壬学琐记
自記の縁起:随筆を以て記事珠に当つ
大六壬典籍
まず起課と三伝を発する機械的な流れを確実にしてから、課体と神煞に入る。起課を飛ばして断語だけ読んでも、書中の例を自分で再現できない。
侄夔の跋
唐時功令,以奇門、雷公、六壬為三式,雷公即太乙,所謂太乙雷公式是也。唐時禁奇門、雷公不傳,惟六壬便於民用,不涉兵事,故不之禁,傳其歧多,精者獨鮮。
唐代の法令は奇門・雷公・六壬の三門の術数を併せて「三式」と称す。ここに言う「雷公」はすなわち「太乙」、古書の所謂「太乙雷公式」が指すは正にそれなり。唐代の朝廷は奇門と雷公の両式の外伝を明令して禁ず、これら両門が皆軍国の用兵の事に牽渉するを以てなり。ただ六壬のみ百姓が日常に事を問うに便く、兵機に渉らず、ゆえに査禁の列に在らず。また正に禁絶なきを以て、六壬の流伝する支派は殊のほか繁雑にして、各家の師承は雑出し、真に精通する人はかえって稀少なり。
叔父承偉堂族祖之傳,肆習有年,占驗輒中。猶憶庚申之亂,里黨為墟,叔父之灼見機先,寓書親友,謂八月有凶,聞者疑信參半,至期果應,遂群服無閒言。以偉堂族曾祖手錄秘秩甚夥,曾為刊《大六壬一字訣玉連環》,今又復刊《畢法集覽》《壬學瑣記》兩種,而《瑣記》一書昭示後學尤切。剞劂甫竟,見示全冊,命綴數語於後。夔不諳數學,何敢漫言?爰舉夙昔所聞推驗之一端,抑以驗同志,抑以見藝術亦有分途,而法守必宗正軌,則技也進於道已。
我が叔父は族祖・偉堂公の伝授を継ぎ、多年用功して研習し、占断は往々にして応験す。未だ庚申年のあの兵乱を記憶す、郷里は焼かれて一片の廃墟と為る、叔父は事の先に苗頭を看出し、信を書して親友に告知し、八月の裏に凶险ありと言う。聞く者は半信半疑、あの月に到り果して応験し、是に於て衆は皆心服口服、さらに閑話なし。族曾祖・偉堂公の手ずから抄録したる秘本は多し、叔父は先前すでに《大六壬一字訣玉連環》を刊行せり、如今重ねて《畢法集覧》と《壬学瑣記》の両種を刊刻す、その中《瑣記》の一书は後学への指点が殊に切要なり。雕版は剛に完工し、叔父は便ち全書を拿て我に看せ、書の後に数句を写さんことを要す。我は並べて術数の学を通暁せず、どうして敢えて随に口に議論せんや。ただ平日聴き来りし一椿の推験の事を挙げて後に附するのみ。一には同好に求证せんがため、二にはまた技芸は門類は各別なるといえども、法度を持守するは必ず正路を遵循せねばならぬを説明せんと欲す――この一步を能くすれば、技芸もまた上昇して「道」と為すなり。
光緒七年歲次辛巳立夏後五日,侄夔謹跋。
光緒七年、干支の紀年は辛巳(公元一八八一年)、立夏の後の第五日、侄児の程夔、恭んでこの跋語を書す。
六壬瑣記
自記の縁起:随筆を以て記事珠に当つ
予資拙而多健忘,凡有見聞及屢試屢驗者,隨筆記之,不能分其門類,聊當懷中記事珠云爾。
我は天資が愚鈍にしてまた健忘、およそ平日の見聞の得る所、および自己が反復して試用し屡々応験せる心得は、皆手に随い記録し、精力なくしてさらに門類に拠りて編排整斉する能わず、姑くこれらの札記を以て古人の懐中に揣えたるあの顆の「記事珠」に当て、用いて自己の事を記するを助くるのみ。
六壬の源起:諸家の説は皆猜度に属す
六壬不知始於何時。《雲笈七籖》云:上皇三年七月二十九日壬子,太真皇人下授黃帝六壬式圖、六甲三元、遁甲造式之法,法威天下,流傳子孫。黃梨洲《易學篆數總論》以《國語》中伶州鳩之論七律即是六壬之法;馬端臨《文獻通考》六壬出於秦;張鋐《說約》則據《漢書·律曆志》注“大橈作甲子,占斗罡所建,探五行之精”,是六壬當始於大橈,成於隸首;焦裡堂先生獨云:徐嶽《術數記遺》所謂“周公掯悶”“孔子三不能”“西老成子四維”等數即六壬之天地盤,大端皆猜度之言。
六壬は何の時代に起こるや、すでに査考する由なし。《雲笈七籤》に記す:上皇三年七月二十九日壬子のあの日、太真皇人が下降し、「六壬式図」および六甲・三元・遁甲造式の法を黄帝に伝授す、この法は威が天下に行われ、世代に子孫に流伝す。黄宗羲(号は梨洲)は《易学象数総論》(底本は「象」を「篆」と訛す)の中に於て、《国語》の裏の伶州鳩が七律を討論するあの段の話は、講ずるはすなわち六壬の法なりと認む。馬端臨の《文献通考》は則ち六壬は秦代に出ると言う。張鋐の《説約》は《漢書・律暦志》の注文「大撓が甲子を創制し、北斗の斗柄の指す処を観測し、五行の精微を探究す」の一句に依拠し、六壬はあたうべく大撓に創始し隷首の手に完成すと主張す。焦循(号は里堂)先生の看法はまた同じからず、彼は徐岳の《術数記遺》の裏に提到する「周公掯悶」「孔子三不能」「西老成子四維」のこの数種の数術は、すなわち六壬の天盤と地盤なりと言う。以上の諸説は、大体の上に皆推測・揣度の詞に属し、誰も確証を拿出する能わず。
然讀《吳越春秋》《越絕書》子胥、少伯諸占,與今時六壬無異,則其來久矣,吳越已。觀於《春秋傳》,左氏好言卜筮,何以不及六壬?然則《吳越春秋》《越絕書》所載亦難必其真確。而著此二書者為趙煜、袁康,二者皆後漢時人,可知後漢時始有六壬矣。今見《天官壬學》一書,內有《端木夫子十二字經》《顓孫夫子二十七字經》,豈因子貢億則屢中、子張才高藝廣,有十世可知之問,故依記而成此二篇歟!何其寥寥數語,初無異人處也。
ただし《呉越春秋》と《越絶書》の裏の伍子胥・范蠡(字は少伯)らの占例を読めば、その推法は今天の六壬と毫も二致なし、以て見るべしこの門の術数は由來すでに久しく、早くも呉越の争覇するの時にすでにこれ有りき(「呉越已」の三字は底本に脱誤有るに似たり、姑く文意に依りてこの句と読む)。しかし反対に《春秋左氏伝》を看れば、左丘明は最も卜筮の事を記載するを愛す、なぜ偏に六壬を提げずや。こう言えば、《呉越春秋》《越絶書》の記する所のあの些の占例も、また断じ難し便ち真実にして可靠なりと。いわんやこの両部の書を編写する趙煜(趙曄と作るべし)と袁康とは皆後漢の時の人、これに由りて推断すれば、六壬は大概して後漢に至りて始めて出現す。近来我はまた一部の《天官壬学》を見、書の裏に《端木夫子十二字経》と《顓孫夫子二十七字経》を収む。端木賜はすなわち子貢、孔子は彼を「億すれば則ち屢々中る」と称す、事を揣度して常常に言い中つ。顓孫師はすなわち子張、才は高く技芸は博通し、かつて孔子に向かって「十世は知るべし」の疑問を提出せり――大概に後人はすなわちこの両椿の故実に附会し、名を托して編成するはこの両篇ならん。実は内容は不過寥寥の数語、圧根に何の過人の処有るを看出す能わず。
三式出世の先後:六壬が最も先、奇門はそれに次ぎ、太乙が最も晩し
太乙、奇門、六壬,古稱三式。愚以為六壬最先出,奇門次出,太乙晚出。何以明之?觀六壬純用干支神將推演,並不用九星、八門、文昌、計都等項,以是知其先出。奇門所用天三門、地四戶、天馬方則採用六壬矣。太乙所用九星、八門、五符等類,則採用奇門、六壬矣,以是知二書皆在六壬之後也。三式雖以太乙為尊,但其積算推至一千萬年以上,荒渺無稽,況天運循環、國祚修短,何敢予知?固不若六壬之切於日用而又不干例禁也。
太乙・奇門・六壬の三門、古人は合せて「三式」と称す。我は以てその中で六壬の出現するが最も早く、奇門はその次、太乙は最も晩し。何を以てかく言うや。六壬の推演を看るに、全部ただ天干・地支と十二天将とを用うるのみ、並べて九星・八門・文昌・計都のこれらの名目を掺入せず、以て見るべしそれは前に出現せり。奇門の用いる所の「天三門」「地四戸」「天馬方」は、明に拝するに六壬の裏より取り来れるもの。太乙の用いる所の九星・八門・五符の一類は、則ち奇門と六壬の両家のものを皆取れるもの。これに由りて知るべし、奇門・太乙の両家の書は皆六壬の後に成れり。三式の中は太乙を以て地位は最も尊しといえども、しかしその積年の推算は動もすれば一千万年以上に上遡し、渺茫として稽考する由なし。いわんや天道の循環・国運の長短のこの種の事、凡人はどうして敢えて予め断言せんや。ゆえに太乙は終に六壬のごとく日用に貼近日せず、また朝廷の禁令を触犯せざるに如かず。
六壬の得名:宋人・祝泌・《未悟書》・張江村の諸説
六壬之名,說者不一。有云水生於一、成於六,故名六壬者,宋人也。有云《周易》以乾卦為首,乾內卦納甲,故奇門稱遁甲;外卦納六壬,故稱六壬者,祝泌也。有云天一生水,天五生土,合而成六壬,字上一撇象水之朝東,下一畫重者像地之厚載,中一畫長者,縱則為天地,橫則為宇宙,六壬與天地宇宙同用,加以水土生育之功,有厚載之至德,故云六壬者,《未悟書》中語也。有云乾為天屬金,壬承天屬水,壬得天之氣,即洩天之機,故云六壬者,張江村也。至《六壬廛談》則云:本旬有壬將主事,當於排天地盤時,默祝曰“本旬壬某神將護我”,判籤則自然響應,於壬將本日拜之,則壬將默助,有斷即靈,是又以六壬為神祗矣。
「六壬」のこの名称の來歴は、各家の説は不一なり。ある人は言う、水は五行の生成数の裏に「一に生じ六に成る」、ゆえに六壬と叫ぶ、これは宋人の講法なり。ある人は言う、《周易》は乾卦を以て首に居り、乾卦の内卦は甲を納す、ゆえに奇門は「遁甲」と叫ぶ。乾卦の外卦は壬を納す、ゆえにこの門は「六壬」と叫ぶ、これは祝泌の講法なり。ある人は言う、「天一は水を生じ天五は土を生ず」、一と五と相合して六と成る、ゆえに六壬と名づく。さらに「壬」の字の字形を拆解す。上の一撇は水の東へ流れ去るに象り、下の一横は厚く写して大地の承載に象り、中の一横は最も長し。竪に看れば天地、横に看れば宇宙なり――六壬は天地・宇宙と同一の功用、さらに水土の万物を生育するの功・厚徳に物を載するの至徳を加う、ゆえに六壬と称す、これは《未悟書》の裏の話なり。ある人は言う、乾は天にして五行は金に属し、壬は天を承けて水に属す、壬はすでに天の気を得、また能く天の機を泄露す、ゆえに六壬と叫ぶ、これは張江村の講法なり。《六壬廛談》に至っては、説法はいっそう玄なり。それは講ず、毎一旬の中に皆一位の「壬将」あって値して主事し、天盤・地盤を排布する時はあたうべく默默と祝告して「本旬の壬某神将が我を護佑せん」と、このように簽象を判断すれば自ずから霊応す。その壬将の日を値するのあの日に彼を礼拝すれば、壬将は便ち暗中に相助け、何を断ずとも何も霊なり――これはすでに六壬を以て神祇と為して供奉するなり。
《金旨占論》:壬を以て一旬の最も重き神と為す
《金旨占論》則曰:“旬內之壬各有主,如甲子旬壬申,丙寅日以申為財,即不求財,亦有意外之得;乙丑日以申為官,即不求官,亦有得名之事,否則口舌官非。”是又以壬為最重之神,故以六壬立名矣。諸說紛紛,未知誰是,姑集於此,請教高明。
《金旨占論》はまた言う。「毎一旬の裏の『壬』は各々主る所有り。たとえば甲子のこの一旬、壬は申に落つ、それならば丙寅日は申を以て『財』と為す、たとい求財を問い来たるにあらざるとも、また意外の進項有らん。乙丑日は申を以て『官』と為す、たとい功名を問い来たるにあらざるとも、また名声を博するの事有らん、然らざれば則ち口舌の官司を閙さん。」これはまた「壬」を看作して一旬の中の最も緊要のあの位の神と為し、因りて「六壬」を用いて命名す。以上の諸説は紛々として不一、我もまたどの家が対なるかを知らず、姑くそれらをここに彙集して、高明の士に請教す。
楓天棗地:式盤の制と四課・三伝
《景祜神定經》云:壬式楓天棗地,朝向東,暮向西。董說《詩》云:“藜杖讖圖文訂楓天神,式將移壬。”蓋古人以楓木規為天盤,棗木規為地盤,向太陽旋而用之,以觀上下相加,發四課與三傳也。
《景祐神定経》(底本は「祐」を「祜」と作る)に言う。六壬の式盤は楓木を以て天盤と作り、棗木を以て地盤と作る、早朝は東に朝り、傍晚は西に朝る。董説の詩句「藜杖に讖図文を訂し楓天の神、式将は壬を移さん」、言う所は正にこの事なり。もとは古人は楓木を旋じて円盤と為して「天盤」と作り、棗木を旋じて円盤と為して「地盤」と作り、使用する時は太陽の方向に朝って天盤を転動し、さらに天盤と地盤とが上下に相畳したる後の各宮の対応関係を看、これに拠って「四課」と「三伝」とを起出す。所謂る「四課」は、日干・日支が各々両重の神を配出して成るの四組、全課の根柢と為る。「三伝」は則ち初伝・中伝・末伝、分別に一件の事の起頭・中段と結局とを代表す。
月将はすなわち太陽
月將即是太陽,以太陽加正時,順布十二宮,則與天上星宿所臨方位相符,故陰陽動盡天人感應。唐朝王遠知引其師陶宏景之言曰:“六壬精髓,其一為月將,天上太陽隨月而異宮,其光普照四方,故萬事皆見。月將為誤,然後凡事不誤。”此語最為明顯,宋人邵彥和論次客曰:“古次客之法,因數人同時來占,乃用前五後三,換將不換時之例,試之每不驗。蓋燭照禍福,全賴太陽之光明,故以正將正時為最,其次則換時不換將耳。餘則不換將,亦不換時,惟以各人年命為主,課雖同而理則異。區別懸殊,十不失一。”是亦月將即太陽之明證。乃《銀河棹》則曰:“錯認日躔為月將”,而張松源之注,又惑於俗本奇門超神接氣之法,以交接之後據河圖生成數而定月將,殊屬無謂。
「月将」はすなわち太陽が当月に在る所の宮位なり。月将を課を起こすの「正時」の上に加え、十二宮に順い依次に排布すれば、天盤の各宮は便ち天上の星宿の実際に臨む所の方位と相合し、是に於て陰陽の消長は尽くその中に収め、天人は以て感応を得。唐代の王遠知が彼の師・陶弘景の話を転述して言う。「六壬の精髓は、頭の一条はすなわち月将なり。天上の太陽は月份に随いて宮位を更換し、その光は普く四方を照らす、ゆえに万事は皆照見し得。月将錯らざれば、然る後に凡事もまた錯らず。」(底本のここは「不誤」を「為誤」と訛す。)この句は道理を説くこと最も透徹なり。宋人の邵彦和は「次客」――すなわち几位の客人が同時に占いを求めればどう区分すべきか――を討論する時に言う。「旧時の次客の法は、数人が同時に来りて占うに遇えば、則ち『前五後三』、月将を換えて時辰を換えざるの成例を用う、我は試し下すに常常に験あらず。須らく知るべし、能く禍福を照見するは全く太陽の光明に頼る、ゆえになお以て本人の正将・正時に課を起こすを最上と為す。一歩退けば、またただ時辰を換えて月将を換えざるのみ。さらに下へ往けば、便ち将と時とも換えず、単に各人の行年・本命を以て主と為す――課は同じなるといえども、しかし理路は人に因りて各々異なり、判じ出せば差別は悬殊にして、十次も錯るは一次に及ばず。」これはまた月将がすなわち太陽の明証なり。しかし《銀河棹》はしかし言う「太陽の躔する所の度数を錯って月将と為すこと勿れ」と。しかして張松源が注を作る時、また通俗本の奇門の「超神接気」の算法に迷えて、節気の交接の後に《河図》の生成数に依りて月将を定むべしと主張す、実在に毫も道理なし。
月将を交るの法:恒気と定気との別
交月將之法,古書間有異同,然總在中氣之後,或一日二日,或三日五日不等。故人所用者恆氣,每年二十四氣勻派,而太陽行度有盈縮,未必恰於交中氣之日時過宮。況其過宮,又限定於某宿某度,是以有一日二日、三日五日之殊。今時憲書則以定氣為主,故太陽即於交中氣日時過宮,便換月將,此正合天之妙。張松源之注《銀河棹》以月將並非太陽,宜其另生一法而交月將。及陳耕山作《三才發秘》,誤解“步戌成歲”一語,以為正月太陽在戌宮,更可笑也。
月将を更換するの具体の日期は、古書の記載は互いに出入あり、しかし総じて「中気」の後に在り――二十四節気の中に排して後の一半なる雨水・春分・穀雨の類を中気と言い、旧法は中気を以て将を換るの界線と為す――あるは一二日を差し、あるは三五日を差す。これは旧時の用いる所は「恒気」、一年の二十四気を平均して分派するを以てなり。しかして太陽の実際の運行は快あり慢あり、未だ必ずしも恰好に中気を交るのあの日の時辰に宮を過ぐるを得ず。いわんや宮を過ぐるはなお限定して某宿・某度の上に在り、ゆえにこそ一二日・三五日の参差あり。如今の《時憲書》は改めて「定気」を用い、太陽は便ち中気を交るの日時に宮を過ぎ、随い即ち月将を更換す、これこそ真に天行の妙に合す。張松源が《銀河棹》に注するは、もとより月将は太陽にあらずと認定せり、彼が別に一套の交将の法を立てんことを怪しむに足らず。陳耕山が《三才発秘》を写すに至っては、「歩戌成歳」のこの句の話を理解するを錯り、竟に以て正月の太陽は戌宮に在りと為す、それはいっそう笑うべきなり。
月将誤るといえども大事はなお験するの故
“月將不誤,然後凡事不誤。”此至言也。乃《指南占驗》嘗有誤用月將而大事仍驗者何也?蓋無心之錯,機即隨之,故能符合相應。若有意標奇示異,恐未必然也。
「月将錯らざれば、然る後に凡事もまた錯らず」、これは至理の名言なり。しかし《六壬指南》の載する所の占験の中にも、月将を用うるを錯りて大事が照様に応験するの例あり、これは何の故ぞや。大概それは無心の失、天機はこの無心に随いて動くを以て、ゆえに仍旧に事実と吻合し得。倘しこれ有らん意に標新立異して、故に錯りを用いて奇を炫わんとせば、恐らくは便ち未だ必ずしも霊験ならざらん。
《銀河棹》の両種およびその偽りて姚広孝に托するの疑
《銀河棹》有兩種,一種不言遁干,不知誰人所輯,乃雜採諸書而成,為書六卷,惜選擇不精,又多訛錯。一種專用遁干,七言詩僅十六句,又擇以四言數十句,以為出於姚廣孝。寧波張松源詳註《馬松源自序》云:“姚少師得此書而藏之內府,正統中土木之變,蓉城孫南葉先生於燕臺曾門室中得之,未有師傳也,後從史道鄰兵憲於安慶,始遇異人指授,遂精其學。餘懇求再四,僅以經文相授。”按正統土木之變,距史公在安慶約為一百八十餘年,竊恐南華先生未必有此高壽。彼松源者,焉從執贄而求之哉?其用遁干,雖本《中黃經》,而又分出天地人三遁,已為節外生枝,至於月將貴人起例,一切與他書迥異。若依此推斷,則唐宋以來諸書咸不可信矣。況廣孝初見成祖,懷中出太平錢五枚,並非六壬也哉!
《銀河棹》には両箇の本子あり。一種は「遁干」を講ぜず、誰が編成したるかを知らず、ただ雑に各家を抄して成るのみ、共に六巻、惜しむべし取材は精ならず、また訛誤多し。もう一種は専ら遁干を講ず、七言の歌訣はただ十六句のみ、別に数十句の四言を選配し、姚広孝の手に出ずと言う。寧波人の張松源がそれに詳注を作り、自序の中に言う。「姚少師(姚広孝は官は少師に至る)がこの書を得て後、内府に蔵す。正統年間に土木堡の変が発生し、蓉城の孫南葉先生は燕台の曽門の室中に於てそれを得、しかし師承の指点なし。後に彼は安慶に到り兵備道の史道隣に追随し、こそ異人に遇い当面して指授せられ、是に於て此学に精通す。我再三懇求すれども、彼もまたただ経文を我に伝授するを肯んずるのみ。」按す。正統の土木の変より史可法の安慶に任職せるまで、中間におよそ百八十有余年、おそらく孫南葉は未だ必ずしもこの様の高寿あるべからず(底本は前文は「南葉」と作り、ここは「南華」と作る、当に一人に係るべし)。それならば張松源はまた誰に向かって礼を執りて教えを求め得んや。彼の遁干を使用するは、言うに《中黄経》に本ずといえども、また分かちて天遁・地遁・人遁の三種を出す、すでに節外に枝を生ず。月将・貴人の起例に至っては、いっそう一概に別家と迥然として同じからず。もし彼のこの一套に依りて推断せば、唐宋以来の六壬の諸書は便ち全く信ずべからざらん。いわんや姚広孝の初めて明の成祖に謁見する時、懐中より五枚の太平銭を掏出して以て占卜す、用いるは根本より六壬にあらざるをや。
《銀河棹》の陰陽貴人が自相矛盾す
《銀河棹》以子至巳為陽,用陰貴人;午至亥為陰,用陽貴人;復有責陰神。假如例一課,戊戌日寅時戌將,明明寅是陽時,當用陰貴人,乃作陰時而用陽貴人丑,何也?以子之矛,攻子之盾,張氏窮矣。
《銀河棹》に規定す。子時より巳時に至るは陽に属し、陰貴人を用うべし。午時より亥時に至るは陰に属し、陽貴人を用うべし。このほかまた別に一箇の「陰神を責む」の名目を立つ。しかしそれ自身の書中に挙ぐる所の一箇の例課、戊戌日・寅時・戌将、寅は明らかに陽時、それの定むる所の規矩に拠れば則ちあたうべく陰貴人を用うべきに、それはしかし陰時と作して陽貴人の丑を取る、これは何の道理ぞや。彼自身の矛を拿て彼自身の盾を戳さば、張氏は便ち言う可き無し。
貴人を起こすの法:先天・後天の坤上に甲を起こす
起貴人法,論理當從先天後天坤上起甲,先天坤在子,故在子上起甲,順布十干,不加魁罡,不加子所沖午;取其干合為陽貴人。後天坤在申上起甲,逆布十二,不臨魁罡,不臨申所沖之寅,取其干合為陰貴人。嘗讀《吳越春秋》七月辛亥日平旦大吉為白虎而臨辛,功曹為太常而臨亥,則知辛日陰貴果在午,三月甲日陽貴果在丑。《晉書戴洋傳》十月丁亥夜半,從魁為貴人加丁,則知丁日陰貴果在酉,是皆起貴人之明證。而《六壬元女經》,其第一繫天乙所在,甲戊庚日旦大吉,夕小吉;乙己晝神后,夜傳送;丙丁日旦登明,暮從魁;辛日晝勝光,夜功曹;壬癸日晝太乙,夜太沖。此書出於隋朝,厥後徐道覆、凌福之、元軫、劉日新、苗公達等咸遵之,則相沿已久矣。
「天乙貴人」を起こすの方法は、理に拠ればあたうべく先天・後天の両箇の坤位の上より甲を起こすべし。先天の坤位は子に在り、ゆえに子の上より甲を起こし、十二宮に順いて十干を排布し、「魁罡」(辰・戌の二宮)に遇えば加えず、子と相冲する午もまた加えず、本日の日干と相合するあの一位を取りて「陽貴人」と作す。後天の坤位は申に在り、便ち申の上より甲を起こし、逆に十二宮を排布し、同じく魁罡に落ちず、また申と相冲する寅にも落ちず、日干と相合する者を取りて「陰貴人」と作す。我曾《呉越春秋》を読む、その中の七月辛亥日平旦の一課、大吉(丑)は白虎と為りて辛に臨み、功曹(寅)は太常と為りて亥に臨む、これに由りて知るべし、辛日の陰貴は果して午に在り、三月甲日の陽貴は果して丑に在り。《晋書・戴洋伝》の載する所の十月丁亥日・夜半の一課、従魁(酉)は貴人と為りて丁に加わる、これに由りて知るべし、丁日の陰貴は果して酉に在り――これらは皆貴人を起こすの法の明証なり。しかして《六壬元女経》は巻を開く第一条に便ち天乙貴人の所在を列出す。甲・戊・庚日は昼は大吉(丑)を用い、夜は小吉(未)を用う。乙・己日は昼は神后(子)を用い、夜は伝送(申)を用う。丙・丁日は昼は登明(亥)を用い、夜は従魁(酉)を用う。辛日は昼は勝光(午)を用い、夜は功曹(寅)を用う。壬・癸日は昼は太乙(巳)を用い、夜は太冲(卯)を用う。この書は隋代に出ず、その後の徐道覆・凌福之・元軫・劉日新・苗公達らの人は皆それを遵用す、以て見るべしこの一套は沿袭すでに久しきを。
貴人の旦暮を治むる:太陽の出入を以て準と為す
貴人治旦暮,或以日出為旦,用陽貴;日入為暮,用陰貴。或以卯至申時用陽貴,酉至寅時用陰貴。《六壬心鏡注》云:“用晝夜長短分旦暮”,則以太陽出入為準可知矣。
貴人は白天と夜晚とを分管す、一体何を以て界と為すか、両種の講法あり。一種は日の出を以て「旦」と為して陽貴人を用い、日の落つるを「暮」と為して陰貴人を用う。もう一種は則ち一律に卯時より申時に至るを以て陽貴を用い、酉時より寅時に至るを以て陰貴を用う。《六壬心鏡注》に言う「昼夜の長短に按して旦暮を划分す」、以て見るべしそれの主張する所は太陽の実際の出没を以て準と為すにして、固守して固定の時辰の界線に死せざるなり。
丙日の陰貴は亥に在り:維揚の水路に険に遇うの験案
予以甲戌年閏二月丙子日戌將戌時,卜往維揚,見鬼臨三四,水路有災。幸末傳有長生可求,即於次日啟行。戊寅日三更,舟為巨石碰傷,大水冒入而受大驚。是子鬼乘蛇之故,然則丙日陰貴在亥矣。若以酉為貴人,則子鬼乘元武,當主盜賊矣。
甲戌年・閏二月・丙子日、戌将・戌時、我は自己の揚州に前往するを一課占し、「鬼臨三四」を見る――官鬼は第三・第四課の上に落つ――主として水路に災あり。幸いに末伝は「長生」を帯び、なお指望すべきの処あり、便ち第二天に啓程す。戊寅日の三更に到り、船は巨石に撞えて壊れ、大水は艙に灌ぎ入る、着実に一场の大驚を受く。これは正に子水の官鬼が螣蛇を乗するの応ずる所なり。これに由りて反証す。丙日の陰貴人は確かに亥に在り。倘若ももう一種の説法に照らして酉を以て丙日の貴人と作さば、それならば子鬼の乗る所は玄武と成る(底本は「元武」と作る、避諱の為に改めしなり)、断じ出せばあたうべく盗賊の災なるべし、実情と便ち対せざらん。
三経は過簡なり、《中黄経》の遁干を出すは六壬の一変
《金匱》、《玉門》、《曾門》三經,似覺太簡。蓋作書之初,斷法未備,後則踵事增華,又未免稍有穿鑿。《中黃經》出遁干,則又六壬之一變。
《金匱》《玉門》《曽門》のこの三部の経は、読み来って総じて以て簡略に過ぐると為す。大概に書の成るの初は、断法はもとより斉備せざりき。後世は踵む事に華を増し、いよいよ補いていよいよ細密と為る、また不免に些か穿鑿附会あり。《中黄経》に到りて「遁干」の法を提出するに至りては、それはさらに六壬の一次の大変なり。
《中黄経》の抄本と初建・復建の遁干
《中黃經》之名,見於焦竑《經籍志》,然不知誰人所著。是書各家抄本錯漏遺誤最多,難以較正。家惠蒼小阮得一本於淮陰,其註明白直捷,雖用遁干而不專憑,遁干待散。何為初建?日干五子元遁是也。何為復建?時干五子元遁是也。以建干多寡逐情而變,不執本支五行。由是觀之,生中有鬼,財中有克,窮在建干變化也。
《中黄経》のこの書名は焦竑の《経籍志》に見ゆ、しかし作者が誰なるかを知らず。この書は各家の抄本は錯漏最も多く、校正し難し。我が家の恵蒼の賢侄は淮陰に於て一箇の本子を得、注文は明白にして直截、遁干を用うるといえども、並べて一味に遁干を依頼せず。遁干の用法はなお疏通を待たん。何をか「初建」と言う。すなわち日干に拠って「五子元遁」を起こす――日干を以て子時に配して遁を起こし、順推して各時の干を推す――得る所のあの天干なり。何をか「復建」と言う。すなわち占時の干に拠って五子元遁を起こして得る所の天干なり。得る所の建干の多寡に依拠し、事情に随いて霊活に変通し、死守して本位の地支の五行に死せず。こう看れば、相生の中には暗に官鬼を蔵すること有るべく、財爻の中には暗に剋害を蔵すること有るべし、その中の曲折は全く建干の変化の上に在り。
朱恒の論ずる所の吉凶を断ずるは遁干に憑らず
朱恆又曰:“若取來情,當以聚散鬼救論。若斷休咎,只用日干為主,與正時三傳生克論始終平安,不必用變求奇。古人有云,求奇反不奇也。”愚按:朱恆此言最為明顯,歷觀徐道符、元軫、苗公達、劉日新、邵彥和諸公占案內,何嘗憑遁干斷吉凶耶?朱恆,元末明初之松江府人,見於《一字訣玉連環跋》,又見《五要權衡跋》。
朱恒はまた言う。「もし来人の心の裏の占む所は何の事かを推測せば、あたうべく課体の聚散・鬼爻と救神とより判断すべし。もし吉凶・禍福を断ぜば、ただ日干を以て主と為し、正時と三伝の生剋とを配合し、事情の自始至終に平安なるか否かを論断す、必ずしも花様を翻新して奇を求むるに靠らず。古人に一句の話ありて善く言う。刻意に奇を求めれば、かえって奇ならず。」我が按ず。朱恒のこの段の話は講ずること最も透徹なり。遍く徐道符・元軫・苗公達・劉日新・邵彦和の諸位の前輩の留下せる占案を看るに、どの一条が遁干に憑って吉凶を断じたるか。朱恒は元末明初の松江府の人、その人は《一字訣玉連環》の跋に見え、また《五要権衡》の跋に見ゆ。
《五悪》の章の験案:己卯日に天時を占す
《中黃經》中《五惡》章予試之,己酉年六月二十五日占天時,戌時午將得己卯日,干上卯虎,三傳未卯亥木局傷干,貴占天門,斷其即有風暴,屋倒驚塌之驚。果至次日未時,迅雷暴雨從西南而起,仰見一紅黑二云,或高或下,各處牆屋斜倒,人以為龍吼相鬥雲。
《中黄経》の裏の《五悪》の一章は、我は試用せり。己酉年・六月二十五日に天気を占し、戌時・午将、己卯日の課を得。日干の上は卯木が白虎を乗り、三伝の未・卯・亥は合して木局を成して来て日干を傷り、貴人はまた「天門」の亥位に占住す。我は断じて馬上に風暴あり、屋塌れ墻倒るるの驚険を出すと為す。果して第二天の未時、迅雷・暴雨は西南方より圧して来る、頭を抬げて一紅・一黒の両片の雲を見、忽ち高く忽ち低く翻巻し、各処の墻屋は紛々として歪み倒れ、人は皆龍の吼叫して相闘うと言う。
《一字訣玉連環》は最も占時を重んず
《一字訣玉連環》最重占時,予嘗試之,果驗,不第占來意用之,凡占時與初傳相沖,或與類神相戰,或於正課有礙,便多不利,縱課傳全吉,亦主阻滯。
《一字訣玉連環》は最も「占時」を看重す、我は試せり、果して応験し、しかもただそれを用いて来人の本意を推測するに止まらず。およそ占時と初伝と相冲するか、あるいは問う所の事の「類神」――その類の事物を代表するあの地支あるいは天将――と相戦するか、あるいは正課に対して妨げ有るは、多半不利なり。たとい課体と三伝とが全然に吉利なるとも、また事の遅滞して受阻するを主す。
六壬は最も正時を重んず:時を報ずるは須らく口に随いて出るべし
六壬最重正時,正時者,吾心忽於此時發動,自與天機感應也。其次則以雷擊棗木制盒搖時,拈門抽籤等法,尤不及報時之準。但報時必須隨口,若稍遲迴,則天機不在。或云,壬將靜則在位,動則周遊天上人間,凡事皆知,故一旬之中各有本旬神將主事,即不占之時,壬將亦在,不在一身之左右,即在書盒之左右,故凡置盒之處,皆須潔淨,則神將敬服,有斷即靈。
六壬は最も「正時」を看重す。所謂る正時は、我のこの顆の心が忽然としてこの一刻に発動し、自ずから天機と相感応するを指す。その次こそ雷撃の棗木を以て制成したる盒子を用いて時辰を摇取し、鬮を拈り籤を抽くの一類の办法、これらは皆求占者の口に随い報出する時辰に准するに如かず。しかし時を報ずるは必ず脱りて口より出ずべし、稍や一たび遅疑し回旋すれば、天機は便ち上に附せず。また一種の説法あり。壬将は静止する時は本位に守り、一たび動き起これば便ち天上・人間を周游し、知らざる事なし。ゆえに一旬の中に各々本旬の神将ありて当値して主事し、たとい課を起こさざるの時も、壬将はまた在り――人身の左右に在らざれば、便ち書盒の左右に在り。これに因りておよそ式盒を安放する所の地方は必ず潔浄ならしめよ、神将はこそ敬服を肯んじ、一断すれば便ち霊なり。
棗木の盒と十二弹の盤に投じて時を取るの法
雷擊棗木盒,以赤珊瑚為珠,此古法也。近見《兵帳賦》氏蒙矢路執示投注云:式者,六壬式也。以擊盤畫十二宮(按擊盤二字不可解,內必有錯誤。)內寫十二神辰,用雷擊棗木或檀木竹十二彈,每彈上刻一辰,十二彈刻十二辰為十二月將,遇昏蒙各按月將取其彈投於盤中,蓋覆搖動,待定啟視,其彈落於何宮,即作正時占之。愚按:比棗制更妙,故錄之。
雷撃の棗木を用いて盒を作り、赤珊瑚を以て珠と作るは、これ古法なり。近来我は《兵帳賦》(原書のここは「氏蒙矢路執示投注」の数字は文義通ぜず、脱訛有らんと疑う)を見て言う。所謂る「式」は、すなわち六壬の式盤なり。円盤の上に十二宮を画き(作者の自注:「撃盤」の二字は講じ通ぜず、内中に必ず錯字あり)、宮内に十二神の辰を写し、さらに雷撃の棗木あるいは檀木・竹料を用いて十二枚の弾丸を做成し、毎枚の上に一箇の地支を刻み、十二枚は合せて十二辰を刻み、すなわち十二月将を代表す。昏昧にして決し難きの事に遇えば、便ち当月の月将に按して相応の弾丸を取出して盤の中に投げ入れ、盤の蓋を蓋えて摇動し、それの停定するを待ちて掲開して看れば、弾丸がどの一宮に落つるか、便ちあの一宮を取りて正時と作して課を起こす。我が按ず。これは棗木盒に時を摇るの老办法よりいっそう妙なり、ゆえにそれを記録す。
虎の遁鬼を乗ずるは未だ必ずしも大凶ならず、ただ干鬼を乗り丁に遁るのみ最も速し
虎乘遁鬼,《畢法》言其極凶,予占恆得之,未見大凶處,惟虎乘干鬼而遁旬丁者,凶動最速。如己巳日干乘丁卯,夜貴作虎星也。
白虎が遁干の現ずる所の官鬼を乗するは、《畢法賦》はこれを極凶の象と言う。しかし我が課を占うに常常にこの種の格局に遇うに、並べて多大の凶险を見出せず。ただ白虎が日干を剋するの官鬼を乗り、しかして遁干がまた恰好に本旬の「丁神」――十干の中に動摇・変化を主るあの一位――なるのみ、凶事の発動はこそ最も速し。たとえば己巳日、日干の上は丁卯を乗り、夜貴の時にまた白虎の星に当たるに輪る、すなわちこの種の情形なり。
《畢法賦》「難を避け生を逃るるは須らく旧を棄つべし」の注が誤って他格に入る
郭氏所刊《畢法賦》內有錯誤一條,今拈出之,“避難逃生須棄舊”注:乙酉日干上亥,辛丑日干上未,比舍益就損格。蓋乙酉日舍去干上亥水之長生而就酉支之鬼克。辛丑日舍去干上未土之生而就丑支之墓,所謂舍益就損也。乃錯列於舍就皆不可格內。
郭氏の刊行せる《畢法賦》の裏に一条の錯誤あり、今それを拈出す。「難を避け生を逃るるは須らく旧を棄つべし」の一条の注文は例を挙げて言う。乙酉日は日干の上は亥、辛丑日は日干の上は未、この両例は「益を舎て損に就く」の格に属す。もとは乙酉日は日干の上の亥水のこの長生の地を舎棄し、転じて日支の酉金の鬼剋に遷就す。辛丑日は日干の上の未土の生扶を舎棄し、転じて日支の丑土の墓庫に遷就す――これこそ有益なるを舎ち、損有るに就くと言う。しかし郭本はしかしこの両箇の例子を錯誤して「舎すも就くも皆不可」の一格の裏に帰れり。
舎すも就くも皆不可の格の正例、兼ねて《大全》の課式の訛を正す
舍就皆不可格,惟有庚子日干上辰,生我者既空,而庚加子支,又脫我氣;庚午日干上戌,生我者既空,而庚加午支,又為日鬼也。己日卯加巳,夜將乘虎而克干,其上所載之課式亦加巳,三傳卯亥未。而《大全》則錯作卯加乙,其上所載之課云亦是卯加巳,三傳丑亥酉。
真正に「舎すも就くも皆不可」の格に属するは、ただ両種のみ。庚子日は日干の上に辰を見、我を生ずるの辰土はすでに空に落ち、しかして庚金は子支に加臨してまた我の気を泄す。庚午日は日干の上に戌を見、我を生ずるの戌土はすでに空に落ち、しかして庚金は午支に加臨してまた日干の官鬼と成る。この両例は取るも是ならず舎てるも是ならず、こそ舎すも就くも皆不可と言う。己日の卯の巳に加わり、夜将が白虎を乗りて日干を剋するのこの一課に至っては、原書の附する所の課式もまた卯の巳に加わると作し、三伝は卯・亥・未。《六壬大全》はしかし錯って「卯の乙に加わる」と刻し、しかしてそれ自身の載する所の課語はなお卯の巳に加わると写し、三伝はまた変じて丑・亥・酉と成る、前後は自ら相抵牾す。
蛇乗丁格の原刻の眉批は《大全》に失わる
又《大全》少刻眉批一則:蛇乘丁格,原本眉批云:白虎屬金,故止六甲日忌遁旬內之庚,螣蛇屬火,故止六辛日遁旬內之丁。此批甚為明暢,乃《大全》失之,可惜也!
また、《大全》はなお一条の眉批を漏刻せり。「蛇乗丁格」の下、原刻本の眉批は言う。白虎は五行は金に属す、ゆえにただ六箇の甲日のみこそ本旬の内の庚を遁出するを忌む。螣蛇は五行は火に属す、ゆえにただ六箇の辛日のみこそ本旬の内の丁を遁出するを忌む。この条の批語は所以然を講じて十分に明快・通暢なり、《大全》は偏偏としてそれを丢けり、実に惜しむべし。
郭氏の初刻六巻本と十三巻の《大全》
下博郭御青先生,因梓人徐振南之請刻《畢法賦》二卷,《課經集》四卷,共六卷,每卷首頁則有“徐振南梓”數字,是知為初刻原本,後不知何時復益以七卷,共十三卷,名曰《大全》。原本中《占驗存略》一篇,兵占六課刪去。嘗讀《明史藝文志》有袁祥六壬三十三卷,後觀《蘇州府志》,知袁祥為元和縣人,有《六壬大全》三十六卷。此書必有可觀,惜遍求而不得,若郭氏所較輯者,雖曰“大全”,實多缺略,況較讎未盡善歟?
下博の人・郭御青先生は、書を刻する匠・徐振南の請に応じ、《畢法賦》二巻・《課経集》四巻を刊刻し、合計六巻、毎巻の首頁は皆「徐振南梓」の几字を刻す、これに由りて知るべしそれは初刻の原本なり。後に何時か知らずまた七巻を添え入れ、凑りて十三巻と成し、改めて《六壬大全》と題す。原本の中の《占験存略》の一篇の裏の兵占の六課は、刪去せらるを被れり。我曾《明史・芸文志》を読み、袁祥の六壬書の三十三巻を著録せるを見、後に《蘇州府志》を査し、こそ袁祥は元和県の人、《六壬大全》三十六巻を撰せりと知る。彼のあの部の書は必ず観るべきの処有らん、惜しむべし到る処尋訪して皆得る能わず。郭氏の校輯せる所のこの一部に至っては、号称は「大全」といえども、実は缺漏は甚だ多し、いわんや校勘はまた精審を做し足らざるをや。
凌福之《畢法賦》の自相矛盾する処
凌福之《畢法賦》,因用邵彥和斷案而作,而復參以心得,故其書從考驗中得來,非揣摩五行之比,然亦有矛盾處。如“干乘墓虎無占病”注說既云“辛酉日丑為空墓,猶可畏矣。”,至“受虎克神為病症”注又曰“辛酉日丑作空亡,容易治療”是也。予嘗為人占病,得此課者,毫無一生,縱二月占,丑是生氣,亦不能解。惟年命在辰,則未沖丑墓(以下脫漏十九字)邵氏《斷案》惟有乙巳日干上卯,三傳不用卯寅丑而用辰卯寅,疑《畢法》因此一課而推演者也。
凌福之の《畢法賦》は、邵彦和の断案を取りて骨干と為して写し成し、また自己の心得を参入す、ゆえにこの部の書は実際の考験の中より得て来れり、凭空に五行を揣摩するのあの一類の著作と同じからず。ただし書の中にもまた前後に打架する処あり。たとえば「干が墓虎を乗れば病を占する無かれ」の条の注の裏にすでに言う「辛酉日の丑は空墓、仍旧に畏るべし」、到りて「虎に剋されし神を病症と為す」の条の注の裏に、しかしまた言う「辛酉日の丑は空亡に落つ、医治し易し」、両処は正に相抵触す。我曾人に代わって病を占し、およそこの種の課を得るは、活き得る一箇もなし。たとい二月の裏に占して丑は正に生気の時に当たるとも、また化解する能わず。ただ求占者の年命が辰位に落つる時のみこそ別に論ずべし――底本の続きはただ「未は丑墓を冲す」の四字のみ残り、此下は十九字を脱漏し、文義はすでに不完整、敢えて臆補せず。邵氏の《断案》の中にはただ乙巳日の干上の卯の一課のみ、三伝は卯・寅・丑を取らずして辰・卯・寅を取る、我は《畢法》は正にこの一課に就いて推演出したるを疑う。
陰陽の比と五行の比
有陰陽之比,有五行之比。比用課取初傳,陰陽之比也。《畢法》於甲辰日干上戌,不取戌加甲為用,亦取子加辰,以為戌土畏甲木而不比,是拉入五行之比矣,亦似可商。
「比」には両種の講法あり。一種は陰陽の比、一種は五行の比。所謂る「比用課」が初伝を取るは、憑るは陰陽の属性の相同じきか否か、これは陰陽の比に属す。しかし《畢法》が甲辰日の日干の上に戌を見るに講じて、戌の甲に加わるを用神と取らず、かえって子の辰に加わるを取る、その理由は戌土が甲木を畏懼し、因りて甲と相成らずと曰う――これは便ち五行の生剋の比を拉扯し入れしめたり、おそらくなお商榷するに値せん。
《畢法》は活看すべし 其一:元正が終身の財福を占す
《畢法》一書,最為純正,亦宜融通活法看之,不可拘泥。予憶五十七年正月初十日,族人元正先生占終身財福,其時未交春,尚是丑建,庚辰日子將未時,丑墓並月建加干,根土太固,恐非中傳之未所能沖去。況寅是本命,落於空克之地,休囚無氣,末傳子水螣蛇又脫日干,安可以求財大獲格斷?後果蹇滯。
《畢法》のこの部の書は最も純正、しかしまたあたうべく融会・変通して看るべし、死守して条文に死すべからず。我は乾隆五十七年正月初十日を記憶す、族人の元正先生が来りて一生の財福を占し。当時はまだ立春を交えず、月建はなお丑月、庚辰日・子将・未時の課を得。丑の墓は月建を連ねて一倂に日干の上に加わり、土の根基は太く厚く固し、おそらく中伝のあの未土の冲し開く能くする所にあらざらん。いわんや寅は彼の本命、しかしすでに空亡しまた剋を受くるの位置に落ち、休囚にして気なし。末伝の子水は螣蛇を乗り、また日干の気を泄せり。この様の課、どうして「財を求めて大いに獲る」の格に照らして断ぜんや。後に果して処々に困頓・蹇滞せり。
《畢法》は活看すべし 其二:蘇允文が口岸の財利を占す
又嘉慶十四年三月庚辰日酉將辰時,蘇允文乙丑命占將來就何處口舉,財利若何。得求財大獲格,予見天羅自裹,命上虎鬼,象最凶。況寅馬落空,非特難動,須防災病。後果未往岸店,次年正月暴亡。
また、嘉慶十四年三月庚辰日・酉将・辰時、蘇允文(乙丑年生)は来りて将来どの口岸に到りて事を謀るべきか・財利は如何を占し、起出すもまた「財を求めて大いに獲る」の格なり。しかし我は天羅が自身を纏裹するを見、本命の上にまた白虎が坐して官鬼を帯び、象は最も凶险なり。いわんや寅木の駅馬は空に落ち、ただ動身し難きのみならず、また災病を提防せねばならず。後に彼は果して岸上の店舗に去り成さず、第二年の正月に便ち暴病に身を亡ぼせり。
《畢法》は活看すべし 其三:汪応璧が流年を占す
又十九年正月十八,汪應璧先生丙申命占漢年,此課予亦不以財福斷,支上、行年上見酉為日刃也,為病符,被勾陳夾住,主舊事纏繞不清;財空主財不聚,難望如意。後果如占。二月患外症甚危。蓋丑墓帶血支、血忌,陰神虎鬼,支上病符。占流年以行年為主,行年上亦是病符故耳。其先予未斷出。其危而獲安者,猶賴未沖丑墓,行年上既見比劫,財福定不相宜。
また、嘉慶十九年正月十八日、汪応璧先生(丙申年生)は来りて流年を占す(底本は「流」を「漢」と訛す)。この一課は我は同じく財福に按して断ぜず。日支の上と行年の上とに皆酉を見、酉は本日の「日刃」、また「病符」を充当し、また勾陳に両頭より挟まれ、主として旧事が糾纏して清からず。財爻は空に落ち、主として銭財は聚まらず、称心し難し。後に果して応験し、二月の裏に彼は便ち外科の重症を生じ、十分に危険なり。もとは丑の墓は血支・血忌の両煞を帯び、陰神はまた白虎の官鬼、日支の上にまた病符を坐す。流年を占うは本に応に行年を以て主と為すべきに、しかして行年の上もまた正に病符なり――この一層は我は起初は並べて断じ出せず。彼の危にして復た安なる所以は、なお未土の丑墓を冲し開くを靠れるなり。行年の上にすでに比肩・劫財の来て分奪するを見れば、財と福との両項は便ち注定して順遂せざるなり。
論ずるに年に交生日・未交生日の別あり
今人論年,有交生日、未交生日之殊,此法蓋本之邵氏。然觀其斷案內,止有三課如此,其餘不然。
今人の流年を推论するに、「すでに生日を過ぐる」と「いまだ生日を過ぐらず」との分别あり、この办法は大概に邵彦和に源出す。しかし彼の断案を通観すれば、ただ三箇の課のみこの様に処理す、其余は皆此に照らして办せず、以て見るべし並べて通例にあらずと。
長生の十二位は当に五行に従い順布すべし
長生至胎養十二位,宜從五行論長生,以次順布為是。今人亦有以十干分陰陽順布逆布者,蓋因所傳之書非人,無折中之故也。又以日祿臨官,合而為一,勢不能不分出陰陽順布逆布,則日祿即是臨官,殊不知臨官與日祿本不相蒙。
「長生」より一直に「胎」「養」に到るまでのこの十二箇の位次は、あたうべく五行に按して長生を論じ、然る後に依次に順排してこそ対なり。今人にもまた十天干に按して陰陽を分かち、陽干は順布し陰干は逆布する者あり、それは書を彼に伝えし人がもとより明白の人にあらず、折中・取舍する由なきの故なり。彼らはまた「日禄」と「臨官」とを併せて一回事と成す、此の如くすれば勢い必ず陰陽の順逆を分かち出さん、是に於て日禄は便ち臨官に等同す。殊に知らず、臨官と日禄とはもとより両码の事、彼此は並びて相干らず。
旺禄の身に臨むはただ陰干のみこれ有り
故《畢法》“旺祿臨身”之法,謂日之旺神,又作日之祿神,此惟陰干有之。如乙日祿在卯,而乙木長生在亥,亦旺於卯;丁日祿在午,而丁火長生在寅,亦旺於午;辛日祿在酉,而辛金長生在巳,亦旺於酉;癸日祿在子,而癸水長生在申,亦旺於子。惟己日不能相兼,故注云“己酉、巳亥、己巳,干上午雖不是己之旺神,亦可用也。”
ゆえに《畢法》に「旺禄臨身」の一法あり、講ずるは日干の旺神が同時にまた日干の禄神を充当する、この種の情形はただ陰干のみこそ出現せん。たとえば乙日は禄は卯に在り、しかして乙木は長生は亥に在り、また正に卯に旺す。丁日は禄は午に在り、しかして丁火は長生は寅に在り、また正に午に旺す。辛日は禄は酉に在り、しかして辛金は長生は巳に在り、また正に酉に旺す。癸日は禄は子に在り、しかして癸水は長生は申に在り、また正に子に旺す。ただ己日のみ両者を兼ね得る法なし、ゆえに注文に言う。「己酉・己亥・己巳のこれらの日は、日干の上の午はたとい己土の旺神と算えざるとも、同じく以て取用すべし。」(底本は「己亥」を「巳亥」と訛す。)
長生の験:辛日は丑、己日は酉、乙日は亥
且予嘗征之占驗,如辛日干上丑,無未相沖,占病不救 ,日墓故也。若辛金長生在子,則丑是養神,當不至於此之之凶。己日干上酉占事脫賺,占人貪慾,日敗故也。若己土長生在酉,當不至若是之咎。乙日干上亥,六處無土剋制,占病沉痾獲起,占事利益恆多,長生故也。若乙木死於亥,則死神臨日,當不至於若是之吉,此皆屢試而屢驗者,其餘不能枚舉。然則習六壬者,何必惑於他歧,反滋疑而莫能斷耶?
しかも我曾実際の占験を拿てこの一点を印証せり。たとえば辛日は日干の上に丑を見、また未の来て冲し開くなく、病を占せば必ず救う无し、これは丑が正に辛金の墓なるを以てなり。假如真に某些の人の言うがごとく辛金の長生は子に在らば、それならば丑はあたうべく「養」の神なるべし、断じて凶がこの地步に到るに至らざらん。己日は日干の上に酉を見、事を占せば必ず欺瞒・亏蚀を遭い、人を占せば必ず貪婪なり、これは酉が正に己土の敗地なるを以てなり。假如己土の長生は酉に在らば、またこの様の過咎有るに至らざらん。乙日は日干の上に亥を見、四課・三伝の六処にまた土の来て克制するなく、病を占せば則ち沉疴は愈を得、事を占せば則ち利を獲ること常に多し、これは亥が正に乙木の長生なるを以てなり。假如「乙木は亥に死す」の説法に照らせば、それはすなわち死神の日に臨む、断じて吉がこの地步に到るに至らざらん。以上は皆屡試に屡験するなり、其余の例子は多くして数え尽くす能わず。すでに此の如し、六壬を学ぶ人はまた何の必ずしもあの些の旁門・歧説に搅されて糊涂せられ、かえって疑惑を平添し、決断する由なからんや。
日干の墓に投ずるは、病を占するに最も忌む:辛未日に戌命の人の病を占す
日干投墓,占病更忌。即日年命上有沖墓之神,無益也。《心鏡》六般入墓列於第四,不過次序如此,非其凶氣輕於三項也。巳年申月辛未日午將酉時,占戌命人病,日干臨丑墓,三傳亥未未,土重埋金,皆非吉象,況未是三丘,丑為五墓,行年上太陽為鬼,迴光返照,能有幾時?即斷此病不起,果七十有九日而死,己丑日辰,仍是日墓。干上未,中末未,命上未,並不見其能沖丑墓,是亥水為初而而遭群土之克,恐其凶尚不止此,奈何?
日干が墓庫に投入するは、病を占するに尤も忌諱す。たとい日辰あるいは年命の上に能く墓庫を冲し開くの神有るとも、また事を済すに济ならず。《心鏡》は「六般の墓に入る」を第四条に排す、それはただ叙述の次序が此の如くなるのみ、並べてその凶気が前三項より軽しと言うにあらず。有一年の巳年・申月・辛未日、午将・酉時、一位の戌年生の人に代わって病を占す。日干の辛金は丑墓の上に臨み、三伝は亥・未・未、土は層層に堆曡して金を埋住し、一処の吉象なし。いわんや未は「三丘」、丑は「五墓」、行年の上に太陽はまた官鬼を充当し、回光返照のごとく、また能く几時を支撑せんや。我は当に即ちこの病は起たずと断じ、結果は七十九天の後に果して亡故せり。己丑日に死す、日辰は仍旧に日干の墓なり。この課は日干の上は未、中伝・末伝もまた未、本命の上もまた未、しかし並べてそれらの能く丑墓を冲し開くを見ず。亥水は身は初伝に居り、かえって群土の囲剋を遭う。ただ凶险はなおこれに止まらざるを恐る、また能く如何せんや。
土の長生は申に在り寅に在らず
或問曰:土長生在申,一作在寅,未知誰是?余曰:土長生自宜在申,不宜在寅。如戊己日寅木克干,無救者凶,其證也。昔者李覺子《卜易》以天時而參驗,五行見土父母,有應申日雨者,有應子日雨者;又見土為子孫,有應申日晴者,有應子日晴者。蓋申為長生,子為帝旺,是又一證也。
ある人は問う。土の長生は、一種の説は申に在り、もう一種の説は寅に在り、一体どの説が対なるか。我は答う。土の長生は自ずからあたうべく申に在るべし、あたうべく寅に在るべからず。たとえば戊日・己日が寅木の日干を剋するに遇い、もし救神なければ便ち凶を主す、これはすなわち明証なり。从前に李覚子の《卜易》は天気を拿て参験す。五行の中に土を見て父母の爻と為す時は、申日に雨を應ずる有り、また子日に雨を應ずる有り。土を見て子孫の爻と為す時は、申日に晴れ放つを應ずる有り、また子日に晴れ放つを應ずる有り。原因は便ち申は土の長生、子は土の帝旺に在り――これはまた一条の証拠なり。
《畢法》「子上は胞胎」を辨ずるは土の長生が寅に在るにあらず
或曰:“淩氏《畢法賦》以六戊六己日干上子正月占,主有孕故曰‘戊己當絕在亥懷,明知子上是胞胎’,此非土長生在寅乎?”予曰:“此淩氏兩歧之言也。彼不云‘妻財作生氣,縱不作胎神,亦可用’乎?”然則戊日己日干上子,正月占主有孕妻財故也。況其孕止其一端,而戊日己日以申為長生,以子為帝旺,以辰為墓庫,以酉為敗神,以寅為鬼賊,為吉為凶,未可悉數。試取古人占案用語、己所常占者驗後而細詳之,當亦憬然而悟矣。
またある人は問う。「凌福之《畢法賦》に講ずるは六箇の戊日・六箇の己日の日干の上に子を見、正月の裏に占えば身孕有るを主す、ゆえに言う『戊己は亥に絶在りて懐すと当に知るべし、明らかに子上は胞胎と知る』――もし土の長生が寅に在らざれば、亥はどうして絶たらん、子はどうして胎たらんか。」我は答う。これは凌氏が自己で両説を並べ存せし、前後に一ならざるの話なり。彼はまた言わざらんや「妻財の爻が生気を充当すれば、たとい胎神と為して看らずとも、一様に以て取用すべし」と。こう言えば、戊日・己日の日干の上に子を見て正月に占して孕有るを主するは、子が戊己の妻財なるを以てなり、並べて必ずしも胎神の上に牽渉するに及ばず。いわんや孕有るは不過は衆多の断法の中の一端のみ。戊日・己日は申を以て長生と為し、子を以て帝旺と為し、辰を以て墓庫と為し、酉を以て敗神と為し、寅を以て鬼賊と為す、これに由りて推出する吉凶の頭緒は多くして数え尽くす能わず。妨げず古人の占案の中の断語を取り、自己の平日の常に占する事を連ねて、応験の後に細々と比較対照せば、自ずから恍然として悟り領会せん。
象を観ると生剋とは偏廃すべからず
予友吳稼雲先生嘗云:“《周易》言象而不言生克,故六壬家亦宜觀象定吉凶,而不可以生克定吉凶。”此稼雲先生一家之言也。夫《周易》不盡言五行,故不論生克;六壬專言五行,則不能離生克。十二神將之所屬,即象也。或生焉,或克焉,即象之吉凶者也。古人又患人之情偽,事之變幻,非生克兩字可盡也,於是曰德,曰合,曰刑,曰沖,曰破,曰官,曰祿,曰刃,曰旺,曰墓,曰死,曰絕,曰胎,曰養,曰敗,所以參其象而盡其變也。然後吉凶悔吝無所逃於三傳四課中矣。
我が朋友の呉稼雲先生はかつて言う。「《周易》はただ卦象を講じて生剋を講ぜず、ゆえに六壬家もまたあたうべく象を観て以て吉凶を定むべし、生剋を拿て以て吉凶を定むべからず。」これは稼雲先生の一家の言、我は以てなお須らく分別して看待すべし。《周易》はもとより五行を全くは講ぜず、ゆえに以て生剋を論ぜざるべし。六壬はしかし専ら五行を講ずる、自ずから生剋を離るる能わず。さらに言えば、十二天将は各々五行の帰属あり――螣蛇は火に属し、白虎は金に属するの類――この帰属は本身就是「象」なり。それらは彼此あるいは生じあるいは助け、あるいは剋しあるいは戦う、正に象の顕出する所の吉と凶なり。以て見るべし象を観ると生剋を論ずるとは並べて両条の路にあらず、生剋はもとより便ち象の裏頭に在り。古人はまた人情の真偽・事態の変幻を心配し、「生剋」の両字の説き尽くす能くする所にあらずと為し、是に於て生剋の外にさらに徳・合・刑・冲・破・官・禄・刃・旺・墓・死・絶・胎・養・敗のこの一系列の名目を立出し、用いて課象に参合し、その変を窮め尽くさんとす。これら有れば、吉凶・悔吝は逃れて四課・三伝の外に出で得る一様なし。
稼雲は初伝と丁神とを重んず、兼ねて悼念を志す
稼雲先生學問淵博,深於古文,嘗與予談六壬,經日不倦,其法重初傳,重丁神,以神機兆於動,既得其動,然後融會全課體象而斷之,不可枝枝節節。蓋初傳與丁神皆課中之動者也。先生此言,最為微妙,是佛家上乘工夫,予愧未能造到此境也。庚午春,予自維揚回,見先生於崖市,送寓言談,侃侃仍如往年,今則宿草悽悽矣,悲夫!
稼雲先生は学問は渊博、古文の造詣は甚だ深く、かつて我と六壬を談じて整日に倦まず。彼の路数は初伝を重んじ、丁神を重んじ、以て神機は総じて「動」の処に顕露すと為す。先にあの動の処を抓住し、然る後に全課の整体の気象を融会して以て断語を下す、支離・破碎に一節一節を抠い去るべからず――初伝と丁神とは正に一課の中の「動」する者なるがゆえに。先生のこの番の話は最も精微、佛家の言う所の上乘の工夫に属す、我は慚愧していまだこの境界に達せず。庚午年の春に我は揚州より回り、崖市に於て先生と一面を見、彼を送りて寓所に回る時に談鋒は侃侃として、なお往年と同じ。如今墳頭の宿草はすでに凄凄たり、嘆くべきかな。
究めて以て生剋を主と為す:壬寅の伏吟が医を伝うるを占す
吉凶成敗,雖有德合等之繁,究竟以生克為主,如壬寅日伏吟,雖曰干支上下相合,無如支辰脫干;乙酉日伏吟,亦是干支上下相合,無如鬼臨三四,脫氣鬼克,安得為吉?昔族兄廉階先生精於醫學而不遇時,有鄭姓之友,許為其榆楊傳醫道廣行,先生因索占於予,得壬寅日伏吟課,予曰:“干支上下相合,究竟脫干,所謂有言不信,況巳貴空亡,何益之有?”後果如所占,此壬子年五月十五日所占課也。
吉凶・成敗はたとい徳・合などの諸多の名目あるといえども、根に帰り柢に帰ってはなお以て生剋を主と為す。たとえば壬寅日の伏吟課は、干支の上下は相合すと説くといえども、無奈に日支は日干の気を泄せり。乙酉日の伏吟課もまた干支の上下は相合す、無奈に官鬼は第三・第四課の上に落ち、すでに気を泄しまた鬼剋を受く、どこが吉と算え得んや。从前に我が族兄の廉階先生は医術に精通するも時運は済わず、ある姓鄭の朋友は彼に代わって誉を延き名を揚げ、医道を広く流行せしめんことを答应す、先生は便ち来りて我に占を求む、壬寅日の伏吟課を得。我は言う。「干支はたとい上下相合すとも、終に日干の気を泄する、正に所謂る話は好く聴けども靠り難し。いわんや巳位の貴人はまた空亡に落つ、能く何の益有らんや。」後に果して占の言うがごとし。これは壬子年五月十五日に占する所の課なり。
占験を以て拠と為し、奇を好み筆を信むるの言を信ずるなかれ
諺云:“熟讀王叔和,不如見症多。”故六壬家亦如己所占驗者,信而有據。古人多好奇之論、信筆之言,如《管子神書》,有天官天將斷不相兼者;《指掌賦》有斷無此三傳者,有天官斷不臨此處者,乃作者居然作之,注者居然注之,不可解也。他書信筆指鹿為馬者更難悉數焉。今將順逆連數課中無此三傳列於左:
諺語に言う。「王叔和の医書を読むことをどれほど熟すとも、親眼に多くの病症を見るに如かず。」六壬家も同様に此の如し、ただ自己が親身に占験せし過ぎるのみ、こそ信ずべくして拠有り。古人は多く好奇の論・筆に随いて下すの話あり、たとえば《管子神書》の裏に言う、某天官と某天将とは断じて同時に出現せずと。《指掌賦》の裏に言う、断じて某种の三伝有るべからずと言い、また某天官は断じて某処に臨まざるべからずと――書を写す人は居然として照写し、注を作す人は居然として照注す、真に人をして理解し得ざらしむ。其の他の書の中に筆を信じて鹿を馬と指すはさらに数え勝えず。今我は順連・逆連の一類の課式の中に根本に排し出す能わざるの三伝を下に列す。
連数・間伝・三合課の中に排し出せざるの三伝
子丑寅、卯辰巳、巳午未、戌亥子,無以上順連。亥戌酉、酉申未、辰卯寅(惟乙巳日邵氏取此三傳)、寅丑子,以上逆連數。逆連茹間傳無此三傳者:午申戌、戌子寅,無以上順;申午辰、辰寅子、子戌申,無以上逆。順逆三合課無此三傳者:丑巳酉、巳酉丑、午戌寅、戌寅午、卯未亥,無以上順;辰子申、丑酉巳,無以上逆。
順連数の課の中に排し出せざるの三伝は四組あり:子丑寅・卯辰巳・巳午未・戌亥子。逆連数の課の中に排し出せざるは四組あり:亥戌酉・酉申未・辰卯寅(ただ乙巳日の一課のみ邵彦和はこの一組を取れり)・寅丑子。「逆連茹」はすなわち位を隔てて相伝するの間伝課、その中の順行は午申戌・戌子寅の両組を排し出せず、逆行は申午辰・辰寅子・子戌申の三組を排し出せず。順逆の三合課の中に、順行は丑巳酉・巳酉丑・午戌寅・戌寅午・卯未亥の五組を排し出せず、逆行は辰子申・丑酉巳の両組を排し出せず。およそ書の上にこれらの三伝を出現せしむるは、皆作者の壁に向かって虚造するなり、以て法を立つるに拠るべからず。
十二天将の臨みと臨まざるの地
十二天官中,惟貴人天空無處不臨,其餘有臨有不臨。螣蛇不臨戌亥,白虎不臨辰巳,朱雀不臨酉戌亥子,太常不臨卯辰巳午未,青龍不臨戌亥,天后不臨辰巳,勾陳不臨酉戌亥子,太陰不臨卯辰巳午。以上皆指不臨地盤而言,若天盤惟貴人天空不乘辰戌,六合元武不乘丑未,其餘無支不乘。
十二天将の中、ただ貴人と天空とのみ臨まざる宮なく、其余の各将は皆臨み得ると臨み得ざるの処あり。螣蛇は戌・亥に臨まず、白虎は辰・巳に臨まず、朱雀は酉・戌・亥・子に臨まず、太常は卯・辰・巳・午・未に臨まず、青竜は戌・亥に臨まず、天后は辰・巳に臨まず、勾陳は酉・戌・亥・子に臨まず、太陰は卯・辰・巳・午に臨まず。以上の言う所は皆天将はこれらの地盤の宮に落ちざるを言う。もし天盤に就いて言えば、則ちただ貴人・天空のみ辰と戌とを乗ぜず、六合・玄武(底本は「元武」と作る)のみ丑と未とを乗ぜず、其余の各将は乗ぜざる地支なし。
賊を占するは専ら玄武の臨む所に憑るべからず
《心鏡占同居人為賊歌》云:“一家之內十人居,一人失物九人籲。未知盜者定是誰,欲占先以將加時。若有人年元武下,此人盜去更無疑。”此說未可從也,何也?元武不臨寅卯辰巳午未,豈為賊者皆行年在申酉戌亥子丑耶?依此推斷,恐反誣良,不若仍以元武初傳、官鬼參看為穩,推而言之。《指南》占驗,以元武臨戌,風水在西北山岡,亦是偶中,特據此推斷,豈無在東南方之風水乎?若《中黃經》之占盜賊不盡看元武所臨,而必參之以生克,測之以三傳,可謂得其三味矣。
《心鏡・同居の人が賊たるを占する歌》に言う。「一家の内に十来口の人を住まわし、一人が物を丢せば九人の人が冤を喊ぶ。賊が一体誰なるかを知らんと要すれば、課を起こして先ず月将を占時の上に加えよ。もし誰かの行年が正に玄武の下に落ちれば、この人が偷り去りしことさらに疑う可きなし。」この説法は聴信すべからず。なぜか。玄武は根本より寅・卯・辰・巳・午・未の六宮に臨まず、賊を為す人の行年は皆恰好に申・酉・戌・亥・子・丑に落つることあらんや。この办法に照らして推断せば、おそらくかえって好人を冤枉せん。如かずなお玄武・初伝と官鬼との三者を合せて看る、来りて穏妥なり。これに由りて類推すれば、《六壬指南》の占験の裏に玄武の戌に臨むに憑りて便ち風水は西北の山岡に在りと断ずるも、それもただ偶然に言い中てたるのみ。もし一味にこれに拠りて推断せば、东南方に坐落するの風水なからんや。《中黄経》の盗賊を占するに至っては、並べて単に玄武の臨む所の処を看ず、必ず生剋を参合し三伝を揣度す、それこそその中の三昧を得たりと算うべし。
課体は最も重し:己未日の井欄格が奏折と塩務とを占す
凡占事之重大者,課體最重。若課體不吉,即有一二吉神,無補於課體之疵也。甲戌年十二月初三日,諸公在鄭典五翁花園內為鮑右曾先生預饌大壽,右曾先生從院上來,鹽臺何公囑其占拜奏摺旨意報回若何,生意、鹽務若何,得己未日井欄格,予曰:“巳火皇恩發動生干生支,天后為恩澤之神,又在干支之上,入中末兩傳,必蒙恩允,且有疊疊賞賜。但井上架木,易欹易斜。且一火陷於眾土之中,為力不久,恐鹽務仍無起色耳。”後果一一如占。
およそ重大の事情を占問するは、最も緊要は整箇の課体を看る。課体もし吉ならざれば、たといその中に一两箇の吉神有るとも、また課体本身の缺陷を補う能わず。甲戌年十二月初三日、衆人は鄭典五翁の花園の裏に於て鮑右曾先生の為に寿宴を予办す、右曾先生は剛に院署より過り来て、塩運使の何公は彼に托して一課を占せしむ。上せし所の奏折の批示が伝え回るは何の結果なるか、生意と塩務とはまた如何。起得するは己未日の「井欄」の格。我は言う。「巳火は皇恩の神、発動し起こればすでに日干を生じまた日支を生ず。天后はもとより恩沢を主るの天将、また干支の上に坐し、かつ中伝・末伝に進入す、この事は必ず恩准を蒙り、しかも一重に接して一重の賞賜有らん。ただ井欄格は井口に木を架するに比す、歪斜して穏ならざるを易し。いわんや一点の火は衆土の中に陷り、力量は維持して久しからざるをや、おそらく塩務は仍旧に起色なからん。」後に果して一一に応験せり。
干支は両儀と為り、課を占するは支辰を看ざるべからず
今人占課,除家宅、風水、婚姻、六甲、官訟、謀干外,往往不看支辰,此大錯也。須知干支為兩儀,不可偏廢,如占天雨,以干為天,以支為所占之地;占考試,干為舉子,支為場屋;占求官,干為求官之人,支為所歷之任;占謀事求財,干為我,支為我所求之人;占出行,干為此處,支為彼處,餘依此推。故每一課演成,先省察干支上神,心中便有把握,然後詳觀三傳,則事之始終定矣。
今人が課を起こすに、家宅・風水・婚姻・生育・官司・謀事を占するのこれら几類を除くの外、往々にして日支を看ず、これは大錯なり。須らく知るべし、日干と日支とは好く比すれば天地の両儀、一を欠くべからず。雨を占するは、日干を以て天を代表し日支を以て占する所のあの塊の地方を代表す。考試を占するは、日干は応試の挙子、日支は考場。官を求むるを占するは、日干は官を求むるの人、日支は将に赴任せんとするあの職位。事を謀り財を求むるを占するは、日干は我が自己、日支は我の求むる所のあの人。出行を占するは、日干は此地、日支は彼地。其余の各類は皆この道理に照らして類推す。ゆえに毎に一課を排成すれば、先ず日干・日支の上の乗る所の神を審察し、心の裏に便ち把握有り、然る後にさらに三伝を細看すれば、事の首尾もまた便ち定まり下るなり。
郭御青が任所を占す:新野の二字の象
崇正丁丑年五月戊辰日未將辰時,郭公御青為姚君占任所,干上青龍申金,支上未土天空,三傳亥寅巳,郭公以為官馬臨亥,亥為衛;巳祿臨寅,寅為燕,任所非衛即燕。後選周之新野,課體全無影響。詳玩數日,方知四課暗拱地盤周之故。郭公此斷,未免牽強,須知支為任所,支上未土,天空土即野也,是日初交夏至,太陽初到未宮,即新也。丁丑年五月戊辰朔子正一刻夏至,見於崇正萬年書。若清朝萬年書,則○○日。新野二字,其象如此。
崇禎(底本は「崇正」と作る)丁丑年五月戊辰日、未将・辰時、郭御青先生は姚君に代わって将来の任所を占す。日干の上は青竜が申金を乗り、日支の上は天空が未土を乗り、三伝は亥・寅・巳。郭公は以て官星・駅馬は亥に臨み、亥は以て衛の地を代表すべく、巳禄は寅に臨み、寅は以て燕の地を代表すべし、ゆえに任所は衛にあらざれば燕なりと為す。後に姚君はしかし周の地の新野県を選授せらる、彼の断ずる所の課体と毫も相干らず。郭公は反復して玩味すること好き数日、こそ言うは四課が暗に地盤の「周」の字を拱出せりと。この断法は未だ免れず牽強なり。須らく知るべし日支はこそ任所を代表す。日支の上は未土が天空を乗る、土はすなわち「野」。しかしてあの日は恰好に初めて夏至を交え、太陽は剛に未宮に進入す、「初到」はすなわち「新」――「新野」の二字の取象はあたうべくこの様に解すべし。(丁丑年五月戊辰朔・子正一刻に夏至を交る、崇禎朝の万年書に見ゆ。もし清朝の万年書に依りて推算すれば則ち日期はまた出入あり、底本のここは空を留めて填めず。)
支は任所と為る:癸亥日に劉公の任所を占して蓬莱に応す
又癸亥日辰將丑時,為劉公占任所,干上天后辰,支上元武寅,三傳辰未戌,以為干支上神拱地盤子,子為山東,子上卯為草,必有草頭之處,查現出之缺,有莘縣、蓬萊,必是蓬萊,以子又為水鄉也。後果選蓬萊,殊不知支為任所,支上元武寅木亦草木之象也。況元武乘寅加亥水,蓬萊乃登州府,屬東北,皆海。寅為東北,元武水、亥水即海也。又元武乘寅加亥長生為道士,寅為山,復道家有蓬萊方丈之山在海中,為神仙所居,是亦其象也。若云干支上神拱地盤,殊不知癸亥日辰無論上乘何神,皆拱地盤子。
また、癸亥日・辰将・丑時、劉公に代わって任所を占す。日干の上は天后が辰を乗り、日支の上は玄武が寅を乗り、三伝は辰・未・戌。当時の断法は以て干支の上神は合せて地盤の子を拱出すと為し、子は山東を代表す。子の上は卯、卯は草、任所は必ず草字頭を帯びるの地名に在らん。当時の出缺の地方を査すれば莘県・蓬莱の両処あり、便ち必ず蓬莱なりと断定す、子はまた水郷を主るを以てなり。後に果して蓬莱を選授せらる。しかしこの断法は並べて要領を抓住せず。日支はこそ任所、日支の上に玄武の乗る所の寅木は本身就是草木の象なり。いわんや玄武が寅を乗りて亥水の上に加わる、蓬莱は登州府に隷属し、位は東北に在りて四面は海に臨む、寅は正に東北を主り、玄武は水に属し亥もまた水なり、正に海の象なり。さらに玄武が寅を乗りて亥に加わる、亥は寅の長生と為り、道士を主るべし、寅はまた山と為り、しかして道家は海中に蓬莱・方丈の山有り神仙の居る所と伝説す――これらもまた皆「蓬莱」の取象なり。干支の上神が合せて地盤を拱出すと言うに至っては、それはいっそう靠り難し。癸亥のこの一日の日辰は、上に何の神を乗するを論ぜずとも、皆一様に地盤の子を拱出し、毫も分別の言うべきなし。
己卯の伏吟が省分を選ぶを占す:八閩に門あり
憶昔壬子年巳月己卯日,鄭君衡翁占乃叔辛未命部選省分,得伏吟課,彼時予尚不悟支為任所之理,只看日祿臨午,當在南方,次年選在福建,分野在丑,課中全無影響,逮後悟得支為任所之理,支上卯作六合為門,福建為八閩,固有門字也。
从前に壬子年・巳月・己卯日を記憶す、鄭衡翁は彼の叔父(辛未年生)に代わって吏部の会にどの省份に选派せらるるかを占し、伏吟課を得。あの時我はまだ「日支は任所を代表す」の道理を悟出せず、ただ日禄が午に臨むを見、便ちあたうべく南方に在らんと断ず。第二年に彼はしかし福建に選ばる、しかして福建の分野は丑に在り、課中の見る所と毫も照応なし。後に日支が任所と為るの理を悟出するに到りて、こそ明白に解せり。日支の上の卯は六合を乗る、六合は「門」を主る、福建は「八閩」と号称す、「閩」の字の裏にもとより一箇の門字有り。
一旬周遍の格が太常寺の正卿を断ず
又辛丑日未將寅時,鮑石曾先生占尊人柳堂先生當升何官,予曰:“支上卯,干上午,一旬周遍格。午為禮儀,又作旬儀,上得太常,其太常寺正卿乎?”果應。
また、辛丑日・未将・寅時、鮑石曾先生は彼の父・柳堂先生がどの官に升るべきかを占す。我は言う。「日支の上は卯、日干の上は午、構成するは『一旬周遍』の格。午は礼儀を主り、また本旬の旬儀を充当し、上には太常を乗る――做さんとするは太常寺の正卿なることを莫れや。」後に果して応験せり。
逃亡を占するは支を以て逃げる所の処と為す:崖市に子を尋ぬ
占逃亡,古法以支為宅,予嘗以支為所逃之處,往往應驗。往年裡人名長六者,占子逃亡,予用李九萬法,以卯為類神,加於未,斷其逃於西南,支上午,午為街市,崖市在吾裡之西南方,命其往崖市尋之,果於崖市見。
逃亡を占するは、古法は日支を以て住宅を代表す、我はしかし常に日支を拿て逃げ到るの去处を代表せしむ、往々にして応験す。早年に郷里に長六と叫ぶ人有りて来りて児子の逃亡を占す、我は李九万の方法を用い、卯を取りて「類神」と為し、卯は未の上に加臨す、彼は西南の方向へ逃げ去れりと断ず。また日支の上は午なるを見、午は街市を主り、しかして崖市は正に我らの郷の西南方に在り、便ち彼をして崖市に到りて尋ねしむ、果して崖市に於て找到せり。
庚午の昴星課:隣婦は水に投ぜず、老尼が勧め回らしむ
又辛亥年除夕,廉階先生占一鄰婦因爭鬥而逃出赴水者,得庚午日昴星課,並無凶煞,河不覆井,知其未赴水矣。太陰為類神加申,尚在西南,支上未貴生太陰,未得老婦,當有老婦勸回。果逃出遇西南方之老尼,拉往尼庵一宿,元旦送回。予始悟貴人為神佛,未為華蓋,故在尼庵耳。
また、辛亥年の除夕、廉階先生は人に代わって一位の隣家の婦人を占す――彼女は人と争吵して出走し、家裏は彼女の水に投ずるを怕れる――庚午日の昴星課を得。課の中に並べて凶煞なく、また「河は井を覆さず」のあの類の水に投ずるの象を見ず、以て知るべし彼女は並べて河に投ぜざりき。太陰は婦人の類神、申の上に加臨し、なお西南方に在り。日支の上の未は貴人を乗りて来て太陰を生じ、未はまた以て老婦を代表すべし、これに因りて断定す、必ず老婦人有りて彼女を勧め回らしめんと。結果は彼女が逃げ出でて後正に西南方の一位の老尼に遇上り、拉せられて尼庵に住むこと一夜、大年初一に送り回せられり。我はこそ領悟せり。貴人は以て神仏を主るべく、未は華蓋と為る、両象は合さる、ゆえに尼庵に応せり。
己未の八専課:門人は香火の橱に蔵る
又癸亥年七月,江愷堂先生占門人走失,己得寅時,己未日八專課,干支上皆太陰乘戌,初傳亥為閉口,皆是藏匿之象,不主走颺。但閉口發傳,無人肯言。太陰為老婦,又為神佛,無向僧寺尼庵中尋雲。誰知此門人是被老乳媼藏於香火櫥內,所以恐嚇先生不敢督責耳,為蒙師者難矣哉。
また、癸亥年七月、江愷堂先生は学生の走失を占す、報ずるは寅時、己未日の八専課を得。日干と日支の上は皆太陰が戌を乗り、初伝の亥は「閉口」――亥水は沈伏し、緘黙して言わざるを主す――通課は皆藏匿の象、並べて遠走高飛を主せず。ただ閉口はすでに発用せれば、便ち実話を吐くを肯んずる人なし、問うとも問い出す能わず。太陰のこの一将はすでに老婦を主り、また神仏を主る、これに因りて我は彼に嘱して僧寺・尼庵の一帯に到りて找せんことを言う。誰か知らん、この学生は竟に老奶妈に蔵されて香火の橱の裏に在りしを、為す所は先生を嚇き一嚇き、彼をして往後に敢えて厳加して督責せざらしめんとするのみ――启蒙の塾師を為すは真に難きかな。
甲辰日に妾の逃亡を占す:申は坤にして母と為る、逃げて母家に帰る
又乙丑年三月二十日午時,有占妾逃亡者,得甲辰日干上午,支上申,三傳申子辰,予曰:“支上會成印局,申屬坤之為母,是必逃亡母家。”妾逃責酉與太陰,皆臨長生之地,但不入課傳,而合中犯煞,雖尋得而不能合矣。因即往稻田伊母家尋之,伊母堅雲未歸,直至酉時,母家著人來報云“已於大六望亭尋得首飾也。”
また、乙丑年三月二十日・午時、人有りて来りて小妾の逃亡を占す、甲辰日を得。日干の上は午、日支の上は申、三伝は申・子・辰。我は言う。「日支の上は会して印綬局を成す、申は坤に属し坤は母と為る、彼女は一定に逃げて娘家に帰り去れり。」妾の逃亡を占するはあたうべく酉と太陰とのこの両箇の類神を責問すべし、この課の中にそれらは皆長生の地に臨む、しかし四課・三伝に入らず、しかも相合の中にまた凶煞を犯す、ゆえに人はたとい找し回ることを得とも、しかしすでに能く重ねて好と為る能わず。是に於て立刻に彼女の母の家の稻田に往きて尋ぬ、彼女の母は一口に咬定して回らずと言う。酉時に到るまで、娘家はこそ人を打発して来て信を報ぜしめて言う。「すでに大六望亭に於て找着せり、首飾もまた在り。」
戊子日に妻舅の走失を占す:貴人が丑を乗るは神庙に応ず
又汪天賜兄占妻舅走失,戊子日申將未時,癸巳生二十一歲,行年戌作元武臨酉為西方,支貴人乘丑,在神廟內無疑。況陰神功曹又帶雷煞也。但驛馬發傳為順連珠,亦不定在一處。干上午為過馬,行年戌,初傳寅成三合,尋之可見。是人初逃往靈山天竺閣蹲一夜,次日逃於崖鎮之下廟,因而遇得之。
また、汪天賜兄は妻舅の走失を占す。戊子日・申将・未時、走失者は癸巳年生・二十一歳、行年の戌は玄武を乗りて酉の上に臨む、酉は西方を主る。日支の上に貴人は丑を乗る、彼は必ず神庙の中に在らんと断ずべし。いわんや陰神の功曹はまた雷煞を帯び、いっそう庙宇の象を顕す。しかし駅馬は発用して順連珠と成る、彼は一処に固定せざるを説明す。日干の上の午は「過馬」、行年の戌・初伝の寅と会して三合を成す、以て知るべし尋訪すれば見るを得。此人は起初は霊山の天竺閣に逃げて蹲ること一夜、第二天にまた転じて崖鎮の下廟に到る、これに因りてこそ撞見せられて找回せり。
家宅を占するは須らく新旧・人宅を分かつべし
占家宅須分新宅舊宅,或求宅得失,或人宅吉凶,不可混同。以干為人,以支為宅,此常經也。若問新舊兩宅誰吉,則又以日上神為舊寬,支上神為新宅,故不可混同也。大概占宅吉凶,支上克干,便為不吉。鬼臨三四更凶。
家宅を占するは必ず分かち清めよ、新宅か旧宅か、問うは宅を求めて手に到る能くするか否か、あるいは人が住み入れて吉凶の如何を問うか、几種の問法は混じて一談と為すべからず。通例は日干を以て人を代表し日支を以て宅を代表す。もし新・旧の両宅のどの一処が吉なるかを問えば、それならば改めて日干の上神を用いて旧宅を代表し(底本は「宅」を「寛」と訛す)、日支の上神を以て新宅を代表せよ、ゆえに言う混同する能わざるなり。大致に言えば、宅の吉凶を占するは、ただ日支の上神が日干を剋すれば便ち不吉に属し、官鬼が第三・第四課の上に落ちればいっそう凶なり。
甲戌日に宅を占す:長生が一空すれば十年の禍至る
予往年曾卜一宅可居否,得甲戌日干上丑,支上酉,鬼臨三四,畏之而不敢居,因畢法有“鬼空無畏”之說,觀亥水長生在傳,仍還居之,誰知自甲寅至癸未十年,雖財窘而人口平安,且添二丁,至甲子年亥水長生一空,予便大病,辛未年妻又大病,庚午、壬申連喪二子,癸酉又因他事耗財,皆由此十年長生即空則申酉之鬼為患也。甲戌年後方安,因長生又實耳。予既自誤,敢告同人,且以自警。
我が早年にかつて一所の宅子が住み得るか否かを占す、甲戌日を得。日干の上は丑、日支の上は酉、官鬼は第三・第四課に臨む、心の裏に害怕し、敢えて搬り入れず。後に因って《畢法》に「鬼が空亡に落つれば畏懼する必ずしも要らず」の説法有り、また亥水の長生が三伝の中に落つるを見、終にやはり搬り入れり。誰か知らん、甲寅年より住みて癸未年に到るこの十年の間は、たとい手頭は拮据すとも、一家人口は倒れずに平安、また両箇の男丁を添えり。甲子年に到りて亥水の長生が一に空亡に落ちれば、我は便ち大病の一場、辛未年に妻子はまた大病、庚午・壬申の两年は接続して両箇の児子を夭折し、癸酉年にまた別事の為に財を破る。これらは全てあの十年の後に長生が一旦空に落ちれば、申酉の官鬼は便ち虚に乗じて患為を成すを以てなり。甲戌年以降に到りてこそ安穏し下る、これは長生がまた填実せるを以てなり。我はすでに自己で虧を吃すれば、便ち大胆に同好に説き聴かせ、また借此を以て自己を警戒す。
邵彦和が宅基を求めるを占す:支の上が空亡なれば則ち図るべからず
邵彥和先生為人占求宅基,庚寅日寅將酉時,干上丑,支上未,三傳子巳戌,斷云:“大凡占求宅基,須看支辰,今支上空亡,此宅不可得而圖也。”是知有宅可指,須看支辰,及云“中傳巳乃長生,作太陰,是買得老婦人店業,便是宅基”,是知傳中既有長生,便可舍彼而圖此,善學者悟之!一切取舍趨避之道,皆可得而知矣。豈第求宅云乎哉?
邵彦和先生は人に代わって宅基を求取するを占す。庚寅日・寅将・酉時。日干の上は丑、日支の上は未、三伝は子・巳・戌。彼は断じて言う。「およそ宅基を求めるを占するは、必ず日支を看ねばならず。如今日支の上は空亡に落ち、この処の宅子はすでに得る能わず、また図謀して成さざるなり。」これに由りて知るべし、およそ具体の一処の宅子の指す可き有れば、皆日支の上に落ちて看るべし。彼は接続してまた言う。「中伝の巳は長生、また太陰を乗る、これは一位の老婦人の店業を買い下る、それはこそ能く手に到るの宅基なり。」これに由りてまた知るべし、三伝の中にすでに長生を現出せば、妨げず原先のあの一処を舎き開きて改めてこの一処を図るべし。学ぶに善い者はあたうべくここより体会すべかりけり。一切の取るべき舎くべき・趨くべき避くべきの道理は、皆これに由りて推し知るべし、また豈に宅を求めるの一事のみならんや。
《管子神書》の総論の四章
取舍趨避之道,莫妙於《管子神書》之總論,其首章云:“干支傳課作提綱,先審安命無所傷,事業一生經歷處,存亡隱現莫明詳。”項章云:“干祿得地守求加,略有些傷支用尋。壬到好邊方住腳,有些疑惑不堪停。”三章云:“或財或比或生身,要把無傷細酌尋。得個穩中方住腳,莫令衰敗又無存。”四章云:“先從干上作原因,次把用神配合存。初不行傳須看日,方知此事得何神。”既此四章意,又以日祿、日財、相比、長生為吉,須擇其無傷者而趨之也。
取舍・趨避の道理を講ずるは、《管子神書》のあの篇の総論より精妙なるはなし。それ第一章に言う。「日干・日支・三伝・四課を以て綱領と作し、先ず本命の安穏にして傷損無きを審察せよ。一生の事業の経歴せんとする所の処、および存亡・隠現は、皆辨じ分かちて分明たらしめよ。」第二章(底本は「次」を「項」と訛す)に言う。「日禄が地を得れば、便ちそれを守り、それを求め、それを加臨せよ。稍や傷損有れば、便ち転じて日支と用神との上に到りて尋ねよ。好き一辺に走り到りてこそ脚根を立定めよ、稍や疑惑有れば便ち停留すべからず。」第三章に言う。「財爻・比肩たるを論ぜず、あるいは身を生ずるの神たるを論ぜず、皆あの傷を受けざるを挑んで細々と斟酌せよ。一箇の穏妥なる処を尋ね得てこそ脚根を立定めよ、それをしてすでに衰败して存留する所無からしむるなかれ。」第四章に言う。「先ず日干の上より事情の起因を尋ね、再び用神を配合して看よ。倘若も初伝が伝を行かざれば、便ち頭を回らして日干を看ねば、こそこの事がどの一位の神の上に落つるかを知らん。」総括するにこの四章の意思は、また日禄・日財・比肩・長生を以て吉と為し、必ずあの未だ傷損を受けざるを挑んで趨就せよ。
邵公の丙戌日の終身課:断法の灵活なるの範
吳稼雲先生以邵公“丙戌日子將未時為乙亥人占終身課”是全案中最得意之作,熟玩乃見其精,蓋取其斷法靈活,不專在生克處講求耳。
呉稼雲先生は以て、邵彦和の「丙戌日・子将・未時に乙亥年生の人に代わって終身を占す」のあの一課は、全部の断案の中の最も得意の一篇、須らく反復して熟玩してこそその精妙を看出し得べし。彼の看重する所は、正にこの一課の断法が灵活にして、単に生剋の上に文章を做さざるに在り。
休寧の程九圭が「全く精神に須る」を論ず
休寧程先生精六壬,有叩求其學者,九圭云:“是全須精神。”吾嘗澄心息慮,以先天之靈,得自然之妙,其所言者,百不失一。心有所寄,而強為人斷,雖有數學詩書,終不驗矣。
休寧の程先生は六壬に精通す、人有りて門を登りて彼の学問に教を求む。程九圭は言う。「この門の学問は全く精神に靠る。我は常に心念を澄清し雑慮を屏息し、先天の霊明に憑りて自然の微妙を体会す、言う所の話は百に一の失なし。もし心の裏に別に牽掛有りて、しかも勉強して人に代わって断語を下さば、それならばたとい満腹に術数の学・詩書の才あるとも、終に応験せざらん。」
吟園先生が郷試を占して自ら解元を許す
族伯吟園先生,名庭和,字用修,善六壬,嘗與眾友同舟赴鄉試,共占一課,以占諸人誰中。其吉神吉將,咸在己年命之上,先生喜曰:“惟予得解元,諸公無望也。”眾友共譏笑之,及榜發,乃中第一名副榜。此中必有元微,先生未探討耳。
我が族伯の吟園先生は、名は庭和、字は用修、六壬に擅長す。彼はかつて衆友と同船して郷試に赴き、大家は合せて一課を占し、これらの人の裏に誰か中式し得るかを看る。課中の吉神・吉将は、全て彼の自己の年命の上に聚る、先生は高興に言う。「ただ我のみ能く解元に中たらん、諸位は皆指望なし。」衆友は一斉に彼を譏笑す。放榜するに到りて、彼の中たるはしかし副榜の第一名なり。この中間は必ず別に精微の分寸有り、ただ先生は当時に深く究めざりしのみ。
地を卜して親を葬り、応じて侄が挙に中たる
先生嘗卜地葬親,曰:“可發一榜。”後辛卯科其侄仲升先生果中第十九名舉人。
先生はかつて親人を安葬する為に墓地を卜択して言う。「この塊の地は以て一榜を発すべし。」後に辛卯科の郷試、彼の侄児・仲升先生は果して第十九名の挙人に考中せり。
風鶏が魚に変ず:丁・馬は動を主りて必ず変ず
吟園先生吾未及見,嘗聞其設賬於褒家旦,一日,東君戲問曰:“先生知今午之餚乎?”先生占曰:“是必風雞也。然公不可回,回則不驗矣。”少頃,東君託故他往,實回家省視,果是風雞。命易以烹魚,復進館。及午,僕人送烹魚至,東君笑曰:“先生課亦不驗耶?”先生曰:“硯下有紙,公可讀之。”乃“風雞變魚”數字,主賓大笑。惜乎先生不留存案,予嘗問仲升先生何以知風雞變魚,仲升先生曰:“往年得聞吾伯雲‘因課中有丁馬,故知其動而必變。’”
吟園先生は我は見る能わざりき。かつて聞く、彼は褒家に坐館して教書せりと。ある日、東家は彼に玩笑して問う。「先生は能く今日の中午に何の菜を喫するかを算し出すか。」先生は一課を占して言う。「一定に風鶏なり。ただし您は家に回りて看に行くべからず、一に回れば便ち霊ならず。」過ぎて一會兒、東家は故を托して外出す、其の実は家に回りて察看す、果して風鶏なり。彼は便ち吩咐して焼魚に換え、然る後に館の裏に回る。中午に到りて、僕人は焼魚を送り来る、東家は笑いて言う。「先生の課にも霊ならざるの時有るか。」先生は言う。「硯台の底下に一張の紙を圧す、您は拿て行きて看よ。」上に写するは正に「風鶏は魚に変ず」の四箇の字、主客は相視して大笑す。可惜し先生はこの課を留めて存案せず。我はかつて仲升先生に問う。彼はどうして風鶏が魚に変ずるを知り得たるか。仲升先生は言う。「早年に我が伯父の講ずるを聴く、これは課中に丁神と駅馬と有るを以て、ゆえに事は動せんと要すを知り、一に動けば必然に変を生ずと。」
丁神はたとい動を主るとも、吉凶はなお神将に在り
《畢法》有論丁神,不過金日或虎遁丁而已,及《管子神書》則觸類旁通,其法大備。然丁神不過如卦爻中之重,其吉凶仍在神將,不可不知。
《畢法》の裏に丁神を論ずるは、不過は金日あるいは白虎が遁丁を乗るのこの両種に講じ到るのみ。《管子神書》に到りてこそ類に触れて旁通し、丁神の用法を講じて完備せり。不過は丁神はただ卦爻の裏の「重」の爻に相当す、動を主り変を主るの記号なり。一体の是れ吉か是れ凶かに至っては、仍旧にそれが乗る所の天将を看ねばならず、この一層は知らざるべからず。
《磨鏡薬》の諸書は拘泥と信筆とに失す
六壬變化不可方物,即無丁神入傳,其變化說非一法可定,《磨鏡藥》、《精蘊》、《前知》等書,雖關白條暢,便於初學。微嫌拘泥太甚,更失之於信筆,非徵驗之書也。
六壬の変化は定形なし、たとい丁神の伝に入るなくとも、その変化は某一条の法則の框じ死せる能くする所にあらず。《磨鏡薬》《精蘊》《前知》のこれらの几部の書は、たとい講じて明白・通暢にして初学の入門に便すとも、可惜し略々嫌えり太过拘泥、また信筆に書くに失す、実証の中より得たるの書と算え難し。
無禄・絶嗣の二課名の辨
課名多有不可解處,如四上克下為無祿是矣,而四下賊上為絕嗣,其意何居?《訂訛》則云“下克上為絕嗣,以上不容下也,四下賊上,名無祿,位居下而不敢犯上,上必奪其祿也。”此說微有委曲。官應震則云:“此二課須交互言之。總之,一則犯上,一則陵下,皆屬不利。”
課名の裏に少なからず講じ通らざるの地方あり。たとえば第四課が上は下を剋すれば「無禄」と叫ぶ、これはなお説き過ぐべし。しかし第四課が下は上を賊するはしかし「絶嗣」と叫ぶ、用意は何に在らんか。《訂訛》は解釈して言う。「下が上を剋するは絶嗣と叫ぶ、上の位は下の位を容れ下さざるを以てなり。第四課の下が上を賊するは無禄と叫ぶ、身は下の位に居りて敢えて上を犯さず、上の位の者は必ず彼の俸禄を奪い去るを以てなり。」この説法は稍や嫌えり迂曲なり。官応震は則ち言う。「この両課の名義は須らく交錯して講ずべし。要するに、一つは下を以て上を犯す、一つは上を以て下を凌ぐ、皆不利に属す。」
范蠡が鄭妃の産を占す:諸書の記す所の異同
乃《磨鏡藥》、《前知書》中占六甲,以之分男女,並不言其凶,何也?《心鏡》占男女歌云:“用神克下生男子。”范蠡三更奏越君,原注引《越復經》云:“越王四月辛巳日申將子時,召范蠡占鄭妃產。蠡曰‘上勝光克下必生男。’”《袖中金》則作四月辛巳日申將子時,巳火克酉金。若用《通龜》則作丁丑日申將子時,巳火克酉金。《御定六壬直指》因之,然予查《越絕書》、《吳越春秋》,亦無此占,所謂《越復經》者,予未之見,《袖中金》則有訛錯,但《磨鏡藥》等書,又云《心鐿》有此歌句而改為“四上克下賊上”,以為更準。初不計其凶災也。
しかし《磨鏡薬》《前知書》の中に生育を占するは、しかしこの両課を拿て来て男女を分かち、並べてそれの凶は何処に在るかを提せず、これは為なんぞ。《心鏡》の男女を占する歌は言う「用神が下を剋すれば則ち男を生ず」。「范蠡が三更に越君に奏す」の一事に至っては、原注は《越絶経》(底本は「越復経」と作る)を引いて言う。「越王は四月辛巳日・申将・子時に范蠡を召して鄭妃の生産を占せしむ、范蠡は言う。上神の勝光が下を剋せば、必ず男を生ず。」《袖中金》は記すに四月辛巳日・申将・子時、巳火が酉金を剋すと作す。《通亀》は則ち記すに丁丑日・申将・子時、巳火が酉金を剋すと作す、《御定六壬直指》は《通亀》の説を沿用せり。しかるに我は《越絶書》と《呉越春秋》との両書を査遍すとも、皆この一占を尋ね得ず。所謂る《越絶経》は、我もまた従来未だ曽て見ず。《袖中金》に至っては、それ自身の日辰・時将にすでに訛誤有り、いっそう憑と為すに足らず。しかして《磨鏡薬》の一類の書はまた言う、《心鏡》は原にこの句の歌訣有り、しかしそれを改めて「四の上が下を剋し、下が上を賊す」と作す、以てこの様にすればいっそう準なりと為す――全くこの両課がもとより凶灾を主るを顧みざるなり。
六甲が男女を占す:局は方にあらず、仲神が主を作す
六甲占男女法,前人皆以曲直炎上為男,從革潤下為女,予試驗以來,惟曲直為男,從革為母,確不可易,至炎上潤下則不然也。竊思前人蓋以木東火南,東南為陽方,故生男;金西水北,西北為陰方,故生女。殊不知申子辰、寅午戌、巳酉丑、亥卯未,此局也,非方也。三合局中,究以仲謀作主,則子屬坎為男,午為離為女,此炎上潤下所以不然之故歟?往年西商王潔庵翁卜妾孕得炎上,斷其生男而得女,霞表弟占妾孕得潤下,予已悟破此理,斷其生男而不斷其生女,及今晚果得男。
男を生ずるか女を生ずるかを占するの方法は、前人は皆「曲直」(三合の木局)と「炎上」(三合の火局)とを以て男を主り、「従革」(三合の金局)と「潤下」(三合の水局)とを以て女を主れり。我は試験し下すに、ただ曲直が男を主り従革が女を主るのこの両条のみ確凿にして移易すべからず(底本は「女」を「母」と訛す)、炎上・潤下に至っては則ち並べてこの様にあらず。我は私下に揣想す、前人は大概に木は東に居り火は南に居り、東南は陽方に属するを以て、ゆえに男を生ずと断し。金は西に居り水は北に居り、西北は陰方に属するを以て、ゆえに女を生ずと断せしなり。殊に知らず、申子辰・寅午戌・巳酉丑・亥卯未のこれらは三合の「局」、四正の「方」にあらず。三合局の中は終にあの居中のあの一位を以て主と為す、それならば水局は子を以て坎に属して男と為り、火局は午を以て離に属して女と為す――これは大概に正に炎上・潤下の両局がかえって方位に照らして断ぜざるの縁故ならん。早年に山西の商人の王潔庵翁は小妾の懐孕を占す、炎上局を得、我は男を生ずと断じ、結果は女を生めり。後に霞の表弟は小妾の懐孕を占して潤下局を得、我はすでにこの層の道理を悟破し、ただ男を生ずと断じて女を生ずと断ぜず、当晚に到りて果して男孩を生めり。
失脱を占するは須らく内類神を看るべし:汪宅が金飾を失す
占失脫,須看內類神,故有支上神將而知所失之物者,此則予未嘗試驗,不敢妄言。古法又有以初傳為盜去之人者,此則有驗,亦未可盡拘。往年汪宅失一金飾,占得天后乘巳發用而剋制酉金,知其為婦人盜去。因年命上諸制巳火,斷其可得。
丢失の東西を占するは、必ず「内類神」を看ねばならず、も即是れ代表する所の失物の本身のあの神なり。ゆえに人有りて能く日支の上の乗る所の神将に憑りて丢したるは何なるかを説き出す、この一層は我は曽て親身に試験せず、敢えて乱りに講ぜず。古法にまた初伝を把て东西を偷るあの人と為す有り、この一条は倒れて験有り、しかしまた一味に死守すべからず。早年に汪家は一件の金首飾を丢し、占えば天后が巳を乗りて発用して酉金を克制しを得――酉は正に金飾の類神、天后の乗る所の巳火に剋せらる、以て知るべしこれは婦人の偷り去りしなり。また年命の上の諸神は皆能く巳火を制住するを以て、便ち東西は找し回ることを得んと断定せり。
鮑宅が玉の猴を失す:申は猴、酉は玉、戌は奴の象
又鮑宅失一玉猴,占得丙午日干上午,三傳申酉戌,予曰:“支加干,已出外矣。初傳申為猴,次傳酉為玉,明現此象,而入末傳之火庫戌,戌為奴作螣蛇,是奴僕盜去無疑,不必指初傳為盜也。考酉為太陽而臨申金上,干上午又制類神,必可得也。”二課俱驗。但徽州失去玉猴,次年從漢口賣貨處得之,不知何故。占失玉猴課是乙丑年三月二十一日酉將申時。
また、鮑家は一只の玉猴を丢し、占えば丙午日を得。日干の上は午、三伝は申・酉・戌。我は言う。「日支は日干の上に加わる、東西はすでに門を出でたり。初伝の申は猴と為り、中伝の酉は玉と為る、猴と玉との両箇の象は皆明らかに白して在り。しかしてそれらは帰りて末伝の戌に入る――戌は火庫、また奴僕を主り、かつ螣蛇を乗る、以て見るべしこれは奴僕の偷り去りしなり、必ずしも再び初伝を拿て賊人と為して看るに及ばず。さらに酉は太陽の臨む所と為るを考え、しかしてそれは申金の上に坐し、日干の午はまた能く類神を制住す、東西は必ず追い回ることを得。」この両箇の課は後に皆応験せり。ただ徽州に丢したるあの玉猴のみ、第二年にはしかし漢口の貨を売る処より尋ね回せり、何の縁故なるかを知らず。玉猴を失するを占するのあの一課は、乙丑年三月二十一日・酉将・申時に起こせしなり。
風水を占するの法はあたうべく家宅を占するに相通ずべし
指南占驗頗足效法,唯乙酉日占風水一課似有可榷。又有占官訟一課,日辰錯誤,竊意風水之占,與家宅大略相同,以課名而知其大概,以支辰為地,觀其上神與日干較生克沖合,而知其吉凶。以三傳神將知其更替之遲久速暫。以旺衰定丁財,以子孫財祿知參合,神將意義知其發何等人,看鬼殺之所臨知其支干中何命不利,果能是,是亦足矣。
《六壬指南》の載する所の占験は甚だ効法するに値す、ただ乙酉日に風水を占するのあの一課は似乎なお商榷すべく、別に官司を占するの一課は日辰を記し錯れり。我が私意は以て、風水を占するは家宅を占するに大体相同じ。課名に憑りて以て大概を知るべし。日支を以てあの塊の地を代表し、それが上の乗る所の神と日干との互いに比較する生剋・冲合を看れば、便ち吉凶を知らん。三伝の乗る所の天将に由りて、葬後の応験の更替は遅か速かを知るべし。五行の旺衰に由りて人丁と財帛とを断ず。子孫・財禄の両項を参合して看、さらに天将の本身の意義を玩味すれば、この塊の地は如何様の人を発するかを知るべし。さらに官鬼・凶煞の何処に落つるかを看れば、干支の代表する所のどの一房・どの生年の人が不利なるかを知るべし。真に能くこの几步を做し得れば、もはや足れり。
強いて山岡・来竜・形象・水法を断ずべからず
若必斷其何處山岡、何處來龍、為何龍虎、為何形象、如何山向、如何明堂、如何水法。徒然動人聽聞,畢竟依稀猜度。須知山川之形勢無定,類神之生克有學,未必一一合拍也。玉藻金英一書雖然詳細亦須節取(後有脫漏)
もし必ずしも断じ出さんと欲すれば、どの一処の山岡・どの一条の来竜・青竜・白虎はどんな形勢を作るか・整体はどんな形象か・坐山の朝向は如何・明堂は如何・水法は如何を、それは不過は白白に聴者の耳目を聳動せんとするのみ、説き到底すればなお恍惚に猜度なり。須らく知るべし、山川の形勢は変化して定まらず、しかして類神の生剋は自ずから一套の学理有り、両者は未だ必ずしも条条に対し上がらざるなり。《玉藻金英》のこの部の書はたとい講じて詳細なるとも、またただ善を択びて節取するのみ能くす。(此の下は底本に脱文有り、語句は未完なり。)
玄武は常に六合に応ず;音信を占するは当に勝光・信神を参すべし
元武,予亦常應六合。蓋六合為和合會合之象耳。往年有考驗行人一篇,皆四書集句,今已失之。占音信雖以朱雀為主,然勝光、信神、天雞皆可參看,得朱雀加於上,信到必速,加於干上反遲。凡朱雀入傳而見丁馬,朱雀三合之期必至。
玄武のこの一将は、我は実占の中に常に六合の身上に応ず、六合はもとより和合・会合の象、玄武の暗中に往来するの情と正に相通ずるを以てなり。早年に我は一篇の《行人を考験す》を写せし、通篇は皆《四書》の成句を用いて集め成せし、如今已に遗失せり。音信を占するはたとい朱雀を以て主と為すとも、しかし勝光(午)・信神・天鶏もまた皆参看すべし。朱雀が日支の上に加われば、信は到ること必ず快し。日干の上に加わればかえって遅し。およそ朱雀が伝に入りてまた丁神・駅馬を見る者は、朱雀の属する三合の期に到れば、信は必ず到達す。
疾病を占するもまた須らく兼ねて類神を看るべし
占疾病亦須兼看類神,若類神不現,則可照常法斷也。予昔年為人占母病,見官鬼旺而無制,以為不宜,復一月而全愈。復取課式詳云:蓋三傳官鬼生占人年命上之父母故也。因思《畢法賦》有“父母空亡,占父母病必死;占子息之病無畏。”之言,是占病要看類神,《畢法賦》已言之矣。
疾病を占するもまた須らく兼ねて類神を看るべし。倘若も類神が出現せざれば、それならば通常の法則に照らして断ぜよ。我が早年に人に代わって母の病を占し、官鬼の旺盛にして制伏する所無きを見て、以て不妙と為す、誰か知らん一月を過ぐるや竟に痊愈せり。事の後に重ねて課式を取出し細看して、こそ明白に解せり。これは三伝の中の官鬼が恰好に求占人の年命の上の父母の爻を生扶せしを以てなり。これに由りて《畢法賦》に「父母の爻が空亡に落つれば、父母の病を占して必ず死せん。子女の病を占すれば則ち畏懼する必ずしも要らず」とのこの様の話有るを想い到る――以て見るべし病を占するは類神を看るべきこと、《畢法賦》は早くすでに説き過ぎたり。
饒亮彩と呉稼雲とは各々秘書を奉ず
饒公亮彩以《心鏡》為秘書,吳公稼雲以《未悟》及《管子神書》為秘書。二公談論六壬常意見不合,然透《心鏡》者,占驗較多,予見吳公占驗,占驗惟甲子年八月十二日丙子占歙縣中舉幾人,得伏吟課,吳公曰:“當中五人!”予與饒公竟莫測其課理,叩問吳公,公大笑而不言,迨榜發竟應。
饒亮彩公は《心鏡》を奉じて秘本と為し、呉稼雲公は則ち《未悟》と《管子神書》とを奉じて秘本と為す。両位の先生は六壬を談ずる時に常に意見は合わず、不過は《心鏡》を読み通せしあの一位は、占験は多少多し。我の親見する所の呉公の占験は、ただ甲子年八月十二日・丙子日に歙県のこの一科に能く几箇の挙人に中たるかを占せしあの一回のみ。起得するは伏吟課、呉公は言う「あたうべく五人に中るべし。」我と饒公とは皆彼の課理を揣摩し出す能わず、呉公に就きて教を請うに、彼はただ大笑して答作せず。放榜するに到りて、竟に分毫も差ならず。
江名九の郷試の一課:青竜の内戦・朱雀の空亡の辨
是科江名九先生銘中式第二十名,先是六月甲子日未將辰時,江象坤兄為其占鄉試,斷其必中,予與饒公嫌青龍內戰,朱雀空亡,俱未敢許。迨榜發,報雲。饒公來問予,曰:“此粗心斷課之過也。夫青龍是官星相氣,朱雀”(以下脫漏十九字)加年命之下,末見太陽,不以幕貴為墓論,予以為深服饒公之好學,所謂因敗而成者其勢進。
あの一科に江名九先生(名は銘)は第二十名に考中せり。これより前の六月甲子日・未将・辰時に、江象坤兄は彼に代わって郷試を占し、必ず中ると断ず。我と饒公とは課中の青竜の内戦・朱雀の空亡に落つるを嫌い、皆敢えて附和せず。放榜するに到りて、報ずるは中式なり。饒公は来りて我に問う、我は言う。「これは我らが課を断ずるに粗心なるの過失なり。青竜はもとより官星の相気、朱雀は……」(此の下は底本は十九字を脱漏す。)……年命の下に加わり、末伝にまた太陽を見れば、便ち能く「幕貴が墓に入る」に按して論ずべからず。この一段の脱文はたとい多しとも、大意はなお推し知るべし。青竜はたとい内戦すとも、それ本身はなお官星の相気なり。朱雀はたとい空亡に落つとも、ただ年命の下に加わり、末伝にまた太陽の照臨するを見れば、便ちさらに「幕貴が墓に入る」のあの一条に照らして論断すべからず。我はこれに因りて深く饒公の好学に佩服す――所謂る失敗の中よりかえって成有るの人は、その勢頭は正に長進の裏に在り。
斬関課もまた師を行るに利あり
斬關課,諸書惟言利於隱遁、逃亡、出行、厭禱、合藥、書符等事,殊不知亦利於行師。
斬関課は、各家の書はただそれが隠遁・逃亡・出行・厭勝・祈祷・配薬・画符のこれらの事に利なるを講ず、しかしそれが同様に行軍・作戦に利なるを知らず。
《五代史・賀瓌伝》の斬関して師を行るの例
《五代史賀環傳》云:事鄆州朱宣為都指揮使,梁太祖攻朱瑾於兗州,先遣環與賀懷割、柳存等,以兵萬一人攻兗州,環趨待賓館,欲絕梁餉道。太祖略地至中州,得降卒,言環等兵趨待賓館矣。以六壬占之,得斬關,以為吉,乃選精兵疾馳百里,期先至待賓館以逆環,而原黑夜失道,且至鉅野東,過環兵,擊之,環兵大敗,梁兵急追之,環顧路窮,登冢大呼曰:“我賀環也,可弗殺我。”太祖馳騎取之。
《五代史・賀瓌伝》(底本は「瓌」を併せて「環」と作る)は記載す。賀瓌は鄆州に於て朱宣に事奉し、官は都指揮使に任ず。梁の太祖・朱温は兗州に到りて朱瑾を攻打し、朱宣は先に賀瓌と賀懐割・柳存などの人を派して一万千の兵馬を率いて兗州を攻めしめ、賀瓌は軍を進めて待賓館に至り、打算して梁軍の粮道を截断せんとす。梁の太祖は地を略して中州に到り、投降の士卒を抓得して、賀瓌の部隊のすでに待賓館に開往せるを知得す、便ち六壬を用いて課を起こし、斬関課を得、以て大吉と為し、是に於て精兵を挑選して疾馳すること一百里、先んじて待賓館に趕到して賀瓌を迎撃せんと指望す。しかして賀瓌の部隊は黒夜の裏に路に迷い、巨野の東辺に走り到るを等すに、恰好に梁軍の近旁より経過す、梁軍は勢いに趁りて掩殺し、賀瓌の全軍は大敗せり。梁兵は急追して捨てず、賀瓌は眼看に走投するに路無し、一座の墳頭に登りて大喊して言う。「我は即ち賀瓌なり、我を殺すなかれ。」梁の太祖は馬を策して前に上りて彼を生擒せり。
独足課は最も不吉:耗財と廃岸との二験
獨足課最不吉,邵公為人占買賣得此為獨足,宜舟行不利陸行,舟行必加倍獲利,是說也,予未嘗試,未敢以為必然。往日理中有為眾事而執用己財者,因向予占向公家肯認還否,得獨足課,予曰:“重重脫氣,玩一獨字,是爾一人耗財,公家不肯認還也。”又六安張序東翁辛未年占代辦六霍口岸,得獨足課,予曰:“獨足難行,重重脫敗,定不如意。支為店業,既乘敗神,已為廢岸。三傳再敗,無可挽回矣。”二傳俱驗。
独足課は最も不吉利なり。邵彦和は人に代わって買売を占してこの課を得、独足課は水路に宜しくして陸路に利あらず、水路を走れば必ず倍して利を獲ると言う。この説法は我は試さず、敢えて必ず此の如しと断定せず。从前に郷里に人有りて公衆の事の為に自己の銭を垫用し、来りて我に公家が肯んじて賬を認めて偿还するか否かを占う、独足課を起得す。我は言う。「課中に重重に気を泄し、さらにこの『独』の字を玩味すれば、すなわち你が一人で財を破る、公家は認め還さざるなり。」また、六安の張序東翁は辛未年に六安・霍山の両処の口岸の生意を代办するを占し、また独足課を得。我は言う。「独足は行き難く、また重重に気を泄し敗落す、一定に能く如意せざるなり。日支は店業を代表す、すでに敗神を乗れば、あれはすでに一箇の廃棄せる口岸なり。三伝はさらに敗地に逢う、いっそう挽回する可きなし。」この両箇の課は後に皆応験せり。
独足課は子息を傷るを主す(底本は脱文多し)
獨足課主傷子息。庚申年三月一人占門樓倒塌主何吉凶,(此處脫漏十餘字)……(此處脫漏十餘字)家病者五人,是日交立夏,疊疊死氣作六合,凶危極矣。
独足課はまた子嗣を損傷するを主す。庚申年三月、人有りて門楼の倒塌するは何の吉凶を主るかを占す(此の処は底本は十余字を脱漏す)……(此の下は底本はまた十余字を脱漏す)……家中に五人の病倒せる有り。あの一日は正に立夏を交え、課中には重重に死気ありまた六合を乗る、凶险は極点に到れり。この条は前後に脱文は頗る多し、課を起こせし日辰・時将は皆已に考知する由なし、ただ残存の文句に就きて照録し、敢えて臆補せず。
二煩課は未だ必ずしも大凶ならず:月宿は須らく実躔を査すべし
二煩課諸書極言其凶,予為人占升遷,之未見有甚大凶處。因思日宿即太陽,人所易知。月宿乃太陰,太陰有遲疾,其躔度過宮,人所難曉。古法正月朔起室,二月朔起奎云云,而天上太陰躔度六合諸書,以訛承訛,所云某月某日月宿在某宮者,又何嘗在宮也,乃紛紛言其大凶,知其並非欲驗,不過相沿舊說而矣,大抵二煩課,從三交課中來,凡得三交課,須查七政時曆書,此日此時太陰躔度果在子午卯酉宮而發用者,方不錯。
二煩課は、各家の書は皆極言してその凶なるを言う、しかし我は人に代わって升迁を占する時に之に遇う、並べて多大の凶险を見出さざりき。我はこれに因りて想い到る。日宿は即ち太陽の所在、人人は容易に知る。月宿は太陰、も即是れ月亮の所在、しかして月亮の行度は快有り慢有り、それが躔度して宮を過ぐるの時刻は一般人は推し算し清めること甚だ難し。古法は講じて正月の初一は室宿に起こり、二月の初一は奎宿に起こると云々、しかして各書の載する所の天上の太陰の躔度はまた輾転して訛を以て訛を伝う、所謂る某月某日の月宿は某宮に在るとは、其の実は何曽ぞ真にあの一宮に在らんや。大家はしかし紛紛として断言してそれを大凶と為す、以て見るべしこれらの説法はもとより験を求むるの意なく、不過は旧説を沿袭するのみ。大体に言えば、二煩課は三交課の中より衍生して出ず。およそ三交課を起得せば、必ず《七政時歴書》を査対して、この一日のこの一時に太陰の躔度が果して子・午・卯・酉の四宮に落ちて発用するを看れば、これはこそ断ち錯れざるを算えざるなり。
天寇卦もまたあたうべく時憲書の躔度を以て準と為すべし
其天寇卦,月宿加離辰死,其卦月宿在天罡,皆以七政時憲書中躔度為準,不可草率。
「天寇卦」に至っては――月宿が離の位に加臨して辰が死す――および月宿が天罡(辰の位)に落つるあの一卦は、同様に皆あたうべく《七政時憲書》の載する所の実際の躔度を以て準と為して核対すべし、草率に断を下すべからず。
此を占して彼に現ず:余梅波が会試を卜して夭亡に応ず
占此現彼,壬課最多。憶戊午科七月,予在杭州,德安孝廉餘梅波先生卜來年會試,得丙子日返吟,死神加干,死氣入傳,皆為日鬼,常作德絕,予曰:“此課會試而應人口夭亡。”先生驚問:“何人?”予不便直言,答以兄弟等輩。惟私謂予友鄭體功先生、吳友陶先生曰:“梅波先生不能過十日矣。”十日果殃於場田竹谿寺。
甲の事を占問して乙の事に応験する、この種の情形は六壬課の裏に最も多し。記憶す、戊午科の七月、我は杭州に在り、徳安の挙人・余梅波先生は次年の会試を占す、丙子日の返吟課を得。死神は日干の上に加わり、死気は三伝に進入し、二者は皆日干の官鬼を充当し、日徳はまた絶の地に落つ。我は言う。「この一課の問う所は会試、応験する所はしかし家中の人口の夭亡なり。」先生は吃惊して追問するは誰なるか、我は直説するに便せず、ただ兄弟の一輩の人を以て答す。私下にはしかし朋友の鄭体功先生と呉友陶先生とに対して言う。「梅波先生は十天を活け過ぐる能わざるなり。」十天の後に彼は果して考場に死す、竹溪寺に於て殡葬せり。
族兄の宰伝が専官を占す:返吟は徳を喪し禄を絶つ
又乙庚申年十二月予客儀徵,族兄宰傳占來年專官,得壬戌日返吟課,德喪祿絕,鬼臨三四,且死神死氣各在干支,是大凶象。觀其捐官且緩,急宜照應人口,保重自家,蓋本命壬申加寅,為入反斗,而辰鬼……恐婦人……(以下脫漏十餘字)惟憶其妻之母向來周到,次年夏月無故自經,及回煞……身……不可見,大驚失色,越六日即云“異哉!”。
また、庚申年十二月に我は儀徴に客居す、族兄の宰伝は次年に実缺の官職を謀補せんことを占す、壬戌日の返吟課を得。日徳は喪失し禄神は断絶し、官鬼は第三・第四課の上に落ち、しかも死神・死気は分別して日干と日支との上に圧す、是大凶の象なり。我は彼を勧めて官を捐するの事は妨げずに緩め一緩めよ、眼下は急ぎ家中の人口を照応し自身を保重せねばならず、彼の本命の壬申は寅に加臨して「入反斗」を構成するを以てなり。しかして辰の上の官鬼は……ただ婦人の身上に応せんことを怕る……(此の下は底本は十余字を脱漏す)。我はただ彼の妻子の母の向来に人を待すること周到なるを記憶す、第二年の夏天にしかし無縁無故に上弔して自尽し、回煞のあの天に到りては……身……看るに忍びず、衆人は大いに驚き色を失う、六天を過ぎてただ一句の「異なるかな」を留めるのみ――底本の此処は文句は残缺し、事情の結局は已に確知するべからず。
事が緊迫に関れば、神は未だ問わざるの事を報ず
大抵事關緊迫,則神明不報所問之事而報未問之事也。猶神告人曰:“大限已終,何必求名?”
大体の上に言えば、およそ事情が緊迫して関頭に到れば、神明は便ち你の問う所のあの一件を回答せず、かえって你の問わざる所のあの一件を報出す。好く比すれば神明がこの人に告げて在るがごとし。你の大限はすでに到れり、なお何の功名を求めんや。
一課の中に事事問うべく事事断ずべし
不獨占此現彼,又有來人心懷數事,欲占類事,殊不知神將於第一課中俱報者,不可不察。此即王遠知所“人止問我一事,殊不知此課事事可問,事事可斷。蓋世人來,已將他通身逐件包括在課中。”之意。
ただ「此を占して彼に現ず」のこの一層有るのみならず、また一種の情形あり。来人の心の裏には好き几桩の事を装ひ、ただその中の同類の一桩を占せんと打算す、しかし神将はすでに第一課の裏に各桩の事を一併に報出せるを知らず、この一点は留意せざるべからず。これは正に王遠知の言う所なり。「人はただ我に一件事を問う、殊に知らずこの一課は件件に皆問うべく件件に皆断ずべし――世人は一に門を入れば、早く已に彼の渾身の上下の事を逐件に課の裏に包括せりを以て。」
柳書旂の子時の一課:青竜の水に戯るは父の安康を断ず
戊午年八月浙江鄉闈之後,蘭谿柳書旂先生於十九日庚戌先報子時占乃尊己酉命在家安否,再報未時占自身丙子命今科中否。予見子時第一課干為尊長上得青龍戲水,初傳丑上是父母,中傳申是其長生,末傳子是其帝旺,定主安康。命上丑墓遁丁神,不過癭大為患耳。
戊午年八月に浙江の郷試の後、蘭渓の柳書旂先生は十九日の庚戌のこの日に、先ず子時を報し、彼の父(己酉年生)が家に於て平安か否かを占す。接いでまた未時を報し、自己(丙子年生)の本科に能く中式するか否かを占す。我は子時のあの第一課を看る。日干は尊長を代表し、上には青竜の水に戯るを得。初伝の丑の上は父母の爻、中伝の申は父母の爻の長生、末伝の子は父母の爻の帝旺、これに因りて必ず安康ならんと断定す。ただ本命の上の丑はすでに墓と為り、また丁神を遁出す、不過は癭瘤の類の小毛病を生ずるのみ。
青竜の水に戯ると子孫の水局と、兼ねて本人の高中に応ず
又因青龍戲水,主東事,子水為子孫是因子孫而有東事也。子是書旅先生本命乘龍,由是行年為日祿,年命與辰土旬首結一子孫水局,更主因子命子孫而有耋事,而致東也。朱雀雖不現,卻乘月建加長生,緣子時第一課即應高中,不必推第二課而知矣。是科果中,其父病痰火而年安。
また青竜の水に戯るは喜慶の事を主るを以て(底本は「東事」と作す、「東」は疑わしくは「喜」の訛、下同)、子水は子孫の爻、以て見るべしこれは子孫に因りて起こるの喜事なり。子は正に書旂先生の本命、また青竜を乗る。これに由りて推し去れば、彼の行年は恰好に日禄、年命と辰土のこの旬首とは結びて一箇の子孫の水局を成す、いっそう説明す、これは児子のこの一輩の子孫に因りて喜事有るなり(底本は「耋事」もまたあたうべく「喜事」と作るべし)、かつこれに由りて牽動して出づ。朱雀はたとい課の上に出現せずとも、しかし月建を乗りてまた長生に加臨す。子時のこの第一課に憑りてすでに高中に応ぜり、必ずしもさらに第二課を推せずともまた知る能くするなり。この一科に彼は果して中式し、彼の父は則ち痰火の症を害す、しかして一年の内は平安にして事なし。
病を占して祭祷の習を言うは尽く非とすべからず
吾徽賣卜者占病不言吉凶,而壽言祭禱,此實向來陋習,然《周易》有“用史巫之辭”,則亦未可盡非。
我らが徽州の一帯の卜を売る人は、病を占して従来吉凶を言わず、一味にただ祭祀・祷告するを要すを講ず、これは実に歴来の陋習なり。不過は《周易》の裏に原に「史巫の辞を用いる」の話有り、以て見るべし祝史・巫祝の言辞を借重して以て病家を安抚するも、また一概に抹殺する能わざるなり。
庚申日に兄の病を占す:東南方に孝服の婦人を見て疾を得たり
壬子年未月庚申未將辰時有占兄丙寅病者,予曰:“日干加巳,而巳復加寅命,並丁馬克干,於是往東南方得病,巳為婦,乘太常為孝服,八專主淫佚,丑墓發用,縱有淫佚之心,而無淫佚之實,得毋往東南方見孝服婦人而動心,故得病乎?”巳為生氣非鬼,而干支乘死氣巳火,為巳火之夫,既來疊疊脫干,是其乃夫之鬼不依也。
壬子年・未月・庚申日、未将・辰時、人有りて来りて彼の哥哥(丙寅年生)の病を占す。我は言う。「日干は巳に加臨し、しかして巳はまた彼の本命の寅の上に加わり、さらに丁神と駅馬とを加えて来て日干を剋す、以て見るべしこれは東南方に往きてこそ病を得たり。巳は以て婦人を代表すべく、また太常を乗る、太常は孝服を主る。八専課はもとより淫佚の事を主る、しかし丑の墓が発用せば、たとい淫邪の念頭を動かせしとも、しかし並べて淫邪の実事はあらず。莫非れや東南方に到りて一位の孝服を穿るの婦人に遇うて心を動かし、これに因りて病を得たるか。」巳は生気にして官鬼にあらず、しかし日干・日支の乗る所の死気は正にこの巳火、も即是れあの位の婦人の已故の丈夫の象なり。死気は重重に日干の気を泄し去る、説明す、これは彼女の丈夫の鬼魂が肯んじて依従せざるなり。
夫鬼の病は憂なし:祭祷に兼ねて補剤を服して愈ゆ
然究竟夫鬼病無憂,太常須祭禱,脫多宜補劑自愈。此人因由郡中回家,行至洲沙橋,見一孝服之婦,而評價甚褻,到家即病,日漸昏沉。其家問予,問之不答,乃訪所同行者,始得其詳。次日病人忽作囈語,似嫠婦之夫憑身,責其出褻言者也。其家祭禱方安,兼服芪術而愈。
不過は根に帰り柢に帰るに、亡夫の鬼の祟を作すこの種の病は並べて憂うるに足らず。太常が権を当れば便ち祭祀・祷告を得、気を泄すること過多なれば則ち補薬を服するに宜しく、自ずから好けん。此人は郡城より家に回り、洲沙橋に走り到る時に一位の孝服を穿るの婦人を看見し、几句の十分に軽薄なる品評を説き、一に家に到れば便ち病倒し、一天より一天に昏沉せり。彼の家裏の人は来りて我に問う、病人は自己に問えばしかし肯んじて言わず。後に同行の人に到りて打听して、こそ原委を知れり。第二天に病人は忽然と胡話を説き起こす、好似るあの寡婦の丈夫の彼の身上に附し、彼を斥责して言を出すこと軽薄なりと。彼の家は祭祷を挙行して後にこそ安定し下り、さらに黄耆・白朮の一類の補薬を配し、病は便ち痊愈せり。
丙申日に女祟の身に纏るを占す:蛇が墓を乗りて支に加わり天目を帯ぶ
又是年七月壬辰命人從武陵得疾與婦者,其侄來占之。午將辰時得丙申日,三傳子亥戌,予因蛇墓加支帶天目,天后為鬼,既從墓上發傳,主有女祟纏身,所以昏沉不醒。干上小吉,可以制鬼,中傳功曹長生,末傳天罡雖空,卻是本命,可以沖去戌墓,又向三陽格,皆主無慮。
また、同一の年の七月、ある壬辰年生の人は武陵より回り、婦人と相干るの病を得、彼の侄児は前来して占を求む。午将・辰時、丙申日の課を得、三伝は子・亥・戌。我は螣蛇が墓を乗りて日支の上に加わりまた天目煞を帯び、天后はまた官鬼を充当し、しかも正に墓の上より発用して伝を起こすを見るを以て、便ち女鬼の祟を作して身に纏る有らんと断定す、ゆえに昏沉して醒めざるなり。好在るは日干の上は小吉(未)、能く官鬼を制伏す。中伝の功曹(寅)は長生と為る。末伝の天罡(辰)はたとい空に落つとも、しかし正に彼の本命、能く戌墓を冲し開く。課はまた「向三陽」の格を成す――これらの几項は皆憂うる必ずしも要らざるを主す。
西湖の花神廟に痴情を動かして疾を致す
然未為祭祀,須用史巫送之,此人因遊西湖花神廟,見塑容端麗,竟動痴情,由是得疾沉重。後乃祭送而安。可見天間實有鬼神,吾人一言一動,不可不慎也。
不過はまだ祭祀を挙行せざる、須らく祝史・巫祝を請いてそれを送り去らしめよ。此人はもとより西湖の花神廟を游ぶ時に、塑像の容貌の端麗なるを看見し、竟に痴情を動かし、これより病は沉重を得たり。後に祭送を做してこそ平安せり。以て見るべし天地の間は確実に鬼神有り、我らの一言・一動は、謹慎せざるべからざるなり。
怪異は課伝に現ずれば告げざるべからず:鄭姓が何年に子を得るかを占す
怪為聖人所不語,然既現於課傳,不能不告之,使其趨避,辛酉年五月有鄭姓占宅中何年得子,予見天目煞臨干帶丁神克子息,斷其家中有怪,難為子息。鄭云去年往九華進香,誰知帶一怪而回,擾鬧不已,夫婦同床則鬧尤甚。予曰:“中末空亡,不久自去,去後方能得子。果應。
怪異の事は聖人の肯んじて談論せざる所なり、しかしすでに課伝の上に顕現せれば、便ち求占の人に告げざるべからず、彼をして吉に趨き凶を避けしめんが為なり。辛酉年五月、ある姓鄭の人は来りて家の裏にどの年に児子を得る能くするかを占す。我は天目煞が日干の上に臨みまた丁神を帯びて子息の爻を剋するを見、便ち彼の家中に怪有り、子有ること難しと断定す。郑某は言う。去年に九華山に到りて進香せしに、誰か知らん一箇の怪を帯びて回り来れり、鬧騰して休まず、夫婦が床に同する時に鬧ること尤も厲し。我は言う。「中伝・末伝は皆空亡に落つ、この怪は久しからずして自行して離去せん、去りて後にこそ子を得る能くせん。」後に果して応験せり。
蘭渓の藍姓が宅を占す:狐怪が火光を放つ
又乙丑年九月,予客蘭谿,有三五秀才占宅,內一藍姓者,占得天目加支,又帶火怪、光影等煞,斷其家有狐怪放火光,眾人佩服,求禳解之法,予勸其行德以壓之,今不知若何矣。此二課惜失記日時。
また、乙丑年九月、我は蘭渓に客居す、三五人の秀才有りて来りて宅を占す、その中の一位の姓藍の者は、占えば天目煞が日支の上に加わり、また火怪・光影の一類の凶煞を帯びるを得、我は彼の家に狐怪有りて火光を放つと断定す。衆人は皆甚だ佩服し、我に一箇の禳解の法子を教えんことを求む、我は彼に勧めて多く善事を行い、徳行を以てそれを圧住せよと言う。如今は後に如何なりしを知らず。この両箇の課は可惜し皆日辰・時刻を記し下さざりき。
天目の支に臨むもまた応ぜざるの例有り
然天目臨支,亦有未見應者。
不過は天目煞が日支の上に臨むも、また並べて応験を見ざるの例子有り、一概に論ずるべからず。
希賢が宅を占す:白虎が天目を乗るは伏尸を主す
丙辰年四月乙未日,族人有名希賢者,庚午年生,占宅得伏吟課,白虎乘天目墓庫加支發用,主有伏尸為患。課傳純財,克去行年上子水印綬,斷不可居。希賢於袖中出一課,繫十年前羅日亭先生為其占宅,丁卯日卯將未時,亦斷其宅有伏尸不利。然其家並無響動怪異之事,惟人丁蕭索,孤寡零丁,希賢越丙午年亦殃,究竟有無伏尸與否,終不得而知也。
丙辰年四月・乙未日、族人の中に希賢と叫ぶ者有り(庚午年生)来りて宅を占す、伏吟課を得。白虎が天目煞を乗り、墓庫に坐して日支の上に加わりて発用す、宅の中に「伏尸」有りて患為を成すを主す。四課・三伝は純らに財の爻、行年の上の子水の印綬を剋掉す、我はこの宅子は決して居るべからずと断定す。希賢は袖の中より別の一箇の課を取出す、これは十年前に羅日亭先生が彼に代わって宅を占して起こせし所、丁卯日・卯将・未時、また彼のこの宅子に伏尸有りて不利と断ぜり。しかるに彼の家は並べて響動・怪異の事を発生せしことなし、ただ人丁は蕭条にして孤寡・零落せり。希賢は丙午年に到りてまた過世せり。所謂る伏尸は、宅基の下に旧骸を埋蔵するを指し、家中の人丁の旺ならざるを主す。この宅は両次に課を起こして皆この象を現出せり、人事の上にもまた確かに孤寡・零丁に応ぜり、しかるに地下は一体に伏尸有るや否やは、終に査証する由なし。
羅日亭先生と汪又瞻との怪病
羅日亭先生學問淵博,知醫,善六壬。每遇疑難之病,必以六壬決之。徽人稱之曰“半仙”。吾鄉去先生之居僅二十餘里,惜未及門求教,是一憾事。予姐丈之父汪又瞻先生少年得一怪病,耳中如聞人云“齊桓公、晉文公,皆霸諸侯也。”目中便見一霸字,初小後大,極於彌天匝地,而人便暈絕,次日方醒,即瞬目亦見之,每月三五次如此,群醫俱莫名其病。
羅日亭先生は学問は渊博、医術を懂り、また六壬に擅長す、毎に疑难の病症に遇えば必ず六壬を用いて決断す、徽州の人は彼を「半仙」と称す。我が家郷は先生の住处に離るることただ二十余里、可惜し曽て門を登りて教を求めず、一件の憾事と成せり。我が姐夫の父の汪又瞻先生は年軽の時に一種の怪病を得。耳の裏は好像に人の言うを聴く「斉桓公・晋文公は、皆諸侯に称霸するの人なり」と、眼の前に随ち一箇の「霸」の字を出現す、起初は甚だ小さく、変じれば変ずるほど大きく、大きく到れば天を鋪き地を蓋さん、人は便ち晕厥して過ぐ、第二天に到るを要してこそ醒めん。一に眼を眨かすも同様に看見す、毎月に三五回を発作す。衆の医生は皆この何の病なるかを叫び出す能わず。
高粱酒百斤の方と七十八歳の験
乃延日亭先生診之,先生診後占曰:“此怪痰為患也!不必服藥,宜飲高梁酒百斤便愈。”如其言飲之,未至百日已愈,乃不復飲。一日遇日亭先生於他處,告以未飲百斤已愈。先生曰:“爾病雖愈,但飲酒不如數,則根終未除,老年因喉痰亡。”後至七十八歲,果如其言,其脈理數學之精如此。
是に於て羅日亭先生を請いて来て診治せしむ。先生は脈を診過ぎ、また一課を起こして言う。「これは怪痰の祟を作す、服薬する必ずしも要らず、ただ一百斤の高粱酒を喝み満たせば便ち好けん。」彼の話に照らして喝み下せば、一百天に到らずして病は便ち好けり、是に於てさらに喝まず。ある日に別処に於て日亭先生に遇い、彼に告げて一百斤を喝み満たさずして病は已に痊愈せりと。先生は言う。「你の病はたとい好けりとも、しかし酒は数に喝み足らず、病根は終に拔除せざるなり、老年に到りては喉間の痰疾に因りて死せん。」後に汪先生は七十八歳に活き到り、果してこの一句の話に応ぜり。先生の脈理と術数との両方面の精深は、竟にこの地步に到れり。
王牧夫先生の断法は専ら取象を重んず
距呈坎縣五里,曰楊干,有王牧夫先生者,六壬尤精。先生名謙,號師孝,又號種道道人,久客維揚,求占等戶外之屢常滿所。有《六壬占驗存略》兩冊,斷法專重取象,與吳稼雲先生見解相同,其貴人起例,壬全在日晝用卯,夜用巳,餘日與諸本相同。其論行年,間有取行年上神之上神者,令人不解。如六十歲行年在丑,丑上見巳,不以巳論吉凶,而以巳上之酉斷吉凶也。
呈坎県に離るること五里に楊干と叫ぶの地方有り、あそこの王牧夫先生は尤も六壬に精す。先生の名は謙、号は師孝、また号は種道道人、長期に揚州に客居し、門を上りて占を求むる人は多くして門外の鞋子は常に摆み満つ(底本の此の句は文字は訛脱す、姑く文意に依りてこの如く読み作す)。彼は《六壬占験存略》の两冊を著せり、断法は専ら取象を重んじ、呉稼雲先生と見解は相同じ。彼の貴人の起例は、ただ癸日(底本は「癸」を「全」と訛す)のみ白天は卯を用い夜裏は巳を用い、其余の各日は通行の諸本と相同じ。彼の行年を討論する時は、間々あるいは行年の上神の上一层の神を取る有り、甚だ人をして解費せしむ。たとえば六十歳の行年は丑に在り、丑の上は巳を見、彼は巳を拿て来て吉凶を論ぜず、しかし巳の上面の酉を拿て来て吉凶を断ず。
盧雅雨が升迁を占す:閉口は能く顕荐せず
都轉盧雅雨先生見曾亦知六壬,嘗請牧夫先生占升遷,辰時丑將得丁卯日,三交課,三傳酉子卯,盧公以為三傳遞生人舉薦,必升。先生曰:“生我者閉口,不能顯薦。況年命皆在未,乘戌空亡,不能著實,何能升遷?三傳乃大概之象,年命方切己耳。”後果未升,丙子年九月占課,壬午冬告仕。而同按年命乘空虛而不實,斯開一種新法門,予嘗試之有驗,其閉口不能顯薦,亦屬《畢法》所未備。
都転運使の盧雅雨先生(名は見曾)もまた六壬を懂り、かつて牧夫先生に升迁を占するを請う。辰時・丑将、丁卯日の三交課を得、三伝は酉・子・卯。盧公は以て三伝は依次に相生し、これは人の挙荐有るなり、必ず官に升らんと為す。牧夫先生はしかし言う。「我を生ずるあの一位は『閉口』の上に落ち、能く公開して挙荐せず。いわんや年命は皆未に在り、また戌を乗りて空亡に落つ、事は実処に落つる能わず、どうして升迁せんや。三伝はただ一件事の大概の輪廓、年命はこそ真に自身に貼切す。」後に果して升らざりき。丙子年九月にまた一課を占し、壬午年の冬天に到りて彼は便ち老を告げて退休せり。「年命が空を乗れば則ち事は必ず実ならず」を以て検証するは、一条の新法門を開出するに等し、我は試せば確かに応験せり。「閉口は能く顕荐せず」のこの一条に至っては、また《畢法》の裏に講じ到らざる所なり。
恵蒼が牧夫の壬を論ずるの数則を寄示す
家惠蒼小阮好六壬,常借各種書遺予,及為山東固堤店巡檢,猶寄牧夫先生論六壬數則,今從笥中檢出,備錄於後,以免遺亡。
我が家の恵蒼の賢侄は六壬を喜好し、常に各種の書を我に借し与う。彼が山東の固堤店の巡検に出任するに到りても、なお王牧夫先生の六壬を論ずるの若干条を寄せ来れり。如今書箱の裏より検出し、一併に後面に抄録す、日久しく散失するを免れんが為なり。
牧夫は一念の動を吉凶の始と為すを論ず
牧夫先生曰:“生合有情,必搜其本。刑剋無情,必究其根。則富貴窮通,可以據數而言之矣。天時者動也,吉凶悔吝生乎動。時,一念之動也;未動之前,陰含陽也,既動之後,陰陽分也。一念之動之先,陰陽未分,吉凶何由而見?既動之後,則為先鋒,得推而測之者矣。一念之動,不可不慎也。
牧夫先生は言う。「相生・相合して有情を顯すは、必ずその本源を追究せよ。相刑・相剋して无情を顯すは、必ずその根由を探明せよ。この様にすれば、一人の人の富貴・窮通は、便ち課数に依拠して説き出すべし。所謂る天時は、実処に落つれば一箇の『動』の字、吉凶・悔吝は皆動の中より生ず。ここに説く所の『時』は、其の実は心中の一念の動なり。未だ動かざるの前は、陰の裏に陽を含み、浑然として未だ分かたず。已に動きしの後は、陰陽はこそ分かち開かれん。一念の未だ動かざるの先は、陰陽はすでに未だ分かたざれば、吉凶は何処より顕現せんや。一旦動けば、この一念は便ち先行の信号と成り、こそ推測すべきの憑拠有らん。ゆえに一念の動は、慎重せざるべからざるなり。」
推測の法に五有り:誠意・静心・観理・測向・推義
推測之法有五,一曰誠意,意不誠則精神荒亂;二曰靜心,心不靜則妙人難通;三曰觀理,理不觀則專一隅;四曰測向,向不測則論雷同;五曰推義,義不推則數同膠柱。”
推測の方法は五条有り。第一は誠意と叫ぶ、意念は誠ならざれば、精神は便ち散乱して主無し。第二は静心と叫ぶ、心は安静ならざれば、微妙の処は便ち通達し難し(底本は「妙入」を「妙人」と訛す)。第三は観理と叫ぶ、事理を看清し去らざれば、便ちただ一箇の角落を拘守するのみ。第四は測向と叫ぶ、事情の指向を揣度し去らざれば、断ずる所の話は便ち人云亦云に流る。第五は推義と叫ぶ、義理を推求し去らざれば、占い出す所の数は便ち膠死せる琴柱の如く呆板なり。」
数の変化は卜者の精粗に在り
“數之吉凶,雖繫於占類之所向,而數之變化,則在乎卜者之精粗。神以五氣旺衰而告之卜,以六義吉凶而明之干支,猶未卜占也。神明之告之行之,求其權在於卜師,神告吉而師測以凶,神告凶而師測以吉,此謂之心不靜,而誤占人不淺矣。
「課数の顯す所の吉凶は、たとい占する所の事の指向に取决するとも、しかし課数の変化は、しかし占卜する者の本领の高低に在り。神明は五行の気の旺衰を借りて以て占卜に告知し、六義の吉凶を借りて以て之を顕明に加うるなり。単に干支を摆してはなお占断と算えず、神明の告示は人に靠りて領会・推行せんことを要す、主动权は其の実は卜師の手裏に握る。神明が吉を告げて卜師は凶と断じ成し、神明が凶を告げて卜師は吉と断じ成す、これを便ち心は静ならずと叫ぶ、人を誤るは便ち浅からざるべし。」
未だ卜せざるに先にその動を観、四方八面に玲瓏剔透
聖賢之理,非止一隅,而學者之心粗,只宜兩片。遂使神化軋粘,奇文隱合,此又非占者之過,乃學者膠柱鼓瑟也。故先賢以未卜之先,以觀其動,於其坐立之處,以察其方位。然後洞察正時,詳格值事,合乎干支三合年命,而四方八面,玲瓏剔透,不使絲毫窒礙為遺恨也。學子用如是斷,能事畢矣。戊辰又七月牧夫王謙識。”
聖賢の道理はただ一箇の方面に止まらず、しかして学者は心思は粗疏、ただ正反の両片より看んことを肯んず、是に於て神妙の変化を弄びて齟齬して通じ難くせしめ、隠微にして暗合するの奇文を軽易に錯過す――これは便ち占卜の本身の過錯にあらず、しかして学者の柱を膠して瑟を鼓するなり。ゆえに前輩の做法は、まだ課を起こさざるの前に、先に来人の動静を観察し、彼の坐立の位置より方位を察看す。然る後に正時を洞察し、詳細に値事の神を推究し、さらに日干・日支・三合と年命とに合上し、四面八方に玲瓏剔透を做し到り、丝毫の窒碍をして遺憾と成り留めざらしむ。学子はこの様に照らして断ぜば、本事もまた家に到るなり。」戊辰年閏七月、牧夫の王謙記す。
牧夫が行人を論ず:馬が鬼地に臨めばその端を識る
牧夫先生又論行人曰:“行人知其何時為,馬臨鬼地識其端。蓋鬼者,病也。”又解《中黃經》十一月丑將甲午日午時占行人,年四十二歲,干上酉乘勾陳,三傳酉辰亥,《中黃經》以貴人逆轉取卯為門,門上神戌中有辛舍,剋日,克行年上寅,又寅是酉舍,剋日克行年,主不歸。牧夫先生則曰:“此主行人在遠即不能來,況身有官非口舌勾留,如何得動?況干乘馬作鬼,行年入墓,上見德祿,戀他鄉,何能得動也?”
牧夫先生はまた行人を占するを論じて言う。「門を出づるの人が几时に回るかを知らんと要せば、便ち駅馬の是れ鬼地に臨むや否やを看よ、ここより端倪を看出すべし。所謂る鬼は、指すは便是れ病なり。」彼はまた《中黄経》の裏の一課を解釈す。十一月・丑将、甲午日・午時に行人を占す、あの人は四十二歳、日干の上は酉が勾陳を乗り、三伝は酉・辰・亥。《中黄経》の断法は貴人を逆転し、卯を取りて「門」と為し、門の上の神の戌の中は辛を蔵す、辛は能く日干を剋し、また行年の上の寅を剋す。しかして寅はまた酉の舎、同様に日を剋し行年を剋す、これに因りて彼は回らざると断ず。牧夫先生は則ち言う。「この一課は行人の身は遠方に在るを主り、根本に回る能わず。いわんや彼の身の上に官非・口舌の牽絆して住む有らん、どうして動くを得んや。さらに言えば日干は駅馬を乗りてしかして駅馬はまた官鬼を充当し、行年は墓の中に落入し、上面にまた日徳・日禄を見、正に他郷を貪戀す、どこが動くを得んや。」
《心鏡》《龍首経》の行人を占するの法
《心鏡》占行人不知何方法,專看行人之行年所臨處定吉凶,《指南》遵之。若不知行年則以支上神詳之,此法出於《龍首經》。《龍首經》云:“若不知行者年,以日為行處,以辰為行之地,日之神陰與神之神陰,與吉神與凶神並,即凶。”按《龍首經》看日干日支甚是,以辰為行處,尤為的確。愚意以為即知行者年,亦當以日辰參看,而辰上之神並第四課皆可測其所在也。
《心鏡》の行人を占するは何の方法を用いるかを知らず、ただ行人の行年の臨む所の処を看て以て吉凶を定む、《六壬指南》はこれを沿用せり。倘若も行人の行年を知らざれば、便ち日支の上神を取りて細推す、この办法は《龍首経》より出づ。《龍首経》は言う。「もし出行する者の行年を知らざれば、便ち日干を以て出行の人を代表し、日支を以て出行の到る所の地を代表せよ。日干の陰神と日支の陰神とを合せて看、吉神と並びて臨めば便ち吉、凶神と並びて臨めば便ち凶。」按ず。《龍首経》の日干・日支を看るを主張するは甚だ対なり、日支を以て行く処を代表するは尤も確当なり。我が意思は、たとい出行する者の行年を知れりとも、またなおあたうべく日干・日支を拿て来て参看すべし、しかして日支の上神と第四課とを連ねて、皆以て彼の人の何処に在るかを推測するに拠るべし。
古人は六壬を以て選択し、後世は典を数えて祖を忘る
讀《龍首經》知古人即以六壬選擇,今惟張九儀用之,所著《儀度六壬》又較《龍首經》為詳矣。《通書》中不將日宜嫁娶以及人道、天道日、游神等起例見於《龍首經》,而選擇豈數典忘其祖也久矣!
《龍首経》を読みて、こそ知る古人は早く已に六壬を用いて日を択せしを、如今はただ張九儀のみなおこの様に做す、彼の著す所の《儀度六壬》は《龍首経》よりもいっそう詳細に講ず。《通書》の裏の「不将日」は嫁娶に宜し、および人道日・天道日・游神などの起例は、もとより皆《龍首経》に見ゆ。しかし日を択ずるの一家は竟に典を数えてその祖を忘る、この情形は已に久しきなり。
《龍首経》の成書の時代の疑
問:疑《龍首經》不知出於何時,觀《吳越春秋》內伍員、范蠡、文種諸占,惟引《金匱》、《玉門》,而不及《龍首》。及葛洪《抱朴子》始有《龍首經》之名,顏之推《家訓》亦言及之,則其書殆出於晉時歟?近見孫湄如先生刊本,《自序》云“考其官銜,知為漢人遺書。”於是前疑頓釋。
人有りて問う。《龍首経》は一体に何の時代に書を成せりか。《呉越春秋》の裏の伍員・范蠡・文種の諸人の占例を看るに、ただ《金匱》《玉門》を引き、しかして《龍首》を提せず。葛洪の《抱朴子》に到りてこそ《龍首経》のこの書名を出現し、顔之推の《顔氏家訓》もまたそれを提到す――それならばこの部の書は大概に晋代に出でしならん。近來我は孫湄如先生の刊本を見、自序の裏に言う「書中の載する所の官銜を考察すれば、以て知るべしこれは漢代の人の留めし書なり」、是に於て先前の疑問は一下子に释然せり。
宋代の六壬の源流:元軫・苗公達より邵彦和に至る
宋仁宗最嗜六壬,故其時習此學者甚多,而以元軫、苗公達為最。至徽宗、高宗時,邵彥和一出,又架諸人之上。理宗時,有凌福之等本邵公之法作《畢法賦》,於是諸法咸備,至平至當,一掃疑神疑鬼之習氣。
宋の仁宗は最も六壬を愛好す、ゆえにあの時にこの門の学問を研習する人は甚だ多し、その中は元軫・苗公達を以て最も出色と為す。徽宗・高宗の年間に到りて、邵彦和が一出すれば、また諸人の上に凌駕す。理宗の時、凌福之などの人は邵公の方法に依拠して《畢法賦》を写し成し、是に於て各項の法則は斉備し、平実・妥当は極点に到り、神を疑い鬼を疑うの風気を一掃して空くせり。
本朝の司天台の考選と諸書の愈多くして愈晦きと
至今朝,則以六壬、三命諸術考試司天臺之學生。時有徐次賓者,精於其術,著《一字訣》、《玉連環》,皆六壬一脈相傳也。至於《鳳髓靈》之節外生枝,《六壬通元》師巫邪說。更有一知半解之人,偶然湊合,便立為法,無怪書愈多而愈晦矣,北齊顏之推曰:“世傳之書,皆出於流俗,言辭鄙淺,驗少妄多,然哉,然哉!”。
本朝に到りては、則ち六壬・三命の一類の術数を用いて司天台の学生を考選す。当時に徐次賓と叫ぶ者有りてこの術に精なり、《一字訣》《玉連環》を著す、皆六壬の一脉の相伝して下りしなり。《鳳髄霊》のあの様に節外に枝を生ずるに至っては、《六壬通元》のあの様に満紙に巫師の邪説、さらに一些の一知半解の人が偶然に凑合して几条を出して便ち自立して法と為すを加え、また怪しむべからず書は愈々出でて愈々多く、しかして道理は愈々発し晦暗せり。北斉の顔之推は言う。「世上に流伝する書は皆流俗の手より出づ、言辞は鄙陋・浅薄にして、応験するは少なく妄誕するは多し。」説くこと対なるかな、説くこと対なるかな。
邵彦和の《口鑑》《断案》の散佚と改竄と
邵彥和先生所著《口鑑》,今無完本。《斷案》散見於各書者,不多不全;予三十年來自徽而至杭,而蘇,而揚,各處蒐羅,僅得二百餘課,其人斷語為後人改竄者時亦有之。此凌福之所謂“後人恣己見,作繁文以雜其真者”是也。
邵彦和先生の著す所の《口鑑》は、如今已に完本なし。彼の《断案》は各家の書の中に散見し、すでに多からずまた全からず。我は三十年來に徽州より杭州に到り、さらに蘇州・揚州に到り、各処に蒐羅すとも、またただ二百余箇の課を得るのみ。その中の断語の後人に改動・竄乱せられたるも、また時々に遇見す。これは正に凌福之の言う所の「後人は任りて自己の見解に凭り、繁瑣の文字を添出し、原書の真面目を搅混せしめり」なり。
邵公の籍貫の考、兼ねてこの学は浅陋の者の精する能くする所にあらざるを論ず
考其自占動靜一課,知先生為衢州人,然查《衢州府志》無其姓名,嘗記相知者在衢州者訪此公遺書,而久不得。讀楊忠愍公年譜,知公通三式之學,可見此學亦為君子所不棄。晉之戴洋,唐之李靖,元之劉秉忠、耶律楚材,明之劉青田,皆粗其學。因非渺見寡聞之輩所能精通者也。
彼の《動静を自占す》のあの一課を考察すれば、以て知るべし先生は衢州の人なり。しかし《衢州府志》を査するに、裏面には並べて彼の姓名なし。我はかつて相熟の人に托して衢州に於て代わりに彼の遺書を訪求せしめ、久しく尋ねて得ず。楊忠愍公(楊継盛)の年譜を読みて、彼の三式の学に通暁するを知る、以て見るべしこの門の学問もまた並べて君子の摒棄する所にあらず。晋代の戴洋、唐代の李靖、元代の劉秉忠・耶律楚材、明代の劉青田(劉基)は、皆粗くこの学に通ず。これに由りて知るべし、これは実に見識の浅陋・聞見の寡少なる人の精通する能くする所にあらざるなり。
史伝・方志の載する所の六壬に善なる者
予所見各書之言善六壬者,《吳越春秋》則載子胥、少伯、文種、公孫聖,《晉書》則載戴洋,《龍城錄》則載馮存澄,《五代史》則載梁太祖,《夷堅志》則載蔣堅,《稗史》則允升、堯山堂,《外紀》亦載朱允升,《徽州府志》則載程九圭,《松江府志》則載陳雨化,《蘇州府志》則載徐大衍、皇甫焯,《元史》則載劉文成,然古今書籍之言善六壬者,當不止此數人,奈予未之見耳。
我の見る所の各書の中に六壬に擅長する人を記載する有り。《呉越春秋》は伍子胥・范蠡(字は少伯)・文種・公孫聖を載せ、《晋書》は戴洋を載せ、《龍城録》は馮存澄を載せ、《五代史》は梁の太祖を載せ、《夷堅志》は蔣堅を載せ、《稗史》は朱允升と堯山堂とを載せ、《外紀》もまた朱允升を載せ、《徽州府志》は程九圭を載せ、《松江府志》は陳雨化を載せ、《蘇州府志》は徐大衍・皇甫焯を載せ、《元史》は劉文成(即ち劉基、諡は文成)を載す。これらの人の身份は各々相同じず。春秋・戦国の謀臣有り、晋代の占候の官有り、五代の開国の君有り、宋・元・明の名臣有り、また一郷・一邑に術数を以て知名するの処士有り、以て見るべし六壬の学は歴代に絶えず、かつ方技の流に限らざるなり。不過は古今の書籍の裏に六壬に擅長する人を提到するは当然にこれらに止まらず、ただ我は未だ能く一一に見得ざるのみ。
《文献通考》の六壬を論ずるに引く所の二書
馬端臨《文獻通考》之《論六壬》云:“近世寧黽消息,而此術甚行。”又云:“《五代史》、《金鑾密記》皆極言其驗。”夫所云《五代史》者,尚指《賀環傳》而言,而《金蠻密記》予所見者皆摘本,未知全部中所載云何。
馬端臨の《文献通考》の中の《六壬を論ず》は言う。「近世は趨避・消息の事を講究し、これに因りてこの門の術数は甚だ流行す。」また言う。「《五代史》と《金鑾密記》とは皆極力にその応験を称道す。」彼の言う所の《五代史》は、仍旧に《賀瑰伝》のあの一段を指して言うなり。《金鑾密記》に至っては、我の見る所は皆節録本、全書の裏に一体に何を記載せるやを知らず。
《畢法》の載する祈祷・禳解の四則
《畢法》以丁神帶月厭、天目、飛廉、大煞、墓庫、螣蛇而為本命者,宜祈禱上天星辰,庶免其凶。天網自裹宜祈禱本命星辰。鬼臨三四宜去邪作福,墓虎臨支宜召法官行遣,蓋本邵彥和為伊知縣占課而觸類旁通者也。
《畢法》は規定す。丁神が月厭・天目・飛廉・大煞・墓庫・螣蛇を帯びてしかも恰好に本命の上に落つるは、上天の星辰に祈祷するに宜しく、庶幾くばその凶を免るべし。『天網自裹』のは、本命の星辰に祈祷するに宜し。官鬼が第三・第四課の上に落つるは、邪を駆りて福を祈るに宜し。墓と白虎と日支の上に臨むは、法官を召請して法を作して遣送するに宜し。この几条は其の実は皆邵彦和が伊知県に代わりて占せしあの一課より触類・旁通して推衍し出でしなり。
癸亥日の伊知県の課:露天に謝罪する七日の故
其課繫癸亥日未將亥時,干上酉,三傳未卯亥、常貴勾,龍戌加寅命,陰巳加行年,邵公命其露天謝罪七日,壽可少延,而未言其故。予以管窺度之,蓋巳為日德生氣,宜修德也,乘太陰為禱祝;太常乘未發用亦為禱祝,加亥上,亥為天德,宜露天謝罪也;中傳貴為乘神祗乘太沖而制鬼,故可少延也。
あの一課は癸亥日・未将・亥時。日干の上は酉、三伝は未・卯・亥、分別に太常・貴人・勾陳を乗る。青竜は戌を乗りて本命の寅の上に加わり、太陰は巳を乗りて行年の上に加わる。邵公は彼に吩咐して露天に謝罪する七日、寿数は以て稍稍に延長すべしと言う、しかし縁故を講明せず。我は浅陋を揣らず、試みに推測するに如く。巳はすでに日徳にしてまた生気、正に徳を修するに宜しく、しかしてそれは太陰を乗る、太陰は祷祝を主る。太常は未を乗りて発用す、また祷祝の象、未はまた亥の上に加わり、亥は天徳、ゆえに露天に謝罪するに宜し。中伝の貴人はもとより神祇の象有り、また太衝を乗りて能く官鬼を制伏す、ゆえに寿数は以て略延すべし。
応貢元・応秀才の二課は皆象の中より看出せり
其餘見《斷案》中,邵公為應貢元占前程,知其陰德洪泰,貴壽兩全。為應秀才占前程,知其孝義有虧,壽元不久,此實課中觀此象,非附會之言也。
其余の例子は《断案》の中に見ゆ。邵公は応貢元に代わりて前程を占し、彼の陰徳の深厚・広寛を看出し、富貴と寿数とは两全せり。応秀才に代わりて前程を占し、彼の孝義の虧損有るを看出し、寿元は長からざるなり。これらは皆実実在在に課象の中より看出せる所、並べて事後に牽強・附会するの話にあらず。
屏山の大兄が程雲友に寿を占す:太陰が干を生ずは黙佑を得ん
予屏山大兄往年亦習六壬,己未歲在金華時,曾為家雲友先生占壽並終身,得干上亥水作太陰生壬,斷其得冥冥中之默佑。雲友因云:“十六歲時,夢至一處,遍堆書籍,隨手抽閱,恰見己名上下注程起隆,字雲友,國學生,妻祝氏,三子一女,壽六十一。”寤後告人,疑信相半,迨後一一不爽。然則壽止六十有一矣。
我が大哥の屏山は早年にも六壬を学べり。己未年に彼は金華に在る時、かつて本家の程雲友先生に寿数と兼ねて終身とを占し代わり、日干の上の亥水が太陰を乗りて来て壬水の日干を生ずるを得、彼の能く冥冥の中の默默たる庇佑を得んと断定す。雲友はこれに因りて説き起こす。「我は十六歳のあの年、夢にて一箇の地方に見到り、満屋に書籍を堆み、随手に一本を抽出して翻閲すれば、恰好に自己の名字を看見す、上下に注して曰く『程起隆、字は雲友、国学生、妻は祝氏、三子・一女、寿は六十一』。」醒めて傍人に告ぐれば、大家は半信・半疑せり、後に一桩桩として皆丝毫に差らず。この様に照らして説けば、彼の寿数はただ六十一歳有るのみ。
延年一季の験:果報は爽らず
果至六十一歲患痢甚危,自以為必死,堅不服藥,一日請其堂弟寄巢先生至床前,曰:“適見一人,手執片紙,上書程起隆有施藥施棺施陰騭文之小善,準延年一季,然則今可不死矣?夫一季為三個月,今雲延年一季者,意豈其三年乎?”次日其痢漸止,服藥乃痊。果延三年而壽終,可見果報之不爽,而太陰生干得冥冥中之默助,信而有征也。
果して六十一歳のあの年に到り、彼は痢疾を害して病は甚だ重く、自ら以て必ず死せんと為し、堅決に服薬を肯んぜず。ある日に彼は堂弟の寄巣先生を床前に請いて言う。「さきほど一人の人を看見し、手裏に一張の紙を拿り、上面に写して曰く『程起隆に薬を施し棺を施し陰騭文を印送するのこれらの小善有り、寿を延ばすこと一季を准予す』。この様に説けば、今日は以て死なざるべきか。一季は三箇月、如今は寿を延ばすこと一季と説く、意思は莫非れや三年か。」第二天に彼の痢疾は漸々に止住し、服薬すれば便ち痊愈せり、果してまた三年を活きてこそ寿終せり。以て見るべし因果・報応は丝毫に爽らず。しかして当年に断ぜし所の「太陰が日干を生ずれば、冥冥の中の黙助を得べし」も、また確かに信に足りて征験有るなり。
歙県の叔侄の悪を為す:甲寅の返吟はその久しからざるを断ず
歙有叔侄二人,交相為惡,唆訟詐財,欺孤滅寡,不可勝數。其侄尤多淫惡,里人畏之如虎。戊午年夏月有常遭其凌虐者,占此二人為何結局,得甲寅日返吟,干叔支侄,此定位也。各受申克,既為死神,又兼暗鬼,德喪祿絕,蛇虎紛紛,豈能久乎?
歙県に叔侄の両人有り、互相に勾結して悪を作し、訴訟を教唆し、銭財を詐取し、孤児・寡婦を欺凌す、数えても数え尽くすべからず。あの侄児は尤も淫悪にして、郷里の人は彼を怕るること虎を怕るが如し。戊午年の夏天、ある常に彼らに欺凌せらるる人有りて来りてこの両人は最後に何の下場なるかを占す、甲寅日の返吟課を得。日干は叔父を代表し、日支は侄児を代表す、これは定め好きの位次なり。両処は皆申金に剋せられる所、申はすでに死神を充当し、また兼ねて暗鬼を作す。日徳は喪失し禄神は断絶し、螣蛇・白虎は紛紛として出現す――この様の人はなお長久を得んや。
その侄は病中に衆鬼が身に凭りて卒す
後二年其侄患病,眾鬼憑之,而言內有一女鬼尤厲。蓋此女遭其淫後,被乃夫知之,推滋於河中死也。又其亡兄亦來索命,蓋乾隆五十七年汪裡太為人回家葬祖,其兄分辦酒席,兼有資財,乃唆其兄與人爭訟,藉此捲入己囊,致其兄抱恨而卒,後凌虐兄之子,是以其兄不甘也。患病月餘,藉草臥地,木盤盛食,伏而啜之,哼哼作豕聲而卒。
两年を過ぐるに、あの侄児は病倒し、衆の鬼は彼の身の上に附して話を説く、その中は一箇の女鬼が最も厲害なり。原来この女子は彼に奸污せられたる後、事情は彼女の丈夫に察覚せられ、便ち河の裏に推し進められて淹死せり。此の外に彼の已故の哥哥もまた来りて命を索む。乾隆五十七年に汪里太は人を請いて郷に回り祖先を安葬せしむ、彼の哥哥は分派して酒席を操辦し、手裏にまた一笔の銭財を経れり、彼は便ち哥哥を慫恿して人と官司を打たしめ、機を借りて銭を自己の腰包の中に巻き進め、哥哥を害して恨を抱きて死せしめり。後にまた哥哥の児子を欺凌す、ゆえに彼の哥哥は肯んじて甘休せざるなり。この侄児は一箇月余を病み、草を鋪きて地の上に躺り、木盤を以て飯を盛り、趴き下りて啜食し、哼哼として猪の叫ぶ如きの声音を発して死せり。
その叔は進香の途中に暴斃し、背に鞭痕を現ず
其叔見乃侄如此 ,次年往九華山進香,殆將懺悔,至羊叉,忽顧謂同伴之萬官曰:“人人說我是黑心,不能進香,今我何為?”語畢仆地而僵,天大雷電,以風尸即潰腐,其家既得凶信,扛梓往迎,而路途相左,仍以尸舁於背現青紫痕一道,人以為靈官鞭此擊雲。
彼の叔父は侄児のこの下場に落ちるを見、第二年に便ち九華山に到りて進香す、大概に忏悔を打算するなり。羊叉のこの地方に走り到り、忽然と頭を回し反りて同行の万官に対して言う。「人は皆我を黒心腸・不配の進香と説く、如今我は該当にどうしようか。」話音は剛に落ちざるに便ち地に倒れて僵死せり。当時に雷電は大作し、尸体は風に一吹せられて立刻に潰爛す。彼の家裏は凶信を接到し、棺材を抬きて前に往きて喪を迎う、路上はしかし尸を送る人と走り岔り。後に仍旧に尸首を抬りて回り、背上に一道の青紫色の痕迹を現出す、人々は皆説くあれは霊官の鞭子を用いて抽打して留めしなりと。
丙辰年に悪を怙る者の収成を占す:申酉が火庫に入る
丙辰年五月丁巳日,予卜丙寅命人怙惡不悛,收成若何。得干上申,三傳申酉戌,合朱蛇,從申酉金而入火庫,命上又見敗神,知其必敗,兼帶火鬼、火煞、死神、死氣,命上卯為血忌,以為不出七年,當患火痰血光而亡。誰知是持刀將手足劃破,向一汪姓者訛作,至經官理論,大耗其財,而劃破之處,血流不止,精神逐日消乏,懨懨而亡。
丙辰年五月・丁巳日、我は人に代わりて一箇の丙寅年生・悪を作して肯んじて頭を回さざる人の最終に何の結局有るかを占す。日干の上は申を得、三伝は申・酉・戌、分別に六合・朱雀・螣蛇を乗る。申・酉の金より一路に火庫の戌に走り進み、本命の上にまた敗神を見、以て知るべし彼は必ず敗すること疑いなし。いわんやまた火鬼・火煞・死神・死気を帯び、本命の上の卯はまた血忌を充当す。我はこれに因りて七年を出でざるに、彼は痰火を害し血光を見て死せんと断定す。誰か知らん実情は竟に、彼は刀を拿りて自己の手脚を划破し、一箇の姓汪の人に訛詐し、鬧いで官に経て理論するに到り、大大に一笔の財を破り。しかして划破せし地方は血は流れて止まらず、精神は一天天に消耗し、この様に病恹恹として死せり。
課象は逐一に印証す:刀・血・手足と自戕と
予始悟申金發用,刀也;酉為小刀,亦為血也;酉戌相害,酉卯相沖,戌為足,卯為手,手足受傷也。初傳從干上發出,引出許多不美,自戕也。六合而變蛇雀也。申為官符殺,故具訟也。更異者,未沒之前數月好蹲於地,仰首視人,如犬之狀。每一外出,群犬嘗吠而齧之。此非戌為末傳墓干之故歟?因備記之,即作果報觀可也。
我はこれにてこそ逐一に課象の対応を悟出す。申金が発用すれば、これは刀なり。酉は小刀にしてまた血を主る。酉と戌とは相害し酉と卯とは相冲し、戌は脚を代表し卯は手を代表す、正に手脚の受傷に応ず。初伝は日干の上より発出し、許多の好からざる事を牽引し出づ、正にこれは自己が自己を傷るに応ず。六合は螣蛇・朱雀に転変す、これは和合より纏訟に変ずるなり。申はまた官符煞、ゆえに官司有り。さらに怪しきは、彼の未だ死なざるの前の数箇月に地の上に蹲るを好み、頭を仰ぎ起こして人を看、様子は狗に似たり。毎に門を出づれば、群を成すの狗は皆追いて彼を咬む――これは正に戌がすでに末伝にしてまた日干の墓なるが故の縁にあらずや。我はこれに因りてそれを詳細に記し下り、便ち一段の因果報応と看作して看るもまた未だ嘗て不可ならず。
鄭体功が邵公の断案を疏し、兼ねて《心鏡》を讐す
予友鄭體功先生長於考據之學,嘗取邵公斷案一一疏明其所以然,所疏應貢元一課尤為詳細,發人神智不淺,又讎《心鏡》全部遺予,揚州盧繼塘先生見之,欽佩不已。
我が朋友の鄭体功先生は考拠の学に擅長し、かつて邵彦和の断案を逐条に疏解し、一一にその然る所以を説明す、その中に疏せし「応貢元」のあの一課は尤も詳尽、甚だ能く人の神智を啓発す。彼はまた《心鏡》の全書を校勘し一遍して我に送れり、揚州の盧継塘先生は見て欽佩して已まざりき。
張継秀は三式に精し、阮元に両広総督を許す
張繼秀先生名維楨,戊申副貢,又塘其外號也。作文敏捷,頃刻而成一篇。專於天文,兼精三式之法,阮蕓薹先生為諸生時,向先生問終身,先生曾許為兩廣總督,今已如其言矣。而先生謙謙自下,以為當時未有此言。
張継秀先生の名は維楨、戊申科の副貢、「又塘」は彼の別号なり。彼は文を作ること敏捷にして、顷刻の間に便ち篇を成す。天文に専精し、また兼ねて三式の法に通ず。阮芸台(阮元)先生はなお生員たるの時、彼に一生の命运を問う、先生はかつて彼に将来は官は両広総督に至らんと許せり、如今は果してこの一句の話に応ぜり。しかして先生は人と為りて謙退・自抑し、ただ当時は並べてこの様の話を講ぜざりしと説くのみ。
団蕉墩が郷会試を占するを論ず:一端未だ善ならざれば即ち許すべからず
先生與泰州團蕉墩先生交好,團先生亦善六壬,嘗言:“占鄉試會試,課象雖吉,倘有一端未善,即不可許。”其繼塘先生曾舉以勖予,予按其說良,然當為人占得朱雀空亡而不得地者,年命上神沖剋朱雀者,占鄉試得木局者,占會試得金局者,干支並乘敗神者,縱然簾幕青龍諸吉入課傳,無益也。
先生は泰州の団蕉墩先生と交好し、団先生もまた六壬に擅長し、かつて言う。「郷試・会試を占するに、課象はたとい吉利なりとも、ただ一箇処の不妥有らば、便ち彼に中式を許すべからず。」継塘先生はかつてこの句の話を挙げて以て我を勉励せり。我が按ず。この話は極めて是なるを説く。我はかつて人に代わりて課を占し、凡そ朱雀が空亡に落ちてしかも地を得ざるのに遇い、年命の上神が朱雀を冲剋する、郷試を占して木局を得る、会試を占して金局を得る、日干・日支が一併に敗神を乗ずるのに遇えば、たとい簾幕の貴人・青竜のこれらの吉神・吉将が皆課伝に進み入れりとも、また全く用処なし。以て見るべし科名の一事は、最も課中に一箇処の敗笔を留むるを忌む、ただ好き処を揀みて看るべからざるなり。
六壬金口訣は方伝を主と為す、射覆・試験は皆験あり
六壬金口訣以方傳為主,觀其神將遁干而占吉凶,亦頗有驗,惜其下卷歌括不甚醒,故習之者殊少。昔者屏山大兄嘗以之射覆,似較大六壬為確。又嘗考試,但得天官不受傷而克遁干者,名曰官動,必取中,屢驗。近於繼塘先生處,見《鴉池經》一冊,亦非金口訣之辭也。
六壬金口訣は「方伝」を以て主と為し、その神将と遁干とを看て以て吉凶を占す、また頗る応験有り。可惜し下巻の歌訣は写して醒豁ならずと為すを足らず、ゆえにこれを学ぶ人は甚だ少し。従前に我が大哥の屏山はかつてそれを用いて射覆せり、似乎る大六壬よりもなお准なり。彼はまたそれを用いて試験を占し、ただ天官が傷を受けずして能く遁干を剋住するを得れば、之を「官動」と叫ぶ、必ず録取せん、屢試して屢験せり。近來我は継塘先生のあそこに於て一冊の《鴉池経》を見、書名はたとい近しとも、裏面はしかしまた金口訣の辞句にあらざるなり。
屏山が馬姓の流年を占す:駅馬が干を剋して跌撲煞を帯ぶ
金華府入詠門外有馬姓者,丙申年春向屏山大兄占流年,大兄曰:“此課極惡,夏日有跌撲之災。” 蓋驛馬克干,又帶跌撲煞也。馬姓司府中房科,府堂基甚立,階有數十級。一日馬姓者失足跌下,二便出血,舁歸,即云“奇哉!”
金華府の詠門の外に一箇の姓馬の人有り、丙申年の春天に我が大哥の屏山に流年を占す、大哥は言う。「この一課は極凶、夏天の裏に跌撲の災有らん。」課中の駅馬が日干を剋し、また跌撲煞を帯ぶるを以てなり。この馬姓は府衙の裏に房科の文書を執掌し、府堂の台基は甚だ高く、石階は几十級有り。ある日に彼は足を失して上面より摔り下り、大小便は皆血を出し、抬ばれて家に回去し、随即に便ち気を断ち絶えり。(底本の末の二字は「奇哉」と作す、語意は属せず、あたうべく「即歿」の類の訛字ならん。)
