壬归
三伝の終始を明らかにすること第三
大六壬典籍
まず起課と三伝を発する機械的な流れを確実にしてから、課体と神煞に入る。起課を飛ばして断語だけ読んでも、書中の例を自分で再現できない。
目次
目錄。卷一《提綱例約》:一、觀四課之加臨;二、察用神之生克;三、傳始終;四、貴神吉凶;五、判八殺吉凶。卷二《壬占易簡例約》:理氣類象說;占例:求財;占例:瑣占約雲;占例:扣門。卷三《謀望門》:干貴求財第一;成象第二;通象第三;推類第四;引伸第五。卷四《婚姻門》:例約一;干支正象第二;用傳變象三;類神定象第四;品貌根源第五;命年關係第六;成後始終瑣象第七;古今占例第八。卷五《農事門》:例約;農圃定象;類神定象;象類約略;蠶桑象類;加臨定象;吉凶瑣象。卷六《出行門》:占例約第一;總象第二;動靜占法第三;遲速占法第四;吉凶占法第五;水陸占法第六;陰晴風雨占法第七;伴侶占法第八;貲本行李占法第九;投宿占法第十;啟行占法第十一;見聞有疑占法第十二;期會占法第十三;家內吉凶占法第十四。卷七《三才門》:三才易簡例約第一;類神三傳變通法引證第二。
全書は七巻に分かれる。巻一《提綱例約》は全書の綱領を立て、五節に分かれる:第一に四課の天盤・地盤の加臨の見方を説き、第二に用神(初伝)の生剋を審察する法を説き、第三に三伝の首尾・終始を説き、第四に十二天将(貴神)の吉凶を説き、第五に徳・合・鬼・墓・破・害・刑・冲という八煞の吉凶を判じる。巻二《壬占易簡例約》は理・気・象・類の四者の関係を説き、三つの占例を挙げる:求財、雑占の口訣、門を叩く来客。巻三以下は占事の部類別に編む。巻三《謀望門》は五節:謁貴求財、成象、通象、推類、引伸。巻四《婚姻門》は八節:例約、干支の正象、用伝の変象、類神の定象、品貌の根源、命年の関係、成敗・遅速と終始の雑象、古今の占験実例。巻五《農事門》は七節:例約、農圃の定象、類神の定象、象類の約略、蚕桑の象類、加臨の定象、吉凶の雑象。巻六《出行門》は最も詳しく、十四節:例約、総象、動静、遅速、吉凶、水陸、陰晴風雨、伴侶、元本と行李、投宿、啓行、途中の見聞と疑慮、約期の会合、家中の吉凶。巻七《三才門》は二節:三才易簡例約、類神・三伝変通法の引証。目録中の一部の篇名は本文の標題とやや出入りがあり、本文については本書の内文に拠るべきである。
壬歸。不著撰人。
本書は《壬帰》と題し、大六壬(だいりくじん)の種々の断法を一か所に集約し会通させる意である。原書は撰者の名を記さず、清代に伝わってきた門別占断の専書の一つである。
巻之一 提綱例約
壬之有綱,猶裘之有領;振裘者必挈其領,言壬者當提其綱。維綱云何?曰四課也,用神也,三傳也,天官也,八煞也,如斯而已。雖然,知四課而不知加臨之變,不知四課者也;知用神而不知五氣之殊,不知用神者也;知三傳而不知制救之情,不知三傳者也;知天官為萬類之主,而不知三才之用,不知天官者也;知八煞為經緯之需,而不知制化之妙,不知八煞者也。操而存之,是為提綱;神而明之,是在人矣。
六壬の学には綱領がある。ちょうど皮衣に襟があるようなもので、皮衣を広げるには必ずその襟を取らねばならず、六壬を語るにもまずその綱領を握らねばならない。綱領とは何か。すなわち四課、用神、三伝、天官(十二天将)、八煞の五つであり、これだけのことである。とはいえ、四課を知りながら天地盤の加臨の変化を知らなければ、四課を知らないのと同じである。用神を知りながら旺・相・休・囚・死という「五気」の区別を知らなければ、用神を知らないのと同じである。三伝を知りながらその制伏と救応の情理を知らなければ、三伝を知らないのと同じである。天官が万類の主宰であることだけを知り、三才の取象の用を知らなければ、天官を知らないのと同じである。八煞が課体の経緯に必須であることだけを知り、制伏と化解の妙を知らなければ、八煞を知らないのと同じである。この数条を把握して心に留めることを「提綱」と言い、神妙に明らかに変通して運用できるかは、全てその人次第である。
四課の加臨を観ること第一
凡日上神生日,謂之益氣。益氣者,有益於我之氣也;得之者,遇災不凶,凡事皆吉,故曰:上神生我,為益氣來扶來助。凡日生上神,謂之脫氣者,脫耗於我之氣也;得之者,事多脫賺,得不償失,故曰:我生上神,為脫氣勞心勞力。凡日上神剋日,謂之損氣;損氣者,有損於我之氣也;晝為人損夜為鬼損;旺相猶可,囚死難當。旺相為官,而君子得之;則為官星臨身,進取求官,反以應吉。凡日克上神,謂之制氣;制氣者,受制於我之氣也。氣為我制,則使令惟命,而惟命是從者,其先於財?故曰:我克者為財,然而得吉神旺相,方可言財;若將凶神死、內外刑戰,則為財神受傷,反主傷財。
およそ日干の上に乗る天盤の神が日干を生じるのを「益気」と言う。益気とは、我が身に益する気である。これを得た者は、災いに遭っても凶とはならず万事すべて吉となる。ゆえに言う、上神が我を生ずるは益気が来て扶け助けるものであると。およそ日干がかえって上神を生ずるのを「脱気」と言う。脱気とは、我が身から漏れ散じて耗れる気である。これを得た者は、事が多く人に言いくるめられて奪われ、得るものが失うものに償えない。ゆえに言う、我が上神を生ずるは脱気であり、心を労し力を労するばかりであると。およそ上神が日干を剋するのを「損気」と言う。損気とは、我が身を損傷する気である。昼に占えば人に損なわれ、夜に占えば鬼に損なわれる。上神が旺相の時はまだ耐えられるが、囚・死の気に落ちれば当たり難い。ただし旺相の剋は術語ではまさに「官」であり、君子がこれを得れば官星が身に臨んだことになり、進み出て官を求めるのにかえって吉に応ずる。およそ日干が上神を剋するのを「制気」と言う。制気とは、我に制せられる気である。気が我に制されれば命ずるがままに従う。命に従うものと言えば、まず財であろう。ゆえに言う、我の剋するものは財であると。ただし必ず上に吉将を乗せ気が旺相であってこそ財と言える。もし乗るのが凶将で気がすでに死に入っているか、内外に刑・戦が交われば、それは財神が傷ついたのであり、かえって財を損なうを主とする。
凡日上神生辰,辰上神生日,謂之人宅相生,彼此受益。凡日上神克辰,辰上神剋日,謂之交克,人宅相傷,賓主不睦。凡日辰皆自生其上神,謂之上脫,則彼此被上人脫賺;而上神又生天官者,則為脫上逢脫,其脫更甚,故曰:脫上逢脫多虛詐。凡日生辰上之神,辰生日上之神,謂之交脫,主東得西失,輾轉脫財。凡日辰上神各與日辰作合,謂之互合,或交互作合,謂之交合。惟宜和合圓成,不利解脫分散。但合中有刑有害,不可不熟審。
およそ日干の上神が日支を生じ、日支の上神がまた日干を生ずるのを「人宅相生」と言い、人と宅が互いに益を得る。およそ日干の上神が日支を剋し、日支の上神がまた日干を剋するのを「交剋」と言い、人と宅が互いに損傷し合い、主客のあいだが和睦しない。およそ日干・日支がそれぞれ自己の頭上の天盤の神を生ずるのを「上脱」と言い、人と宅がともに上の者に言いくるめられて奪われる。もしこの上神がさらにその乗る天将を生ずれば「脱上逢脱」となり、脱耗がいっそう甚だしい。ゆえに言う、脱上逢脱は虚詐・欺瞞が多いと。およそ日干が日支の上神を生じ、日支がまた日干の上神を生ずるのを「交脱」と言い、東で得て西で失い、転々として財を漏らし尽くすを主とする。およそ日干・日支の上神がそれぞれ日干・日支と合するのを「互合」と言い、もし交差して合すれば「交合」と言う。この種の課は和合・円成の事にのみ利があり、解除・離脱・分散・決着の事には利がない。ただし合の中には往々にして刑と害が挟まっているので、熟審しなければならない。
凡日上神墓日,謂之本身逢墓,故曰:華蓋覆日,如霧暗室,旺墓猶可,休囚更甚。凡辰上神墓辰,謂之家宅逢墓,其家必住墓庫陰僻之地,休囚為墓,旺相為庫。凡日加日墓之上,謂之將身投墓,有甘心就罪之象,不利有攸往,不往何災也?凡日加辰墓之上,謂之移家就靜,有散屋與人之象,舍己以從人,甘就其侮也。凡日辰上神各與日辰刑者,或交互刑害,則有彼此猜忌之象。凡日辰上各見日鬼辰鬼之墓者,則主凡事不明,最為凶兆。如木日,以丑為鬼墓之類,金神克木為鬼,丑蓋金之墓神也。
およそ日干の上神がちょうど日干の墓神であるのを「本身逢墓」と言う。ゆえに言う、「華蓋」の星が日に覆いかぶされば、人は霧の中の暗室に居るがごとし、と。墓神が旺に当たればまだ勉强なるが、休囚に落ちればいっそう昏昧となる。およそ日支の上神がちょうど日支の墓神であるのを「家宅逢墓」と言い、その家は必ず墓庫の類の陰暗で僻静な地に住む。同じ墓神でも、休囚の時はただ「墓」と数え、旺相の時は「庫」となる。およそ天盤上の日干が自己の墓の上に加わるのを「将身投墓」と言い、甘んじて罪に就く象があり、往く所あるに利あらず。行かなければ、どこから災いが来ようか。およそ天盤上の日干が日支の墓の上に加わるのを「移家就静」と言い、家屋を人に散ずる象があり、己を捨てて人に従い、甘んじてその侮りを受ける。およそ日干・日支の上神がそれぞれ日干・日支と刑するか、あるいは交差して刑・害すれば、互いに猜忌し憚る象がある。およそ日干・日支の頭上にそれぞれ日鬼・辰鬼の墓神が現れれば、万事が明白でないを主とし、最も凶の兆である。たとえば木日は丑を以て鬼墓とする類である――金が木を剋して鬼となり、丑はまさに金の墓神である。
凡辰加日上被日克,所欲不求而自得,財來就人,氣旺更吉。日加辰上被辰克,屈身取侮,當自責;自取亂首,咎不在人也。日加辰上辰生日,俯就他人求所得。辰加日上日生辰,萬事徒勞總不成。辰加日上辰剋日,卑下犯上非美德。日加辰上日克辰,用力於人事始成。辰加日上辰生日,任意求謀百無失。日加辰上日生辰,虛費心機百不成。
およそ日支が日干の頭上に加わって日干に剋されれば、欲するものは求めなくても自ずから得られ、財が人に就いて来る。気が旺相ならなお吉である。日干が日支の頭上に加わって日支に剋されれば、身を屈して侮辱を招くことになり、自ら責め反省すべきである。禍乱は自ら招いたのであって、人の咎ではない。日干が日支の頭上に加わって日支が日干を生ずれば、他人に身を低くしてようやく求めるものを得る。日支が日干の頭上に加わって日干がかえってそれを生ずれば、万事徒労でついに成らない。日支が日干の頭上に加わって日支が日干を剋すれば、卑下の者が尊上を犯すのであって美事ではない。日干が日支の頭上に加わって日干が日支を剋すれば、人事に自ら力を出して初めて事が成る。日支が日干の頭上に加わって日支が日干を生ずれば、意のままに求め謀って百に一つも失いがない。日干が日支の頭上に加わって日干がかえって日支を生ずれば、心機を空しく費やして百事成らない。
凡日上神旺日,最宜守舊,如木日以卯為旺神之類。日上神為日祿,主有榮名,切不可舍此祿神而別求動用。日上神為驛馬,君子升遷,小人身動。如子日馬在寅之類。日上神為日德,最利進取。如甲日德在寅,支德六吉,子日德在巳。日上神為日敗,事主敗壞,凡事皆凶。如木日敗在子,支敗六凶。日上神為日絕,凡事結絕。如木日絕在申。辰上見日之祿神,尊屈於卑,貴以下賤,權攝不正。辰上見日之官星,貴人進階,常人招訟。
およそ日干の上神がまさに日干の旺神であるときは、旧業を安守するのが最も宜しい。たとえば木日は卯を旺神とする類である。日干の上神がまさに日干の禄神であるときは、栄顕の名声があるを主とし、決してこの禄神を捨てて別に他の動作・用務を求めてはならない。日干の上神が駅馬であるときは、君子が得れば昇進・転任し、常人が得ればただ身が奔忙するのみである。たとえば子日の駅馬が寅にある類である。日干の上神が日干の徳神であるときは、進取に最も利がある。たとえば甲日は干の徳が寅にある。支の徳は十二支にそれぞれその位があり、たとえば子日の支徳は巳にあり、六つの陽支の徳はいずれも吉に属する。日干の上神が日干の敗神、すなわち沐浴の地であるときは、事は敗壞を主とし諸占ことごとく凶である。たとえば木日は子に敗がある。六つの支の敗神はいずれも凶に属する。日干の上神が日干の絶神であるときは、凡事が結絶する。たとえば木日は申に絶がある。日支の頭上に日干の禄神が見えるのは、尊き者が卑位に屈し、貴き者が賤き地に下るのであり、権を代行しても名が正しくない。日支の頭上に日干の官星が見えるのは、貴人は進階・昇級できるが、常人はかえって官司を招く。
日辰上神互換相沖,賓主不投,人情不美,與反吟同。四課不合,事不滿意,求謀不成。日上神為日鬼,最為不吉。日上魁罡,事不由己;辰上魁罡,家宅不寧。辰上空亡,或見天空,多主戲謔。日辰上見刑害,人情不美,凡事不宜。凡日課為主,為尊,為人,為動,為遠,為高;辰課為彼,為卑,為地,為靜,為近,為小。上生下則利,我生彼則不利。
日干・日支の上神が交差して冲し合えば、主客の双方が気投せず人情が美しくない。これは「返吟課」の意味と同じである。四課が互いに和合しなければ、事は意に適わず求め謀っても成らない。日干の上神がまさに日干の官鬼であれば最も不吉である。日干の頭上に魁・罡の二神、すなわち戌と辰が見えれば、事は己に由らない。日支の頭上に魁罡が見えれば、家宅が安寧でない。日支の頭上が空亡に落ちるか、あるいは天空の将を乗せていれば、多くは戯れ・冗談・言葉に実がないを主とする。日干・日支の頭上に相刑・相害が見えれば、人情が美しくなく諸事いずれも宜しくない。およそ日干の二課は主方・尊長・人・動・遠・高を表し、日支の二課は彼方・卑下・地・静・近・小を表す。上が下を生ずれば利があり、我が彼を生ずれば不利である。
凡日上神為太陽,身近恩光,最為吉利。凡辰上見月宿,為凶神入宅。月宿,太陰也。正月起危,二月起奎,三胃,四畢,五井,六柳,七張,八翌,九角,十房,十一箕,十二斗,日行一宿,遇斗重留,見觜不用。凡干上有鬼,而辰克去之;辰上有鬼,而干克去之,皆為吉占。又看為何神以定休咎。
およそ日干の上神がちょうど太陽の在る位に当たれば、身は君恩の光に近づき、最も吉利である。およそ日支の頭上に「月宿」に遇えば、凶神が宅門に入ったことになる。月宿とは太陰、すなわち月の臨む星宿を指す。正月は危宿から起算し、二月は奎宿、三月は胃宿、四月は畢宿、五月は井宿、六月は柳宿、七月は張宿、八月は翼宿、九月は角宿、十月は房宿、十一月は箕宿、十二月は斗宿である。一日に一宿を行き、斗宿に遇えば二日留まり、觜宿に遇えば略して用いない。およそ日干の頭上に官鬼があり日支がそれを剋り去ることができるか、あるいは日支の頭上に官鬼があり日干がそれを剋り去ることができるか、いずれも吉占と数える。さらにまたこの鬼がいずれの神であるかを見て、初めて吉凶の軽重を断ずることができる。
用神の生剋を察すること第二
發用之神,主事之吉凶成敗,以旺化決之。凡用在日上兩課,為外事,主遠,主去;用在辰上兩課,為內事,主近,主來。用起上克下,卑幼有災,事從外來,占利男子,兵利先起。用起下賊上,尊長有危,事從內起,占利女人,兵利後應。凡用得太歲,事在年中;用得月建,事在本月;用得旬首,事在本旬;用得節氣中立之首,事在半月之內;用得本日之干,事在本日之內;用得氣首,事在五日之內。
発用はすなわち初伝であり、一件の事の吉凶・成敗を主管し、それによって旺衰の変化を判定する。およそ発用が日干の上の二課から取られれば外事に属し、遠・去を主とする。発用が日支の上の二課から取られれば内事に属し、近・来を主とする。発用が「上剋下」から起これば、卑幼の人に災いがあり、事は外から来て、占問は男子に利があり、用兵は先に発して人を制するに利がある。発用が「下賊上」から起これば、尊長の人に危殆があり、事は内部から起こり、占問は女人に利があり、用兵は後に発して敵に応ずるに利がある。およそ発用の神がまさに太歳であれば、事はこの年の内に応じる。まさに月建であれば本月の内に応じ、まさに旬首であれば本旬の内に応じ、まさに節気の交立の首であれば半月の内に応じ、まさに本日の日干であれば当日の内に応じ、まさに五日一候の候首であれば五日の内に応じる。
用臨死,其事必止,如木用而臨在午上也;發用臨敗,其事必敗;發用臨絕,事結、人信至、病死;發用臨墓,事必隱晦。凡用神沖日、破日、刑日、害日,則自不安穩;用神沖辰、破辰、刑辰、害辰,則家不寧靜。若用克四課內之六親,即以言吉凶。如甲日,以土為財,四課內有土而用神寅卯克去之,則無財矣。課內本無其財,則不得言克財,六親仿此。凡用神下臨克地,而上神又來墓用,謂之仰丘俯仇。上神即中傳,即用神之陰也。
用神が死気の地に臨めば、事は必ず停顿する。たとえば木を用神とするのに午の上に臨む類である。発用が敗地、すなわち沐浴の郷に臨めば、事は必ず敗壞する。発用が絶地に臨めば、事の了結・人の音信の到来・病人の死亡を主とする。発用が墓地に臨めば、事は必ず隠晦で明らかでない。およそ用神が日を冲し・破し・刑し・害すれば、自身が安穏でない。用神が辰を冲し・破し・刑し・害すれば、家内が寧静でない。もし用神が四課の中のある一親の六親を剋り去れば、これに拠って吉凶を断ずる。たとえば甲日は土を妻財とするが、四課の中にもともと土がありながら、用神の寅卯に剋されてしまえば、それは財がなくなったことになる。もし四課の中にもともとこの財がなければ、財を剋したとは言えない。他の六親もこれに準じて類推する。およそ用神が下にそれを剋する地盤を臨み、頭上の神がかえってその墓となるのを「仰丘俯仇」と言う――仰げば墳丘であり、俯せば仇敵である。ここに言う上神とは中伝であり、すなわち用神の陰神である。
凡用神克太歲,主歲中災;克月建,主月內災;克旬首,旬內災;剋日干,憂己身,主身動及公訟;剋日支,憂妻妾卑下,及家內不安。克占時,主心動憂驚;克行年,謀事不成;克本命,命運顛倒。然須視其剋日克年克命之神,與日果為何類。若係日鬼,則為身災;為日刑,則防刑責之災;帶驛馬天馬,則防車舟傾倒撲跌之災。帶血支血忌,則防血光之災;帶官符病符,則防詞訟疾病之災;帶天鬼月厭,則魑魅怪異火燭之災。惟為財所克,則反利求財;日祿所克,則反利干祿;惟刑剋兩字,為壬式關鍵。惟日干、行年、本命,為己身化咎,而歲月旬,不過論其災發之歲月。
およそ用神が太歳を剋すれば、この年の内に災いがあるを主とする。月建を剋すれば本月の内に災いがあり、旬首を剋すれば本旬の内に災いがあり、日干を剋すれば憂患が自己の身に落ち、奔波労働と公門の訟事を主とし、日支を剋すれば憂患が妻妾と卑下の人に落ち、家内の不安となる。占の時を剋すれば、心神が浮動し驚恐・憂疑するを主とする。行年を剋すれば、謀事が成らない。本命を剋すれば、命運が顛倒し錯乱する。しかしまた、あの日を剋し・年を剋し・命を剋する神が、日干と一体どのような六親の関係にあるかを見極めなければならない。もしそれが日鬼であれば自身の災いであり、日刑であれば刑責の災いを防がねばならない。駅馬・天馬を帯びれば、車が転がり船が覆り、跌撲して傷つく災いを防がねばならない。血支・血忌を帯びれば、血光の災いを防がねばならない。官符・病符を帯びれば、詞訟と疾病の災いを防がねばならない。天鬼・月厭を帯びれば、鬼魅の怪異と火燭の災いを防がねばならない。ただ妻財に剋される場合のみ、かえって財を求めるに利があり、日禄に剋される場合のみ、かえって俸禄を謀るに利がある。刑と剋の二字こそ、まさに六壬課式の関鍵である。日干・行年・本命の三者こそ、まさに自己の身に落ちて災咎と化すものであり、太歳・月建・旬首は、災禍がいずれの年・いずれの月に発作するかを推算するためのものに過ぎない。
凡用神得四時旺氣者,主有喜慶;用若臨於旺氣之上,為其所克者,則主官非,旺氣所勝憂縣官也;如春占用木則為旺氣,如用土臨木,則為旺氣所勝矣;憂縣官者,縣為守土之官,古之諸侯也。氣旺當建,而有侯象,而謂之建侯也。用為建侯所勝,故有憂也。凡用神得四時相氣,為益財。如春占火用是也。用若臨於相氣之上,受其傷克者,則主失財。蓋相氣為四時子孫,生財之神也,故主益財。子孫之氣反來傷用,主失財。相氣所勝憂錢財也。
およそ用神が当季の旺気を得れば、喜慶の事があるを主とする。もし用神が旺気の上に臨みながらかえってそれに剋されれば、官司の是非を主とする。これがすなわち「旺気に勝たるるは、県官を憂う」である。たとえば春に卦を占い、木を旺気とする。もし用神が土に属して木の上に臨めば、これが旺気に勝たれたのである。県官を憂うという所以は、県令は土を守る官であり、古の諸侯に相当する。気が旺になればまさに建立すべきであり、諸侯の象がある。ゆえに「建侯」と言う。用神が建侯に勝たれたので、憂いがあるのである。およそ用神が当季の相気を得れば、銭財を增益するを主とする。たとえば春に占って火を用神とする類である。もし用神が相気の上に臨み、かえって相気に傷剋されれば、破財を主とする。なぜなら相気は四時中の子孫の爻であり、財を生ずる神だから、もともと財を益するを主とする。一旦子孫の気が倒れて用神を傷つければ、財を失うを主とする。これがすなわち「相気に勝たるるは、銭財を憂う」である。
凡用神得四時死氣者,為絕滅。如春占土用是也。用若臨於死氣之上,受其傷克者,則有喪亡之憂。蓋死氣即是四時財神,財為養命之源,而反傷用;用,事之機也,其機如彼,則無以養命矣。故曰死喪,死氣所勝憂死喪也。凡用神得四時囚氣,囚氣者,為敗壞。如春占金用是也。用若臨於囚氣之上,受其傷克者,則有刑獄之憂。蓋因囚氣即是官鬼,官與鬼,惟獄訟首畏之。臨於其地而受其所勝,能無凶乎?囚氣所勝憂刑獄也。
およそ用神が当季の死気を得れば、絶滅の象に属する。たとえば春に占って土を用神とする類である。もし用神が死気の上に臨み、かえってその傷剋を受ければ、喪亡の憂いがある。なぜなら死気はまさに四時中の財神であり、財は命を養う源である。いまそれがかえって用神を傷つけた。用神は事の枢機であり、枢機がこのように傷つけられた以上、命を養うすべもない。ゆえに死喪を主とすると言う――死気に勝たるるは、死喪を憂う。およそ用神が当季の囚気を得れば、囚気は敗壞を主とする。たとえば春に占って金を用神とする類である。もし用神が囚気の上に臨み、かえってその傷剋を受ければ、牢獄・刑罰の憂いがある。なぜなら囚気はまさに官鬼であり、官と鬼の二つは、まさに官事を打ち牢に坐す人が最も恐れるものである。用神がその地に臨んでまたそれに勝たれたなら、どうして凶でないことがあろうか。これがすなわち囚気に勝たるるは、刑獄を憂う、である。
凡用神得四時休氣者,為敗壞;如春占水用日也。用若臨於休氣之上,受其傷克,則有疾病之憂。蓋休氣即是四時生神,生乃生身之本,而反傷用,則生無所恃,而敗壞隨之矣,故憂疾病。休氣所勝憂疾病也。故曰:旺發言官事,妻財相氣論,死言喪禍至,囚動見官刑,休來憂疾病,諸家卦備陳。若只以用神而言,而不論其所臨之地,則失之矣。乃有以日干求五氣,而不從四時者,謬之甚也。
およそ用神が当季の休気を得れば、これも敗壞に属する。たとえば春に占って水を用神とする類である。もし用神が休気の上に臨み、かえってその傷剋を受ければ、疾病の憂いがある。なぜなら休気はまさに四時中の我を生ずる神であり、我を生ずるは身を立てる根本である。根本がかえって用神を傷つければ、生機は依拠するところがなく、敗壞がこれに随って来る。ゆえに憂いは疾病にある――休気に勝たるるは、疾病を憂う。ゆえに歌訣に言う、「旺気が発用すれば官事を講じ、妻財は相気に従って論じ、死気が一見すれば喪禍が至り、囚気が発動すれば官刑が見え、休気が到来すれば疾病を憂う。各家の卦書はすでに言い尽くした」と。もし用神そのものだけを見て、それが臨んでいる地盤が何の気であるかを顧みなければ、この法則は使い方を誤ったことになる。さらに日干を以て五気を推して四時に拠って定めない者がいるが、それはさらに大きな間違いである。
凡用神得相氣,為氣至,其事將來;宜占進取。用神得休氣,為氣謝,其事已往,宜占既散。凡日鬼為用,事敗憂生。若用神自臨克地,則不能為災。凡日墓為用,凡事不發。若墓為用神下臨長生之地,則舊事再發。如甲乙日小吉為用,下臨亥水之類是也。凡日刑發用,百事不利;日沖日破發用,雖得必失;日害發用,凡事疑阻,得不償失。
およそ用神が相気を得るのを「気至」と言い、事がまさに到来しているのであり、進取の類を占うに宜しい。用神が休気を得るのを「気謝」と言い、事はすでに過ぎ去ったのであり、すでに散じた事を占うに宜しい。およそ日干の官鬼が発用となれば、事は敗壞し憂患が生ずる。ただし用神が自ら下にそれを剋する地盤に臨めば、それは災いを成さない。およそ日干の墓神が発用となれば、諸事が発動しない。ただしこの墓神が用神となって下に長生の地に臨めば、旧事がまた新たに発作する。たとえば甲乙日が小吉の未土を用神として下に亥水に臨む類である。およそ日干の刑神が発用すれば、百事が利あらず。日干の冲神・破神が発用すれば、縦い手に入れても必ず再び失う。日干の害神が発用すれば、諸事が疑慮・阻隔し、得るものが失うものに償えない。
凡空亡發用,為本身空,憂喜俱不成,託人多詐,聞事不實,求脫憂,未能脫,小事出旬可望,大事終人難成。凡日干之同類發用,事多兄弟,用若下臨克地,則事不由己。凡天官下生用神,為得道,得道多助,無所不宜。用神上生天官,為失道,失道者寡助,所作者違礙。凡用神下臨克地,而天官又下克之,則為夾克,凡事逼迫,不由己身,吉不成吉,凶則大凶,如功曹臨申發用,上乘白虎之類是也。
およそ空亡の神が発用すれば、すなわち自身が空に落ち、憂うる事も喜ぶ事も成らない。人に事を託せば多くは欺詐に遭い、聞き伝えた消息は実がなく、身を脱して憂いを解こうとしても脱し得ない。小事はこの旬を出ればまだ望みがあり、大事はついに成り難い。およそ日干と同類の兄弟の爻が発用すれば、事は多く兄弟・朋友に関わる。用神が下にそれを剋する地盤に臨めば、事は己に由って主とすることができない。およそ乗る天将が下に向かって用神を生ずるのを「得道」と言い、得道の者は助けが多く、宜しくないことはない。かえって用神が上の天将を生ずるのを「失道」と言い、失道の者は助けが寡なく、為す事は処々に違碍する。およそ用神が下にそれを剋する地盤を臨み、上の天将がまた下に向かってそれを剋すれば「夾剋」となる。諸事が逼迫し身は己に由らず、吉は吉を成さず凶は大いに凶となる。たとえば功曹の寅木が申に臨んで発用し、上に白虎を乗せる類である。
凡用神下臨生地而天官又下生之,則為比和,吉事順美,凶事有救。如功曹臨亥發用,上乘天后之類是也。凡地盤克用神,用神克天官,為內戰,禍患難解,事從內起。天官克用神,用神克地盤,為外戰,凶禍易解,事從外來。凡用被下克上,乘凶將,則凶動。若末能制克用之神,可以反凶為吉。凡用神空亡,而所謀不成,所憂易脫,其事不實,其人不來。
およそ用神が下にそれを生ずる地盤に臨み、上の天将がまた下に向かってそれを生ずれば「比和」である。吉事は順調に円満し、凶事にも救応がある。たとえば功曹の寅木が亥に臨んで発用し、上に天后を乗せる類である。およそ地盤が用神を剋し、用神がまたかえって天将を剋するのを「内戦」と言い、禍患は化解し難く、事は内部から生ずる。およそ天将が用神を剋し、用神がまた地盤を剋するのを「外戦」と言い、凶禍は化解し易く、事は外から来る。およそ用神が下の地盤に剋され、また凶将を乗せていれば、凶事はまさに発動する。ただし末伝があの用神を剋する神を制し得れば、なお転じて凶を吉とすることができる。およそ用神が空亡に落ちれば、謀る事は成らず、憂うる事はかえって身を脱し易く、事は頼みにならず、待つ人も来ない。
凡以用神與所臨之辰相因而言數目,如神后加未為用,子數九未數八,八九相因而為七十二數之類是也;若發用作空,則當別取類之上下而因之。凡德神發用,事成凶散。凡日辰之上見凶神惡煞,如日鬼日刑之類,而用能克去之,則吉。
およそ数目を推算するには、用神とそれが臨む地支とを相乗すればよい。たとえば神后の子水が未の上に加わって発用となれば、子の先天数は九、未の先天数は八、八九を相乗して七十二を得、これが求める数目である。もし発用が空亡に落ちれば、改めて類神を取り、それと上下二位の数とを相乗すべきである。およそ徳神が発用すれば、好い事は成り、凶事は消散する。およそ日干・日支の頭上に凶神・悪煞、たとえば日鬼・日刑の類が現れても、用神がそれを剋り去ることができれば、吉と断ずる。
三伝の終始を明らかにすること第三
凡初傳吉,末傳凶,事主先易後難。初傳凶,末傳吉,事主先難後易。凡占進取,而三傳漸見有氣者,則為吉。如春占,初得亥子,末得寅卯之類是也。若漸見無氣,則宜守舊。凡占脫散,而三傳漸見無氣者,則為吉。如春占初得寅卯,末得亥子之類是也。若漸見有氣,則有事難解。凡初傳在日前一位,末傳在日後一位者,謂之前引後從,主有升官遷秩之喜;引從地支者,則有遷居修宅之慶。凡三傳不離四課者,謂之課內藏,占吉占凶,皆有成就之象,故凡病訟憂產,皆忌見也。
およそ初伝が吉で末伝が凶ならば、事は先に易く後に難しい。初伝が凶で末伝が吉ならば、事は先に難しく後に易い。およそ進取の事を占うには、三伝の気が一層ごとに旺になるのが吉である。たとえば春に占い、初伝に亥子の水を得、末伝に寅卯の木を得る類である。水は木を生じ木は春に当たって旺である、まさに漸く佳境に入るのである。もし三伝の気が一層ごとに衰えれば、旧業を安守すべきである。およそ脱身・消散の事を占うには、三伝の気が一層ごとに衰えるのがかえって吉である。たとえば春に占い、初伝に寅卯を得、末伝に亥子を得る類である。もし気がかえってますます旺になれば、事は解き難い。およそ初伝が日干の前の一位に落ち、末伝が日干の後の一位に落ちるのを「前引後従」と言い、升官・進級の喜びがあるを主とする。もし前引後従するのが日支であれば、移転・宅第の修造の慶びがある。およそ三伝がすべて四課の範囲を出ないのを「課内蔵」と言い、吉を占うにも凶を占うにも必ず成就する象がある。ゆえに疾病・訴訟・臨産の類の、それが真実となるのを恐れる事は、すべてこれを見ることを忌む。
凡三傳與日辰互換作合,事主反覆不定,牽連不了。凡三傳俱為日干之生者,謂之益氣,凡占俱吉。如甲日占,三傳申子辰之類是也。凡三傳俱為日干所克,謂之全財,財多反為不美,如甲日占,三傳辰戌丑未之類是也。凡三傳俱剋日干,謂之全鬼,鬼多亦為不吉,惟四課上原有制鬼之神,始可轉凶為吉。如甲日,三傳酉巳戌丑之類是也。凡三傳俱受日干之生者,謂之全脫,請託多虛謊,謀事多不成,憂病未得脫,干求多費力。如甲日占,三傳寅午戌之類是也。
およそ三伝が日干・日支と交差して合すれば、事は反復して定まらず、牵扯が絶えない。およそ三伝がすべて来て日干を生ずるのを「益気」と言い、占うところ吉でないものはない。たとえば甲木日に占って三伝に申子辰の水局を得る類である。およそ三伝がすべて日干に剋されるのを「全財」と言い、財が多すぎればかえって好い事ではない。たとえば甲日に占って三伝に辰戌丑未の四土を得る類である。およそ三伝がすべて来て日干を剋するのを「全鬼」と言い、鬼が多いもまた不吉に属する。ただ四課の上にもともと官鬼を制伏し得る神があればこそ、凶を転じて吉とすることができる。たとえば甲日に三伝が酉巳戌丑を得る類である。およそ三伝がすべて日干の生ずるを受けるのを「全脱」と言い、人に事を託せば多くは虚言・謊言であり、謀事は多くが成らず、憂愁・疾病は一時に脱し難く、人に求め干ればいっそう力を費やす。たとえば甲日に占って三伝に寅午戌の火局を得る類である。
凡三傳與日辰互作三合,而內一神空亡者,謂之空合,吉凶俱主不成。凡三傳俱陽,事必顯著;三傳俱陰,事必隱秘。子寅辰午申戌為陽,丑卯巳未酉亥為陰。凡三傳初生中,中生末,末生干;或末生中,中生初,初生日干者,事必轉相提攜,委曲成就,逢空亡則仍有名無實。凡三傳未克中,中克初,初剋日;或初克中,中克末,末剋日干者,則則必輾轉牽擾,遞相欺凌,事敗、求無、訟刑、病死,雖不克日,亦有其象。
およそ三伝が日干・日支と交互に三合局を結び、その中の一神が空亡に落ちるのを「空合」と言い、吉事も凶事も成らない。およそ三伝がすべて陽支であれば、事は必ず張揚し顕露する。三伝がすべて陰支であれば、事は必ず隠秘で顕れない。子・寅・辰・午・申・戌は陽に属し、丑・卯・巳・未・酉・亥は陰に属する。およそ三伝が、初伝が中伝を生じ、中伝が末伝を生じ、末伝が再び日干を生ずるか、あるいはかえって末伝が中伝を生じ、中伝が初伝を生じ、初伝が再び日干を生ずれば、事は必ず層々に互いに提携し、曲折はあれどついに成就する。もし中間に空亡に遇えば、やはり名あって実なしである。およそ末伝が中伝を剋し、中伝が初伝を剋し、初伝が日干を剋するか、あるいは初伝が中伝を剋し、中伝が末伝を剋し、末伝が日干を剋すれば、必ず転々と牵纏し層々に欺凌して、事は敗壞し、求めるものは落空し、訟獄・刑罰・疾病・死亡となる。縦い最後に日干まで剋し及ばなくても、すでにこの凶象はある。
凡三傳自干上發用,傳歸支上者,必是我託人幹事;自支上發用,傳歸干上者,必是人托我幹事。凡初為長生,末為墓者,事主先易後難,初吉後凶;初為墓神,末為長生者,事主先難後易,初凶終吉,惟三合局有之。凡三傳合住,沖日方動;三傳相尾相沖,合日方住。凡三傳傳進,作事宜進,吉凶亦漸進盛;三傳傳退,作事宜退,吉凶亦漸退散。凡三傳初末同辰,凡事宜。凡三傳間位,事多阻隔。
およそ三伝が日干の上から発用して最後に日支に伝わり帰れば、必ず我が行って他人に事を託すのである。日支の上から発用して最後に日干に伝わり帰れば、必ず他人が来て我に事を託すのである。およそ初伝が長生で末伝が墓庫であれば、事は先に易く後に難しく、起こりは吉で収まりは凶である。初伝が墓神で末伝が長生であれば、事は先に難しく後に易く、起こりは凶で終わりは吉となる。この格局はただ三合局の中にのみある。およそ三伝が互いに合し留まって動かなければ、冲の日を待ってようやく発動する。三伝の首尾が相冲すれば、合の日を待ってようやく止まる。およそ三伝が一歩ごとに前へ推進すれば、事を行うに進取するが宜しく、吉凶もこれに随って漸く加重する。三伝が一歩ごとに後ろへ退がれば、事を行うに退守するが宜しく、吉凶もこれに随って漸く消散する。およそ三伝の初伝と末伝が同一支にあれば、諸事がすべて宜しい。およそ三伝が位を隔てて跳躍すれば、事は多く阻隔がある。
凡三傳沖開課中之墓,為吉兆。然一沖不能破二墓,不可不知。凡三傳不在四課之上者,事必難成。凡三傳魁罡,凡事不安,然而魁罡所指,鬼神不能為禍。凡三傳同日為身強,同辰為客盛。凡三傳得見日干者,謂之三傳朝日,其吉其凶,不能逃避之象。凡三傳見於日辰之中,謂之夾定三傳。如乙丑日干上巳,三傳寅卯辰之類是也。凡占者皆有吉不容避,凶不可逃之象,病訟產憂產皆忌見之。不拘日上辰上,但見一空便為空矣。則有將得復失之象;凶不至死亡,吉亦不成大喜。
およそ三伝が四課の中の墓神を冲開し得れば、吉兆である。ただし一つの冲神は二つの墓を破れない、この一点は知らなければならない。およそ三伝がすべて四課の上に現れなければ、事は必ず成り難い。およそ三伝の中に魁・罡、すなわち戌と辰が見えれば、諸事が安らかでない。ただし魁罡の指す方位には、鬼神はかえって祟りを成して禍を為すことができない。およそ三伝が日干と同類であれば、自身が強旺である。日支と同類であれば、客方が興盛である。およそ三伝のすべてに日干が見えるのを「三伝朝日」と言い、吉凶のいずれも避けられない意味がある。およそ三伝が日干と日支の間に挟まるのを「夾定三伝」と言い、たとえば乙丑日に日干の上に巳が見え、三伝が寅卯辰を得る類である。およそこの格局に占い遇えば、いずれも吉事は避けられず凶事は逃れられない象がある。ゆえに疾病・詞訟・臨産の憂慮の類はいずれもこれを見ることを忌む。日干の頭上であれ日支の頭上であれ、ただ一箇所でも空に落ちれば、全局が落空と数えられ、まさに得ようとしてまた失う象となる。凶は命を送るに至らず、吉も大きな喜びを成さない。
凡日辰夾住三傳,前後尚虛一位者,謂之虛一,則有小節不完之象。然須看虛上所得何神,與日干果為何等親屬,兼以天官言之。假如所虛為日財,則必使錢不到;所虛為父母,必是文書欠缺之類。如丁卯日干上申,三傳辰巳午,虛一未字,未為丁之子孫,上乘勾陳,勾陳主田土,必是子孫田土不及之類是也。若占人年命填而實之,則又不為虛一之類矣。
もし日干・日支が三伝を中に挟んでいるのに、前後にまだ一位が空いて填まっていなければ、「虚一」と言い、小さな環節がまだ終わっていない象である。ただしまたその空いた一位の上がどの神であり、日干に対してどの六親に当たるかを見て、さらにその乗る天将と配合して言うべきである。たとえば空いたその位が日干の妻財であれば、必ず銭の使いが行き届いていない。空いたその位が父母の爻であれば、必ず文書に欠缺がある。またたとえば丁卯日に日干の上に申が見え、三伝が辰・巳・午であり、中間に未の一字が虚しく空き、未は丁火の子孫の爻で、上に勾陳を乗せている。勾陳は田地を主るから、必ず子孫・田産の方面の取り計らいが周全でない。もし占う人の行年または本命がちょうどあの空位に填まって、それを実に坐らせれば、「虚一」とは数えない。
若日辰之中止有兩傳,而有一傳透出在外,則為透關之格,須觀所透者於日干何等親屬以斷之。若透出為凶神,凶神去矣;透為吉神,吉亦去矣。如甲子日干上丑,三傳子亥戌,子亥二傳居日辰之中,戌則透出在外,戌為日財,上乘玄武,主有失財之事之類是也。凡得透關之格,而中傳見日,尤為緊要。
もし日干・日支の間に二つの伝しか挟まず、もう一つの伝が外へ透き出ていれば、「透関」の格である。あの透き出た一伝が日干に対してどの六親に当たるかを見て、これに拠って断ずべきである。もし透き出たのが凶神であれば、凶神はこれに随って去る。もし透き出たのが吉神であれば、吉気もこれに随って去る。たとえば甲子日に日干の上に丑が見え、三伝が子・亥・戌であり、子と亥の二伝は日干・日支の中に挟まれ、戌は外に透き出ている。戌は甲日の妻財で、上に玄武を乗せているから、銭財を失う事があるを主とする。この類に属する。およそ透関の格に遇い、中伝の上にまた日干が見えれば、それはいっそう緊要である。
凡初見日干之墓,中見用神之墓,而末能沖之,謂之破墓,可以吉言。凡初有凶惡,末克去之,則吉;初有凶惡,又克其末者,必凶。凡中見日墓,事當中止;中見日破、日沖,事必中壞;中見日害,謂之折腰,事當中阻;中見日空,謂之斷橋,事主中斷。凡末見中傳之鬼,謂之傳中藏鬼,末為事之結果,最為緊要者也。
およそ初伝に日干の墓神が現れ、中伝に用神の墓神が現れ、末伝がこの墓を冲開し得るのを「破墓」と言い、吉と断ずることができる。およそ初伝が凶悪の神を帯び、末伝がそれを剋り去ることができれば吉である。初伝が凶悪を帯び、またかえって末伝を剋り傷つければ、必ず凶である。およそ中伝に日干の墓が現れれば、事は中途で停まる。中伝に日干の破神・冲神が現れれば、事は必ず中途で敗壞する。中伝に日干の害神が現れるのを「折腰」と言い、事は中途で阻まれる。中伝に日干の空亡が現れるのを「断橋」と言い、事は中途で断絶するを主とする。およそ末伝に中伝を剋する官鬼が現れるのを「伝中蔵鬼」と言う。末伝は一件の事の最終の結果であり、これは全課の中で最も緊要な処である。
凡三傳俱空,則百無一實,蓋兩傳空亡,又遇天空也。凡三傳之中二傳遇空,只以不空者言事。如初中空,以末傳言事之類也。凡用神,可解日辰上之凶;末傳又解發用之凶;行年可解末傳之凶。凡末空,謂之傳入空亡,吉凶到後,皆無實際。凡三傳互刑,則前有凶神,而無人制之,皆凶兆也。凡自死氣傳生氣,吉;自生氣傳死氣,凶。
およそ三伝がすべて空亡に落ちれば、百の事に一つも実がない――いわゆる三伝倶空とは、二伝が旬空の上に落ち、もう一伝がまた天空の将を乗せたことを言う。およそ三伝の中に二伝が空に落ちれば、ただあの空でない伝を取って事を論ずる。たとえば初伝・中伝がともに空になれば、ただ末伝を用いて事を論ずる。およそ用神(初伝)は日干・日支の頭上の凶を化解し得る。末伝はまた発用のもたらした凶を化解し得る。行年は末伝のもたらした凶を化解し得る。およそ末伝が空に落ちるのを「伝入空亡」と言い、吉であれ凶であれ、結局は実の処に落ち着かない。およそ三伝が互いに相刑すれば、それは前に凶神がありながらこれを制伏する者がないのであり、いずれも凶兆である。およそ死気から生気へ伝われば吉、生気から死気へ伝われば凶である。
凡三傳所屬五行,皆當與日干較取六親,如甲日見太乙為子孫,見大吉為妻財,見登明為父母,見從魁為官星,見太沖為兄弟之類。凡占須以類神為主,如占失脫,則以元武為類,式中不見元武,亦當視之,以言方向色目,故曰:所筮不入仍憑類。凡類又不宜執著,如占家宅,而白虎臨寅作鬼,當以棟樑損折斷之。若係占財,則又不當作如是觀矣。故曰:非占現類莫言之。
およそ三伝の属する五行は、すべて日干と比較対照して六親を定める。たとえば甲木日に太乙の巳火を見れば子孫であり、大吉の丑土を見れば妻財であり、登明の亥水を見れば父母であり、従魁の酉金を見れば官星であり、太衝の卯木を見れば兄弟であり、いずれもこの類に属する。およそ占卜は必ず類神を主とせねばならない。たとえば丢失・盗難を占えば、玄武を類神とする。たとえ課式の中に玄武が現れなくても、なおそれがどこに落ちているかを見て、方位と顔色・形貌を説明するのに拠る。ゆえに言う、「占う所の事が課に入らなくても、なお類神に凭って断ずる」と。ただし類神に対しても死に執してはならない。たとえば家宅を占う時に白虎が寅に臨んで官鬼と化せば、屋梁が折損すると断ずべきである。もし占ったのが財であれば、もはやこの筋道に照らして見ることはできない。ゆえに言う、「本占が現すべき類神でなければ、それを持って事を言うな」と。
貴神の吉凶を定めること第四
凡占必以天官為萬類之主。如占盜賊,視元武,求財視青龍,文書視朱雀,干貴視天乙,怪異視?蛇,爭鬥視勾陳,疾病視白虎,婚姻視六合,飲食視太常,奴婢視天空,陰私視太陰,婦女視天后之類。然此特其大略也,觸類而長之,則有不可勝言者在焉。凡類雖以發見為主,見則所求易得也,若課傳無類,亦當視其方位,以言吉凶。主其情狀,則當視其陰神,陽現其象,情歸於陰也。
およそ占卜は、必ず十二天将を万類の事物の主宰とする。たとえば盗賊を占えば玄武を見、財を求めれば青竜を見、文書を見れば朱雀を見、貴人に謁見すれば天乙を見、怪異の事は螣蛇を見、争闘は勾陳を見、疾病は白虎を見、婚姻は六合を見、飲食は太常を見、奴婢は天空を見、陰私は太陰を見、婦女は天后を見る、いずれもこの類である。ただしこれはあくまで大概であり、これから推衍し広げれば、対応し得る事物は言い尽くせないほど多い。およそ類神は課伝の中に現れるのを要とする。一たび現れれば、求める事は手に入り易い。もし四課・三伝の中にこの類神が見えなくても、それが天盤上に居る方位を見て、吉凶を断ずるのに拠る。事の内情・実状に至っては、類神の陰神を見るべきである。陽位に顕れるのは外在の象であり、真実の情理は陰神に帰するからである。
凡天官所乘之神雖吉,若臨刑剋之地,則亦不吉。天官所乘之神既凶,若臨受刑剋之地,更凶。故凡天乙臨刑,為患非輕。如巳為天乙,加臨寅上,寅刑巳也。天乙臨害,小事成大,如子為天乙,加臨未,子未相害,未又克子也。天乙坐獄,干貴必辱,貴履辰戌也。貴人臨空,虛喜無功,天乙乘神加臨空地也。惟天乙臨日,謂之臨身,最吉。
およそ天将の乗るあの地支の神が吉利であっても、それがそれを刑し剋する地盤の上に臨めば、もはや吉でない。天将の乗る神がもともと凶であって、さらに刑を受け剋を受ける地盤の上に臨めば、それはいっそう凶である。ゆえに天乙貴人が一たび刑に逢えば、為す患いは軽くない。たとえば巳の上に天乙を乗せて寅の上に加臨すれば、寅はまさに巳を刑する。天乙が一たび害に逢えば、小事もまた大事に騒ぐ。たとえば子の上に天乙を乗せて未の上に加臨すれば、子・未は相害し、未土がまた来て子水を剋する。天乙が天獄の地に坐すれば、貴人に謁見して必ず折辱を受ける。いわゆる坐獄とは、貴人が辰・戌の二位を踏むことである。貴人が空亡に落ちるのは、空しく歓喜するばかりで功を空費すること――すなわち天乙の乗る神が空亡の地に加臨することである。ただ天乙が日干の上に臨むのみ、「臨身」と言い、最も吉利である。
凡天官既凶,而又加臨死墓絕地者,更凶,最不利。如白虎凶將,臨寅為絕,臨子為死,臨丑為墓,值此則為禍更深,餘凶仿此。
およそ天将がもともと凶であり、また死・墓・絶といった地盤の上に加臨すれば、それはいっそう凶で、最も不利である。たとえば白虎は凶将である。それが寅に臨めば絶地であり、子に臨めば死地であり、丑に臨めば墓地である。この数箇所に当たれば、為す禍は格別に深重である。その他の凶将はすべてこの法に照らして推す。
八煞の吉凶を判ずること第五
干有德合鬼墓,支藏破害刑沖,看其旺相空亡,定其往來生克。合乃完成,德為慶會,鬼主傷殘,墓多曖昧,破知損壞,害見侵凌,刑分強弱,沖不安寧,旺相察氣於四時,空亡主事於一旬,往來定遠近之期,生克分父子之親。德神臨日,凡凶化吉。發用制之,反為不吉。若遭夾克,謂之滅德。
日干の側には徳・合・鬼・墓の四つがあり、日支の側には破・害・刑・冲の四つが蔵されている。合わせればこれが「八煞」である。その旺相と空亡を見て、それらが往来するあいだの生と剋を判定するのである。合は円満に成し遂げるを主とし、徳は喜慶・会集を主とし、鬼は傷残・被害を主とし、墓は曖昧で明らかでないを主とする。破とあれば損壊があるを知り、害とあれば侵凌を受けるを見、刑では双方の強弱を分けねばならず、冲は安寧を得られないことを意味する。旺相は四時の気に拠って考察し、空亡は一旬の内の事を管する。往と来は応期の遠近を定め、生と剋は父子の類の六親の関係を分ける。徳神が日干の上に臨めば、一切の凶も化して吉となる。ただし発用の神が徳神を制してしまえば、かえって不吉である。もし徳神が上下に夾剋されれば、「滅徳」と言う。
凡德神臨於日鬼之上,又與日鬼作合,謂之德化為鬼,反吉為凶。凡德神為空、受制、遭刑、被害,皆不能為福。如甲日用寅為日德,而寅上見巳,則為德神被害,見死墓絕者,例亦如此。凡八殺制化,若臨陷地,則不能為禍福。
およそ徳神が日干の官鬼の頭上に臨み、またこの官鬼と合するのを「徳化為鬼」と言い、もともとの吉がかえって凶と変わる。およそ徳神が空亡に落ち、制伏され、刑を受け、害を受けては、いずれも福を造ることができない。たとえば甲日は寅を以て日徳とするが、寅の上に巳が見えれば、寅・巳は相害する――これが徳神の害を受けたのである。徳神が死・墓・絶の地に落ちるのも、理は同じである。およそ八煞の制伏と化解は、それが自らすでに陥落して気なき地に臨んでいれば、禍を成すことも福を成すこともできない。
巻之二 壬占易簡例約
理気象類の説第一
壬數學也。易以理著,蓋先天地而有,後天地而彰;數則理之所彰,而萬象寓焉。萬象者,天地之化體也。天地雖大,咸有一理,況化體乎?起於一,終於十者,干之數,天象也。起於一,終於十二者,支之數,地之象也。擴而充之,象則彌綸於天地間,而無一物之遺。謂非象生於數不可。天尊地卑,天動地靜,而尊者為君,為父,卑者為臣,為子;動者為客,靜者為主。動而客者,為身為人;靜而主者,為宅為物。種種非一,皆類也,謂非類生於象不可。
六壬は「数」を講ずる学問である。《周易》は「理」によって自己を顕明し、この理は天地に先だって存在し、天地が生成してから後に彰顕される。「数」はすなわち理の彰顕された形式であり、万象はすべて数の中に寄寓する。いわゆる万象とは、天地が化育した一切の具体的形体である。天地ほど大きなものですら皆一つの理に統べられているのだから、ましてそれが化育した形体においてをやである。一から起こって十に終わるのが天干の数で、天に属する象である。一から起こって十二に終わるのが地支の数で、地に属する象である。これを拡充し広げれば、象は天地の間に弥満して貫通し、漏らされるものが一つもない。ゆえに象は数から生じたと言わざるを得ない。天は尊く地は卑く、天は動き地は静である。尊きはすなわち君であり父であり、卑きはすなわち臣であり子である。動くは客であり、静は主である。動いて客となるものは、取象して人身・人とする。静かで主となるものは、取象して宅舎・物件とする。種々の名目は一端に止まらず、すべて「類」である。ゆえに類は象から生じたと言わざるを得ない。
是故舍數而言象,象無其本;舍象而言數,數有終窮;舍理而言數,靈敏不幾隘乎?壬以數名,而可僅以數言乎?象與類,無物不賅,而理則簡且易。此壬之所以大也。然而定理之中,又有氣焉;氣者,蓋權衡於理之圓機也。所以然者,事因有當然之理,無必然之氣;氣苟弗應,理亦宜然,象類空懸已耳。謂非理權於氣不可。
ゆえに数を措いて象を講ずれば、象に根本がない。象を措いて数を講ずれば、数には窮尽する日がある。理を措いて数を講ずれば、その霊験はなんと狭くなることか。六壬は「数」によって名を得たけれど、はたして数だけで講ずべきものか。象と類は包まないものがなく、理は簡単で容易である。これがまさに六壬の博大な所以である。しかし一定の理のうちには、さらに一つの「気」がある。気とは、理の上で権衡・斟酌するあの活きた機関である。なぜそう言うか。一件の事には往々にしてそうあるべき理があるが、必ずしもそうなる気はないからである。気が来て応じなければ、理がどれほど通じても、象と類は空しくそこに掛かるばかりである。ゆえに理はなお気によって権衡されると言わざるを得ない。
蓋氣在兩間,而身與萬物咸位乎中,故無適而非三才之用,無往而無覆載之機也。蓋凡氣之見乎天上者,隨四時而遞遷,曰五氣,旺相死休囚是也;見乎地者,隨吾身與應責之類,而如定十二氣,長生沐浴到胎養是也。二者之氣,取用雖殊,於理則一;而吾身之與萬類,得氣則吉,不得氣則凶,兩言決耳。於戲,類本象分,象因類著,理以氣應,占以理求,壬占之法,盡之矣。寧不易簡乎?是故謬列占例,以昭易簡之端,引伸觸類,神而明之,存乎人矣。
気は天地の間に充塞し、人身と万物は皆この中に処る。ゆえにどこへ行っても天・地・人の三才の作用から逃れられず、どこへ至っても天が覆い地が載せる機括がある。気が天に顕れるものは、四時の輪転変遷に随い、「五気」と言う。すなわち旺・相・死・休・囚である。気が地に顕れるものは、我が身と占問しようとするあの一類の事物に随って十二気に定まる。すなわち長生・沐浴から胎・養まで並ぶものである。この二つの気は取用の方式こそ異なるが、道理は一つである。我が身と万類とは、気を得れば吉、気を得なければ凶、二言で断じて清い。ああ、類は象に拠って分けられ、象はまた類によって顕れ、理は気に凭って応じ、占断は理に凭って求める――六壬の占法は全てここにある。なんと簡単で容易でないことか。ゆえに以下に浅陋を憚らず数則の占例を列し、この「易簡」の門径を示そうとする。他を以てこれに反って三を推し、神明に変通するかは、各々その人次第である。
占例第二
占例一:求財
例亦夥矣,而首以財言者,何也?蓋財在庶人,則為養身親上之源;在國家則誠富強生聚之本,誰曰細務?豈遂移之?求而有占,務適宜當理,而無後災也,豈喻利云乎哉?求財之占,先以青龍為主,而俯仰視之,得氣無傷,則吉,否則凶。蓋龍為玉帛錢財之類將。求類於將者,法視乘神與將較,若不內外戰,則神與將和,將有喜而無憂,皆為得氣。得氣者,將得氣也,得氣則吉。吉雲者何?類能為吉於人也,吉則可求。凡內外戰,皆為不和,將則有憂而無喜,皆為無氣,無氣則凶,凶則不可妄求。
占うべき例は甚だ多いが、なぜ第一にまず財を講ずるか。財は民百姓にとって、身を養い尊長を奉養する源であり、国家にとっては、実に富強と人口の蕃殖の根本である。誰がこれを小事と言えようか。どうして軽々しく後に挪して講ずることができようか。財を求めるに先だって一卦を占うのは、合宜・合理を求めて後患を残さないためであり、どこが唯利を図るを言おうとするものか。求財の占は、まず青竜を主とし、それに対して一つの「俯察仰観」を行う。気を得て傷を受けなければ吉、さもなくば凶である。青竜は玉帛・銭財といった類の事物の「類将」である。天将の上に類神を求める法は、それが乗るあの地支の神と天将そのものとを比較することである。もし互いに内戦・外戦を成さなければ、神と将が相和したのであり、天将は喜びあって憂いなし、すべて気を得たと数える。いわゆる得気とは、天将が気を得ることであり、気を得れば吉である。なぜ吉と言うか。この一類の事物は人に吉利を齎し得るからであり、吉ならば求めに行くことができる。およそ内戦・外戦のあるものはすべて不和であり、天将は憂いあって喜びなし、すべて気なしと数える。気なければ凶、凶ならば妄りに求めてはならない。
然而內戰其將者,憂重;外戰其神者,憂輕。輕猶可圖,重則難望,憂雖在將,人亦不能無憂也。類神之氣,則又在地,類神者,類將所助之神也,故凡類神所臨之地,有十二氣,而神與其地較旺衰。蓋凡下臨有氣之地,則財強。長生、冠帶、臨官、帝旺是也,謂之四吉。下臨無氣之地,則財弱,沐浴、衰、病、死、墓、絕、胎、養是也,謂之八凶。
ただし、下の地支の神がかえって天将を剋制する(内戦)場合は憂いが重く、天将が下の神を剋する(外戦)場合は憂いが軽い。軽いものはなお図り得るが、重いものは望み難い。憂いは天将の身に落ちるとはいえ、占う本人もまたこれに随って憂えざるを得ない。類神の気に至っては、地盤を見るべきである。類神とは、類将を承載するあの地支の神であり、およそ類神の臨む地盤は、いずれも十二気の中の一つに対応する。この神とその臨む地とを比して旺衰を定めるのである。およそ下に気ある地に臨めば、財は強い。すなわち長生・冠帯・臨官・帝旺の四位であり、「四吉」と称する。下に気なき地に臨めば、財は弱い。すなわち沐浴・衰・病・死・墓・絶・胎・養の八位であり、「八凶」と称する。
凡神將既和,而又下臨吉地,方成財象。財象既成,此財可求。神將不和,而又下臨凶地,財則無象。財象既無,求之何益?神凡內戰其將者,即下臨生旺,亦非吉象。蓋生旺氣神自當之,將無與也。夫以得氣之神,內戰其將,則類將之氣益弱,其憂更重,何吉之有?
およそ神と将がすでに相和し、また下に吉地に臨んでこそ、「財象」が結成したと言える。財象がすでに成れば、この財は求めに行くことができる。もし神将が不和で、また下に凶地に臨めば、財には象がない。財象がすでに存しない以上、それを求めて何の益があろうか。地支の神がかえってその載せる天将を剋制すれば、縦い下に長生・帝旺の地に臨んでも、吉象ではない。なぜなら、あの生旺の気は下の神が自ら占めてしまい、天将はその光に浴さないからである。気を得た神を以て、自らの載せる天将を内戦させれば、類将の気はいっそう弱く、憂いはいっそう重い。どこに吉があろうか。
神凡下臨空地,而所空即為四吉,亦非吉象。蓋既落空,有財尚當防損,況本無財,而欲往求乎?惟神生其將,而神自作空者,尚有出旬之可望。蓋出旬則空者填實,故猶可望也。地之十二氣,吉凶於類神者,雖各有象可按,然只吉凶兩象而已耳。分而玩之,各有其情,未可漫忽。
地支の神が下に空亡の地に臨めば、縦い落ちたのがちょうど長生・冠帯・臨官・帝旺の四吉の位であっても、吉象ではない。すでに空に落ちた以上、もともと財があってもなお損失を防がねばならないのに、ましてもともと財なしにそれを求めようとするにおいてをや。ただ一つの情形が例外である。神がその載せる天将を生じ得て、空なのはただこの神自身である場合、なおこの旬を出てから再び言うべきである。旬を出れば空の処は填実されるから、なお望みがある。地盤上のこの十二種の気は、類神の吉凶に対して各々循るべき象があるとはいえ、帰するところは吉と凶の二象に過ぎない。ただし一々分けて細かく見れば、それぞれにまたそれぞれの情味があり、草草として見過ごしてはならない。
蓋凡長生則有生生不匱之義,求財皆吉,而將本求息之財,更相宜也。沐浴則有渙蕩消除之義,氣當其敗,無攸利也。冠帶則有莊嚴整飭之義,冠冕崢嶸之財可圖也。臨官則有顯榮利達之義,官貴公府之財,咸所宜也。帝旺則有當時乘勢之義,財關邦國,靡不從心也。惟是日中則昃,月盈則虧,知者慮焉。若復悠洩從事,則恐坐失機宜,時不可失,悔何及矣?
長生には生き生きとして絶えず、源源として匱れない意味があり、求財は皆吉であり、とりわけ元本を以て利息を生ずる類の財に適する。沐浴には涣散・冲刷して消磨・除去する意味があり、気はまさに敗落に当たり、図るべきものはない。冠帯には荘厳・整粛の意味があり、あの体面・顕赫な類の財は図り得る。臨官には顕達・栄耀の意味があり、官府・公家の一路の財はいずれも相宜しい。帝旺には時に正当り、勢いに乗って起こる意味があり、邦国に関わる大財に至るまで称しないことはない。ただ日が正午に至れば西に斜し、月が満ちれば欠ける。明らかな人はこれに顧慮があってしかるべきである。もしまた拖拖拉拉と事を延ばせば、ただ白く機を坐失するを恐れる――時機は失ってはならない、失えば悔いても及ばない。
衰有日消月耗之義,凡財早圖,或有成機也。病則奄奄困頓,弱何如也?死則有去無來,哪有生理?望宜止也。墓則財神歸庫,遇有刑沖,庫藏秘器之財,猶可圖也。惟絕則有復生之理,自絕而復生,尚需時日,自非一蹴之可就;而凡割絕之財,或相宜也。至夫胎養之氣,則誠微而又微,雖有幾望,誠不可過賒也。十二氣之所攸關類神,如彼其瑣,而可漫言乎哉?
衰には日々に消減し月々に損耗する意味があり、およそ財あれば早めに図るべきで、或いは成事の機会もある。病は気息が奄奄として困頓甚だしく、弱いこと何の極まりか。死は去って回らず、どこに生機があろうか。望みはこれに止めるべきである。墓は財神が庫の中に帰ることであり、もし刑冲に遇って庫が開かれれば、あの庫房の中に蔵された珍秘の財はなお図り得る。ただ絶地には「絶処に生に逢う」の理が含まれているが、断絶から復生に至るにはまだ時日を待たねばならず、決して一蹴には成らない。およそ切り断ち了結した財は、かえって或いは相宜しい。胎・養の二気に至っては、それは実に微弱また微弱であり、一線の望みはあるけれど、決して日を遠く延ばしてはならない。十二気と類神との関係がこのように瑣細に及ぶのだから、どうして口のままに乱り言うことができようか。
是則所謂俯察,以占地理之何若也。類地之氣,雖有其徵,而天心在上,正未可知。類苟得氣,則天不從人,其如天何?故云須仰視而細察之。蓋類神之上,各有天神,神各有所乘之將,將主其事,而神司吉凶。或吉或凶,天之心也;天不可測,而推類上神將是以測之。故須仰視。
以上がいわゆる「俯察」であり、類神の足元の地理がどうかを占い見るためのものである。類神の臨む地の気はすでに凭るべき迹象があるが、天意は上にあって、一体どうかはまだ言い得ない。類神が縦い気を得ても、天意が人に従おうとしなければ、天をどうすることができようか。ゆえに必ず「仰視」して、細かく上を察看せねばならない。類神の頭上には各々天盤の神があり、每位の神にはまた各々乗る天将がある。天将はこれがどのような事であるかを主管し、神はこの事の吉凶を主管する。吉か凶か、それは天意である。天意は測り得ず、ただ類神の頭上の神と将を推看することによってそれを揣测するほかない。ゆえに必ず仰視せねばならない。
蓋在天神將,臨其類神,緊關休慼,而於吾身之吉凶可否,復有攸關,所以然者,財之有無多寡,雖在類氣之得失,而求之可否,身實主之,從違緩急,在我不在龍也。法曰:陽見其象,而情歸於陰。
なぜなら、天の神と将が類神の頭上に臨照して、緊くこの類の事物の吉凶・禍福に関わり、同時に我が身が得られるか・為すべきかにも関わるからである。なぜか。財の有無・多寡は固より類神の得気に拠るが、求めに行けるかどうかは、実は我が身が主を作すのである。順うか逆うか・速くするか緩めるか、その主動権は我にあって、青竜にない。ゆえに法訣に言う、「陽位に顕れるは外在の象、真実の情理は陰神に帰す」と。
凡類上之神,謂之陰神而曰類陰,陰者事之主,天之心也。蓋凡陰乘吉將,氣旺扶龍,則知天心佑類,而有默扶陰益之雅。陰乘凶將,氣囚制類,則知天意劫財,而有耗分攘奪之虞。陰生日干,及能生合日上神者,取之無咎。陰剋日干,及並刑害日上神者,妄取必有他殃。欲知殃於何事,即視類陰所乘之天官。如虎主疾病死喪,蛇主驚憂怪異,元主逃亡盜失,勾主爭訟,朱主口舌,天空欺詐之類,所謂將主其事,神司吉凶也。
およそ類神の頭上のあの神を陰神と言い、類神に就いては「類陰」と称する。陰神は一件の事の主宰であり、天意を代表する。およそ類陰が吉将を乗せ、気がまた旺相で青竜を扶助すれば、天意がこの類の事物を保佑して、暗に扶持し悄悄と增益する美意があると知る。類陰が凶将を乗せ、気が囚地に落ちてかえって来て類神を圧制すれば、天意はこの財を劫そうとして、耗損・瓜分・強奪の危険があると知る。類陰が日干を生じ得るか、あるいは日干の上神と生合し得れば、この財を取って過ちなし。類陰が日干を剋するか、あるいは併せて日干の上神を刑害すれば、妄りに取れば必ず別に災殃がある。災殃がどの事に出るかを知りたければ、類陰の乗る天将を見る。白虎は疾病・死喪を主り、螣蛇は驚憂・怪異を主り、玄武は逃亡・失盗を主り、勾陳は争訟を主り、朱雀は口舌を主り、天空は欺詐を主る、いずれもこの類である――これがすなわち「天将はどのような事かを主管し、神は吉凶を主管する」である。
類陰之氣遲遠攸關,旺相休囚,四時遞轉,惟氣在天,而天實司之,故在天神將,得以代天而司化,應則化之,所見端也。故凡陰乘四時旺氣者,吉凶之應必速;相主方來而尚未來,休為已過,囚死必遲。至空亡之氣,遲速兩端,俱無足道,是皆仰觀以測天心之苦;財與吾身,又須較量。蓋財旺,必須身強,身弱財強,財雖滿前,無力可取。須待生旺吾身之時,方才可必。財弱身強,我志雖雄,財猶恍惚,亦須待生旺財神之候,始可言求。對待之象,不可不知。蓋寄干為求者之心,上實有天,而天心未可料也,是故亦仰觀以察之。
類陰の気は、応験の遅早・遠近に関わる。旺・相・休・囚は四時に随って輪転し、気は天上にあって、実に天が主管する。ゆえに天盤の神と将は天に代わって造化を司掌し得るのである。応ずべき時に至ればそれは化して事となり、その見える一端がすなわち徴兆である。ゆえにおよそ類陰が四時の旺気を乗れば、吉凶の応験は必ず速い。相気を乗れば、事は将来であって未だ至らないを主とする。休気を乗れば、事はすでに過ぎ去ったを主とする。囚気・死気を乗れば、応験は必ず遅い。空亡に落ちた気に至っては、速いとも遅いとも論ずるに足らない。以上は皆「仰観」によって天意を揣测する苦心である。このほか、財と我が身とはなお両々に権衡せねばならない。財が旺ならば、必ず我が身も強でなければならない。身弱で財強ならば、財は眼前に積み満ちても、取る力がない。我が身を生旺せしめる時を待って、初めて拿り得て穏い。財弱で身強ならば、我が志気は豪なれども財は恍惚として、また財神を生旺せしめる時を待って、初めて求めるを言い得る。この種の彼此相対待の象は、知らなければならない。日干の寄せる宮位は求財する者の心思を表し、その頭上にも実に一面の「天」がある。天意は予料し難いから、同じく仰観して察看せねばならない。
蓋凡寄干之上,乘吉氣旺則身強,謂之無傷,傷則身弱,日陰所主者,我之情思心腹也,與日神交相生旺,或能生合日干,則心腹可憑,懷思無疚,反身而誠,無施不可,否則切己之憂,殊可慮也。欲知強弱於吾身者,即視日上神所乘之天官。欲知所憂於吾身者為何事,即視日陰所乘之天官。至夫神煞,亦須搜討,煞歷俱在,不可誣也。神煞者,天神所乘之煞也。吉凶可否之實,惟煞主之,故曰:將無神不靈,神非煞不顯。煞雲者,確實無疑之辭也。顧名思義,象自昭然。
およそ日干の寄せる宮の頭上が、吉将を乗せ気がまた旺ならば、我が身は強く、「無傷」と言う。一たび傷を受ければ、我が身は弱い。日干の陰神が主管するのは、我が心思と心腹の人である。それが日干の上神と彼此に生旺するか、あるいは日干と生合し得れば、心腹は頼りになく、心に愧じるところなし、身を返し問うても心に愧がなく、何をしてもよい。さもなければ切身の憂患であり、顧慮に値する。我が身が強か弱かを知りたければ、日干の上神の乗る天将を見る。我が身の憂うるのがどの事かを知りたければ、日干の陰神の乗る天将を見る。諸種の神煞に至っても、また一々に搜検し推求せねばならない。煞の例は暦書にあらかじめ具わっており、勝手に抹殺してはならない。いわゆる神煞とは、天盤の神の帯びる煞である。吉凶・成否の実情は、まさに煞が主管する。ゆえに言う、「天将は神なくば霊ならず、神は煞なくば顕れず」と。「煞」の字は、それ自体が確鑿で疑いなきの意である。名に顧みて義を思えば、象は自ずから昭然と明らかである。
日干所臨,乃吾身游行之地,凡占有動,便須視之,求財,動占也,故又當俯察以觀動之宜否。蓋凡所臨之地,不刑不克,非敗非空,而且或相生旺,則為得氣。遊身得氣,無往非宜,否則未宜輕舉,妄動招尤,徒自苦耳。日支之象,與財所乘之天官,乃其職事。尋類而求,洞如觀火,如太常之類為尊長,為眷屬,為武弁,類推可知也。以其所乘而求五氣,則伊人之貧富貴賤,老少晦明,無不可知,而其狀貌衣飾,亦無不可知也。例詳中黃。
天盤上の日干の落ちるあの地盤は、我が身の出行・游走する地である。およそ行動のある事を占問するには、皆それを見なければならない。求財はまさに「動占」であるから、なお動き出るのが合宜かどうかを俯察せねばならない。およそ臨む所の地が刑せず剋せず、敗地でもなく空亡でもなく、甚だしくは彼此が生旺し得れば、気を得たと数える。出行する我が身が気を得れば、どこへ往っても適する。さもなくば軽挙妄動に宜しくない。胡乱に行動すれば責怪を招き、空しく苦を喫するのみである。日支の顕す象に、財の乗る天将を加えれば、それが財を与えるあの人の身分・職業である。類神に順って推尋すれば、火を看るように明白である。たとえば太常の類は尊長を主り、眷属・武職の人をも主る。その余は類推できる。さらにその乗る神を以て四時の五気を推せば、その人の貧富・貴賎・年長・年少・顕達・晦滞は、知らないものはない。その相貌・衣着すら知らないものはない。詳しい条例は《中黄経》に見える。
辰陰所主,亦即伊人之懷司心腹,而喜忌繫焉。蓋凡陰神生旺陽神者,伊人之喜,不難於從事;刑害破沖者,伊人之忌,弗克惴裁。欲知喜忌之為何人,即視其陰所乘之天官。凡支干為上神所制,或支干上神為其陰神所制者,皆為有傷。傷則不能無所畏忌,故曰干傷則有所畏而不能取,支傷則有所忌而不敢與。取與之義,全決於斯也。遲速之應,決於三傳,傳不逢財,惟用是責。
日支の陰神の主るは、すなわちあの人の心思と心腹の人であり、彼の喜好と顧忌はすべてこの上に係る。およそ陰神が陽神を生旺し得れば、あの人の喜ぶところであり、事を行って難しくない。陰神が陽神と刑・害・破・冲すれば、あの人の忌むところであり、彼は敢えて自ら主張しない。喜び忌むのがどの一路の人かを知りたければ、この陰神の乗る天将を見る。およそ日干・日支が自己の頭上の神に制されるか、あるいは日干・日支の上神がまたそれらの陰神に制されれば、皆「有傷」と数える。一たび傷あれば、畏懼・顧忌を免れない。ゆえに言う、日干が傷を受ければ、我の側は畏懼があって取ることができず、日支が傷を受ければ、相手方は顧忌があって敢えて与えない。与と取のこの意味は、全てここにおいて決断する。応験の遅速に至っては、三伝に拠る。三伝の中に財が見えなければ、ただ用神(初伝)を見る。
凡財神得氣無傷,而且見於三傳中者,法以次第傳之,末傳是應期。應期者,克應之期也。蓋初為發端,類見必速,而乘四時旺氣者,更速。相則稍緩,死囚休氣,亦以遲言。中為移易,類見而旺,其應亦緩。末為歸計,類見而旺,其應必遲。然若傳歸日干之上,而或入宅臨門者,反當以速期之。是故遲中有速,速有有遲,不可不察也。凡財不入傳,而第責龍神於間處者,則當尋視發用,蓋用者,實事機之先兆也。凡用為歲建,則從歲取期;用為月建,則從月取期;日時亦然。氣旬候首,無不皆然。所謂起歲年華問,逢蟾月裡尋云云者也。
およそ財神が気を得て傷を受けず、かつ三伝の中に現れた場合、法は初・中・末の次第によって推し、末伝がすなわち応期である。いわゆる応期とは、剋応が兌現する日である。初伝は事の発端であり、類神がここに現れれば応験は必ず速く、さらに四時の旺気を乗ればいっそう速い。相気を乗ればやや緩く、死・囚・休気を乗れば「遅」に帰して言う。中伝は事の転移・変易の処であり、類神がここに現れてまた旺であれば、応験はやや緩くなる。末伝は事の帰結であり、類神がここに現れてまた旺であれば、応験は必ず遅い。ただし伝が最後に日干の頭上に帰すれば、あるいは宅に入り門に臨めば、かえって速いに拠って期を定めるべきである。ゆえに遅の中に速あり、速の中に遅あり、細察せざるを得ない。およそ財の爻が三伝に入らず、ただ閑位の上に青竜を見出し得るのみならば、発用に回頭して見るべきである。発用は実に事機の先兆だからである。発用が太歳ならば年によって期を取り、発用が月建ならば月によって期を取り、発用が日・時ならばまたこれに照らして弁じる。節気・旬首・候首に至っても、いずれもこのとおりである。これがすなわち歌訣の言う「太歳に起これば年華を問い、月建に逢えば月のうちに尋ねよ」の類である。
然以歲期者,尚當有所應之月;以月氣旬候期者,尚當有所應之日;以日期者,尚當有所應之時,而可不知乎?然而又有說焉,財弱者,宜從所言,身弱者,當以身論,分而求之,應期確矣。數目之端,先天是責。新舊之故,孟仲季言。
ただ年を以て期を定めるものは、その中にさらにどの月に応ずるかを定めるべきであり、月・節気・旬・候を以て期を定めるものは、さらにどの日に応ずるかを定めるべきであり、日を以て期を定めるものは、さらにどの時に応ずるかを定めるべきである――この一層をどうして知らなくてよかろうか。このほかにまた一説がある。財が弱いものは、上に講じたこの法に拠って期を定め、我が身が弱いものは、我が身のこの一端から論ずべきである。分けて推求すれば、応期は定まって准う。数目の推法に至っては、先天の数を見る。財物の新旧は、孟・仲・季の三類の地支に拠って講ずる。
凡此四者,法以類神與所臨之地較之,蓋數目者,財之數目也;新舊者,財之新舊也;故不必他求,而惟類是責。地即財之著落處,故須與地相較。甲己子午九者,先天之數目也,相因而言,乘除之定理也。財旺則相因而倍進,財相則計其所因以為數,休則計其應得之成數而不因,囚死則不惟不因,而且減其成數之半,是又先天之活法也。因法云何?如財神之數為九,財地之數為八,八九相因,為七十二之類。類推可也。至於財神財地各有應建之干,計其成數而與財神財地,應得之數,合而計之,數可知也。
以上のこの数項は、法は皆類神とその臨む地盤とを比較することである。数目とは財の数目であり、新旧とは財の新旧である。ゆえに他の処を別に求める必要はなく、ただ類神を責問すればよい。そして地盤はまさに財の着落の処であるから、地盤と比するのである。「甲己子午九」のこの一套がすなわち先天の数であり、両数を相乗して講ずるのは乗除の定則である。財が旺ならば、相乗して倍加し推進する。財が相気にあれば、相乗して得た数に拠って計算する。財が休気にあれば、ただその応得の成数を算えて再び相乗しない。財が囚・死の気にあれば、相乗しないばかりか、さらに成数を半減する――これがまた先天の数の活用法である。相乗はどう算えるか。たとえば財神の数が九、財の臨む地の数が八ならば、八九を相乗して七十二を得る。この類であり、その余は類推できる。財神と財地には各々それらの遁ずる天干があり、この天干の成数と財神・財地の各々の応得の数とを合併して計算すれば、数目が出る。
建干惟日不須復建,蓋日者吾身也,財則吾之所求也,多寡有無,皆吾身氣類使然。建實吾身之氣數,自無而有,故當計及。至夫復建,第求鬼之黨救於時中,非為求財設也。所以財之數目,不在復建,年財暗財,皆所當知。年財者,行年上所見之財也。凡年上神為年所克,謂之年財。蓋即年中應得之財也。然惟乘龍得氣,旺相不空,方有是象,故曰求財視龍,旺相相逢,日年傳用,此外難同。又曰:日克青龍為財,年克青龍為尤利。蓋日與行年互相表裡,故兵占每言日年而不言命。
遁干の中で、ただ日干のこの一重のみ再び遁する必要がない。なぜなら日干はすなわち我が身であり、財は我の求めるものであり、多少・有無は皆我が身の気と類とによって決まる。遁干はまさに我が身の気数が無から有へ落実する処であるから、必ず算入せねばならない。「復建」すなわちもう一層遁すことに至っては、それはただ官鬼の党羽と救神を推求する時にのみ時辰の上で用いるもので、求財のために設けられたのではない。ゆえに財の数目は復建の上にない。また「年財」と「暗財」も皆知るべきである。年財とは、行年の上に見る財である。およそ行年の上神が行年に剋されるのを年財と言い、すなわちこの年の中に応得する財である。ただしそれが青竜を乗せて気を得、旺相で落ちなければ、初めて真にこの象がある。ゆえに言う、「求財は青竜を看る、旺相に相逢し、日・年・三伝・発用の処に見ゆるを要す。これ以外は数に算えない」と。また言う、日干が青竜を剋するは財と算え、行年が青竜を剋するはさらに利ある――日干と行年は互いに表裏である。ゆえに兵家の占卜は往々にして日と年のみを講じて本命を講じない。
凡龍神所建之干,謂之暗財,而中黃反以真財目之,所謂自然而有,緊關吾身之氣數者也,何可不求?故神書云:明無財神,而暗建為財,則亦可以求財。至以生旺墓,皆為暗藏之財,則謬矣。何也?明莫明於旺,旺既為財,彰明較著,而可暗言藏財乎?惟庫墓兩神,暗藏之象始確。然其間又有生剋制化之不齊,步移形換,而可即言暗藏乎?
およそ青竜の遁し出した天干を「暗財」と言い、《中黄経》はかえってこれを真財と看做し、それは自然と有るもの、我が身の気数に緊く関わるものとして、どうして求めずにいられようか、と言う。ゆえに術書に言う、明処に財神なきに、暗に遁し出した天干が財ならば、それもまた求財してよい、と。人によっては長生・帝旺・墓庫を皆暗藏の財と算えるが、それは間違いである。なぜか。明白に顕れるものに旺より顕れるものはない。旺がすなわち財であれば、すでに彰明・昭著である。なおそれを暗藏の財と言えようか。ただ庫・墓のこの二位のみ、まさに暗藏の象に合する。しかし庫墓といえども、その間に生剋・制化の種々の異なりあり、一歩ごとに変わり形に随って換わる。どうして庫墓を見れば即ち暗藏と言えようか。
如甲日求財,以土為財神,青龍為類將。丑土為貴人,丑貴順,龍乘勝光,逆則龍乘傳送;未貴須龍乘神后,逆則龍乘功曹。終無土龍之時。龍非明財,而責暗藏之財於生墓中法也。責真財於初建之干,亦非法也。以財之生處言,則土生在申,而傳送乘龍既戰青龍,又日干反遭類神所刑剋破沖,空凶極矣,患莫大在焉,財生之鄉,其可恃乎?
たとえば甲日に財を求め、土を以て財神とし、青竜を以て類将とする。もし丑土の上に天乙貴人を乗せれば、貴人が順行する時は青竜は勝光(午)を乗り、逆行する時は青竜は伝送(申)を乗る。もし未土の上に貴人を乗せれば、順行する時は青竜は神后(子)を乗り、逆行する時は青竜は功曹(寅)を乗る。算えても算えても、青竜はついに土に当たらない。青竜はすでに明処の財でないから、そこである人は長生と墓庫のうちに暗藏の財を尋ねるが、これは法に合わない。また初遁の天干の上に真財を尋ねる者もあるが、同じく法に合わない。まず財の長生の処を言う。土は申に長生するが、しかし伝送の申金は青竜を乗せており、金木が相戦するはまさに内戦で竜を傷つける。日干の甲木はまたかえって類神に刑・剋・破・冲され、空に落ちて凶に逢い、壞るること極まりなり、禍患はこれより大きいはない。財の長生の郷は、どうして恃むべきか。
以財之旺處言,則神后乘龍,有生無戰,類將有喜而無憂。類神神后,遙生甲木,日干無凶而有吉,且神后建甲,比旺助日,公而不私,尚可目為暗財乎?惟是財神帶敗,末免小疵。蓋神后子水也,甲與青龍咸敗於子,因防而數防焉,則得之矣。或曰:神后在天,隨四時而觀五氣,哪可言敗?嗚呼,氣雖兩端,其利則一,《金繩》云:苟得其同,雖遠必合;苟失其同,雖近不親。如甲日求財,龍居水火,而見用於中,雖近不親也。蓋水即神后,火即勝光也,木敗於子,死於午,雖見用而不親,氣化圓通,妙理自出,豈可膠視乎?
次に財の帝旺の処を言う。神后(子)が青竜を乗せ、水木は相生して戦なし、類将は喜びあって憂いなし。類神の神后はまた遥かに甲木を生起し、日干は凶なくして吉あり。しかも神后の遁する天干はまさに甲であり、日干と比肩して同じく旺に身を助ける、公であって私でない。このような格局を、なおそれを暗財と看做し得ようか。ただ財神が「敗」の気を帯び、小さな疵を免れない。神后はすなわち子水であり、甲木と青竜はともに子の上の沐浴の敗地にある。ゆえに一たび防ぎ再び防ぐべきであり、この一層を明らめて初めて要領を得たと言える。或る人問う、神后は天盤上にあり、四時に随って五気を看るべきに、どうして敗と言えようか、と。ああ、天上の五気と地下の十二気は二套なれども、その利害は一処に帰する。《金縄経》に言う、「もし両者の気類が同じならば、隔たりが遠くとも必ず相合する。もし気類が同じでなければ、近くに挨っても相親しまない」と。たとえば甲日に財を求め、青竜が水位・火位に落ちて三伝の中に見用されれば、それは近くに挨りながら親しまないのである――水はすなわち神后、火はすなわち勝光。木は子に敗し午に死する。ゆえに見用すれども親しまず。気の変化は円通にして拘らず、妙理は自ずから中から生ずる。どうして死に看ることができようか。
以財之墓處言,則土墓在辰,甲日無乘罡之龍,有是理,無是象。法曰:萬物不離生旺墓。蓋生旺墓,五行之三合也。五行不能離三合而收化育之功,萬物化育於五行者也,能不從三合而責類乎?氣二而理一,可膠視乎?財雖類龍,占情非一,情類陰陽,兼求不失。蓋青龍,財帛之通類也。其餘天官,辨物之分類也。通類為主,分類為賓,陽見其象,情歸於陰,故當兼求。按《金繩書》云:求財專視青龍則失之拘,遍推尋而無所主則失之蕩,合陰陽之感通,賓主情分,庶幾得之。嗚呼,占財之法,盡乎此矣。
次に財の墓庫の処を言う。土は辰に墓するが、しかし甲日の青竜は永遠に天罡(辰)に乗ることがない――道理の上では通じるが、課の上にはこの象がない。法訣に言う、「万物は長生・帝旺・墓庫を離れることなし」と。生・旺・墓はまさに五行の三合局だからである。五行は三合を離れれば化育の功を収め得ず、万物は皆五行によって化育される。それならば類神を推求するに三合に循らなくてよかろうか。天上の五気と地下の十二気は二套なれども、その理は一つである。どうして死に看ることができようか。財は青竜を以て類とするが、占問の情形は一種に止まらない。情に陰陽の分があり、両頭を兼ね顧みて求めれば失なし。青竜は銭財の「通類」であり、その余の各位の天将は具体の物事を分辦する「分類」である。通類を主とし分類を賓とする。陽位に顕れるは象、真情は陰神に帰す。ゆえに主賓を兼ね看るべし。《金縄書》に言う、求財はただ青竜を盯めば拘泥を失とし、四处に乱推して主宰なくば空泛を失とす。陰陽の感通と主賓の情分とを合わせ看てこそ、ほぼ求め得る、と。ああ、財を占うの法はここに尽きる。
蓋其所求者貴人之財則兼視天乙,爐冶之財視?蛇,文書之財視朱雀,交易之財視六合,爭訟之財視勾陳,欺紿之財視天空,疾病死喪之財視白虎,尊長之財視太常,不正之財視元武,陰私囑託之財視太陰,婦女之財視天后,至於將本求利之財,惟視青龍可耳。
求める所が貴人の与える財であれば、天乙を兼ね看る。炉火・冶錬の一路の財は螣蛇を看る。文書の上に得る財は朱雀を看る。売買・交易の財は六合を看る。争訟により得る財は勾陳を看る。蒙骗により得る財は天空を看る。疾病・喪事により有る財は白虎を看る。尊長の与える財は太常を看る。来路の正しからぬ財は玄武を看る。陰私の請託により得る財は太陰を看る。婦女の与える財は天后を看る。本銭を以て利息を謀る財に至っては、ただ青竜を看れば足りる。
此以青龍為主,將為賓,主既得氣,而賓亦無傷,所乘之財方能類應。如以文書之財而言,青龍不拘藏現,得氣無傷,而朱雀恰為發用,即非發用而居有氣之鄉,不傷日年,是能為吉於人也。朱雀之陰,不傷朱雀,是陰陽和合,文書有氣也。陰神不傷日干,是身與類和,文書之財可取,終無他患也。若三傳遞生朱神,而朱神恰為日年之財,則眾力相扶,財必豐厚。
これがすなわち青竜を主とし、あの分類の天将を賓とするのである。主がすでに気を得、賓がまた傷を受けなければ、乗る所の財は初めて類に応じ得る。文書の財を以て言えば、青竜は閑位に蔵れると課伝に現れるとを論せず、ただ気を得て傷を受けなければよい。そして朱雀がちょうど発用となれば、たとえ発用を為さなくても、それが気ある郷に居り、また日干と行年を傷つけなければ、人に吉利を齎し得る。朱雀の陰神が朱雀を傷つけなければ、これは陰陽の和合であり、文書は気がある。この陰神がまた日干を傷つけなければ、我が身と類神とが相和したのであり、この文書の財は取ることができ、ついに別の禍患はない。もし三伝が層々に相生して一路朱雀に生じ、朱雀がちょうどまた日干・行年の財であれば、それは衆力の相扶であり、財は必ず豊かである。
若朱神雖能生旺日年,雖能為日年財神,而其陰神反傷日年者,其財必不可輕取之,必有他殃。欲知殃於何事,視其天官;欲知取與,分視日辰,辰傷則其人必有所忌,而不敢與;日傷則吾身必有所畏而不敢取。凡類皆當作如是觀,不獨文書之財為然也。畏忌見前,茲不重出。
もし朱雀が日干と行年を生旺し得、また確かに日干・行年の財神であるとしても、その陰神がかえって日干・行年を傷つければ、この財は決して軽々しく取ることができない。取れば必ず別の災殃がある。災殃がどの事に出るかを知りたければ、あの陰神の乗る天将を見る。相手が与えるか否か、我が取るか否かを知りたければ、日干と日支とを分けて見る。日支が傷を受ければ、あの人は必ず顧忌があって敢えて与えない。日干が傷を受ければ、我が身は必ず畏懼があって敢えて取らない。およそ各類の事物は皆このように看るべきであり、ただ文書の財のみならず。畏と忌の道理は前にすでに講じた、ここに重ねて言わない。
約而言之,首責青龍為財將,次責明暗財神,又次責所求物類。若財將所乘之神恰作日年明暗之財,而氣旺無傷,自強無患者,求之必得,取之無患。取與之機,視四課克應之訣,決於三傳,氣旺則財大而速,囚死則財少而遲。財現則易,財藏則難。財落空亡,不惟難求,且防失耗。孟仲季關新舊,數目當問先天,易簡之道,盡乎此矣。理氣象類,寧有他哉?至於財神乘馬帶丁,最利遠動之類,皆以煞言矣。煞歷俱在,無庸贅及矣。
総括して言えば、第一に青竜という財将を看、第二に明財・暗財のこの二重の財神を看、第三に求める物事の分類の神を看る。もし財将の乗る神がちょうど日干・行年の明財または暗財であって、気がまた旺相で傷を受けず、自身が強健で患えなければ、求めれば必ず得、取って患えなし。与と取の機関は、四課の剋応の口訣を看るべきである。応験の遅早は三伝に拠る。気が旺ならば財は多くして速く、気が囚死にあれば財は少なくして遅い。財が課伝に現れれば易しく、財が暗処に蔵れれば難しい。財が空亡に落ちれば、求め難いばかりか、丢失・耗散をも防がねばならない。孟・仲・季の三類の地支は財の新旧を管し、数目は先天の数に問う――「易簡」の道理はここに尽きる。理・気・象・類の四字は、はたして別に他のものがあろうか。財神が駅馬を乗せ丁神を帯びるに至っては、遠くへ走り動く類に最も利あり、それは皆神煞に帰して講ずる。煞の例は暦書に具わっている、再び哂う必要はない。
占例二:瑣占約云
求財視龍,旺相相逢。日辰年用,此外難同。財神雖現,財陰須善。龍財旺方,往來誠便。凡占求財,首視青龍者,龍為旺財之官也。龍乘旺相氣,見於日辰年用,方為入式,旺龍入式,求必遂意。故曰相逢。現於中末,應則差緩,見於閒處,遲而且難,故曰難同。相逢即是類見。日辰年用,即是類見之方。難同,即類陰神見之難同,蓋言不可同日語也。
口訣に言う、「求財は青竜を看る、旺相に相逢するを要す。日・支・行年・発用に見ゆる、これ以外は数に算えない。財神は現るといえども、財の陰神もまた良善ならんことを要す。青竜と財の旺する方位こそ、往来し求め索めるに真に便利な処である」と。およそ求財を占うにまず青竜を見るのは、青竜がまさに財の旺を主管するあの天将だからである。青竜が旺相の気を乗せ、また日干・日支・行年・発用のこの数処に現れてこそ、「入式」と数える。旺相の青竜が一たび入式すれば、求める所は必ず心に称う。ゆえに「相逢」と言う。もし青竜がただ中伝・末伝に現れれば、応験はやや慢くなる。もしただ閑位の上に落ちれば、また遅くまた難しい。ゆえに「これ以外は同ぜ難し」と言う。「相逢」とは類神が現れることである。「日辰年用」とは類神が現れる幾つかの正位である。「難同」とは類神の陰神の現れる処が各々同じでないを言い、一概に論じ得ない。
若龍不入式,而其所乘神與日生合,則亦謂之有路,有路而氣旺,所臨之地又不空傷,龍之陰且復有益於日,無損於龍,求之可得也。然須財透露旺相不空,方可必得。而惟財之陰神益日者,方堪進取,否則皆為妄求,妄以求之,反生他患。若青龍更作財神者,求之尤易。日克青龍為財,年克青龍為尤利,故青龍若作財神者,求之尤易也。日年顧可分視乎?
もし青竜が入式しなくても、その乗る神が日干と生合すれば、これも「有路」と算える。路あって気がまた旺、臨む地盤が落ちず傷を受けず、青竜の陰神がまた日干に益ありて青竜を損傷しなければ、この財は求めて得ることができる。ただしなお財の爻が透露して旺相で落ちなくてこそ、敢えて必ず得と言える。しかもただ財の陰神が日干に益ある時のみ、進取に値する。さもなければ皆胡乱の求索に属し、胡乱に求めればかえって別の禍患を惹き出す。もし青竜そのものがまたまさに財神であれば、求めることいっそう易い。日干が青竜を剋するは財と算え、行年が青竜を剋するはさらに利ある。ゆえに青竜がまさに財神と為れば、これを求めるは尤も易い――日干と行年のこの両者は、どうして分かれて見ることができようか。
兵法云日年制武利用兵者,亦此,然其間亦有遠近鉅細之不齊,蓋年遠而巨,日近而少也。亦須視其所求者果屬何類,類若凶傷,總非吉象。如欲謁貴求財,而天乙處非其地,求之何益?即令得地得時,而於我卻不相投,亦無益也。若或無財現,而遁得財干,財干所乘之神,與我作合,而子孫得地,無傷則易,可以往求。龍財旺相之方,即其宜往之地,故曰求財須向龍行處,龍若休傷枉費心。
兵書に「日干と行年が玄武を制し得れば用兵に利あり」と言うのも、同じこの理である。ただその中にさらに遠近・大小の分別がある。行年は遠くして大を管し、日干は近くして小を管する。また求める所が一体どの類に属するかを看るべきであり、類神が凶を受け傷を受ければ、結局吉象ではない。たとえば貴人に謁見して財を求めようとして、天乙貴人の処る所がその在るべき地でなければ、求めて何の益があろうか。縦いそれが地を得時を得ても、我と相投しなければ、同じく益なし。もし課の上に明らかな財の現れはないが、遁干のうちに財を遁し出し、この財干の乗る神がまた我と相合し、加うるに子孫の爻が地を得て損傷を受けなければ、それは易しい、前に行って求め取ることができる。青竜と財の旺相する方位は、まさに前往するに宜しい処である。ゆえに言う、「求財は必ず青竜の行く方位に往け、青竜が休囚して傷を受ければ、往いても徒らに心機を費やすのみ」と。
入手之期,即視財氣。凡財乘四時旺氣,則以財神墓絕之日取期,財乘四時四時休氣,則以財神生旺之日取期。財有生旺墓之不同,不可不察,蓋旺即財神,無煩說矣,惟生墓兩神,人嘗忽過,生為財源,墓乃財庫,源宜流,庫存宜沖,兩言而盡矣。蓋源中財,疏之則流;庫中財,沖斯動矣。財神有五,而年上不與焉,五財者,時用日辰命也。
財の手に到る日は、財の気を看ればよい。およそ財が四時の旺気を乗れば、財神の墓に入り絶に入るあの日を取って応期とする。財が四時の休気を乗れば、財神の長生・帝旺するあの日を取って応期とする。財に長生・帝旺・墓庫の三様の異なりあり、細察せざるを得ない。旺はすなわち財神そのもの、多く言うに及ばない。ただ長生と墓庫のこの二位は、人は往々にして軽く見過ごす。長生は財の源頭であり、墓庫は財の倉庫である。源頭は疏通して流れせしめるに宜しく、倉庫は冲開して啓封せしめるに宜しい、二言で言い尽くせる。源頭のうちの財は、疏通すれば流れ出て来る。庫のうちの財は、一たび冲せば動く。財神は共に五処あり、行年はその中に算えない。この五財とは、占時の上の財、発用の上の財、日干の上の財、日支の上の財、本命の上の財である。
時為日財,為時下近小之財。用為日財,為開手便見之財;乘吉旺相,則取期從速,為數必多;乘吉化衰,則取期緩,為數亦少。日上見財,為就身之外財,亦為己財;辰上見財,為現成之內財,亦為彼財。內財見於日上,宜出財經商;外財見於辰上,宜入財坐賈。命上見財,為命中固有之財,取之不窮。日上神制命上為財,乃謀運生發之財,圖之最易。故曰,求財切緊視三財,日辰命上細推排。又曰,財臨辰命最可喜,二德生逢兼與比,此去求財財必多,上神與日皆堪擬。
占時は日干の財、眼前・手辺の小財に属す。発用は日干の財、一たび手を動かせば見える財に属す。それが吉将を乗せて旺相ならば、応期は速く、数目もまた必ず多い。吉将を乗せてすでに衰に転じれば、応期は慢く、数目もまた少ない。日干の頭上に財が見えるは、身に近い外来の財であり、また自己の財と算える。日支の頭上に財が見えるは、現成の内財であり、また相手方の財と算える。内財が日干の上に見えれば、銭を帯びて出でて商売するに宜しい。外財が日支の上に見えれば、銭を収め入れて坐して店を開き鋪を舖くに宜しい。本命の上に財が見えるは、命中にもともと有る財であり、取っても尽きない。日干の上神が去って本命の上神を剋して財を成すは、経営・運作に凭って生発した財であり、図り謀ること最も易い。ゆえに言う、「求財で最も緊要なのは三処の財を看ること、日干・日支・本命の上を細かく推排せよ」と。また言う、「財が日支と本命の上に臨むは最も喜ばしく、さらに干徳・支徳の相生また相比に逢えば、この一たびの求財は財必ず多し。上神と日干とは皆推擬に用い得る」と。
歲月建為日財,其財必大。二馬六丁為日財,其財必遠。財作空亡,近小雖出旬可冀,求難滿望,遠大則財空可慮,到底無形也。財在歲月建上發用者,即以歲月取期,旬候日時類推可也。財上天官,主財之類,財陰神將,休咎之根。辰上天官,與財之人,辰陰神將,喜忌之本。
太歳・月建が日干の財となれば、この財は必ず大きい。駅馬・天馬のこの二馬と六丁の神が日干の財となれば、この財は必ず遠方から来る。財がもし空亡に落ちれば、近くて小さい財は旬を出てからなお指すことができるが、求めて手に入れるも願いを満たし難い。遠くて大きい財は一たび空に落ちれば憂いあり、結局は一場の空となる。財が太歳・月建の上で発用すれば、年に拠り月に拠って応期を取る。旬に拠り・候に拠り・日に拠り・時に拠るものは、皆これに照らして類推できる。財の頭上の乗る天将は、これがどの類の財かを指し明す。財の陰神とその乗る将は、吉凶・禍福の根子である。日支の頭上の天将は、何の人が財を汝に与えるかを指し明す。日支の陰神とその乗る将は、あの人の喜悪・顧忌の根本である。
蓋凡財神發用,而欲知其為何如之財,則視財上所乘之天官,財之陰神生合,則吉無不利。若財陰傷財,當防分奪。財陰剋日,後必有災。欲知災於何事,則視財陰所乘之天官。辰為他人類位,故視辰上所乘之天官,未必皆吉神。辰上天官,即其與財之人也,辰上陰神又其人之喜忌所關。若辰上神為辰陰所傷,則有所懼而不敢與。欲知懼於何事,則視辰陰所乘之天官也。
およそ財神が発用すれば、これがどのような財かを知りたい時は、財の頭上の乗る天将を見る。財の陰神がそれと生合すれば、吉利で宜しからざるはない。もし財の陰神がかえって来て財を傷つければ、人に瓜分・奪取されるを防がねばならない。財の陰神がもし日干を剋すれば、事の後に必ず災がある。災がどの事に出るかを知りたければ、財の陰神の乗る天将を見る。日支は他人の居る位であるから、日支の頭上の乗る天将を看るべきであり、それは必ずしも皆吉神ではない。日支の上の天将は、すなわち財を汝に与えるあの人であり、日支の陰神は、またあの人の喜好と顧忌に関わる。もし日支の上神が日支の陰神に傷つけられれば、あの人は畏懼があって敢えて与えない。彼の畏れるが何であるかを知りたければ、日支の陰神の乗る天将を見る。
約而言之,首視青龍,次視財神,又次視類神。以及發用、日辰、年命、課體,皆所當求者也。龍神喜其生旺,忌見刑戰;日辰喜其生合,忌見刑沖;用神喜其吉旺,忌其凶衰;年命課體,喜其扶救,忌其傷殘。至於龍財用類之陰,則皆互有關節,不可忽也。
総括して言えば、第一に青竜を看、第二に財神を看、第三に具体の物事の類神を看る。このほか発用・日干・日支・行年・本命および全体の課体も、皆推求すべきものである。青竜は生を得旺を得るを喜び、刑に逢い戦に逢うを忌む。日干・日支は彼此の生合を喜び、相刑・相冲を忌む。用神は吉を乗せ旺なるを喜び、凶を乗せ衰たるを忌む。行年・本命と課体は扶助・救応あるを喜び、傷を受け損を受けるを忌む。青竜・財神・用神・類神の各々の陰神に至っては、彼此の間に皆また関節相連なりあり、同じく忽せにし得ない。
占例三:扣門占
凡以日干為扣門之人,而視其上神,以觀其之善惡。蓋日干主動,動者為客;日上神將有善有惡。客固不能自掩而欺人者也,故以責之。凡以行年上神為我,而與日上之神較論休咎。行年者,吾身之年運也。日上既屬扣門之人,則年固屬我,為休為咎,相關最切。故須較論。不責辰而責年者,辰泛而行年則專也。
およそ門を敲きに来るが何の人かを占うには、日干を以て門を敲く人に代表させ、その頭上の神を見て、もってこの人の善悪を観察する。日干は動を主り、動く方はすなわち客である。日干の頭上の神と将には善あり悪あり、客人はもともと自己を蔵し得ず人を瞞し得ない。ゆえに日干を以て彼を責問する。さらに行年の上神を以て我自己に代表させ、それを日干の上神と比較して、吉凶を論断する。行年はすなわち我のこの一年の運である。日干がすでに門を敲く客に帰した以上、行年は自ずから我に帰す。福か禍かは、我と関わること最も切である。ゆえに必ず両者を相い比較せねばならない。日支を用いず行年を用いるのは、日支の指す所が宽泛であり、行年こそ専ら我が一人を指すからである。
蓋凡日上吉旺,則為善人,而又生合年神,則必有益而無損。日上凶衰,則為凶人,而又刑剋年神,則必無補而有傷。若更究其所乘之天官,所遁之天干,則喜惡之故,與夫衣飾行狀皆可悉也。然須考諸用傳,方無遺漏。
およそ日干の上神が吉を乗せて旺相ならば、来るは善人である。それがさらに行年の上神と生合すれば、我に対して必ず益あって損なし。日干の上神が凶を乗せて衰弱ならば、来るは悪人である。それがさらに行年の上神を刑剋すれば、我に対して必ず助けなくかえってその傷を受ける。もし進んでその乗る天将・遁し出す天干を追究すれば、この人の喜ばしく悪ましい縁由、およびその衣着・打扮・挙止の情状は、悉く弄清楚することができる。ただしなお発用と三伝とを核対せねばならず、そうしてこそ遺漏なからん。
巻之三 謀望門
干貴求財第一
謀望之占,種種不一。占情物類,各有其宜。循類察情,無煩說矣。然惟勢利兩字,誠世道之所獨先,謀望之所最急者也。故又於干貴求財,首出而致詳焉。苟能握其關鍵,悉其肯綮,則一綱舉而萬目張,諸占自無棘手處矣。引伸觸類,其在人乎?
事を謀り成を求める占問は、情形は種々一様でない。占う人情と物類は各々その合宜の法があり、類神に順って情理を体察するは、もともと多く言うに及ばない。しかるに「勢」と「利」のこの二字は、実に世道上の人々が最も先に看重し、謀望のうちで最も急切なるものである。ゆえに本篇はまた特に「権貴に謁見する」と「銭財を求取する」のこの二件を最も前に提げて詳しく講述する。ただそのうちの関鍵を捉え、その筋節の在処を摸り清め得れば、綱一たび挙がれば万目自ずから張り、その余の各種の占問は自ずから棘手の処なし。挙一反三・触類傍通に至っては、それは各々人の自己に在り。
夫以干言,干亦有人,非徒干也;以求言,求亦有人,非漫求也。人我錯陳,則對待有象,吉凶可否,當從成象間首求之矣。成象之端,先於日辰,而用傳年命則又扶救始終之通象也。以貴言,貴有其類;以財言,財亦有類,而無氣有氣,則又克應之所必需者也。
「干謁」について言えば、干謁されるあの一端もまた人であり、単に一箇の我がそこで干謁するのではない。「求取」について言えば、求められるあの一端もまた人であり、漫に対象なく空しく求めるのではない。人と我の両方が交錯して並陳されれば、彼此対待の象があり、事の吉凶・成否は、まずこの「成象」のうちから求めるべきである。成象の頭緒は、まず日干と日支を看る。そして発用・三伝・行年・本命は、全局を貫通し、扶助・救応と始末・結果とを管する「通象」である。貴人について言えば、貴人にはその類神があり、銭財について言えば、銭財にもその類神がある。そして類神に気あるか気なきかは、また剋応を判断するに必須である。
成象第二
日動為我,辰靜為人;辰上神以之觀人,日上神爰以觀我。我往干人,動象也,故為干,生合則吉,而將吉氣吉者更吉。戰克則凶,而將凶氣休者更凶。相刑則不投,相沖則難合,害則有阻,破則無成。乘臨固所當詳,陰神亦須兼視(旺休以五氣言,即神將言)。蓋辰傷則彼身正當偃蹇,安能舍己從人,若更囚死空亡,而或脫傷互見,往無益也。日傷則我事方切乖張,何暇潔身他往?若更凶空無氣,而或刑害交陳,徒自憊也。
日干は動に属し、我を代表する。日支は静に属し、相手方を代表する。日支の上神を看るはすなわち相手方を観察し、日干の上神を看るはすなわち我自己を観察する。我が前に行って人に干謁するは動の象、ゆえに「干」と言う。両辺が生合すれば吉、しかも乗る天将が吉で気がまた吉なるはいっそう吉。両辺が戦剋すれば凶、しかも乗る天将が凶で気がまた休囚なるはいっそう凶。彼此が相刑すれば情意が投じず、相冲すれば合攏し難く、相害すれば中間に阻碍あり、相破すれば弁り成らない。乗る将・臨む地は固より細看すべき、陰神もまた一倂に看るべし。(旺・休は四時の五気について言う、すなわち神と将について言う。)日支がもし傷を受ければ、相手方は自身まさに困頓に当たり、どうして自己の事を舍て下げて我に順従することができようか。もしさらに囚死・空亡に落ち、あるいは脱気と傷剋とが交替して現れれば、往いても益なし。日干がもし傷を受ければ、我自己の事はまさに七零八落に鬧り、どうして工夫を抽け身して別の処に行くことができようか。もしさらに凶を乗せ空に落ち、気がまた力なく、あるいは刑と害とが交錯して並陳されれば、それはただ徒らに自己を累い壊すのみである。
若辰上神生合日干,而陰制之,則其人雖有相為之心,返我畏忌而不果,未可恃也。辰陰所乘之天官,即其所畏之人,所忌之事。如陰乘太常則有父母尊長之畏,乘天后則有婦女之畏,乘太陰則有兄弟之畏,乘勾陳忌爭鬥之事,乘朱雀忌口舌之事之類是也。若辰陰生比辰陽,而與日干作合,則彼中必有相為之人暗中撮合,可之恃也。撮合之人,亦即視之所乘之天官。
もし日支の上神が日干を生合するのに、その陰神がそれを制してしまえば、相手方は我を助ける心があるといえども、回頭して畏懼・顧忌あるがゆえに弁り成らず、恃むに足らない。日支の陰神の乗る天将は、すなわち彼の畏れる人・忌む事である。たとえば陰神が太常を乗れば、父母・尊長を怕るである。天后を乗れば、婦女を怕るである。太陰を乗れば、兄弟を怕るである。勾陳を乗れば、争闘の事を忌むである。朱雀を乗れば、口舌・是非の事を忌むである。皆この類に属す。もし日支の陰神が日支の陽神を生扶しあるいは比助し、また日干と相合すれば、相手方のあの辺に必ず一箇の肯んで助ける人が暗のうちに撮合するあり、これは恃むに足る。この撮合する人が誰かは、同じくあの陰神の乗る天将を看る。
此識對待大體,理所當然,而勢所必致者也。故為成象。凡事關人我,而有對待之象者,皆當從此求之,寧惟謀望哉?蓋大體之吉凶既定,然後可求通象,以言扶救,以決始終,故用傳命年繼夫成象而遂及之也。
以上は人我の対待の大局を認め清めることであり、道理の上で本よりしかあるべく、情勢の上で必ずしかある。ゆえに「成象」と称す。およそ人我の両方に関わり、対待の象を帯びる事は、皆ここから推求すべきである。どうしてただ謀望の一門のみに用い得ようか。大局の吉凶がすでに定まって、然る後にこそ進んで「通象」を求め得る。それを以て扶助・救応を講じ、事の始末を判定する。ゆえに発用・三伝・本命・行年のこの数項は、成象に緊接して下に講ずる。
通象第三
休咎之幾,關於發用;轉移之妙,乃屬中傳;末為底止之鄉,式中所繫;傳有出入之異,生咎攸兮。扶救雖在用傳,緊關則由年命。凡占皆當詳,所以謂之通象。蓋發用之神乘吉氣旺,而又別無傷損,則以吉應。其所應者,當以速言,氣旺故也。囚死乘凶,而乃遂遭戰克,則以凶應,其年應者,當以遲言,氣休故也。吉則從之,凶則達之,空則靡象,吉凶無成,非所論矣。氣之衰旺,亦是五氣;用之戰克,亦是神將。
吉凶の先兆は、関鍵は発用に在り。中途の転機の妙は、中伝に属す。末伝は事の最終に歇脚する処であり、全課の成敗は皆ここに係る。三伝に内から伝し出ると外から伝し入るとの分別あり、福と咎はこの由に分かれる。扶助・救応は発用と三伝の上に落つるといえども、最も緊要なるはなお行年と本命である。この数項は何を占うとも細看すべきもの、ゆえに「通象」と言う。発用の神が吉将を乗せ気がまた旺であり、かつ別の処に傷損なければ、吉に拠って応ずる。その応験の時間は速いに拠って言う、気が旺なればなり。発用が囚死の気に落ちまた凶将を乗せ、続いてまた戦剋に遭えば、凶に拠って応ずる。その応験の時間は慢いに拠って言う、気がすでに休衰なればなり。吉ならばそれに順い、凶ならばそれを疏導する。空亡に落ちれば言うべき象なく、吉凶ともに成らず、再び論ずるに及ばない。ここに言う気の衰旺は、すなわち四時の五気である。言う用神の戦剋は、すなわち神と将との間の剋戦である。
生合日支而刑傷日干,則利在彼,害在我身。合日干而刑傷日支,則利在我,而害在彼。害在彼者,不利有攸往;害在我者,不往何災也。所謂休咎之機,關於發用也。用雖為吉於日,而陰遂傷用,則用神之力較微,用雖吉,未可恃也。惟用凶於日者,則反利其陰之制,卻能反吉而靡凶。用雖為吉於日,而陰遂墓空,則有中杜難行之象,事宜速圖,不可緩也,所謂轉移之方,屬中傳也。
発用が日支を生合して日干を刑傷するは、好処は相手方にあり損害は我が身にあり。発用が日干を合して日支を刑傷するは、好処は我にあり損害は相手方にあり。損害が相手方にあるものは、往く所あるに宜しくない。損害が我にあるものは、往かなければまた災なし。これがすなわちいわゆる「吉凶の先兆・関鍵は発用に在り」である。用神が日干に対して利あるといえども、その陰神が緊接して用神を傷つければ、用神の力は単薄と現れ、吉なりといえども恃むに足らない。ただ用神がもともと日干に対して害あるもののみ、かえってその陰神の来てそれを制するを巴望するに足る。かくのごとくすれば吉に転じて凶なし。用神が日干に対して利あるといえども、その陰神が墓庫または空亡のうちに落ちれば、中途に堵塞して推行し難き象あり。事は急いで弁ずべき、拖延し得ない。これがすなわちいわゆる「中途の転機の門路は、中伝に属す」である。
自墓傳生而末逢吉旺,則到底能成;自生傳墓,而末遇凶休,終當止息。吉於辰者,彼當其利,吉於日者,我獲其功。凡初遞克末,而末剋日干者,用雖生干,不可恃也。然為患於日也頗遲,見之宜速,以就用神之生。末遞克初,初剋日干者,生雖末見,不可恃也。然其為患於日也必速,見之宜早,以避用神之克。
墓庫から長生に伝じ、末伝がまた吉を乗せて旺相なるは、事は底まで成り得る。長生から墓庫に伝じ、末伝がまた凶に遇い休衰なるは、ついに歇止する。発用が日支に対して利あるは、好処は相手方に帰す。日干に対して利あるは、功労は我に帰す。およそ初伝が層々に剋して末伝に至り、末伝がまた来て日干を剋するは、用神が日干を生ずるといえども、恃むに足らない。ただしそれが日干に害を為すはなお比較的慢い。ゆえにこの種の課を見れば急いで行動し、用神がなお我を生ずる時に趁って事を弁ずるべきである。反対に末伝が層々に剋して初伝に至り、初伝がまた日干を剋するは、あの生気が末伝に現れるといえども、恃むに足らない。しかもそれが日干に害を為すは必ず速い。ゆえにこの種の課を見ればいっそう早く手を動かし、用神の剋を躲くべきである。
凡日生初傳,而初傳遞生末傳,終非所利。蓋不惟源消根斷,而且鬼在末也。凡末遞生初,而初生日干者,凡事有成。蓋不惟從力相扶,而且財在末也。凡自支上發用,傳出干上,而能生合日干者,人有就我之心,干之可也。自干上發用,傳入支上,而又與之生合者,我有就彼之象,進無咎也。所謂出入之異,去就攸分也。
およそ日干が去って初伝を生じ、初伝がまた層々に生じて末伝に至るは、ついに利なし。源頭が耗尽し根本が切断されるばかりでなく、しかも末伝の上に官鬼が坐しているからである。およそ末伝が層々に生じて初伝に至り、初伝がまた来て日干を生ずるは、諸事成り可し。一路に皆力相扶あるばかりでなく、しかも末伝の上はまさに妻財である。およそ日支の上から発用して、一路伝じ出て日干の上に至り、また日干を生合し得るは、他人に我に就く心有り、我が往って彼に干謁するに問題なし。日干の上から発用して、一路伝じ入て日支の上に至り、また日支と生合するは、我に彼に就く象有り、往き進んでも過ちなし。これがすなわちいわゆる三伝に伝出・伝入の分別あり、去と就とは便ちこの由に分かれる、である。
命主生平,年關氣運,雖其久暫不同,實為占人所獨,蓋本課傳而分視,各有專司,合命年而較求,方為切己,是故日用不可傷殘,命年最宜和好。日年交制,自啟乖違。命被辰傷,卻非我利,惟命制類,亦可言財。類制命年,當同鬼論。所謂扶救雖有三傳,緊關則由年命也。
本命は一生の定分を主管し、行年は当前一年の気運を管する。両者の管する時段に長短の別あれども、皆占問する本人の独り有する所である。四課・三伝に就いて分かれて看れば、本命と行年は各々その職司がある。本命と行年を合わせて課伝と比対して推求してこそ、初めて本人に切合する。ゆえに日干と用神は傷を受け損を受けるべからず、本命と行年は最も彼此の和好を宜とす。日干と行年が互いに牽制すれば、自ずから乖違を生ずる。本命が日支に傷つけられれば、我に利なし。ただし本命がもし類神を制し得れば、それもまた財として論じ得る。反対に類神が本命・行年を制すれば、官鬼として論ずべきである。これがすなわちいわゆる「扶助・救応は三伝に在るといえども、最も緊要なるはなお行年・本命に在り」である。
推類第四
事涉干求,可否雖操於象內;情關得失,吉凶更出於類中。象吉類凶,象難全恃。類吉象凶,類亦難憑。相需並用,占法斯全。有吉無凶,主堪進取,吉凶可否,豈易言哉。所干者既為貴人,則所類者,天乙也。上乘吉旺,則為乘時,又履吉旺,則為得地。既乘天時,又乘地利,而與日干生合,則貴正當權,勢誠在我。其心實能相制,其力足以從心。若貴陰兩建,又見生扶,則更全吉,反此則不宜妄求。
およそ事が干謁・求取に渉るものは、弁り成るか成らざるかは固より成象のうちに握られている。しかし人情上の得失は、吉凶は多く類神の中に出る。成象が吉で類神が凶なれば、成象は完全に依り頼めない。類神が吉で成象が凶なれば、類神も同じく恃むに足らない。両者が互いに配合し、併用して看てこそ、占法は始めて完備である。要は一片に吉で凶なければこそ、進取し可しと主る。吉凶・成否は、どうして容易く講じ得ようか。干謁する所がすでに貴人であれば、対応する類神はすなわち天乙である。天乙の上に吉将を乗せて気が旺なれば、「乗時」と言う。下に吉地に臨んでまた旺相なれば、「得地」と言う。すでに天時を得また地利を得、さらに日干と生合すれば、それは貴人がまさに権に当たり、勢いは実に我に向いている。その心意は確かに我に打ち動かされ得、その力量もまた我の心に称うに足る。もし貴人の陰神とその遁する天干のこの二重が共に好く、さらに生扶あるを見れば、なおよい全吉である。反対なれば、胡乱に求めに行くに宜しくない。
所求者既為財帛,則所類者青龍也。日克之神也。財神財將,既不深藏,又不內外刑戰,上下空休,而財陰兩建,又與干生合,所望雖奢,求之可得,無他患也。反此則不宜妄求。
求める所がすでに銭財であれば、対応する類神はすなわち青竜、すなわち日干の剋するあの神である。財としての神と財としての将が、閑位に深蔵せず、また内戦・外戦と刑剋とがなく、上下もまた空に落ちず休衰せず、加うるに財の陰神とその遁する天干のこの二重が共に好く、また日干と生合すれば、指し望む所はたとい多少なりとも、求めれば得ることができ、別の禍患はない。反対なれば、胡乱に求めに行くに宜しくない。
引伸第五
類陰得吉,宜往干矣。干之必有所求,求必有類。凡向貴人而有文書之權者,雖既視貴人,又當分視朱雀。有情分之求者,分視太陰;有衣帛穀粟之求者,分視太常;有恩澤婦女之求者,分視天后;所謂類將也。有珠玉之求者,視從魁,有弓矢劍戟之求者,視傳送;有圖書傘蓋之求者,視登明;有書籍之求者,視功曹;有雁羊酒食之求者,視小吉;有墓田之求者,視大吉;有魚鹽之求者,視天罡;有犬馬之求者,視天魁勝光;所謂類神也。
類神の陰神もまた吉であれば、前に行って干謁すべきである。干謁には必ず求める所有り、求める所には必ず各々類神有り。およそ貴人に見えて求める所が文書を掌る権の事であれば、すでに貴人を看たとはいえ、なお分けて朱雀を看るべきである。求める所が人情・面子であれば、分けて太陰を看る。求める所が衣料・布帛・穀米・糧食であれば、分けて太常を看る。求める所が恩沢あるいは婦女方面の事であれば、分けて天后を看る――これらを「類将」と言う。珠玉を求めるは従魁(酉)を看る。弓箭・刀剣・戈戟を求めるは伝送(申)を看る。図籍・傘蓋を求めるは登明(亥)を看る。書籍を求めるは功曹(寅)を看る。雁・羊と酒食を求めるは小吉(未)を看る。墳地・田産を求めるは大吉(丑)を看る。魚塩を求めるは天罡(辰)を看る。犬馬を求めるは天魁(戌)と勝光(午)を看る――これらを「類神」と言う。
視類將者,吉凶在所乘神。若神克其將,將則無權,力斯減矣。神傷日干,將亦從而傷之,類神凶矣,非徒無益,而且有損,求之何為?視類神精神雖在天官,力量卻由氣地。天官即非凶惡,而氣與地,卻值凶休者,類神雖現,無足取也。
類将を看るに、吉凶はその乗るあの地支の神に拠って決まる。もし神がかえってその載せる将を剋すれば、将は権柄なく、力量はそれに随って減弱する。もしこの神が日干を傷つければ、天将もまたそれに従い共に日干を傷つける。それは類神が凶に変じたのである。益なきばかりでなく、かえって損害あり、なおそれを求めて何を為さんか。類神を看るに知るべきは、その精神は乗る天将によって決まるといえども、力量はその気と臨む地とによって決まる。天将がたとい凶ならず悪ならずとも、気と地盤がまさに凶と休衰の処に落ちれば、類神は縦い課上に現れるとも、取り用いるに値しない。
凡干君王者,當視太歲之上下;干省府者,當視月建之上下;干尊長者,當視日德之上下。若即乘時得地,而又生合日干,則信任必專,而恩施自厚,往干可也。反此則有求榮得辱之患,干之何益?至夫吉凶諸煞,雖為克應之所必需,實因眾象而各有相能之用,未可膠視之者也。煞歷具在,無煩贅及矣。
およそ君王に干謁するに往くは、太歳の上神と下神を看るべきである。省府の大員に干謁するは、月建の上神と下神を看る。尊長に干謁するは、日干の徳神の上神と下神を看る。もしそれがすでに乗時でまた得地で、さらに日干と生合すれば、相手方の我に対する信任は必ず専一であり、恩沢もまた自ずから優厚である。前に行って干謁してよい。反対なれば栄を求めてかえって辱めを受ける危険あり、往いて何の益があろうか。各種の吉煞・凶煞に至っては、剋応を判断するに必須とはいえ、実際には衆多の象に配合して各々その用を顕すべきであり、死に板に看ることはできない。煞の例は暦書に具わっている、再び一々哂う必要はない。
約而言之,則不過四課定人我之情,三傳決始終之要;類神類將,指事而專求;本命行年,相參而比較;諸神煞關乎克應;精誠自可通靈,籲盡之矣。至於明吉而遁凶,是必防其暗損;明凶而遁吉,尚有與其默益。陰神休咎,所繫非輕;氣地興衰,相關最切;生剋制化之妙,易地而殊形;輕重虛實之微,騎牆而幻影:此皆占情之所易忽,而此事之所當詳者也。故於歸約之末,遂表而出焉。
総括すれば、ただこれのみ、四課を以て人我双方の情態を定め、三伝を以て事の始末・要害を決する。類神・類将は、具体の事に針して専ら求める。本命・行年は、両相参照して比較する。各種の神煞は剋応の遅早に関わる。占者が一片に精誠なれば自ずから通霊し得るに至っては――ああ、ここに尽きる。このほかにまた幾層かある。明処は吉で遁し出す天干が凶なれば、必ず暗のうちに損を受けるを防がねばならない。明処は凶で遁し出す天干が吉なれば、暗のうちになお一份の黙々たる益あり。陰神の吉凶は、関係は軽からず。気と地盤の兴衰は、関連は最も切なり。生剋・制化の妙は、一箇の地盤の形態を換えれば大いに同じからず。軽重・虚実の細微の処は、往々にして騎牆に両可し影影綽綽たり。これらは皆占断の時に最も忽略し易く、しかも恰も最も細究すべき処である。ゆえに本巻の帰納の末尾に、それらを特に標挙して出す。
巻之四 婚姻門
例約第一
欲卜婚姻,須分男女;既詳四課,亦視三傳。以天官察其類神,從五氣辨夫休旺。明神暗煞,皆所當求;破害刑沖,盡非吉體。品貌之分詳,根源有自;命年之互用,關係非輕。成與不成,兩言可決;得與不得,中有微機。孟仲罡加,亦關可否;始終遲速,尤貴得實;而古今占驗,則有前賢已試之成法,即心法也。
婚姻を占卜するには、まず男方と女方を分け清めねばならない。すでに四課を詳審する、また三伝を看る。十二天将を以て類神を考察し、四時の五気を以てそれが休か旺かを分辦する。明処の神と暗藏の煞は、皆一々推求すべきである。破・害・刑・冲のこの数様は、一つとして吉の格局はない。人品・相貌の詳細な分別は、各々その来歴・根源あり。本命と行年を交互に取用するは、関係もまた軽からず。婚事が成るか成らざるかは、二言で断じ得る。女方が娶り得るか否かは、そのうちに別に細微の機関あり。天罡が孟位・仲位に加わるも、また成否に関わる。事の始終と遅速は、推すこと切実なるを殊に貴ぶ。古今の占験の実例に至っては、それは前輩がすでに験證した成法、すなわち歴代の相伝の心法である。
干支正象第二
日干之象,為陽為天,夫星是主;日支之象,為陰為地,婦位攸關。喜其互合交生,惡其明刑暗克。若其旺相生合,而所乘者,又為貴合龍常,則姻緣之吉慶可知,投求亦易。若果休囚刑剋,而所乘者又見空元蛇虎,則彼此之乖違可慮,勉強非宜。且陰陽之氣,不宜偏勝;而陽勝其陰者,尚有可為。至上下之乘,不可刑戰,而內戰其外者,尤無可取。中多阻撓,必陰神之制傷。有口無心,必明生而暗鬼。
日干の象は陽に属し天に属し、夫のこの一端を主管する。日支の象は陰に属し地に属し、妻のこの位に関わる。それらが彼此相合し交互に相生することを喜び、それらが明に相刑し暗に相剋することを悪む。もし日干・日支が旺相でまた生合し、乗る天将がまた貴人・六合・青竜・太常のこの数位の吉将であれば、この親事の吉慶は想い知るべく、媒を提げに行くも易い。もし日干・日支が休囚に落ちまた相刑・相剋し、乗るがまた天空・玄武・螣蛇・白虎であれば、両家の乖違は顧慮に値し、勉めて凑合するは適さない。しかも陰陽の二気は一方に偏して独り盛んなるに宜しくない。もし陽のこの方が陰のこの方に勝れば、かえってなお為すべきあり。上神と下神の相乗に至っては、互いに刑戦すべからず。その中で下の神がかえって上の天将を剋する、すなわち内戦は、殊に取るべからざる。中途に多く撓阻あるは、必ず陰神の来て制伏・損傷するである。口では応諾し心では肯んぜざるは、必ず明処相生して暗に官鬼を遁し出すである。
若夫男家氣運,屬干類;女宅根基,亦歸支上。視其天官神煞,纖毫自可畢陳。審其上下乘臨,凶吉何難立辨。蓋惟旺相吉生,而帶吉煞者,必富貴慈祥,時臻吉慶。休囚凶克,而帶凶煞者,必衰微鄙吝,日見乖張。
男家の気運に至っては、日干のこの類に帰す。女家の門第・根基は、また日支の頭上に帰す。それらの乗る天将と帯びる神煞を看れば、繊細の処は自ずから皆一々顕現する。それらの上に何の将を乗せ下に何の地に臨むかを審察すれば、吉凶はどうして辧え清められないことがあろうか。およそ旺相で吉神の相生を得、また吉煞を帯びるは、あの家は必ず富貴で慈祥、時々に喜慶の事あり。およそ休囚で凶神の剋傷に遭い、また凶煞を帯びるは、あの家は必ず衰败して鄙吝、日に日に乖戻・反常と見える。
用伝変象第三
以三傳之變象而言,則初男末女,亦喜相生。而媒妁居中,最宜乘吉。天空元武,帶漫戲而不情;勾虎戰刑,必姻媒而啟競。初見凶神,末乘吉將,則必女旺而男衰;末見凶休,初逢吉旺,定屬男強而女弱。初傳克末,必男欲計圖其女,亦知男性之過剛;末克初傳,則女氏樂有其男,亦知婦懷之匪淑。
三伝の変化の象について言えば、初伝は男方を代表し、末伝は女方を代表し、両者の相生するをも喜ぶ。媒人は中伝に居り、最も吉将を乗るを宜とす。中伝が天空・玄武を乗れば、媒人は玩笑を好んで実心なし。中伝が勾陳・白虎を乗せまた戦に逢い刑に逢えば、必ずこの親事と媒人とによって争执を引起す。初伝に凶神を見て末伝が吉将を乗れば、必ず女方旺盛で男方衰弱。末伝に凶将を見て気が休衰、初伝が吉将に逢いて旺相なれば、それは必ず男強く女弱い。初伝が末伝を剋すれば、必ず男方が設法してあの女子を谋取せんとす、また男方の性情が余りに剛硬なるを見るべし。末伝が初伝を剋すれば、これは女家がこの男を得るを楽しむである、またこの婦人の心懐がならず賢淑ならざるを見るべし。
夫男欠佳,初見虎勾;婦女不良,末乘元合。因親締眷,三合旺相以為傳;以故聯新,六合初終而生日。聯茹而乘合虎?蛇,必帶子以親,否則定為懷胎之婦女;三交而見空陰太乙,必以賤而配偶,否則必係婢僕之姻緣。末見空元,何難改日移時,斯繫年庚之非實,而命頭見者同占。終逢蛇虎,是必陰殘頹廢,定多災疾之可虞,而年上見者同斷。
男方の人品が好からざるは、初伝に白虎・勾陳を見るである。女方の品行が良からざるは、末伝が玄武・六合を乗るである。旧親に凭って新眷を結ぶは、三伝が旺相の三合局を作すである。旧交によって新親を聯成するは、六合が初伝・末伝に現れまた日干を生ずるである。三伝が「聯茹」(位を連ねて相接する)を成して六合・白虎・螣蛇を乗るは、女方は必ず子を帯びて来て親を成す、さもなくば必ずすでに懐孕の婦人である。三伝が「三交」を成して天空・太陰・太乙を見るは、必ず低賤なる者と親を結ぶ、さもなくば必ず婢女・僕婦の一路の姻縁である。末伝に天空・玄武を見るは、期を改め日を挪すは常ある事である、これは報じ来る年庚の八字が真実ならざるがためである。本命の頭上にこの両将を見るは、断法は同じ。末伝に螣蛇・白虎を逢うは、あの女子は必ず陰処に残疾あるいは身が頽弱し、必ず多災・多病を擔心すべし。行年の上に見るは、断法もまた同じ。
后合初終,有後娶先奸之象;天孤地寡,有男鰥女寡之災,未可言成。故曰“空亡若值支干上,婚娶多為孤寡人,男占女卜皆非吉,縱到成時也不成”。不備八專,或經已聘;反吟別責,或屬重婚;凡日上發用青龍發支,則男家有欲娶之心,反陽緩而陰急;辰上發用,天后克干,則女家動欲嫁之念,雖欲晦而盡彰。
天后と六合が初伝・末伝に現れるは、先に私通し後に正式に迎娶する象あり。課に天孤・地寡を帯びれば、男の鰥居・女の守寡の災あり、この親事が成ると言うべからず。ゆえに言う、「空亡がもし日干・日支の上に落ちれば、嫁娶は多く孤寡の人となる。男占であれ女卜であれ皆不吉、縦い成るべき時に至るとも成り得ない」と。不備課・八専課に遇えば、あるいは女方はすでに人に許したことあらん。返吟課・別責課に遇えば、あるいは二婚・重娶に属せん。およそ日干の上に発用して、青竜が日支の上から発動するは、男家に娶らんとする心思あり、かえって明面は緊らず慢らず、暗裏には十分に着急す。日支の上に発用して天后がまた日干を剋するは、女家が嫁がんとする念を動かし、遮掩せんと欲するといえども、悉く露われ出す。
類神定象第四
以類神之定象而言,則龍亦為男,後亦為女。惟其所履之分,原俱喜合而忌沖,則其所乘之神,未可論刑而較克。但當即類而觀其刑休,則精神氣概,綽有成規。若以對待而責其乘臨,則可否從違,反無定見。蓋惟龍所乘臨,既當旺相生扶,且不內外刑戰,則伊男允為男子,而乘龍葉慶,抑又何疑?至於後得乘臨,亦不休囚空墓,且逢上下生合,則其女屬佳人,而跨鳳緣深,豈庸兩卜?
類神の固定の取象について言えば、青竜もまた男方を代表し、天后もまた女方を代表する。ただこの両位は各々その踏む本分あり、もともと皆相合を喜び相冲を忌む。ゆえにそれらの乗る神に対しては、単に刑を論じてただ剋を比するに宜しくない。ただ類神本身に就いてそれが刑を受けるか休衰するかを看れば、この人の精神・気概は大略準う譜がある。もし人我の対待のあの一套を拿って、それが上に何を乗せ下に何に臨むかを責問すれば、事の可否・従違はかえって定見を失う。およそ青竜の乗る所・臨む所がすでに旺相に当たり、また生扶あり、かつ内戦・外戦と刑剋とを成さなければ、あの男は確かに好男子であり、「乗竜」の慶はすでに成り、なお何の疑いがあろうか。天后の乗る所・臨む所もまた休囚・空墓に落ちず、かつ上下が生合するに至っては、あの女子は便ち佳人に属し、「跨鳳」の縁は深く、どうして再び第二の占を用いようか。
若龍克其辰,而在女家當之,自難必其首肯。然而以順為正,固妾婦之道也,何傷乎?惟為招贅之占,則第防辰本之遭龍制,恐終紿累乎丘山。若后克其日,而在男家得之,已難輕信人言。抑且陽制於陰,豈丈夫之利哉?無益矣。倘屬於歸之筮,是更忌。日本之被後傷,恐致禍延於舅姑。六合為媒,長男成象,老成練達,撮合通神。
もし青竜が日支を剋して、この課が女家において占ったものならば、自ずから彼女が必ず首肯することは保し難い。ただし順従を正道とするは、もともと人の妻妾たるの分際であり、これはむしろ妨げなし。ただ婿を招いて入門する事を占うのみ、日支の本身が青竜に制されるを防ぐべきである。ついには女家の山のごとく重き家業に連累するを恐れる。もし天后が日干を剋して、この課が男家において占ったものならば、すでに人の言を軽く信じ得ない。いわんや陽がかえって陰に制されるは、どうして夫たる人の利処であろうか。好きことなし。もし占うが女子の出嫁であれば、さらに日干の本身が天后に傷つけられるを忌む。禍事が公公・婆婆の身に牽連するを恐れる。六合は媒人であり、取象は長男と為り、老成・練達にして、撮合すれば神通すること甚だしい。
旺相則年輕家富而多能,休囚則年邁身貧而鮮力。乘陰為女,陽則為男,合身扶龍,則為男氏之念;偏陰亦即是伊瓜葛。生支黨後,則向女家之心較甚;亦即是彼宗親。陰見謾語天空,必多虛而少實;下臨空亡敗絕,自貧薄而空微。若問妝奩,惟財是類。豐因實旺,歉則空衰。最喜遁合遁生,不宜化官化鬼。
六合が旺相なれば、媒人は若く、家道は殷実でかつ能干である。六合が休囚なれば、媒人は年老い、身は窮して力量なし。六合が陰支に落つれば女媒、陽支に落つれば男媒。それが日干と相合しまた青竜を扶助すれば、すなわち男家に向く心である。陰神のあの一位に偏り助けるは、すなわち女方のあの辺の親戚である。それが日支を生じ、天后と結党すれば、それは女家に向く心がいっそう重い。同じく、これはすなわち女方の宗親である。六合の陰神が虚言を主る天空を見れば、媒人は必ず虚多く実少ない。六合が下に空亡と敗絶の地に臨めば、媒人は自ずから貧薄で取るに足らない。もし嫁妝を問うならば、財の爻を以て類神と為す。財が実にして旺なれば、嫁妝は豊厚。財が空にして衰なれば、嫁妝は菲薄。最も喜ぶは財の爻の遁し出す天干がそれと相合・相生すること、それが官星に化し官鬼に化するは宜しくない。
三傳天后,毋刑剋休囚;天喜一神,亦忌空亡墓絕。天空元武,總屬虛花;生氣生神,定臻實重。官爻亦類夫星,六合原為子息。天后不宜制合,制則子息維艱。乘神不可傷官,傷則夫星欠利。日本生辰,乃翁姑之定類;丈人岳母,取象於生辰。天后青龍,於斯較論;休囚克害,婚皆不宜。
三伝中の天后は、刑を受け剋を受けあるいは休囚に落つるべからず。天喜というこの神も、また空亡に落ち墓絶に入るを忌む。天空・玄武を見るは、帰するところ虚花の一場である。生気・生神を見るは、事は必ず実処に落ちて分量は厚重。官爻もまた夫の類神と作り得、六合はもともと子女を代表する。天后は制せられ合せられるに宜しくない、制せられれば子女は艱難。天后の乗る神は官爻を傷るべからず、官爻を傷れば、夫のこの一端は利ならず。日干の生ずる日支は、公婆の固定の類神である。岳父・岳母に至っては、また「生ずる支」の上から取象する。ここにさらに天后と青竜を拿て比較・論断する。一たび休囚に落ち、また剋に逢い害に逢えば、婚事は皆相宜ならず。
干纏女宿,丑度牽女,天后妻星,貴神夫象,二神相會,為牛女之交歡,兩相恰逢,正夫妻之好合。惟甲戊庚日神后作天后,大吉作貴人,而格為聯茹,不拘進退,皆其象也。得之者,吉無不利。
天干の纏るはまさに女宿であり、丑の分野はまさに牽牛と織女の二星である。天后は妻星であり、貴人は夫の象である。この両神が相会すれば、すなわち牛郎・織女の相歡である。両下で恰好に相逢えば、まさに夫妻の好合の象である。たとえば甲・戊・庚の三日、神后(子)の上に天后を乗せ、大吉(丑)の上に貴人を乗せ、しかも課格がまた「聯茹」を成せば、進茹であれ退茹であれ、皆この象に属す。この種の課を占得すれば、往くところ吉ならざるなし。
品貌根源第五
欲知女貌之妍媸,須視后乘為稟受;欲識邇來之色相,憑年上為轉移。故凡后乘無戰,氣正當時,而又下履生旺之地,上乘生旺之天者,則其本來面目,當秀麗端正,無煩辭說矣。
女子の相貌が美か醜かを知るには、天后の乗る神を看るべし、それは彼女の天生の禀赋である。彼女の近来の気色・形容を知るには、行年の上神に凭る、それは後天の変化を管する。およそ天后の乗る神が剋戦を受けず、気がまたまさに時令に当たり、下に踏むは長生・帝旺の地、上に乗るはまた生旺の天であれば、彼女の本来の面目は必ず秀麗で端正である。これは多く言うに及ばない。
惟是天命靡常,韶光日逝,年神既遂氣化而不齊,色相自隨年運而遷變,故年上將神,堪占顏色。而天官神煞,可驗吉凶。若果年神旺相不空,而無內外戰刑,則水清金白,綽有可憑;土重火紅,皆堪指責;木主清癯而柔善;魁罡急燥而粗頑;月厭咸池,難言貴重;天空元武淫賤無疑;蛇虎爭戰而帶病符,傷殘是慮;勾朱刑害而兼謾語,唇舌滋多。此其定象也。
ただ天命は常なく、青春は日に日に流れ去る。行年の神がすでに気化に随って年年同じからざれば、人の容色もまた自ずから年運に随って移り変わる。ゆえに行年の上の神と将は以て容貌を占うべく、天将・神煞は以て吉凶を験すべし。もし行年の神が旺相で落ちず、また内戦・外戦と刑剋となければ、すなわち、水に属するは皮膚が清潤、金に属するは肤色が白皙、皆取るべし。土に属するは厚重に顕れ、火に属するは面色が偏りて紅、皆なお挑剔するべきあり。木に属するは清痩で性は柔和・善。魁・罡(戌・辰)を見るは性が急躁で相貌は粗蠢。月厭・咸池を帯びるは、貴重と言うべからず。天空・玄武を見るは、淫賤なること疑いなし。螣蛇・白虎が相争戦しまた病符を帯びるを見るは、身上に傷残あるを擔心すべし。勾陳・朱雀の刑害でまた謾語煞を兼ねるを見るは、口舌・是非が特に多し。これがすなわちそれの固定の取象である。
若以五行相配言之,則年上下,未可或遺,而生克旺休,亦當兼視。蓋水木有相生之雅,火金有克戰之嫌,木土見而脾胃欠安,金火逢而肺腸兼患。木金慮損,土水經愆,吉凶須視天后,克應詳夫神煞。害逢丑午,眸子應災;若逢卯辰,患歸手足;朱乘亥子,定麻其面;雀生寅申,須知髮稀;乘四土為雀斑,臨巳午主能文。
もし五行の相配に拠って講ずれば、行年の上神と下神は皆看漏すべからず、それらの間の生剋と旺衰もまた一倂に考慮すべきである。水と木とは相生の和美あり、火と金とは剋戦の嫌隙あり。木土の相犯を見れば、脾胃は安からず。金火の相戦に逢えば、肺と腸とは皆病を生ず。木が金に傷られれば、肢体の損傷を慮るべし。土水が相犯れば、月経はすなわち失調する。要するに吉凶は天后を看るべく、剋応の細節は神煞を詳査すべし。相害して丑と午とに逢えば、眼睛の上に災に応ず。もし卯と辰とに逢えば、毛病は手足に落つ。朱雀が亥・子を乗れば、臉上に定めて麻点あり。朱雀が寅・申に落ちて生を受ければ、この人の頭髪が稀少なるを知るべし。朱雀が辰戌丑未の四土を乗れば、臉上に雀斑あり。朱雀が巳・午に臨めば、すなわち文を能くし写を善くするを主す。
命年関係第六
男年女命,雖各視其乘臨,以言休咎,而彼此相求,具可詳其成敗,以決疑違。若為用度交加而無戰刑,則赤繩之繫,業經前定,雖遐必成。即見異方遙合,而當旺相,則有青鳥之傳,自必易孚,既成且速。若女年克其男命,而後且剋日、克官、克龍,則反居鬼空無氣之鄉者,女必傷夫。若男命克其女年,而龍更克辰、克財、克后,則復陷廢休傷害之地者,行將損婦。
男方の行年と女方の本命は、各々その乗る所・臨む所を看て吉凶を断ずるといえども、両者を一つに放ち互いに推求すれば、すなわちこの親事の成敗を詳しく知ることができ、以て疑難を決断するに足る。もし発用と行年・本命が交相に加臨して戦剋・刑傷なければ、それは月老の紅縄がすでに繋ぎ定められたのであり、両家が隔たること再び遠くとも必ず成る。たとい隔方に遥かに作合するも、ただ旺相に当たるさえすれば、それもまた青鳥の書を伝えるの応あり、自ずから信を取り易く、成り得るのみならず、しかも成ること速い。もし女方の行年が男方の本命を剋し、しかも天后がまた日干を剋し・官星を剋し・青竜を剋し、かつかえって官鬼・空亡のこれら無気の郷に落ちれば、この女子は必ず夫を傷剋す。もし男方の本命が女方の行年を剋し、しかも青竜がまた日支を剋し・財爻を剋し・天后を剋し、かつ廃・休・傷・害の地に陥れば、この男子は後日に妻室を損傷せん。
成改遅速始終瑣象第七
成不成,莫相刑。以二后之與日上較言也。凡日上神與后所乘神相刑則不成,否則宜成。兩言決之耳。蓋不惟日辰之上下,彼此不宜相刑,即後之所乘亦不宜與日上相刑,刑其日上之神,猶之乎刑日也。刑日則已不利於男,何可成也?
「成るか成らざるかは、相刑あるか否かを看る」――これは天后の乗る神と日干の上神とを比較して言うのである。およそ日干の上神と天后の乗る神とが相刑すれば、この親事は成らない。相刑せなければ成るべきである。二言で断ずる。日干・日支の上下の彼此が相刑に宜しくないのみならず、天后の乗る神すらまた日干の上神と相刑に宜しくない。日干の上神を刑すれば、日干の本身を刑するに等しい。すでに日干に刑及ぶれば、すでに男方に利ならず、どうしてなお成ることができようか。
得不得,制其物。以干上神能制支上神,否則異方三合之神得之,上能制支辰也。凡日上神能制支上神,或異方三合之神加支,而制其支,則易得,否則難得。亦兩言決之耳。物雲者,支為物也。如甲子日戌加子之類。按此二法,只因支干上下無交生互合之象,特變通而次第求之,以占成與得之可否耳。然成得兩字者,則有所指不可漫然忽過。蓋成則坦懷而無慮,故但視刑。得則著意而有為,故須求制。至於天罡之加,則又不得已而視之,以決疑耳。非真有關於男女之休咎也。
「得るか得ざるかは、あの物を制し得るか否かを看る」――すなわち日干の上神が日支の上神を制し得るか否かを看る。もし能くせなければ、隔方の三合の神が日支に加わり、それによって上より下に日支を制するがあるか否かを看る。およそ日干の上神が日支の上神を制し得るか、あるいは隔方の三合の神が日支に加臨して日支を制すれば、得ること易し。さもなくば得ること難し。これもまた二言で断定す。いわゆる「物」とは、日支が物を代表するがゆえである、たとえば甲子日に戌が子の上に加わるの類。この両条の办法は、ただ日干・日支の上下の間に交生・互合の象なきがゆえに、特に変通して、順次に推求し、以てこの親事の成るか成らざるか・女方の得るか得ざるかを占うのである。ただし「成」と「得」のこの二字は各々指す所有り、含糊に放過すべからず。成とは、心に坦然として顧慮する所なき、ゆえにただ刑あるか否かを看る。得とは、意を着けて一番為すを要す、ゆえに必ず制し得るか否かを求む。天罡の加臨する位を以て看るに至っては、それはさらに已むを得ずして用いるもの、ただ疑いを決するがためのみ、真に男女の吉凶と何の関係もあるにあらず。
蓋孟為事始,虛則未實,故難言成。仲介事中,騎牆莫決,故亦難必。季則實為事之終,故可得而成也。遲速之機,則觀休旺,旺相則宜速就,休囚惟利遲成。始終之義,則視三傳,初吉末凶,則有始無終;初凶末吉,則先難後易。中凶多變,中吉無虧。三傳俱吉,而遞生日辰者,百年可與其齊眉。龍后休囚,而傳遞克之者,二姓恐難於偕老。
天罡が寅・申・巳・亥のこの四孟位に加わるは、事は剛に頭を開き、虚にして未だ実ならず、ゆえに成ると言い難し。子・午・卯・酉のこの四仲位に加わるは、事はまさに中途に在り、騎牆して決せず、ゆえにまた断じ難し。辰・戌・丑・未のこの四季位に加わるは、こそ事の落實・收尾なり、ゆえに得るべく成るべし。快慢の機関は則ち休旺を看る。旺相なれば急いで弁ずべきであり、休囚はただ慢く成るに利あり。始終の道理は則ち三伝を看る。初伝が吉で末伝が凶なれば、始めあって終わりなし。初伝が凶で末伝が吉なれば、先に難く後に易し。中伝が凶なれば中途に変多く、中伝が吉なれば中途に虧なし。三伝が全吉で層々に日干・日支を生ずるは、夫妻は百年に案を挙げ眉に斉し得る。青竜・天后が休囚に落ち、しかも三伝がまた層々にそれらを剋するは、両姓はおそらく白頭に偕老し難し。
古今占験第八
婚姻為人倫之首,即關風化,更切宗祧,而百年休咎,全在於此,誠非細務也。乃古今占驗,獨不多存,其故為秘惜而不輕示人耶?抑理數元微,成法未可盡拘,正不必多存也?然而引伸觸類,取用方可不窮;而刻舟求劍,識見反多窒隘,雖多亦奚以為?
婚姻は人倫の首であり、風俗・教化に関わるのみならず、さらに宗族・香火の延続に渉り、しかも一生の禍福は全てこの上に係る。実に小事ではない。しかるに古往今来の占験の記録は、偏に留まること多からず。前人がそれを秘密に珍蔵して、軽々しく人に示すを肯んぜざりしがためか。それとも理と数とが玄妙・精微にして、成法は拘泥して照搬すべからず、もともと多く留めるに及ばざるがためか。しかし言うを戻せば、挙一反三・触類傍通し得てこそ、取用はこそ無窮に尽きざる。もし舟を刻みて剣を求めるがごとく照抄すれば、見識はかえって処処に堵塞する。それならば例を留めること多くとも何の用かあらん。
占験一
己酉年三月己卯日戌將辰時,男戊辰生四十二歲,女己丑年生二十一歲,申酉空,寅卯落空。未午;蛇貴后陰;亥子丑寅,元六青後,官己卯元,女:丑命子年;朱、戌、卯玄,卯酉未丑,子乙酉後,戌、丑;六、酉、辰常,酉卯丑己,官己卯元,男:辰命未年;勾、申未午巳虎;龍空。
己酉年三月己卯日、戌将を用いて辰時に加えて課を起す。男方は戊辰年生、四十二歳、本命は辰、行年は未。女方は己丑年生、二十一歳、本命は丑、行年は子。己卯日は甲戌旬に属し、旬空は申・酉に在り、しかして天盤の寅・卯は恰好に地盤の申・酉の上に落つ。ゆえに寅卯が空に落つと言う。戌将が辰に加われば、天盤と地盤とは処処に相冲す、これは「返吟課」である。天将は天盤の子上の貴人より逆に布く。子は貴人、亥は螣蛇、戌は朱雀、酉は六合、申は勾陳、未は青竜、午は天空、巳は白虎、辰は太常、卯は玄武、寅は太陰、丑は天后。四課は、日干の己は宮を未に寄せ、未の上に丑を得、丑の上に未を得。日支の卯の上に酉を得、酉の上に卯を得。三伝は卯・酉・卯と為る。初伝の卯は日干の官鬼、遁干は己を得、玄武を乗る。中伝の酉は子孫、遁干は乙を得、天后を乗る。末伝の卯はなお官鬼、遁干は己、玄武を乗る。
斷:占云,此課求親不必用媒,私情業已相通矣,事在必成。但非真女耳。蓋凡占婚,以日為夫宮,辰為女位,龍則象夫,後則象女。年命相加為必成,神煞無良則淫賤。
断語に言う。この課の親を求めるに媒人を用いず、両人の私情はすでに相通じ、事は必ず成る。ただあの女子はすでに処子にあらず。およそ婚姻を占うは、日干を以て夫の宮と為し、日支を以て女子の位と為す。青竜は取象して夫と為り、天后は取象して妻と為る。双方の行年と本命とが互いに加臨すれば、すなわち必ず成るの象である。しかして神煞がもし良善ならざれば、この女は淫賤を主す。
按此占,丑作天后,加於日上,而大吉即為女命,是則婦臨夫位,男則先有其女矣。未作青龍,加於女命之上,而小吉即是男身,女之命中,則亦素有其男矣。又何必媒妁之言、父母之命而後可也?故主必成。元合悉為不正,而乃婦位全逢,女年之上覆見本命咸池,是以知其非真女也。況門戶相加,而傳又見之,私通往復,寧止一次哉?婚雖必成,亦可恥矣。
この課を細かく按ずるに、丑の上に天后を乗せて日干の頭上に加わり、丑(大吉)はまたまさに女方の本命である。これはすなわち妻が夫の位置に臨み至ったのであり、男方はすでにこの女子を手に弄んでいた。未の上に青竜を乗せて女方の本命丑の上に加わり、未(小吉)はまたまさに男方の行年である。この女子の命中に本来すでにこの男有るを見るべし。すでにこのとおりなれば、どうしてなお媒妁の言・父母の命を待たんか。ゆえに必ず成ると断ず。玄武と六合とは皆不正の将であり、偏に悉く妻位の上に落つ。女方の行年の上にまた本命の咸池・桃花を見る。これによって彼女がすでに処子にあらざるを知る。いわんや天門・地戸の位が互いに加臨し、しかも三伝のうちにまたそれらを見る。両人の私に往来して通奸するは、どうしてただ一次のみならんや。この親事は必ず成るといえども、また実に恥ずべきなり。
占験二
己丑年四月癸酉日酉將戌時占婚姻,戌亥空,酉戌落空。貴後;蛇、辰巳午未、陰,陰武空青,官辛未陰;朱、卯、申玄,未申亥子,財庚午後;六、寅、酉常,申酉子癸,財己巳貴;勾、丑子亥戌、虎;龍空。
己丑年四月癸酉日、酉将を用いて戌時に加えて婚姻を占う。癸酉日は甲子旬に属し、旬空は戌・亥に在り、しかして天盤の酉・戌は恰好に地盤の戌・亥の上に落つ。ゆえに酉戌が空に落つと言う。天将は天盤の巳上の貴人より逆に布く。巳は貴人、辰は螣蛇、卯は朱雀、寅は六合、丑は勾陳、子は青竜、亥は天空、戌は白虎、酉は太常、申は玄武、未は太陰、午は天后。四課は、日干の癸は宮を丑に寄せ、丑の上に子を得、子の上に亥を得。日支の酉の上に申を得、申の上に未を得。四課の上神・未・申・亥・子は分別に太陰・玄武・天空・青竜を乗る。三伝は未・午・巳と為り、これは退茹である。初伝の未は日干の官鬼、遁干は辛を得、太陰を乗る。中伝の午は妻財、遁干は庚を得、天后を乗る。末伝の巳もまた妻財、遁干は己を得、貴人を乗る。
占云,婚必成,後必有訟。助夫益子,自可齊眉,財官旺相,夫妻安享者也。媒亦得力,當為女家之親。女必清白修長,出身微賤。
断語に言う。この婚事は必ず成る、ただし成りて後に必ず一場の官司あり。この女子は夫を幇扶し子嗣に益あり、夫妻は案を挙げ眉に斉くし得る。財爻・官爻は共に旺相、両人は現成の福分を安享し得る。媒人もまた甚だ得力、あたうべく女家のあの辺の親戚であろう。この女子は必ず肤色が白浄で身材が修長、ただ出身は低微なり。
蓋干支上下,金水相生,故主必成。天網之局,末助初鬼,故主有訟。干為夫,支為婦,干乘儀祿,支乘長生,故主齊眉安享。初為男,末為女,末生初,故主助夫。日上遁甲為子,而辰上遁壬生甲,故主益子。法以六合為媒,而藏則視中傳,中見勝光,與妻財同類,故為女家之親。火生初傳男未之上,故主得力。即以納音為媒而責之,則癸酉納音金,而與支辰同類,
細かく按ずるに、日干・日支の上下は皆金水の相生、ゆえに必ず成るを主す。課は「天網」の局を成し、末伝の巳火がまた去りて初伝の未土という官鬼を生助す、ゆえに訟事あるを主す。日干を夫と為し日支を婦と為す。日干の上に儀神と禄神とを乗せ、日支の上に長生を乗る、ゆえに夫妻の斉眉・現成の安享を主す。初伝は男を代表し末伝は女を代表す、末伝が初伝を生ず、ゆえに妻が夫を幇扶するを主す。日干の上神が甲木を遁し出すは子孫の爻、しかして日支の上神が壬水を遁し出してまた来て甲を生ず、ゆえに子嗣に益あるを主す。媒を占うはもともと六合を主とす、六合がもし蔵れて現れなければ中伝を看る。中伝は勝光の午火、妻財と同類、ゆえに媒人は女家の親戚と断ず。午火がまた去りて初伝――すなわち男方を代表する未土――を生ず、ゆえに媒人は得力と言う。もし改めて納音を用いて媒位を定めれば、癸酉の納音は金に属し、日支の酉と同類、
當為女家親也。金生水,亦主得力。女必清白修長者,亦以支上言之也。蓋凡女命得實,則從年上言其色相。後之所乘,觀其本來面目。則第從辰上觀之可耳。出身微賤,以后乘咸池,辰上得元陰也。官鬼兩見而相刑,斯其再醮者乎?訟端之所起,亦當在是矣。果為前夫之弟所訟。驗甚,確甚。凡以納音為媒位者,當分陰陽。癸酉為陰金,法當責酉為媒位,而其上神何如,故此占取申也。
同じく女家の親戚と断ず。金は水を生じ得、同じく媒人の得力を主す。この女子の肤色が白浄で身材が修長と言うは、また日支の上神より断じ出すである。およそ女方の本命が落ちて実なれば、行年の上より彼女の当前の気色を断ず。彼女の本来の面目を看るには、天后の乗る神を看る。この課は両者とも明ならず、ただ日支の上より看れば足る。彼女の出身が低微と言うは、天后が咸池を乗せ、しかして日支の上にまた玄武・太陰のこの両位の不正の将を得るがゆえである。官鬼が両度現れてしかも互いに刑剋するは、この女子はおそらく再嫁の身であろうか。訟事の起因もまたあたうべくここに在らん。後に果して前夫の弟に状告された――験験すること極めて准く極めて確かなり。およそ納音を用いて媒位を定めるは、陰陽を分かつべし。癸酉は陰金、法に拠ればあたうべく酉を以て媒位と為し、さらに酉の上神の如何を看る。ゆえにこの課の取るは申である。
占験三
五月甲戌日未將卯時,婦人三十五歲占。申酉空,子丑落空。六朱;勾、酉戌亥子、蛇;龍、申、丑貴,白後六白,比丙寅后後;空、未、寅後,午寅戌午,子壬午白寅;虎、午巳辰卯、陰,寅戌午甲,財甲戌六,女:命年戌;常玄。
五月甲戌日、未将を用いて卯時に加えて課を起す。三十五歳の婦人が来て占う。甲戌日は甲戌旬に属し、旬空は申・酉に在り、しかして天盤の子・丑は恰も地盤の申・酉の上に落つ。ゆえに子丑が空に落つと言う。天将は天盤の丑上の夜貴より逆に布く。丑は貴人、子は螣蛇、亥は朱雀、戌は六合、酉は勾陳、申は青竜、未は天空、午は白虎、巳は太常、辰は玄武、卯は太陰、寅は天后。四課は、日干の甲は宮を寅に寄せ、寅の上に午を得、午の上に戌を得。日支の戌の上に寅を得、寅の上に午を得。四課の上神・午・寅・戌・午は分別に白虎・天后・六合・白虎を乗る。三伝は寅・午・戌と為り、恰も火局の炎上課を成す。初伝の寅は比肩、遁干は丙を得、天后を乗る。中伝の午は子孫、遁干は壬を得、白虎を乗る。末伝の戌は妻財、遁干は甲を得、六合を乗る。この婦人の本命と行年とは共に戌に在り。
占云,汝有二夫,正夫不告而去,偏夫已入賊中,音信不通,今求改適,鄰僕作媒,必有新喜,請成之。
断語に言う。汝は二箇の丈夫あり、正夫は告げずして別れ、偏夫はすでに盗賊の群のうちに落ち、音信は通ぜず。如今汝は改嫁せんと欲し、隣家の僕人を以て媒と為す、必ず一桩の新たなる喜事あり、この親事は成り得る。
蓋陰不備者,必是二陽而一陰,故主不貞而有二夫。法以青龍為夫,乘申遙克其日而空,龍又乘馬,見於天關之上,象為逃亡,故主不告而去。青龍之陰為偏夫,乃蛇乘子則有陰私蔽匿,盜賊纏繞之象,再傳而子上得辰,辰上乘元武賊盜之將,自旺投墓,故曰入黨。課變炎上,在夏當旺為新,三傳合歡則為喜,故曰新喜。
細かく按ずるに、課は「陰不備」を成す、必ず両陽が一陰に配する、ゆえにこの婦が貞ならずして二箇の丈夫有るを主す。夫を占うは青竜を主とす、青竜は申金を乗り、遥かに去りて日干の甲木を剋し、しかして申はまた正に空亡に落つ。青竜はなお駅馬を乗せ、天関の位に現る、象は逃亡なり、ゆえに正夫は告げずして別れると断ず。青竜の陰神は偏夫を代表す、あそこは螣蛇が子水を乗り、陰私・隠匿・盗賊に纏繞されるの象あり。さらに下に伝じて、子の上神は辰を得、辰の上に玄武という盗賊を主る天将を乗せ、旺地より墓庫に投入す、ゆえに彼は賊党に入ったと言う。全課は炎上の火局に変じ、夏天に正に旺相に当たる、これは「新」なり。三伝は三合の歡会、これは「喜」なり。ゆえに必ず新喜ありと言う。
法以六合為媒,乘戌,故主奴僕。即以納音為媒言之,甲戌納音屬火,當取午為媒位,午上河魁亦恰為奴僕。支干同在傳,為鄰近,故云鄰僕。其婦三十五歲,行年戌上功曹,為天后,以休氣而轉旺氣,故當再嫁。天后在支發用,則再嫁之念,出諸本身,非他人求之而然也。後生日上,故曰必成。
媒を占うは六合を主とす、六合は戌土を乗る、ゆえに媒人は奴僕の一流と断ず。もし改めて納音を用いて媒位を定めれば、甲戌の納音は火に属し、あたうべく午を取って媒位と為すべし、しかして午の上は河魁の戌土、また恰も奴僕に対応す。日干と日支とは同じく三伝の中に在り、彼此の隣近の象なり、ゆえに「隣家の僕人」と言う。この婦人は三十五歳、行年は戌に在り、戌の上は功曹の寅木、天后を乗せ、休気より転じて旺気と為る、ゆえに彼女は再嫁すべきと断ず。天后はまた日支の上に発用す、再嫁の念頭は彼女自身より起こり、他人の来て彼女を求むるがためにしかるにあらざるを見るべし。天后はまた去りて日干の上神を生ず、ゆえに必ず成ると言う。
占験四
七月癸巳日巳將寅時,男五十二歲,午未空,酉戌落空。空虎;龍、申酉戌亥、常,常龍勾蛇,父甲申龍,龍;勾、未、子玄,亥申未辰,比丁亥常,申;六、午、丑陰,申巳辰癸,子庚寅後,命巳年;朱、巳辰卯寅、後;蛇貴。
七月癸巳日、巳将を用いて寅時に加えて課を起す。男方は五十二歳。癸巳日は甲申旬に属し、旬空は午・未に在り、しかして天盤の酉・戌は恰も地盤の午・未の上に落つ。ゆえに酉戌が空に落つと言う。天将は天盤の卯上の夜貴より逆に布く。卯は貴人、寅は天后、丑は太陰、子は玄武、亥は太常、戌は白虎、酉は天空、申は青竜、未は勾陳、午は六合、巳は朱雀、辰は螣蛇。四課は、日干の癸は宮を丑に寄せ、丑の上に辰を得、辰の上に未を得。日支の巳の上に申を得、申の上に亥を得。四課の上神・亥・申・未・辰は分別に太常・青竜・勾陳・螣蛇を乗る。三伝は申・亥・寅と為り、一路に逓生す。初伝の申は父母、遁干は甲を得、青竜を乗る。中伝の亥は比肩、遁干は丁を得、太常を乗る。末伝の寅は子孫、遁干は庚を得、天后を乗る。男方の本命は巳に在り。
占云,五十二歲,又作新郎,今日方出墓尋生,姻事必就。所議者年富、清白、修操,力能助夫。又能生子,女中丈夫也。獨是過門不久,尊堂服動,必有內艱之丁矣。其女必善書算,持家有方,可享遐福,二子送終。成親之後,便當生喜。
断語に言う。五十二歳の人がまた新郎を作る、今日はまさに墓庫を出でて長生を尋ねに往く、この親事は必ず成る。議する所のこの女子は年紀正に富めり、清白にして自ら守り、品行は端正、夫を幇扶する力量あり、また子を生む能く、女中の丈夫なり。ただ門に過ぎて久しからず、家中の長輩は喪服の事あるべく、必ず母の丁憂せん。この女子は必ず書写・算賬を善くし、家を持つに方あり、長遠の福気を享くべし、将来に二箇の児子あって終を送らん。親を成して後、便ち身孕の喜あるべし。
蓋日上逢墓,從前自必昏滯,長生發用,故言出墓尋生。婚姻之占法,以支辰為妻位,上見長生當旺,又是儀神,故年富貌美而有丈夫之氣概也。生干,故助夫。遞生二子,故有子。必成,亦以相生乘旺也。長生又為父母,而中傳亥水,乘丁暗害,見於辰陰,故丁內艱。長生又為學堂之神,故善書算。申金又 臨長生之上,故持家有方,可享遐福也。子爻兩現,故主二子。末見,故能送終,子在丁上,故成親之後便當坐喜。
細かく按ずるに、日干の上神はまさに癸水の墓、従前は自ずから昏昧・滞塞せり。如今長生の申金が発用す、ゆえに「墓を出でて生を尋ぬ」と言う。婚を占うは日支を以て妻位と為す、日支の上に申金の長生を見てまた旺に当たり、なお儀神なり、ゆえにこの女子は年紀正に富み、容貌は美好で大丈夫の気概あると断ず。申金は日干の癸水を生ず、ゆえに夫を助くる能くと言う。三伝は一路に逓生し、最後に子孫の爻に到る、ゆえに子を生む能くと言う。必ず成ると断ずるは、また課中の一路相生してまた旺を乗ずるがゆえなり。申金はすでに長生、同時にまた癸水の父母の爻、しかして中伝の亥水は丁神を乗せて暗中に相害す、この一層はまた日支の陰神の上に現る、ゆえに彼は母の丁憂せんと断ず。長生の位はまた学堂の神、ゆえに彼女は書を善くし算を善くすと言う。申金はまた長生の上に臨む、ゆえに彼女は家を持つに方あり、長遠の福を享くべしと言う。子孫の爻は両度現る、ゆえに二箇の児子を主す。子孫はまた末伝に見る、ゆえに彼に終を送る能し。子孫の爻は丁神の上に坐す、ゆえに親を成して後便ち喜あるべし。
占験五
辛亥日,寅卯空,戌亥落空。勾六;龍、丑寅卯辰、朱;空、子、巳蛇,六后勾貴,父丁未後;虎、亥、午貴,卯未寅午,財乙卯六;常、戌酉申未、後,未亥午辛,子辛亥虎;玄陰。
辛亥日に占す。辛亥日は甲辰旬に属し、旬空は寅・卯に在り、しかして天盤の戌・亥は恰も地盤の寅・卯の上に落つ。ゆえに戌亥が空に落つと言う。全課は午将を用いて戌時に加えて起こす、天盤の神は皆その臨む地盤より四位を退後す。天将は天盤の午上の昼貴より逆に布く。午は貴人、巳は螣蛇、辰は朱雀、卯は六合、寅は勾陳、丑は青竜、子は天空、亥は白虎、戌は太常、酉は玄武、申は太陰、未は天后。四課は、日干の辛は宮を戌に寄せ、戌の上に午を得、午の上に卯を得。日支の亥の上に未を得、未の上に寅を得。四課の上神・卯・未・寅・午は分別に六合・天后・勾陳・貴人を乗る。三伝は未・卯・亥と為り、恰も木局を成す。初伝の未は父母、遁干は丁を得、天后を乗る。中伝の卯は妻財、遁干は乙を得、六合を乗る。末伝の亥は子孫、遁干は辛を得、白虎を乗る。
占云,姻事必成,但嫌不旺夫家,偏旺母家,八年之後,妻必改嫁,非吉象也。
断語に言う。この親事は必ず成る、ただそれが夫家を旺さずして偏に娘家を旺するを嫌む。八年の後、妻は必ず改嫁す、吉象にあらず。
蓋干支之上,午未作合,故主必成。凡天后發用,而三傳自合成局者,謂三陰自旺,得天后臨支,支繫母家,故主偏旺母家。後之所乘,明生暗鬼,而三傳木局,又生起干上之鬼以克干,故不旺夫家。未數八,八年之後,丁動而中空橋斷,卯即辛之妻星,其象若此,尚可成乎?婚姻之占,關係甚大,其可忽乎?
細かく按ずるに、日干の上の午と日支の上の未と相合す、ゆえに必ず成るを主す。およそ天后が発用して三伝が自ら合して一局を成すを、「三陰自旺」と言う。この課は天后がまた日支の上に臨む、日支は娘家に属す、ゆえに偏に娘家を旺するを主す。天后の乗る未土は、明処は辛金の日干を生じ、暗中に遁し出す丁火はしかし日干の官鬼なり。しかして三伝は木局を合成し、また生じ起こして日干の頭上の火鬼を以て来て日干を剋す、ゆえに夫家を旺さずと言う。未の数は八、ゆえに八年の後と断ず。その時に丁神が一たび動き、しかして中伝の卯木がまた空亡に落つるは、まさに「断橋」の象なり。卯木は恰好にすなわち辛金の妻星なり、象が成ることこのごとくなれば、この婚はなお長久し得ようか。婚姻を占うは関係極めて大なり、どうして軽忽すべきか。
巻之五 農事門
農桑例約第一
日用常行,所需於占者,蓋亦夥矣。何遂以農桑冠之?蓋民為邦本,而其所以安民者,衣與食也。是故天子有籍田之耕,夫人有蠶桑之役,黎民不飢不寒,而後可以言教,是則瑣占之所以首農桑也。
日常生活のうちに占問を要する事は多くある、なぜ偏に農桑を頭の一位に置くか。百姓は国家の根本であり、百姓を安定せしめるは、穿つと喰うとの両様に外ならざるがゆえである。ゆえに天子は籍田に親耕し、王后は蚕桑の役を主持する。ただ百姓をして飢えず凍えずせしめ、然る後にこそ教化を談ずべし。これがすなわち瑣碎の日用の占のうちに、農桑を最も前に列する所以である。
農桑定象第二
同農圃之占,以日為農人,農人者,身其小天,剛健不息,故以干類之。以辰為田圃者,承天載物,柔順無疆,故以支類之。而其所以吉凶於農人田圃者,天也。故即視其上神休旺生死、刑害空破,以言吉凶也。蓋日干不受上神傷,則農人清吉;日支不受上神傷,則田圃茂盛。日辰之上,互相生合而不破害刑空,則收穫豐盈,惠施實受。
およそ農田・菜圃を占うは、皆日干を以て農人を代表させる。農人の自身はすなわち一箇の小天であり、剛健にして息まず、ゆえに陽に属する日干を用いて彼を比類する。日支を以て田地・園圃を代表させる、田地は天時を承け万物を承載し、柔順にして辺際なきがゆえに、陰に属する日支を用いてそれを比類する。しかして農人と田地とに吉凶を齎し得るは、天である。ゆえにそれらの頭上の神が休か旺か、生か死か、刑・害・空・破あるか否かを看て、これに拠って吉凶を断ず。日干がその上神に傷られざれば、農人は清吉・平安である。日支がその上神に傷られざれば、田地は庄稼茂盛する。日干・日支の頭上の神が彼此相生・相合し、また破・害・刑・空なければ、収穫は豊足し、実実に天地の恩恵を受ける。
若發用之神更能生旺其類,則所望之類必有收成,而太歲行年上神復見生扶者,類收必倍。類貴入傳,氣宜生旺。又須得地,不可空傷。類陰傷類,樹藝徒勞。陰傷日年,類及殃咎。凡用生其類,而遂傷干者,亦非農圃之所攸利也。至夫早晚之占,則在三傳,凡發用乘吉,而生旺其類,或類現於用,而與辰上無傷,則利於早。中則利中,末則利末也。水陸之占,則在日辰,日吉宜陸,從陽也;辰吉宜水,從陰也。是皆農占圃占之在略也。
もし発用の神がなお種する作物の類神を生旺し得れば、指し望むこの類の庄稼は必ず收成あり。さらに加えて太歳と行年の上神もまた来て生扶すれば、收成は必ず加倍す。類神は最も三伝に入るを好み、気は生旺に宜しく、また地を得るを要し、空に落ち傷を受くべからず。類神の陰神がかえって類神を傷れば、種植は労力を空費す。陰神が日干と行年に傷れば、人の身に連累して災咎あらん。およそ発用は類神を生旺したといえども、続いて日干を傷つけるは、田を種え園を種える人にとっても好事にあらず。收成の早晚の占に至っては、則ち三伝に在り。およそ発用が吉将を乗せて類神を生旺するか、あるいは類神が本身就ち発用の上に現れ、また日支の上神と相い傷らなければ、早く種え早く収むるに利あり。類神が中伝に現れれば中に利あり、末伝に現れれば晩に利あり。水田を種るか旱地を種るかに至っては、則ち日干・日支を看る。日干のこの一端が吉なれば旱地に宜し、日干は陽に従うがゆえに。日支のこの一端が吉なれば水田に宜し、日支は陰に従うがゆえに。以上は皆農田を占い菜園を占うの大略である。
類神定象第三
凡以登明神后為稻者,水穀也。稻非水無以生成,故以水類之。故凡水神乘吉量相,與辰上神生合,不與日干太歲上神往來相傷者,宜稻也。登明宜粳,神后宜糯者,糯大而陽,粳陰而小,各從其類也。俗呼糯為大米,粳為小米者,義蓋本此。寅卯者,草木之類神也。草其本而木其性者,五穀之屬也。故以功曹太沖類之,故凡用見木神,乘吉旺相,與辰上神生合,不與日年太歲上神往來相傷者,五穀之屬皆所宜也。蓋惟草而似木者,功曹主之;草而終草者,太沖主之;木陽而草陰,性使然也。
およそ登明(亥)・神后(子)を以て稲の類神と作すは、稲が水谷に属するがゆえである。稲子は水を離れれば長り成らず、ゆえに水を用いてそれを比類する。およそ水神が吉将を乗せて気が旺相を得、また日支の上神と生合し、日干・太歳の上神と往来して相い傷らなければ、稲を種るに宜し。登明は粳稲に対応し、神后は糯稲に対応す。糯の粒は大きくして陽に属し、粳の粒は小さくして陰に属す、各々その類に従うがゆえに。民間は糯を大米と叫び粳を小米と叫ぶ、意思はおそらくここより来る。寅・卯は草木の類神である。本体が草で性質が木に近きは、すなわち五穀のこの類、ゆえに功曹(寅)・太衝(卯)を用いて比類す。およそ発用に木神を見、吉将を乗せて旺相、日支の上神と生合し、行年・太歳の上神と往来して相い傷らなければ、五穀の類は皆相宜。その中で草に似て木に近きは、功曹の管に帰す。始終草なるは、太衝の管に帰す――木は陽に属し草は陰に属す、本性の使然である。
巳午者,火之類神也。其性上炎,其象為陸,黍與豆宜於高原,而不宜於淤下者,故以太乙勝光類之,故凡用神見火神,乘吉旺相,與辰上神生合,不與日年太歲上神往來相傷者,黍豆之屬,皆所宜也。然而顏色高下,各有其宜,惡可無辨?蓋黍之高出者,曰粱,其色多赤,勝光純火而赤,應以主之。黍之低者,曰粟,其色多黃,太乙火土而黃,應以惟豆亦有黃赤之不同,其所應主者,可以思矣。觸類而長,寧惟黍云乎哉?
巳・午は火の類神である。火性は向上に炎焼し、取象は高地と為る。黍と豆とは高原に種るに宜しく、低窪に水を積む処に種るに宜しからず、ゆえに太乙(巳)・勝光(午)を用いて比類す。およそ用神に火神を見、吉将を乗せて旺相、日支の上神と生合し、行年・太歳の上神と往来して相い傷らなければ、黍と豆とのこの類は皆相宜。ただ庄稼の色と高矮とは各々その宜しき所有り、どうして分辦を加えざるべけん。黍の中で長ずること高きを粱と言い、色は多く赤に偏す。勝光は純火にして色は赤、あたうべくそれの主管すべし。黍の中で長ずること矮きを粟と言い、色は多く黄に偏す。太乙は火土を兼ねて色は黄、あたうべくそれの主管すべし。豆にもまた黄豆・赤豆の異なりあり、各々あたうべくどの一位に主管せらるべきか、これに照らして一たび想えば明らかなり。これにより触類して推衍すれば、どうしてただ黍のこの一様のみならんや。
申酉者,金之類神也。其性從革,故序為秋,二麥者,生於秋而成於夏者也。秋收也,收四時之金氣,利金石之磋磨,故以傳送從魁類之。故凡用見金神,乘吉旺相,與辰上神生合,不與日年上神往來相傷者,二麥之所宜也。大麥小麥,陽大而陰小也。辰戌丑未,土之神類也。萬物資生,而承天柔順,故曰稼穡,稼穡之所賅者,不一而足,故百穀之屬,咸以土神類之,故凡用見土神,乘吉旺相,與辰上神生合,不與日年太歲上神往來相傷者,百穀皆所宜也。然四土之中,惟大吉更吉,故又名之曰田。即以大吉為田郎者,丑有田象,從其類也。是皆農占圃占之種類也。
申・酉は金の類神である。金性は「従革」、ゆえに四季のうちに秋天に配属す。大麦・小麦は秋天下に種して夏天に成熟する作物である。秋は収を主り、収むるはまさに四時の金気、また金石のごとき磨礪に宜し、ゆえに伝送(申)・従魁(酉)を用いて比類す。およそ発用に金神を見、吉将を乗せて旺相、日支の上神と生合し、行年の上神と往来して相い傷らなければ、両種の麦は皆相宜。大麦・小麦の分は、すなわち申は陽に属するがゆえに大と為り、酉は陰に属するがゆえに小と為る。辰・戌・丑・未は土の類神である。万物は土に依って生じ、土は天時を承受して柔順にして違わず、ゆえに「稼穡」と言う。稼穡の包括する所は一様に止まらず、ゆえに百穀の類は皆土神を用いて比類す。およそ発用に土神を見、吉将を乗せて旺相、日支の上神と生合し、行年・太歳の上神と往来して相い傷らなければ、百穀は皆相宜。四位の土神の中で、ただ大吉(丑)のみ最も吉、ゆえにまたそれに起こして名を「田」と言う。大吉を田郎と称するは、まさに丑に田地の象あるがゆえに、それの類に順って命名したのである。以上は皆農田を占い菜園を占うに用いる作物の種類である。
雖然,理有經常,占須通變,執而求之,反滋謬誤,是故凡欲占其歲宜何類為植者,則以發用所現之類而言,吉則從之,凶則違之,不惟旱澇而耕者,良農也。若果為凶將,廢耕乎?故凡用凶於類,而不傷辰,或即傷辰,而中末有救,及日年太歲上神,或有救制,而能扶生辰日上者,但當逐類求之,現與不現,非所論也。
話はこのとおりとはいえ、道理にはその常規あり、占断は通変を知るを要す。条文を死に抱いて求めれば、かえって錯誤を滋生す。およそこの年にどの類の作物を種るに宜しいかを占わんとすれば、発用の上に現るるがどの類かを看ればよい。吉なればそれに順って種り、凶なればそれを避ける。しかし旱でも澇でも照り旧に耕作する、こそ好き農民なり。どうして発用が凶将を乗せたがゆえに、便ち地を種らざらんか。ゆえにおよそ発用が類神に対して利ならざるといえども、日支を傷らざるか。あるいは日支を傷ったといえども、中伝・末伝に救いあるか。あるいはまた行年・太歳の上神が能く救い能く制し、なお日支と日干の上神とを扶生し得るか――この数種の情形に遇えば、便ち只管に一類一類に推求して好し、類神が課上に現るるか否かは、かえって計較するに及ばず。
若農圃之念,業有所主,而欲占其所主之類,宜與不宜也,亦第取類而俯仰視之可也。凡類既得地,旺相不空,類上神將,又不與類刑戰而與辰上神生合,不與日年太歲上神往來相傷者,用之可也。至必入傳者,若仍以類為嫌,則反謬矣。類上神將即是類之陰神。
もし田を種え園を種える人が心のうちにすでに主意あり、ただ自己の認め定めたこの類の作物が合適か否かを占問せんとするならば、それもまたただこの類神を取出し、それに対して一番の俯察・仰観を作せば足る。およそ類神がすでに地を得、また旺相で空に落ちず、類神の頭上の神と将もまた類神と刑戦せず、かえって日支の上神と生合し得、かつ行年・太歳の上神と往来して相い傷らなければ、それを用いるべし。人あるいは必ず類神が三伝に入りてこそ肯んじて用い、かえって類神が伝に入らざるを嫌むは、則ち間違いである。類神の頭上の神と将とは、すなわち類神の陰神である。
象類約略第四
約而言之,日為農人,辰為畎畝,辰上神將為所樹藝之物,日上神將為所仰望之天。發用者,求類之端也;行年者,干求之柄;太歲者,萬物之主客也:故皆視其上神而較言之。惟用既以所乘為類,而亦視其上神也,用之陰神與有責焉。
総括して言えば、日干は農人を代表し、日支は田畝を代表し、日支の上の神と将は種植する作物を代表し、日干の上の神と将は農人の仰望する天時を代表す。発用は類神を推求する頭緒であり、行年は事を成さんと謀る把柄であり、太歳は則ち万物の主と客である。ゆえにこの数項は皆それらの上神を看て、彼此比較して講ずべし。発用はすでにその乗る神を以て類神と為す、則ち同じく発用の上神をも看るべきであり、すなわち発用の陰神もまた推求の列に在り。
故凡日上乘吉生干,則農人清吉,而旺相生合者更吉,乘凶克干則農人災否,而休囚凶克者更凶。辰上吉旺生支,則田園茂盛,休囚相剋則地土荒蕪。日生辰上則發繁而工倍,辰生日則費少而功多。日上凶死而克辰上,則栽培灌溉未必及時,辰上吉生而剋日上,則時屆收成終歸虛花。類貴入傳,莫教休死,又宜得地,不可落空。若為取類之占,則不必拘其藏現,而惟旺相不空者必佳。若果原無所主,則方以用神為類,而惟用生支神者可與。
およそ日干の上に吉将を乗せまた日干を生ずれば、農人は清吉・平安、気がさらに旺相・生合すればいっそう吉。上に凶将を乗せまた日干を剋すれば、農人は災あり難あり、気がさらに休囚で凶剋すればいっそう凶。日支の上に吉将を乗せ、気が旺でまた日支を生ずれば、田園は庄稼茂盛す。休囚に落ちてしかも相剋すれば、土地は荒蕪す。日干が去りて日支の上神を生ずれば、庄稼は長じて繁茂するといえども、人は一倍の工夫を多く費やす。日支が来たりて日干を生ずれば、則ち花費は少なくして功を収むること多し。日干の上神が凶を乗せ死に落ちてしかも日支の上神を剋すれば、栽培・灌漑は未だ必ずしも時候に及ばず。日支の上神が吉を乗せ生を得てかえって日干の上神を剋すれば、收成の時節に到りて終に一場の空喜びなり。類神は最も三伝に入るを好み、それを休・死に落とさしむるなかれ、また地を得るに宜しく、空に落つべからず。もし占うるが「どの類を選びて種るべきか」ならば、則ちそれの蔵るるか現るるかを拘泥するに及ばず、ただ旺相で空に落ちざれば好し。もしもともと心のうちに主意なければ、こそ用神の本身を拿て類神と為し、しかもただ用神が日支の上神を生じ得るのみ取るべし。
水陸決於干支,早晚視夫初末。三傳乘吉遞生,而生日辰及生日辰上神者,農牧而無他患。三傳乘凶遞克,而剋日辰及剋日辰上神者,歉獲而有後殃。類與用神雖逢生旺,而陰神生克干支者,即收穫無虞,當防災疫。用神與類雖覺平常,而陰神吉生支干者,即栽培勞費,實利堪收。式觀大象,年屬占人,所以日年用類,最忌刑傷;吉凶由神,克應由煞,凡神煞天官,利於和好。農桑雖微,畢竟有關民命,象占非易,必須恃用周詳,擴而充之,無不皆然。倘有三反,不為無益者也。
水田を種るか旱地を種るかは、日干と日支とに拠り決す。收成の早と晩とは、初伝と末伝とを看るべし。三伝が吉将を乗せて層々に相生し、最後にまた日干・日支およびそれらの上神を生ずれば、農を務め牧をし畜するも別の禍患なし。三伝が凶将を乗せて層々に相剋し、最後にまた日干・日支およびそれらの上神を剋すれば、收成は歉薄にしてしかも日後にまた災殃あり。類神と用神とは生に逢い旺に逢うといえども、それらの陰神と日干・日支とに生あり剋あるは、収穫は憂いなきといえども、人畜の災病・瘟疫を防ぐべし。用神と類神とは平平たるといえども、陰神が吉を乗せまた日干・日支を生じ得るは、栽培は辛苦・費力するといえども、実実の利益はなお収め得らる。課式を看るは先に大象を看るべし。行年は占卜の人に属す、ゆえに日干・行年・用神・類神のこの数処は最も刑傷を忌む。吉凶は神によって決し、剋応は煞によって決す。およそ神煞と天将とは、皆彼此の和好を以て利と為す。農桑は小事といえども、畢竟に百姓の性命に関わる。取象・占断は容易ならず、必ず全課に依拠して周詳に推求すべし。この一套の办法を拡充し去れば、別の事もことごとくしかり。読者もし挙一反三し得れば、また白く講じたと算えず。
蚕桑象類第五
凡以午為蠶命,午為木之子孫,夏之旺神也。午於神為勝光,故其字從先,兩其先者,歲必兩收,蟲其象也。其又以蠶取義者,午卦為離,為先天乾位,從天從先,象雖不同,義則一也。是故時維清明,蠶即露種而有生焉。至於穀雨,則普天之下皆其初眠時也。時維夏至,則皆眠竟而恣食焉。至於小滿,則普天之下,皆其結繭時也。是則午之所謂蠶命而為夏之王神,木之子孫也。
およそ午を以て蚕の本命と為すは、午が木の子孫の爻であり、また夏天の旺神なるがゆえである。午は十二神の中で「勝光」と言う、「勝」の字は「先」に従う。二箇の「先」が並べば、正に一年に必ず两季の蚕を収め、しかして蚕はまた虫の象なり。さらに蚕の字より義を取って言えば、午は後天の卦位に離に属し、しかして離の在る所の位置はまさに先天の乾位なり、一つは「天」に従い一つは「先」に従う、取象は同じからざれども、意思は一つなり。ゆえに清明に到れば、蚕種は便ち露を見て孵化して出生し、穀雨に到れば、普天下の蚕は皆頭眠に入り、夏至に到れば、皆眠り罷めて肚子を放き大いに喰い、小満に到れば、普天下の蚕は皆繭を結ぶ。これがすなわち午の蚕命と叫ばるる所以、しかしてそれがまた夏天の旺神・木の子孫たる所以である。
凡以未為桑者,午與未合,木之庫也。惟庫則子孫取之為寄,惟合則子孫食之無傷,未旺於夏,而木火之功,相與告成,是則未之所以為桑也。蓋蠶為繭也,雖曰成功而告老,實即脫化而營胎,是則寅之所以類繭也。凡以卯為絲者,卯木本於午為沐浴。沐浴者,絲之象也。浴蠶於湯,而後絲出焉,是則卯之所以為繭也。
およそ未を以て桑と為すは、午と未とが相合し、しかして未はまた木の庫なるがゆえである。すでに庫なれば、子孫の爻はそのうちに寄托し得。すでに相合すれば、子孫の爻はそれを喰うとも傷を受けず。未は夏天に旺に当たり、木と火との功用はここに至りて一斉に告成す、これがすなわち未の桑を代表する所以の道理なり。蚕が繭を結ぶは、功が成り身老いたりと言うといえども、実際にはまさに胎を脱し変化して新生を孕育する、ゆえに寅は以て蚕繭を比類し得。およそ卯を以て糸と為すは、卯木が午に対して正に沐浴の位に処るがゆえである。沐浴はすなわち「浸洗」、まさに繰糸の象なり――蚕繭を熱湯のうちに放ちて浴せしめ、然る後に糸はこそ抽き出すことを得。これがすなわち卯の糸を代表する所以の道理なり。
凡以辰為薄者,辰於午為冠帶。冠帶者,成人之具也。辰於春為季,中本墓,墓閉藏之所也,蠶必藏焉,而後登之於薄,登薄而繭,成長之象也。辰於象類,則又為山,故俗呼為薄為山,是辰之所以類薄也。凡以巳為筐者,巳之於午,為臨官,而比旺,比輔也,下順從也,下比其類,以藏火為能,蠶之為性,以要寒為急,故巳火可以筐蠶。是則巳之所以類筐也。
およそ辰を以て蚕薄(蚕を放る蓆箔)と為すは、辰が午に対して正に冠帯の位に処るがゆえである。冠帯は成人の衣冠、長成を象徴す。辰はまた春天の最後の一箇月、本身はなお水の墓庫なり、墓は閉蔵の所、蚕は必ず先に蔵れ、然る後にこそ蚕薄の上に上る。薄に上れば繭を結ぶ、まさに長成の象なり。辰は取象の上でまた山を代表す、ゆえに民間は蚕薄を「蚕山」と叫ぶ、これがすなわち辰の蚕薄を比類する所以の道理なり。およそ巳を以て蚕筐と為すは、巳が午に対して正に臨官の位に処り、午と比肩して旺なるがゆえである。「比」はすなわち輔助、下に在るは上に在るに順従す。それは下において同類と比し、本领は火を蔵し得るに在り。しかして蚕の天性は最も寒を受くるを怕る、ゆえに巳火は以て蚕を盛る筐を作るべし。これがすなわち巳の蚕筐を比類する所以の道理なり。
凡以申為綿者,申於午為病,於寅為破,蓋繭之為利於人也,絲與綿耳,繅而得絲,破之則僅可得綿,蠶所病也,所破也,病於繭而破於繭,是則申之所以類綿也。凡以酉為僵者,午死於酉,而金有剛強之義,故曰其生也柔弱,其死也剛強。戌為黃者,午墓於戌,黃其色也。亥為厄絕者,午火絕於亥也。子為鼠耗者,即沖且克,午火受傷,鼠其象也。丑為眠化者,丑午脫害,脫所以當眠而身有變動之嫌也,化也者,變之謂也。
およそ申を以て糸綿と為すは、申が午に対して正に病の位に処り、寅(繭)に対してまた破なるがゆえである。繭の人に対する用は糸と綿との両様に過ぎず。繰り出すは糸、繭を弄び破るはただ綿を得るのみ。これはすなわち蚕の「病」であり、また繭の「破」なり――病は繭の上に在り、破は繭の上に在り、これがすなわち申の糸綿を比類する所以の道理なり。およそ酉を以て僵蚕と為すは、午が酉に死し、しかして金に剛強の義あるがゆえに、ゆえに蚕は生きる時は身体は柔軟、死してかえって僵硬すると言う。戌は黄蚕を代表す、午が戌に墓するがゆえに、戌の顔色は黄なり。亥は厄難と絶命とを代表す、午火が亥に絶するがゆえに。子は鼠耗を代表す、子がすでに午を冲しまた午を剋すれば、午火は傷を受け、まさに老鼠に咬食せらるるの象なるがゆえに。丑は眠と蛻化とを代表す、丑と午とが相脱・相害するがゆえに。「脱」は正に蚕が眠るべき・身が将に変動せんとする時に対応し、「化」はすなわち変の義なり。
加臨定象第六
故凡蠶桑之占,首以午為蠶之類位,而仰觀焉。仰觀者,觀夫午上之神,以言吉凶。蓋功曹加午則乘帶俱吉,則繭收必倍多。太沖加午,而乘帶俱吉,則絲獲必多。天罡加午,而乘帶俱吉,則登薄者成。太乙加午,而乘帶俱吉,則上筐無恙。小吉加午,而乘帶俱吉,則桑與蠶宜,自無他患。傳送加午,而乘帶俱吉,則金為火制,收必多綿。惟勝光加午,而乘帶俱吉,則二火有比旺之能,蠶之順利,不待言矣。蓋仰觀之神,即為類之所天,所以當責。
ゆえにおよそ蚕桑を占うは、まず午を以て蚕の類位と為し、さらにそれに対して「仰観」す。仰観とはすなわち午の頭上に何の神かを看る、これに拠って吉凶を断ず。功曹(寅、繭を主る)が午の上に加わり、乗る天将と帯びる神煞とが皆吉なれば、繭の收成は必ず加倍す。太衝(卯、糸を主る)が午の上に加わり、乗帯皆吉なれば、糸を得ること必ず多し。天罡(辰、蚕薄を主る)が午の上に加わり、乗帯皆吉なれば、薄に上り繭を結ぶこと順利に成功す。太乙(巳、蚕筐を主る)が午の上に加わり、乗帯皆吉なれば、筐に上りて恙なし。小吉(未、桑を主る)が午の上に加わり、乗帯皆吉なれば、桑の葉と蚕とが相宜、自ずから別の禍患なし。伝送(申、綿を主る)が午の上に加わり、乗帯皆吉なれば、金は火に制せられ、収むる綿は必ず多し。勝光(午)が自ら午の上に加わるに至っては、乗帯皆吉なれば、それは両火が比肩して旺なる、蚕を養うこと順利なるはさらに言うに及ばず。仰観して見る所のこの神は、すなわち類神の頭上の天、ゆえに必ずそれを責問せねばならない。
至於從魁之僵,天魁之黃,登明之死絕,神后之鼠耗,大吉之眠化,則皆不利於蠶,而非蠶命上之可或見者也。若既見於蠶命之上,而乘帶復凶,則為災更甚。然而諸凡吉類,雖在午上之所加臨,而類上所得之神,又須逐類分責。蓋凡旺相乘吉,而無內外刑戰,則此類當以吉言,上下剋制,而休囚空亡,則此類當從凶論。
従魁(酉)が僵を主り、天魁(戌)が黄を主り、登明(亥)が死絶を主り、神后(子)が鼠耗を主り、大吉(丑)が眠りて変を生ずるを主るに至っては、この数位は皆蚕に利あらず、蚕命の頭上に絶対に見るべからざるものである。もしすでに蚕命の上に現れ、乗る所・帯びる所がまた凶なれば、災を為すこといっそう重し。しかし言うを戻せば、各種の吉類は固よりそれが午の上に加臨する如何を看るべきだが、これらの類神が自己の頭上に得る神も、また一類一類に分かれて責問すべきである。およそそれが旺相でまた吉将を乗せ、内戦・外戦と刑剋となければ、この類は吉と断ず。もし上下が互いに剋制し、また休囚・空亡に落ちれば、この類は凶に拠って論ずべし。
吉凶瑣象
凡宅主年命之上,得見財神財星,相生旺相,蠶收必倍。而惟蠶臨年上,與蠶更相關切。必須彼此生合,旺相有氣,方為全吉。大抵蠶傷姑辰,則蠶不利人,而蠶上更乘凶神凶將凶煞,蠶必無收,不可為也。姑傷其蠶,則人不利蠶,而蠶上更乘吉神吉將吉煞者,蠶收可望,但當擇其吉於蠶者而用之可也。至夫蠶室,歲各有方,法以姑年加歲,而惟寅申午未之下,姑為吉方。四者之中,擇其最便而無沖犯者,居之可也。
およそ家主の行年・本命の上に財神・財星を見て、彼此相生しまた旺相なれば、蚕の收成は必ず加倍す。殊に蚕命が行年の上に臨むは、蚕を養うと関わること最も切なり、必ず両下に生合し、旺相にして気あればこそ、全吉と算え得。大体に言えば、蚕命が去りて蚕姑の在る日支を傷れば、それは蚕が人に利あらざるなり。もし蚕命の頭上にまた凶神・凶将・凶煞を乗せば、蚕は必ず顆粒の収もなし、この蚕は養うべからず。反対に蚕姑が去りて蚕命を傷れば、それは人が蚕に利あらざるなり。もし蚕命の頭上にまた吉神・吉将・吉煞を乗せば、蚕の收成はなお指し望むあり、ただそれらの蚕に利ある条件を挑びて用いればよい。蚕室の安くる所に至っては、每年に各々その方位あり。法は蚕姑の行年を太歳の上に加える、ただ寅・申・午・未のこの四位の下に落つる時のみ、蚕姑の対する方位はこそ吉方と算う。四者の中でさらに一箇の最も方便にして相い冲犯せざるを挑び、住み入ればよい。
遲早之法,則視三傳,凡初傳吉旺而生合蠶命上者,宜早;中吉宜中,末吉宜晚也。眠起吉凶,亦從傳中次第求之。蓋惟初傳吉旺,則頭眠起必齊,中主二眠,末主三眠,惟吳中獨有四眠之蠶,謂之大眠。大眠之候,亦即視夫末傳可也。諸書不以四課為言者,指事而占,但須責類,無他求以亂指視耳。豈有置大象於不用,而竟抹煞干支對待之體哉?日為人,辰為物,不然,何可棄也。但觀農人之於田畝種類,可類推矣。
蚕を養う早晚の判法は三伝を看るべし。およそ初伝が吉を乗せて旺にして、また蚕命と生合するは、早く養うに宜し。中伝が吉なれば中期に宜しく、末伝が吉なれば晩く養うに宜し。蚕の眠ると起くるの吉凶も、また三伝の次第に照らして求む。初伝が吉旺なれば、頭眠より起くること必ず斉整。中伝は二眠を管し、末伝は三眠を管す。ただ呉地の一帯は別に四眠する蚕あり、「大眠」と言う、大眠の時もなお旧と同じく末伝を看ればよい。各家の書に四課を講じざるは、具体の一事に針して占うには、ただ類神を責問すれば足り、別に別のものを找して視線を乱るに及ばざるのみ。どうして全課の大象を丢き棄てて用いず、干脆に日干・日支の彼此対待の格局を抹煞せんや。日干は人を代表し日支は物を代表す、然らざれば、どうして棄てて看らざるべけん。ただ前の農人と田畝・作物を講じたあの一段を看れば、以て類推すべし。
巻之六 出行門
占例約第一
出行何以有占也?蓋行藏顯晦,一身之休咎所關,水陸舟車,千里之吉凶攸繫。前知之則易為趨避,易視之則難以提防,孰謂出行也,而可無占乎?至夫望雲之嘆,誰則無之?所以家內吉凶,咸須歸附,必如是也。而後促裝就道,跋履山川,庶幾可以無悔乎?
門を出でて遠く行くはなぜ占卜するか。往くか留まるか、顕れるか隠れるかは、一身の禍福に関わるがゆえに。水路・旱路、船に坐し車に坐するは、千里の外の吉凶に牽係す。事の先に知れば吉に趨り凶を避けること易し、看ること太く軽ければ提防し難し。誰か言う、門を出づるのこの事は占わざるべしと。游子の雲を望み親を思うの感慨に至っては、誰かまた之かなかりしや。ゆえに家中の吉凶もまた一倂にこの門のうちに附して講ず。必ずこのごとくし、然る後にこそ行装を收拾して路に上り、山を翻し水を渉りて大概悔いなかるべきか。
類象第二
凡以日干為行者之身,而視其上神,以言休咎;以日支為所往之地,而視其上神,以言吉凶。蓋凡日上無傷乘吉不戰,而氣又當時,日支陰神又不凶傷於日,則此身之迪吉可知,反此則有凶災,不宜妄動。
およそ出行を占うは、日干を以て行人の自身を代表させ、その上神を看て禍福を断ず。日支を以て往かんとする所の地方を代表させ、その上神を看て吉凶を断ず。およそ日干の上神が傷を受けず、吉将を乗せ、その乗る神と交戦せず、気がまた正に時令に当たり、日支の陰神もまた来て日干を凶傷せざれば、この人の一路の平安は知るべし。反対なれば凶災あり、軽挙妄動に宜しくない。
凡日上空亡,而無氣無沖,則欲行未必。日上官鬼而兼刑帶害,則阻滯難行,其所以阻滯者,視其所乘之天官可知也。如鬼乘天乙,氣更休囚,必因貴人神鬼而有阻滯,鬼乘蛇雀,又帶官符,必因口舌公訟、纏繞憂疑而有阻滯。鬼乘勾陳,又帶刑煞,必因田上爭鬥勾擾牽連而有阻滯。鬼乘白虎,又帶喪門、弔客、死符、病符,必因死喪疾病而有阻滯。鬼乘元武,又帶盜耗,必因盜失而有阻滯。
およそ日干の上神が空亡に落ち、また気なく、またそれを冲する神なければ、それは行かんと想うも未だ必ずしも行き成らず。日干の上神が官鬼にしてまた刑と害とを兼ね帯びれば、阻滞して行き難し。一体何に絆されるかは、その乗る天将を看れば便ち知る。たとえば官鬼が天乙を乗せて気がまた休囚なれば、必ず貴人あるいは神鬼の事によって阻まるるなり。官鬼が螣蛇・朱雀を乗せ、また官符を帯びれば、必ず口舌・公門の訟事・纏繞・憂疑によって阻まるるなり。官鬼が勾陳を乗せ、また刑煞を帯びれば、必ず田地の上の争闘の牽連によって阻まるるなり。官鬼が白虎を乗せ、また喪門・弔客・死符・病符を帯びれば、必ず喪事・疾病によって阻まるるなり。官鬼が玄武を乗せ、また盗神・耗神を帯びれば、必ず失盗によって阻まるるなり。
鬼乘天空,又帶亡劫,必因逃亡、走失、欺紿、脫騙而有阻滯之類是也。類而推之,空亡之故,可以思矣。若用見子孫乘旺,既不為下所傷,而又上乘吉將,則是發用之神,力能制鬼而生財,日上雖有官鬼阻滯之嫌,仍可行矣。
官鬼が天空を乗せ、また亡神・劫煞を帯びれば、必ず逃亡・走失・人に欺瞞・誆骗せらるるによって阻まるるなり、皆この類に属す。この法子に照らして推し下れば、日干の上神が空亡に落つる縁由も、また想い出すべし。もし発用に子孫の爻を見て気がまた旺なれば、すでに下の地盤に傷られず、上はまた吉将を乗せ、それならばこの発用の神は力量ありて官鬼を制し得、また財を生じ得。日干の頭上に官鬼の阻滞の嫌あるといえども、路はなお旧と行き得。
蓋凡日上之鬼,休則難動,鬼纏身也。旺則難當,鬼禁日也。若鬼在日上發用,而又上乘凶將者,是更不宜輕動。見在日上,已自難當,況又發用乎?若旺鬼乘吉,而又用自日發,則仕宦之行,反為吉占,未可概以凶言也。
およそ日干の頭上の官鬼が、休気に落ちれば動身し難し、それを「鬼纏身」と言う。旺気に落ちれば抵当し難し、それを「鬼禁日」と言う。もしこの官鬼が便ち日干の上に発用して、頭上がまた凶将を乗せば、なおいっそう軽動に宜しくない――ただ日干の上に現れるのみですでに当たり難し、いわんやそれがまた発用するをや。ただしもし旺相の官鬼が吉将を乗せ、発用がまた日干の上より起これば、官を作り任に赴くの行程はかえって吉占なり、一概に凶に拠って講ずべからず。
凡日上神乘吉旺相,能制支上之神,而支上亦復旺相乘吉,則是我之財神,見於彼也,往則必吉。若反凶作鬼,帶煞披刑,氣又囚死,則是我之鬼賊,見於彼地,往則必凶,其所以凶於我者,則亦視之所乘所帶可知也。凡日干遊行之方,亦宜兼視。蓋天上日干,身所動也;所臨之地,身所止也,吉凶休咎,咸有攸關,安得無問?故當兼視。
およそ日干の上神が吉将を乗せて旺相、日支の上神を制し得、しかして日支の上神もまた自身旺相にして吉を乗せば、それは我の財神が相手方のあそこに現るるなり、往けば必ず吉利。もし日支の上神がかえって凶を乗せて官鬼と作り、なお煞を帯び刑を披り、気がまた囚死に落ちれば、それは我の鬼賊があの一塊の地方に現るるなり、往けば必ず凶。それが一体どの一端より我に凶たるかは、同じくその乗る天将・帯びる神煞を看れば便ち知るべし。およそ日干が天盤上に游走する方位もまた、あたうべく一倂に看るべし。天盤上の日干は、我が身の動く所の処である。それが下に臨む地盤は、我が身の止まる所の処である。吉凶・禍福は皆これと相関す、どうして問わざるべけん。ゆえに一倂に看るべし。
凡日干病死墓絕之地,亦不可前往,往則多凶。惟地既生旺不空,而神將之吉者,方可往也。又須兼以日上神與方神較論,假如今日干之上,四土為神,木臨之地,不可往也。惟火所臨方,則為大利。火生土也。水臨亦利,土克水也。金臨之方,則無攸利,為所脫也。若所利之方,將吉氣旺,又能生合日干年命者,則更利也,他方仿此。
およそ日干の病・死・墓・絶の地もまた、往くべからず、往けば多く凶あり。ただあの地盤がすでに生旺でまた空に落ちず、乗る神将がまた吉なるのみ、こそ往くべし。このほかにまた日干の上神と方位の神とを一つに放ちて比較すべし。仮に今日の日干の頭上が辰戌丑未の四土の神なれば、木の臨む所の方位は往くべからず。ただ火の臨む所の方位のみ大いに利あり、火は土を生ずるがゆえに。水の臨む所の方位もまた利あり、土は水を剋するがゆえに(水は我の財なり)。金の臨む所の方位は則ち利ある所なし、土は金を生ず、それに気を脱せらるるがゆえに。もし利あるあの方位の上に天将が吉で気がまた旺、なお日干と行年・本命とを生合し得れば、則ちいっそう利あり。その余の方位はこれに照らして類推せよ。
然凡出行有占,須首辨欲行者,果為何等人,其人所司何事,而後即其內外喜忌言之,方可無失。漫以求之,占無應也。即如日上空亡,所主者何,未可必耳。若為九流技藝之人,空手求財之事,空非所忌,亦須將得吉氣旺,乃往利耳。若為攜本經商,則不惟不能行,行且有損。蓋行商之占法,以日為外類,外空而占,則奔走徒勞,我空而凶,則資財可慮。視天官,則所以空者,可縷指矣。
ただおよそ出行を占うは、まず行かんと想うがどのような人か・その為す所が何事かを辧明し、然る後にそのこの一行の内内外外の喜忌に就いて講じてこそ、始めて錯らざる。含糊として推せば、占うとも応験せず。たとえば日干の上神が空亡に落つるは、一体何を主るか、一口に咬み定むべからず。もし三教九流の手芸を恃んで喰う人で、為す所は空手に財を求めるの営生なれば、落空はその忌む所にあらず、ただ乗る天将が吉で気がまた旺なれば、出でて行けば利あり。もし本銭を帯びて経商しに行くなれば、則ち行き成らざるばかりでなく、行けばなお本を虧かん。行商の占法は日干を以て外に在るの一類と為す、外の頭が空に落ちて占えば、すなわち奔走して徒労なり。我自己が空に落ちてまた凶に逢えば、本銭は憂うべし。さらにその乗る天将を看れば、落空の縁由は能く一条一条に数え出すべし。
又如日上鬼,所主者鬼纏身,鬼禁日耳。若為求官問祿之人、功名科舉之事,反所喜也。蓋功名之占法,以官鬼為主,官臨其身,旺相乘吉,既不內外戰刑,而用傳年命又不相傷,太歲月建又得生扶,而上神又不往來相剋,則無官者,當有得官之慶。有官者,定膺遷推之利,榮何如之?若無氣空克,即令求官,亦不可往,而常人得人,在所必忌,何可漫言而無分辨。
さらにたとえば日干の上神が官鬼なれば、主る所は「鬼纏身」・「鬼禁日」に過ぎず。しかし来て占うが官を求め禄を問うの人・問う所が功名・科挙の事なれば、それはかえって彼の求めて得ざるを得ざる所なり。功名の占法は官鬼を以て主と為す。官星が身に臨み、旺相にしてまた吉将を乗せ、すでに内戦・外戦と刑剋となく、発用・三伝と行年・本命とがまた来て相い傷らず、太歳・月建がなおそれに生扶を還し、上神もまたそれと往来して相剋せざれば、官職なき人は、あたうべく官を得るの喜あるべし。すでに官職あるは、必ず升遷の利を得る能く、何等の栄耀なるか。もしそれが気なく、空に落ち、剋せられれば、たとい官を求むるとも往くべからず。しかして同じ一箇の官鬼が、平常の人の身に落つればしかし必ず忌むべきなり――どうして笼统に乱に講じて分辦を加えざるべけん。
占法動静第三
凡欲出行,而欲占其能行與否,則又有動靜之義,故以動靜占之,蓋動則能行,靜則未能也。蓋凡關墓臨干,身則難動。關有阻格之義,墓有斂藏之義,皆靜象也,所以難動。若年上神,力能沖關破墓,則可仍以動言,否則須待沖關破墓月日,方能動也。
およそ門を出でんと想いて行き成るか否かを占わんとすれば、なお「動」と「静」のこの一層の意思あり、ゆえに動静を以て占う。動なれば行き成り、静なれば一時に行き得ず。およそ関神と墓神とが日干の上に臨めば、人は動身し難し。関は阻擋・隔断の意あり、墓は収斂・蔵伏の意あり、皆静の象なり、ゆえに動き難し。もし行年の上神に関を冲開し墓を破開する力量あれば、なお旧と「動」に拠って断じ得。さもなくば則ち関を冲し墓を破するあの月・あの日を待たねば、こそ動き得。
凡日上空亡,亦主難動,若用傳年命,見有沖神,亦當以動言之。蓋空逢其沖,空者反實,故可動也。然惟旺空逢沖,方有其象,若空帶休囚,沖無益矣。凡日干天官入廟者,雖非空亡關墓,亦難以動言。蓋神將同體,變化無端,故難言動。惟二馬乘旺發用,又無縛足戀廄之類,動斯確矣。凡魁罡臨日,則有萬不獲己之動,乘吉帶旺,則以吉言而為速;乘凶囚死,則以凶論,而為遲;披刑帶煞而有氣,則當亦以速言。故曰,旺如乘車得馬,可以掣電而追風。
およそ日干の上神が空亡に落つるもまた、動き難きを主す。もし発用・三伝・行年・本命の中にこの空の神を冲するの字を見れば、なお旧と「動」に拠って断ずべし――空亡が冲に遇えば、空はかえって実に変ず、ゆえに動き得。ただし旺相の空が冲に遇うのみこそこの象あり。もし空にしてまた休囚を帯びれば、冲するも用なし。およそ日干の乗る天将が正に入廟すれば、たとい空亡ならず関墓に逢わずとも、動くと言うに及ばず、この時は神と将とが同じく一体と為り変化は端なく、ゆえに動を言い難し。ただ駅馬・天馬のこの二馬が旺を乗せて発用し、また縛足・恋厩の類の煞に絆されなければ、則ち確実に動くべし。およそ魁・罡(戌・辰)が日干の上に臨めば、万に已むを得ずして動かざるを得ざるの象あり。それが吉将を乗せて旺気を帯びれば、吉に拠って断じしかも動くこと速し。凶将を乗せて囚死に落ちれば、凶に拠って論じしかも動くこと慢し。もし刑を披り煞を帯びるもなお気あれば、またなお旧と速いに拠って言う。ゆえに言う、旺相の時は便ち車に坐し馬に配するがごとく、風を追い電を逐うべし、と。
遅速占法第四
凡占出行,而欲以遲速言,則惟較視日用,日為行者之身,用乃征行之始也。蓋凡課傳皆陽,事必顯而多功,其動必速;課傳俱陰,事必陰私而多晦,其動必遲。故曰,日陽而用陰,則當速中之遲;日陰而用陽,則當遲中之速。若日上陽旺而用陰休墓,則雖動復止;日上陰休,而用神旺,則雖遲必行。
およそ出行を占いて快慢を論ずるは、ただ日干と発用との両下を比較すればよい。日干は行人の自身、発用は啓程の開端である。およそ四課・三伝がすべて陽支なれば、事は必ず顕露して多く成效あり、動身もまた必ず速し。四課・三伝がすべて陰支なれば、事は必ず隠秘にして多く晦暗、動身もまた必ず慢し。ゆえに言う、日干が陽に属して発用が陰に属すれば、すなわち快のうちに慢を帯ぶ。日干が陰に属して発用が陽に属すれば、すなわち慢の中に快あり。もし日干の上神が陽に属して旺なれども、発用がかえって陰に属してまた休に落ち墓に入れば、則ち動いたといえどもまた止まる。もし日干の上神が陰に属して休なれども、発用の神がかえって旺なれば、則ち慢いといえども、終に行くべし。
凡用陽而傳陰,當防中道之阻,用陰而傳陽,則必履坦無虞,中為發用之陰神,所關於行色者,非淺鮮也。凡用為子孫,而刑剋日上,則當有伴侶相傷之應;用為父母,而刑剋日上,則當有尊長相促之徵;用為兄弟,宜切朋友;見妻財,情關妻妾;方以類聚,物以群分,惟用帶丁馬,旺相不空,不受下克者,動尤速也。
およそ発用が陽に属して中伝が陰に属すれば、中途の受阻を防ぐべし。発用が陰に属して中伝が陽に属すれば、一路は必ず平坦にして虞れなし。中伝はすなわち発用の陰神、それの行程に対する関係は小ならざるべし。およそ発用が子孫の爻でまた日干の上神を刑剋すれば、同伴の身の上に事あるに応ず。発用が父母の爻で日干の上神を刑剋すれば、尊長の催逼に応ず。発用が兄弟の爻なれば、事は朋友に切近す。発用が妻財の爻なれば、妻妾に牽渉す。所謂る方は類を以て聚まり、物は群を以て分かるとは、この道理である。ただ発用が丁神・駅馬を帯び、旺相にして空に落ちず、また下の地盤に剋せられざるのみ、動身は格外に速し。
吉凶占法第五
凡占出行,又知其吉凶何若者,則首視日上,日上為行者之身也。次觀辰上,辰上所往之地也。又次視用傳,初中末,有道路閱歷之象也。又次視年命,命為固有,年主流行,而為行者之身,所獨有也。凡見有日鬼而乘凶帶殺,則各有所主之事,各有所應之時,各有所見之處可按也。其所吉於行者,惟祿馬、生氣、日德、天喜之類,附吉乘旺,而無損傷則其行也,即非因喜而動,將來必有喜慶之事,隨所遇而自見者也。其所凶於行者,則為鬼,以所乘帶及五氣言之。
およそ出行を占いて吉凶の如何を知らんとするは、第一に日干の上神を看る、それは行人の自身。第二に日支の上神を看る、それは往く所の地方。第三に発用と三伝とを看る、初・中・末に沿途の経歴する象あり。第四に行年と本命とを看る、本命は生と倶に来るの定分、行年は当前に流転するの運を管し、皆行人の自己の独り有する所である。およそ日干の官鬼を見てまた凶将を乗せ凶煞を帯びれば、それならば毎一様が各々何事を主り、各々何時に応じ、各々何の地方に現るるか、皆条理ありて循るべし。出行に利あるは、ただ禄神・駅馬・生気・日徳・天喜のこの一類、それらが吉将に附着し、また旺気を乗せて損傷を受けなければ、この一趟はたとい喜事によって動くにあらずとも、将来は必ず喜慶の事が遇う所に随いて自ずから現るべし。出行に利ならざるは、すなわち官鬼、その乗る天将・帯びる神煞および四時・五気を以て講ずべし。
蓋凡鬼乘天乙,則主官司神鬼之凶,日旺為官,夜休為鬼,分以乘之,方無去也。鬼乘蛇,則主驚疑怪異,盜賊火光;鬼乘朱,則主鼠雀紛爭,是非口舌;鬼乘合,則牙儈媒保,欺隱奸私;乘勾,主勾惹牽連,爭鬥訟獄;乘龍,主子孫財帛,虧折損傷;乘空,則主小人僕隸,誕妄欺凌;乘虎,則道路凶惡,疾病兵喪;乘常,主飲食筵會,參商嫌隙;乘元,主盜賊匪類,劫耗遺亡;乘陰,主陰私婦女,奸謀蔽匿;乘後,婦人女子,穢汙貪淫。
およそ官鬼が天乙を乗れば、官司と神鬼との両方面の凶を主す。昼に占いて気が旺なれば「官」と作して看、夜に占いて気が休なれば「鬼」と作して看、昼夜を分け清めて然る後に断ずれば、こそ失誤せざる。官鬼が螣蛇を乗れば、驚疑・怪異・盗賊・火光を主す。朱雀を乗れば、鼠雀のごときの紛争・是非・口舌を主す。六合を乗れば、牙行・経紀・媒人・保人の類の欺瞞・隠匿と奸私とを主す。勾陳を乗れば、勾扯・牽連・争闘・訟獄を主す。青竜を乗れば、子孫と銭財との虧損・折耗を主す。天空を乗れば、小人・僕役の荒誕・欺凌を主す。白虎を乗れば、道路の凶険・疾病と兵災・喪事とを主す。太常を乗れば、飲食・宴会の上に参商・不和の嫌隙を生ずるを主す。玄武を乗れば、盗賊・匪類の劫掠・耗失・財物の丢失を主す。太陰を乗れば、陰私・婦女・奸謀・隠匿を主す。天后を乗れば、婦人・女子の穢汚・貪淫を主す。
以煞而言,則凡五符為鬼者,必有口舌公訟;往亡為鬼魅者,必將身不生還;車坑為鬼者,有車馬舟輯之憂;飛廉為鬼者,防破敗損失之患;空亡為鬼者,脫誑可慮;劫煞為鬼,劫奪堪虞。鬼墓則昏蒙多阻;鬼關則隔礙難通;天刑則小人有憂敗之嫌,君子亦剝官奪祿;鬼帶咸池,姦淫沉溺;鬼披刑害,破祖傷殘。引而伸之,觸類而長之,則庶幾乎百煞之用,其有當乎。
もし神煞に就いて講ずれば、およそ五符が官鬼と作れば、必ず口舌と公門の訟事あり。往亡が鬼魅と作れば、この人は必ず一去して返らず。車坑が官鬼と作れば、車馬・舟船の翻覆の憂いあり。飛廉が官鬼と作れば、破敗・損失の患を防ぐべし。空亡が官鬼と作れば、人に誆骗せられ脱空せらるるを担心すべし。劫煞が官鬼と作れば、劫せられ奪わるるを担心すべし。官鬼が墓に落つれば、則ち昏昧・不明にして多く阻隔あり。官鬼が関に逢えば、則ち隔断・阻碍して行き通らず。天刑を帯びるは、小人は憂愁・敗落の嫌あり、君子もまた官を剥し禄を奪わるべし。官鬼が咸池を帯びれば、奸淫・沉溺の事あり。官鬼が刑を披り害を帯びれば、祖業を破敗し身に傷残を受くべし。この路子に照らして引伸・推广すれば、各種の煞の用法も大概皆用いるに正しきを得べし。
水陸占法第六
凡占出行,而欲知其出行水陸之所宜者,則以日辰為主,而分言之,吉則從之,凶則違之。凡以日干為陸,視其上神,以言休咎。日干之象,為天為陽,陸之位也。日支為水,視其上神,以言吉凶。日支之象,為地為陰,水之位也。故凡干上之神,乘吉生干,氣又旺相,則陸路自可從行,乘凶剋日,氣又囚死,則陸行匪吉。
およそ出行を占いて水路を行くが好いか旱路を行くが好いかを知らんとするは、日干・日支を以て主と為し、分かれて講ず。吉なるはそれに依り、凶なるはそれを避くる。日干を以て旱路を代表させ、その上神を看て禍福を断ず――日干の象は天と為り陽と為り、まさに陸地の位なり。日支を以て水路を代表させ、その上神を看て吉凶を断ず――日支の象は地と為り陰と為り、まさに水の位置なり。ゆえにおよそ日干の上神が吉将を乗せまた日干を生じ、気がなお旺相なれば、旱路は自ずから行き得。もし凶将を乗せて日干を剋し、気がまた囚死に落ちれば、旱路を行けば不吉なり。
支上之神,乘吉生支,氣又復旺相,則水路允宜從往。若乘凶克支,或更剋日,氣又囚死,則水行必凶,若水陸俱吉,則惟擇其最旺,而無損傷者從之。凡陸行則不能不需車馬,水行則不能不需舟楫。太沖者,車馬舟楫之類神也,然須分視不謬耳。
日支の上神が吉将を乗せまた日支を生じ、気もまた旺相なれば、水路はまさに往くに宜し。もしそれが凶将を乗せて日支を剋し、あるいはさらに進みて日干を剋し、気がまた囚死に落ちれば、水路を行けば必ず凶あり。倘若水路・旱路ともに吉なれば、則ち気の最も旺にしてまた損傷なきあの一端を挑びて行け。旱路を行けば車馬を少からずし、水路を行けば船槳を少からず。太衝(卯)はまさに車馬・舟船の類神なり、ただなお分け清めてこそ錯るに至らざるべし。
蓋太沖臨水,象則舟楫。臨土,象則車馬。旺相則堅固而寬容,休囚則破毀而疲陋。惟乘龍合,而出於支干之端,更無刑戰,則水陸皆堪遄往。若載元蛇,而見於日辰之上,則水陸皆不堪從。即乘辰合,則象為減下,沉溺堪虞。卯帶車坑,則象為折輪,傾危可慮。上見魁罡,則舟車定多阻隔。更乘月厭,則道路時有憂驚。卯作隔神,寧無阻滯?卯逢夾克,必有損傷。卯上空亡,水則無憂,陸防傾陷。
太衝が水位の上に臨めば、象はすなわち船。土位の上に臨めば、象はすなわち車馬。それが旺相なれば、車船は堅固にして寛敞。それが休囚なれば、車船は破損にして簡陋。ただそれが青竜・六合を乗せ、また日干・日支の頭上に現れ、かつ刑剋・戦闘なきのみ、こそ水路・旱路ともに放心して快走し得。もしそれが玄武・螣蛇を載せて日干・日支の上に現れば、水路・旱路ともに行くべからず。卯が辰を乗せて相合すれば、象は船帮が低く圧して沈むるがごとく、船の翻り水に溺るるを担心すべし。卯が車坑の煞を帯びれば、象は車輪の折断するがごとく、傾覆の険を慮るべし。卯の上の頭に魁・罡を見れば、車船は必ず多く阻隔あり。もしさらに月厭を乗せれば、路上に時時驚憂あり。卯もし隔神と作れば、どうして阻滞なからん。卯もし上下の夹克に遭えば、必ず損傷あり。卯の上が空亡に落ちれば、水路を行くはかえって憂いなし、旱路を行くはしかし車の翻り坑に陷るを防ぐべし。
凡舟行之時,萬一有損,而欲占其損於何所。亟為衣枷計者,則當專視天罡,而以所加孟仲季言之。加孟則所損在頭,仲中季尾。蓋孟仲季有首尾之象,而與太沖相害者,天罡也,即以相害者占其所以害,故無失也。
およそ船を行く途中に万一船に破損あらば、破れるがどの部位に在るかを占い、好んで急ぎ漏りを堵ぎ固め加うべきは、則ち専ら天罡(辰)を看て、それが孟・仲・季のどの一位に加わるかに拠って講ず。寅申巳亥の四孟に加われば、破損は船頭に在り。子午卯酉の四仲に加われば、破損は船身の中段に在り。辰戌丑未の四季に加われば、破損は船尾に在り。孟・仲・季はもともと首・中・尾の象あるがゆえに。しかして太衝の卯木と相害するはまさに天罡の辰土、ゆえに便ちこの相害する字を拿てそれが害する所を占う、こう断ずれば錯らざるなり。
陰晴風雨占法第七
凡占出行,而欲占其途次之陰晴風雨何若者?則以三傳之陰陽為主,以言時地之克應。蓋陰陽亦晴雨之機,三傳開道路之象,而初中末即其時與地也。故凡傳得純陽,則主晴朗,而木旺乘陽者多風。傳得純陰,則主陰晦,而金旺乘陰者多雨。水神旺則雖陽亦雨,火神旺則雖陰亦晴。陽勝於陰,而乘朱蛇,又帶晴殺,其晴必久。陰勝於陽,而乘後元,又帶雨煞者,其雨必長。是則陰晴風雨之大象也。
およそ出行を占いて路上が陰か晴か・風あり雨あるかを知らんとするは、三伝の陰陽を以て主と為し、用いて何時に応じ何処に応ずるかを推し断ず。陰陽はもともと晴雨の機括、三伝はまた展開して道路の象と成る、しかして初・中・末の三伝は正に時と地とに対応す。およそ三伝がすべて陽支なれば、天の晴れ気の朗らかなるを主す。その中に木気が旺にしてまた陽を乗するは、風多し。三伝がすべて陰支なれば、陰沈・晦暗を主す。その中に金気が旺にしてまた陰を乗するは、雨多し。水神が旺なるは、たとい三伝が陽に属すとも雨を下すべし。火神が旺なるは、たとい三伝が陰に属すとも晴れ放つべし。陽が陰に勝り、また朱雀・螣蛇を乗せ、さらに晴煞を帯びれば、晴天は必ず長久す。陰が陽に勝り、また天后・玄武を乗せ、さらに雨煞を帯びれば、雨は必ず下ること久し。これがすなわち陰晴・風雨の大象である。
若分視其時與地,則初傳見者,應在始發;中傳見者,應在中途;末傳見者,應在末路。擴而充之,則辰上見者,應在彼地;日上見者,應在欲行未行之時;而時序之標準,即以三傳之十二辰次之,是則所謂時與地也。
もし分かれて時と地とを看れば、初伝に現るるは、剛に出発した時に応ず。中伝に現るるは、中途に応ず。末伝に現るるは、目的地に到らんとする一段の路上に応ず。さらに拡大して看れば、日支の上神に現るるは、往く所のあの地方に応ず。日干の上神に現るるは、行かんと想いていまだ行かざるこの段の時間に応ず。具体の時令・時辰に至っては、則ち三伝の占むる十二地支に拠って次いで排定す――これがすなわち所謂る「時」と「地」である。
伴侶占法第八
凡欲出行,而欲知其將來有無伴侶,及伴侶何若者,則以子孫為主,而亦以三傳言其時地。責三傳者,以道路言也。責子孫者,制克生財,緩急可恃也。兄弟之爻乃居然伴侶,而不責及者,兄弟有其本責,分財之象,職有合夥經營,而非萍水之交矣。
およそ門を出でんとして路上に同伴あるか否か・同伴がどのような人かを知らんとするは、子孫の爻を以て主と為し、同じく三伝を用いて時と地とを定む。三伝を用いるは、三伝が道路を代表するがゆえに。子孫の爻を用いるは、子孫が能く官鬼を制伏しまた能く財を生ずるがゆえに、緩急の際に頼るべし。兄弟の爻は分明にまた同伴なれども、それを用いざるは、兄弟の爻に別にそれの本来の職責あるがゆえに――それは財を分かつの象、管する所は合伙の経営にして、路上の萍水の相逢うの伴にあらざるなり。
故凡子孫吉旺見於傳中,而與日上德合生比,則不惟伴侶有人,而且富厚忠誠,自當竭蹶而相為。子孫休凶,見於傳內,而與日上破害刑傷,則途中雖逢伴侶,而疏狂汙賤,非徒無益而有損。傳無子孫,則視三五六合言之。若更視其所乘所帶,則性情容貌,皆可前知。察其天地兩間,則時序地方,曷難預定?至於辰見為他類,日見為類行,非虛語也。
およそ子孫の爻が吉を乗せて旺、三伝の中に現れ、また日干の上神と徳合・相生あるいは比助あれば、それならば但だ路上に伴あるのみならず、しかもこの伴は富厚・忠誠にして、肯んじて力を尽し奔走して幇助す。子孫の爻が休に落ち凶を乗せ、三伝の裏に現れ、また日干の上神と破・害・刑・傷すれば、それならば途中に遇い得る同伴あるといえども、しかし些ぞの放蕩・下賤の人なり、但だ益なきのみならずかえって害あり。三伝の裏に子孫の爻なければ、三合・六合を看て講ず。もしさらにその乗る天将・帯びる神煞を看れば、同伴の性情・相貌は皆預めて知るべし。さらにその頭上の天神と脚下の地盤とを察看すれば、何の時節・何の地方に遇うか、また何の定め難きかあらん。類神が日支に現れれば別人の一路なる、日干に現れれば我と同行なると言うに至っては、この話は虚言にあらず。
貲本行李占法第九
凡占出行,而欲知其貲本何若,則以財爻為主,而以休旺言之。日干所克者,為財神。青龍六合為財星,二者兼視。故凡財神見,而財星稱之,則為有本之行、經營之類是也。旺相而帶丁馬,則必充盈,無往不利。休囚而無丁馬,則必微薄蹇滯難通。若財神既藏,而財星又復空窘,則為無本之動,九流之類是也。旺相則得來可望,休囚則到底無功。財雖不現,而適財有氣無傷,則居然良賈,深藏莫窺,吉可知矣。若兄弟化財,或財化兄弟者,即非借貸,定為合夥。
およそ出行を占いて本銭の如何を知らんとするは、財の爻を以て主と為し、その休旺に拠って講ず。日干の剋する所は財神、青竜と六合とは財星、両者は一倂に看るべし。およそ財神が現れ、しかして財星がまたそれと相称すれば、それは本銭を帯びて門を出づる、経商の一路に属す。財が旺相でまた丁神・駅馬を帯びれば、本銭は必ず充裕、どこに行くとも順なり。財が休囚に落ちまた丁馬なければ、本銭は必ず微薄、至る処に滞塞して通り難し。もし財神が蔵れて現れず、財星がまた空に落ちて窘らかなれば、それは本銭なきの出門、三教九流の一路に属す。気が旺相なればなお得る所あるを望むべし、気が休囚なれば則ち到底一場の空なり。財は現れざれども、恰もなお気あって傷を受けなければ、それは便ち精明の好き商人、本銭を深く蔵めて人に窺わせざるなり、吉は想い知るべし。もし兄弟の爻が化して財を出すか、あるいは財が化して兄弟を出すかすれば、それならば借貸して来たるにあらざれば、則ち必ず人と合伙したるなり。
故凡欲知其行李若何者,則以父母為主,亦以休旺言之。蓋行李者,覆庇之資也,而覆被吾身者,莫如父母。故以類之。故凡父母見旺而無損傷,則行李自當富盛;休囚而有刑破,則行李必見凋殘;空藏則無,類藏則失。若父母化兄或兄化父母,則與人共,己不自由。
およそ行李の如何を知らんとするは、父母の爻を以て主と為し、同じく休旺に拠って講ず。行李は身を遮り体を護るの物件、しかして我が身を覆い庇う能くは父母に過ぐるなし、ゆえに父母の爻を用いてそれを比類す。およそ父母の爻が現れて旺相、損傷を受けなければ、行李は自ずから豊足・体面あり。休囚に落ちまた刑あり破あれば、行李は必ず破舊・凋敝す。父母の爻が空に落ちまた蔵れて現れなければ、便ち行李なきに等し。類神が蔵れれば、物を丢くべし。もし父母の爻が化して兄弟を成すか、あるいは兄弟が化して父母を成すかすれば、あの行李はすなわち人と共用のもの、自己は主を作るべからず。
投宿占法第十
凡征行在道,而欲占其止宿處吉凶若何者,則以日辰為主,而較視其上神焉。蓋日為本身,辰為旅次也。故凡日辰上神,彼此生旺德合,乘吉帶吉,則賓主相安,絕無疑忌。若彼此刑沖破害,乘凶帶凶,則賓主不投,易生嫌隙。日傷其辰,則客懷不仁,咎由於我;辰傷其日,則主懷不義,咎起於人。
およそ路上に行程を趲り、今夜の住宿の処の吉凶の如何を占わんとするは、日干・日支を以て主と為し、それらの上神を一つに放ちて比較す。日干は行人の本身、日支は投宿する客舎である。およそ日干・日支の上神が彼此に生旺・徳合し、また吉将を乗せ吉煞を帯びれば、則ち賓主は相安んじ、絶えて猜疑・忌憚なし。もし彼此に刑・冲・破・害し、また凶将を乗せ凶煞を帯びれば、則ち賓主は話が投机せず、嫌隙を生じ易し。日干が去りて日支を傷るは、客人の心に不仁を懐く、過錯は我に在り。日支が去りて日干を傷るは、主人の心に不義を懐く、事端は別人に出づ。
支干逢墓,必不安寧。鬼帶三刑,定多凶禍。凶於我者,視其所乘天官。暈主驚疑,朱為口舌,勾陳爭鬥,白虎兵戈,元武盜賊,天空欺紿,太陰奸謀,天后淫穢之類是也。然天官之所憑依者,神也;十二神之所用者,五行也;五行之所變幻者,五氣也。引而伸之,則形貌情性、老幼強弱之類,一覽而無餘蘊矣,於投宿也何有?
日干・日支が墓に落つれば、この一夜は必ず安寧ならず。官鬼がさらに三刑を帯びれば、一定に多く凶禍あり。一体凶はどの一端より来るか、その乗る天将を看よ。螣蛇は驚疑を主り、朱雀は口舌を主り、勾陳は争闘を主り、白虎は刀兵を主り、玄武は盗賊を主り、天空は欺骗を主り、太陰は奸謀を主り、天后は淫秽を主る、皆この類なり。ただし天将の依托する所は十二神、十二神の用いる所は五行、五行の変化して出る所は四時・五気。この次第に照らして推衍し下れば、主人の相貌・性情、年老・年少、身強・身弱のこれらは、一看すれば毫も遺漏なし。区区たる一夜の投宿、また何の断じ難きかあらん。
啓行占法第十一
凡旅次雖安,而欲占其明發之情形者,則以日干為主,日支為佐,兼以用傳相較言之。蓋日為己身,支為奴僕行李,用為禍福端倪,而三傳者,則有時與地之象也。
およそ旅舎は住むこと安穩なるといえども、なお明早の啓程の情形の如何を占わんと欲すれば、日干を以て主と為し日支を輔と為し、さらに発用と三伝とを配合して比較しつつ講ず。日干は自己の本身、日支は随行の奴僕と行李、発用は禍福の頭緒、しかして三伝は則ち時と地との象を含む。
故凡日上吉旺,不傷於日,則為上天顯佑,身必無虞;日下吉旺,不逢空敗,則為地下默扶,任行無害。元不傷干,而財爻穩固,則無劫掠之憂。勾不制日,而乘性平和,則無口舌爭鬥之患。例而求之,十二天官,咸有責也。支不受傷,財爻、奴僕、行李,當無患也。
およそ日干の上神が吉を乗せて旺、また日干を傷らなければ、それは上天が明白明白に保佑する、人身は必ず虞れなし。日干の下に臨む地盤もまた吉旺、空亡・敗地に落ちなければ、それは地下が暗に扶持する、随便にどう行くとも害なし。玄武が日干を傷らず、財の爻がまた穏固なれば、劫抢せらるるの憂慮なし。勾陳が日干を制せず、乗る神の性情が平和なれば、口舌・争闘の患なし。この办法に照らして一位一位推して去れば、十二天将は皆逐一に責問すべし。日支が傷を受けなければ、それならば財物・奴僕・行李は皆事を出さざるなり。
以竟日而言,則初為卯辰,中為巳午,未為申酉,時可定也。然式中時位,咸自井如察其上神,吉凶休咎必以時相應,兼而求之。可無失也。蓋三傳者,時行之大象也;十二辰者,時位之分司也。先其大象,次其分司,占之法也。
もし一整天に就いて言えば、初伝は卯時・辰時に対応し、中伝は巳時・午時に対応し、末伝は申時・酉時に対応す、事の出づる時辰は便ち定め出すべし。ただし課式の裏に十二箇の時辰の位は各々秩序井然、ただそれらの上神を察看すれば、吉凶・禍福は必ず相応の時辰と相合す。両下を兼ね顧りて求めれば、失誤せざらん。三伝は一天の行程の大象、十二地支は各々の時辰の分管する位置。先に大象を看、さらに分位を看る、これがすなわち占法である。
以地分而言,則十二辰之見於三傳者,自可按也。崗、嶺、墓、田、湖、池、場、圃之類,各以類見,不可漫責也。凡以年命為扶救之本,而與日辰用傳相較而言之。蓋年命者,吾身之所獨有,轉移休咎之權與也。故凡日吉而傳凶,支辰年命之上,皆可救也。日辰俱凶,而年命休衰,不能效力者,三傳之神,皆可救也。日辰年命俱凶,而三傳復凶者,勿行可也,是則所謂趨避也。
もし地点に就いて言えば、三伝の中に現るるあの数箇の地支は自ずから対照して査考すべし。山崗・山嶺・墳地・田畝・湖泊・池塘・場院・菜圃のこれらは、各々それらの類に拠って対応せよ、随に乱に指すべからず。およそ行年・本命を以て扶助・救応の根本と為し、それらを日干・日支・発用・三伝と比較して講ず。行年・本命は我が身の独り有する所、吉凶を転移するの権柄を握る。ゆえにおよそ日干が吉で三伝が凶なるは、日支と行年・本命の上神は皆来て救うべし。日干・日支がともに凶で、しかして行年・本命がまた休衰に落ち力を使い得ざるは、三伝の神は皆来て救うべし。もし日干・日支・行年・本命が全凶で、三伝がまた凶なれば、則ち干脆に行くなかれ――これがすなわち所謂る吉に趨り凶を避くるである。
凡以太歲月建,為君為長,而與日、辰、年、命、用、傳相較言之。蓋太歲者,人君之象,月建者,官長之象,身居君長臨照之下,雖不敢妄異跋扈,畢竟難逃主宰,而其上神,亦即歲月吉凶之所繫者也。
およそ太歳を以て君と為し月建を長と為し、それらを日干・日支・行年・本命・発用・三伝と比較して講ず。太歳は国君の象、月建は官長の象。人身は君長の照臨の下に処り、妄りに自から跋扈するを敢えてせざるといえども、終にそれらの主宰を逃れ出づる能わず。しかして太歳・月建の上神もまた、正にこの一年・この一月の吉凶の繋がる所の地方なり。
凡吉凶由神,克應由煞,諸煞之緊關休咎者,不可遺也。如太歲月建,氣力最大,入課臨傳,皆須細視,生扶則吉來不小,刑害則凶至匪輕,即居閒地,而其上神,皆有關係,不可忽也。蓋凡歲月上神,遙來相傷者,固為不利,而我去遙傷歲月上神者,尤非所宜也,故曰歲月上神,不可與類往來相剋。太歲上神所主歲中事,月上神所主月事事,故與日辰用傳年命上神以及類神皆不可相傷也。
およそ吉凶は十二神によって決し、剋応の時機は神煞によって決す、それらの緊く禍福に関わる煞は一箇も漏らすべからず。たとえば太歳と月建とは気力が最も大、それらが一旦課に入り伝に臨めば、皆必ず細看すべし。来て我を生扶すれば、吉利は来ること小ならず。来て我を刑し我を害すれば、凶禍は到ること軽からず。たといそれらがただ閑位の上に落つるとも、それらの頭上の神も皆関係重大、忽略すべからず。およそ太歳・月建の上神が遥かに来りて我を傷るは、固より不利。しかして我が反対に遥かに去りて太歳・月建の上神を傷るは、則ちいっそう応あるべからず。ゆえに言う、太歳・月建の上神は、類神と往来して相剋すべからず、と。太歳の上神は一年の中の事を管し、月建の上神は一月の内の事を管す。ゆえにそれらと日干・日支・発用・三伝・行年・本命の上神および類神とは、皆互いに傷剋すべからず。
見聞有疑占法第十二
凡征行在道,遙見人來,心有所疑,而欲占其為何等人者,則以神后為主,而視其所加孟仲季言也。凡神后加孟則為善良,孟為四長生,所以善良;仲為商賈,仲乃四旺,所以商賈;加季則為凶惡,季乃暗金四煞,所以凶惡。責神后者,後為十二神之長,一陽始生,首竊天氣,可以為善,可以為惡,神變無端,故曰神后,而以責之。
およそ路上に行程を趲り、遥かに人の来るを望み見て、心に疑いを生じ、来たるが何の人かを占わんと欲すれば、神后(子)を以て主と為し、それが孟・仲・季のどの一位に加わるかを看て講ず。神后が寅申巳亥の四孟に加われば、来るは善良の人――四孟は四長生の地、ゆえに善良。子午卯酉の四仲に加われば、来るは商賈――四仲は四旺の地、ゆえに生意人を主す。辰戌丑未の四季に加われば、来るは凶悪の人――四季は暗金の四煞の居る所、ゆえに凶悪。なぜ神后を責問するか。子は十二神の首、この処に一陽が初めて生じ、最も先に天地の気を窃取す、善を為すべくも悪を為すべくもし、神妙に変化して定則なし、ゆえに「神后」と言う、便ちそれを拿て責問す。
凡占乘舟而來,則以天罡為主,而亦視其所加孟仲季言之。凡天罡加孟,則為吏人,為人之所長,孟長象也。故凡吏人,稱為長吏。加仲則為常人,仲有中象,平等之象,故主常人。加季亦為奸惡,季居下流,而有藏垢納汙之象,故主奸惡。責天罡者,見因舟楫而生疑,罡立卯之前者也。蓋凡有類主者,皆當以類加孟仲季言之,無類主者,則以天罡視之。罡為善惡之總主也。故兵占決幾之占,每每視此。
およそ船に坐して来たるが何の人かを占うは、天罡(辰)を以て主と為し、同じくそれが孟・仲・季のどの一位に加わるかを看て講ず。天罡が四孟に加われば、来るは吏員――彼は人群の中の頭目、四孟は長の意あるがゆえに、ゆえに官府の中の吏員を「長吏」と称す。四仲に加われば、来るは平常の人――四仲は中に居り、平等の象あり、ゆえに常人を主す。四季に加われば、また奸悪の徒――四季は下流に居り、垢を蔵し汚を納るるの象あり、ゆえに奸悪を主す。なぜ天罡を責問するか。疑心は船に由って引起されたるがゆえに、しかして天罡は正に卯(車船の類神)の前の一位に立つがゆえに。およそ専門の類神あって主るべき事は、皆あの類神を拿て孟仲季に加えて講ず。専門の類神あって主るべきなきは、則ち天罡を用いて看る――天罡は善悪の総主宰、ゆえに兵家の占卜・決断の機宜は、往々にして便ちそれを看る。
以上兩占皆不言日、辰、用、傳、年、命,而視神后天罡者,呼吸安危,刻難姑緩,多視亂指,適以增疑也。雖然,萬一乘象果為凶惡,則又何以處之?即就其所加定體,而以日上辰上決其趨避。故凡辰上神剋日上神,則吉。辰上旺相,而日上休囚者更吉,前行無忌。日上神克辰上神,則凶。而辰上休囚者更凶。避之可也。惟相生比合,而氣俱旺相,又乘吉將者,彼雖凶惡,我無忌也。
以上のこの両種の占法は皆日干・日支・発用・三伝・行年・本命を講じず、ただ神后と天罡とを看るは、安危はただ呼吸の間に在り、一刻も拖延し得ざるがゆえに。看ること多く指すこと乱れば、かえって徒らに疑惑を増す。話はこのとおりとはいえ、万一乗る所の象が果して凶悪なれば、またどうすべきか。則ちそれの加わる所の位置に就いて大体を定め、さらに日干の上神と日支の上神とを用いて進むか避くるかを決定す。およそ日支の上神が日干の上神を剋すれば、則ち吉。日支の上神が旺相にして日干の上神が休囚なるはいっそう吉、只管に前行せよ、顧忌なし。日干の上神が日支の上神を剋すれば、則ち凶。日支の上神がさらに休囚に落つればいっそう凶、躲けるを好しと為す。ただ両辺が相生・相比・相合し、気が皆旺相、また皆吉将を乗するのみ、あの人はたとい凶悪とも、我は必ずしも忌憚せず。
凡有所問,而欲占其虛實何如者,亦以天罡為主,而亦視其所加孟仲季言之。凡罡加孟上,則為虛誕,孟為始生,事未實也。加仲而虛實參半,仲中而有騎牆之象,疑信相參而未決。加季則實,季為四土,信而實也。然日上辰上,又當參論。故凡日上刑剋支上,所言必虛。而罡、魁、蛇、虎、陰、空、謾語見於日上者,尤多詭詐,帶空亡者,更出無根。
およそ人に向かって何かを打听したるに、その話が虚か実かを占わんとするも、また天罡を以て主と為し、同じくそれが孟・仲・季のどの一位に加わるかを看て講ず。天罡が四孟に加われば、話は虚誕なり――四孟は万物の初生の地、事はいまだ落实せざるがゆえに。四仲に加われば、虚実は各々半ば――四仲は中に居り、騎牆の象あり、将に信ぜんとし将に疑わんとして定め難し。四季に加われば、話はすなわち実なり――四季は土に属し、土は誠信を主りて落实するがゆえに。ただし日干の上神と日支の上神とまたあたうべく一倂に参看すべし。およそ日干の上神が日支の上神を刑剋すれば、言う所の話は必ず虚。もし天罡・河魁・螣蛇・白虎・太陰・天空および謾語の煞が日干の上に現れば、殊に多く詭詐。さらに空亡を帯びれば、あの話はいっそう全く根拠なし。
若天罡加孟仲,而日又加彼,其虛可知矣。已上諸占,皆以辰屬我,日屬人者,來與言。皆有動相,動則為客,見與聞,皆有靜象,靜則為主,所以日屬來言,辰屬見聞也。主客動靜之間,辨之審矣。
もし天罡が四孟あるいは四仲に加わり、しかして日干の上神がまた日支の上に加臨すれば、この話の虚はいっそう明白なり。以上のこの数種の占法は、皆日支を以て我に帰し、日干を以て相手方に帰す――人が来て我を找し、話が伝えて我のここに到るは、皆「動」の相を帯び、動なるはすなわち客なり。しかして我のこの一頭の見る所・聞く所は、皆「静」の相を帯び、静なるはすなわち主なり。ゆえに日干は来人と来話とに帰し、日支は我の見聞に帰す。主と客・動と静との間は、必ず分辦して清楚ならしめよ。
期会良法第十三
凡有相期會合,而欲占其得會與否,及已去未去者,若占他人,則視天罡,罡臨日辰,定然得會,罡在日前則為已去,罡在日後,則尚未來。然又當以所加孟仲季參而定之。凡罡加孟則尚未至,加季則為已去,惟加仲則可會也。若占同伴則視勝光。凡勝光見於貴前,則為在前;見於貴後,則猶在後;若恰臨日辰,便可相會。視勝光者,午於卦為?,?遇也,故視之。
およそ人と約して面を碰げることを約し、遇い得るか否か・相手方がすでに走り去ったかそれともいまだ到らざるかを占わんとするは、もし占うが外人なれば、天罡を看る。天罡が日干あるいは日支の上に臨めば、一定に遇い得。天罡が日干の前に在れば、人はすでに走り去った。天罡が日干の後に在れば、人はいまだ来らず。ただしなおあたうべくそれが孟・仲・季のどの一位に加わるかを参照して定むべし。天罡が四孟に加われば、人はいまだ到らず。四季に加われば、人はすでに走り去った。ただ四仲に加わるのみ、こそ碰え得。もし占うが同行の伙伴なれば、勝光(午)を看る。勝光が貴人の前に現れば、人は前に在り。貴人の後に現れば、人はなお後頭に落つ。もし恰好に日干あるいは日支の上に臨めば、馬上に会面し得。なぜ勝光を看るか。午は卦の上で「姤」に属し、「姤」はすなわち相遇の意、ゆえにそれを看る。
家内吉凶占法第十四
凡身處客中,而欲占其家內吉凶何若者,則以日辰為主,而視其所乘天官言之,支為我之家也。故凡支上之神下生其支,而氣旺將吉,則必無事而安常。若支上神下脫其支,而上氣休囚,則多耗費;上神下克其支,而氣休將凶,則必多悔而駁雜。若支克其上,而上神旺相,則可庶幾。
およそ人が客中に在り、家裏の吉凶の如何を占わんと想うは、日干・日支を以て主と為し、それらの乗る所の天将を看て講ず――日支はすなわち我が家なり。およそ日支の上神が下に向かって日支を生じ、気がまた旺で将がまた吉なれば、家裏は必ず平安にして事なく、一切は常のごとし。もし日支の上神がかえって日支に生ぜられてその気を脱せられ、上神が自己でまた休囚に落ちれば、家裏は多く耗費あり。もし上神が下に向かって日支を剋し、気がまた休で将がまた凶なれば、家裏は必ず多く悔恨ありて事は杂乱なり。もし是れ日支が去りてその頭上の神を剋し、しかして上神がなお旧と旺相なれば、それはなお差不多に放心し得。
蓋吉凶所主,雖在上神,而事類所關,在於天將。即如鬼乘天乙,雖云鬼祟神祗,而晝夜陰陽豈無分辨?鬼作?蛇,雖主驚憂火盜,而旺衰虛實,能不周詳?大抵貴合龍常,吉事居多,而為凶亦淺。元勾朱虎,凶災常大,而為吉偏輕。天官各有所司,占者貴於類推,苟能達變,自可通窮。妻子父兄,式內豈無其象?刑沖德合,類端各有其神,周覽旁搜,情表自見,仰觀俯察,象類分明。
吉凶は固より上神の主管する所、しかし事がどの類に属するかはしかし天将の上に在り。たとえば官鬼が天乙を乗るは、鬼祟・神霊を主すと言うといえども、白天・黑夜、陽に属し陰に属し、どうして分辦すべからざるべけん。官鬼が螣蛇と作るは、驚憂・火災・盗賊を主すと言うといえども、それが旺か衰か・虚か実か、能く周詳に推究せざるべけんや。大体に言えば、貴人・六合・青竜・太常のこの数位は、吉事多く居り、たとい凶を為すとも浅し。玄武・勾陳・朱雀・白虎のこの数位は、凶災往往にして大、たとい吉を為すとも軽し。十二天将は各々その職司あり、占う者は類推するを貴しとす。ただ能く変化に通達すれば、自ずから至る処に講じ通ぜん。妻子・児女・父親・兄長、課式の中にどうしてそれらの象なからん。刑・冲・徳・合、毎一類は皆各々対応の神あり。四面に周覧し多方に搜尋すれば、内情・表象は自ずから顕現す。仰ぎ天神を観、俯き地盤を察すれば、象と類と便ち清清楚楚なり。
巻之七 三才門
三才易簡例約第一
六壬,象學也。運式以占,象亦夥矣。一日十二時,課亦十二而止。十二課內,象則萬千,若但以課體求之,則萬千之象,無從出現,而五行之用,反為所拘矣。是故三才易簡之法,不可不急講也。蓋日辰之象,為兩儀,貴賤尊卑,由此而定。四課之體為四象,剛柔內外,從此而分。三傳之象,為三才,初中末伏,從茲而備。然兩儀之成四象也,實乃三才之具體;三傳之三才也,實即兩儀之化身;是則所謂課體,而萬類各有三才之用矣。
六壬は一門の象を講ずるの学問なり。課式を転動して占えば、象は多きこと甚だし。一天に十二箇の時辰、課式もまた十二種に過ぎず。しかしこの十二課の裏に含む所の象はしかし千万万あり。もしただ課体の上より求めれば、あの千万種の象は出で来らず、五行の用はかえって課体に框れて死せらる。ゆえに「三才易簡」のこの一套の办法は、急いで講明せざるを得ざるなり。日干と日支との象は両儀、貴賤・尊卑はこれに由りて定まる。四課の格局は四象、剛柔・内外はこれに由りて分かる。三伝の象は三才、初・中・末と伏蔵とはこれに由りて斉備す。然るに両儀の四象と為る所以は、実際にはすなわち三才の具体の展開なり。三伝の成す所の三才は、実際にはすなわち両儀の化身なり。これが便ち所謂る課体。しかして万事・万類もまた、各々自らそれら自身の一套の三才あって用いるべし。
如占婦女,則責天后為類,天后婦女之象也。即令式中無天后,亦當視天后之所乘臨。乘即天后所乘之神也。臨即乘神所臨之宮也。后所乘神,即為初傳,初之陰神即為中傳,中再傳之神,即為末傳,是即所謂類神之三傳。始終情形,皆在於此。按此而求,盡堪取象,所以不必全拘課體而斷吉凶。蓋凡末有所主,而概占大象,則吉凶情形,專在課體。若既有所主而占,則事各有類,類各有象,即類以定三傳,即三傳以言休咎,情形自露,不必徒求課體,即所謂易簡也。
たとえば婦女を占うは、天后を責問して類神と作す、天后は正に婦女の象なるがゆえに。たとい課式の三伝の裏に天后なしとも、またあたうべく天后の乗る所の神と臨む所の宮とを去りて看るべし。「乗」はすなわち天后の乗るあの位の地支の神、「臨」はすなわちこの位の神の落つるあの箇の地盤の宮。天后の乗る所の神を便ち初伝と作して当て、この初伝の陰神はすなわち中伝、中伝がさらに上へ一層往けばすなわち末伝、これが便ち所謂る「類神の三伝」。事の始末の情形は、全くこの裏頭に在り。この办法に照らして去りて求めれば、尽く象を取るに足る、ゆえに必ずしも完全に課体を拘泥して吉凶を断ぜず。およそ心の裏にいまだ一定の問う所なく、ただ笼统に一箇の大象を占うは、それならば吉凶の情形は専ら課体の上に看る。もしすでに明確の問う所有れば、則ち事は各々類あり、類は各々象あり、類神に就いて三伝を定め出し、さらにこの三伝に就いて吉凶を講ずれば、情形は自ずから顕露す、必ずしも力を白費して課体を抠うに及ばず――これがすなわち所謂る「易簡」である。
凡占貴人,則視天乙之三傳,而謁貴干求者,亦同責焉。占夢寐、怪異、憂疑、驚恐則視騰蛇之三傳,而爐灶之具,亦俱責矣。占文字、口舌,則視朱雀之三傳,而飛禽、書信、詞訟之屬,亦並責焉。占子孫、交易、婚姻、媒保則視六合之三傳,而小兒、竹木器具、舟車、門戶、床榻、盒桶等物,亦並責焉。占勾連、鬥訟則視勾陳之三傳,而軍旅、墓田、捕役、差人之類,亦皆責焉。占賢良、財帛、及書吏則視青龍之三傳,而擇婿、求文職功名,亦同責焉。
およそ貴人を占うは、天乙の三伝を看ればよい。貴人に謁見し、人に向かって干求するも、同じくそれを責問す。夢境・怪異・憂疑・驚恐を占うは、螣蛇の三伝を看ればよい。炉竈の一類の器具もまた、皆それを責問す。文字・口舌を占うは、朱雀の三伝を看ればよい。飛禽・書信・詞訟の類もまた、一倂にそれを責問す。子孫・交易・婚姻・媒人・保人を占うは、六合の三伝を看ればよい。小孩・竹木の器具・舟車・門戸・床榻・盒桶などの物もまた、一倂にそれを責問す。勾連・牽扯・闘殴・訟事を占うは、勾陳の三伝を看ればよい。軍隊・墳田・捕快・差役の類もまた、皆それを責問す。賢良の士・銭財および書吏を占うは、青竜の三伝を看ればよい。女婿を挑ぶ・文職の功名を求めるも、同じくそれを責問す。
占小人、奴僕、僧道則視天空之三傳,而上書、通啟、虛誕、詐偽之屬,亦俱責焉。占疾病、道路則視白虎之三傳,而出師、征討、死喪之事,亦並責焉。占尊長、財帛則視太常之三傳,而米麥、布帛、衣裳、絲絮、藥食、武途功名,亦並責焉。占盜賊、逃亡、走失、乞丐則視元武之三傳,而行兵、行人、水利、溝渠等事,亦以責焉。占外戚、私慝、婢妾、婆媽、老婦、尼姑則視太陰之三傳,而陰私、囑託、金銀錢、石磁器等,亦同責焉。
小人・奴僕・僧道を占うは、天空の三伝を看ればよい。上書・通報の書啓・虚誕・詐偽の一類もまた、皆それを責問す。疾病・道路を占うは、白虎の三伝を看ればよい。出兵・征討・死喪の事もまた、一倂にそれを責問す。尊長・銭財を占うは、太常の三伝を看ればよい。米麦・布帛・衣裳・糸綿・薬物・飲食・武職の功名もまた、一倂にそれを責問す。盗賊・逃亡・走失・乞丐を占うは、玄武の三伝を看ればよい。行軍・門を出でて外に在る人・水利・溝渠などの事もまた、一倂にそれを責問す。外戚・私下の不正の事・婢妾・老妈子・老婦・尼姑を占うは、太陰の三伝を看ればよい。陰私・請託・金銀の銭幣・石器・瓷器なども、同じくそれを責問す。
占婦女,則視天后之三傳,而擇婦、望恩澤、封誥、赦書者,並皆責焉。蓋類神所乘之神,雖各有三傳可責,然須與日辰行年與制類者,尚可從吉言也。若日年落空,百事無成。惟類自作空,不以空論。
婦女を占うは、天后の三伝を看ればよい。媳妇を挑ぶ・恩沢を盼望する・封贈の誥命を求める・赦書を等候する人もまた、皆それを責問す。類神の乗る所の神は各々皆一套の三才あって責問すべきといえども、なおならねば日干・日支・行年と相配合し、かつ能くそれらの類神を剋害するの物を制伏して、こそ以て吉に拠って講ずべし。もし日干と行年とが空亡に落ちれば、則ち百事は成るなし。ただ類神が自己で空に落つるのみ、空亡に拠って論ぜず。
然神與將又有變通之法,將即神,神即將。如占貴人尊長,本當專視責天乙,若或課傳無天局,而大吉出現,則視大吉之三傳以斷吉凶。不必更求天乙矣。如占財帛本應專責青龍,如或無青龍,而功曹出現,則視功曹之乘臨,以及三傳,不必更求青龍矣。或式中無青龍,而太常出現,則視太常之三傳以定休咎,不必更求青龍功曹矣。是即所謂變通也。
ただし神と将との間にはなお一套の変通の办法あり。将は以て神と作して看るべく、神もまた以て将と作して看るべし。たとえば貴人・尊長を占うは、本に応に専ら天乙を看るべし。もし課伝の裏に天乙のあの一路を見ず、しかして大吉(丑)が現れれば、大吉の三伝を看て吉凶を断ず、必ずしもさらに去りて天乙を找るに及ばず。さらにたとえば銭財を占うは本に応に専ら青竜を責むべし、もし青竜なくして功曹(寅)が現れれば、功曹の乗る所・臨む所およびその三伝を看る、必ずしもさらに去りて青竜を找るに及ばず。あるいは課式の裏に青竜なく、しかして太常が現れば、太常の三伝を看て吉凶を定む、必ずしもさらに去りて青竜・功曹を找るに及ばず。これがすなわち所謂る変通である。
類神三伝変通法引証第二
八月丁巳日辰將酉時占婦女事。子丑寅卯;常蛇陰六,財酉陰;亥、辰,未子酉寅,子辰龍;戌、巳,子巳寅丁,官亥貴;酉申未午。
八月丁巳日、辰将を用いて酉時に加えて課を起す、婦女の事を占う。地盤は常に照らして子・丑・寅・卯より排して亥に至り、辰・戌・巳・酉・申・未・午。辰将は酉に加わり、天盤の神は皆その臨む所の地盤より五位を退後す。四課は、日干の丁は宮を未に寄せ、未の上に寅を得、寅の上に酉を得。日支の巳の上に子を得、子の上に未を得。四課の上神・未・子・酉・寅は分別に太常・螣蛇・太陰・六合を乗る。三伝は酉・辰・亥と為る。初伝の酉は妻財、太陰を乗る。中伝の辰は子孫、青竜を乗る。末伝の亥は官鬼、貴人を乗る。貴人は天盤の亥上に在り、天将は順行す。
斷曰:占婦女事,則視天后之三傳,三傳戌巳子,將後空蛇,以初傳言之,后乘天鬼,加卯臨門,內戰不安,則其所主者,不得自安之事也。戌與卯合,是有求和之意。八月卯為月破,甲寅旬卯為盜神,天魁之將為下賤。后乘下賤之神,下臨無氣之地,其為下賤婦女可知。下為盜神月破,合而克之,其所不安者必憂失盜亡財帛之事矣。
断語に言う。婦女の事を占うは、天后の三伝を看ればよい。天后は戌を乗り、戌の陰神を取りて巳を得、巳の陰神は子を得、ゆえに類神の三伝は戌・巳・子、乗る所の天将は依次に天后・天空・螣蛇なり。まず初伝を言う。天后は天鬼の神たる戌を乗り、卯の上に加わりて地戸の門に臨み、上下は内戦して安寧を得ず、彼女の主る所は一件の自ら安生を得ざるの事なるを見るべし。戌と卯とは相合す、求め和ぐるの意あるなり。八月の裏に卯は正に月破、甲寅旬の中に卯はまた盗神、しかして天魁の戌のこの位の神は本身が便ち下賤を主る。天后がこの位の下賤の神を乗り、下に臨むは気なきの地、以て知るべしこれは一箇の下賤の婦人なり。彼女の脚下は正に盗神にして月破を兼ね、彼女と相合すれどもまた彼女を剋す、彼女の安ならざる所は、必ず失盗・財物の丢失を憂慮するの類なるを見るべし。
以中傳言之,太乙為天空,空為欺詐不實之象,八月巳為天鼠煞,情必涉鼠,陽現其象,情歸於陰。中即後之陰,以末傳言之,神后為蛇,子又為鼠,蛇為怪異,家有鼠為怪。天鼠即是小耗,正月起子逆行十二支,所主欺詐耗財,鼠耗之名,蓋本於此,其所憂盜失亡財也。
さらに中伝を言う。太乙の巳火は天空を乗る、天空は欺詐・不実の象。八月の裏に巳は正に天鼠の煞、事が必ず「鼠」と関有るを見るべし。陽位の上に顕出するは外在の象、真情はしかし陰神に帰す。中伝は正に天后の陰神、ゆえに内情はそれに由りて顕出す。さらに末伝を言う。神后の子水は螣蛇を乗る、子は本身がまた鼠、螣蛇は怪異を主る、家裏に老鼠あって祟を作すは正に一種の怪異なり。天鼠はすなわち小耗の煞、正月より子に起こり十二支を逆行す、主る所は欺詐と財を耗やすと。「鼠耗」のこの名目は、大概すなわちここより来る。ゆえに彼女の憂うる所は正に失盗・亡財と断ず。
此課如占貴人,則視天乙之三傳,三傳亥午丑,將得貴虎朱,以初傳言之,貴人履獄,處非其地,必有憂患,若非病厄,則有過失。蓋陰得勝光,為白虎,為疾病之神,內戰憂重,故主病厄,末見大吉乘朱,下臨六害,八月開刑在午,死氣在丑,當因死刑文字而責罰黜退之憂。
この一課もし占うが貴人なれば、天乙の三伝を看ればよい。天乙は亥を乗り、亥の陰神は午を得、午の陰神は丑を得、ゆえに三伝は亥・午・丑、乗る所の天将は依次に貴人・白虎・朱雀なり。まず初伝を言う。貴人は天獄の位を踏み、処る所はそれの在るべき所にあらず、必ず憂患あり、疾病の厄にあらざれば、則ち過失あり。その陰神は勝光の午火を得て白虎を乗る、白虎は疾病の神、また内戦に逢う、憂はいっそう重し、ゆえに病厄と断ず。末伝に大吉の丑土が朱雀を乗るを見、下に臨むは六害。八月の開刑は午に在り死気は丑に在り、ゆえにあたうべく死刑の文書に因りて責罰・黜退を遭うの憂患あるべし。
如占父母,則視太常之所乘臨,而以三傳言之,三傳未寅酉,將得常合陰,以乘臨言之,常乘小吉臨子,子未六害,而又空亡,則所主者,孤寒也。占父則無母,占母則必無父,否則定當遠出。凡類臨空亡,十有九死,在外者不得還家,是則所謂類神之初傳,主其事者也。
もし占うが父母なれば、太常の乗る所・臨む所を看て、かつその三伝に拠って講ず。太常は未を乗り、未の陰神は寅を得、寅の陰神は酉を得、ゆえに三伝は未・寅・酉、乗る所の天将は依次に太常・六合・太陰なり。まず乗る所・臨む所を言う。太常は小吉の未土を乗りて子の上に臨む、子と未とは六害、また空亡に落つ、ゆえにその主る所は孤苦・寒微――父を占えば便ち母なく、母を占えば則ち必ず父なし。然らざれば、また一定に一位の遠く出でて外に在るあり。およそ類神が空亡に臨むは、十中八九は死了せるなり。外に在る人もまた家に回る能わず。これがすなわち所謂る類神の初伝、この件の事の当の本人を主管す。
以中傳言之,功曹乘六合,乘木克未為鬼,八月寅為死符又為枯骨合乘死木為棺,皆作吉象,以末傳言之,從魁乘太陰,重金乘旺,遞克類陰,所謂鬼來催鬼,鬼催人死者是也。寅為死門而太陰夜神之酉,臨夜位之鬼門,是為冥道也。末為歸計,而入冥道?豈父母之利哉?從魁見於日陰,業已在外,而又傳出他處,則有異鄉之角,是則死於他鄉之兆也。
さらに中伝を言う。功曹の寅木は六合を乗る、木を以て未土を剋す、類神に対して言えばすなわち官鬼なり。八月の裏に寅は死符、また枯骨と言う、六合がこの株の死木を乗る、取象を棺材と為す――これらは皆好象にあらず。さらに末伝を言う。従魁の酉金は太陰を乗る、金気は重々にしてまた旺に当たり、層々に去りて類神の陰神を剋す、これがすなわち所謂る「鬼が来て鬼を催し、鬼が人を催して死せしむ」。寅は死門、しかして太陰は夜神に属し、その乗る所の酉はまた夜位の鬼門の上に臨む、これが便ち冥途に通ずるの路なり。末伝は事の帰結、帰結はしかし冥途に走り入る、これはどうして父母の福ならんや。従魁はまた日干の陰神の上に現る、人はすでに外に在るを説明す。如今また別の処に伝じ去れば、便ち異郷に客居するの意味あり、これは正に他郷に死するの兆頭なり。
蓋式中內外之內,惟前後為主,視類者便從類前類後言之。類後為內,類前為外耳。六合之中,前後凡七,七在對沖,而前後均得其六,凡在二三則為近,在五六則為遠。按此占,小吉為類臨子,恰當前六,故言遠;下臨空害,故言死亡,類陰凶克,而末酉傳出他處,為冥道,故言死在他鄉。
課式の裏に内外を分かつは、主として前後を以て準と為す。類神を看れば、類神の前・類神の後より講ず――類神の後は内と算え、類神の前は外と算う。十二支は繞りて一圈と成り、前後は各々七位を数え、第七位は正に对冲の地、ゆえに前後は各々実に六位を得。第二・第三位に落つるは近しと算え、第五・第六位に落つるは遠しと算う。この一課に就いて言えば、小吉の未土は類神と作して子の上に臨む、恰好にそれの前面の第六位、ゆえに遠しと断ず。脚下はまた空亡に落ちまた六害に逢う、ゆえに死亡と断ず。類神の陰神は凶にして相剋し、末伝の酉金はまた別の処に伝じ去りて冥途と成る、ゆえに彼は異郷に死すと断ず。
如占子孫事,則視六合乘臨,今合乘功曹,下臨丁火,在外耗脫,而功曹於八月為死木,又煞為死符枯骨,皆非吉象。以丁言之,死木不能生囚火,子孫徒自脫耗,而無益於父母也。以未言之,則未為木墓,子孫投墓亦非吉象,是則類神之乘臨所主,亦即所謂初傳為主事之人也。
もし占うが子孫の事なれば、六合の乗る所・臨む所を看ればよい。この一課は六合が功曹の寅木を乗り、下に臨むは丁火の位、これは外に在りて耗散・脱気す。しかして寅木は八月の裏に死木、帯びる所の煞はまた死符・枯骨、皆吉象にあらず。丁火のこの一頭に就いて言えば、死木は囚気の火を生じ動かざる、子孫は白白に自己を脱耗し、父母に対して毫も益なし。未土のこの一頭に就いて言えば、未は木の墓庫、子孫が墓の裏に投げ入るもまた吉象にあらず。これがすなわち類神の乗る所・臨む所が何を主るか、すなわち所謂る「初伝は当事の人を代表す」。
以中傳之類陰而言,則從魁為月建,月建為官長,從而克之,則當有官長仇難之災。以死木逢旺金,凶何如之?爺見其仇,俯臨其丘,非子孫之利也。以末傳歸計而言,則辰雖乘龍,為子孫之財,奈財反助鬼為官,丙辛辰酉合助莫解,而所帶之煞,又為白衣,死別凶可知矣。
中伝のこの類神の陰神に就いて言えば、従魁の酉金は正に八月の月建、月建は官長を代表す。それがかえって類神を剋すれば、則ちあたうべく官長の為難・仇怨を結ぶの災禍あるべし。いわんや死木が旺金に碰上するをや、凶はどの地步に到るか。父親は自己の仇家を見、また頭を低し俯きて墳丘に臨む、これは子孫に対して好事にあらず。末伝のこの帰結に就いて言えば、辰は青龙を乗り、また子孫の財なるといえども、無奈にこの財はかえって去りて官鬼を幇助し化して官星と作る。丙辛は相合し辰酉は相合し、両重の合力が糾結して解けず、帯びる所の煞はまた白衣の煞、生死に永別するの凶は想い知るべし。
蓋凡占問子孫,不宜見者有六,一不宜落空,二不宜投墓,三不宜傳見官鬼,四不宜煞帶二死,五不宜蛇虎魁罡加臨年命,六不宜氣乘囚死。若全見者,必有死亡之事,惟加臨旺相而傳得其吉者,則有喜慶。若既見游煞、斬關、丁馬,而傳又逢凶,年上又見元空者,主有逃亡劫耗之患。此其大略也。若神而明之,則又存乎其人,難以言傳矣。
およそ子孫を占問するに、六様あって見るべからざるもの。一は空亡に落つるに宜しからず。二は墓庫に投入するに宜しからず。三は三伝の中に官鬼を見るに宜しからず。四は帯びる所の煞が死符・死気のこの「二死」なるに宜しからず。五は螣蛇・白虎・河魁・天罡が行年・本命の上に加臨するに宜しからず。六は気が囚・死に落つるに宜しからず。もしこの六様を全く見れば、必ず死亡の事あり。ただ旺相の地に加臨して三伝がまた吉を得るのみ、こそ喜慶あらん。もしすでに游煞・斬関・丁神・駅馬を見、三伝がまた凶に逢い、行年の上にさらに玄武・天空を見れば、則ち逃亡と劫を被り耗散するの患あるを主す。これはただ一箇の大略。神明の変通に至っては、則ち各々の人の自己に在り、言語を以て伝授し難し。
凡辰為宅舍,而子孫之占,亦當責及辰為子孫之類位也。若辰戌丑未乘蛇虎臨辰,而辰為亥子則是子孫為土所制,法憂少小。蓋亥子皆是少小之象,支神乃是卑幼之位,故當責也。
日支は宅舍を代表す、しかして子孫を占う時もまたあたうべく一倂に日支を責問すべし、日支は同時にまた子孫の居る所の位なるがゆえに。もし辰・戌・丑・未のこの数位の土神が螣蛇・白虎を乗せて日支の上に臨み、しかして日支が正に亥あるいは子なれば、それはすなわち子孫が土に制せらるる、法に拠って年幼の孩子を担憂すべし。亥と子とは皆幼小の象、日支の神はもともとまた卑幼の位、ゆえに必ずそれを責問せねばならない。
