成唯识论
護法等の諸菩薩が造った。
仏家典籍
短いものは心経・金剛経・四十二章経・壇経から読み始められる。浄土は阿弥陀経・無量寿経・観経を見る。大乗の叙事と禅を見るなら、法華・維摩・楞厳・円覚・地蔵へ進む。
成唯識論 巻第一
護法等菩薩造
護法等の諸菩薩が造った。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘が詔を奉じて漢訳した。
稽首唯識性、滿、分清淨者,我今釋彼說,利樂諸有情。
唯識の性と、円満清浄の者及び随分に清浄なる者とに稽首して、私は今、彼らの説く所を解釈し、諸々の有情を利益し安楽せん。
今造此論,為於二空有迷謬者生正解故。生解為斷二重障故,由我、法執二障具生,若證二空,彼障隨斷。斷障為得二勝果故,由斷續生煩惱障故,證真解脫;由斷礙解所知障故,得大菩提。
今この論を造るのは、二空(人無我・法無我)に迷謬する人々に対して正解を生ぜしめるためである。解を生ずるのは二重の障を断ずるためである。我執・法執によって、煩悩障と所知障とが倶に生ず。もし二空を証得すれば、その二障は随って断たれる。障を断ずるのは二種の勝果を得るためである。能く生を続けしめる煩悩障を断ずるによって真解脱を証し、正解を障碍する所知障を断ずるによって大菩提を得る。本論の説く唯識とは、噛み合った名目の体系である。所依は八識(異熟たる阿頼耶識、思量たる末那識、境を了別する前六識)で、心所は心と相応し、相分・見分は自証に依って起こり、種子・薫習・三自性・二無我が全論を貫く。以下の成員は互いに錠合し、それぞれ初めて論証される時にこの体系の中での位置を点じ、逐語に夹注はしない。
又為開示謬執我、法,迷唯識者,令達二空,於唯識理如實知故。
また我・法を謬りに執して唯識に迷う人々に開示して、彼らに二空を通達せしめ、唯識の理を如実に知らしめるためである。
復有迷、謬唯識理者,或執外境如識非無;或執內識如境非有;或執諸識用別體同;或執離心無別心所。為遮此等種種異執,令於唯識深妙理中得如實解,故作斯論。
また唯識の理に迷い謬る人々がいて、あるいは外境を執して識の如く無きに非ずとし、あるいは内識を執して境の如く有りとし、あるいは諸識の作用は別なるも体は同じと執し、あるいは心を離れて別の心所無しと執する。これらの種種の異執を遮止して、人をして唯識の深妙なる理において如実の理解を得せしめるがゆえに、この論を作る。
若唯有識,云何世間及諸聖教說有我、法?
もし識のみ有るならば、どうして世間および諸々の聖教に我・法有りと説くのか。
頌曰:
頌に説く。
1由假說我、法,有種種相轉。
1 我・法を假説するにより、種種の相が転ずること有り。
彼依識所變,此能變唯三:
それらは識の変ずる所に依る。ここで能変は三種あるのみ。
2謂異熟、思量,及了別境識。
2 いわゆる異熟・思量、および境を了別する識である。
論曰:世間、聖教說有我、法,但由假立,非實有性。我謂主宰,法謂軌持。
論に曰く:世間・聖教が我・法有りと説くのは、ただ假立によるのみで、実有の自性ではない。我とは主宰を説き、法とは軌範して任持するを説く。
彼二俱有種種相轉:「我種種相」謂有情、命者等,預流、一來等。「法種種相」謂實、德、業等;蘊、處、界等。「轉」謂隨緣施設有異。
その二種は倶に種種の相が転ずる。「我の種種相」とは有情・命者等、預流・一来等を説く。「法の種種相」とは実・徳・業等、蘊・処・界等を説く。「転」とは縁に随って施設して異なること有りを説く。
如是諸相若由假說,依何得成?
このように諸々の相は假説によるならば、何に依って成立するを得るのか。
彼相皆依識所轉變而假施設。
それらの相は皆識の転変する所に依って假に施設される。
「識」謂了別,此中識言亦攝心所,定相應故。
「識」とは了別を説く。ここで識と説くのは心所も収攝する。決定して相応するがゆえに。
「變」謂識體轉似二分,相、見俱依自證起故,依斯二分施設我、法,彼二離此無所依故。
「変」とは識体が転じて二分の如く起こるを説く。相分・見分は皆自証に依って起こり、この二分に依って我・法を施設する。その二種はこれを離れれば依る所無し。
或復內識轉似外境。
あるいはまた内識が転じて外境の如く起こる。
我、法分別燻習力故,諸識生時變似我、法,此我、法相雖在內識,而由分別似外境現,諸有情類無始時來緣此執為實我、實法,如患夢者,患夢力故,心似種種外境相現,緣此執為實有外境。
我・法の分別の薫習力によって、諸識の生ずる時、我の如く法の如く変起す。この我・法の相は内識に在ると雖も、分別によって外境の如く顕現し、諸有情類は無始以来これに縁して実我・実法と執する。病む者・夢見る者が、病・夢の力によって、心に種種の外境の相が現ずるが如く、これに縁して実に外境有りと執する。
愚夫所計實我、實法都無所有,但隨妄情而施設故,說之為假。內識所變似我、似法雖有,而非實我、法性,然似彼現,故說為假。
愚夫の計度する所の実我・実法は皆無所有で、ただ妄情に随って施設されるのみ。ゆえにそれを假と説く。内識の変ずる所の似我・似法は有ると雖も、実我・実法の性ではない。しかしそれらの如く顕現するがゆえに、假と為す。
外境隨情而施設故,非有如識;內識必依因緣生故,非無如境,由此便遮增、減二執。
外境は情に随って施設され、識の如き有ではない。内識は必ず因縁に依って生じ、境の如き無ではない。これによって増・減の二執を遮止する。
境依內識而假立故,唯世俗有;識是假境所依事故,亦勝義有。
境は内識に依って假立され、ただ世俗有である。識は假境の所依の事であり、また勝義有である。
云何應知實無外境,唯有內識似外境生?
どうして実に外境無く、ただ内識が外境の如く生ずることを知るべきか。
實我、實法不可得故。
実我・実法が求めて得られないからである。
如何實我不可得耶?
どうして実我は求めて得られないのか。
諸所執我,略有三種:一者執我體常、周遍,量同虛空,隨處造業受苦、樂故;二者執我,其體雖常,而量不定,隨身大小有卷、舒故;三者執我體常、至細,如一極微,潛轉身中作事業故。
諸々の所執の我は、略して三種ある。一つには我体は常にして周遍し、量は虚空に同じく、処に随って業を造り苦・楽を受けると執する。二つには我を執して、その体は常なれども量は定まらず、身の大小に随って巻・舒ありとする。三つには我体は常にして極細で、一極微の如く、身中に潜転して事業を作すと執する。
初且非理,所以者何?執我常、遍,量同虛空,應不隨身受苦、樂等;又常、遍故,應無動轉,如何隨身能造諸業?又所執我,一切有情為同為異?若言同者,一作業時一切應作,一受果時一切應受,一得解脫時一切應解脫,便成大過;若言異者,諸有情我更相遍故,體應相雜,又一作業、一受果時,與一切我處無別故,應名一切所作、所受。若謂作、受各有所屬無斯過者,理亦不然,業、果及身,與諸我合,屬此非彼不應理故;一解脫時一切應解脫,所修、證法一切我合故。
第一のものはすこぶる理に合わない。何故か。我が常・遍で量が虚空に同じと執すれば、身に随って苦・楽等を受くべからず。また常・遍なるがゆえに、動転無かるべし。どうして身に随って諸々の業を造ることを能くせん。また所執の我は、一切有情と同じか異なるか。もし同じと説かば、一つが業を作す時一切が作すべく、一つが果を受くる時一切が受くべく、一つが解脱を得る時一切が解脱を得べくして、便ち大過を成す。もし異なると説かば、諸有情の我は更互に相遍して、体はまさに相雑あるべく、また一つが業を作し一つが果を受くる時、一切我の処所と分別無く、名づけて一切の所作・所受と為すべし。もし作・受各々属する所有りと説けばこの過無しとも、理また然らず。業・果および身が諸我と合して、これに属し彼に属せざるは理に合わず。一つが解脱する時一切が解脱すべし。修する所・証する所の法が一切我と合するが故に。
中亦非理,所以者何?我體常住,不應隨身而有舒、卷,既有舒、卷如槖籥風,應非常住,又我隨身應可分析,如何可執我體一耶?故彼所言如童竪戲。
中間のものもまた理に合わない。何故か。我体が常住ならば、身に随って舒・卷あるべからず。すでに舒・卷有りて風箱(橐籥)の中の風の如ければ、まさに常住ならざるべし。また我が身に随えばまさに分析すべく、どうして我体は一と執するを得ん。ゆえに彼らの説く所は孩童の戯れの如し。
後亦非理,所以者何?我量至小如一極微,如何能令大身遍動?若謂雖小而速巡身,如旋火輪,似遍動者,則所執我非一、非常,諸有往來,非常、一故。
後のものもまた理に合わない。何故か。我の量が極小にして一極微の如ければ、どうして大身を遍く動かさしむるを得ん。もし小なりと雖も迅速に身を巡り、旋火輪の如く遍動の如しと説かば、則ち所執の我は一に非ず常に非ず。およそ往来有る者は、則ち常に非ず一に非ず。
又所執我,復有三種:一者即蘊;二者離蘊;三者與蘊非即非離。
また所執の我には更に三種ある。一つには即ち蘊。二つには蘊を離る。三つには蘊と非即非離。
初即蘊我,理且不然,我應如蘊非常、一故;又內諸色定非實我,如外諸色有質礙故;心、心所法亦非實我,不恆相續,待眾緣故;餘行、餘色亦非實我,如虛空等,非覺性故。
第一の即蘊の我は理にすこぶる合わず。我はまさに蘊の如く常に非ず一に非ざるべし。また内の諸色は決定して実我に非ず。外の諸色が質碍有るが如し。心・心所法もまた実我に非ず。恒に相続せず、衆縁を待つがゆえに。其余の行・其余の色もまた実我に非ず。虚空等の如く、覚性に非ざればなり。
中離蘊我,理亦不然,應如虛空,無作、受故。
中間の蘊を離れた我も理に合わず。まさに虚空の如く、作も受も無かるべし。
後俱非我,理亦不然,許依蘊立,非即、離蘊,應如瓶等,非實我故。又既不可說有為、無為,亦應不可說是我、非我。
後の倶非の我も理に合わず。蘊に依って安立を許すも、即・離の蘊に非ざれば、まさに瓶等の如く実我に非ざるべし。またすでに有為・無為と説くべからざれば、また我・非我とも説くべからざるべし。
故彼所執實我不成。
ゆえに彼らの執する所の実我は成立しない。
又諸所執實有我體,為有思慮?為無思慮?若有思慮,應是無常,非一切時有思慮故;若無思慮,應如虛空,不能作業,亦不受果。故所執我,理俱不成。
また諸々の所執の実有の我体は、思慮有りや、それとも思慮無しや。もし思慮有れば、まさに無常なるべし。一切の時に思慮有るに非ざるが故に。もし思慮無ければ、まさに虚空の如く、業を作すこと能わず、また果を受けず。ゆえに所執の我は、両辺ともに理が成立しない。
又諸所執實有我體,為有作用?為無作用?若有作用,如手足等,應是無常。若無作用,如兔角等,應非實我,故所執我,二俱不成。
また諸々の所執の実有の我体は、作用有りや、それとも作用無しや。もし作用有れば、手足等の如く、まさに無常なるべし。もし作用無ければ、兎角等の如く、まさに実我に非ざるべし。ゆえに所執の我は両辺ともに成立しない。
又諸所執實有我體,為是我見所緣境不?若非我見所緣境者,汝等云何知實有我?若是我見所緣境者,應有我見非顛倒攝,如實知故。若爾,如何執有我者所信至教皆毀我見,稱讚無我,言無我見能證涅槃;執著我見,沈淪生死。豈有邪見能證涅槃,正見翻令沈淪生死?
また諸々の所執の実有の我体は、我見の縁ずる境であるか否か。もし我見の縁ずる境に非ずんば、汝らどうして実に我有るを知る。もし我見の縁ずる境ならば、まさに我見は顛倒の摂に非ざるべし。如実に知るが故に。もし然らば、どうして我有りと執する人の信ずる至教が皆我見を毀斥し、無我を讃称し、無我見は涅槃を証すること能くし、我見に執着すれば生死に沈淪すと説く。あに邪見有りて涅槃を証し、正見が反って人をして生死に沈淪せしめんや。
又諸我見不緣實我,有所緣故,如緣餘心;我見所緣定非實我,是所緣故,如所餘法。是故我見不緣實我,但緣內識變現諸蘊,隨自妄情,種種計度。
また諸々の我見は実我に縁せず。縁ずる所有るが故に、其余の心に縁ずるが如し。我見の縁ずる所は決定して実我に非ず。縁ずる所なるが故に、其余の法の如し。ゆえに我見は実我に縁せず、ただ内識の変現する諸蘊に縁して、自らの妄情に随い、種種に計度す。
然諸我執略有二種:
しかして諸々の我執は略して二種ある。
一者俱生;二者分別。
一つには俱生。二つには分別。
俱生我執無始時來虛妄燻習,內因力故,恆與身俱;不待邪教及邪分別,任運而轉,故名俱生。
俱生の我執は無始以来虚妄に薫習し、内因の力によって恒に身と倶に在り。邪教および邪分別を待たずして任運に転ず。ゆえに名づけて俱生という。
此復二種:一、常相續,在第七識,緣第八識,起自心相,執為實我;二、有間斷,在第六識,緣識所變五取蘊相,或總、或別,起自心相,執為實我。
これまた二種ある。一、常に相続して第七識に在り、第八識に縁して自心相を生起し、実我と執す。二、間断有りて第六識に在り、識の変ずる五取蘊の相に縁し、あるいは総に、あるいは別に、自心相を生起して実我と執す。
此二我執,細故難斷,後修道中,數數修習勝生空觀,方能除滅。
この二種の我執は細なるがゆえに断じ難し。後に修道の中において、数々殊勝の生空観を修習して、乃ち除滅すること能くす。
分別我執亦由現在外緣力故,非與身俱,要待邪教及邪分別然後方起,故名分別,唯在第六意識中有。
分別の我執はまた現在の外縁の力に由って、身と倶に在らず。邪教および邪分別を待って然る後に起こる。ゆえに名づけて分別という。ただ第六意識の中にのみ在り。
此亦二種:一、緣邪教所說蘊相,起自心相,分別、計度,執為實我;二、緣邪教所說我相,起自心相,分別、計度,執為實我。
これもまた二種ある。一、邪教の説く蘊相に縁して自心相を生起し、分別・計度して実我と執す。二、邪教の説く我相に縁して自心相を生起し、分別・計度して実我と執す。
此二我執麁故易斷,初見道時,觀一切法生空真如,即能除滅。
この二種の我執は麁なるがゆえに断じ易し。初めて道を見る時、一切法の生空真如を観ずれば、すなわち除滅すること能くす。
如是所說一切我執,自心外蘊,或有、或無;自心內蘊,一切皆有。是故我執皆緣無常五取蘊相,妄執為我。
かくのごとく説く一切の我執は、自心の外の蘊はあるいは有りあるいは無し。自心の内の蘊は一切あり。ゆえに我執は皆無常の五取蘊の相に縁して、妄りに我と執す。
然諸蘊相,從緣生故,是如幻有;妄所執我,橫計度故,決定非有。故契經說:苾芻當知,世間沙門、婆羅門等所有我見,一切皆緣五取蘊起。
しかして諸蘊の相は縁より生じ、如幻の有なり。妄りに執する所の我は横に計度するがゆえに、決定して非有なり。ゆえに契経に説く:苾芻(比丘)はまさに知るべし、世間の沙門・婆羅門等の所有の我見は、一切五取蘊に縁して起こると。
實我若無,云何得有憶、識、誦、習、恩、怨等事?所執實我既常無變,後應如前,是事非有;前應如後,是事非無。以後與前,體無別故。若謂我用,前後變易,非我體者,理亦不然。用不離體,應常有故;體不離用,應非常故。然諸有情,各有本識,一類相續,任持種子,與一切法更互為因,燻習力故,得有如是憶、識等事。故所設難,於汝有失,非於我宗。
実我無からば、どうして憶・識・誦・習・恩・怨等の事有るを得ん。所執の実我はすでに常にして変無し。後はまさに前の如く、この事は非有。前はまさに後の如く、この事は無からず。後と前とは体に分別無きが故に。もし我の用が前後変易するも我の体に非ずと説かば、理また然らず。用は体を離れず、まさに常有なるべし。体は用を離れず、まさに非常なるべし。しかして諸有情は各々本識有りて、一類相続し、種子を任持して、一切法と更互に因と為る。薫習の力によって、乃ちかくのごとき憶・識等の事有り。ゆえに設けたる難は汝らに失有りて、我が宗には在らず。
若無實我,誰能造業?誰受果耶?所執實我,既無變易,猶如虛空,如何可能造業、受果?若有變易,應是無常。然諸有情心、心所法因緣力故,相續無斷,造業、受果,於理無違。
もし実我無からば、誰か業を造らん。誰か果を受けんや。所執の実我はすでに変易無きがゆえに、虚空の如く、どうして能く業を造り果を受けん。もし変易有れば、まさに無常なるべし。しかして諸有情の心・心所法は因縁の力によって相続断たず、業を造り果を受くること、理において違背せず。
我若實無,誰於生死輪迴諸趣?誰復厭苦求趣涅槃?所執實我,既無生滅,如何可說生死輪迴?常如虛空,非苦所惱,何為厭捨求趣涅槃?故彼所言常為自害。然有情類,身、心相續,煩惱、業力輪迴諸趣,厭患苦故,求趣涅槃。
我もし実に無からば、誰か生死輪廻して諸趣せん。また誰か苦を厭い涅槃に趣らん。所執の実我はすでに生滅無きがゆえに、どうして生死輪廻と説くべけん。常にして虚空の如く、苦の悩ます所に非ず。なんぞ厭捨して涅槃に趣らん。ゆえに彼らの説く所は常に自ら自を害う。しかして有情の類は身・心相続して、煩悩・業の力にて諸趣を輪廻し、苦を厭患して涅槃に趣る。
由此故知定無實我,但有諸識無始時來前滅後生,因果相續,由妄燻習,似我相現,愚者於中妄執為我。
これに由って故に決定して実我無く、ただ諸識が無始以来前滅後生して因果相続し、妄薫習に由って我相の如く現ずるを知る。愚者はその中において妄りに我と執す。
如何識外實有諸法不可得耶?
どうして識の外に実有の諸法は求めて得られないと知るか。
外道、餘乘所執外法,理非有故。
外道および余乗の所執の外法は、理において有に非ざるが故に。
外道所執云何非有?
外道の所執はどうして有に非ずや。
且數論者執我是思,受用薩埵、剌闍、答摩所成大等二十三法,然大等法三事合成,是實非假,現量所得。
且く説く、数論(印度の数論派)は我を執して思と為し、薩埵・剌闍・答摩(喜・憂・暗の三徳)の成す所の大等二十三法を受用すと。しかして大等の法は三事より合成して、実にして假に非ず、現量の得る所なりと。
彼執非理,所以者何?
彼らの執は理に合わない。何故か。
大等諸法,多事成故,如軍、林等,應假非實,如何可說現量得耶?又大等法,若是實有,應如本事,非三合成。
大等の諸法は多事より成り、軍・林等の如く、まさに假にして実に非ざるべし。どうして現量の得と説くべけん。また大等の法もし実有ならば、まさに本事の如く、三の合成に非ざるべし。
薩埵等三,即大等故,應如大等,亦三合成,轉變非常,為例亦爾。又三本事,各多功能,體亦應多,能、體一故。三體既遍,一處變時,餘亦應爾,體無別故。許此三事體、相各別,如何和合共成一相?不應合時變為一相,與未合時,體無別故。若謂三事體異相同,便違己宗體、相是一,體應如相,冥然是一,相應如體,顯然有三,故不應言三合成一。
薩埵等の三はすなわち大等なれば、まさに大等の如く、また三の合成にして、転変は常に非ず、例を作すもまたかくの如し。また三の本事は各々多功能有りて、体もまた多なるべし。能と体とは一なるが故に。三体すでに遍ければ、一処変ずる時其余もまたかくあるべし。体に分別無きが故に。この三事は体・相各別と許すならば、どうして和合して共に一相を成ぜん。合すべからざる時に変じて一相と為るに、未合の時と体に分別無からば。もし三事は体異なり相同じと説かば、便ち自宗の体・相は一と説くに背き、体はまさに相の如く冥然として一、相はまさに体の如く顕然として三あるべし。ゆえに三が合して一を成すと説くべからず。
又三是別,大等是總,總、別一故,應非一、三。此三變時,若不和合成一相者,應如未變,如何現見是一色等?若三和合成一相者,應失本別相,體亦應隨失。不可說三各有二相:一、總;二、別。總即別故,總亦應三,如何見一?若謂三體各有三相,和雜難知,故見一者,既有三相,寧見為一?復如何知三事有異?若彼一一皆具三相,應一一事能成色等,何所𨵗少,待三和合,體亦應各三,以體即相故,又大等法皆三合成,展轉相望,應無差別,是則因、果、唯量、諸大、諸根差別皆不得成。若爾,一根應得一切境,或應一境一切根所得,世間現見情與非情、淨穢等物,現、比量等,皆應無異,便為大失。
また三は別にして大等は総なり。総・別は一なれば、まさに一に非ず三に非ざるべし。これらの三が変ずる時、もし和合して一相を成ぜざれば、まさに未変の如く、どうして現に一色等と見る。もし三が和合して一相を成ぜば、まさに本来の別相を失うべく、体もまた随って失わるべし。三が各々二相有り、一は総、二は別と説くべからず。総はすなわち別なれば、総もまたまさに三なるべし。どうして一を見ん。もし三体各々三相有りて和雑して知り難きがゆえに一を見ると説かば、すでに三相有れば、どうして一と為るを見ん。またどうして三事に異有るを知る。もし彼ら一一が皆三相を具えば、まさに一一の事が能く色等を成すべし。還って何を欠きて三の和合を待たん。体もまた各々まさに三なるべし。体はすなわち相なるが故に。また大等の法は皆三合成なれば、展転に相望みてまさに差別無かるべし。かくのごとく因・果・唯量・諸大・諸根の差別は皆成立せず。もし然らば、一根はまさに一切境を得べく、あるいは一境はまさに一切根の得る所なるべし。世間に現に有情と非情、浄・穢等の物、現量・比量等を見れば、皆まさに異無かるべくして、便ち大失と為る。底本の「𨵗」字は、義は缺けるなり。
故彼所執實法不成,但是妄情計度為有。
ゆえに彼らの所執の実法は成立せず。ただ妄情の計度して有りと為すのみ。
勝論所執實等句義,多實有性,現量所得。
勝論(印度の勝論派)の所執の実等の句義は、多くは実有の性にして、現量の得る所なりと。
彼執非理。
彼らの執は理に合わない。
所以者何?
何故か。
諸句義中且常住者,若能生果,應是無常,有作用故,如所生果;若不生果,應非離識實有自性,如兔角等。諸無常者,若有質礙,便有方分,應可分析,如軍、林等,非實有性;若無質礙,如心、心所,應非離此有實自性。
諸句義の中に且く常住のを説かば、もし果を生ずること能わば、まさに無常なるべし。作用有るが故に、生ずる所の果の如し。もし果を生ぜざれば、まさに識を離れた実有の自性に非ざるべし。兎角等の如し。諸々の無常のものは、もし質碍有れば便ち方分有りて、まさに分析すべく、軍・林等の如く、実有の性に非ず。もし質碍無ければ、心・心所の如く、まさにこれを離れて実自性有るに非ざるべし。
又彼所執地、水、火、風應非有礙,實句義攝,身根所觸故,如堅、濕、煖、動。即彼所執堅、濕、煖等,應非無礙,德句義攝,身根所觸故,如地、水、火、風,地、水、火三,對青色等,俱眼所見,准此應責。故知無實地、水、火、風與堅、濕等各別有性,亦非眼見實地、水、火。
また彼らの所執の地・水・火・風はまさに碍有るに非ざるべし。実句義の摂なるが故に、身根の触る所なるが故に、堅・湿・暖・動の如し。すなわち彼らの所執の堅・湿・暖等はまさに无碍に非ざるべし。徳句義の摂なるが故に、身根の触る所なるが故に、地・水・火・風の如し。地・水・火の三は青色等に対して皆眼の見る所なれば、これに準じてまさに責難すべし。ゆえに実の地・水・火・風と堅・湿等と各別の性有ること無く、また眼に実の地・水・火を見ずと知る。
又彼所執實句義中,有礙、常者,皆有礙故,如麁地等,應是無常。諸句義中,色根所取,無質礙法,應皆有礙,許色根取故,如地、水、火、風。又彼所執非實德等,應非離識有別自性,非實攝故,如石女兒,非有實等,應非離識有別自性,非有攝故,如空花等。
また彼らの所執の実句義の中に、碍有り常のは皆碍有りて、麁地等の如く、まさに無常なるべし。諸句義の中に色根の取る所・質碍無き法は、まさに皆碍有るべし。色根の取を許すが故に、地・水・火・風の如し。また彼らの所執の実に非ざる徳等は、まさに識を離れて別自性有るに非ざるべし。実の摂に非ざるが故に、石女の児の如し。非有の実等はまさに識を離れて別自性有るに非ざるべし。有の摂に非ざるが故に、空花等の如し。
彼所執有,應離實等無別自性,許非無故,如實、德等。若離實等,應非有性,許異實等故,如畢竟無等。如有非無,無別有性,如何實等有別有性?若離有法,有別有性,應離無法,有別無性,彼既不然,此云何爾?故彼有性唯妄計度。
彼らの所執の有は、実等を離れて別の自性無かるべし。無に非ずと許すが故に、実・徳等の如し。もし実等を離れば、まさに有性に非ざるべし。実等に異なるを許すが故に、畢竟無等の如し。有は並びて無に非ざるが如く、別の有性無し。どうして実等に別の有性有らん。もし有法を離れて別の有性有れば、まさに無法を離れて別の無性有るべし。彼辺すでに然らざれば、ここにどうして然らん。ゆえに彼らの有性はただ妄計度なり。
又彼所執實、德、業性,異實、德、業,理定不然,勿此亦非實、德、業性,異實等故,如德、業等。又應實等非實等攝,異實等性故,如德、業、實等。地等諸性對地等體,更相徵詰,准此應知。如實性等,無別實等性,實等亦應無別實性等。若離實等有實等性,應離非實等,有非實等性。彼既不爾,此云何然?故同異性唯假施設。
また彼らの所執の実・徳・業性が実・徳・業に異なるは、理において決定して然らず。このをもって実・徳・業性に非ざるを得しむること莫れ。実等に異なるが故に、徳・業等の如し。また実等は実等の摂に非ざるべし。実等性に異なるが故に、徳・業・実等の如し。地等の諸性が地等の体に対して更相に征詰すること、これに準じてまさに知るべし。実性等の如く、別の実等性無ければ、実等もまた別の実性等無かるべし。もし実等を離れて実等性有れば、まさに非実等を離れて非実等性有るべし。彼辺すでに然らざれば、ここにどうして然らん。ゆえに同異性はただ假施設なり。
又彼所執和合句義定非實有,非有、實等諸法攝故,如畢竟無。彼許實等現量所得,以理推徵尚非實有,況彼自許和合句義非現量得,而可實有?設執和合是現量境,由前理故,亦非實有。
また彼らの所執の和合句義は決定して実有に非ず。有・実等の諸法の摂に非ざるが故に、畢竟無の如し。彼らは実等を現量の得る所と許すも、理を用いて推征して尚ほ実有に非ず。いわんや彼ら自ら和合句義を現量の得に非ずと許して、しかも実有たり得るをや。たとい和合を執して現量の境とするも、前の理に由ってもまた実有に非ず。
然彼實等,非緣離識實有自體現量所得,許所知故,如龜毛等。又緣實智,非緣離識實句自體現量智攝,假合生故,如德智等。廣說乃至緣和合智,非緣離識和合自體現量智攝,假合生故,如實智等。
しかして彼らの実等は、並びて識を離れた実有自体に縁する現量の得る所に非ず。所知と許すが故に、亀毛等の如し。また実に縁する智は、並びて識を離れた実句自体に縁する現量智の摂に非ず。假合して生ずるが故に、徳智等の如し。広く説けば乃至和合に縁する智も、並びて識を離れた和合自体に縁する現量智の摂に非ず。假合して生ずるが故に、実智等の如し。
故勝論者實等句義,亦是隨情妄所施設。
ゆえに勝論の者の実等句義も、また情に随って妄りに施設せしなり。
有執有一大自在天,體實、遍、常,能生諸法。
人有りて一の大自在天有り、体は実・遍・常にして能く諸法を生ずと執す。
彼執非理,所以者何?
彼らの執は理に合わない。何故か。
若法能生,必非常故;諸非常者,必不遍故;諸不遍者,非真實故。體既常、遍,具諸功能,應一切處、時,頓生一切法。待欲或緣方能生者,違一因論。或欲及緣亦應頓起,因常有故。
もし法が能く生ずれば必ず常ならず。諸々の常ならざるは必ず遍せず。諸々の遍せざるは真実に非ず。体すでに常・遍にして諸功能を具えば、まさに一切の処・時において頓に一切法を生ずべし。欲または縁を待って乃ち生ずるを得るは、一因論に背く。あるいは欲および縁もまたまさに頓起なるべし。因は常有なるが故に。
餘執有一大梵、時、方、本際、自然、虛空、我等,常住、實有,具諸功能,生一切法,皆同此破。
其余に一の大梵・時・方・本際・自然・虚空・我等が常住・実有にして諸功能を具えて一切法を生ずと執するは、皆此の破に同じ。
有餘偏執,明論聲常,能為定量,表詮諸法;有執一切聲皆是常,待緣顯發,方有詮表。
其余の偏執有りて、明論(吠陀)の声は常にして能く定量と為り、諸法を表詮すと。人有りて一切の声は皆常にして、縁を待って顕発し、乃ち詮表有りと執す。
彼俱非理,所以者何?
彼らは皆理に合わない。何故か。
且明論聲,許能詮故,應非常住,如所餘聲。
且く明論の声を説かば、能く詮すと許すがゆえに、まさに常住に非ざるべし。其余の声の如し。
餘聲亦應非常聲體,如瓶、衣等,待眾緣故。
其余の声もまたまさに常の声体に非ざるべし。瓶・衣等の如く、衆縁を待つが故に。
有外道執地、水、火、風、極微實、常,能生麁色,所生麁色不越因量,雖是無常,而體實有。
外道有りて地・水・火・風の極微を執して実・常にして、麁色を生ずること能くし、生ぜられる麁色は因の量を越えず、無常なりと雖も体は実有と執す。
彼亦非理,所以者何?
彼らもまた理に合わない。何故か。
所執極微,若有方分,如蟻行等,體應非實。若無方分,如心、心所應不共聚生麁果色,既能生果,如彼所生,如何可說極微常住?
所執の極微は、もし方分有れば、蟻行等の如く、体はまさに実に非ざるべし。もし方分無ければ、心・心所の如くまさに共に聚して麁果色を生生ぜざるべし。すでに果を生ずること能わば、それが生ずる所の如く、どうして極微は常住と説くべけん。
又所生果不越因量,應如極微,不名麁色,則此果色應非眼等色根所取,便違自執。若謂果色,量德合故,非麁似麁,色根能取。所執果色,既同因量,應如極微,無麁德合;或應極微亦麁德合;如麁果色,處無別故。若謂果色遍在自因,因非一故,可名麁者,則此果色體應非一,如所在因,處各別故。既爾,此果還不成麁,由此亦非色根所取。若果多分合故成麁,多因極微合應非細,足成根境,何用果為?既多分成,應非實有,則汝所執,前後相違。
また生ぜられる果は因の量を越えざれば、まさに極微の如く、名づけて麁色と言わざるべし。然らばこの果色はまさに眼等の色根の取る所に非ざるべくして、便ち自らの所執に背く。もし果色は量・徳の合にして、麁に非ずして麁の如く、色根能く取ると説かば、所執の果色はすでに因量に同じければ、まさに極微の如く、麁徳の合無かるべく、あるいは極微もまたまさに麁徳合なるべし。麁果色の如く、処所に分別無きが故に。もし果色は自因に遍在して、因は一に非ず、名づけて麁とすべしと説かば、則ちこの果色の体はまさに一に非ざるべし。所在の因の如く、処各別なるが故に。すでに然らば、この果はなお麁を成せず。これに由ってまた色根の取る所に非ず。もし果は多分の合によって麁を成すならば、多因の極微の合はまさに細に非ざるべくして、足らく根境を成さん。還って果を用いて何をかせん。すでに多分より成れば、まさに実有に非ざるべし。然らば汝らの所執は前後相違す。
又果與因俱有質礙,應不同處,如二極微。若謂果、因體相受入,如沙受水,藥入鎔銅。誰許沙、銅體受水、藥?或應離、變,非一、非常,又麁色果體若是一,得一分時應得一切,彼、此一故,彼應如此,不許違理,許便違事,故彼所執進、退不成,但是隨情虛妄計度。
また果と因とは皆質碍有りて、まさに同処ならざるべし。二の極微の如し。もし果・因は体相に受入すると説かば、沙の水を受け、薬の熔銅に入るが如し。誰か沙・銅の体が水・薬を受けるを許す。あるいはまさに離れ、まさに変ずべくして、一に非ず常に非ず。また麁色の果体もし一なれば、一分を得る時まさに一切を得べし。彼・此は一なるが故に、彼はまさに此の如くあるべし。許さざればすなわち理に違し、許せばすなわち事に違す。ゆえに彼らの所執は進・退ともに成立せず。ただ情に随って虚妄に計度す。
然諸外道品類雖多,所執有法不過四種:
しかして諸外道の品類は多きと雖も、所執の有法は四種に過ぎず。
一、執有法與有等性其體定一,如數論等。彼執非理,所以者何?勿一切法即有性故,皆如有性,體無差別,便違三德、我等體異,亦違世間諸法差別。又若色等即色等性,色等應無青、黃等異。
一、有法と有等性とその体が定まって一と執す。数論等の如し。彼らの執は理に合わない。何故か。一切法をして有性ならしむること莫れ。皆有性の如ければ、体に差別無くして、便ち三徳・我等の体異なるに背き、また世間の諸法差別に背く。またもし色等はすなわち色等性ならば、色等はまさに青・黄等の異無かるべし。
二、執有法與有等性其體定異,如勝論等。彼執非理,所以者何?勿一切法非有性故,如已滅無,體不可得,便違實等自體非無,亦違世間現見有物。又若色等非色等性,應如聲等非眼等境。
二、有法と有等性とその体が定まって異なると執す。勝論等の如し。彼らの執は理に合わない。何故か。一切法をして有性ならざらしむること莫れ。すでに滅せる無の如く体得るべからざれば、便ち実等の自体は無に非ざるに背き、また世間に現に物有るを見るに背く。またもし色等は色等性に非ざれば、まさに声等の如く眼等の境に非ざるべし。
三、執有法與有等性亦一、亦異,如無慚等,彼執非理,所以者何?一、異同前一、異過故;二相相違,體應別故,一、異體同俱不成故。勿一切法皆同一體,或應一、異是假非實,而執為實理定不成。
三、有法と有等性と亦一・亦異と執す。無慚等(ここでは一類の外道を指す)の如し。彼らの執は理に合わない。何故か。一・異は前の一・異の過に同じ。二相は相違して、体まさに別あるべし。一・異の体は同じくて両辺ともに成立せず。一切法をして皆同一体ならしめ、あるいは一・異は假にして実に非ずと雖も、実と執するは理において決定して成立せず。
四、執有法與有等性非一、非異,如邪命等。彼執非理,所以者何?非一、異執同異、一故。非一、異言為遮為表?若唯是表,應不雙非;若但是遮,應無所執;亦遮、亦表應互相違;非表、非遮應成戲論。又非一、異,違世共知有一、異物,亦違自宗色等有法決定實有。
四、有法と有等性と非一・非異と執す。邪命等(邪命外道)の如し。彼らの執は理に合わない。何故か。非一・異の執は異・一に同じ。非一・異の言は遮なりや表なりや。もし只だ表ならば、まさに双非ならざるべし。もし只だ遮ならば、まさに執する所無かるべし。亦遮・亦表ならばまさに互相違すべし。非表・非遮ならばまさに戯論を成ずべし。また非一・異は、世人の共に一・異の物有るを知るに背き、また自宗の色等有法が決定して実有なるに背く。
是故彼言唯矯避過,諸有智者勿謬許之。
ゆえに彼らの言はただ矯揉して過を避けるのみ。諸々の智者有らば謬りてこれを許すこと莫れ。
餘乘所執,離識實有色等諸法,如何非有?
余乗の所執の、識を離れて実有の色等諸法は、どうして有に非ずや。
彼所執色、不相應行及諸無為,理非有故。
彼らの所執の色・不相応行および諸無為は、理において有に非ざるが故に。
且所執色總有二種:一者有對,極微所成;二者無對,非極微成。
且く所執の色を説けば総に二種ある。一つには有対にして極微の成す所。二つには無対にして極微成に非ず。
彼有對色定非實有,能成極微非實有故。
その有対色は決定して実有に非ず。能成の極微は実有に非ざるが故に。
謂諸極微,若有質礙,應如瓶等,是假非實。
いわゆる諸極微は、もし質碍有れば、まさに瓶等の如く、假にして実に非ざるべし。
若無質礙,應如非色,如何可集成瓶、衣等?
もし質碍無ければ、まさに非色の如く、どうして集めて瓶・衣等を成ずべけん。
又諸極微,若有方分,必可分析,便非實有。
また諸極微は、もし方分有れば、必ず分析すべくして、便ち実有に非ず。
若無方分,則如非色,云何和合承光、發影?日輪才舉照柱等時,東、西兩邊光影各現,承光、發影處既不同,所執極微定有方分。又,若見、觸壁等物時,唯得此邊不得彼分。既和合物即諸極微,故此極微必有方分。又諸極微隨所住處,必有上、下、四方差別,不爾便無共和、集義。或相涉入應不成麁,由此極微定有方分。執有對色即諸極微,若無方分,應無障隔。若爾,便非障礙有對。
もし方分無ければ、すなわち非色の如く、どうして和合して光を承え影を発せん。日輪が纔かに挙がりて柱等を照らす時、東・西の両辺に光影各々現ず。光を承え影を発する処すでに同じからざれば、所執の極微は決定して方分有り。また見て壁等の物に触るる時、ただ此辺を得て彼辺の分を得ず。和合物はすなわち諸極微なるがゆえに、これらの極微は必ず方分有り。また諸極微は住する所に随って、必ず上・下・四方の差別有り。然らざれば便ち共和・集の義無し。あるいは相涉入すればまさに麁を成ぜざるべし。これに由って極微は決定して方分有り。有対色を執してすなわち諸極微なれば、もし方分無ければ、まさに障隔無かるべし。もし然らば、便ち障碍有対に非ず。
是故汝等所執極微必有方分,有方分故,便可分析,定非實有。
ゆえに汝らの所執の極微は必ず方分有り。方分有るがゆえに、便ち分析すべくして、決定して実有に非ず。
故有對色實有不成。
ゆえに有対色の実有は成立しない。
五識豈無所依、緣色?
五識にあに所依・所縁の色無からんや。
雖非無色,而是識變。謂識生時。內因緣力,變似眼等、色等相現,即以此相為所依、緣。
無色に非ざると雖も、しかして識の変なり。いわゆる識の生ずる時、内の因縁力にて、眼等・色等の如き相を変起して現じ、すなわちこの相を用いて所依・所縁と為す。
然眼等根非現量得,以能發識,比知是有,此但功能,非外所造。外有對色理既不成,故應但是內識變現,發眼等識,名眼等根,此為所依,生眼等識。
しかして眼等の根は現量の得に非ず。能く識を発するがゆえに、比して有りと知る。これはただ功能にして、並びて外の造る所に非ず。外の有対色の理すでに成立せざれば、ゆえにまさにただ内識の変現して、眼等の識を発するを、名づけて眼等の根と為す。このを所依と為して、眼等の識を生ず。
此眼等識外所緣緣,理非有故,決定應許自識所變為所緣緣,謂能引生似自識者,汝執彼是此所緣緣。
この眼等識の外の所縁縁は、理において有に非ず。決定して自識の変ずる所を許して所縁縁と為すべし。いわゆる能く自識の如きを引生する者を、汝らが彼を執してここでの所縁縁と為すなり。
非但能生,勿因緣等亦名此識所緣緣故。
並びてただ能生に非ず。因縁等をもってもまたこの識の所縁縁と名づけしむること莫れ。
眼等五識了色等時,但緣和合,似彼相故,非和合相異諸極微有實自體。分析彼時,似彼相識定不生故,彼和合相既非實有,故不可說是五識緣,勿第二月等能生五識故。
眼等の五識が色等を了する時、ただ和合に縁ず。それが相の如くするが故に、並びて和合の相が諸極微に異なりて実自体有るに非ず。それを分析する時、その相の如き識は決定して生ぜず。その和合の相すでに実有に非ざれば、ゆえに五識の縁と説くべからず。第二月等をして能く五識を生ぜしむるを得しむること莫れ。
非諸極微共和合位可與五識各作所緣,此識上無極微相故,非諸極微有和合相,不和合時無此相故。非和合位與不合時,此諸極微體相有異,故和合位如不合時,色等極微非五識境。
並びて諸極微の共和合位にて五識と各々所縁を作すべきに非ず。この識の上に極微の相無きが故に。並びて諸極微に和合相有るに非ず。和合せざる時にこの相無きが故に。並びて和合位と不合の時とに、これらの極微の体相に異有るに非ず。ゆえに和合位は不合の時の如く、色等の極微は五識の境に非ず。
有執色等一一極微不和集時,非五識境,共和集位,展轉相資,有麁相生,為此識境,彼相實有,為此所緣。彼執不然,共和集位與未集時,體相一故。瓶、甌等物極微等者,緣彼相識應無別故;共和集位一一極微,各各應捨微、圓相故;非麁相識緣細相境,勿餘境識緣餘境故;一識應緣一切境故。
人有りて色等の一一極微は和集せざる時は五識の境に非ざるも、共和集位にては展転相資して麁相生じ、この識の境を作す。それが相は実有にして、ここでの所縁を作すと執す。彼らの執は然らず。共和集位と未集の時とは体相これ一なり。瓶・甌等の物と極微等と、それらに縁する相の識はまさに分別無かるべし。共和集位の一一極微は各々まさに微・円の相を捨つべし。並びて麁相の識は細相の境に縁するに非ず。余境に縁する識をして余境に縁せしむるを得しむること莫れ。一識はまさに一切境に縁すべし。
許有極微,尚致此失,況無識外真實極微。
極微有りと許して尚ほこの失を致す。いわんや識の外に真実の極微無きをや。
由此定知,自識所變似色等相為所緣緣,見託彼生,帶彼相故。然識變時,隨量大、小,頓現一相,非別變作眾多極微合成一物。為執麁色有實體者,佛說極微,令其除析,非謂諸色實有極微。諸瑜伽師以假想慧,於麁色相漸次除析,至不可析,假說極微,雖此極微猶有方分,而不可析,若更析之便似空現,不名為色,故說極微是色邊際。
これに由って決定して知る、自識の変ずる所の色等の如き相を所縁縁と為す。見はそれに依托して生じ、その相を帯ぶ。しかして識の変ずる時、量の大・小に随って頓に一相を現ず。別に変じて衆多の極微を作して一物を合成するに非ず。麁色に実体有りと執する人の為に、仏は極微を説いて、彼らに除析せしめたり。諸色に実に極微有りと説くに非ず。諸瑜伽師は假想慧を用いて、麁色の相において漸次に除析し、析るべからざるに至りて、假に極微を説く。この極微はなお方分有ると雖も析るべからず。もし更にそれを析れば空の如く現じて、名づけて色と言わず。ゆえに極微を説いて色の辺際と為す。
由此應知,諸有對色,皆識變現,非極微成。
これに由ってまさに知るべし、諸々の有対色は皆識の変現にして、並びて極微成に非ず。
餘無對色是此類故,亦非實有,或無對故,如心、心所,定非實色。諸有對色現有色相,以理推究,離識尚無,況無對色現無色相,而可說為真實色法?
其余の無対色はこの類にして、もまた実有に非ず。あるいは無対に因りて、心・心所の如く、決定して実色に非ず。諸々の有対色は現に色相有るも、理を用いて推究すれば、識を離れて尚ほ無し。いわんや無対色は現に色相無きを、しかも説いて真実の色法と為すを得んや。
表、無表色豈非實有?
表色・無表色はあに実有に非ずや。
此非實有,所以者何?
これは実有に非ず。何故か。
且身表色若是實有,以何為性?
且く身表色を説かば、もし実有ならば、何を以って性と為す。
若言是形,便非實有,可分析故;長等極微不可得故。若言是動,亦非實有,才生即滅無動義故;有為法滅不待因故;滅若待因應非滅故。若言有色非顯、非形,心所引生,能動手等,名身表業,理亦不然。此若是動,義如前破;若是動因,應即風界,風無表示,不應名錶;又觸不應通善、惡性,非顯、香、味,類觸應知。
もし形と説かば、便ち実有に非ず。分析すべきが故に。長等の極微は求めて得られず。もし動と説かば、もまた実有に非ず。纔かに生じて即ち滅して動の義無し。有為法の滅は因を待たず。滅もし因を待てば、まさに滅に非ざるべし。もし色有りて顕に非ず形に非ず、心の引生する所にして、能く手等を動かすを、名づけて身表業と為すと説かば、理また然らず。このもし動なれば、義は前に破りしが如し。もし動の因なれば、まさに風界ならん。風は表示無くして、まさに表と名づくべからず。また触はまさに善・悪性に通性に通ぜざるべくして、顕・香・味に非ざるに、触に類してまさに知るべし。
故身表業定非實有。
ゆえに身表業は決定して実有に非ず。
然心為因,令識所變手等色相,生滅相續,轉趣餘方,似有動作。表示心故,假名身表。
しかして心を因と為して、識の変ずる所の手等の色相をして、生滅相続して、余方に転趣するに、動作有るが如し。心を表示するに因って、假に名づけて身表という。
語表亦非實有聲性,一剎那聲無詮表故,多念相續便非實故,外有對色,前已破故。
語表もまた実有の声性に非ず。一刹那の声は詮表無く、多念相続すれば便ち実に非ず。外の有対色は前にすでに破れり。
然因心故,識變似聲,生滅相續,似有表示,假名語表,於理無違。
しかして心に因って、識は声の如きを変起して、生滅相続して、表示有るが如し。假に名づけて語表という。理において違背無し。
表既實無,無表寧實?然依思願善惡分限,假立無表,理亦無違。謂此或依發勝身、語善惡思種增長位立;或依定中止身、語惡現行思立,故是假有。
表すでに実無ければ、無表どうしてか実ならん。しかして思願の善悪分限に依って、假に無表を立つ。理もまた違背無し。いわゆるこの或いは勝れたる身・語の善悪思を発する種の増長位に依って安立し、或いは定中において身・語の悪の現行思を止むるに依って安立す。ゆえに假有なり。
世尊經中說有三業,撥身、語業豈不違經?
世尊は経の中に三業有りと説く。身・語の業を無しと撥することあに経に違せずや。
不撥為無,但言非色。
並びて無と撥するに非ず。ただ色に非ずと説くのみ。
能動身思說名身業,能發語思說名語業。審、決二思,意相應故,作動意故,說名意業。
能く身を動かす思を名づけて身業という。能く語を発する思を名づけて語業という。審・決の二思は意と相応して、意を作動するに因って、名づけて意業という。
起身、語思,有所造作,說名為業,是審、決思所遊履故;通生苦、樂異熟果故,亦名為道。故前七業道,亦思為自性,或身、語表由思發故,假說為業,思所履故,說名業道。
身・語を起こす思は造する所有れば、すなわち名づけて業という。審・決の思の遊履する所なるが故に。苦・楽の異熟果を通生するも、また名づけて道という。ゆえに前の七の業道もまた思を以って自性と為す。あるいは身・語の表は思に由って発して、假に業と説く。思の履む所なるがゆえに、名づけて業道という。
由此應知實無外色,唯有內識變似色生。
これに由ってまさに知るべし、実に外色無く、ただ内識が色の如きを変起して生ず。
不相應行亦非實有,所以者何?
不相応行もまた実有に非ず。何故か。
得、非得等,非如色、心及諸心所體相可得;非異色、心及諸心所作用可得,由此故知定非實有,但依色等分位假立。
得・非得等は、並びて色・心および諸心所の体相の如く得るべからず。並びて色・心および諸心所に異ならずして作用得るべからず。これに由って故に決定して実有に非ずと知る。ただ色等の分位に依って假立す。
此定非異色、心、心所,有實體用,如色、心等,許蘊攝故。
これ決定して色・心・心所に異ならずして実体用有ること非ず。色・心等の如く、蘊の摂と許すが故に。
或心、心所及色、無為所不攝故,如畢竟無,定非實有。或餘實法所不攝故,如餘假法,非實有體。
あるいは心・心所以及色・無為の摂せざる所なれば、畢竟無の如く、決定して実有に非ず。あるいは其余の実法の摂せざる所なれば、其余の假法の如く、実有の体に非ず。
且彼如何知得、非得,異色、心等,有實體用?
且く彼らはどうして得・非得が色・心等に異なりて実体用有るを知る。
契經說故。如說:如是補特伽羅成就善、惡,聖者成就十無學法。又說:異生不成就聖法,諸阿羅漢不成就煩惱,成、不成言,顯得、非得。
契経に説くに因る。説けるが如く:かくのごとき補特伽羅(数取趣。有情を指す)は善・悪を成就し、聖者は十無学法を成就すと。また説く:異生は聖法を成就せず、諸阿羅漢は煩悩を成就せずと。成・不成の言は、得・非得を顕すと。
經不說此異色、心等有實體用,為證不成。
経は並びてこれが色・心等に異なりて実体用有りと説かず。証として成立せず。
亦說:輪王成就七寶。豈即成就他身、非情?
また説く:転輪王は七宝を成就すと。あにすなわち他身・非情を成就するや。
若謂於寶有自在力,假說成就,於善、惡法,何不許然,而執實得?
もし宝に対して自在力有りて、假に成就と説くと言わば、善・悪の法に対して、なんぞかくあるを許さずして、しかも実得を執する。
若謂七寶在現在,故可假說成,寧知所成善、惡等法離現在有?離現實法,理非有故。
もし七宝は現在に在るがゆえに假に成と説くべしと言わば、どうして成する所の善・悪等の法は現在を離れて有りと知る。現在を離れた実法は、理において有に非ず。
現在必有善種等故。
現在は必ず善種等有るが故に、と。
又得於法有何勝用?
また得は法に対していかなる勝用有るや。
若言能起,應起無為,一切非情應永不起,未得、已失應永不生。
もし能く起こすと説かば、まさに無為を起すべくして、一切の非情はまさに永く起たざるべく、未得・已失はまさに永く生ぜざるべし。
若俱生得為因起者,所執二生便為無用。又具善、惡、無記得者,善、惡、無記應頓現前,若待餘因,得便無用。
もし倶生の得を因として起こるならば、所執の二生は便ち用無しと為る。また善・悪・無記の得を具えたる人は、善・悪・無記がまさに頓に現前すべし。もし其余の因を待てば、得は便ち用無し。
若得於法是不失因,有情由此成就彼故,諸可成法不離有情,若離有情實不可得,故得於法俱為無用。
もし得は法に対して不失の因なれば、有情はこれに由ってそれを成就す。諸々の成すべき法は有情を離れず。もし有情を離れば実に得るべからず。ゆえに得は法に対して都て用無し。
得實無故,非得亦無。
得は実に無し。非得もまた無し。
然依有情可成諸法分位,假立三種成就:一、種子成就;二、自在成就;三、現行成就。翻此假立不成就名,此類雖多,而於三界見所斷種未永害位,假立非得,名異生性,於諸聖法未成就故。
しかして有情の成すべき諸法の分位に依って、假に三種の成就を立つ。一、種子成就。二、自在成就。三、現行成就。翻って假に不成就の名を立つ。この類は多きと雖も、しかして三界において見の断ぜんとする所の種が未だ永く害せざる位に、假に非得を立て、名づけて異生性という。諸々の聖法に対して未成就なるが故に。
復如何知異色、心等有實同分?
またどうして色・心等に異なりて実の同分有るを知る。
契經說故。如契經說:此天同分、此人同分,乃至廣說。
契経に説くに因る。契経に説けるが如く:此の天同分、此の人同分、乃至広く説くと。
此經不說異色、心等有實同分,為證不成。
この経は並びて色・心等に異なりて実同分有りと説かず。証として成立せず。
若同智、言,因斯起故,知實有者,則草、木等應有同分。
もし同智・言はこれに因って起こりて、実有を知るならば、則ち草・木等もまさに同分有るべし。
又,於同分起同智、言,同分復應有別同分,彼既不爾,此云何然?
また、同分に対して同智・言を起こせば、同分もまたまさに別の同分有るべし。彼辺すでに然らざれば、ここにどうして然らん。
若謂為因起同事、欲,知實有者,理亦不然。宿習為因,起同事、欲,何要別執有實同分?
もし因と為して同事・欲を起こして、実有を知ると説かば、理また然らず。宿習を因と為して、同じ事・欲を起こす。なんぞ必ず別に実同分有りと執せん。
然依有情身、心相似,分位差別,假立同分。
しかして有情の身・心相似の分位差別に依って、假に同分を立つ。
復如何知異色、心等,有實命根?
またどうして色・心等に異なりて実命根有るを知る。
契經說故。如契經說:壽、煖、識三,應知命根說名為壽。
契経に説くに因る。契経に説けるが如く:寿・暖・識の三、まさに命根を名づけて寿と為すべしと。
此經不說異色、心等有實壽體,為證不成。
この経は並びて色・心等に異なりて実寿の体有りと説かず。証として成立せず。
又,先已成色不離識,應此離識無別命根。
また、先にすでに色は識を離れずと成せり。まさにこの識を離れて別の命根無かるべし。
又,若命根異識實有,應如受等,非實命根。
また、もし命根は識に異なりて実有なれば、まさに受等の如く、実命根に非ざるべし。
若爾,如何經說三法?義別說三,如四正斷。住無心位,壽、煖應無。豈不經說識不離身。既爾,如何名無心位?彼滅轉識,非阿賴耶。有此識因,後當廣說。此識足為界、趣、生體,是遍、恆、續。異熟果故,無勞別執有實命根。
もし然らば、どうして経に三法を説く。義に別して三を説く。四正断の如し。無心位に住すれば、寿・暖はまさに無かるべし。あに経に説ける識は身を離れずとするに非ずや。すでに然らば、どうして名づけて無心位という。彼らの滅する所は転識にして、並びて阿頼耶(蔵識。すなわち前に説ける異熟の能変)に非ず。この識の因有り。後まさに広く説くべし。この識は足らく界・趣・生の体と為し、遍・恒・続なり。異熟果なるがゆえに、必ずしも別に実命根有りと執するを要せず。
然依親生此識種子,由業所引功能差別,住時決定,假立命根。
しかしてこの識を親生する種子に依って、業の引く所の功能差別にて、住時決定して、假に命根を立つ。
復如何知二無心定、無想異熟,異色、心等有實自性?
またどうして二の無心定・無想異熟が、色・心等に異なりて実自性有るを知る。
若無實性,應不能遮心、心所法,令不現起。
もし実性無ければ、能く心・心所法を遮って現起せしめざるべからず。
若無心位,有別實法,異色、心等,能遮於心,名無心定。
もし無心位に別の実法有りて、色・心等に異なりて、能く心を遮るを、名づけて無心定という。
應無色時,有別實法,異色、心等,能礙於色,名無色定。彼既不爾,此云何然?
それが無色の時、別の実法有りて、色・心等に異なりて、能く色を碍ぐるを、名づけて無色定という。彼辺すでに然らざれば、ここにどうして然らん。
又,遮礙心何須實法,如堤塘等,假亦能遮。
また心を遮碍するに何ぞ実法を要せん、堤塘等の如く、假もまた能く遮る。
謂修定時,於定加行,厭患麁動心、心所故,發勝期願,遮心、心所。令心、心所漸細漸微,微微心時,燻異熟識,成極增上厭心等種。由此損伏心等種故,麁動心等暫不現行,依此分位,假立二定。此種善故,定亦名善。
いわゆる定を修する時、定の加行にて、麁動の心・心所を厭患するに因って、勝れたる期願を発し、心・心所を遮る。心・心所をして漸細漸微ならしめ、微微たる心の時、異熟識に薫習して、極めて増上なる心を厭う等の種を成す。これに由って心等の種を損伏し、麁動の心等は暫く現行せず、この分位に依って假に二定を立つ。この種の善なるがゆえに、定もまた名づけて善という。
無想定前,求無想果,故所燻成種,招彼異熟識。依定麁動想等不行,於此分位,假立無想。依異熟立,得異熟名,故此三法,亦非實有。
無想定は前に無想の果を求むるがゆえに、薫成する所の種はかの異熟識を招く。定に依って麁動の想等は行わざるに、この分位にて假に無想を立つ。異熟に依って立つるがゆえに異熟の名を得、しかしてこの三法もまた実有に非ず。
成唯識論巻第一
成唯識論巻第二
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
復如何知,諸有為相異色、心等,有實自性?
またどうして諸々の有為相が色・心等に異なりて実自性有るを知らん。
契經說故。如契經說:有三有為之有為相,乃至廣說。
契経に説くに因る。契経に説けるが如く:三有為の有為相有り、乃至広く説くと。
此經不說異色、心等有實自性,為證不成。
この経は並びて色・心等に異なりて実自性有りと説かず。証として成立せず。
非第六聲便表異體,色、心之體即色、心故。
並びて第六声にて便ち異体を表示するに非ず。色・心の体はすなわち色・心なり。
非能相體定異所相,勿堅相等異地等故。
並びて能相の体は決定して所相に異なるに非ず。堅相等をして地等に異ならしむること莫れ。
若有為相異所相體,無為相體應異所相。
もし有為相は所相の体に異なれば、無為相の体もまさに所相に異なるべし。
又生等相,若體俱有,應一切時齊興作用;若相違故,用不頓興,體亦相違,如何俱有?又住、異、滅用不應俱。
また生等の相、もし体倶に有れば、まさに一切の時に斉しく作用を興すべし。もし相違するがゆえに用頓に興らずと説かば、体もまた相違して、どうして倶に有らん。また住・異・滅の用は倶にすべからず。
能相、所相體俱本有,用亦應然,無別性故。若謂彼用更待因緣,所待因緣應非本有。又執生等便為無用。
能相・所相の体は皆本有なれば、用もまた然るべし。別性無きが故に。もしその用は更に因縁を待つと説かば、待つ所の因縁はまさに本有に非ざるべし。また生等を執すれば便ち用無しと為る。
所相恆有而生等合,應無為法亦有生等,彼此異因,不可得故。
所相恒に有るに生等合するに、まさに無為法も生等有るべし。彼・此は因を異にす。求むるも得られず。
又去、來世,非現、非常,應似空花,非實有性。生名為有,寧在未來?滅名為無,應非現在。滅若非無,生應非有。又滅違住,寧執同時?住不違生,何容異世。故彼所執,進退非理。
また去・来世は現に非ず常に非ず。まさに空華の如く、実有性に非ざるべし。生は名づけて有という。どうして未来にあらん。滅は名づけて無という。まさに現在に非に非ざるべし。滅もし無に非ざれば、生もまさに有に非ざるべし。また滅は住に違す。どうして同時と執せん。住は生に違せず。どうして異世を許す。ゆえに彼らの所執は進・退理に合わず。
然有為法,因緣力故,本無今有,暫有還無,表異無為,假立四相。
しかして有為法は因縁力に因って、本無くして今有り、暫く有りて還って無し。無為に異なるを表示して、假に四相を立つ。
本無今有,有位名生;生位暫停,即說為住;住別前後,復立異名;暫有還無,無時名滅。
本無くして今有り。有る位を名づけて生という。生位暫く停まるを、すなわち説いて住と為す。住は前後に別れて、また異名を立つ。暫く有りて還って無し。無き位を名づけて滅という。
前三有故,同在現在,後一是無,故在過去。
前の三は有にして同じく現在に在り。後の一は無なるがゆえに過去に在り。
如何無法與有為相?表此後無,為相何失?生表有法先非有,滅表有法後是無,異表此法非凝然,住表此法暫有用。故此四相,於有為法,雖俱名錶,而表有異。
どうして無法は有為相とせん。これが後無を表示して相と為すに何の失かあらん。生は有法の先は非有なりしを表示し、滅は有法の後は無なりを表示し、異はこの法の凝然ならざるを表示し、住はこの法の暫く用有るを表示す。ゆえにこの四相は有為法に対して皆名づけて表というも、所表は異あり。
此依剎那假立四相,一期分位亦得假立。初有名生;後無名滅;生已相似相續名住;即此相續轉變名異。
これは刹那に依って假に四相を立つ。一期の分位もまた能く假立す。初め有るを名づけて生という。後に無きを名づけて滅という。生じ已って相似相続するを名づけて住という。すなわちこの相続の転変を名づけて異という。
是故四相皆是假立。
ゆえに四相は皆假立なり。
復如何知異色、心等,有實詮表名、句、文身?
またどうして色・心等に異なりて実の詮表たる名・句・文身有るを知らん。
契經說故。如契經說,佛得希有名、句、文身。
契経に説くに因る。契経に説けるが如く、仏は希有の名・句・文身を得たりと。
此經不說異色、心等有實名等,為證不成。
この経は並びて色・心等に異なりて実の名等有りと説かず。証として成立せず。
若名、句、文異聲實有,應如色等,非實能詮。
もし名・句・文は声に異なりて実有なれば、まさに色等の如く、実の能詮に非ざるべし。
謂聲能生名、句、文者,此聲必有音韻屈曲,此足能詮,何用名等。
いわゆる声は能く名・句・文を生ず。しかしてこの声は必ず音韻の屈曲有り。これすでに足らく能詮す。更に名等を用いて何をかせん。
若謂聲上音韻屈曲即名、句、文,異聲實有,所見色上形量屈曲,應異色處別有實體。
もし声上の音韻屈曲がすなわち名・句・文にして声に異なりて実有と説かば、見る所の色上の形量屈曲はまさに色処に異なりて別に実体有るべし。
若謂聲上音韻屈曲,如絃管聲非能詮者,此應如彼聲,不別生名等。又誰說彼定不能詮?聲若能詮,風鈴聲等應有詮用,此應如彼不別生實名、句、文身。若唯語聲能生名等,如何不許唯語能詮。
もし声上の音韻屈曲は、弦管の声は詮せざるが如く、これはまさにかの声の如く別に名等を生を生ぜざるべしと説かば、また誰かその決定して詮せざるを説く。声もし能詮なれば、風鈴の声等はまさに詮の用有るべし。これはまさにかの如く別に実の名・句・文身を生ぜず。もし只だ語声のみ能く名等を生ずれば、どうして只だ語のみ能詮と許さざる。
何理定知能詮即語?寧知異語別有能詮?語不異能詮,人天共了,執能詮異語,天愛非餘。
何の理にか決定して能詮はすなわち語と知る。どうして語に異なりて別に能詮有るを知る。語は能詮に異ならず、人天共に了とす。能詮は語に異なりと執するは、ただ天愛(愚かな執への譏りの称)にして、其余に非ず。
然依語聲分位差別,而假建立名、句、文身。
しかして語声の分位差別に依って、假に名・句・文身を建立す。
名詮自性;句詮差別;文即是字,為二所依。
名は自性を詮す。句は差別を詮す。文はすなわち字にして、二の依と為る所なり。
此三離聲雖無別體,而假、實異,亦不即聲。由此法、詞二無礙解,境有差別;聲與名等,蘊、處、界攝亦各有異。
この三は声を離れて別体無きと雖も、しかして假・実の異有れば、またすなわち声に非ず。これに由って法・詞の二無礙解の境は差別有り。声と名等とは蘊・処・界の摂する所も各々異あり。
且依此土說名、句、文依聲假立,非謂一切;諸餘佛土亦依光明、妙香、味等假立三故。
且く此の土に依って名・句・文は声に依って假立と説く。並びて一切を説くに非ず。其余の諸仏土もまた光明・妙香・味等に依って三を假立す。
有執隨眠異心、心所,是不相應行蘊所攝。
人有りて随眠は心・心所に異なりて、不相応行蘊の摂する所と執す。
彼亦非理,名貪等故,如現貪等,非不相應。
彼らもまた理に合わず。貪等と名づくるがゆえに、現起の貪等の如く、並びて不相応に非ず。
執別有餘不相應行,準前理趣皆應遮止。
別に其余の不相応行有りと執すれば、前の理趣に准じて皆まさに遮止すべし。
諸無為法離色、心等決定實有,理不可得。且定有法,略有三種:一、現所知法,如色、心等。二、現受用法,如瓶、衣等,如是二法,世共知有,不待因成。三、有作用法,如眼、耳等,由彼彼用證知是有。無為非世共知定有,又無作用,如眼、耳等。設許有用,應是無常,故不可執無為定有。然諸無為所知性故,或色、心等所顯性故,如色、心等,不應執為離色、心等實無為性。
諸々の無為法は色・心等を離れて決定して実有なること、理上求むるも得られず。且く定有の法を説けば略して三種有り。一、現に知る所の法。色・心等の如し。二、現に受用する所の法。瓶・衣等の如し。この二法は世人共に有と知る。因成を待たず。三、作用有るの法。眼・耳等の如し。かの用に由って有りと証知す。無為は並びて世人共に定有と知るに非ず。また作用無くして眼・耳等の如し。たとえ用有りを許すも、まさに無常ならん。ゆえに無為を定有と執すべからず。しかして諸無為は所知性なるが故に、あるいは色・心等の顕す所の性なるが故に、色・心等の如く、色・心等を離れて実の無為性と執すべからず。
又虛空等為一、為多?
また虚空等は一か多か。
若體是一,遍一切處,虛空容受色等法故,隨能合法,體應成多,一所合處餘不合故。不爾,諸法應互相遍。若謂虛空不與法合,應非容受,如餘無為。又色等中有虛空不?有應相雜,無應不遍。一部、一品結法斷時,應得餘部、餘品擇滅;一法緣闕得不生時,應於一切得非擇滅。執彼體一,理應爾故。
もし体これ一なれば、一切処に遍し。虚空は色等の法を容受して、合する能の法に随って、体まさに多を成すべし。一の合する処に其余は合せざるが故に。然らずんば諸法はまさに互いに遍すべし。もし虚空は法と合せずと説かば、まさに容受に非ざるべし。其余の無為の如し。また色等の中に虚空有るや無きや。有ればまさに相雑すべし。無ければまさに遍せざるべし。一部・一品の結法を断ずる時、まさに其余の部・其余の品の択滅を得べし。一法の縁缺けて不生を得る時、まさに一切に対して非択滅を得べし。それが体一と執すれば、理まさに然るべし。
若體是多,便有品類,應如色等,非實無為。虛空又應非遍容受。
もし体これ多なれば、便ち品類有りて、まさに色等の如く、実の無為に非ざるべし。虚空もまたまさに遍く容受に非ざるべし。
餘部所執離心、心所實有無為,準前應破。
其余の部の所執の心・心所を離れたる実無為は、前に准じてまさに破るべし。
又諸無為許無因果故,應如兔角,非異心等有。
また諸無為は因・果無しと許せば、まさに兎角の如く、心等に異なる有に非ざるべし。
然契經說,有虛空等諸無為法,略有二種:
しかして契経に虚空等の諸無為法有りと説く。略して二種有り。
一、依識變假施設有。謂曾聞說虛空等名,隨分別有虛空等相,數習力故,心等生時,似虛空等無為相現。此所現相,前後相似,無有變易,假說為常。
一、識変に依って假施設の有。いわゆる曽て虚空等の名を説くを聞きて、随って分別して虚空等の相有り。数習の力に因って、心等生ずる時、虚空等の無為相の如きを現ず。この現ずる所の相は前後相似にして変易無し。假に常と説く。
二、依法性,假施設有。
二、法性に依って假施設の有。
謂空、無我所顯真如,有、無、俱非,心言路絕,與一切法非一、異等,是法真理,故名法性。
いわゆる空・無我の顕す所の真如は、有・無・倶非にして、心言の路絶え、一切法と非一・非異等なり。これ法の真理なるがゆえに名づけて法性という。
離諸障礙,故名虛空;由簡擇力,滅諸雜染,究竟證會,故名擇滅;不由擇力,本性清淨,或緣闕所顯,故名非擇滅;苦、樂受滅,故名不動;想、受不行,名想受滅。
諸々の障碍を離るるがゆえに名づけて虚空という。簡択の力に由って諸雑染を滅し、究竟して証会するがゆえに名づけて択滅という。択力に由らずして本性清浄なり、あるいは縁缺けて顕す所なるがゆえに名づけて非択滅という。苦・楽の受滅するがゆえに名づけて不動という。想・受行わざるを名づけて想受滅という。
此五皆依真如假立,真如亦是假施設名。
この五は皆真如に依って假立す。真如もまた假施設の名なり。
遮撥為無,故說為有;遮執為有,故說為空;勿謂虛、幻,故說為實;理非妄倒,故名真如。不同餘宗離色、心等有實常法名曰真如。
撥して無と為すを遮るがゆえに説いて有と為す。執して有と為すを遮るがゆえに説いて空と為す。虚・幻と謂わしめざるがゆえに説いて実と為す。理は妄倒に非ざるがゆえに名づけて真如という。其余の宗の色・心等を離れて実常の法有りて名づけて真如というに同じからず。
故諸無為非定實有。
ゆえに諸無為は並びて定めて実有に非ず。
外道、餘乘所執諸法異心、心所非實有性,是所取故,如心、心所。
外道・其余の乗の所執の諸法は心・心所に異なりて実有性に非ず。所取なるが故に、心・心所の如し。
能取彼覺亦不緣彼,是能取故,如緣此覺。
能取のかの覚もまたそれに縁せず。能取なるが故に、これに縁する覚の如し。
諸心、心所依他起故,亦如幻事,非真實有。
諸々の心・心所は他依って起こり、幻事の如く、真実の有に非ず。
為遣妄執心、心所外實有境故,說唯有識。
妄執の心・心所外の実有境を遣除する為に、唯有識と説く。
若執唯識真實有者,如執外境,亦是法執。
もし唯識を執して真実有と為さば、外境を執するが如く、これもまた法執なり。
然諸法執略有二種:
しかして諸々の法執は略して二種有り。
一者俱生;二者分別。
一つには倶生。二つには分別。
俱生法執,無始時來虛妄燻習,內因力故,恆與身俱,不待邪教及邪分別,任運而轉,故名俱生。
倶生の法執は無始より来り、虚妄に薫習して内因力に因りて、恒に身と倶に在り。邪教および邪分別を待たずして任運に転ず。ゆえに名づけて倶生という。
此復二種:一、常相續,在第七識,緣第八識,起自心相,執為實法;二、有間斷,在第六識,緣識所變蘊、處、界相,或總、或別,起自心相,執為實法。
これもまた二種有り。一、常に相続して、第七識に在り、第八識に縁じて、自心の相を生起して、執して実法と為す。二、間断有りて、第六識に在り、識の変ずる所の蘊・処・界の相に縁じて、或いは総に或いは別に、自心の相を生起して、執して実法と為す。
此二法執細故難斷,後十地中數數修習勝法空觀,方能除滅。
この二種の法執は細なるがゆえに断じ難し。後に十地の中にて数々殊勝の法空観を修習して、乃ち能く除滅す。
分別法執,亦由現在外緣力故,非與身俱,要待邪教及邪分別然後方起,故名分別。
分別の法執もまた現在の外縁力に由りて、並びて身と倶に在らず。邪教および邪分別を待ちて然る後に起こる。ゆえに名づけて分別という。
唯在第六意識中有。此亦二種:一、緣邪教所說蘊、處、界相,起自心相,分別、計度,執為實法。二、緣邪教所說自性等相,起自心相,分別、計度,執為實法。
唯だ第六意識の中に在り。これもまた二種有り。一、邪教の説く所の蘊・処・界の相に縁じて、自心の相を生起して、分別・計度して、執して実法と為す。二、邪教の説く所の自性等の相に縁じて、自心の相を生起して、分別・計度して、執して実法と為す。
此二法執麁故易斷,入初地時,觀一切法,法空真如,即能除滅。
この二種の法執は麁なるがゆえに断じ易し。初地に入る時、一切法の法空真如を観ずれば、便ち能く除滅す。
如是所說一切法執,自心外法或有或無,自心內法一切皆有,是故法執皆緣自心所現似法,執為實有。然似法相從緣生故,是如幻有,所執實法妄計度故,決定非有。故世尊說:「慈氏當知,諸識所緣,唯識所現,依他起性,如幻事等。」
かくのごとく説く所の一切法執は、自心外の法はあるいは有りあるいは無し。自心内の法は一切皆有り。ゆえに法執は皆自心の現ずる所の似法に縁じて、執して実有と為す。しかして似法の相は縁より生ず。これ如幻の有なり。所執の実法は妄りに計度するに因って、決定して有に非ず。ゆえに世尊説きたまう:「慈氏(弥勒)まさに知るべし。諸識の縁ずる所は、唯だ識の現ずる所にして、他依起性にして、幻事等の如し。」
如是外道、餘乘所執離識我、法皆非實有。故心、心所決定不用外色等法為所緣緣,緣用必依實有體故。
かくのごとく外道・其余の乗の所執の識を離れたる我・法は皆実有に非ず。ゆえに心・心所は決定して外色等の法を用いて所縁縁と為さず。縁の用は必ず実有の体に依るが故に。
現在彼聚心、心所法,非此聚識親所緣緣,如非所緣,他聚攝故。同聚心所亦非親所緣,自體異故,如餘非所取。
現在のかの一聚の心・心所法は、並びてこの一聚の識の親所縁縁に非ず。所縁に非ざるが如く、他聚の摂する所なるが故に。同聚の心所もまた親所縁に非ず。自体異なるが故に、其余の所取に非ざるが如し。
由此應知,實無外境,唯有內識,似外境生。是故契經伽他中說:「如愚所分別,外境實皆無,習氣擾濁心,故似彼而轉。」
これに由ってまさに知るべし、実に外境無く、唯だ内識有りて外境の如く生ず。ゆえに契経の偈の中に説く:「愚人の分別するが如く、外境は実に皆無し。習気は心を擾濁す。ゆえに彼の如くして転ず。」
有作是難:若無離識實我、法者,假亦應無,謂假必依真事、似事、共法而立,如有真火、有似火人、有猛赤法,乃可假說此人為火,假說牛等應知亦然。我、法若無,依何假說,無假說故,似亦不成,如何說心似外境轉。
人有りてかくのごとき難を作す:もし識を離れたる実の我・法無ければ、假もまたまさに無かるべし。いわゆる假は必ず真事・似事・共法に依って立つ。真火有り、火に似たる人有り、猛赤の法有らば、乃ち假にこの人を火と説き、假に牛等を説くもまたまさに知るべし。我・法もし無ければ、何に依って假説せん。假説無ければ、似もまた成立せず。どうして心は外境の如くして転ずと説かん。
彼難非理,離識我、法,前已破故。
彼らの難は理に合わず。識を離れたる我・法は前に已に破れり。
依類、依實假說火等,俱不成故。
類に依り実に依りて假に火等を説くも、皆成立せず。
依類假說理且不成,猛、赤等德非類有故。若無共德而假說彼,應亦於水等假說火等名。若謂猛等雖非類德,而不相離,故可假說。此亦不然,人類猛等現見亦有,互相離故。類既無德又互相離,然有於人假說火等,故知假說不依類成。
類に依って假説する理は況や成立せず。猛・赤等の徳は並びて類の所有に非ず。もし共の徳無くしてそれを假説せば、まさに水等に対しても火等の名を假説すべし。もし猛等は類の徳に非ずと雖も、しかして相離れざるがゆえに假説すべしと説かば、これもまた然らず。人の類の猛等は現見するもまた互相離有り。類はすでに徳無くしてまた互相離れ、しかも人に対して火等の假説有り。ゆえに假説は類に依らずして成るを知る。
依實假說,理亦不成。猛、赤等德非共有故,謂猛、赤等在火、在人其體各別,所依異故,無共假說,有過同前。若謂人、火,德相似故,可假說者,理亦不然。說火在人,非在德故。由此假說不依實成。
実に依って假説するも、理また成立せず。猛・赤等の徳は並びて共有に非ず。いわゆる猛・赤等は火に在り人に在りてその体各別なり。所依異なるが故に、共に假説する無し。過は前に同じ。もし人・火は徳相似なるがゆえに假説すべしと説かば、理また然らず。火を説いて人に在りとは、徳に在りに非ず。これに由って假説は実に依らずして成る。
又假必依真事立者,亦不應理。
また假は必ず真事に依って立つも、また理に応えず。
真謂自相,假智及詮俱非境故。謂假智、詮不得自相,唯於諸法共相而轉,亦非離此有別方便施設自相為假所依。然假智、詮必依聲起,聲不及處,此便不轉,能詮、所詮俱非自相,故知假說不依真事。
真とは自相を説く。假智および詮は皆境に非ず。いわゆる假智・詮は自相を得ること能わずして、ただ諸法の共相に対して転ず。またこのを離れて別に方便して自相を施設して假の所依と為すに非ず。しかして假智・詮は必ず声に依って起こり、声の及ばざる処に、この便ち転ぜず。能詮・所詮は皆自相に非ず。ゆえに假説は真事に依らずと知る。
由此但依似事而轉,似謂增益,非實有相,聲依增益,似相而轉,故不可說假必依真。
これに由ってただ似事に依って転ず。似とは増益を説く。実有の相に非ず。声は増益に依り、似相にして転ず。ゆえに假は必ず真に依ると説くべからず。
是故彼難不應正理。然依識變,對遣妄執真實我、法,說假似言。由此契經伽他中說:
ゆえに彼らの難は正理に応えず。しかして識変に依って、真実の我・法を妄執するに対して遣除するに、假・似の言を説く。これに由って契経の偈の中に説く:
「為對遣愚夫所執實我、法,
「愚夫の執する所の実我・法を対遣するが為に、
故於識所變,假說我、法名。」
ゆえに識の変ずる所に対して、假に我・法の名を説く。」
識所變相雖無量種,而能變識類別唯三:一謂異熟,即第八識,多異熟性故;二謂思量,即第七識,恆、審思量故;三謂了境,即前六識,了境相麁故。「及」言顯六合為一種。
識の変ずる所の相は無量種あると雖も、しかし能変の識の類別は唯だ三有り。一は異熟、すなわち第八識にして、多くは異熟性なるが故に。二は思量、すなわち第七識にして、恒・審に思量するが故に。三は了境、すなわち前の六識にして、境を了る相麁なるが故に。「及」の字は六を合して一種と為すを顕す。
此三皆名能變識者,能變有二種:
この三は皆名づけて能変の識という。能変に二種有り。
一、因能變,謂第八識中「等流」、「異熟」二因習氣。等流習氣,由七識中善、惡、無記燻令生長;異熟習氣由六識中有漏善、惡燻令生長。
一、因能変。いわゆる第八識中の「等流」・「異熟」の二因の習気。等流習気は七識中の善・悪・無記に由って薫されて生長せしめられ、異熟習気は六識中の有漏の善・悪に由って薫されて生長せしめらる。
二、果能變,謂前二種習氣力故,有八識生現種種相。
二、果能変。前の二種の習気力に因って、八識有りて生じて現じて種種の相を為す。
等流習氣為因緣故,八識體相差別而生,名等流果,果似因故。異熟習氣為增上緣,感第八識,酬引業力,恆相續故,立異熟名;感前六識,酬滿業者,從異熟起,名異熟生,不名異熟有間斷故。即前異熟及異熟生,名異熟果,果異因故。
等流習気は因縁と為して、八識の体相差別して生ず。名づけて等流果という、果は因に似たるが故に。異熟習気は増上縁と為して、第八識を感じて、業力を酬いて引く。恒に相続するに因って、異熟の名を立つ。前の六識を感ずるは、満業を酬ゆるにして、異熟より起こる。名づけて異熟生という、名づけて異熟と言わざるは、間断有るが故に。すなわち前の異熟および異熟生を、名づけて異熟果という、果は因に異なるが故に。
此中且說我愛執藏,持雜染種能變果識,名為異熟,非謂一切。
ここに且く我愛執蔵と、雑染種を持する能変果識とを説いて、名づけて異熟という。並びて一切を説くに非ず。
雖已略說能變三名,而未廣辯能變三相。且初能變其相云何?
已に略く能変の三名を説くと雖も、しかし未だ広く能変の三相を弁ぜず。且く初能変のその相はいかんと説かん。
頌曰:
頌に説く:
初阿賴耶識,異熟一切種,
初の阿頼耶識は、異熟にして一切種。
3不可知執受,處了常與觸,
知るべからざる執受・処を了し、常に触と、
作意、受、想、思,相應唯捨受。
作意・受・想・思と相応して唯だ捨受のみ。
4是無覆無記,觸等亦如是,
これ無覆無記にして、触等もまたこの如し。
恆轉如瀑流,阿羅漢位捨。
恒に転ずること瀑流の如く、阿羅漢の位にて捨つ。
論曰:初能變識,大小乘教名阿賴耶,此識具有能藏、所藏、執藏義故。謂與雜染互為緣故,有情執為自內我故,此即顯示初能變識所有自相,攝持因果為自相故。此識自相,分位雖多,藏識過重,是故偏說。
論に説く:初能変の識は、大小乗の教にて名づけて阿頼耶という。この識は能蔵・所蔵・執蔵の義を具えたり。いわゆる雑染と互いに縁と為り、有情これを執して自内我と為す。これすなわち初能変識の所有する自相を顕す。因果を摂持して自相と為すが故に。この識の自相は分位多きと雖も、蔵識の過重なるがゆえに偏りて説く。
此是能引諸界、趣、生,善、不善業異熟果故,說名異熟。離此命根、眾同分等恆時相續勝異熟果不可得故。此即顯示初能變識所有果相。此識果相,雖多位、多種,異熟寬、不共,故偏說之。
これは能く諸々の界・趣・生と、善・不善業との異熟果を引く。ゆえに名づけて異熟という。このを離れば、命根・衆同分等の恒時相続する勝れたる異熟果は求むるも得られず。これすなわち初能変識の所有する果相を顕す。この識の果相は多位・多種あると雖も、異熟は広く不共なるがゆえに偏りてそれを説く。
此能執持諸法種子令不失故,名一切種。離此餘法能遍執持諸法種子不可得故,此即顯示初能變識所有因相。此識因相雖有多種,持種不共,是故偏說。
これは能く諸法の種子を執持して失わせず。名づけて一切種という。このを離れば、其余の法の能く遍く諸法の種子を執持するは求むるも得られず。これすなわち初能変識の所有する因相を顕す。この識の因相は多種あると雖も、持種は不共なるがゆえに偏りて説く。
初能變識,體相雖多,略說唯有如是三相。
初能変識は体相多きと雖も、略く説けばただこの三相のみ有り。
一切種相應更分別。此中何法名為種子?
一切種相応は更に分別す。ここにいかなる法をか名づけて種子という。
謂本識中親生自果,功能差別。
いわゆる本識の中に親く自果を生ずる功能差別なり。
此與本識及所生果不一、不異,體用、因果理應爾故。
これは本識および所生の果と一に非ず異に非ず。体用・因果の理はまさに然るべし。
雖非一、異,而是實有,假法如無,非因緣故。此與諸法既非一、異,應如瓶等是假非實。若爾,真如應是假有,許則便無真勝義諦。
一・異に非ずと雖も、しかして実有なり。假法は無の如くして、因縁に非ざるが故に。これは諸法と既に一・異に非ざれば、まさに瓶等の如く假にして実に非ざるべし。もし然らば、真如もまさに假有ならん。許さば便ち真勝義諦無しと為る。
然諸種子唯依世俗說為實有,不同真如。
しかし諸々の種子はただ世俗に依って実有と説く。真如に同じからず。
種子雖依第八識體,而是此識相分;非餘,見分恆取此為境故。
種子は第八識体に依ると雖も、しかしてこの識の相分なり。其余に非ず。見分は恒にこれを取って境と為すが故に。
諸有漏種與異熟識,體無別故,無記性攝;因果俱有善等性故,亦名善等。
諸々の有漏種と異熟識とは体に分別無し。無記性の摂する所なり。因果は皆善等の性有るがゆえに、また名づけて善等という。
諸無漏種,非異熟識性所攝故;因果俱是善性攝故,唯名為善。若爾,何故〈決擇分〉說二十二根一切皆有異熟種子,皆異熟生?雖名異熟而非無記,依異熟故名異熟種,異性相依如眼等識。或無漏種,由燻習力轉變成熟,立異熟名,非無記性所攝異熟。
諸々の無漏種は、異熟識性の摂する所に非ず。因果は皆善性の摂する所なるがゆえに、ただ名づけて善という。もし然らば、何を以って〈決択分〉に二十二根は一切皆有りて異熟種子有りて、皆是れ異熟生と説く。名づけて異熟というと雖もしかし無記に非ず。異熟に依るがゆえに名づけて異熟種という。異性と依とは眼等識の如し。あるいは無漏種は薫習力に由って転変成熟して、異熟の名を立つ。並びて無記性の摂する所の異熟に非ず。
此中有義:一切種子皆本性有,不從燻生。
ここに一義有り:一切の種子は皆本性有りて、薫より生ぜず。
由燻習力但可增長。
薫習力に由ってただ増長し得るのみ。
如契經說:一切有情無始時來有種種界,如惡叉聚,法爾而有。界即種子差別名故。又契經說:「無始時來界,一切法等依」,界是因義。《瑜伽》亦說:諸種子體無始時來性雖本有,而由染淨新所燻發。諸有情類無始時來,若般涅槃法者,一切種子皆悉具足,不般涅槃法者,便闕三種菩提種子。如是等文,誠證非一。
契経に説けるが如く:一切有情は無始より来り種種の界有りて、悪叉聚(果実の簇だまり成るもの)の如く、法爾にして有りと。界はすなわち種子の差別名なり。また契経に説く:「無始より来る界は、一切法の等依なり」と。界は因の義なり。《瑜伽》にもまた説く:諸々の種子体は無始より来り性は本有と雖も、しかし染浄の新たに薫発する所に由ると。諸々の有情類は無始より来り、もし般涅槃法たるの人なれば、一切の種子は皆具足せり。般涅槃法に非ざるの人なれば、便ち三種菩提の種子を缺く。かくのごとき等の文は、証と誠たること一処のみに非ず。
又諸有情既說本有五種性別,故應定有法爾種子,不由燻生。又《瑜伽》說:地獄成就三無漏根,是種非現。又從無始展轉傳來,法爾所得本性住性。由此等證,無漏種子法爾本有,不從燻生。
また諸有情はすでに本有の五種性别有りと説けば、ゆえにまさに定めて法爾の種子有るべくして、薫より生ずるに由らず。また《瑜伽》に説く:地獄は三無漏根を成就す。これ種にして現に非ず。また無始より展転伝え来りて、法爾にて得たる本性住性なりと。これらの等の証に由って、無漏種子は法爾本有にして、薫より生ぜず。
有漏亦應法爾有種,由燻增長,不別燻生。
有漏もまたまさに法爾に種有るべくして、薫に由って増長し、別に薫生せず。
如是建立,因果不亂。
かくのごとく建立すれば、因果乱れず。
有義:種子皆燻故生。
一義有り:種子は皆薫に因って生ず。
所燻、能燻俱無始有,故諸種子無始成就。種子既是習氣異名,習氣必由燻習而有,如麻香氣,花燻故生。
所薫・能薫は皆無始有れば、ゆえに諸種子は無始に成就す。種子はすでに習気の異名なれば、習気は必ず薫習に由って有り。麻の香気の如く、花の薫するに因って生ず。
如契經說:諸有情心,染淨諸法所燻習故,無量種子之所積集。論說:內種定有燻習,外種燻習或有或無。又名言等三種燻習,總攝一切有漏法種。彼三既由燻習而有,故有漏種必藉燻生。
契経に説けるが如く:諸有情の心は、染浄の諸法の薫習する所に因りて、無量の種子の積集する所なりと。論に説く:内種は定めて薫習有りて、外種の薫習はあるいは有りあるいは無し。また名言等の三種の薫習は、総く一切有漏法種を摂す。かの三はすでに薫習に由って有れば、ゆえに有漏種は必ず薫生に藉る。
無漏種生亦由燻習,說聞燻習、聞淨法界等流正法而燻起故,是出世心種子性故。
無漏種の生もまた薫習に由る。聞薫習を説いて、浄法界の等流たる正法を聞いて薫起するに因る。出世心の種子性なるが故に。
有情本來種姓差別,不由無漏種子有無,但依有障、無障建立。如《瑜伽》說:於真如境,若有畢竟二障種者,立為不般涅槃法性;若有畢竟所知障種非煩惱者,一分立為聲聞種性,一分立為獨覺種性;若無畢竟二障種者,即立彼為如來種性。故知本來種性差別,依障建立,非無漏種。
有情の本来の種性差別は、無漏種子の有無に由らずして、ただ障有る・障無きに依って建立す。《瑜伽》に説けるが如く:真如の境に対して、もし畢竟の二障種有るの人なれば、立てて不般涅槃法性と為す。もし畢竟の所知障種有りて煩悩に非ざるなれば、一分立てて声聞種性と為し、一分立てて独覚種性と為す。もし畢竟の二障種無きの人なれば、便ち彼らを立てて如来種性と為す。ゆえに本来の種性差別は障に依って建立し、並びて無漏種に非ずと知る。
所說:「成就無漏種」言,依當可生,非已有體。
説く所の「無漏種を成就す」の言は、当に生ずべきに依る。並びて已に体有るに非ず。
有義:種子各有二類。
一義有り:種子は各々二类有り。
一者本有,謂無始來異熟識中法爾而有,生蘊、處、界功能差別。世尊依此,說諸有情無始時來有種種界,如惡叉聚,法爾而有,餘所引證廣說如初。此即名為本性住種。
一つには本有。いわゆる無始より来り、異熟識中に法爾にして有りて、蘊・処・界を生ずる功能差別なり。世尊これに依って、諸有情は無始より来り種種の界有りて悪叉聚の如く法爾にして有りと説く。其余の引く所の証は広く説くこと初の如し。これすなわち名づけて本性住種という。
二者始起,謂無始來,數數現行燻習而有。世尊依此,說有情心染淨諸法所燻習故,無量種子之所積集。諸論亦說:染淨種子由染淨法燻習故生,此即名為習所成種。
二つには始起。いわゆる無始より来り、数々現行にて薫習して有るなり。世尊これに依って、有情の心は染浄の諸法の薫習する所に因りて、無量の種子の積集する所なりと説く。諸論もまた説く:染浄の種子は染浄法の薫習に由って生ずと。これすなわち名づけて習所成種という。
若唯本有,轉識不應與阿賴耶為因緣性。如契經說:
もし唯だ本有なれば、転識はまさに阿頼耶と因縁性と為るべからず。契経に説けるが如く:
「諸法於識藏,識於法亦爾,
「諸法は識蔵に対し、識は法に対してもまた然り。
更互為果性,亦常為因性。」
更互に果性と為り、また常に因性と為る。」
此頌意言:阿賴耶識與諸轉識,於一切時展轉相生,互為因果。《攝大乘》說:阿賴耶識與雜染法互為因緣,如炷與焰展轉生燒,又如束蘆互相依住,唯依此二建立因緣,所餘因緣不可得故。若諸種子不由燻生,如何轉識與阿賴耶有因緣義?非燻令長可名因緣,勿善、惡業與異熟果為因緣故。
この頌の意は、阿頼耶識と諸転識とは一切の時に展転相生して、互いに因果と為ると謂う。《摂大乗》に説く:阿頼耶識と雑染法とは互いに因縁と為りて、灯炷と焔との展転生焼するが如く、また束蘆の相依って住するが如し。ただこの二に依って因縁を建立す。其余の因縁は求むるも得られず。もし諸種子は薫より生ぜずと言わば、どうして転識は阿頼耶と因縁の義有らん。並びて薫して長ぜしめるを名づけて因縁と言うべからず。善・悪業をして異熟果と因縁と為らしむること莫れ。
又諸聖教說有種子由燻習生,皆違彼義;故唯本有,理、教相違。
また諸聖教は種子有りて薫習に由って生ずと説く。皆かの義に違す。ゆえに唯だ本有なれば、理・教相違す。
若唯始起,有為無漏無因緣故,應不得生,有漏不應為無漏種,勿無漏種生有漏故,許應諸佛有漏復生,善等應為不善等種。
もし唯だ始起なれば、有為の無漏は因縁無くして、まさに生ぜずを得べし。有漏はまさに無漏種と為すべからず。無漏種をして有漏を生ぜしむること莫れ。許さばまさに諸仏は有漏復た生ずべく、善等はまさに不善等の種と為すべし。
分別論者雖作是說:心性本淨,客塵煩惱所染汙,故名為雜染,離煩惱時,轉成無漏,故無漏法非無因生。
分別論者はかくのごとき説を作すと雖も:心性は本浄にして、客塵煩悩の染汚する所なれば、ゆえに名づけて雑染という。煩悩を離るる時、転じて無漏と為る。ゆえに無漏法は並びて無因の生に非ずと。
而心性言,彼說何義?若說空理,空非心因,常法定非諸法種子,以體前後無轉變故。若即說心,應同數論,相雖轉變而體常一,惡、無記心又應是善,許則應與信等相應,不許便應非善心體,尚不名善,況是無漏?有漏善心既稱雜染,如惡心等,性非無漏,故不應與無漏為因,勿善、惡等互為因故。若有漏心性是無漏,應無漏心性是有漏,差別因緣不可得故。又異生心若是無漏,則異生位無漏現行應名聖者。若異生心性雖無漏,而相有染,不名無漏,無斯過者,則心種子亦非無漏,何故汝論說有異生唯得成就無漏種子,種子、現行性、相同故。
しかし心性の言は、彼らは何の義をか説く。もし空理を説かば、空は心因に非ず。常法は決定して諸法の種子に非ず。体は前後に転変無きが故に。もしすなわち心を説かば、まさに数論に同じからん。相は転変すると雖も体は常に一なり。悪・無記心もまたまさに善ならん。許さばまさに信等と相応すべく、許さざれば便ちまさに善心体に非ざるべし。尚ほ善と名づけず、いわんや無漏をや。有漏の善心はすでに雑染と称せば、悪心等の如く、性は無漏に非ず。ゆえにまさに無漏と因を為すべからず。善・悪等をして互いに因と為らしむること莫れ。もし有漏心性は無漏なれば、まさに無漏心性は有漏ならん。差別の因縁は求むるも得られず。また異生心もし無漏なれば、然らば異生位の無漏現行はまさに名づけて聖者と言うべし。もし異生心性は無漏なると雖も、しかし相染有りて、名づけて無漏と言わず、この過無しと言わば、然らば心種子もまた無漏に非ず。なんぞ汝らの論は異生有りてただ無漏種子を成就すと説き、種子・現行は性・相同じからん。
然契經說:心性淨者,說心空理所顯真如,真如是心真實性故。或說心體非煩惱故,名性本淨,非有漏心性是無漏,故名本淨。
しかし契経に心性浄と説くは、心空理の顕す所の真如を説く。真如は心の真実性なるが故に。あるいは心体は煩悩に非ず、名づけて性本浄という。並びて有漏心性は無漏と説くに非ず。ゆえに名づけて本浄という。
由此應信有諸有情無始時來有無漏種,不由燻習,法爾成就,後勝進位燻令增長,無漏法起,以此為因。無漏起時,復燻成種,有漏法種類此應知。
これに由ってまさに信ずべし、諸有情は無始より来り無漏種有りて、薫習に由らずして法爾に成就す。後の勝進位にて薫して増長せしめ、無漏法の起こるはこれを以って因と為す。無漏起こる時、また薫じて種を成す。有漏法の種類もこれに由ってまさに知るべし。
諸聖教中,雖說內種定有燻習,而不定說一切種子皆燻故生,寧全撥無本有種子?然本有種亦由燻習,令其增盛方能得果,故說內種定有燻習。
諸聖教の中に、内種は定めて薫習有りと説くと雖も、しかし定めて一切の種子は皆薫に因って生ずとは説かず。どうして尽く本有種子を撥して無とせん。しかし本有種もまた薫習に由って、それを増盛ならしめて乃ち果を得るを得す。ゆえに内種は定めて薫習有りと説く。
其聞燻習非唯有漏,聞正法時亦燻本有無漏種子,令漸增盛,展轉乃至生出世心,故亦說此名聞燻習。
かの聞薫習は並びて有漏のみに非ず。正法を聞く時もまた本有の無漏種子を薫して、それを漸く増盛ならしめ、展転して乃至出世心を生ず。ゆえにもまたこれを名づけて聞薫習と説く。
聞燻習中,有漏性者是修所斷,感勝異熟,為出世法勝增上緣。無漏性者非所斷攝,與出世法正為因緣。此正因緣微隱難了,有寄麁顯勝增上緣,方便說為出世心種。
聞薫習の中に、有漏性の者は修の断ずる所にして、勝れたる異熟を感じて、出世法の勝増上縁と為す。無漏性の者は断ずる所の摂に非ずして、出世法と正に因縁と為す。この正因縁は微隠にして了し難し。粗顕の勝増上縁に寄托して、方便に出世心種と説く。
依障建立種姓別者,意顯無漏種子有無,謂:若全無無漏種者,彼二障種永不可害,即立彼為非涅槃法;若唯有二乘無漏種者,彼所知障種永不可害,一分立為聲聞種姓,一分立為獨覺種姓;若亦有佛無漏種者,彼二障種俱可永害,即立彼為如來種姓。故由無漏種子有無,障有可斷、不可斷義,然無漏種微隱難知,故約彼障顯性差別。不爾,彼障有何別因而有可害、不可害者?若謂法爾有此障別,無漏法種寧不許然?若本全無無漏法種,則諸聖道永不得生,誰當能害二障種子,而說依障立種姓別?既彼聖道必無生義,說當可生,亦定非理。
障に依って種性の別を建立するは、意は無漏種子の有無を顕すと謂う。いわゆる:もし全く無漏種無きの人なれば、かの二障種は永く害すべからず。便ち彼らを立てて非涅槃法と為す。もし唯だ二乗の無漏種有るの人なれば、かの所知障種は永く害すべからず。一分立てて声聞種姓と為し、一分立てて独覚種姓と為す。もしも仏の無漏種有るの人なれば、かの二障種は皆永く害すべし。便ち彼らを立てて如来種姓と為す。ゆえに無漏種子の有無に由って、障は断ずべき・断ずべからざるの義有り。しかし無漏種は微隠にして知り難し。ゆえにかの障に約して性の差別を顕す。然らずんば、かの障は何の別因有りてか害すべき・害すべからざる有らん。もし法爾にこの障別有りと説かば、無漏法種はなんぞかく有るを許さざらん。もし本来全く無漏法種無ければ、然らば諸聖道は永く生ずるを得ず。誰かまさに能く二障種子を害すべき。しかも障に依って種姓別を立つと説く。すでにかの聖道は必ず无生の義有れば、当に生ずべしと説くも、また決定して理に合わず。
然諸聖教處處說有本有種子,皆違彼義,故唯始起,理、教相違。
しかし諸聖教は処処に本有種子有りと説く。皆かの義に違す。ゆえに唯だ始起なれば、理・教相違す。
由此應知,諸法種子各有本有、始起二類。
これに由ってまさに知るべし、諸法の種子は各々本有・始起の二类有り。
然種子義,略有六種。
しかし種子の義は略して六種有り。
一、剎那滅。謂體才生無間必滅,有勝功力,方成種子。此遮常法,常無轉變,不可說有能生用故。
一、刹那滅。いわゆる体は纔かに生じて無間に必ず滅し、勝れたる功力有りて、乃ち種子を成す。これは常法を遮る。常は転変無くして、能生の用有りと説くべからず。
二、果俱有。謂與所生現行果法俱現和合,方成種子。此遮前後及定相離,現、種異類互不相違,一身俱時有能生用,非如種子自類相生,前後相違,必不俱有。雖因與果有俱、不俱,而現在時可有因用,未生、已滅無自體故,依生現果立種子名,不依引生自類名種,故但應說與果俱有。
二、果倶有。いわゆる所生の現行果法と倶に現じて和合して、乃ち種子を成す。これは前後および定めて相離れるを遮る。現・種は異類にして互いに相違せず。一身に倶時に能生の用有り。並びて種子の自類相生の如く前後相違して必ず倶有せざるに非ず。因と果とに倶・不倶有ると雖も、しかし現在の時に因の用有るべし。未生・已滅は自体無し。現果を生ずるに依って種子の名を立つ。自類を引生するに依って名づけて種と為すに依らず。ゆえにただまさに果と倶有と説くべし。
三、恆隨轉。謂要長時一類相續,至究竟位,方成種子。此遮轉識,轉易間斷,與種子法不相應故。此顯種子自類相生。
三、恒随転。いわゆる長時に一類相続して、究竟位に至りて、乃ち種子を成す。これは転識を遮る。転易間断して、種子法と相応せざるが故に。これは種子の自類相生を顕す。
四、性決定。謂隨因力生善、惡等,功能決定,方成種子。此遮餘部執異性因生異性果有因緣義。
四、性決定。いわゆる因力に随って善・悪等を生じ、功能決定して、乃ち種子を成す。これは其余の部の異性因が異性果を生ずるに因縁の義有りと執するを遮る。
五、待眾緣。謂此要待自眾緣合,功能殊勝,方成種子。此遮外道執自然因不待眾緣恆頓生果;或遮餘部緣恆非無。顯所待緣非恆有性,故種於果非恆頓生。
五、衆縁を待つ。いわゆるこれは自衆縁の合を待ちて、功能殊勝にして、乃ち種子を成す。これは外道の自然因を執して衆縁を待たずに恒に頓に果を生ずるを遮り、あるいは其余の部の縁は恒に非無を遮る。待つ所の縁は並びて恒有性に非ざるを顕す。ゆえに種は果に対して並びて恒に頓生せず。
六、引自果。謂於別別色、心等果,各各引生方成種子。此遮外道執唯一因生一切果;或遮餘部執色、心等互為因緣。
六、自果を引く。いわゆる各別の色・心等の果に対して、各々引生して乃ち種子を成す。これは外道の唯一因が一切果を生ずと執するを遮り、あるいは其余の部の色・心等は互いに因縁と為ると執するを遮る。
唯本識中功能差別具斯六義,成種非餘,外穀麥等,識所變故,假立種名,非實種子。
唯だ本識中の功能差別のみこの六義を具えて、種を成す。其余に非ず。外間の穀・麦等は、識の変ずる所なるがゆえに、假に種の名を立つ。並びて実の種子に非ず。
此種勢力生近、正果,名曰生因;引遠、殘果,令不頓絕,即名引因。
この種の勢力は近・正果を生ずるを名づけて生因という。遠・残果を引いて頓に絶えざらしめるを、便ち名づけて引因という。
內種必由燻習生長,親能生果,是因緣性。
内種は必ず薫習に由って生長し、親く能く果を生ずるは、因縁性なり。
外種燻習或有、或無,為增上緣,辦所生果。
外種の薫習はあるいは有りあるいは無くして、増上縁と為して、所生の果を辧ず。
必以內種為彼因緣,是共相種所生果故。
必ず内種を以ってかの辺の因縁と為す。共相種の所生果なるが故に。
依何等義立燻習名?
何の等義に依ってか薫習の名を立つ。
所燻、能燻各具四義,令種生長,故名燻習。
所薫・能薫は各々四義を具えて、種を生長せしむ。ゆえに名づけて薫習という。
何等名為所燻四義?
何をか名づけて所薫の四義という。
一、堅住性。若法始終一類相續能持習氣,乃是所燻。此遮轉識及聲、風等,性不堅住,故非所燻。
一、堅住性。もし法は始終一類相続して、能く習気を持すれば、乃是れ所薫。これは転識および声・風等を遮る。性は堅住せざるがゆえに所薫に非ず。
二、無記性。若法平等,無所違逆,能容習氣,乃是所燻。此遮善染勢力強盛,無所容納,故非所燻。由此如來第八淨識,唯帶舊種,非新受燻。
二、無記性。もし法は平等にして、違逆する所無く、能く習気を容れれば、乃是れ所薫。これは善染の勢力强盛にして、容納する所無きを遮る。ゆえに所薫に非ず。これに由って如来の第八浄識は、ただ旧種を帯びて、並びて新たに薫を受くるに非ず。
三、可燻性。若法自在,性非堅密,能受習氣,乃是所燻。此遮心所及無為法,依他、堅密,故非所燻。
三、可薫性。もし法は自在にして、性堅密ならず、能く習気を受くれば、乃是れ所薫。これは心所以及無為法を遮る。他に依り堅密なるがゆえに所薫に非ず。
四、與能燻共和合性。若與能燻同時、同處,不即、不離,乃是所燻。此遮他身、剎那前後,無和合義,故非所燻。
四、能薫と共和合性。もし能薫と同時・同処にして、不即・不離なれば、乃是れ所薫。これは他身・刹那前後を遮る。和合の義無きがゆえに所薫に非ず。
唯異熟識具此四義,可是所燻,非心所等。
唯だ異熟識のみこの四義を具えて、乃ち所薫。並びて心所等に非ず。
何等名為能燻四義?
何をか名づけて能薫の四義という。
一、有生滅。若法非常,能有作用,生長習氣,乃是能燻。此遮無為前後不變,無生長用,故非能燻。
一、生滅有り。もし法は常に非ずして、能く作用有りて習気を生長せば、乃是れ能薫。これは無為の前後変わらず、生長の用無きを遮る。ゆえに能薫に非ず。
二、有勝用。若有生滅,勢力增盛,能引習氣,乃是能燻。此遮異熟心、心所等,勢力羸劣,故非能燻。
二、勝用有り。もし生滅有りて、勢力増盛にして、能く習気を引けば、乃是れ能薫。これは異熟の心・心所等を遮る。勢力羸劣なるがゆえに能薫に非ず。
三、有增減。若有勝用,可增可減,攝植習氣,乃是能燻。此遮佛果圓滿善法,無增無減,故非能燻。彼若能燻,便非圓滿,前後佛果應有勝劣。
三、増減有り。もし勝用有りて、増すべく減ずべくして、習気を摂植すれば、乃是れ能薫。これは仏果の円満善法を遮る。増も減も無きがゆえに能薫に非ず。彼らもし能薫なれば、便ち円満に非ず。前後の仏果はまさに勝劣有るべし。
四、與所燻和合而轉。若與所燻同時、同處,不即、不離,乃是能燻。此遮他身、剎那前後,無和合義,故非能燻。
四、所薫と和合して転ず。もし所薫と同時・同処にして、不即・不離なれば、乃是れ能薫。これは他身・刹那前後を遮る。和合の義無きがゆえに能薫に非ず。
唯七轉識及彼心所有勝勢用,而增減者,具此四義,可是能燻。
唯だ七転識およびそれらの心所のみ、勝れたる勢用有りて増減する者、この四義を具えて乃ち能薫たり。
如是能燻與所燻識,俱生俱滅,燻習義成。令所燻中種子生長,如燻苣蕂,故名燻習。
かくのごとく能薫と所薫の識とは倶生倶滅して、薫習の義成立す。所薫中の種子を生長せしむること、苣蕂(胡麻)を薫ずるが如し。ゆえに名づけて薫習という。
能燻識等,從種生時,即能為因,復燻成種,三法展轉因果同時,如炷生焰、焰生焦炷,亦如蘆束更互相依,因果俱時,理不傾動。
能薫の識等は種より生ずる時、便ち能く因と為り、また薫じて種を成す。三法は展転して因果同時なり。灯炷の焔を生じ、焔の炷を焦がすが如く、また蘆束の更互に相依るが如し。因果倶時にして理は傾動せず。
能燻生種,種起現行,如俱有因得士用果;種子前後自類相生,如同類因引等流果。此二於果是因緣性,除此餘法皆非因緣,設名因緣,應知假說。
能薫は種を生じ、種は現行を起こす。倶有因の士用果を得るが如し。種子は前後に自類相生して、同類因の等流果を引くが如し。この二は果に対して因縁性なり。このを除きて其余の法は皆因縁に非ず。たとえ名づけて因縁と言うも、まさに假説と知るべし。
是謂略說一切種相。
これすなわち略く一切の種相を説く。
此識行相、所緣云何?
この識の行相・所縁はいかん。
謂不可知執受、處了。
いわゆる知るべからざる執受・処を了す。
「了」謂了別,即是行相。識以了別為行相故。
「了」とは了別を説く。すなわち行相なり。識は了別を以って行相と為すが故に。
「處」謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。
「処」とは処所を説く。すなわち器世間にして、諸有情の依る所の処なるが故に。
「執受」有二:謂諸種子及有根身。諸種子者,謂諸相、名、分別習氣,有根身者,謂諸色根及根依處。此二皆是識所執受,攝為自體,同安危故。
「執受」に二有り。いわゆる諸種子および有根身。諸種子とは、いわゆる諸々の相・名・分別の習気。有根身とは、いわゆる諸色根および根依処。この二は皆識の執受する所にして、摂して自体と為す。安危を同じくするが故に。
執受及處俱是所緣,阿賴耶識因緣力故,自體生時,內變為種及有根身,外變為器,即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。
執受および処は皆所縁なり。阿頼耶識は因縁力に因って、自体生ずる時、内に変じて種および有根身と為り、外に変じて器と為り、すなわち変ずる所を以って自ら所縁と為し、行相はそれに仗って起こるを得す。
此中「了」者,謂異熟識於自所緣有了別用,此了別用,見分所攝。
ここに「了」とは、いわゆる異熟識は自所縁に対して了別の用有り。この了別の用は見分の摂する所なり。
然有漏識自體生時,皆似所緣、能緣相現,彼相應法應知亦爾。似所緣相說名相分,似能緣相說名見分。若心、心所無所緣相,應不能緣自所緣境,或應一一能緣一切,自境如餘,餘如自故。
しかし有漏識の自体生ずる時は、皆所縁・能縁の相の如きを現ず。それらの相応の法もまた然るべし。所縁の相の如きを名づけて相分という。能縁の相の如きを名づけて見分という。もし心・心所に所縁の相無ければ、まさに自所縁境に縁ずること能わざるべし。あるいはまさに一一能く一切に縁ずべく、自境は其余の如く、其余は自の如くあらん。
若心、心所無能緣相,應不能緣,如虛空等,或虛空等;亦是能緣。
もし心・心所に能縁の相無ければ、まさに縁ずること能わざるべくして、虚空等の如く、あるいは虚空等もまた能縁ならん。
故心、心所必有二相。如契經說:
ゆえに心・心所は必ず二相有り。契経に説けるが如く:
「一切唯有覺,所覺義皆無,
「一切に唯だ覚有るのみ。所覚の義は皆無し。
能覺所覺分,各自然而轉。」
能覚・所覚の分は、各々自然に転ず。」
執有離識所緣境者,彼說外境是所緣,相分名行相,見分名事,是心、心所自體相故。心與心所同所依、緣,行相相似,事雖數等,而相各異,識、受、想等相各別故。
識を離れたる所縁境有りと執する人は、彼らは外境を所縁と説き、相分を名づけて行相という。見分を名づけて事という、心・心所の自体相なるが故に。心と心所とは所依・縁を同じくし、行相相似す。事は数等なると雖も、しかし相は各々異なり。識・受・想等の相各別なるが故に。
達無離識所緣境者,則說相分是所緣,見分名行相,相、見所依自體名事,即自證分。此若無者,應不自憶心、心所法,如不曾更境必不能憶故,心與心所同所依根,所緣相似,行相各別,了別、領納等作用各異故,事雖數等,而相各異,識、受等體有差別故。
識を離れたる所縁境無きを通達する人は、便ち相分を所縁と説き、見分を名づけて行相という。相・見の依る所の自体を名づけて事という。すなわち自証分なり。これもし無ければ、まさに心・心所法を自憶せざるべし。曽て境を更ずるが如く必ず能く憶せざるが故に。心と心所とは所依根を同じくし、所縁相似して、行相各別なり。了別・領納等の作用各々異なるが故に。事は数等なると雖も、しかし相は各々異なり。識・受等の体に差別有るが故に。
然心、心所一一生時,以理推徵各有三分,所量、能量、量果別故,相、見必有所依體故。如《集量論》伽他中說:
しかし心・心所の一一生ずる時、理を用いて推徴すれば各々三分有り。所量・能量・量果の別有るが故に。相・見は必ず依る所の体有り。《集量論》の偈の中に説けるが如く:
「似境相所量,能取相、自證,
「似境の相はこれ所量。取る相と自証と、
即能量及果,此三體無別。」
すなわちこれ能量および果。この三は体に分別無し。」
又心、心所若細分別應有四分,三分如前,復有第四證自證分。此若無者,誰證第三?心分既同應皆證故。又自證分應無有果,諸能量者必有果故。不應見分是第三果,見分或時非量攝故。由此見分不證第三,證自體者必現量故。
また心・心所はもし細かに分別せばまさに四分有るべし。三分は前の如し。更に第四の証自証分有り。これもし無ければ、誰か第三を証せん。心分はすでに同じく皆証すべし。また自証分はまさに果無かるべし。諸々の能量は必ず果有り。見分をして第三の果と為さしむべからず。見分は有る時は量の摂する所に非ざるが故に。これに由って見分は第三を証せず。自体を証するは必ず現量なり。
此四分中前二是外,後二是內。初唯所緣,後三通二,謂第二分但緣第一,或量、非量,或現、或比。第三能緣第二,第四證自證分,唯緣第三,非第二者,以無用故,第三、第四皆現量攝,故心、心所四分合成,具所、能緣,無無窮過,非即、非離,唯識理成。
この四分の中に、前の二は外にして、後の二は内なり。初はただ所縁のみ。後の三は二に通ず。いわゆる第二分はただ第一に縁じて、あるいは量・非量、あるいは現・あるいは比。第三は能く第二に縁じ、第四の証自証分はただ第三に縁じて、第二に縁ぜず。用無きが故に。第三・第四は皆現量の摂する所なり。ゆえに心・心所は四分合成して、所縁・能縁を具え、無窮の過無く、非即・非離にして、唯識の理成立す。
是故契經伽他中說:
ゆえに契経の偈の中に説く:
「眾生心二性,內外一切分,
「衆生の心は二性にして、内外一切の分。
所取能取纏,見種種差別。」
所取・能取の纏にて、種種の差別を見る。」
此頌意說:眾生心性二分合成,若內、若外皆有所取、能取纏縛,見有種種,或量、非量,或現、或比,多分差別,此中見者是見分故。
この頌の意は、衆生の心性は二分合成して、あるいは内あるいは外、皆所取・能取の纏縛有りて、種種有るを見るを謂う。あるいは量・非量、あるいは現・あるいは比、多分の差別なり。ここに見とは見分を謂う。
如是四分或攝為三,第四攝入自證分故。或攝為二,後三俱是能緣性故,皆見分攝,此言見者是能緣義。或攝為一,體無別故。如《入楞伽》伽他中說:
かくのごとき四分はあるいは収摂して三と為す。第四は自証分に摂入するが故に。あるいは収摂して二と為す。後の三は皆能縁性にして皆見分の摂する所なるが故に。ここに見とは能縁の義と説く。あるいは収摂して一と為す。体に分別無きが故に。《入楞伽》の偈の中に説けるが如く:
「由自心執著,心似外境轉,
「自心の執着に由って、心は外境の如く転ず。
彼所見非有,是故說唯心。」
他の見る所は有に非ず。ゆえに唯心と説く。」
如是處處說唯一心,此一心言亦攝心所。
かくのごとく処処に唯一心を説く。この一心の言はまた心所を収摂す。
故識行相即是了別,了別即是識之見分。
ゆえに識の行相はすなわち了別にして、了別はすなわち識の見分なり。
所言「處」者,謂異熟識由共相種成熟力故,變似色等器世間相,即外大種及所造色。雖諸有情所變各別而相相似,處所無異,如眾燈明各遍似一。
説く所の「処」とは、いわゆる異熟識は共相種の成熟力に由って、色等の器世間の相の如きを変起す。すなわち外の大種および所造色なり。諸有情の変ずる所は各別なれども相は相似して、処所は異無し。衆灯の明の各々遍くして一の如きがごとし。
誰異熟識變為此相?
誰の異熟識かこの相を変作する。
有義:一切。所以者何?如契經說:一切有情,業增上力共所起故。
一義有り:一切なり。何を以ってか。契経に説けるが如く:一切有情は業の増上力にて共に起こる所なりと。
有義:若爾,諸佛菩薩應實變為此雜穢土,諸異生等應實變為他方、此界諸淨妙土。又諸聖者厭離有色,生無色界,必不下生,變為此土,復何所用?是故現居及當生者,彼異熟識變為此界。經依少分說「一切」言,諸業同者皆共變故。
一義有り:もし然らば、諸仏菩薩はまさに実にこの雑穢土を変作すべく、諸異生等はまさに実に他方・此界の諸浄妙土を変作すべし。また諸聖者は有色を厭離して無色界に生ずれば、必ず下生せずして此の土を変作す。また何の用か有らん。ゆえに現居および当に生ぜんの人、その異熟識は此界を変作す。経は少分に依って「一切」と説く。諸業同じき者は皆共に変ずるが故に。
有義:若爾,器將壞時,既無現居及當生者,誰異熟識變為此界?又諸異生厭離有色,生無色界,現無色身,預變為土,此復何用?設有色身,與異地器,麁細懸隔,不相依持,此變為彼,亦何所益?然所變土本為色身依持、受用,故若於身可有持用便變為彼。由是設生他方自地,彼識亦得變為此土,故器世界將壞、初成,雖無有情而亦現有。此說一切共受用者,若別受用准此應知,鬼、人、天等所見異故。
一義有り:もし然らば、器の将に壊れんとする時、すでに現居および当に生ぜんの人無ければ、誰の異熟識か此界を変作せん。また諸異生は有色を厭離して無色界に生じ、無色身を現じて、預め土を変ず。これまた何の用か有らん。たとえ色身有るも、異地の器と麁細懸隔して、相依持せず。此辺にて彼辺を変作して、また何の益か有らん。しかし変ずる所の土は本より色身の依持・受用の為なり。ゆえにもし身に対して持用有るべければ、便ちそれを変作す。これに由ってたとえ他方の自地に生ずるも、かの識は能く此の土を変作す。ゆえに器世界は将に壊れんとし初め成ずる時、有情無きと雖も亦現有り。これは一切の共に受用する所を説く。もし別受用なればこれに准じてまさに知るべし。鬼・人・天等の見る所は異有るが故に。
諸種子者,謂異熟識所持一切有漏法種,此識性攝,故是所緣。無漏法種雖依附此識,而非此性攝,故非所緣。雖非所緣而不相離,如真如性,不違唯識。
諸種子とは、いわゆる異熟識の持する所の一切有漏法種。この識性の摂する所なるがゆえに所縁なり。無漏法種はこの識に依附すると雖も、しかしこの性の摂する所に非ず。ゆえに所縁に非ず。所縁に非ずと雖もしかし相離れず。真如性の如し。唯識に違せず。
有根身者,謂異熟識不共相種成熟力故,變似色根及根依處,即內大種及所造色,有共相種成熟力故,於他身處亦變似彼。不爾,應無受用他義。
有根身とは、いわゆる異熟識の不共相種の成熟力にて、色根および根依処の如きを変起す。すなわち内の大種および所造色なり。共相種の成熟力有りて、他身の処に対してもまたそれの如きを変起す。然らずんば、まさに他を受用する義無かるべし。
此中有義:亦變似根。《辯中邊》說:「似自、他身五根現」故。
ここに一義有り:また根の如きを変起す。《辯中辺》に説く:「自・他の身の五根を現ずるが如し」と。
有義:唯能變似依處,他根於己非所用故,「似自、他身五根現」者,說自、他識各自變義,故生他地或般涅槃,彼餘屍骸猶見相續。
一義有り:ただ能く依処の如きを変起するのみ。他根は自己に対して用せらるる所に非ず。「自・他の身の五根を現ずるが如し」とは、自・他の識の各々変ずる義を説く。ゆえに他地に生ずるかあるいは般涅槃するも、それらの其余の尸骸はなお相続するを見る。
前來且說業力所變外器、內身、界、地差別;若定等力所變器、身、界、地、自、他,則不決定。所變身、器,多恆相續;變聲、光等,多分暫時,隨現緣力擊發起故。
前より来りて且く業力の変ずる所の外器・内身・界・地の差別を説く。もし定等力の変ずる所の器・身・界・地・自・他なれば、便ち決定せず。変ずる所の身・器は多く恒に相続し、声・光等を変ずるは多分暫時なり。現縁力に随って撃発して起こるが故に。
略說此識所變境者,謂有漏種、十有色處,及墮法處所現實色。
略くこの識の変ずる所の境を説く。いわゆる有漏種・十有色処、および法処の摂する所の現実色なり。
何故此識不能變似心、心所等為所緣耶?
何を以ってこの識は能く心・心所等の如きを変起して所縁と為さざる。
有漏識變略有二種:一、隨因緣勢力故變;二、隨分別勢力故變。初必有用,後但為境。異熟識變但隨因緣,所變色等必有實用,若變心等便無實用,相分心等不能緣故,須彼實用別從此生。變無為等亦無實用,故異熟識不緣心等。至無漏位,勝慧相應,雖無分別,而澄淨故,設無實用,亦現彼影。不爾,諸佛應非遍知。故有漏位,此異熟識但緣器、身及有漏種。
有漏識の変は略して二種有り。一、因縁勢力に随って変ず。二、分別勢力に随って変ず。初は必ず用有り。後はただ境と為るのみ。異熟識の変はただ因縁に随う。変ずる所の色等は必ず実用有り。もし心等を変ぜば便ち実用無し。相分の心等は縁ずること能わざるが故に。その実用は別にこのより生ずるを要す。無為等を変ずるもまた実用無し。ゆえに異熟識は心等に縁ぜず。無漏位に至りて勝れたる慧と相応せば、無分別なると雖もしかして澄浄なり。たとえ実用無くともまたその影を現ず。然らずんば諸仏はまさに遍知に非ざるべし。ゆえに有漏位にはこの異熟識はただ器・身および有漏種に縁ず。
在欲、色界具三所緣;無色界中緣有漏種,厭離色故,無業果色,有定果色,於理無違。彼識亦緣此色為境。
欲・色界に在りては三所縁を具え、無色界中には有漏種に縁ず。色を厭離するがゆえに。業果色無し。定果色有り。理上違背無し。かの識もまたこの色を縁じて境と為す。
「不可知」者,謂此行相極微細故,難可了知;或此所緣內執受境亦微細故;外器世間量難測故,名不可知。
「知るべからず」とは、いわゆるこの行相は極めて微細にして了知し難し。あるいはこの所縁の内執受境もまた微細なり。外の器世間は量測り難し。名づけて不可知という。
云何是識取所緣境,行相難知?如滅定中,不離身識,應信為有,然必應許滅定有識,有情攝故,如有心時。無想等位,當知亦爾。
どうしてこの識は所縁境を取るに行相知り難し。滅定中の如く、身を離れざる識はまさに有と信ずべし。しかし必ずまさに滅定に識有りと許すべし。有情の摂する所なるが故に、有心の時の如し。無想等の位もまさに然るべしと知る。
成唯識論巻第二
成唯識論巻第三
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
此識與幾心所相應?
この識はいくつの心所と相応するや。
常與觸、作意、受、想、思相應。
常に触・作意・受・想・思と相応す。
阿賴耶識無始時來乃至未轉,於一切位恆與此五心所相應,以是遍行心所攝故。
阿頼耶識は無始より来り乃至未だ転ぜざるに、一切位にて恒にこの五心所と相応す。遍行心所の摂する所なるが故に。
「觸」謂三和分別變異,令心、心所觸境為性,受、想、思等所依為業。
「触」とは三和の分別変異を説き、心・心所をして境に触れしむるを性と為し、受・想・思等の所依たるを業と為す。
謂根、境、識更相隨順,故名三和。觸依彼生,令彼和合,故說為彼;三和合位皆有順生心所功能,說名變異;觸似彼起,故名分別。
いわゆる根・境・識の更互に相随順するがゆえに名づけて三和という。触はそれに依って生じて、それらを和合せしむ。ゆえにそれを説いてそれと為す。三和合の位には皆心所を順生する功能有り。名づけて変異という。触はそれの如く起こるがゆえに名づけて分別という。
根變異力,引觸起時,勝彼識、境,故《集論》等但說分別根之變異。
根の変異力は触を引きて起こる時、かの識・境に勝る。ゆえに《集論》等はただ根の変異を分別して説く。
和合一切心及心所,令同觸境,是觸自性。
一切の心および心所を和合して、それらをして同じく境に触れしむるは、触の自性なり。
既似順起心所功能,故以受等所依為業。
すでに心所を順起する功能の如ければ、ゆえに受等の所依を以って業と為す。
《起盡經》說:受、想、行蘊一切皆以觸為緣故,由斯故說識、觸、受等因二、三、四和合而生。
《起尽経》に説く:受・想・行蘊は一切皆触を以って縁と為す。これに由ってゆえに識・触・受等は二・三・四の和合に因って生ずと説く。
《瑜伽》但說與受、想、思為所依者,思於行蘊為主勝故,舉此攝餘。《集論》等說為受依者,以觸生受近而勝故,謂觸所取可意等相與受所取順益等相,極相隣近,引發勝故。
《瑜伽》はただ受・想・思と所依と為ると説くのみ。思は行蘊にて主勝なるが故に。これを挙げて其余を摂す。《集論》等は受の依と為すと説く。触は受を生ずること近くして勝れるが故に。いわゆる触の取る所の可意等の相と受の取る所の順益等の相とは極めて相隣近し。引発勝れり。
然觸自性,是實非假,六六法中,心所性故,是食攝故,能為緣故,如受等性,非即三和。
しかし触の自性は是れ実にして假に非ず。六六法の中に心所性にして食の摂する所なり。能く縁と為る。受等の性の如く、並びてすなわち三和に非ず。
作意謂能警心為性,於所緣境,引心為業;謂此警覺,應起心種,引令趣境,故名作意。雖此亦能引起心所;心是主故,但說引心。
作意とは能く心を警かすを性と為し、所縁境に対して心を引くを業と為す。いわゆるこれは警覚して、起こるべき心種を引きて境に趣らしむ。ゆえに名づけて作意という。このもまた能く心所を引起すと雖も、心は主なるが故に、ただ心を引くと説く。
有說:令心迴趣異境,或於一境,持心令住,故名作意。彼俱非理,應非遍行,不異定故。
人の説く有り:心をして異境に回趣せしめ、あるいは一境に対して心を持して住せしむ。ゆえに名づけて作意というと。彼らは皆理に合わず。まさに遍行に非ざるべくして、定に異ならず。
「受」謂領納順、違、俱非境相為性,起愛為業,能起合、離、非二欲故。
「受」とは領納して順・違・倶非の境相を性と為し、愛を起こすを業と為す。能く合・離・非二の欲を起こすが故に。
有作是說:受有二種:一、境界受,謂領所緣;二、自性受,謂領俱觸。唯自性受是受自相。以境界受共餘相故。
人有りてかくのごとき説を作す:受に二種有り。一、境界受、いわゆる所縁を領す。二、自性受、いわゆる倶触を領す。唯だ自性受のみ是受の自相なり。境界受は其余の相と共なるが故に。
彼說非理,受定不緣俱生觸故。
彼らの説は理に合わず。受は決定して倶生の触に縁ぜず。
若似觸生,名領觸者,似因之果,應皆受性。
もし触の生ずるが如きを名づけて触を領すという。因の果の如く、まさに皆受性ならん。
又既受因,應名因受,何名自性?
またすでに受の因なれば、まさに名づけて因受と言うべし。どうして名づけて自性と言わん。
若謂如王食諸國邑,受能領觸所生受體,名自性受。理亦不然,違自所執不自證故。
もし王の諸国邑を食するが如く、受は能く触の生ずる所の受体を領して、名づけて自性受というと説かば、理また然らず。自ら執する所の自証せずに違す。
若不捨自性,名自性受,應一切法皆是受自性。
もし自性を捨てざるを名づけて自性受と為さば、まさに一切法は皆受自性ならん。
故彼所說,但誘嬰兒。
ゆえに彼らの説く所は、ただ嬰児を鬨すのみ。
然境界受,非共餘相,領順等相,定屬己者,名境界受,不共餘故。
しかし境界受は並びて其余の相と共に非ず。順等の相を領して、定めて自の属する所を名づけて境界受という。其余と共ならざるが故に。
「想」謂於境取像為性,施設種種名言為業,謂要安立境分齊相,方能隨起種種名言。
「想」とは境に対して像を取るを性と為し、種種の名言を施設するを業と為す。いわゆる境の分斉相を安立することを要して、乃ち種種の名言に随って起こるを得す。
「思」謂令心造作為性,於善品等役心為業,謂能取境正因等相,驅役自心令造善等。
「思」とは心をして造作せしむるを性と為し、善品等に対して心を役するを業と為す。いわゆる能く境の正因等の相を取りて、自心を駆役して善等を造らしむ。
此五既是遍行所攝,故與藏識決定相應,其遍行相後當廣釋。
この五はすでに遍行の摂する所なれば、ゆえに蔵識と決定して相応す。かの遍行の相は後にまさに広く釈すべし。
此觸等五與異熟識行相雖異,而時、依同,所緣、事等,故名相應。
この触等の五は異熟識と行相異なると雖も、しかし時・依は同じく、所縁・事等なり。ゆえに名づけて相応という。
此識行相極不明瞭,不能分別違、順境相,微細、一類、相續而轉,是故唯與捨受相應。
この識の行相は極めて明了ならず。違・順の境相を分別すること能わず。微細・一類にして相続して転ず。ゆえにただ捨受と相応す。
又,此相應受唯是異熟,隨先引業轉;不待現緣,住善、惡業勢力轉故。唯是捨受;苦、樂二受是異熟生,非真異熟,待現緣故,非此相應。
またこの相応の受はただ異熟にして、先の引業に随って転ず。現縁を待たず。善・悪業の勢力に住して転ずるが故に。ただ捨受のみ。苦・楽の二受は異熟生にして真の異熟に非ず。現縁を待つがゆえに、この相応に非ず。
又,由此識常無轉變,有情恆執為自內我;若與苦、樂二受相應,便有轉變,寧執為我,故此但與捨受相應。
またこの識は常に転変無きがゆえに、有情は恒にこれを執して自内我と為す。もし苦・楽の二受と相応せば、便ち転変有りて、どうして我と執せん。ゆえにこれはただ捨受と相応す。
若爾,如何此識亦是惡業異熟?既許善業能招捨受,此亦應然。捨受不違苦、樂品故,如無記法,善、惡俱招。
もし然らば、どうしてこの識もまた悪業の異熟ならん。すでに善業は能く捨受を招くを許せば、これもまたまさに然るべし。捨受は苦・楽の品に違せず。無記法の如く、善・悪倶に招く。
如何此識非別境等心所相應?
どうしてこの識は別境等の心所と相応せざる。
互相違故。
互相違するが故に。
謂欲希望所樂事轉;此識任運,無所希望。勝解印持決定事轉;此識瞢昧,無所印持。念唯明記曾習事轉,此識昧劣,不能明記。定能令心專注一境;此識任運;剎那別緣。慧唯簡擇德等事轉;此識微昧,不能簡擇。故此不與別境相應。
いわゆる欲は楽する所の事を希望して転ず。しかるにこの識は任運にして希望する所無し。勝解は決定の事を印持して転ず。しかるにこの識は瞢昧にして印持する所無し。念はただ曽習の事を明記して転ず。しかるにこの識は昧劣にして明記すること能わず。定は能く心をして一境に専注せしむ。しかるにこの識は任運にして刹那ごとに別縁す。慧はただ徳等の事を簡択して転ず。しかるにこの識は微昧にして簡択すること能わず。ゆえにこれは別境と相応せず。
此識唯是異熟性故,善、染汙等亦不相應。
この識はただ異熟性なるがゆえに、善・染汚等もまた相応せず。
惡作等四無記性者,有間斷故,定非異熟。
悪作等の四は無記性なると雖も、間断有るがゆえに決定して異熟に非ず。
法有四種:謂善、不善、有覆無記、無覆無記,阿賴耶識何法攝耶?
法に四種有り。いわゆる善・不善・有覆無記・無覆無記。阿頼耶識はいずれかの法の摂する所ぞ。
此識唯是無覆無記,異熟性故。
この識はただ無覆無記なり。異熟性なるが故に。
異熟若是善、染汙者,流轉還滅應不得成,又此識是善、染依故,若善、染者,互相違故,應不與二俱作所依;又此識是所燻性故,若善、染者,如極香臭,應不受燻。
異熟もし善・染汚なれば、流転還滅はまさに成ぜずを得べし。またこの識は善・染の依る所なり。もし善・染なれば、互相違するがゆえに、まさに二と倶に所依と作るべからず。またこの識は所薫性なり。もし善・染なれば、極香極臭の如く、まさに薫を受けざるべし。
無燻習故,染、淨因果俱不成立,故此唯是無覆無記。
薫習無きがゆえに、染・浄の因果は皆成立せず。ゆえにこれはただ無覆無記なり。
「覆」謂染法障聖道故,又能蔽心,令不淨故;此識非染,故名「無覆」。「記」謂善、惡,有愛、非愛果,及殊勝自體可記別故;此非善、惡,故名「無記」。
「覆」とは染法は聖道を障して、また能く心を蔽いて不浄ならしむを説く。この識は染に非ざるがゆえに名づけて「無覆」という。「記」とは善・悪にして愛・非愛の果有りて、および殊勝の自体を記別すべきを説く。これは善・悪に非ざるがゆえに名づけて「無記」という。
「觸等亦如是」者,謂如阿賴耶識,唯是無覆無記性攝,觸、作意、受、想、思亦爾,諸相應法,必同性故。
「触等もまたこの如し」とは、いわゆる阿頼耶識の如く、ただ無覆無記性の摂する所なり。触・作意・受・想・思もまたこの如し。諸々の相応の法は必ず性を同じくするが故に。
又,觸等五,如阿賴耶,亦是異熟,所緣、行相俱不可知,緣三種境,五法相應,無覆無記,故說「觸等亦如是」言。
また触等の五は阿頼耶の如く、また異熟にして、所縁・行相は皆不可知にして、三種の境に縁じ、五法相応して、無覆無記なり。ゆえに「触等もまたこの如し」と説く。
有義:觸等如阿賴耶,亦是異熟及一切種,廣說乃至無覆無記,「亦如是」言,無簡別故。
一義有り:触等は阿頼耶の如く、また異熟および一切種にして、広く説けば乃至無覆無記なり。「もまたこの如し」の言は、簡別無きに因る。
彼說非理。
彼らの説は理に合わず。
所以者何?
何故か。
觸等依識,不自在故。如貪、信等不能受燻,如何同識,能持種子?
触等は識に依りて自在ならず。貪・信等の能く薫を受けざるが如く、どうして識に同じくして能く種子を持せん。
又,若觸等亦能受燻,應一有情有六種體。
またもし触等もまた能く薫を受けば、まさに一有情は六种の体有るべし。
若爾,果起從何種生?理不應言從六種起,未見多種生一芽故。
もし然らば、果の起こるはいずれの種より生ぜん。理まさに六种より起こると説くべからず。未だかつて多种の一芽を生ずるを見ず。
若說果生唯從一種,則餘五種便為無用;亦不可說次第生果,燻習同時,勢力等故;又不可說六果頓生,勿一有情一剎那頃,六眼識等俱時生故。
もし果の生はただ一种よりすると説かば、然らば其余の五种は便ち無用と為る。またまさに次第に果を生ずと説くべからず。薫習は同時にして勢力等しきが故に。またまさに六果頓生と説くべからず。一有情が一刹那の頃に六眼識等を倶時に生ぜしむること莫れ。
誰言觸等亦能受燻持諸種子?不爾,如何觸等如識名一切種?
誰か触等もまた能く薫を受けて諸種子を持つと説く。然らずんば、どうして触等は識の如く名づけて一切種という。
謂觸等五,有似種相,名一切種,觸等與識所緣等故,無色觸等有所緣故,親所緣緣定應有故,此似種相不為因緣生現識等,如觸等上似眼根等非識所依,亦如似火無能燒用,彼救非理,觸等所緣似種等相,後執受處方應與識而相例故。
いわゆる触等の五は種の相の如き有りて、名づけて一切種という。触等は識と所縁等しく、無色の触等は所縁有りて、親所縁縁は決定して有るべきが故に。これは種の相の如きにして因縁と為りて現識等を生ずるに非ず。触等上の眼根等の如きは識の依る所に非ざるが如く、また火の如きにして能く焼く用無きが如し。かの救は理に合わず。触等の所縁は種等の相の如く、後の執受の処にて乃ちまさに識と相例すべし。
由此前說一切種言,定目受燻、能持種義;不爾,本頌有重言失。
これに由って前に一切種と説きし言は、決定して薫を受け能く種を持つの義を指す。然らずんば、本頌に重言の失有り。
又彼所說,「亦如是」言,無簡別故,鹹相例者,定不成證,勿觸等五,亦能了別,觸等亦與觸等相應。
また彼らの説く所の「もまたこの如し」の言は、簡別無きに因れば、皆相例して決定して証を成さず。触等の五をしてもまた能く了別せしめ、触等もまた触等と相応せしむること莫れ。
由此故知「亦如是」者,隨所應說,非謂一切。
これに由って故に知る、「もまたこの如し」とは、応ずる所に随って説く。並びて一切を説くに非ず。
阿賴耶識為斷?為常?
阿頼耶識は断か常か。
非斷、非常,以「恆轉」故。「恆」謂此識無始時來,一類、相續,常無間斷,是界、趣、生施設本故,性堅、持種令不失故。「轉」謂此識無始時來,念念生滅前後變異,因滅果生,非常、一故,可為轉識燻成種故。
断に非ず常に非ず。「恒転」なるが故に。「恒」とはこの識は無始より来り、一類・相続して、常に間断無きを説く。界・趣・生の施設の本にして、性は堅くして種を持して失わせざるが故に。「転」とはこの識は無始より来り、念念生滅して前後変異し、因滅し果生ずるを説く。常に非ず一に非ざるが故に、転識に薫じて種を成さしむべし。
「恆」言遮斷,「轉」表非常,猶如瀑流,因果法爾。
「恒」は断を遮り、「転」は常に非ざるを表す。猶ほ瀑流の如し。因果法爾なり。
如瀑流水,非斷、非常,相續長時有所漂溺,此識亦爾,從無始來生滅相續,非常、非斷,漂溺有情令不出離。
瀑流の水の如く、断に非ず常に非ず。相続して長時に漂溺する所有り。この識もまたこの如し。無始より来り生滅相続して、常に非ず断に非ず。有情を漂溺して出離せしめず。
又如瀑流,雖風等擊,起諸波浪而流不斷,此識亦爾,雖遇眾緣,起眼識等而恆相續。
また瀑流の如く、風等の撃するに遇うと雖も、諸々の波浪を起こして流れ断えず。この識もまたこの如し。衆縁に遇うと雖も、眼識等を起こして恒に相続す。
又如瀑流,漂水下上魚、草等物,隨流不捨,此識亦爾,與內習氣外觸等法恆相隨轉。
また瀑流の如く、水上・下の魚・草等の物を漂わして、流れに随って捨てず。この識もまたこの如し。内の習気・外の触等の法と恒に相随って転ず。
如是法喻,意顯此識無始因果非斷、常義。謂此識性無始時來,剎那剎那果生因滅。果生故非斷,因滅故非常,非斷、非常是緣起理,故說此識恆轉如流。
かくのごとき法喻は、意はこの識の無始の因果の断・常に非ざる義を顕すと謂う。いわゆるこの識性は無始より来り、刹那刹那に果生じ因滅す。果生ずるがゆえに断に非ず。因滅するがゆえに常に非ず。断に非ず常に非ずは是れ縁起の理なり。ゆえにこの識は恒に転ずること流れの如しと説く。
過去、未來既非實有,非常可爾;非斷如何?斷豈得成緣起正理?
過去・未来はすでに実有に非ざれば、常に非ずは可なり。断に非ずはいかん。断はあに能く縁起の正理を成さんや。
過去、未來若是實有,可許非斷;如何非常?常亦不成緣起正理。
過去・未来もし実有なれば、断に非ずと許すべし。どうして常に非ざる。常もまた縁起の正理を成さず。
豈斥他過,己義便成?
あに他の過を斥けば、自らの義は便ち成立せんや。
若不摧邪難以顯正。前因滅位後果即生,如秤兩頭低、昂時等,如是因果相續如流,何假去、來,方成非斷?
もし邪を摧かずんば難くして正を顕す。前の因の滅する位に後の果は即ち生ず。秤の両頭の低・昂の同時なるが如し。かくのごとく因果は相続して流れの如し。何ぞ假に去・来を須ちて乃ち断に非ずを成さん。
因現有位,後果未生,因是誰因?果現有時,前因已滅,果是誰果?既無因果,誰離斷、常?
因の現有の位に後の果未だ生ぜず。因は誰の因か。果の現有の時に前の因已に滅す。果は誰の果か。すでに因果無ければ、誰か断・常を離れん。
若有因時,已有後果,果既本有,何待前因?因義既無,果義寧有?無因無果,豈離斷、常?
もし因有る時已に後の果有れば、果はすでに本有なり。何ぞ前因を待たん。因の義すでに無ければ、果の義はどうして有らん。因無く果無ければ、あに断・常を離れんや。
因果義成,依法作用,故所詰難,非預我宗。
因果の義は法の作用に依って成立す。ゆえに詰難する所は並びて我宗に預からず。
體既本有,用亦應然,所待因緣,亦本有故。
体はすでに本有なれば、用もまたまさに然るべくして、待つ所の因縁もまた本有なり。
由斯汝義因果定無,應信大乘緣起正理。謂此正理深妙離言,因果等言皆假施設。觀現在法有引後用,假立當果對說現因;觀現在法有酬前相,假立曾因對說現果。假謂現識似彼相現。
これに由って汝らの義は因果定めて無し。まさに大乗の縁起正理を信ずべし。いわゆるこの正理は深妙にして言を離れ、因果等の言は皆假施設なり。現在法を観て後用を引く有り。假に当果を立てて現因に対して説く。現在法を観て前に酬ゆる相有り。假に曾因を立てて現果に対して説く。假とは現識がその相の如く現ずるを説く。
如是因果,理趣顯然,遠離二邊,契會中道,諸有智者應順修學。
かくのごとき因果は理趣顯然にして、二辺を遠離し、中道に契会す。諸々の智者有らばまさに随順して修学すべし。
有餘部說:雖無去、來而有因果恆相續義。
其余の部の説く有り:去・来無きと雖も、しかし因果恒に相続する義有りと。
謂現在法極迅速者,猶有初、後,生、滅二時,生時酬因,滅時引果,時雖有二,而體是一,前因正滅,後果正生,體相雖殊,而俱是有。
いわゆる現在法の極めて迅速なるは、なお初・後の生・滅の二時有り。生時は因に酬い、滅時は果を引く。時は二あると雖も、しかし体は一なり。前因正に滅し、後果正に生ず。体相は殊なると雖も、しかし皆是有なり。
如是因果非假施設,然離斷、常,又無前難,誰有智者捨此信餘?
かくのごとき因果は並びて假施設に非ず、しかも断・常を離れ、また前の難無し。誰の智者か有りてこれを捨てて其余を信ぜん。
彼有虛言,都無實義,何容一念而有二時?生、滅相違,寧同現在?滅若現在,生應未來。有故名生,既是現在,無故名滅,寧非過去?滅若非無,生應非有;生既現有,滅應現無,又二相違,如何體一?非苦、樂等見有是事,生、滅若一,時應無二;生、滅若異,寧說體同?故生、滅時俱現在有,同依一體,理必不成。
彼らは虚言有りて皆実義無し。どうして一念にして二時有るを容せん。生・滅は相違す。どうして現在を同じくせん。滅もし現在なれば、生はまさに未来ならん。有ゆえに名づけて生という。すでに現在なれば、無ゆえに名づけて滅という。どうして過去に非ざる。滅もし無に非ざれば、生はまさに有に非ざるべし。生すでに現有なれば、滅はまさに現無ならん。また二は相違す。どうして体一ならん。並びて苦・楽等の見てこの事有るが如きに非ず。生・滅もし一なれば、時はまさに二無かるべし。生・滅もし異なれば、どうして体同じきと説かん。ゆえに生・滅の時皆現在有りて同じく一体に依るは、理必ず成立せず。
經部師等因果相續,理亦不成,彼不許有阿賴耶識能持種故。
経部師等の因果相続も、理また成立せず。彼らは阿頼耶識の能く種を持つ有りを許さざるが故に。
由此應信大乘所說因果相續緣起正理。
これに由ってまさに大乗の説く所の因果相続の縁起正理を信ずべし。
此識無始恆轉如流,乃至何位當究竟捨?
この識は無始より恒に転じて流れの如し。乃至いずれの位にかまさに究竟して捨つべき。
阿羅漢位方究竟捨。
阿羅漢の位にて乃ち究竟して捨つ。
謂諸聖者斷煩惱障究竟盡時,名阿羅漢。爾時,此識煩惱麁重永遠離故,說之為「捨」。
いわゆる諸聖者は煩悩障を断じて究竟尽す時、名づけて阿羅漢という。かの時、この識の煩悩麁重は永く離る。それを説いて「捨」と為す。
此中所說阿羅漢者,通攝三乘無學果位,皆已永害煩惱賊故;應受世間妙供養故;永不復受分段生故。
ここに説く所の阿羅漢は、三乗の無学果位を通摂す。皆已に永く煩悩の賊を害し、まさに世間の妙供養を受くべく、永く復た分段生を受けず。
云何知然?
どうしてかく有るを知る。
〈決擇分〉說:諸阿羅漢、獨覺、如來皆不成就阿賴耶故;《集論》復說:若諸菩薩得菩提時,頓斷煩惱及所知障,成阿羅漢及如來故。
〈決択分〉に説く:諸々の阿羅漢・独覚・如来は皆阿頼耶を成就せずと。《集論》もまた説く:もし諸菩薩は菩提を得る時、頓に煩悩および所知障を断じて、阿羅漢および如来を成ずと。
若爾,菩薩煩惱種子未永斷盡非阿羅漢,應皆成就阿賴耶識,何故即彼〈決擇分〉說不退菩薩亦不成就阿賴耶識?
もし然らば、菩薩は煩悩種子未だ永断尽せずして阿羅漢に非ざれば、まさに皆阿頼耶識を成就すべし。なんぞすなわちかの〈決択分〉に不退菩薩もまた阿頼耶識を成就せずと説く。
彼說二乘無學果位迴心趣向大菩提者,必不退起煩惱障故,趣菩提故,即復轉名不退菩薩,彼不成就阿賴耶識。
彼らは二乗の無学果位にて心を回して大菩提に趣向する人は、必ず退きて煩悩障を起こさずして菩提に趣くと説く。便ちまた転じて名づけて不退菩薩という。彼らは阿頼耶識を成就せず。
即攝在此阿羅漢中,故彼論文不違此義。
すなわちこの阿羅漢の中に収摂す。ゆえにかの論文はこの義に違せず。
又不動地已上菩薩,一切煩惱永不行故,法駛流中任運轉故;能諸行中起諸行故;剎那剎那轉增進故,此位方名不退菩薩。
また不動地已上の菩薩は、一切の煩悩は永く行わず。法の駛流の中にて任運に転ず。能く諸行の中に諸行を起こし、刹那刹那に転増進す。この位を乃ち名づけて不退菩薩という。
然此菩薩雖未斷盡異熟識中煩惱種子,而緣此識我見、愛等,不復執藏為自內我,由斯永捨阿賴耶名,故說不成阿賴耶識,此亦說彼名阿羅漢。
しかしこれらの菩薩は未だ異熟識中の煩悩種子を断尽せざると雖も、しかしこの識に縁ずる我見・愛等は、更に執蔵して自内我と為さず。これに由って永く阿頼耶の名を捨つ。ゆえに阿頼耶識を成就せずと説く。これもまた彼らを名づけて阿羅漢と説く。
有義:初地已上菩薩,已證二空所顯理故;已得二種殊勝智故;已斷分別二重障故;能一行中起諸行故;雖為利益起諸煩惱,而彼不作煩惱過失故,此亦名不退菩薩。
一義有り:初地已上の菩薩は、已に二空の顕す所の理を証し、已に二種の殊勝智を得、已に分別の二重障を断じ、能く一行の中に諸行を起こす。利益の為に諸煩悩を起こすと雖も、しかし彼らは煩悩の過失を作さず。ゆえにこれもまた名づけて不退菩薩という。
然此菩薩雖未斷盡俱生煩惱,而緣此識所有分別我見、愛等,不復執藏為自內我,由斯亦捨阿賴耶名,故說不成阿賴耶識,此亦說彼名阿羅漢。
しかしこれらの菩薩は未だ倶生の煩悩を断尽せざると雖も、しかしこの識に縁ずる所有の分別の我見・愛等は、更に執蔵して自内我と為さず。これに由ってもまた阿頼耶の名を捨つ。ゆえに阿頼耶識を成就せずと説く。これもまた彼らを名づけて阿羅漢と説く。
故《集論》中作如是說:十地菩薩雖未永斷一切煩惱,然此煩惱猶如呪、藥所伏諸毒,不起一切煩惱過失。一切地中,如阿羅漢已斷煩惱,故亦說彼名阿羅漢。
ゆえに《集論》の中にかくのごとき説を作す:十地の菩薩は未だ永く一切の煩悩を断ぜざると雖も、しかしこれらの煩悩は猶ほ呪・薬の伏する所の諸毒の如く、一切の煩悩の過失を起こさず。一切地の中にて阿羅漢の已に煩悩を断じたるが如し。ゆえにもまた彼らを名づけて阿羅漢と説く。
彼說非理。七地已前猶有俱生我見、愛等,執藏此識為自內我,如何已捨阿賴耶名?
彼らの説は理に合わず。七地已前にはなお倶生の我見・愛等有りて、この識を執蔵して自内我と為す。どうして已に阿頼耶の名を捨てたらん。
若彼分別我見、愛等,不復執藏,說名為捨,則預流等諸有學位,亦應已捨阿賴耶名,許便違害諸論所說。
もし彼らの分別の我見・愛等は更に執蔵せざるを説いて名づけて捨と為さば、然らば預流等の諸有学位もまたまさに已に阿頼耶の名を捨てたるべし。許さば便ち諸論の説く所に違害す。
地上菩薩所起煩惱皆由正知,不為過失,非預流等得有斯事,寧可以彼例此菩薩?
地上の菩薩の起こす所の煩悩は皆正知に由って過失と為さず。並びて預流等の能くこの事有るに非ず。どうして彼らを用いてこれらの菩薩に例せん。
彼六識中所起煩惱,雖由正知不為過失,而第七識有漏心位,任運現行執藏此識,寧不與彼預流等同?由此故知彼說非理。
彼らの六識中に起こる所の煩悩は、正知に由って過失と為さざると雖も、しかし第七識の有漏心位は任運に現行してこの識を執蔵す。どうしてかの預流等と相同じからざらん。これに由って故に彼らの説は理に合わずと知る。
然阿羅漢斷此識中煩惱麁重究竟盡故,不復執藏阿賴耶識為自內我。由斯永失阿賴耶名,說之為捨,非捨一切第八識體。勿阿羅漢無識持種,爾時便入無餘涅槃。
しかし阿羅漢はこの識中の煩悩麁重を断じて究竟尽し、更に阿頼耶識を執蔵して自内我と為さず。これに由って永く阿頼耶の名を失う。それを説いて捨と為す。並びて一切の第八識体を捨つるに非ず。阿羅漢は識持種無きが如くならしむること莫れ。かの時便ち無余涅槃に入らん。
然第八識雖諸有情皆悉成就,而隨義別立種種名。
しかし第八識は諸有情皆成就すると雖も、しかし義別に随って種種の名を立つ。
謂或名心,由種種法燻習種子所積集故;或名阿陀那,執持種子及諸色根令不壞故;或名所知依,能與染、淨所知諸法為依止故;或名種子識,能遍任持世、出世間諸種子故。
いわゆるあるいは名づけて心という。種種の法の薫習の種子の積集する所なるが故に。あるいは名づけて阿陀那(執持識)という。種子および諸色根を執持して壊れざらしむるが故に。あるいは名づけて所知依という。能く染・浄の所知の諸法と依止と為るが故に。あるいは名づけて種子識という。能く遍く世・出世間の諸種子を任持するが故に。
此等諸名通一切位。
これらの等の名は一切位に通ず。
或名阿賴耶,攝藏一切雜染品法令不失故,我見、愛等執藏以為自內我故。此名唯在異生、有學,非無學位、不退菩薩,有雜染法執藏義故。
あるいは名づけて阿頼耶という。一切の雑染品法を摂蔵して失わせず、我見・愛等は執蔵して以って自内我と為すが故に。この名はただ異生・有学に在り。無学位・不退菩薩に非ず。雑染法の執蔵の義有るが故に。
或名異熟識,能引生死善、不善業異熟果故。此名唯在異生、二乘諸菩薩位,非如來地猶有異熟無記法故。
あるいは名づけて異熟識という。能く生死の善・不善業の異熟果を引くが故に。この名はただ異生・二乗・諸菩薩位に在り。如来地に非ず。なお異熟無記法有るが故に。
或名無垢識,最極清淨諸無漏法所依止故。此名唯在如來地有,菩薩、二乘及異生位,持有漏種可受燻習,未得善淨第八識故。如契經說:
あるいは名づけて無垢識という。最極清浄の諸無漏法の依止する所なるが故に。この名はただ如来地に在り。菩薩・二乗および異生位は有漏種を持して薫習を受くべし。未だ善浄の第八識を得ざるが故に。契経に説けるが如く:
如來無垢識,是淨無漏界,
如来の無垢識は、是れ浄無漏界なり。
解脫一切障,圓鏡智相應。
一切の障を解脱して、円鏡智と相応す。
阿賴耶名過失重故,最初捨故,此中偏說。異熟識體菩薩將得菩提時捨,聲聞、獨覺入無餘依涅槃時捨。無垢識體無有捨時,利樂有情無盡時故。心等通故,隨義應說。
阿頼耶の名は過失重し。最初に捨つ。ゆえにここに偏りて説く。異熟識体は菩薩が将に菩提を得んとする時に捨ち、声聞・独覚は無余依涅槃に入る時に捨つ。無垢識体は捨つる時無し。有情を利楽するに尽きざる時なるが故に。心等は通ず。義に随ってまさに説くべし。
然第八識總有二位:一、有漏位,無記性攝。
しかし第八識は総じて二位有り。一、有漏位。無記性の摂する所なり。
唯與觸等五法相應,但緣前說執受、處境。
ただ触等の五法と相応して、ただ前に説ける執受・処の境に縁ず。
二、無漏位,唯善性攝。
二、無漏位。ただ善性の摂する所なり。
與二十一心所相應,謂遍行、別境各五,善十一,與一切心恆相應故。常樂證智所觀境故;於所觀境恆印持故;於曾受境恆明記故;世尊無有不定心故;於一切法常決擇故。極淨信等常相應故,無染汙故。無散動故。
二十一の心所と相応す。いわゆる遍行・別境各々五、善十一なり。一切心と恒に相応するが故に。常に智の観ずる所の境を証することを楽しみ、観ずる所の境に対して恒に印持し、曾受の境に対して恒に明記す。世尊は不定の心無し。一切法に対して常に決択す。極浄の信等は常に相応して、染汚無く、散動無し。
此亦唯與捨受相應,任運恆時平等轉故。
これもまたただ捨受と相応す。任運にして恒時平等に転ずるが故に。
以一切法為所緣境,鏡智遍緣一切法故。
一切法を以って所縁境と為す。鏡智は遍く一切法に縁ずるが故に。
云何應知此第八識離眼等識有別自體?
どうしてこの第八識は眼等の識を離れて別に自体有ると知らん。
聖教、正理為定量故。
聖教・正理を以って定量と為すが故に。
謂有《大乘阿毘達磨》契經中說:
いわゆる《大乗阿毗達磨》の契経の中に説く有り:
「無始時來界,一切法等依,
「無始より来る界は、一切法の等依。
由此有諸趣,及涅槃證得。」
これに由って諸趣有り、および涅槃の証得有り。」
此第八識自性微細,故以作用而顯示之。
この第八識の自性は微細なるがゆえに、作用を用いてそれを顕示す。
頌中初半,顯第八識為因緣用,後半顯與流轉還滅,作依持用。
頌中の初半は第八識の因縁たる用を顕し、後半は流転・還滅と依持たる用を作るを顕す。
「界」是因義,即種子識,無始時來展轉相續,親生諸法,故名為因。
「界」は因の義にして、すなわち種子識の無始より来り展転相続して、親く諸法を生ずるがゆえに名づけて因という。
「依」是緣義,即執持識無始時來,與一切法等為依止,故名為緣。
「依」は縁の義にして、すなわち執持識の無始より来り、一切法等と依止と為るがゆえに名づけて縁という。
謂能執持諸種子故,與現行法為所依故,即變為彼及為彼依。
いわゆる能く諸種子を執持して、現行法と所依と為る。すなわちそれに変じておよびそれの依と為る。
變為彼者,謂變為器及有根身;「為彼依」者,謂與轉識作所依止。以能執受五色根故,眼等五識依之而轉,又與末那為依止故,第六意識依之而轉。末那、意識轉識攝故。如眼等識依俱有根,第八理應是識性故,亦以第七為俱有依。
それに変ずとは、いわゆる器および有根身に変ず。「それの依と為る」とは、いわゆる転識と所依止を作る。能く五色根を執受するがゆえに、眼等の五識はそれに依って転じ、また末那と依止と為りて、第六意識はそれに依って転ず。末那・意識は転識の摂する所なり。眼等識の倶有根に依るが如く、第八は理まさに識性なり。もまた第七を以って倶有依と為す。
是謂此識為因、緣用。
これすなわちこの識の因・縁たる用なり。
「由此有」者,由有此識;「有諸趣」者,有善、惡趣。
「これに由って有」とは、この識有るに由る。「諸趣有り」とは、善・悪趣有る。
謂由有此第八識故,執持一切順流轉法,令諸有情流轉生死。
いわゆるこの第八識有るに由って、一切の流転に順う法を執持して、諸有情をして生死を流転せしむ。
雖惑、業、生皆是流轉,而趣是果,勝故偏說;或「諸趣」言通能、所趣,諸趣資具亦得趣名。
惑・業・生は皆流転なると雖も、しかし趣は果にして勝れるがゆえに偏りて説く。あるいは「諸趣」は能趣・所趣に通じて、諸趣の資具もまた趣の名を得。
諸惑、業、生皆依此識,是與流轉作依持用。
諸々の惑・業・生は皆この識に依る。これ流転と依持たる用を作るなり。
「及涅槃證得」者,由有此識故,有涅槃證得。
「および涅槃の証得」とは、この識有るに由って涅槃の証得有り。
謂由有此第八識故,執持一切順還滅法,令修行者證得涅槃。
いわゆるこの第八識有るに由って、一切の還滅に順う法を執持して、修行の人をして涅槃を証得せしむ。
此中但說能證得道,涅槃不依此識有故。
ここにはただ能く証得する道を説くのみ。涅槃はこの識に依って有りに非ざるが故に。
或此但說所證涅槃,是修行者正所求故。
あるいはここにはただ証する所の涅槃を説く。修行の人の正に求むる所なるが故に。
或此雙說涅槃與道俱是還滅品類攝故。謂「涅槃」言顯所證滅,後「證得」言顯能得道,由能斷道,斷所斷惑,究竟盡位,證得涅槃。
あるいはここには双く涅槃と道とを説いて皆還滅の品類の摂する所なり。いわゆる「涅槃」は証する所の滅を顯示し、後の「証得」は能く得る道を顯示す。能断の道に由って断ずる所の惑を断じ、究竟尽す位にて涅槃を証得す。
能、所斷、證皆依此識,是與還滅作依持用。
能断・所断・能証・所証は皆この識に依る。これ還滅と依持たる用を作るなり。
又此頌中初句,顯示此識自性無始恆有,後三顯與雜染、清淨二法,總、別為所依止。
またこの頌中の初句は、この識の自性は無始に恒有を顯示し、後の三句は雑染・清浄の二法と総・別に所依止と為るを顯示す。
雜染法者,謂苦、集諦,即所能趣生及業、惑;清淨法者,謂滅、道諦,即所、能證涅槃及道;彼二皆依此識而有,依轉識等,理不成故。
雑染法とは、いわゆる苦・集諦、すなわち所趣・能趣の生および業・惑。清浄法とは、いわゆる滅・道諦、すなわち所証・能証の涅槃および道。かの二は皆この識に依って有り。転識等に依るは理成立せず。
或復初句顯此識體無始相續,後三顯與三種自性為所依止:
あるいはまた初句はこの識体の無始相続を顯示し、後の三句は三種自性と所依止と為るを顯示す。
謂依他起、遍計所執、圓成實性,如次應知。
いわゆる依他起・遍計所執・円成実性、次第にまさに知るべし。
今此頌中諸所說義,離第八識皆不得有。
現在この頌中の諸々の説く所の義は、第八識を離れて皆得ることなし。
即彼經中復作是說:
すなわちかの経の中にまたかくのごとき説を作す:
「由攝藏諸法,一切種子識,
「諸法を摂蔵するに由って、一切種子の識、
故名阿賴耶,勝者我開示。」
ゆえに名づけて阿頼耶という。勝者に我は開示す。」
由此本識具諸種子,故能攝藏諸雜染法。
これに由って本識は諸種子を具えるがゆえに、能く諸雑染法を摂蔵す。
依斯建立阿賴耶名,非如勝性轉為大等,種子與果體非一故;能依、所依俱生滅故;與雜染法互相攝藏,亦為有情執藏為我,故說此識名「阿賴耶」。
これに依って阿頼耶の名を建立す。並びて勝性の大等に転ずるが如きに非ず。種子と果とは体一に非ざるが故に。能依・所依は皆生滅す。雑染法と互相摂蔵し、また有情の執蔵して我と為す所なり。ゆえにこの識を名づけて「阿頼耶」と説く。
已入見道諸菩薩眾得真現觀,名為「勝者」,彼能證解阿賴耶識,故我世尊正為開示;或諸菩薩皆名「勝者」,雖見道前未能證解阿賴耶識,而能信解,求彼轉依,故亦為說。
已に見道に入りたる諸菩薩衆は真の現観を得たり。名づけて「勝者」という。彼らは能く阿頼耶識を証解す。ゆえに我世尊は正しく開演したまう。あるいは諸菩薩は皆名づけて「勝者」という。見道の前に未だ能く阿頼耶識を証解せざると雖も、しかし能く信解してかの転依を求む。ゆえにまた説く為り。
非諸轉識有如是義。
並びて諸転識はかくのごとき義有るに非ず。
《解深密經》亦作是說:
《解深密経》もまたかくのごとき説を作す:
「阿陀那識甚深細,一切種子如瀑流,
「阿陀那識は甚深細にして、一切種子は瀑流の如し。
我於凡愚不開演,恐彼分別執為我。」
我は凡愚に対して開演せず。彼らの分別して我と執せんを畏れればなり。」
以能執持諸法種子,及能執受色根依處,亦能執取結生相續,故說此識名「阿陀那」。無性有情不能窮底,故說「甚深」;趣寂種性不能通達,故名「甚細」。
能く諸法の種子を執持し、および能く色根の依処を執受し、また能く結生相続を執取するがゆえに、この識を名づけて「阿陀那」と説く。無性の有情は底を窮むること能わず。ゆえに「甚深」と説く。趣寂の種性は通達すること能わず。ゆえに名づけて「甚細」という。
是一切法真實種子,緣擊便生轉識波浪,恆無間斷,猶如瀑流。
是れ一切法の真実の種子にして、縁の撃つに便ち転識の波浪を生ず。恒に間断無くして猶ほ瀑流の如し。
「凡」即無性,「愚」即趣寂。恐彼於此起分別執,墮諸惡趣,障生聖道,故我世尊不為開演。
「凡」はすなわち無性。「愚」はすなわち趣寂。彼らがこれに対して分別の執を起こして、諸悪趣に堕して、聖道を生ずるを障せんを畏る。ゆえに我世尊は開演せざりき。
唯第八識有如是相。
唯だ第八識のみかくのごとき相有り。
《入楞伽經》亦作是說:
《入楞伽経》もまたかくのごとき説を作す:
「如海遇風緣,起種種波浪,
「海の風縁に遇うが如く、種種の波浪を起こし、
現前作用轉,無有間斷時。
現前に作用して転じて、間断する時無し。
藏識海亦然,境等風所擊,
蔵識の海もまたこの如し。境等の風の撃つ所にて、
恆起諸識浪,現前作用轉。」
恒に諸識の浪を起こして、現前に作用して転ず。」
眼等諸識,無如大海恆相續轉起諸識浪,故知別有第八識性。
眼等の諸識は、大海の如く恒に相続して諸識の浪を転起する有るに非ず。ゆえに別に第八識性有るを知る。
此等無量大乘經中,皆別說有此第八識。
これらの等の無量の大乗経中に、皆別にこの第八識有りと説く。
諸大乘經:皆順無我,違數取趣;棄背流轉,趣向還滅;讚佛、法、僧,毀諸外道;表蘊等法,遮勝性等;樂大乘者,許能顯示無顛倒理,契經攝故,如《增壹》等至教量攝。
諸々の大乗経は、皆无我に順い、数取趣に違し、流転を棄背して還滅に趣向し、仏・法・僧を讃して諸外道を毀し、蘊等の法を表して勝性等を遮り、大乗を楽する人は能く無顛倒の理を顯示すと許す。契経の摂する所なるがゆえに、《増壹》等の至教量の摂する所の如し。
又,聖慈氏以七種因,證大乘經真是佛說。
また聖なる慈氏は七種の因を用いて、大乗経は真に仏の説と証す。
一、先不記故。若大乘經佛滅度後,有餘為壞正法故說,何故世尊非如當起諸可怖事,先預記別?
一、先に記せず。もし大乗経は仏滅度の後に余人有りて正法を壊るが為に説くと言わば、なんぞ世尊は当に起こるべき諸可怖事の如く、先に預かって記別せざりし。
二、本俱行故。大小乘教本來俱行,寧知大乘獨非佛說?
二、本倶行。大小乗の教は本来倶に行わる。どうして大乗は独り仏説に非ずと知らん。
三、非餘境故。大乘所說廣大甚深,非外道等思量境界。彼經論中曾所未說,設為彼說,亦不信受,故大乘經非非佛說。
三、其余の境に非ず。大乗の説く所は広大甚深にして、外道等の思量の境界に非ず。彼らの経論の中に曽て未だ説かず。たとえ彼らの為に説くも、また信受せず。ゆえに大乗経は並びて仏説に非ざるに非ず。
四、應極成故。若謂大乘是餘佛說,非今佛語,則大乘教是佛所說,其理極成。
四、極成すべし。もし大乗は其余の仏の説にして今仏の語に非ずと説かば、然らば大乗教は仏の説く所なり。その理極成す。
五、有、無有故。若有大乘,即應信此諸大乘教是佛所說,離此大乘不可得故。
五、有・無有。もし大乗有れば、まさにこれらの諸大乗教は仏の説く所と信ずべし。このを離れて大乗は得るべからざるが故に。
若無大乘,聲聞乘教亦應非有,以離大乘決定無有得成佛義,誰出於世說聲聞乘?故聲聞乘是佛所說,非大乘教不應正理。
もし大乗無ければ、声聞乗の教もまたまさに有に非ざるべし。大乗を離れて決定して成仏の義を得る無きが故に。誰か世に出でて声聞乗を説かん。ゆえに声聞乗は仏の説く所にして、大乗教に非ざるは正理に応えず。
六、能對治故。依大乘經勤修行者,皆能引得無分別智,能正對治一切煩惱,故應信此是佛所說。
六、能対治。大乗経に依って勤修の人行うは、皆能く無分別智を引得して、能く正しく一切の煩悩を対治す。ゆえにまさにこれは仏の説く所と信ずべし。
七、義異文故。大乘所說意趣甚深,不可隨文而取其義,便生誹謗謂非佛語。
七、義は文に異なり。大乗の説く所は意趣甚深にして、文に随ってその義を取るべからず。便ち誹謗を生じて仏語に非ずと説く。
是故大乘真是佛說。
ゆえに大乗は真に仏の説なり。
如《莊嚴論》頌此義言:
《荘厳論》の頌がこの義を説くが如く:
「先不記、俱行、非餘所行境、
「先に記せず・倶行・其余の行境に非ず・
極成、有無有、對治、異文故。」
極成・有無有・対治・異文。」
餘部經中亦密意說阿賴耶識有別自性。
其余の部の経中にもまた密意に阿頼耶識は別に自性有りと説く。
謂大眾部阿笈摩中,密意說此名根本識,是眼識等所依止故。譬如樹根是莖等本,非眼等識有如是義。
いわゆる大衆部の阿笈摩(阿含)の中に、密意にこれを名づけて根本識と説く。眼識等の依止する所なるが故に。譬えば樹根は茎等の本の如し。並びて眼等の識はかくのごとき義有るに非ず。
上坐部經分別論者,俱密意說此名有分識,「有」謂三有;「分」是因義,唯此恆、遍,為三有因。
上坐部の経の分別論者は、皆密意にこれを名づけて有分識と説く。「有」とは三有を説く。「分」は因の義にして、唯だこれ恒・遍にして三有の因と為る。
化地部說此名窮生死蘊,離第八識無別蘊法,窮生死際無間斷時。謂無色界諸色間斷,無想天等餘心等滅,不相應行離色、心等無別自體,已極成故,唯此識名窮生死蘊。
化地部はこれを名づけて窮生死蘊と説く。第八識を離れて別の蘊法無くして、生死の際を窮めて間断する時無し。いわゆる無色界は諸色間断し、無想天等は其余の心等滅し、不相応行は色・心等を離れて別の自体無し。已に極成せり。唯だこの識のみ名づけて窮生死蘊という。
說一切有部《增壹》經中,亦密意說此名阿賴耶,謂愛阿賴耶、樂阿賴耶、欣阿賴耶、憙阿賴耶。
説一切有部の《増壹》経の中にも、また密意にこれを名づけて阿頼耶と説く。いわゆる阿頼耶を愛し、阿頼耶を楽しみ、阿頼耶を欣り、阿頼耶を喜ぶ。
謂阿賴耶識是貪總、別三世境故,立此四名。有情執為真自內我,乃至未斷恒生愛著,故阿賴耶識是真愛著處。
いわゆる阿頼耶識は貪の総・別に三世の境なるがゆえに、この四名を立つ。有情はこれを執して真の自内我と為し、乃至未だ断ぜざるに恒に愛着を生ず。ゆえに阿頼耶識は真の愛着の処なり。
不應執餘五取蘊等,謂生一向苦受處者,於餘五取蘊不生愛著,彼恆厭逆餘五取蘊,念我何時當捨此命、此眾同分、此苦身心,令我自在受快樂故。
其余の五取蘊等を執すべからず。いわゆる一向に苦受の処を生ずる人は、其余の五取蘊に対して愛着を生ぜず。彼らは恒に其余の五取蘊を厭逆して、我いつかまさにこの命・この衆同分・この苦身心を捨てて、我をして自在に快楽を受けしめんと念す。
五欲亦非真愛著處,謂離欲者於五妙欲,雖不貪著而愛我故。
五欲もまた真の愛着処に非ず。いわゆる欲を離れたる人は五妙欲に対して、貪着せざると雖もしかし我を愛す。
樂受亦非真愛著處,謂離第三靜慮染者,雖厭樂受而愛我故。
楽受もまた真の愛着処に非ず。いわゆる第三静慮の染を離れたる人は、楽受を厭うと雖もしかし我を愛す。
身見亦非真愛著處,謂非無學信無我者,雖於身見不生貪著,而於內我猶生愛故。
身見もまた真の愛着処に非ず。いわゆる無学に非ざるにして無我を信ずる人は、身見に対して貪着を生ぜざると雖も、しかし内我に対してはなお愛を生ず。
轉識等亦非真愛著處,謂非無學求滅心者,雖厭轉識等而愛我故。
転識等もまた真の愛着処に非ず。いわゆる無学に非ざるにして心を滅せんと求むる人は、転識等を厭うと雖もしかし我を愛す。
色身亦非真愛著處,離色染者,雖厭色身而愛我故。
色身もまた真の愛着処に非ず。色の染を離れたる人は、色身を厭うと雖もしかし我を愛す。
不相應行離色、心等無別自體,是故亦非真愛著處。
不相応行は色・心等を離れて別の自体無し。ゆえにもまた真の愛着処に非ず。
異生、有學起我愛時,雖於餘蘊有愛、非愛,而於此識,我愛定生,故唯此是真愛著處。
異生・有学は我愛を起こす時、其余の蘊に対しては愛・非愛有ると雖も、しかしこの識に対しては我愛必ず生ず。ゆえに唯だこれのみ真の愛着処なり。
由是彼說阿賴耶名,定唯顯此阿賴耶識。
これに由って彼らは阿頼耶の名を説いて、決定してただこの阿頼耶識を顯示す。
已引聖教,當顯正理。
已に聖教を引きたり。まさに正理を顯すべし。
謂契經說:雜染、清淨諸法種子之所集起,故名為心,若無此識,彼持種心不應有故。
いわゆる契経に説く:雑染・清浄の諸法の種子の集起する所なるがゆえに名づけて心という。もしこの識無ければ、かの持種の心はまさに有るべからず。
謂諸轉識在滅定等有間斷故,根、境、作意、善等類別易脫起故,如電光等不堅住故,非可燻習,不能持種,非染、淨種所集起心。
いわゆる諸転識は滅定等にて間断有りて、根・境・作意・善等の類別は脱して起こり易し。電光等の如く堅住せず。薫習すべきに非ず。種を持すること能わず。染・浄の種の集起する所の心に非ず。
此識一類、恆無間斷,如苣蕂等堅住可燻,契當彼經所說心義。
この識は一類にして恒に間断無し。苣蕂等の如く堅住して薫ずべし。かの経の説く所の心の義に契う。
若不許有能持種心,非但違經,亦違正理。
もし持種の心有るを許さざれば、ただ経に違するのみならず、また正理にも違す。
謂諸所起染、淨品法,無所燻故,不燻成種,則應所起唐捐其功。染、淨起時既無因種,應同外道執自然生。
いわゆる諸々の起こる所の染・浄品法は、薫ずる所無くして種を薫成せざれば、然らば起こる所はまさにその功を唐捐すべし。染・浄の起こる時、すでに因種無ければ、まさに外道の自然生を執するに同じからん。
色、不相應,非心性故,如聲、光等,理非染、淨內法所燻,豈能持種?又彼離識無實自性,寧可執為內種依止?
色・不相応は心性に非ず。声・光等の如く、理上染・浄の内法の薫ずる所に非ず。どうして能く種を持せん。またそれらは識を離れて実自性無し。どうして内種の依止と執すべき。
轉識相應諸心所法,如識間斷,易脫起故,不自在故,非心性故,不能持種,亦不受燻。
転識に相応する諸心所法は、識の如く間断して脱して起こり易く、自在ならず。心性に非ず。種を持すること能わず、また薫を受けず。
故持種心,理應別有。
ゆえに持種の心は、理まさに別に有るべし。
有說:六識無始時來,依根、境等前後分位,事雖轉變而類無別,是所燻習,能持種子。由斯染、淨因果皆成,何要執有第八識性?
人の説く有り:六識は無始より来り、根・境等に依って前後分位す。事は転変すると雖も類は分別無し。是れ薫習する所にして能く種子を持つ。これに由って染・浄の因果は皆成立す。何ぞ必ず第八識性有りと執せん。
彼言無義!
彼らの言は義無し。
所以者何?
何故か。
執類是實,則同外道;許類是假,便無勝用,應不能持內法實種。
類を執して実と為せば、便ち外道に同じく、類を許して假と為せば、便ち勝用無し。まさに内法の実種を持すること能わざるべし。
又執識類何性所攝?若是善、惡,應不受燻,許有記故,猶如擇滅;若是無記,善、惡心時,無無記心,此類應斷,非事善、惡類可無記;別類必同別事性故。
また識の類を執すればいずれかの性の摂する所ぞ。もし善・悪なれば、まさに薫を受けざるべし。有記を許すがゆえに、択滅の如し。もし無記なれば、善・悪心の時に無記心無し。この類はまさに断ずべし。並びて事の善・悪は類の無記ならんこと無し。別の類は必ず別事の性に同じ。
又無心位此類定無,既有間斷,性非堅住,如何可執持種、受燻?
また無心位にこの類は定めて無し。すでに間断有りて性堅住せざれば、どうして能く種を持ち薫を受くべけん。
又阿羅漢或異生心,識類同故,應為諸染,無漏法燻,許便有失。又眼等根或所餘法,與眼等識根、法類同,應互相燻,然汝不許。
また阿羅漢あるいは異生の心は、識の類同じければ、まさに諸染・無漏法に薫ぜられん。許さば便ち失有り。また眼等の根あるいは其余の法は、眼等の識・根・法と類同じければ、まさに互いに薫すべし。しかして汝らは許さず。
故不應執識類受燻。
ゆえに識の類は薫を受くと執すべからず。
又六識身,若事、若類,前後二念既不俱有;如隔念者,非互相燻。能燻、所燻必俱時故。
また六識身は、もし事もしくは類なりと雖も、前後の二念はすでに倶有せず。隔念の如く、互いに薫ずるに非ず。能薫・所薫は必ず倶時なり。
執唯六識俱時轉者,由前理趣,既非所燻,故彼亦無能持種義。
唯だ六識のみ倶時に転ずと執する人は、前の理趣に由って、すでに所薫に非ざれば、ゆえに彼らもまた種を持つの義無し。
有執色、心自類無間,前為後種,因果義立,故先所說,為證不成。
人有りて色・心の自類は無間にして、前は後の種と為り、因果の義立つと執す。ゆえに先前の説く所は、証として成立せず。
彼執非理,無燻習故。謂彼自類既無燻習,如何可執前為後種?
彼らの執は理に合わず。薫習無きが故に。いわゆる彼らの自類はすでに薫習無ければ、どうして前は後の種と為ると執すべき。
又間斷者,應不更生,二乘無學應無後蘊,死位色、心為後種故。
また間断する者はまさに更に生ぜざるべし。二乗の無学はまさに後蘊無かるべし。死位の色・心は後の種と為るが故に。
亦不應執色、心展轉互為種生,轉識、色等非所燻習,前已說故。
またまさに色・心は展転互いに種生と執すべからず。転識・色等は薫習する所に非ず。前に已に説きたり。
有說:三世諸法皆有,因果感赴,無不皆成,何勞執有能持種識?然經說心為種子者,起染、淨法,勢用強故。
人の説く有り:三世の諸法は皆有りて、因果は感赴して、成り立たざる無し。何ぞ労して能く種を持つ識有りと執せん。しかし経に心を種子と為して染・浄法を起こすは勢用強しと説く。
彼說非理。過去、未來,非常、非現,如空花等,非實有故。
彼らの説は理に合わず。過去・未来は常に非ず現に非ず。空花等の如く実有に非ず。
又無作用,不可執為因緣性故。若無能持染、淨種識,一切因果皆不得成。
また作用無くして因縁性と執すべからず。もし染・浄種を持つ識能くする無ければ、一切の因果は皆成立すること能わず。
有執大乘遣相空理為究竟者,依似比量,撥無此識及一切法,彼特違害前所引經。
人有りて大乗の遣相の空理を執して究竟と為し、似比量に依って、この識および一切法を撥して無と為す。彼らは特に前に引く所の経に違害す。
智、斷、證、修、染、淨因果皆執非實,成大邪見。
智・断・証・修・染・浄の因果を皆執して実に非ずと為す。大邪見を成ず。
外道毀謗染、淨因果亦不謂全無,但執非實故。
外道の染・浄因果を毀謗するも、また全く無と説かずして、ただ実に非ずと執す。
若一切法皆非實有,菩薩不應為捨生死,精勤修集菩提資糧。誰有智者為除幻敵,求石女兒用為軍旅?
もし一切法は皆実有に非ざれば、菩薩はまさに生死を捨てんが為に精勤して菩提の資糧を修集すべからず。誰の智者か有りて幻の敵を除かんが為に、石女の児を求めて用いて軍旅と為さん。
故應信有能持種心,依之建立染、淨因果。
ゆえにまさに信ずべし、能く種を持つ心有りて、それに依って染・浄の因果を建立す。
彼心即是此第八識。
かの心はすなわちこの第八識なり。
又契經說有異熟心,善、惡業感,若無此識,彼異熟心不應有故。
また契経に異熟心有りて、善・悪業の感ずる所と説く。もしこの識無ければ、かの異熟心はまさに有るべからず。
謂眼等識有間斷故,非一切時是業果故,如電、光等,非異熟心。異熟不應斷已更續,彼命根等,無斯事故。
いわゆる眼等の識は間断有りて、一切時に業果に非ず。電・光等の如く、異熟心に非ず。異熟はまさに断已って更に続ぐべからず。それらの命根等はこの事有る無し。
眼等六識,業所感者,猶如聲等,非恆續故,是異熟生,非真異熟。
眼等の六識は業の感ずる所にして、猶ほ声等の如し。恒続に非ざるがゆえに、是れ異熟生にして真の異熟に非ず。
定應許有真異熟心,酬牽引業,遍而無斷,變為身、器作有情依,身、器離心,理非有故。不相應法無實體故,諸轉識等非恆有故,若無此心,誰變身、器?復依何法恆立有情?
決定してまさに許すべし、真の異熟心有りて、牽引の業に酬い、遍にして断無し。変じて身・器と為りて有情の依と作す。身・器は心を離れて理上有に非ず。不相応法は実体無し。諸転識等は恒有に非ず。もしこの心無ければ、誰か身・器を変ぜん。また何の法に依ってか恒に有情を立てん。
又在定中,或不在定,有別思慮、無思慮時,理有眾多身受生起。此若無者,不應後時身有怡適,或復勞損,若不恆有真異熟心,彼位如何有此身受?
また定中に在り、あるいは定に在らず、別に思慮有る時・思慮無き時に、理に衆多の身受の生起有り。これもし無ければ、まさに後時に身の怡適有るべからず、あるいはまた労損有るべからず。もし恒に真の異熟心有りとせざれば、かの位にどうしてこの身受有らん。
非佛起餘善心等位,必應現起真異熟心,如許起彼時,非佛有情故。
並びて仏は其余の善心等の位を起こすに非ず。必ずまさに真の異熟心を現起すべし。かれを起こす時に仏に非ざる有情を許すが如し。
由是恆有真異熟心,彼心即是此第八識。
これに由って恒に真の異熟心有り。かの心はすなわちこの第八識なり。
又契經說:有情流轉五趣、四生。若無此識,彼趣、生體不應有故。
また契経に説く:有情は五趣・四生を流転すと。もしこの識無ければ、かの趣・生の体はまさに有るべからず。
謂要實有、恆、遍、無雜,彼法可立正實趣、生。
いわゆる実有・恒・遍・無雑なるを要して、かの法は正実の趣・生と立つべし。
非異熟法趣、生雜亂,住此起餘趣、生法故。
並びて異熟法は趣・生の雑乱に非ず。これに住して其余の趣・生法を起こすが故に。
諸異熟色及五識中業所感者不遍趣、生,無色界中全無彼故。
諸々の異熟色および五識中の業の感ずる所は趣・生に遍せず。無色界中には全くそれ無し。
諸生得善及意識中業所感者,雖遍趣、生,起無雜亂而不恆有。
諸々の生得善および意識中の業の感ずる所は、趣・生に遍すと雖も、雑乱無くして起こるも、しかし恒有に非ず。
不相應行無實自體,皆不可立正實趣、生。
不相応行は実自体無し。皆正実の趣・生と立つべからず。
唯異熟心及彼心所,實恆、遍、無雜,是正實趣、生。
唯だ異熟心およびそれらの心所のみ、実・恒・遍・無雑にして是れ正実の趣・生なり。
此心若無,生無色界起善等位應非趣、生。設許趣、生攝諸有漏,生無色界起無漏心應非趣、生,便違正理。勿有前過及有此失,故唯異熟法是正實趣、生。
この心もし無ければ、無色界に生じて善等の位を起こすはまさに趣・生に非ざるべし。たとえ趣・生は諸有漏を摂すと許すも、無色界に生じて無漏心を起こすはまさに趣・生に非ざるべし。便ち正理に違す。前の過有る無くしてもまたこの失有らしむること莫れ。ゆえに唯だ異熟法のみ是れ正実の趣・生なり。
由是如來非趣、生攝,佛無異熟無記法故,亦非界攝,非有漏故,世尊已捨苦、集諦故,諸戲論種已永斷故。
これに由って如来は趣・生の摂する所に非ず。仏は異熟無記法無きが故に。また界の摂する所に非ず。有漏に非ざるが故に。世尊は已に苦・集諦を捨て、諸戯論の種は已に永断せり。
正實趣、生既唯異熟心及心所,彼心、心所離第八識理不得成,故知別有此第八識。
正実の趣・生はすでに唯だ異熟心および心所なれば、かの心・心所は第八識を離れて理得て成らず。ゆえに別にこの第八識有るを知る。
又契經說:有色根身是有執受,若無此識,彼能執受,不應有故。
また契経に説く:色の有根身は是れ執受有りと。もしこの識無ければ、かの能執受はまさに有るべからず。
謂五色根及彼依處,唯現在世是有執受,彼定由有能執受心,唯異熟心,先業所引,非善、染等,一類、能遍、相續執受有色根身;眼等轉識無如是義。
いわゆる五色根およびそれらの依処は、ただ現在の世に執受有るなり。それらは決定して能執受の心有るに由る。唯だ異熟心のみ、先業の引く所にして、善・染等に非ず、一類・能遍・相続して有色根身を執受す。眼等の転識はかくのごとき義無し。
此言意顯眼等轉識,皆無一類、能遍、相續執受自內有色根身,非顯能執受唯異熟心,勿諸佛色身無執受故;然能執受有漏色身唯異熟心,故作是說。
この言の意は、眼等の転識は皆一類・能遍・相続して自内の有色根身を執受する無きを顯示す。並びて能執受は唯だ異熟心のみと顯示するに非ず。諸仏の色身をして執受無きならしむること莫れ。しかし能く有漏色身を執受するは唯だ異熟心のみ。ゆえにかくのごとき説を作す。
謂諸轉識現緣起故,如聲、風等,彼善、染等,非業引故,如非擇滅。異熟生者,非異熟故、非遍依故、不相續故,如電、光等,不能執受有漏色身。
いわゆる諸転識は現縁より起こり、声・風等の如し。それらの善・染等は業の引に非ず、非択滅の如し。異熟生の者は異熟に非ず、遍依に非ず、相続せず。電・光等の如く、有漏色身を執受すること能わず。
諸心識言,亦攝心所,定相應故,如唯識言。
諸々の心識の言はまた心所を収摂す。決定して相応するが故に。唯識の言の如し。
非諸色根、不相應行可能執受有色根身,無所緣故,如虛空等。
並びて諸色根・不相応行は能く有色根身を執受すること能わず。所縁無きが故に、虚空等の如し。
故應別有能執受心,彼心即是此第八識。
ゆえにまさに別に能執受の心有るべし。かの心はすなわちこの第八識なり。
又契經說:壽、煖、識三,更互依持,得相續住。若無此識能持壽、煖,令久住識不應有故。
また契経に説く:寿・煖・識の三は更互に依持して、相続して住するを得すと。もしこの識の能く寿・煖を持し、久住せしむる識無ければ、まさに有るべからず。
謂諸轉識有間、有轉,如聲、風等,無恆持用,不可立為持壽、煖識。
いわゆる諸転識は間有り転有りて、声・風等の如く、恒持の用無し。持寿・煖の識と立つべからず。
唯異熟識無間、無轉,猶如壽、煖,有恆持用,故可立為持壽、煖識。
唯だ異熟識のみ間無く転無し。猶ほ寿・煖の如く、恒持の用有り。ゆえに持寿・煖の識と立つべし。
經說三法更互依持,而壽與煖一類相續,唯識不然,豈符正理?
経に三法は更互に依持すると説く。しかし寿と煖とは一類相続して、唯だ識のみ然らず。あに正理に符せんや。
雖說三法更互依持,而許唯煖不遍三界,何不許識獨有間、轉?
三法は更互に依持すると説くと雖も、しかし唯だ煖のみ三界に遍せざるを許す。なんぞ識は独り間・轉有りと許さざる。
此於前理,非為過難。謂若是處具有三法無間轉者,可恆相持。不爾,便無恆相持用。前以此理,顯三法中所說識言,非詮轉識,舉煖不遍,豈壞前理?故前所說,其理極成。
これは前の理に対して並びて過難に非ず。いわゆるもし是の処に三法具えて無間に転ずれば、恒に相持すべし。然らずんば、便ち恒相持の用無し。前にこの理を用いて、三法中の説く所の識の言は並びて転識を詮せざるを顯示せり。煖は遍せざるを挙げて、あに前理を壊らんや。ゆえに先前の説く所はその理極成す。
又三法中,壽、煖二種既唯有漏,故知彼識如壽與煖,定非無漏;生無色界起無漏心,爾時,何識能持彼壽?
また三法の中に、寿・煖の二種はすでに唯だ有漏なれば、ゆえにかの識は寿・煖の如く決定して無漏に非ずと知る。無色界に生じて無漏心を起こす時、いずれの識か能くかの寿を持せん。
由此故知有異熟識,一類、恆、遍、能持壽、煖,彼識即是此第八識。
これに由って故に知る、異熟識有りて、一類・恒・遍にして能く寿・煖を持す。かの識はすなわちこの第八識なり。
又契經說:諸有情類,受生、命終,必住散心,非無心定。若無此識,生、死時心不應有故。
また契経に説く:諸有情類は受生・命終に必ず散心に住し、無心定に非ずと。もしこの識無ければ、生・死の時の心はまさに有るべからず。
謂生死時,身心惽昧,如睡無夢、極悶絕時,明瞭轉識必不現起。
いわゆる生死の時は身心昬昧にして、睡にして夢無き・極悶絶の時の如し。明了の転識は必ず現起せず。
又此位中,六種轉識行相、所緣不可知故,如無心位,必不現行。
またこの位中に六种の転識の行相・所縁は知るべからず。無心位の如く、必ず現行せず。
六種轉識行相、所緣有必可知,如餘時故。
六种の転識の行相・所縁は有れば必ず知るべし。其余の時の如し。
真異熟識極微細故,行相、所緣俱不可了,是引業果,一期相續,恆無轉變;是散、有心,名生死心,不違正理。
真の異熟識は極微細にして、行相・所縁は皆了すべからず。是れ引業の果にして、一期相続し、恒に転変無し。是れ散・有心にして名づけて生死心という。正理に違せず。
有說:五識此位定無,意識取境,或因五識、或因他教、或定為因,生位,諸因既不可得;故受生位,意識亦無。
人の説く有り:五識はこの位に定めて無く、意識は境を取るに、あるいは五識に因り、あるいは他教に因り、あるいは定を因と為す。生位には諸因はすでに求むるも得られず。ゆえに受生の位は意識もまた無し。
若爾,有情生無色界,後時意識應永不生,定心必由散意識引,五識、他教彼界必無,引定散心無由起故。
もし然らば、有情の無色界に生ずるは、後時に意識はまさに永く生ぜざるべし。定心は必ず散意識より引く。五識・他教はかの界に必ず無し。定を引く散心は起こる由無し。
若謂彼定由串習力,後時率爾能現在前。
もしかの定は串習力に由り、後時に率爾に能く現前すと説かば、
彼初生時,寧不現起?又欲、色界初受生時,串習意識亦應現起。
彼らの初生の時、どうして現起せざる。また欲・色界に初めて受生する時、串習の意識もまたまさに現起すべし。
若由惛昧,初未現前。
もし昏昧に由って初め未だ現前せざるならば、
此即前因,何勞別說?
これすなわち前の因なり。何ぞ労して別に説かん。
有餘部執:生、死等位,別有一類微細意識,行相、所緣俱不可了。應知即是此第八識,極成意識不如是故。
其余の部の執する有り:生・死等の位に別に一類の微細意識有りて、行相・所縁は皆了すべからずと。まさに知るべし、すなわちこの第八識なり。極成の意識はこの如くに非ず。
又將死時,由善、惡業,下、上身分,冷觸漸起,若無此識,彼事不成。轉識不能執受身故。
また将に死せんとする時、善・悪業に由って、下・上の身分に冷触漸く起こる。もしこの識無ければ、かの事は成立せず。転識は能く身を執受せざるが故に。
眼等五識,各別依故;或不行故。第六意識,不住身故,境不定故,遍寄身中恆相續故,不應冷觸由彼漸生。
眼等の五識は各別に依り、あるいは行わず。第六意識は身に住せず、境定まらず。遍く身中に寄りて恒相続せば、まさに冷触はそれに由って漸く生ずべからず。
唯異熟心,由先業力,恆、遍、相續執受身分。捨執受處,冷觸便生,壽、煖識三不相離故。
唯だ異熟心のみ、先業力に由って、恒・遍・相続して身分を執受す。執受の処を捨てば、冷触便ち生ず。寿・煖・識の三は相離れざるが故に。
冷觸起處即是非情,雖變、亦緣,而不執受。故知定有此第八識。
冷触の起こる処はすなわち非情なり。変ずると雖もまた縁ずるも、しかし執受せず。ゆえに定めてこの第八識有るを知る。
又契經說:識緣名色,名色緣識,如是二法展轉相依,譬如蘆束,俱時而轉,若無此識,彼識自體,不應有故。
また契経に説く:識は名色に縁じ、名色は識に縁ず。この二法は展転相依りて、譬えば蘆束の如く、倶時に転ずと。もしこの識無ければ、かの識の自体はまさに有るべからず。
謂彼經中自作是釋:名謂非色四蘊,色謂羯邏藍等。此二與識相依而住,如二蘆束,更互為緣,恆俱時轉,不相捨離。
いわゆるかの経の中に自らかくのごとき釈を作す:名とは非色の四蘊を説き、色とは羯邏藍(受生の最初の凝滑)等を説く。この二は識と相依って住して、二の蘆束の如く、更互に縁と為り、恒に倶時に転じて、相い捨離せず。
眼等轉識,攝在名中,此識若無,說誰為識?
眼等の転識は名の中に収摂す。この識もし無ければ、誰をか説いて識と為さん。
亦不可說名中識蘊謂五識身,識謂第六,羯邏藍時無五識故。
またまさに名中の識蘊は五識身を説き、識とは第六を説くと言うべからず。羯邏藍の時に五識無きが故に。
又諸轉識有間、轉故,無力恆時執持名色,寧說恆與名色為緣?
また諸転識は間有り転有りて、恒時に名色を執持する力無し。どうして恒に名色と縁と為ると説かん。
故彼識言,顯第八識。
ゆえにかの識の言は、第八識を顯示す。
成唯識論巻第三
成唯識論巻第四
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
又契經說:一切有情皆依食住,若無此識,彼識食體不應有故。
また契経に説く:一切有情は皆食に依って住すと。もしこの識無ければ、かの識食の体はまさに有るべからず。
謂契經說食有四種:
いわゆる契経に食は四種有りと説く。
一者、段食,變壞為相。謂欲界繫香、味、觸三,於變壞時能為食事。由此色處非段食攝,以變壞時,色無用故。
一つには段食。変壊を相と為す。いわゆる欲界繋の香・味・触の三は、変壊の時に能く食事と為る。これに由って色処は段食の摂する所に非ず。変壊の時に色は用無きが故に。
二者、觸食,觸境為相,謂有漏觸才取境時,攝受喜等,能為食事。此觸雖與諸識相應,屬六識者食義偏勝,觸麁顯境,攝受喜、樂及順益捨,資養勝故。
二つには触食。境に触るるを相と為す。いわゆる有漏触は纔かに境を取る時、喜等を摂受して、能く食事と為る。この触は諸識と相応すると雖も、六識に属する食義は偏りて勝れり。触は境を麁顯して、喜・楽および順益の捨を摂受し、資養勝れり。
三、意思食,希望為相。謂有漏思與欲俱轉,希可愛境,能為食事。此思雖與諸識相應,屬意識者食義偏勝,意識於境,希望勝故。
三、意思食。希望を相と為す。いわゆる有漏思は欲と倶に転じて、可愛の境を希い、能く食事と為る。この思は諸識と相応すると雖も、意識に属する食義は偏りて勝れり。意識は境に対して希望勝れり。
四者、識食,執持為相。謂有漏識由段、觸、思勢力增長,能為食事。此識雖通諸識自體,而第八識食義偏勝,一類相續執持勝故。
四つには識食。執持を相と為す。いわゆる有漏識は段・触・思の勢力に由って増長して、能く食事と為る。この識は諸識の自体に通ずると雖も、しかし第八識の食義は偏りて勝れり。一類相続して執持勝れるが故に。
由是《集論》說此四食,三蘊、五處、十一界攝。
これに由って《集論》はこの四食を説いて、三蘊・五処・十一界の摂する所と為す。
此四能持有情身命,令不壞斷,故名為食。
この四は能く有情の身命を持して壊断せざらしむ。ゆえに名づけて食という。
段食唯於欲界有用,觸、意思食雖遍三界而依識轉,隨識有無。
段食はただ欲界にて用有り。触・意思食は三界に遍すと雖も、しかし識に依って転じ、識の有無に随う。
眼等轉識有間、有轉,非遍、恆時能持身命,謂無心定、睡眠、悶絕、無想天中有間斷故,設有心位,隨所依、緣、性、界、地等有轉易故,於持身命,非遍、非恆。
眼等の転識は間有り転有りて、遍・恒時に非ず。能く身命を持すること能わず。いわゆる無心定・睡眠・悶絶・無想天の中に間断有り。たとえ有心位にても、依る所・縁・性・界・地等に随って転易有り。身命を持するに対して遍に非ず恒に非ず。
諸有執無第八識者,依何等食?《經》作是言:「一切有情皆依食住。」
諸々の第八識無しと執する人は、何の等食に依るや。《経》はかくのごとき説を作す:「一切有情は皆食に依って住す。」
非無心位過去、未來識等為食;彼非現、常;如空花等,無體用故。設有體用非現在攝,如虛空等,非食性故,亦不可說入定心等與無心位有情為食,住無心時彼已滅故,過去非食已極成故。
並びて無心位に過去・未来の識等を食と為すに非ず。彼らは現に非ず常に非ず。空花等の如く、体用無し。たとえ体用有るも現在の摂する所に非ず。虚空等の如く、食性に非ず。またまさに定に入る心等を無心位の有情と食と為すと説くべからず。無心に住する時、それ已に滅せり。過去は食に非ざるは已に極成せり。
又不可說無想定等不相應行即為彼食,段等四食所不攝故,不相應法非實有故。
またまさに無想定等の不相応行はすなわちかの食と説くべからず。段等の四食の摂せざる所なるがゆえに、不相応法は実有に非ず。
有執滅定等猶有第六識,於彼有情能為食事。彼執非理,後當廣破。
人有りて滅定等に還って第六識有りて、かの有情に対して食事と為るを得すと執す。彼らの執は理に合わず。後にまさに広く破るべし。
又彼應說生上二界無漏心時,以何為食?無漏識等破壞有故,於彼身、命不可為食。亦不可執無漏識中有有漏種能為彼食,無漏識等猶如涅槃,不能執持有漏種故。
また彼らはまさに上の二界に生じて無漏心を起こす時、何を以って食と為すかと説くべし。無漏識等は有を破壊す。かの身・命に対して食と為すべからず。またまさに無漏識中に有漏種有りて能くかの食と為ると執すべからず。無漏識等は猶ほ涅槃の如く、有漏種を執持すること能わず。
復不可說上界有情身、命相持即互為食,四食不攝彼身、命故,又無色無身,命無能持故,眾同分等無實體故。
またまさに上界の有情は身・命が相持して便ち互いに食と為ると説くべからず。四食はかの身・命を摂せず。また無色は身無くして、命は持する能無し。衆同分等は実体無し。
由此定知異諸轉識,有異熟識一類恆、遍執持身、命,令不壞斷。世尊依此,故作是言:一切有情皆依食住。
これに由って決定して知る、諸転識に異なりて、異熟識有りて一類・恒・遍に身・命を執持して壊断せざらしむ。世尊これに依る。ゆえにかくのごとき説を作す:一切有情は皆食に依って住す。
唯依「取蘊」建立有情,佛無有漏,非有情攝,說為有情依食住者,當知皆依示現而說。
ただ「取蘊」に依って有情を建立す。仏は有漏無くして有情の摂する所に非ず。有情と説いて食に依って住すとは、まさに皆示現に依って説くと知るべし。
既異熟識是勝食性,彼識即是此第八識。
すでに異熟識は勝れたる食性なれば、かの識はすなわちこの第八識なり。
又契經說:住滅定者,身、語、心行無不皆滅,而壽不滅,亦不離煖,根無變壞,識不離身。若無此識住滅定者,不離身識不應有故。
また契経に説く:滅定に住する人は、身・語・心行は滅せざる無きも、しかし寿は滅せず、また煖を離れず、根は変壊無く、識は身を離れずと。もしこの識無ければ、滅定に住する人の身を離れざる識はまさに有るべからず。
謂眼等識行相麁、動,於所緣境起必勞慮,厭患彼故,暫求止息,漸次伏除至都盡位,依此位立住滅定者,故此定中彼識皆滅,若不許有微細一類恆、遍執持壽等識在,依何而說識不離身?
いわゆる眼等の識は行相麁動にして、所縁境に対して起こるに必ず労慮有り。それを厭患して暫く止息を求め、漸次に伏除して都尽の位に至り、この位に依って滅定に住する人を立つ。ゆえにこの定中にそれらの識は皆滅す。もし微細・一類にして恒・遍に寿等を執持する識在りと許さざれば、何に依ってか識は身を離れずと説かん。
若謂後時彼識還起,如隔日瘧名不離身,是則不應說心行滅,識與想等起滅同故。壽、煖諸根應亦如識,便成大過,故應許識如壽、煖等實不離身。又此位中若全無識,應如瓦礫非有情數,豈得說為住滅定者?又異熟識此位若無,誰能執持諸根、壽、煖?無執持故皆應壞滅,猶如死屍便無壽等。既爾,後識必不還生,說不離身,彼何所屬?諸異熟識捨此身已,離識餘身無重生故。
もし後時にかの識は還って起こると説いて、隔日の瘧の如く名づけて身を離れずと為さば、かくのごとくなればまさに心行は滅すと説くべからず。識は想等と起滅同じきが故に。寿・煖の諸根もまたまさに識の如くなるべし。便ち大過を成ず。ゆえにまさに許すべし、識は寿・煖等の如く実に身を離れず。またこの位中にもし全く識無ければ、まさに瓦礫の如く有情数に非ざるべし。どうして能く滅定に住する人と説かん。また異熟識はこの位にもし無ければ、誰か能く諸根・寿・煖を執持せん。執持無ければ皆まさに壊滅すべし。猶ほ死尸の如く便ち寿等無し。すでに然らば、後の識は必ず還って生ぜず。離れずと説いて、それは何の属ぞ。諸々の異熟識はこの身を捨つるの後、識を離れたる其余の身は重生無し。
又若此位無持種識,後識無種,如何得生?過去、未來不相應法非實有體已極成故。諸色等法離識皆無受燻、持種亦已遮故。然滅定等無心位中,如有心位定實有識,具根、壽、煖,有情攝故。
またもしこの位に持種の識無ければ、後の識は種無くして、どうして生ずるを得ん。過去・未来・不相応法は実有体に非ざるは已に極成せり。諸色等の法は識を離れて皆薫を受け種を持する無きも已に遮りたり。しかして滅定等の無心位中は、有心位の如く、決定して実に識有りて根・寿・煖を具えり。有情の摂する所なるが故に。
由斯理趣,住滅定者,決定有識,實不離身。
これらの理趣に由って、滅定に住する人は決定して識有りて、実に身を離れず。
若謂此位有第六識,名不離身,亦不應理,此定亦名無心定故。
もしこの位に第六識有りて名づけて身を離れずと説かば、また理に応えず。この定はまた名づけて無心定というが故に。
若無五識名無心者,應一切定皆名無心,諸定皆無五識身故。意識攝在六轉識中,如五識身,滅定非有。或此位識行相、所緣不可知故,如壽、煖等,非第六識。若此位有行相、所緣可知識者,應如餘位,非此位攝。
もし五識無きを名づけて無心と為さば、まさに一切の定は皆名づけて無心と言うべし。諸定は皆五識身無きが故に。意識は六転識の中に収摂す。五識身の如く、滅定は有に非ず。あるいはこの位の識の行相・所縁は知るべからず。寿・煖等の如く、第六識に非ず。もしこの位に行相・所縁の知るべき識有れば、まさに其余の位の如く、この位の摂する所に非ざるべし。
本為止息行相、所緣可了知識,入此定故。
本より行相・所縁の了知すべき識を止息する為に、この定に入る。
又若此位有第六識,彼心所法為有?為無?
またもしこの位に第六識有れば、それらの心所法は有るや無きや。
若有心所,經不應言住此定者心行皆滅,又不應名滅受想定。
もし心所有れば、経はまさにこの定に住する人は心行皆滅すと説くべからず。またまさに名づけて滅受想定と言うべからず。
此定加行,但厭受、想,故此定中唯受、想滅;受、想二法資助心強,諸心所中獨名心行,說心行滅,何所相違?
この定の加行はただ受・想を厭う。ゆえにこの定中にはただ受・想のみ滅す。受・想の二法は心に資助強し。諸心所の中に独り名づけて心行という。心行滅すと説いて何の相違かあらん。
無想定中應唯想滅,但厭想故,然汝不許,既唯受、想資助心強,此二滅時,心亦應滅。
無想定中にはまさにただ想のみ滅すべし。ただ想を厭うが故に。しかし汝らは許さず。すでに唯だ受・想のみ心を資助する強しとせば、この二滅する時、心もまたまさに滅すべし。
如身行滅而身猶在,寧要責心令同行滅?
身行の滅して身なお在るが如く、どうして心を責めて行に同じく滅せしめん。
若爾,語行尋、伺滅時,語應不滅,而非所許。然行於法有遍、非遍,遍行滅時,法定隨滅;非遍行滅,法或猶在。非遍行者謂入出息,見息滅時,身猶在故;尋、伺於語是遍行攝,彼若滅時,語定無故。受、想於心亦遍行攝,許如思等大地法故。受、想滅時,心定隨滅,如何可說彼滅心在?又許思等是大地法,滅受、想時,彼亦應滅。既爾,信等此位亦無,非遍行滅餘可在故,如何可言有餘心所?既許思等此位非無,受、想應然,大地法故。又此定中若有思等亦應有觸,餘心所法無不皆依觸力生故。若許有觸亦應有受,觸緣受故。既許有受,想亦應生,不相離故。
もし然らば、語行の尋・伺の滅する時、語はまさに滅せざるべし。しかし許する所に非ず。しかし行は法に対して遍・非遍有り。遍行の滅する時、法は定めて随って滅す。非遍行の滅する時、法はあるいはなお在り。非遍行とは入出息を説く。息の滅するを見ても身なお在るが如し。尋・伺は語に対して遍行の摂する所なり。それらもし滅する時、語は定めて無し。受・想は心に対してもまた遍行の摂する所なり。思等の大地法の如く許するが故に。受・想の滅する時、心は定めて随って滅す。どうしてそれらの滅して心在りと説くべき。また思等は大地法と許せば、受・想を滅する時、それらもまたまさに滅すべし。すでに然らば、信等もこの位に無し。非遍行の滅せば其余は在るべきに非ざるが故に。どうして其余の心所有りと説くべき。すでに思等はこの位に無に非ずと許せば、受・想もまたまさに然るべし。大地法なるが故に。またこの定中にもし思等有れば、またまさに触有るべし。其余の心所法は皆触力に依って生ずる無し。もし触有りを許せば、またまさに受有るべし。触は受に縁ずるが故に。すでに受有りを許せば、想もまたまさに生ずべし。相離れざるが故に。
如受緣愛,非一切受皆能起愛,故觸緣受,非一切觸皆能生受,由斯所難,其理不成。
受は愛に縁ずるが如く、並びて一切の受は皆能く愛を起こすに非ず。ゆえに触は受に縁ずるも、並びて一切の触は皆能く受を生ずるに非ず。これに由って難ずる所はその理成立せず。
彼救不然,有差別故。謂佛自簡唯無明觸所生諸受為緣生愛,曾無有處簡觸生受。故若有觸,必有受生,受與想俱,其理決定。或應如餘位,受、想亦不滅,執此位中有思等故,許便違害心行滅言,亦不得成滅受想定。
彼らの救は然らず。差別有るが故に。いわゆる仏は自ら簡別して、ただ無明触の生ずる所の諸受を縁として愛を生ずと説く。曽て処有りて簡別して触は受を生ずと説かず。ゆえにもし触有れば、必ず受生有り。受は想と倶なり。その理決定す。あるいはまさに其余の位の如く、受・想もまた滅せざるべし。この位中に思等有りと執するが故に。許さば便ち心行滅の言に違害し、また滅受想定を成ずるを得ず。
若無心所,識亦應無,不見餘心離心所故,餘遍行滅,法隨滅故,受等應非大地法故,此識應非相應法故。許則應無所依、緣等,如色等法亦非心故。又契經說:意、法為緣,生於意識,三和合觸,與觸俱起,有受、想、思。若此定中有意識者,三和合故,必應有觸,觸既定與受、想、思俱,如何有識而無心所?
もし心所無ければ、識もまたまさに無かるべし。未だかつて其余の心の心所を離るるを見ず。其余の遍行の滅せば、法は随って滅す。受等はまさに大地法に非ざるべく、この識はまさに相応法に非ざるべし。許さばまさに依る所・縁等無かるべし。色等法の如く、また心に非ず。また契経に説く:意・法を縁として意識を生じ、三和合して触なり。触と倶に起こって受・想・思有りと。もしこの定中に意識有れば、三和合に因って必ずまさに触有るべし。触はすでに定めて受・想・思と倶なれば、どうして識有りて心所無からん。
若謂餘時,三和有力,成觸、生觸,能起受等。由此定前厭患心所,故在定位三事無能,不成生觸,亦無受等。
もし其余の時は三和は力有りて触を成じ触を生じて、能く受等を起こす。しかしこの定の前に心所を厭患するがゆえに、定位にては三事は能無くして、触を成生せず、また受等無しと説かば、
若爾,應名滅心所定,如何但說滅受、想耶?
もし然らば、まさに名づけて滅心所定と言うべし。どうしてただ受・想の滅と説く。
若謂厭時唯厭受、想,此二滅故,心所皆滅,依前所厭,以立定名。
もし厭う時ただ受・想を厭うて、この二滅せば心所皆滅す。前に厭う所に依って以って定名を立つと説かば、
既爾,此中心亦應滅,所厭俱故,如餘心所。不爾,如何名無心定?
すでに然らば、ここに心もまたまさに滅すべし。厭う所と倶なるが故に、其余の心所の如し。然らずんば、どうして名づけて無心定という。
又此定位意識是何?
またこの定位の意識は何ぞ。
不應是染或無記性,諸善定中無此事故;餘染、無記心必有心所故,不應厭善起染等故。非求寂靜翻起散故。
まさに染あるいは無記性ならざるべし。諸善定の中にこの事無きが故に。其余の染・無記心は必ず心所有り。まさに善を厭いて染等を起こすべからず。寂静を求めて翻って散乱を起こすに非ず。
若謂是善,相應善故,應無貪等善根相應。此心不應是自性善或勝義善,違自宗故,非善根等及涅槃故。若謂此心是等起善,加行善根所引發故,理亦不然,違自宗故,如餘善心非等起故。善心無間起三性心,如何善心由前等起?故心是善,由相應力。既爾,必與善根相應,寧說此心獨無心所?故無心所,心亦應無。
もし善と説かば、相応の善なるがゆえに、まさに貪等無き善根と相応すべし。この心はまさに自性善あるいは勝義善ならざるべし。自宗に違するが故に。善根等および涅槃に非ざるが故に。もしこの心は等起の善にして加行の善根の引発する所なれば、理また然らず。自宗に違するが故に。其余の善心の如く等起に非ず。善心は無間に三性の心を起こす。どうして善心は前の等起に由らん。ゆえに心は善なるは相応力に由る。すでに然らば、必ず善根と相応す。どうしてこの心は独り心所無しと説かん。ゆえに心所無ければ心もまたまさに無かるべし。
如是推徵,眼等轉識於滅定位非不離身,故契經言不離身者,彼識即是此第八識,入滅定時不為止息,此極寂靜執持識故。
かくのごとく推征すれば、眼等の転識は滅定位にて並びて身を離れずに非ず。ゆえに契経に離れずと説く。かの識はすなわちこの第八識なり。滅定に入る時は止息する為に非ず。これ極寂静の執持識なるが故に。
無想等位,類此應知。
無想等の位はこれに類してまさに知るべし。
又契經說:心雜染故,有情雜染;心清淨故,有情清淨。若無此識,彼染、淨心不應有故。
また契経に説く:心は雑染なれば有情は雑染なり。心は清浄なれば有情は清浄なりと。もしこの識無ければ、かの染・浄の心はまさに有るべからず。
謂染、淨法以心為本,因心而生,依心住故,心受彼燻,持彼種故。
いわゆる染・浄の法は心を以って本と為す。心に因って生じ、心に依って住す。心はそれに薫ぜられ、かの種を持す。
然雜染法略有三種:煩惱、業、果,種類別故。
しかし雑染法は略して三種有り。煩悩・業・果なり。種類別有るが故に。
若無此識持煩惱種,界、地往還,無染心後,諸煩惱起,皆應無因,餘法不能持彼種故,過去、未來非實有故。若諸煩惱無因而生,則無三乘學、無學果,諸已斷者皆應起故。
もしこの識の煩悩種を持する無ければ、界・地に往還して、染心無きの後に諸煩悩の起こるは皆まさに因無かるべし。其余の法はかの種を持すること能わず。過去・未来は実有に非ず。もし諸煩悩は無因にして生ぜば、便ち三乗の学・無学果無し。諸々の已に断ぜし者は皆まさに起こるべし。
若無此識持業、果種,界、地往還,異類法後,諸業、果起,亦應無因,餘種、餘因前已遮故。若諸業、果無因而生,入無餘依涅槃界已,三界業果還復應生,煩惱亦應無因生故。
もしこの識の業・果種を持する無ければ、界・地に往還して、異類法の後に諸業・果の起こるもまたまさに因無かるべし。余种・余因は前に已に遮りたり。もし諸業・果は無因にして生ぜば、無余依涅槃界に入りての後、三界の業果は還って復た生ずべし。煩悩もまたまさに無因にして生ずべきが故に。
又行緣識應不得成,轉識受燻,前已遮故。結生染識非行感故;應說名色,行為緣故,時分懸隔無緣義故。此不成故,後亦不成。
また行は識に縁ずるはまさに成ぜずを得べし。転識は薫を受くるは前に已に遮りたり。結生の染識は行の感ずる所に非ず。まさに名色を説いて行を縁と為すべし。時分懸隔して縁の義無きが故に。これ成立せざれば、後もまた成立せず。
諸清淨法亦有三種:世、出世道、斷果別故。
諸々の清浄法もまた三種有り。世・出世道・断果に別有るが故に。
若無此識持世、出世清淨道種,異類心後,起彼淨法皆應無因,所執餘因前已破故。若二淨道無因而生,入無餘依涅槃界已,彼二淨道還復應生,所依亦應無因生故。
もしこの識の世・出世の清浄道種を持する無ければ、異類心の後にそれらの浄法を起こすは皆まさに因無かるべし。執する所の余因は前に已に破れり。もし二の浄道は無因にして生ぜば、無余依涅槃界に入りての後、かの二浄道は還って復た生ずべし。依る所もまたまさに無因にして生ずべきが故に。
又出世道初不應生,無法持彼法爾種故;有漏類別非彼因故,無因而生非釋種故。初不生故,後亦不生,是則應無三乘道果。
また出世道は初めまさに生ぜざるべし。かの法爾種を持する法無きが故に。有漏の類別はかの因に非ず。無因にして生ずるは釋種に非ず。初め生ぜざれば、後もまた生ぜず。かくのごとくなればまさに三乗の道果無かるべし。
若無此識持煩惱種,轉依、斷果亦不得成,謂道起時,現行煩惱及彼種子俱非有故;染、淨二心不俱起故,道相應心不持彼種,自性相違,如涅槃故;去、來得等非實有故;餘法持種理不成故。既無所斷,能斷亦無,依誰由誰而立斷果?
もしこの識の煩悩種を持する無ければ、転依・断果もまた成ぜずを得す。いわゆる道の起こる時、現行の煩悩およびそれらの種子は皆有に非ず。染・浄の二心は倶に起こらず。道に相応する心はかの種を持せず。自性相違して涅槃の如し。去・来・得等は実有に非ず。其余の法は種を持する理成立せず。すでに断ずる所無ければ、能断もまた無し。誰に依り誰に由ってか断果を立てん。
若由道力,後惑不生,立斷果者,則初道起應成無學;後諸煩惱皆已無因,永不生故。
もし道力に由って後の惑は生ぜずして断果を立てば、然らば初道の起こるはまさに無学を成ずべし。後の諸煩悩は已に皆無因なり。永く生ぜず。
許有此識,一切皆成,唯此能持染、淨種故。
この識有りと許せば、一切は皆成立す。唯だこれのみ能く染・浄種を持するが故に。
證此識有,理趣無邊,恐厭繁文,略述綱要。
この識有るを証するに理趣辺際無し。繁文を厭わんことを畏れて、略く綱要を述ぶ。
別有此識,教理顯然,諸有智人,應深信受。
別にこの識有ること、教理顯然なり。諸々の智ある人はまさに深く信受すべし。
如是已說初能變相;第二能變其相云何?
かくのごとく已に初能変の相を説きたり。第二能変のその相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
5次第二能變,是識名末那,
次に第二の能変は、この識を名づけて末那という。
依彼轉,緣彼,思量為性相。
彼に依って転じ、彼に縁じて、思量を性相と為す。
6四煩惱常俱,謂:我痴、我見,
四煩悩は常に倶なり。いわゆる我癡・我見、
並我慢、我愛,及餘觸等俱。
並びに我慢・我愛、および其余の触等と倶なり。
7有覆無記攝,隨所生所繫。
有覆無記の摂する所にして、生ずる所に随って繫せらる。
阿羅漢、滅定、出世道無有。
阿羅漢・滅定・出世道には無し。
論曰:次初異熟能變識,後應辯思量能變識相。是識聖教別名末那,恆、審思量勝餘識故。
論に説く:初の異熟能変識に次いで、後にまさに思量能変識の相を弁ずべし。この識は聖教にて別に名づけて末那という。恒・審に思量して其余の識に勝れるが故に。
此名何異第六意識?此持業釋,如藏識名,識即意故;彼依主釋,如眼識等,識異意故。然諸聖教恐此濫彼,故於第七但立意名。又摽意名,為簡心、識,積集、了別劣餘識故,或欲顯此與彼意識為近所依,故但名意。
この名と第六意識と何の異かあらん。これは持業釈(同位格の复合語)にして蔵識の名の如く、識はすなわち意なり。かれは依主釈(限定関係の复合語)にして眼識等の如く、識は意に異なり。しかし諸聖教はこれがかれと濫るを恐れて、ゆえに第七に対してただ意の名を立つ。また意名を標するは心・識を簡ぶが為なり。積集・了別は其余の識に劣るが故に。あるいはこれがかの意識と近き所依と為るを顯示せんと欲するがゆえに、ただ名づけて意という。
「依彼轉」者,顯此所依。
「彼に依って転ず」とは、これが依る所を顯示す。
「彼」謂即前初能變識,聖說此識依藏識故。
「彼」とはすなわち前の初能変識を説く。聖にこの識は蔵識に依ると説くが故に。
有義:此意以彼識種而為所依,非彼現識,此無間斷,不假現識為俱有依方得生故。
一義有り:この意はかの識の種を以って所依と為し、並びてかの現識に非ず。これは間断無きがゆえに、現識を假って倶有依と為して乃ち生ずるを得るを要せず。
有義:此意以彼識種及彼現識俱為所依,雖無間斷,而有轉易,名轉識故,必假現識為俱有依,方得生故。
一義有り:この意はかの識種およびかの現識を以って共に所依と為す。間断無きと雖も、しかし転易有りて、名づけて転識というがゆえに、必ず現識を假って倶有依と為して、乃ち生ずるを得。
「轉」謂流轉,顯示此識恆依彼識取所緣故。
「転」とは流転を説く。この識は恒にかの識に依って所縁を取るを顯示す。
諸心、心所皆有所依,然彼所依,總有三種:
諸々の心・心所は皆依る所有り。しかしそれらの所依は総じて三種有り。
一、因緣依,謂自種子,諸有為法皆託此依,離自因緣必不生故;二、增上緣依,謂內六處,諸心、心所皆託此依,離俱有根必不轉故;三、等無間緣依,謂前滅意,諸心、心所皆託此依,離開導根必不起故。
一、因縁依。いわゆる自種子。諸有為法は皆この依に托す。自因縁を離れて必ず生ぜず。二、増上縁依。いわゆる内六処。諸心・心所は皆この依に托す。倶有根を離れて必ず転ぜず。三、等無間縁依。いわゆる前の滅意。諸心・心所は皆この依に托す。開導根を離れて必ず起こらず。
唯心、心所具三所依,名有所依,非所餘法。
唯だ心・心所のみ三所依を具えて、名づけて依所有りという。並びて其余の法に非ず。
初種子依,有作是說:要種滅已,現果方生,無種已生,《集論》說故,種與芽等不俱有故。
初めの種子依について、人有りてかくのごとき説を作す:種の滅するの後に現果は乃ち生ずることを要す。種無きに已に生じたり。《集論》に説く、種は芽等と倶有せざるが如しと。
有義:彼說為證不成。彼依引生後種說故;種生芽等非勝義故;種滅芽生非極成故。焰、炷同時互為因故。
一義有り:彼らの説は証として成立せず。彼らは後種を引生するに依って説くが故に。種は芽等を生ずるは勝義に非ず。種滅して芽生ずるは極成に非ず。焔・炷は同時にして互いに因と為るが故に。
然種自類因果不俱,種、現相生決定俱有,故《瑜伽》說:無常法與他性為因,亦與後念自性為因,是因緣義。「自性」言顯種子自類前為後因,「他性」言顯種與現行互為因義。《攝大乘論》亦作是說:藏識染法互為因緣,猶如束蘆俱時而有。又說:種子與果必俱。故種子依,定非前後。
しかし種の自類の因果は倶せざるも、種・現の相生は決定して倶有す。ゆえに《瑜伽》に説く:無常法は他性と因と為り、また後念の自性と因と為る。是れ因縁の義なり。「自性」は種子の自類の前が後の因と為るを顯示し、「他性」は種と現行とが互いに因と為るの義を顯示す。《摂大乗論》もまたかくのごとき説を作す:蔵識と染法とは互いに因縁と為り、猶ほ束蘆の倶時に有るが如し。また説く:種子と果とは必ず倶有り。ゆえに種子依は決定して前後に非ず。
設有處說種果前後,應知皆是隨轉理門。
たとえ処有りて種果は前後と説くも、まさに皆転理の門に随うと知るべし。
如是八識及諸心所,定各別有種子所依。
かくのごとく八識および諸心所は、決定して各別に種子を所依と為す。
次俱有依,有作是說:眼等五識意識為依,此現起時,必有彼故。無別眼等為俱有依,眼等五根即種子故。
次に倶有依について、人有りてかくのごとき説を作す:眼等の五識は意識を以って依と為す。これの現起する時、必ず彼有り。別の眼等を倶有依と為す無し。眼等の五根はすなわち種子なるが故に。
《二十唯識》伽他中言:
《二十唯識》の偈の中に説く:
「識從自種生,似境相而轉,
「識は自種より生じて、境の相の如く転ず。
為成內、外處,佛說彼為十。」
内・外処を成ぜんが為に、仏はそれを十と説く。」
彼頌意說:世尊為成十二處故,說五識種為眼等根,五識相分為色等境,故眼等根即五識種。《觀所緣論》亦作是說:
かの頌の意は:世尊は十二処を成ぜんが為に、五識の種を眼等の根と説き、五識の相分を色等の境と説く。ゆえに眼等の根はすなわち五識の種なり。《観所縁論》もまたかくのごとき説を作す:
「識上色功能,名五根應理,
「識上の色の功能を、名づけて五根と為して理に応ず。
功能與境色,無始互為因。」
功能と境色とは、無始より互いに因と為る。」
彼頌意言:異熟識上能生眼等色識種子名色功能,說為五根,無別眼等,種與色識常互為因,能燻與種遞為因故。
かの頌の意は:異熟識上の能く眼等の色識を生ずる種子を名づけて色の功能といい、五根と説く。別の眼等無し。種と色識とは常に互いに因と為る。能薫と種とは遞りて因と為るが故に。
第七、八識無別此依,恆相續轉,自力勝故。
第七・八識は別にこの依無し。恒に相続して転ず。自力勝れるが故に。
第六意識別有此依,要託末那而得起故。
第六意識は別にこの依有り。末那に托して起こるを得るを要す。
有義:彼說理、教相違。
一義有り:彼らの説は理・教に相違す。
若五色根即五識種,十八界種應成雜亂,然十八界各別有種,諸聖教中處處說故。
もし五色根はすなわち五識の種なれば、十八界の種はまさに雑乱を成ずべし。しかし十八界は各別に種有りて、諸聖教の中に処処に説けり。
又五識種各有能生相、見分異,為執何等名眼等根?若見分種,應識蘊攝;若相分種,應外處攝,便違聖教眼等五根,皆是色蘊內處所攝。
また五識の種は各々能く相・見分の異を生ず。何をか執して名づけて眼等の根と言わん。もし見分の種なれば、まさに識蘊の摂する所ならん。もし相分の種なれば、まさに外処の摂する所ならん。便ち聖教に違す。眼等の五根は皆色蘊・内処の摂する所なり。
又若五根即五識種,五根應是五識因緣,不應說為增上緣攝。
またもし五根はすなわち五識の種なれば、五根はまさに五識の因縁ならん。まさに増上縁の摂する所と説くべからず。
又鼻、舌根即二識種,則應鼻、舌唯欲界繫;或應二識通色界繫,許便俱與聖教相違。眼、耳、身根即三識種,二界、五地為難亦然。
また鼻・舌根はすなわち二識の種なれば、然らばまさに鼻・舌はただ欲界繫ならん。あるいはまさに二識は色界繫に通ずべし。許せば皆聖教に相違す。眼・耳・身根はすなわち三識の種なれば、二界・五地の為の難もまたこの如し。
又五識種既通善、惡,應五色根非唯無記。
また五識の種はすでに善・悪に通ずれば、まさに五色根は並びてただ無記のみならざるべし。
又五識種無執受攝,五根亦應非有執受。
また五識の種は執受の摂する所無きなれば、五根もまたまさに執受有りに非ざるべし。
又五色根若五識種,應意識種即是末那,彼以五根為同法故。
また五色根もし五識の種なれば、まさに意識の種はすなわち末那ならん。彼らは五根を以って同法と為すが故に。
又《瑜伽論》說眼等識皆具三依,若五色根即五識種,依但應二。
また《瑜伽論》に眼等の識は皆三依を具えりと説く。もし五色根はすなわち五識の種なれば、依はただ二のみならん。
又諸聖教說眼等根皆通現種,執唯是種,便與一切聖教相違。
また諸聖教は眼等の根は皆現・種に通ずと説く。ただ種のみと執すれば、便ち一切聖教に相違す。
有避如前所說過難,朋附彼執復轉救言:異熟識中能感五識增上業種,名五色根;非作因緣生五識種,妙符二頌,善順《瑜伽》。
人有りて前の説く所の過難を避けて、かの執に朋附してまた転じて救って説く:異熟識中の能く五識を感ずる増上の業種を、名づけて五色根という。並びて因縁と作して五識の種を生ずるに非ず。妙に二頌に符して、善く《瑜伽》に順う。
彼有虛言都無實義,應五色根非無記故;又彼應非唯有執受,唯色蘊攝,唯內處故;鼻、舌唯應欲界繫故;三根不應五地繫故;感意識業應末那故;眼等不應通現、種故;又應眼等非色根故。又若五識皆業所感,則應一向無記性攝;善等五識既非業感,應無眼等為俱有依,故彼所言非為善救。
彼らは虚言有りて皆実義無し。まさに五色根は無記に非ざるべく、また彼らはまさにただ執受・ただ色蘊の摂する所・ただ内処のみならざるべし。鼻・舌はただまさに欲界繫ならん。三根はまさに五地繫ならざるべし。意識を感ずる業はまさに末那ならん。眼等はまさに現・種に通ぜざるべし。またまさに眼等は色根に非ざるべし。またもし五識は皆業の感ずる所なれば、まさに一向に無記性の摂する所ならん。善等の五識はすでに業感に非ざれば、まさに眼等を倶有依と為す無かるべし。ゆえに彼らの説く所は並びて善救に非ず。
又諸聖教處處皆說阿賴耶識變似色根及根依處、器世間等,如何汝等撥無色根?許眼等識變似色等;不許眼等藏識所變,如斯迷謬,深違教、理。
また諸聖教は処処に皆阿頼耶識は色根および根依処・器世間等の如きを変起すと説く。どうして汝らは色根を撥して無とせん。眼等の識は色等の如きを変起すと許して、眼等は蔵識の変ずる所と許さざる。かくのごとき迷謬は深く教・理に違す。
然伽他說:種子功能名五根者,為破離識實有色根,於識所變似眼根等,以有發生五識用故,假名種子及色功能。非謂色根即識業種。
しかし偈に説く:種子の功能を名づけて五根という。識を離れたる実の色根を破るが為に、識の変ずる所の眼根等の如きに対して、五識を発生する用有るがゆえに、假に名づけて種子および色功能という。並びて色根はすなわち識の業種と説くに非ず。
又緣五境明瞭意識,應以五識為俱有依,以彼必與五識俱故,若彼不依眼等識者,彼應不與五識為依,彼此相依勢力等故。
また五境に縁ずる明了意識は、まさに五識を以って倶有依と為すべし。彼らは必ず五識と倶なるが故に。もし彼らは眼等識に依らざれば、彼らはまさに五識と依と為らざるべし。彼此相依して勢力等しきが故に。
又第七識雖無間斷,而見道等既有轉易,應如六識有俱有依,不爾,彼應非轉識攝,便違聖教轉識有七,故應許彼有俱有依,此即現行第八識攝。如《瑜伽》說有藏識故,得有末那;末那為依,意識得轉。彼論意言現行藏識為依止故,得有末那,非由彼種。不爾,應說有藏識故,意識得轉。
また第七識は間断無きと雖も、しかし見道等はすでに転易有れば、まさに六識の如く倶有依有るべし。然らずんば、彼らはまさに転識の摂する所に非ざるべし。便ち聖教に違す。転識は七有り。ゆえにまさに彼らに倶有依有りと許すべし。これすなわち現行の第八識の摂する所なり。《瑜伽》に説けるが如く、蔵識有れば末那を得、末那を依として意識は転ずるを得。かの論の意は現行の蔵識を依止と為して末那を得るを謂う。並びてかの種に由るに非ず。然らずんば、まさに蔵識有れば意識は転ずるを得と説くべし。
由此彼說理、教相違。
これに由って彼らの説は理・教に相違す。
是故應言前五轉識,一一定有二俱有依,謂五色根、同時意識;第六轉識決定恆有一俱有依,謂第七識,若與五識俱時起者,亦以五識為俱有依;第七轉識決定唯有一俱有依,謂第八識;唯第八識恆無轉變,自能立故,無俱有依。
ゆえにまさに説くべし、前の五転識は一一定に二の倶有依有り。いわゆる五色根・同時の意識。第六の転識は決定して恒に一の倶有依有り。いわゆる第七識。もし五識と倶に起こる時は、もまた五識を以って倶有依と為す。第七の転識は決定してただ一の倶有依のみ有り。いわゆる第八識。唯だ第八識のみ恒に転変無し。自ら能く立つがゆえに、倶有依無し。
有義:此說猶未盡理。第八類餘既同識性,如何不許有俱有依?第七、八識既恆俱轉,更互為依,斯有何失?
一義有り:この説は未だ理を尽くさず。第八は其余と類同じくしてすでに識性に同じければ、どうして倶有依有るを許さざる。第七・八識はすでに恒に倶に転ずれば、更互に依と為る。これ何の失かあらん。
許現起識以種為依,識種亦應許依現識,能燻異熟,為生、長、住依,識種離彼不生、長、住故。
現起の識は種を以って依と為すを許せば、識種もまたまさに現識に依ると許すべし。能く異熟に薫ずるは、生・長・住の依と為る。識種はそれを離れて生・長・住せざるが故に。
又異熟識有色界中能執持身,依色根轉,如契經說:阿賴耶識業風所飄,遍依諸根,恆相續轉;《瑜伽》亦說:眼等六識各別依故,不能執受有色根身。若異熟識不遍依止有色諸根,應如六識非能執受,或所立因有不定失。
また異熟識は有色界中に能く身を執持して、色根に依って転ず。契経に説けるが如く:阿頼耶識は業風の飄する所にて、遍く諸根に依りて恒に相続して転ずと。《瑜伽》もまた説く:眼等の六識は各別に依りて、能く有色根身を執受せずと。もし異熟識は遍く有色の諸根に依止せざれば、まさに六識の如く能く執受するに非ざるべし。あるいは立つる所の因は不定の失有らん。
是故,藏識若現起者,定有一依,謂第七識,在有色界亦依色根;若識種子定有一依,謂異熟識,初燻習位亦依能燻。
ゆえに蔵識もし現起せば、定めて一依有り。いわゆる第七識。有色界に在りてもまた色根に依る。もし識の種子は定めて一依有り。いわゆる異熟識。初の薫習位にてもまた能薫に依る。
餘如前說。
其余は前の説くが如し。
有義:前說皆不應理,未了所依與依別故。
一義有り:先前の説く所は皆理に応えず。未だ所依と依と別有るを了せざるが故に。
「依」謂一切有生滅法,仗因託緣而得生、住,諸所仗託皆說為依,如王與臣互相依等。
「依」とは一切の生滅法有りて、因に仗り縁に托して生・住するを得るを説く。諸々の仗托する所は皆説いて依と為す。王と臣との互いに相依る等の如し。
若法決定、有境、為主、令心心所取自所緣,乃是所依,即內六處,餘非有境、定、為主故,此但如王,非如臣等。故諸聖教唯心、心所名有所依,非色等法,無所緣故。但說心所,心為所依;不說心所,為心所依,彼非主故。
もし法は決定・有境・為主にして心・心所をして自所縁を取らしむれば、乃ち是れ所依。すなわち内六処なり。其余は有境・定・為主に非ざれば、これはただ王の如くして臣等の如くに非ず。ゆえに諸聖教は唯だ心・心所のみ名づけて依所有りという。並びて色等の法に非ず。所縁無きが故に。ただ心所は心を所依と為すと説く。心所は心の所依と為ると説かず。彼らは主に非ざるが故に。
然有處說依為所依,或所依為依,皆隨宜假說。
しかし処有りて依を所依と説き、あるいは所依を依と説くは、皆随宜に假説す。
由此五識俱有所依定有四種:謂五色根、六、七、八識,隨闕一種必不轉故。同境、分別、染淨、根本,所依別故。聖教唯說依五根者,以不共故,又必同境,近相順故。
これに由って五識の倶有所依は定めて四種有り。いわゆる五色根・六・七・八識。一种を缺くに随って必ず転ぜず。同境・分別・染浄・根本は所依別有り。聖教はただ五根に依ると説く。不共なるが故に。又必ず境を同じくして近く相順ずるが故に。
第六意識俱有所依唯有二種:謂七、八識,隨闕一種必不轉故。雖五識俱取境明瞭,而不定有,故非所依。聖教唯說依第七者,染淨依故,同轉識攝,近相順故。
第六意識の倶有所依はただ二種有り。いわゆる七・八識。一种を缺くに随って必ず転ぜず。五識は倶に境を取ること明了なると雖も、しかし定有に非ず。ゆえに所依に非ず。聖教はただ第七に依ると説く。染浄の依にして、転識の摂する所に同じく、近く相順ずるが故に。
第七意識俱有所依但有一種:謂第八識,藏識若無,定不轉故。如伽他說:
第七意識の倶有所依はただ一种のみ有り。いわゆる第八識。蔵識もし無ければ定めて転ぜず。偈に説けるが如く:
阿賴耶為依,故有末那轉,
阿頼耶を依と為すがゆえに、末那の転有り。
依止心及意,餘轉識得生。
心および意に依止して、其余の転識は生ずるを得。
阿賴耶識俱有所依亦但一種:謂第七識,彼識若無,定不轉故。論說:藏識恆與末那俱時轉故;又說藏識恆依染汙,此即末那。而說三位無末那者,依有覆說,如言四位無阿賴耶,非無第八,此亦應爾。雖有色界亦依五根,而不定有,非所依攝;識種不能現取自境,可有依義而無所依。
阿頼耶識の倶有所依もまたただ一种のみ有り。いわゆる第七識。かの識もし無ければ定めて転ぜず。論に説く:蔵識は恒に末那と倶時に転ず。また蔵識は恒に染汚に依ると説く。これすなわち末那なり。しかして三位に末那無しと説くは、有覆に依って説く。四位に阿頼耶無しと説くが如く、並びて第八無きに非ず。これもまたまさに然るべし。有色界に在りても五根に依ると雖も、しかし定有に非ず。所依の摂する所に非ず。識種は自境を現取すること能わず。依の義有るべきも所依無し。
心所所依,隨識應說,復各加自相應之心。
心所の所依は識に随ってまさに説くべし。また各々自ら相応の心を加う。
若作是說,妙符理、教。
もしかくのごとき説を作さば、妙に理・教に符す。
後開導依,有義:五識自、他前後不相續故,必第六識所引生故,唯第六識為開導依。
後の開導依について、一義有り:五識の自・他は前後相続せず。必ず第六識の引生する所なり。唯だ第六識のみ開導依と為る。
第六意識自相續故,亦由五識所引生故,以前六識為開導依。
第六意識は自ら相続して、もまた五識の引生する所に由る。前の六識を以って開導依と為す。
第七、八識自相續故,不假他識所引生故,但以自類為開導依。
第七・八識は自ら相続して、他識の引生する所を假らず。ただ自類を以って開導依と為す。
有義:前說未為究理。
一義有り:先前の説く所は未だ理を究めざるなり。
且前五識未自在位,遇非勝境,可如所說。
且く前の五識は未だ自在位に非ざるに、勝れたる境に遇わざれば、説く所の如くすべし。
若自在位,如諸佛等,於境自在,諸根互用,任運決定,不假尋求,彼五識身寧不相續?
もし自在位なれば、諸仏等の如く、境に対して自在にして、諸根互用し、任運決定して、尋求を假らず。それらの五識身はどうして相続せざらん。
等流五識,既為決定、染淨、作意勢力引生,專注所緣,未能捨頃,如何不許多念相續?
等流の五識は、すでに決定・染浄・作意の勢力の引生する所なれば、所縁に専注して、未だ捨てざる頃、どうして多念相続を許さざらん。
故《瑜伽》說:決定心後,方有染淨,此後乃有等流眼識善、不善轉,而彼不由自分別力,乃至此意不趣餘境,經爾所時,眼、意二識或善、或染,相續而轉,如眼識生,乃至身識,應知亦爾。
ゆえに《瑜伽》に説く:決定心の後に乃ち染浄有り。この後に乃ち等流の眼識の善・不善の転有り。しかし彼らは自分別力に由らず。乃至この意は其余の境に趣らざるに、かくのごとき時を経て、眼・意の二識はあるいは善あるいは染にして、相続して転ず。眼識の生ずるが如く、乃至身識もまさに然るべしと知る。
彼意定顯經爾所時,眼、意二識俱相續轉,既眼識時非無意識,故非二識互相續生。
かの意は決定してかくのごとき時を経るを顯示して、眼・意の二識は倶に相続して転ず。眼識の時に意識無きに非ざるがすでに然れば、ゆえに並びて二識は互いに相続して生ずるに非ず。
若增盛境相續現前,逼奪身心不能暫捨,時五識身,理必相續,如熱地獄、戲忘天等。
もし増盛の境は相続して現前して、身心を逼奪して暫くも捨つること能わざれば、時の五識身は理必ず相続す。熱地獄・戲忘天等の如し。
故《瑜伽》言:若此六識為彼六識等無間緣,即施設此名為意根。
ゆえに《瑜伽》に説く:もし此の六識は彼の六識の等無間縁と為らば、便ちこれを施設して名づけて意根という。
若五識前後定唯有意識,彼論應言:若此一識為彼六識等無間緣。或彼應言:若此六識為彼一識等無間緣。既不如是,故知五識有相續義。
もし五識の前後は定めて唯だ意識なれば、かの論はまさに説くべし:もし此の一識は彼の六識の等無間縁と為らば。あるいは彼らはまさに説くべし:もし此の六識は彼の一識の等無間縁と為らば。すでに然らざれば、ゆえに五識は相続の義有るを知る。
五識起時,必有意識能引後念意識令起,何假五識為開導依?
五識の起こる時、必ず意識有りて能く後念の意識を引きて起こらしむ。何ぞ假に五識を開導依と為さんを須いん。
無心睡眠、悶絕等位,意識斷已,後復起時,藏識、末那既恆相續,亦應與彼為開導依。若彼用前自類開導,五識自類何不許然?此既不然,彼云何爾?
無心の睡眠・悶絶等の位に意識は断ち、後また起こる時、蔵識・末那はすでに恒に相続せば、またまさに彼らと開導依と為すべし。もし彼らは前の自類を用いて開導せば、五識の自類はなんぞ然らしめざる。此辺すでに然らざれば、彼辺どうして然らん。
平等性智相應末那初起必由第六意識,亦應用彼為開導依。
平等性智に相応する末那は、初めて起こるに必ず第六意識に由る。もまたまさにそれを用いて開導依と為すべし。
圓鏡智俱第八淨識,初必六、七方便引生。又異熟心依染汙意,或依悲願相應善心。既爾,必應許第八識亦以六、七為開導依。
円鏡智に倶なる第八浄識は、初め必ず六・七の方便に引生せらる。また異熟心は染汚意に依り、あるいは悲願に相応する善心に依る。すでに然らば、必ずまさに第八識もまた六・七を以って開導依と為すと許すべし。
由此彼言都未究理。
これに由って彼らの言は皆未だ理を究めず。
應說五識前六識內,隨用何識為開導依;第六意識用前自類或第七、八為開導依;第七末那用前自類或第六識為開導依;阿陀那識用前自類及第六、七為開導依。皆不違理,由前說故。
まさに説くべし、五識は前の六識の内にて、何れの識を用いるに随って開導依と為す。第六意識は前の自類あるいは第七・八を用いて開導依と為す。第七の末那は前の自類あるいは第六識を用いて開導依と為す。阿陀那識は前の自類および第六・七を用いて開導依と為す。皆理に違せず。先前の説く所に由る。
有義:此說亦不應理。
一義有り:この説もまた理に応えず。
開導依者,謂有緣法、為主,能作等無間緣。此於後生心、心所法,開避引導名開導依。此但屬心,非心所等。
開導依とは、いわゆる縁有法・為主にして、能く等無間縁を作す。これは後生の心・心所法に対して、開き避きて引導するを名づけて開導依という。これはただ心に属し、並びて心所等に非ず。
若此與彼無俱起義,說此於彼有開導力;一身八識既容俱起,如何異類為開導依?若許為依,應不俱起,便同異部心不並生。
もし此は彼と倶起の義無くして、此は彼に対して開導の力有りと説く。一身の八識はすでに倶起を容れんとすれば、どうして異類を開導依と為さん。もし依と為るを許せば、まさに倶起せざるべし。便ち異部の心は並生せざるに同じ。
又一身中諸識俱起,多少不定,若容互作等無間緣,色等應爾,便違聖說等無間緣唯心、心所。
また一身中に諸識倶起するは多少定まらず。もし互いに等無間縁を作すを容れば、色等もまたまさに然るべし。便ち聖説に違す。等無間縁は唯だ心・心所のみ。
然《攝大乘》說:色亦容有等無間緣者,是縱奪言,謂假縱小乘色、心前後有等無間緣,奪因緣故,不爾,「等」言應成無用。若謂「等」言非遮多少,但表同類,便違汝執異類識作等無間緣。
しかし《摂大乗》に色もまた等無間縁有るを容すと説くは、是れ縦奪の言なり。いわゆる假に小乗の色・心の前後に等無間縁有りを縦して、因縁を奪う。然らずんば「等」の字はまさに無用を成ずべし。もし「等」の字は多少を遮るに非ずして、ただ同類を表すと説かば、便ち汝らの異類の識を等無間縁と作すを執するに違す。
是故八識各唯自類為開導依,深契教理,自類必無俱起義故。心所此依,應隨識說。
ゆえに八識は各々ただ自類のみ開導依と為る。深く教理に契う。自類は必ず倶起の義無きが故に。心所のこの依はまさに識に随って説くべし。
雖心、心所異類並生,而互相應,和合似一,定俱生滅,事業必同,一開導時,餘亦開導,故展轉作等無間緣,諸識不然,不應為例。
心・心所は異類にして並生すると雖も、しかし互いに相応して、和合して一の如し。定めて倶に生滅し、事業は必ず同じ。一の開導する時、其余もまた開導す。ゆえに展転して等無間縁を作す。諸識はこの如くに非ず。例と為すべからず。
然諸心所非開導依,於所引生無主義故。
しかし諸心所は開導依に非ず。引生する所に対して主の義無きが故に。
若心、心所等無間緣各唯自類,第七、八識初轉依時,相應信等,此緣便闕,則違聖說諸心、心所皆四緣生。
もし心・心所の等無間縁は各々ただ自類なれば、第七・八識は初めて転依する時、相応の信等はこの縁便ち缺け、便ち聖説に違す。諸心・心所は皆四縁に生ず。
無心睡眠、悶絕等位意識雖斷,而後起時彼開導依即前自類,間斷五識應知亦然,無自類心於中為隔名無間故,彼先滅時,已於今識為開導故,何煩異類為開導依?
無心の睡眠・悶絶等の位に意識は断つると雖も、しかし後に起こる時、かの開導依はすなわち前の自類なり。間断の五識もまさに然るべしと知る。自類の心無くして中に隔たるを名づけて無間という。彼らの先に滅する時、已に今の識と開導と為れり。何ぞ煩わして異類を開導依と為さん。
然聖教中說前六識互相引起,或第七、八依六、七生,皆依殊勝增上緣說,非等無間,故不相違。《瑜伽論》說:若此識無間,諸識決定生,說此為彼等無間緣。又此六識為彼六識等無間緣,即施設此名意根者,言總意別,亦不相違。
しかし聖教の中に前の六識は互相引起し、あるいは第七・八は六・七に依って生ずと説くは、皆殊勝の増上縁に依って説く。等無間に非ず。ゆえに相違せず。《瑜伽論》に説く:もし此の識の無間に諸識は決定して生ずるなれば、此を説いて彼の等無間縁と為す。また此の六識は彼の六識の等無間縁と為れば、便ち此を施設して名づけて意根という。言は総にして意は別なり。もまた相違せず。
故自類依,深契教理。
ゆえに自類の依は深く教理に契う。
傍論已了,應辯正論。此能變識雖具三所依,而「依彼轉」言但顯前二,為顯此識依、緣同故,又前二依有勝用故,或開導依易了知故。
傍論已に了れり。まさに正論を弁ずべし。この能変識は三所依を具えると雖も、しかし「彼に依って転ず」の言はただ前の二を顯す。これが識の依・縁は同じきを顯さんが為に。また前の二依は勝用有り、あるいは開導依は了知し易きが故に。
如是已說此識所依,所緣云何?
かくのごとく已にこの識の所依を説きたり。所縁はいかん。
謂即「緣彼」。
いわゆるすなわち「彼に縁ず」。
「彼」謂即前此所依識,聖說此識緣藏識故。
「彼」とはすなわち前の此の所依識を説く。聖にこの識は蔵識に縁ずと説くが故に。
有義:此意緣彼識體,及相應法。
一義有り:この意はかの識の体および相応の法に縁ず。
論說:末那我、我所執恆相應故。
論に説く:末那は我・我所の執と恒に相応す。
謂緣彼體及相應法,如次執為我及我所。
いわゆるかの体および相応の法に縁じて、次第に執して我および我所と為す。
然諸心所不離識故,如「唯識」言,無違教失。
しかし諸心所は識を離れず。「唯識」の言の如し。教に違する失無し。
有義:彼說理不應然,曾無處言緣觸等故。
一義有り:彼らの説は理に応えず。曽て処有りて触等に縁ずと説かざるが故に。
應言此意但緣彼識見及相分,如次執為我及我所,相、見俱以識為體故,不違聖說。
まさに説くべし、この意はただかの識の見および相分に縁じて、次第に執して我および我所と為す。相・見は皆識を以って体と為すがゆえに、聖説に違せず。
有義:此說亦不應理。五色根境非識蘊故,應同五識,亦緣外故;應如意識,緣共境故;應生無色者不執我所故,厭色生彼不變色故。
一義有り:この説もまた理に応えず。五色根の境は識蘊に非ず。まさに五識に同じくして外にも縁ずべし。まさに意識の如く共境に縁ずべし。無色に生ずる者はまさに我所を執せず、色を厭いて彼に生じて色を変ぜざるべし。
應說此意但緣藏識及彼種子,如次執為我及我所。
まさに説くべし、この意はただ蔵識およびそれらの種子に縁じて、次第に執して我および我所と為す。
以種即是彼識功能,非實有物,不違聖教。
種はすなわちかの識の功能にして、実有の物に非ざるがゆえに、聖教に違せず。
有義:前說皆不應理。色等種子,非識蘊故,論說種子是實有故。假應如無,非因緣故。又此識俱薩迦耶見,任運一類,恆相續生,何容別執有我、我所?無一心中有斷、常等二境,別執俱轉義故,亦不應說二執前後,此無始來一味轉故。
一義有り:先前の説く所は皆理に応えず。色等の種子は識蘊に非ず。論に種子は実有と説く。假はまさに無の如く、因縁に非ず。またこの識に倶なる薩迦耶見(有身見)は任運・一類にして恒に相続して生ず。どうして別に我・我所有りと執することを容れん。一心の中に断・常等の二境無し。別の執は倶転の義もまた無し。またまさに二執は前後と説くべからず。このは無始より来り一味に転ずるが故に。
應知此意但緣藏識見分非餘,彼無始來一類相續似常、一故,恆與諸法為所依故。
まさに知るべし、この意はただ蔵識の見分に縁じて其余に非ず。かれは無始より来り一類相続して常・一の如く、恒に諸法と所依と為る。
此唯執彼為自內我,乘語勢故,說我所言。或此執彼是我、之我,故於一見義說二言。
これはただかれを執して自内我と為す。語勢に乗じて我・我所の言を説く。あるいはこれはかれを執して是れ我・之我なり。ゆえに一見の義に対して二言を説く。
若作是說,善順教理。多處唯言有我見故,我、我所執,不俱起故。
もしかくのごとき説を作さば、善く教理に順う。多くの処にただ我見有りと説き、我・我所の執は倶に起こらず。
未轉依位,唯緣藏識。既轉依已,亦緣真如及餘諸法。平等性智,證得十種平等性故。知諸有情勝解差別,示現種種佛影像故。
未だ転依せざる位には、ただ蔵識に縁ず。すでに転依せしの後は、また真如および其余の諸法に縁ず。平等性智は十種の平等性を証得し、諸有情の勝解差別を知りて、種種の仏影像を示現す。
此中且說未轉依時,故但說此緣彼藏識。悟迷通局,理應爾故。無我、我境,遍、不遍故。
ここに且く未だ転依せざる時を説く。ゆえにただこれはかの蔵識に縁ずと説く。悟・迷は通・局あって、理まさに然るべし。無我・我の境は遍・不遍なり。
如何此識緣自所依?如有後識,即緣前意。彼既極成,此亦何咎?
どうしてこの識は自所依に縁ずる。後識の有るが如く、便ち前の意に縁ず。かれはすでに極成せれば、これまた何の咎かあらん。
頌言:「思量為性相」者,雙顯此識自性、行相。
頌に説く:「思量を性相と為す」とは、双くこの識の自性・行相を顯す。
意以思量為自性故,即復用彼為行相故。由斯兼釋所立別名,能審思量名末那故。未轉依位,恆、審思量所執我相;已轉依位,亦審思量無我相故。
意は思量を以って自性と為し、便ちまたそれを用いて行相と為す。これに由って兼ねて立つる所の別名を釈す。能く審に思量するを名づけて末那という。未だ転依せざる位には恒・審に所執の我相を思量し、已に転依せし位にはもまた無我相を審に思量す。
此意相應有幾心所?
この意はいくつの心所と相応するや。
且與四種煩惱常俱。
且く四種の煩悩と常に倶なり。
此中「俱」言,顯相應義。
ここに「倶」の字は相応の義を顯示す。
謂從無始,至未轉依,此意任運恆緣藏識,與四根本煩惱相應。
いわゆる無始より乃至未だ転依せざるに、この意は任運に恒に蔵識に縁じて、四根本煩悩と相応す。
其四者何?
かの四種とは何ぞ。
「謂我痴、我見並我慢、我愛」,是名四種。
「いわゆる我癡・我見、並びに我慢・我愛」、これすなわち名づけて四種という。
我痴者:謂無明,愚於我相,迷無我理,故名我痴。我見者:謂我執,於非我法,妄計為我,故名我見。我慢者:謂倨傲,恃所執我,令心高舉,故名我慢。我愛者:謂我貪,於所執我,深生耽著,故名我愛。「並」錶慢、愛、有見、慢俱,遮餘部執無相應義。
我癡とは、いわゆる無明にして、我相に愚かしく、無我の理に迷う。ゆえに名づけて我癡という。我見とは、いわゆる我執にして、非我の法に対して妄りに計して我と為す。ゆえに名づけて我見という。我慢とは、いわゆる倨傲にして、所執の我を恃みて心を高挙せしむ。ゆえに名づけて我慢という。我愛とは、いわゆる我貪にして、所執の我に対して深く耽着を生ず。ゆえに名づけて我愛という。「並」とは慢・愛は見・慢と倶有るを示す。其余の部の相応の義無しと執するを遮る。
此四常起,擾濁內心,令外轉識恆成雜染。有情由此生死輪迴,不能出離,故名煩惱。
この四は常に起こりて、内心を擾濁して、外の転識をして恒に雑染を成さしむ。有情はこれに由って生死輪廻して出離すること能わず。ゆえに名づけて煩悩という。
彼有十種,此何唯四?
彼らは十種有り。ここになんぞ唯だ四のみ。
有我見故,餘見不生。無一心中,有二慧故。如何此識,要有我見?二取、邪見,但分別生,唯見所斷。此俱煩惱,唯是俱生,修所斷故。我所、邊見,依我見生。此相應見,不依彼起。恆內執有我,故要有我見。
我見有るがゆえに、余見は生ぜず。一心の中に二慧無きが故に。どうしてこの識は我見を要せん。二取・邪見はただ分別より生ず。ただ見の断ずる所のみ。この倶の煩悩はただ倶生にして、修の断ずる所なり。我所・辺見は我見に依って生ず。この相応の見はそれに依って起こらず。恒に内に我有りと執す。ゆえに我見を要す。
由見審決,疑無容起。愛著我故,瞋不得生。故此識俱煩惱唯四。
見は審決するに由りて、疑は起こるを容れず。我を愛着するに瞋は生ずるを得ず。ゆえにこの識に倶の煩悩は唯だ四のみ。
見、慢、愛三,如何俱起?行相無違,俱起何失?
見・慢・愛の三はどうして倶に起こる。行相は相違無し。倶起して何の失かあらん。
《瑜伽論》說:貪令心下,慢令心舉,寧不相違?分別、俱生;外境、內境;所陵、所恃,麁、細有殊,故彼此文,義無乖返。
《瑜伽論》に説く:貪は心をして下らしめ、慢は心をして挙がらしむ。どうして相違せざらん。分別・倶生、外境・内境、所陵・所恃に、麁・細の殊有り。ゆえに彼・此の文は、義乖返無し。
此意心所唯有四耶?
この意の心所は唯だ四のみか。
不爾,「及餘觸等俱」故。
然らず、「および其余の触等と倶なり」。
有義:此意心所唯九,前四及餘觸等五法,即觸、作意、受、想與思,意與遍行,定相應故。前說觸等,異熟識俱,恐謂同前,亦是無覆,顯此異彼,故置「餘」言。
一義有り:この意の心所は唯だ九なり。前の四および其余の触等の五法。すなわち触・作意・受・想と思。意は遍行と定めて相応す。前に説く触等は異熟識と倶なり。説いて前に同じくするを恐れて、もまた無覆なり。これはかれに異なるを顯示す。ゆえに「余」の字を置く。
「及」是集義,前四後五合,與末那恆相應故。
「及」は集の義にして、前の四と後の五と合して、末那と恒に相応す。
此意何故無餘心所?
この意はなんぞ其余の心所無き。
謂「欲」,希望未遂合事,此識任運,緣遂合境,無所希望,故無有欲。「勝解」,印持曾未定境,此識無始,恆緣定事,無所印持,故無勝解。「念」唯記憶曾所習事,此識恆緣現所受境,無所記憶,故無有念。「定」唯繫心專注一境,此識任運,剎那別緣,既不專一,故無有定。「慧」即我見,故不別說。
いわゆる「欲」は未だ遂げざる合の事を希望す。この識は任運にして遂合の境に縁ず。希望する所無し。ゆえに欲有る無し。「勝解」は曾て定めざる境を印持す。この識は無始にて恒に定の事に縁ず。印持する所無し。ゆえに勝解無し。「念」はただ曾習の事を記憶す。この識は恒に現に受くる所の境に縁ず。記憶する所無し。ゆえに念有る無し。「定」はただ心を繫して一境に専注す。この識は任運にして刹那別縁す。すでに専一せざれば、ゆえに定有る無し。「慧」はすなわち我見なり。ゆえに別に説かず。
善是淨故,非此識俱。
善は浄にして、この識と倶に非ず。
隨煩惱生,必依煩惱前後分位差別建立。此識恆與四煩惱俱,前後一類,分位無別,故此識俱無隨煩惱。
随煩悩の生は必ず煩悩の前後の分位差別に依って建立す。この識は恒に四煩悩と倶にして、前後一類にて分位別無し。ゆえにこの識に倶に随煩悩無し。
「惡作」追悔先所造業,此識任運,恆緣現境,非悔先業,故無惡作。「睡眠」必依身、心重昧,外眾緣力,有時暫起,此識無始一類內執,不假外緣,故彼非有。「尋」、「伺」俱依外門而轉,淺深推度,麁細發言,此識唯依內門而轉,一類執我,故非彼俱。
「悪作」は先に造りし業を追悔す。この識は任運にして恒に現境に縁ず。先業を悔ゆるに非ず。ゆえに悪作無し。「睡眠」は必ず身・心の重昧に依り、外の衆縁力にて有る時暫く起こる。この識は無始より一類にして内に執す。外縁を假らず。ゆえにそれ有るに非ず。「尋」・「伺」は皆外門に依って転じ、浅深に推度して麁細に発言す。この識はただ内門に依って転じて、一類に我を執す。ゆえにそれと倶に非ず。
有義:彼釋「餘」義非理。頌別說此有覆攝故。又闕意俱隨煩惱故。煩惱必與隨煩惱俱,故此「餘」言,顯隨煩惱。
一義有り:彼らの「余」の義を釈するは理に合わず。頌は別にこれを説いて有覆の摂する所と為す。また意に倶の随煩悩を缺く。煩悩は必ず随煩悩と倶なり。ゆえにこの「余」の字は随煩悩を顯示す。
此中有義:五隨煩惱,遍與一切染心相應。
ここに一義有り:五の随煩悩は遍く一切の染心と相応す。
如《集論》說:惛沈、掉舉、不信、懈怠、放逸,於一切染汙品中,恆共相應。
《集論》に説けるが如く:惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸は一切の染汚品の中にて恒に共に相応す。
若離無堪任性等,染汙性成,無是處故。煩惱起時,心既染汙,故染心位,必有彼五。煩惱若起,必由無堪任、囂動、不信、懈怠、放逸故。
もし無堪任性等を離れば、染汚性を成すはこの理無し。煩悩の起こる時、心はすでに染汚なれば、ゆえに染心の位に必ずかの五有り。煩悩もし起こらば、必ず無堪任・嚣動・不信・懈怠・放逸に由る。
掉舉雖遍一切染心,而貪位增,但說貪分。如眠與悔,雖遍三性心,而痴位增,但說為痴分。
掉挙は遍く一切の染心にあれども、しかし貪位に増す。ただ貪分と説く。眠と悔との如く、遍く三性の心にあれども、しかし癡位に増す。ただ癡分と説いて為す。
雖餘處說,有隨煩惱,或六、或十,遍諸染心,而彼俱依別義說遍,非彼實遍一切染心。謂依二十隨煩惱中,解通麁細,無記、不善,通障定、慧,相顯說六。依二十二隨煩惱中,解通麁細二性,說十。故此彼說:非互相違。
其余の処に随煩悩有りて、あるいは六、あるいは十、諸染心に遍すと説くと雖も、しかし彼らは皆別義に依って遍と説く。並びて彼らの実に一切染心に遍するに非ず。いわゆる二十の随煩悩の中にて、解は麁細に通じ、無記・不善は定慧を通じて障るに依って、相顯して六と説く。二十二の随煩悩の中にて、解は麁細の二性に通ずるに依って、十と説く。ゆえに此彼の説くは並びて互相違に非ず。
然此意俱心所十五,謂前九法、五隨煩惱,並別境慧。我見雖是別境慧攝,而五十一心所法中,義有差別,故開為二。
しかしこの意に倶の心所は十五なり。いわゆる前の九法・五随煩悩、並びに別境の慧。我見は別境の慧の摂する所なると雖も、しかし五十一心所法の中にて義差別有り。ゆえに開いて二と為す。
何緣此意無餘心所?謂忿等十行相麁動,此識審細,故非彼俱;無慚、無愧,唯是不善,此無記故,非彼相應;散亂,令心馳流外境,此恆內執一類境生,不外馳流,故彼非有;不正知者,謂起外門身、語、意行,違越軌則,此唯內執,故非彼俱。無餘心所,義如前說。
どうしてこの意は其余の心所無き。いわゆる忿等の十は行相麁動にして、この識は審細なり。ゆえにそれと倶に非ず。無慚・無媿はただ不善にして、これは無記なり。それと相応に非ず。散乱は心をして外境に馳流せしむ。これは恒に内に一類の境を執して生じて、外に馳流せず。ゆえにそれ有るに非ず。不正知とは、いわゆる外門の身・語・意行を起こして軌則に違越す。これはただ内に執す。ゆえにそれと倶に非ず。其余の心所無きは、義は前の説くが如し。
有義:應說六隨煩惱,遍與一切染心相應,《瑜伽論》說:不信、懈怠、放逸、忘念、散亂、惡慧,一切染心皆相應故。
一義有り:まさに六の随煩悩は遍く一切の染心と相応すと説くべし。《瑜伽論》に説く:不信・懈怠・放逸・忘念・散乱・悪慧は、一切の染心に皆相応す。
忘念、散亂、惡慧若無,心必不能起諸煩惱。要緣曾受境界種類,發起忘念及邪簡擇,方起貪等諸煩惱故。煩惱起時,心必流蕩,皆由於境,起散亂故。
忘念・散乱・悪慧もし無ければ、心は必ず諸煩悩を起こすこと能わず。曾受の境界種類に縁じて、忘念および邪簡択を発起するを要して、乃ち貪等の諸煩悩を起こす。煩悩の起こる時、心は必ず流蕩し、皆境に由って散乱を起こす。
惛沈、掉舉,行相互違,非諸染心皆能遍起。論說五法遍染心者,解通麁、細,違唯善法,純隨煩惱,通二性故。
惛沈・掉挙は行相相違す。並びて諸染心には皆能く遍く起こるに非ず。論に五法は染心に遍すと説くは、解は麁・細に通じ、ただ善法に違し、純く随煩悩にして、二性に通ず。
說十遍言,義如前說。
十遍と説くは、義は前の説くが如し。
然此意俱心所十九。謂前九法、六隨煩惱,並念、定、慧,及加惛沈。此別說念,準前慧釋。並有定者,專注一類所執我境,曾不捨故。加惛沈者,謂此識俱無明尤重,心惛沈故。
しかしこの意に倶の心所は十九なり。いわゆる前の九法・六随煩悩、並びに念・定・慧、および惛沈を加う。これに別に念を説くは、前の慧の釈に准ず。並びに定有りて、一類の所執我境に専注して、曽て捨てざる。惛沈を加うとは、いわゆるこの識に倶の無明は尤も重くして、心は惛沈す。
無掉舉者,此相違故。無餘心所,如上應知。
掉挙無きはこれと相違するが故に。其余の心所無きは上の如くまさに知るべし。
有義:復說十隨煩惱,遍與一切染心相應。
一義有り:また十の随煩悩は遍く一切の染心と相応すと説く。
《瑜伽論》說:放逸、掉舉、惛沈、不信、懈怠、邪欲、邪勝解、邪念、散亂、不正知。此十一切染汙心起,通一切處,三界繫故。
《瑜伽論》に説く:放逸・掉挙・惛沈・不信・懈怠・邪欲・邪勝解・邪念・散乱・不正知。この十は一切の染汚心の起こるに、一切処に通じ、三界繫なり。
若無邪欲、邪勝解時,心必不能起諸煩惱。於所受境,要樂合、離,印持事相,方起貪等諸煩惱故。
もし邪欲・邪勝解無き時、心は必ず諸煩悩を起こすこと能わず。受くる所の境に対して、合・離を楽い、事相を印持するを要して、乃ち貪等の諸煩悩を起こす。
諸疑理者,於色等事,必無猶豫;故疑相應,亦有勝解。於所緣事,亦猶豫者,非煩惱疑,如疑人杌。
諸々の理を疑う人は、色等の事に対して必ず猶豫無し。ゆえに疑に相応してもまた勝解有り。所縁の事に対してもまた猶豫するは、煩悩の疑に非ず。人を疑って杌(木の切株)と為すが如し。
餘處不說此二遍者,緣非愛事,疑相應心,邪欲、勝解非麁顯故。
其余の処はこの二の遍するを説かず。非愛の事に縁じて、疑に相応する心は、邪欲・勝解は麁顯に非ざるが故に。
餘互有無,義如前說。
其余の互いに有・無は、義は前の説くが如し。
此意心所有二十四:謂前九法、十隨煩惱,加別境五,準前理釋。
この意の心所は二十四有り。いわゆる前の九法・十随煩悩、別境の五を加う。前の理に准じて釈す。
無餘心所如上應知。
其余の心所無きは上の如くまさに知るべし。
有義:前說皆未盡理。
一義有り:先前の説く所は皆未だ理を尽くさず。
且疑他世為有、為無,於彼有何欲、勝解相?煩惱起位,若無惛沈,應不定有無堪任性;掉舉若無,應無囂動,便如善等,非染汙位。若染心中,無散亂者,應非流蕩,非染汙心。若無失念、不正知者,如何能起煩惱現前?
且く他世を疑って有・無と為すに、それに対して何の欲・勝解の相かあらん。煩悩の起こる位に、もし惛沈無ければ、まさに定めて無堪任性の有無あらざるべし。掉挙もし無ければ、まさに嚣動無かるべし。便ち善等の如く、染汚位に非ず。もし染心の中に散乱無ければ、まさに流蕩に非ざるべく、染汚心に非ず。もし失念・不正知無ければ、どうして能く煩悩を起こして現前せん。
故染汙心決定皆與八隨煩惱相應而生,謂惛沈、掉舉、不信、懈怠、放逸、忘念、散亂、不正知。忘念、不正知,念、慧為性者,不遍染心,非諸染心,皆緣曾受,有簡擇故;若以無明為自性者,遍染心起,由前說故。
ゆえに染汚心は決定して皆八随煩悩と相応して生ず。いわゆる惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸・忘念・散乱・不正知。忘念・不正知の念・慧を以って性と為するは、染心に遍せず。並びて諸染心は皆曾受に縁じて簡択有るに非ず。もし無明を以って自性と為するは、染心に遍して起こる。先前の説く所に由る。
然此意俱心所十八:謂前九法、八隨煩惱,並別境慧。無餘心所及論三文,準前應釋。
しかしこの意に倶の心所は十八なり。いわゆる前の九法・八随煩悩、並びに別境の慧。其余の心所無きおよび論三文は、前に准じてまさに釈すべし。
若作是說,不違理、教。
もしかくのごとき説を作さば、理・教に違せず。
成唯識論巻第四
成唯識論巻第五
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
此染汙意,何受相應?
この染汚意は、何の受と相応するや。
有義:此俱唯有喜受,恆內執我,生喜愛故。
一義有り:これに倶はただ喜受のみ。恒に内に我を執して、喜愛を生ずるが故に。
有義:不然。應許喜受,乃至有頂,違聖言故。
一義有り:然らず。まさに喜受を許すべきは乃至有頂なり。聖言に違するが故に。
應說:此意四受相應。謂生惡趣憂受相應,緣不善業所引果故。生人、欲天、初、二靜慮,喜受相應,緣有喜地善業果故。第三靜慮,樂受相應,緣有樂地善業果故。第四靜慮乃至有頂,捨受相應,緣唯捨地善業果故。
まさに説くべし:この意は四受に相応す。いわゆる悪趣に生ずれば憂受に相応す。不善業の引く所の果に縁ずるが故に。人・欲天・初・二静慮に生ずれば喜受に相応す。喜有る地の善業果に縁ずるが故に。第三静慮は楽受に相応す。楽有る地の善業果に縁ずるが故に。第四静慮乃至有頂は捨受に相応す。ただ捨の地の善業果に縁ずるが故に。
有義:彼說亦不應理。此無始來,任運一類,緣內執我,恆無轉易,與變異受,不相應故。
一義有り:彼らの説もまた理に応えず。これは無始より来り任運・一類にして、内に縁じて我を執す。恒に転易無し。変異の受と相応せず。
又此末那與前藏識義有異者,皆別說之。若四受俱,亦應別說。既不別說,定與彼同。故此相應,唯有捨受。
またこの末那は前の蔵識と義の異なるは皆別にそれを説く。もし四受に倶なれば、もまたまさに別に説くべし。すでに別に説かざれば、決定してかれと同じ。ゆえにこの相応はただ捨受のみ。
未轉依位,與前所說心所相應;已轉依位,唯二十一心所俱起,謂遍行、別境各五,善十一。如第八識,已轉依位,唯捨受俱,任運轉故。恆於所緣平等轉故。
未だ転依せざる位には先前の説く所の心所と相応し、已に転依せし位にはただ二十一の心所のみ倶に起こる。いわゆる遍行・別境各々五、善十一。第八識の如く、已に転依せし位にはただ捨受に倶なり。任運に転ずるが故に。恒に所縁に対して平等に転ず。
末那心所,何性所攝?
末那の心所はいずれかの性の摂する所ぞ。
有覆無記所攝,非餘。
有覆無記の摂する所にして、其余に非ず。
此意相應四煩惱等,是染法故;障礙聖道,隱蔽自心,說名有覆;非善、不善,故名無記。
この意に相応する四煩悩等は染法にして、聖道を障碍し、自心を隠蔽す。名づけて有覆という。善・不善に非ざるがゆえに名づけて無記という。
如上二界諸煩惱等,定力攝藏,是無記攝。此俱染法,所依細故,任運轉故,亦無記攝。
上の二界の諸煩悩等の如く、定力の摂蔵する所は無記の摂する所なり。これに倶の染法は所依細かにして任運に転ず。もまた無記の摂する所なり。
若已轉依,唯是善性。
もし已に転依せば、ただ善性なり。
末那心所,何地繫耶?
末那の心所はいずれの地の繫する所ぞ。
隨彼所生,彼地所繫。
それが生ずる所に随って、彼の地の繫する所なり。
謂生欲界,現行末那相應心所,即欲界繫。乃至有頂應知亦然;任運恆緣自地藏識,執為內我,非他地故。
いわゆる欲界に生ずれば、現行の末那に相応する心所はすなわち欲界繫なり。乃至有頂もまさに然るべしと知る。任運に恒に自地の蔵識に縁じて、執して内我と為す。他地に非ず。
若起彼地異熟藏識現在前者,名生彼地;染汙末那,緣彼執我,即繫屬彼,名彼所繫。
もし彼の地の異熟蔵識を現前せしむるを名づけて彼地に生ずという。染汚の末那はそれに縁じて我を執して、便ちそれに繋属す。名づけて彼の繫する所という。
或為彼地諸煩惱等之所繫縛,名彼所繫。
あるいは彼の地の諸煩悩等の繫縛する所を、名づけて彼の繫する所という。
若已轉依,即非所繫。
もし已に転依せば、便ち繫する所に非ず。
此染汙意,無始相續,何位永斷?或暫斷耶?
この染汚意は無始より相続す。いずれの位にか永く断ず、あるいは暫く断ず。
「阿羅漢、滅定、出世道無有。」
「阿羅漢・滅定・出世道には無し。」
阿羅漢者,總顯三乘無學果位。此位染意種及現行,俱永斷滅,故說無有。學位滅定、出世道中,俱暫伏滅,故說無有。
阿羅漢とは、総く三乗の無学果位を顯す。この位の染意の種および現行は皆永く断滅す。ゆえに無しと説く。学位の滅定・出世道中は皆暫く伏滅す。ゆえに無しと説く。
謂染汙意,無始時來,微細一類,任運而轉,諸有漏道,不能伏滅;三乘聖道,有伏滅義。真無我解,違我執故。後得無漏現在前時,是彼等流,亦違此意。真無我解,及後所得,俱無漏故,名出世道。
いわゆる染汚意は無始より来り微細・一類にして任運に転ず。諸有漏道は伏滅すること能わず。三乗の聖道は伏滅の義有り。真の無我解は我執に違す。後に無漏の現前する時は是れそれが等流なり。もまたこの意に違す。真の無我解および後の得る所は皆無漏にして、名づけて出世道という。
滅定既是聖道等流,極寂靜故,此亦非有。
滅定はすでに聖道の等流にして極寂静なれば、このもまた有に非ず。
由未永斷此種子故,從滅盡定、聖道起已,此復現行,乃至未滅。
未だこの種子を永断せざるがゆえに、滅尽定・聖道より起ちての後、これはまた現行して乃至未だ滅せず。
然此染意相應煩惱,是俱生故,非見所斷。是染汙故,非非所斷。
しかしこの染意に相応する煩悩は是れ倶生にして、見の断ずる所に非ず。是れ染汚にして、非所断に非ず。
極微細故,所有種子,與有頂地,下下煩惱,一時頓斷,勢力等故;金剛喻定現在前時,頓斷此種,成阿羅漢,故無學位,永不復起。
極微細なるがゆえに、所有の種子は有頂地の下下煩悩と一時に頓断す。勢力等しきが故に。金剛喩定の現前する時、頓にこの種を断じて阿羅漢を成ず。ゆえに無学位には永く復た起こらず。
二乘無學,迴趣大乘,從初發心,至未成佛,雖實是菩薩,亦名阿羅漢。應義等故,不別說之。
二乗の無学は大乗に回趣して、初めの発心より未だ仏を成らざるに至るまで、実は菩薩なると雖も、もまた名づけて阿羅漢という。応の義等なるがゆえに別にそれを説かず。
此中有義:末那唯有煩惱障俱。聖教皆言:三位無故。又說:四惑恆相應故。又說:為識雜染依故。
ここに一義有り:末那はただ煩悩障と倶のみ。聖教は皆説く:三位に無し。また説く:四惑は恒に相応す。また説く:識の雑染の依と為る。
有義:彼說教、理相違,出世末那,經說有故。
一義有り:彼らの説は教・理に相違す。出世の末那は経に有りと説けり。
無染意識,如有染時,定有俱生不共依故。
無染の意識は、染有る時の如く、定めて倶生の不共依有り。
論說:藏識決定恆與一識俱轉,所謂末那;意識起時,則二俱轉,所謂意識,及與末那;若五識中隨起一識,則三俱轉,乃至或時頓起五識,則七俱轉。若住滅定,無第七識,爾時,藏識應無識俱,便非恆定一識俱轉。住聖道時,若無第七。爾時,藏識應一識俱,如何可言,若起意識,爾時,藏識定二俱轉?
論に説く:蔵識は決定して恒に一識と倶に転ず。いわゆる末那。意識の起こる時は便ち二倶転す。いわゆる意識および末那。もし五識の中に随って一識を起これば、便ち三倶転し、乃至あるいは時に頓に五識を起こせば、便ち七倶転す。もし滅定に住すれば第七識無し。かの時、蔵識はまさに識と倶する無かるべくして、便ち恒定に一識と倶転に非ず。聖道に住する時、もし第七無ければ、かの時蔵識はまさに一識に倶ならん。どうして説かん、もし意識を起こせばかの時蔵識は定めて二倶転と。
《顯揚論》說:末那恆與四煩惱相應,或翻彼相應,恃舉為行,或平等行。故知此意通染、不染。
《顯揚論》に説く:末那は恒に四煩悩と相応し、あるいはそれに翻って相応して、恃挙を行と為り、あるいは平等に行ず。ゆえにこの意は染・不染に通ずと知る。
若由論說:阿羅漢位無染意故,便無第七。應由論說:阿羅漢位捨賴耶故,便無第八。彼既不爾,此云何然?
もし論に由って説かば、阿羅漢位に染意無きがゆえに便ち第七無し。まさに論に由って説くべし、阿羅漢位に頼耶を捨つがゆえに便ち第八無し。彼辺すでに然らざれば、此辺どうして然らん。
又諸論言:轉第七識,得平等智。彼如餘智,定有所依相應淨識。此識無者,彼智應無。非離所依有能依故。不可說彼依六轉識,許佛恆行,如鏡智故。
また諸論に説く:第七識を転じて平等智を得。かれは其余の智の如く、定めて所依の相応の浄識有り。この識無ければ、かの智はまさに無かるべし。並びて所依を離れて能依有るに非ず。まさに彼らは六転識に依ると説くべからず。仏は恒に行うを許すが故に、鏡智の如し。
又無學位,若無第七識,彼第八識,應無俱有依。然必有此依,如餘識性故。
また無学位にもし第七識無ければ、かの第八識はまさに倶有依無かるべし。しかし必ずこの依有り。其余の識性の如くなるが故に。
又如未證補特伽羅無我者,彼我執恆行;亦應未證法無我者,法我執恆行,此識若無,彼依何識?非依第八,彼無慧故。由此應信,二乘聖道、滅定、無學此識恆行,彼未證得法無我故。
また未だ補特伽羅無我を証せざる人の如く、彼らの我執は恒に行う。もまたまさに未だ法無我を証得せざる人は法我執は恒に行うべし。この識もし無ければ、彼らは何の識に依るや。第八に依るに非ず。それは慧無きが故に。これに由ってまさに信ずべし、二乗の聖道・滅定・無学にはこの識は恒に行う。彼らは未だ法無我を証得せざるが故に。
又諸論中,以五同法證有第七,為第六依。聖道起時,及無學位,若無第七為第六依,所立宗、因,便俱有失。或應五識亦有無依。五恆有依,六亦應爾。
また諸論の中に、五同法を以って第七有るを証して第六の依と為す。聖道の起こる時および無学位に、もし第七無くして第六の依と為さざれば、立つる所の宗・因は便ち皆失有り。あるいはまさに五識もまた依無き有るべし。五は恒に依有り。六もまたまさに然るべし。
是故定有無染汙意,於上三位,恆起現前。言彼無者,依染意說;如說四位無阿賴耶,非無第八,此亦應爾。
ゆえに定めて無染汚意有りて、上の三位にて恒に起こりて現前す。彼らは無しと説くは染意に依って説く。四位に阿頼耶無しと説くが如く、並びて第八無きに非ず。これもまたまさに然るべし。
此意差別,略有三種:
この意の差別は略して三種有り。
一、補特伽羅我見相應;二、法我見相應;三、平等性智相應。
一、補特伽羅我見に相応。二、法我見に相応。三、平等性智に相応。
初通一切異生相續、二乘有學、七地以前一類菩薩有漏心位,彼緣阿賴耶識,起補特伽羅我見。
初は一切異生の相続・二乗有学・七地以前の一類菩薩の有漏心位に通ず。彼らは阿頼耶識に縁じて補特伽羅我見を起こす。
次通一切異生、聲聞、獨覺相續、一切菩薩法空智果不現前位,彼緣異熟識,起法我見。
次は一切異生・声聞・独覚の相続・一切菩薩の法空智果の現前せざる位に通ず。彼らは異熟識に縁じて法我見を起こす。
後通一切如來相續、菩薩見道及修道中法空智果現在前位,彼緣無垢異熟識等,起平等性智。
後は一切如来の相続・菩薩の見道および修道中の法空智果の現前位に通ず。彼らは無垢・異熟識等に縁じて平等性智を起こす。
補特伽羅我見起位,彼法我見亦必現前。我執必依法執而起。如夜迷杌等,方謂人等故。
補特伽羅我見の起こる位に、かの法我見もまた必ず現前す。我執は必ず法執に依って起こるが故に。夜に杌等を迷いて、纔めて人等と謂うが如し。
我、法二見,用雖有別,而不相違,同依一慧。如眼識等,體雖是一,而有了別青等多用,不相違故,此亦應然。
我・法の二見は用は別有ると雖も、しかし相違せず。同じく一慧に依る。眼識等の如く、体は一なると雖も、しかし青等の多用を了別する有りて相違せず。これもまたまさに然るべし。
二乘有學聖道,滅定現在前時;頓悟菩薩,於修道位;有學漸悟,生空智果現在前時,皆唯起法執,我執已伏故。
二乗有学の聖道・滅定の現前する時、頓悟の菩薩は修道位にて、有学の漸悟は生空智果の現前する時、皆ただ法執を起こすのみ。我執は已に伏せたるが故に。
二乘無學及此漸悟法空智果不現前時,亦唯起法執,我執已斷故。
二乗無学およびこの漸悟の法空智果の現前せざる時も、ただ法執を起こすのみ。我執は已に断ぜたるが故に。
八地以上,一切菩薩所有我執皆永不行,或已永斷;或永伏故。法空智果不現前時,猶起法執,不相違故。
八地已上は、一切菩薩の所有の我執は皆永く行わず。あるいは已に永断し、あるいは永く伏す。法空智果の現前せざる時にはなお法執を起こす。相違せざるが故に。
如契經說:八地以上,一切煩惱,不復現行;唯有所依所知障在。此所知障,是現非種。不爾,煩惱亦應在故。
契経に説けるが如く:八地已上は一切の煩悩は復た現行せず。ただ所依の所知障のみ在り。この所知障は現にして種に非ず。然らずんば、煩悩もまたまさに在るべし。
法執俱意,於二乘等,雖名不染;於諸菩薩,亦名為染,障彼智故。由此亦名有覆無記。於二乘等,說名無覆,不障彼智故。是異熟生攝,從異熟識恆時生故,名異熟生,非異熟果,此名通故,如增上緣,餘不攝者,皆入此攝。
法執に倶の意は、二乗等に対しては名づけて不染というと雖も、諸菩薩に対してはもまた名づけて染という。彼らの智を障るが故に。これに由ってもまた名づけて有覆無記という。二乗等に対しては説いて名づけて無覆という。彼らの智を障らざるが故に。是れ異熟生の摂する所にして、異熟識より恒時に生ず。名づけて異熟生という。異熟果に非ず。この名は通ずるが故に、増上縁の如し。其余の摂せざる所は皆この摂に入る。
云何應知此第七識,離眼等識,有別自體?
どうしてこの第七識は眼等の識を離れて別に自体有ると知らん。
聖教正理,為定量故。
聖教・正理を以って定量と為すが故に。
謂薄伽梵處處經中說:心、意、識三種別義。集起名心,思量名意,了別名識,是三別義。
いわゆる薄伽梵(世尊)の処処の経中の説く所:心・意・識の三種別義なり。集起を名づけて心といい、思量を名づけて意といい、了別を名づけて識という。是れ三の別義なり。
如是三義,雖通八識,而隨勝顯。第八名心,集諸法種,起諸法故;第七名意,緣藏識等,恆、審思量,為我等故;餘六名識,於六別境,麁動間斷,了別轉故。
かくのごとき三義は八識に通ずると雖も、しかし勝顯に随う。第八を名づけて心という。諸法の種を集めて諸法を起こすが故に。第七を名づけて意という。蔵識等に縁じて恒・審に思量して我と為すが故に。其余の六を名づけて識という。六別の境に対して麁動間断して了別して転ずるが故に。
如《入楞伽》伽他中說:
《入楞伽》の偈の中に説けるが如く:
「藏識說名心,思量性名意,
「蔵識を説いて名づけて心といい、思量の性を名づけて意という。
能了諸境相,是說名為識。」
諸境相を了する能を、是れ説いて名づけて識という。」
又大乘經處處別說有第七識,故此別有。諸大乘經是至教量,前已廣說,故不重成。
また大乗経は処処に別に第七識有りと説く。ゆえにこれは別に有り。諸大乗経は至教量なり。前に已に広く説きたり。ゆえに重ねて成ぜず。
《解脫經》中,亦別說有此第七識。如彼頌言:
《解脱経》の中にもまた別にこの第七識有りと説く。かの頌の説けるが如く:
「染汙意恆時,諸惑俱生滅,
「染汚の意は恒時に、諸惑と倶に生滅す。
若解脫諸惑,非曾非當有。」
もし諸惑を解脱せば、曽に非ず当に非ず。」
彼經自釋此頌義言:有染汙意,從無始來,與四煩惱,恆俱生滅。謂我見、我愛,及我慢、我痴。對治道生,斷煩惱已,此意從彼便得解脫。爾時,此意相應煩惱,非唯現無,亦無過、未,過去、未來,無自性故。如是等教,諸部皆有,恐厭廣文,故不繁述。
かの経は自らこの頌の義を釈して説く:染汚意有りて、無始より来り四煩悩と恒に倶に生滅す。いわゆる我見・我愛、および我慢・我癡。対治の道生じて煩悩を断じての後、この意はそれより便ち解脱を得。かの時、この意に相応の煩悩は、ただ現に無きのみならず、また過・未も無し。過去・未来は自性無きが故に。かくのごとき等の教は諸部皆なお有り。広文を厭わんことを畏れて、ゆえに繁述せず。
已引聖教;當顯正理。
已に聖教を引きたり。まさに正理を顯すべし。
謂契經說:不共無明,微細恆行,覆蔽真實。若無此識,彼應非有。
いわゆる契経に説く:不共無明は微細にして恒に行い、真実を覆蔽すと。もしこの識無ければ、それはまさに有に非ざるべし。
謂諸異生,於一切分,恆起迷理不共無明,覆真實義,障聖慧眼。如伽他說:
いわゆる諸異生は一切分にて恒に理に迷う不共無明を起こして、真実の義を覆して聖の慧眼を障る。偈に説けるが如く:
「真義心當生,常能為障礙,
「真義の心は当に生ずるに、常に能く障碍と為る。
俱行一切分,謂不共無明。」
一切分に倶行す、いわゆる不共無明。」
是故契經說:異生類恆處長夜,無明所盲,惛醉纏心,曾無醒覺。
ゆえに契経に説く:異生類は恒に長夜に処り、無明に盲され、惛醉は心に纏いて、曽て醒覚無し。
若異生位,有暫不起此無明時,便違經義。俱異生位,迷理無明,有行、不行,不應理故。此依六識,皆不得成。應此間斷,彼恆染故。許有末那,便無此失。
もし異生位に暫くこの無明を起こさざる時有れば、便ち経義に違す。倶に異生位なれば、理に迷う無明は行有り不行有るは理に応えず。これは六識に依りて皆成立すること能わず。これは間断して、それは恒染ならん。末那有りと許せば便ちこの失無し。
染意恆與四惑相應,此俱無明,何名不共?
染意は恒に四惑と相応す。この倶の無明はどうして名づけて不共という。
有義:此俱我見、慢、愛,非根本煩惱,名不共何失?
一義有り:これに倶の我見・慢・愛は根本煩悩に非ず。名づけて不共というも何の失かあらん。
有義:彼說理、教相違。純隨煩惱中,不說此三故,此三,六、十煩惱攝故。處處皆說染汙末那與四煩惱恆相應故。
一義有り:彼らの説は理・教に相違す。純随煩悩の中にこの三を説かず。この三は六・十の煩悩の摂する所なり。処処に皆染汚末那は四煩悩と恒に相応すと説けり。
應說四中,無明是主,雖三俱起,亦名不共。從無始際,恆內惽迷,曾不省察,痴增上故。
まさに説くべし、四中に無明は主なり。三と倶に起こると雖も、もまた名づけて不共という。無始の際より恒に内に昏迷して、曽て省察せず。癡の増上なるが故に。
此俱見等,應名相應,若為主時,應名不共?如無明故,許亦無失。
この倶の見等はまさに名づけて相応と言うべく、もし主と為る時はまさに名づけて不共と言わんか。無明の如く、許すもまた失無し。
有義:此痴名不共者,如不共佛法,唯此識有故。
一義有り:この癡を名づけて不共という。不共の仏法の如く、ただこの識に有り。
若爾,餘識相應煩惱,此識中無,應名不共。依殊勝義,立不共名,非互所無,皆名不共。謂第七識相應無明,無始恆行,障真義智,如是勝用,餘識所無,唯此識有,故名不共。既爾,此俱三亦應名不共。無明是主,獨得此名。或許餘三,亦名不共;對餘「痴」故,且說無明。
もし然らば、其余の識に相応する煩悩は、この識の中に無ければ、まさに名づけて不共と言うべし。殊勝の義に依って不共の名を立つ。並びて互いに無き所は皆名づけて不共というに非ず。いわゆる第七識に相応する無明は無始に恒に行いて、真義の智を障る。かくのごとき勝用は其余の識の無き所にして、ただこの識に有り。ゆえに名づけて不共という。すでに然らば、この倶の三もまたまさに名づけて不共と言うべし。無明は主にして独りこの名を得。あるいは其余の三を許してもまた名づけて不共という。其余の「癡」に対して、且く無明を説く。
不共無明,總有二種:一、恆行不共,餘識所無;二、獨行不共,此識非有。
不共無明は総じて二種有り。一、恒行不共。其余の識の無き所。二、独行不共。この識には有に非ず。
故《瑜伽》說無明有二:若貪等俱者,名相應無明;非貪等俱者,名獨行無明。是主獨行,唯見所斷。如契經說:「諸聖有學,不共無明,已永斷故,不造新業。」非主獨行,亦修所斷。忿等皆通見、修所斷故。
ゆえに《瑜伽》に無明は二有りと説く。もし貪等に倶なるは名づけて相応無明という。貪等に倶ならざるは名づけて独行無明という。是れ主の独行にしてただ見の断ずる所なり。契経に説けるが如く:「諸聖有学は不共無明を已に永断して、新業を造らず。」主に非ざる独行もまた修の断ずる所なり。忿等は皆見・修の断ずる所に通ず。
恆行不共,餘部所無;獨行不共,此、彼俱有。
恒行不共は其余の部の無き所。独行不共は此・彼に皆有り。
又契經說:眼、色為緣,生於眼識。廣說乃至意、法為緣,生於意識。若無此識,彼意非有。
また契経に説く:眼・色を縁として眼識を生ず。広く説けば乃至意・法を縁として意識を生ず。もしこの識無ければ、かの意は有に非ず。
謂如五識,必有眼等增上不共俱有所依。意識既是六識中攝,理應許有如是所依。此識若無,彼依寧有?
いわゆる五識の如く、必ず眼等の増上・不共・倶有の所依有り。意識はすでに六識中の摂する所なれば、理まさにかくのごとき所依有ると許すべし。この識もし無ければ、かの依はどうして有らん。
不可說色為彼所依,意非色故。意識應無隨念、計度二分別故。
まさに色をかの所依と説くべからず。意は色に非ざるが故に。意識はまさに随念・計度の二分別無かるべし。
亦不可說五識無有俱有所依,彼與五根俱時而轉,如牙、影故。又識與根,既必同境,如心、心所,決定俱時。
またまさに五識は倶有の所依無しと説くべからず。彼らは五根と倶時に転ずるが故に。牙・影の如し。また識と根とはすでに必ず境を同じくせば、心・心所の如く、決定して倶時なり。
由此理趣,極成意識如眼等識必有不共,顯自名、處。等無間不攝,增上生所依,極成六識隨一攝故。
これに由る理趣にて、極成の意識は眼等識の如く、必ず不共有りて、自らの名・処を顯す。等無間は摂せず、増上生の所依なり。極成の六識は随一の摂する所なり。
又契經說:思量名意。若無此識,彼應非有。
また契経に説く:思量を名づけて意という。もしこの識無ければ、それはまさに有に非ざるべし。
謂若意識現在前時,等無間意已滅非有。過去、未來,理非有故。彼思量用,定不得成。既爾,如何說名為意?若謂假說,理亦不然。無正思量,假依何立?若謂現在,曾有思量,爾時名識,寧說為意?
いわゆるもし意識の現前する時、等無間の意は已に滅して有に非ず。過去・未来は理有に非ず。かの思量の用は定めて成ずるを得ず。すでに然らば、どうして名づけて意と説かん。もし假説と説かば、理また然らず。正の思量無くして、假は何に依って立たん。もし現在に曽て思量有りて、かの時名づけて識と為す。どうして意と説かん。
故知別有第七末那,恆、審思量,正名為意,已滅依此,假立「意」名。
ゆえに別に第七末那有りて、恒・審に思量して、正しく名づけて意と知る。已に滅せしはこれに依って假に「意」の名を立つ。
又契經說:無想、滅定染意若無,彼應無別。
また契経に説く:無想・滅定は染意もし無ければ、彼らはまさに別無かるべし。
謂彼二定,俱滅六識及彼心所,體數無異。若無染意,於二定中,一有一無,彼二何別?若謂加行、界、地、依等有差別者,理亦不然。彼差別因,由此有故。此若無者,彼因亦無。
いわゆるかの二定は皆六識およびそれらの心所を滅す。体数は異無し。もし染意無ければ、二定の中に一有り一無し。かの二に何の別かあらん。もし加行・界・地・依等に差別有りと説かば、理また然らず。かの差別の因はこれに由って有り。これもし無ければ、かの因もまた無し。
是故定應別有此意。
ゆえに決定してまさに別にこの意有るべし。
又契經說:無想有情,一期生中,心、心所滅。若無此識,彼應無染。
また契経に説く:無想の有情は一期生の中に心・心所は滅す。もしこの識無ければ、彼らはまさに染無かるべし。
謂彼長時,無六轉識;若無此意,我執便無。非於餘處有具縛者,一期生中,都無我執。彼無我執,應如涅槃,便非聖賢同所訶厭。
いわゆる彼らは長時に六転識無し。もしこの意無ければ、我執は便ち無し。並びて余処に在りて具縛の人有りて、一期生の中に皆我執無きに非ず。彼らの我執無きはまさに涅槃の如く、便ち聖賢の同じく訶厭する所に非ざるべし。
初、後有故,無如是失。中間長時無故,有過。去、來有故,無如是失。彼非現、常,無故,有過。所得無故,能得亦無。
初・後に有れば、この失無し。中間長時に無ければ、過有り。去・来に有れば、この失無し。彼らは現に非ず常に非ずして、無ければ、過有り。得る所無ければ、得る能もまた無し。
不相應法,前已遮破。
不相応法は前に已に遮破せり。
藏識無故,燻習亦無。餘法受燻,已辯非理。
蔵識無ければ、薫習もまた無し。其余の法は薫を受くるは已に非理と弁ぜり。
故應別有染汙末那,於無想天恆起我執,由斯賢聖同訶厭彼。
ゆえにまさに別に染汚末那有りて、無想天にて恒に我執を起こすべし。これに由って賢聖は同じく彼らを訶厭す。
又契經說:異生善、染、無記心時,恆帶我執,若無此識,彼不應有。
また契経に説く:異生の善・染・無記心の時、恒に我執を帯び、もしこの識無ければ、それはまさに有るべからず。
謂異生類,三性心時,雖外起諸業,而內恆執我。由執我故,令六識中所起施等,不能亡相。
いわゆる異生類は三性心の時、外に諸業を起こすと雖も、しかし内に恒に我を執す。我を執するに由って、六識中に起こる所の施等をして相を亡ぜしめず。
故《瑜伽》說:染汙末那,為識依止,彼未滅時,相了別縛,不得解脫。末那滅已,相縛解脫。
ゆえに《瑜伽》に説く:染汚末那は識の依止と為る。それの未だ滅せざる時、相了別の縛にして解脱を得ず。末那の滅するの後、相縛は解脱す。
言相縛者,謂於境相不能了達,如幻事等。由斯見分相分所拘,不得自在,故名相縛。
相縛とは、いわゆる境相に対して了達すること能わざるを説く。幻事等の如し。これに由って見分は相分の拘する所にして自在を得ず。ゆえに名づけて相縛という。
依如是義,有伽他言:
かくのごとき義に依って、偈有りて説く:
「如是染汙意,是識之所依,
「かくのごとき染汚意は、是れ識の依る所。
此意未滅時,識縛終不脫。」
この意の未だ滅せざる時、識縛は終に脱せず。」
又善、無覆無記心時,若無我執,應非有漏。自相續中,六識煩惱與彼善等不俱起故。去、來緣縛,理非有故。非由他惑,成有漏故;勿由他解,成無漏故。
また善・無覆無記心の時、もし我執無ければ、まさに有漏に非ざるべし。自相続の中に六識の煩悩とそれらの善等とは倶に起こらず。去・来の縁縛は理有に非ず。並びて他惑に由って有漏を成すに非ず。他解に由って無漏を成さしむること莫れ。
又不可說:別有隨眠,是不相應,現相續起,由斯善等成有漏法。彼非實有,已極成故。
またまさに説くべからず:別に随眠有りて不相応にして、現に相続して起こり、これに由って善等は有漏法を成す。彼らは実有に非ざるは已に極成せり。
亦不可說:從有漏種,生彼善等,故成有漏。彼種先無因可成有漏故。
またまさに説くべからず:有漏種よりそれらの善等を生ず。ゆえに有漏を成す。かの種は先に因無くして有漏を成すべからず。
非由漏種,彼成有漏;勿學無漏心,亦成有漏故。
並びて漏種に由って彼らは有漏を成すに非ず。学の無漏心をしてもまた有漏を成さしむること莫れ。
雖由煩惱,引施等業,而不俱起,故非有漏正因;以有漏言,表漏俱故;又無記業,非煩惱引,彼復如何得成有漏?
煩悩に由って施等の業を引くと雖も、しかし倶に起こらず。ゆえに有漏の正因に非ず。有漏の言は漏に倶を表するが故に。また無記業は煩悩の引く所に非ず。彼らもまたどうして有漏を成ずるを得ん。
然諸有漏,由與自身現行煩惱俱生、俱滅,互相增益,方成有漏。由此燻成有漏法種,後時現起,有漏義成;異生既然,有學亦爾。無學有漏,雖非漏俱;而從先時有漏種起,故成有漏,於理無違。
しかし諸有漏は自身の現行煩悩と倶生・倶滅して、互相増益して、乃ち有漏を成す。これに由って薫じて有漏法種を成し、後時に現起して有漏の義成立す。異生はすでに然れば、有学もまたこの如し。無学の有漏は漏に倶に非ざると雖も、しかし先時の有漏種より起こるがゆえに有漏を成す。理上違背無し。
由有末那恆起我執,令善等法有漏義成。此意若無,彼定非有,故知別有此第七識。
末那有るに由って恒に我執を起こして、善等の法の有漏の義を成立せしむ。この意もし無ければ、それは定めて有に非ず。ゆえに別にこの第七識有るを知る。
證有此識,理趣甚多,隨《攝大乘》,略述六種,諸有智者,應隨信學。
この識有るを証するに理趣甚だ多し。《摂大乗》に随って略く六種を述ぶ。諸々の智者有らばまさに随って信学すべし。
然有經中說六識者,應知彼是隨轉理門,或隨所依六根說六,而識類別,實有八種。
しかし経の中に六識と説く有り。まさに知るべし、それは転理の門に随う。あるいは依る所の六根に随って六と説く。しかし識の類別は実に八種有り。
如是已說第二能變。第三能變,其相云何?
かくのごとく已に第二能変を説きたり。第三能変のその相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
8次第三能變,差別有六種,
次に第三の能変は、差別に六種有り。
了境為性、相,善、不善、俱非。
境を了するを性・相と為して、善・不善・倶非なり。
論曰:次中思量能變識後,應辯了境能變識相。
論に説く:中の思量能変識に次いで、後にまさに了境能変識の相を弁ずべし。
此識差別總有六種,隨六根、境,種類異故。
この識の差別は総じて六種有り。六根・境に随って種類異なり。
謂名眼識乃至意識,隨根立名,具五義故。五謂依、發、屬、助、如根,雖六識身皆依意轉,然隨不共,立意識名,如五識身,無相濫過。或唯依意,故名意識,辯識得名,心、意非例。
いわゆる名づけて眼識乃至意識というは、根に随って名を立つ。五義を具えるが故に。五とは依・発・属・助・如根を説く。六識身は皆意に依って転ずると雖も、しかし不共に随って意識の名を立つ。五識身の如く、相濫の過無し。あるいはただ意に依るがゆえに名づけて意識という。識の得名を弁ずるに、心・意は例に非ず。
或名色識乃至法識,隨境立名,順識義故。謂於六境了別名識,色等五識,唯了色等,法識通能了一切法,或能了別法,獨得法識名,故六識名無相濫失。
あるいは名づけて色識乃至法識というは、境に随って名を立つ。識の義に順うが故に。いわゆる六境に対して了別するを名づけて識という。色等の五識はただ色等を了す。法識は通じて能く一切法を了す。あるいは能く法を了別するを、独り法識の名を得。ゆえに六識の名は相濫の失無し。
此後隨境立六識名,依五色根未自在說;若得自在,諸根互用,一根發識,緣一切境;但可隨根,無相濫失。
この後に境に随って六識の名を立つるは、五色根に依るに未だ自在せざるに依って説く。もし自在を得れば、諸根互用して、一根は識を発して一切境に縁ず。ただ根に随うべきのみ。相濫の失無し。
《莊嚴論》說:如來五根,一一皆於五境轉者,且依麁顯、同類境說。
《荘厳論》に説く:如来の五根は一一皆五境に対して転ず。且く麁顯・同類の境に依って説く。
《佛地經》說:成所作智,決擇有情心行差別,起三業化、作四記等。若不遍緣,無此能故。
《仏地経》に説く:成所作智は有情の心行差別を決択して、三業の化を起こし、四記等を作す。もし遍く縁ぜざれば、この能無し。
然六轉識所依、所緣,麁顯極成,故此不說。前隨義便,已說所依;此所緣境,義便當說。
しかし六転識の所依・所縁は麁顯にして極成せり。ゆえにここに説かず。前に義便に随って已に所依を説きたり。この所縁境は義便にまさに説くべし。
次言「了境為性相」者,雙顯六識自性、行相,識以了境為自性故;即復用彼為行相故。由斯兼釋所立別名,能了別境,名為識故。
次に「境を了するを性相と為す」と説くは、双く六識の自性・行相を顯す。識は境を了するを以って自性と為すが故に。便ちまたそれを用いて行相と為す。これに由って兼ねて立つる所の別名を釈す。能く境を了別するがゆえに名づけて識という。
如契經說:眼識云何?謂依眼根,了別諸色;廣說乃至意識云何?謂依意根,了別諸法。
契経に説けるが如く:眼識とは何ぞ。いわゆる眼根に依って諸色を了別す。広く説けば乃至意識とは何ぞ。いわゆる意根に依って諸法を了別す。
彼經且說,不共所依,未轉依位,見分所了;餘所依、了,如前已說。
かの経は且く不共の所依と、未だ転依せざる位の見分の了する所とを説く。其余の所依・了は前の如く已に説きたり。
此六轉識,何性攝耶?
この六転識はいずれかの性の摂する所ぞ。
謂善、不善、俱非性攝。
いわゆる善・不善・倶非性の摂する所なり。
俱非者,謂無記,非善、不善,故名「俱非」;能為此世、他世順益,故名為善,人、天樂果,雖於此世能為順益,非於他世,故不名「善」;能為此世、他世違損,故名「不善」,惡趣苦果,雖於此世能為違損,非於他世,故非不善。於善、不善;益、損義中,不可記別,故名無記。
倶非とは、いわゆる無記にして、善・不善に非ざるがゆえに名づけて「倶非」という。能く此世・他世をして順益ならしむるがゆえに名づけて善という。人・天の楽果は此世に順益を為すを得すと雖も、他世に非ず。ゆえに名づけて「善」と言わず。能く此世・他世をして違損ならしむるがゆえに名づけて「不善」という。悪趣の苦果は此世に違損を為すを得すと雖も、他世に非ず。ゆえに不善に非ず。善・不善・益・損の義の中にて記別すべからず。ゆえに名づけて無記という。
此六轉識若與信等十一相應,是善性攝;與無慚等十法相應,不善性攝;俱不相應,無記性攝。
この六転識はもし信等の十一と相応せば、是れ善性の摂する所なり。無慚等の十法と相応せば、不善性の摂する所なり。倶に相応せざれば、無記性の摂する所なり。
有義:六識三性不俱。
一義有り:六識の三性は倶せず。
同外門轉,互相違故;五識必由意識導引,俱生、同境成善、染故。若許五識三性俱行,意識爾時應通三性。便違正理,故定不俱。
同じく外門に転じて互相違す。五識は必ず意識の導引する所に由って、倶生・同境にして善・染を成ず。もし五識は三性倶行を許せば、意識はかの時まさに三性に通ずべし。便ち正理に違す。ゆえに決定して倶せず。
《瑜伽》等說:藏識一時與轉識相應,三性俱起者,彼依多念。如說一心,非一生滅,無相違過。
《瑜伽》等に説く:蔵識は一時に転識と相応して、三性倶に起こる。彼らは多念に依る。一心と説くが如く、並びて一生滅に非ず。相違の過無し。
有義:六識三性容俱。
一義有り:六識の三性は倶を容す。
率爾、等流眼等五識,或多或少,容俱起故。
率爾・等流の眼等五識は、あるいは多あるいは少にして、倶起を容す。
五識與意,雖定俱生,而善性等,不必同故。前所設難,於此唐捐。
五識と意とは定めて倶生する雖も、しかし善性等は必ず同じからず。先前の設難する所はここに唐捐す。
故《瑜伽》說:若遇聲緣從定起者,與定相應意識俱轉,餘耳識生。非唯彼定相應意識,能取此聲。若不爾者,於此音聲,不領受故,不應出定。非取聲時,即便出定,領受聲已,若有希望,後時方出。
ゆえに《瑜伽》に説く:もし声縁に遇って定より起ちたる人は、定に相応する意識と倶に転じて、其余の耳識生ず。並びて唯だかの定に相応の意識のみ能くこの声を取るに非ず。もし然らざれば、この音声に対して領受せず。まさに出定すべからず。並びて声を取る時に便ち出定するに非ず。声を領受し已っての後、もし希望有れば、後時に乃ち出ず。
在定,耳識率爾聞聲,理應非善。未轉依者,率爾墮心,定無記故。
定に在りて耳識は率爾に声を聞くは、理まさに善に非ざるべし。未だ転依せざる人の率爾堕心は定めて無記なり。
由此誠證五俱意識,非定與五善等性同。
これに由って誠に証す、五倶の意識は並びて定めて五と善等の性を同じくするに非ず。
諸處但言五俱意識亦緣五境,不說同性。
諸処にはただ五倶の意識もまた五境に縁ずと説く。性を同じくすると説かず。
《雜集論》說:等引位中五識無者,依多分說。
《雑集論》に説く:等引位中に五識無し。多分に依って説く。
若五識中,三性俱轉,意隨偏注,與彼性同。無偏注者,便無記性。故六轉識,三性容俱。
もし五識の中に三性倶に転ずれば、意は偏注に随って、それと性を同じくす。偏注無きは便ち無記なり。ゆえに六転識は三性倶を容す。
得自在位,唯善性攝。佛色心等,道諦攝故。已永滅除戲論種故。
自在の位を得れば、ただ善性の摂する所なり。仏の色・心等は道諦の摂する所なり。已に永く戯論の種を滅除せり。
六識與幾心所相應?
六識はいくつの心所と相応するや。
頌曰:
頌に説く:
9此心所遍行、別境、善、煩惱、
この心所は遍行・別境・善・煩悩、
隨煩惱、不定,皆三受相應。
随煩悩・不定にして、皆三受に相応す。
論曰:此六轉識,總與六位心所相應,謂遍行等。
論に説く:この六転識は総じて六位の心所と相応す。いわゆる遍行等。
恆依心起,與心相應,繫屬於心,故名心所,如屬我物,立我所名。
恒に心に依って起こり、心と相応し、心に繋属す。ゆえに名づけて心所という。我に属する物の如く、我所の名を立つ。
心於所緣,唯取總相;心所於彼,亦取別相,助成心事,得心所名。如畫師、資,作模、填彩。
心は所縁に対してただ総相を取る。心所はそれに対してもまた別相を取る。心事を助成して、心所の名を得。画師・徒弟の模を作り彩を填るるが如し。
故《瑜伽》說:識能了別事之總相,作意了此所未了相。即諸心所所取別相,觸能了此可意等相,受能了此攝受等相,想能了此言說因相,思能了此正因等相。故作意等名心所法。此表心所亦緣總相。餘處復說:欲亦能了可樂事相,勝解亦了決定事相,念亦能了串習事相,定、慧亦了德失等相。
ゆえに《瑜伽》に説く:識は能く事の総相を了別し、作意はこれが未だ了せざる相を了す。すなわち諸心所の取る所の別相にして、触は能くこれが可意等の相を了し、受は能くこれが摂受等の相を了し、想は能くこれが言説の因の相を了し、思は能くこれが正因等の相を了す。ゆえに作意等を名づけて心所法という。これは心所もまた総相に縁ずるを表す。其余の処にまた説く:欲もまた能く可楽の事相を了し、勝解もまた決定の事相を了し、念もまた能く串習の事相を了し、定・慧もまた徳・失等の相を了す。
由此於境,起善、染等。
これに由って境に対して、善・染等を起こす。
諸心所法,皆於所緣,兼取別相。
諸心所法は皆所縁に対して、兼ねて別相を取る。
雖諸心所,名義無異,而有六位種類差別:
諸心所は名・義異ならざると雖も、しかし六位の種類差別有り。
謂遍行有五,別境亦五,善有十一,煩惱有六,隨煩惱有二十,不定有四。
いわゆる遍行は五有り、別境もまた五、善は十一有り、煩悩は六有り、随煩悩は二十、不定は四有り。
如是六位,合五十一。
かくのごとき六位は合して五十一なり。
一切心中,定可得故。緣別別境,而得生故。唯善心中,可得生故。性是根本煩惱攝故。唯是煩惱等流性故。於善、染等,皆不定故。
一切心の中に定めて得べし。各別の境に縁じて生ずるを得。ただ善心の中に生ずるを得べし。性は根本煩悩の摂する所なり。ただ煩悩の等流性なり。善・染等に於て皆定まらず。
然《瑜伽論》合六為五,煩惱、隨煩惱,俱是染故。復以四一切,辯五差別:謂一切性及地、時、俱。五中遍行具四一切。別境唯有初、二一切。善唯有一,謂一切地。染四皆無。不定唯一,謂一切性。
しかし《瑜伽論》は六を合して五と為す。煩悩・随煩悩は皆染なるが故に。また四一切を用いて五の差別を弁ず。いわゆる一切性および地・時・倶。五中に遍行は四一切を具え、別境はただ初・二の一切のみ有り、善はただ一のみ有りて、いわゆる一切地。染は四とも無し。不定はただ一のみ有りて、いわゆる一切性。
由此五位,種類差別。
これに由って五位の種類差別あり。
此六轉識,易脫不定,故皆容與三受相應。皆領順、違、非二相故。領順境相,適悅身心,說名樂受;領違境相,逼迫身心,說名苦受;領中容境相,於身於心,非逼非悅,名不苦樂受。
この六転識は脱し易くして定まらず。ゆえに皆三受と相応することを容す。皆順・違・非二の相を領す。順の境相を領して身心を適悦せしむるを名づけて楽受という。違の境相を領して身心を逼迫するを名づけて苦受という。中容の境相を領して、身に於ても心に於ても逼にも悦にも非ざるを名づけて不苦楽受という。
如是三受,或各分二:五識相應,說名身受,別依身故;意識相應,說名心受,唯依心故。又三皆通有漏、無漏,苦受亦由無漏起故。
かくのごとき三受はあるいは各々二に分かつ。五識に相応するを名づけて身受という。別に身に依るが故に。意識に相応するを名づけて心受という。ただ心に依るが故に。また三は皆有漏・無漏に通ず。苦受もまた無漏より起こるが故に。
或各分三:謂見所斷、修所斷、非所斷;又學、無學、非二,為三。
あるいは各々三に分かつ。いわゆる見の断ずる所・修の断ずる所・断ぜざる所。また学・無学・二に非ずを三と為す。
或總分四:謂善、不善、有覆、無覆二無記受。
あるいは総じて四に分かつ。いわゆる善・不善・有覆・無覆の二無記受。
有義:三受容各分四,五識俱起任運貪、痴,純苦趣中任運煩惱,不發業者,是無記故。
一義有り:三受は容く各々四に分かつ。五識に倶起する任運の貪・癡、純苦趣中の任運煩悩は、業を発せざるは是れ無記なり。
彼皆容與苦根相應。
彼らは皆苦根と相応することを容す。
《瑜伽論》說:若任運生一切煩惱,皆於三受現行可得。若通一切識身者,遍與一切根相應;不通一切識身者,意地一切根相應。《雜集論》說:若欲界繫任運煩惱,發惡行者,亦是不善。所餘皆是有覆無記。
《瑜伽論》に説く:もし任運に生ずる一切煩悩は、皆三受に於て現行し得。もし一切識身に通ずるは、遍く一切根と相応す。一切識身に通ぜざるは、意地にて一切根に相応す。《雑集論》に説く:もし欲界繋の任運煩悩は悪行を発するは、もまた不善なり。其余は皆有覆無記なり。
故知三受各容有四。
ゆえに三受は各々容く四有ると知る。
或總分五:謂苦、樂、憂、喜、捨。
あるいは総じて五に分かつ。いわゆる苦・楽・憂・喜・捨。
三中苦、樂各分二者,逼、悅身、心相各異故;由無分別、有分別故;尤重、輕微有差別故。不苦不樂不分二者,非逼、非悅相無異故;無分別故;平等轉故。
三中に苦・楽は各々二に分かつ。逼・悦する身・心の相各々異なるが故に。無分別・有分別に由る。尤重・軽微に差別有るが故に。不苦不楽は二に分かたず。逼にも悦にも非ざる相異無きが故に。無分別にして平等に転ずるが故に。
諸適悅受,五識相應,恆名為樂。
諸々の適悦受は五識に相応して、恒に名づけて楽という。
意識相應,若在欲界、初、二靜慮近分名喜,但悅心故。若在初、二靜慮根本,名樂、名喜,悅身、心故。若在第三靜慮近分、根本名樂,安靜尤重,無分別故。
意識に相応して、もし欲界・初・二静慮の近分に在れば名づけて喜という。ただ心を悦ばせるが故に。もし初・二静慮の根本に在れば、名づけて楽、名づけて喜という。身・心を悦ばせるが故に。もし第三静慮の近分・根本に在れば名づけて楽という。安静尤も重くして、分別無きが故に。
諸逼迫受,五識相應,恆名為苦。
諸々の逼迫受は五識に相応して、恒に名づけて苦という。
意識俱者,有義:唯憂,逼迫心故。諸聖教說:意地慼受,名憂根故。
意識に倶のは、一義有り:ただ憂のみ。心を逼迫するが故に。諸聖教に説く:意地の戚受を名づけて憂根という。
《瑜伽論》說:生地獄中諸有情類,異熟無間有異熟生,苦、憂相續。又說:地獄尋、伺憂俱,一分鬼趣,傍生亦爾。
《瑜伽論》に説く:地獄中に生ずる諸有情類は、異熟無間に異熟生有りて、苦・憂相続す。また説く:地獄は尋・伺に憂倶なり。一分の鬼趣・傍生もまたこの如し。
故知意地尤重慼受,尚名為憂,況餘輕者?
ゆえに意地の尤重の戚受は尚ほ憂と名づく。いわんや其余の軽きをや。
有義:通二,人、天中者,恆名為憂,非尤重故。傍生、鬼界名憂、名苦,雜受、純受有輕重故。㮈落迦中唯名為苦,純受尤重,無分別故。
一義有り:二に通ず。人・天中のは恒に名づけて憂という。尤重に非ざるが故に。傍生・鬼界は名づけて憂、名づけて苦という。雑受・純受に軽重有るが故に。㮈落迦(地獄)中はただ名づけて苦という。純受尤重にして分別無きが故に。
《瑜伽論》說:若任運生一切煩惱,皆於三受現行可得,廣說如前。又說:俱生薩迦耶見,唯無記性。彼邊執見,應知亦爾。此俱苦受,非憂根攝,論說憂根非無記故。又《瑜伽》說:地獄諸根,餘三現行,定不成就。純苦鬼界,傍生亦爾。
《瑜伽論》に説く:もし任運に生ずる一切煩悩は、皆三受に於て現行し得。広く説くは前の如し。また説く:倶生の薩迦耶見はただ無記性なり。かの辺執見もまさに然るべしと知る。この倶の苦受は憂根の摂する所に非ず。論に憂根は無記に非ずと説くが故に。また《瑜伽》に説く:地獄の諸根は其余の三は現行せず。定めて成就せず。純苦の鬼界・傍生もまたこの如し。
「餘三」定是樂、喜、憂根,以彼必成現行捨故。
「其余の三」は決定して楽・喜・憂根なり。彼らは必ず捨を成じて現行するが故に。
豈不客捨彼定不成?
あに客捨にして彼らは定めて成ぜざらんや。
寧知彼文,唯說客受?應不說彼定成意根,彼六客識有時無故。不應彼論唯說客受,通說意根,無異因故。
どうしてかの文はただ客受を説くと知る。まさに彼らは定めて意根を成ずと説かざるべし。かの六客識は時有りて無きが故に。まさにかの論はただ客受を説きて、意根を通説するに非ざるべし。異因無きが故に。
又若彼論依客受說,如何說彼定成八根?
またもしかの論は客受に依って説くと言わば、どうして彼らは定めて八根を成ずと説かん。
若謂五識不相續故,定說憂根為第八者,死、生、悶絕寧有憂根?
もし五識は相続せざるがゆえに、定めて憂根を説いて第八と為すと言わば、死・生・悶絶はどうして憂根有らん。
有執苦根為第八者,亦同此破。
人有りて苦根を第八と執す。もまたこれに同じく破る。
設執一形為第八者,理亦不然,形不定故。彼惡業招,容無形故。彼由惡業,令五根門恆受苦故,定成眼等。必有一形,於彼何用?非於無間大地獄中,可有希求婬欲事故。
たとえ一形を第八と執すも、理また然らず。形は定まらざるが故に。彼らは悪業の招く所にして、形無きを容す。彼らは悪業に由って五根門をして恒に苦を受けしめ、定めて眼等を成ず。必ず一形有りて彼らに対して何の用か有らん。並びて無間大地獄の中に婬欲の事を希求すべき無し。
由斯第八定是捨根,第七、八識捨相應故。
これに由って第八は決定して捨根なり。第七・八識は捨に相応するが故に。
如極樂地,意悅名樂,無有喜根。故極苦處,意迫名苦,無有憂根。
極楽地の如く、意の悦を名づけて楽と為して喜根無し。ゆえに極苦の処は意の迫を名づけて苦と為して憂根無し。
故「餘三」言,定憂、喜、樂。
ゆえに「其余の三」の言は定めて憂・喜・楽なり。
餘處說彼有等流樂,應知彼依隨轉理說。或彼通說:餘雜受處,無異熟樂,名純苦故。
其余の処に彼らに等流の楽有りと説くは、まさに彼らは転理に随って説くと知るべし。あるいは彼らは通説す:其余の雑受の処は異熟の楽無くして、名づけて純苦という。
然諸聖教,意地慼受,名憂根者,依多分說,或隨轉門,無相違過。
しかし諸聖教は意地の戚受を名づけて憂根というは、多分に依って説き、あるいは転門に随う。相違の過無し。
《瑜伽論》說:生地獄中諸有情類,異熟無間有異熟生,苦、憂相續。又說:地獄尋、伺憂俱。一分鬼趣,傍生亦爾者,亦依隨轉門。
《瑜伽論》に説く:地獄中に生ずる諸有情類は、異熟無間に異熟生有りて苦・憂相続す。また説く:地獄は尋・伺に憂倶なり。一分の鬼趣・傍生もまたこの如し。もまた転門に随って依る。
又彼苦根,意識俱者,是餘憂類,假說為憂。
またかの苦根の意識に倶なるは、其余の憂の類にして、假に憂と説く。
或彼苦根,損身心故,雖苦根攝,而亦名憂。如近分喜,益身心故,雖是喜根,而亦名樂。《顯揚論》等,具顯此義。然未至地定無樂根,說彼唯有十一根故。
あるいはかの苦根は身・心を損し、苦根の摂する所なると雖も、もまた名づけて憂という。近分の喜の如く、身・心を益し、喜根なると雖も、もまた名づけて楽という。《顯揚論》等は具にこの義を顯す。しかし未至地は定めて楽根無し。彼らはただ十一根有りと説くが故に。
由此應知,意地慼受,純受苦處,亦苦根攝。
これに由ってまさに知るべし、意地の戚受は純受苦の処にてもまた苦根の摂する所なり。
此等聖教,差別多門,恐文增廣,故不繁述。
これらの等の聖教は差別多門なり。文の増広を畏れて、ゆえに繁述せず。
有義:六識三受不俱,皆外門轉,互相違故。五俱意識,同五所緣,五三受俱,意亦應爾,便違正理,故必不俱。《瑜伽》等說:藏識一時與轉識相應,三受俱起者,彼依多念。如說一心,非一生滅,無相違過。
一義有り:六識の三受は倶せず。皆外門に転じて互相違す。五倶の意識は五と所縁を同じくす。五は三受倶なれば、意もまたまさに然るべし。便ち正理に違す。ゆえに必ず倶せず。《瑜伽》等に説く:蔵識は一時に転識と相応して三受倶に起こる。彼らは多念に依る。一心と説くが如く、並びて一生滅に非ず。相違の過無し。
有義:六識三受容俱。順、違、中境,容俱受故。意不定與五受同故。於偏注境,起一受故;無偏注者,便起捨故。由斯六識三受容俱。
一義有り:六識の三受は倶を容す。順・違・中の境は倶受を容す。意は定めて五と受を同じくせず。偏注の境に於て一受を起こし、偏注無きは便ち捨を起こす。これに由って六識は三受倶を容す。
得自在位,唯樂、喜、捨,諸佛已斷憂、苦事故。
自在の位を得れば、ただ楽・喜・捨のみ。諸仏は已に憂・苦の事を断ぜたるが故に。
前所略摽六位心所,今應廣顯彼差別相。
先前に略く標めし六位の心所は、今まさに広くそれらの差別相を顯すべし。
且初、二位,其相云何?
且く初・二の位のそれらの相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
10初遍行觸等;次別境謂欲、
初めの遍行は触等。次の別境はいわゆる欲・
勝解、念、定、慧,所緣事不同。
勝解・念・定・慧にして、縁ずる所の事同じからず。
論曰:六位中初遍行心所,即觸等五,如前廣說。
論に説く:六位中の初めの遍行心所はすなわち触等の五にして、前に広く説けるが如し。
此遍行相,云何應知?
この遍行の相はどうして知らん。
由教及理,為定量故。
教および理に由って定量と為す。
此中教者,如契經言:眼、色為緣,生於眼識,三和合觸,與觸俱生有受、想、思,乃至廣說。由斯觸等四是遍行。
ここに教とは、契経に説けるが如く:眼・色を縁として眼識を生じ、三和合して触なり。触と倶に生じて受・想・思有り。乃至広く説くと。これに由って触等の四は遍行なり。
又契經說:若根不壞,境界現前,作意正起,方能生識。餘經復言:若於此作意,即於此了別。若於此了別,即於此作意。是故此二,恆共和合,乃至廣說,由此作意,亦是遍行。
また契経に説く:もし根壊れざれば、境界現前して、作意正しく起こるに、乃ち能く識を生ず。其余の経にまた説く:もしここに作意すれば、すなわちここに了別す。もしここに了別すれば、すなわちここに作意す。ゆえにこの二は恒に共和合す。乃至広く説く。これに由って作意もまた遍行なり。
此等聖教,誠證非一。
これらの等の聖教は誠の証あって一処のみに非ず。
理謂識起必有三和。彼定生觸,必由觸有。若無觸者,心、心所法,應不和合觸一境故。
理とは識の起こるに必ず三和有りと説く。それは定めて触を生ず。必ず触有るに由る。もし触無ければ、心・心所法はまさに和合して一境に触れざるべし。
作意引心令趣自境。此若無者,心應無故。
作意は心を引きて自境に趣らしむ。これもし無ければ、心はまさに無かるべし。
受能領納順、違、中境,令心等起歡、慼、捨相。無心起時,無隨一故。
受は能く順・違・中の境を領納して、心等をして歓・戚・捨の相を起こさしむ。心の起こる時に随一無し。
想能安立自境分齊。若心起時無此想者,應不能取境分齊相。
想は能く自境の分斉を安立す。もし心の起こる時にこの想無ければ、まさに境の分斉相を取ること能わざるべし。
思令心取正因等相,造作善等。無心起位,無此隨一,故必有思。
思は心をして正因等の相を取らしめて、善等を造作す。心の起こる位にこの随一無し。ゆえに必ず思有り。
由此證知,觸等五法,心起必有,故是遍行。餘非遍行,義至當說。
これに由って証知す、触等の五法は心の起こるに必ず有り。ゆえに是れ遍行なり。其余は遍行に非ざるは、義まさに説くに至る。
次別境者:謂欲至慧,所緣境事,多分不同,於六位中,次初說故。
次に別境とは、いわゆる欲より慧に至る。縁ずる所の境事は多分同じからず。六位の中にて初に次いで説く。
云何為欲?
何をか欲と謂う。
於所樂境,希望為性,勤依為業。
楽する所の境に対して、希望を性と為し、勤の依を業と為す。
有義:所樂,謂可欣境。於可欣事,欲見、聞等,有希望故。
一義有り:楽する所とは可欣の境を説く。可欣の事に対して、見・聞等を欲して、希望有り。
於可厭事,希彼不合,望彼別離,豈非有欲?
可厭の事に対して、それが合せざるを希い、それが別離するを望む。あに欲有るに非ざるや。
此但求彼不合離時,可欣自體,非可厭事。
これはただそれが合し離れざる時に、可欣の自体を求む。並びて可厭の事に非ず。
故於可厭及中容境,一向無欲。緣可欣事,若不希望,亦無欲起。
ゆえに可厭および中容の境に対しては、一向に欲無し。可欣の事に縁じて、もし希望せざれば、もまた欲は起こらず。
有義:所樂,謂所求境。於可欣、厭,求合、離等,有希望故。於中容境,一向無欲。緣欣、厭事,若不希求,亦無欲起。
一義有り:楽する所とは求むる所の境を説く。可欣・厭に対して、合・離等を求めて、希望有り。中容の境に対しては一向に欲無し。欣・厭の事に縁じて、もし希求せざれば、もまた欲は起こらず。
有義:所樂,謂欲觀境,於一切事,欲觀察者,有希望故。若不欲觀,隨因境勢,任運緣者,即全無欲。
一義有り:楽する所とは観せんと欲する境を説く。一切の事に対して観察せんと欲するは、希望有り。もし観せんと欲せざれば、因境の勢に随って任運に縁ずるは、便ち全く欲無し。
由斯理趣,欲非遍行。
これらの理趣に由って、欲は遍行に非ず。
有說:要由希望境力,諸心、心所方取所緣,故經說「欲為諸法本」。
人の説く有り:希望の境力に由って、諸心・心所は乃ち所縁を取るを要す。ゆえに経に「欲は諸法の本と為る」と説く。
彼說不然。心等取境,由作意故。諸聖教說,作意現前能生識故。曾無處說由欲能生心、心所故。
彼らの説は然らず。心等の境を取るは作意に由る。諸聖教に説く、作意は現前して能く識を生ず。曽て処有りて欲に由って能く心・心所を生ずと説かず。
如說諸法,愛為根本,豈心、心所皆由愛生故?說欲為諸法本者,說欲所起一切事業。或說善欲,能發正勤。由彼助成一切善事,故論說此勤依為業。
諸法は愛を以って根本と為すと説くが如く、あに心・心所は皆愛に由って生ずるや。欲を説いて諸法の本と為すとは、欲の起こす所の一切の事業を説く。あるいは善欲を説いて能く正勤を発す。それに由って一切の善事を助成す。ゆえに論にこの勤の依を業と為すと説く。
云何勝解?於決定境,印持為性,不可引轉為業。
何をか勝解と謂う。決定の境に対して、印持を性と為し、引転すべからざるを業と為す。
謂邪、正等教、理、證力,於所取境,審決印持,由此異緣不能引轉。
いわゆる邪・正の教・理・証力にて、取る所の境に対して審決印持す。これに由って異縁は引転すること能わず。
故猶豫境,勝解全無。非審決心,亦無勝解。由斯勝解,非遍行攝。
ゆえに猶豫の境には勝解は全く無し。審決に非ざる心にもまた勝解無し。これに由って勝解は遍行の摂する所に非ず。
有說:心等取自境時,無拘礙故,皆有勝解。
人の説く有り:心等は自境を取る時、拘礙無きがゆえに、皆勝解有り。
彼說非理。所以者何?能不礙者,即諸法故。所不礙者,即心等故。勝發起者,根、作意故。若由此故,彼勝發起,此應復待餘,便有無窮失。
彼らの説は理に合わず。何故か。能く礙わざるはすなわち諸法なり。礙われざる所はすなわち心等なり。勝く発起するは是れ根・作意なり。もしこれに由ってそれが勝く発起せば、これはまさにまた其余を待つべくして、便ち無窮の失有り。
云何為念?於曾習境,令心明記不忘為性,定依為業。
何をか念と謂う。曽習の境に対して、心をして明記して忘れざらしむるを性と為し、定の依を業と為す。
謂數憶持曾所受境,令不忘失,能引定故;於曾未受體、類境中,全不起念。設曾所受,不能明記,念亦不生。故念必非遍行所攝。
いわゆる曽て受けたる境を数々憶持して、それを忘失せざらしめ、能く定を引く。曽て未だ受けざる体・類の境の中には、全く念を起こさず。たとえ曽て受けたる所にても、明記すること能わざれば、念もまた生ぜず。ゆえに念は必ず遍行の摂する所に非ず。
有說:心起必有念俱,能為後時憶念因故。
人の説く有り:心の起こるには必ず念倶有りて、能く後時の憶念の因と為る。
彼說非理。勿於後時有痴、信等,前亦有故。前心、心所,或想勢力,足為後時憶念因故。
彼らの説は理に合わず。後時に癡・信等有りて前もまた有らしむること莫れ。前の心・心所あるいは想の勢力は、足らく後時の憶念の因と為る。
云何為定?於所觀境,令心專注不散為性,智依為業。
何をか定と謂う。観ずる所の境に対して、心をして専注して散ぜざらしむるを性と為し、智の依を業と為す。
謂觀德、失、俱非境中,由定令心專注不散,依斯便有決擇智生。
いわゆる徳・失・倶非の境の中にて、定に由って心を専注して散ぜざらしめ、これに依って便ち決択の智を生ず。
「心專注」言,顯所欲住,即便能住,非唯一境。不爾,見道歷觀諸諦,前後境別,應無等持。
「心専注」の言は、欲する所に住すれば、便ち能く住するを顯示す。並びて唯一の境に非ず。然らずんば、見道は諸諦を歴観して前後の境別れれば、まさに等持無かるべし。
若不繫心,專注境位,便無定起,故非遍行。
もし心を繫せずして、境に専注する位なれば、便ち定は起こらず。ゆえに遍行に非ず。
有說:爾時亦有定起,但相微隱。應說誠言。
人の説く有り:かの時もまた定は起こる。ただその相は微隠なり。まさに誠言と説くべし。
若定能令心等和合,同趣一境,故是遍行,理亦不然,是觸用故。
もし定は能く心等を和合して、同じく一境に趣らしむ。ゆえに是れ遍行なりと説かば、理また然らず。是れ触の用なるが故に。
若謂此定,令剎那頃,心不易緣,故遍行攝,亦不應理;一剎那心,自於所緣,無易義故。
もしこの定は刹那の頃に心をして縁を易えざらしむ。ゆえに遍行の摂する所なりと説かば、もまた理に応えず。一刹那の心は自ら所縁に於て易の義無きが故に。
若言由定,心取所緣,故遍行攝,彼亦非理;作意令心取所緣故。
もし定に由って心は所縁を取る。ゆえに遍行の摂する所なりと説かば、彼らもまた理に合わず。作意は心をして所縁を取らしむるが故に。
有說:此定體即是心。經說為心學,心一境性故。彼非誠證,依定攝心,令心一境,說彼言故。
人の説く有り:この定の体はすなわち心なり。経に心学と説き、心の一境性と為す。それは誠の証に非ず。定に依って心を摂して、心を一境ならしめて、それらの言を説く。
根、力、覺支、道支等攝。如念、慧等,非即心故。
根・力・覚支・道支等の摂する所なり。念・慧等の如く、並びてすなわち心に非ず。
云何為慧?於所觀境,簡擇為性,斷疑為業。
何をか慧と謂う。観ずる所の境に対して、簡択を性と為し、疑を断ずるを業と為す。
謂觀德、失、俱非境中,由慧推求,得決定故。於非觀境,愚昧心中,無簡擇故,非遍行攝。
いわゆる徳・失・倶非の境の中にて、慧に由って推求して決定を得。観境に非ざるに対しては、愚昧の心の中に簡択無し。ゆえに遍行の摂する所に非ず。
有說:爾時,亦有慧起,但相微隱。天愛寧知?對法說為大地法故;諸部對法,展轉相違,汝等如何執為定量?
人の説く有り:かの時もまた慧は起こる。ただその相は微隠なり。天愛はどうして知らん。対法は大地法と説く。諸部の対法は展転相違す。汝らはどうして定量と執せん。
唯觸等五,經說遍行。說十非經,不應固執。然欲等五,非觸等故,定非遍行,如信、貪等。
唯だ触等の五のみ、経に遍行と説く。十と説くは経に非ず。固く執すべからず。しかし欲等の五は触等に非ず。決定して遍行に非ず。信・貪等の如し。
有義:此五定互相資。隨一起時,必有餘四。
一義有り:この五は定めて互相資す。随って一の起こる時、必ず其余の四有り。
有義:不定。《瑜伽》說此四一切中,無後二故。又說此五,緣四境生,所緣、能緣,非定俱故。
一義有り:定まらず。《瑜伽》にこの四一切の中に後の二無しと説く。またこの五は四境に縁じて生じ、所縁・能縁は並びて定めて倶に非ずと説く。
應說此五,或時起一:謂於所樂,唯起希望;或於決定,唯起印解;或於曾習,唯起憶念;或於所觀,唯起專注。謂愚昧類,為止散心,雖專注所緣,而不能簡擇。世共知彼有定無慧。
まさに説くべし、この五はあるいは時に一を起こす。いわゆる楽する所に対してただ希望を起こし、あるいは決定に対してただ印解を起こし、あるいは曽習に対してただ憶念を起こし、あるいは観ずる所に対してただ専注を起こす。いわゆる愚昧の類は散心を止むる為に、所縁に専注すると雖も、しかし能く簡択せず。世人は共に彼らは定有りて慧無きを知る。
彼加行位,少有聞、思,故說等持,緣所觀境;或依多分,故說是言。如「戲忘天」,專注一境,起貪、瞋等,有定無慧,諸如是等,其類寔繁。
彼らの加行位には少しばかり聞・思有り。ゆえに等持は観ずる所の境に縁ずと説く。あるいは多分に依ってこの言を説く。「戲忘天」の如く、一境に専注して貪・瞋等を起こして、定有りて慧無し。かくのごとき類はその類実に繁し。
或於所觀,唯起簡擇,謂不專注,馳散推求。
あるいは観ずる所に対してただ簡択を起こす。いわゆる専注せずして、馳散して推求す。
或時起二:謂於所樂、決定境中,起欲、勝解;或於所樂、曾習境中,起欲及念。如是乃至於所觀境,起定及慧,合有十二。
あるいは時に二を起こす。いわゆる楽する所・決定の境中に欲・勝解を起こし、あるいは楽する所・曽習の境中に欲および念を起こす。かくのごとく乃至観ずる所の境に対して定および慧を起こし、合して十二有り。
或時起三:謂於所樂、決定、曾習,起欲、解、念;如是乃至於曾、所觀起念、定、慧,合有十三。
あるいは時に三を起こす。いわゆる楽する所・決定・曽習に対して欲・解・念を起こす。かくのごとく乃至曽・観ずる所に対して念・定・慧を起こし、合して十三有り。
或時起四:謂於所樂、決定、曾習、所觀境中,起前四種;如是乃至於定、曾習、所觀境中,起後四種,合有五四。
あるいは時に四を起こす。いわゆる楽する所・決定・曽習・観ずる所の境中に前の四種を起こす。かくのごとく乃至定・曽習・観ずる所の境中に後の四種を起こし、合して五四有り。
或時起五:謂於所樂、決定、曾習、所觀境中,具起五種。
あるいは時に五を起こす。いわゆる楽する所・決定・曽習・観ずる所の境中に、具に五種を起こす。
如是於四,起欲等五,總、別合有三十一句。
かくのごとく四に対して欲等の五を起こすに、総・別合して三十一句有り。
或有心位,五皆不起,如非四境,率爾墮心,及藏識俱,此類非一。
あるいは心位有りて五とも起こらず。非四境・率爾堕心、および蔵識に倶の如く、この類は一に非ず。
第七、八識,此別境五,隨位有無,如前已說。
第七・八識はこの別境の五は位に随って有無す。前の如く已に説きたり。
第六意識諸位容俱,依轉、未轉,皆不遮故。
第六意識は諸位に倶を容す。転・未転に依りて、倶に遮らず。
有義:五識,此五皆無;緣已得境,無希望故;不能審決,無印持故;恆取新境,無追憶故;自性散動,無專注故;不能推度,無簡擇故。
一義有り:五識はこの五は皆無し。已得の境に縁じて希望無く、審決すること能わざれば印持無く、恒に新境を取りて追憶無く、自性は散動にして専注無く、推度すること能わざれば簡択無し。
有義:五識,容有此五:雖無於境增上希望,而有微劣樂境義故;於境雖無增上審決,而有微劣印境義故;雖無明記曾習境體,而有微劣念境類故。
一義有り:五識はこの五有ることを容す。境に対する増上の希望無きと雖も、しかし微劣の境を楽する義有り。境に対する増上の審決無きと雖も、しかし微劣の境を印する義有り。曽習の境体を明記する無きと雖も、しかし微劣の境の類を念ずる義有り。
雖不作意繫念一境,而有微劣專注義故。遮等引故,說性散動,非遮等持,故容有定。
作意して一境に繫念するを作さざると雖も、しかし微劣の専注の義有り。等引を遮って性散動と説く。並びて等持を遮るに非ず。ゆえに定有ることを容す。
雖於所緣不能推度,而有微劣簡擇義故。由此聖教說眼、耳通,是眼、耳識相應智性。餘三準此有慧無失。
所縁に対して推度すること能わざると雖も、しかし微劣の簡択の義有り。これに由って聖教に眼・耳の通を説いて、是れ眼・耳識に相応の智性なり。其余の三はこれに准じて慧有りて失無し。
未自在位,此五或無;得自在時,此五定有。
未だ自在せざる位にはこの五はあるいは無し。自在を得る時にはこの五は定めて有り。
樂觀諸境,欲無減故;印境勝解,常無減故;憶習曾受,念無減故;又佛五識,緣三世故;如來無有不定心故;五識皆有作事智故。
諸境を観るを楽して欲は減せず。境を印する勝解は常に減せず。曾受を憶習して念は減せず。また仏の五識は三世に縁ず。如来は不定の心無し。五識は皆作事の智有り。
此別境五,何受相應?
この別境の五は何の受と相応するや。
有義:欲三,除憂、苦受,以彼二境,非所樂故。餘四通四,唯除苦受,以審決等,五識無故。
一義有り:欲は三にて、憂・苦受を除く。かの二境は楽する所に非ざるが故に。其余の四は四に通じて、ただ苦受を除く。審決等は五識に無きが故に。
有義:一切,五受相應。論說憂根於無上法,思慕愁慼,求欲證故。純受苦處,希求解脫,意有苦根,前已說故。論說貪愛,憂、苦相應。此貪愛俱,必有欲故。苦根既有,意識相應,審決等四,苦俱何咎?又五識俱,亦有微細印境等四,義如前說。
一義有り:一切は五受に相応す。論に憂根は無上の法に対して思慕愁戚して、証せんと求めて欲すと説く。純受苦の処は解脱を希求す。意に苦根有るは前に已に説きたり。論に貪愛は憂・苦に相応すと説く。この貪愛に倶には必ず欲有り。苦根すでに有れば、意識に相応して、審決等の四は苦に倶して何の咎かあらん。また五識に倶にもまた微細の印境等の四有り。義は前の説くが如し。
由斯欲等,五受相應。
これに因って欲等は五受と相応す。
此五復依性、界、學等諸門分別,如理應思。
この五は更に性・界・学等の諸門に依って分別す。理の如くまさに思択すべし。
成唯識論巻第五
成唯識論巻第六
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
已說遍行、別境二位。善位心所,其相云何?
已に遍行・別境の二位を説きたり。善位の心所の行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
11善謂信、慚、愧、無貪等三根,
善とは信・慚・愧・無貪等の三根、
勤、安、不放逸、行捨及不害。
勤・安・不放逸・行捨および不害を説く。
論曰:唯善心俱,名善心所。謂信、慚等,定有十一。
論に説く:ただ善心と倶にするを名づけて善心所という。いわゆる信・慚等は決定して十一有り。
云何為信?於實、德、能,深忍、樂、欲,心淨為性;對治不信,樂善為業。
何をか信と謂う。実・徳・能に対して、深く忍し・楽しみ・欲して、心浄を性と為す。不信に対治して善を楽するを業と為す。
然信差別,略有三種:一、信實有,謂於諸法實事、理中,深信忍故;二、信有德,謂於三寶真淨德中,深信樂故;三、信有能,謂於一切世、出世善,深信有力,能得能成,起希望故。
しかし信の差別は略して三種有り。一、実有りと信ず。いわゆる諸法の実事・理に対して深く信じて忍するゆえん。二、徳有りと信ず。いわゆる三宝の真浄の徳に対して深く信じて楽するゆえん。三、能有りと信ず。いわゆる一切の世・出世の善に対して深く信じて力有りて、得る能・成す能有りて、希望を生起するゆえん。
由斯對治彼不信心,愛樂證修世、出世善。
これに因ってかの不信の心に対治して、世・出世の善を愛楽して証修す。
忍謂勝解,此即信因;樂欲謂欲即是信果。礭陳此信,自相是何?
忍とは勝解を説く。これすなわち信の因なり。楽欲とは欲を説く。すなわち信の果なり。確然としてこの信を陳ずれば、自相とは何ぞ。
豈不適言,心淨為性?
剛し已に説かざりしか、心浄を性と為すと。
此猶未了,彼「心淨」言,若淨即心,應非心所;若令心淨,慚等何別?心俱淨法,為難亦然。
これは未だ了知せず。かの「心浄」の言は、もし浄はすなわち心なれば、まさに心所に非ざるべし。もし心をして浄ならしむれば、慚等と何の分別かあらん。心と倶の浄法は難を設くるもまたこの如し。
此性澄清,能淨心等。以心勝故,立心淨名。如水清珠,能清濁水。慚等雖善,非淨為相。此淨為相,無濫彼失。又諸染法,各別有相。唯有不信,自相渾濁,復能渾濁餘心、心所。如極穢物,自穢穢他。信正翻彼,故淨為相。
この性は澄清にして能く心等を浄す。心の殊勝なるに因って「心浄」の名を立つ。水清の珠の濁水を清むるが能くするが如し。慚等は善なると雖も、並びて浄を以って相と為すに非ず。これは浄を以って相と為す。それらと相濫の過失無し。また諸染法は各々別相有り。唯だ不信のみ、自相渾濁して、また能く其余の心・心所を渾濁せしむ。極穢の物の自ら穢して他をも穢すが如し。信は正にそれに翻対す。ゆえに浄を以って相と為す。
有說:信者愛樂為相。應通三性,體應即欲。又應苦、集非信所緣。
人の説く有り:信は愛楽を以って相と為す。まさに三性に通ずべくして、体はまさにすなわち欲ならん。またまさに苦・集は信の縁ずる所に非ざるべし。
有執信者隨順為相。應通三性,即勝解、欲。若印順者,即勝解故。若樂順者,即是欲故。離彼二體,無順相故。由此應知,心淨是信。
人有りて信は随順を以って相と為すと執す。まさに三性に通ずべくして、すなわち勝解・欲ならん。もし印順のはすなわち勝解のゆえん。もし楽順のはすなわち欲のゆえん。かの二体を離れて順相のゆえん無し。これに由ってまさに知るべし、心浄は是れ信なり。
云何為慚?依自、法力,崇重賢、善為性;對治無慚,止息惡行為業。謂依自、法尊、貴增上,崇重賢、善,羞恥過惡,對治無慚,息諸惡行。
何をか慚と謂う。自・法力に依って、賢・善を崇重するを性と為す。無慚に対治して悪行を止息するを業と為す。いわゆる自・法の尊・貴の増上に依って、賢・善を崇重して、過悪を羞恥し、無慚に対治して諸悪行を止息す。
云何為愧?依世間力,輕拒暴惡為性;對治無愧,止息惡行為業。謂依世間訶、厭增上,輕拒暴惡,羞恥過罪,對治無愧,息諸惡業。
何をか愧と謂う。世間力に依って、暴悪を軽拒するを性と為す。無愧に対治して悪行を止息するを業と為す。いわゆる世間の訶責・厭離の増上に依って、暴悪を軽拒して、過罪を羞恥し、無愧に対治して諸悪業を止息す。
羞恥過惡是二通相;故諸聖教,假說為體。
過悪を羞恥するはこの二の通相なり。ゆえに諸聖教は假に体と説く。
若執羞恥,為二別相,應慚與愧,體無差別。則此二法定不相應,非受、想等有此義故。若待自、他,立二別者,應非實有,便違聖教。若許慚、愧實而別起,復違論說十遍善心。
もし羞恥を執してこの二の別相と為さば、まさに慚と愧とは体に差別無かるべし。然らばこの二法は決定して相応せず。受・想等にこの義有るのゆえんに非ず。もし自・他を待ってこの二の分別を立てば、まさに実有に非ざるべし。便ち聖教に違背す。もし慚・愧は実有にして生起を分別すと許せば、また論説に違背す。十は善心に遍す。
崇重、輕拒若二別相,所緣有異,應不俱生。二失既同,何乃偏責?誰言二法所緣有異?不爾,如何?善心起時,隨緣何境,皆有崇重善,及輕拒惡義。故「慚」與「愧」,俱遍善心,所緣無別。豈不我說亦有此義?汝執「慚」、「愧」自相既同,何理能遮前所設難?
崇重・軽拒もしこの二の別相なれば、所縁は異有りて、まさに倶生せざるべし。二の失はすでに同じければ、なんぞ偏りて一辺を責む。誰かこの二法は所縁に異有りと説く。然らずんばいかん。善心の生起する時、何れの境に縁ずるに随っても、皆善を崇重しおよび悪を軽拒するの義有り。ゆえに「慚」・「愧」は皆善心に遍して、所縁は分別無し。あに我もまたこの義有りと説くに非ずや。汝は「慚」・「愧」の自相はすでに同じと執す。何の理有りてか前の設難する所を遮るを得ん。
然聖教說:「顧自、他者」,自法名自,世間名他。或即此中,崇拒善惡,於己益損,名自、他故。
しかし聖教に説く:「自・他を顧みる」とは、自・法を名づけて自といい、世間を名づけて他という。あるいはすなわちここに、善を崇して悪を拒み、自己の益・損に対して、名づけて自・他というのゆえん。
「無貪等」者,等無瞋、痴。此三名根,生善勝故。三不善根,近對治故。
「無貪等」とは、等しく無瞋・無癡を取る。この三を名づけて根という。善を生ずるに殊勝なるのゆえん。三不善根に対して近き対治たるのゆえん。
云何無貪?於有、有具,無著為性;對治貪著,作善為業。
何をか無貪と謂う。有・有具に対して、著無きを性と為す。貪著に対治して善を作すを業と為す。
云何無瞋?於苦、苦具,無恚為性;對治瞋恚,作善為業。
何をか無瞋と謂う。苦・苦具に対して、恚無きを性と為す。瞋恚に対治して善を作すを業と為す。
善心起時,隨緣何境,皆於有等,無著、無恚,觀有等立,非要緣彼。如前慚、愧,觀善、惡立,故此二種,俱遍善心。
善心の生起する時、何れの境に縁ずるに随っても、皆有等に対して著無く恚無し。有等を観て立つ。必ずそれらに縁ずるを須いず。前の慚・愧の善・悪を観て立つが如し。ゆえにこの二種は皆善心に遍す。
云何無痴?於諸理事,明解為性;對治愚痴,作善為業。
何をか無癡と謂う。諸々の理事に対して、明解を性と為す。愚癡に対治して善を作すを業と為す。
有義:無痴即慧為性。《集論》說:此報、教、證、智決擇為體,生得、聞、思、修所生慧。如次皆是決擇性故。
一義有り:無癡はすなわち慧を以って性と為す。《集論》に説く:これは報・教・証・智の決択を以って体と為し、生得・聞・思・修の所生慧なり。この次第に按すれば皆決択性たるのゆえん。
此雖即慧,為顯善品,有勝功能,如煩惱見,故復別說。
これはすなわち慧なると雖も、善品の殊勝の功能有るを顯示する為に、煩悩の見の如く、ゆえにまた別に説く。
有義:無痴非即是慧,別有自性,正對無明。如無貪、瞋,善根攝故。
一義有り:無癡はすなわち慧に非ず。別に自性有りて、正しく無明に対す。無貪・無瞋の如く、善根の摂する所なるのゆえん。
論說:大悲無瞋、痴攝,非根攝故。若彼無痴,以慧為性,大悲如力等,應慧等根攝。又若無痴無別自性,如不害等,應非實物。便違論說:十一善中,三世俗有,餘皆是實。
論に説く:大悲は無瞋・無癡の摂する所にして、根の摂する所に非ずとのゆえん。もし彼の無癡は慧を以って性と為さば、大悲は力等の如く、まさに慧等根の摂する所ならん。またもし無癡は別の自性無ければ、不害等の如く、まさに実物に非ざるべし。便ち論説に違背す:十一善の中に三は世俗有にして、其余は皆実なりと。
然《集論》說:慧為體者,舉彼因果,顯此自性。如以忍、樂,表「信」自體,理必應爾。
しかし《集論》に慧を以って体と為すと説くは、その因果を挙げて、この自性を顯示す。忍・楽を用いて「信」の自体を表するが如く、理必ずまさに然るべし。
以貪、瞋、痴六識相應,正煩惱攝。起惡勝故,立不善根。斷彼必由通、別對治。通唯善慧,別即三根。由此無痴必應別有。
貪・瞋・癡は六識と相応して、正煩悩の摂する所なり。悪を起こすに殊勝なるのゆえんに、不善根を立つ。それらを断ずるは必ず通・別の対治に由る。通はただ善慧のみ、別はすなわち三根なり。これに由って無癡は必ずまさに別に有るべし。
勤謂精進,於善、惡品修、斷事中,勇、悍為性;對治懈怠,滿善為業。
勤とは精進を説く。善・悪品の修・断の事に於て、勇・悍を性と為す。懈怠に対治して善を満たすを業と為す。
「勇」表勝進,簡諸染法。「悍」表精純,簡淨無記。即顯精進,唯善性攝。
「勇」は勝進を表して諸染法を簡別す。「悍」は精純を表して浄無記を簡別す。すなわち精進はただ善性の摂する所なりを顯示す。
此相差別略有五種。所謂:被甲、加行、無下、無退、無足。
この相の差別は略して五種有り。いわゆる:被甲・加行・無下・無退・無足。
即經所說:有勢、有勤、有勇、堅猛、不捨善軛,如次應知。
すなわち経の説く所なり:勢有り・勤有り・勇有り・堅猛・善軛を捨てず。この次第に按してまさに知るべし。
此五別者,謂初發心、自分、勝進,自分行中,三品別故;或初發心、長時、無間、慇重、無餘,修差別故;或資糧等,五道別故。二乘究竟道,欣大菩提故,諸佛究竟道,樂利樂他故;或二加行、無間、解脫、勝進別故。
この五の分別とは、いわゆる初発心・自分・勝進にして、自分行の中に三品の分別有るのゆえん。あるいは初発心・長時・無間・殷重・無余にして、修の差別なるのゆえん。あるいは資糧等の五道の分別なるのゆえん。二乗の究竟道は大菩提を欣求するのゆえん。諸仏の究竟道は他を利楽するを楽するのゆえん。あるいは二の加行・無間・解脱・勝進の分別なるのゆえん。
「安」謂輕安,遠離麁重,調暢身心,堪任為性;對治惛沈,轉依為業。
「安」とは軽安を説く。麁重を遠離して、身心を調暢して、堪任を性と為す。惛沈に対治して、転依を業と為す。
謂此伏除能障定法,令所依止,轉安適故。
いわゆるこれは能く定を障る法を伏除して、依る所をして安適に転ぜしむるのゆえん。
「不放逸」者:精進、三根,於所斷、修,防、修為性;對治放逸,成滿一切世、出世間善事為業。
「不放逸」とは、精進・三根は断ずる所・修する所に対して、防・修を性と為す。放逸に対治して、一切の世・出世間の善事を成満するを業と為す。
謂即四法,於斷修事,皆能防、修,名不放逸。非別有體,無異相故。於防惡事、修善事中,離四功能,無別用故。雖信、慚等,亦有此能,而方彼四,勢用微劣;非根、遍策,故非此依。
いわゆるすなわちこの四法は断・修の事に対して皆能く防・修す。名づけて不放逸という。別に体有りに非ず。異相無きのゆえん。悪事を防ぎ善事を修するの中に、四法の功能を離れて、別の用有る無きのゆえん。信・慚等もまたこの能有ると雖も、しかしかの四に比ぶれば勢用は微劣にして、根に非ず遍策に非ず。ゆえにこの依る所に非ず。
豈不防、修是此相用?
あに防・修はこの相用に非ざるや。
防、修何異精進、三根?
防・修は精進・三根と何の異なるか有らん。
彼要待此,方有作用。
それらはこれを待つを要して、乃ち作用有り。
此應復待餘,便有無窮失。
これはまさにまた其余を待つべくして、便ち無窮の過失有り。
勤唯遍策,根但為依,如何說彼有防、修用?
勤はただ遍策のみ。根はただ依と為るを作すのみ。どうしてそれらに防・修の用有りと説かん。
汝防、修用,其相云何?
汝の説く所の防・修の用は行相いかん。
若普依持,即無貪等。若遍策錄,不異精進。止惡、進善,即總四法。令不散亂,應是等持。令同取境,與觸何別?令不忘失,即應是念。
もし普遍に依持せば、すなわち無貪等なり。もし遍く策録せば、精進に異ならず。悪を止め善を進むるはすなわち総の四法なり。散ぜざらしむれば、まさに等持ならん。同じく境を取らしむれば、触と何の分別かあらん。忘失せざらしむれば、まさに念ならん。
如是推尋不放逸用,離無貪等,竟不可得。故不放逸,定無別體。
かくのごとく不放逸の用を推尋すれば、無貪等を離れて、終に求むるを得ず。ゆえに不放逸は決定して別体無し。
云何「行捨」?精進、三根,令心平等、正直、無功用住為性;對治掉舉,靜住為業。
何をか「行捨」と謂う。精進・三根は心をして平等・正直・無功用住ならしむるを性と為す。掉挙に対治して静住を業と為す。
謂即四法,令心遠離掉舉等障,靜住名捨。平等、正直、無功用住,初、中、後位,辯捨差別。由不放逸先除雜染;捨復令心寂靜而住。
いわゆるすなわちこの四法は心をして掉挙等の障を遠離せしめて、静に住するを名づけて捨という。平等・正直・無功用住は初・中・後の位にて捨の差別を弁ず。不放逸に由って先ず雑染を除き、捨はまた心をして寂静に住せしむ。
此無別體,如不放逸,離彼四法,無相、用故。能令寂靜,即四法故;所令寂靜,即心等故。
これは別体無し。不放逸の如く、かの四法を離れて相・用無きのゆえん。能く寂静ならしむるはすなわち四法のゆえん。寂静ならしむる所はすなわち心等のゆえん。
云何「不害」?於諸有情,不為損惱,無瞋為性;能對治害,悲愍為業。
何をか「不害」と謂う。諸有情に対して、損悩を為さざるにして、無瞋を性と為す。能く害に対治して悲愍を業と為す。
謂即無瞋,於有情所,不為損惱,假名不害。
いわゆるすなわち無瞋は有情の所に対して損悩を為さず。假に名づけて不害という。
無瞋,翻對斷物命瞋;不害,正違損惱物害。無瞋與樂;不害拔苦。是謂此二麁相差別。
無瞋は物の命を断つ瞋に翻対す。不害は物を損悩する害を正しく違す。無瞋は楽を与え、不害は苦を抜く。これはこの二の麁相の差別を説く。
理實無瞋實有自體;不害依彼一分假立。為顯慈、悲,二相別故。利樂有情,彼二勝故。
理に按して実に説けば、無瞋は実に自体有り。不害はそれが一分に依って假立す。慈・悲の二相の分別を顯示する為のゆえん。有情を利楽するにかの二は殊勝なるのゆえん。
有說:不害非即無瞋,別有自體,謂賢善性。此相云何?謂不損惱。無瞋亦爾,寧別有性?謂於有情不為損惱,慈悲賢善,是無瞋故。
人の説く有り:不害はすなわち無瞋に非ず。別に自体有り。いわゆる賢善性。これは相いかん。いわゆる損悩せざる。無瞋もまたこの如し。どうして別に性有らん。いわゆる有情に対して損悩を為さず。慈悲賢善はすなわち無瞋のゆえん。
「及」顯十一,義別心所,謂欣、厭等善心所法。雖義有別,說種種名,而體無異,故不別立。
「及」は十一の外に義の上の別の心所有るを顯示す。いわゆる欣・厭等の善心所法。義は分別有りて種種の名を説くと雖も、しかし体は異ならず。ゆえに別に立てず。
欣謂欲俱,無瞋一分,於所欣境,不憎恚故。
欣とは欲と倶の無瞋の一分を説く。欣する所の境に対して憎恚せざるのゆえん。
不忿、恨、惱、嫉等亦然;隨應正翻瞋一分故。
忿・恨・悩・嫉等ならざるもまたこの如し。随応して正しく瞋の一分を翻すのゆえん。
厭謂慧俱無貪一分,於所厭境,不染著故。
厭とは慧と倶の無貪の一分を説く。厭する所の境に対して染著せざるのゆえん。
不慳、憍等,當知亦然。隨應正翻,貪一分故。
慳・憍等ならざるもまさに然るべしと知る。随応して正しく翻す、貪の一分なるのゆえん。
不覆、誑、諂無貪、痴一分;隨應正翻,貪、痴一分故。
覆・誑・諂ならざるは無貪・無癡の一分なり。随応して正しく翻す、貪・癡の一分なるのゆえん。
有義:不覆唯無痴一分;無處說覆亦貪一分故。
一義有り:覆ならざるはただ無癡の一分のみ。覆もまた貪の一分なりと説く処無きのゆえん。
有義:不慢信一分攝,謂若信彼,不慢彼故。有義:不慢捨一分攝,心平等者,不高慢故。有義:不慢慚一分攝,若崇重彼,不慢彼故。
一義有り:慢ならざるは信の一分の摂する所なり。いわゆるもしそれを信ぜば便ちそれを慢らざるのゆえん。一義有り:慢ならざるは捨の一分の摂する所なり。心の平等なるは高慢せざるのゆえん。一義有り:慢ならざるは慚の一分の摂する所なり。もしそれを崇重せば便ちそれを慢らざるのゆえん。
有義:不疑即信所攝,謂若信彼,無猶豫故。有義:不疑:即正勝解,以決定者,無猶豫故。有義:不疑即正慧攝,以正見者,無猶豫故。
一義有り:疑わざるはすなわち信の摂する所なり。いわゆるもしそれを信ぜば猶豫無きのゆえん。一義有り:疑わざるはすなわち正勝解なり。決定するは猶豫無きのゆえん。一義有り:疑わざるはすなわち正慧の摂する所なり。正見するは猶豫無きのゆえん。
不散亂體,即正定攝。正見、正知,俱善慧攝。不忘念者,即是正念。
散乱せざるの体はすなわち正定の摂する所なり。正見・正知は皆善慧の摂する所なり。念を忘れざるはすなわち正念なり。
悔、眠、尋、伺,通染、不染,如觸、欲等,無別翻對。
悔・眠・尋・伺は染・不染に通ず。触・欲等の如く、別に翻対無し。
何緣諸染所翻善中,有別建立,有不爾者?
なんの故にか諸染の翻ずる所の善の中に、別に建立する有り、この如ならざる有るや。
相、用別者,便別立之;餘善不然,故不應責。又諸染法遍六識者,勝故翻之,別立善法。慢等、忿等,唯意識俱。害雖亦然,而數現起損惱他故;障無上乘勝因悲故;為了知彼增上過失,翻立不害。失念、散亂及不正知,翻入別境,善中不說。
相・用に分別有るは便ち別にそれを立つ。其余の善はこの如ならず。ゆえに責問すべからず。また諸染法の六識に遍するは殊勝のゆえん、それを翻して別に善法を立つ。慢等・忿等はただ意識と倶のみ。害はもまたこの如なると雖も、しかし数・数現起して他を損悩するのゆえん。無上乗の殊勝の因たる悲を障るのゆえん。その増上の過失を了知せしめんが為に、翻して不害を立つ。失念・散乱および不正知は翻して別境に入る。善の中に説かず。
染、淨相翻,淨寧少染?
染・浄は相翻ずるに、浄はどうして染に比べて少なきや。
淨勝染劣,少敵多故。又解理通,說多同體,迷情事局,隨相分多。故於染、淨,不應齊責。
浄は勝れ染は劣る。少は能く多に敵するのゆえん。また解理は通じて多に同体と説き、迷情は事局にして相に随って多に分かつ。ゆえに染・浄に対して斉しく責むべからず。
此十一法,三是假有,謂不放逸、捨及不害,義如前說。餘八實有,相、用別故。
この十一法は三は假有なり。いわゆる不放逸・捨および不害。義は前に説けるが如し。其余の八は実有なり。相・用分別なるのゆえん。
有義:十一四遍善心,精進、三根,遍善品故。餘七不定。
一義有り:十一中に四は善心に遍す。精進・三根は善品に遍するのゆえん。其余の七は定まらず。
推尋事理,未決定時,不生信故。慚、愧同類,依處各別,隨起一時,第二無故。要世間道斷煩惱時,有輕安故。不放逸、捨,無漏道時,方得起故。悲愍有情時,乃有不害故。
事理を推尋して未だ決定せざる時は信を生ぜざるのゆえん。慚・愧は同類にして依処各々別なり。随って一時に起こるに第二は無きのゆえん。世間道にて煩悩を断ずる時に軽安有るのゆえん。不放逸・捨は無漏道の時に乃ち起こるを得るのゆえん。有情を悲愍する時に乃ち不害有るのゆえん。
論說:十一六位中起。謂決定位,有信相應。止息染時,有慚、愧起,顧自、他故。於善品位,有精進、三根。世間道時,有輕安起,於出世道,有捨、不放逸。攝眾生時,有不害故。
論に説く:十一は六位の中に起こる。いわゆる決定位に信の相応有り。染を止息する時に慚・愧の起こる有り。自・他を顧るのゆえん。善品位に於て精進・三根有り。世間道の時に軽安の起こる有り。出世道に於て捨・不放逸有り。衆生を摂する時に不害有るのゆえん。
有義:彼說未為應理。推尋事理,未決定心,信若不生,應非是善。如染心等,無淨信故。
一義有り:彼らの説は未だ理に応えず。事理を推尋して未だ決定せざる心は、信もし生ぜざれば、まさに善に非ざるべし。染心等の如く、浄信無きのゆえん。
慚、愧類異,依別境同,俱遍善心,前已說故。
慚・愧は類異なりて依別れど境は同じ。倶に善心に遍すは前に已に説けるゆえん。
若出世道輕安不生,應此覺支非無漏故。
もし出世道に軽安は生ぜざれば、まさにこの覚支は無漏に非ざるのゆえん。
若世間道無捨、不放逸,應非寂靜防惡修善故;又應不伏掉、放逸故。有漏善心既具四法,如出世道應有二故。
もし世間道に捨・不放逸無ければ、まさに寂静・防悪・修善に非ざるのゆえん。またまさに掉挙・放逸を伏すること能わざるのゆえん。有漏の善心はすでに四法を具えば、出世道の如くまさにこの二有るべきのゆえん。
善心起時,皆不損物,違能損法,有不害故。
善心の生起する時は皆物を損せず。能く損する法に違して不害有るのゆえん。
論說:「六位起十一」者,依彼彼增,作此此說。故彼所說,定非應理。
論の説く「六位に十一を起こす」とは、各々の増勝に依って各々の説を作す。ゆえに彼らの説く所は決定して理に応えず。
應說信等十一法中,十遍善心,輕安不遍。要在定位,方有輕安,調暢身心,餘位無故。
まさに説くべし、信等の十一法の中に十は善心に遍し、軽安は遍せず。定位に在るを要して乃ち軽安有りて、身心を調暢す。其余の位には無きのゆえん。
〈決擇分〉說:十善心所定、不定地皆遍善心,定地心中,增輕安故。
〈決択分〉に説く:十の善心所は定地・不定地に倶に善心に遍す。定地の心中に軽安を増すのゆえん。
有義:定加行,亦得定地名。彼亦微有調暢義故。由斯欲界亦有輕安。不爾,便違〈本地分〉說:信等十一通一切地。
一義有り:定の加行もまた定地の名を得。それもまた微かに調暢の義有るのゆえん。これに因って欲界にもまた軽安有り。然らずんば便ち〈本地分〉の説くに違背す:信等の十一は一切地に通ず。
有義:輕安唯在定有。由定滋養,有調暢故。論說:欲界諸心、心所,由闕輕安,名不定地。說一切地有十一者,通有尋伺等三地皆有故。
一義有り:軽安はただ定にのみ有り。定の滋養する所に由って調暢有るのゆえん。論に説く:欲界の諸心・心所は軽安を缺くがゆえに、名づけて不定地という。一切地に十一有りと説くは、尋・伺等を通して三地に皆有るのゆえん。
此十一種,前已具說。第七、八識,隨位有無。第六識中,定位皆具。若非定位,唯闕輕安。
この十一種は前に已に具に説きたり。第七・八識は位に随って有無す。第六識の中には定位は皆具す。もし定位に非ざれば、ただ軽安を缺くのみ。
有義:五識唯有十種,自性散動,無輕安故。
一義有り:五識はただ十種のみ有り。自性は散動にして軽安無きのゆえん。
有義:五識亦有輕安。定所引善者,亦有調暢故。成所作智俱,必有輕安故。
一義有り:五識もまた軽安有り。定の引く所の善はもまた調暢有るのゆえん。成所作智と倶には必ず軽安有るのゆえん。
此善十一,何受相應?十五相應。一除憂、苦,有逼迫受,無調暢故。
この善の十一は何の受と相応するや。十は五受と相応す。一は憂・苦を除く。逼迫受有れば調暢無きのゆえん。
此與別境皆得相應。信等欲等,不相違故。
これは別境と倶に能く相応す。信等・欲等は相違せざるのゆえん。
十一唯善。
十一はただ善なり。
輕安非欲,餘通三界。
軽安は欲界に在らず。其余は三界に通ず。
皆學等三。
皆学・無学・非学非無学の三種に通ず。
非見所斷。《瑜伽論》說:信等六根,唯修所斷,非見所斷。
見の断ずる所に非ず。《瑜伽論》に説く:信等の六根はただ修の断ずる所にして、見の断ずる所に非ず。
餘門分別,如理應思。
其余の門の分別は理の如くまさに思択すべし。
如是已說善位心所,煩惱心所其相云何?
かくのごとく已に善位の心所を説きたり。煩悩の心所の行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
12煩惱謂貪、瞋、痴、慢、疑、惡見。
煩悩とは貪・瞋・癡・慢・疑・悪見を説く。
論曰:此貪等六性是根本煩惱攝故,得煩惱名。
論に説く:この貪等の六は、性は根本煩悩の摂する所なるのゆえん、煩悩の名を得。
云何為貪?於有、有具,染著為性;能障無貪,生苦為業。
何をか貪と謂う。有・有具に対して、染著を性と為す。能く無貪を障り、苦を生ずるを業と為す。
謂由愛力,取蘊生故。
いわゆる愛の力に由って取蘊を生ずるのゆえん。
云何為瞋?於苦、苦具,憎恚為性;能障無瞋,不安隱性,惡行所依為業。
何をか瞋と謂う。苦・苦具に対して、憎恚を性と為す。能く無瞋を障り、安隱せざる性にして、悪行の依る所を業と為す。
謂瞋必令身、心熱惱,起諸惡業,不善性故。
いわゆる瞋は必ず身・心をして熱悩せしめて、諸々の悪業を起こす。不善性なるのゆえん。
云何為痴?於諸理、事,迷闇為性;能障無痴,一切雜染所依為業。
何をか癡と謂う。諸々の理・事に対して、迷闇を性と為す。能く無癡を障り、一切雑染の依る所を業と為す。
謂由無明,起疑、邪見、貪等煩惱、隨煩惱業,能招後生雜染法故。
いわゆる無明に由って、疑・邪見・貪等の煩悩・随煩悩の業を起こして、能く後生の雑染法を招くのゆえん。
云何為慢?恃己於他,高舉為性;能障不慢,生苦為業。
何をか慢と謂う。己を恃みて他に対して、高挙を性と為す。能く不慢を障り、苦を生ずるを業と為す。
謂若有慢,於德、有德,心不謙下,由此生死輪轉無窮,受諸苦故。
いわゆるもし慢有れば、徳・有德に対して心は謙下せず。これに由って生死は輪転して窮まること無く、諸苦を受くるのゆえん。
此慢差別有七、九種,謂於三品、我、德處生。
この慢の差別は七・九種有り。いわゆる三品・我・徳の処に対して生ず。
一切皆通見修所斷,聖位我慢既得現行,慢類由斯起亦無失。
一切は見・修の断ずる所に通ず。聖位の我慢はすでに現行するを得れば、慢の類はこれに由って起こるもまた過失無し。
云何為疑?於諸諦理,猶豫為性;能障不疑善品為業。
何をか疑と謂う。諸々の諦理に対して、猶豫を性と為す。能く疑わざる善品を障るを業と為す。
謂猶豫者,善不生故。
いわゆる猶豫するは善は生ぜざるのゆえん。
有義:此疑以慧為體,猶豫簡擇說為疑故。「毘」助「末底」,是疑義故,「末底」般若義無異故。
一義有り:この疑は慧を以って体と為す。猶豫簡択を疑と説くのゆえん。「毘」(vi-)は「末底」(mati、慧)を助くるは疑の義なるのゆえん。「末底」と般若とは義異無きのゆえん。
有義:此疑別有自體,令慧不決,非即慧故。《瑜伽論》說:「六煩惱中,見世俗有,即慧分故。餘是實有,別有性故。」「毘」助「末底」,執慧為疑,「毘」助「若南」,智應為識。界由助力,義便轉變,是故此疑非慧為體。
一義有り:この疑は別に自体有りて、慧をして決せざらしむ。すなわち慧に非ざるのゆえん。《瑜伽論》に説く:「六煩悩の中に見は世俗有なり。すなわち慧の分なるのゆえん。其余は実有にして別に性有るのゆえん。」「毘」は「末底」を助けて慧を疑と執す。「毘」は「若南」(jñāna、智)を助けて智はまさに識と為るべし。界は助力に由って義は便ち転変す。ゆえにこの疑は慧を以って体と為すに非ず。
云何惡見?於諸諦理,顛倒推度,染慧為性;能障善見,招苦為業。
何をか悪見と謂う。諸々の諦理に対して、顛倒して推度して、染慧を性と為す。能く善見を障り、苦を招くを業と為す。
謂惡見者,多受苦故。
いわゆる悪見は多くの苦を招くのゆえん。
此見行相,差別有五:
この見の行相の差別は五有り。
一、薩迦耶見:謂於五取蘊,執我、我所,一切見趣所依為業。
一、薩迦耶見(有身見):いわゆる五取蘊に対して我・我所を執して、一切の見趣の依る所を業と為す。
此見差別,有二十句、六十五等,分別起攝。
この見の差別は二十句・六十五等有りて、分別起の摂する所なり。
二、邊執見:謂即於彼,隨執斷、常,障處中行、出離為業。
二、辺執見:いわゆるすなわちそれに対して断・常を随執して、処中行・出離を障るを業と為す。
此見差別,諸見趣中,有執前際四遍常論、一分常論;及計後際有想十六;無想、俱非各有八論;七斷滅論等,分別起攝。
この見の差別は諸見趣の中に、前際を執する四の遍常論・一分常論有り、および後際を計する有想十六、無想・倶非各々八論有り、七の断滅論等ありて、分別起の摂する所なり。
三、邪見:謂謗因果、作用、實事及非四見諸餘邪執,如增上緣,名義遍故。
三、邪見:いわゆる因果・作用・実事を謗し、および四見に非ざる諸々の其余の邪執。増上縁の如く、名・義遍するのゆえん。
此見差別,諸見趣中,有執前際二無因論、四有邊等、不死矯亂;及計後際五現涅槃;或計自在、世主、釋、梵及餘物類,常恆不易;或計自在等是一切物因;或有橫計諸邪解脫;或有妄執非道為道,諸如是等皆邪見攝。
この見の差別は諸見趣の中に、前際を執する二の無因論・四の有辺等・不死の矯乱、および後際を計する五の現涅槃。あるいは自在・世主・釈・梵および其余の物類を計して常恒にして易わらずと為し、あるいは自在等は一切の物の因と計し、あるいは横に諸々の邪解脱を計し、あるいは妄りに非道を道と執す。かくのごとき類は皆邪見の摂する所なり。
四、見取:謂於諸見及所依蘊,執為最勝,能得清淨,一切鬪諍所依為業。
四、見取:いわゆる諸見および依る所の蘊に対して、執して最勝と為して能く清浄を得ると為して、一切の鬥諍の依る所を業と為す。
五、戒禁取:謂於隨順諸見戒禁及所依蘊,執為最勝,能得清淨,無利勤苦所依為業。
五、戒禁取:いわゆる諸見に随順する戒禁および依る所の蘊に対して、執して最勝と為して能く清浄を得ると為して、利無き勤苦の依る所を業と為す。
然有處說:執為最勝,名為見取,執能得清淨,名戒取者,是影略說,或隨轉門。不爾,如何非滅計滅、非道計道,說為邪見,非二取攝。
しかし処有りて説く:執して最勝と為すを名づけて見取と為り、執して能く清浄を得るを名づけて戒取というは、是れ影略に説き、あるいは転門に随う。然らずんばいかん。滅に非ざるを滅と計し、道に非ざるを道と計するを、邪見と説くにして、二取の摂する所に非ず。
如是總別十煩惱中,六通俱生及分別起,任運、思察,俱得生故。疑後三見,唯分別起,要由惡友或邪教力,自審思察,方得生故。
かくのごとく総・別の十煩悩の中に、六は倶生および分別起に通ず。任運・思察にて倶に生ずるを得るのゆえん。疑と後の三見はただ分別起のみ。悪友あるいは邪教の力に由って、自ら審かに思察して、乃ち生ずるを得るのゆえん。
邊執見中通俱生者,有義:唯斷。常見相麁,惡友等力方引生故。《瑜伽》等說:「何邊執見是俱生耶?謂斷見攝。」學現觀者,起如是怖:「今者我,我何所在耶?」故禽獸等若遇違緣,皆恐我斷,而起驚怖。
辺執見中の倶生に通ずるは、一義有り:ただ断のみ。常見の相は麁く、悪友等の力に由って乃ち引生するのゆえん。《瑜伽》等に説く:「何の辺執見をか倶生と為す。いわゆる断見の摂する所。」現観を学ぶ人はかくのごとき怖を生起す:「今この我は何の処にか在らん。」ゆえに禽獣等もし違縁に遇えば、皆我の断ぜんことを恐れて、驚怖を生起す。
有義:彼論依麁相說,理實俱生,亦通常見。謂禽獸等,執我常存,熾然聚集長時資具。故《顯揚》等諸論皆說:於五取蘊,執斷、計常,或是俱生或分別起。
一義有り:かの論は麁相に依って説く。理に按して実は倶生もまた常見に通ず。いわゆる禽獣等は我の常存を執して、熾然として長時の資具を聚集す。ゆえに《顯揚》等の諸論は皆説く:五取蘊に対して断を執し常を計するは、あるいは倶生あるいは分別起なり。
此十煩惱,誰幾相應?
この十煩悩は誰かいくつと相応するや。
貪與瞋、疑,定不俱起,愛、憎二境,必不同故;於境不決,無染著故。
貪と瞋・疑とは決定して倶に起こらず。愛・憎の二境は必ず同じからざるのゆえん。境に対して決せざれば染著無きのゆえん。
貪與慢、見,或得相應,所愛、所陵境非一故,說不俱起。所染、所恃境可同故,說得相應。於五見境,皆可愛故,貪與五見相應無失。
貪と慢・見とはあるいは相応するを得。愛する所・陵する所の境は一に非ざるのゆえんに、倶に起こらずと説く。染する所・恃む所の境は同じくすべきのゆえんに、相応するを得と説く。五見の境に対して皆愛すべきのゆえんに、貪と五見と相応して過失無し。
瞋與慢、疑或得俱起;所瞋、所恃境非一故,說不相應。所蔑、所憎境可同故,說得俱起;初猶豫時,未憎彼故,說不俱起。久思不決,便憤發故,說得相應;疑順、違事,隨應亦爾。
瞋と慢・疑とはあるいは倶に起こるを得。瞋する所・恃む所の境は一に非ざるのゆえんに、相応せずと説く。蔑する所・憎する所の境は同じくすべきのゆえんに、倶に起こるを得と説く。初め猶豫する時に未だそれを憎まざるのゆえんに、倶に起こらずと説く。久しく思いて決せざれば便ち憤発するのゆえんに、相応すと説く。順・違の事を疑うも随応してもまたこの如し。
瞋與二取,必不相應,執為勝、道,不憎彼故。
瞋と二取とは必ず相応せず。勝・道と執してそれを憎まざるのゆえん。
此與三見,或得相應,於有樂蘊,起身、常見,不生憎故,說不相應。於有苦蘊,起身、常見,生憎恚故,說得俱起。斷見翻此,說瞋有、無。邪見誹撥惡事、好事,如次說瞋或無或有。
これと三見とはあるいは相応するを得。楽の蘊有りに対して身・常の見を起こして憎を生ぜざるのゆえんに、相応せずと説く。苦の蘊有りに対して身・常の見を起こして憎恚を生ずるのゆえんに、倶に起こるを得と説く。断見はこれに翻して、瞋の有・無を説く。邪見は悪事・好事を誹撥して、この次第に按して瞋はあるいは無しあるいは有りと説く。
慢於境定,疑則不然。故慢與疑,無相應義。
慢は境に対して決定す。疑は便ちこの如ならず。ゆえに慢と疑とは相応の義無し。
慢與五見,皆容俱起,行相展轉,不相違故。然與斷見,必不俱生,執我斷時,無陵、恃故。
慢と五見とは皆倶起を容す。行相は展転して相違せざるのゆえん。しかし断見と倶は必ず倶生せず。我断を執する時は陵・恃無きのゆえん。
與身、邪見一分亦爾。
身見・邪見の一分と倶もまたこの如し。
疑不審決,與見相違,故疑與見,定不俱起。
疑は審決せず。見と相違す。ゆえに疑と見とは決定して倶に起こらず。
五見展轉,必不相應,非一心中,有多慧故。
五見は展転して必ず相応せず。一心の中に多くの慧有るに非ざるのゆえん。
痴與九種,皆定相應,諸煩惱生,必由痴故。
癡と九種とは倶に決定して相応す。諸煩悩の生ずるは必ず癡に由るのゆえん。
此十煩惱,何識相應?藏識全無;末那有四;意識具十;五識唯三:謂貪、瞋、痴。無分別故。由稱量等,起慢等故。
この十煩悩は何の識と相応するや。蔵識は全く無し。末那は四有り。意識は十を具す。五識はただ三のみ:いわゆる貪・瞋・癡。分別無きのゆえん。称量等に由って慢等を起こすのゆえん。
此十煩惱,何受相應?
この十煩悩は何の受と相応するや。
貪、瞋、痴三,俱生分別,一切容與五受相應。貪會違緣,憂、苦俱故;瞋遇順境,喜、樂俱故。
貪・瞋・癡の三は倶生・分別にて、一切は容く五受と相応す。貪は違縁に会えば憂・苦と倶のゆえん。瞋は順境に遇えば喜・楽と倶のゆえん。
有義:俱生分別起慢,容與非苦四受相應,恃苦劣蘊,憂相應故。
一義有り:倶生・分別起の慢は苦に非ざる四受と相応するを容す。苦劣の蘊を恃めば憂と相応するのゆえん。
有義:俱生亦苦俱起,意有苦受,前已說故。
一義有り:倶生もまた苦と倶に起こる。意に苦受有るは前に已に説けるのゆえん。
分別慢等,純苦趣無,彼無邪師、邪教等故。然彼不造引惡趣業,要分別起能發彼故。
分別の慢等は純苦趣に無し。かの処に邪師・邪教等無きのゆえん。しかし彼らは悪趣を引く業を造らず。分別起にて乃ちそれを発するを得るのゆえん。
疑後三見,容四受俱。欲疑無苦等,亦喜受俱故;二取若緣憂俱見等,爾時得與憂相應故。
疑と後の三見は四受に倶を容す。欲界の疑は苦等無きにしてもまた喜受と倶のゆえん。二取もし憂に倶の見等に縁ぜば、かの時憂と相応するを得るのゆえん。
有義:俱生身邊二見,但與喜、樂、捨、受相應,非五識俱,唯無記故。分別二見,容四受俱,執苦俱蘊為我、我所。常、斷見翻此,與憂相應故。
一義有り:倶生の身辺の二見はただ喜・楽・捨受と相応す。五識と倶に非ざるにして、ただ無記なるのゆえん。分別の二見は四受に倶を容す。苦に倶の蘊を執して我・我所と為す。常・断の見はこれに翻して憂と相応するのゆえん。
有義:二見若俱生者,亦苦受俱,純受苦處,緣極苦蘊,苦相應故。論說:俱生一切煩惱,皆於三受現行可得,廣說如前,餘如前說。
一義有り:二見もし倶生のは、もまた苦受と倶なり。純受苦の処にて極苦の蘊に縁じて苦と相応するのゆえん。論に説く:倶生の一切煩悩は皆三受に於て現行し得。広く説くは前の如し。其余は前の説くが如し。
此依實義,隨麁相者,貪、慢、四見,樂、喜、捨俱。瞋唯苦、憂、捨受俱起。痴與五受皆得相應。邪見及疑四俱,除苦。
これは実義に依る。麁相に随うは、貪・慢・四見は楽・喜・捨に倶なり。瞋はただ苦・憂・捨受と倶に起こる。癡は五受と倶に相応するを得。邪見および疑は四に倶にして苦を除く。
貪、痴俱樂,通下四地,餘七俱樂,除欲通三,疑、獨行痴欲唯憂、捨,餘受俱起,如理應知。
貪・癡は倶に楽して、下の四地に通ず。其余の七は倶に楽して、欲を除きて三に通ず。疑・独行の癡は欲にてただ憂・捨のみ。其余の受は倶に起こる。理の如くまさに知るべし。
此與別境幾互相應?
これは別境といくつ互いに相応するや。
貪、瞋、痴、慢容五俱起,專注一境,得有定故。疑及五見,各容四俱,疑除勝解,不決定故;見非慧俱,不異慧故。
貪・瞋・癡・慢は五に倶起を容す。一境に専注して定有るを得るのゆえん。疑および五見は各々四に倶を容す。疑は勝解を除く。決定せざるのゆえん。見は慧と倶せず。慧に異ならざるのゆえん。
此十煩惱何性所攝?
この十煩悩は何の性の摂する所ぞ。
瞋唯不善,損自、他故,餘九通二。
瞋はただ不善なり。自・他を損するのゆえん。其余の九は二に通ず。
上二界者,唯無記攝,定所伏故。若欲界繫分別起者,唯不善攝,發惡行故。若是俱生,發惡行者,亦不善攝,損自、他故。餘無記攝,細不障善,非極損惱自、他處故。當知俱生身、邊二見,唯無記攝,不發惡業,雖數現起,不障善故。
上の二界のはただ無記の摂する所なり。定の伏する所なるのゆえん。もし欲界繋の分別起は、ただ不善の摂する所なり。悪行を発するのゆえん。もし倶生にして悪行を発するは、もまた不善の摂する所なり。自・他を損するのゆえん。其余は無記の摂する所なり。細くして善を障らず。極に自・他を損悩する処に非ざるのゆえん。まさに知るべし、倶生の身・辺の二見はただ無記の摂する所なり。悪業を発せず。数・数現起すると雖も、善を障らざるのゆえん。
此十煩惱何界繫耶?瞋唯在欲,餘通三界。
この十煩悩は何の界の繫する所ぞ。瞋はただ欲に在り。其余は三界に通ず。
生在下地,未離下染,上地煩惱,不現在前。要得彼地根本定者,彼地煩惱容現前故。
下地に生じて下染を離れざるは、上地の煩悩は前に現せず。彼の地の根本定を得るを要して、彼の地の煩悩は容く現前するのゆえん。
謂有漏道,雖不能伏分別起惑及細俱生,而能伏除俱生麁惑,漸次證得上根本定。
いわゆる有漏道は分別起の惑および細き倶生を伏すること能わざると雖も、しかし能く倶生の麁惑を伏除して、漸次に上の根本定を証得す。
彼但迷事,依外門轉,散亂、麁動,正障定故。
それらはただ事に迷い、外門に依って転じて、散乱・麁動して正しく定を障るのゆえん。
得彼定已,彼地分別、俱生諸惑,皆容現前。
彼の定を得已って、彼の地の分別・倶生の諸惑は倶に現前を容す。
生在上地,下地諸惑,分別、俱生皆容現起。
上地に生ずるに下地の諸惑の分別・倶生は倶に現起を容す。
生第四定中有中者,由謗解脫,生地獄故;身在上地,將生下時,起下潤生俱生愛故。
第四定中に中有に生ずるは、解脱を謗するに由って地獄に生ずるのゆえん。身は上地に在りて将に下に生ぜんとする時、下の潤生の倶生愛を起こすのゆえん。
而言生上,不起下者,依多分說,或隨轉門。
しかし上に生ずるは下を起こさずと説くは、多分に依って説き、あるいは転門に随う。
下地煩惱,亦緣上地。《瑜伽》等說:欲界繫貪,求上地生,味上定故。既說瞋恚憎嫉滅、道,亦應憎嫉離欲地故。總緣諸行,執我、我所斷常,慢者得緣上故。餘五緣上,其理極成。
下地の煩悩もまた上地に縁ず。《瑜伽》等に説く:欲界繋の貪は上地の生を求めて、上定を味わうのゆえん。すでに瞋恚は滅・道を憎嫉すと説けば、もまた離欲の地を憎嫉するのゆえん。諸行を総縁して我・我所・断・常を執するは、慢もまた上に縁ずるを得るのゆえん。其余の五は上に縁ずるはその理極成せり。
而有處言:貪、瞋、慢等不緣上者,依麁相說,或依別緣,不見世間執他地法為我等故;邊見必依身見起故。
しかし処有りて説く:貪・瞋・慢等は上に縁ぜざるは、麁相に依って説き、あるいは別縁に依る。世間は他地の法を我等と執するを見ざるのゆえん。辺見は必ず身見に依って起こるのゆえん。
上地煩惱亦緣下地,說生上者,於下有情,恃己勝德,而陵彼故。
上地の煩悩もまた下地に縁ず。上に生ずる人は下の有情に対して、己の勝徳を恃みて、彼を陵するのゆえんと説く。
總緣諸行,執我、我所、斷、常、愛者,得緣下故。疑後三見,如理應思。
諸行を総縁して我・我所・断・常・愛を執するは、下に縁ずるを得るのゆえん。疑と後の三見は理の如くまさに思択すべし。
而說上或不緣下者,彼依多分或別緣說。
しかし上はあるいは下に縁ぜずと説くは、彼らは多分あるいは別縁に依って説く。
此十煩惱,學等何攝?非學無學,彼唯善故。
この十煩悩は学等の何の摂する所ぞ。是れ学にも無学にも非ず。それらはただ善のみなるのゆえん。
此十煩惱何所斷耶?
この十煩悩は何の断ずる所ぞ。
非非所斷,彼非染故。
断ぜざる所に非ず。それらは染に非ざるのゆえん。
分別起者,唯見所斷,麁易斷故;若俱生者,唯修所斷,細難斷故。
分別起はただ見の断ずる所なり。麁くして断ぜし易きのゆえん。もし倶生のはただ修の断ずる所なり。細くして断ぜ難きのゆえん。
見所斷十,實俱頓斷,以真見道總緣諦故。
見の断ずる十は実は皆頓断す。真見道は諦を総縁するのゆえん。
然迷諦相,有總、有別。總謂十種,皆迷四諦。苦、集是彼因依處故;滅、道是彼怖畏處故。
しかし諦相に迷うに総・別有り。総とは十种は倶に四諦に迷うを説く。苦・集はそれらの因の依処なるのゆえん。滅・道はそれらの怖畏する処なるのゆえん。
別謂別迷四諦相起,二唯迷苦,八通迷四,身、邊二見,唯果處起,別空、非我,屬苦諦故。
別とは別に四諦の相に迷いて起こるを説く。二はただ苦に迷い、八は四に迷うに通ず。身・辺の二見はただ果の処に起こる。別に空・非我は苦諦に属するのゆえん。
謂疑、三見,親迷苦理。二取執彼三見、戒禁及所依蘊為勝能淨,於自、他見及彼眷屬,如次隨應,起貪、恚、慢。相應無明,與九同迷;不共無明,親迷苦理。疑及邪見,親迷集等。二取、貪等,準苦應知。然瞋亦能親迷滅、道,由怖畏彼,生憎嫉故。
いわゆる疑・三見は親しく苦理に迷う。二取はかの三見・戒禁および依る所の蘊を執して勝にして能く浄するを得と為して、自・他の見およびそれらの眷属に対して、この次第に按して随応して、貪・恚・慢を起こす。相応の無明は九と同じく迷う。不共の無明は親しく苦理に迷う。疑および邪見は親しく集等に迷う。二取・貪等は苦に准じてまさに知るべし。しかし瞋もまた能く親しく滅・道に迷う。それらを怖畏するに由って憎嫉を生ずるのゆえん。
迷諦親疎,麁相如是。
諦に迷うの親疎の麁相はこの如し。
委細說者,貪、瞋、慢、三見、疑俱生,隨應如彼。
委細に説かば、貪・瞋・慢・三見・疑の倶生は、随応してそれらの如し。
俱生二見及彼相應愛、慢、無明,雖迷苦諦,細難斷故,修道方斷。
倶生の二見およびそれらに相応の愛・慢・無明は、苦諦に迷うと雖も、細くして断ぜ難きのゆえんに、修道にて乃ち断ず。
瞋餘愛等,迷別事生,不違諦觀,故修所斷。
瞋と其余の愛等とは別の事に迷いて生ず。諦観に違せず。ゆえに是れ修の断ずる所なり。
雖諸煩惱,皆有相分,而所仗質,或有或無,名緣有事、無事煩惱。
諸煩悩は皆相分有ると雖も、しかし仗る所の質はあるいは有りあるいは無し。名づけて有事に縁ずる・無事に縁ずる煩悩という。
彼親所緣,雖皆有漏,而所仗質,亦通無漏,名緣有漏、無漏煩惱。
それらの親しき所縁は倶に有漏なると雖も、しかし仗る所の質もまた無漏に通ず。名づけて有漏に縁ずる・無漏に縁ずる煩悩という。
緣自地者,相分似質,名緣分別所起事境。緣滅、道諦及他地者,相分與質不相似故,名緣分別所起名境。
自地に縁ずるは相分は質に似たり。名づけて分別の起こす所の事境に縁ずるという。滅・道諦および他地に縁ずるは相分と質とは相似ならざるのゆえん。名づけて分別の起こす所の名境に縁ずるという。
餘門分別如理應思。
其余の門の分別は理の如くまさに思択すべし。
已說根本六煩惱相,諸隨煩惱其相云何?
已に根本の六煩悩の相を説きたり。諸随煩悩の行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
隨煩惱謂:忿、恨、覆、惱、嫉、慳、
随煩悩とは説く:忿・恨・覆・悩・嫉・慳、
13誑、諂與害、憍、無慚與無愧、
誑・諂と害・憍・無慚と無愧、
掉舉與惛沈、不信並懈怠、
掉挙と惛沈・不信並びに懈怠、
14放逸及失念、散亂不正知。
放逸および失念・散乱・不正知。
論曰:唯是煩惱分位差別、等流性,故名隨煩惱。
論に説く:ただ煩悩の分位差別・等流性のみなり。ゆえに名づけて随煩悩という。
此二十種,類別有三:謂忿等十,各別起故,名小隨煩惱;無慚等二,遍不善故,名中隨煩惱;掉舉等八,遍染心故,名大隨煩惱。
この二十種の類別は三有り。いわゆる忿等の十は各々別に起こるのゆえん、名づけて小随煩悩という。無慚等の二は不善に遍するのゆえん、名づけて中随煩悩という。掉挙等の八は染心に遍するのゆえん、名づけて大随煩悩という。
云何為忿?依對現前不饒益境,憤發為性;能障不忿,執杖為業。謂懷忿者,多發暴惡身表業故。此即瞋恚一分為體,離瞋無別忿相用故。
何をか忿と謂う。現前の饒益ならざる境に対して依って、憤発を性と為す。能く不忿を障り、杖を執るを業と為す。いわゆる忿を懐くは多く暴悪の身表業を発するのゆえん。これすなわち瞋恚の一分を体と為す。瞋を離れて別に忿の相用無きのゆえん。
云何為恨?由忿為先,懷惡不捨,結怨為性;能障不恨,熱惱為業。謂結恨者,不能含忍,恆熱惱故。此亦瞋恚一分為體,離瞋無別恨相用故。
何をか恨と謂う。忿を以って先と為して、悪を懐いて捨てず、怨を結ぶを性と為す。能く不恨を障り、熱悩を業と為す。いわゆる恨を結ぶは含忍すること能わず。恒に熱悩するのゆえん。これもまた瞋恚の一分を体と為す。瞋を離れて別に恨の相用無きのゆえん。
云何為覆?於自作罪,恐失利、譽,隱藏為性;能障不覆,悔惱為業。謂覆罪者,後必悔惱,不安隱故。
何をか覆と謂う。自己の作す所の罪に対して、利・誉を失わんことを恐れて、隱藏を性と為す。能く不覆を障り、悔悩を業と為す。いわゆる罪を覆うは後に必ず悔悩して安隱ならざるのゆえん。
有義:此覆,痴一分攝。論唯說此痴一分故,不懼當苦,覆自罪故。
一義有り:この覆は癡の一分の摂する所なり。論にただこれは癡の一分と説くのゆえん。当来の苦を惧れずして己が罪を覆うのゆえん。
有義:此覆,貪、痴一分攝,亦恐失利譽,覆自罪故。論據麁顯,唯說痴分,如說掉舉是貪分故,然說掉舉遍諸染心,不可執為唯是貪分。
一義有り:この覆は貪・癡の一分の摂する所なり。もまた利誉を失わんことを恐れて己が罪を覆うのゆえん。論は麁顯に據りてただ癡分を説く。掉挙は貪分と説けるが如きのゆえん。しかし掉挙は諸染心に遍すと説く。ただ貪分のみと執すべからず。
云何為惱?忿、恨為先,追觸暴熱,佷戾為性;能障不惱,䖧螫為業。謂追往惡,觸現違緣,心便佷戾,多發囂暴、兇鄙麁言,䖧螫他故。此亦瞋恚一分為體,離瞋無別惱相用故。
何をか悩と謂う。忿・恨を先と為して、往悪を追触して暴熱にして、狠戻を性と為す。能く不悩を障り、虻の螫すを業と為す。いわゆる往の悪を追いて、現の違縁に触れれば、心は便ち狠戻して、多く囂暴・凶鄙の麁言を発して、他を虻螫するのゆえん。これもまた瞋恚の一分を体と為す。瞋を離れて別に悩の相用無きのゆえん。
云何為嫉?徇自名利,不耐他榮,妬忌為性;能障不嫉,憂慼為業。謂嫉妬者聞見他榮,深懷憂慼,不安隱故。此亦瞋恚一分為體,離瞋無別嫉相用故。
何をか嫉と謂う。己の名利に徇って、他の栄に耐えず、妒忌を性と為す。能く不嫉を障り、憂戚を業と為す。いわゆる嫉妒するは他の栄を聞見して深く憂戚を懐いて安隱ならざるのゆえん。これもまた瞋恚の一分を体と為す。瞋を離れて別に嫉の相用無きのゆえん。
云何為慳?耽著財、法,不能慧捨,秘悋為性;能障不慳,鄙畜為業。謂慳悋者,心多鄙澁,畜積財法,不能捨故。此即貪愛一分為體,離貪無別慳相用故。
何をか慳と謂う。財・法に耽著して、能く慧捨せず、秘吝を性と為す。能く不慳を障り、鄙蓄を業と為す。いわゆる慳吝するは心多く鄙澀して、財法を蓄積して能く捨てざるのゆえん。これすなわち貪愛の一分を体と為す。貪を離れて別に慳の相用無きのゆえん。
云何為誑?為獲利譽,矯現有德,詭詐為性;能障不誑,邪命為業。謂矯誑者,心懷異謀,多現不實邪命事故。此即貪、痴一分為體,離二無別誑相用故。
何をか誑と謂う。利誉を獲る為に、有德を矯現して、詭詐を性と為す。能く不誑を障り、邪命を業と為す。いわゆる矯誑するは心に異謀を懐いて、多く実ならざる邪命の事を現ずるのゆえん。これすなわち貪・癡の一分を体と為す。この二を離れて別に誑の相用無きのゆえん。
云何為諂?為網他故,矯設異儀,險、曲為性;能障不諂教誨為業。謂諂曲者,為網帽他,曲順時宜,矯設方便,為取他意或藏己失。不任師、友正教誨故,此亦貪、痴一分為體,離二無別諂相用故。
何をか諂と謂う。他を網するが為のゆえんに、異儀を矯設して、険・曲を性と為す。能く不諂・教誨を障るを業と為す。いわゆる諂曲するは他を網帽せんが為(籠罩して欺瞞す)に、時宜に曲順して方便を矯設して、他の意を取りあるいは自己の失を藏するを為す。師・友の正教誨を任くること能わざるのゆえん。これもまた貪・癡の一分を体と為す。この二を離れて別に諂の相用無きのゆえん。
云何為害?於諸有情,心無悲愍,損惱為性;能障不害,逼惱為業。謂有害者,逼惱他故。此亦瞋恚一分為體,離瞋無別害相用故。瞋、害別相,準善應說。
何をか害と謂う。諸有情に対して、心に悲愍無くして、損悩を性と為す。能く不害を障り、逼悩を業と為す。いわゆる害有るは他を逼悩するのゆえん。これもまた瞋恚の一分を体と為す。瞋を離れて別に害の相用無きのゆえん。瞋・害の別相は善に准じてまさに説くべし。
云何為憍?於自盛事,深生染著,醉傲為性;能障不憍,染依為業。謂憍醉者,生長一切雜染法故。此亦貪愛一分為體,離貪無別憍相用故。
何をか憍と謂う。自己の盛事に対して、深く染著を生じて、醉傲を性と為す。能く不憍を障り、染の依を業と為す。いわゆる憍醉するは一切の雑染法を生長するのゆえん。これもまた貪愛の一分を体と為す。貪を離れて別に憍の相用無きのゆえん。
云何無慚?不顧自、法,輕拒賢善為性;能障礙慚,生長惡行為業。謂於自、法無所顧者,輕拒賢善,不恥過惡,障慚生長,諸惡行故。
何をか無慚と謂う。自・法を顧みずして、賢善を軽拒するを性と為す。能く慚を障碍して、悪行を生長するを業と為す。いわゆる自・法に対して顧る所無きは、賢善を軽拒して、過悪を恥じず。慚を障って諸悪行を生長するのゆえん。
云何無愧?不顧世間,崇重暴惡為性;能障礙愧,生長惡行為業。謂於世間無所顧者,崇重暴惡,不恥過罪,障愧生長,諸惡行故。
何をか無愧と謂う。世間を顧みずして、暴悪を崇重するを性と為す。能く愧を障碍して、悪行を生長するを業と為す。いわゆる世間に対して顧る所無きは、暴悪を崇重して、過罪を恥じず。愧を障って諸悪業を生長するのゆえん。
不恥過惡,是二通相;故諸聖教,假說為體。
過悪を恥じざるはこの二の通相なり。ゆえに諸聖教は假に体と説く。
若執不恥為二別相,則應此二體無差別。由斯二法應不俱生,非受、想等有此義故;若待自、他,立二別者,應非實有,便違聖教;若許此二實而別起,復違論說俱遍惡心。
もし恥じざるを執してこの二の別相と為さば、すなわちまさにこの二の体は差別無かるべし。これに由ってこの二法はまさに倶生せざるべし。受・想等にこの義有るに非ざるのゆえん。もし自・他を待ってこの二の分別を立てば、まさに実有に非ざるべし。便ち聖教に違背す。もしこの二は実有にして生起を分別すと許せば、また論説に違背す。倶に悪心に遍すと。
不善心時,隨緣何境,皆有輕拒善及崇重惡義故,此二法俱遍惡心,所緣不異,無別起失。
不善心の時、何れの境に縁ずるに随っても、皆善を軽拒しおよび悪を崇重するの義有るのゆえんに、この二法は倶に悪心に遍して、所縁異ならず。別起の過失無し。
然諸聖教說不顧自、他者,自、法名自,世間名他。或即此中拒善、崇惡,於己益損,名自、他故。而論說為貪等分者,是彼等流,非即彼性。
しかし諸聖教に自・他を顧みずと説くは、自・法を名づけて自といい、世間を名づけて他という。あるいはすなわちここに善を拒み悪を崇して、自己の益・損に対して、名づけて自・他というのゆえん。しかし貪等の分と論説するは、それらの等流にして、すなわちそれらの性に非ず。
云何掉舉?令心於境不寂靜為性;能障行捨、奢摩他為業。
何をか掉挙と謂う。心をして境に対して寂静ならざらしむるを性と為す。能く行捨・奢摩他(止)を障るを業と為す。
有義:掉舉貪一分攝,論唯說此是貪分故,此由憶昔樂事生故。
一義有り:掉挙は貪の一分の摂する所なり。論にただこれは貪分と説くのゆえん。これは昔の楽事を憶念するに由って生ずるのゆえん。
有義:掉舉非唯貪攝,論說掉舉遍染心故,又掉舉相謂不寂靜,說是煩惱共相攝故,掉舉離此無別相故。雖依一切煩惱假立,而貪位增,說為貪分。
一義有り:掉挙はただ貪の摂する所に非ず。論に掉挙は染心に遍すと説くのゆえん。また掉挙の相はいわゆる寂静ならず。煩悩の共相の摂する所と説くのゆえん。掉挙はこれを離れて別相無きのゆえん。一切煩悩に依って假立する雖も、しかし貪位は増せば、貪分と説く。
有義:掉舉別有自性,遍諸染心,如不信等,非說他分,體便非實,勿不信等亦假有故。而論說為世俗有者,如睡眠等,隨他相說。掉舉別相,謂即囂動,令俱生法,不寂靜故。若離煩惱無別此相,不應別說障奢摩他,故不寂靜非此別相。
一義有り:掉挙は別に自性有りて、諸染心に遍す。不信等の如し。他分と説かば、体は便ち実に非ざるに非ず。不信等をしてもまた假有ならしむること莫れ。しかし世俗有と論説するは、睡眠等の如く、他相に随って説く。掉挙の別相はいわゆるすなわち囂動にして、倶生の法をして寂静ならざらしむるのゆえん。もし煩悩を離れて別にこの相無ければ、まさに奢摩他を障ると別説すべからず。ゆえに寂静ならざるはこの別相に非ず。
云何惛沈?令心於境,無堪任為性;能障輕安、毘缽舍那為業。
何をか惛沈と謂う。心をして境に対して堪任無きを性と為す。能く軽安・毘鉢舍那(観)を障るを業と為す。
有義:惛沈痴一分攝,論唯說此是痴分故,惛昧沈重是痴相故。
一義有り:惛沈は癡の一分の摂する所なり。論にただこれは癡分と説くのゆえん。惛昧沈重は癡の相なるのゆえん。
有義:惛沈非但痴攝,謂無堪任是惛沈相,一切煩惱皆無堪任,離此無別惛沈相故。雖依一切煩惱假立,而痴相增,但說痴分。
一義有り:惛沈はただ癡の摂する所のみに非ず。いわゆる堪任無きは惛沈の相なり。一切煩悩は皆堪任無し。これを離れて別に惛沈の相無きのゆえん。一切煩悩に依って假立すると雖も、しかし癡相増せば、ただ癡分と説く。
有義:惛沈別有自性,雖名痴分而是等流,如不信等,非即痴攝。隨他相說名世俗有,如睡眠等,是實有性。惛沈別相,謂即瞢重,令俱生法,無堪任故。若離煩惱無別惛沈相,不應別說障毘缽舍那故。無堪任非此別相,此與痴相有差別者,謂痴於境,迷闇為相,正障無痴,而非瞢重,惛沈於境瞢重為相,正障輕安而非迷闇。
一義有り:惛沈は別に自性有り。癡分と名づくると雖も、しかし是れ等流なり。不信等の如く、すなわち癡の摂する所に非ず。他相に随って世俗有と説き名づく。睡眠等の如く、是れ実有性なり。惛沈の別相はいわゆるすなわち瞢重にして、倶生の法をして堪任無からしむるのゆえん。もし煩悩を離れて別に惛沈の相無ければ、まさに毘鉢舍那を障ると別説すべからざるのゆえん。堪任無きはこの別相に非ず。これと癡相と差別有るを知る。いわゆる癡は境に対して迷闇を相と為して、正しく無癡を障るも瞢重に非ず。惛沈は境に対して瞢重を相と為して、正しく軽安を障るも迷闇に非ず。
云何不信?於實、德、能不忍樂欲,心穢為性;能障淨信,惰依為業。謂不信者多懈怠故。
何をか不信と謂う。実・徳・能に対して忍・楽・欲せずして、心穢を性と為す。能く浄信を障り、惰の依を業と為す。いわゆる不信のは多く懈怠するのゆえん。
不信三相,翻信應知。然諸染法,各有別相,唯此不信,自相渾濁,復能渾濁餘心、心所,如極穢物,自穢、穢他,是故說此心穢為性。由不信故,於實、德、能不忍樂欲,非別有性,若於餘事,邪忍樂欲,是此因果,非此自性。
不信の三相は信に翻してまさに知るべし。しかし諸染法は各々別相有りて、唯だこの不信のみ、自相渾濁して、また能く其余の心・心所を渾濁せしむ。極穢の物の自ら穢して他を穢すが如し。ゆえにこの心穢を性と為すと説く。不信なるのゆえんに、実・徳・能に対して忍・楽・欲せず。別に性有るに非ず。もし其余の事に対して邪に忍・楽・欲するは、是れこれが因果にして、これが自性に非ず。
云何懈怠?於善、惡品修、斷事中,懶惰為性;能障精進,增染為業。謂懈怠者,滋長染故。於諸染事而策勤者,亦名懈怠,退善法故。於無記事而策勤者,於諸善品無進、退故,是欲、勝解,非別有性。如於無記,忍可樂欲,非淨、非染,無信不信。
何をか懈怠と謂う。善・悪品の修・断の事に於て、懶惰を性と為す。能く精進を障り、染を増すを業と為す。いわゆる懈怠するは染を滋長するのゆえん。諸染事に対して策勤するも、もまた名づけて懈怠という。善法を退するのゆえん。無記の事に対して策勤するは、諸善品に対して進無く退無きのゆえん。是れ欲・勝解にして、別に性有るに非ず。無記に対して忍・可・楽・欲するが如く、浄にも染にも非ずして、信にも不信にも非ず。
云何放逸?於染、淨品,不能防、修,縱蕩為性;障不放逸,增惡損善所依為業。謂由懈怠及貪、瞋、痴,不能防修染淨品法,總名放逸,非別有體。雖慢、疑等亦有此能,而方彼四,勢用微劣,障三善根、遍策法故。推究此相,如不放逸。
何をか放逸と謂う。染・浄品に対して、能く防・修せずして、縱蕩を性と為す。不放逸を障り、悪を増し善を損する依る所を業と為す。いわゆる懈怠および貪・瞋・癡に由って、能く染浄品の法を防修せず。総じて名づけて放逸という。別に体有るに非ず。慢・疑等もまたこの能有ると雖も、しかしかの四に比ぶれば勢用は微劣にして、三善根・遍策法を障るのゆえん。この相を推究するは不放逸の如し。
云何失念?於諸所緣,不能明記為性;能障正念、散亂所依為業。謂失念者,心散亂故。
何をか失念と謂う。諸々の所縁に対して、能く明記せざるを性と為す。能く正念を障り、散乱の依る所を業と為す。いわゆる失念するは心散乱なるのゆえん。
有義:失念念一分攝,說是煩惱相應念故。
一義有り:失念は念の一分の摂する所なり。煩悩に相応の念と説くのゆえん。
有義:失念痴一分攝,《瑜伽》說此是痴分故,痴令念失,故名失念。
一義有り:失念は癡の一分の摂する所なり。《瑜伽》にこれは癡分と説くのゆえん。癡は念をして失せしむ。ゆえに名づけて失念という。
有義:失念俱一分攝,由前二文影略說故,論復說此遍染心故。
一義有り:失念は倶に一分の摂する所なり。前の二文に由って影略に説くのゆえん。論にまたこれは染心に遍すと説くのゆえん。
云何散亂?於諸所緣,令心流蕩為性;能障正定,惡慧所依為業。謂散亂者發惡慧故。
何をか散乱と謂う。諸々の所縁に対して、心をして流蕩せしむるを性と為す。能く正定を障り、悪慧の依る所を業と為す。いわゆる散乱するは悪慧を発するのゆえん。
有義:散亂痴一分攝,《瑜伽》說此是痴分故。
一義有り:散乱は癡の一分の摂する所なり。《瑜伽》にこれは癡分と説くのゆえん。
有義:散亂貪、瞋、痴攝,《集論》等說是三分故,說痴分者,遍染心故,謂貪、瞋、痴令心流蕩,勝餘法故,說為散亂。
一義有り:散乱は貪・瞋・癡の摂する所なり。《集論》等に是れ三分と説くのゆえん。癡分と説くは染心に遍するのゆえん。いわゆる貪・瞋・癡は心をして流蕩せしめて、其余の法に勝れるのゆえんに、散乱と説く。
有義:散亂別有自體,說三分者是彼等流,如無慚等,非即彼攝,隨他相說名世俗有。散亂別相,謂即躁擾,令俱生法皆流蕩故。若離彼三,無別自體,不應別說障三摩地。掉舉、散亂二用何別?彼令易解,此令易緣,雖一剎那,解、緣無易,而於相續有易義故。染汙心時,由掉亂力,常應念念易解、易緣,或由念等力所制伏,如繫猨猴有暫時住,故掉與亂,俱遍染心。
一義有り:散乱は別に自体有り。三分と説くはそれらの等流にして、無慚等の如く、すなわちそれらの摂する所に非ず。他相に随って世俗有と説き名づく。散乱の別相はいわゆるすなわち躁擾にして、倶生の法をして倶に流蕩せしむるのゆえん。もしかの三を離れて別に自体無ければ、まさに三摩地を障ると別説すべからず。掉挙・散乱の二用は何の分別か有らん。それは解を易えしめ、これは縁を易えしむ。一刹那にて解・縁は易ならざると雖も、しかし相続に対して易の義有るのゆえん。染汚心の時は掉乱の力に由って、常に念・念解を易え縁を易うべし。あるいは念等の力の制伏する所に由って、繫がれたる猿猴の暫時の住有るが如し。ゆえに掉と乱とは倶に染心に遍す。
云何不正知?於所觀境,謬解為性;能障正知、毀犯為業。謂不正知者,多所毀犯故。
何をか不正知と謂う。観ずる所の境に対して、謬解を性と為す。能く正知を障り、毀犯を業と為す。いわゆる不正知のは多く毀犯するのゆえん。
有義:不正知慧一分攝,說是煩惱相應慧故。
一義有り:不正知は慧の一分の摂する所なり。煩悩に相応の慧と説くのゆえん。
有義:不正知痴一分攝,《瑜伽》說此是痴分故,令知不正,名不正知。
一義有り:不正知は癡の一分の摂する所なり。《瑜伽》にこれは癡分と説くのゆえん。知をして正ならざらしむ。名づけて不正知という。
有義:不正知俱一分攝,由前二文,影略說故,論復說此遍染心故。
一義有り:不正知は倶に一分の摂する所なり。前の二文に由って影略に説くのゆえん。論にまたこれは染心に遍すと説くのゆえん。
「與」、「並」、「及」言顯隨煩惱非唯二十,《雜事》等說貪等多種隨煩惱故。
「与」・「並」・「及」の言は随煩悩はただ二十のみに非ざるを顯示す。《雑事》等に貪等の多种の随煩悩を説くのゆえん。
隨煩惱名,亦攝煩惱,是前煩惱等流性故;煩惱同類餘染汙法,但名隨煩惱,非煩惱攝故。
随煩悩の名はもまた煩悩を収攝す。前の煩悩の等流性なるのゆえん。煩悩と同類の其余の染汚法はただ名づけて随煩悩という。煩悩の摂する所に非ざるのゆえん。
唯說二十隨煩惱者,謂非煩惱,唯染、麁故;此餘染法,或此分位,或此等流,皆此所攝。隨其類別,如理應知。
ただ二十の随煩悩を説く。いわゆる煩悩に非ざるはただ染・麁なるのゆえん。この其余の染法はあるいはこの分位にして、あるいはこの等流にして、皆是れこの摂する所なり。その類別に随って理の如くまさに知るべし。
如是二十隨煩惱中,小十、大三,定是假有;無慚、無愧、不信、懈怠定是實有;教、理成故。掉舉、惛沈、散亂三種,有義是假,有義是實。所引理、教,如前應知。
かくのごとき二十随煩悩の中に、小の十・大の三は決定して假有なり。無慚・無愧・不信・懈怠は決定して実有なり。教・理の成ずるのゆえん。掉挙・惛沈・散乱の三種は、一義には是れ假、一義には是れ実。引く所の理・教は前の如くまさに知るべし。
二十皆通俱生、分別,隨二煩惱勢力起故。
二十は倶に倶生・分別に通ず。二煩悩の勢力に随って起こるのゆえん。
此二十中,小十,展轉定不俱起。互相違故,行相麁猛,各為主故。
この二十中に、小の十は展転して決定して倶に起こらず。互相違するのゆえん。行相は麁猛にして各々主要を為すのゆえん。
中二,一切不善心俱,隨應皆得小、大俱起。論說:大八遍諸染心。展轉小、中,皆容俱起。
中の二は一切不善心に倶なり。随応して倶に小・大と倶起するを得。論に説く:大の八は諸染心に遍す。展転して小・中は倶に倶起を容す。
有處說:六遍染心者,惛、掉增時,不俱起故。有處但說:五遍染者,以惛、掉等違唯善故。
処有りて説く:六は染心に遍す。惛・掉の増する時は倶に起こらざるのゆえん。処有りてただ説く:五は染に遍するは、惛・掉等は違してただ善なるのみのゆえん。
此唯染故,非第八俱。第七識中唯有大八,取捨差別,如上應知。第六識俱容有一切。小十麁猛,五識中無。中、大相通,五識容有。
これらはただ染なるのみのゆえん、第八と倶せず。第七識の中にはただ大の八のみ。取捨の差別は上の如くまさに知るべし。第六識は倶に一切有るを容す。小の十は麁猛にして五識の中に無し。中・大は相通じて五識に有るを容す。
由斯中、大五受相應。
これに因って中・大は五受と相応す。
有義:小十除三,忿等唯喜、憂、捨三受相應。諂、誑、憍三,四俱,除苦。
一義有り:小の十は三を除く。忿等はただ喜・憂・捨の三受と相応す。諂・誑・憍の三は四に倶にして苦を除く。
有義:忿等四俱,除樂;諂、誑、憍三,五受俱起。意有苦受,前已說故。
一義有り:忿等は四に倶にして楽を除く。諂・誑・憍の三は五受に倶起す。意に苦受有るは前に已に説けるのゆえん。
此受俱相,如煩惱說。
この受倶の相は煩悩の説くが如し。
實義如是,若隨麁相,忿、恨、惱、嫉、害憂、捨俱;覆、慳喜、捨;餘三增樂。中、大隨麁,亦如實義。
実義はこの如し。もし麁相に随えば、忿・恨・悩・嫉・害は憂・捨と倶なり。覆・慳は喜・捨と倶なり。其余の三は楽を増す。中・大は麁に随いて、もまた実義の如し。
如是二十,與別境五,皆容俱起,不相違故。
かくのごとき二十は別境の五と倶に倶起を容す。相違せざるのゆえん。
染念、染慧,雖非念、慧俱,而痴分者,亦得相應故。念亦緣現、曾習類境。忿亦得緣剎那過去,故忿與念,亦得相應。染定起時,心亦躁擾,故亂與定相應無失。
染の念・染の慧は念・慧と倶せざると雖も、しかし癡分のはもまた相応するを得るのゆえん。念もまた現・曽習の類境に縁ず。忿もまた刹那の過去に縁ずるを得。ゆえに忿と念ともまた相応するを得。染定の起こる時、心もまた躁擾す。ゆえに乱と定と相応して過失無し。
中二、大八十煩惱俱。
中の二・大の八は十煩悩と倶なり。
小十定非見、疑俱起。此相麁動,彼審細故。忿等五法,容慢、痴俱,非貪、恚並,是瞋分故。慳痴、慢俱,非貪、瞋並,是貪分故。憍唯痴俱,與慢解別,是貪分故。覆、誑與諂,貪、痴、慢俱。行相無違,貪、痴分故。
小の十は決定して見・疑と倶に起こらず。この相は麁動にして、それらは審細なるのゆえん。忿等の五法は慢・癡と倶を容して、貪・恚と並せず。是れ瞋の分なるのゆえん。慳は癡・慢と倶して、貪・瞋と並せず。是れ貪の分なるのゆえん。憍はただ癡と倶のみ。慢と解別して、是れ貪の分なるのゆえん。覆・誑と諂とは貪・癡・慢と倶なり。行相は違無くして、貪・癡の分なるのゆえん。
小七、中二,唯不善攝。小三、大八,亦通無記。
小の七・中の二はただ不善の摂する所なり。小の三・大の八はもまた無記に通ず。
小七、中二,唯欲界攝。誑、諂欲、色,餘通三界。
小の七・中の二はただ欲界の摂する所なり。誑・諂は欲・色に在り。其余は三界に通ず。
生在下地,容起上十一。耽定於他,起憍、誑、諂故。
下地に生じて上の十一を起こるを容す。定に耽して他に対して憍・誑・諂を起こすのゆえん。
若生上地,起下後十。邪見愛俱,容起彼故。小十,生上無由起下。非正潤生,及謗滅故。
もし上地に生ぜば、下の後十を起こす。邪見は愛に倶して、それらを起こるを容すのゆえん。小の十は上に生じて下を起こす由無し。正しく生を潤すに非ず、および滅を謗るのゆえん。
中二、大八,下亦緣上。上緣貪等,相應起故。
中の二・大の八は下もまた上に縁ず。上の縁する貪等と相応して起こるのゆえん。
有義:小十,下不緣上。行相麁近,不遠取故。
一義有り:小の十は下は上に縁ぜず。行相は麁近にして遠く取らざるのゆえん。
有義:嫉等亦得緣上。於勝地法,生嫉等故。
一義有り:嫉等もまた上に縁ずるを得。勝地の法に対して嫉等を生ずるのゆえん。
大八諂、誑,上亦緣下。下緣慢等,相應起故。梵於釋子,起諂、誑故。憍不緣下,非所恃故。
大の八と誑・諂とは上もまた下に縁ず。下の縁する慢等と相応して起こるのゆえん。梵は釈子に対して諂・誑を起こすのゆえん。憍は下に縁ぜず。恃む所に非ざるのゆえん。
二十皆非學、無學攝。此但是染,彼唯淨故。
二十は倶に学・無学の摂する所に非ず。これらはただ染のみにして、それらはただ浄のみなるのゆえん。
後十,唯通見、修所斷,與二煩惱相應起故。見所斷者,隨迷諦相,或總、或別,煩惱俱生,故隨所應,皆通四諦。迷諦親疎等,皆如煩惱說。
後の十はただ見・修の断ずる所に通ず。二煩悩と相応して起こるのゆえん。見の断ずるは諦相に迷うに随って、あるいは総あるいは別にして、煩悩と倶生す。ゆえに応ずる所に随って倶に四諦に通ず。諦に迷うの親疎等は皆煩悩の説くが如し。
前十,有義:唯修所斷,緣麁事境,任運生故。有義:亦通見、修所斷。依二煩惱勢力起故。緣他見等,生忿等故。見所斷者,隨所應緣,總、別惑力,皆通四諦。此中有義:忿等但緣迷諦惑生,非親迷諦。行相麁淺,不深取故。有義:嫉等亦親迷諦,於滅、道等生嫉等故。
前の十は、一義有り:ただ修の断ずる所のみ。麁事の境に縁じて任運に生ずるのゆえん。一義有り:もまた見・修の断ずる所に通ず。二煩悩の勢力に依って起こるのゆえん。他の見等に縁じて忿等を生ずるのゆえん。見の断ずるは応ずる所の縁に随って、総・別の惑力は倶に四諦に通ず。ここに一義有り:忿等はただ諦に迷う惑に縁じて生ずるにして、親しく諦に迷うに非ず。行相は麁浅にして深く取らざるのゆえん。一義有り:嫉等もまた親しく諦に迷う。滅・道等に対して嫉等を生ずるのゆえん。
然忿等十,但緣有事,要託本質,方得生故。緣有漏等,準上應知。
しかし忿等の十はただ有事に縁ず。本質に託するを要して乃ち生ずるを得るのゆえん。有漏等に縁ずるは上に准じてまさに知るべし。
成唯識論巻第六
成唯識論巻第七
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
已說二十隨煩惱相。不定有四,其相云何?
已に二十の随煩悩の相を説きたり。不定は四有りて、その行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
「不定謂悔、眠、尋、伺,二各二。」
「不定とは悔・眠・尋・伺を説く。二各々二なり。」
論曰:悔、眠、尋、伺於善、染等皆不定故,非如觸等定遍心故,非如欲等定遍地故,立不定名。
論に説く:悔・眠・尋・伺は善・染等に対して倶に定まらざるのゆえん、触等の決定して心に遍する如ならざるのゆえん、欲等の決定して地に遍する如ならざるのゆえんに、不定の名を立つ。
悔謂惡作,惡所作業,追悔為性,障止為業。此即於果假立因名,先惡所作業,後方追悔故;悔先不作,亦惡作攝,如追悔言:我先不作如是事業,是我惡作。
悔とは悪作を説く。作した所の業を厭惡して、追悔を性と為し、止を障るを業と為す。これすなわち果に於て假に因の名を立つ。先に作した所の業を厭惡して、後に乃ち追悔するのゆえん。悔は先に作さざるも、もまた悪作の摂する所なり。追悔の説くが如く:我先にかくのごとき事業を作さざりき。是れ我が悪作なり。
眠謂睡眠,令身不自在,昧、略為性,障觀為業。謂睡眠位,身不自在,心極闇劣,一門轉故。昧簡在定,略別寤時,令顯睡眠非無體用。有無心位假立此名,如餘蓋纏心相應故。
眠とは睡眠を説く。身をして自在ならざらしめ、昧・略を性と為し、観を障るを業と為す。いわゆる睡眠の位は身自在ならず、心は極闇劣にして一門に転ずるのゆえん。昧は定に在るを簡別し、略は寤時を分別す。睡眠は体用無きに非ざるを顯示せしむ。無心の位に假にこの名を立つは、其余の蓋纏の心と相応する如きのゆえん。
有義:此二唯痴為體,說隨煩惱及痴分故。
一義有り:この二はただ癡を以って体と為す。随煩悩および癡分と説くのゆえん。
有義:不然,亦通善故。應說此二染痴為體;淨即無痴,論依染分說隨煩惱及痴分攝。
一義有り:この如しに非ず。もまた善に通ずるのゆえん。まさに説くべし、この二の染は癡を以って体と為し、浄はすなわち無癡なり。論は染分に依って随煩悩および癡分の摂する所と説く。
有義:此說亦不應理,無記非痴、無痴性故。應說惡作思、慧為體,明瞭思擇所作業故。睡眠合用思、想為體,思、想種種夢境相故。論俱說為世俗有故。彼染汙者是痴等流,如不信等,說為痴分。
一義有り:この説もまた理に応えず。無記は癡・無癡の性に非ざるのゆえん。まさに説くべし、悪作は思・慧を以って体と為す。明らかに作した所の業を思択するのゆえん。睡眠は思・想を合して用いて体と為す。思・想は種種の夢境の相なるのゆえん。論に倶に世俗有と説くのゆえん。それらの染汙なるは癡の等流にして、不信等の如く、癡分と説く。
有義:彼說理亦不然,非思、慧、想纏彼性故。應說此二各別有體,與餘心所行相別故。隨痴相說,名世俗有。
一義有り:彼らの説は理またこの如ならず。思・慧・想はそれらの性に纏わるに非ざるのゆえん。まさに説くべし、この二は各々別に体有り。其余の心所と行相分別あるのゆえん。癡相に随って説いて、名づけて世俗有という。
尋謂尋求,令心怱遽於意言境,麁轉為性;伺謂伺察,令心怱遽於意言境,細轉為性。此二俱以安、不安住身心分位所依為業。並用思、慧一分為體,於意言境不深推度及深推度,義類別故,若離思、慧,尋、伺二種體類差別不可得故。
尋とは尋求を説く。心をして匆遽に意言の境に対して、麁転を性と為す。伺とは伺察を説く。心をして匆遽に意言の境に対して、細転を性と為す。この二は倶に安・不安の身心に住する分位の依る所を業と為す。並びに思・慧の一分を用いて体と為す。意言の境に対して深く推度せざるおよび深く推度するに、義類の分別有るのゆえん。もし思・慧を離れば、尋・伺の二種の体類の差別は求むるを得ざるのゆえん。
「二各二」者,有義:尋、伺各有染、淨二類差別。
「二各二」とは、一義有り:尋・伺は各々染・浄の二类の差別有り。
有義:此釋不應正理,悔、眠亦有染、淨二故。
一義有り:この解釈は正理に応えず。悔・眠もまた染・浄の二有るのゆえん。
應說如前諸染心所,有是煩惱、隨煩惱性,此二各有不善、無記,或復各有纏及隨眠。
まさに説くべし、前の諸染心所の如く、是れ煩悩・随煩悩の性有る。この二は各々不善・無記有りて、あるいはまた各々纏および随眠有り。
有義:彼釋亦不應理,不定四後有此言故。
一義有り:彼らの解釈もまた理に応えず。不定の四の後にこの言有るのゆえん。
應言「二」者顯二種二:一謂悔、眠;二謂尋、伺。此二二種,種類各別,故一「二」言,顯二二種。
まさに説くべし、「二」は二種の二を顯示す。一とは悔・眠を説く。二とは尋・伺を説く。この二の二種は種類各々別なり。ゆえに一の「二」の字は二の二種を顯示す。
此各有二,謂染、不染。
これらは各々二有り。いわゆる染・不染。
非如善、染各唯一故。或唯簡染,故說此言,有亦說為隨煩惱故。為顯不定義,說「二各二」言,故置此言深為有用。
善・染の各々ただ一のみの如ならざるのゆえん。あるいはただ染を簡別して、この言を説く。有るはもまた随煩悩と説き為すのゆえん。不定の義を顯示する為に、「二各二」の言を説く。ゆえにこの言を置くに深く用有り。
四中尋、伺定是假有,思、慧合成,聖所說故。
四中の尋・伺は決定して假有なり。思・慧の合成なるを聖の説く所のゆえん。
悔、眠,有義:亦是假有,《瑜伽》說為世俗有故。
悔・眠は、一義有り:もまた假有なり。《瑜伽》に世俗有と説くのゆえん。
有義:此二是實物有,唯後二種說假有故。世俗有言隨他相說,非顯前二定是假有,又如內種體雖是實,而論亦說世俗有故。
一義有り:この二は実物有なり。ただ後の二種は假有と説くのゆえん。世俗有の言は他相に随って説く。前の二は決定して假有を顯示するに非ず。また内種の体は実なると雖も、しかし論もまた世俗有と説くが如きのゆえん。
四中尋、伺定不相應,體類是同,麁、細異故。依於尋、伺有染、離染立三地別,不依彼種現起有無,故無雜亂。
四中の尋・伺は決定して相応せず。体類は同じくして、麁・細異なるのゆえん。尋・伺に依って染・離染有りて三地の分別を立つ。その現起の有無に依らず。ゆえに雑乱無し。
俱與前二容互相應,前二亦有互相應義。
倶に前の二と互いに相応を容す。前の二もまた互いに相応の義有り。
四皆不與第七、八俱,義如前說;悔、眠唯與第六識俱,非五法故。
四は倶に第七・八と倶せず。義は前の説くが如し。悔・眠はただ第六識と倶のみ。五法に非ざるのゆえん。
有義:尋、伺亦五識俱,論說:五識有尋、伺故。
一義有り:尋・伺もまた五識と倶なり。論に説く:五識は尋・伺有るのゆえん。
又說:尋、伺即七分別,謂有相等。《雜集》復言:任運分別謂五識故。
また説く:尋・伺はすなわち七の分別なり。いわゆる有相等。《雑集》にまた説く:任運の分別はいわゆる五識なるのゆえん。
有義:尋、伺唯意識俱。
一義有り:尋・伺はただ意識と倶のみ。
論說:尋求、伺察等法皆是意識不共法故。又說:尋、伺憂、喜相應,曾不說與苦、樂俱故。捨受遍故,可不待說。何緣不說與苦、樂俱?雖初靜慮有意地樂,而不離喜,總說喜名;雖純苦處有意地苦,而似憂故,總說為憂。又說:尋、伺以名身等義為所緣,非五識身以名身等義為境故。
論に説く:尋求・伺察等の法は倶に意識の不共法なるのゆえん。また説く:尋・伺は憂・喜と相応して、曽て苦・楽と倶と説かざるのゆえん。捨受は遍するのゆえんに説を待たず。なんぞ苦・楽と倶と説かざる。初静慮は意地の楽有ると雖も、しかし喜を離れず。総じて喜の名と説く。純苦の処は意地の苦有ると雖も、しかし憂に似たるのゆえんに、総じて憂と説く。また説く:尋・伺は名身等の義を以って所縁と為す。五識身は名身等の義を以って境と為すに非ざるのゆえん。
然說五識有尋、伺者,顯多由彼起,非說彼相應。《雜集》所言:任運分別謂五識者,彼與《瑜伽》所說分別,義各有異:彼說任運即是五識,《瑜伽》說此是五識俱分別意識相應尋、伺。
しかし五識は尋・伺有りと説くは、多くそれらに由って起こるを顯示す。それらの相応を説くに非ず。《雑集》の説く所:任運の分別はいわゆる五識。それと《瑜伽》の説く所の分別とは義各々異有り。それは任運を説いてすなわち五識なり。《瑜伽》はこれは五識と倶の分別する意識に相応の尋・伺を説く。
故彼所引為證不成,由此五識定無尋、伺。
ゆえに彼らの引く所は証と為して成立せず。これに由って五識は決定して尋・伺無し。
有義:惡作憂、捨相應,唯慼行轉,通無記故。
一義有り:悪作は憂・捨と相応す。ただ戚行に転じて、無記に通ずるのゆえん。
睡眠喜、憂、捨受俱起,行通歡、慼、中庸轉故。
睡眠は喜・憂・捨受と倶に起こる。行は歓・戚・中庸に通じて転ずるのゆえん。
尋、伺憂、喜、捨、樂相應,初靜慮中意樂俱故。
尋・伺は憂・喜・捨・楽と相応す。初静慮中に意の楽と倶なるのゆえん。
有義:此四亦苦受俱,純苦趣中,意苦俱故。
一義有り:この四もまた苦受と倶なり。純苦趣の中に意の苦と倶なるのゆえん。
四皆容與五別境俱,行相、所緣不相違故。
四は倶に五の別境と倶を容す。行相・所縁は相違せざるのゆえん。
悔、眠但與十善容俱,此唯在欲,無輕安故。尋、伺容與十一善俱,初靜慮中輕安俱故。
悔・眠はただ十善と倶を容す。これはただ欲に在りて軽安無きのゆえん。尋・伺は十一善と倶を容す。初静慮中に軽安と倶なるのゆえん。
悔但容與無明相應,此行相麁,貪等細故。
悔はただ無明と相応するを容す。この行相は麁くして、貪等は細なるのゆえん。
睡眠、尋、伺十煩惱俱,此彼展轉不相違故。
睡眠・尋・伺は十煩悩と倶なり。これらとそれらとは展転して相違せざるのゆえん。
悔與中、大隨惑容俱,非忿等十,各為主故。睡眠、尋、伺二十容俱,眠等位中皆起彼故。
悔は中・大の随惑と倶を容して、忿等の十と倶せず。各々主要を為すのゆえん。睡眠・尋・伺は二十と倶を容す。眠等の位の中に皆それらを起こすのゆえん。
此四皆通善等三性,於無記業亦追悔故。
この四は倶に善等の三性に通ず。無記の業に対してもまた追悔するのゆえん。
有義:初二唯生得善,行相麁鄙及昧略故;後二亦通加行善攝,聞所成等有尋、伺故。
一義有り:初の二はただ生得善のみ。行相は麁鄙および昧略なるのゆえん。後の二はもまた加行善の摂する所に通ず。聞の成ずる所等は尋・伺有るのゆえん。
有義:初二亦加行善,聞、思位中有悔、眠故。
一義有り:初の二もまた加行善なり。聞・思の位の中に悔・眠有るのゆえん。
後三皆通染、淨無記,惡作非染,解麁猛故。四無記中,悔唯中二,行相麁猛,非定果故。眠除第四,非定引生,異熟生心亦得眠故。尋、伺除初,彼解微劣,不能尋察名等義故。
後の三は倶に染・浄の無記に通ず。悪作は染に非ず。解は麁猛なるのゆえん。四無記の中に悔はただ中の二のみ。行相は麁猛にして、定の果に非ざるのゆえん。眠は第四を除く。定の引生に非ざるにして、異熟生の心もまた眠を得るのゆえん。尋・伺は初を除く。それの解は微劣にして、能く名等の義を尋察せざるのゆえん。
惡作、睡眠唯欲界有,尋、伺在欲及初靜慮,餘界地法皆妙靜故。
悪作・睡眠はただ欲界に有り。尋・伺は欲および初静慮に在り。其余の界地の法は倶に妙静なるのゆえん。
悔、眠生上必不現起,尋、伺上下亦起下上。
悔・眠は上に生じて必ず現起せず。尋・伺は上・下もまた下・上を起こす。
下上尋、伺能緣上下。
下・上の尋・伺は能く上・下に縁ず。
有義:悔、眠不能緣上,行相麁近,極昧略故。
一義有り:悔・眠は能く上に縁ぜず。行相は麁近にして極昧略なるのゆえん。
有義:此二亦緣上境,有邪見者悔修定故,夢能普緣所更事故。
一義有り:この二もまた上境に縁ず。邪見の人有りて定を修したるを悔いるのゆえん。夢は能く普く更たる所の事に縁ずるのゆえん。
悔非無學,離欲捨故;睡眠、尋、伺皆通三種。求解脫者有為善法皆名學故;學究竟者有為善法皆無學故。
悔は無学に非ず。欲を離れて捨するのゆえん。睡眠・尋・伺は倶に三種に通ず。解脱を求むる人は有為の善法は倶に名づけて学というのゆえん。学は究竟する人は有為の善法は倶に是れ無学なるのゆえん。
悔、眠唯通見、修所斷,亦邪見等勢力起故,非無漏道親所引生故,亦非如憂,深求解脫故。若已斷故名非所斷,則無學眠非所斷、攝。
悔・眠はただ見・修の断ずる所に通ず。もまた邪見等の勢力に由って起こるのゆえん。無漏道の親しく引生する所に非ざるのゆえん。また憂の如く深く解脱を求むるに非ざるのゆえん。もし已に断ぜたるを名づけて非所断というなれば、すなわち無学の眠は非所断の摂する所なり。
尋、伺雖非真無漏道,而能引彼,從彼引生,故通見、修、非所斷攝。
尋・伺は真の無漏道に非ざると雖も、しかし能くそれらを引く。それらの引生する所に従う。ゆえに見・修・非所断の摂する所に通ず。
有義:尋、伺非所斷者,於五法中唯分別攝,《瑜伽》說彼是分別故。
一義有り:尋・伺の非所断なるは、五法の中にてただ分別の摂する所のみ。《瑜伽》にそれらは分別と説くのゆえん。
有義:此二亦正智攝,說:正思惟是無漏故,彼能令心尋求等故。又說:彼是言說因故,未究竟位於藥、病等未能遍知,後得智中為他說法必假尋、伺,非如佛地無功用說,故此二種亦通無漏。雖說尋、伺必是分別,而不定說唯屬第三,後得正智中亦有分別故。
一義有り:この二もまた正智の摂する所なり。説く:正思惟は無漏なるのゆえん。それらは能く心をして尋求等せしむるのゆえん。また説く:それらは言説の因なるのゆえん。未だ究竟せざる位にて薬・病等に対して未だ遍く知る能わず。後得智の中に他の為に法を説くは必ず尋・伺を假る。仏地の無功用説の如ならず。ゆえにこの二種もまた無漏に通ず。尋・伺は必ず分別と説くと雖も、しかし定めてただ第三に属すると説かず。後得の正智の中にもまた分別有るのゆえん。
餘門準上,如理應思。
其余の門は上に准じて、理の如くまさに思択すべし。
如是六位諸心所法,為離心體有別自性?為即是心分位差別?
かくのごとき六位の諸心所法は、心体を離れて別に自性有るか。それともすなわち心の分位差別か。
設爾何失?
設しこの如ならば何の過失か有らん。
二俱有過。
両辺倶に過有り。
若離心體有別自性,如何聖教說唯有識?又如何說心遠、獨行,染、淨由心,士夫六界?
もし心体を離れて別に自性有れば、聖教はどうして唯だ識有りと説かん。またどうして心は遠にして独行、染・浄は心に由り、士夫は六界と説かん。
《莊嚴論》說復云何通?如彼頌言:
《荘厳論》の説くはまたどうして通ぜん。かの頌の説けるが如く:
「許心似二現,如是似貪等,
「心は二を現ずる如く許す。かくのごとく貪等の如く、
或似於信等,無別染、善法。」
あるいは信等に於けるが如く、別に染・善法無し。」
若即是心分位差別,如何聖教說心相應?他性相應,非自性故。又如何說心與心所俱時而起,如日與光?《瑜伽論》說復云何通?彼說心所非即心故。如彼頌言:
もしすなわち心の分位差別なれば、聖教はどうして心に相応すと説かん。他性の相応は自性に非ざるのゆえん。またどうして心と心所とは倶時に起こると説かん。日と光との如し。《瑜伽論》の説くはまたどうして通ぜん。それに心所はすなわち心に非ずと説くのゆえん。かの頌の説けるが如く:
「五種性不成,分位差過失,
「五種の性は成立せず。分位差は過失有り。
因緣無別故,與聖教相違。」
因縁は分別無きのゆえん、聖教と相違す。」
應說離心有別自性,以心勝故,說唯識等,心所依心勢力生故,說似彼現,非彼即心。又識心言亦攝心所,恆相應故。唯識等言及現似彼,皆無有失,此依世俗。
まさに説くべし、心を離れて別に自性有り。心の殊勝なるに因って唯識等と説く。心所は心の勢力に依って生ずるのゆえん。それらを現ずるが如くと説く。それらはすなわち心に非ず。また識・心の言もまた心所を収攝す。恒に相応するのゆえん。唯識等の言およびそれらを現ずるが如きは、倶に過失無し。これは世俗に依る。
若依勝義,心所與心非離非即,諸識相望應知亦然,是謂大乘真、俗妙理。
もし勝義に依れば、心所と心とは離に非ず即に非ず。諸識の相望むるもまさに然るべしと知る。これはすなわち大乗の真・俗の妙理を説く。
已說六識心所相應,云何應知現起分位?
已に六識の心所の相応を説きたり。どうして現起の分位を知らん。
頌曰:
頌に説く:
15依止根本識,五識隨緣現,
根本識に依止して、五識は縁に随って現ず。
或俱或不俱,如濤波依水。
あるいは倶しあるいは倶せず。濤波の水に依るが如し。
16意識常現起,除生無想天,
意識は常に現起す。無想天に生ずるを除き、
及無心二定、睡眠與悶絕。
および無心の二定・睡眠と悶絶。
論曰:「根本識」者,阿陀那識,染、淨諸識生根本故。「依止」者,謂前六轉識以根本識為共親依。
論に説く:「根本識」とは阿陀那識(執持識)にして、染・浄の諸識の生ずる根本なるのゆえん。「依止」とは、いわゆる前の六転識は根本識を以って共親の依と為す。
「五識」者,謂前五轉識,種類相似,故總說之。「隨緣現」言顯非常起,「緣」謂作意、根、境等緣,謂五識身內依本識,外隨作意、五根、境等眾緣和合方得現前,由此或俱或不俱起,外緣合者有頓、漸故。如水濤波隨緣多少,此等法喻廣說如經。
「五識」とはいわゆる前の五転識にして、種類相似なるがゆえに総じてそれらを説く。「縁に随って現ず」の言は常に起こるに非ざるを顯示す。「縁」とは作意・根・境等の縁を説く。いわゆる五識身は内に本識に依り、外に作意・五根・境等の衆縁の和合に随って乃ち現前するを得。これに由ってあるいは倶しあるいは倶せずして起こる。外縁の合するに頓・漸有るのゆえん。水の濤波の縁に随って多少するが如し。これらの法喩は広く説くは経の如し。
由五轉識行相麁動,所藉眾緣時多不具,故起時少,不起時多。第六意識雖亦麁動,而所藉緣無時不具,由違緣故,有時不起。第七、八識行相微細,所藉眾緣一切時有,故無緣礙令總不行。
五転識の行相は麁動にして、藉る所の衆縁は時多く具わらず。ゆえに起こる時少なく、起こらざる時多し。第六意識もまた麁動なると雖も、しかし藉る所の縁は時に具わらざる無し。違縁あるのゆえんに、時有りて起こらず。第七・八識の行相は微細にして、藉る所の衆縁は一切時に有り。ゆえに縁碍有りて総に行わざらしむる無し。
又五識身不能思慮,唯外門轉起,藉多緣,故斷時多,現行時少;第六意識自能思慮,內、外門轉,不藉多緣。唯除五位,常能現起,故斷時少,現起時多,由斯不說此隨緣現。
また五識身は思慮すること能わず。ただ外門に転じて起こりて、多くの縁を藉る。ゆえに断ずる時多く、現行の時少なし。第六意識は自ら思慮する能くして、内・外門に転じて、多くの縁を藉らず。ただ五位を除きて、常に能く現起す。ゆえに断ずる時少なく、現起の時多し。これに因ってこれを縁に随って現ずと説かず。
五位者何?
五位とは何ぞ。
「生無想」等。
「無想に生ず」等なり。
無想天者,謂修彼定,厭麁想力,生彼天中,違不恆行心及心所,想滅為首,名無想天。
無想天とは、いわゆるその定を修して、麁想を厭う力にて、彼の天中に生ず。恒行ならざる心および心所に違して、想の滅を首と為す。名づけて無想天という。
故六轉識於彼皆斷。
ゆえに六転識はそこに倶に断ず。
有義:彼天常無六識,聖教說彼無轉識故;說彼唯有有色支故;又說彼為無心地故。
一義有り:かの天は常に六識無し。聖教にそこに転識無しと説くのゆえん。そこにただ有色の支有りと説くのゆえん。またそこを無心地と説くのゆえん。
有義:彼天將命終位,要起轉識然後命終,彼必起下潤生愛故,《瑜伽論》說:「後想生已,是諸有情從彼沒」故。然說彼無轉識等者,依長時說,非謂全無。
一義有り:かの天は将に命終せんとする位に、転識を起こして然る後に命終するを要す。彼らは必ず下の潤生の愛を起こすのゆえん。《瑜伽論》に説く:「後の想の生じ已りて、是の諸有情はそこより没す」のゆえん。しかしそこに転識無し等と説くは、長時に依って説く。全く無しと説くに非ず。
有義:生時亦有轉識,彼中有必起潤生煩惱故,如餘本有,初必有轉識故。《瑜伽論》說:「若生於彼,唯入不起,其想若生,從彼沒」故,彼本有初,若無轉識,如何名入?先有後無,乃名入故。
一義有り:生ずる時もまた転識有り。そこの中有は必ず潤生の煩悩を起こすのゆえん。其余の本有の如く、初めに必ず転識有るのゆえん。《瑜伽論》に説く:「もしそこに生ぜば、ただ入りて起こらず。その想もし生ぜば、そこより没す」のゆえん。そこの本有の初め、もし転識無ければ、どうして名づけて入という。先に有りて後に無きを乃ち名づけて入というのゆえん。
〈決擇分〉言:「所有生得心、心所滅,名無想」故,此言意顯彼本有初,有異熟生轉識暫起宿因緣力,後不復生。由斯引起異熟無記分位差別,說名無想,如善引生二定名善。不爾,轉識一切不行,如何可言唯生得滅?故彼初位轉識暫起。
〈決択分〉に説く:「所有の生得の心・心所の滅するを、名づけて無想という」のゆえん。この言は意そこの本有の初めに、異熟生の転識の暫く起こる有りて、宿因縁の力にて後に復た生ぜざるを顯示す。これに由って異熟・無記の分位差別を引起して、説いて名づけて無想という。善の二定を引生するを名づけて善というが如し。然らずんば、転識は一切行わず、どうしてただ生得の滅と説くべきや。ゆえにそこの初位に転識は暫く起こる。
彼天唯在第四靜慮,下想麁動難可斷故,上無無想異熟處故。
かの天はただ第四静慮に在り。下の想は麁動にして断ずべき難きのゆえん。上は無想の異熟の処無きのゆえん。
即能引發無想定思,能感彼天異熟果故。
すなわち能く無想定を引発する思は、能くかの天の異熟果を感ずるのゆえん。
「及無心二定」者,謂無想、滅盡定,俱無六識,故名無心。
「および無心の二定」とは、いわゆる無想・滅尽定にして、倶に六識無し。ゆえに名づけて無心という。
無想定者,謂有異生伏遍淨貪,未伏上染,由出離想,作意為先,令不恆行心、心所滅,想滅為首,立無想名,令身安和,故亦名定。
無想定とは、いわゆる異生有りて遍浄の貪を伏して、未だ上染を伏せず。出離の想に由って作意を先と為して、恒行ならざる心・心所をして滅せしめ、想の滅を首と為して、無想の名を立つ。身をして安和ならしむ。ゆえにもまた名づけて定という。
修習此定,品別有三:下品修者,現法必退,不能速疾還引現前,後生彼天,不甚光淨,形色廣大,定當中夭。中品修者,現不必退,設退速疾還引現前,後生彼天,雖甚光淨,形色廣大,而不最極,雖有中夭而不決定。上品修者,現必不退,後生彼天,最極光淨,形色廣大,必無中夭,窮滿壽量後方殞沒。
この定を修習するに品別三有り。下品に修するは現法にて必ず退し、速疾に還って現前を引くこと能わず。後にかの天に生ずれば、甚だ光浄ならず、形色広大にして定まりて中夭す。中品に修するは現に必ず退せず。設し退するも速疾に還って現前を引く。後にかの天に生ずれば、甚だ光浄にして形色広大なれども、最極に非ず。中夭有ると雖もしかし決定せず。上品に修するは現に必ず退せず。後にかの天に生ずれば、最極光浄にして形色広大にして、必ず中夭無し。寿量を窮め満えて後に殞没す。
此定唯屬第四靜慮。又唯是善,彼所引故。下上地無,由前說故。
この定はただ第四静慮に属す。またただ善なり。それらの引く所なるのゆえん。下・上の地は無し。前の説く所に由るのゆえん。
四業通三,除順現受。
四業は三に通じて、順現受を除く。
有義:此定唯欲界起,由諸外道說力起故,人中慧解極猛利故。
一義有り:この定はただ欲界に起こる。諸外道の説力に由って起こるのゆえん。人中は慧解極猛利なるのゆえん。
有義:欲界先修習已,後生色界能引現前,除無想天至究竟故。
一義有り:欲界にて先に修習し已って、後に色界に生じて能く現前を引く。無想天を除きて究竟に至るのゆえん。
此由厭想、欣彼果入,故唯有漏。非聖所起。
これは想を厭い彼の果を欣って入るがゆえに、ただ有漏のみ。聖の起こす所に非ず。
滅盡定者,謂有無學或有學聖,已伏或離無所有貪,上貪不定,由止息想,作意為先,令不恆行、恆行染汙心、心所滅,立滅盡名,令身安和,故亦名定。由偏厭受、想,亦名滅彼定。
滅尽定とは、いわゆる無学あるいは有学の聖有りて、已に無所有の貪を伏しあるいは離れ、上の貪は定まらず。止息の想に由って作意を先と為して、恒行ならざる・恒行の染汚心・心所をして滅せしめて、滅尽の名を立つ。身をして安和ならしむ。ゆえにもまた名づけて定という。偏りて受・想を厭うに由って、もまた名づけて彼を滅する定という。
修習此定,品別有三:下品修者,現法必退,不能速疾還引現前;中品修者,現不必退,設退速疾還引現前;上品修者,畢竟不退。
この定を修習するに品別三有り。下品に修するは現法にて必ず退し、速疾に還って現前を引くこと能わず。中品に修するは現に必ず退せず。設し退するも速疾に還って現前を引く。上品に修するは畢竟退せず。
此定初修必依有頂,遊觀無漏為加行入,次第定中最居後故,雖屬有頂而無漏攝。若修此定已得自在,餘地心後,亦得現前。
この定は初めの修は必ず有頂に依る。無漏を遊観して加行として入る。次第定の中にて最も後に居るのゆえん。有頂に属すると雖も、しかし無漏の摂する所なり。もしこの定を修して已に自在を得れば、其余の地の心の後にもまた現前を得。
雖屬道諦而是非學非無學攝,似涅槃故。
道諦に属すると雖も、しかし是れ非学非無学の摂する所なり。涅槃に似たるのゆえん。
此定初起唯在人中,佛及弟子說力起故,人中慧解極猛利故,後上二界亦得現前,《鄔陀夷經》是此誠證,無色亦名意成天故。於藏識教未信受者,若生無色不起此定,恐無色、心成斷滅故;已信生彼亦得現前,知有藏識不斷滅故。
この定の初めの起こるはただ人中に在り。仏および弟子の説力に由って起こるのゆえん。人中は慧解極猛利なるのゆえん。後に上の二界もまた現前を得。《鄔陀夷経》は是れこれが誠証なり。無色もまた名づけて意成天というのゆえん。蔵識の教を未だ信受せざるに対して、もし無色に生じてこの定を起こさざれば、無色・心の断滅を成せんことを恐るるのゆえん。已に信じてそこに生ずるもまた現前を得。蔵識有りて断滅せざるを知るのゆえん。
要斷三界見所斷惑方起此定,異生不能伏滅有頂心、心所故,此定微妙,要證二空隨應後得所引發故。
三界の見の断ずる所の惑を断ずるを要して乃ち能くこの定を起こす。異生は有頂の心・心所を伏滅すること能わざるのゆえん。この定は微妙にして、二空を証して随応して後得の引発する所を要するのゆえん。
有義:下八地修所斷惑中,要全斷欲,餘伏或斷,然後方能初起此定,欲界惑種二性繁雜,障定強故,唯說不還、三乘無學及諸菩薩得此定故,彼隨所應生上八地皆得後起。
一義有り:下の八地の修の断ずる所の惑の中に、欲を全く断ずるを要し、其余は伏するかあるいは断じて、然る後に乃ち能く初めてこの定を起こす。欲界の惑種は二性繁雑にして定を障ること強きのゆえん。ただ不還・三乗の無学および諸菩薩はこの定を得と説くのゆえん。彼らは随所応に上の八地に生じて倶に後に起こるを得。
有義:要斷下之四地修所斷惑,餘伏或斷,然後方能初起此定,變異受俱煩惱種子障定強故,彼隨所應,生上五地,皆得後起。
一義有り:下の四地の修の断ずる所の惑を断ずるを要し、其余は伏するかあるいは断じて、然る後に乃ち能く初めてこの定を起こす。変異受に倶の煩悩種子は定を障ること強きのゆえん。彼らは随所応に上の五地に生じて倶に後に起こるを得。
若伏下惑能起此定,後不斷退生上地者,豈生上已卻斷下惑?斷亦無失,如生上者,斷下末那俱生惑故。然不還者對治力強,正潤生位不起煩惱,但由惑種潤上地生,雖所伏惑有退、不退,而無伏下生上地義,故無生上卻斷下失。
もし下の惑を伏して能くこの定を起こせば、後に断たずして退して上地に生ずるは、あに上に生じ已りて却って下の惑を断ずるや。断ずるもまた過失無し。上に生ずるの如く、下の末那の倶生惑を断ずるのゆえん。しかし不還の人は対治の力強くして、正しく生を潤す位に煩悩を起こさず。ただ惑種に由って上地の生を潤す。所伏の惑は退・不退有ると雖も、しかし下を伏して上地に生ずるの義無し。ゆえに上に生じて却って下を断ずるの過失無し。
若諸菩薩先二乘位已得滅定,後迴心者,一切位中能起此定。若不爾者,或有乃至七地滿心,方能永伏一切煩惱,雖未永斷欲界修惑,而如已斷,能起此定,論說已入遠地,菩薩方能現起滅盡定故。有從初地即能永伏一切煩惱,如阿羅漢,彼十地中皆起此定,經說菩薩前六地中亦能現起滅盡定故。
もし諸菩薩は先に二乗位に於て已に滅定を得て、後に心を回したるは、一切位の中に能くこの定を起こす。もしこの如ならざれば、あるいは乃至七地の満心にて乃ち能く一切煩悩を永伏す。未だ欲界の修惑を永断せざると雖も、しかし已に断ぜたるが如く、能くこの定を起こす。論に已に遠地に入りたる菩薩は乃ち能く滅尽定を現起すと説くのゆえん。初地より能く一切煩悩を永伏する有りて、阿羅漢の如し。彼らは十地の中に倶にこの定を起こす。経に菩薩は前の六地の中にもまた能く滅尽定を現起すと説くのゆえん。
無心「睡眠與悶絕」者,謂有極重睡眠、悶絕,令前六識皆不現行。
無心の「睡眠と悶絶」とは、いわゆる極重の睡眠・悶絶有りて、前の六識をして倶に現行せざらしむ。
疲極等緣所引身位,違前六識,故名極重睡眠,此睡眠時,雖無彼體,而由彼似彼故,假說彼名。
疲極等の縁の引く所の身位は前の六識に違す。ゆえに名づけて極重の睡眠という。この睡眠の時はそれらの体無きと雖も、しかしそれに由ってそれに似たるのゆえんに、假に彼の名を説く。
風熱等緣所引身位,亦違六識,故名極重悶絕,或此俱是觸處少分。
風熱等の縁の引く所の身位もまた六識に違す。ゆえに名づけて極重の悶絶という。あるいはこれらは倶に触処の少分なり。
除斯五位,意識恆起。
この五位を除きて意識は恒に起こる。
正死、生時亦無意識,何故但說五位不行?
正に死・生の時もまた意識無し。なんぞただ五位の不行を説くや。
有義:死、生「及」、「與」言顯。彼說非理,所以者何?但說六時名無心故,謂前五位及無餘依。應說死、生即悶絕攝,彼是最極悶絕位故,說「及」、「與」言顯五無雜。
一義有り:死・生は「及」・「与」の言に由って顯示す。彼らの説は理に合わず。何故か。ただ六時を説いて名づけて無心というのゆえん。いわゆる前の五位および無余依。まさに説くべし、死・生はすなわち悶絶の摂する所なり。それらは最極の悶絶位なるのゆえん。「及」・「与」の言を説くは五の雑無きを顯示す。
此顯六識斷已,後時依本識中自種還起,由此不說入無餘依。
これは六識の断じ已って、後時に本識の中の自種に依って還って起こるを顯示す。これに由って無余依に入ると説かず。
此五位中異生有四,除在滅定,聖唯後三,於中如來、自在菩薩唯得有一,無睡、悶故。
この五位の中に異生は四有りて滅定に在るを除く。聖はただ後の三のみ。その中の如来・自在の菩薩はただ一有るを得。睡・悶無きのゆえん。
是故八識一切有情心與末那二,恆俱轉;若起第六,則三俱轉;餘隨緣合,起一至五,則四俱轉,乃至八俱,是謂略說識俱轉義。
ゆえに八識の一切有情の心と末那の二は恒に倶に転じ、もし第六を起こせば則ち三倶転し、其余は縁に随って合して一乃至五を起こせば則ち四倶転し、乃至八倶なり。これはすなわち略く識の倶転の義を説く。
若一有情多識俱轉,如何說彼是一有情?若立有情依識多少,汝無心位應非有情?又,他分心現在前位,如何可說自分有情?然立有情依命根數或異熟識俱不違理,彼俱恆時唯有一故。
もし一の有情にて多識倶に転ぜば、どうして彼を説いて一の有情と為す。もし有情を立てて識の多少に依らば、汝の無心の位はまさに有情に非ざるべし。また他分の心の現前の位に、どうして自分の有情と説くべきや。しかし有情を立てて命根の数あるいは異熟識に依るは倶に理に違せず。それらは倶に恒時にただ一のみ有るのゆえん。
一身唯一等無間緣,如何俱時有多識轉?既許此一引多心所,寧不許此能引多心?又誰定言此緣唯一?說多識俱者,許此緣多故。又欲一時取多境者,多境現前寧不頓取?諸根、境等和合力齊,識前後生不應理故。又心所性雖無差別而類別者,許多俱生,寧不許心異類俱起?又如浪像依一起多,故依一心多識俱轉。又若不許意與五俱,取彼所緣應不明瞭,如散意識緣久滅故。
一身に唯一の等無間縁なり。どうして倶時に多識の転ずる有らん。すでにこの一は多くの心所を引くを許せば、どうしてこの能く多くの心を引くを許さざる。また誰か定めてこの縁は唯一と説く。多識の倶と説くはこの縁は多と許すのゆえん。また一時に多境を取らんと欲するは、多境現前してどうして頓に取らざる。諸根・境等の和合の力は斉しく、識は前後に生ずるは理に応えざるのゆえん。また心所の性は差別無きと雖も、しかし類別するは倶生を許す多し。どうして心の異類の倶起を許さざる。また浪の像の一に依って多く起こるが如く、ゆえに一心に依って多識倶に転ず。またもし意と五と倶を許さざれば、それらの所縁を取るにまさに明了ならざるべし。散意識の久しく滅せしに縁ずるが如きのゆえん。
如何五俱唯一意識,於色等境取一或多?如眼等識各於自境取一或多,此亦何失?相、見俱有種種相故。
どうして五倶はただ一の意識のみにして、色等の境に対して一あるいは多を取るや。眼等識の各々自境に対して一あるいは多を取るが如し。これまた何の過失か有らん。相・見は倶に種種の相有るのゆえん。
何故諸識同類不俱?於自所緣若可了者,一已能了,餘無用故。若爾,五識已了自境,何用俱起意識了為?五俱意識助五令起,非專為了五識所緣。又於彼所緣能明瞭取,異於眼等識,故非無用。由此聖教說彼意識名有分別,五識不爾。
なんぞ諸識の同類は倶せざる。自らの所縁に対してもし了すべきは、一は已に能く了すれば其余は用無きのゆえん。もし然らば、五識は已に自境を了すれば、何の用にか倶起の意識を用いん。五倶の意識は五を助けて起こらしむ。五識の所縁の為に専らに非ず。またそれらの所縁に対して能く明了に取りて、眼等識に異なり。ゆえに用無きに非ず。これに由って聖教にかの意識を説いて名づけて有分別という。五識はこの如ならず。
多識俱轉何不相應?非同境故,設同境者,彼此所依體、數異故,如五根識互不相應。
多識倶に転ずるに、なんぞ相応せざる。境を同じくせざるのゆえん。設し境を同じくするも、彼此の所依の体・数は異なるのゆえん。五根識の互いに相応せざるが如し。
八識自性不可言定一,行相、所依、緣、相應異故;又一滅時餘不滅故,能、所燻等相各異故;亦非定異,經說八識如水波等,無差別故;定異應非因果性故。如幻事等,無定性故。
八識の自性は定めて一と説くべからず。行相・所依・縁・相応は異なるのゆえん。また一が滅する時に其余は滅せざるのゆえん。能・所薫等の相は各々異なるのゆえん。また定めて異にも非ず。経に八識は水波等の如く、差別無しと説くのゆえん。定めて異なればまさに因果性に非ざるべきのゆえん。幻事等の如く、定性無きのゆえん。
如前所說,識差別相依理世俗,非真勝義,真勝義中,心言絕故。
前の説く所の如く、識の差別相は理世俗に依る。真の勝義に非ず。真勝義の中には心・言は絶するのゆえん。
如伽他說:
伽他の説けるが如く:
「心、意、識八種,俗故相有別;
「心・意・識の八種は、世俗のゆえんに相に別有り。
真故相無別,相、所相無故。」
勝義のゆえんに相は別無し。相・所相は無きのゆえん。」
已廣分別三能變相為自所變二分所依。云何應知依識所變假說我、法非別實有,由斯一切唯有識耶?
已に広く三能変の相を分別して、自らの変ずる所の二分の依る所と為せり。どうして識に依って変ずる所の假説する我・法は別に実有に非ず、これに由って一切は唯だ識のみなるを知らん。
頌曰:
頌に説く:
17是諸識轉變,分別所分別,
是の諸識の転変は、分別・所分別なり。
由此彼皆無,故一切唯識。
これに由ってそれらは皆無し。ゆえに一切は唯識なり。
論曰:「是諸識」者,謂前所說三能變識及彼心所,皆能變似見、相二分,立「轉變」名。
論に説く:「是の諸識」とは、いわゆる前の説く所の三の能変識およびそれらの心所にして、皆能く変じて見・相の二分に似る。「転変」の名を立つ。
所變見分說名「分別」,能取相故;所變相分名「所分別」,見所取故。
変ずる所の見分は説いて名づけて「分別」という。相を取る能のゆえん。変ずる所の相分を名づけて「所分別」という。見の取る所なるのゆえん。
由此正理,彼實我、法離識所變皆定非有,離能、所取無別物故,非有實物離二相故。
この正理に由って、それらの実我・実法は識の変ずる所を離れて倶に決定して有に非ず。能・所取を離れて別の物無きのゆえん。実物有りて二相を離るるに非ざるのゆえん。
是故一切有為、無為,若實、若假,皆不離識。「唯」言為遮離識實物,非不離識心所法等。
ゆえに一切の有為・無為は、もし実もし假なるも、倶に識を離れず。「唯」の言は識を離れたる実物を遮らんが為にして、識を離れざる心所法等に非ず。
或轉變者,謂諸內識轉似我、法外境相現。
あるいは転変とは、いわゆる諸内識は転じて我・法の外境の相に似て現ず。
此能轉變即名分別,虛妄分別為自性故,謂即三界心及心所。此所執境名所分別,即所妄執實我、法性。
この能く転変するはすなわち名づけて分別という。虚妄分別を以って自性と為すのゆえん。いわゆるすなわち三界の心および心所。この執する所の境を名づけて所分別という。すなわち妄に執する所の実我・法の性なり。
由此分別變似外境假我、法相,彼所分別實我、法性,決定皆無,前引教理已廣破故。
この分別に由って変じて外境の假我・法相に似たれば、それらの所分別の実我・法の性は決定して倶に無し。前の引く所の教理は已に広く破せりとのゆえん。
是故一切皆唯有識,虛妄分別有極成故。「唯」既不遮不離識法,故真空等亦是有性。
ゆえに一切は唯だ識有り。虚妄分別は極成有るのゆえん。「唯」はすでに識を離れざる法を遮らざれば、ゆえに真空等もまた是れ有性なり。
由斯遠離增、減二邊,唯識義成,契會中道。
これに由って増・減の二辺を遠離して、唯識の義成立して中道に契会す。
由何教理唯識義成?
何の教理に由ってか唯識の義は成立する。
豈不已說?
あに已に説けりに非ずや。
雖說未了,非破他義己義便成;應更礭陳,成此教理。
説きたりと雖も未だ了せず。他義を破するに非ずして自己の義は便ち成立せず。まさに更に確然として陳述して、この教理を成立すべし。
如契經說:「三界唯心」;又說:「所緣唯識所現」;又說:「諸法皆不離心」;又說:「有情隨心垢、淨」。
契経に説けるが如く:「三界は唯心なり。」また説く:「所縁は唯識の現ずる所なり。」また説く:「諸法は倶に心を離れず。」また説く:「有情は心に随って垢・浄なり。」
又說:「成就四智菩薩能隨悟入唯識無境」。
また説く:「四智を成就したる菩薩は能く随って唯識の境無きを悟入す。」
一、相違識相智:謂於一處,鬼、人、天等隨業差別所見各異,境若實有,此云何成?二、無所緣識智:謂緣過、未、夢境像等非實有境,識現可得,彼境既無,餘亦應爾。三、自應無倒智:謂愚夫智若得實境,彼應自然成無顛倒,不由功用應得解脫。四、隨三智轉智:一、隨自在者智轉智:謂已證得心自在者,隨欲轉變地等皆成,境若實有,如何可變?二、隨觀察者智轉智:謂得勝定修法觀者,隨觀一境,眾相現前,境若是實,寧隨心轉?三、隨無分別智轉智:謂起證實無分別智,一切境相皆不現前,境若是實,何容不現?
一、相違識相智とは、いわゆる一処に対して鬼・人・天等は業の差別に随って見る所各々異なり。境もし実有なれば、これはどうして成らん。二、無所縁識智とは、いわゆる過・未・夢境の像等に縁ずるは実有の境に非ず。識は現に得べし。彼の境すでに無ければ、其余もまたまさに然るべし。三、自応無倒智とは、いわゆる愚夫の智もし実境を得ば、彼らはまさに自然に無顛倒を成ずべし。功用に由らずしてまさに解脱を得べし。四、随三智転智とは、一、随自在者智転智とは、いわゆる已に心の自在を証得したるは欲に随って転変して地等倶に成ず。境もし実有なれば、どうして変ずべきや。二、随観察者智転智とは、いわゆる勝定を得て法観を修するは観に随って一境なれば、衆相現前す。境もし是れ実なれば、どうして心に随って転ぜん。三、随無分別智転智とは、いわゆる起ちて実の無分別智を証すれば、一切の境相は倶に現前せず。境もし是れ実なれば、何ぞ現ぜざるを容せん。
菩薩成就此四智者,於唯識理決定悟入。
菩薩のこの四智を成就するは、唯識の理に対して決定して悟入す。
又伽他說:
また伽他に説く:
心、意、識所緣,皆非離自性,
心・意・識の縁ずる所は、倶に自性を離るるに非ず。
故我說一切唯有識無餘。
ゆえに我は一切は唯だ識有りて余無しと説く。
此等聖教誠證非一。
これらの聖教の誠証は一に非ず。
極成眼等識,五隨一故,如餘,不親緣離自色等。餘識識故,如眼識等,亦不親緣離自諸法。此親所緣定非離此,二隨一故,如彼能緣。所緣法故,如相應法,決定不離心及心所。
極成の眼等識は五の随一なるのゆえん、其余の如く、自を離れたる色等に親しく縁ぜず。其余の識は是れ識なるのゆえん、眼識等の如く、もまた自を離れたる諸法に親しく縁ぜず。この親しき所縁は決定してこれを離るるに非ず。二の随一なるのゆえん、かの能縁の如し。所縁の法なるのゆえん、相応の法の如く、決定して心および心所を離れず。
此等正理,誠證非一,故於唯識,應深信受。
これらの正理は誠証一に非ず。ゆえに唯識に対してまさに深く信受すべし。
我、法非有;空、識非無。離有、離無,故契中道。
我・法は有に非ず。空・識は無に非ず。有を離れ無を離るるがゆえに中道に契す。
慈尊依此說二頌言:
慈尊はこれに依って二頌を説いて曰く:
「虛妄分別有,於此二都無,
「虚妄分別は有りて、ここに於て二は倶に無し。
此中唯有空,於彼亦有此,
ここには唯だ空のみ有りて、それに於てもまたこれ有り。
故說一切法,非空非不空,
ゆえに一切法を説いて、空に非ず不空に非ず。
有無及有故,是則契中道。」
有無および有るのゆえんに、是れすなわち中道に契す。」
此頌且依染依他說,理實亦有淨分依他。
この頌は且く染の依他に依って説く。理実はもまた浄分の依他有り。
若唯內識似外境起,寧見世間情、非情物,處、時、身、用定、不定轉?
もし唯だ内識は外境に似て起これば、どうして世間の情・非情の物、処・時・身・用の定・不定に転ずるを見ん。
如夢境等,應釋此疑。
夢境等の如く、まさにこの疑を釋すべし。
何緣世尊說十二處?
なんの故にか世尊は十二処を説く。
依識所變,非別實有。為入我空說六二法,如遮斷見說續有情。為入法空復說唯識,令知外法亦非有故。
識の変ずる所に依る。別に実有に非ず。我空に入らしめんが為に六二の法を説く。断見を遮って有情を續くと説くが如し。法空に入らしめんが為にまた唯識を説く。外法もまた有に非ずと知らしむるのゆえん。
此唯識性豈不亦空?
この唯識性はあにもまた空ならずや。
不爾。
この如しに非ず。
如何?
いかんとなれば。
非所執故。
執する所に非ざるのゆえん。
謂依識變,妄執實法,理不可得,說為法空;非無離言正智所證唯識性故,說為法空。
いわゆる識の変に依って妄りに実法を執して、理求むるを得ざるを法空と説く。離言の正智の証する所の唯識性無きに非ざるのゆえんに、法空と説く。
此識若無,便無俗諦;俗諦無故,真諦亦無。真、俗相依而建立故。
この識もし無ければ、便ち俗諦無し。俗諦無きのゆえんに真諦もまた無し。真・俗は相依りて建立するのゆえん。
撥無二諦是惡取空,諸佛說為不可治者。應知諸法有空、不空,由此慈尊說前二頌。
二諦無きを撥くは是れ悪取空にして、諸仏は説いて治すべからずと為す。まさに知るべし、諸法は空・不空有りて、これに由って慈尊は前の二頌を説けり。
若諸色處亦識為體,何緣乃似色相顯現,一類堅住相續而轉?
もし諸色処もまた識を以って体と為さば、なんぞ纔めて色の相に似て顯現し、一類堅住して相続して転ずるや。
名言燻習勢力起故。
名言の薫習の勢力にて起こるのゆえん。
與染、淨法為依處故。謂此若無,應無顛倒,便無雜染,亦無淨法,是故諸識亦似色現。如有頌言:
染・浄の法と依処と為るのゆえん。いわゆるこれもし無ければまさに顛倒無かるべくして、便ち雑染無く、もまた浄法無し。ゆえに諸識もまた色に似て現ず。頌に説ける有るが如く:
亂相及亂體,應許為色識,
乱相および乱体は、まさに色識と為すと許すべく、
及與非色識,若無餘亦無。
および非色識と為す。もし無ければ其余もまた無し。
色等外境分明現證,現量所得,寧撥為無?
色等の外境は分明にして現に証し、現量の得る所なり。どうして無と撥けん。
現量證時,不執為外,後意分別,妄生外想。故現量境是自相分,識所變故,亦說為有;意識所執外實色等,妄計有故。說彼為無。
現量の証する時は外と執せず。後に意は分別して妄りに外の想を生ず。ゆえに現量の境は自らの相分にして、識の変ずる所なるのゆえんに、もまた有りと説く。意識の執する所の外の実色等は妄計して有りのゆえんに、それらを無と説く。
又色等境,非色、似色,非外、似外,如夢所緣,不可執為是實外色。
また色等の境は色に非ずして色に似たり、外に非ずして外に似たり。夢の縁ずる所の如し。実の外色と執すべからず。
若覺時,色皆如夢境不離識者,如從夢覺知彼唯心,何故覺時於自色境不知唯識?
もし覚の時に色は倶に夢境の如く識を離れざれば、夢より覚めてそれらは唯心と知るが如く、なんぞ覚の時に自色の境に対して唯識を知らざる。
如夢未覺不能自知,要至覺時方能追覺,覺時境色應知亦爾,未真覺位不能自知,至真覺時亦能追覺。未得真覺恆處夢中,故佛說為生死長夜,由斯未了色境唯識。
夢の未だ覚めざるは自ら知ること能わざるが如く、覚の時に至るを要して乃ち能く追覚す。覚時の境色もまさに然るべしと知る。未だ真の覚位に至らざれば自ら知ること能わず、真の覚時に至ればもまた能く追覚す。未だ真覚を得ざれば恒に夢中に処る。ゆえに仏は説いて生死の長夜と為す。これに由って未だ色境は唯識を了せず。
外色實無,可非內識境;他心實有,寧非自所緣?
外色は実に無し。内識の境と為すべからず。他心は実に有りて、どうして自の所縁に非ざらん。
誰說他心非自識境?但不說彼是親所緣。
誰か他心は自識の境に非ずと説く。ただそれらは親しき所縁と説かざるのみ。
謂識生時無實作用,非如手等親執外物,日等舒光親照外境;但如鏡等似外境現,名「了他心」,非「親能了」。親所了者,謂自所變。
いわゆる識の生ずる時は実の作用無し。手等の親しく外物を執り、日等の光を舒べて親しく外境を照らすに似ず。ただ鏡等の外境に似て現ずるが如く、名づけて「他心を了す」と為りて、「親しく能く了す」に非ず。親しく了する所はいわゆる自らの変ずる所なり。
故契經言:無有少法能取餘法,但識生時,似彼相現,名取彼物。
ゆえに契経に説く:少法有りて能く其余の法を取る無し。ただ識の生ずる時にそれの相に似て現ずるを、名づけて彼の物を取るという。
如緣他心,色等亦爾。
他心に縁ずるが如く、色等もまたこの如し。
既有異境,何名唯識?
すでに異境有れば、どうして名づけて唯識という。
奇哉!固執觸處生疑!豈唯識教但說一識?
奇なるかな。固く触処に執して疑を生ず。あに唯識の教はただ一識を説くのみならんや。
不爾,如何?
この如しに非ず。いかんとなれば。
汝應諦聽:若唯一識,寧有十方凡聖、尊卑、因果等別?誰為誰說?何法何求?故「唯識」言有深意趣。「識」言總顯一切有情各有八識、六位心所,所變相、見、分位差別及彼空理所顯真如。識自相故,識相應故,二所變故,三分位故,四實性故,如是諸法皆不離識,總立識名。「唯」言,但遮愚夫所執定離諸識實有色等。
汝まさに諦聴すべし。もし唯だ一識ならば、どうして十方の凡聖・尊卑・因果等の分別有らん。誰か誰の為に説かん。何の法をか何を求めん。ゆえに「唯識」の言は深き意趣有り。「識」の言は総じて一切の有情は各々八識・六位の心所・変ずる所の相・見・分位の差別およびそれらの空理の顯す所の真如を顯す。識の自相なるのゆえん、識の相応なるのゆえん、二の所変なるのゆえん、三の分位なるのゆえん、四の実性なるのゆえんに、かくのごとき諸法は倶に識を離れず。総じて識の名を立つ。「唯」の言はただ愚夫の執する所の定めて諸識を離れたる実の色等有るを遮る。
若如是知唯識教意,便能無倒善備資糧速入法空,證無上覺,救拔含識生死輪迴;非全撥無惡取空者,違背教理能成是事,故定應信一切唯識。
もしかくのごとく唯識の教の意を知れば、便ち能く顛倒無くして善く資糧を備えて、速やかに法空に入り、無上の覚を証して、含識の生死輪回を救抜す。全く撥いて悪取空するに非ざるは、教理に違背して能くこの事を成ず。ゆえに決定してまさに一切は唯識を信ずべし。
若唯有識都無外緣,由何而生種種分別?
もし唯だ識有りて倶に外縁無からば、何に由って種種の分別を生ずるや。
頌曰:
頌に説く:
18由一切種識,如是如是變,
一切種の識に由って、是の如く是の如く変じ、
以展轉力故,彼彼分別生。
展転の力を以ってするのゆえんに、彼彼の分別は生ず。
論曰:「一切種識」謂本識中能生自果功能差別,此生等流、異熟、士用、增上果故,名一切種,除離繫者,非種生故,彼雖可證,而非種果,要現起道,斷結得故,有展轉義,非此所說,此說能生分別種故。此識為體,故立識名,種離本識無別性故。「種識」二言,簡非種識;有識非種;種非識故。又「種識」言,顯識中種,非持種識,後當說故。
論に説く:「一切種識」とは、いわゆる本識の中に自果を生ずる能くする功能の差別にして、これは等流・異熟・士用・増上の果を生ずるのゆえんに、名づけて一切種という。離繫のを除く。種の生ずるに非ざるのゆえん。それらは証すべきと雖も、しかし種の果に非ず。現起の道を要して結を断じて得るのゆえん。展転の義有りて、ここに説く所に非ず。ここに分別を生ずる能くする種を説くのゆえん。この識を体と為す。ゆえに識の名を立つ。種は本識を離れて別の性無きのゆえん。「種識」の二言は種識に非ざるを簡別す。識有りて種に非ず。種にして識に非ざるのゆえん。また「種識」の言は識の中の種を顯示す。種を持する識に非ず。後にまさに説かんのゆえん。
此識中種餘緣助故,即便如是如是轉變,謂從生位轉至熟時。顯變種多,重言「如是」。謂一切種攝三燻習,共、不共等識種盡故。
この識の中の種は其余の縁の助する所に由って、便ち是の如く是の如く転変す。いわゆる生位より熟時に転ずるに至る。変ずる種の多きを顯示して「是の如く」を重言す。いわゆる一切種は三の薫習を収攝す。共・不共等の識種を尽くすのゆえん。
「展轉力」者,謂八現識及彼相應相、見分等,彼皆互有相助力故。
「展転力」とは、いわゆる八の現識およびそれらに相応の相・見分等にして、それらは倶に互いに相助の力有るのゆえん。
即現識等,總名「分別」,虛妄分別為自性故,「分別」類多,故言「彼彼」。
すなわち現の識等は総じて名づけて「分別」という。虚妄分別を以って自性と為すのゆえん。「分別」の類は多きがゆえに「彼彼」と説く。
此頌意說:雖無外緣,由本識中有一切種轉變差別,及以現行八種識等展轉力故,彼彼分別而亦得生,何假外緣方起分別?
この頌の意は説く:外縁無きと雖も、本識の中に一切種の転変の差別有り、および現行の八種識等の展転の力を以ってするのゆえんに、彼彼の分別もまた生ずるを得。何の外縁を假って乃ち分別を起こさんや。
諸淨法起應知亦然,淨種現行為緣生故。
諸浄法の起こるもまさに然るべしと知る。浄種・現行を縁として生ずるのゆえん。
所說種、現緣生分別,云何應知此緣生相?
説く所の種・現の縁生の分別は、どうしてこの縁生の相を知らん。
緣且有四。
縁は且く四有り。
一、因緣:謂有為法親辦自果。
一、因縁とは、いわゆる有為法は親しく自果を辦ず。
此體有二:一、種子;二、現行。種子者,謂本識中善、染、無記、諸界、地等功能差別,能引次後自類功能及起同時自類現果,此唯望彼是因緣性。現行者,謂七轉識及彼相應所變相、見、性、界、地等,除佛果善、極劣無記,餘燻本識生自類種,此唯望彼是因緣性。
この体は二有り。一、種子。二、現行。種子とは、いわゆる本識の中の善・染・無記・諸界・地等の功能の差別にして、能く次後の自類の功能を引きおよび同時の自類の現果を起こす。これはただそれらに望めば是れ因縁性なり。現行とは、いわゆる七転識およびそれらに相応の変ずる所の相・見・性・界・地等にして、仏果の善・極劣の無記を除きて、其余は本識を薫じて自類の種を生ず。これはただそれらに望めば是れ因縁性なり。
第八心品無所燻故,非簡所依獨能燻故,極微、圓故,不燻成種。現行同類展轉相望皆非因緣,自種生故;一切異類展轉相望亦非因緣,不親生故。
第八の心品は薫する所無きのゆえん、簡の所依は独り能く薫ずに非ざるのゆえん、極微・円なるのゆえんに、薫じて種を成さず。現行の同類は展転して相望むるに倶に因縁に非ず。自種の生ずる所なるのゆえん。一切の異類の展転して相望むるもまた因縁に非ず。親しく生ぜざるのゆえん。
有說異類、同類現行展轉相望為因緣者,應知假說,或隨轉門。有唯說種是因緣性,彼依顯勝,非盡理說,聖說轉識與阿賴耶展轉相望為因緣故。
人有りて異類・同類の現行は展転して相望みて因縁と為すと説くは、まさに假説と知るべし。あるいは転門に随う。ただ種を説いて因縁性と為す有るは、彼らは顯勝に依る。理を尽くして説くに非ず。聖は転識と阿頼耶とは展転して相望みて因縁と為ると説くのゆえん。
二、等無間緣,謂八現識及彼心所前聚於後自類無間,等而開導,令彼定生。
二、等無間縁とは、いわゆる八の現識およびそれらの心所は前の聚は後の自類に対して無間にして、等しくして開導して、それらをして定めて生ぜしむ。
多同類種俱時轉故,如不相應非此緣攝,由斯八識非互為緣。心所與心雖恆俱轉,而相應故,和合似一,不可施設離別殊異,故得互作等無間緣。入無餘心最極微劣,無開導用,又無當起等無間法,故非此緣。云何知然?論有誠說:若此識等無間,彼識等決定生,即說此是彼等無間緣故。
多くの同類の種は倶時に転ずるのゆえん、不相応の如く是れこの縁の摂する所に非ず。これに由って八識は互いに縁と為さず。心所と心とは恒に倶に転ずると雖も、しかし相応するのゆえんに、和合して一に似たり。施設して別離殊異すべからず。ゆえに互いに等無間縁を作すを得。無余に入る心は最極微劣にして開導の用無く、また当に起こるべき等無間の法無し。ゆえに是れこの縁に非ず。どうしてかくのごときを知る。論に誠説有り:もしこの識の等無間なれば、かの識等は決定して生ず。便ちこれを説いてかれが等無間縁と為すのゆえん。
即依此義,應作是說:阿陀那識三界九地皆容互作等無間緣,下、上,死、生相開導故,有漏無間有無漏生;無漏定無生有漏者,鏡智起已必無、斷故,善與無記相望亦然。
すなわちこの義に依って、まさにかくのごとき説を作すべし。阿陀那識は三界九地に倶に互いに等無間縁を作すを容す。下・上・死・生の相開導するのゆえん。有漏は無間に無漏の生ずる有り。無漏は決定して有漏の生ずる無し。鏡智の起こり已って必ず無・断なるのゆえん。善と無記と相望むるもまたこの如し。
此何界後引生無漏?
これは何の界の後に無漏を引生する。
或從色界,或欲界後。
あるいは色界より、あるいは欲界の後。
謂諸異生求佛果者,定色界後引生無漏,彼必生在淨居天上大自在宮得菩提故。
いわゆる諸異生の仏果を求むるは、定めて色界の後に無漏を引生す。彼らは必ず浄居天の上大自在宮に生じて菩提を得るのゆえん。
二乘迴趣大菩提者,定欲界後引生無漏,迴趣留身唯欲界故,彼雖必往大自在宮方得成佛,而本願力所留生身是欲界故。
二乗の大菩提に回趣するは、定めて欲界の後に無漏を引生す。回趣し身を留むるはただ欲界なるのゆえん。彼らは必ず大自在宮に往いて乃ち仏を成ずるを得ると雖も、しかし本願力の留むる所の生身は欲界なるのゆえん。
有義:色界亦有聲聞迴趣大乘願留身者,既與教理俱不相違,是故聲聞第八無漏色界心後亦得現前。然五淨居無迴趣者,經不說彼發大心故。
一義有り:色界にもまた声聞の大乗に回趣して願して身を留むる有り。すでに教理と倶に相違せざれば、ゆえに声聞の第八の無漏は色界の心の後にもまた現前を得。しかし五浄居は回趣無し。経に彼らの大心を発するを説かざるのゆえん。
第七轉識三界九地亦容互作等無間緣,隨第八識生處繫故。有漏、無漏容互相生,十地位中得相引故。善與無記相望亦然,於無記中,染與不染亦相開導,生空智果前、後位中得相引故。此欲、色界有漏得與無漏相生,非無色界,地上菩薩不生彼故。
第七転識は三界九地もまた互いに等無間縁を作すを容す。第八識の生ずる処の繋に随うのゆえん。有漏・無漏は互いに相生を容す。十地位の中に相引くを得るのゆえん。善と無記と相望むるもまたこの如し。無記の中に於て染と不染ともまた相開導す。生空智果の前・後の位の中に相引くを得るのゆえん。これは欲・色界の有漏は無漏と相生するを得。無色界に非ず。地上の菩薩はそこに生ぜざるのゆえん。
第六轉識三界九地有漏無漏、善不善等,各容互作等無間緣,潤生位等更相引故,初起無漏唯色界後,決擇分善唯色界故。
第六転識は三界九地の有漏無漏・善不善等は各々互いに等無間縁を作すを容す。潤生位等の更に相引くのゆえん。初めて無漏を起こすはただ色界の後のみ。決択分の善はただ色界なるのゆえん。
眼、耳、身識二界二地,鼻、舌兩識一界一地,自類互作等無間緣,善等相望應知亦爾。
眼・耳・身識は二界二地、鼻・舌の両識は一界一地にて、自類互いに等無間縁を作す。善等の相望むるもまさに然るべしと知る。
有義:五識有漏、無漏自類互作等無間緣,未成佛時容互起故。
一義有り:五識の有漏・無漏は自類互いに等無間縁を作す。未だ仏を成らざる時は互いに起こるを容すのゆえん。
有義:無漏有漏後起,非無漏後容起有漏。無漏五識非佛無故;彼五色根定有漏故;是異熟識相分攝故;有漏不共必俱同境根發無漏識,理不相應故;此二於境明、昧異故。
一義有り:無漏は有漏の後に起こる。無漏の後に有漏を起こるを容するに非ず。無漏の五識は仏に非ざれば無きのゆえん。それらの五色根は定めて有漏なるのゆえん。是れ異熟識の相分の摂する所なるのゆえん。有漏は不共にして必ず倶に境を同じくする根は無漏識を発す。理相応せざるのゆえん。この二は境に対して明・昧異なるのゆえん。
三、所緣緣:謂若有法是帶己相心或相應所慮、所託。
三、所縁縁とは、いわゆるもし法有りて己の相を帯びたる心あるいは相応の慮る所・託する所。
此體有二:一、親;二、疎。若與能緣體不相離,是見分等內所慮託,應知彼是親所緣緣;若與能緣體雖相離,為質能起內所慮託,應知彼是疎所緣緣。
この体は二有り。一、親。二、疎。もし能縁の体と相離れざれば、是れ見分等の内の慮託する所なり。まさにそれらは親しき所縁縁と知るべし。もし能縁の体と相離るると雖も、質と為して能く内の慮託する所を起こさば、まさにそれらは疎なる所縁縁と知るべし。
親所緣緣能緣皆有,離內所慮託必不生故。疎所緣緣能緣或有,離外所慮託亦得生故。
親しき所縁縁は能縁に倶に有り。内の慮託する所を離れば必ず生ぜざるのゆえん。疎なる所縁縁は能縁あるいは有り。外の慮託する所を離れてもまた生ずるを得るのゆえん。
第八心品:有義:唯有親所緣緣,隨業因力任運變故。
第八の心品は、一義有り:ただ親しき所縁縁のみ有り。業因の力に随って任運に変ずるのゆえん。
有義:亦定有疎所緣緣,要仗他變質自方變故。
一義有り:もまた定めて疎なる所縁縁有り。他の変ずる所の質を仗るを要して自は乃ち変ずるのゆえん。
有義:二說俱不應理。自、他身、土可互受用,他所變者為自質故。自種於他無受用理,他變為此不應理故,非諸有情種皆等故,應說此品疎所緣緣,一切位中有、無不定。
一義有り:二の説は倶に理に応えず。自・他の身・土は互いに受用すべきにして、他の変ずる所は自の質と為るのゆえん。自種は他に対して受用の理無し。他は変じてこれと為るは理に応えざるのゆえん。諸有情の種は倶に等しきに非ざるのゆえん。まさにこの品は疎なる所縁縁は一切位の中に有・無定まらずと説くべし。
第七心品未轉依位是俱生故,必仗外質,故亦定有疎所緣緣;已轉依位此非定有,緣真如等無外質故。
第七の心品は未だ転依せざる位は倶生なるのゆえん、必ず外質を仗る。ゆえにもまた定めて疎なる所縁縁有り。已に転依せし位にはこれは定めて有に非ず。真如等に縁ずるに外質無きのゆえん。
第六心品行相猛利,於一切位能自在轉,所仗外質或有、或無,疎所緣緣有、無不定。
第六の心品は行相猛利にして、一切位に於て能く自在に転ず。仗る所の外質はあるいは有りあるいは無し。疎なる所縁縁は有・無定まらず。
前五心品未轉依位,麁、鈍、劣故,必仗外質,故亦定有疎所緣緣;已轉依位此非定有,緣過、未等,無外質故。
前の五心品は未だ転依せざる位は麁・鈍・劣なるのゆえん、必ず外質を仗る。ゆえにもまた定めて疎なる所縁縁有り。已に転依せし位にはこれは定めて有に非ず。過・未等に縁ずるに外質無きのゆえん。
四、增上緣:謂若有法有勝勢用,能於餘法或順、或違。雖前三緣亦是增上,而今第四除彼取餘,為顯諸緣差別相故。
四、増上縁とは、いわゆるもし法有りて勝勢の用有りて、能く其余の法に対してあるいは順あるいは違。前三の縁もまた増上なると雖も、しかし今第四はそれらを除きて其余を取る。諸縁の差別相を顯示する為のゆえん。
此順、違用於四處轉:生、住、成、得四事別故。
この順・違の用は四処に転ず。生・住・成・得の四事を分別するのゆえん。
然增上用隨事雖多,而勝顯者唯二十二,應知即是二十二根。
しかし増上の用は事に随って多しと雖も、しかし勝顯はただ二十二有り。まさにすなわち二十二根と知るべし。
前五色根以本識等所變眼等淨色為性;男女二根,身根所攝故,即以彼少分為性;命根但依本識親種分位假立,非別有性;意根總以八識為性;五受根如應,各自受為性;信等五根即以信等及善念等而為自性。
前の五色根は本識等の変ずる所の眼等の浄色を以って性と為す。男女の二根は身根の摂する所なるのゆえんに、すなわちそれらの少分を以って性と為す。命根はただ本識の親種の分位に依って假立す。別に性有るに非ず。意根は総じて八識を以って性と為す。五受根は応ずるが如く各々自受を性と為す。信等の五根はすなわち信等および善念等を以って自性と為す。
未知當知根,體位有三種:一、根本位,謂在見道,除後剎那,無所未知可當知故。二、加行位,謂煖、頂、忍、世第一法,近能引發根本位故。三、資糧位,謂從為得諦現觀故,發起決定勝善法欲,乃至未得順決擇分所有善根名資糧位,能遠資生根本位故。
未知当知根は体位三種有り。一、根本位とは、いわゆる見道に在りて、後の刹那を除き、未知有りて当に知るべき無きのゆえん。二、加行位とは、いわゆる煖・頂・忍・世第一法にして、近く能く根本位を引発するのゆえん。三、資糧位とは、いわゆる諦の現観を得んが為のゆえんに、決定の勝善法欲を発起して、乃至未だ順決択分を得ざる所有の善根を名づけて資糧位という。遠く根本位を資生する能くするのゆえん。
於此三位,信等五根、意、喜、樂、捨為此根性,加行等位於後勝法求證愁慼亦有憂根,非正善根,故多不說。
この三位に於て、信等の五根・意・喜・楽・捨をこの根の性と為す。加行等の位にて後の勝法に対して証を求めて愁戚するにもまた憂根有り。正の善根に非ず。ゆえに多く説かず。
前三無色有此根者,有勝見道傍修得故,或二乘位迴趣大者,為證法空,地前亦起九地所攝生空無漏,彼皆菩薩,此根攝故。
前の三無色はこの根有る。勝見道有りて傍ら修得するのゆえん。あるいは二乗位の大に回趣するは、法空を証せんが為に、地前にもまた九地の摂する所の生空の無漏を起こす。それらは倶に是れ菩薩なり。この根の摂する所なるのゆえん。
菩薩見道亦有此根,但說地前,以時促故。
菩薩の見道もまたこの根有り。ただ地前を説く。時の促なるに因るのゆえん。
始從見道最後剎那乃至金剛喻定,所有信等無漏九根皆是已知根性。未離欲者,於上解脫求證愁慼,亦有憂根,非正善根,故多不說。
見道の最後の刹那より始めて乃至金剛喩定に、所有の信等の無漏九根は倶に是れ已知根性なり。未だ欲を離れざるは、上の解脱に対して証を求めて愁戚するにもまた憂根有り。正の善根に非ず。ゆえに多く説かず。
諸無學位,無漏九根一切皆是具知根性。有頂雖有遊觀無漏,而不明利,非後三根。
諸々の無学位は無漏の九根は一切倶に是れ具知根性なり。有頂は遊観の無漏有ると雖も、しかし明利ならず。後の三根に非ず。
二十二根自性如是,諸餘門義,如論應知。
二十二根の自性はこの如し。諸々の其余の門義は論の如くまさに知るべし。
成唯識論巻第七
成唯識論巻第八
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
如是四緣,依十五處,義差別故,立為十因。云何此依十五處立?
かくのごとき四縁は十五処に依って、義差別あるのゆえんに、立てて十因と為す。どうしてこれは十五処に依って立つ。
一、語依處:謂法名、想所起語性,即依此處立隨說因。謂依此語隨見、聞等,說諸義故。此即能說為所說因;有論說此是名、想、見,由如名字取相,執著隨起說故,若依彼說便顯此因是語依處。
一、語依処とは、いわゆる法の名・想の起こす所の語性なり。すなわちこの処に依って随説因を立つ。いわゆるこの語に依って見・聞等に随って諸義を説くのゆえん。これすなわち説く能は説く所の因と為る。論有りてこれは名・想・見と説く。名字に如して相を取るに由って、執著は随って説を起こすのゆえん。もし彼らの説に依れば便ちこの因は語依処を顯示す。
二、領受依處:謂所觀待能、所受性,即依此處立觀待因。謂觀待此令彼諸事或生、或住、或成、或得,此是彼觀待因。
二、領受依処とは、いわゆる観待する所の能・所受性なり。すなわちこの処に依って観待因を立つ。いわゆるこれを観待してそれらの諸事をしてあるいは生じあるいは住しあるいは成じあるいは得しむ。これはそれらの観待因なり。
三、習氣依處:謂內、外種,未成熟位。即依此處,立牽引因。謂能牽引遠自果故。
三、習気依処とは、いわゆる内・外の種の未成熟位なり。すなわちこの処に依って牽引因を立つ。いわゆる能く遠く自果を牽引するのゆえん。
四、有潤種子依處:謂內、外種,已成熟位。即依此處,立生起因。謂能生起近自果故。
四、有潤種子依処とは、いわゆる内・外の種の已成熟位なり。すなわちこの処に依って生起因を立つ。いわゆる能く近き自果を生起するのゆえん。
五、無間滅依處:謂心、心所等無間緣。六、境界依處:謂心、心所所緣緣。七、根依處:謂心、心所所依六根。八、作用依處:謂於所作業、作具、作用,即除種子餘助現緣。九、士用依處:謂於所作業、作者、作用,即除種子餘作現緣。十、真實見依處:謂無漏見,除引自種於無漏法能助引證。總依此六,立攝受因。謂攝受五辦有漏法,具攝受六辦無漏故。
五、無間滅依処とは、いわゆる心・心所等の無間縁。六、境界依処とは、いわゆる心・心所の所縁縁。七、根依処とは、いわゆる心・心所の依る所の六根。八、作用依処とは、いわゆる作する所の業・作具・作用に対して、すなわち種子を除きて其余の助けて現ずる縁。九、士用依処とは、いわゆる作する所の業・作者・作用に対して、すなわち種子を除きて其余の作して現ずる縁。十、真実見依処とは、いわゆる無漏見にして、自種を引くを除きて無漏法に対して能く引証を助く。総じてこの六に依って摂受因を立つ。いわゆる摂受は五は有漏法を辦じ、具に摂受して六は無漏を辦ずるのゆえん。
十一、隨順依處:謂無記、染、善現種諸行,能隨順同類勝品諸法。即依此處,立引發因。謂能引起同類勝行,及能引得無為法故。
十一、随順依処とは、いわゆる無記・染・善の現・種の諸行は能く同類の勝品の諸法に随順す。すなわちこの処に依って引発因を立つ。いわゆる能く同類の勝行を引き起こし、および能く無為法を引得するのゆえん。
十二、差別功能依處:謂有為法,各於自果,有能起證差別勢力。即依此處,立定、異因。謂各能生自界等果,及各能得自乘果故。
十二、差別功能依処とは、いわゆる有為法は各々自果に対して、能く起こし証するの差別勢力有り。すなわちこの処に依って定・異因を立つ。いわゆる各々能く自界等の果を生じ、および各々能く自乗の果を得るのゆえん。
十三、和合依處:謂從領受,乃至差別功能依處,於所生、住、成、得果中,有和合力。即依此處,立同事因。謂從觀待乃至定、異,皆同生等,一事業故。
十三、和合依処とは、いわゆる領受より乃至差別功能の依処に至るまで、生ずる所・住する所・成ずる所・得る所の果の中に、和合の力有り。すなわちこの処に依って同事因を立つ。いわゆる観待より乃至定・異に至るまで、倶に同じく生等の一事業なるのゆえん。
十四、障礙依處:謂於生、住、成、得事中,能障礙法。即依此處,立相違因。謂彼能違生等事故。
十四、障碍依処とは、いわゆる生・住・成・得の事の中に於て、能く障碍する法。すなわちこの処に依って相違因を立つ。いわゆるそれらは能く生等の事に違するのゆえん。
十五、不障礙依處:謂於生、住、成、得事中,不障礙法。即依此處,立不相違因。謂彼不違生等事故。
十五、不障碍依処とは、いわゆる生・住・成・得の事の中に於て、障碍せざる法。すなわちこの処に依って不相違因を立つ。いわゆるそれらは生等の事に違せざるのゆえん。
如是十因,二因所攝:一、能生;二、方便。〈菩薩地〉說:「牽引種子、生起種子,名能生因;所餘諸因,方便因攝。」
かくのごとき十因は二因の摂する所なり。一、能生。二、方便。〈菩薩地〉に説く:「牽引種子・生起種子を名づけて能生因という。余りの諸因は方便因の摂する所。」
此說牽引、生起、引發、定異、同事、不相違中,諸因緣種未成熟位,名牽引種;已成熟位名生起種。彼六因中,諸因緣種,皆攝在此二位中故。雖有現起是能生因,如四因中生自種者,而多間斷,此略不說。或親辦果亦立種名,如說現行穀、麥等種。
これは牽引・生起・引発・定異・同事・不相違の中に、諸々の因縁種の未成熟位を名づけて牽引種といい、已成熟位を名づけて生起種というを説く。かの六因の中の諸々の因縁種は倶にこの二位の中に収攝するのゆえん。現起有りて是れ能生因なると雖も、四因の中の自種を生ずるが如く、しかし多く間断す。ここに略して説かず。あるいは親しく果を辦ずるもまた種の名を立つ。現行の穀・麦等の種と説くが如し。
所餘因謂初、二、五、九,及六因中非因緣法,皆是生、熟因緣種餘,故總說為方便因攝。
余りの因とは、いわゆる初・二・五・九および六因の中の非因縁法は、倶に是れ生・熟の因縁種の余なり。ゆえに総じて説いて方便因の摂する所と為す。
非此二種,唯屬彼二因;餘四因中,有因緣種故。非唯彼八,名所餘因,彼二因亦有非因緣種故。
この二種に非ずして、ただかの二因に属するに非ず。其余の四因の中に因縁種有るのゆえん。ただかの八のみに非ずして、名づけて余りの因という。かの二因にもまた非因縁の種有るのゆえん。
有尋等地,說生起因,是能生因,餘方便攝。
尋等の地有りて、生起因を説いて是れ能生因と為す。其余は方便の摂する所なり。
此文意說:六因中現種是因緣者皆名生起因;能親生起自類果故。此所餘因,皆方便攝。
この文の意は説く:六因の中に現・種の因縁なるは倶に名づけて生起因という。能く親しく自類の果を生起するのゆえん。この余りの因は倶に方便の摂する所なり。
非此生起,唯屬彼因,餘五因中,有因緣故。非唯彼九,名所餘因,彼生起因中,有非因緣故。
この生起に非ずしてただかの因に属するに非ず。其余の五因の中に因縁有るのゆえん。ただかの九のみに非ずして名づけて余りの因という。かの生起因の中に非因縁有るのゆえん。
或〈菩薩地〉所說「牽引、生起種子」,即彼二因;「所餘諸因」即彼餘八。
あるいは〈菩薩地〉の説く所の「牽引・生起の種子」はすなわちかの二因。「余りの諸因」はすなわちかの余の八。
雖二因內,有非能生因,而因緣種勝,顯故偏說;雖餘因內,有非方便因,而增上者多,顯故偏說。
二因の内に能生因に非ざる有ると雖も、しかし因縁種は勝れて顯なるのゆえんに偏りて説く。其余の因の内に方便因に非ざる有ると雖も、しかし増上の多く顯なるのゆえんに偏りて説く。
有尋等地說:「生起因是能生因;餘方便」者,「生起」即是彼生起因;「餘因」應知即彼餘九。
尋等の地に説く:「生起因は是れ能生因。其余は方便。」「生起」とはすなわちかの生起因なり。「其余の因」はまさに知るべし、すなわちかの余の九なり。
雖生起中有非因緣種,而去果近,親顯故偏說;雖牽引中亦有因緣種,而去果遠,親隱故不說。餘方便攝,準上應知。
生起の中に非因縁種有ると雖も、しかし果に去ること近く親顯なるのゆえんに偏りて説く。牽引の中にもまた因縁種有ると雖も、しかし果に去ること遠く親隱なるのゆえんに説かず。其余の方便の摂する所は上に准じてまさに知るべし。
所說四緣,依何處立?復如何攝十因、二因?
説く所の四縁は何の処に依って立つ。またどうして十因・二因を収攝する。
論說因緣,依種子立;依無間滅,立等無間;依境界,立所緣;依所餘,立增上。
論に因縁を説いて種子に依って立ち、無間滅に依って等無間を立ち、境界に依って所縁を立ち、余りに依って増上を立つと説く。
此中種子,即是三、四、十一、十二、十三、十五,六依處中因緣種攝;雖現四處,亦有因緣,而多間斷,此略不說。或彼亦能親辦自果,如外麥等,亦立種名。或種子言,唯屬第四,親、疎、隱、顯,取捨如前。
ここに種子とはすなわち三・四・十一・十二・十三・十五の六依処の中の因縁種の摂する所なり。現は四処に在りてもまた因縁有ると雖も、しかし多く間断す。ここに略して説かず。あるいはそれらもまた能く親しく自果を辦ず。外の麦等の如く、もまた種の名を立つ。あるいは種子の言はただ第四に属す。親・疎・隱・顯の取捨は前の如し。
言無間滅、境界處者,應知總顯二緣依處,非唯五、六,餘依處中,亦有中間二緣義故。或唯五、六,餘處雖有,而少、隱故,略不說之。
無間滅・境界の処を説くは、まさに総じて二縁の依処を顯すと知るべし。ただ五・六のみに非ず。其余の依処の中にもまた中間の二縁の義有るのゆえん。あるいはただ五・六のみ。其余の処は有ると雖も、しかし少く隱なるのゆえんに、略してそれを説かず。
論說因緣,能生因攝;增上緣性,即方便因;中間二緣,攝受因攝。雖方便內具後三緣,而增上多,故此偏說;餘因亦有中間二緣,然攝受中,顯故偏說。初能生攝,進退如前。
論に因縁を説いて能生因の摂する所と為す。増上縁性はすなわち方便因。中間の二縁は摂受因の摂する所。方便の内は後の三縁を具えると雖も、しかし増上多し。ゆえにここに偏りて説く。其余の因にもまた中間の二縁有ると雖も、しかし摂受の中に顯なるのゆえんに偏りて説く。初の能生の摂する所は進退して前の如し。
所說因、緣,必應有果。此果有幾?依何處得?
説く所の因・縁は必ずまさに果有るべし。この果はいくつか有る。何の処に依って得る。
果有五種:一者異熟,謂有漏善及不善法所招自相續異熟生無記;二者等流,謂習善等所引同類,或似先業,後果隨轉;三者離繫,謂無漏道斷障所證善無為法;四者士用,謂諸作者,假諸作具,所辦事業;五者增上,謂除前四,餘所得果。
果は五種有り。一は異熟にして、いわゆる有漏の善および不善法の招く所の自相続の異熟生の無記。二は等流にして、いわゆる善等を習する所の引く同類、あるいは先業に似て後の果は随転す。三は離繫にして、いわゆる無漏道の障を断じて証する所の善無為法。四は士用にして、いわゆる諸々の作者は諸々の作具を假りて、辦ずる所の事業。五は増上にして、いわゆる前の四を除きて其余の得る所の果。
《瑜伽》等說:習氣依處,得異熟果;隨順依處,得等流果;真見依處,得離繫果;士用依處,得士用果;所餘依處,得增上果。
《瑜伽》等に説く:習気依処は異熟果を得、随順依処は等流果を得、真見依処は離繫果を得、士用依処は士用果を得、余りの依処は増上果を得。
習氣處言,顯諸依處感異熟果一切功能;隨順處言,顯諸依處引等流果一切功能;真見處言,顯諸依處證離繫果一切功能;士用處言,顯諸依處招士用果一切功能;所餘處言,顯諸依處得增上果一切功能。不爾,便應太寬、太狹。
習気処の言は諸依処の異熟果を感ずる一切の功能を顯す。随順処の言は諸依処の等流果を引く一切の功能を顯す。真見処の言は諸依処の離繫果を証する一切の功能を顯す。士用処の言は諸依処の士用果を招く一切の功能を顯す。余りの処の言は諸依処の増上果を得る一切の功能を顯す。然らずんば便ちまさに太だ寛・太だ狭なるべし。
或習氣者,唯屬第三,雖異熟因餘處亦有,此處亦有非異熟因;而異熟因,去果相遠,習氣亦爾,故此偏說。隨順唯屬第十一處,雖等流果餘處亦得,此處亦得非等流果;而此因招勝行相顯,隨順亦爾,故偏說之。真見處言,唯詮第十,雖證離繫餘處亦能,此處亦能得非離繫;而此證離繫,相顯故偏說。士用處言,唯詮第九,雖士用果餘處亦招,此處亦能招增上等;而名相顯,是故偏說。所餘唯屬餘十一處,雖十一處亦得餘果,招增上果餘處亦能;而此十一多招增上,餘已顯餘,故此偏說。
あるいは習気はただ第三に属す。異熟因は其余の処にもまた有ると雖も、ここの処にもまた非異熟因有り。しかし異熟因は果に去ること相遠にして、習気もまたこの如し。ゆえにここに偏りて説く。随順はただ第十一処に属す。等流果は其余の処もまた得ると雖も、ここの処もまた非等流果を得。しかしこの因は勝行を招いて相顯なり。随順もまたこの如し。ゆえに偏りてそれを説く。真見処の言はただ第十を詮す。離繫を証するは其余の処もまた能と雖も、ここの処もまた能く非離繫を得。しかしこの証離繫は相顯なるのゆえんに偏りて説く。士用処の言はただ第九を詮す。士用果は其余の処もまた招くと雖も、ここの処もまた能く増上等を招く。しかし名・相顯なるのゆえんに偏りて説く。余りはただ余の十一処に属す。十一処もまた其余の果を得ると雖も、増上果を招くは其余の処もまた能と雖も、しかしこの十一は多く増上を招き、其余は已に其余を顯せり。ゆえにここに偏りて説く。
如是即說此五果中:若異熟果,牽引、生起、定異、同事、不相違因,增上緣得;若等流果,牽引、生起、攝受、引發、定異、同事、不相違因,初、後緣得;若離繫果,攝受、引發、定異、同事、不相違因,增上緣得;若士用果,有義:觀待、攝受、同事、不相違因,增上緣得,有義:觀待、牽引、生起、攝受、引發、定異、同事、不相違因,除所緣緣,餘三緣得;若增上果,十因、四緣一切容得。
かくのごとくすなわちこの五果の中にて説く:もし異熟果は牽引・生起・定異・同事・不相違因・増上縁にて得。もし等流果は牽引・生起・摂受・引発・定異・同事・不相違因・初・後の縁にて得。もし離繫果は摂受・引発・定異・同事・不相違因・増上縁にて得。もし士用果は、一義有り:観待・摂受・同事・不相違因・増上縁にて得。一義有り:観待・牽引・生起・摂受・引発・定異・同事・不相違因・所縁縁を除きて其余の三縁にて得。もし増上果は十因・四縁一切容く得。
傍論已了,應辯正論。
傍論已に了れり。まさに正論を弁ずべし。
本識中種,容作三緣,生現分別,除等無間。謂各親種,是彼因緣;為所緣緣,於能緣者;若種於彼,有能助力,或不障礙,是增上緣。
本識の中の種は三縁を作すを容して、現の分別を生じ、等無間を除く。いわゆる各々の親種はそれらの因縁。所縁縁と為るは能縁するに対して。もし種はそれらに対して能く助ける力有り、あるいは障碍せざれば、是れ増上縁。
生淨現行,應知亦爾。
浄の現行を生ずるもまさに然るべしと知る。
現起分別,展轉相望,容作三緣,無因緣故。
現起の分別は展転して相望みて三縁を作すを容す。因縁無きのゆえん。
謂有情類自、他,展轉容作二緣,除等無間。
いわゆる有情類の自・他は展転して二縁を作すを容し、等無間を除く。
自八識聚,展轉相望,定有增上緣,必無等無間。所緣緣義,或無或有:八於七有;七於八無。餘七非八所仗質故。第七於六五無一有,餘六於彼一切皆無。第六於五無,餘五於彼有。五識唯託第八相故。
自の八識聚は展転して相望みて、定めて増上縁有りて、必ず等無間無し。所縁縁の義はあるいは無しあるいは有り。八は七に対して有り。七は八に対して無し。其余の七は八の仗る所の質に非ざるのゆえん。第七は六・五に対して一無し一有り。其余の六はそれらに対して一切倶に無し。第六は五に対して無し。其余の五はそれらに対して有り。五識はただ第八の相に託するのゆえん。
自類前後,第六容三,餘除所緣,取現境故。許五後見緣前相者,五、七前後亦有三緣。前七於八,所緣容有,能燻成彼相、見種故。
自類の前後は第六は三を容す。其余は所縁を除く。現境を取るのゆえん。五の後の見は前の相に縁ずと許せば、五・七の前後もまた三縁有り。前の七は八に対して所縁は容く有り。能く薫じてそれらの相・見の種を成ずるのゆえん。
同聚異體,展轉相望,唯有增上。諸相應法,所仗質同,不相緣故。或依見分,說不相緣;依相分說,有相緣義。謂諸相分,互為質起,如識中種,為觸等相質。不爾,無色,彼應無境故;設許變色,亦定緣種,勿見分境不同質故。
同聚・異体は展転して相望みて、ただ増上のみ有り。諸々の相応法は仗る所の質同じくして相縁せざるのゆえん。あるいは見分に依って相縁せずと説き、相分に依って相縁の義有りと説く。いわゆる諸相分は互いに質と為して起こる。識の中の種の触等の相の質と為るが如し。然らずんば無色はそれらはまさに境無かるべきのゆえん。設し色を変ずるを許すも、もまた定めて種に縁ず。見分の境をして同じ質ならざらしむること莫れとのゆえん。
同體相分,為見二緣;見分於彼,但有增上。
同体の相分は見の為に二縁。見分はそれらに対してただ増上のみ。
見與自證,相望亦爾。餘二展轉,俱作二緣。此中不依種相分說,但說現起互為緣故。
見と自証とは相望むるもまたこの如し。其余の二は展転して倶に二縁を作す。ここに種の相分に依って説かず。ただ現起の互いに縁と為るを説くのゆえん。
淨八識聚,自、他展轉,皆有所緣,能遍緣故,唯除見分,非相所緣,相分理無能緣用故。
浄の八識聚は自・他の展転に倶に所縁有り。能く遍く縁ずるのゆえん。ただ見分を除きて、相の所縁に非ず。相分は理に能縁の用無きのゆえん。
既現分別緣種現生,種亦理應緣現種起,現種於種能作幾緣?種必不由中二緣起,待心、心所立彼二故。現於親種具作二緣,與非親種但為增上。種望親種亦具二緣,於非親種亦但增上。
すでに現の分別は種に縁じて現を生ぜば、種もまた理まさに現に縁じて種を起こすべし。現・種は種に対して能く幾つの縁を作す。種は必ず中の二縁に由って起こらず。心・心所を待ってかの二を立つるのゆえん。現は親種に対して具に二縁を作し、非親種に対してはただ増上と為るのみ。種は親種に望めばもまた二縁を具え、非親種に対してもただ増上のみ。
依斯內識互為緣起,分別因、果,理、教皆成。所執外緣,設有無用,況違理、教,何固執為?
この内識に依って互いに縁起と為り、因・果を分別すれば、理・教倶に成立す。執する所の外縁は設し有るも用無し。いわんや理・教に違するをや。なんぞ必ず固執せんや。
雖「分別」言,總顯三界心及心所,而隨勝者,諸聖教中多門顯示,或說為二、三、四、五等。如餘論中,具廣分別。
「分別」の言は総じて三界の心および心所を顯すと雖も、しかし勝れるに随って、諸聖教の中に多門に顯示して、あるいは説いて二・三・四・五等と為す。其余の論の中の如く具に広く分別す。
雖有內識,而無外緣,由何有情生死相續?
内識有ると雖も、しかし外縁無し。何に由って有情は生死相続するや。
頌曰:
頌に説く:
19由諸業習氣,二取習氣俱;
諸業の習気に由って、二取の習気と倶なり。
前異熟既盡,復生餘異熟。
前の異熟すでに尽きて、更に其余の異熟を生ず。
論曰:諸業謂福、非福、不動,即有漏善、不善思業。業之眷屬亦立業名,同招引、滿異熟果故。
論に説く:諸業とはいわゆる福・非福・不動にして、すなわち有漏の善・不善の思業なり。業の眷属もまた業の名を立つ。同じく引・満の異熟果を招くのゆえん。
此雖才起,無間即滅,無義能招當異熟果,而燻本識,起自功能,即此功能,說為習氣,是業氣分,燻習所成,簡曾現業,故名習氣。
これは纔めて起こるに無間にすなわち滅すと雖も、当の異熟果を招く義無きと雖も、しかし本識を薫じて自らの功能を起こす。すなわちこの功能を説いて習気と為す。是れ業の気分にして薫習の成ずる所にして、曾現の業を簡別す。ゆえに名づけて習気という。
如是習氣,展轉相續,至成熟時,招異熟果,此顯當果勝增上緣。
かくのごとき習気は展転相続して、成熟するに至って異熟果を招く。これは当果の勝の増上縁を顯示す。
相見、名色、心及心所、本末,彼取皆二取攝。彼所燻發,親能生彼本識上功能,名二取習氣。此顯來世異熟果心,及彼相應諸因緣種。「俱」謂業種、二取種俱,是疎、親緣,互相助義。
相見・名色・心および心所・本末、それらの取は倶に二取の摂する所なり。それらの薫発する所は親しくそれらの本識上の功能を生ずる能くして、名づけて二取の習気という。これは来世の異熟果心およびそれらに相応の諸因縁種を顯示す。「倶」とはいわゆる業種・二取種の倶にして、是れ疎・親の縁にして互相助の義なり。
業招生顯,故頌先說。
業は生を招いて顯なり。ゆえに頌は先に説く。
「前異熟」者,謂前前生業異熟果;「餘異熟」者,謂後後生業異熟果。
「前の異熟」とは、いわゆる前前生の業の異熟果。「其余の異熟」とは、いわゆる後後生の業の異熟果。
雖二取種受果無窮,而業習氣受果有盡,由異熟果性別難招;等流、增上性同易感。
二取種は果を受くること窮まり無きと雖も、しかし業の習気は果を受くるに尽有り。異熟果の性は別にして招き難きに由る。等流・増上は性同じくして感じ易し。
由感餘生業等種熟,前異熟果受用盡時,復別能生餘異熟果。
余生を感ずる業等の種の熟するに由って、前の異熟果の受用の尽くる時、また別に能く其余の異熟果を生ず。
由斯生死輪轉無窮,何假外緣方得相續?此頌意說:由業、二取,生死輪迴皆不離識,心、心所法為彼性故。
これに由って生死は輪転して窮まり無し。何の外縁を假って乃ち相続せんや。この頌の意は説く:業・二取に由って生死輪回は倶に識を離れず。心・心所法はそれらの性と為るのゆえん。
復次,生死相續,由諸習氣。
復た次に、生死相続は諸々の習気に由る。
然諸習氣總有三種:一、名言習氣,謂有為法各別親種。名言有二:一表義名言,即能詮義,音聲差別;二顯境名言,即能了境心、心所法。隨二名言所燻成種,作有為法各別因緣。
しかし諸習気は総じて三種有り。一、名言習気とは、いわゆる有為法の各別の親種。名言は二有り。一は表義の名言にしてすなわち能く義を詮する、音声の差別。二は顯境の名言にしてすなわち能く境を了する心・心所法。二の名言に随って薫じて成ずる所の種は、有為法の各別の因縁を作す。
二、我執習氣,謂虛妄執我、我所種。我執有二:一、俱生我執,即修所斷我、我所執;二、分別我執,即見所斷我、我所執。隨二我執所燻成種,令有情等自、他差別。
二、我執習気とは、いわゆる虚妄に我・我所を執する種。我執は二有り。一、倶生我執にしてすなわち修の断ずる所の我・我所執。二、分別我執にしてすなわち見の断ずる所の我・我所執。二の我執に随って薫じて成ずる所の種は、有情等をして自・他の差別ならしむ。
三、有支習氣,謂招三界異熟業種。有支有二:一、有漏善,即是能招可愛果業;二、諸不善,即是能招非愛果業。隨二有支所燻成種,令異熟果善、惡趣別。應知我執、有支習氣,於差別果是增上緣。
三、有支習気とは、いわゆる三界の異熟を招く業種。有支は二有り。一、有漏善にしてすなわち能く可愛の果を招く業。二、諸不善にしてすなわち能く非愛の果を招く業。二の有支に随って薫じて成ずる所の種は、異熟果をして善・悪趣に分別せしむ。まさに知るべし、我執・有支の習気は差別の果に対して是れ増上縁なり。
此頌所言「業習氣」者,應知即是有支習氣;「二取習氣」,應知即是我執、名言二種習氣。取我、我所及取名言而燻成故,皆說名「取」。
この頌の説く所の「業習気」はまさにすなわち有支習気と知るべし。「二取習気」はまさにすなわち我執・名言の二種の習気と知るべし。我・我所を取りおよび名言を取りて薫成するのゆえんに、倶に説いて名づけて「取」という。
「俱」等餘文,義如前釋。
「倶」等の其余の文は義は前の釋するが如し。
復次,生死相續,由惑、業、苦。
復た次に、生死相続は惑・業・苦に由る。
發業、潤生煩惱,名惑;能感後有諸業,名業;業所引生眾苦,名苦。惑、業、苦種,皆名習氣。前二習氣,與生死苦為增上緣,助生苦故。第三習氣,望生死苦能作因緣,親生苦故。頌三習氣,如應當知:惑、苦名取,能、所取故。取是著義,業不得名。
業を発し生を潤す煩悩を名づけて惑という。能く後有を感ずる諸業を名づけて業という。業の引き生ずる所の衆苦を名づけて苦という。惑・業・苦の種は倶に名づけて習気という。前の二習気は生死苦と増上縁と為る。苦を助生するのゆえん。第三の習気は生死苦に望めば能く因縁を作す。親しく苦を生ずるのゆえん。頌の三習気は応ずるが如くまさに知るべし。惑・苦を名づけて取という。能・所取なるのゆえん。取は著の義にして、業は名を得ず。
「俱」等餘文,義如前釋。
「倶」等の其余の文は義は前の釋するが如し。
此惑、業、苦,應知總攝十二有支。謂從無明乃至老死,如論廣釋。
この惑・業・苦はまさに知るべし、総じて十二有支を摂す。いわゆる無明より乃至老死に至る。論の如く広く釋す。
然十二支,略攝為四:
しかし十二支は略く摂して四と為す。
一、能引支:謂無明、行,能引識等五果種故。
一、能引支とは、いわゆる無明・行にして、能く識等の五果種を引くのゆえん。
此中無明,唯取能發正感後世善、惡業者,即彼所發,乃名為行。由此一切順現受業,別助當業,皆非行支。
ここに無明はただ能く正しく後世の善・悪業を感ずるを発するを取る。すなわちそれらの発する所を乃ち名づけて行という。これに由って一切の順現受業および別に当業を助くるは、倶に行支に非ず。
二、所引支:謂本識內親生當來異熟果,攝識等五種,是前二支所引發故。
二、所引支とは、いわゆる本識の内に親しく当来の異熟果を生ずる、識等の五種を摂す。是れ前の二支の引発する所なるのゆえん。
此中識種,謂本識因,除後三因,餘因皆是名色種攝。後之三因,如名次第,即後三種。或名色種,總攝五因,於中隨勝,立餘四種,六處與識,總別亦然。
ここに識種とはいわゆる本識の因にして、後の三因を除きて、其余の因は倶に名色種の摂する所なり。後の三因は名の次第の如く、すなわち後の三種。あるいは名色種は総じて五因を摂して、その中に勝れるに随って其余の四種を立つ。六処と識とは総別もまたこの如し。
《集論》說識亦是能引,識中業種,名識支故;異熟識種,名色攝故。經說識支通能、所引,業種、識種,俱名識故;識是名色依,非名色攝故。識等五種由業燻發,雖實同時,而依主伴、總別、勝劣、因果相異,故諸聖教假說前後,或依當來、現起分位有次第故,說有前後。由斯識等,亦說現行;因時定無現行義故。復由此說生、引同時;潤、未潤時必不俱故。
《集論》に識を説いてもまた能引と為すは、識の中の業種を名づけて識支というのゆえん。異熟の識種は名色の摂する所なるのゆえん。経に識支は能・所引に通ずと説くは、業種・識種は倶に名づけて識というのゆえん。識は名色の依にして名色の摂する所に非ざるのゆえん。識等の五種は業に由って薫発せらる。実は同時なると雖も、しかし主伴・総別・勝劣・因果の相異に依る。ゆえに諸聖教は假に前後を説く。あるいは当来・現起の分位に依って次第有るのゆえんに、前後有りと説く。これに由って識等もまた現行と説く。因の時は定めて現行の義無きのゆえん。またこれに由って生・引は同時と説く。潤・未潤の時は必ず倶せざるのゆえん。
三、能生支:謂愛、取、有,近生當來生、老死故。
三、能生支とは、いわゆる愛・取・有にして、近く当来の生・老死を生ずるのゆえん。
謂緣迷內異熟果愚,發正能招後有諸業為緣,引發親生當來生、老死位五果種已,復依迷外增上果愚,緣境界受,發起貪愛,緣愛復生欲等四取,愛、取合潤,能引業種及所引因,轉名為「有」,俱能近有後有果故。有處唯說業種名「有」,此能正感異熟果故。復有唯說五種名有,親生當來識等種故。
いわゆる内の異熟果に迷うの愚に縁じて、正しく能く後有を招く諸業を発して縁と為し、親しく当来の生・老死位の五果種を生ずるを引発し已って、また外の増上果の愚に迷うに依って、境界の受に縁じて貪愛を発起し、愛に縁じて再生して欲等の四取を起こし、愛・取は合して潤して、能く引く業種および引く所の因をして、転じて名づけて「有」という。倶に能く近く後有の果有るのゆえん。処有りてただ業種を説いて名づけて「有」という。これは能く正しく異熟果を感ずるのゆえん。またただ五種を説いて名づけて有という有り。親しく当来の識等の種を生ずるのゆえん。
四、所生支:謂生、老死,是愛、取、有近所生故。
四、所生支とは、いわゆる生・老死にして、是れ愛・取・有の近く生ずる所なるのゆえん。
謂從「中有」至「本有」中,未衰變來,皆「生支」攝,諸衰變位,總名為老;身壞命終,乃名為「死」。
いわゆる「中有」より「本有」の中に至るまで、未だ衰変せざるより来るは、倶に「生支」の摂する所なり。諸々の衰変の位は総じて名づけて老という。身壊れ命終するを乃ち名づけて「死」という。
老非定有,附死立支。
老は定めて有に非ず。死に附して支を立つ。
病何非支?不遍、定故。老雖不定,遍故立支,諸界、趣、生除中夭者,將終皆有衰朽行故。
病はなんぞ支に非ざる。遍せず定まらざるのゆえん。老は定まらざると雖も、遍するのゆえんに支を立つ。諸界・趣・生は中夭を除きて、将に終らんとするに倶に衰朽の行有るのゆえん。
名色不遍,何故立支?
名色は遍せず。なんぞ支を立つる。
定故立支,胎、卵、濕生者,六處未滿,定有名色故。
定まるのゆえんに支を立つ。胎・卵・湿生は六処未だ満たざるに、定めて名色有るのゆえん。
又名色支,亦是遍有。有色化生,初受生位,雖具五根,而未有用,爾時未名六處支故。初生無色,雖定有意根而不明瞭,未名意處故;由斯論說,十二有支,一切一分,上二界有。
また名色支もまた遍有なり。有色の化生は初めの受生位に五根を具えると雖も、しかし未だ用有らず。かの時未だ六処支と名づけざるのゆえん。初生の無色は定めて意根有ると雖も、しかし明了ならず。未だ意処と名づけざるのゆえん。これに由って論に説く:十二有支は一切・一分は上の二界に有り。
愛非遍有,寧別立支?生惡趣者,不愛彼故。
愛は遍有に非ず。なんぞ別に支を立つ。悪趣に生ずるはそれらを愛せざるのゆえん。
定故別立,不求無有生善趣者,定有愛故。不還潤生,愛雖不起,然如彼取,定有種故。
定まるのゆえんに別に立つ。生無きを求めざる善趣に生ずるは、定めて愛有るのゆえん。不還は生を潤して愛は起こらざると雖も、しかしかの取の如く、定めて種有るのゆえん。
又愛亦遍,生惡趣者,於現我境,亦有愛故。依無希求,惡趣身愛,經說非有,非彼全無。
また愛もまた遍有なり。悪趣に生ずるは現我の境に対してもまた愛有るのゆえん。希求無きに依って悪趣の身愛は経に有に非ずと説く。それら全く無しと説くに非ず。
何緣所生立生、老死?所引別立識等五支?
なんぞ生ずる所を立てて生・老死と為し、引く所を別に立てて識等の五支と為す。
「因位」難知差別相故,依當果位,別立五支。
「因位」は差別相を知り難きのゆえんに、当果の位に依って別に五支を立つ。
謂續生時,因識相顯,次根未滿,名色相增;次根滿時,六處明盛;依斯發觸,因觸起受;爾時乃名受果究竟。依此果位,立因為五。果位易了,差別相故,總立二支,以顯三苦。然所生果若在未來,為生厭故,說生、老死;若至現在,為令了知分位相生,說識等五。
いわゆる生を續ける時は因の識の相顯なり。その次に根未だ満たざれば名色は相増す。その次に根満つる時は六処明盛なり。これに依って触を発して、触に因って受を起こす。かの時に乃ち名づけて果を受くること究竟という。この果位に依って因を立てて五と為す。果位は了し易くして差別相なるのゆえんに、総じて二支を立てて、以って三苦を顯す。しかし生ずる所の果はもし未来に在れば、生を厭わしめんが為に生・老死を説き、もし現在に至れば、分位相生を了知せしめんが為に識等の五を説く。
何緣發業總立無明,潤業位中別立愛、取?
なんぞ業を発するは総じて無明を立てて、業を潤す位の中に別に愛・取を立つる。
雖諸煩惱皆能發、潤,而發業位無明力增,以具十一殊勝事故。謂所緣等,廣如經說。
諸煩悩は倶に能く発・潤すると雖も、しかし業を発する位は無明の力増す。十一の殊勝の事を具えるに因るのゆえん。いわゆる所縁等は広く経の説くが如し。
於潤業位,愛力偏增,說愛如水,能沃潤故。要數溉灌方生「有」芽。且依初、後,分愛、取二,無重發義,立一無明。雖取支中,攝諸煩惱,而愛潤勝,說是愛增。
業を潤す位に於て愛の力は偏りて増す。愛は水の如く能く沃潤すと説くのゆえん。数・数溉灌するを要して乃ち「有」の芽を生ず。且く初・後に依って愛・取の二を分かつ。重ねて発する義無し。一の無明を立つ。取支の中に諸煩悩を摂すると雖も、しかし愛の潤すは勝れるを愛増と説く。
諸緣起支皆依自地?有所發行依他無明,如下無明發上地行。不爾,初伏下地染者,所起上定,應非行支,彼地無明猶未起故。
諸縁起支は倶に自地に依るか。発する所の行有りて他の無明に依る。下の無明の上地の行を発するが如し。然らず。初めて下地の染を伏せたるは、起こす所の上定はまさに行支に非ざるべし。彼の地の無明は猶ほ未だ起こらざるのゆえん。
從上、下地生下、上者,彼緣何受而起愛支?彼愛亦緣當生地受,若現、若種,於理無違。
上・下地より下・上に生ずるは、それらは何の受に縁じて愛支を起こす。それらの愛もまた当に生ずる地の受に縁ず。もし現もし種なるも理に違せざる無し。
此十二支,十因、二果,定不同世。因中前七與愛、取、有,或異或同。若二、三、七各定同世。如是十二,一重因果,足顯輪轉,及離斷、常,施設兩重,實為無用,或應過此,便致無窮。
この十二支は十の因・二の果は定めて世を同じくせず。因の中の前の七と愛・取・有とはあるいは異あるいは同。もし二・三・七は各々定めて世を同じくす。かくのごとき十二は一重の因果にて、輪転を顯すに足り、および断・常を離れん。二重を施設するは実に用無し。あるいはまさに此を過ぎれば便ち無窮を致すべし。
此十二支義門別者:九實、三假。已潤六支,合為有故;即識等五,三相位別,名生等故。
この十二支の義門の分別:九は実にして三は假なり。已に潤せし六支は合して有と為るのゆえん。すなわち識等の五は三の相位を分別して名づけて生等というのゆえん。
五是一事,謂無明、識、觸、受、愛五;餘非一事。
五は是れ一事なり。いわゆる無明・識・触・受・愛の五。其余は一事に非ず。
三唯是染,煩惱性故;七唯不染,異熟果故;七分位中容起染故,假說通二,餘通二種。
三はただ染なり。煩悩性なるのゆえん。七はただ不染なり。異熟果なるのゆえん。七の分位の中に染を起こるを容すのゆえんに、假に二に通ずと説く。其余は二種に通ず。
無明、愛、取說名獨相,不與餘支相交雜故;餘是雜相。
無明・愛・取は説いて名づけて独相という。其余の支と交雑せざるのゆえん。其余は是れ雑相なり。
六唯非色,謂無明、識、觸、受、愛、取;餘通二種。
六はただ非色なり。いわゆる無明・識・触・受・愛・取。其余は二種に通ず。
皆是有漏,唯有為攝。
倶に有漏なり。ただ有為の摂する所のみ。
無漏無為,非有支故。
無漏・無為は有支に非ざるのゆえん。
「無明」、「愛」、「取」,唯通不善、有覆無記;「行」唯善、惡;「有」通善、惡、無覆無記;餘七唯是無覆無記。七分位中,亦起善、染。
「無明」「愛」「取」はただ不善・有覆無記に通ず。「行」はただ善・悪。「有」は善・悪・無覆無記に通ず。其余の七はただ無覆無記なり。七の分位の中にもまた善・染を起こす。
雖皆通三界,而有分、有全。
倶に三界に通ずると雖も、しかし分有り全有り。
上地行支,能伏下地,即麁、苦等六種行相。有求上生,而起彼故。
上地の行支は能く下地を伏す。すなわち麁・苦等の六種の行相なり。上に生ぜんことを求むる有りて、それらを起こすのゆえん。
一切皆唯非學、無學聖者所起有漏善業,明為緣故,違有支故,非有支攝。由此應知聖必不造感後有業,於後苦果不迷求故。雜修靜慮,資下故業,生淨居等,於理無違。
一切は倶にただ学に非ず無学に非ず。聖者の起こす所の有漏の善業は明を縁と為すのゆえん、有支に違するのゆえん、有支の摂する所に非ず。これに由ってまさに知るべし、聖は必ず後有を感ずる業を造らず。後の苦果に対して迷求せざるのゆえん。雑修の静慮は下の故業を資して、浄居等に生ずるは理に違する無し。
有義:無明唯見所斷,要迷諦理能發行故,聖必不造後有業故;愛、取二支唯修所斷,貪求當有而潤生故,九種命終心俱生愛俱故;餘九皆通見、修所斷。
一義有り:無明はただ見の断ずる所なり。諦理に迷いて能く行を発するを要するのゆえん。聖は必ず後有の業を造らざるのゆえん。愛・取の二支はただ修の断ずる所なり。当有を貪求して生を潤すのゆえん。九種の命終の心は倶生の愛に倶のゆえん。其余の九は倶に見・修の断ずる所に通ず。
有義:一切皆通二斷。
一義有り:一切は倶に二断に通ず。
論說:預流果已斷一切一分有支,無全斷者故。若無明支唯見所斷,寧說預流無全斷者?若愛、取支唯修所斷,寧說彼已斷一切支一分?又說全界一切煩惱,皆能結生,往惡趣行,唯分別起煩惱能發,不言潤生唯修所斷,諸感後有行,皆見所斷發。
論に説く:預流果は已に一切・一分の有支を断ぜり。全断無きのゆえん。もし無明支はただ見の断ずる所ならば、どうして預流は全断無しと説かん。もし愛・取支はただ修の断ずる所ならば、どうして彼らは已に一切支の一分を断ぜりと説かん。また全界の一切煩悩は倶に能く生を結び、悪趣に往く行はただ分別起の煩悩は能く発すと説きて、生を潤すはただ修の断ずる所と説かず。諸々の後有を感ずる行は倶に見の断ずる所の発するなり。
由此故知無明、愛、取三支,亦通見、修所斷。然無明支正發行者,唯見所斷,助者不定;愛、取二支正潤生者,唯修所斷,助者不定。
これに由ってすなわち無明・愛・取の三支もまた見・修の断ずる所に通ずと知る。しかし無明支の正しく行を発するはただ見の断ずる所にして、助くるは定まらず。愛・取の二支の正しく生を潤すはただ修の断ずる所にして、助くるは定まらず。
又染汙法自性應斷,對治起時彼永斷故。一切有漏不染汙法,非性應斷,不違道故。然有二義說之為斷:一、離縛故,謂斷緣彼、雜彼煩惱;二、不生故,謂斷彼依令永不起。依離縛斷,說有漏善、無覆無記,唯修所斷;依不生斷說諸惡趣、無想定等,唯見所斷。說十二支通二斷者,於前諸斷,如應當知。
また染汚法は自性まさに断ずべし。対治の起こる時にそれらは永断するのゆえん。一切の有漏・不染汚法は性は断ずべきに非ず。道に違せざるのゆえん。しかし二義有りてそれを断と説く。一、縛を離るるのゆえん。いわゆる彼に縁ずる・彼を雑する煩悩を断ず。二、生ぜざるのゆえん。いわゆる彼の依を断じて永く起こらざらしむ。縛離の断に依って有漏善・無覆無記を説いて、ただ修の断ずる所と為す。不生の断に依って諸悪趣・無想定等を説いて、ただ見の断ずる所と為す。十二支は二断に通ずと説くは、前の諸断に於て応ずるが如くまさに知るべし。
十樂、捨俱,受不與受共相應故;老死位中,多分無樂及容捨故。十一苦俱,非受俱故。
十は楽・捨と倶なり。受は受と共に相応せざるのゆえん。老死の位の中は多分に楽無くおよび捨を容するのゆえん。十一は苦と倶なり。受に倶に非ざるのゆえん。
十一少分壞苦所攝,老死位中,多無樂受,依樂立壞,故不說之。十二少分苦苦所攝,一切支中,有苦受故;十二全分,行苦所攝,諸有漏法皆行苦故,依捨受說十一少分,除老死支,如壞苦說。實義如是,諸聖教中,隨彼相增,所說不定。
十一の少分は壞苦の摂する所なり。老死の位の中は多く楽受無し。楽に依って壞を立つ。ゆえにそれを説かず。十二の少分は苦苦の摂する所なり。一切支の中に苦受有るのゆえん。十二の全分は行苦の摂する所なり。諸有漏法は倶に行苦なるのゆえん。捨受に依って十一の少分を説き、老死支を除く。壞苦の説くが如し。実義はこの如し。諸聖教の中はそれの相の増するに随って、説く所定まらず。
皆苦諦攝,取蘊性故。五亦集諦攝,業煩惱性故。
倶に苦諦の摂する所なり。取蘊性なるのゆえん。五もまた集諦の摂する所なり。業・煩悩性なるのゆえん。
諸支相望,增上定有,餘之三緣,有無不定。契經依定,唯說有一。愛望於取,有望於生,有因緣義。若說識支是業種者,行望於識,亦作因緣。餘支相望,無因緣義。而《集論》說,無明望行,有因緣者,依無明時,業習氣說,無明俱故,假說無明,實是行種。《瑜伽論》說,諸支相望無因緣者,依現愛、取,唯業有說。無明望行,愛望於取,生望老死有餘二緣。有望於生,受望於愛,無等無間,有所緣緣。餘支相望,二俱非有。
諸支の相望むるに増上は定めて有り。其余の三縁は有・無定まらず。契経は定に依って、ただ一有りと説く。愛は取に望み、有は生に望みて、因縁の義有り。もし識支は業種と説かば、行は識に望みてもまた因縁を作す。其余の支の相望むるは因縁の義無し。しかし《集論》の説く、無明は行に望みて因縁有りとは、無明の時に依って業の習気を説く。無明に倶のゆえんに假に無明と説く。実は是れ行種なり。《瑜伽論》の説く、諸支の相望みて因縁無きとは、現の愛・取に依りて、ただ業・有を説く。無明は行に望み、愛は取に望み、生は老死に望みて其余の二縁有り。有は生に望み、受は愛に望みて、等無間無くして所縁縁有り。其余の支の相望むるは二倶に有に非ず。
此中且依隣近、順次、不相雜亂,實緣起說。異此相望,為緣不定。諸聰慧者,如理應思。
ここに且く隣近・順次・相雑乱せざる実の縁起に依って説く。此に異なって相望むるは縁と為ること定まらず。諸々の聡慧なるは理の如くまさに思択すべし。
惑、業、苦三攝十二者:無明、愛、取,是惑所攝;行、有一分,是業所攝;七、有一分,是苦所攝。
惑・業・苦の三は十二を摂す。無明・愛・取は惑の摂する所。行・有の一分は業の摂する所。七・有の一分は苦の摂する所。
有處說業全攝有者,應知彼依「業有」說故。有處說識業所攝者,彼說業種為識支故。
処有りて業は全く有を摂すと説くは、まさに彼らは「業有」に依って説くと知るべきのゆえん。処有りて識は業の摂する所と説くは、彼らは業種を識支と為すと説くのゆえん。
惑、業所招獨名苦者,唯苦諦攝,為生厭故。
惑・業の招く所を独り名づけて苦というは、ただ苦諦の摂する所なり。生を厭わしめんが為のゆえん。
由惑、業、苦即十二支故,此能令生死相續。
惑・業・苦はすなわち十二支なるに由るのゆえんに、これは能く生死をして相続せしむ。
復次,生死相續,由內因緣,不待外緣,故唯有識。
復た次に、生死相続は内の因縁に由って、外縁を待たず。ゆえに唯だ識有り。
因謂有漏、無漏二業正感生死,故說為因;緣謂煩惱、所知二障助感生死,故說為緣。
因とはいわゆる有漏・無漏の二業は正しく生死を感ず。ゆえに説いて因と為す。縁とはいわゆる煩悩・所知の二障は助けて生死を感ず。ゆえに説いて縁と為す。
所以者何?
なんの故か。
生死有二:
生死は二有り。
一、分段生死,謂諸有漏善、不善業,由煩惱障緣助勢力,所感三界麁異熟果,身命短長,隨因緣力,有定齊限,故名分段。
一、分段生死とは、いわゆる諸有漏の善・不善業は、煩悩障の縁助の勢力に由って、感ずる所の三界の麁き異熟果にして、身命の短長は因縁の力に随って定の斉限有り。ゆえに名づけて分段という。
二、不思議變易生死,謂諸無漏有分別業,由所知障緣助勢力,所感殊勝細異熟果。
二、不可思議の變易生死とは、いわゆる諸無漏の有分別業は、所知障の縁助の勢力に由って、感ずる所の殊勝の細き異熟果。
由悲願力,改轉身命,無定齊限,故名變易;無漏定願正所資、感,妙用難測,名不思議。
悲願の力に由って身命を改転して、定の斉限無し。ゆえに名づけて變易という。無漏の定願の正しく資し感ずる所にして、妙用は測り難し。名づけて不可思議という。
或名「意成身」,隨意願成故。如契經說:如取為緣,有漏業因,續後有者,而生三有。如是無明習地為緣,無漏業因,有阿羅漢、獨覺、已得自在菩薩,生三種意成身。
あるいは名づけて「意成身」という。意の願に随って成ずるのゆえん。契経に説けるが如く:取を縁と為すが如く、有漏の業因は後有を續けて、三有を生ず。かくのごとく無明の習地を縁と為して、無漏の業因にて、阿羅漢・独覚・已に自在を得たる菩薩有りて、三種の意成身を生ず。
亦名變化身,無漏定力,轉令異本,如變化故。如有論說:聲聞無學永盡後有,云何能證無上菩提?依變化身,證無上覺,非業報身,故不違理。
もまた名づけて變化身という。無漏の定力は本に異ならしめて転ず。變化するが如きのゆえん。論有りて説けるが如く:声聞の無学は後有を永く尽くせば、どうして能く無上菩提を証せん。變化身に依って無上の覚を証す。業報身に非ず。ゆえに理に違せず。
若所知障助無漏業,能感生死,二乘定性,應不永入無餘涅槃。如諸異生拘煩惱故。
もし所知障は無漏業を助けて能く生死を感ぜば、二乗の定性はまさに永く無余涅槃に入らざるべし。諸異生は煩悩に拘えらるるが如きのゆえん。
如何道諦實能感苦?誰言實感?不爾,如何?無漏定、願,資有漏業,令所得果,相續長時,展轉增勝,假說名感。如是感時,由所知障為緣助力,非獨能感。然所知障,不障解脫,無能發業潤生用故。
どうして道諦は実に能く苦を感ずるや。誰か実に感ずと説く。然らず、いかんとなれば。無漏の定・願は有漏の業を資して、得る所の果をして相続して長時に、展転増勝せしむ。假に名づけて感と説く。かくのごとき感の時は所知障を縁と為して助力するに由る。独り能く感ずるに非ず。しかし所知障は解脱を障らず。能く業を発して生を潤すの用無きのゆえん。
何用資感生死苦為?自證菩提,利樂他故。謂不定性獨覺、聲聞,及得自在大願菩薩,已永斷伏煩惱障故,無容復受當分段身。恐廢長時修菩薩行,遂以無漏勝定願力,如延壽法資現身因,令彼長時與果不絕,數數如是定願資助,乃至證得無上菩提。
何の用にか生死苦を資感せん。自ら菩提を証して他を利楽するのゆえん。いわゆる不定性の独覚・声聞および自在を得たる大願の菩薩は、已に永く煩悩障を断伏せしゆえに、復た当の分段身を受くるを容れず。長時の菩薩行を修するを廃せんことを恐れて、遂に無漏の勝定願力を以って、延寿の法の現身の因を資するが如く、それらをして長時に果と絶えざらしめ、数・数かくのごとく定願は資し助けて、乃至無上菩提を証得するに至る。
彼復何須所知障助?既未圓證無相大悲,不執菩提、有情實有,無由發起猛利悲願;又所知障,障大菩提,為永斷除,留身久住;又所知障為有漏依,此障若無,彼定非有,故於身住,有大助力。
それらはまた何ぞ所知障の助を須いん。すでに未だ無相の大悲を圓証せざれば、菩提・有情の実有を執せず。猛利の悲願を発起する由無し。また所知障は大菩提を障る。永く断せんが為に身を留めて久しく住す。また所知障は有漏の依と為る。この障もし無ければ、それらは定めて有に非ず。ゆえに身住に対して大きの助力有り。
若所留身,有漏定願所資助者,分段身攝,二乘、異生所知境故。無漏定願所資助者,變易身攝,非彼境故。
もし留むる所の身の有漏の定願の資助する所は、分段身の摂する所なり。二乗・異生の知る所の境なるのゆえん。無漏の定願の資助する所は、變易身の摂する所なり。それらの境に非ざるのゆえん。
由此應知,變易生死,性是有漏,異熟果攝,於無漏業,是增上果。有聖教中說為無漏,出三界者,隨助因說。
これに由ってまさに知るべし、變易生死は性は是れ有漏にして、異熟果の摂する所にして、無漏業に対して是れ増上果なり。聖教の中に無漏と説き三界を出ずと為す有るは、助因に随って説く。
頌中所言諸業習氣,即前所說二業種子;二取習氣即前所說二障種子,俱執著故。「俱」等餘文,義如前釋。
頌中の説く所の諸業習気はすなわち前の説く所の二業の種子。二取習気はすなわち前の説く所の二障の種子。倶に執著なるのゆえん。「倶」等の其余の文は義は前の釋するが如し。
變易生死,雖無分段前後異熟別盡別生,而數資助,前後改轉,亦有前盡餘復生義。雖亦由現生死相續,而種定有,頌偏說之。或為顯示真異熟,因果皆不離本識,故不說現。現異熟因,不即與果。轉識間斷,非異熟故。
變易生死は分段の前後の異熟の別尽別生無きと雖も、しかし数・数資し助けて前後改転す。もまた前の尽きて其余更に生ずるの義有り。現の生死相続に由ると雖も、しかし種は定めて有りて、頌は偏りてそれを説く。あるいは真の異熟を顯示する為に、因・果は倶に本識を離れず。ゆえに現を説かず。現の異熟因はすなわち果と与せず。転識は間断して、異熟に非ざるのゆえん。
前、中、後際,生死輪迴,不待外緣,既由內識,淨法相續,應知亦然。謂無始來,依附本識,有、無漏種,由轉識等,數數燻發,漸漸增勝,乃至究竟,得成佛時,轉捨本來雜染識種,轉得始起清淨種識,任持一切功德種子。由本願力,盡未來際,起諸妙用,相續無窮。
前・中・後の際の生死輪回は外縁を待たず。すでに内識に由れば、浄法の相続もまさに然るべしと知る。いわゆる無始より来り本識に依附して、有・無漏の種有りて、転識等に由って数・数薫発して、漸々増勝して、乃至究竟にして仏を成ずるを得る時、本来の雑染識種を転捨して、始起の清浄種識を転得して、一切の功徳種子を任持す。本願力に由って未来際を尽くして諸々の妙用を起こして、相続して窮まること無し。
由此應知,唯有內識。
これに由ってまさに知るべし、唯だ内識有り。
若唯有識,何故世尊處處經中說有三性?
もし唯だ識有らば、なんの故にか世尊は処処の経の中に三性有りと説く。
應知三性亦不離識。
まさに知るべし、三性もまた識を離れず。
所以者何?
なんの故か。
頌曰:
頌に説く:
20由彼彼遍計,遍計種種物,
彼彼の遍計に由って、種種の物を遍計す。
此遍計所執,自性無所有。
この遍計所執の自性は有る所無し。
21依他起自性,分別緣所生。
依他起の自性は、分別の縁の生ずる所なり。
圓成實於彼,常遠離前性。
圓成實は彼に於て、常に前の性を遠離す。
22故此與依他,非異非不異,
ゆえにこれと依他とは、異に非ず不異に非ず。
如無常等性,非不見此彼。
無常等の性の如く、これを見ざれば彼に非ず。
論曰:周遍計度,故名遍計;品類眾多,說為「彼彼」。謂能遍計虛妄分別。即由彼彼虛妄分別,遍計種種所遍計物:謂所妄執蘊、處、界等,若法、若我自性差別。此所妄執自性差別,總名遍計所執自性。如是自性,都無所有,理、教推徵,不可得故。
論に説く:周遍に計度するがゆえに名づけて遍計という。品類众多なるがゆえに「彼彼」と説く。いわゆる能く遍計する虚妄分別。すなわち彼彼の虚妄分別に由って、種種の遍計する所の物を遍計す。いわゆる妄に執する所の蘊・處・界等、あるいは法あるいは我の自性差別。この妄に執する所の自性差別を総じて名づけて遍計所執の自性という。かくのごとき自性は倶に有る所無し。理・教に推征して求むるを得ざるのゆえん。
或初句顯能遍計識,第二句示所遍計境,後半方申遍計所執若我、若法自性非有,已廣顯彼不可得故。
あるいは初句は能く遍計する識を顯示し、第二句は遍計する所の境を示し、後半は纔めて遍計所執のもし我もし法の自性は有に非ざるを申す。已に広くそれらの求むるを得ざるを顯すのゆえん。
初能遍計,自性云何?
初めの能く遍計するは自性いかん。
有義:八識及諸心所,有漏攝者,皆能遍計,虛妄分別為自性故;皆似所取、能取現故;說阿賴耶以遍計所執自性,妄執種為所緣故。
一義有り:八識および諸心所の有漏の摂する所は倶に能く遍計す。虚妄分別を以って自性と為すのゆえん。倶に所取・能取に似て現ずるのゆえん。阿頼耶は遍計所執の自性・妄執の種を以って所縁と為すと説くのゆえん。
有義:第六、第七心品執我、法者,是能遍計。
一義有り:第六・第七の心品の我・法を執するは是れ能く遍計するなり。
唯說意識能遍計故,意及意識名意識故;計度分別能遍計故;執我、法者必是慧故;二執必與無明俱故;不說無明有善性故;痴、無痴等不相應故;不見有執導空智故;執有、達無不俱起故;曾無有執非能燻故。
ただ意識は能く遍計すと説くのゆえん。意および意識を名づけて意識というのゆえん。計度分別は能く遍計するのゆえん。我・法を執するは必ず是れ慧なるのゆえん。二執は必ず無明と倶のゆえん。無明は善性有りと説かざるのゆえん。癡・無癡等は相応せざるのゆえん。執有りて空智を導くを見ざるのゆえん。有を執し無を達するは倶に起こらざるのゆえん。曽て執有りて能く薫するに非ざるのゆえん。
有漏心等不證實故,一切皆名虛妄分別。雖似所取、能取相現,而非一切能遍計攝,勿無漏心亦有執故,如來後得應有執故。經說佛智現身、土等種種影像,如鏡等故,若無緣用應非智等。雖說藏識緣遍計種,而不說唯,故非誠證。由斯理趣,唯於第六、第七心品,有能遍計。
有漏の心等は実を証せざるのゆえんに、一切を倶に名づけて虚妄分別という。所取・能取の相に似て現ずると雖も、しかし一切の能く遍計するの摂する所に非ず。無漏心をしてもまた執有らしむること莫れとのゆえん。如来の後得はまさに執有るべきのゆえん。経に仏智は身・土等の種種の影像を現ずと説く。鏡等の如きのゆえん。もし縁の用無ければまさに智等に非ざるべし。蔵識は遍計の種に縁ずと説くと雖も、しかし唯と説かず。ゆえに誠証に非ず。この理趣に由って、ただ第六・第七の心品に於て能く遍計する有り。
識品雖二,而有二、三、四、五、六、七、八、九、十等遍計不同,故言「彼彼」。
識品は二なると雖も、しかし二・三・四・五・六・七・八・九・十等の遍計同じからざる有り。ゆえに「彼彼」と説く。
次所遍計自性云何?《攝大乘》說是依他起,遍計心等所緣緣故。圓成實性寧非彼境?真非妄執所緣境故,依展轉說亦所遍計。遍計所執雖是彼境,而非所緣緣,故非所遍計。
次に遍計する所の自性はいかん。《摂大乗》に是れ依他起と説く。遍計の心等の所縁縁なるのゆえん。圓成實性はどうしてそれらの境に非ざる。真は妄執の縁ずる所の境に非ざるのゆえん。展転に依って説けばもまた遍計する所なり。遍計所執はそれらの境なると雖も、しかし所縁縁に非ず。ゆえに遍計する所に非ず。
遍計所執,其相云何?與依他起,復有何別?
遍計所執の行相はいかん。依他起とまた何の分別か有らん。
有義:三界心及心所,由無始來虛妄燻習,雖各體一,而似二生:謂見、相分,即能、所取。如是二分,情有理無,此相說為遍計所執。二所依體,實託緣生,此性非無,名依他起,虛妄分別緣所生故。
一義有り:三界の心および心所は無始より来る虚妄薫習に由って、各々体一なると雖も、しかし二に似て生ず。いわゆる見・相分にしてすなわち能・所取。かくのごとき二分は情有りて理無し。この相を説いて遍計所執と為す。二の依る所の体は実に縁に託して生ず。この性は無に非ず。名づけて依他起という。虚妄分別の縁の生ずる所なるのゆえん。
云何知然?諸聖教說:虛妄分別是依他起,二取名為遍計所執。
どうしてかくのごときを知る。諸聖教に説く:虚妄分別は是れ依他起なり。二取を名づけて遍計所執という。
有義:一切心及心所,由燻習力所變二分,從緣生故,亦依他起。遍計依斯妄執定實有無、一異、俱不俱等,此二方名遍計所執。
一義有り:一切の心および心所は薫習力の変ずる所の二分に由って、縁に従って生ずるのゆえんに、もまた是れ依他起なり。遍計はこれに依って妄りに定めて実の有無・一異・倶不倶等を執す。この二は乃ち名づけて遍計所執という。
諸聖教說:唯量、唯二、唯種種,皆名依他起故。又相等四法、十一識等,論皆說為依他起攝故。
諸聖教に説く:唯量・唯二・唯種種は倶に名づけて依他起というのゆえん。また相等の四法・十一識等は論に倶に説いて依他起の摂する所と為すのゆえん。
不爾,無漏後得智品二分,應名遍計所執。許應聖智不緣彼生,緣彼智品應非道諦;不許應知有漏亦爾。又若二分是遍計所執,應如兔角等非所緣緣,遍計所執體非有故。又應二分不燻成種,後識等生,應無二分。又諸習氣是相分攝,豈非有法能作因緣?若緣所生內相、見分,非依他起,二所依體,例亦應然,無異因故。
この如しに非ず。無漏の後得智品の二分はまさに名づけて遍計所執と言うべし。かの聖智はそれらに縁じて生ぜずと許すべくして、それらに縁ずれば智品はまさに道諦に非ざるべし。まさに有漏もまたこの如しと知るべきを許さず。またもし二分は遍計所執なれば、まさに兎角等の如く所縁縁に非ざるべし。遍計所執の体は有に非ざるのゆえん。またまさに二分は薫じて種を成さざるべし。後の識等の生ずるはまさに二分無かるべし。また諸習気は相分の摂する所なり。あに非有の法は能く因縁を作さんや。もし縁の生ずる所の内の相・見分は依他起に非ずんば、二の依る所の体は例してもまたまさに然るべし。異因無きのゆえん。
由斯理趣,眾緣所生心、心所體及相、見分,有漏、無漏皆依他起。
この理趣に由って、衆縁の生ずる所の心・心所の体および相・見分は、有漏・無漏倶に是れ依他起なり。
依他眾緣而得起故。頌言:「分別緣所生」者,應知且說染分依他,淨分依他亦圓成故。或諸染淨心、心所法,皆名分別,能緣慮故。是則一切染、淨依他,皆是此中依他起攝。
他の衆縁に依って起こるを得るのゆえん。頌に説く「分別の縁の生ずる所」は、まさに且く染分の依他を説くと知るべし。浄分の依他もまた圓成なるのゆえん。あるいは諸々の染浄の心・心所法は倶に名づけて分別という。能く縁慮するのゆえん。然らば一切の染・浄の依他は倶に是れここの依他起の摂する所なり。
二空所顯圓滿成就,諸法實性,名圓成實。顯此遍、常,體非虛謬,簡自、共相、虛空、我等。無漏有為,離倒、究竟、勝用周遍,亦得此名。然今頌中,說初非後。
二空の顯す所の圓滿成就は諸法の実性にして、名づけて圓成實という。この遍・常を顯示して、体は虚謬に非ず。自・共相・虚空・我等を簡別す。無漏の有為は倒を離れて究竟にして勝用周遍して、もまたこの名を得。しかし今頌の中は初を説いて後に非ず。
此即於彼依他起上,常遠離前遍計所執,二空所顯真如為性。
これすなわちかの依他起の上に於て、常に前の遍計所執を遠離して、二空の顯す所の真如を性と為す。
說「於彼」言:顯圓成實與依他起,不即不離;「常遠離」言:顯妄所執能、所取性,理恆非有。「前」言義顯不空依他;「性」顯二空非圓成實,真如離有離無性故。
「於彼」を説く言は圓成實と依他起とは即せず離れざるを顯示す。「常遠離」を説く言は妄に執する所の能・所取の性は理恒に有に非ざるを顯示す。「前」の言は義は不空の依他を顯す。「性」は二空は圓成實に非ざるを顯す。真如は有を離れ無を離るる性なるのゆえん。
由前理故,此圓成實與彼依他起,非異非不異。異應真如非彼實性;不異此性應是無常。彼此俱應淨、非淨境,則本後智,用應無別。
前の理に由るのゆえんに、この圓成實とかの依他起とは、異に非ず不異に非ず。異なればまさに真如はそれらの実性に非ざるべし。不異なればこの性はまさに無常ならん。彼此倶にまさに浄・非浄の境ならば、すなわち本・後の智の用はまさに分別無かるべし。
云何二性,非異非一?如彼無常、無我等性。無常等性與行等法異,應彼法非無常等;不異此應非彼共相。
どうして二性は異に非ず一に非ず。かの無常・無我等の性の如し。無常等の性は行等の法と異なれば、まさにそれらの法は無常等に非ざるべし。不異なればこれはまさにそれらの共相に非ざるべし。
由斯喻顯,此圓成實與彼依他,非一非異,法與法性,理必應然,勝義、世俗,相待有故。
この喩に由って顯す。この圓成實とかの依他とは一に非ず異に非ず。法と法性とは理必ずまさに然るべし。勝義・世俗は相待して有るのゆえん。
非不證見此圓成實,而能見彼依他起性。
この圓成實を証見せざるに非ざれば、しかる後に能くかの依他起性を見るに非ず。
未達遍計所執性空,不如實知依他有故。無分別智證真如已,後得智中,方能了達依他起性如幻事等。
未だ遍計所執性の空を達せざれば、依他の有を実の如く知らざるのゆえん。無分別智は真如を証し已って、後得智の中に乃ち能く依他起性は幻事等の如くを了達す。
雖無始來心、心所法,已能緣自相、見分等,而我、法執恆俱行故,不如實知。眾緣所引自心、心所,虛妄變現,猶如幻事、陽焰、夢境、鏡像、光影、谷響、水月、變化所成,非有似有。依如是義,故有頌言:
無始より来り心・心所法は已に能く自の相・見分等に縁ずると雖も、しかし我・法執は恒に倶行するのゆえんに、実の如く知らず。衆縁の引く所の自心・心所は虚妄に變現して、猶ほ幻事・陽焰・夢境・鏡像・光影・谷響・水月・變化の成ずる所のごとく、有に非ずして有に似たり。かくのごとき義に依って、ゆえに頌有りて説く:
「非不見真如,而能了諸行,
「真如を見ざるに非ざれば、しかるに能く諸行を了せん、
皆如幻事等,雖有而非真。」
倶に幻事等の如く、有ると雖もしかし真に非ず。」
此中意說:三種自性,皆不遠離心、心所法。
ここに意は説く:三種の自性は倶に心・心所法を遠離せず。
謂心、心所及所變現,眾緣生故,如幻事等,非有、似有,誑惑愚夫,一切皆名依他起性。愚夫於此橫執我法、有無、一異、俱不俱等,如空花等,性、相都無,一切皆名遍計所執。依他起上,彼所妄執我、法俱空,此空所顯識等真性,名圓成實。
いわゆる心・心所以及び変現する所は、衆縁の生ずる所なるのゆえん、幻事等の如く、有に非ずして有に似たりて、愚夫を誑惑す。一切を倶に名づけて依他起性という。愚夫はここに於て横に我法・有無・一異・倶不倶等を執す。空華等の如く、性・相倶に無し。一切を倶に名づけて遍計所執という。依他起の上にそれらの妄に執する所の我・法は倶に空なり。この空の顯す所の識等の真性を名づけて圓成實という。
是故此三,不離心等。
ゆえにこの三は心等を離れず。
虛空、擇滅、非擇滅等,何性攝耶?
虚空・択滅・非択滅等は何の性の摂する所ぞ。
三皆容攝。
三は倶に摂を容す。
心等變似虛空等相,隨心生故,依他起攝;愚夫於中,妄執實有,此即遍計所執性攝;若於真如,假施設有虛空等義,圓成實攝。有漏心等,定屬依他;無漏心等,容二性攝。眾緣生故,攝屬依他;無顛倒故,圓成實攝。
心等は変じて虚空等の相に似たるは、心に随って生ずるのゆえん、依他起の摂する所なり。愚夫は中に於て妄りに実有を執す。これすなわち遍計所執性の摂する所なり。もし真如に於て假に施設して虚空等の義有れば、圓成實の摂する所なり。有漏の心等は定めて依他に属す。無漏の心等は二性の摂する所を容す。衆縁の生ずる所なるのゆえんに依他に摂属し、顛倒無きのゆえんに圓成實の摂する所なり。
如是三性與七真如,云何相攝?
かくのごとき三性と七真如とはどうして相摂する。
七真如者:一、流轉真如,謂有為法,流轉實性;二、實相真如,謂二無我,所顯實性;三、唯識真如,謂染淨法,唯識實性;四、安立真如,謂苦實性;五、邪行真如,謂集實性;六、清淨真如,謂滅實性;七、正行真如,謂道實性。
七真如とは、一、流転真如とは、いわゆる有為法の流転の実性。二、實相真如とは、いわゆる二無我の顯す所の実性。三、唯識真如とは、いわゆる染浄法の唯識の実性。四、安立真如とは、いわゆる苦の実性。五、邪行真如とは、いわゆる集の実性。六、清浄真如とは、いわゆる滅の実性。七、正行真如とは、いわゆる道の実性。
此七實性,圓成實攝,根本、後得二智境故;隨相攝者,流轉、苦、集三,前二性攝,妄執雜染故;餘四皆是圓成實攝。
この七の実性は圓成實の摂する所なり。根本・後得の二智の境なるのゆえん。相に随って摂するは、流転・苦・集の三は前の二性の摂する所なり。妄執は雑染なるのゆえん。其余の四は倶に圓成實の摂する所なり。
三性六法,相攝云何?彼六法中,皆具三性。色、受、想、行、識及無為,皆有妄執緣生理故。
三性と六法とは相摂いかん。かの六法の中に倶に三性を具す。色・受・想・行・識および無為は倶に妄執・縁生の理有るのゆえん。
三性五事,相攝云何?
三性と五事とは相摂いかん。
諸聖教說,相攝不定:
諸聖教に説く所は相摂定まらず。
謂或有處說:依他起攝彼相、名、分別、正智;圓成實性攝彼真如;遍計所執不攝五事。彼說有漏心、心所法,變似所詮,說名為相;似能詮現,施設為名;能變心等,立為分別;無漏心等,離戲論故,但總名正智,不說能、所詮。四從緣生,皆依他攝。
いわゆるあるいは処有りて説く:依他起はそれらの相・名・分別・正智を摂し、圓成實性はそれらの真如を摂し、遍計所執は五事を摂せず。彼らは説く、有漏の心・心所法は変じて詮する所に似たるを説いて名づけて相と為り、能く詮するに似て現ずるを施設して名と為し、能く変ずる心等を立てて分別と為し、無漏の心等は戯論を離れるのゆえんに、ただ総じて名づけて正智というて能・所詮を説かず。四は縁に従って生ず。倶に依他の摂する所なり。
或復有處說:依他起攝相、分別;遍計所執,唯攝彼名;正智、真如,圓成實攝。彼說有漏心及心所相分名相,餘名分別;遍計所執,都無體故,為顯非有,假說為名;二無倒故,圓成實攝。
あるいはまた処有りて説く:依他起は相・分別を摂し、遍計所執はただそれらの名を摂し、正智・真如は圓成實の摂する所なり。彼らは説く、有漏の心および心所の相分を名づけて相と為し、其余を名づけて分別という。遍計所執は倶に体無きのゆえんに、非有を顯さんが為に假に名と説く。二は倒無きのゆえんに圓成實の摂する所なり。
或有處說:依他起性唯攝分別;遍計所執,攝彼相、名;正智、真如,圓成實攝。彼說有漏心及心所相、見分等,總名分別,虛妄分別為自性故,遍計所執,能詮、所詮,隨情立為名、相二事。
あるいは処有りて説く:依他起性はただ分別を摂す。遍計所執はそれらの相・名を摂す。正智・真如は圓成實の摂する所。彼らは説く、有漏の心および心所の相・見分等を総じて名づけて分別という。虚妄分別を以って自性と為すのゆえん。遍計所執は能詮・所詮にて、情に随って名・相の二事を立つ。
復有處說:名屬依他起性,義屬遍計所執。彼說有漏心、心所法相、見分等,由名勢力成所遍計,故說為名;遍計所執,隨名橫計,體實非有,假立義名。
また処有りて説く:名は依他起性に属し、義は遍計所執に属す。彼らは説く、有漏の心・心所法の相・見分等は名の勢力に由って遍計する所を成ず。ゆえに名と説く。遍計所執は名に随って横に計す。体は実に有に非ず。假に義の名を立つ。
諸聖教中所說五事,文雖有異,而義無違。然初所說不相雜亂,如《瑜伽論》廣說應知。
諸聖教の中の説く所の五事は文は異有ると雖も、しかし義は違無し。しかし初の説く所は雑乱せず。《瑜伽論》の広く説けるが如くまさに知るべし。
又聖教中說有五相,此與三性相攝云何?
また聖教の中に五相有りと説く。これと三性との相摂はいかん。
所詮、能詮各具三性:謂妄所計,屬初性攝;相、名、分別,隨其所應,所詮、能詮,屬依他起;真如、正智,隨其所應,所詮、能詮,屬圓成實,後得變似能詮相故。
詮する所・能く詮するは各々三性を具す。いわゆる妄に計する所は初性の摂する所に属す。相・名・分別はその応ずる所に随って、詮する所・能く詮するは依他起に属す。真如・正智はその応ずる所に随って、詮する所・能く詮するは圓成實に属す。後得は能く詮する相に似て変ずるのゆえん。
二相屬相,唯初性攝,妄執義、名,定相屬故。
二相の属相はただ初性の摂する所なり。妄執の義・名は定めて相属するのゆえん。
彼執著相,唯依他起,虛妄分別為自性故。
かの執著の相はただ依他起なり。虚妄分別を以って自性と為すのゆえん。
不執著相,唯圓成實,無漏智等為自性故。
執著せざる相はただ圓成實なり。無漏智等を以って自性と為すのゆえん。
又聖教中說四真實,與此三性相攝云何?
また聖教の中に四真実を説く。これと三性との相摂はいかん。
世間、道理所成真實,依他起攝;三事攝故;二障淨智所行真實,圓成實攝;二事攝故。
世間・道理の成ずる所の真実は依他起の摂する所なり。三事の摂する所なるのゆえん。二障の浄智の行ずる所の真実は圓成實の摂する所なり。二事の摂する所なるのゆえん。
《辯中邊論》說:初真實唯初性攝,共所執故;第二真實通屬三性,理通執無執,雜染、清淨故;後二真實唯屬第三。
《辯中辺論》に説く:初の真実はただ初性の摂する所なり。共の執する所なるのゆえん。第二の真実は三性に通属す。理は執・無執・雑染・清浄に通ずるのゆえん。後の二真実はただ第三に属す。
三性四諦,相攝云何?
三性と四諦とは相摂いかん。
四中一一皆具三性。
四中の一一は倶に三性を具す。
且苦諦中無常等四各有三性。無常三者:一、無性無常,性常無故;二、起盡無常,有生滅故;三、垢淨無常,位轉變故。
且く苦諦の中の無常等の四は各々三性有り。無常の三とは、一、無性無常とは性は常無のゆえん。二、起尽無常とは生滅有るのゆえん。三、垢浄無常とは位の転変するのゆえん。
苦有三者:一、所取苦,我、法二執所依取故;二、事相苦,三苦相故;三、和合苦,苦相合故。
苦の三有るとは、一、所取苦とは我・法の二執の依りて取る所のゆえん。二、事相苦とは三苦の相なるのゆえん。三、和合苦とは苦相の合するのゆえん。
空有三者:一、無性空,性非有故;二、異性空,與妄所執自性異故;三、自性空,二空所顯為自性故。
空の三有るとは、一、無性空とは性は有に非ざるのゆえん。二、異性空とは妄に執する所の自性と異なるのゆえん。三、自性空とは二空の顯す所を自性と為すのゆえん。
無我三者:一、無相無我,我相無故;二、異相無我,與妄所執我相異故;三、自相無我,無我所顯為自相故。
無我の三とは、一、無相無我とは我相無きのゆえん。二、異相無我とは妄に執する所の我相と異なるのゆえん。三、自相無我とは無我の顯す所を自相と為すのゆえん。
集諦三者:一、習氣集,謂遍計所執自性執習氣,執彼習氣假立彼名;二、等起集,謂業、煩惱;三、未離繫集,謂未離障真如。
集諦の三とは、一、習気集とはいわゆる遍計所執の自性を執する習気にて、彼の習気を執して假に彼の名を立つ。二、等起集とはいわゆる業・煩悩。三、未離繫集とはいわゆる未だ障を離れざる真如。
滅諦三者:一、自性滅,自性不生故;二、二取滅,謂擇滅二取不生故;三、本性滅,謂真如故。
滅諦の三とは、一、自性滅とは自性は生ぜざるのゆえん。二、二取滅とはいわゆる択滅にて二取は生ぜざるのゆえん。三、本性滅とはいわゆる真如なるのゆえん。
道諦三者:一、遍知道,能知遍計所執故;二、永斷道,能斷依他起故;三、作證道,能證圓成實故。然遍知道,亦通後二。
道諦の三とは、一、遍知道とは能く遍計所執を知るのゆえん。二、永断道とは能く依他起を断ずるのゆえん。三、作证道とは能く圓成實を証するのゆえん。しかし遍知道はもまた後の二に通ず。
七三三性,如次配釋。今於此中,所配三性,或假或實,如理應知。
七と三の三性はこの次第に按して配釋す。今ここに於て配する所の三性はあるいは假あるいは実なり。理の如くまさに知るべし。
三解脫門所行境界,與此三性相攝云何?理實皆通,隨相各一。空、無願、相,如次應知。緣此復生三無生忍:一、本性無生忍;二、自然無生忍;三、惑苦無生忍。如次此三,是彼境故。
三解脱門の行ずる所の境界はこの三性と相摂いかん。理実は倶に通じて、相に随って各々一。空・無願・相はこの次第に按してまさに知るべし。これに縁じて更に三の無生忍を生ず。一、本性無生忍。二、自然無生忍。三、惑苦無生忍。この次第に按してこの三はそれらの境なるのゆえん。
此三云何攝彼二諦?應知世俗具此三種;勝義唯是圓成實性。世俗有三:一、假世俗;二、行世俗;三、顯了世俗。如次應知即此三性。勝義有三:一、義勝義,謂真如,勝之義故;二、得勝義,謂涅槃,勝即義故;三、行勝義,謂聖道,勝為義故。無變、無倒,隨其所應,故皆攝在圓成實性。
この三はどうしてかの二諦を摂する。まさに知るべし、世俗は具にこの三種有り。勝義はただ圓成實性のみ。世俗は三有り。一、假世俗。二、行世俗。三、顯了世俗。この次第に按してまさにすなわちこの三性と知るべし。勝義は三有り。一、義勝義とはいわゆる真如にして勝の義なるのゆえん。二、得勝義とはいわゆる涅槃にして勝はすなわち義なるのゆえん。三、行勝義とはいわゆる聖道にして勝を義と為すのゆえん。變無く倒無し。その応ずる所に随う。ゆえに倶に圓成實性に収攝す。
如是三性,何智所行?遍計所執,都非智所行,以無自體,非所緣緣故。愚夫執有,聖者達無,亦得說為凡、聖智境。依他起性,二智所行。圓成實性,唯聖智境。
かくのごとき三性は何の智の行ずる所ぞ。遍計所執は倶に智の行ずる所に非ず。自體無きに因りて、所縁縁に非ざるのゆえん。愚夫は有りと執し、聖者は無を達すれば、もまた凡・聖の智境と説くを得。依他起性は二智の行ずる所。圓成實性はただ聖智の境のみ。
此三性中,幾假?幾實?遍計所執,妄安立故,可說為假;無體相故,非假非實。依他起性,有實有假:聚集、相續、分位性故,說為假有;心、心所、色,從緣生故,說為實有。若無實法,假法亦無,假依實因而施設故。圓成實性,唯是實有,不依他緣而施設故。
この三性の中に幾つか假、幾つか実。遍計所執は妄に安立するのゆえんに假と説くべし。体相無きのゆえんに假にも実にも非ず。依他起性は実有り假有り。聚集・相続・分位性なるのゆえんに假有と説く。心・心所・色は縁に従って生ずるのゆえんに実有と説く。もし実法無ければ假法もまた無し。假は実因に依って施設するのゆえん。圓成實性はただ実有のみ。他縁に依らずして施設するのゆえん。
此三為異?為不異耶?應說俱非,無別體故;妄執、緣起、真義別故。
この三は異と為すか不異と為すか。まさに倶に非ずと説くべし。別体無きのゆえん。妄執・縁起・真義に分別するのゆえん。
如是三性,義類無邊,恐厭繁文,略示綱要。
かくのごとき三性は義類辺無し。繁文を厭わんことを恐れて、略して綱要を示す。
成唯識論巻第八
成唯識論巻第九
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
若有三性,如何世尊說一切法皆無自性?
もし三性有れば、世尊はどうして一切法は倶に自性無しと説く。
頌曰:
頌に説く:
23即依此三性,立彼三無性,
すなわちこの三性に依って、かの三無性を立つ。
故佛密意說,一切法無性。
ゆえに仏は密意に説く、一切法は性無し。
24初即相無性,次無自然性,
初めはすなわち相無性。次には自然性無し。
後由遠離前,所執我法性,
後は前の執する所の我法の性を遠離するに由って、
25此諸法勝義,亦即是真如,
この諸法の勝義はもまたすなわち是れ真如。
常如其性故,即唯識實性。
常にその性の如きのゆえん、すなわち唯識の實性なり。
論曰:即依此前所說三性,立彼後說三種無性,謂即相、生、勝義無性,故佛密意說一切法皆無自性,非性全無。
論に説く:すなわちこの前の説く所の三性に依って、かの後に説く三種の無性を立つ。いわゆるすなわち相・生・勝義の無性。ゆえに仏は密意に一切法は倶に自性無しと説く。性は全く無しに非ず。
說「密意」言顯非了義,謂後二性雖體非無,而有愚夫於彼增益,妄執實有我、法自性,此即名為遍計所執。為除此執,故佛世尊於有及無,總說無性。
「密意」を説く言は了義に非ざるを顯示す。いわゆる後の二性は体は無に非ざると雖も、しかし愚夫有りて彼に於て增益して、妄りに実の我・法の自性有りを執す。これすなわち名づけて遍計所執。この執を除かんが為に、ゆえに仏世尊は有および無に於て総じて性無しと説く。
云何依此而立彼三?
どうしてこれに依ってかの三を立つ。
謂依此初遍計所執立相無性,由此體相畢竟非有,如空華故。依次依他立生無性,此如幻事託眾緣生,無如妄執自然性故,假說無性,非性全無。依後圓成實立勝義無性,謂即勝義由遠離前遍計所執我、法性,故假說無性,非性全無。如太虛空雖遍眾色,而是眾色無性所顯。
いわゆるこの初の遍計所執に依って相無性を立つ。この体相は畢竟有に非ざるに由る。空華の如きのゆえん。次の依他に依って生無性を立つ。これは幻事の衆縁に託して生ずるが如く、妄執の如き自然の性無きのゆえんに、假に無性と説く。性は全く無しに非ず。後の圓成實に依って勝義無性を立つ。いわゆるすなわち勝義は前の遍計所執の我・法の性を遠離するに由る。ゆえに假に無性と説く。性は全く無しに非ず。太虚空の衆色に遍するも衆色の無性の顯す所なるが如し。
雖依他起非勝義故,亦得說為勝義無性,而濫第二,故此不說。
依他起は勝義に非ざるのゆえんに、もまた勝義無性と説くを得と雖も、しかし第二に濫る。ゆえにここに説かず。
此性即是諸法勝義,是一切法勝義諦故。然勝義諦略有四種:一、世間勝義,謂蘊、處、界等;二、道理勝義,謂苦等四諦;三、證得勝義,謂二空真如;四、勝義勝義,謂一真法界。此中勝義依最後說,是最勝道所行義故,為簡前三,故作是說。此諸法勝義亦即是真如,真謂真實,顯非虛妄,如謂如常,表無變易,謂此真實於一切位常如其性,故曰真如,即是湛然不虛妄義。「亦」言顯此復有多名,謂名法界及實際等,如餘論中隨義廣釋。
この性すなわち諸法の勝義は、一切法の勝義諦なるのゆえん。しかし勝義諦は略して四種有り。一、世間勝義とはいわゆる蘊・處・界等。二、道理勝義とはいわゆる苦等の四諦。三、証得勝義とはいわゆる二空の真如。四、勝義勝義とはいわゆる一真法界。ここに勝義は最後に依って説く。最勝道の行ずる所の義なるのゆえん。前の三を簡ぶが為に、ゆえにかくのごとき説を作す。この諸法の勝義はもまたすなわち真如なり。真とはいわゆる真実にして虚妄に非ざるを顯し、如とはいわゆる如常にして變易無きを表す。いわゆるこの真実は一切位に於て常にその性の如し。ゆえに真如と叫ぶ。すなわち湛然として虚妄ならざるの義なり。「亦」の言はこれにまた多くの名有るを顯示す。いわゆる名づけて法界および実際等という。其余の論の中の如く義に随って広く釋す。
此性即是唯識實性,謂唯識性略有二種:一者虛妄,謂遍計所執;二者真實,謂圓成實性,為簡虛妄說「實性」言。復有二性:一者世俗,謂依他起;二者勝義,謂圓成實,為簡世俗故說「實性」。
この性すなわち唯識の實性は、いわゆる唯識性は略して二種有り。一は虚妄にしていわゆる遍計所執。二は真実にしていわゆる圓成實性。虚妄を簡ぶが為に「實性」の言を説く。また二性有り。一は世俗にしていわゆる依他起。二は勝義にしていわゆる圓成實。世俗を簡ぶが為にゆえに「實性」と説く。
三頌總顯諸契經中說無性言非極了義,諸有智者不應依之總撥諸法都無自性。
三頌は総じて諸契経の中に性無しと説く言は極めて了義に非ざるを顯す。諸々の智有るはそれに依って総に諸法は倶に自性無しと撥すべからず。
如是所成唯識相、性,誰於幾位?如何悟入?
かくのごとく成ぜし所の唯識の相・性は、誰か幾つの位に於て、どうして悟入する。
謂具大乘二種姓者,略於五位漸次悟入。
いわゆる大乗の二種姓を具えるは、略して五位に於て漸次に悟入す。
何謂大乘二種種姓?一、本性住種姓,謂無始來依附本識,法爾所得無漏法因。二、習所成種姓,謂聞法界等流法已,聞所成等燻習所成。要具大乘此二種姓,方能漸次悟入唯識。
何をか大乗の二種の種姓と謂う。一、本性住種姓とは、いわゆる無始より来り本識に依附して、法爾に得る所の無漏法の因。二、習所成種姓とは、いわゆる法界の等流の法を聞き已って、聞の成ずる所等の薫習の成ずる所。大乗のこの二種姓を具えるを要して、乃ち能く漸次に唯識に悟入す。
何謂悟入唯識五位?一、資糧位,謂修大乘順解脫分;二、加行位,謂修大乘順決擇分;三、通達位,謂諸菩薩所住見道;四、修習位,謂諸菩薩所住修道;五、究竟位,謂住無上正等菩提。
何をか唯識に悟入する五位と謂う。一、資糧位とはいわゆる大乗の順解脱分を修す。二、加行位とはいわゆる大乗の順決択分を修す。三、通達位とはいわゆる諸菩薩の住する所の見道。四、修習位とはいわゆる諸菩薩の住する所の修道。五、究竟位とはいわゆる無上正等菩提に住す。
云何漸次悟入唯識?謂諸菩薩於識相、性,資糧位中能深信解;在加行位能漸伏除所取、能取,引發真見;在通達位如實通達;修習位中如所見理,數數修習伏斷餘障;至究竟位出障圓明,能盡未來化有情類,復令悟入唯識相、性。
どうして漸次に唯識に悟入する。いわゆる諸菩薩は識の相・性に対して、資糧位の中に能く深く信解し、加行位に在りて能く漸々所取・能取を伏除して、真見を引発し、通達位に在りて実の如く通達し、修習位の中に見る所の理の如く、数・数修習して余の障を伏断し、究竟位に至りて障を出でて圓明にして、能く未来を尽くして有情類を化し、また彼らをして唯識の相・性に悟入せしむ。
初資糧位,其相云何?
初めの資糧位の行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
26乃至未起識,求住唯識性,
乃至未だ識を起こさざるは、唯識性に住せんことを求めて、
於二取隨眠,猶未能伏滅。
二取の随眠に対しては、猶ほ未だ伏滅する能わず。
論曰:從發深固大菩提心,乃至未起順決擇識,求住唯識真勝義性,齊此皆是資糧位攝,為趣無上正等菩提,修集種種勝資糧故。為有情故,勤求解脫,由此亦名順解脫分。
論に説く:深固の大菩提心を発するより乃至未だ順決択の識を起こさざるに、唯識の真勝義性に住せんことを求むる。このに斉ぎて倶に資糧位の摂する所なり。無上正等菩提に趣かんが為に、種種の勝資糧を修集するのゆえん。有情の為のゆえんに解脱を勤求す。これに由ってもまた名づけて順解脱分という。
此位菩薩依因、善友、作意、資糧四勝力故,於唯識義雖深信解,而未能了能、所取空,多住外門修菩薩行,故於二取所引隨眠,猶未有能伏滅功力,令彼不起二取現行。
この位の菩薩は因・善友・作意・資糧の四勝力に依るのゆえんに、唯識の義に対して深く信解すると雖も、しかし未だ能・所取の空を了せず。多く外門に住して菩薩行を修す。ゆえに二取の引く所の随眠に対しては、猶ほ未だ伏滅の功力有らずして、それらをして二取の現行を起こさざらしむ。
此「二取」言顯二取取,執取「能取」、「所取」性故。二取習氣名彼隨眠,隨逐有情,眠伏藏識,或隨增過,故名隨眠。即是所知、煩惱障種。
この「二取」の言は二取を取るを顯示す。「能取」・「所取」の性を執取するのゆえん。二取の習気を名づけて彼の随眠という。有情に随逐して、蔵識に眠伏し、あるいは過を随増す。ゆえに名づけて随眠という。すなわち所知・煩悩の障種なり。
煩惱障者,謂執遍計所執實我,薩迦耶見而為上首,百二十八根本煩惱,及彼等流諸隨煩惱。
煩悩障とは、いわゆる遍計所執の実我を執して、薩迦耶見を以って上首と為す。百二十八の根本煩悩およびそれらの等流の諸随煩悩。
此皆擾惱有情身、心,能障涅槃,名煩惱障。
これらは倶に有情の身・心を擾惱して、能く涅槃を障る。名づけて煩悩障という。
所知障者,謂執遍計所執實法,薩迦耶見而為上首,見、疑、無明、愛、恚、慢等。
所知障とは、いわゆる遍計所執の実法を執して、薩迦耶見を以って上首と為す。見・疑・無明・愛・恚・慢等。
覆所知境無顛倒性,能障菩提,名所知障。
知る所の境の無顛倒性を覆して、能く菩提を障る。名づけて所知障という。
此所知障,決定不與異熟識俱,彼微劣故,不與無明、慧相應故,法空智品與俱起故。七轉識內,隨其所應或少或多,如煩惱說。眼等五識無分別故,法見、疑等定不相應,餘由意力皆容引起。
この所知障は決定して異熟識と倶せず。それらは微劣なるのゆえん。無明・慧と相応せざるのゆえん。法空の智品と倶に起こるのゆえん。七転識の内にて、その応ずる所に随ってあるいは少あるいは多。煩悩の説くが如し。眼等の五識は分別無きのゆえんに、法の見・疑等は定めて相応せず。其余は意力に由って倶に引起を容す。
此障但與不善、無記二心相應,論說無明唯通不善、無記性故,痴、無痴等不相應故。煩惱障中此障必有,彼定用此為所依故,體雖無異而用有別。故二隨眠,隨聖道用有勝、有劣,斷惑前後。此於無覆無記性中,是異熟生,非餘三種。彼威儀等勢用薄弱,非覆所知,障菩提故。此名無覆,望二乘說,若望菩薩亦是有覆。
この障はただ不善・無記の二心と相応す。論に無明はただ不善・無記性に通ずと説くのゆえん。癡・無癡等は相応せざるのゆえん。煩悩障の中にこの障は必ず有り。それらは定めてこれを用いて依る所と為すのゆえん。体は異ならざると雖も、しかし用は別有り。ゆえに二の随眠は聖道の用に随って勝有り劣有りて、惑を断ずるに前後有り。これは無覆無記性の中に於て是れ異熟生にして、其余の三種に非ず。それらの威儀等は勢用薄弱にして、知る所を覆わず。菩提を障るのゆえん。これを名づけて無覆という。二乗に望めば説く。もし菩薩に望めばもまた是れ有覆なり。
若所知障有見、疑等,如何此種,契經說為無明住地?無明增故,總名無明,非無見等。如煩惱種立見一處、欲、色、有愛四住地名,豈彼更無慢、無明等。
もし所知障は見・疑等有らば、どうしてこの種は契経に説いて無明住地と為す。無明の増するのゆえんに総じて名づけて無明という。見等無きに非ず。煩悩種は見一処・欲・色・有愛の四住地の名を立つるが如し。あにそれらは更に慢・無明等無からんや。
如是二障分別起者,見所斷攝;任運起者,修所斷攝。
かくのごとき二障の分別起は見の断ずる所の摂する所。任運起は修の断ずる所の摂する所。
二乘但能斷煩惱障,菩薩俱斷。
二乗はただ煩悩障を断ずる能くすのみ。菩薩は倶に断ず。
永斷二種,唯聖道能;伏二現行,通有漏道。
永く二種を断ずるはただ聖道は能くす。二の現行を伏するは有漏道に通ず。
菩薩住此資糧位中,二麁現行雖有伏者,而於細者及二隨眠,止、觀力微,未能伏滅。
菩薩はこの資糧位の中に住して、二の麁き現行は伏する有ると雖も、しかし細きおよび二の随眠に対しては、止・観の力微にして、未だ伏滅する能わず。
此位未證唯識真如,依勝解力修諸勝行,應知亦是解行地攝。
この位は未だ唯識の真如を証せず。勝解力に依って諸々の勝行を修す。まさに知るべし、もまた解行地の摂する所なり。
所修勝行,其相云何?
修する所の勝行の行相はいかん。
略有二種:謂福及智,諸勝行中慧為性者皆名為智,餘名為福。且依六種波羅蜜多,通相皆二,別相前五說為福德,第六智慧;或復前三唯福德攝,後一唯智;餘通二種。
略して二種有り。いわゆる福および智。諸勝行の中に慧を性と為すは倶に名づけて智という。其余を名づけて福という。且く六種の波羅蜜多(彼岸に到る)に依って、通相は倶に二。別相は前の五は説いて福徳と為り、第六は智慧。あるいはまた前三はただ福徳の摂する所、後の一はただ智。其余は二種に通ず。
復有二種:謂利自、他所修勝行,隨意樂力一切皆通自他利行,依別相說,六到彼岸、菩提分等,自利行攝;四種攝事、四無量等,一切皆是利他行攝。如是等行差別無邊,皆是此中所修勝行。
また二種有り。いわゆる自・他を利するに修する所の勝行は、意楽力に随って一切は倶に自他の利行に通ず。別相に依って説けば、六の到彼岸・菩提分等は自利行の摂する所。四種の摂事・四無量等は一切倶に利他行の摂する所。かくのごとき等の行は差別辺無し。倶に是れここの修する所の勝行なり。
此位二障雖未伏除,修勝行時有三退屈,而能三事練磨其心,於所證、修勇猛不退:一、聞無上正等菩提廣大深遠,心便退屈,引他已證大菩提者,練磨自心勇猛不退。二、聞施等波羅蜜多甚難可修,心便退屈,省己意樂能修施等,練磨自心勇猛不退。三、聞諸佛圓滿轉依極難可證,心便退屈,引他麁善況己妙因,練磨自心勇猛不退。由斯三事練磨其心,堅固熾然,修諸勝行。
この位は二障は未だ伏除せざると雖も、勝行を修する時に三の退屈有りて、しかるに能く三事にてその心を練磨して、証する所・修する所に於て勇猛にして退せず。一、無上正等菩提は広大深遠と聞けば心は便ち退屈す。他の已に大菩提を証したるを引きて、自心を練磨して勇猛にして退せず。二、施等の波羅蜜多は甚だ修すべき難しと聞けば心は便ち退屈す。自己の意楽は能く施等を修するを省みて、自心を練磨して勇猛にして退せず。三、諸仏の圓滿の転依は極めて証すべき難しと聞けば心は便ち退屈す。他の麁善を引きて自己の妙因に況えて、自心を練磨して勇猛にして退せず。この三事に由ってその心を練磨して、堅固にして熾然として、諸々の勝行を修す。
次加行位,其相云何?
次に加行位の行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
27現前立少物,謂是唯識性,
現前に少物を立つ。いわゆる是れ唯識性。
以有所得故,非實住唯識。
得る所有るに因るのゆえんに、実に唯識に住するに非ず。
論曰:菩薩先於初無數劫,善備福德、智慧資糧。順解脫分既圓滿已,為入見道住唯識性,復修加行,伏除二取,謂煖、頂、忍、世第一法。
論に説く:菩薩は先に初の無数劫に於て、福徳・智慧の資糧を善く備えたり。順解脱分はすでに圓滿し已りて、見道に入りて唯識性に住せんが為に、また加行を修して、二取を伏除す。いわゆる煖・頂・忍・世第一法。
此四總名順決擇分,順趣真實決擇分故。近見道故立加行名,非前資糧無加行義。
この四は総じて名づけて順決択分という。真実の決択分に順趣するのゆえん。見道に近きのゆえんに加行の名を立つ。前の資糧に加行の義無きに非ず。
煖等四法,依四尋思、四如實智初後位立。四尋思者,尋思名、義、自性、差別,假有實無。如實遍知此四離識及識非有,名如實智,名、義相異,故別尋求,二二相同,故合思察。
煖等の四法は四尋思・四如実智の初後の位に依って立つ。四尋思とは、名・義・自性・差別を尋思して、假有にして実無なり。如実にこの四は識を離れておよび識は有に非ずを遍く知るを名づけて如実智という。名・義は相異なるのゆえんに別に尋求し、二々相お同じきのゆえんに合して思察す。
依明得定,發下尋思,觀無所取,立為煖位。謂此位中,創觀所取名等四法皆自心變,假施設有,實不可得。初獲慧日前行相故,立明得名,即此所獲道火前相,故亦名煖。
明得定に依って下尋思を発して、取る所無きを観て、立てて煖位と為す。いわゆるこの位の中に創めて取る所の名等の四法は倶に自心の變現にして、假に施設して有りて、実に求むるを得ざるを観る。初めて慧日の前行相を獲るのゆえんに、明得の名を立つ。すなわちこれが獲る所は道火の前相なり。ゆえにもまた名づけて煖という。
依明增定,發上尋思,觀無所取,立為頂位。謂此位中,重觀所取名等四法皆自心變,假施設有,實不可得。明相轉盛,故名明增,尋思位極,故復名頂。
明増定に依って上尋思を発して、取る所無きを観て、立てて頂位と為す。いわゆるこの位の中に重ねて取る所の名等の四法は倶に自心の變現にして、假に施設して有りて、実に求むるを得ざるを観る。明相転じて盛んなり。ゆえに名づけて明増という。尋思の位極まれるがゆえにもまた名づけて頂という。
依印順定,發下如實智,於無所取決定印持,無能取中亦順樂忍。既無實境離能取識,寧有實識離所取境?所取、能取相待立故。印順忍時總立為忍,印前順後立印順名,忍境、識空故亦名忍。
印順定に依って下如実智を発して、取る所無きに於て決定して印持して、能取無きの中にも順楽忍す。すでに実境無くして能取の識を離るれば、どうして実識有りて取る所の境を離れん。取る所・取る能は相待して立つのゆえん。印順の忍の時に総じて立てて忍と為す。前を印し後に順うを立てて印順の名と為す。境・識の空を忍するのゆえんにもまた名づけて忍という。
依無間定,發上如實智,印二取空,立世第一法。謂前上忍唯印能取空,今世第一法二空雙印,從此無間必入見道故,立無間名,異生法中此最勝故,名世第一法。
無間定に依って上如実智を発して、二取の空を印して、世第一法を立つ。いわゆる前の上忍はただ能取の空を印す。今の世第一法は二空を双び印す。これより無間に必ず見道に入るのゆえんに無間の名を立つ。異生法の中にこれ最勝なるのゆえんに、名づけて世第一法という。
如是煖、頂依能取識觀所取空,下忍起時印境空相;中忍轉位,於能取識如境是空,順樂忍可;上忍起位印能取空;世第一法雙印空相,皆帶相故未能證實。故說菩薩此四位中。猶於現前安立少物,謂是唯識真勝義性,以彼空、有二相未除,帶相觀心有所得故,非實安住真唯識理。彼相滅已方實安住。依如是義,故有頌言:
かくのごとき煖・頂は能取の識に依って取る所の空を観す。下忍の起こる時に境の空相を印す。中忍の転位に能取の識に於て境の如く空なるを順楽忍可す。上忍の起こる位に能取の空を印す。世第一法は双び空相を印す。倶に相を帯びるのゆえんに未だ実を証せず。ゆえに菩薩はこの四位の中に於てと説く。猶ほ現前に於て少物を安立す。いわゆる是れ唯識の真勝義性。それらの空・有の二相は未だ除かざるに因りて、相を帯びて心を観ずるに得る所有るのゆえんに、実に真の唯識理に安住するに非ず。それらの相の滅し已って乃ち実に安住す。かくのごとき義に依って、ゆえに頌有りて説く:
「菩薩於定位,觀影唯是心,
「菩薩は定位に於て、影を観ずればただ心のみ。
義相既滅除,審觀唯自想。
義相すでに滅除して、審かに観ずればただ自らの想のみ。
如是住內心,知所取非有,
かくのごとく内心に住して、取る所は有に非ずを知り、
次能取亦無,後觸無所得。」
次には取る能もまた無し。後には得る所無きに触る。」
此加行位未遣相縛,於麁重縛亦未能斷,唯能伏除分別二取,違見道故。於俱生者及二隨眠,有漏觀心有所得故,有分別故,未全伏除,全未能滅。
この加行位は未だ相縛を遣わず。麁重の縛に於てもまた未だ断ずる能わず。ただ能く分別の二取を伏除するのみ。見道に違するのゆえん。倶生のおよび二の随眠に於ては、有漏の観心は得る所有るのゆえん、分別有るのゆえんに、未だ全く伏除せず、全く未だ滅する能わず。
此位菩薩於安立諦、非安立諦俱學觀察,為引當來二種見故,及伏分別二種障故,非安立諦是正所觀,非如二乘唯觀安立。
この位の菩薩は安立諦・非安立諦に於て倶に観察を学ぶ。当来の二種の見を引かんが為のゆえん、および分別の二種の障を伏せんが為のゆえん。非安立諦は正しく観ずる所なり。二乗のただ安立を観ずるが如ならず。
菩薩起此煖等善根,雖方便時通諸靜慮,而依第四方得成滿,託最勝依入見道故。
菩薩はこの煖等の善根を起こすに、方便の時は諸静慮に通ずると雖も、しかし第四に依って乃ち成満するを得。最勝の依に託して見道に入るのゆえん。
唯依欲界善趣身起,餘慧、厭心非殊勝故。
ただ欲界の善趣の身に依って起こす。其余は慧・厭心は殊勝に非ざるのゆえん。
此位亦是解行地攝,未證唯識真勝義故。
この位もまた解行地の摂する所なり。未だ唯識の真勝義を証せざるのゆえん。
次通達位,其相云何?
次に通達位の行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
28若時於所緣,智都無所得,
もし時に縁ずる所に於て、智は倶に得る所無からば、
爾時住唯識,離二取相故。
かの時に唯識に住す。二取の相を離るるのゆえん。
論曰:若時菩薩於所緣境,無分別智都無所得,不取種種戲論相故,爾時乃名實住唯識真勝義性,即證真如智與真如平等平等,俱離能取、所取相故,能、所取相,俱是分別,有所得心,戲論現故。
論に説く:もし時に菩薩は縁ずる所の境に於て、無分別智は倶に得る所無し。種種の戯論相を取らざるのゆえん。かの時に乃ち名づけて実に唯識の真勝義性に住す。すなわち真如を証する智は真如と平等平等なり。倶に能取・所取の相を離るるのゆえん。能・所取の相は倶に是れ分別にして、得る所有る心は戯論の現ずる所のゆえん。
有義:此智二分俱無,說無所取、能取相故。
一義有り:この智は二分倶に無し。取る所・取る能の相無しと説くのゆえん。
有義:此智相、見俱有,帶彼相起名緣彼故,若無彼相名緣彼者,應色智等,名聲等智,若無見分應不能緣,寧可說為緣真如智?勿真如性亦名能緣,故應許此定有見分。
一義有り:この智は相・見倶に有り。彼の相を帯びて起こるを名づけて彼に縁ずと為すのゆえん。もし彼の相無きを名づけて彼に縁ずと為さば、まさに色の智等は名づけて声等の智と為るべし。もし見分無ければまさに縁ずること能わざるべし。どうして真如に縁ずる智と説くべきや。真如性をしてもまた名づけて能縁と為さしむること莫れ。ゆえにまさにこれは定めて見分有ると許すべし。
有義:此智見有相無,說無相取,不取相故,雖有見分而無分別,說非能取,非取全無。雖無相分,而可說此帶如相起,不離如故。如自證分緣見分時不變而緣,此亦應爾;變而緣者便非親證,如後得智應有分別,故應許此有見無相。
一義有り:この智は見有りて相無し。取る相無しと説く。相を取らざるのゆえん。見分有ると雖も、しかし分別無し。説いて能取に非ずと為す。取る全く無きに非ず。相分無きと雖も、しかしこれは如の相を帯びて起こると説くべし。如を離れざるのゆえん。自証分は見分に縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、これもまたまさに然るべし。変じて縁ずるは便ち親証に非ず。後得智の如くまさに分別有るべし。ゆえにまさにこれは見有りて相無しと許すべし。
加行無間此智生時,體會真如,名通達位;初照理故,亦名見道。
加行の無間にこの智の生ずる時は、真如を体会す。名づけて通達位という。初めて理を照らすのゆえんに、もまた名づけて見道という。
然此見道,略說有二。
しかしこの見道は略説して二有り。
一、真見道,謂即所說無分別智,實證二空所顯真理,實斷二障分別隨眠,雖多剎那事方究竟,而相等故,總說一心。有義:此中二空、二障漸證、漸斷,以有淺深、麁細異故。有義:此中二空、二障頓證、頓斷,由意樂力有堪能故。
一、真見道とはいわゆるすなわち説く所の無分別智にて、実に二空の顯す所の真理を証し、実に二障の分別随眠を断ず。多くの刹那の事にて乃ち究竟すると雖も、しかし相お等しきのゆえんに、総じて一心と説く。一義有り:ここに二空・二障は漸証・漸断す。浅深・麁細の異有るに因るのゆえん。一義有り:ここに二空・二障は頓証・頓断す。意楽力に由って堪能有るのゆえん。
二、相見道,此復有二。
二、相見道。これにまた二有り。
一、觀非安立諦有三品心:一、內遣有情假緣智,能除軟品分別隨眠;二、內遣諸法假緣智,能除中品分別隨眠;三、遍遣一切有情、諸法假緣智,能除一切分別隨眠。
一、非安立諦を観ずるに三品の心有り。一、内に有情の假に縁ずる智を遣るは能く軟品の分別随眠を除く。二、内に諸法の假に縁ずる智を遣るは能く中品の分別随眠を除く。三、遍く一切の有情・諸法の假に縁ずる智を遣るは能く一切の分別随眠を除く。
前二名法智,各別緣故。第三名類智,總合緣故。
前の二を名づけて法智という。各別に縁ずるのゆえん。第三を名づけて類智という。総合して縁ずるのゆえん。
法真見道二空見分自所斷障無間、解脫,別總建立,名相見道。
真見道に法する二空の見分の自らの断ずる所の障の無間・解脱を、別総に建立して、名づけて相見道という。
有義:此三是真見道,以相見道緣四諦故。有義:此三是相見道,以真見道不別緣故。
一義有り:この三は真見道なり。相見道は四諦に縁ずるに因るのゆえん。一義有り:この三は相見道なり。真見道は別に縁ぜざるに因るのゆえん。
二、緣安立諦有十六心,此復有二。
二、安立諦に縁ずるに十六心有り。これにまた二有り。
一者依觀所取、能取,別立法、類十六種心。
一は取る所・取る能を観ずるに依って、別に法・類の十六種の心を立つ。
謂於苦諦有四種心:一、苦法智忍,謂觀三界苦諦真如,正斷三界見苦所斷二十八種分別隨眠。二、苦法智,謂忍無間觀前真如,證前所斷煩惱解脫。三、苦類智忍,謂智無間無漏慧生,於法忍、智各別內證,言後聖法皆是此類。四、苦類智,謂此無間無漏智生,審定、印可苦類智忍。如於苦諦有四種心,集、滅、道諦應知亦爾。此十六心,八觀真如,八觀正智。法真見道無間、解脫見、自證分差別建立,名相見道。
いわゆる苦諦に於て四種の心有り。一、苦法智忍とは、いわゆる三界の苦諦の真如を観て、正しく三界の見苦の断ずる所の二十八種の分別随眠を断ず。二、苦法智とは、いわゆる忍の無間に前の真如を観て、前の断ずる所の煩悩の解脱を証す。三、苦類智忍とは、いわゆる智の無間に無漏の慧生じて、法忍・智に於て各別に内証して、後の聖法は倶にこの類と説く。四、苦類智とは、いわゆるこの無間に無漏智生じて、苦類智忍を審定・印可す。苦諦に於て四種の心有るが如く、集・滅・道諦もまさに然るべしと知る。この十六心は八は真如を観、八は正智を観ず。真見道に法する無間・解脱見・自証分の差別を建立して、名づけて相見道という。
二者依觀下、上諦境,別立法、類十六種心。
二は下・上の諦境を観ずるに依って、別に法・類の十六種の心を立つ。
謂觀現前、不現前界,苦等四諦各有二心,一、現觀忍;二、現觀智,如其所應法真見道,無間、解脫見分觀諦,斷見所斷百一十二分別隨眠,名相見道。
いわゆる現前・不現前の界を観ずるに、苦等の四諦は各々二心有り。一、現観忍。二、現観智。その応ずる所の如く真見道に法して、無間・解脱の見分は諦を観て、見の断ずる所の百一十二の分別随眠を断ず。名づけて相見道という。
若依廣布聖教道理,說相見道有九種心。
もし広く布く聖教の道理に依れば、相見道は九種の心有りと説く。
此即依前緣安立諦二十六種,止、觀別立,謂法類品忍、智合說各有四觀,即為八心,八相應止,總說為一,雖見道中止觀雙運,而於見義觀順非止,故此觀、止開合不同,由此九心名相見道。
これすなわち前の安立諦に縁ずる二十六種に依って、止・観を別に立つ。いわゆる法類品の忍・智は合して説いて各々四観有り。すなわち八心。八の相応する止は総じて一と説く。見道の中は止観双運すると雖も、しかし見義に対しては観は順にして止に非ず。ゆえにこの観・止は開合同じからず。これに由って九心を名づけて相見道という。
諸相見道依真假說,世第一法無間而生及斷隨眠,非實如是,真見道後方得生故,非安立後起安立故。分別隨眠真已斷故。前真見道證唯識性,後相見道證唯識相,二中初勝,故頌偏說,前真見道根本智攝,後相見道後得智攝。
諸々の相見道は真に依りて假に説く。世第一法の無間に生じておよび随眠を断ずるは、実はこの如しに非ず。真見道の後に乃ち生ずるを得るのゆえん。非安立の後に安立を起こすのゆえん。分別随眠は真に已に断ぜたるのゆえん。前の真見道は唯識性を証し、後の相見道は唯識相を証す。二中に初は勝れるがゆえに頌は偏りて説く。前の真見道は根本智の摂する所、後の相見道は後得智の摂する所。
諸後得智有二分耶?
諸々の後得智は二分有るか。
有義:俱無,離二取故。
一義有り:倶に無し。二取を離るるのゆえん。
有義:此智見有相無,說此智品有分別故,聖智皆能親照境故,不執著故,說離二取。
一義有り:この智は見有りて相無し。この智品は分別有りと説くのゆえん。聖智は倶に能く親しく境を照らすのゆえん。執著せざるのゆえんに、二取を離ると説く。
有義:此智二分俱有。
一義有り:この智は二分倶に有り。
說此思惟似真如相,不見真實真如性故。又說此智分別諸法自、共相等,觀諸有情根性差別而為說故。又說此智現身、土等,為諸有情說正法故,若不變現似色、聲等,寧有現身說法等事?
この思惟は真如の相に似たりと説く。真実の真如性を見ざるのゆえん。またこの智は諸法の自・共相等を分別して、諸有情の根性差別を観て説を為すと説くのゆえん。またこの智は身・土等を現じて、諸有情の為に正法を説くと説くのゆえん。もし色・声等に似て變現せざれば、どうして身を現じて法を説く等の事有らん。
轉色蘊依不現色者,轉四蘊依應無受等。又若此智不變似境,離自體法應非所緣,緣色等時應緣聲等,又緣無法等應無所緣緣,彼體非實無緣用故。
色蘊の依を転じて色を現ぜざれば、四蘊の依を転ずるはまさに受等無かるべし。またもしこの智は境に似て變ぜざれば、自体法を離れてまさに縁ずる所に非ざるべし。色等に縁ずる時はまさに声等に縁ずべし。また無法等に縁ずるはまさに所縁縁無かるべし。彼の体は実に非ずして縁の用無きのゆえん。
由斯後智二分俱有。
これに由って後の智は二分倶に有り。
此二見道與六現觀相攝云何?
この二見道は六現観と相摂いかん。
六現觀者:一、思現觀,謂最上品喜受相應,思所成慧,此能觀察諸法共相,引生煖等,加行道中觀察諸法此用最猛,偏立現觀,煖等不能廣分別法,又未證理故非現觀。
六現観とは、一、思現観とは、いわゆる最上品の喜受に相応する思の成ずる所の慧にて、これは能く諸法の共相を観察して、煖等を引生す。加行道の中に諸法を観察するにこの用は最も猛れり。偏りて現観を立つ。煖等は能く広く諸法を分別せず、また未だ理を証せざるのゆえんに現観に非ず。
二、信現觀,謂緣三寶世、出世間決定淨信,此助現觀令不退轉,立現觀名。
二、信現観とは、いわゆる三宝の世・出世間に縁ずる決定の浄信にて、これは現観を助けて退転せざらしむ。現観の名を立つ。
三、戒現觀,謂無漏戒除破戒垢令觀增明,亦名現觀。
三、戒現観とは、いわゆる無漏戒は破戒の垢を除きて観をして増明ならしむ。もまた名づけて現観という。
四、現觀智諦現觀,謂一切種緣非安立根本、後得無分別智。
四、現観智諦現観とは、いわゆる一切種の非安立の根本・後得の無分別智に縁ずる。
五、現觀邊智諦現觀,謂現觀智諦現觀後,諸緣安立世、出世智。
五、現観辺智諦現観とは、いわゆる現観智諦現観の後に、諸々の安立に縁ずる世・出世智。
六、究竟現觀,謂盡智等究竟位智。
六、究竟現観とは、いわゆる尽智等の究竟位の智。
此真見道攝彼第四現觀少分,此相見道攝彼第四、第五少分,彼第二、三雖此俱起而非自性,故不相攝。
この真見道はかの第四現観の少分を摂し、この相見道はかの第四・第五の少分を摂す。かの第二・三はこれと倶起するも自性に非ざるを以ってゆえに相摂せず。
菩薩得此二見道時,生如來家,住極喜地,善達法界,得諸平等,常生諸佛大集會中,於多百門已得自在,自知不久證大菩提,能盡未來利樂一切。
菩薩はこの二見道を得る時に、如来家に生じ、極喜地に住し、法界を善く達して、諸々の平等を得、常に諸仏の大集会の中に生じて、多百の門に於て已に自在を得て、久しからずして大菩提を証せんことを自知して、能く未来を尽くして一切を利楽す。
次修習位,其相云何?
次に修習位の行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
29無得不思議,是出世間智,
得無し・思議すべからざるは、是れ出世間の智。
捨二麁重故,便證得轉依。
二の麁重を捨てるのゆえんに、便ち転依を証得す。
論曰:菩薩從前見道起已,為斷餘障,證得轉依,復數修習無分別智。
論に説く:菩薩は前の見道を起こり已りてより、余の障を断じて転依を証得せんが為に、また数々無分別智を修習す。
此智遠離所取、能取,故說「無得」及「不思議」;或離戲論說為「無得」,妙用難測名「不思議」。
この智は取る所・取る能を遠離す。ゆえに「無得」および「不可思議」と説く。あるいは戯論を離れて「無得」と説き、妙用は測り難きを名づけて「不可思議」という。
是出世間無分別智,斷世間故,名「出世間」。二取隨眠是世間本,唯此能斷獨得「出」名。或「出世」名依二義立,謂體無漏及證真如,此智具斯二種義故,獨名「出世」,餘智不然,即十地中無分別智。
是れ出世間の無分別智にして、世間を断ずるのゆえんに名づけて「出世間」という。二取の随眠は是れ世間の本にして、ただこの能く断ずるを独り「出」の名を得。あるいは「出世」の名は二義に依って立つ。いわゆる体は無漏および真如を証す。この智はこの二種の義を具えるのゆえんに、独り名づけて「出世」という。其余の智はこの如ならず。すなわち十地の中の無分別智なり。
數修此故,「捨二麁重」。二障種子立「麁重」名,性無堪任,違細、輕故,令彼永滅,故說為「捨」。
これを数々修するのゆえんに「二の麁重を捨つ」。二障の種子は「麁重」の名を立つ。性は堪任無きにして、細・軽に違するのゆえん。それらをして永滅せしむ。ゆえに「捨」と説く。
此能捨彼二麁重故,便能證得廣大「轉依」。
これは能くかの二の麁重を捨てるのゆえんに、便ち能く広大の「転依」を証得す。
「依」謂所依,即依他起,與染、淨法為所依故;染謂虛妄遍計所執;淨謂真實圓成實性。轉謂二分,轉捨、轉得。由數修習無分別智,斷本識中二障麁重,故能轉捨依他起上遍計所執,及能轉得依他起中圓成實性。由轉煩惱得大涅槃,轉所知障證無上覺。成立唯識,意為有情證得如斯二轉依果。
「依」とはいわゆる所依にしてすなわち依他起なり。染・浄の法と所依と為るのゆえん。染とはいわゆる虚妄の遍計所執。浄とはいわゆる真実の圓成實性。転とはいわゆる二分にて、転捨・転得。数々無分別智を修習するに由って、本識の中の二障の麁重を断ず。ゆえに能く依他起の上の遍計所執を転捨し、および能く依他起の中の圓成實性を転得す。煩悩を転じて大涅槃を得、所知障を転じて無上の覚を証す。唯識を成立するは意は有情をしてかくのごとき二の転依の果を証得せしめんと欲す。
或「依」即是唯識真如,生死、涅槃之所依故。
あるいは「依」はすなわち唯識の真如にして、生死・涅槃の依る所なるのゆえん。
愚夫顛倒,迷此真如,故無始來受生死苦,聖者離倒,悟此真如,便得涅槃畢竟安樂。由數修習無分別智,斷本識中二障麁重,故能轉滅依如生死,及能轉證依如涅槃,此即真如離雜染性。如雖性淨而相雜染,故離染時假說新淨,即此新淨說為轉依,修習位中斷障證得。
愚夫は顛倒してこの真如に迷う。ゆえに無始より来り生死苦を受く。聖者は倒を離れてこの真如を悟れば、便ち涅槃の畢竟の安楽を得。数々無分別智を修習するに由って、本識の中の二障の麁重を断ず。ゆえに能く如に依る生死を転滅し、および能く如に依る涅槃を転証す。これすなわち真如の雑染を離るる性なり。如は性は浄なると雖も、しかし相は雑染す。ゆえに染を離るる時に假に新浄と説く。すなわちこの新浄を説いて転依と為す。修習位の中に障を断じて証得す。
雖於此位亦得菩提,而非此中頌意所顯,頌意但顯轉唯識性,二乘滿位名解脫身,在大牟尼名法身故。
この位に於てもまた菩提を得ると雖も、しかしここの頌意の顯す所に非ず。頌意はただ唯識性を転ずるを顯す。二乗の満位を名づけて解脱身といい、大牟尼(仏)に在りては法身と名づくるのゆえん。
云何證得二種轉依?
どうして二種の転依を証得する。
謂十地中修十勝行、斷十重障、證十真如,二種轉依由斯證得。
いわゆる十地の中に十勝行を修し、十重障を断じ、十真如を証す。二種の転依はこれに由って証得す。
言十地者,一、極喜地,初獲聖性,具證二空,能益自、他,生大喜故。
十地を説く:一、極喜地とは、初めて聖性を獲て、具に二空を証して、能く自・他を益して、大いに喜を生ずるのゆえん。
二、離垢地,具淨屍羅,遠離能起微細毀犯煩惱垢故。
二、離垢地とは、具に浄尸羅(戒)にして、能く起こる微細の毀犯の煩悩垢を遠離するのゆえん。
三、發光地,成就勝定,大法總持,能發無邊妙慧光故。
三、發光地とは、勝定・大法の総持を成就して、能く無辺の妙慧の光を發するのゆえん。
四、焰慧地,安住最勝菩提分法,燒煩惱薪,慧焰增故。
四、焰慧地とは、最勝の菩提分法に安住して、煩悩の薪を焼きて、慧の焰増すのゆえん。
五、極難勝地,真、俗兩智行相互違,合令相應極難勝故。
五、極難勝地とは、真・俗の両智の行相は互いに違して、合して相応せしむるに極めて勝れ難きのゆえん。
六、現前地,住緣起智,引無分別最勝般若令現前故。
六、現前地とは、縁起の智に住して、無分別の最勝般若を引きて現前せしむるのゆえん。
七、遠行地,至無相住功用後邊,出過世間二乘道故。
七、遠行地とは、無相に住して功用の後辺に至りて、世間の二乗道を出過するのゆえん。
八、不動地,無分別智任運相續,相、用煩惱不能動故。
八、不動地とは、無分別智は任運に相続して、相・用の煩悩は動かすこと能わざるのゆえん。
九、善慧地,成就微妙四無閡解,能遍十方善說法故。
九、善慧地とは、微妙の四無礙解を成就して、能く十方に遍して善く法を説くのゆえん。
十、法雲地,大法智雲含眾德水,蔽如空麁重,充滿法身故。
十、法雲地とは、大法の智雲は衆徳の水を含みて、空の如き麁重を蔽いて、法身に充満するのゆえん。
如是十地,總攝有為、無為功德以為自性。
かくのごとき十地は、総じて有為・無為の功徳を摂して以って自性と為す。
與所修行為勝依持,令得生長,故名為地。
修する所の行と勝依持と為りて、生長を得しむ。ゆえに名づけて地という。
十勝行者,即是十種波羅蜜多。
十勝行とはすなわち十種の波羅蜜多なり。
施有三種:謂財施、無畏施、法施。戒有三種:謂律儀戒、攝善法戒、饒益有情戒。忍有三種:謂耐怨害忍、安受苦忍、諦察法忍。精進有三種:謂被甲精進、攝善精進、利樂精進。靜慮有三種:謂安住靜慮、引發靜慮、辦事靜慮。般若有三種:謂生空無分別慧、法空無分別慧、俱空無分別慧。方便善巧有二種:謂迴向方便善巧、拔濟方便善巧。願有二種:謂求菩提願、利樂他願。力有二種:謂思擇力、修習力。智有二種:謂受用法樂智、成熟有情智。
施は三種有り。いわゆる財施・無畏施・法施。戒は三種有り。いわゆる律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒。忍は三種有り。いわゆる耐怨害忍・安受苦忍・諦察法忍。精進は三種有り。いわゆる被甲精進・摂善精進・利樂精進。静慮は三種有り。いわゆる安住静慮・引發静慮・辦事静慮。般若是三種有り。いわゆる生空無分別慧・法空無分別慧・倶空無分別慧。方便善巧は二種有り。いわゆる回向方便善巧・拔済方便善巧。願は二種有り。いわゆる菩提を求むる願・他を利樂する願。力は二種有り。いわゆる思択力・修習力。智は二種有り。いわゆる法樂を受用する智・有情を成熟する智。
此十性者,施以無貪及彼所起三業為性;戒以受學菩薩戒時三業為性;忍以無瞋、精進、審慧及彼所起三業為性;精進以勤及彼所起三業為性;靜慮但以等持為性;後五皆以擇法為性,說是根本、後得智故。有義:第八以欲、勝解及信為性,願以此三為自性故。
この十の性は、施は無貪およびそれらの起こす所の三業を以って性と為す。戒は菩薩戒を受学する時の三業を以って性と為す。忍は無瞋・精進・審慧およびそれらの起こす所の三業を以って性と為す。精進は勤およびそれらの起こす所の三業を以って性と為す。静慮はただ等持を以って性と為す。後の五は倶に択法を以って性と為す。根本・後得の智と説くのゆえん。一義有り:第八は欲・勝解および信を以って性と為す。願はこの三を以って自性と為すのゆえん。
此說自性,若並眷屬,一一皆以一切俱行功德為性。
これは自性を説く。もし眷属を併せば、一一は倶に一切の倶行功徳を以って性と為す。
此十相者,要七最勝之所攝受,方可建立波羅蜜多。
この十の相は、七最勝の摂受する所を要して、乃ち波羅蜜多を建立すべし。
一、安住最勝,謂要安住菩薩種性;二、依止最勝,謂要依止大菩提心;三、意樂最勝,謂要悲愍一切有情;四、事業最勝,謂要具行一切事業;五、巧便最勝,謂要無相智所攝受;六、迴向最勝,謂要迴向無上菩提;七、清淨最勝,謂要不為二障間雜。
一、安住最勝とは、いわゆる菩薩種性に安住するを要す。二、依止最勝とは、いわゆる大菩提心に依止するを要す。三、意樂最勝とは、いわゆる一切有情を悲愍するを要す。四、事業最勝とは、いわゆる一切の事業を具行するを要す。五、巧便最勝とは、いわゆる無相智の摂受する所を要す。六、回向最勝とは、いわゆる無上菩提に回向するを要す。七、清浄最勝とは、いわゆる二障の間雑せらるる為らざるを要す。
若非此七所攝受者,所行施等非到彼岸。
もしこの七の摂受する所に非ざれば、行ずる所の施等は到彼岸に非ず。
由斯施等十對波羅蜜多,一一皆應四句分別。
これに由って施等の十は波羅蜜多に対して、一一倶にまさに四句に分別すべし。
此但有十不增減者,謂十地中對治十障、證十真如,無增減故。
これはただ十のみ有りて増減せず。いわゆる十地の中に十障に対治し、十真如を証するに、増減無きのゆえん。
復次,前六不增減者,為除六種相違障故,漸次修行諸佛法故,漸次成熟諸有情故,此如餘論廣說應知。又施等三增上生道,感大財體及眷屬故;精進等三決定勝道,能伏煩惱、成熟有情及佛法故,諸菩薩道唯有此二。又前三種饒益有情,施彼資財、不損惱彼、堪忍彼惱而饒益故。精進等三對治煩惱,雖未伏滅,而能精勤修對治彼諸善加行,永伏永滅諸煩惱故。又由施等不住涅槃,及由後三不住生死,為無住處涅槃資糧,由此前六不增不減。
復た次に、前の六は増減せず。六種の相違の障を除かんが為のゆえん。漸次に諸仏法を修行するのゆえん。漸次に諸有情を成熟するのゆえん。これは其余の論の広く説けるが如くまさに知るべし。また施等の三は増上の生道にて、大きの財体および眷属を感ずるのゆえん。精進等の三は決定の勝道にて、能く煩悩を伏し、有情および仏法を成熟するのゆえん。諸菩薩道はただこの二のみ有り。また前の三種は有情を饒益す。彼に資財を施し、彼を損惱せず、彼の惱に堪忍して饒益するのゆえん。精進等の三は煩悩に対治す。未だ伏滅せざると雖も、しかし能く精勤して彼に対治する諸善加行を修して、永伏・永滅して諸煩悩を断ずるのゆえん。また施等に由って涅槃に住せず、および後の三に由って生死に住せず。無住処涅槃の資糧と為る。これに由って前の六は増さず減らず。
後唯四者,為助前六令修滿足不增減故,方便善巧助施等三,願助精進,力助靜慮,智助般若,令修滿故,如《解深密》廣說應知。
後はただ四のみ。前の六を助けて修をして満足せしめんが為に増減せざるのゆえん。方便善巧は施等の三を助け、願は精進を助け、力は静慮を助け、智は般若を助けて、修をして満たせしむるのゆえん。《解深密》の広く説けるが如くまさに知るべし。
十次第者,謂由前前引發後後,及由後後持淨前前。又前前麁,後後細故,易難修習次第如是。
十の次第とは、いわゆる前前に由って後後を引發し、および後後に由って前前を持浄す。また前前は麁く、後後は細なるのゆえんに、易・難の修習の次第はこの如し。
釋總別名如餘處說。
総別の名を釋するは其余の処の説くが如し。
此十修者有五種修:一、依止任持修;二、依止作意修;三、依止意樂修;四、依止方便修;五、依止自在修。依此五修,修習十種波羅蜜多皆得圓滿,如《集論》等廣說其相。
この十の修は五種の修有り。一、依止任持修。二、依止作意修。三、依止意樂修。四、依止方便修。五、依止自在修。この五修に依って、十種の波羅蜜多を修習して倶に圓滿を得。《集論》等のその相を広く説けるが如し。
此十攝者,謂十一一皆攝一切波羅蜜多,互相順故,依修前行而引後者,前攝於後,必待前故,後不攝前,不待後故。依修後行,持淨前者,後攝於前,持淨前故,前不攝後,非持淨故。若依純雜而修習者,展轉相望應作四句。
この十の摂とは、いわゆる十一一は倶に一切の波羅蜜多を摂す。互相順するのゆえん。前行を修して後を引くに依るは、前は後を摂す。必ず前を待つのゆえん。後は前を摂せず。後を待たざるのゆえん。後行を修して前を持浄するに依るは、後は前を摂す。前を持浄するのゆえん。前は後を摂せず。持浄に非ざるのゆえん。もし純雑に依って修習するは、展転して相望みてまさに四句を作すべし。
此實有十而說六者,應知後四第六所攝,開為十者,第六唯攝無分別智,後四皆是後得智攝,緣世俗故。
これは実に十有りて六と説く。まさに知るべし、後の四は第六の摂する所なり。開いて十と為すは、第六はただ無分別智を摂し、後の四は倶に後得智の摂する所にして、世俗に縁ずるのゆえん。
此十果者,有漏有四,除離繫果;無漏有四,除異熟果。而有處說具五果者,或互相資或二合說。
この十の果は、有漏は四有りて離繫果を除き、無漏は四有りて異熟果を除く。しかし処有りて五果を具すと説くは、あるいは互いに資すかあるいは二を合して説く。
十與三學互相攝者,戒學有三:一、律儀戒,謂正遠離所應離法;二、攝善法戒,謂正修證應修證法;三、饒益有情戒,謂正利樂一切有情。此與二乘有共、不共,甚深廣大,如餘處說。
十と三学とは互いに相摂す。戒学は三有り。一、律儀戒とは、いわゆる正しく離るべき所の法を遠離す。二、摂善法戒とは、いわゆる正しく修証すべき所の法を修証す。三、饒益有情戒とは、いわゆる正しく一切有情を利樂す。これは二乗と共・不共有りて、甚深広大なり。其余の処の説くが如し。
定學有四:一、大乘光明定,謂此能發照了大乘理、教、行、果,智光明故;二、集福王定,謂此自在集無邊福,如王勢力無等雙故;三、賢守定,謂此能守世、出世間賢善法故;四、健行定,謂佛菩薩大健有情之所行故。此四所緣、對治、堪能、引發、作業,如餘處說。
定学は四有り。一、大乗光明定とは、いわゆるこれは能く大乗の理・教・行・果を照了する智の光明を發するのゆえん。二、集福王定とは、いわゆるこれは自在に無辺の福を集めて、王の勢力の等双無きが如きのゆえん。三、賢守定とは、いわゆるこれは能く世・出世間の賢善法を守るのゆえん。四、健行定とは、いわゆる仏・菩薩の大健の有情の行ずる所なるのゆえん。この四の所縁・対治・堪能・引發・作業は其余の処の説くが如し。
慧學有三:一、加行無分別慧;二、根本無分別慧;三、後得無分別慧。此三自性、所依、因緣、所緣、行等,如餘處說。
慧学は三有り。一、加行無分別慧。二、根本無分別慧。三、後得無分別慧。この三の自性・所依・因縁・所縁・行等は其余の処の説くが如し。
如是三慧,初二位中種具有三,現唯加行,於通達位現二種三,見道位中無加行故,於修習位七地已前,若種若現俱通三種。八地以去現二種三,無功用道違加行故,所有進趣皆用後得,無漏觀中任運起故,究竟位中現、種俱二,加行現、種俱已捨故。
かくのごとき三慧は、初の二位の中にて種は具に三有りて、現はただ加行のみ。通達位に於て現は二種三。見道位の中に加行無きのゆえん。修習位に於て七地已前は、もし種もし現なるも倶に三種に通ず。八地に去れば現は二種三。無功用道は加行に違するのゆえん。所有の進趣は倶に後得を用いる。無漏観の中に任運に起こるのゆえん。究竟位の中に現・種は倶に二。加行の現・種は倶に已に捨てたるのゆえん。
若自性攝,戒唯攝戒,定攝靜慮,慧攝後五。若並助伴,皆具相攝。若隨用攝,戒攝前三,資糧、自體、眷屬性故,定攝靜慮,慧攝後五,精進三攝,遍策三故。若隨顯攝,戒攝前四,前三如前,及守護故,定攝靜慮,慧攝後五。
もし自性の摂なれば、戒はただ戒を摂し、定は静慮を摂し、慧は後の五を摂す。もし助伴を併せば、倶に具に相摂す。もし用に随って摂せば、戒は前の三を摂す。資糧・自体・眷属の性なるのゆえん。定は静慮を摂し、慧は後の五を摂す。精進は三を摂す。三を遍策するのゆえん。もし顯に随って摂せば、戒は前の四を摂す。前の三は前の如くおよび守護するのゆえん。定は静慮を摂し、慧は後の五を摂す。
此十位者,五位皆具,修習位中其相最顯,然初二位,頓悟菩薩種通二種,現唯有漏,漸悟菩薩若種、若現俱通二種,已得生空無漏觀故。通達位中,種通二種,現唯無漏。於修習位七地已前,種、現俱通有漏無漏,八地以去種通二種,現唯無漏。究竟位中,若現、若種俱唯無漏。
この十の位は、五位倶に具す。修習位の中にその相最も顯なり。しかし初の二位は、頓悟の菩薩は種は二種に通じて、現はただ有漏のみ。漸悟の菩薩はもし種もし現なるも倶に二種に通ず。已に生空の無漏観を得たるのゆえん。通達位の中に種は二種に通じて、現はただ無漏のみ。修習位に於て七地已前は種・現は倶に有漏無漏に通じて、八地に去れば種は二種に通じて、現はただ無漏のみ。究竟位の中にはもし現もし種なるも倶にただ無漏のみ。
此十因位有三種名:一名遠波羅蜜多,謂初無數劫,爾時施等勢力尚微,被煩惱伏,未能伏彼,由斯煩惱不覺現行。二名近波羅蜜多,謂第二無數劫,爾時施等勢力漸增,非煩惱伏,而能伏彼,由斯煩惱故意方行。三名大波羅蜜多,謂第三無數劫,爾時施等勢力轉增,能畢竟伏一切煩惱,由斯煩惱永不現行,猶有所知微細現種及煩惱種,故未究竟。
この十は因位に於て三種の名有り。一は名づけて遠波羅蜜多という。いわゆる初の無数劫にて、かの時施等の勢力は尚ほ微にして、煩悩の伏する所にして、未だ彼を伏する能わず。これに由って煩悩は覚らずして現行す。二は名づけて近波羅蜜多という。いわゆる第二の無数劫にて、かの時施等の勢力は漸々増して、煩悩の伏する所に非ずして、能く彼を伏す。これに由って煩悩は故に行うのみ。三は名づけて大波羅蜜多という。いわゆる第三の無数劫にて、かの時施等の勢力は転じて増して、能く畢竟に一切煩悩を伏す。これに由って煩悩は永く現行せず。猶ほ所知の微細の現種および煩悩種有るを以って、ゆえに未だ究竟せず。
此十義類差別無邊,恐厭繁文,略示綱要。
この十の義類は差別辺無し。繁文を厭わんことを恐れて、略して綱要を示す。
十於十地雖實皆修,而隨相增,地地修一。
十は十地に於て実は倶に修すると雖も、しかし相の増するに随って、地地に一を修す。
雖十地行有無量門,而皆攝在十到彼岸。
十地の行は無量門有ると雖も、しかし倶に十の到彼岸に収攝す。
十重障者:
十重障:
一、異生性障,謂二障中分別起者,依彼種立異生性故。
一、異生性障とは、いわゆる二障の中の分別起なり。彼の種に依って異生性を立つのゆえん。
二乘見道現在前時,唯斷一種,名得聖性;菩薩見道現在前時,具斷二種,名得聖性。
二乗の見道の前に現ずる時は、ただ一種を断じて、名づけて聖性を得と為す。菩薩の見道の前に現ずる時は、具に二種を断じて、名づけて聖性を得と為す。
二真見道現在前時,彼二障種必不成就,猶明與闇定不俱生,如秤兩頭低昂時等,諸相違法理必應然,是故二性無俱成失。
二の真見道の前に現ずる時は、かの二障種は必ず成就せず。猶ほ明と暗との定めて倶生せざるが如く、秤の両頭の低昂は時を同じくするが如し。諸々の相違法は理必ずまさに然るべし。ゆえに二性は倶成の過失無し。
無間道時已無惑種,何用復起解脫道為?
無間道の時に已に惑種無ければ、何の用にか更に解脱道を起こさん。
斷惑證滅,期心別故。
惑を断じて滅を証するは、心の分別に期するのゆえん。
為捨彼品麁重性故,無間道時雖無惑種,而未捨彼無堪任性,為捨此故,起解脫道,及證此品擇滅無為。
彼の品の麁重性を捨てんが為のゆえん。無間道の時は惑種無きと雖も、しかし未だかの堪任無き性を捨てず。これを捨てんが為のゆえんに解脱道を起こし、および此の品の択滅無為を証す。
雖見道生亦斷惡趣諸業果等,而今且說能起煩惱是根本故,由斯初地說斷二愚及彼麁重。
見道の生ずるもまた悪趣の諸業果等を断ずると雖も、しかし今且く能く煩悩を起こすを説く。是れ根本なるのゆえん。これに由って初地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。
一、執著我法愚,即是此中異生性障;二、惡趣雜染愚,即是惡趣諸業果等。應知愚品總說為愚,後准此釋。或彼唯說利、鈍障品俱起二愚。
一、我法を執著する愚とは、すなわちここの異生性障。二、悪趣の雑染愚とは、すなわち悪趣の諸業果等。まさに知るべし、愚品は総じて愚と説く。後にはこれに准じて釋す。あるいはそれらはただ利・鈍の障品の倶起する二愚を説く。
彼麁重言,顯彼二種,或二所起無堪任性,如入二定說斷苦根,所斷苦根雖非現、種而名麁重,此亦應然,後麁重言,例此應釋。
かの麁重の言はかの二種を顯す。あるいは二の起こす所の堪任無き性。二定に入りて苦根を断ずと説くが如く、断ずる所の苦根は現・種に非ざると雖も、しかし名づけて麁重という。これもまたまさに然るべし。後の麁重の言はこれに例してまさに釋すべし。
雖初地所斷實通二障,而異生性障意取所知,說十無明非染汙故;無明即是十障品愚。
初地の断ずる所は実は二障に通ずると雖も、しかし異生性障は意は所知を取る。十の無明は染汚に非ずと説くのゆえん。無明はすなわち十障品の愚なり。
二乘亦能斷煩惱障,彼是共故,非此所說。又十無明不染汙者,唯依十地修所斷說。
二乗もまた能く煩悩障を断ず。それらは是れ共なるのゆえんに、ここの説く所に非ず。また十の無明の染汚ならざるは、ただ十地の修の断ずる所に依って説く。
雖此位中亦伏煩惱、斷彼麁重,而非正意,不斷隨眠,故此不說。
この位の中にもまた煩悩を伏し、それらの麁重を断ずると雖も、しかし正意に非ず。随眠を断を断ぜざるを以って、ゆえにここに説かず。
理實初地修道位中,亦斷俱生、所知一分,然今且說最初斷者,後九地斷,准此應知。
理実は初地の修道位の中にもまた倶生・所知の一分を断ず。しかし今且く最初の断ずる所を説く。後の九地の断ずるはこれに准じてまさに知るべし。
住、滿地中時既淹久,理應進斷所應斷障,不爾三時道應無別,故說菩薩得現觀已,復於十地修道位中,唯修永滅所知障道,留煩惱障助願受生,非如二乘速趣圓寂,故修道位不斷煩惱,將成佛時方頓斷故。
住・満の地中の時はすでに淹久なれば、理まさに進んで断ずべき所の障を断ずべし。然らずんば三時の道はまさに分別無かるべし。ゆえに菩薩は現観を得已りて、また十地の修道位の中に於て、ただ永く所知障を滅する道を修して、煩悩障を留めて願を助けて生を受く。二乗の速やかに圓寂に趣くが如ならず。ゆえに修道位には煩悩を断ぜず。将に仏を成らんとする時に乃ち頓断するのゆえん。
二、邪行障,謂所知障中俱生一分及彼所起悞犯三業。
二、邪行障とは、いわゆる所知障の中の倶生の一分およびそれらの起こす所の誤犯の三業。
彼障二地極淨屍羅,入二地時便能永斷,由斯二地說斷二愚及彼麁重:一、微細悞犯愚,即是此中俱生一分;二、種種業趣愚,即彼所起悞犯三業,或唯起業、不了業愚。
それらは二地の極浄の尸羅を障る。二地に入る時に便ち能く永断す。これに由って二地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。一、微細誤犯愚とは、すなわちここの倶生の一分。二、種種業趣愚とは、すなわちそれらの起こす所の誤犯の三業、あるいはただ業を起こして業を了せざる愚。
三、闇鈍障,謂所知障中俱生一分,令所聞、思、修法忘失。
三、闇鈍障とは、いわゆる所知障の中の倶生の一分にて、聞・思・修する所の法を忘失せしむ。
彼障三地勝定、總持及彼所發殊勝三慧,入三地時便能永斷。
それらは三地の勝定・総持およびそれらの發する所の殊勝の三慧を障る。三地に入る時に便ち能く永断す。
由斯三地說斷二愚及彼麁重:一、欲貪愚,即是此中能障勝定及修慧者,彼昔多與欲貪俱故,名欲貪愚,今得勝定及修所成,彼既永斷,欲貪隨伏,此無始來依彼轉故。二、圓滿聞持陀羅尼愚,即是此中能障總持、聞、思慧者。
これに由って三地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。一、欲貪愚とは、すなわちここの能く勝定および修慧を障るなり。それらは昔多く欲貪と倶のゆえんに名づけて欲貪愚という。今勝定および修の成ずる所を得て、それらはすでに永断して、欲貪は随って伏す。これは無始より来り彼に依って転ずるのゆえん。二、圓滿聞持陀羅尼愚とは、すなわちここの能く総持・聞・思慧を障るなり。
四、微細煩惱現行障,謂所知障中俱生一分,第六識俱身見等攝,最下品故,不作意緣故,遠隨現行故,說名微細。
四、微細煩悩現行障とは、いわゆる所知障の中の倶生の一分にて、第六識に倶の身見等の摂する所にして、最下品なるのゆえん、作意して縁ぜざるのゆえん、遠く現行に随うのゆえんに、説いて名づけて微細という。
彼障四地菩提分法,入四地時便能永斷。
それらは四地の菩提分法を障る。四地に入る時に便ち能く永断す。
彼昔多與第六識中任運而生,執我見等同體起故,說煩惱名,今四地中既得無漏菩提分法,彼便永滅,此我見等亦永不行。
それらは昔多く第六識の中に任運に生じて、我見等を執して同体に起こるのゆえんに、煩悩の名を説く。今四地の中にすでに無漏の菩提分法を得れば、それらは便ち永滅して、この我見等もまた永く行ぜず。
初、二、三地行施、戒、修,相同世間,四地修得菩提分法方名出世,故能永害二身見等。
初・二・三の地は施・戒・修を行じて、世間と相同じ。四地は菩提分法を修得して乃ち名づけて出世という。ゆえに能く永く二の身見等を害す。
寧知此與第六識俱?
どうしてこれは第六識と倶なるを知る。
第七識俱執我見等,與無漏道性相違故,八地以去方永不行,七地已來猶得現起,與餘煩惱為依持故,此麁彼細,伏有前後,故此但與第六相應。
第七識に倶の執する我見等は、無漏道の性と相違するのゆえんに、八地に去るに乃ち永く行ぜず、七地已来は猶ほ現起を得。其余の煩悩と依持と為るのゆえん。此は麁く彼は細にして、伏するに前後有り。ゆえにこれはただ第六と相応す。
「身見等」言亦攝無始所知障攝定愛、法愛。彼定、法愛三地尚增;入四地時方能永斷,菩提分法特違彼故。
「身見等」の言はもまた無始の所知障の摂する所の定愛・法愛を収摂す。それらの定・法愛は三地に尚ほ増す。四地に入る時に乃ち能く永断す。菩提分法は殊にそれらに違するのゆえん。
由斯四地說斷二愚及彼麁重。一、等至愛愚,即是此中定愛俱者;二、法愛愚,即是此中法愛俱者。所知障攝二愚斷故,煩惱二愛亦永不行。
これに由って四地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。一、等至愛愚とは、すなわちここの定愛に倶の。二、法愛愚とは、すなわちここの法愛に倶の。所知障の摂する二愚を断ずるのゆえんに、煩悩の二愛もまた永く行ぜず。
五、於下乘般涅槃障,謂所知障中俱生一分,令厭生死樂趣涅槃,同下二乘厭苦欣滅。彼障五地無差別道,入五地時便能永斷。由斯五地說斷二愚及彼麁重:一、純作意背生死愚,即是此中厭生死者;二、純作意向涅槃愚,即是此中樂涅槃者。
五、下乗の般涅槃に於て障とは、いわゆる所知障の中の倶生の一分にて、生死を厭い涅槃を楽わしめて、下の二乗の苦を厭い滅を欣うに同じ。それらは五地の差別無き道を障る。五地に入る時に便ち能く永断す。これに由って五地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。一、純に作意して生死を背く愚とは、すなわちここの生死を厭うなり。二、純に作意して涅槃に向かう愚とは、すなわちここの涅槃を楽うなり。
六、麁相現行障,謂所知障中俱生一分,執有染、淨麁相現行,彼障六地無染、淨道,入六地時便能永斷。
六、麁相現行障とは、いわゆる所知障の中の倶生の一分にて、染・浄の麁相の現行有りを執す。それらは六地の染・浄無き道を障る。六地に入る時に便ち能く永断す。
由斯六地說斷二愚及彼麁重。一、現觀察行流轉愚,即是此中執有染者,諸行流轉染分攝故;二、相多現行愚,即是此中執有淨者。
これに由って六地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。一、現に諸行の流転を観察する愚とは、すなわちここの染有りを執するなり。諸行の流転は染分の摂する所なるのゆえん。二、相多く現行する愚とは、すなわちここの浄有りを執するなり。
取淨相故,相觀多行,未能多時住無相觀。
浄相を取るのゆえんに、相を観ずるに多く行じて、未だ多くの時に無相観に住すること能わず。
七、細相現行障,謂所知障中俱生一分,執有生滅細相現行,彼障七地妙無相道,入七地時便能永斷。
七、細相現行障とは、いわゆる所知障の中の倶生の一分にて、生滅の細相の現行有りを執す。それらは七地の妙なる無相道を障る。七地に入る時に便ち能く永断す。
由斯七地說斷二愚及彼麁重。一、細相現行愚,即是此中執有生者,猶取流轉細生相故;二、純作意求無相愚,即是此中執有滅者,尚取還滅細滅相故。
これに由って七地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。一、細相現行愚とは、すなわちここの生有りを執するなり。猶ほ流転の細生相を取るのゆえん。二、純に作意して無相を求むる愚とは、すなわちここの滅有りを執するなり。尚ほ還滅の細滅相を取るのゆえん。
純於無相作意勤求,未能空中起有勝行。
純に無相に於て作意して勤求して、未だ空の中に有の勝行を起こすこと能わず。
八、無相中作加行障,謂所知障中俱生一分,令無相觀不任運起。
八、無相の中に加行を作す障とは、いわゆる所知障の中の倶生の一分にて、無相観をして任運に起こらざらしむ。
前之五地,有相觀多,無相觀少;於第六地,有相觀少,無相觀多;第七地中純無相觀,雖恆相續而有加行,由無相中有加行故,未能任運現相及土,如是加行障八地中無功用道;故若得入第八地時便能永斷。彼永斷故,得二自在。
前の五地は有相観多くして無相観少し。第六地に於ては有相観少なくして無相観多し。第七地の中は純に無相観にして、恒に相続すると雖もしかし加行有り。無相の中に加行有るに由るのゆえんに、未だ任運に相および土を現ずること能わず。かくのごとき加行障は八地の中の無功用道を障る。ゆえにもし第八地に入るを得れば便ち能く永断す。それら永断するのゆえんに、二の自在を得。
由斯八地說斷二愚及彼麁重。一、於無相作功用愚;二、於相自在愚,令於相中不自在故,此亦攝土、相一分故。
これに由って八地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。一、無相に於て功用を作す愚。二、相に於て自在なる愚とは、相の中に於て自在ならざらしむるのゆえん。これはもまた土・相の一分を収摂するのゆえん。
八地以上純無漏道任運起故,三界煩惱永不現行,第七識中細所知障猶可現起,生空智果不違彼故。
八地已上は純に無漏道は任運に起こるのゆえんに、三界の煩悩は永く現行せず。第七識の中の細き所知障は猶ほ現起すべし。生空智の果はそれらに違せざるのゆえん。
九、利他中不欲行障,謂所知障中俱生一分,令於利樂有情事中,不欲勤行,樂修己利。
九、利他の中に行ぜんことを欲せざる障とは、いわゆる所知障の中の倶生の一分にて、有情を利樂する事に於て、勤めて行ぜんことを欲せずして、己の利を修するを楽わしむ。
彼障九地四無閡解,入九地時便能永斷。
それらは九地の四無礙解を障る。九地に入る時に便ち能く永断す。
由斯九地說斷二愚及彼麁重。
これに由って九地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。
一、於無量所說法、無量名句字、後後慧辯陀羅尼自在愚。
一、無量の説く所の法・無量の名句字・後後の慧辯の陀羅尼の自在に於て愚。
於無量所說法陀羅尼自在者,謂義無閡解,即於所詮總持自在,於一義中現一切義故;於無量名句字陀羅尼自在者,謂法無閡解,即於能詮總持自在,於一名句字中現一切名句字故;於後後慧辯陀羅尼自在者,謂詞無閡解,即於言音展轉訓釋總持自在,於一音聲中現一切音聲故。
無量の説く所の法の陀羅尼の自在に於てとは、いわゆる義無礙解にて、すなわち詮する所に於て総持自在なり。一義の中に一切義を現ずるのゆえん。無量の名句字の陀羅尼の自在に於てとは、いわゆる法無礙解にて、すなわち能く詮するに於て総持自在なり。一名句字の中に一切名句字を現ずるのゆえん。後後の慧辯の陀羅尼の自在に於てとは、いわゆる詞無礙解にて、すなわち言音の展転の訓釋に於て総持自在なり。一音声の中に一切音声を現ずるのゆえん。
二、辯才自在愚,辯才自在者,謂辯無閡解,善達機宜巧為說故。
二、辯才自在愚とは、辯才自在とはいわゆる辯無礙解にて、善く機宜を達して巧みに説を為すのゆえん。
愚能障此四種自在,皆是此中第九障攝。
愚は能くこの四種の自在を障る。倶に是れここの第九障の摂する所なり。
十、於諸法中未得自在障,謂所知障中俱生一分,令於諸法不得自在。
十、諸法の中に於て未だ自在を得ざる障とは、いわゆる所知障の中の倶生の一分にて、諸法に於て自在を得ざらしむ。
彼障十地大法智雲及所含藏、所起事業。
それらは十地の大法智雲および含蔵する所・起こす所の事業を障る。
入十地時便能永斷。由斯十地說斷二愚及彼麁重。一、大神通愚,即是此中障所起事業者;二、悟入微細秘密愚,即是此中障大法智雲及所含藏者。
十地に入る時に便ち能く永断す。これに由って十地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。一、大神通愚とは、すなわちここの起こす所の事業を障るなり。二、微細の秘密に悟入する愚とは、すなわちここの大法智雲および含蔵する所を障るなり。
此地於法雖得自在,而有餘障,未名最極。
この地は法に於て自在を得ると雖も、しかし余障有りて、未だ最極と名づけず。
謂有俱生微所知障,及有任運煩惱障種,金剛喻定現在前時,彼皆頓斷,入如來地。
いわゆる倶生の微き所知障有り、および任運の煩悩障種有りて、金剛喩定の前に現ずる時に、それらは倶に頓断して、如来地に入る。
由斯佛地說斷二愚及彼麁重:一、於一切所知境極微細著愚,即是此中微所知障;二、極微細礙愚,即是此中一切任運煩惱障種。
これに由って仏地に二愚およびそれらの麁重を断ずと説く。一、一切の所知境に於て極微細なる著の愚とは、すなわちここの微き所知障。二、極微細なる礙の愚とは、すなわちここの一切の任運の煩悩障種。
故《集論》說:得菩提時頓斷煩惱及所知障,成阿羅漢及成如來,證大涅槃、大菩提故。
ゆえに《集論》に説く:菩提を得る時に煩悩および所知障を頓断して、阿羅漢を成じおよび如来を成ず。大涅槃・大菩提を証するのゆえん。
成唯識論巻第九
成唯識論巻第十
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
此十一障,二障所攝。
この十一障は二障の摂する所なり。
煩惱障中見所斷種,於極喜地見道初斷。彼障現起,地前已伏。
煩悩障の中の見の断ずる所の種は、極喜地の見道に於て初めて断ず。それらの障の現起は地前に已に伏す。
修所斷種,金剛喻定現在前時,一切頓斷。彼障現起,地前漸伏,初地以上,能頓伏盡,令永不行,如阿羅漢。由故意力,前七地中雖暫現起,而不為失。八地以上,畢竟不行。
修の断ずる所の種は、金剛喩定の前に現ずる時に一切頓断す。それらの障の現起は地前に漸伏して、初地已上は能く頓に伏尽して、永く行ぜざらしむ。阿羅漢の如し。故意力に由って前の七地の中に暫く現起すと雖も、しかし失と為らず。八地已上は畢竟に行ぜず。
所知障中見所斷種,於極喜地見道初斷。彼障現起,地前已伏。
所知障の中の見の断ずる所の種は、極喜地の見道に於て初めて断ず。それらの障の現起は地前に已に伏す。
修所斷種,於十地中,漸次斷滅;金剛喻定現在前時,方永斷盡。彼障現起,地前漸伏;乃至十地,方永伏盡。
修の断ずる所の種は、十地の中に於て漸次に断滅し、金剛喩定の前に現ずる時に乃ち永く断尽す。それらの障の現起は地前に漸伏して、乃至十地に乃ち永く伏尽す。
八地以上,六識俱者,不復現行,無漏觀心,及果相續,能違彼故;第七俱者,猶可現行,法空智果起位方伏。
八地已上は六識に倶のは復た現行せず。無漏の観心および果の相続は能くそれらに違するのゆえん。第七に倶のは猶ほ現行すべし。法空智の果の起こる位に乃ち伏す。
前五轉識,設未轉依,無漏伏故,障不現起。
前五の転識は設し未だ転依せざるも、無漏の伏する所なるのゆえんに、障は現起せず。
雖於修道十地位中,皆不斷滅煩惱障種,而彼麁重,亦漸斷滅,由斯故說二障麁重,一一皆有三位斷義。
修道の十地位の中に於て倶に煩悩障種を断滅せざると雖も、しかしそれらの麁重もまた漸々断滅す。これに由ってゆえに二障の麁重は一一に倶に三位の断義有りと説く。
雖諸位中,皆斷麁重,而三位顯,是故偏說。
諸位の中に倶に麁重を断ずると雖も、しかし三位は顯なり。ゆえに偏りて説く。
斷二障種,漸、頓云何?
二障種を断ずるに漸・頓はいかん。
第七識俱煩惱障種,三乘將得,無學果時,一剎那中,三界頓斷。所知障種,將成佛時,一剎那中,一切頓斷,任運內起,無麁細故。
第七識に倶の煩悩障種は、三乗の将に無学果を得んとする時に、一刹那の中に三界頓断す。所知障種は将に仏を成らんとする時に、一刹那の中に一切頓断す。任運に内に起こりて麁細無きのゆえん。
餘六識俱煩惱障種,見所斷者,三乘見位真見道中,一切頓斷;修所斷者,隨其所應:一類二乘,三界九地,一一漸次,九品別斷;一類二乘,三界九地,合為一聚,九品別斷;菩薩要起金剛喻定,一剎那中,三界頓斷。
其余の六識に倶の煩悩障種の見の断ずる所は、三乗の見位の真見道の中に一切頓断す。修の断ずる所はその応ずる所に随う。一類の二乗は三界九地を一一に漸次に九品に別断す。一類の二乗は三界九地を合して一聚と為し、九品に別断す。菩薩は要して金剛喩定を起こして、一刹那の中に三界頓断す。
所知障種,初地初心,頓斷一切見所斷者。修所斷者,後於十地修道位中,漸次而斷,乃至正起金剛喻定,一剎那中方皆斷盡。通緣內外麁細境生,品類差別有眾多故。
所知障種は初地の初心に一切の見の断ずる所を頓断す。修の断ずる所は後に十地の修道位の中に漸次に断じて、乃至正しく金剛喩定を起こして、一刹那の中に乃ち倶に断尽す。内外の麁細の境を通縁して生ず。品類の差別に众多有るのゆえん。
二乘根鈍,漸斷障時,必各別起無間、解脫;加行、勝進,或別或總。
二乗は根鈍くして、漸く障を断ずる時は、必ず各別に無間・解脱を起こす。加行・勝進はあるいは別あるいは総なり。
菩薩利根,漸斷障位,非要別起無間、解脫,剎那剎那能斷證故。加行等四,剎那剎那前後相望,皆容具有。
菩薩は利根にして、漸く障を断ずる位は、別に無間・解脱を起こすことを要せず。刹那・刹那に能く断証するのゆえん。加行等の四は刹那・刹那の前後の相望みて倶に具有を容す。
十真如者:
十真如:
一、遍行真如:謂此真如二空所顯,無有一法而不在故。
一、遍行真如とは、いわゆるこの真如は二空の顯す所にて、一法有りて在らざる無きのゆえん。
二、最勝真如:謂此真如具無邊德,於一切法最為勝故。
二、最勝真如とは、いわゆるこの真如は無辺の徳を具えて、一切法に於て最も勝れるのゆえん。
三、勝流真如:謂此真如所流教法,於餘教法極為勝故。
三、勝流真如とは、いわゆるこの真如の流る所の教法は、其余の教法に於て極めて勝れるのゆえん。
四、無攝受真如:謂此真如無所繫屬,非我執等所依取故。
四、無摂受真如とは、いわゆるこの真如は繫属する所無くして、我執等の依りて取る所に非ざるのゆえん。
五、類無別真如:謂此真如類無差別,非如眼等類有異故。
五、類無別真如とは、いわゆるこの真如は類は差別無くして、眼等の類の異有るに非ざるが如きのゆえん。
六、無染淨真如:謂此真如本性無染,亦不可說後方淨故。
六、無染浄真如とは、いわゆるこの真如は本性は染無くして、もまた後に浄なりと説くべからざるのゆえん。
七、法無別真如:謂此真如雖多教法,種種安立而無異故。
七、法無別真如とは、いわゆるこの真如は多くの教法・種種の安立有ると雖も、しかし異無きのゆえん。
八、不增減真如:謂此真如離增減執,不隨淨染有增減故。即此亦名相土自在所依真如,謂若證得此真如已,現相、現土俱自在故。
八、不増減真如とは、いわゆるこの真如は増減の執を離れて、浄染に随って増減有らざるのゆえん。すなわちこれはもまた名づけて相土自在の所依の真如という。いわゆるもしこの真如を証得し已らば、相を現じ土を現ずるも倶に自在なるのゆえん。
九、智自在所依真如:謂若證得此真如已,於無礙解得自在故。
九、智自在の所依の真如とは、いわゆるもしこの真如を証得し已らば、無礙解に於て自在を得るのゆえん。
十、業自在等所依真如:謂若證得此真如已,普於一切神通作業、總持定門皆自在故。
十、業自在等の所依の真如とは、いわゆるもしこの真如を証得し已らば、普く一切の神通作業・総持の定門に於て倶に自在なるのゆえん。
雖真如性實無差別,而隨勝德假立十種。
真如性は実に差別無きと雖も、しかし勝徳に随って假に十種を立つ。
雖初地中已達一切,而能證行,猶未圓滿,為令圓滿,後後建立。
初地の中に已に一切を達するも、能証の行は猶ほ未だ圓滿せず。圓滿せしめんが為に後後に建立す。
如是菩薩於十地中,勇猛修行十種勝行,斷十重障,證十真如,於二轉依便能證得。
かくのごとき菩薩は十地の中に於て、勇猛にして十種の勝行を修行して、十重障を断じ、十真如を証して、二の転依に於て便ち能く証得す。
轉依位別,略有六種。
転依の位の別は略して六種有り。
一、損力益能轉:謂初、二位,由習勝解及慚、愧故,損本識中染種勢力,益本識內淨種功能,雖未斷障種,實證轉依,而漸伏現行,亦名為轉。
一、損力益能転とは、いわゆる初・二の位にて、勝解および慚・愧を習するに由るのゆえんに、本識の中の染種の勢力を損し、本識の内の浄種の功能を益す。未だ障種を断ぜず実に転依を証せざると雖も、しかし漸々現行を伏すれば、もまた名づけて転という。
二、通達轉:謂通達位,由見道力,通達真如,斷分別生二障麁重,證得一分真實轉依。
二、通達転とは、いわゆる通達位にて、見道力に由って真如を通達して、分別生の二障の麁重を断じて、一分の真実の転依を証得す。
三、修習轉:謂修習位,由數修習十地行故,漸斷俱生二障麁重,漸次證得真實轉依。《攝大乘》中說通達轉在前六地。有無相觀,通達真、俗間雜現前,令真、非真現、不現故。說修習轉在後四地。純無相觀長時現前,勇猛修習,斷餘麁重,多令非真不顯現故。
三、修習転とは、いわゆる修習位にて、数々十地の行を修習するに由るのゆえんに、漸く倶生の二障の麁重を断じて、漸次に真実の転依を証得す。《摂大乗》の中に通達転は前の六地に在りと説く。無相観有りて、真・俗を通達して間雑して現前せしめて、真・非真をして現・不現せしむるのゆえん。修習転は後の四地に在りと説く。純に無相観は長時現前して、勇猛に修習して余の麁重を断じて、多く非真をして顯現せざらしむるのゆえん。
四、果圓滿轉:謂究竟位,由三大劫阿僧企耶,修集無邊難行勝行,金剛喻定現在前時,永斷本來一切麁重,頓證佛果圓滿轉依,窮未來際利樂無盡。
四、果圓滿転とは、いわゆる究竟位にて、三大劫阿僧企耶(无数の時)に無辺の難行の勝行を修集して、金剛喩定の前に現ずる時に、本来の一切の麁重を永断して、頓に仏果の圓滿の転依を証して、未来際を窮めて利樂尽きること無し。
五、下劣轉:謂二乘位,專求自利,厭苦、欣寂,唯能通達生空真如,斷煩惱種,證真擇滅,無勝堪能,名下劣轉。
五、下劣転とは、いわゆる二乗位にて、専ら自利を求め、苦を厭い寂を欣い、ただ能く生空真如を通達し、煩悩種を断じ、真の択滅を証すのみ。勝の堪能無し。名づけて下劣転という。
六、廣大轉:謂大乘位,為利他故,趣大菩提。生死涅槃俱無欣、厭,具能通達二空真如,雙斷所知、煩惱障種,頓證無上菩提、涅槃。有勝堪能,名廣大轉。
六、広大転とは、いわゆる大乗位にて、他を利するが為のゆえんに大菩提に趣く。生死・涅槃は倶に欣・厭無くして、具に二空真如を通達する能くして、所知・煩悩の障種を双断して、頓に無上の菩提・涅槃を証す。勝の堪能有り。名づけて広大転という。
此中意說廣大轉依,捨二麁重而證得故。
ここに意は広大の転依を説く。二の麁重を捨てて証得するのゆえん。
轉依義別,略有四種:
転依の義の別は略して四種有り。
一、能轉道,此復有二:一、能伏道,謂伏二障隨眠勢力,令不引起二障現行,此通有漏、無漏二道,加行、根本、後得三智,隨其所應,漸頓伏彼。
一、能転道。これにまた二有り。一、能伏道とは、いわゆる二障の随眠の勢力を伏して、二障の現行を引起さざらしむ。これは有漏・無漏の二道・加行・根本・後得の三智に通じて、その応ずる所に随って漸頓にそれらを伏す。
二、能斷道,謂能永斷二障隨眠。此道定非有漏加行,有漏曾習、相執所引,未泯相故;加行趣求所證、所引,未成辦故。
二、能断道とは、いわゆる能く永く二障の随眠を断ず。この道は定めて有漏の加行に非ず。有漏の曽習・相執の引く所にして、未だ相を泯せざるのゆえん。加行は証する所・引く所を趣求して、未だ成辦せざるのゆえん。
有義:根本無分別智,親證二空所顯真理,無境相故,能斷隨眠;後得不然,故非斷道。
一義有り:根本の無分別智は親しく二空の顯す所の真理を証して、境の相無きのゆえんに、能く随眠を断ず。後得はこの如ならず。ゆえに断道に非ず。
有義:後得無分別智,雖不親證二空真理,無力能斷迷理隨眠,而於安立、非安立相,明瞭現前,無倒證故,亦能永斷迷事隨眠。
一義有り:後得の無分別智は親しく二空の真理を証せざると雖も、理に迷う随眠を断ずる力無きと雖も、しかし安立・非安立の相に対して明了現前して、倒れずして証するのゆえんに、もまた能く永く事に迷う随眠を断ず。
故《瑜伽》說:修道位中,有出世斷道;世、出世斷道。無純世間道,能永害隨眠。是曾習故,相執引故。
ゆえに《瑜伽》に説く:修道位の中に出世の断道有り。世・出世の断道有り。純の世間道は能く永く随眠を害すること無し。是れ曽習なるのゆえん、相執の引くのゆえん。
由斯理趣,諸見所斷,及修所斷,迷理隨眠,唯有根本無分別智,親證理故,能正斷彼;餘修所斷迷事隨眠,根本、後得俱能正斷。
この理趣に由って、諸々の見の断ずる所および修の断ずる所の理に迷う随眠は、ただ根本の無分別智のみ親しく理を証するのゆえんに、能く正しくそれらを断ず。其余の修の断ずる所の事に迷う随眠は、根本・後得は倶に能く正しく断ず。
二、所轉依,此復有二:一、持種依,謂本識。由此能持染、淨法種,與染、淨法俱為所依,聖道轉令捨染得淨;餘依他起性,雖亦是依,而不能持種,故此不說。
二、所転依。これにまた二有り。一、持種依とはいわゆる本識。これに由って能く染・浄法の種を持して、染・浄法と倶に所依と為りて、聖道は転じて染を捨て浄を得しむ。其余の依他起性はもまた依なると雖も、しかし能く種を持せず。ゆえにここに説かず。
二、迷悟依,謂真如。由此能作迷、悟根本,諸染、淨法依之得生,聖道轉令捨染得淨。餘雖亦作迷悟法依,而非根本,故此不說。
二、迷悟依とは、いわゆる真如。これに由って能く迷・悟の根本を作して、諸々の染・浄法はこれに依って生ずるを得て、聖道は転じて染を捨て浄を得しむ。其余はもまた迷悟の法の依を作すと雖も、しかし根本に非ず。ゆえにここに説かず。
三、所轉捨,此復有二:一、所斷捨,謂二障種。真無間道現在前時,障、治相違,彼便斷滅,永不成就,說之為捨。彼種斷故,不復現行妄執我、法。
三、所転捨。これにまた二有り。一、所断捨とはいわゆる二障種。真の無間道の前に現ずる時に、障・治は相違して、それらは便ち断滅して、永く成就せず。それを説いて捨と為す。かの種を断ずるのゆえんに、復た妄執の我・法を現行せず。
所執我、法,不對妄情,亦說為捨。由此名捨遍計所執。
執する所の我・法は妄情に対せざれば、もまた説いて捨と為す。これに由って名づけて遍計所執を捨つるという。
二、所棄捨,謂餘有漏、劣無漏種。金剛喻定現在前時,引極圓、明純淨本識,非彼依故,皆永棄捨。
二、所棄捨とは、いわゆる其余の有漏・劣無漏の種。金剛喩定の前に現ずる時に、極めて圓・明の純浄の本識を引く。それらの依に非ざるのゆえんに、倶に永く棄捨す。
彼種捨已,現有漏法及劣無漏,畢竟不生;既永不生,亦說為捨。由此名捨生死劣法。
かの種を捨て已って、現の有漏法および劣無漏は畢竟に生ぜず。すでに永く生ぜざれば、もまた説いて捨と為す。これに由って名づけて生死の劣法を捨つるという。
有義:所餘有漏法種及劣無漏,金剛喻定現在前時,皆已棄捨,與二障種俱時捨故。
一義有り:余る所の有漏法の種および劣無漏は、金剛喩定の前に現ずる時に、倶に已に棄捨す。二障種と時を倶にして捨てるのゆえん。
有義:爾時猶未捨彼,與無間道不相違故。菩薩應無生死法故;此位應無所燻識故,住無間道應名佛故;後解脫道應無用故。
一義有り:かの時は猶ほ未だそれらを捨てず。無間道と相違せざるのゆえん。菩薩はまさに生死法無かるべきのゆえん。この位はまさに薫ずる所の識無かるべきのゆえん。無間道に住してまさに名づけて仏というべきのゆえん。後の解脱道はまさに用無かるべきのゆえん。
由此應知,餘有漏等,解脫道起,方棄捨之。第八淨識,非彼依故。
これに由ってまさに知るべし、其余の有漏等は解脱道の起こりて乃ちそれを棄捨す。第八の浄識はそれらの依に非ざるのゆえん。
四、所轉得,此復有二:
四、所転得。これにまた二有り。
一、所顯得,謂大涅槃。此雖本來自性清淨,而由客障覆令不顯。真聖道生,斷彼障故,令其相顯名得涅槃。此依真如離障施設,故體即是清淨法界。
一、所顯得とはいわゆる大涅槃。これは本来自性は清浄なると雖も、しかし客障の覆して顯ならざらしむるに由る。真の聖道生じて、彼の障を断ずるのゆえんに、その相をして顯ならしめて名づけて涅槃を得という。これは真如の障を離るるに依って施設す。ゆえに体はすなわち清浄法界なり。
涅槃義別,略有四種:
涅槃の義の別は略して四種有り。
一、本來自性清淨涅槃,謂一切法相真如理,雖有客染而本性淨,具無數量微妙功德,無生無滅,湛若虛空,一切有情平等共有,與一切法不一不異。離一切相、一切分別,尋思路絕,名言道斷,唯真聖者自內所證,其性本寂,故名涅槃。
一、本來自性清浄涅槃とは、いわゆる一切法の相の真如理は、客染有ると雖もしかし本性は浄にして、数量無き微妙の功徳を具え、生無く滅無く、湛然として虚空の若く、一切有情は平等に倶に有して、一切法と一に非ず異に非ず。一切相・一切分別を離れて、尋思の路絶え、名言の道断えて、唯だ真の聖者の自内の証する所にして、その性は本寂なり。ゆえに名づけて涅槃という。
二、有餘依涅槃,謂即真如出煩惱障,雖有微苦所依未滅,而障永寂,故名涅槃。
二、有余依涅槃とは、いわゆるすなわち真如は煩悩障を出でたり。微苦の依る所未だ滅せざる有ると雖も、しかし障は永寂す。ゆえに名づけて涅槃という。
三、無餘依涅槃,謂即真如出生死苦,煩惱既盡,餘依亦滅,眾苦永寂,故名涅槃。
三、無余依涅槃とは、いわゆるすなわち真如は生死苦を出でたり。煩悩すでに尽きて余依もまた滅し、衆苦は永寂す。ゆえに名づけて涅槃という。
四、無住處涅槃,謂即真如出所知障,大悲般若常所輔翼。由斯不住生死涅槃,利樂有情,窮未來際,用而常寂,故名涅槃。
四、無住處涅槃とは、いわゆるすなわち真如は所知障を出でたり。大悲・般若は常に輔翼する所なり。これに由って生死・涅槃に住せずして、有情を利樂して、未来際を窮めて、用いて常に寂なり。ゆえに名づけて涅槃という。
一切有情,皆有初一,二乘無學,容有前三,唯我世尊可言具四。
一切有情は倶に初の一有り。二乗の無学は前三を有るを容す。ただ我が世尊のみ具に四有りと説くべし。
如何善逝有有餘依?雖無實依,而現似有;或苦依盡,說無餘依,非苦依在,說有餘依。是故世尊可言具四。
どうして善逝は有余依有る。実の依無きと雖も、しかし有に似て現ず。あるいは苦依の尽きるを説いて無余依と為す。苦依の在るを説いて有余依と為すに非ず。ゆえに世尊は具に四有りと説くべし。
若聲聞等有無餘依,如何有處說彼非有?
もし声聞等は無余依有れば、どうして処有りてそれらは有に非ずと説く。
有處說彼都無涅槃,豈有餘依彼亦非有?
処有りてそれらは倶に涅槃無しと説く。あに有余依はそれらにもまた有に非ずや。
然聲聞等身、智在時,有所知障,苦依未盡,圓寂義隱,說無涅槃;非彼實無煩惱障盡所顯真理有餘涅槃,爾時未證無餘圓寂,故亦說彼無無餘依;非彼後時滅身、智已,無苦依盡無餘涅槃。或說二乘無涅槃者,依無住處,不依前三。
しかし声聞等の身・智の在る時は所知障有りて、苦依未だ尽きず、圓寂の義隱れて、涅槃無しと説く。それらは実に煩悩障尽きたるの顯す真理の有余涅槃無きに非ず。かの時未だ無余の圓寂を証せず。ゆえにもまたそれらは無余依無しと説く。それらの後の時に身・智を滅し已って苦依尽きたる無余涅槃無きに非ず。あるいは二乗は涅槃無しと説くは無住處に依る。前三に依らず。
又說彼無無餘依者,依不定性二乘而說,彼才證得有餘涅槃,決定迴心求無上覺,由定願力留身久住,非如一類入無餘依。謂有二乘深樂圓寂,得生空觀親證真如,永滅感生煩惱障盡,顯依真理有餘涅槃,彼能感生煩惱盡故,後有異熟無由更生,現苦所依任運滅位。餘有為法既無所依,與彼苦依同時頓捨,顯依真理無餘涅槃,爾時雖無二乘身智,而由彼證可說彼有。此位唯有清淨真如,離相湛然寂滅安樂,依斯說彼與佛無差,但無菩提利樂他業,故復說彼與佛有異。
またそれらは無余依無しと説くは、是れ不定性の二乗に依って説く。それらは纔めて有余涅槃を証得して、決定して心を回して無上の覚を求めて、定願力に由って身を留めて久しく住す。一類の無余依に入るに非ざるが如し。いわゆる二乗有りて深く圓寂を樂しみ、生空観を得て親しく真如を証して、永く能く生を感ずる煩悩障を滅し尽くして、真理に依る有余涅槃を顯す。それらの能く生を感ずる煩悩尽きたるのゆえんに、後有の異熟は更に生ずる由無し。現の苦の依る所の任運に滅する位。其余の有為法はすでに依る所無くして、かの苦依と時を同じくして頓捨して、真理に依る無余涅槃を顯す。かの時は二乗の身智無きと雖も、しかしそれらの証する所に由ってそれらは有りと説くべし。この位はただ清浄の真如のみ有りて、相を離れて湛然として寂滅安楽なり。これに依ってそれらは仏と差無しと説く。ただ菩提の他を利樂する業無きのみ。ゆえにもまたそれらは仏と異有りと説く。
諸所知障,既不感生,如何斷彼,得無住處?彼能隱覆法空真如,令不發生大悲般若,窮未來際,利樂有情。故斷彼時顯法空理,此理即是無住涅槃,令於二邊,俱不住故。
諸々の所知障はすでに生を感ぜざれば、どうしてそれらを断じて無住處を得る。それらは能く法空真如を隱覆して、大悲般若を發生せざらしめて、未来際を窮めて有情を利樂す。ゆえにそれらを断ずる時に法空の理を顯す。此の理はすなわち無住涅槃にして、二辺に於て倶に住せざらしむるのゆえん。
若所知障,亦障涅槃,如何斷彼,不得擇滅?
もし所知障もまた涅槃を障れば、どうしてそれらを断じて択滅を得ざる。
擇滅離縛,彼非縛故。
択滅は縛を離る。それらは縛に非ざるのゆえん。
既爾,斷彼寧得涅槃?
すでにこの然り、それらを断じてどうして涅槃を得る。
非諸涅槃皆擇滅攝。不爾,性淨應非涅槃。能縛有情住生死者,斷此說得擇滅無為。諸所知障不感生死,非如煩惱能縛有情,故斷彼時不得擇滅;然斷彼故,法空理顯,此理相寂,說為涅槃,非此涅槃擇滅為性。故四圓寂諸無為中,初、後即真如,中二擇滅攝。
諸々の涅槃は倶に択滅の摂する所に属するに非ず。然らずんば性浄はまさに涅槃に非ざるべし。能く有情を縛して生死に住せしむるは、このを断じて択滅無為を得と説く。諸所知障は生死を感ぜず。煩悩の能く有情を縛するに非ざるが如し。ゆえにそれらを断ずる時に択滅を得ず。しかしそれらを断ずるのゆえんに、法空の理顯なり。此の理は相寂にして、説いて涅槃と為す。この涅槃は択滅を以って性と為すに非ず。ゆえに四の圓寂の諸無為の中に、初・後はすなわち真如、中の二は択滅の摂する所に属す。
若唯斷縛得擇滅者,不動等二,四中誰攝?
もしただ縛を断じて択滅を得れば、不動等の二は四中の誰の摂する所か。
非擇滅攝,說暫離故;擇滅無為,唯究竟滅。有非擇滅,非永滅故。
択滅の摂する所に非ず。暫く離ると説くのゆえん。択滅無為はただ究竟の滅。非択滅有りて、永滅に非ざるのゆえん。
或無住處亦擇滅攝,由真擇力,滅障得故。擇滅有二:一、滅縛得,謂斷感生煩惱得者;二、滅障得,謂斷餘障而證得者。故四圓寂諸無為中,初一即真如,後三皆擇滅,不動等二,暫伏滅者,非擇滅攝;究竟滅者,擇滅所攝。
あるいは無住處もまた択滅の摂する所に属す。真の択力に由って障を滅して得るのゆえん。択滅は二有り。一、滅縛の得とは、いわゆる生を感ずる煩悩を断じて得るなり。二、滅障の得とは、いわゆる其余の障を断じて証得するなり。ゆえに四の圓寂の諸無為の中に、初の一はすなわち真如、後の三は倶に択滅なり。不動等の二は暫伏の滅は択滅の摂する所に非ず。究竟の滅は択滅の摂する所なり。
既所知障亦障涅槃,如何但說是菩提障?說煩惱障但障涅槃,豈彼不能為菩提障?應知聖教依勝用說,理實俱能通障二果。
すでに所知障もまた涅槃を障れば、どうしてただ是れ菩提の障と説く。煩悩障はただ涅槃を障ると説くは、あにそれらは能く菩提の障と為らざらんや。まさに知るべし、聖教は勝用に依って説く。理実は倶に能く二果に通じて障る。
如是所說四涅槃中,唯後三種,名所顯得。
かくのごとき説く所の四涅槃の中に、ただ後の三種のみ、名づけて所顯得という。
二、所生得,謂大菩提。此雖本來有能生種,而所知障礙故不生;由聖道力,斷彼障故,令從種起,名得菩提。起已相續,窮未來際。此即四智相應心品。
二、所生得とはいわゆる大菩提。これは本来に能く生ずる種有ると雖も、しかし所知障の礙するのゆえんに生ぜず。聖道力に由って、彼の障を断ずるのゆえんに、種に従って起こらしめて、名づけて菩提を得という。起こり已って相続して、未来際を窮む。これすなわち四智相応の心品なり。
云何四智相應心品?
何をか四智相応の心品と謂う。
一、大圓鏡智相應心品:謂此心品,離諸分別,所緣、行相,微細難知,不忘不愚,一切境相,性相清淨,離諸雜染,純淨圓德,現種依持,能現、能生身、土智影,無間無斷,窮未來際,如大圓鏡,現眾色像。
一、大圓鏡智相応心品とは、いわゆる此の心品は諸々の分別を離れて、縁ずる所・行相は微細にして知り難く、忘れず愚ならず、一切の境相に於て性相清浄にして、諸々の雑染を離れて、純浄の圓徳にして、現・種の依持にして、能く身・土の智影を現じ生じて、無間無断にして、未来際を窮めて、大圓鏡の衆色の像を現ずるが如し。
二、平等性智相應心品:謂此心品,觀一切法,自、他有情,悉皆平等。大慈悲等,恆共相應,隨諸有情所樂,示現受用身、土,影像差別。妙觀察智不共所依,無住涅槃之所建立,一味相續,窮未來際。
二、平等性智相応心品とは、いわゆる此の心品は一切法・自・他の有情を観じて、悉く皆平等なり。大慈悲等は恒に共に相応して、諸有情の樂む所に随って、受用身・土・影像の差別を示現す。妙観察智の共ならざる所依にして、無住涅槃の建立する所にして、一味相続して、未来際を窮む。
三、妙觀察智相應心品:謂此心品,善觀諸法自相、共相,無礙而轉。攝觀無量總持定門,及所發生功德珍寶。於大眾會,能現無邊作用差別,皆得自在,雨大法雨,斷一切疑,令諸有情皆獲利樂。
三、妙観察智相応心品とは、いわゆる此の心品は善く諸法の自相・共相を観じて、無礙にして転ず。無量の総持定門を摂観し、および發生する所の功徳の珍寶を。大衆会に於て能く無辺の作用差別を現じて、倶に自在を得て、大法雨を雨らして、一切の疑を断じて、諸有情をして皆利樂を獲らしむ。
四、成所作智相應心品:謂此心品,為欲利樂諸有情故,普於十方,示現種種變化三業,成本願力所應作事。
四、成所作智相応心品とは、いわゆる此の心品は要して諸有情を利樂せんが為のゆえんに、普く十方に於て種種の變化の三業を示現して、本願力の作すべき所の事を成ず。
如是四智相應心品,雖各定有二十二法,能變、所變種現俱生,而智用增,以智名顯。
かくのごとき四智相応心品は、各々定めて二十二法有ると雖も、能変・所変の種・現は倶に生ず。しかし智の用増すれば、智の名を以って顯す。
故此四品,總攝佛地一切有為功德皆盡。
ゆえにこの四品は、総じて仏地の一切有為の功徳を摂して皆尽くす。
此轉有漏八、七、六、五識相應品,如次而得。智雖非識,而依識轉,識為主故,說轉識得。又有漏位智劣識強,無漏位中,智強識劣。為勸有情依智捨識,故說轉八識而得此四智。
これは有漏の八・七・六・五の識の相応品を転じて、この次第に按して得る。智は識に非ざると雖も、しかし識に依って転ず。識は主と為るのゆえんに、識を転じて得と説く。また有漏位は智劣りて識強し。無漏位の中は智強くして識劣る。有情を勧めて智に依りて識を捨てしめんが為に、ゆえに八識を転じてこの四智を得と説く。
大圓鏡智相應心品,有義:菩薩金剛喻定現在前時,即初現起,異熟識種與極微細所知障種,俱時捨故;若圓鏡智爾時未起,便無能持淨種識故。
大圓鏡智相応心品は、一義有り:菩薩の金剛喩定の前に現ずる時に、すなわち初めて現起す。異熟識種と極微細の所知障種とは倶の時に捨てるのゆえん。もし圓鏡智はかの時未だ起こらざれば、便ち能く浄種識を持する無きのゆえん。
有義:此品解脫道時,初成佛故,乃得初起;異熟識種,金剛喻定現在前時,猶未頓捨,與無間道不相違故。
一義有り:此の品は解脱道の時に初めて仏を成ずるのゆえんに、乃ち初めて起こるを得。異熟識種は金剛喩定の前に現ずる時に猶ほ未だ頓捨せず。無間道と相違せざるのゆえん。
非障有漏、劣無漏法,但與佛果定相違故;金剛喻定無所燻識,無漏不增,應成佛故。由斯此品,從初成佛,盡未來際,相續不斷,持無漏種令不失故。
有漏・劣無漏の法を障らざるに非ず。ただ仏果と定めて相違するのゆえん。金剛喩定は薫ずる所の識無くして、無漏は増せず。まさに仏を成ずべきのゆえん。これに由って此の品は初めて仏を成ずるより、未来際を尽くして、相続断えず。無漏種を持して失わざらしむるのゆえん。
平等性智相應心品,菩薩見道初現前位,違二執故,方得初起。後十地中,執未斷故,有漏等位,或有間斷;法雲地後,與淨第八,相依相續,盡未來際。
平等性智相応心品は、菩薩の見道の初の現前位に、二執に違するのゆえんに、乃ち初めて起こるを得。後の十地の中は執未だ断ぜざるのゆえんに、有漏等の位はあるいは間断有り。法雲地の後は、浄の第八と相依りて相続して、未来際を尽くす。
妙觀察智相應心品,生空觀品,二乘見位,亦得初起。此後展轉至無學位,或至菩薩解行地終,或至上位,若非有漏,或無心時,皆容現起。
妙観察智相応心品は、生空観品は二乗の見位にても、もまた初めて起こるを得。此の後展転して無学位に至るまで、あるいは菩薩の解行地の終りに至るまで、あるいは上位に至るまで、もし有漏に非ざれば、あるいは無心の時は、倶に現起を容す。
法空觀品,菩薩見位,方得初起,此後展轉乃至上位,若非有漏,生空智果,或無心時,皆容現起。
法空観品は菩薩の見位に乃ち初めて起こるを得。此の後展転して乃至上位に至るまで、もし有漏に非ざれば、生空智の果は、あるいは無心の時は、倶に現起を容す。
成所作智相應心品,有義:菩薩修道位中,後得引故,亦得初起。
成所作智相応心品は、一義有り:菩薩の修道位の中に後得の引く所のゆえんに、もまた初めて起こるを得。
有義:成佛方得初起。以十地中,依異熟識所變眼等非無漏故,有漏不共,必俱同境,根發無漏識,理不相應故。此二於境,明昧異故。由斯此品,要得成佛,依無漏根,方容現起,而數間斷,作意起故。
一義有り:仏を成じて乃ち初めて起こるを得。十地の中は異熟識の変ずる所の眼等に依れば無漏に非ざるに因るのゆえん。有漏は不共にして必ず倶に同じ境にして、根は無漏識を發すれば理相応せざるのゆえん。この二は境に於て明・昧異なるのゆえん。これに由って此の品は要して仏を成ずるを得て、無漏根に依って乃ち現起を容す。しかし数々間断す。作意して起こるのゆえん。
此四種性雖皆本有,而要燻發方得現行,因位漸增,佛果圓滿,不增不減,盡未來際,但從種生;不燻成種,勿前佛德勝後佛故。
この四種性は倶に本有なると雖も、しかし薫發するを要して乃ち現行を得。因位は漸々増して、仏果は圓滿して、増せず減らずして、未来際を尽くして、ただ種より生ずのみ。薫じて種を成さず。前仏の徳は後仏に勝れりとせざらしめんが為のゆえん。
大圓鏡智相應心品,有義:但緣真如為境,是無分別,非後得智,行相、所緣不可知故。
大圓鏡智相応心品は、一義有り:ただ真如を縁じて境と為す。是れ無分別にして後得智に非ず。行相・所縁は知るべからざるのゆえん。
有義:此品緣一切法,《莊嚴論》說:大圓鏡智,於一切境,不愚迷故。《佛地經》說:如來智鏡,諸處、境、識,眾像現故。又此決定緣無漏種,及身、土等諸影像故,行、緣微細,說不可知,如阿賴耶,亦緣俗故。
一義有り:此の品は一切法に縁ず。《荘厳論》に説く:大圓鏡智は一切境に於て愚迷せざるのゆえん。《仏地経》に説く:如来の智鏡は諸々の處・境・識の衆像を現ずるのゆえん。またこれは決定して無漏種に縁じ、および身・土等の諸影像に縁ずるのゆえん。行・縁は微細にして不可知と説く。阿頼耶の如く、もまた俗に縁ずるのゆえん。
緣真如故,是無分別;緣餘境故,後得智攝。其體是一,隨用分二。了俗由證真,故說為後得。餘一分二,准此應知。
真如に縁ずるのゆえんには是れ無分別。其余の境に縁ずるのゆえんには後得智の摂する所。その体は是れ一にして、用に随って二を分かつ。俗を了するは真を証するに由る。ゆえに後得と説く。其余の一の二を分かつはこれに准じてまさに知るべし。
平等性智相應心品,有義:但緣第八淨識,如染第七緣藏識故。有義:但緣真如為境,緣一切法平等性故。有義:遍緣真、俗為境,《佛地經》說:平等性智,證得十種平等性故。《莊嚴論》說:緣諸有情自他平等,隨他勝解,示現無邊佛影像故。由斯此品,通緣真、俗,二智所攝,於理無違。
平等性智相応心品は、一義有り:ただ第八の浄識に縁ず。染の第七の蔵識に縁ずるが如きのゆえん。一義有り:ただ真如を縁じて境と為す。一切法の平等性に縁ずるのゆえん。一義有り:遍く真・俗を縁じて境と為す。《仏地経》に説く:平等性智は十種の平等性を証得するのゆえん。《荘厳論》に説く:諸有情の自他平等に縁じて、他の勝解に随って無辺の仏影像を示現するのゆえん。これに由って此の品は真・俗に通縁して、二智の摂する所にして、理に違する無し。
妙觀察智相應心品,緣一切法自相、共相,皆無障礙,二智所攝。
妙観察智相応心品は、一切法の自相・共相に縁じて倶に障碍無くして、二智の摂する所なり。
成所作智相應心品,有義:但緣五種現境,《莊嚴論》說:如來五根,一一皆於五境轉故。有義:此品亦能遍緣三世諸法,不違正理,《佛地經》說:成所作智,起作三業諸變化事,決擇有情心行差別,領受去來現在等義。若不遍緣,無此能故。然此心品,隨意樂力,或緣一法、或二、或多。且說五根於五境轉,不言唯爾,故不相違。隨作意生,緣事相境,起化業故,後得智攝。
成所作智相応心品は、一義有り:ただ五種の現境に縁ず。《荘厳論》に説く:如来の五根は一一倶に五境に於て転ずるのゆえん。一義有り:此の品もまた能く遍く三世の諸法に縁ず。正理に違せず。《仏地経》に説く:成所作智は三業の諸變化事を起作して、有情の心行差別を決択して、去・来・現在等の義を領受す。もし遍く縁ぜざれば此の能無きのゆえん。しかし此の心品は意楽力に随って、あるいは一法に縁じ、あるいは二、あるいは多。且く五根は五境に於て転ずと説く。唯だ然りと言わず。ゆえに相違せず。作意に随って生じて、事相の境に縁じて、化業を起こすのゆえんに、後得智の摂する所なり。
此四心品,雖皆遍能緣一切法,而用有異:謂鏡智品,現自受用身、淨土相,持無漏種;平等智品,現他受用身、淨土相;成事智品,能現變化身及土相;觀察智品,觀察自、他功能過失,雨大法雨,破諸疑網,利樂有情。
この四心品は倶に能く遍く一切法に縁ずると雖も、しかし用は異有り。いわゆる鏡智品は自受用身・浄土の相を現じて、無漏種を持す。平等智品は他受用身・浄土の相を現ず。成事智品は能く變化身および土相を現ず。観察智品は自・他の功能過失を観察して、大法雨を雨らして、諸々の疑網を破りて、有情を利樂す。
如是等門,差別多種。
かくのごとき等の門は差別多種有り。
此四心品,名所生得。
この四心品を名づけて所生得という。
此所生得,總名菩提;及前涅槃,名所轉得。
この所生得は総じて名づけて菩提という。および前の涅槃を名づけて所転得という。
雖轉依義總有四種,而今但取二所轉得。頌說「證得轉依」言故。
転依の義は総じて四種有ると雖も、しかし今ただ二の所転得を取る。頌に「転依を証得す」と説く言のゆえん。
此修習位說能證得,非已證得,因位攝故。
この修習位は能く証得すと説く。已に証得せりに非ず。因位の摂する所なるのゆえん。
後究竟位,其相云何?
後の究竟位はその相いかん。
頌曰:
頌に説く:
30此即無漏界,不思議善常,
これすなわち無漏界なり。不思議・善・常なり。
安樂解脫身,大牟尼名法。
安樂解脱身なり。大牟尼は名づけて法という。
論曰:前修習位所得轉依,應知即是究竟位相。
論に説く:前の修習位の得る所の転依は、まさにすなわち究竟位の相と知るべし。
「此」謂此前二轉依果,即是究竟無漏界攝。
「此」とはいわゆる此の前の二転依果にて、すなわち究竟の無漏界の摂する所なり。
諸漏永盡,非漏隨增,性淨圓明,故名無漏。
諸漏は永く尽きて、漏の随増するに非ず。性は浄にして圓明なり。ゆえに名づけて無漏という。
「界」是藏義,此中含容無邊希有大功德故;或是因義,能生五乘世、出世間利樂事故。
「界」は是れ蔵の義にして、ここに無辺の希有の大功德を含容するのゆえん。あるいは是れ因の義にして、能く五乗の世・出世間の利樂事を生ずるのゆえん。
清淨法界,可唯無漏攝,四智心品,如何唯無漏?
清浄法界はただ無漏の摂する所のみとすべくして、四智心品はどうしてただ無漏のみ。
道諦攝故,唯無漏攝,謂佛功德及身、土等皆是無漏種性所生,有漏法種已永捨故。
道諦の摂する所なるのゆえんに、ただ無漏の摂する所のみ。いわゆる仏の功徳および身・土等は倶に無漏の種性の生ずる所にして、有漏の法種は已に永く捨てたるのゆえん。
雖有示現作生死身、業煩惱等,似苦、集諦,而實無漏,道諦所攝。
示現して生死身・業煩悩等を作す有りて苦・集諦に似たると雖も、しかし実に無漏にして道諦の摂する所なり。
《集論》等說:十五界等,唯是有漏,如來豈無五根、五識、五外界等?
《集論》等に説く:十五界等はただ有漏のみ。如来はあに五根・五識・五外界等無からんや。
有義:如來功德、身、土,甚深微妙,非有非無,離諸分別,絕諸戲論,非界、處等法門所攝,故與彼說理不相違。
一義有り:如来の功徳・身・土は甚深微妙にして、有に非ず無に非ず、諸々の分別を離れて、諸々の戯論を絶して、界・處等の法門の摂する所に非ず。ゆえにかの説と理は相違せず。
有義:如來五根、五境妙定生故,法界色攝,非佛五識,雖依此變,然麁、細異,非五境攝。如來五識,非五識界,經說佛心恆在定故,論說五識性散亂故。
一義有り:如来の五根・五境は妙定の生ずる所のゆえんに、法界色の摂する所なり。仏の五識に非ず。これに依って変ずると雖も、しかし麁・細異なりて、五境の摂する所に非ず。如来の五識は五識界に非ず。経に仏心は恒に定に在りと説くのゆえん。論に五識は性は散乱と説くのゆえん。
成所作智何識相應?
成所作智は何の識と相応する。
第六相應,起化用故。與觀察智性有何別?彼觀諸法自、共相等,此唯起化,故有差別。此二智品應不並生,一類二識不俱起故。許不並起,於理無違;同體用分,俱亦非失。
第六と相応す。化用を起こすのゆえん。観察智と性は何の分別有る。それらは諸法の自・共相等を観ず。これはただ化を起こすのみ。ゆえに差別有り。この二智品はまさに並びて生ぜざるべし。一類の二識は倶に起こらざるのゆえん。並びて起こらずと許せば理に違する無し。同体にして用を分かつて、倶なるももまた過失に非ず。
或與第七淨識相應,依眼等根,緣色等境,是平等智作用差別,謂淨第七起他受用身土相者,平等品攝,起變化者,成事品攝。
あるいは第七の浄識と相応して、眼等の根に依りて色等の境に縁ずるは、是れ平等智の作用差別にして、いわゆる浄の第七は他受用身土相を起こすは平等品の摂する所、變化を起こすは成事品の摂する所。
豈不此品,轉五識得?
あに此の品は五識を転じて得るに非ざらんや。
非轉彼得,體即是彼。如轉生死言得涅槃,不可涅槃同生死攝,是故於此,不應為難。
それらを転じて得るに非ず。体はすなわちそれらなり。生死を転じて涅槃を得と説くが如く、涅槃をして生死の摂する所と同じくすべからず。ゆえにここに於てまさに難を為すべからず。
有義:如來功德、身、土,如應攝在蘊、處、界中,彼三皆通有漏、無漏。
一義有り:如来の功徳・身・土は、応ずるが如く蘊・處・界の中に摂す。かの三は倶に有漏・無漏に通ず。
《集論》等說:十五界等唯有漏者,彼依二乘麁淺境說,非說一切。謂餘成就十八界中,唯有後三,通無漏攝,佛成就者,雖皆無漏,而非二乘所知境攝。
《集論》等の説く:十五界等はただ有漏のみとは、それらは二乗の麁浅の境に依って説く。一切を説くに非ず。いわゆる其余の成就する十八界の中に、ただ後の三のみ有漏に通じて無漏の摂する所なり。仏の成就するは倶に無漏なると雖も、しかし二乗の知る所の境の摂する所に非ず。
然餘處說,佛功德等非界等者,不同二乘劣智所知界等相故,理必應爾。
しかし其余の処の説く、仏の功徳等は界等に非ずとは、二乗の劣智の知る所の界等の相と同じからざるのゆえん。理必ずまさに然るべし。
所以者何?說有為法皆蘊攝故;說一切法界、處攝故;十九界等,聖所遮故;若絕戲論,便非界等。亦不應說,即無漏界、善、常、安樂、解脫身等。又處處說:轉無常蘊,獲得常蘊,界、處亦然;寧說如來非蘊、處、界?故言非者,是密意說。
なんの故か。有為法は倶に蘊の摂する所と説くのゆえん。一切法界・處の摂する所と説くのゆえん。十九界等は聖の遮る所のゆえん。もし戯論を絶せば便ち界等に非ず。もまた説くべからず。すなわち無漏界・善・常・安樂・解脱身等なり。また處處に説く:無常の蘊を転じて、常蘊を獲得す。界・處もまたこの如し。どうして如来は蘊・處・界に非ずと説かん。ゆえに「非」と説くは、是れ密意の説なり。
又說五識性散亂者,說餘成者,非佛所成。
また五識は性は散乱と説くは、其余の成ずる所を説く。仏の成ずる所に非ず。
故佛身中,十八界等,皆悉具足,而純無漏。
ゆえに仏身の中には十八界等は倶に悉く具足して、しかし純に無漏なり。
此轉依果,又不思議,超過尋思言議道故;微妙甚深自內證故;非諸世間喻所喻故。
この転依果はまた不思議なり。尋思言議の道を超過するのゆえん。微妙甚深にして自内証なるのゆえん。諸々の世間の喩の喩すること能くする所に非ざるのゆえん。
此又是善,白法性故;清淨法界,遠離生滅,極安隱故;四智心品,妙用無方,極巧便故;二種皆有順益相故;違不善故俱說為善。
これまた善なり。白法性なるのゆえん。清浄法界は生滅を遠離して極めて安隱なるのゆえん。四智心品は妙用方無くして極めて巧便なるのゆえん。二種は倶に順益の相有るのゆえん。不善に違するのゆえんに倶に説いて善と為す。
論說處等,八唯無記,如來豈無五根、三境?此中三釋,廣說如前。一切如來身、土等法皆滅道攝,故唯是善,聖說滅道唯善性故,說佛土等,非苦、集故;佛識所變有漏、不善、無記相等,皆從無漏善種所生,無漏善攝。
論に處等を説くに八はただ無記のみ。如来はあに五根・三境無からんや。ここに三の釋有り。広くは前の如く説く。一切の如来の身・土等の法は倶に滅道の摂する所なり。ゆえにただ是れ善のみ。聖は滅道はただ善性と説くのゆえん。仏土等を説いて苦・集に非ざるのゆえん。仏識の変ずる所の有漏・不善・無記の相等は倶に無漏善種の生ずる所にして、無漏善の摂する所なり。
此又是常,無盡期故。清淨法界,無生無滅,性無變易,故說為常;四智心品所依常故,無斷盡故,亦說為常。非自性常,從因生故,生者歸滅,一向記故。不見色心,非無常故。然四智品,由本願力,所化有情,無盡期故,窮未來際無斷、無盡。
これまた常なり。尽きる期無きのゆえん。清浄法界は生無く滅無く、性は變易無し。ゆえに説いて常と為す。四智心品は依る所は常なるのゆえん、断尽無きのゆえんに、もまた説いて常と為す。自性常に非ず。因に従って生ずるのゆえん。生ずるは滅に帰するを一向に記するのゆえん。色心を見ざれば無常に非ざるのゆえんに非ず。しかし四智品は本願力に由って、化する所の有情は尽きる期無きのゆえんに、未来際を窮めて断無く尽無し。
此又安樂,無逼惱故。清淨法界,眾相寂靜,故名安樂。四智心品永離惱害,故名安樂。此二自性,皆無逼惱,及能安樂一切有情,故二轉依,俱名安樂。
これまた安樂なり。逼惱無きのゆえん。清浄法界は衆相寂静なり。ゆえに名づけて安樂という。四智心品は永く惱害を離る。ゆえに名づけて安樂という。この二の自性は倶に逼惱無くして、および能く一切有情を安樂す。ゆえに二の転依は倶に名づけて安樂という。
二乘所得二轉依果,唯永遠離煩惱障縛,無殊勝法故,但名解脫身。
二乗の得る所の二転依果は、ただ永く煩悩障の縛を離るるのみ。殊勝の法無きのゆえんに、ただ名づけて解脱身という。
大覺世尊,成就無上寂默法,故名大牟尼。此牟尼尊所得二果,永離二障,亦名法身。無量無邊力無畏等,大功德法所莊嚴故。
大覚世尊は無上の寂默法を成就す。ゆえに名づけて大牟尼という。この牟尼尊の得る所の二果は永く二障を離れて、もまた名づけて法身という。無量無辺の力・無畏等の大功德法の荘厳する所なるのゆえん。
體、依、聚義,總說名身。故此法身,五法為性,非淨法界獨名法身,二轉依果,皆此攝故。
体・依・聚の義を総じて名づけて身という。ゆえにこの法身は五法を性と為す。浄法界のみ独り法身と名づくるに非ず。二転依果は倶に此の摂する所なるのゆえん。
如是法身,有三相別:一、自性身,謂諸如來真淨法界,受用、變化平等所依,離相寂然,絕諸戲論,具無邊際真常功德,是一切法平等實性,即此自性,亦名法身,大功德法所依止故。
かくのごとき法身は三相の分別有り。一、自性身とは、いわゆる諸如来の真浄の法界にて、受用・變化の平等の所依にして、相を離れて寂然として、諸々の戯論を絶して、無辺際の真常功徳を具え、是れ一切法の平等の實性なり。すなわちこの自性をもまた名づけて法身という。大功德法の依止する所なるのゆえん。
二、受用身,此有二種:一、自受用,謂諸如來三無數劫,修集無量福慧資糧,所起無邊真實功德,及極圓、淨、常、遍色身,相續湛然,盡未來際,恆自受用廣大法樂。
二、受用身。これに二種有り。一、自受用とは、いわゆる諸如来は三無数劫に無量の福慧資糧を修集して、起こす所の無辺の真実功徳および極めて圓・浄・常・遍の色身にて、相続湛然として、未来際を尽くして、恒に自ら広大の法樂を受用す。
二、他受用,謂諸如來由平等智,示現微妙淨功德身,居純淨土,為住十地諸菩薩眾,現大神通,轉正法輪,決眾疑網,令彼受用大乘法樂。合此二種,名受用身。
二、他受用とは、いわゆる諸如来は平等智に由って、微妙の浄功徳身を示現して、純浄土に居して、十地に住する諸菩薩衆の為に、大神通を現じ、正法輪を転じ、衆の疑網を決して、それらをして大乗の法樂を受用せしむ。この二種を合して名づけて受用身という。
三、變化身:謂諸如來由成事智,變現無量隨類化身,居淨、穢土,為未登地諸菩薩眾、二乘、異生,稱彼機宜,現通說法,令各獲得諸利樂事。
三、變化身とは、いわゆる諸如来は成事智に由って、無量の類に随う化身を變現して、浄・穢の土に居して、未だ地に登らざる諸菩薩衆・二乗・異生の為に、彼の機宜に称して、通を現じ法を説いて、各々諸々の利樂事を獲得せしむ。
以五法性攝三身者,有義:初、二攝自性身,經說真如是法身故。論說轉去阿賴耶識,得自性身;圓鏡智品,轉去藏識,而證得故。中二智品,攝受用身,說平等智,於純淨土,為諸菩薩現佛身故;說觀察智,大集會中,說法斷疑現自在故;說轉諸轉識得受用身故。後一智品,攝變化身,說成事智,於十方土,現無量種難思化故。又智殊勝,具攝三身,故知三身,皆有實智。
五法性を以って三身を摂するは、一義有り:初・二は自性身を摂す。経に真如は法身と説くのゆえん。論に阿頼耶識を転去して自性身を得と説く。圓鏡智品は蔵識を転去して証得するのゆえん。中の二智品は受用身を摂す。平等智は純浄土に於て諸菩薩の為に仏身を現ずと説くのゆえん。観察智は大集会の中に法を説き疑を断じて自在を現ずと説くのゆえん。諸転識を転じて受用身を得と説くのゆえん。後の一智品は變化身を摂す。成事智は十方土に於て無量種の難思の化を現ずと説くのゆえん。また智は殊勝にして具に三身を摂す。ゆえに三身は倶に実の智有りと知る。
有義:初一攝自性身。
一義有り:初の一は自性身を摂す。
說自性身本性常故;說佛法身無生滅故;說證因得非生因故;又說法身諸佛共有,遍一切法,猶若虛空,無相無為,非色心故。
自性身は本性常と説くのゆえん。仏の法身は生滅無しと説くのゆえん。証因の得は生因に非ずと説くのゆえん。また法身は諸仏の共有にして、一切法に遍して、猶ほ虚空の如く、相無く為無くして、色心に非ずと説くのゆえん。
然說轉去藏識得者,謂由轉滅第八識中二障麁重,顯法身故。智殊勝中說法身者,是彼依止彼實性故。
しかし蔵識を転去して得と説くは、いわゆる第八識の中の二障麁重を転滅するに由って法身を顯すのゆえん。智殊勝の中に法身を説くは、それらの依止する所のそれらの実性なるのゆえん。
自性法身,雖有真實無邊功德,而無為故,不可說為色、心等物。
自性法身は真実の無辺功徳有ると雖も、しかし無為なるのゆえんに、色・心等の物と説くべからず。
四智品中真實功德,鏡智所起,常、遍色身,攝自受用;平等智品,所現佛身,攝他受用;成事智品,所現隨類種種身相,攝變化身。
四智品の中の真実功徳の鏡智の起こす所の常・遍の色身は自受用を摂す。平等智品の現ずる所の仏身は他受用を摂す。成事智品の現ずる所の類に随う種種の身相は變化身を摂す。
說圓鏡智是受用,佛轉諸轉識得受用故。
圓鏡智を説いて受用と為すは、仏は諸転識を転じて受用を得るのゆえん。
雖轉藏識亦得受用,然說轉彼顯法身故。於得受用,略不說之。又說法身無生無滅,唯證因得,非色、心等,圓鏡智品,與此相違。若非受用,屬何身攝。
蔵識を転ずるもまた受用を得ると雖も、しかしそれらを転じて法身を顯すと説くのゆえん。受用を得るに於ては略してそれを説かず。また法身は生無く滅無くして、ただ証因の得にして色・心等に非ずと説く。圓鏡智品はこれと相違す。もし受用に非ざれば何の身の摂する所に属せん。
又受用身,攝佛不共有為實德。故四智品,實有色、心,皆受用攝。
また受用身は仏の不共の有為の実徳を摂す。ゆえに四智品は実に色・心有りて倶に受用の摂する所なり。
又他受用及變化身,皆為化他方便示現,故不可說實智為體。
また他受用および變化身は倶に他を化する為に方便に示現す。ゆえに実智を以って体と為すと説くべからず。
雖說化身智殊勝攝,而似智現或智所起,假說智名,體實非智。但說平等、成所作智,能現受用、三業化身,不說二身即是二智,故此二智自受用攝。
化身は智殊勝の摂する所と説くと雖も、しかし智に似て現ずるかあるいは智の起こす所にして、假に智の名を説く。体は実に智に非ず。ただ平等・成所作智は能く受用・三業の化身を現ずと説くのみ。二身はすなわち二智と説かず。ゆえにこの二智は自受用の摂する所なり。
然變化身及他受用,雖無真實心及心所,而有化現心、心所法。無上覺者,神力難思,故能化現無形質法。
しかし變化身および他受用は真実の心および心所無きと雖も、しかし化現の心・心所法有り。無上の覚者は神力思議し難し。ゆえに能く形質無き法を化現す。
若不爾者,云何如來現貪、瞋等?久已斷故。云何聲聞及傍生等,知如來心?如來實心,等覺菩薩尚不知故。
もしこの如くに非ざれば、どうして如来は貪・瞋等を現ずるや。久しく已に断ぜたるのゆえん。どうして声聞および傍生等は如来の心を知るや。如来の実心は等覚の菩薩も尚ほ知らざるのゆえん。
由此經說,化無量類皆令有心;又說如來成所作智化作三業;又說變化有依他心,依他實心,相分現故。
これに由って経に説く、無量の類を化して倶に心有らしむ。また如来の成所作智は化して三業を作すと説く。また變化は他の心に依る有りて、他の実心に依りて相分現ずるのゆえんと説く。
雖說變化無根心等,而依餘說,不依如來。又化色根心、心所法,無根等用,故不說有。
變化は根の心等無しと説くと雖も、しかし其余に依って説きて如来に依らず。また色根の心・心所法を化するは根等の用無し。ゆえに有りと説かず。
如是三身,雖皆具足無邊功德,而各有異。謂自性身,唯有真實常、樂、我、淨,離諸雜染,眾善所依,無為功德,無色、心等差別相用。自受用身,具無量種妙色、心等真實功德;若他受用及變化身,唯具無邊似色、心等,利樂他用化相功德。
かくのごとき三身は倶に無辺の功徳を具足すと雖も、しかし各々異有り。いわゆる自性身はただ真実の常・樂・我・浄のみ有りて、諸々の雑染を離れて、衆善の依る所にして、無為の功徳にして、色・心等の差別相用無し。自受用身は無量種の妙なる色・心等の真実功徳を具す。もし他受用および變化身はただ無辺の色・心等に似たるを具えて、他を利樂する用の化相功徳なり。
又自性身,正自利攝,寂靜安樂無動作故;亦兼利他,為增上緣,令諸有情得利樂故;又與受用及變化身為所依止,故俱利攝。自受用身唯屬自利。若他受用及變化身,唯屬利他,為他現故。
また自性身は正しく自利の摂する所にして、寂静安樂にして動作無きのゆえん。もまた兼ねて他を利す。増上縁と為りて諸有情をして利樂を得せしむるのゆえん。また受用および變化身と依止する所と為る。ゆえに倶利の摂する所なり。自受用身はただ自利に属す。もし他受用および變化身はただ利他に属す。他の為に現ずるのゆえん。
又自性身,依法性土。雖此身、土體無差別,而屬佛、法,相、性異故。此佛身、土俱非色攝。雖不可說形量小、大;然隨事相其量無邊,譬如虛空,遍一切處。
また自性身は法性土に依る。この身・土は体は差別無きと雖も、しかし仏・法に属して相・性異なるのゆえん。この仏身・土は倶に色の摂する所に非ず。形量の小・大を説くべからざると雖も、しかし事相に随ってその量は無辺にして、譬えば虚空の一切處に遍するが如し。
自受用身,還依自土:謂圓鏡智相應淨識,由昔所修自利無漏純淨佛土因緣成熟,從初成佛,盡未來際,相續變為純淨佛土,周圓無際,眾寶莊嚴,自受用身常依而住。如淨土量,身量亦爾,諸根相好,一一無邊,無限善根所引生故。功德智慧既非色法,雖不可說形量大小,而依所證及所依身,亦可說言遍一切處。他受用身,亦依自土:謂平等智大慈悲力,由昔所修利他無漏純淨佛土,因緣成熟,隨住十地菩薩所宜變為淨土,或小或大,或劣或勝,前後改轉,他受用身依之而住。能依身量,亦無定限。若變化身,依變化土。謂成事智大慈悲力,由昔所修利他無漏淨穢佛土,因緣成熟,隨未登地有情所宜化為佛土,或淨或穢,或小或大,前後改轉,佛變化身依之而住。能依身量,亦無定限。
自受用身は還って自土に依る。いわゆる圓鏡智相応の浄識は、昔の修する所の自利の無漏の純浄仏土の因縁成熟するに由って、初めて仏を成ずるより、未来際を尽くして、相続して変じて純浄の仏土と為りて、周圓して際無く、衆寶荘厳して、自受用身は常に依りて住す。浄土の量の如く、身量もまたこの如し。諸根相好は一一無辺にして、無限の善根の引生する所なるのゆえん。功徳智慧はすでに色法に非ざれば、形量の大小を説くべからざると雖も、しかし証する所および依る所の身に依って、もまた一切處に遍すと説くべし。他受用身もまた自土に依る。いわゆる平等智の大慈悲力は、昔の修する所の利他の無漏の純浄仏土の因縁成熟するに由って、十地に住する菩薩の宜しき所に随って浄土と変じて、あるいは小あるいは大、あるいは劣あるいは勝にして、前後改転して、他受用身はこれに依りて住す。能依の身量もまた定限無し。もし變化身は變化土に依る。いわゆる成事智の大慈悲力は、昔の修する所の利他の無漏の浄穢の仏土の因縁成熟するに由って、未だ地に登らざる有情の宜しき所に随って仏土と化して、あるいは浄あるいは穢、あるいは小あるいは大にして、前後改転して、仏の變化身はこれに依りて住す。能依の身量もまた定限無し。
自性身土,一切如來同所證故,體無差別;自受用身及所依土,雖一切佛各變不同,而皆無邊不相障礙。餘二身土,隨諸如來所化有情,有共、不共。所化共者,同處同時,諸佛各變為身、為土,形狀相似,不相障礙,展轉相雜為增上緣,令所化生,自識變現。謂於一土有一佛身,為現神通說法饒益。於不共者,唯一佛變。諸有情類無始時來,種性法爾更相繫屬,或多屬一,或一屬多,故所化生有共、不共。不爾,多佛久住世間,各事劬勞,實為無益,一佛能益一切生故。
自性身土は一切如来の同じく証する所なるのゆえんに体は差別無し。自受用身および依る所の土は一切仏は各々変じて同じからざると雖も、しかし倶に無辺にして相障碍せず。其余の二身土は諸如来の化する所の有情に随って、共・不共有り。化する所の共なるは、同じ處・同じ時に、諸仏は各々変じて身と為り土と為して、形状相似にして相障碍せず、展転して相雑じて増上縁と為りて、化する所の生をして自識の變現せしむ。いわゆる一土に於て一仏身有りて、神通を現じ法を説いて饒益せんが為。不共なるに於てはただ一仏変ずるのみ。諸有情類は無始の時より来り、種性法爾に更に相繫属して、あるいは多く一に属し、あるいは一は多に属す。ゆえに化する所の生は共・不共有り。この如くに非ずんば、多仏は久しく世間に住して各々劬勞を事として、実は益無し。一仏は能く一切の生を益するのゆえん。
此諸身、土若淨、若穢,無漏識上所變現者,同能變識,俱善無漏,純善無漏因緣所生。是道諦攝,非苦、集故。蘊等識相不必皆同,三法因緣雜引生故。
これらの身・土のもし浄もし穢なる、無漏識の上の變現する所は、能変の識と同じく倶に善無漏にして、純善無漏の因縁の生ずる所なり。是れ道諦の摂する所にして苦・集に非ざるのゆえん。蘊等の識相は必ずしも倶に同じからず。三法の因縁は雑りて引生するのゆえん。
有漏識上所變現者,同能變識,皆是有漏。純從有漏因緣所生,是苦、集攝,非滅、道故。善等識相,不必皆同,三性因緣雜引生故。蘊等同異,類此應知,不爾,應無五、十二等。
有漏識の上の變現する所は、能変の識と同じく倶に有漏なり。純に有漏の因縁に従って生ず。是れ苦・集の摂する所にして滅・道に非ざるのゆえん。善等の識相は必ずしも倶に同じからず。三性の因縁は雑りて引生するのゆえん。蘊等の同異はこれに類してまさに知るべし。この如くに非ずんばまさに五・十二等無かるべし。
然相分等依識變現;非如識性依他中實。不爾,唯識理應不成許識內境俱實有故。
しかし相分等は識に依って變現す。識性の依他の中に実なるが如ならず。この如くに非ずんば唯識の理はまさに成らざるべし。識内の境は倶に実有と許するのゆえん。
或識相、見等從緣生,俱依他起,虛實如識,唯言遣外,不遮內境。不爾,真如亦應非實。內境與識,既並非虛,如何但言唯識非境?識唯內有,境亦通外,恐濫外故,但言唯識。或諸愚夫,迷執於境,起煩惱業,生死沈淪,不解觀心,勤求出離,哀愍彼故,說唯識言,令自觀心,解脫生死,非謂內境如外都無。
あるいは識の相・見等は縁に従って生じて、倶に依他起なり。虚実は識の如く、唯の言は外を遣りて、内境を遮らず。この如くに非ずんば真如もまたまさに実に非ざるべし。内境と識とはすでに倶に虚に非ざれば、どうしてただ唯識は境に非ずと説かん。識はただ内に有りて、境もまた外に通ず。外に濫るを恐るるのゆえんに、ただ唯識と説く。あるいは諸愚夫は境に於て迷執して、煩悩の業を起こして生死に沈淪して、心を観ずるを解せずして、勤めて出離を求めず。それらを哀愍するのゆえんに、唯識の言を説いて、自ら心を観じて生死を解脱せしむ。内境は外の如く倶に無しと説くに非ず。
或相分等,皆識為性,由燻習力,似多分生。真如亦是識之實性。故除識性,無別有法。此中識言,亦說心所,心與心所,定相應故。
あるいは相分等は倶に識を以って性と為す。薫習力に由って多くの分に似て生ず。真如もまた是れ識の実性なり。ゆえに識性を除きて別に法有ること無し。ここに識の言はもまた心所を説く。心と心所とは定めて相応するのゆえん。
此論三分成立唯識,是故說為《成唯識論》。
此の論は三分にて唯識を成立す。ゆえに説いて《成唯識論》と為す。
亦說此論名淨唯識,顯唯識理極明淨故。
もまた此の論を説いて名づけて浄唯識という。唯識の理は極めて明浄なるを顯すのゆえん。
此本論名唯識三十,由三十頌,顯唯識理,乃得圓滿,非增減故。
この本論を名づけて唯識三十という。三十頌に由って唯識の理を顯して乃ち圓滿を得。増減に非ざるのゆえん。
已依聖教及正理,分別唯識性相義,
すでに聖教および正理に依拠して、唯識の性相の義を分別し、
所獲功德施群生,願共速登無上覺。
獲る所の功徳は群生に施し給う。願くは共に速やかに無上の覚に登らん。
成唯識論巻第十
成唯識論後序
成唯識論後序
吳興沈玄明撰
吳興の沈玄明撰す。
原夫覺海澂玄,涵萬流而濬宗極;神幾闡妙,被眾象而凝至真。朗慧日而鏡六幽,洩慈雲而清八㝢,演一音而懸解,逸三乘以遐騖。體陳如之半器,津有有於鹿園;照善現之滿機,繹空空於鷲嶺。雖絕塵於常斷,詎遺筌於有空?顯無上之靈宗,凝中道於茲教。逮金河滅景,派淳源而不追;玉牒霏華,緒澆風而競扇。於是二十八見迷桑鴈於五天,一十六師亂雲牛於四主。半千將聖,茲惟世親寔賢劫之應真,晦生知以提化,飛光毓彩誕暎資靈。曜常明於八蘊、藻初情於六足,秀談芝於俱舍、摽說有之餘宗,攝玄波於大乘,賁研空之至理,化方昇而照極,湛沖一於斯頌。唯識三十偈者,世親歸根之遺製也。理韜淵海,泛浮境於榮河;義欝煙飈,麗虹章於玄圃。言含萬象、字苞千訓,妙旨天逸、邃彩星華,幽緒未宣冥神絕境,孤明斂暎秘思潛津。後有護法、安慧等十大菩薩,韞玄珠於八藏、聳層搆於四圍,宅照二因、捿清三觀,升暉十地,澄智水以潤賢林;隣幾七覺,皎行月而開重夜。優柔芳烈、景躅前修,箭湧泉言、風飛寶思,鹹觀本頌各裁斯釋,名曰「成唯識論」,或名「淨唯識論」。空心外之二取,息滯有之迷塗;有識內之一心,遣歸空之妄執。晦斯心境,苦海所以長淪;悟彼有空,覺岸於焉高蹈。九十外道,亂風轍而靡星旗;十八小乘,軔羬軒而扶龍轂。窮神體妙、詣賾探機,精貫十支、洞該九分,顧十翼而搏仙羽、頫九流以濬瓊波,盡邃理之希微、闡法王之奧典,稱謂雙絕、筌象兼忘,曜靈景於西申、閟虹光於震旦,濟物弘道、眇歸宗德。
もとより覚悟の海は澄澈して玄深にして、万流を涵容して宗極を疏通し、神機は妙義を開顯して、衆象を覆いて至真を凝成す。慧日を朗照して六幽を鑑照し、慈雲を泄放して八㝢(すなわち八宇、天下を指す)を澄清し、一音を演じて人をして頓解せしめ、三乘を放逸して遠く馳す。憍陳如の半器の根機を體察して、鹿野苑に於て「有有」を済渡し、善現(須菩提)の満機を照見して、霊鷲山に於て「空空」を演繹す。すでに常・断の両辺の塵垢を超絶すと雖も、あに有・空の筌蹄を抛弃せんや。無上の霊宗を顯して、中道をこの教に凝す。金河の影を滅する(仏涅槃に入る)に及んで、淳源は派を分かちて追い回る人無く、玉牒は花を飛ばして、澆薄の風は競い扇ぐ。ここに於て二十八種の見は五天竺に於て桑雁を迷乱せしめ、一十六師は四主に於て雲牛を攪乱す。五百年将に出でんとする聖人はすなわちこの世親なり。実に是れ賢劫の応真にして、生知を隱晦して提携教化し、光を飛ばし彩を毓して、誕生して資靈を映照す。八蘊の上に輝曜常明にして、六足の上に初情を藻飾し、倶舎の裏に芝を談じて秀出して、有を説く余宗を標挙して、玄波を大乗に收攝して、空を研ずる至理を賁飾す。教化方に升りて極りに照るを、冲一湛然としてこの頌に寄す。《唯識三十頌》は是れ世親の帰根の遺制なり。理は淵海の如く韜藏して、浮境を榮河に泛べ、義は烟飆の如く鬱して、虹章を玄圃に麗す。言は万象を含み、字は千訓を包み、妙旨は天に逸して、邃彩は星に華し、幽緒は未だ宣べず、冥神は境を絶ち、孤明は収敛して映照し、祕思は津渡に潜蔵す。後に護法・安慧等の十大菩薩有りて、玄珠を八藏に蘊え、層構を四圍に聳え、二因の照に宅を安んじ、三観の清に栖止して、十地に暉を升り、智水を澄めて賢林を潤し、七覚の幾に近づきて、行月を皎潔して重夜を開く。優柔芳烈にして前修を景行して、言は箭の湧泉の如く、思は風の飛寶の如くして、倶に本頌を観て各々裁してこの釋を成し、名づけて「成唯識論」といい、あるいは名づけて「浄唯識論」という。心外の二取を空じて、有に滞る迷途を止息し、識内の一心を承認して、空に帰する妄執を遣除す。この心境を晦昧すれば、苦海は長淪するゆえん。かの有空を悟れば、覚岸はここに高蹈す。九十の外道は風轍を乱りて星旗を靡かし、十八の小乗は羬軒を轫して龍轂を扶く。神を窮め妙を體して、賾に詣り機を探り、精は十支を貫き、洞は九分を該し、十翼を顧みて仙羽を搏み、九流を俯して瓊波を疏浚す。邃理の希微を尽くし、法王の奥典を闡きて、称謂双絶にして筌象兼ね忘れ、西申に霊景を曜し、震旦に虹光を閟し、物を済い道を弘めて、眇然として宗徳に帰す。
粵若大和上三藏法師玄奘,體睿舍真、履仁翔慧,九門禪宴證靜於融山、八萬玄津騰流於委海,疊金牆而月曜、峻玉宇而霞騫,軼芳粹於澄蘭、孕風華於龍翼。悼微言之匿彩、嗟大義之淪暉,用啟誓言、肆茲遙踐,泳祥河之輟水、攀寶樹之低枝、循鏤槓以神遊、𨈆霙峰而安步,昇紫階而證道、瞰玄影以嚴因。採奧觀奇,徙蒼龍於二紀;緘檀篆貝,旋白馬於三秦。我
大和上三藏法師玄奘に至るや、睿を體して真を舎て、仁を履んで慧飛んで、九門の禅定は融山に静を証し、八万の玄津は委海に騰流し、金牆を曡ねて月照らし、玉宇を峻として霞舉し、芳粹は澄蘭を超越して、風華は龍翼を孕育す。微言の彩を隱すを痛悼し、大義の暉を淪するを感嘆して、ここに誓言を發して、遠く行きて踐履し、祥河の已に停まる水を泳ぎ、寶樹の低垂の枝を攀ぢ、鏤杠に循って神遊し、𨈆霙峰に安歩して、紫階に升って道を証し、玄影を瞰いて以って因を嚴す。奥を採り奇を観して、蒼龍を二紀に遷し、檀を緘して篆貝し、白馬を三秦に旋す。我が
大唐慶表金輪、禎資樞電,奄大千而光宅、御六辯以天飛,神化潛通、九仙賮寶,玄猷旁闡、百靈聳職,凝旒邃拱,杳通夢於宵暉;掞組摛華,煥騰文以幽贊。爰降綸旨,溥令翻譯,勅尚書左僕射燕國公於志寧、中書令高陽公許敬宗等潤色,沙門釋神泰等證義,沙門釋靖邁等質文。肇自貞觀十九年,終於顯慶之末,部將六十,卷出一千。韜軼蓬萊、池湟環㴾,載隆法寶、大啟群迷,頌德序經並紆宸藻,玄風之盛未之前聞。粵以顯慶四年龍捿葉洽,玄英應序,厥閏惟陽,糅茲十釋四千五百頌,彙聚群分各遵其本,合為一部勒成十卷。月窮於紀,銓綜雲畢,精括詁訓、研詳夷夏,調驚韶律、藻掞天𨓍,白鳳甄奇、紫微呈瑞,遂使文同義異若一師之製焉,斯則古聖今賢其揆一也。
(沈玄明続けて曰く:)大唐は慶して金輪を表し、禎して樞電を資して、大千を奄有して光宅し、六辯を御して天飛し、神化は潜かに通じて九仙は寶を賮り、玄猷は旁ら闡きて百靈は職を聳え、凝旒邃拱して、宵暉に夢を杳通す。組を掞いて華を摛いて、文を焕騰して以って幽贊す。ここに綸旨を降して、普く翻訳せしめて、尚書左僕射燕國公于志寧・中書令高陽公許敬宗等に潤色を敕し、沙門釋神泰等に義を証せしめ、沙門釋靖邁等に文を質せしむ。貞観十九年より起こりて顯慶の末年に至るまで、部は将に六十、卷は一千を出だす。蓬萊を韜軼して、環㴾を池湟して、法寶を隆く載せて、群迷を大いに啓きて、徳を頌し経を序するは倶に宸藻を紆回す。玄風の盛んなるは前未だ聞かず。顯慶四年に至りて、歳は叶洽に在り、玄英は序に応じて、その閏は惟陽なり。この十釋の四千五百頌を糅めて、群分を匯聚して各々その本を遵りて、合して一部と為して勒して十巻と成す。月は紀に窮まりて、銓綜は畢りて、詁訓を精括し、夷夏を研詳して、韶律に驚きて藻掞して天𨓍に調え、白鳳は奇を甄して紫微は瑞を呈す。ここに文同じく義異なるをして一師の制する所の若くせしむ。これすなわち古聖今賢、その揆は一なり。
三藏弟子基,鼎族高門、玉田華胄,壯年味道、綺日參玄,業峻林遠、識清雲鏡,閑儀玉瑩,陵道邃而澄明;逸韻蘭芳,掩法汰而飛辯。緒僊音於八梵,舞霄鶴以翔禎;摛麗範於九章,影桐鸞而絢藻。昇光譯侶,俯潛叡而融暉;登彩義徒,顧猷暢而高視。秀初昕之琁景,晉燭玄儒;矯彌天之絕翰,騰邁真俗。親承四辯、言獎三明,䟽發戶牖、液導津涉,繢功資素、通理寄神,綜其綱領、甄其品第,兼撰義䟽傳之後學。庶教蟠黃陸,跨合璧於龜疇;祥浮紫宮,掩連珠於麟籀。式罄庸謏,敘其宗致雲。
三藏の弟子基(窺基)は、鼎族高門にして玉田の華胄、壮年にして道を味い、綺日に玄に參して、業は峻く林遠にして、識は清く雲鏡、閑儀は玉の瑩とし、道を陵して邃く澄明なり。逸韻は蘭の芳にして、法汰を掩いて辯を飛ばす。仙音を八梵に緒して、霄鶴を舞して以って禎に翔り、麗範を九章に摛いて、桐鸞を影して絢藻す。光を升るる訳侶は、潜叡を俯して暉を融し、彩を登るる義徒は、猷暢を顧みて高視す。初昕の璇景を秀でて、玄儒を晉燭し、弥天の絕翰を矯めて、真俗を騰邁す。親しく四辯を承けて、言は三明を獎し、戸牖を疏發して、津渉を液導し、功を繪して素を資し、理を通じて神に寄して、その綱領を綜え、その品第を甄し、兼ねて義疏を撰して後学に傳う。庶くは教は黄陸に蟠して、合璧を龜疇に跨ぎ、祥は紫宮に浮かびて、連珠を麟籀に掩わん。聊か浅陋を尽くして、その宗旨を叙述することこの如し。
