六祖大师法宝坛经
風旛報恩光孝禅寺住持・嗣法比丘宗宝が編集した。(宗宝は元代の僧で、通行本『壇経』は彼によって再編されたものである。)
仏家典籍
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六祖大師法寶壇経
風旛報恩光孝禪寺住持嗣祖比丘宗寶編
風旛報恩光孝禅寺住持・嗣法比丘宗宝が編集した。(宗宝は元代の僧で、通行本『壇経』は彼によって再編されたものである。)
行由第一
行由第一
時,大師至寶林。韶州韋刺史(名璩)與官僚入山請師,出於城中大梵寺講堂,為眾開緣說法。師陞座次,刺史官僚三十餘人,儒宗學士三十餘人,僧尼道俗一千餘人,同時作禮,願聞法要。
その時、大師は宝林寺に来られた。韶州刺史の韋璩と部下の官員が山に入って大師を礼請し、城中の大梵寺講堂で大衆のために法縁を開き仏法を説くよう請った。大師が法座に上ると、刺史と官員三十余人、儒学の士人三十余人、僧尼と在家信者千余人が、同時に礼を行い、仏法の綱要を聞かんと願った。
大師告眾曰:「善知識!菩提自性,本來清淨,但用此心,直了成佛。善知識!且聽惠能行由,得法事意。惠能嚴父,本貫範陽,左降流於嶺南,作新州百姓。此身不幸,父又早亡。老母孤遺,移來南海,艱辛貧乏,於市賣柴。時,有一客買柴,使令送至客店;客收去,惠能得錢,卻出門外,見一客誦經。惠能一聞經語,心即開悟,遂問:『客誦何經?』客曰:『《金剛經》。』復問:『從何所來,持此經典?』客云:『我從蘄州黃梅縣東禪寺來。其寺是五祖忍大師在彼主化,門人一千有餘;我到彼中禮拜,聽受此經。大師常勸僧俗,但持《金剛經》,即自見性,直了成佛。』惠能聞說,宿昔有緣,乃蒙一客,取銀十兩與惠能,令充老母衣糧,教便往黃梅參禮五祖。
大師は大衆に告げて言われた。「善知識!覚悟の自性はもともと清浄である。ただこの心を用いれば、直ちに了達して成仏できる。善知識!しばらく私・惠能が法を得た経歴と因由を聞いてほしい。私の父はもと范陽の籍であったが、後に貶官されて嶺南に流され、新州の百姓となった。私の一生は不幸で、父はまた早く亡くなった。孤独で老いた母が私を連れて南海に移り、日々は艱難貧困で、私は市場で柴を売っていた。ある時、一人の客が柴を買い、宿屋まで届けさせた。客は柴を受け取り、私は銭を取って門外に出ると、一人の客が経を誦しているのを見た。私は経中の言葉を聞くや否や、心のうちに悟りが開け、尋ねた。『お客様が誦しているのは何の経ですか。』彼は言った。『金剛経』です。』私はまた尋ねた。『どこから来て、この経典を持っているのですか。』彼は言った。『私は蘄州黄梅県の東禅寺から来ました。あの寺は五祖弘忍大師がそこで住持教化しており、門人は千余人います。私はそこに至って礼拝し、この経を聴受しました。大師は常に出家・在家の人に勧めています。ただ『金剛経』を持てば、自ら本性を見て、直ちに了達して成仏できると。』私はこの話を聞いて、宿世の縁があるのだと思い、一人の客から十両の銀子を恵まれ、老母の衣食に充てるようにと与えられ、直ちに黄梅に赴き五祖に参礼するよう教えられた。
「惠能安置母畢,即便辭違。不經三十餘日,便至黃梅,禮拜五祖。祖問曰:『汝何方人?欲求何物?』惠能對曰:『弟子是嶺南新州百姓,遠來禮師,惟求作佛,不求餘物。』祖言:『汝是嶺南人,又是獵獠,若為堪作佛?』惠能曰:『人雖有南北,佛性本無南北;獵獠身與和尚不同,佛性有何差別?』五祖更欲與語,且見徒眾總在左右,乃令隨眾作務。惠能曰:『惠能啟和尚,弟子自心,常生智慧,不離自性,即是福田。未審和尚教作何務?』祖云:『這獦獠根性大利!汝更勿言,著槽廠去。』惠能退至後院,有一行者,差惠能破柴踏碓。經八月餘,祖一日忽見惠能曰:『吾思汝之見可用,恐有惡人害汝,遂不與汝言。汝知之否?』惠能曰:『弟子亦知師意,不敢行至堂前,令人不覺。』
「私は母を安んじさせ、すぐに別れを告げて路に就いた。三十余日とたたないうちに黄梅に着き、五祖に礼拝した。五祖は問うた。『お前はどこの人か。何を求めに来たのか。』私は答えた。『弟子は嶺南新州の百姓で、遠路はるばる大師を礼拝しに来ました。ただ仏になることのみを求め、他は求めません。』五祖は言った。『お前は嶺南の人で、しかも獦獠(当時の南方少数民族への蔑称)だ。どうして仏になれるか。』私は言った。『人には南方・北方の分かれはあっても、仏性にはもともと南北がありません。獦獠のこの身は和尚とは違いますが、仏性に何の差別がありましょうか。』五祖はさらに私と話そうとしたが、徒衆が皆左右にいるのを見て、私に衆に随って仕事をせよと命じた。私は言った。『惠能は和尚に申し上げます。弟子は自らの心に常に智慧を生じ、自性を離れません。これが福田です。和尚は私にどんな仕事をさせるのですか。』五祖は言った。『この獦獠、根性が鋭い!もう言うな、碓房へ行け。』私は後院に退がると、ある行者が私に柴を割り碓を踏ませた。八ヶ月余り過ぎたある日、五祖は忽然と私に会い、言った。『お前の見解は使えると思うが、悪人がお前を害することを恐れ、ずっと話しかけなかった。知っていたか。』私は言った。『弟子も師父のお心遣いを知っておりました。だから堂前まで出ないようにして、人に気づかれないようにしていました。』
「祖一日喚諸門人總來:『吾向汝說,世人生死事大,汝等終日只求福田,不求出離生死苦海;自性若迷,福何可救?汝等各去,自看智慧,取自本心般若之性,各作一偈,來呈吾看。若悟大意,付汝衣法,為第六代祖。火急速去,不得遲滯,思量即不中用;見性之人,言下須見。若如此者,輪刀上陣,亦得見之。』(喻利根者)眾得處分,退而遞相謂曰:『我等眾人,不須澄心用意作偈,將呈和尚,有何所益?神秀上座,現為教授師,必是他得。我輩謾作偈頌,枉用心力。』餘人聞語,總皆息心,鹹言:『我等已後依止秀師,何煩作偈?』神秀思惟:『諸人不呈偈者,為我與他為教授師;我須作偈,將呈和尚,若不呈偈,和尚如何知我心中見解深淺?我呈偈意,求法即善,覓祖即惡,卻同凡心,奪其聖位奚別?若不呈偈,終不得法。大難!大難!』
「五祖はある日、門人を皆呼び集めて言った。『お前たちに告げる。世人の生死は大事である。お前たちは終日福田ばかりを求め、生死の苦海を脱することを求めない。自性が迷えば、福報がどうして救えるものか。お前たちは各自帰って、自分の智慧を観照し、自分の本心の中の般若の体性を取り出し、各々一首の偈を作って私に見せよ。もし大意を悟った者があれば、衣法を伝えて第六代祖とする。急いで行け。遅れてはならない。思量して用いるのでは役に立たない。性を見た者は一言の下に見るべきだ。このような人は、刀を振るって陣に臨んでも、同じように見えるものだ。』(これは根器の鋭い人の譬えである。)衆人は吩咐を受け、退いて互いに言った。『我々のような者は心を澄ませ意を用いて偈を作る必要はない。作って和尚に呈して何の用があろう。神秀上座は今教授師である。きっと彼が法を得るのだ。我々がいい加減に偈頌を作っても、心力を空費するだけだ。』その他の者もこの話を聞いて皆心を休め、皆言った。『我々はこれから神秀師父に依止すればよい。どうしてわざわざ偈を作る必要があろうか。』神秀は心の中で思った。『皆が偈を呈しないのは、私が彼らの教授師だからだ。私は必ず偈を作って和尚に呈しなければならない。偈を呈しなければ、和尚はどうして私の心中の見解の深浅を知ることができようか。私が偈を呈する用意が、法を求めるためなら善いが、祖位を求めるためなら悪い。それではかえって凡夫の心と同じで、聖位を奪うことと何の差別があろうか。しかし偈を呈しなければ、終に法を得ることができない。難しい!難しい!』
「五祖堂前,有步廊三間,擬請供奉盧珍,畫楞伽經變相,及五祖血脈圖,流傳供養。神秀作偈成已,數度欲呈,行至堂前,心中恍惚,遍身汗流,擬呈不得;前後經四日,一十三度呈偈不得。秀乃思惟:『不如向廊下書著,從他和尚看見,忽若道好,即出禮拜,雲是秀作;若道不堪,枉向山中數年,受人禮拜,更修何道?』是夜三更,不使人知,自執燈,書偈於南廊壁間,呈心所見。偈曰:
「五祖の堂前に三間の廊下があり、もともと供奉の盧珍を請して『楞伽経』の変相図および五祖の血脉図を描かせ、流伝して供養するつもりであった。神秀は偈を成してから、幾度も呈しに行こうとしたが、堂前に至ると心が恍惚として遍身汗を流し、呈したいのに呈することができなかった。前後四日を経て十三回も呈することができなかった。神秀はそこで思った。『いっそ廊下に書いて、和尚に見えるに任せよう。彼が善いと言えば、私は出て礼拝し、私が作ったと言おう。もしだめだと言えば、私は山中で何年も修し、人の礼拝を受けてきたのが空しかったことになる。何の道を修しているのか。』この夜三更、彼は人に知らせず、自ら灯を持ち、偈を南廊の壁に書いて、心中の見えたところを呈露した。偈に曰く、
「身是菩提樹,心如明鏡臺,
身は菩提の樹、心は明鏡の台のごとし、
時時勤拂拭,勿使惹塵埃。
常に勤めて払い拭い、塵埃を惹かしめざれ。
「秀書偈了,便卻歸房,人總不知。秀復思惟:『五祖明日見偈歡喜,即我與法有緣;若言不堪,自是我迷,宿業障重,不合得法。』聖意難測,房中思想,坐臥不安,直至五更。祖已知神秀入門未得,不見自性。
「神秀は偈を書き終えると房に帰り、他人は皆知らなかった。彼はまた思った。『五祖が明日偈を見て喜べば、私は法と縁がある。もしだめだと言えば、それは私自身が迷っていて、宿世の業障が重く深く、法を得るべきでないということだ。』聖人の心意は忖度し難く、彼は房中で繰り返し思量し、坐しても臥しても安らかでなく、五更に至った。五祖はすでに神秀がまだ門に入らず、自性を見ていないことを知っていた。
「天明,祖喚盧供奉來,向南廊壁間,繪畫圖相,忽見其偈,報言:『供奉卻不用畫,勞爾遠來。經云:「凡所有相,皆是虛妄。」但留此偈,與人誦持。依此偈修,免墮惡道;依此偈修,有大利益。』令門人炷香禮敬,盡誦此偈,即得見性。門人誦偈,皆歎善哉。
「夜が明けると、五祖は盧供奉を呼んで南廊の壁に図を描かせようとし、忽然とあの偈を見て、彼に言った。『供奉は画かなくてよい。遠路を煩わせてしまった。経に言う、「凡そ形相あるものは、皆虚妄である」と。ただこの偈を留めて、人に誦持させよう。この偈に依って修行すれば、悪道に堕ちることを免れる。この偈に依って修行すれば、大きな利益がある。』また門人に香を点てて礼敬させ、皆この偈を誦せば性を見ることができるとした。門人は偈を誦し、皆讃嘆して善いと言った。
「祖,三更喚秀入堂,問曰:『偈是汝作否?』秀言:『實是秀作,不敢妄求祖位,望和尚慈悲,看弟子有少智慧否?』祖曰:『汝作此偈,未見本性,只到門外,未入門內。如此見解,覓無上菩提,了不可得;無上菩提,須得言下識自本心,見自本性不生不滅;於一切時中,念念自見萬法無滯,一真一切真,萬境自如如。如如之心,即是真實。若如是見,即是無上菩提之自性也。汝且去,一兩日思惟,更作一偈,將來吾看;汝偈若入得門,付汝衣法。』神秀作禮而出。又經數日,作偈不成,心中恍惚,神思不安,猶如夢中,行坐不樂。
「五祖は三更の時に神秀を堂内に呼び入れ、問うた。『偈はお前が作ったのか。』神秀は言った。『確かに私が作りました。妄りに祖位を求めるつもりはなく、ただ和尚の慈悲を望み、弟子に少しの智慧があるかどうかを見ていただきたいのです。』五祖は言った。『お前の作ったこの偈は、まだ本性を見ておらず、門の外に至っただけで、門の中に入っていない。このような見解をもって無上菩提を求めても、全く求めることができない。無上菩提は言下に自分の本心を認め、自分の本性の不生不滅を見なければならない。一切の時の中で、念念に自ら万法の滞碍なきを見れば、一が真ならば一切が真で、万種の境界は自ずから如如となる。この如如不动の心が、すなわち真実である。もしこのように見ることができれば、無上菩提の自性である。お前はしばらく帰って、一二日思量し、もう一首の偈を作って私に見せよ。お前の偈が門に入ることができれば、衣法をお前に伝えよう。』神秀は礼をして退出した。また数日過ぎたが偈は作れず、心中恍惚として神思は安らかでなく、夢の中にいるようで、行住坐臥のいずれも快くなかった。
「復兩日,有一童子於碓坊過,唱誦其偈;惠能一聞,便知此偈未見本性,雖未蒙教授,早識大意。遂問童子曰:『誦者何偈?』童子曰:『爾這獵獠不知,大師言:「世人生死事大,欲得傳付衣法,令門人作偈來看。若悟大意,即付衣法為第六祖。」神秀上座,於南廊壁上,書無相偈,大師令人皆誦,依此偈修,免墮惡道;依此偈修,有大利益。』惠能曰:『(一本有我亦要誦此,結來生緣)上人!我此踏碓,八箇餘月,未曾行到堂前。望上人引至偈前禮拜。』童子引至偈前禮拜,惠能曰:『惠能不識字,請上人為讀。』時,有江州別駕,姓張名日用,便高聲讀。惠能聞已,遂言:『亦有一偈,望別駕為書。』別駕言:『汝亦作偈?其事希有。』惠能向別駕言:『欲學無上菩提,不得輕於初學。下下人有上上智,上上人有沒意智。若輕人,即有無量無邊罪。』別駕言:『汝但誦偈,吾為汝書。汝若得法,先須度吾。勿忘此言。』惠能偈曰:
「さらに二日過ぎ、一人の童子が碓房の前を通り、一路あの偈を唱え誦していた。私は一聴してこの偈がまだ本性を見ていないことを知った。私は教えを受けたことはなかったが、すでに大意を識っていた。そこで童子に問うた。『お前が誦しているのは何の偈か。』童子は言った。『お前のような獦獠は知らないだろう。大師が言われた。「世人の生死は大事である。衣法を伝付しようと思い、門人に偈を作らせて見せた。大意を悟れば衣法を伝えて第六祖とする。」神秀上座が南廊の壁に一首の無相偈を書き、大師は皆に誦せと言われた。この偈に依って修行すれば悪道に堕ちることを免れ、この偈に依って修行すれば大きな利益がある。』私は言った。『(ある本はここに「私もこの偈を誦して来生の縁を結ぼう」という一句を加える。)上人!私はここで碓を踏んで八ヶ月余り、堂前に至ったことがありません。上人、どうか偈の前に連れて行って礼拝させてください。』童子は私を偈の前に連れて行き礼拝させた。私は言った。『惠能は字を識りません。上人、どうか私の代わりに一遍読んでください。』その時、江州別駕で姓は張、名は日用という人がいて、高らかに読み上げた。私は聞き終えて言った。『私にも一首の偈があります。別駕、どうか書いてください。』別駕は言った。『お前も偈が作れるのか。これは珍しい。』私は別駕に言った。『無上菩提を学ぼうとするなら、初学の人を軽視してはなりません。最も下等の人に最上等の智慧があるかもしれず、最上等の人が智慧を埋没しているかもしれません。人を軽視すれば、無量無辺の罪過があります。』別駕は言った。『お前はただお前の偈を誦せよ。私が代わりに書こう。お前が法を得たら、まず私を度せ。この言葉を忘れるな。』私の偈は、
「菩提本無樹,明鏡亦非臺;
菩提はもともと樹なく、明鏡もまた台にあらず、
本來無一物,何處惹塵埃?
本来一物もなければ、何処にか塵埃を惹かん。
「書此偈已,徒眾總驚,無不嗟訝,各相謂言:『奇哉!不得以貌取人,何得多時使他肉身菩薩。』祖見眾人驚怪,恐人損害,遂將鞋擦了偈,曰:『亦未見性。』眾以為然。
「この偈を書き終えると、徒衆は皆驚き呆れ、驚かない者はなく、互いに言った。『奇怪だ!本当に人を容貌で取ることはできない。どうして間もなく彼を肉身菩薩にしてしまったのか。』五祖は衆人が驚き怪しむのを見て、害する者があるのを恐れ、鞋で偈を擦り消して言った。『これも性を見ていない。』衆人はそれでそうだと思った。
「次日,祖潛至碓坊,見能腰石舂米,語曰:『求道之人,為法忘軀,當如是乎!』乃問曰:『米熟也未?』惠能曰:『米熟久矣,猶欠篩在。』祖以杖擊碓三下而去。惠能即會祖意,三鼓入室;祖以袈裟遮圍,不令人見,為說《金剛經》。至『應無所住而生其心』,惠能言下大悟,一切萬法,不離自性。遂啟祖言:『何期自性,本自清淨;何期自性,本不生滅;何期自性,本自具足;何期自性,本無動搖;何期自性,能生萬法。』祖知悟本性,謂惠能曰:『不識本心,學法無益;若識自本心,見自本性,即名丈夫、天人師、佛。』三更受法,人盡不知,便傳頓教及衣缽,云:『汝為第六代祖,善自護念,廣度有情,流佈將來,無令斷絕。聽吾偈曰:
「翌日、五祖は密かに碓房に来て、私が腰に石を繋いで米を搗いているのを見て言った。『道を求める者が法のために身を忘れるとは、こういうことであろう!』そこで問うた。『米は熟したか。』私は言った。『米はとっくに熟しました。ただ篩いが足りないだけです。』五祖は杖で碓を三下打って去った。私はすぐに五祖の意を領会し、三更の時に彼の部屋に入った。五祖は袈裟で囲いを作り人に見えないようにし、私のために『金剛経』を講説した。『応に住する所なくして其心を生ずべし』に講じ至ると、私は言下に大いに徹悟した。もともと一切の万法は自性を離れないのだと。そこで五祖に稟告して言った。『思いもよらず、自性は本来清浄であるとは。思いもよらず、自性は本来不生不滅であるとは。思いもよらず、自性は本来自己具足であるとは。思いもよらず、自性は本来動揺がないとは。思いもよらず、自性は万法を生ずることができるとは。』五祖は私がすでに本性を悟ったことを知り、私に言った。『本心を認識せずして法を学んでも用がない。もし自分の本心を認識し、自分の本性を見れば、それを大丈夫・天人師・仏という。』三更に法を受け、人知る者はなく、五祖はすなわち頓教と衣鉢を私に伝えて言った。『お前は第六代祖である。自分をよく護念し、広く衆生を度し、法を流伝して絶やさぬようにせよ。私の偈を聞け。
「『有情來下種,因地果還生,
有情識の衆生が来たって種を下し、この因地に凭って果実は自ら生ずる、
無情既無種,無性亦無生。』
情識なき物は種を下す能わず、仏性なくして生長もなし。』
「祖復曰:『昔達磨大師,初來此土,人未之信,故傳此衣,以為信體,代代相承;法則以心傳心,皆令自悟自解。自古,佛佛惟傳本體,師師密付本心;衣為爭端,止汝勿傳。若傳此衣,命如懸絲。汝須速去,恐人害汝。』惠能啟曰:『向甚處去?』祖云:『逢懷則止,遇會則藏。』惠能三更領得衣缽,云:『能本是南中人,素不知此山路,如何出得江口?』五祖言:『汝不須憂,吾自送汝。』祖相送,直至九江驛。祖令上船,五祖把艣自搖。惠能言:『請和尚坐。弟子合搖艣。』祖云:『合是吾渡汝。』惠能云:『迷時師度,悟了自度;度名雖一,用處不同。惠能生在邊方,語音不正,蒙師傳法,今已得悟,只合自性自度。』祖云:『如是,如是!以後佛法,由汝大行。汝去三年,吾方逝世。汝今好去,努力向南。不宜速說,佛法難起。』
「五祖はまた言った。『昔、達磨大師が初めてこの国土に来た時、人々は彼を信じなかった。それでこの袈裟を伝えて憑信とし、代々相承させた。法に至っては心をもって心に伝え、皆人に自ら領悟し自ら理解させるのである。古来、仏と仏とはただこの本体を伝え、師と師とは密かにこの本心を付与した。袈裟は争奪を引き起こす禍端である。お前で止め、もう伝えるな。もしこの衣を再び伝えれば、性命は糸に懸かるように危ない。お前は急いで行かねばならない。人がお前を害することを恐れる。』私は問うた。『どこへ行くべきですか。』五祖は言った。『「懐」の字に遇えば止まれ、「會」の字に遇えば隠れよ。』私は三更に衣鉢を領して言った。『惠能はもともと南方人で、一向にここの山路を識りません。どうすれば江口を出られるでしょうか。』五祖は言った。『案ずるな、私が自らお前を送ろう。』五祖は一路送り、九江驛まで至った。五祖は私に船に乗らせ、自ら櫓を把って搖った。私は言った。『和尚はお座りください。弟子が櫓を搖るべきです。』五祖は言った。『私がお前を渡すべきだ。』私は言った。『迷っている時は師父が度し、悟れば自分で度するのです。同じく度という名でも、用は違います。惠能は偏遠の地に生まれ、口音が正しくなく、師父の伝法を蒙って今已に開悟しました。自性に由って自度すべきです。』五祖は言った。『その通りだ、その通りだ。これより仏法はお前によって大いに興行される。お前が去って三年、私はようやく去世する。お前は今よく行き、努力して南へ向かえ。急いで法を説くな。仏法は興り難い。』
「惠能辭違祖已,發足南行。兩月中間,至大庾嶺(五祖歸,數日不上堂。眾疑,詣問曰:『和尚少病少惱否?』曰:『病即無。衣法已南矣。』問:『誰人傳授?』曰:『能者得之。』眾乃知焉)。逐後數百人來,欲奪衣缽。一僧俗姓陳,名惠明,先是四品將軍,性行麁慥,極意參尋。為眾人先,趁及惠能。惠能擲下衣缽於石上,云:『此衣表信,可力爭耶?』能隱草莽中。惠明至,提掇不動,乃喚云:『行者!行者!我為法來,不為衣來。』惠能遂出,坐盤石上。惠明作禮云:『望行者為我說法。』惠能云:『汝既為法而來,可屏息諸緣,勿生一念。吾為汝說。』明良久。惠能云:『不思善,不思惡,正與麼時,那箇是明上座本來面目?』惠明言下大悟。復問云:『上來密語密意外,還更有密意否?』惠能云:『與汝說者,即非密也。汝若返照,密在汝邊。』明曰:『惠明雖在黃梅,實未省自己面目。今蒙指示,如人飲水,冷暖自知。今行者即惠明師也。』惠能曰:『汝若如是,吾與汝同師黃梅,善自護持。』明又問:『惠明今後向甚處去?』惠能曰:『逢袁則止,遇蒙則居。』明禮辭(明回至嶺下,謂趁眾曰:『向陟崔嵬,竟無蹤跡,當別道尋之。』趁眾鹹以為然。惠明後改道明,避師上字)。
「私は五祖に別れを告げて後、身を発して南行した。二ヶ月の間に大庾嶺に至った。(五祖が帰った後、数日間堂に上らなかった。衆人は疑いを起こし、前に進み問うた。『和尚は病気か悩みがあるのですか。』五祖は言った。『病はない。衣法はすでに南へ行った。』問うた。『誰が伝えたのですか。』答えた。『能の者がそれを得た。』衆人はようやく悟った。)後ろに数百人が追って来て、衣鉢を奪おうとした。ある僧で俗姓は陳、名は惠明、もと四品将軍で、性情は粗鹵であり、一心に追尋しようとし、衆人の先頭を走って、私に追いついた。私は衣鉢を石の上に投げて言った。『この衣は信を表すものである。どうして力をもって争奪できるものか。』言い終えて草叢の中に身を隠した。惠明が駆けつけ、衣鉢を提げようとしても動かなかった。そこで叫んだ。『行者!行者!私は法のために来たので、衣のために来たのではない。』私はそこで出て、磐石の上に坐った。惠明は礼をして言った。『行者が私のために法を説いてほしい。』私は言った。『お前は法のために来たのだから、一切の外縁を屏息し、一つの念も生ずるな。私がお前のために説こう。』惠明は久しく黙して静かにしていた。私は言った。『善を思量せず、悪を思量せず、まさにこの時、どれが明上座の本来の面目か。』惠明は言下に大いに悟った。彼はまた問うた。『今の密語密意のほかに、別の密意はありますか。』私は言った。『お前に対して説けるものは密ではない。お前が振り返って照らせば、密はお前自身の上にある。』惠明は言った。『惠明は黄梅にいたが、実は自分の本来の面目を見極めていなかった。今日指示を蒙り、人が水を飲んで冷暖は自分だけが知るようなものです。今、行者こそ惠明の師父です。』私は言った。『お前がそう言うなら、私とお前は共に黄梅を師としよう。よく護持せよ。』惠明はまた問うた。『惠明は今後どこへ行くべきですか。』私は言った。『「袁」の字に遇えば止まれ、「蒙」の字に遇えば住せよ。』惠明は礼をして辞去した。(惠明は嶺下に帰り、追って来た衆人に言った。『上に登って高峻な山を捜したが、ついに蹤跡がなかった。別の路を探すべきだ。』追って来た者は皆その通りだと思った。惠明は後に道明と改名した。師父の名の上の一字を避けるためである。)
「惠能後至曹溪,又被惡人尋逐。乃於四會,避難獵人隊中,凡經一十五載,時與獵人隨宜說法。獵人常令守網,每見生命,盡放之。每至飯時,以菜寄煮肉鍋。或問,則對曰:『但吃肉邊菜。』
「私は後に曹渓に至り、また悪人に追尋された。そこで四會一帯で難を避け、猟人の隊伍に混じり、前後十五年を経て、時おり機に随って猟人のために法を説いた。猟人は常に私に猟網を守らせたが、私は生き物を見るたび皆放してやった。食事の時には菜を肉を煮る鍋に入れて借りて煮た。人が問うと、私は答えた。『私は肉の傍らの菜だけを食べます。』
「一日思惟:『時當弘法,不可終遯。』遂出至廣州法性寺,值印宗法師講《涅槃經》。時有風吹旛動,一僧曰:『風動。』一僧曰:『旛動。』議論不已。惠能進曰:『不是風動,不是旛動,仁者心動。』一眾駭然。印宗延至上席,徵詰奧義。見惠能言簡理當,不由文字,宗云:『行者定非常人。久聞黃梅衣法南來,莫是行者否?』惠能曰:『不敢。』宗於是作禮,告請傳來衣缽出示大眾。宗復問曰:『黃梅付囑,如何指授?』惠能曰:『指授即無;惟論見性,不論禪定解脫。』宗曰:『何不論禪定解脫?』能曰:『為是二法,不是佛法。佛法是不二之法。』宗又問:『如何是佛法不二之法?』惠能曰:『法師講《涅槃經》,明佛性,是佛法不二之法。如高貴德王菩薩白佛言:「犯四重禁、作五逆罪,及一闡提等,當斷善根佛性否?」佛言:「善根有二:一者常,二者無常,佛性非常非無常,是故不斷,名為不二。一者善,二者不善,佛性非善非不善,是名不二。蘊之與界,凡夫見二,智者了達其性無二,無二之性即是佛性。」』印宗聞說,歡喜合掌,言:『某甲講經,猶如瓦礫;仁者論義,猶如真金。』於是為惠能剃髮,願事為師。惠能遂於菩提樹下,開東山法門。
「ある日、私は思った。『時機が来た、法を弘めるべきだ。ずっと隠遁していてはいけない。』そこで出て広州の法性寺に至り、ちょうど印宗法師が『涅槃経』を講じているところに遇った。その時風が吹いて幡を動かし、一人の僧が言った。『風が動いている。』もう一人が言った。『幡が動いている。』議論がやまなかった。私は前に進み言った。『風が動いているのでもなく、幡が動いているのでもなく、お二人の心が動いているのです。』満座の者は皆驚いた。印宗は私を上座に請い、深奥の義理を追問した。彼は私の言語が簡要で道理が当を得て、文字に依拠しないのを見て言った。『行者はきっと尋常の人ではない。早くから黄梅の衣法が南来したと聞いているが、まさか行者であるお前ではないか。』私は言った。『不敢当です。』印宗はそこで礼を行い、伝わった衣鉢を取り出して大衆に見せてほしいと請った。印宗はまた問うた。『黄梅の伝付の時、どのように指授されましたか。』私は言った。『指授というものはありませんでした。ただ性を見ることを説き、禅定解脱を説きませんでした。』印宗は言った。『なぜ禅定解脱を説かなかったのですか。』私は言った。『それは二つの法だからです。佛法ではありません。佛法は不二の法です。』印宗はまた問うた。『どうすれば佛法の不二の法になりますか。』私は言った。『法師は『涅槃経』を講じて仏性を闡明する。それこそ佛法の不二の法です。たとえば高貴德王菩薩が仏に問うた。「四重禁戒を犯し、五逆罪を造り、および一闡提の類の人は、善根と仏性を断絶しますか。」仏は言われた。「善根に二種ある。一つは常、一つは無常である。仏性は常でもなく無常でもない。ゆえに断絶しない。これを不二という。一つは善、一つは不善である。仏性は善でもなく不善でもない。これを不二という。五蘊と十八界は、凡夫は二つと見るが、智者はその体性に二なきを了達する。この二なき体性がすなわち仏性である。」』印宗は聞いて、欢喜して合掌して言った。『私が経を講ずるのは瓦礫のようで、仁者が義を論ずるのは真金のようだ。』そこで私のために剃髪し、私を師と奉ることを願った。私はすなわち菩提樹の下で東山法門を開演した。
「惠能於東山得法,辛苦受盡,命似懸絲。今日得與使君、官僚、僧尼、道俗同此一會,莫非累劫之緣,亦是過去生中供養諸佛,同種善根,方始得聞如上頓教得法之因。教是先聖所傳,不是惠能自智。願聞先聖教者,各令淨心,聞了各自除疑,如先代聖人無別。」
「私は東山で法を得、辛苦を尽くし、性命は糸に懸かるようであった。今日使君・各位官員・僧尼と在家人と共にこの会に集まれたのは、累劫の因縁にほかならず、また過去生中に諸仏を供養し共に善根を種したからこそ、上述の頓教得法の因由を聞くことができるのだ。この教法は先代の聖人が伝えたもので、惠能自身の聡明ではない。先聖の教法を聞かんと願う者は、各々心を浄めて聞いてほしい。聞き終えた後は各々疑惑を除き、先代の聖人と差別なくなるように。」
一眾聞法,歡喜作禮而退。
満座の人は法を聞き、欢喜して礼をして退いた。
般若第二
般若第二
次日,韋使君請益。師陞座,告大眾曰:「總淨心念摩訶般若波羅蜜多。」復云:「善知識!菩提般若之智,世人本自有之;只緣心迷,不能自悟,須假大善知識,示導見性。當知愚人智人,佛性本無差別,只緣迷悟不同,所以有愚有智。吾今為說摩訶般若波羅蜜法,使汝等各得智慧。志心諦聽!吾為汝說。善知識!世人終日口唸般若,不識自性般若,猶如說食不飽。口但說空,萬劫不得見性,終無有益。善知識!摩訶般若波羅蜜是梵語,此言大智慧到彼岸。此須心行,不在口唸。口唸心不行,如幻、如化、如露、如電;口唸心行,則心口相應,本性是佛,離性無別佛。何名摩訶?摩訶是大。心量廣大,猶如虛空,無有邊畔,亦無方圓大小,亦非青黃赤白,亦無上下長短,亦無瞋無喜,無是無非,無善無惡,無有頭尾。諸佛剎土,盡同虛空。世人妙性本空,無有一法可得。自性真空,亦復如是。善知識!莫聞吾說空,便即著空。第一莫著空,若空心靜坐,即著無記空。善知識!世界虛空,能含萬物色像,日月星宿,山河大地,泉源谿澗,草木叢林,惡人善人,惡法善法,天堂地獄,一切大海,須彌諸山,總在空中。世人性空,亦復如是。善知識!自性能含萬法是大,萬法在諸人性中。若見一切人、惡之與善,盡皆不取不捨亦不染著,心如虛空,名之為大,故曰摩訶。善知識!迷人口說,智者心行。又有迷人,空心靜坐,百無所思,自稱為大。此一輩人,不可與語,為邪見故。善知識!心量廣大,遍周法界,用即了了分明,應用便知一切。一切即一,一即一切。去來自由,心體無滯,即是般若。善知識!一切般若智,皆從自性而生,不從外入。莫錯用意,名為真性自用,一真一切真。心量大事,不行小道。口莫終日說空,心中不修此行,恰似凡人自稱國王,終不可得,非吾弟子。
翌日、韋使君は大師にさらなる開示を請った。大師は座に昇り、大衆に告げて言った。「皆、心を浄めて『摩訶般若波羅蜜多』を念じなさい。」また言った。「善知識!菩提般若の智慧は、世人に本来備わっている。ただ心が迷っているために自ら覚悟できず、大善知識の開示引導を借りて性を見る必要がある。愚人と智人は仏性に本来差別がなく、ただ迷と悟が異なるために愚と智があるのだと知るべし。私は今日お前たちのために摩訶般若波羅蜜法を説き、お前たち各々に智慧を得させよう。専心して諦聴せよ!私がお前たちのために説く。善知識!世人は終日口で般若を念じているが、自性の中の般若を認識せず、食べると言うだけで飽きないようなものだ。口で空を説くだけでは、万劫を経ても性を見ることはできず、終に益がない。善知識!『摩訶般若波羅蜜』は梵語で、漢語では『大智慧・彼岸に到る』の意である。これは心で行ずる必要があり、口で念ずるだけではない。口で念じて心で行ぜなければ、幻のごとく化のごとく露のごとく電のごとし。口で念じて心でも行ずれば、心口相応して、本性がすなわち仏であり、本性を離れて別の仏はない。何を摩訶というか。摩訶は大である。心量が広大で虚空のようで、辺際がなく、方円大小もなく、青黄赤白でもなく、上下長短もなく、瞋もなく喜もなく、是もなく非もなく、善もなく悪もなく、頭もなく尾もない。諸仏の国土は皆虚空に同じ。世人の微妙な本性は本来空で、得べき一法もない。自性の真空もまたこのようである。善知識!私が空を説くのを聞いて空に執着するな。第一に肝要なのは空に執着しないことだ。もし空の心で静坐すれば、『無記空』に落ち込む。善知識!世界の虚空は万物の形色影像を含容することができる。日月星辰、山河大地、泉源溪澗、草木叢林、悪人善人、悪法善法、天堂地獄、一切の大海、須弥衆山、すべて虚空の中にある。世人の本性の空もまたこのようである。善知識!自性が万法を含容できるから、これを大という。万法は皆各人の自性の中にある。もし一切の人を見て、その悪であれ善であれ、取らず捨てず染着せず、心が虚空のようであれば、これを大という。ゆえに摩訶と称する。善知識!迷える人は口で言うだけで、智者は心で行ずる。またある種の迷える人は、心を空にして静坐し、何も思わず、自ら大と称する。このような種類の者とは語らってはならない。彼らは邪見に落ちているからだ。善知識!心量は広大で、遍く法界に及び、用いれば了了分明で、處に随って応用すれば一切を知る。一切はすなわち一、一はすなわち一切。来去自由で、心の本體に滞碍がない。これが般若である。善知識!一切の般若智慧は皆自性から生ずるのであって、外から来るのではない。心思を誤って用いるな。これをこそ真性の自我運用という。一が真ならば一切が真である。心量は大事であって、小道を行ってはならない。口で終日空を説くな。心中でこの行を修しなければ、凡人が王と自称しても終に成し得ず、我が弟子でもないようなものだ。」
「善知識!何名般若?般若者,唐言智慧也。一切處所,一切時中,念念不愚,常行智慧,即是般若行。一念愚即般若絕,一念智即般若生。世人愚迷,不見般若,口說般若,心中常愚。常自言:『我修般若。』念念說空,不識真空。般若無形相,智慧心即是。若作如是解,即名般若智。何名波羅蜜?此是西國語,唐言到彼岸,解義離生滅。著境生滅起,如水有波浪,即名為此岸;離境無生滅,如水常通流,即名為彼岸,故號波羅蜜。善知識!迷人口唸,當念之時,有妄有非。念念若行,是名真性。悟此法者,是般若法;修此行者,是般若行。不修即凡;一念修行,自身等佛。善知識!凡夫即佛,煩惱即菩提。前念迷即凡夫,後念悟即佛。前念著境即煩惱,後念離境即菩提。
「善知識!何を般若というか。般若は漢語で智慧である。一切の处所・一切の時の中で、念念皆愚昧でなく、常に智慧を行ずる、これを般若行という。一念愚なれば般若は断絶し、一念智なれば般若は生起する。世人は愚迷で般若を見ず、口で般若を説いて心中は常に愚昧である。彼らは常に自ら称して言う。『私は般若を修している。』念念に空を説くが、真空を認識しない。般若に形相はなく、智慧あるあの心がそれである。もしこのように理解できれば、般若智という。何を波羅蜜というか。これは西方の言葉で、漢語は『彼岸に到る』、その義を解すれば生滅を離れることである。外境に執着すれば生滅が起こり、水に波浪があるようで、これを此岸という。外境を離れれば生滅なく、水が常に滞りなく流れるようで、これを彼岸という。ゆえに波羅蜜という。善知識!迷える人は口で念ずるだけで、念ずる時にはまだ虚妄があり過失がある。もし念念皆行ずることができれば、これを真性という。この法を悟る者はこれを般若法といい、この行を修する者はこれを般若行という。修しなければ凡夫であり、一念修行すれば自身は仏に等しい。善知識!凡夫はすなわち仏であり、煩悩はすなわち菩提である。前の一念が迷えば凡夫であり、後の一念が悟れば仏である。前の一念が外境に執着すれば煩悩であり、後の一念が外境を離れれば菩提である。
「善知識!摩訶般若波羅蜜,最尊最上最第一,無住無往亦無來,三世諸佛從中出。當用大智慧,打破五蘊煩惱塵勞。如此修行,定成佛道,變三毒為戒定慧。善知識!我此法門,從一般若生八萬四千智慧。何以故?為世人有八萬四千塵勞。若無塵勞,智慧常現,不離自性。悟此法者,即是無念,無憶無著,不起誑妄。用自真如性,以智慧觀照,於一切法不取不捨,即是見性成佛道。善知識!若欲入甚深法界及般若三昧者,須修般若行,持誦《金剛般若經》,即得見性。當知此經功德無量無邊,經中分明讚歎,莫能具說。此法門是最上乘,為大智人說,為上根人說。小根小智人聞,心生不信。何以故?譬如大龍下雨於閻浮提,城邑聚落,悉皆漂流如漂棗葉。若雨大海,不增不減。若大乘人,若最上乘人,聞說《金剛經》,心開悟解。故知本性自有般若之智,自用智慧,常觀照故,不假文字。譬如雨水,不從天有,元是龍能興致,令一切眾生、一切草木、有情無情,悉皆蒙潤。百川眾流,卻入大海,合為一體。眾生本性般若之智,亦復如是。善知識!小根之人,聞此頓教,猶如草木根性小者,若被大雨,悉皆自倒,不能增長。小根之人,亦復如是。元有般若之智,與大智人更無差別,因何聞法不自開悟?緣邪見障重、煩惱根深。猶如大雲覆蓋於日,不得風吹,日光不現。般若之智亦無大小,為一切眾生自心迷悟不同,迷心外見,修行覓佛;未悟自性,即是小根。若開悟頓教,不能外修,但於自心常起正見,煩惱塵勞常不能染,即是見性。善知識!內外不住,去來自由,能除執心,通達無礙。能修此行,與般若經本無差別。
「善知識!摩訶般若波羅蜜は最も尊く、最も上で、最も第一であり、住する所なく、往く所なく、来る所もなく、三世の諸仏は皆ここから出生する。大智慧をもって五蘊の煩悩塵労を打破すべし。このように修行すれば、必ず仏道を成就し、貪瞋痴の三毒を戒定慧に転変する。善知識!私のこの法門は、一つの般若から八万四千種の智慧を生ずる。なぜか。世人に八万四千種の塵労があるからだ。もし塵労がなければ、智慧は常に顕現し、自性を離れない。この法を悟る者は無念である。追憶なく、執着なく、虚誑妄想を起こさない。自分の真如本性を運用し、智慧をもって観照し、一切法に取らず捨てず、これが性を見て仏となる道である。善知識!もし甚深の法界と般若三昧に入らんと欲すれば、必ず般若行を修し、『金剛般若経』を持誦せよ。すなわち性を見ることができる。この経の功徳は無量無辺で、経中に明白に説かれており、一々説き尽くすことはできない。この法門は最上乘で、大智慧の人のために説き、上等根器の人のために説く。小根小智の人が聞けば、心中信じない。なぜか。たとえば大龍が閻浮提に雨を降らせば、城邑村落は皆大水に漂い、棗の葉を漂わせるようになる。しかし大海に降らせれば、海水は増もせず減もしない。もし大乗人・最上乘人であれば、人が『金剛経』を講ずるのを聞いて、心が開解して悟る。ゆえに本性の中に般若の智慧が自らあり、自ら智慧を運用して常に観照し、文字に依拠する必要がないと知る。たとえば雨水は天上から突如有るのではなく、もとは龍が興起し、一切衆生・一切草木・有情無情に潤いを蒙らせる。百川衆流はまた大海に流れ帰り、一体を成す。衆生の本性の中の般若の智慧もまたこのようである。善知識!小根器の人がこの頓教を聞けば、根性の弱小な草木が大雨に注がれて皆自ら倒れ、生長できないようなものだ。小根器の人もまたこのようである。彼らはもともと般若の智慧があり、大智慧の人と差別がないのに、なぜ法を聞いても自ら開悟できないのか。邪見の障碍が重く、煩悩の根が深いからだ。大きな黒雲が太陽を遮り、風が吹き払わなければ日光が顕れないようなものだ。般若の智慧自体にも大小の分けはなく、ただ一切衆生の自心の迷悟が同じでないためである。心が迷う者は外に向かって見て、ひたすら修行して仏を求め、まだ自性を悟らない。それが小根器である。もし頓教を開悟すれば、外に向かって修せず、ただ自心の中に常に正見を起こし、煩悩塵労が常に彼を染めることができない。これが性を見ることである。善知識!内外とも執着して停留せず、来去自由で、執着の心を除くことができ、通達して障碍がない。この行を修すれば、『般若経』と本来差別がない。」
「善知識!一切修多羅及諸文字,大小二乘,十二部經,皆因人置。因智慧性,方能建立。若無世人,一切萬法本自不有,故知萬法本自人興。一切經書,因人說有。緣其人中有愚有智,愚為小人,智為大人。愚者問於智人,智者與愚人說法。愚人忽然悟解心開,即與智人無別。善知識!不悟即佛是眾生,一念悟時眾生是佛,故知萬法盡在自心。何不從自心中,頓見真如本性?《菩薩戒經》云:『我本元自性清淨,若識自心見性,皆成佛道。』《淨名經》云:『即時豁然,還得本心。』善知識!我於忍和尚處,一聞言下便悟,頓見真如本性。是以將此教法流行,令學道者頓悟菩提。各自觀心,自見本性。若自不悟,須覓大善知識、解最上乘法者,直示正路。是善知識有大因緣,所謂化導令得見性。一切善法,因善知識能發起故。三世諸佛、十二部經,在人性中本自具有。不能自悟,須求善知識指示方見;若自悟者,不假外求。若一向執謂須他善知識方得解脫者,無有是處。何以故?自心內有知識自悟。若起邪迷、妄念顛倒,外善知識雖有教授,救不可得。若起正真般若觀照,一剎那間,妄念俱滅。若識自性,一悟即至佛地。善知識!智慧觀照,內外明徹,識自本心。若識本心,即本解脫。若得解脫,即是般若三昧,即是無念。何名無念?若見一切法,心不染著,是為無念。用即遍一切處,亦不著一切處。但淨本心,使六識出六門,於六塵中無染無雜,來去自由,通用無滯,即是般若三昧、自在解脫,名無念行。若百物不思,當令念絕,即是法縛,即名邊見。善知識!悟無念法者,萬法盡通;悟無念法者,見諸佛境界;悟無念法者,至佛地位。
「善知識!一切の経典および種々の文字、大乗小乗・十二部経は、皆人のために設立された。智慧の体性があるからこそ建立できたのだ。もし世人がなければ、一切万法は本来存在しない。ゆえに万法は本来人によって興起したと知るべし。一切の経書は人に因って説かれてこそある。人の中に愚と智があり、愚は小人、智は大人である。愚人は智人に請い教え、智者は愚人のために法を説く。愚人が忽然と領悟して心地が開朗すれば、智人と差別がなくなる。善知識!悟らぬ時は仏が衆生であり、一念悟る時は衆生が仏である。ゆえに万法は皆自心の中にあると知るべし。どうして自心の中から当下に真如本性を見ないのか。『菩薩戒経』に言う。『我が本来の自性は清浄である。自心を識り本性を見れば、皆仏道を成就できる。』『淨名経』に言う。『当下豁然として開朗し、本心を再び得る。』善知識!私は弘忍和尚の所で、一聴の下に即座に領悟し、頓に真如本性を見た。ゆえにこの教法を流伝せしめ、道を学ぶ者に菩提を頓悟させるのだ。各々自心を観照し、自ら本性を見よ。もし自ら開悟できなければ、大善知識・最上乘法を解する者を求め、直ちに正路を指示せしめよ。このような善知識には大因縁があり、いわゆる教化引導して人に性を見せしめるのである。一切の善法は皆善知識に因って発起できる。三世の諸仏・十二部経は、人の自性の中に本来具備している。自ら領悟できなければ、善知識の指示を求めてこそ見ることができる。もし自ら領悟できれば、外に求める必要はない。もしひたすら他の善知識に依らなければ解脱できないと執着するなら、それは有り得ないことだ。なぜか。自心の内に自悟できる知識があるからだ。もし邪迷・妄念の顛倒を起こせば、外の善知識に教導があっても救うことができない。もし真の般若観照を起こせば、一刹那の間に妄念は皆滅する。もし自性を識れば、一悟して仏地に至る。善知識!智慧をもって観照し、内外明徹に、自分の本心を識れ。もし本心を識れば、本来の解脱である。解脱を得れば、般若三昧であり、無念である。何を無念というか。もし一切法を見て心が染着しなければ、これを無念という。用いれば遍く一切の處に及ぶが、また一切の處に執着しない。ただ本心を清淨にし、六識を六門から出させ、六塵の中に染まらず雑らず、来去自由で通用无碍。これが般若三昧・自在解脱であり、無念行と名づける。もし何も思わず、強いて念を斷絶させようとすれば、それは法に縛られるのであって、邊見と名づける。善知識!無念の法を悟る者は、万法に通達する。無念の法を悟る者は、諸仏の境界を見ることができる。無念の法を悟る者は、仏の地位に到達することができる。」
「善知識!後代得吾法者,將此頓教法門,於同見同行,發願受持。如事佛故,終身而不退者,定入聖位。然須傳授從上以來默傳分付,不得匿其正法。若不同見同行,在別法中,不得傳付。損彼前人,究竟無益。恐愚人不解,謗此法門,百劫千生,斷佛種性。善知識!吾有一無相頌,各須誦取,在家出家,但依此修。若不自修,惟記吾言,亦無有益。聽吾頌曰:
「善知識!後代に私の法を得る者は、この頓教法門を、見解が同じで修行が同じ者の間で、願を発して受持せよ。仏に事えるように終身退転せぬ者は、必ず聖位に入る。しかし必ず歴代以来黙々と伝わる付嘱を伝授せねばならず、正法を蔵めてはならない。もし見解が同じでなく修行が同じでなく、別の法門にあれば、彼に伝えるな。それは相手を損なうことになり、終に益がない。愚人が理解せず、かえってこの法門を毀謗し、百劫千生に仏の種性を断絶することを恐れる。善知識!私に一首の『無相頌』がある。各位は皆誦し持て。在家出家の者はただこれに依って修行せよ。もし自ら修せず、ただ私の言葉を記憶するだけでは用がない。私がこの頌を念ずるのを聞け。
「說通及心通,如日處虛空,
説法は通達し心地も通達、虚空に懸かる太陽のごとし。
唯傳見性法,出世破邪宗。
ただ性を見る一法を伝え、世に出ずるは邪宗を破るがため。
法即無頓漸,迷悟有遲疾,
法に本来頓漸なし、人の迷悟に遅速あるのみ。
只此見性門,愚人不可悉。
ただこの見性法門は、愚人は尽く解する能わず。
說即雖萬般,合理還歸一,
説法は千万種あれど、理に合すれば終に一に帰す。
煩惱闇宅中,常須生慧日。
煩悩の暗室の中に、常に智慧の太陽を昇らせよ。
邪來煩惱至,正來煩惱除,
邪念来れば煩悩至り、正念来れば煩悩除かる。
邪正俱不用,清淨至無餘。
邪正二辺とも用いずの時、清淨は極に至り余すところなし。
菩提本自性,起心即是妄,
菩提は本来自性、念を動かして求めれば妄となる。
淨心在妄中,但正無三障。
清淨の心は妄念の中にあり、正を持せば煩悩・業・報の三障なし。
世人若修道,一切盡不妨,
世人真に道を修せば、何を為すも妨げなし。
常自見己過,與道即相當。
常に己の過失を見れば、道と相応す。
色類自有道,各不相妨惱,
有形の物各々道あり、彼此相妨げ悩乱せず。
離道別覓道,終身不見道。
己の道を離れて道を求めれば、一生道を見る能わず。
波波度一生,到頭還自懊,
奔波勞碌して一生を過ごせば、到頭來己を悔いるのみ。
欲得見真道,行正即是道。
真の道を見んと欲せば、行い正しければ即ち道なり。
自若無道心,闇行不見道,
己に道を求むる心なくば、暗中に瞎走して道を見ず。
若真修道人,不見世間過。
若し真に道を修する者ならば、世間の過失を見ることなし。
若見他人非,自非卻是左,
若し人の非ばかりを見れば、己の「非」却って偏なり。
他非我不非,我非自有過。
他人是ならずとも我は随わず、我亦是ならざれば己に過あり。
但自卻非心,打除煩惱破,
ただ己の咎を摘む心を去れば、煩悩打破せらる。
憎愛不關心,長伸兩腳臥。
憎愛ともに心に關せず、兩脚を伸ばして安臥せん。
欲擬化他人,自須有方便,
人を教化せんと欲せば、己に方便あらざるべからず。
勿令彼有疑,即是自性現。
彼をして疑を生ぜしめず、即ち自性顯現なり。
佛法在世間,不離世間覺,
佛法は世間に在り、覺悟は世間を離れず。
離世覓菩提,恰如求兔角。
世間を離れて菩提を求むれば、兎の角を求むるがごとし。
正見名出世,邪見是世間,
正見を出世と名づけ、邪見は即ち世間なり。
邪正盡打卻,菩提性宛然。
邪正倶に打掉せば、菩提の性自ずから分明に現前す。
此頌是頓教,亦名大法船,
この頌は即ち頓教、亦の名を大法船という。
迷聞經累劫,悟則剎那間。」
迷う者は聞いて累劫を經、悟る者は刹那の間のみ。」
師復曰:「今於大梵寺說此頓教,普願法界眾生,言下見性成佛。」
大師はまた言った。「今日大梵寺でこの頓教を説く。普く法界の衆生が言下に性を見て成仏せんことを願う。」
時韋使君與官僚道俗,聞師所說,無不省悟。一時作禮,皆歎:「善哉!何期嶺南有佛出世!」
その時、韋使君と官員・在家人は大師の説を聞き、省悟しない者はなかった。一斉に礼を行い、皆讃嘆して言った。「善いかな!思いもよらず嶺南に仏の出世があったとは!」
疑問第三
疑問第三
一日,韋刺史為師設大會齋。齋訖,刺史請師陞座,同官僚士庶肅容再拜,問曰:「弟子聞和尚說法,實不可思議。今有少疑,願大慈悲,特為解說。」
ある日、韋刺史は大師のために盛大な斎會を設けた。斎が終わると、刺史は大師を座に昇るよう請い、官員・士人・百姓とともに粛容して再拜し、問うた。「弟子は和尚の説法を聞き、実に不可思議です。今少しの疑問があります。和尚が大いに慈悲を發して、特に解説してくださるよう願います。」
師曰:「有疑即問,吾當為說。」
大師は言った。「疑いあれば問え。私がお前のために説こう。」
韋公曰:「和尚所說,可不是達磨大師宗旨乎?」
韋公は言った。「和尚の説かれるのは、まさか達磨大師の宗旨ではありませんか。」
師曰:「是。」
大師は言った。「そうだ。」
公曰:「弟子聞:達磨初化梁武帝,帝問云:『朕一生造寺度僧、佈施設齋,有何功德?』達磨言:『實無功德。』弟子未達此理,願和尚為說。」
韋公は言った。「弟子が聞くところでは、達磨は当初梁武帝を教化し、武帝が問うた。『朕は一生寺院を建造し、人を度して出家せしめ、布施し齋を設けた。どんな功徳があるか。』達磨は言った。『実に功徳はない。』弟子はこの道理が分かりません。和尚が私のために解説してくださるよう願います。」
師曰:「實無功德,勿疑先聖之言。武帝心邪,不知正法。造寺度僧、佈施設齋,名為求福,不可將福便為功德。功德在法身中,不在修福。」師又曰:「見性是功,平等是德。念念無滯,常見本性,真實妙用,名為功德。內心謙下是功,外行於禮是德。自性建立萬法是功,心體離念是德。不離自性是功,應用無染是德。若覓功德法身,但依此作,是真功德。若修功德之人,心即不輕,常行普敬。心常輕人,吾我不斷,即自無功;自性虛妄不實,即自無德。為吾我自大,常輕一切故。善知識!念念無間是功,心行平直是德。自修性是功,自修身是德。善知識!功德須自性內見,不是佈施供養之所求也。是以福德與功德別。武帝不識真理,非我祖師有過。」
大師は言った。「確かに功徳はない。前代の聖人の言を疑うな。武帝は心に偏邪があり、正法を解さなかった。寺院を建造し、人を度して出家せしめ、布施し齋を設けることは、福を求めるというのであって、福をもって功徳とすることはできない。功徳は法身の中にあり、福を修することにはない。」大師はまた言った。「性を見るが功、平等が德である。念念に滞碍なく、常に本性を見、真實の妙用、これを功徳という。内心に謙下するが功、外の行為が禮に合するが德である。自性が万法を建立するが功、心體が念を離れるが德である。自性を離れぬが功、運用して染着せぬが德である。もし功徳法身を求めんとすれば、ただこれに依って行ぜば、真の功徳である。功徳を修する人は心に人を輕慢せず、常に普く恭敬する。もし心に常に人を輕慢し、「我」の執著が斷えなければ、自ら功がない。自性が虚妄で實ならなければ、自ら德がない――それは自ら高く大とし、常に一切を輕視するが故である。善知識!念念に間斷なきが功、心地が平直なるが德である。自ら自性を修するが功、自ら身を修するが德である。善知識!功徳は自性の内に見るべきで、布施供養に依って求め得るものではない。ゆえに福德と功徳に分別がある。武帝が真理を識らなかったのであって、我が祖師に過錯があるのではない。」
刺史又問曰:「弟子常見僧俗念阿彌陀佛,願生西方。請和尚說,得生彼否?願為破疑。」
刺史はまた問うた。「弟子は常に僧人和尚と在家人が阿彌陀佛を念じ、西方に往生せんと願うのを見ます。和尚、あそこに生まれることができるか説いてください。私のために疑惑を破ってくださるよう願います。」
師言:「使君善聽,惠能與說。世尊在舍衛城中,說西方引化。經文分明,去此不遠。若論相說,裡數有十萬八千,即身中十惡八邪,便是說遠。說遠為其下根,說近為其上智。人有兩種,法無兩般。迷悟有殊,見有遲疾。迷人念佛求生於彼,悟人自淨其心。所以佛言:『隨其心淨即佛土淨。』使君東方人,但心淨即無罪。雖西方人,心不淨亦有愆。東方人造罪,念佛求生西方。西方人造罪,念佛求生何國?凡愚不了自性,不識身中淨土,願東願西。悟人在處一般,所以佛言:『隨所住處恆安樂。』使君心地但無不善,西方去此不遙。若懷不善之心,念佛往生難到。今勸善知識,先除十惡即行十萬,後除八邪乃過八千。念念見性,常行平直,到如彈指,便覩彌陀。使君但行十善,何須更願往生?不斷十惡之心,何佛即來迎請?若悟無生頓法,見西方只在剎那。不悟念佛求生,路遙如何得達。惠能與諸人,移西方於剎那間,目前便見。各願見否?」
大師は言った。「使君よく聽け。惠能がお前のために説こう。世尊は舍衛城にて西方淨土を説いて引導教化せり。經文明らかに説く、あそこはここから遠くないと。もし事相に就いて言えば、里數は十萬八千であるが、それは正に人身の中の十惡八邪を指す。ゆえに遠いという。遠いと言うのは下等根器に對して講ずるのであり、近いと言うのは上等智慧に對して講ずるのだ。人に二種あれど、法に兩樣なし。迷と悟に差別あり、性を見るに快慢あり。迷う人は念佛してあちらに往生せんと求め、悟る人は自ら己の心を淨める。ゆえに佛は言われた。『その心が淨なれば佛土も淨なり。』使君は東方人である。心が淨なれば罪なし。西方人であっても、心が淨ならなければ照樣過あり。東方人が罪を造って念佛して西方に往生せんと求むれば、西方人が罪を造って、また念佛してどの國に往生せんと求むるか。凡愚の人は自性を了達せず、己の身の中の淨土を識らず、あるいは東を願いあるいは西を願う。悟る人は在る所皆同じである。ゆえに佛は言われた。『何處に住するも恆に安樂なり。』使君はただ心地に不善なくば、西方はここを離れて遠くない。もし不善の心を懷けば、念佛往生も到り難い。今諸位の善知識に勸む。まず十惡を除けば、十萬里を行きたるに等しい。更に八邪を除けば、八千里を過ぎたるに等しい。念念性を見、常に平直を行ぜば、到ること彈指の如く速く、當下に彌陀を見る。使君はただ十善を奉行せば、何の往生を願うことがあらん。十惡の心を斷除せずば、いずれの佛か來迎せん。もし無生の頓法を領悟せば、西方を見ること刹那の間のみ。領悟せず念佛して生を求むれば、路遠くして如何にして到らん。惠能が諸位のために西方を刹那の間に移し來らん。眼前に在り。大衆願わくは見んか。」
眾皆頂禮云:「若此處見,何須更願往生?願和尚慈悲,便現西方,普令得見。」
大衆は皆頂禮して言った。「もしここで見ることができれば、何の往生を願うことがあろうか。和尚の慈悲を願い、西方を顯現して皆に見せしめたまえ。」
師言:「大眾!世人自色身是城,眼耳鼻舌是門,外有五門,內有意門。心是地,性是王。王居心地上,性在王在,性去王無。性在身心存,性去身壞。佛向性中作,莫向身外求。自性迷即是眾生,自性覺即是佛。慈悲即是觀音,喜捨名為勢至,能淨即釋迦,平直即彌陀;人我是須彌,貪欲是海水,煩惱是波浪,毒害是惡龍,虛妄是鬼神,塵勞是魚鱉。貪瞋是地獄,愚痴是畜生。善知識!常行十善,天堂便至。除人我,須彌倒;去貪欲,海水竭;煩惱無,波浪滅;毒害除,魚龍絕。自心地上覺性,如來放大光明;外照六門清淨,能破六慾諸天;自性內照,三毒即除;地獄等罪一時銷滅,內外明徹不異西方。不作此修,如何到彼?」
大師は言った。「大衆!世人の自分の色身は一座の城である。眼耳鼻舌は城門で、外に五つの門があり、内に一つの意門がある。心は地、性は王である。王は心地に住し、性が在れば王も在り、性が去れば王もなし。性が在れば身心存し、性が去れば身は壞れる。佛は自性の中に作るべきで、身の外に求めるな。自性が迷えば即ち衆生、自性が覺れば即ち佛である。慈悲は即ち觀音、喜舍を勢至と名づけ、淨なるを釋迦とし、平直を彌陀とす。人我の見は須彌山、貪欲は海水、煩惱は波浪、毒害は惡龍、虚妄は鬼神、塵勞は魚鼈、貪瞋は地獄、愚痴は畜生である。善知識!常に十善を行ぜば天堂至る。人我の見を除けば須彌山倒れ、貪欲を去れば海水枯竭し、煩惱なくなれば波浪滅し、毒害除けば魚龍絕迹す。自己の心地の上の覺性は、即ち如來が大光明を放つ。外に照らして六門淨らかにし、六欲の諸天を破することができる。内に自ら照らせば三毒即座に除かれ、地獄等の罪一時に消滅し、内外明徹にして西方と異ならず。このように修せずば、如何にして彼方に到らん。」
大眾聞說,瞭然見性,悉皆禮拜,俱歎善哉。唱言:「普願法界眾生,聞者一時悟解。」
大衆はこの言を聞いて、了然として性を見、皆來り禮拜し、齊聲に讚嘆して善しと言い、唱えて曰く、「普く法界の衆生、聞く者皆當下に領悟せんことを願う」と。
師言:「善知識!若欲修行,在家亦得,不由在寺。在家能行,如東方人心善;在寺不修,如西方人心惡。但心清淨,即是自性西方。」
大師は言った。「善知識!もし修行せんと欲せば、在家に在りても可なり。必ずしも寺院に在るを要せず。在家にて修行を能くすれば、東方人の心地善きが如し。寺院に在りて修せざれば、西方人の心地惡きが如し。ただ心淨らかなれば、即ち是れ自性の西方なり。」
韋公又問:「在家如何修行?願為教授。」
韋公また問うた。「在家は如何にして修行すべきか。願わくは教えたまえ。」
師言:「吾與大眾說無相頌。但依此修,常與吾同處無別;若不依此修,剃髮出家於道何益?頌曰:
大師は言った。「我が大衆のために一首の無相頌を說かん。ただ此に依って修せば、常に我と同處に在りて分別なきが如し。若し此に依って修せざれば、頭を剃りて出家しても道に何の益かあらん。頌に曰く、
「心平何勞持戒,行直何用修禪!
心平らかならば何ぞ戒を持するに勞せん、行直ならば何ぞ禅を修せん。
恩則孝養父母,義則上下相憐,
恩を講ずれば父母に孝順奉養し、義を講ずれば上下相体恤し、
讓則尊卑和睦,忍則眾惡無諠,
譲を講ずれば尊卑和穆し、忍を講ずれば衆多の惡事閙起せず。
若能鑽木出火,淤泥定生紅蓮。
もし鑽木取火のごとく功夫を下せば、淤泥の中に必ず紅蓮花生ず。
苦口的是良藥,逆耳必是忠言,
苦口は良藥、耳に逆らうは必ず忠言なり。
改過必生智慧,護短心內非賢。
過失を改正すれば必ず智慧を生じ、己の短を掩護すれば心賢人に非ず。
日用常行饒益,成道非由施錢,
日常の中に常に人に益する事を為せば、道を成ずるは錢財を施すに由らず。
菩提只向心覓,何勞向外求玄。
菩提はただ心の裡に求むべし、何ぞ力を勞して外に玄妙を求めん。
聽說依此修行,西方只在目前。」
この言を聽いて此に依りて修行せば、西方淨土は眼前に在り。」
師復曰:「善知識!總須依偈修行,見取自性,直成佛道。時不相待,眾人且散,吾歸曹溪。眾若有疑,卻來相問。」
大師はまた言った。「善知識!皆この偈に依りて修行し、自性を見取り、直ちに佛道を成就せよ。時光は人を待たず。衆人は暫く散じよ。我は曹溪に歸らん。皆もし疑問あらば、再び來りて我に問え。」
時,刺史官僚、在會善男信女,各得開悟,信受奉行。
その時、刺史・官員および會に在る善男信女、各々皆悟りを開き、信受奉行した。
定慧第四
定慧第四
師示眾云:「善知識!我此法門,以定慧為本。大眾!勿迷,言定慧別。定慧一體,不是二。定是慧體,慧是定用。即慧之時定在慧,即定之時慧在定。若識此義,即是定慧等學。諸學道人,莫言先定發慧、先慧發定各別。作此見者,法有二相。口說善語,心中不善。空有定慧,定慧不等。若心口俱善、內外一如,定慧即等。自悟修行,不在於諍。若諍先後,即同迷人,不斷勝負,卻增我法,不離四相。善知識!定慧猶如何等?猶如燈光。有燈即光,無燈即闇。燈是光之體,光是燈之用;名雖有二,體本同一。此定慧法,亦復如是。」
大師は大衆に開示して言った。「善知識!我がこの法門は定と慧をもって根本と為す。大衆!迷うなかれ、定と慧を別のことと言うな。定慧は一體、二に非ず。定は慧の本體、慧は定の作用なり。正に慧ある時、定は慧の裡に在り。正に定ある時、慧は定の裡に在り。もしこの義を識らば、是れ定慧等しく學ぶなり。諸學道の人、先ず定あって慧を發すと言うことなかれ、或いは先ず慧あって定を發すと言うことなかれ、二つを各別にすることなかれ。この見解を作す者は、法に二種の相あらん。口に好言を說いて心の中善ならず、空しく定慧の名ありて、定慧等しくあらず。もし心と口俱に善く、内外一如ならば、定慧是れ等し。自ら覺悟修行するは諍に在らず。もし先後を諍わば、迷人と同じく、勝負の心斷えず、却って「我」と「法」の執著を增長し、我相・人相・衆生相・壽者相を離れざらん。善知識!定慧は何に譬えん。燈と光の如し。燈あれば光あり、燈無きは黑闇なり。燈は光の體、光は燈の用。名は二つあれど、本體は元來同じ。この定慧の法もまた是の如し。」
師示眾云:「善知識!一行三昧者,於一切處行住坐臥,常行一直心是也。《淨名》云:『直心是道場,直心是淨土。』莫心行諂曲,口但說直;口說一行三昧,不行直心。但行直心,於一切法勿有執著。迷人著法相、執一行三昧,直言:『常坐不動,妄不起心,即是一行三昧。』作此解者,即同無情,卻是障道因緣。善知識!道須通流,何以卻滯?心不住法,道即通流;心若住法;名為自縛。若言常坐不動是,只如舍利弗宴坐林中,卻被維摩詰訶。善知識!又有人教坐,看心觀靜,不動不起,從此置功。迷人不會,便執成顛。如此者眾,如是相教,故知大錯。」
大師は大衆に開示して言った。「善知識!一行三昧というは、一切の處所に行住坐臥常に一箇の直心を行ずるなり。《淨名經》に説く『直心は是れ道場、直心は是れ淨土』と。心の行に諂曲あることなかれ、口に但だ正直を説くなかれ。口に一行三昧を説いて直心を行ぜざるなかれ。但だ直心を行じ、一切法に執著あることなかれ。迷人は法相に執著し、一行三昧を執して、直言して曰く『常に坐して動かず、妄心を起さざるを一行三昧とす』と。この解を作す人は、即ち無情の物と同じく、却って障道の因縁と為る。善知識!道は須らく通暢流動すべし、何の故にか却って滯らせる。心が法に住せざれば、道は通暢流動す。心若し法に住せんか、是れを自縛と名づく。若し常に坐して動かざるを是と云わば、舍利弗が林中に宴坐せし時、維摩詰に訶せられたるが如し。善知識!また人の坐禅を教えて、心を看て、靜を觀て、動かず起さずして、ここより致功する者あり。迷人會せずして、執著して顛倒と成す。是の如き人甚だ多く、是の如く相傳授するは、大錯なるを知るべし。」
師示眾云:「善知識!本來正教,無有頓漸,人性自有利鈍。迷人漸修,悟人頓契。自識本心,自見本性,即無差別,所以立頓漸之假名。善知識!我此法門,從上以來,先立無念為宗,無相為體,無住為本。無相者,於相而離相。無念者,於念而無念。無住者,人之本性。於世間善惡好醜,乃至冤之與親,言語觸刺欺爭之時,並將為空,不思酬害,念念之中不思前境。若前念今念後念,念念相續不斷,名為繫縛。於諸法上念念不住,即無縛也。此是以無住為本。善知識!外離一切相,名為無相。能離於相,即法體清淨。此是以無相為體。善知識!於諸境上,心不染,曰無念。於自念上,常離諸境,不於境上生心。若只百物不思,念盡除卻,一念絕即死,別處受生,是為大錯。學道者思之。若不識法意,自錯猶可,更誤他人;自迷不見,又謗佛經,所以立無念為宗。善知識!云何立無念為宗?只緣口說見性,迷人於境上有念,念上便起邪見,一切塵勞妄想從此而生。自性本無一法可得,若有所得,妄說禍福,即是塵勞邪見,故此法門立無念為宗。善知識!無者無何事?念者念何物?無者無二相,無諸塵勞之心。念者念真如本性。真如即是念之體,念即是真如之用。真如自性起念,非眼耳鼻舌能念。真如有性,所以起念;真如若無,眼耳色聲當時即壞。善知識!真如自性起念,六根雖有見聞覺知,不染萬境,而真性常自在。故經云:『能善分別諸法相,於第一義而不動。』」
大師は大衆に開示して言った。「善知識!本來正教に頓漸なく、但だ人性自ら利鈍あり。迷える人は漸く修し、悟れる人は頓に契入す。自ら本心を識り自ら本性を見るに、無差別なれば、頓漸の假名を立つるなり。善知識!我がこの法門、從來上代より、先づ無念を宗と立て、無相を體とし、無住を本と為す。無相とは、相の中に於いて相を離れるなり。無念とは、念の中に於いて念なきなり。無住とは、人の本性、世間善惡好醜に於いて、乃至怨親の有りて、言語の觸犯、欺爭の時、並びに空に將て報復を思わざるなり。念念の中に前境を思慮せず。若し前念・今念・後念、念念相續斷えざれば、名づけて繫縛と為す。諸法の上に於いて念念住せざれば、繫縛無し。此れ無住を本と為すなり。善知識!外に一切相を離るるを無相と名づく。能く相を離るれば、法體清淨なり。此れ無相を體と為すなり。善知識!諸境の上に於いて心染せざるを無念と名づく。自念の上に於いて、常に諸境を離れ、境の上に於いて心を生ぜず。若し只だ什麼も思わずして、念を盡却すれば、一念絕えて死し、他處に受生せん。大錯なり。學道の人、善く思え。若し法の意を識らざれば、自ら錯るは猶お可なり、更に他人を勧めん。自ら迷い見ざれば、また佛經を謗る。所以に無念を宗と立つ。善知識!何が故に無念を宗と立つるや。只だ縁の有る人、口に見性を說いて、迷人境に念あり、念に即ち邪見を起し、一切塵勞妄想、從此に生ず。自性本來一法も得る無きが故に、若し有所得を以て、妄に禍福を說かば、即是ち塵勞邪見なり。故に此の法門無念を宗と立つ。善知識!「無」は什麼の事を無くするや。「念」は什麼の物を念ずるや。「無」は無有二相、諸塵勞の心無し。「念」は念真如本性。真如即是ち念の體、念即是ち真如の用。真如自性念を起し、眼耳鼻舌に非ざれば能念せず。真如體性有り、故に能く念を起す。真如若し無かれば、眼目與色聲當時壞れん。善知識!真如自性念を起すに、六根雖も見聞覺知有るも、萬境に染まらずして、真性常に自在なり。故に經に云く『能く善く分別諸法相して、第一義に於いて動かず』と。」
坐禪第五
坐禪第五
師示眾云:「此門坐禪,元不著心,亦不著淨,亦不是不動。若言著心,心元是妄,知心如幻,故無所著也。若言著淨,人性本淨,由妄念故,蓋覆真如。但無妄想,性自清淨;起心著淨,卻生淨妄。妄無處所,著者是妄。淨無形相,卻立淨相,言是工夫。作此見者,障自本性,卻被淨縛。善知識!若修不動者,但見一切人時,不見人之是非善惡過患,即是自性不動。善知識!迷人身雖不動!開口便說他人是非長短好惡,與道違背。若著心著淨,即障道也。」
大師は大衆に開示して言った。「この門の坐禪、元來心を著せず、亦た淨を著せず、亦た不動に非ず。若し心を著すると言わば、心元是れ妄なり。知る心の幻の如くなるを、故に看る所無し。若し淨を著すると言わば、人性本淨。妄念の故に、蓋覆真如す。但だ妄想無ければ、本性自ら淨し。心を起して淨を看れば、却って淨の妄を生ず。妄は處所無く、看は即是ち妄なり。淨は形相無形にして、却って淨相を立て、此れを工夫と言う。是の見を作す者は、自の本性を障し、却って淨縛せられん。善知識!若し不動を修せば、一切人を見るに、人の是非善惡過患を見ざれば、即是ち自性不動なり。善知識!迷の人身雖も不動にして、口を開いて便ち一切人の是非長短好惡を說く。道と相違背す。若し心を著し淨を著するは、即ち道を障するなり。」
師示眾云:「善知識!何名坐禪?此法門中,無障無礙,外於一切善惡境界,心念不起,名為坐;內見自性不動,名為禪。善知識!何名禪定?外離相為禪,內不亂為定。外若著相,內心即亂;外若離相,心即不亂。本性自淨自定,只為見境,思境即亂。若見諸境心不亂者,是真定也。善知識!外離相即禪,內不亂即定。外禪內定,是為禪定。《菩薩戒經》云:『我本元自性清淨。』善知識!於念念中,自見本性清淨,自修自行,自成佛道。」
大師は大衆に開示して言った。「善知識!何をか坐禪と名づくるや。此の法門の中に、障る無きなり。外に於いて一切善惡境界に念を起さざるを名づけて坐と為す。内に於いて自性不動を見るを名づけて禪と為す。善知識!何をか禪定と名づくるや。外に相を離るるを禪と為し、内に亂れざるを定と為す。外若し相を著せば、内心即ち亂る。外若し相を離るれば、心即ち亂れず。本性自ら淨自定す。只だ境を見境を思うが故に亂る。若し諸境を見て心亂れざる者、是れ真の定なり。善知識!外に相を離るるは即ち禪、内に亂れざるは即ち定。外禪内定、是れを禪定と為す。《菩薩戒經》に云く『我が本元自性清淨』と。善知識!念念の中に於いて、自ら本性清淨を見、自修自行して、自己が佛道を成ず。」
懺悔第六
懺悔第六
時,大師見廣韶洎四方士庶,駢集山中聽法,於是陞座,告眾曰:「來,諸善知識!此事須從自事中起,於一切時,念念自淨其心。自修自行,見自己法身,見自心佛,自度自戒,始得不假到此。既從遠來,一會於此,皆共有緣。今可各各胡跪,先為傳自性五分法身香,次授無相懺悔。」眾胡跪。師曰:「一、戒香。即自心中無非無惡、無嫉妬、無貪瞋、無劫害,名戒香。二、定香。即覩諸善惡境相,自心不亂,名定香。三、慧香。自心無礙,常以智慧觀照自性,不造諸惡;雖修眾善,心不執著,敬上念下,矜恤孤貧,名慧香。四、解脫香。即自心無所攀緣,不思善、不思惡,自在無礙,名解脫香。五、解脫知見香。自心既無所攀緣善惡,不可沈空守寂,即須廣學多聞,識自本心,達諸佛理,和光接物,無我無人,直至菩提,真性不易,名解脫知見香。善知識!此香各自內燻,莫向外覓。
その時大師は廣州・韶州および四方の士庶が山中に集まりて法を聽くを見、於是座に昇りて衆に告げて言った。「來れ諸善知識!此事は須らく自性の中に起すべし。一切時に於いて念念自ら其の心を淨める。自修自行して、自己が法身を見、自心の佛を見、自度自戒すれば、始得て假らず此れに到るなり。既に遠來して、此に一會せるは、皆有縁なり。今可く各々胡跪し、先ず汝等の為に自性の五分法身香を傳え、次に無相懺悔を授けん。」衆胡跪す。大師曰く、「一は戒香。即ち自心中無非・無惡・無嫉妬・無貪瞋・無劫害、名づけて戒香。二は定香。即ち諸善惡境相を睹て自心不亂、名づけて定香。三は慧香。自心無碍、常以智慧觀照自性して、諸惡を造らず。雖も衆善を修し、心不執著、上を敬い、下を念い、孤窮を矜恤す、名づけて慧香。四は解脫香。即ち自心攀縁する所無し、善を思わず惡を思わず、自在無碍、名づけて解脫香。五は解脫知見香。自心既に善惡に攀縁せざるも、空を耽りて靜を守ることを許さず。即ち須らく廣學多聞して、自の本心を識り、諸佛の理を達し、和光して接物、我無く人無くして、直至菩提して真性變らず、名づけて解脫知見香。善知識!此の香各々内に熏修し、外に向うを得ること莫れ。」
「今與汝等授無相懺悔,滅三世罪,令得三業清淨。善知識!各隨我語,一時道:『弟子等,從前念今念及後念,念念不被愚迷染。從前所有惡業愚迷等罪,悉皆懺悔,願一時銷滅,永不復起。弟子等,從前念今念及後念,念念不被憍誑染。從前所有惡業憍誑等罪,悉皆懺悔,願一時銷滅,永不復起。弟子等,從前念今念及後念,念念不被嫉妬染。從前所有惡業嫉妬等罪,悉皆懺悔,願一時銷滅,永不復起。』善知識!已上是為無相懺悔。云何名懺?云何名悔?懺者,懺其前愆,從前所有惡業,愚迷憍誑嫉妬等罪,悉皆盡懺,永不復起,是名為懺。悔者,悔其後過,從今以後,所有惡業,愚迷憍誑嫉妬等罪,今已覺悟,悉皆永斷,更不復作,是名為悔。故稱懺悔。凡夫愚迷,只知懺其前愆,不知悔其後過。以不悔故,前愆不滅,後過又生。前愆既不滅,後過復又生,何名懺悔?
「今汝等と授けて無相懺悔せん。滅除三世の罪、令して三業得淨清ならしめん。善知識!各々語に隨いて、一時に道ふ。弟子等、從前念・今念及び後念、念念に愚迷に染ぜられず、從前所有の惡業・愚迷等の罪、悉く皆懺悔せん。願わくは一時に消滅し、永に再び起さざらんことを。弟子等、從前念・今念及び後念、念念に憍誑に染ぜられず、從前所有の惡業・憍誑等の罪、悉く皆懺悔せん。願わくは一時に消滅し、永に再び起さざらんことを。弟子等、從前念・今念及び後念、念念に嫉妬に染ぜられず、從前所有の惡業・嫉妬等の罪、悉く皆懺悔せん。願わくは一時に消滅し、永に再び起さざらんことを。」善知識!已上は無相懺悔と為す。云何ぞな懺、云何ぞな悔。懺とは、懺其の前愆なり。從前所有の惡業、愚迷・憍誑・嫉妬等の罪、悉く皆盡して懺じ、永に起さざる、此れを名づけて懺と為す。悔とは、悔其の後過なり。從今已後、所有の惡業、愚迷・憍誑・嫉妬等の罪、今已に覺悟して、悉く皆永に斷じ、更に作さざる、此れを名づけて悔と為す。故に懺悔と稱す。凡夫愚迷にして、只知る懺其の前愆なるを、知らず悔其の後過を。以て悔せざるが故に、前愆是れ滅せず、後過は又た生ず。前愆既に不滅して、後過重ねて生ずれば、如何ぞ名づけて懺悔と為す。
「善知識!既懺悔已,與善知識發四弘誓願,各須用心正聽。自心眾生無邊誓願度,自心煩惱無邊誓願斷,自性法門無盡誓願學,自性無上佛道誓願成。善知識!大家豈不道,眾生無邊誓願度。恁麼道,且不是惠能度。善知識!心中眾生,所謂邪迷心、誑妄心、不善心、嫉妬心、惡毒心,如是等心,盡是眾生。各須自性自度,是名真度。何名自性自度?即自心中邪見煩惱愚痴眾生,將正見度。既有正見,使般若智打破愚痴迷妄眾生,各各自度。邪來正度,迷來悟度,愚來智度,惡來善度;如是度者,名為真度。又煩惱無邊誓願斷,將自性般若智,除卻虛妄思想心是也。又法門無盡誓願學,須自見性,常行正法,是名真學。又無上佛道誓願成,既常能下心,行於真正,離迷離覺,常生般若。除真除妄,即見佛性,即言下佛道成。常念修行,是願力法。
「善知識!既に懺悔を已れば、諸善知識と四弘誓願を發す。各々須らく正心に聽くべし。自心の衆生無邊にして誓願度せん。自心の煩惱無邊にして誓願斷ぜん。自性の法門無盡にして誓願學せん。自性の無上佛道にして誓願成ぜん。善知識!大家豈に道はずや、衆生無邊にして誓願度、恁麼道は且く不是れ惠能度。善知識!心中の衆生とは、所謂邪迷心・誑妄心・不善心・嫉妬心・惡毒心、如是等心、盡是れ衆生。各々須らく自性自度す。是れ真度と名づく。何をか自性自度と名づくるや。即ち自心中の邪見・煩惱・愚痴の衆生を、將って正見に度す。既有る正見、使う般若智して打破愚痴迷妄の衆生を、各各に自度す。邪の來るは正度、迷の來るは悟度、愚の來るは智度、惡の來るは善度、如是度するは、名づけて真度と為す。又た「煩惱無邊誓願斷」と、將って自性の般若智、除却虛妄的思想心を。又た「法門無盡誓願學」と、須らく自ら見性して、常に正法を行ず。是れ真學と名づく。又た「無上佛道誓願成」と、既に能く常に下心して、行ず真の道、迷を離れ覺を離れて、常に般若を生じ、真を除き妄を除き、即ち見佛性、即言下に佛道成ず。常に修行を念ずる、是れ願力法。」
「善知識!今發四弘願了,更與善知識授無相三歸依戒。善知識!歸依覺,兩足尊。歸依正,離欲尊。歸依淨,眾中尊。從今日去,稱覺為師,更不歸依邪魔外道,以自性三寶常自證明,勸善知識歸依自性三寶。佛者,覺也。法者,正也。僧者,淨也。自心歸依覺,邪迷不生,少欲知足,能離財色,名兩足尊。自心歸依正,念念無邪見,以無邪見故,即無人我貢高,貪愛執著,名離欲尊。自心歸依淨,一切塵勞愛欲境界,自性皆不染著,名眾中尊。若修此行,是自歸依。凡夫不會,從日至夜受三歸戒。若言歸依佛,佛在何處?若不見佛,憑何所歸,言卻成妄。善知識!各自觀察,莫錯用心。經文分明言自歸依佛,不言歸依他佛。自佛不歸,無所依處。今既自悟,各須歸依自心三寶,內調心性,外敬他人,是自歸依也。
「善知識!今已に四弘誓願を發する了り、更に善知識と授けて無相三歸依戒せん。善知識!歸依覺、兩足尊。歸依正、離欲尊。歸依淨、衆中尊。從今日去、稱して覺を師と為す、更に歸依せず邪魔外道、以て自性の三寶を常に自ら證明す。勸めて善知識、歸依自性の三寶。佛とは覺なり。法とは正なり。僧とは淨なり。自心歸依覺すれば、邪迷生せず、少欲知足して、能く財色を離る。名づけて兩足尊。自心歸依正すれば、念念邪見無し。以て無邪見の故に、即ち無有人我貢高、貪愛執著。名づけて離欲尊。自心歸依淨すれば、一切塵勞愛欲の境界に、自性皆不染著。名づけて衆中尊。若し此の行を修するは、是れ自ら歸依す。凡夫不會して、從日至夜に三歸戒を受く。若し歸依佛と言わば、佛は何處に在り。若し佛を見ざれば、憑みて何の所歸する。言は却って妄を成せり。善知識!各々觀察せよ。意を用うるを錯るなかれ。經文分明に言う、自歸依佛と、言わず歸依他佛と。自佛歸依せざれば、無有る依處。今既に自悟せり。各々須らく歸依自心の三寶。内に心性を調伏し、外に他人を敬う。是れ自歸依了なり。」
「善知識!既歸依自三寶竟,各各志心,吾與說一體三身自性佛,令汝等見三身瞭然,自悟自性。總隨我道:『於自色身,歸依清淨法身佛。於自色身,歸依圓滿報身佛。於自色身,歸依千百億化身佛。』善知識!色身是舍宅,不可言歸。曏者三身佛,在自性中,世人總有;為自心迷,不見內性。外覓三身如來,不見自身中有三身佛。汝等聽說,令汝等於自身中,見自性有三身佛。此三身佛,從自性生,不從外得。何名清淨法身佛?世人性本清淨,萬法從自性生。思量一切惡事,即生惡行;思量一切善事,即生善行。如是諸法在自性中,如天常清,日月常明,為浮雲蓋覆,上明下暗。忽遇風吹雲散,上下俱明,萬象皆現。世人性常浮游,如彼天雲。善知識!智如日,慧如月,智慧常明。於外著境,被妄念浮雲蓋覆自性,不得明朗。若遇善知識,聞真正法,自除迷妄,內外明徹,於自性中萬法皆現。見性之人,亦復如是。此名清淨法身佛。善知識!自心歸依自性,是歸依真佛。自歸依者,除卻自性中不善心、嫉妬心、諂曲心、吾我心、誑妄心、輕人心、慢他心、邪見心、貢高心,及一切時中不善之行,常自見己過,不說他人好惡,是自歸依。常須下心,普行恭敬,即是見性通達,更無滯礙,是自歸依。何名圓滿報身?譬如一燈能除千年闇,一智能滅萬年愚。莫思向前,已過不可得;常思於後,念念圓明,自見本性。善惡雖殊,本性無二,無二之性,名為實性。於實性中,不染善惡,此名圓滿報身佛。自性起一念惡,滅萬劫善因;自性起一念善,得恆沙惡盡。直至無上菩提,念念自見,不失本念,名為報身。何名千百億化身?若不思萬法,性本如空,一念思量,名為變化。思量惡事,化為地獄;思量善事,化為天堂。毒害化為龍蛇,慈悲化為菩薩,智慧化為上界,愚痴化為下方。
「善知識!既に自性三寶に歸依せり。各各志心して、吾が汝等と説かん、一體三身自性佛。令し汝等於三身を見て、了然と自ら性を悟らしめん。總し隨て道え。『於自己色身、歸依清淨法身佛。於自己色身、歸依圓滿報身佛。於自己色身、歸依千百億化身佛。』善知識!色身是れ舍宅、不可言歸。向者三身佛、在自性之中、世人總有。為自心迷、不見内性、外覓三身如來、不見自身中有三身佛。汝等聽説、令汝等於身中見自性有三身佛。此三身佛從自性生、不從外得。何名清淨法身佛。世人性本清淨、萬法從自性生。思量一切惡事、即生惡行。思量一切善事、即生善行。如是諸法在自性中、如天常清、日月常明、為浮雲蓋覆、上明下暗。忽遇風吹雲散、上下俱明、萬象皆現。世人性常浮遊、如彼天雲。善知識!智如日、慧如月、智慧常明。於外著境、被妄念浮雲蓋覆自性、不得明朗。若遇善知識、聞真正法、自除迷妄、内外明徹、於自性中萬法皆現。見性之人亦復如是。此名清淨法身佛。善知識!自心歸依自性、是歸依真佛。自歸依者、除却自性中不善心、嫉妬心、諂曲心、吾我心、誑妄心、輕人心、慢他心、邪見心、貢高心、及一切時中不善之行。常自見己過、不説他人好惡、是自歸依。常須下心、普行恭敬、即是見性通達、更無滯礙、是自歸依。何名圓滿報身。譬如一燈能除千年暗、一智能滅萬年愚。莫思向前、己過不可得、常思於後、念念圓明、自見本性。善惡雖殊、本性無二。無二之性、名為實性。於實性中、不染善惡、此名圓滿報身佛。自性起一念惡、滅萬劫善因。自性起一念善、得恒沙惡盡。直至無上菩提、念念自見、不失本念、名為報身。何名千百億化身。若不思萬法、性本如空。一念思量、名為變化。思量惡事、化為地獄。思量善事、化為天堂。毒害化為龍蛇。慈悲化為菩薩。智慧化為上界。愚痴化為下方。
自性變化甚多,迷人不能省覺,念念起惡,常行惡道。迴一念善,智慧即生,此名自性化身佛。善知識!法身本具,念念自性自見,即是報身佛。從報身思量,即是化身佛。自悟自修自性功德,是真歸依。皮肉是色身,色身是舍宅,不言歸依也。但悟自性三身,即識自性佛。吾有一無相頌,若能誦持,言下令汝積劫迷罪一時銷滅。頌曰:
(大師続けて)自性變化甚多。迷人不能省覺。念念起惡、常行惡道。囘一念善、智慧即生。此名自性化身佛。善知識!法身本具。念念自性自見、即是報身佛。從報身思量、即是化身佛。自悟自修自性功德、是真歸依。皮肉是色身、色身是舍宅、不言歸依也。但悟自性三身、即識自性佛。吾有一無相頌、若能誦持、言下令汝積劫迷罪一時消滅。頌曰、
「迷人修福不修道,只言修福便是道,
迷人修福不修道、只言修福便是道。
佈施供養福無邊,心中三惡元來造。
布施供養福無邊、心中三惡元來造。
擬將修福欲滅罪,後世得福罪還在,
擬將修福欲滅罪、後世得福罪還在。
但向心中除罪緣,名自性中真懺悔。
但向心中除罪緣、各自性中真懺悔。
忽悟大乘真懺悔,除邪行正即無罪,
忽悟大乘真懺悔、除邪行正即無罪。
學道常於自性觀,即與諸佛同一類。
學道常於自性觀、即與諸佛同一類。
吾祖惟傳此頓法,普願見性同一體,
吾祖唯傳此頓法、普願見性同一體。
若欲當來覓法身,離諸法相心中洗。
若欲當來覓法身、離諸法相心中洗。
努力自見莫悠悠,後念忽絕一世休,
努力自見莫悠悠、後念忽絕一世休。
若悟大乘得見性,虔恭合掌至心求。」
若悟大乘得見性、虔恭合掌至心求。」
師言:「善知識!總須誦取,依此修行,言下見性。雖去吾千里,如常在吾邊。於此言下不悟,即對面千里,何勤遠來。珍重!好去。」
大師曰、「善知識!總須誦取、依此修行、言下見性。雖去吾千里、如常在吾邊。於此言下不悟、即對面千里。何勤遠來。珍重、好去。」
一眾聞法,靡不開悟,歡喜奉行。
一衆聞法、靡不開悟、歡喜奉行。
機緣第七
機緣第七
師自黃梅得法,回至韶州曹侯村,人無知者(他本云,師去時,至曹侯村,住九月餘。然師自言:「不經三十餘日便至黃梅。」此求道之切,豈有逗留?作去時者非是)。有儒士劉志略,禮遇甚厚。志略有姑為尼,名無盡藏,常誦《大涅槃經》。師暫聽,即知妙義,遂為解說。尼乃執卷問字,師曰:「字即不識,義即請問。」尼曰:「字尚不識,焉能會義?」師曰:「諸佛妙理,非關文字。」尼驚異之,遍告裡中耆德云:「此是有道之士,宜請供養。」有魏(魏一作晉)武侯玄孫曹叔良及居民,競來瞻禮。時,寶林古寺,自隋末兵火已廢,遂於故基重建梵宇,延師居之。俄成寶坊,師住九月餘日,又為惡黨尋逐,師乃遯於前山。被其縱火焚草木,師隱身挨入石中得免。石今有師趺坐膝痕,及衣布之紋,因名避難石。師憶五祖懷會止藏之囑,遂行隱於二邑焉。
師自黃梅得法、回至韶州曹侯村、人無知者。有儒士劉志略、禮遇甚厚。志略有姑為尼、名無盡藏、常誦《大涅槃經》。師暫聽、即知妙義、遂為解説。尼乃執卷問字、師曰、「字即不識、義即請問。」尼曰、「字尚不識、焉能會義。」師曰、「諸佛妙理、非關文字。」尼驚異之、遍告里中耆德云、「此是有道之士、宜請供養。」有魏武侯玄孫曹叔良及居民、競來瞻禮。時寶林古寺、自隋末兵火已廢、遂於故基重建梵宇、延師居之。俄成寶坊。師住九月餘日、又為惡黨尋逐、師乃遁于前山、被其縱火焚草木、師隱身挨入石中得免。石今有師趺坐膝痕及衣布之紋、因名避難石。師憶五祖懷會止藏之囑、遂行隱於二邑焉。
僧法海,韶州曲江人也。初參祖師,問曰:「即心即佛,願垂指諭。」師曰:「前念不生即心,後念不滅即佛;成一切相即心,離一切相即佛。吾若具說,窮劫不盡。聽吾偈曰:
僧法海、韶州曲江人也。初參祖師、問曰、「即心即佛、願垂指諭。」師曰、「前念不生即心、後念不滅即佛。成一切相即心、離一切相即佛。吾若具説、窮劫不盡。聽吾偈曰、
「即心名慧,即佛乃定,定慧等持,
即心名慧、即佛乃定。定慧等持、
意中清淨。悟此法門,由汝習性,
意中清淨。悟此法門、由汝習性。
用本無生,雙修是正。」
用本無生、雙修是正。」
法海言下大悟,以偈讚曰:
法海言下大悟、以偈讚曰、
「即心元是佛,不悟而自屈,
即心元是佛、不悟而自屈。
我知定慧因,雙修離諸物。」
我知定慧因、雙修離諸物。」
僧法達,洪州人,七歲出家,常誦《法華經》。來禮祖師,頭不至地。師訶曰:「禮不投地,何如不禮?汝心中必有一物。蘊習何事耶?」曰:「念《法華經》已及三千部。」師曰:「汝若念至萬部,得其經意,不以為勝,則與吾偕行。汝今負此事業,都不知過。聽吾偈曰:
僧法達、洪州人。七歲出家、常誦《法華經》。來禮祖師、頭不至地。師訶曰、「禮不投地、何如不禮。汝心中必有一物。蘊習何事耶。」曰、「念《法華經》已及三千部。」師曰、「汝若念至萬部、得其經意、不以為勝、則與吾偕行。汝今負此事業、都不知過。聽吾偈曰、
「禮本折慢幢,頭奚不至地?
禮本折慢幢、頭奚不至地。
有我罪即生,亡功福無比。」
有我罪即生、亡功福無比。」
師又曰:「汝名什麼?」曰:「法達。」師曰:「汝名法達,何曾達法?」復說偈曰:
師又曰、「汝名什麼。」曰、「法達。」師曰、「汝名法達、何曾達法。」復説偈曰、
「汝今名法達,勤誦未休歇,
汝今名法達、勤誦未休歇。
空誦但循聲,明心號菩薩。
空誦但循聲、明心號菩薩。
汝今有緣故,吾今為汝說,
汝今有緣故、吾今為汝説。
但信佛無言,蓮華從口發。」
但信佛無言、蓮花從口發。」
達聞偈,悔謝曰:「而今而後,當謙恭一切。弟子誦《法華經》,未解經義,心常有疑。和尚智慧廣大,願略說經中義理。」師曰:「法達!法即甚達,汝心不達。經本無疑,汝心自疑。汝念此經,以何為宗?」達曰:「學人根性闇鈍,從來但依文誦念,豈知宗趣?」師曰:「吾不識文字,汝試取經誦一遍,吾當為汝解說。」法達即高聲念經,至譬喻品,師曰:「止!此經元來以因緣出世為宗,縱說多種譬喻,亦無越於此。何者因緣?經云:『諸佛世尊,唯以一大事因緣出現於世。』一大事者,佛之知見也。世人外迷著相,內迷著空;若能於相離相、於空離空,即是內外不迷。若悟此法,一念心開,是為開佛知見。佛,猶覺也。分為四門,開覺知見、示覺知見、悟覺知見、入覺知見。若聞開示,便能悟入,即覺知見,本來真性而得出現。汝慎勿錯解經意,見他道:『開示悟入,自是佛之知見。我輩無分。』若作此解,乃是謗經毀佛也。彼既是佛,已具知見,何用更開?汝今當信,佛知見者,只汝自心,更無別佛。蓋為一切眾生,自蔽光明,貪愛塵境,外緣內擾,甘受驅馳。便勞他世尊,從三昧起,種種苦口,勸令寢息,莫向外求,與佛無二。故云:『開佛知見。』吾亦勸一切人,於自心中,常開佛之知見。世人心邪,愚迷造罪,口善心惡,貪瞋嫉妬,諂佞我慢,侵人害物,自開眾生知見。若能正心,常生智慧,觀照自心,止惡行善,是自開佛之知見。汝須念念開佛知見,勿開眾生知見。開佛知見,即是出世;開眾生知見,即是世間。汝若但勞勞執念,以為功課者,何異犛牛愛尾。」達曰:「若然者,但得解義,不勞誦經耶?」師曰:「經有何過,豈障汝念?只為迷悟在人,損益由己。口誦心行,即是轉經;口誦心不行,即是被經轉。聽吾偈曰:
達聞偈、悔謝曰、「而今而後、當謙恭一切。弟子誦《法華經》、未解經義、心常有疑。和尚智慧廣大、願略説經中義理。」師曰、「法達、法即甚達、汝心不達。經本無疑、汝心自疑。汝念此經、以何為宗。」達曰、「學人根性暗鈍、從來但依文誦念、豈知宗趣。」師曰、「吾不識文字、汝試取經誦一遍、吾當為汝解説。」法達即高聲念經、至《譬喻品》、師曰、「止!此經元來以因緣出世為宗。縱説多種譬喻、亦無越於此。何者因緣。經云、諸佛世尊、唯以一大事因緣故出現於世。一大事者、佛之知見也。世人外迷著相、内迷著空。若能於相離相、於空離空、即是内外不迷。若悟此法、一念心開、是為開佛知見。佛猶覺也。分為四門。開覺知見、示覺知見、悟覺知見、入覺知見。若聞開示、便能悟入、即覺知見、本來真性而得出現。汝慎勿錯解經意、見他道開示悟入自是佛之知見、我輩無分。若作此解、乃是謗經毀佛也。彼既是佛、已具知見、何用更開。汝今當信佛知見者、只汝自心、更無別佛。蓋為一切衆生自蔽光明、貪愛塵境、外緣内擾、甘受驅馳、便勞他世尊從三昧起、種種苦口勸令寢息、莫向外求、與佛無二。故云開佛知見。吾亦勸一切人、於自心中常開佛之知見。世人心邪、愚迷造罪、口善心惡、貪瞋嫉妬、諂佞我慢、侵人害物、自開衆生知見。若能正心、常生智慧、觀照自心、止惡行善、是自開佛之知見。汝須念念開佛知見、勿開衆生知見。開佛知見、即是出世。開衆生知見、即是世間。汝若但勞勞執念以為功課者、何異犛牛愛尾。」達曰、「若然者、但得解義、不勞誦經耶。」師曰、「經有何過、豈障汝念。只為迷悟在人、損益由己。口誦心行、即是轉經。口誦心不行、即是被經轉。聽吾偈曰、
「心迷法華轉,心悟轉法華,
心迷法華轉、心悟轉法華。
誦經久不明,與義作讎家。
誦經久不明、與義作讐家。
無念念即正,有念念成邪,
無念念即正、有念念成邪。
有無俱不計,長御白牛車。」
有無俱不計、長御白牛車。」
達聞偈,不覺悲泣,言下大悟,而告師曰:「法達從昔已來,實未曾轉法華,乃被法華轉。」再啟曰:「經云:『諸大聲聞乃至菩薩,皆盡思共度量,不能測佛智。』今令凡夫但悟自心,便名佛之知見。自非上根,未免疑謗。又經說三車,羊鹿牛車與白牛之車,如何區別?願和尚再垂開示。」師曰:「經意分明,汝自迷背。諸三乘人,不能測佛智者,患在度量也。饒伊盡思共推,轉加懸遠。佛本為凡夫說,不為佛說。此理若不肯信者,從他退席。殊不知,坐卻白牛車,更於門外覓三車。況經文明向汝道:『唯一佛乘,無有餘乘若二若三。』乃至無數方便,種種因緣譬喻言詞,是法皆為一佛乘故。汝何不省,三車是假,為昔時故;一乘是實,為今時故。只教汝去假歸實,歸實之後,實亦無名。應知所有珍財,盡屬於汝,由汝受用,更不作父想,亦不作子想,亦無用想。是名持法華經,從劫至劫,手不釋卷,從晝至夜,無不念時也。」
達聞偈、不覺悲泣、言下大悟而告師曰、「法達從昔已來、實未曾轉法華、乃被法華轉。」再啟曰、「經云、諸大聲聞乃至菩薩、皆盡思共度量、不能測佛智。今令凡夫但悟自心、便名佛之知見。自非上根、未免疑謗。又經説三車、羊鹿牛車與白牛之車、如何區別。願和尚再垂開示。」師曰、「經意分明、汝自迷背。諸三乘人、不能測佛智者、患在度量也。饒伊盡思共推、轉加懸遠。佛本為凡夫説、不為佛説。此理若不肯信者、從他退席。殊不知坐卻白牛車、更於門外覓三車。況經文明向汝道、唯一佛乘、無有餘乘、若二若三、乃至無數方便、種種因緣譬喻言詞、是法皆為一佛乘故。汝何不省、三車是假、為昔時故。一乘是實、為今時故。只教汝去假歸實、歸實之後、實亦無名。應知所有珍財、盡屬於汝、由汝受用。更不作父想、亦不作子想、亦無用想。是名持法華經、從劫至劫手不釋卷、從晝至夜無不念時也。」
達蒙啟發,踴躍歡喜,以偈讚曰:
達蒙啓發、踊躍歡喜、以偈讚曰、
「經誦三千部,曹溪一句亡,
經誦三千部、曹溪一句亡。
未明出世旨,寧歇累生狂。
未明出世旨、寧歇累生狂。
羊鹿牛權設,初中後善揚,
羊鹿牛權設、初中後善揚。
誰知火宅內,元是法中王。」
誰知火宅内、元是法中王。」
師曰:「汝今後方可名念經僧也。」達從此領玄旨,亦不輟誦經。
師曰、「汝今後方可名念經僧也。」達從此領玄旨、亦不輟誦經。
僧智通,壽州安豐人。初看《楞伽經》。約千餘遍,而不會三身四智。禮師求解其義,師曰:「三身者,清淨法身,汝之性也;圓滿報身,汝之智也;千百億化身,汝之行也。若離本性,別說三身,即名有身無智;若悟三身無有自性,即明四智菩提。聽吾偈曰:
僧智通、壽州安豐人。初看《楞伽經》、約千餘遍、而不會三身四智。禮師求解其義、師曰、「三身者、清淨法身、汝之性也。圓滿報身、汝之智也。千百億化身、汝之行也。若離本性、別説三身、即名有身無智。若悟三身無有自性、即明四智菩提。聽吾偈曰、
「自性具三身,發明成四智,
自性具三身、發明成四智。
不離見聞緣,超然登佛地。
不離見聞緣、超然登佛地。
吾今為汝說,諦信永無迷,
吾今為汝説、諦信永無迷。
莫學馳求者,終日說菩提。」
莫學馳求者、終日説菩提。」
通再啟曰:「四智之義,可得聞乎?」師曰:「既會三身,便明四智。何更問耶?若離三身,別談四智,此名有智無身。即此有智,還成無智。」復說偈曰:
通再啓曰、「四智之義、可得聞乎。」師曰、「既會三身、便明四智。何更問耶。若離三身、別談四智、此名有智無身。即此有智、還成無智。」復説偈曰、
「大圓鏡智性清淨,平等性智心無病,
大圓鏡智性清淨、平等性智心無病。
妙觀察智見非功,成所作智同圓鏡。
妙觀察智見非功、成所作智同圓鏡。
五八六七果因轉,但用名言無實性,
五八六七果因轉、但用名言無實性。
若於轉處不留情,繁興永處那伽定。」
若於轉處不留情、繁興永處那伽定。」
(如上轉識為智也。教中云,轉前五識為成所作智,轉第六識為妙觀察智,轉第七識為平等性智,轉第八識為大圓鏡智。雖六七因中轉,五八果上轉,但轉其名而不轉其體也)。
(如上轉識為智也。教中云、轉前五識為成所作智、轉第六識為妙觀察智、轉第七識為平等性智、轉第八識為大圓鏡智。雖六七因中轉、五八果上轉、但轉其名而不轉其體也。)
通頓悟性智,遂呈偈曰:
通頓悟性智、遂呈偈曰、
「三身元我體,四智本心明,
三身元我體、四智本心明。
身智融無礙,應物任隨形。
身智融無礙、應物任隨形。
起修皆妄動,守住匪真精,
起修皆妄動、守住匪真精。
妙旨因師曉,終亡染汙名。」
この層の妙旨は師に因って明らかとなり、遂に「染汚」の名目も忘掉した。」
僧智常,信州貴溪人,髫年出家,志求見性。一日參禮,師問曰:「汝從何來?欲求何事?」曰:「學人近往洪州白峰山禮大通和尚,蒙示見性成佛之義。未決狐疑,遠來投禮,伏望和尚慈悲指示。」師曰:「彼有何言句?汝試舉看。」曰:「智常到彼,凡經三月,未蒙示誨。為法切故,一夕獨入丈室,請問:『如何是某甲本心本性?』大通乃曰:『汝見虛空否?』對曰:『見。』彼曰:『汝見虛空有相貌否?』對曰:『虛空無形,有何相貌?』彼曰:『汝之本性,猶如虛空,了無一物可見,是名正見;無一物可知,是名真知。無有青黃長短,但見本源清淨,覺體圓明,即名見性成佛,亦名如來知見。』學人雖聞此說,猶未決了,乞和尚開示。」師曰:「彼師所說,猶存見知,故令汝未了。吾今示汝一偈:
僧智常は信州貴溪の人。幼年出家し、性を見ることを志して求めた。一日參禮し、大師曰く、「汝什麼處より來る。何をか求めると欲するや。」曰く、「學人近頃洪州白峯山に往き大通和尚を禮し、蒙る和尚が見性成佛の義を開示するを、未だ解せざる疑惑有り。遠來して投禮し、伏して和尚の慈悲を望みて指示せんことを。」大師曰く、「彼に何の言話か有る。汝試しに擧して看よ。」曰く、「智常到彼、經于三月、未だ蒙教晦せず。為法心切の故に、一夜独り方丈に入りて請問す。『如何なるか是れ我が本心本性。』大通乃ち曰く、『汝見虚空否。』對曰『見る。』彼曰く『汝見虚空に相貌有り否。』我對曰『虚空は形無し、何の相貌か有らん。』彼曰く『汝の本性猶虚空の如し。了れ一物も見る無きを、是名正見。一物も知る無きを、是名真知。無有青黃長短、但見本源清淨・覺體圓明、即名見性成佛、亦名如來知見。』學人雖聞此説、猶未決了、乞和尚開示。」大師曰、「彼師所説、猶存見知、故令汝了。吾今示汝一偈曰、
「不見一法存無見,大似浮雲遮日面,
不見一法存無見、大似浮雲遮日面。
不知一法守空知,還如太虛生閃電。
不知一法守空知、還如太虚生閃電。
此之知見瞥然興,錯認何曾解方便,
此之知見瞥然興、錯認何曾解方便。
汝當一念自知非,自己靈光常顯現。」
汝當一念自知非、自己靈光常顯現。」
常聞偈已,心意豁然。乃述偈曰:
常聞偈已、心意豁然、乃述偈曰、
「無端起知見,著相求菩提,
無端起知見、著相求菩提。
情存一念悟,寧越昔時迷。
情存一念悟、寧越昔時迷。
自性覺源體,隨照枉遷流,
自性覺源源體、隨照枉遷流。
不入祖師室,茫然趣兩頭。」
不入祖師室、茫然趣兩頭。」
智常一日問師曰:「佛說三乘法,又言最上乘。弟子未解,願為教授。」師曰:「汝觀自本心,莫著外法相。法無四乘,人心自有等差。見聞轉誦是小乘;悟法解義是中乘;依法修行是大乘;萬法盡通,萬法俱備,一切不染,離諸法相,一無所得,名最上乘。乘是行義,不在口爭。汝須自修,莫問吾也。一切時中,自性自如。」常禮謝執侍,終師之世。
智常一日問師曰、「佛説三乘法、又言最上乘。弟子未解、願為教授。」師曰、「汝觀自本心、莫著外法相。法無四乘、人心自有等差。見聞轉誦是小乘、悟法解義是中乘、依法修行是大乘、萬法盡通・萬法具備・一切不染・離諸法相・一無所得、名最上乘。乘是行義、不在口爭。汝須自修、莫問吾也。一切時中、自性自如。」常禮謝執侍、終師之世。
僧志道,廣州南海人也。請益曰:「學人自出家,覽《涅槃經》十載有餘,未明大意,願和尚垂誨。」師曰:「汝何處未明?」曰:「諸行無常,是生滅法;生滅滅已,寂滅為樂。於此疑惑。」師曰:「汝作麼生疑?」曰:「一切眾生皆有二身,謂色身、法身也。色身無常,有生有滅;法身有常,無知無覺。經云:『生滅滅已,寂滅為樂』者,不審何身寂滅?何身受樂?若色身者,色身滅時,四大分散,全然是苦,苦不可言樂。若法身寂滅,即同草木瓦石,誰當受樂?又法性是生滅之體,五蘊是生滅之用,一體五用,生滅是常。生則從體起用,滅則攝用歸體。若聽更生,即有情之類,不斷不滅;若不聽更生,則永歸寂滅,同於無情之物。如是,則一切諸法被涅槃之所禁伏,尚不得生,何樂之有?」師曰:「汝是釋子,何習外道斷常邪見,而議最上乘法?據汝所說,即色身外別有法身,離生滅求於寂滅。又推涅槃常樂,言有身受用。斯乃執悋生死,耽著世樂。汝今當知,佛為一切迷人,認五蘊和合為自體相,分別一切法為外塵相,好生惡死,念念遷流,不知夢幻虛假,枉受輪迴。以常樂涅槃翻為苦相,終日馳求。佛愍此故,乃示涅槃真樂。剎那無有生相,剎那無有滅相,更無生滅可滅,是則寂滅現前。當現前時,亦無現前之量,乃謂常樂。此樂無有受者,亦無不受者,豈有一體五用之名?何況更言涅槃禁伏諸法,令永不生。斯乃謗佛毀法。聽吾偈曰:
僧志道、廣州南海人也。請益曰、「學人自出家、覽《涅槃經》十載有餘、未明大意。願和尚垂誨。」師曰、「汝何處未明。」曰、「『諸行無常、是生滅法。生滅滅已、寂滅為樂。』於此疑惑。」師曰、「汝作麼生疑。」曰、「一切衆生皆有二身、謂色身法身也。色身無常、有生有滅。法身有常、無知無覺。經云『生滅滅已、寂滅為樂』者、不審何身寂滅、何身受樂。若色身者、色身滅時四大分散、全然是苦、苦不可言樂。若法身寂滅、即同草木瓦石、誰當受樂。又法性是生滅之體、五蘊是生滅之用、一體五用、生滅是常。生則從體起用、滅則攝用歸體。若聽更生、即有情之類不斷不滅。若不聽更生、則永歸寂滅、同於無情之物。如是則一切諸法被涅槃之所禁伏、尚不得生、何樂之有。」師曰、「汝是釋子、何習外道斷常邪見而議最上乘法。據汝所説、即色身外別有法身、離生滅求於寂滅。又推涅槃常樂、言有身受用。斯乃執吝生死、躭著世樂。汝今當知、佛為一切迷人認五蘊和合為自體相、分別一切法為外塵相、好生惡死、念念遷流、不知夢幻虚假、枉受輪回。以常樂涅槃翻為苦相、終日馳求。佛愍此故、乃示涅槃真樂。刹那無有生相、刹那無有滅相、更無生滅可滅、是則寂滅現前。當現前時、亦無現前之量、乃謂常樂。此樂無有受者、亦無不受者。豈有一體五用之名。何況更言涅槃禁伏諸法、令永不生。斯乃謗佛毀法。聽吾偈曰、
「無上大涅槃,圓明常寂照,
無上大涅槃、圓明常寂照。
凡愚謂之死,外道執為斷,
凡愚謂之死、外道執為斷。
諸求二乘人,目以為無作,
諸求二乘人、目以為無作。
盡屬情所計,六十二見本。
盡屬情所計、六十二見本。
妄立虛假名,何為真實義,
妄立虚假名、何為真實義。
惟有過量人,通達無取捨。
惟有過量人、通達無取捨。
以知五蘊法,及以蘊中我,
以知五蘊法、及以蘊中我。
外現眾色象,一一音聲相,
外現衆色象、一一音聲相。
平等如夢幻,不起凡聖見,
平等如夢幻、不起凡聖見。
不作涅槃解,二邊三際斷。
不作涅槃解、二邊三際斷。
常應諸根用,而不起用想,
常應諸根用、而不起用想。
分別一切法,不起分別想。
分別一切法、不起分別想。
劫火燒海底,風鼓山相擊,
劫火燒海底、風鼓山相擊。
真常寂滅樂,涅槃相如是。
真常寂滅樂、涅槃相如是。
吾今彊言說,令汝捨邪見,
吾今強言説、令汝捨邪見。
汝勿隨言解,許汝知少分。」
汝勿隨言解、許汝知少分。」
志道聞偈大悟,踴躍作禮而退。
道聞偈大悟、踊躍禮謝而退。
行思禪師,生吉州安城劉氏。聞曹溪法席盛化,徑來參禮,遂問曰:「當何所務,即不落階級?」師曰:「汝曾作什麼來?」曰:「聖諦亦不為。」師曰:「落何階級?」曰:「聖諦尚不為,何階級之有?」師深器之,令思首眾。一日,師謂曰:「汝當分化一方,無令斷絕。」思既得法,遂回吉州青原山,弘法紹化(諡弘濟禪師)。
行思禪師、生吉州安城劉氏。聞曹溪法席盛化、直來參禮、遂問曰、「當何所務、即不落階級。」師曰、「汝曾作什麼來。」曰、「聖諦亦不為。」師曰、「落何階級。」曰、「聖諦尚不為、何階級之有。」師深器之、令思首衆。一日師謂曰、「汝當分化一方、無令斷絕。」思既得法、遂回吉州青原山、弘法紹化。(謚弘濟禪師。)
懷讓禪師,金州杜氏子也。初謁嵩山安國師,安發之曹溪參扣。讓至禮拜,師曰:「甚處來?」曰:「嵩山。」師曰:「什麼物?恁麼來?」曰:「說似一物即不中。」師曰:「還可修證否?」曰:「修證即不無,汙染即不得。」師曰:「只此不汙染,諸佛之所護念。汝既如是,吾亦如是。西天般若多羅讖,汝足下出一馬駒,踏殺天下人。應在汝心,不須速說(一本無西天以下二十七字)。」讓豁然契會,遂執侍左右一十五載,日臻玄奧。後往南嶽,大闡禪宗(勅諡大慧禪師)。
懷讓禪師、金州杜氏子也。初謁嵩山安國師、安發之曹溪參叩。讓至禮拜、師曰、「甚處來。」曰、「嵩山。」師曰、「什麼物、恁麼來。」曰、「説似一物即不中。」師曰、「還可修證否。」曰、「修證即不無、污染即不得。」師曰、「只此不污染、諸佛之所護念。汝既如是、吾亦如是。西天般若多羅讖汝足下出一馬駒、踏殺天下人。應在汝心、不須速説。」讓豁然契會、遂執侍左右一十五載、日臻玄奧。後往南嶽、大闡禪宗。(勅謚大慧禪師。)
永嘉玄覺禪師,溫州戴氏子。少習經論,精天台止觀法門。因看《維摩經》發明心地。偶師弟子玄策相訪,與其劇談,出言暗合諸祖。策云:「仁者得法師誰?」曰:「我聽方等經論,各有師承。後於《維摩經》悟佛心宗,未有證明者。」策云:「威音王已前即得,威音王已後,無師自悟,盡是天然外道。」曰:「願仁者為我證據。」策云:「我言輕。曹溪有六祖大師,四方雲集,並是受法者。若去,則與偕行。」覺遂同策來參,繞師三匝,振錫而立。師曰:「夫沙門者,具三千威儀、八萬細行。大德自何方而來,生大我慢?」覺曰:「生死事大,無常迅速。」師曰:「何不體取無生,了無速乎?」曰:「體即無生,了本無速。」師曰:「如是,如是!」玄覺方具威儀禮拜,須臾告辭。師曰:「返太速乎?」曰:「本自非動,豈有速耶?」師曰:「誰知非動?」曰:「仁者自生分別。」師曰:「汝甚得無生之意。」曰:「無生豈有意耶?」師曰:「無意,誰當分別?」曰:「分別亦非意。」師曰:「善哉!少留一宿。」時謂一宿覺。後著《證道歌》,盛行於世(諡曰無相大師,時稱為真覺焉)。
永嘉玄覺禪師、温州戴氏子。少習經論、精天台止觀法門。因看《維摩經》發明心地。偶師弟子玄策相訪、與其劇談、出言暗合諸祖。策云、「仁者得法師誰。」曰、「我聽方等經論、各有師承。後於《維摩經》悟佛心宗、未有證明者。」策云、「威音王已前即得、威音王已後無師自悟、盡是天然外道。」曰、「願仁者為我證據。」策云、「我言輕。曹溪有六祖、四方雲集、並是受法者。若去、則與偕行。」覺遂同策來參、繞師三匝、振錫而立。師曰、「夫沙門者、具三千威儀、八萬細行。大德自何方而來、生大我慢。」覺曰、「生死事大、無常迅速。」師曰、「何不體取無生、了無速乎。」曰、「體即無生、了本無速。」師曰、「如是如是。」玄覺方具威儀禮拜、須臾告辭。師曰、「返太速乎。」曰、「本自非動、豈有速耶。」師曰、「誰知非動。」曰、「仁者自生分別。」師曰、「汝甚得無生之意。」曰、「無生豈有意耶。」師曰、「無意誰當分別。」曰、「分別亦非意。」師曰、「善哉、少留一宿。」時謂一宿覺。後著《證道歌》、盛行於世。(謚曰無相大師、時稱為真覺焉。)
禪者智隍,初參五祖,自謂已得正受。菴居長坐,積二十年。師弟子玄策,遊方至河朔,聞隍之名,造菴問云:「汝在此作什麼?」隍曰:「入定。」策云:「汝雲入定,為有心入耶?無心入耶?若無心入者,一切無情草木瓦石,應合得定;若有心入者,一切有情含識之流,亦應得定。」隍曰:「我正入定時,不見有有無之心。」策云:「不見有有無之心,即是常定。何有出入?若有出入,即非大定。」隍無對,良久,問曰:「師嗣誰耶?」策云:「我師曹溪六祖。」隍云:「六祖以何為禪定?」策云:「我師所說,妙湛圓寂,體用如如。五陰本空,六塵非有,不出不入,不定不亂。禪性無住,離住禪寂;禪性無生,離生禪想。心如虛空,亦無虛空之量。」隍聞是說,徑來謁師。師問云:「仁者何來?」隍具述前緣。師云:「誠如所言。汝但心如虛空,不著空見,應用無礙,動靜無心,凡聖情忘,能所俱泯,性相如如,無不定時也(一本無汝但以下三十五字。止云:師憫其遠來,遂垂開決)。」隍於是大悟,二十年所得心,都無影響。其夜河北士庶,聞空中有聲云:「隍禪師今日得道。」隍後禮辭,復歸河北,開化四眾。一僧問師云:「黃梅意旨,甚麼人得?」師云:「會佛法人得。」僧云:「和尚還得否?」師云:「我不會佛法。」
禪者智隍、初參五祖、自謂已得正受。庵居長坐、積二十年。師弟子玄策遊方至河朔、聞隍之名、造庵問云、「汝在此作什麼。」隍曰、「入定。」策云、「汝云入定、為有心入耶、無心入耶。若無心入者、一切無情草木瓦石應合得定。若有心入者、一切有情含識之流亦應得定。」隍曰、「我正入定時、不見有有無之心。」策云、「不見有有無之心、即是常定、何有出入。若有出入、即非大定。」隍無對。良久問曰、「師嗣誰耶。」策云、「我師曹溪六祖。」隍云、「六祖以何為禪定。」策云、「我師所説、妙湛圓寂、體用如如。五陰本空、六塵非有。不出不入、不定不亂。禪性無住、離住禪寂。禪性無生、離生禪想。心如虚空、亦無虚空之量。」隍聞是説、徑來謁師。師問云、「仁者何來。」隍具述前緣。師云、「誠如所言。汝但心如虚空、不著空見、應用無碍、動靜無心、凡聖情忘、能所俱泯、性相如如、無不定時也。」隍於是大悟、二十年所得心都無影響。其夜河北士庶聞空中有聲云、「隍禪師今日得道。」隍後禮辭、復歸河北、開化四衆。一僧問師云、「黃梅意旨、什麼人得。」師云、「會佛法人得。」僧云、「和尚還得否。」師云、「我不會佛法。」
師一日欲濯所授之衣而無美泉,因至寺後五里許,見山林欝茂,瑞氣盤旋。師振錫卓地,泉應手而出,積以為池,乃跪膝浣衣石上。忽有一僧來禮拜,云:「方辯是西蜀人,昨於南天竺國,見達磨大師,囑方辯速往唐土。吾傳大迦葉正法眼藏及僧伽梨,見傳六代,於韶州曹溪,汝去瞻禮。方辯遠來,願見我師傳來衣缽。」師乃出示,次問:「上人攻何事業?」曰:「善塑。」師正色曰:「汝試塑看。」辯罔措。過數日,塑就真相,可高七寸,曲盡其妙。師笑曰:「汝只解塑性,不解佛性。」師舒手摩方辯頂,曰:「永為人天福田。」
師一日欲濯所授之衣、而無美泉、因至寺後五里許、見山林鬱茂、瑞氣盤旋。師振錫卓地、泉應手而出、積以為池、乃跪膝浣衣石上。忽有一僧來禮拜云、「方辯是西蜀人、昨於南天竺國見達磨大師、囑方辯速往唐土。吾傳大迦葉正法眼藏及僧伽梨、見傳六代於韶州曹溪、汝去瞻禮。方辯遠來、願見我師傳來衣鉢。」師乃出示。次問、「上人攻何事業。」曰、「善塑。」師正色曰、「汝試塑看。」辯罔措。過數日、塑就真相、可高七寸、曲盡其妙。師笑曰、「汝只解塑性、不解佛性。」師舒手摩方辯頂曰、「永為人天福田。」
(師仍以衣酬之。辯取衣分為三,一披塑像,一自留,一用椶裹瘞地中。誓曰:「後得此衣,乃吾出世,住持於此,重建殿宇。」宋嘉祐八年,有僧惟先,修殿掘地,得衣如新。像在高泉寺,祈禱輒應)。
(師仍以衣酬之。辯取衣分為三、一披塑像、一自留、一用椶裹瘞地中。誓曰、「後得此衣、乃吾出世、住持於此、重建殿宇。」宋嘉祐八年、有僧惟先修殿掘地、得衣如新。像在高泉寺、祈禱輒應。)
有僧舉臥輪禪師偈曰:
有僧舉卧輪禪師偈曰、
「臥輪有伎倆,能斷百思想,
卧輪有伎倆、能斷百思想。
對境心不起,菩提日日長。」
對境心不起、菩提日日長。」
師聞之,曰:「此偈未明心地,若依而行之,是加繫縛。」因示一偈曰:
師聞之曰、「此偈未明心地。若依而行之、是加繫縛。」因示一偈曰、
「惠能沒伎倆,不斷百思想,
惠能没伎倆、不斷百思想。
對境心數起,菩提作麼長。」
對境心數起、菩提作麼長。」
頓漸第八
頓漸第八
時,祖師居曹溪寶林,神秀大師在荊南玉泉寺。於時兩宗盛化,人皆稱南能北秀,故有南北二宗頓漸之分,而學者莫知宗趣。師謂眾曰:「法本一宗,人有南北。法即一種,見有遲疾。何名頓漸?法無頓漸,人有利鈍,故名頓漸。」然秀之徒眾,往往譏南宗祖師,不識一字,有何所長。秀曰:「他得無師之智,深悟上乘。吾不如也。且吾師五祖,親傳衣法。豈徒然哉!吾恨不能遠去親近,虛受國恩。汝等諸人,毋滯於此,可往曹溪參決。」一日,命門人志誠曰:「汝聰明多智,可為吾到曹溪聽法。若有所聞,盡心記取,還為吾說。」志誠稟命至曹溪,隨眾參請,不言來處。時祖師告眾曰:「今有盜法之人,潛在此會。」志誠即出禮拜,具陳其事。師曰:「汝從玉泉來,應是細作。」對曰:「不是。」師曰:「何得不是?」對曰:「未說即是,說了不是。」師曰:「汝師若為示眾?」對曰:「常指誨大眾,住心觀靜,長坐不臥。」師曰:「住心觀靜,是病非禪;長坐拘身,於理何益?聽吾偈曰:
時祖師居曹溪寶林、神秀大師在荆南玉泉寺。于時兩宗盛化、人皆稱南能北秀、故有南北二宗頓漸之分、而學者莫知宗趣。師謂衆曰、「法本一宗、人有南北。法即一種、見有遲疾。何名頓漸。法無頓漸、人有利鈍、故名頓漸。」然秀之徒衆往往譏南宗祖師、不識一字、有何所長。秀曰、「他得無師之智、深悟上乘、吾不如也。且吾師五祖親傳衣法、豈徒然哉。吾恨不能遠去親近、虚受國恩。汝等諸人毋滯於此、可往曹溪參決。」一日命門人志誠曰、「汝聰明多智、可為吾到曹溪聽法。若有所聞、盡心記取、還為吾説。」志誠稟命至曹溪、隨衆參請、不言來處。時祖師告衆曰、「今有盜法之人、潛在此會。」志誠即出禮拜、具陳其事。師曰、「汝從玉泉來、應是細作。」對曰、「不是。」師曰、「何得不是。」對曰、「未説即是、説了不是。」師曰、「汝師若為示衆。」對曰、「常指誨大衆、住心觀淨、長坐不卧。」師曰、「住心觀淨、是病非禪。長坐拘身、於理何益。聽吾偈曰、
「生來坐不臥,死去臥不坐,
生來坐不卧、死去卧不坐。
一具臭骨頭,何為立功課?」
元是臭骨頭、何為立功過。」
志誠再拜曰:「弟子在秀大師處學道九年,不得契悟。今聞和尚一說,便契本心。弟子生死事大,和尚大慈,更為教示。」師云:「吾聞汝師教示學人戒定慧法,未審汝師說戒定慧行相如何?與吾說看。」誠曰:「秀大師說,諸惡莫作名為戒,諸善奉行名為慧,自淨其意名為定。彼說如此,未審和尚以何法誨人?」師曰:「吾若言有法與人,即為誑汝。但且隨方解縛,假名三昧。如汝師所說戒定慧,實不可思議。吾所見戒定慧又別。」志誠曰:「戒定慧只合一種,如何更別?」師曰:「汝師戒定慧接大乘人,吾戒定慧接最上乘人。悟解不同,見有遲疾。汝聽吾說,與彼同否?吾所說法,不離自性。離體說法,名為相說,自性常迷。須知一切萬法,皆從自性起用,是真戒定慧法。聽吾偈曰:
志誠再拜曰、「弟子在秀大師處學道九年、不得契悟。今聞和尚一説、便契本心。弟子生死事大、和尚大慈、更為教示。」師曰、「吾聞汝師教示學人戒定慧法、未審汝師説戒定慧行相如何。與吾説看。」誠曰、「秀大師説、諸惡莫作名為戒、諸善奉行名為慧、自淨其意名為定。彼説如此、未審和尚以何法誨人。」師曰、「吾若言有法與人、即為誑汝。但且隨方解縛、假名三昧。如汝師所説戒定慧、實不可思議。吾所見戒定慧又別。」志誠曰、「戒定慧只合一種、如何更別。」師曰、「汝師戒定慧接大乘人、吾戒定慧接最上乘人。悟解不同、見有遲疾。汝聽吾説、與彼同否。吾所説法、不離自性。離體説法、名為相説、自性常迷。須知一切萬法皆從自性起用、是真戒定慧法。聽吾偈曰、
「心地無非自性戒,心地無痴自性慧,
心地無非自性戒、心地無癡自性慧。
心地無亂自性定,不增不減自金剛,
心地無亂自性定、不增不減自金剛。
身去身來本三昧。」
身來身去本三昧。」
誠聞偈,悔謝,乃呈一偈曰:
誠聞偈悔謝、乃呈一偈曰、
「五蘊幻身,幻何究竟?迴趣真如,
五蘊幻身、幻何究竟。
法還不淨。」
囘趣真如、法還不淨。」
師然之,復語誠曰:「汝師戒定慧,勸小根智人;吾戒定慧,勸大根智人。若悟自性,亦不立菩提涅槃,亦不立解脫知見。無一法可得,方能建立萬法。若解此意,亦名佛身,亦名菩提涅槃,亦名解脫知見。見性之人,立亦得、不立亦得,去來自由,無滯無礙,應用隨作,應語隨答,普見化身,不離自性,即得自在神通遊戲三昧,是名見性。」志誠再啟師曰:「如何是不立義?」師曰:「自性無非、無痴無亂,念念般若觀照,常離法相,自由自在,縱橫盡得,有何可立?自性自悟,頓悟頓修,亦無漸次,所以不立一切法。諸法寂滅,有何次第?」志誠禮拜,願為執侍,朝夕不懈(誠吉州太和人也)。
師然之。復語誠曰、「汝師戒定慧、勸小根智人。吾戒定慧、勸大根智人。若悟自性、亦不立菩提涅槃、亦不立解脫知見。無一法可得、方能建立萬法。若解此意、亦名佛身、亦名菩提涅槃、亦名解脫知見。見性之人、立亦得、不立亦得。去來自由、無滯無碍。應用隨作、應語隨答。普見化身、不離自性。即得自在神通、遊戲三昧。是名見性。」志誠再問、「如何是不立義。」師曰、「自性無非、無癡、無亂、念念般若觀照、常離法相、自由自在、縱横盡得、有何可立。自性自悟、頓悟頓修、亦無漸次。所以不立一切法。諸法寂滅、有何次第。」志誠禮拜、願為執侍、朝夕不懈。(誠吉州太和人也。)
僧志徹,江西人,本姓張,名行昌,少任俠。自南北分化,二宗主雖亡彼我,而徒侶競起愛憎。時北宗門人,自立秀師為第六祖,而忌祖師傳衣為天下聞,乃囑行昌來刺師。師心通,預知其事,即置金十兩於座間。時夜暮,行昌入祖室,將欲加害。師舒頸就之,行昌揮刃者三,悉無所損。師曰:「正劍不邪,邪劍不正。只負汝金,不負汝命。」行昌驚僕,久而方蘇,求哀悔過,即願出家。師遂與金,言:「汝且去,恐徒眾翻害於汝。汝可他日易形而來,吾當攝受。」行昌稟旨宵遁。後投僧出家,具戒精進。一日,憶師之言,遠來禮覲。師曰:「吾久念汝,汝來何晚?」曰:「昨蒙和尚捨罪,今雖出家苦行,終難報德,其惟傳法度生乎?弟子常覽《涅槃經》,未曉常無常義。乞和尚慈悲,略為解說。」師曰:「無常者,即佛性也。有常者,即一切善惡諸法分別心也。」曰:「和尚所說,大違經文。」師曰:「吾傳佛心印,安敢違於佛經?」曰:「經說佛性是常;和尚卻言無常。善惡之法乃至菩提心,皆是無常;和尚卻言是常。此即相違,令學人轉加疑惑。」師曰:「《涅槃經》吾昔聽尼無盡藏讀誦一遍,便為講說,無一字一義不合經文。乃至為汝,終無二說。」曰:「學人識量淺昧,願和尚委曲開示。」師曰:「汝知否?佛性若常,更說什麼善惡諸法,乃至窮劫無有一人發菩提心者;故吾說無常,正是佛說真常之道也。又,一切諸法若無常者,即物物皆有自性,容受生死,而真常性有不遍之處。故吾說常者,正是佛說真無常義。佛比為凡夫、外道執於邪常,諸二乘人於常計無常,共成八倒,故於《涅槃》了義教中,破彼偏見,而顯說真常、真樂、真我、真淨。汝今依言背義,以斷滅無常及確定死常,而錯解佛之圓妙最後微言。縱覽千遍,有何所益?」行昌忽然大悟,說偈曰:
僧志徹、江西人、本姓張、名行昌、少任俠。自南北分化、二宗主雖亡彼我、而徒侶競起愛憎。時北宗門人自立秀師為第六祖、而忌祖師傳衣為天下聞、乃囑行昌來刺師。師心通、預知其事、即置金十兩於座間。時夜暮、行昌入祖室、將欲加害。師舒頸就之、行昌揮刃者三、悉無所損。師曰、「正劍不邪、邪劍不正。只負汝金、不負汝命。」行昌驚仆、久而方蘇、求哀悔過、即願出家。師遂與金曰、「汝且去、恐徒衆翻害於汝。汝可他日易形而來、吾當攝受。」行昌稟旨宵遁。後投僧出家、具戒精進。一日憶師之言、遠來禮覲。師曰、「吾久念汝、汝來何晚。」曰、「昨蒙和尚捨罪、今雖出家苦行、終難報德、其惟傳法度生乎。弟子常覽《涅槃經》、未曉常無常義、乞和尚慈悲、略為解説。」師曰、「無常者、即佛性也。有常者、即一切善惡諸法分別心也。」曰、「和尚所説、大違經文。」師曰、「吾傳佛心印、安敢違於佛經。」曰、「經説佛性是常、和尚却言無常。善惡諸法乃至菩提心皆是無常、和尚却言是常。此即相違、令學人轉加疑惑。」師曰、「《涅槃經》、吾昔聽尼無盡藏讀誦一遍、便為講説、無一字一義不合經文。乃至為汝、終無二説。」曰、「學人識量淺昧、願和尚委曲開示。」師曰、「汝知否。佛性若常、更説什麼善惡諸法、乃至窮劫無有一人發菩提心者。故吾説無常、正是佛説真常之道也。又一切諸法若無常者、即物物皆有自性、容受生死、而真常性有不遍之處。故吾説常者、正是佛説真無常義。佛比為凡夫外道執於邪常、諸二乘人於常計無常、共成八倒。故於涅槃了義教中、破彼偏見、而顯説真常真樂真我真淨。汝今依言背義、以斷滅無常及確定死常、而錯解佛之圓妙最後微言。縱覽千遍、有何所益。」行昌忽然大悟、説偈曰、
「因守無常心,佛說有常性,
因守無常心、佛説有常性。
不知方便者,猶春池拾礫。
不知方便者、猶春池拾礫。
我今不施功,佛性而現前,
我今不施功、佛性而現前。
非師相授與,我亦無所得。」
非師相授與、我亦無所得。」
師曰:「汝今徹也,宜名志徹。」徹禮謝而退。
師曰、「汝今徹也、宜名志徹。」徹禮謝而退。
有一童子,名神會,襄陽高氏子。年十三,自玉泉來參禮。師曰:「知識遠來艱辛,還將得本來否?若有本則合識主。試說看。」會曰:「以無住為本,見即是主。」師曰:「這沙彌爭合取次語?」會乃問曰:「和尚坐禪,還見不見?」師以柱杖打三下,云:「吾打汝痛不痛?」對曰:「亦痛亦不痛。」師曰:「吾亦見亦不見。」神會問:「如何是亦見亦不見?」師云:「吾之所見,常見自心過愆,不見他人是非好惡,是以亦見亦不見。汝言:『亦痛亦不痛。』如何?汝若不痛,同其木石;若痛,則同凡夫,即起恚恨。汝向前見、不見是二邊,痛、不痛是生滅。汝自性且不見,敢爾弄人!」神會禮拜悔謝。師又曰:「汝若心迷不見,問善知識覓路。汝若心悟,即自見性依法修行。汝自迷不見自心,卻來問吾見與不見。吾見自知,豈代汝迷?汝若自見,亦不代吾迷。何不自知自見,乃問吾見與不見?」神會再禮百餘拜,求謝過愆。服勤給侍,不離左右。
有一童子名神會、襄陽高氏子。年十三、自玉泉來參禮。師曰、「知識遠來艱辛、還將得本來否。若有本則合識主、試説看。」會曰、「以無住為本、見即是主。」師曰、「這沙彌爭合取次語。」會乃問曰、「和尚坐禪、還見不見。」師以柱杖打三下、云、「吾打汝痛不痛。」對曰、「亦痛亦不痛。」師曰、「吾亦見亦不見。」神會問、「如何是亦見亦不見。」師云、「吾之所見、常見自心過愆、不見他人是非好惡、是以亦見亦不見。汝言亦痛亦不痛如何。汝若不痛、同其木石。若痛、則同凡夫、即起恚恨。汝向前見不見是二邊、痛不痛是生滅。汝自性且不見、敢爾弄人。」神會禮拜悔謝。師又曰、「汝若心迷不見、問善知識覓路。汝若心悟、即自見性、依法修行。汝自迷不見自心、却來問吾見與不見。吾見自知、豈代汝迷。汝若自見、亦不代吾迷。何不自知自見、乃問吾見與不見。」神會再禮百餘拜、求謝過愆、服勤給侍、不離左右。
一日,師告眾曰:「吾有一物,無頭無尾,無名無字,無背無面。諸人還識否?」神會出曰:「是諸佛之本源,神會之佛性。」師曰:「向汝道:『無名無字』,汝便喚作本源佛性。汝向去有把茆蓋頭,也只成箇知解宗徒。」祖師滅後,會入京洛,大弘曹溪頓教,著《顯宗記》,盛行於世(是為荷澤禪師)。
一日師告衆曰、「吾有一物、無頭無尾、無名無字、無背無面。諸人還識否。」神會出曰、「是諸佛之本源、神會之佛性。」師曰、「向汝道無名無字、汝便喚作本源佛性。汝向去有把茆蓋頭、也只成箇知解宗徒。」祖師滅後、會入京洛、大弘曹溪頓教、著《顯宗記》、盛行於世。(是為荷澤禪師。)
師見諸宗難問鹹起惡心,多集座下愍而謂曰:「學道之人,一切善念惡念應當盡除。無名可名,名於自性,無二之性,是名實性。於實性上建立一切教門,言下便須自見。」諸人聞說,總皆作禮,請事為師。
師見諸宗難問、咸起惡心、多集座下。愍而謂曰、「學道之人、一切善念惡念應當盡除。無名可名、名於自性。無二之性、是名實性。於實性上建立一切教門、言下便須自見。」諸人聞説、總皆作禮、請事為師。
宣詔第九
宣詔第九
神龍元年上元日,則天、中宗詔云:「朕請安、秀二師宮中供養。萬機之暇,每究一乘。二師推讓云:『南方有能禪師,密授忍大師衣法,傳佛心印,可請彼問。』今遣內侍薛簡,馳詔迎請,願師慈念,速赴上京。」師上表辭疾,願終林麓。薛簡曰:「京城禪德皆云:『欲得會道,必須坐禪習定。若不因禪定而得解脫者,未之有也。』未審師所說法如何?」師曰:「道由心悟,豈在坐也。經云:『若言如來若坐若臥,是行邪道。』何故?無所從來,亦無所去。無生無滅,是如來清淨禪。諸法空寂,是如來清淨坐。究竟無證,豈況坐耶。」簡曰:「弟子回京,主上必問。願師慈悲,指示心要,傳奏兩宮及京城學道者。譬如一燈,然百千燈,冥者皆明,明明無盡。」師云:「道無明暗,明暗是代謝之義。明明無盡,亦是有盡,相待立名故。《淨名經》云:『法無有比,無相待故。』」簡曰:「明喻智慧,暗喻煩惱。修道之人,倘不以智慧照破煩惱,無始生死憑何出離?」師曰:「煩惱即是菩提,無二無別。若以智慧照破煩惱者,此是二乘見解。羊鹿等機,上智大根,悉不如是。」簡曰:「如何是大乘見解?」師曰:「明與無明,凡夫見二;智者了達,其性無二。無二之性,即是實性。實性者,處凡愚而不減,在賢聖而不增,住煩惱而不亂,居禪定而不寂。不斷不常,不來不去,不在中間及其內外,不生不滅,性相如如,常住不遷,名之曰道。」簡曰:「師說不生不滅,何異外道?」師曰:「外道所說不生不滅者,將滅止生,以生顯滅,滅猶不滅,生說不生。我說不生不滅者,本自無生,今亦不滅,所以不同外道。汝若欲知心要,但一切善惡都莫思量,自然得入清淨心體,湛然常寂,妙用恆沙。」簡蒙指教,豁然大悟。禮辭歸闕,表奏師語。
神龍元年上元日、則天中宗詔云、「朕請安秀二師宮中供養、萬機之暇、每究一乘。二師推讓云、南方有能禪師、密授忍大師衣法、傳佛心印、可請彼問。今遣内侍薛簡、馳詔迎請、願師慈念、速赴上京。」師上表辭疾、願終林麓。薛簡曰、「京城禪德皆云、欲得會道、必須坐禪習定。若不因禪定而得解脫者、未之有也。未審師所説法如何。」師曰、「道由心悟、豈在坐也。經云、若言如來若坐若卧、是行邪道。何故。無所從來、亦無所去。無生無滅、是如來清淨禪。諸法空寂、是如來清淨坐。究竟無證、豈況坐耶。」簡曰、「弟子囘京、主上必問。願師慈悲、指示心要、傳奏兩宮及京城學道者。譬如一燈燃百千燈、冥者皆明、明明無盡。」師云、「道無明暗、明暗是代謝之義。明明無盡、亦是有盡、相待立名故。《淨名經》云、法無有比、無相待故。」簡曰、「明喻智慧、暗喻煩惱。修道之人、儻不以智慧照破煩惱、無始生死憑何出離。」師曰、「煩惱即是菩提、無二無別。若以智慧照破煩惱者、此是二乘見解、羊鹿等機。上智大根、悉不如是。」簡曰、「如何是大乘見解。」師曰、「明與無明、凡夫見二。智者了達、其性無二。無二之性、即是、即是實性。實性者、處凡愚而不減、在賢聖而不增、住煩惱而不亂、居禪定而不寂。不斷不常、不來不去、不在中間及其内外、不生不滅、性相如如、常住不遷、名之曰道。」簡曰、「師説不生不滅、何異外道。」師曰、「外道所説不生不滅者、將滅止生、以生顯滅、滅猶不滅、生説不生。我説不生不滅者、本自無生、今亦不滅、所以不同外道。汝若欲知心要、但一切善惡都莫思量、自然得入清淨心體、湛然常寂、妙用恒沙。」簡蒙指教、豁然大悟、禮辭歸闕、表奏師語。
其年九月三日,有詔獎諭師曰:「師辭老疾,為朕修道,國之福田。師若淨名託疾毘耶,闡揚大乘,傳諸佛心,談不二法。薛簡傳師指授如來知見,朕積善餘慶,宿種善根,值師出世,頓悟上乘。感荷師恩,頂戴無已,並奉磨衲袈裟及水晶缽,勅韶州刺史修飾寺宇,賜師舊居為國恩寺。」
其年九月三日、有詔奬諭師曰、「師辭老疾、為朕修道、國之福田。師若淨名托疾毗耶、闡揚大乘、傳諸佛心、談不二法。薛簡傳師指授如來知見、朕積善餘慶、宿種善根、值師出世、頓悟上乘。感荷師恩、頂戴無已、并奉磨衲袈裟及水晶鉢、勅韶州刺史修飾寺宇、賜師舊居為國恩寺。」
付囑第十
付囑第十
師一日喚門人法海、志誠、法達、神會、智常、智通、志徹、志道、法珍、法如等,曰:「汝等不同餘人,吾滅度後,各為一方師。吾今教汝說法,不失本宗:先須舉三科法門,動用三十六對,出沒即離兩邊。說一切法,莫離自性。忽有人問汝法,出語盡雙,皆取對法,來去相因。究竟二法盡除,更無去處。三科法門者,陰、界、入也。陰是五陰——色、受、想、行、識是也。入是十二入,外六塵——色、聲、香、味、觸、法;內六門——眼、耳、鼻、舌、身、意是也。界是十八界,六塵、六門、六識是也。自性能含萬法,名含藏識。若起思量,即是轉識。生六識,出六門,見六塵。如是一十八界,皆從自性起用。自性若邪,起十八邪;自性若正,起十八正。若惡用即眾生用,善用即佛用。用由何等?由自性有,對法外境。無情五對:天與地對,日與月對,明與暗對,陰與陽對,水與火對;此是五對也。法相語言十二對:語與法對,有與無對,有色與無色對,有相與無相對,有漏與無漏對,色與空對,動與靜對,清與濁對,凡與聖對,僧與俗對,老與少對,大與小對;此是十二對也。自性起用十九對:長與短對,邪與正對,痴與慧對,愚與智對,亂與定對,慈與毒對,戒與非對,直與曲對,實與虛對,險與平對,煩惱與菩提對,常與無常對,悲與害對,喜與瞋對,捨與慳對,進與退對,生與滅對,法身與色身對,化身與報身對;此是十九對也。」師言:「此三十六對法,若解用即道,貫一切經法,出入即離兩邊。自性動用,共人言語,外於相離相,內於空離空。若全著相,即長邪見;若全執空,即長無明。執空之人有謗經,直言不用文字。既雲不用文字,人亦不合語言。只此語言,便是文字之相。又云:『直道不立文字。』即此不立兩字,亦是文字。見人所說,便即謗他言著文字。
師一日喚門人法海、志誠、法達、神會、智常、智通、志徹、志道、法珍、法如等曰、「汝等不同餘人、吾滅度後、各為一方師。吾今教汝説法、不失本宗。先須舉三科法門、動用三十六對、出沒即離兩邊。説一切法、莫離自性。忽有人問汝法、出語盡雙、皆取對法、來去相因、究竟二法盡除、更無去處。三科法門者、陰界入也。陰是五陰、色受想行識是也。入是十二入、外六塵、色聲香味觸法、内六門、眼耳鼻舌身意是也。界是十八界、六塵六門六識是也。自性能含萬法、名含藏識。若起思量、即是轉識。生六識、出六門、見六塵。如是一十八界、皆從自性起用。自性若邪、起十八邪。自性若正、起十八正。若惡用、即衆生用。善用、即佛用。用由何等、由自性有對法、外境無情五對。天與地對、日與月對、明與暗對、陰與陽對、水與火對、此是五對也。法相語言十二對。語與法對、有與無對、有色與無色對、有相與無相對、有漏與無漏對、色與空對、動與靜對、清與濁對、凡與聖對、僧與俗對、老與少對、大與小對、此是十二對也。自性起用十九對。長與短對、邪與正對、癡與慧對、愚與智對、亂與定對、慈與毒對、戒與非對、直與曲對、實與虚對、險與平對、煩惱與菩提對、常與無常對、悲與害對、喜與瞋對、捨與慳對、進與退對、生與滅對、法身與色身對、化身與報身對、此是十九對也。」師曰、「此三十六對法、若解用即道、貫一切經法、出入即離兩邊。自性動用、共人言語、外於相離相、内於空離空。若全著相、即長邪見。若全執空、即長無明。執空之人有謗經、直言不用文字。既云不用文字、人亦不合語言。只此語言、便是文字之相。又云、直道不立文字。即此不立兩字、亦是文字。見人所説、便即謗他言著文字。
汝等須知,自迷猶可,又謗佛經。不要謗經,罪障無數。若著相於外,而作法求真;或廣立道場,說有無之過患。如是之人,累劫不得見性。但聽依法修行,又莫百物不思,而於道性窒礙。若聽說不修,令人反生邪念。但依法修行,無住相法施。汝等若悟,依此說、依此用、依此行、依此作,即不失本宗。若有人問汝義,問有將無對,問無將有對,問凡以聖對,問聖以凡對。二道相因,生中道義。如一問一對,餘問一依此作,即不失理也。設有人問:『何名為闇?』答云:『明是因,闇是緣,明沒即闇。』以明顯闇,以闇顯明,來去相因,成中道義。餘問悉皆如此。汝等於後傳法,依此轉相教授,勿失宗旨。」
(大師続けて)汝等須知、自迷猶可、又謗佛經。不要謗經、罪障無數。若著相於外而作法求真、或廣立道場説有無之過患、如是之人累劫不可見性。但聽依法修行、又莫百物不思而於道性窒碍。若聽説不修、令人反生邪念。但依法修行、無住相法施。汝等若悟、依此説、依此用、依此行、依此作、即不失本宗。若有人問汝義、問有將無對、問無將有對、問凡以聖對、問聖以凡對。二道相因、生中道義。如一問一對、餘問一依此作、即不失理也。設有人問、何名為暗。答云、明是因、暗是緣、明没即暗。以明顯暗、以暗顯明、來去相因、成中道義。餘問悉皆如此。汝等於後傳法、依此轉相教授、勿失宗旨。」
師於太極元年壬子,延和七月(是年五月改延和,八月玄宗即位方改元先天,次年遂改開元。他本作先天者非)命門人往新州國恩寺建塔,仍令促工,次年夏末落成。七月一日,集徒眾曰:「吾至八月,欲離世間。汝等有疑,早須相問,為汝破疑,令汝迷盡。吾若去後,無人教汝。」法海等聞,悉皆涕泣。惟有神會,神情不動,亦無涕泣。師云:「神會小師卻得善不善等,毀譽不動,哀樂不生;餘者不得。數年山中竟修何道?汝今悲泣,為憂阿誰?若憂吾不知去處,吾自知去處。吾若不知去處,終不預報於汝。汝等悲泣,蓋為不知吾去處;若知吾去處,即不合悲泣。法性本無生滅去來,汝等盡坐,吾與汝說一偈,名曰真假動靜偈。汝等誦取此偈,與吾意同,依此修行,不失宗旨。」眾僧作禮,請師說偈。偈曰:
師於太極元年壬子(是歳五月改元延和、八月玄宗即位方改先天、次年遂改開元。他本作先天者非)七月、命門人往新州國恩寺建塔、仍令促工、次年夏末落成。七月一日集徒衆曰、「吾至八月欲離世間。汝等有疑、早須相問、為汝破疑、令汝迷盡。吾若去後、無人教汝。」法海等聞、悉皆涕泣。惟有神會神情不動、亦無涕泣。師云、「神會小師、却得善不善等、毀譽不動、哀樂不生。餘者不得。數年山中、竟修何道。汝今悲泣、蓋為不知吾去處。若知吾去處、即不合悲泣。法性本無生滅去來。汝等盡坐、吾與汝説一偈、名曰真假動靜偈。汝等誦取此偈、與吾意同。依此修行、不失宗旨。」衆僧作禮、請師説偈。偈曰、
「一切無有真,不以見於真,
一切無有真、不以見於真。
若見於真者,是見盡非真。
若見於真者、是見盡非真。
若能自有真,離假即心真,
若能自有真、離假即心真。
自心不離假,無真何處真?
自心不離假、無真何處真。
有情即解動,無情即不動,
有情即解動、無情即不動。
若修不動行,同無情不動。
若修不動行、同無情不動。
若覓真不動,動上有不動,
若覓真不動、動上有不動。
不動是不動,無情無佛種。
不動是不動、無情無佛種。
能善分別相,第一義不動,
能善分別相、第一義不動。
但作如此見,即是真如用。
但作如是見、即是真如用。
報諸學道人,努力須用意,
諸學道の人に報す。努力する時は須らく心を用いよ。
莫於大乘門,卻執生死智。
大乗門中に於いて、却って生死の知見を執著することなかれ。
若言下相應,即共論佛義;
言下に相應すれば、共に佛法の義理を討論せよ。
若實不相應,合掌令歡喜。
實に相應せざれば、合掌して彼をして歡喜して去らしめよ。
此宗本無諍,諍即失道意,
此の宗本來諍無し。諍えば即ち道の意を失う。
執逆諍法門,自性入生死。」
固く執て違逆し、此の法門を諍えば、自性便ち生死に入る。」
時,徒眾聞說偈已,普皆作禮,並體師意,各各攝心,依法修行,更不敢諍,乃知大師不久住世。法海上座,再拜問曰:「和尚入滅之後,衣法當付何人?」師曰:「吾於大梵寺說法,以至於今抄錄流行,目曰『法寶壇經』。汝等守護,遞相傳授。度諸群生,但依此說,是名正法。今為汝等說法,不付其衣。蓋為汝等信根淳熟,決定無疑,堪任大事。然據先祖達磨大師付授偈意,衣不合傳。偈曰:
その時徒衆は偈を聽き了り、皆禮を行い、並びに大師の意を體會し、各々心を攝して、法に依りて修行し、更に諍り敢へてせず、乃ち大師の世に久しく住まざるを知る。法海上座再拜問う、「和尚入滅後、衣法當に何人かに付すべき。」師曰、「吾が大梵寺説法より、以至于今日、抄録流行、目を《法寶壇經》と為す。汝等守護して、轉相傳授し、度諸羣生。但だ此に依って説かば、即是ち正法。今為汝等説法、不付衣。蓋し為に汝等信根淳熟、決定無疑、堪任大事。然先祖達磨大師付授偈意、衣不合傳。偈曰、
「『吾本來茲土,傳法救迷情,
吾本來茲土、傳法救迷情。
一華開五葉,結果自然成。』」
一花開五葉、結果自然成。」
師復曰:「諸善知識!汝等各各淨心,聽吾說法。若欲成就種智,須達一相三昧、一行三昧。若於一切處而不住相,於彼相中不生憎愛,亦無取捨,不念利益成壞等事,安閒恬靜,虛融澹泊,此名一相三昧。若於一切處行住坐臥,純一直心,不動道場,真成淨土,此名一行三昧。若人具二三昧,如地有種,含藏長養,成熟其實。一相一行,亦復如是。我今說法,猶如時雨,普潤大地。汝等佛性,譬諸種子,遇茲霑洽,悉得發生。承吾旨者,決獲菩提。依吾行者,定證妙果。聽吾偈曰:
師又曰、「諸善知識!汝等各去、隨方教化、莫失宗旨。汝等各淨其心、聽吾説法。若欲成就種智、須達一相三昧、一行三昧。若於一切處而不住相、於彼相中不生憎愛、亦無取捨、不念利益成壞等事、安閑恬靜、虚融澹泊、此名一相三昧。若於一切處行住坐臥、純一直心、不動道場、真成淨土、此名一行三昧。若人具二三昧、如地有種、含藏長養、成熟其實。一相一行、亦復如是。我今説法、猶如時雨、普潤大地。汝等佛性、譬諸種子、遇茲霑洽、悉得發生。承吾旨者、決獲菩提。依吾行者、定證妙果。聽吾偈曰、
「心地含諸種,普雨悉皆萌,
心地含諸種、普雨悉皆萌。
頓悟華情已,菩提果自成。」
頓悟花情已、菩提果自成。」
師說偈已,曰:「其法無二,其心亦然。其道清淨,亦無諸相,汝等慎勿觀靜及空其心。此心本淨,無可取捨。各自努力,隨緣好去。」爾時徒眾作禮而退。
師説偈已、曰、「其法無二、其心亦然。其道清淨、亦無諸相。汝等慎勿觀靜及空其心。此心本淨、無可取捨。各自努力、隨緣好去。」爾時徒衆作禮而退。
大師,七月八日忽謂門人曰:「吾欲歸新州,汝等速理舟楫。」大眾哀留甚堅。師曰:「諸佛出現,猶示涅槃。有來必去,理亦常然。吾此形骸,歸必有所。」眾曰:「師從此去,早晚可回。」師曰:「葉落歸根,來時無口。」又問曰:「正法眼藏,傳付何人?」師曰:「有道者得,無心者通。」又問:「後莫有難否?」師曰:「吾滅後五六年,當有一人來取吾首。聽吾記曰:『頭上養親,口裡須餐,遇滿之難,楊柳為官。』」又云:「吾去七十年,有二菩薩從東方來,一齣家、一在家。同時興化,建立吾宗,締緝伽藍,昌隆法嗣。」問曰:「未知從上佛祖應現已來,傳授幾代?願垂開示。」師云:「古佛應世已無數量,不可計也。今以七佛為始,過去莊嚴劫,毘婆屍佛、屍棄佛、毘舍浮佛;今賢劫,拘留孫佛、拘那含牟尼佛、迦葉佛、釋迦文佛。是為七佛。
大師七月八日忽謂門人曰、「吾欲歸新州、汝等速理舟楫。」大衆哀留甚堅。師曰、「諸佛出現、猶示涅槃。有來必去、理亦常然。吾此形骸、歸必有所。」衆曰、「師從此去、早晚可回。」師曰、「葉落歸根、來時無口。」又問曰、「正法眼藏、傳付何人。」師曰、「有道者得、無心者通。」又問、「後莫有難否。」師曰、「吾滅後五六年、當有一人來取吾首。聽吾記曰、頭上養親、口裡須餐、遇滿之難、楊柳爲官。」又云、「吾去七十年、有二菩薩從東方來、一出家、一在家、同時興化、建立吾宗、締緝伽藍、昌隆法嗣。」問曰、「未知從上佛祖應現已來、傳授幾代。願垂開示。」師云、「古佛應世、已無數量、不可計也。今以七佛為始。過去莊嚴劫、毘婆尸佛、尸棄佛、毘舍浮佛。今賢劫、拘留孫佛、拘那含牟尼佛、迦葉佛、釋迦文佛。是為七佛。
「已上七佛,今以釋迦文佛首傳。
「已上七佛、今以釋迦文佛首傳。
「第一摩訶迦葉尊者、第二阿難尊者、第三商那和修尊者、第四優波毱多尊者、第五提多迦尊者、第六彌遮迦尊者、第七婆須蜜多尊者、第八佛馱難提尊者、第九伏馱蜜多尊者、第十脇尊者、十一富那夜奢尊者、十二馬鳴大士、十三迦毘摩羅尊者、十四龍樹大士、十五迦那提婆尊者、十六羅睺羅多尊者、十七僧伽難提尊者、十八伽耶舍多尊者、十九鳩摩羅多尊者、二十闍耶多尊者、二十一婆修盤頭尊者、二十二摩拏羅尊者、二十三鶴勒那尊者、二十四師子尊者、二十五婆舍斯多尊者、二十六不如蜜多尊者、二十七般若多羅尊者、二十八菩提達磨尊者(此土是為初祖)、二十九慧可大師、三十僧璨大師、三十一道信大師、三十二弘忍大師。
「第一摩訶迦葉尊者、第二阿難尊者、第三商那和修尊者、第四優波毱多尊者、第五提多迦尊者、第六彌遮迦尊者、第七婆須蜜多尊者、第八佛馱難提尊者、第九伏馱蜜多尊者、第十脇尊者、十一富那夜奢尊者、十二馬鳴大士、十三迦毘摩羅尊者、十四龍樹大士、十五迦那提婆尊者、十六羅睺羅多尊者、十七僧伽難提尊者、十八伽耶舍多尊者、十九鳩摩羅多尊者、二十闍耶多尊者、二十一婆修槃頭尊者、二十二摩拏羅尊者、二十三鶴勒那尊者、二十四師子尊者、二十五婆舍斯多尊者、二十六不如蜜多尊者、二十七般若多羅尊者、二十八菩提達磨尊者(此土是爲初祖)、二十九慧可大師、三十僧璨大師、三十一道信大師、三十二弘忍大師。
「惠能是為三十三祖。從上諸祖,各有稟承。汝等向後,遞代流傳毋令乖誤。」
「惠能是爲三十三祖。從上諸祖、各有稟承。汝等向後、遞代流傳、毋令乖悮。」
大師,先天二年癸丑歲八月初三日(是年十二月改元開元),於國恩寺齋罷,謂諸徒眾曰:「汝等各依位坐,吾與汝別。」法海白言:「和尚!留何教法,令後代迷人得見佛性?」師言:「汝等諦聽!後代迷人,若識眾生,即是佛性;若不識眾生,萬劫覓佛難逢。吾今教汝。識自心眾生,見自心佛性。欲求見佛,但識眾生。只為眾生迷佛,非是佛迷眾生。自性若悟,眾生是佛;自性若迷,佛是眾生。自性平等,眾生是佛;自性邪險,佛是眾生。汝等心若險曲,即佛在眾生中;一念平直。即是眾生成佛。我心自有佛,自佛是真佛。自若無佛心,何處求真佛?汝等自心是佛,更莫狐疑。外無一物而能建立,皆是本心生萬種法。故經云:『心生種種法生,心滅種種法滅。』吾今留一偈與汝等別,名自性真佛偈。後代之人,識此偈意,自見本心,自成佛道。偈曰:
大師先天二年癸丑八月初三日(是年十二月改元開元)、於國恩寺齋罷、謂諸徒衆曰、「汝等各依位坐、吾與汝別。」法海曰、「和尚留何教法、令後代迷人得見佛性。」師言、「汝等諦聽。後代迷人、若識衆生、即是佛性。若不識衆生、萬劫覓佛難逢。吾今教汝、識自心衆生、見自心佛性。欲求見佛、但識衆生。只爲衆生迷佛、非是佛迷衆生。自性若悟、衆生是佛。自性若迷、佛是衆生。自性平等、衆生是佛。自性邪險、佛是衆生。汝等心若險曲、即佛在衆生中。一念平直、即是衆生成佛。我心自有佛、自佛是真佛。自若無佛心、何處求真佛。汝等自心是佛、更莫狐疑。外無一物而能建立、皆是本心生萬種法。故經云、心生種種法生、心滅種種法滅。吾今留一偈、與汝等別、名自性真佛偈。後代之人識此偈意、自見本心、自成佛道。偈曰、
「真如自性是真佛,邪見三毒是魔王,
真如自性是真佛、邪見三毒是魔王。
邪迷之時魔在舍,正見之時佛在堂。
邪迷之時魔在舍、正見之時佛在堂。
性中邪見三毒生,即是魔王來住舍,
性中邪見三毒生、即是魔王來住舍。
正見自除三毒心,魔變成佛真無假。
正見自除三毒心、魔變成佛真無假。
法身報身及化身,三身本來是一身,
法身報身及化身、三身本來是一身。
若向性中能自見,即是成佛菩提因。
若向性中能自見、即是成佛菩提因。
本從化身生淨性,淨性常在化身中,
本從化身生淨性、淨性常在化身中。
性使化身行正道,當來圓滿真無窮。
性使化身行正道、當來圓滿真無窮。
婬性本是淨性因,除婬即是淨性身,
婬性本是淨性因、除婬即是淨性身。
性中各自離五欲,見性剎那即是真。
性中各自離五欲、見性刹那即是真。
今生若遇頓教門,忽悟自性見世尊,
今生若遇頓教門、忽悟自性見世尊。
若欲修行覓作佛,不知何處擬求真?
若欲修行覓作佛、不知何處擬求真。
若能心中自見真,有真即是成佛因,
若能心中自見真、有真即是成佛因。
不見自性外覓佛,起心總是大痴人。
不見自性外覓佛、起心總是大癡人。
頓教法門今已留,救度世人須自修,
頓教法門今已留、救度世人須自修。
報汝當來學道者,不作此見大悠悠。」
報汝當來學道者、不作此見大悠悠。」
師說偈已,告曰:「汝等好住。吾滅度後,莫作世情悲泣雨淚,受人弔問、身著孝服,非吾弟子,亦非正法。但識自本心,見自本性,無動無靜,無生無滅,無去無來,無是無非,無住無往。恐汝等心迷,不會吾意,今再囑汝,令汝見性。吾滅度後,依此修行,如吾在日;若違吾教,縱吾在世,亦無有益。」復說偈曰:
師説偈了、告曰、「汝等好住。吾滅度後、莫作世情悲泣雨淚、受人弔問、身著孝服、非吾弟子、亦非正法。但識自本心、見自本性、無動無靜、無生無滅、無去無來、無是無非、無住無往。恐汝等心迷、不會吾意。今再囑汝、令汝見性。吾滅度後、依此修行、如吾在日。若違吾教、縱吾在世、亦無有益。」復説偈曰、
「兀兀不修善,騰騰不造惡,
兀兀不修善、騰騰不造惡。
寂寂斷見聞,蕩蕩心無著。」
寂寂斷見見聞、蕩蕩心無著。」
師說偈已,端坐至三更,忽謂門人曰:「吾行矣!」奄然遷化。於時異香滿室,白虹屬地,林木變白,禽獸哀鳴。十一月,廣韶新三郡官僚,洎門人僧俗,爭迎真身,莫決所之。乃焚香禱曰:「香煙指處,師所歸焉。」時香煙直貫曹溪。十一月十三日,遷神龕併所傳衣缽而回。次年七月出龕,弟子方辯以香泥上之,門人憶念取首之記,仍以鐵葉漆布固護師頸入塔。忽於塔內白光出現,直上沖天,三日始散。韶州奏聞,奉勅立碑,紀師道行。
師説偈已、端坐至三更、忽謂門人曰、「吾行矣。」奄然遷化。于時異香滿室、白虹屬地、林木變白、禽獸哀鳴。十一月、廣韶新三郡官僚洎門人僧俗、爭迎真身、莫決所之。乃焚香禱曰、「香煙指處、師所歸焉。」時香煙直貫曹溪。十一月十三日、遷神龕併所傳衣鉢而回。次年七月出龕、弟子方辯以香泥上之。門人憶念取首之記、仍以鐵葉漆布固護師頸入塔。忽於塔內白光出現、直上衝天、三日始散。韶州奏聞、奉敕立碑、紀師道行。
師春秋七十有六,年二十四傳衣,三十九祝髮,說法利生三十七載,嗣法四十三人,悟道超凡者莫知其數。達磨所傳信衣(西域屈眴布也),中宗賜磨衲寶缽,及方辯塑師真相,並道具,永鎮寶林道場。留傳《壇經》以顯宗旨,興隆三寶,普利群生者。
師春秋七十有六、年二十四傳衣、三十九祝髮、説法利生三十七載、嗣法四十三人、悟道超凡者莫知其數。達磨所傳信衣(西域屈眴布也)、中宗賜磨衲寶鉢及方辯塑師真相并道具、永鎮寶林道場。留傳《壇經》、以顯宗旨、興隆三寶、普利羣生者。
六祖大師法寶壇經(終)
六祖大師法寶壇經(終)
附錄
附錄
六祖大師緣起外紀
以下は《六祖大師縁起外紀》、六祖の生平の外傳を記す。
門人法海等集
門人法海等が編集したもの。
大師名惠能,父盧氏,諱行瑫,唐武德三年九月,左官新州。母李氏,先夢庭前白華競發,白鶴雙飛,異香滿室,覺而有娠。遂潔誠齋戒,懷姙六年師乃生焉,唐貞觀十二年戊戌歲二月八日子時也。時毫光騰空,香氣芬馥。黎明有二僧造謁,謂師之父曰:「夜來生兒,專為安名,可上惠下能也。」父曰:「何名惠能?」僧曰:「惠者以法惠濟眾生,能者能作佛事。」言畢而出,不知所之。師不飲母乳,遇夜神人灌以甘露。三歲父喪,葬於宅畔。母守志鞠養,既長鬻薪供母。年二十有四,聞經有省。往黃梅參禮,五祖器之,付衣法,令嗣祖位,時龍朔元年辛酉歲也。
大師は名を惠能といい、父は盧氏で名は行瑫、唐武德三年九月に新州に貶官された。母李氏は先に夢に、庭前に白花が競い咲き白鶴が雙飛し異香が室に滿つるを見て、覺めて身ごもった。ここに潔誠齋戒して、六年の懐胎を經て大師を生んだ。唐貞觀十二年戊戌の歳二月初八日子の時である。その時毫光が空に騰がり、香氣芬芬たり。明け方二人の僧が來り訪れて、大師の父に言った。「昨夜生まれた子は、我らが專ら名を與えん。上を惠とし下を能とすべし。」父が問うた。「何が故に惠能と云う。」僧曰く、「惠とは、法を惠施して衆生を濟度する。能とは、能く佛事を作す。」言い畢わりて出でて行き、何れの處にか知れず。師は母乳を食せず、夜ごと神人が甘露を灌ぐ。三歳にて父が亡くなり、宅の傍に葬った。母は寡守して育て、長じて薪を賣って母を養った。二十四歳の時、經を誦するを聞いて省悟し、黃梅に往き參禮す。五祖は彼を器として、衣法を付して嗣たらしめた。是れ龍朔元年辛酉の歳である。
南歸隱遯,至儀鳳元年丙子正月八日,會印宗法師詰論玄奧,印宗悟契師旨。是月十五日,普會四眾為師薙𩬊。二月八日,集諸名德授具足戒。西京智光律師為授戒師,蘇州慧靜律師為羯磨,荊州通應律師為教授,中天耆多羅律師為說戒,西國蜜多三藏為證戒。其戒壇乃宋朝求那跋陀羅三藏創建,立碑曰:「後當有肉身菩薩於此授戒。」又梁天監元年,智藥三藏自西竺國航海而來,將彼土菩提樹一株植此壇畔,亦預誌曰:「後一百七十年,有肉身菩薩,於此樹下開演上乘度無量眾,真傳佛心印之法主也。」師至是祝髮受戒,及與四眾開示單傳之旨,一如昔讖(梁天監元年壬午歲,至唐儀鳳元年丙子,得一百七十五年)。
南歸して隱遁し、儀鳳元年丙子正月初八に至り、印宗法師が玄奧を論難するに遇い、印宗は師の旨に契悟した。その月十五日、四衆を普く會して師のために祝髮した。二月初八日、諸名德を集めて具足戒を授けた。西京智光律師を授戒師とし、蘇州慧靜律師を羯磨とし、荆州通通應律師を敎授とし、中天耆多羅律師を説戒とし、西國蜜多三藏を證戒とした。その戒壇は宋朝の求那跋陀羅三藏の創建で、碑を立てて云く、「後當に肉身菩薩、於此に受戒あらん。」又、梁天監元年、智藥三藏が西天竺より航海して至り、彼方の菩提樹一株を持ち來り、戒壇の畔に植え、亦た預記して云く、「後一百七十年に、肉身菩薩此の樹の下に於いて開演上乘して、度無量衆生、真の傳佛心印之法主ならん。」師は此に至り祝髮受戒し、及び四衆と單傳の宗旨を開示す。一如往昔の讖言なり。(梁天監元年壬午歳より唐儀鳳元年丙子歳に至るまで、得一百七十五年。)
次年春,師辭眾歸寶林,印宗與緇白送者千餘人,直至曹溪。時荊州通應律師,與學者數百人依師而住。師至曹溪寶林,覩堂宇湫隘,不足容眾,欲廣之。遂謁里人陳亞仙曰:「老僧欲就檀越求坐具地,得不?」仙曰:「和尚坐具幾許闊?」祖出坐具示之,亞仙唯然。祖以坐具一展,盡罩曹溪四境,四天王現身坐鎮四方。今寺境有天王嶺,因茲而名。仙曰:「知和尚法力廣大,但吾高祖墳墓並在此地,他日造塔,幸望存留,餘願盡捨永為寶坊。然此地乃生龍白象來脈,只可平天,不可平地。」寺後營建,一依其言。師遊境內山水勝處,輒憩止,遂成蘭若一十三所。今曰華果院,隷籍寺門。其寶林道場,亦先是西國智藥三藏自南海經曹溪口,掬水而飲,香美,異之。謂其徒曰:「此水與西天之水無別,溪源上必有勝地,堪為蘭若。」隨流至源上,四顧山水回環,峰巒奇秀,歎曰:「宛如西天寶林山也。」乃謂曹侯村居民曰:「可於此山建一梵剎,一百七十年後,當有無上法寶於此演化,得道者如林,宜號寶林。」時韶州牧侯敬中,以其言具表聞奏,上可其請,賜寶林為額,遂成梵宮,落成於梁天監三年。寺殿前有潭一所,龍常出沒其間,觸橈林木。一日現形甚巨,波浪洶湧,雲霧陰翳,徒眾皆懼。師叱之曰:「爾只能現大身,不能現小身,若為神龍,當能變化以小現大、以大現小也。」其龍忽沒,俄頃復現小身躍出潭面,師展缽試之曰:「爾且不敢入老僧缽盂裡。」龍乃遊揚至前,師以缽舀之,龍不能動。師持缽堂上,與龍說法,龍遂蛻骨而去。其骨長可七寸,首尾角足皆具,留傳寺門。師後以土石堙其潭,今殿前左側有鐵塔鎮處是也。
明年春、師は衆に辭して寶林に歸る。印宗と緇白と、送る者千餘人、直に曹溪に至る。時に荆州通應律師が學者數百人を與えて師に依りて住す。師は曹溪寶林に至り、堂宇湫隘にして衆を容れざるを見、之を廣めんと欲す。遂に謁里人陳亞仙に曰く、「老僧檀越に坐具を求めん、得不。」仙曰、「和尚坐具幾許の闊。」祖坐具を出して示す。亞仙唯然。祖坐具を一展して、盡遮曹溪四境。四天王現身して四方に坐鎮す。今寺境に天王嶺有り、茲に因りて名づく。仙曰、「和尚法力廣大なるを知る。但し吾高祖の墳墓並びに此地に坐す。他日造塔、幸望存留。餘願盡捨して永為寶坊。然此地乃生龍白象來脈、只可平天、不可平地。」寺後營建、一皆其言に依る。師は境内山水勝處を遊覽し、輒ち止息す。遂に蘭若十三所を成す。今曰花果院、隷屬寺門。其の寶林道場も、亦是れ先に西國智藥三藏、自南海經曹溪口、掬水而飲、香美にして異之。謂其徒曰、「此水與西天之水無別、溪流上必有勝地、堪為蘭若。」隨流至源頭、四顧山水回環、峯巒奇秀、歎曰、「宛如西天寶林山也。」乃謂曹侯村居民曰、「可於此山建一梵剎、一百七十年後、當有無上法寶於此演化、得道者如林、宜號寶林。」時韶州牧侯敬中、以其言具表聞奏、上可其請、賜寶林為額、遂成梵宮、蓋始于梁天監三年也。寺殿前有潭一所、龍常出沒其間、觸撓林木。一日現形甚大、波浪洶湧、雲霧陰翳、徒衆皆懼。師叱之曰、「你只能現大身、不能現小身、若為神神龍、當能變化、以小現大、以大現小也。」其龍忽沒、俄頃復現小身、躍出潭面。師展鉢試之曰、「你且不敢入老僧鉢盂裡。」龍遂游揚至前、師以鉢舀之、龍不能動。師持鉢堂上、與龍説法、龍遂蛻骨而去。其骨長可七寸、首尾角足皆具、留傳寺門。師後以土石堙其潭、今殿前左側有鐵塔鎮處是也。
師墜腰石鐫龍朔元年盧居士誌八字,此石今存黃梅東禪。又唐王維右丞,為神會大師作《祖師記》云:「師混勞侶積十六載,會印宗講經,因為削𩬊。」又柳宗元刺史,作祖師諡號碑云:「師受信具,遯隱南海上十六年。度其可行,乃居曹溪為人師。」又張商英丞相,作《五祖記》云:「五祖演化於黃梅縣之東禪院,蓋其便於將母。龍朔元年,以衣法付六祖已,散眾入東山結庵。有居人憑茂,以山施師為道場焉。」以此考之,則師至黃梅傳受五祖衣法,實龍朔元年辛酉歲。至儀鳳丙子,得一十六年,師方至法性祝髮。他本或作師咸亨中至黃梅,恐非。
師墜腰石、鐫「龍朔元年盧居士志」八字。此石今在黃梅東禪。又唐王維右丞為神會大師作祖師記云、「師混勞侶、積十六載、會印宗講經、因為削髮。」又柳宗元刺史作祖師諡號碑云、「師受信具、遁隱南海上十六年。度其可行、乃居曹溪、為人師。」又張商英丞相作五祖記云、「五祖演化於黃梅縣之東禪院、葢便於養母。龍朔元年、以衣法付六祖已、散衆入東山結庵。有居民馮茂、以山施師為道場。」以此考之、則師至黃梅傳受五祖衣法、實龍朔元年辛酉歲。至儀鳳丙子、得十六年、師方至法性祝髮。他本或作師咸亨中至黃梅、恐非。
歷朝崇奉事蹟
歷朝崇奉の事迹、具に下に示す。
唐憲宗皇帝,諡大師曰大鑒禪師。
唐憲宗皇帝は大師に「大鑒禪師」の諡を贈った。
宋太宗皇帝,加諡大鑒真空禪師,詔新師塔曰太平興國之塔。
宋太宗皇帝は「大鑒真空禪師」を加諡し、詔して大師の新修の塔を「太平興國之塔」と名づけしめた。
宋仁宗皇帝,天聖十年迎師真身及衣缽入大內供養,加諡大鑒真空普覺禪師。
宋仁宗皇帝は天聖十年、大師の真身及び衣鉢を迎えて宮内に供養し、「大鑒真空普覺禪師」を加諡した。
宋神宗皇帝,加諡大鑒真空普覺圓明禪師。具見晏元獻公碑記。
宋神宗皇帝は「大鑒真空普覺圓明禪師」を加諡した。詳しくは晏元獻公(晏殊)の碑記を見よ。
賜諡大鑒禪師碑(柳宗元撰)
《賜諡大鑒禪師碑》、柳宗元撰。
扶風公廉,問嶺南三年,以佛氏第六祖,未有稱號,疏聞於上。詔諡大鑒禪師,塔曰靈照之塔。元和十年十月十三日,下尚書祠部符到都府,公命部吏洎州司功掾告於其祠。幢蓋鍾鼓增山盈谷,萬人鹹會,若聞鬼神。其時學者千有餘人,莫不欣踴奮厲,如師復生;則又感悼涕慕,如師始亡。因言曰:
扶風公馬總、以嶺南觀察使三年、以佛氏第六祖未有稱號、疏聞於上。詔諡大鑒禪師、塔曰靈照之塔。元和十年十月十三日、下尚書祠部符到都府、公命部吏洎州司功掾告于其祠。幢蓋鍾鼓、增山盈谷、萬人咸會、若聞鬼神。其時學者千有餘人、莫不欣踴奮厲、如師復生。則又感悼涕慕、如師始亡。因言曰、
自有生物,則好鬪奪相賊殺,喪其本實,誖乖淫流,莫克返於初。孔子無大位,沒以餘言持世,更楊、墨、黃老益雜,其術分裂。而吾浮圖說後出,推離還源,合所謂生而靜者。梁氏好作有為,師達磨譏之,空術益顯。六傳至大鑒。大鑒始以能勞苦服役,一聽其言,言希以究。師用感動,遂受信具。遯隱南海上,人無聞知,又十六年。度其可行,乃居曹溪為人師。會學者來,甞數千人。其道以無為為有,以空洞為寔,以廣大不蕩為歸。其教人,始以性善、終以性善,不假耘鋤,本其靜矣。中宗聞名,使倖臣再徵,不能致,取其言以為心術。其說具在。今布天下,凡言禪皆本曹溪。大鑒去世百有六年,凡治廣部,而以名聞者以十數,莫能揭其號。乃今始告天子,得大諡。豐佐吾道,其可無辭?公始立朝,以儒重剌虔州、都護安南,由海中大蠻夷,連身毒之西,浮舶聽命,鹹被公德,受旂纛節戟,來蒞南海,屬國如林,不殺不怒,人畏無噩,允克光於有仁,昭列大鑒莫如公,宜其徒之老。乃易石於宇下,使來謁辭。其辭曰:
自有生物、則好鬭奪相賊殺、喪其本實、誖乖淫流、莫克返于初。孔子無大位、沒以餘言持世。更楊墨黃老益雜、其術分裂。而吾浮圖説後出、推離還源、合所謂生而靜者。梁氏好作有為、師達磨譏之、空術益顯。六傳至大鑒。大鑒始以能勞苦服役、一聽其言、言希以究、師用感動、遂授受信具。遁隱南海上、人無聞知、又十六年度其可行、乃居曹溪、為人師。會學來嘗數千人。其道以無為為有、以空洞為實、以廣大不蕩為歸。其教人始以性善、終以性善、不假耘鋤、本其靜矣。中宗聞名、使幸臣再徵、不能致、取其言以為心術。其説具在、今布天下、凡言禪皆本曹溪。大鑒去世百有六年、凡治廣部而以名聞者以十數、莫能揭其號。乃今始告天子、得大諡、豐佐吾道。其可無辭。公始立朝、以儒重、刺虔州、都護安南、由海中大蠻夷連身毒之西、浮舶聽命、咸被公德、受旗纛節戟、來蒞南海、屬國如林。不殺不怒、人畏無噩、允克光于有仁。昭列大鑒、莫如公宜。其徒之老、乃易石于宇下、使來謁辭。其辭曰、
達摩乾乾,傳佛語心,六承其授,大鑒是臨。勞勤專默,終挹於深,抱其信器,行海之陰。其道爰施,在溪之曹,厖合猥附,不夷其高。傳告鹹陳,惟道之褒,生而性善,在物而具。荒流奔軼,乃萬其趣,匪思愈亂,匪覺滋誤。由師內鑒,鹹獲於素,不植乎根,不耘乎苗。中一外融,有粹孔昭,在帝中宗,聘言於朝。陰翊王度,俾人逍遙,越百有六祀,號諡不紀。由扶風公,告今天子,尚書既復大行,乃誄光於南土。其法再起,厥徒萬億,同悼齊喜。惟師化所被洎,扶風公所履,鹹戴天子。天子休命,嘉公德美,溢於海夷,浮圖是視。師以仁傳,公以仁理,謁辭圖堅,永胤不已。
達磨乾乾、傳佛語心、六承其授、至大鑒以躬。勞服專黙、終挹于深、抱其信器、行海之陰。其道爰施、在溪之曹、厖合猥附、不夷其高。傳告咸陳、惟道之褒。生而性善、在物而具、荒流奔軼、乃萬其趣。匪思愈亂、匪覺滋誤。由師内鑒、咸獲于素、不植乎根、不耘乎苗。中一外融、有粹孔昭。在帝中宗、聘言于朝、陰翊王度、俾人逍遙。越百有六祀、號諡不紀、由扶風公告今天子、尚書既復大行、乃誅光于南土。其法再起、厥徒萬億、同悼齊喜、惟師教所被、洎扶風公所履、咸戴天子。天子休命、嘉公德美、溢于海夷、浮圖是視。師以仁傳、公以仁理、謁辭圖堅、永胤不已。
大鑒禪師碑(並《佛衣銘》,俱劉禹錫撰)
《大鑒禪師碑》、并《佛衣銘》、皆劉禹錫撰。
元和十年某月日,詔書追褒曹溪第六祖能公,諡曰大鑒。寔廣州牧馬總以疏聞,繇是可其奏,尚道以尊名,同歸善善,不隔異教。一字之褒,華夷孔懷,得其所故也。馬公敬其事且謹,始以垂後,遂諮於文雄。今柳州刺史河東柳君為前碑,後三年有僧道琳,率其徒由曹溪來,且曰:「願立第二碑,學者志也。」維如來滅後,中五百歲,而摩騰、竺法蘭,以經來華,人始聞其言,猶夫重昏之見曶爽。後五百歲,而達摩以法來華,人始傳其心,猶夫昧旦之覩白日。自達摩六傳至大鑒,如貫意珠,有先後而無同異。世之言真宗者,所謂頓門。初達摩與佛衣俱來,得道傳付以為真印。至大鑒置而不傳,豈以是為筌蹄邪?芻狗邪?將人人之莫已若而不若置之邪?吾不得而知也。
元和十年某月某日、詔書追褒曹溪第六祖能公、諡曰大鑒。實廣州牧馬總以疏聞、繇是可其奏。尚道以尊名、同歸善善、不隔異教。一字之褒、華夷孔懷、得其所故也。馬公敬其事且謹、始以垂後、遂咨于文雄。今柳州刺史河東柳君為前碑。後三年、有僧道琳率以其徒由曹溪來、且曰、「願立第二碑、學者志也。」維如來滅後、中五百歲、而摩騰竺法蘭以經來華、人始聞其言、猶夫重昏之見曶爽。後五百歲、而達磨以法來華、人始傳其心、猶夫昧旦之睹白日。自達磨六傳至大鑒、如貫意珠、有先後而無同異。世之言真宗者、所謂頓門。初達磨與佛衣俱來、得道傳付、以為真印。至大鑒、置而不傳。豈以是為筌蹄耶、芻狗耶。將人人之莫已若而不若置之耶。吾不得而知也。
按大鑒生新州,三十出家,四十七年而沒,百有六年而諡。始自蘄之東山,從第五師得授記以歸。中宗使中貴人再徵,不奉詔。第以言為貢,上敬行之。銘曰:
按大鑒生新州、三十出家、四十七年而沒、既沒百有六年而諡。始自蘄之東山、從第五師得授記以歸。中宗使中貴人再徵、不奉詔、第以言為貢、上敬行之。銘曰、
至人之生,無有種類,同人者形,出人者智。蠢蠢南裔,降生傑異,父乾母坤,獨肖元氣。一言頓悟,不踐初地,五師相承,授以寶器。宴坐曹溪,世號南宗,學徒爰來,如水之東。飲以妙藥,差其瘖聾,詔不能致,許為法雄。去佛日遠,群言積億,著空執有,各走其域。我立真筌,揭起南國,無修而修,無得而得。能使學者,還其天識,如黑而迷,仰目鬥極。得之自然,竟不可傳,口傳手付,則礙於有。留衣空堂,得者天授。
至人之生、無有種類、同人者形、出人者智。蠢蠢南裔、降生傑異、父乾母坤、獨肖元氣。一言頓悟、不踐初地、五師相承、授以寶器。宴坐曹溪、世號南宗、學徒爰來、如水之東。飲以妙藥、瘳其瘖聾、詔不能致、許為法雄。去佛日遠、羣言積億、著空著有、各走其域。我立真筌、揭起南國、無修而修、無得而得。能使學者、還其天識、如黑而迷、仰見斗極。得之自然、竟不可傳、口傳手付、則礙於有。留衣空堂、得者天授。
佛衣銘(並引)
《佛衣銘》、并引。
吾既為僧琳撰曹溪第二碑,且思所以辯六祖置衣不傳之旨,作《佛衣銘》。曰:
吾既為僧琳撰曹溪第二碑、且思所以辯六祖置衣不傳之旨、作佛衣銘曰、
佛言不行,佛衣乃爭,忽近貴遠,古今常情。尼父之生,土無一里,夢奠之後,履存千祀。惟昔有梁,如象之狂,達摩救世,來為醫王。以言不痊,因物乃遷,如執符節,行乎復關。民不知官,望車而畏,俗不知佛,得衣為貴。壞色之衣,道不在茲,由之信道,所以為寶。六祖未彰,其出也微,既還狼荒,憬俗蚩蚩。不有信器,眾生曷歸,是開便門,非止傳衣。初必有終,傳豈無已,物必歸盡,衣胡久恃。先終知終,用乃不窮。我道不朽,衣於何有,其用已陳,孰非芻狗。
佛言不行、佛衣乃爭。忽近貴遠、古今常情。尼父之生、土無一里、夢奠之後、履存千祀。惟昔有梁、如象之狂、達磨救世、來為醫王。以言不痊、因物乃遷、如執符節、行乎關塞。民不知官、望車而畏、俗不知佛、得衣為貴。壞色之衣、道不在茲、由之信道、所以為寶。六祖未彰、其出也微、既還狼荒、憬俗蚩蚩。不有信器、衆生曷歸。是開便門、非止傳衣。初必有終、傳豈無已、物必歸盡、衣胡久恃。先終知終、用乃不窮。我道不朽、衣於何有、其用已陳、孰非芻狗。
師入塔後,至開元十年壬戌八月三日,夜半忽聞塔中如拽鐵索聲。眾僧驚起,見一孝子從塔中走出,尋見師頸有傷,具以賊事聞於州縣。縣令楊侃、刺史柳無忝,得牒切加擒捉。五日於石角村捕得賊人,送韶州鞠問。云:「姓張名淨滿,汝州梁縣人。於洪州開元寺,受新羅僧金大悲錢二十千,令取六祖大師首,歸海東供養。」柳守聞狀,未即加刑,乃躬至曹溪,問師上足令韜曰:「如何處斷?」韜曰:「若以國法論,理須誅夷。但以佛教慈悲冤親平等,況彼求欲供養,罪可恕矣。」柳守加歎曰:「始知佛門廣大。」遂赦之。
大師入塔後、至開元十年壬戌八月三日、夜半忽聞塔中如拽鐵索聲。衆僧驚起、見一孝子從塔中走出、尋見師頸有傷、具以賊事聞於州縣。縣令楊侃、刺史柳無忝、得牒切加擒捉。五日於石角村捕得賊人、送韶州鞫問。云、「姓張名淨滿、汝州梁縣人。於洪州開元寺受新羅僧金大悲錢二十千、令取六祖大師首、歸海東供養。」柳守聞狀、未即加刑、乃躬至曹溪、問師上足令韜曰、「如何處斷。」韜曰、「若以國法論、理須誅夷。但以佛教慈悲、冤親平等、況彼求欲供養、罪可恕矣。」柳守加歎曰、「始知佛門廣大。」遂赦之。
上元元年,肅宗遣使,就請師衣缽歸內供養。至永泰元年五月五日,代宗夢六祖大師請衣缽,七日勅刺史楊緘云:「朕夢感能禪師請傳衣袈裟卻歸曹溪,今遣鎮國大將軍劉崇景,頂戴而送。朕謂之國寶,卿可於本寺如法安置,專令僧眾親承宗旨者嚴加守護,勿令遺墜。」後或為人偷竊,皆不遠而獲。如是者數四。憲宗諡大鑒禪師,塔曰元和靈照。其餘事蹟,係載唐尚書王維、刺史柳宗元、刺史劉禹錫等碑。守塔沙門令韜錄。
上元元年、肅宗遣使就請師衣鉢歸内供養。至永泰元年五月五日、代宗夢六祖大師請衣鉢。七日敕刺史楊緘云、「朕夢感能禪師請傳衣袈裟却歸曹溪、今遣鎮國大將軍劉崇景頂戴而送。朕謂之國寶、卿可於本寺如法安置、專令僧衆親承宗旨者嚴加守護、勿令遺墜。」後或為人偷竊、皆不遠而獲、如是者數四。憲宗諡大鑒禪師、塔曰元和靈照。其餘事迹、係載唐尚書王維、刺史柳宗元、刺史劉禹錫等碑。守塔沙門令韜錄。
跋
以下は宗寶が本書のために作った跋(書末題記)。
六祖大師平昔所說之法。皆大乘圓頓之旨。故目之曰經。其言近指遠。詞坦義明。誦者各有所獲。明教嵩公常讚雲。天機利者得其深。天機鈍者得其淺。誠哉言也。餘初入道。有感於斯。續見三本不同。互有得失。其板亦已漫滅。因取其本校讎。訛者正之。略者詳之。復增入弟子請益機緣。庶幾學者得盡曹溪之旨。按察使雲公從龍。深造此道。一日過山房睹餘所編。謂得壇經之大全。慨然命工鋟梓。顓為流通。使曹溪一派不至斷絕。或曰。達磨不立文字。直指人心見性成佛。盧祖六葉正傳。又安用是文字哉。餘曰。此經非文字也。達磨單傳直指之指也。南嶽青原諸大老。嘗因是指以明其心。復以之明馬祖石頭諸子之心。今之禪宗流佈天下。皆本是指。而今而後。豈無因是指。而明心見性者耶。問者唯唯再拜謝曰。予不敏。請併書於經末以詔來者。至元辛卯夏。南海釋宗寶跋。
六祖大師平昔所説之法、皆大乘圓頓之旨、故目之曰經。其言近指遠、詞坦義明、誦者各有所獲。明教嵩公常贊云、「天機利者得其深、天機鈍者得其淺。」誠哉言也。余初入道、有感於斯。續見三本不同、互有得失、其板亦已漫滅、因取其本校讎。譌者正之、略者詳之、復增入弟子請益機緣。庶幾學者得盡曹溪之旨。按察使雲公從龍、深造此道、一日過山房、睹余所編、謂得《壇經》之大全、慨然命工鋟梓、顓為流通、使曹溪一派不至斷絕。或曰、達磨不立文字、直指人心、見性成佛。盧祖六葉正傳、又安用是文字哉。余曰、此經非文字也、達磨單傳直指之指也。南嶽青原諸大老、嘗因是指以明其心、復以之明馬祖石頭諸子之心。今之禪宗流布天下、皆本是指。而今而後、豈無因是指而明心見性者耶。問者唯唯、再拜謝曰、予不敏、請併著于經末、以詔于來者。至元辛卯夏、南海釋宗寶跋。
附錄(終)
附錄(終)
