姥達羅,十大姥達羅為跋藍,十跋藍為大跋藍,十大跋藍為珊若,十珊若為大珊若,十大珊若為毘步多,十毘步多為大毘步多,十大毘步多為跋邏攙,十跋邏攙為大跋邏攙,十大跋邏攙為阿僧企耶。於此數中忘失餘八,若數大劫至此數中阿僧企耶名劫無數。此劫無數復積至三,經中說為三劫無數。非諸算計,不能數知,故得說為三劫無數。何緣菩薩發願長時精進修行方期佛果?如何不許願長時修?無上菩提甚難可得,非多願行無容得成。菩薩要經三劫無數修大福德智慧資糧六波羅蜜多,多百千苦行方證無上正等菩提,是故定應發長時願。若餘方便亦得涅槃,何用為菩提久修多苦行?為欲利樂一切有情,故求菩提發長時願:云何令我具大堪能,於苦瀑流濟諸含識,故捨涅槃道求無上菩提。濟他有情於己何益?

(論に続けて曰く:)彼の経の説くが如く:一の无余数有りて始めを一と為し、一十を十と為し、十十を百と為し、十百を千と為し、十千を万と為し、十万を洛叉と為し、十洛叉を度洛叉と為し、十度洛叉を倶胝と為し、十倶胝を末陀と為し、十末陀を阿庾多と為し、十阿庾多を大阿庾多と為し、十大阿庾多を那庾多と為し、十那庾多を大那庾多と為し、十大那庾多を鉢羅庾多と為し、十鉢羅庾多を大鉢羅庾多と為し、十大鉢羅庾多を矜羯羅と為し、十矜羯羅を大矜羯羅と為し、十大矜羯羅を頻跋羅と為し、十頻跋羅を大頻跋羅と為し、十大頻跋羅を阿芻婆と為し、十阿芻婆を大阿芻婆と為し、十大阿芻婆を毘婆訶と為し、十毘婆訶を大毘婆訶と為し、十大毘婆訶を嗢蹭伽と為し、十嗢蹭伽を大嗢蹭伽と為し、十大嗢蹭伽を婆喝那と為し、十婆喝那を大婆喝那と為し、十大婆喝那を地致婆と為し、十地致婆を大地致婆と為し、十大地致婆を醯都と為し、十醯都を大醯都と為し、十大醯都を羯腊婆と為し、十羯腊婆を大羯腊婆と為し、十大羯腊婆を印達羅と為し、十印達羅を大印達羅と為し、十大印達羅を三磨鉢耽と為し、十三磨鉢耽を大三磨鉢耽と為し、十大三磨鉢耽を掲底と為し、十掲底を大掲底と為し、十大掲底を拈筏羅阇と為し、十拈筏羅阇を大拈筏羅阇と為し、十大拈筏羅阇を姥達羅と為し、十姥達羅を大姥達羅と為し、十大姥達羅を跋藍と為し、十跋藍を大跋藍と為し、十大跋藍を珊若と為し、十珊若を大珊若と為し、十大珊若を毘步多と為し、十毘步多を大毘步多と為し、十大毘步多を跋邏攙と為し、十跋邏攙を大跋邏攙と為し、十大跋邏攙を阿僧企耶と為す。此の数中において余の八を忘失せり、もし大劫を数えて此の数中の阿僧企耶に至れば劫无数と名づく。此の劫无数は復た積みて三に至る、経中に三劫无数と説く。諸の算計に非ず、数えて知る能わず、ゆえに三劫无数と説くを得。何の縁に菩薩は願を発して長時に精進修行して方に仏果を期するか。如何にして長時の修を許願せざるか。无上の菩提は甚だ得難く、多くの願行に非ざれば成るを容れず。菩薩は要して三劫无数を経て大きなる福徳・智慧の資糧・六波羅蜜多を修し、多くの百千の苦行して方に无上正等菩提を証す、是れを以て定めて長時の願を発すべし。もし余の方便をもってもまた涅槃を得ば、何を用いて菩提の為に久しく多くの苦行を修せん。一切の有情を利楽せんと欲するが為に、ゆえに菩提を求めて長時の願を発す:如何にして我をして大きなる堪能を具せしめ、苦の瀑流において諸の含識を済渡せん、ゆえに涅槃の道を捨てて无上菩提を求む。他の有情を済ずるは己において何の益か有らん。

菩薩濟物遂己悲心,故以濟他即為己益。誰信菩薩有如是事?有懷潤己無大慈悲,於如是有情,此事實難信。無心潤己有大慈悲,於如是有情,此事非難信。如有久習無哀愍者,雖無益己而樂損他,世所同悉。如是菩薩久習慈悲,雖無利己而樂他益,如何不信?又如有情由數習力,於無我行不了有為,執以為我而生愛著,由此為因甘負眾苦,智者同悉。如是菩薩數習力故,捨自我愛增戀他心,由此為因甘負眾苦,如何不信?又由種姓異,有此志願起,以他苦為己苦、用他樂為己樂,不以自苦樂為己苦樂事,不見異益他而別有自益。依如是義故,有頌言:

(論に続けて曰く:)菩薩は物を済して遂に己の悲心なり、ゆえに他を済するを以て即ち己の益と為す。誰か菩薩のこの如きの事有るを信ぜん。己を潤すを懐くに大慈悲無きは、かくのごとき有情において此の事は実に信じ難し。己を潤す心無くして大慈悲有るは、かくのごとき有情において此の事は信じ難きに非ず。久しく無哀愍を習う有るが如く、己を益する無しと雖も而も他を損ずるを楽うは、世の同じく悉くする所。かくのごとき菩薩は久しく慈悲を習い、己を利する無しと雖も而も他の益を楽う、如何にして信ぜざらん。また有情有りて数習の力に由りて、無我の行において有為を了せず、執して以て我と為して愛着を生ず、此を因と為して甘んじて衆苦を負うは、智者の同じく悉くする所。かくのごとき菩薩は数習の力なるゆえに、自我の愛を捨てて他を恋う心を増し、此を因と為して甘んじて衆苦を負う、如何にして信ぜざらん。また種姓の異なるに由りて此の志愿の起る有り、他の苦を以て己の苦と為し、他の楽を用いて己の楽と為して、自らの苦楽を以て己の苦楽の事と為さず、異に他を益して別に自益有るを見ず。かくのごとき義に依るゆえに、頌の説有り:

下士勤方便,恆求自身樂,

下士は方便に勤め、恒に自身の楽を求め、

中士求滅苦,非樂苦依故,

中士は苦を滅せんことを求む、楽は苦の依なるゆえ、

上士恆勤求,自苦他安樂,

上士は恒に勤め求む、自苦にして他を安楽し、

及他苦永滅,以他為己故。

および他の苦の永滅せんを、他を以て己と為すゆえ。

如是已辯劫量差別。諸佛獨覺出現世間,為劫增時、為劫減位?頌曰:

かくのごとき已に劫量の差別を弁じたり。諸の仏・独覚の世間に出現するは、是れ劫の増す時か、是れ劫の減ずる位か。頌に曰く:

減八萬至百,諸佛現世間,

八万より減じて百に至るに、諸仏は世間に現れ、

獨覺增減時,麟角喻百劫。

独覚は増減の時、麟角喩は百劫。

論曰:從此洲人壽八萬歲,漸減乃至壽極百年,於此中間諸佛出現。何緣增位無佛出耶?有情樂增難教厭故。何緣減百無佛出耶?五濁極增難可化故。言五濁者:一壽濁、二劫濁、三煩惱濁、四見濁、五有情濁。劫減將末,壽等鄙下如滓穢故,說名為濁。由前二濁,如其次第,壽命資具極被衰損。由次二濁,善品衰損,以耽欲樂自苦行故,或損在家出家善故。由後一濁衰損自身,謂壞自身身量色力念智勤勇及無病故。獨覺出現通劫增減。然諸獨覺有二種殊:一者部行、二麟角喻。部行獨覺先是聲聞,得勝果時轉名獨勝。有餘說彼先是異生,曾修聲聞順決擇分,今自證道得獨勝名。由本事中說:一山處總有五百苦行外仙。有一獼猴曾與獨覺相近而住,見彼威儀,展轉遊行至外仙所,現先所見獨覺威儀。諸仙覩之鹹生敬慕,須臾皆證獨覺菩提。若先是聖人,不應修苦行,麟角喻者謂必獨居。二獨覺中麟角喻者,要百大劫修菩提資糧,然後方成麟角喻獨覺。言獨覺者,謂現身中離稟至教唯自悟道,以能自調不調他故。何緣獨覺言不調他?非彼無能演說正法,以彼亦得無礙解故,又能憶念過去所聞諸佛所宣聖教理故。又不可說彼無慈悲,為攝有情現神通故。又不可說無受法機,爾時有情亦有能起世間離欲對治道故。雖有此理,由彼宿習少欣樂勝解無說希望故。又知有情難受深法,以順流既久難令逆流故。又避攝眾故,不為他宣說正法,怖諠雜故。輪王出世為在何時?幾種幾俱何威何相?頌曰:

論に曰く:此の洲の人の寿八万歳より、漸に減じて乃至寿は極めて百年に至る、此の中間において諸仏は出現す。何の縁に増位に仏の出る無きか。有情は楽の増すに教えて厭わしめ難きゆえ。何の縁に百を減じて仏の出る無きか。五濁は極めて増して化すべき難きゆえ。五濁を説くとは:一に寿濁、二に劫濁、三に煩悩濁、四に見濁、五に有情濁。劫の減は将に末ならんとして、寿等は鄙下にして滓穢の如きゆえに、濁と説き名づく。前の二濁に由りて、その次第の如く、寿命・資具は極めて衰損せられん。次の二濁に由りて、善品は衰損す、欲楽および自ら苦する行に耽るを以て、あるいは在家・出家の善を損ずるゆえ。後の一濁に由りて自身を衰損す、いわゆる自身の身量・色力・念智・勤勇および病無きを壞すゆえ。独覚の出現は劫の増減に通ず。しかるに諸の独覚に二種の殊有り:一に部行、二に麟角喩。部行の独覚は先ず是れ声聞、勝果を得る時に転じて独勝と名づく。ある余の説に彼は先ず是れ異生、曾て声聞の順決択分を修し、今自ら道を証して独勝の名を得、と。本事中に説くに由る:一の山処に総じて五百の苦行の外仙有り。一の猕猴有りて曾て独覚と相近して住し、彼の威儀を見て、展転に游行して外仙の所に至り、先の見る所の独覚の威儀を現ず。諸の仙はこれを睹て咸く敬慕を生じ、須臾に皆独覚菩提を証す、と。もし先に是れ聖人ならば、まさに苦行を修すべからず、麟角喩とは必ず独り居るを謂う。二の独覚中の麟角喩は、要して百大劫に菩提の資糧を修して、然る後に方に麟角喩の独覚を成ず。独覚を説くとは、いわゆる身を現ずる中に離れて。

輪王八萬上,金銀銅鐵輪,

輪王は八万の上、金・銀・銅・鉄の輪、

一二三四洲,逆次獨如佛。

一・二・三・四の洲、逆次に独り仏の如し。

他迎自往伏,諍陣勝無害,

他の迎え・自ら往きて伏する・諍・陣に勝つ・害無し、

相不正圓明,故與佛非等。

相は正しく円明ならず、ゆえに仏と等しきに非ず。

論曰:從此洲人壽無量歲乃至八萬歲,有轉輪王生。減八萬時,有情富樂壽量損減、眾惡漸盛,非大人器,故無輪王。此王由輪旋轉應導威伏一切,名轉輪王。《施設足》中說有四種,金、銀、銅、鐵輪應別故。如其次第勝、上、中、下,逆次能王領一二三四洲,謂鐵輪王王一洲界,銅輪王二,銀輪王三,若金輪王王四洲界。契經就勝但說金輪,故契經言:若王生在剎帝利種紹灑頂位,於十五日受齋戒時,沐浴首身受勝齋戒,昇高臺殿臣僚輔翼,東方忽有金輪寶現。其輪千輻具足轂輞,眾相圓淨如巧匠成,舒妙光明來應王所。此王定是轉金輪王。轉餘輪王應知亦爾。輪王如佛,無二俱生,故契經言:無處無位非前非後有二如來、應、正等覺出現於世,有處有位唯一如來。如說如來,輪王亦爾。應審思擇,此唯一言,為據一三千、為約一切界?有說:餘界定無佛生。所以者何?勿薄伽梵功能有礙,唯一世尊普於十方能教化故。若有一處一佛於中無教化能,餘亦應爾。又世尊告舍利子言:設復有人來至汝所,問言:頗有梵志沙門,正於今時與喬答摩氏平等平等得無上覺耶?汝得彼問當云何答?時舍利子白世尊言:我得彼問當如是答:今時無有梵志沙門得無上菩提與我世尊等。所以然者,我從世尊親聞親持,無處無位非前非後有二如來應正等覺出現於世,有處有位唯一如來。若爾,何緣《梵王經》說:我今於此三千大千諸世界中得自在轉?彼有密意。密意者何?謂若世尊不起加行,唯能觀此三千大千;若時世尊發起加行,無邊世界皆佛眼境。天耳通等例此應知。有餘部師說:餘世界亦別有佛出現世間。所以者何?有多菩薩現俱修習菩提資糧,一界一時可無多佛,多界多佛何理能遮?故無邊界中有無邊佛現。若唯一佛,設住一劫時,尚不遍為一世界佛事,況同人壽能益無邊。

論に曰く:此の洲の人の寿無量歳より乃至八万歳に至るに、転輪王の生ずる有り。八万を減ずる時は、有情は富楽・寿量は損減し、衆悪は漸に盛んにして、大人の器に非ず、ゆえに輪王無し。此の王は輪の旋転応導して一切を威伏するに由りて、転輪王と名づく。『施設足』中に四種有りと説く、金・銀・銅・鉄の輪の応に別あるゆえ。その次第の如く勝・上・中・下、逆次に能く一・二・三・四の洲を王領す、いわゆる鉄輪王は一の洲界を王とし、銅輪王は二、銀輪王は三、もし金輪王は四の洲界を王とす。契経は勝に就きて但だ金輪を説く、ゆえに契経に説く:もし王は刹帝利種に生じて灌頂の位を紹ぎ、十五日に斎戒を受くる時、首身を沐浴して勝れたる斎戒を受け、高き台殿に升りて臣僚は輔翼し、東方に忽ち金輪の宝の現ずる有り。その輪は千の輻にして穀・輞を具足し、衆相は円浄にして巧匠の成せるが如く、妙なる光明を舒べて来りて王の所に応ず。此の王は定めて是れ金輪を転ずる王。余の輪王を転ずるもまさに知るべきこともまたこの如し。輪王は仏の如く、二の俱に生ずる無し、ゆえに契経に説く:処無く位無く前に非ず後に非ずして二の如来・応・正等覚の世に出現する有り、処有り位有りてただ一の如来、と。如来を説くが如く、輪王もまたこの如し。まさに審かに思択すべし、此の唯一の言は、是れ一の三千に拠るか、是れ一切界に約るか。ある説に:余の界は定めて仏の生ずる無し。所以者何。薄伽梵の功能の礙有るを勿れ、唯一の世尊は普く十方において能く教化するゆえ。もし一の処有りて一仏はその中に教化の能無ければ、余もまたまさにこの如くあるべし。

然諸有情居無邊界,時處根性差別無邊,佛應遍觀此有情類。如是時處應見世尊,佛便應機現通說法,令其過失未生不生,諸有已生能令斷滅,令其功德未生得生,諸有已生能令圓滿。如何一佛此事頓成?是故同時定有多佛。然彼所引,無處無位非前非後有二如來出於世等。應共思擇,此言為說一界多界?若說多界,則轉輪王餘世界中亦應非有,以說如佛遮俱生故。若許輪王餘界別有,如何不許別界佛耶?佛出世間具吉祥福,多界多佛何過而遮?謂多界中諸佛俱現,便能饒益無量有情,令得增上生及決定勝道。若爾,何故一世界中無二如來俱時出現?以無用故。謂一界中一佛,足能饒益一切。又願力故,謂諸如來為菩薩時先發誓願:願我當在無救無依盲闇界中成等正覺,利益安樂一切有情,為救為依為眼為導。又令敬重故,謂一界中唯有一如來便深敬重。又令速行故,謂令如是知一切智尊甚為難遇,彼所立教應速修行,勿般涅槃或往餘處,便令我等無救無依。故一界中無二佛現。如是所說四種輪王,威定諸方亦有差別。謂金輪者,諸小國王各自來迎作如是請:我等國土寬廣豐饒,安隱富樂多諸人眾。唯願天尊親垂教勅,我等皆是天尊翼從。若銀輪王自往彼土,威嚴近至彼方臣伏。若銅輪王至彼國已,宣威競德彼方推勝。若鐵輪王亦至彼國,現威列陣剋勝便止。一切輪王皆無傷害,令伏得勝已,各安其所居,勸化令修十善業道,故輪王死定得生天。經說輪王出現於世,便有七寶出現世間。其七者何?一者輪寶、二者象寶、三者馬寶、四者珠寶、五者女寶、六者主藏臣寶、七者主兵臣寶。象等五寶有情數攝,如何他業生他有情,非他有情從他業起?然由先造互相屬業,於中若一稟自業生,餘亦俱時乘自業起。如是所說諸轉輪王,非唯有七寶與餘王別,亦有三十二大士相殊。若爾,輪王與佛何異?

(論に続けて曰く:)しかるに諸の有情の居るは辺際無く、時・処・根性の差別は無辺なり、仏はまさに此の有情の類を遍観すべし。かくのごとき時・処にまさに世尊を見るべく、仏は便ち機に応じて通を現じ法を説き、その過失の未だ生ぜざるを生ぜしめず、諸の已に生じたるを能く断滅せしめ、その功徳の未だ生ぜざるを生ずるを得しめ、諸の已に生じたるを能く円満せしむ。如何にして一仏は此の事を頓成せん。是れを以て同時に定めて多仏有り。しかるに彼の引く所、処無く位無く前に非ず後に非ずして二の如来の世に出づる等有り。まさに共に思択すべし、此の言は是れ一界を説くか多界か。もし多界を説かば、則ち転輪王は余の世界中にもまさに有るべからず、仏の如く俱生を遮るを説くを以て。もし輪王は余の界に別に有るを許さば、如何にして別界の仏を許さざらん。仏の世間に出づるは吉祥の福を具す、多界に多仏は何の過か有りて而も遮る。いわゆる多界中に諸仏は倶に現ずれば、便ち能く無量の有情を饒益し、増上生および決定勝の道を得せしむ。もし爾ならば、何の故に一世界中に二の如来の倶時に出現する無きか。用無きを以て。いわゆる一界中の一仏は、足りて能く一切を饒益す。また愿力なるゆえ、いわゆる諸の如来は菩薩たる時に先ず誓願を発す:願わくは我はまさに救無き依無き盲暗の界中において等正覚を成り、一切の有情を利益安楽し、救と為り依と為り眼と為り導と為らん、と。また敬重せしむるゆえ、いわゆる一界中にただ一の如来有らば便ち深く敬重す。また速行せしむるゆえ、いわゆるかくのごとき一切智の尊は甚だ遇い難しと知らしめ、彼の立つる所の教はまさに速やかに修行すべく、般涅槃せあるいは余の処に往きて、便ち。

佛大士相處正明圓,王相不然,故有差別。劫初人眾為有王無?頌曰:

(論に続けて曰く:)仏・大士の相の処は正しく明円なり、王の相は然らず、ゆえに差別有り。劫初の人衆は是れ王有るか無きか。頌に曰く:

劫初如色天,後漸增貪味,

劫初は色天の如く、後に漸に貪味を増し、

由墮貯賊起,為防僱守田。

貯・賊の起るに堕するに由り、防ぐ為に雇して田を守らしむ。

論曰:劫初時人皆如色界,故契經說:劫初時人有色意成,支體圓滿諸根無缺,形色端嚴身帶光明,騰空自在飲食喜樂長壽久住。有如是類地味漸生,其味甘美其香欝馥。時有一人稟性耽味,嗅香起愛取甞便食,餘人隨學競取食之。爾時方名初受段食。資段食故身漸堅重,光明隱沒黑闇便生,日月眾星從茲出現。由漸耽味地味便隱,從斯復有地皮餅生。競耽食之,地餅復隱,爾時復有林藤出現。競耽食故,林藤復隱,有非耕種香稻自生,眾共取之以充所食。此食麁故,殘穢在身,為欲蠲除便生二道,因斯遂有男女根生。由二根殊形相亦異,宿習力故便相瞻視,因此遂生非理作意,欲貪鬼魅惑亂身心,失意猖狂行非梵行。人中欲鬼初發此時。爾時諸人隨食早晚隨取香稻無所貯積,後時有人稟性嬾惰,長取香稻貯擬後食,餘人隨學漸多停貯。由此於稻生我所心,各縱貪情多收無厭,故隨收處無復再生,遂共分田慮防遠盡。於己田分生悋護心,於他分田有懷侵奪,劫盜過起始於此時。為欲遮防共聚詳議,銓量眾內一有德人,各以所收六分之一,僱令防護封為田主,因斯故立剎帝利名。大眾欽承恩流率土,故復名大三末多王,自後諸王此王為首。時人或有情厭居家,樂在空閑精修戒行,因斯故得婆羅門名。後時有王貪悋財物,不能均給國土人民,故貧匱人多行賊事。王為禁止行輕重罰,為殺害業始於此時。時有罪人心怖刑罰,覆藏其過異想發言,虛誑語生此時為首。於劫減位有小三災。其相云何?頌曰:

論に曰く:劫初の時の人は皆色界の如し、ゆえに契経に説く:劫初の時の人は色有り意成にして、支体は円満し諸根は缺け無く、形色は端厳にして身は光明を帯び、空を騰りて自在にして飲食は喜楽にして長寿久住す、と。かくのごとき類の地味は漸に生じ、その味は甘美にしてその香は郁馥たり。時に一人有りて禀性は味に耽り、香を嗅ぎて愛を起し取りて嘗めて便ち食す、余の人は随いて学び競い取りてこれを食す。爾の時に方に初めて段食を受くと名づく。段食を資するゆえに身は漸に堅重に、光明は隱没して黒暗は便ち生じ、日・月・衆星は兹に従りて出現す。漸に味に耽るに由りて地味は便ち隱れ、斯に従りて復た地皮餅の生ずる有り。競い耽りてこれを食す、地餅は復た隱れ、爾の時に復た林藤の出現有り。競い耽りて食するゆえに、林藤は復た隱れ、耕種するに非ざる香稻の自生ずる有り、衆は共にこれを取りて以て食する所に充つ。此の食は粗なるゆえに、残穢は身に在り、蠲除せんと欲して便ち二道生じ、斯に因りて遂に男女の根の生ずる有り。二根は殊にして形相もまた異なり、宿習の力なるゆえに便ち相い瞻視し、此に因りて遂に非理の作意を生じ、欲貪の鬼魅は身心を惑乱し、意を失い猖狂して非梵行を行ず。人中の欲鬼の初めて発するは此の時。爾の時に諸の人は食に随いて早晚に香稻を取りて貯積する所無し、後時に人有りて禀性は懶惰にして、長く香稻を取りて貯えて後の食に擬す、余の人は随いて学び漸に多く停貯す。此に由りて稻において我所の心を生じ、各々貪情を縦にして多く収めて厭くこと無く、ゆえに収める所に随いて復た生ずる無し、遂に共に田を分けて遠く盡くるを防ぐを慮る。己の田分において吝護の心を生じ、他の分田において侵奪を懐く心有り、劫盗の過の起るは此の時に始まる。

業道增壽減,至十三災現,

業道は増し寿は減じ、十に至りて三灾現れ、

刀疾飢如次,七日月年止。

刀・疾・飢は次第の如く、七日・月・年に止まる。

論曰:從諸有情起虛誑語,諸惡業道後後轉增,故此洲人壽量漸減,乃至極十小三災現。故諸災患二法為本:一耽美食、二性嬾惰。此小三災中劫末起。三災者,一刀兵、二疾疫、三飢饉。謂中劫末十歲時,人為非法貪染汙相續,不平等愛映蔽其心,邪法縈纏瞋毒增上,相見便起猛利害心。如今獵師見野禽獸,隨手所執皆成利刀,各逞兇狂互相殘害。又中劫末十歲時人,由具如前諸過失故,非人吐毒疾疫流行,遇輒命終難可救療。又中劫末十歲時人,亦具如前諸過失故,天龍忿責不降甘雨,由是世間久遭飢饉,既無支濟多分命終。是故說言,由飢饉故便有聚集白骨運籌。由二種因名有聚集:一人聚集,謂彼時人由極飢羸聚集而死。二種聚集,謂彼時人為益後人,輟其所食置於小篋擬為種子。故飢饉時名有聚集。言有白骨亦由二因:一彼時人身形枯燥,命終未久白骨便現。二彼時人飢饉所逼,聚集白骨煎汁飲之。有運籌言亦二因故,一由糧少行籌食之,謂一家中從長至幼,隨籌至日得少麁飡。二謂以籌挑故場蘊,得少穀粒多用水煎,分共飲之以濟餘命。然有至教說治彼方,謂若有能一晝一夜持不殺戒,於未來生決定不逢刀兵災起。若能以一訶梨怛雞,起殷淨心奉施僧眾,於當來世決定不逢疾疫災起。若有能以一摶之食,起殷淨心奉施僧眾,於當來世決定不逢飢饉災起。此三災起各經幾時?刀兵災起極唯七日,疾疫災起七月七日,飢饉七年七月七日,度此便止。人壽漸增,東西二洲有似災起,謂瞋增盛身力羸劣,數加飢渴,北洲總無。前說火災焚燒世界,餘災亦爾,如應當知。何者為餘?今當具辯。頌曰:

論に曰く:諸の有情より虚誑の語を起し、諸の悪業道は後後に転じて増す、ゆえに此の洲の人の寿量は漸に減じ、乃至極めて十にして小三灾現ず。ゆえに諸の灾患は二法を本と為す:一に美食に耽り、二に性は懶惰。此の小三灾は中劫の末に起る。三灾とは:一に刀兵、二に疾疫、三に飢饉。いわゆる中劫の末の十歳の時、人は非法の貪の染污する相续と為り、不平等の愛はその心を映蔽し、邪法は縈纏して瞋毒は増上し、相い見れば便ち猛利な害心を起す。今の猟師の野禽・獣を見るが如く、手の執る所に随いて皆利刀と成り、各々凶狂を逞しうして相い残害す。また中劫の末の十歳の時の人は、前の如き諸の過失を具するゆえに、非人は毒を吐きて疾疫は流行し、遇えば輙ち命終して救療し難し。また中劫の末の十歳の時の人は、もまた前の如き諸の過失を具するゆえに、天・龍は忿責して甘雨を降らさず、是に由りて世間は久しく飢饉に遭い、既に支济無くして多分は命終す。是れを以て説く、飢饉に由るゆえに便ち聚集・白骨・運筹有り。二種の因に由りて聚集有りと名づく:一に人の聚集、いわゆる彼の時の人は極めて飢羸するに由りて聚集して死す。二に種の聚集、いわゆる彼の時の人は後人を益さんが為に、その食する所を輟めて小箧に置きて擬して種子と為さんとす。ゆえに飢饉の時を聚集有りと名づく。白骨有りと説くもまた二の因に由る:一に彼の時の人は身形は枯燥にして、命終して未だ久しからずして白骨は便ち現ず。二に彼の時の人は飢饉に逼められて、白骨を聚集して汁を煎じてこれを飲む。運筹の言有るもまた二の因なるゆえ、一には糧少なきに由りて筹を行じてこれを食す、いわゆる一家中は長より幼に至り、筹の至る日に随いて少しの粗餐を得。二には筹を以て故場の蘊を挑ぐを謂い、少しの穀粒を得て多く水を用いて煎じ、分かち共に飲みて以て余の命を济す。しかるに至教有りて彼の方を治すと説く、いわゆるもし能く一昼一夜に不殺戒を持する有らば、未来生において決定して刀兵の灾の起るに逢わず。もし能く一の訶梨怛鶏(訶子)を以て、殷浄の心を起して僧衆に奉施せば、当来の世において決定して疾疫の灾の起るに逢わず。もし能く一抟の食を以て、殷浄の心を起して僧衆に奉施せば、当来の世において決定して飢饉の灾の起るに逢わず。此の三灾の起るは各々几の時を経るか。刀兵の灾の起るは極めてただ七日、疾疫の灾の起るは七月七日、飢饉は七年七月七日、此を度りて便ち止む。人の寿は漸に増す。東・西の二洲に灾の起るに似たる有り、いわゆる瞋は増盛にして身力は羸劣し、数々飢渇を加う、北洲は総じて無し。前に説く火灾は世界を焚焼す、余の灾もまたこの如し、その応ずる所の如く知るべし。何れを余と為すか。今まさに具に弁ずべし。頌に曰く:

三災火水風,上三定為頂,

三灾は火・水・風、上の三定を頂と為し、

如次內災等,四無不動故,

次第の如く内灾に等し、四は動かざる無きゆえ、

然彼器非常,情俱生滅故,

しかるに彼の器は常に非ず、情と倶に生滅するゆえ、

要七火一水,七水火後風。

要して七火一水、七水火の後は風。

論曰:此大三災逼有情類,令捨下地集上天中。初火災興由七日現,次水災起由雨霖淫,後風災生由風相擊。此三災力壞器世間,乃至極微亦無餘在。一類外道執極微常,彼謂爾時餘極微在。何緣彼執猶有餘極微?勿後麁事生無種子故。豈不前說,由諸有情業所生風能為種子。或此即以前災頂風為緣、引生風為種子。又化地部契經中言:風從他方飄種來此。雖爾,不許芽等生時是種等因親所引起。若爾,芽等從何而生?從自分生。如是自分復從自分,展轉乃至最細有分從極微生。於芽等生中,種等有何力?除能引集芽等極微,種等更無生芽等力。何緣定作如是執耶?從異類生定不應理。不應何理?應無定故。功能定故,無不定失。如聲熟變等,從異類定生。德法有殊,實法不爾。現見實法唯從同類生,如藤生枝及縷生衣等。此非應理,非理者何?引不極成為能立故。今此所引何不極成?非許藤枝縷衣別故。即藤縷合,安布不同得枝衣名,如蟻行等。云何知爾?一縷閤中曾不得衣,唯得縷故。有誰為障令不得衣?若一縷中無全衣轉,則應一縷上有衣分無衣。應許全衣唯集諸分,非更別有有分名衣。又如何知衣分異縷?若謂衣要待多所依合,於唯多經合應亦得衣。或應畢竟無得衣理,中及餘邊不對根故。若謂漸次皆可對根,則應眼身唯得諸分,不應說彼得有分衣故,即於諸分漸次了別,總起有分覺,如旋火輪。謂若離縷異色類業,衣色等三不可得故。若錦衣上色等屬衣,則應許實從異類起,一一縷色等無種種異故。或於一分無異色等,邊應不見衣,由彼顯衣故。或即彼分應見異色等,以衣必有異色等相故。彼許有分體唯是一,而有種種色類業殊,審有如斯甚為靈異。又於一火光明界中,遠近不同燒照有異,觸色差別應不得成。各別極微雖越根境,而共聚集可現根證,如彼所宗合能生果,或如眼等合能發識。

論に曰く:此の大三灾は有情の類を逼めて、下地を捨てて上天中に集まらしむ。初め火灾の興るは七日の現ずるに由り、次に水灾の起るは雨の霖淫に由り、後に風灾の生ずるは風の相撃つに由る。此の三灾の力は器世間を壞し、乃至極微もまた余の在る無し。一類の外道は極微は常と執す、彼は爾の時に余の極微の在るを謂う。何の縁に彼は猶お余の極微有りと執するか。後に粗事の生ずるに種子無きを勿るゆえ。豈に前に説かざらんや、諸の有情の業の生ずる所の風は能く種子と為る。あるいは即ち此は前灾の頂の風を縁と為し、引生の風を以て種子と為す。また化地部の契経中に説く:風は他方より種を飄して此に来る。爾りと雖も、芽等の生ずる時は種等の因の親しく引起する所と許さず。もし爾ならば、芽等は何より生ずるか。自分より生ず。かくのごとき自分は復た自分より、展転して乃至最細の有分は極微より生ず。芽等の生中において、種等は何の力か有る。能く芽等の極微を引集するを除きて、種等は更に芽等を生ずる力無し。何の縁に定めてかくの執を作すか。異類より生ずるは定めてまさに理に応ぜざるべし。応ぜざるは何の理か。まさに定無きゆえ。功能は定まるゆえ、不定の失無し。声の熟変等の如く、異類より定めて生ず。徳法は殊有り、実法は然らず。現に実法はただ同類より生ずるを見る、藤の枝を生じおよび縷の衣を生ずる等の如し。此は理に応ぜず、理に非ずとは是れ何ぞ。引くは極成せざるを能立と為すゆえ。今此の引く所は何ぞ極成せざる。許すに藤・枝・縷・衣の別無きゆえ。即ち藤・縷の合にして、安布の同じからざるを枝・衣の名を得、蟻の行く等の如し。如何にしてこの如くを知るか。一縷の合中に曾て衣を得ず、ただ縷を得るゆえ。誰か障と為りて衣を得ざらしむる。もし一縷中に全衣の転ずる無ければ、則ちまさに一縷上に衣の分有りて衣無しとすべし。まさに全衣はただ諸の分を集むと許すべし、更に別に分有るの衣と名づく有るに非ず。また如何にして衣の分は縷に異なるを知るか。もし衣は要して多の依る所の合を待つと謂わば、ただ多の経合においてまさにもまた衣を得べし。あるいはまさに畢竟に衣を得るの理無かるべし、中および余の辺は根に対せざるゆえ。もし漸次に皆根に対すべしと謂わば、則ちまさに眼・身はただ諸の分を得るべく、まさに彼は分有る衣を得る有りと説くべからざるゆえ、即ち諸の分において漸次に了別し、総じて有分の覚を起す、旋火輪の如し。いわゆるもし縷を離れて異なる色・類・業有れば、衣の色等の三は得べからざるゆえ。もし錦衣上の色等は衣に属せば、則ちまさに実は異類より起ると許すべし、一一の縷の色等は種種の異無きゆえ。あるいは一分において異なる色等無ければ、辺はまさに衣を見ざるべし、彼に由りて衣を顕すゆえ。あるいは即ち彼の分はまさに異なる色等を見るべし、衣は必ず異なる色等の相有るを以て。彼は分有りて体はただ一にして、而も種種の色・類・業の殊有るを許す、審らかに斯の如き有りて甚だ是れ霊異なり。また一の火の光明界中において、遠近は同じからずして焼照は異有り、触・色の差別はまさに成ることを得べからず。各別の極微は根境を越ゆると雖も、而も共に聚集せば根証を現ずべし、彼の宗する所の合は能く果を生ずるが如く、あるいは眼等の合の能く識を発するが如し。

又如瞖目視散髮時,若多相隣彼則能見,一一遠住便無見能。極微對根理亦應爾。又即於色等,立極微名故。色等壞時極微亦壞,極微實攝,色等德收,異體不應定俱時滅。此二體別,理必不然。以審觀時非離色等有別地等,故非體別。又彼宗中自許地等眼身所取,寧異色觸?又燒毛㲲紅花等時,彼覺則無,故毛等覺但緣色等差別而起,熟變生時形量等故。猶如行伍記識瓶盆,若不觀形不記識故。誰當採錄愚類狂言?故對彼宗廣諍應止。此三災頂為在何處?第二靜慮為火災頂,此下為火所焚燒故。第三靜慮為水災頂,此下為水所浸爛故。第四靜慮為風災頂,此下為風所飄散故。隨何災上,名彼災頂。何緣下三定遭火水風災?初二三定中,內災等彼故。謂初靜慮尋伺為內災,能燒惱心等,外火災故。第二靜慮喜受為內災,與輕安俱潤,身如水故,遍身麁重由此皆除故,經說苦根第二靜慮滅。第三靜慮動息為內災,息亦是風等,外風災故。若入此靜慮,有如是內災,生此靜慮時,遭是外災壞。何緣不立地亦為災?以器世間即是地故,但可火等與地相違,不可說言地還違地。第四靜慮何為外災?彼無外災,離內災故。由此佛說彼名不動,內外三災所不及故。有說:彼地有淨居天故,彼不遭諸災所壞。由彼不可生無色天,亦復不應更往餘處。若爾,彼地器應是常。不爾,與有情俱生俱滅故。謂彼天處無總地形,但如眾星居處各別。有情於彼生時死時,所住天宮隨起隨滅,是故彼器體亦非常。所說三災云何次第?要先無間起七火災,其次定應一水災起。此後無間復七火災,度七火災還有一水,如是乃至滿七水災。復七火災後風災起,如是總有八七火災、一七水災,一風災起。何緣如是?由彼有情所修定因於上漸勝,故感身壽其量漸長,由是所居亦漸久住。由此善釋《施設足》文遍淨天壽六十四劫。

(論に続けて曰く:)また翳目の散髪を視る時の如く、もし多く相い隣れば彼は則ち見る能く、一一に遠く住せば便ち見るの能無し。極微の根に対する理もまたまさにこの如くあるべし。また即ち色等において、極微の名を立つるゆえ。色等の壞る時は極微もまた壞る、極微は実の摂、色等は徳の収、異体はまさに定めて倶時に滅すべからず。此の二は体別なり、理は必ずこの如くならず。審かに観ずる時に色等を離れて別に地等有るに非ざるを以て、ゆえに体別に非ず。また彼の宗中に自ら地等は眼・身の取る所を許す、寧ぞ色・触に異ならんや。また毛㲲・紅花等を焼く時に、彼の覚は則ち無し、ゆえに毛等の覚は但だ色等の差別に縁りて起る、熟変の生ずる時の形量等なるゆえ。猶お行伍の瓶盆を記識するが如し、もし形を観ざれば記識せざるゆえ。誰かまさに愚類の狂言を採録せん。ゆえに彼の宗に対して広く諍うはまさに止むべし。此の三灾の頂は是れ何の処に在るか。第二静慮を火灾の頂と為す、此以下は火の焚焼する所なるゆえ。第三静慮を水灾の頂と為す、此以下は水の浸爛する所なるゆえ。第四静慮を風灾の頂と為す、此以下は風の飄散する所なるゆえ。何れの灾の上に随いて、彼の灾の頂と名づく。何の縁に下の三定は火・水・風の灾に遭うか。初・二・三の定中は、内灾は彼に等しきゆえ。いわゆる初静慮は尋伺を内灾と為し、能く心を焼悩する等にして、外の火灾と等しきゆえ。第二静慮は喜受を内灾と為し、軽安と倶に潤し、身は水の如きゆえに、遍身の粗重は此に由りて皆除かるるゆえ、経に苦根は第二静慮に滅すと説く。第三静慮は動息を内灾と為し、息もまた是れ風に等しく、外の風灾のゆえ。もし此の静慮に入らば、この如きの内灾有りて、此の静慮に生ずる時に、是の外灾の壞に遭う。何の縁に地を立ててもまた灾と為さざるか。器世間は即ち是れ地なるを以て、但だ火等は地と相違すべく、地は還りて地に違すると説くべからず。第四静慮は何を外灾と為すか。彼は外灾無し、内灾を離るるゆえ。此に由りて仏は彼を不動と名づくと説く、内外の三灾の及ばざる所なるゆえ。ある説に:彼の地に浄居天有るゆえに、彼は諸の灾の壞る所に遭わず。彼より無色天に生ずべからざるに由りて、もまた復たまさに余の処に往くべからず。もし爾ならば、彼の地の器はまさに常なるべし。然らず、有情と倶に生じ倶に滅するゆえ。いわゆる彼の天の処は総の地形無く、但だ衆星の居処の各別なるが如し。有情は彼において生ずる時・死する時に、住する所の天宮は起るに随い滅するに随う、是れを以て彼の器の体もまた常に非ず。説く所の三灾は如何の次第か。要して先ず無間に七の火灾を起し、その次に定めてまさに一の水灾の起るべし。此の後に無間に復た七の火灾、七の火灾を度りて還た一の水有り、かくのごとき乃至七の水灾に満つ。復た七の火灾の後に風灾起る、かくのごとき総じて八七の火灾・一七の水灾・一の風灾の起る有り。何の縁にこの如くか。彼の有情の修する所の定の因は上において漸に勝れるに由りて、ゆえに身寿を感ずることその量は漸に長く、是に由りて居る所もまた漸に久住す。此に由りて『施設足』の文の遍浄天の寿は六十四劫を善く釋す。

説一切有部倶舎論 巻第十二

アビダルマ倶舎論 巻第十三

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別業品第四之一

分別業品 第四之一。

如前所說有情世間及器世間各多差別,如是差別由誰而生?頌曰:

前の説く所の有情世間および器世間は各々多くの差別有り、かくのごとき差別は誰に由りて生ずるか。頌に曰く:

世別由業生,思及思所作,

世の別は業に由りて生ず、思および思の作す所、

思即是意業,所作謂身語。

思は即ち是れ意業、作す所は身・語を謂う。

論曰:非由一主先覺而生,但由有情業差別起。若爾,何故俱從業生?欝金栴檀等甚可愛樂,而內身形等與彼相違。以諸有情業類如是,若造雜業感內身形,於九瘡門常流不淨。為對治彼,感外具生色香味觸甚可愛樂。諸天眾等造純淨業,故彼所招二事俱妙。此所由業其體是何?謂心所思及思所作。故契經說:有二種業,一者思業、二思已業,思已業者謂思所作。如是二業分別為三,謂即有情身、語、意業。如何建立此三業耶?為約所依、為據自性、為就等起?縱爾何違?若約所依應唯一業,以一切業並依身故。若據自性應唯語是業,以三種中唯語即業故。若就等起亦應唯一業,以一切業皆意等起故。毘婆沙師說立三業,如其次第由上三因。然心所思即是意業,思所作業分為身、語二業,是思所等起故。身語二業自性云何?頌曰:

論に曰く:一の主の先覚に由りて生ずるに非ず、但だ有情の業の差別に由りて起る。もし爾ならば、何の故に倶に業より生ずるや。郁金・栴檀等は甚だ可愛楽なるに、而も内の身形等は彼と相違す。諸の有情の業類はこの如きを以て、もし雜業を造れば内の身形を感じて、九の瘡門において常に不浄を流す。彼を対治せんが為に、外の具を感じて色・香・味・触は甚だ可愛楽なり。諸の天衆等は純浄の業を造る、ゆえに彼の招く所の二事は倶に妙なり。此の由る所の業はその体は是れ何ぞ。いわゆる心の思う所および思の作す所。ゆえに契経に説く:二種の業有り、一に思業、二に思已業、思已業とはいわゆる思の作す所、と。かくのごとき二業を分別して三と為す、いわゆる即ち有情の身・語・意業。如何にして此の三業を建立するか。是れ所依に約るか、是れ自性に拠るか、是れ等起に就くか。縦し爾りとも何の違か有らん。もし所依に約ればまさに唯一の業あるべし、一切の業は并びて身に依るを以て。もし自性に拠ればまさにただ語是れ業あるべし、三種中にただ語は即ち業なるを以て。もし等起に就けばもまたまさに唯一の業あるべし、一切の業は皆意の等起なるを以て。毘婆沙師は三業を立つと説く、その次第の如く上の三因に由る。しかるに心の思う所は即ち是れ意業、思の作す所の業は分かちて身・語の二業と為す、是れ思の等起する所なるゆえ。身・語の二業の自性は如何。頌に曰く:

此身語二業,俱表無表性。

此の身・語の二業は、倶に表・無表の性。

論曰:應知如是所說諸業中,身語二業俱表無表性。且身語表其相云何?頌曰:

論に曰く:まさにかくのごとき説く所の諸業中において、身・語の二業は倶に表・無表の性なるを知るべし。且つ身・語の表はその相は如何。頌に曰く:

身表許別形,非行動為體,

身表は別の形を許す、行動を体と為すに非ず、

以諸有為法,有剎那盡故。

諸の有為の法は、刹那尽くる有るを以て。

應無無因故,生因應能滅,

まさに因無き無し、生因はまさに能く滅す、

形亦非實有,應二根取故,

形もまた実有に非ず、まさに二根の取るゆえ、

無別極微故,語表許言聲。

別の極微無きゆえ、語表は言声を許す。

論曰:由思力故,別起如是如是身形,名身表業。有餘部說:動名身表,以身動時由業動故。為破此故,說非行動,以一切有為皆有剎那故。剎那何謂?得體無間滅,有此剎那法,名有剎那,如有杖人名為有杖。諸有為法才得自體,從此無間必滅歸無。若此處生即此處滅,無容從此轉至餘方,故不可言動名身表。若有為法皆有剎那,不至餘方義可成立。諸有為法皆有剎那,其理極成後必盡故,謂有為法滅不待因。所以者何?待因謂果,滅無非果,故不待因。滅既不待因,才生已即滅。若初不滅,後亦應然,以後與初有性等故。既後有盡,知前有滅。若後有異方可滅者,不應即此而名有異。即此相異,理必不然。豈不世間現見薪等,由與火合故致滅無?定無餘量過現量者,故非法滅皆不待因。如何知薪等,由火合故滅?以薪等火合,後便不見故。應共審思,如是薪等,為由火合滅故不見?為前薪等生已自滅,後不更生無故不見,如風手合燈焰鈴聲?故此義成應由比量。何謂比量?謂如前說,滅無非果故不待因。又若待因薪等方滅,應一切滅無不待因,如生待因,無無因者。然世現見覺焰音聲,不待餘因剎那自滅,故薪等滅亦不待因。有執覺聲前因後滅。彼亦非理,二不俱故。疑智苦樂及貪瞋等,自相相違理無俱義。若復有位明瞭覺聲無間便生不明瞭者,如何同類不明瞭法能滅明瞭同類法耶?最後覺聲復由誰滅?有執燈焰滅,以住無為因。有執焰滅時,由法非法力。彼俱非理,無非因故。非法非法為生滅因,以剎那剎那順違相反故。或於一切有為法中,皆可計度有此因義。既爾,本諍便應止息,許不待餘因皆有剎那故。又若薪等滅,火合為因,於熟變生中有下中上,應生因體即成滅因。所以者何?謂由火合能令薪等有熟變生,中上熟生、下中熟滅。或即或似生上中因,即能為因滅下中熟,則生因體應即滅因。

論に曰く:思の力なるゆえに、別にかくのごときかくのごとき身形を起し、身表業と名づく。ある余部の説に:動は身表と名づく、身の動く時に業に由りて動くゆえ、と。此を破らんが為に、行動に非ずと説く、一切の有為は皆刹那有るを以て。刹那とは何を謂うか。体を得て無間に滅す、此の刹那の法有りて、刹那有りと名づく、杖有る人を有杖と名づくる有るが如し。諸の有為の法は纔かに自体を得て、此より無間に必ず滅して無に帰す。もし此の処に生ぜば即ち此の処に滅し、此より余の方に転ずるを容れず、ゆえに動を身表と名づくと説くべからず。もし有為の法は皆刹那有れば、余の方に至らざる義は成立すべし。諸の有為の法は皆刹那有り、その理は極成して後に必ず盡くるゆえ、いわゆる有為の法の滅は因を待たず。所以者何。因を待つは果を謂い、滅は無にして果に非ず、ゆえに因を待たず。滅は既に因を待たず、纔かに生じ已って即ち滅す。もし初めに滅せざれば、後もまたまさにこの如くあるべし、後は初と有性の等しきを以て。既に後に盡くる有れば、前に滅有るを知る。もし後に異有りて方に滅すべきは、まさに即ち此にして而も異有りと名づくべからず。即ち此は相異なり、理は必ずこの如くならず。豈に世間は現に薪等を見て、火と合するに由りて滅無を致すと謂わんや。定めて余の量の現量を過ぐる無し、ゆえに法の滅は皆因を待たざるに非ず。如何にして薪等を知るか、火合に由りて滅するゆえと。薪等の火合を以て後に便ち見ざるゆえ。まさに共に審思すべし、かくのごとき薪等は、是れ火合に由りて滅するゆえに見えざるか。是れ前の薪等は生じ已りて自ら滅し、後に更に生ぜずして無なるゆえに見えざるか、風・手の合の灯焰・鈴声の如くか。ゆえに此の義はまさに比量に由りて成るべし。何を比量と謂うか。いわゆる前の説くが如く、滅は無にして果に非ざるゆえに因を待たず。またもし因を待ちて薪等は方に滅せば、まさに一切の滅は因を待たざる無かるべし、生は因を待つが如く、因無きは無し。しかるに世は現に焰・音声を覚るを見るに、余の因を待たずして刹那に自ら滅す、ゆえに薪等の滅もまた因を待たず。ある執に焰・声は前に因りて後に滅す。彼もまた理に非ず、二は倶ならざるゆえ。疑・智・苦・楽および貪・瞋等は、自ら相い相違して理は倶の義無し。もし復た位有りて明瞭の焰・声は無間に便ち不明瞭を生ずれば、如何にして同類の不明瞭の法は能く明瞭の同類の法を滅せんや。最後の焰・声は復た誰に由りて滅するか。ある執に灯焰の滅は、住無為を因と為す。ある執に焰の滅する時は、法・非法の力に由る。彼は倶に理に非ず、因無きに非ざるゆえ。非法は非法と為して生滅の因と為す、刹那刹那は順違相反するを以て。あるいは一切の有為法中において、皆此の因の義有ると計度すべし。既に爾れば、本の諍は便ちまさに止息すべし、余の因を待たずして皆刹那有るを許すゆえ。またもし薪等の滅は、火合を因と為せば、熟変の生中において下・中・上有りて、まさに生因の体は即ち滅因と成るべし。所以者何。いわゆる火合に由りて能く薪等をして熟変生あらしめ、中・上の熟は生じ、下・中の熟は滅す。あるいは即ちあるいは似て生の上・中の因は、即ち能く因と為りて下・中の熟を滅せば、則ち生因の体はまさに即ち滅因なるべし。

或滅生因應相無別,不應由即此,或似此彼有,彼復由即此,或似此非有。設於火焰差別生中,容計能生能滅因異;於灰雪酢日水地合能令薪等熟變生中,如何計度生滅因異?若爾,現見煎水減盡,火合於中為何所作?由事火合火界力增,由火界增能令水聚於後後位生漸漸微,乃至最微後便不續,是名火合於中所作。故無有因令諸法滅,法自然滅,是壞性故。自然滅故,才生即滅。由才生即滅,剎那滅義成。有剎那故定無行動,然於無間異方生中,如燒草焰行,起行增上慢。既由斯理行動定無,身表是形理得成立。然經部說:形非實有,謂顯色聚一面多生即於其中假立長色,待此長色於餘色聚一面少中假立短色,於四方面並多生中假立方色,於一切處遍滿生中假立圓色,所餘形色隨應當知。如見火㷮於一方面無間速運便謂為長,見彼周旋謂為圓色,故形無實別類色體。若謂實有別類形色,則應一色二根所取,謂於色聚長等差別,眼見身觸俱能了知,由此應成二根取過。理無色處二根所取。然如依觸取長等相,如是依顯能取於形,豈不觸形俱行一聚?故因取觸能憶念形,非於觸中親取形色。如見火色便憶火煖,及嗅花香能念花色,此中二法定不相離,故因取一可得念餘。無觸與形定不相離,如何取觸能定憶形?若觸與形非定同聚,然由取觸能憶念形,顯色亦應因觸定憶,或應形色如顯無定,則取觸位應不了形。而實不然,故不應說因取於觸能憶念形。或錦等中見多形故,便應一處有多實形。理不應然,如眾顯色,是故形色非實有體。又諸所有有對實色,必應有實別類極微。然無極微名為長等,故即多物如是安布差別相中假立長等。若謂即以形色極微如是安布名為長等,此唯朋黨,非極成故。謂若形色有別極微自相極成,可得聚集如是安布以為長等。非諸形色有別極微自相極成猶如顯色,云何得有聚集安布?

(論に続けて曰く:)あるいは滅・生の因はまさに相別無きべく、まさに即ち此に由るべからず、あるいは此に似て彼有り、彼は復た即ち此に由り、あるいは此に似て非有。設ひ火焰の差別の生中において、能生・能滅の因の異なるを計度するを容れんも、灰・雪・酢・日・水・地の合は能く薪等をして熟変生あらしむる中において、如何にして生滅の因の異なるを計度せん。もし爾ならば、現に水を煎じて減盡するを見るに、火合はその中において何の作す所か。事の火合に由りて火界の力は増し、火界の増するに由りて能く水聚をして後後の位において漸々微を生ぜしめ、乃至最微の後に便ち續がず、是れを火合のその中において作す所と名づく。ゆえに因の諸法をして滅せしむる有る無し、法は自然に滅す、是れ壊性なるゆえ。自然に滅するゆえに、纔かに生ぜば即ち滅す。纔かに生じて即ち滅するに由りて、刹那滅の義は成る。刹那有るゆえに定めて行動無し、しかるに無間に異方に生ずる中において、草を焼く焰の行くが如く、行の増上慢を起す。既に斯の理に由りて行動は定めて無ければ、身表は是れ形なる理は成立することを得。しかるに経部は説く:形は実有に非ず、いわゆる顕色の聚は一面に多く生ずれば即ちその中において假に長色を立て、此の長色に待ちて余の色聚の一面に少なき中において假に短色を立て、四面の方において并びて多く生ずる中において假に方色を立て、一切の処に遍満して生ずる中において假に円色を立つ、余の形色はその応ずる所に随い知るべし。火㷮の一方面において無間に速く運ぶを見て便ち長と謂い、彼の周旋するを見て円色と謂うが如く、ゆえに形は実の別類の色体無し。もし実に別類の形色有りと謂わば、則ちまさに一色は二根の取る所なるべし、いわゆる色聚の長等の差別において、眼に見え身に触れて倶に能く了知す、此に由りてまさに二根の取の過を成すべし。理は色処の二根の取る所無し。しかるに触に依りて長等の相を取るが如く、かくのごとき顕に依りて能く形を取る、豈に触・形は倶に一聚に行ぜざらんや。ゆえに触を取るに因りて能く形を憶念す、触中において親しく形色を取るに非ず。火の色を見て便ち火の暖かさを憶し、および花の香を嗅ぎて能く花の色を念ずるが如く、此中の二法は定めて相い離れず、ゆえに一を取るに因りて余を念ずるを得。触と形との定めて相い離れざる無し、如何にして触を取りて能く定めて形を憶せん。もし触と形とは定めて同聚に非ざらば、しかるに触を取るに由りて能く形を憶念せば、顕色もまたまさに触に因りて定めて憶ずべく、あるいはまさに形色は顕の如く定無かるべく、則ち触を取る位においてまさに形を了せざるべし。而も実はこの如くならず、ゆえにまさに触を取るに因りて能く形を憶念すと説くべからず。あるいは錦等中に多くの形を見るゆえに、便ちまさに一処に多くの実形有るべし。理はまさにこの如くあるべからず、衆の顕色の如く、是れを以て形色は実の体有るに非ず。また諸の所有する有対の実色は、必ずまさに実の別類の極微有るべし。しかるに長等と名づく極微無し、ゆえに即ち多物のかくのごとき安布の差別相中において假に長等を立つ。もし即ち形色の極微を以てかくのごとき安布を長等と名づくと謂わば、此はただ是れ朋党、極成に非ざるゆえ。いわゆるもし形色に別の極微の自ら相い極成する有らば、聚集してかくのごとき安布して以て長等と為すを得べし。諸の形色に別の極微の自ら相い極成する有るに非ざるは猶お顕色の如し、如何にして聚集の安布有るを得んや。

豈不現見諸土器等,有顯相同而形相異?為不已辯即於多物安布差別假立長等,如眾蟻等有相不殊,然有行輪安布形別。形依顯等理亦應然。豈不闇中或於遠處觀杌等物了形非顯,寧即顯等安布為形,以闇遠中觀顯不了,是故但起長等分別。如於遠闇觀眾樹人,但了行軍不知別相,理必應爾,以或有時不了顯形唯知總聚。既已遮遣行動及形,汝等經部宗立何為身表?立形為身表,但假而非實。既執但用假為身表,復立何法為身業耶?若業依身立為身業,謂能種種運動身思,依身門行故名身業。語業意業隨其所應,立差別名當知亦爾。若爾,何故契經中說有二種業:一者思業、二思已業。此二何異?謂前加行起思惟思,我當應為如是如是所應作事名為思業。既思惟已起作事思,隨前所思作所作事,動身發語名思已業。若爾,表業則為定無。表業既無,欲無表業亦應非有,便成大過。如是大過有理能遮,謂從如前所說二表,殊勝思故起思差別,名為無表。此有何過?此應名為隨心轉業,如定無表心俱轉故。無如是過,審決勝思、動發勝思所引生故。設許有表,亦待如前所說思力,以性鈍故。毘婆沙師說:形是實故,身表業形色為體,語表業體謂即言聲,無表業相如前已說。經部亦說:此非實有,由先誓限唯不作故。彼亦依過去大種施設,然過去大種體非有故,又諸無表無色相故。毘婆沙說:此亦實有。云何知然?頌曰:

(論に続けて曰く:)豈に現に諸の土器等を見て、顕相同じくして形相の異なる有らざらんや。為に已に弁ぜざらんや、即ち多物において安布の差別に假に長等を立つ、衆の蟻等の相殊ならざる有るが如く、しかるに行輪の安布の形の別有り。形は顕等に依る理もまたまさにこの如くあるべし。豈に暗中あるいは遠処において杌等の物を観て形を了して顕を了せざる、寧ろ即ち顕等の安布を形と為さんや、暗・遠中において顕を観て了せざるを以て、是れを以て但だ長等の分別を起す。遠暗において衆樹・人を観ずるが如く、但だ行軍を了して別相を知らず、理は必ずまさにこの如くあるべし、あるいは時有りて顕形を了せずただ総聚を知るを以て。既に行動および形を遮遣し已りて、汝等の経部宗は何を立てて身表と為すか。形を立てて身表と為す、但だ假にして実に非ず。既に但だ假を用いて身表と為すと執せば、復た何の法を立てて身業と為さんか。もし業は身に依りて身業と立てば、いわゆる能く種種に身を運動する思、身門に依りて行ずるゆえに身業と名づく。語業・意業はその応ずる所に随い、差別の名を立つるはまさに知るべきこともまたこの如し。もし爾ならば、何の故に契経中に二種の業有りと説く:一に思業、二に思已業。此の二は何の異なるか。いわゆる前に加行して思惟の思を起し、我はまさにかくのごときかくのごときのまさに作すべき事を為すべしと名づくるを思業と為す。既に思惟し已りて作事の思を起し、前の思う所に随いて作す所の事を作し、身を動かし語を発するを思已業と名づく。もし爾ならば、表業は則ち定めて無しを為さん。表業は既に無ければ、欲の無表業もまたまさに有るべからず、便ち大過を成さん。かくのごとき大過は理有りて能く遮る、いわゆる前の説く所の如き二表より、殊勝の思なるゆえに思の差別を起して、無表と名づく。此は何の過か有る。此はまさに随心転の業と名づくべし、定の無表は心と倶に転ずるが如きゆえ。かくのごとき過無し、審決の勝思・動発の勝思の引生する所なるゆえ。設ひ表有りを許すとも、もまた前の説く所の如き思の力を待つ、性は鈍なるを以て。毘婆沙師は説く:形は是れ実なるゆえ、身表業は形色を体と為し、語表業の体は即ち言声を謂い、無表業の相は前に已に説くが如し、と。経部もまた説く:此は実有に非ず、先の誓限に由りてただ作さざるを以て。彼もまた過去の大種に依りて施設す、しかるに過去の大種の体は有るに非ざるゆえ、また諸の無表は色相無きゆえ。毘婆沙は説く:此もまた実有。如何にしてこの如くを知るか。頌に曰く:

說三無漏色,增非作等故。

三の無漏の色を説く、増・非作等のゆえ。

論曰:以契經說色有三種,此三為處攝一切色:一者有色有見有對、二者有色無見有對、三者有色無見無對。又契經中說有無漏色,如契經說:無漏法雲何?謂於過去未來現在諸所有色不起愛恚,乃至識亦然。是名無漏法。除無表色,何法名為無見無對及無漏色?又契經說有福增長,如契經言:諸有淨信,若善男子或善女人,成就有依七福業事,若行若住若寐若覺,恆時相續,福業漸增福業續起,無依亦爾。除無表業,若起餘心或無心時,依何法說福業增長?又非自作,但遣他為,若無無表業,不應成業道。以遣他表非彼業道攝,此業未能正作所作故、使作所作已、此性無異故。又契經說:苾芻當知,法謂外處。是十一處所不攝法無見無對,不言無色。若不觀於法處所攝無表色者,此言闕減便成無用。又若無無表,應無八道支,以在定時語等無故。若爾,何故契經中言:彼如是知、彼如是見,修習正見、正思惟、正精進、正念、正定皆至圓滿。正語、業、命先時已得清淨鮮白,此依先時已得世間離染道說,無相違過。又若撥無無表色者,則亦應無有別解脫律儀,非受戒後有戒相續,雖起異緣心而名苾芻等。又契經說:離殺等戒名為隄塘戒,能長時相續堰遏犯戒過故。非無有體可名隄塘。由此等證知,實有無表色。經部師說:此證雖多種種希奇,然不應理。所以然者?所引證中且初經言有三色者,瑜伽師說:修靜慮時定力所生定境界色,非眼根境故名無見、不障處所故名無對。若謂既爾,如何名色釋如是難與無表同?又經所言無漏色者,瑜伽師說:即由定力所生色中,依無漏定者即說為無漏。有餘師言:無學身色及諸外色皆是無漏,非漏依故得無漏名。何故經言有漏法者諸所有眼乃至廣說?此非漏對治故得有漏名,是則此應言有漏亦無漏。若爾,何過?有相雜失。若依此理說為有漏,曾不依此說為無漏。

論に曰く:契経は色に三種有りと説くを以て、此の三は処を為りて一切の色を摂す:一に色有りて見有り対有り、二に色有りて見無く対有り、三に色有りて見無く対無し。また契経中に無漏の色有りと説く、契経の説くが如く:無漏の法は如何。いわゆる過去・未来・現在の諸の所有する色において愛・恚を起さず、乃至識もまたこの如し、是れを無漏法と名づく、と。無表の色を除きて、何の法か見無く対無しおよび無漏の色と名づくるか。また契経に福の増長有りと説く、契経の説くが如く:諸の浄信有る、もし善男子あるいは善女人は、依有る七の福業の事を成就し、もし行きもし住しもし寐もし覚むとも、恒時に相续して、福業は漸に増し福業は続きて起る、依無きもまたこの如し、と。無表業を除きて、もし余の心を起すあるいは無心の時に、何の法に依りて福業の増長を説くか。また自ら作すに非ずして但だ他を遣りて為すは、もし無表業無ければ、まさに業道を成ずべからず。他を遣る表は彼の業道の摂に非ざるを以て、此の業は未だ能く正しく作す所を作さざるゆえ、作す所を作さしめ已って、此の性は異なる無きゆえ。また契経に説く:苾芻まさに知るべし、法とは外処を謂う。是の十一処の摂せざる所の法は見無く対無し、無色と説かず。もし法処の摂する所の無表色を観ざれば、此の言は闕減して便ち無用を成さん。またもし無表無ければ、まさに八の道支無かるべし、定中に在る時は語等無きを以て。もし爾ならば、何の故に契経中に説く:彼はかくのごとく知り、彼はかくのごとく見て、正見・正思惟・正精進・正念・正定を修習して皆円満に至る。正語・業・命は先の時に已に清浄鮮白を得、此は先の時に已に得たる世間の離染の道に依りて説き、相違の過無し、と。またもし無表色無しと撥すれば、則ちもまたまさに別解脱の律儀有るべからず、戒を受けたる後に戒の相续有りて、異縁の心を起すと雖も而も苾芻等と名づくるに非ず。また契経に説く:殺等を離るる戒を堤塘の戒と名づく、能く長時に相续して犯戒の過を堰遏するゆえ。体有る無くして堤塘と名づくべからず。此の等の証に由りて知る、実に無表色有り。経部師は説く:此の証は多く種種希奇なりと雖も、しかるにまさに理に応ぜず。所以はこの如く何ぞ。引く所の証中の且つ初の経の三色有りと説くは、瑜伽師は説く:静慮を修する時に定の力の生ずる所の定境界の色、眼根の境に非ざるゆえに無見と名づき、処所を障えざるゆえに無対と名づく、と。もし既に爾りと謂わば、如何にして色と名づくるか、かくの難を釋するは無表と同じ。また経の言う所の無漏色とは、瑜伽師は説く:即ち定の力の生ずる所の色中に由りて、無漏の定に依るを即ち無漏と説き為す。ある余師の説に:無学の身色および諸の外色は皆是れ無漏、漏の依に非ざるゆえに無漏の名を得、と。何の故に経は有漏の法を説くに諸の所有する眼乃至広説するか。此は漏の対治に非ざるゆえに有漏の名を得、是れ則ち此はまさに有漏にもまた無漏を説くべし。もし爾ならば、何の過か有る。相雑の失有り。もし此の理に依りて有漏と為して説けば、曾て此に依りて無漏と為して説かざるに非ず。

無漏亦然,有何相雜?若色處等一向有漏,此經何緣差別而說?如說有漏有取諸色心栽覆事,聲等亦爾。又經所說福增長言,先軌範師作如是釋:由法爾力福業增長,如如施主所施財物。如是如是受者受用,由諸受者受用施物,功德攝益有差別故。於後施主心雖異緣,而前緣施思所燻習,微細相續漸漸轉變差別而生,由此當來能感多果。故密意說,恆時相續福業漸增福業續起。若謂如何由餘相續德益差別令餘相續心雖異緣而有轉變?釋此疑難與無表同。彼復如何由餘相續德益差別令餘相續別有真實無表法生?若於無依諸福業事如何相續福業增長,亦由數習緣彼思故,乃至夢中亦恆隨轉。無表論者於無依福既無表業,寧有無表?有說:有依諸福業事,亦由數習緣彼境思,故說恆時相續增長。若爾,經說:諸有苾芻具淨屍羅成調善法,受他所施諸飲食已,入無量心定身證具足住。由此因緣應知施主無量福善滋潤相續,無量安樂流注其身。施主爾時福恆增長,豈定常有緣彼勝思?是故所言思所燻習微細相續漸漸轉變差別而生,定為應理。又非自作但遣他為業道如何得成滿者,應如是說:由本加行,使者依教所作成時,法爾能令教者微細相續轉變差別而生,由此當來能感多果。諸有自作事究竟時,當知亦由如是道理。應知即此微細相續轉變差別名為業道,此即於果假立因名,是身語業所引果故。如執別有無表,論宗無表亦名身語業道。然大德說:於取蘊中由三時起思,為殺罪所觸,謂我當殺正殺殺已。非但由此業道究竟,勿自母等實未被害,由謂已害成無間業。然於自造不誤殺事,起如是思,殺罪便觸。若依此說非不應理,何於無表偏懷憎嫉定撥為無,而許所燻微細相續轉變差別?

(論に続けて曰く:)無漏もまたこの如し、何の相雑か有らん。もし色処等は一向に有漏ならば、此の経は何の縁に差別して説くか。有漏は取有る諸色の心栽の覆事を説くが如く、声等もまたこの如し。また経の説く所の福増長の言は、先の軌範師はかくの釋を作す:法爾の力に由りて福業は増長す、施主の施す所の財物の如くの如く。かくのごときかくのごとき受者は受用す、諸の受者の施物を受用するに由りて、功徳の摂益に差別有るゆえ。後において施主の心は異に縁ると雖も、而も前の施に縁ずる思の熏習する所は、微細に相续して漸々に転変し差別して生ず、此に由りて当来に能く多くの果を感ず。ゆえに密意に説く、恒時に相续して福業は漸に増し福業は続きて起る、と。もし如何にして余の相续の徳益の差別に由りて余の相续の心は異に縁ると雖も而も転変有らんと謂わば。此の疑難を釋するは無表と同じ。彼は復た如何にして余の相续の徳益の差別に由りて余の相续に別に真実の無表の法の生ずる有らしむるか。もし依無き諸の福業の事において如何にして相续して福業は増長せんや、もまた数習して彼の思に縁ずるゆえ、乃至夢中にも恒に随転す。無表を論ずるは依無き福において既に表業無く、寧ぞ無表有らんや。ある説に:依有る諸の福業の事も、もまた数習して彼の境の思に縁ずるに由り、ゆえに恒時に相续して増長すと説く。もし爾ならば、経に説く:諸の苾芻有りて浄尸羅を具して調善法を成し、他の施す所の諸の飲食を受け已りて、無量の心定に入りて身に証して具足して住す。此の因縁に由りてまさに施主に無量の福善の滋潤する相续有るを知るべく、無量の安楽はその身に流注す。施主は爾の時に福は恒に増長す、豈に定めて常に彼に縁ずる勝思有らんや。是れを以て言う所の思の熏習する所は微細に相续して漸々に転変し差別して生ずるは、定めてまさに理に応ずべし。また自ら作すに非ずして但だ他を遣りて為すは業道は如何にして成満を得るか、まさにかくの説を作すべし:本の加行に由りて、使者の教に依りて作す所の成ずる時に、法爾に能く教する者に微細に相续して転変し差別して生ぜしむ、此に由りて当来に能く多くの果を感ず。諸の自ら作す事の究竟の時は、まさに知るべしもまたかくのごとき道理に由る。まさに即ち此の微細相续の転変差別を業道と名づくと知るべし、此即ち果において假に因の名を立つ、是れ身・語業の引く所の果なるゆえ。別に無表有りと執するが如く、論の宗は無表もまた身・語業道と名づく。しかるに大徳は説く:蘊を取る中において三時に由りて思を起し、殺罪の触るる所と為る、いわゆる我まさに殺すべし・正に殺す・殺し已り、と。但だ此に由りて業道は究竟するに非ず、自の母等の実に未だ害せられざるを勿れ、已に害せりと謂うに由りて無間業を成す。しかるに自ら造る誤らざる殺の事において、かくのごとき思を起せば、殺罪は便ち触る。もし此の説に依れば理に応ぜざるに非ず、何ぞ無表において偏えに憎嫉を懐きて定めて無と撥し、而も熏する所の微細相续の転変差別を許すや。

然此與彼俱難了知,今於此中無所憎嫉,然許業道是心種類,由身加行事究竟時,離於心身於能教者身中別有無表法生,如是所宗不令生喜。若由此引彼加行生事究竟時,即此由彼相續轉變差別而生,如是所宗可令生喜。但由心等相續轉變差別,能生未來果故。又先已說。先說者何?謂表業既無,寧有無表等。又說法處不言無色,由有如前所說定境無見無對法處攝色。又言道支應無八者,且彼應說正在道時,如何得有正語業命?為於此位有發正言、起正作業求衣等不?不爾,云何由彼獲得如是種類無漏無表,故出觀後由前勢力能起三正不起三邪,以於因中立果名故,於無表立語業命名。若爾,云何不受此義?雖無無表而在道時,獲得如斯意樂依止,故出觀後由前勢力,能起三正不起三邪。以於因中立果名故,可具安立八聖道支。有餘師言:唯說不作邪語等事以為道支,謂在定時由聖道力,便能獲得決定不作。此定不作,依無漏道而得安立,故名無漏,非一切處要依真實別有法體方立名數。如八世法,謂得、不得及與毀、譽、稱、譏、苦、樂。非此不得衣食等事別有實體,此亦應然。別解脫律儀亦應准此,謂由思願力先立要期,能定遮防身語惡業,由斯故建立別解脫律儀。若起異緣心應無律儀者,此難非理,由燻習力欲起過時憶便止故。戒為隄塘義亦應准此,謂先立誓限定不作惡,後數憶念慚愧現前,能自制持令不犯戒。故隄塘義由心受持,若由無表能遮犯戒,應無失念而破戒者。且止此等眾多諍論。毘婆沙師說有實物名無表色,是我所宗。前說無表大種所造性,為表大種造、為有異耶?頌曰:

(論に続けて曰く:)しかるに此と彼とは倶に了知し難し、今此の中において憎嫉する所無し、しかるに業道は心の種類を許す、身の加行に由りて事の究竟する時に、心身を離れて能く教える者の身中において別に無表の法の生ずる有り、かくのごとき宗する所は喜を生ぜしめず。もし此に由りて彼の加行の生ずる事の究竟する時に、即ち此は彼に由りて相续の転変差別して生ずれば、かくのごとき宗する所は喜を生ぜしむべし。但だ心等の相续の転変差別に由りて、能く未来の果を生ずるゆえ。また先に已に説きたり。先に説くとは是れ何ぞ。いわゆる表業は既に無し、寧ぞ無表有らん等。また法処を説きて無色を説かざるは、前の説く所の如き定境の見無く対無しの法処の摂する色有るに由る。また道支を説きてまさに八無かるべきは、且つ彼はまさに説くべし、正に道に在る時に、如何にして正語・業・命有るを得るか。是れ此の位において正言を発し、正作業を起して衣等を求める有るか否や。然らず、如何にして彼に由りてかくのごとき種類の無漏の無表を獲得するか、ゆえに観を出でたる後に前の勢力に由りて能く三正を起して三邪を起さず、因中において果の名を立つるを以て、無表において語業の命の名を立つ。もし爾ならば、如何にして此の義を受けざるか。無表無しと雖も而も道に在る時に、斯の如き意楽の依止を獲得す、ゆえに観を出でたる後に前の勢力に由りて、能く三正を起して三邪を起さず。因中において果の名を立つるを以て、具に八聖道支を安立すべし。ある余師の説に:ただ邪語等の事を作さずと説きて以て道支と為す、いわゆる定中に在る時に聖道の力に由りて、便ち能く決定して作さざるを獲得す。此の定に作さざるは、無漏の道に依りて安立を得、ゆえに無漏と名づく、一切の処に要して真実に別の法体に依りて方に名数を立つるに非ず。八世法の如く、いわゆる得・不得および与に毀・誉・称・譏・苦・楽。此の不得の衣食等の事に別の実体有るに非ず、此もまたまさにこの如くあるべし。別解脱の律儀もまたまさに此に准ずべし、いわゆる思愿の力に由りて先に要期を立て、能く定めて身・語の悪業を遮防す、斯に由るゆえに別解脱の律儀を建立す。もし異縁の心を起せばまさに律儀無かるべきは、此の難は理に非ず、熏習の力に由りて過を起さんと欲すれば憶して便ち止むるゆえ。戒の堤塘の義もまたまさに此に准ずべし、いわゆる先に誓限を立てて定めて悪を作さず、後に数々憶念して慚愧は現前し、能く自ら制持して戒を犯さざらしむ。ゆえに堤塘の義は心に由りて受持す、もし無表に由りて能く戒を犯すを遮らば、まさに念を失して戒を破る無かるべし。且つ此の等の衆多の諍論を止めん。毘婆沙師は実物有りて無表色と名づくと説く、是れ我が宗する所。前に説く無表は大種の造る所の性、是れ表の大種の造か、是れ異有るか。頌に曰く:

此能造大種,異於表所依。

此の能造の大種は、表の依る所に異なり。

論曰:無表與表異大種生。所以者何?從一和合有細麁果,不應理故。如表與大必同時生,無表亦然,為有差別。一切所造色多與大種俱時而生,然現在未來亦有少分依過去者。少分者何?頌曰:

論に曰く:無表は表と異なる大種より生ず。所以者何。一の和合より細・粗の果有るは、理に応ぜざるゆえ。表は大と必ず同時に生ずるが如く、無表もまたこの如し、是れ差別有るが為。一切の造る所の色は多くは大種と倶時に生ず、しかるに現在・未来にもまた少分有りて過去に依る。少分とは是れ何ぞ。頌に曰く:

欲後念無表,依過大種生。

欲の後念の無表は、過去の大種に依りて生ず。

論曰:唯欲界繫初剎那後,所有無表從過大生,此為所依無表得起。現身大種但能為依,為轉隨轉因隨其次第,如輪行於地,手地為依。何地身語業?何地大所造?頌曰:

論に曰く:ただ欲界の繫は初の刹那の後、所有する無表は過去の大より生ず、此を所依と為して無表は起ることを得。現身の大種は但だ能く依と為る、転・随転の因と為りてその次第に随う、輪の地を行くが如く、手・地は依と為る。何の地の身・語業か。何の地の大の造る所か。頌に曰く:

有漏自地依,無漏隨生處。

有漏は自地に依す、無漏は生ずる処に随う。

論曰:欲界所繫身語二業,唯欲界繫大種所造。如是乃至第四靜慮身語二業,唯是彼地大種所造。若身語業是無漏者,隨生此地應起現前,即是此地大種所造,以無漏法不墮界故、必無大種是無漏故、由所依力無漏生故。此表無表其類是何?復是何類大種所造?頌曰:

論に曰く:欲界の繫する所の身・語の二業は、ただ欲界の繫の大種の造る所。かくのごとき乃至第四静慮の身・語の二業は、ただ是れ彼の地の大種の造る所。もし身・語業は是れ無漏ならば、此の地に生ずるに随いまさに現前を起すべく、即ち是れ此の地の大種の造る所、無漏の法は界に堕せざるを以て、必ず大種の是れ無漏有る無きを以て、依る所の力に由りて無漏は生ずるゆえ。此の表・無表はその類は是れ何ぞ。復た是れ何の類の大種の造る所か。頌に曰く:

無表無執受,亦等流情數,

無表は執受無し、もまた等流・情の数、

散依等流性,有受異大生,

散に依るは等流性、受有りて異大の生、

定生依長養,無受無異大,

定生は長養に依る、受無く異大無し、

表唯等流性,屬身有執受。

表はただ等流性、身に属して執受有り。

論曰:今此頌中先辯無表是無執受,無變礙故。亦等流性,亦言顯此有是剎那,謂初無漏。餘皆等流性,謂同類因生。此唯有情,依內起故。於中欲界所有無表,等流有受別異大生。異大生言顯身語七一一是別大種所造,定生無表差別有二。謂諸靜慮無漏律儀。此二俱依定所長養。無受無異大種所生。無異大言顯此無表七支同一具四大種所生。所以者何?所依大種,如心唯一,無差別故。應知有表唯是等流,此若屬身是有執受,餘義皆與散無表同。表業生時為要破壞本身形量、為不爾耶?若爾,何失?若破壞者,異熟色斷應可更續,是則違越毘婆沙宗。若不破壞,如何得有一身處所二形量成?有別新生等流大種,造有表業不破本身。若爾,隨依何身分處起有表業應大於本,新生大種遍增益故。若不遍增益,如何遍生表?身有孔隙,故得相容。已辯業門二三五別。此性界地差別云何?頌曰:

論に曰く:今此の頌中に先ず無表は是れ執受無きを弁ず、変礙無きゆえ。もまた等流性、もとの言は此に是れ刹那有るを顕す、いわゆる初の無漏。余は皆等流性、いわゆる同類の因の生。此はただ有情、内に依りて起るゆえ。其の中の欲界の所有する無表は、等流にして受有りて別異の大の生。異大生の言は身・語の七は一一は別の大種の造る所を顕す、定生の無表は差別に二有り。いわゆる諸の静慮・無漏の律儀。此の二は倶に定の長養する所に依る。受無くして異なる大種の生ずる所無し。異大無しの言は此の無表の七支は同一の具の四大種の生ずる所を顕す。所以者何。依る所の大種は、心の唯一なるが如く、差別無きゆえ。まさに表有りてただ是れ等流と知るべし、此はもし身に属せば是れ執受有り、余の義は皆散の無表と同じ。表業の生ずる時に是れ要して本身の形量を破壊するか、是れこの如くならざるか。もし爾ならば、何の失か。もし破壊せば、異熟の色は断えてまさに更に續ぐべきに、是れ則ち毘婆沙の宗に違越す。もし破壊せざれば、如何にして一身の処所に二の形量の成る有るを得ん。別の新生の等流の大種有りて、表有る業を造りて本身を破せず。もし爾ならば、何の身分の処に依りて随い表有る業を起こすとも、まさに本より大なるべし、新生の大種は遍く增益するゆえ。もし遍く增益せざれば、如何にして遍く表を生ぜん。身に孔隙有り、ゆえに相容るるを得。已に業門の二・三・五の別を弁じたり。此の性・界地の差別は如何。頌に曰く:

無表記餘三,不善唯在欲,

無表・記・余は三、不善はただ欲に在り、

無表遍欲色,表唯有伺二,

無表は欲・色に遍く、表はただ伺有る二、

欲無有覆表,以無等起故。

欲に覆有る表無し、等起無きを以て。

論曰:無表唯通善不善性,無有無記。所以者何?以無記心勢力微劣,不能引發強業令生,可因滅時果仍續起。所言餘者,謂表及思。三謂皆通善、惡、無記。於中不善在欲非餘,已斷不善根無慚無愧故。善及無記諸地皆有,以於頌中不別遮故。欲色二界皆有無表,以無色中無大種故。隨於何處有身語轉,唯是處有身語律儀。若爾,身生欲色二界入無色定應有律儀,如起無漏心有無漏無表。不爾,以彼不墮界故。於無色界若有無表,應有無表非大種生。不可說言有漏無表以別界地大種為依。又背諸色入無色定,故彼定中不能生色,由彼定有伏色想故。毘婆沙師作如是說:為治惡戒故起屍羅。唯欲界中有諸惡戒,無色於欲具四種遠:一所依遠、二行相遠、三所緣遠、四對治遠,故無色中無無表色。表色唯在二有伺地,謂通欲界初靜慮中,非上地中可言有表。有覆無記表,欲界定無,唯於梵世中可得說有。曾聞大梵有誑諂言,謂自眾中為避馬勝所徵問故矯自歎等。上地既無言,何得有聲處?有外大種為因發聲。有餘師言:上三靜慮亦有無覆無記表業,無善無染。所以者何?非上地生能起下地善及染心發身語表,劣故斷故。前說為善。復以何因二定以上都無表業?於欲界中無有有覆無記表業,以無發業等起心故。有尋伺心能發表業,二定以上都無此心。又發表心唯修所斷,見所斷惑內門轉故。以欲界中決定無有有覆無記修所斷惑,是故表業上三地都無。欲界中無有覆無記表,為但由等起令諸法成善不善性等?不爾。云何?由四種因成善性等:一由勝義、二由自性、三由相應、四由等起。何法何性由何因成?頌曰:

論に曰く:無表はただ善・不善の性に通ず、無記の有る無し。所以者何。無記の心は勢力は微劣にして、能く強き業を引发して生ぜしめず、因の滅する時に果は仍りて続き起るべきを以て。言う所の余とは、表および思を謂う。三とは皆善・悪・無記に通ず。その中の不善は欲に在りて余に非ず、已に不善根を断ちて慚無く愧無きゆえ。善および無記は諸の地に皆有り、頌中において別に遮らざるを以て。欲・色の二界は皆無表有り、無色中に大種無きを以て。何の処においてか随い身・語の転ずる有れば、ただ是の処に身・語の律儀有り。もし爾ならば、身は欲・色の二界に生じて無色定に入るはまさに律儀有るべし、無漏心を起すに無漏の無表有るが如く。然らず、彼は界に堕せざるを以て。無色界においてもし無表有らば、まさに大種の生ずるに非ざる無表有るべし。有漏の無表は別界地の大種を以て依と為すと説くべからず。また諸の色に背きて無色定に入る、ゆえに彼の定中は能く色を生ぜず、彼の定は伏色の想有るに由るゆえ。毘婆沙師はかくの説を作す:悪戒を治せんが為に尸羅を起す。ただ欲界中に諸の悪戒有り、無色は欲において具に四種の遠有り:一に所依遠、二に行相遠、三に所縁遠、四に対治遠、ゆえに無色中に無表色無し。表色はただ二の伺有る地に在り、いわゆる欲界・初静慮中に通ず、上地中には表有りと説くべからず。有覆の無記の表は、欲界は定めて無し、ただ梵世中において有りと説くべし。曾て聞く大梵に誑諂の言有り、いわゆる自の衆中において馬勝の征問する所を避けんが為に矯めて自ら歎ずる等。上地は既に言無し、何ぞ声の処有るを得ん。外の大種有りて因と為りて声を発す。ある余師の説に:上の三静慮にもまた無覆の無記の表業有り、善無く染無し。所以者何。上地の生は能く下地の善および染心を起して身・語の表を発するに非ず、劣なるゆえ断ぜられしゆえ。前の説くを善と為す。復た何の因を以て二定より上は都て表業無きか。欲界中には有覆無記の表業の有る無し、発業の等起心無きを以て。尋伺の心有りて能く表業を発す、二定より上は都て此の心無し。また表を発する心はただ修の断ずる所、見の断ずる所の惑は内門に転ずるゆえ。欲界中に決定して有覆無記の修の断ずる所の惑の有ること無きを以て、是れを以て表業は上の三地に都て無し。欲界中に有覆無記の表無きは、是れ但だ等起に由りて諸法をして善・不善性等を成さしむるか。然らず。如何。四種の因に由りて善性等を成す:一に勝義に由り、二に自性に由り、三に相応に由り、四に等起に由る。何の法の何の性か何の因に由りて成るか。頌に曰く:

勝義善解脫,自性慚愧根,

勝義の善は解脱、自性は慚愧の根、

相應彼相應,等起色業等,

相応は彼の相応、等起は色・業等、

翻此名不善,勝無記二常。

此を翻して不善と名づく、勝・無記は二の常。

論曰:勝義善者,謂真解脫,以涅槃中最極安隱、眾苦永寂猶如無病。自性善者,謂慚愧根,以有為中唯慚與愧及無貪等三種善根,不待相應及餘等起,體性是善猶如良藥。相應善者,謂彼相應,以心心所要與慚愧善根相應方成善性,若不與彼慚等相應,善性不成,如雜藥水。等起善者,謂身語業不相應行,以是自性及相應善所等起故,如良藥汁所引生乳。若異類心所起得等,云何成善?此義應思,如說善性四種差別,不善四種與此相違。云何相違?勝義不善,謂生死法。由生死中諸法皆以苦為自性,極不安隱猶如痼疾。自性不善,謂無慚愧三不善根,由有漏中唯無慚愧及貪瞋等三不善根,不待相應及餘等起,體是不善猶如毒藥。相應不善,謂彼相應,由心心所法要與無慚愧不善根相應方成不善性,異則不然,如雜毒水。等起不善,謂身語業不相應行,以是自性相應不善所等起故,如毒藥汁所引生乳。若爾,便無一有漏法是無記或善,皆生死攝故。若據勝義誠如所言,然於此中約異熟說。諸有漏法若不能記異熟果者立無記名,於中若能記愛異熟說名為善,故無有過。勝義無記,謂二無為,以太虛空及非擇滅唯無記性更無異門。於此應思。若等起力令身語業成善不善,則諸大種例亦應然。以作者心本欲起業,非四大種,故不成例。若爾,定心隨轉無表,非正在定作意引生,亦非散心加行引發,不同類故。如何成善?或天眼耳應成善性,於如是義應設劬勞。如上所言,見所斷惑內門轉故不能發表。若爾,何緣契經中說:由邪見故起邪思惟、邪語、邪業及邪命等。此不相違。何以故?頌曰:

論に曰く:勝義の善とは、真の解脱を謂い、涅槃中に於て最極安隱にして、衆苦は永く寂として猶お病無きが如し。自性の善とは、慚愧の根を謂い、有為中に於てただ慚と愧および無貪等の三種の善根は、相応および余の等起を待たずして、体性は是れ善にして猶お良薬の如し。相応の善とは、彼の相応を謂い、心・心所は要して慚愧・善根と相応して方に善性を成すを以て、もし彼の慚等と相応せざれば、善性は成らず、雜する薬水の如し。等起の善とは、身・語の業・不相応の行を謂い、是れ自性および相応の善の等起する所なるを以て、良薬の汁の引生する所の乳の如し。もし異類の心の起す所の得等は、如何にして善を成さん。此の義はまさに思うべし、善性の四種の差別を説くが如く、不善の四種は此と相違す。如何に相違するか。勝義の不善は、生死の法を謂う。生死中の諸法は皆苦を以て自性と為すに由り、極めて安隱ならずして猶お痼疾の如し。自性の不善は、無慚愧・三不善根を謂う、有漏中に於てただ無慚愧および貪・瞋等の三不善根は、相応および余の等起を待たずして、体は是れ不善にして猶お毒薬の如し。相応の不善は、彼の相応を謂う、心・心所の法は要して無慚愧・不善根と相応して方に不善性を成すに由り、異なれば則ち然らず、雜する毒水の如し。等起の不善は、身・語の業・不相応の行を謂う、是れ自性・相応の不善の等起する所なるを以て、毒薬の汁の引生する所の乳の如し。もし爾ならば、便ち一の有漏の法も是れ無記あるいは善なる無し、皆生死の摂なるゆえ。もし勝義に拠れば誠に言うが如し、しかるに此の中においては異熟に約りて説く。諸の有漏の法はもし能く異熟の果を記せざれば無記の名を立て、其の中においてもし能く愛なる異熟を記すれば善と説き名づく、ゆえに過有る無し。勝義の無記は、二の無為を謂う、太虚空および非択滅はただ無記の性にして更に異門無きを以て。此においてまさに思うべし。もし等起の力は身・語業をして善・不善を成さしむれば、則ち諸の大種は例してもまたまさにこの如くあるべし。作する者の心は本は業を起さんと欲す、四大種に非ず、ゆえに例を成さず。もし爾ならば、定心の随転する無表は、正に定に在りて作意の引生するに非ず、もまた散心の加行の引发するに非ず、同類ならざるゆえ。如何にして善を成さん。あるいは天眼・耳はまさに善性を成すべし、かくのごとき義においてまさに劬労を設くべし。上の言う所の如く、見の断ずる所の惑は内門に転ずるゆえに能く表を発せず。もし爾ならば、何の縁に契経中に説く:邪見に由るゆえに邪思惟・邪語・邪業および邪命等を起す、と。此は相違せず。何以故。頌に曰く:

等起有二種,因及彼剎那,

等起に二種有り、因および彼の刹那、

如次第應知,名轉名隨轉。

次第の如くまさに知るべし、転と名づき随転と名づく。

見斷識唯轉,唯隨轉五識,

見断の識はただ転、ただ随転は五識、

修斷意通二,無漏異熟非。

修断の意は二に通ず、無漏・異熟は非ず。

於轉善等性,隨轉各容三,

転において善等の性は、随転は各々三を容れ、

牟尼善必同,無記隨惑善。

牟尼は善は必ず同じ、無記は惑・善に随う。

論曰:表無表業等起有二,謂因等起、剎那等起,在先為因故、彼剎那有故。如次初名轉,第二名隨轉。謂因等起將作業時,能引發故說名為轉。剎那等起正作業時,不相離故名為隨轉。隨轉於業有何功能?雖有先因為能引發,若無隨轉者如死業應無。若爾,無心如何發戒?諸有心者業起分明,故隨轉心於業有用。見所斷識於發表中唯能為轉,於能起表尋伺生中為資糧故不為隨轉,於外門心正起業時此無有故。又見所斷若發表色,此色則應是見所斷。若許見斷,斯有何失?是則違越阿毘達磨,又明無明不相違故。有漏業色非見所斷,如是道理應更成立。若爾大種亦應見斷,俱見斷心力所起故。無如是過失,如非善不善。或復許爾,理亦無違。不應許然,以諸大種定非見斷及非所斷,以一切種不染汙法與明無明不相違故。彼經但據前因等起而作是說,故不相違。若五識身唯作隨轉,無分別故、外門起故。修斷意識通為二種,有分別故、外門起故。一切無漏異熟生心非轉隨轉,唯在定故、不由加行任運轉故。如是即成四句差別。有轉非隨轉,謂見所斷心。有隨轉非轉,謂眼等五識。有轉亦隨轉,謂修所斷三性意識。有非轉隨轉,謂諸無漏異熟生心。轉隨轉心定同性不?此不決定。其事云何?謂前轉心若是善性,後隨轉識通善等三,不善無記隨轉亦爾。唯牟尼尊轉隨轉識,多分同性少有不同。謂轉若善心隨轉亦善,轉心若無記隨轉亦然。而或有時善隨無記轉,曾無無記為善隨轉時。以佛世尊於說法等,心或增長無萎歇故。有餘部說:諸佛世尊常在定故,心唯是善,無無記心。故契經說:

論に曰く:表・無表業の等起に二有り、いわゆる因等起・刹那等起、先に在りて因と為るゆえ、彼の刹那有るゆえ。次第の如く初めは転と名づき、第二は随転と名づく。いわゆる因等起は将に業を作さんとする時に能く引发するゆえに転と説き名づき、刹那等起は正に業を作す時に相い離れざるゆえに随転と名づく。随転は業において何の功能か有る。先の因の能く引发する有ると雖も、もし随転無ければ死せる業の如くまさに無かるべし。もし爾ならば、無心は如何にして戒を発せん。諸の心有るは業の起るは分明なり、ゆえに随転の心は業において用有り。見の断ずる所の識は表を発する中においてただ能く転と為る、表を起こす能くの尋伺の生中において資糧と為るゆえに随転と為らず、外門の心が正に業を起す時に此の有る無きゆえ。また見の断ずる所はもし表色を発せば、此の色は則ちまさに是れ見の断ずる所なるべし。もし見断を許さば、斯に何の失か有らん。是れ則ち阿毘達磨に違越し、また明・無明は相違せざるゆえ。有漏の業色は見の断ずる所に非ず、かくのごとき道理はまさに更に成立すべし。もし爾ならば大種もまたまさに見断なるべし、倶に見断の心の力の起す所なるゆえ。かくのごとき過失無し、非善・不善の如し。あるいは復たこの如くを許すとも、理もまた違無し。まさにこの如くを許すべからず、諸の大種は定めて見断に非ずおよび断ずる所に非ざるを以て、一切種の染污せざる法は明・無明と相違せざるゆえ。彼の経は但だ前の因等起に拠りて是の説を作す、ゆえに相違せず。もし五識身はただ随転を作すは、分別無きゆえ、外門の起なるゆえ。修断の意識は二種と為すに通ず、分別有るゆえ、外門の起なるゆえ。一切の無漏・異熟生の心は転・随転に非ず、ただ定に在るゆえ、加行に由らずして任運に転ずるゆえ。かくのごとき即ち四句の差別を成す。転有りて随転に非ず、いわゆる見の断ずる所の心。随転有りて転に非ず、いわゆる眼等の五識。転有りてもまた随転、いわゆる修の断ずる所の三性の意識。転・随転に非ざる有り、いわゆる諸の無漏・異熟生の心。転・随転の心は定めて同性か否や。此は決定せず。その事は如何。いわゆる前の転の心はもし是れ善性ならば、後の随転の識は善等の三に通ず、不善・無記の随転もまたこの如し。ただ牟尼尊は転・随転の識は、多分は同性にして少なく不同有り。いわゆる転はもし善心ならば随転もまた善、転の心はもし無記ならば随転もまたこの如し。而も或る時有りて善は無記の転に随い、曾て無記の善の随転の時に為る無し。仏世尊は法を説く等において、心あるいは増長して萎歇すること無きを以て。ある余部の説に:諸の仏世尊は常に定に在るゆえに、心はただ是れ善、無記心無し、と。ゆえに契経に説く:

那伽行在定,那伽住在定,

那伽(龍、仏を喩う)は行くも定に在り、那伽は住するも定に在り、

那伽坐在定,那伽臥在定。

那伽は坐するも定に在り、那伽は卧するも定に在り。

毘婆沙師作如是釋:此顯佛意若不樂散心,則於四威儀能常在定,然於餘位非無威儀及異熟生通果心起。諸有表業成善等性,為如轉心、為如隨轉?設爾,何失?若如轉者,則欲界中應有有覆無記表業,身見邊見能為轉故。或應簡別,非一切種見所斷心皆能為轉,若如隨轉惡無記心俱得別解脫表應非善性。於此徵難應設劬勞,應言如轉心表成善等性,然非如彼見斷轉心,修斷轉心為間隔故。若表不由隨轉心力成善等者,則不應言:彼經但據前因等起非據剎那,故欲界中定無有覆無記表業。但應說言:彼經唯據餘心所間因等起說,故見斷心雖能為轉,而於欲界定無有覆無記表業。

(論に続けて曰く:)毘婆沙師はかくの釋を作す:此は仏の意はもし散心を楽わざれば、則ち四威儀において能く常に定に在るを顕す、しかるに余の位において威儀および異熟生・通果の心の起る無きに非ず。諸の表業の善等の性を成すは、是れ転の心の如くか、是れ随転の如くか。設ひ爾りとも、何の失か。もし転の如くならば、則ち欲界中にまさに有覆無記の表業有るべし、身見・辺見は能く転と為るゆえ。あるいはまさに簡別すべし、一切種の見の断ずる所の心は皆能く転と為るに非ず、もし随転の如く悪・無記の心は倶に別解脱の表を得ればまさに善性に非ざるべし。此の征難においてまさに劬労を設くべし、まさに転の心の如く表は善等の性を成すと説くべし、しかるに彼の見断の転心の如くに非ず、修断の転心は間隔を為すゆえ。もし表は随転の心力に由らずして善等を成せば、則ちまさに説くべからず:彼の経は但だ前の因等起に拠りて刹那に拠らず、ゆえに欲界中に定めて有覆無記の表業無し。但だまさに説くべし:彼の経はただ余の心所の間の因等起に拠りて説く、ゆえに見断の心は能く転と為ると雖も、而も欲界において定めて有覆無記の表業無し。

アビダルマ倶舎論 巻第十三

アビダルマ倶舎論 巻第十四 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別業品第四之二

分別業品 第四之二

傍論已了,復應辯前表無表相。頌曰:

傍論已に了る、復たまさに前の表・無表の相を弁ずべし。頌に曰く:

無表三律儀,不律儀非二。

無表の三は律儀・不律儀・非二。

論曰:此中無表,略說有三:一者律儀、二不律儀、三者非二謂非律儀非不律儀。能遮能滅惡戒相續故名律儀。如是律儀差別有幾?頌曰:

論に曰く:此中の無表は、略して説きて三有り:一には律儀、二に不律儀、三に非二、いわゆる律儀に非ず不律儀に非ず。能く遮り能く悪戒の相续を滅するゆえに律儀と名づく。かくのごとき律儀の差別は几つ有るか。頌に曰く:

律儀別解脫,靜慮及道生。

律儀は別解脱、静慮および道生。

論曰:律儀差別,略有三種:一別解脫律儀,謂欲纏戒;二靜慮生律儀,謂色纏戒;三道生律儀,謂無漏戒。初律儀相差別云何?頌曰:

論に曰く:律儀の差別は、略して三種有り:一に別解脱律儀、いわゆる欲纏の戒、二に静慮生律儀、いわゆる色纏の戒、三に道生律儀、いわゆる無漏の戒。初の律儀の相差別は如何。頌に曰く:

初律儀八種,實體唯有四,

初の律儀は八種、実体はただ四、

形轉名異故,各別不相違。

形転じて名異なるゆえ、各別に相違せず。

論曰:別解脫律儀,相差別有八:一苾芻律儀、二苾芻尼律儀、三正學律儀、四勤策律儀、五勤策女律儀、六近事律儀、七近事女律儀、八近住律儀。如是八種律儀相差別,總名第一別解脫律儀。雖有八名,實體唯四:一苾芻律儀、二勤策律儀、三近事律儀、四近住律儀。唯此四種別解律儀皆有體實,相各別故。所以者何?離苾芻律儀,無別苾芻尼律儀;離勤策律儀,無別正學、勤策女律儀;離近事律儀,無別近事女律儀。云何知然?由形改轉,體雖無捨得,而名有異故。形謂形相,即男女根。由此二根男女形別,但由形轉,令諸律儀名為苾芻、苾芻尼等,謂轉根位,令本苾芻律儀名苾芻尼律儀,或苾芻尼律儀名苾芻律儀;令本勤策律儀名勤策女律儀,或勤策女律儀及正學律儀名勤策律儀;令本近事律儀名近事女律儀,或近事女律儀名近事律儀。非轉根位有捨先得得先未得律儀因緣,故四律儀非異三體。若從近事律儀受勤策律儀,復從勤策律儀受苾芻律儀,此三律儀為由增足遠離方便立別別名。如隻雙金錢及五十二十,為體各別具足頓生。三種律儀體不相雜,其相各別具足頓生。三律儀中具三離殺,乃至具足三離飲酒,餘數多少隨其所應。既爾相望同類何別?由因緣別,相望有異。其事云何?如如求受多種學處,如是如是能離多種憍逸處時,即離眾多殺等緣起。以諸遠離依因緣發,故因緣別遠離有異。若無此事,捨苾芻律儀,爾時則應三律儀皆捨,前二攝在後一中故。既不許然,故三各別。然此三種互不相違,於一身中俱時而轉,非由受後捨前律儀,勿捨苾芻戒便非近事等。近事、近住、勤策、苾芻四種律儀云何安立?頌曰:

論に曰く:別解脱律儀は、相差別に八有り:一に苾芻律儀、二に苾芻尼律儀、三に正学律儀、四に勤策律儀、五に勤策女律儀、六に近事律儀、七に近事女律儀、八に近住律儀。かくのごとき八種の律儀の相差別は、総じて第一の別解脱律儀と名づく。八名有ると雖も、実体はただ四:一に苾芻律儀、二に勤策律儀、三に近事律儀、四に近住律儀。ただ此の四類の別解律儀は皆体実有り、相は各別なるゆえ。所以者何。苾芻律儀を離れて別の苾芻尼律儀無し、勤策律儀を離れて別の正学・勤策女律儀無し、近事律儀を離れて別の近事女律儀無し。如何にしてこの如くを知るか。形の改転に由りて、体は捨得無しと雖も、而も名に異有るゆえ。形とは形相を謂い、即ち男女の根。此の二根に由りて男女の形は別なり、但だ形の転ずるに由りて、諸の律儀をして苾芻・苾芻尼等と名づけしむ、いわゆる根の転ずる位において、本の苾芻律儀をして苾芻尼律儀と名づけしめ、あるいは苾芻尼律儀を苾芻律儀と名づく、本の勤策律儀をして勤策女律儀と名づけしめ、あるいは勤策女律儀および正学律儀を勤策律儀と名づく、本の近事律儀をして近事女律儀と名づけしめ、あるいは近事女律儀を近事律儀と名づく。根の転ずる位に先の得を捨て、先に未だ得ざりし律儀を得る因縁有るに非ず、ゆえに四律儀は三体に異ならず。もし近事律儀より勤策律儀を受け、復た勤策律儀より苾芻律儀を受けば、此の三律儀は是れ増足の遠離の方便に由りて別別の名を立つ。ただ双の金銭および五十・二十の如く、体と為りて各別に具足して頓に生ず。三種の律儀の体は相雑せず、その相は各別に具足して頓に生ず。三律儀中に具に三の離殺有り、乃至具足して三の離飲酒に至り、余の数の多少はその応ずる所に随う。既に爾れば相い望んで同類は何の別か。因縁の別に由りて、相い望みて異有り。その事は如何。求めて多種の学処を受くるが如くの如く、かくのごとき能く多種の憍逸の処を離るる時に、即ち衆多の殺等の縁起を離る。諸の遠離は因縁に依りて発するを以て、ゆえに因縁別なれば遠離に異有り。もし此の事無ければ、苾芻律儀を捨てば、爾の時に則ちまさに三律儀は皆捨つべし、前の二は後の一中に摂するゆえ。既にこの如くを許さざれば、ゆえに三は各別。しかるに此の三種は互いに相違せず、一身中において倶時に転ず、受けたる後に前の律儀を捨つるに由るに非ず、苾芻の戒を捨てば便ち近事に非ざる等を勿れ。近事・近住・勤策・苾芻の四種の律儀は如何にして安立するか。頌に曰く:

受離五八十,一切所應離,

受けて五・八・十を離る、一切の離るべき所、

立近事近住,勤策及苾芻。

近事・近住を立て、勤策および苾芻。

論曰:應知此中如數次第,依四遠離立四律儀。謂受離五所應遠離,安立第一近事律儀。何等名為五所應離?一者殺生、二不與取、三欲邪行、四虛誑語、五飲諸酒。若受離八所應遠離,安立第二近住律儀。何等名為八所應離?一者殺生、二不與取、三非梵行、四虛誑語、五飲諸酒、六塗飾香鬘舞歌觀聽、七眠坐高廣嚴麗床座、八食非時食。若受離十所應遠離,安立第三勤策律儀。何等名為十所應離?謂於前八塗飾香鬘舞歌觀聽開為二種,復加受畜金銀等寶以為第十。若受離一切應離身語業,安立第四苾芻律儀。別解律儀名差別者,頌曰:

論に曰く:まさに此中において数の次第の如く、四の遠離に依りて四律儀を立つべし。いわゆる受けて五の離るべき所を離れんことを安立して第一の近事律儀と為す。何等を五の離るべき所と名づくるか。一に殺生、二に与えずして取る、三に欲の邪行、四に虚誑の語、五に諸の酒を飲む。もし受けて八の離るべき所を離れんことを安立して第二の近住律儀と為す。何等を八の離るべき所と名づくるか。一に殺生、二に与えずして取る、三に非梵行、四に虚誑の語、五に諸の酒を飲む、六に飾香鬘・舞歌・観聴を塗し、七に高広にして厳麗なる床座に眠坐し、八に時に非ざる食を食す。もし受けて十の離るべき所を離れんことを安立して第三の勤策律儀と為す。何等を十の離るべき所と名づくるか。いわゆる前の八において飾香鬘・舞歌・観聴を塗するを開きて二種と為し、復た受けて金・銀等の宝を畜うるを加えて以て第十と為す。もし受けて一切の離るべき身・語業を離れんことを安立して第四の苾芻律儀と為す。別解律儀の名の差別は、頌に曰く:

俱得名屍羅,妙行業律儀,

倶に尸羅の名を得、妙行・業・律儀、

唯初表無表,名別解業道。

ただ初の表・無表を、別解業道と名づく。

論曰:能平險業故名屍羅。訓釋詞者,謂清涼故。如伽他言:受持戒樂,身無熱惱,故名屍羅。智者稱揚,故名妙行。所作自體,故名為業。豈不無表亦名不作,如何今說所作自體?有慚恥者受無表力不造眾惡,故名不作。表思所造,得所作名。有餘釋言:是作因故、是作果故,名作無失。能防身語,故名律儀。如是應知,別解脫戒通初後位無差別名,唯初剎那表及無表,得別解脫及業道名。謂受戒時初表無表,別別棄捨種種惡故。依初別捨義,立別解脫名。即於爾時所作究竟,依業暢義立業道名,故初剎那名別解脫,亦得名曰別解律儀,亦得名為根本業道。從第二念乃至未捨,不名別解脫,名別解律儀;不名業道,名為後起。誰成就何律儀?頌曰:

論に曰く:能く険業を平げるゆえに尸羅と名づく。訓釋の詞とは、いわゆる清涼なるゆえ。伽他の説くが如く:戒を受持して楽しく、身に熱悩無し、ゆえに尸羅と名づく、と。智者の称揚する所なるゆえに妙行と名づく。作す所の自体なるゆえに業と名づく。豈に無表もまた不作と名づくる無からんや、如何にして今作す所の自体と説くか。慚耻有る者は無表の力を受けて衆悪を造らず、ゆえに不作と名づく。表は思の造る所、所作の名を得。ある余の釋に説く:是れ作の因なるゆえ、是れ作の果なるゆえに、作と名づきて失無し。能く身・語を防ぐゆえに律儀と名づく。かくのごときまさに知るべし、別解脱戒は初後の位に通じて差別の名無し、ただ初の刹那の表および無表は、別解脱および業道の名を得。いわゆる戒を受くる時の初の表・無表は、別別に種種の悪を棄捨するゆえ。初の別捨の義に依りて、別解脱の名を立つ。即ち爾の時において作す所は究竟し、業の暢ぶる義に依りて業道の名を立つ、ゆえに初の刹那は別解脱と名づき、もまた別解律儀と名づくるを得、もまた根本業道と名づくるを得。第二念より乃至未だ捨てざるに至るまで、別解脱と名づけず、別解律儀と名づく、業道と名づけず、後起と名づく。誰か何の律儀を成就するか。頌に曰く:

八成別解脫,得靜慮聖者,

八衆は別解脱を成じ、静慮・聖者を得るは、

成靜慮道生,後二隨心轉。

静慮・道生を成ず、後の二は心に随転す。

論曰:八眾皆成就別解脫律儀,謂從苾芻乃至近住。外道無有所受戒耶?雖有,不名別解脫戒。由彼所受無有功能永脫諸惡依著有故。靜慮生者,謂此律儀從靜慮生、或依靜慮。若得靜慮者,定成此律儀。諸靜慮邊亦名靜慮,如近村邑得村邑名故。有說言於此村邑有稻田等,此亦應然。道生律儀聖者成就,此復有二:謂學、無學。於前分別俱有因中說二律儀是隨心轉,於此三內其二者何?謂靜慮生及道生二,非別解脫。所以者何?異心無心亦恆轉故。靜慮、無漏二種律儀,亦名斷律儀。依何位建立?頌曰:

論に曰く:八衆は皆別解脱律儀を成就す、いわゆる苾芻より乃至近住に至る。外道は受くる所の戒無きか。有ると雖も、別解脱戒と名づけず。彼の受くる所は永く諸の悪を脱するの功能無く、有に依着するゆえ。静慮生とは、いわゆる此の律儀は静慮より生じ、あるいは静慮に依る。もし静慮を得たれば、定めて此の律儀を成ず。諸の静慮の辺もまた静慮と名づく、村邑に近づきて村邑の名を得るが如きゆえ。ある説に此の村邑において稻田等有り、此もまたまさにこの如くあるべし。道生律儀は聖者は成就す、此は復た二有り、いわゆる学・無学。前の倶有因を分別する中に二律儀は是れ随心転と説く、此の三内においてその二とは是れ何ぞ。いわゆる静慮生および道生の二、別解脱に非ず。所以者何。異心・無心もまた恒に転ずるゆえ。静慮・無漏の二種の律儀は、もまた断律儀と名づく。何の位に依りて建立するか。頌に曰く:

未至九無間,俱生二名斷。

未至の九の無間に、倶生の二を断と名づく。

論曰:未至定中九無間道,俱生靜慮無漏律儀,以能永斷欲纏惡戒及能起惑名斷律儀。由此或有靜慮律儀非斷律儀,應作四句。第一句者,除未至定九無間道有漏律儀,所餘有漏靜慮律儀。第二句者,依未至定九無間道無漏律儀。第三句者,依未至定九無間道有漏律儀。第四句者,除未至定九無間道無漏律儀,所餘一切無漏律儀。如是或有無漏律儀非斷律儀,應作四句,準前四句如應當知。若爾,世尊所說略戒:

論に曰く:未至定中の九の無間道は、倶生の静慮・無漏の律儀、能く永く欲纏の悪戒および能く起す惑を断ずるを以て断律儀と名づく。此に由りてあるいは静慮律儀有りて断律儀に非ず、まさに四句を作すべし。第一句とは、未至定の九無間道の有漏律儀を除きて、余の有漏の静慮律儀。第二句とは、未至定の九無間道の無漏律儀に依る。第三句とは、未至定の九無間道の有漏律儀に依る。第四句とは、未至定の九無間道の無漏律儀を除きて、余の一切の無漏律儀。かくのごときあるいは無漏律儀有りて断律儀に非ず、まさに四句を作すべし、前の四句に准じてまさに知るべきが如し。もし爾ならば、世尊の説く所の略戒:

身律儀善哉,善哉語律儀,

身の律儀は善なるかな、善なるかな語の律儀、

意律儀善哉,善哉遍律儀。

意の律儀は善なるかな、善なるかな遍く律儀。

又契經說:應善守護、應善安住眼根律儀。此意根律儀,以何為自性?此二自性非無表色。若爾,是何?頌曰:

また契経に説く:まさに善く守護し、まさに善く安住すべし眼根の律儀。此の意根の律儀は、何を以て自性と為すか。此の二の自性は無表色に非ず。もし爾ならば、是れ何ぞ。頌に曰く:

正知正念合,名意根律儀。

正知・正念合して、意根律儀と名づく。

論曰:為顯如是二種律儀,俱以正知正念為體,故列名已復說合言,謂意律儀慧念為體,即合二種為根律儀。故離合言顯勿如次。今應思擇,表及無表誰成就何?齊何時分?且辯成無表律儀不律儀。頌曰:

論に曰く:かくのごとき二種の律儀を顕さんが為、倶に正知・正念を以て体と為す、ゆえに名を列ね已りて復た合の言を説く、いわゆる意律儀は慧・念を体と為し、即ち二種を合して根律儀と為す。ゆえに離合の言を顕して次第の如くならざるを勿れしむ。今まさに思択すべし、表および無表は誰か何を成就するか。何の時分に齊すか。且つ無表の律儀・不律儀を成ずるを弁ぜん。頌に曰く:

住別解無表,未捨恆成現,

別解の無表に住するは、未だ捨てざれば恒に現を成じ、

剎那後成過,不律儀亦然。

刹那の後に過を成ず、不律儀もまたこの如し。

得靜慮律儀,恆成就過未,

静慮の律儀を得るは、恒に過・未を成就し、

聖初除過去,住定道成中。

聖の初は過去を除き、定・道に住すは中を成ず。

論曰:住別解脫補特伽羅,未捨以來恆成現世,此別解脫律儀無表。初剎那後亦成過去,前未捨言遍流至後,無散無表有成未來,不隨心色勢微劣故。如說安住別解律儀,住不律儀應知亦爾,謂至未捨惡戒以來恆成現世,惡戒無表初剎那後亦成過去。諸有獲得靜慮律儀,乃至未捨恆成過未,餘生所失過去定律儀,今初剎那必還得彼故。一切聖者無漏律儀,過去未來亦恆成就,有差別者,謂初剎那必成未來非成過去,此類聖道先未起故。若有現住靜慮彼道,如次成現在靜慮道律儀,非出觀時有成現在。已辯安住善惡律儀,住中雲何?頌曰:

論に曰く:別解脱に住する補特伽羅は、未だ捨てざる已来は恒に現世を成ず、此の別解脱律儀の無表。初の刹那の後にもまた過去を成ず、前の未だ捨てざるの言は遍く後に流れ至る、散の無表有りて未來を成ずる無し、心に随う色は勢微劣なるゆえ。安住して別解律儀に在るを説くが如く、不律儀に住するはまさに知るべきこともまたこの如し、いわゆる未だ悪戒を捨てざる已来に至りて恒に現世を成ず、悪戒の無表は初の刹那の後にもまた過去を成ず。諸の静慮律儀を獲得する有るは、乃至未だ捨てざれば恒に過・未を成ず、余の生に失いし所の過去の定律儀は、今初の刹那に必ず還りて彼を得るゆえ。一切の聖者の無漏律儀は、過去・未来もまた恒に成就す、差別有るとは、いわゆる初の刹那は必ず未来を成じて過去を成ぜず、此の類の聖道は先に未だ起らざるゆえ。もし現に静慮に住する彼の道有れば、次第の如く現在の静慮・道の律儀を成ず、観を出づる時に現在を成ずる有るに非ず。已に善悪の律儀に安住するを弁じたり、中に住するは如何。頌に曰く:

住中有無表,初成中後二。

中に住するに無表有り、初め中を成じ後は二。

論曰:言住中者,謂非律儀非不律儀,彼所起業未必一切皆有無表。若有無表,即是善戒或是惡戒種類所攝,彼初剎那但成現在。然現在世處過未中,故以成中說成現在。初剎那後未捨以來,恆成過現二世無表。若有安住律不律儀,亦有成惡善無表不。設有成就,為經幾時?頌曰:

論に曰く:中に住すると言うは、いわゆる律儀に非ず不律儀に非ず、彼の起す所の業は必ずしも一切は皆無表有るに非ず。もし無表有らば、即ち是れ善戒あるいは是れ悪戒の種類の摂する所、彼の初の刹那は但だ現在を成ず。しかるに現在の世は過・未の中に処す、ゆえに中を成ずるを以て現在を成ずと説く。初の刹那の後より未だ捨てざる已来は、恒に過・現の二世の無表を成ず。もし律・不律儀に安住する有れば、もまた悪・善の無表を成ずる有るか否や。設ひ成就有らば、是れ几の時を経るか。頌に曰く:

住律不律儀,起染淨無表,

律・不律儀に住して、染・浄の無表を起し、

初成中後二,至染淨勢終。

初め中を成じ後は二、染・浄の勢の終るに至る。

論曰:若住律儀,由勝煩惱作殺縛等諸不善業,由此便發不善無表;住不律儀,由淳淨信作禮佛等諸勝善業,由此亦發諸善無表。乃至此二心未斷來,所發無表恆時相續,然其初念唯成現在,自茲以後通成過現。已辯無表,成表云何?頌曰:

論に曰く:もし律儀に住して、勝れる煩悩に由りて殺・縛等の諸の不善業を作せば、此に由りて便ち不善の無表を発す。不律儀に住して、淳浄の信に由りて仏を礼する等の諸の勝善業を作せば、此に由りてもまた諸の善の無表を発す。乃至此の二心の未だ断ぜざる已来は、発する所の無表は恒時に相续す、しかるにその初念はただ現在を成じ、兹より已後は通じて過・現を成ず。已に無表を弁じたり、表を成ずるは如何。頌に曰く:

表正作成中,後成過非未,

表は正に作すは中を成じ、後は過を成じて未に非ず、

有覆及無覆,唯成就現在。

有覆および無覆は、ただ現在を成就す。

論曰:諸有安住律不律儀及住中者,乃至正作諸表業來恆成現表。初剎那後至未捨來恆成過去,必無成就未來表者,如無表釋。有覆無覆二無記表,定無有能成就過未,法力既劣得力亦微,是故無能逆追成者。此法力劣誰之所為?是心所為。若爾,有覆無記心等勿成過未。此責非理,表昧鈍故、依他起故;心等不然,無記表業從劣心起,其力倍劣彼能起心,故表與心成有差別。如前所說住不律儀,此不律儀名差別者,頌曰:

論に曰く:諸の律・不律儀に安住するおよび中に住する有るは、乃至正に諸の表業を作す已来は恒に現表を成ず。初の刹那の後より未だ捨てざる已来に至りて恒に過去を成ず、必ず未来の表を成就する無し、無表の釋の如し。有覆・無覆の二の無記の表は、定めて過・未を成就する能くする有る無し、法力は既に劣りて得力もまた微なり、是れを以て逆に追い成ずる能くする無し。此の法力の劣るは誰の為す所か。是れ心の為す所。もし爾ならば、有覆・無記の心等は過・未を成ずるを勿れ。此の責は理に非ず、表は昧鈍なるゆえ、他に依りて起るゆえ。心等は然らず、無記の表業は劣心より起りて、その力は倍して彼の能く起す心より劣る、ゆえに表と心と成に差別有り。前の説く所の不律儀に住するが如く、此の不律儀の名の差別は、頌に曰く:

惡行惡戒業,業道不律儀。

悪行・悪戒・業、業道・不律儀。

論曰:此惡行等五種異名,是不律儀名之差別,是諸智者所訶厭故、果非愛故立惡行名。障淨屍羅故名惡戒、身語所造故名為業。根本所攝故名業道。不禁身語名不律儀。然業道名唯目初念,通初後位立餘四名,或成表業非無表等,應作四句。其事云何?頌曰:

論に曰く:此の悪行等の五種の異名は、是れ不律儀の名の差別、是れ諸の智者の訶厭する所なるゆえ、果は愛に非ざるゆえに悪行の名を立つ。浄尸羅を障るゆえに悪戒と名づき、身・語の造る所なるゆえに業と名づく。根本の摂する所なるゆえに業道と名づく。身・語を禁ぜざるを不律儀と名づく。しかるに業道の名はただ初念を目し、初後の位に通じて余の四名を立つ、あるいは表業を成じて無表に非ず等、まさに四句を作すべし。その事は如何。頌に曰く:

成表非無表,住中劣思作,

表を成じて無表に非ず、中に住して劣思の作、

捨未生表聖,成無表非表。

未生の表を捨てたる聖は、無表を成じて表に非ず。

論曰:唯成就表非無表者,謂住非律儀非不律儀,以微劣思造善造惡,唯發表業尚無無表,況無記思所發表業,除有依福及成業道。唯成無表非表業者,謂易生聖補特伽羅,表業未生或生已捨,俱成非句如應當知。說住律儀不律儀等成就表業無表業已,此諸律儀由何而得?頌曰:

論に曰く:ただ表を成就して無表に非ずとは、いわゆる律儀に非ず不律儀に非ずに住して、微劣の思を以て善を造り悪を造る、ただ表業を発して尚お無表無し、況んや無記の思の発する所の表業は、依有る福および業道を成ずるを除く。ただ無表を成じて表業に非ずとは、いわゆる生を易えたる聖の補特伽羅、表業は未だ生ぜずあるいは生じ已りて捨てたり、倶に非句を成すはまさに知るべきが如し。律儀・不律儀等に住するは表業・無表業を成就すと説き已って、此の諸の律儀は何に由りて得るか。頌に曰く:

定生得定地,彼聖得道生,

定生は定地を得、彼の聖は道生を得、

別解脫律儀,得由他教等。

別解脱律儀は、他の教等に由りて得。

論曰:靜慮律儀由得有漏根本近分靜慮地心,爾時便得,與心俱故。無漏律儀由得無漏根本近分靜慮地心,爾時便得,亦心俱故。彼聲為顯前靜慮心。復說聖言簡取無漏,六靜慮地有無漏心,謂未至、中間及四根本定,非三近分,如後當辯。別解脫律儀由他教等得,能教他者說名為他,從如是他教力發戒,故說此戒由他教得。此復二種,謂從僧伽、補特伽羅有差別故。從僧伽得者,謂苾芻苾芻尼及正學戒。從補特伽羅得者,謂餘五種戒。諸毘柰耶毘婆沙師,說有十種得具戒法,為攝彼故復說等言。何者為十?一由自然,謂佛獨覺。二由得入正性離生,謂五苾芻。三由佛命善來苾芻,謂耶舍等。四由信受佛為大師,謂大迦葉。五由善巧酬答所問,謂蘇陀夷。六由敬受八尊重法,謂大生主。七由遣使,謂法授尼。八由持律為第五人,謂於邊國。九由十眾,謂於中國。十由三說歸佛法僧,謂六十賢部共集受具戒。如是所得別解律儀,非必定依表業而發。又此所說別解律儀,應齊幾時要期而受?頌曰:

論に曰く:静慮律儀は有漏の根本・近分の静慮地の心を得るに由り、爾の時に便ち得、心と倶なるゆえ。無漏律儀は無漏の根本・近分の静慮地の心を得るに由り、爾の時に便ち得、もまた心と倶なるゆえ。彼の声は是れ前の静慮心を顕さんが為。復た聖の言を説きて無漏を簡取す、六の静慮地に無漏心有り、いわゆる未至・中間および四の根本定、三の近分に非ず、後にまさに弁ずべきが如し。別解脱律儀は他の教等に由りて得、能く他を教えるを他と説き名づく、かくのごとき他の教の力より戒を発す、ゆえに此の戒は他の教に由りて得と説く。此は復た二種、いわゆる僧伽・補特伽羅よりの差別有るゆえ。僧伽より得るは、いわゆる苾芻・苾芻尼および正学の戒。補特伽羅より得るは、いわゆる余の五種の戒。諸の毘柰耶(律)の毘婆沙師は、十種の具戒を得るの法有りと説く、彼を摂せんが為に復た等の言を説く。何れを十と為すか。一に自然に由る、いわゆる仏・独覚。二に正性離生に入るを得るに由る、いわゆる五苾芻。三に仏の善来苾芻と命ずるに由る、いわゆる耶舍等。四に仏を大師と為すを信受するに由る、いわゆる大迦葉。五に善巧に問う所に酬答するに由る、いわゆる蘇陀夷。六に八の尊重法を敬受するに由る、いわゆる大生主。七に使を遣るに由る、いわゆる法授尼。八に律を持するを第五人と為すに由る、いわゆる辺国において。九に十衆に由る、いわゆる中国において。十に三説して仏・法・僧に帰するに由る、いわゆる六十の賢部の共集して具戒を受く。かくのごとき得る所の別解律儀は、必ずしも定めて表業に依りて発するに非ず。もまた此の説く所の別解律儀は、まさに几の時の要期に齊して受くるか。頌に曰く:

別解脫律儀,盡壽或晝夜。

別解脱律儀は、寿を盡くすあるいは昼夜。

論曰:七眾所持別解脫戒,唯應盡壽要期而受。近住所持別解脫戒,唯一晝夜要期而受。此時定爾。所以者何?戒時邊際但有二種:一壽命邊際、二晝夜邊際,重說晝夜為半月等。時名是何法?謂諸行增語。於四洲中光位闇位,如其次第立晝夜名,二邊際中盡壽可爾。於命終後雖有要期而不能生別解脫戒,依身別故,別依身中無加行故、無憶念故。一晝夜後或五或十晝夜等中受近住戒。何法為障,令彼眾多近住律儀非亦得起?必應有法能為障礙,以薄伽梵於契經中說近住律儀唯一晝夜故。於如是義應共尋思,為佛正觀一晝夜後理無容起近住律儀,故於經中說一晝夜?為觀所化根難調者,旦應授與一晝夜戒?依何理教作如是言?過此戒生,不違理故。毘婆沙者作如是言:曾無契經說過晝夜有別受得近住律儀,是故我宗不許斯義。依何邊際得不律儀?頌曰:

論に曰く:七衆の持する所の別解脱戒は、ただまさに寿を盡くすを要期として受くべし。近住の持する所の別解脱戒は、ただ一昼夜を要期として受く。此の時は定めてこの如し。所以者何。戒の時の辺際は但だ二種有り:一に寿命の辺際、二に昼夜の辺際、重ねて昼夜を説きて半月等と為す。時の名は是れ何の法か。いわゆる諸行の増語。四洲中において光位・暗位に、その次第の如く昼夜の名を立つ、二の辺際中に寿を盡くすはこの如く可なり。命終の後において要期有ると雖も而も別解脱戒を生ずる能わず、身の別に依るゆえ、別の依身中に加行無きゆえ、憶念無きゆえ。一昼夜の後にあるいは五あるいは十の昼夜等中に近住戒を受く。何の法か障と為りて、彼の衆多の近住律儀をしてもまた起るを得ざらしむるか。必ずまさに法有りて能く障碍と為すべし、薄伽梵は契経において近住律儀はただ一昼夜と説くを以て。かくのごとき義においてまさに共に尋思すべし、是れ仏は正しく一昼夜の後は理は近住律儀を起すを容れずと観じて、ゆえに経中において一昼夜を説くか。是れ化する所の根の調い難きを観じて、旦にまさに一昼夜の戒を授与すべしとするか。何の理教に依りてかくの言を作すか。此を過ぎて戒生ずるは、理に違せざるゆえ。毘婆沙者はかくの説を作す:曾て契経に昼夜を過ぎて別に近住律儀を受得する有らず、是れを以て我が宗は此の義を許さず、と。何の辺際に依りて不律儀を得るか。頌に曰く:

惡戒無晝夜,謂非如善受。

悪戒は昼夜無し、善の受の如くに非ずを謂う。

論曰:要期盡壽造諸惡業得不律儀,非一晝夜如近住戒。所以者何?謂此非如善戒受故。謂必無有立限對師受不律儀如近住戒,我一晝夜定受不律儀,此是智人所訶厭業故。若爾,亦無有立限對師我乃至命終定受惡戒,勿盡形壽得不律儀。雖無對師要期盡壽作諸惡業,由起畢竟壞善意樂得不律儀,非起暫時壞善意樂無師令彼得不律儀,故不律儀無一晝夜。然近住戒,由現對師要期受力,雖無畢竟壞惡意樂而得律儀,設有對師要期暫受不律儀者亦必應得。然未曾見,故不立有。經部師說:如善律儀無別實物名為無表,此不律儀亦應非實。即欲造惡不善意樂相續不捨名不律儀,由此後時善心雖起而名成就不律儀者,以不捨此阿世耶故。說一晝夜近住律儀,欲正受時當如何受?頌曰:

論に曰く:寿を盡くすを要期として諸の悪業を造りて不律儀を得、一昼夜に非ずして近住戒の如し。所以者何。いわゆる此は善戒の受の如くに非ざるゆえ。いわゆる必ず限を立てて師に対して不律儀を受くるは近住戒の如く有る無し、我は一昼夜に定めて不律儀を受く、此は是れ智人の訶厭する所の業なるゆえ。もし爾ならば、もまた限を立てて師に対して我は乃至命終に至るまで定めて悪戒を受く有る無し、形寿を盡くして不律儀を得るを勿れ。師に対して寿を盡くすを要期として諸の悪業を作す無しと雖も、畢竟の善を壞る意楽を起すに由りて不律儀を得、暫時の善を壞る意楽を起し師無くして彼をして不律儀を得せしむるに非ず、ゆえに不律儀に一昼夜無し。しかるに近住戒は、現に師に対して要期受の力に由りて、畢竟の悪を壞る意楽無しと雖も而も律儀を得、設ひ師に対して暫く不律儀を受くるを要期するもまた必ずまさに得べし。しかるに未曾て見ず、ゆえに有と立てず。経部師は説く:善律儀に別の実物有りて無表と名づく無きが如く、此の不律儀もまたまさに実に非ざるべし。即ち悪を造らんと欲する不善の意楽は相续して捨てざるを不律儀と名づく、此に由りて後時に善心は起ると雖も而も不律儀を成就すと名づく、此の阿世耶(意楽)を捨てざるを以て。一昼夜の近住律儀を説くに、正しく受けんとする時にまさに如何にして受くべきか。頌に曰く:

近住於晨旦,下座從師受,

近住は晨旦において、下座より師に従りて受け、

隨教說具支,離嚴飾晝夜。

教に随いて支を具するを説く、厳飾を離るる昼夜。

論曰:近住律儀於晨旦受,謂受此戒要日出時,此戒要經一晝夜故。諸有先作如是要期,謂我恆於月八日等,必當受此近住律儀。若旦有礙緣,齋竟亦得受。言下座者,謂在師前居卑劣座,或蹲或跪曲躬合掌,唯除有病,若不恭敬不發律儀。此必從師,無容自受。以後若遇諸犯戒緣,由愧戒師,能不違犯。受此戒者,應隨師教受者後說,勿前勿俱,如是方成從師教受,異此授受二俱不成。具受八支方成近住,隨有所闕近住不成。受此律儀必離嚴飾,憍逸處故。常嚴身具不必須捨,緣彼不能生甚憍逸如新異故。受此律儀必須晝夜,謂至明旦日初出時。若不如斯依法受者,但生妙行不得律儀。又若如斯盡晝夜受,具制屠獵姦盜有情,近住律儀深成有用。言近住者,謂此律儀近阿羅漢住,以隨學彼故。有說:此近盡壽戒住。如是律儀或名長養,長養薄少善根有情,令其善根漸增多故。如有頌言:

論に曰く:近住律儀は晨旦に於て受く、いわゆる此の戒を受くるは要して日の出づる時、此の戒は要して一昼夜を経るゆえ。諸の先にかくのごとき要期を作す有り、いわゆる我は恒に月の八日等に於て、必ずまさに此の近住律儀を受くべし。もし旦に礙縁有らば、斎竟りてもまた受くるを得。下座と言うは、いわゆる師の前に在りて卑劣の座に居り、あるいは蹲りあるいは跪きて躬を曲げ合掌す、ただ病有るを除きて、もし恭敬せざれば律儀を発せず。此は必ず師に従り、自ら受くるを容れず。已後にもし諸の犯戒の縁に遇わば、戒師に愧じるに由りて、能く違犯せず。此の戒を受くるは、まさに師の教に随いて受くる者は後に説くべく、前せず倶ならざるを勿れ、かくのごとき方に師の教に従りて受くるを成し、此に異なるは授受は二とも倶に成らず。具に八支を受けて方に近住を成す、随い缺くる所有れば近住は成らず。此の律儀を受くるは必ず厳飾を離る、憍逸の処のゆえ。常に身を厳う具は必ずしも捨つるを須いず、彼に縁りて甚だ憍逸を生ずる能わず、新異の如くなるゆえ。此の律儀を受くるは必ず昼夜を須う、いわゆる明旦の日の初めて出づる時に至る。もしこの如く法に依りて受けざれば、但だ妙行を生じて律儀を得ず。またもしかくのごとき昼夜を盡くして受けば、屠・猟・奸・盗する有情を具に制す、近住律儀は深く有用を成す。近住と言うは、いわゆる此の律儀は阿羅漢に近く住す、彼に随学するを以て。ある説に:此は寿を盡くす戒に近く住す。かくのごとき律儀はあるいは長養と名づく、善根の薄少なる有情を長養して、その善根をして漸に増多せしむるゆえ。頌の説く有るが如し:

由此能長養,自他善淨心,

此に由りて能く長養す、自他の善浄の心を、

是故薄伽梵,說此名長養。

是れを以て薄伽梵、此を説きて長養と名づく。

何緣受此必具八支?頌曰:

何の縁に此を受くるに必ず具に八支を須うか。頌に曰く:

戒不逸禁支,四一三如次,

戒・不逸・禁の支、四・一・三の如次、

為防諸性罪,失念及憍逸。

諸の性罪を防ぎ、失念および憍逸を防ぐが為。

論曰:八中前四是屍羅支,謂離殺生至虛誑語,由此四種離性罪故。次有一種是不放逸支,謂離飲諸酒生放逸處。雖受屍羅,若飲諸酒則心放逸,犯屍羅故。後有三種是禁約支,謂離塗飾香鬘乃至食非時食,以能隨順厭離心故。何緣具受如是三支?若不具支,便不能離性罪失念憍逸過失。謂初離殺至虛誑語能防性罪,離貪瞋痴所起殺等諸惡業故。次離飲酒能防失念,以飲酒時能令忘失應不應作諸事業故。後離三種能防憍逸,以若受用種種香鬘高廣床座習近歌舞心便憍舉尋即毀戒,由遠彼故心便離憍。若有能持依時食者,以能遮止恆食時故,便憶自受近住律儀,能於世間深生厭離。若非時食二事俱無,數食能令心縱逸故。有餘師說:離非時食名為齋體,餘有八種說名齋支,塗飾香鬘舞歌觀聽分為二故。若作此執,便違契經。經中說離非時食已,便作是說:此第八支我今隨聖阿羅漢學,隨行隨作。若爾,有何別齋體而說此八名齋支?總摽齋號,別說為支,以別成總得支名故。如車眾分及四支軍五支散等,齋戒八支應知亦爾。毘婆沙師作如是說:離非時食是齋亦齋支,所餘七支是齋支非齋。如正見是道亦道支,餘七支是道支非道。擇法覺是覺亦覺支,餘六支是覺支非覺。三摩地是靜慮亦靜慮支,所餘支是靜慮支非靜慮。如是所說不應正理,不可正見等,即正見等支。若謂前生正見等為後生正見等支,則初剎那聖道等應不具有八支等。為唯近事得受近住、為餘亦有受近住耶?頌曰:

論に曰く:八中の前の四は是れ尸羅の支、いわゆる殺生を離るるより虚誑語に至る、此の四種に由りて性罪を離るるゆえ。次に一種有りて是れ不放逸の支、いわゆる諸の酒を飲むを離るるは放逸の処を生ず。尸羅を受くると雖も、もし諸の酒を飲めば則ち心は放逸し、尸羅を犯すゆえ。後に三種有りて是れ禁約の支、いわゆる塗飾・香鬘を離るる乃至時に非ざる食を食すを離るるに至る、能く厭離の心に随順するを以て。何の縁にかくのごとき三支を具受するか。もし支を具せざれば、便ち能く性罪・失念・憍逸の過失を離るる能わず。いわゆる初めに殺を離るるより虚誑語に至るは能く性罪を防ぐ、貪・瞋・痴の起す所の殺等の諸の悪業を離るるゆえ。次に飲酒を離るるは能く失念を防ぐ、酒を飲む時に能く作すべき作すべからざる諸の事業を忘失せしむるを以て。後に三種を離るるは能く憍逸を防ぐ、種種の香鬘・高広の床座を受用し歌舞に習近せば心は便ち憍挙して尋いで即ち戒を毀るを以て、彼に遠ざかるに由るゆえに心は便ち憍を離る。もし時に依る食を持する能くする有らば、能く恒の食時を遮止するを以て、便ち自ら受けたる近住律儀を憶して、能く世間において深く厭離を生ぜしむ。もし時に非ざる食の二事は倶に無きは、数々の食は能く心をして縦逸せしむるゆえ。ある余師の説に:時に非ざる食を離るるを斎体と名づく、余の八種有りて斎支と説き名づく、塗飾・香鬘・舞歌・観聴は分かちて二と為すゆえ。もし此の執を作さば、便ち契経に違す。経中に時に非ざる食を離るるを説き已りて、便ち是の説を作す:此の第八支は我今聖の阿羅漢に随学して、随行し随作すと。もし爾ならば、何の別の斎体有りて而も此の八を説きて斎支と名づくるか。総じて斎の号を標して、別に説きて支と為す、別を以て総を成ずるを支名を得るゆえ。車の衆分および四支の軍・五支の散等の如く、斎戒の八支もまたまさに知るべきことこの如し。毘婆沙師はかくの説を作す:時に非ざる食を離るるは是れ斎にしてもまた斎支、余の七支は是れ斎支にして斎に非ず。正見は是れ道にしてもまた道支、余の七支は是れ道支にして道に非ずが如し。択法覚は是れ覚にしてもまた覚支、余の六支は是れ覚支にして覚に非ず。三摩地は是れ静慮にしてもまた静慮支、余の支は是れ静慮支にして静慮に非ず。かくのごとき説く所は理に応ぜず、正見等を以て即ち正見等の支と為すべからず。もし前生の正見等を以て後生の正見等の支と為せば、則ち初の刹那の聖道等はまさに具に八支等有る不ならざるべし。是れただ近事は得て近住を受くるか、是れ余もまた近住を受くる有るか。頌に曰く:

近住餘亦有,不受三歸無。

近住は余にもまた有り、三帰を受けざれば無し。

論曰:諸有未受近事律儀,一晝夜中歸依三寶,說三歸已受近住戒,彼亦受得近住律儀。異此則無,除不知者。如契經說:佛告大名:諸有在家白衣男子男根成就,歸佛法僧起殷淨心,發誠諦語自稱我是鄔波索迦,願尊憶持慈悲護念,齊是名曰鄔波索迦。為但受三歸即成近事?外國諸師說:唯此即成。迦濕彌羅國諸論師言:離近事律儀則非近事。若爾,應與此經相違。此不相違,已發戒故。何時發戒?頌曰:

論に曰く:諸の未だ近事律儀を受けざる有るも、一昼夜中に三宝に帰依して、三帰を説き已りて近住戒を受くれば、彼もまた近住律儀を受得す。此に異なれば則ち無し、知らざるを除く。契経の説くが如く:仏は大名に告げたまわく:諸の在家の白衣の男子にして男根を成就する有りて、仏・法・僧に帰し殷浄の心を起し、誠諦の語を発して自ら称して我は是れ鄔波索迦(近事男)なり、願わくは尊は憶持して慈悲に護念したまえと、是に齊きて名づけて鄔波索迦と曰う、と。是れ但だ三帰を受くれば即ち近事を成すか。外国の諸師は説く:ただ此にして即ち成す。迦湿弥羅国の諸の論師は説く:近事律儀を離るれば則ち近事に非ず。もし爾ならば、まさに此の経と相違すべし。此は相違せず、已に戒を発したるゆえ。何れの時に戒を発するか。頌に曰く:

稱近事發戒,說如苾芻等。

近事と称して戒を発す、苾芻等の如く説く。

論曰:起殷淨心發誠諦語,自稱我是鄔波索迦,願尊憶持慈悲護念。爾時即發近事律儀。稱近事等言,便發律儀故。以經復說:我從今時乃至命終捨生言故。此經意說捨殺生等,略去殺等但說捨生,故於前時已得五戒。彼雖已得近事律儀,為令了知所應學處故,復為說離殺生等五種戒相令識堅持。如得苾芻具足戒已,說重學處令識堅持。勤策亦然。此亦應爾,是故近事必具律儀。頌曰:

論に曰く:殷浄の心を起して誠諦の語を発し、自ら称して我は是れ鄔波索迦なり、願わくは尊は憶持して慈悲に護念したまえと。爾の時に即ち近事律儀を発す。近事等の言を称すれば、便ち律儀を発するゆえ。経に復た説くを以て:我は今の時より乃至命終に至るまで生を捨てるの言を説くゆえ。此の経の意は殺生等を捨つるを説きて、殺等を略去して但だ生を捨つと説く、ゆえに前の時において已に五戒を得たり。彼は已に近事律儀を得たりと雖も、学ぶべき所の処を了知せしめんが為に、復た為に殺生を離るる等の五種の戒相を説きて識りて堅持せしむ。苾芻の具足戒を得已りて、重き学処を説きて識りて堅持せしむるが如し。勤策もまたこの如し。此もまたまさにこの如くあるべし、是れを以て近事は必ず律儀を具す。頌に曰く:

若皆具律儀,何言一分等?

もし皆律儀を具せば、何ぞ一分等と言うや。

謂約能持說。

いわゆる能持に約りて説く。

論曰:若諸近事皆具律儀,何緣世尊言有四種:一能學一分、二能學少分、三能學多分、四能學滿分?謂約能持故作是說。能持先所受,故說能學言。不爾,應言受一分等。理實約受等具律儀,以具律儀故名近事。如是所執違越契經。如何違經?謂無經說自稱我是近事等言便發五戒,此經不說我從今者乃至命終捨生言故。經如何說?如《大名經》。唯此經中說近事相,餘經不爾,故違越經。然餘經說:我從今時乃至命終捨生歸淨,是歸三寶發誠信言。此中顯示以見諦者,由得證淨舉命自要,表於正法深懷愛重,乃至為救自生命緣,終不捨於如來正法。非彼為欲說近事相故說如是捨生等言,設說亦非分明理教。誰能准此不明瞭文,便信前時已發五戒?又約持犯戒說學一分等尚不應問,況應為答。誰有已解近事律儀必具五支,而不能解於所學處持一非餘,乃至具持名一分等?由彼未解近事律儀受量少多,故應請問:凡有幾種鄔波索迦能學學處?答言:有四鄔波索迦,謂能學一分等。猶未能了。復問何名能學一分?乃至廣說,若闕律儀得名近事。苾芻勤策,闕亦應成。彼既不成,此亦應爾。何緣近事乃至苾芻,所受律儀支量定爾?由佛教力施設故然。若爾,何緣不許由佛教力施設,雖闕律儀而名近事非苾芻等?迦濕彌羅國毘婆沙師,不許闕律儀得成近事。此近事等一切律儀,由何得成下中上品?頌曰:

論に曰く:もし諸の近事は皆律儀を具せば、何の縁に世尊は四種有りと説く:一に能く一分を学ぶ、二に能く少分を学ぶ、三に能く多分を学ぶ、四に能く満分を学ぶ。いわゆる能持に約りて是の説を作す。先の受けたる所を能く持つ、ゆえに能学の言を説く。然らざれば、まさに一分等を受くと説くべし。理は実に受等に約りて具に律儀す、具に律儀するを以て近事と名づく。かくのごとき執する所は契経に違越す。如何にして経に違するか。いわゆる自ら称して我は是れ近事等の言と説きて便ち五戒を発する経無し、此の経は我は今より乃至命終に至るまで生を捨てるの言を説かざるゆえ。経は如何に説くか。『大名経』の如し。ただ此の経中に近事の相を説きて、余の経は然らず、ゆえに経に違越す。しかるに余の経に説く:我は今の時より乃至命終に至るまで生を捨て浄に帰すとは、是れ三宝に帰して誠信の言を発す。此中に顕示するは見諦を以て、証浄を得て命を挙げて自ら要するに由り、正法において深く愛重を懐くを表し、乃至自らの生命の縁を救わんが為にも、終に如来の正法を捨てず。彼は近事の相を説かんと欲するが為にかくのごとき生を捨つる等の言を説くに非ず、設ひ説くとももまた分明の理教に非ず。誰か能く此の不明了の文に准じて、便ち前の時に已に五戒を発したりと信ぜん。もまた持・犯戒に約りて学の一分等を説くは尚お問うべからず、況んや答と為すべからんや。誰か已に近事律儀は必ず五支を具すと解して、而も学ぶ所の処において一を持して余に非ず、乃至具に持して一分等と名づくるを解せざる有らん。彼は未だ近事律儀の受量の少多を解せざるに由りて、ゆえにまさに請問すべし:凡そ几種の鄔波索迦か能く学処を学ぶか。答えて説く:四の鄔波索迦有り、いわゆる能く一分等を学ぶ。猶お未だ了せず。復た問う、何を能く一分を学ぶと名づくるか。乃至広説す、もし律儀を缺きて近事の名を得れば、苾芻・勤策も缺きてもまたまさに成るべし。彼は既に成らざれば、此もまたまさにこの如くあるべし。何の縁に近事乃至苾芻に至るは、受くる所の律儀の支量は定めてこの如くか。仏教の力の施設する所なるゆえにこの如し。もし爾ならば、何の縁に仏教の力の施設に由るを許さざるか、律儀を缺くと雖も而も近事と名づきて苾芻等に非ざるを。迦湿弥羅国の毘婆沙師は、律儀を缺きて近事を成ずるを得るを許さず。此の近事等の一切の律儀は、何に由りて下・中・上の品を成すか。頌に曰く:

下中上隨心。

下・中・上は心に随う。

論曰:八眾所受別解脫律儀,皆隨受心有下中上品。由如是理,諸阿羅漢或有成就下品律儀,然諸異生或成上品。為有但受近事律儀不受三歸成近事不?不成近事,除有不知。諸有歸依佛法僧者,為歸何等?頌曰:

論に曰く:八衆の受くる所の別解脱律儀は、皆受ける心に随いて下・中・上の品有り。かくのごとき理に由りて、諸の阿羅漢はあるいは下品の律儀を成就し、しかるに諸の異生はあるいは上品を成ず。是れ但だ近事律儀を受けて三帰を受けざるは近事を成ずや否や有りか。近事を成ぜず、知らざる有るを除く。諸の仏・法・僧に帰依するは、是れ何等に帰するか。頌に曰く:

歸依成佛僧,無學二種法,

帰依は仏を成ずる僧、無学の二種の法、

及涅槃擇滅,是說具三歸。

および涅槃の択滅、是れ具に三帰を説く。

論曰:歸依佛者,謂但歸依能成佛無學法,由彼勝故身得佛名,或由得彼法佛能覺一切。何等名為佛無學法?謂盡智等及彼隨行。非色等身,前後等故。為歸一佛、一切佛耶?理實應言歸一切佛,以諸佛道相無異故。歸依僧者,謂通歸依諸能成僧學無學法,由得彼故僧成八種補特伽羅,不可破故。為歸一佛僧、一切佛僧耶?理實通歸一切佛僧,以諸僧道相無異故。然契經說,當來有僧汝應歸者,彼經但為顯示當來現見僧寶。歸依法者,謂歸涅槃。此涅槃言唯顯擇滅自他相續煩惱及苦,寂滅一相,故通歸依。若唯無學法即是佛者,如何於佛所惡心出血,但損生身成無間罪?毘婆沙者作是釋言:壞彼所依,彼隨壞故。然尋本論,不見有言唯無學法即名為佛,但言無學法能成於佛。既不遮佛體亦攝依身,故於此中不容前難。若異此者,應佛與僧住世俗心非僧非佛。又應唯執成苾芻戒即是苾芻。然如有欲供養苾芻者,彼唯供養成苾芻屍羅。如是有欲歸依佛者,亦應但歸成佛無學法。有餘師說:歸依佛者,總歸依如來十八不共法。此能歸依何法為體?語表為體。如是歸依以何為義?救濟為義。由彼為依,能永解脫一切苦故。如世尊言:

論に曰く:仏に帰依するとは、ただ能く仏を成ずる無学の法に帰依するを謂い、彼の勝れるに由りて身は仏の名を得、あるいは彼の法を得るに由りて仏は能く一切を覚る。何等を仏の無学法と名づくるか。いわゆる盡智等および彼の随行。色等の身に非ず、前後は等しきゆえ。是れ一仏に帰するか、一切仏か。理実にまさに一切仏に帰すと説くべし、諸仏の道の相は異なる無きを以て。僧に帰依するとは、通じて諸の能く僧を成ずる学・無学の法に帰依するを謂い、彼を得るに由りて僧は八種の補特伽羅を成じて、破るべからざるゆえ。是れ一仏僧に帰するか、一切仏僧か。理実に通じて一切の仏僧に帰す、諸僧の道の相は異なる無きを以て。しかるに契経に説く、当来に僧有りて汝はまさに帰すべしとは、彼の経は但だ当来の現見の僧宝を顕示せんが為。法に帰依するとは、涅槃に帰するを謂う。此の涅槃の言はただ自他の相续の煩悩および苦を択滅す、寂滅の一相を顕す、ゆえに通じて帰依す。もしただ無学法は即ち是れ仏ならば、如何にして仏の所において悪心を起して血を出さしめて、但だ生身を損して無間罪を成ずるか。毘婆沙者は是の釋を作して説く:彼の依る所を壞れば、彼は随いて壞るるゆえ。しかるに本論を尋るに、ただ無学法は即ち仏と名づくの言有るを見ず、但だ無学法は能く仏を成ずと説く。既に仏体はもまた依身を摂するを遮らざれば、ゆえに此の中において前の難を容れず。もし此に異なれば、まさに仏と僧と世俗の心に住して僧に非ず仏に非ざるべし。またまさにただ苾芻戒を成ずるを執して即ち是れ苾芻とすべし。しかるに苾芻を供養せんと欲する有るが如く、彼はただ苾芻を成ずる尸羅を供養す。かくのごとき仏に帰依せんと欲する有るも、もまたまさに但だ仏を成ずる無学法に帰すべし。ある余師の説に:仏に帰依するとは、総じて如来の十八不共法に帰依す、と。此の能く帰依するは何の法を以て体と為すか。語表を体と為す。かくのごとき帰依は何を以て義と為すか。済を救うを以て義と為す。彼を以て依と為すに由りて、能く永く一切の苦を解脱するゆえ。世尊の説くが如く:

眾人怖所逼,多歸依諸山,

衆人は怖に逼められて、多く諸の山に帰依し、

園苑及叢林,孤樹制多等。

園苑および叢林、孤樹・制多(塔廟)等。

此歸依非勝,此歸依非尊,

此の帰依は勝に非ず、此の帰依は尊に非ず、

不因此歸依,能解脫眾苦。

此の帰依に因らずして、能く衆苦を解脱せず。

諸有歸依佛,及歸依法僧,

諸の仏に帰依する有り、および法・僧に帰依して、

於四聖諦中,恆以慧觀察。

四聖諦中において、恒に慧を以て観察す。

知苦知苦集,知永超眾苦,

苦を知り苦の集を知り、永く衆苦を超ゆるを知り、

知八支聖道,趣安隱涅槃。

八支の聖道を知り、安隱の涅槃に趣く。

此歸依最勝,此歸依最尊,

此の帰依は最勝、此の帰依は最尊、

必因此歸依,能解脫眾苦。

必ず此の帰依に因りて、能く衆苦を解脱す。

是故歸依,普於一切受律儀處為方便門。何緣世尊於餘律儀處立離非梵行為其所學?唯於近事一律儀中但制令其離欲邪行。頌曰:

是れを以て帰依は、普く一切の律儀を受くる処において方便門と為す。何の縁に世尊は余の律儀の処において非梵行を離るるを立ててその学ぶ所と為すに、ただ近事の一律儀中において但だ彼をして欲の邪行を離れしむるを制すか。頌に曰く:

邪行最可訶,易離得不作。

邪行は最も訶すべし、易く離れて不作を得。

論曰:唯欲邪行世極訶責,以能侵毀他妻等故、感惡趣故非非梵行,又欲邪行易遠離故。諸在家者耽著欲故,離非梵行難可受持,觀彼不能長時修學,故不制彼離非梵行。又諸聖者於欲邪行一切定得不作律儀,經生聖者亦不行故。離非梵行則不如是,故於近事所受律儀,但為制立離欲邪行。勿經生聖者犯近事律儀。不作律儀謂定不作,諸有先受近事律儀後娶妻妾,於彼妻妾先受戒時得律儀不?理實應得。勿但於一分得別解律儀。若爾,云何後非犯戒?頌曰:

論に曰く:ただ欲の邪行は世は極めて訶責す、能く他の妻等を侵毀するを以て、悪趣を感ずるゆえに非梵行に非ず、また欲の邪行は易く遠離するゆえ。諸の在家は欲に耽着するゆえに、非梵行を離るるは受け持ち難し、彼は能く長時に修学せざるを観じて、ゆえに彼に非梵行を離るるを制せず。また諸の聖者は欲の邪行において一切は定めて不作の律儀を得、生を経る聖者もまた行わざるゆえ。非梵行を離るるは則ち然らず、ゆえに近事の受くる所の律儀において、但だ為に欲の邪行を離るるを制立す。生を経る聖者は近事律儀を犯すを勿れ。不作の律儀とは定めて作さずを謂う、諸の先に近事律儀を受けて後に妻妾を娶る有りて、彼の妻妾において先に戒を受くる時に律儀を得るか否や。理実にまさに得べし。但だ一分において別解律儀を得るを勿れ。もし爾ならば、如何にして後に犯戒に非ざるか。頌に曰く:

得律儀如誓,非總於相續。

律儀を得るは誓の如し、総じて相续においてに非ず。

論曰:如本受誓而得律儀。本受誓云何?謂離欲邪行。非於一切有情相續言我皆當離非梵行,由此普於有情相續唯得離欲邪行戒。非離非梵行律儀故,後納妻妾非毀犯前戒。何緣但制離虛誑語?非離間語等為近事律儀,亦由前說三種因故。謂虛誑語最可訶故,諸在家者易遠離故,一切聖者得不作故。復有別因,頌曰:

論に曰く:本に誓を受くるが如くして律儀を得。本に誓を受くるは如何。いわゆる欲の邪行を離るる。一切の有情の相续において我は皆まさに非梵行を離るべしと説くに非ず、此に由りて普く有情の相续においてただ欲の邪行を離るる戒を得。非梵行を離るる律儀に非ざるゆえ、後に妻妾を納るるは前の戒を毀犯するに非ず。何の縁に但だ虚誑語を離るるを制するか。間語等を離るるは近事律儀を為すに非ざるは、もまた前の説く所の三種の因に由るゆえ。いわゆる虚誑語は最も訶すべきゆえ、諸の在家は易く遠離するゆえ、一切の聖者は不作を得るゆえ。復た別の因有り、頌に曰く:

以開虛誑語,便越諸學處。

虚誑語を開くを以て、便ち諸の学処を越ゆ。

論曰:越諸學處被檢問時,若開虛誑語,便言我不作,因斯於戒多所違越。故佛為欲令彼堅持,於一切律儀制離虛誑語。云何令彼若犯戒時便自發露能防後犯?復以何緣不於遠離遮罪建立近事律儀?誰言此中不離遮罪。離何遮罪?謂離飲酒。何緣於彼諸遮罪中不制離餘,唯遮飲酒?頌曰:

論に曰く:諸の学処を越えて検問せらるる時に、もし虚誑語を開かば、便ち我は作さずと説き、斯に因りて戒において多く違越する所有り。ゆえに仏は彼をして堅持せしめんと欲して、一切の律儀において虚誑語を離るるを制す。如何にして彼をしてもし戒を犯す時に便ち自ら発露して能く後の犯を防がしめん。復た何の縁を以て遠離の遮罪において近事律儀を建立せざるか。誰か此の中に遮罪を離れざると説く。何の遮罪を離るるか。いわゆる飲酒を離るる。何の縁に彼の諸の遮罪中において余を離るるを制せずして、ただ飲酒を遮るか。頌に曰く:

遮中唯離酒,為護餘律儀。

遮中にはただ酒を離る、余の律儀を護るが為。

論曰:諸飲酒者心多縱逸,不能守護諸餘律儀,故為護餘令離飲酒。寧知飲酒遮罪攝耶?由此中無性罪相故,以諸性罪唯染心行。為療病時雖飲諸酒,不為醉亂能無染心。豈不先知酒能醉亂,而故欲飲即是染心。此非染心由自知量,為療病故分限而飲,不令醉亂故非染心。諸持律者言:飲酒是性罪。如彼尊者鄔波離言:我當如何供給病者?世尊告曰:唯除性罪,餘隨所應皆可供給。然有染疾釋種須酒,世尊不開彼飲酒故。又契經說:諸有苾芻稱我為師不應飲酒,乃至極少如一茅端所霑酒量亦不應飲。故知飲酒是性罪攝。又諸聖者雖易多生亦不犯故,如殺生等。又經說是身惡行故。對法諸師言非性罪,然為病者總開遮戒。復於異時遮飲酒者,為防因此犯性罪故。又令醉亂量無定限,故遮乃至飲茅端所霑量。又一切聖皆不飲者,以諸聖者具慚羞故,飲酒能令失正念故。乃至少分亦不飲者,以如毒藥量無定故。又經說是身惡行者,酒是一切放逸處故。由是獨立放逸處名,餘不立此名,皆是性罪故。然說數習墮惡趣者,顯數飲酒能令身中諸不善法相續轉故,又能引發惡趣業故,或能令彼轉增盛故。如契經說:窣羅、迷麗耶、末陀放逸處。依何義說?醞食成酒名為窣羅,醞餘物所成名迷麗耶酒。即前二酒未熟已壞,不能令醉不名末陀,若令醉時名末陀酒。簡無用位重立此名。然以檳榔及稗子等亦能令醉,為簡彼故,須說窣羅、迷麗耶酒。雖是遮罪,而令放逸廣造眾惡,為令殷重遮斷故說。放逸處言,酒是放逸所依處故。

論に曰く:諸の酒を飲むの心は多く縦逸して、能く諸の余の律儀を守護せず、ゆえに余を護らんが為に飲酒を離れしむ。寧ぞ飲酒は遮罪の摂なるを知らんや。此の中に性罪の相無きに由るゆえ、諸の性罪はただ染心の行なるを以て。病を療する為の時に諸の酒を飲むと雖も、醉乱せざるを為さば能く染心無し。豈に先に酒の能く醉乱せしむるを知らずして、而も故に飲まんと欲するは即ち是れ染心ならんや。此は染心に非ず、自ら量を知るに由り、病を療するが為に分限に依りて飲み、醉乱せしめざるゆえに染心に非ず。諸の律を持する者は説く:飲酒は是れ性罪、と。彼の尊者鄔波離(律を持する第一)の説くが如く:我はまさに如何にして病者に供給すべきか。世尊は告げたまわく:ただ性罪を除きて、余はその該ずる所に随い皆供給すべし、と。しかるに染疾の釋種有りて酒を須うも、世尊は彼に酒を飲むを開かざるゆえ。また契経に説く:諸の苾芻は我を師と称するは酒を飲むべからず、乃至極少にして一茅の端の沾う所の酒量ももまた飲むべからず、と。ゆえに飲酒は是れ性罪の摂なるを知る。また諸の聖者は多生を易ると雖ももまた犯さざるゆえ、殺生等の如し。また経に是れ身の悪行と説くゆえ。対法の諸師は性罪に非ずと説く、しかるに病者の為には遮戒を総じて開く。復た異なる時に於て飲酒を遮るは、此に因りて性罪を犯すを防ぐが為。また醉乱せしむる量は定限無し、ゆえに乃至茅端の沾う所の量を飲むを遮る。また一切の聖は皆飲まざるは、諸の聖者は慚羞を具するを以て、飲酒は能く正念を失はしむるゆえ。乃至少分ももまた飲まざるは、毒薬の如く量の定ある無きを以て。また経に是れ身の悪行と説くは、酒は一切の放逸の処なるゆえ。是に由りて独立して放逸処の名を立て、余は此の名を立てず、皆是れ性罪なるゆえ。しかるに数習は悪趣に堕つと説くは、数々酒を飲みて能く身中の諸の不善法をして相续して転ぜしむるを顕すゆえ、もまた能く悪趣の業を引发するゆえ、あるいは能く彼をして転じて増盛せしむるゆえ。契経の説くが如く:窣羅・迷麗耶・末陀は放逸の処。何の義に依りて説くか。食を醞して酒を成すを窣羅と名づけ、余の物を醞して成す所を迷麗耶酒と名づく。即ち前の二酒は未だ熟せずして已に壞れ、能く醉わせずして末陀と名づけず、もし醉わしむる時に末陀酒と名づく。無用の位を簡びて重ねて此の名を立つ。しかるに檳榔および稗子等を以てももまた能く醉わしむ、彼を簡ぶが為に、須ち窣羅・迷麗耶酒を説く。遮罪なりと雖も、而も放逸せしめて広く衆悪を造る、殷重に遮断せしめんが為に説く。放逸処の言は、酒は放逸の依る所の処なるゆえ。

説一切有部倶舎論 巻第十四

アビダルマ倶舎論 巻第十五 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別業品第四之三

分別業品 第四之三

此別解脫、靜慮、無漏三種律儀,從彼得一亦餘二不?不爾。云何?頌曰:

此の別解脱・静慮・無漏の三種の律儀は、彼より一を得ばもまた余の二を得るか否や。然らず。如何。頌に曰く:

從一切二現,得欲界律儀,

一切・二・現より、欲界の律儀を得、

從根本恆時,得靜慮無漏。

根本・恒時より、静慮・無漏を得。

論曰:欲界律儀謂別解脫,此從一切根本業道及從加行後起而得。從二得者,謂從二類,即情非情、性罪遮罪。從現得者,謂從現世蘊處界得,非從去來。由此律儀有情處轉,去來非是有情處故。若得靜慮無漏律儀,應知但從根本業道。尚不從彼加行後起得此律儀,況從遮罪。從恆時者,謂從過去現在未來蘊處界得。由此差別應作四句,有蘊處界從彼唯得別解律儀非餘二等。第一句者,謂從現世加行後起及諸遮罪。第二句者,謂從去來根本業道。第三句者,謂從現世根本業道。第四句者,謂從去來加行後起。非於正得善律儀時可有現世惡業道等,是故應言從現處得。理應但說防護未來,定不應言防護過現。諸有獲得律不律儀,從一切有情支因有異不?此定有異。相云何?頌曰:

論に曰く:欲界の律儀とは別解脱を謂い、此は一切の根本業道および加行・後起より得。二より得るとは、いわゆる二類より、即ち情・非情、性罪・遮罪。現より得るとは、いわゆる現世の蘊・処・界より得、去来よりに非ず。此の律儀は有情の処に転ずるに由り、去来は是れ有情の処に非ざるゆえ。もし静慮・無漏の律儀を得れば、まさに知るべし但だ根本業道より。尚お彼の加行・後起より此の律儀を得ず、況んや遮罪よりをや。恒時よりとは、いわゆる過去・現在・未来の蘊・処・界より得。此の差別に由りてまさに四句を作すべし、蘊・処・界有りて彼よりただ別解律儀を得て余の二に非ず等。第一句とは、いわゆる現世の加行・後起および諸の遮罪より。第二句とは、いわゆる去来の根本業道より。第三句とは、いわゆる現世の根本業道より。第四句とは、いわゆる去来の加行・後起より。正に善律儀を得る時に現世の悪業道等の有るべからず、是れを以てまさに現処より得と説くべし。理はまさに但だ未来を防護すと説くべく、定めて過・現を防護すと説くべからず。諸の律・不律儀を獲得する有るは、一切の有情・支・因より異有るか否や。此は定めて異有り。相は如何。頌に曰く:

律從諸有情,支因說不定,

律は諸の有情より、支・因は説きて定めず、

不律從一切,有情支非因。

不律は一切より、有情・支は因に非ず。

論曰:律儀定從一切有情得。無少分理,支因說不定。支不定者,有從一切得,謂苾芻律儀。有從四支得,謂所餘律儀,唯根本業道名律儀支故。因不定者,謂或有義從一切因,或約餘義唯許從一。從一切者,謂從無貪瞋痴,必俱起故。唯從一者,謂從下中上心,不俱起故。此中且就後三因說。或有一類住律儀者,於一切有情得律儀,非一切支非一切因,謂以下心或中或上受近事勤策戒。或有一類住律儀者,於一切有情得律儀,由一切支非一切因,謂以下心或中或上受苾芻戒。或有一類住律儀者,於一切有情得律儀,由一切支及一切因,謂以三心受近事勤策苾芻戒。或有一類住律儀者,於一切有情得律儀,由一切因非一切支,謂以三心受近事近住勤策戒。無有不遍於諸有情得律儀者,以於一切諸有情所住善意樂方得律儀,異則不然,以惡意樂不全息故。若人不作五種定限,方可受得別解律儀,謂有情、支、處、時、緣定。有情定者,念我唯於某類有情當離殺等。言支定者,念我唯於某律儀支當持不犯。言處定者,念我唯住某類方域當離殺等。言時定者,念我唯於一月等時能離殺等。言緣定者,念我唯除鬪戰等緣能離殺等。如是受者不得律儀,但得律儀相似妙行。於非所能境,如何得律儀?由普於有情發起增上不損命意樂,故得律儀。毘婆沙師有作是說:若謂一向於所能境方可受得別解律儀,則此律儀應有增減,以所能境與非所能二類有情有轉易故,如是便有別解律儀離得捨緣有得捨過。彼說不然。如生草等先無後起或起已枯,於彼律儀無增無減。能不能境所得律儀,境轉易時例亦應爾。彼言不爾。所以者何?以諸有情前後性等、草等前後性不同故。若爾,有情般涅槃已,如前性類今時既無,於彼律儀如何無減?故如是釋,於理不然。前所說因於理為善。

論に曰く:律儀は定めて一切の有情より得。少分の理無し、支・因は説きて定まらず。支の定まらざるは、一切より得る有り、いわゆる苾芻律儀。四支より得る有り、いわゆる余の律儀、ただ根本業道を律儀支と名づくるゆえ。因の定まらざるは、あるいは義に由りて一切の因より、あるいは余の義に約りてただ一より許す。一切よりとは、いわゆる無貪・瞋・痴より、必ず倶に起るゆえ。ただ一よりとは、いわゆる下・中・上の心より、倶に起らざるゆえ。此中は且つ後の三因に就きて説く。あるいは一類の律儀に住する有りて、一切の有情において律儀を得、一切支に非ず一切因に非ず、いわゆる下心あるいは中あるいは上を以て近事・勤策の戒を受く。あるいは一類の律儀に住する有りて、一切の有情において律儀を得、一切支に由りて一切因に非ず、いわゆる下心あるいは中あるいは上を以て苾芻の戒を受く。あるいは一類の律儀に住する有りて、一切の有情において律儀を得、一切支および一切因に由りて、いわゆる三心を以て近事・勤策・苾芻の戒を受く。あるいは一類の律儀に住する有りて、一切の有情において律儀を得、一切因に由りて一切支に非ず、いわゆる三心を以て近事・近住・勤策の戒を受く。諸の有情に遍かざるに於て律儀を得る有る無し、一切の諸の有情の所において善の意楽に住して方に律儀を得るを以て、異なれば則ち然らず、悪意楽は全き息ならざるを以て。もし人は五種の定限を作さざれば、方に別解律儀を受得すべし、いわゆる有情・支・処・時・縁の定。有情の定とは、我はただ某の類の有情においてまさに殺等を離るべしと念ず。支の定と言うは、我はただ某の律儀の支においてまさに持して犯さざるべしと念ず。処の定と言うは、我はただ某の類の方域に住してまさに殺等を離るべしと念ず。時の定と言うは、我はただ一月等の時において能く殺等を離るべしと念ず。縁の定と言うは、我はただ闘戦等の縁を除きて能く殺等を離るべしと念ず。かくのごとき受くるは律儀を得ず、但だ律儀に相似たる妙行を得。能くする所に非ざる境において、如何にして律儀を得るか。普く有情において増上の命を損せざる意楽を発起するに由りて、ゆえに律儀を得。毘婆沙師に是の説を作す有り:もし一向に能くする所の境において方に別解律儀を受得すべしと謂わば、則ち此の律儀はまさに増減有るべし、能くする所の境と能くする所に非ざる二類の有情に転易有るを以て、かくのごとき便ち別解律儀は得・捨の縁を離れて得・捨の過有らん。彼は然らずと説く。生ずる草等の先に無くして後に起りあるいは起り已りて枯るるが如く、彼の律儀において増無く減無し。能・不能の境の得る所の律儀は、境の転易する時は例してもまたまさにこの如くあるべし。彼は然らずと言う。所以者何。諸の有情の前後は性等しく、草等の前後は性は同じからざるを以て。もし爾ならば、有情は般涅槃し已りて、前の如き性類は今の時に既に無し、彼の律儀において如何にして減無からん。かくの釋する所以は、理において然らず。前の説く所の因は理において善を為す。

若爾,前佛及所度生已涅槃者,後佛於彼既不發得別解律儀,如何屍羅無減前過?以一切佛別解律儀,皆從一切有情處得。設彼有情今猶在者,後佛從彼亦得律儀,故後屍羅無減前過。已說從彼得諸律儀。得不律儀定從一切有情業道,無少分境及不具支不律儀者。此定無有,由一切因下品等心無俱起故。若有一類由下品心得不律儀,後於異時由上品心斷眾生命,彼但成就下不律儀,亦成殺生上品表等。中品上品例此應知。此中何名不律儀者,謂諸屠羊屠鷄屠豬捕鳥捕魚、獵獸劫盜魁膾典獄、縛龍煮狗及罝弶等。等言類顯王典刑罰及餘聽察斷罪等人,但恆有害心。名不律儀者,由彼一類住不律儀。或有不律儀名不律儀者,言屠羊者,謂為活命要期盡壽恆欲害羊。餘隨所應當知亦爾。遍於有情界得諸律儀,其理可爾,由普欲利樂勝阿世耶而受得故,非屠羊等不律儀人於己至親有損害意,乃至為救自身命緣亦不欲殺,如何可說普於一切得不律儀?由彼至親若為羊等,於彼亦可有損害心。既知至親現非羊等,如何於彼可有害心?又聖必無作羊等理,如何於彼得不律儀?若觀未來羊等自體,於現相續得不律儀。是則羊等於未來世,亦有至親及聖自體,於彼決定無損害心。是則應觀未來自體,不於現在得不律儀。於羊等現身既有害意,如何不於彼得不律儀?於母等現身既無害意,如何亦於彼得不律儀?於等事中應求異理。又屠羊等不律儀人,於一生中不與不取,於己妻妾住知足心,瘂不能言無語四過,如何彼亦得具支不律儀?彼遍損善阿世耶故。雖瘂不言,而身表語所欲說義,故得具支。若爾,彼人或時先受二三學處,後但受殺,於餘不損善阿世耶,如何具發七支惡戒?毘婆沙者作如是言:必無缺支及餘一分可得名住不律儀人。經部諸師作如是說:隨所期限支具不具及全分一分皆得不律儀。

(論に続けて曰く:)もし爾ならば、前の仏および度する所の生は已に涅槃せしは、後の仏は彼において既に別解律儀を発得せざれば、如何にして尸羅は前の過を減ずる無きか。一切の仏の別解律儀は、皆一切の有情の処より得るを以て。設ひ彼の有情は今猶お在れば、後の仏は彼よりもまた律儀を得、ゆえに後の尸羅は前の過を減ずる無し。已に彼より諸の律儀を得るを説きたり。不律儀を得るは定めて一切の有情の業道より、少分の境および支を具せざる不律儀の有る無し。此は定めて有る無し、一切の因に由りて下品等の心は倶に起らざるゆえ。もし一類有りて下品の心に由りて不律儀を得て、後に異時に於て上品の心に由りて衆生の命を断てば、彼は但だ下の不律儀を成就し、もまた殺生の上品の表等を成ず。中品・上品は此に例してまさに知るべし。此中に何を不律儀と名づくるか、いわゆる諸の屠羊・屠鶏・屠猪・捕鳥・捕魚、獣を猟し・劫盗・魁膾・典獄、竜を縛り・狗を煮るおよび罝弶等。等の言は王の刑罰を典するおよび余の聴察して罪を断ずる等の人を類顕す、但だ恒に害心有り。不律儀と名づくるは、彼の一類は不律儀に住するに由る。あるいは不律儀有りて不律儀と名づく、屠羊と言うは、命を活す為に寿を盡くすを要期して恒に羊を害せんと欲するを謂う。余はその該ずる所に随いまさに知るべきこともまたこの如し。遍く有情界において諸の律儀を得るは、その理はこの如く可なり、普く利楽せんと欲する勝の阿世耶に由りて受得するゆえ、屠羊等の不律儀の人は己の至親において損害の意有るに非ざれば、乃至己の身命の縁を救わんが為にも殺さんと欲せず、如何にして普く一切において不律儀を得と説くべきか。彼の至親はもし羊等ならば、彼においてもまた損害の心有るべきに由る。既に至親は現に羊等に非ずと知れば、如何にして彼において害心有るべきか。また聖は必ず羊等を作すの理無し、如何にして彼において不律儀を得るか。もし未来の羊等の自体を観ずれば、現の相续において不律儀を得。是れ則ち羊等は未来世において、もまた至親および聖の自体有りて、彼において決定して損害の心無し。是れ則ちまさに未来の自体を観ずべく、現在において不律儀を得ず。羊等の現の身において既に害意有れば、如何にして彼において不律儀を得ざらん。母等の現の身において既に害意無ければ、如何にしてもまた彼において不律儀を得るか。等の事においてまさに異の理を求むべし。もまた屠羊等の不律儀の人は、一生中に与えずして取らず、己の妻妾において知足の心に住し、唖にして言う能わずして語の四過無し、如何にして彼もまた具支の不律儀を得るか。彼は遍く善の阿世耶を損ずるゆえ。唖にして言わずと雖も、而も身は語の欲す所の義を表す、ゆえに具支を得。もし爾ならば、彼の人はあるいは時に先に二三の学処を受けて、後に但だ殺を受け、余において善の阿世耶を損せざれば、如何にして具に七支の悪戒を発するか。毘婆沙者はかくの説を作す:必ず支を缺きおよび余の一分有るは住不律儀の人と名づくるを得べからず。経部の諸師はかくの説を作す:期限する所の支の具不具および全分・一分に随い皆不律儀を得、と。

律儀亦然,唯除八戒,由隨彼量善惡屍羅性相相違互相遮故。已說從彼得不律儀。得不律儀及餘無表,如何方便未說當說。頌曰:

律儀もまたこの如し、ただ八戒を除く、随いて彼の量の善悪の尸羅は性相は相違して互いに相遮るゆえ。已に彼より不律儀を得るを説きたり。不律儀および余の無表を得るは如何の方便か未だ説かず、まさに説かん。頌に曰く:

諸得不律儀,由作及誓受,

諸の不律儀を得るは、作および誓受に由り、

得所餘無表,由田受重行。

余の無表を得るは、田・受・重行に由る。

論曰:諸不律儀,由二因得:一者生在不律儀家,由初現行殺等加行;二者雖復生在餘家,由初要期受殺等事,謂我當作如是事業,以求財物養活自身,當於爾時便發惡戒。得餘無表由三種因:一者由田,謂於如是諸福田所施園林等,彼善無表初施便生,如說有依諸福業事。二者由受,謂自誓言:若未禮佛不先食等。或作誓限:於齋日月半月及年常施食等。三由重行,謂起如是殷重作意行善行惡。由此三因起餘無表。如是已說得律儀等,捨律儀等未說當說。且云何捨別解律儀?頌曰:

論に曰く:諸の不律儀は、二因に由りて得:一には不律儀の家に生まれて、初めに殺等の加行を現行するに由り、二には復た余の家に生ずると雖も、初めに殺等の事を受くるを要期するに由り、いわゆる我はまさにかくのごとき事業を作して、以て財物を求めて自身を養活せん、まさに爾の時に於て便ち悪戒を発す。余の無表を得るは三種の因に由る:一には田に由る、いわゆるかくのごとき諸の福田の所に園林等を施す、彼の善の無表は初めに施せば便ち生ず、依有る諸の福業の事を説くが如し。二には受に由る、いわゆる自ら誓う言に:もし未だ仏を礼せざれば先に食さざる等。あるいは誓限を作す:斎日・月半月および年に常に食等を施さんと。三に重行に由る、いわゆるかくのごとき殷重の作意を起して善行し悪行す。此の三因に由りて余の無表を起す。かくのごとき已に律儀等を得るを説きたり、律儀等を捨つるは未だ説かず、まさに説かん。且つ如何にして別解律儀を捨つるか。頌に曰く:

捨別解調伏,由故捨命終,

別解の調伏を捨つるは、故に捨て命終すに由り、

及二形俱生,斷善根夜盡。

および二形の倶に生ず、善根を断じ夜盡くる。

有說由犯重,餘說由法滅,

ある説に重を犯すに由り、余の説に法の滅するに由る、

迦濕彌羅說,犯二如負財。

迦湿弥羅は説く、二を犯すは財を負うが如し。

論曰:言調伏者,意顯律儀,由此能令根調伏故。唯除近住,所餘七種別解律儀,由四緣捨:一由意樂對有解人發有表業捨學處故、二由棄捨眾同分故、三由二形俱時生故、四由所因善根斷故。捨近住戒由前四緣及由夜盡,是故總說別解律儀由五緣捨。何緣捨戒由此五緣?與受相違表業生故、所依捨故、所依變故、所因斷故、過期限故。有餘部說:於四極重感墮罪中若隨犯一,亦捨勤策苾芻律儀。有餘部言:由正法滅亦能令捨別解律儀,以法滅時一切學處結界羯磨皆止息故。迦濕彌羅國毘婆沙師言:犯根本罪時,不捨出家戒。所以然者,非犯一邊一切律儀應遍捨故,非犯餘罪有斷屍羅。然有二名,謂持犯戒。如有財者負他債時,名為富人及負債者。若於所犯發露悔除,名具屍羅不名犯戒,如還債已但名富人。若爾,何緣薄伽梵說犯四重者不名苾芻、不名沙門非釋迦子?破苾芻體、害沙門性,壞滅墮落立他勝名。依勝義苾芻,密意作是說。此言兇勃。兇勃者何?謂於世尊了義所說,以別義釋令成不了,與多煩惱者為犯重罪緣。寧知此言是了義說。由律自釋有四苾芻:一名想苾芻、二自稱苾芻、三乞匃苾芻、四破惑苾芻。此義中言非苾芻者,謂非白四羯磨受具足戒苾芻。非此苾芻先是勝義,後由犯重成非苾芻,故知此言是了義說。然彼所說,非犯一邊一切律儀應遍捨者,彼言便是徵詰大師。大師此中立如是喻,如多羅樹若被斷頭必不復能生長廣大,諸苾芻等犯重亦然。大師此中喻顯何義?意顯於戒隨犯一邊根本重罪,令餘所受必不復能生長廣大。謂彼毀犯諸重罪時,違越苾芻根本行故、與極猛利無慚無愧共相應故。行根既斷,理應遍捨一切律儀。又犯重人,世尊不許食僧祇食下至一摶、踐毘訶羅一足跟地,擯出一切苾芻事業。

論に曰く:調伏と言うは、意は律儀を顕す、此に由りて能く根をして調伏せしむるゆえ。ただ近住を除きて、余の七類の別解律儀は、四縁に由りて捨つ:一に意楽に由りて解ある人に対して表有る業を発して学処を捨つるゆえ、二に衆同分を棄捨するゆえ、三に二形の倶時に生ずるゆえ、四に因と為す所の善根の断ずるゆえ。近住戒を捨つるは前の四縁および夜盡くるに由る、是れを以て総じて別解律儀は五縁に由りて捨つと説く。何の縁に戒を捨つるは此の五縁に由るか。受と相違する表業の生ずるゆえ、依る所を捨つるゆえ、依る所の変ずるゆえ、因と為す所の断ずるゆえ、期限を過ぐるゆえ。ある余部の説に:四の極重の感堕の罪中においてもし一に随い犯せば、もまた勤策・苾芻の律儀を捨つ、と。ある余部の説に:正法の滅するに由りてもまた能く別解律儀を捨てしむ、法の滅する時に一切の学処・結界・羯磨(僧団の作法)は皆止息するを以て。迦湿弥羅国の毘婆沙師は説く:根本の罪を犯す時は、出家の戒を捨てず。所以はこの如し、一辺を犯すに一切の律儀はまさに遍く捨つべきに非ざるゆえ、余の罪を犯すに尸羅を断ずる有るに非ず。しかるに二名有り、持・犯戒を謂う。財有る者の他の債を負う時に、富人および債を負う者と名づくるが如し。もし犯す所において発露して悔い除かば、尸羅を具すと名づきて犯戒と名づけず、債を還し已りて但だ富人と名づくるが如し。もし爾ならば、何の縁に薄伽梵は四重を犯すは苾芻と名づけず、沙門と名づけず釋迦の子に非ずと説くか。苾芻の体を破し、沙門の性を害し、壊滅して堕落して他勝の名を立つ。勝義の苾芻に依りて、密意に是の説を作す。此の言は凶勃。凶勃とは是れ何ぞ。世尊の了義の説く所において、別の義を以て釋して成らざらしむるを謂い、煩悩多き者と為して重罪の縁を犯す。寧ぞ此の言は是れ了義の説なるを知らんや。律に自ら四苾芻有りと釋す:一に名想苾芻、二に自称苾芻、三に乞討苾芻、四に破惑苾芻。此の義中に苾芻に非ずと言うは、白四羯磨に非ずして具足戒を受けたる苾芻を謂うに非ず。此の苾芻は先に是れ勝義にして、後に重を犯すに由りて非苾芻を成すに非ず、ゆえに此の言は是れ了義の説なるを知る。しかるに彼の説く所の、一辺を犯すに一切の律儀はまさに遍く捨つべきに非ずとは、彼の言は便ち大師を征詰す。大師は此中にかくの喩を立つ:多羅樹はもし頭を断たれれば必ず復た能く生長して広大ならず、諸の苾芻等の重を犯すもまたこの如し。大師は此中に喩して何の義を顕すか。意は戒において一辺の根本重罪を犯すに随いて、余の受けたる所をして必ず復た能く生長して広大ならざらしむるを顕す。彼の諸の重罪を毀犯する時に、苾芻の根本の行に違越するゆえ、極めて猛利の無慚無愧と共に相応するを謂うゆえ。行の根は既に断えば、理はまさに遍く一切の律儀を捨つべし。また重を犯す人は、世尊は僧祇の食を食すること下一抟に至るまで許さず、毘訶羅(寺院)の一足跟の地を践まるを許さず、一切の苾芻の事業より摈出す。

大師依彼說如是言:應速拔除稻禾稗莠,應速簡棄腐朽棟梁,應速簸颺種中穅秕,如是應速驅擯眾中實非苾芻稱苾芻者。彼苾芻體其相如何,隨相是何體必應有。以世尊說,準陀當知有四沙門,更無第五。所言四者:一勝道沙門、二示道沙門、三命道沙門、四汙道沙門。雖有此說,而彼唯有餘沙門相,故名沙門。如被燒材假鸚鵡𭪿涸池敗種火輪死人。若犯重人非苾芻者,則應無有授學苾芻。不說犯重人,皆成他勝罪;但成他勝罪,定說非苾芻。謂或有人相續殊勝,雖犯極重戒而非他勝罪,由彼無有一念覆心。法主世尊制立如是,若犯他勝便非苾芻。何不重令出家受戒?由彼相續已為極重無慚愧懷,無力能發出家律儀,如焦種故;非觀彼有苾芻律儀,故不重令出家受戒。所以然者,設彼後時謂是苾芻更捨所學,亦不許彼重出家故。於此無義,苦救何為?若如是人猶有苾芻性,應自歸禮如是類苾芻。正法滅時雖無一切結界羯磨及毘奈耶,未得律儀無新得理,而先得者無有捨義。靜慮、無漏二律儀等,云何當捨?頌曰:

(論に続けて曰く:)大師は彼に依りてかくの言を説く:まさに速やかに稲禾の稗莠を拔除すべし、まさに速やかに腐朽の棟梁を簡棄すべし、まさに速やかに種中の糠秕を簸揚すべし、かくのごときまさに速やかに衆中の実に苾芻に非ずして苾芻と称するを駆摈すべし。彼の苾芻の体はその相は如何、相に随うは是れ何の体か必ずまさに有るべし。世尊の説くを以て、準陀まさに知るべし四沙門有りて、更に第五無し。言う所の四とは:一に勝道沙門、二に示道沙門、三に命道沙門、四に污道沙門。此の説有ると雖も、而も彼はただ余の沙門の相有る、ゆえに沙門と名づく。焼かれたる材・假の鸚鵡の喙・涸れたる池・敗れたる種・火輪・死んだ人の如し。もし重を犯す人は苾芻に非ざれば、則ちまさに学を授くる苾芻有る無かるべし。重を犯す人を説かず、皆他勝の罪を成す;但だ他勝の罪を成ずれば、定めて苾芻に非ずと説く。いわゆるあるいは人有りて相续は殊勝にして、極重の戒を犯すと雖も而も他勝の罪に非ず、彼に一念の覆心有る無きに由る。法主世尊はかくのごときを制立す、もし他勝を犯せば便ち苾芻に非ず。何ぞ重ねて出家して戒を受けしめざるか。彼の相续は已に極重の無慚愧に懷かれて、力は能く出家の律儀を発する無し、焦げたる種の如きゆえ。彼に苾芻の律儀有るを観ぜざるに非ず、ゆえに重ねて出家して戒を受けしめず。所以はこの如し、設ひ彼は後時に是れ苾芻と謂いて更に学ぶ所を捨てんとも、もまた彼に重ねて出家することを許さざるゆえ。此において義無きは、苦しんで救うは何の為か。もしかくのごとき人は猶お苾芻の性有らば、まさに自らかくのごとき類の苾芻に帰礼すべし。正法の滅する時は一切の結界・羯磨および毘奈耶無しと雖も、未だ律儀を得ざるは新たに得の理無く、而も先の得たるは捨の義有る無し。静慮・無漏の二律儀等は、如何にしてまさに捨てんとするか。頌に曰く:

捨定生善法,由易地退等,

定生の善法を捨つるは、地を易え退する等に由り、

捨聖由得果,練根及退失。

聖を捨つるは果を得、根を練るおよび退失に由る。

論曰:諸靜慮地所繫善法,由二緣捨:一由易地,謂從下地生上地時,或上地沒來生下地;二由得退,謂從已獲勝定功德還退失時。等言為顯捨眾同分亦捨少分殊勝善根,如色界中所有善法由易地退捨,無色界亦然,唯無律儀與色界異。無漏善法由三緣捨:一由得果,謂得果時捨前向道及果道故;二由練根,謂練根位由得利道捨鈍道故;三由退失,謂得退時退失果道勝果道故。如是已說捨諸律儀。不律儀云何捨?頌曰:

論に曰く:諸の静慮地の繫する所の善法は、二縁に由りて捨つ:一に地を易るに由り、いわゆる下地より上地に生ずる時、あるいは上地に没して下地に生ず;二に得退に由り、いわゆる已に勝定の功徳を獲たるより還りて退失する時。等の言は是れ衆同分を捨つるもまた少分の殊勝の善根を捨つるを顕さんが為、色界中の所有する善法は地を易え退して捨つるが如く、無色界もまたこの如し、ただ律儀無きは色界と異なり。無漏の善法は三縁に由りて捨つ:一に果を得るに由り、いわゆる果を得る時に前の向道および果道を捨つるゆえ;二に根を練るに由り、いわゆる根を練る位は利道を得るに由りて鈍道を捨つるゆえ;三に退失に由り、いわゆる退を得る時に果道を退失し勝果道を退失するゆえ。かくのごとき已に諸の律儀を捨つるを説きたり。不律儀は如何にして捨つるか。頌に曰く:

捨惡戒由死,得戒二形生。

悪戒を捨つるは死に由り、戒を得二形の生ず。

論曰:諸不律儀,由三緣捨:一者由死捨所依故。二由得戒,謂若受得別解律儀,或由獲得靜慮律儀,惡戒便捨。由因緣力得律儀時,諸不律儀一切皆斷,以善惡戒其性相違,善戒於中勢力強故。三由相續二形俱生,以於爾時所依變故。住惡戒者,雖或有時起不作思捨刀網等,若不受得諸善律儀,諸不律儀無容棄捨。譬如雖避發病因緣,不服良藥病終難愈。不律儀者受近住戒,至夜盡位捨律儀時,為得不律儀、為名處中者?有餘師說:得不律儀,惡阿世耶非永捨故,如停熱鐵赤滅青生。有餘師言:若不更作,無緣令彼得不律儀,以不律儀依表得故。處中無表捨復云何?頌曰:

論に曰く:諸の不律儀は、三縁に由りて捨つ:一には死に由りて依る所を捨つるゆえ。二に戒を得るに由り、いわゆるもし別解律儀を受得し、あるいは静慮律儀を獲得するに由りて、悪戒は便ち捨つ。因縁の力に由りて律儀を得る時に、諸の不律儀は一切は皆断たる、善悪の戒はその性は相違し、善戒は其の中に於て勢力は強きを以て。三に相续して二形倶に生ずるに由り、爾の時に於て依る所の変ずるを以て。悪戒に住するは、あるいは時に不作の思を起して刀網等を捨つる有ると雖も、もし諸の善律儀を受得せざれば、諸の不律儀は棄捨するを容れず。譬えば病を発する因縁を避くると雖も、良薬を服せざれば病は終に愈え難きが如し。不律儀の者は近住戒を受けて、夜の盡くる位に至りて律儀を捨つる時に、是れ不律儀を得るか、是れ中に処すると名づくるか。ある余師の説に:不律儀を得、悪の阿世耶は永く捨つるに非ざるゆえ、熱き鐵を停むれば赤は滅して青生ずるが如し。ある余師の説に:もし更に作さざれば、彼をして不律儀を得せしむる縁無し、不律儀は表に依りて得るを以て。中に処する無表を捨つるは復た如何。頌に曰く:

捨中由受勢,作事壽根斷。

中を捨つるは受・勢に由り、事を作し寿・根の断ず。

論曰:處中無表,捨由六緣:一由受心斷壞故捨,謂捨所受,作是念言:我從今時棄先所受。二由勢力斷壞故捨,謂由淨信煩惱勢力所引無表,彼二限勢若斷壞時無表便捨,如所放箭及陶家輪,弦等勢力盡時便止。三由作業斷壞故捨,謂如所受後更不作。四由事物斷壞故捨。事物者何?謂所捨施寺舍敷具制多園林,及所施為罝網等事。五由壽命斷壞故捨,謂所依止有轉易故。六由善根斷壞故捨,謂起加行斷善根時,便捨善根所引無表欲非色善,及餘一切非色染法。捨復云何?頌曰:

論に曰く:中に処する無表は、六縁に由りて捨つ:一に受の心の断壞するに由りて捨つ、いわゆる受けたる所を捨て、是の念を作して説く:我は今の時より先の受けたる所を棄てんと。二に勢力の断壞するに由りて捨つ、いわゆる浄信・煩悩の勢力の引く所の無表は、彼の二の限勢はもし断壞する時に無表は便ち捨つ、放つ所の箭および陶家の輪の如く、弦等の勢力の盡くる時に便ち止む。三に作業の断壞するに由りて捨つ、いわゆる受けたる所の如く後に更に作さず。四に事物の断壞するに由りて捨つ。事物とは是れ何ぞ。捨つる所の施したる寺舎・敷具・制多・園林、および施したる罝網等の事を為す所を謂う。五に寿命の断壞するに由りて捨つ、いわゆる依止する所に転易有るゆえ。六に善根の断壞するに由りて捨つ、いわゆる加行を起して善根を断ずる時に、便ち善根の引く所の無表・欲の非色の善、および余の一切の非色の染法を捨つ。捨は復た如何。頌に曰く:

捨欲非色善,由根斷上生,

欲の非色の善を捨つるは、根断・上生に由り、

由對治道生,捨諸非色染。

対治の道の生ずるに由りて、諸の非色の染を捨つ。

論曰:欲界一切非色善法,捨由二緣:一斷善根、二生上界。三界一切非色染法捨由一緣,謂彼但由對治道起。若此品類能斷道生,當捨此中所有煩惱及彼助伴,非餘方便。善惡律儀何有情有?頌曰:

論に曰く:欲界の一切の非色の善法は、二縁に由りて捨つ:一に善根を断ず、二に上界に生ず。三界の一切の非色の染法は一縁に由りて捨つ、いわゆる彼は但だ対治の道の起るに由る。もし此の品類の能く断ずる道生ずれば、まさに此中の所有する煩悩および彼の助伴を捨つべく、余の方便に非ず。善悪の律儀は何の有情か有るか。頌に曰く:

惡戒人除北,二黃門二形,

悪戒は人にて北を除く、二の黄門・二形、

律儀亦在天,唯人具三種。

律儀はもまた天に在り、ただ人は三種を具す。

生欲天色界,有靜慮律儀,

欲天・色界に生ずるは、静慮律儀有り、

無漏並無色,除中定無想。

無漏は并びて無色、中定・無想を除く。

論曰:唯於人趣有不律儀,然除北洲唯三方有。於三洲內,復除扇搋及半擇迦具二形者。律儀亦爾,謂於人中除前所除,並天亦有,故於二趣容有律儀。復以何緣知扇搋等所有相續非律儀依?由經律中有誠證故。謂契經說,佛告大名:諸有在家白衣男子男根成就,歸佛法僧起殷淨心發誠諦語,自稱我是鄔波索迦,願尊憶持慈悲護念。齊是名曰鄔波索迦。毘奈耶中亦作是說:汝應除棄此色類人。故知律儀非彼類有。復由何理彼無律儀?由二所依所起煩惱,於一相續俱增上故、於正思擇無堪能故、無有極重慚愧心故。若爾,何故無不律儀?彼於惡中心不定故。又若是處有善律儀,則惡律儀於彼亦有,由此二種相翻立故。北俱盧人無受及定,及無造惡勝阿世耶,是故彼無善戒惡戒。猛利慚愧惡趣中無,故律不律儀於彼亦非有。與勝慚愧相應相違,方有律儀不律儀故。又扇搋等如醎鹵田,故不能生善戒惡戒。世間現見諸醎鹵田,不能滋生嘉苗穢草。若爾,何故契經中言有卵生龍,半月八日每從宮出來至人間,求受八支近住齋戒。此得妙行,非得律儀。是故律儀唯人天有,然唯人具三種律儀,謂別解脫、靜慮、無漏。若生欲天及生色界,皆容得有靜慮律儀,生無色界彼必非有,無漏律儀亦在無色。謂若生在欲界天中及生色界中,除中定無想,皆容得有無漏律儀。生無色中唯得成就,以無色故必不現起。因辯諸業性相不同,當釋經中所摽諸業。且經中說業有三種,善、惡、無記。其相云何?頌曰:

論に曰く:ただ人趣に不律儀有り、しかるに北洲を除きてただ三方に有り。三洲内において、復た扇搋(黄門)および半択迦(不能男)の二形を具するを除く。律儀もまたこの如し、人中において前の除く所を除きて、并びて天にもまた有り、ゆえに二趣において律儀有るを容れん。復た何の縁を以て扇搋等の所有する相续は律儀の依に非ずと知るか。経律中に誠証有るに由るゆえ。契経の説くを謂い、仏は大名に告げたまわく:諸の在家の白衣の男子にして男根を成就する有りて、仏・法・僧に帰し殷浄の心を起して誠諦の語を発し、自ら称して我は是れ鄔波索迦なり、願わくは尊は憶持して慈悲に護念したまえ、是に齊きて名づけて鄔波索迦と曰う。毘奈耶中にも是の説を作す:汝はまさに此の色類の人を除棄すべし。ゆえに律儀は彼の類に有るに非ずと知る。復た何の理に由りて彼は律儀無きか。二の依る所の起す所の煩悩は、一の相续において倶に増上なるゆえ、正しく思択するに堪能無きゆえ、極重の慚愧の心有る無きゆえ。もし爾ならば、何の故に不律儀無きか。彼は悪中において心は定まらざるゆえ。またもし是の処に善の律儀有らば、則ち悪の律儀は彼においてもまた有り、此の二種は相い翻して立つるに由るゆえ。北倶盧人は受および定無く、および悪を造る勝の阿世耶無し、是れを以て彼に善戒・悪戒無し。猛利の慚愧は悪趣中に無し、ゆえに律・不律儀は彼においてもまた有るに非ず。勝の慚愧と相応し相違して、方に律儀・不律儀有るゆえ。また扇搋等は鹹鹵の田の如し、ゆえに能く善戒・悪戒を生ぜず。世間は現に諸の鹹鹵の田を見るに、能く嘉苗・穢草を滋生せず。もし爾ならば、何の故に契経中に卵生の龍有りて、半月の八日ごとに宮より出でて人間に至り、八支の近住斎戒を受けんと求むと説くか。此は妙行を得、律儀を得るに非ず。是れを以て律儀はただ人・天に有り、しかるにただ人は三種の律儀を具す、別解脱・静慮・無漏を謂う。もし欲天に生じおよび色界に生ずれば、皆静慮律儀有るを容るるを得、無色界に生ずれば彼は必ず有るに非ず、無漏律儀もまた無色に在り。いわゆるもし欲界天中に生じおよび色界中に生ずるに、中定・無想を除きて、皆無漏律儀有るを容るるを得。無色中に生ずればただ成就を得、無色なるを以て必ず現起せず。因りて諸業の性相の同じからざるを弁じて、まさに経中の標す所の諸業を釋すべし。且つ経中に業に三種有りと説く、善・悪・無記。その相は如何。頌に曰く:

安不安非業,名善惡無記。

安・不安・非業を、善・悪・無記と名づく。

論曰:如是名為善等業相,謂安隱業說名為善,能得可愛異熟涅槃,暫永二時濟眾苦故。不安隱業名為不善,由此能招非愛異熟,與前安隱性相違故。非前二業立無記名,不可記為善不善故。又經中說:業有三種,福非福等。其相云何?頌曰:

論に曰く:かくのごときを善等の業相と名づく、いわゆる安隱の業は善と説き名づく、能く可愛の異熟・涅槃を得、暫・永の二時に衆苦を済ずるゆえ。不安隱の業は不善と名づく、此に由りて能く愛に非ざる異熟を招き、前の安隱の性と相違するゆえ。前の二業に非ざるを無記の名を立つ、善・不善と記すべからざるゆえ。また経中に説く:業に三種有り、福・非福等。その相は如何。頌に曰く:

福非福不動,欲善業名福,

福・非福・不動、欲界の善業を福と名づく、

不善名非福,上界善不動,

不善を非福と名づく、上界の善は不動、

約自地處所,業果無動故。

自地の処所に約る、業果は動無きゆえ。

論曰:欲界善業說名為福,招可愛果益有情故。諸不善業說名非福,招非愛果損有情故。上二界善說名不動。豈不世尊說下三定皆名有動?聖說此中有尋伺等名為動故。由下三定有尋伺等,災患未息故立動名;不動經中據能感得不動異熟說名不動。如何有動定招無動異熟?雖此定中有災患動,而業對果非如欲界有動轉故,立不動名。謂欲界中餘趣處業,由別緣力異趣處受。以或有業能感外內財位形量色力樂等,於天等中此業應熟;由別緣力所引轉故,於人等中此業便熟。色無色界餘地處業,無容轉令異地處受,業果處定立不動名。又經中說:業有三種,順樂受等。其相云何?頌曰:

論に曰く:欲界の善業は福と説き名づく、可愛の果を招きて有情を益するゆえ。諸の不善業は非福と説き名づく、愛に非ざる果を招きて有情を損ずるゆえ。上の二界の善は不動と説き名づく。豈に世尊は下の三定は皆動有りと名づくと説かざりしや。聖は此中に尋伺等有りて動と名づくと説くゆえ。下の三定に尋伺等有りて、灾患は未だ息まざるゆえに動の名を立つ;不動の経中は能く不動の異熟を感得するに拠りて不動と説き名づく。如何にして動有る定は無動の異熟を招くか。此の定中に灾患の動有ると雖も、而も業は果に対して欲界の如く動転有るに非ざるゆえに、不動の名を立つ。いわゆる欲界中の余の趣処の業は、別縁の力に由りて異なる趣処に受く。あるいは業有りて能く外内の財位・形量・色力・楽等を感ずるを以て、天等中において此の業はまさに熟すべし;別縁の力の引転する所に由りて、人等中において此の業は便ち熟す。色・無色界の余の地処の業は、転じて異なる地処に受けしむるを容れず、業果の処は定まりて不動の名を立つ。また経中に説く:業に三種有り、順楽受等。その相は如何。頌に曰く:

順樂苦非二,善至三順樂,

順楽・苦・非二、善は三に至りて順楽、

諸不善順苦,上善順非二,

諸の不善は順苦、上の善は順非二、

餘說下亦有,由中招異熟。

余は説きて下もまた有り、中に由りて異熟を招くゆえ。

又許此三業,非前後熟故,

また此の三業を許す、前後に熟するに非ざるゆえ、

順受總有五,謂自性相應,

順受は総じて五有り、自性・相応を謂い、

及所緣異熟,現前差別故。

および所縁・異熟、現前の差別なるゆえ。

論曰:諸善業中始從欲界至第三靜慮名順樂受業,以諸樂受唯至此故。諸不善業名順苦受。過三靜慮上地諸善業,說名為順不苦不樂受,此上都無苦樂受故。非此諸業唯感受果,應知亦感彼受資糧,受及資糧此中名受。有餘師說:下諸地中亦有第三順非二業,由中定業招異熟故。若異此者,中間定業應無異熟;或應無業,以無苦樂異熟果故。有餘師說:此業能感根本地中樂根異熟。有說:此業不感受果。二說俱與本論相違。故本論言:頗有業感心受異熟非身耶?曰:有,謂善無尋業。又本論說:頗有三業非前非後受異熟耶?曰:有,謂順樂受業色,順苦受業心心所法,順不苦不樂受業心不相應行,乃至廣說。由此證知,下地亦有順非二業,非離欲界有此三業俱時熟故。此業為善、為不善耶?是善而劣。若爾,便與所說相違,謂善至三名順樂受,得可愛果名為善業。應知彼據多分為言。此業與受體性既殊,如何說為順樂受等?業與樂受體性雖殊,而能為因利益樂受。或復此業是樂所受。彼樂如何能受於業?樂是此業異熟果故。或復彼樂是業所受,由此能受樂異熟故。如順浴散,此亦應然。是故名為順樂受業。順餘二業,應知亦爾。總說順受略有五種:一自性順受,謂一切受,如契經說:受樂受時如實了知受於樂受,乃至廣說。二相應順受,謂一切觸,如契經說:順樂受觸,乃至廣說。三所緣順受,謂一切境,如契經說:眼見色已,唯受於色不受色貪,乃至廣說,由色等是受所緣故。四異熟順受,謂感異熟業,如契經說:順現受業,乃至廣說。五現前順受,謂正現行受,如契經言:受樂受時二受便滅,乃至廣說。非此樂受現在前時有餘受能受此樂受,但據樂受自體現前即說名為受於樂受。此中但說異熟順受,由業能招受異熟故。雖業與受體性有殊,而得名為順樂受等。如是三業有定不定,其相云何?頌曰:

論に曰く:諸の善業中に始めて欲界より第三静慮に至るを順楽受業と名づく、諸の楽受はただ此に至るを以て。諸の不善業は順苦受と名づく。三静慮を過ぎたる上地の諸の善業は、説きて順不苦不楽受と名づく、此の上は都て苦楽の受無きゆえ。此の諸業はただ受の果を感ずるに非ず、まさに知るべしもまた彼の受の資糧を感ず、受および資糧は此中に受と名づく。ある余師の説に:下の諸地中にもまた第三の順非二業有り、中定の業は異熟を招くに由る、と。もし此に異なれば、中間の定業はまさに異熟無かるべし、あるいはまさに業無かるべし、苦楽の異熟の果無きを以て。ある余師の説に:此の業は能く根本地中の楽根の異熟を感ず、と。ある説に:此の業は受の果を感ぜず。二の説は倶に本論と相違す。ゆえに本論に説く:頗ろ業有りて心の受の異熟を感じて身に非ざるや。曰く、有り、いわゆる善の尋無き業、と。また本論に説く:頗ろ三業有りて前に非ず後に非ずして異熟を受くるや。曰く、有り、いわゆる順楽受の業は色、順苦受の業は心・心所法、順不苦不楽受の業は心不相応の行、乃至広説す、と。此の証に由りて知る、下地にもまた順非二業有り、欲界を離れて此の三業倶時に熟する有るに非ざるゆえ。此の業は是れ善か、是れ不善か。是れ善にして劣なり。もし爾ならば、便ち説く所と相違せん、いわゆる善は三に至りて順楽受と名づき、可愛の果を得て善業と名づく。まさに知るべし彼は多分に拠りて言と為す。此の業は受と体性は既に殊なり、如何にして順楽受等と説き為すか。業は楽の受と体性は殊なりと雖も、而も能く因と為りて楽受を利益す。あるいは復た此の業は是れ楽の受ける所。彼の楽は如何にして能く業を受くるか。楽は是れ此の業の異熟の果なるゆえ。あるいは復た彼の楽は是れ業の受ける所、此に由りて能く楽の異熟を受くるゆえ。順浴散の如く、此もまたまさにこの如くあるべし。是れを以て順楽受業と名づく。余の二業に順ずるも、まさに知るべきこともまたこの如し。総じて順受を説きて略して五種有り:一に自性の順受、一切の受を謂う、契経の説くが如く:楽受を受くる時に実の如く楽受を受くるを了知す、乃至広説す。二に相応の順受、一切の触を謂う、契経の説くが如く:楽受に順ずる触、乃至広説す。三に所縁の順受、一切の境を謂う、契経の説くが如く:眼は色を見已りて、ただ色を受けて色の貪を受けず、乃至広説す、色等は是れ受の縁ずる所なるに由るゆえ。四に異熟の順受、異熟を感ずる業を謂う、契経の説くが如く:現に受くるに順ずる業、乃至広説す。五に現前の順受、正に現行する受を謂う、契経の説くが如く:楽受を受くる時に二受は便ち滅す、乃至広説す。此の楽受は現在前する時に余の受有りて能く此の楽受を受くるに非ず、但だ楽受の自体の現前するに拠りて即ち楽受を受くと説き名づく。此中は但だ異熟の順受を説く、業は能く受の異熟を招くに由るゆえ。業と受とは体性に殊有ると雖も、而も順楽受等と名づくるを得。かくのごとき三業に定・不定有り、その相は如何。頌に曰く:

此有定不定,定三順現等,

此に定・不定有り、定は三に順現等、

或說業有五,餘師說四句。

あるいは業に五有りと説く、余師は四句を説く。

論曰:此上所說順樂受等,應知各有定不定異,非定受故立不定名。定復有三:一順現法受、二順次生受、三順後次受。此三定業並前不定總成四種。或有欲令不定受業復有二種,謂於異熟有定不定,並定業三合成五種順現法受者,謂此生造即此生熟。順次生受者,謂此生造第二生熟。順後次受者,謂此生造從第三生後次第熟。有餘師說:順現法受業,餘生亦得熟。隨初熟位建立業名為順現等,勿強力業異熟果少。毘婆沙師不許此義,以或有業果近非勝或有相違。譬如外種經三半月葵便結實,要經六月麥方結實。譬喻者說業有四句:一者有業於時分定、異熟不定,謂順現等三非定得異熟。二者有業於異熟定、時分不定,謂不定業定得異熟。三者有業於二俱定,謂順現等定得異熟。四者有業於二俱不定,謂不定業非定得異熟。彼說諸業總成八種,謂順現受有定不定,乃至不定亦有二種。於此所說業差別中,頌曰:

論に曰く:此の上に説く所の順楽受等は、まさに知るべし各々定・不定の異有り、定めて受くるに非ざるゆえに不定の名を立つ。定は復た三有り:一に順現法受、二に順次生受、三に順後次受。此の三の定業は并せて前の不定は総じて四種を成す。あるいは不定受業に復た二種有らしめんと欲す有り、いわゆる異熟において定・不定有り、并せて定業の三は合して五種を成す。順現法受とは、此の生に造りて即ち此の生に熟すを謂う。順次生受とは、此の生に造りて第二生に熟すを謂う。順後次受とは、此の生に造りて第三生より後に次第に熟すを謂う。ある余師の説に:順現法受の業は、余の生にもまた熟するを得、と。初の熟の位に随いて業名を建立して順現等と為し、強力の業は異熟の果少なからざるを勿れ。毘婆沙師は此の義を許さず、あるいは業果は近くして勝に非ずあるいは相違する有るを以て。譬えば外種は三半月を経て葵は便ち実を結び、要して六月を経て麦は方に実を結ぶが如し。譬喩者は業に四句有りと説く:一には業有りて時分において定まりて異熟は定まらず、いわゆる順現等の三は定めて異熟を得るに非ず。二には業有りて異熟において定まりて時分は定まらず、いわゆる不定業は定めて異熟を得。三には業有りて二において倶に定まる、いわゆる順現等は定めて異熟を得。四には業有りて二において倶に定まらず、いわゆる不定業は定めて異熟を得るに非ず。彼は諸業は総じて八種を成すと説く、いわゆる順現受に定・不定有り、乃至不定にもまた二種有り。此の説く所の業の差別中において、頌に曰く:

四善容俱作,引同分唯三,

四善は倶作を容れ、同分を引くはただ三、

諸處造四種,地獄善除現。

諸の処は四種を造る、地獄の善は現を除く。

堅於離染地,異生不造生,

堅は離染の地において、異生は生を造らず、

聖不造生後,並欲有頂退。

聖は生・後を造らず、并びて欲・有頂の退。

論曰:順現法受等三業,唯定並不定為四。是說為善,此中唯顯時定不定,釋經所說四業相故。頗有四業俱時作耶?容有。云何?遣三使已,自行邪欲俱時究竟。幾業能引眾同分耶?能引唯三,除順現受,現身同分先業引故。何界何趣能造幾業?諸界諸趣或善或惡,隨其所應皆容造四。總開如是,若就別遮,於地獄中善除順現,無愛果故,餘皆得造。不退姓名堅,彼於離染地。若異生類,除順生受可造餘三。聖者雙除順生順後,可造餘二。異生不退,無次更生後還生下,不退聖者必無還生下諸地故。隨所生地容造順現受,造不定業一切處無遮。然諸聖者若於欲界及有頂處已得離染,雖有退墮而亦不造順生後業,從彼退者必退果故。諸退果已必不命終,如後當辯。住中有位亦造業耶?亦造。云何?頌曰:

論に曰く:順現法受等の三業は、ただ定は并せて不定は四と為す。是れ善と為すを説き、此中はただ時の定・不定を顕して、経の説く所の四業の相を釋するゆえ。頗ろ四業は倶時に作るや。容れて有り。如何。三の使を遣わし已りて、自ら邪欲を行じて倶時に究竟す。几つの業か能く衆同分を引くか。能く引くはただ三、順現受を除く、現の身の同分は先の業の引く所なるゆえ。何の界の何の趣か能く几つの業を造るか。諸の界・諸の趣はあるいは善あるいは悪、その該ずる所に随い皆四を造るを容る。総じてかくのごときを開きて、もし別に遮るに就けば、地獄中において善は順現を除く、愛の果無きゆえ、余は皆造るを得。退さざるは堅と姓名づく、彼は離染の地において。もし異生の類は、順生受を除きて余の三を造るべし。聖者は双び順生・順後を除きて、余の二を造るべし。異生は退せざるは、次に更に生じて後に還りて下に生ずる無し、不退の聖者は必ず還りて下の諸地に生ずる無きゆえ。生ずる所の地に随いて順現受を造るを容れ、不定業を造るは一切の処に遮る無し。しかるに諸の聖者はもし欲界および有頂の処において已に離染を得たれば、退堕有ると雖も而も順生・後の業を造らず、彼より退するは必ず果を退するゆえ。諸の果を退じ已りては必ず命終せず、後にまさに弁ずべきが如し。中有の位に住してもまた業を造るか。もまた造る。如何。頌に曰く:

欲中有能造,二十二種業,

欲の中有は能く造る、二十二種の業、

皆順現受攝,類同分一故。

皆順現受の摂、類・同分は一なるゆえ。

論曰:於欲界中住中有位,容有能造二十二業。謂中有位及處胎中、出胎以後各有五位。胎中五者:一羯剌藍、二頞部曇、三閉屍、四鍵南、五缽羅奢佉。胎外五者:一嬰孩、二童子、三少年、四中年、五老年。住中有位能造中有乃至老年定不定業。應知如是中有所造十一種定業,皆順現受攝,由類同分無差別故。謂此中有位與自類十位,一眾同分一業引故。由此不別說順中有受業,即順生等業所引故。諸定受業其相云何?頌曰:

論に曰く:欲界中において中有の位に住して、能く二十二の業を造るを容れて有り。いわゆる中有の位および胎中に処して、胎を出でたる已後に各々五位有り。胎中の五とは:一に羯剌藍、二に頞部曇(疱)、三に閉尸(軟肉)、四に鍵南(堅肉)、五に鉢羅奢佉(支節)。胎外の五とは:一に嬰孩、二に童子、三に少年、四に中年、五に老年。中有の位に住して能く中有乃至老年の定・不定の業を造る。まさに知るべし、かくのごとき中有の造る所の十一種の定業は、皆順現受の摂、類・同分は差別無きに由るゆえ。いわゆる此の中有の位は自類の十位と、一の衆同分は一業の引く所なるゆえ。此に由りて別に順中有受の業を説かず、即ち順生等の業の引く所なるゆえ。諸の定受業はその相は如何。頌に曰く:

由重惑淨心,及是恆所造,

重惑・浄心に由り、および是れ恒の造る所、

於功德田起,害父母業定。

功徳の田において起し、父母を害する業は定。

論曰:若所造業,由重煩惱、或淳淨心、或常所作、或於增上功德田起。功德田者,謂佛法僧,或勝補特伽羅,謂得勝果勝定。於此田所,雖無重惑及淳淨心亦非常行,若善不善所起諸業,或於父母隨輕重心行損害事,如是一切皆定業攝,餘非定受。現法果業其相云何?頌曰:

論に曰く:もし造る所の業は、重き煩悩に由り、あるいは淳浄の心に由り、あるいは常の作する所、あるいは増上の功徳田において起る。功徳田とは、仏・法・僧を謂い、あるいは勝れる補特伽羅、いわゆる勝果・勝定を得たる。此の田の所において、重惑および淳浄の心無しと雖ももまた常行に非ざるとも、もし善・不善の起す所の諸の業、あるいは父母において軽重の心に随い損害の事を行ずれば、かくのごとき一切は皆定業の摂、余は定受に非ず。現法の果の業はその相は如何。頌に曰く:

由田意殊勝,及定招異熟,

田・意の殊勝に由り、および定めて異熟を招く、

得永離地業,定招現法果。

永く地を離るる業を得るは、定めて現法の果を招く。

論曰:由田勝者,聞有苾芻於僧眾中作女人語,彼於現世轉作女人。此等傳聞其類非一。由意勝者,聞有黃門救脫諸牛黃門事故,彼於現世轉作丈夫。此等傳聞事亦非一。或生此地永離此地染,於此地中諸善不善業。於異熟定位不定者,此業必能招現法果。若有餘位順定受業,彼必定無永離染義,必於餘位受異熟果。若於異熟亦不定者,永離染故不受異熟。何田起業定即受耶?頌曰:

論に曰く:田の勝に由るは、聞く苾芻有りて僧衆中において女人の語を作せば、彼は現世において転じて女人と作りき、此等の伝聞はその類は一に非ず。意の勝に由るは、聞く黄門有りて諸の牛の黄門の事を救脱するゆえ、彼は現世において転じて丈夫と作りき、此等の伝聞の事もまた一に非ず。あるいは此の地に生じて永く此地の染を離れ、此の地中の諸の善・不善業は、異熟の定において位の定まらざれば、此の業は必ず能く現法の果を招く。もし余の位の順定受業有らば、彼は必ず定めて永く染を離るるの義無く、必ず余の位において異熟の果を受く。もし異熟においてもまた定まらざれば、永く染を離るるゆえに異熟を受けず。何の田に於て起る業は定めて即ち受くるか。頌に曰く:

於佛上首僧,及滅定無諍,

仏・上首の僧において、および滅定・無諍、

慈見修道出,損益業即受。

慈・見・修道より出づるは、損益の業は即ち受く。

論曰:於如是類功德田中,為善惡業定即受果。功德田者,謂佛上首僧。約補特伽羅差別有五:一從滅定出,謂此定中得心寂靜,此定寂靜似涅槃故。若從此定初起心時,如入涅槃還復出者。二從無諍出,謂此定中有緣無量有情為境,增上利益意樂隨逐。出此定時,有為無量最勝功德所燻修身相續而轉。三從慈定出,謂此定中有緣無量有情為境,增上安樂意樂隨逐。出此定時,有為無量最勝功德所燻修身相續而轉。四從見道出,謂此道中永斷一切見所斷惑得勝轉依,從此出時淨身續起。五從修道出,謂此道中永斷一切修所斷惑得勝轉依,從此出時淨身續起。故說此五名功德田。若有於中為損益業,此業必定能招即果。若從餘定餘果出時,由前所修定非殊勝,修所斷惑未畢竟盡,故彼相續非勝福田。異熟果中受最為勝,今應思擇,於諸業中頗有唯招心受異熟,或招身受非心受耶?亦有。云何?頌曰:

論に曰く:かくのごとき類の功徳田中において、善悪の業を為せば定めて即ち果を受く。功徳田とは、仏・上首の僧を謂う。補特伽羅の差別に約りて五有り:一に滅定より出づ、いわゆる此の定中は心の寂静を得、此の定は寂静にして涅槃に似たるゆえ。もし此の定より初めて心を起す時は、涅槃に入りて還りて復た出づるが如し。二に無諍より出づ、いわゆる此の定中は無量の有情を縁じて境と為す有り、増上の利益の意楽は随逐す。此の定を出づる時に、無量の最勝の功徳の熏修せる所為の身の相续有りて転ず。三に慈定より出づ、いわゆる此の定中は無量の有情を縁じて境と為す有り、増上の安楽の意楽は随逐す。此の定を出づる時に、無量の最勝の功徳の熏修せる所為の身の相续有りて転ず。四に見道より出づ、いわゆる此の道中は永く一切の見の断ずる所の惑を断じて勝の転依を得、此より出づる時に浄き身は続きて起る。五に修道より出づ、いわゆる此の道中は永く一切の修の断ずる所の惑を断じて勝の転依を得、此より出づる時に浄き身は続きて起る。ゆえに此の五を説きて功徳田と名づく。もし其の中において損益の業を為す有らば、此の業は必定に能く即ち果を招く。もし余の定・余の果より出づる時は、前の修する所の定は殊勝に非ず、修の断ずる所の惑は未だ畢竟に盡きざるに由りて、ゆえに彼の相续は勝の福田に非ず。異熟の果中において受は最も勝を為す、今まさに思択すべし、諸業中に於て頗ろただ心受の異熟を招き、あるいは身受を招きて心受に非ざる有るや。もまた有り。如何。頌に曰く:

諸善無尋業,許唯感心受,

諸の善の尋無き業は、ただ心受を感ずと許す、

惡唯感身受,是感受業異。

悪はただ身受を感ず、是れ感受の業の異。

論曰:善無尋業,謂從中定乃至有頂所有善業,於中能招受異熟者,應知但感心受非身,身受必與尋伺俱故。諸不善業能感受者,應知但感身受非心,以不善因苦受為果,心俱苦受。決定名憂,憂非異熟,如前已辯。有情心狂,何識因處?頌曰:

論に曰く:善の尋無き業とは、中定より乃至有頂に至る所有する善業を謂い、其の中に於て能く受の異熟を招くは、まさに知るべし但だ心受を感じて身に非ず、身受は必ず尋伺と倶なるゆえ。諸の不善業の能く受を感ずるは、まさに知るべし但だ身受を感じて心に非ず、不善は因として苦受を以て果と為すを以て、心倶の苦受は、決定して憂と名づく、憂は異熟に非ず、前に已に弁ぜしが如し。有情の心の狂れるは、何の識の因処か。頌に曰く:

心狂唯意識,由業異熟生,

心狂はただ意識、業の異熟生に由り、

及怖害違憂,除北洲在欲。

および怖・害・違・憂、北洲を除きて欲に在り。

論曰:有情心狂唯在意識,若在五識必無心狂,以五識身無分別故。由五因故有情心狂:一由有情業異熟起,謂由彼用藥物呪術令他心狂,或復令他飲非所欲若毒若酒,或現威嚴怖禽獸等,或放猛火焚燒山澤,或作坑穽陷墜眾生,或餘事業令他失念,由此業因,於當來世感別異熟能令心狂。二由驚怖,謂非人等現可怖形來相逼迫,有情見已遂致心狂。三由傷害,謂因事業惱非人等,由彼瞋故傷其支節遂致心狂。四由乖違,謂由身內風熱痰界互相違反,大種乖適故致心狂。五由愁憂,謂因喪失親愛等事,愁毒纏懷心遂發狂,如婆私等。若在意識方有心狂,復許心狂業異熟起,如何心受非異熟耶?不說心狂是業異熟,但言是業異熟所生。謂惡業因感不平等異熟大種,依此大種心便失念,故說為狂。如是心狂對於心亂應作四句,謂有心狂而非心亂,乃至廣說。狂非亂者,謂諸狂者不染汙心。亂非狂者,謂不狂者諸染汙心。狂亦亂者,謂諸狂者諸染汙心。非狂亂者,謂不狂者不染汙心。除北俱盧,所餘欲界諸有情類容有心狂。謂欲天心尚有狂者,況人惡趣得離心狂?地獄恆狂,多苦逼故。謂諸地獄恆為種種異類苦具傷害末摩猛利難忍,苦受所逼尚不自識,況了是非。故地獄中怨心傷歎,猖狂馳叫世傳有文。欲界聖中唯除諸佛,大種乖適容有心狂,無異熟生。若有定業,必應先受後方得聖。若非定業,由得聖故,能令無果亦無驚怖,超五畏故。亦無傷害,以諸聖者無非人等憎嫌事故,亦無愁憂證法性故。又經中說:業有三種,謂曲、穢、濁。其相云何?頌曰:

論に曰く:有情の心狂はただ意識に在り、もし五識に在らば必ず心狂無し、五識身は分別無きを以て。五因に由るゆえに有情は心狂す:一に有情の業の異熟の起るに由る、いわゆる彼は薬物・呪術を用いて他をして心狂せしめ、あるいは復た他をして欲せざる所・もし毒もし酒を飲ましめ、あるいは威厳を現じて禽獣等を怖がらしめ、あるいは猛火を放ちて山沢を焚焼し、あるいは坑穽を作りて衆生を陥墜せしめ、あるいは余の事業は他をして念を失わしむ、此の業因に由りて、当来の世において別の異熟を感じて能く心をして狂せしむ。二に驚怖に由る、いわゆる非人等は可怖の形を現じて来りて相い逼迫す、有情は見已りて遂に心狂に致す。三に傷害に由る、いわゆる事業に因りて非人等を悩まし、彼の瞋に由るゆえにその支節を傷りて遂に心狂に致す。四に乖違に由る、いわゆる身内の風・熱・痰の界は互いに相違反し、大種の乖適するゆえに心狂に致す。五に愁憂に由る、いわゆる親愛等の事を喪失するに因りて、愁毒は懐を纏いて心は遂に狂を発す、婆私(仙人)等の如し。もし意識に在りて方に心狂有れば、復た心狂は業の異熟の起るを許す、如何にして心受は異熟に非ざるか。心狂は是れ業の異熟と説かず、但だ是れ業の異熟の生ずる所と言う。いわゆる悪業の因は不平等の異熟の大種を感じ、此の大種に依りて心は便ち念を失う、ゆえに狂と説き為す。かくのごとき心狂は心乱に対してまさに四句を作すべし、いわゆる心狂有りて心乱に非ず、乃至広説す。狂にして乱に非ざるは、諸の狂者の染污せざる心を謂う。乱にして狂に非ざるは、狂ならざる者の諸の染污の心を謂う。狂にしてもまた乱なるは、諸の狂者の諸の染污の心を謂う。狂乱に非ざるは、狂ならざる者の染污せざる心を謂う。北倶盧を除きて、余の欲界の諸の有情の類は心狂有るを容る。いわゆる欲天の心は尚お狂有り、況んや人・悪趣は心狂を離るるを得んや。地獄は恒に狂し、多くの苦は逼めるゆえ。いわゆる諸の地獄は恒に種種の異類の苦具の末摩を傷害する所為、猛利にして忍び難く、苦受の逼める所は尚お自ら識らず、況んや是非を了せんや。ゆえに地獄中は怨心を傷嘆し、猖狂にして馳叫して世に文有りと伝う。欲界の聖中はただ諸仏を除きて、大種の乖適は心狂有るを容れ、異熟生無し。もし定業有れば、必ずまさに先に受けて後に方に聖を得。もし定業に非ざれば、聖を得るに由るゆえに、能く果無からしめてもまた驚怖無し、五畏を超ゆるゆえ。もまた傷害無し、諸の聖者は非人等の憎嫌する事無きを以て、もまた愁憂無く証発の性なるゆえ。また経中に説く:業に三種有り、曲・穢・濁を謂う。その相は如何。頌に曰く:

說曲穢濁業,依諂瞋貪生。

曲・穢・濁の業を説く、諂・瞋・貪より生ずるに依る。

論曰:身語意三各有三種,謂曲、穢、濁。如其次第,應知依諂、瞋、貪所生。謂依諂生身語意業名為曲業,諂曲類故。若依瞋生身語意業名為穢業,瞋穢類故。若依貪生身語意業名為濁業,貪濁類故。

論に曰く:身・語・意の三は各々三種有り、曲・穢・濁を謂う。その次第の如く、まさに知るべし諂・瞋・貪の生ずる所に依る。いわゆる諂より生ずる身・語・意業に依りて曲業と名づく、諂曲の類なるゆえ。もし瞋より生ずる身・語・意業に依りて穢業と名づく、瞋穢の類なるゆえ。もし貪より生ずる身・語・意業に依りて濁業と名づく、貪濁の類なるゆえ。

説一切有部倶舎論 巻第十五

アビダルマ倶舎論 巻第十六 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別業品第四之四

分別業品 第四之四

又經中說,業有四種,謂或有業黑黑異熟、或復有業白白異熟、或復有業黑白黑白異熟、或復有業非黑非白無異熟能盡諸業。其相云何?頌曰:

また経の中に説く、業には四種ある。あるいは業が黒黒異熟、あるいは業が白白異熟、あるいは業が黒白黒白異熟、あるいは業が非黒非白で異熟なくして諸の業を尽くしうるもの。その相はいかなるか。頌に曰く、

依黑黑等殊,所說四種業,

黒黒等の殊に依りて、説かれる四種の業は、

惡色慾界善,能盡彼無漏,

悪と色界・欲界の善と、彼を尽くしうる無漏とが、

應知如次第,名黑白俱非。

知るべきことに、次第のごとく、黒・白・俱・非と名づく。

論曰:佛依業果性類不同,所治能治殊,說黑黑等四。諸不善業一向名黑,染汙性故,異熟亦黑,不可意故。色界善業一向名白,不雜惡故,異熟亦白,是可意故。何故不言無色界善?傳說若處有二異熟謂中生有,具三種業謂身語意,則說非餘,然契經中有處亦說。欲界善業名為黑白,惡所雜故,異熟亦黑白,非愛果雜故。此黑白名依相續立,非據自性。所以者何?以無一業及一異熟是黑亦白,互相違故。豈不惡業果善業果雜故,是則亦應名為白黑。不善業果非必應為善業果雜,欲善業果必定應為惡業果雜,以欲界中惡勝善故。諸無漏業能永斷盡前三業者名為非黑,不染汙故,亦名非白,以不能招白異熟故。此非白言是密意說,以佛於彼《大空經》中告阿難陀:諸無學法純善純白一向無罪。本論亦言:云何白法?謂諸善法無覆無記無異熟者,不墮界故、與流轉法性相違故。諸無漏業為皆能盡前三業不?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:仏は業果の性類が同じからざること、所治と能治が殊なることに依りて、黒黒等の四を説かれた。諸の不善業は一向に黒と名づく。染污の性であるがゆえに、その異熟もまた黒である。意に適わないがゆえである。色界の善業は一向に白と名づく。悪に雑せられないがゆえに、その異熟もまた白である。意に適うがゆえである。なぜ無色界の善を説かないか。伝説に、もしある処に二つの異熟(中有と生有)があり、三種の業(身・語・意)を具えるならば説くのであって、その余については説かないが、しかし契経の中にも説く処がある。欲界の善業は黒白と名づく。悪に雑せられるがゆえに、その異熟もまた黒白である。愛すべからざる果が雑じるがゆえである。この黒白の名は相続に依って立てられたのであって、自性に拠るのではない。そもそもどうしてか。一つの業も一つの異熟も黒でありかつ白であることはなく、互いに相違するがゆえである。むしろ悪業の果が善業の果に雑するのではないか。そうであれば白黒と名づけるべきではないか。不善業の果は必ずしも善業の果に雑するとは限らないが、欲界の善業の果は必ず悪業の果に雑する。欲界の中では悪が善に勝るがゆえである。諸の無漏業は前の三業を永く断尽しうるので非黒と名づく。染污しないがゆえである。また非白とも名づく。白い異熟を招くことができないがゆえである。この「非白」の言は密意の説であって、仏があの《大空経》の中で阿難陀に告げて曰く、諸の無学の法は純善・純白で一向に罪なきものである、と。本論にも説く、何を白法とするか。諸の善法、無覆無記にして異熟なきものを謂う。界に堕せず、流転の法性と相違するがゆえである。諸の無漏業は皆前の三業を尽くしうるか。そうではない。どうか。頌に曰く、

四法忍離欲,前八無間俱,

四法・忍・離欲、前の八無間に俱にして、

十二無漏思,唯盡純黑業,

十二の無漏の思は、ただ純黒の業を尽くし、

離欲四靜慮,第九無間思,

欲を離れた四静慮、第九無間の思は、

一盡雜純黑,四令純白盡。

一は雑・純黒を尽くし、四は純白を尽くさせる。

論曰:於見道中四法智忍及於修道離欲染位前八無間聖道俱行有十二思唯盡純黑,離欲界染第九無間聖道俱行一無漏思,雙令黑白及純黑盡,此時總斷欲界善故,亦斷第九不善業故。離四靜慮一一地染,第九無間道俱行無漏思,此四唯令純白業盡。何緣諸地有漏善法唯最後道能斷非餘?以諸善法非自性斷,已斷有容現在前故。然由緣彼煩惱盡時方說名為斷彼善法,爾時善法得離繫故。由此乃至緣彼煩惱餘一品在,斷義不成,善法爾時未離繫故。頌曰:

論に曰く:見道における四法智忍および修道の離欲染位における前八無間の聖道に俱に行われる十二の思は、ただ純黒を尽くす。欲界の染を離れた第九無間の聖道に俱に行われる一つの無漏の思は、黒白および純黒を併せて尽くさせる。この時、欲界の善を総じて断ずるがゆえに、第九品の不善業をも断ずるがゆえである。四静慮の一一地の染を離れるそれぞれの第九無間道に俱に行われる無漏の思、この四つはただ純白の業を尽くさせる。どの縁によって諸地の有漏の善法は最後の道のみが断じてその余は断じないか。諸の善法は自性断ではなく、すでに断ぜられたものがなお現前しうるがゆえである。しかし彼に縁する煩悩が尽きた時に初めて彼の善法を断じたと名づける。その時、善法は離系を得るがゆえである。このゆえに、彼に縁する煩悩の残余の一品があれば断の義は成せない。その時善法は未だ離系しないがゆえである。頌に曰く、

有說地獄受,餘欲業黑雜,

ある説に、地獄の受は純黒、その余の欲界の業は黒雑。

有說欲見滅,餘欲業黑俱。

ある説に、欲界の見所断は黒、その余の欲界の業は黒俱。

論曰:有餘師說:順地獄受及欲界中順餘受業,如次名為純黑雜業。謂地獄異熟唯不善業感,故順彼受名純黑業。唯除地獄,餘欲界中異熟皆通善惡業感,故順彼受名黑白業。有餘師說:欲見所斷及欲界中所有餘業,如次名為純黑俱業。謂見所斷無善雜故名純黑業,欲修所斷有善不善故名俱業。又經中說有三牟尼,又經中言有三清淨,俱身語意。相各云何?頌曰:

論に曰く:その余の師の説に、地獄に順じて受ける業と欲界の中のその余に順じて受ける業とを、次第のごとく純黒・雑業と名づける。いわゆる地獄の異熟はただ不善業のみが感ずるので、彼に順じて受けるを純黒業と名づける。ただ地獄を除き、その余の欲界の中の異熟はみな善・悪業が感じることを通ずるので、彼に順じて受けるを黒白業と名づける。またその余の師の説に、欲界の見所断と欲界の中のすべてのその余の業とを、次第のごとく純黒・俱業と名づける。いわゆる見所断は善の雑するがないゆえに純黒業と名づく。欲界の修所断は善・不善あるゆえに俱業と名づく。また経の中に三牟尼を説き、また経の中に三清浄を説く。ともに身・語・意である。その相は各々いかなるか。頌に曰く、

無學身語業,即意三牟尼,

無学の身・語の業と、すなわち意とは三牟尼。

三清淨應知,即諸三妙行。

三清浄は知るべし、すなわち諸の三妙行。

論曰:無學身語業,名身語牟尼,意牟尼即無學意非意業。所以者何?勝義牟尼唯心為體,謂由身語二業比知。又身語業是遠離體,意業不然,無無表故。由遠離義建立牟尼,是故即心由身語業能有所離,故名牟尼。何故牟尼唯在無學?以阿羅漢是實牟尼,諸煩惱言永寂靜故。諸身語意三種妙行,名身語意三種清淨。暫永遠離一切惡行煩惱垢故名為清淨。說此二者為息有情計邪牟尼,邪清淨故。又經中說有三惡行,又經中言有三妙行,俱身語意。相各云何?頌曰:

論に曰く:無学の身・語の業を身・語牟尼と名づく。意牟尼はすなわち無学の意であって意業ではない。そもそもどうしてか。勝義の牟尼はただ心のみを体とし、身・語の二業によってこれを比知するのである。また身・語の業は遠離の体であるが、意業はそうではない。無表がないがゆえである。遠離の義によって牟尼を建立する。このゆえにすなわち心が身・語の業によって離すべきところを有しうるので、牟尼と名づける。なぜ牟尼は無学のみにあるか。阿羅漢は実の牟尼であるがゆえに、諸の煩悩の言が永く寂静なるがゆえである。諸の身・語・意の三種の妙行を身・語・意の三種の清浄と名づく。暫く・永く一切の悪行・煩悩の垢を離れるがゆえに清浄と名づく。この二者を説くのは、有情が邪牟尼・邪清浄を計るを息まんがためである。また経の中に三悪行を説き、また経の中に三妙行を説く。ともに身・語・意である。その相は各々いかなるか。頌に曰く、

惡身語意業,說名三惡行,

悪の身・語・意の業を、説いて三悪行と名づく。

及貪瞋邪見,三妙行翻此。

および貪・瞋・邪見をも。三妙行はこれを翻す。

論曰:一切不善身語意業,如次名身語意惡行。然意惡行復有三種,謂非意業貪、瞋、邪見,貪等離思別有體故。譬喻者言:貪瞋邪見即是意業,故《思經》中說此三種為意業故。若爾,則應業與煩惱合成一體。許有煩惱即是意業,斯有何失?毘婆沙師說彼非理。若許爾者,便與眾多理教相違,成大過失。然契經說是意業者,顯思以彼為門轉故、由此能感非愛果故、是聰慧者所訶厭故。此行即惡,故名惡行。三妙行者,翻此應知。謂身語意一切善業。非業無貪、無瞋、正見。正見邪見既無故思欲益他損他,如何成善惡?能與損益為根本故。又經中言:有十業道,或善或惡。其相云何?頌曰:

論に曰く:一切の不善の身・語・意の業を、次第のごとく身・語・意の悪行と名づく。しかし意の悪行にはさらに三種ある。いわゆる意業にあらざる貪・瞋・邪見である。貪等は思を離れて別に体あるがゆえである。譬喩者の説に、貪・瞋・邪見はすなわち意業である。《思経》の中にこの三種を意業として説くがゆえである。もしそうならば業と煩悩とが一体を成すことになる。煩悩があればすなわち意業だと許すこと、これに何の失かあるか。毘婆沙師は彼は理にあらずと説く。もしそうを許さば、すなわち众多の理教に相違して大過失を成す。しかし契経に意業と説くのは、思が彼を門として転ずるを顕すがゆえ、これによって愛すべからざる果を感じうるがゆえ、聡慧なる者の訶厭するところなるがゆえである。この行はすなわち悪なり。ゆえに悪行と名づく。三妙行はこれを翻して知るべし。いわゆる身・語・意の一切の善業、および業にあらざる無貪・無瞋・正見である。正見・邪見はすでに益他・損他を欲する思がないのに、どうして善悪を成すか。損益を与えるの根本となりうるがゆえである。また経の中に説く、十業道があり、あるいは善あるいは悪である。その相はいかなるか。頌に曰く、

所說十業道,攝惡妙行中,

説かれる十業道は、悪行・妙行の中に摂され、

麁品為其性,如應成善惡。

麁品をその性とし、応じたように善悪を成す。

論曰:於前所說惡妙行中,若麁顯易知,攝為十業道。如應若善攝前妙行,不善業道攝前惡行。不攝何等惡妙行耶?且不善中身惡業道,於身惡行不攝一分,謂加行後起餘不善身業,即飲諸酒執打縛等,以加行等非麁顯故。若身惡行令他有情失命失財失妻妾等,說為業道,令遠離故。語惡業道於語惡行,不攝加行後起及輕。意惡業道於意惡行,不攝惡思及輕貪等。善業道中身善業道,於身妙行不攝一分,謂加行後起及餘善身業,即離飲酒施供養等。語善業道於語妙行不攝一分,謂愛語等。意善業道於意妙行不攝一分,謂諸善思。十業道中前七業道為皆定有表無表耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:前に説いた悪行・妙行の中で、麁にして顕われ知りやすきものを摂して十業道とする。応じたように善であれば前の妙行に摂され、不善の業道は前の悪行に摂される。どのような悪行・妙行を摂しないか。まず不善の中で身の悪業道は身の悪行の一部を摂しない。いわゆる加行・後起およびその余の不善の身業、すなわち諸の酒を飲み、執打・縛等である。加行等は麁顕にあらざるがゆえである。もし身の悪行が他の有情に命・財・妻妾等を失わしむるとき、業道と説く。離脱せしめるがゆえである。語の悪業道は語の悪行のうち加行・後起および軽きものを摂しない。意の悪業道は意の悪行のうち悪思および軽き貪等を摂しない。善業道の中で身の善業道は身の妙行の一部を摂しない。いわゆる加行・後起およびその余の善の身業、すなわち飲酒を離れ、施・供養等である。語の善業道は語の妙行の一部を摂しない。いわゆる愛語等である。意の善業道は意の妙行の一部を摂しない。いわゆる諸の善思である。十業道の中で前の七業道は皆定めて表・無表を有するか。そうではない。どうか。頌に曰く、

惡六定無表,彼自作婬二,

悪の六は定めて無表あり。彼を自作し・淫は二。

善七受生二,定生唯無表。

善の七は受生より二、定生はただ無表のみ。

論曰:七惡業道中,六定有無表,謂殺生、不與取、虛誑語、離間語、麁惡語、雜穢語。如是六種若遣他為,根本成時自表無故。若有自作彼六業道,則六皆有表無表二,謂起表時彼便死等;後方死等與遣使同,根本成時唯無表故。唯欲邪行必具二種,要是自身所究竟故,非遣他作,如自生喜。七善業道若從受生,必皆具二,謂表、無表,受生屍羅必依表故。靜慮無漏所攝律儀名為定生,此唯無表,但依心力而得生故。加行後起如根本耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:七つの悪業道の中で、六は定めて無表あり。いわゆる殺生・不與取・虚誑語・離間語・麁悪語・雑穢語である。この六種はもし他を遣って為さしめば、根本が成ずる時、自ら表がないがゆえである。もし自ら作して彼の六業道を為せば、六は皆表・無表の二を有する。いわゆる表を起す時に彼は便ち死ぬ等である。後に死ぬ等は遣使と同じく、根本が成ずる時ただ無表のみあるがゆえである。ただ欲邪行のみ必ず二種を具える。要するに自身の究竟するところなるがゆえ、他を遣って作すにあらず。自ら喜を生ずるがごとし。七つの善業道はもし受生より起れば、必ず皆二を具える。いわゆる表・無表である。受生の尸羅は必ず表に依るがゆえである。静慮・無漏の摂する律儀は定生と名づく。これはただ無表のみ、ただ心力に依って生ずることを得るがゆえである。加行・後起は根本のごとくか。そうではない。どうか。頌に曰く、

加行定有表,無表或有無,

加行は定めて表あり、無表はあるいは有りあるいは無し。

後起此相違。

後起はこれに相違す。

論曰:業道加行必定有表,此位無表或有或無。若猛利纏淳淨心起則有無表,異此則無。後起翻前,定有無表,此位表業或有或無。謂若後時起隨前業則有表業,異此便無。於此義中如何建立加行根本後起位耶?且不善中最初殺業,如屠羊者將行殺時,先發殺心從床而起,執持價直趣賣羊廛,㨊觸羊身酬價捉取,牽還養飯將入屠坊,手執杖刀若打若刺,或一或再至命未終,如是皆名殺生加行。隨此表業彼正命終,此剎那頃表無表業,是謂殺生根本業道。由二緣故,令諸有情根本業道殺罪所觸:一由加行、二由果滿。此剎那後殺無表業隨轉不絕,名殺後起。及於後時剝截治洗,若稱若賣或煮,或食讚述其美表業剎那,如是亦名殺生後起。餘六業道隨其所應三分不同,準例應說。貪瞋邪見才現在前,即說名為根本業道,故無加行後起差別。此中應說。為所殺生住死有時,能殺生者彼剎那頃表無表業即成業道?為死後耶?若爾何失?二俱有過。若所殺生正住死有,能殺生者業道即成,即能殺者與所殺生,俱時命終應成業道。然宗不許彼業道成。若所殺生命終以後,能殺生者業道方成,是則不應先作是說:隨此表業彼正命終。此剎那頃表無表業,是謂殺生根本業道。又應違害毘婆沙師釋本論中加行未息,謂本論說:頗有已害生殺生未滅耶?曰:有,如已斷生命彼加行未息。毘婆沙者釋此文言:此中於後起,以加行聲說。應言於根本說加行聲,許命終後根本未息故。如無有過此中應說。此中說何名為無過?謂於根本說加行聲。若爾,於時所有表業如何可成根本業道?何為不成?以無用故。無表於此有何用耶?故業道成非由有用,但由加行果圓滿時,此二俱成根本業道。又諸業道展轉相望,容有互為加行後起。今且應說殺生業道以十業道為起加行。

論に曰く:業道の加行は必ず表あり。この位において無表はあるいは有りあるいは無し。もし猛利な纏・淳淨の心を起せば無表あり、これに異なれば無し。後起は前に翻して、定めて無表あり。この位において表業はあるいは有りあるいは無し。いわゆるもし後の時に前の業に随って起れば表業あり、これに異なれば便ち無し。この義の中でどのように加行・根本・後起の位を建立するか。まず不善の中で最初の殺業、たとえば羊を屠る者がまさに殺を行ぜんとする時、先ず殺心を発して床より起ち、価値を執持して羊を売る廛に趣き、羊の身を捫触して価を酬いて捉取し、牽き還して養い飯え、まさに屠坊に入らんとし、手に杖刀を執りて或いは打ち或いは刺し、或いは一或いは再び、命未だ終らざるに至る。このようは皆殺生の加行と名づく。この表業に随って彼が正しく命終する、この刹那の頃の表・無表業、これを殺生の根本業道と謂う。二つの縁によって、諸の有情をして根本業道の殺罪に触れしむ:一は加行による、二は果満による。この刹那の後、殺の無表業は随転して絶えず、殺の後起と名づく。また後の時に剥截・治洗し、或いは称し或いは売り、或いは煮或いは食い、その美を讃述する表業の刹那、このようもまた殺生の後起と名づく。その余の六業道は随ってその応じた三分の不同あり、例に准じて説くべし。貪・瞋・邪見は纔かに現前するや、すなわち根本業道と名づくと説く。ゆえに加行・後起の差別なし。ここに説くべし。殺さるべき生が死有に住する時、殺しうる者の彼の刹那の頃の表・無表業はすなわち業道を成ずるか。死後か。もしそうならば何の失かある。二つとも過あり。もし殺さるべき生が正しく死有に住し、殺しうる者の業道がすなわち成ずれば、すなわち殺しうる者と殺さるべき生とが俱の時に命終して業道を成ずべし。しかし宗は彼の業道の成を許さない。もし殺さるべき生の命終以後に殺しうる者の業道が初めて成ずれば、これは先に作した説に該わない:「この表業に随って彼が正しく命終する、この刹那の頃の表・無表業、これを殺生の根本業道と謂う」と。まだ毘婆沙師が本論を釋するに「加行未だ息まず」と害すべし。本論に説く、頗る已に生を害して殺生未だ滅せざるありや。曰く、あり。已に生命を断ずるも彼の加行未だ息まざるがごとし、と。毘婆沙者はこの文を釋して曰く、ここに後起において加行の声を以て説く、と。根本において加行の声を説くとすべし。命終の後も根本未だ息まざるを許すがゆえである。もし過あるがごときはここに説くべし。この中で何を説いて無過と名づくか。いわゆる根本において加行の声を説く。もしそうならば、その時の所有の表業はどうして根本業道を成ずべきか。何の成ぜざるか。用なきがゆえである。無表はこれに何の用かある。業道の成ずるは用あるに由るにあらず。ただ加行の果の円満する時、この二つは俱に根本業道を成ずる。また諸の業は……

謂如有人慾害怨敵,設諸謀計合搆殺緣,或殺眾生祈請助力,或盜他物以資殺事,或婬彼婦令殺其夫,或為乖離彼親友故起語四過令生猜阻。設有勢力無救護心,或於彼財心生貪著,或即於彼起瞋恚心,或起邪見長養殺業然後方殺,如是名為以十業道為殺加行。殺怨敵已,復於後時誅其所親,收其財物婬彼所愛,乃至復起貪瞋邪見次第現前,此十名為殺生後起。所餘業道如應當知。貪等不應能為加行,非唯心起加行即成,唯起心時未作事故。又經中說:苾芻當知,殺有三種:一從貪生、二從瞋生、三從痴生。乃至邪見有三亦爾。此中應說:何相殺生?名從貪生。問餘亦爾。非諸業道一切皆由三根究竟,然其加行不與彼同。云何不同?頌曰:

(論は続けて曰く:)いわゆるたとえば人ありて怨敵を害せんと欲し、諸の謀計を設けて殺縁を合構し、或いは衆生を殺して助力を祈請し、或いは他物を盗みて以て殺事に資り、或いは彼の婦を淫してその夫を殺さしめ、或いは彼の親友を乖離せんがために語の四過を起して猜阻を生ぜしむ。勢力あるも救護の心なく、或いは彼の財に対して心に貪着を生じ、或いはすなわち彼に対して瞋恚の心を起し、或いは邪見を起して殺業を長養して然る後に殺す。このようは十業道を以て殺の加行と為すと名づく。怨敵を殺し已りて、また後の時にその親しきを誅し、その財物を収め、彼の愛するを淫し、乃至また貪・瞋・邪見を起して次第に現前せしむ。この十を殺生の後起と名づく。その余の業道は応じて知るべし。貪等は加行を為しうるに該わない。ただ心に起るだけでは加行すなわち成とはせず。ただ心を起す時は未だ事を作さざるがゆえである。また経の中に説く、苾芻は知るべし、殺には三種あり。一は貪より生じ、二は瞋より生じ、三は癡より生ず。乃至邪見にも三ありてもまたこのよう。ここに説くべし。どの相の殺生を貪より生ずと名づくか。問う、その余もまたこのよう。諸の業道は一切皆三根に由って究竟するにあらず、しかしその加行は彼と同じからず。どのように同じからざるか。頌に曰く、

加行三根起,彼無間生故,

加行は三根より起る。彼は無間に生ずるがゆえに、

貪等三根生。

貪等は三根より生ず。

論曰:不善業道加行生時,一一由三不善根起,依先等起故作是說。殺生加行由貪起者,如有為欲得彼身分、或為得財、或為戲樂、或為拔濟親友自身,從貪引起殺生加行。從瞋起者,如為除怨,發憤恚心起殺加行。從痴起者,如有祠中謂是法心起殺加行,又諸王等依世法律誅戮怨敵除剪兇徒,謂成大福起殺加行。又波剌私作如是說:父母老病,若令命終得免困苦便生勝福。又諸外道有作是言:蛇蠍蜂等為人毒害,若能殺者便生勝福。羊鹿水牛及餘禽獸,本擬供食故殺無罪。又因邪見殺害眾生,此等加行皆從痴起。偷盜加行從貪起者,謂隨所須起盜加行、或為別利恭敬名譽、或為救拔自身親友,從貪引起偷盜加行。從瞋起者,謂為除怨,發憤恚心起盜加行。從痴起者,謂諸王等依世法律奪惡人財,謂法應爾無偷盜罪。又婆羅門作如是說:世間財物於劫初時,大梵天王施諸梵志,於後梵志勢力微劣,為諸卑族侵奪受用。今諸梵志於世他財若奪若偷,充衣充食或充餘用或轉施他,皆用己財無偷盜罪。然彼取時有他物想,又因邪見盜他財物,皆名從痴起盜加行。邪婬加行從貪起者,謂於他妻等起染著心、或為求他財名位恭敬、或為救拔自身他身,從貪著心起婬加行。從瞋生者,謂為除怨,發憤恚心起婬加行。從痴生者,如波剌私讚於母等行非梵行。又諸梵志讚牛祠中有諸女男受持牛禁,吸水齧草或住或行,不簡親踈隨遇隨合。又諸外道作如是言:一切女人如臼花果熟食階隥道路橋船,世間眾人應共受用。此等加行從痴所生。虛誑語等語四業道從貪瞋生,類前應說。然虛誑語所有加行從痴生者,如外論言:

論に曰く:不善業道の加行の生ずる時、一一は皆三不善根に由って起る。先の等起に依ってこの説を作す。殺生の加行が貪より起るは、たとえばあるもの彼の身分を得んと欲し、或いは財を得んがため、或いは戯楽のため、或いは親友・自身を抜済せんがため、貪より引き起して殺生の加行を為す。瞋より起るは、たとえば怨を除かんがために憤恚の心を発して殺の加行を起す。癡より起るは、たとえば祠中にありて是れ法の心なるを謂いて殺の加行を起す。また諸の王等が世の法律に依って怨敵を誅戮し凶徒を除剪して、大福を成ずと謂いて殺の加行を起す。また波剌私(波斯)がこの説を作して曰く、父母が老病なれば、もし命終せしめば困苦を免れて勝福を生ぜん、と。また諸の外道にこの説を作す者ありて曰く、蛇・蝎・蜂等は人の毒害を為す、もし殺しうれば便ち勝福を生ぜん、と。羊・鹿・水牛およびその余の禽獣は、本より供食に擬するがゆえに殺して罪なし、と。また邪見に因って衆生を殺害する、これらの加行は皆癡より起る。偸盗の加行が貪より起るは、いわゆる随うところの須に応じて盗の加行を起し、或いは別利・恭敬・名誉のため、或いは自身・親友を救抜せんがため、貪より引き起して偸盗の加行を為す。瞋より起るは、いわゆる怨を除かんがために憤恚の心を発して盗の加行を起す。癡より起るは、いわゆる諸の王等が世の法律に依って悪人の財を奪い、法は応に斯くのごとくにして偸盗の罪なしと謂う。また婆羅門がこの説を作して曰く、世間の財物は劫初の時に大梵天王が諸の梵志に施したまいし、後に梵志の勢力微劣にして諸の卑族のために侵奪され受用せられたり。今の諸の梵志が世の他財を或いは奪い或いは偸み、衣に充て食に充て或いはその余の用に充て或いは転て他に施すも、皆己の財を用うるにして偸盗の罪なし、と。しかし彼の取る時に他物の想あり。また邪見に因って他の財物を盗むも、皆癡より起る盗の加行と名づく。邪淫の加行が貪より起るは、いわゆる他の妻等に対して染着の心を起し、或いは他の財・名位・恭敬を求めんがため、或いは自身・他身を救抜せんがため、貪着の心より淫の加行を起す。瞋より生ずるは、いわゆる怨を除かんがために憤恚の心を発して淫の加行を起す。癡より生ずるは、波剌私が母等に対して非梵行を行ずるを讃ずるがごとし。また諸の梵志が牛祠中に諸の女男ありて牛禁を受持し、水を吸い草を啮み或いは住し或いは行き、親疎を簡ばず随遇隨合するを讃ず。また諸の外道がこの説を作して曰く、一切の女人は臼・花・果・熟食・階磴・道路・橋・船のごとく、世間の衆人は応に共に受用すべし、と。これらの加行は癡の生ずるところ。虚誑語等の語の四業道は貪・瞋より生ず、前に類して説くべし。しかし虚誑語の所有の加行が癡より生ずるは、外論に説くがごとし:

若人因戲笑,嫁娶對女王,

もし人ありて戯笑により、嫁娶に女王に対い、

及救命救財,虛誑語無罪。

および命を救い財を救うに、虚誑語は罪なし。

又因邪見起虛誑語、離間語等所有加行,當知一切從痴所生。又諸吠陀及餘邪論,皆雜穢語攝,加行從痴生。貪瞋等三既無加行,如何可說從貪等生?以從三根無間生故,可說貪等從三根生。謂或有時從貪無間生貪業道,從二亦然。瞋及邪見從三亦爾。已說不善從三根生。善復云何?頌曰:

また邪見に因って虚誑語・離間語等の所有の加行を起すは、知るべし、一切皆癡の生ずるところ。また諸の吠陀およびその余の邪論は皆雑穢語の摂、その加行は癡より生ず。貪・瞋等の三はすでに加行なきに、どうして貪等より生ずと説きうるか。三根より無間に生ずるがゆえに、貪等は三根より生ずと説きうる。いわゆる或いは時ありて貪より無間に貪の業道を生じ、二よりもまたこのよう。瞋および邪見は三よりもまたこのよう。已に不善が三根より生ずるを説いた。善はまたいかなるか。頌に曰く、

善於三位中,皆三善根起。

善は三位の中で、皆三善根より起る。

論曰:諸善業道所有加行根本後起,皆從無貪無瞋無痴善根所起,以善三位皆是善心所等起故、善心必與三種善根共相應故。此善三位其相云何?謂遠離前不善三位離惡加行即善加行,離惡根本即善根本,離惡後起即善後起。且如勤策受具戒時,來入戒壇禮苾芻眾,至誠發語請親教師,乃至一白二羯磨等,皆名為善業道加行。第三羯磨竟一剎那中,表無表業名根本業道。從此以後至說四依,及餘依前相續隨轉表無表業,皆名後起。如先所說,非諸業道一切皆由三根究竟,何根究竟何業道耶?頌曰:

論に曰く:諸の善業道の所有の加行・根本・後起は、皆無貪・無瞋・無癡の善根の起すところより生ず。善の三位は皆善心所の等起するがゆえ、善心は必ず三種の善根と共に相応するがゆえである。この善の三位、その相はいかなるか。いわゆる前の不善の三位を離るるを。悪の加行を離るればすなわち善の加行、悪の根本を離るればすなわち善の根本、悪の後起を離るればすなわち善の後起。たとえば勤策が具戒を受くる時、戒壇に来入りて苾芻衆を礼し、至誠に語を発して親教師を請い、乃至一白・二羯磨等は皆善業道の加行と名づく。第三羯磨竟る一刹那の中に、表・無表業は根本業道と名づく。此より後、四依を説くに至り、およびその余の前に依って相続随転する表・無表業は皆後起と名づく。先に説いたがごとく、諸の業道は一切皆三根に由って究竟するにあらず。どの根が究竟しどの業道か。頌に曰く、

殺麁語瞋恚,究竟皆由瞋,

殺・麁語・瞋恚は、究竟は皆瞋に由り、

盜邪行及貪,皆由貪究竟,

盗・邪行および貪は、皆貪に由って究竟し、

邪見痴究竟,許所餘由三。

邪見は癡に究竟す。その余は三に由ると許す。

論曰:惡業道中殺生、麁語、瞋恚業道,由瞋究竟,要無所顧極麁惡心現在前時此三成故。諸不與取、欲邪行、貪,此三業道由貪究竟,要有所顧極染汙心現在前時此三成故。邪見究竟要由愚痴,由上品痴現前成故。虛誑、離間、雜穢語三,許一一由三根究竟,以貪瞋等現在前時一一能令此三成故。諸惡業道何處起耶?頌曰:

論に曰く:悪業道の中で殺生・麁語・瞋恚の業道は瞋に由って究竟す。要するに顧るところなき極麁悪の心の現前する時にこの三は成ずるがゆえである。諸の不與取・欲邪行・貪、この三業道は貪に由って究竟す。要するに顧るところある極染污の心の現前する時にこの三は成ずるがゆえである。邪見の究竟は要するに愚癡に由る。上品の癡が現前して成ずるがゆえである。虚誑・離間・雑穢語の三は、一一が三根に由って究竟すと許す。貪・瞋等の現前する時、一一がこの三を成ぜしめうるがゆえである。諸の悪業道はどの処に起るか。頌に曰く、

有情具名色,名身等處起。

有情・具・名色・名身等の処に起る。

論曰:如前所說四節業道,三三一三隨其次第於有情等四處而生。謂殺等三有情處起,偷盜等三眾具處起,唯邪見一名色處起,虛誑語等三名身等處起。有起加行定欲殺他,而與所殺生俱死或前死,亦得根本業道罪耶?頌曰:

論に曰く:前に説いた四節の業道のごとく、三・三・一・三がその次第に随って有情等の四処に生ず。いわゆる殺等の三は有情処に起り、偸盗等の三は衆具処に起り、ただ邪見の一は名色処に起り、虚誑語等の三は名身等の処に起る。もし起して加行して定めて他を殺さんと欲するも、殺さるべき生と俱に死す或いは前に死すれば、根本業道の罪を得るか。頌に曰く、

俱死及前死,無根依別故。

俱死および前死は、根なし。別の依あるがゆえに。

論曰:若能殺者與所殺生俱時命終、或在前死,彼定不得根本業道。故有問言:頗有殺者起殺加行及令果滿,而彼不為殺罪觸耶?曰:有。云何?謂能殺者與所殺生俱死、前死。何緣如是?以所殺生其命猶存,不可令彼能殺生者成殺罪故。非能殺者其命已終可得殺罪,別依生故。謂殺加行所依止身今已斷滅,雖有別類身同分生,非罪依止。此曾未起殺生加行,成殺業道理不應然。若有多人集為軍眾欲殺怨敵、或獵獸等,於中隨有一殺生時,何人得成殺生業道?頌曰:

論に曰く:もし殺しうる者と殺さるべき生とが俱の時に命終し、或いは前に死すれば、彼は定めて根本業道を得ず。このゆえに問いて説く、頗る殺者ありて殺の加行を起しおよび果を満ぜしむるも、彼は殺罪に触れざるか。曰く、あり。いかなるか。いわゆる殺しうる者と殺さるべき生とが俱に死し前に死す。どの縁によってこのようか。殺さるべき生、その命なお存して、彼の殺しうる者をして殺罪を成ぜしむべからざるがゆえである。殺しうる者、その命已に終らば殺罪を得べからず。別の依に生ずるがゆえである。いわゆる殺の加行の依止する身は今已に断滅し、別類の身同分の生ありと雖も、罪の依止にあらず。これ曽て殺生の加行を起さざれば、殺業道の理は応に斯くのごとからず。もし多人ありて集りて軍衆と為して怨敵を殺さんと欲し、或いは獣等を猟すれば、その中に随って一ありて生を殺する時、何人が殺生業道を成ずるを得るか。頌に曰く、

軍等若同事,皆成如作者。

軍等もし事を同じくせば、皆成ず。作者のごとく。

論曰:於軍等中若隨有一作殺生事,如自作者,一切皆成殺生業道,由彼同許為一事故。如為一事展轉相教,故一殺生餘皆得罪。若有他力逼入此中,因即同心亦成殺罪。唯除若有立誓自要救自命緣亦不行殺,雖由他力逼在此中,而無殺心故無殺罪。今次應辯成業道相。謂齊何量名曰殺生?乃至齊何名為邪見?且先分別殺生相者,頌曰:

論に曰く:軍等の中でもし随って一ありて殺生の事を作せば、自ら作するがごとく、一切皆殺生業道を成ず。彼が同じく許して一事と為すがゆえである。一事と為して展転に相教うがゆえに、一が生を殺せばその余皆罪を得る。もし他力ありて逼してこの中に入るも、因すなわち心を同じくしてもまた殺罪を成ず。ただ除く、もし誓を立て自ら要して自命を救うの縁にもまた殺を行ぜざる者は、他力に由ってこの中に逼せらると雖も、殺心なきがゆえに殺罪なし。今次に業道を成ずるの相を辯ずべし。いわゆる何の量を斎して殺生と名づけるか。乃至何を斎して邪見と名づくか。まず殺生の相を分別するに、頌に曰く、

殺生由故思,他想不誤殺。

殺生は故思に由り、他想にて誤らずして殺す。

論曰:要由先發欲殺故思,於他有情他有情想,作殺加行不誤而殺。謂唯殺彼不漫殺餘,齊此名為殺生業道。有猶豫殺亦成殺生,謂彼先於所欲殺境心懷猶豫為生非生?設復是生為彼非彼?後起決志,若是若非我定當殺。由心無顧,若殺有情亦成業道。於剎那滅蘊,如何成殺生?息風名生,依身心轉,若有令斷不更續生,如滅燈光、鈴聲名殺。或復生者即是命根,若有令斷不續名殺。謂以惡心隔斷他命,乃至一念應生不生,唯此非餘,殺罪所觸。此所斷命為屬於誰?謂命若無彼便死者,既標第六,非我而誰?破我論中當廣思擇。故薄伽梵所說頌言:

論に曰く:要するに先に殺さんと欲する故思を発し、他の有情に於いて他の有情の想を為し、殺の加行を作して誤らずして殺す。いわゆるただ彼を殺して漫然にその余を殺さざるは、これを斎して殺生業道と名づく。猶豫の殺ありてもまた殺生を成ず。いわゆる彼が先ず殺さんと欲する境に於いて心に猶豫を懐き、生か非生か、設い復た是れ生なりとも彼か彼にあらざるかとし、後に決志を起して、是なりとも非なりとも我は定めて当に殺すべしとす。心に顧みるなきに由って、もし有情を殺せばもまた業道を成ず。刹那滅の蘊に於いて、どうして殺生を成すか。息風を生と名づく。身・心に依って転ず。もし断ぜしめて更に続けて生ぜざれば、灯光・鈴声を滅するがごときを殺と名づく。或いは復た生とはすなわち命根、もし断ぜしめて続がざれば殺と名づく。いわゆる悪心を以て他の命を隔断し、乃至一念に生ずべきを生ぜしめざるは、ただこれにあってその余にあらざるが殺罪の触れるところ。この断ぜらるる命は誰に属するか。いわゆる命なきならば彼は便ち死するを。すでに第六を標すれば、我にあらずして誰か。破我論の中に当に広く思択すべし。薄伽梵の説きたまえる頌に曰く、

壽煖及與識,三法捨身時,

寿・暖および識、三法が身を捨つる時、

所捨身僵仆,如木無思覺。

捨てられたる身は僵仆し、木のごとく思覚なし。

故有根身名有命者,無根名死其理決然。離繫者言,不思而殺亦得殺罪。猶如觸火,設不先思亦被燒害。若爾汝等遇見他妻,或誤觸身亦應有罪。又善心者拔離繫髮,或師慈心勸修苦行,或因施主宿食不消,此等皆應獲苦他罪。又胎與母互為苦因,應母與胎有苦他罪。又所殺者既與殺合,亦應如火能燒自依,不應但令能殺得罪。又遣他殺,殺罪應無,如火不燒教觸火者。又諸木等應為罪觸,如舍等崩亦害生故。又非但喻,立義可成。已分別殺生。當辯不與取。頌曰:

(論は続けて曰く:)このゆえに根ある身を有命と名づけ、根なきを死と名づく。その理は决然たり。離系者の説に、思わずして殺すも殺罪を得、と。たとえば火に触るるがごとし。設い先に思わざるも被て焼害せらる。もしそうならば、なんじら他の妻に遇い或いは誤って身に触るるも罪あるべし。また善心の者が離系の髪を拔き、或いは師が慈心に苦行を修せんを勧め、或いは施主に因って宿食消えざる等は、皆苦他の罪を獲すべし。また胎と母と互いに苦因と為る。応に母と胎と苦他の罪あるべし。また殺さるる者はすでに殺と合すれば、もまた火のごとく自依を焼きうるべく、ただ殺しうる者をして罪を得しむるのみならざるべし。また他を遣わして殺せば殺罪は無かるべし。火は教えて火に触れしむる者を焼かざるがごとし。また諸の木等は罪に触れるべし。舎等の崩れてもまた生を害するがゆえに。また但し喩のみにあらず、義を立てて成すべし。已に殺生を分別したり。当に不與取を辯すべし。頌に曰く、

不與取他物,力竊取屬己。

不與取とは他の物、力に或いは窃み取りて己に属せしむ。

論曰:前不誤等如其所應,流至後門故不重說。謂要先發欲盜故思,於他物中起他物想,或力或竊起盜加行,不誤而取令屬己身,齊此名為不與取罪。若有盜取窣堵波物,彼於如來得偷盜罪,以佛臨欲入涅槃時,哀愍世間總受所施。有餘師說:望守護者。若有掘取無主伏藏,於國主邊得偷盜罪。若有盜取諸迴轉物,已作羯磨於界內僧、若羯磨未成,普於佛弟子得偷盜罪。餘例應思。已辯不與取。當辯欲邪行。頌曰:

論に曰く:前の不誤等はその応ずるがごとく、後門に流るるがゆえに重ねて説かず。いわゆる要ずるに先に盗まんと欲する故思を発し、他の物の中に於いて他の物の想を起し、或いは力或いは窃みて盗の加行を起し、誤らずして取りて己の身に属せしむるを、これを斎して不與取の罪と名づく。もし窣堵波(塔)の物を盗取する者あれば、彼は如来に於いて偸盗の罪を得る。仏がまさに涅槃に入らんと欲する時、世間を哀愍して総て施せらるるを受けたまえばなり。その余の師の説に、守護者を望む、と。もし主なき伏蔵を掘取すれば、国主の辺に於いて偸盗の罪を得る。もし諸の回転物を盗取し、已に羯磨を作して界内の僧に於いて、或いは羯磨未だ成らざれば、普く仏弟子に於いて偸盗の罪を得る。その余は例して思うべし。已に不與取を辯したり。当に欲邪行を辯すべし。頌に曰く、

欲邪行四種,行所不應行。

欲邪行は四種。行ずべからざるを行ずればなり。

論曰:總有四種行不應行,皆得名為欲邪行罪:一於非境行不應行,謂行於他所攝妻妾或母或父或父母親乃至或王所守護境。二於非道行不應行,謂於自妻口及餘道。三於非處行不應行,謂於寺中制多逈處。四於非時行不應行。非時者何?謂懷胎時、飲兒乳時、受齋戒時。設自妻妾亦犯邪行。有說:若夫許受齋戒而有所犯方謂非時。既不誤言,亦流至此。若於他婦謂是己妻,或於己妻謂為他婦,道非道等但有誤心,雖有所行而非業道。若於此他婦作餘他婦想,行非梵行成業道耶?有說亦成,以於他婦起婬加行及受用故。有說不成,如殺業道於此起加行,於餘究竟故。於苾芻尼行非梵行,為從何處得業道耶?此從國王不忍許故。於自妻妾受齋戒時尚不應行,況出家者。若於童女行非梵行,為從何處得業道耶?若已許他,於所許處;未許他者,於能護人;此及所餘,皆於王得。已辯欲邪行。當辯虛誑語。頌曰:

論に曰く:総じて四種の行ずべからざるを行ずるは、皆欲邪行の罪と名づくるを得。一は非境に於いて行ずべからざるを行ず。いわゆる他の摂する所の妻妾、或いは母或いは父或いは父母の親、乃至或いは王の守護する境に行ず。二は非道に於いて行ずべからざるを行ず。いわゆる自らの妻の口およびその余の道に於いて。三は非処に於いて行ずべからざるを行ず。いわゆる寺中・制多・迥処に於いて。四は非時に於いて行ずべからざるを行ず。非時とは何か。いわゆる怀胎の時・児に乳を飲ましむる時・斎戒を受くる時。設い自らの妻妾なりとも邪行を犯す。ある説に、もし夫が斎戒を受くるを許して犯すところあれば初めて非時と謂う、と。すでに誤らずの言はまたここに流る。もし他の婦に於いて是れ己の妻と謂い、或いは己の妻に於いて他の婦と為す等、但し誤心あらば、行ずるところありと雖も業道にあらず。もしこの他の婦に於いてその余の他婦の想を作して非梵行を行ずれば業道を成ずるか。ある説にもまた成ずと。他の婦に於いて淫の加行および受用を起すを以てなり。ある説に成ぜずと。殺業道がこれに於いて加行を起してその余に於いて究竟するがごときがゆえに。苾芻尼に於いて非梵行を行ずれば、どの処より業道を得るか。これは国王の忍許せざるがゆえに。自らの妻妾に於いて斎戒を受くる時もなお行ずべからざるに、況んや出家の者をや。もし童女に於いて非梵行を行ずれば、どの処より業道を得るか。もし已に他に許さば許すところの処に於いて、未だ他に許さざれば護りうる人に於いて。これおよびその余は皆王に於いて得。已に欲邪行を辯したり。当に虚誑語を辯すべし。頌に曰く、

染異想發言,解義虛誑語。

染して異想に言を発し、義を解せしめば虚誑語。

論曰:於所說義異想發言,及所誑者解所說義,染心不誤成虛誑語。若所誑者未解言義,此言是何?是雜穢語。既虛誑語是所發言,有多字成言,何時成業道?與最後字俱生表聲及無表業成此業道。或隨何時所誑解義,表無表業成此業道。前字俱行皆此加行,所言解義定據何時?為據已聞正解名解?為據正聞能解名解?若爾何失?若據已聞正解名解,言所詮義意識所知,語表耳識俱時滅故,應此業道唯無表成。若據正聞能解名解,雖無有失然未了知,如何正聞可名能解?善言義者無迷亂緣,耳識已生名為能解,如無失者應取為宗。經說諸言略有十六,謂於不見不聞不覺不知事中言實見等,或於所見所聞所覺所知事中言不見等,如是八種名非聖言。若於不見乃至不知言不見等,或於所見乃至所知言實見等,如是八種名為聖言。何等名為所見等相?頌曰:

論に曰く:説かんとする義に於いて異想に言を発し、および誑かさるべき者が説かるる義を解し、染心に誤らざれば虚誑語を成ず。もし誑かさるべき者が未だ言義を解せざれば、この言は何ぞ。是れ雑穢語。すでに虚誑語は発せらるる言にして、多字ありて言を成す。いつの時に業道を成ずか。最後の字と俱に生ずる表声および無表業がこの業道を成ず。或いは随って誑かすところが義を解する時に、表・無表業がこの業道を成ず。前の字の俱行は皆これ加行なり。言うところの義を解するは定めて何の時に拠るか。已に聞きて正解するを解と名づけるに拠るか。正に聞きて能く解するを解と名づけるに拠るか。もしそうならば何の失かある。もし已に聞きて正解を解と名づくるに拠らば、言の詮ずる義は意識の知るところ、語の表は耳識と俱の時に滅するがゆえに、応にこの業道はただ無表を以て成ずべし。もし正に聞きて能く解するを解と名づくるに拠らば、失あることなきと雖も、しかし未だ了知せず、どうして正聞を能解と名づけうるか。言義に善き者は迷乱の縁なきに、耳識已に生ぜれば能解と名づく。失なきがごときを取って宗と為すべし。経に説く、諸の言は略して十六あり。いわゆる見ず聞かず覚らず知らざる事に於いて実に見たり等と言い、或いは見たり聞いたり覚たり知ったりする事に於いて見ざり等と言う。このような八種を非聖言と名づく。もし見ざる乃至知らざるに於いて見ざり等と言い、或いは見たり乃至知ったりするに於いて実に見たり等と言えば、このような八種を聖言と名づく。何等を見等の相と名づくるか。頌に曰く、

由眼耳意識,並餘三所證,

眼・耳・意識に由り、ならびにその余の三の証する所、

如次第名為,所見聞知覺。

次第のごとく名づけて、見・聞・覚・知と為す。

論曰:毘婆沙師作如是說:若境由眼識所證名所見,若境由耳識所證名所聞,若境由意識所證名所知,若境由鼻識舌識及身識所證名所覺。所以然者,香味觸三無記性故如死無覺,故能證者偏立覺名。何證知然?由經理證。言由經者,謂契經說:佛告大母:汝意云何?諸所有色非汝眼見、非汝曾見、非汝當見、非希求見,汝為因此起欲起貪、起親起愛、起阿賴耶、起尼延底、起耽著不?不爾。大德!諸所有聲非汝耳聞,廣說乃至諸所有法非汝意知,廣說乃至,不爾。大德!復告大母:汝於此中應知所見,唯有所見應知所聞所覺所知,唯有所聞所覺所知。此經既於色聲法境說為所見所聞所知,准此定於香等三境總合建立一所覺名。若不許然,何名所覺?又香味觸在所見等外,於彼三境應不起言說。是名為理。此證不成,且經非證,經義別故。非此經中世尊為欲決判見等四所言相,然見此經所說義者,謂佛勸彼於六境中及於見等四所言事,應知但有所見等言,不應增益愛非愛相。若爾,何相名所見等?有餘師說:若是五根現所證境名為所見,若他傳說名為所聞,若運自心以種種理比度所許名為所覺,若意現證名為所知。於五境中一一容起見聞覺知四種言說,於第六境除見有三,由此覺名非無所目,香等三境言說非無,故彼理言亦為無理。先軌範師作如是說:眼所現見名為所見,從他傳聞名為所聞,自運己心諸所思搆名為所覺,自內所受及自所證名為所知。且止傍言,應申正論。頗有由身表異想義不由發語成虛誑語耶?曰:有。故論言:頗有不動身殺生罪觸耶?曰:有,謂發語。頗有不發語誑語罪觸耶?曰:有,謂動身。頗有不動身不發語二罪所觸耶?曰:有,謂仙人意憤及布灑他時。若不動身亦不發語,欲無無表離表而生,此二如何得成業道?於如是難應設劬勞。已辯虛誑語。當辯餘三語。頌曰:

論に曰く:毘婆沙師はこの説を作して曰く、もし境が眼識の証する所ならば見と名づく、もし境が耳識の証する所ならば聞と名づく、もし境が意識の証する所ならば知と名づく、もし境が鼻識・舌識および身識の証する所ならば覚と名づく。このようなる所以は、香・味・触の三は無記の性にして死せるがごとく覚なきがゆえに、証しうるの偏りに覚の名を立つ。何を以てかくのごとくなるを証知するか。経・理に由って証す。経に由ると言うは、いわゆる契経に説く:仏、大母に告げて曰く、なんじの意はいかん。諸の所有の色はなんじの眼の見るにあらず、なんじの曽て見たるにあらず、なんじの当に見るにあらず、希求して見んとするにあらず、なんじこれに因って欲を起し貪を起し、親を起し愛を起し、阿頼耶(蔵)を起し、尼延底(趣求)を起し、耽着を起すか。そうではない。大徳!諸の所有の声はなんじの耳の聞くにあらず、広く説く乃至諸の所有の法はなんじの意の知るにあらず、広く説く乃至、そうではない。大徳!また大母に告げて曰く、なんじこの中に於いて見たるを知るべし、ただ見たるのみあるを知るべし。聞・覚・知もまたしかり、ただ聞・覚・知のみあるを知るべし、と。この経はすでに色・声・法の境に於いて見・聞・知と説く。これに准じて定めて香等の三境に於いて総合して一つの覚名を建立す。もしこのようを許さざれば、何を覚と名づくか。また香・味・触は見等の外に在り。彼の三境に於いて応に言説を起さざるべし。これを理と名づく。この証は成ぜず。且つ経は証にあらず。経の義は別なるがゆえに。この経の中に世尊は見等の四言の相を決判せんと欲するにあらず。しかしこの経の説くところの義を見るは、いわゆる仏が彼を勧めて六境の中および見等の四言の事に於いて、ただ見等の言のみあるを知るべく、愛・非愛の相を增益すべからずと。もしそうならば、どの相を見等と名づくか。その余の師の説に、もし五根の現に証する境ならば見と名づく、もし他の伝説ならば聞と名づく、もし自心を運らして種種の理に比度するを許すならば覚と名づく、もし意の現証ならば知と名づく、と。五境の中に於いて一一に見・聞・覚・知の四種の言説を起すを容れ、第六境に於いては見を除いて三あり。このゆえに覚の名は目するところなきにあらず。香等の三境の言説も無きにあらず。このゆえに彼の理言もまた無理なり。先の軌範師はこの説を作して曰く、眼の現に見るを見と名づけ、他より伝聞するを聞と名づけ、自ら己心を運らす諸の思構する所を覚と名づけ、自内の受および自ら証する所を知と名づく、と。且く傍言を止め、正論を申すべし。頗る身の表す異想の義に由って発語に由らずして虚誑語を成ずるや。曰く、あり。論に説く、頗る身を動かさずして殺生の罪に触れるや。曰く、あり。いわゆる語を発す。頗る語を発さずして誑語の罪に触れるや。曰く、あり。いわゆる身を動かす。頗る身を動かさず語を発さずして二罪に触れるや……

染心壞他語,說名離間語,

染心にて他を壊る語を、説いて離間語と名づく。

非愛麁惡語,諸染雜穢語,

愛ならざるは麁悪語、諸の染は雑穢語、

餘說異三染,佞歌邪論等。

その余に異なる三染を説く。佞・歌・邪論等。

論曰:若染汙心發壞他語,若他壞不壞俱成離間語。解義不誤,流至此中。若以染心發非愛語毀呰於他,名麁惡語。前染心語流至此故,解義不誤亦與前同。謂本期心所欲罵者,解所說義業道方成。一切染心所發諸語名雜穢語。所以者何?染所發言皆雜穢故。唯前語字流至此中。有餘師說:異虛誑等前三種語,所有一切染心發言名雜穢語,此謂佞歌及邪論等。佞謂諂佞,如有苾芻邪命居懷發諂佞語。歌謂歌詠,如世有人以染汙心諷吟相調,及倡伎者為悅他情以染汙心作諸詞曲。言邪論者,謂廣辯說諸不正見所執言詞。等謂染心所發悲嘆,及諸世俗戲論言詞。但異前三染心所發,一切皆是雜穢語收。輪王現時亦有歌詠,如何不是雜穢語收?由彼語從出離心發,能引出離,非預染心。有餘師言:爾時亦有成嫁娶等所發染言,由過輕故不成業道。已辯三語。當辯意三。頌曰:

論に曰く:もし染污の心を以て他を壊る語を発せば、他の壊るると壊れざるとに拘わらず俱に離間語を成ず。義を解して誤らざるはここに流る。もし染心を以て愛ならざる語を発して他を毁呰すれば、麁悪語と名づく。前の染心語はここに流るるがゆえに、義を解して誤らざるも前と同じ。いわゆる本の期心の罵らんと欲する所が説かるる義を解せば業道乃ち成ず。一切の染心の発する所の諸の語は雑穢語と名づく。そもそもどうしてか。染の発する所は皆雑穢なるがゆえである。ただ前の語字はここに流る。その余の師の説に、虚誑等の前三種の語に異なる、所有の一切の染心の発言は雑穢語と名づく。これはいわゆる佞・歌および邪論等である。佞とは諂佞を謂う。たとえば苾芻ありて邪命を懐に居して諂佞の語を発するがごとし。歌とは歌詠を謂う。たとえば世に人ありて染污の心を以て諷吟し相調い、および倡伎の者が他の情を悦ばしめんがために染污の心を以て諸の詞曲を作るがごとし。邪論と言うは、いわゆる広く辯説する諸の不正見の執する所の言詞である。等とは染心の発する所の悲歎および諸の世俗の戯論の言詞を謂う。但し前三に異なる染心の発する所は一切皆是れ雑穢語の収むる所。輪王の現ずる時にもまた歌詠あり。どうして雑穢語の収むる所にあらざるか。彼の語は出離の心より発し、出離を引き出しうれば、染心に預らざるがゆえである。その余の師の説に、爾の時にもまた嫁娶等の発する所の染言成ずるあり。過軽きがゆえに業道を成ぜず、と。已に三語を辯したり。当に意の三を辯すべし。頌に曰く、

惡欲他財貪,憎有情瞋恚,

他財を悪欲するは貪、有情を憎むは瞋恚、

撥善惡等見,名邪見業道。

善悪等を撥する見を、名づけて邪見業道と為す。

論曰:於他財物惡欲名貪,謂於他財非理起欲,如何令彼屬我非他,起力竊心耽求他物,如是惡欲名貪業道。有餘師言:諸欲界愛皆貪業道。所以者何?《五蓋經》中依貪欲蓋,佛說應斷此世間貪,故知貪名總說欲愛。有說:欲愛雖盡名貪,而不可說皆成業道,此惡行中攝麁品故。勿輪王世及北俱盧所起欲貪成貪業道。於有情類憎恚名瞋,謂於他有情慾為傷害事,如是憎恚名瞋業道。於善惡等惡見撥無,此見名為邪見業道。如經說:無施與、無愛樂、無祠祀、無妙行、無惡行、無妙惡行業果異熟、無此世間無彼世間、無母無父、無化生有情、世間無沙門、或婆羅門是阿羅漢。彼經具顯謗業謗果謗聖邪見,此頌舉初等言攝後。

論に曰く:他の財物に対する悪欲を貪と名づく。いわゆる他の財に於いて理にあらざる欲を起し、どうして彼をして我に属して他にあらざらしめんと、力窃の心を起して他物を耽求する。このような悪欲を貪業道と名づく。その余の師の説に、諸の欲界の愛は皆貪業道、と。そもそもどうしてか。《五蓋経》の中に貪欲蓋に依って、仏はこの世間の貪を断ずべしと説きたまう。ゆえに貪の名は総じて欲愛を説くと知る。ある説に、欲愛は尽く名を貪とすと雖も、皆業道を成すと説くべからず。これ悪行の中に麁品を摂するがゆえに。輪王の世および北俱盧の起す所の欲貪をして貪業道を成ぜしむること勿れ、と。有情の類を憎恚するを瞋と名づく。いわゆる他の有情に於いて傷害の事を為さんと欲する。このような憎恚を瞋業道と名づく。善悪等に於いて悪見を以て無と撥する。この見を邪見業道と名づく。経に説くがごとく:施与なし、愛楽なし、祠祀なし、妙行なし、悪行なし、妙・悪行の業果異熟なし、此の世間なし彼の世間なし、母なし父なし、化生の有情なし、世間に沙門なく、或いは婆羅門にして阿羅漢なる者なし、と。彼の経は具に謗業・謗果・謗聖の邪見を顕す。この頌は初の等言を挙げて後を摂す。

説一切有部倶舎論 巻第十六

アビダルマ倶舎論 巻第十七 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別業品第四之五

分別業品 第四之五

如是已辯十業道相。依何義名業道?頌曰:

このように已に十業道の相を辯したり。どの義に依って業道と名づくか。頌に曰く、

此中三唯道,七業亦道故。

この中の三はただ道、七は業にしてもまた道なり。

論曰:十業道中後三唯道,業之道故立業道名。彼相應思說名為業,彼轉故轉、彼行故行,如彼勢力而造作故。前七是業,身語業故,亦業之道,思所遊故。由能等起身語業思,託身語業為境轉故。業業之道立業道名,故於此中言業道者,具顯業道業業道義。雖不同類而一為餘,於世典中俱極成故。離殺等七、無貪等三立業道名,類此應釋。此加行後起,何緣非業道?為此依此彼方轉故。又前說此攝麁品故。又若由此有減有增,令內外物有增有減,立為業道,異此不然。譬喻論師執貪瞋等即是意業,依何義釋彼名業道?應問彼師。然亦可言:彼是意業惡趣道故立業道名,或互相乘皆名業道。如是所說十惡業道,皆與善法現起相違。諸斷善根由何業道?斷續善相差別云何?頌曰:

論に曰く:十業道の中、後の三はただ道なり。業の道なるがゆえに業道の名を立つ。彼の相応する思を説いて業と名づく。彼の転ずるがゆえに転じ、彼の行くがゆえに行き、彼の勢力のごとくにして造作するがゆえである。前の七は業なり。身・語の業なるがゆえに。また業の道なり。思の遊ぶ所なるがゆえに。能く等しく身・語の業を起す思が、身・語の業に託して境と為して転ずるがゆえに。業の業の道に業道の名を立つ。このゆえにこの中に業道と言うは、具に業道・業業道の義を顕す。同類にあらずと雖も一を以てその余と為すは、世の典に於いて俱に極成するがゆえに。殺等の七を離れ、無貪等の三に業道の名を立つるは、このに類して釈すべし。この加行・後起は、どの縁によって業道にあらざるか。これに依りこれに由って彼が乃ち転ずるがゆえに。また前に説く、これ麁品を摂するがゆえに。またもしこれに由って減あり増あり、内外の物をして増あり減あらしめば、業道と為す。これに異なればこのようにはあらず。譬喩論師は貪・瞋等はすなわち意業と執す。どの義に依って彼を業道と名づくるを釈するか。応に彼の師に問うべし。しかしもまた説きうる:彼は意業・悪趣の道なるがゆえに業道の名を立つ。或いは互いに乗ずれば皆業道と名づく。このように説く所の十悪業道は皆善法の現起に相違す。諸の善根を断ずるはどの業道に由るか。断・続・善の相の差別はいかなるか。頌に曰く、

唯邪見斷善,所斷欲生得,

ただ邪見のみ善根を断ず。断ずる所は欲界の生得。

撥因果一切,漸斷二俱捨。

因果一切を撥す。漸断・二・俱・捨。

人三洲男女,見行斷非得,

人・三洲・男女。見行が断ずるは非得なり。

續善疑有見,頓現除逆者。

善を続くるは疑・有見。頓現・逆を除く者。

論曰:惡業道中唯有上品圓滿邪見能斷善根。若爾,何緣本論中說云何上品諸不善根,謂諸不善根能斷善根者?或離欲位最初所除,由不善根能引邪見,故邪見事推在彼根。如火燒村,火由賊起,故世間說彼賊燒村。何等善根為此所斷?謂唯欲界生得善根,色無色善先不成故。《施設足論》當云何通?如彼論言:唯由此量是人已斷三界善根,依上善根得更遠說,令此相續非彼器故。何緣唯斷生得善根?加行善根先已退故。緣何邪見能斷善根?謂定撥無因果邪見。撥無因者,謂定撥無妙行惡行。撥無果者,謂定撥無彼果異熟。有餘師說:此二邪見猶如無間解脫道別。有餘師說:斷善邪見唯緣有漏非無漏緣,唯自界緣不緣他界。由彼唯作相應隨眠,境不隨增,勢力劣故。如是說者通一切緣,隨因亦增,有強力故。有餘師說:九品善根由一剎那邪見頓斷,如見道斷見所斷惑。如是說者漸斷善根,謂九品善根由九品邪見逆順相對漸次而斷。如修道斷修所斷惑,即下下邪見能斷上上善根,乃至下下善根上上邪見所斷。若作是說,符本論文。如本論言:云何名微俱行善根?謂斷善根時最後所捨者,由捨彼故名斷善根。若爾,彼文何理復說:云何上品諸不善根?謂諸不善根能斷善根者。彼依究竟密說此言,由此善根斷無餘故。謂若猶有一品善根,餘品善根因斯可起,未可說彼名斷善根;斷究竟時方名斷善,故唯說上品名能斷善根。有餘師言:斷九品善終無中出如見道中。如是說者,通出不出。有餘師說:先捨律儀後斷善根,未易捨故。如是說者,若彼律儀是此品心所等起果,此品心斷捨彼律儀,以果與因品類同故。為在何處能斷善根?人趣三洲非在惡趣亦非天趣。所以者何?以惡趣中染不染慧不堅牢故,以天趣中現見善惡諸業果故。言三洲者,除北俱盧,彼無極惡阿世耶故。有餘師說:唯贍部洲。若爾,便違本論所說。

論に曰く:悪業道の中、ただ上品・円満の邪見のみ能く善根を断ず。もしそうならば、どの縁によって本論の中に説く、何を上品の諸の不善根とするか、いわゆる諸の不善根の能く善根を断ずる者を、と。或いは離欲の位の最初に除く所に由り、不善根は能く邪見を引くがゆえに、邪見の事を彼の根に推す。火が村を焼くがごとし。火は賊に由って起る。ゆえに世間は彼の賊が村を焼くと説く。どの善根がこれに断ぜらるるか。いわゆるただ欲界の生得善根。色・無色の善は先に成らざるがゆえに。《施設足論》は当にどう通ずべきか。彼の論に説くがごとく、ただこの量に由って是れ人の已に三界の善根を断ぜりと、上の善根に依って更に遠く説く。これ相続をして彼の器にあらざらしむるがゆえに。どの縁によってただ生得善根を断ずるか。加行善根は先に已に退するがゆえに。何の縁によって邪見は能く善根を断ずるか。いわゆる定めて因果を無と撥する邪見。因を無と撥するは、いわゆる定めて妙行・悪行を無と撥す。果を無と撥するは、いわゆる定めて彼の果異熟を無と撥す。その余の師の説に、この二つの邪見はなお無間・解脱道の別あるがごとし、と。その余の師の説に、善を断ずる邪見はただ有漏に縁じて無漏に縁ぜず、ただ自界に縁じて他界に縁ぜず、と。彼はただ相応の随眠を作す。境は随増せず。勢力劣なるがゆえに。このように説くは一切の縁に通じ、因に随ってもまた増す。強力あるがゆえに。その余の師の説に、九品の善根は一刹那の邪見に由って頓断す。見道が見所断の惑を断ずるがごとし、と。このように説くは漸断の善根、いわゆる九品の善根は九品の邪見に由って逆順相対して漸次に断ず。修道が修所断の惑を断ずるがごとし。すなわち下下の邪見は能く上上の善根を断じ、乃至下下の善根は上上の邪見の断ずる所。もしこの説を作さば、本論の文に符す。本論に説くがごとく、何を微俱行の善根と名づくか。いわゆる善根を断ずる時、最後に捨つる所。彼を捨つるに由って善根を断ずと名づく、と。もしそうならば、彼の文は何の理にか復た説く、何を上品の諸の不善根とするか、いわゆる諸の不善根の能く善根を断ずる者を、と。彼は究竟の密に依ってこの言を説く。この善根を断じてその余なきがゆえに。いわゆるもしなお一品の善根あらば、その余の品の善根はこれに因って起すべし。未だ彼を善根を断じたりと説くべからず。断の究竟する時に乃ち善根を断じたりと名づく。ゆえにただ上品を説いて能く善根を断ずる者と名づく。その余の師の説に、九品の善を断ずるは終に中より出づることなし。見道の中のごとし、と。このように説くは出づると出でざるとに通ず。その余の師の説に、先に律儀を捨て後に善根を断ず。未だ捨て易からざるがゆえに、と。このように説くは、もし彼の律儀がこの品の心の等起する所の果ならば、この品の心が断ずれば彼の律儀を捨つ。果と因と品類同じきを以てなり。どの処に在りて能く善根を断ずるか。人趣・三洲にあって非ざる所は……

如本論說:贍部洲人極少成八根,東西洲亦爾。如是斷善,依何類身?唯男女身,志意定故。有餘師說:亦非女身,欲勤慧等皆昧鈍故。若爾,便違本論所說。如本論說:若成女根定成八根,男根亦爾。為何行者能斷善根?唯見行人非愛行者,諸愛行者惡阿世耶極躁動故,諸見行者惡阿世耶極堅深故。由斯理趣,非扇搋等能斷善根,愛行類故。又此類人如惡趣故。此善根斷其體是何?善斷應知非得為體,以斷善位善得不生非得續生,替善根得非得生位,名斷善根。故斷善根非得為體。善根斷已由何復續?由疑有見。謂因果中有時生疑:此或應有?或生正見,定有非無。爾時善根得還續起,善得起故名續善根。有餘師言:九品漸續。如是說者,頓續善根然後後時漸漸現起,如頓除病氣力漸增。於現身中能續善不?亦有能續,除造逆人。經依彼人作如是說:彼定於現法,不能續善根。彼人定從地獄將歿、或即於彼將受生時能續善根,非餘位故。言將生位,謂中有中。將歿時言,謂彼將死。若由因力彼斷善根將死時續,若由緣力彼斷善根將生時續,由自他力應知亦爾。又意樂壞非加行壞斷善根者,是人現世能續善根。若意樂壞加行亦壞斷善根者,要身壞後方續善根。見壞戒不壞、見壞戒亦壞斷善根者,應知亦爾。有斷善根非墮邪定,應作四句。第一句者,謂布剌拏等。第二句者,謂未生怨等。第三句者,謂天授等。第四句者,謂除前相。已乘義便辯斷善根,今應復明本業道義。所說善惡二業道中,有幾並生與思俱轉?頌曰:

(論は続けて曰く:)本論に説くがごとく、贍部洲の人は極めて少く八根を成ず。東西洲もまたこのよう。このように善を断ずるは、どの類の身に依るか。ただ男女の身。志意定まるがゆえに。その余の師の説に、もまた女身にあらず。欲・勤・慧等皆昧鈍なるがゆえに、と。もしそうならば便ち本論の説く所に違す。本論に説くがごとく、もし女根を成ぜば定めて八根を成ず。男根もまたこのよう、と。どの行者が能く善根を断ずるか。ただ見行の人にして愛行にあらざる者。諸の愛行の悪阿世耶は極めて躁動し、諸の見行の悪阿世耶は極めて堅深なるがゆえに。この理趣に由って、扇搋等は能く善根を断ぜず。愛行の類なるがゆえに。またこの類の人は悪趣のごときがゆえに。この善根の断ずる、その体は何ぞ。善の断ずるは応に知るべし、非得を体と為す。善を断ずる位に善の得は生ぜずして非得が続けて生ずるがゆえに、善根の得に替わりて非得の生ずる位を、善根を断ずと名づく。ゆえに善根を断ずるは非得を体と為す。善根を断じ已りて何に由って復た続くか。疑・有見に由る。いわゆる因果の中に時ありて疑を生ず:これ或いは有るべきか。或いは正見を生じて、定めて有りて無にあらず。爾の時善根は還って続き起ることを得。善の得起するがゆえに善根を続くと名づく。その余の師の説に、九品に漸続す、と。このように説くは、頓に善根を続きて然る後の時に漸々現起す。頓に病を除きて気力漸々増すがごとし。現身の中に於いて能く善を続くか。もまた能く続く者あり。逆を造る人を除く。経は彼の人に依ってこの説を作して曰く、彼は定めて現法に於いて善根を続くること能わず、と。彼の人は定めて地獄よりまさに殁せんとし、或いはすなわち彼に於いてまさに生を受けんとする時に能く善根を続く。その余の位にあらざるがゆえに。まさに生ぜんとする位と言うは、いわゆる中有の中。まさに殁せんとする時の言は、いわゆる彼がまさに死せんとす。もし因力に由って彼が善根を断ぜらればまさに死せんとする時に続き、もし縁力に由って彼が善根を断ぜらればまさに生ぜんとする時に続く。自他の力に由っても応に知るべしまたこのよう。また意楽壊にして加行壊ならざる善根を断ずるは、是の人は現世に能く善根を続く。もし意楽壊にして加行もまた壊なる善根を断ずるは、要ずるに身壊の後に乃ち善根を続く。見壊・戒不壊、見壊・戒もまた壊の善根を断ずるは、応に知るべしもまたこのよう。善根を断じて邪定に堕せざるあり。応に四句を作すべし。第一句はいわゆる布剌拏(満迦葉)等。第二句はいわゆる未生怨等。第三句はいわゆる天授等。第四句はいわゆる前の相を除く。已に義に乗じて便ち善根を断ずるを辯ず。今応に復た本の業道の義を明すべし。説く所の善・悪の二業道の中に、幾つかありて併せ生じて思と俱に転ずか。頌に曰く、

業道思俱轉,不善一至八,

業道が思と俱に転ずは、不善は一より至る八、

善總開至十,別遮一八五。

善は総じて開いて十に至る。別に一・八・五を遮る。

論曰:於諸業道思俱轉中,且不善與思從一唯至八。一俱轉者,謂離所餘貪等三中隨一現起,若先加行造惡色業不染心時隨一究竟。二俱轉者,謂瞋心時究竟殺業,若起貪位成不與取、或欲邪行、或雜穢語。三俱轉者,謂以瞋心於屬他生俱時殺盜。若爾,所說偷盜業道由貪究竟,理應不成,依不異心所作究竟,故作如是決判應知,若先加行造惡色業貪等起時隨二究竟。四俱轉者,謂欲壞他說虛誑言或麁惡語,意業道一、語業道三。若先加行造惡色業,貪等現前隨三究竟。如是五六七皆如理應知。八俱轉者,謂先加行造作所餘六惡色業,自行邪欲俱時究竟,後三業道自力現前必不俱行,故無九十。如是已說不善業道與思俱轉數有不同。善業道與思,總開容至十。別據顯相,遮一八五。二俱轉者,謂善五識及依無色盡無生智現在前時無散善七。三俱轉者,謂與正見相應意識現在前時無七色善。四俱轉者,謂惡無記心現在前位,得近住近事勤策律儀。六俱轉者,謂善五識現在前時得上三戒。七俱轉者,謂善意識無隨轉色正見相應現在前時得上三戒,或惡無記心現前時得苾芻戒。九俱轉者,謂善五識現在前時得苾芻戒,或依無色盡無生智現在前時得苾芻戒,或靜慮攝盡無生智相應意識現在前時。十俱轉者,謂善意識無隨轉色正見相應現在前時得苾芻戒,或餘一切有隨轉色正見相應心正起位。別據顯相所遮如是,通據隱顯則無所遮。謂離律儀有一八五。一俱轉者,謂惡無記心現在前時得一支遠離。五俱轉者,謂善意識無隨轉色正見相應現在前時得二支等。八俱轉者,謂此意識現在前時得五支等。善惡業道於何界趣處?幾唯成就、幾亦通現行?頌曰:

論に曰く:諸の業道の思と俱に転ずる中、且つ不善は思と一より只至る八。一の俱転は、いわゆるその余の貪等の三を離れて随って一が現起し、もし先に加行して悪色業を造るに染心の時に随って一が究竟す。二の俱転は、いわゆる瞋心の時に殺業を究竟し、もし貪を起す位に不與取を成し、或いは欲邪行、或いは雑穢語を成す。三の俱転は、いわゆる瞋心を以て他の生に属するを俱の時に殺し盗む。もしそうならば、説く所の偸盗業道は貪に由って究竟すとは理に応に成らざるべし。異なる心なきの作する究竟に依るがゆえに、このような決判を作すと知るべし。もし先に加行して悪色業を造るに貪等の起る時に随って二が究竟す。四の俱転は、いわゆる他を壞らんと欲して虚誑の言或いは麁悪語を説き、意業道一・語業道三。もし先に加行して悪色業を造るに、貪等の現前して随って三が究竟す。このように五・六・七は皆理のごとく知るべし。八の俱転は、いわゆる先に加行してその余の六悪色業を造作し、自ら邪欲を行じて俱の時に究竟す。後の三業道は自力の現前する必ず俱に行ぜざるがゆえに、九・十なし。このように已に不善業道と思との俱転の数の不同あるを説いたり。善業道と思とは、総じて開いて容れて十に至る。別に顕相に拠って、一・八・五を遮る。二の俱転は、いわゆる善五識および無色に依る尽・無生智の現前する時に散善の七なし。三の俱転は、いわゆる正見と相応する意識の現前する時に七色善なし。四の俱転は、いわゆる悪・無記心の現前する位に近住・近事・勤策の律儀を得。六の俱転は、いわゆる善五識の現前する時に上の三戒を得。七の俱転は、いわゆる善意識に随転色なき正見相応の現前する時に上の三戒を得。或いは悪・無記心の現前する時に苾芻戒を得。九の俱転は、いわゆる善五識の現前する時に苾芻戒を得。或いは無色に依る尽・無生智の現前する時に苾芻戒を得。或いは静慮の摂する尽・無生智に相応する意識の現前する時。十の俱転は、いわゆる善意識に随転色なき正見相応の現前する時に苾芻戒を得。或いはその余の一切の随転色ある正見相応心の正に起る位。別に顕相に拠る所の遮はこのよう。通じて隠顕に拠れば則ち遮る所なし。いわゆる律儀を離れて一・八・五あり。一の俱転は、いわゆる悪・無記心の現前する時に一支の遠離を得。五の俱転は、いわゆる善意識に随転色なき正見相応の現前する時に二支等を得。八の俱転は、いわゆるこの意識の現前する時に五支等を得。善・悪の業道は何の界・趣・処にか。幾つかはただ成就し、幾つかはもまた現行に通ずか。頌に曰く、

不善地獄中,麁雜瞋通二,

不善は地獄の中に、麁・雑・瞋は二に通じ、

貪邪見成就,北洲成後三,

貪・邪見は成就す。北洲は後の三を成じ、

雜語通現成,餘欲十通二。

雑語は現・成に通ず。その余の欲界の十は二に通ず。

善於一切處,後三通現成,

善は一切の処に、後の三は現・成に通じ、

無色無想天,前七唯成就,

無色・無想天には、前の七はただ成就し、

餘處通成現,除地獄北洲。

その余の処は成・現に通ず。地獄・北洲を除く。

論曰:且於不善十業道中,那落迦中三通二種。謂麁惡語、雜穢語、瞋三種皆通現行成就?由相罵故有麁惡語,由悲叫故有雜穢語,身心麁強𢤱悷不調,由互相憎故有瞋恚。貪及邪見成而不行,無可愛境故、現見業果故。業盡死故無殺業道,無攝財物及女人故。無不與取及欲邪行,以無用故無虛誑語,即由此故及常離故無離間語。北俱盧洲貪瞋邪見皆定成就而不現行,不攝我所故、身心柔軟故、無惱害事故、無惡意樂故。唯雜穢語通現及成,由彼有時染心歌詠,無惡意樂故。彼無殺生等,壽量定故、無攝財物及女人故、身心軟故及無用故,隨其所應。彼人云何行非梵行?謂彼男女互起染時,執手相牽往詣樹下,樹枝垂覆知是應行,樹不垂枝並愧而別。除前地獄、北俱盧洲,餘欲界中十皆通二。謂於欲界天、鬼、傍生及人三洲,十惡業道皆通成現,然有差別。謂天、鬼、傍生前七業道唯有處中攝無不律儀,人三洲中二種俱有。雖諸天眾無有殺天,而或有時殺害餘趣。有餘師說:天亦殺天,斬首截腰其命方斷。已說不善。善業道中無貪等三,於三界五趣皆通二種,謂成就、現行。身語七支無色無想,但容成就必不現行。謂聖有情生無色界,成就過未無漏律儀,無想有情必成過未第四靜慮靜慮律儀。然聖隨依何地依止曾起曾滅無漏律儀?生無色時成彼過去,若未來世依五地身,無漏律儀皆得成就。餘界趣處除地獄、北洲,七善皆通現行及成就,然有差別。謂鬼、傍生有離律儀處中業道,若於色界唯有律儀,三洲、欲天皆具二種。不善善業道所得果云何?頌曰:

論に曰く:且つ不善の十業道の中、那落迦の中に三は二種に通ず。いわゆる麁悪語・雑穢語・瞋の三種は皆現行・成就に通ず。相罵るに由って麁悪語あり、悲叫するに由って雑穢語あり、身心麁強にして狼戾調えざる、互いに相憎むに由って瞋恚あり。貪および邪見は成じて行ぜず。愛すべき境なきがゆえ、現に業果を見るがゆえに。業尽きて死するがゆえに殺業道なし。財物および女人を摂するなきがゆえに。不與取および欲邪行なし。用なきがゆえに虚誑語なし。すなわちこのに由っておよび常に離れるがゆえに離間語なし。北俱盧洲は貪・瞋・邪見は皆定めて成就して現行せず。我所を摂せざるがゆえ、身心柔軟なるがゆえ、悩害の事なきがゆえ、悪意楽なきがゆえに。ただ雑穢語は現および成に通ず。彼は時ありて染心に歌詠するに由るも、悪意楽なきがゆえに。彼は殺生等なし。寿量定まるがゆえ、財物および女人を摂するなきがゆえ、身心軟なるがゆえおよび用なきがゆえに、その応ずる所に随う。彼の人はどのように非梵行を行ずるか。いわゆる彼の男女が互いに染を起す時、手を執り相牽いて樹下に往詣し、樹枝垂れ覆えば是れ応に行ずと知り、樹の枝を垂れざれば並び愧じて別る。前の地獄・北俱盧洲を除き、その余の欲界の中には十は皆二に通ず。いわゆる欲界の天・鬼・傍生および人三洲に於いて、十悪業道は皆成・現に通ず。しかし差別あり。いわゆる天・鬼・傍生は前の七業道はただ処中の摂ありて不律儀なし。人三洲の中は二種俱にあり。諸の天衆は天を殺すことなきと雖も、しかし或いは時ありてその余の趣を殺害す。その余の師の説に、天もまた天を殺す。首を斬り腰を截ればその命乃ち断ず、と。已に不善を説いたり。善業道の中、無貪等の三は三界・五趣に於いて皆二種に通ず。いわゆる成就・現行。身語の七支は無色・無想に於いて、但だ成就を容れて必ず現行せず。いわゆる聖の有情は無色界に生じて過・未の無漏律儀を成就し、無想の有情は必ず過・未の第四静慮の静慮律儀を成ず。しかし聖は随って何の地に依り何の依止に曾て起り曾て滅したる無漏律儀か。無色に生ずる時、彼の過去を成じ、もし未来世に五地の身に依れば、無漏律儀は皆成就を得。その余の界・趣・処は地獄・北洲を除き、七善は皆現行および成就に通ず。しかし差別あり。いわゆる鬼・傍生は律儀を離れた処中の業道あり。もし色界に於いてはただ律儀のみあり。三洲・欲天は皆二種を具す。不善・善の業道の得る所の果はいかなるか。頌に曰く、

皆能招異熟,等流增上果,

皆能く異熟・等流・増上の果を招く。

此令他受苦,斷命壞威故。

これは他をして苦を受け、命を断ち威を壞らしむるがゆえに。

論曰:且先分別十惡業道各招三果。其三者何?異熟、等流、增上別故。謂於十種若習若修若多所作,由此力故,生那落迦是異熟果。從彼出已來生此間,人同分中受等流果,謂殺生者壽量短促,不與取者資財乏匱,欲邪行者妻不貞良,虛誑語者多遭誹謗,離間語者親友乖穆,麁惡語者恆聞惡聲,雜穢語者言不威肅。貪者貪盛、瞋者瞋增、邪見者增痴,彼品痴增故。是名業道等流果別。人中短壽亦善業果,如何可說是殺等流?不言人壽即殺業果,但言由殺人壽量短,應知殺業與人命根作障礙因令不久住。此十所得增上果者,謂外所有諸資生具,由殺生故光澤鮮少,不與取故多遭霜雹,欲邪行故多諸塵埃,虛誑語故多諸臭穢,離間語故所居險曲,麁惡語故田多荊棘磽確醎鹵稼穡匪宜,雜穢語故時候變改。貪故果少、瞋故果辣,由邪見故果少或無。是名業道增上果別。為一殺業感那落迦異熟果已復令人趣壽量短促?為更有餘?有餘師言:即一殺業先感彼異熟後感此等流。有餘復言:二果因別,先謂加行、後謂根本。雖復總說一殺生言,而實通收根本眷屬。此中所說等流果言,非越異熟及增上果,據少相似假說等流。此十何緣各招三果?且初殺業於殺他位令他受苦斷命失威,謂殺生時令他受苦,故墮於地獄受苦異熟果,斷他命故來生人中受命短促為等流果,壞他威故感諸外物鮮少光澤為增上果。餘惡業道如理應思。由此應準知善業道三果,謂離殺等若習若修若多所作,由此力故,生於天中受異熟果。從彼歿已來生此間,人同分中受等流果,謂離殺者得壽命長。餘上相違如理應說。又契經說:八邪支中分色業為三,謂邪語業命。離邪語業邪命是何?雖離彼無而別說者,頌曰:

論に曰く:且つ先ず十悪業道を分別して各々三果を招く。その三とは何か。異熟・等流・増上の別あるがゆえに。いわゆる十種に於いてもし習いもし修しもし多く作する所ならば、この力に由って那落迦に生ず。是れ異熟果。彼より出で已にして此間に来生り、人同分の中に等流果を受く。いわゆる殺生は寿量短促、不與取は資財乏匱、欲邪行は妻貞良ならず、虚誑語は多く誹謗に遭い、離間語は親友乖離し、麁悪語は恒に悪声を聞き、雑穢語は言威粛ならず。貪は貪盛んに、瞋は瞋増し、邪見は癡を増す。彼の品の癡増するがゆえに。是を業道の等流果の別と名づく。人の中の短寿はもまた善業の果。どうして殺の等流と説きうるか。人の寿をすなわち殺業の果と説かず。但だ殺に由って人の寿量短しと説く。応に知るべし、殺業は人の命根に対して障碍の因を作して久しく住せしめざるを。この十の得る所の増上果は、いわゆる外の所有の諸の資生具、殺生に由って光沢鮮少、不與取に由って多く霜雹に遭い、欲邪行に由って多く諸の塵埃、虚誑語に由って多く諸の臭穢、離間語に由って居る所険曲、麁悪語に由って田多く荆棘・磽确・鹹鹵にして稼穡宜ならず、雑穢語に由って時候変改す。貪に由って果少く、瞋に由って果辣く、邪見に由って果少し或いは無し。是を業道の増上果の別と名づく。一殺業の為に那落迦の異熟果を感じ已りて復た人趣をして寿量短促ならしむるか。更にその余あるか。その余の師の説に、すなわち一殺業は先に彼の異熟を感じ後にこの等流を感ず、と。その余の復た説く、二果は因別なり。先は加行を謂い、後は根本を謂う、と。復た総じて一殺生の言を説くと雖も、実は通じて根本・眷属を収む。ここに説く所の等流果の言は、異熟および増上果を越えるにあらず。少相似に拠って仮に等流と説く。この十は何の縁にか各々三果を招くか。且つ初の殺業は他を殺す位に於いて他をして苦を受け命を断ち威を失わしむ。いわゆる生を殺する時、他をして苦を受けしむ。ゆえに地獄に堕ちて苦の異熟果を受く。他の命を断ずるがゆえに来りて人の中に生じて命短促を受くるを等流果と為す。他の威を壞るがゆえに諸の外物の鮮少光沢を感ずるを増上果と為す。その余の悪業道は理のごとく思うべし。これに由って応に准じて善業道の三果を知るべし。いわゆる殺等を離れてもし習いもし修しもし多く作する所は、この力に由って天の中に生じて異熟果を受く。彼より殁し已にして此間に来生り、人同分の中に等流果を受く。いわゆる殺を離るるは寿命長を得。その余は上に相違して理のごとく説くべし。また契経に説く、八邪支の中に色業を分かちて三と為す。いわゆる邪語・業・命。邪語業を離れ……

貪生身語業,邪命難除故,

貪の生ずる身・語の業は、邪命は除き難きがゆえに、

執命資貪生,違經故非理。

命を執して貪を資り生ずと執すは、経に違するがゆえに非理。

論曰:瞋痴所生語身二業,如次名為邪語邪業。從貪所生身語二業,以難除故別立邪命。謂貪能奪諸有情心,彼所起業難可禁護。為於正命令殷重修,故佛離前別說為一。如有頌曰:

論に曰く:瞋・癡の生ずる所の語・身の二業は、次第のごとく邪語・邪業と名づく。貪より生ずる所の身・語の二業は、除き難きを以て別に邪命を立つ。いわゆる貪は能く諸の有情の心を奪い、彼の起す所の業は禁護し難し。正命に於いて殷重に修せんがため、ゆえに仏は前を離れて別に一を説きたまう。頌有りて説くがごとし:

俗邪見難除,由恆執異見,

俗は邪見にて除き難く、恒に異見を執るに由り、

道邪命難護,由資具屬他。

道は邪命にて護り難し。資具が他に属するがゆえに。

有餘師執:緣命資具貪欲所生身語二業方名邪命,非餘貪生。所以者何?為自戲樂作歌舞等,非資命故。此違經故,理定不然。《戒蘊經》中觀象鬪等,世尊亦立在邪命中,邪受外境虛延命故。正語業命翻此應知。如前所言果有五種,此中何業有幾果耶?頌曰:

(論は続けて曰く:)その余の師に執するところあり:命を資する具に縁する貪欲の生ずる所の身・語の二業のみ邪命と名づく。その余の貪の生ずるはあらず。そもそもどうしてか。自ら戯楽のために歌舞等を作すは、命を資するがゆえにあらず、と。これ経に違するがゆえに、理は定めてこのようにはあらず。《戒蘊経》の中に象の闘い等を観るを、世尊もまた邪命の中に立てられたり。外境を邪に受けて虚しく命を延ばすがゆえに。正・語・業・命はこれを翻して知るべし。前に説いたごとく果に五種あり。ここにどの業に幾つかの果あるか。頌に曰く、

斷道有漏業,具足有五果,

断道・有漏の業は、具足して五果あり。

無漏業有四,謂唯除異熟;

無漏の業は四あり。いわゆるただ異熟を除く。

餘有漏善惡,亦四除離繫,

その余の有漏の善・悪は、もまた四、離系を除く。

餘無漏無記,三除前所除。

その余の無漏・無記は、三、前の除かれたを除く。

論曰:道能證斷及能斷惑,得斷道名,即無間道。此道有二種,謂有漏、無漏。有漏道業具有五果。異熟果者,謂自地中斷道所招可愛異熟。等流果者,謂自地中後等若增諸相似法。離繫果者,謂此道力斷惑所證擇滅無為。士用果者,謂道所牽俱有解脫所修及斷。增上果者,謂離自性餘有為法。唯除前生。即斷道中無漏道業唯有四果,謂除異熟。餘有漏善及不善業亦有四果,謂除離繫。異前斷道,故說為餘。次後餘言例此應釋。謂餘無漏及無記業,唯有三果。除前所除,謂除前所除異熟及離繫。已總分別諸業有果,次辯異門業有果相,於中先辯善等三業。頌曰:

論に曰く:道は能く断を証しおよび能く惑を断ずるので、断道の名を得。すなわち無間道。この道は二種あり。いわゆる有漏・無漏。有漏の道の業は具に五果あり。異熟果は、いわゆる自地の中で断道の招く可愛の異熟。等流果は、いわゆる自地の中で後に等しくもしくは増す諸の相似の法。離系果は、いわゆるこの道の力で惑を断じて証する所の択滅無為。士用果は、いわゆる道の牽く所の俱有・解脱・所修および断。増上果は、いわゆる自性を離れたその余の有為法。ただ前生を除く。すなわち断道の中で無漏道の業はただ四果のみ。いわゆる異熟を除く。その余の有漏の善および不善の業もまた四果あり。いわゆる離系を除く。前の断道に異なるがゆえに、その余と説く。次の後の「その余」の言はこれに例して釈すべし。いわゆるその余の無漏および無記の業はただ三果のみ。前の除かれたを除くとは、いわゆる前の除かれた異熟および離系を除く。已に総じて諸の業の果あるを分別したり。次に異門の業の果ある相を辯ず。その中で先ず善等の三業を辯ず。頌に曰く、

善等於善等,初有四二三,

善等は善等に対して、初は四・二・三、

中有二三四,後二三三果。

中は二・三・四、後は二・三・三の果。

論曰:最後所說皆如次言,顯隨所應遍前門義。且善、不善、無記三業一一為因,如其次第對善、不善、無記三法辯有果數。後例應知。謂初善業以善法為四果,除異熟。以不善為二果,謂士用及增上。以無記為三果,除等流及離繫。中不善業以善法為二果,謂士用及增上。以不善為三果,除異熟及離繫。以無記為四果,除離繫。等流雲何?謂遍行不善及見苦所斷餘不善業,以有身見、邊執見品諸無記法為等流故。後無記業以善法為二果,謂士用及增上。以不善為三果,除異熟及離繫。等流雲何?謂有身見、邊執見品諸無記業,以諸不善為等流故。以無記為三果,除異熟及離繫。已辯三性,當辯三世。頌曰:

論に曰く:最後の説は皆次第の言のごとく、随うところに応じて遍く前門の義を顕す。且つ善・不善・無記の三業が一一に因と為して、その次第のごとく善・不善・無記の三法に対して果の数あるを辯ず。後は例して知るべし。いわゆる初の善業は善法を以て四果と為す。異熟を除く。不善を以て二果と為す。いわゆる士用および増上。無記を以て三果と為す。等流および離系を除く。中の不善業は善法を以て二果と為す。いわゆる士用および増上。不善を以て三果と為す。異熟および離系を除く。無記を以て四果と為す。離系を除く。等流はどうか。いわゆる遍行の不善および苦を見て断ずべきその余の不善業は、有身見・辺執見の品の諸の無記法を以て等流と為すがゆえに。後の無記業は善法を以て二果と為す。いわゆる士用および増上。不善を以て三果と為す。異熟および離系を除く。等流はどうか。いわゆる有身見・辺執見の品の諸の無記業は、諸の不善を以て等流と為すがゆえに。無記を以て三果と為す。異熟および離系を除く。已に三性を辯したり。当に三世を辯すべし。頌に曰く、

過於三各四,現於未亦爾,

過去は三に対して各々四。現在は未来に対してもまたこのよう。

現於現二果,未於未果三。

現在は現在に対して二果。未来は未来に対して果は三。

論曰:過去現在未來三業一一為因,如其所應以過去等為果別者,謂過去業以三世法各為四果,唯除離繫。現在業以未來為四果,如前說;以現在為二果,謂士用及增上。未來業以未來為三果,除等流及離繫。不說後業有前果者,前法定非後業果故。已辯三世。當辯諸地。頌曰:

論に曰く:過去・現在・未来の三業が一一に因と為して、その応ずる所のごとく過去等を以て果と為して別つのは、いわゆる過去の業は三世の法を以て各々四果と為す。ただ離系を除く。現在の業は未来を以て四果と為す。前に説いたがごとし。現在を以て二果と為す。いわゆる士用および増上。未来の業は未来を以て三果と為す。等流および離系を除く。後の業が前の果あることを説かざるは、前法は定めて後業の果にあらざるがゆえに。已に三世を辯したり。当に諸地を辯すべし。頌に曰く、

同地有四果,異地二或三。

同地は四果あり。異地は二あるいは三。

論曰:於諸地中隨何地業,以同地法為四果,除離繫。若是有漏,以異地法為二果,謂士用及增上。若是無漏,以異地法為三果,除異熟及離繫。不墮界故,不遮等流。已辯諸地,當辯學等。頌曰:

論に曰く:諸地の中で随ってどの地の業なりとも、同地の法を以て四果と為す。離系を除く。もし有漏ならば、異地の法を以て二果と為す。いわゆる士用および増上。もし無漏ならば、異地の法を以て三果と為す。異熟および離系を除く。界に堕せざるがゆえに、等流を遮らず。已に諸地を辯したり。当に学等を辯すべし。頌に曰く、

學於三各三,無學一三二,

学は三に対して各々三。無学は一・三・二。

非學非無學,有二二五果。

非学非無学は、二・二・五の果あり。

論曰:學、無學、非學非無學三業一一為因,如其次第各以三法為果別者,謂學業以學法為三果,除異熟及離繫;以無學法為三亦爾;以非二為三果,除異熟及等流。無學業以學法為一果,謂增上;以無學為三果,除異熟及離繫;以非二為二果,謂士用及增上。非二業以學法為二果,謂士用及增上;以無學法為二亦爾,以非二為五果。已辯學等,當辯見所斷等。頌曰:

論に曰く:学・無学・非学非無学の三業が一一に因と為して、その次第のごとく各々三法を以て果と為して別つのは、いわゆる学の業は学の法を以て三果と為す。異熟および離系を除く。無学の法を以て三と為すもまたこのよう。非二を以て三果と為す。異熟および等流を除く。無学の業は学の法を以て一果と為す。いわゆる増上。無学を以て三果と為す。異熟および離系を除く。非二を以て二果と為す。いわゆる士用および増上。非二の業は学の法を以て二果と為す。いわゆる士用および増上。無学の法を以て二と為すもまたこのよう。非二を以て五果と為す。已に学等を辯したり。当に見所断等を辯すべし。頌に曰く、

見所斷業等,一一各於三,

見所断の業等、一一各々三に対して、

初有三四一,中二四三果,

初は三・四・一、中は二・四・三の果、

後有一二四,皆如次應知。

後は一・二・四。皆次第のごとく知るべし。

論曰:見所斷、修所斷、非所斷三業一一為因,如其次第各以三法為果別者,初見所斷業以見所斷法為三果,除異熟及離繫;以修所斷法為四果,除離繫;以非所斷法為一果,謂增上果。修所斷業以見所斷法為二果,謂士用及增上;以修所斷法為四果,除離繫;以非所斷法為三果,除異熟及等流。後非所斷業以見所斷法為一果,謂增上;以修所斷法為二果,謂士用及增上;以非所斷法為四果,除異熟。皆如次者,隨其所應遍上諸門,略法應爾。因辯諸業應復問言:如本論中所說三業,謂應作業、不應作業及非應作非不應作業,其相云何?頌曰:

論に曰く:見所断・修所断・非所断の三業が一一に因と為して、その次第のごとく各々三法を以て果と為して別つのは、初の見所断の業は見所断の法を以て三果と為す。異熟および離系を除く。修所断の法を以て四果と為す。離系を除く。非所断の法を以て一果と為す。いわゆる増上果。修所断の業は見所断の法を以て二果と為す。いわゆる士用および増上。修所断の法を以て四果と為す。離系を除く。非所断の法を以て三果と為す。異熟および等流を除く。後の非所断の業は見所断の法を以て一果と為す。いわゆる増上。修所断の法を以て二果と為す。いわゆる士用および増上。非所断の法を以て四果と為す。異熟を除く。皆次第のごとくとは、随うところに応じて遍く上の諸門にわたるを、略して法は応にこのよう。因りて諸の業を辯ずるに応に復た問うべし:本論の中に説く所の三業のごとく、いわゆる応作業・不応作業および非応作非不応作業、その相はいかなるか。頌に曰く、

染業不應作,有說亦壞軌,

染業は応に作すべからず。ある説にもまた軌を壊る。

應作業翻此,俱相違第三。

応作業はこれを翻す。俱に相違するが第三。

論曰:有說染業名不應作,以從非理作意所生。有餘師言:諸壞軌則身語意業亦不應作,謂諸所有應如是行、應如是住、應如是說、應如是著衣、應如是食等,若不如是名不應作,由彼不合世俗禮儀;與此相翻名應作業。有說善業名為應作,以從如理作意所生。有餘師言:諸合軌則身語意業亦名應作,俱違前二名為第三,隨其所應二說差別。為由一業但引一生、為引多生?又為一生但一業引、為多業引?頌曰:

論に曰く:ある説に染業を不応作と名づく。非理の作意より生ずるを以て。あるその余の師の説に、諸の軌則を壊る身・語・意の業もまた応に作すべからず。いわゆる諸の所有の応に斯く行ずべし、応に斯く住すべし、応に斯く説くべし、応に斯く衣を着すべし、応に斯く食すべし等、もしこのようにならざれば不応作と名づく。彼が世俗の礼儀に合せざるに由る。これと相翻するを応作業と名づく。ある説に善業を応作と名づく。如理の作意より生ずるを以て。あるその余の師の説に、諸の軌則に合する身・語・意の業もまた応作と名づく。前の二に俱に違するを第三と名づく。随うところに応じて二説の差別あり。一業に由って但だ一生を引くか、多くの生を引くか。また一生には但だ一業の引くか、多くの業の引くか。頌に曰く、

一業引一生,多業能圓滿。

一業は一生を引き、多業は能く円満す。

論曰:依我所宗應作是說:但由一業唯引一生,此一生言顯一同分,以得同分方說名生。若爾,何緣尊者無滅自言:我憶昔於一時於殊勝福田一施食異熟,便得七返生三十三天,七生人中為轉輪聖帝,最後生在大釋迦家豐足珍財多受快樂。彼由一業感一生中大貴多財及宿生智,乘斯更造感餘生福,如是展轉至最後身生富貴家得究竟果,顯由初力故作是言。譬如有人持金錢一,展轉貿易得千金錢。唱如是言:我本由有一金錢故獲大富樂。復有說者:彼於昔時一施食為依,起多勝思願,有感天上、有感人中,剎那不同熟有先後,故非一業能引多生,亦無一生多業所引。勿眾同分分分差別。雖但一業引一同分,而彼圓滿許由多業。譬如畫師先以一色圖其形狀後填眾彩。是故雖有同稟人身,而於其中有具支體諸根形量色力莊嚴,或有於前多缺減者,非唯業力能引滿生。一切不善善有漏法有異熟故皆容引滿,以業勝故但標業名。然於其中業俱有者能引能滿,隨業勝故。若不與業為俱有者,能滿非引,勢力劣故。如是二類其體是何?頌曰:

論に曰く:我が宗に依って応にこの説を作すべし。但だ一業に由ってただ一生を引く。この一生の言は一同分を顕す。同分を得て乃ち生と説くを以て。もしそうならば、どの縁によって尊者無滅は自ら説く:我は昔に於いて一時に殊勝の福田に於いて一の施食の異熟に、便ち七返して三十三天に生じ、七たび人の中に生じて転輪聖帝と為り、最後に大釈迦家に生じて珍財豊足にして多く快楽を受く、と。彼は一業に由って一生の中の大貴・多財および宿生の智を感じ、このに乗じて更にその余生を感ずる福を造り、このように展転して最後の身に富貴の家に生じて究竟の果を得たり。初の力に由るを顕すがゆえにこの言を作す。たとえば人ありて一金銭を持ちて、展転に貿易して千金銭を得。この言を唱えて曰く、我本より一金銭あるに由って大富楽を獲たり、と。復た説く有り:彼は昔時に於いて一の施食を依と為して多くの勝思願を起し、天上に感ずるあり、人の中に感ずるあり。刹那同じからずして熟に先後あり。ゆえに一業は能く多くの生を引くにあらず、もまた一生も多業の引く所にあらず。衆同分の分々に差別あることなかれ。但だ一業は一同分を引くと雖も、しかし彼の円満は多業に由るを許す。たとえば画師が先ず一色を以てその形状を図り、後に衆彩を填むがごとし。このゆえに同じく人身を禀くると雖も、その中に於いて或いは支体・諸根・形量・色力・荘厳を具え、或いは前に於いて多く缺減するあるは、ただ业力の能く生を引き満たすのみにあらず。一切の不善・善の有漏法は異熟あるがゆえに皆引き満たすを容る。業勝るるを以て但だ業名を標す。しかしその中に於いて業と俱有のものは能く引き能く満たす。業勝るる所に随うがゆえに。もし業と俱有と為さざるは、能く満たし引くにあらず。勢力劣なるがゆえに。このようの二類、その体は何ぞ。頌に曰く、

二無心定得,不能引餘通。

二の無心定と得とは、能くその余を引かず。通ず。

論曰:二無心定雖有異熟,而無勢力引眾同分,以與諸業非俱有故。得亦無力引眾同分,以與諸業非一果故。所餘一切皆通引滿。薄伽梵說:重障有三,謂業障、煩惱障、異熟障。如是三障其體是何?頌曰:

論に曰く:二の無心定は異熟あると雖も、しかし衆同分を引く勢力なし。諸の業と俱有にあらざるを以て。得もまた衆同分を引く力なし。諸の業と一果にあらざるを以て。その余の一切は皆引・満に通ず。薄伽梵は説きたまう:重障に三あり。いわゆる業障・煩悩障・異熟障。このようの三障、その体は何ぞ。頌に曰く、

三障無間業,及數行煩惱,

三障は無間業、および数行の煩悩、

並一切惡趣,北洲無想天。

ならびに一切の悪趣、北洲・無想天。

論曰:言無間業者,謂五無間業。其五者何?一者害母、二者害父、三者害阿羅漢、四者破和合僧、五者惡心出佛身血。如是五種名為業障。煩惱有二:一者數行,謂恆起煩惱。二者猛利,謂上品煩惱。應知此中唯數行者名煩惱障。如扇搋等,煩惱數行難可伏除,故說為障。上品煩惱雖復猛利,非恆起故易可伏除。於下品中數行煩惱雖非猛利而難伏除,由彼恆行難得便故。謂從下品為緣生中,中品為緣復生上品,令伏除道無便得生。故煩惱中隨品上下,但數行者名煩惱障。全三惡趣、人趣、北洲及無想天名異熟障。此障何法?謂障聖道及障聖道加行善根。又業障中理亦應說餘決定業,謂餘一切定感惡趣卵生濕生及女人身第八有等。然若有業,由五因緣易見易知,此中偏說,謂處、趣、生、果及補特伽羅。於諸業中唯五無間,具此五種易見易知,餘業不然故此不說。餘障廢立如應當知。此三障中煩惱與業二障皆重,以有此者第二生內亦不可治。毘婆沙師作如是釋:由前能引後,故後輕於前。此無間名為目何義?約異熟果決定更無餘業餘生能為間隔,故此唯目無間隔義。或造此業補特伽羅,從此命終定墮地獄中無間隔,故名無間。彼有無間,得無間名。與無間法合故名無間,如與沙門合故名沙門。三障應知何趣中有?頌曰:

論に曰く:無間業と言うは、いわゆる五無間業。その五とは何か。一は母を害し、二は父を害し、三は阿羅漢を害し、四は和合僧を破り、五は悪心にて仏身より血を出す。このようの五種を業障と名障と名づく。煩悩に二あり。一は数行、いわゆる恒に起る煩悩。二は猛利、いわゆる上品の煩悩。応に知るべし、この中に於いてただ数行のを煩悩障と名づく。扇搋等のごとく、煩悩の数行は伏除し難し。ゆえに障と説く。上品の煩悩は復た猛利なると雖も、恒に起るにあらざるがゆえに伏除し易し。下品の中に於いて数行の煩悩は猛利にあらざると雖も、しかし伏除し難し。彼が恒に行ぜられて便を得難きに由る。いわゆる下品より縁に中品を生じ、中品を縁に復た上品を生ぜしめ、伏除の道をして便を得て生ぜしめざるならしむ。ゆえに煩悩の中に於いて品の上下に随うも、但だ数行のを煩悩障と名づく。全の三悪趣、人趣の北洲および無想天を異熟障と名づく。この障は何の法を障るか。いわゆる聖道および聖道の加行の善根を障る。また業障の中に理は応にもまたその余の決定の業を説くべし。いわゆるその余の一切の定めて悪趣・卵生・湿生および女人の身・第八有等を感ずるを。しかしもし業ありて、五つの因縁に由って見易く知り易きは、ここに偏えて説く。いわゆる処・趣・生・果および補特伽羅。諸業の中に於いてただ五無間のみ、具にこの五種の見易く知り易きを有す。その余の業はこのようにはあらざるがゆえにここに説かず。その余の障の廃立は応じて知るべし。この三障の中、煩悩と業との二障は皆重し。これあるの第二の生の内に於いてもまた治すべからざるを以て。毘婆沙師はこの釋を作して曰く、前は能く後を引くがゆえに、後は前に輕し、と。この無間の名は何の義を目するか。異熟果の決定に於いて更にその余の業・その余の生の間隔を為しうることなきに約す。ゆえにこれはただ間隔なきの義を目す。或いはこの業を造る補特伽羅は、此より命終して定めて地獄の中に堕ちて間隔なし。ゆえに無間と名づく。彼は無間ありて無間の名を得。無間の法と合するがゆえに無間と名づく。沙門と合するがゆえに沙門と名づくるがごとし。三障は応に知るべし、どの趣の中に有るか。頌に曰く、

三洲有無間,非餘扇搋等,

三洲に無間あり。扇搋等はなし。

少恩少羞恥,餘障通五趣。

恩少なく羞恥少なし。その余の障は五趣に通ず。

論曰:且無間業唯人三洲,非北俱盧餘趣餘界。於三洲內,唯女及男造無間業,非扇搋等。所以者何?即前所說彼無斷善不律儀因,即是此中無逆所以。又彼父母及彼己身,如次少恩少羞恥故。謂彼父母於彼少恩,為彼缺身增上緣故、又由於彼少愛念故。彼於父母慚愧心微,以無現前增上慚愧可言壞故觸無間罪。由此已釋,鬼及傍生雖害母等而非無間。然大德說:若覺分明亦成無間,如聰慧馬。若有人害非人父母不成逆罪,心境劣故。已辯業障唯人三洲,餘障應知五趣皆有。然於人趣唯北俱盧,在天趣中唯無想處。

論に曰く:且つ無間業はただ人三洲。北俱盧のその余の趣・その余の界にあらず。三洲の内に於いて、ただ女および男は無間業を造る。扇搋等はあらず。そもそもどうしてか。すなわち前に説いた彼は断善・不律儀の因なきを、すなわちこの中に逆なきがゆえに。また彼の父母および彼の己身は、次第のごとく恩少なく羞恥少なきがゆえに。いわゆる彼の父母は彼に於いて恩少なし。彼の身に缺たる増上縁を為すがゆえ、また彼に於いて愛念少なきがゆえに。彼は父母に於いて慚愧の心微なり。現前の増上の慚愧の言うべき壊るる所なきを以て無間の罪に触る。これに由って已に釋したり、鬼および傍生は母等を害すと雖も無間にあらず、と。しかし大徳は説く:もし覚分明ならばもまた無間を成ず。聡慧の馬のごとし、と。もし人有りて人にあらざる父母を害せば逆罪を成ぜず。心境劣れるがゆえに。已に業障はただ人三洲なるを辯したり。その余の障は応に知るべし、五趣皆あり。しかし人趣に於いてはただ北俱盧、天趣の中に於いてはただ無想の処。

説一切有部倶舎論 巻第十七

アビダルマ倶舎論 巻第十八 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別業品第四之六

分別業品 第四之六

於前所辯三重障中,說五無間為業障體。五無間業其體是何?頌曰:

前に辯ぜし三重障の中に於いて、五無間を説いて業障の体と為す。五無間業、その体は何ぞ。頌に曰く、

此五無間中,四身一語業,

この五無間の中、四は身業一は語業、

三殺一誑語,一殺生加行。

三は殺一は誑語、一は殺生の加行。

論曰:五無間中四是身業、一是語業、三是殺生、一虛誑語根本業道、一是殺生業道加行,以如來身不可害故。破僧無間是虛誑語。既是虛誑語,何緣名破僧?因受果名,或能破故。若爾,僧破其體是何?能所破人誰所成就?頌曰:

論に曰く:五無間の中、四は身業、一は語業、三は殺生、一は虚誑語の根本業道、一は殺生業道の加行。如来の身は害すべからざるがゆえに。僧を破る無間は虚誑語。すでに虚誑語なり、どの縁によって破僧と名づくか。果を受けて名を因とす、或いは能く破るがゆえに。もしそうならば、僧破その体は何ぞ。能破・所破の人は誰の成就する所か。頌に曰く、

僧破不和合,心不相應行,

僧破は不和合、心不相応の行、

無覆無記性,所破僧所成。

無覆無記の性、破らるる所の僧の成ずる所。

論曰:僧破體是不和合性,無覆無記心不相應行蘊所攝,豈成無間?如是僧破因誑語生,故說破僧是無間果。非能破者成此僧破,但是所破僧眾所成。此能破人何所成就?破僧異熟何處幾時?頌曰:

論に曰く:僧破の体は不和合の性にして、無覆無記の心不相応行蘊の摂する所。豈に無間を成さんや。このような僧破は誑語に因って生ず。ゆえに僧を破るは無間の果と説く。能く破る者がこの僧破を成ずるにあらず、但だ破らるる所の僧衆の成ずる所。この能破の人は何の成就する所か。僧を破る異熟はどの処に於いて幾時か。頌に曰く、

能破者唯成,此虛誑語罪,

能破の者はただこの虚誑語の罪を成じ、

無間一劫熟,隨罪增苦增。

無間に一劫に熟し、罪増すに随って苦増す。

論曰:能破僧人成破僧罪,此破僧罪誑語為性,即僧破俱生語表無表業,此必無間大地獄中經一中劫受極重苦。餘逆不必生於無間,若作多逆罪皆於次生熟,如何多逆同感一生?隨彼罪增苦還增劇,謂由多逆感地獄中大柔軟身多猛苦具,受二三四五倍重苦。誰於何處能破於誰?破在何時?經幾時破?頌曰:

論に曰く:能く僧を破る人は破僧の罪を成ず。この破僧の罪は誑語を性と為す。すなわち僧破と俱に生ずる語の表・無表業。これは必ず無間の大地獄の中に於いて一中劫を経て極重の苦を受く。その余の逆は必ずしも無間に生ぜず。もし多くの逆罪を作せば皆次生に於いて熟す。どうして多くの逆が同じく一生を感ずるか。彼の罪の増すに随って苦も還って増劇す。いわゆる多くの逆に由って地獄の中の大柔軟の身・多くの猛苦の具を感じ、二・三・四・五倍の重苦を受く。誰がどの処に於いて誰を破りうるか。破るはどの時に在るか。幾時を経て破るか。頌に曰く、

苾芻見淨行,破異處愚夫,

苾芻・見・浄行にて、異処の愚夫を破り、

忍異師道時,名破不經宿。

異師・異道を忍する時、破と名づく。宿を経ず。

論曰:能破僧者要大苾芻,必非在家、苾芻尼等。唯見行者,非愛行人。住淨行人,非犯戒者,以犯戒者言無威故。要異處破,非對大師,以諸如來不可輕逼,言詞威肅對必無能。唯破異生非破聖者,以諸聖者證法性故。有說:得忍亦不可破。為含二義說愚夫言,要所破僧忍師異佛,忍異佛說有餘聖道。應說僧破在如是時,此夜必和不經宿住。如是名曰破法輪僧,能障聖道輪、壞僧和合故。何洲人幾破法輪僧?破羯磨僧何洲人幾?頌曰:

論に曰く:能く僧を破るは要ずるに大苾芻。必ず在家・苾芻尼等にあらず。ただ見行の者、愛行の人にあらず。浄行に住する人、戒を犯す者にあらず。戒を犯す者は言に威なきがゆえに。要ずるに異処に於いて破る。大師に対するにあらず。諸の如来は軽逼すべからざるがゆえに。言詞威粛にして対せば必ず能なし。ただ異生を破り聖者を破るにあらず。諸の聖者は証発の性なるがゆえに。ある説に、忍を得るもまた破るべからず、と。二義を含むがために愚夫の言を説く。要ずるに破らるる所の僧は師が仏に異なるを忍し、異なる仏の説くその余の聖道ありを忍す。応に説くべし、僧破はこのような時に在り、この夜に必ず和して宿住を経ず。このようを破法輪僧と名づく。能く聖道の輪を障り、僧の和合を壊るがゆえに。どの洲の人幾ばくが法輪僧を破るか。羯磨僧を破るはどの洲の人幾ばくか。頌に曰く、

贍部洲九等,方破法輪僧;

贍部洲に九等なれば、乃ち法輪僧を破る。

唯破羯磨僧,通三洲八等。

ただ羯磨僧を破るは、三洲に通じて八等。

論曰:唯贍部洲,人少至九或復過此,能破法輪。非於餘洲,以無佛故。有世尊處方有異師。要八苾芻分為二眾,以為所破,能破第九,故眾極少猶須九人。等言為明過此無限。唯破羯磨通在三洲,極少八人,多亦無限。通三洲者,有聖教故。要一界中僧分二部別作羯磨,故須八人,過此無遮故亦言等。於何時分無破法輪?頌曰:

論に曰く:ただ贍部洲に於いて、人少なくとも九、或いは復た此に過ぐれば、能く法輪を破る。その余の洲に於いてはあらず。仏なきがゆえに。世尊の処あるに方に異師あり。要ずるに八苾芻を分かちて二衆と為し、以て破らるる所と為し、能破は第九。ゆえに衆極めて少くともなお九人を須う。等の言は此に過ぐる無限なるを明かさんがため。ただ羯磨を破るは三洲に通ず。極少は八人、多きもまた無限。三洲に通ずるは、聖教あるがゆえに。要ずるに一界の中に僧が二部に分かれて別々に羯磨を作す。ゆえに八人を須う。此に過ぐれば遮ることなきがゆえに等をも説く。どの時分に於いて法輪を破ることなきか。頌に曰く、

初後皰雙前,佛滅未結界,

初・後・疱・双前・仏滅・未だ界を結ばざる、

於如是六位,無破法輪僧。

このような六位に於いて、法輪僧を破ることなし。

論曰:初謂世尊轉法輪未久,後謂善逝將般涅槃時,此二時中僧一味故。於正戒見皰未起時,要二皰生方可破故。未立止觀第一雙時,法爾由彼速還合故。佛滅後時,無真大師為敵對故。未結界時,無一界中分二部故。於此六位無破法輪。非破法輪諸佛皆有,必依宿業有此事故。且止傍論,應辯逆緣。頌曰:

論に曰く:初とはいわゆる世尊の法輪を転ぜしめて未だ久しからざる時、後とはいわゆる善逝のまさに般涅槃せんとする時。この二時の中は僧一味なるがゆえに。正戒・見の疱未だ起らざる時は、要ずるに二疱生じて方に破るべきがゆえに。未だ止観の第一双を立てざる時は、法爾に彼に由って速やかに還りて合するがゆえに。仏滅後の時は、真の大師の敵対と為る者なきがゆえに。未だ界を結ばざる時は、一界の中に二部に分かつことなきがゆえに。この六位に於いては法輪を破ることなし。法輪を破るは諸仏皆あるにあらず。必ず宿業に依ってこの事あるがゆえに。且く傍論を止め、応に逆縁を辯すべし。頌に曰く、

棄壞恩德田,轉形亦成逆,

恩田を棄て徳田を壊る。形転じても逆を成ず。

母謂因彼血,誤等無或有,

母とは彼の血に因るを謂う。誤等は無し或いは有り。

打心出佛血,害後無學無。

打心にて仏の血を出す。後を害するは無学なし。

論曰:何緣害母等成無間非餘?由棄恩田、壞德田故。謂害父母是棄恩田。如何有恩?身生本故。如何棄彼?謂捨彼恩。德田謂餘阿羅漢等,具諸勝德及能生故。壞德所依,故成逆罪。父母形轉殺成逆耶?逆罪亦成,依止一故。由如是義,故有問言:頗有令男離命根,非父阿羅漢,而為無間罪觸不?曰:有,謂母轉形。頗有令女離命根,非母阿羅漢,而為無間罪觸不?曰:有,謂父轉形。設有女人羯剌藍墮,餘女收取置產門中生子。殺,何成害母逆?因彼血者身生本故。諸有所作應諮後母,能飲能養能長成故。若於父母起殺加行,誤殺餘人無無間罪。於非父母起殺加行,誤殺父母亦不成逆。如子執杖擊父身蚊,母隱在床謂餘而殺。若一加行害母及餘,二無表生,表唯逆罪,以無間業勢力強故。尊者妙音說有二表,表是積集極微成故。若害阿羅漢無阿羅漢想,於彼依止起定殺心,無簡別故亦成逆罪。若有害父,父是阿羅漢,得一逆罪,以依止一故。若爾,喻說當云何通?佛告始欠持:汝已造二逆,所謂害父、殺阿羅漢。彼顯一逆由二緣成,或以二門訶責彼罪。若於佛所惡心出血,一切皆得無間罪耶?要以殺心方成逆罪,打心出血無間則無。若殺加行時,彼非阿羅漢,將死方得阿羅漢果,能殺彼者有逆罪耶?無,於無學身無殺加行故。若造無間加行不可轉,為有離染及得聖果耶?頌曰:

論に曰く:どの縁によって母等を害するは無間を成じてその余にあらざるか。恩田を棄て徳田を壊るがゆえに。いわゆる父母を害するは恩田を棄つ。どうして恩あるか。身の生まるる本なるがゆえに。どうして彼を棄つるか。いわゆる彼の恩を捨つ。徳田とはその余の阿羅漢等を謂う。諸の勝徳を具えおよび能く生ずるがゆえに。徳の依る所を壊る。ゆえに逆罪を成ず。父母の形転ずれば殺して逆を成ずるか。逆罪もまた成ず。依止一なるがゆえに。このようの義に由って、問うて説く有り、頗る男をして命根を離れしめ、父・阿羅漢にあらざるに、無間の罪に触れしむるや。曰く、有り。いわゆる母の形転ぜるを。頗る女をして命根を離れしめ、母・阿羅漢にあらざるに、無間の罪に触れしむるや。曰く、有り。いわゆる父の形転ぜるを。設い女人ありて羯剌藍を堕し、その余の女が収取して産門の中に置きて子を生む。これを殺さば、何を以てか母を害する逆を成ぜん。彼の血に因るを以て、身の生まるる本なるがゆえに。諸の作すところ有るは応に後の母に咨るべし。能く飲ましめ能く養い能く長成するがゆえに。もし父母に於いて殺の加行を起して誤ってその余の人を殺せば無間の罪なし。父母にあらざるに於いて殺の加行を起して誤って父母を殺すもまた逆を成ぜず。子の杖を執りて父の身の蚊を撃ち、母の床に隠れてその余と謂いて殺すがごとし。もし一の加行にて母およびその余を害せば、二の無表生じ、表はただ逆罪。無間業の勢力強きを以て。尊者妙音は説いて二表あり。表は積集極微の成ずる所なるがゆえに、と。もし阿羅漢を害するに阿羅漢の想なく、彼に於いて依止して定の殺心を起せば、簡別なきがゆえにもまた逆罪を成ず。もし父を害するありて、父は阿羅漢ならば、一の逆罪を得。依止一なるがゆえに。もしそうならば、喩説は当にどう通ずべきか。仏は始欠持(人名)に告げて曰く、なんじ已に二逆を造れり。いわゆる父を害し、阿羅漢を殺す、と。彼は一逆が二縁に由って成ずるを顕し、或いは二門を以て彼の罪を訶責す。もし仏の所に於いて悪心にて血を出さば、一切皆無間の罪を得るか。要ずるに殺心を以て方に逆罪を成ず。打心にて血を出すは無間は則ち無し。もし殺の加行の時、彼は阿羅漢にあらざりしが、まさに死せんとして方に阿羅漢果を得れば、彼を殺しうるは逆罪あるか。無し。無学の身に於いて殺の加行なきがゆえに。もし無間の加行を造りて転ずべからざれば、離染および聖果を得る有るか。頌に曰く、

造逆定加行,無離染得果。

逆を造るは定めて加行なり。離染・果を得ることなし。

論曰:無間加行若必定成,中間決無離染得果。餘惡業道加行中間,若聖道生,業道不起,依止與彼定相違故。於諸惡行無間業中何罪最重?於諸妙行世善業中何最大果?頌曰:

論に曰く:無間の加行はもし必定に成ぜば、中間に決して離染・果を得ることなし。その余の悪業道の加行の中間には、もし聖道生ぜば業道は起らず。依止は彼と定めて相違するがゆえに。諸の悪行・無間業の中に於いてどの罪か最重なるか。諸の妙行・世善業の中に於いてどれか最大の果なるか。頌に曰く、

破僧虛誑語,於罪中最大;

僧を破る虚誑語は、罪の中に於いて最大。

感第一有思,世善中大果。

第一有を感ずる思は、世善の中の大果。

論曰:雖了法非法,為欲破僧而起虛誑語顛倒顯示,此無間中為最大罪,由此傷毀佛法身故、障世生天解脫道故。謂僧已破乃至未合,一切世間入聖得果離染盡漏皆悉被遮,習定溫誦思等業息,大千世界法輪不轉,天人龍等身心擾亂,故招無間一劫異熟。由此破僧罪為最重,餘無間罪如其次第,第五三一後後漸輕。第二最輕,恩等少故。若爾,何故三罰業中,佛說意罰為最大罪,又說罪中邪見最大?據五無間說破僧重,約三罰業說意罪大,就五僻見說邪見重。或依大果害多有情斷諸善根,如次說重。感第一有異熟果思,於世善中為最大果,感八萬大劫極靜異熟故。約異熟果故說此言。據離繫果,則金剛喻定相應思能得大果,諸結永斷為此果故。為簡此故,說世善言。為唯無間罪定生地獄、諸無間同類亦定生彼?有餘師說:非無間生。同類者何?頌曰:

論に曰く:法と非法とを了すると雖も、僧を破らんと欲して虚誑語を起して顛倒して顕示すれば、この無間の中に最大の罪と為す。これに由って仏法の身を傷毀するがゆえ、世に生天・解脱の道を障るがゆえに。いわゆる僧已に破られ乃至未だ合せざるに、一切の世間の聖に入り果を得・染を離れ・漏を尽くすは皆悉く遮られ、定を習い経を温誦する思等の業は息み、大千世界に法輪転ぜず、天・人・龍等の身心擾乱す。ゆえに無間一劫の異熟を招く。これに由って僧を破る罪は最も重し。その余の無間の罪はその次第のごとく、第五・三・一と後々漸々輕し。第二は最も輕し。恩等少なきがゆえに。もしそうならば、何故三罰業の中に、仏は意罰を最大の罪と説き、また罪の中に邪見を最大と説くか。五無間に拠って僧破を重しと説き、三罰業に約して意罪を大と説き、五僻見に就いて邪見を重しと説く。或いは大果・多くの有情を害し・諸の善根を断ずるに依って、次第のごとく重しと説く。第一有の異熟果を感ずる思は、世善の中に於いて最大の果と為す。八万大劫の極静の異熟を感ずるがゆえに。異熟果に約してこの言を説く。離系果に拠れば、則ち金剛喩定に相応する思は能く大果を得。諸結永断せられてこの果と為すがゆえに。これを簡ぶがゆえに、世善の言を説く。ただ無間の罪のみ定めて地獄に生ずるか、諸の無間の同類もまた定めて彼に生ずるか。その余の師の説に、無間に生ぜるにあらず、と。同類とは何ぞ。頌に曰く、

汙母無學尼,殺住定菩薩,

母・無学尼を污し、住定の菩薩を殺し、

及有學聖者,奪僧和合緣,

および有学の聖者を殺し、僧の和合の縁を奪い、

破壞窣堵波,是無間同類。

窣堵波を破壊する、是れ無間の同類。

論曰:如是五種隨其次第,是五無間同類業體。謂有於母阿羅漢尼行極汙染謂非梵行,或有殺害住定菩薩,或殺學聖者,或奪僧合緣,或破窣堵波,是五逆同類。有異熟業於三時中極能為障。言三時者,頌曰:

論に曰く:このようの五種はその次第に随って、五無間の同類の業の体。いわゆる或いは母・阿羅漢尼に於いて極污染を行じて非梵行と謂い、或いは住定の菩薩を殺害し、或いは学の聖者を殺し、或いは僧の合する縁を奪い、或いは窣堵波を破る、是れ五逆の同類。異熟の業ありて三時の中に於いて極めて能く障と為る。三時と言うは、頌に曰く、

將得忍不還,無學業為障。

まさに忍を得んとして還らず、無学の業を障と為す。

論曰:若從頂位將得忍時,感惡趣業皆極為障,以忍超彼異熟地故。如人將離本所居國,一切債主皆極為障。若有將得不還果時,欲界繫業皆極為障,唯除隨順現法受業。若有將得無學果時,色無色業皆極為障,亦除順現。二喻如前。如上所言住定菩薩,為從何位得住定名?彼復於何說名為定?頌曰:

論に曰く:もし頂位よりまさに忍を得んとする時、悪趣を感ずる業は皆極めて障と為る。忍は彼の異熟の地を超ゆるがゆえに。人のまさに本の居る国を離れんとするに、一切の債主が皆極めて障と為るがごとし。もし有りてまさに不還果を得んとする時、欲界繋の業は皆極めて障と為る。ただ現法に順じて受ける業を除く。もし有りてまさに無学果を得んとする時、色・無色の業は皆極めて障と為る。もまた順現を除く。二喩は前のごとし。上に説く所のごとき住定の菩薩は、どの位より住定の名を得たるか。彼は復た何に於いて定と名づくと説かるるか。頌に曰く、

從修妙相業,菩薩得定名,

妙相の業を修するより、菩薩は定の名を得、

生善趣貴家,具男念堅故。

善趣・貴家に生じ、男・念・堅を具するがゆえに。

論曰:從修能感妙三十二大丈夫相異熟果業,菩薩方得立住定名,以從此時乃至成佛常生善趣及貴家等。生善趣者,謂生人天,趣妙可稱故名善趣。於善趣內常生貴家,謂婆羅門或剎帝利、鉅富長者大婆羅家。於貴家中根有具缺,然彼菩薩恆具勝根,恆受男身尚不為女,何況有受扇搋等身。生生常能憶念宿命,所作善事常無退屈。謂於利樂有情事中,眾苦逼身皆能堪忍。雖他種種惡行違逆,而彼菩薩心無厭倦。如世傳有無價䭾娑,當知此言目彼菩薩。由彼大士雖已成就一切殊勝圓滿功德,而由久習無緣大悲,任運恆時繫屬他故。普於一切有情類中,以無慢心皆攝同己。或常觀己如彼僕使,故於一切難求事中皆能堪忍,及於一切勞迫事中皆能荷負。修妙相業其相云何?頌曰:

論に曰く:能く妙なる三十二大丈夫相の異熟果を感ずる業を修するより、菩薩は方に住定の名を立てることを得。これ時より乃至仏を成ずるに至るまで常に善趣および貴家等に生ずるがゆえに。善趣に生ずるは、いわゆる人・天に生ず。趣妙にして称すべきがゆえに善趣と名づく。善趣の内に於いて常に貴家に生ず。いわゆる婆羅門、或いは刹帝利、巨富の長者・大婆羅家。貴家の中に於いて根に具・缺あり。しかし彼の菩薩は恒に勝根を具え、恒に男身を受けてなお女と為らず。況んや扇搋等の身を受くるをや。生々常に能く宿命を憶念し、作す所の善事は常に退屈なし。いわゆる有情を利楽する事に於いて、衆苦の身を逼めるを皆能く堪忍す。他の種種の悪行の違逆すると雖も、しかし彼の菩薩の心は厭倦なし。世に伝えて無価䭾娑(奴僕)あるがごとし。当知るべし、此の言は彼の菩薩を目す。彼の大士は已に一切の殊勝円満の功徳を成就すと雖も、しかし久習の無縁大悲に由って、任運に恒の時他に系属するがゆえに。普く一切の有情類の中に於いて、慢なき心を以て皆己に同じく摂す。或いは常に己を観じて彼の僕使のごとくす。ゆえに一切の求め難き事に於いて皆能く堪忍し、および一切の労迫する事に於いて皆能く荷負す。妙相の業を修する、その相はいかなるか。頌に曰く、

贍部男對佛,佛思思所成,

贍部の男子、仏に対して、仏を思う思の成ずる所、

餘百劫方修,各百福嚴飾。

ただその余の百劫に修し、各々百福にて厳飾す。

論曰:菩薩要在贍部洲中,方能造修引妙相業,此洲覺慧最明利故。唯是男子非女等身,爾時已超女等位故。唯現對佛,緣佛起思是思所成,非聞修類。唯餘百劫造修非多,諸佛因中法應如是。唯薄伽梵釋迦牟尼,精進熾然能超九劫,九十一劫妙相業成。是故如來告聚落主:我憶九十一劫以來,不見一家因施我食有少傷損,唯成大利。從此自性恆憶宿生,是故但言九十一劫。宿舊師說:菩薩出初無數劫來,離四過失、得二功德。如前所辯,一一妙相百福莊嚴,何等名為一一福量?有說:唯除近佛菩薩,所餘一切有情所修富樂果業名一福量。有說:世界將欲成時,一切有情感大千土業增上力為一福量。有說:此量唯佛乃知。今我大師,昔菩薩位於三無數劫供養幾佛耶?頌曰:

論に曰く:菩薩は要ずるに贍部洲の中に於いて、方に能く妙相を引く業を造修す。この洲は覚慧最も明利なるがゆえに。ただ男子にして女等の身にあらず。爾の時已に女等の位を超ゆるがゆえに。ただ現に仏に対し、仏に縁りて思を起す。是れ思の成ずる所にして、聞・修の類にあらず。ただその余の百劫に造修して多くあらず。諸仏の因の中法は応にこのよう。ただ薄伽梵釈迦牟尼は、精進熾然にして能く九劫を超ゆ。九十一劫に妙相の業成ず。このゆえに如来は聚落主に告げて曰く、我は九十一劫以来、一家の我に食を施すに因りて少しの傷損あるを見ず。ただ大利を成ず、と。此より自性恒に宿生を憶えり。このゆえに但だ九十一劫を説く。宿旧の師は説く:菩薩は初の無数劫より出でて来りて、四の過失を離れ、二の功徳を得、と。前に辯ぜしがごとく、一一の妙相は百福の荘厳。何等を一一の福量と名づくるか。ある説に、ただ近仏の菩薩を除き、その余の一切の有情の修する所の富楽の果業を一福量と名づく、と。ある説に、世界まさに成らんと欲する時、一切の有情の大千の土を感ずる業の増上力を一福量と為す、と。ある説に、この量はただ仏のみ乃ち知る、と。今、我が大師は昔の菩薩の位に於いて三無数劫に於いて幾佛かを供養したるか。頌に曰く、

於三無數劫,各供養七萬,

三無数劫に於いて、各々七万を供養し、

又如次供養,五六七千佛。

また次第のごとく供養す、五・六・七千仏。

論曰:初無數劫中供養七萬五千佛,次無數劫中供養七萬六千佛,後無數劫中供養七萬七千佛。三無數劫一一滿時,及初發心,各逢何佛?頌曰:

論に曰く:初の無数劫の中に七万五千仏を供養し、次の無数劫の中に七万六千仏を供養し、後の無数劫の中に七万七千仏を供養す。三無数劫の一一満ずる時、および初めて心を発す、各々どの仏に逢えるか。頌に曰く、

三無數劫滿,逆次逢勝觀,

三無数劫の満ずるに、逆次に勝観に逢い、

然燈寶髻佛,初釋迦牟尼。

然燈・宝髻の仏。初は釈迦牟尼。

論曰:言逆次者,自後向前。謂於第三無數劫滿所逢事佛名為勝觀,第二劫滿所逢事佛名曰然燈,第一劫滿所逢事佛名為寶髻,最初發心位逢釋迦牟尼。謂我世尊昔菩薩位最初逢一佛號釋迦牟尼,遂對其前發弘誓願:願我當作佛,一如今世尊。彼佛亦於末劫出世,滅後正法亦住千年。故今如來一一同彼。我釋迦菩薩於何位中何波羅蜜多修習圓滿?頌曰:

論に曰く:逆次と言うは、後より前に向かう。いわゆる第三の無数劫の満ずるに逢い事えし仏は名づけて勝観と曰い、第二の劫満ずるに逢い事えし仏は名づけて然燈と曰い、第一の劫満ずるに逢い事えし仏は名づけて宝髻と曰い、最初に心を発す位に釈迦牟尼に逢えり。いわゆる我が世尊は昔の菩薩の位に最初に一仏に逢い、号を釈迦牟尼と曰いて、遂にその前に対して弘誓願を発し:願わくは我まさに仏を作さん、一に今の世尊のごとく、と。彼の仏もまた末劫に出世し、滅後正法もまた千年住せり。ゆえに今の如来は一一同じく彼なり。我が釈迦菩薩はどの位の中に於いてどの波羅蜜多を修習円満せしか。頌に曰く、

但由悲普施,被析身無忿,

但だ悲に由って普く施し、身を析られても忿なし。

讚歎底沙佛,次無上菩提,

底沙仏を讃歎し、次に無上菩提、

六波羅蜜多,於如是四位,

六波羅蜜多は、このような四位に於いて、

一二又一二,如次修圓滿。

一・二・また一・二、次第のごとく修習円溿。

論曰:若時菩薩普於一切能施一切乃至眼髓,所行惠捨但由悲心,非自希求勝生差別,齊此佈施波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩被析身支,雖未離欲貪而心無少忿,齊此戒忍波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩勇猛精進因行,遇見底沙如來坐寶龕中入火界定威光赫奕特異於常,專誠瞻仰忘下一足,經七晝夜無怠,淨心以妙伽他讚彼佛曰:

論に曰く:もし時に菩薩が普く一切に於いて能く一切を施す乃至眼髓に及ぶまで、行う所の恵捨は但だ悲心に由って、自ら勝生の差別を希求するにあらざるは、これを斎して布施波羅蜜多の修習円満と為す。もし時に菩薩が身支を析られて、未だ欲貪を離れざると雖も心に少しの忿なきは、これを斎して戒・忍波羅蜜多の修習円満と為す。もし時に菩薩が勇猛精進して因を行ずるに、底沙如来に遇い見るに宝龕の中に坐して火界定に入りて威光赫奕として常に殊異なり。専誠に瞻仰して一足を下すを忘れ、七昼夜を経て怠らず。浄心を以て妙なる伽他を以て彼の仏を讃えて説き曰く:

天地此界多聞室,逝宮天處十方無,

天地この界の多聞室、逝く宮の天処十方に無く、

丈夫牛王大沙門,尋地山林遍無等。

丈夫牛王の大沙門、地・山・林を尋ぬるに遍く等しきなし。

如是讚已便超九劫,齊此精進波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩處金剛座,將登無上正等菩提,次無上覺前住金剛喻定,齊此定慧波羅蜜多修習圓滿。能到自所往圓德彼岸,故此六名曰波羅蜜多。契經說:有三福業事,一施類福業事、二戒類福業事、三修類福業事。此云何立福業事名?頌曰:

(論は続けて曰く:)このように讃え已りて便ち九劫を超ゆ。これを斎して精進波羅蜜多の修習円満と為す。もし時に菩薩が金剛座に処り、まさに無上正等菩提に登らんとして、無上覚に次ぐ前に金剛喩定に住するを、これを斎して定・慧波羅蜜多の修習円満と為す。能く自ら往く所の円徳の彼岸に到るがゆえに、この六を波羅蜜多と名づく。契経に説く:三福業事あり。一は施類の福業事、二は戒類の福業事、三は修類の福業事。これどうして福業事の名を立つるか。頌に曰く、

施戒修三類,各隨其所應,

施・戒・修の三類は、各々その応ずる所に随って、

受福業事名,差別如業道。

福・業・事の名を受く。差別は業道のごとし。

論曰:三類皆福,或業或事,隨其所應如業道說。謂如分別十業道中,有業亦道有道非業,此中有福亦業亦事、有福業非事、有福事非業、有唯是福非業非事。且施類中身語二業具福業事三種義名,彼等起思唯名福業,思俱有法唯受福名,戒類既唯身語業性故皆具受福業事名。修類中慈唯名福事,業之事故。慈相應思,以慈為門而造作故,慈俱思戒唯名福業,餘俱有法唯受福名。或福業名顯作福義,謂福加行事顯所依,謂施戒修是福業之事,為成彼三起福加行故。有說:唯思是真福業。福業之事謂施戒修,以三為門福業轉故。何法名施?施招何果?頌曰:

論に曰く:三類は皆福なり。或いは業或いは事。随うところに応じて業道の説くがごとし。いわゆる分別十業道の中に於いて、業にしてもまた道あるあり、道にして業にあらざるあるがごとく、この中に於いて福にしてもまた業にしてもまた事あるあり、福業にして事にあらざるあり、福事にして業にあらざるあり、ただ福のみにして業にもあらず事にもあらざるあり。且つ施類の中、身・語の二業は具に福・業・事の三種の義名を有す。彼の等起の思はただ福業と名づく。思に俱なる有法はただ福の名を受く。戒類はすでにただ身語の業の性なるがゆえに皆具に福・業・事の名を受く。修類の中、慈はただ福事と名づく。業の事なるがゆえに。慈に相応する思は、慈を以て門と為して造作するがゆえに。慈に俱なる思・戒はただ福業と名づく。その余の俱なる有法はただ福の名を受く。或いは福業の名は福を作すの義を顕す。いわゆる福の加行の事は依る所を顕す。いわゆる施・戒・修は福業の事なり。彼の三を成ずるがために福の加行を起すがゆえに。ある説に、ただ思は真の福業。福業の事とはいわゆる施・戒・修。三を以て門と為して福業転ずるがゆえに、と。何の法を施と名づくか。施は何の果を招くか。頌に曰く、

由此捨名施,謂為供為益,

これに由って具を捨つを施と名づく。いわゆる供のため益のため。

身語及能發,此招大富果。

身・語および能発。これ大富の果を招く。

論曰:雖所捨物亦得施名,而於此中捨具名施,謂由此具捨事得成,故捨所由是真施體。或由怖畏希求貪等捨事亦成,非此意說,簡彼故說為供益言。謂為於他供養饒益而有所捨,此具名施。具名何謂?謂身語業及此能發。能發謂何?謂無貪俱能起此聚。如有頌曰:

論に曰く:捨てらるる所の物もまた施の名を得ると雖も、しかしこの中に於いて具を捨つるを施と名づく。いわゆるこの具に由って捨事成ずるを得るがゆえに、ゆえに捨の由る所は真の施体なり。或いは怖畏・希求・貪等に由っても捨事成ずと雖も、ここに意は説かず。彼を簡ぶがゆえに供・益の言を説く。いわゆる他に於いて供供養・饒益せんがために捨てるところあるは、この具を施と名づく。具とは何を謂うか。いわゆる身・語の業およびこれを能発する。能発とは何を謂うか。いわゆる無貪と俱に能くこの聚を起す。頌有りて説くがごとし:

若人以淨心,輟己而行施,

もし人、浄心を以て己の分を輟めて施を行ぜば、

此剎那善蘊,總立以施名。

この刹那の善蘊を、総じて施の名を以て立つ。

應知如是施類福業事,能招當現大財富為果。言施類福者,顯施為體義,如葉類器草類舍等。戒修類言准此應釋。為何所益而行施耶?頌曰:

(論は続けて曰く:)応に知るべし、このような施類の福業事は、能く当来・現世の大財富を招いて果と為す。施類福と言うは、施を体とする義を顕す。葉類の器・草類の舎等のごとし。戒・修の類の言はこれに准じて釈すべし。何を益せんがために施を行ずるか。頌に曰く、

為益自他俱,不為二行施。

自・他・俱を益せんがため、二のためにあらずして施を行ず。

論曰:此中一切未離欲貪及離欲貪諸異生類,持己所有奉施制多,此施名為唯為自益,非他由此有獲益故。若諸聖者已離欲貪,施諸有情除順現受,此施名曰唯為益他,以他由此獲饒益故,非為自益,超果地故。若彼一切未離欲貪及離欲貪諸異生類,持己所有施諸有情,此施名為為二俱益。若彼聖者已離欲貪,奉施制多除順現受,此施名曰不為益二,以此唯為恭敬報恩。前已總明施招大富,今次當辯施果別因。頌曰:

論に曰く:この中に一切の未だ欲貪を離れざるおよび欲貪を離れたる諸の異生類が、己の所有を持ちて制多に奉施する。この施はただ自を益するのみと名づく。他がこれに由って獲益することなきがゆえに。もし諸の聖者の已に欲貪を離れたるが、諸の有情に施して順現受を除く。この施はただ他を益するのみと名づく。他がこれに由って饒益を獲るがゆえに、自を益するがためのにあらず。果地を超ゆるがゆえに。もし彼の一切の未だ欲貪を離れざるおよび欲貪を離れたる諸の異生類が、己の所有を持ちて諸の有情に施すれば、この施は二を俱に益すと名づく。もし彼の聖者の已に欲貪を離れたるが、制多に奉施して順現受を除く。この施は二を益するがためならずと名づく。これはただ恭敬・報恩のためのみなるを以て。前に已に総じて施が大富を招くを明かしたり。今次に当に施果の別因を辯ずべし。頌に曰く、

由主財田異,故施果差別。

主・財・田の異なるに由って、施の果に差別あり。

論曰:施有差別,由三種因,謂主、財、田有差別故,施差別故,果有差別。且由施主差別云何?頌曰:

論に曰く:施に差別あるは、三種の因に由る。いわゆる主・財・田に差別あるがゆえに、施に差別あり、果に差別あり。且つ施主の差別に由るはいかなるか。頌に曰く、

主異由信等,行敬重等施,

主の異なるは信等に由り、敬重等の施を行じて、

得尊重廣愛,應時難奪果。

尊重・広愛・応時・難奪の果を得。

論曰:由施主成信、戒、聞等差別功德,故名主異;由主異故,施成差別;由施差別,與果有異。諸有施主具如是德,能如法行敬重等四施,如次便得尊重等四果。謂若施主行敬重施,便感常為他所尊重。若自手施,便能感得於廣大財愛樂受用。若應時施,感應時財,所須應時不過時故。若無損施,便感資財,不為他侵及火等壞。由所施財差別云何?頌曰:

論に曰く:施主が信・戒・聞等の差別の功徳を成ずるに由って、主の異なると名づく。主の異なるがゆえに施は差別を成じ、施の差別に由って果に異あり。諸の施主ありてこのような徳を具え、能く法のごとく敬重等の四施を行ぜば、次第のごとく尊重等の四果を得。いわゆるもし施主が敬重の施を行ぜば、便ち常に他の尊重する所となるを感ず。もし自ら手を以て施せば、便ち広大の財に於いて愛楽し受用するを感得す。もし応時に施せば、応時の財を感ず。須うところ時に応じて時を過ぎざるがゆえに。もし損なき施をなせば、便ち資財を感じて他に侵されずおよび火等に壊られざるを。施する所の財の差別に由るはいかなるか。頌に曰く、

財異由色等,得妙色好名,

財の異なるは色等に由り、妙色・好名を得、

眾愛柔軟身,有隨時樂觸。

衆に愛される柔軟の身、時に随う楽触あるを。

論曰:由所施財或闕或具色香味觸,如次便得或闕或具妙色等果。謂所施財色具足故便感妙色。香具足故便感好名,如香芬馥遍諸方故。味具足故便感眾愛,如味美妙眾所愛故。觸具足故感柔軟身及有隨時生樂受觸,如女寶等。果有減者,由因闕故,如是亦由具色香等故名財異。由財異故,施體及果皆有差別。由所施田差別云何?頌曰:

論に曰く:施する所の財が或いは缺け或いは色・香・味・触を具えるに由って、次第のごとく或いは缺け或いは具える妙色等の果を得。いわゆる施する所の財に色具足するがゆえに便ち妙色を感ず。香具足するがゆえに便ち好名を感ず。香の芬馥として諸方に遍きがごときがゆえに。味具足するがゆえに便ち衆の愛するを感ず。味の美妙にして衆の愛する所のごときがゆえに。触具足するがゆえに柔軟の身および時に随って生ずる楽受の触あるを感ず。女宝等のごとし。果に減あるは、因の缺けるに由るがゆえに。このようにもまた色・香等を具えるがゆえに財の異なると名づく。財の異なるがゆえに、施体および果は皆差別あり。施する所の田の差別に由るはいかなるか。頌に曰く、

田異由趣苦,恩德有差別。

田の異なるは趣・苦・恩・徳に差別あるに由る。

論曰:由所施田趣、苦、恩德各有差別,故名田異,由田異故施果有殊。由趣別者,如世尊說:若施傍生受百倍果,施犯戒人受千倍果。由苦別者,如七有依福業事中,先說應施客行病侍、園林常食及寒風熱隨時食等。復說若有具足淨信男子女人,成此所說七種有依福業事者,所獲福德不可取量。由恩別者,如父母、師及餘有恩。如熊鹿等,《本生經》說諸有恩類。由德別者,如契經言:若施持戒人,受億倍果等。於諸施福最勝者何?頌曰:

論に曰く:施する所の田に趣・苦・恩・徳各々差別あるに由って、田の異なると名づく。田の異なるがゆえに施果に殊あり。趣の別に由るは、世尊の説きたまえるがごとく:もし傍生に施せば百倍の果を受け、戒を犯す人に施せば千倍の果を受く、と。苦の別に由るは、七有依福業事の中に於いて、先ず説く、応に客行・病侍・園林の常食および寒・風・熱に時に随う食等を施すべし、と。復た説く、もし具足の浄信ある男子・女人ありて、ここに説く所の七種の有依福業事を成ずれば、獲る所の福徳は取量すべからず、と。恩の別に由るは、父母・師およびその余の恩あるがごとし。熊・鹿等のごとく、《本生経》は諸の恩ある類を説く。徳の別に由るは、契経に説くがごとく:もし戒を持つ人に施せば、億倍の果を受く等、と。諸の施福の中で最勝なるは何ぞ。頌に曰く、

脫於勝菩薩,第八施最勝。

脱する者が勝れる菩薩に施す、第八の施は最勝なり。

論曰:薄伽梵說:若離染者,於離染者施諸資財,於財施中此為最勝。若諸菩薩所行惠施,是普利樂諸有情因。雖不名為脫施於脫,而於施福亦為最勝。除此更有八種施中,第八施福亦為最勝。八施者何?一隨至施、二怖畏施、三報恩施、四求報施、五習先施、六希天施、七要名施、八為莊嚴心為資助心為資瑜伽為得上義而行惠施。隨至施者,宿舊師言:隨近己至方能施與。怖畏施者,謂見此財壞相現前,寧施不失。習先施者,謂習先人父祖家法而行惠施。餘施易了,故不別釋。如契經說:施預流向其果無量,施預流果果量更增,乃至廣說。頗有施非聖果亦無量耶?頌曰:

論に曰く:薄伽梵は説きたまう:もし染を離れたる者が、染を離れたるに対して諸の資財を施すは、財施の中に於いてこれ最勝と為す、と。もし諸の菩薩の行ずる所の恵施は、是れ普く諸の有情を利楽する因なり。脱する者が脱する者に施すと名づけざると雖も、しかし施福に於いてもまた最勝と為す。これを除きて更に八種の施の中、第八の施福もまた最勝と為す。八施とは何ぞ。一は随至施、二は怖畏施、三は報恩施、四は求報施、五は習先施、六は希天施、七は要名施、八は心を荘厳するため心に資せんがため瑜伽に資せんがため上義を得んがために恵施を行ず。随至施とは、宿旧の師の説に、近く己に至るに随って方に能く施与す、と。怖畏施とは、いわゆるこの財の壊る相の現前するを見て、寧ろ施して失わざらんとす。習先施とは、いわゆる先人・父祖の家法に習いて恵施を行ず。其余の施は了し易し。ゆえに別に釈せず。契経に説くがごとく:預流向に施せばその果無量、預流果に施せば果量更に増す、乃至広く説く、と。頗る施して聖果にあらずとも果無量なるや。頌に曰く、

父母病法師,最後生菩薩,

父母・病・法師、最後生の菩薩、

設非證聖者,施果亦無量。

設い聖者を証せずとも、施果もまた無量なり。

論曰:如是五種設是異生,但施亦能招無量果。住最後有,名最後生。法師四田中,是何田所攝?是恩田攝。所以者何?為諸世間大善友故、無明所盲者能施慧眼故、開示世間安危事故、令有情生起無漏法身故。以要說者,善說法師乃至能為佛所作事故,於彼行施便招無量果。欲知諸業輕重相者,應知輕重略由六因。其六者何?頌曰:

論に曰く:このようの五種は設い是れ異生なりとも、但だ施するも能く無量の果を招く。最後の有に住するを、最後生と名づく。法師は四田の中、どの田の摂する所か。是れ恩田の摂。そもそもどうしてか。諸の世間の大善友たるがゆえ、無明の盲える所に能く慧眼を施すがゆえ、世間に安・危の事を開示するがゆえ、有情をして無漏の法身を生ぜしむるがゆえに。要を以て之を説けば、善説の法師は乃至能く仏の作す所の事を為すがゆえに、彼に於いて施を行ぜば便ち無量の果を招く。諸の業の軽重の相を知らんと欲せば、応に知るべし、軽重は略して六因に由る。その六とは何ぞ。頌に曰く、

後起田根本,加行思意樂,

後起・田・根本・加行・思・意楽、

由此下上故,業成下上品。

これに由って下上あるがゆえに、業は下上品を成ず。

論曰:後起者,謂作已隨作。田,謂於彼作損作益。根本者,謂根本業道。加行者,謂引彼身語。思,謂由彼業道究竟。意樂者,謂所有意趣,我應造作如是如是、我當造作如是如是。或有諸業唯由後起所攝受故得成重品,定安立彼異熟果故。或有諸業由田成重,或有於田由根本力成重非餘,如父母田行殺罪重,非盜等業由餘成重。例此應思。若有六因皆是上品,此業最重。翻此最輕,除此中間非最輕重。如契經說:有二種業,一造作業、二增長業。何因說業名增長耶?由五種因。何等為五?頌曰:

論に曰く:後起とは、いわゆる作已にして随いて作す。田とは、いわゆる彼に於いて損を作し益を作す。根本とは、いわゆる根本業道。加行とは、いわゆる彼の身語を引く。思とは、いわゆる彼の業道に由って究竟す。意楽とは、いわゆる所有の意趣、我は応に斯く斯くを造作すべし、我は当に斯く斯くを造作すべし。或いは諸の業ありてただ後起の摂受する所に由って重品を成ずるを得。定めて彼の異熟果を安立するがゆえに。或いは諸の業ありて田に由って重を成じ、或いは田に於いて根本の力に由って重を成じてその余にあらず。父母の田に於いて殺を行ずる罪重きがごとし。盗等の業のその余に由って重を成すにあらざるに非ず。これに例して思うべし。もし六因皆上品ならば、この業は最も重し。これを翻せば最も軽し。これを除く中間は最軽重にあらず。契経に説くがごとく:二種の業あり。一は造作业、二は増長業。何の因にか業を増長と名づくと説くか。五種の因に由る。何等か五と為すか。頌に曰く、

由審思圓滿,無惡作對治,

審思・円満・悪作の対治なき・伴ある・異熟なるに由って、

有伴異熟故,此業名增長。

この業を増長と名づく。

論曰:由審思故者,謂彼所作業,非先全不思、非率爾思作。由圓滿故者,謂諸有情中,或由一惡行便墮惡趣,或乃至三;或由一業道便墮惡趣,或乃至十。此中若有齊此量業應墮惡趣,未圓滿時但名造作不名增長,若此已圓滿亦得增長名。由無惡作對治故者,謂無追悔無對治業。由有伴故者,謂作不善業,不善為助伴。由異熟故者,謂定與異熟,善翻此應知。異此諸業唯名造作,如前所明。未離欲等持己所有奉施制多,此施名為唯為自益。既無受者,福如何成?頌曰:

論に曰く:審思するがゆえとは、いわゆる彼の作す所の業は、先に全く思わざるにあらず、率爾に思いて作すにあらず。円満するがゆえとは、いわゆる諸の有情の中、或いは一の悪行に由って便ち悪趣に堕ち、或いは乃至三。或いは一の業道に由って便ち悪趣に堕ち、或いは乃至十。この中にもしこの量を斎する業あれば応に悪趣に堕すべし。未だ円満せざる時は但だ造作と名づけて増長と名づけず。もしこれ已に円満せばもまた増長の名を得。悪作の対治なきがゆえとは、いわゆる追悔なく対治の業なし。伴あるがゆえとは、いわゆる不善業を作すに不善を助伴と為す。異熟あるがゆえとは、いわゆる定めて異熟を与う。善はこれを翻して知るべし。これに異なる諸の業はただ造作と名づく。前に明かせしがごとし。未だ欲を離れざる等が己の所有を持ちて制多に奉施する、この施はただ自を益するのみと名づく。すでに受者なきに、福はどうして成ずか。頌に曰く、

制多捨類福,如慈等無受。

制多は捨類の福。慈等の受なきがごとし。

論曰:福有二類,一捨、二受。捨類福者,謂由善心但捨資財施福便起。受類福者,謂所施田受用施物施福方起。於制多所奉施供具,雖無受類,有捨類福。彼既不受,福由何生?復以何因知福生者要由彼受不受不生?不受於他,無攝益故。此非定證,若福要由攝益他成,則修慈等及正見等應不生福。是故應許供養制多有多福生,如修慈等。謂如有一修慈等定,雖無受者及攝益他,而從自心生無量福。如是有德者,雖已滅過去,而追伸敬養,福由自心生。豈不唐捐此施敬業?不爾,發業心方勝故。謂如有一欲害怨家,彼命雖終猶懷怨想,發起種種惡身語業,生多非福非但起心。如是大師雖已過去,追伸敬養起身語業,方生多福非但起心。若於善田殖施業種可招愛果,若於惡田雖施但應招非愛果。此不應爾。所以者何?頌曰:

論に曰く:福に二類あり。一は捨、二は受。捨類の福とは、いわゆる善心に由って但だ資財を捨てれば施福便ち起る。受類の福とは、いわゆる施する所の田が施物を受用して施福乃ち起る。制多の所に供具を奉施するは、受類なきと雖も、捨類の福あり。彼はすでに受けざれば、福は何に由って生ずか。復た何の因を以てか福の生ずるは要ずるに彼の受に由り、受けざれば生ぜざると知るか。他に於いて受けざれば、摂益なきがゆえに。これ定の証にあらず。もし福が要ずるに他を摂益するに由って成ぜば、則ち慈等および正見等を修するも応に福を生ぜざるべし。このゆえに応に許すべし、制多を供養するに多くの福生ずるを。慈等を修するがごとし。いわゆるたとえば一ありて慈等の定を修するに、受者および他を摂益するなきと雖も、しかし自心より無量の福を生ず。このように徳ある者は、已に過去に滅したると雖も、しかし追って敬養を伸べれば、福は自心より生ず。豈にこの施敬の業は唐捐ならんや。そうにはあらず。業を発する心方に勝れるがゆえに。いわゆるたとえば一ありて怨家を害せんと欲するに、彼の命已に終ると雖もなお怨の想を懐き、種種の悪の身語業を発起して多くの非福を生ず。但だ心を起すのみにあらず。このように大師は已に過去せりと雖も、追って敬養を伸べて身語業を起さば、方に多くの福を生ず。但だ心を起すのみにあらず。もし善田に於いて施業の種を殖えば愛果を招くべく、もし悪田に於いては施すと雖も応に非愛果を招くべし。これ応にこのようにはあらず。そもそもどうしてか。頌に曰く、

惡田有愛果,種果無倒故。

悪田にも愛果あり。種果に倒なきがゆえに。

論曰:現見田中種果無倒,從末度迦種末度迦果生,其味極美。從賃婆種賃婆果生,其味極苦。非由田力,種果有倒。如是施主雖於惡田,而益他心殖諸施種,但招愛果不招非愛。然由田過,令所殖種或生果少或果全無。施類福業事傍論已了,今次應辯戒類福業事。頌曰:

論に曰く:現に見る、田の中に種果に倒なし。末度迦(甜果)の種より末度迦の果生じ、その味極めて美なり。賃婆(苦果)の種より賃婆の果生じ、その味極めて苦なり。田の力に由るにあらずして種果に倒あるを。このように施主は悪田に於いてすと雖も、しかし他を益する心にて諸の施種を殖えば、但だ愛果を招いて非愛を招かず。しかし田の過に由って、殖える所の種をして或いは果少なく生ぜしめ或いは果全く無からしむ。施類の福業事の傍論已に了り。今次に応に戒類の福業事を辯ずべし。頌に曰く、

離犯戒及遮,名戒各有二,

戒を犯することおよび遮を離るるを、戒と名づく。各々二あり。

非犯戒因壞,依治滅淨等。

戒を犯す因の壊るるに非ず。治・滅・浄等に依る。

論曰:諸不善色名為犯戒,此中性罪立犯戒名。遮謂所遮非時食等,雖非性罪而佛為護法及有情別意遮止,受戒者犯亦名犯戒,簡性罪故但立遮名。離性及遮,俱說名戒。此各有二,謂表、無表,以身語業為自性故。已略辯戒自性差別。若具四德得清淨名,與此相違名不清淨。言四德者,一者不為犯戒所壞,犯戒謂前諸不善色。二者不為彼因所壞,彼因謂貪等煩惱隨煩惱。三者依治,謂依念住等,此能對治犯戒及因故。四者依滅,謂依涅槃迴向涅槃非勝生故。等言為顯復有異說。有說:戒淨由五種因,一根本淨、二眷屬淨、三非尋害、四念攝受、五迴向寂。有餘師說:戒有四種,一怖畏戒,謂怖不活、惡名、治罰、惡趣畏故,受護屍羅。二希望戒,謂貪諸有勝位、多財、恭敬、稱譽受持淨戒。三順覺支戒,謂為求解脫及正見等受持淨戒。四清淨戒,謂無漏戒,彼能永離業惑垢故。已辯戒類,修類當辯。頌曰:

論に曰く:諸の不善の色を犯戒と名づく。この中に性罪は犯戒の名を立つ。遮とは遮らるる所の非時食等を謂う。性罪にあらざると雖も、しかし仏は法および有情のために別意に遮止したまえり。戒を受くるの犯もまた犯戒と名づく。性罪を簡ぶがゆえに但だ遮の名を立つ。性および遮を離るるを、俱に説いて戒と名づく。これ各々二あり。いわゆる表・無表。身語の業を以て自性と為すがゆえに。已に略して戒の自性の差別を辯したり。もし四徳を具えば清浄の名を得。これと相違すれば不清浄と名づく。四徳と言うは、一は犯戒の壊る所と為らざる。犯戒とは前の諸の不善色を謂う。二は彼の因の壊る所と為らざる。彼の因とは貪等の煩悩・随煩悩を謂う。三は治に依る。いわゆる念住等に依る。これは能く犯戒および因に対治するがゆえに。四は滅に依る。いわゆる涅槃に依り涅槃に回向して勝生にあらざるがゆえに。等の言は復た異説あるを顕さんがため。ある説に、戒の浄は五種の因に由る。一は根本浄、二は眷属浄、三は尋害に非ず、四は念の摂受、五は寂への回向。その余の師の説に、戒に四種あり。一は怖畏戒、いわゆる不活・悪名・治罰・悪趣を怖れ畏るるがゆえに尸羅を受護す。二は希望戒、いわゆる諸有の勝位・多財・恭敬・称誉を貪りて浄戒を受持す。三は順覚支戒、いわゆる解脱および正見等を求めんがために浄戒を受持す。四は清浄戒、いわゆる無漏戒。彼は能く永く業惑の垢を離るるがゆえに。已に戒類を辯したり。修類は当に辯ずべし。頌に曰く、

等引善名修,極能燻心故。

等引の善を修と名づく。極めて能く心を熏るがゆえに。

論曰:言等引善,其體是何?謂三摩地,自性俱有。脩名何義?謂燻習心,以定地善於心相續極能燻習令成德類,如花燻苣蕂。是故獨名修。前辯施福能招大富,戒修二類所感云何?頌曰:

論に曰く:等引の善と言う、その体は何ぞ。いわゆる三摩地、自性・俱有。修の名は何の義か。いわゆる心を熏習す。定地の善は心の相続に於いて極めて能く熏習して徳類を成ぜしむるを以て。花が苣蕂を熏ずるがごとし。このゆえに独り修と名づく。前に施福の能く大富を招くを辯したり。戒・修の二類の感ずる所はいかなるか。頌に曰く、

戒修勝如次,感生天解脫。

戒・修の勝れるは次第のごとく、生天・解脱を感ず。

論曰:戒感生天,修感解脫。勝言為顯就勝為言,謂施亦能感生天果,就勝說戒。持戒亦能感離繫果,就勝說修。經說四人能生梵福:一為供養如來䭾都建窣堵波於未曾處,二為供養四方僧伽造寺施園四事供給,三佛弟子破已能和,四於有情普修慈等。如是梵福其量云何?頌曰:

論に曰く:戒は生天を感じ、修は解脱を感ず。勝の言は勝に就いて言を為すを顕さんがため。いわゆる施もまた能く生天の果を感ずるも、勝に就いて戒を説く。戒を持つもまた能く離系の果を感ずるも、勝に就いて修を説く。経に説く、四人は能く梵福を生ず。一は如来の䭾都(舎利)を供養せんがため曽てなき処に窣堵波を建て、二は四方の僧伽を供養せんがため寺を造り園を施し四事を供給し、三は仏弟子の破れ已りて能く和せしめ、四は有情に於いて普く慈等を修す。このようの梵福、その量はいかなるか。頌に曰く、

感劫生天等,為一梵福量。

一劫生天等を感ずるを、一の梵福量と為す。

論曰:先軌範師作如是說:隨福能感一劫生天受諸快樂是一福量,由彼所感受快樂時同梵輔天一劫壽故。以於餘部有伽他言:

論に曰く:先の軌範師はこの説を作して曰く、福に随って能く一劫生天して諸の快楽を受くるを感ずるは一の福量と為す。彼の受く所の快楽の時は梵輔天の一劫の寿に同じきがゆえに、その余の部に於いて伽他ありて説くを以て:

有信正見人,修十勝行者,

信あり正見の人、十の勝行を修する者は、

便為生梵福,感劫天樂故。

便ち梵福を生ずと為る。劫の天楽を感ずるがゆえに。

毘婆沙師作如是說:即於分別妙相業中,所辯福量此即同彼。等言為顯如是異說。財施已說。法施云何?頌曰:

(論は続けて曰く:)毘婆沙師はこの説を作して曰く、すなわち妙相の業を分別する中に於いて辯ぜし所の福量、これすなわち彼に同じ、と。等の言はこのような異説を顕さんがため。財施は已に説いたり。法施はいかなるか。頌に曰く、

法施謂如實,無染辯經等。

法施とはいわゆる如実に、染なきにて経等を辯ず。

論曰:若能如實為諸有情以無染心辯契經等令生正解,名為法施。故有顛倒或染汙心求利名譽恭敬辯者,是人便損自他大福。前已別釋三福業事,今釋經中順三分善。頌曰:

論に曰く:もし能く如実に諸の有情のために染なき心を以て契経等を辯じて正解を生ぜしむれば、法施と名づく。このゆえに顛倒或いは染污の心にて利・名・誉・恭敬を求めて辯ずる有れば、是の人は便ち自他の大福を損す。前に已に別々に三福業事を釋したり。今経の中の順三分の善を釋す。頌に曰く、

順福順解脫,順決擇分三,

順福・順解脱・順決択の分の三は、

感愛果涅槃,聖道善如次。

愛果・涅槃・聖道の善を感ず。次第のごとし。

論曰:言順福分者,謂感世間可愛果善。順解脫分者,謂定能感涅槃果善。此善生已,令彼有情名為身中有涅槃法。若有聞說生死有過、諸法無我、涅槃有德,身毛為竪悲泣墮淚,當知彼已殖順解脫分善。如見得雨場有芽生,知其穴中先有種子。順決擇分者,謂近能感聖道果善,即煖等四,後當廣說。如世間所說書、印、算、文、數,此五自體云何應知?頌曰:

論に曰く:順福分と言うは、いわゆる世間の可愛の果を感ずる善。順解脱分と言うは、いわゆる定めて能く涅槃の果を感ずる善。この善生じ已りて、彼の有情をして名づけて身の中に涅槃の法あると為さしむ。もし聞きて生死に過あり・諸法無我・涅槃に徳ありと説くに、身の毛竖を為し悲泣して涙を堕さば、当知るべし彼は已に順解脱分の善を殖えたり。雨の場に芽の生ずるを見て、その穴の中に先に種子あるを知るがごとし。順決択分とは、いわゆる近く能く聖道の果を感ずる善。すなわち煖等の四、後に当に広く説くべし。世間の説く所の書・印・算・文・数のごとき、この五の自体は如何に応に知るべきか。頌に曰く、

諸如理所起,三業並能發,

諸の理のごとく起る所、三業ならびに能発は、

如次為書印、算文數自體。

次第のごとく書・印・算・文・数の自体と為る。

論曰:如理起者,正加行生。三業,應知即身語意。能發,即是能起此三,如其所應受想等法。此中書印以前身業及彼能發五蘊為體,次算及文以前語業及彼能發五蘊為體,後數應知以前意業及彼能發四蘊為體,但由意思能數法故。今應略辯諸法異名。頌曰:

論に曰く:理のごとく起るとは、正しく加行して生ず。三業とは、応に知るべしすなわち身・語・意。能発とは、すなわち能くこの三を起す、その応ずる所の受・想等の法。この中に書・印は前の身業および彼の能発の五蘊を以て体と為し、次に算および文は前の語業および彼の能発の五蘊を以て体と為し、後の数は応に知るべし前の意業および彼の能発の四蘊を以て体と為す。但だ意思に由って能く法を数うるがゆえに。今応に略して諸法の異名を辯ずべし。頌に曰く、

善無漏名妙,染有罪覆劣,

善・無漏を妙と名づく。染は有罪・有覆・劣なり。

善有為應習,解脫名無上。

善の有為は応に習うべし。解脱を無上と名づく。

論曰:善無漏法亦名為妙。諸染汙法亦名有罪有覆及劣。准此妙劣,餘中已成,故頌不辯。諸有為善亦名應習,餘非應習義準已成。何故無為不名應習?不可數習令增長故。又習為果,此無果故。解脫涅槃亦名無上,以無一法能勝涅槃,是善是常超眾法故。餘法有上,義準已成。

論に曰く:善・無漏の法はもまた妙と名づく。諸の染污の法はもまた有罪・有覆および劣と名づく。これに准じて妙・劣なれば、その余の中は已に成ず。ゆえに頌は辯ぜず。諸の有為の善はもまた応に習うべしと名づく。その余の応に習うべからざるの義は准じて已に成ず。何故無為は応に習うべしと名づけざるか。数々習いて増長せしむべからざるがゆえに。また習は果を為す。これは果なきがゆえに。解脱・涅槃はもまた無上と名づく。一法も能く涅槃に勝ることなきを以て。是れ善にして是れ常にして衆法を超ゆるがゆえに。その余の法は上あり。義は准じて已に成ず。

説一切有部倶舎論 巻第十八

アビダルマ倶舎論 巻第十九

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別隨眠品第五之一

分別随眠品 第五之一

前言世別皆由業生,業由隨眠方得生長,離隨眠業無感有能。所以者何?隨眠有幾?頌曰:

前に言う、世の別は皆業に由って生じ、業は随眠に由って方に生長を得、随眠を離れて業は有を感ずる能なし。そもそもどうしてか。随眠は幾つかある。頌に曰く、

隨眠諸有本,此差別有六,

随眠は諸有の本。これに差別あって六あり。

謂貪瞋亦慢,無明見及疑。

いわゆる貪・瞋・慢・無明・見および疑。

論曰:由此隨眠是諸有本,故業離此無感有能。何故隨眠能為有本?以諸煩惱現起能為十種事故,一堅根本、二立相續、三治自田、四引等流、五發業有、六攝自具、七迷所緣、八導識流、九越善品、十廣縛義,令不能越自界地故。由此隨眠能為有本,故業因此有感有能。此略應知差別有六,謂貪、瞋、慢、無明、見、疑。頌說亦言,意顯慢等亦由貪力於境隨增,由貪隨增義如後辯。及聲顯六體各不同。若諸隨眠體唯有六,何緣經說有七隨眠?頌曰:

論に曰く:この随眠に由って是れ諸有の本たるがゆえに、業はこれを離れて有を感ずる能なし。何故随眠は能く有の本と為るか。諸の煩悩の現起するは能く十種の事を為すがゆえに。一は根本を堅くし、二は相続を立て、三は自田を治め、四は等流を引き、五は業有を発し、六は自具を摂し、七は所縁を迷わし、八は識流を導き、九は善品を越え、十は広く縛の義を成して、自界地を越えざらしむるがゆえに。この随眠に由って能く有の本と為る。ゆえに業はこれに因って有を感ずる能あり。これを略して応に知るべし、差別あって六あり。いわゆる貪・瞋・慢・無明・見・疑。頌にもまた言う、意は慢等もまた貪の力に由って境に於いて随増するを顕さんとす。貪の随増の義は後に辯ずるがごとし。「及び」の声は六体の各々同じからざるを顕す。もし諸の随眠の体はただ六のみならば、何の縁にか経は七随眠を説くか。頌に曰く、

六由貪異七,有貪上二界,

六は貪に由って異なりて七。有貪は上の二界。

於內門轉故,為遮解脫想。

内門に於いて転ずるがゆえに、解脱の想を遮らんがために。

論曰:即前所說六隨眠中分貪為二,故經說七。何等為七?一欲貪隨眠、二瞋隨眠、三有貪隨眠、四慢隨眠、五無明隨眠、六見隨眠、七疑隨眠。欲貪隨眠依何義釋?為欲貪體即是隨眠?為是欲貪之隨眠義?於餘六義徵問亦爾。若爾何失?二俱有過。若欲貪體即是隨眠,便違契經。如契經說:若有一類,非於多時為欲貪纏纏心而住,設心暫爾起欲貪纏,尋如實知出離方便,彼由此故於欲貪纏能正遣除並隨眠斷。若是欲貪之隨眠義,隨眠應是心不相應,便違對法。如本論說:欲貪隨眠三根相應。毘婆沙師作如是說:欲貪等體即是隨眠。豈不違經?無違經失,並隨眠者並隨縛故。或經於得假說隨眠,如火等中立苦等想。阿毘達磨依實相說,即諸煩惱說名隨眠,由此隨眠是相應法。何理為證知定相應?以諸隨眠染惱心故、覆障心故、能違善故,謂隨眠力能染惱心。未生善不生、已生善退失,故隨眠體非不相應。若不相應能為此事,則諸善法應無起時,以不相應恆現前故。既諸善法容有起時,故知隨眠是相應法。此皆非證。所以者何?若許隨眠非相應者,不許上三事是隨眠所為。然經部師所說最善。經部於此所說如何?彼說欲貪之隨眠義,然隨眠體非心相應非不相應,無別物故,煩惱睡位說名隨眠,於覺位中即名纏故。何名為睡?謂不現行種子隨逐。何名為覺?謂諸煩惱現起纏心。何等名為煩惱種子?謂自體上差別功能,從煩惱生能生煩惱。如念種子是證智生,能生當念功能差別。又如芽等有前果生,能生後果功能差別。若執煩惱別有隨眠心不相應名煩惱種,應許念種非但功能別有不相應能引生後念。此既不爾,彼云何然?差別因緣不可得故。若爾,六六契經相違,經說於樂受有貪隨眠故。經但說有,不言爾時即有隨眠。何所違害?於何時有?於彼睡時,或假於因立隨眠想。傍論且止,應辯正論。

論に曰く:すなわち前に説く所の六随眠の中に貪を分かちて二と為す。ゆえに経は七を説く。何等か七と為すか。一は欲貪随眠、二は瞋随眠、三は有貪随眠、四は慢随眠、五は無明随眠、六は見随眠、七は疑随眠。欲貪随眠は何の義に依って釈するか。欲貪の体がすなわち随眠なるか。是れ欲貪の随眠の義なるか。その余の六義に於いても征問はこのよう。もしそうならば何の失かある。二つとも過あり。もし欲貪の体がすなわち随眠ならば、便ち契経に違す。契経に説くがごとく:もし一類ありて、多時に於いて欲貪の纏の心を纏めて住せず、設い心に暫くこのように欲貪の纏を起さば、尋いで如実に出離の方便を知り、彼はこれに由って欲貪の纏に於いて能く正しく遣除し併せて随眠を断ず、と。もし是れ欲貪の随眠の義ならば、随眠は応に心不相応なるべし。便ち対法に違す。本論に説くがごとく:欲貪随眠は三根に相応す、と。毘婆沙師はこの説を作して曰く、欲貪等の体はすなわち随眠なり、と。豈に経に違せざらんや。経に違するの失なし。併せて随眠の併せて随縛するがゆえに。或いは経は得に於いて仮に随眠を説く。火等の中に苦等の想を立つるがごとし。阿毘達磨は実相に依って説く。すなわち諸の煩悩を説いて随眠と名づく。この随眠に由って是れ相応の法。何の理を以てか定めて相応なるを証知するか。諸の随眠は心を染惱するがゆえ、心を覆障するがゆえ、能く善に違するがゆえに。いわゆる随眠の力は能く心を染惱す。未生の善は生ぜず、已生の善は退失す。ゆえに随眠の体は不相応にあらず。もし不相応にして能くこの事を為さば、則ち諸の善法は応に起る時なきべし。不相応は恒に現前するがゆえに。すでに諸の善法に起る時あるを容るれば、ゆえに随眠は相応の法と知る。これ皆証にあらず。そもそもどうしてか。もし随眠は非相応と許さば、上の三事は随眠の為す所と許さざるべし。しかし経部師の説く所は最も善し。経部はこれに於いて説く所いかなるか。彼は説く、欲貪の随眠の義なり。しかし随眠の体は心相応に非ず不相応に非ず。別の物なきがゆえに。煩悩の睡る位を説いて随眠と名づけ、覚の位の中に於いてすなわち纏と名づくがゆえに。何を睡と名づくか。いわゆる現行せざる種子の随逐する。何を覚と名づくか。いわゆる諸の煩悩の現起して心を纏める。何等を煩悩の種子と名づくか。いわゆる自体の上の差別の功能、煩悩より生じて能く煩悩を生ず。念の種子のごときは是れ証智の生ずる、能く当念を生ずる功能の差別。また芽等のごとく前果の生ずるあり、能く後の果を生ずる功能の差別。もし煩悩に別に随眠の心不相応ありて煩悩の種と名づくと執せば、応に許すべし、念の種もまた但だ功能のみにあらずして別に不相応ありて能く後念を引生せしむるを。これすでにこのようにはあらざれば、彼はどうしてこのようか。差別の因縁は得べからざるがゆえに。もしそうならば、六六の契経に相違す。経は楽受に於いて貪の随眠ありと説くがゆえに。経は但だ有りと説く、爾の時にすなわち随眠あると説かず。何の違害する所かある。どの時に於いて有るか。彼の睡る時に於いて、或いは仮に因に於いて随眠の想を立つ。傍論は且く止め、正論を辯ずべし。

言貪分二,謂欲、有貪。此中有貪以何為體?謂色無色二界中貪。此名何因唯於彼立?彼貪多託內門轉故。謂彼二界多起定貪,一切定貪於內門轉,故唯於彼立有貪名。又由有人於上二界起解脫想,為遮彼故,謂於上界立有貪名,顯彼所緣非真解脫,此中自體立以有名。彼諸有情多於等至及所依止深生味著,故說彼唯味著自體;非味著境,離欲貪故,由此唯彼立有貪名。既說有貪在上二界,義準欲界貪名欲貪,故於頌中不別顯示。即上所說六種隨眠,於本論中復分為十。如何成十?頌曰:

(論は続けて曰く:)貪を分かちて二と為すと言うは、いわゆる欲・有貪。この中に有貪は何を以て体と為すか。いわゆる色・無色の二界の中の貪。この名は何の因にかただ彼に於いて立つるか。彼の貪は多く内門に託して転ずるがゆえに。いわゆる彼の二界は多く定貪を起し、一切の定貪は内門に於いて転ず。ゆえにただ彼に於いて有貪の名を立つ。また人ありて上の二界に於いて解脱の想を起すに由って、彼を遮らんがため。いわゆる上界に於いて有貪の名を立つ。彼の縁ずる所は真の解脱にあらざるを顕し、ここに自体は有の名を以て立つ。彼の諸の有情は多く等至および依止する所に深く味着を生ず。ゆえに彼を説いてただ自体を味着すと為す。境を味着するにあらず。欲貪を離れたるがゆえに。これに由ってただ彼に有貪の名を立つ。すでに有貪は上の二界に在りと説けば、義は准じて欲界の貪を欲貪と名づく。ゆえに頌の中に別に顕示せず。すなわち上に説く所の六種の随眠は、本論の中に於いて復た十に分かつ。どうして十を成すか。頌に曰く、

六由見異十,異謂有身見,

六は見に由って異なりて十。異とはいわゆる有身見、

邊執見邪見,見取戒禁取。

辺執見・邪見・見取・戒禁取。

論曰:六隨眠中見行異為五,餘非見五,積數總成十,故於十中五是見性:一有身見、二邊執見、三邪見、四見取、五戒禁取。五非見性:一貪、二瞋、三慢、四無明、五疑。又即所說六種隨眠,於本論中說九十八。依何義說九十八耶?頌曰:

論に曰く:六随眠の中、見の行の異なるを五と為し、其余の非見は五。積数して総じて十を成す。ゆえに十の中、五は見の性:一は有身見、二は辺執見、三は邪見、四は見取、五は戒禁取。五は非見の性:一は貪、二は瞋、三は慢、四は無明、五は疑。またすなわち説く所の六種の随眠は、本論の中に於いて九十八と説く。何の義に依って九十八と説くか。頌に曰く、

六行部界異,故成九十八,

六は行・部・界の異なるに由って、ゆえに九十八を成す。

欲見苦等斷,十七七八四,

欲界の見苦等の断ずる所は、十七・七・八・四。

謂如次具離,三二見見疑,

いわゆる次第のごとく具に離るるは、三・二・見・見・疑。

色無色除瞋,餘等如欲說。

色・無色は瞋を除き、その余は等しく欲のごとく説く。

論曰:六種隨眠由行、部、界有差別,故成九十八。謂於六中由見行異分別為十,如前已辯。即此所辯十種隨眠,部、界不同成九十八。部謂見四諦、修所斷五部。界謂欲色無色三界。且於欲界五部不同,乘十隨眠成三十六。謂見苦諦至修所斷,如次有十七七八四。即上五部,於十隨眠一二一一如其次第,具離三見二見見疑。謂見苦諦所斷具十;見集滅諦所斷各七,離有身見、邊見、戒取;見道諦所斷八,離有身見及邊執見。修所斷四,離見及疑,如是合成三十六種。前三十二名見所斷,才見諦時彼則斷故;最後有四名修所斷,見四諦已後後時中數數習道彼方斷故。如是已顯十隨眠中薩迦耶見唯在一部,謂見苦所斷。邊執見亦爾。戒禁取通在二部,謂見苦、見道所斷。邪見通四部,謂見苦、集、滅、道所斷,見取疑亦爾。餘貪等四各通五部,謂見四諦及修所斷。此中何相見苦所斷?乃至何相是修所斷?若緣見此所斷為境名見此所斷,餘名修所斷。如是六中見分十二、疑分為四、餘四各五,故欲界中有三十六。色無色界五部各除瞋,餘與欲同,故各三十一。由是本論以六隨眠行、部、界殊說九十八。於此所辯九十八中,八十八見所斷,忍所害故。十隨眠修所斷,智所害故。如是所說見、修所斷,為決定爾?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:六種の随眠は行・部・界に差別あるに由って、ゆえに九十八を成す。いわゆる六の中に於いて見の行の異なるに由って分別して十と為す。前に已に辯ぜしがごとし。すなわちこの辯ぜし所の十種の随眠は、部・界同じからずして九十八を成す。部とはいわゆる四諦を見る・修の断ずべき五部。界とはいわゆる欲・色・無色の三界。且つ欲界に於いて五部同じからず、十随眠に乗じて三十六を成す。いわゆる苦諦を見て断ずるより修所断に至るまで、次第のごとく十七・七・八・四あり。すなわち上の五部は、十随眠に於いて一・二・一・一にその次第のごとく、具に三見・二見・見・疑を離る。いわゆる苦諦を見て断ずべきは具に十あり。集・滅諦を見て断ずべきは各々七、有身見・辺見・戒取を離る。道諦を見て断ずべきは八、有身見および辺執見を離る。修所断は四、見および疑を離る。このように合して三十六種を成す。前の三十二は見所断と名づく。纔かに諦を見る時、彼は則ち断ぜらるるがゆえに。最後に四ありて修所断と名づく。四諦を見已りて後後の時の中に於いて数々道を習いて彼は方に断ぜらるるがゆえに。このように已に十随眠の中に薩迦耶見はただ一部に在るを顕せり。いわゆる見苦の断ずる所。辺執見もまたこのよう。戒禁取は二部に通ず。いわゆる見苦・見道の断ずる所。邪見は四部に通ず。いわゆる見苦・集・滅・道の断ずる所。見取・疑もまたこのよう。その余の貪等の四は各々五部に通ず。いわゆる四諦を見るおよび修の断ずる所。この中にどの相を見苦の断ずる所とするか。乃至どの相を修所断とするか。もしこれ見る所の断ずるを境と為して縁ずれば見所断と名づく。その余は修所断と名づく。このように六の中に見は十二に分かれ、疑は四に分かれ、その余の四は各々五。ゆえに欲界の中に三十六あり。色・無色界は五部各々瞋を除き、その余は欲と同じ。ゆえに各々三十一。これに由って本論は六随眠の行・部・界の殊を以て九十八を説く。ここに辯ぜし所の九十八の中、八十八は見所断。忍の害する所なるがゆえに。十の随眠は修所断。智の害する所なるがゆえに。このように説く所の見・修の断ずる所は、決定してこのようか。そうにはあらず。どうか。頌に曰く、

忍所害隨眠,有頂唯見斷,

忍の害する所の随眠は、有頂はただ見断。

餘通見修斷,智所害唯修。

その余は見・修断に通ず。智の害する所はただ修断。

論曰:忍聲通說法類智忍。於忍所害諸隨眠中有頂地攝唯見所斷,唯類智忍方能斷故。餘八地攝通見修斷,謂聖者斷唯見非修,法類智忍如應斷故。若異生斷唯修非見,數習世俗智所斷故。智所害諸隨眠一切地攝,唯修所斷,以諸聖者及諸異生如其所應,皆由數習無漏世俗智所斷故。有餘師說:外道諸仙不能伏斷見所斷惑。如《大分別諸業契經》說:離欲貪諸外道類,有緣欲界邪見現行。及《梵網經》亦說:彼類有緣欲界諸見現行。謂於前際分別論者,有執全常、有執一分、有執諸法無因生等。非色界惑緣欲界生,於欲界境已離貪故,定是欲界諸見未斷。毘婆沙師釋彼經義:起見時暫退,如提婆達多。由行有殊分見為五,名先已列,自體如何?頌曰:

論に曰く:忍の声は通じて法・類智の忍を説く。忍の害する所の諸の随眠の中、有頂地の摂するはただ見所断。ただ類智の忍のみ方に能く断ずるがゆえに。その余の八地の摂するは見・修断に通ず。いわゆる聖者の断ずるはただ見にして修にあらず。法・類智の忍の応じて断ずるがゆえに。もし異生の断ずるはただ修にして見にあらず。数習の世俗智の断ずる所なるがゆえに。智の害する所の諸の随眠は一切地の摂して、ただ修所断。諸の聖者および諸の異生、その応ずるごとく、皆数習の無漏・世俗智の断ずる所に由るがゆえに。その余の師の説に、外道の諸仙は見所断の惑を伏断すること能わず。《大分別諸業契経》に説くがごとく:欲貪を離れたる諸の外道類に、欲界に縁ずる邪見の現行あり、と。および《梵網経》にもまた説く:彼の類に欲界の諸見に縁ずる現行あり、と。いわゆる前際の分別論に於いて、或いは全常を執し、或いは一分を執し、或いは諸法の因なき生を執する等。色界の惑が欲界に縁じて生ずるにあらず。欲界の境に於いて已に貪を離れたるがゆえに、定めて是れ欲界の諸見の未だ断ぜざる。毘婆沙師は彼の経の義を釋す:見を起す時は暫く退す。提婆達多(調達)のごとし、と。行に殊あるに由って見を分かちて五と為す。名は先に已に列せり。自体はいかなるか。頌に曰く、

我我所斷常,撥無劣謂勝,

我・我所・断・常、無を撥し劣を勝と謂い、

非因道妄謂,是五見自體。

因・道にあらざるを妄りに謂う。是れ五見の自体。

論曰:執我及我所,是薩迦耶見。壞故名薩,聚謂迦耶,即是無常和合蘊義,迦耶即薩名薩迦耶。此薩迦耶即五取蘊,為遮常一想故立此名,要此想為先方執我故。毘婆沙者作如是釋:有故名薩,身義如前。勿無所緣計我我所,故說此見緣於有身。緣薩迦耶而起此見,故標此見名薩迦耶。諸見但緣有漏法者,皆應標以薩迦耶名。然佛但於我我所執摽此名者,令知此見緣薩迦耶非我我所,以我我所畢竟無故。如契經說:苾芻當知,世間沙門婆羅門等,諸有執我等,隨觀見一切,唯於五取蘊起。即於所執我我所事執斷執常,名邊執見,以妄執取斷常邊故。於實有體苦等諦中起見撥無,名為邪見。一切妄見皆顛倒轉並應名邪,而但撥無名邪見者,以過甚故。如說臭酥惡執惡等,此唯損減,餘增益故。於劣謂勝,名為見取。有漏名劣,聖所斷故。執劣為勝總名見取,理實應立見等取名,略去等言但名見取。於非因道謂因道見,一切總說名戒禁取。如大自在生主,或餘非世間因,妄起因執。投水火等種種邪行,非生天因,妄起因執,唯受持戒禁,數相應智等,非解脫道妄起道執,理實應立戒禁等取名,略去等言但名戒禁取。是謂五見自體應知。若於非因起是因見,此見何故非見集斷?頌曰:

論に曰く:我および我所を執するは、是れ薩迦耶見。壊のゆえに薩と名づく。聚は迦耶を謂う。すなわち是れ無常・和合の蘊の義。迦耶はすなわち薩なり、名づけて薩迦耶。この薩迦耶はすなわち五取蘊。常一の想を遮らんがためにこの名を立つ。要ずるにこの想を先と為して方に我を執するがゆえに。毘婆沙者はこの釋を作して曰く、有るがゆえに薩と名づく。身の義は前のごとし。縁ずる所なきに於いて我・我所を計ること勿れ。ゆえにこの見は有身に縁ずと説く。薩迦耶に縁じてこの見を起すがゆえに、この見を標して薩迦耶と名づく。諸の見の但だ有漏法に縁ずるは、皆応に薩迦耶の名を以て標すべし。しかし仏は但だ我・我所の執に於いてこの名を標したまうは、此の見が薩迦耶に縁じて我・我所にあらざるを知らしめんがため。我・我所は畢竟に無きを以て。契経に説くがごとく:苾芻当に知るべし、世間の沙門・婆羅門等の諸の我を執する等有りて、観見する所に随い一切は、ただ五取蘊に於いて起る、と。すなわち執する所の我・我所の事に於いて断を執し常を執するを、辺執見と名づく。妄りに断・常の辺を執取するがゆえに。実有の体の苦等の諦の中に於いて見を起して無と撥するを、邪見と名づく。一切の妄見は皆顛倒して転じて併せて応に邪と名づくべきに、しかし但だ無を撥するを邪見と名づくるは、過甚なるを以て。臭酥・悪執・悪等と説くがごとし。これはただ損減、その余は增益するがゆえに。劣に於いて勝と謂うを、見取と名づく。有漏を劣と名づく。聖の断ずる所なるがゆえに。劣を執して勝と為すを総じて見取と名づく。理実は応に見等取の名を立つべし。等の言を略して但だ見取と名づく。因・道に非ざるに於いて因・道と謂う見を、一切総じて説いて戒禁取と名づく。大自在・生主のごとき、或いはその余の世間の因にあらざるを、妄りに因の執を起す。水・火に投ずる等の種種の邪行は、生天の因にあらざるに、妄りに因の執を起す。但だ戒禁を受持するのみ、数々相応する智等は、解脱の道にあらざるに妄りに道の執を起す。理実は応に戒禁等取の名を立つべし。等の言を略して但だ戒禁取と名づく。是を五見の自体と謂う、応に知るべし。もし因に非ざるに於いて是れ因との見を起せば、この見は何故見集断にあらざるか。頌に曰く、

於大自在等,非因妄執因,

大自在等に於いて、因に非ざるを妄りに因と執すは、

從常我倒生,故唯見苦斷。

常・我の倒より生ず。ゆえにただ見苦の断。

論曰:執大自在生主或餘為世間因生世間者,必先計度彼體是常一我作者方起因執。才見苦時,於自在等常執我執永斷無餘,故彼所生因執亦斷。若爾,有執投水火等種種邪行是生天因,或執但由受持戒禁等便得清淨,不應見苦斷。然本論說有諸外道起如是見立如是論,若有士夫補特伽羅受持牛戒鹿戒狗戒,便得清淨解脫出離,永超眾苦樂至超苦樂處。如是等類非因執因,一切應知。是戒禁取見苦所斷,如彼廣說。此復何因是見苦斷?迷苦諦故有太過失,緣有漏惑皆迷苦故。復有何相別戒禁取,可說彼為見道所斷?諸緣見道所斷法生,彼亦應名迷苦諦故。又緣道諦邪見及疑,若撥若疑無解脫道,如何即執此能得永清淨?若彼撥無真解脫道,妄執別有餘清淨因,是則執餘能得清淨,非邪見等。此緣見道所斷諸法,理亦不成。又若有緣見集滅諦所斷邪見等執為清淨因,此復何因非見彼斷?故所執義應更思擇。如前所說,常我倒生,為但有斯二種顛倒。應知顛倒總有四種:一於無常執常顛倒、二於諸苦執樂顛倒、三於不淨執淨顛倒、四於無我執我顛倒。如是四倒其體云何?頌曰:

論に曰く:大自在・生主或いはその余を執して世間の因として世間を生ずと為すは、必ず先に彼の体は常にして一にして我にして作る者と計度して方に因の執を起す。纔かに苦を見る時、自在等の常執・我執は永く断じてその余なし。ゆえに彼の生ずる所の因執もまた断ず。もしそうならば、或いは水・火に投ずる等の種種の邪行を執して是れ生天の因と為し、或いは但だ戒禁等を受持するに由って便ち清浄を得と執するは、応に見苦断にあらざるべし。しかし本論に説く、諸の外道ありてこのような見を起しこのような論を立てて曰く、もし士夫・補特伽羅ありて牛戒・鹿戒・狗戒を受持せば、便ち清浄・解脱・出離を得、永く衆苦楽を超えて苦楽を超ゆる処に至らん、と。このようの等類は因に非ざるを因と執するは、一切応に知るべし。是れ戒禁取、見苦の断ずる所。彼に広く説くがごとし。これ復た何の因にか是れ見苦断なるか。苦諦に迷えるがゆえに太だ過失あり。有漏の惑に縁ずるは皆苦諦に迷えるがゆえに。復た何の相ありて別の戒禁取として、彼を説いて見道の断ずる所と為しうるか。諸の見道の断ずる所の法に縁じて生ずるは、彼もまた応に苦諦に迷えると名づくべきがゆえに。また道諦の邪見および疑に縁ずる、もし撥し若し疑えば解脱の道なしとせば、どうしてすなわちこれを執して能く永の清浄を得と為さん。もし彼が真の解脱道を無と撥して、妄りに別にその余の清浄の因ありと執すれば、是れ則ちその余を執して能く清浄を得と為す。邪見等にあらず。これは見道の断ずる所の諸法に縁ずるに、理もまた成ぜず。またもし見集・滅諦の断ずる所の邪見等に縁ずるを執して清浄の因と為せば、これ復た何の因にか彼を見て断ずるにあらざるか。ゆえに執する所の義は応に更に思択すべし。前に説く所のごとき、常・我の倒より生ずるは、但だこの二種の顛倒のみあるか。応に知るべし、顛倒は総じて四種あり。一は無常に於いて常と執する顛倒、二は諸苦に於いて楽と執する顛倒、三は不浄に於いて浄と執する顛倒、四は無我に於いて我と執する顛倒。このようの四倒、その体はいかなるか。頌に曰く、

四顛倒自體,謂從於三見,

四顛倒の自体は、いわゆる三見より従り、

唯倒推增故,想心隨見力。

ただ倒・推・増するがゆえに、想・心は見の力に随う。

論曰:從於三見立四倒體,謂邊見中唯取常見以為常倒,諸見取中取計樂淨為樂淨倒,有身見中唯取我見以為我倒。有說:我倒攝身見全。我倒如何攝我所見?如何不攝?由倒纏故。諸有計我,於彼事中有自在力,是我所見。此即我見由二門轉:是我、屬我。若是別見由我為我,見亦應別。何故餘惑非顛倒體?要具三因,勝者成倒。言三因者,一向倒故、推度性故、妄增益故。謂戒禁取非一向倒,緣少淨故。斷見邪見非妄增益,無門轉故。所餘煩惱不能推度,非見性故。由具三因,勝者成倒,是故餘惑非顛倒體。若爾,何故契經中言:於無常計常,有想心見倒。於苦、不淨、無我亦然。理實應知唯見是倒,想心隨見亦立倒名,與見相應行相同故。若爾,何故不說受等?彼於世間不極成故。謂心想倒世間極成,受等不然,故經不說。如是諸倒預流已斷,見及相應見所斷故。有餘部說:倒有十二,謂於無常計常倒中有想、心、見三種顛倒,乃至於無我計我倒亦爾。於中八唯見斷。四通見修斷,謂樂淨想心。若謂不然,未離欲聖離樂淨想,寧起欲貪?毘婆沙師不許此義。若有樂淨想心現行,便許聖者有樂淨倒;聖者亦起有情想心,是則亦應許有我倒。非於女等及於自身離有情想心有起欲貪故。由契經說:若有多聞諸聖弟子,於苦聖諦如實見知,乃至爾時彼聖弟子無常計常想心見倒皆已永斷,乃至廣說。故知想心唯取見倒相應力起是倒非餘。然聖有時暫迷亂故,率爾於境欲貪現前。如於旋火輪畫藥叉迷亂。若爾,何故尊者慶喜告彼尊者辯自在言:

論に曰く:三見より従って四倒の体を立つ。いわゆる辺見の中、ただ常見を取って以て常倒と為し、諸の見取の中、楽・浄と計るを取って以て楽・浄の倒と為し、有身見の中、ただ我見を取って以て我倒と為す。ある説に、我倒は身見の全を摂す、と。我倒はどうして我所見を摂するか。どうして摂せざるか。倒纏するがゆえに。諸の我を計る有るは、彼の事の中に於いて自在の力ありて是れ我所見。これすなわち我見は二門に由って転ず。是れ我・我に属す。もし別見ありて我に由って我と為せば、見もまた応に別なるべし。何故その余の惑は顛倒の体にあらざるか。要ずるに三因を具えて、勝れる者は倒を成ず。三因と言うは、一向に倒なるがゆえ、推度の性なるがゆえ、妄りに增益するがゆえに。いわゆる戒禁取は一向の倒にあらず。少浄に縁ずるがゆえに。断見・邪見は妄りに增益するにあらず。門に転ぜざるがゆえに。その余の煩悩は能く推度せず。見の性にあらざるがゆえに。三因を具えるに由って、勝れる者は倒を成ず。このゆえにその余の惑は顛倒の体にあらず。もしそうならば、何故契経の中に説く、無常に於いて常と計るに想・心・見の倒あり。苦・不浄・無我に於いてもまたこのよう、と。理実は応に知るべし、ただ見のみ是れ倒。想・心は見に随いてもまた倒の名を立つ。見と相応して行相は同じきがゆえに。もしそうならば、何故受等を説かざるか。彼は世間に於いて極成せざるがゆえに。いわゆる心・想の倒は世間に極成し、受等はこのようにはあらず。ゆえに経は説かず。このようの諸倒は預流に已に断ぜられたり。見および相応は見の断ずる所なるがゆえに。その余の部の説に、倒に十二あり。いわゆる無常に於いて常と計る倒の中に想・心・見の三種の顛倒あり、乃至無我に於いて我と計る倒もまたこのよう。その中の八はただ見断。四は見・修断に通ず。いわゆる楽・浄の想・心。もしこのようにはあらずと謂わば、未だ欲を離れざる聖は楽・浄の想を離れて、寧ろ欲貪を起さんや。毘婆沙師はこの義を許さず。もし楽・浄の想・心の現行あれば、便ち聖者に楽・浄の倒あるを許すべし。聖者もまた有情の想・心を起す。是れ則ちもまた応に我倒あるを許すべし。女等に於いておよび自身に於いて有情の想・心を離れて欲貪を起すことあらざるがゆえに。契経に説くに由る:もし多聞の諸の聖弟子ありて、苦聖諦に於いて如実に見知せば、乃至爾の時彼の聖弟子の無常に於いて常と計る想・心・見の倒は皆已に永く断ぜられたり、乃至広く説く、と。ゆえに想・心はただ見倒の相応する力に取って起るは是れ倒にしてその余にあらざるを知る。しかし聖にも時ありて暫く迷乱するがゆえに、率爾に境に於いて欲貪現前す。旋火輪の画ける薬叉に於いて迷乱するがごとし。もしそうならば、何故尊者慶喜は彼の尊者辯自在に告げて説き曰く、

由有想亂倒,故汝心燋熱,

想の乱倒あるに由って、ゆえになんじの心は焦熱す。

遠離彼想已,貪息心便淨。

彼の想を遠離し已りて、貪息まりて心は便ち浄し。

故有餘師復作是說:八想心倒,學未全斷。如是八種,纏由如實見知聖諦方得永斷,離此無餘永斷方便,故此所說不違彼經。為唯見隨眠有多差別、為餘亦有?慢亦有。云何?頌曰:

(論は続けて曰く:)このゆえにその余の師ありて復たこの説を作して曰く、八の想・心の倒は、学は未だ全く断ぜず、と。このようの八種は、纏は如実に聖諦を見知するに由って方に永断を得。これを離れて永断のその余の方便なし。ゆえにここに説く所は彼の経に違せず。ただ見の随眠のみ多くの差別あるか、その余にもまたあるか。慢にもまたあり。どうか。頌に曰く、

慢七九從三,皆通見脩斷,

慢は七・九、三より従る。皆見・修断に通ず。

聖如殺纏等,有脩斷不行。

聖は殺の纏等のごとき、修断にして行ぜざるあり。

論曰:且慢隨眠差別有七,一慢、二過慢、三慢過慢、四我慢、五增上慢、六卑慢、七邪慢。令心高舉總立慢名,行轉不同故分七種。於劣於等如其次第謂己為勝、謂己為等,令心高舉總說為慢。於等於勝如其次第謂勝謂等總名過慢。於勝謂勝名慢過慢。於五取蘊執我我,所令心高舉名為我慢。於未證得殊勝德中謂已證得名增上慢。於多分勝謂己少劣名為卑慢。於無德中謂己有德名為邪慢。然本論說慢類有九:一我勝慢類、二我等慢類、三我劣慢類、四有勝我慢類、五有等我慢類、六有劣我慢類、七無勝我慢類、八無等我慢類、九無劣我慢類。如是九種,從前七慢三中離出。從三者何?謂從前慢、過慢、卑慢如是三慢,若依見生行次有殊成三三類。初三如次,即過慢、慢、卑慢。中三如次,即卑慢、慢、過慢。後三如次,即慢、過慢、卑慢。於多分勝謂己少劣,卑慢可成,有高處故。無劣我慢高處是何?謂於如是自所愛樂勝有情聚,雖於己身知極下劣而自尊重。如是且依《發智論》釋。依《品類足》釋慢類者,且我勝慢從三慢出,謂慢、過慢、慢過慢三。由觀劣等勝境別故。如是七慢何所斷耶?一切皆通見修所斷。諸脩所斷,聖未斷時為可現行?此不決定,謂有脩所斷而聖定不行,如殺生纏是脩所斷,而諸聖者必不現行。殺生纏者,顯由此惑發起故思斷眾生命。等言為顯盜、婬、誑纏,無有愛全、有愛一分。無有名何法?謂三界無常,於此貪求,名無有愛。有愛一分,謂願當為藹羅筏拏大龍王等。此諸纏愛一切皆緣脩所斷故,唯脩所斷。已說慢類等,有是脩所斷,何緣聖者未斷不起?頌曰:

論に曰く:且つ慢の随眠は差別あって七あり。一は慢、二は過慢、三は慢過慢、四は我慢、五は増上慢、六は卑慢、七は邪慢。心をして高擧せしむるを総じて慢の名を立つ。行の転ずる同じからざるがゆえに七種に分かつ。劣に於いて等に於いて、その次第のごとく己を勝と謂い、己を等と謂い、心をして高擧せしむるを総じて説いて慢と為す。等に於いて勝に於いて、その次第のごとく勝と謂い等と謂うを総じて過慢と名づく。勝に於いて勝と謂うを慢過慢と名づく。五取蘊に於いて我・我所を執して心をして高擧せしむるを我慢と名づく。未だ証得せざる殊勝の徳の中に於いて已に証得したりと謂うを増上慢と名づく。多分の勝に於いて己を少劣と謂うを卑慢と名づく。徳なき中に於いて己に徳ありと謂うを邪慢と名づく。しかし本論は慢類に九あると説く。一は我勝慢類、二は我等慢類、三は我劣慢類、四は有勝我慢類、五は有等我慢類、六は有劣我慢類、七は無勝我慢類、八は無等我慢類、九は無劣我慢類。このようの九種は前の七慢の中の三より離れ出づ。三より従るとは何ぞ。いわゆる前の慢・過慢・卑慢のこのようの三慢より、もし見の生ずる行の次に殊あるに依って三三の類を成ず。初の三は次第のごとくすなわち過慢・慢・卑慢。中の三は次第のごとくすなわち卑慢・慢・過慢。後の三は次第のごとくすなわち慢・過慢・卑慢。多分の勝に於いて己を少劣と謂うは卑慢成すべし。高き処あるがゆえに。無劣我慢の高き処は何ぞ。いわゆるこのようの自ら愛楽する所の勝れる有情聚に於いて、己身に於いて極めて下劣なるを知ると雖も、しかし自ら尊重す。このように且つ《発智論》に依って釋す。《品類足》に依って慢類を釋すれば、且つ我勝慢は三慢より出づ。いわゆる慢・過慢・慢過慢の三。劣・等・勝の境の別を観ずるに由るがゆえに。このようの七慢は何の断ずる所か。一切皆見・修の断ずる所に通ず。諸の修所断は、聖の未だ断ぜざる時、現行すべきか。これは決定せず。いわゆる修所断にして聖は定めて行ぜざるあり。殺生の纏のごときは是れ修所断にして、諸の聖者は必ず現行せず。殺生の纏とは、明かにこの惑に由って故思を発起して衆生の命を断ず。等の言は盗・淫・誑の纏、無有愛の全・有愛の一分を顕さんがため。無有とは何の法を名づくか。いわゆる三界の無常。これに於いて貪求すれば、無有愛と名づく。有愛の一分とは、いわゆる願いて当に藹羅筏拏(帝釈の白象)・大龍王等と為らんとす。これらの諸の纏・愛は一切皆修所断に縁ずるがゆえに、ただ修所断。已に慢類等を説いたり。修所断なる有りて、何の縁にか聖者は未だ断ぜずして起さざるか。頌に曰く、

慢類等我慢,惡作中不善,

慢類等の我慢、惡作の中の不善は、

聖有而不起,見疑所增故。

聖に有れども起さず。見・疑の増する所なるがゆえに。

論曰:等言為顯殺等諸纏,無有愛全、有愛一分。此慢類等我慢惡悔,是見及疑親所增長。雖脩所斷,而由見疑背已折故,聖不能起。謂慢類我慢有身見所增,殺生等纏邪見所增,諸無有愛斷見所增,有愛一分常見所增,不善惡作是疑所增,故聖身中皆定不起。九十八隨眠中,幾是遍行、幾非遍行?頌曰:

論に曰く:等の言は殺等の諸の纏、無有愛の全・有愛の一分を顕さんがため。この慢類等の我慢・惡悔は、是れ見および疑の親しく増長する所。修所断なりと雖も、しかし見・疑に由って已に折背せられたるがゆえに、聖は起すこと能わず。いわゆる慢類・我慢は有身見の増す所、殺生等の纏は邪見の増す所、諸の無有愛は断見の増す所、有愛の一分は常見の増す所、不善の惡作は是れ疑の増す所。ゆえに聖の身の中には皆定めて起さず。九十八随眠の中、幾つかは遍行、幾つかは遍行に非ずか。頌に曰く、

見苦集所斷,諸見疑相應,

苦・集を見て断ずる所の諸の見・疑に相応する、

及不共無明,遍行自界地,

および不共の無明は、自界地を遍行す。

於中除二見,餘九能上緣,

その中に二見を除き、その余の九は能く上に縁ず。

除得餘隨行,亦是遍行攝。

得を除きてその余の随行は、もまた遍行の摂。

論曰:唯見苦集所斷見疑,及彼相應不共無明,力能遍行自界地五部故,此十一皆得遍行名,謂七見、二疑、二無明十一。如是十一,於自界地五部諸法遍緣,隨眠為因遍生五部染法。依此三義立遍行名。此中所言遍緣五部,為約漸次、為約頓緣?若漸次緣,餘亦應遍。若頓緣者,誰復普於欲界諸法頓計為勝能得清淨或世間因?不說頓緣自界地一切,然說有力能頓緣五部。雖爾,遍行亦非唯此,以於是處有我見行,是處必應起我愛慢。若於是處淨勝見行,是處必應希求高舉,是則愛慢應亦遍行。若爾,頓緣見脩斷故,應言此二何所斷耶?應言脩所斷,雜緣境故。或應見所斷,見力引故。毘婆沙師作如是說:此二煩惱自相非共,無頓緣力,故非遍行。是故遍行唯此十一,餘非,准此不說自成。於十一中除身邊見,所餘九種亦能上緣。上言正明上界上地,兼顯無有緣下隨眠。此九雖能通緣自上,然理無有自上頓緣。於緣上中且約界說,或唯緣一或二合緣。故本論言:有諸隨眠是欲界繫、緣色界繫,有諸隨眠是欲界繫、緣無色界繫,有諸隨眠是欲界繫、緣色無色界繫,有諸隨眠是色界繫、緣無色界繫。約地分別,準界應思。生在欲界,若緣大梵起有情見或起常見,如何身邊見不緣上界地?不執彼為我我所故、邊見必由身見起故。若爾,計彼為有情常,是何見攝?對法者言:此二非見,是邪智攝。何緣所餘緣彼是見,此亦緣彼而非見耶?以宗為量,故作是說。為遍行體唯是隨眠?不爾。云何?並隨行法。謂上所說十一隨眠並彼隨行皆遍行攝,然除彼得,非一果故。由此故有作是問言:諸遍行隨眠,皆遍行因不?答言:於此應作四句。第一句者,謂未來世遍行隨眠。第二句者,謂過現世彼俱有法。第三第四如理應辯。九十八隨眠中,幾緣有漏、幾緣無漏?頌曰:

論に曰く:ただ苦・集を見て断ずる所の見・疑、および彼に相応する不共の無明は、力能く自界地の五部を遍行するがゆえに、この十一は皆遍行の名を得。いわゆる七見・二疑・二無明の十一。このようの十一は、自界地の五部の諸法を遍く縁じ、随眠を因と為して遍く五部の染法を生ず。この三義に依って遍行の名を立つ。ここに説く所の遍く五部に縁ずるは、漸次に約するか、頓縁に約するか。もし漸次に縁ずれば、その余もまた応に遍くべし。もし頓縁ならば、誰か復た普く欲界の諸法に於いて頓に勝と計りて能く清浄を得或いは世間の因と為さん。頓に自界地の一切に縁ずるとは説かず、しかし力能く頓に五部に縁ずると説く。このようなりと雖も、遍行もまたただこれのみにあらず。是の処に於いて我見の行あらば、是の処に必ず応に我愛・慢を起すべきがゆえに。もし是の処に於いて浄勝の見の行あらば、是の処に必ず応に希求・高擧すべし。是れ則ち愛・慢もまた応に遍行なるべし。もしそうならば、頓に見・修断に縁ずるがゆえに、応に説くべしこの二は何の断ずる所ぞ。応に説くべし修所断。境を雑縁するがゆえに。或いは応に見所断。見の力の引くがゆえに。毘婆沙師はこの説を作して曰く、この二の煩悩は自相にして共にあらず、頓縁の力なし。ゆえに遍行にあらず、と。このゆえに遍行はただこの十一、その余は非ず。これに准じて説かずして自ずから成ず。十一の中、身・辺見を除きて、その余の九種もまた能く上に縁ず。上の言は正しく上界・上地を明かし、兼ねて下に縁ずる随眠なきを顕す。この九は能く通じて自・上に縁ずると雖も、しかし理は自・上を頓縁する有ることなし。上に縁ずる中に於いて且つ界に約して説く。或いはただ一に縁じ或いは二を合せて縁ず。ゆえに本論に説く:諸の随眠ありて是れ欲界繋にして色界繋に縁じ、諸の随眠ありて是れ欲界繋にして無色界繋に縁じ、諸の随眠ありて是れ欲界繋にして色・無色界繋に縁じ、諸の随眠ありて是れ色界繋にして無色界繋に縁ず、と。地に約して分別すれば、界に准じて思うべし。欲界に生じて、もし大梵に縁じて有情見を起し或いは常見を起さば、どうして身・辺見は上界地に縁ぜざるか。彼を執して我・我所と為さざるがゆえ、辺見は必ず身見に由って起るがゆえに。もしそうならば、彼を計りて有情・常と為すは、何の見の摂する所か。対法者の説に、この二は見にあらず、是れ邪智の摂、と。何の縁にかその余の彼に縁ずるは見にして、これもまた彼に縁じて見にあらざるか。宗を以て量と為す。ゆえにこの説を作す。遍行の体はただ随眠のみなるか。そうにはあらず。どうか。併せて随行の法。いわゆる上に説く所の十一随眠は併せて彼の随行も皆遍行の摂。しかし彼の得を除く。一果にあらざるがゆえに。これに由ってこの問を作す有りて説く:諸の遍行随眠は皆遍行因か。答えて説く:これに於いて応に四句を作すべし。第一句はいわゆる未来世の遍行随眠。第二句はいわゆる過・現世の彼に俱なる有法。第三・第四は理のごとく辯ずべし。九十八随眠の中、幾つかは有漏に縁じ、幾つかは無漏に縁ずるか。頌に曰く:

見滅道所斷,邪見疑相應,

滅・道を見て断ずる所、邪見・疑に相応する、

及不共無明,六能緣無漏。

および不共の無明は、六は能く無漏に縁ず。

於中緣滅者,唯緣自地滅,

その中に滅に縁ずるは、ただ自地の滅に縁じ、

緣道六九地,由別治相因。

道に縁ずるは六・九地、別対治・相同の因に由る。

貪瞋慢二取,並非無漏緣,

貪・瞋・慢・二取は、併せて無漏の縁にあらず、

應離境非怨,靜淨勝性故。

応に離れる境にして怨にあらず、静・浄・勝の性なるがゆえに。

論曰:唯見滅道所斷邪見、疑,彼相應不共無明,各三成六,能緣無漏。餘緣有漏,准此自成。於此六中緣滅諦者,各以自地滅為所緣,滅互相望非因果故。謂欲界繫三種隨眠,唯緣欲界諸行擇滅。乃至有頂三種隨眠,唯緣有頂諸行擇滅。緣道諦者緣六九地,謂欲界繫三種隨眠,唯緣六地法智品道,若治欲界、若能治餘,皆彼所緣,以類同故。色無色界八地各有三種隨眠,一一唯能通緣九地類智品道,若治自地、若能治餘,皆彼所緣,以類同故。何故緣滅自地非餘?緣道便通六九同類,以諸地道互相因故。雖法類品亦互相因,而類智品不治欲界,故類智品道非欲三所緣。法智品既能治色無色,應為彼八地各三所緣。非此皆能治色無色,苦集法智品非彼對治故。亦非全能治色無色,不能治彼見所斷故。二初無故,非彼所緣。即由此因,顯遍行惑有緣苦集諸地無遮,境互為緣因,非能對治故。何緣貪瞋慢戒禁取見取,見無漏斷非無漏緣?以貪隨眠應捨離故,若緣無漏便非過失,如善法欲不應捨離。緣怨害事起瞋隨眠,滅道非怨故非瞋境。緣麁動事起慢隨眠,滅道寂靜故非慢境。於非淨法執為淨因名戒禁取,滅道真淨,故不應為戒禁取境。於非勝法執為最勝名為見取,滅道真勝,故亦不應為見取境。是故貪等不緣無漏。九十八隨眠中,幾由所緣故隨增、幾由相應故隨增?頌曰:

論に曰く:ただ滅・道を見て断ずる所の邪見・疑、彼に相応する不共の無明は、各々三にして六を成し、能く無漏に縁ず。その余は有漏に縁ず。これに准じて自ずから成ず。この六の中、滅諦に縁ずるは、各々自地の滅を以て所縁と為す。滅は互いに相望めて因果にあらざるがゆえに。いわゆる欲界繋の三種の随眠は、ただ欲界の諸行の択滅に縁ず。乃至有頂の三種の随眠は、ただ有頂の諸行の択滅に縁ず。道諦に縁ずるは六・九地に縁ず。いわゆる欲界繋の三種の随眠は、ただ六地の法智品の道に縁ず。もし欲界を治め、もし能くその余を治すれば、皆彼の所縁。類を同じくするがゆえに。色・無色界の八地に各々三種の随眠ありて、一一はただ能く九地の類智品の道に通じて縁ず。もし自地を治め、もし能くその余を治すれば、皆彼の所縁。類を同じくするがゆえに。何故滅に縁ずるは自地にしてその余にあらざるか。道に縁ずれば便ち六・九の同類に通ず。諸の地道は互いに因たるがゆえに。法・類品もまた互いに因なると雖も、しかし類智品は欲界を治せず。ゆえに類智品の道は欲の三の縁ずる所にあらず。法智品はすでに能く色・無色を治するは、応に彼の八地各々三の縁ずる所と為るべし。これ皆能く色・無色を治するにあらず。苦・集の法智品は彼の対治にあらざるがゆえに。もまた全能く色・無色を治するにあらず。彼の見所断を治すること能わざるがゆえに。二は初めに由るなきがゆえに、彼の縁ずる所にあらず。すなわちこの因に由って、遍行の惑に苦・集の諸地に縁ずるありて遮なきを顕す。境は互いに縁因たり、能く対治するにあらざるがゆえに。何の縁にか貪・瞋・慢・戒禁取・見取は、無漏を見て断ずるに無漏の縁にあらざるか。貪随眠は応に捨離すべきがゆえに。もし無漏に縁ぜば便ち過失にあらず。善法欲の応に捨離すべからざるがごとし。怨害の事に縁じて瞋随眠を起す。滅・道は怨にあらざるがゆえに瞋の境にあらず。麁動の事に縁じて慢随眠を起す。滅・道は寂静なるがゆえに慢の境にあらず。非浄の法に於いて浄因と執するを戒禁取と名づく。滅・道は真浄なるがゆえに、応に戒禁取の境と為るべからず。非勝の法に於いて最勝と執するを見取と名づく。滅・道は真の勝なるがゆえに、もまた応に見取の境と為るべからず。このゆえに貪等は無漏に縁ぜず。九十八随眠の中、幾つかは所縁に由って随増し、幾つかは相応に由って随増するか。頌に曰く、

未斷遍隨眠,於自地一切,

未断の遍・随眠は、自地の一切に於いて、

非遍於自部,所緣故隨增,

遍にあらざるは自部に於いて、所縁に由って随増す。

非無漏上緣,無攝有違故,

無漏・上の縁にあらざるは、摂・有に違するがゆえに、

隨於相應法,相應故隨增。

相応の法に随いて、相応に由って随増す。

論曰:遍行隨眠普於自地五部諸法所緣隨增,以能遍緣自地法故。所餘五部非遍隨眠,所緣隨增唯於自部,唯以自部為所緣故。此據總說。別分別者,六無漏緣、九上緣惑,於所緣境無隨增義。所以者何?無漏上境非所攝受及相違故。謂若有法為此地中身見及愛攝為己有,可有為此身見愛地中所有隨眠所緣隨增理,如衣潤濕埃塵隨住。非諸無漏及上地法,為諸下身見愛攝為己有,故緣彼下惑,非所緣隨增。住下地心求上地等,是善法欲,非謂隨眠。聖道涅槃及上地法與能緣彼下惑相違故,彼二亦無所緣隨增理,如於炎石足不隨住。有說:隨眠是隨順義,非無漏上境,順諸下隨眠,故雖是所緣而無隨增理。如風病者服乾澁藥,病者於藥非所隨增。已約所緣辯隨增義。今次應辯相應隨增。謂隨何隨眠於自相應法,由相應故於彼隨增。諸說隨增,謂至未斷,故初頌首標未斷言。頗有隨眠不緣無漏、不緣上界,而彼隨增但於相應非所緣不?有,謂緣上地諸遍行隨眠。九十八隨眠中,幾不善、幾無記?頌曰:

論に曰く:遍行随眠は普く自地の五部の諸法に於いて所縁随増す。能く遍く自地の法に縁ずるがゆえに。その余の五部は遍随眠にあらず、所縁随増はただ自部に於いてす。ただ自部を以て所縁と為すがゆえに。これは総説に拠る。別に分別すれば、六の無漏縁・九の上縁の惑は、所縁境に於いて随増の義なし。そもそもどうしてか。無漏・上の境は摂受する所にあらずおよび相違するがゆえに。いわゆるもし法ありてこの地の中の身見および愛に摂せられて己が有と為さば、可にこの身見・愛の地の中の所有の随眠の所縁随増の理あるべし。衣の湿いて埃塵の随いて住するがごとし。諸の無漏および上地の法は、諸の下の身見・愛に摂せられて己が有と為るにあらざるがゆえに、彼に縁ずる下惑は所縁随増にあらず。下地の心に住して上地等を求むるは、是れ善法欲なり、随眠を謂うにあらず。聖道・涅槃および上地の法は、能く彼に縁ずる下惑と相違するがゆえに、彼の二もまた所縁随増の理なし。炎石に於いて足の随いて住せざるがごとし。ある人の説に、随眠は是れ随順の義なり。無漏・上の境にあらずして諸の下随眠に順ずれば、ゆえに是れ所縁なりと雖も随増の理なし。風病の者の乾渋の薬を服するがごとき、病者は薬に於いて随増する所にあらず、と。已に所縁に約して随増の義を辯したり。今次に応に相応随増を辯ずべし。いわゆる何の随眠にか随って自ら相応する法に於いて、相応に由って彼に随増す。諸の随増を説くは、至る未断を謂うがゆえに、初の頌の首に未断の言を標す。頗る随眠ありて無漏に縁ぜず上界に縁ぜずして、しかるに彼の随増は但だ相応に於いてして所縁に於いてせざるや。有り。いわゆる上地に縁ずる諸の遍行随眠。九十八随眠の中、幾つかは不善、幾つかは無記か。頌に曰く、

上二界隨眠,及欲身邊見,

上の二界の随眠、および欲の身・辺見は、

彼俱痴無記,此餘皆不善。

彼に俱なる痴は無記、これとその余は皆不善。

論曰:色無色界一切隨眠唯無記性,以染汙法若是不善有苦異熟,苦異熟果上二界無,他逼惱因彼定無故。身邊二見及相應痴,欲界繫者亦無記性。所以者何?此與施等不相違故,為我當樂現在勤脩施戒等故。執斷邊見能順解脫,故世尊說:於諸外道諸見趣中此見最勝,謂我不有、我所亦不有。我當不有、我所當不有。又此二見迷自事故、非欲逼害他有情故。若爾,貪求天上快樂及起我慢,例亦應然。先軌範師作如是說:俱生身見是無記性,如禽獸等身見現行。若分別生是不善性。餘欲界繫一切隨眠,與上相違皆不善性。於上所說不善惑中,幾是不善根、幾非不善根?頌曰:

論に曰く:色・無色界の一切随眠はただ無記の性。染污の法もし不善なれば苦の異熟ありて、苦の異熟果は上の二界に無く、他を逼惱する因は彼に定めて無きがゆえに。身・辺の二見および相応の痴は、欲界繋なるも無記の性。そもそもどうしてか。これ施等と相違せざるがゆえ、我と為して当に楽あらんと現在勤めて施・戒等を修するがゆえに。断辺見を執するは能く解脱に順ずるがゆえに、世尊は説きたまう:諸の外道の諸の見趣の中に於いてこの見は最勝なり。いわゆる我は有らず、我所有もまた有らず。我当に有らず、我所も当に有らず、と。またこの二見は自事に迷うがゆえ、他の有情を逼害せんと欲するにあらざるがゆえに。もしそうならば、天上の快楽を貪求しおよび我慢を起すは、例して応にこのようであるべし。先の軌範師はこの説を作して曰く、俱生の身見は是れ無記の性。禽獣等の身見の現行するがごとし。もし分別に生ずれば是れ不善の性。その余の欲界繋の一切随眠は、上と相違して皆不善の性。上に説く所の不善の惑の中、幾つかは不善根、幾つかは不善根にあらざるか。頌に曰く、

不善根欲界,貪瞋不善痴。

不善根は欲界の、貪・瞋・不善の痴。

論曰:唯欲界繫一切貪瞋及不善痴不善根攝。如其次第,世尊說為貪瞋痴三不善根。性唯不善煩惱,為不善法根立不善根。餘則不爾,所餘煩惱非不善根,義準已成,故頌不說。於上所說無記惑中,幾是無記根、幾非無記根?頌曰:

論に曰く:ただ欲界繋の一切の貪・瞋および不善の痴は不善根の摂。その次第のごとく、世尊は説いて貪・瞋・痴の三不善根と為したまえり。性はただ不善の煩悩、不善法の根と為すに由って不善根を立つ。その余は則ちこのようにはあらず。その余の煩悩は不善根にあらず、義は准じて已に成ず。ゆえに頌は説かず。上に説く所の無記の惑の中、幾つかは無記根、幾つかは無記根にあらざるか。頌に曰く、

無記根有三,無記愛痴慧,

無記根に三あり。無記の愛・痴・慧、

非餘二高故,外方立四種,

その余の二は高転ずるがゆえに非ず。外方は四種を立つ。

中愛見慢痴,三定皆痴故。

中に愛・見・慢・痴、三の定は皆痴に由るがゆえに。

論曰:迦濕彌羅國諸毘婆沙師說無記根亦有三種,謂諸無記愛、痴、慧三,下至異熟生亦無記根攝。何緣疑、慢非無記根?疑二趣轉,慢高轉故。彼師謂疑二趣相轉,性動搖故,不應立根。慢於所緣高舉相轉,異根法故,亦不立根。為根必應堅住下轉,世間共了,故彼非根。外方諸師立此有四,謂諸無記愛、見、慢、痴。無記名中遮善惡故,何緣此四立無記根?以諸愚夫脩上定者,不過依託愛見慢三,此三皆依無明力轉,故立此四為無記根。諸契經中說十四無記事,彼亦是此無記攝耶?不爾。云何?彼經但約應捨置問立無記名,謂問記門總有四種。何等為四?頌曰:

論に曰く:迦湿弥羅国の諸の毘婆沙師は説く、無記根もまた三種あり。いわゆる諸の無記の愛・痴・慧の三、下は異熟生に至るまでもまた無記根の摂。何の縁にか疑・慢は無記根にあらざるか。疑は二趣に転じ、慢は高く転ずるがゆえに。彼の師は謂う、疑は二趣の相に転ずるがゆえに性は動揺す。ゆえに応に根を立つべからず。慢は所縁に於いて高擧の相に転じ、根の法に異なるがゆえに、もまた根を立てず。根と為るは必ず応に堅く住して下に転ずべし。世間に共に了とす。ゆえに彼は根にあらず、と。外方の諸師はこれを立てて四あり。いわゆる諸の無記の愛・見・慢・痴。無記の名の中に善悪を遮るがゆえに、何の縁にかこの四を立てて無記根と為すか。諸の愚夫の上定を修するは、愛・見・慢の三に依托するを過ぎず、この三は皆無明の力に依って転ずるがゆえに、この四を立てて無記根と為す。諸の契経の中に説く十四の無記事、彼もまたこの無記の摂なるか。そうにはあらず。どうか。彼の経は但だ応に捨置すべき問に約して無記の名を立つ。いわゆる問記の門は総じて四種あり。何等か四と為すか。頌に曰く、

應一向分別,反詰捨置記,

応に一向・分別・反詰・捨置して記すべし。

如死生殊勝,我蘊一異等。

死・生・殊勝・我・蘊の一・異等のごとし。

論曰:且問四者,一應一向記、二應分別記、三應反詰記、四應捨置記。此四如次。如有問者,問死生勝我一異等。記有四者,謂答四問。若作是問:一切有情皆當死不?應一向記一切有情皆定當死。若作是問:一切死者皆當生不?應分別記:有煩惱者當生非餘。若作是問:人為勝劣?應反詰記:為何所方?若言方天,應記人劣;若言方下,應記人勝。若作是問:蘊與有情為一為異?應捨置記:有情無實故,一異性不成,如石女兒白黑等性。如何捨置而立記名?以記彼問言,此不應記故。有作是說:彼第二問,亦應一向記,非一切當生。然問者言:一切死者皆當生不?理應分別記彼所問總答不成,雖令總知仍未解故。又作是說:彼第三問亦應一向記,人亦勝亦劣,所待異故,如識果因。然彼問者一向為問,非一向記故,應成分別記。但此應詰問意所方,故此名為應反詰記。又作是說:彼第四問既全不記蘊與有情若異若一,云何名記?然彼所問,理應捨置。記言應捨置,如何不名記?對法諸師作如是說:一向記者,若有問言:世尊是如來、應、正等覺耶?所說法要是善說耶?諸弟子眾行妙行耶?色乃至識皆無常耶?苦乃至道善施設耶?應一向記,契實義故。分別記者,若有直心請言:願尊為我說法。應為分別:法有眾多,謂去來今,欲說何者?若言為我說過去法。應復分別:過去法中亦有眾多,色乃至識。若請說色,應分別言:色中有三,善、惡、無記。若請說善,應分別言:善中有七,謂離殺生,廣說乃至離雜穢語。若彼復請說離殺生,應分別言:此有三種,謂無貪、瞋、痴三善根所發。若彼請說無貪發者,應分別言:此復有二,謂表、無表,欲說何者?反詰記者,若有諂心請言:願尊為我說法。應反詰彼:法有眾多,欲說何者?不應分別。乃至令彼默然而住,或令自記無便求非。

論に曰く:且つ問に四あり。一は応に一向に記すべし、二は応に分別して記すべし、三は応に反詰して記すべし、四は応に捨置して記すべし。この四は次第のごとし。問有るがごときは、死・生・勝・我の一・異等を問う。記に四有るは、いわゆる四問に答う。もしこの問を作さば、一切有情は皆当に死せんや。応に一向に記すべし、一切有情は皆定めて当に死せん、と。もしこの問を作さば、一切の死者は皆当に生せんや。応に分別して記すべし、煩悩あるは当に生じ、その余にあらず、と。もしこの問を作さば、人は勝か劣か。応に反詰して記すべし、何の所にか方せんや。もし天に方すと説かば、応に人は劣と記すべし。もし下に方すと説かば、応に人は勝と記すべし。もしこの問を作さば、蘊と有情とは一か異か。応に捨置して記すべし、有情は実なきがゆえに、一・異の性は成ぜず。石女の児の白・黒等の性のごとし。どうして捨置して記の名を立つるか。彼の問に記して説く、これは応に記すべからず、と言うがゆえに。あるはこの説を作して曰く、彼の第二の問もまた応に一向に記すべし。一切が当に生ずるにあらざるがゆえに。しかし問者の説く、一切の死者は皆当に生せんや。理は応に分別して彼の問う所に記すべし、総答は成ぜざるがゆえに。総じて知らしむると雖もなお未だ解せざるがゆえに。またこの説を作して曰く、彼の第三の問もまた応に一向に記すべし。人もまた勝なり劣なり、待つ所の異なるがゆえに。識・果・因のごとし。しかし彼の問者は一向を以て問と為す。一向の記にあらざるがゆえに、応に分別記を成ずべし。但だこれは応に問意の方る所を詰るべし。ゆえにこれを名づけて応に反詰して記すべしと為す。またこの説を作して曰く、彼の第四の問はすでに全く蘊と有情の若しは異若しは一を記せず、どうして記と名づくか。しかし彼の問う所は、理は応に捨置すべし。記言は応に捨置すべし、どうして記と名づけざらんや。対法の諸師はこの説を作して曰く、一向に記すべきは、もし問う有りて説かば、世尊は是れ如来・応・正等覚か。説法の要是れ善説か。諸の弟子衆は妙行を行ずるか。色乃至識は皆無常か。苦乃至道は善く施設するか。応に一向に記すべし。実義に契うがゆえに。分別記すべきは、もし直心に請して説かば、願わくは尊、我が為に法を説きたまえ。応に分別すべし、法に众多あり。いわゆる去・来・今、何れを説かんと欲するか。もし我が為に過去の法を説けと説かば、応に復た分別すべし。過去の法の中にもまた众多あり。色乃至識。もし色を説かんと請わば、応に分別して説くべし、色の中に三あり。善・悪・無記。もし善を説かんと請わば、応に分別して説くべし、善の中に七あり。いわゆる殺生を離る、広く説いて乃至雑穢語を離るるに至る。もし彼復た殺生を離るるを説かんと請わば、応に分別して説くべし、これに三種あり。いわゆる無貪・瞋・痴の三善根の発する所。もし彼が無貪の発するを説かんと請わば、応に分別して説くべし、これ復た二あり。いわゆる表・無表、何れを説かんと欲するか、と。反詰記すべきは、もし諂心を以て請して説かば、願わくは尊、我が為に法を説きたまえ。応に彼に反詰すべし、法に众多あり、何れを説かんと欲するか。応に分別すべからず。乃至彼をして黙然として住せしめ、或いは自ら記せざるをして便ち非を求めしむ。

豈不二中都無有問,唯有請說,亦無有記唯反詰言欲說何者,如何此二成問記耶?如有請言為我說道,豈非問道?即由反詰記彼所問,豈非記道?若爾,應俱是反詰記。不爾,問意直諂有殊,記有分別無分別故。捨置記者,若有問言:世為有邊、為無邊等?此應捨置不應為說。今依契經辯問記相。如大眾部契經中言:苾芻當知,問記有四。何等為四?謂或有問應一向記,乃至有問但應捨置。云何有問應一向記?謂問:諸行皆無常耶?此問名為應一向記。云何有問應分別記?謂若有問:諸有故思造作業已為受何果?此問名為應分別記。云何有問應反詰記?謂若有問:士夫想與我為一為異耶?應反詰言:汝依何我作如是問?若言依麁我,應記與想異。此問名為應反詰記。云何有問但應捨置?謂若有問:世為常、無常、亦常亦無常、非常非無常?世為有邊、無邊、亦有邊亦無邊、非有邊非無邊?如來死後為有、非有、亦有亦非有、非有非非有?為命者即身、為命者異身。此問名為但應捨置。

(論は続けて曰く:)豈に二つの中に問有ることなく、ただ請説あるのみ、また記有らずしてただ反詰して何れを説かんと欲するかと言うのみ、どうしてこの二は問記を成さんや。もし請う有りて我が為に道を説けと説かば、豈に道を問うにあらずや。すなわち反詰に由って彼の問う所に記すれば、豈に道に記するにあらずや。もしそうならば、応に俱に是れ反詰記なるべし。そうにはあらず。問意の直・諂に殊あり、記に分別・無分別あるがゆえに。捨置記すべきは、もし問う有りて説かば、世は辺ありや、辺なきや等。これは応に捨置すべし、応に為に説くべからず。今契経に依って問記の相を辯ず。大衆部の契経の中に説くがごとく:苾芻当に知るべし、問記に四あり。何等か四と為すか。いわゆる或いは問ありて応に一向に記すべし、乃至問ありて但だ応に捨置すべし。どうして問ありて応に一向に記すべきか。いわゆる問う、諸行は皆無常か。此の問を名づけて応に一向に記すべしと為す。どうして問ありて応に分別して記すべきか。いわゆるもし問う有り、諸の故思の造作業は已に何の果を受くるや。此の問を名づけて応に分別して記すべしと為す。どうして問ありて応に反詰して記すべきか。いわゆるもし問う有り、士夫の想と我とは一か異か。応に反詰して説くべし、汝は何の我に依ってかこの問を作す。もし麁我に依ると説かば、応に想と異なると記すべし。此の問を名づけて応に反詰して記すべしと為す。どうして問ありて但だ応に捨置すべきか。いわゆるもし問う有り、世は常か、無常か、亦た常にして亦た無常か、非常にして非無常か。世は辺ありか、辺なしか、亦た辺ありて亦た辺なしか、非有辺にして非無辺か。如来は死後に有りか、非有か、亦た有りて亦た非有か、非有にして非非有か。命者は即ち身か、命者は身に異なるか。此の問を名づけて但だ応に捨置すべしと為す。

説一切有部倶舎論 巻第十九

アビダルマ倶舎論 巻第二十 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別隨眠品第五之二

分別随眠品 第五之二

諸有情類於此事中隨眠隨增,名繫此事。應說過去現在未來何等隨眠能繫何事?頌曰:

諸の有情類はこの事の中に於いて随眠随増するを、名づけてこの事に繋すと為す。応に説くべし、過去・現在・未来に何等の随眠か能く何事を繋するか。頌に曰く、

若於此事中,未斷貪瞋慢,

もしこの事の中に於いて、未だ断ぜざる貪・瞋・慢、

過現若已起,未來意遍行,

過・現はもし已に起らば、未来の意は遍行し、

五可生自世,不生亦遍行,

五識は自世を生ずべく、生ぜざるもまた遍行し、

餘過未遍行,現正緣能繫。

その余は過・未に遍行し、現は正に縁じて能く繋す。

論曰:且諸隨眠總有二種:一者自相,謂貪、瞋、慢;二者共相,謂見、疑、痴。事雖有多,此說所繫。如應未斷,流至後門。若此事中有貪瞋慢,於過去世已生未斷,現在已生能繫此事。以貪瞋慢是自相惑,非諸有情定遍起故。若未來世意識相應貪瞋慢三遍於三世,乃至未斷皆能繫縛。未來五識相應貪瞋,若未斷可生,唯繫未來世。未來五識相應貪瞋,若未斷不生,亦能繫三世。所餘一切見疑無明,去來未斷遍縛三世。由此三種是共相惑,一切有情俱遍縛故。若現在世正緣境時,隨其所應能繫此事。應辯諸事過去未來,為實有無方可說繫。若實是有,則一切行恆時有故應說為常;若實是無,如何可說有能所繫及離繫耶?毘婆沙師定立實有,然彼諸行不名為常,由與有為諸相合故。為此所立決定增明,應略標宗顯其理趣。頌曰:

論に曰く:且つ諸の随眠は総じて二種あり。一は自相、いわゆる貪・瞋・慢。二は共相、いわゆる見・疑・痴。事は多しと雖も、これは繋する所を説く。応に未だ断ぜざるがごとく、後門に流る。もしこの事の中に貪・瞋・慢ありて、過去世に於いて已に生じて未だ断ぜず、現在已に生じて能くこの事を繋す。貪・瞋・慢は是れ自相の惑にして、諸の有情は定めて遍く起るにあらざるがゆえに。もし未来世の意識に相応する貪・瞋・慢は三世に遍して、乃至未だ断ぜざるは皆能く繋縛す。未来の五識に相応する貪・瞋は、もし未だ断ぜずして生ずべきならば、ただ未来世を繋す。未来の五識に相応する貪・瞋は、もし未だ断ぜずして生ぜざれば、もまた能く三世を繋す。その余の一切の見・疑・無明は、去・来に未だ断ぜざれば遍く三世を縛す。この三種に由って是れ共相の惑にして、一切有情は俱に遍く縛せらるるがゆえに。もし現在世に正に境に縁ずる時は、その応ずる所に随って能くこの事を繋す。応に諸の事の過去・未来を辯ずべし、実に有無の方あらば乃ち繋を説くべし。もし実に是れ有ならば、則ち一切の行は恒に時あるがゆえに応に常と説くべし。もし実に是れ無ならば、どうして能繋・所繋および離繋あると説くべきか。毘婆沙師は定めて実有を立つ。しかし彼の諸行は常と名づけず。有為の諸相と合するに由るがゆえに。この為に立てる所は決定して増明なり。応に略して宗を標してその理趣を顕すべし。頌に曰く、

三世有由說,二有境果故,

三世有は説くに由り、二は境・果あるがゆえに、

說三世有故,許說一切有。

三世有を説くがゆえに、説一切有を許す。

論曰:三世實有。所以者何?由契經中世尊說故。謂世尊說:苾芻當知,若過去色非有,不應多聞聖弟子眾於過去色勤脩厭捨。以過去色是有故,應多聞聖弟子眾於過去色勤脩厭捨。若未來色非有,不應多聞聖弟子眾於未來色勤斷欣求。以未來色是有故,應多聞聖弟子眾於未來色勤斷欣求。又具二緣識方生故,謂契經說:識二緣生。其二者何?謂眼及色。廣說乃至意及諸法。若去來世非實有者,能緣彼識應闕二緣。已依聖教證去來有,當依正理證有去來,以識起時必有境故。謂必有境,識乃得生,無則不生,其理決定。若去來世境體實無,是則應有無所緣識,所緣無故識亦應無。又已謝業有當果故,謂若實無過去體者,善惡二業當果應無,非果生時有現因在。由此教理,毘婆沙師定立去來二世實有。若自謂是說一切有宗,決定應許實有去來世,以說三世皆定實有故,許是說一切有宗。謂若有人說三世實有,方許彼是說一切有宗。若人唯說有現在世及過去世未與果業,說無未來及過去世已與果業,彼可許為分別說部,非此部攝。今此部中差別有幾?誰所立世最善可依?頌曰:

論に曰く:三世は実有。そもそもどうしてか。契経の中に世尊の説きたまえるに由るがゆえに。いわゆる世尊は説きたまう:苾芻当に知るべし、もし過去の色は有にあらざれば、応に多聞の聖弟子衆は過去の色に於いて勤めて厭捨を修せざるべし。過去の色は有なるがゆえに、応に多聞の聖弟子衆は過去の色に於いて勤めて厭捨を修す。もし未来の色は有にあらざれば、応に多聞の聖弟子衆は未来の色に於いて勤めて欣求を断ぜざるべし。未来の色は有なるがゆえに、応に多聞の聖弟子衆は未来の色に於いて勤めて欣求を断ず。また二縁を具えて識乃ち生ずるがゆえに。いわゆる契経に説く、識は二縁に由って生ず。その二とは何ぞ。いわゆる眼および色。広く説いて乃至意および諸の法に至る。もし去・来世は実有にあらざれば、彼に縁ずる能縁の識は応に二縁を缺くべし。已に聖教に依って去・来有るを証したり。当に正理に依って去・来有るを証すべし。識の起る時は必ず境あるがゆえに。いわゆる必ず境ありて識乃ち生ずるを得、無ければ生ぜず。その理は決定す。もし去・来世の境の体は実に無ならば、是れ則ち応に所縁なき識有るべし。所縁無きがゆえに識もまた応に無かるべし。また已謝の業は当果あるがゆえに。いわゆるもし実に過去の体無ければ、善・悪の二業の当果は応に無かるべし。果の生ずる時に現因在るにあらざるがゆえに。この教理に由って、毘婆沙師は定めて去・来の二世は実有と立つ。もし自ら是れ説一切有宗と謂わば、決定して応に実有の去・来世を許すべし。三世皆定めて実有と説くがゆえに、許して是れ説一切有宗と為す。いわゆるもし人ありて三世実有と説かば、方に彼を許して是れ説一切有宗と為す。もし人ただ現在世および過去世の未だ果を与えざる業有りと説き、未来および過去世の已に果を与えたる業は無と説かば、彼は許して分別説部と為すべし。此の部の摂にあらず。今此の部の中、差別に幾らか有るか。誰の立てる所の世か最も善くして依るべきか。頌に曰く、

此中有四種,類相位待異,

此の中に四種あり。類・相・位・待に異あり。

第三約作用,立世最為善。

第三は作用に約し、世を立てる最も善なり。

論曰:尊者法救作如是說:由類不同,三世有異。彼謂諸法行於世時,由類有殊非體有異。如破金器作餘物時,形雖有殊而體無異。又如乳變成於酪時,捨味勢等,非捨顯色。如是諸法行於世時,從未來至現在、從現在入過去,唯捨得類,非捨得體。尊者妙音作如是說:由相不同,三世有異。彼謂諸法行於世時,過去正與過去相合,而不名為離現未相。未來正與未來相合,而不名為離過現相。現在正與現在相合,而不名為離過未相。如人正染一妻室時,於餘姬媵不名離染。尊者世友作如是說:由位不同,三世有異。彼謂諸法行於世時,至位位中作異異說,由位有別非體有異。如運一籌,置一名一、置百名百、置千名千。尊者覺天作如是說:由待有別,三世有異。彼謂諸法行於世時,前後相待立名有異,如一女人名母名女。此四種說一切有中,第一執法有轉變故,應置數論外道朋中。第二所立世相雜亂,三世皆有三世相故。人於妻室貪現行時,於餘境貪唯有成就。現無貪起,何義為同?第四所立前後相待,一世法中應有三世。謂過去世前後剎那應名去來,中為現在。未來現在類亦應然。故此四中第三最善,以約作用位有差別,由位不同立世有異。彼謂諸法作用未有名為未來,有作用時名為現在,作用已滅名為過去,非體有殊。此已具知。彼應復說,若去來世體亦實有,應名現在,何謂去來?豈不前言約作用立。若爾,現在有眼等根,彼同分攝有何作用?彼豈不能取果與果?是則過去同類因等既能與果,應有作用。有半作用,世相應雜。已略推徵,次當廣破。頌曰:

論に曰く:尊者法救はこの説を作して曰く、類の同じからざるに由って、三世に異あり。彼は謂う、諸法は世に行ずる時、類に殊あるに由って体に異あるに非ず。金の器を破りてその余の物を作る時、形は殊あると雖も体に異なきがごとし。また乳が変じて酪と為る時、味・勢等を捨てて顕色を捨てざるがごとし。このように諸法は世に行ずる時、未来より現在に至り、現在より過去に入るに、ただ類を捨得す、体を捨得するに非ず。尊者妙音はこの説を作して曰く、相の同じからざるに由って三世に異あり。彼は謂う、諸法は世に行ずる時、過去は正に過去の相と合するも、現・未の相を離ると名づけず。未来は正に未来の相と合するも、過・現の相を離ると名づけず。現在は正に現在の相と合するも、過・未の相を離ると名づけず。人が正に一の妻室を染ずる時、その余の姫媵に於いて染を離ると名づけざるがごとし。尊者世友はこの説を作して曰く、位の同じからざるに由って三世に異あり。彼は謂う、諸法は世に行ずる時、位の中に至りて異異の説を作す。位の別あるに由って体に異あるに非ず。一の筹を運らすがごとき、一に置けば一と名づき、百に置けば百と名づき、千に置けば千と名づく。尊者覚天はこの説を作して曰く、待に別あるに由って三世に異あり。彼は謂う、諸法は世に行ずる時、前後相待して名を立てて異あり。一の女人が母と名づき女と名づくがごとし。此の四種の説一切有の中、第一は法に転変あるを執するがゆえに、応に数論外道の朋の中に置くべし。第二の立てる所の世相は雑乱す。三世皆三世の相あるがゆえに。人が妻室に於いて貪現行する時、その余の境に於いて貪はただ成就あるのみ。現に貪の起ること無きに、何の義を以てか同じと為さん。第四の立てる所は前後相待す。一世の法の中に応に三世あるべし。いわゆる過去世の前後の刹那は応に去・来と名づくべし。中は現在。未来・現在の類もまた応にこのようであるべし。ゆえに此の四の中、第三は最も善なり。作用に約して位に差別あり、位の同じからざるに由って世を立てて異あるを以て。彼は謂う、諸法の作用未だ有らざるを未来と名づけ、作用ある時を現在と名づけ、作用已に滅するを過去と名づく。体に殊あるに非ず。これ已に具に知れたり。彼は応に復た説くべし、もし去・来世の体もまた実有ならば、応に現在と名づくべし。何を去・来と謂うか。豈に前に言わずや、作用に約して立つと。もしそうならば、現在に眼等の根有りて、彼の同分の摂するは何の作用かある。彼は豈に果を取り果を与うること能わざるか。是れ則ち過去の同類因等はすでに能く果を与うるは、応に作用あるべし。半作用有れば、世相は応に雑なるべし。已に略して推征したり。次に当に広く破るべし。頌に曰く、

何礙用云何?無異世便壞,

何がか碍げる、用は如何。異なくば世は便ち壊れ、

有誰未生滅?此法性甚深。

誰がか未だ生せず滅せざらん。此の法性は甚だ深し。

論曰:應說若法自體恆有,應一切時能起作用,以何礙力令此法體所起作用時有時無?若謂眾緣不和合者,此救非理,許常有故。又此作用云何得說為去來今?豈作用中而得更立有餘作用?若此作用非去來今而復說言作用是有,則無為故應常非無,故不應言作用已滅,及此未有法名去來。若許作用異法體者,可有此失,然無有異,故不應言有此過失。若爾,所立世義便壞,謂若作用即是法體,體既恆有用亦應然。何得有時名為過未?故彼所立世義不成。何為不成?以有為法未已生名未來,若已生未已滅名現在,若已滅名過去。彼復應說,若如現在法體實有,去來亦然,誰未已生?誰復已滅?謂有為法體實恆有,如何可得成,未已生已滅。先何所闕?彼未有故,名未已生。後復闕何?彼已無故,名為已滅。故不許法本無今有、有已還無,則三世義應一切種皆不成立。然彼所說,恆與有為諸相合故。行非常者,此但有虛言,生滅理無故。許體恆有說性非常,如是義言所未曾有。依如是義,故有頌言:

論に曰く:応に説くべし、もし法の自体は恒に有なれば、応に一切の時に能く作用を起すべし。何の碍力を以てか此の法体の起す所の作用をして時有り時無からしむるか。もし衆縁の和合せざると謂わば、此の救は理にあらず。常有を許すがゆえに。また此の作用はどうして去・来・今と説くことを得ん。豈に作用の中に於いて更にその余の作用有りと立つることを得んや。もし此の作用は去・来・今にあらずして復た説いて作用は有りと言わば、則ち無為のゆえに応に常にして無ならず。ゆえに応に説くべからず、作用已に滅したり、および此の未だ有らざる法を去・来と名づく、と。もし作用は法体に異なると許さば、此の失有るべし。しかし異有ることなし。ゆえに応に此の過失有りと説くべからず。もしそうならば、立てる所の世義は便ち壊る。いわゆるもし作用はすなわち法体なれば、体はすでに恒に有なるは用もまた応にこのようであるべし。何を以てか時有りて過・未と名づくことを得ん。ゆえに彼の立てる所の世義は成ぜず。何を以てか成ぜざる。有為の法は未だ已に生ぜざるを未来と名づけ、もし已に生じて未だ已に滅せざるを現在と名づけ、もし已に滅したるを過去と名づくるを以て。彼は復た応に説くべし、もし現在の法の体の実有なるがごとく、去・来もまたこのようには、誰がか未だ已に生ぜざらん。誰か復た已に滅せり。いわゆる有為の法の体は実に恒に有なれば、どうして未だ已に生ぜず已に滅せずと成ることを得ん。先に何を缺くか。彼の未だ有らざるがゆえに、未だ已に生ぜずと名づく。後に復た何を缺くか。彼の已に無なるがゆえに、已に滅せりと名づく。ゆえに法は本無くして今有り、有りて已に還た無と許さざれば、則ち三世の義は応に一切種に皆成り立たざるべし。しかし彼の説く所、恒に有為の諸相と合するがゆえに、行は常に非ず。これは但だ虚言あるのみ。生滅の理無きがゆえに。体の恒有を許して性の非常を説く、此のようの義言は未だ曾て有らざるなり。此のようの義に依って、ゆえに頌有りて説く:

許法體恆有,而說性非常,

法体の恒有を許し、しかも性の非常を説き、

性體復無別,此真自在作。

性・体は復た別なきは、此れ真に自在の作なり。

又彼所言,世尊說故去來二世體實有者,我等亦說有去來世。謂過去世曾有名有,未來當有,有果因故。依如是義說有去來,非謂去來如現實有。誰言彼有如現在世?非如現世彼有云何?彼有去來二世自性。此復應詰:若俱是有,如何可言是去來性故說彼有?但據曾當因果二性,非體實有。世尊為遮謗因果見,據曾當義說有去來,有聲通顯有無法故。如世間說,有燈先無、有燈後無。又如有言:有燈已滅,非我今滅。說有去來,其義亦應爾。若不爾者,去來性不成。若爾,何緣世尊依彼杖髻外道說業過去盡滅變壞而猶是有。豈彼不許業曾有性?而今世尊重為說有,依彼所引現相續中與果功能密說為有。若不爾者,彼過去業現實有性,過去豈成?理必應爾。以薄伽梵於勝義空契經中說:眼根生位無所從來,眼根滅時無所造集。本無今有、有已還無。去來眼根若實有者,經不應說本無等言。若謂此言依現世說,此救非理,以現世性與彼眼根體無別故。若許現世本無今有、有已還無,是則眼根去來無體義已成立。又彼所說,要具二緣識方生故。去來二世體實有者,應共尋思,意法為緣生意識者,為法如意作能生緣?為法但能作所緣境?若法如意作能生緣,如何未來百千劫後當有彼法?或當亦無為能生緣生今時識。又涅槃性違一切生,立為能生,不應正理。若法但能為所緣境,我說過未亦是所緣,若無如何成所緣境?我說彼有,如成所緣。如何成所緣?謂曾有、當有。非憶過去色受等時,如現分明觀彼為有,但追憶彼曾有之相;逆觀未來當有亦爾,謂如曾現在所領色相,如是追憶過去為有,亦如當現在所領色相,如是逆觀未來為有。若如現有應成現世。若體現無,則應許有緣無境識,其理自成。若謂去來極微散亂有而非現,理亦不然,取彼相時非散亂故。又若彼色有同現在,唯有極微散亂為異,則極微色其體應常。

(論は続けて曰く:)また彼の説く所、世尊の説きたまえるがゆえに去・来の二世の体は実有とせば、我等もまた去・来世有りと説く。いわゆる過去世は曾て有りと名づき、未来は当に有らん。果・因有るがゆえに。此のようの義に依って去・来有りと説く。去・来は現のごとく実有を謂うに非ず。誰か彼の現在の世のごとく有りと説くか。現世のごとくあらざれば彼の有は如何。彼は去・来二世の自性有り。これ復た応に詰るべし、もし俱に是れ有なれば、どうして是れ去・来の性と説くべきか。ゆえに彼の有を説くや。但だ曾・当の因果の二性に拠るのみ、体の実有に非ず。世尊は因果を謗ずる見を遮らんが為に、曾・当の義に拠って去・来有りと説く。有の声は有無の法を通じて顕すがゆえに。世間の説くがごとく、燈先ず無き有り、燈後に無き有り。また言有るがごとく、燈已に滅す有り、我が今滅するに非ず。去・来有りと説く、その義もまた応にこのようであるべし。もしこのようにはあらざれば、去・来の性は成ぜず。もしそうならば、何の縁にか世尊は彼の杖髻外道(外道論師の名)に依って業は過去に尽き滅し変壊せりと雖もなお是れ有りと説きたまえるか。豈に彼は業の曾有の性を許さざらんや。而も世尊は重ねて為に有りと説く。彼の引く所の現の相続の中の果を与うる功能に依って密に有と説く。もしこのようにはあらざれば、彼の過去の業は現に実有の性なり、過去豈に成らんや。理は必ず応にこのようであるべし。薄伽梵が勝義空契経の中に説きたまえるを以て:眼根は生ずる位に於いて来る所無く、眼根は滅する時に造集する所無し。本無くして今有り、有りて已に還た無。去・来の眼根もし実有ならば、経は応に本無等の言を説かざるべし。もし此の言は現世に依って説くと謂わば、此の救は理に非ず。現世の性と彼の眼根の体と別無きがゆえに。もし現世は本無くして今有り、有りて已に還た無を許さば、是れ則ち眼根の去・来は体無きの義已に成り立てり。また彼の説く所、要ずるに二縁を具えて識乃ち生ずるがゆえに、去・来二世の体は実有とせば、応に共に尋思すべし。意・法を縁として意識を生ずれば、法は意のごとく能生の縁を作すか。法は但だ能く所縁境を作すか。もし法は意のごとく能生の縁を作せば、如何にして未来の百千劫の後に当に彼の法有らん。或いは当にも無為は能生の縁にして今時の識を生ぜしめん。また涅槃の性は一切の生に違す。能生と立つるは、応に正理にあらず。もし法は但だ能く所縁境と為るのみなれば、我は過・未もまた所縁と説く。無なれば如何にして所縁境と成らん。我は彼の有を説く、成る所縁のごとし。如何にして所縁と成るか。いわゆる曾有・当有。過去の色・受等を憶うる時に、現の分明なるがごとく彼を観じて有と為すに非ず。但だ彼の曾有の相を追憶す。未来を逆観して当有なるもまたこのよう。いわゆる曾て現在所領の色相のごとく、此のように追憶して過去を有と為す。また当に現在に所領の色相のごとく、此のように逆観して未来を有と為す。もし現有のごときは応に現世を成ずべし。もし体は現無なれば、則ち応に無境に縁ずる識有りと許すべし。その理もまた自ずから成ず。もし去・来は極微の散乱して有りて現に非ずと謂わば、理もまたこのようにはあらず。彼の相を取る時は散乱に非ざるがゆえに。またもし彼の色は現在と同じく、ただ極微の散乱を以て異と為さば、則ち極微の色はその体は応に常なるべし。

又色唯應極微聚散,竟無少分可名生滅。是則遵崇邪命者論,棄背善逝所說契經。如契經說:眼根生位無所從來,乃至廣說,又非受等極微集成。如何可言去來散亂?然於受等追憶逆觀,亦如未滅已生時相。若如現有體應是常,若體現無,還應許有緣無境識,理亦自成。若體全無是所緣者,第十三處應是所緣,諸有達無第十三處。此能緣識為何所緣?若謂即緣彼名為境,是則應撥彼名為無。又若緣聲先非有者,此能緣識為何所緣?若謂即緣彼聲為境,求聲無者應更發聲。若謂聲無住未來位,未來實有如何謂無?若謂去來無現世者,此亦非理,其體一故。若有少分體差別者,本無今有其理自成。故識通緣有非有境。然菩薩說,世間所無我知我見無是處者,意說他人懷增上慢,亦於非有現相謂有,我唯於有方觀為有。若異此者,則一切覺皆有所緣,何緣於境得有猶豫或有差別。理必應然。以薄伽梵於餘處說:善來苾芻!汝等若能為我弟子,無諂無誑有信有勤,我旦教汝令暮獲勝,我暮教汝令旦獲勝。便知有是有、非有是非有、有上是有上、無上是無上。由此彼說,識有境故有去來者,亦不成因。又彼所言,業有果故有去來者,理亦不然。非經部師作如是說,即過去業能生當果,然業為先所引相續,轉變差別令當果生。彼我品中當廣顯示。若執實有過去未來,則一切時果體常有,業於彼果有何功能?若謂能生,則所生果本無今有,其理自成。若一切法一切時有,誰於誰有能生功能?又應顯成雨眾外道所黨邪論。彼作是說:有必常有,無必常無。無必不生,有必不滅。若謂能令果成現在,如何令果成現在耶?若謂引令至餘方所,則所引果其體應常。又無色法當如何引?又此所引應體本無。若謂但令體有差別,本無今有其理自成。是故此說一切有部,若說實有過去未來,於聖教中非為善說。

(論は続けて曰く:)また色はただ応に極微の聚散のみ、竟て少分も生滅と名づくべきなし。是れ則ち邪命者の論を遵崇して、善逝の説きたまえる契経を棄背す。契経に説くがごとく:眼根は生ずる位に於いて来る所無し、乃至広く説く。また受等も極微の集成に非ず。如何にして去・来の散乱と説くべきか。しかし受等に於いて追憶・逆観するも、また未だ滅せず已に生じたる時の相のごとし。もし現有のごときは体は応に是れ常なるべし。もし体は現無なれば、還た応に無境に縁ずる識有りと許すべし。理もまた自ずから成ず。もし体は全く無き是れ所縁ならば、第十三処は応に所縁なるべし。諸の無に達するは第十三処。此の能縁の識は何をか縁ずる所と為さん。もしすなわち彼の名を縁じて境と為すと謂わば、是れ則ち応に彼の名を無と撥すべし。またもし声は先に非有を縁ずれば、此の能縁の識は何をか縁ずる所と為さん。もしすなわち彼の声を縁じて境と為すと謂わば、声の無を求むるは応に更に声を発すべし。もし声は無にして未来の位に住すと謂わば、未来は実有なれば如何にして無と謂わん。もし去・来は現世の無と謂わば、これもまた理に非ず。その体は一なるがゆえに。もし少分の体の差別有れば、本無くして今有るの理は自ずから成ず。ゆえに識は通じて有・非有の境に縁ず。しかし菩薩の説く所、世間の無き所は我は知り我は見る、是の処無しとするは、意は他人の増上慢を懐きて、もまた非有の現相に於いて有と謂うを説く。我はただ有る方に於いて観じて有と為す。もし此に異ならば、則ち一切の覚は皆縁する所有り。何の縁にか境に於いて猶予有り或いは差別有るを得ん。理は必ず応にこのようであるべし。薄伽梵がその余の処に説きたまえるを以て:善来苾芻、汝等もし能く我が弟子と為らば、諂なく誑なく信あり勤あらば、我は旦に汝を教えて暮に勝を獲せしめ、我は暮に汝を教えて旦に勝を獲せしめん。便ち有は是れ有、非有は是れ非有、上有るは是れ上有り、無上は是れ無上と知らん。此に由って彼の説く、識は境有るがゆえに去・来有りとは、もまた因を成ぜず。また彼の説く所、業は果有るがゆえに去・来有りとは、理もまたこのようにはあらず。経部師の此の説を作すに非ず、すなわち過去の業は能く当果を生ず。しかし業は先の引く所の相続を為りて、転変・差別して当果を生ぜしむ。彼の我品の中に当に広く顕示すべし。もし実有の過去・未来を執せば、則ち一切の時に果の体は常有なり。業は彼の果に於いて何の功能か有らん。もし能生と謂わば、則ち生ずる所の果は本無くして今有り。その理は自ずから成ず。もし一切法は一切時に有れば、誰が誰に対して能生の功能有らん。また応に雨衆外道(数論)の党せる邪論を顕成すべし。彼は此の説を作して曰く、有は必ず常有、無は必ず常無。無は必ず生ぜず、有は必ず滅せず。もし能く果をして現在を成ぜしむと謂わば、如何にして果をして現在を成ぜしむるか。もし引きてその余の方所に至らしむと謂わば、則ち引く所の果はその体は応に常なるべし。また無色の法は当に如何にして引かん。また此の引く所は応に体は本無なるべし。もし但だ体に差別有らしむと謂わば、本無くして今有るの理は自ずから成ず。このゆえに此の説一切有部は、もし実有の過去・未来を説かば、聖教の中に於いて善説と為らず。

若欲善說一切有者,應如契經所說而說。經如何說?如契經言:梵志當知,一切有者,唯十二處或唯三世。如其所有而說有言。若去來無,如何可說有能所繫及離繫耶?彼所生因,隨眠有故,說有去來能繫煩惱。緣彼煩惱隨眠有故,說有去來所繫縛事。若隨眠斷,得離繫名。毘婆沙師作如是說:如現實有過去未來。所有於中不能通釋,諸自愛者應如是知,法性甚深非尋思境,豈不能釋便撥為無?有異門故此生此滅,謂色等生即色等滅。有異門故異生異滅,謂未來生現在世滅。有異門故即世名生,以正生時世所攝故。有異門故說世有生,未來世有多剎那故。傍論已了,今應思擇,諸事已斷彼離繫耶?設事離繫彼已斷耶?若事離繫彼必已斷,有事已斷而非離繫。斷非離繫其事云何?頌曰:

(論は続けて曰く:)もし善く一切有を説かんと欲せば、応に契経の説く所のごとくして説くべし。経は如何に説くか。契経に説くがごとく:梵志当に知るべし、一切有とは、ただ十二処或いはただ三世。其有る所のごとくにして有の言を説く。もし去・来無ければ、如何にして能繋・所繋および離繋有りと説くべきか。彼の生ずる所の因は、随眠有るがゆえに、去・来の能繋の煩悩有りと説く。彼の煩悩に縁ずる随眠有るがゆえに、去・来の繋縛する所の事有りと説く。もし随眠断ぜば、離繋の名を得。毘婆沙師は此の説を作して曰く、現の実有のごとく過去・未来あり。所有に於いて中に通釈すること能わざるは、諸の自愛の者は応に此のようの知るべし。法性は甚だ深くして尋思の境に非ず。豈に釈すること能わざれば便ち無と撥さんや。異門有るがゆえに此生じ此滅す。いわゆる色等の生ずるは即ち色等の滅す。異門有るがゆえに異に生じ異に滅す。いわゆる未来に生じ現在世に滅す。異門有るがゆえに即ち世を名づけて生と為す。正に生ずる時は世の摂する所なるを以て。異門有るがゆえに世を説いて生有りと為す。未来世に多くの刹那有るがゆえに。傍論は已に了り、今応に思択すべし。諸の事は已に断ぜれば彼は離繋か。設い事は離繋なれば彼は已に断ぜしや。もし事は離繋なれば彼は必ず已に断ぜり。事ありて已に断ぜりと雖も離繋にあらず。断じて離繋にあらざるはその事如何。頌に曰く、

於見苦已斷,餘遍行隨眠,

見苦に於いて已に断ぜるも、その余の遍行随眠は、

及前品已斷,餘緣此猶繫。

および前品の已に断ぜるに、その余の此に縁ずるはなお繋す。

論曰:且見道位苦智已生、集智未生,見苦所斷諸事已斷,見集所斷遍行隨眠若未永斷,能緣此者於此猶繫。及脩道位隨何道生?九品事中前品已斷,餘未斷品所有隨眠,能緣此者於此猶繫。斷非離繫,如是應知。何事有幾隨眠隨增?若隨事別答,便費多言論,是故應造略毘婆沙,由此雖勞少少功力,而能越渡大大問流。謂法雖多,略為十六種,即三界、五部及無漏法。能緣彼識名數亦然。但應了知何法何識境,易思何事何隨眠隨增。此中且應知,何法何識境?頌曰:

論に曰く:且つ見道の位に於いて苦智は已に生じ集智は未だ生ぜざれば、見苦の断ずる所の諸の事は已に断ぜり。見集の断ずる所の遍行随眠はもし未だ永断せざれば、此に縁ずるは此に於いてなお繋す。および修道の位に於いて何の道にか随って生ずや。九品の事の中、前品は已に断ぜり。其余の未だ断ぜざる品の所有の随眠は、此に縁ずるは此に於いてなお繋す。断じて離繋にあらざるは、此のように応に知るべし。何事に幾らの随眠か随増するか。もし事に随って別に答えば、便ち多くの言論を費やさん。このゆえに応に略毘婆沙を造るべし。此に由って少々の功力を労すと雖も、しかも能く大大の問流を越渡せん。いわゆる法は多しと雖も、略して十六種と為す。すなわち三界・五部および無漏法。彼に縁ずる能縁の識の名数もまた此のよう。但だ応に何の法か何の識の境かを了知して、何事に何の随眠か随増するかを思すれば易し。此の中に且つ応に知るべし、何の法か何の識の境か。頌に曰く、

見苦集脩斷,若欲界所繫,

見苦・集・修の断ずる、もし欲界の繋するは、

自界三色一,無漏識所行,

自界三・色一・無漏の識の行く所。

色自下各三,上一淨識境,

色は自・下各々三、上一・浄識の境。

無色通三界,各三淨識緣,

無色は三界に通じ、各々三・浄識の縁。

見滅道所斷,皆增自識行,

見滅・道の断ずる所は、皆自識の行を増す。

無漏三界中,後三淨識境。

無漏は三界の中、後の三・浄識の境。

論曰:若欲界繫見苦見集脩所斷法,各五識緣,謂自界三即如前說,及色界一即脩所斷,無漏第五,皆容緣故。若色界繫,即前所說三部諸法,各八識緣,謂自下三皆如前說,及上界一即脩所斷,無漏第八,皆容緣故。若無色繫,即前所說三部諸法,各十識緣,謂三界三皆如前說,無漏第十,皆容緣故。見滅見道所斷諸法,應知一一增自識緣。此復云何?謂欲界繫見滅所斷為六識緣,五即如前,增見滅斷。見道所斷為六識緣,五亦如前,增見道斷。色無色界見滅道斷,隨應為九十一識緣。若無漏法為十識緣,謂三界中各後三部,即見滅道脩所斷識,無漏第十,皆容緣故。為攝前義,復說頌言:

論に曰く:もし欲界繋の見苦・見集・修所断の法は、各々五識の縁。いわゆる自界の三はすなわち前の説くがごとく、および色界の一はすなわち修所断、無漏は第五。皆縁ずるを容るるがゆえに。もし色界繋なれば、すなわち前に説く所の三部の諸法は各々八識の縁。いわゆる自・下の三は皆前の説くがごとく、および上界の一はすなわち修所断、無漏は第八。皆縁ずるを容るるがゆえに。もし無色繋なれば、すなわち前に説く所の三部の諸法は各々十識の縁。いわゆる三界の三は皆前の説くがごとく、無漏は第十。皆縁ずるを容るるがゆえに。見滅・見道の断ずる所の諸法は、応に知るべし一一は自識の縁を増す。此れ復た如何。いわゆる欲界繋の見滅所断は六識の縁と為る。五はすなわち前のごとく、見滅断を増す。見道所断は六識の縁と為る。五もまた前のごとく、見道断を増す。色・無色界の見滅・道断は、その応ずるに随って九・十一識の縁と為る。もし無漏法は十識の縁と為る。いわゆる三界の中に各々後の三部、すなわち見滅・道・修の断ずる所の識、無漏は第十。皆縁ずるを容るるがゆえに。前の義を摂せんが為に、復た頌を説いて曰く:

見苦集脩斷,欲色無色繫,

見苦・集・修の断ずる、欲・色・無色の繋は、

應知如次第,五八十識緣。

応に知るべし次第のごとく、五・八・十の識縁。

見滅道所斷,各增自識緣,

見滅・道の断ずる所は、各々自識の縁を増し、

無漏法應知,能為十識境。

無漏法は応に知るべし、能く十識の境と為るを。

如是了知十六種法為十六識所緣境已,今應思何事何隨眠隨增。若別疏條恐文煩廣,故我於此略示方隅。且有問言:所繫事內樂根有幾隨眠隨增?應觀樂根總有七種,謂欲界一即脩所斷,色界五部,無漏第七。一切無漏非諸隨眠之所隨增,如前已說。此中前六隨其所應欲脩所斷及諸遍行色界一切隨眠隨增。若有問言:緣樂根識復有幾種隨眠隨增?應觀此識總有十二,謂欲界四除見滅斷,色界五部,無色界二即見道諦及脩所斷,無漏第十二,皆能緣樂根。此隨所應欲界四部,色界有為緣,無色界二部,及諸遍行隨眠隨增。若復有問言:緣緣樂根識復有幾種隨眠隨增?應觀此識總有十四,於前十二更加二種,即無色界見苦集斷。如是十四識能緣緣樂根,此隨所應欲色如上,無色四部隨眠隨增。准此方隅,餘應思擇。若心由彼名有隨眠,彼於此心定隨增不?此不決定,或有隨眠,謂與心相應,及緣心未斷相應已斷則不隨增。依此義門應作是說。頌曰:

(論は続けて曰く:)此のようの了知する十六種の法が十六識の縁ずる所の境たる已りて、今応に何事に何の随眠か随増するかを思すべし。もし別々に疏条すれば恐らく文は煩広ならん。ゆえに我は此に於いて略して方隅を示す。且つ問有りて説く、繋する所の事の内、楽根に幾らの随眠か随増するや。応に観ずべし、楽根は総じて七種あり。いわゆる欲界一はすなわち修所断、色界は五部、無漏は第七。一切の無漏は諸の随眠の随増する所にあらざるは、前に已に説けり。此の中の前の六はその応ずる所に随って欲の修所断および諸の遍行、色界の一切随眠の随増す。もし問有りて説かば、楽根に縁ずる識は復た幾種の随眠か随増するや。応に観ずべし、此の識は総じて十二あり。いわゆる欲界四は見滅断を除き、色界は五部、無色界二はすなわち道諦を見るおよび修所断、無漏は第十二。皆能く楽根に縁ず。此れその応ずる所に随って欲界四部、色界は有為縁、無色界二部、および諸の遍行随眠の随増す。もし復た問有りて説かば、楽根に縁ずる識に縁ずるは復た幾種の随眠か随増するや。応に観ずべし、此の識は総じて十四あり。前の十二に於いて更に二種を加う。すなわち無色界の見苦・集断。此のようの十四識は能く楽根に縁ずるに縁ず。此れその応ずる所に随って欲・色は上のごとく、無色の四部随眠の随増す。此の方隅に准じて、その余は応に思択すべし。もし心は彼に由って随眠有りと名づけば、彼は此の心に於いて定めて随増するか否か。此れ決定せず。或いは随眠有りて、いわゆる心と相応し、および心に縁じて未だ断ぜざるは、相応已に断ぜれば則ち随増せず。なお随眠有りと説く。恒に相応するを以て。もし無染なるは、ただ随増に局る。此に縁ずる随眠は必ず未だ永断せざるがゆえに。此れはただ随増に拠って随眠有りと名づくるがゆえに。上に説く所の十種の随眠の次第に生ずる時、誰が前で誰が後か。頌に曰く、

有隨眠心二,謂有染無染,

随眠する心有りて二。いわゆる有染・無染、

有染心通二,無染局隨增。

有染の心は二に通じ、無染は随増に局る。

論曰:有隨眠心總有二種,有染、無染心差別故。於中有染或有隨增,謂相應緣隨眠未斷,相應已斷則不隨增,仍說有隨眠,以恆相應故。若無染者,唯局隨增。緣此隨眠必未永斷,此唯據隨增名有隨眠故。如上所說十種隨眠次第生時,誰前誰後?頌曰:

論に曰く:随眠する心有りて総じて二種。有染・無染の心の差別あるがゆえに。その中に有染は或いは随増し、いわゆる相応・所縁の随眠は未だ断ぜざれば、相応は已に断ぜば則ち随増せず、なお随眠有りと説く。恒に相応するを以て。もし無染ならば、ただ随増に局る。此の随眠に縁ずるは必ず未だ永断せざれば、此れはただ随増に拠って随眠有りと名づくるがゆえに。上の説く所のごとき十種の随眠は次第に生ずる時、誰が前で誰が後か。頌に曰く:

無明疑邪身,邊見戒見取,

無明・疑・邪・身、辺見・戒・見取、

貪慢瞋如次,由前引後生。

貪・慢・瞋は次第のごとく、前に由って後を引き生ず。

論曰:且諸煩惱次第生時,先由無明於諦不了,不欲觀苦乃至道諦。由不了故,次引生疑,謂聞二途便懷猶豫為苦非苦,乃至廣說。從此猶豫引邪見生,謂邪聞思生邪決定,撥無苦諦乃至廣說。由撥無諦引身見生,謂取蘊中撥無苦理,便決定執此是我故。從此身見引邊見生,謂依我執斷常邊故。從此邊見引生戒取,謂由於我隨執一邊,便計此執為能淨故。從戒禁取引見取生,謂計能淨已必執為勝故。從此見取次引貪生,謂自見中情深愛故。從此貪後次引慢生,謂自見中深愛著已,恃生高舉𣣋蔑他故。從此慢後次引生瞋,謂自見中深愛恃已,於他所起違己見中,情不能忍必憎嫌故。有餘師說:於自見解取捨位中起憎嫌故。見諦所斷貪等生時,緣自相續見為境故。如是且依次第起說,越次起者前後無定。諸煩惱起由幾因緣?頌曰:

論に曰く:且つ諸の煩悩の次第に生ずる時、先ず無明に由って諦に了せず、苦乃至道諦を観ぜんと欲せず。了せざるに由って、次に疑を引き生ず。いわゆる二途を聞きて便ち猶予を懐きて苦か苦にあらざるか、乃至広く説く。此の猶予より邪見を引きて生ず。いわゆる邪聞・邪思より邪の決定を生じ、苦諦は無しと撥して乃至広く説く。諦は無しと撥するに由って身見を引きて生ず。いわゆる取蘊の中に苦の理は無しと撥して、便ち決定して此れは我なりと執するがゆえに。此の身見より辺見を引きて生ず。いわゆる我の執に依って断・常の辺と為すがゆえに。此の辺見より戒取を引き生ず。いわゆる我に由って一辺に随執して、便ち此の執を計りて能く浄を為すと為すがゆえに。戒禁取より見取を引きて生ず。いわゆる能く浄を為すと計りて已りて必ず勝と執するがゆえに。此の見取より次に貪を引きて生ず。いわゆる自見の中に情深く愛するがゆえに。此の貪の後に次に慢を引きて生ず。いわゆる自見の中に深く愛着し已りて、恃みて高擧を生じ他を陵蔑するがゆえに。此の慢の後に次に瞋を引き生ず。いわゆる自見の中に深く愛し恃み已りて、他の起す所の己見に違うる中に於いて、情は忍ぶこと能わず必ず憎嫌するがゆえに。其余の師有りて説く、自見の解の取捨の位の中に於いて憎嫌を起すがゆえに、と。諦を見て断ずる所の貪等の生ずる時は、自ら相続する見を縁じて境と為すがゆえに。此のようの且つ次第に依って起りて説く。次を越えて起るは前後定まらず。諸の煩悩の起るは幾つの因縁に由るか。頌に曰く、

由未斷隨眠,及隨應境現,

未だ断ぜざる随眠に由り、およびその応ずる境の現れに由り、

非理作意起,說惑具因緣。

非理の作意の起るに由り、惑は因縁を具えると説く。

論曰:由三因緣諸煩惱起。且如將起欲貪纏時,未斷未遍知欲貪隨眠故,順欲貪境現在前故,緣彼非理作意起故,由此力故便起欲貪。此三因緣如其次第,即因境界加行三力,餘煩惱起類此應知。謂此且據具因緣說,或有唯託境界力生。如退法根阿羅漢等,即上所說隨眠並纏。經說為漏、瀑流、軛、取。漏謂三漏:一欲漏、二有漏、三無明漏。言瀑流者,謂四瀑流:一欲瀑流、二有瀑流、三見瀑流、四無明瀑流。軛謂四軛,如瀑流說。取謂四取:一欲取、二見取、三戒禁取、四我語取。如是漏等其體云何?頌曰:

論に曰く:三の因縁に由って諸の煩悩は起る。且つ将に欲貪の纏を起さんとする時のごとく、未だ断ぜず未だ遍知せざる欲貪随眠なるがゆえ、欲貪に順ずる境の現在するがゆえ、彼に縁じて非理の作意の起るがゆえに。此の力に由って便ち欲貪を起す。此の三因縁はその次第のごとく、すなわち因・境界・加行の三力。其余の煩悩の起るは此に類して応に知るべし。いわゆる此れは且つ因縁を具えるに拠って説く。或いはただ境界の力に託して生ず。退法根の阿羅漢等のごとし。すなわち上に説く所の随眠并びに纏、経は説いて漏・瀑流・軛・取と為す。漏とは三漏を謂う。一は欲漏、二は有漏、三は無明漏。瀑流と言うは、四瀑流を謂う。一は欲瀑流、二は有瀑流、三は見瀑流、四は無明瀑流。軛とは四軛を謂う。瀑流の説くがごとし。取とは四取を謂う。一は欲取、二は見取、三は戒禁取、四は我語取。此のようの漏等、その体は如何。頌に曰く、

欲煩惱並纏,除痴名欲漏,

欲の煩悩并びに纏、痴を除きて欲漏と名づく。

有漏上二界,唯煩惱除痴,

有漏は上の二界、ただ煩悩にして痴を除く。

同無記內門,定地故合一,

同じく無記・内門・定地なるがゆえに一に合す。

無明諸有本,故別為一漏。

無明は諸有の本なるがゆえに、別に一漏と為す。

瀑流軛亦然,別立見利故,

瀑流・軛もまたこのよう。別に見を立てるは利なるがゆえに、

見不順住故,非於漏獨立。

見は住に順ぜざるがゆえに、漏に於いて独立せず。

欲有軛並痴,見分二名取,

欲・有の軛并びに痴、見は二に分かちて取と名づく。

無明不別立,以非能取故。

無明は別に立てず。能取にあらざるを以て。

論曰:欲界煩惱並纏,除痴,四十一物總名欲漏,謂欲界繫根本煩惱三十一併十纏。色無色界煩惱除痴,五十二物總名有漏,謂上二界根本煩惱各二十六。豈不彼有惛沈掉舉二種纏耶?《品類足》中亦作是說:云何有漏?謂除無明,餘色無色二界所繫結縛隨眠隨煩惱纏。今於此中何故不說?迦濕彌羅國毘婆沙師言:彼界纏少,不自在故。何緣合說二界隨眠為一有漏?同無記性於內門轉,依定地生,由三義同故合為一。如前所說名有貪因,即是此中名有漏義。准此三界十五無明義至已立為無明漏。何緣唯此別立漏名?無明能為諸有本故。瀑流及軛體與漏同,然於其中見亦別立,謂前欲漏即欲瀑流及欲軛,如是有漏即有瀑流及有軛。析出諸見為見瀑流及見軛者,謂猛利故令住名漏,如後當說。見不順彼,性猛利故,由此於漏不獨立名,但可與餘合立為漏。如是已顯二十九物名欲瀑流,謂貪瞋慢各有五種、疑四、纏十。二十八物名有瀑流,謂貪與慢各十、疑八。三十六物名見瀑流,謂三界中各十二見。十五物名無明瀑流,謂三界無明各有五。應知四軛與瀑流同,四取應知體同四軛。然欲我語各並無明,見分為二與前軛別。即前欲軛並欲無明三十四物總名欲取,謂貪瞋慢無明各五、疑有四、並十纏。即前有軛並二界無明三十八物總名我語取,謂貪慢無明各十、疑有八。於見軛中除戒禁取,餘三十物總名見取,所除六物名戒禁取。何緣別立戒禁取耶?由此獨為聖道怨故,雙誑在家出家眾故。謂在家眾由此誑惑,計自餓等為天道故。諸出家眾由此誑惑,計捨可愛境為清淨道故。何緣無明不別立取?能取諸有故立取名,然諸無明非能取故。謂不了相說名無明,彼非能取,非猛利故,但可與餘合立為取。然契經說:欲軛云何?

論に曰く:欲界の煩悩并びに纏、痴を除きて、四十一物を総じて欲漏と名づく。いわゆる欲界繋の根本煩悩三十一并びに十纏。色・無色界の煩悩は痴を除きて、五十二物を総じて有漏と名づく。いわゆる上の二界の根本煩悩は各々二十六。豈に彼に惛沈・掉挙の二種の纏有らざらんや。《品類足》の中にもまた此の説を作す:何をか有漏と為すか。いわゆる無明を除きて、その余の色・無色の二界の繋する所の結縛・随眠・随煩悩・纏。今此の中に於いて何故説かざるか。迦湿弥羅国の毘婆沙師の説く、彼の界は纏少なく、自在ならざるがゆえに。何の縁にか二界の随眠を合説して一有漏と為すか。同じく無記の性にして内門に於いて転じ、定地に依って生ず。三義の同じきに由って合して一と為す。前に説く所の有貪の因と名づくるは、すなわち此の中の有漏と名づくるの義。此に准じて三界の十五の無明は義至りて已に立てて無明漏と為す。何の縁にかただ此れのみ別に漏の名を立つるか。無明は能く諸有の本と為るがゆえに。瀑流および軛の体は漏と同じ。しかしその中に於いて見はもまた別に立つ。いわゆる前の欲漏はすなわち欲瀑流および欲軛。此のようの有漏はすなわち有瀑流および有軛。諸の見を析出して見瀑流および見軛と為すは、いわゆる猛利なるがゆえに住せしむるを漏と名づくるは、後に当に説くがごとし。見は彼に順ぜず、性は猛利なるがゆえに。此に由って漏に於いて独立の名を立てず、但だ其余と合して立てて漏と為すべし。此のようの已に顕せり、二十九物を欲瀑流と名づく。いわゆる貪・瞋・慢は各々五種有り、疑は四、纏は十。二十八物を有瀑流と名づく。いわゆる貪と慢は各々十、疑は八。三十六物を見瀑流と名づく。いわゆる三界の中に各々十二見。十五物を無明瀑流と名づく。いわゆる三界の無明は各々五。応に知るべし、四軛は瀑流と同じ。四取は応に知るべし体は四軛と同じ。しかし欲・我語は各々無明を并せ、見は二に分かつ。前の軛と別。すなわち前の欲軛并びに欲の無明、三十四物を総じて欲取と名づく。いわゆる貪・瞋・慢・無明は各々五、疑は四有り、并びに十纏。すなわち前の有軛并びに二界の無明、三十八物を総じて我語取と名づく。いわゆる貪・慢・無明は各々十、疑は八有り。見軛の中に於いて戒禁取を除きて、其余の三十物を総じて見取と名づく。除く所の六物を戒禁取と名づく。何の縁にか別に戒禁取を立つるか。此に由って独り聖道の怨と為るがゆえ、双び在家・出家の衆を誑惑するがゆえに。いわゆる在家の衆は此に由って誑惑して、自餓等を計りて天道と為すがゆえに。諸の出家の衆は此に由って誑惑して、可愛の境を捨てるを計りて清浄の道と為すがゆえに。何の縁にか無明は別に取を立てざるか。能く諸有を取るがゆえに取の名を立つ。しかし諸の無明は能取にあらざるがゆえに。いわゆる了せざる相を説いて無明と名づく。彼は能取に非ず、猛利にあらざるがゆえに。但だ其余と合して立てて取と為すべし。しかし契経に説く:欲軛は如何。

謂諸欲中欲貪、欲欲、欲親、欲愛、欲樂、欲悶、欲耽、欲嗜、欲喜、欲藏、欲隨、欲著纏壓於心,是名欲軛。有軛、見軛應知亦爾。又餘經說:欲貪名取。由此故知,於欲等四所起欲貪名欲等取。如是已辯隨眠並纏,經說為漏瀑流軛取。此隨眠等名有何義?頌曰:

(論は続けて曰く:)いわゆる諸の欲の中に欲貪・欲欲・欲親・欲愛・欲楽・欲悶・欲耽・欲嗜・欲喜・欲蔵・欲随・欲着は心に纏圧す。是れを欲軛と名づく。有軛・見軛もまた応に知るべし此のよう。また其余の経に説く:欲貪を取と名づく。此に由って知る、欲等の四に於いて起る所の欲貪を欲等の取と名づく。此のようの已に随眠并びに纏を辯したり。経は説いて漏・瀑流・軛・取と為す。此の随眠等の名は何の義か有るか。頌に曰く、

微細二隨增,隨逐與隨縛,

微細・二の随増・随逐および随縛、

住流漂合執,是隨眠等義。

住・流・漂・合・執、是れ随眠等の義。

論曰:根本煩惱現在前時,行相難知故名微細。二隨增者,能於所緣及所相應增惛滯故。言隨逐者,謂能起得恆隨有情常為過患,不作加行為令彼生。或設劬勞為遮彼起,而數現起,故名隨縛。由如是義故名隨眠。稽留有情久住生死,或令流轉於生死中,從有頂天至無間獄。由彼相續於六瘡門洩過無窮故名為漏,極漂善品故名瀑流,和合有情故名為軛,能為依執故名為取。若善釋者應作是言,諸境界中流注相續洩過不絕故名為漏。如契經說:具壽當知,譬如挽船逆流而上,設大功用行尚為難。若放此船順流而去,雖捨功用行不為難。起善染心應知亦爾。准此經意,於境界中煩惱不絕說名為漏,若勢增上說名瀑流。謂諸有情若墜於彼,唯可隨順無能違逆,湧泛漂激難違拒故。於現行時非極增上說名為軛,但令有情與種種類苦和合故。或數現行故名為軛,執欲等故說名為取。

論に曰く:根本煩悩の現前する時、行相は知り難きがゆえに微細と名づく。二の随増とは、能く所縁および相応する所に於いて惛滞を増すがゆえに。随逐と言うは、いわゆる能く得を起して恒に有情に随い常に過患と為り、加行を作さずして彼を生ぜしめ、或いは設い労労して彼の起るを遮ると雖も、しかも数々現起するがゆえに随縛と名づく。此のようの義に由って随眠と名づく。有情を稽留して久しく生死に住せしめ、或いは生死の中に於いて流転せしめ、有頂天より無間獄に至らしむ。彼の相続に由って六瘡門に於いて過を泄すこと窮まりなきがゆえに漏と名づく。極めて善品を漂わすがゆえに瀑流と名づく。有情を和合せしむるがゆえに軛と名づく。能く依執と為るがゆえに取と名づく。もし善く釈せば応に此の言を作すべし。諸の境界の中に於いて流注・相続して過を泄して絶えざるがゆえに漏と名づく。契経に説くがごとく:具寿当に知るべし、譬如船を挽きて流に逆らって上る、設い大いに功用して行もなお難きを尚とす。もし此の船を放ちて流に順うて去らば、功用を捨つると雖も行は難しと為らず。善・染の心を起すは応に知るべしもまた此のよう。此の経の意に准じて、境界の中に於いて煩悩絶えざるを説いて漏と名づく。もし勢増上なれば説いて瀑流と名づく。いわゆる諸の有情もし彼に墜ちなば、ただ随順すべくして能く違逆する無し。涌泛・漂激して違拒し難きがゆえに。現行する時に於いて極増上に非ざるを説いて軛と名づく。但だ有情をして種種の類の苦と和合せしむるがゆえに。或いは数々現行するがゆえに軛と名づき、欲等を執するがゆえに取と名づく。

説一切有部倶舎論 巻第二十

アビダルマ倶舎論 巻第二十一 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別隨眠品第五之三

分別随眠品 第五之三

如是已辯隨眠並纏,世尊說為漏瀑流等。為唯爾所、為復有餘?頌曰:

此のようの已に随眠并びに纏を辯したり。世尊は説いて漏・瀑流等と為したまえり。ただ此のようの多きのみか、復た其余有るか。頌に曰く、

由結等差別,復說有五種。

結等の差別に由って、復た五種有りと説く。

論曰:即諸煩惱,結、縛、隨眠、隨煩惱、纏,義差別故,復說五種。且結云何?頌曰:

論に曰く:すなわち諸の煩悩は、結・縛・随眠・随煩悩・纏、義の差別あるがゆえに、復た五種を説く。且つ結は如何。頌に曰く、

結九物取等,立見取二結,

結は九、物・取等に由り、見・取の二結を立つ。

由二唯不善,及自在起故

二はただ不善にして自在に起るに由り、

纏中唯嫉慳,建立為二結,

纏の中にただ嫉・慳を、建立して二結と為す。

或二數行故,為賤貧因故,

或いは二は数々行ずるがゆえ、賤・貧の因と為るがゆえ、

遍顯隨惑故,惱亂二部故。

遍く随惑を顕すがゆえ、二部を惱乱するがゆえに。

論曰:結有九種,一愛結、二恚結、三慢結、四無明結、五見結、六取結、七疑結、八嫉結、九慳結。此中愛結謂三界貪,餘隨所應當辯其相。見結謂三見,取結謂二取。依如是理,故有說言:頗有見相應法為愛結繫非見結繫,非不有見隨眠隨增?曰:有。云何?集智已生滅智未生見滅道所斷二取相應法,彼為愛結為所緣繫非見結繫,遍行見結已永斷故。非遍見結,所緣相應二俱無故。然彼有見隨眠隨增,二取見隨眠於彼隨增故。何緣三見別立見結,二取別立為取結耶?三見二取,物取等故。謂彼三見有十八物,二取亦然,故名物等。三等所取,二等能取,故名取等。所取能取有差別故,立為二結。何故纏中嫉慳二種建立為結非餘纏耶?二唯不善自在起故。謂唯此二兩義具足,餘皆不然,故唯立二。若纏唯八此釋可然,許有十纏此釋非理,以忿、覆二種亦具兩義故。由此若許具有十纏,應言嫉、慳過失尤重,謂此二種數現行故。又二能為賤貧因故、遍顯慼歡隨煩惱故、惱亂出家在家部故、或惱亂天阿素洛故、或惱人天二勝趣故、或惱亂他及自部故。佛於餘處依差別門,即以結聲說有五種。頌曰:

論に曰く:結に九種あり。一は愛結、二は恚結、三は慢結、四は無明結、五は見結、六は取結、七は疑結、八は嫉結、九は慳結。此の中の愛結とは三界の貪を謂う。其余はその応ずる所に随って当にその相を辯ずべし。見結とは三見を謂い、取結とは二取を謂う。此のようの理に依って、ゆえに説言有り:頗る見に相応する法ありて愛結の繋する所にして見結の繋する所にあらざり、見随眠の随増せざるにあらざるや。答えて曰く、有り。如何。集智は已に生じ滅智は未だ生ぜざるに、見滅・道の断ずる所の二取に相応する法。彼は愛結を以て所縁の繋と為る所にして見結の繋する所にあらず。遍行の見結は已に永断せるがゆえに。遍の見結にあらざるは、所縁・相応は二俱に無きがゆえに。しかし彼は見随眠の随増有り。二取の見随眠は彼に於いて随増するがゆえに。何の縁にか三見は別に見結を立て、二取は別に立てて取結と為すか。三見・二取は物・取等なるがゆえに。いわゆる彼の三見は十八物有り、二取もまた此のよう。ゆえに物等と名づく。三は所取に等しく、二は能取に等し。ゆえに取等と名づく。所取・能取に差別有るがゆえに、立てて二結と為す。何故纏の中の嫉・慳の二種を建立して結と為し、其余の纏と為さざるか。二はただ不善にして自在に起るがゆえに。いわゆるただ此の二は両義を具足す。其余は皆此のようにはあらず。ゆえにただ二を立つ。もし纏はただ八ならば此の釈は此のようの可なり。十纏有りと許さば此の釈は理に非ず。忿・覆の二種もまた両義を具えるを以て。此に由ってもし十纏を具えると許さば、応に嫉・慳は過失尤も重しと説くべし。いわゆる此の二種は数々現行するがゆえに。また二は能く賤・貧の因と為るがゆえ、遍く戚・歓の随煩悩を顕すがゆえ、出家・在家の部を惱乱するがゆえ、或いは天・阿素洛(阿修羅)を惱乱するがゆえ、或いは人・天の二勝趣を惱乱するがゆえ、或いは他および自部を惱乱するがゆえに。仏は其余の処に於いて差別の門に依って、すなわち結の声を以て五種有りと説きたまえり。頌に曰く、

又五順下分,由二不超欲,

また五の順下分あり。二に由って欲を超えず、

由三復還下,攝門根故三。

三に由って復た下に還る。門・根を摂するがゆえに三。

或不欲發趣,迷道及疑道,

或いは発趣せんと欲せず、道に迷いおよび道を疑い、

能障趣解脫,故唯說斷三。

能く解脱に趣くを障ずるがゆえに、ただ断三を説く。

論曰:何等為五?謂有身見、戒禁取、疑、欲貪、瞋恚。何緣此五名順下分?此五順益下分界故。謂唯欲界得下分名,此五於彼能為順益。由後二種不能超欲界,設有能超由前三還下,如守獄卒防邏人故。有餘師說:言下分者,謂下有情即諸異生,及下界即欲界。前三能障超下有情,後二能令不超下界,故五皆得順下分名。諸得預流六煩惱斷,何緣但說斷三結耶?理實應言斷六煩惱,攝門根故但說斷三。謂所斷中類有三種,唯一通二通四部故,說斷三種攝彼三門。又所斷中三隨三轉,謂邊執見隨身見轉,見取隨戒取轉,邪見隨疑轉。說斷三種攝彼三根,故說斷三已說斷六。有作是釋:凡趣異方有三種障:一不欲發;二迷正道,依邪道故;三疑正道。趣解脫者亦有如斯相似三障,謂由身見怖畏解脫不欲發趣,由戒禁取依執邪道迷失正路,由疑於道深懷猶預。佛顯預流永斷如是趣解脫障,故說斷三。佛於餘經,如順下分,說順上分亦有五種。頌曰:

論に曰く:何等か五と為すか。いわゆる有身見・戒禁取・疑・欲貪・瞋恚。何の縁にかこの五を順下分と名づくるか。此の五は下分界に順益するがゆえに。いわゆるただ欲界のみ下分の名を得。此の五は彼に於いて能く順益と為る。後の二種に由って欲界を超えること能わず。設い能く超ゆるも前三に由って還りて下る。獄を守る卒の防逻人のごときがゆえに。其余の師有りて説く、下分と言うは、下の有情を謂う、すなわち諸の異生。および下界、すなわち欲界。前三は能く下の有情を超ゆるを障し、後の二は能く下界を超えざらしむ。ゆえに五は皆順下分の名を得、と。諸の預流を得るは六の煩悩を断ず。何の縁にか但だ三結を断ずと説くか。理実は応に六煩悩を断ずと説くべし。門・根を摂するがゆえに但だ断三を説く。いわゆる断ずる所の中、類に三種あり。ただ一は二に通じ四部に通ずるがゆえに、断三種を説いて彼の三門を摂す。また断ずる所の中、三は三に随転す。いわゆる辺執見は身見に随転し、見取は戒取に随転し、邪見は疑に随転す。断三種を説いて彼の三根を摂す。ゆえに断三を説いて已に断六を説けり。あるは此の釋を作す:凡そ異方に趣くに三種の障あり。一は発せんと欲せず、二は正道に迷う、邪道に依るがゆえに、三は正道を疑う。解脱に趣くもまた此のようの相似の三障あり。いわゆる身見に由って解脱を怖畏して発趣せんと欲せず、戒禁取に由って邪道を依執して正路を迷失し、疑に由って道に於いて深く猶予を懐く。仏は預流の永く此のようの解脱に趣く障を断ずるを顕して、ゆえに断三を説く。仏は其余の経に於いて、順下分のごとく、順上分もまた五種有りと説きたまえり。頌に曰く、

順上分亦五,色無色二貪,

順上分もまた五。色・無色の二貪、

掉舉慢無明,令不超上故。

掉擧・慢・無明、上を超えざらしむるがゆえに。

論曰:如是五種若未斷時,能令有情不超上界。順益上界故,名順上分結。已辯結。縛云何?頌曰:

論に曰く:此のようの五種はもし未だ断ぜざる時、能く有情をして上界を超えざらしむ。上界に順益するがゆえに、順上分結と名づく。已に結を辯したり。縛は如何。頌に曰く、

縛三由三受。

縛は三、三受に由る。

論曰:縛有三種:一貪縛,謂一切貪;二瞋縛,謂一切瞋;三痴縛,謂一切痴。何緣唯說此三為縛?由隨三受說縛有三。謂於樂受貪縛隨增,所緣相應俱隨增故。於苦受瞋、於捨受痴,應知亦爾。雖於捨受亦有貪瞋,非如痴故。約自相續,樂等三受為縛所緣,作此定說。已分別縛。隨眠雲何?頌曰:

論に曰く:縛に三種あり。一は貪縛、いわゆる一切の貪。二は瞋縛、いわゆる一切の瞋。三は痴縛、いわゆる一切の痴。何の縁にか但だ此の三を説いて縛と為すか。三受に随って説いて縛に三有りと為すがゆえに。いわゆる楽受に於いて貪縛は随増す。所縁・相応は俱に随増するがゆえに。苦受に於いて瞋、捨受に於いて痴、応に知るべしもまた此のよう。捨受に於いてもまた貪・瞋有ると雖も、痴のごときにあらざるがゆえに。自の相続に約して、楽等の三受は縛の所縁と為る。この定説を作す。已に縛を分別したり。随眠は如何。頌に曰く、

隨眠前已說。

随眠は前に已に説けり。

論曰:隨眠有六、或七或十、或九十八,如前已說。隨眠既已說。隨煩惱云何?頌曰:

論に曰く:随眠に六有り、或いは七或いは十、或いは九十八。前に已に説けしがごとし。随眠はすでに已に説けり。随煩悩は如何。頌に曰く、

隨煩惱此餘,染心所行蘊。

随煩悩は此の其余、染の心所・行蘊。

論曰:此諸煩惱亦名隨煩惱,以皆隨心為惱亂事故。復有此餘異諸煩惱,染汙心所行蘊所攝,隨煩惱起故亦名隨煩惱,不名煩惱非根本故。廣列彼相如雜事中,後當略論。纏煩惱垢攝者,且應先辯纏相云何。頌曰:

論に曰く:此の諸の煩悩もまた随煩悩と名づく。皆心に随って惱乱の事と為るがゆえに。復た此の其余に諸の煩悩に異なる有りて、染污の心所・行蘊の摂する所にして、煩悩に随って起るがゆえにもまた随煩悩と名づく。煩悩と名づけざるは根本にあらざるがゆえに。広く彼の相を列ねるは雑事の中のごとし。後に当に略論すべし。纏は煩悩垢の摂する所なれば、且つ応に先ず纏の相如何を辯ずべし。頌に曰く、

纏八無慚愧,嫉慳並悔眠,

纏は八、無慚・愧なし、嫉・慳并びに悔・眠、

及掉舉惛沈,或十加忿覆。

および掉擧・惛沈、或いは十に忿・覆を加う。

無慚慳掉舉,皆從貪所生,

無慚・慳・掉擧は、皆貪の生ずる所より従り、

無愧眠惛沈,從無明所起,

無愧・眠・惛沈は、無明の起す所より従り、

嫉忿從瞋起,悔從疑覆諍。

嫉・忿は瞋より起り、悔は疑より、覆は諍。

論曰:根本煩惱亦名為纏,經說欲貪纏為緣故。然《品類足》說有八纏,毘婆沙宗說纏有十,謂於前八更加忿、覆。無慚、無愧如前已釋。嫉謂於他諸興盛事令心不喜。慳謂財法巧施相違令心悋著。悔即惡作,如前已辯。眠謂令心昧略為性,無有功力執持於身。悔、眠二纏唯取染汙。掉舉、惛沈亦如前釋。除瞋及害於情非情令心憤發說名為忿。隱藏自罪說名為覆。於此所說十種纏中,無慚、慳、掉舉是貪等流,無愧、眠、惛沈是無明等流,嫉、忿是瞋等流,悔是疑等流。有說:覆是貪等流。有說:是無明等流。有說:是俱等流。有知無知,如其次第。餘煩惱垢其相云何?頌曰:

論に曰く:根本煩悩もまた名づけて纏と為す。経は欲貪纏を説いて縁と為すがゆえに。しかし《品類足》は八纏有りと説き、毘婆沙宗は纏に十有りと説く。いわゆる前の八に於いて更に忿・覆を加う。無慚・無愧は前に已に釋せしがごとし。嫉とは他の諸の興盛の事に於いて心をして喜ばざらしむるを謂う。慳とは財・法の巧施に相違して心をして吝着せしむるを謂う。悔はすなわち惡作。前に已に辯ぜしがごとし。眠とは心をして昧略せしむるを以て性と為し、功力有ること無くして身を執持するを謂う。悔・眠の二纏はただ染污を取る。掉擧・惛沈もまた前の釋のごとし。瞋および害を除きて、情・非情に於いて心をして憤発せしむるを説いて忿と名づく。自罪を隠蔵するを説いて覆と名づく。此に説く所の十種の纏の中、無慚・慳・掉擧は是れ貪の等流。無愧・眠・惛沈は是れ無明の等流。嫉・忿は是れ瞋の等流。悔は是れ疑の等流。ある説に、覆は是れ貪の等流。ある説に、是れ無明の等流。ある説に、是れ俱の等流。知る有り知る無き、次第のごとし。その余の煩悩垢、その相は如何。頌に曰く、

煩惱垢六惱,害恨諂誑憍,

煩悩垢は六、惱・害・恨・諂・誑・憍。

誑憍從貪生,害恨從瞋起,

誑・憍は貪より生じ、害・恨は瞋より起り、

惱從見取起,諂從諸見生。

惱は見取より起り、諂は諸の見より生ず。

論曰:惱謂堅執諸有罪事,由此不取如理諫誨。害謂於他能為逼迫,由此能行打罵等事。恨謂於忿所緣事中,數數尋思結怨不捨。諂謂心曲,由此不能如實自顯,或矯非撥、或設方便令解不明。誑謂惑他。憍前已釋。如是六種從煩惱生,穢汙相麁名煩惱垢。於此六種煩惱垢中,誑、憍是貪等流,害、恨是瞋等流,惱是見取等流,諂是諸見等流。如言何曲?謂諸惡見,故諂定是諸見等流,此垢並纏從煩惱起,是故皆立隨煩惱名。此垢及纏為何所斷?頌曰:

論に曰く:惱とは諸の有罪の事を堅く執して、此に由って如理の諫誨を取らざるを謂う。害とは他に於いて能く逼迫を為すを謂い、此に由って能く打罵等の事を行ず。恨とは忿の縁ずる所の事の中に於いて、数々尋思して怨を結びて捨てざるを謂う。諂とは心の曲なるを謂い、此に由って能く如実に自ら顕すこと能わず、或いは矯めて非を撥し、或いは方便を設けて解をして明ならざらしむ。誑とは他を惑わすを謂う。憍は前に已に釋せり。此のようの六種は煩悩より生じ、穢污の相麁なるを名づけて煩悩垢と為す。此の六種の煩悩垢の中に於いて、誑・憍は是れ貪の等流、害・恨は是れ瞋の等流、惱は是れ見取の等流、諂は是れ諸見の等流。何の曲と言うか。いわゆる諸の惡見。ゆえに諂は定めて是れ諸見の等流。この垢并びに纏は煩悩より起る。此のゆえに皆随煩悩の名を立つ。此の垢および纏は何の断ずる所か。頌に曰く、

纏無慚愧眠,惛掉見修斷,

纏は無慚・愧・眠、惛・掉は見・修の断ずる所、

餘及煩惱垢,自在故唯修。

其余および煩悩垢は、自在に起るがゆえにただ修断。

論曰:且十纏中無慚等五通見修斷,由此通與二部煩惱相應起故。隨與見此諦所斷相應,即說名為見此諦所斷。餘嫉、慳、悔、忿、覆並垢,自在起故,唯修所斷。唯與修斷他力無明共相應故,名自在起。此隨煩惱誰通何性?頌曰:

論に曰く:且つ十纏の中、無慚等の五は見・修の断ずる所に通ず。此に由って通じて二部の煩悩と相応して起るがゆえに。随いて此の諦を見る所断と相応すれば、すなわち説いて此の諦を見る所断と名づく。其余の嫉・慳・悔・忿・覆并びに垢は、自在に起るがゆえに、ただ修所断。ただ修断の他力の無明と共に相応するがゆえに、自在起と名づく。此の随煩悩は誰か何の性にか通ずるか。頌に曰く、

欲三二餘惡,上界皆無記。

欲界の三・二、その余は悪。上界は皆無記。

論曰:欲界所繫眠、惛、掉三,皆通不善、無記二性,所餘一切皆唯不善。上二界中隨應所有,一切唯是無記性攝。此隨煩惱誰何界繫?頌曰:

論に曰く:欲界の繋する所の眠・惛・掉の三は、皆不善・無記の二性に通ず。その余の一切は皆ただ不善。上の二界の中、その応ずる所の所有に随いて、一切はただ無記の性の摂。此の随煩悩は誰か何の界の繋か。頌に曰く、

諂誑欲初定,三三界餘欲。

諂・誑は欲界・初定、三は三界、その余は欲。

論曰:諂、誑唯在欲界初定。寧知梵世有諂誑耶?以大梵王匿己情事,現相誑惑馬勝苾芻。此二於前雖已分別,義相應故今復重辯。惛、掉、憍三通在三界,所餘一切皆唯在欲。謂十六中五如前辯,所餘十一唯欲界繫。已辯隨眠及隨煩惱。於中有幾唯在意地?有幾通依六識地起?頌曰:

論に曰く:諂・誑はただ欲界・初定に在り。寧んぞ梵世に諂・誑有るを知らんや。大梵王が己の情事を匿して、現相して馬勝苾芻を誑惑するを以て。此の二は前に於いて已に分別せりと雖も、義相応するがゆえに今復た重ねて辯ず。惛・掉・憍の三は三界に通ず。其余の一切は皆ただ欲に在り。いわゆる十六の中、五は前の辯のごとく、其余の十一はただ欲界繋。已に随眠および随煩悩を辯したり。中に於いて幾つかはただ意地に在るか。幾つかは通じて六識地に依って起るか。頌に曰く、

見所斷慢眠,自在隨煩惱,

見所断・慢・眠、自在の随煩悩は、

皆唯意地起,餘通依六識。

皆ただ意地に起り、その余は六識に通じて依る。

論曰:略說應知諸見所斷及修所斷。一切慢眠隨煩惱中自在起者,如是一切皆依意識,依五識身無容起故。所餘一切通依六識,謂修所斷貪瞋無明及彼相應諸隨煩惱,即無慚愧、惛、掉及餘大煩惱地法所攝隨煩惱,依六識身皆容起故。如先所辯樂等五受根,今此所明煩惱隨煩惱,何煩惱等何根相應?於此先應辯諸煩惱。頌曰:

論に曰く:略説して応に知るべし、諸の見所断および修所断の、一切の慢・眠・随煩悩の中の自在に起る所、此のようの一切は皆意識に依る。五識身に依って起るを容れざるがゆえに。其余の一切は六識に通じて依る。いわゆる修所断の貪・瞋・無明および彼に相応する諸の随煩悩、すなわち無慚・愧、惛・掉および其余の大煩悩地法の摂する所の随煩悩、六識身に依って皆起るを容るるがゆえに。先の辯ぜし所の楽等の五受根のごとく、今此の明かす所の煩悩・随煩悩は、何の煩悩等か何の根にか相応するか。此に於いて先ず応に諸の煩悩を辯ずべし。頌に曰く、

欲界諸煩惱,貪喜樂相應,

欲界の諸の煩悩、貪は喜・楽に相応し、

瞋憂苦痴遍,邪見憂及喜,

瞋は憂・苦、痴は遍く、邪見は憂および喜に、

疑憂餘五喜,一切捨相應,

疑は憂に、其余の五は喜に、一切は捨に相応す。

上地皆隨應,遍自識諸受。

上地は皆その応ずるに随い、自識の諸受に遍す。

論曰:欲界所繫諸煩惱中,貪喜樂相應,以歡行轉遍六識故。瞋憂苦相應,以慼行轉遍六識故。無明遍與前四相應,歡慼行轉遍六識故。邪見通與憂喜相應,歡慼行轉唯意地故。何緣邪見歡慼行轉?如次先造罪福業故。疑憂相應,以慼行轉唯意地故。懷猶預者求決定知心愁慼故。餘四見慢與喜相應,以歡行轉唯意地故。已約別相說受相應。就通相說受相應者,一切皆與捨受相應,以諸隨眠相續斷位勢力衰歇必住捨受。欲界既爾,上地云何?皆隨所應遍與自地自識俱起諸受相應。謂若地中具有四識,彼一一識所起煩惱,各遍自識諸受相應。若諸地中唯有意識,即彼意識所起煩惱,遍與意識識受相應。上諸地中識受多少,如前已辯,故不別說。已辯煩惱諸受相應,今次復應辯隨煩惱。頌曰:

論に曰く:欲界の繋する所の諸の煩悩の中、貪は喜・楽に相応す。歓行に転じて六識に遍くがゆえに。瞋は憂・苦に相応す。戚行に転じて六識に遍くがゆえに。無明は遍く前の四と相応す。歓・戚行に転じて六識に遍くがゆえに。邪見は通じて憂・喜と相応す。歓・戚行に転じてただ意地なるがゆえに。何の縁にか邪見は歓・戚行に転ずるか。次第のごとく先に罪・福の業を造るがゆえに。疑は憂に相応す。戚行に転じてただ意地なるがゆえに。猶予を懐いて決定知を求むるに心の愁戚するがゆえに。其余の四見・慢は喜と相応す。歓行に転じてただ意地なるがゆえに。已に別相に約して受の相応を説けり。通相に就いて受の相応を説けば、一切は皆捨受と相応す。諸の随眠は相続の断ずる位に於いて勢力の衰歇せば必ず捨受に住するがゆえに。欲界はすでに此のよう、上地は如何。皆その応ずる所に随って遍く自地の自識と俱に起る諸受と相応す。いわゆるもし地の中に四識を具えれば、彼の一一の識の起す所の煩悩は各々遍く自識の諸受と相応す。もし諸の地の中にただ意識有るのみなれば、すなわち彼の意識の起す所の煩悩は、遍く意識の識受と相応す。上の諸地の中の識受の多少は、前に已に辯ぜしがごとし。ゆえに別に説かず。已に煩悩の諸受の相応を辯したり。今次に復た応に随煩悩を辯ずべし。頌に曰く、

諸隨煩惱中,嫉悔忿及惱,

諸の随煩悩の中、嫉・悔・忿および惱、

害恨憂俱起,慳喜受相應,

害・恨は憂と俱に起り、慳は喜受に相応し、

諂誑及眠覆,通憂喜俱起,

諂・誑および眠・覆は、憂・喜に通じて俱に起り、

憍喜樂皆捨,餘四遍相應。

憍は喜・楽、皆捨。その余の四は遍く相応す。

論曰:隨煩惱中嫉等六種,一切皆與憂根相應,以慼行轉唯意地故。慳喜相應,以歡行轉唯意地故。歡行轉者,慳相與貪極相似故。諂誑眠覆憂喜相應,歡慼行轉唯意地故。歡慼行者,謂或有時以歡喜心而行諂等,或時有以憂慼心行。憍喜樂相應,歡行唯意故。在第三靜慮與樂相應,若在下諸地與喜相應。此上所說諸隨煩惱,一切皆與捨受相應,相續斷時皆住捨故,有通行在唯捨地故。捨於一切相應無遮,譬如無明遍相應故。餘無慚愧、惛沈、掉舉四皆遍與五受相應,前二是大不善地法攝故,後二是大煩惱地法攝故。所說煩惱隨煩惱中,有依異門,佛說為蓋。今次應辯。蓋相云何?頌曰:

論に曰く:随煩悩の中の嫉等の六種は、一切皆憂根と相応す。戚行に転じてただ意地なるがゆえに。慳は喜に相応す。歓行に転じてただ意地なるがゆえに。歓行に転ずるは、慳の相は貪と極めて相似なるがゆえに。諂・誑・眠・覆は憂・喜に相応す。歓・戚行に転じてただ意地なるがゆえに。歓・戚行なるは、いわゆる或いは時有りて歓喜の心を以て諂等を行じ、或いは時有りて憂戚の心を以て行ず。憍は喜・楽に相応す。歓行ただ意なるがゆえに。第三静慮に在りては楽と相応し、もし下の諸地に在りては喜と相応す。此の上に説く所の諸の随煩悩は、一切皆捨受と相応す。相続の断ずる時に皆捨に住するがゆえ、通行在るがゆえにただ捨地なるがゆえに。捨は一切に於いて相応に遮なし。無明の遍く相応するがゆえに譬ゆるがごとし。その余の無慚・愧、惛沈・掉擧の四は皆遍く五受と相応す。前の二は大不善地法の摂する所なるがゆえ、後の二は大煩悩地法の摂する所なるがゆえに。説く所の煩悩・随煩悩の中、異門に依って仏は説いて蓋と為したまえる有り。今次に応に辯ずべし。蓋の相は如何。頌に曰く、

蓋五唯在欲,食治用同故,

蓋は五、ただ欲に在り。食・治・用の同じきがゆえに、

雖二立一蓋,障蘊故唯五。

二有ると雖も一蓋を立つ。蘊を障ずるがゆえにただ五。

論曰:佛於經中說蓋有五,一欲貪蓋、二瞋恚蓋、三惛眠蓋、四掉悔蓋、五疑蓋。此中所說惛掉及疑,為如欲貪瞋恚眠悔唯在欲界?通三界耶?應知此三亦唯在欲,以契經說如是五種純是圓滿不善聚故。色無色界無有不善,然此五種純不善故,唯在欲界非色無色。何故惛眠、掉悔二蓋各有二體合立一耶?食、治、用同,故合立一。食謂所食,亦名資糧。治謂能治,亦名非食。用謂事用,亦名功能。由此經中作如是說。惛眠雖二,食非食同。何等名為惛眠蓋食?謂五種法:一𧄼瞢、二不樂、三頻申、四食不平性、五心昧劣性。何等名為此蓋非食?謂光明想。如是二種事用亦同,謂俱能令心性沈昧。掉悔雖二,食非食同。何等名為掉悔蓋食?謂四種法:一親裡尋、二國土尋、三不死尋、四隨念昔種種所更戲笑歡娛承奉等事。何等名為此蓋非食?謂奢摩他。如是二種事用亦同,謂俱能令心不寂靜。由此說食、治、用同,故惛眠、掉悔二合為一。諸煩惱等皆有蓋義,何故如來唯說此五?唯此於五蘊能為勝障故。謂貪恚蓋能障戒蘊,惛沈睡眠能障慧蘊,掉舉惡作能障定蘊,定慧無故於四諦疑,疑故能令乃至解脫解脫智見皆不得起,故唯此五建立為蓋。若作如是解釋經意,掉悔理應惛眠前說,以必依定方有慧生,定障亦應先慧障故。依如是理,有餘師言:此五蓋中,惛眠、掉悔如次能障定蘊慧蘊,由此契經作如是說。修等持者怖畏惛眠,修擇法者怖畏掉悔。有餘別說:唯立五因。彼說云何?謂在行位,先於色等種種境中,取可愛憎二種相故,後在住位由先為因,便起欲貪、瞋恚二蓋。此二能障將入定心,由此後時正入定位,於止及觀不能正習。由此便起惛眠、掉悔,如其次第障奢摩他、毘缽舍那令不得起。由此於後出定位中思擇法時疑復為障,故建立蓋唯有此五。

論に曰く:仏は経の中に於いて蓋に五有りと説きたまえり。一は欲貪蓋、二は瞋恚蓋、三は惛眠蓋、四は掉悔蓋、五は疑蓋。此の中に説く所の惛・掉および疑は、欲貪・瞋恚・眠・悔のごとくただ欲界に在るか、三界に通ずるか。応に知るべし此の三もまたただ欲に在り。契経に説いて此のようの五種は純に是れ円満の不善聚と為すがゆえに。色・無色界には不善有ること無し。しかし此の五種は純に不善なるがゆえに、ただ欲界に在りて色・無色に非ず。何故惛眠・掉悔の二蓋は各々二体有るを合立して一と為すか。食・治・用は同じきがゆえに、合立して一と為す。食とは所食を謂い、もまた名づけて資糧と為す。治とは能治を謂い、もまた名づけて非食と為す。用とは事用を謂い、もまた名づけて功能と為す。此に由って経の中に此の説を作す。惛眠は二有ると雖も、食・非食は同じ。何等を惛眠蓋の食と名づくるか。いわゆる五種の法:一は瞢瞢(ぼうぼう)、二は不楽、三は頻申、四は食の不平性、五は心の昧劣性。何等を此の蓋の非食と名づくるか。いわゆる光明想。此のようの二種は事用もまた同じ。いわゆる俱に能く心性をして沈昧せしむ。掉悔は二有ると雖も、食・非食は同じ。何等を掉悔蓋の食と名づくるか。いわゆる四種の法:一は親里尋、二は国土尋、三は不死尋、四は昔の種種の更せし所の戯笑・歓娯・承奉等の事に随念す。何等を此の蓋の非食と名づくるか。いわゆる奢摩他(しゃまた)。此のようの二種は事用もまた同じ。いわゆる俱に能く心をして寂静ならざらしむ。此に由って食・治・用の同じきを説く。ゆえに惛眠・掉悔の二は合して一と為す。諸の煩悩等は皆蓋の義有り。何故如来はただ此の五を説きたまえるか。ただ此れが五蘊に於いて能く勝障と為るがゆえに。いわゆる貪・恚蓋は能く戒蘊を障し、惛沈・睡眠は能く慧蘊を障し、掉擧・惡作は能く定蘊を障す。定・慧無きがゆえに四諦に於いて疑い、疑うがゆえに能く乃至解脱・解脱智見に至るまで皆起るを得ざらしむ。ゆえにただ此の五を建立して蓋と為す。もし此のように経の意を解釈すれば、掉悔は理応に惛眠の前に説くべし。必ず定に依って方に慧生ずるを以て、定の障もまた応に慧の障に先んずべきがゆえに。此のようの理に依って、其余の師有りて説く:此の五蓋の中、惛眠・掉悔は次第のごとく能く定蘊・慧蘊を障ず。此に由って契経に此の説を作す。等持を修するは惛眠を怖畏し、択法を修するは掉悔を怖畏す、と。其余の別説有り、ただ五因を立つ。彼の説く如何。いわゆる行位に在りて、先ず色等の種種の境の中に於いて、可愛・憎の二種の相を取るがゆえに、後に住位に在りて先を因と為るに由って、便ち欲貪・瞋恚の二蓋を起す。此の二は能く将に定に入らんとする心を障す。此に由って後時に正しく定位に入るに於いて、止および観に於いて正しく習うこと能わず。此に由って便ち惛眠・掉悔を起す。その次第のごとく奢摩他・毘鉢舎那(観)を障して起るを得ざらしむ。此に由って後に定位を出づる中に於いて法を思択する時、疑は復た障と為る。ゆえに蓋を建立するはただ此の五有るのみ。

今應思擇,他界遍行及見滅道斷有漏緣,諸惑於彼斷位不知彼所緣,知彼所緣時而彼不斷。如是諸惑斷由何因?非要遍知所緣故斷。若爾,斷惑總由幾因?由四種因。何等為四?頌曰:

今応に思択すべし。他界の遍行および見滅・道断の有漏縁の諸の惑は、彼の断ずる位に於いて彼の縁ずる所を知らず、彼の縁ずる所を知る時にして彼は断ぜず。此のようの諸の惑の断ずるは何の因に由るか。必ず要ずるに所縁を遍知するに由って断ずるに非ず。もしそうならば、惑を断ずるは総じて幾つの因に由るか。四種の因に由る。何等か四と為すか。頌に曰く、

遍知所緣故,斷彼能緣故,

所縁を遍知するがゆえ、彼の能縁を断ずるがゆえ、

斷彼所緣故,對治起故斷。

彼の所縁を断ずるがゆえ、対治の起るがゆえに断ず。

論曰:且見所斷惑,斷由前三因:一由遍知所緣故斷,謂見苦集斷自界緣,及見滅道斷無漏緣。二由斷彼能緣故斷,謂見苦集斷他界緣,以自界緣能緣於彼,能緣若斷彼隨斷故。三由斷彼所緣故斷,謂見滅道斷有漏緣,以無漏緣能為彼境,所緣若斷彼隨斷故。若修所斷惑,斷由後一因,謂但由第四對治起故斷。以若此品對治道生,則此品中諸惑頓斷。何品諸惑誰為對治?謂上上品所有諸惑,下下品道能為對治;至下下品所有諸惑,上上品道能為對治。如是義門後當廣辯。所言對治總有幾種?頌曰:

論に曰く:且つ見所断の惑は、断ずるに前三の因に由る。一は所縁を遍知するに由って断ず。いわゆる苦・集を見て断ずる自界縁、および滅・道を見て断ずる無漏縁。二は彼の能縁を断ずるに由って断ず。いわゆる苦・集を見て断ずる他界縁。自界縁を以て能く彼に縁ずれば、能縁はもし断ぜば彼は断ずるに随うがゆえに。三は彼の所縁を断ずるに由って断ず。いわゆる滅・道を見て断ずる有漏縁。無漏縁を以て能く彼の境と為れば、所縁はもし断ぜば彼は断ずるに随うがゆえに。もし修所断の惑は、断ずるに後の一因に由る。いわゆる但だ第四の対治の起るに由って断ず。もし此の品の対治道の生ぜば、則ち此の品の中の諸の惑は頓に断ずるを以て。何の品の諸の惑か誰をか対治と為すか。いわゆる上上品の所有の諸の惑は、下下品の道は能く対治と為り、下下品に至る所有の諸の惑は、上上品の道は能く対治と為る。此のようの義門は後に当に広く辯ずべし。言う所の対治は総じて幾種か。頌に曰く、

對治有四種,謂斷持遠厭。

対治に四種あり。いわゆる断・持・遠・厭。

論曰:諸對治門總有四種:一斷對治,謂無間道。二持對治,謂此後道,由彼能持此斷得故。三遠分對治,謂解脫道後所有道,由彼道能令此所斷惑得更遠故。有餘師說:亦解脫道,以解脫道如彼能令此所斷惑得更遠故。四厭患對治,謂若有道見此界過失深生厭患。然此對治若欲善說,理實應為如是次第:一厭患對治,謂緣苦集起加行道。二斷對治,謂緣一切起無間道。三持對治,謂緣一切起解脫道。四遠分對治,謂緣一切起勝進道。諸惑永斷為定從何?頌曰:

論に曰く:諸の対治の門は総じて四種あり。一は断対治、いわゆる無間道。二は持対治、いわゆる此の後の道。彼に由って能く此の断得を持するがゆえに。三は遠分対治、いわゆる解脱道の後の所有の道。彼の道に由って能く此の断ぜる所の惑をして更に遠きを得せしむるがゆえに。其余の師有りて説く、もまた解脱道。解脱道は彼の能く此の断ぜる所の惑をして更に遠きを得せしむるがごときを以て、と。四は厭患対治、いわゆるもし道有りて此の界の過失を見て深く厭患を生ず。しかし此の対治はもし善く説かんと欲せば、理実は応に此のようの次第と為すべし。一は厭患対治、いわゆる苦・集に縁じて加行道を起す。二は断対治、いわゆる一切に縁じて無間道を起す。三は持対治、いわゆる一切に縁じて解脱道を起す。四は遠分対治、いわゆる一切に縁じて勝進道を起す。諸の惑の永断は定めて何に従るか。頌に曰く、

應知從所緣,可令諸惑斷。

応に知るべし所縁に従り、諸の惑をして断ぜしむる可きを。

論曰:應知諸惑得永斷時,不可令其離相應法,但可令彼遠離所緣,令於所緣不復生故。斷未來惑理且可然,容令於境不復生故。過去諸惑云何說斷?若謂頌說從所緣言,意顯遍知所緣故斷。此亦非理,不決定故。由此應說,煩惱等斷定何所從,自相續中煩惱等斷由得斷故。他相續中諸煩惱等,及一切色不染法斷,由能緣彼自相續中所有諸惑究竟斷故。所言遠分,遠性有幾?頌曰:

論に曰く:応に知るべし、諸の惑は永断を得る時、彼をして相応の法を離れしむる可からず。但だ彼をして所縁を遠離せしむる可し。所縁に於いて復た生生ぜざらしむるがゆえに。未来の惑を断ずるは理且つ此のようの可し。境に於いて復た生ぜざらしむるを容るるがゆえに。過去の諸の惑は如何にして断と説くか。もし頌の説く所縁に従るの言は、意は所縁を遍知するに由って断ずるを顕すと謂わば、此れもまた理に非ず。決定せざるがゆえに。此に由って応に説くべし、煩悩等の断は定めて何の従る所か。自の相続の中の煩悩等の断は、得の断ずるに由るがゆえに。他の相続の中の諸の煩悩等、および一切の色の不染の法の断は、能く彼に縁ずる自の相続の中の所有の諸の惑の究竟断ぜるに由るがゆえに。言う所の遠分、遠性に幾つか有るか。頌に曰く、

遠性有四種,謂相治處時,

遠性に四種あり。いわゆる相・治・処・時。

如大種屍羅,異方二世等。

大種・尸羅、異方・二世等のごとし。

論曰:傳說遠性總有四種:一相遠性,如四大種,雖復俱在一聚中生,以相異故亦名為遠。二治遠性,如持犯戒,雖復俱在一身中行,以相治故亦名為遠。三處遠性,如東西海,雖復俱在一世界中,方處隔故亦名為遠。四時遠性,如過未世,雖復俱依一法上立,時分隔故亦名為遠。望何說遠?望現在世。無間已滅及正生時與現相隣,如何名遠?由世性別故得遠名,非久曾當方得名遠。若爾,現在亦應得遠名,以望去來世性亦別故。若謂去來法無作用,離作用故名為遠者,諸無為法作用說無,云何名近?若謂由現遍得無為故名近者,去來二世例亦應然。虛空無為如何名近?若謂過未更互相望,由隔現在故名為遠。現望二世俱極相隣,無為無隔故皆近者,則應去來隣現在世,相望有隔故具二名,不應一向說名為遠。若依正理,應說去來離法自相故名為遠,未來未得法自相故、過去已捨法自相故。等言為明舉事未盡,前言惑斷由治道生,道勝進時所斷諸惑為再斷不?所得離繫有重得耶?頌曰:

論に曰く:伝説に遠性は総じて四種あり。一は相遠性。四大種のごとく、復た俱に一聚の中に生ずと雖も、相の異なるを以てもまた遠と名づく。二は治遠性。持・犯戒のごとく、復た俱に一身の中に行ずと雖も、相治するを以てもまた遠と名づく。三は処遠性。東西の海のごとく、復た俱に一世界の中に在ると雖も、方処の隔たるを以てもまた遠と名づく。四は時遠性。過・未の世のごとく、復た俱に一法の上に依って立つと雖も、時分の隔たるを以てもまた遠と名づく。何に望んでか遠と説くか。現在世に望む。無間に已に滅しおよび正に生ずる時は現と相隣るに、如何にして遠と名づくか。世性の別なるに由って遠の名を得。久しく曾・当なる方にのみ遠の名を得るに非ず。もしそうならば、現在もまた応に遠の名を得べし。去・来世の性に望めば別なるを以て。もし去・来の法は作用無く、作用を離るるがゆえに遠と名づくと謂わば、諸の無為の法は作用を説いて無し。如何にして近と名づくか。もし現に由って遍く無為を得るがゆえに近と名づくと謂わば、去・来の二世は例して応に此のようであるべし。虚空の無為は如何にして近と名づくか。もし過・未は更に互いに相望めて、現在に隔たるに由って遠と名づけ、現は二世に望めば俱に極めて相隣り、無為は隔たる無きがゆえに皆近しと謂わば、則ち応に去・来は現在に隣り、相望んで隔たる有るがゆえに二名を具え、応に一向に遠と説くべからず。もし正理に依れば、応に説くべし、去・来は法の自相を離るるがゆえに遠と名づく。未来は未だ法の自相を得ざるがゆえ、過去は已に法の自相を捨てたるがゆえに。等の言は事を挙ぐるに尽きざるを明かさんが為。前に言う、惑の断ずるは治道の生ずるに由る。道の勝進する時、断ぜる所の諸の惑は再び断ずるか否か。得る所の離系に重得の有るか。頌に曰く、

諸惑無再斷,離繫有重得,

諸の惑に再断無し。離系に重得有り。

謂治生得果,練根六時中。

いわゆる治生・得果・練根の六時の中。

論曰:諸惑若得彼能斷道,即由彼道此惑頓斷,必無後時再斷惑義。所得離繫雖無隨道漸勝進理,而道進時容有重起彼勝得義。所言重得總有幾時?總有六時。何等為六?謂治道起得果練根。治道起時,謂解脫道。得果時者,謂得預流、一來、不還、阿羅漢果。練根時者,謂轉根時。此六時中,諸惑離繫隨道勝進重起勝得。然諸離繫隨應當知,有具六時起勝得者,乃至亦有唯具二時。謂欲界繫見四諦斷,及色無色見三諦斷,所有離繫具六時得;色無色界見道諦斷,所有離繫唯五時得,由治生時即得果故。不應於此分為二時,欲界修斷五品離繫亦五時得,除預流果。第六離繫唯四時得,謂於前五又除一時,得果、治生時無異故。第七八品亦四時得,得果四中除前二故。第九離繫唯三時得,謂於前四又除一時,亦治生時即得果故。色無色界修所斷中,唯除有頂第九離繫;所餘離繫亦三時得,得果四中除前三故。有頂第九唯二時得,謂前三內又除一時,亦治生時即得果故。如是且說容有理說。以利根者前諸位中一一皆除練根得故,諸有超越入聖道者,隨應有除預流等故,即諸離繫彼彼位中得遍知名。遍知有二:一智遍知、二斷遍知。智遍知者,謂無漏智。斷遍知者,謂即諸斷,此於果上立因名故。為一切斷立一遍知?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:諸の惑はもし彼の能断の道を得ば、すなわち彼の道に由って此の惑は頓に断ず。必ず後時に再び惑を断ずるの義無し。得る所の離系は道に随って漸く勝進の理無しと雖も、しかし道の進む時は容そ重ねて彼の勝得を起すの義有り。言う所の重得は総じて幾つかの時か。総じて六時あり。何等か六と為すか。いわゆる治道の起る・果を得る・根を練る。治道の起る時とは、いわゆる解脱道。果を得る時とは、いわゆる預流・一来・不還・阿羅漢の果を得るを謂う。練根の時とは、いわゆる根を転ずる時。此の六時の中に於いて、諸の惑の離系は道の勝進に随って重ねて勝得を起す。しかし諸の離系はその応ずる所に随って当知るべし。六時を具えて勝得を起す有り、乃至もまたただ二時を具える有り。いわゆる欲界繋の四諦を見て断ず、および色・無色の三諦を見て断ずる、所有の離系は六時を具えて得。色・無色界の道諦を見て断ずる、所有の離系はただ五時を具えて得。治生の時にすなわち果を得るに由るがゆえに、応に此に於いて二時に分かつべからず。欲界の修断の五品の離系もまた五時を得、預流果を除く。第六の離系はただ四時を得。いわゆる前の五に於いてまた一時を除く。果を得る・治生の時に異なきがゆえに。第七・八品もまた四時を得。果を得る四中に於いて前の二を除くがゆえに。第九の離系はただ三時を得。いわゆる前の四に於いてまた一時を除く。もまた治生の時にすなわち果を得るがゆえに。色・無色界の修所断の中、ただ有頂の第九の離系を除く。其余の離系もまた三時を得。果を得る四中に於いて前の三を除くがゆえに。有頂の第九はただ二時を得。いわゆる前三の内に於いてまた一時を除く。もまた治生の時にすなわち果を得るがゆえに。此のようの且つ容有の理を説くを説く。利根の者は前の諸位の中に於いて一一に皆練根の得を除くを以て、諸の超越して聖道に入る有りて、その応ずる所に随って預流等を除く有るを以て、すなわち諸の離系は彼彼の位の中に於いて遍知の名を得。遍知に二あり。一は智遍知、二は断遍知。智遍知とは、いわゆる無漏智。断遍知とは、いわゆるすなわち諸の断。此れは果の上に於いて因の名を立つるがゆえに。一切の断の為に一の遍知を立てるか。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

斷遍知有九,欲初二斷一,

断遍知に九あり。欲は初二の断に一、

二各一合三,上界三亦爾,

二は各々一、合して三。上界の三もまた此のよう。

餘五順下分,色一切斷三。

其余の五は順下分、色は一切の断に三。

論曰:諸斷總立九種遍知,謂三界繫見諦所斷煩惱等斷立六遍知,所餘三界修道所斷煩惱等斷立三遍知。且三界繫見諦所斷煩惱等斷立六云何?謂欲界繫初二部斷立一遍知,初二部言即顯見苦見集所斷。次二部斷各立一遍知,次二部言顯見滅道斷。如是欲界見諦所斷煩惱等斷立三遍知。如欲界三上界亦爾,謂色無色二界所繫,亦初二斷一二各一合三,是見苦集見滅見道所斷法斷合立三義。如是名為三界見諦所斷法斷六種遍知。餘三界繫修道所斷煩惱等斷立三云何?謂欲界繫修道所斷煩惱等斷立一遍知,應知即是五順下分結盡遍知,並前立故。色界所繫修道所斷煩惱等斷立一遍知,應知此即是色愛盡遍知。無色界繫修道所斷煩惱等斷立一遍知,即一切結永盡遍知。此亦並前合立一故。如是名為三界修道所斷法斷三種遍知。以何因緣色無色界修道所斷煩惱等斷別立遍知非見所斷?以修所斷治不同故。如是所立九種遍知,應辯於中幾何道果?頌曰:

論に曰く:諸の断は総じて九種の遍知を立つ。いわゆる三界繋の諦を見て断ずる所の煩悩等の断は六の遍知を立て、その余の三界の修道の断ずる所の煩悩等の断は三の遍知を立つ。且つ三界繋の諦を見て断ずる所の煩悩等の断に六を立てるは如何。いわゆる欲界繋の初の二部の断に一の遍知を立つ。初二部の言はすなわち苦・集を見て断ずる所を顕す。次の二部の断に各々一の遍知を立つ。次二部の言は滅・道を見て断ずる所を顕す。此のようの欲界の諦を見て断ずる所の煩悩等の断は三の遍知を立つ。欲界の三のごとく上界もまた此のよう。いわゆる色・無色の二界の繋する所もまた初二の断に一、二は各々一、合して三。是れ苦・集を見・滅・道を見て断ずる所の法の断、合して三義を立つ。此のようの名づけて三界の諦を見て断ずる所の法の断の六種の遍知と為す。その余の三界繋の修道の断ずる所の煩悩等の断に三を立てるは如何。いわゆる欲界繋の修道の断ずる所の煩悩等の断に一の遍知を立つ。応に知るべしすなわち是れ五順下分結尽きるの遍知。前に并せて立つるがゆえに。色界の繋する所の修道の断ずる所の煩悩等の断に一の遍知を立つ。応に知るべし此れすなわち是れ色愛尽きるの遍知。無色界繋の修道の断ずる所の煩悩等の断に一の遍知を立つ。すなわち一切の結の永く尽きるの遍知。此れもまた前に并せて合して一を立つるがゆえに。此のようの名づけて三界の修道の断ずる所の法の断の三種の遍知と為す。何の因縁を以てか色・無色界の修道の断ずる所の煩悩等の断は別に遍知を立てて見所断にあらざるか。修所断の治は同じからざるを以て。此のようの立てる所の九種の遍知は、応に中に於いて幾何か道果なるを辯ずべし。頌に曰く、

於中忍果六,餘三是智果,

中に於いて忍果は六、その余の三は智果、

未至果一切,根本五或八,

未至果は一切、根本は五或いは八。

無色邊果一,三根本亦爾,

無色の辺果は一、三の根本もまた此のよう。

俗果二聖九,法智三類二,

俗果は二・聖は九、法智は三・類は二、

法智品果六,類智品果五。

法智品の果は六、類智品の果は五。

論曰:於此九中且應先辯與忍智道為果差別。忍果有六,謂三界繫見斷法斷六種遍知。智果有三,謂順下分色愛一切結盡遍知,由此三遍知是修道果故。如何忍果說為遍知?諸忍皆是智眷屬故,如王眷屬假立王名。或忍與智同一果故。今次應辯與靜慮地眷屬根本為果差別。未至靜慮果具有九,謂此為依能斷三界見修所斷煩惱等故。根本靜慮果五或八。所言五者,毘婆沙師說根本地唯能永斷色無色攝煩惱等故,欲界所繫煩惱等斷彼唯許是未至果故。所言八者,尊者妙音說根本地亦與欲界諸煩惱等為斷對治。諸有先離欲界染者,依根本地入見諦時,於欲界繫見斷法斷,許別道引無漏得故,由此亦是彼見道果。除順下分結盡遍知,以彼唯是未至果故,無容修彼斷對治故。中間靜慮如根本說。今次應辯與無色地眷屬根本為果差別。無色邊地果唯有一,謂依空處近分地道得色愛盡遍知果故。前三根本果亦唯一,謂依無色前三根本得一切盡遍知果故。今次應辯與世俗道及諸聖道為果差別。俗道果二,謂俗道力唯能獲得順下分盡及色愛盡遍知果故。聖道果九,謂聖道力遍能永斷三界法故。今次應辯與法類智為果差別。法智果三,謂法智力能斷三界修所斷故,得後三果。類智果二,謂類智力但能永斷色無色界修所斷故,得後二果。今次應辯與法類智同品諸道為果差別。法智品果六,謂即是前法智、法忍所得六果。類智品果五,謂即是前類智、類忍所得五果。品言通攝智及忍故。何故一一斷不別立遍知,唯就如前九位建立?頌曰:

論に曰く:此の九の中に於いて且つ応に先ず忍・智の道と果との差別を辯ずべし。忍果に六あり。いわゆる三界繋の見断の法断の六種の遍知。智果に三あり。いわゆる順下分・色愛・一切結尽の遍知。此の三遍知に由って是れ修道の果なるがゆえに。如何にして忍果を説いて遍知と為すか。諸の忍は皆智の眷属なるがゆえに。王の眷属の仮に王の名を立つるがごとし。或いは忍は智と同一の果なるがゆえに。今次に応に静慮地の眷属・根本と果との差別を辯ずべし。未至の静慮果は九を具えり。いわゆる此れを依として能く三界の見・修所断の煩悩等を断ずるがゆえに。根本の静慮果は五或いは八。五と言うは、毘婆沙師の説く、根本地はただ能く色・無色の摂する所の煩悩等を永断す、欲界の繋する所の煩悩等の断は彼はただ未至果と許すがゆえに。八と言うは、尊者妙音の説く、根本地もまた欲界の諸の煩悩等と断対治と為る、と。諸の先に欲界の染を離れたる有りて、根本地に依って諦を見るに入る時、欲界繋の見断の法断に於いて、別道の無漏の得を引くを許すがゆえに。此に由ってもまた彼の見道の果。順下分結尽の遍知を除く。彼はただ未至果なるを以て、彼の断対治を修するを容れざるがゆえに。中間の静慮は根本の説くがごとし。今次に応に無色地の眷属・根本と果との差別を辯ずべし。無色の辺地果はただ一有るのみ。いわゆる空処の近分の地道に依って色愛尽の遍知果を得るがゆえに。前三の根本果もまたただ一。いわゆる無色の前三根本に依って一切尽の遍知果を得るがゆえに。今次に応に世俗道および諸の聖道と果との差別を辯ずべし。俗道果は二。いわゆる俗道の力はただ能く順下分尽および色愛尽の遍知果を獲得するがゆえに。聖道果は九。いわゆる聖道の力は遍く能く三界の法を永断するがゆえに。今次に応に法・類智と果との差別を辯ずべし。法智果は三。いわゆる法智の力は能く三界の修所断を断ずるがゆえに、後の三果を得。類智果は二。いわゆる類智の力は但だ能く色・無色界の修所断を永断するがゆえに、後の二果を得。今次に応に法・類智の同品の諸道と果との差別を辯ずべし。法智品果は六。いわゆるすなわち是れ前の法智・法忍の得る所の六果。類智品果は五。いわゆるすなわち是れ前の類智・類忍の得る所の五果。品の言は通じて智および忍を摂するがゆえに。何故一一の断に別に遍知を立てず、ただ前のごとき九位に就いて建立するか。頌に曰く、

得無漏斷得,及缺第一有,

無漏の断得を得、および第一有を缺き、

滅雙因越界,故立九遍知。

双因を滅し界を越ゆるがゆえに、九遍知を立つ。

論曰:有漏法斷雖多體位,而四緣故立九遍知,且由三緣立六忍果,謂得無漏離繫得故、缺有頂故、滅雙因故。諸斷要具如是三緣立遍知名,闕則不爾。如異生位有滅雙因,無無漏斷得,未缺有頂故,雖亦得斷不名遍知。若聖位中從入見諦至苦類忍現行以前,雖有已得無漏斷得,未缺有頂、未滅雙因,至苦類智集法忍位,雖亦缺有頂猶未滅雙因,未滅見集斷諸遍行因故。至後法智類智位中諸所得斷,三緣具故,於一一位建立遍知,具由四緣立三智果,謂於前三加越界故。言越界者,謂此界中煩惱等法皆全離故。有立離俱繫亦是一緣故,立遍知緣總有五種。離俱繫者,謂此雖斷未立遍知,要離所餘緣此境或方可建立。此離俱繫與滅雙因及越界緣,用無別故,雖義有異而不別說。雖諸越界位皆滅雙因,而滅雙因時非皆越界故,滅雙因外別立越界緣,滅三地雙因未立遍知故。誰成就幾遍知?頌曰:

論に曰く:有漏の法の断は体位多しと雖も、しかし四縁に由って九の遍知を立つ。且つ三縁に由って六の忍果を立つ。いわゆる無漏の離系得を得るがゆえ、有頂を缺くがゆえ、双因を滅するがゆえに。諸の断は要ずるに此のようの三縁を具えて遍知の名を立つ。闕けば則ちこのようにはあらず。異生の位のごとく滅双因有り、無漏の断得無く、有頂を缺かざるがゆえに、断を得ると雖も遍知と名づけず。もし聖位の中に於いて諦を見るに入りて苦類忍の現行以前に至るまで、已に無漏の断得を得る有ると雖も、有頂を未だ缺かず双因を未だ滅せず。苦類智・集法忍の位に至るに於いて、もまた有頂を缺くと雖もなお未だ双因を滅せず。集を見て断ずる所の諸の遍行の因を未だ滅せざるがゆえに。後の法智・類智の位の中に於ける諸の得る所の断に至るに於いて、三縁を具えるがゆえに、一一の位に於いて遍知を建立す。具に四縁に由って三の智果を立つ。いわゆる前三に於いて越界を加うるがゆえに。越界と言うは、此の界の中の煩悩等の法は皆全く離るるを謂うがゆえに。あるは立てて俱系を離るるもまた一縁と為す。遍知の縁を立つるに総じて五種有るがゆえに。俱系を離るるとは、此れは断ずと雖も未だ遍知を立てず。要ずるにその余の此の境に縁ずるを離れて或いは方に建立すべしを謂う。此の俱系を離るるは双因を滅するおよび越界の縁と用の別無きがゆえに、義に異有ると雖も別に説かず。諸の越界の位は皆双因を滅すると雖も、しかし双因を滅する時は皆越界にあらざるがゆえに、双因を滅するの外に別に越界の縁を立つ。三地の双因を滅するに未だ遍知を立てざるがゆえに。誰か幾遍知を成就するか。頌に曰く、

住見諦位無,或成一至五,

諦を見る位に住して無し、或いは一より五に至るを成ず。

修成六一二,無學唯成一。

修は六・一・二を成じ、無学はただ一を成ず。

論曰:異生定無成遍知理。若諸聖者住見諦位,從初乃至集法忍時,於諸遍知亦未成就。至集法智、集類忍時唯成就一。至集類智、滅法忍時便成就二。至滅法智、滅類忍時便成就三。至滅類智、道法忍時便成就四。至道法智、道類忍時便成就五。住修道位道類智為初,乃至未得全離欲界染及離欲退皆成就六。至全離欲色愛未盡,或先離欲從道類智未起色盡勝果道前,唯成一遍知,謂順下分盡。從色愛盡及無學位起色纏退亦一如前。有色愛者從色愛永盡,先離色者從起色盡道至未全離無色愛前成下分盡色愛盡二。從無學退起無色纏成二遍知,名如前說。住無學位唯成就一,謂一切結永盡遍知。何緣不還、阿羅漢果總集諸斷立一遍知?頌曰:

論に曰く:異生は定めて遍知を成就するの理無し。もし諸の聖者の諦を見る位に住するは、初より乃至集法忍の時に至るまで、諸の遍知に於いてもまた未だ成就せず。集法智・集類忍の時に至ればただ一を成就す。集類智・滅法忍の時に至れば便ち二を成就す。滅法智・滅類忍の時に至れば便ち三を成就す。滅類智・道法忍の時に至れば便ち四を成就す。道法智・道類忍の時に至れば便ち五を成就す。修道の位に住して道類智を初と為し、乃至未だ全く欲界の染を離るるを得ずおよび欲を離れて退するも皆六を成就す。全く欲を離れて色愛は未だ尽きざるに至り、或いは先に欲を離れて道類智より未だ色尽の勝果の道を起さざる前、ただ一遍知を成ず。いわゆる順下分尽。色愛尽きるに従いおよび無学の位に於いて色纏の退を起すもまた一、前のごとし。色愛有るは色愛の永く尽きるに従い、先に色を離れたるは色尽の道を起して未だ全く無色愛を離れざる前に至るまで、下分尽・色愛尽の二を成ず。無学より退して無色の纏を起すは二の遍知を成ず。名は前の説くがごとし。無学の位に住してはただ一を成就す。いわゆる一切結の永く尽きるの遍知。何の縁にか不還・阿羅漢の果は総じて諸の断を集めて一の遍知を立つるか。頌に曰く、

越界得果故,二處集遍知。

界を越え果を得るがゆえに、二の処は遍知を集む。

論曰:具二緣故,於一切斷總集建立為一遍知:一者越界、二者得果。唯彼兩位具足二緣,故彼遍知總集為一。誰捨誰得幾種遍知?頌曰:

論に曰く:二縁を具えるがゆえに、一切の断に於いて総じて集めて建立して一の遍知と為す。一は越界、二は得果。ただ彼の両位は二縁を具足す。ゆえに彼の遍知は総じて集めて一と為す。誰か捨て誰か幾種の遍知を得るか。頌に曰く、

捨一二五六,得亦然除五。

一・二・五・六を捨て、得るもまた此のよう五を除く。

論曰:言捨一者,謂從無學及色愛盡全離欲退。言捨二者,謂諸不還從色愛盡起欲纏退,及彼獲得阿羅漢時。言捨五者,謂先離欲後入見諦道類智時,得下分盡捨前五故。言捨六者,謂未離欲所有聖者得離欲時。得亦然者,謂有得一得二得六,唯除得五。言得一者,謂得未得,及從無學起色纏退。言得二者,謂從無學起無色界諸纏退時。言得六者,謂退不還。因辯隨眠,分別斷竟。

論に曰く:一を捨つと言うは、いわゆる無学および色愛尽より全く欲を離れて退するを謂う。二を捨つと言うは、いわゆる諸の不還の色愛尽より欲纏の退を起す、および彼の阿羅漢を獲得する時。五を捨つと言うは、いわゆる先に欲を離れて後に諦を見る道の類智の時に入る、下分尽を得て前の五を捨つるがゆえに。六を捨つと言うは、いわゆる未だ欲を離れざる所有の聖者の欲を離るるを得る時。得るもまた此のようとは、いわゆる一を得・二を得・六を得有り、ただ五を得るを除く。一を得と言うは、いわゆる未だ得ざるを得る、および無学より色纏の退を起すを謂う。二を得と言うは、いわゆる無学より無色界の諸の纏の退を起す時。六を得と言うは、いわゆる不還を退するを謂う。随眠を辯ずるに因りて、断ずる所を分別して竟り。

説一切有部倶舎論 巻第二十一

アビダルマ倶舎論 巻第二十二

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別賢聖品第六之一

分別賢聖品 第六之一

如是已說煩惱等斷於九勝位得遍知名。然斷必由道力故得,此所由道其相云何?頌曰:

此のようの已に煩悩等の断は九勝位に於いて遍知の名を得るを説けり。しかし断ずるは必ず道の力に由って得るがゆえに、此の由る所の道はその相如何。頌に曰く、

已說煩惱斷,由見諦修故,

已に煩悩の断ずるを説けり、諦を見修するに由る。

見道唯無漏,修道通二種。

見道はただ無漏、修道は二種に通ず。

論曰:前已廣說諸煩惱斷,由見諦道及修道故。道唯無漏亦有漏耶?見道應知唯是無漏,修道通二。所以者何?見道速能治三界故。頓斷九品見所斷故,非世間道有此堪能,故見位中道唯無漏。修道有異故通二種,如向所言由見諦故。此所見諦其相云何?頌曰:

論に曰く:前に已に広く諸の煩悩の断ずるを説けり、諦を見る道および修道に由るがゆえに。道はただ無漏か、有漏をも有るか。見道は応に知るべしただ是れ無漏、修道は二に通ず。そもそもどうしてか。見道は速やかに能く三界を治するがゆえに。頓に九品の見所断を断ずるがゆえに、世間の道に此の堪能あるにあらざれば、見位の中に於いて道はただ無漏。修道は異有るがゆえに二種に通ず。向の言う所の諦を見るに由るがごとし。此の見る所の諦はその相如何。頌に曰く、

諦四先已說,謂苦集滅道,

諦は四、先に已に説けり。いわゆる苦・集・滅・道。

彼自體亦然,次第隨現觀。

彼の自体もまた此のよう。次第は現観に随う。

論曰:諦有四種,名先已說。於何處說?謂初品中分別有漏無漏法處。彼如何說?謂彼頌言:無漏謂聖道,此說道諦。擇滅謂離繫,此說滅諦。及苦集世間,此說苦集諦。四諦次第如彼說耶?不爾。云何?如今所列:一苦、二集、三滅、四道。四諦自體亦有異耶?不爾。云何?如先所辯,為顯體同彼,故說亦然聲。四諦何緣如是次第?隨現觀位先後而說,謂現觀中先所觀者便在先說,若異此者應先說因後方說果。然或有法說次隨生,如念住等。或復有法說次隨便,如正勝等。謂此中無決定理趣起如是欲,先斷已生、後遮未生,但隨言便。今說四諦,隨瑜伽師現觀位中先後次第。何緣現觀次第必然?加行位中如是觀故。何緣加行必如是觀?謂若有法是愛著處能作逼惱,為求脫因,此法理應最初觀察,故修行者加行位中最初觀苦,苦即苦諦。次復觀苦以誰為因?便觀苦因,因即集諦。次復觀苦以誰為滅?便觀苦滅,滅即滅諦。後觀苦滅以誰為道?便觀滅道,道即道諦。如見病已,次尋病因,續思病癒,後求良藥。契經亦說諦次第喻。何契經說?謂《良醫經》。如彼經言:夫醫王者,謂具四德能拔毒箭:一善知病狀、二善知病因、三善知病癒、四善知良藥。如來亦爾,為大醫王,如實了知苦集滅道。故加行位如是次觀,現觀位中次第亦爾,由加行力所引發故,如已觀地縱馬奔馳。此現觀名為目何義?應知此目現等覺義。何緣說此唯是無漏?對向涅槃正覺境故,此覺真淨故得正名。應知此中果性取蘊名為苦諦,因性取蘊名為集諦,是能集故。由此苦集因果性分,名雖有殊非物有異。滅道二諦物亦有殊,何義經中說為聖諦?是聖者諦故得聖名。於非聖者此豈成妄?於一切是諦,性無顛倒故。然唯聖者實見非餘,是故經中但名聖諦。非非聖諦,顛倒見故。如有頌言:聖者說是樂,非聖說為苦;聖者說為苦,非聖說是樂。

論に曰く:諦に四種あり。名は先に已に説けり。何れの処にか説きたるか。いわゆる初品の中に有漏・無漏の法を分別する処。彼は如何に説けるか。いわゆる彼の頌に説く:無漏とは聖道を謂う、此れは道諦を説く。択滅とは離系を謂う、此れは滅諦を説く。および苦・集の世間、此れは苦集諦を説く、と。四諦の次第は彼の説くがごときか。そうにはあらず。如何。今列ねる所のごとく:一は苦、二は集、三は滅、四は道。四諦の自体もまた異あるか。そうにはあらず。如何。先の辯ぜしがごとく、体は彼と同じなるを顕さんが為に、ゆえに説いてもまた此のようの声と為す。四諦は何の縁にか此のようの次第なるか。現観の位の先後に随いて説く。いわゆる現観の中に於いて先に観ずる所は便ち先に説く。もし此に異ならば応に先ず因を説きて後に方に果を説くべし。しかし或いは法有りて説次は生に随う。念住等のごとし。或いは復た法有りて説次は便に随う。正勝等のごとし。いわゆる此の中に決定の理趣無くして此のようの欲を起す。先ず已生を断じ、後に未生を遮る。但だ言の便に随う。今四諦を説くは、瑜伽師の現観の位の中の先後の次第に随う。何の縁にか現観の次第は必ずしかあるか。加行の位の中に此のようの観ずるがゆえに。何の縁にか加行は必ず此のようの観ずるか。いわゆるもし法有りて是れ愛着の処にして能く逼惱を作す。脱を求むるの因と為るに此の法は理応に最初に観察すべし。ゆえに修行の加行の位の中に於いて最初に苦を観ず。苦はすなわち苦諦。次に復た苦を観じて誰をか因と為すや。便ち苦因を観ず。因はすなわち集諦。次に復た苦を観じて誰をか滅と為すや。便ち苦滅を観ず。滅はすなわち滅諦。後に苦滅を観じて誰をか道と為すや。便ち滅道を観ず。道はすなわち道諦。病を見已りてのごとく、次に病因を尋ね、続いて病愈を思い、後に良薬を求む。契経にもまた諦の次第の譬を説けり。何の契経にか説くか。いわゆる《良医経》。彼の経に説くがごとく:夫れ医王とは、いわゆる四徳を具えて能く毒箭を抜く。一は善く病状を知り、二は善く病因を知り、三は善く病愈を知り、四は善く良薬を知る。如来もまた此のよう、大医王と為りて、如実に苦・集・滅・道を了知したまえり。ゆえに加行の位は此のようの次に観じ、現観の位の中の次第もまた此のよう。加行の力の引発する所に由るがゆえに。已に地を観じて馬を縦りて奔馳せしむるがごとし。此の現観は名づけて何の義に目するか。応に知るべし此れは現等観の義に目す。何の縁にか此れを説いてただ無漏と為すか。涅槃の正覚の境に対向するがゆえに、此の覚は真浄なるがゆえに正の名を得。応に知るべし、此の中に果性の取蘊を苦諦と名づけ、因性の取蘊を集諦と名づく。能集する所なるがゆえに。此に由って苦集は因果の性に分かつ。名は殊有ると雖も物に異有るに非ず。滅・道の二諦は物にもまた殊有り。何の義にか経の中に聖諦と説くか。是れ聖者の諦なるがゆえに聖の名を得。非聖者に於いて此れ豈に妄と成らんや。一切に於いて是れ諦にして性は顛倒せざるがゆえに。しかしただ聖者は実に見る、其余にあらざるがゆえに、此のゆえに経の中に但だ聖諦と名づく。非聖諦にあらざるにあらず、顛倒の見なるがゆえに。頌有りて説くがごとく:聖者は是れ楽と説き、非聖は是れ苦と為す。聖者は是れ苦と説き、非聖は是れ楽と説す。

有餘師說:二唯聖諦,餘二通是聖非聖諦。唯受一分是苦自體,所餘並非。如何可言諸有漏行皆是苦諦?頌曰:

其余の師有りて説く:二はただ聖諦、其余の二は是れ聖・非聖の諦に通ず。ただ受の一分は苦の自体、その余は併せてあらず。如何にして諸の有漏の行は皆苦諦と説くべきか。頌に曰く、

苦由三苦合,如所應一切,

苦は三苦に合すに由り、その応ずる所の一切の、

可意非可意,餘有漏行法。

可意・非可意、その余の有漏の行法。

論曰:有三苦性,一苦苦性、二行苦性、三壞苦性。諸有漏行如其所應,與此三種苦性合故,皆是苦諦亦無有失。此中可意有漏行法,與壞苦合故名為苦。諸非可意有漏行法,與苦苦合故名為苦。除此所餘有漏行法,與行苦合故名為苦。何謂為可意非可意餘?謂樂等三受如其次第,由三受力令順樂受等諸有漏行得可意等名。所以者何?若諸樂受由壞成苦性。如契經言。諸樂受生時樂住時樂壞時苦,若諸苦受由體成苦性。如契經言:諸苦受生時苦、住時苦。不苦不樂受由行成苦性,眾緣造故。如契經言:若非常即是苦。如受順受,諸行亦然。有餘師釋:苦即苦性名苦苦性,如是乃至行即苦性名行苦性。應知此中說可意非可意為壞苦苦苦者,由不共故。理實一切行苦故苦,此唯聖者所能觀見。故有頌言:

論に曰く:三苦の性有り。一は苦苦の性、二は行苦の性、三は壊苦の性。諸の有漏の行はその応ずる所のごとく、此の三種の苦性と合するがゆえに、皆是れ苦諦にして失なし。此の中の可意の有漏行法は、壊苦と合するがゆえに苦と名づく。諸の非可意の有漏行法は、苦苦と合するがゆえに苦と名づく。此を除くその余の有漏行法は、行苦と合するがゆえに苦と名づく。何をか可意・非可意・其余と為すか。いわゆる楽等の三受は次第のごとく、三受の力に由って楽受等に順ずる諸の有漏行をして可意等の名を得せしむ。そもそもどうしてか。もし諸の楽受は壊に由って苦性を成す。契経に説くがごとく:諸の楽受は生ずる時は楽、住する時は楽、壊する時は苦。もし諸の苦受は体に由って苦性を成す。契経に説くがごとく:諸の苦受は生ずる時は苦、住する時は苦。不苦不楽受は行に由って苦性を成す。衆縁の造する所なるがゆえに。契経に説くがごとく:もし非常なればすなわち是れ苦。受に順ずるがごとく、諸行もまた此のよう。其余の師有りて釋す:苦はすなわち苦性、名づけて苦苦性。此のよう乃至行はすなわち苦性、名づけて行苦性。応に知るべし此の中に可意・非可意を説いて壊苦・苦苦と為すは、不共なるに由るがゆえに。理実は一切の行は苦なるがゆえに苦。此れはただ聖者のみ能く観見する所。ゆえに頌有りて説く:

如以一睫毛,置掌人不覺,

一の睫毛を以て、掌に置けば人は覚えざるがごとく、

若置眼睛上,為損及不安。

もし眼睛の上に置かば、損および不安と為る。

愚夫如手掌,不覺行苦睫,

愚夫は手掌のごとく、行苦の睫を覚えず、

智者如眼睛,緣極生厭怖。

智者は眼睛のごとく、縁して極めて厭怖を生ず。

以諸愚夫於無間獄受劇苦蘊生苦怖心,不如眾聖於有頂蘊。道諦亦應是行苦攝,有為性故。道諦非苦,違逆聖心是行苦相。非聖道起違逆聖心,由此能引眾苦盡故。若觀諸有為涅槃寂靜者,亦由先見彼法是苦、後觀彼滅以為寂靜,故有為言唯顯有漏。若諸法中亦許有樂,何緣但說苦為聖諦?有一類釋:由樂少故。如置綠豆烏豆聚中,以少從多名烏豆聚。誰有智者瀝水澆癰有少樂生,計癰為樂?有餘於此以頌釋言:

(論は続けて曰く:)諸の愚夫は無間獄に於いて劇苦の蘊を受けて苦を怖るる心を生ずるが、衆聖の有頂蘊に於けるに如かず。道諦もまた応に行苦の摂なるべし。有為の性なるがゆえに。道諦は苦にあらず。聖心に違逆するは行苦の相。聖道の起るは聖心に違逆するに非ず。此に由って能く衆苦の尽きるを引くがゆえに。もし諸の有為を観ずるに涅槃寂静なれば、もまた先に彼の法は苦と見て、後に彼の滅を観じて寂静と為すに由る。ゆえに有為の言はただ有漏を顕す。もし諸法の中にも楽有るを許さば、何の縁にか但だ苦を説いて聖諦と為すか。一類の釋あり:楽少なきに由る。緑豆を烏豆の聚の中に置くがごとく、少を以て多に従いて烏豆聚と名づく。誰か智者有りて水を注ぎて癰に澆して少楽を生じ、癰を計りて楽と為さん。其余有りて此に於いて頌を以て釋して曰く:

能為苦因故,能集眾苦故,

能く苦の因と為るがゆえ、衆苦を集むるがゆえ、

有苦希彼故,說樂亦名苦。

苦あるは彼を希うがゆえに、楽を説いてもまた苦と名づく。

理實應言,聖者觀察諸有及樂體皆是苦,以就行苦同一味故,由此立苦為諦非樂。如何亦觀樂受為苦?由性非常違聖心故。如以苦相觀色等時,非彼苦相一如苦受。有謂樂受是苦因故。諸聖亦觀彼為苦者,此釋非理,能為苦因是集行相,豈關於苦?又諸聖者生色無色,緣彼如何有苦想轉?非彼諸蘊為苦受因。又經復說行苦何用?若由非常觀樂為苦,非常苦觀行相何別?生滅法故觀為非常,違聖心故觀之為苦。但見非常知違聖心,故非常行相能引苦行相。有餘部師作如是執:定無實樂,受唯是苦。云何知然?由教、理故。云何由教?如世尊言:諸所有受無非是苦。又契經言:汝應以苦觀於樂受。又契經言:於苦謂樂名為顛倒。云何由理?以諸樂因皆不定故。謂諸所有衣服飲食冷煖等事,諸有情類許為樂因,此若非時過量受用便能生苦,復成苦因不應樂因。於增盛位或雖平等,但由非時,便成苦因能生於苦。故知衣等本是苦因,苦增盛時其相方顯。威儀易脫理亦應然。又治苦時方起樂覺,及苦易脫樂覺乃生。謂若未遭飢渴寒熱疲欲等苦所逼迫時,不於樂因生於樂覺。故於對治重苦因中,愚夫妄計此能生樂,實無決定能生樂因。苦易脫中愚夫謂樂,如荷重擔暫易肩等。故受唯苦,定無實樂。對法諸師言樂實有,此言應理。云何知然?且應反徵撥無樂者何名為苦?若謂逼迫既有適悅,有樂應成。若謂損害既有饒益,有樂應成。若謂非愛既有可愛,有樂應成。若謂可愛體非成實,以諸聖者於離染時,可愛復成非可愛故。不爾。可愛聖離染時,由異門觀為非愛故。謂若有受自相可愛,此受未常成非可愛。然諸聖者於離染時,以餘行相厭患此受,謂觀此受是放逸處,要由廣大功力所成變壞無常故非可愛,非彼自相是非愛法。若彼自體是非可愛,不應於中有起愛者。

(論は続けて曰く:)理実は応に説くべし。聖者は諸の有および楽の体は皆是れ苦と観察す。行苦に就いて同一味なるを以て。此に由って苦を立てて諦と為し、楽にあらず。如何にしてもまた楽受を観じて苦と為すか。性は常にあらずして聖心に違するがゆえに。苦相を以て色等を観ずる時のごとく、彼の苦相は苦受のごとく一ならず。あるは楽受は是れ苦の因と謂う。諸の聖もまた彼を観じて苦と為す。此の釋は理に非ず。能く苦の因と為るは集の行相。豈に苦に関わらんや。また諸の聖者は色・無色に生じて、彼に縁じて如何にして苦の想の転ずる有らん。彼の諸蘊は苦受の因にあらざるがゆえに。また経に復た行苦を説いて何の用かある。もし非常に由って楽を観じて苦と為せば、非常の苦観の行相は何の別かある。生滅の法なるがゆえに観じて非常と為し、聖心に違するがゆえにこれを観じて苦と為す。但だ非常を見て聖心に違するを知れば、ゆえに非常の行相は能く苦の行相を引く。其余の部師有りて此の執を作す:定めて実楽無し。受はただ是れ苦。如何にして此のようの知るか。教・理に由るがゆえに。如何にして教に由るか。世尊の説きたまえるがごとく:諸の所有の受は非ずとも皆苦。また契経に説く:汝は応に苦を以て楽受を観ずべし。また契経に説く:苦に於いて楽と謂うを名づけて顛倒と為す。如何にして理に由るか。諸の楽因は皆不定なるを以て。いわゆる諸の所有の衣服・飲食・冷・暖等の事は、諸の有情類は楽因と許す。此れもし時に非ず過量に受用すれば便ち能く苦を生じ、復た苦因と成って応に楽因と為るべからず。増盛の位に於いて或いは平等なりと雖も、但だ非時に由って、便ち苦因と成って能く苦を生ず。ゆえに衣等は本是れ苦因と知る。苦の増盛する時にその相乃ち顕る。威儀の易脱も理は応に此のようであるべし。また苦を治する時に方に楽覚を起し、および苦の易脱に於いて楽覚乃ち生ず。いわゆるもし未だ飢渇・寒熱・疲・欲等の苦に逼迫せらるるを遭わざる時は、楽因に於いて楽覚を生ぜず。ゆえに重苦の対治の因の中に於いて、愚夫は妄りに此れ能く楽を生ずと計る。実に能く楽を生ずる決定の因無し。苦の易脱の中に於いて愚夫は楽と謂う。重荷を荷うに暫く肩を易うる等のごとし。ゆえに受はただ苦にして、定めて実楽無し。対法の諸師は楽は実有と説く。此の言は理に該当す。如何にして此のようの知るか。且つ応に反征すべし。楽無しと撥するは何をか苦と名づくるか。もし逼迫と謂わば、すでに適悦有れば、楽有るは応に成ずべし。もし損害と謂わば、すでに饒益有れば、楽有るは応に成ずべし。もし非愛と謂わば、すでに可愛有れば、楽有るは応に成ずべし。もし可愛の体は成実にあらずと謂わば、諸の聖者の離染する時に於いて、可愛は復た非可愛と成るがゆえに。そうにはあらず。可愛は聖の離染する時、異門に由って観じて非愛と為すがゆえに。いわゆるもし受有りて自相は可愛なれば、此の受は未だ嘗て非可愛と成らず。しかし諸の聖者は離染する時に於いて、其余の行相を以て此の受を厭患す。いわゆる此の受を観じて是れ放逸の処、要ずるに広大の功力の成ずる所にして変壊・無常なるがゆえに非可愛。彼の自相は非愛の法に非ざるがゆえに。もし彼の自体は是れ非可愛ならば、応に中に於いて愛を起す有るべからず。

若不起愛,於離染時聖者不應以餘行相觀察樂受深生厭患,故由自相有實樂受。然世尊言諸所有受無非苦者,佛自釋通。如契經言:佛告慶喜:我依諸行皆是無常,及諸有為皆是變壞,密作是說。諸所有受無非是苦,故知此經不依苦苦作如是說。若由自相說受皆苦,何緣慶喜作是問言:佛於餘經說有三受,謂樂及苦、不苦不樂。依何密意此經復言諸所有受無非是苦?慶喜但應作如是問:依何密意說有三受?世尊亦應但作是答:我依此密意,故說有三受。經中既無如是問答,故由自相實有三受。世尊既言我密意說諸所有受無非是苦,即已顯示此所說經依別意說非真了義。又契經言,汝應以苦觀樂受者,應知此經意顯樂受有二種性:一有樂性,謂此樂受依自相門是可愛故;二有苦性,謂依異門亦是無常變壞法故。然觀樂時能為繫縛,諸有貪者噉此味故。若觀苦時能令解脫,如是觀者得離貪故。佛以觀苦能令解脫,故勸有情觀樂為苦。如何知此自相是樂?如有頌言:

(論は続けて曰く:)もし愛を起さざれば、離染の時に於いて聖者は応に其余の行相を以て楽受を観察して深く厭患を生ずべからず。ゆえに自相に由って実の楽受有り。然而世尊は諸の所有の受は非ずとも皆苦と説きたまえり、仏は自ら釋通せり。契経に説くがごとく:仏は慶喜に告げたまう、我は諸行は皆無常にして、および諸の有為は皆是れ変壊に依って、密かに是の説を作す。諸の所有の受は非ずとも皆苦と。ゆえに此の経は苦苦に依らずして此の説を作せるを知る。もし自相に由って受は皆苦と説かば、何の縁にか慶喜は是の問説を作す:仏は其余の経に三受有りと説きたまえり、いわゆる楽および苦・不苦不楽。何の密意に依ってか此の経は復た諸の所有の受は非ずとも皆苦と説くか。慶喜は但だ応に此のようの問を作すべし:何の密意に依ってか三受有りと説くか。世尊もまた応に但だ是の答を作すべし:我は此の密意に依って、ゆえに三受有りと説く、と。経の中にはすでに此のようの問答無し。ゆえに自相に由って実に三受有り。世尊はすでに我は密意に説く諸の所有の受は非ずとも皆苦と説きたまえば、即ち已に此の説く所の経は別意に依って説いて真の了義に非ずを顯示せり。また契経に説く、汝は応に苦を以て楽受を観ずべしとは、応に知るべし此の経の意は楽受に二種の性有るを顯す:一は楽性有り。いわゆる此の楽受は自相の門に依って是れ可愛なるがゆえに。二は苦性有り。いわゆる異門に依っても又是れ無常・変壊の法なるがゆえに。然而楽を観ずる時は能く繋縛と為る。諸の貪有る者は此の味を啖うがゆえに。もし苦を観ずる時は能く解脱せしむ。此のようの観ずる者は離貪を得るがゆえに。仏は苦を観ずる能く解脱せしむるを以て、ゆえに有情を勧めて楽を観じて苦と為さしむ。如何にして此の自相は是れ楽と知るか。頌有りて説くがごとく:

諸佛正遍覺,知諸行非常,

諸仏の正遍覚は、諸行の非常を知り、

及有為變壞,故說受皆苦。

および有為の変壊を、ゆえに受は皆苦と説く。

又契經言於苦謂樂名顛倒者,此別意說,以諸世間於諸樂受妙欲諸有一分樂中一向計樂故成顛倒。謂諸樂受若依異門亦有苦性,然諸世間唯觀為樂故成顛倒。諸妙欲境樂少苦多,唯觀為樂故成顛倒。諸有亦然,故不由此能證樂受無實理成。若受自相實皆苦者,佛說三受有何勝利?若謂世尊隨俗說者,不應正理。以世尊言我密說受無非苦故。又於觀五受說如實言故。謂契經說:所有樂根、所有喜根,應知此二皆是樂受,乃至廣說。復作是說:若以正慧如實觀見如是五根三結永斷,乃至廣說。又佛如何於一苦受,隨順世俗分別說三?若謂世間於下上中苦,如其次第起樂等三覺,佛隨順彼說樂等三。理亦不然,樂亦三故,應於下等三苦唯起上等樂覺。又受殊勝香味觸等所生樂時,有何下苦而世於中起樂受覺?若許爾時有下苦者,如是下苦已滅未生,世應爾時有極樂覺,此位眾苦都無有故。受欲樂時徵問亦爾。又下品受現在前時,許受分明猛利可取,許中品受現在前時,與此相違,如何應理?又下三定說有樂故,應有下苦;以上諸地說有捨故,應有中苦。定勝苦增,豈應正理?故不應依下等三苦如次建立樂等三受。又契經說:佛告大名:若色一向是苦非樂,非樂所隨,乃至廣說。故知定有少分實樂。如是且辯彼所引教,顯無實樂為證不成,所立理言亦不成證。且以諸樂因皆不定故者,此非正理,迷因義故。謂觀所依分位差別,諸外境界方為樂因或為苦因,非唯外境。若此外境至此所依如是分位能為樂因,未嘗至此不為樂因,是故樂因非不決定。如世間火,觀所煮炙分位差別,為美熟因或為違因,非唯彼火。若此火至此所煮炙如是分位為美熟因,未嘗至此非美熟因,故美熟因非不決定。樂因亦爾,決定理成。又三靜慮中樂因豈不定?彼因無時能生苦故。又彼所說要治苦時起樂覺者,準前已破。

(論は続けて曰く:)また契経に説く、苦に於いて楽と謂うを名づけて顛倒と為すとは、此れ別意の説。諸の世間は諸の楽受・妙欲・諸有の一分の楽の中に於いて一向に楽と計るがゆえに顛倒を成ずるを以て。いわゆる諸の楽受はもし異門に依ればもまた苦性有り。しかし諸の世間はただ観じて楽と為すがゆえに顛倒を成ず。諸の妙欲の境は楽少なく苦多し。ただ観じて楽と為すがゆえに顛倒を成ず。諸の有もまた此のよう。ゆえに此に由って楽受の実無の理成を証すること能わず。もし受の自相は実に皆苦なれば、仏の三受を説きたまえるは何の勝利か有らん。もし世尊は俗に随って説きたまえると謂わば、応に正理にあらず。世尊は我が密に受は非ずとも皆苦と説くと説きたまえるを以て。また五受を観ずるに於いて如実の言を説くがゆえに。いわゆる契経に説く:所有の楽根・所有の喜根は、応に知るべし此の二は皆是れ楽受、乃至広く説く。復た此の説を作す:もし正慧を以て如実に此のようの五根を観見せば三結は永断す、乃至広く説く。また仏は如何にして一の苦受に於いて、世俗に随順して分別して三と説きたまえるか。もし世間は下・上・中の苦に於いて、次第のごとく楽等の三覚を起し、仏は彼に随順して楽等の三を説きたまうと謂わば、理もまた此のようにはあらず。楽もまた三あるがゆえに、応に下等の三苦に於いてただ上等の楽覚を起すべし。また殊勝の香・味・触等の生ずる所の楽を受くる時、何の下苦有りて而も世間は中に於いて楽受の覚を起さん。もし爾の時に下苦有りと許さば、此のようの下苦は已に滅し未だ生ぜず。世は応に爾の時に極楽の覚有るべし。此の位は衆苦ことごとく無きがゆえに。欲楽を受くる時の征問もまた此のよう。また下品の受の現前する時は、受は分明・猛利にして取るべきを許す。中品の受の現前する時は此と相違するを許す。如何にして理に該当せん。また下の三定は楽有りと説くがゆえに、応に下苦有るべし。已上の諸地は捨有りと説くがゆえに、応に中苦有るべし。定は勝れ苦は増す、豈に応に正理ならんや。ゆえに応に下等の三苦に依って次第のごとく楽等の三受を建立すべからず。また契経に説く:仏は大名に告げたまう、もし色は一向に是れ苦にして非楽、楽の随う所にあらざれば、乃至広く説く、と。ゆえに定めて少分の実楽有るを知る。此のようの且つ彼の引く所の教を辯じて、実楽無しを顕して証を成ぜざれば、立てる所の理言もまた証を成ぜず。且つ諸の楽因は皆不定なるがゆえにとは、此れ正理に非ず。因の義に迷えるがゆえに。いわゆる所依の分位の差別を観ずれば、諸の外境界は方に楽因と為り或いは苦因と為る。外境のみにあらず。もし此の外境は此の所依の此のようの分位に至りて能く楽因と為れば、未だ嘗て此に至らずして楽因と為らざるは、此のゆえに楽因は不決定に非ず。世間の火のごとく、煮炙する所の分位の差別を観ずれば、美熟の因と為り或いは違の因と為る。彼の火のみにあらず。もし此の火は此の煮炙する所の此のようの分位に至りて美熟の因と為れば、未だ嘗て此に至らずして美熟の因に非ず。ゆえに美熟の因は不決定に非ず。楽因もまた此のよう。決定の理成す。また三静慮の中の楽因は豈に不定ならんや。彼の因に生苦の時無きがゆえに。また彼の説く所、要ずるに苦を治する時に楽覚を起すとは、前に准じて已に破れり。

謂受殊勝香味觸等所生樂時,對治何苦而世於中起於樂覺?設許爾時治麁苦者,此能治苦已滅未生,爾時轉應生極樂覺。又靜慮樂治何故生?如是等破準前應說。又彼所說苦易脫中樂覺乃生如易肩者,此身分位實能生樂,乃至身如是分位未滅前必有樂生,滅則不爾。若異此者,此位後時樂應轉增,苦漸微故。如是易脫身四威儀生樂解勞應知亦爾。若先無苦,於最後時何為欻然生於苦覺?由身變易分位別故,如酒等後時有甘醋味起,是故樂受實有理成。由此定知,諸有漏行三苦合故如應名苦。即苦行體亦名集諦,此說必定違越契經,契經唯說愛為集故。經就勝故說愛為集,理實所餘亦是集諦。如是理趣由何證知?餘契經中亦說餘故。如薄伽梵伽他中言:

(論は続けて曰く:)いわゆる殊勝の香・味・触等の生ずる所の楽を受くる時、何の苦を対治して而も世間は中に於いて楽の覚を起さん。設い爾の時に麁苦を治するを許すも、此の治する能の苦は已に滅し未だ生ぜず。爾の時は転じて応に極楽の覚を生ずべし。また静慮の楽は何の故にか生ずる。此のようの等の破は前に准じて説くべし。また彼の説く所、苦の易脱の中に楽覚乃ち生ず、肩を易うるがごとしとは、此の身の分位は実に能く楽を生ず。乃至身の此のようの分位は未だ滅せざる前は必ず楽の生ずる有り。滅せば則ちこのようにはあらず。もし此に異ならば、此の位の後時に楽は応に転じて増すべし。苦は漸く微なるがゆえに。此のようの易脱の身の四威儀は楽を生じ労を解すは応に知るべしもまた此のよう。もし先に苦無ければ、最後の時に於いて何が為めに欻然として苦の覚を生ずるか。身の変易の分位の別に由るがゆえに。酒等の後時に甘醋の味の起るがごとし。此のゆえに楽受は実有の理成す。此に由って定めて知る、諸の有漏行は三苦と合するがゆえに応ずるがごとく苦と名づく。すなわち苦の行体もまた集諦と名づくるは、此の説は必定して契経に違越す。契経はただ愛を説いて集と為すがゆえに。経は勝に就いて愛を説いて集と為すがゆえに、理実はその余も又是れ集諦。此のようの理趣は何に由ってか証知するか。其余の契経の中にもまたその余を説くがゆえに。薄伽梵の伽他の中に説くがごとく:

業愛及無明,為因招後行,

業・愛および無明は、因と為りて後行を招き、

令諸有相續,名補特伽羅。

諸の有をして相続せしむるを、補特伽羅と名づく。

又契經說五種種子,此即別名說有取識。又彼經說置地界中,此即別名說四識住。故經所說是密意言,阿毘達磨依法相說。然經中說愛為集者,偏說起因。伽他中說業愛無明皆為因者,具說生起及彼因因。云何知爾?業為生因、愛為起因,經所說故。又彼經中次第顯示後行業有因有緣有緒故。為別建立種子及田,說有取識及四識住,故非唯愛為集諦體。何法名生?何法名起?界趣生等品類差別自體出現,說名為生。若無差別後有相續,說名為起。業與有愛如其次第為彼二因,譬如種子與穀麥等別種類芽為能生因、水與一切無差別芽為能起因,業及有愛為生起因應知亦爾。愛為起因何理為證?離愛後有必不起故。謂有愛離愛二俱命終,唯見有愛者後有更起。由此理證愛為起因,起有起無定隨愛故。又由愛故相續趣後,現見若於是處有愛,則心相續數趣於彼。由此比知,以有愛故能令相續馳趣後有。又取後身,更無有法封執堅著如貪愛者,如蓽豆屑於澡浴時和水塗身,至乾燥位著身難離,餘無以加。如是無有餘為因法,執取後身如我愛者,由此理證愛為起因。如是世尊說諦有四。餘經復說:諦有二種,一世俗諦、二勝義諦。如是二諦,其相云何?頌曰:

(論は続けて曰く:)また契経に五種の種子を説く。此れすなわち別名に取有るの識を説く。また彼の経に地界の中に置くと説く。此れすなわち別名に四識住を説く。ゆえに経の説く所は是れ密意の言。阿毘達磨は法相に依って説く。しかし経の中に愛を説いて集と為すは、偏えに起因を説く。伽他の中に業・愛・無明を説いて皆因と為すは、具に生・起および彼の因因を説く。如何にして此のようの知るか。業は生因、愛は起因と為るは、経の説く所なるがゆえに。また彼の経の中に次第に後行の業は因有り縁有り緒有るを顕示するがゆえに。別に種子および田を建立せんが為に、取有るの識および四識住を説く。ゆえにただ愛のみを集諦の体と為すにあらず。何の法をか生と名づくるか。何の法をか起と名づくるか。界・趣・生等の品類の差別の自体の出現するを、説いて生と名づく。もし差別無き後有の相続するを、説いて起と名づく。業と有愛とは次第のごとく彼の二因と為る。譬えば種子は穀麦等の別種類の芽に対して能生の因と為り、水は一切の差別無き芽に対して能起の因と為るがごとし。業および有愛は生・起の因と為るは応に知るべしもまた此のよう。愛は起因と為るは何の理を以てか証と為すか。愛を離れたる後有は必ず起らざるがゆえに。いわゆる愛有る・愛を離るると二俱に命終すと雖も、ただ愛有るの後有の更に起るを見るのみ。此の理に由って愛は起因と証す。有の起るに起るに定まりなく愛に随うがゆえに。また愛に由って相続して後に趣く。現に見る、もし是の処に於いて愛有れば、則ち心の相続は数々彼に趣くを。此に由って比知す。愛有るを以て能く相続をして後有に馳趣せしむ。また後身を取るに、更に法有りて封執・堅着すること貪愛のごとき無し。蓽豆の屑の澡浴する時に水と和して身に塗り、乾燥の位に至りて身に着して離れ難きがごとし。其余は以て加うる無し。此のようの其余の因と為る法無くして、後身を執取すること我愛のごときは、此の理に由って愛は起因と証す。此のようの世尊は諦に四有りと説きたまえり。其余の経に復た説く、諦に二種有り。一は世俗諦、二は勝義諦。此のようの二諦、その相は如何。頌に曰く、

彼覺破便無,慧析餘亦爾,

彼の覚は破れば便ち無く、慧は其余を析すればもまた此のよう。

如瓶水世俗,異此名勝義。

瓶・水のごときは世俗、此に異なるは勝義と名づく。

論曰:若彼物覺彼破便無,彼物應知名世俗諦。如瓶被破為碎凡時瓶覺則無,衣等亦爾。又若有物以慧析餘彼覺便無亦是世俗,如水被慧析色等時水覺則無,火等亦爾。即於彼物未破析時,以世想名施設為彼,施設有故名為世俗。依世俗理說有瓶等是實非虛,名世俗諦。若物異此,名勝義諦。謂彼物覺彼破不無,及慧析餘彼覺仍有,應知彼物名勝義諦。如色等物碎至極微,或以勝慧析除味等,彼覺恆有,受等亦然,此真實有故名勝義。依勝義理說有色等是實非虛,名勝義諦。先軌範師作如是說:如出世智及此後得世間正智所取諸法名勝義諦,如此餘智所取諸法名世俗諦。已辯諸諦,應說云何方便勤修趣見諦道。頌曰:

論に曰く:もし彼の物の覚は彼の破らるれば便ち無ければ、彼の物は応に知るべし名づけて世俗諦。瓶の破られて碎瓦と為る時は瓶の覚は則ち無きがごとし。衣等もまた此のよう。またもし物有りて慧を以て其余を析れば彼の覚は便ち無きも又是れ世俗。水の慧に析られて色等と為る時は水の覚は則ち無きがごとし。火等もまた此のよう。すなわち彼の物の未だ破析せざる時に於いて、世想の名を以て施設して彼と為す。施設有るがゆえに世俗と名づく。世俗の理に依って瓶等有り是れ実にして虚にあらずと説くを、世俗諦と名づく。もし物は此に異なれば、勝義諦と名づく。いわゆる彼の物の覚は彼の破らるるも無からず、および慧は其余を析するも彼の覚は仍お有れば、応に知るべし彼の物は名づけて勝義諦。色等の物の碎けて極微に至り、或いは勝慧を以て味等を析除するも、彼の覚は恒に有るがごとし。受等もまた此のよう。此れ真実の有なるがゆえに勝義と名づく。勝義の理に依って色等有り是れ実にして虚にあらずと説くを、勝義諦と名づく。先の軌範師は此の説を作して曰く、出世の智および此の後の得たる世間の正智の取る所の諸法を勝義諦と名づく。此のごとき其余の智の取る所の諸法を世俗諦と名づく、と。已に諸諦を辯したり。応に如何なる方便にて勤修して諦を見るの道に趣くかを説くべし。頌に曰く、

將趣見諦道,應住戒勤修,

将に諦を見る道に趣かんとするは、応に戒に住して勤めて修すべし。

聞思修所成,謂名俱義境。

聞・思・修の成ずる所、いわゆる名・義を俱にする境。

論曰:諸有發心將趣見諦,應先安住清淨屍羅,然後勤修聞所成等。謂先攝受順見諦聞,聞已勤求所聞法義,聞法義已無倒思惟,思已方能依定修習。行者如是住戒勤修,依聞所成慧起思所成慧,依思所成慧起修所成慧。此三慧相差別云何?毘婆沙師謂三慧相緣名俱義如次有別:聞所成慧唯緣名境,未能捨文而觀義故。思所成慧緣名義境,有時由文引義、有時由義引文,未全捨文而觀義故。修所成慧唯緣義境,已能捨文唯觀義故。譬若有人浮深駛水,曾未學者不捨所依,曾學未成或捨或執,曾善學者不待所依自力浮渡。三慧亦爾。有言:若爾,思慧不成。謂此既通緣名緣義,如次應是聞修所成。今詳三相無過別者,謂修行者依聞至教所生勝慧名聞所成,依思正理所生勝慧名思所成,依修等持所生勝慧名修所成。說所成言顯三勝慧是聞思等三因所成,猶如世間於命牛等如次說是食草所成。諸有欲於修精勤學者,如何淨身器令修速成?頌曰:

論に曰く:諸の心を発して将に諦を見んと趣かんとする有りては、応に先ず清浄の尸羅に安住し、然る後に勤めて聞の成ずる所等を修すべし。いわゆる先ず諦を見るに順ずる聞を摂受し、聞き已りて勤めて聞く所の法義を求め、法義を聞き已りて倒れず思惟し、思し已りて方に能く定に依って修習す。行者は此のようの戒に住して勤めて修し、聞の成ずる所の慧に依って思の成ずる所の慧を起し、思の成ずる所の慧に依って修の成ずる所の慧を起す。此の三慧の相の差別は如何。毘婆沙師は謂う、三慧の相は名・義を俱に縁ずるに次第のごとく別有り。聞の成ずる所の慧はただ名の境に縁ず。未だ文を捨てて義を観ずること能わざるがゆえに。思の成ずる所の慧は名・義の境に縁ず。或いは時に文に由って義を引き、或いは時に義に由って文を引く。未だ全く文を捨てて義を観ずること能わざるがゆえに。修の成ずる所の慧はただ義の境に縁ず。已に能く文を捨ててただ義を観ずるがゆえに。譬えば人の深き駛水に浮かぶに、曾て学ばざるは依る所を捨てず、曾て学びて未だ成ぜざるは或いは捨て或いは執し、曾て善く学びたるは依る所を待たずして自力にて浮渡するがごとし。三慧もまた此のよう。ある人の説に、もしそうならば思慧は成ぜず。いわゆる此れはすでに名に縁じ義に縁ずるに通ずれば、次第のごとく応に是れ聞・修の成ずる所なるべし。今詳らかに三相は過なき別有り。いわゆる修行の、聞の至教に依って生ずる所の勝慧を名づけて聞の成ずる所と為し、思の正理に依って生ずる所の勝慧を名づけて思の成ずる所と為し、修の等持に依って生ずる所の勝慧を名づけて修の成ずる所と為す。所成と説く言は三の勝慧は聞・思等の三因の成ずる所なるを顕す。猶お世間の命・牛等に於いて次第のごとく是れ食・草の成ずる所と説くがごとし。諸の修に於いて精勤して学ばんと欲する有りては、如何にして身器を浄めて修をして速成せしめんか。頌に曰く、

具身心遠離,無不足大欲,

身心の遠離を具え、不足なし・大欲なし、

謂已得未得,多求名所無。

いわゆる已得・未得に、多く求むるを名づけて無しと為す所。

治相違界三,無漏無貪性,

相違を治す。界は三。無漏・無貪を性と為す。

四聖種亦爾,前三唯喜足。

四聖種もまた此のよう。前三はただ喜足。

三生具後業,為治四愛生,

三生は具・後は業と為す。四愛生を治せんが為に、

我所我事欲,暫息永除故。

我所・我事の欲を、暫く息め永く除くがゆえに。

論曰:身器清淨略由三因。何等謂三因?一身心遠離、二喜足少欲、三住四聖種。身遠離者,離相雜住。心遠離者,離不善尋。此二易可成,由喜足少欲。言喜足者無不喜足,少欲者無大欲。所無二種差別云何?對法諸師鹹作是說:於已得妙衣服等更多求名不喜足,於未得妙衣等多希求名大欲。豈不更求亦緣未得,此二差別便應不成?是故此中應作是說:於所已得不妙不多悵望不歡名不喜足,於所未得衣服等事求妙求多名為大欲。喜足少欲能治此故,與此相違應知差別。喜足少欲通三界無漏,所治二種唯欲界所繫。喜足少欲體是無貪,所治二種欲貪為性。能生眾聖故名聖種。四聖種體亦是無貪,四中前三體唯喜足,謂於衣服飲食臥具隨所得中皆生喜足,第四聖種謂樂斷修,如何亦用無貪為體?以能棄捨有欲貪故。為顯何義立四聖種?以諸弟子捨俗生具及俗事業,為求解脫歸佛出家。法主世尊愍彼安立助道二事:一者生具、二者事業。前三即是助道生具,最後即是助道事業。汝等若能依前生具作後事業,解脫非久。何故安立如是二事?為欲對治四種愛生,故契經言:苾芻諦聽!愛因衣服應生時生、應住時住、應執時執。如是愛因飲食臥具及有無有,皆如是說。為治此四說四聖種。即依此義更異門說,謂佛為欲暫息永除我所我事欲,故說四聖種。我所事者謂衣服等,我事者謂自身,緣彼貪名為欲。為暫止息前三貪故說前三聖種,為永滅除四種貪故說第四聖種。如是已說修所依器。由何門故能正入修?頌曰:

論に曰く:身器の清浄は略して三因に由る。何等をか三因と謂うか。一は身心の遠離、二は喜足・少欲、三は四聖種に住す。身の遠離とは、相雑の住を離る。心の遠離とは、不善の尋を離る。此の二は成ずること易し。喜足・少欲に由る。喜足と言うは喜足せざる無し。少欲と言うは大欲無し。無しの所の二種の差別は如何。対法の諸師は咸く此の説を作して曰く、已に得たる妙の衣服等に於いて更に多く求むるを名づけて不喜足と為し、未だ得ざる妙の衣等に於いて多く希求するを名づけて大欲と為す、と。豈に更に求むるもまた未得に縁ぜざらんや。此の二の差別は便ち応に成らざるべし。此のゆえに此の中に応に此の説を作すべし。已に得たる所に於いて妙ならず多からざるを悵望して歓ばざるを名づけて不喜足と為し、未だ得ざる所の衣服等の事に於いて妙を求め多を求むるを名づけて大欲と為す。喜足・少欲は能く此を治するがゆえに、此と相違するは応に知るべし差別有り。喜足・少欲は三界・無漏に通ず。治する所の二種はただ欲界の繋する所。喜足・少欲の体は是れ無貪。治する所の二種は欲貪を以て性と為す。能く衆聖を生ずるがゆえに聖種と名づく。四聖種の体も又是れ無貪。四の中の前三の体はただ是れ喜足。いわゆる衣服・飲食・臥具の得る所に随いて中に於いて皆喜足を生ず。第四の聖種とはいわゆる断修を楽う。如何にしてもまた無貪を以て体と為すか。能く欲の貪を棄捨するを以て。何の義を顕さんが為に四聖種を立つるか。諸の弟子が俗の生具および俗の事業を捨てて、解脱を求めて仏に帰して出家するを以て。法主世尊は彼を愍れみて助道の二事を安立したまえり。一は生具、二は事業。前三はすなわち是れ助道の生具。最後はすなわち是れ助道の事業。汝等もし能く前の生具に依って後の事業を作さば、解脱は久しからざらん。何故此のようの二事を安立するか。四種の愛生に対治せんと欲するが為に。ゆえに契経に説く:苾芻諦に聴け。愛は衣服に因りて生ずべき時に生じ、住すべき時に住し、執すべき時に執す。此のようの愛は飲食・臥具および有・無有に因りて、皆此のように説く。此の四を治せんが為に四聖種を説く。すなわち此の義に依って更に異門に説く。いわゆる仏は我所・我事の欲を暫く息め永く除かんと欲するが為に、ゆえに四聖種を説きたまえり。我所の事とは衣服等を謂い、我の事とは自身を謂う。彼に縁ずる貪を名づけて欲と為す。前三の貪を暫く止息せんが為に前三の聖種を説き、四種の貪を永く滅除せんが為に第四の聖種を説く。此のようの已に修の依る所の器を説けり。何の門に由ってか能く正しく修に入るか。頌に曰く、

入修要二門,不淨觀息念,

修に入るに要するは二門、不浄観・息念。

貪尋增上者,如次第應修。

貪・尋の増上なるは、次第のごとく応に修すべし。

論曰:正入修門要者有二,一不淨觀、二持息念。誰於何門能正入修?如次應知。貪尋增者,謂貪猛盛數現在前,如是有情名貪行者,彼觀不淨能正入修。尋多亂心名尋行者,彼依息念能正入修。有餘師言:此持息念非多緣故能止亂尋,不淨多緣顯形差別引多尋故治彼無能。有餘復言:此持息念內門轉故能止亂尋,不淨多於外門轉故,猶如眼識治彼無能。此中先應辯不淨觀。如是觀相云何?頌曰:

論に曰く:正しく修の門に入るに要するは二有り。一は不浄観、二は持息念。誰か何の門に於いて能く正しく修に入るか。次第のごとく応に知るべし。貪尋の増せるとは、いわゆる貪の猛盛にして数々現前する。此のようの有情を名づけて貪行と為す。彼は不浄を観じて能く正しく修に入る。尋の多くして心を乱すを名づけて尋行と為す。彼は息念に依って能く正しく修に入る。其余の師有りて説く:此の持息念は縁ずること多からざるがゆえに能く乱尋を止む。不浄は縁ずること多く顕形の差別に由って多くの尋を引くがゆえに、彼を治するに能なし。其余の復た説く:此の持息念は内門に転ずるがゆえに能く乱尋を止む。不浄は多く外門に転ずるがゆえに、猶お眼識のごとき、彼を治するに能なし。此の中に先ず応に不浄観を辯ずべし。此のようの観の相は如何。頌に曰く、

為通治四貪,且辯觀骨鎖,

通じて四貪を治せんが為に、且つ骨鎖を観ずるを辯ず。

廣至海復略,名初習業位,

広く海に至りて復た略す。名づけて初めて業を習うの位。

除足至頭半,名為已熟修,

足を除きて頭の半に至るを、名づけて已に熟修と為す。

繫心在眉間,名超作意位。

心を眉間に繋ぐるを、名づけて作意を超ゆるの位。

論曰:修不淨觀正為治貪,然貪差別略有四種:一顯色貪、二形色貪、三妙觸貪、四供奉貪。緣青瘀等修不淨觀治第一貪,緣被食等修不淨觀治第二貪,緣蟲蛆等修不淨觀治第三貪,緣屍不動修不淨觀治第四貪。若緣骨鎖修不淨觀,通能對治如是四貪,以骨鎖中無四貪境,故應且辯修骨鎖觀。此唯勝解作意攝故、少分緣故,不斷煩惱,唯能制伏令不現行。然瑜伽師修骨鎖觀總有三位:一初習業、二已熟修、三超作意。謂觀行者欲修如是不淨觀時,應先繫心於自身分,或於足指或額或餘,隨所樂處心得住已,依勝解力於自身分假想思惟,皮肉爛墮漸令骨淨,乃至具觀全身骨鎖。見一具已復觀第二,如是漸次廣至一房一寺一園一村一國,乃至遍地以海為邊,於其中間骨鎖充滿,為令勝解得增長故。於所廣事漸略而觀,乃至唯觀一具骨鎖,齊此漸略不淨觀成,名瑜伽師初習業位。為令略觀勝解力增,於一具中先除足骨思惟餘骨繫心而住,漸次乃至除頭半骨思惟半骨繫心而住,齊此轉略不淨觀成,名瑜伽師已熟修位。為令略觀勝解自在,除半頭骨繫心眉間,專注一緣湛然而住,齊此極略不淨觀成,名瑜伽師超作意位。有不淨觀由所緣小非自在小,應作四句,此由作意已熟未熟未熟已熟,及由所緣自身至海有差別故。此不淨觀何性?幾地?緣何境?何處生?何行相?緣何世?為有漏、為無漏?為離染得、為加行得?頌曰:

論に曰く:不浄観を修するは正しく貪を治せんが為。しかし貪の差別は略して四種あり。一は顕色の貪、二は形色の貪、三は妙触の貪、四は供奉の貪。青瘀等に縁じて不浄観を修して第一の貪を治し、食せらるる等に縁じて不浄観を修して第二の貪を治し、虫蛆等に縁じて不浄観を修して第三の貪を治し、尸の動かざるに縁じて不浄観を修して第四の貪を治す。もし骨鎖に縁じて不浄観を修せば、通じて能く此のようの四貪を対治す。骨鎖の中に四貪の境無きを以て。ゆえに応に且つ骨鎖観を修するを辯ずべし。此れはただ勝解の作意の摂する所なるがゆえ、少分の縁なるがゆえに、煩悩を断ぜず。ただ能く制伏して現行せざらしむ。しかし瑜伽師の骨鎖観を修するは総じて三位あり。一は初めて業を習う、二は已に熟修、三は作意を超ゆ。いわゆる観行の此のようの不浄観を修せんと欲する時、応に先ず心を自身の分に繫ぎ、或いは足指に於いて或いは額或いは其余に於いて、楽う所に随って心の住するを得已りて、勝解の力に依って自身の分に於いて假想に思惟して、皮肉の爛堕して漸く骨をして浄からしめ、乃至具に全身の骨鎖を観ず。一具を見已りて復た第二を観じ、此のようの漸次に広く一房・一寺・一園・一村・一国に至り、乃至遍く地に海を以て辺と為すに至るまで、その中間に骨鎖の充満するを観ず。勝解をして増長を得せしむるが為。広げる所の事に於いて漸く略して観じ、乃至ただ一具の骨鎖を観ず。此に斉く漸く略すれば不浄観は成ず。名づけて瑜伽師の初めて業を習うの位。略観の勝解の力をして増さしむるが為に、一具の中に於いて先ず足骨を除きて其余の骨を思惟して心を繫いで住す。漸次に乃至頭の半骨を除きて半骨を思惟して心を繫いで住すに至る。此に斉く転じて略すれば不浄観は成ず。名づけて瑜伽師の已に熟修の位。略観の勝解をして自在せしむるが為に、半頭骨を除きて心を眉間に繫ぎ、一縁に専注して湛然として住す。此に斉く極めて略すれば不浄観は成ず。名づけて瑜伽師の作意を超ゆるの位。不浄観有りて所縁の小に由って自在の小にあらず。応に四句を作すべし。此れは作意の已熟・未熟・未熟・已熟に由り、および所縁の自身より海に至るに差別有るに由るがゆえに。此の不浄観は何の性か。幾地か。何の境に縁ずるか。何の処にか生ずるか。何の行相か。何の世に縁ずるか。有漏か、無漏か。離染得か、加行得か。頌に曰く、

無貪性十地,緣欲色人生,

無貪を性とし十地。欲の色に縁じ人生ず。

不淨自世緣,有漏通二得。

不浄は自世の縁。有漏は二得に通ず。

論曰:如先所問今次第答。謂此觀以無貪為性通依十地,謂四靜慮及四近分中間欲界,唯緣欲界所見色境。所見者何?謂顯形色。緣義為境,由此已成。唯人趣生,三洲除北,尚非餘趣況餘界生。既立不淨名,唯不淨行相。隨在何世緣自世境,若不生法通緣三世。既唯勝解作意相應,此觀理應唯是有漏。通離染得及加行得,由有曾得未曾得故。說不淨觀相差別已,次應辯持息念。此差別相云何?頌曰:

論に曰く:先の問う所のごとく今次第に答う。いわゆる此の観は無貪を以て性と為し十地に通じて依る。いわゆる四静慮および四近分・中間・欲界。ただ欲界の見る所の色境に縁ず。見る所とは何ぞ。いわゆる顕・形色。義を縁じて境と為す。此に由って已に成ず。ただ人趣に生ず。三洲にして北を除く。なおその余の趣に非ず、況んやその余の界の生ずるをや。すでに不浄の名を立つれば、ただ不浄の行相。何の世に在るに随いても自世の境に縁ず。もし不生の法は通じて三世に縁ず。すでにただ勝解の作意と相応すれば、此の観は理応にただ是れ有漏。離染得および加行得に通ず。曾得・未曾得有るに由るがゆえに。不浄観の相の差別を説き已りて、次に応に持息念を辯ずべし。此の差別の相は如何。頌に曰く、

息念慧五地,緣風依欲身,

息念は慧、五地。風に縁じ欲身に依る。

二得實外無,有六謂數等。

二得、実は外に無し。六有り、いわゆる数等。

論曰:言息念者,即契經中所說阿那阿波那念。言阿那者,謂持息入,是引外風令入身義。阿波那者,謂持息出,是引內風令出身義。慧由念力觀此為境,故名阿那阿波那念。以慧為性而說念者,念力持故,於境分明所作事成,如念住故。通於五地,謂初二三靜慮近分中間欲界,此念唯與捨相應故。謂苦樂受能順引尋,此念治尋故不俱起。喜樂二受能違專注,此念於境專注故成。由此相違,故不俱起。有說:根本下三靜慮中亦有捨受。彼說依八地,上定現前息無有故。此定緣風,依欲身起。唯人天趣,除北俱盧。通離染得及加行得,唯與真實作意相應。正法有情方能修習,外道無有,無說者故、自不能覺微細法故。此相圓滿由具六因:一數、二隨、三止、四觀、五轉、六淨。數謂繫心緣入出息不作加行,放捨身心唯念憶持入出息數,從一至十不減不增,恐心於現極聚散故。然於此中容有三失:一數減失,於二謂一。二數增失,於一謂二。三雜亂失,於入謂出、於出謂入。若離如是三種過失,名為正數。若十中間心散亂者,復應從一次第數之,終而復始乃至得定。隨謂繫心緣入出息,不作加行隨息而行,念息入出時各遠至何所。謂念息入,為行遍身、為行一分?隨彼息入,行至喉心臍髖髀脛乃至足指,念恆隨逐。若念息出,離身為至一磔一尋,隨所至方念恆隨逐。有餘師說:息出極遠,乃至風輪或吠嵐婆。此不應理,此念真實作意俱故。止謂繫念唯在鼻端,或在眉間乃至足指,隨所樂處安止其心。觀息住身如珠中縷,為冷為煖、為損為益。觀謂觀察此息風已,兼觀息俱大種造色及依色住心及心所,具觀五蘊以為境界。轉謂移轉,緣息風覺安置後後勝善根中乃至世間第一法位。淨謂昇進入見道等。有餘師說:念住為初,金剛喻定為後名轉,盡智等方名淨,為攝六相故說頌言:

論に曰く:息念と言うは、すなわち契経の中に説く所の阿那阿波那念(あなあぱなねん)。阿那と言うは、いわゆる息を持して入る。是れ外の風を引きて身に入らしむるの義。阿波那とは、いわゆる息を持して出づ。是れ内の風を引きて身を出づるの義。慧は念の力に由って此を観じて境と為す。ゆえに名づけて阿那阿波那念。慧を以て性と為して念と説くは、念の力の持するがゆえに。境に於いて分明にして作す所の事成ず。念住のごときがゆえに。五地に通ず。いわゆる初・二・三の静慮・近分・中間・欲界。此の念はただ捨と相応するがゆえに。いわゆる苦・楽の受は能く尋を順引す。此の念は尋を治するがゆえに俱に起らず。喜・楽の二受は能く専注に違す。此の念は境に於いて専注するがゆえに成ず。此の相違に由って、ゆえに俱に起らず。ある説に、根本の下三静慮の中にもまた捨受有り。彼の説は八地に依る。上定の現前するは息の有ること無きがゆえに。此の定は風に縁じ、欲身に依って起る。ただ人・天の趣、北俱盧を除く。離染得および加行得に通ず。ただ真実の作意と相応す。正法の有情のみ方に能く修習す。外道には無し。説く無きがゆえ、自ら能く微細の法を覚えざるがゆえに。此の相の円満は六因を具えるに由る。一は数、二は随、三は止、四は観、五は転、六は浄。数とは心を繫いで入出の息に縁じて加行を作さず、身心を放捨してただ入出息の数を念憶して持す。一より十に至るまで減ぜず増せず。心の現に於いて極めて聚散するを恐るるがゆえに。しかし此の中に於いて三失有るを容る。一は数減の失、二に於いて一と謂う。二は数増の失、一に於いて二と謂う。三は雑乱の失、入に於いて出と謂い、出に於いて入と謂う。もし此のようの三種の過失を離れば、名づけて正数。もし十の中間に心の散乱するは、復た応に一より次第に之を数え、終わりて復た始まり乃至定を得るに至る。随とは心を繫いで入出の息に縁じ、加行を作さずして息に随いて行く。息の入出する時に各々遠く何の所にか至るを念ず。いわゆる息の入るを念ずるは、行きて遍く身か、行きて一分か。彼の息の入るに随いて、行きて喉・心・臍・髋・髀・脛乃至足指に至るまで、念は恒に随逐す。もし息の出づるを念ぜば、身を離れて為に一磔・一尋に至るまで、至る所の方に随って念は恒に随逐す。其余の師有りて説く:息の出づるは極めて遠く、乃至風輪或いは吠嵐婆(猛風の名)に至る。此れは応に理にあらず。此の念は真実の作意と俱なるがゆえに。止とは念を繫ぐるにただ鼻端に在り、或いは眉間に在り乃至足指、楽う所に随って其の心を安止す。息の身に住するを観ずること珠の中の縷のごとく、冷か暖か、損か益か。観とは此の息の風を観察し已りて、兼ねて息と俱なる大種の造色および色に依って住する心および心所を観じ、具に五蘊を観じて以て境界と為す。転とは移転を謂う。息風の覚に縁じて後後の勝善根の中に安置して乃至世間第一法の位に至る。浄とは升進して見道等に入るを謂う。其余の師有りて説く:念住を以て初と為し、金剛喻定を以て後と為すを名づけて転。尽智等は方に浄と名づく。六相を摂せんが為に頌を説いて曰く:

持息念應知,有六種異相,

持息念は応に知るべし、六種の異相有り。

謂數隨止觀、轉淨相差別。

いわゆる数・随・止・観、転・浄の相の差別。

息相差別云何應知?頌曰:

息の相の差別は如何に応に知るべきか。頌に曰く、

入出息隨身,依二差別轉,

入出息は身に随う。二に依って差別に転ず。

情數非執受,等流非下緣。

情数にして執受に非ず。等流にして下縁に非ず。

論曰:隨身生地,息彼地攝,以息是身一分攝故。此入出息轉依身心差別,以生無色界及羯剌藍等併入無心定及第四定等,此息於彼皆不轉故。謂要身中有諸孔隙,入出息地心正現前,息於爾時方得轉故。出第四定等及初生時息最先入,入第四定等及後死時息最後出。息有情數攝,有情身分故。非有執受,與根相離故。是等流性,同類因生故。非所長養,身增長時彼損減故。非異熟生,斷已後時更相續故、餘異熟色無如是故。唯自上地心之所緣,非下地威儀,通果心境故。

論に曰く:身の生地に随いて、息は彼の地の摂。息は是れ身の一分の摂する所なるを以て。此の入出息は身心の差別に依って転ず。生じて無色界および羯剌藍等、并びに無心定および第四定等に入るは、此の息は彼に於いて皆転ぜざるがゆえに。いわゆる要ずるに身の中に諸の孔隙有りて、入出息の地の心の正に現前するに、息は爾の時に方に転ずるを得るがゆえに。第四定等を出づるおよび初めて生ずる時は息は最も先に入り、第四定等に入るおよび後に死する時は息は最も後に出づ。息は有情数の摂。有情の身の分なるがゆえに。有執受に非ず。根と相離れたるがゆえに。是れ等流の性。同類の因に生ずるがゆえに。長養する所に非ず。身の増長する時は彼は損減するがゆえに。異熟生に非ず。断じ已りて後時に更に相続するがゆえ、其余の異熟の色に此のようの無きがゆえに。ただ自・上地の心の縁ずる所。下地の威儀にあらず、通果の心境なるがゆえに。

説一切有部倶舎論 巻第二十二

アビダルマ倶舎論 巻第二十三 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別賢聖品第六之二

分別賢聖品 第六之二

如是已說入修二門,由此二門心便得定。心得定已復何所修?頌曰:

此のようの已に修に入る二門を説けり。此の二門に由って心は便ち定を得。心は定を得已りて復た何をか修する所か。頌に曰く、

依已修成止,為觀修念住,

已に修成せる止に依って、観の為に念住を修す。

以自相共相,觀身受心法。

自相・共相を以て、身・受・心・法を観ず。

自性聞等慧,餘相雜所緣,

自性は聞等の慧、其余は相雑・所縁。

說次第隨生,治倒故唯四。

次第を説くは生に随う。倒を治するがゆえにただ四。

論曰:依已修成滿勝奢摩他,為毘缽舍那修四念住。如何修習四念住耶?謂以自共相觀身、受、心、法。身受心法各別自性名為自相。一切有為皆非常性、一切有漏皆是苦性及一切法空非我性名為共相。身自性者,大種造色。受心自性,如自名顯。法自性者,除三餘法。傳說在定以極微剎那各別觀身,名身念住滿,餘三滿相如應當知。何等名為四念住體?此四念住體各有三,自性、相雜、所緣別故。自性念住以慧為體,此慧有三種,謂聞等所成,即此亦名三種念住。相雜念住以慧、所餘俱有為體。所緣念住以慧所緣諸法為體。寧知自性是慧非餘?經說:於身住循身觀名身念住。餘三亦然。諸循觀名唯目慧體,非慧無有循觀用故。何緣於慧立念住名?毘婆沙師說:此品念增故。是念力持慧得轉義,如斧破木由楔力持。理實應言慧令念住,是故於慧立念住名,隨慧所觀能明記故,由此無滅作如是言:若有能於身住循身觀,緣身念得住,乃至廣說。世尊亦說:若有於身住循身觀者,念便住不謬。然有經言:此四念住由何故集?由何故滅?食觸名色作意集故,如次令身受心法集。食觸名色作意滅故,如次令身受心法滅。應知彼說所緣念住,以念於彼得安住故。又念住別名隨所緣緣自他俱相續異故。一一念住各有三種,此四念住說次隨生。生復何緣?次第如是。隨境麁者應先觀故,或諸欲貪於身處轉,故四念住觀身在初。然貪於身由欣樂受,欣樂於受由心不調,心之不調由惑未斷,故觀受等如是次第。此四念住如次治彼淨、樂、常、我四種顛倒,故唯有四不增不減。四中三種唯不雜緣,第四所緣通雜不雜。若唯觀法名不雜緣,若於身等二三或四總而觀察名為雜緣。如是熟修雜緣身等法念住已,復何所修?頌曰:

論に曰く:已に修成せる満勝の奢摩他に依って、毘鉢舎那の為に四念住を修す。如何にして四念住を修習するか。いわゆる自・共相を以て身・受・心・法を観ず。身・受・心・法は各別の自性を名づけて自相と為す。一切有為は皆非常の性、一切有漏は皆是れ苦の性、および一切法は空・非我の性を名づけて共相と為す。身の自性とは、大種の造色。受・心の自性は、自名の顕すがごとし。法の自性とは、三を除く其余の法。伝説に定に在りて極微・刹那を以て各別に身を観ずるを、名づけて身念住の満。その余の三の満の相は応ずるがごとく当に知るべし。何等を四念住の体と名づくるか。此の四念住の体は各々三有り。自性・相雑・所縁の別あるがゆえに。自性の念住は慧を以て体と為す。此の慧に三種有り。いわゆる聞等の成ずる所。すなわち此れもまた名づけて三種の念住。相雑の念住は慧・其余の俱有を以て体と為す。所縁の念住は慧の縁ずる所の諸法を以て体と為す。寧んぞ自性は是れ慧にして其余に非ざるを知らんや。経に説く:身に於いて循身観に住するを名づけて身念住。その余の三もまた此のよう。諸の循観の名はただ慧体に目す。慧にあらざれば循観の用有ること無きがゆえに。何の縁にか慧に於いて念住の名を立つるか。毘婆沙師の説く:此の品は念増するがゆえに。是れ念の力に持せられて慧は転ずるの義を得。斧の木を破るは楔の力の持するに由るがごとし。理実は応に説くべし、慧は念をして住せしむ。此のゆえに慧に於いて念住の名を立つ。慧の観ずる所に随って能く明記するがゆえに。此に由って無滅は此の説を作して曰く:もし有りて能く身に於いて循身観に住せば、身に縁ずる念は住することを得、乃至広く説く。世尊もまた説きたまう:もし身に於いて循身観に住する有れば、念は便ち住して謬らず。しかし経有りて説く:此の四念住は何の故にか集まるか。何の故にか滅するか。食・触・名色・作意の集まるがゆえに、次第のごとく身・受・心・法をして集まらしむ。食・触・名色・作意の滅するがゆえに、次第のごとく身・受・心・法をして滅せしむ。応に知るべし彼は所縁の念住を説く。念は彼に於いて安住を得るがゆえに。また念住の別名は所縁の縁に随い自他・俱・相続の異なるがゆえに。一一の念住は各々三種有り。此の四念住は説次は生に随う。生は復た何の縁か。次第此のよう。境の麁なるに随って応に先ず観ずべきがゆえに。或いは諸の欲貪は身の処に於いて転ず。ゆえに四念住は身を観ずるを初と為す。しかし身に於ける貪は楽受を欣うに由り、受を欣楽するは心の調わざるに由り、心の不調は惑の未だ断ぜざるに由る。ゆえに受等を観ずるは此のようの次第。此の四念住は次第のごとく彼の浄・楽・常・我の四種の顛倒を治す。ゆえにただ四有るのみにして増せず減ぜず。四の中の三種はただ雑縁せず。第四の所縁は雑・不雑に通ず。もしただ法を観ずれば不雑縁と名づく。もし身等の二・三或いは四に於いて総じて観察すれば雑縁と名づく。此のようの熟修の雑縁の身等の法念住已りて、復た何をか修する所か。頌に曰く、

彼居法念住,總觀四所緣,

彼は法念住に居り、総じて四の所縁を観じて、

修非常及苦,空非我行相。

非常および苦・空・非我の行相を修す。

論曰:彼觀行者居緣總雜法念住中,總觀所緣身等四境修四行相,所謂非常、苦、空、非我。修此觀已生何善根?頌曰:

論に曰く:彼の観行の者は縁を総じて雑える法念住の中に居りて、総じて所縁の身等の四境を観じて四の行相を修す。いわゆる非常・苦・空・非我。此の観を修し已りて何の善根を生ずるか。頌に曰く、

從此生煖法,具觀四聖諦,

此より煖法を生ず。具に四聖諦を観じて、

修十六行相,次生頂亦然,

十六の行相を修し、次に頂を生ずるもまた此のよう。

如是二善根,皆初法後四。

此のようの二善根は、皆初は法・後は四。

次忍唯法念,下中品同頂,

次に忍はただ法念。下・中品は頂に同じく、

上唯觀欲苦,一行一剎那,

上はただ欲の苦を観じ、一行・一刹那。

世第一亦然,皆慧五除得

世第一もまた此のよう。皆慧、五は得を除く。

論曰:修習總緣共相法念住,漸次成熟乃至上上品。從此念住後,有順決擇分初善根生,名為煖法。此法如煖立煖法名,是能燒惑薪聖道火前相,如火前相故名為煖。此煖善根分位長故,能具觀察四聖諦境,及能具修十六行相。觀苦聖諦修四行相:一非常、二苦、三空、四非我。觀集聖諦修四行相:一因、二集、三生、四緣。觀滅聖諦修四行相:一滅、二靜、三妙、四離。觀道聖諦修四行相:一道、二如、三行、四出。此相差別如後當辯。此煖善根下中上品漸次增長至成滿時有善根生,名為頂法,此轉勝故更立異名。動善根中此法最勝,如人頂故,名為頂法。或由此是進退兩際,如山頂故,說名為頂。此亦如煖具觀四諦,及能具修十六行相。如是煖頂二種善根,初安足時唯法念住。以何義故名初安足?謂隨何善根以十六行相最初遊踐四聖諦跡,後增進時具四念住。諸先所得後不現前,於彼不生欽重心故。此頂善根下中上品漸次增長,至成滿時有善根生名為忍法,於四諦理能忍可中此最勝故。又此位忍無退墮故名為忍法。此忍善根安足增進皆法念住,與前有別。然此忍法有下中上,下中二品與頂法同,謂具觀察四聖諦境及能具修十六行相;上品有異,唯觀欲苦,與世第一相隣接故。由此義準,煖等善根皆能具緣三界苦等義已成立,無簡別故。謂瑜伽師於色無色對治道等一一聖諦行相所緣漸減漸略,乃至但有二唸作意思惟欲界苦聖諦境,齊此以前名中忍位。從此位無間起勝善根一行一剎那名上品忍,此善根起不相續故。上品忍無間生世第一法。如上品忍緣欲苦諦修一行相唯一剎那,此有漏故名為世間,是最勝故名為第一。此有漏法世間中勝,是故名為世第一法。有士用力,離同類因,引聖道生,故名最勝。如是煖等四種善根,念住性故皆慧為體,若並助伴皆五蘊性。然除彼得,勿諸聖者煖等善根重現前故。

論に曰く:総じて共相に縁ずる法念住を修習して、漸次に成熟して乃至上上品に至る。此の念住の後より、順決択分の初の善根の生ずる有りて、名づけて煖法と為す。此の法は煖のごときに煖法の名を立つ。能く惑薪を焼く聖道の火の前相なるがゆえに。火の前相のごときがゆえに煖と名づく。此の煖善根は分位長きがゆえに、能く具に四聖諦の境を観察し、および能く具に十六の行相を修す。苦聖諦を観じて四の行相を修す:一は非常、二は苦、三は空、四は非我。集聖諦を観じて四の行相を修す:一は因、二は集、三は生、四は縁。滅聖諦を観じて四の行相を修す:一は滅、二は静、三は妙、四は離。道聖諦を観じて四の行相を修す:一は道、二は如、三は行、四は出。此の相の差別は後に当に辯ずるがごとし。此の煖善根は下・中・上品に漸次に増長して成満に至る時に善根の生ずる有りて、名づけて頂法。此れ転じて勝れるがゆえに更に異名を立つ。動の善根の中に此の法は最も勝れり。人の頂のごときがゆえに、名づけて頂法。或いは此に由って是れ進退の両際。山の頂のごときがゆえに、説いて頂と名づく。此れもまた煖のごとく具に四諦を観じ、および能く具に十六の行相を修す。此のようの煖・頂の二種の善根は、初めて足を安ずる時はただ法念住。何の義を以てか初安足と名づくるか。いわゆる何の善根にか随って十六の行相を以て最初に四聖諦の跡に游践する。後に増進する時は四念住を具す。諸の先の得る所は後に現前せず。彼に於いて欽重の心を生ぜざるがゆえに。此の頂善根は下・中・上品に漸次に増長し、成満に至る時に善根の生ずる有りて名づけて忍法。四諦の理に於いて能く忍可する中に此れ最勝なるがゆえに。また此の位の忍は退堕無きがゆえに忍法と名づく。此の忍善根は安足・増進に皆法念住。前と別有り。しかし此の忍法に下・中・上有り。下・中の二品は頂法と同じ。いわゆる具に四聖諦の境を観察しおよび能く具に十六の行相を修す。上品は異有り。ただ欲の苦を観ず。世第一と相隣接するがゆえに。此の義に由って准ずれば、煖等の善根は皆能く具に三界の苦等に縁ずるの義已に成り立てり。簡別無きがゆえに。いわゆる瑜伽師は色・無色の対治の道等の一一の聖諦の行相の所縁を漸減・漸略し、乃至但だ二念の作意有りて欲界の苦聖諦の境を思惟するに至る。此に斉く以前を名づけて中忍の位。此の位より無間に勝善根を起す一行・一刹那を名づけて上品忍。此の善根の起るは相続せざるがゆえに。上品忍は無間に世第一法を生ず。上品忍の欲の苦諦に縁じて一行相を修するがごとくただ一刹那。此れ有漏なるがゆえに世間と名づく。是れ最勝なるがゆえに第一と名づく。此の有漏の法は世間の中に勝れり。此のゆえに名づけて世第一法。有士の力を用い、同類の因を離れ、聖道を引きて生ぜしむるがゆえに、名づけて最勝。此のようの煖等の四種の善根は、念住の性なるがゆえに皆慧を以て体と為す。もし助伴を并せば皆五蘊の性。しかし彼の得を除く。諸の聖者の煖等の善根の重ねて現前するを致さざらんがため。

此中煖法初安足時,緣三諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來四。緣滅諦法念住現在修未來一,隨一行相現在修未來四。由此種性先未曾得,要同分者方能修故。後增進時緣三諦,隨一念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六。緣滅諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六,由此種性先已曾得,不同分者亦能修故。頂初安足,緣四諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六。後增進時,緣三諦隨一念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六。緣滅諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六。忍初安足及後增進,緣四諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六。然於增進略所緣時,隨略彼所緣,不修彼行相。世第一法,緣欲苦諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來四,無異分故、似見道故。已辯所生善根相體,今次應辯此差別義。頌曰:

(論は続けて曰く:)此の中の煖法は初安足の時、三諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の四を修す。滅諦に縁ずる法念住は現在にして未来の一を修し、一行相に随って現在にして未来の四を修す。此の種性は先に未だ曾て得ざるに由って、要ずるに同分の方に能く修するがゆえに。後に増進する時は三諦に縁じ、一念住に随って現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。滅諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。此の種性は先に已に曾て得たるに由って、同分ならざるも能く修するがゆえに。頂の初安足は、四諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。後に増進する時は、三諦に縁じて一念住に随って現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。滅諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。忍の初安足および後の増進は、四諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。しかし増進に於いて所縁を略する時は、彼の所縁を略するに随って、彼の行相を修せず。世第一法は、欲の苦諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の四を修す。異分無きがゆえ、見道に似たるがゆえに。已に生ずる所の善根の相体を辯したり。今次に応に此の差別の義を辯ずべし。頌に曰く、

此順決擇分,四皆修所成,

此の順決択分は、四は皆修の成ずる所。

六地二或七,依欲界身九,

六地・二或いは七、欲界の身に依りて九。

三女男得二,第四女亦爾。

三は女・男に二を得、第四は女もまた此のよう。

聖由失地捨,異生由命終,

聖は地を失うに由って捨て、異生は命終に由る。

初二亦退捨,依本必見諦,

初の二もまた退に由って捨つ。本に依れば必ず諦を見る。

捨已得非先,二捨性非得。

捨て已りて得るは先にあらず。二の捨は性は非得。

論曰:此煖、頂、忍、世第一法四殊勝善根名順決擇分。依何義建立順決擇分名?決謂決斷,擇謂簡擇。決斷簡擇謂諸聖道,以諸聖道能斷疑故,及能分別四諦相故。分謂分段,此言意顯所順唯是見道一分,決擇之分故得決擇分名。此四為緣引決擇分,順益彼故得順彼名,故此名為順決擇分。如是四種皆修所成,非聞思所成,唯等引地故。四中前二是下品攝,以俱可動猶可退故。忍中品攝,勝前二故、有世第一為其上故。世第一法獨是上品。此四善根皆依六地,謂四靜慮、未至、中間。欲界中無,闕等引故。餘上地亦無,見道眷屬故。又無色界心不緣欲界故,欲界先應遍知斷故。此四善根能感色界五蘊異熟為圓滿因,不能牽引,憎背有故。或聲為顯二有異說,謂煖、頂二。尊者妙音說:依前六及欲七地,此四善根依欲身起,人天九處除北俱盧,前三善根三洲初起,後生天處亦續現前。第四善根天處亦起,此無初後一剎那故。此四善根唯依男女,前三男女俱通得二,第四女身亦得二種。依男唯得男身善根,已得女身非擇滅故。聖依此地得此善根,失此地時善根方捨,失地言顯遷生上地。異生於地若失不失,但失眾同分,必捨此善根。初二善根亦由退捨,由死退捨唯異生非聖,由失地捨唯聖非異生。忍及世第一,異生亦無退。依根本地起煖等善根,彼於此生必定得見諦,厭生死心極猛利故。若先捨已後重得時,所得必非先之所捨。如捨已重得別解脫律儀,以未曾熟修大功用成故。若先已得煖等善根,經生故捨。遇了分位善說法師便生頂等,若不遇者還從本修。失退二捨非得為性,退必起過,失不必然。得此善根有何勝利?頌曰:

論に曰く:此の煖・頂・忍・世第一法の四の殊勝の善根を名づけて順決択分。何の義に依って順決択分の名を建立するか。決とは決断を謂い、択とは簡択を謂う。決断・簡択とは諸の聖道を謂う。諸の聖道は能く疑を断ずるがゆえ、および能く四諦の相を分別するがゆえに。分とは分段を謂う。此の言の意は順ずる所はただ見道の一分なるを顕す。決択の分なるがゆえに決択分の名を得。此の四は縁と為りて決択分を引き、彼に順益するがゆえに彼に順ずの名を得。ゆえに此れを名づけて順決択分と為す。此のようの四種は皆修の成ずる所。聞・思の成ずる所に非ず。ただ等引地なるがゆえに。四の中の前の二は下品の摂。俱に動くべくなお退くべきがゆえに。忍は中品の摂。前の二に勝れるがゆえ、世第一有りて其の上と為るがゆえに。世第一法は独り是れ上品。此の四善根は皆六地に依る。いわゆる四静慮・未至・中間。欲界の中に無し。等引を闕くがゆえに。其余の上地もまた無し。見道の眷属なるがゆえに。また無色界の心は欲界に縁ぜざるがゆえ、欲界は先に応に遍知断すべきがゆえに。此の四善根は能く色界の五蘊の異熟を感じて円満の因と為る。牽引すること能わず。有を憎背するがゆえに。或いは声は二の異説有るを顕さんが為。いわゆる煖・頂の二。尊者妙音の説く、前の六および欲の七地に依る、と。此の四善根は欲身に依って起る。人・天の九処にして北俱盧を除く。前三の善根は三洲に於いて初めて起り、後に天処に生じてもまた続いて現前す。第四の善根は天処にもまた起る。此れ初・後一刹那無きがゆえに。此の四善根はただ男・女に依る。前三は男・女に俱に二を得るに通ず。第四は女身もまた二種を得。男に依ってはただ男身の善根を得。已に女身を得たるは択滅に非ざるがゆえに。聖は此の地に依って此の善根を得。此の地を失う時に善根乃ち捨つ。失地の言は上地に遷生するを顕す。異生は地に於いてもし失わんも失わざるも、但だ衆同分を失えば、必ず此の善根を捨つ。初二の善根もまた退に由って捨つ。死に由って退捨するはただ異生にして聖に非ず。失地に由って捨つるはただ聖にして異生に非ず。忍および世第一は、異生もまた退無し。根本地に依って煖等の善根を起せば、彼は此の生に於いて必定して諦を見るを得。生死を厭う心の極めて猛利なるがゆえに。もし先に捨て已りて後に重ねて得る時、得る所は必ず先の捨てし所に非ず。捨て已りて重ねて別解脱律儀を得るがごとし。未だ曾て熟修せず大いなる功用を以て成ずるがゆえに。もし先に已に煖等の善根を得たるは、生を経るがゆえに捨つ。分位に了る善説法師に遇えば便ち頂等を生ず。もし遇わざれば還た本に従って修す。失・退の二捨は非得を以て性と為す。退は必ず過を起し、失は必ずしも然らず。此の善根を得るは何の勝利か有るか。頌に曰く、

煖必至涅槃,頂終不斷善,

煖は必ず涅槃に至り、頂は終に善を断たず、

忍不墮惡趣,第一入離生。

忍は悪趣に堕ちず、第一は離生に入る。

論曰:四善根中若得煖法,雖有退斷善根造無間業墮惡趣等,而無久流轉,必至涅槃故。若爾,何殊順解脫分?若無障礙,去見諦近,此與見道行相同故。若得頂法,雖有退等,而增畢竟不斷善根。若得忍時,雖命終捨住異生位,而增無退,不造無間,不墮惡趣。然頌但說不墮惡趣言,義準已知不造無間業,造無間業者必墮惡趣故。忍位無退,如前已辯。此位不墮諸惡趣者,已遠趣彼業煩惱故。若至忍位,於少趣生處身有惑中得不生法故。趣謂諸惡趣。生謂卵濕生。處謂無想、北俱盧、大梵處。身謂扇搋、半擇迦、二形身。有謂第八等有。惑謂見所斷惑。此於下上位,隨所應而得,謂於下忍得惡趣不生,所餘不生至上忍方得。得世第一法,雖住異生位,而能趣入正性離生。頌雖不言離命終捨,既無間入正性離生,義準已成無命終捨。何緣唯此能入離生?已得異生非擇滅故,能如無間道捨異生性故。此四善根各有三品,由聲聞等種性別故。隨何種性善根已生,彼可移轉向餘乘不?頌曰:

論に曰く:四善根の中にもし煖法を得ば、退して善根を断じ無間の業を造り悪趣に堕つる等有りと雖も、しかも久しく流転すること無く、必ず涅槃に至るがゆえに。もしそうならば、何の順解脱分に殊なるか。もし障碍無ければ、諦を見るに去ること近し。此れ見道と行相を同じくするがゆえに。もし頂法を得ば、退等有りと雖も、しかも増して畢竟に善根を断たず。もし忍を得る時、命終して異生の位に住すを捨つと雖も、しかも増して退無し。無間を造らず、悪趣に堕ちず。しかし頌は但だ悪趣に堕ちずと説くのみ。義は准じて已に知る、無間の業を造らざるを。無間の業を造るは必ず悪趣に堕つるがゆえに。忍位は退無きは前に已に辯ぜしがごとし。此の位は諸の悪趣に堕ちざるは、已に彼に趣く業・煩悩を遠離せるがゆえに。もし忍位に至れば、少なき趣・生・処・身・有・惑の中に於いて不生の法を得るがゆえに。趣とは諸の悪趣を謂う。生とは卵・湿生を謂う。処とは無想・北俱盧・大梵の処を謂う。身とは扇搋・半択迦・二形の身を謂う。有とは第八等の有を謂う。惑とは見所断の惑を謂う。此れは下・上の位に於いて、その応ずる所に随って得。いわゆる下忍に於いて悪趣の不生を得、其余の不生は上忍に至りて方に得。世第一法を得れば、異生の位に住すと雖も、しかも能く正性離生に趣入す。頌は離れて命終の捨を説かざると雖も、すでに無間に正性離生に入れば、義は准じて已に成ず、命終の捨無きを。何の縁にかただ此れのみ能く離生に入るか。已に異生の非択滅を得たるがゆえに、能く無間道のごとく異生性を捨つるがゆえに。此の四善根は各々三品有り。声聞等の種性の別に由るがゆえに。何の種性の善根にか随って已に生ぜば、彼は移転して其余の乗に向わしむべきか否か。頌に曰く、

轉聲聞種性,二成佛三餘,

声聞の種性を転ずれば、二は仏を成し三は其余。

麟角佛無轉,一坐成覺故。

麟角・仏は転ずること無し。一坐にして覚を成ずるがゆえに。

論曰:聲聞種性煖頂已生,容可轉成無上正覺,彼若得忍無成佛理,謂於惡趣已超越故。菩提薩埵利物為懷,為化有情必往惡趣,彼忍種性不可迴轉,是故定無得成佛義。聲聞種性煖頂忍三,皆有可轉成獨覺義,在佛乘外故說為餘。麟角佛言顯麟角喻及無上覺。煖等善根並無移轉向餘乘義,皆以第四靜慮為依,一坐便成自乘覺故。第四靜慮是不傾動最極明利三摩地故,堪為麟角喻無上覺所依。此中覺言顯盡、無生智,後當辯,此是菩提性故。言一坐者,從煖善根乃至菩提,不起於座。有餘師說:從不淨觀不起於座乃至菩提。有餘獨覺異麟角喻,起彼種性初二善根,轉向餘乘,理無遮礙。頗有此生創修此行,即此生引起順決擇分耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:声聞の種性の煖・頂は已に生ぜば、容そ転じて無上の正覚を成ずべし。彼はもし忍を得ば仏を成ずるの理無し。いわゆる悪趣に於いて已に超越せるがゆえに。菩提薩埵(菩薩)は物を利することを懐と為し、有情を化せんが為に必ず悪趣に往く。彼の忍の種性は回転すべからず。此のゆえに定めて仏を成るを得るの義無し。声聞の種性の煖・頂・忍の三は、皆転じて独覚を成ずべきの義有り。仏乗の外に在るがゆえに説いて其余と為す。麟角の仏の言は麟角喻および無上覚を顕す。煖等の善根は并びに移転して其余の乗に向かうの義無し。皆第四静慮を以て依と為し、一坐にして便ち自乗の覚を成ずるがゆえに。第四静慮は是れ傾動せざる最極の明利の三摩地なるがゆえに、堪えて麟角喻・無上観の依る所と為る。此の中の覚の言は尽・无生の智を顕す。後に当に辯ずべし。此れ菩提の性なるがゆえに。一坐と言うは、煖善根より乃至菩提に至るまで座を起たず。其余の師有りて説く:不浄観より座を起たず乃至菩提。其余の独覚有りて麟角喻に異なれば、彼の種性の初二の善根を起して、其余の乗に転向す。理は遮碍無し。頗る此の生に創めて此の行を修して、すなわち此の生に順決択分を引き起すか。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

前順解脫分,速三生解脫,

前に順解脱分、速やかに三生にして解脱す。

聞思成三業,殖在人三洲。

聞・思の成、三業を為り、殖ゆるは人の三洲。

論曰:順決擇分今生起者,必前生起順解脫分。諸有創殖順解脫分,極速三生方得解脫。謂初生起順解脫分,第二生起順決擇分,第三生入聖乃至得解脫。譬如下種、苗成、結實,三位不同。身入法性、成熟、解脫,三位亦爾。傳說如是順解脫分唯聞思所成,通三業為體。雖就最勝唯是意業,而此思願攝起身語亦得名為順解脫分。有施一食持一戒等深樂解脫,願力所持便名種殖順解脫分。殖順解脫分唯人三洲,餘厭離般若,如應無故,遇佛出世殖此善根。有餘師言:亦遇獨覺。已因便說順解脫分,入觀次第是正所論。於中已明諸加行道,世第一法為其後邊,應說從斯復生何道?頌曰:

論に曰く:順決択分の今生に起るは、必ず前の生に順解脱分を起せり。諸の創めて順解脱分を殖ゆる有りて、極速なりと雖も三生にして方に解脱を得。いわゆる初の生に順解脱分を起し、第二の生に順決択分を起し、第三の生に聖に入り乃至解脱を得るに至る。譬えば種を下し、苗成り、実を結ぶのごとく、三位同じからず。身の法性に入り、成熟し、解脱するは、三位もまた此のよう。伝説に此のようの順解脱分はただ聞・思の成ずる所、三業に通じて体と為す。最勝に就いてはただ意業なると雖も、しかし此の思願は身語を摂して起すもまた順解脱分と名づくるを得。或いは一食を施し一戒を持つ等して深く解脱を楽う有りて、願力の持する所に便ち名づけて順解脱分を種殖す。順解脱分を殖ゆるはただ人の三洲。其余は厭離・般若のごとき、応ずるがごとく無きがゆえに、仏の出世に遇って此の善根を殖ゆ。其余の師有りて説く:もまた独覚に遇う。已に因りて便ち順解脱分を説けり。観に入るの次第は是れ正しく論ずる所。中に於いて已に諸の加行道を明かしたり。世第一法を其の後辺と為す。応に説くべし、斯に従って復た何の道を生ずるか。頌に曰く、

世第一無間,即緣欲界苦,

世第一の無間に、すなわち欲界の苦に縁じて、

生無漏法忍,忍次生法智,

無漏の法忍を生じ、忍は次に法智を生じ、

次緣餘界苦,生類忍類智,

次に其余の界の苦に縁じて、類忍・類智を生ず。

緣集滅道諦,各生四亦然,

集・滅・道諦に縁じて、各々四を生ずるもまた此のよう。

如是十六心,名聖諦現觀,

此のようの十六心を、名づけて聖諦現観と為す。

此總有三種,謂見緣事別。

此れ総じて三種あり。いわゆる見・縁・事に別有り。

論曰:從世第一善根無間,即緣欲界苦聖諦境,有無漏攝法智忍生,此忍名為苦法智忍,為顯此忍是無漏故,舉後等流以為標別。此能生法智,是法智因,得法智忍名,如花果樹。即此名入正性離生,亦復名入正性決定。由此是初入正性離生,亦是初入正性決定故。經說正性,所謂涅槃。或正性言,因諸聖道。生謂煩惱,或根未熟。聖道能越,故名離生,能決趣涅槃,或決了諦相故。諸聖道得決定名,至此位中說名為入。此忍生已得聖者名,此在未來捨異生性。謂許此忍未來生時有此用非餘,如燈及生相。有餘師說:世第一法捨異生性,此義不然,彼此同名世間法故、性相違故。亦無有失,如上怨肩能害怨命。有餘師說:此二共捨,如無間道解脫道故。此忍無間即緣欲苦有法智生,名苦法智。應知此智亦無漏攝,前無漏言遍流後故。如緣欲界苦聖諦境,有苦法忍、苦法智生。如是復於法智無間總緣餘界苦聖諦境,有類智忍生,名苦類智忍。此忍無間即緣此境有類智生,名苦類智。最初證知諸法真理故名法智,此後境智與前相似故得類名,以後隨前而證境故。如緣苦諦欲界及餘,生法類忍、法類智四,緣餘三諦各四亦然。謂復於前苦類智後,次緣欲界集聖諦境有法智忍生,名集法智忍。此忍無間即緣欲集有法智生,名集法智。次緣餘界集聖諦境有類智忍生,名集類智忍。此忍無間即緣此境有類智生,名集類智。次緣欲界滅聖諦境有法智忍生,名滅法智忍。此忍無間即緣欲滅有法智生,名滅法智。次緣餘界滅聖諦境有類智忍生,名滅類智忍。此忍無間即緣此境有類智生,名滅類智。次緣欲界道聖諦境有法智忍生,名道法智忍。此忍無間即緣欲道有法智生,名道法智。次緣餘界道聖諦境有類智忍生,名道類智忍。此忍無間即緣此境有類智生,名道類智。如是次第有十六心,總說名為聖諦現觀。

論に曰く:世第一の善根より無間に、すなわち欲界の苦聖諦の境に縁じて、無漏の摂する法智忍の生ずる有り。此の忍を名づけて苦法智忍。此の忍は是れ無漏なるを顕さんが為に、後の等流を挙げて以て標別と為す。此れは能く法智を生ず。是れ法智の因。法智忍の名を得。花果の樹のごとし。すなわち此れを名づけて正性離生に入る。もまた復た名づけて正性決定に入る。此に由って是れ初めて正性離生に入る。もまた是れ初めて正性決定に入るがゆえに。経の説く正性とは、いわゆる涅槃。或いは正性の言は諸の聖道に因る。生とは煩悩を謂い、或いは根の未熟。聖道は能く越ゆ。ゆえに名づけて離生。能く決して涅槃に趣き、或いは決して諦相を了すがゆえに。諸の聖道は決定の名を得。此の位の中に至りて説いて入と名づく。此の忍は生じ已りて聖者の名を得。此れは未来に於いて異生性を捨つ。いわゆる此の忍の未来に生ずる時に此の用有りて其余に非ずと許す。燈および生相のごとし。其余の師有りて説く:世第一法は異生性を捨つ。此の義は此のようにはあらず。彼此同じく世間法と名づくるがゆえ、性相違するがゆえに。もまた失無し。上の怨肩の能く怨命を害するがごとし。其余の師有りて説く:此の二は共に捨つ。無間道・解脱道のごとし。此の忍は無間にすなわち欲の苦に縁じて法智の生ずる有りて、名づけて苦法智。応に知るべし此の智もまた無漏の摂。前の無漏の言は遍く後に流るるがゆえに。欲界の苦聖諦の境に縁ずるがごとく、苦法忍・苦法智の生ずる有り。此のようの復た法智の無間に於いて総じて其余の界の苦聖諦の境に縁じて、類智忍の生ずる有りて、名づけて苦類智忍。此の忍は無間にすなわち此の境に縁じて類智の生ずる有りて、名づけて苦類智。最初に諸法の真理を証知するがゆえに法智と名づく。此の後の境智は前と相似なるがゆえに類の名を得。後を以て前に随いて境を証するがゆえに。苦諦に縁ずるがごとく欲界および其余、法・類の忍・法・類智の四を生ず。其余の三諦に縁じて各々四もまた此のよう。いわゆる復た前の苦類智の後に於いて、次に欲界の集聖諦の境に縁じて法智忍の生ずる有りて、名づけて集法智忍。此の忍は無間にすなわち欲の集に縁じて法智の生ずる有りて、名づけて集法智。次に其余の界の集聖諦の境に縁じて類智忍の生ずる有りて、名づけて集類智忍。此の忍は無間にすなわち此の境に縁じて類智の生ずる有りて、名づけて集類智。次に欲界の滅聖諦の境に縁じて法智忍の生ずる有りて、名づけて滅法智忍。此の忍は無間にすなわち欲の滅に縁じて法智の生ずる有りて、名づけて滅法智。次に其余の界の滅聖諦の境に縁じて類智忍の生ずる有りて、名づけて滅類智忍。此の忍は無間にすなわち此の境に縁じて類智の生ずる有りて、名づけて滅類智。次に欲界の道聖諦の境に縁じて法智忍の生ずる有りて、名づけて道法智忍。此の忍は無間にすなわち欲の道に縁じて法智の生ずる有りて、名づけて道法智。次に其余の界の道聖諦の境に縁じて類智忍の生ずる有りて、名づけて道類智忍。此の忍は無間にすなわち此の境に縁じて類智の生ずる有りて、名づけて道類智。此のようの次第に十六心有り。総じて説いて名づけて聖諦現観と為す。

此中餘部有作是言:於諸諦中唯頓現觀。然彼意趣應更推尋,彼現觀言無差別故。詳諸現觀總有三種,謂見、緣、事有差別故。唯無漏慧於諸諦境現見分明名見現觀,此無漏慧並餘相應同一所緣名緣現觀,此諸能緣並餘俱有戒生相等不相應法同一事業名事現觀。見苦諦時於苦聖諦具三現觀,於餘三諦唯事現觀,謂斷證修。若諸諦中約見現觀說頓現觀,理必不然,以諸諦中行相別故。若言以一無我行相總見諸諦,則不應用苦等行相見苦諦等,如是便與契經相違。如契經言:諸聖弟子以苦行相思惟於苦,以集行相思惟於集,以滅行相思惟於滅,以道行相思惟於道,無漏作意相應擇法。若言此經說修道位,此亦不然,如見修故。若彼復謂見一諦時,於餘諦中得自在故說頓現觀,理亦無失。然於如是現觀中間有起不起,別應思擇。若彼復謂於見苦時即能斷集證滅修道說頓現觀,理亦無失,由先已說見苦諦時於餘三諦中有事現觀故。依見現觀,於契經中見有誠文,說漸現觀。如契經說:佛告長者:於四聖諦非頓現觀,必漸現觀,乃至廣說。如是等有三經,一一經有別喻。若謂有經作如是說,但於苦諦無惑無疑,於佛亦無,故頓現觀。此亦非證,依定不行。或必當斷,密意說故。已辯現觀具十六心,此十六心為依何地?頌曰:

(論は続けて曰く:)此の中に其余の部は此の言を作す有り:諸の諦の中に於いてただ頓に現観す。しかし彼の意趣は応に更に推尋すべし。彼の現観の言は差別無きがゆえに。詳らかに諸の現観は総じて三種あり。いわゆる見・縁・事に差別有るがゆえに。ただ無漏慧は諸の諦境に於いて現見・分明なるを名づけて見現観。此の無漏慧并びに其余の相応する同一の所縁を名づけて縁現観。此の諸の能縁并びに其余の俱有の戒・生相等の不相応の法の同一の事業を名づけて事現観。苦諦を見る時は苦聖諦に於いて具に三の現観。其余の三諦に於いてはただ事現観。いわゆる断・証・修。もし諸の諦の中に於いて見現観に約して頓現観を説かば、理は必ず此のようにはあらず。諸の諦の中に行相の別あるがゆえに。もし一の無我の行相を以て総じて諸の諦を見ると言わば、則ち応に苦等の行相を用いて苦諦等を見るべからず。此のようには便ち契経と相違す。契経に説くがごとく:諸の聖弟子は苦の行相を以て苦を思惟し、集の行相を以て集を思惟し、滅の行相を以て滅を思惟し、道の行相を以て道を思惟す。無漏の作意と相応して法を択す。もし此の経は修道の位を説くと言わば、此れもまた此のようにはあらず。見・修のごときがゆえに。もし彼復た謂わば、一諦を見る時に於いて、其余の諦の中に於いて自在を得るがゆえに頓現観を説くと、理もまた失無し。しかし此のようの現観の中間に於いて起る・起らざる有りて、別に応に思択すべし。もし彼復た謂わば、苦を見る時にすなわち能く集を断じ滅を証し道を修して頓現観を説くと、理もまた失無し。先に已に説くに由る、苦諦を見る時に其余の三諦の中に於いて事現観有るを。見現観に依って、契経の中に於いて誠文有るを見る。漸現観を説けり。契経に説くがごとく:仏は長者に告げたまう、四聖諦に於いて頓の現観に非ず、必ず漸の現観、乃至広く説く、と。此のようの等に三経有り。一一の経に別喻有り。もし経有りて此の説を作すと謂わば、但だ苦諦に於いて惑無く疑無く、仏に於いてもまた無し。ゆえに頓現観。此れもまた証に非ず。定に依って行ぜず。或いは必ず当に断ずべし。密意の説く所なるがゆえに。已に現観は十六心を具えるを辯したり。此の十六心は何の地に依るか。頌に曰く、

皆與世第一,同依於一地。

皆世第一と、同じく一地に依る。

論曰:隨世第一所依諸地,應知即此十六心依。彼依六地,如先已說。何緣必有如是忍智前後次第間雜而起?頌曰:

論に曰く:世第一の依る所の諸地に随って、応に知るべしすなわち此の十六心の依る所。彼は六地に依る。先に已に説けしがごとし。何の縁にか必ず此のようの忍智の前後の次第の間雑して起る有るか。頌に曰く、

忍智如次第,無間解脫道。

忍・智は次第のごとく、無間・解脱の道。

論曰:十六心中忍是無間道,約斷惑得,無能隔礙故。智是解脫道,已解脫惑得,與離繫得俱時起故。具二次第理定應然,猶如世間驅賊閉戶。若謂第二唯無間道與離繫得俱時而生,則此位中於彼彼境應定不起已斷疑智;若謂見位唯忍斷惑,則與本論說九結聚相違。此難不然,諸忍皆是智眷屬故,如王眷屬所作事業名王所作。此十六心皆見諦理,一切可說見道攝耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:十六心の中、忍は是れ無間道。惑の得を断ずるに約して、能く隔碍する無きがゆえに。智は是れ解脱道。已に惑の得を解脱し、離系の得と俱時に起るがゆえに。二の次第を具えるは理定めて応に此のようであるべし。猶お世間の賊を駆りて戸を閉づるがごとし。もし第二はただ無間道の離系の得と俱時に生ずると謂わば、則ち此の位の中に於いて彼彼の境に於いて応に已断の疑智を起さざるべからず。もし見位はただ忍の惑を断ずと謂わば、則ち本論の説く九結聚と相違す。此の難は此のようにはあらず。諸の忍は皆智の眷属なるがゆえに。王の眷属の作す所の事業を名づけて王の作す所と為すがごとし。此の十六心は皆諦理を見る。一切は説いて見道の摂と為すべきか。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

前十五見道,見未曾見故。

前の十五は見道。未だ曾て見ざるを見るがゆえに。

論曰:苦法智忍為初,道類智忍為後,其中總有十五剎那,皆見道所攝,見未見諦故。至第十六道類智時,無一諦理未見今見,如習曾見,故修道攝。豈不爾時觀道類忍是道諦理未見今見?此中約諦不約剎那。非一剎那未見今見可名今見未見諦理,如刈畦稻唯餘一科,不可名為此畦未刈。又道類智是果攝故、頓修八智十六行故、捨前道故、相續起故,如餘修道,非見道攝。然道類智必不退者,任持見道所斷斷故,即由此故應見道攝。此難不然,太過失故。何緣七智亦見道攝?見諸諦理未究竟故,謂未周遍見諸諦理中間起故,亦見道攝。已說見修二道生異,當依此道分位差別建立眾聖補特伽羅。且依見道十五心位建立眾聖有差別者,頌曰:

論に曰く:苦法智忍を初と為し、道類智忍を後と為して、その中に総じて十五刹那有りて、皆見道の摂する所。未だ見ざる諦を見るがゆえに。第十六の道類智の時に至れば、一諦の理も未だ見ずして今見る無し。曾て見しを習うがごとし。ゆえに修道の摂。豈に爾の時に道類忍を観ずるは道諦の理の未だ見ずして今見るにあらずや。此の中は諦に約して刹那に約せず。一刹那の未だ見ずして今見るを名づけて今見る未見の諦理と為すべからず。畦の稲を刈りてただ一科を余すがごとき、名づくべからず此の畦は未だ刈らずと。また道類智は是れ果の摂なるがゆえ、頓に八智・十六行を修するがゆえ、前の道を捨つるがゆえ、相続して起るがゆえに。其余の修道のごとく、見道の摂に非ず。しかし道類智は必ず退せざるは、見道の断ぜし所の断を任持するがゆえに。すなわち此に由って応に見道の摂なるべし。此の難は此のようにはあらず。過失太だ多きがゆえに。何の縁にか七智もまた見道の摂か。諸の諦理を見るに未だ究竟せざるがゆえに。いわゆる未だ周遍して諸の諦理を見るに中間に起るがゆえに、もまた見道の摂。已に見・修の二道の生の異を説けり。当に此の道の分位の差別に依って衆聖の補特伽羅を建立すべし。且つ見道の十五心の位に依って衆聖の差別有るを建立すれば、頌に曰く、

名隨信法行,由根鈍利別,

名づけて随信・法行。根の鈍・利の別に由る。

具修惑斷一,至五向初果,

具に惑を修して一を断じ、乃至五は初果に向かう。

斷次三向二,離八地向三。

次の三を断じて二に向かい、八地を離れて三に向かう。

論曰:見道位中聖者有二,一隨信行、二隨法行,由根鈍利別立二名,諸鈍根名隨信行者,諸利根名隨法行者。由信隨行名隨信行,彼有隨信行,名隨信行者,或由串習此隨信行以成其性,故名隨信行者,彼先信他隨行義故。准此應釋隨法行者,彼於先時由自披閱契經等法隨行義故。即二聖者,由於修惑具斷有殊立為三向,謂彼二聖若於先時未以世道斷修斷惑名為具縛,或先已斷欲界一品乃至五品,至此位中名初果向,趣初果故。言初果者,謂預流果,此於一切沙門果中必初得故。若先已斷欲界六品或七八品,至此位中名第二果向,趣第二果故。第二果者,謂一來果,遍得果中此第二故。若先已離欲界九品,或先已斷初定一品,乃至具離無所有處,至此位中名第三果向,趣第三果故。第三果者,謂不還果,數準前釋。次依修道道類智時建立眾聖有差別者,頌曰:

論に曰く:見道の位の中、聖者に二あり。一は随信行、二は随法行。根の鈍・利の別に由って二名を立つ。諸の鈍根を名づけて随信行と為し、諸の利根を名づけて随法行と為す。信に由って随行するを名づけて随信行。彼は随信行有りて、名づけて随信行と為す。或いは串習するに由って此の随信行を以て其の性を成ず。ゆえに名づけて随信行。彼は先に他を信じて随行の義と為すがゆえに。此に准じて応に随法行を釋すべし。彼は先時に於いて自ら契経等の法を披閲するに由って随行の義と為すがゆえに。すなわち二の聖者は、修惑に於いて断の具・殊に由って立てて三向と為す。いわゆる彼の二聖はもし先時に於いて未だ世道を以て修断の惑を断ぜざれば名づけて具縛。或いは先に已に欲界の一品乃至五品を断ぜば、此の位の中に至りて名づけて初果の向。初果に趣くがゆえに。初果と言うは、いわゆる預流果。此れは一切の沙門果の中に必ず初めて得るがゆえに。もし先に已に欲界の六品或いは七・八品を断ぜば、此の位の中に至りて名づけて第二果の向。第二果に趣くがゆえに。第二果とは、いわゆる一来果。遍く果を得る中に此れ第二なるがゆえに。もし先に已に欲界の九品を離れ、或いは先に已に初定の一品を断じ、乃至具に無所有処を離るるに至れば、此の位の中に至りて名づけて第三果の向。第三果に趣くがゆえに。第三果とは、いわゆる不還果。数は前の釋に准ず。次に修道の道類智の時に依って衆聖の差別有るを建立すれば、頌に曰く:

至第十六心,隨三向住果,

第十六心に至るに、三向に随って果に住し、

名信解見至,亦由鈍利別。

名づけて信解・見至。もまた鈍・利の別に由る。

論曰:即前隨信隨法行者,至第十六道類智心名為住果,不復名向。隨前三向今住三果,謂前預流向今住預流果,前一來向今住一來果,前不還向今住不還果。阿羅漢果必無初得,見道無容斷修惑故,世道無容離有頂故。至住果位捨得二名,謂不復名隨信法行,轉得信解、見至二名,此亦由根鈍利差別。諸鈍根者先名隨信行今名信解,諸利根者先名隨法行今名見至。此二聖者信慧互增,故標信解、見至名別。何緣先斷欲界修惑一至五等,至第十六道類智心但說名為預流果等,非後果向?頌曰:

論に曰く:すなわち前の随信・随法行なる、第十六の道類智心に至りて名づけて住果。復た向と名づけず。前三向に随って今三果に住す。いわゆる前の預流向は今預流果に住し、前の一来向は今一来果に住し、前の不還向は今不還果に住す。阿羅漢果は必ず初得無し。見道は修惑を断ずるを容れざるがゆえ、世道は有頂を離るるを容れざるがゆえに。住果の位に至りて二名を捨て得す。いわゆる復た随信・法行と名づけず、転じて信解・見至の二名を得。此れもまた根の鈍利の差別に由る。諸の鈍根なるは先に随信行と名づけ、今は信解と名づく。諸の利根なるは先に随法行と名づけ、今は見至と名づく。此の二聖者は信・慧互いに増す。ゆえに信解・見至の名を標して別と為す。何の縁にか先に欲界の修惑を断じて一乃至五等、第十六の道類智心に至りて但だ説いて名づけて預流果等と為して、後の果の向にあらざるか。頌に曰く、

諸得果位中,未得勝果道,

諸の果を得る位の中に、未だ勝果の道を得ず、

故未起勝道,名住果非向。

ゆえに未だ勝道を起さざれば、名づけて住果にして向に非ず。

論曰:諸得果時於勝果道必定未得,故住果者乃至未起勝果道時,但名住果,不名後向。然諸先斷欲界修惑一至五等,至得果時,此生必定起勝果道。由此先離三靜慮染後依下地入見道者,彼得果已於現生中必能引生後勝果道。若異此者,聖生上地應不可說定成樂根。如是已依先具、倍離及全離欲入見諦者十六心位立眾聖別,當約修惑辯漸次生能對治道分位差別。頌曰:

論に曰く:諸の果を得る時に勝果の道に於いて必定して未だ得ず。ゆえに果に住するは乃至未だ勝果の道を起さざる時、但だ名づけて住果、後の向と名づけず。しかし諸の先に欲界の修惑を断じて一乃至五等なるは、果を得る時に至りて、此の生に必定して勝果の道を起す。此に由って先に三静慮の染を離れて後に下地に依って見道に入るは、彼は果を得已りて現生の中に於いて必ず能く後の勝果の道を引き生ず。もし此に異ならば、聖の上地に生ずるは応に説くべからず定めて楽根を成ずと。此のようの已に先の具・倍離および全離欲に依って見諦に入るの十六心の位に依って衆聖の別を立てり。当に修惑に約して漸次生の能对治の道の分位の差別を辯ずべし。頌に曰く、

地地失德九,下中上各三。

地地に失・徳は九、下・中・上は各々三。

論曰:失謂過失,即所治障。德謂功德,即能治道。如先已辯欲修斷惑九品差別,如是上地乃至有頂例亦應爾。如所斷障一一地中各有九品,諸能治道無間解脫九品亦然。失德如何各分九品?謂根本品有下中上,此三各分下中上別,由此失德各分九品,謂下下、下中、下上,中下、中中、中上,上下、上中、上上品。應知此中下下品道勢力能斷上上品障,如是乃至上上品道勢力能斷下下品障。上上品等諸能治德初未有故,此德有時上上品等失已無故。如浣衣位麁垢先除,於後後時漸除細垢。又如麁闇小明能滅,要以大明方滅細闇。失德相對,理亦應然。白法力強、黑法力劣,故剎那頃劣道現行,無始時來展轉增益上品諸惑能令頓斷。如經久時所集眾病,服少良藥能令頓愈。又如長時所集大闇,一剎那頃小燈能滅。已辯失德差別九品,次當依彼立聖者別。且諸有學修道位中總亦名為信解、見至,隨位復有多種差別,先應建立都未斷者。頌曰:

論に曰く:失とは過失を謂う。すなわち治する所の障。徳とは功徳を謂う。すなわち能治の道。先に已に欲の修断の惑の九品の差別を辯ぜしがごとく、此のようの上地は乃至有頂に至るまで例して応に此のようであるべし。断ずる所の障のごとく一一の地の中に各々九品有れば、諸の能治の道の無間・解脱の九品もまた此のよう。失・徳は如何にして各々九品に分かれるか。いわゆる根本の品に下・中・上有り、此の三は各々下・中・上の別に分かつ。此に由って失・徳は各々九品に分かれて、いわゆる下下・下中・下上、中下・中中・中上、上下・上中・上上品。応に知るべし此の中の下下品の道の勢力は能く上上品の障を断じ、此のようの乃至上上品の道の勢力は能く下下品の障を断ず。上上品等の諸の能治の徳は初め未だ有ることあらざるがゆえに、此の徳の有る時は上上品等の失は已に無きがゆえに。衣を浣う位のごとく麁垢は先に除き、後後の時に於いて漸く細垢を除く。また麁暗は小明に能く滅せられ、要ずるに大明を以て方に細暗を滅すがごとし。失・徳の相対するは、理もまた応に此のようであるべし。白法の力は強く、黒法の力は劣れり。ゆえに刹那の頃に劣道が現行して、無始の時来より展転に增益せる上品の諸惑を能くして頓断せしむ。久しい時を経て集めたる衆病のごとく、少しき良薬を服して能くして頓愈せしむ。また長き時に集めたる大暗のごとく、一刹那の頃の小灯は能く滅す。已に失・徳の差別の九品を辯したり。次に当に彼に依って聖者の別を立つべし。且つ諸の有学の修道の位の中は総じてもまた名づけて信解・見至。位に随って復た多種の差別有り。先ず応に都だ未だ断ぜざるを建立すべし。頌に曰く、

未斷修斷失,住果極七返。

未だ修断の失を断ぜざれば、果に住して極めて七返。

論曰:諸住果者於一切地修所斷失都未斷時名為預流,生極七返。七返言顯七往返生,是人天中各七生義。極言為顯受生最多,非諸預流皆受七返故。契經說極七返生,是彼最多七返生義。諸無漏道總名為流,由此為因趣涅槃故。預言為顯最初至得,彼預流故說名預流。此預流名為目何義?若初得道名為預流,則預流名應目第八。若初得果名為預流,則倍離欲全離欲者至道類智應名預流。此預流名目初得果,然依遍得一切果者初所得果建立此名。一來、不還非定初得,此定初得,故名預流。何緣此名不目第八?以要至得道類智時具得向果無漏道故、具得見修無漏道故。於現觀流遍至得故名預流者,第八不然,故預流名不目第八。彼從此後別於人中,極多結七中有生有,天中亦然,總二十八,皆七等故說極七生,如七處善及七葉樹。毘婆沙師所說如是。若爾,何故契經中言無處無容見圓滿者更可有受第八有義?此契經意約一趣說,若如言執,中有應無。若爾,上流極有頂者,亦應一趣無第八生。依欲界說故無此過。此何為證?為教為理?以何證彼於人天中各受七生、非合受七?以契經說天七及人。飲光部經分明別說於人天處各受七生,由是此中不應固執。若於人趣得預流果,彼還人趣得般涅槃;於天趣得,還於天趣。何緣彼無受第八有?相續齊此必成熟故,聖道種類法應如是。如七步蛇、第四日瘧。又彼有餘七結在故,謂二下分、五上分結,中間雖有聖道現前,餘業力持不證圓寂。至第七有逢無佛法時,彼在居家得阿羅漢果。既得果已必不住家,法爾自得苾芻形相。有言:彼往餘道出家。云何彼名無退墮法?以不生長退墮業故、違彼生長業與果故、強盛善根鎮彼身故、加行意樂俱清淨故。諸有決定墮惡趣業尚不起忍,況得預流。故有頌言:

論に曰く:諸の果に住するは一切地の修所断の失を都だ未だ断ぜざる時を名づけて預流。生は極めて七返。七返の言は七返の往生を顕す。是れ人・天の中に各々七生の義。極の言は為に受生の最も多きを顕さんとす。諸の預流は皆七返を受くるにあらざるがゆえに。契経に極七返生を説くは、是れ彼の最も多きは七返生の義。諸の無漏道は総じて名づけて流。此を因と為して涅槃に趣くがゆえに。預の言は為に最初の至得を顕さんとす。彼は流に預るがゆえに名づけて預流。此の預流の名は何の義を目するか。もし初めて道を得るを名づけて預流と為せば、則ち預流の名は応に第八を目すべし。もし初めて果を得るを名づけて預流と為せば、則ち倍離欲・全離欲なるの道類智に至るは応に預流と名づくべし。此の預流の名は初得の果を目す。しかし遍く一切の果を得るの初の所得の果に依って此の名を建立す。一来・不還は定めて初得に非ず。此れは定めて初得。ゆえに名づけて預流。何の縁にか此の名は第八を目さざるか。要ずるに道類智を得る時に至りて具に向果の無漏道を得るがゆえ、具に見・修の無漏道を得るがゆえに。現観の流に於いて遍く至得するがゆえに預流と名づくるに、第八は此のようにはあらず。ゆえに預流の名は第八を目さず。彼は此より後に別に人の中に於いて、極めて多くは七の中有・生有を結し、天の中もまた此のよう。総じて二十八。皆七に等しきがゆえに説いて極七生と為す。七処善および七葉樹のごとし。毘婆沙師の説く所は此のよう。もしそうならば、何の故にか契経の中に説く、処無く容なくして見の円満なるは更に第八有を受くるの義有るべからずと。此の契経の意は一趣に約して説く。もし言のごとく執せば、中有は応に無かるべし。もしそうならば、上流の極めて有頂なるも、応に一趣に第八の生無かるべし。欲界に依って説くがゆえに此の過無し。此れは何を証と為すか。教か理か。何を以てか彼の人・天の中に於いて各々七生を受けて、合して七を受くるに非ざるを証せんか。契経に天七および人を説くを以て。飲光部の経は分明に別に人・天の処に於いて各々七生を受くるを説く。是に由って此の中に応に固執すべからず。もし人趣に於いて預流果を得れば、彼は還た人趣に於いて般涅槃を得。天趣に於いて得れば、還た天趣に於いて得す。何の縁にか彼は第八有を受くること無きか。相続は此に斉く必ず成熟するがゆえに、聖道の種類は法応に此のようであるべし。七歩の蛇・第四日の瘧のごとし。また彼に其余の七結の在る有るがゆえに。いわゆる二の下分・五の上分の結。中間に聖道の現前有りと雖も、其余の業力の持して圆寂を証せざるがゆえに。第七の有に至りて仏法無き時に逢えば、彼は居家に在りて阿羅漢果を得。すでに果を得已りて必ず家に住せず。法爾に自ら苾芻の形相を得。ある人の説に、彼は其余の道に往きて出家す。如何にして彼は名づけて退堕の法無きか。退堕の業を生長せざるを以て、彼の生長の業と果に違するを以て、強盛の善根は彼の身を鎮するを以て、加行・意楽は俱に清浄なるを以て。諸の決定して悪趣に堕つる業はなお忍を起さず。況んや預流を得るをや。ゆえに頌有りて曰く:

愚作罪小亦墮惡,智為罪大亦脫苦,

愚は罪を作して小なりとも悪に堕ち、智は罪を為して大なりとも苦を脱す。

如團鐵小亦瀋水,為缽鐵大亦能浮。

団鉄の小なりとも水に沈むがごとく、鉢を為す鉄は大なりとも能く浮かぶ。

經說預流作苦邊際,依何義立苦邊際名?依齊此生後更無苦,是令後苦不相續義。或苦邊際所謂涅槃,如何涅槃可是所作?除彼得障,故說作言。如言作空,謂毀臺觀。餘位亦有極七返生,然非決定,是故不說。

(論は続けて曰く:)経に預流は苦の辺際を作すと説くは、何の義に依って苦辺際の名を立つるか。此の生に斉くより後は更に苦無きに依る。是れ後苦をして相続せざらしむるの義。或いは苦辺際とはいわゆる涅槃。如何にして涅槃は是れ作す所たるべきか。彼の得の障を除くがゆえに説いて作の言を為す。作空と言うがごとく、いわゆる台観を毀す。其余の位にもまた極七返生有り。しかし決定に非ず。此のゆえに説かず。

説一切有部倶舎論 巻第二十三

アビダルマ倶舎論 巻第二十四 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別賢聖品第六之三

分別賢聖品 第六之三

已辯住果未斷修惑名為預流,生極七返。今次應辯斷位眾聖,且應建立一來向果。頌曰:

已に果に住して未だ修惑を断ぜざるを名づけて預流と為り、生は極めて七返なるを辯したり。今次に応に断位の衆聖を辯ずべし。且つ応に一来の向果を建立すべし。頌に曰く、

斷欲三四品,三二生家家,

欲の三・四品を断ぜば、三・二生して家家。

斷至五二向,斷六一來果。

断じて五に至れば二に向かい、六を断ぜば一来果。

論曰:即預流者進斷修惑,若三緣具轉名家家:一由斷惑,斷欲修斷三四品故。二由成根,得能治彼無漏根故。三由受生,更受欲有三二生故。頌中但說初後緣者,預流果後說進斷惑,成能治彼諸無漏根。義準已成,故不具說。然復應說三二生者,以有增進,於所受生或少或無或過此故。何緣此無斷五品者?以斷第五必斷第六,非一品惑能障得果,猶如一間未越界故。應知總有二種家家:一天家家,謂欲天趣生三二家而證圓寂,或一天處或二或三。二人家家,謂於人趣生三二家而證圓寂,或一洲處或二或三。即預流者進斷欲界一品修惑乃至五品,應知轉名一來果向,若斷第六成一來果,彼往天上一來人間而般涅槃名一來果,過此以後更無生故。此或名曰薄貪瞋痴,唯餘下品貪瞋痴故。已辯一來向果差別,次應建立不還向果。頌曰:

論に曰く:すなわち預流なるの進みて修惑を断ずるに、もし三縁具われば転じて名づけて家家。一は断惑に由る。欲の修断の三・四品を断ずるがゆえに。二は根を成ずるに由る。能く彼を治する無漏の根を得るがゆえに。三は生を受くるに由る。更に欲有の三・二生を受くるがゆえに。頌の中は但だ初・後の縁を説く。預流果の後に進みて惑を断じて彼を治すること能くする諸の無漏根を成ずるを説くは、義は准じて已に成ず。ゆえに具に説かず。しかし復た応に三・二生を説くべし。増進有りて、受くる所の生に於いて或いは少なく或いは無く或いは此を過ぐる有るを以て。何の縁にか此に五品を断ずる無きか。第五を断ぜば必ず第六を断ずるを以て。一品の惑は能く果を得るを障せざるに非ず。猶お一間の未だ界を越えざるがごときがゆえに。応に知るべし総じて二種の家家有り。一は天の家家。いわゆる欲の天趣に於いて三・二の家に生じて圆寂を証す。或いは一天処或いは二或いは三。二は人の家家。いわゆる人趣に於いて三・二の家に生じて圆寂を証す。或いは一洲処或いは二或いは三。すなわち預流なるの進みて欲界の一品の修惑乃至五品を断ぜば、応に知るべし転じて名づけて一来果の向。もし第六を断ぜば一来果を成ず。彼は天上に往きて一来して人間にして般涅槃すれば名づけて一来果。此を過ぎ已りて更に生無きがゆえに。此れ或いは名づけて薄貪瞋痴。ただ下品の貪瞋痴を余すがゆえに。已に一来の向果の差別を辯したり。次に応に不還の向果を建立すべし。頌に曰く、

斷七或八品,一生名一間,

七或いは八品を断ぜば、一生して名づけて一間。

此即第三向,斷九不還果。

此れすなわち第三向。九を断ぜば不還果。

論曰:即一來者進斷餘惑,若三緣具轉名一間:一由斷惑,斷欲修斷七八品故。二由成根,得能治彼無漏根故。三由受生,更受欲有餘一生故。頌中但說初後二緣,不說成根,義如前釋。如何一品惑障得不還果?由彼若斷便越界故。前說三時業極為障,應知煩惱亦與業同,越彼等流異熟地故。間謂間隔,彼餘一生為間隔故,不證圓寂。或餘一品欲修所斷惑為間隔故,不得不還果。有一間者說名一間,即斷修惑七八品者,應知亦名不還果向。先斷三四七八品惑入見諦者,後得果時乃至未修後勝果道,仍不名曰家家一間,未成治彼無漏根故。若斷第九成不還果,必不還來生欲界故。此或名曰五下結斷,雖必先斷或二或三,然於此時總集斷故。依不還位,諸契經中以種種門建立差別,今次應辯彼差別相。頌曰:

論に曰く:すなわち一来なるの進みて其余の惑を断ずるに、もし三縁具われば転じて名づけて一間。一は断惑に由る。欲の修断の七・八品を断ずるがゆえに。二は根を成ずるに由る。能く彼を治する無漏の根を得るがゆえに。三は生を受くるに由る。更に欲有の其余の一生を受くるがゆえに。頌の中は但だ初・後の二縁を説き、根を成ずるを説かざるは、義は前の釋のごとし。如何にして一品の惑は不還果を得るを障するか。彼はもし断ぜば便ち界を越ゆるに由るがゆえに。前に三時の業の極めて障と為るを説けしは、応に知るべし煩悩もまた業と同じ。彼の等流・異熟の地を越ゆるがゆえに。間とは間隔を謂う。彼は其余の一生を間隔と為すがゆえに、圆寂を証せず。或いは其余の一品の欲の修所断の惑を間隔と為すがゆえに、不還果を得ず。一間有るを説いて名づけて一間。すなわち修惑の七・八品を断ずるは、応に知るべしもまた名づけて不還果の向。先に三・四・七・八品の惑を断じて見諦に入るは、後に果を得る時乃至未だ後の勝果の道を修せざるまで、仍お名づけず家家・一間。未だ彼を治する無漏根を成ぜざるがゆえに。もし第九を断ぜば不還果を成ず。必ず還りて来たりて欲界に生ぜざるがゆえに。此れ或いは名づけて五下結断。必ず先に或いは二或いは三を断ずると雖も、しかし此の時に於いて総じて集めて断ずるがゆえに。不還の位に依って、諸の契経の中に種種の門を以て差別を建立せり。今次に応に彼の差別の相を辯ずべし。頌に曰く、

此中生有行,無行般涅槃,

此の中に生有行・無行の般涅槃、

上流若雜修,能往色究竟,

上流はもし雑修せば、能く色究竟に往き、

超半超遍歿,餘能往有頂,

超・半超・遍殁し、其余は能く有頂に往く。

行無色有四,住此般涅槃。

無色に行くは四有り。此に住して般涅槃す。

論曰:此不還者總說有七,且行色界差別有五:一中般涅槃、二生般涅槃、三有行般涅槃、四無行般涅槃、五者上流。此於中間般涅槃故,說此名曰中般涅槃。如是應知,此於生已,此由有行此由無行般涅槃故,名生般等。此上流故,名為上流。言中般者,謂往色界住中有位便般涅槃。言生般者,謂往色界生已不久便般涅槃,以具勤修速進道故。此中所說般涅槃者,謂有餘依。有餘師說:亦無餘依。此不應理,彼於捨壽無自在故。有行般者,謂往色界生已,長時加行不息,由多功用方般涅槃,此唯有勤修無速進道故。無行般者,謂往色界生已經久,加行懈息不多功用便般涅槃,以闕勤修速進道故。有說:此二有差別者,由緣有為無為聖道,如其次第得涅槃故。此說非理,太過失故。然契經中先說無行、後說有行般涅槃者,如是次第與理相應。有速進道、無速進道,無行有行而成辦故,不由功用得。由功用得故,生般涅槃得最速進最上品道,隨眠最劣故生不久便般涅槃。言上流者是上行義,以流與行其義一故。謂欲界歿往色界生,未即於中能證圓寂,要轉生上方般涅槃。即此上流差別有二,由因及果有差別故。因差別者,此於靜慮由有雜修無雜修故。果差別者,色究竟天及有頂天為極處故。謂若於靜慮有雜修者,能往色究竟方般涅槃。即此復有三種差別,全超、半超、遍歿異故。言全超者,謂在欲界於四靜慮已具雜修,遇緣退失上三靜慮,以初靜慮愛味為緣,命終上生梵眾天處。由於先世串習勢力,復能雜修第四靜慮,從彼處歿生色究竟,最初處歿生最後天,頓越中間是全超義。言半超者,從彼漸次生下淨居,乃至中間能越一處生色究竟,超非全故名為半超。聖必不生大梵天處,僻見處故、一導師故。言遍歿者,從彼漸次於一切處皆遍受生,最後方能生色究竟,一切處死故名遍歿。

論に曰く:此の不還なるは総じて説いて七有り。且つ色界に行くの差別は五有り。一は中般涅槃、二は生般涅槃、三は有行般涅槃、四は無行般涅槃、五は上流。此れは中間に於いて般涅槃するがゆえに、此を説いて名づけて中般涅槃。此のようの応に知るべし、此れは生じ已りて、此れは有行に由り此れは無行に由って般涅槃するがゆえに、名づけて生般等。此れは上流するがゆえに、名づけて上流。中般と言うは、いわゆる色界に往きて中有の位に住して便ち般涅槃す。生般と言うは、いわゆる色界に往きて生じ已りて久しからずして便ち般涅槃す。具に勤修・速進の道有るを以て。此の中の説く所の般涅槃とは、いわゆる有余依。其余の師有りて説く:もまた無余依。此れは応に理にあらず。彼は寿を捨つるに自在無きがゆえに。有行般とは、いわゆる色界に往きて生じ已りて、長時に加行して息まず、多くの功用に由って方に般涅槃す。此れはただ勤修有りて速進の道無きがゆえに。無行般とは、いわゆる色界に往きて生じて已に久しく、加行は懈息して多くの功用なくして便ち般涅槃す。勤修・速進の道を闕くを以て。ある説に、此の二に差別有るは、有為・無為の聖道に縁ずるに由って、次第のごとく涅槃を得るがゆえに。此の説は理に非ず。過失太だ多きがゆえに。しかし契経の中に先ず無行を説き、後に有行の般涅槃を説くは、此のようの次第は理と相応す。速進の道有り・速進の道無し、無行・有行にして成辦するがゆえに。功用に由って得るにあらず。功用に由って得るがゆえに、生般涅槃は最も速進・最上品の道を得、随眠は最も劣れるがゆえに生じて久しからずして便ち般涅槃す。上流と言うは是れ上行の義。流と行とは其の義一なるを以て。いわゆる欲界に殁して色界に往きて生じ、未だ即ち中に於いて能く圆寂を証せず。要ずるに転生して上に方に般涅槃す。すなわち此の上流の差別に二有り。因および果に差別有るに由るがゆえに。因の差別とは、此れは静慮に於いて雑修有り・雑修無きに由るがゆえに。果の差別とは、色究竟天および有頂天を極処と為すがゆえに。いわゆるもし静慮に於いて雑修有れば、能く色究竟に往きて方に般涅槃す。すなわち此れは復た三種の差別有り。全超・半超・遍殁の異あるがゆえに。全超と言うは、いわゆる欲界に在りて四静慮に於いて已に具に雑修し、縁に遇って上の三静慮を退失し、初静慮の愛味を以て縁と為し、命終して上に梵衆天の処に生ず。先世の串習の勢力に由って、復た能く第四静慮を雑修し、彼の処より殁して色究竟に生ず。最初の処に殁して最後の天に生ず。頓じて中間を越ゆるは是れ全超の義。半超と言うは、彼より漸次に下の浄居に生じ、乃至中間に於いて能く一処を越えて色究竟に生ず。超えて全ならざるがゆえに名づけて半超。聖は必ず大梵天の処に生ぜず。僻見の処なるがゆえ、一の導師なるがゆえに。遍殁と言うは、彼より漸次に一切の処に於いて皆遍く受生し、最後に方に能く色究竟に生ず。一切の処に死するがゆえに名づけて遍殁。

無不還者,於已生處受第二生,由彼於生容求勝進,非等劣故。即由此故不還義滿,必不還生曾生處故。尚不生本處,況有生於下。應知此謂二上流中由有雜修靜慮因故往色究竟般涅槃者,餘於靜慮無雜修者能往有頂方般涅槃,謂彼先無雜修靜慮,由於諸定愛味為緣,此歿遍生色界諸處,唯不能往五淨居天。色界命終於三無色次第生已,後生有頂方般涅槃。二上流中前是觀行、後是止行,樂慧樂定有差別故。二上流者於下地中得般涅槃見不違理,而言此往色究竟天及有頂天為極處者,由此過彼無行處故,如預流者極七返生。此五名為行色界者。行無色者差別有四,謂在欲界離色界貪,從此命終生於無色。此中差別唯有四種,由生般涅槃有差別故,此並前五成六不還。復有不行色無色界,即住於此能般涅槃,名現般涅槃,並前六為七。於行色界五不還中,復有異門顯其差別。頌曰:

(論は続けて曰く:)不還なるは、已に生じたる処に於いて第二の生を受くること無し。彼は生に於いて勝進を求むるを容れ、等しき劣るに非ざるがゆえに。すなわち此に由って不還の義は満つ。必ず還りて曾て生じたる処に生ぜざるがゆえに。なお本処に生ぜず、況んや下に生ずるの有るをや。応に知るべし此れは二上流の中に雑修の静慮の因有るに由って色究竟に往きて般涅槃するを謂う。其余の静慮に於いて雑修無きは能く有頂に往きて方に般涅槃す。いわゆる彼は先に雑修の静慮無くして、諸の定の愛味に由って縁と為し、此れ殁して遍く色界の諸処に生ず。ただ五浄居天に往くこと能わず。色界に命終して三無色に次第に生じ已りて、後に有頂に生じて方に般涅槃す。二上流の中、前は是れ観行、後は是れ止行。慧を楽い定を楽うに差別有るがゆえに。二上流なるの下地の中に於いて般涅槃を得るは見て理に違せず。而も此れは色究竟天および有頂天に往くを極処と為すと説くは、此れ彼を過ぎて行く処無きに由るがゆえに。預流なるの極七返生のごとし。此の五は名づけて色界に行く者。無色に行くの差別は四有り。いわゆる欲界に在りて色界の貪を離れ、此より命終して無色に生ず。此の中の差別はただ四種有り。生般の涅槃に差別有るに由るがゆえに。此れは前の五を并せて六の不還を成ず。復た色・無色界に行かざる有りて、すなわち此に住して能く般涅槃す。名づけて現般涅槃。前の六を并せて七と為す。色界に行く五の不還の中に於いて、復た異門有りて其の差別を顕す。頌に曰く、

行色界有九,謂三各分三,

色界に行くは九有り。いわゆる三は各々三に分かつ。

業惑根有殊,故成三九別。

業・惑・根に殊有るがゆえに、三九の別を成す。

論曰:即行色界五種不還總立為三,各分三種故成九種。何等為三?中生上流有差別故。云何三種各分為三?且中般涅槃分為三種,速、非速、經久得般涅槃,由三火星喻所顯故。生般涅槃亦分三種,生有行等般涅槃故。此皆生已得般涅槃,是故並應名為生般。於上流中亦分三種,超、半超等有差別故。然諸三種一切皆由速、非速、經久得般涅槃故,更互相望無雜亂失。如是三種九種不還,由業惑根有差別故,有速、非速、經久不同,且總成三,由造增長順起生後業差別故。如其次第下中上品煩惱現行有差別故,及上中下根差別故,此三一一如其所應。亦業惑根有差別故,各有三別故成九種。謂初二三由惑根別各成三種,非由業異;後三亦由順後受業有差別故分成三種,故說如是行色不還業惑根殊成三九別。若爾,何故諸契經中,佛唯說有七善士趣?頌曰:

論に曰く:すなわち色界に行く五種の不還は総じて立てて三と為し、各々三種に分かつがゆえに九種を成ず。何等をか三と為すか。中・生・上流に差別有るがゆえに。如何にして三種は各々三に分かれるか。且つ中般涅槃は三種に分かれて、速・非速・経久して般涅槃を得。三の火星の喻の顕す所に由るがゆえに。生般涅槃もまた三種に分かれて、生・有行等の般涅槃有るがゆえに。此れ皆生じ已りて般涅槃を得。此のゆえに并せて応に名づけて生般。上流の中にもまた三種に分かれて、超・半超等の差別有るがゆえに。しかし諸の三種は一切皆速・非速・経久して般涅槃を得るに由るがゆえに、更互に相望みて雑乱の失無し。此のようの三種・九種の不還は、業・惑・根に差別有るに由るがゆえに、速・非速・経久の不同有り。且つ総じて三を成ず。造増長の順起・生・後の業の差別有るに由るがゆえに。次第のごとく下・中・上品の煩悩の現行に差別有るがゆえ、および上・中・下根の差別有るがゆえに、此の三は一一に其の応ずる所のごとし。もまた業・惑・根に差別有るがゆえに、各々三の別有りて九種を成ず。いわゆる初・二・三は惑・根の別に由って各々三種を成し、業の異に由るに非ず。後の三もまた順後受の業に差別有るに由って分かれて三種を成ず。ゆえに此のようの色に行く不還は業・惑・根の殊にして三九の別を成すと説く。もしそうならば、何の故にか諸の契経の中に、仏はただ七善士趣有りと説きたまうか。頌に曰く、

立七善士趣,由上流無別,

七善士趣を立つるは、上流に別無きに由る。

善惡行不行,有往無還故。

善・悪の行の行・不行、往きて還らざる有るがゆえに。

論曰:中、生各三,上流為一,經依此立七善士趣。有上流法故名上流,由此義同且立為一。何獨依此立善士趣,不依所餘有學聖者?趣是行義,所餘有學皆行善業無差別故。唯此七種皆行善業不行惡業,餘則不然。又唯七種行往上界不復還來,餘則不爾。故獨依此立善士趣。若爾,何故契經中言:云何善士?謂若成就有學正見,乃至廣說。諸餘有學若就異門,亦可說為有善士性,以諸有學於五種惡皆獲得畢竟不作律儀故,不善煩惱多已斷故。立善士趣不就異門,約唯行善不行惡故,唯託勝因往上界故。諸在聖位曾經生者,亦有此等差別相耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:中・生は各々三、上流は一と為す。経は此に依って七善士趣を立つ。上流の法有るがゆえに上流と名づく。此の義は同じくして且つ立てて一と為す。何ぞ独り此に依って善士趣を立てて、其余の有学の聖者に依らざるか。趣は是れ行の義。其余の有学は皆善の業を行じて差別無きがゆえに。ただ此の七種は皆善の業を行じて悪の業を行ぜず。其余は則ち此のようにはあらず。またただ七種は行きて上界に往きて復た還り来たらず。其余は則ち此のようにはあらず。ゆえに独り此に依って善士趣を立つ。もしそうならば、何の故にか契経の中に説く、如何にして善士か、いわゆるもし有学の正見を成就せば、乃至広く説く、と。諸の其余の有学もし異門に就かば、もまた説いて有善士の性と為すべし。諸の有学は五種の悪に於いて皆畢竟の不作の律儀を獲得するを以て、不善の煩悩は多く已に断ぜるがゆえに。善士趣を立つるは異門に就かず。ただ善を行じて悪を行ぜざるに約するがゆえ、ただ勝因に托して上界に往くがゆえに。諸の聖位に在りて曾て生を経たるは、もまた此の等の差別の相有るか。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

經欲界生聖,不往餘界生,

欲界の生を経たる聖は、其余の界の生に往かず。

此及往上生,無練根並退。

此れおよび上の生に往くは、練根ならびに退無し。

論曰:若在聖位經欲界生,必不往生色無色界,由彼證得不還果已,定於現身般涅槃故。若於色界經生聖者,容有上生無色界義,如行色界極有頂者。然天帝釋作如是言:曾聞有天名色究竟,我後退落當生於彼。毘婆沙師作如是釋:彼由不了對法相故、為令喜故,佛亦不遮。即此已經欲界生者及已從此往上界生諸聖,必無練根並退。何緣不許經欲界生及上生聖者有練根並退?以必無故。何緣必無?經生習根極成熟故,及得殊勝所依止故。何緣有學未離欲貪無中有中般涅槃者?以彼聖道未淳熟故、未易能令現在前故、所有隨眠非極劣故。毘婆沙者作如是釋:諸欲界法極難越故、彼尚有餘多所作故,謂應進斷不善無記二煩惱故,及應進得若二若三沙門果故,並應總越三界法故,住中有位無如是能。前說上流雜修靜慮為因能往色究竟天,先應雜修何等靜慮?由何等位知雜修成?復為何緣雜修靜慮?頌曰:

論に曰く:もし聖位に在りて欲界の生を経れば、必ず色・無色界に往生せず。彼は不還果を証得し已りて、定めて現の身に般涅槃するに由るがゆえに。もし色界に於いて生を経たる聖者は、容そ上生して無色界の義有り。色界に行きて極めて有頂なるがごとし。しかし天帝釈は此の説を作して曰く、曾て聞く天有りて名づけて色究竟、我は後に退落して当に彼に生ずべしと。毘婆沙師は此の釋を作す:彼は対法の相を了せざるに由り、喜ばしめんが為。仏もまた遮らず。すなわち此の已に欲界の生を経たるおよび已に此より上界の生に往きたる諸の聖は、必ず練根ならびに退無し。何の縁にか欲界の生を経たるおよび上生の聖者に練根ならびに退有るを許さざるか。必ず無きを以て。何の縁にか必ず無きか。生を経て根を習するに極めて成熟せるがゆえ、および殊勝の依止する所を得るがゆえに。何の縁にか有学の未だ欲貪を離れざるは中有の中般涅槃の無きか。彼の聖道は未だ淳熟せざるを以て、未だ易くして能く現前せしめざるを以て、所有の随眠は極劣に非ざるを以て。毘婆沙者は此の釋を作す:諸の欲界の法は極めて越え難きがゆえ、彼はなお其余の多くの作す所有り。いわゆる応に進みて不善・無記の二煩悩を断ずべきがゆえ、および応に進みて若しくは二若しくは三の沙門果を得べきがゆえ、并びに応に総じて三界の法を越ゆべきがゆえに、中有の位に住して此のようの能無し。前に上流は雑修の静慮を因と為して能く色究竟天に往くを説けり。先ず応に何等の静慮を雑修すべきか。何等の位に由って雑修の成ずるを知るか。復た何の縁の為にか雑修の静慮を為すか。頌に曰く、

先雜修第四,成由一念雜,

先ず第四を雑修す。成ずるは一念の雑に由る。

為受生現樂,及遮煩惱退。

生を受け現に楽う為、および煩悩の退を遮る為。

論曰:諸欲雜修四靜慮者,必先雜修第四靜慮,以彼等持最堪能故、諸樂行中彼最勝故。如是雜修諸靜慮者,是阿羅漢或是不還,彼必先入第四靜慮,多念無漏相續現前,從此引生多念有漏,後復多念無漏現前,如是旋還後後漸減,乃至最後二念無漏,次引二念有漏現前,無間復生二念無漏,名雜修定加行成滿。次後唯從一念無漏引起一念有漏現前,無間復生一念無漏,如是有漏中間剎那前後剎那無漏雜故,名雜修定根本圓成。前二剎那似無間道,第三剎那似解脫道。如是雜修第四定已,乘此勢力隨其所應,亦能雜修下三靜慮。先於欲界人趣三洲如是雜修諸靜慮已,後若退失生色界中,亦能如前雜修靜慮。雜修靜慮為三種緣:一為受生、二為現樂、三為遮止起煩惱退。謂不還中諸利根者,為現法樂及生淨居。諸鈍根者亦為遮退,彼畏退故。如是雜修令味相應等持遠故。諸阿羅漢,若利根者為現法樂,若鈍根者亦為遮防起煩惱退,雜修靜慮為生淨居。何緣淨居處唯有五?頌曰:

論に曰く:諸の四静慮を雑修せんと欲するは、必ず先ず第四静慮を雑修す。彼の等持は最も堪能有るを以て、諸の楽行の中に彼は最勝なるを以て。此のようの諸の静慮を雑修するは、是れ阿羅漢或いは是れ不還。彼は必ず先ず第四静慮に入りて、多念の無漏の相続して現前し、此より多念の有漏を引き生じ、後に復た多念の無漏を現前せしめ、此のようの旋還して後後に漸減し、乃至最後の二念の無漏に至りて、次に二念の有漏を引きて現前せしめ、無間に復た二念の無漏を生ず。名づけて雑修定の加行の成満。次の後にただ一念の無漏より一念の有漏を引き起して現前せしめ、無間に復た一念の無漏を生ず。此のようの有漏の中間の刹那に前後の刹那は無漏雑なるがゆえに、名づけて雑修定の根本の円成。前の二刹那は無間道に似て、第三の刹那は解脱道に似たり。此のようの第四定を雑修し已りて、此の勢力に乗じて其の応ずる所に随って、もまた能く下の三静慮を雑修す。先に欲界の人趣の三洲に於いて此のようの諸の静慮を雑修し已りて、後にもし退失して色界の中に生ずるも、もまた能く前のごとく静慮を雑修す。静慮を雑修するは三種の縁と為す。一は為に生を受けんと、二は為に現に楽わんと、三は為に煩悩の退を起すを遮止せんと。いわゆる不還の中の諸の利根なるは、為に現法の楽および浄居に生ぜんと。諸の鈍根なるもまた為に退を遮らんと。彼は退を畏れるがゆえに。此のようの雑修は味相応の等持をして遠からしむるがゆえに。諸の阿羅漢は、もし利根なるは為に現法の楽、もし鈍根なるもまた為に煩悩の退を起すを遮防せんとして、静慮を雑修して浄居に生ずるを為す。何の縁にか浄居の処はただ五有るか。頌に曰く、

由雜修五品,生有五淨居。

雑修の五品に由って、生じて五浄居有り。

論曰:由雜燻修第四靜慮有五品故,淨居唯五。何謂五品?謂下、中、上、上勝、上極品差別故。此中初品,三心現前便得成滿,謂初無漏,次起有漏,後起無漏。第二品六,第三品九,第四品十二,第五品十五。如是五品雜修靜慮,如其次第感五淨居。應知此中無漏勢力燻修有漏令感淨居。有餘師言:由信等五次第增上感五淨居。經說不還有名身證。依何勝德立身證名?頌曰:

論に曰く:第四静慮を雑熏修するに五品有るに由るがゆえに、浄居はただ五。何谓をか五品とするか。いわゆる下・中・上・上勝・上極の品の差別あるがゆえに。此の中の初品は、三心現前して便ち成満を得。いわゆる初は無漏、次に有漏を起し、後に無漏を起す。第二品は六、第三品は九、第四品は十二、第五品は十五。此のようの五品の雑修の静慮は、次第のごとく五浄居を感ず。応に知るべし此の中は無漏の勢力が有漏を熏修して浄居を感ぜしむ。其余の師有りて説く:信等の五の次第に増上するに由って五浄居を感ず。経に不還有りて名づけて身証と説く。何の勝徳に依って身証の名を立つるか。頌に曰く、

得滅定不還,轉名為身證。

滅定を得たる不還は、転じて名づけて身証。

論曰:有滅定得名得滅定,即不還者若於身中有滅定得轉名身證。謂不還者由身證得似涅槃法故名身證。如何說彼但名身證?以心無故、依身生故。理實應言,彼從滅定起,得先未得,有識身寂靜,便作是思:此滅盡定最為寂靜、極似涅槃。如是證得身之寂靜,故名身證。由得及智現前證得身寂靜故,契經說有十八有學。何緣於中不說身證?依因無故。何謂依因?謂諸無漏三學及果,依彼差別立有學故。滅定非學亦非學果,故不約成彼說有學差別。不還差別麁相如是,若細分析數成多千。其義云何?且如中般約根建立便成三種,下中上根有差別故。約地建立則成四種,往初定等有差別故。約種性建立則成六種,退法種性等有差別故。約處建立成十六種,梵眾天等處差別故。約地離染成三十六,色界具縛乃至已離第四靜慮八品染故。約處、種性、離染、根建立總成二千五百九十二。云何如是?且於一處種性有六,一一種性約離染門差別成九,謂隨何地具縛為初乃至已離八品為後,如是六九成五十四,以十六處乘五十四成八百六十四,以根乘之復成三倍故總成二千五百九十二。諸離下地九品染者,即說名為上地具縛,為成一一地離染數等故。如是乃至上流亦爾。總計五種,積數合成一萬二千九百六十。已辯第三向果差別,次應建立第四向果。頌曰:

論に曰く:滅定の得有りて名づけて滅定を得。すなわち不還なるはもし身の中に於いて滅定の得有れば転じて名づけて身証。いわゆる不還なるは身に由って涅槃に似たる法を証得するがゆえに名づけて身証。如何にして彼を説いて但だ身証と名づくるか。心無きを以て、身に依って生ずるを以て。理実は応に説くべし。彼は滅定より起りて、先に未だ得ざりしを得、識有る身の寂静を、便ち此の思を作す:此の滅尽定は最も寂静にして極めて涅槃に似たり。此のようの身の寂静を証得す。ゆえに名づけて身証。得および智の現前して身の寂静を証得するに由るがゆえに、契経に十八の有学有りと説く。何の縁にか中に於いて身証を説かざるか。依因無きに由るがゆえに。何谓をか依因とするか。いわゆる諸の無漏の三学および果、彼の差別に依って有学を立つるがゆえに。滅定は学に非ずもまた学の果に非ず。ゆえに彼を成ずるに約して有学の差別を説かず。不還の差別の麁相は此のよう。もし細かに分析せば数は多千を成す。其の義は如何。且つ中般のごときは根に約して建立すれば便ち三種を成す。下・中・上根の差別有るがゆえに。地に約して建立すれば則ち四種を成す。初定等に往くの差別有るがゆえに。種性に約して建立すれば則ち六種を成す。退法の種性等の差別有るがゆえに。処に約して建立すれば十六種を成す。梵衆天等の処の差別有るがゆえに。地の離染に約すれば三十六を成す。色界の具縛より乃至已に第四静慮の八品の染を離るるがゆえに。処・種性・離染・根に約して建立すれば総じて二千五百九十二を成す。如何にして此のようか。且つ一処に於いて種性に六有り。一一の種性は離染の門に約して差別して九を成す。いわゆる何の地にか随いて具縛を初と為し乃至已に八品を離るるを後と為す。此のようの六九は五十四を成し、十六処を以て五十四に乗じて八百六十四を成し、根を以て之に乗ずれば復た三倍を成すがゆえに総じて二千五百九十二を成す。諸の下地の九品の染を離れたるは、すなわち説いて名づけて上地の具縛。一一の地の離染の数を等しゅう成さんが為。此のようの乃至上流もまた此のよう。総じて五種を計りて、数を積み合して一万二千九百六十を成す。已に第三の向果の差別を辯したり。次に応に第四の向果を建立すべし。頌に曰く、

上界修惑中,斷初定一品,

上界の修惑の中、初定の一品を断ずるより、

至有頂八品,皆阿羅漢向。

有頂の八品に至るまで、皆阿羅漢向。

第九無間道,名金剛喻定,

第九の無間道を、名づけて金剛喩定。

盡得俱盡智,成無學應果。

尽得と俱なる尽智、無学の応果を成ず。

論曰:即不還者進斷色界及無色界修所斷惑,從斷初定一品為初,至斷有頂八品為後,應知轉名阿羅漢向。即此所說阿羅漢向中,斷有頂惑第九無間道亦說名為金剛喻定,一切隨眠皆能破故、先已破故。不破一切實有,能破一切功能。諸能斷惑無間道中,此定相應最為勝故。金剛喻定說有多種,謂斷有頂第九品惑無間道生,通依九地故說此定智行緣別,未至地攝有五十二,謂苦集類智緣有頂苦集各有四行相應有八,滅道法智各有四行相應有八,滅類智緣八地滅一一各有四行相應合三十二,道類智緣八地道總有四行相應有四,以治八地類智品道同類相因必總緣故。如未至攝有五十二,中四靜慮應知亦爾。空處二十八,識處二十四,無所有處二十,以依無色無有法智及緣下滅滅類智故。然緣下地對治道者,以同品道互為因故。有說:此定智行緣別。未至地攝有八十種,謂道類智緣八地道亦各別有四行相應,由此於前增二十八。如未至攝有八十種,中四靜慮應知亦爾。空處四十,識處三十二,無所有處二十四。復有欲令金剛喻定智行緣別,未至地攝總有一百六十四種,謂滅類智緣八地滅有別有總各四行相應,由此於初增百一十二。如未至攝百六十四,中四靜慮應知亦然。空處五十二,識處三十六,無所有處二十四。若就種性根等分別,更成多種,如理應思。此定既能斷有頂地第九品惑,能引此惑盡得俱行盡智令起。金剛喻定是斷惑中最後無間道所生,盡智是斷惑中最後解脫道,由此解脫道與諸漏盡得最初俱生故名盡智。如是盡智至已生時便成無學阿羅漢果,已得無學應果法故。為得別果所應修學,此無有故,得無學名。即此唯應作他事故、諸有染者所應供故,依此義立阿羅漢名。義準已成。前來所辯四向三果皆名有學,何緣前七得有學名?為得漏盡,常樂學故。學要有三:一增上戒、二增上心、三增上慧。

論に曰く:すなわち不還なるの進みて色界および無色界の修所断の惑を断ずるは、初定の一品を断ずるを初と為し、有頂の八品を断ずるを後と為すに至る。応に知るべし転じて名づけて阿羅漢向。すなわち此の説く所の阿羅漢向の中、有頂の惑を断ずる第九の無間道もまた説いて名づけて金剛喩定。一切の随眠は皆能く破るがゆえ、先に已に破れるがゆえに。一切の実有を破らずして、能く一切の功能を破る。諸の能く惑を断ずる無間道の中に、此の定の相応するは最も勝れるがゆえに。金剛喩定は説いて多種有り。いわゆる有頂の第九品の惑を断ずる無間道の生ずるは、通じて九地に依るがゆえに此の定の智・行・縁の別を説く。未至地の摂に五十二有り。いわゆる苦・集の類智は有頂の苦・集に縁じて各々四行の相応有りて八有り、滅・道の法智は各々四行の相応有りて八有り、滅の類智は八地の滅に縁じて一一に各々四行の相応有りて合して三十二、道の類智は八地の道に縁じて総じて四行の相応有りて四有り。八地を治する類智品の道は同類に相因すれば必ず総縁するを以て。未至の摂に五十二有るがごとく、中の四静慮は応に知るべしもまた此のよう。空処は二十八、識処は二十四、無所有処は二十。無色に依って法智および下の滅に縁ずる滅類智無きを以て。しかし下の地の対治の道に縁ずるは、同品の道は互いに因と為るを以て。ある説に、此の定は智・行・縁に別有り。未至地の摂に八十種有り。いわゆる道類智は八地の道に縁じてもまた各別に四行の相応有り。此に由って前に於いて二十八を増す。未至の摂に八十種有るがごとく、中の四静慮は応に知るべしもまた此のよう。空処は四十、識処は三十二、無所有処は二十四。復た金剛喩定をして智・行・縁に別あらしめんと欲する有りて、未至地の摂に総じて百六十四種有り。いわゆる滅類智は八地の滅に縁じて別有り総有りて各々四行の相応有り。此に由って初に於いて百十二を増す。未至の摂の百六十四のごとく、中の四静慮は応に知るべしもまた此のよう。空処は五十二、識処は三十六、無所有処は二十四。もし種性・根等に就いて分別せば、更に多種を成す。理のごとく応に思うべし。此の定はすでに能く有頂地の第九品の惑を断ずれば、能く此の惑の尽得と俱行の尽智を引きて起さしむ。金剛喩定は是れ惑を断ずる中の最後の無間道の生ずる所。尽智は是れ惑を断ずる中の最後の解脱道。此の解脱道は諸の漏尽の得と最初に俱に生ずるに由るがゆえに名づけて尽智。此のようの尽智は已生の時に至れば便ち無学の阿羅漢果を成ず。已に無学の応果の法を得たるがゆえに。別果を得んが為の学ぶべき所は、此れ無きがゆえに、無学の名を得。すなわち此れはただ応に他の事を作すべきがゆえ、諸の染有るの供養すべき所なるがゆえに、此の義に依って阿羅漢の名を立つ。義は准じて已に成ず。前来の辯ぜし所の四向・三果は皆名づけて有学。何の縁にか前の七は有学の名を得るか。為に漏尽を得んとして、常に学を楽うがゆえに。学の要は三有り。一は増上戒、二は増上心、三は増上慧。

以戒定慧為三自體。若爾,異生應名有學。不爾,未如實見知諦理故、彼容後時失正學故,由此善逝再說學言。如契經中佛告憺怕:學所應學、學所應學,我唯說此名有學者。為令了知學正所學無有退失名有學者故,薄伽梵重說學言。聖者住本性,如何名有學?學意未滿故。如行者暫息,或學法得常隨逐故。學法雲何?謂有學者無漏有為法。無學法雲何?謂無學者無漏有為法。云何涅槃不名為學?無學異生亦成就故。此復何緣不名無學?有學異生亦成就故。如是有學及無學者,總成八聖補特伽羅,行向住果各有四故。謂為證得預流果向乃至所證阿羅漢果,名雖有八事唯有五,謂住四果及初果向,以後三果向不離前果故。此依漸次得果者說。若倍離欲、全離欲者住見道中,名為一來、不還果向,非前果攝,如前所說修道二種,有漏、無漏有差別故。由何等道離何地染?頌曰:

(論は続けて曰く:)戒・定・慧を以て三の自体と為す。もしそうならば、異生は応に有学と名づくべし。そうにはあらず。未だ如実に諦理を見知せざるがゆえ、彼は容そ後時に正学を失うがゆえに。此に由って善逝は学の言を重ねて説く。契経の中のごとく仏は憺怕(比丘の名)に告げたまう:学の学ぶべき所、学の学ぶべき所、我はただ此れを説いて名づけて有学と為す、と。学の正しく学ぶ所の退失無きを名づけて有学と為すを了知せしめんが為に、薄伽梵は学の言を重ねて説きたまえり。聖者は本性に住す。如何にして名づけて有学か。学の意の未だ満たざるがゆえに。行くの暫く息むがごとし。或いは学の法の得は常に随逐するがゆえに。学の法は如何。いわゆる有学の無漏の有為法。無学の法は如何。いわゆる無学の無漏の有為法。如何にして涅槃は名づけて学と為さざるか。無学・異生もまた成就するがゆえに。此れは復た何の縁にか名づけて無学と為さざるか。有学・異生もまた成就するがゆえに。此のようの有学および無学なるは、総じて八聖の補特伽羅を成す。向に行き果に住するに各々四有るがゆえに。いわゆる為に預流果の向乃至証する所の阿羅漢果を証得せんとす。名は八有りと雖も事はただ五有り。いわゆる四果に住するおよび初果の向。後の三果の向は前の果を離れざるがゆえに。此れは漸次に果を得るに依って説く。もし倍離欲・全離欲なるの見道の中に住するは、名づけて一来・不還果の向。前の果の摂に非ず。前の説く所の修道の二種のごとく、有漏・無漏に差別有るがゆえに。何等の道に由ってか何の地の染を離るるか。頌に曰く、

有頂由無漏,餘由二離染。

有頂は無漏に由り、其余は二に由って染を離る。

論曰:唯無漏道離有頂染,非有漏道。所以者何?此上更無世俗道故、自地不能治自地故、自地煩惱所隨增故。若彼煩惱於此隨增,此必不能治彼煩惱。若此力能對治於彼,則彼於此必不隨增,故自地道不治自地。離餘八地通由二道,世出世道俱能離故。既通由二離八地染,各有幾種離繫得耶?頌曰:

論に曰く:ただ無漏道は有頂の染を離る。有漏道に非ず。所以は何ぞや。此の上に更に世俗道無きがゆえ、自地は能く自地を治せざるがゆえ、自地の煩悩の随増する所なるがゆえに。もし彼の煩悩は此に於いて随増せば、此れは必ず能く彼の煩悩を治せず。もし此の力は能く彼に対治せば、則ち彼は此に於いて必ず随増せず。ゆえに自地の道は自地を治せず。其余の八地を離るるは通じて二道に由る。世・出世の道は俱に能く離るるがゆえに。すでに通じて二に由って八地の染を離るれば、各々幾種の離系の得有るか。頌に曰く、

聖二離八修,各二離繫得。

聖は二に由り八を修して離れ、各々二の離系の得。

論曰:諸有學聖用有漏道離下八地修斷染時,能具引生二離繫得。用無漏道離彼亦然,由二種道同所作故。有餘師釋:以無漏道離彼染時,何緣證知亦生有漏離繫得者,有捨無漏得,煩惱不成故。謂有學聖以無漏道離彼染時,若不引生同治有漏離繫得者,則以聖道具離八地,後依靜慮得轉根時,頓捨先來諸鈍聖道,唯得靜慮利果聖道,上惑離繫應皆不成,是則還應成彼煩惱。此證非理。所以者何?彼聖設無有漏斷得,亦不成就上地煩惱。如分離有頂得轉根時及異生上生不成惑故。謂如分離有頂地染,後依靜慮得轉根時,無漏斷得既已頓捨,彼地離繫無有漏得,而彼地惑亦不成就。又如異生生二定等,雖捨欲界等煩惱斷得,而不成就欲界等煩惱,此亦應然。故不成證。既說聖者二離八修各能引生二離繫得,義準異生用有漏道唯能引起有漏斷得,並諸聖者用無漏道離見斷惑及有頂修唯能引生無漏斷得。由何地道離何地染?頌曰:

論に曰く:諸の有学の聖は有漏道を用いて下の八地の修断の染を離るる時、能く具に二の離系の得を引き生ず。無漏道を用いて彼を離るるもまた此のよう。二種の道の作す所を同じくするに由るがゆえに。其余の師有りて釋す:無漏道を以て彼の染を離るる時、何の縁にかもまた有漏の離系の得を生ずるを証知するか。無漏の得を捨つる有りて、煩悩は成ぜざるがゆえに。いわゆる有学の聖は無漏道を以て彼の染を離るる時、もし同治の有漏の離系の得を引き生ぜざれば、則ち聖道を以て具に八地を離れ、後に静慮に依って転根を得る時に、頓じて先来の諸の鈍の聖道を捨て、ただ静慮の利果の聖道を得れば、上の惑の離系は応に皆成ぜざるべし。是れ則ち還た応に彼の煩悩を成ずべし。此の証は理に非ず。所以は何ぞや。彼の聖は設い有漏の断得無くとも、もまた上地の煩悩を成就せず。有頂を分離して転根を得る時および異生の上生は惑を成ぜざるがごときがゆえに。いわゆる有頂地の染を分離するがごとく、後に静慮に依って転根を得る時に、無漏の断得はすでに頓じて捨てられ、彼の地の離系に有漏の得無くして、しかも彼の地の惑もまた成就せず。また異生の二定等に生ずるがごとく、欲界等の煩悩の断得を捨つると雖も、しかも欲界等の煩悩を成就せず。此れもまた応に此のようであるべし。ゆえに証を成ぜず。すでに聖者は二に由り八を修して離れ、各々能く二の離系の得を引き生ずと説けり。義は准じて異生は有漏道を用いてただ能く有漏の断得を引き起し、并びに諸の聖者は無漏道を用いて見断の惑および有頂の修を離るるはただ能く無漏の断得を引き生ず。何の地道に由ってか何の地の染を離るるか。頌に曰く、

無漏未至道,能離一切地,

無漏の未至道は、能く一切地を離る。

餘八離自上,有漏離次下。

其余の八は自・上を離れ、有漏は次下を離る。

論曰:諸無漏道若未至攝,能離欲界乃至有頂。靜慮中間及四靜慮三無色攝,隨其所應各能離自及上地染。不離下,已離故。諸有漏道一切唯能離次下地,非自地等,自地煩惱所隨增故、勢劣故、已離故。諸依近分離下地染。如無間道皆近分攝,諸解脫道亦近分耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:諸の無漏道はもし未至の摂なれば、能く欲界乃至有頂を離る。静慮の中間および四静慮・三無色の摂は、其の応ずる所に随って各々能く自および上地の染を離る。下を離れず。已に離れたるがゆえに。諸の有漏道は一切ただ能く次下の地を離る。自地等に非ず。自地の煩悩の随増する所なるがゆえ、勢劣れるがゆえ、已に離れたるがゆえに。諸の近分に依って下地の染を離る。無間道のごとく皆近分の摂なれば、諸の解脱道もまた近分か。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

近分離下染,初三後解脫,

近分は下の染を離れ、初三の後の解脱は、

根本或近分,上地唯根本。

根本或いは近分、上地はただ根本。

論曰:諸道所依近分有八,謂四靜慮、無色下邊。所離有九,謂欲、八定。初三近分離下三染,第九解脫現在前時,或入根本或即近分。上五近分各離下染,第九解脫現在前時,必入根本非即近分,近分根本等捨根故、下三靜慮近分根本受根異故。有不能入,轉入異受少艱難故、離下染時必欣上故。若受無異,必入根本。諸出世道無間解脫前既已說,緣四諦境十六行相義準自成。世道緣何作何行相?頌曰:

論に曰く:諸の道の依る所の近分に八有り。いわゆる四静慮・無色の下辺。離るる所に九有り。いわゆる欲・八定。初の三の近分は下の三染を離れ、第九の解脱の現前する時、或いは根本に入り或いは即ち近分。上の五の近分は各々下の染を離れ、第九の解脱の現前する時、必ず根本に入りて即ち近分に非ず。近分・根本は等しく捨根なるがゆえ、下の三静慮は近分・根本の受根の異なるがゆえに。入ること能わざる有りて、転じて異受に入ること少々艱難なるがゆえ、下の染を離るる時に必ず上を欣うがゆえに。もし受に異無ければ、必ず根本に入る。諸の出世道の無間・解脱は前にすでに説けり。四諦の境に縁ずる十六の行相は義は准じて自ずから成ず。世道は何に縁じて何の行相を作すか。頌に曰く、

世無間解脫,如次緣下上,

世の無間・解脱は、次第のごとく下・上に縁じて、

作麁苦障行,及靜妙離三。

麁・苦・障の行を作し、および静・妙・離の三。

論曰:世俗無間及解脫道,如次能緣下地上地,為麁苦障及靜妙離。謂諸無間道緣自次下地諸有漏法,作麁苦等三行相中隨一行相。若諸解脫道緣彼次上地諸有漏法,作靜妙等三行相中隨一行相。非寂靜故說名為麁,由大劬勞方能越故、非美妙故。說名為苦,由多麁重能違害故、非出離故。說名為障,由此能礙越自地故,如獄厚壁能障出離。靜妙離三翻此應釋。傍論已了,應辯本義。盡智無間有何智生?頌曰:

論に曰く:世俗の無間および解脱の道は、次第のごとく能く下地・上地に縁じて、麁・苦・障および静・妙・離と為す。いわゆる諸の無間道は自の次下の地の諸の有漏法に縁じて、麁・苦等の三行相の中に一の行相に随って作す。もし諸の解脱道は彼の次上の地の諸の有漏法に縁じて、静・妙等の三行相の中に一の行相に随って作す。寂静に非ざるがゆえに説いて名づけて麁。大いなる劬労に由って方に能く越ゆるがゆえ、美妙に非ざるがゆえに。名づけて苦と説く。多くの麁重に由って能く違害するがゆえ、出离に非ざるがゆえに。名づけて障と説く。此に由って能く自地を越ゆるを碍ぐがゆえに。獄の厚き壁の能く出离を障するがごとし。静・妙・離の三は此を翻して応に釋すべし。傍論已に了わり。応に本義を辯ずべし。尽智の無間に何の智の生ずる有るか。頌に曰く、

不動盡智後,必起無生智,

不動の尽智の後に、必ず無生智を起し、

餘盡或正見,此應果皆有。

其余は尽或いは正見。此れは応果は皆有り。

論曰:不動種性諸阿羅漢,盡智無間起無生智,非更有盡智無學正見生。除不動法餘阿羅漢,盡智無間有盡智生,或即引生無學正見非無生智,後容退故。前不動種性無正見生耶?有正見生,而不說者,一切應果皆有此故。謂不動法無生智後有無生智起,或無學正見。前說四果是誰果耶?此四應知是沙門果。何謂沙門性?此果體是何?果位差別總有幾種?頌曰:

論に曰く:不動の種性の諸の阿羅漢は、尽智の無間に無生智を起す。更に尽智・無学の正見の生ずる有るに非ず。不動法を除く其余の阿羅漢は、尽智の無間に尽智の生ずる有り、或いは即ち無学の正見を引き生じて無生智に非ず。後に退するを容るるがゆえに。前の不動の種性は正見の生ずる無きか。正見の生ずる有りて、而も説かざるは、一切の応果は皆此れ有るがゆえに。いわゆる不動法は無生智の後に無生智の起る有り、或いは無学の正見。前に説ける四果は是れ誰の果か。此の四は応に知るべし是れ沙門果。何谓をか沙門性とするか。此の果の体は是れ何ぞ。果位の差別は総じて幾種有るか。頌に曰く、

淨道沙門性,有為無為果,

浄道は沙門性。有為・無為の果は、

此有八十九,解脫道及滅。

此れ八十九有り。解脱道および滅。

論曰:諸無漏道是沙門性,懷此道者名曰沙門,以能勤勞息煩惱故。如契經說:以能勤勞息除種種惡不善法,廣說乃至故名沙門。異生不能無異究竟趣涅槃故,非真沙門。有為無為是沙門果。契經說此差別有四,理實就位有八十九,皆解脫道擇滅為性。謂為永斷見所斷惑有八無間八解脫道,及為永斷修所斷惑有八十一無間八十一解脫道。諸無間道唯沙門性,諸解脫道亦是沙門有為果體,是彼等流、士用果故。一一擇滅唯是沙門無為果體,是彼離繫、士用果故。如是合成八十九種。若爾,世尊何不具說?果雖有多而不說者,頌曰:

論に曰く:諸の無漏道は是れ沙門性。此の道を懐くを名づけて沙門。能く勤労して煩悩を息めるを以て。契経に説くがごとく:能く勤労して種種の悪不善法を息除するを以て、広く説き乃至ゆえに名づけて沙門。異生は能く異究竟に涅槃に趣くこと無きがゆえに、真の沙門に非ず。有為・無為は是れ沙門果。契経は此の差別に四有りと説く。理実は位に就いて八十九有り。皆解脱道・択滅を以て性と為す。いわゆる為に見所断の惑を永断せんとするに八無間・八解脱道有り、および為に修所断の惑を永断せんとするに八十一無間・八十一解脱道有り。諸の無間道はただ沙門性。諸の解脱道もまた是れ沙門の有為の果体。是れ彼の等流・士用の果なるがゆえに。一一の択滅はただ是れ沙門の無為の果体。是れ彼の離系・士用の果なるがゆえに。此のようの合して八十九種を成ず。もしそうならば、世尊は何ぞ具に説かざるか。果は多しと雖も而も説かざるは、頌に曰く、

五因立四果,捨曾得勝道,

五因に依って四果を立つ。曾ての道・勝道を捨て、

集斷得八智,頓修十六行。

集めて断得・八智を得、頓じて十六行を修す。

論曰:若斷道位具足五因,佛於經中建立為果。言五因者,一捨曾道,謂捨先得果向道故。二得勝道,謂得果攝殊勝道故。三總集斷,謂總一得得諸斷故。四得八智,謂得四法四類智故。五能頓修十六行相,謂能頓修無常等故。於四果位皆具五因,餘位不然,故佛不說。若唯淨道是沙門性,有漏道力所得二果,如何亦是沙門果攝?頌曰:

論に曰く:もし道を断ずる位に五因を具足せば、仏は経の中に於いて建立して果と為したまえり。五因と言うは、一は曾道を捨つ。いわゆる先に得たる果向の道を捨つるがゆえに。二は勝道を得。いわゆる果の摂する殊勝の道を得るがゆえに。三は総じて集断。いわゆる総じて一得にて諸の断を得るがゆえに。四は八智を得。いわゆる四法・四類の智を得るがゆえに。五は能く頓じて十六行相を修す。いわゆる能く頓じて無常等を修するがゆえに。四果の位に於いて皆五因を具え、其余の位は此のようにはあらず。ゆえに仏は説かず。もしただ浄道のみ是れ沙門性ならば、有漏道の力の得る所の二果は、如何にしてもまた是れ沙門果の摂か。頌に曰く、

世道所得斷,聖所得雜故,

世道の得る所の断は、聖の得る所と雑なるがゆえ、

無漏得持故,亦名沙門果。

無漏の得の持するがゆえに、もまた名づけて沙門果。

論曰:以世俗道得二果時,此果非唯以世俗道所得擇滅為斷果性,兼以見道所得擇滅於中相雜總成一果,同一果道得所得故。由此契經言:云何一來果?謂斷三結薄貪瞋痴。云何不還果?謂斷五下結。又世俗道所得擇滅,無漏斷得所任持故,由此力所持退不命終故,亦得名為沙門果體。此沙門性有異名耶?亦有。云何?頌曰:

論に曰く:世俗道を以て二果を得る時、此の果はただ世俗道の得る所の択滅を以て断果の性と為すに非ず。兼ねて見道の得る所の択滅を以て中に於いて相雑して総じて一果を成ず。同一の果道の得の得る所なるがゆえに。此に由って契経に説く:何をか一来果とするか。いわゆる三結を断じて貪瞋痴を薄めたるを。何をか不還果とするか。いわゆる五下結を断ぜるを。また世俗道の得る所の択滅は、無漏の断得の任持する所なるがゆえに、此の力の持する所に由って退しても命終せざるがゆえに、もまた名づけて沙門果の体を得。此の沙門性に異名有るか。もまた有り。如何。頌に曰く、

所說沙門性,亦名婆羅門,

説く所の沙門性は、もまた名づけて婆羅門。

亦名為梵輪,真梵所轉故。

もまた名づけて梵輪。真梵の転ずる所なるがゆえに。

於中唯見道,說名為法輪,

中に於いてただ見道を、説いて名づけて法輪。

由速等似輪,或具輻等故。

速等の輪に似たるに由り、或いは輻等を具えるがゆえに。

論曰:即前所說真沙門性,經亦說名婆羅門性,以能遣除諸煩惱故。即此亦說名為梵輪,是真梵王力所轉故。佛與無上梵德相應,是故世尊獨應名梵。由契經說佛亦名梵、亦名寂靜、亦名清涼。即於此中唯依見道,世尊有處說名法輪。如世間輪有速等相,見道似彼故名法輪。見道如何與彼相似?由速行等似彼輪故。謂見諦道速疾行故、有捨取故、降未伏故、鎮已伏故、上下轉故,具此五相似世間輪。尊者妙音作如是說:如世間輪有輻等相,八支聖道似彼名輪。謂正見、正思惟、正勤、正念似世輪輻,正語、正業、正命似轂,正定似輞,故名法輪。寧知法輪唯是見道?憍陳那等見道生時,說名已轉正法輪故。云何三轉十二行相?此苦聖諦,此應遍知,此已遍知,是名三轉。即於如是一一轉時,別別發生眼智明覺,說此名曰十二行相。如是三轉十二行相諦諦皆有,然數等故但說三轉十二行相,如說二法七處善等。由此三轉如次顯示見道、修道、無學道三。毘婆沙師所說如是。若爾,三轉十二行相非唯見道,如何可說唯於見道立法輪名?是故唯應即此三轉十二行相所有法門名為法輪,可應正理。如何三轉?三週轉故。如何具足十二行相?三週循歷四聖諦故。謂此是苦、此是集、此是滅、此是道,此應遍知、此應永斷、此應作證、此應修習,此已遍知、此已永斷、此已作證、此已修習。云何名轉?由此法門往他相續令解義故。或諸聖道皆是法輪,於所化生身中轉故。於他相續見道生時,已至轉初故名已轉。何沙門果依何界得?頌曰:

論に曰く:すなわち前の説く所の真の沙門性は、経もまた説いて名づけて婆羅門性。能く諸の煩悩を遣除するを以て。すなわち此れもまた説いて名づけて梵輪。是れ真の梵王の力の転ずる所なるがゆえに。仏は無上の梵徳と相応す。此のゆえに世尊は独り応に名づけて梵と為す。契経の説くに由って仏もまた名づけて梵、もまた名づけて寂静、もまた名づけて清凉。すなわち此の中に於いてただ見道に依って、世尊は処有りて説いて名づけて法輪。世間の輪の速等の相有るがごとく、見道は彼に似たるがゆえに名づけて法輪。見道は如何にして彼と相似するか。速行等に由って彼の輪に似たるがゆえに。いわゆる諦を見る道は速疾に行ずるがゆえ、捨・取有るがゆえ、未伏を降すがゆえ、已伏を鎮むるがゆえ、上下に転ずるがゆえに、此の五相を具えて世間の輪に似たり。尊者妙音は此の説を作して曰く:世間の輪の輻等の相有るがごとく、八支の聖道は彼に似たり名づけて輪。いわゆる正見・正思惟・正勤・正念は世の輪の輻に似て、正語・正業・正命は轂に似て、正定は輞に似たり。ゆえに名づけて法輪。寧んぞ法輪はただ是れ見道を知らんや。憍陳那(五比丘の一)等の見道の生ずる時、説いて名づけて已に正法輪を転ぜりと為すがゆえに。如何にして三転・十二行相か。此れ苦聖諦、此れ応に遍知すべし、此れ已に遍知せり。是れを名づけて三転。すなわち此のようの一一の転ずる時に於いて、別別に眼・智・明・覚を発生す。此を説いて名づけて十二行相。此のようの三転・十二行相は諦々に皆有り。しかし数等しきがゆえに但だ三転・十二行相を説く。二法・七処善等を説くがごとし。此の三転に由って次第のごとく見道・修道・無学道の三を顕示す。毘婆沙師の説く所は此のよう。もしそうならば、三転・十二行相はただ見道に非ず。如何にして説くべきかただ見道に於いて法輪の名を立つと。此のゆえにただ応に即ち此の三転・十二行相の所有の法門を名づけて法輪と為すは、応に正理に該当すべし。如何にして三転か。三周の転ずるがゆえに。如何にして具足の十二行相か。三周に循歴して四聖諦を遍すがゆえに。いわゆる此れ是れ苦、此れ是れ集、此れ是れ滅、此れ是れ道。此れ応に遍知すべし、此れ応に永断すべし、此れ応に作証すべし、此れ応に修習すべし。此れ已に遍知せり、此れ已に永断せり、此れ已に作証せり、此れ已に修習せり。如何にして名づけて転か。此の法門に由って他の相続に往きて義を解せしむるがゆえに。或いは諸の聖道は皆是れ法輪。化する所の生身の中に於いて転ずるがゆえに。他の相続に於いて見道の生ずる時、已に転の初に至れるがゆえに名づけて已転。何の沙門果は何の界に依ってか得るか。頌に曰く、

三依欲後三,由上無見道,

三は欲に依り後の三は、上に見道無きに由る。

無聞無緣下,無厭及經故。

聞無く下に縁ぜず、厭および経無きがゆえに。

論曰:前三但依欲界身得,得阿羅漢依三界身。前之二果未離欲故,非依上得理且可然,第三云何非依上得?由理教故。且理云何?依上界身無見道故,非離見道已離欲者可有超證不還果義。何緣上界必無見道?且無色中無正聞故。又彼界中不緣下故,色界異生著勝定樂。又無苦受不生厭故,非無有厭能得見道。教復云何?由經說故。經言:有五補特伽羅,此處通達彼處究竟,所謂中般乃至上流。此通達言唯目見道,是證圓寂初加行故。由此見道上界定無。

論に曰く:前の三は但だ欲界の身に依って得。阿羅漢を得るは三界の身に依る。前の二果は未だ欲を離れざるがゆえに、上に依って得るに非ざるは理且つ此のようのべし。第三は如何にして上に依って得るに非ざるか。理・教に由るがゆえに。且つ理は如何。上界の身に依っては見道無きがゆえに。見道を離れて已に欲を離れたるの超証して不還果の義有るべきに非ず。何の縁にか上界は必ず見道無きか。且つ無色の中に正聞無きがゆえに。また彼の界の中に下に縁ぜざるがゆえに、色界の異生は勝定の楽に著す。また苦受無くして厭を生ぜざるがゆえに、厭有る無くして見道を得る能わず。教は復た如何。経の説く所に由るがゆえに。経に説く:五補特伽羅有りて、此の処に通達し彼の処に究竟す。いわゆる中般乃至上流。此の通達の言はただ見道を目す。是れ圆寂を証する初の加行なるがゆえに。此に由って見道は上界に定めて無し。

説一切有部倶舎論 巻第二十四

アビダルマ倶舎論 巻第二十五 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別賢聖品第六之四

分別賢聖品 第六之四

如前所說,不動應果初盡智後起無生智。諸阿羅漢如預流等有差別不?亦有。云何?頌曰:

前の説く所のごとく、不動の応果は初めて尽智の後に無生智を起す。諸の阿羅漢は預流等のごとく差別有るか否か。もまた有り。如何。頌に曰く、

阿羅漢有六,謂退至不動,

阿羅漢に六有り。いわゆる退より不動に至る。

前五信解生,總名時解脫,

前の五は信解より生じ、総じて名づけて時解脱。

後不時解脫,從前見至生。

後は不時解脱。前の見至より生ず。

論曰:於契經中說阿羅漢由種性異故有六種,一者退法、二者思法、三者護法、四安住法、五堪達法、六不動法。於此六中前之五種,從先學位信解性生,即此總名時愛心解脫,恆時愛護及心解脫故。亦說名為時解脫者,以要待時及解脫故。略初言故,如言酥瓶。由此待時方能入定,謂待資具無病處等勝緣合時方入定故。不動法性說名為後,即此名為不動心解脫,以無退動及心解脫故。亦說名為不時解脫,以不待時及解脫故。謂三摩地隨欲現前,不待勝緣和合時故。或依暫時、畢竟解脫,建立時解脫、不時解脫名,容有退墮時、無退墮時故,此從學位見至性生。如是所明六阿羅漢所有種性,為是先有、為後方得?不定。云何?頌曰:

論に曰く:契経の中に於いて阿羅漢は種性の異なるに由って六種有りと説く。一者は退法、二者は思法、三者は護法、四は安住法、五は堪達法、六は不動法。此の六の中に於いて前の五種は、先の学位の信解の性より生ず。すなわち此れを総じて名づけて時愛心解脱。恒時に愛護しおよび心の解脱するがゆえに。もまた説いて名づけて時解脱。要ずるに時を待ちおよび解脱するを以て。初の言を略するがゆえに。酥瓶と言うがごとし。此に由って時を待って方に能く定に入る。いわゆる資具・無病の処等の勝縁の合する時を待って方に定に入るがゆえに。不動の法性は説いて名づけて後。すなわち此れを名づけて不動心解脱。退動無くおよび心の解脱するを以て。もまた説いて名づけて不時解脱。時を待たずおよび解脱するを以て。いわゆる三摩地は欲に随って現前し、勝縁の和合の時を待たざるがゆえに。或いは暫時・畢竟の解脱に依って、時解脱・不時解脱の名を建立す。退堕の時有るを容れ、退堕の時無きがゆえに。此れは学位の見至の性より生ず。此のようの明かす所の六阿羅漢の所有の種性は、為に是れ先に有るか、為に後に方に得るか。定まらず。如何。頌に曰く、

有是先種性,有後練根得。

有るは是れ先の種性、有るは後に練根して得。

論曰:退法種性必是先有,思法等五亦有後得。謂有先來是思法性,有先退法性後練根成思,乃至不動隨應當說。言退法者,謂遇少緣便退所得,非思法等。言思法者,謂懼退失恆思自害。言護法者,謂於所得喜自防護。安住法者,離勝退緣雖不自防亦能不退,離勝加行亦不增進。堪達法者,彼性堪能好修練根速達不動。不動法者,彼必無退。此六種性,先學位中初二闕恆時及尊重加行,由根有異故有差別。第三唯有恆時加行,第四唯有尊重加行,第五具二而是鈍根,第六利根具二加行。退法種性非必定退,乃至堪達非必能達,但約容有建立此名,故六阿羅漢通三界皆有。若執退者必定應退,乃至堪達必能達者,彼執欲界具足有六,色無色界中唯安住、不動,彼無退失、自害、自防及修練根故唯有二。如是六種阿羅漢中,誰從何退?為性為果?頌曰:

論に曰く:退法の種性は必ず是れ先有り。思法等の五もまた後に得る有り。いわゆる先来は是れ思法の性有り、先の退法性にして後に練根して思を成ずる有り、乃至不動は其の応ずるに随って当に説くべし。退法と言うは、いわゆる少しきの縁に遇えば便ち得る所を退す。思法等に非ず。思法と言うは、いわゆる退失を惧れて恒に自害を思う。護法と言うは、いわゆる得る所に於いて自ら防護を喜ぶ。安住法とは、勝退の縁を離るると雖も自ら防がずとも能く退せず、勝加行を離るるもまた増進せず。堪達法とは、彼の性は堪能して好く根を修練して速やかに不動に達す。不動法とは、彼は必ず退無し。此の六種性は、先の学位の中に初二は恒時および尊重の加行を闕き、根に異有るに由って差別有る。第三はただ恒時の加行有り、第四はただ尊重の加行有り、第五は二を具えて而も是れ鈍根、第六は利根にして二加行を具す。退法の種性は必ず定めて退するに非ず。乃至堪達は必ず能く達するに非ず。但だ容そ有るに約して此の名を建立す。ゆえに六阿羅漢は三界に通じて皆有り。もし退なるは必定して応に退すべしと執し、乃至堪達は必ず能く達すべしとすれば、彼の執は欲界は具足して六有り、色・無色界の中はただ安住・不動。彼は退失・自害・自防および修練根無きがゆえにただ二有るのみ。此のようの六種の阿羅漢の中、誰か何より退するか。性か果か。頌に曰く、

四從種性退,五從果非先。

四は種性より退し、五は果より先に非ず。

論曰:不動種性必無退理。前之五種皆有退義,於中後四有從性退,退法一種無退性理,由此種性最居下故。五種皆有從果退義,雖俱有退然並非先。謂諸無學先學位中所住種性,彼從此性必無退理,學無學道所成堅故。若諸有學先凡位中所住種性,彼從此性亦無退理,世出世道所成堅故。若住此位後修練根所得思等四種種性,彼從此性容有退理。二先位中住思等性,必亦無退此所得果,唯先退法有退果義。又亦無退先所得果,後所得果容有退義,是故定無退預流果。由此應果退法有三:一增進根、二退住學、三住自位而般涅槃。思法有四,三如前說,更加一種退住退性。餘三如次有五六七,應知後後一一增故。思法等四退住學位,時還住退非餘。若異此者,得勝種性故,應是進非退。何緣定無退先果者?以見所斷依無事故。謂有身見依我處轉,見所斷惑此見為根,我體既無名依無事,以無事故必無退理。若爾,應說此惑緣無,非此緣無,諦為境故。然於諦境不如實緣,諸煩惱中誰不如是?雖皆如是而有差別,以修斷惑各有別事,即是可意不可意等,於所緣境此相非無。見所斷惑計有我等,非諸諦境有我等相,以無事故與修斷別。謂於色等所緣境中,我見妄增作者受者自在而轉,非實我性。邊執見等隨此而生,故並說為依無事惑。若修所斷貪瞋慢痴,色等境中唯起染著增背高舉不了行轉,故並說為依有事惑。又見斷惑於諦理中執我我所斷常見等,非諦中有少我等事。見斷貪等緣此而生,是故皆名依無事惑。修所斷惑於色等中謂好醜等,然色等境非無少分好醜等別,是故可名依有事惑。又見斷惑迷諦理起名依無事,修所斷惑迷麁事生名依有事。諦理真實,揩定可依。聖慧已證必無退理,事相浮偽無定可依,斷迷彼惑有失念退。或修斷惑非審慮生,昧鈍性故。見所斷惑由審慮生,推度性故。

論に曰く:不動の種性は必ず退の理無し。前の五種は皆退の義有り。中に於いて後の四は性より退する有り。退法の一種は性を退するの理無し。此の種性は最も下に居るに由るがゆえに。五種は皆果より退するの義有り。俱に退有りと雖も然し而も先に并非ず。いわゆる諸の無学は先の学位の中に住せし所の種性は、彼は此の性より必ず退の理無し。学・無学の道の成ずる所堅なるがゆえに。もし諸の有学は先の凡位の中に住せし所の種性は、彼は此の性よりもまた退の理無し。世・出世の道の成ずる所堅なるがゆえに。もし此の位に住して後に練根を修して得たる思等の四種の種性は、彼は此の性より容そ退の理有り。二の先位の中に思等の性に住せば、必ずもまた此の得る所の果を退せず。ただ先の退法に果を退するの義有り。またもまた先の得る所の果を退する無し。後の得る所の果は容そ退の義有り。此のゆえに定めて預流果を退すること無し。此に由って応果の退法に三有り。一は進みて根を増す、二は退して学に住す、三は自位に住して而も般涅槃す。思法に四有り。三は前の説くがごとく、更加えて一種の退して退性に住すを。其余の三は次第のごとく五・六・七有り。応に知るべし後後は一一に増すがゆえに。思法等の四は退して学位に住するも、時は還た退に住して其余に非ず。もし此に異ならば、勝の種性を得るがゆえに、応に是れ進にして退に非ざるべし。何の縁にか定めて先果を退する無きか。見所断は事無きに依るを以て。いわゆる有身見は我の処に依って転ず。見所断の惑は此の見を以て根と為す。我の体はすでに無ければ名づけて事無きに依る。事無きを以て必ず退の理無し。もしそうならば、応に説くべし此の惑は無に縁ず。此れは無に縁ずるに非ず。諦を以て境と為すがゆえに。しかし諦境に於いて如実に縁ぜざるは、諸の煩悩の中に誰か此のようにはあらざらん。皆此のようなると雖も而も差別有り。修断の惑は各々別の事有るを以て。すなわち是れ可意・不可意等。縁ずる所の境に於いて此の相は無きに非ず。見所断の惑は我等有りと計る。諸の諦境に我等の相有るに非ず。事無きを以て修断と別なり。いわゆる色等の縁ずる所の境の中に於いて、我見は妄りに作者・受者を増して自在に転ず。実我の性に非ず。辺執見等は此に随って生ず。ゆえに并せて説いて事無きに依る惑と為す。もし修所断の貪瞋慢癡は、色等の境の中に於いてただ染着・増背・高挙・不了の行の転を起す。ゆえに并せて説いて事有るに依る惑と為す。また見断の惑は諦理の中に於いて我・我所・断・常の見等を執す。諦の中に少しきの我等の事有るに非ず。見断の貪等は此に縁じて生ず。此のゆえに皆名づけて事無きに依る惑。修所断の惑は色等の中に於いて好・醜等を謂う。然るに色等の境は少分の好・醜等の別無きに非ず。此のゆえに名づくべし事有るに依る惑。また見断の惑は諦理に迷うて起るを名づけて事無きに依る。修所断の惑は麁事に迷うて生ずるを名づけて事有るに依る。諦理は真実にして、揩定して依るべし。聖慧は已に証して必ず退の理無し。事相は浮偽にして定めて依るべき無し。彼の惑に迷えるを断ずるは失念の退有り。或いは修断の惑は審慮に生ずるに非ず。昧鈍の性なるがゆえに。見所断の惑は審慮に由って生ず。推度の性なるがゆえに。

聖不審慮於麁事中失念或生,審慮不爾,如於繩等率爾謂蛇。故修斷惑聖有退起,非由率爾可起見惑。聖若審慮便見諦理,故聖見斷定無退義。經部師說:從阿羅漢亦無退義。彼說應理。云何知然?由教理故。知何由教?經言:苾芻!聖慧斷惑名為實斷。又契經言:我說有學應不放逸,非阿羅漢。雖有經言:佛告慶喜:我說利養等亦障阿羅漢,而不說退阿羅漢果,但說退失現法樂住。經言:不動心解脫身作證,我定說無因緣從此退故。若謂有退,由經說有時愛解脫,我亦許然。但應觀察彼之所退,為應果性、為靜慮等?然彼根本靜慮等持,要待時現前,故名時解脫。彼為獲得現法樂住,數希現前故名為愛。有說:此定是所愛味,諸阿羅漢果性解脫恆隨逐故不應名時,更不欣求故不名愛。若應果性容有退者,如何世尊但說所證現法樂住有可退理。由此證知,諸阿羅漢果性解脫必是不動。然由利等擾亂過失,有於所得現法樂住退去自在,謂諸鈍根;若諸利根則無退失。故於所得現法樂住有退無退,故名退不退法。如是思等如理應思。不退、安住、不動何別?非練根得名為不退,練根所得名為不動。此二所起殊勝等至,設遇退緣亦無退理。安住法者,但於已住諸勝德中能無退失,不能更引餘勝德生,設復引生從彼可退。是不退等三種差別。然喬底迦昔在學位,於時解脫極噉味故,又鈍根故數數退失,深自厭責執刀自害。由於身命無所戀惜,臨命終時得阿羅漢便般涅槃,故喬底迦亦非退失阿羅漢果。又增十經作如是說:一法應起,謂時愛心解脫。一法應證,謂不動心解脫。若應果性名為時愛心解脫者,何故於此增十經中再說應果?又曾無處說阿羅漢果名為應起,但說名應證。又說鈍根所攝應果名為應起,為顯何義?若為顯彼能起現前,則餘利根最應能起。若為顯彼應起現前,亦餘利根最所應起。故時解脫非應果性。

(論は続けて曰く:)聖は審慮せずして麁事の中に於いて失念或いは生ず。審慮は此のようにはあらず。縄等に於いて率爾に蛇と謂うがごとし。ゆえに修断の惑は聖に退起有り。率爾に由って見惑を起すべきに非ず。聖はもし審慮せば便ち諦理を見る。ゆえに聖の見断は定めて退の義無し。経部師の説く:阿羅漢よりもまた退の義無し。彼の説は理に該当す。如何にして此のようの知るか。教理に由るがゆえに。何をか教に由って知るか。経に説く:苾芻、聖慧の惑を断ずるを名づけて実断。また契経に説く:我は有学は応に放逸すべからずと説く。阿羅漢に非ず。経有りて説くと雖も:仏は慶喜に告げたまう、我は利養等もまた阿羅漢を障すると説く、而も阿羅漢果を退すると説かず。但だ現法の楽住を退失すると説くのみ。経に説く:不動心解脱は身に作証す。我は定めて説く、此より退するの因縁無しと。ゆえにもし退有りと謂わば、経に時愛解脱有りと説くに由って、我もまた此のようを許す。但だ応に彼の退する所を観察すべし。応果の性か、静慮等か。しかし彼の根本の静慮の等持は、要ずるに時を待ちて現前す。ゆえに名づけて時解脱。彼は現法の楽住を獲得せんが為に、数々現前を希うがゆえに名づけて愛。ある説に、此の定は是れ愛味する所。諸の阿羅漢は果性の解脱は恒に随逐するがゆえに応に時と名づくべからず。更に欣求せざるがゆえに愛と名づけず。もし応果の性は容そ退有れば、如何にして世尊は但だ証する所の現法楽住に退すべきの理有りと説くのみか。此に由って証知す。諸の阿羅漢は果性の解脱は必ず是れ不動。しかし利等の扰乱の過失に由って、得る所の現法楽住に於いて退去の自在有りて、いわゆる諸の鈍根。もし諸の利根は則ち退失無し。ゆえに得る所の現法楽住に於いて退・不退有り。ゆえに名づけて退・不退法。此のようの思等は理のごとく応に思うべし。不退・安住・不動は何の別か。練根の得に非ざるを名づけて不退。練根の得る所を名づけて不動。此の二の起す所の殊勝の等至は、設い退縁に遇うとも退の理無し。安住法とは、但だ已に住する諸の勝徳の中に於いて能く退失無し。更に其余の勝徳を引きて生ぜしむること能わず。設い復た引き生ずとも彼より退すべし。是れ不退等の三種の差別。しかし喬底迦(比丘の名)は昔学位に在りて、時解脱に於いて極めて味を啖むを以て、また鈍根なるを以て数々退失し、深く自ら厭責して刀を執りて自害せり。身命に於いて恋惜する所無きに由って、命終に臨みて阿羅漢を得て便ち般涅槃せり。ゆえに喬底迦もまた阿羅漢果を退失するに非ず。また増十経は此の説を作して曰く:一法は応に起すべし。いわゆる時愛心解脱。一法は応に証すべし。いわゆる不動心解脱。もし応果の性を名づけて時愛心解脱と為せば、何故此の増十経の中に於いて復た応果を説くか。また曾て処なくして阿羅漢果を名づけて応に起すべしと説かず。但だ名づけて応に証すべしと説くのみ。また鈍根の摂する所の応果を名づけて応に起すべしと説くは、為に何の義を顕さんか。もし為に彼の能く現前を起すを顕さば、則ち其余の利根は最も応に能く起すべし。もし為に彼の応に現前を起すべきを顕さば、もまた其余の利根は最も起すべき所。ゆえに時解脱は応果の性に非ず。

若爾,何故說時解脫應果?謂有應果根性鈍故,要待時故定方現前。若與彼相違,名不時解脫。阿毘達磨亦作是言:欲貪隨眠由三處起,一欲貪隨眠未斷遍知故、二順彼經法正現在前故、三於彼正起非理作意故。若謂彼據具因生說,復有何法因不具生?是名由教。如何由理?若阿羅漢有令煩惱畢竟不起治道已生,是則不應退起煩惱。若阿羅漢此道未生,未能永拔煩惱種故,應非漏盡。若非漏盡,寧說為應?是名由理。若爾,應釋炭喻契經。如說:多聞諸聖弟子若行若住,有處有時失念故生惡不善覺。此經唯說阿羅漢果,由此經言:彼聖弟子心於長夜隨順遠離,廣說乃至臨入涅槃。餘契經中有即說此順遠離等名應果力。又此經說:彼於一切順漏已能永吐、已得清涼。由此定知是阿羅漢。實後所說是阿羅漢,然彼乃至於行住時未善通達,容有此事。謂有學者於行住時,由失念故容起煩惱,後成無學則無起義。前依學位,故說無失。毘婆沙師定作是說:阿羅漢果亦有退義。唯阿羅漢種性有六,為餘亦有六種性耶?設有皆能修練根不?頌曰:

(論は続けて曰く:)もしそうならば、何の故にか時解脱の応果を説くか。いわゆる応果有りて根性の鈍なるがゆえに、要ずるに時を待って方に定は現前するがゆえに。もし彼と相違せば、名づけて不時解脱。阿毘達磨もまた是の言を作す:欲貪の随眠は三処に由って起る。一は欲貪の随眠は未だ断じて遍知せざるがゆえ、二は彼に順ずる経の法は正に現前するがゆえ、三は彼に於いて正に非理の作意を起すがゆえに。もし彼は因具わりて生ずるに据えて説くと謂わば、復た何の法か因具わらずして生ずるか。是れを名づけて教に由る。如何にして理に由るか。もし阿羅漢は煩悩をして畢竟に起らざらしむる治道の已に生ぜる有れば、是れ則ち応に煩悩を退起すべからず。もし阿羅漢は此の道の未だ生ぜざれば、未だ能く煩悩の種を永く抜かざるがゆえに、応に漏尽に非ざるべし。もし漏尽に非ざれば、寧んぞ説いて応と為さんや。是れを名づけて理に由る。もしそうならば、応に炭喻の契経を釋すべし。説くがごとく:多聞の諸の聖弟子はもし行きもし住すれば、処有り時有りて失念のゆえに悪不善の覚を生ず。此の経はただ阿羅漢果を説く。此の経の説くに由る:彼の聖弟子の心は長夜に遠離に随順し、広く説き乃至涅槃に入らんと臨むと。また契経の中に即ち此の遠離に順ずる等を説いて名づけて応果の力。また此の経に説く:彼は一切の漏に順ずるを已に能く永く吐き、已に清凉を得たり。此に由って定めて知る是れ阿羅漢。実には後の説く所は是れ阿羅漢。しかし彼は乃至行・住の時に於いて未だ善く通達せず、容そ此の事有り。いわゆる有学なるは行・住の時に於いて、失念に由って容そ煩悩を起し、後に無学と成れば則ち起の義無し。前は学位に依る。ゆえに説いて失無し。毘婆沙師は定めて是の説を作す:阿羅漢果もまた退の義有り。ただ阿羅漢の種性に六有り。為に其余もまた六種性有るか。設い皆能く練根を修するか否か。頌に曰く:

學異生亦六,練根非見道。

学・異生もまた六。練根は見道に非ず。

論曰:有學異生種性亦六,六種應果彼為先故。然見道位必無練根,此位無容起加行故。唯於信解異生位中,能修練根如無學位。如契經說:我說由斯所證四種增上心所現法樂住隨一有退,所得不動心解脫身作證,我決定說無因緣從此退。如何不動法退現法樂住?頌曰:

論に曰く:有学・異生の種性もまた六。六種の応果は彼を先と為すがゆえに。しかし見道の位は必ず練根無し。此の位は加行を起すを容れざるがゆえに。ただ信解・異生の位の中に於いて、能く練根を修するは無学の位のごとし。契経に説くがごとく:我は説く、斯に由って証する所の四種の増上心の所の現法楽住に随一の退有り、得る所の不動心解脱は身に作証す、我は決定して説く此より退するの因縁無しと。如何にして不動法は現法楽住を退するか。頌に曰く、

應知退有三,已未得受用,

応に知るべし退に三有り。已・未得・受用。

佛唯有最後,利中後鈍三。

仏はただ最後有り。利は中・後、鈍は三。

論曰:應知諸退總有三種:一已得退,謂退已得殊勝功德。二未得退,謂未能得殊勝功德。三受用退,謂諸已得殊勝功德不現在前。於此三中,世尊唯有一受用退,以具眾德,無容一時頓現前故。餘不動法具有受用及未得退,亦於勝己殊勝功德猶未得故。餘五種性容具有三,亦容退失已得德故。約受用退,說不動法退現法樂,無相違過。無退論者作如是說:諸無漏解脫皆名不動。然別立第六不動法者,如前釋通,不應為難。諸阿羅漢既許退果,為更生不?諸住果時所不作事退時作不?不爾。何緣?頌曰:

論に曰く:応に知るべし諸の退は総じて三種有り。一は已得の退。いわゆる已に得たる殊勝の功徳を退す。二は未得の退。いわゆる未だ殊勝の功徳を得る能わざる。三は受用の退。いわゆる諸の已に得たる殊勝の功徳の現前せざる。此の三の中に於いて、世尊はただ一の受用の退有り。衆徳を具えて、一時に頓じて現前するを容れざるがゆえに。其余の不動法は具に受用および未得の退有り。もまた勝己の殊勝の功徳に於いて猶お未だ得ざるがゆえに。其余の五種性は容そ具に三有り。もまた容そ已得の徳を退失するがゆえに。受用の退に約して、不動法は現法の楽を退すと説くは、相違の過無し。退無しの論は此の説を作して曰く:諸の無漏の解脱は皆名づけて不動。しかし別に第六の不動法を立つるは、前の釋の通ずるがごとく、応に難と為すべからず。諸の阿羅漢はすでに果を退するを許せば、為に更に生ずるや否や。諸の果に住する時の作さざる所の事を、退する時に作すや否や。そうにはあらず。何の縁か。頌に曰く、

一切從果退,必得不命終,

一切は果より退すとも、必ず得て命終せず、

住果所不為,慚增故不作。

果に住して為さざる所は、慚が増するがゆえに作さず。

論曰:無從果退中間命終,退已須臾必還得故。如契經說:苾芻當知,如是多聞諸聖弟子退失正念,速復還能令所退起盡沒滅離。若謂不然,修梵行果應非安隱可委信處。又住果位所不應為違果事業,由慚增故於暫退時亦必不造,譬如壯士雖蹶不僕。如上所言,有練根得無學有學,正練根時各幾無間、幾解脫道?何性攝?何所依?頌曰:

論に曰く:果より退して中間に命終する無し。退し已りて須臾に必ず還得するがゆえに。契経に説くがごとく:苾芻当知れ、此のようの多聞の諸の聖弟子は正念を退失しても、速やかに復た能く退する所をして起りて尽没滅離せしむ。もし此のようにはあらずと謂わば、梵行を修する果は応に安穏にして信を委くべき処に非ざるべし。また果位に住して応に為すべからざる果に違する事業は、慚の増するに由って暫退の時に於いても必ず造らず。譬えば壮士の蹶くと雖も仆れざるがごとし。上の言う所のごとく、練根して無学・有学を得る有りて、正しく練根する時に各々幾無間・幾解脱道か。何の性の摂か。何に依る所か。頌に曰く、

練根無學位,九無間解脫,

練根の無学の位は、九の無間・解脱。

久習故學一,無漏依人三,

久しく習したるがゆえに学は一。無漏は人の三に依る。

無學依九地,有學但依六,

無学は九地に依り、有学は但だ六に依る。

捨果勝果道,唯得果道故。

果・勝果の道を捨て、ただ果の道を得るがゆえに。

論曰:求勝種性修練根者,無學位中轉一一性各九無間、九解脫道,如得應果。所以者何?彼鈍根性由久串習,非少功力可能令轉,學無學道所成堅故。有學位中轉一一性,各一無間、一解脫道,如得初果,上相違故。彼加行道諸位各一。如是無間及解脫道,一切唯是無漏性攝。聖者必無用有漏道而轉根理,非增上故。依謂身地,此所依身唯人三洲,餘無退故。此所依地,無學通九,謂未至、中間、四定、三無色。有學唯六,謂除後三。所以者何?夫轉根者,容有捨果及勝果道,所得唯果非向道故。無有學果無色地攝,故學練根但依六地。諸無學位補特伽羅,總有幾種?由何差別?頌曰:

論に曰く:勝種性を求めて練根を修するは、無学の位の中に於いて一一の種性を転ずるに各々九の無間・九の解脱道有り。応果を得るがごとし。所以は何ぞや。彼の鈍根の性は久しく串習せるに由って、少しきの功力にては能くして転ぜしめんこと能わず。学・無学の道の成ずる所堅なるがゆえに。有学の位の中に於いて一一の種性を転ずるは、各々一の無間・一の解脱道。初果を得るがごとし。上に相違するがゆえに。彼の加行道の諸位は各々一。此のようの無間および解脱道は、一切ただ是れ無漏性の摂。聖者は必ず有漏道を用いて而も根を転ずるの理無し。増上に非ざるがゆえに。依とは身地を謂う。此の依る所の身はただ人の三洲。其余は退無きがゆえに。此の依る所の地は、無学は九に通ず。いわゆる未至・中間・四定・三無色。有学はただ六。いわゆる後の三を除く。所以は何ぞや。凡そ根を転ずるは、容そ果および勝果の道を捨て、得る所はただ果にして向道に非ざるがゆえに。有学の果の無色地の摂有ること無し。ゆえに学の練根は但だ六地に依る。諸の無学の位の補特伽羅は、総じて幾種有るか。何に由ってか差別するか。頌に曰く、

七聲聞二佛,差別由九根。

七声聞・二仏。差別は九根に由る。

論曰:居無學位聖者有九,謂七聲聞及二覺者。退法等五不動分二,後先別故,名七聲聞。獨覺、大覺名二覺者。由下下等九品根異,令無學聖成九差別。學無學位有七聖者,一切聖者皆此中攝:一隨信行、二隨法行、三信解、四見至、五身證、六慧解脫、七俱解脫。依何立七?事別有幾?頌曰:

論に曰く:無学の位に居る聖者に九有り。いわゆる七声聞および二の覚者。退法等の五は不動を分かちて二と為し、後・先の別あるがゆえに、名づけて七声聞。独覚・大覚を名づけて二覚者。下下等の九品の根の異なるに由って、無学の聖をして九の差別を成さしむ。学・無学の位に七聖者有りて、一切の聖者は皆此の中に摂す。一は随信行、二は随法行、三は信解、四は見至、五は身証、六は慧解脱、七は俱解脱。何に依ってか七を立つるか。事の別は幾有るか。頌に曰く、

加行根滅定,解脫故成七,

加行・根・滅定、解脱のゆえに七を成ず。

此事別唯六,三道各二故。

此の事の別はただ六。三道は各々二なるがゆえに。

論曰:依加行異立初二種,謂依先時隨他及法於所求義修加行故,立隨信行、隨法行名。依根不同立次二種,謂依鈍利信慧根增,如次名為信解、見至。依得滅定立身證名,由身證得滅盡定故。依解脫異立後二種,謂依唯慧離煩惱障者立慧解脫,依兼得定離解脫障者立俱解脫。此名雖七事別唯六,謂見道中有二聖者,一隨信行、二隨法行,此至修道別立二名,一信解、二見至,此至無學復立二名,謂時解脫、不時解脫。應知此中一隨信行根故成三,謂下中上;性故成五,謂退法等;道故成十五,謂八忍七智?離染故成七十三,謂具縛離八地染;依身故成九,謂三洲、欲天。若根、性、道、離染、依身相乘,合成一億四萬七千八百二十五種。隨法行等如理應思。何等名俱及慧解脫?頌曰:

論に曰く:加行の異なるに依って初の二種を立つ。いわゆる先時に於いて他および法に随って求むる所の義に於いて加行を修するに依るがゆえに、随信行・随法行の名を立つ。根の同じからざるに依って次の二種を立つ。いわゆる鈍・利の信・慧の根の増するに依って、次第のごとく名づけて信解・見至。滅定を得るに依って身証の名を立つ。身に由って滅尽定を証得するがゆえに。解脱の異なるに依って後の二種を立つ。いわゆるただ慧に依って煩悩障を離れたるに依って慧解脱を立て、兼ねて定を得て解脱障を離れたるに依って俱解脱を立つ。此の名は七有りと雖も事の別はただ六。いわゆる見道の中に二聖者有り。一は随信行、二は随法行。此れ修道に至りて別に二名を立つ。一は信解、二は見至。此れ無学に至りて復た二名を立つ。いわゆる時解脱・不時解脱。応に知るべし此の中の一の随信行は、根を以て三を成す。いわゆる下・中・上。性を以て五を成す。いわゆる退法等。道を以て十五を成す。いわゆる八忍・七智。離染を以て七十三を成す。いわゆる具縛・八地の染を離るる。依身を以て九を成す。いわゆる三洲・欲天。もし根・性・道・離染・依身を相乗ずれば、合して一億四万七千八百二十五种を成す。随法行等は理のごとく応に思うべし。何等を名づけて俱および慧解脱か。頌に曰く、

俱由得滅定,餘名慧解脫。

俱は滅定を得るに由り、其余を名づけて慧解脱。

論曰:諸阿羅漢得滅定者名俱解脫,由慧定力解脫煩惱解脫障故。所餘未得滅盡定者名慧解脫,但由慧力於煩惱障得解脫故。如世尊說:五煩惱斷不可牽引未名滿學。學無學位各由幾因於等位中獨稱為滿?頌曰:

論に曰く:諸の阿羅漢は滅定を得たるを名づけて俱解脱。慧・定の力に由って煩悩・解脱の障を解脱するがゆえに。其余の未だ滅尽定を得ざるを名づけて慧解脱。但だ慧の力に由って煩悩障に於いて解脱を得るがゆえに。世尊の説きたまえるがごとく:五煩悩の断は引くべからず、未だ満学と名づけず。学・無学の位は各々幾因に由ってか等位の中に於いて独り満と称するか。頌に曰く、

有學名為滿,由根果定三;

有学は名づけて満、根・果・定の三に由る。

無學得滿名,但由根定二。

無学は満の名を得るに、但だ根・定の二に由る。

論曰:學於學位獨得滿名,具由三因,謂根、果、定。有有學者但由根故亦得滿名,謂諸見至未離欲染。有有學者但由果故亦得滿名,謂信解不還未得滅盡定。有有學者由根果故亦得滿名,謂見至不還未得滅盡定。有有學者由果定故亦得滿名,謂諸信解得滅盡定。有有學者具由三故獨得滿名,謂諸見至得滅盡定。無有學者但由定故及根定故亦得滿名。諸無學者於無學位由根定二獨得滿名,無學位中無非果滿,故無由果亦立滿名。有但由根亦名為滿,謂不時解脫未得滅盡定。有但由定亦名為滿,謂時解脫得滅盡定。有具由二獨名為滿,謂不時解脫已得滅盡定。廣說諸道差別無量,謂世出世見修道等。略說幾道能遍攝耶?頌曰:

論に曰く:学は学位に於いて独り満の名を得。具に三因に由る。いわゆる根・果・定。有学有りて但だ根に由ってもまた満の名を得。いわゆる諸の見至の未だ欲染を離れざる。有学有りて但だ果に由ってもまた満の名を得。いわゆる信解の不還の未だ滅尽定を得ざる。有学有りて根・果に由ってもまた満の名を得。いわゆる見至の不還の未だ滅尽定を得ざる。有学有りて果・定に由ってもまた満の名を得。いわゆる諸の信解の滅尽定を得たる。有学有りて具に三に由って独り満の名を得。いわゆる諸の見至の滅尽定を得たる。有学有りて但だ定に由りおよび根・定に由ってもまた満の名を得。諸の無学なるは無学の位に於いて根・定の二に由って独り満の名を得。無学の位の中に果満に非ざる無きがゆえに、果に由ってもまた満の名を立つること無し。但だ根に由ってもまた名づけて満と為す有り。いわゆる不時解脱の未だ滅尽定を得ざる。但だ定に由ってもまた名づけて満と為す有り。いわゆる時解脱の滅尽定を得たる。具に二に由って独り名づけて満と為す有り。いわゆる不時解脱の已に滅尽定を得たる。広く諸の道の差別は無量を説く。いわゆる世・出世・見・修の道等。略していくつの道を説いて能く遍く摂せんか。頌に曰く、

應知一切道,略說唯有四,

応に知るべし一切の道は、略して説いてただ四有り。

謂加行無間,解脫勝進道。

いわゆる加行・無間、解脱・勝進の道。

論曰:加行道者,謂從此後無間道生。無間道者,謂此能斷所應斷障。解脫道者,謂已解脫所應斷障最初所生。勝進道者,謂三餘道。道義云何?謂涅槃路,乘此能往涅槃城故。或復道者,謂求所依,依此尋求涅槃果故。解脫、勝進如何名道?與道類同,轉上品故,或前前力至後後故、或能趣入無餘依故。道於餘處立通行名,以能通達趣涅槃故。此有幾種?依何建立?頌曰:

論に曰く:加行道とは、いわゆる此より後に無間道の生ず。無間道とは、いわゆる此れは能く断ずべき所の障を断ず。解脱道とは、いわゆる已に断ずべき所の障を解脱して最初の生ずる所。勝進道とは、いわゆる三の其余の道。道の義は如何。いわゆる涅槃の路。此に乗じて能く涅槃の城に往くがゆえに。或いは復た道とは、いわゆる求むる所の依。此に依って涅槃の果を尋求するがゆえに。解脱・勝進は如何にして道と名づくるか。道と類を同じくし、転じて上品なるがゆえに。或いは前前の力は後後に至るがゆえ、或いは能く無余依に趣入するがゆえに。道は其余の処に於いて通行の名を立つ。能く通達して涅槃に趣くを以て。此れに幾種有るか。何に依ってか建立するか。頌に曰く、

通行有四種,樂依本靜慮,

通行に四種有り。楽は本の静慮に依り、

苦依所餘地,遲速鈍利根。

苦は其余の地に依る。遅・速は鈍・利の根。

論曰:經說通行總有四種:一苦遲通行、二苦速通行、三樂遲通行、四樂速通行。道依根本四靜慮生名樂通行,以攝受支止觀平等任運轉故。道依無色、未至、中間名苦通行,以不攝支止觀不等艱辛轉故。謂無色定觀減止增,未至、中間觀增止減。即此樂苦二通行中,鈍根名遲、利根名速。二行於境通達稽遲故名遲通,翻此名速。或遲鈍者所起通行名遲通行,速此相違。道亦名為菩提分法。此有幾種?名義云何?頌曰:

論に曰く:経に通行は総じて四種有りと説く。一は苦の遅通行、二は苦の速通行、三は楽の遅通行、四は楽の速通行。道の根本の四静慮に依って生ずるを名づけて楽通行。支の止観を摂受して平等に任運に転ずるを以て。道の無色・未至・中間に依るを名づけて苦通行。支を摂せず止観は等しからず艱辛に転ずるを以て。いわゆる無色定は観減・止増し、未至・中間は観増・止減す。すなわち此の楽・苦の二通行の中に、鈍根を名づけて遅、利根を名づけて速。二行は境に於いて通達して稽遅するがゆえに名づけて遅通。此を翻して名づけて速。或いは遅鈍なるの起す所の通行を名づけて遅通行。此に相違するを速。道もまた名づけて菩提分法。此れに幾種有るか。名義は如何。頌に曰く、

覺分三十七,謂四念住等,

覚分は三十七。いわゆる四念住等。

覺謂盡無生,順此故名分。

覚とは尽・无生。此に順ずるがゆえに分と名づく。

論曰:經說覺分有三十七,謂四念住、四正斷、四神足、五根、五力、七等覺支、八聖道支。盡、無生智說名為覺。隨覺者別立三菩提:一聲聞菩提、二獨覺菩提、三無上菩提。無明睡眠皆永斷故,及如實知已作已事不復作故,此二名覺。三十七法順趣菩提,是故皆名菩提分法。此三十七體各別耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:経に覚分に三十七有りと説く。いわゆる四念住・四正断・四神足・五根・五力・七等覚支・八聖道支。尽・无生の智を説いて名づけて覚。覚の別に随って三菩提を立つ。一は声聞菩提、二は独覚菩提、三は無上菩提。無明の睡眠は皆永断するがゆえ、および如実に已に作し已に事りたるを知って復た作さざるがゆえに、此の二を名づけて覚。三十七法は菩提に順趣す。此のゆえに皆名づけて菩提分法。此の三十七は体各別か。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

此實事唯十,謂慧勤定信,

此の実事はただ十。いわゆる慧・勤・定・信、

念喜捨輕安,及戒尋為體。

念・喜・捨・軽安、および戒・尋を体と為す。

論曰:此覺分名雖三十七,實事唯十,即慧勤等。謂四念住、慧根、慧力、擇法覺支、正見,以慧為體。四正斷、精進根、精進力、精進覺支、正精進,以勤為體。四神足、定根、定力、定覺支、正定,以定為體。信根、信力,以信為體。念根、念力、念覺支、正念,以念為體,喜覺支以喜為體,捨覺支以行捨為體,輕安覺支以輕安為體,正語、正業、正命以戒為體,正思惟以尋為體。如是覺分實事唯十,即是信等五根力上,更加喜、捨、輕安、戒、尋。毘婆沙師說有十一,身業語業不相雜故戒分為二,餘九同前。念住等三名無別屬,如何獨說為慧勤定?頌曰:

論に曰く:此の覚分の名は三十七有りと雖も、実事はただ十。すなわち慧・勤等。いわゆる四念住・慧根・慧力・択法覚支・正見は、慧を以て体と為す。四正断・精進根・精進力・精進覚支・正精進は、勤を以て体と為す。四神足・定根・定力・定覚支・正定は、定を以て体と為す。信根・信力は、信を以て体と為す。念根・念力・念覚支・正念は、念を以て体と為し、喜覚支は喜を以て体と為し、捨覚支は行捨を以て体と為し、軽安覚支は軽安を以て体と為し、正語・正業・正命は戒を以て体と為し、正思惟は尋を以て体と為す。此のようの覚分の実事はただ十。すなわち是れ信等の五根力の上に、更に喜・捨・軽安・戒・尋を加えたる。毘婆沙師は十一有りと説く。身業・語業は相雑せざるがゆえに戒は分かれて二と為し、其余の九は前と同じ。念住等の三名は別属無きに、如何にして独り説いて慧・勤・定と為すか。頌に曰く、

四念住正斷,神足隨增上,

四念住・正断、神足は増上に随って、

說為慧勤定,實諸加行善。

説いて慧・勤・定と為す。実には諸の加行の善。

論曰:四念住等三品善法,體實遍攝諸加行善,然隨同品增上善根,如次說為慧勤及定。何緣於慧立念住名?毘婆沙師作如是說:慧由念力持令住故。理實由慧令念住境,如實見者能明記故,如念住中已廣成立。何故說勤名為正斷?於正修習斷修位中,此勤力能斷懈怠故。或名正勝,於正持策身語意中此最勝故。何緣於定立神足名?諸靈妙德所依止故。有餘師說:神即是定,足謂欲等。彼應覺分事有十三,增欲心故。又違經說,如契經言:吾今為汝說神足等,神謂受用種種神境分一為多,乃至廣說。足謂欲等四三摩地,此中佛說定果名神,欲等所生等持名足。何緣信等先說為根,後名為力?由此五法依下上品分先後故,又依可屈伏不可屈伏故。信等何緣次第如是?謂於因果先起信心為果修因,次起精進,由精進故念住所緣,由念力持心便得定,心得定故能如實知,是故信等如是次第。當言何位何覺分增?頌曰:

論に曰く:四念住等の三品の善法は、体実は遍く諸の加行の善を摂す。しかし同品の増上の善根に随同して、次第のごとく説いて慧・勤および定と為す。何の縁にか慧に於いて念住の名を立つるか。毘婆沙師は此の説を作して曰く:慧は念の力に持せられて住せしめらるるがゆえに。理実は慧に由って念をして境に住せしむ。如実の見は能く明記するがゆえに。念住の中に於いて已に広く成立せしがごとし。何の故にか勤を説いて名づけて正断か。正しく断修の位を修習する中に於いて、此の勤力は能く懈怠を断ずるがゆえに。或いは名づけて正勝。正しく身・語・意を持策する中に此れ最勝なるがゆえに。何の縁にか定に於いて神足の名を立つるか。諸の霊妙の徳の依止する所なるがゆえに。其余の師有りて説く:神はすなわち是れ定、足とは欲等を謂う。彼は応に覚分の事は十三有るべし。欲心を増すがゆえに。また経の説に違す。契経に説くがごとく:吾は今汝の為に神足等を説かん。神とは種種の神の境を受用して一を分かちて多と為すを謂う、乃至広く説く。足とは欲等の四三摩地を謂う。此の中に仏は定果を説いて名づけて神。欲等の生ずる所の等持を名づけて足。何の縁にか信等は先に説いて根と為し、後に名づけて力と為すか。此の五法は下上品に依って先後に分かれるに由るがゆえに。また屈伏すべき・屈伏すべからざるに依るがゆえに。信等は何の縁にか次第此のようか。いわゆる因果に於いて先に信心を起して果の為に因を修し、次に精進を起し、精進に由って念は所縁に住し、念の力の持するに由って心は便ち定を得、心は定を得るに由って能く如実に知る。此のゆえに信等は此のようの次第。当に言うべし何の位に何の覚分の増すか。頌に曰く、

初業順決擇,及修見道位,

初業・順決択、および修・見道の位に於いて、

念住等七品,應知次第增。

念住等の七品は、応に知るべし次第に増す。

論曰:初業位中能審照了身等四境,慧用勝故說念住增。煖法位中能證異品殊勝功德,勤用勝故說正斷增。頂法位中能持勝善趣無退德,定用勝故說神足增。忍法位中必不退墮,善根堅固得增上義故說根增。第一位中非惑世法所能屈伏,得無屈義故說力增。修道位中近菩提位,助覺勝故說覺支增。見道位中速疾而轉,通行勝故說道支增。然契經中隨數增說先七後八,非修次第。八中正見是道亦道支,餘是道支而非道。七中擇法是覺亦覺支,餘是覺支而非覺。毘婆沙師所說如是。有餘於此不破契經所說次第立念住等,謂修行者將修行時,於多境中其心馳散,先修念住制伏其心,故契經言:此四念住能於境界繫縛其心,及正遣除耽嗜依念。是故念住說在最初。由此勢力勤遂增長,為成四事正策持心,是故正斷說為第二。由精進故無憂悔心,便有堪能修治勝定,是故神足說在第三。勝定為依,便令信等與出世法為增上緣,由此五根說為第四。根義既立,能正伏除所治現行牽生聖法,由此五力說為第五。於見道位建立覺支,如實覺知四聖諦故。通於二位建立道支,俱通直往涅槃城故。如契經說:於八道支修圓滿者,於四念住至七覺支亦修圓滿。又契經說:苾芻當知,宣如實言者,喻說四聖諦。令依本路速行出者,喻令修習八聖道支。故知八道支通依二位說。隨增位說次第既然,理實應言。此三十七幾通有漏、幾無漏耶?頌曰:

論に曰く:初業の位の中に能く審らかに身等の四境を照了す。慧の用の勝れるがゆえに説いて念住増。煖法の位の中に能く異品の殊勝の功徳を証す。勤の用の勝れるがゆえに説いて正断増。頂法の位の中に能く勝善を持して退無き徳に趣く。定の用の勝れるがゆえに説いて神足増。忍法の位の中に必ず退堕せず。善根は堅固にして増上の義を得るがゆえに説いて根増。第一の位の中に惑・世の法の屈伏する能くする所に非ず。屈なきの義を得るがゆえに説いて力増。修道の位の中は菩提の位に近し。覚を助くる勝れるがゆえに説いて覚支増。見道の位の中は速疾にして転ず。通行の勝れるがゆえに説いて道支増。しかし契経の中に数の増に随って先に七・後に八を説くは、修の次第に非ず。八の中に正見は是れ道にしてもまた道支。其余は是れ道支にして道に非ず。七の中に択法は是れ覚にしてもまた覚支。其余は是れ覚支にして覚に非ず。毘婆沙師の説く所は此のよう。其余有りて此に於いて契経の説く所の次第を破らずして念住等を立つ。いわゆる修行の者の将に修行せんとする時、多くの境の中に於いて其心は馳散す。先に念住を修して其心を制伏す。ゆえに契経に説く:此の四念住は能く境界に於いて其心を繋縛し、および正しく耽嗜を遣除して念に依らしむ。此のゆえに念住を説いて最初に在り。此の勢力に由って勤は遂いに増長す。為に四事を成ずるに正しく心を策持す。此のゆえに正断を説いて第二と為す。精進に由って憂悔の心無ければ、便ち堪能有りて勝定を修治す。此のゆえに神足を説いて第三に在り。勝定を依と為して、便ち信等をして出世の法と増上の縁と為らしむ。此に由って五根を説いて第四と為す。根の義はすでに立てば、能く正しく治する所の現行を伏除して聖法を牽生す。此に由って五力を説いて第五と為す。見道の位に於いて覚支を建立す。如実に四聖諦を覚知するがゆえに。二位に通じて道支を建立す。俱に通じて直に涅槃城に往くがゆえに。契経に説くがごとく:八道支に於いて修の円満なるは、四念住より七覚支に至るもまた修は円満なり。また契経に説く:苾芻当知れ、如実の言を宣ぶるは、四聖諦に喩えり。本路に依って速やかに出づるをしては、八聖道支を修習せしむるに喩えり。ゆえに八道支は二位に通じて依って説くを知る。増位に随って次第を説くはすでに然り。理実は応に説くべし。此の三十七は幾つか有漏に通じ、幾つか無漏か。頌に曰く、

七覺八道支,一向是無漏;

七覚・八道支は、一向に是れ無漏。

三四五根力,皆通於二種。

三・四・五根力は、皆二種に通ず。

論曰:此中七覺、八聖道支唯是無漏,唯於修道見道位中方建立故。世間亦有正見等法,而彼不得聖道支名。所餘皆通有漏、無漏。此三十七何地有幾?頌曰:

論に曰く:此の中の七覚・八聖道支はただ是れ無漏。ただ修道・見道の位の中に於いて方に建立するがゆえに。世間にもまた正見等の法有りて、而も彼は聖道支の名を得ず。其余は皆有漏・無漏に通ず。此の三十七は何の地に於いて幾つ有るか。頌に曰く、

初靜慮一切,未至除喜根,

初静慮は一切。未至は喜根を除く。

二靜慮除尋,三四中除二。

二静慮は尋を除き、三・四・中は二を除く。

前三無色地,除戒前二種,

前の三無色地は、戒・前の二種を除く。

於欲界有頂,除覺及道支。

欲界・有頂に於いては、覚および道支を除く。

論曰:初靜慮中具三十七,於未至地除喜覺支,近分地中勵力轉故、於下地法猶疑慮故。第二靜慮除正思惟,彼靜慮中已無尋故。由此二地各三十六。第三第四靜慮中間,雙除喜尋各三十五。前三無色除戒三支併除喜尋各三十二。欲界有頂除覺道支各二十二,無無漏故,覺分轉時必得證淨。此有幾種?依何位得?實體是何法?有漏無漏耶?頌曰:

論に曰く:初静慮の中は三十七を具え、未至地に於いては喜覚支を除く。近分地の中は励力して転ずるがゆえ、下地の法に於いて猶お疑虑するがゆえに。第二静慮は正思惟を除く。彼の静慮の中は已に尋無きがゆえに。此に由って二地は各々三十六。第三・第四・静慮・中間は、喜・尋を双除して各々三十五。前の三無色は戒の三支を除き并びに喜・尋を除いて各々三十二。欲界・有頂は覚・道支を除いて各々二十二。無漏無きがゆえに。覚分の転ずる時は必ず証浄を得。此れに幾種有るか。何の位に依ってか得るか。実体は是れ何の法か。有漏・無漏か。頌に曰く、

證淨有四種,謂佛法僧戒,

証浄に四種有り。いわゆる仏・法・僧・戒。

見三得法戒,見道兼佛僧,

三を見て法・戒を得、道を見て兼ねて仏・僧。

法謂三諦全,菩薩獨覺道,

法とは三諦の全、菩薩・独覚の道。

信戒二為體,四皆唯無漏。

信・戒の二を以て体と為し、四は皆ただ無漏。

論曰:經說證淨總有四種:一於佛證淨、二於法證淨、三於僧證淨、四聖戒證淨。且見道位見三諦時,一一唯得法戒證淨。見道諦位兼得佛僧,謂於爾時兼於成佛諸無學法,成聲聞僧學無學法亦得證淨。兼言為顯見道諦時亦得於法及戒證淨。然所信法略有二種,一別、二總。總通四諦,別唯三諦全。菩薩獨覺道,故見四諦時皆得法證淨。聖所愛戒與現觀俱,故一切時無不亦得。由所信別故名有四,應知實事唯有二種,謂於佛等三種證淨以信為體,聖戒證淨以戒為體,故唯有二。如是四種唯是無漏,以有漏法非證淨故。為依何義立證淨名?如實覺知四聖諦理故名為證。所信三寶及妙屍羅皆名為淨,離不信垢破戒垢故。由證得淨立證淨名。如出觀時現起次第,故說觀內次第如是。如何出時現起次第?謂出觀位先信世尊是正等覺,次於正法毘奈耶中信是善說,後信聖位是妙行者。正信三寶猶如良醫及如良藥、看病者故。由心淨故發淨屍羅,是故屍羅說為第四。要具淨信此乃現前,如遇三緣病方除故。或此四種,猶如導師、道路商侶及所乘乘。經言:學位成就八支,無學位中具成就十。何緣不說有學位中有正解脫及有正智?正脫正智其體是何?頌曰:

論に曰く:経に証浄は総じて四種有りと説く。一は仏に於いて証浄、二は法に於いて証浄、三は僧に於いて証浄、四は聖戒の証浄。且つ見道の位に於いて三諦を見る時は、一一にただ法・戒の証浄を得。道諦を見る位は兼ねて仏・僧を得。いわゆる爾の時に於いて兼ねて仏を成ずる諸の無学法に於いて、声聞僧を成ずる学・無学の法にもまた証浄を得。兼の言は為に道諦を見る時にもまた法および戒の証浄を得るを顕さんとす。然而信ずる所の法は略して二種有り。一は別、二は総。総は四諦に通じ、別はただ三諦の全・菩薩・独覚の道。ゆえに四諦を見る時は皆法の証浄を得。聖の愛する所の戒は現観と俱にせば、ゆえに一切の時に無くしてもまた得。信ずる所の別あるに由って名は四有りと為す。応に知るべし実事はただ二種有るのみ。いわゆる仏等の三種の証浄に於いては信を以て体と為し、聖戒の証浄は戒を以て体と為す。ゆえにただ二有るのみ。此のようの四種はただ是れ無漏。有漏の法は証浄に非ざるがゆえに。何の義に依ってか証浄の名を立つるか。如実に四聖諦の理を覚知するがゆえに名づけて証。信ずる所の三宝および妙の尸羅は皆名づけて浄。不信の垢・破戒の垢を離るるがゆえに。証に由って浄を得て証浄の名を立つ。観を出づる時の現起の次第のごとく、ゆえに観の内の次第を説いて此のようと為す。如何なるか出づる時の現起の次第か。いわゆる観を出づる位に先ず世尊は是れ正等覚と信じ、次に正法毘奈耶の中に於いて是れ善説と信じ、後に聖位は是れ妙行なると信ず。正信の三宝は猶お良医および良薬・看病のごときがゆえに。心浄なるに由って浄尸羅を発す。此のゆえに尸羅を説いて第四と為す。要ずるに浄信を具えて此乃ち現前す。三縁に遇って病方に除かるるがごときがゆえに。或いは此の四種は、猶お導師・道路・商侶および乗ずる所の乗のごとし。経に説く:学の位は八支を成就し、無学の位の中は具に十を成就す。何の縁にか有学の位の中に正解脱および正智有るを説かざるか。正脱・正智の其の体は是れ何ぞ。頌に曰く、

學有餘縛故,無正脫智支,

学に其余の縛有るがゆえに、正脱・智の支無し。

解脫為無為,謂勝解惑滅。

解脱は無為と為る。いわゆる勝解・惑の滅。

有為無學支,即二解脫蘊,

有為は無学の支。すなわち二解脱の蘊。

正智如覺說,謂盡無生智。

正智は覚の説くがごとく、いわゆる尽・无生の智。

論曰:有學位中尚有餘縛未解脫故無解脫支。非離少縛可名脫者,非無解脫體可立解脫智。無學已脫諸煩惱縛,復能起二瞭解脫智,由二顯了可立二支。有學不然,故唯成八。解脫體有二,謂有為、無為。有為解脫謂無學勝解,無為解脫謂一切惑滅。有為解脫名無學支,以立支名依有為故。支攝解脫復有二種,即餘經言心、慧解脫。應知此二即解脫蘊。若爾,不應契經中說:云何解脫清淨最勝?謂心從貪離染解脫,及從瞋痴離染解脫。於解脫蘊未滿為滿、已滿為攝修欲勤等,故解脫蘊非唯勝解。若爾,是何?有餘師說:由真智力遣貪瞋痴,即心離垢名解脫蘊。如是已說正解脫體。正智體者如前覺說,謂即前說盡、無生智。心於何世正得解脫而言無學心解脫耶?頌曰:

論に曰く:有学の位の中はなお其余の縛の未だ解脱せざる有るがゆえに解脱の支無し。少しきの縛を離れて脱と名づくべきに非ず。解脱の体無しに解脱智を立つべきに非ず。無学は已に諸の煩悩の縛を脱し、復た能く二の明了の解脱智を起す。二に由って顕了にして二支を立つべし。有学は此のようにはあらず。ゆえにただ八を成ず。解脱の体に二有り。いわゆる有為・無為。有為の解脱とは無学の勝解を謂う。無為の解脱とは一切の惑の滅を謂う。有為の解脱を名づけて無学の支。支の名を立つるは有為に依るを以て。支の摂する解脱は復た二種有り。すなわち其余の経の説く心・慧の解脱。応に知るべし此の二はすなわち解脱蘊。もしそうならば、応に契経の中の説くに該当せず:何をか解脱の清浄の最勝とするか。いわゆる心は貪より離染して解脱し、および瞋癡より離染して解脱す。解脱蘊に於いて未満を満と為さんが為に、已満を摂と為さんが為に欲・勤等を修す。ゆえに解脱蘊はただ勝解のみに非ず。もしそうならば、是れ何ぞ。其余の師有りて説く:真智の力に由って貪・瞋・癡を遣し、即ち心の垢を離るるを名づけて解脱蘊。此のようの已に正解脱の体を説けり。正智の体は前の覚の説くがごとし。いわゆる即ち前の説ける尽・无生の智。心は何の世に於いて正しく解脱を得て而も無学の心解脱と説くか。頌に曰く、

無學心生時,正從障解脫。

無学の心の生ずる時、正しく障より解脱す。

論曰:如本論說,初無學心未來生時從障解脫。何謂為障?謂煩惱得。由彼能遮此心生故。金剛喻定正滅位中彼得正斷,初無學心於正生位正得解脫。金剛喻定已滅位中彼得已斷,初無學心於已生位名已解脫。未生無學及世俗心,當於爾時亦名解脫。然今且說決定生者,以於爾時行身世故。諸世俗心從何解脫?亦即從彼遮心生障。未解脫位此豈不生?雖有已生,不似今者。彼何所似?與惑得俱。此後若生,無俱惑得。道於何位令生障斷?頌曰:

論に曰く:本論の説くがごとく、初の無学心は未来に生ずる時に障より解脱す。何谓をか障と為すか。いわゆる煩悩の得。彼は能く此の心の生ずるを遮るに由るがゆえに。金剛喩定の正滅の位の中に彼の得は正しく断たる。初の無学心は正生の位に於いて正しく解脱を得。金剛喩定の已滅の位の中に彼の得は已に断えり。初の無学心は已生の位に於いて名づけて已解脱。未だ生ぜざる無学および世俗の心は、当に爾の時にもまた名づけて解脱。しかし今は且つ決定して生ずるを説く。爾の時に於いて行く世なるを以て。諸の世俗心は何よりか解脱するか。もまた即ち彼の心の生ずるを遮る障より。未解脱の位に此れ豈に生に生ぜざらんや。已に生ずる有りと雖も、今のに似ず。彼は何に似たるか。惑の得と俱なり。此の後にもし生ぜば、俱なる惑の得無し。道は何の位に於いて生ずる障をして断せしむるか。頌に曰く、

道唯正滅位,能令彼障斷。

道はただ正滅の位に、能く彼の障を断ぜしむ。

論曰:正滅位言顯居現在。正生言顯未來世故。道能斷障唯正滅時,餘位定無斷障用故。非如解脫通未生者,以生未生離障同故。經說三界謂斷、離、滅,以何為體?差別云何?頌曰:

論に曰く:正滅の位の言は現在に居るを顕す。正生の言は未来世なるを顕すがゆえに。道の能く障を断ずるはただ正滅の時。其余の位は定めて障を断ずるの用無きがゆえに。解脱のごときに非ず未だ生ぜざるに通じるは、生ずる・未だ生ぜざるは障を離るること同じきを以て。経に三界を説くいわゆる断・離・滅は、何を以て体と為すか。差別は如何。頌に曰く、

無為說三界,離界唯離貪,

無為は三界を説く。離界はただ貪を離れ、

斷界斷餘結,滅界滅彼事。

断界は其余の結を断じ、滅界は彼の事を滅す。

論曰:斷等三界,即分前說無為解脫以為自體。言離界者,謂但離貪。言斷界者,謂斷餘結。言滅界者,謂滅所餘貪等隨眠所隨增事故。經說三界即無為解脫。若事能厭必能離耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:断等の三界は、すなわち分けて前の説ける無為解脱を以て自体と為す。離界と言うは、いわゆる但だ貪を離る。断界と言うは、いわゆる其余の結を断ず。滅界と言うは、いわゆる其余の貪等の随眠の随増する所の事を滅するがゆえに。経の説く三界はすなわち無為解脱。もし事は能く厭うは必ず能く離るるか。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

厭緣苦集慧,離緣四能斷,

厭は苦・集に縁ずる慧。離は四に縁じて能く断ず。

相對互廣陿,故應成四句。

相対して互いに広狭。ゆえに応に四句を成すべし。

論曰:唯緣苦集所起忍智說名為厭,餘則不然。四諦境中所起忍智,能斷惑者皆得離名,廣狹有殊故成四句。有厭非離,謂緣苦集不令惑斷所有忍智,緣厭境故、非離染故。有離非厭,謂緣滅道能令惑斷所有忍智,緣欣境故、能離染故。有厭亦離,謂緣苦集能令惑斷所有忍智。有非厭離,謂緣滅道不令惑斷所有忍智。應知此中先離欲染後見諦者,所有法忍及諸智中加行解脫勝進道攝不令惑斷,惑已斷故、非斷治故。

論に曰く:ただ苦・集に縁じて起す所の忍智を説いて名づけて厭。其余は則ち此のようにはあらず。四諦の境の中に起す所の忍智は、能く惑を断ずるは皆離の名を得。広狭に殊有るがゆえに四句を成す。厭有りて離に非ず。いわゆる苦・集に縁じて惑をして断断ぜざらしめる所有の忍智。厭の境に縁ずるがゆえ、離染に非ざるがゆえに。離有りて厭に非ず。いわゆる滅・道に縁じて能く惑をして断ぜしめる所有の忍智。欣の境に縁ずるがゆえ、能く染を離るるがゆえに。厭有りてもまた離。いわゆる苦・集に縁じて能く惑をして断ぜしめる所有の忍智。厭にも非ず離にも非ざる有り。いわゆる滅・道に縁じて惑をして断ぜざらしめる所有の忍智。応に知るべし此の中は先に欲染を離れて後に諦を見る。所有の法忍および諸の智の中の加行・解脱・勝進の道の摂は惑をして断ぜざらしむ。惑は已に断ぜるがゆえ、断治に非ざるがゆえに。

説一切有部倶舎論 巻第二十五

アビダルマ倶舎論 巻第二十六

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別智品第七之一

分別智品 第七之一

前品初說諸忍諸智,於後復說正見正智。為有忍非智耶?為有智非見耶?頌曰:

前の品の初めに諸の忍・諸の智を説き、後に於いて復た正見・正智を説けり。為に忍有りて智に非ざるか。為に智有りて見に非ざるか。頌に曰く、

聖慧忍非智,盡無生非見,

聖慧の忍は智に非ず。尽・无生は見に非ず。

餘二有漏慧,皆智六見性。

其余の二・有漏の慧は、皆智・六は見性。

論曰:慧有二種,有漏、無漏,唯無漏慧立以聖名。此聖慧中八忍非智性,自所斷疑未已斷故。可見性攝,推度性故。盡與無生二智非見性,已息求心不推度故。所餘皆通智見二性,已斷自疑、推度性故。諸有漏慧皆智性攝,於中唯六亦是見性,謂五染汙見、世正見為六。如是所說聖有漏慧,皆擇法故並慧性攝。智有幾種?相別云何?頌曰:

論に曰く:慧に二種有り。有漏・無漏。ただ無漏の慧は聖の名を以て立つ。此の聖慧の中の八忍は智性に非ず。自ら断ずる所の疑は未だ已に断ぜざるがゆえに。見性の摂するべし。推度の性なるがゆえに。尽と无生の二智は見性に非ず。已に求心を息めて推度せざるがゆえに。其余は皆智・見の二性に通ず。已に自疑を断じ、推度の性なるがゆえに。諸の有漏の慧は皆智性の摂。中に於いてただ六はもまた見性。いわゆる五の染汚見・世の正見を以て六と為す。此のようの説く所の聖・有漏の慧は、皆法を択ずるがゆえに并せて慧性の摂。智に幾種有るか。相別は如何。頌に曰く、

智十總有二,有漏無漏別,

智の十は総じて二有り。有漏・無漏の別。

有漏稱世俗,無漏名法類。

有漏は世俗と称し、無漏を名づけて法・類。

世俗遍為境,法智及類智,

世俗は遍く境と為し、法智および類智は、

如次欲上界,苦等諦為境。

次第のごとく欲・上界の苦等の諦を境と為す。

論曰:智有十種攝一切智:一世俗智、二法智、三類智、四苦智、五集智、六滅智、七道智、八他心智、九盡智、十無生智。如是十智總唯二種,有漏、無漏性差別故。如是二智相別有三,謂世俗智、法智、類智。前有漏智總名世俗,多取瓶等世俗境故。後無漏智分法、類別。三中世俗遍,以一切有為無為為所緣境。法類二種如其次第,以欲上界四諦為境。即於如是二種智中,頌曰:

論に曰く:智に十種有りて一切智を摂す。一は世俗智、二は法智、三は類智、四は苦智、五は集智、六は滅智、七は道智、八は他心智、九は尽智、十は无生智。此のようの十智は総じてただ二種。有漏・無漏の性の差別あるがゆえに。此のようの二智の相別に三有り。いわゆる世俗智・法智・類智。前の有漏智は総じて名づけて世俗。多く瓶等の世俗の境を取るがゆえに。後の無漏智は法・類の別に分かつ。三の中の世俗は遍く、一切の有為・無為を以て所縁の境と為す。法・類の二種は次第のごとく、欲・上界の四諦を以て境と為す。すなわち此のようの二種の智の中に於いて、頌に曰く、

法類由境別,立苦等四名,

法・類は境の別に由りて、苦等の四名を立つ。

皆通盡無生,初唯苦集類。

皆尽・无生に通じ、初はただ苦・集の類。

論曰:法智、類智由境差別分為苦、集、滅、道四智。如是六智若無學攝,非見性者名盡、無生。此二初生唯苦、集類,以緣苦、集六種行相觀有頂蘊為境界故。金剛喻定境同此耶?緣苦、集因,緣滅、道異。於前所說九種智中,頌曰:

論に曰く:法智・類智は境の差別に由って分かれて苦・集・滅・道の四智と為す。此のようの六智はもし無学の摂なれば、見性に非ざるを名づけて尽・无生。此の二は初の生はただ苦・集の類。苦・集に縁ずる六種の行相を以て有頂蘊を観じて境界と為すがゆえに。金剛喩定の境は此と同じか。苦・集に縁ずるは因、滅・道に縁ずるは異。前の説く所の九種の智の中に於いて、頌に曰く、

法類道世俗,有成他心智,

法・類・道・世俗に、他心智を成ずる有り。

於勝地根位,去來世不知,

勝の地・根・位に於いて、去・来の世を知らず。

法類不相知,聲聞麟喻佛,

法・類は相知らず。声聞・麟喩・仏は、

如次知見道,二三念一切。

次第のごとく見道を知るに、二・三念・一切。

論曰:有法類道及世俗智成他心智,餘則不然。此智於境有決定相,謂不知勝及去來心。勝心有三,謂地、根、位。地謂下地智不知上地心。根謂信解時解脫根智不知見至不時解脫心。位謂不還聲聞應果、獨覺大覺。前前位智不知後後勝位者心,此智不知去來心者唯以現在他相續中能緣心等為境界故。又法類品不互相知,謂法智攝諸他心智不知類品,類智所攝諸他心智不知法品,由法類智以欲上界全分對治為所緣故。此他心智見道中無,總觀諦理極速轉故,然皆容作此智所緣。若諸有情將入見道,聲聞獨覺預修加行,為欲知彼見道位心。彼諸有情入見道位,聲聞法分加行若滿,知彼見道初二念心。若為更知類分心故,別修加行至加行滿,彼已度至第十六心,雖知此心非知見道。麟喻法分加行若滿,知彼見道初二念心。若為更知類分心故,別修加行至加行滿,知彼第八集類智心。以此但由下加行故。有說:知初二及第十五心,世尊欲知不由加行,於彼見道一切能知。盡、無生智二相何別?頌曰:

論に曰く:法・類・道および世俗智有りて他心智を成ず。其余は則ち此のようにはあらず。此の智は境に於いて決定の相有り。いわゆる勝および去来の心を知らず。勝心に三有り。いわゆる地・根・位。地とは下地の智は上地の心を知らざるを謂う。根とは信解・時解脱の根の智は見至・不時解脱の心を知らざるを謂う。位とは不還・声聞・応果・独覚・大覚。前前の位の智は後後の勝位の心を知らず。此の智の去来の心を知らざるは、ただ現在の他の相続の中の能緣の心等を以て境界と為すがゆえに。また法・類の品は相てらかに知らず。いわゆる法智の摂する諸の他心智は類品を知らず、類智の摂する所の諸の他心智は法品を知らず。法・類智は欲・上界の全分の対治を以て所縁と為すに由るがゆえに。此の他心智は見道の中に無し。総じて諦理を観じて極速に転ずるがゆえに。然而皆容そ此の智の所縁を作す。もし諸の有情は将に見道に入らんとして、声聞・独覚は加行を預修す。為に彼の見道の位の心を知らんと欲す。彼の諸の有情は見道の位に入る。声聞は法分の加行はもし満たれば、彼の見道の初・二念の心を知る。もし為に更に類分の心を知らんとして、別に加行を修して加行の満に至れば、彼は已に度りて第十六心に至る。此の心を知ると雖も見道を知るに非ず。麟喩は法分の加行はもし満たれば、彼の見道の初・二念の心を知る。もし為に更に類分の心を知らんとして、別に加行を修して加行の満に至れば、彼の第八の集類智心を知る。此れは但だ下加行に由るがゆえに。ある説に、初・二および第十五心を知る。世尊は知らんと欲せば加行に由らず。彼の見道に於いて一切能く知る。尽・无生智の二相は何の別か。頌に曰く、

智於四聖諦,知我已知等,

智は四聖諦に於いて、我已に知れり等を知り、

不應更知等,如次盡無生。

応に更に知るべからず等、次第のごとく尽・无生。

論曰:如本論說:云何盡智?謂無學位若正自知:我已知苦、我已斷集、我已證滅、我已修道,由此所有智、見、明、覺、解、慧、光、觀,是名盡智。云何無生智?謂正自知:我已知苦,不應更知,廣說乃至我已修道,不應更修,由此所有廣說乃至是名無生智。如何無漏智可作如是知?迦濕彌羅諸論師說:從二智出後得智中作如是知,故無有失。由此後得二智別故,表前觀中二智差別。有說:無漏智亦作如是知,然說見言乘言便故,或於諦理現照轉故。由此本論亦作是言。且諸智亦是見。如是十智相攝云何?謂世俗智攝一全一少分,法類智各攝一全七少分,苦集滅智各攝一全四少分,道智攝一全五少分,他心智攝一全四少分,盡無生智各攝一全六少分。何緣二智建立為十?頌曰:

論に曰く:本論の説くがごとく:何をか尽智とするか。いわゆる無学の位にもし正しく自ら知る:我已に苦を知れり、我已に集を断ぜり、我已に滅を証せり、我已に道を修せり。此に由って所有の智・見・明・覚・解・慧・光・観は、是れを名づけて尽智。何をか无生智とするか。いわゆる正しく自ら知る:我已に苦を知れり、応に更に知るべからず、広く説き乃至我已に道を修せり、応に更に修すべからず。此に由って所有の広説乃至是れを名づけて无生智。如何にして無漏智は此のようの知を作すべきか。迦湿弥羅の諸の論師の説く:二智より出づる後得の智の中に此のようの知を作す。ゆえに失有ること無し。此の後得は二智と別なるに由るがゆえに、前の観の中の二智の差別を表す。ある説に、無漏智もまた此のようの知を作す。しかし見の言を説くは言の便に乗ずるがゆえ、或いは諦理に於いて現に照らして転ずるがゆえに。此に由って本論もまた是の言を作す。且つ諸の智もまた是れ見。此のようの十智の相摂は如何。いわゆる世俗智は一全・一少分を摂し、法・類智は各々一全・七少分を摂し、苦・集・滅智は各々一全・四少分を摂し、道智は一全・五少分を摂し、他心智は一全・四少分を摂し、尽・无生智は各々一全・六少分を摂す。何の縁にか二智を建立して十と為すか。頌に曰く、

由自性對治,行相行相境,

自性・対治、行相・行相の境、

加行辦因圓,故建立十智。

加行・事弁・因円に由り、ゆえに十智を建立す。

論曰:由七緣故立二為十:一自性故立世俗智,非勝義智為自性故。二對治故立法類智,全能對治欲上界故。三行相故立苦集智,此二智境體無別故。四行相境故立滅道智,此二行相境俱有別故。五加行故立他心智,非此不知他心所法,本修加行為知他心,雖成滿時亦知心所,而約加行故立他心智名。六事辦故建立盡智,事辦身中最初生故。七因圓故立無生智,一切聖道為因生故。如上所言法智類智,全能對治欲上界法,為有少分治上欲耶?頌曰:

論に曰く:七縁に由って二を立てて十と為す。一は自性に由って世俗智を立つ。勝義智に非ざるを自性と為すがゆえに。二は対治に由って法・類智を立つ。全く能く欲・上界を対治するがゆえに。三は行相に由って苦・集智を立つ。此の二智の境の体に別無きがゆえに。四は行相・境に由って滅・道智を立つ。此の二は行相・境俱に別有るがゆえに。五は加行に由って他心智を立つ。此れは他の心所法を知らざるに非ず。本の修の加行は他心を知らんと為すがゆえ、成満の時にもまた心所を知ると雖も、而も加行に約して他心智の名を立つるがゆえに。六は事弁に由って尽智を建立す。事弁の身の中の最初の生ずる所なるがゆえに。七は因円に由って无生智を立つ。一切の聖道を因として生ずるがゆえに。上の言う所のごとく法智・類智は、全く能く欲・上界の法を対治す。為に少分の上欲を治する有るか。頌に曰く、

緣滅道法智,於修道位中,

滅・道の法智に縁ずるは、修道の位の中に於いて、

兼治上修斷,類無能治欲。

兼ねて上の修断を治す。類は能く欲を治する無し。

論曰:修道所攝滅道法智,兼能對治上界修斷,欲之滅道勝上界故,已除自怨能兼他故。由此類智無能治欲。於此十智中誰有何行相?頌曰:

論に曰く:修道の摂する所の滅・道の法智は、兼ねて能く上界の修断を対治す。欲の滅・道は上界に勝れるがゆえ、已に自怨を除きて能く兼ねて他するがゆえに。此に由って類智は能く欲を治する無し。此の十智の中に於いて誰か何の行相有るか。頌に曰く:

法智及類智,行相俱十六,

法智および類智は、行相俱に十六。

世俗此及餘,四諦智各四。

世俗は此および其余、四諦の智は各々四。

他心智無漏,唯四謂緣道,

他心智の無漏は、ただ四、いわゆる道に縁ず。

有漏自相緣,俱但緣一事。

有漏は自相に縁す。俱に但だ一事に縁ず。

盡無生十四,謂離空非我。

尽・无生は十四。いわゆる空・非我を離る。

論曰:法智、類智一一具有非常、苦等十六行相,十六行相後當廣釋。世智有此及更有餘,能緣一切法自共相等故。苦等四智一一各有緣自諦境四種行相。他心智中,若無漏者唯有緣道四種行相,由此即是道智攝故;若有漏者取自所緣心心所法自相境故。如境自相行相亦爾,故此非前十六所攝。如是二種於一切時一念但緣一事為境,謂緣心時不緣心所,緣受等時不緣想等。若爾,何故薄伽梵說:如實了知有貪心等。非俱時取貪等及心,如不俱時取衣及垢。有貪心者,二義有貪:一貪相應、二貪所繫。貪相應心具由二義,餘有漏心唯貪所繫。有說:經言有貪心者,唯說第一貪相應心。離貪心者,謂治貪心。若貪不相應名離貪心者,餘惑相應者應得離貪名。若爾,有心非貪對治不染汙性,應許此心非有貪心離貪心等。是故應許餘師所說,為貪所繫名有貪心,乃至有痴離痴亦爾。毘婆沙師作如是說:聚心者謂善心,此於所緣不馳散故。散心者謂染心,此與散動相應起故。西方諸師作如是說:眠相應者名為聚心,餘染汙心說名為散。此不應理,諸染汙心若與眠相應,應通聚散故。又應違害本論所言:如實知聚心,具足有四智,謂法智、類智、世俗智、道智。沈心者謂染心,此與懈怠相應起故。策心者謂善心,此與正勤相應起故。小心者謂染心,少淨品者所好習故。大心者謂善心,多淨品者所好習故。或由根價眷屬隨轉力用少多故名小大,染心根少,極二相應故;善心根多,恆三相應故。染心價少,非功用成故;善心價多,大資糧成故。染心眷屬少,無未來修故;善心眷屬多,有未來修故。染心隨轉少,唯三蘊故;善心隨轉多,通四蘊故。染心力用少,所斷善根必還續故;善心力用多,忍必永斷諸隨眠故。由此染善得小大名。掉心者謂染心,掉舉相應故。不掉心者謂善心,能治彼故。不靜靜心應知亦爾。

論に曰く:法智・類智は一一に非常・苦等の十六行相を具す。十六行相は後に当に広く釋すべし。世智は此れ有りておよび更に其余有り。能く一切の法の自・共相等に縁ずるがゆえに。苦等の四智は一一に各々自諦の境に縁ずる四種の行相有り。他心智の中に、もし無漏はただ道に縁ずる四種の行相有り。此に由って即ち是れ道智の摂なるがゆえに。もし有漏は自ら縁ずる所の心・心所法の自相の境を取るがゆえに。境の自相の行相のごときもまた此のよう。ゆえに此れは前の十六の摂する所に非ず。此のようの二種は一切の時に於いて一念に但だ一事を縁じて境と為す。いわゆる心に縁ずる時は心所に縁ぜず、受等に縁ずる時は想等に縁ぜず。もしそうならば、何の故にか薄伽梵は説きたまえる:如実に有貪の心等を了知すと。俱時に貪等および心を取るに非ず。俱時に衣および垢を取らざるがごとし。有貪の心とは、二の義に貪有り。一は貪の相応、二は貪の繋する所。貪の相応する心は具に二義に由り、其余の有漏心はただ貪の繋する所。ある説に、経の有貪の心を説くは、ただ第一の貪相応の心を説く。離貪の心とは、いわゆる貪心を治する。もし貪に相応せざるを名づけて離貪の心ならば、其余の惑の相応するも応に離貪の名を得べし。もしそうならば、心有りて貪の対治に非ず染汚性に非ざるは、応に此の心は有貪心・離貪心等に非ざるを許すべし。此のゆえに応に其余の師の説く所を許すべし。貪の繋する所を為るを名づけて有貪心、乃至有癡・離癡もまた此のよう。毘婆沙師は此の説を作して曰く:聚心とは善心を謂う。此れは所縁に於いて馳散せざるがゆえに。散心とは染心を謂う。此れは散動と相応して起るがゆえに。西方の諸師は此の説を作して曰く:眠に相応するを名づけて聚心、其余の染汚心を説いて名づけて散。此れは理に該当せず。諸の染汚心はもし眠と相応せば、応に聚・散に通ずべきがゆえに。また応に本論の言う所に違害す:如実に聚心を知るは、具に四智有りて足る。いわゆる法智・類智・世俗智・道智。沈心とは染心を謂う。此れは懈怠と相応して起るがゆえに。策心とは善心を謂う。此れは正勤と相応して起るがゆえに。小心とは染心を謂う。少しきの浄品の好習する所なるがゆえに。大心とは善心を謂う。多くの浄品の好習する所なるがゆえに。或いは根・価・眷属・随転の力用の少多に由って名づけて小大。染心は根少なし。極めて二の相応あるがゆえに。善心は根多し。恒に三の相応あるがゆえに。染心は価少なし。功用に成るに非ざるがゆえに。善心は価多し。大きの資糧に成るがゆえに。染心は眷属少なし。未来の修無きがゆえに。善心は眷属多し。未来の修有るがゆえに。染心は随転少なし。ただ三蘊なるがゆえに。善心は随転多し。四蘊に通ずるがゆえに。染心は力用少なし。断ずる所の善根は必ず還って続くがゆえに。善心は力用多し。忍は必ず永く諸の随眠を断ずるがゆえに。此に由って染・善に小大の名を得。掉心とは染心を謂う。掉挙に相応するがゆえに。不掉心とは善心を謂う。能く彼を治するがゆえに。静ならず静ならずの心もまた応に知るべし此のよう。

不定心者謂染心,散動相應故;定心者謂善心,能治彼故。不修心者謂染心,得修習修俱不攝故;修心者謂善心,容有二修故。不解脫心者謂染心,自性相續不解脫故;解脫心者謂善心,自性相續容解脫故。如是所釋不順契經,亦不能辯諸句別義。如何此釋不順契經?經言:此心云何內聚?謂心若與惛眠俱行,或內相應有止無觀。云何外散?謂心遊涉五妙欲境隨散隨流,或內相應有觀無止。豈不前說染心眠俱便有一心通聚散過?雖說,非理,不許眠俱諸染汙心是散心故。豈不又說本論相違?寧違論文,勿違經說。如何不辯諸句別義?謂依此釋不能辯了散等聚等八異相故。依我所釋非不能辯此契經中八句別義,謂雖散等同是染心,而為顯其過失差別,及雖聚等同是善心,而為顯其功德差別,故依八義別立八名。既不能通所違經說,所辯句義理亦不成。又若沈心即掉心者,經不應說若於爾時心沈,恐沈修安定捨三覺支者名非時修。若於爾時心掉,恐掉修擇進喜名非時修。豈修覺支有散別理?此據作意欲脩名修,非現前修,故無有失。豈不我說亦不違經?雖諸染心皆名沈掉,懈怠增者經說沈心,掉舉增者經說掉心,據恆相應我說體一,隨自意語誰復能遮?然實此經意不如是。前說一切貪所繫心皆名有貪心。貪繫是何義?若貪得隨故,有學無漏心應名有貪,貪得隨故。若貪所緣故,無學有漏心應名有貪,貪所緣故。若不許彼為貪所緣,云何彼心可成有漏?若謂由為共相惑緣應名有痴,痴所緣故。然他心智不緣貪得,亦不可說緣緣心貪。寧知他心是有貪等?故非貪繫名有貪心。若爾,云何?今詳經意,貪相應故名有貪心,貪不相應名離貪等。若爾,何故餘契經言:離貪瞋痴心,不還墮三有。依離得說,故無有過。豈不於前已破此說?餘惑相應者,應得離貪名,彼亦與貪不相應故。若依此意,許亦無違。

(論に引き続き曰く:)不定心とは染心を謂う。散動に相応するがゆえに。定心とは善心を謂う。能く彼を治するがゆえに。不修の心とは染心を謂う。得修・習修に俱に摂せざるがゆえに。修心とは善心を謂う。容そ二修有るがゆえに。不解脱の心とは染心を謂う。自性の相続は解脱せざるがゆえに。解脱の心とは善心を謂う。自性の相続は容そ解脱するがゆえに。此のようの釋する所は契経に順ぜず、もまた能く諸の句の別義を弁せず。如何にして此の釋は契経に順ぜざるか。経に説く:此の心は如何にして内に聚するか。いわゆる心はもし惛眠と俱に行じ、或いは内に相応して止有りて観無し。如何にして外に散ずか。いわゆる心は五妙の欲境に游渉して散に随い流に随い、或いは内に相応して観有りて止無し。豈に前の説ける染心は眠と俱にして便ち一心の聚・散に通ずるの過有らざらんか。説くと雖も、理に非ず。眠と俱なる諸の染汚心は是れ散心なるを許さざるがゆえに。豈にまた本論に相違すと説かざらんか。寧ろ論の文に違すとも、経の説に違する勿れ。如何にして諸の句の別義を弁ぜざるか。いわゆる此の釋に依っては能く散等・聚等の八の異相を弁了せざるがゆえに。我が釋する所に依れば此の契経の中の八句の別義を弁ずるに能なきに非ず。いわゆる散等は同じく是れ染心なりと雖も、而も為に其の過失の差別を顕さんとし、および聚等は同じく是れ善心なりと雖も、為に其の功徳の差別を顕さんとす。ゆえに八義に依って別に八名を立つ。すでに能く違する所の経の説に通ぜざれば、弁ずる所の句義の理もまた成らず。またもし沈心が即ち掉心ならば、経は応に説かざるべし:もし爾の時に於いて心沈すれば、沈を恐れて安・定・捨の三覚支を修するを名づけて時に非ずの修。もし爾の時に於いて心掉すれば、掉を恐れて択・進・喜を修するを名づけて時に非ずの修。豈に覚支を修するに散別の理有らんか。此れは修せんと作意するを修と名づくるに拠り、現前の修に非ず。ゆえに失有ること無し。豈に我が説もまた経に違せざらんか。諸の染心は皆名づけて沈掉なりと雖も、懈怠の増するは経に沈心と説き、掉挙の増するは経に掉心と説く。恒の相応に拠って我は体一と説く。自意の語に随うは誰か復た能く遮らん。しかし実には此の経の意は此のようにはあらず。前に一切の貪の繋する所の心は皆名づけて有貪心と説けり。貪の繋とは是れ何の義か。もし貪の得の随うがゆえならば、有学の無漏心は応に名づけて有貪なり。貪の得の随うがゆえに。もし貪の縁ずる所がゆえならば、無学の有漏心は応に名づけて有貪なり。貪の縁ずる所がゆえに。もし彼は貪の縁ずる所と為るを許さざれば、如何にして彼の心は有漏を成ずべきか。もし謂わば共相の惑の縁と為るに由って応に名づけて有癡。癡の縁ずる所がゆえに。しかし他心智は貪の得に縁ぜず、もまた説くべからず縁ずる心の貪に縁ずと。寧んぞ他の心は是れ有貪等を知らんや。ゆえに貪の繋に非ざるを名づけて有貪心。もしそうならば、如何。今経の意を詳ならかにするに、貪に相応するがゆえに名づけて有貪心、貪に相応せざるを名づけて離貪等。もしそうならば、何の故にか其余の契経に説く:貪・瞋・癡の心を離れて、還って三有に堕ちずと。離得に依って説く。ゆえに過有ること無し。豈に前に於いて已に此の説を破らざりしか。其余の惑の相応するも、応に離貪の名を得べし。彼もまた貪と相応せざるがゆえに。もし此の意に依れば、許すもまた違なし。

然不說為離貪心者,彼屬有瞋有痴等故。且止傍論,應述本宗。此所明他心智,為亦能取他心所緣,及亦取他心能緣行相不?俱不能取,知彼心時不觀彼所緣能緣行相故。謂但知彼有染等心,不知彼心所染色等,亦不知彼能緣行相。不爾,他心智應亦緣色等,又亦應有能自緣失。諸他心智有決定相,謂唯能取欲色界繫及非所繫他相續中現在同類心心所法一實自相為所緣境。空無相不相應,盡無生所不攝,不在見道無間道中,餘所不遮如應容有。盡無生智除空非我,各具有餘十四行相,由此二智雖勝義攝,而涉於世俗欲離空非我。謂由彼力於出觀時作如是言:我生已盡、梵行已立、所作已辦、不受後有。為有無漏越此十六更是所餘行相攝不?頌曰:

(論に引き続き曰く:)しかし離貪の心と為すと説かざるは、彼は有瞋・有癡等に属するがゆえに。且く傍論を止め、応に本宗を述べん。此の明かす所の他心智は、為にもまた能く他の心の所縁を取り、およびもまた他の心の能緣の行相を取るや否や。俱に能く取らず。彼の心を知る時に彼の所縁・能緣の行相を観ぜざるがゆえに。いわゆる但だ彼の染等の心有るを知って、彼の心の染ずる所の色等を知らず、もまた彼の能緣の行相を知らず。此のようにはあらざれば、他心智は応にもまた色等に縁ずべし。また応に能く自縁するの失有るべし。諸の他心智に決定の相有り。いわゆるただ能く欲・色界の繋および繋する所に非ざる他の相続の中の現在の同類の心・心所法の一実の自相を取りて所縁の境と為す。空・無相と相応せず、尽・无生の摂する所に非ず、見道・無間道の中に在らず。其余の遮らざる所は応に容そ有るがごとし。尽・无生の智は空・非我を除きて、各々其余の十四行相を具す。此の二智は勝義の摂なりと雖も、而も世俗に渉りて空・非我を離れんと欲す由るに。いわゆる彼の力に由って観を出づる時に此の説を作して曰く:我が生は已に尽き、梵行は已に立ち、作す所は已に弁じ、後有を受けずと。為に無漏有りて此の十六を越えて更に是れ其余の行相の摂するか否や。頌に曰く、

淨無越十六,餘說有論故。

浄は十六を越える無し。其余に説有り。論に由るがゆえに。

論曰:迦濕彌羅國諸論師言:無無漏行相越此十六。外國師說:更有所餘無漏行相越於十六。云何知然?由本論故。如本論說:頗有不繫心能了別欲界繫法耶?曰:能了別,謂非常故、苦故、空故、非我故、因故、集故、生故、緣故,有是處、有是事,如理所引了別。若謂彼文不為顯示不繫心了別欲界繫法時,除前所明八行相外,別有有是處、有是事行相,但為顯示作八行相斯有是處、斯有是事。此釋不然,餘不說故。謂若彼論依此意說,應於餘處亦說此言,然彼餘文但作是說:頗有見斷心能了別欲界繫法耶?曰:能了別,謂我故、我所故、斷故、常故、無因故、無作故、損減故、尊故、勝故、上故、第一故、能清淨故、能解脫故、能出離故、惑故、疑故、猶豫故、貪故、瞋故、慢故、痴故,不如理所引了別。此等亦應說有是處等言,既無此言,故釋非理。十六行相實事有幾?何謂行相能行所行?頌曰:

論に曰く:迦湿弥羅国の諸の論師の説く:無漏の行相の此の十六を越ゆる無し。外国師の説く:更に其余の無漏の行相有りて十六に於いて越ゆ。如何にして知る此のようか。本論に由るがゆえに。本論の説くがごとく:頗る不繋の心有りて能く欲界繫の法を了別するか。答に曰く:能く了別す。いわゆる非常なるがゆえ、苦なるがゆえ、空なるがゆえ、非我なるがゆえ、因なるがゆえ、集なるがゆえ、生なるがゆえ、縁なるがゆえに、是の処有り・是の事有りて、理のごとく引く所の了別。もし謂わば彼の文は為に不繫の心の欲界繫の法を了別する時を顕さんとするに非ざれば、前の明かす所の八行相を除くの外、別に是の処有り・是の事有りの行相有り。但だ為に八行相を作るを顕さんとして斯に是の処有り・斯に是の事有り。此の釋は此のようにはあらず。其余は説かざるがゆえに。いわゆるもし彼の論は此の意に依って説かば、応に其余の処に於いてもまた此の言を説くべし。しかし彼の其余の文は但だ是の説を作す:頗る見断の心有りて能く欲界繫の法を了別するか。答に曰く:能く了別す。いわゆる我なるがゆえ、我所なるがゆえ、断なるがゆえ、常なるがゆえ、無因なるがゆえ、無作なるがゆえ、損減なるがゆえ、尊なるがゆえ、勝なるがゆえ、上なるがゆえ、第一なるがゆえ、能く清浄なるがゆえ、能く解脱なるがゆえ、能く出離なるがゆえ、惑なるがゆえ、疑なるがゆえ、猶豫なるがゆえ、貪なるがゆえ、瞋なるがゆえ、慢なるがゆえ、癡なるがゆえに、理のごとからず引く所の了別。此の等もまた応に是の処等の言有るを説くべし。すでに此の言無ければ、ゆえに釋は理に非ず。十六行相の実事は幾有るか。何谓をか行相・能行・所行とするか。頌に曰く、

行相實十六,此體唯是慧,

行相は実に十六。此の体はただ是れ慧。

能行有所緣,所行諸有法。

能行は所縁有り。所行は諸の有法。

論曰:有餘師說:十六行相名雖十六實事唯七,謂緣苦諦名實俱四,緣餘三諦名四實一。如是說者實亦十六,謂苦聖諦有四相:一非常、二苦、三空、四非我,待緣故非常,逼迫性故苦,違我所見故空,違我見故非我。集聖諦有四相:一因、二集、三生、四緣,如種理故因,等現理故集,相續理故生,成辦理故緣,譬如泥團輪繩水等眾緣和合成辦瓶等。滅聖諦有四相:一滅、二靜、三妙、四離,諸蘊盡故滅,三火息故靜,無眾患故妙,脫眾災故離。道聖諦有四相:一道、二如、三行、四出,通行義故道,契正理故如,正趣向故行,能永超故出。又非究竟故非常,如荷重擔故苦,內離士夫故空,不自在故非我。牽引義故因,出現義故集,滋產義故生,為依義故緣。不續相續斷故滅,離三有為相故靜,勝義善故妙,極安隱故離。治邪道故道,治不如故如,趣入涅槃宮故行,棄捨一切有故出。如是古釋既非一門,故隨所樂更為別釋。生滅故非常,違聖心故苦,於此無我故空,自非我故非我。因集生緣如經所釋,謂五取蘊以欲為根、以欲為集、以欲為類、以欲為生,唯此生聲應在後說,與論為異。此四體相差別云何?由隨位別四欲有異:一執現總我起總自體欲、二執當總我起總後有欲、三執當別我起別後有欲、四執續生我起續生時欲。或執造業我起造業時欲,第一於苦是初因,故說名為因,如種子於果。第二於苦等招集,故說名為集,如芽等於果。第三於苦為別緣,故說名為緣,如田等於果,謂由田水糞等力故令果味勢熟德別生。第四於苦能近生,故說名為生,如華蘂於果。或如契經說:有二五二四愛行為四種欲。執現總我有五種異:一執我現決定有、二執我現如是有、三執我現變異有、四執我現有、五執我現無。執當總我亦有五異:一執我當決定有、二執我當如是有、三執我當變異有、四執我當有、五執我當無。

論に曰く:其余の師有りて説く:十六行相は名は十六なりと雖も実事はただ七。いわゆる苦諦に縁ずるは名・実俱に四、其余の三諦に縁ずるは名は四にして実は一。此のようの説くは実もまた十六。いわゆる苦聖諦に四相有り。一は非常、二は苦、三は空、四は非我。縁を待つがゆえに非常。逼迫の性なるがゆえに苦。我所の見に違するがゆえに空。我見に違するがゆえに非我。集聖諦に四相有り。一は因、二は集、三は生、四は縁。種の理のごときがゆえに因。等現の理なるがゆえに集。相続の理なるがゆえに生。成弁の理なるがゆえに縁。譬えば泥団・輪・繩・水等の衆縁の和合して瓶等を成弁するがごとし。滅聖諦に四相有り。一は滅、二は静、三は妙、四は離。諸蘊の尽きるがゆえに滅。三火の息むがゆえに静。衆患無きがゆえに妙。衆災を脱するがゆえに離。道聖諦に四相有り。一は道、二は如、三は行、四は出。通行の義なるがゆえに道。正理に契するがゆえに如。正しく趣向するがゆえに行。能く永く超ゆるがゆえに出。また究竟に非ざるがゆえに非常。重荷を荷うがごときがゆえに苦。内に士夫を離るるがゆえに空。自在ならざるがゆえに非我。牽引の義なるがゆえに因。出現の義なるがゆえに集。滋産の義なるがゆえに生。依と為るの義なるがゆえに縁。続かざる相続の断ずるがゆえに滅。三有為の相を離るるがゆえに静。勝義の善なるがゆえに妙。極めて安穏なるがゆえに離。邪道を治するがゆえに道。不如を治するがゆえに如。涅槃の宮に趣入するがゆえに行。一切有を棄捨するがゆえに出。此のようの古釋はすでに一門に非ざれば、ゆえに楽む所に随って更に別釋を為す。生滅するがゆえに非常。聖心に違するがゆえに苦。此に於いて我無きがゆえに空。自ら我に非ざるがゆえに非我。因・集・生・縁は経の釋するがごとし。いわゆる五取蘊は欲を以て根と為し、欲を以て集と為し、欲を以て類と為し、欲を以て生と為す。ただ此生の声は応に後に説くべし。論と異と為す。此の四の体相の差別は如何。位の別に随って四欲に異有るに由る。一は現の総我を執して総自体の欲を起し、二は当の総我を執して総後有の欲を起し、三は当の別我を執して別後有の欲を起し、四は続生の我を執して続生の時の欲を起す。或いは造業の我を執して造業の時の欲を起す。第一は苦に於いて是れ初の因。ゆえに名づけて因と説く。種子の果に於けるがごとし。第二は苦に於いて招集を等しくす。ゆえに名づけて集と説く。芽等の果に於けるがごとし。第三は苦に於いて別縁と為す。ゆえに名づけて縁と説く。田等の果に於けるがごとし。いわゆる田・水・糞等の力に由って果の味・勢・熟・徳をして別に生ぜしむるがゆえに。第四は苦に於いて能く近く生ず。ゆえに名づけて生と説く。花蕊の果に於けるがごとし。或いは契経の説くがごとく:二五・二四の愛行有りて四種の欲と為す。現の総我を執するに五種の異有り。一は我の現に決定して有りと執し、二は我の現に此のよう有りと執し、三は我の現に変異して有りと執し、四は我の現に有りと執し、五は我の現に無しと執す。当の総我を執するもまた五の異有り。一は我の当に決定して有るべしと執し、二は我の当に此のよう有るべしと執し、三は我の当に変異して有るべしと執し、四は我の当に有るべしと執し、五は我の当に無からんと執す。

執當別我有四種異:一執我當別有、二執我當決定別有、三執我當如是別有、四執我當變異別有。執續生我等亦有四種異:一執我亦當有、二執我亦當決定有、三執我亦當如是有、四執我亦當變異有。流轉斷故滅,眾苦息故靜。如說苾芻諸行皆苦,唯有涅槃最為寂靜,更無上故妙,不退轉故離。如正道故道,如實轉故如,定能趣故行。如說此道能至清淨,餘見必無至清淨理,永離有故出。又為治常樂我所我見故修非常苦空非我行相,為治無因一因變因知先因見,故修因、集、生、緣行相。為治解脫是無見,故修滅行相。為治解脫是苦見,故修靜行相。為治靜慮及等至樂是妙見,故修妙行相。為治解脫是數退墮非永見,故修離行相。為治無道邪道餘道退道見,故修道、如、行、出行相。如是行相以慧為體。若爾,慧應非有行相,以慧與慧不相應故。由此應言諸心心所取境類別皆名行相,慧及諸餘心心所法有所緣故皆是能行,一切有法皆是所行。由此三門體有寬陿,慧通行相、能行、所行,餘心心所唯能所行,諸餘有法唯是所行。已辨十智行相差別,當辨性攝依他依身。頌曰:

(論に引き続き曰く:)当の別我を執するに四種の異有り。一は我の当に別に有るべしと執し、二は我の当に決定して別に有るべしと執し、三は我の当に此のよう別に有るべしと執し、四は我の当に変異して別に有るべしと執す。続生の我等を執するもまた四種の異有り。一は我もまた当に有るべしと執し、二は我もまた当に決定して有るべしと執し、三は我もまた当に此のよう有るべしと執し、四は我もまた当に変異して有るべしと執す。流転の断ずるがゆえに滅。衆苦の息むがゆえに静。説くがごとく苾芻、諸行は皆苦、ただ涅槃のみ最も寂静なり。更に上無きがゆえに妙。退転せざるがゆえに離。正道のごときがゆえに道。如実に転ずるがゆえに如。定めて能く趣くがゆえに行。説くがごとく此の道は能く清浄に至り、其余の見は必ず清浄に至るの理無し。永く有を離るるがゆえに出。また為に常・楽・我・我所の見を治せんとして非常・苦・空・非我の行相を修す。為に無因・一因・変因・知先の因の見を治せんとして因・集・生・縁の行相を修す。為に解脱は是れ無の見を治せんとして滅の行相を修す。為に解脱は是れ苦の見を治せんとして静の行相を修す。為に静慮および等至の楽は是れ妙の見を治せんとして妙の行相を修す。為に解脱は是れ数退堕して永に非ずの見を治せんとして離の行相を修す。為に無道・邪道・其余の道・退道の見を治せんとして道・如・行・出の行相を修す。此のようの行相は慧を以て体と為す。もしそうならば、慧は応に行相有るに非ざるべし。慧は慧と相応せざるを以て。此に由って応に説くべし、諸の心・心所の境を取るの類別は皆名づけて行相。慧および其余の心・心所法は所縁有るがゆえに皆是れ能行。一切の有法は皆是れ所行。此に由って三門の体に寛狭有り。慧は行相・能行・所行に通じ、其余の心・心所はただ能・所行、諸の其余の有法はただ是れ所行。已に十智の行相の差別を弁じたれば、当に性摂・依他・依身を弁ずべし。頌に曰く、

性俗三九善,依地俗一切,

性は俗は三、九は善。地に依るは俗は一切。

他心智唯四,法六餘十九,

他心智はただ四。法は六、其余は十・九。

現起所依身,他心依欲色,

現起の依る所の身は、他心は欲・色に依り、

法智但依欲,餘八通三界。

法智は但だ欲に依る。其余の八は三界に通ず。

論曰:如是十智三性攝者,謂世俗通三性,餘九智唯是善。依地別者,謂世俗智通依欲界乃至有頂,他心智唯依四根本靜慮,法智依此四及未至、中間,餘依此六地及下三無色。依身別者,謂他心智依欲色界俱可現前,法智但依欲界現起,餘八智現起通依三界身。已辯性地身,當辯念住攝。頌曰:

論に曰く:此のようの十智の三性の摂するは、いわゆる世俗は三性に通じ、其余の九智はただ是れ善。地の別に依るは、いわゆる世俗智は欲界より乃至有頂に依るに通じ、他心智はただ四根本の静慮に依り、法智は此の四および未至・中間に依り、其余は此の六地および下の三無色に依る。身の別に依るは、いわゆる他心智は欲・色界に依って俱に現前すべく、法智は但だ欲界に依って現起し、其余の八智の現起は三界の身に依るに通ず。已に性・地・身を弁じたれば、当に念住の摂を弁ずべし。頌に曰く、

諸智念住攝,滅智唯最後,

諸の智の念住の摂は、滅智はただ最後。

他心智後三,餘八智通四。

他心智は後の三。其余の八智は四に通ず。

論曰:滅智攝在法念住中,他心智後三攝,所餘八皆通四。如是十智展轉相望,一一當言幾智為境?頌曰:

論に曰く:滅智は法念住の中に摂せられ、他心智は後の三に摂せられ、其余の八は皆四に通ず。此のようの十智は展転に相望めて、一一に当に言うべし幾智を境と為すか。頌に曰く、

諸智互相緣,法類道各九,

諸の智は互いに縁ず。法・類・道は各々九。

苦集智各二,四皆十滅非。

苦・集の智は各々二。四は皆十、滅は非ず。

論曰:法智能緣九智為境,除類智。類智能緣九智為境,除法智。道智能緣九智為境,除世俗智,非道攝故。苦集二智一一能緣二智為境,謂俗、他心。世俗、他心、盡、無生智皆緣十智為境。滅智不緣諸智為境,唯以擇滅為所緣故。十智所緣總有幾法?何智幾法為所緣境?頌曰:

論に曰く:法智は能く九智を縁じて境と為す。類智を除く。類智は能く九智を縁じて境と為す。法智を除く。道智は能く九智を縁じて境と為す。世俗智を除く。道の摂に非ざるがゆえに。苦・集の二智は一一に能く二智を縁じて境と為す。いわゆる俗・他心。世俗・他心・尽・无生の智は皆十智を縁じて境と為す。滅智は諸の智を縁じて境と為さず。ただ択滅を以て所縁と為すがゆえに。十智の縁ずる所は総じて幾法有るか。何の智か幾法を所縁の境と為すか。頌に曰く、

所緣總有十,謂三界無漏,

所縁は総じて十有り。いわゆる三界・無漏。

無為各有二,俗緣十法五,

無為は各々二有り。俗は十法を縁じ、五。

類七苦集六,滅緣一道二,

類は七、苦・集は六。滅は一を縁じ、道は二。

他心智緣三,盡無生各九。

他心智は三を縁ず。尽・无生は各々九。

論曰:十智所緣總有十法,謂有為法分為八種,三界所繫無漏有為各有相應不相應故。無為分二種,善、無記別故。俗智總緣十法為境。法智緣五,謂欲界二、無漏道二及善無為。類智緣七,謂色無色無漏道六及善無為。苦集智各緣三界所繫六。滅智緣一,謂善無為。道智緣二,謂無漏道。他心智緣欲色無漏三相應法。盡無生智緣有為八及善無為。頗有一念智緣一切法不?不爾。豈不非我觀智知一切法皆非我耶?此亦不能緣一切法。不緣何法?此體是何?頌曰:

論に曰く:十智の縁ずる所は総じて十法有り。いわゆる有為法は分かれて八種と為す。三界の繋する所・無漏の有為は各々相応・不相応有るがゆえに。無為は二種に分かつ。善・無記の別なるがゆえに。俗智は総じて十法を縁じて境と為す。法智は五を縁ず。いわゆる欲界の二・無漏道の二および善の無為。類智は七を縁ず。いわゆる色・無色・無漏道の六および善の無為。苦・集智は各々三界の繋する所の六を縁ず。滅智は一を縁ず。いわゆる善の無為。道智は二を縁ず。いわゆる無漏道。他心智は欲・色・無漏の三の相応法を縁ず。尽・无生智は有為の八および善の無為を縁ず。頗る一念の智有りて一切の法を縁ずるか否や。そうにはあらず。豈に非我観の智は一切の法は皆非我と知るにあらずや。此れもまた能く一切の法を縁ぜず。何の法を縁ぜざるか。此の体は是れ何ぞ。頌に曰く、

俗智除自品,總緣一切法,

俗智は自品を除き、総じて一切の法を縁じて、

為非我行相,唯聞思所成。

非我の行相と為す。ただ聞・思の成ずる所。

論曰:以世俗智觀一切法為非我時猶除自品,自品謂自體相應俱有法,境、有境別故。同一所緣故,相隣近故,非此智所緣。此智唯是欲色界攝,聞思所成非修所成,修所成慧地別緣故,若異此者應頓離染。已辯所緣。復應思擇,誰成就幾智耶?頌曰:

論に曰く:世俗智を以て一切の法を観じて非我と為す時は、猶お自品を除く。自品とは自体・相応・俱有の法を謂う。境・有境の別あるがゆえ、同じく一の所縁なるがゆえ、相い隣近するがゆえに、此の智の縁ずる所に非ず。此の智はただ是れ欲・色界の摂、聞・思の成ずる所にして修の成ずる所に非ず。修の成ずる所の慧は地に別ありて縁ずるがゆえに。もし此に異なるは応に頓じて染を離るべし。已に所縁を弁じたれば、復た応に思択すべし。誰か幾智を成就するか。頌に曰く、

異生聖見道,初念定成一,

異生・聖・見道は、初念に定めて一を成じ、

二定成三智,後四一一增,

二に定めて三智を成じ、後の四は一一に増す。

修道定成七,離欲增他心,

修道は定めて七を成じ、欲を離れて他心を増す。

無學鈍利根,定成九成十。

無学の鈍・利の根は、定めて九を成じ或いは十を成ず。

論曰:諸異生位及聖見道第一剎那定成一智,謂世俗智。第二剎那定成三智,謂加法、苦。第四六十,十四剎那如次後後增類集滅道智。諸未增位成數如前,故修位中亦定成七。如是諸位,若已離欲各各增一,謂他心智,唯除異生生無色者。時解脫者定成九智,謂加盡智。不時解脫定成就十,謂增無生。於何位中頓修幾智?且於見道十五心中,頌曰:

論に曰く:諸の異生の位および聖の見道の第一刹那は定めて一智を成ず。いわゆる世俗智。第二刹那は定めて三智を成ず。いわゆる法・苦を加ふ。第四・六・十、十四の刹那は次第のごとく後後に類・集・滅・道智を増す。諸の未だ増せざる位は成ずる数は前のごとし。ゆえに修位の中にもまた定めて七を成ず。此のようの諸位は、もし已に欲を離れたれば各々一を増す。いわゆる他心智。ただ異生の無色に生ずるを除く。時解脱なるは定めて九智を成ず。いわゆる尽智を加ふ。不時解脱は定めて十を成就す。いわゆる无生を増す。何の位の中に於いて頓じて幾智を修するか。且つ見道の十五心に於いて、頌に曰く、

見道忍智起,即彼未來修,

見道は忍智の起る、即ち彼の類を未来に修し、

三類智兼修,現觀邊俗智,

三の類智は兼ねて修す。現観の辺の俗智。

不生自下地,苦集四滅後,

自・下の地に生ぜず。苦・集・四・滅の後に、

自諦行相境,唯加行所得。

自諦の行相の境を縁ず。ただ加行の得る所。

論曰:見道位中隨起忍智,皆即彼類於未來修,然具修自諦諸行相念住。何緣見道唯同類修?先未曾得此種性故,對治所緣俱決定故。唯苦集滅三類智時,能兼修未來現觀邊俗智,於一一諦現觀後邊方能兼修故立斯號,由此餘位未能兼修。道類智時何不修此?俗智曾於道,無事現觀故。又必無於道,遍事現觀故,謂於苦集滅可遍知斷證,必無於道可能遍修。雖集滅邊未遍斷證,而於當位斷證已周。道則不然,種性多故。有言:此是見道眷屬,彼修道攝,故不能修。理非極成,不應為證。此世俗智是不生法,於一切時無容起故。若爾,何故說名為修?先未曾得今方得故。既不能起,得義何依?但由得故說名為得。由得故得曾所未聞,故所辯修理不成立。如古師說:修義可成。彼說云何?由聖道力修世俗智,於出觀後有勝緣諦俗智現前,得此起依故名得此,如得金礦名為得金。毘婆沙師不樂此義,隨依何地見道現前能修未來自地下地,謂依未至見道現前能修未來一地見道二地俗智,至依第四見道現前能修未來六地見道七地俗智。苦集邊修四念住攝,滅邊修者唯法念住,隨於何諦現觀邊修,即以此行相緣此諦為境,見道力得故。唯加行所得,智增故立智名,若並眷屬以欲四蘊色界五蘊為其自性。次於修道離染位中,頌曰:

論に曰く:見道の位の中に起る所に随って忍智は、皆即ち彼の類を未来に於いて修す。しかし具に自諦の諸の行相の念住を修す。何の縁にか見道はただ同類を修するか。先に未だ曾て此の種性を得ざるがゆえ、対治・所縁は俱に決定なるがゆえに。ただ苦・集・滅の三の類智の時は、能く兼ねて未来の現観の辺の俗智を修す。一一の諦に於いて現観の後辺に方に能く兼ねて修するがゆえに斯の号を立つ。此に由って其余の位は未だ能く兼ねて修せず。道類智の時は何の故にか此を修せざるか。俗智は曾て道に於いて、事の現観無きがゆえに。また必ず道に於いて、遍く事を現観する無きがゆえに。いわゆる苦・集・滅に於いては遍く知り断じ証すべきも、必ず道に於いては能く遍く修する可からず。集・滅の辺は未だ遍く断証せずと雖も、而も当の位に於いて断証已に周し。道は則ち此のようにはあらず。種性多きがゆえに。人説く有り:此れは見道の眷属、彼は修道の摂。ゆえに能く修せざる所。理は極成に非ず。応に証と為すべからず。此の世俗智は不生の法。一切の時に於いて起るを容れざるがゆえに。もしそうならば、何の故にか名づけて修と説くか。先に未だ曾て得ずして今方に得るがゆえに。すでに能く起さざれば、得の義は何に依るか。但だ得に由るがゆえに名づけて得と説く。得に由って曾て聞かざる所を得るがゆえに、ゆえに弁ずる所の修の理は成立せず。古師の説くがごとく:修の義は成るべし。彼の説は如何。聖道の力に由って世俗智を修して、観を出づる後に勝れる諦に縁ずる俗智の現前有り。此の起る依を得るがゆえに名づけて此を得。金の鉱を得るを名づけて金を得るがごとし。毘婆沙師は此の義を楽わず。依る所の何の地かに随って見道の現前は能く未来の自地・下地を修す。いわゆる未至に依って見道の現前は能く未来の一地の見道・二地の俗智を修し、乃至第四に依って見道の現前は能く未来の六地の見道・七地の俗智を修す。苦・集の辺の修は四念住の摂、滅の辺の修はただ法念住。何の諦かに随って現観の辺に修するは、即ち此の行相を以て此の諦を縁じて境と為す。見道の力の得るがゆえに。ただ加行の得る所。智増するがゆえに智の名を立つ。もし并びに眷属は欲の四蘊・色界の五蘊を以て其の自性と為す。次に修道の離染の位の中に於いて、頌に曰く、

修道初剎那,修六或七智,

修道の初刹那は、六あるいは七智を修す。

斷八地無間,及有欲餘道,

八地を断ずる無間、および欲有りの其余の道、

有頂八解脫,各修於七智,

有頂の八解脱は、各々七智を修す。

上無間餘道,如次修六八。

上の無間・其余の道は、次第のごとく六・八を修す。

論曰:修道初念,謂第十六道類智時現修二智。未離欲者未來修六,謂法及類苦集滅道。離欲修七,謂加他心,不修世俗,有頂治故。斷欲修斷九無間道八解脫道,俗四法智隨應現修。斷上七地諸無間道四類世俗滅道法智隨應現修。斷欲加行有欲勝進,俗四法類隨應現修。此上未來皆修七智,謂俗、法類苦集滅道。斷有頂地前八解脫,四類二法隨應現修,此於未來亦唯修七,然除世俗,加他心智。斷有頂地九無間道,四類二法隨應現修,未來修法類苦集滅道六。斷欲修斷第九解脫,俗四法智隨應現修。斷上七地諸解脫道,四類世俗滅道法智隨應現修。斷欲修斷第九勝進斷上八地諸加行道,俗四法類隨應現修。斷上七地有頂八品諸勝進道,俗四法類及他心智隨應現修。此上未來皆修八智,謂俗法類四諦他心。次辯離染得無學位。頌曰:

論に曰く:修道の初念、いわゆる第十六の道類智の時は現に二智を修す。未だ欲を離れざるは未来に六を修す。いわゆる法および類・苦・集・滅・道。欲を離れて七を修す。いわゆる他心を加ふ。世俗を修せず。有頂を治するがゆえに。欲の修断を断ずる九の無間道・八の解脱道は、俗・四の法智は応に現に修すに随う。上の七地を断ずる諸の無間道は四の類・世俗・滅・道の法智は応に現に修すに随う。欲を断ずる加行・欲有りの勝進は、俗・四の法・類は応に現に修すに随う。此の上の未来は皆七智を修す。いわゆる俗・法・類・苦・集・滅・道。有頂地を断ずる前の八解脱は、四の類・二の法は応に現に修すに随う。此れは未来に於いてもただ七を修す。しかし世俗を除き、他心智を加ふ。有頂地を断ずる九の無間道は、四の類・二の法は応に現に修すに随う。未来には法・類・苦・集・滅・道の六を修す。欲の修断を断ずる第九の解脱は、俗・四の法智は応に現に修すに随う。上の七地を断ずる諸の解脱道は、四の類・世俗・滅・道の法智は応に現に修すに随う。欲の修断を断ずる第九の勝進・上の八地を断ずる諸の加行道は、俗・四の法・類は応に現に修すに随う。上の七地・有頂の八品を断ずる諸の勝進道は、俗・四の法・類および他心智は応に現に修すに随う。此の上の未来は皆八智を修す。いわゆる俗・法・類・四諦・他心。次に離染して無学の位を得るを弁ず。頌に曰く、

無學初剎那,修九或修十,

無学の初刹那は、九を修し或いは十を修す。

鈍利根別故,勝進道亦然。

鈍・利の根の別なるがゆえに。勝進道もまた此のよう。

論曰:無學初念,謂斷有頂第九解脫,苦集類盡隨應現修,緣有頂故。勝進九十隨應現修,未來隨應修九修十,謂鈍根者唯除無生,利根亦修無生智故。次辯餘位修智多少。頌曰:

論に曰く:無学の初念、いわゆる有頂を断ずる第九の解脱は、苦・集・類・尽は応に現に修すに随う。有頂に縁ずるがゆえに。勝進は九・十は応に現に修すに随う。未来は応に九を修し十を修すに随う。いわゆる鈍根なるはただ无生を除き、利根はもまた无生智を修するがゆえに。次に其余の位の修する智の多少を弁ず。頌に曰く、

練根無間道,學六無學七,

練根の無間道は、学は六、無学は七。

餘學六七八,應八九一切,

其余の学は六・七・八、応は八・九・一切。

雜修通無間,學七應八九,

雑修・通の無間は、学は七、応は八・九。

餘道學修八,應九或一切。

其余の道は学は八を修し、応は九或いは一切。

聖起餘功德,及異生諸位,

聖の起る其余の功徳、および異生の諸位の、

所修智多少,皆如理應思。

修する所の智の多少は、皆理のごとく応に思うべし。

論曰:學位練根諸無間道,四法類智隨應現修,未來修六,四諦法類似見道故不修世俗,能斷障故不修他心。諸解脫道四法類智隨應現修,未離欲者未來修六,四諦法類。已離欲者未來修七,謂加他心。有餘師言:解脫道位亦修世俗,諸加行道,俗四法類隨應現修。未離欲者未來修七,已離欲八,謂加他心。諸勝進道,若未離欲,俗四法類隨應現修,未來亦七。若已離欲,俗四法類及他心智隨應現修,未來亦八。無學練根,諸無間道,四類二法隨應現修,未來修七。四諦法類盡,不修世俗,如治有頂故。五前八解脫,四類二法隨應現修,未來修八,四諦法類、他心及盡。四第九解脫,苦集類盡隨應現修,未來修九。最後解脫,苦集類盡隨應現修,未來修十。諸加行道現修如學,未來修九。諸勝進道,鈍者九智隨應現修,未來亦九。利者十智隨應現修,未來亦十。學位雜修諸無間道,四法類俗隨應現修,未來修七。諸解脫道唯四法類,加行增俗。諸勝進道,又加他心隨應現修,未來皆八。無學雜修諸無間道,現修如學,未來所修鈍八利九。諸解脫道唯四法類,加行增俗隨應現修,未來所修鈍九利十。諸勝進道與練根同。學位修通五無間道,現修俗智,未來修七,宿住神境、二解脫道。五加行道,現修俗智,他心、解脫、法類道、俗及他心智。一切勝進並苦集滅隨應現修,此上未來皆修八智。無學修通五無間道,現修如學,未來所修鈍八利九。解脫加行現修如學,未來所修鈍九利十。諸勝進道與練根同,天眼天耳、二解脫道,無記性故不名為修。聖起所餘四無量等修所成攝有漏德時,現在皆修一世俗智。有學未來,未離欲七、已離欲八。無學未來,鈍九利十,除微微心,此於未來唯修俗故。若起所餘無漏功德靜慮攝者,四法類智隨應現修。無色攝者,唯四類智隨應現修,未來所修同前有漏。

論に曰く:学位の練根の諸の無間道は、四の法・類智は応に現に修すに随い、未来には六を修す。四諦・法・類は見道に似たるがゆえに世俗を修せず。能く障を断ずるがゆえに他心を修せず。諸の解脱道は四の法・類智は応に現に修すに随い、未だ欲を離れざるは未来に六を修す。四諦・法・類。已に欲を離れたるは未来に七を修す。いわゆる他心を加ふ。其余の師有りて説く:解脱道の位もまた世俗を修す。諸の加行道は、俗・四の法・類は応に現に修すに随う。未だ欲を離れざるは未来に七を修し、已に欲を離れたるは八。いわゆる他心を加ふ。諸の勝進道は、もし未だ欲を離れざれば、俗・四の法・類は応に現に修すに随い、未来もまた七。もし已に欲を離れたれば、俗・四の法・類および他心智は応に現に修すに随い、未来もまた八。無学の練根は、諸の無間道は、四の類・二の法は応に現に修すに随い、未来には七を修す。四諦・法・類・尽。世俗を修せず。有頂を治するがごときがゆえに。五の前の八解脱は、四の類・二の法は応に現に修すに随い、未来には八を修す。四諦・法・類・他心および尽。四の第九解脱は、苦・集・類・尽は応に現に修すに随い、未来には九を修す。最後の解脱は、苦・集・類・尽は応に現に修すに随い、未来には十を修す。諸の加行道は現に修すること学のごとく、未来には九を修す。諸の勝進道は、鈍なるは九智は応に現に修すに随い、未来もまた九。利なるは十智は応に現に修すに随い、未来もまた十。学位の雑修の諸の無間道は、四の法・類・俗は応に現に修すに随い、未来には七を修す。諸の解脱道はただ四の法・類、加行は俗を増す。諸の勝進道は、また他心を加えて応に現に修すに随い、未来は皆八。無学の雑修の諸の無間道は、現に修すること学のごとく、未来の修する所は鈍は八・利は九。諸の解脱道はただ四の法・類、加行は俗を増し応に現に修すに随い、未来の修する所は鈍は九・利は十。諸の勝進道は練根と同じ。学位の通を修する五の無間道は、現に俗智を修し、未来には七を修す。宿住・神境の二解脱道は、五の加行道は、現に俗智を修す。他心・解脱・法・類・道・俗および他心智。一切の勝進は并びに苦・集・滅は応に現に修すに随い、此の上の未来は皆八智を修す。無学の通を修する五の無間道は、現に修すること学のごとく、未来の修する所は鈍は八・利は九。解脱・加行は現に修すること学のごとく、未来の修する所は鈍は九・利は十。諸の勝進道は練根と同じ。天眼・天耳の二解脱道は、無記性なるがゆえに名づけて修と為さず。聖の起る其余の四無量等の修の成ずる所の摂する有漏の徳の時は、現在は皆一の世俗智を修す。有学の未来は、未だ欲を離れざるは七、已に欲を離れたるは八。無学の未来は、鈍は九・利は十。微微の心を除き、此れは…

異生離染,現修世俗斷欲三定。第九解脫及依根本四靜慮定起勝進道離染加行,未來修二,謂加他心,所餘未來唯修世俗。修五通時,諸加行道二解脫道現修俗智,一解脫道現俗他心。諸勝進道二隨應現,未來一切皆修二種。五無間道現未唯俗。依本靜慮修餘功德皆現修俗,未來修二。唯順決擇分必不修他心,以是見道近眷屬故。依餘地定修餘功德,皆唯世俗現未來修。諸未來修為修幾地?諸所起得皆是修耶?頌曰:

(論に引き続き曰く:)異生の離染は、現に世俗を修して欲を断ずる三定。第九の解脱および根本の四静慮に依って勝進道を起し離染の加行は、未来に二を修す。いわゆる他心を加ふ。其余の未来はただ世俗を修す。五通を修する時は、諸の加行道・二解脱道は現に俗智を修し、一解脱道は現に俗・他心を修す。諸の勝進道は二は応に現に修すに随い、未来は一切皆二種を修す。五の無間道は現・未はただ俗。本の静慮に依って其余の功徳を修するは皆現に俗を修し、未来に二を修す。ただ順決択分は必ず他心を修せず。是れ見道の近き眷属なるを以て。其余の地に依って其余の功徳を修するは、皆ただ世俗を現・未来に修す。諸の未来の修は幾地を修するか。諸の起す所の得は皆是れ修か。頌に曰く、

諸道依得此,修此地有漏,

諸の道は此の地に依り此を得て、此の地の有漏を修し、

為離得起此,修此下無漏。

為に離れて此を得て此を起すは、此の下の無漏を修す。

唯初盡遍修,九地有漏德,

ただ初の尽は遍く修す。九地の有漏の徳。

生上不修下,曾所得非修。

上に生じて下を修せず。曾て得たる所は修に非ず。

論曰:諸道依此地及得此地時,能修未來此地有漏。聖為離此地及得此地時,並此地中諸道現起,皆能修此及下無漏。為離此言通二四道,唯初盡智現在前時,力能遍修九地有漏,不淨觀等無量功德能縛眾惑斷無餘故,如能縛斷所縛氣通。又彼自心今登王位,一切善法起得來朝。譬如大王登祚灑頂,一切境土皆來朝貢。然此生上必不修下。初盡智言顯離有頂及五練根位第九解脫道。諸所言修唯先未得令起今得是能所修,謂若先時未得今得,用功得者方是所修。若法先時曾得棄捨,今雖還得而非所修,非設劬勞而證得故。若先未得用功現前能修未來,勢力勝故。曾得而起不修未來,非多功起勢力劣故。為唯約得說名為修?不爾。云何?修有四種:一得修、二習修、三對治修、四除遣修。如是四修依何法立?頌曰:

論に曰く:諸の道は此の地に依りおよび此の地を得る時、能く未来の此の地の有漏を修す。聖は為に此の地を離れおよび此の地を得る時、并びに此の地の中の諸の道の現起するは、皆能く此および下の無漏を修す。為に離るの此言は二・四道に通ず。ただ初の尽智の現前の時は、力は能く遍く九地の有漏を修す。不浄観等の無量の功徳は能く衆惑を縛して断って余無くするがゆえに。能く縛断する所は縛する所の気に通ずるがごとし。また彼の自心は今王位に登り、一切の善法は起ち得て来朝す。譬えば大王の祚に登り頂を洒ぐに、一切の境土は皆来たりて朝貢するがごとし。しかし此は上に生じて必ず下を修せず。初の尽智の言は有頂を離れおよび五の練根の位の第九解脱道を顕す。諸の言う所の修はただ先に未だ得ずして起ちて今得るをして是れ能・所修と為す。いわゆるもし先時に未だ得ずして今得る、功を用いて得たるは方に是れ修する所。もし法は先時に曾て得て棄捨したるは、今は還得すと雖も而も修する所に非ず。劬労を設けて証得するに非ざるがゆえに。もし先に未だ得ずして功を用いて現前して能く未来を修するは、勢力勝れるがゆえに。曾て得て起るは未来を修せず。多く功に起るに非ざりて勢力劣れるがゆえに。為にただ得に約して名づけて修と説くか。そうにはあらず。如何。修に四種有り。一は得修、二は習修、三は対治修、四は除遣修。此のようの四修は何の法に依ってか立つるか。頌に曰く、

立得修習修,依善有為法,

得修・習修を立つるは、善の有為法に依り、

依諸有漏法,立治修遣修。

諸の有漏法に依りて、治修・遣修を立つ。

論曰:得、習二修依有為善未來唯得,現具二修,治遣二修依有漏法,故有漏善具足四修。無漏有為餘有漏法,如次是具前後二修。外國諸師說修有六,於前四上加防、觀修,防護諸根、觀察身故。如契經說:云何修根?謂於六根善防善護,乃至廣說。又契經說:云何修身?謂於自身觀髮毛爪,乃至廣說。迦濕彌羅國諸論師言:防觀二修即治遣修攝。

論に曰く:得・習の二修は有為の善に依りて未来はただ得を、現は二修を具す。治・遣の二修は有漏法に依る。ゆえに有漏の善は具に四修を足る。無漏の有為・其余の有漏法は、次第のごとく是れ前後の二修を具す。外国の諸師は修に六有りと説く。前の四の上に防・観の修を加ふ。諸根を防護し、身を観察するがゆえに。契経に説くがごとく:如何にして根を修するか。いわゆる六根に於いて善く防ぎ善く護る、乃至広く説く。また契経に説く:如何にして身を修するか。いわゆる自身に於いて髪・毛・爪を観ず、乃至広く説く。迦湿弥羅国の諸の論師の説く:防・観の二修は即ち治・遣の修の摂。

説一切有部倶舎論 巻第二十六

アビダルマ倶舎論 巻第二十七 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別智品第七之二

分別智品 第七之二

如是已辯諸智差別,智所成德今當顯示,於中先辯佛不共德。且初成佛盡智位修不共佛法有十八種。何謂十八?頌曰:

此のようの已に諸智の差別を弁じたれば、智の成ずる所の徳は今当に顕示すべし。中に於いて先に仏の不共の徳を弁ず。且つ初めて仏を成ずる尽智の位に於いて不共の仏法を修するに十八種有り。何谓をか十八とするか。頌に曰く、

十八不共法,謂佛十力等。

十八の不共法。いわゆる仏の十力等。

論曰:佛十力、四無畏、三念住及大悲,如是合名為十八不共法。唯於諸佛盡智時修,餘聖所無,故名不共。且佛十力相別云何?頌曰:

論に曰く:仏の十力・四無畏・三念住および大悲。此のようの合して名づけて十八不共法。ただ諸仏の尽智の時に於いて修す。其余の聖の無き所。ゆえに名づけて不共。且つ仏の十力の相別は如何。頌に曰く、

力處非處十,業八除滅道,

力は処・非処は十。業は八、滅・道を除く。

定根解界九,遍趣九或十,

定・根・解・界は九。遍趣は九或いは十。

宿住死生俗,盡六或十智,

宿住・死生は俗。尽は六或いは十智。

宿住死生智,依靜慮餘通,

宿住・死生の智は、静慮に依る。其余の通は、

贍部男佛身,於境無礙故。

贍部の男の仏身に依り、境に於いて碍なき所以。

論曰:佛十力者,一處非處智力,具以如來十智為性;二業異熟智力,八智為性,謂除滅道。三靜慮解脫等持等至智力,四根上下智力,五種種勝解智力,六種種界智力,如是四力皆九智性,謂除滅智。七遍趣行智力,或聲顯此義有二途,若謂但緣能趣為境九智除滅,若謂亦緣所趣為境十智為性。八宿住隨念智力,九死生智力,如是二力皆俗智性。十漏盡智力,或聲亦顯義有二途,若謂但緣漏盡為境六智,除道、苦、集、他心。若謂漏盡身中所得,十智為性。已辯自性。依地別者,第八第九依四靜慮,餘八通依十一地起,欲、四靜慮、未至、中間並四無色,名十一地。已辯依地。依身別者,皆依贍部男子佛身。已辯依身。何故名力?以於一切所知境中智無礙轉,故名為力。由此十力唯依佛身,唯佛已除諸惑習氣於一切境隨欲能知,餘此相違故不名力。如舍利子捨求度人、不能觀知鷹所逐鴿前後二際生多少等。如是諸佛遍於所知心力無邊。云何身力?頌曰:

論に曰く:仏の十力とは、一は処・非処の智力。具に如来の十智を以て性と為す。二は業の異熟の智力。八智を以て性と為す。いわゆる滅・道を除く。三は静慮・解脱・等持・等至の智力、四は根の上下の智力、五は種種勝解の智力、六は種種界の智力。此のようの四力は皆九智性。いわゆる滅智を除く。七は遍趣行の智力。或いは声は此の義に二途有るを顕す。もしいわゆる但だ能趣に縁じて境と為せば九智にして滅を除き、もしいわゆるもまた所趣に縁じて境と為せば十智を以て性と為す。八は宿住随念の智力、九は死生の智力。此のようの二力は皆俗智性。十は漏尽の智力。或いは声もまた義に二途有るを顕す。もしいわゆる但だ漏尽に縁じて境と為せば六智。道・苦・集・他心を除く。もしいわゆる漏尽の身の中の得る所なれば、十智を以て性と為す。已に自性を弁じたれば。地の別に依るは、第八・第九は四静慮に依り、其余の八は十一地に依って起るに通ず。欲・四静慮・未至・中間并びに四無色を名づけて十一地。已に依地を弁じたれば。身の別に依るは、皆赡部の男子の仏身に依る。已に依身を弁じたれば。何の故にか名づけて力か。一切の知る所の境の中に於いて智の碍なくして転ずるを以て、ゆえに名づけて力。此に由って十力はただ仏身に依り、ただ仏は已に諸の惑の習気を除きて一切の境に於いて欲に随って能く知る。其余は此れ相違するがゆえに名づけて力と為さず。舎利子の度人を求むるを捨て、能く鷹の逐う所の鴿の前後の二際の生の多少等を観知せざるがごとし。此のようの諸仏は遍く知る所に於いて心力は辺無し。如何にして身力か。頌に曰く、

身那羅延力,或節節皆然,

身は那羅延の力。或いは節節皆此のよう。

象等七十增,此觸處為性。

象等の七十増。此れ触処を以て性と為す。

論曰:佛生身力等那羅延。有餘師言:佛身支節一一皆具那羅延力。大德法救說:諸如來身力無邊,猶如心力。若異此者,則諸佛身應不能持無邊心力。大覺獨覺及轉輪王支節相連,如其次第,似龍蟠結連鎖相鈎,故三相望力有勝劣。那羅延力其量云何?十十倍增象等七力,謂凡象、香象、摩訶諾健那、缽羅塞建提、伐浪伽、遮怒羅、那羅延,後後力增前前十倍。有說:前六十十倍增,敵那羅延半身之力,此力一倍成那羅延。於所說中唯多應理。如是身力觸處為性,謂所觸中大種差別。有說:是造觸離七外別有。佛四無畏相別云何?頌曰:

論に曰く:仏の生身の力は那羅延(天力士の名)に等し。其余の師有りて説く:仏身の支節は一一に皆那羅延の力を具す。大徳法救の説く:諸の如来の身力は辺無し。猶お心力のごとし。もし此に異なるは、則ち諸仏の身は応に能く辺無き心力を持せざるべし。大覚・独覚および転輪王の支節の相連なるは、次第のごとく、龍の蟠結・連鎖の相鉤するに似たり。ゆえに三相は望みて力に勝劣有り。那羅延の力の其の量は如何。十十に倍増する象等の七力。いわゆる凡象・香象・摩訶諾健那・鉢羅塞建提・伐浪伽・遮怒羅・那羅延。後後の力は前前に十倍を増す。ある説に、前の六十十に倍増して、那羅延の半身の力に敵し、此の力は一倍して那羅延を成す。説く所の中に於いてただ多くは応に理。此のようの身力は触処を以て性と為す。いわゆる触する所の中の大種の差別。ある説に、是れ造触にして七の外に離れて別有り。仏の四無畏の相別は如何。頌に曰く、

四無畏如次,初十二七力。

四無畏は次第のごとく、初・十・二・七の力。

論曰:佛四無畏,如經廣說:一正等覺無畏,十智為性,猶如初力。二漏永盡無畏,六十智性,如第十力。三說障法無畏,八智為性,如第二力。四說出道無畏,九十智性,如第七力。如何於智立無畏名?此無畏名目無怯懼,由有智故不怯懼他,故無畏名目諸智體。理實無畏是智所成,不應說言體即是智。佛三念住相別云何?頌曰:

論に曰く:仏の四無畏は、経の広く説くがごとく:一は正等覚の無畏。十智を以て性と為す。猶お初の力のごとし。二は漏の永尽の無畏。六十智性。第十の力のごとし。三は障法を説くの無畏。八智を以て性と為す。第二の力のごとし。四は出道を説くの無畏。九十智性。第七の力のごとし。如何にして智に於いて無畏の名を立つるか。此の無畏の名は目して怯惧無し。智有るに由って他に怯惧せざるがゆえに、ゆえに無畏の名は目して諸智の体。理実は無畏は智の成ずる所。応に体即ち是れ智と説くべからず。仏の三念住の相別は如何。頌に曰く、

三念住念慧,緣順違俱境。

三念住は念・慧。順・違・俱の境に縁ず。

論曰:佛三念住,如經廣說。諸弟子眾一向恭敬能正受行,如來緣之不生歡喜,捨而安住正念正知,是謂如來第一念住。諸弟子眾唯不恭敬不正受行,如來緣之不生憂慼,捨而安住正念正知,是謂如來第二念住。諸弟子眾一類恭敬能正受行,一類不敬不正受行,如來緣之不生歡慼,捨而安住正念正知,是謂如來第三念住。此三皆用念慧為體。諸大聲聞亦於弟子順違俱境離歡慼俱,此何名為不共佛法?唯佛於此並習斷故。或諸弟子隨屬如來有順違俱應甚歡慼,佛能不起可謂希奇。非屬諸聲聞不起非奇特,故唯在佛得不共名。諸佛大悲云何相別?頌曰:

論に曰く:仏の三念住は、経の広く説くがごとし。諸の弟子の衆は一向に恭敬して能く正しく受行す。如来は之に縁じて歓喜を生ぜず、捨して安らかに住して正念・正知。是れを如来の第一念住と謂う。諸の弟子の衆はただ恭敬せず正しく受行せず。如来は之に縁じて憂戚を生ぜず、捨して安らかに住して正念・正知。是れを如来の第二念住と謂う。諸の弟子の衆は一類は恭敬して能く正しく受行し、一類は敬せず正しく受行せず。如来は之に縁じて歓戚を生ぜず、捨して安らかに住して正念・正知。是れを如来の第三念住と謂う。此の三は皆念・慧を用いて体と為す。諸の大声聞もまた弟子の順・違・俱の境に於いて歓戚を離れて俱なり。此れ何をか名づけて不共の仏法か。ただ仏は此に於いて并びに習を断ずるがゆえに。或いは諸の弟子の如来に随属するは順・違・俱有りて応に甚だ歓戚すべきも、仏は能く起さず。謂うべし希奇と。属する諸の声聞に非ざれば起さざるは奇特に非ず。ゆえにただ仏に於いて不共の名を得。諸仏の大悲は如何に相別か。頌に曰く、

大悲唯俗智,資糧行相境,

大悲はただ俗智。資糧・行相・境、

平等上品故,異悲由八因。

平等・上品なるがゆえに。悲と異なるは八因に由る。

論曰:如來大悲俗智為性,若異此者則不能緣一切有情,亦不能作三苦行相,如共有悲。此大悲名依何義立?依五義故此立大名:一由資糧故大,謂大福德智慧資糧所成辦故。二由行相故大,謂此力能於三苦境作行相故。三由所緣故大,謂此總以三界有情為所緣故。四由平等故大,謂此等於一切有情作利樂故。五由上品故大,謂最上品更無餘悲能齊此故。此與悲異由八種因:一由自性,無痴無瞋自性異故。二由行相,三苦一苦行相異故。三由所緣,三界一界所緣異故。四由依地,第四靜慮通餘異故。五由依身,唯佛通餘身有異故。六由證得,離有頂欲證得異故。七由救濟,事成希望救濟異故。八由哀愍,平等不等哀愍異故。已辯佛德異餘有情。諸佛相望法皆等不?頌曰:

論に曰く:如来の大悲は俗智を以て性と為す。もし此に異なるは則ち能く一切の有情に縁ぜず、もまた能く三苦の行相を作さず。共有の悲のごとし。此の大悲の名は何の義に依ってか立つるか。五義に依るがゆえに此れ大名を立つ。一は資糧に由って大。いわゆる大きの福徳・智慧の資糧の成弁する所なるがゆえに。二は行相に由って大。いわゆる此の力は能く三苦の境に於いて行相を作すがゆえに。三は所縁に由って大。いわゆる此れは総じて三界の有情を以て所縁と為すがゆえに。四は平等に由って大。いわゆる此れは一切の有情に於いて等しく利楽を作すがゆえに。五は上品に由って大。いわゆる最上品にして更に其余の悲の能く此に斉しき無きがゆえに。此れは悲と異なるは八種の因に由る。一は自性に由る。無癡・無瞋の自性の異なるがゆえに。二は行相に由る。三苦・一苦の行相の異なるがゆえに。三は所縁に由る。三界・一界の所縁の異なるがゆえに。四は依地に由る。第四静慮・其余に通ずるの異なるがゆえに。五は依身に由る。ただ仏・其余の身に通ずるの異有るがゆえに。六は証得に由る。有頂の欲を離れて証得の異なるがゆえに。七は救済に由る。事成・希望の救済の異なるがゆえに。八は哀愍に由る。平等・不等の哀愍の異なるがゆえに。已に仏徳は其余の有情と異なるを弁じたれば、諸仏は相望みて法は皆等しきか否や。頌に曰く、

由資糧法身,利他佛相似,

資糧・法身、利他に由って仏は相似し、

壽種姓量等,諸佛有差別。

寿・種姓・量等は、諸仏に差別有り。

論曰:由三事故諸佛皆等,一由資糧等圓滿故、二由法身等成辦故、三由利他等究竟故。由壽種姓身量等殊,諸佛相望容有差別。壽異謂佛壽有短長,種異謂佛生剎帝利、婆羅門種,姓異謂佛姓喬答摩、迦葉波等。量異謂佛身有小大。等言顯諸佛法住久近等。如是有異,由出世時所化有情機宜別故。諸有智者思惟如來三種圓德深生愛敬。其三者何?一因圓德、二果圓德、三恩圓德。初因圓德復有四種:一無餘修,福德智慧二種資糧修無遺故。二長時修,經三大劫阿僧企耶修無倦故。三無間修,精勤勇猛剎那剎那修無廢故。四尊重修,恭敬所學無所顧惜修無慢故。次果圓德亦有四種:一智圓德、二斷圓德、三威勢圓德、四色身圓德。智圓德有四種:一、無師智;二、一切智;三、一切種智;四、無功用智。斷圓德有四種:一、一切煩惱斷;二、一切定障斷;三、畢竟斷;四、並習斷。威勢圓德有四種:一於外境化變住持自在威勢、二於壽量若促若延自在威勢、三於空障極遠速行小大相入自在威勢、四令世間種種本性法爾轉勝希奇威勢。威勢圓德復有四種:一難化必能化、二答難必決疑、三立教必出離、四惡黨必能伏。色身圓德有四種:一具眾相;二具隨好;三具大力;四內身骨堅越金剛,外發神光踰百千日。後恩圓德亦有四種,謂令永解脫三惡趣生死,或能安置善趣三乘。總說如來圓德如是,若別分析則有無邊,唯佛世尊能知能說,要留命行經多大劫阿僧企耶說乃可盡。如是則顯佛世尊身具有無邊殊勝奇特因果恩德如大寶山。有諸愚夫自乏眾德,雖聞如是佛功德山及所說法不能信重。諸有智者聞說如斯生信重心徹於骨髓,彼由一念極信重心轉滅無邊不定惡業,攝受殊勝人天涅槃,故說如來出現於世,為諸智者無上福田,依之引生不空可愛殊勝速疾究竟果故。如薄伽梵自說頌言:

論に曰く:三事に由るがゆえに諸仏は皆等し。一は資糧の等しく円満なるがゆえ、二は法身の等しく成弁せるがゆえ、三は利他の等しく究竟せるがゆえに。寿・種姓・身量等の殊なるに由って、諸仏は相望みて容そ差別有り。寿の異とは仏寿に短長有るを謂う。種の異とは仏は刹帝利・婆羅門の種に生ずを謂う。姓の異とは仏姓は喬答摩・迦葉波等を謂う。量の異とは仏身に小大有るを謂う。等の言は諸仏の法住の久近等を顕す。此のようの異有るは、出世の時の化する所の有情の機宜の別あるに由るがゆえに。諸の智有るは如来の三種の円徳を思惟して深く愛敬を生ず。其の三とは何ぞ。一は因円徳、二は果円徳、三は恩円徳。初の因円徳は復た四種有り。一は無余修。福徳・智慧の二種の資糧を修して遺無きがゆえに。二は長時修。三大劫阿僧企耶を経て修して倦無きがゆえに。三は無間修。精勤勇猛にして刹那刹那に修して廃無きがゆえに。四は尊重修。学する所を恭敬して顧惜する所無く修して慢無きがゆえに。次に果円徳もまた四種有り。一は智円徳、二は断円徳、三は威勢円徳、四は色身円徳。智円徳に四種有り。一は無師智、二は一切智、三は一切種智、四は無功用智。断円徳に四種有り。一は一切煩悩の断、二は一切定障の断、三は畢竟断、四は并びに習を断ず。威勢円徳に四種有り。一は外境に於いて化変して住持する自在の威勢、二は寿量に於いてもし促にもし延にも自在の威勢、三は空障に於いて極遠に速行し小大相入する自在の威勢、四は世間の種種の本性の法爾転じて勝れたる希奇の威勢。威勢円徳は復た四種有り。一は化し難きを必ず能く化し、二は難に答えて必ず疑を決し、三は教を立てて必ず出離せしめ、四は悪党に必ず能く伏す。色身円徳に四種有り。一は衆相を具え、二は随好を具え、三は大力を具え、四は内の身骨は堅くして金剛を越え、外に神光を発して百千日を逾ゆ。後の恩円徳もまた四種有り。いわゆる永く三悪趣の生死を解脱せしめ、或いは能く善趣・三乗に安置す。総じて如来の円徳を説くは此のよう。もし別に分析すれば則ち辺無き有り。ただ仏世尊のみ能く知り能く説く。要するに命を留めて経て多大劫阿僧企耶を説いて乃ち尽くすべし。此のようは則ち仏世尊の身は具に辺無き殊勝の奇特の因・果・恩の徳を大宝山のごときを顕す。諸の愚夫有りて自ら衆徳に乏しく、此のようの仏功徳山および説く所の法を聞くと雖も能く信重せず。諸の智有るは説くを聞いて斯のごとき信重の心を生じて骨髓に徹す。彼は一念の極信重の心に由って辺無き不定の悪業を転滅し、殊勝の人天・涅槃を摂受す。ゆえに説く如来の世に出現するは、為に諸の智の無上の福田と為り、之に依って空しからず可愛の殊勝の速疾の究竟の果を引生するがゆえに。薄伽梵が自ら説きたまえる頌のごとく:

若於佛福田,能殖少分善,

もし仏の福田に於いて、能く少分の善を殖えば、

初獲勝善趣,後必得涅槃。

初めに勝善の趣を獲て、後に必ず涅槃を得ん。

已說如來不共功德,共功德今當辯。頌曰:

已に如来の不共の功徳を説けり。共の功徳は今当に弁ずべし。頌に曰く、

復有餘佛法,共餘聖異生,

復た其余の仏法有り。其余の聖・異生と共なる。

謂無諍願智,無礙解等德。

いわゆる無諍・願智、無礙解等の徳。

論曰:世尊復有無量功德,與餘聖者及異生共,謂無諍、願智、無礙解、通、靜慮、無色等至等持、無量、解脫、勝處、遍處等,隨其所應。謂前三門唯共餘聖,通靜慮等亦共異生。前三門中且辯無諍。頌曰:

論に曰く:世尊は復た無量の功徳有りて、其余の聖者および異生と共なり。いわゆる無諍・願智・無礙解・通・静慮・無色の等至・等持・無量・解脱・勝処・遍処等、其の該る所に随う。いわゆる前の三門はただ其余の聖と共、通・静慮等もまた異生と共。前の三門の中に且つ無諍を弁ず。頌に曰く、

無諍世俗智,後靜慮不動,

無諍は世俗智。後の静慮は不動。

三洲緣未生,欲界有事惑。

三洲に依り、未生の欲界の事有る惑に縁ず。

論曰:言無諍者,謂阿羅漢觀有情苦由煩惱生,自知己身福田中勝,恐他煩惱復緣己生,故思引發如是相智,由此方便令他有情不緣己身生貪瞋等。此行能息諸有情類煩惱諍故得無諍名。此行但以俗智為性,第四靜慮為其所依,樂通行中最為勝故。不動應果能起非餘,餘尚不能自防起惑,況能止息他身煩惱。此唯依止三洲人身,緣欲未來有事煩惱,勿他煩惱緣己生故。諸無事惑不可遮防,內起隨應總緣境故。辯無諍已,次辯願智。頌曰:

論に曰く:無諍と言うは、いわゆる阿羅漢は有情の苦は煩悩に由って生ずるを観じ、自ら己が身は福田の中に勝れるを知り、他の煩悩が復た己に縁じて生ぜんことを恐る。ゆえに此のようの相の智を引発せんと思う。此の方便に由って他の有情をして己が身に縁じて貪・瞋等を生生ぜざらしむ。此の行は能く諸の有情類の煩悩の諍を息むるがゆえに無諍の名を得。此の行は但だ俗智を以て性と為し、第四静慮を以て其の依る所と為す。楽通行の中に最も勝れるがゆえに。不動の応果は能く起し、其余に非ず。其余はなお能く自ら防ぎて惑を起さしめず、況んや能く他の身の煩悩を止息せんや。此れはただ三洲の人身に依止し、欲界の未来の事有る煩悩に縁ず。他の煩悩が己に縁じて生じて生ぜざらしめんがゆえに。諸の事無き惑は遮防すべからず。内に起るは応に総じて境に縁ずるに随うがゆえに。無諍を弁じ已りて、次に願智を弁ず。頌に曰く、

願智能遍緣,餘如無諍說。

願智は能く遍く縁ず。其余は無諍の説くがごとし。

論曰:以願為先引妙智起如願而了,故名願智。此智自性地種性身與無諍同,但所緣別,以一切法為所緣故。毘婆沙者作如是言:願智不能證知無色,觀彼因行及彼等流差別故,知如田夫類。諸有欲起此願智時,先發誠願求知彼境,便入邊際第四靜慮以為加行,從此無間隨所入定勢力勝劣,如先願力引正智起,於所求境皆如實知。已辯願智。無礙解者,頌曰:

論に曰く:願を以て先と為して妙智を引きて起して、願のごとく而も了す。ゆえに名づけて願智。此の智は自性・地・種性・身は無諍と同じ。但だ所縁の別あり。一切の法を以て所縁と為すがゆえに。毘婆沙は此の説を作して曰く:願智は能く無色を証知せず。彼の因行および彼の等流の差別を観ずるがゆえに。田夫の類を知るがごとし。諸の此の願智を起さんと欲する時は、先に誠の願を発して彼の境を知らんことを求め、便ち辺際の第四静慮に入りて以て加行と為し、此より無間に入る所の定の勢力の勝劣に随い、先の愿力のごとく正智を引きて起さしめて、求むる所の境に於いて皆如実に知る。已に願智を弁じたれば。無礙解とは、頌に曰く、

無礙解有四,謂法義詞辯,

無礙解に四有り。いわゆる法・義・詞・弁。

名義言說道,無退智為性,

名・義・言・説の道は、退なきの智を以て性と為す。

法詞唯俗智,五二地為依,

法・詞はただ俗智。五・二の地を以て依と為す。

義十六辯九,皆依一切地,

義は十六、弁は九。皆一切の地に依る。

但得必具四,餘如無諍說。

但だ得れば必ず具に四。其余は無諍の説くがごとし。

論曰:諸無礙解總說有四:一法無礙解、二義無礙解、三詞無礙解、四辯無礙解。此四總說如其次第,以緣名義言及說道不可退轉智為自性,謂無退智緣能詮法名句文身立為第一,緣所詮義立為第二,緣方言詞立為第三,緣應正理無滯礙說及緣自在定慧二道立為第四。此則總說無礙解體兼顯所緣。於中法詞二無礙解唯俗智攝,緣名身等及世言詞事境界故。法無礙解通依五地,謂欲界、四靜慮,以於上地無名等故。詞無礙解唯依二地,謂欲界、初靜慮,以於上地無尋伺故。義無礙解十六智攝,謂若諸法皆名為義,義無礙解則十智攝;若唯涅槃名為義者,義無礙解則六智攝,謂俗、法、類、滅、盡、無生。辯無礙解九智所攝,謂唯除滅,緣說道故。此二通依一切地起,謂依欲界乃至有頂。辯無礙解於說道中,許隨緣一皆得起故。《施設足論》釋此四言:緣名句文,此所詮義。即此一二多男女等言別,此無滯說及所依道無退轉智,如次建立法義詞辯無礙解名,由此顯成四種次第。有餘師說:詞謂一切訓釋言詞,如前說言有變礙故名為色等。辯謂展轉言無滯礙。傳說此四無礙解生,如次串習算計佛語聲明因明為前加行,若於四處未得善巧必不能生無礙解故。理實一切無礙解生,唯學佛語能為加行。如是四種無礙解中,隨得一時必具得四,非不具四可名為得。此四所緣自性依地與前無諍差別如是,種性依身如無諍說。如是所說無諍行等,頌曰:

論に曰く:諸の無礙解は総じて説いて四有り。一は法無礙解、二は義無礙解、三は詞無礙解、四は弁無礙解。此の四の総説は次第のごとく、名・義・言および説の道に縁ずる退転すべからざるの智を以て自性と為す。いわゆる退なきの智は能詮の法の名・句・文身に縁じて立てて第一と為し、所詮の義に縁じて立てて第二と為し、方言の詞に縁じて立てて第三と為し、正理に応じて滞礙無き説および自在の定・慧の二道に縁じて立てて第四と為す。此れは則ち総じて無礙解の体を説いて兼ねて所縁を顕す。中に於いて法・詞の二無礙解はただ俗智の摂。名身等および世の言詞の事の境界に縁ずるがゆえに。法無礙解は五地に依るに通ず。いわゆる欲界・四静慮。上地に於いて名等無きを以て。詞無礙解はただ二地に依る。いわゆる欲界・初静慮。上地に於いて尋伺無きを以て。義無礙解は十六智の摂。いわゆるもし諸法は皆名づけて義なれば、義無礙解は則ち十智の摂。もしただ涅槃のみを名づけて義なれば、義無礙解は則ち六智の摂。いわゆる俗・法・類・滅・尽・无生。弁無礙解は九智の摂する所。いわゆるただ滅を除く。説の道に縁ずるがゆえに。此の二は一切の地に依って起るに通ず。いわゆる欲界に依って乃至有頂。弁無礙解は説の道の中に於いて、縁ずる所の一に随って皆起るを得るを許すがゆえに。《施設足論》は此の四言を釋して曰く:名・句・文に縁ずるは、此の詮する所の義。即ち此の一・二・多・男・女等の言の別、此の滞なき説および依る所の道の退転無きの智は、次第のごとく法・義・詞・弁の無礙解の名を建立す。此に由って四種の次第を顕成す。其余の師有りて説く:詞とは一切の訓釋の言詞を謂う。前の説く言のごとく変礙有るがゆえに名づけて色等。弁とは展転に言の滞礙無きを謂う。伝え聞く此の四無礙解の生ずるは、次第のごとく算計・仏語・声明・因明を串習して前の加行と為す。もし四処に於いて未だ善巧を得ざれば必ず能く無礙解を生解を生ぜざるがゆえに。理実は一切の無礙解の生ずるは、ただ仏語を学ぶは能く加行と為り得。此のようの四種の無礙解の中に、得る所の一時に随って必ず具に四を得。具に四ならざるは名づけて得と為すべからず。此の四の所縁・自性・依地は前の無諍と差別は此のよう。種性・依身は無諍の説くがごとし。此のようの説く所の無諍行等は、頌に曰く、

六依邊際得,邊際六後定,

六は辺際に依って得。辺際は六、後の定。

遍順至究竟,佛餘加行得。

遍く順じて究竟に至る。仏・其余は加行にて得。

論曰:無諍、願智、四無礙解六種,皆依邊際定得。邊際靜慮體有六種,前六除詞加餘邊際,詞無礙解雖依彼得而體非彼靜慮所收,邊際名但依第四靜慮故。此一切地遍所隨順故、增至究竟故,得邊際名。云何此名遍所隨順?謂正修學此靜慮時,從欲界心入初靜慮,次第順入乃至有頂,復從有頂入、無所有次第逆入乃至欲界,復從欲界次第順入,展轉乃至第四靜慮,名一切地遍所隨順。云何此名增至究竟?謂專修習第四靜慮,從下至中從中至上,如是三品復各分三,上上品生名至究竟,如是靜慮得邊際名。此中邊名顯無越義,勝無越此故名為邊。際言為顯類義極義,如說四際及實際言。除佛,所餘一切聖者,所說六種唯加行得,非離染得,非皆得故。唯佛於此亦離染得,諸佛功德初盡智時由離染故一切頓得,後時隨欲能引現前不由加行,以佛世尊於一切法自在轉故。已辯前三唯共餘聖德,於亦共凡德且應辯通。頌曰:

論に曰く:無諍・願智・四無礙解の六種は、皆辺際の定に依って得。辺際の静慮は体に六種有り。前の六は詞を除いて其余の辺際を加ふ。詞無礙解は彼に依って得ると雖も、而も体は彼の静慮の収むる所に非ず。辺際の名は但だ第四静慮に依るがゆえに。此れは一切の地に遍く随順するがゆえ、増して究竟に至るがゆえに、辺際の名を得。如何にして此の名は遍く随順するか。いわゆる正しく此の静慮を修学する時、欲界の心より初静慮に入り、次第に順に入りて乃至有頂、復た有頂より入り、無所有より次第に逆に入りて乃至欲界、復た欲界より次第に順に入り、展転して乃至第四静慮に至るを、名づけて一切の地に遍く随順す。如何にして此の名は増して究竟に至るか。いわゆる専ら第四静慮を修習して、下より中・中より上と進み、此のようの三品は復た各々三に分かれ、上上品の生を名づけて究竟に至る。此のようの静慮は辺際の名を得。此の中の辺の名は越え無きの義を顕す。勝は此を越ゆる無きがゆえに名づけて辺。際の言は為に類義・極義を顕す。四際および実際の言を説くがごとし。仏を除きて、其余の一切の聖者の説く所の六種はただ加行の得。離染の得に非ず。皆得に非ざるがゆえに。ただ仏は此に於いてもまた離染の得。諸仏の功徳は初の尽智の時に離染に由るがゆえに一切を頓得し、後の時は欲に随って能く現前を引かしめて加行に由らず、仏世尊は一切法に於いて自在に転ずるを以て。已に前の三はただ其余の聖徳と共なるを弁じたれば、もまた凡徳と共なるは且つ応に通を弁ずべし。頌に曰く、

通六謂神境,天眼耳他心,

通は六。いわゆる神境・天眼・耳・他心、

宿住漏盡通,解脫道慧攝。

宿住・漏尽の通。解脱道・慧の摂。

四俗他心五,漏盡通如力,

四は俗、他心は五。漏尽通は力のごとし。

五依四靜慮,自下地為境。

五は四静慮に依り、自・下の地を境と為す。

聲聞麟喻佛,二三千無數,

声聞・麟喩・仏は、二・三・千・无数。

未曾由加行,曾修離染得。

未曾は加行に由り、曾修は離染の得。

念住初三身,他心三餘四,

念住は初の三は身。他心は三、其余は四。

天眼耳無記,餘四通唯善。

天眼・耳は無記。其余の四通はただ善。

論曰:通有六種,一神境智證通、二天眼智證通、三天耳智證通、四他心智證通、五宿住隨念智證通、六漏盡智證通。雖六通中第六唯聖,然其前五異生亦得,依總相說亦共異生。如是六通解脫道攝,慧為自性,如沙門果。解脫道言顯出障義。神境等四唯俗智攝。他心通五智攝,謂法、類、道、世俗、他心。漏盡通如力說,謂或六或十智。由此已顯漏盡智通依一切地、緣一切境。前之五通依四靜慮。何緣此五不依無色?初三別緣色為境故,修他心通色為門故,修宿住通漸次憶念分位差別方得成故,成時能緣處性等故,依無色地無如是能。諸有欲修他心通者,先審觀己身心二相前後變異展轉相隨,後復審觀他身心相,由此加行漸次得成。成已不觀自心諸色,於他心等能如實知。諸有欲修宿住通者,先自審察次前滅心,漸復逆觀此生分位前前差別至結生心,乃至能憶知中有前一念,名自宿住加行已成。為憶念他加行亦爾。此通初起唯次第知,串習成時亦能超憶。諸所憶事要曾領受,憶淨居者昔曾聞故。從無色歿來生此者,依他相續初起此通,所餘亦依自相續起。修神境等前三通時,思輕光聲以為加行,成已自在隨所應為。故此五通不依無色。又諸無色觀減止增,五通必依止觀均地,未至等地由此已遮,如是五通境唯自下。且如神境隨依何地,於自下地行化自在,於上不然,勢力劣故。餘四亦爾,隨其所應。是故無能取無色界他心、宿住為二通境。即此五通於世界境作用廣陜諸聖不同,謂大聲聞、麟喻、大覺不極作意,如次能於一二三千諸世界境,起行化等自在作用。若極作意,如次能於二千、三千、無數世界。如是五通若有殊勝勢用猛利,從無始來曾未得者由加行得,若曾串習無勝勢用及彼種類由離染得,若起現前皆由加行。佛於一切皆離染得,隨欲現前不由加行。

論に曰く:通に六種有り。一は神境智証通、二は天眼智証通、三は天耳智証通、四は他心智証通、五は宿住随念智証通、六は漏尽智証通。六通の中の第六はただ聖なりと雖も、然而其の前の五は異生もまた得。総相に依って説くもまた異生と共なり。此のようの六通は解脱道の摂、慧を以て自性と為す。沙門果のごとし。解脱道の言は障を出づるの義を顕す。神境等の四はただ俗智の摂。他心通は五智の摂。いわゆる法・類・道・世俗・他心。漏尽通は力の説くがごとし。いわゆる或いは六或いは十智。此に由って已に漏尽智通は一切の地に依り一切の境に縁ずるを顕せり。前の五通は四静慮に依る。何の縁にか此の五は無色に依らざるか。初の三は別に色に縁じて境と為すがゆえ、他心通を修するは色を門と為すがゆえ、宿住通を修するは漸次に分位の差別を憶念して方に成るを得るがゆえ、成ずる時は能く処・性等に縁ずるがゆえ、無色地に依っては此のようの能無きがゆえに。諸の他心通を修せんと欲するは、先に己が身心の二相の前後に変異して展転に相随うを審観し、後に復た他の身心の相を審観す。此の加行に由って漸次に成るを得。成じ已りては自心の諸の色を観ぜず、他の心等に於いて能く如実に知る。諸の宿住通を修せんと欲するは、先ず自ら次前の滅心を審察し、漸々復た逆に此生の分位の前前の差別を観じて結生心に至り、乃至能く中有の前一念を憶知するを、名づけて自ら宿住の加行已に成ず。為に他を憶念する加行もまた此のよう。此の通の初めの起るはただ次第に知る。串習の成ずる時はもまた能く超えて憶す。諸の憶す所の事は要ずるに曾て領受せる、浄居を憶するは昔曾て聞けりしがゆえに。無色より歿して此に来生するは、他の相続に依って初めて此の通を起し、其余もまた自の相続に依って起す。神境等の前三通を修する時は、軽・光・声を思して以て加行と為し、成じ已りては自在に該為する所に随う。ゆえに此の五通は無色に依らず。また諸の無色は観減・止増。五通は必ず止観の均なる地に依止す。未至等の地は此に由って已に遮らる。此のようの五通の境はただ自・下。且つ神境は依る所の何の地かに随って、自・下の地に於いて行化自在にして、上に於いては此のようにはあらず。勢力劣れるがゆえに。其余の四もまた此のよう。其の該る所に随う。此のゆえに能く無色界の他心・宿住を取りて二通の境と為すこと無し。即ち此の五通は世界の境に於いて作用の広狭は諸聖同じからず。いわゆる大声聞・麟喩・大覚は極めて作意せずば、次第のごとく能く一・二・三千の諸の世界境に於いて、行化等の自在の作用を起す。もし極めて作意せば、次第のごとく能く二千・三千・无数の世界。此のようの五通はもし殊勝の勢用の猛利有るは、无始より来り曾て未だ得たるは加行に由って得。もし曾て串習して勝勢用無きおよび彼の種類は離染に由って得。もし現前を起すは皆加行に由る。仏は一切に於いて皆離染の得にして、欲に随って現前して加行に由らず。

六中前三唯身念住,但緣色故,謂神境通緣四外處色香味觸,天眼緣色,天耳緣聲。若爾,何緣說死生智知有情類由現身中成身語意諸惡行等?非天眼通能知此事,有別勝智是通眷屬,依聖身起能如是知。是天眼通力所引故,與通合立死生智名。他心智通三念住攝,謂受、心、法,緣心等故。宿住漏盡四念住攝。通緣五蘊一切境故。此六通中天眼、天耳無記性攝,許此二體是眼耳識相應慧故。若爾,寧說依四靜慮,隨根說故亦無有失。謂所依止眼耳二根,由四靜慮力所引起,即彼地攝,故依四地,通依根故說依四言。或此依通無間道說,通無間道依四地故。餘之四通性皆是善。若爾,何故《品類足》言:通云何?謂善慧。彼據多分,或就勝說。如契經說:無學三明。彼於六通以何為性?頌曰:

(論に引き続き曰く:)六の中の前の三はただ身念住。但だ色に縁ずるがゆえに。いわゆる神境通は四の外処の色・香・味・触に縁じ、天眼は色に縁じ、天耳は声に縁ず。もしそうならば、何の縁にか死生智は有情類が現身の中に於いて身・語・意の諸の悪行等を成ずるを知ると説くか。天眼通は能く此の事を知るに非ず。別に勝智有りて是れ通の眷属。聖身に依って起りて能く此のようの知。是れ天眼通の力の引く所なるがゆえに、通と合して死生智の名を立つ。他心智通は三念住の摂。いわゆる受・心・法。心等に縁ずるがゆえに。宿住・漏尽は四念住の摂。五蘊の一切の境に通じて縁ずるがゆえに。此の六通の中の天眼・天耳は無記性の摂。此の二の体は是れ眼・耳識の相応する慧なるを許すがゆえに。もしそうならば、寧ろ四静慮に依ると説かん。根に随って説くがゆえにもまた失有ること無し。いわゆる依止する所の眼・耳の二根は、四静慮の力の引き起す所に由って、即ち彼の地の摂。ゆえに四地に依る。通は根に依るがゆえに四に依るの言を説く。或いは此れは通の無間道に依って説く。通の無間道は四地に依るがゆえに。其余の四通の性は皆是れ善。もしそうならば、何の故にか《品類足》は説く:通とは如何。いわゆる善慧。彼は多分に拠り、或いは勝に就いて説く。契経の説くがごとく:無学の三明。彼は六通に於いて何を以て性と為すか。頌に曰く、

第五二六明,治三際愚故,

第五・二・六は明。三際の愚を治するがゆえに。

後真二假說,學有闇非明。

後は真、二は仮に説く。学に暗有りて明に非ず。

論曰:言三明者,一宿住智證明、二死生智證明、三漏盡智證明。如其次第,以無學位攝第五二六通為其自性。六中三種獨名明者,如次對治三際愚故。謂宿住智通治前際愚,死生智通治後際愚,漏盡智通治中際愚。此三皆名無學明者,俱在無學身中起故。於中最後容有是真,通無漏故。餘二假說,體唯非學非無學故。有學身中有愚闇故,雖有前二不立為明。雖有暫時伏滅愚闇,後還被蔽故不名明。契經說有三種示導,彼於六通以何為體?頌曰:

論に曰く:三明と言うは、一は宿住智証明、二は死生智証明、三は漏尽智証明。次第のごとく、無学の位の摂する第五・二・六の通を以て其の自性と為す。六の中の三種は独り明と名づく。次第のごとく三際の愚を対治するがゆえに。いわゆる宿住智通は前際の愚を治し、死生智通は後際の愚を治し、漏尽智通は中際の愚を治す。此の三は皆名づけて無学の明。俱に無学の身の中に起るがゆえに。中に於いて最後は容そ有りて是れ真。無漏に通ずるがゆえに。其余の二は仮に説く。体はただ非学・非無学なるがゆえに。有学の身の中に愚暗有るがゆえに、前の二有ると雖も立てて明と為さず。暫時に伏滅の愚暗有ると雖も、後に還って蔽わるるがゆえに名づけて明と為さず。契経に三種の示導有りと説く。彼は六通に於いて何を以て体と為すか。頌に曰く、

第一四六導,教誡導為尊,

第一・四・六は導。教誡の導は尊と為す。

定由通所成,引利樂果故。

定めて通の成ずる所に由り、利楽の果を引くがゆえに。

論曰:三示導者,一神變示導、二記心示導、三教誡示導。如其次第,以六通中第一四六為其自性,唯此三種引所化生令初發心最為勝故,或此能引憎背正法及處中者令發心故。能示能導得示導名。又唯此三令於佛法如次歸伏、信受、修行,得示導名,餘三不爾。於二示導,教誡最尊,唯此定由通所成故,定能引他利樂果故。謂前二導呪術亦能,不但由通故非決定。如有呪術名健馱梨,持此便能騰空自在。復有呪術名伊剎尼,持此便能知他心念。教誡示導除漏盡通,餘不能為,故是決定。又前二導有但令他暫時迴心,非引勝果。教誡示導亦定令他引當利益及安樂果,以能如實方便說故。由是教誡最勝非餘。神境二言為目何義?頌曰:

論に曰く:三示導とは、一は神変の示導、二は記心の示導、三は教誡の示導。次第のごとく、六通の中の第一・四・六を以て其の自性と為す。ただ此の三種は化する所の生を引きて初めて心を発せしむるに最も勝れるがゆえに。或いは此れは能く正法を憎背するおよび処中なるを引きて心を発せしむるがゆえに。能く示し能く導きて示導の名を得。またただ此の三は佛法に於いて次第のごとく帰伏・信受・修行せしめて示導の名を得。其余の三は此のようにはあらず。三示導に於いて、教誡は最も尊し。ただ此れは定めて通の成ずる所に由るがゆえに。定めて能く他を引きて利楽の果と為るがゆえに。いわゆる前の二前の二導は呪術もまた能くす。但だ通に由るに非ざるがゆえに決定に非ず。呪術有るがごとく名づけて健駄梨(呪の名)。此を持すれば便ち能く空に騰りて自在。復た呪術有りて名づけて伊刹尼(呪の名)。此を持すれば便ち能く他の心念を知る。教誡の示導は漏尽通を除きて、其余は能く為さず。ゆえに是れ決定。また前の二導は但だ他をして暫時に心を回らしむる有りて、勝果を引くに非ず。教誡の示導はもまた定めて他をして当に利益および安楽の果を引かしむ。能く如実に方便に説くを以て。此に由って是れ教誡は最勝にして其余に非ず。神境の二言は為に何の義を目するか。頌に曰く、

神體謂等持,境二謂行化,

神の体とは等持を謂う。境の二とは行・化を謂う。

行三意勢佛,運身勝解通。

行は三、意勢は仏。運身・勝解は通ず。

化二謂欲色,四二外處性,

化は二、いわゆる欲・色。四・二の外処の性。

此各有二種,謂似自他身。

此れ各々二種有り。いわゆる自・他の身に似たる。

論曰:依毘婆沙所說理趣,神名所目唯勝等持,由此能為神變事故。諸神變事說名為境,此有二種,謂行及化。行復三種:一者運身,謂乘空行猶如飛鳥。二者勝解,謂極遠方作近思惟便能速至。三者意勢,謂極遠方舉心緣時身即能至。此勢如意得意勢名。於此三中意勢唯佛,運身、勝解亦通餘乘。謂我世尊神通迅速隨方遠近舉心即至。由此世尊作如是說:諸佛境界不可思議。故意勢行唯世尊有,勝解兼餘聖,運身並異生。化復二種,謂欲、色界。若欲界化外四處,除聲。若色界化唯二,謂色、觸,以色界中無香、味故。此二界化各有二種,謂屬自身、他身別故。身在欲界化有四種,在色亦然,故總成八。若生在色作欲界化,如何不有成香味失,如衣嚴具作而不成?有說:在色唯化二處,化作、化事。為即是通不?不爾。云何?是通之果。此有幾種?差別云何?頌曰:

論に曰く:毘婆沙の説く所の理趣に依れば、神の名の目する所はただ勝の等持。此に由って能く神変の事と為るがゆえに。諸の神変の事を説いて名づけて境。此れに二種有り。いわゆる行および化。行は復た三種。一者は運身。いわゆる空に乗じて行くこと猶お飛鳥のごとし。二者は勝解。いわゆる極遠の方を近しと思惟を作せば便ち能く速やかに至る。三者は意勢。いわゆる極遠の方に心を挙げて縁ずる時に身は即ち能く至る。此の勢は意のごときを以て意勢の名を得。此の三の中に於いて意勢はただ仏。運身・勝解もまた其余の乗に通ず。いわゆる我が世尊は神通は迅速にして方の遠近に随って心を挙ぐれば即ち至る。此に由って世尊は此の説を作して曰く:諸仏の境界は思議すべからず。ゆえに意勢の行はただ世尊のみ有り、勝解は兼ねて其余の聖、運身は并びに異生。化は復た二種。いわゆる欲・色界。もし欲界の化は外の四処、声を除く。もし色界の化はただ二。いわゆる色・触。色界の中に香・味無きを以て。此の二界の化は各々二種有り。いわゆる自身・他身に属するの別あるがゆえに。身は欲界に在りて化に四種有り、色に在りてもまた此のよう。ゆえに総じて八を成す。もし色に生じて欲界の化を作せば、如何にして香・味の失を成ぜざる有らんか。衣・厳具を作して成らざるがごとし。ある説に、色に在りてはただ二処を化す。化作・化事。為に即ち是れ通か否や。そうにはあらず。如何。是れ通の果。此れに幾種有るか。差別は如何。頌に曰く、

能化心十四,定果二至五,

能化の心は十四。定の果は二より五に至る。

如所依定得,從淨自生二。

依る所の定を得るがごとく、浄・自より二を生ず。

化事由自地,語通由自下,

化の事は自地に由り、語・通は自・下に由る。

化身與化主,語必俱非佛。

化身と化主と、語は必ず俱にするは仏に非ず。

先立願留身,後起餘心語,

先に願を立てて身を留め、後に其余の心・語を起す。

有死留堅體,餘說無留義。

死して堅体を留むる有り。其余は留むるの義無しと説く。

初多一心化,成滿此相違,

初めは多くの心にて化し、成満は此に相違す。

修得無記攝,餘得通三性。

修得は無記の摂。其余の得は三性に通ず。

論曰:神境通果能變化心,力能化生一切化事。此有十四,謂依根本四靜慮生有差別故。依初靜慮有二化心,一欲界攝、二初靜慮。第二靜慮有三化心,二種如前,加二靜慮。第三有四,第四有五,謂各自下,如理應思。諸果化心依自上地必無依下,下地定心不生上果,勢力劣故。第二定等果下地化心,對初定等果上地化心,由依及行亦得名勝。如得靜慮化心亦然,果與所依俱時得故。諸從靜慮起果化心,此心必無直出觀義,謂從淨定起初化心,此後後心從自類起,此前前念生自類心,最後化心還生淨定。故此從二能生二心,非定果心無記性攝。不還入定有直出義,如從門入還從門出,諸所化事由自地心,無異地化心起餘地化故。化所發言通由自下,謂欲初定化所發言,此言必由自地心起。上化起語由初定心,上地自無起表心故。若一化主起多化身,要化主語時諸化身方語,言音詮表一切皆同故。有伽他作如是說:

論に曰く:神境通の果の能く変化する心は、力は能く一切の化事を化生す。此れに十四有り。いわゆる根本の四静慮に依って生に差別有るがゆえに。初静慮に依って二の化心有り。一は欲界の摂、二は初静慮。第二静慮に三の化心有り。二種は前のごとく、二静慮を加ふ。第三に四有り、第四に五有り。いわゆる各々自・下。理のごとく応に思うべし。諸の果の化心は自・上の地に依りて必ず下に依る無し。下地の定の心は上果を生生ぜざるがゆえに。勢力劣れるがゆえに。第二定等の果の下地の化心は、初定等の果の上地の化心に対して、依および行に由ってもまた勝の名を得。静慮を得るがごとく化心もまた此のよう。果は依る所と俱時に得るがゆえに。諸の静慮より果の化心を起すは、此の心は必ず直に観を出づるの義無し。いわゆる浄定より初の化心を起し、此の後の後心は自類より起り、此の前の前念は自類の心を生じ、最後の化心は還って浄定を生ず。ゆえに此れは二より二心を生ずる能く。定果の心に非ざるは無記性の摂。還って定に入りて直出の義有り。門より入りて還って門より出づるがごとし。諸の化する所の事は自地の心に由る。地異なるに化心は其余の地の化を起さざるがゆえに。化の発する所の言は通じて自・下に由る。いわゆる欲・初定の化の発する所の言は、此の言は必ず自地の心に由って起る。上の化の語を起すは初定の心に由る。上地は自ら表を起すの心無きがゆえに。もし一の化主は多くの化身を起さば、要ずるに化主の語る時に諸の化身は方に語る。言音の詮表は一切同じきがゆえに。伽他有りて此の説を作して曰く:

一化主語時,諸所化皆語,

一の化主が語る時、諸の化する所は皆語り、

一化主若默,諸所化亦然。

一の化主がもし黙せば、諸の化する所もまた此のよう。

此但說餘,佛則不爾,佛諸定力最自在故,與所化語容不俱時,言音所詮亦容有別。發語心起,化心既無,應無化身,化如何語?由先願力留所化身,後起餘心發語表業,故雖化語二心不俱,而依化身亦得發語。非唯化主命現在時能留化身令久時住,亦有令住至命終後,即如尊者大迦葉波留骨瑣身至慈尊世。唯堅實體可得久留,故迦葉波不留肉等。有餘師說:願力留身必無有能令至死後。飲光尊者留骨瑣身,由諸天神持令久住。初習業者由多化心方能化生一所化事,習成滿者由一化心隨欲化生多少化事。如是十四能變化心皆是修得,無記性攝,即是通果無記攝義。餘生得等能變化心,通善不善無記性攝。如天龍等能變化心,彼亦能為自他身化,於十色處化九除聲。理實無能化為根者,然所化境不離根故,言化九處亦無有失。天眼耳言為目何義?頌曰:

(論に引き続き曰く:)此れは但だ其余を説く。仏は則ち此のようにはあらず。仏の諸の定力は最も自在なるがゆえに。化する所と語るも容そ俱時ならず、言音の詮する所も容そ別有り。語を発する心の起るは、化心すでに無ければ、応に化身無きべし。化は如何にして語るか。先の愿力に由って化する所の身を留めて、後に其余の心を起して語の表業を発す。ゆえに化・語の二心は俱ならずと雖も、而も化身に依ってもまた語を発すを得。ただ化主の命の現在の時に能く化身を留めて久しく住せしむるのみに非ず。もまた住せしめて命終の後に至らしむる有り。即ち尊者大迦葉波の骨の鎖の身を留めて慈尊の世に至らしめたるがごとし。ただ堅実の体のみ久しく留むるを得るを得。ゆえに迦葉波は肉等を留めず。其余の師有りて説く:愿力は身を留めて必ず能く死後に至らしめる無し。飲光尊者の骨の鎖の身を留むるは、諸の天神の持して久しく住せしむるに由る。初め業を習うは多くの化心に由って方に能く一の化する所の事を化生す。習いの成満なるは一の化心に由って欲に随って多少の化事を化生す。此のようの十四の能く変化する心は皆是れ修得、無記性の摂。即ち是れ通果の無記の摂する義。其余の生得等の能く変化する心は、善・不善・無記性に通ず。天・龍等の能く変化する心のごとく、彼もまた能く自・他の身の化と為りて、十色処に於いて九を化して声を除く。理実は能く根を化する無し。しかし化する所の境は根を離れざるがゆえに、九処を化すと言うもまた失有ること無し。天眼・耳の言は為に何の義を目するか。頌に曰く、

天眼耳謂根,即定地淨色,

天眼・耳とは根を謂う。即ち定地の浄色。

恆同分無缺,取障細遠等。

恒に同分にして缺無し。障・細・遠等を取る。

論曰:此言唯目天眼耳根,即四靜慮所生淨色,謂緣光聲修加行故。依四靜慮於眼耳邊引起彼地微妙大種所造淨色眼耳二根,見色聞聲名天眼耳。如是眼耳何故名天?體即是天,定地攝故。然天眼耳種類有三:一修得天,即如前說。二者生得,謂生天中。三者似天,謂生餘趣由勝業等之所引生,能遠見聞似天眼耳。如藏臣寶、菩薩、輪王、諸龍鬼神及中有等。修得眼耳過現當生恆是同分,以至現在必與識俱能見聞故。處所必具無翳無缺,如生色界一切有情,能隨所應取被障隔極細遠等諸方色聲。故於此中有如是頌:

論に曰く:此の言はただ天眼・耳根を目す。即ち四静慮の生ずる所の浄色。いわゆる光・声に縁じて加行を修するがゆえに。四静慮に依って眼・耳の辺に彼の地の微妙なる大種の造る所の浄色の眼・耳の二根を引起して、色を見声を聞くを名づけて天眼・耳。此のようの眼・耳は何の故にか名づけて天か。体は即ち是れ天。定地の摂なるがゆえに。しかし天眼・耳の種類に三有り。一は修得の天。即ち前の説くがごとし。二は生得。いわゆる天の中に生ず。三は天に似たる。いわゆる其余の趣に生じて勝業等の引生する所に由って、能く遠く見聞して天眼・耳に似たり。蔵臣宝・菩薩・輪王・諸の龍・鬼神および中有等のごとし。修得の眼・耳は過・現・当に生ずるは恒に是れ同分。現在に至っては必ず識と俱に能く見聞するがゆえに。処所は必ず具に翳無く缺無し。色界に生ずる一切の有情のごとく、能く該る所に随って障隔せられたる極細・遠等の諸方の色・声を取る。ゆえに此に於いて此のようの頌有り:

肉眼於諸方,被障細遠色,

肉眼は諸方に於いて、障せられ細遠の色を、

無能見功用,天眼見無遺。

見るの功用無し。天眼は見て遺す無し。

前說化心修餘得異,神境等五各有異耶?亦有。云何?頌曰:

前に化心の修は其余の得と異なるを説けり。神境等の五は各々異有るか。もまた有り。如何。頌に曰く、

神境五修生,呪藥業成故,

神境は五、修・生・呪・薬・業の成なるがゆえに。

他心修生呪,又加占相成,

他心は修・生・呪、また占相の成を加ふ。

三修生業成,除修皆三性,

三は修・生・業の成。修を除きて皆三性。

人唯無生得,地獄初能知。

人はただ生得無し。地獄の初めは能く知る。

論曰:神境智類總有五種:一修得、二生得、三呪成、四藥成、五業成。曼馱多王及中有等諸神境智是業成攝。他心智類總有四種,前三如上,加占相成。餘三各三,謂修、生、業。除修所得,皆通善等。非定果故不得通名。人中都無生所得者,餘皆容有。隨其所應本性生念業所成攝。於地獄趣初受生時,唯以生得他心、宿住,知他心等及過去生,苦受逼已更無知義。若生餘趣,如應當知。

論に曰く:神境智の類は総じて五種有り。一は修得、二は生得、三は呪成、四は薬成、五は業成。曼駄多王(転輪王の名)および中有等の諸の神境智は是れ業成の摂。他心智の類は総じて四種有り。前の三は上のごとく、占相の成を加ふ。其余の三は各々三。いわゆる修・生・業。修の得る所を除きて、皆善等に通ず。定果に非ざるがゆえに通の名を得ず。人の中は生得の得る所は都て無し。其余は皆容そ有り。其の該る所に随って本性の生・念・業の成ずる所の摂。地獄の趣に於いて初めて生を受くる時は、ただ生得の他心・宿住を以て、他の心等および過去の生を知る。苦受に逼せられ已りて更に知るの義無し。もし其余の趣に生ぜば、該るごとく当に知るべし。

説一切有部倶舎論 巻第二十七

アビダルマ倶舎論 巻第二十八

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別定品第八之一

分別定品 第八之一

已說諸智所成功德,餘性功德今次當辯,於中先辯所依止定。且諸定內靜慮云何?頌曰:

已に諸智の成ずる所の功徳を説けり。其余の性の功徳は今次に当に弁ずべし。中に於いて先に依止する所の定を弁ず。且つ諸の定の内の静慮は如何。頌に曰く、

靜慮四各二,於中生已說,

静慮は四、各々二。中生は已に説けり。

定謂善一境,並伴五蘊性,

定とは善の一境。伴を并せて五蘊性。

初具伺喜樂,後漸離前支。

初は具に伺・喜・楽。後は漸く前支を離る。

論曰:一切功德多依靜慮,故應先辯靜慮差別。此總有四種,謂初二三四,四各有二,謂定及生。生靜慮體世品已說,謂第四八,前三各三。定靜慮體總而言之是善性攝心一境性,以善等持為自性故;若並助伴,五蘊為性。何名一境性?謂專一所緣。若爾,即心專一境位,依之建立三摩地名,不應別有餘心所法。別法令心於一境轉名三摩地,非體即心。豈不諸心剎那滅故皆一境轉,何用等持?若謂令心於第二念不散亂故須有等持,則於相應等持無用。又由此故三摩地成。寧不即由斯心於一境轉?又三摩地是大地法,應一切心皆一境轉。不爾,餘品等持劣故。有餘師說:即心一境相續轉時名三摩地,契經說此為增上心學故,心清淨最勝即四靜慮故。依何義故立靜慮名?由此寂靜能審慮故。審慮即是實了知義,如說心在定,能如實了知,審慮義中置地界故。此宗審慮以慧為體。若爾,諸等持皆應名靜慮。不爾,唯勝方立此名。如世間言發光名日,非螢燭等亦得日名。靜慮如何獨名為勝?諸等持內唯此攝支,止觀均行最能審慮,得現法樂住及樂通行名,故此等持獨名靜慮。若爾,染汙寧得此名?由彼亦能邪審慮故,是則應有太過之失。無太過失,要相似中方立名故,如敗種等。世尊亦說有惡靜慮。若一境性是靜慮體,依何相立初二三四?具伺喜樂建立為初,由此已明亦具尋義,必俱行故,如煙與火。非伺有喜樂,而不與尋俱。漸離前支立二三四,離伺有二,離二有樂,具離三種。如其次第,故一境性分為四種。已辯靜慮。無色云何?頌曰:

論に曰く:一切の功徳は多く静慮に依る。ゆえに応に先に静慮の差別を弁ずべし。此れは総じて四種有り。いわゆる初・二・三・四。四は各々二有り。いわゆる定および生。生静慮の体は世品に已に説けり。いわゆる第四は八、前の三は各々三。定静慮の体は総じて言えば是れ善性の摂する心の一境性。善の等持を以て自性と為すがゆえに。もし助伴を并せば、五蘊を以て性と為す。何をか一境性と名づくるか。いわゆる専ら所縁を一にす。もしそうならば、即ち心の一境に専なる位に、之に依って三摩地の名を建立す。応に別に其余の心所法有るべからず。別法は心をして一境に転ぜしめて名づけて三摩地。体即ち心に非ず。豈に諸心は刹那滅するがゆえに皆一境に転ずるにあらずや。何ぞ等持を用いん。もし謂わば心をして第二念に散乱ならしめざるがゆえに須らく等持あるべしと。則ち相応する等持に於いて用無し。また此に由って三摩地成るがゆえに。寧ろ即ち斯の心に由って一境に転一境に転ぜざらんや。また三摩地は是れ大地法。応に一切の心は皆一境に転ずべし。そうにはあらず。其余の品は等持劣れるがゆえに。其余の師有りて説く:即ち心は一境に相続して転ずる時を名づけて三摩地。契経は此を増上心学と説くがゆえ、心の清浄の最勝は即ち四静慮なるがゆえに。何の義に依ってか静慮の名を立つるか。此に由って寂静にして能く審慮するがゆえに。審慮は即ち是れ実に了知するの義。説くがごとく心は定に在れば能く如実に了知すと。審慮の義の中に地界を置くがゆえに。此の宗は審慮は慧を以て体と為す。もしそうならば、諸の等持は皆応に名づけて静慮なり。そうにはあらず。ただ勝のみ方に此の名を立つ。世間の発光を名づけて日と言うがごとく、螢・燭等もまた日の名を得るに非ず。静慮は如何にして独り名づけて勝か。諸の等持の内にただ此れは支を摂し、止観は均しく行して最も能く審慮し、現法楽住および楽通行の名を得。ゆえに此の等持は独り名づけて静慮。もしそうならば、染汚は寧ろ此の名を得んや。彼もまた能く邪審慮するに由るがゆえに、是れ則ち応に太過の失有るべし。太過の失無し。要ずるに相似なる中に於いて方に名を立つるがゆえに。敗種等のごとし。世尊もまた悪の静慮有りと説きたまえり。もし一境性は静慮の体ならば、何の相に依ってか初・二・三・四を立つるか。具に伺・喜・楽を建立して初と為す。此に由って已に尋の義を具するを明かす。必ず俱に行ずるがゆえに。煙と火とのごとし。伺有りて喜・楽有りて、而も尋と俱ならざるに非ず。漸く前支を離れて二・三・四を立つ。伺を離れて二有り、二を離れて楽有り、具に三種を離る。次第のごとく、ゆえに一境性は分かれて四種と為す。已に静慮を弁じたれば。無色は如何。頌に曰く、

無色亦如是,四蘊離下地,

無色もまた此のよう。四蘊は下の地を離れ、

並上三近分,總名除色想,

上の三近分を并せて、総じて色想を除くと名づく。

無色謂無色,後色起從心。

無色とは色無きを謂う。後の色の起るは心よりす。

空無邊等三,名從加行立,

空・無辺等の三は、名は加行より立つ。

非想非非想,昧劣故立名。

非想・非非想は、昧劣なるがゆえに名を立つ。

論曰:此與靜慮數自性同,謂四各二。生如前說,即世品說由生有四。定無色體,總而言之亦善性攝心一境性。依此故說亦如是言。然助伴中此除色蘊,無色無有隨轉色故。雖一境性體相無差,離下地生故分四種。謂若已離第四靜慮生立空無邊處,乃至已離無所有處生立非想非非想處。離名何義?謂由此道解脫下地惑,是離下染義。即此四根本並上三近分,總說名為除去色想。空處近分未得此名,緣下地色起色想故。皆無色故立無色名,此因不成,許有色故。若爾,何故立無色名?由彼色微故名無色,如微黃物亦名無黃。許彼界中色有何相?若彼唯有身語律儀。身語既無,律儀寧有?又無大種,何有造色?若謂如有無漏律儀。不爾,無漏依有漏大種故,又彼定中亦遮有故。若許於彼有色根身,如何可言彼色微少?若謂於彼身量小故,水細蟲極微亦應名無色,亦身量小不可見故。若謂彼身極清妙故,中有色界應名無色。若謂彼身清妙中極,應唯有頂得無色名。如定生身有勝劣故,又生靜慮所有色身非下地根所能取故,與彼何異不名無色?若謂欲色隨義立名,無色不然。此有何理?若謂經說壽煖合故,又說名色與識相依如二蘆束相依住故,又說名色識為緣故,又遮離色乃至離行識有來有去故,由此無色有色理成。此證不成,應審思故。謂所引教應共審思,且契經言壽煖合者,為約一切界、為約欲界說?名色與識相依住者,為約一切界、為約欲色說?所說名色識為緣者,為說一切識皆為名色緣、為說名色生無不緣於識?遮離色至行識有來去者,為遮隨離一、為遮離一切?若謂契經言無簡別,不應於此更致審思。此說不然,太過失故。謂應外煖亦與壽合。又應外名色依識識為緣。又說四食如四識住,色無色界應有段食。

論に曰く:此れは静慮と数・自性同じ。いわゆる四各々二。生は前の説くがごとく、即ち世品に生に由って四有りと説けり。定の無色の体は、総じて言えばもまた善性の摂する心の一境性。此に依って説くもまた此のようの言。しかし助伴の中に此れは色蘊を除く。無色は随転の色有ること無きがゆえに。一境性の体相は差無しと雖も、下の地の生を離るるがゆえに四種に分かつ。いわゆるもし已に第四静慮の生を離れたれば空無辺処を立て、乃至已に無所有処の生を離れたれば非想非非想処を立つ。離の名は何の義か。いわゆる此の道に由って下の地の惑を解脱す。是れ下の染を離るるの義。即ち此の四根本并びに上の三近分は、総じて説いて名づけて色想を除去す。空処の近分は未だ此の名を得ず。下の地の色に縁じて色想を起すがゆえに。皆色無きがゆえに無色の名を立つるは、此の因は成らず。色有るを許すがゆえに。もしそうならば、何の故にか無色の名を立つるか。彼の色微なるに由るがゆえに名づけて無色。微黄の物もまた名づけて無黄とするがごとし。彼の界の中に色有るを許せば何の相か。もし彼はただ身・語の律儀有らば。身・語すでに無ければ、律儀は寧ろ有らんや。また大種無ければ、何ぞ造色有らん。もし謂わば無漏の律儀有るがごとく。そうにはあらず。無漏は有漏の大種に依るがゆえ、また彼の定の中もまた有るを遮るがゆえに。もし彼に於いて色の根身有るを許さば、如何にして彼の色微少と説くべきか。もし謂わば彼に於いて身量小なるがゆえに。水の細虫・極微もまた応に名づけて無色なり。もまた身量小にして見るべからざるがゆえに。もし謂わば彼の身は極めて清妙なるがゆえに。中有・色界は応に名づけて無色なり。もし謂わば彼の身は清妙の中の極。応にただ有頂のみ無色の名を得べし。定生の身に勝劣有るがごとく、また静慮に生ずる所有の色身は下の地の根の取る能くする所に非ざるがゆえに、彼と何の異なりて無色と名づけざるか。もし謂わば欲・色は義に随って名を立て、無色は此のようにはあらずと。此れに何の理有るか。もし謂わば経に寿・煖は合すと説くがゆえ、また名色と識とは相依ること二つの蘆束の相依りて住するがごとしと説くがゆえ、また名色は識を縁と為すと説くがゆえ、また色を離れ乃至行を離れて識の往来有るを遮るがゆえに、此に由って無色に色有りの理成ず。此の証は成らず。応に審らかに思うべきがゆえに。いわゆる引く所の教は応に共に審思すべし。且つ契経に寿・煖は合すと説くは、為に一切界に約するか、為に欲界に約して説くか。名色と識と相依りて住するは、為に一切界に約するか、為に欲・色に約して説くか。説く所の名色は識を縁と為すは、為に一切の識は皆名色の縁と為すと説くか、為に名色の生は識に縁せざる無しと説くか。色を離れ行に至る識の往来有るを遮るは、為に一に離るるに随うを遮るか、為に一切を離るるを遮るか。もし謂わば契経は簡別無しと説く。応に此に於いて更に審思を致すべからず。此の説は此のようにはあらず。太過の失あるがゆえに。いわゆる応に外の煖もまた寿と合すべし。また応に外の名色は識に依り識を縁と為すべし。また四食を説いて四識住のごとくせば、色・無色界は応に段食有るべし。

若謂經說有一類天超段食故,又說彼天喜為食故,無斯過者,則無色界不應有色,契經說彼出離色故。又契經言:無色解脫最為寂靜,超諸色故。又契經說:無色有情,一切色想皆超越故。若無色界實有色者,定應彼色自相可知,如何可言超色想等?若謂觀下麁色故說,則於段食亦應許然。又諸靜慮超下麁色,亦應可說出離色言,是則亦應名無色界。又亦應說出離受等,彼亦超下麁受等故。經既不說,知無色中遍超色類,非超受等。由此定知,彼界無色。然契經中說有不出有者,於自地有不能出故,非遍出故、非永出故。又薄伽梵於靜慮中說有色類乃至識類,於無色中說有受類乃至識類,不說有色。若無色中實有色者,何不如靜慮說有色類言?故所立因無不成過。在彼多劫色相續斷,後歿生下色從何生?此從心生,非從色起。謂昔所起色異熟因燻習在心,功能今熟,是故今色從彼心生。彼無色身心依何轉?離身何不轉?下曾不見故。色界無段食,身復依何轉?下亦不見身離段食轉故。又先說彼心轉所依,已釋總名,空無邊等從緣空等得別名耶?不爾。云何?下三無色,如其次第修加行時,思無邊空及無邊識、無所有故建立三名。立第四名由想昧劣,謂無明勝想得非想名,有昧劣想故名非非想。雖加行時亦作是念:諸想如病如箭如癰。若想全無便同痴闇,唯有非想非非想中與上相違寂靜美妙,而不就此加行立名。以若詰言何緣加行作如是念?必應答言以於彼處想昧劣故。由此昧劣故,是立名正因。已辯無色。云何等至?頌曰:

(論に引き続き曰く:)もし謂わば経に一類の天有りて段食を超ゆと説くがゆえ、また彼の天は喜を食と為すと説くがゆえ、斯の過無しと。則ち無色界は応に色有るべからず。契経に彼は色を出離すと説くがゆえに。また契経に説く:無色の解脱は最も寂静にして、諸の色を超ゆるがゆえに。また契経に説く:無色の有情は、一切の色想は皆超越せるがゆえに。もし無色界に実に色有らば、定めて彼の色は自相可知なるべし。如何にして色想等を超ゆと説くべきか。もし謂わば下の粗色を観ずるがゆえに説くと。則ち段食に於いてもまた応に此のようを許すべし。また諸の静慮は下の粗色を超ゆ。応にもまた色を出離すの言を説くべし。是れ則ち応にもまた名づけて無色界なり。また応にもまた受等を出離すと説くべし。彼もまた下の粗受等を超ゆるがゆえに。経すでに説かざれば、無色の中は遍く色の類を超えて、受等を超ゆるに非ずと知る。此に由って定めて知る、彼の界は色無し。しかし契経の中に出づる有るを説かざるは、自地の有に於いて能く出づることなきがゆえに。遍く出づるに非ざるがゆえ、永く出づるに非ざるがゆえに。また薄伽梵は静慮の中に於いて色類有り乃至識類と説き、無色の中に於いて受類有り乃至識類と説きて、色有りと説かず。もし無色の中に実に色有らば、何ぞ静慮のごとく色類有りの言を説かざるか。ゆえに立てる所の因は不成の過無し。彼に於いて多劫に色の相続は断え、後に歿して下に生ずるは色は何より生ずるか。此れは心より生じ、色より起るに非ず。いわゆる昔の起したる所の色の異熟因は心に熏習し、功能は今熟す。此のゆえに今の色は彼の心より生ず。彼の無色の身・心は何に依ってか転ずるか。身を離れて何ぞ転転ぜざらんや。下は曾て見ざるがゆえに。色界は段食無くして、身は復た何に依ってか転ずるか。下もまた身は段食を離れて転ずるを見ざるがゆえに。また先に彼の心の転ずる依る所を説けり。已に総名を釋せり。空・無辺等は空等に縁ずるより別名を得るか。そうにはあらず。如何。下の三無色は、次第のごとく加行を修する時、無辺の空および無辺の識・無所有を思うがゆえに三名を建立す。第四の名を立つるは想の昧劣なるに由る。いわゆる明の勝れる想無きを以て非想の名を得。昧劣の想有るがゆえに名づけて非非想。加行の時にもまた是の念を作すと雖も:諸の想は病のごとく箭のごとく癰のごとし。もし想は全く無ければ便ち癡暗に同じ。ただ非想非非想の中のみ上と相違して寂静美妙なり。而も此の加行に就いて名を立てず。もし詰えば何の縁にか加行は此のようの念を作すか、必ず応に答えて彼の処に於いて想の昧劣なるを以てと説くべきがゆえに。此の昧劣なるに由るがゆえに、是れ名を立つる正因。已に無色を弁じたれば。等至は如何。頌に曰く、

此本等至八,前七各有三,

此の根本の等至は八。前の七は各々三有り。

謂味淨無漏,後味淨二種,

いわゆる味・浄・無漏。後は味・浄の二種。

味謂愛相應,淨謂世間善,

味とは愛に相応するを謂い、浄とは世間の善を謂う。

此即所味著,無漏謂出世。

此れ即ち味着する所。無漏とは出世を謂う。

論曰:此上所辯靜慮無色。根本等至總有八種,於中前七各具有三,有頂等至唯有二種,此地昧劣無無漏故。初味等至,謂愛相應,愛能味著故名為味,彼相應故此得味名。淨等至名目世善定,與無貪等諸白淨法相應起故,此得淨名。即味相應所味著境,此無間滅彼味定生。緣過去淨深生味著,爾時雖名出所味定,於能味定得名為入。無漏定者,謂出世定,愛不緣故非所味著。如是所說八等至中靜慮攝支,非諸無色。於四靜慮各有幾支?頌曰:

論に曰く:此の上の弁ずる所の静慮・無色は、根本の等至は総じて八種有り。中に於いて前の七は各々具に三、有頂の等至はただ二種有り。此の地は昧劣にして無漏無きがゆえに。初めの味等至とは、いわゆる愛に相応する。愛は能く味着するがゆえに名づけて味。彼に相応するがゆえに此れ味の名を得。浄等至の名は目して世の善定。無貪等の諸の白浄の法と相応して起るがゆえに、此れ浄の名を得。即ち味に相応する味着する所の境は、此れ無間に滅して彼の味定は生ず。過去の浄に縁じて深く味着を生ずるは、爾の時は名づけて味する所の定を出出づると雖も、能く味する定に於いて名づけて入を得。無漏定とは、いわゆる出世の定。愛は縁ぜざるがゆえに味着する所に非ず。此のようの説く所の八等至の中に静慮は支を摂す。諸の無色に非ず。四静慮に於いて各々幾支有るか。頌に曰く、

靜慮初五支,尋伺喜樂定;

静慮の初めは五支。尋・伺・喜・楽・定。

第二有四支,內淨喜樂定;

第二に四支有り。内浄・喜・楽・定。

第三具五支,捨念慧樂定;

第三は具に五支。捨・念・慧・楽・定。

第四有四支,捨念中受定。

第四に四支有り。捨・念・中受・定。

論曰:唯淨無漏四靜慮中初具五支:一尋、二伺、三喜、四樂、五等持。此中等持頌說為定,等持與定名異體同,故契經說心定等定名正等持。此亦名為心一境性,義如前釋。傳說唯定是靜慮亦靜慮支,餘四支是靜慮支非靜慮。如實義者,如四支軍,餘靜慮支應知亦爾。第二靜慮唯有四支:一內等淨、二喜、三樂、四等持。第三靜慮具有五支:一行捨、二正念、三正慧、四受樂、五等持。第四靜慮唯有四支:一行捨清淨、二念清淨、三非苦樂受、四等持。靜慮支名既有十八,於中實事總有幾種?頌曰:

論に曰く:ただ浄・無漏の四静慮の中に初は具に五支。一は尋、二は伺、三は喜、四は楽、五は等持。此の中の等持は頌に定と説く。等持と定とは名異なりて体同じ。ゆえに契経に心・定・等定を説いて名づけて正等持。此れもまた名づけて心一境性。義は前の釋のごとし。伝え聞くただ定のみ是れ静慮にしてもまた静慮支。其余の四支は是れ静慮支にして静慮に非ず。実義のごときは、四支の軍のごとし。其余の静慮支は応に知るべしもまた此のよう。第二静慮はただ四支有り。一は内等浄、二は喜、三は楽、四は等持。第三静慮は具に五支有り。一は行捨、二は正念、三は正慧、四は受楽、五は等持。第四静慮はただ四支有り。一は行捨清浄、二は念清浄、三は非苦楽受、四は等持。静慮支の名はすでに十八有れば、中に於いて実事は総じて幾種有るか。頌に曰く、

此實事十一,初二樂輕安,

此の実事は十一。初・二の楽は軽安。

內淨即信根,喜即是喜受。

内浄は即ち信根。喜は即ち是れ喜受。

論曰:此支實事唯有十一,謂初五支即五實事。第二靜慮三支如前,增內淨支足前為六。第三靜慮等持如前,增餘四支足前為十。第四靜慮三支如前,增非苦樂支足前為十一。由此故說,有是初支非第二支,應作四句。第一句謂尋伺。第二句謂內淨。第三句謂喜、樂、等持。第四句。謂除前餘法。餘支相對,如理應思。何故第三說增樂受?由初二樂,輕安攝故。何理為證知是輕安?初二定中無樂根故。非初二定有身受樂,正在定中無五識故。亦無心受樂,以說有喜故。喜即喜受,無一心中二受俱行,故無樂受。不可喜樂更互現前,說具五支及四支故。有說:無有心受樂根,三靜慮中說樂支者,皆是身受所攝樂根。若爾,何故有契經說:云何樂根?謂順樂觸力所引生身心樂受。有餘於此增益心言,諸部經中唯說身故。又第三定所立樂支,契經自說為身所受樂故。若謂於此說意為身,此說身名為有何德?又第四定輕安倍增,而不說彼有樂支故。若謂輕安要順樂受方名為樂,第三靜慮輕安順樂應是樂支。若謂彼輕安為行捨所損。不爾,行捨增輕安故。又彼輕安勝前二故。又契經說:若於爾時諸聖弟子於離生喜身作證具足住,彼於爾時已斷五法,修習五法皆得圓滿,廣說乃至何等名為所修五法?一歡、二喜、三輕安、四樂、五三摩地。此經輕安與樂別說,故初二樂非即輕安。若言定中寧有身識?有亦無失,許在定中有輕安風勝定所起,順生樂受遍觸身故。若謂外散故應失壞定者,無如是失,此輕安風從勝定生,引內身樂還能順起三摩地故。若謂起身識應名出定者,此難不然,由前因故。若謂依止欲界身根不應得生色界觸識,緣輕安識,許生無過。若爾,正在無漏定中觸及身識應成無漏。勿所立支少分有漏、少分無漏,成違理失。無違理失。所以者何?許說身輕安是覺支攝故。若謂順彼故說覺支,無漏亦應許如是說。

論に曰く:此の支の実事はただ十一有り。いわゆる初の五支は即ち五の実事。第二静慮は三支は前のごとく、内浄支を増して前を足して六と為す。第三静慮は等持は前のごとく、其余の四支を増して前を足して十と為す。第四静慮は三支は前のごとく、非苦楽支を増して前を足して十一と為す。此に由って説くがゆえに、是れ初支にして第二支に非ざる有り、応に四句を作すべし。第一句とは尋・伺を謂う。第二句とは内浄を謂う。第三句とは喜・楽・等持を謂う。第四句とは、前を除く其余の法を謂う。其余の支の相対は、理のごとく応に思うべし。何の故にか第三に増す楽受を説くか。初・二の楽に由る、軽安の摂なるがゆえに。何の理を以て証して是れ軽安を知るか。初・二の定の中に楽根無きがゆえに。初・二の定に身受の楽有るに非ず。正しく定の中に五識無きがゆえに。もまた心受の楽無し。喜有りと説くを以て。喜は即ち喜受。一心の中に二受の俱に行ずる無し。ゆえに楽受無し。喜・楽の更互に現前すべからず。具に五支および四支を説くがゆえに。ある説に、心受の楽根有ること無し。三静慮の中に楽支を説くは、皆是れ身受の摂する所の楽根。もしそうならば、何の故にか契経有りて説く:何をか楽根とするか。いわゆる楽に順ずる触の力の引生する所の身心の楽受。其余有りて此に於いて心の言を增益す。諸部の経の中は但だ身を説くがゆえに。また第三定の立てる所の楽支は、契経が自ら身の受くる所の楽と説くがゆえに。もし謂わば此に於いて意を説いて身と為す。此の身を説く名は為に何の徳有るか。また第四定は軽安は倍増すれど、而も彼に楽支有りと説かざるがゆえに。もし謂わば軽安は要ずるに楽受に順ぜて方に名づけて楽。第三静慮の軽安は楽に順ずれば応に是れ楽支なり。もし謂わば彼の軽安は行捨の損ずる所と為す。そうにはあらず。行捨は軽安を増すがゆえに。また彼の軽安は前の二に勝れるがゆえに。また契経に説く:もし爾の時に於いて諸の聖弟子は生を離るるの喜を身に作証して具足に住せば、彼は爾の時に於いて已に五法を断じ、五法を修習して皆円満を得。広く説き乃至何等をか名づけて修する所の五法とするか。一は歓、二は喜、三は軽安、四は楽、五は三摩地。此の経は軽安と楽と別に説く。ゆえに初・二の楽は即ち軽安に非ず。もし説かば定の中に寧ろ身識有らんや。有るもまた失無し。定の中に軽安の風の勝定の起す所有りて、楽受を順生して遍く身に触るるを許すがゆえに。もし謂わば外に散ずるがゆえに応に定を失壊すべしと。此のようの失無し。此の軽安の風は勝定より生じ、内の身楽を引きて還って能く三摩地を順起するがゆえに。もし謂わば身識を起すは応に名づけて定を出づると。此の難は此のようにはあらず。前の因に由るがゆえに。もし謂わば欲界の身根に依止して応に色界の触識の生ずるを得べからず、軽安に縁ずる識は、生ずるを許して過無し。もしそうならば、正しく無漏定の中の触および身識は応に無漏を成ずべし。立てる所の支に少分は有漏・少分は無漏と為るは、理に違するの失を成ぜんこと勿れ。理に違するの失無し。所以は何ぞや。身の軽安は是れ覚支の摂なるを説くを許すがゆえに。もし謂わば彼に順ずるがゆえに覚支を説く。無漏もまた応に此のようの説を許すべし。

若謂許說,便違契經。如契經言:諸所有眼乃至廣說。此經中說十五界全皆有漏故,無違經過,此約餘觸及餘身識密意說故。如何無漏靜慮現前,少支有漏、少支無漏?起不俱時,斯有何失。若謂喜樂不俱起故,應無五支及四支理。此亦無過,約容有說有喜樂支,如有尋伺。若謂尋伺亦許俱起,於不俱起為喻不成。此非不成,心之麁細互相違故不應俱起。又於不俱起不能說過故。由此可說,依初五支減二三四立第二等,即由此理初說五支,擬漸離前、建立後故。無漸減故,不說想等。或應說何故初唯立五支?若謂此五資初定勝故立為支。此不應理,念慧能資勝尋伺故。雖有一類作如是說,然非古昔諸軌範師共施設故,應審思擇。應說何法名內等淨?此定遠離尋伺鼓動,相續清淨轉,名為內等淨。若有尋伺鼓動,相續不清淨轉,如河有浪。若爾,此應無有別體,如何許有十一實事?是故應說此即信根。謂若證得第二靜慮,則於定地亦可離中有深信生,名內等淨。信是淨相,故立淨名。離外均流,故名內等。淨而內等,故立內等淨名。有餘師言:此內等淨等持尋伺皆無別體。若無別體,心所應不成,心分位殊亦得名心所。雖有此理,非我所宗。如上所言,喜即喜受。以何為證知決定然?汝等豈言喜非喜受,如餘部許,我亦許然。餘部云何許非喜受?謂別有喜是心所法,三定中樂皆是喜受,故喜、喜受其體各異。非三定樂可名喜受,二阿笈摩分明證故。如辯顛倒契經中說:漸無餘滅憂等五根,第三定中無餘滅喜,於第四定無餘滅樂。又餘經說:第四靜慮斷樂斷苦先喜憂沒。故第三定必無喜根,由此喜受是喜非樂。如是所說諸靜慮支,染靜慮中為皆有不?不爾。云何?頌曰:

(論に引き続き曰く:)もし謂わば説を許さば、便ち契経に違す。契経の説くがごとく:諸の所有の眼乃至広く説く。此の経の中に十五界は全く皆有漏と説くがゆえに、経に違するの過無し。此れは其余の触および其余の身識に約して密意に説くがゆえに。如何にして無漏の静慮の現前に、少支は有漏・少支は無漏か。起りは俱時ならざれば、斯に何の失有らん。もし謂わば喜・楽は俱に起さざるがゆえに、応に五支および四支の理無きべしと。此れもまた過無し。容そ有りと約して喜・楽の支有りと説く。尋・伺有るがごとし。もし謂わば尋・伺もまた俱起を許さば、俱に起さざるに於いて喩と為って成らず。此れは成らざるに非ず。心の粗細は互相違するがゆえに応に俱に起すべからず。また俱に起さざるに於いて能く過を説くこと能わざるがゆえに。此に由って説くべし、初の五支に依って二・三・四を減じて第二等を立つ。即ち此の理に由って初に五支を説く。漸く前を離れ、後を建立せんと擬するがゆえに。漸減無きがゆえに、想等を説かず。或いは応に説くべし何の故にか初にただ五支を立つるか。もし謂わば此の五は初定に資して勝れるがゆえに立てて支と為す。此れは理に該当せず。念・慧は能く資して尋・伺に勝れるがゆえに。一類有りて此の説を作すと雖も、然而古昔の諸の軌範師の共に施設する所に非ざるがゆえに、応に審らかに思択すべし。応に説くべし何の法をか名づけて内等浄か。此の定は尋・伺の鼓動を遠離して、相続は清浄に転ず。名づけて内等浄。もし尋・伺の鼓動有れば、相続は清浄に転ぜず。河の浪有るがごとし。もしそうならば、此れは応に別体有ること無きべし。如何にして十一の実事有るを許すか。此のゆえに応に説くべし此れ即ち信根。いわゆるもし第二静慮を証得せば、則ち定地に於いてもまた離るべき中に深い信を生ず。名づけて内等浄。信は是れ浄相。ゆえに浄の名を立つ。外の均流を離るるがゆえに名づけて内等。浄にして内等。ゆえに内等浄の名を立つ。其余の師有りて説く:此の内等浄・等持・尋・伺は皆別体無し。もし別体無ければ、心所は応に成らざるべし。心の分位の殊にもまた名づけて心所を得。此の理有ると雖も、我が宗する所に非ず。上の言う所のごとく、喜は即ち喜受。何を以て証して知る決定此のようか。汝等は豈に喜は喜受に非ずと説かんか。其余の部の許すがごとく、我もまた此のようを許す。其余の部は如何にして喜受に非ずを許すか。いわゆる別に喜有りて是れ心所法、三定の中の楽は皆是れ喜受。ゆえに喜・喜受は其の体は各異なり。三定の楽は名づけて喜受と為すべきに非ず。二の阿笈摩(阿含)に分明の証あるがゆえに。顛倒を弁ずる契経の中に説くがごとく:漸く憂等の五根を余無く滅し、第三定の中に喜を余無く滅し、第四定に於いて楽を余無く滅す。また其余の経に説く:第四静慮は楽を断じ苦を断じ先に喜・憂は没す。ゆえに第三定は必ず喜根無し。此に由って喜受は是れ喜にして楽に非ず。此のようの説く所の諸の静慮支は、染の静慮の中に為に皆有不や。そうにはあらず。如何。頌に曰く:

染如次從初,無喜樂內淨,

染は次第のごとく初より、喜・楽・内浄無く、

正念慧捨念,餘說無安捨。

正念・慧・捨・念。其余は安・捨無しと説く。

論曰:如上所說諸靜慮支,染靜慮中非皆具有。且有一類隨相說言:初染中無離生喜樂,非離煩惱而得生故。第二染中無內等淨,彼為煩惱所擾濁故。第三染中無正念慧,彼為染樂所迷亂故。第四染中無捨念淨,彼為煩惱所染汙故。有餘師說:初二染中但無輕安,後二染中但無行捨,大善攝故。契經中說:三定有動,第四不動。依何義說?頌曰:

論に曰く:上の説く所のごとく諸の静慮支は、染の静慮の中は皆具に有るに非ず。且つ一類有りて相に随って説いて言う:初めの染の中に離生の喜楽無し。煩悩を離れずして生ずるを得るに非ざるがゆえに。第二の染の中に内等浄無し。彼は煩悩の擾濁する所なるがゆえに。第三の染の中に正念・慧無し。彼は染楽の迷乱する所なるがゆえに。第四の染の中に捨・念の浄無し。彼は煩悩の染汚する所なるがゆえに。其余の師有りて説く:初・二の染の中は但だ軽安無く、後の二の染の中は但だ行捨無し。大善の摂なるがゆえに。契経の中に説く:三定に動有り、第四は不動。何の義に依ってか説くか。頌に曰く、

第四名不動,離八災患故,

第四は名づけて不動。八の災患を離るるがゆえに。

八者謂尋伺,四受入出息。

八とはいわゆる尋・伺、四受・入出息。

論曰:下三靜慮名有動者,有災患故。第四靜慮名不動者,無災患故。災患有八,其八者何?尋、伺、四受、入息、出息。此八災患第四都無,故佛世尊說為不動。然契經說:第四靜慮不為尋伺喜樂所動。有餘師說:第四靜慮如密室燈照而無動。如定靜慮,所有諸受生亦爾不?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:下の三静慮は名づけて動有り。災患有るがゆえに。第四静慮は名づけて不動。災患無きがゆえに。災患に八有り。其の八とは何ぞ。尋・伺・四受・入息・出息。此の八の災患は第四に都て無し。ゆえに仏世尊は説いて不動と為す。しかし契経に説く:第四静慮は尋・伺・喜・楽の動する所と為さず。其余の師有りて説く:第四静慮は密室の灯の照らして動無きがごとし。定の静慮のごとく、所有の諸の受の生もまた此のようか否や。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

生靜慮從初,有喜樂捨受,

生静慮は初より、喜・楽・捨の受有り、

及喜捨樂捨,唯捨受如次。

および喜・捨・楽・捨、ただ捨受、次第のごとく。

論曰:生靜慮中初有三受:一喜受,意識相應;二樂受,三識相應;三捨受,四識相應。第二有二,謂喜與捨,意識相應無有樂受,無餘識故、心悅麁故。第三有二,謂樂與捨,意識相應。第四有一,謂唯捨受,意識相應。是謂定生受有差別。上三靜慮無三識身及無尋伺,如何生彼能見聞觸及起表業?非生彼地無眼識等,但非彼繫。所以者何?頌曰:

論に曰く:生静慮の中の初に三受有り。一は喜受、意識に相応す。二は楽受、三識に相応す。三は捨受、四識に相応す。第二に二有り。いわゆる喜と捨。意識に相応して楽受有ること無し。其余の識無きがゆえ、心の悦は粗なるがゆえに。第三に二有り。いわゆる楽と捨。意識に相応す。第四に一有り。いわゆるただ捨受、意識に相応す。是れを定・生の受の差別有りと謂う。上の三静慮は三識身無くおよび尋・伺無きに、如何にして彼に生じて能く見・聞・触および表業を起すか。彼の地に生ずるは眼識等無きに非ず。但だ彼の繋に非ず。所以は何ぞや。頌に曰く、

生上三靜慮,起三識表心,

上の三静慮に生じて、三識・表の心を起すは、

皆初靜慮攝,唯無覆無記。

皆初静慮の摂。ただ無覆の無記。

論曰:生上三地起三識身及發表心皆初定繫。生上起下如起化心,故能見聞觸及發表,此四唯是無覆無記。不起下染,已離染故。不起下善,以下劣故。如是別釋靜慮事已。淨等等至初得云何?頌曰:

論に曰く:上の三地に生じて三識身および発表の心を起すは皆初定の繋。上に生じて下を起すは化心を起すがごとし。ゆえに能く見・聞・触および発表す。此の四はただ是れ無覆の無記。下の染を起さず。已に染を離れたるがゆえに。下の善を起さず。下劣なるを以て。此のようの別に静慮の事を釋し已りて。浄等の等至の初得は如何。頌に曰く:

全不成而得,淨由離染生,

全く成らずして得るは、浄は染を離るるに由って生ず。

無漏由離染,染由生及退。

無漏は染を離るるに由り、染は生および退に由る。

論曰:八本等至隨其所應,若全不成而獲得者,淨由離染及由受生,謂在下地離下地染,及從上地生自地時。下七皆然。有頂不爾,唯由離染無由生故。遮何故說全不成言?為遮已成更得少分,如由加行得順決擇分等,及由退得順退分定。即依此義作是問言:頗有淨定由離染得?由離染捨、由退由生,為問亦爾。曰:有,謂順退分。且初靜慮順退分攝,離欲染時得,離自染時捨,退離自染得,退離欲染捨。從上生自得,從自生下捨。餘地所攝,應如理思。無漏但由離染故得,謂聖離下染,得上地無漏。此亦但據全不成者,若先已成,餘時亦得,謂盡智位得無學道,於練根時得學無學。餘加行及退,皆如理應思。豈不由入正性離生,亦名初得無漏等至?此非決定。以次第者,爾時未得根本定故。此中但論決定得者,染由受生及退故得。謂上地沒生下地時得下地染,及於此地離染退時得此地染。何等至後生幾等至?頌曰:

論に曰く:八の本等至は其の該る所に随い、もし全く成らずして獲得するは、浄は染を離るるに由りおよび生を受くるに由る。いわゆる下の地に在りて下の地の染を離るる時、および上の地より自地に生ずる時。下の七は皆此のよう。有頂は此のようにはあらず。ただ染を離るるに由るのみ、生に由る無きがゆえに。遮るに何の故にか全く成らずの言を説くか。為に已に成れるの更に少分を得るを遮らんとす。加行に由って順決択分等を得るがごとく、および退に由って順退分の定を得。即ち此の義に依って是の問を作して曰く:頗る浄定有りて染を離るるに由って得るか。染を離るるに由って捨て、退に由り生に由る、問と為すもまた此のよう。答に曰く:有り。いわゆる順退分。且つ初静慮の順退分の摂は、欲の染を離るる時に得、自の染を離るる時に捨て、自の染を退離して得、欲の染を退離して捨つ。上より自に生じて得、自より下に生じて捨つ。其余の地の摂する所は、応に理のごとく思うべし。無漏は但だ染を離るるに由るがゆえに得。いわゆる聖は下の染を離れて、上の地の無漏を得。此れもまた但だ全く成らざるに拠る。もし先に已に成らば、其余の時にもまた得。いわゆる尽智の位に無学道を得、練根の時に於いて学・無学を得。其余の加行および退は、皆理のごとく応に思うべし。豈に正性離生に入るに由らずして、もまた名づけて初めて無漏の等至を得るとせんか。此れは決定に非ず。次第なるを以て、爾の時は未だ根本定を得ざるがゆえに。此の中は但だ決定の得を論ず。染は生を受くるおよび退に由るがゆえに得。いわゆる上の地に歿して下の地に生ずる時に下の地の染を得、および此の地に於いて染を離れて退する時に此の地の染を得。何の等至の後に幾等至を生ずるか。頌に曰く、

無漏次生善,上下至第三,

無漏は次に善を生じ、上・下は第三に至る。

淨次生亦然,兼生自地染。

浄の次生もまた此のよう。兼ねて自地の染を生ず。

染生自淨染,並下一地淨,

染は自・浄・染を生じ、并びに下の一地の浄。

死淨生一切,染生自下染。

死・浄は一切を生じ、染は自・下の染を生ず。

論曰:無漏次生自上下善,善言具攝淨及無漏。然於上下各至第三,遠故無能超生第四。故於無漏七等至中,從初靜慮無間生六,謂自二三各淨無漏。無所有處無間生七,謂自下六上地唯淨。第二靜慮無間生八,謂自上六並下地二。識無邊處無間生九,謂自下六並上地三。第三四空無間生十,謂上下八並自地二。類智無間能生無色。法智不然,依緣下故。從淨等至所生亦然,而各兼生自地染汙故。有頂淨無間生六,謂自淨染、下淨無漏。從初靜慮無間生七。無所有八,第二定九,識處生十,餘生十一。從染等至生自淨染並生次下一地淨定。謂為自地煩惱所逼,於下淨定亦生尊重,故有從染生次下淨。若於染淨能正了知,可能從染轉生下淨;非諸染汙能正了知,如何彼能從染生淨?先願力故。謂先願言:寧得下淨不須上染。先願勢力隨相續轉,故後從染生下淨定。如先立願方趣睡眠,至所期時便能覺寤。無漏與染必不相生,淨俱相生故三有別。如是所說淨染生染,但約在定淨及染說。若生淨染,生染不然,謂命終時從生得淨,一一無間生一切染。若從生染,一一無間能生自地一切下染,不生上者未離下故。所言從淨生無漏者,為一切種皆能生耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:無漏は次に自・上下の善を生ず。善の言は具に浄および無漏を摂す。然而上下に於いて各々第三に至る。遠きがゆえに能く第四を超えて生ずる無し。ゆえに無漏の七等至の中に於いて、初静慮より無間に六を生ず。いわゆる自・二・三の各々浄・無漏。無所有処は無間に七を生ず。いわゆる自・下の六、上の地はただ浄。第二静慮は無間に八を生ず。いわゆる自・上の六并びに下の地の二。識無辺処は無間に九を生ず。いわゆる自・下の六并びに上の地の三。第三・四の空は無間に十を生ず。いわゆる上・下の八并びに自地の二。類智は無間に能く無色を生ず。法智は此のようにはあらず。下に依り縁ずるがゆえに。浄等至の生ずる所よりもまた此のよう。而も各々兼ねて自地の染汚を生ずるがゆえに。有頂の浄は無間に六を生ず。いわゆる自の浄・染、下の浄・無漏。初静慮より無間に七を生ず。無所有は八、第二定は九、識処は十を生じ、其余は十一を生ず。染等至より自の浄・染を生じ并びに次の下の一地の浄定を生ず。いわゆる為に自地の煩悩の逼める所と為りて、下の浄定に於いてもまた尊重を生ずるがゆえに。ゆえに染より次の下の浄を生ずる有り。もし染・浄を能く正しく了知せば、能く染より転じて下の浄を生ずべきか。諸の染汚は能く正しく了知するに非ざれば、如何にして彼は能く染より浄を生ぜんか。先の愿力あるがゆえに。いわゆる先に願して曰く:寧ろ下の浄を得て上の染を須いじと。先の願の勢力は相続に随って転ずるがゆえに、ゆえに後に染より下の浄定を生ず。先に願を立てて方に睡眠に趣きて、期する所の時に至れば便ち能く覚寤するがごとし。無漏と染とは必ず相生ぜず。浄は俱に相生ずるがゆえに三の別有り。此のようの説く所の浄・染の染を生ずるは、但だ定の浄および染に約して説く。もし生の浄・染は、生の染は此のようにはあらず。いわゆる命終の時に生得の浄より、一一に無間に一切の染を生ず。もし生の染よりは、一一に無間に能く自地の一切の下染を生じ、上を生ぜず。未だ下を離れざるがゆえに。言う所の浄より無漏を生ずるは、為に一切種は皆能く生ずるか。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

淨定有四種,謂即順退分,

浄定に四種有り。いわゆる即ち順退分、

順住順勝進,順決擇分攝。

順住・順勝進、順決択分の摂。

如次順煩惱,自上地無漏,

次第のごとく煩悩・自・上の地・無漏に順ず。

互相望如次,生二三三一。

互いに相望みて次第のごとく、二・三・三・一を生ず。

論曰:諸淨等至總有四種:一順退分攝、二順住分攝、三順勝進分攝、四順決擇分攝。地各有四,有頂唯三,由彼更無上地可趣故,彼地無有順勝進分攝。於此四中唯第四分能生無漏。所以者何?由此四種有如是相,順退分能順煩惱,順住分能順自地,順勝進分能順上地,順決擇分能順無漏,故諸無漏唯從此生。此四相望互相生者,初能生二,謂順退住。第二生三,除順決擇。第三生三,除順退分。第四生一,謂自非餘。如上所言淨及無漏,皆能上下超至第三。行者如何修超等至?頌曰:

論に曰く:諸の浄等至は総じて四種有り。一は順退分の摂、二は順住分の摂、三は順勝進分の摂、四は順決択分の摂。地は各々四有り。有頂はただ三。彼は更に上地の趣くべき無きに由るがゆえに、彼の地には順勝進分の摂有ること無し。此の四の中に於いてただ第四分は能く無漏を生ず。所以は何ぞや。此の四種に此のようの相有るに由る。順退分は能く煩悩に順じ、順住分は能く自地に順じ、順勝進分は能く上地に順じ、順決択分は能く無漏に順ず。ゆえに諸の無漏はただ此より生ず。此の四の相望みて互いに生ずるは、初は能く二を生ず。いわゆる順退・住。第二は三を生ず。順決択を除く。第三は三を生ず。順退分を除く。第四は一を生ず。いわゆる自にして其余に非ず。上の言う所のごとく浄および無漏は、皆能く上下に超えて第三に至る。行の者は如何にして超等至を修するか。頌に曰く、

二類定順逆,均間次及超,

二類の定は順・逆、均・間・次および超。

至間超為成,三洲利無學。

間超に至りて成と為す。三洲の利の無学。

論曰:本善等至分為二類:一者有漏、二者無漏。往上名順,還下名逆。同類名均,異類名間。相隣名次,越一名超。謂觀行者修超定時,先於有漏八地等至順逆均次現前數習,次於無漏七地等至順逆均次現前數習,次於有漏無漏等至順逆間次現前數習,次於有漏順逆均超現前數習,次於無漏順逆均超現前數習,是名修習超加行滿。後於有漏無漏等至順逆間超,名超定成。此中超者唯能超一,遠故無能超入第四。修超等至唯人三洲、不時解脫諸阿羅漢,定自在故、無煩惱故。時解脫者雖無煩惱定不自在,諸見至者雖定自在有餘煩惱,故皆不能修超等至。此諸等至依何身起?頌曰:

論に曰く:本の善等至は分かれて二類と為す。一者は有漏、二者は無漏。上に往くを名づけて順、還って下るを名づけて逆。同類を名づけて均、異類を名づけて間。相い隣なるを名づけて次、一を越ゆるを名づけて超。いわゆる観行の者の超定を修する時、先ず有漏の八地の等至を順・逆・均・次に現前にして数習し、次に無漏の七地の等至を順・逆・均・次に現前にして数習し、次に有漏・無漏の等至を順・逆・間・次に現前にして数習し、次に有漏を順・逆・均・超に現前にして数習し、次に無漏を順・逆・均・超に現前にして数習す。是れを名づけて超の加行を修習して満つ。後に有漏・無漏の等至に於いて順・逆・間・超せば、名づけて超定の成。此の中の超はただ能く一を超ゆ。遠きがゆえに能く超えて第四に入ること無し。超等至を修するはただ人の三洲・不時解脱の諸の阿羅漢。定自在なるがゆえ、煩悩無きがゆえに。時解脱なるは煩悩無しと雖も定自在ならず、諸の見至なるは定自在なりと雖も其余の煩悩有り。ゆえに皆能く超等至を修せず。此の諸の等至は何の身に依ってか起るか。頌に曰く、

諸定依自下,非上無用故,

諸の定は自・下に依る。上に非ず、用無きがゆえに。

唯生有頂聖,起下盡餘惑。

ただ有頂に生ずる聖は、下を起して其余の惑を尽くす。

論曰:諸等至起依自下身。依上地身無容起下,上地起下無所用故、自有勝定故、下勢力劣故、已棄捨故、可厭毀故。總相雖然,若委細說聖生有頂必起無漏無所有處,為盡自地所餘煩惱、自無聖道欣樂起故、唯無所有最隣近故,起彼現前盡餘煩惱。此諸等至緣何境生?頌曰:

論に曰く:諸の等至の起るは自・下の身に依る。上地の身に依っては下を起すを容れず。上地は下を起すに用いる所無きがゆえ、自ら勝定有るがゆえ、下は勢力劣れるがゆえ、已に棄捨せるがゆえ、厭毀すべきがゆえに。総相は然りと雖も、もし委細に説かば、聖の有頂に生ずるは必ず無漏の無所有処を起す。為に自地の其余の煩悩を尽くさんとし、自ら聖道の欣楽して起す無きがゆえ、ただ無所有は最も隣近なるがゆえに、彼を起して現前して其余の煩悩を尽くす。此の諸の等至は何の境に縁じてか生ずるか。頌に曰く、

味定緣自繫,淨無漏遍緣,

味定は自の繋に縁じ、浄・無漏は遍く縁ず。

根本善無色,不緣下有漏。

根本の善の無色は、下の有漏に縁ぜず。

論曰:味定但緣自地有漏,必無緣下,已離染故。亦不緣上,愛地別故。不緣無漏,應成善故。淨及無漏俱能遍緣自上下地有為無為,皆為境故。有差別者,無記無為非無漏境。根本地攝善無色定,不緣下地諸有漏法,自上地法無不能緣。雖亦能緣下地無漏,緣類智品道,不緣法智品,亦不能緣下地法滅。無色近分亦緣下地,彼無間道必緣下故。味淨無漏三等至中,何等力能斷諸煩惱?頌曰:

論に曰く:味定は但だ自地の有漏に縁ず。必ず下に縁ずること無し。已に染を離れたるがゆえに。もまた上に縁ぜず。愛する地の別なるがゆえに。無漏に縁ぜず。応に善を成ずべきがゆえに。浄および無漏は俱に能く遍く自・上下の地の有為・無為に縁ず。皆境と為るがゆえに。差別有るは、無記・無為は無漏の境に非ず。根本地の摂する善の無色定は、下の地の諸の有漏法に縁ぜず。自・上の地の法は能く縁ぜざる無し。能く下の地の無漏に縁ずると雖も、類智品の道に縁じて、法智品に縁ぜず。もまた能く下の地の法の滅に縁ぜず。無色の近分もまた下の地に縁ず。彼の無間道は必ず下に縁ずるがゆえに。味・浄・無漏の三等至の中に、何等の力か能く諸の煩悩を断ずるか。頌に曰く、

無漏能斷惑,及諸淨近分。

無漏は能く惑を断じ、および諸の浄の近分。

論曰:諸無漏定皆能斷惑,本淨尚無能,況諸染能斷。不能斷下,已離染故。不能斷自,自所縛故。不能斷上,以勝己故。若淨近分亦能斷惑,以皆能斷次下地故。中間攝淨亦不能斷。近分有幾;何受相應;於味等三為皆具不;頌曰:

論に曰く:諸の無漏定は皆能く惑を断ず。本の浄はなお能无きに、況んや諸の染の能く断ぜんや。能く下を断ぜず。已に染を離れたるがゆえに。能く自を断ぜず。自の縛する所なるがゆえに。能く上を断ぜず。己に勝るを以て。もし浄の近分もまた能く惑を断ずるは、皆能く次の下の地を断ずるを以て。中間の摂する浄もまた能く断ぜず。近分は幾有るか。何の受に相応するか。味等の三に於いて為に皆具か否や。頌に曰く、

近分八捨淨,初亦聖或三。

近分は八、捨・浄。初もまた聖或いは三。

論曰:諸近分定亦有八種,與八根本為入門故。一切唯一捨受相應,作功用轉故、未離下怖故。此八近分皆淨定攝,唯初近分亦通無漏。皆無有味,離染道故。雖近分心有結生染,而遮定染故作是說。有說:未至定亦有味相應,未起根本亦貪此故,由此未至具有三種。中間靜慮與諸近分為無別義、為亦有殊?義亦有殊,謂諸近分為離下染是入初因,中定不然。復有別義,頌曰:

論に曰く:諸の近分定もまた八種有り。八根本と入門と為るがゆえに。一切は唯一の捨受に相応す。功を作りて用いて転ずるがゆえ、未だ下の怖を離れざるがゆえに。此の八近分は皆浄定の摂。ただ初の近分もまた無漏に通ず。皆味有ること無し。離染の道なるがゆえに。近分の心に結生の染有りと雖も、而も定の染を遮るがゆえに是の説を作す。ある説に、未至定もまた味の相応有り。未だ根本を起さずとも此れを貪するがゆえに。此に由って未至は具に三種有り。中間の静慮は諸の近分と為に別義無きか、為にもまた殊有るか。義もまた殊有り。いわゆる諸の近分は為に下の染を離るる是れ初の因に入る。中定は此のようにはあらず。復た別義有り。頌に曰く、

中靜慮無尋,具三唯捨受。

中の静慮は尋無し。具に三、ただ捨受。

論曰:初本近分尋伺相應,上七定中皆無尋伺,唯中靜慮有伺無尋,故彼勝初未及第二,依此義故立中間名。由此上無中間靜慮,一地升降無如此故。此定具有味等三種,以有勝德可愛味故。同諸近分唯捨相應,非喜相應功用轉故。由此說是苦通行攝。此定能招大梵處果,多修習者為大梵故。已說等至。云何等持?經說等持總有三種:一有尋有伺、二無尋唯伺、三無尋無伺。其相云何?頌曰:

論に曰く:初の本・近分は尋・伺に相応し、上の七定の中は皆尋・伺無し。ただ中の静慮は伺有りて尋無し。ゆえに彼は初の未至および第二に勝れり。此の義に依るがゆえに中間の名を立つ。此に由って上は中間の静慮無し。一地の昇降は此のよう無きがゆえに。此の定は具に味等の三種有り。勝徳有りて愛味すべきを以て。諸の近分と同じくただ捨に相応す。喜に相応せず、功用に転ずるがゆえに。此に由って是れ苦通行の摂と説く。此の定は能く大梵の処の果を招く。多く修習するは大梵と為るがゆえに。已に等至を説けり。如何にして等持か。経に等持は総じて三種有りと説く。一は有尋有伺、二は無尋唯伺、三は無尋無伺。其の相は如何。頌に曰く、

初下有尋伺,中唯伺上無。

初・下は尋・伺有り。中はただ伺、上は無し。

論曰:有尋有伺三摩地者,謂與尋伺相應等持,此初靜慮及未至攝。無尋唯伺三摩地者,謂唯與伺相應等持,此即靜慮中間地攝。無尋無伺三摩地者,謂非尋伺相應等持,此從第二靜慮近分乃至非想非非想攝。契經復說三種等持:一空、二無願、三無相。其相云何?頌曰:

論に曰く:有尋有伺の三摩地とは、いわゆる尋・伺と相応する等持。此れは初静慮および未至の摂。無尋唯伺の三摩地とは、いわゆるただ伺と相応する等持。此れ即ち静慮の中間地の摂。無尋無伺の三摩地とは、いわゆる尋・伺と相応するに非ざる等持。此れは第二静慮の近分より乃至非想非非想の摂。契経は復た三種の等持を説く。一は空、二は無願、三は無相。其の相は如何。頌に曰く、

空謂空非我,無相謂滅四,

空とは空・非我。無相とは滅の四。

無願謂餘十,諦行相相應,

無願とは其余の十。諦の行相に相応す。

此通淨無漏,無漏三脫門。

此れは浄・無漏に通ず。無漏は三解脱門。

論曰:空三摩地,謂空、非我二種行相相應等持。無相三摩地,謂緣滅諦四種行相相應等持。涅槃離十相,故名無相,緣彼三摩地得無相名。十相者何?謂色等五、男女二種、三有為相。無願三摩地,謂緣餘諦十種行相相應等持,非常苦因可厭患故,道如船筏必應捨故。能緣彼定得無願名,皆為超過現所對故。空非我相非所厭捨,以與涅槃相相似故。此三各二種,謂淨及無漏,世出世間等持別故。世間攝者通十一地,出世攝者唯通九地。於中無漏者名三解脫門,能與涅槃為入門故。契經復說三重等持:一空空、二無願無願、三無相無相。其相云何?頌曰:

論に曰く:空三摩地とは、いわゆる空・非我の二種の行相に相応する等持。無相三摩地とは、いわゆる滅諦に縁ずる四種の行相に相応する等持。涅槃は十相を離るるがゆえに名づけて無相。彼に縁ずる三摩地は無相の名を得。十相とは何ぞ。いわゆる色等の五・男女の二種・三有為の相。無願三摩地とは、いわゆる其余の諦の十種の行相に縁ずる相応する等持。非常・苦・因は厭患すべきがゆえ、道は船筏のごとく必ず応に捨つべきがゆえに。能く彼に縁ずる定は無願の名を得。皆現の対する所を超過せんと為すがゆえに。空・非我の相は厭捨する所に非ず。涅槃の相と相似するを以て。此の三は各々二種。いわゆる浄および無漏。世・出世間の等持の別なるがゆえに。世間の摂するは十一地に通じ、出世の摂するはただ九地に通ず。中に於いて無漏なるは名づけて三解脱門。能く涅槃と入門と為るがゆえに。契経は復た三重の等持を説く。一は空空、二は無願無願、三は無相無相。其の相は如何。頌に曰く、

重二緣無學,取空非常相,

重ねたる二は無学に縁じ、空・非常の相を取り、

後緣無相定,非擇滅為靜,

後は無相の定に縁じ、択滅に非ざるを以て静と為す。

有漏人不時,離上七近分。

有漏は人・不時。上の七近分を離る。

論曰:此三等持,緣前空等取空等相,故立空空等名。空空等持緣前無學空三摩地取彼空相,空相順厭勝非我故。無願無願緣前無學無願等持取非常相,不取苦因等,非無漏相故,不取道等,為厭捨故。無相無相即緣無學無相三摩地非擇滅為境,以無漏法無擇滅故,但取靜相非滅妙離,濫非常滅故、是無記性故、非離繫果故。此三等持唯是有漏,厭聖道故。無漏不然,唯三洲人不時解脫能起如是重三摩地。依十一地,除七近分,謂欲未至八本中間。契經復說四修等持:一為住現法樂、二為得勝知見、三為得分別慧、四為諸漏永盡修三摩地。其相云何?頌曰:

論に曰く:此の三等持は、前の空等に縁じて空等の相を取るがゆえに空空等の名を立つ。空空等持は前の無学の空三摩地に縁じて彼の空相を取る。空相は厭に順じて非我に勝れるがゆえに。無願無願は前の無学の無願等持に縁じて非常の相を取る。苦・因等を取らず。無漏の相に非ざるがゆえに。道等を取らず。為に厭捨するがゆえに。無相無相は即ち無学の無相三摩地に縁じて択滅に非ざるを以て境と為す。無漏の法は択滅無きを以て。但だ静相を取りて滅・妙・離に非ず。非常の滅に濫るがゆえ、是れ無記性なるがゆえ、離繋の果に非ざるがゆえに。此の三等持はただ是れ有漏。聖道を厭うがゆえに。無漏は此のようにはあらず。ただ三洲の人・不時解脱は能く此のようの重ねたる三摩地を起す。十一地に依りて、七近分を除く。いわゆる欲・未至・八本・中間。契経は復た四修の等持を説く。一は為に現法の楽に住せんが為、二は為に勝なる知見を得んが為、三は為に分別の慧を得んが為、四は為に諸漏の永尽を修すの三摩地。其の相は如何。頌に曰く、

為得現法樂,修諸善靜慮;

為に現法の楽を得んとして、諸の善静慮を修し、

為得勝知見,修淨天眼通;

為に勝なる知見を得んとして、浄の天眼通を修し、

為得分別慧,修諸加行善;

為に分別の慧を得んとして、諸の加行の善を修し、

為得諸漏盡,脩金剛喻定。

為に諸漏の尽を得んとして、金剛喩定を修す。

論曰:如契經說:有修等持若習若修若多所作得現樂住,乃至廣說。善言通攝淨及無漏。修諸善靜慮得住現法樂,而經但說初靜慮者,舉初顯後,理實通餘。不言為住後法樂者,以後法樂非定住故,謂或退墮、或上受生、或般涅槃便不住故。若依諸定修天眼通,便能獲得殊勝知見。若修三界諸加行善及無漏善,得分別慧。若脩金剛喻定,便得諸漏永盡。理實修此通依諸地,而契經但說第四靜慮者,傳說世尊依自說故。

論に曰く:契経の説くがごとく:修する等持有りてもし習いもし修しもし多く作する所は現の楽住を得、乃至広く説く。善の言は浄および無漏を通じて摂す。諸の善静慮を修して現法の楽に住することを得。而も経は但だ初静慮を説くは、初を挙げて後を顕す。理実は其余に通ず。為に後法の楽に住せんとして説かざるは、後法の楽は定住に非ざるがゆえに。いわゆる或いは退堕し、或いは上に生を受け、或いは般涅槃すれば便ち住せざるがゆえに。もし諸定に依って天眼通を修せば、便ち能く殊勝の知見を獲得す。もし三界の諸の加行の善および無漏の善を修せば、分別の慧を得。もし金剛喩定を修せば、便ち諸漏の永尽を得。理実は此を修するは諸地に依るに通ずるも、而も契経は但だ第四静慮を説くは、伝え聞く世尊は自に依って説くがゆえに。

説一切有部倶舎論 巻第二十八

アビダルマ倶舎論 巻第二十九 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別定品第八之二

分別定品 第八之二

如是已說所依止定,當辯依定所起功德。諸功德中先辯無量。頌曰:

此のようの已に依止する所の定を説ければ、当に定に依って起す所の功徳を弁ずべし。諸の功徳の中に先ず無量を弁ず。頌に曰く、

無量有四種,對治瞋等故,

無量に四種有り。瞋等を対治するがゆえに。

慈悲無瞋性,喜喜捨無貪。

慈・悲は無瞋の性。喜は喜、捨は無貪。

此行相如次,與樂及拔苦,

此の行相は次第のごとく、楽を与えおよび苦を抜き、

欣慰有情等,緣欲界有情。

欣慰・有情の等。欲界の有情に縁ず。

喜初二靜慮,餘六或五十,

喜は初・二の静慮。其余は六或いは五・十。

不能斷諸惑,人起定成三。

能く諸惑を断ぜず。人は起り定めて三を成ず。

論曰:無量有四,一慈、二悲、三喜、四捨。言無量者,無量有情為所緣故、引無量福故、感無量果故。此何緣故唯有四種?對治四種多行障故。何謂四障?謂諸瞋害、不欣慰、欲貪、瞋。治此如次,建立慈等。不淨與捨俱治欲貪,斯有何別?毘婆沙說:欲貪有二,一色、二婬,不淨與捨如次能治。理實不淨能治婬貪,餘親友貪捨能對治。四中初二體是無瞋,理實應言悲是不害,喜即喜受,捨即無貪,若並眷屬五蘊為體。若捨無貪性,如何能治瞋?此所治瞋,貪所引故,理實應用二法為體。此四無量行相別者,云何當令諸有情類得如是樂?如是思惟入慈等至。云何當令諸有情類離如是苦?如是思惟入悲等至。諸有情類得樂離苦豈不快哉!如是思惟入喜等至。諸有情類平等平等無有親怨。如是思惟入捨等至。此四無量不能令他實得樂等,寧非顛倒?願欲令彼得樂等故,或阿世耶無顛倒故,與勝解想相應起故。設是顛倒,復有何失?若應非善,理則不然,此與善根相應起故。若應引惡,理亦不然,由此力能治瞋等故。此緣欲界一切有情,能治緣彼瞋等障故。然契經說:修習慈等,思惟一方一切世界。此經舉器以顯器中。第三但依初二靜慮,喜受攝故,餘定地無。所餘三種通依六地,謂四靜慮、未至、中間。或有欲令唯依五地,謂除未至,是容豫德,已離欲者方能起故。或有欲令此四無量隨其所應通依十地,謂欲四本近分中間,此意欲令定不定地根本加行皆無量攝。前雖說此能治四障,而不能令諸惑得斷,有漏根本靜慮攝故、勝解作意相應起故、遍緣一切有情境故。此加行位制伏瞋等,或此能令已斷更遠故。前說此能治四障,謂欲未至亦有慈等,似所修成根本無量。由此制伏瞋等障已,引斷道生能斷諸惑,諸惑斷已離染位中,方得根本四種無量。於此後位雖遇強緣,而非瞋等之所蔽伏。初習業位云何修慈?

論に曰く:無量に四有り。一は慈、二は悲、三は喜、四は捨。無量と言うは、無量の有情を所縁と為すがゆえ、無量の福を引くがゆえ、無量の果を感ずるがゆえに。此れは何の縁に由ってかただ四種有るのみか。四種の多行の障を対治するがゆえに。何谓をか四障とするか。いわゆる諸の瞋害・不欣慰・欲貪・瞋。此を治するは次第のごとく、慈等を建立す。不浄と捨とは俱に欲貪を治す。斯に何の別有るか。毘婆沙の説く:欲貪に二有り。一は色、二は淫。不浄と捨とは次第のごとく能く治す。理実は不浄は能く淫貪を治し、其余の親友の貪は捨は能く対治す。四の中の初の二の体は是れ無瞋。理実は応に説くべし悲は是れ不害、喜は即ち喜受、捨は即ち無貪。もし眷属を并せば五蘊を以て体と為す。もし捨は無貪性ならば、如何にして能く瞋を治せんか。此の治する所の瞋は、貪の引く所なるがゆえに、理実は応に二法を用いて体と為すべし。此の四無量の行相の別なるは、如何にして当に諸の有情類をして此のようの楽を得しめんか。此のようの思惟は慈等至に入る。如何にして当に諸の有情類をして此のようの苦を離れしめんか。此のようの思惟は悲等至に入る。諸の有情類は楽を得て苦を離れて豈に快ならずや。此のようの思惟は喜等至に入る。諸の有情類は平等平等にして親怨無し。此のようの思惟は捨等至に入る。此の四無量は能く他をして実に楽等を得しめず。寧ろ顛倒に非ずや。願は彼をして楽等を得しめんと欲するがゆえ、或いは阿世耶は顛倒無きがゆえ、勝解の想と相応して起るがゆえに。設い是れ顛倒ならば、復た何の失有らん。もし応に善に非ざれば、理は則ち此のようにはあらず。此れは善根と相応して起るがゆえに。もし応に悪を引けば、理もまた此のようにはあらず。此の力に由って能く瞋等を治するがゆえに。此れは欲界の一切の有情に縁ず。彼に縁ずる瞋等の障を能く治するがゆえに。然而契経に説く:慈等を修習して、一方の一切世界を思惟す。此の経は器を挙げて以て器の中を顕す。第三は但だ初・二の静慮に依る。喜受の摂なるがゆえに。其余の定地は無し。其余の三種は六地に依るに通ず。いわゆる四静慮・未至・中間。或いはただ五地に依らしめんと欲する有り。いわゆる未至を除く。是れ容そ預るの徳。已に欲を離れたるは方に能く起すがゆえに。或いは此の四無量を其の該る所に随って十地に依るに通ぜしめんと欲する有り。いわゆる欲・四本・近分・中間。此の意は定・不定地の根本・加行をして皆無量の摂せしめんと欲す。前は此れは能く四障を治すと説くと雖も、而も能く諸惑をして断を得せしめず。有漏の根本静慮の摂なるがゆえ、勝解の作意に相応して起るがゆえ、遍く一切の有情の境に縁ずるがゆえに。此れは加行の位に瞋等を制伏し、或いは此れは能く已に断ぜるを更に遠からしむるがゆえに。前に此れは能く四障を治すと説けるは、いわゆる欲・未至にもまた慈等有りて、修成する所の根本の無量に似たり。此に由って瞋等の障を制伏し已りて、断の道を引きて生ぜしめて能く諸惑を断じ、諸惑を断じ已りて離染の位の中に、方に根本の四種の無量を得。此の後の位に於いては強縁に遇うと雖も、而も瞋等の蔽伏する所に非ず。初め業を習う位は如何にして慈を修するか。

謂先思惟自所受樂,或聞說佛菩薩聲聞及獨覺等所受快樂,便作是念:願諸有情一切等受如是快樂。若彼本來煩惱增盛,不能如是平等運心,應於有情分為三品,所謂親友、處中、怨讐。親復分三,謂上、中、下;中品唯一;怨亦分三,謂下、中、上,總成七品。分品別已,先於上親發起真誠與樂勝解。此願成已,於中下親亦漸次修如是勝解。於親三品得平等已,次於中品、下中上怨亦漸次修如是勝解,由數習力能於上怨起與樂願與上親等。修此勝解既得無退,次於所緣漸修令廣,謂漸運想思惟一邑一國一方一切世界,與樂行相無不遍滿,是為修習慈無量成。若於有情樂求德者能修慈定令速疾成,非於有情樂求失者,以斷善者有德可錄,麟喻獨覺有失可取,先福罪果現可見故。修悲喜法准此應知。謂觀有情沒眾苦海,便願令彼皆得解脫,及想有情得樂離苦,便深欣慰實為樂哉。修捨最初從處中起,漸次乃至能於上親起平等心與處中等。此四無量人起非餘,隨得一時必成三種。生第三定等,唯不成喜故。已辯無量,次辯解脫。頌曰:

(論に引き続き曰く:)いわゆる先ず自ら受くる所の楽を思惟し、或いは仏・菩薩・声聞および独覚等の受くる所の快楽を説くを聞きて、便ち是の念を作す:願くは諸の有情は一切等しく此のようの快楽を受けんと。もし彼は本来煩悩増盛にして、能く此のよう平等に心を運ぶこと能わざれば、応に有情に於いて分かちて三品と為すべし。いわゆる親友・処中・怨讐。親は復た三に分かつ。いわゆる上・中・下。中品は唯一。怨もまた三に分かつ。いわゆる下・中・上。総じて七品を成す。品を分かちて別れ已りて、先ず上親に於いて真誠の楽を与うるの勝解を発起す。此の願成じ已りて、中・下の親に於いてもまた漸次に此のようの勝解を修す。親の三品に於いて平等を得已りて、次に中品・下・中・上の怨に於いてもまた漸次に此のようの勝解を修し、数習の力に由って能く上怨に於いて楽を与うるの願を起して上親と等しからしむ。此の勝解を修してすでに退無きを得れば、次に所縁に於いて漸く修して広からしめ、いわゆる漸く想を運びて一邑・一国・一方の一切世界を思惟して、楽を与うるの行相は遍満せざる無し。是れを慈無量を修習して成ずと為す。もし有情に於いて徳を求めるを楽うは能く慈定を修して速疾に成らしめ、有情に於いて失を求めるを楽うに非ず。断善なるは徳の録すべき有り、麟喩・独覚は失の取るべき有るを以て、先の福・罪の果は現に見るべきがゆえに。悲・喜の法を修するは此に准じて応に知るべし。いわゆる有情の衆苦の海に没するを観じて、便ち彼をして皆解脱を得しめんことを願い、および有情の楽を得て苦を離るるを想いて、便ち深く欣慰して実に楽しきかなとす。捨を修するは最初に処中より起り、漸次に乃至能く上親に於いて平等の心を起して処中と等しからしむ。此の四無量は人は起すも其余に非ず。得る所の一時に随って必ず三種を成ず。第三定等に生ずれば、ただ喜を成ぜざるがゆえに。已に無量を弁じたれば、次に解脱を弁ず。頌に曰く、

解脫有八種,前三無貪性,

解脱に八種有り。前の三は無貪性。

二二一一定,四無色定善,

二・二・一、一・一定。四は無色定の善。

滅受想解脫,微微無間生,

滅受想の解脱は、微微の無間に生ず。

由自地淨心,及下無漏出,

自地の浄心に由り、および下の無漏より出づ。

三境欲可見,四境類品道,

三は境に欲の見るべき。四は境に類品の道、

自上苦集滅,非擇滅虛空。

自・上の苦・集・滅、択滅に非ず・虚空。

論曰:解脫有八:一內有色想觀外色解脫、二內無色想觀外色解脫、三淨解脫身作證具足住、四無色定為次四解脫、滅受想定為第八解脫。八中前三無貪為性,近治貪故。然契經中說想觀者,想觀增故。三中初二不淨相轉,作青瘀等諸行相故。第三解脫清淨相轉,作淨光鮮行相轉故。三並助伴皆五蘊性。初二解脫,一一通依初二靜慮,能治欲界初靜慮中顯色貪故。第三解脫依後靜慮,離八災患心澄淨故。餘地亦有相似解脫而不建立,非增上故。次四解脫如其次第,以四無色定善為性。非無記染,非解脫故。亦非散善,性微劣故。彼散善者,如命終心。有說:餘時亦有散善。近分解脫道,亦得解脫名。無間不然,以緣下故。彼要背下地,方名解脫故。然於餘處多分唯說彼根本地名解脫者,以近分中非全分故。第八解脫即滅盡定,彼自性等如先已說。厭背受想而起此故,或總厭背有所緣故,此滅盡定得解脫名。有說:由此解脫定障,微微心後此定現前。前對想心已名微細,此更微細故曰微微。次如是心入滅盡定,從滅定出,或起有頂淨定心,或即能起無所有處無漏心。如是入心唯是有漏,通從有漏無漏心出。八中前三唯以欲界色處為境。有差別者,二境可憎、一境可愛。次四解脫各以自上苦集滅諦,及一切地類智品道,彼非擇滅及與虛空為所緣境。第三靜慮寧無解脫?第三定中無色貪故,自地妙樂所動亂故。行者何緣修淨解脫?為欲令心暫欣悅故。前不淨觀令心沈慼,今修淨觀策發令欣。或為審知自堪能故,謂前所修不淨解脫為成不成?若觀淨相煩惱不起,彼方成故。由二緣故,諸瑜伽師修解脫等,一為諸惑已斷更遠;二為於定得勝自在,故能引起無諍等德及聖神通,由此便能轉變諸事起留捨等種種作用。何故經中第三第八說身作證,非餘六邪?以於八中此二勝故,於二界中各在邊故。已辯解脫,次辯勝處。

論に曰く:解脱に八有り。一は内に色想有りて外色を観ずる解脱、二は内に色想無くして外色を観ずる解脱、三は浄解脱の身に作証して具足に住す、四の無色定を以て次の四解脱と為し、受想を滅する定を第八解脱と為す。八の中の前の三は無貪を以て性と為す。近く貪を治するがゆえに。然而契経の中に想観と説くは、想観の増するがゆえに。三の中の初の二は不浄の相に転ず。青瘀等の諸の行相を作すがゆえに。第三解脱は清浄の相に転ず。浄光の鮮なる行相に転ずるを作すがゆえに。三は并びに助伴も皆五蘊性。初・二の解脱は一一に初・二の静慮に依るに通ず。能く欲界・初静慮の中の顕色の貪を治するがゆえに。第三解脱は後の静慮に依る。八の災患を離れて心は澄浄なるがゆえに。其余の地にもまた相似の解脱有りて而も建立せず。増上に非ざるがゆえに。次の四解脱は次第のごとく、四無色定の善を以て性と為す。無記・染に非ず。解脱に非ざるがゆえに。もまた散善に非ず。性微劣なるがゆえに。彼の散善なるは、命終の心のごとし。ある説に、其余の時にもまた散善有り。近分の解脱道もまた解脱の名を得。無間は此のようにはあらず。下に縁ずるを以て。彼は要ずるに下地に背きて方に名づけて解脱なるがゆえに。然而其余の処に於いて多分はただ彼の根本地を説いて名づけて解脱と為す。近分の中は全分に非ざるを以て。第八解脱は即ち滅尽定。彼の自性等は先に已に説けり。受想に厭背して起るがゆえに、或いは総じて縁有る所に厭背するがゆえに、此の滅尽定は解脱の名を得。ある説に、此に由って定障を解脱して、微微心の後に此の定は現前す。前に想心に対して已に微細と名づく、此れは更に微細なるがゆえに微微と曰う。次に此のようの心は滅尽定に入り、滅定より出づるは、或いは有頂の浄定の心を起し、或いは即ち能く無所有処の無漏の心を起す。此のようの心に入るはただ是れ有漏、有漏・無漏の心より出づるに通ず。八の中の前の三はただ欲界の色処を以て境と為す。差別有るは、二の境は憎むべく、一の境は愛すべし。次の四解脱は各々自・上の苦・集・滅の諦、および一切の地の類智品の道、彼の択滅に非ざるおよび虚空を以て所縁の境と為す。第三静慮は寧ろ解脱無きか。第三定の中は色貪無きがゆえ、自地の妙楽の動乱する所なるがゆえに。行の者は何の縁にか浄解脱を修するか。為に心をして暫く欣悦せしめんと欲するがゆえに。前の不浄観は心をして沈戚せしめ、今浄観を修して策発して欣らしむ。或いは為に自ら堪能を審らかに知るがゆえに。いわゆる前の修する所の不浄解脱は為に成るか成らざるか。もし浄相を観じて煩悩起さざれば、彼は方に成るがゆえに。二の縁に由るがゆえに、諸の瑜伽師は解脱等を修す。一は為に諸惑は已に断じて更に遠からんが為、二は為に定に於いて勝自在を得んが為。ゆえに能く無諍等の徳および聖の神通を引起して、此に由って便ち能く諸の事を転変して留・捨等の種種の作用を起す。何の故にか経の中に第三・第八は身作証と説きて、其余の六に非ざるか。八の中に於いて此の二は勝れるを以て、二界の中に於いて各々辺に在るを以て。已に解脱を弁じたれば、次に勝処を弁ず。

頌曰:

頌に曰く、

勝處有八種,二如初解脫,

勝処に八種有り。二は初解脱のごとく、

次二如第二,後四如第三。

次の二は第二のごとく、後の四は第三のごとし。

論曰:勝處有八:一內有色想觀外色少、二內有色想觀外色多、三內無色想觀外色少、四內無色想觀外色多、內無色想觀外青黃赤白為四,足前成八。八中初二如初解脫,次二如第二解脫,後四如第三解脫。若爾,八勝處何殊三解脫?前修解脫唯能棄背,後修勝處能制所緣,隨所樂觀惑終不起。已辯勝處,次辯遍處。頌曰:

論に曰く:勝処に八有り。一は内に色想有りて外色の少を観じ、二は内に色想有りて外色の多を観じ、三は内に色想無くして外色の少を観じ、四は内に色想無くして外色の多を観じ、内に色想無くして外の青・黄・赤・白を観ずるを以て四と為し、前を足して八を成す。八の中の初の二は初解脱のごとく、次の二は第二解脱のごとく、後の四は第三解脱のごとし。もしそうならば、八勝処は三解脱と何の殊有るか。前に解脱を修するはただ能く棄背するのみ、後に勝処を修するは能く所縁を制して、楽観する所に随って惑は終に起さず。已に勝処を弁じたれば、次に遍処を弁ず。頌に曰く、

遍處有十種,八如淨解脫,

遍処に十種有り。八は浄解脱のごとく、

後二淨無色,緣自地四蘊。

後の二は浄の無色。自地の四蘊に縁ず。

論曰:遍處有十,謂周遍觀地、水、火、風、青、黃、赤、白及空與識二無邊處。於一切處周遍觀察無有間隙,故名遍處。十中前八如淨解脫,謂八自性皆是無貪;若並助伴五蘊為性,依第四靜慮,緣欲可見色。有餘師說:唯風遍處緣所觸中風界為境,後二遍處如次空識二淨無色為其自性,各緣自地四蘊為境。應知此中修觀行者,從諸解脫入諸勝處,從諸勝處入諸遍處,以後後起勝前前故。此解脫等三門功德,為由何得?依何身起?頌曰:

論に曰く:遍処に十有り。いわゆる周遍に地・水・火・風・青・黄・赤・白および空と識の二無辺処を観ず。一切の処に於いて周遍に観察して間隙有ること無し。ゆえに名づけて遍処。十の中の前の八は浄解脱のごとし。いわゆる八の自性は皆是れ無貪。もし助伴を并せば五蘊を以て性と為す。第四静慮に依りて、欲の見るべき色に縁ず。其余の師有りて説く:ただ風の遍処は触する所の中の風界に縁じて境と為す。後の二遍処は次第のごとく空・識の二浄無色を以て其の自性と為し、各々自地の四蘊に縁じて境と為す。応に知るべし此の中に観行を修するは、諸の解脱より諸の勝処に入り、諸の勝処より諸の遍処に入る。後後は前前に勝れるを以て。此の解脱等の三門の功徳は、為に何に由ってか得るか。何の身に依ってか起るか。頌に曰く、

滅定如先辯,餘皆通二得,

滅定は先に弁ずるがごとし。其余は皆二得に通ず。

無色依三界,餘唯人趣起。

無色は三界に依る。其余はただ人趣に起る。

論曰:第八解脫如先已辯,以即是前滅盡定故。餘解脫等通由二得,謂由離染及加行得,以有曾習未曾習故。四無色解脫、二無色遍處,一一通依三界身起,餘唯人起。由教力故,異生及聖皆能現起。諸有生在色無色界起靜慮無色,由何等別緣?頌曰:

論に曰く:第八解脱は先に已に弁ずるがごとし。即ち是れ前の滅尽定なるを以て。其余の解脱等は二得に由るに通ず。いわゆる染を離るるに由りおよび加行の得。曾習・未曾習有るを以て。四無色解脱・二無色遍処は、一一に三界の身に依って起るに通ず。其余はただ人に起る。教の力に由るがゆえに、異生および聖は皆能く現起す。諸の色・無色界に生じて静慮・無色を起す有るは、何等の別の縁に由るか。頌に曰く、

二界由因業,能起無色定,

二界は因・業に由りて、能く無色定を起す。

色界起靜慮,亦由法爾力。

色界は静慮を起すも、また法尔の力に由る。

論曰:生上二界總由三緣,能進引生色無色定:一由因力,謂於先時近及數修為起因故。二由業力,謂先曾造感上地生順後受業,彼業異熟將起現前,勢力能令進起彼定。以若未離下地煩惱,必定無容生上地故。三法爾力,謂器世界將欲壞時,下地有情法爾能起上地靜慮。以於此位所有善法,由法爾力皆增盛故。諸有生在上二界中起無色定,由因業力,非法爾力,無雲等天不為三災之所壞故。生在色界起靜慮時,由上二緣及法爾力。若生欲界起上定時,一一應知皆由教力。前來分別種種法門,皆為弘持世尊正法。何謂正法?當住幾時?頌曰:

論に曰く:上の二界に生ずるは総じて三縁に由りて、能く進みて色・無色定を引生す。一は因力に由る。いわゆる先の時に於いて近くおよび数習して修して起るの因と為るがゆえに。二は業力に由る。いわゆる先に曾て上地の生を感ずる順後受の業を造り、彼の業の異熟は将に現前を起さんとして、勢力は能く彼の定を進起せしむ。もし未だ下の地の煩悩を離れざれば、必定上の地に生ずるを容れざるを以て。三は法尔力。いわゆる器世界の将に壊れんと欲する時、下の地の有情は法尔に能く上の地の静慮を起す。此の位に於いて所有の善法は法尔の力に由って皆増盛するを以て。諸の上の二界の中に生じて無色定を起す有るは、因・業の力に由る。法尔の力に非ず。雲等の天無くして三の災の壊する所と為らざるがゆえに。色界に生じて静慮を起す時は、上の二縁および法尔力に由る。もし欲界に生じて上の定を起す時は、一一に応に知るべし皆教の力に由る。前来種種の法門を分別するは、皆為に世尊の正法を弘持せんとす。何谓をか正法とするか。当に幾時か住すべきか。頌に曰く、

佛正法有二,謂教證為體,

仏の正法に二有り。いわゆる教・証を以て体と為す。

有持說行者,此便住世間。

持・説・行する者有れば、此れ便ち世間に住す。

論曰:世尊正法體有二種,一教、二證。教謂契經、調伏、對法,證謂三乘菩提分法。有能受持及正說者,佛正教法便住世間。有能依教正修行者,佛正證法便住世間。故隨三人住世時量,應知正法住爾所時。聖教總言唯住千載,有釋證法唯住千年,教法住時復過於此。此論依攝阿毘達磨,為依何理釋對法耶?頌曰:

論に曰く:世尊の正法は体に二種有り。一は教、二は証。教とは契経・調伏・対法を謂い、証とは三乗の菩提分法を謂う。能く受持および正説する者有れば、仏の正教法は便ち世間に住す。能く教に依って正修行する者有れば、仏の正証法は便ち世間に住す。ゆえに三人の世に住する時量に随って、応に知るべし正法は爾所の時住すと。聖教は総じて言えばただ千載住す。証法はただ千年住すと釋する有り。教法の住する時は復た此れに過ぐ。此の論は阿毘達磨を依摂す。為に何の理に依ってか対法を釋するか。頌に曰く、

迦濕彌羅議理成,我多依彼釋對法,

迦湿弥羅の議理成る。我多く彼に依って対法を釋す。

少有貶量為我失,判法正理在牟尼。

少しの貶量有るは我が失。法を判ずる正理は牟尼に在り。

論曰:迦濕彌羅國毘婆沙師議阿毘達磨理善成立,我多依彼釋對法宗,少有貶量為我過失。判法正理唯在世尊,及諸如來大聖弟子。

論に曰く:迦湿弥羅国の毘婆沙師の議する阿毘達磨の理は善く成立す。我は多く彼に依って対法の宗を釋す。少しの貶量有るは我が過失と為す。法を判ずる正理はただ世尊に在り、および諸の如来の大聖弟子に在り。

大師世眼久已閉,堪為證者多散滅,

大師世の眼は久しく已に閉じ、堪えて証と為る者は多く散滅し、

不見真理無制人,由鄙尋思亂聖教。

真理を見ずして制する無き人は、鄙なる尋思に由って聖教を乱る。

自覺已歸勝寂靜,持彼教者多隨滅,

自覚は已に勝の寂静に帰し、彼の教を持つ者は多く滅に随い、

世無依怙喪眾德,無鉤制惑隨意轉。

世は依怙無くして衆徳を喪い、鈎無く惑を制して意に随って転ず。

既知如來正法壽,漸次淪亡如至喉,

すでに如来の正法の寿が、漸次に淪亡して喉に至るがごとしと知り、

是諸煩惱力增時,應求解脫勿放逸。

是れ諸の煩悩の力の増する時なれば、応に解脱を求めて放逸すること勿れ。

破執我品第九之一

破執我品 第九之一

越此依餘,豈無解脫?理必無有。所以者何?虛妄我執所迷亂故。謂此法外諸所執我,非即於蘊相續假立執有真實離蘊我故。由我執力諸煩惱生,三有輪迴無容解脫。以何為證?知諸我名,唯召蘊相續,非別目我體。於彼所計離蘊我中,無有真實現比量故。謂若我體別有實物,如餘有法。若無障緣,應現量得如六境意,或比量得如五色根。言五色根比量得者,如世現見,雖有眾緣,由闕別緣,果便非有,不闕便有,如種生芽。如是亦見,雖有現境作意等緣,而諸盲聾不盲聾等識不起起,定知別緣有闕不闕。此別緣者即眼等根,如是名為色根比量。於離蘊我二量都無,由此證知無真我體。然犢子部執有補特伽羅,其體與蘊不一不異。此應思擇,為實為假。實有假有相別云何?別有事物是實有相,如色聲等。但有聚集是假有相,如乳酪等。許實許假各有何失?體若是實應與蘊異,有別性故,如別別蘊。又有實體必應有因,或應是無為,便同外道見。又應無用,徒執實有。體若是假,便同我說。非我所立補特伽羅,如仁所徵實有假有?但可依內現在世攝有執受諸蘊立補特伽羅。如是謬言,於義未顯。我猶不了,如何名依?若攬諸蘊是此依義,既攬諸蘊成補特伽羅,則補特伽羅應成假有,如乳酪等攬色等成。若因諸蘊是此依義,既因諸蘊立補特伽羅,則補特伽羅亦同此失,不如是立。所立云何?此如世間依薪立火,如何立火可說依薪?謂非離薪可立有火,而薪與火非異非一。若火異薪,薪應不熱。若火與薪一,所燒即能燒。如是不離蘊立補特伽羅。然補特伽羅與蘊非異一,若與蘊異體應是常,若與蘊一體應成斷。仁今於此且應定說,何者為火?何者為薪?令我了知火依薪義。何所應說?若說應言所燒是薪、能燒是火。此復應說何者所燒、何者能燒、名薪名火?且世共了。諸不炎熾所然之物,名所燒薪。

此を越えて其余に依って、豈に解脱無からんか。理は必ず有ること無し。所以は何ぞや。虚妄の我執の迷乱する所なるがゆえに。いわゆる此の法の外の諸の執する所の我は、即ち蘊の相続に於いて仮に立てて真実の離蘊の我有りと執するに非ざるがゆえに。我執の力に由って諸の煩悩は生じ、三有の輪廻は解脱を容るる無し。何を以て証と為すか。諸の我の名は、ただ蘊の相続を召して、別に我の体を目するに非ずと知る。彼の計する所の離蘊の我の中に於いて、真実の現・比の量有ること無きがゆえに。いわゆるもし我の体は別に実物有るは、其余の有法のごとし。もし障の縁無ければ、応に現量にて得ること六境の意のごとく、或いは比量にて得ること五色根のごとし。五色根は比量にて得と言うは、世の現に見るがごとく、衆緑有りと雖も、別縁の闕けるに由って果は便ち有ること非ず、闕けざれば便ち有り。種の芽を生ずるがごとし。此のようもまた見る、現境・作意等の縁有りと雖も、而も諸の盲・聾は識を起さず盲聾ならざる等は起す。定めて知る別縁に闕け・闕けず有りと。此の別縁は即ち眼等の根。此のようを名づけて色根の比量。離蘊の我に於いて二量は都て無し。此に由って真の我体無しを証知す。然而犢子部(部派の名)は補特伽羅有りと執す。其の体は蘊と一ならず異ならず。此れは応に思択すべし。為に実か為に仮か。実有・仮有の相の別は如何。別に事物有るは是れ実有の相。色・声等のごとし。但だ聚集有るは是れ仮有の相。乳・酪等のごとし。実を許し仮を許すは各々何の失有るか。体もし実ならば応に蘊と異なるべし。別性有るがゆえに。別別の蘊のごとし。また実体有れば必ず応に因有るべし。或いは応に無為ならば、便ち外道の見に同じ。また応に用無きべし。徒らに実有を執す。体もし仮ならば、便ち我が説に同じ。我が立てる所に非ざる補特伽羅は、仁の徴するがごとき実有・仮有か。但だ内の現在の世の摂する執受有る諸蘊に依って補特伽羅を立つべし。此のようの謬る言は、義に於いて未だ顕れず。我は猶お了せず。如何にして依と名づくるか。もし諸蘊を摬るは此の依の義ならば、すでに諸蘊を摬りて補特伽羅を成ずれば、則ち補特伽羅は応に仮有を成ずべし。乳・酪等は色等を摬りて成ずるがごとし。もし諸蘊に因るは此の依の義ならば、すでに諸蘊に因って補特伽羅を立てれば、則ち補特伽羅もまた此の失に同じ。此のようには立てず。立てる所は如何。此れは世間の薪に依って火を立つるがごとし。如何にして火を立てて薪に依ると説くべきか。いわゆる薪を離れては火有りと立つべからず。而も薪と火とは異ならず一ならず。もし火は薪に異ならば、薪は応に熱ならざるべし。もし火と薪と一ならば、焼く所は即ち能く焼くなり。此のようの蘊を離れずして補特伽羅を立つ。然而補特伽羅は蘊と異一に非ず。もし蘊と異ならば体は応に是れ常なるべし。もし蘊と一ならば体は応に断を成ずべし。仁今此に於いて且つ応に定めて説くべし。何者をか火と為すか。何者をか薪と為すか。我をして火は薪に依るの義を了知せしめよ。何をか応に説くべきか。もし説かば応に言うべし焼く所は薪・能く焼くは火と。此れは復た応に説くべし何者が焼く所・何者が能く焼くか、薪と名づけ火と名づくるを。且つ世は共に了す。諸の炎熾せざる然ゆる所の物は、名づけて焼く所の薪。

諸有光明極熱炎熾能然之物,名能燒火。此能燒然彼物相續,令其後後異前前故。此彼雖俱八事為體,而緣薪故火方得生,如緣乳酒生於酪酢,故世共說依薪有火。若依此理火則異薪,後火前薪時各別故。若汝所計補特伽羅,如火依薪依諸蘊者,則定應說緣蘊而生,體異諸蘊,成無常住。若謂即於炎熾木等煖觸名火,餘事名薪,是則火薪俱時而起,應成異體,相有異故。應說依義,此既俱生,如何可言依薪立火?謂非此火用薪為因,各從自因俱時生故。亦非此火名因薪立,以立火名因煖觸故。若謂所說火依薪言,為顯俱生或依止義,是則應許補特伽羅與蘊俱生或依止蘊。已分明許體與蘊異,理則應許。若許蘊無,補特伽羅體亦非有,如薪非有火體亦無。而不許然,故釋非理。然彼於此自設難言:若火異薪,薪應不熱。彼應定說熱體謂何?若彼釋言熱謂煖觸,則薪非熱,體相異故。若復釋言熱謂煖合,則應異體亦得熱名,以實火名唯目煖觸,餘與煖合皆得熱名。是則分明許薪名熱。雖薪火異而過不成,如何此中舉以為難?若謂木等遍炎熾時說名為薪亦名為火,是則應說依義謂何?補特伽羅與色等蘊定應是一,無理能遮。故彼所言如依薪立火,如是依蘊立補特伽羅,進退推徵,理不成立。又彼若許補特伽羅與蘊一異俱不可說,則彼所許三世無為及不可說五種爾焰亦應不可說,以補特伽羅不可說第五及非第五故。又彼施設補特伽羅,應更礭陳為何所託?若言託蘊假義已成,以施設補特伽羅不託補特伽羅故。若言此施設託補特伽羅,如何上言依諸蘊立理,則但應說依補特伽羅。既不許然,故唯託蘊。若謂有蘊此則可知,故我上言此依蘊立。是則諸色有眼等緣方可了知,故應言依眼等。又且應說,補特伽羅是六識中何識所識?六識所識。所以者何?

(論に引き続き曰く:)諸の光明有りて極熱に炎熾し能く然するの物は、名づけて能く焼く火。此れは能く彼の物の相続を焼き然して、其の後後をして前前に異ならしむるがゆえに。此れと彼れは俱に八事を以て体と為すと雖も、而も薪に縁ずるがゆえに火は方に生ずるを得。乳・酒に縁じて酪・醋を生ずるがごとし。ゆえに世は共に薪に依って火有りと説く。もし此の理に依れば火は則ち薪に異なり。後の火・前の薪は時各別なるがゆえに。もし汝の計する所の補特伽羅は、火の薪に依るがごとく諸蘊に依るならば、則ち定めて応に蘊に縁じて生ずと説くべし。体は諸蘊に異なりて、常住ならずを成ず。もし謂わば即ち炎熾の木等の煖触に於いて名づけて火、其余の事を名づけて薪。是れ則ち火・薪は俱時に起りて、応に異体を成ずべし。相の異なる有るがゆえに。応に依の義を説くべし。此れすでに俱に生ずれば、如何にして薪に依って火を立つと説くべきか。いわゆる此の火は薪を用いて因と為すに非ず。各々自の因より俱時に生ずるがゆえに。もまた此の火の名は薪に因って立つに非ず。火の名を立つるは煖触に因るを以て。もし謂わば説く所の火は薪に依るの言は、為に俱生或いは依止の義を顕さんと。是れ則ち応に許すべし補特伽羅は蘊と俱に生じ或いは蘊に依止すと。已に分明に体は蘊と異なるを許せば、理は則ち応に許すべし。もし蘊無きを許さば、補特伽羅の体もまた有るに非ず。薪有るに非ざれば火の体も無きがごとし。而も此のようを許さず。ゆえに釋は理に非ず。然而彼は此に於いて自ら難を設けて説く:もし火は薪に異ならば、薪は応に熱ならざるべしと。彼は応に定めて説くべし熱の体は何を謂うか。もし彼は釋して説く熱は煖触を謂うと。則ち薪は熱に非ず。体相異なるがゆえに。もし復た釋して説く熱は煖の合を謂うと。則ち応に異体もまた熱の名を得べし。実の火の名はただ煖触を目するを以て、其余の煖と合するは皆熱の名を得。是れ則ち分明に薪を名づけて熱と許す。薪・火は異なりと雖も而も過は成らず。如何にして此の中に挙げて以て難と為すか。もし謂わば木等は遍く炎熾する時に説いて名づけて薪もまた名づけて火と。是れ則ち応に説くべし依の義は何を謂うか。補特伽羅と色等の蘊とは定めて応に是れ一なるべし。理無くして能く遮る無し。ゆえに彼の言う所の薪に依って火を立つるがごとく、此のようの蘊に依って補特伽羅を立つるは、進退に推徴すれば理は成立せず。また彼はもし補特伽羅と蘊とは一・異ともに説くべからずを許さば、則ち彼の許す所の三世・無為および説くべからざる五種の爾焔(所知)もまた応に説くべからざるべし。補特伽羅は第五および第五に非ずと説くべからざるを以て。また彼は補特伽羅を施設するは、応に更に確かに陳して何の托する所と為すかを説くべし。もし蘊に托すと説かば仮の義は已に成ず。補特伽羅を施設するは補特伽羅に托せざるを以て。もし此の施設は補特伽羅に托すと説かば、如何にして上に諸蘊に依って立つの理と言うか。則ち但だ応に補特伽羅に依ると説くべし。すでに此のようを許さず。ゆえにただ蘊に托す。もし謂わば蘊有れば此れ則ち知るべしと。ゆえに我上に此れは蘊に依って立つと言えり。是れ則ち諸の色は眼等の縁有りて方に了知すべきがゆえに、ゆえに応に説くべし眼等に依ると。また且つ応に説くべし、補特伽羅は六識の中の何の識の識する所か。六識の識する所。所以は何ぞや。

若於一時眼識識色,因茲知有補特伽羅,說此名為眼識所識,而不可說與色一異。乃至一時意識識法,因茲知有補特伽羅,說此名為意識所識,而不可說與法一異。若爾,所計補特伽羅應同乳等唯假施設。謂如眼識識諸色時,因此若能知有乳等,便說乳等眼識所識,而不可說與色一異。乃至身識說諸觸時,因此若能知有乳等,便說乳等身識所識,而不可說與觸一異。勿乳等成四或非四所成。由此應成總依諸蘊假施設有補特伽羅,猶如世間總依色等施設乳等,是假非實。又彼所說,若於一時眼識識色,因茲知有補特伽羅。此言何義?為說諸色是了補特伽羅因?為了色時補特伽羅亦可了?若說諸色是了此因,然不可言此異色者,是則諸色以眼及明作意等緣為了因故,應不可說色異眼等。若了色時此亦可了,為色能了即了此耶?為於此中別有能了?若色能了即能了此,則應許此體即是色,或唯於色假立於此。或不應有如是分別,如是類是色、如是類是此。若無如是二種分別,如何立有色、有補特伽羅,有情必由分別立故。若於此中別有能了,了時別故此應異色,如黃異青前異後等。乃至於法徵難亦然。若彼救言:如此與色不可定說是一是異,二種能了相望亦然,能了不應是有為攝。若許爾者,便壞自宗。又若實有補特伽羅,而不可說色非色者,世尊何故作如是言:色乃至識皆無有我。又彼既許補特伽羅眼識所得,如是眼識於色此俱為緣何起?若緣色起,則不應說眼識能了補特伽羅,此非眼識緣,如聲處等故。謂若有識緣此境起,即用此境為所緣緣,補特伽羅非眼識緣者,如何可說為眼識所緣?故此定非眼識所了。若眼識起緣此或俱,便違經說。以契經中定判識起由二緣故。又契經說:苾芻當知,眼因色緣能生眼識。諸所有眼識皆緣眼色故。又若爾者,補特伽羅應是無常,契經說故。

(論に引き続き曰く:)もし一時に於いて眼識は色を識り、此に因って補特伽羅有りと知れば、此れを説いて名づけて眼識の識する所。而も色と一・異とは説くべからず。乃至一時に意識は法を識り、此に因って補特伽羅有りと知れば、此れを説いて名づけて意識の識する所。而も法と一・異とは説くべからず。もしそうならば、計する所の補特伽羅は応に乳等に同じくただ仮の施設なり。いわゆる眼識が諸の色を識る時、此に因ってもし能く乳等有りと知らば、便ち乳等は眼識の識する所と説く。而も色と一・異とは説くべからず。乃至身識が諸の触を説く時、此に因ってもし能く乳等有りと知らば、便ち乳等は身識の識する所と説く。而も触と一・異とは説くべからず。乳等の四を成ずる或いは四の成ずる所に非ざるを説くこと勿れ。此に由って応に成ずべし総じて諸蘊に依って仮に施設して補特伽羅有りと。猶お世間の総じて色等に依って乳等を施設するがごとし。是れ仮にして実に非ず。また彼の説く所、もし一時に於いて眼識は色を識り、此に因って補特伽羅有りと知る。此の言は何の義か。為に諸の色は是れ補特伽羅を了するの因と説くか。為に色を了する時に補特伽羅もまた了すべきか。もし諸の色は是れ此を了するの因と説かば、然而此れは色に異なると言うべからざれば、是れ則ち諸の色は眼および明・作意等の縁を以て了する因と為すがゆえに、応に説くべからず色は眼等に異なりと。もし色を了する時に此れもまた了すべきは、為に色は能く了する即ち此を了するか。為に此の中に別に能く了する有るか。もし色は能く了する即ち能く此を了せば、則ち応に許すべし此の体は即ち是れ色、或いはただ色に於いて仮に此に立つと。或いは応に此のようの分別有るべからず、此のようの類は是れ色、此のようの類は是れ此と。もし此のようの二種の分別無ければ、如何にして色有り・補特伽羅有りを立てんか。有情は必ず分別に由って立つるがゆえに。もし此の中に於いて別に能く了する有れば、了する時の別なるがゆえに此れは応に色に異なるべし。黄の青に異なり前の後に異なる等のごとし。乃至法に於いて徴難するもまた此のよう。もし彼は救い説かば:此れと色とは定めて是れ一か是れ異かと説くべからず、二種の能了の相望むもまた此のよう、能了は応に有為の摂なるべからずと。もし此のようを許さば、便ち自宗を壊す。またもし実に補特伽羅有りて、而も色・非色と説くべからざるは、世尊は何の故にか此の説を作して曰く:色乃至識は皆我無しと。また彼すでに補特伽羅は眼識の得る所と許せば、此のようの眼識は色・此と俱に為に縁して何に起るか。もし色に縁じて起らば、則ち応に説くべからず眼識は能く補特伽羅を了すと。此れは眼識の縁に非ず。声処等のごときがゆえに。いわゆるもし識有りて此の境に縁じて起らば、即ち此の境を用いて所縁縁と為す。補特伽羅は眼識の縁に非ざれば、如何にして眼識の縁ずる所と説くべきか。ゆえに此れは定めて眼識の了する所に非ず。もし眼識の起るは此に縁じ或いは俱なれば、便ち経の説に違す。契経の中に定めて識の起るは二縁に由ると判ずるを以て。また契経に説く:苾芻当に知るべし、眼は色の縁に因って能く眼識を生ず。諸の所有の眼識は皆眼・色に縁ずるがゆえに。またもし此のようの、補特伽羅は応に是れ無常なるべし。契経の説く所なるがゆえに。

謂契經說:諸因諸緣能生識者皆無常性。若彼遂謂補特伽羅非識所緣,應非所識,若非所識應非所知,若非所知如何立有?若不立有便壞自宗。又若許為六識所識,眼識識故應異聲等,猶如色,耳識識故,應異色等,譬如聲。餘識所識,為難准此。又立此為六識所識,便違經說。如契經言:梵志當知,五根行處境界各別,各唯受用自所行處及自境界,非有異根亦能受用異根行處及異境界。五根謂眼耳鼻舌身,意兼受用五根行處及彼境界,彼依意故。或不應執補特伽羅是五根境,如是便非五識所識,有違宗過。若爾,意根境亦應別。如六生喻契經中言:如是六根行處境界各有差別,各別樂求自所行處及自境界。非此中說眼等六根,眼等五根及所生識無有勢力樂見等故。但說眼等增上勢力所引意識名眼等根,獨行意根增上勢力所引意識,不能樂求眼等五根所行境界。故此經義無違前失。又世尊說:苾芻當知,吾今為汝具足演說一切所達所知法門。其體是何?謂諸眼色眼識眼觸,眼觸為緣內所生受,或樂或苦不苦不樂。廣說乃至。意觸為緣內所生受,或樂、或苦、不苦不樂,是名一切所達所知。由此經文,決判一切所達知法唯有爾所,此中無有補特伽羅,故補特伽羅亦應非所識,以慧與識境必同故。諸謂眼見補特伽羅,應知眼根見此所有,於見非我謂見我故,彼便蹎墜惡見深坑。故佛經中自決此義,謂唯於諸蘊說補特伽羅。如人契經作如是說:眼及色為緣生於眼識,三和合觸俱起受想思。於中後四是無色蘊,初眼及色名為色蘊,唯由此量說名為人。即於此中隨義差別假立名想,或謂有情不悅意生儒童、養者、命者、生者、補特伽羅,亦自稱言我眼見色。復隨世俗說,此具壽有如是名、如是種族、如是姓類、如是飲食、如是受樂、如是受苦、如是長壽、如是久住、如是壽際。

(論に引き続き曰く:)いわゆる契経に説く:諸の因・諸の縁の能く識を生ずるは皆無常性。もし彼は遂に謂わば補特伽羅は識の縁ずる所に非ずと。応に識する所に非ず。もし識する所に非ざれば応に知る所に非ず。もし知る所に非ざれば如何にして有りと立てんか。もし有りと立てざれば便ち自宗を壊す。またもし六識の識する所と為すを許さば、眼識の識するがゆえに応に声等に異なるべし。猶お色のごとし。耳識の識するがゆえに、応に色等に異なるべし。譬えば声のごとし。其余の識の識する所は、為の難は此に准ず。また此を立てて六識の識する所と為せば、便ち経の説に違す。契経の説くがごとく:梵志当に知るべし、五根の行処・境界は各々別なり。各々ただ自の行く所の処および自の境界を受用す。異根有りてもまた能く異根の行処および異境界を受用するに非ず。五根とは眼・耳・鼻・舌・身を謂う。意は兼ねて五根の行処および彼の境界を受用す。彼は意に依るがゆえに。或いは応に執すべからず補特伽羅は是れ五根の境と。此のようの便ち五識の識する所に非ず。宗に違するの過有り。もしそうならば、意根の境もまた応に別なるべし。六生の喩の契経の中に説くがごとく:此のようの六根の行処・境界は各々差別有り。各別に自の行く所の処および自の境界を楽求す。此の中に眼等の六根を説くに非ず。眼等の五根および生ずる所の識は見等を楽うの勢力有ること無きがゆえに。但だ眼等の増上の勢力の引く所の意識を説いて名づけて眼等の根。独り行く意根の増上の勢力の引く所の意識は、能く眼等の五根の行く所の境界を楽求せず。ゆえに此の経の義は前の失に違せず。また世尊は説きたまう:苾芻当に知るべし、吾今汝の為に具足に一切の達する所・知る所の法門を演説せん。其の体は是れ何ぞ。いわゆる諸の眼・色・眼識・眼触、眼触を縁と為して内に生ずる所の受、或いは楽或いは苦・不苦不楽。広く説き乃至。意触を縁と為して内に生ずる所の受、或いは楽・或いは苦・不苦不楽。是れを名づけて一切の達する所・知る所。此の経文に由って、一切の達知の法はただ爾所有りと決判す。此の中に補特伽羅有ること無し。ゆえに補特伽羅もまた応に識する所に非ず。慧と識とは境必ず同じきを以て。諸の眼は補特伽羅を見ると謂うは、応に知るべし眼根は此の所有を見て、我に非ざるを見て我を見ると謂うがゆえに、彼は便ち悪見の深坑に顛墜す。ゆえに仏経の中に自ら此の義を決して、いわゆるただ諸蘊に於いて補特伽羅を説く。人の契経の此の説を作すがごとく:眼および色を縁と為して眼識に生ず。三和合の触は俱に受・想・思を起す。中に於いて後の四は是れ無色蘊。初の眼および色は名づけて色蘊。ただ此の量に由って説いて名づけて人。即ち此の中に於いて義の差別に随って仮に名想を立つ。或いは有情・不悦意・生儒童・養者・命者・生者・補特伽羅と謂い、もまた自ら称して我が眼は色を見ると説く。復た世俗に随って説く、此の具寿は此のようの名有り、此のようの種族、此のようの姓類、此のようの飲食、此のようの楽を受け、此のようの苦を受け、此のようの長寿、此のようの久住、此のようの寿際と。

苾芻當知,此唯名想,此唯自稱,但隨世俗假施設有。如是一切無常有為,從眾緣生、由思所造。世尊恆勅依了義經,此經了義,不應異釋。又薄伽梵告梵志言:我說一切有唯是十二處。若數取趣非是處攝,無體理成。若是處攝,則不應言是不可說。彼部所誦契經亦言:諸所有眼、諸所有色,廣說乃至苾芻當知,如來齊此施設一切建立一切有自體法。此中無有補特伽羅,如何可說此有實體。頻毘婆羅契經亦說:諸有愚昧無聞異生,隨逐假名計為我者,此中無有我我所性,唯有一切眾苦法體將正已生,乃至廣說。有阿羅漢苾芻尼名世羅,為魔王說:

(論に引き続き曰く:)苾芻当に知るべし、此れはただ名想、此れはただ自称。但だ世俗に随って仮に施設して有り。此のようの一切の無常・有為は、衆縁より生じ、思の造る所に由る。世尊は恒に敕して了義の経に依れと。此の経は了義。応に異釈すべからず。また薄伽梵は梵志に告げて説きたまう:我は一切有はただ十二処と説くと。もし数取趣(補特伽羅)は処の摂に非ざれば、体無しの理成ず。もし是れ処の摂ならば、則ち応に説くべからず是れ説くべからずと。彼の部の誦する所の契経もまた説く:諸の所有の眼・諸の所有の色、広く説き乃至苾芻当に知るべし、如来は此を斉えて施設して一切を建立す一切の自体法有りと。此の中に補特伽羅有ること無し。如何にして此れは実体有りと説くべきか。頻毘婆羅(王の名)の契経もまた説く:諸の愚昧・無聞の異生は、仮名に随逐して我と計するは、此の中に我・我所の性有ること無し。ただ一切の衆苦の法体は将に正しく已に生ぜんとす有り。乃至広く説く。阿羅漢の苾芻尼有りて名づけて世羅(比丘尼の名)。魔王の為に説いて曰く:

汝墮惡見趣,於空行聚中,

汝は悪見の趣に堕ち、空行の聚の中に於いて、

妄執有有情,智者達非有。

妄りに有情有りと執す。智者は達して非有を知る。

如即攬眾分,假想立為車,

即ち衆分を摬るがごとく、仮想に車を立つ。

世俗立有情,應知攬諸蘊。

世俗は有情を立つ。応に知るべし諸蘊を摬るを。

世尊於《雜阿笈摩》中為婆羅門婆拕梨說:

世尊は《雑阿笈摩》の中に於いて婆羅門の婆拕梨(婆羅門の名)の為に説きたまう:

婆拕梨諦聽,能解諸結法,

婆拕梨よ諦らかに聴け、能く諸の結の法を解くは、

謂依心故染,亦依心故淨。

いわゆる心に依るがゆえに染、もまた心に依るがゆえに浄。

我實無我性,顛倒故執有,

我は実に我性無し。顛倒なるがゆえに有りと執す。

無有情無我,唯有有因法。

有情・我無し。ただ因の法有るのみ。

謂十二有支,所攝蘊處界,

いわゆる十二の有支、摂する所の蘊・処・界。

審思此一切,無補特伽羅,

此の一切を審思すれば、補特伽羅無し。

既觀內是空,觀外空亦爾,

すでに内を観じて是れ空、外を観じて空もまた此のよう。

能修空觀者,亦都不可得。

能く空を観修するも、もまた得るべからず。

經說:執我有五種失,謂起我見及有情見墮惡見趣,同諸外道越路而行,於空性中心不悟入、不能淨信、不能安住、不得解脫,聖法於彼不能清淨。此皆非量。所以者何?於我部中曾不誦故。汝宗許是量,為部為佛言?若部是量,佛非汝師、汝非釋子。若佛言者,此皆佛言,如何非量。彼謂:此說皆非真佛言。所以者何?我部不誦故。此極非理。非理者何?如是經文諸部皆誦,不違法性及餘契經,而敢於中輒興誹撥,我不誦故非真佛言。唯縱兇狂,故極非理。又於彼部豈無此經,謂一切法皆非我性。若彼意謂補特伽羅與所依法不一不異,故說一切法皆非我。既爾,應非意識所識,二緣生識經決判故。又於餘經如何會釋?謂契經說:非我計我此中具有想心見倒。計我成倒,說於非我,不言於我,何煩會釋。非我者何?謂蘊處界。便違前說補特伽羅與色等蘊不一不異。又餘經說:苾芻當知,一切沙門婆羅門等諸有執我等隨觀見,一切唯於五取蘊起。故無依我起於我見,但於非我法妄分別為我。又餘經言:諸有已憶正憶當憶種種宿住,一切唯於五取蘊起,故定無有補特伽羅。若爾,何緣此經復說我於過去世有如是色等?此經為顯能憶宿生一相續中有種種事。若見實有補特伽羅於過去生能有色等,如何非墮起身見失?或應誹撥言無此經,是故此經依總假我,言有色等如聚如流。若爾,世尊應非一切智,無心心所能知一切法剎那剎那異生滅故。若許有我可能遍知,補特伽羅則應常住,許心滅時此不滅故,如是便越汝所許宗。我等不言佛於一切能頓遍知故名一切智者,但約相續有堪能故,謂得佛名諸蘊相續成就如是殊勝堪能,才作意時於所欲知境無倒智起故名一切智,非於一念能頓遍知。故於此中有如是頌:

経に説く:我を執するに五種の失有り。いわゆる我見および有情見を起して悪見の趣に堕ち、諸の外道と同じく路を越えて行き、空性の中に於いて心は悟入せず、能く浄信せず、能く安住せず、解脱を得ず、聖法は彼に於いて能く清浄ならず。此れは皆量に非ず。所以は何ぞや。我が部の中に於いて曾て誦せざるがゆえに。汝の宗は是れ量と許すは、為に部か為に仏の言か。もし部は量ならば、仏は汝が師に非ず、汝は釋子に非ず。もし仏の言なれば、此れは皆仏の言。如何にして量に非ざらんか。彼は謂う:此の説は皆真の仏言に非ず。所以は何ぞや。我が部は誦せざるがゆえに。此れは極めて理に非ず。理に非ざるは何ぞや。此のようの経文は諸部皆誦し、法性および其余の契経に違せざるに、而も敢えて中に於いて輙く謗撥を興して、我は誦せざるがゆえに真の仏言に非ずと。ただ凶狂を縦にするのみ。ゆえに極めて理に非ず。また彼の部に於いて豈に此の経無からんか、いわゆる一切の法は皆我性に非ず。もし彼の意は補特伽羅と依る所の法とは一ならず異ならずと謂い、ゆえに一切法は皆我に非ずと説く。すでに然らば、応に意識の識する所に非ざるべし。二縁に識を生ずる経は決判するがゆえに。また其余の経に於いて如何にして会釋するか。いわゆる契経に説く:我に非ざるを我と計る此の中に想・心・見の倒を具に有りと。我を計りて倒を成ずるは、非我に於いて説いて、我に於いて説かず。何ぞ会釋を煩わさん。非我とは何ぞ。いわゆる蘊・処・界。便ち前の補特伽羅は色等の蘊と一ならず異ならずの説に違す。また其余の経に説く:苾芻当に知るべし、一切の沙門・婆羅門等の諸の我を執する等の随い観見するは、一切ただ五取蘊に於いて起ると。ゆえに依る我無くして我見に起るは、但だ非我の法に於いて妄りに分別して我と為す。また其余の経に説く:諸の已に憶い・正に憶い・当に憶う種種の宿住は、一切ただ五取蘊に於いて起ると。ゆえに定めて補特伽羅有ること無し。もしそうならば、何の縁にか此の経は復た我は過去の世に此のようの色等有りと説くか。此の経は為に能く宿生を憶う一相続の中に種種の事有るを顕さんとす。もし実に補特伽羅有りて過去の生に於いて能く色等有るを見るは、如何にして身見の失を起して堕するに非ざらんか。或いは応に謗撥して此の経無しと説くべし。此のゆえに此の経は総の仮の我に依って、色等有りと説くこと聚のごとく流のごとし。もしそうならば、世尊は応に一切智に非ざるべし。心・心所は能く一切法の刹那刹那に異に生滅するを知る無きがゆえに。もし我有るを許せば能く遍知すべし。補特伽羅は則ち応に常住なるべし。心の滅する時に此れは滅せざるを許すがゆえに。此のようの便ち汝の許す所の宗を越ゆ。我等は佛は一切に於いて能く頓に遍知するがゆえに名づけて一切智と説かず。但だ相続に堪能有るに約るがゆえに。いわゆる佛の名を得たる諸蘊の相続は此のようの殊勝の堪能を成就して、才めて作意する時に欲知する所の境に於いて倒なきの智を起すがゆえに名づけて一切智。一念に於いて能く頓に遍知するに非ず。ゆえに此に於いて此のようの頌有り:

由相續有能,如火食一切,

相続に能有るに由る。火の一切を食するがごとし。

如是一切智,非由頓遍知。

此のようの一切智は、頓遍知に由るに非ず。

如何得知約相續說知一切法,非我遍知?說佛世尊有三世故。於何處說?如有頌言:

如何にして知る相続に約して一切法を知ると説いて、我の遍知に非ざるを。佛世尊に三世有ると説くを以て。何の処に於いてか説くか。頌有りて説くがごとく:

若過去諸佛,若未來諸佛,

もし過去の諸仏、もし未来の諸仏、

若現在諸佛,皆滅眾生憂。

もし現在の諸仏、皆衆生の憂を滅す。

汝宗唯許蘊有三世,非數取趣,故定應爾。

汝の宗はただ蘊に三世有るを許し、数取趣に非ず。ゆえに定めて応に此のよう。

説一切有部倶舎論 巻第二十九

アビダルマ倶舎論 巻第三十 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

破執我品第九之二

破執我品 第九之二

若唯五取蘊名補特伽羅,何故世尊作如是說:吾今為汝說諸重擔、取捨重擔、荷重擔者。何緣於此佛不應說?不應重擔即名能荷。所以者何?曾未見故。不可說事亦不應說。所以者何?亦未見故。又取重擔應非蘊攝,重擔自取,曾未見故。然經說愛名取擔者,既即蘊攝,荷者應然,即於諸蘊立數取趣。然恐謂此補特伽羅是不可說常住實有,故此經後佛自釋言:但隨世俗,說此具壽有如是名,乃至廣說。如上所引人經文句,為令了此補特伽羅,可說無常非實有性。即五取蘊自相逼害得重擔名。前前剎那引後後故名為荷者,故非實有補特伽羅。補特伽羅定應實有,以契經說諸有撥無化生有情邪見攝故。誰言無有化生有情?如佛所言:我說有故。謂蘊相續能往後世,不由胎卵濕名化生有情。撥此為無,故邪見攝。化生諸蘊,理實有故。又許此邪見謗補特伽羅。汝等應言,是何所斷?見修所斷。理並不然,補特伽羅非諦攝故,邪見不應修所斷故。若謂經說有一補特伽羅生在世間,應非蘊者,亦不應理,此於總中假說一故,如世間說一麻一米一聚一言。或補特伽羅應許有為攝,以契經說生世間故。非此言生如蘊新起,依何義說生在世間?依此今時取別蘊義,如世間說能祠者生、記論者生,取明論故。又如世說有苾芻生、有外道生,取儀式故。或如世說有老者生,有病者生,取別位故。佛已遮故,此救不成。如勝義空契經中說:有業有異熟,作者不可得。謂能捨此蘊,及能續餘蘊,唯除法假。故佛已遮。頗勒具那契經亦說:我終不說有能取者。故定無一補特伽羅能於世間取捨諸蘊。又汝所引祠者等生,其體是何而能喻此?若執是我,彼不極成。若心心所,彼念念滅、新新生故,取捨不成。若許是身,亦如心等。又如明等與身有異,蘊亦應異補特伽羅。老病二身各與前別,數論轉變如前已遣,故彼所引為喻不成。

もしただ五取蘊を名づけて補特伽羅ならば、何の故にか世尊は此の説を作して曰く:吾今汝の為に諸の重担・取捨の重担・荷なう重担の者を説かん。何の縁にか此に於いて佛は説くべからざるか。応に重担を即ち名づけて能く荷なうべからず。所以は何ぞや。曾て未だ見ざるがゆえに。説くべからざる事もまた説くべからず。所以は何ぞや。もまた未だ見ざるがゆえに。また重担を取るは応に蘊の摂に非ざるべし。重担は自ら取る。曾て未だ見ざるがゆえに。然而経に愛を名づけて取担と説くは、すでに即ち蘊の摂。荷なう者は応に此のよう。即ち諸蘊に於いて数取趣を立つ。然而恐るらくは此の補特伽羅は是れ説くべからざる常住・実有と謂わんことを、ゆえに此の経の後に佛自ら釋して説く:但だ世俗に随って、此の具寿は此のようの名有りと説く、乃至広く説く。上の引く所の人の経文の句のごとく、為に此の補特伽羅は説くべし無常にして実有の性に非ずと了せしめんと。即ち五取蘊は自ら相い逼害して重担の名を得。前前の刹那は後後を引くがゆえに名づけて荷なう者。ゆえに実有の補特伽羅に非ず。補特伽羅は定めて応に実有なるべし。契経に諸の化生の有情を無しと撥するは邪見の摂と説くを以て。誰か化生の有情無しと説くか。佛の言う所のごとく:我は有りと説くがゆえに。いわゆる蘊の相続は能く後の世に往くは、胎・卵・湿に由らずして名づけて化生の有情。此を撥して無しと為す。ゆえに邪見の摂。化生の諸蘊は理実は有るがゆえに。また此の邪見は補特伽羅を謗ると許す。汝等は応に説くべし、是れ何の断ずる所か。見・修の断ずる所。理は并びに此のようにはあらず。補特伽羅は諦の摂に非ざるがゆえ、邪見は応に修の断ずる所に非ざるがゆえに。もし謂わば経に一の補特伽羅は世間に生ずと説くは、応に蘊に非ざると。もまた理に該当せず。此れは総の中に於いて仮に一を説くがゆえに。世間の一麻・一米・一聚・一言を説くがごとし。或いは補特伽羅は応に有為の摂と許すべし。契経に世間に生ずと説くを以て。此の言の生は蘊の新たに起るがごときに非ず。何の義に依ってか世間に生ずと説くか。此の今の時に別の蘊を取るの義に依る。世間の能祠の者の生・記論の者の生を説くがごとく、明論を取るがゆえに。また世の苾芻の生有り・外道の生有りと説くがごとく、儀式を取るがゆえに。或いは世の老者の生有り・病者の生有りと説くがごとく、別の位を取るがゆえに。佛は已に遮りたまえり。ゆえに此の救は成らず。勝義空の契経の中に説くがごとく:業有りて異熟有り。作る者は得るべからず。いわゆる能く此の蘊を捨て、および能く其余の蘊を続ぐは、ただ法の仮を除く。ゆえに佛は已に遮りたまえり。頗勒具那(経の名)の契経もまた説く:我は終に能く取る者有りと説かずと。ゆえに定めて一の補特伽羅は能く世間に於いて諸蘊を取捨する無し。また汝の引く所の祠者等の生は、其の体は是れ何ぞにして能く此に喩えんか。もし是れ我と執さば、彼は極成せず。もし心・心所ならば、彼は念々に滅して新新に生ずるがゆえに、取捨は成らず。もし是れ身と許さば、もまた心等のごとし。また明等は身と異有るがごとく、蘊もまた応に補特伽羅に異なるべし。老・病の二身は各々前と別なり。数論の転変は前に已に遣りたるがゆえに、ゆえに彼の引く所は喩と為って成らず。

又許蘊生非數取趣,則定許此異蘊及常。又此唯一,蘊體有五,寧不說此與蘊有異?大種有四,造色唯一,寧言造色不異大種?是彼宗過。何謂彼宗?諸計造色即大種論。設如彼見,應作是質:如諸造色即四大種,亦應即五蘊立補特伽羅。若補特伽羅即諸蘊者,世尊何不記命者即身?觀能問者阿世耶故。問者執一內用士夫體實非虛名為命者,依此問佛與身一異。此都無故,一異不成,如何與身可記一異?如不可記龜毛䩕軟,古昔諸師已解斯結。昔有大德名曰龍軍,三明六通具八解脫。於時有一畢隣陀王,至大德所作如是說:我今來意欲請所疑。然諸沙門性好多語,尊能直答,我當請問。大德受請。王即問言:命者與身為一為異?大德答言:此不應記。王言:豈不先有要耶?今何異言不答所問?大德質曰:我欲問疑。然諸國王性好多語,王能直答,我當發問。王便受教。大德問言:大王宮中諸菴羅樹所生果味為酢為甘。王言:宮中本無此樹。大德復責:先無要耶?今何異言不答所問。王言:宮內此樹既無,寧可答言果味甘酢?大德誨曰:命者亦無,如何可言與身一異?佛何不說命者都無?亦觀問者阿世耶故。問者或於諸蘊相續謂為命者,依之發問。世尊若答命者都無,彼墮邪見,故佛不說。彼未能了緣起理故,非受正法器,不為說假有。理必應爾,世尊說故。如世尊告阿難陀言:有姓筏蹉出家外道,來至我所作是問言:我於世間為有非有?我不為記。所以者何?若記為有,違法真理,以一切法皆無我故。若記為無,增彼愚惑,彼便謂我先有今無。對執有愚,此愚更甚,謂執有我則墮常邊,若執無我便墮斷邊。此二輕重,如經廣說。依如是義,故有頌曰:

(論に引き続き曰く:)また蘊の生は数取趣に非ずと許さば、則ち定めて此れは蘊に異なりおよび常と許すべし。また此れは唯一、蘊の体は五。寧ろ此れは蘊と異有りと説かざらんや。大種に四有り、造色は唯一。寧ろ造色は大種に異ならずと言わんや。是れ彼の宗の過。何谓をか彼の宗とするか。諸の造色は即ち大種と計る論。設い彼の見のごときは、応に是の質を作すべし:諸の造色は即ち四大種のごとく、もまた応に即ち五蘊に依って補特伽羅を立つべし。もし補特伽羅は即ち諸蘊ならば、世尊は何ぞ命者は即ち身と記せざるか。能く問うの阿世耶を観ずるがゆえに。問うは一の内用の士夫の体は実にして虚名に非ざるを執して命者と為し、此に依って佛と身と一か異かを問う。此れは都て無し。一・異は成らず。如何にして身と一・異を記すべきか。亀の毛の軟硬を記すべからざるがごとし。古昔の諸師は已に斯の結を解けり。昔に大徳有りて名づけて龍軍(論師の名)。三明・六通に具に八解脱。時に一の畢鄰陀王(国王の名)有りて、大徳に至りて此の説を作して曰く:我今来りて意は疑う所を請わんと欲す。然而諸の沙門は性は多く語を好む。尊は能く直に答えよ、我当に請問せん。大徳は請を受く。王は即ち問うて説く:命者と身とは一と為すか異と為すか。大徳は答えて説く:此れは記すべからず。王は説く:豈に先に要有りしに非ずや。今何ぞ異言して問う所に答えざるか。大徳は質して曰く:我は疑いを問わんと欲す。然而諸の国王は性は多く語を好む。王は能く直に答えよ、我当に問を発せん。王は便ち教を受く。大徳は問うて説く:大王の宮中の諸の菴羅(芒果)の樹の生ずる所の果の味は酢か甘か。王は説く:宮中は本より此の樹無し。大徳は復た責む:先に要無かりしか。今何ぞ異言して問う所に答えざるか。王は説く:宮内の此の樹はすでに無し。寧ろ果の味は甘・酢と答えて説くべきか。大徳は教えて曰く:命者もまた無し。如何にして身と一・異と説くべきか。佛は何ぞ命者は都て無しと説かざるか。もまた問うの阿世耶を観ずるがゆえに。問うは或いは諸蘊の相続に於いて命者と為し、之に依って問を発す。世尊もし命者は都て無しと答えば、彼は邪見に堕す。ゆえに佛は説かず。彼は未だ縁起の理を了する能わざるがゆえに、正法を受くるの器に非ず。假有を説く為さず。理は必ず応に此のよう。世尊の説くがゆえに。世尊は阿難陀に告げて説くがごとく:姓の筏蹉(外道の名)の出家の外道有りて、来りて我に至りて此のようの問説を作す:我は世間に於いて有りと為すか有りに非ずと為すか。我は記を為さず。所以は何ぞや。もし有りと記せば、法の真理に違す。一切法は皆我無きを以て。もし無しと記せば、彼の愚惑を増し、彼は便ち謂わん我先に有りて今無しと。有りと執するの愚に対して、此の愚は更に甚だし。いわゆる我有りと執すれば則ち常の辺に堕し、もし我無しと執すれば便ち断の辺に堕す。此の二の軽重は、経に広く説くがごとし。此のようの義に依るがゆえに、頌有りて説く:

觀為見所傷,及壞諸善業,

観じて見の傷うる所と為り、および諸の善業を壊るを、

故佛說正法,如牝虎銜子。

ゆえに佛は正法を説くこと、牝虎の子を銜えるがごとし。

執真我為有,則為見牙傷,

真の我を執して有りと為せば、則ち見の牙の傷うる所と為り、

撥俗我為無,便壞善業子。

俗の我を撥して無しと為せば、便ち善業の子を壊る。

復說頌曰:

復た頌を説いて曰く:

由實命者無,佛不言一異,

実の命者無きに由って、佛は一・異を言わず、

恐撥無假我,亦不說都無。

仮の我を無しと撥せんことを恐れて、もまた都て無しと説かず。

謂蘊相續中,有業果命者,

いわゆる蘊の相続の中に、業・果・命者有り。

若說無命者,彼撥此為無。

もし命者無しと説かば、彼は此を無しと撥せん。

不說諸蘊中,有假名命者,

諸蘊の中に、仮名の命者有りと説かずは、

由觀發問者,無力解真空。

問を発するに力無くして真空を解せざるを観ずるに由る。

如是觀筏蹉,意樂差別故,

此のようの筏蹉を観ずるは、意楽の差別あるがゆえに、

彼問有無我,佛不答有無。

彼の我の有無を問うに、佛は有・無を答えず。

何緣不記世間常等?亦觀問者阿世耶故。問者若執我為世間,我體都無故,四記皆非理。若執生死皆名世間,佛四種記亦皆非理。謂若常者,無得涅槃。若是非常,便自斷滅,不由功力鹹得涅槃。若記為常亦非常者,定應一分無得涅槃,一分有情自證圓寂。若記非常非非常者,則非得涅槃,非不得涅槃。決定相違,便成戲論。然依聖道可般涅槃,故四定記皆不應理。如離繫子問雀死生,佛知彼心不為定記。有邊等四亦不記者,以同常等皆有失故。寧知此四義同常等?以有外道名嗢底迦,先問世間有邊等四,復設方便矯問世尊:為諸世間皆由聖道能得出離、為一分耶?尊者阿難因告彼曰:汝以此事已問世尊,今復何緣改名重問?故知後四,義與前同。復以何緣世尊不記如來死後有等四耶?亦觀問者阿世耶故,問者妄計已解脫我名為如來而發問故。今應詰問計有我者,佛何緣記有現補特伽羅,不記如來死後亦有?彼言恐有墮常失故。若爾,何緣佛記慈氏汝於來世當得作佛,及記弟子身壞命終,某甲今時已生某處。此豈非有墮常過失?若佛先見補特伽羅,彼涅槃已便不復見,以不知故不記有者,則撥大師具一切智。或應許不記,由我體都無。若謂世尊見而不說,則有離蘊及常住過。若見非見俱不可說,則應漸言,不可說佛是一切智非一切智。若謂實有補特伽羅,以契經言諦故住故,定執無我者墮惡見處故。此不成證,彼經亦說定執有我者墮惡見處故。阿毘達磨諸論師言:執我有無俱邊見攝,如次墮在常斷邊故。彼師所說深為應理,以執有我則墮常邊,若執無我便墮斷邊。前《筏蹉經》分明說故。若定無有補特伽羅,為說阿誰流轉生死?不應生死自流轉故。然薄伽梵於契經中,說諸有情無明所覆、貪愛所繫馳流生死,故應定有補特伽羅。此復如何流轉生死?由捨前蘊取後蘊故。如是義宗前已徵遣。

何の縁にか世間の常等を記せざるか。もまた問うの阿世耶を観ずるがゆえに。問うはもし我を執して世間と為せば、我の体は都て無きがゆえに、四記は皆理に非ず。もし生死を執して皆名づけて世間と為せば、佛の四種の記もまた皆理に非ず。いわゆるもし常ならば、涅槃を得る無し。もし常に非ざれば、便ち自ら断滅して、功力に由らずして咸く涅槃を得。もし常および常に非ずと記せば、定めて応に一分は涅槃を得ず、一分の有情は自ら円寂を証すべし。もし非常・非非常と記せば、則ち涅槃を得ず、涅槃を得ざるに非ず。決定して相違す。便ち戯論を成ず。然而聖道に依って般涅槃すべし。ゆえに四の定記は皆理に該当せず。離繫の子の雀の死生を問うがごとく、佛は彼の心を知りて定記を為さず。有辺等の四もまた記せざるは、常等と同じく皆失有るを以て。寧ろ此の四は義は常等に同じきを知らんや。外道有りて名て名づけて嗢底迦(外道の名)を以て、先に世間の有辺等の四を問い、復た方便を設けて矯めて世尊に問う:為に諸の世間は皆聖道に由って能く出離を得るか、為に一分か。尊者阿難は因って彼に告げて曰く:汝は此の事を以て已に世尊に問えり。今復た何の縁にか名を改めて重ねて問うか。ゆえに後の四は義は前と同じと知る。復た何の縁を以てか世尊は如来の死後の有等の四を記せざるか。もまた問うの阿世耶を観ずるがゆえに。問うは妄りに已に解脱せる我を計して名づけて如来として問を発するがゆえに。今応に我を有りと計るに詰問すべし、佛は何の縁にか現の補特伽羅を記して、如来の死後もまた有りを記せざるか。彼は恐らくは常に堕するの失有るを説くがゆえに。もしそうならば、何の縁にか佛は慈氏は汝は来の世に於いて当に作佛を得べしと記し、および弟子の身壊・命終して某甲は今時に已に某の処に生ずと記するか。此れは豈に常に堕するの過失有るに非ずや。もし佛は先に補特伽羅を見て、彼は涅槃已りて便ち復た見ず、知らざるを以て有りを記せざるは、則ち大師の一切智を具するを撥す。或いは応に記せざるを許すべし、我の体は都て無きに由る。もし謂わば世尊は見て而も説かざれば、則ち蘊を離れるおよび常住の過有り。もし見・非見は俱に説くべからざれば、則ち応に漸の言。説くべからず佛は是れ一切智にして一切智に非ずと。もし謂わば実に補特伽羅有りて、契経に諦を説くがゆえ・住るがゆえに説くを以て、定めて我無しを執するは悪見の処に堕するがゆえに。此れは証を成さず。彼の経もまた定めて我有りを執するは悪見の処に堕すると説くがゆえに。阿毘達磨の諸の論師は説く:我を有・無と執するは俱に辺見の摂。次第のごとく常・断の辺に堕在するがゆえに。彼の師の説く所は深く理に該当す。我を有りと執すれば則ち常の辺に堕し、もし我を無しと執すれば便ち断の辺に堕するを以て。前の《筏蹉経》は分明に説くがゆえに。もし定めて補特伽羅有ること無ければ、為に阿誰を説いて生死を流転するか。応に生死は自ら流転すと説くべからざるがゆえに。然而薄伽梵は契経の中に於いて、諸の有情は無明の覆う所・貪愛の繋ぐ所にして生死に馳流すと説く。ゆえに応に定めて補特伽羅有るべし。此れは復た如何にして生死を流転するか。前の蘊を捨てて後の蘊を取るに由るがゆえに。此のようの義宗は前に已に征め遣りたり。

如燎原火雖剎那滅,而由相續說有流轉。如是蘊聚假說有情,愛取為緣流轉生死。若唯有蘊,何故世尊作如是說:今我於昔為世導師名為妙眼。此說何咎?蘊各異故。若爾,是何物謂補特伽羅?昔我即今,體應常住,故說今我昔為師言,顯昔與今是一相續,如言此火曾燒彼事。若謂決定有真實我,則應唯佛能明瞭觀,觀已應生堅固我執,從斯我執我所執生,從此應生我我所愛。故薄伽梵作如是言:若執有我便執我所,執我所故於諸蘊中便復發生我我所愛薩迦耶見,我愛所縛則為謗佛,去解脫遠。若謂於我不起我愛,此言無義。所以者何?於非我中橫計為我,容起我愛。非實我中,如是所言無理為證,故彼於佛真聖教中無有因緣起見瘡皰。如是一類執有不可說補特伽羅。復有一類總撥一切法體皆非有。外道執有別真我性,此等一切見不如理,皆不能免無解脫過。若一切類我體都無,剎那滅心於曾所受久相似境何能憶知?如是憶知,從相續內念境想類心差別生。且初憶念為從何等心差別無間生?從有緣彼作意相似相屬想等,不為依止差別愁憂散亂等緣損壞功德心差別起。雖有如是作意等緣,若無彼類心差別者,則無堪能修此憶念。雖有彼類心差別因,若無如是緣,亦無能修理,要具二種方可能修。諸憶念生但由於此,不見離此有功能故。如何異心見,後異心能憶。非天授心曾所見境,後祠授心有憶念理。此難非理,不相屬故。謂彼二心互不相屬,非如一相續有因果性故。我等不言異心見境異心能憶,相續一故。然從過去緣彼境心,引起今時能憶念識。謂如前說相續轉變差別力故生念何失?由此憶念力,有後記知生。我體既無,孰為能憶?能憶是何義?由念能取境。此取境豈異念?雖不異念,但由作者,作者即是前說念因,謂彼類心差別。然世間所言制怛羅能憶,此於蘊相續立制怛羅名。

(論に引き続き曰く:)燎原の火の刹那に滅すと雖も、而も相続に由って流転有りと説くがごとし。此のようの蘊の聚は仮に有情と説き、愛・取を縁と為して生死を流転す。もしただ蘊有りならば、何の故にか世尊は此の説を作して曰く:今の我は昔に於いて世の導師と為りて名づけて妙眼。此の説は何の咎有るか。蘊は各異なるがゆえに。もしそうならば、是れ何の物か補特伽羅と謂うか。昔の我は即ち今。体は応に常住なるべし。ゆえに今の我は昔に師と為るの言を説くは、昔と今とは一相続を顕す。此の火は曾て彼の事を焼きしと言うがごとし。もし謂わば決定して真実の我有りと。則ち応にただ佛のみ能く明了に観ずべし。観じ已りては応に堅固の我執を生ずべし。斯の我執より我所の執を生じ、此より応に我・我所の愛を生ずべし。ゆえに薄伽梵は此の説を作して曰く:もし我有りを執すれば便ち我所を執し、我所を執するがゆえに諸蘊の中に於いて便ち復た我・我所の愛の薩迦耶見を発生し、我愛の縛る所と為れば則ち佛を謗りて、解脱を去ること遠し。もし謂わば我に於いて我愛を起さずと。此の言は義無し。所以は何ぞや。非我の中に於いて横に我と計るは、容そ我愛を起す。実我の中に於いて、此のようの言う所は理の証と為る無し。ゆえに彼は佛の真の聖教の中に於いて因縁無くして見の瘡疱を起さず。此のようの一類は説くべからざる補特伽羅有りを執す。復た一類有りて総じて一切の法体は皆有るに非ずと撥す。外道は別に真の我性有りと執す。此の等の一切の見は理のごとくあらず。皆能く解脱無きの過を免れず。もし一切類は我体は都て無ければ、刹那滅の心は曾て受くる所の久しく相似の境に於いて何ぞ能く憶知せんか。此のようの憶知は、相続の内の念・境の想類の心差別より生ず。且つ初めの憶念は為に何等の心差別の無間に生ずるか。縁有りて彼に作意する相似・相属の想等より、依止する差別の愁・憂・散・乱等の縁の功徳を損壊する所と為らざる心差別より起る。此のようの作意等の縁有ると雖も、もし彼の類の心差別無ければ、則ち此の憶念を修するの堪能無し。彼の類の心差別の因有ると雖も、もし此のようの縁無ければ、もまた修するの理無し。要ずるに二種を具して方に能く修すべし。諸の憶念の生ずるは但だ此に由る。此を離れて功能有るを見ざるがゆえに。如何にして異心は見て、後の異心は能く憶うか。天授(人の名)の心の曾て見る所の境に非ざるに、後の祠授(人の名)の心に憶念の理有り。此の難は理に非ず。相属せざるがゆえに。いわゆる彼の二心は互いに相属せず。一相続の因果性有るがごときに非ざるがゆえに。我等は異心は境を見て異心は能く憶うと説かず。相続は一なるがゆえに。然而過去の彼の境に縁ずる心より、今の時の能く憶念する識を引起す。いわゆる前の説くがごとき相続の転変・差別の力に由って念を生ずるは何の失有るか。此の憶念の力に由って、後の記知の生有り。我体すでに無ければ、孰をか能憶と為すか。能憶とは是れ何の義か。念に由って能く境を取る。此の境を取るは豈に念に異ならんか。念に異ならずと雖も、但だ作る者に由る。作る者は即ち是れ前の説く念の因。いわゆる彼の類の心差別。然而世間の言う所の制怛羅(人の名)の能憶は、此れは蘊の相続に於いて制怛羅の名を立つ。

從先見心後憶念起,依如是理說彼能憶。我體若無,是誰之念?為依何義說第六聲?此第六聲依屬主義,如何物屬何主?此如牛等屬制怛羅。彼如何為牛主?謂依彼彼所乘所搆所役等中彼得自在。欲於何所驅役於念,而勤方便尋求念主?於所念境驅役於念。役念為何?謂令念起。奇哉自在起無理言,寧為此生而驅役此?又我於念如何驅役?為令念起、為令念行?念無行故,但應念起。則因名主,果名能屬。由因增上令果得生,故因名主。果於生時是因所有,故名能屬。即生念因足為念主,何勞立我為念主耶?即諸行聚一類相續,世共施設制怛羅牛,立制怛羅名為牛主。是牛相續於異方生,變異生因故名為主。此中無一實制怛羅亦無實牛,但假施設,故言牛主,亦不離因。憶念既爾,記知亦然。如辯憶知,熟為能了誰之識等,亦應例釋。且識因緣與前別者,謂根境等,如應當知。有作是言:決定有我,事用必待事用者故。謂諸事用待事用者,如天授行必待天授。行是事用天授名者,如是識等所有事用,必待所依能了等者。今應詰彼:天授謂何?若是實我,此如先破。若假士夫,體非一物,於諸行相續假立此名故。如天授能行,識能了亦爾。依何理說天授能行?謂於剎那生滅諸行不異相續立天授名,愚夫於中執為一體,為自相續異處生因。異處生名行,因即名行者。依此理說天授能行。如焰及聲異處相續,世依此說焰聲能行。如是天授身能為識因故,世間亦謂天授能了。然諸聖者為順世間言說理故,亦作是說。經說諸識能了所緣,識於所緣為何所作?都無所作,但以境生。如果酬因,雖無所作而似因起,說名酬因。如是識生,雖無所作而似境,故說名了境。如何似境?謂帶彼相。是故諸識雖亦託根生,不名了根,但名為了境。或識於境相續生時,前識為因引後識起,說識能了亦無有失,世間於因說作者故。

(論に引き続き曰く:)先の見る心より後の憶念は起る。此のようの理に依って彼は能憶と説く。我体もし無ければ、是れ誰の念か。為に何の義に依ってか第六声を説くか。此の第六声は属主の義に依る。如何なる物か何の主に属するか。此れは牛等の制怛羅に属するがごとし。彼は如何にして牛の主と為るか。いわゆる彼彼に依る所の乗・構・役等の中に於いて彼は自在を得るに依る。何の所に於いてか念を駆役して、而も勤めて方便に念の主を尋求せんと欲するか。念ずる所の境に於いて念を駆役す。念を役するは何と為るか。いわゆる念をして起さしめんとす。奇なるかな自在に理無きの言を起す。寧ろ此を生ぜしめんが為に此を駆役するか。また我は念に於いて如何にして駆役するか。為に念をして起らしめんとするか、為に念をして行かしめんとするか。念は行無きがゆえに、但だ応に念を起す。則ち因を名づけて主、果を名づけて能属。因の増上に由って果をして生ずるを得しむがゆえに、ゆえに因を名づけて主。果は生ずる時に因の所有なるがゆえに、名づけて能属。即ち念を生ずるの因は足りて念の主と為る。何ぞ労して我を立てて念の主と為さんか。即ち諸行の聚の一類の相続は、世は共に制怛羅の牛を施設して、制怛羅の名を立てて牛の主と為す。是の牛の相続は異方に於いて生ずるは、変異の生因なるがゆえに名づけて主。此の中に一の実の制怛羅無くもまた実の牛無し。但だ仮の施設。ゆえに牛の主と説くもまた因を離れず。憶念はすでに此のよう、記知もまた此のよう。憶知を弁ずるがごとく、孰れをか能了と為し誰の識等と為すか、もまた応に例して釋すべし。且つ識の因縁は前と別なり。いわゆる根・境等。応に知るべきがごとし。是の言を作す者有り:決定して我有り。事用は必ず事用の者を待つがゆえに。いわゆる諸の事用は事用の者を待つ。天授の行は必ず天授を待つがごとし。行は是れ事用、天授は名づけて者。此のようの識等の所有の事用は、必ず依る所の能了等の者を待つ。今応に彼に詰えり:天授とは何を謂うか。もし是れ実我ならば、此れは先に破りたるがごとし。もし仮の士夫ならば、体は一物に非ず。諸行の相続に於いて仮に此の名を立つるがゆえに。天授の能く行くがごとく、識の能く了するもまた此のよう。何の理に依ってか天授は能く行くと説くか。いわゆる刹那生滅の諸行の異ならざる相続に於いて天授の名を立て、愚夫は中に於いて一体と執し、自の相続の異処に生ずるの因と為す。異処に生ずるを名づけて行。因は即ち名づけて行く者。此の理に依って天授は能く行くと説く。焰および声の異処に相続するがごとく、世は此に依って焰・声は能く行くと説く。此のようの天授の身は能く識の因と為るがゆえに、世間もまた天授は能く了すと謂う。然而諸の聖者は為に世間の言説の理に順うがゆえに、もまた是の説を作す。経に諸の識は能く所縁を了すと説く。識は所縁に於いて為に何の作する所か。都て作する所無し。但だ境に由って生ず。果の因に酬うるがごとく、作する所無しと雖も而も因に似て起る。説いて名づけて因に酬う。此のようの識の生ずるは、作する所無しと雖も而も境に似たり。ゆえに説いて名づけて境を了す。如何にして境に似たるか。いわゆる彼の相を帯ぶ。此のゆえに諸の識はもまた根に托して生ずると雖も、名づけて根を了すと為さず。但だ名づけて境を了す。或いは識は境に於いて相続して生ずる時、前の識を因と為して後の識を引きて起す。識は能く了すと説いてもまた失有ること無し。世間は因に於いて作る者と説くがゆえに。

如世間說鍾鼓能鳴,或如燈能行,識能了亦爾。為依何理說燈能行?焰相續中假立燈號,燈於異處相續生時說為燈行,無別行者。如是心相續假立識名,於異境生時說名能了。或如色有色生色住,此中無別有生住者。說識能了,理亦應然。若後識生,從識非我。何緣從識?不恆似前,及不定次生,如芽莖葉等,有為皆有住異相故。謂諸有為自性法爾,微細相續後必異前。若異此者,縱意入定,身心相續相似而生,後念與初無差別故,不應最後念自然從定出。諸心相續亦有定次,若此心次彼心應生,於此心後彼必生故。亦有少分行相等心方能相生,種性別故。如女心無間起嚴汙身心,或起彼夫彼子心等。後時從此諸心相續轉變差別還生女心。如是女心於後所起嚴汙心等有生功能,異此無功能,由種性別故。女心無間容起多心,然多心中若先數起、明瞭近起,先起非餘。由如是心修力強故,唯除將起位身外緣差別。諸有修力最強盛者,寧不恆時生於自果?由此心有住異相故,此住異相於別修果相續生中最隨順故。諸心品類次第相生因緣方隅我已略說,委悉了達唯在世尊,一切法中智自在故。依如是義故,有頌言:

(論に引き続き曰く:)世間の鐘・鼓は能く鳴らすと説くがごとく、或いは灯の能く行くがごとく、識の能く了するもまた此のよう。為に何の理に依ってか灯は能く行くと説くか。焰の相続の中に仮に灯の号を立て、灯は異処に於いて相続して生ずる時に説いて灯の行と為す。別に行く者無し。此のようの心の相続は仮に識の名を立て、異境に於いて生ずる時に説いて名づけて能了。或いは色は色生・色住有るがごとく、此の中に別に生・住する者無し。識は能く了すと説くも、理もまた応に此のよう。もし後の識の生ずるは、識に従うも我に非ず。何の縁にか識に従うか。恒に前に似ず、および定めて次生せず。芽・茎・葉等のごとし。有為は皆住異の相有るがゆえに。いわゆる諸の有為は自性は法尔に微細に相続して後は必ず前に異なり。もし此に異ならば、意を縱にして定に入りて、身心は相続して相似にして生じ、後念は初と差別無きがゆえに、応に最後の念は自然に定より出づべからず。諸心の相続もまた定次有り。もし此の心の次に彼の心は応に生ずべし。此の心の後に於いて彼は必ず生ずるがゆえに。もまた少分の行相の等しき心は方に能く相生ず。種性の別なるがゆえに。女心の無間に厳・汚の身心を起し、或いは彼の夫・彼の子の心等を起すがごとし。後の時に此の諸心の相続は転変・差別して還って女心を生ず。此のようの女心は後の起す所の厳・汚の心等に於いて生ずるの功能有り。此に異なるは功能無し。種性の別なるに由るがゆえに。女心は無間に容そ多くの心を起すと雖も、然而多くの心の中にもし先に数起し・明了に近く起るは、先に起りて其余に非ず。此のようの心は修力強きに由るがゆえに。ただ将に起る位の身外の縁の差別を除く。諸の修力の最も強盛なるは、寧ろ恒の時に自果を生ぜざらんか。此の心は住異の相有るに由るがゆえに。此の住異の相は別修の果の相続して生ずる中に於いて最も随順するがゆえに。諸心の品類の次第に相生ずる因縁の方隅は我已に略説せり。委悉に了達するはただ世尊に在り。一切法の中に智自在なるがゆえに。此のようの義に依るがゆえに、頌有りて説く:

於一孔雀輪,一切種因相,

一の孔雀の輪に於いて、一切種の因の相は、

非餘智境界,唯一切智知。

其余の智の境界に非ず。ただ一切智のみ知る。

色差別因尚為難了,況心心所諸無色法因緣差別可易了知?一類外道作如是執,諸心生時皆從於我。前之二難於彼最切。若諸心生皆從我者,何緣後識不恆似前,及不定次生,如芽莖葉等。若謂由待意合差別有異識生,理定不然,我與餘合非極成故,又二物合有分限故。謂彼自類釋合相言,非至為先、後至名合。我與意合應有分限,意移轉故我應移轉,或應與意俱有壞滅。若謂一分合,理定不然,於一我體中無別分故。設許有合,我體既常,意無別異,合寧有別?若待別覺,為難亦同。謂覺因何得有差別?若待行別,我意合者,則應但心待行差別能生異識,何用我為?我於識生都無有用,而言諸識皆從我生。如藥事成能除痼疾,誑醫矯說普莎訶言。若謂此二由我故有,此但有言,無理為證。若謂此二我為所依,如誰與誰為所依義?非心與行如畫如果,我為能持如壁如器,如是便有更相礙失,及有或時別住失故。非如壁器,我為彼依。若爾如何?此但如地,能為香等四物所依。彼如是言,證成無我,故我於此深生喜慰。如世間地不離香等,我亦應爾,非離心行。誰能了地離於香等?但於香等聚集差別,世俗流佈立以地名。我亦應然,但於心等諸蘊差別,假立我名。若離香等無別有地,如何說言地有香等?為顯地體有香等別,故即於地說有香等,令他了達是此非餘,如世間言木像身等。又若有我待行差別,何不俱時生一切智?若時此行功用最強,此能遮餘令不生果。寧從強者果不恒生?答此如前修力道理,許行非常漸變異故。若爾,計我則為唐捐,行力令心差別生故。彼行此修體無異故,必定應信我體實有,以有念等德句義故,德必依止實句義故,念等依餘理不成故。此證非理,不極成故。謂說念等德句義攝體皆非實,義不極成,許有別體皆名實故。經說六實物,名沙門果故。彼依實我,理亦不成。

色の差別の因はなお了し難きを尚うす。況んや心・心所の諸の無色法の因縁の差別は易く了知すべきか。一類の外道は此の執を作して、諸心の生ずる時は皆我よりすと。前の二難は彼に於いて最も切なり。もし諸心の生ずるは皆我に従うは、何の縁にか後の識は恒に前に似ず、および定めて次生せざるか。芽・茎・葉等のごとし。もし謂わば意との合の差別を待つに由って異識を生ずと。理は定めて此のようにはあらず。我と其余との合は極成に非ざるがゆえ、また二物の合は分限有るがゆえに。いわゆる彼の自類は合相の言を釋して、至るを以て先と為し・後に至るを名づけて合に非ず。我と意との合は応に分限有るべし。意は移転するがゆえに我は応に移転すべし。或いは応に意と俱に壊滅有るべし。もし謂わば一分の合。理は定めて此のようにはあらず。一の我体の中に別分無きがゆえに。設い合有るを許すも、我体はすでに常、意は別異無くして、合は寧ろ別有らんか。もし別の覚を待たば、為の難もまた同じ。いわゆる覚は何に因ってか差別有るを得るか。もし行の別を待たば、我・意の合するに、則ち応に但だ心は行の差別を待ちて能く異識を生ずべし。何ぞ我を用いんか。我は識の生ずるに於いて都て用有ること無くして、而も諸の識は皆我より生ずと説く。薬事の成ぜる能く痼疾を除くがごとく、医を誑かして矯めて普莎訶(呪の尾の詞)の言を説く。もし謂わば此の二は我に由るがゆえに有ると。此れは但だ言有りて、理の証と為る無し。もし謂わば此の二は我は依る所と為すと。誰と誰とが依る所と為るの義のごとし。心と行とが画・果のごときに非ず。我は能く持する壁・器のごとき。此のようの便ち更相の礙の失有り、および或る時の別住の失有るがゆえに。壁・器のごときに非ざれば、我は彼の依と為さず。もしそうならば如何。此れは但だ地のごとし。能く香等の四物の依る所と為る。彼は此の説のごとく、無我を証成す。ゆえに我は此に於いて深く喜慰を生ず。世間の地は香等を離れざるがごとく、我もまた応に此のよう。心・行を離るるに非ず。誰か能く地は香等を離るるを了せんか。但だ香等の聚集・差別に於いて、世俗の流布は名を立てて以て地と為す。我もまた応に此のよう。但だ心等の諸蘊の差別に於いて、仮に我の名を立つ。もし香等を離れて別に地無ければ、如何にして地は香等有りと説き言わんか。為に地体は香等の別有るを顕さんと、ゆえに即ち地に於いて香等有りと説いて、他をして是れ此にして其余に非ずを了達せしむ。世間の木像の身等と言うがごとし。またもし我有りて行の差別を待たば、何ぞ俱時に一切智を生ぜざるか。もし時に此の行の功用最強なれば、此れは能く其余を遮りて果を生ぜしめず。寧ろ強きよりの果は恒生ぜざらんや。此に答うるは前の修力の道理のごとく、行は非常にして漸く変異するを許すがゆえに。もしそうならば、我を計るは則ち為に唐捐。行の力は心の差別を生ぜしむるがゆえに。彼の行と此の修とは体の異無きがゆえに、必定応に信ずべし我体は実有。念等の徳句義(勝論の徳句)有るを以て、徳は必ず実句義(勝論の実句)に依止するがゆえ、念等は其余に依るの理成らざるがゆえに。此の証は理に非ず。極成せざるがゆえに。いわゆる念等は徳句義の摂する体は皆実に非ずと説くは、義は極成せず。別体有りて皆名づけて実と許すがゆえに。経に六の実物を説いて名づけて沙門果と為すがゆえに。彼は実我に依るも、理もまた成らず。

依義如前已遮遣故,由此所立但有虛言。若我實無,為何造業?為我當受苦樂果故。我體是何?謂我執境。何名我執境?謂諸蘊相續。云何知然?貪愛彼故。與白等覺同處起故。謂世有言:我白我黑。我老我少。我瘦我肥。現見世間緣白等覺,與計我執同處而生,非所計我有此差別,故知我執但緣諸蘊。以身於我有防護恩,故亦於身假說為我,如言臣等即是我身。於有恩中實假說我,而諸我執所取不然。若許緣身亦起我執,寧無我執緣他身起,他與我執不相屬故。謂若身若心與我執相屬,此我執起緣彼非餘,無始時來如是習故。相屬謂何?謂因果性。若無我體,誰之我執?此前已釋,寧復重來。謂我於前已作是說,為依何義說第六聲,乃至辨因為果所屬。若爾,我執以何為因?謂無始來我執燻習,緣自相續有垢染心。我體若無誰有苦樂?若依於此有苦樂生,即說名為此有苦樂,如林有果及樹有花。苦樂依何?謂內六處,隨其所起說為彼依。若我實無,誰能作業?誰能受果?作受何義?作謂能作,受謂受者。此但易名,未顯其義。辯法相者釋此相言:能自在為,名為作者。能領業果,得受者名。現見世間,於此事業若得自在,名為能作。如見天授於浴食行得自在故,名浴等者。此中汝等說何天授?若說實我,喻不極成;說蘊便非自在作者。業有三種,謂身、語、意。且起身業必依身心,身心各依自因緣轉,因緣展轉依自因緣,於中無一自在起者,一切有為屬因緣故。汝所執我,不待因緣亦無所作,故非自在。由此彼說能自在為名作者相,求不可得。然於諸法生因緣中,若有勝用假名作者,非所執我,見有少用故定不應名為作者。能生身業勝因者何?謂從憶念引生樂欲,樂欲生尋伺,尋伺生勤勇,勤勇生風,風起身業。汝所執我,此中何用?故於身業,我非作者。語意業起,類此應思。我復云何能領業果?

(論に引き続き曰く:)義に依るは前に已に遮遣せるがゆえに、此に由って立てる所は但だ虚言有り。もし我は実に無ければ、為に何ぞ業を造るか。為に我当に苦・楽の果を受けんがゆえに。我体とは是れ何ぞ。いわゆる我執の境。何をか我執の境と名づくるか。いわゆる諸蘊の相続。如何にして此のようを知るか。彼を貪愛するがゆえ、白等の覚と同じ処に起るがゆえに。いわゆる世に言有り:我は白し我は黒し。我は老い我は少し。我は痩せ我は肥えり。現に世間の白等の覚に縁ずるを見て、計する我執と同じ処に生ず。計する所の我に此の差別有るに非ず。ゆえに我執は但だ諸蘊に縁ずるを知る。身は我に於いて防護の恩有るを以て、ゆえにもまた身に於いて仮に我と説く。臣等は即ち是れ我が身と言うがごとし。恩有るの中に於いて実に仮に我と説くも、而も諸の我執の取る所は此のようにはあらず。もし身に縁じてもまた我執を起すを許さば、寧ろ他の身に縁じて我執の起る無からんや。他は我執と相属せざるがゆえに。いわゆるもし身もし心は我執と相属すれば、此の我執の起るは彼に縁じて其余に非ず。无始の時より来りて此のように習うがゆえに。相属とは何を謂うか。いわゆる因果性。もし我体無ければ、誰の我執か。此れは前に已に釋せり。寧ろ復た重ねて来らんや。いわゆる我は前に已に是の説を作せり、為に何の義に依ってか第六声を説く、乃至因を弁じて果の属する所と為すを。もしそうならば、我執は何を以て因と為すか。いわゆる无始より来りて我執は熏習して、自の相続の垢染の心有りに縁ず。我体もし無ければ誰か苦・楽有るか。もし此に依って苦・楽の生ずる有れば、即ち説いて名づけて此は苦・楽有り。林の果有りおよび樹の花有るがごとし。苦・楽は何に依るか。いわゆる内の六処。其の起る所に随って説いて彼の依と為す。もし我は実に無ければ、誰か能く業を作さんか。誰か能く果を受くるか。作・受は何の義か。作とは能く作るを謂い、受とは受くる者を謂う。此れは但だ名を易う、未だ其の義を顕さず。法相を弁ずる者は此の相を釋して言う:能く自在に為すを、名づけて作る者。能く業の果を領すを、受くる者の名を得。現に世間を見る、此の事業に於いてもし自在を得れば、名づけて能作。天授の浴・食・行に於いて自在を得るを見るがごとく、名づけて浴等の者。此の中に汝等は何の天授を説くか。もし実我を説かば、喩は極成せず。蘊を説かば便ち自在の作る者に非ず。業に三種有り。いわゆる身・語・意。且つ身業を起すは必ず身・心に依り、身・心は各々自の因縁に依って転じ、因縁は展転に自の因縁に依る。中に於いて一の自在に起る無し。一切の有為は因縁に属するがゆえに。汝の執する所の我は、因縁を待たずもまた作する所無し。ゆえに自在に非ず。此に由って彼の説く能く自在に為すを名づけて作る者の相は、求めて得るべからず。然而諸法の生ずる因縁の中に於いて、もし勝用有れば仮に作者と名づく。執する所の我に非ず。少しの用有るを見るがゆえに定めて応に名づけて作る者と為すべからず。能く身業を生ずるの勝因とは何ぞ。いわゆる憶念より樂欲を引生し、樂欲は尋・伺を生じ、尋・伺は勤勇を生じ、勤勇は風を生じ、風は身業を起す。汝の執する所の我は、此の中に何の用有るか。ゆえに身業に於いて、我は作る者に非ず。語・意の業の起るは、此に類して応に思うべし。我は復た如何にして能く業の果を領せんか。

若謂於果我能了別,此定不然,我於了別都無有用,於前分別生識因中已遮遣故。若實無我,如何不依諸非情處罪福生長?彼非愛等所依止故,唯內六處是彼所依。我非彼依,如前已說。若實無我,業已滅壞,云何復能生未來果?設有實我,業已滅壞,復云何能生未來果?從依止我,法非法生。如誰依誰,此前已破,故法非法不應依我。然聖教中不作是說,從已壞業未來果生。若爾,從何?從業相續轉變差別,如種生果。如世間說,果從種生。然果不從已壞種起,亦非從種無間即生。若爾,從何?從種相續轉變差別果方得生,謂種次生芽莖葉等,花為最後方引果生。若爾,何言從種生果?由種展轉引起花中生果功能,故作是說。若此花內生果功能非種為先所引起者,所生果相應與種別。如是雖言從業生果,而非從彼已壞業生,亦非從業無間生果,但從業相續轉變差別生。何名相續轉變差別?謂業為先,後色心起,中無間斷,名為相續。即此相續,後後剎那異前前生,名為轉變。即此轉變,於最後時有勝功能無間生果,勝餘轉變,故名差別。如有取識正命終時,雖帶眾多感後有業所引燻習,而重近起數習所引明瞭非餘。如有頌言:

(論に引き続き曰く:)もし謂わば果に於いて我は能く了別すと。此れは定めて此のようにはあらず。我は了別に於いて都て用有ること無し。前の分別に識の因を生ずる中に於いて已に遮遣せるがゆえに。もし実に我無ければ、如何にして諸の情有らざる処に依らずして罪・福は生長せんか。彼は愛等の依止する所に非ざるがゆえに、ただ内の六処は是れ彼の依る所。我は彼の依に非ず。前に已に説けり。もし実に我無ければ、業は已に滅壊して、如何にして復た能く未来の果を生ぜんか。設い実の我有りと雖も、業は已に滅壊して、復た如何にして能く未来の果を生ぜんか。我に依止するより、法・非法は生ず。誰が誰に依るがごときは、此れは前に已に破りたり。ゆえに法・非法は応に我に依るべからず。然而聖教の中には是の説を作さず、已に壞れたる業より未来の果は生ずと。もしそうならば、何よりすか。業の相続の転変・差別より。種の果を生ずるがごとし。世間の説くがごとく、果は種より生ず。然而果は已に壞れたる種より起らず、もまた種より無間に即ち生ぜず。もしそうならば、何よりすか。種の相続の転変・差別より果は方に生ずるを得。いわゆる種は次に芽・茎・葉等を生じ、花を以て最後と為して方に果の生ずるを引く。もしそうならば、何をか種より果を生ずと言うか。種の展転に引き起す花の中の果を生ずるの功能に由るがゆえに、ゆえに是の説を作す。もし此の花の内の果を生ずるの功能は種を先と為して引き起す所に非ざれば、生ずる所の果の相は応に種と別なるべし。此のようの業より果を生ずと説くと雖も、而も彼の已に壞れたる業より生ずるに非ず、もまた業より無間に果を生ずるに非ず。但だ業の相続の転変・差別より生ず。何をか相続・転変・差別と名づくるか。いわゆる業を先と為して、後に色・心は起り、中に間断無くして、名づけて相続。即ち此の相続は、後後の刹那は前前に異なりて生ずるを、名づけて転変。即ち此の転変は、最後の時に於いて勝なる功能有りて無間に果を生じ、其余の転変に勝るるがゆえに、名づけて差別。取識有りて正に命終する時に、衆多の後有を感ずる業の引く所の熏習を帯ぶと雖も、而も重く近く起りて数習の引く所の明了は其余に非ず。頌有りて説くがごとく:

業極重近起,數習先所作,

業は極めて重く近く起る、数習の先の作する所は、

前前前後熟,輪轉於生死。

前前・後後に熟して、生死に輪転す。

於此義中有差別者,異熟因所引與異熟果功能,與異熟果已即便謝滅。同類因所引與等流果功能,若染汙者對治起時即便謝滅,不染汙者般涅槃時方永謝滅,以色心相續爾時永滅故。何緣異熟果不能招異熟,如從種果有別果生。且非譬喻,是法皆等。然從種果無別果生。若爾,從何生於後果?從後熟變差別所生。謂於後時即前種果遇水土等諸熟變緣,便能引生熟變差別。正生芽位方得種名,未熟變時從當名說,或似種故世說為種。此亦如是,即前異熟遇聞正邪等諸起善惡緣,便能引生諸善有漏及諸不善有異熟心,從此引生相續轉變,展轉能引轉變差別,從此差別後異熟生,非從餘生。故喻同法。或由別法類此可知,如拘櫞花塗紫礦汁,相續轉變差別為因,後果生時瓤便色赤,從此赤色更不生餘。如是應知,從業異熟更不能引餘異熟生。前來且隨自覺慧境,於諸業果略顯麁相。其間異類差別功能,諸業所燻相續轉變,至彼彼位彼彼果生,唯佛證知非餘境界。依如是義,故有頌言:

此の義の中に差別有るは、異熟因の引く所の異熟果を与うるの功能は、異熟果を与え已りて便ち謝滅す。同類因の引く所の等流果を与うるの功能は、もし染汚なるは対治の起る時に便ち謝滅し、染汚ならざるは般涅槃の時に方に永く謝滅す。色・心の相続は爾の時に永滅するを以て。何の縁にか異熟果は能く異熟を招かざるか。種の果より別の果を生ずるがごとし。且つ譬喩に非ず、是の法は皆等し。然而種の果よりは別の果を生ずること無し。もしそうならば、何より後の果を生ずるか。後の熟変の差別の生ずる所よりす。いわゆる後の時に於いて即ち前の種果は水・土等の諸の熟変の縁に遇えば、便ち能く熟変の差別を引生す。正しく芽を生ずる位に方に種の名を得。未だ熟変せざる時は当の名より説き、或いは種に似たるがゆえに世は説いて種と為す。此れもまた此のよう。即ち前の異熟は正・邪等を聞くの諸の善・悪を起すの縁に遇えば、便ち能く諸の善の有漏および諸の不善の異熟の心有りを引生し、此より相続の転変を引生し、展転に能く転変の差別を引き、此の差別より後の異熟は生じ、其余より生ずるに非ず。ゆえに喩は法に同じ。或いは別の法に由って此に類して知るべし。拘橼の花に紫礦の汁を塗るがごとく、相続の転変・差別を因と為して、後の果の生ずる時に瓤は便ち色は赤し。此の赤色より更に其余を生ぜず。此のようの応に知るべし、業の異熟より更に能く其余の異熟の生を引かざるを。前来且つ自覚の慧の境に随って、諸の業果に於いて略して粗相を顕せり。其の間の異類の差別の功能は、諸の業の熏ずる所の相続の転変にして、彼彼の位に至りて彼彼の果を生ずるは、ただ佛のみ証知して其余の境界に非ず。此のようの義に依るがゆえに、頌有りて説く:

此業此燻習,至此時與果,

此の業・此の熏習は、此の時に至りて果を与うるは、

一切種定理,離佛無能知。

一切種の定めたる理は、佛を離れて能く知る無し。

已善說此淨因道,謂佛至言真法性,

已に此の浄因の道を善く説けり。いわゆる佛の至言・真の法性、

應捨闇盲諸外執,惡見所為求慧眼。

応に暗盲の諸の外執を捨て、慧眼を求める惡見の為する所を。

此涅槃宮一廣道,千聖所遊無我性,

此の涅槃の宮の一の広道は、千聖の遊ぶ所・我性無くして、

諸佛日言光所照,雖開殊眼不能覩。

諸仏の日言の光の照らす所。開きたる殊眼と雖も覩ること能わず。

於此方隅已略說,為開智者慧毒門,

此の方隅に於いて已に略説せり。為に智者の慧の毒門を開かんと、

庶各隨己力堪能,遍悟所知成勝業。

庶い各々己の力の堪能に随い、遍く所知を悟りて勝業を成らんことを。

説一切有部倶舎論 巻第三十

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