孔丛子
孔叢子 儒家類
儒家典籍
初学は四書から入るのがよい。大学が綱を立て、論語が言を記し、孟子が展開し、中庸が収束する。続いて詩経・尚書・礼記と春秋三伝へ。荀子・春秋繁露・近思録・伝習録は、経学の外で儒学がどう語られてきたかを見る几道である。
孔叢子儒家類
孔叢子 儒家類
提要
提要
【臣】等謹案孔叢子三卷舊本題曰孔鮒撰所載仲尼而下子上子高子順之言行凡二十一篇又以孔臧所著賦與書上下二篇附綴於末別名曰連叢鮒字子魚孔子八世孫仕陳涉為博士臧高祖功臣孔聚之子嗣爵蓼侯武帝時官太常其書文獻通考作七卷今本三卷不知何人所並晁公武讀書志雲漢志無孔叢子儒家有孔臧十篇雜家有孔甲盤盂書二十六篇其獨治篇鮒或稱孔甲意者孔叢子即孔甲盤盂連叢即孔臧書案漢書藝文志顔師古注謂孔甲黃帝之史或雲夏後孔甲似皆非則孔叢非盤盂又志於儒家孔臧十篇外詩賦家別出孔臧賦二十篇今連叢有賦則亦非儒家之孔臧公武未免附防朱子語類謂孔叢子文氣軟弱不似西漢文字葢其後人集先世遺文而成之者陳振孫書録觧題亦謂按孔光傳孔子八世孫鮒魏相順之子為陳涉博士死陳下則固不得為漢人而其書記鮒之沒則又安得以為鮒撰其説當矣隋書經籍志論語家有孔叢七卷注曰陳勝博士孔鮒撰其序録稱孔叢家語並孔氏所傳仲尼之防則其書出於唐以前然家語出王肅依託隋志既誤以為真則所云孔叢出孔氏所傳者亦未為確證朱子所疑葢非無見即如舜典禋於六宗何謂也子曰所宗者六皆潔祀之也埋少牢於泰昭所以祭時也祖迎於坎壇所以祭寒暑也主於郊宮所以祭日也夜明所以祭月也幽禜所以祭星也雩禜所以祭水旱也禋於六宗此之謂也其説與偽孔傳偽家語並同是亦晚出之明證也其中第十一篇即世所傳小爾雅註疏家往往引之然皆在晉宋以後惟公羊傳疏所引賈逵之説謂俗儒以六兩為鋝正出此書然謂之俗儒則非漢藝文志之小爾雅矣又水經注引孔叢子曰夫子墓塋方一里在魯城北六里泗水上諸孔邱封五十餘所人名昭穆不可復識有碑銘三所獸碣具存云云今本無此文似非完帙然其文與全書不類且不似孔氏子孫語或酈道元誤記抑或傳寫有訛以他書誤題孔叢歟乾隆四十二年八月恭校上
【臣】等謹んで案ずる。『孔叢子』三巻、旧本は孔鮒の撰と題す。書中には仲尼以下、子上・子高・子順の言行を記して、あわせて二十一篇。さらに孔臧の作った賦と書信の上下二篇を末尾に附し、別に『連叢』と題す。孔鮒は字を子魚といい、孔子の八世孫で、陳渉の下で博士をつとめた。孔臧は高祖の功臣孔聚の子で、蓼侯の爵を嗣ぎ、武帝のとき太常に至った。この書を『文献通考』は七巻と著録するが、今の本は三巻で、誰が併合したか分からない。晁公武『郡斎読書志』にいう——『漢書・芸文志』に『孔叢子』はなく、儒家類に孔臧十篇、雑家類に孔甲『盤盂』書二十六篇がある。『独治』篇で孔鮒がときに孔甲とも称するので、『孔叢子』はすなわち孔甲『盤盂』、『連叢』はすなわち孔臧の書だと推測される。按ずるに、『漢書・芸文志』の顔師古注は孔甲を黄帝の史官とし、またある説は夏后孔甲とするが、いずれも当たらない。では『孔叢子』は『盤盂』ではない。また『芸文志』は儒家の孔臧十篇のほか、詩賦家に別に孔臧の賦二十篇を出す。今『連叢』に賦があるから、やはり儒家のあの孔臧の書ではない。晁公武はいささか牽強附会である。朱子『語類』は『孔叢子』の文気が軟弱で、西漢の文字に似ず、おそらく孔氏の後人が先世の遺文を集めて編んだものとする。陳振孫『直斎書録解題』もいう——『漢書・孔光伝』によると、孔子の八世孫孔鮒は魏の相・孔順の子で、陳渉の博士となり陳の下で死んだ。もとより漢人と数えられない。しかもこの書は孔鮒の死まで記すのだから、どうして孔鮒自身の作といえよう。この説は正しい。『隋書・経籍志』の論語類に『孔叢』七巻があり、注に陳勝の博士孔鮒の撰と称す。その序録は『孔叢』『家語』はいずれも孔氏が伝え述べた仲尼の書という。ではこの書は唐以前に出たことになる。だが『家語』は王粛の依托から出ており、『隋志』がそれを真書と誤った以上、『孔叢』も孔氏の所伝だというのは確証に足りない。朱子の疑いは根拠なしとしない。例えば『舜典』の「禋于六宗」とは何かに、孔子はいう——尊祀するものが六項あり、いずれも清潔な祭祀を用いる。少牢を泰昭に埋めるのは四時を祭るもの、坎壇で祖迎するのは寒暑を祭るもの、郊宮に主を設けるのは日を祭るもの、夜明に主を設けるのは月を祭るもの、幽禜は星を祭り、雩禜は水旱を祭る。「禋于六宗」とはこれをいう。この説は偽孔伝・偽『家語』とまったく同じで、これも後出の明証である。書中の第十一篇はすなわち世に伝わる『小雅爾』で、注疏家はしばしば引用するが、いずれも晋・宋以後である。ただ『公羊伝』疏の引く賈逵の言に、俗儒は六両を鋝とするというが、まさにこの書から出ている。すでに「俗儒」と称する以上、『漢志』のあの『小雅爾』ではない。また『水経注』が引く『孔叢子』にいう——夫子の墓塋は方円一里、魯城の北六里の泗水のほとりにあり、孔氏の丘封は五十余か所、人名の昭穆はもはや再び識別できず、碑銘三か所、石獣・石碣はいずれも残っている、云々。今の本にはこの文章がなく、どうやら完本ではない。しかしこの文章は全書と類をなさず、孔氏子孫の口調にも似ない。あるいは酈道元が誤って記したか、伝写の誤りで別の書を誤って『孔叢』と題したのだろう。乾隆四十二年八月恭校上。
總纂官【臣】紀昀【臣】陸錫熊【臣】孫士毅
総纂官【臣】紀昀【臣】陸錫熊【臣】孫士毅
總校官【臣】陸費墀
総校官【臣】陸費墀
孔叢子目録儒家類
孔叢子目録 儒家類
捲上
巻上
嘉言第一
嘉言第一
論書第二
論書第二
記義第三
記義第三
刑論第四
刑論第四
記問第五
記問第五
雜訓第六
雑訓第六
居衛第七
居衛第七
廵狩第八
廵狩第八
公儀第九
公儀第九
抗志第十
抗志第十
小爾雅第十一
小爾雅第十一
卷中
巻中
公孫龍第十二
公孫竜第十二
儒服第十三
儒服第十三
對魏王第十四
対魏王第十四
陳士義第十五
陳士義第十五
論勢第十六
論勢第十六
執節第十七
執節第十七
詰墨第十八
詰墨第十八
獨治第十九
独治第十九
問軍禮第二十
問軍礼第二十
荅問第二十一
荅問第二十一
卷下
巻下
連叢子上第二十二
連叢子上第二十二
連叢子下第二十三
連叢子下第二十三
孔叢子捲上漢孔鮒撰嘉言第一【是書之第以孔子子思子上子髙子順之言為之先後】
『孔叢子』巻上、題して漢の孔鮒の撰。『嘉言』第一。【本書の篇次は、孔子・子思・子上・子高・子順の言行の先後によって並べる。】
夫子適周見萇言終退萇語劉文公曰吾觀孔仲尼有聖人之表河目而隆顙黃帝之形貌也修肱而龜背長九尺有六寸成湯之容體也然言稱先王躬履謙讓洽聞強記博物不窮抑亦聖人之興者乎劉子曰方今周室衰防而諸侯力爭孔丘布衣聖將安施萇曰堯舜文武之道或弛而墜禮樂崩喪亦正其統紀而已矣既而夫子聞之曰吾豈敢哉亦好禮樂者也
夫子は周の都に行って萇弘(周の大夫)に会い、語らい終えて退いた。萇弘は劉文公に言った。「私が見るに、孔仲尼には聖人の仪表がある。目は長大で額骨が高く張るのは黄帝のような形貌、腕は修長で背は亀の形、身の丈九尺六寸は成湯のような体貌だ。だが口を開けば先王を称述し、身には譲りを践み、見聞は広く記憶力は強く、物に博くして窮まらない。おそらく聖人が興ったのではないか。」劉文公は言った。「今や周室は衰微し、諸侯は武力で争っている。孔丘はただの布衣であり、聖徳はどこに用いるのか。」萇弘は言った。「堯・舜・文王・武王の道は、あるものはすでに廃れ墜ち、礼楽は崩れ亡びたが、ただ彼に統紀を正してもらおうとするだけだ。」後で夫子はこれを聞いて言った。「どうして敢て当たろうか。私もただ礼楽を好む者にすぎない。」
陳恵公大城因起凌陽之臺未終而坐法死者數十人又執三監吏夫子適陳聞之見陳侯與俱登臺而觀焉夫子曰美哉斯臺自古聖王之為城臺未有不戮一人而能致功若此者也陳侯黙而退遂竊赦所執吏既而見夫子問曰昔周作靈臺亦戮人乎荅曰文王之興附者六州六州之眾各以子道來故區區之臺未及期日而已成矣何戮之有乎夫以少少之眾能立大大之功惟君爾
陳の恵公は大規模に城を修め、続いて凌陽の台を造った。まだ完工しないうちに、法を犯して処刑された者がすでに数十人おり、また三人の監工の官吏を捕らえた。夫子は陳に到り、聞いて陳侯に会い、彼とともに台に登って眺めた。夫子は言った。「この台は実に美しい。古来の聖王が城を築き台を造るに、一人も殺さずにこの効功を収めたことはかつてない。」陳侯は黙然として退き、続いてそっと捕らえられた官吏を赦免した。後に彼は夫子に会って問うた。「昔、周の人が霊台を造るときも人を殺しましたか。」夫子は答えた。「文王が興ると、彼に帰附する者は六州あった。六州の民衆はそれぞれ子が父に事えるように力を貢いだ。だから区区な一台、予定の期日にも満たずにできあがり、どうして人を殺す要があろうか。少ない人力で大きな功業を成せるのは、あなたのような方だけです。」
子張曰女子必漸乎二十而後嫁何也孔子曰十五許嫁而後從夫是陽動而隂應男唱而女隨之義也以為繢組紃織絍者女子之所有事也黼黻文章之義婦人之所有大功也必十五以往漸乎二十然後可以通乎此事然後乃能上以孝於舅姑下以事夫養子也宰我使於齊而反見夫子曰梁丘據遇虺毒三旬而後瘳朝齊君齊君防大夫眾賔而慶焉弟子與在賔列大夫眾賔並復獻攻療之方弟子謂之曰夫所以獻方將為病也今梁丘已療矣而諸夫子乃復獻方方將安施意欲梁丘大夫復有虺害當用之乎眾坐黙然無辭弟子此言何如夫子曰汝説非也夫三折肱為良醫梁丘子遇虺毒而獲療猶有與之同疾者必問所以已之之方焉眾人為此故各言其方欲售之以已人之疾也凡言其方者稱其良也且以叅據所以已之之方優劣耳夫子適齊晏子就其館既宴且私焉曰齊其危矣譬若載無轄之車以臨千仭之谷其不顛覆亦難兾也子吾心也子以齊為遊息之館當或可救子幸不吾隱也夫子曰夫死病無可為毉夫政令者人君之銜轡所以制下也今齊君失之已久矣子雖欲挾其輈而扶其輪良弗及也抑猶可以終齊君及子之身過此以徃齊其田氏矣
子張は問うた。「女子は必ず二十歳近くなって嫁ぐのはなぜですか。」孔子は言った。「十五歳で嫁ぐことを許し、それから夫に従う。これは陽が動いて陰が応え、男が唱えて女が随う道理だ。刺繍・絲帯・紡績・縫紉は女子の分内の仕事、黼黻・文章の義理は婦人が成就すべき大功だ。必ず十五歳から先、二十に近づいて、それでようやくこれらを通暁し、上は舅姑に孝し、下は夫に事えて子女を養うことができる。」宰我は斉に使いして帰り、夫子に会って言った。「梁丘拠が虺蛇の毒にあたり、三十日でやっと全快しました。斉君が大夫と衆賓客を朝会して彼を祝い、弟子も賓客の列におりました。大夫と衆賓客はまた続々と蛇毒を治す方を献じました。弟子は彼らに言いました。『方を献じるのは病を治すためだ。今や梁丘大夫はすでに癒えたのに、皆さんがまた方を献じるのは、方をどこに用いるのか。まさか梁丘大夫がもう一度蛇毒にあたるのを待って用いようというのか。』席の人はみな黙って言うことがありませんでした。弟子のこの言はどうでしょう。」夫子は言った。「お前の言は正しくない。『三折肱と為れば良医と為る』という。梁丘子が虺毒にあたって治療を得たのだから、彼と同じ病の人は必ずどんな方で治ったかを問うだろう。衆がこぞってそれぞれの方を言うのは、方を出して他の人の病を治したいからだ。およそ方を献じる者は皆自分の方が良いというのも、これを治した方の孰優孰劣を参照比較するためだ。」夫子は斉に行き、晏子が彼の館舎を訪ね、宴飲のあと私して言った。「斉国は危ない。轄のない車に駕して千仞の深谷に臨むようなもので、顛覆しないのは望めない。あなたは私の心です。斉国を游息の館舎としてくだされば、あるいはまだ救えるかもしれません。私に隠さないでください。」夫子は言った。「すでに死症であり、するべき医治がない。政令は人君の銜轡であり、臣下を制するものだ。今や斉君がこれを失って久しい。あなたは車の轅を扶えて輪を托しようとしても、実に及ばない。あるいは斉君とあなたの存する世の日を支えられるだけだ。これを過ぎてからは、斉国は田氏の手に落ちるだろう。」
齊東郭亥欲攻田氏執贄見夫子而訪焉夫子曰子為義也丘不足與計事揖子貢使荅之子貢謂之曰今子士也位卑而圖大位卑則人不附也圖大則人憚之殆非子之任也盍姑已乎夫以一縷之任系千鈞之重上縣之於無極之髙下垂之於不測之深旁人皆哀其絶而造之者不知其危子之謂乎馬方駭鼓而驚之系方絶重而填之馬奔車覆六轡不禁系絶於髙墜入於深其危必矣東郭亥色戰而跪曰吾已矣願子無言既而夫子告子貢曰東郭亥欲為義者也子亦告之以難易則可矣奚至懼之哉
斉国の東郭亥は田氏を攻めようとして、贄礼を持って夫子に見えて教えを請うた。夫子は言った。「あなたの行うのは義だが、丘はこのことをあなたと計るに値しない。」拱手して子貢に答えさせた。子貢は彼に言った。「今、あなたは士であり、地位は低いのに大事を図る。地位が低ければ人は親附せず、図りが大きければ人は忌惮する。おそらくあなたの負い切れるものではない。なぜしばらく止めないのか。一絲の荷重で千鈞の重さを繋ぎ、上は尽きることない高い所に懸け、下は測り知れない深い所に垂らせば、傍の人は皆それが断たれることを哀嘆するのに、それを行う者は危険を知らない——あなたのことを言うのではないか。馬はちょうど驚いているのに再び鼓を撃って驚かし、繋縄はまさに断たれようとしているのにさらに重くして圧する。馬が奔り車が覆れば、六条の轡も勒せない。繋縄が高い所から断たれて深淵に墜ちれば、危ないのは決まっている。」東郭亥は顔色を戦慄かせ、跪いて言った。「私は止めます。もう言わないでください。」後で夫子は子貢に告げた。「東郭亥は義を行おうとする人だ。あなたは難易を彼に告げればよいのに、どうして彼をこんなに怖がらせたのか。」
宰我問君子尚辭乎孔子曰君子以理為尚博而不要非所察也繁辭富説非所聽也惟知者不失理孔子曰吾於予取其言之近類也於賜取其言之切事也近類則足以喻之切事則足以懼之
宰我は問うた。「君子は言辞を尚ぶのですか。」孔子は言った。「君子は理を尚ぶ。広博で切要でないものは、審察すべきでない。繁辞・富説は聴くべきでない。ただ智者は理を失わない。」孔子は言った。「私は宰予に対して、彼の言が事類に近い点を取る。端木賜に対して、彼の言が事情に切り合う点を取る。事類に近ければ人を暁喻するに足り、事情に切り合えば人を戒惧させるに足る。」
論書第二
論書第二
子張問曰聖人受命必受諸天而書云受終於文祖何也孔子曰受命於天者湯武是也受命於人者舜禹是也夫不讀詩書易春秋則不知聖人之心又無以別堯舜之禪湯武之伐也
子張は問うた。「聖人が命を受けるのは、必ず天からこれを受けるはずなのに、『尚書』は『受終于文祖』というのはなぜですか。」孔子は言った。「命を天に受けるのは湯・武、命を人に受けるのは舜・禹だ。『詩』『書』『易』『春秋』を読まなければ、聖人の心が分からず、堯舜の禅譲と湯武の征伐をも分別できない。」
子張問曰禮丈夫三十而室昔者舜三十徵庸而書云有鰥在下曰虞舜何謂也曩師聞諸夫子曰聖人在上君子在位則內無怨女外無曠夫堯為天子而有鰥在下何也孔子曰夫男子二十而冠冠而後娶古今通義也舜父頑母嚚莫克圖家室之端焉故逮三十而謂之鰥也詩云娶妻如之何必告父母父母在則宜圖婚若已歿則已之娶必告其廟今舜之鰥乃父母之頑嚚也雖堯為天子其如舜何
子張は問うた。「礼は男子は三十歳で家を成すと定めます。昔、舜は三十歳で徴用されたのに、『尚書』は『有鰥在下、曰虞舜』というのは何の意味ですか。先に私は夫子が言うのを聞きました——聖人が上におり君子が位にあるときは、家に怨女はなく、外に曠夫はない。堯が天子であったのに、下にまだ鰥夫がいたのはなぜですか。」孔子は言った。「男子は二十歳で冠礼を行い、冠して後に娶る。これは古今に通じる道理だ。舜の父は頑愚で、母は嚣悌で、彼のために家を成すことを謀る者がいなかった。だから三十歳になってもなお鰥と称された。『詩経』にいう——『妻を娶るは如之何せんや。必ず父母に告ぐ。』父母があれば、父母が婚事を謀るべきだ。父母がすでに亡ければ、自ら娶るにも必ず宗廟に告げなければならない。今、舜が鰥と称されたのは、父母が頑嚣だったからだ。たとえ堯が天子でも、舜をどうすることができよう。」
子夏問書大義子曰吾於帝典見堯舜之聖焉於大禹臯陶謨益稷見禹稷臯陶之忠勤功勲焉於洛誥見周公之德焉故帝典可以觀美大禹謨禹貢可以觀事臯陶謨益稷可以觀政洪範可以觀度【謂皇極彛倫之度】泰誓可以觀義五誥可以觀仁甫刑可以觀誡通斯七者則書之大義舉矣
子夏は『尚書』の大義を問うた。孔子は言った。「私は『帝典』から堯・舜の聖明を見、『大禹謨』『皐陶謨』『益稷』から禹・稷・皐陶の忠勤の功勲を見、『洛誥』から周公の徳行を見た。だから『帝典』は美を観るべく、『大禹謨』『禹貢』は事を観るべく、『皐陶謨』『益稷』は政を観るべく、『洪範』は度を観るべく【皇極・彜倫の法度を言う】、『泰誓』は義を観るべく、五誥は仁を観るべく、『甫刑』は誡を観るべきだ。この七項を貫き通せば、『尚書』の大義はすべてここにある。」
孔子曰書之於事也逺而不濶近而不廹志盡而不怨辭順而不諂吾於髙宗肜日見德有報之疾也苟由其道致其仁則逺方歸志而致其敬焉吾於洪範見君子之不忍言人之惡而質人之美也發乎中而見乎外以成文者其唯洪範乎
孔子は言った。「『尚書』の記事は、遠く言えども迂濶せず、近く言えども局促せず、情志を尽くしても怨まず、辞気は和順でも諂わない。私は『高宗肜日』から徳には報応が速く来ることを見た——ただその道に循いてその仁を推し行えば、遠方は心を帰して敬を致す。私は『洪範』から君子が人の悪を言うに忍びず、人の美を質実することを見た。内より発して外に表れ、こうして文章を成すのは、おそらく『洪範』だけだ。」
子張問曰堯舜之世一人不刑而天下治何則以教誠而愛深也龍子以為一夫而被以五刑敢問何謂孔子曰不然五刑所以佐教也龍子未可謂能為書也子夏讀書既畢而見於夫子夫子謂曰子何為於書子夏對曰書之論事也昭昭然若日月之代明離離然若星辰之錯行上有堯舜之道下有三王之義凡商之所受書於夫子者志之於心弗敢忘雖退而窮居河濟之間深山之中作壤室編蓬戶常於此彈琴以歌先王之道則可以發憤慷喟忘已貧賤故有人亦樂之無人亦樂之上見堯舜之德下見三王之義忽不知憂患與死也夫子愀然變容曰嘻子殆可與言書矣雖然其亦表之而已未覩其裡也夫闚其門而不入其室惡覩其宗廟之奧百官之美乎
子張は問うた。「堯舜の世には一人も刑を用いずして天下が大いに治まったのは、教化が誠篤で愛心が深かったためです。竜子は一人が五刑に加えられたとしますが、この説をお尋ねします。」孔子は言った。「そうではない。五刑は教化を輔助するためのものだ。竜子はまだ『書』をよく読む者とはいえない。」子夏は『書』を読み終えて、夫子に見えた。夫子は問うた。「お前は『書』で何をしたか。」子夏は答えた。「『書』の論事は、昭昭然として日月が代々明るく、離離然として星辰が交錯して行くようだ。上は堯舜の道、下は三王の義がある。およそ商が夫子から受けた『書』は、みな心に記して敢えて忘れない。たとえ退いて河済の間・深山の中に窮居し、土室を築き蓬戸を編んで、常にそこで琴を弾じて先王の道を歌詠すれば、発憤して感嘆し、自分の貧賤を忘れることができる。だから人がいても楽しく、人がいなくても楽しい。上は堯舜の徳を見、下は三王の義を見、恍惚として憂患と死が何かを知らない。」夫子は神色を厳しくして言った。「嘻、お前はほぼ『書』を語るに足る。それでも、お前はまだその表を見ただけで、その裏を見ていない。門戸を窺って屋に入らなければ、どうして宗廟の深さ・百官の美しさが見えよう。」
宰我問書云納於大麓烈風雷雨弗迷何謂也孔子曰此言人事之應乎天也堯既得舜歴試諸難已而納之於尊顯之官使大録萬機之政是故隂陽清和五星不悖烈風雨各以其應不有迷錯愆伏明舜之行合於天也
宰我は問うた。「『尚書』に『納于大麓、烈風雷雨弗迷』というのは何の意味ですか。」孔子は言った。「これは人事と天が相応するのを言う。堯は舜を得た後、あらゆる難事で彼を歴試し、その後で彼を尊顕の官位に置き、万機の政を総録させた。だから陰陽は清和し、五星は乱れず、烈風・雷雨はそれぞれ時に応じて応え、迷錯・愆伏がなかった。これは舜の行いが天と合うことを表す。」
宰我曰敢問禋於六宗何謂也孔子曰所宗者六皆潔祀之也埋少牢於太昭所以祭時也祖迎於坎壇所以祭寒暑也主於郊宮所以祭日也夜明所以祭月也幽禜所以祭星也雩禜所以祭水旱也禋於六宗此之謂也
宰我は言った。「『禋于六宗』とは何かをお尋ねします。」孔子は言った。「尊祀するものが六項あり、いずれも清潔な祭祀を用いる。少牢を太昭に埋めるのは四時を祭るもの、坎壇で祖迎するのは寒暑を祭るもの、郊宮に主を設けるのは日を祭るもの、夜明に主を設けるのは月を祭るもの、幽禜で星を祭り、雩禜で水旱を祭る。『禋于六宗』とはこれを言う。」
書曰茲予大享於先王爾祖其從與享之季桓子問曰此何謂也孔子曰古之王者臣有大功死則必祀之於廟所以殊有績勸忠勤也盤庚舉其事以厲其世臣故稱焉桓子曰天子之臣有大功者則既然矣諸侯之臣有大功者可以如之乎孔子曰勞能定國功加於民大臣死難雖食之公廟可也桓子曰其位次如何孔子曰天子諸侯之臣生則有列於朝死則有位於廟其序一也
『尚書』にいう——『茲に予は大いに先王に享し、爾祖は其れ従りて之を享せん。』季桓子は問うた。「これは何の意味ですか。」孔子は言った。「古代の王者は、臣子に大功があれば、死後は必ず彼を廟に祀り、功績ある者を区別して忠勤を勧めた。盤庚がこのことを挙げて当世の世臣を激励したので、こう称する。」桓子は言った。「天子の臣子に大功があれば、固よりそうだが、諸侯の臣子に大功があれば、比してよいか。」孔子は言った。「労績が国家を安んじ、功徳が百姓に加わり、大臣が国難に死せば、たとえ公廟で祭を受けてもよい。」桓子は言った。「位次はどう並べるか。」孔子は言った。「天子・諸侯の臣子は、生きて朝に列位があり、死して廟に位置がある。次序は同じだ。」
書曰維髙宗報上甲微【上甲防契後八世湯之先也】定公問曰此何謂也孔子對曰此謂親盡廟毀有功而不及祖有徳而不及宗故於每嵗之大嘗而報祭焉所以昭其功徳也公曰先君僖公功德前行【或作前列】可以與於報乎孔子曰丘聞昔虞夏商周以帝王行此禮者則有矣自此以下未之知也
『尚書』にいう——『維れ高宗は上甲微に報ゆ。』【上甲微は契以後第八世、湯の先祖。底本は「微」の字を「防」と訛る。】定公は問うた。「これは何の意味ですか。」孔子は答えた。「これは親が尽き廟が毀れた後、功があっても祖廟に入るに足らず、徳があっても宗廟に入るに足らない者に、毎年の大嘗祭で別に報祭して、彼の功徳を彰明するのを言う。」定公は言った。「先君の僖公の功徳は前列にあり【一作は『前列』】、報祭に参与できるか。」孔子は言った。「丘は聞く——昔、虞・夏・商・周が帝王としてこの礼を行ったのは、ある。それ以下は、私は知らない。」
定公問曰周書所謂庸庸祗祗威威顯民何謂也孔子對曰不失其道明之於民之謂也夫能用可用則正治矣敬可敬則尚賢矣畏可畏則服刑恤矣君審此三者以示民而國不興未之有也
定公は問うた。「『周書』のいわゆる『庸庸祗祗威威顯民』は何の意味ですか。」孔子は答えた。「その道を失わず、それを百姓に向かって明らかにすること——これがその意味だ。用いるべき人を任用できれば、政治は端正する。敬うべき人を敬重できれば、賢人を尚ぶことだ。畏るべき刑を畏れれば、刑を慎んで民命を恤むことができる。国君がこの三事を審らかにして百姓に昭示すれば、国家が興盛しないことは、かつてない。」
子張問書云奠髙山何謂也孔子曰髙山五嶽定其差秩祀所視焉子張曰其禮如何孔子曰牲幣之物五嶽視三公小名山視子男子張曰仁者何樂於山孔子曰夫山者巋然髙子張曰髙則何樂爾孔子曰夫山草木植焉鳥獸蕃焉財用出焉直而無私焉四方皆伐焉直而無私興吐風雲以通乎天地之間隂陽和合雨露之澤萬物以成百姓鹹饗此仁者之所以樂乎山也孟懿子問書曰欽四鄰何謂也孔子曰王者前有疑後有丞左有輔右有弼謂之四近言前後左右近臣當畏敬之不可以非其人也周文王胥附奔輳先後禦侮謂之四鄰以免乎羑里之害懿子曰夫子亦有四鄰矣孔子曰吾有四友焉自吾得回也門人加親是非胥附乎自吾得賜也逺方之士日至是非奔輳乎自吾得師也前有光後有輝是非先後乎自吾得仲由也惡言不至於門是非禦侮乎
子張は問うた。「『尚書』に『奠高山』というのは何の意味ですか。」孔子は言った。「高山は五岳を指す。その差等・秩次を核定して、祭祀はこれに従う。」子張は言った。「礼儀はどうか。」孔子は言った。「牲幣の類、五岳は三公に比し、小名山は子・男に比す。」子張は言った。「仁者はなぜ山を楽しむのか。」孔子は言った。「山は巍然として高く聳える。」子張は言った。「高いのに何の楽しみがあるか。」孔子は言った。「山には草木が生え、鳥獣が蕃殖し、財用がそこから出て、正直で私なし。四方はみな来て材を取り、正直で私なし。また風雲を興して吐き出し、天地の間を貫通し、陰陽は和合し、雨露は潤い、万物はこれによって成り、百姓はみな供養される。これが仁者が山を楽しむ所以だ。」孟懿子は問うた。「『尚書』に『欽四鄰』というのは何の意味ですか。」孔子は言った。「王者の前に疑、後に丞、左に輔、右に弼があり、これを四近という。前後左右の近臣は敬畏すべく、其人に非ざるを任用してはならないということだ。周の文王には胥附・奔走・先後・禦侮があり、これを四鄰という。これによって羑里の患を免れた。」懿子は言った。「夫子にも四鄰があります。」孔子は言った。「私には四友がある。私が顔回を得てから、門人はますます親しくなった——これは胥附ではないか。私が端木賜を得てから、遠方の士が日々到来する——これは奔走ではないか。私が顓孫師を得てから、前に光、後に輝がある——これは先後ではないか。私が仲由を得てから、悪言は門口に至らない——これは禦侮ではないか。」
孔子見齊景公梁丘據自外而至公曰何遲對曰陳氏戮其小臣臣有辭為是故遲公笑而目孔子曰周書所謂明德慎罰陳子明德也罰人而有辭非不慎矣孔子荅曰昔康叔封衛綂三監之地命為孟侯周公以成王之命作康誥焉稱述文王之徳以成勑誡之文其書曰惟乃丕顯考文王克明徳慎罰克明徳者能顯用有徳舉而任之也慎罰者並心而慮之眾平然後行之致刑錯也此言其所任不失徳所罰不失罪不謂已徳之明也公曰寡人不有過言則安得聞吾子之教也
孔子は斉景公に見えた。梁丘拠が外から入って来た。景公は言った。「なぜ遅れたのか。」梁丘拠は答えた。「陳氏が彼の小臣を殺しました。臣は言うことがあり、これがため遅れました。」景公は笑って孔子を見て言った。「『周書』のいわゆる『明徳慎罰』——陳子は明徳と算えられよう。人を罰して相手がまだ申弁できるとは、謹んでいないのではないか。」孔子は答えた。「昔、康叔は衛に封じられ、三監の地を統轄し、命を受けて孟侯となり、周公は成王の命で『康誥』を作り、文王の徳行を称述して告誡の文辞を完成した。その書にいう——『惟れ乃ち丕顕考文王、克く明徳慎罰す。』いわゆる克く明徳するとは、徳ある人を顕用して挙げ任用すること。いわゆる慎罰とは、心を併せて考え、衆が平允とした後に施行し、刑措して用いないに至ること。これは彼が任用する所は徳ある人を失わず、罰する所は罪ある人を失わないことを言うのであって、自分の徳がすでに明らかだというのではない。」景公は言った。「寡人がもし言を誤らなければ、どうして先生の教誨を聞くことができよう。」
書曰其在祖甲不義惟王公西赤曰聞諸晏子湯及太甲武丁祖乙天下之大君夫太甲為王居喪行不義同稱君何也孔子曰君子之於人計功而除過太甲即位不明居喪之禮而幹冢宰之政伊尹放之於桐憂思三年追悔前愆起而復位謂之明王以此觀之雖四於三王不亦可乎
『尚書』にいう——『其在祖甲、不義惟王。』公西赤は言った。「晏子が言うのを聞きました——湯および太甲・武丁・祖乙は、天下の大君だ。太甲が王であったとき居喪の行事が不義だったのに、ともに君と称されるのはなぜですか。」孔子は言った。「君子は人に対して、功労を計って過失を除く。太甲が位に即くと、居喪の礼を明らかにせず、冢宰の政事を干渉したので、伊尹は彼を桐に放逐した。彼は三年を憂思し、先の過ちを悔い、起きて君位を復し、明王と称された。ここから見れば、たとえ彼を三王と並べて第四としても、よいのではないか。」
魯哀公問書稱夔曰於予擊石拊石百獸率舞庶尹允諧何謂也孔子對曰此言善政之化乎物也古之帝王功成作樂其功善者其樂和樂和則天地猶且應之況百獸乎夔為帝舜樂正實能以樂盡治理之情公曰然則政之大本莫尚夔乎孔子曰夫樂所以歌其成功非政之本也眾官之長既咸熙熙然後樂乃和焉公曰吾聞夔一足有異於人信乎孔子曰昔重黎舉防而進又欲求人而佐焉舜曰夫樂天地之精也唯聖人為能和五律均五音知樂之本以通八風夔若能此一而足矣故曰一足非一足也公曰善
魯の哀公は問うた。「『尚書』は夔を称して『ああ、我は石を撃ち石を拊して、百獣は率舞し、庶尹は允に諧す』というのは何の意味ですか。」孔子は答えた。「これは善政が万物を感化するのを言う。古代の帝王は功成って楽を作る。功業が良ければ楽は和し、楽が和せば天地でさえ応じる。まして百獣においてをや。夔が帝舜の楽正となり、実に楽を以て治の状を表し尽くすことができた。」哀公は言った。「では為政の大本は、夔より高いものはないのか。」孔子は言った。「楽はすでに成就した功業を歌頌するためのもので、政の根本ではない。衆官の長がすでに和楽熙熙として、それから楽が和する。」哀公は言った。「私は聞く——夔はただ一足しかなく、人と違うというが、本当か。」孔子は言った。「昔、重黎は夔を挙げて進用し、また人を求めて彼を輔けようとした。舜は言った——『楽は天地の精華であり、聖人のみ五律を調和し五音を均平し、楽の根本を得て八風を貫通できる。夔がもしこの一項を能くするなら、一人で足りる。』だから『一足』というのであって、『一足の脚』ではない。」哀公は言った。「よい。」
記義第三
記義第三
季桓子以粟千鍾餼夫子夫子受之而不辭既而以頒門人之無者子貢進曰季孫以夫子貧故致粟夫子受之而以施人無乃非季孫之意乎子曰何對曰季孫以為恵也子曰然吾得千鍾所以受而不辭者為季孫之恵且以為寵也夫受人財不以成富與季孫之恵於一人豈若恵數百人哉
季桓子は粟一千鍾で夫子に供給した。夫子は受け取って辞しなかった。その後、門人の中で糧食のない者に分け与えた。子貢が入って言った。「季孫は夫子が貧乏なので粟を送ったのに、夫子は受けて他人に施す。これは季孫の意思ではないのではないか。」孔子は言った。「どういうことか。」子貢は言った。「季孫はこれを恩惠としている。」孔子は言った。「そうだ。私が一千鍾を得て受けて辞しないのは、これが季孫の恩惠であり、これを栄寵とするからだ。だが人の財物を受けて、これを以て自ら富まない。季孫の恩惠を一人に与えるより、恩惠を数百人に与えるほうがよくないか。」
秦莊子死孟武伯問於孔子曰古者同寮有服乎荅曰然同寮有相友之義貴賤殊等不為同官聞諸老耼昔者虢叔閎夭太顛散冝生南宮括五臣同寮比德以贊文武及虢叔死四人者為之服朋友之服古之達理者行之也
秦荘子が死んだ。孟武伯は孔子に問うた。「古に同僚に喪服はあったか。」孔子は答えた。「あった。同僚には互いに朋友となる道理がある。貴賤の等級が同じでなければ、同官とはいえない。老聃が言ったのを聞いた——昔、虢叔・閎夭・太顛・散宜生・南宮括の五臣が同僚で、徳が比して文王・武王を輔佐した。虢叔が死んだとき、残りの四人は彼のために朋友の喪服を着た。古代の事理に通じた人はこのようにした。」
公父文伯死室人有從死者其母怒而不哭相室諌之其母曰孔子天下之賢人也不用於魯退而去是子素宗之而不能隨今死而內人從死者二人焉若此於長者薄於婦人厚也既而夫子聞之曰季氏之婦尚賢哉子路愀然對曰夫子亦好人之譽已乎夫子死而不哭是不慈也何善爾子曰怒其子之不能隨賢所以為尚賢者吾何有焉其亦善此而已矣
公父文伯が死んだ。家の中に殉死する者がいたが、彼の母は怒って泣かなかった。相室が彼女を勧めたが、母は言った。「孔子は天下の賢人でありながら、魯国に用いられず、退いて去った。この子は彼を尊びながら従うことができなかった。今死んで、内に殉死する婦人が二人もいる。このようなのは、長者には薄く、婦人には厚い。」後で夫子はこれを聞いて言った。「季氏の婦人は、まだ賢人を尚ぶことを知っているな。」子路は神色を愀然として答えた。「夫子も他人が自分を称賛するのを喜ぶのですか。子が死んだのに泣かないのは不慈であり、何がよいのですか。」孔子は言った。「彼女は子が賢人に追随できなかったのを悩んだ。だから賢人を尚ぶのだ。これは私と何の関係があるか。彼女もただこの一点でよいだけだ。」
衛出公使人問孔子曰寡人之任臣無大小一一自覩察之猶復失人何故荅曰如君之言此即所以失之也人既難知非言問所及觀察所盡且人君之慮者多多慮則意不精以不精之意察難知之人宜其有失也君未之聞乎昔者舜臣堯官不任士堯一從之左右曰人君用士當自任耳目而取信於人無乃不可乎堯曰吾之舉舜已耳目之矣今舜所舉人吾又耳目之是則耳目人終無已時也君苟付可付則已不勞而賢才不失矣
衛の出公は人を遣わして孔子に問わせた。「寡人は臣下を任用して、大小を問わず一々自ら察るが、それでも人を用いるのを失う。なぜか。」孔子は答えた。「あなたのこの言によると、これがまさに人を失う所以だ。人はもともと知りにくい。問話で問えるものでもなく、観察で尽くせるものでもない。しかも人君が考慮すべき事は多く、考慮が多ければ心意は精しくならない。精しくない心意で知りにくい人を察れば、当然に失いがある。あなたは聞かないか。昔、舜が堯の臣であったとき、官职は士人の自任によらず、堯は一々之を聴従した。左右の人が言った——『人君が人を用いるのは、自ら耳目を用いるべきなのに、人に取り信ずるのは、おそらく駄目ではないか。』堯は言った——『我は舜を挙用して、すでに耳目を用いた。今、舜が挙げた人に、私がまた耳目を以て察れば、耳目で人を察ることは永遠に終わらない。』国君がもし事を托すべき人に托せば、自ら労せずして、賢才も失われない。」
子貢問曰昔孫文子以衛侯哭之不哀知其將為亂不敢舍其重器而行盡寘諸戚而善晉大夫二十人或稱其知何如孔子曰人知其為知也吾未知其為知也子貢曰敢問何謂也子曰食其祿者必死其事孫子知衛君之將不君不念伏死以爭而素規去就尸利攜貳非人臣也臣而有不臣之心明君所不赦幸哉孫子之以此免戮也
子貢は問うた。「昔、孫文子は衛侯が之を哭して哀れまなかったために彼が乱を作ることを知り、重器を置いて行くのを敢てせず、それをすべて戚邑に置き、さらに晋国の大夫二十人と交好した。ある人は彼を智ありというが、どうですか。」孔子は言った。「人は彼を智ありと知るが、私は彼を智ありとは知らない。」子貢は言った。「どういうことかお尋ねします。」孔子は言った。「彼の俸禄を食む者は、必ず死を以て彼の事に赴くべきだ。孫子は衛君が君らしくないことを知りながら、伏して死に諫争しようとせず、平生から去就を企画して、位に尸りて利を取り、二心を懐く。これは人臣のあるべき姿ではない。臣子でありながら臣でない心を持つことは、明君が赦さないところだ。孫子がこれによって殺されずに済んだのは、彼の僥倖だ。」
孔子使宰予使於楚楚昭王以安車象飾因宰予以遺孔子焉宰予曰夫子無以此為也王曰何故對曰臣以其用思其所在觀之有以知其然王曰言之宰予對曰自臣侍從夫子以來竊見其言不離道動不違仁貴義尚徳清素好儉仕而有祿不以為積不合則去退無吝心妻不服防妾不衣帛車器不雕馬不食粟道行則樂其治不行則樂其身此所以為夫子也若夫觀目之麗靡窈窕之音夫子過之弗之視遇之弗之聽也故臣知夫子之無用此車也王曰然則夫子何欲而可對曰方今天下道德寢息其志欲興而行之天下誠有欲治之君能行其道則夫子雖使歩以朝固猶為之何必逺辱君之重貺乎王曰乃今而後知孔子之徳也大矣宰予歸以告孔子孔子曰二三子以予之言何如子貢對曰未盡夫子之美也夫子徳髙則配天深則配海若予之言行事之實也夫子曰夫言貴實使人信之捨實何稱乎是賜之華不若予之實也
孔子は宰予を楚国に出使させた。楚昭王は象牙で飾った安車を宰予に托して孔子に贈らせた。宰予は言った。「夫子はこれを用いないでしょう。」王は言った。「なぜか。」宰予は答えた。「臣は彼の心をどこに用いるかを観察して、こうなる理由を知っている。」王は言った。「言ってみよ。」宰予は答えた。「臣が夫子に侍って以来、私に彼を見るに、言葉は道を離れず、行動は仁に背かず、義を重んじ徳を崇び、清素で倹を好む。官を為して俸禄があっても、これを以て蓄積せず。合わなければ去り、退くとき心に吝惜がない。妻子は華麗な服を着ず、妾は帛を着ず、車器は雕飾せず、馬は粟を食わず。道が行えればその治を楽しみ、道が行えなければ自身を楽しむ。これが夫子が夫子たる所以だ。目を悦ばせる華麗・窈窕の淫靡の音に至っては、夫子は過ぎても見ず、遇っても聴かない。だから臣は夫子がこの車を用いないと知っている。」王は言った。「では夫子は何を欲すればよいのか。」宰予は答えた。「今、天下の道徳は寝息している。彼の志はこれを興して行わせたいと思っている。天下に果して治めようとする君主があり、その道を行えるならば、たとえ夫子を歩かせて朝見させても、彼は必ず行くだろう。どうして遠くあなたの厚賜を辱めようか。」王は言った。「今日になってはじめて孔子の徳がどれほど大きいかを知った。」宰予は帰って孔子に告げた。孔子は言った。「お前たちは宰予の言をどう思うか。」子貢は答えた。「まだ夫子の美を言い尽くしていない。夫子の徳は高ければ天に配し、深ければ海に配する。宰予が言ったようなのは、ただ行事の実情にすぎない。」夫子は言った。「言は実に貴く、こそ人を信じさせることができる。実を離れて、何を以て称しようか。賜の華美は、予の朴実に及ばない。」
孔子適齊齊景公讓登夫子降一等景公三辭然後登既坐曰夫子降徳辱臨寡人寡人以為榮也而降階以逺自絶於寡人寡人未知所以為罪孔子荅曰君惠顧外臣君之賜也然以匹夫敵國君非所敢行也雖君私之其若義何
孔子は斉国に行き、斉景公は彼に階を登らせたが、夫子は一段を下げた。景公が再三辞譲して、それからやっと登った。坐して後に言った。「夫子は徳行を降し、寡人に辱臨して、寡人はこれを栄耀とする。ところが階を降して遠く自ら寡人を隔絶するとは、寡人は自分の過ちがどこにあるか分からない。」孔子は答えた。「あなたが外臣を恵顧なさるのは、あなたの賜です。しかし匹夫の身で国君と対等になるのは、私の敢えてすることではない。たとえあなたが私を寛容しても、義に対してどう申し開きしましょう。」
顔讎善事親子路義之後讎以非罪執於義將厄子路請以金贖焉人將許之既而二三子納金於子路以入衛或謂孔子曰受人之金以贖其私暱義乎子曰義而贖之貧取於友非義而何愛金而令不辜防闢凡人且猶不忍況二三子於由之所親乎詩云如可贖兮人百其身苟出金可以生人雖百倍古人不以為多故二三子其欲由也成其義非汝之所知也
顔讐はよく父母に事え、子路は彼を義とした。後に顔讐は罪なくして義に拘えられ、まさに難に遭おうとした。子路は金を以て彼を贖うことを請うた。相手は許そうとした。続いて同学たちは金を子路に渡して衛国に送らせた。ある人が孔子に言った。「他人の金を受けて自分の親しい人を贖うのは、義に合いますか。」孔子は言った。「義のために彼を贖い、自分が窮すれば朋友から取る——義でなくて何だろう。金を吝しんで無辜の人を刑辟に陥れるのは、常人でさえ忍びない。まして同学たちが仲由の親しむ者に対しては。『詩経』にいう——『贖う可きならば、人は百其身。』金を出して人の一命を救うことができれば、たとえ百倍でも、古人は多いとしなかった。だから同学たちは仲由の義を成全しようとしたのであって、お前の知るところではない。」
孔子讀詩及小雅喟然而嘆曰吾於周南召南見周道之所以盛也於栢舟見匹夫執志之不可易也於淇澳見學之可以為君子也於考槃見遁世之士而不悶也於木見包且之禮行也於緇衣見好賢之心至也於雞鳴見古之君子不忘其敬也於伐檀見賢者之先事後食也於蟋蟀見陶唐儉德之大也於下泉見亂世之思明君也於七月見豳公之所造周也於東山見周公之先公而後私也於狼跋見周公之逺志所以為聖也於鹿鳴見君臣之有禮也於弓見有功之必報也於羔羊見善政之有應也於節南山見忠臣之憂世也於蓼莪見孝子之思養也於四月見孝子之思祭也於裳裳者華見古之賢者世保其祿也於采菽見古之明王所以敬諸侯也
孔子は『詩』を読み『小雅』に至り、喟然として嘆息して言った。「私は『周南』『召南』から周道が興盛する所以を見、『柏舟』から匹夫が志を持して改易できないことを見、『淇奥』から学問が君子を成就できることを見、『考槃』から世を遁れる士が煩悶しないことを見、『木瓜』から報施の礼が行われることを見、『緇衣』から賢を好む心が極まることを見、『鶏鳴』から古代の君子が恭敬を忘れないことを見、『伐檀』から賢人が先に事をして後に食を受けることを見、『蟋蟀』から陶唐の倹徳の広大を見、『下泉』から乱世が明君を思慕することを見、『七月』から豳公が周の根基を造就した所以を見、『東山』から周公が先に公で後に私であることを見、『狼跋』から周公の志が高遠で聖人となったことを見、『鹿鳴』から君臣に礼があることを見、『彤弓』から功有れば必ず報いることを見、『羔羊』から善政に応験があることを見、『節南山』から忠臣が世を憂うことを見、『蓼莪』から孝子が奉養を思念することを見、『四月』から孝子が祭祀を思念することを見、『裳裳者華』から古代の賢人が世々俸禄を保つことを見、『采菽』から古代の明王が諸侯を敬重する所以を見た。」
孔子晝息於室而鼓琴焉閔子自外聞之以告曾子曰向也夫子之音清徹以和淪入至道今也更為幽沉之聲幽則利慾之所為發沉則貪得之所為施夫子何所之感若是乎吾從子入而問焉曾子曰諾二子入問夫子夫子曰然女言是也吾有之向見貓方取鼠欲其得之故為之音也女二人者孰識諸曽子對曰閔子夫子曰可與聽音矣
孔子は昼に屋で休息して琴を鼓した。閔子騫が外から聞いて、曾子に告げた。「先ほど夫子の琴音は清徹して和をなし、至道に沈んだ。今は幽沈の声に変わった。幽は利欲が引き起こすもの、沈は貪得が施すもの。夫子は何を感受して、ここまで至ったのか。私と入って問うてみよう。」曾子は言った。「よい。」二人は入って夫子に問うた。夫子は言った。「そうだ、お前たちの言う通り、私にその事がある。先ほど猫がまさに老鼠を捉えようとするのを見て、それが捉えることを望んだので、あのような声を弾いた。お前たち二人のうち誰が聴き出したのか。」曾子は答えた。「閔子です。」夫子は言った。「彼とともに音を聴くことができる。」
刑論第四
刑論第四
仲弓問古之刑教與今之刑教孔子曰古之刑省今之刑繁其為教古有禮然後有刑是以刑省今無禮以教而齊之以刑刑是以繁書曰伯夷降典折民維刑謂下禮以教之然後維以刑折之也夫無禮則民無恥而正之以刑故民苟免
仲弓は古代の刑教と今日の刑教を問うた。孔子は言った。「古代は刑罰が少なく、今日は刑罰が多い。教化について言えば——古代は先に礼があり、それから刑がある。だから刑が少ない。今日は礼を以て教えず、刑を以て整える。だから刑が多い。『尚書』に『伯夷降典、折民惟刑』というのは、先に礼を降して教化し、それから刑を以て折服するのを言う。礼がなければ、百姓は羞恥を知らないのに、刑で正そうとする。だから百姓はただ苟めに免れようとするだけだ。」
孔子適衛衛將軍文子問曰吾聞魯公父氏不能聽獄信乎孔子荅曰不知其不能也夫公父氏之聽獄有罪者懼無罪者恥文子曰有罪者懼是聴之察刑之當也無罪者恥何乎孔子曰齊之以禮則民恥矣刑以止刑則民懼矣文子曰今齊之以刑刑猶弗勝何禮之齊孔子曰以禮齊民譬之於御則轡也以刑齊民譬之於御則鞭也執轡於此而動於彼御之良也無轡而用防則馬失道矣文子曰以御言之左手執轡右手運防不亦速乎若徒轡無防馬何懼哉孔子曰吾聞古之善御者執轡如組兩驂如舞非防之助也是以先王盛於禮而薄於刑故民從命今也廢禮而尚刑故民彌暴文子曰呉越之俗無禮而亦治何也孔子曰夫呉越之俗男女無別同厠而浴民輕相犯故其刑重而不勝由無禮也中國之教為外內以別男女異器服以殊等類故其民篤而法其刑輕而勝由有禮也
孔子は衛国に到り、衛将軍の文子が問うた。「私は聞く——魯国の公父氏は獄訟を審理することができないと。本当ですか。」孔子は答えた。「彼ができないとは知らない。公父氏が獄訟を審理すれば、罪ある人は懼れ、罪なき人は羞恥を感じる。」文子は言った。「罪ある人が懼れるのは、訟を聴くことが明察で刑を用いることが得当だから。罪なき人が羞恥を感じるのは、なぜですか。」孔子は言った。「礼を以て整えれば、百姓は恥を知る。刑を以て刑を止めれば、百姓は懼れる。」文子は言った。「今や刑を以て整えても刑が足りないのに、どうして礼を以て整えられましょう。」孔子は言った。「礼で百姓を整えるのは、駕御に比べれば轡だ。刑で百姓を整えるのは、駕御に比べれば鞭だ。こちらで轡を執れば、馬はあちらで動く——これがよい駕御だ。轡がなくて鞭だけを用いれば、馬は道路を迷う。」文子は言った。「駕御で言えば、左手に轡を執り右手に鞭を運ぶのは、もっと速いのではないか。もし轡だけで鞭がなければ、馬は何を懼れるのか。」孔子は言った。「私は聞く——古代のよく駕御する人は、轡を執ること組帯を編むがごとく、両旁の驂馬は舞うがごとくで、鞭の助けに頼らなかった。だから先王は礼に盛んで刑に薄く、百姓はこそ命令に聴従した。今は礼を廃して刑を崇ぶので、百姓はかえってますます暴戻になる。」文子は言った。「呉・越の風俗には礼がないのに、治めることができるのはなぜですか。」孔子は言った。「呉・越の風俗は、男女に分別がなく、同じ所で沐浴し、百姓は易く互いに侵犯する。だから刑罰は重いのにまだ足りない——礼がないからだ。中原の教化は外内を分けて男女を別し、異なる器物・服飾で等類を区別する。だから百姓は篤厚で法を守り、刑罰は軽いのに足りる——礼があるからだ。」
孔子曰民之所以生者衣服也上不教民民匱其生飢寒切於身而不為非者寡矣故古之於盜惡之而不殺也今不先其教而一殺之是以罰行而善不反刑張而罪不省夫赤子知慕其父母由審故也況為政興其賢者而廢其不賢以化民乎知審此二者則上盜息【上盜猶大盜也】
孔子は言った。「百姓が生きていけるのは、衣食だ。上にいる者が百姓を教化せず、百姓の生計が匱乏して、飢寒が身に迫っても悪事をしない者は、少ない。だから古代は盗賊に対して、悪むが殺さなかった。今は先に教化せず、一斉に殺す。だから刑罰を施行しても善は帰らず、刑網を張っても罪は減らない。嬰児が父母に恋慕するのを知るのは、審察して熟慱するからだ。まして為政において賢人を挙用し不賢を廃して百姓を教化する場合においてをや。この二事を審察できるのは、上の大盗は止息するだろう。【『上盗』は猶お大盗のごとし。】」
書曰茲殷罰有倫子張問曰何謂也孔子曰不失其理之謂也今諸侯不同徳國君異法折獄無倫以意為限是故知法之難也子張曰古之知法者與今之知法者異乎孔子曰古之知法者能逺【能逺者止其源而以禮義先之】今之知法者不失有罪不失有罪其於怨寡矣能逺則於獄其防深矣寡怨近乎濫防深治乎本書曰惟敬五刑以成三徳言敬刑所以為德也
『尚書』にいう——『茲に殷罰は倫有り。』子張は問うた。「これは何の意味ですか。」孔子は言った。「条理を失わないこと——これがその意味だ。今、諸侯の徳行は異なり、国君の法制も異なり、獄を断ずるに倫次なく、私意で界限を画する。だから法を執ることが難しいと知る。」子張は言った。「古代の法を知る人と今日の法を知る人は、違いますか。」孔子は言った。「古代の法を知る人は禍源を推遠できる【推遠できるとは、源頭を塞ぎ、先に礼義で引導すること】。今日の法を知る人はただ罪ある人を逃さないことを求める。罪ある人を逃さなければ、怨恨は少し減る。禍源を推遠できれば、獄訟への防範は深い。怨を少なくするのは濫刑に近いが、防範が深ければこそ治本に近い。『尚書』に『惟れ五刑を敬し、以て三徳を成す』というのは、刑を敬慎して用いることが、まさに徳を成就するのを言う。」
書曰非從惟從孔子曰君子之於人也有不語也無不聽也況聽訟乎必盡其辭矣夫聽訟者或從其情或從其辭辭不可從心斷以情書曰人有小罪非乃惟終自作不典式爾有厥罪小乃不可不殺乃有大罪非終乃惟災適爾既道極厥辜時乃不可殺
『尚書』にいう——『従うに非ざる惟れ従う。』孔子は言った。「君子は人に対して、言わないことはあっても、聴かないことはない。まして訟を聴くにおいてをや。必ず彼に言を尽くさせなければならない。訟を聴く人は、あるいは実情に依り、あるいは言辞に依る。言辞が依るべきでなければ、実情に従って心で裁断する。『尚書』にいう——『人に小罪有り、過失に非ず、而して終始自ら法度に合わざる事を為す。此のごときは、罪は小と雖も殺さざるべからず。若し大罪有り、終始此のごとくに非ず、而して過失災禍偶然此のごとし、已に罪過を言い尽くせば、此の時は則ち殺す可からず。』」
曾子問聽獄之術孔子曰其大法有三焉治必以寛寛之之術歸於察察之之術歸於義是故聽而不寛是亂也寛而不察是慢也察而不中義是私也私則民怨故善聽者雖不越辭辭不越情情不越義書曰上下比罪無僭亂辭
曾子は獄を聴く方法を問うた。孔子は言った。「大法は三条ある——治理は必ず寛であるべき、寛の方法は明察に帰結する、明察の方法は義に帰結する。だから訟を聴いて寛でなければ乱であり、寛であっても明察でなければ怠慢であり、明察であっても義に合わなければ私である。私なれば百姓は怨む。だから善く訟を聴く者は、言辞を超えずとも、言辞は実情を超えず、実情は義を超えない。『尚書』にいう——『上下罪を比し、僭乱の辞無からん。』」
書曰哀矜折獄仲弓問曰何謂也孔子曰古之聽訟者察貧窮哀孤獨及鰥寡老弱不肖而無告者雖得其情必哀矜之死者不可生斷者不可屬若老而刑之謂之悖弱而刑之謂之尅不赦過謂之逆率過以小罪謂之枳【一作疻猶傷也夫過則冝宥若率以為小罪亦傷乎義】故宥過赦小罪老弱不受刑先王之道也書曰大辟疑赦又曰與其殺不辜寧失不經
『尚書』にいう——『哀矜して獄を折る。』仲弓は問うた。「これは何の意味ですか。」孔子は言った。「古代の訟を聴く人は、貧窮を察し、孤独および鰥寡・老弱・不肖にして告げる所なき者を哀れみ怜れた。たとえ実情を問い得ても、必ず彼らを哀矜した。死んだ者は復た生きず、断たれた者は再び接がない。もし老人に刑を用いれば、悖と呼ぶ。弱者に刑を用いれば、尅と呼ぶ。過失を赦さなければ、逆と呼ぶ。過失を小罪として扱えば、枳と呼ぶ【一作は『疻』、猶お傷害のごとし。過失は本より寛宥すべきに、一概に小罪として扱えば、義をも傷る】。だから過失を寛宥し、小罪を赦免し、老弱は刑を受けない——これは先王の道だ。『尚書』に『大辟は疑はしければ赦す』といい、また『辜なきを殺すよりは、寧ろ経を失え』という。」
書曰若保赤子子張問曰聽訟可以若此乎孔子曰可哉古之聽訟者惡其意不惡其人求所以生之不得其所以生乃刑之君必與眾共焉今之聽訟者不惡其意而惡其人求所以殺是反古之道也
『尚書』にいう——『赤子を保するが若し。』子張は問うた。「訟を聴くこともこのようによいですか。」孔子は言った。「よい。古代の訟を聴く人は、悪むのはその心意であり、その人ではない。彼を生かす理由を求める。彼を生かす理由が見つからなければ、ようやく刑を用いる。国君は必ず衆とともに決する。今の訟を聴く人は、その心意を悪まず、その人を悪み、彼を殺す理由を求める——これは古代の道に反している。」
孟氏之臣叛武伯問孔子曰如之何荅曰臣人而叛天下所不容也其狀自反子姑待之三旬果自歸孟氏武伯將執之訪於夫子夫子曰無也子之於臣禮意不至是以去子今其自反罪以反除又何執焉子修禮以待之則臣去子將安徃武伯乃止
孟氏の家臣が叛変した。孟武伯は孔子に問うた。「どうすべきか。」孔子は答えた。「人臣でありながら叛変するのは、天下が容れない。様子を見れば彼自身は帰ってくる。あなたはしばらく待て。」三十日後に果して自ら帰って来た。孟氏の武伯は彼を拘えようとして、夫子に教えを請うた。夫子は言った。「要らない。あなたが臣下を待つに、礼意が及ばなかったので彼はあなたを離れた。今、彼自ら帰って来たのだから、罪はすでに返ったことで消えた。どうしてまた拘えようか。あなたが礼を修めて彼らを待てば、臣下はあなたを離れて、またどこへ行こう。」武伯はここに於いて止めた。
記問第五
記問第五
夫子閒居喟然而嘆子思再拜請曰意子孫不修將忝祖乎羨堯舜之道恨不及乎夫子曰爾孺子安知吾志子思對曰伋於進瞻亟聞夫子之教其父析薪其子弗克負荷是謂不肖伋毎思之所以大恐而不觧也夫子忻然笑曰然乎吾無憂矣世不廢業其克昌乎
夫子は閑居して、喟然として嘆息した。子思が再拝して教えを請うた。「子孫が修養せず先祖を辱めることを憂えるのか。それとも堯舜の道を羨んで、自分が追いつかないのを恨むのか。」夫子は言った。「お前のような子供がどうして私の志を知ろう。」子思は答えた。「伋は進んで前を瞻望し、しばしば夫子の教誨を聞いた——父が柴を劈き終えて、子がそれを扛げなければ、これを不肖という。伋は常にここに想到して、だから甚だ恐懼して、敢えて懈怠しない。」夫子は欣然として笑い言った。「そうか。私には憂慮がない。世々この事業を廃さなければ、おそらく昌盛できるだろう。」
子思問於夫子曰為人君者莫不知任賢之逸也而不能用賢何故子曰非不欲也所以官人任能者由於不明也其君以譽為賞以毀為罰賢者不居焉
子思は夫子に問うた。「君主を為る者は、賢人を任用すれば安逸であることを知らない者はないのに、賢を用いることができないのはなぜですか。」孔子は言った。「思わないのではない。官人・任能がやはりできないのは、自分が明らかでないからだ。その国君が称賛を賞とし、毀謗を罰とすれば、賢人は肯んじて留まらない。」
子思問於夫子曰伋聞夫子之詔正俗化民之政莫善於禮樂也管子任法以治齊而天下稱仁焉是法與禮樂異用而同功也何必但禮樂哉子曰堯舜之化百世不輟仁義之風逺也管仲任法身死則法息嚴而寡恩也若管仲之知足以定法材非管仲而專任法終必亂成矣
子思は夫子に問うた。「伋は夫子が教えたのを聞いた——風俗を端正し百姓を教化する政治に、礼楽より良いものはない。管子は法を以て斉国を治めたのに、天下は彼を仁と称した。ここから見れば、法と礼楽は用が違っても功效は同じではないか。なぜ礼楽だけを用いるのですか。」孔子は言った。「堯舜の教化は、百世も中断しない——仁義の風が遠く伝わるからだ。管仲が法を用いたのは、人が死ねば法が止息する——厳苛で恩が少ないからだ。もし管仲のような智が以て法を定めるに足りればよいが、才具が管仲に及ばずして専ら法を用いれば、終に必ず乱れる。」
子思問於夫子曰物有形類事有真偽必審之奚由子曰由乎心心之精神是謂聖推數究理不以疑【心誠神通則數不能遁】周其所察聖人難諸
子思は夫子に問うた。「物には形類があり、事には真偽がある。必ず審察すべきだが、どこから入手すればよいか。」孔子は言った。「心から。心の精神を聖という。数理を推求し事理を窮究して疑惑せず【心が真誠で神に通ずれば、数理は逃れられない】、察すべき所をすべて察し尽くすのは、聖人でも難しいと感じる。」
趙簡子使聘夫子夫子將至焉及河聞鳴犢與竇犨之見殺也廻輿而旋之衛息鄹遂為操曰周道衰微禮樂陵遲文武既墜吾將焉歸周遊天下靡邦可依鳳鳥不識珎寶梟鴟眷然顧之然心悲巾車命駕將適唐都黃河洋洋攸攸之魚臨津不濟還轅息鄹傷予道窮哀彼無辜翺翔於衛復我舊廬從吾所好其樂只且哀公使以幣如衛迎夫子而卒不能賞用也故夫子作丘陵之歌曰登彼丘陵峛崺其阪【丘陵謂王室也阪指諸侯】仁道在邇求之若逺遂迷不復自嬰屯蹇喟然廻慮題彼泰山【題顧也泰山謂魯也】欝確其髙梁甫廻連枳棘充路陟之無縁將伐無柯患茲蔓延惟以永嘆涕霣潺湲【梁甫泰山之下小山指三桓也】楚王使使奉金幣聘夫子宰予冉有曰夫子之道至是行矣遂請見問夫子曰太公勤身苦志八十而遇文王孰與許由之賢夫子曰許由獨善其身者也太公兼利天下者也然今世無文王之君也雖有太公孰能識之乃歌曰大道隠兮禮為基賢人竄兮將待時天下如一欲何之
趙簡子は人を遣わして夫子を招聘した。夫子はまさにそこへ行こうとした。黄河の辺に至り、鳴犢と竇犨が殺されたと聞いて、車を転じて衛国に帰り、鄹の地に歇まった。ここに於いて琴曲を作りて唱え曰く——「周道は衰微し、礼楽は陵遅す。文王・武王の事業はすでに墜ち、我は何れに帰せん。天下を遍く行くも、依托すべき邦国無し。鳳凰は識られず、珍宝は却って梟鴟と為る。眷然として回望し、心は惻然として悲しむ。巾車に駕を備えんと命じ、将に唐都に往かんとす。黄河は洋洋として、魚は悠悠たり。渡口に至るも渡らず、車轅を転じて鄹の地に歇む。我が道の窮まるを傷痛み、彼の無辜の人を哀怜す。衛国に翱翔し、我が旧廬に帰る。我が好む所に依従し、其の楽しみも亦た可なり。」哀公は人を遣わして幣帛を持って衛国に夫子を迎えたが、終に真に任用できなかった。だから夫子は『丘陵之歌』を作った——「彼の丘陵に登る、坡阪は曲折して綿延す【丘陵は王室を指し、阪は諸侯を指す】。仁道は就くに近き処に在り、之を求むれば却って遠きがごとし。是に於いて路を迷い回來らず、自ら屯蹇に纏わる。喟然として頭を回らして思慮し、彼の泰山を望む【『題』は顧望なり。泰山は魯国を指す】。其れ郁確として高く聳え、梁甫は回環して連綿す。枳棘は道路に塞満し、登らんと欲するも縁無し。砍伐せんと欲するも斧柯無し、此の蔓延を憂う。只だ長嘆するのみ、涕泪は潺湲たり【梁甫は泰山の下の小山、三桓を指す】。」楚王は使者を遣わして金幣で夫子を招聘した。宰予・冉有は言った。「夫子の道はこの時に至りて行う可し。」ここに於いて見えを請い、夫子に問うた。「太公は身心を勤労し心志を苦しめ、八十歳にしてやっと文王に遇った。許由の賢と比べてどうか。」夫子は言った。「許由は独善其身の人、太公は兼ねて天下を利する人だ。しかし今、世に文王のような君主無し。たとえ太公ありとも、誰が彼を識ることができよう。」ここに於いて唱え曰く——「大道は隱沒せり、礼は根基なり。賢人は逃匿せり、将に時運を待たん。天下は一片のごとし、又た何れの処に往かん。」
叔孫氏之車子曰鉏商樵於野而獲獸焉眾莫之識以為不祥棄之五父之衢冉有告夫子曰麕身而肉角豈天之妖乎夫子曰今何在吾將觀焉遂徃謂其御髙柴曰若求之言其必麟乎到視之果信言偃問曰飛者宗鳳走者宗麟為其難致也敢問今見其誰應之子曰天子布徳將致太平則麟鳳龜龍先為之祥今宗周將滅天下無主孰為來哉遂泣曰予之於人猶麟之於獸也麟出而死吾道窮矣乃歌曰唐虞世兮麟鳳遊今非其時吾何求麟兮麟兮我心憂
叔孫氏の車夫に鉏商という者がいた。野で柴を打ち獣を捕えた。衆は皆識らず、不祥と為して、五父の衢に丟てた。冉有は夫子に告げた。「麕の身なのに肉角を生じた。まさか天上の妖物ではないか。」夫子は言った。「今どこにある。私が見に行こう。」ここに於いて往き、駕する高柴に対して言った。「もし冉求の言うごときなら、必ず麒麟だろう。」そこに到って見れば、果してそうだった。言偃は問うた。「飛ぶものは鳳を宗とし、走るものは麟を宗とする——其れ難得だからだ。請う——今出現したのは、誰に応じたのか。」孔子は言った。「天子が徳を布いて太平を致さんとすれば、麟・鳳・亀・竜は先だって祥を呈す。今、宗周は将に滅び、天下に共主無し。彼は誰のために来たのか。」ここに於いて哭泣して曰く——「我は人に於いて、猶お麟が獣に於けるがごとし。麟は出でて死せり。我が道は窮まった。」ここに於いて唱え曰く——「唐虞の世かな、麟鳳は游走せり。今は其の時に非ず、我は何を求む。麟や麟や、我心は憂愁す。」
雜訓第六
雑訓第六
子上雜所習請於子思【孔白字子上子思之子也雜者諸子百家】子思曰先人有訓焉學必由聖所以致其材也厲必由砥所以致其刄也故夫子之教必始於詩書而終於禮樂雜説不與焉又何請子思謂子上曰白乎吾嘗深有思而莫之得也於學則寤焉吾嘗企有望而莫之見也登髙則覩焉是故雖有本性而加之以學則無惑矣
子上は雑学の内容を持って子思に教えを請うた。【孔白は字を子上、子思の子。「雑」は諸子百家を指す。】子思は言った。「先人に訓誡あり——学習は必ず聖人から入手しなければならない。こうしてこそ才具を成就できる。磨礪は必ず砥石を用いなければならない。こうしてこそ鋒刃を成就できる。だから夫子の教は、必ず『詩』『書』より始め、礼楽で終わる。雑説は其の中に参与しない。更に何を請うか。」子思は子上に言った。「白よ、私はかつて深思しても得られなかったが、一学習すれば醒悟した。私はかつて踵を上げて遠望しても見えなかったが、一たび高きに登れば見えた。だから本性あっても、学習を加えれば、迷惑しない。」
縣子問子思曰【縣子名魯人】吾聞同聲者相好子之先君見子產時則兄事之而世謂子產仁愛稱夫子聖人是謂聖道事仁愛乎吾未諭其人之孰先後也故質於子子思曰然子之問也昔季孫問子游亦若子之言也子游荅曰以子產之仁愛譬夫子其猶浸水之與膏雨乎康子曰子產死鄭人丈夫舍玦佩婦女舍珠瑱巷災三月竽瑟不作夫子之死也吾未聞魯人之若是也奚故哉子游曰夫浸水之所及也則生其所不及則死故民皆知焉膏雨之所生也廣莫大焉民之受賜也普矣莫識其由來者上徳不徳是以無徳季孫曰善縣子曰其然孟子車尚幼請見子思子思見之甚悅其志命子上侍坐焉禮敬子車甚崇子上不願也客退子上請曰白聞士無介不見女無媒不嫁孟孺子無介而見大人悅而敬之白也未諭敢問子思曰然吾昔從夫子於郯遇程子於塗傾蓋而語終日而別命子路將束帛贈焉以其道同於君子也今孟子車孺子也言稱堯舜性樂仁義世所希有也事之猶可況加敬乎非爾所及也
県子は子思に問うた。【県子は名を瑣、魯人。】「私は聞く——同声相応する人は互いに喜好する。あなたの先君は子産に見えるとき、彼を兄として事えた。しかし世人は子産を仁愛といい、夫子を聖人と称す。これは聖人の道で仁愛に事えるということか。私はまだこの二人の先後を明らかにせず、だからあなたに求证する。」子思は言った。「そうだ、あなたの問いはよい。昔、季孫は子游に問うて、あなたのように言った。子游は答えた——『子産の仁愛を以て夫子と比べれば、おそらく浸水が膏雨に比するがごとし。』季康子は言った——『子産が死せば、鄭国の男子は玦佩を放下し、婦女は珠瑱を放下し、里巷に災荒三月、竽瑟も奏せず。夫子が死せば、私は魯人がこのようだと聞かない。なぜか。』子游は言った——『浸水の到る所は活き、到らざる所は死す。だから百姓は皆之を知る。膏雨の生成する所は、広大にして之より大ききは無し。百姓は賜を受けて普遍なれど、其れ何より来るかを認る人無し。上徳は自ら徳と為さず。だから徳無きがごとく顕れる。』季孫は言った——『善し。』」県子は言った。「元来このようか。」孟軻はまだ年幼く、子思に見えんことを請うた。子思は彼に見え、其の志を甚だ喜び、子上を陪坐させ、孟軻に対して礼敬は甚だ重かった。子上は心のうちに願わず。客人が退くや、子上は教えを請うた。「白は聞く——士は紹介人无くば見えず、女子は媒人无くば嫁がず。孟孺子は紹介人无くして大人に見えて來たのに、大人は之を喜び敬す。白は明らかにせず。敢えて問う。」子思は言った。「そうだ。昔、私は夫子に従いて郯に在り、路で程子に遇い、車を停めて交談し、談ること一日にして別れた。子路に命じて束帛を取りて彼に贈らせし——其の道が君子と同じだったからだ。今、孟子車はまだ孺子なれど、言は堯舜を称述し、生性は仁義を楽しむ。世上に少有なり。彼に事うるは尚お行う可きも、況んや礼敬を加うるをや。これはお前の及ぶ所に非ず。」
子思在魯使以書如衛問子上子上北面再拜受書伏讀然後與使者晏遂為復書返中庭北面再拜以授使者既受書然後退使者還魯問子思曰吾子堂上南面立授臣書事畢送臣子上中庭拜授臣書而不送何也子思曰拜而不送敬也使而送之賔也
子思は魯国に在り、人を遣わして衛国に書を送り子上を問候させた。子上は北に面して再拝して書を受け、伏して読み終え、それから使者と宴飲し、ここに於いて回信を書き、中庭に帰り、北に面して再拝して使者に交した。使者が書を受けて後に彼は退いた。使者は魯国に帰り、子思に問うた。「あなたは堂上に南面して立ちて書を臣に交し、事畢わって尚お臣を送った。子上は中庭で臣に書を拜授して送らなかった。なぜか。」子思は言った。「拜して送らざるは、敬なり。人を遣わして而も相送るは、彼を賓客と為すなり。」
魯人有同姓死而弗吊者人曰在禮當免不免當吊不弔有司罰之如之何子之無吊也荅曰吾以其疎逺也子思聞之曰無恩之甚也昔者季孫【康子】問於夫子曰百世之宗有絶道乎子曰繼之以姓義無絶也故同姓為宗合族為屬雖國子之尊不廢其親所以崇愛也是以綴之以食序列昭穆萬世婚姻不通忠篤之道然也魯穆公訪於子思曰寡人不得嗣先君之業三年矣未知所以為令名者且欲掩先君之惡以先君之善使談者有述焉為之若何願先生教之也子思荅曰以伋所聞舜禹之於其父非勿欲也以為私情之細不如公義之大故弗敢私之雲耳責以虛飾之教又非伋所得言公曰思之可以利民者子思曰頋有恵百姓之心則莫如一切除非法之事也毀不居之室以賜窮民奪嬖寵之祿以賑困匱無令人有悲怨而後世有聞見抑亦可公曰諾
魯人に同姓が死んだのに弔いに行かない者があった。ある人が言った。「礼に拠れば、免服を着るべきなのに着ず、弔うべきなのに弔わざれば、有司は罰する。あなたはどうして弔わないのか。」彼は答えた。「彼が疏遠だからだ。」子思はこれを聞いて言った。「これは恩情が極まって薄い。昔、季孫【季康子】が夫子に問うた——『百世の宗に、断絶する道理有りや。』夫子は言った——『姓を以て継げば、義に断絶無し。だから同姓は宗と為り、合族は属と為る。たとえ国子のごとき尊貴でも、親情を廃せず。愛を尚ぶがためだ。故に食礼を以て連綴し、昭穆を序列し、万世婚姻通ぜず——皆忠篤の道の然らしむる所。』」魯穆公は子思に教えを請うた。「寡人は先君の事業を継承すること能わざること已に三年。未だ以て好名を求むるを知らず。且つ先君の悪を掩い、先君の善を彰明して、談論の人に称述する所有らんと欲す。どうすべきか。先生の教えを願う。」子思は答えた。「伋の聞く所に拠れば、舜・禹は彼らの父に対して、そうしたくないのではない。ただ私情は細小で、公義には如かないと覚えたので、敢えて私にそうしなかっただけだ。虚飾の教を以て私を責めれば、又た伋の言う能う所に非ず。」穆公は言った。「百姓に利あるべき事を思え。」子思は言った。「もし真に百姓を惠愛する心有らば、一概に法度に合わざる事を除去するに如かず——住まざる房屋を拆して窮民に賜い、嬖寵の俸禄を奪いて困乏を賑済し、人に悲怨有りて而も後世に尚お聞え見ゆるを致さしめざれば、も亦た可なり。」穆公は言った。「善し。」
縣子問子思曰顔回問為邦夫子曰行夏之時若是殷周異正為非乎子思曰夏數得天堯舜之所同也殷周之王征伐革命以應乎天因改正朔若雲天時之改耳故不相因也夫受禪於人者則襲其統受命於天者則革之所以神其事如天道之變然也三統之義夏得其正是以夫子云
県子は子思に問うた。「顔回が邦国を治むるを問うたとき、夫子は『夏の時を行え』と言った。こう言えば、殷・周が正朔を改換したのは錯誤か。」子思は言った。「夏の暦数は天時の正を得た。堯舜も亦た同じ。殷・周が王を称するは、征伐革命して天に應じたからで、因りて正朔を改めた——不過是れ天時が改まったと言うのであって、前代に沿わなかったのだ。人に禅を受くるは統紀に沿袭し、天に命を受くるは変革する——其の事を神明に顕さしめる為で、天道の変化のごとくす。三統の義理は、夏は其の正を得た。だから夫子はあのように言った。」
穆公問於子思曰立太子有常乎荅曰有之在周公之典公曰昔文王舎適而立其次防子舎孫而立其弟是何法也子思曰殷人質而尊其尊故立弟周人文而親其親故立子亦各其禮也文質不同其禮則異文王舍適立次權也公曰苟得行權豈唯聖人唯賢與愛立也子思曰聖人不以權教故立制垂法順之為貴若必欲犯何有於異公曰舍賢立聖舍愚立賢何如子思曰唯聖立聖其文王乎不及文王者則各賢其所愛不殊於適何以限之必不能審賢愚之分請父兄群臣卜於祖廟亦權之可也
穆公は子思に問うた。「太子を立つるに常規有りや。」子思は答えた。「有り、周公の典制の中に在り。」穆公は言った。「昔、文王は嫡子を舎てて其の次を立て、微子は孫子を舎てて其の弟を立てた。これは何の法に依るか。」子思は言った。「殷人は質朴にして其所当に尊ぶを尊び、だから弟を立つ。周人は文華にして其所当に親しむを親しみ、だから子を立つ。亦た各々其の礼有り。文質は同じからず、礼も亦た同じからず。文王が嫡を舎て次を立てしは、権変なり。」穆公は言った。「もし権を行う可きならば、豈に止む聖人のみならんや、賢と愛と有れば則ち立つ可きか。」子思は言った。「聖人は権変を以て教を施さず。だから制度を立て法則を垂れ、之に順うが乃ち貴し。もし必ず之を犯さんと欲せば、又何ぞ差異有らんを要せん。」穆公は言った。「賢人を舎てて聖人を立て、愚人を舎てて賢人を立つるは、如何。」子思は言った。「只だ聖人は聖人を立つ——蓋し文王のごときか。文王に及ばざる者は、則ち各々其の愛する所を以て賢と為す。立嫡と分別無く、何を以て限定せん。もし実に賢愚を分つ能わざれば、父兄群臣に祖廟に於いて卜を問わしめんを請う——亦た行う可き権宜なり。」
孟軻問牧民何先子思曰先利之曰君子之所以教民亦仁義固所以利之乎子思曰上不仁則下不得其所上不義則樂為亂也此為不利大矣故易曰利者義之和也又曰利用安身以崇徳也此皆利之大者也
孟軻は問うた。「百姓を牧養するに、何を先にするか。」子思は言った。「彼らを利することを先にす。」孟軻は言った。「君子が百姓を教化する所以は、亦た仁義。仁義は本より是れ以て彼らを利するに用いるではないか。」子思は言った。「上に在る者が仁ならざれば、下は安頓を得ず。上に在る者が義ならざれば、下は乱を作すを楽しむ。これ乃ち最大の不利なり。だから『周易』に曰く——『利なる者は義の和なり』。又た曰く——『身を安んじるに利を用い、以て徳を崇くすなり』。此の等は皆是れ利の中の最大なり。」
居衛第七
居衛第七
子思居衛言苟變於衛君曰其材可將五百乗君任軍旅率得此人則無敵於天下矣衛君曰吾知其材可將然變也嘗為吏賦於民而食人二雞子以故弗用也子思曰夫聖人之官人猶大匠之用木也取其所長棄其所短故杞梓連抱而有數尺之朽良工不棄何也知其所妨者細也卒成不訾之器今君處戰國之世選爪牙之士而以二卵棄干城之將此不可使聞於鄰國者也衛君再拜曰謹受教矣
子思は衛国に居り、衛君に苟変を称えて曰く——「彼の才具は以て五百乘を統領す可し。あなたが若し軍旅を任用せば、此の人を得て、則ち以て天下に敵無からしむ可し。」衛君は言った。「私は彼の才具が以て兵を統る可きを知る。然る而も苟変は嘗て吏を為りて百姓に向い賦を収め、人の二箇の鶏卵を食らった。此に因りて用いず。」子思は言った。「聖人の人を用うるは、猶お大匠の木を用うるがごとし——其の長ずる所を取り、其の短かる所を棄つ。だから合抱の杞梓と雖も幾尺の腐朽有りとも、良工は之を棄てず。何の故ぞ。其の妨害する所は只だ細処にして、終に以て量る可からざる器物を成就す可きを知ればなり。今、あなたは戦国の世に処り、爪牙の士を選抜す。而も二箇の鶏卵の為に敵を御ぐる干城の将を丟つ。此の話は隣国に聞かせる可からず。」衛君は再拝して曰く——「謹んで教えを受けん。」
子思適齊齊君之嬖臣美鬚眉立乎側齊君指之而笑且言曰假貌可相易寡人不惜此之鬚眉於先生也子思曰非所願也所願者惟君修禮義富百姓而伋得寄帑於君之境內從襁負之列其榮多矣若無此須鬣非伋所病也昔堯身修十尺眉乃八彩實聖舜身修八尺有竒面頷無毛亦聖禹湯文武及周公勤思勞體或折臂望視或禿骭背僂亦聖不以鬚眉美鬣為稱也人之賢聖在徳豈在貌乎且吾性無須眉而天下王侯不以此損其敬由是言之伋徒患徳之不邵美也不病毛鬂之不茂也
子思は斉国に到り、斉君の嬖臣は須眉甚だ美しく、旁に立つ。斉君は彼を指して笑い曰く——「もし容貌は交換し得べしと假せば、寡人は此の副の須眉を以て先生に与えんを吝しめざらん。」子思は言った。「これは我の願う所に非ず。願う所は只だあなたが礼義を修め、百姓を富め、而も伋が家小を以てあなたの境内に寄せ、子を負う者の行列に従わん。則ち栄耀は就き多し。もし此の副の須鬣無ければ、伋の嫌病する所に非ず。昔、堯は身長十尺、眉毛は八彩有り、実に聖なり。舜は身長八尺有余、下頦は鬚鬢無し、亦た聖なり。禹・湯・文王・武王および周公は、思を勤め体を労し、或いは臂を折り目を斜視し、或いは小腿は毛無く背は駝る。亦た聖なり。而も須眉美鬣を以て称となさず。人の賢聖は徳に在りて、豈に容貌に在らんや。況んや我は生性須眉無し。天下の王侯は此に因りて我に対する敬重を減ぜず。此に由りて言えば、伋は只だ徳の高美ならざるを怕れ、毛鬢の茂盛ならざるを愁えず。」
子思謂子上曰有可以為公之尊而冨貴人眾不與焉者非唯志乎成其志者非唯無慾乎夫錦繢紛華所服不過溫體三牲太牢所食不過充腹知以身取節者則知足矣苟知足則不累其志矣
子思は子上に言った。「以て公爵のごとき尊貴に至る可く、而も富貴人衆は皆其の中に参与せざる者有り——志ではないか。其の志を成就するは、無欲ではないか。錦繍紛華、穿く所は不過是れ身を暖むる。三牲太牢、食らう所は不過是れ腹を填むる。自身を以て節度を取るを知れば、則ち知足を知る。もし知足せば、則ち自らの志を拖累せず。」
曾子謂子思曰昔者吾從夫子廵守於諸侯夫子未嘗失人臣之禮而猶聖道不行今吾觀子有傲世主之心無乃不容乎子思曰時移世異人有冝也當吾先君周制雖毀君臣固位上下相持若一體然夫欲行其道不執禮以求之則不能入也今天下諸侯方欲力爭競招英雄以自輔翼此乃得士則昌失士則亡之秋也伋於此時不自髙人將下吾不自貴人將賤吾舜禹揖讓湯武用師非故相詭乃各時也
曾子は子思に言った。「昔、私は夫子に従いて諸侯を巡守し、夫子は未だ嘗て人臣の礼を失わず。聖道は尚お行わるる能わず。今、私はあなたを視るに世主を傲視する心有り。恐らく容れられざらんか。」子思は言った。「時は移り世は異なり、人は各々其の宜しき所有り。先君の時に当たりては、周の制度は毀坏すと雖も、君臣の位は尚お穏固にして、上下は相扶持して一体のごとし。自らの道を行わんと欲せば、礼を執守して求めざれば、入る能わず。今、天下の諸侯は方に武力を以て相争い、競い英雄を招致して以て自らを輔翼せんとす。これ乃ち士を得れば則ち昌え、士を失えば則ち亡ぶの時なり。伋は此の時に於いて自ら抬高せざれば、人は我を低視せん。自ら看重せざれば、人は我を賤視せん。舜禹は揖譲し、湯武は兵を用う——故意に相反するに非ず、各々其の時に因ればなり。」
子思在齊尹文子生子不類怒而杖之告子思曰此非吾子也吾妻殆不婦吾將黜之子思曰若子之言則堯舜之妃復可疑也此二帝聖者之英而丹朱商均不及匹夫以是推之豈可類乎然舉其多者有此父斯有此子道之常也若夫賢父之有愚子此由天道自然非子之妻之罪也尹文子曰先生止之願無言文留妻矣孟軻問子思曰堯舜文武之道可力而致乎子思曰彼人也我人也稱其言履其行夜思之晝行之滋滋焉汲汲焉如農之赴時商之趨利惡有不至者乎
子思は斉国に在り。尹文子は生みし子は己に似ず、怒りて杖を以て打ち、子思に告げて曰く——「これは我が子に非ず。我が妻は恐らく婦道を守らず。我は彼を休せんと欲す。」子思は言った。「あなたの此の話に拠れば、堯・舜の妃も亦た疑う可し。此の二帝は聖者の中の英傑にして、而も丹朱・商均は尚お普通の匹夫に比する能わず。此に由りて推論せば、何れが必ず相似る。不過多数より言えば、斯の父有れば斯の子有るは、道の常態なり。賢父有りて而も愚子有るに至るは、此れ天道自然に由る。あなたの妻の罪に非ず。」尹文子は言った。「先生は止まれ。更に言う勿れ。文は妻を留下せん。」孟軻は子思に問うた。「堯・舜・文王・武王の道は、気力を以て達し得べしと倚る可きか。」子思は言った。「彼は人なり、我も亦た人なり。彼らの話を称述し、彼らの行を履行し、夜は想い、昼は為す。滋滋汲汲として、農夫の時節を趕くがごとく、商人の利に趨くがごとし。何れが達せざる有らん。」
子思謂孟軻曰自大而不修其所以大不大矣自異而不修其所以異不異矣故君子髙其行則人莫能階也逺其志則人莫能及也禮接於人人不敢慢辭交於人人不敢侮其唯髙逺乎
子思は孟軻に言った。「自ら以て大なりと為すも、所以に大なるの一層を修養せざれば、則ち大ならず。自ら以て異なりと為すも、所以に異なるの一層を修養せざれば、則ち異ならず。だから君子は己の行を抬高すれば、人は一級級に爬上る能わず。己の志を推遠すれば、人は趕上る能わず。礼を以て人を接待すれば、人は敢て怠慢せず。辞を以て人と交往すれば、人は敢て欺侮せず。蓋し高遠なるが為のみ。」
申詳問曰【子張之子】殷人自契至湯而王周人自棄至武王而王同嚳之後也周人追王太王王季文王而殷人獨否何也子思曰文質之異也周人之所追太王王跡起焉又曰文王受命斷虞芮之訟伐崇邦退犬戎追王太王王季何也子思曰狄人攻太王太王召耆老而問焉曰狄人何來耆老曰欲得菽粟財貨太王曰與之與之至無而狄人不止太王又問耆老曰狄人何欲耆老曰欲土地太王曰與之耆老曰君不為社稷乎太王曰社稷所以為民也不可以所為民者亡民也耆老曰君縱不為社稷不為宗廟乎太王曰宗廟者私也不可以吾私害民遂杖防而去過梁山止乎岐下豳民之束脩奔而從之者三千乘一止而成三千乘之邑此王道之端也成王於是追而王之王季其子也承其業廣其基焉雖同追王不亦可乎
申詳は問うた。【申詳は子張の子。】「殷人は契自り湯に至りて而も王を称し、周人は棄自り武王に至りて而も王を称す。同じく帝嚳の後代。周人は太王・王季・文王を追尊して王と為す。殷人は独り此のごとくせず。何の故ぞ。」子思は言った。「是れ文質の差異なり。周人の追尊する太王は、王業の蹤跡は彼より興る。」又た問うた。「文王は命を受け、虞・芮の争訟を判断し、崇邦を討伐し、犬戎を打退し、太王・王季を追尊して王と為す。何の故ぞ。」子思は言った。「狄人は太王を攻打す。太王は耆老を召集して問う——『狄人は何為に來たる。』耆老は曰く——『菽粟・財貨を欲す。』太王は曰く——『彼らに与えよ。』与えて無くなるに及ぶも、狄人は尚お止まず。太王は又た耆老に問う——『狄人は何を欲する。』耆老は曰く——『土地を欲す。』太王は曰く——『彼らに与えよ。』耆老は曰く——『君は社稷の為に着想せずや。』太王は曰く——『社稷は民の為に設ける所。以て民の為に設ける所に因りて百姓を滅亡せしむべからず。』耆老は曰く——『君はたとえ社稷の為にせずとも、宗廟の為にもせずや。』太王は曰く——『宗廟は私なり。我が私を以て民を害すべからず。』ここに於いて杖を拄いて離去し、梁山を経過し、岐下に停止す。豳地の百姓は乾糧を帯びて趕き従う者三千乗有り。一停止すれば則ち三千乗の城邑を成就す。これは王道の開端なり。成王は此に因りて彼を追尊して王と為す。王季は彼の子なり。事業を継承し根基を拡大す。たとえ同じく追尊して王と為すとも、亦た可ならずや。」
羊客問子思曰古之帝王中分天下使二公治之謂之二伯周自後稷封為王者後子孫據國至太王王季文王此固世為諸侯矣焉得為西伯乎子思曰吾聞諸子夏殷王帝乙之時王季以功九命作伯受珪瓉鬯之賜故文王因之得專征伐此以諸侯為伯猶周召之君為伯也
羊客は子思に問うた。「古代の帝王は天下を中より分け、二公をして治理せしめ、之を二伯と呼ぶ。周は后稷が封を受けて王者の後と為り、子孫は国土を拠有す。太王・王季・文王に至るまで、本より世々皆是れ諸侯。何を以て西伯を為し得ん。」子思は言った。「私は子夏が言いしを聞く——殷王帝乙の時、王季は功に因りて九命に伯と為され、珪瓚秬鬯の賞賜を受けた。だから文王は此に沿袭して、以て専ら征伐を事とするを得たり。これは諸侯を以て伯と為すにして、猶お周公・召公が君を為して伯と為るがごとし。」
子思年十六適宋宋大夫樂朔與之言學焉朔曰尚書虞夏數四篇善也下此以訖於秦費効堯舜之言耳殊不如也子思荅曰事變有極正自當耳假令周公堯舜不更時異防其書同矣樂朔曰凡書之作欲以喻民也簡易為上而乃故作難知之辭不亦繁乎子思曰書之意兼復深奧訓誥成義古人所以為典雅也曰昔魯委巷亦有似君之言者伋荅之曰道為知者傳苟非其人道不傳矣今君何似之甚也樂朔不悅而退曰孺子辱吾其徒曰魯雖以宋為舊然世有讐焉請攻之遂圍子思宋君聞之不待駕而救子思子思既免曰文王困於羑里作周易祖君屈於陳蔡作春秋吾困於宋可無作乎於是撰中庸之書四十九篇
子思は十六歳にして宋国に至る。宋の大夫楽朔は彼と学問を談ず。楽朔は曰く——「『尚書』の虞・夏の那幾篇は好し。其以下自り秦・費に至るは、只だ堯舜の話に仿効するのみ。遠く彼らに及ばず。」子思は答えた。「事の変化は極限有り。其の時に当たりて自然に当に然るべし。假に周公・堯舜をして時勢を変更せしめざれば、彼らの書も亦た相同じからん。」楽朔は曰く——「およそ書の写作は、百姓をして明白ならしめんと欲す。簡易を上と為す。而も故意に難懂の辞を写し出す。亦た繁に過ぎざらんや。」子思は言った。「『書』の意は兼復深奥にして、訓誥は義理を成就す。これ古人の以て典雅と為す所以なり。」又た曰く——「昔、魯国の陋巷にも亦たあなたのごとき話す人有り。伋は答えた——『道は智者の為に伝うる所。もし其の種の人に非ざれば、道は伝わらず。』今、あなたは何ぞ彼に像ること此のごとく甚しきを至らん。」楽朔は喜ばずして退きて曰く——「此の子は我を侮辱せり。」其の門徒は曰く——「魯は宋を以て旧国と為すと雖も、可なり世代の仇有り。請う、彼を攻打せん。」ここに於いて子思を囲む。宋君は之を聞いて、駕を及ばずして往きて子思を救う。子思は難を免れて後に曰く——「文王は羑里に困みて『周易』を作り、先祖は陳蔡に困みて『春秋』を作り、我は宋に困む。著作無かる可けんや。」ここに於いて『中庸』の書四十九篇を撰成す。
廵狩第八
廵狩第八
子思遊齊陳莊伯與登泰山而觀見古天子廵狩之銘焉陳子曰我生獨不及帝王封禪之世子思曰子不欲爾今周室卑防諸侯無霸假以齊之眾連鄰國以輔文武子孫之有徳者則齊桓晉文之事不足言也陳子曰非不悅斯道力不堪也子聖人之後吾願有聞焉敢問昔聖帝明王廵狩之禮可得聞乎子思曰凡求聞者為求行之也今子自計必不能行欲聞何為陳子曰吾雖不敏亦樂先王之道於子何病而不我告也子思乃告之曰古者天子將廵狩必先告於祖禰命史告群廟及社稷圻內名山大川告者七日而徧親告用牲史告用幣申命冢宰而後清道而出或以遷廟之主行載於齊車毎舍奠焉及所經五嶽四瀆皆有牲幣歳二月東廵狩至於岱宗柴於上帝望秩于山川所過諸侯各待於境天子先問百年者所在而親問之然後覲方岳之諸侯有功徳者則發爵賜服以順陽義無功者則削黜貶退以順隂義命史採民詩謡以觀其風命市納價察民之所好惡以知其志命典禮正制度均量衡考衣服之等協時月日辰入其疆遺老失賢掊克在位則君免山川社稷有不親舉土荒民遊為無教無教者則君退民僭上為無法無法者則君罪入其疆土地墾闢養老尊賢俊傑在位則君有慶遂南廵五月至於南嶽又西廵八月至於西嶽又北廵十有一月至於北嶽其禮皆如岱宗歸反舍於外次三日齋親告於祖禰用特命有司告群廟社稷及圻內名山大川而後入聽朝此古者明王廵狩之禮也陳子曰諸侯朝於天子盟防霸主則亦告宗廟山川乎子思曰告哉陳子曰王者廵狩不及四嶽諸侯盟防不越鄰國則其禮同乎異乎子思曰天子封圻千里公侯百里伯七十里子男五十里虞夏殷周之常制也其或出此封者則其禮與廵狩朝防無變其不越封境雖行如國陳子曰古之義也吾今而後知不學者淺之為人也
子思は斉に游び、陳荘伯とともに泰山に登りて観覧し、古代の天子の巡狩の銘文を見た。陳子は曰く——「我が此の生は独り帝王封禅の世代に趕上らず。」子思は曰く——「是れあなたが自ら思わざるのみ。今、周室は卑微にして、諸侯に霸主無し。假に斉国の民衆を以て隣国を連結し、文王・武王の子孫の中の徳有る者を輔佐せば、則ち斉桓・晋文の事は言うに足らず。」陳子は曰く——「此の道を好まざるに非ず、力量足らざるなり。あなたは聖人の後なり。我は聴聞する所有らんを願う。敢えて問う——昔の聖帝明王の巡狩の礼は、聴き得べきか。」子思は曰く——「およそ聴聞を求むるは、実行を求むるが為なり。今、あなたは自ら估めて必ず行う能わずとし、尚お聴かんと欲して何を為さん。」陳子は曰く——「我は不敏と雖も、亦た先王の道を楽しむ。あなたは何ぞ必ず難しくして而も我に告げざらん。」子思は乃ち彼に告げて曰く——「古代の天子は将に巡狩せんとすれば、必ず先ず祖禰に告げ、史官に命じて群廟および社稷・畿内の名山大川に告げしむ。告ぐる人は七日にして告遍す。親告は牲を用い、史官の告は幣を用い。冢宰に申命して後に清道して出発す。或いは遷廟の神主を斎車に載せて随行し、一処に停留する毎に奠を設く。経過する所の五岳四瀆は皆牲幣有り。毎年二月に東巡狩し、岱宗に到り、燔柴して上帝を祭り、望祭して山川は其の差等に按ず。過ぐる所の諸侯は各々辺境に於いて等候す。天子は先ず百年の老人の在る処を問い、親しく往きて問い、然る後に方岳の諸侯を接見す。功徳有る者は爵を発し服を賜う——以て陽義に順う。功無き者は削黜して貶退す——以て陰義に順う。史官に命じて民間の歌謡を採集して以て風俗を観察し、市官に命じて物価を呈上し・百姓の好悪を察看して以て彼らの心志を了解し、典礼に命じて制度を校正し・度量衡を均平し・衣服の等次を考核し・時月日辰を協調せしむ。其の疆域に入れば、もし老人を遺落し・賢人を失去し・聚斂する者が位に在れば、則ち国君を免職す。山川社稷に親祭すべきに親祭せざる有り・土地は荒廃し・百姓は游荡せば、是れ教化無し。教化無ければ則ち国君を斥退す。百姓は僭越して上に在れば、是れ法無し。法無ければ則ち国君を治罪す。其の疆域に入れば、土地は開墾し・老を養い賢を尊び・俊傑は位に在れば、国君は則ち慶賞有り。ここに於いて南巡し、五月に南岳に到る。又た西巡し、八月に西岳に到る。又た北巡し、十一月に北岳に到る。礼仪は皆岱宗と同じ。帰り来たりて後、外に住すること三日にして斎戒し、親しく特牲を以て祖禰に告げ、有司に命じて群廟・社稷および畿内の名山大川に告げしめ、然る後に朝に入りて政を聴く。これ古代の明王の巡狩の礼なり。」陳子は曰く——「諸侯が天子に朝見し・霸主の所に於いて会盟するも、亦た宗廟山川に告ぐるか。」子思は曰く——「告ぐるを要す。」陳子は曰く——「王者の巡狩は四岳に到らず、諸侯の会盟は隣国を超過せず。礼仪は相同じく或いは同じからざるか。」子思は曰く——「天子の封畿は千里、公侯は百里、伯は七十里、子男は五十里——是れ虞・夏・殷・周の常制なり。もし此の封境を走出せば、礼仪は巡狩・朝会と変化無し。もし封境を越出せざれば、出行すと雖も亦た国中に在るがごとし。」陳子は曰く——「これ古代の義なり。我は今より後にして乃ち学習せざる人の見識の如何に浅きかを知らん。」
公儀第九
公儀第九
魯人有公儀僣者【數本皆作潛】砥節礪行樂道好古恬於榮利不事諸侯子思與之友穆公因子思欲以為相謂子思曰公儀子必輔寡人叄分魯國而與之一子其言之子思對曰如君之言則公儀子愈所以不至也君若飢渴待賢納用其謀雖蔬食水飲伋亦願在下風今徒以髙官厚祿釣餌君子無信用之意公儀子之智若魚鳥可也不然則彼將終身不躡乎君之庭矣且臣不佞又不任為君操竿下釣以蕩守節之士也
魯人に公儀潜と呼ぶ者有り【幾箇かの本は皆『潜』と作る】。節行を磨礪し、道を楽しみ古を好み、栄利に恬淡して、往きて諸侯に事えず。子思は彼と朋友を交わす。穆公は子思に因りて彼を相と為さんと欲し、子思に対して曰く——「公儀子は必ず寡人を輔佐せよ。我は魯国を三份に分けて其の一份を彼に与えん。あなたは往きて説かんを請う。」子思は答えた。「あなたの此の話に拠れば、公儀子は更に來たらざらん。あなたが若し飢渇のごとく賢人を待ち、彼の謀画を採納・実行せば、たとえ蔬食・飲水なりとも、伋も亦た下風に於いて聴命せんを願わん。今、只だ高官厚禄を以て釣餌と為し、往きて君子を釣らんとす。彼を信用するの意思無し。公儀子の智がもし魚鳥のごとくならば、尚可なり。然らざれば、彼は終身あなたの庭院を踏むことを為さざらん。況んや臣は不才にして、又たあなたの為に竿を操り釣を下し、往きて節を守る士を動摇せしむるに勝任せず。」
閭丘溫見田氏將必危齊欲以其邑叛而適魯穆公聞之謂子思曰子能懷之則寡人割邑如其邑以常宗子思曰伋雖能之義所不為也公曰何子思對曰彼為人臣君將敗弗能扶而叛之逆臣制國弗能以其身死而逃之此罪誅之人也伋縱不能討而又要利以召姦非忍行也
閭丘温は田氏が必将斉国を危害せんを見て、己の城邑を帯びて斉を叛き魯に投ぜんと欲す。穆公は之を聞いて、子思に対して曰く——「あなたが能く彼を招撫せば、寡人は則ち一塊を割きて彼の原來と同じ大なる城邑をあなたに与えて常禄と為さん。」子思は曰く——「伋はたとえ能く致すとも、義に按じて為さず。」穆公は曰く——「何の故ぞ。」子思は答えた。「彼は人臣を為りて、国君は将に敗れんとするも扶持する能わずして、反りて叛変す。逆臣は国家を控制するも、以て身を殉じて死せずして逃走す。これは誅を受くべき人なり。伋は縱い討伐する能わざるとも、再び利を要して姦人を招引するは、我の忍びて為す所に非ず。」
穆公問子思曰吾觀龍攔氏子不孝其行何如對曰臣聞明君之為政尊賢以崇德舉善以勸民則四方之內孰敢不化若夫過行是細人所識不治其本而問其過臣不知所以也公曰善
穆公は子思に問うた。「我は竜攔氏の子が不孝なるを視る。彼の行為は如何。」子思は答えた。「臣は聞く——明君の政を為るは、賢を尊びて以て徳を崇び、善を挙げて以て百姓を勧勉す。則ち四方の内、誰か敢て化せざらん。過悪の行為に至っては、是れ小人の識る所なり。根本を治理せずして而も過失を問う——臣は以て言うべきを知らず。」穆公は曰く——「善し。」
穆公謂子思曰子之書所記夫子之言或者以謂子之辭子思曰臣所記臣祖之言或親聞之者有聞之於人者雖非正其辭然猶不失其意焉且君之所疑者何公曰於事無非子思曰無非所以得臣祖之意也就如君言以為臣之辭臣之辭無非則亦所宜貴矣事既不然又何疑焉
穆公は子思に対して曰く——「あなたの書の記す所の夫子の話は、或る人は以てあなた自身の辞と為す。」子思は曰く——「臣の記する所の祖父の話は、親耳に聴きし有り、他人より聴きし有り。彼の原來の原辞に非ずと雖も、而も尚お彼の意思を失わず。況んやあなたの懐疑する所は何ぞ。」穆公は曰く——「事に於いて対せざる無し。」子思は曰く——「対せざる無きは、正しく以て臣の祖父の意思を得る所以なり。あなたの話に就きて言えば、以て臣の辞と為せば、臣の辞は対せざる無し。亦た正しく看重すべき所なり。事は既に其のごとくに非ざれば、又た何を懐疑せん。」
穆公謂子思曰縣子言子之為善不欲人譽已信乎子思對曰非臣之情也臣之修善欲人知之知之而譽臣是臣之為善有勸也此所願而不可得者也若臣之修善而人莫知莫知則必毀臣是臣之為善而受毀也此臣所不願而不可避者也若夫雞鳴為善滋滋以至夜半而曰不欲人之知恐人之譽已臣以謂斯人也者非虛則愚也
穆公は子思に対して曰く——「県子はあなたが善事を為りて人に己を称賛せしめんことを思わずと言う。本当か。」子思は答えた。「これは臣の実情に非ず。臣が善を修養するは、人に知らしめんと欲するを思う。人は知りて而も臣を称賛するは、是れ臣が善を為すに勧勉有り。これは願うにして而も得られざる所なり。もし臣が善を修養して而も人知らざれば、知らざれば則ち必ず臣を毀謗す。是れ臣が善を為りて反りて毀を受く。これは臣の願わざるにして而も避けられざる所なり。鶏の叫ぶに始めて善を為り、孜孜として夜半に至るまで、而も人に知らしめんことを思わず・人の己を称賛するを怕ると説くに至っては——臣は以て此の種の人は、虚偽に非ざれば則ち愚蠢なりと為す。」
胡母豹【魯人】謂子思曰子好大世莫能容子也盍亦隨時乎子思曰大非所病所病不大也凡所以求容於世為行道也毀道以求容容何行焉大不見容命也毀大而求容罪也吾弗改矣
胡母豹【魯人】は子思に対して曰く——「あなたは宏大を喜好す。世上はあなたを容納する能わず。何ぞ亦た時俗に随わざる。」子思は曰く——「大なるは并ならず毛病なり。毛病は大ならざるに在り。およそ世に容れらるるを求むるは、道を行わんが為なり。道を毀して容れらるるを求めば、容れられて又た何を行わん。大にして而も容れられざるは、命なり。大を毀して容れらるるを求むるは、罪なり。我は改めざらん。」
子思居貧其友有饋之粟者受二車焉或獻樽酒束脩子思弗為當也或曰子取人粟而辭吾酒脯是辭少而取多也於義則無名於分則不全而子行之何也子思曰然伋不幸而貧於財至乃睏乏將恐絶先人之祀夫以受粟為周之也酒脯則所以飲宴也方乏於食而乃飲宴非義也吾豈以為分哉度義而行也或者擔其酒脯以歸
子思は貧困の日を過ごし、朋友の彼に粟を送る者有れば、彼は両車を受けた。ある人は一樽の酒と一束の干肉を献上したが、子思は受けず。ある人は曰く——「あなたは人の粟を取りて我が酒脯を推辞す。是れ少を辞して而も多を取るなり。義に於いて名目無く、名分に於いても亦た周全ならず。あなたは而も此のごとく為す。何の故ぞ。」子思は曰く——「そうだ。伋は不幸にして財用貧乏し、困窘に至る。将に先人の祭祀を断たんを怕る。粟を受くるは、以て周済するに用いる。酒脯は則ち以て飲宴するに用いる。正しく食を缺きて、而も往きて飲宴すれば、義に合わず。我は何ぞ名分の為ならん。是れ義を度量して乃ち此のごとく為す。」其の人は只だ酒脯を担いで帰るのみ。
穆公問子思曰吾國可興乎子思曰可公曰為之奈何對曰苟君與大夫慕周公伯禽之治行其政化開公家之恵杜私門之利結恩百姓修禮鄰國其興也勃矣子思曰吾之富貴甚易而由不能夫不取於人謂之富不辱於人謂之貴不取不辱其於富貴庶矣哉
穆公は子思に問うた。「我が国は興盛し得べきか。」子思は曰く——「可なり。」穆公は曰く——「どうすべきか。」子思は答えた。「もしあなたと大夫とが周公・伯禽の治理を仰慕し、彼らの政化を推行し、公家の恩惠を敞開し、私門の利益を堵塞し、百姓に恩を結び、隣国に礼を修めば、興起は甚だ迅速ならん。」子思は曰く——「我は富貴を要するは甚だ易し。而も尚お致す能わず。人に索取せざるを富と謂い、人に侮辱を受けざるを貴と謂う。取らず・辱められずは、富貴に於いて亦た差不多なり。」
抗志第十
抗志第十
曾申【參之子】謂子思曰屈己以伸道乎抗志以貧賤乎子思曰道伸吾所願也今天下王侯其孰能哉與屈己以富貴不若抗志以貧賤屈己則制於人抗志則不愧於道
曾申【曾参の子】は子思に対して曰く——「是れ己を委屈して以て道を伸張するか。抑も志を坚持して而も貧賤に安んずるか。」子思は曰く——「道は伸張し得るは我の願う所なり。今、天下の王侯、誰か能く之を致さん。己を委屈して富貴を求むるよりは、志を坚持して貧賤に安んずるに如かず。己を委屈すれば則ち人に制約せられ、志を坚持すれば則ち道に愧ずる無し。」
子思居衛衛人釣於河得鰥魚焉其大盈車子思曰鰥魚魚之難得者也子果何得之對曰吾始下釣垂一魴之餌鰥過而弗視也更以豚之半體則吞之矣子思喟然曰鰥雖難得貪以死餌士雖懷道貪以死祿矣子思居衛魯穆公卒縣子使乎衛聞喪而服謂子思曰子雖未臣魯父母之國也先君宗廟在焉奈何不服子思曰吾豈愛乎禮不得也縣子曰請聞之荅曰臣而去國君不掃其宗廟則為之服寄公寓乎是國而為國服吾既無列於魯而祭在衛吾何服哉是寄臣而服所寄之君則舊君無服明不二君之義也縣子曰善哉我未之思也
子思は衛国に居り。衛人は河の中で魚を釣り、一条の鰥魚を釣り得た。大きさ一車を満たす。子思は曰く——「鰥魚は難得の魚なり。あなたは到底如何にして之を得たる。」其の人は答えた。「我は初め釣を下すに、一条の魴魚を垂れて餌と為す。鰥魚は経過するも看ることもせず。改めて半扇の猪肉を用いれば、則ち呑んだり。」子思は喟然として曰く——「鰥は難得と雖も、而も餌を貪るに因りて死す。士は道を懐くと雖も、而も禄を貪るに因りて死す。」子思は衛国に居り、魯穆公は死す。県子は衛国に出使して、喪訊を聞きて則ち喪服を穿き、子思に対して曰く——「あなたは魯に於いて臣を為さずと雖も、彼れは父母の国。先君の宗廟は彼に在り。何ぞ喪服を穿かざる。」子思は曰く——「我は何ぞ是れ吝惜ならん。是れ礼の許さざるなり。」県子は曰く——「請う、講聞せよ。」子思は答えた。「臣を為りて而も本国を離るれば、国君は其の宗廟を掃せば、則ち彼の為に喪を服す。此の国に寄居せば、則ち此の国の為に喪を服す。我は魯に於いて已に爵位無く、祭祀は而も衛に在り。我は何の喪を服せん。寄居の臣は所寄の国の君の為に喪を服せば、則ち旧君に対しては喪服無し。是れ二君に事えざるの義を表明す。」県子は曰く——「好しや、我は此の一層を想到せず。」
衛君言計是非而群臣和者如出一口子思曰以吾觀所為君不君臣不臣者也公丘懿子曰何乃若是子思曰人主自臧則眾謀不進事是而臧之猶卻眾謀況和非以長乎夫不察事之是非而悅人之讃已闇莫甚焉不度理之所在而阿諛求容謟莫甚焉君闇臣謟以居百姓之上民弗與也若此不已國無類矣
衛君は計謀の是非を談論す。群臣は附和すること一张の嘴より出づるがごとし。子思は曰く——「我が観る所に按じて、為す所は君は君に似ず、臣は臣に似ず。」公丘懿子は曰く——「何ぞ此のごとくに至らん。」子思は曰く——「人主は自ら以て善と為せば、衆の謀画は入る能わず。事は対にして而も自ら以て善と為すは、尚お衆の謀画を攔阻す。況んや錯誤に附和して以て之を助長するをや。事の是非を察せずして而も人の己を賛美するを好む——此より暗きは無し。理の在る所を度量せずして而も阿諛して容を求む——此より諂なるは無し。君は暗く臣は諂にして、而も百姓の上頭に坐すれば、百姓は親附せざらん。此のごとくして止まざれば、国家は剩類無からん。」
子思謂衛君曰君之國事將日非矣君曰何故對曰有由然焉君出言皆自以為是而卿大夫莫敢矯其非卿大夫出言亦皆自以為是而士庶莫敢矯其非君臣既自賢矣而群下同聲賢之賢之則順而有福矯之則逆而有禍故使如此如此則善安從生詩曰具曰予聖誰知烏之雌雄抑亦似衛之君臣乎
子思は衛君に対して曰く——「あなたの国事は将に一日比べて而も糟に至らん。」衛君は曰く——「何の故ぞ。」子思は答えた。「縁故有り。あなたの出言は皆自ら以て是と為し、卿大夫は敢て其の中の錯を矯正せず。卿大夫の出言も亦た皆自ら以て是と為し、士庶は敢て其の中の錯を矯正せず。君臣は已に皆自ら以て賢と為し、底下は又た同声に賢を称す。賢を称すれば則ち順にして而も福有り、矯正すれば則ち逆にして而も禍有り。だから此のごとくに弄成す。此のごとくにして、善は何れより生出せん。『詩経』に曰く——『具に曰く予は聖なりと、誰か烏の雌雄を知らん。』恐らく亦た衛国の君臣のごときか。」
衛君問子思曰寡人之政何如荅曰無非君曰寡人不知其不肖亦望其如此也子思曰希防容媚則君親之中正弼非則君疏之夫能使人富貴貧賤者君也在朝之士孰肯舍所以見親而取其所以見疏者乎是故競求射君之心而莫敢有非君之非者此臣所謂無非也公曰然乎寡人之過也今知改矣荅曰君弗能焉口順而心不懌者臨其事必疣君雖有命臣未敢受也司徒文子改塟其叔父問服於子思子思曰禮父母改塟緦既塟而除不忍無服送至親也非父母無服無服則吊而加麻文子曰喪服既除然後乃塟則其服何服荅曰三年之喪未塟服不變除何有焉期大功之喪服其所除之服以塟既塟而除之其虞也吉服以行事也公叔木謂申詳曰【衛公叔文子之子定公十四年奔魯木或作朱春秋作成】吾於子思親而敬之子思未吾察也申詳以告曰人求親敬於子子何辱焉子思荅曰義也申詳曰請聞之荅曰公叔氏之子愛人之同已慢而不知賢夫其親敬非心見吾所可親敬也以人口而親敬吾則亦以人口而疏慢吾矣申詳曰其不知賢奈何荅曰有龍穆者徒好飾弄辭説觀於坐席相人眉睫以為之意天下之淺人也而公叔子交之橋子良修實而不修名為善不為人之知己不撞不發如大鐘然天下之深人也而公叔子與之同邑而弗能知此其所以為愛同已而不知賢也
衛君は子思に問うた。「寡人の政治は如何。」子思は答えた。「対せざる無し。」衛君は曰く——「寡人は自ら不肖を知らずと雖も、亦た此のごとく有らんを願う。」子思は曰く——「迎合奉承・容媚する者は、あなたは則ち親近す。中正輔弼・過錯を指出する者は、あなたは則ち疏遠す。能く人を富貴貧賤せしむるは君なり。朝に在る士は、誰か肯んじて親近せらるる所以を舎て、往きて疏遠せらるる所以を取らん。だから競い君の心意を揣摩・迎合し、敢て君の対せざるを言う人無し。これ乃ち臣の謂う『対せざる無し』なり。」衛君は曰く——「是れ然るか。是れ寡人の過錯なり。今は改むべきを知れり。」子思は答えた。「あなたは致す能わず。嘴裏は順従するも心裏は喜ばざる者は、事に臨みて必ず毛病を出さん。あなたはたとえ命令有りとも、臣は敢て接受せず。」司徒文子は叔父を改葬し、子思に向いて喪服を問う。子思は曰く——「礼に按じて、父母を改葬すれば緦麻を穿き、葬畢われば則ち除去す。是れ忍びず喪服無くして至親を送るを。父母に非ざれば則ち喪服無し。喪服無ければ、則ち弔唁する時に麻を加う。」文子は曰く——「喪服は已に除去し、然る後に乃ち葬る。何の服を穿くべきか。」子思は答えた。「三年の喪は、下葬せざれば喪服は変わらず。尚お何を除去せん。期年と大功の喪は、除去すべき那套の服を穿きて往きて葬を送り、葬畢わりて再び除去す。虞祭の時は吉服を以て行事す。」公叔木は申詳に対して曰く——【公叔木は衛の公叔文子の子。定公十四年に魯に奔す。『木』は或いは『朱』と作り、『春秋』は成と作る。】「我は子思に対して親近にして敬重す。子思は而も我を察看せず。」申詳は此の話を子思に告げて曰く——「人はあなたに向いて親敬を求む。あなたは何ぞ必ず彼を羞辱せん。」子思は答えた。「是れ義なり。」申詳は曰く——「請う、講聞せよ。」子思は答えた。「公叔氏の子は己と相同じき者を喜愛し、怠慢にして而も賢を識らず。彼の親敬は、并ならず心裏に我の親敬すべき処有るを看出すに非ず。他人の口に因りて我を親敬すれば、亦た将に他人の口に因りて我を疏慢せん。」申詳は曰く——「彼は賢を識らず、如何に講せん。」子思は答えた。「竜穆と呼ぶ者有り、只だ言辞を修飾し・説法を売弄するを喜び、座席上の人の眉眼を観察して以て心意を揣摩す。是れ天下の浅薄の人。公叔子は而も彼と交往す。橋子良は実際を注重して而も名声を修飾せず。善事を為りて人に己を知らしめんと為さず。撞かざれば発せず、大鐘のごとし。是れ天下の深厚の人。公叔子は彼と同邑にして而も認識する能わず。これ即ち以て己と相同じき者を愛し而も賢を識らざる所以なり。」
子思自齊反衛衛君館而問曰【衛敬公】先生魯國之士然不以衛之偏小猶歩玉趾而慰存之願有賜於寡人也子思曰臣覉旅於此而辱君之威尊亟臨蓽門其榮多矣欲報君以財幣則君之府藏已盈而伋又貧欲報君以善言恐未合君志而徒言不聽也顧未有可以報君者唯進賢爾衛君曰賢固寡人之所願也子思曰未審君之願將何以為君曰必用以治政子思曰君弗能也君曰何故荅曰衛國非無賢才之士而君未有善政是賢才不見用故也君曰雖然願聞先生所以為賢者荅曰君將以名取士耶以實取士耶君曰必以實子思曰衛之東境有李音者賢而有實者也君曰其父祖何也荅曰世農夫也衛君乃胡盧大笑曰寡人不好農農夫之子無所用之且世臣之子未悉官之子思曰臣稱李音稱其賢才也周公大聖康叔大賢今魯衛之君未必皆同其祖考李音父祖雖善農則音亦未必與之同也君言世臣之子未悉官之則臣所謂有賢才而不見用果信矣臣之問君固疑君之取士不以實也今君不問李音之所以為賢才而聞其世農夫因笑而不愛則君取士果信名而不由實者也衛君屈而無辭
子思は斉国より衛国に帰り、衛君は館舎を安排して彼に問う——【衛敬公。】「先生は魯国の士なり。而も衛国の偏小なるを以てせず、尚お肯んじて玉趾を移動し來りて慰问・存問す。寡人に対して賜教する所有らんを願う。」子思は曰く——「臣は羈旅して此に在り、あなたの威尊を辱めて屡々柴門に降臨す。栄耀は已に多し。財幣を以てあなたに報えんと欲すれど、あなたの府蔵は已に満ち、伋は又た貧窮す。善言を以てあなたに報えんと欲すれど、あなたの志向に合わざるを怕る。空話はあなたも亦た聴かず。思うに以てあなたに報ゆべき無く、只だ賢人を進荐するのみ。」衛君は曰く——「賢人は本より是れ寡人の願う所なり。」子思は曰く——「あなたの願望を以て何を為さんとするを知らず。」衛君は曰く——「必ず以て政事を治理せん。」子思は曰く——「あなたは致す能わず。」衛君は曰く——「何の故ぞ。」子思は答えた。「衛国は賢才の士無きに非ず。而もあなたは尚お善政無し。是れ賢才の任用せられざる所以なり。」衛君は曰く——「此のごとくなりと雖も、願わくは先生の以て賢と為すは誰かを聴かん。」子思は答えた。「あなたは将に名に按じて士を取らんとするか、抑も実に按じて士を取らんとするか。」衛君は曰く——「必ず実に按ず。」子思は曰く——「衛国の東境に李音と呼ぶ者有り、賢にして而も実有り。」衛君は曰く——「彼の父・祖父は何を為す。」子思は答えた。「世代は農夫なり。」衛君はここに於いて胡盧大笑す——「寡人は農事を喜ばず、農夫の子は用処無し。況んや世臣の子は尚お全く官を授けられざるをや。」子思は曰く——「臣が李音を称道するは、彼の賢才を称す。周公は大聖、康叔は大賢。今、魯・衛の国君は未だ必ずしも彼らの祖考と同じからず。李音の父祖は善く農事を為すと雖も、李音も亦た未だ必ずしも彼らと同じからず。あなたは世臣の子が尚お全く官を授けられざると言う。則ち臣の謂う賢才有りて而も用いられざるは、果して真なり。臣はあなたに問う——本よりあなたが士を取るに実に按ぜざるを懐疑せり。今、あなたは李音の以て賢才と為すの縁由を問わず、一たび世代が農夫なるを聞きて則ち笑いて愛惜せず。則ちあなたが士を取るは果して名を信じて而も実に由らず。」衛君は理屈して、話無し。
衛君曰夫道大而難明非吾所能也今欲學術何如子思曰君無然也體道者逸而不窮任術者勞而無功古之篤道君子生不足以喜之利何足以動之死不足以禁之害何足以怨之【禁或作懼怨或作忌】故明於死生之分通於利害之變雖以天下易其脛毛無所槩於志矣是以與聖人居使窮士忘其貧賤使王公簡其富貴君無然也衛君曰善
衛君は曰く——「道は広大にして而も明白に難し。我の能う所に非ず。今、術を学習せんと欲す。如何。」子思は曰く——「あなたは此のごとくする勿れ。道を体認する人は安逸にして而も窮困せず。術を任用する人は労苦にして而も功無し。古代の道を篤守する君子は、生存は以て彼を歡喜せしむるに足らず、利は又た何ぞ以て彼を打動するに足らん。死亡は以て彼を禁止するに足らず、害は又た何ぞ以て彼を怨恨せしむるに足らん【『禁』は或いは『懼』と作り、『怨』は或いは『忌』と作る】。だから死生の分際を明白にし、利害の変化を通暁せば、たとえ天下を以て彼の小腿上の一根の毛と換うとも、心裏も亦た掛礙する所無し。此に因りて聖人と相処すれば、能く窮士をして貧賤を忘れしめ、王公をして富貴を看輕せしむ。あなたは彼のごとくする勿れ。」衛君は曰く——「善し。」
齊王謂子思曰今天下擾擾諸侯無伯吾國大人眾圖帝何如子思曰不可也君不能去君貪利之心王曰何害子思曰夫水之性清而土壤汩之人之性安而嗜慾亂之故能有天下者必無以天下為者也能有名譽者必無以名譽為者也達此則其利心外矣
斉王は子思に対して曰く——「今、天下は扰扰として、諸侯に霸主無し。我が国は土大きく人衆なり。帝業を図謀せんは如何。」子思は曰く——「可ならず。あなたは能く利を貪る心を去る能わず。」斉王は曰く——「何の害処有らん。」子思は曰く——「水の本性は清なり、土壤は之を攪渾す。人の本性は安なり、嗜欲は之を擾乱す。だから能く天下を有するは、必ず是れ天下を以て一回事と為さざる人。能く名誉を有するは、必ず是れ名誉を以て一回事と為さざる人。此の一点を通達せば、利心は則ち一邊に放到せらん。」
衛將軍文子之內子死復者曰臯媚女復子思聞之曰此女氏之字非夫氏之名也婦人於夫氏以姓氏稱禮也
衛将軍文子の嫡妻は死んだ。魂を招く人は喊び曰く——「皋——媚女、歸り來れ。」子思は之を聞いて曰く——「これは女家の字なり、夫家の名に非ず。婦人は夫家に対して、姓氏を以て称呼す。これ礼なり。」
費子陽【魯大夫家臣】謂子思曰吾念宗周將滅泣涕不可禁也子思曰然此亦子之善意也夫能以智知可知而不能以智知未可知危之道也今以一人之身憂世之不治而泣涕不禁是憂河水之濁而以泣清之也其為無益莫大焉故防子去殷紀季入齊良知時也唯能不憂世之亂而患身之不治者可與言道矣
費子陽【魯の大夫の家臣】は子思に対して言った。「私は宗周が将に滅びんとするを思って、涕泪が止まらない。」子思は言った。「そうだ、これもあなたの好意だ。智を以て知る可き所を知ることができても、智を以て未だ知る可からざる所を知ることができないのは、危険な路だ。今、一人の身を以て世道の治まらざるを憂え、涕泪が止まらないのは、河水の濁るを憂えて涙でそれを澄ませようとするようなもので、益なきことはこれより大きいものはない。だから微子は殷を離れ、紀季は斉に入った——真に時勢を知ったのだ。ただ世の乱を憂えず、自身の治まらざるを憂える者だけが、彼と道を語ることができる。」
齊王戮其臣不辜謂子思曰吾知其不辜而適觸吾忿故戮之以為不足傷義也子思曰文王葬枯骨而天下知仁商紂斬朝渉而天下稱暴夫義者不必徧利天下也暴者不必盡虐海內也以其所施而觀其意民乃去就焉今君因心之忿遷戮不辜以為無傷於義此非臣之所敢知也王曰寡人實過乃今聞命請改之
斉王は無罪の臣を殺し、子思に対して言った。「私は彼が無罪と知っていたが、ちょうど我が怒に触れたので殺した。義を傷るに足らないと思った。」子思は言った。「文王は枯骨を収葬し、天下は彼を仁と知った。商紂は朝に水を渡る人を斬殺し、天下は彼を暴と称した。義を行う者は必ずしも利を天下に遍く与えず、暴虐の者は必ずしも虐を海内に遍く施さない。ただ彼の施行する所を見て彼の心意を観察すれば、百姓はここに於いて去就を決する。今、あなたは心の怒に因り、怒を遷して無罪の人を殺し、義に傷無しと為す。これは臣の敢て認同する所に非ず。」斉王は言った。「寡人は実に錯った。今日に至りて乃ち教命を聞いた。我に改めさせよ。」
衛公子交見於子思曰先生聖人之後執清髙之操天下之君子莫不服先生之大名也交雖不敏竊慕下風願師先生之行幸顧恤之子思曰公子不宜也夫清髙之節不以私自累不以利煩意擇天下之至道行天下之正路今公子紹康叔之緒處戰伐之世當務收英雄保其疆土非所以明臧否立規檢修匹夫之行之時也衛公子交饋馬四乗於子思曰交不敢以此求先生之歡而辱先生之潔也先生久降於鄙土蓋為賔主之餼焉子思曰伋寄命以來度身以服衛之衣量腹以食衛之粟矣又且朝夕受酒脯及祭燔之賜衣食已優意氣已定以無行志未敢當車馬之貺禮雖有爵賜人不逾父兄今重違公子之盛防則有失禮之僣焉若何公子曰交已言於君矣荅曰不可為人子者三賜不及車馬公子曰我未之聞也謹受教
衛の公子交は子思に見えて言った。「先生は聖人の後、清高の操守を持守す。天下の君子は先生の大名に佩服せざる無し。交は不敏と雖も、私に下風を仰慕し、願わくは先生の行為を以て師と為さん。あなたの顧恤を願う。」子思は言った。「公子は此のごとくすべからず。清高の節は、私に因りて己を拖累せず、利に因りて心意を煩擾せず、天下の至正の道を選び、天下の至正の路を行く。今、公子は康叔の統緒を継承し、戦伐の世に処す。正しく務めて英雄を收攬し、疆土を保守すべきとき、講論して臧否し、規矩を設立し、匹夫の行を修飭する時に非ず。」衛の公子交は子思に四匹の馬を送って曰く——「交は敢て此を以て先生の歓心を求めて先生の潔を辱めず。只だ先生は久しく此の鄙陋の地に降る。権且く賓主の間の餼食と為さん。」子思は言った。「伋は命を寄せて來りてより、身を量りて衛国の衣を穿き、腹を量りて衛国の粟を食らい、又た朝夕に酒脯と祭肉の賞賜を受く。衣食は已に優裕、意気は已に安定す。出行の打算無きを以て、敢て此の車馬の賜に当たらず。礼は爵位に按じて人に賜う有ると雖も、亦た父兄を超過せず。今、若し再び公子の盛意に違背せば、則ち礼を失する僭越有り。如何せん。」公子は曰く——「交は已に国君に対して説き済ませたり。」子思は答えた。「可ならず。人の子を為る者、三度の賞賜も車馬に及ばず。」公子は曰く——「我は未だ嘗て聞かず。謹んで教えを受けん。」
穆公欲相子思子思不願將去魯魯君曰天下之王亦猶寡人也去將安之子思荅曰蓋聞君子猶鳥也疑之則舉今君既疑矣又以已限天下之君臣竊為言之過也
穆公は子思を以て相と為さんと欲したが、子思は願わず、将に魯国を離れんとした。魯君は言った。「天下の王も亦た寡人のごとし。離れて能く何れの処に往かん。」子思は答えた。「聞く——君子は猶お鳥のごとく、一たび懐疑せられれば則ち飛び去る。今、あなたは已に懐疑せり。又た自らを以て天下の君臣を限定す。臣は私に以て此の話は過分なりと為す。」
齊王謂子思曰先生名髙於海內吐言則天下之士莫不屬耳目今寡人慾相梁起起也名少願先談説之也子思曰天下之士所以屬耳目者欲伋之言是非當也今君使伋虛談於起則天下之士必改耳目矣耳目既改又無益於起是兩有喪也故不敢承命齊君曰起之不賢何也子思曰君豈未之知乎厚於財物必薄於徳自然之道也今起以貪成富聞於諸侯而無救施之惠焉以好色聞於齊國而無男女之別焉有一於此猶受其咎而起二之能無累乎王曰寡人之言實過願先生赦焉
斉王は子思に対して曰く——「先生の名は海内に高し。一たび口を開けば天下の士は耳目を竪てざる無し。今、寡人は梁起を以て相と為さんと欲す。梁起は名声小なり。あなたが先に彼の為に談説せんを願う。」子思は曰く——「天下の士が耳目を竄てる所以は、伋の話の是非得当なるを欲するが故なり。今、あなたは伋をして空を凭にして梁起を談説せしめば、天下の士は必ず耳目を改換せん。耳目は改まりて、梁起に対して又た益無し。是れ両頭共に損失す。だから敢て命に従わず。」斉君は曰く——「梁起は賢ならず、何の故ぞ。」子思は曰く——「あなたは豈に尚お知らざるか。財物に厚ければ必ず徳に薄し。是れ自然の道理なり。今、梁起は貪を以て富を成し、諸侯に聞こゆ。而も救施の恩惠無し。好色を以て斉国に聞こゆ。而も男女の分別無し。其の中の一項有れば尚お咎責を受く。梁起は両項皆具わる。能く牽累無からんや。」斉王は曰く——「寡人の話は実に過分なり。先生の赦免を願う。」
子思見老萊子老萊子聞穆公將相子思老萊子曰若子事君將何以為乎子思曰順吾性情以道輔之無死亡焉老萊子曰不可順子之性也子性剛而傲不肖又且無所死亡非人臣也子思曰不肖故人之所傲也夫事君道行言聽則何所死亡道不行言不聽則亦不能事君所謂無死亡也老萊子曰子不見夫齒乎齒堅剛卒盡相磨舌柔順終以不弊子思曰吾不能為舌故不能事君
子思は老萊子に見えに行った。老萊子は穆公が将に子思を以て相と為さんとするを聞いて曰く——「若しあなたが君主に事えば、将に如何せん。」子思は曰く——「我が性情に順い、道を以て彼を輔佐す。死亡無し。」老萊子は曰く——「あなたの性情に順う可からず。あなたは性は剛にして不肖の人を傲視す。而も死亡無しは、人臣に非ず。」子思は曰く——「不肖は、正しく人の傲視する所以なり。君主に事うるに、道は行う可く、話は聴く可きとき、尚お何の死亡かあらん。道は行われず、話は聴かれざれば、亦た能く君主に事えず。謂う所の死亡無しは、即ち此れなり。」老萊子は曰く——「あなたは牙歯を見ざるか。牙歯は堅剛にして、終に相磨き尽くす。舌は柔順にして、始終壊れず。」子思は曰く——「我は能く舌を為す可からず。だから能く君主に事えず。」
小爾雅第十一
小爾雅第十一
廣詁一
広詁一
淵懿邃頥深也封巨莫莽艾祁大也頒賦鋪敷布也蓋戴燾蒙冒覆也鍾崇府最積灌聚檏叢也閱捜履庀具也攻為話相旬宰營匠治也蠲祓禋屑潔也勿蔑防曼末沒無也隆巢岸峻髙也逼尼附切局鄰傅戚近也邵媚防伐美也賢裒繁優饒夥多也幾蔡模臬法也【蔡取蓍龜義亦法也】爰換變貿交更易也生造奏詣進也索寒探裒鉤掠採略也開徹接通達也固歴彌宿舊尚久也彌愈滋強益也赫斁爽曉昕著讃曙明也皆附襲就因也封畛際限疆略界也承苐班列次也戶悛格扈止也【戶取其闔礙悛取其改皆止之義】幽曀闇昩也最冗自質要也疆窮充竟也而乃爾若汝也控彎挽引也承賛涼助佐也尋由以用也要防集載成也肆赴防疾也造之如適也掇督撫拾也肆子燼餘也拓斥啟闢開也杜實充牣塞也實牣滿也奬率勵勸也勤勉事力也經屑省過也闕缺間隙也迭遞交更也剗沒滅也黔驪黝黒也縞皓素白也彤縕朱也溢沉滅沒也載功物事也
淵・懿・邃・頤、皆深の義。封・巨・莫・莽・艾・祁、皆大の義。頒・賦・鋪・敷、皆布の義。蓋・戴・燾・蒙・冒、皆覆の義。鍾・崇・府・最・積・灌・聚・朴・叢、皆積聚の義。閲・搜・履・庀、皆具備の義。攻・為・話・相・旬・宰・営・匠、皆治理の義。蠲・祓・禋・屑、皆潔淨の義。勿・蔑・曼・末・没、皆無の義。隆・巢・岸・峻、皆高の義。逼・尼・附・切・局・隣・傅・戚、皆近の義。邵・媚・伐、皆美の義。賢・裒・繁・優・饒・伙、皆多の義。幾・蔡・模・臬、皆法の義。【蔡は蓍亀の義を取る。亦た法なり。】爰・換・変・貿・交・更、皆改易の義。生・造・奏・詣、皆進の義。索・寒・探・裒・鉤・掠・采・略、皆求取の義。開・徹・接、皆通達の義。固・歴・弥・宿・旧・尚、皆長久の義。弥・愈・滋・強、皆增益の義。赫・斁・爽・暁・昕・着・賛・曙、皆明の義。皆・附・襲・就、皆因依の義。封・畛・際・限・疆・略、皆辺界の義。承・第・班・列、皆次第の義。戸・悛・格・扈、皆止の義。【戸は閉合・阻碍の義を取り、悛は改正の義を取る。皆止なり。】幽・曀・暗・昧、皆暗の義。最・冗・自・質、皆要約の義。疆・窮・充、皆窮尽の義。而・乃・爾・若、皆汝の義。控・弯・挽、皆引の義。承・賛・涼・助、皆佐助の義。尋・由・以、皆用の義。要・集・載、皆成就の義。肆・赴、皆急速の義。造・之・如、皆往適の義。掇・督・撫、皆拾取の義。肆・子・燼、皆剩余の義。拓・斥・啓・辟、皆開通の義。杜・実・充・牣、皆堵塞の義。実・牣、皆満の義。奨・率・励、皆勧勉の義。勤・勉・事、皆用力の義。経・屑・省、皆経過の義。闕・缺・間、皆空隙の義。迭・逓・交、皆更替の義。剗・没、皆滅の義。玄・黔・驪・黝、皆黒の義。縞・皓・素、皆白の義。彤・縕、皆朱の義。溢・沉・滅、皆没の義。載・功・物、皆事の義。
廣言二
広言二
晏明陽也旰晏晩也筭麗數也□艾老也僉皆同也交校報也舒布展也翥舉也索略求也奚害何也裡度居也周浹匝也充該備也列厥陳也轓輈輿也廢措置也駕乗凌也收戢斂也禁録也掌司主也偏贅屬也麗著思也載略行也沓襲合也抵享當也庚徹通也修舒長也校戰交也謁復白也勑質正也商蔑末也延衍散也末沒終也仳辨別也菲涼薄也復旋還也祖翼送也走叩我也姓命孥子也諧籲和也悛寤覺也憾猜恨也艾盡止也忿也奸犯也汩猾亂也縮續抽也暨防及也苞跋本也肆臬極也睇題視也犯肆突也束縻縛也肆從逐也放投棄也莽蕪草也暴映曬也焮也晞烯幹也廸蹟蹈也衍演廣也袤從長也荷擔也仍再也徇歸也工官也稽考也顛殞也躋陞也戕殘也截也闢除也慁患也譴責也間非也順退也抗禦也靳取也戱也褊狹也惎忌也沮疑也虧損也毀壞也判散也蔽斷也交俱也俘罰也夷傷也枳害也締閉也靡細也辨使也牧臨也甞試也頼羸也若乃也嗟發聲也奏為也振救也庸償也賈價也贍足也曹偶也麗兩也驟數也逞快也越逺也姑且也哿可也釋觧也庸善也薦重也登升也勵勉也赫顯也韙是也丕莊也佞才也暨息也話言也願謹也豐豐也都盛也腆厚也肆緩也競逐也紀基也惎忌教也整願也愸強也薄廹也燀炊也資取也質信也餼饋也慿依也藉藉也際接也閡限也廬寄也萃集也簉倅也尤恠也瞢慚也索空也素故也視此也偟徃也矜惜也狃忲也覬望也何任也御侍也殿慎也選擇也宣示也
晏・明、皆陽の義。旰・晏、皆晚の義。筭・麗、皆数の義。□・艾、皆老の義。(底本此の字残缺。)僉・皆、皆同の義。交・校、皆報の義。舒・布、皆展の義。翥、是れ挙の義。索・略、皆求の義。奚・害、皆何の義。里・度、皆居の義。周・浹、皆匝の義。充・該、皆備の義。列・厥、皆陳の義。轓・輈、皆輿の義。廃・措、皆置の義。駕・乘、皆凌越の義。収・戢、皆收斂の義。禁、是れ録の義。掌・司、皆主の義。偏・賛、皆附属の義。麗・着、皆思の義。載・略、皆行の義。沓・襲、皆合の義。抵・享、皆当の義。庚・徹、皆通の義。修・舒、皆長の義。校・戦、皆交の義。謁・復、皆告白の義。敕・質、皆正の義。商・蔑、皆末の義。延・衍、皆散の義。末・没、皆終の義。仳・辨、皆別の義。菲・涼、皆薄の義。復・旋、皆還の義。祖・翼、皆送の義。走・叩、皆我の義。姓・命・孥、皆子の義。諧・吁、皆和の義。悛・寤、皆覚の義。憾・猜、皆恨の義。艾・尽、皆止の義。忿、是れ忿怒。奸、是れ犯。汩・猾、皆乱の義。縮・続、皆抽の義。暨、是れ及。苞・跋、皆本の義。肆・臬、皆極の義。睇・題、皆視の義。犯・肆、皆突の義。束・縻、皆縛の義。肆・従、皆逐の義。放・投、皆棄の義。莽・蕪、皆草の義。暴・映、皆晒の義。焮・晞・烯、皆干の義。迪・迹、皆蹈の義。衍・演、皆広の義。袤・従、皆長の義。荷、是れ担。仍、是れ再。徇、是れ帰。工、是れ官。稽、是れ考。顛、是れ殞。躋、是れ升。戕、是れ残。截、是れ截断。辟、是れ除。慁、是れ患。譴、是れ責。間、是れ非。順、是れ退。抗、是れ御。靳、是れ取。戯、是れ戯。褊、是れ狭。惎、是れ忌。沮、是れ疑。亏、是れ損。毁、是れ壊。判、是れ散。蔽、是れ断。交、是れ倶。俘、是れ罰。夷、是れ傷。枳、是れ害。締、是れ閉。靡、是れ細。辨、是れ使。牧、是れ臨。嘗、是れ試。頼、是れ羸。若、是れ乃。嗟、是れ発声。奏、是れ為。振、是れ救。庸、是れ償。賈、是れ価。贍、是れ足。曹、是れ偶。麗、是れ両。驟、是れ数。逞、是れ快。越、是れ遠。姑、是れ且。哿、是れ可。釈、是れ解。庸、是れ善。薦、是れ重。登、是れ升。励、是れ勉。赫、是れ顕。韙、是れ是。丕、是れ荘。佞、是れ才。暨、是れ息。話、是れ言。願、是れ謹。豊、是れ豊盛。都、是れ盛。腆、是れ厚。肆、是れ緩。競、是れ逐。紀、是れ基。惎、是れ忌教。整、是れ願。強、是れ強。薄、是れ迫。焼火、是れ炊。資、是れ取。質、是れ信。餼、是れ饋。憑、是れ依。借、是れ借。際、是れ接。閡、是れ限。廬、是れ寄。萃、是れ集。簉、是れ倅。尤、是れ怪。瞢、是れ慚。索、是れ空。素、是れ故。視、是れ此。偟、是れ往。矜、是れ惜。狃、是れ忲。覬、是れ望。何、是れ任。御、是れ侍。殿、是れ慎。選、是れ択。宣、是れ示。
廣訓三
広訓三
諸之乎也旃焉也惡乎於何也烏乎吁嗟也吁嗟嗚呼也有所嘆美有所傷痛隨事有義也無念念也無寧寧也無顯顯也不承承也不肖不似也繩之譽之也詰朝明旦也遐不黃耉言夀考也公孫碩膚徳音不瑕道成王大美聲稱逺也鄂不韡韡言韡韡也我從事獨賢勞事獨多也魴鱮甫甫語其大也麀鹿麌麌語其眾也海物維錯錯雜也雜毛曰犛雜防曰繪雜言曰哤
諸は、「之乎」の合音。旃は、「焉」。悪乎は、「于何」。烏乎は、吁嗟。吁嗟は、即ち嗚呼。歎美する所有り、傷痛する所有り、事に随いて各々意義有り。無念は、即ち念。無寧は、即ち寧。無顕は、即ち顕。不承は、即ち承。不肖は、不似なり。之を縄すは、彼を称誉す。詰朝は、明日の早晨。「遐不黄耈」は、長寿にして終わるを考うと言う。「公孫碩膚、徳音不瑕」は、成王の大美・声名の遠く伝わるを言う。「鄂不韡韡」は、韡韡として光明を言う。「我が従事は独り賢」は、労事の独り多きを言う。「魴鱮甫甫」は、其の大なるを言う。「麀鹿麌麌」は、其の多きを言う。「海物維錯」の錯は、雑なり。雑毛を牦と呼び、雑色を繪と呼び、雑言を哤と呼ぶ。
廣義四
広義四
凡無夫無妻通謂之寡寡夫曰焭寡婦曰妾婦之賤者謂之屬婦屬逮也逮婦之名言其防也非分而得謂之幸詰責以辭謂之讓男女不以禮交謂之上曰烝下曰報勞曰通不直失節謂之慙慙愧也面慙曰戁心慙曰恧體慙曰逡
およそ丈夫無く・妻無きは、通じて寡と称す。妻無き男子を煢と呼び、丈夫無き女子を嫠と呼ぶ。妾婦の中の低賤なるを属婦と呼ぶ。属は逮なり——連帯して婦人の此の名を帯び、彼女を偏次と言う。分内の該得に非ずして得るを、幸と呼ぶ。言辞を以て詰責するを、譲と呼ぶ。男女が礼に按らずして交往するを、淫と呼ぶ——上に対する淫を烝と呼び、下に対する淫を報と呼び、平輩の相淫を通と呼ぶ。直ならずして節を失うを、慙と呼ぶ。慙は即ち愧なり。脸上の慙を戁と呼び、心裏の慙を恧と呼び、身上の慙を逡と呼ぶ。
廣名五
広名五
諱死謂之大行死而復生謂之大蘇疾甚謂之阽請天子命曰未可以戚先王請諸侯命曰未可以近先君請大夫命曰未可以從先子空棺謂之櫬有屍謂之柩饋死者謂之賵衣服謂之襚埋柩謂之殔【羊至切】殔坎謂之池壙謂之竁下棺謂之窆填竁謂之封宰冢也壟塋也無主之謂之殤
死を諱んで言うを、大行と呼ぶ。死して復た生くるを、大蘇と呼ぶ。病重きを阽と呼ぶ。天子の為に命を請うは、「未だ以て先王を戚とすべからず」と言う。諸侯の為に命を請うは、「未だ以て先君に近しとすべからず」と言う。大夫の為に命を請うは、「未だ以て先子に従うべからず」と言う。空棺を櫬と呼び、死体有るを柩と呼ぶ。死者に送るを賵と呼び、衣服を襚と呼ぶ。棺柩を浅く埋むるを殔と呼ぶ【音は羊至切】、殔の坑を池と呼び、墓穴を竁と呼び、棺を下すを窆と呼び、竁を填むるを封と呼ぶ。宰は即ち冢、壟は即ち塋。神主無き鬼を殤と呼ぶ。
廣服六
広服六
治絲曰織織繒也麻紵葛曰布布通名也纊綿也絮之細者曰纊繒之精者曰縞縞之麄者曰素葛之精者曰絺麄者曰綌在首謂之元服弁髦太古布冠冠而敝之者也題頭也顛顔顙額也璽謂之印紱謂之綬襜褕謂之童容【亦云蔽膝】布褐而紩之謂之藍縷【紩縫也】袴謂之褰蔽膝謂之袡帶之垂者謂之厲大巾謂之冪覆帳謂之幄幄幕也簀床第也大扇謂之翣杖謂之梃鍵謂之籥【亦作鑰】棊局謂之奕在足謂之履履尊者曰達履謂之金舄而金絇也
絲を治むるを織と呼び、織成したるは繒。麻・紵・葛を布と呼ぶ。布は通名なり。纊は絲綿。絮の裏の細なるを纊と呼ぶ。繒の裏の精なるを縞と呼び、縞の裏の粗なるを素と呼ぶ。葛の裏の精なるを細葛と呼び、粗なるを粗葛と呼ぶ。头上に戴くを元服と呼ぶ。弁髦は太古の布冠——冠礼を行いて後に丟棄する所。題は头、顛・顔・顙は額。璽を印と呼び、紱を綬と呼ぶ。襜褕を童容と呼ぶ【亦た蔽膝と呼ぶ】。布褐を縫補せしを藍縷と呼ぶ【紩は縫なり】。袴を褰と呼び、蔽膝を袡と呼び、帯子の下垂の部分を厲と呼ぶ。大巾を羃と呼び、覆帐を幄と呼ぶ。幄は即ち幕。簀は床第。大扇を翣と呼び、杖を梃と呼び、鍵を鑰と呼ぶ【亦た鑰と作る】。棋局を奕と呼ぶ。脚上に穿くを履と呼び、尊者の履を達履と呼び、又た金舄と呼ぶ。金飾の絇有り。
廣器七
広器七
射有張布謂之侯侯中者謂之鵠鵠中者謂之正正方二尺正中者謂之方六寸棘防也鏚斧也幹瞂盾也戈句子防也【倪結切瞂房越切】刅之削謂之室室謂之鞞珌鞞之飾也矢服謂之弢小船謂之艇艇之小者曰防船頭謂之舳尾謂之艫楫謂之橈車轅上者謂之轅謂之輈軫謂之枕較謂之幹衡扼也扼上者謂之鳥啄累綆繘也縚索也大者謂之索小者謂之繩詘而戾之為防樛而紾之為絏垌地也墉牆謂之陴髙平謂之太原汪池也水之北謂之汭澤之廣謂之衍
射礼に布を張るを侯と呼び、侯の中心を鵠と呼び、鵠の中心を正と呼ぶ。正は方二尺。正の中心を質と呼ぶ。質は方六寸。棘は戟、鏚は斧。干・瞂は盾。【瞂の音は房越切。】戈は句子戟。刀の套を室と呼び、室を鞞と呼び、珌は鞞上の飾物。箭を盛る器物を弢と呼ぶ。小船を艇と呼び、艇の裏の更小さきを艖と呼ぶ。船头を舳と呼び、船尾を艫と呼び、楫を橈と呼ぶ。車轅上の横木を衡と呼び、轅を輈と呼び、軫を枕と呼び、較を干と呼ぶ。衡は即ち扼、扼上のを鳥啄と呼ぶ。累綆は汲水縄、縚は索。大なるを索と呼び、小なるを縄と呼ぶ。弯曲して擰転するを糾と呼び、糾して絞るを紲と呼ぶ。垌は平地、墉墙上の矮墙を陴と呼ぶ。高くして平なるを太原と呼ぶ。汪は池。水の北面を汭と呼ぶ。沢の広闊なるを衍と呼ぶ。
廣物八
広物八
藁謂之稈稈謂之芻生曰糓謂之粒菜謂之蔬禾穗謂之穎截穎謂之銍拔心曰揠拔根曰擢把謂之秉秉四曰筥筥十曰棘實謂之棗桑之實謂之葚柞之實謂之橡
藁を稈と呼び、稈を芻と呼ぶ。生なるを穀と呼び、做成せしを粒と呼ぶ。菜を蔬と呼ぶ。禾穂を穎と呼び、穂を截下するを銍と呼ぶ。心を抜くを揠と呼び、根を抜くを擢と呼ぶ。一把を秉と呼び、四秉を筥と呼び、十筥を稯と呼ぶ。棘の果実を棗と呼び、桑の果実を葚と呼び、柞の果実を橡と呼ぶ。
廣烏九
広烏九
去隂就陽者謂之陽烏鳩鴈是也純黒而反哺者謂之烏小而腹下白不反哺者謂之鴉烏白項而群飛者謂之燕烏白脰烏也鴉烏鸒也【鸒斯也亦曰鷝鶋】
陰処を離れて陽処に趨くを陽烏と呼ぶ——鳩・雁即ち是れ。純黒にして反哺するを烏と呼ぶ。小にして腹下白く反哺せざるを鴉と呼ぶ。烏の裏の白項にして群飛するを燕烏と呼ぶ——即ち白脰烏。鴉烏は即ち鸒。【鸒斯、亦た鷝鶋と呼ぶ。】
廣獸十
広獣十
豕彘也彘豬也其子曰豚豕之大者謂之豜小者謂之豵鳥之所乳謂之巢雞雉所乳謂之窠鹿之所息謂之潛潛槮也積柴水中而魚舍焉
豕は即ち彘、彘は即ち猪。其の幼崽を豚と呼ぶ。猪の大なるを豜と呼び、小なるを豵と呼ぶ。鳥の乳育する所を巢と呼び、鶏雉の乳育する所を窠と呼ぶ。鹿の歇息する所を潜と呼ぶ。潜は即ち柴を水に沈めて魚を誘い、柴を水中に堆積して魚を栖止せしむるなり。
度
度
跬一舉足也倍跬謂之歩【司馬法六尺為歩倍跬乃其大畧】四尺謂之仞倍仞謂之尋尋舒兩肱也倍尋謂之常五尺謂之墨倍墨謂之丈倍丈謂之端倍端謂之兩倍兩謂之疋疋有謂之束【禮纁五兩以兩為束毎束兩兩卷之二丈防合則成疋凡十卷為五束以應天九地十之數與此制異焉】
跬は一足を挙ぐ。両跬を歩と呼ぶ。【『司馬法』は六尺を以て歩と為す。両跬は其の大略なり。】四尺を仞と呼び、両仞を尋と呼ぶ。尋は両臂を舒開せる長度。両尋を常と呼ぶ。五尺を墨と呼び、両墨を丈と呼び、両丈を端と呼び、両端を両と呼び、両両を匹と呼ぶ。匹は又た束と呼ぶ者有り。【礼——黒帛と浅絳帛五両、両を以て束と為す。每束は両両を巻起し、二丈は対合して則ち匹と成る。一共十巻を為して五束と為し、以て天九地十の数に應ず。此処の制度と同じからず。】
量
量
一手之盛謂之溢兩手謂之掬掬四謂之豆豆四謂之之區區四謂之釡釡二有半謂之藪藪二有半謂之缶缶二謂之鐘鍾二謂之秉秉十六斛
一隻の手に盛り得下るを溢と呼び、両隻の手を掬と呼び、四掬を豆と呼び、四豆を区と呼び、四区を釜と呼び、両釜半を藪と呼び、両藪半を缶と呼び、両缶を鍾と呼び、両鍾を秉と呼ぶ。秉は十六斛なり。
衡
衡
二十四銖曰兩兩有半曰防倍防曰舉倍舉曰鋝鋝謂之鍰鍰四兩謂之斤斤十謂之衡衡有半謂之秤秤二謂之鈞鈞四謂之石石四謂之鼓
二十四銖を両と呼び、両有半を捷と呼び、両捷を挙と呼び、両挙を鋝と呼ぶ。鋝を鍰と呼ぶ。四鍰を斤と呼び、十斤を衡と呼び、衡有半を秤と呼び、両秤を鈞と呼び、四鈞を石と呼び、四石を鼓と呼ぶ。
孔叢子捲上
孔叢子巻上
孔叢子卷中漢孔鮒撰公孫龍第十二
孔叢子巻中 漢孔鮒撰 公孫竜第十二
公孫龍者平原君之客也好刑名以白馬為非白馬或謂子髙曰【子髙孔穿之字孔箕之子伋之孫】此人小辨而毀太道子盍往正諸子髙曰大道之悖天下之交往也吾何病焉或曰雖然子為天下故往也子髙適趙與龍防平原君家謂之曰僕居魯遂聞下風而髙先生之行也願受業之日乆矣然所不取於先生者獨不取先生以白馬為非白馬爾誠去非白馬之學則穿請為弟子公孫龍曰先生之言悖也龍之學正以白馬非白馬者也今使龍去之則龍無以教矣令龍為無以教而乃學於龍不亦悖乎且夫學於龍者以智與學不逮也今教龍去白馬非白馬是先教也而後師之不可也先生之所教龍者似齊王之問尹文也齊王曰寡人甚好士而齊國無士尹文曰今有人於此事君則忠事親則孝交友則信處鄉則順有此四行者可謂士乎王曰善是真吾所謂士者也尹文曰王得此人肯以為臣乎王曰所願不可得也尹文曰使此人於廣庭大眾之中見侮而不敢闘王將以為臣乎王曰夫士也見侮而不闘是辱則寡人不以為臣矣尹文曰雖見侮而不闘是未失所以為士也然而王不以為臣則鄉所謂士者乃非士乎夫王之令殺人者死傷人者刑民有畏王令故見侮終不敢闘是全王之法也而王不以為臣是罰之也且王以不敢闘為辱必以敢闘為榮是王之所賞吏之所罰也上之所是法之所非也賞罰是非相與曲謬雖古黃帝固所不能治也齊王無以應且白馬非白馬者乃子先君仲尼之所取也龍聞楚王張繁弱之弓載忘歸之矢以射蛟兕於雲夢之囿反而防其弓左右請求之王曰止也楚人遺弓楚人得之又何求乎仲尼聞之曰楚王仁義而未遂亦曰人得之而已矣何必楚乎若是者仲尼異楚人於所謂人也夫是仲尼之異楚人於所謂人而非龍之異白馬於謂馬悖也先生好儒術而非仲尼之所取也欲學而使龍去所以教雖百龍之智固不能當前也子髙莫之應退而告人曰言非而博巧而不理此固吾所不答也異日平原君防眾賔而延子髙平原君曰先生聖人之後也不逺千里來顧臨之慾去夫公孫子白馬之學今是非未分而先生飜然欲髙逝可乎子髙曰理之至精者則自明之豈任穿之退哉平原君曰至精之説可得聞乎答曰其説皆取之經傳不敢以意春秋記六鶂退飛覩之則六察之則鶂鶂猶馬也六猶白也覩之得見其白察之則知其馬色以名別內由外顯謂之白馬名實當矣若以絲麻加之女工為緇素青黃色名雖殊其質則一是以詩有素絲不曰絲素禮有緇布不曰布緇牛武此類甚眾先舉其色後名其質萬物之所同聖賢之所常也君子之謂貴當物理不貴繁辭若尹文之折齊王之所言與其法錯故也穿之所説於公孫子髙其智悅其行也去白馬之説智行固存是則穿未失其所師者也稱此云云沒其理矣是楚王之言楚人亡弓楚人得之先君夫子探其本意欲以示廣其實狹之故曰不如亦曰人得之而已也是則異楚王之所謂楚非異楚王之所謂人也以此為喻乃相擊切矣凡言人者總謂人也亦猶言馬者總謂馬也楚自國也白自色也欲廣其人宜在去楚欲正名色不宜去白忱察此理則公孫之辨破矣平原君曰先生言於理善矣因顧謂眾賔曰公孫子能答此乎燕客史由對曰辭則有焉理則否矣
公孫竜は平原君の門客。刑名を喜好し、「白馬は白馬に非ず」を主張す。或る人は子高に対して言った。【子高は孔穿の字。孔箕の子・孔伋の玄孫。】「此の人は小辨を以て大道を毀坏す。あなたは何ぞ往きて彼を糾正せざる。」子高は曰く——「大道は違背せらるれば、天下人は皆往きて交わり争辨せん。我は何ぞ必ず此を以て病と為さん。」其の人は曰く——「此のごとしと雖も、あなたは天下の為に着想せば、尚お一往せよ。」子高は趙国に到り、平原君の家裏に於いて公孫竜と会見し、彼に対して曰く——「僕は魯に住し、遥かに下風を聴いて而も先生の行事を推高す。願わくは業を受けんこと已に久し。然る而も先生に取らざる所は、只だ先生の『白馬は白馬に非ず』の此の一条を取らざるのみ。果して『白馬は白馬に非ず』の学を去らば、穿は則ち弟子を為らんを請う。」公孫竜は曰く——「先生の話は悖れり。竜の学問は正しく『白馬は白馬に非ず』を以て根本と為す。今、竜をして之を去らしめば、竜は教う可き無し。竜をして以て教うる無からしめて、而も尚お竜に向いて学ばんと欲するは、亦た悖ならずや。況んや竜に向いて学ぶ人は、智と学と趕上らざるに因る。今、竜を教えて『白馬は白馬に非ず』を去らしむるは、是れ先ず來りて我を教え、然る後に乃ち我を以て師と為す。此れ不可なり。先生の竜を教うる所は、斉王の尹文を問うがごとし。斉王は曰く——『寡人は甚だ士を好む。斉国は而も士無し。』尹文は曰く——『今、一人有り。君に事えば則ち忠、親に事えば則ち孝、友に交われば則ち信、郷に処れば則ち順。此の四行有り。以て士と称す可きか。』王は曰く——『善し。此れ真に我の謂う所の士なり。』尹文は曰く——『王は此の人を得て、肯んじて彼を以て臣と為すか。』王は曰く——『願う所にして而も得られざるなり。』尹文は曰く——『假に此の人、広庭大衆の中に於いて、欺侮せられて而も敢て闘わざれば、王は尚お彼を以て臣と為すか。』王は曰く——『士は欺侮せられて而も闘わざるは、耻辱なり。寡人は則ち彼を以て臣と為さず。』尹文は曰く——『欺侮せられて而も闘わざると雖も、而も以て士と為るの条件を失わず。然る而も王は彼を以て臣と為さざれば、則ち刚才の謂う所の士は、便ち士に非ざるか。王の法令——人を殺すは死を処し、人を傷るは刑を用う。百姓は王の法令を畏惧す。だから欺侮せられて終始敢て闘わず。これは王の法を保全す。王は而も彼を以て臣と為さず。これは彼を懲罰す。況んや王は敢て闘わざるを以て辱と為し、必ず敢て闘つを以て栄と為す。これは王の賞する所にして、正しく吏の罰する所。上の肯定する所にして、正しく法の否定する所。賞罰・是非は互相錯謬す。たとえ古代の黄帝と雖もも亦た治理する能わざらん。』斉王は答うべき話無し。況んや『白馬は白馬に非ず』は、正しくあなたの先君仲尼の取る所。竜は聞く——楚王は繁弱の弓を拉き、忘帰の箭を装め、雲夢の囿に於いて蛟兕を射たり。帰り來りて弓を丟う。左右は往きて找えんを請う。王は曰く——『必ずしもせず。楚人は弓を丟い、楚人は之を得る。又た何を找えん。』仲尼は之を聞いて曰く——『楚王は仁義にして而も未だ到頭せず。亦た人の之を得ると言うべきのみ。何ぞ必ず楚を言わん。』此のごとくして、仲尼は是れ楚人を謂う所の『人』の裏より分別し出す。仲尼が楚人を人の裏より分別し出すを肯定して、而も竜が白馬を馬の裏より分別し出すを否定するは、是れ悖なり。先生は儒術を喜好して、而も仲尼の取る所を否定す。学習せんと欲して、而も竜をして以て教う能くする所の东西を去らしむ。たとえ百箇の竜の智有りとも、亦た眼前の此の事に対面する法無し。」子高は回答せず、退きて下りて人に告げて曰く——「話は対せずして而も広博、巧妙にして而も理に合わず。これ本より我の答えざる所なり。」別の日、平原君は衆賓客を会集して子高を延請す。平原君は曰く——「先生は聖人の後。千里を遠しとせず來りて顧臨す。公孫子の『白馬』の学を去らんと欲す。今、是非は未だ分れ清らず。先生は而も翻然として高く飛び離れ去らんと欲す。可なるか。」子高は曰く——「理は至精の処に到れば、自ら将に明白ならん。何ぞ穿の退くを用いん。」平原君は曰く——「至精の説法は、聴き得べきか。」子高は答えた。「説法は皆経伝より取る。敢て私意を用いず。『春秋』は『六鷁退飛』を記す——遠く視れば是れ六、細かに察すれば是れ鷁。鷁は猶お馬、六は猶お白——遠く視れば其の白を見る能く、細かに察すれば乃ち其の馬なるを知る。顔色を以て名称を分別し、内は外より顕示す。之を白馬と呼ぶ。名と実とは相當す。もし絲麻を女工に交して以て緇・素・青・黄を為さしめば、顔色・名称は同じからずと雖も、質地は却って一箇なり。だから『詩』に『素絲』有りて『絲素』と説かず。礼に『緇布』有りて『布緇』と説かず。騂牛・玄牡、此の類は甚だ多し——先ず其の顔色を挙げ、後に其の質地を称す。是れ万物の同じくする所・聖賢の常に有る所なり。君子の貴ぶ所は事物の理に合するに在りて、繁辞を貴ばず。尹文が斉王を折服せし所の言うごときは、彼の法と相錯るの故なり。穿の公孫子高に悦ぶ所は、彼の智・彼の行を悦ぶなり。白馬の説を去れば、智と行とは依然として在り。此のごとくして穿は并ならず師従する所を失わず。彼のごとく称説するは、是れ理を淹没す。楚王の話は『楚人は弓を丟い、楚人は之を得る』。先君夫子は彼の本意を探り、广大を顕示せんと欲せり。其の実は反りて狭し。だから曰く——如かず亦た『人は之を得る』と言うべきのみ。これは楚王の謂う所の『楚』を分別するにして、并ならず楚王の謂う所の『人』を分別するに非ず。此を以て比喻と為せば、正好く相抵触す。およそ『人』を説くは、是れ人を総称す。亦た猶お『馬』を説くは是れ馬を総称すがごとし。楚は自ら是れ国名、白は自ら是れ顔色。『人』を更に広く説かんと欲せば、『楚』を去るべし。名称の顔色を正さんと欲せば、『白』を去るべからず。誠心此の理を察せば、公孫の辨は則ち破れん。」平原君は曰く——「先生の話は理上に於いて甚だ好し。」ここに於いて頭を回らして衆賓客に対して曰く——「公孫子は能く此れに答えんや。」燕客の史由は対答して曰く——「辞は是れ有り、理は却って無し。」
公孫龍又與子髙記論於平原君所辨理至於臧三耳公孫龍言臧之三耳甚辨析子髙弗應俄而辭出明日復見平原君曰疇昔公孫之言信辨也先生實以為何如答曰然幾能臧三耳矣雖然實難僕願得又問於君今為臧三耳甚難而實非也謂臧兩耳甚易而實是也不知君將從易而是者乎亦從難而非者乎平原君弗能應明日謂公孫龍曰公無復與孔子髙辨事也其人理勝於辭公辭勝於理辭勝於理終必受詘
公孫竜は又た子高と平原君の所に於いて記論し、辨理は『臧は三耳有り』に説き至った。公孫竜は臧之三耳を講じて、非常に辨析す。子高は答えず、しばらくして辞して出で去る。明日、再び平原君に見えて、平原君は曰く——「前天の公孫の話は確かに善辨なり。先生は実際に以て如何。」子高は答えた。「そうだ。幾らか臧を以て三耳と説き成す能し。此のごとしと雖も、実は甚だ難し。僕は願わくは再び君に問わん——今、臧に三耳有りと主張するは、甚だ難しくして而其の実は対せず。臧に両耳有りと説くは、甚だ易くして而其の実は対し。君は将に易くして而も対するに従わんか、抑も難しくして而も対せざるに従わんか。」平原君は答うる能わず。明日、公孫竜に対して曰く——「あなたは再び孔子高と事を辨する勿れ。彼の人は理は辞に勝り、あなたは辞は理に勝る。辞は理に勝れば、終竟は必ず屈を受けん。」
李寅言曹良於平原君欲仕之平原君以問子髙子髙曰不識也平原君曰良嘗得見於先生矣故敢問子髙曰世人多自稱上用我則國無患夫用智莫若觀其身其身且猶不免於患國用之亦烏得無患乎平原君曰良之有患時不明也居家理治可移於官良能殖貨故欲仕之子髙曰未可知也今有人於此身脩計明而貧者志不存也身不脩防計闇而富者非盜無所得之也
李寅は平原君に向いて曹良を称道し、彼をして官を為さしめんと欲す。平原君は此の事を以て子高に問う。子高は曰く——「認識せず。」平原君は曰く——「曹良は嘗て先生に見えし有り。だから敢て問う。」子高は曰く——「世人は多く自ら称して曰く——上に在る者は我を用いれば、国家は則ち禍患無し。智を用うるは、先ず彼自身を見るに如かず。彼自身は尚お患を免れず。国家は彼を用いて、何を以て患無からん。」平原君は曰く——「曹良は患有り。是れ当时は明らかならざりしなり。家に居りて能く治理すれば、以て官を為るに移す可し。曹良は能く貨財を增殖す。だから彼を用いんと欲す。」子高は曰く——「尚お知る可からず。今、人此に有り——自身は修養し・計算は明白にして而も貧窮する者は、是れ志向が此に在らざるなり。自身は修養せず・計算は昏暗にして而も富裕する者は、盗賊に非ざれば則ち彼らを得る能わざるなり。」
儒服第十三
儒服第十三
子髙衣長裾振褒袖方麄翣【翣扇也】見平原君君曰吾子亦儒服乎子髙曰此布衣之服非儒服也儒服非一也平原君曰請吾子言之答曰夫儒者居位行道則有袞冕之服統御師旅則有介冑之服從容徒步則有若穿之服故曰非一也平原君曰儒之為名何取爾子髙曰取包眾美兼六藝動靜不失中道
子高は長裾を穿き、寛袖を甩らし、方形の粗扇【翣は扇なり】を持ちて平原君に見えに行った。平原君は曰く——「あなたも亦た儒服を穿くか。」子高は曰く——「これは布衣の服装なり。儒服に非ず。儒服は一種に非ず。」平原君は曰く——「あなたに説かんを請う。」子高は答えた。「儒者は位に居りて道を行えば、則ち袞冕の服有り。師旅を統御すれば、則ち甲冑の服有り。従容として徒歩すれば、則ち今のごときを穿く服装有り。だから曰く——一種に非ず。」平原君は曰く——「儒の此の名称は何を取るか。」子高は曰く——「其の衆美を包含し・六芸を兼備し、動静は中道を失わざるを取る。」
子髙遊趙平原君客有鄒文季節者與子髙相善及將還魯諸故人訣既畢文節送行三宿臨別文節流涕交頥子髙徒抗手而已分背就路其徒問曰先生與彼二子善彼有戀戀之心未知後防何期悽愴流涕而先生屬聲髙揖此無乃非親親之謂乎子髙曰始焉謂此二子丈夫爾乃今知其婦人也人生則有四方之志豈鹿豕也哉而常聚乎其徒曰若此二子之泣非邪答曰斯二子良人也有不忍之心若於取斷必不足矣其徒曰凡泣者一無取乎子髙曰有二焉大奸之人以泣自信婦人懦夫以泣著愛
子高は趙に游び、平原君の門客に鄒文・季節有りて、子高と交好す。将に魯に帰らんとするに及びて、諸々の故人は訣別し畢わり、鄒文・季節は行を送り、住むこと三夜。別れに臨みて文・節は涕泪は頤に交り流る。子高は只だ手を挙げるのみ、道を分かちて路に上がる。其の門徒は問うた。「先生は彼の両位と交好す。彼らは恋恋の心有り。後の何日か相見るを知らず、凄愴として泪を流す。先生は而も高声に揖を作す。これ恐らく親親の道に非ざらんか。」子高は曰く——「初めは此の両位を以て丈夫と為せり。今日に至りて乃ち彼らが婦人のごときを知る。人生は則ち四方の志有り。豈に是れ鹿豕ならんや、常に聚まりて一緒に在らんことを要せん。」門徒は曰く——「彼の両位のごとく哭するは、対せざるか。」子高は答えた。「此の両位は好人なり。忍びざるの心有り。もし決断を論ずれば、必ず足らず。」門徒は曰く——「およそ哭すれば則ち一も取る可き無しか。」子高は曰く——「両種有り——大奸の人は哭を以て信を取り、婦人と懦夫は哭を以て愛を表示す。」
平原君與子髙飲強子髙酒曰昔有遺諺堯舜千鍾孔子百觚子路嗑嗑尚飲十榼古之聖賢無不能飲也吾子何辭焉子髙曰以穿所聞賢聖以道徳兼人未聞以飲食也平原君曰即如先生所言則此言何生子髙曰生於嗜酒者葢其勸厲奬之辭非實然也平原君欣然曰吾不戱子無所聞此雅言也
平原君は子高と飲酒し、強いて子高に酒を勧めて曰く——「昔に遺諺有り——堯舜は千鍾、孔子は百觚、子路は嗑嗑として尚お能く十榼を飲む。古代の聖賢は飲む能わざる無し。あなたは何ぞ必ず推辞せん。」子高は曰く——「穿の聞く所に拠れば、聖賢は道徳を以て人に勝る。未だ嘗て飲食を以て人に勝るを聞かず。」平原君は曰く——「若し先生の言うがごとくせば、此の話は何れより生出づるか。」子高は曰く——「酒を嗜む人より生ず。蓋し是れ勧勉・奨励の辞にして、実情に非ず。」平原君は欣然として曰く——「我はあなたと戯弄せざれば、則ち此の番の雅正の話を聴くを得ざらん。」
平原君問子髙曰吾聞子之先君親見衛夫人南子又云南遊遇乎阿谷而交辭於漂女信有之乎答曰士之相信聞流言而不信者何哉以其所已行之事占之也昔先君在衞衞君問軍旅焉拒而不告問不已攝駕而去【攝取也】衞君請見猶不能終何夫人之能覿乎古者大饗夫人與焉於時禮儀雖廢猶有行之者意衞君夫人饗夫子則夫子亦弗獲已矣若夫阿谷之言起於近世殆是假其類以行其心者之為也
平原君は子高に問うた。「我は聞く——あなたの先君は親しく衛夫人の南子に見えしと。又た曰く——南に游ぶ時に阿谷に於いて漂女に遇い且つ交談せりと。真に此の事有りや。」子高は答えた。「士は互相に信任す。流言を聞きて而も相信せざるは何の故ぞ。是れ彼の已に為しし事を以て占験するを以てなり。昔、先君は衛に在り。衛君は軍旅の事を問う。彼は拒絶して答えず。問うこと止まざれば、則ち駕を取りて離去す【摂は取なり】。衛君は会見を請うも、尚お能く終了せず。又た何を以て夫人に見えん。古代の大饗は、夫人も亦た参与す。当时は礼仪は廃弛すと雖も、尚お実行する有り。意思は是れ衛君夫人が夫子を饗し、夫子も亦た已むを得ざるなり。阿谷の話に至っては、近世より起り、蓋し是れ假托して那の類の事を以て自らの心意を推行せんとする人の編出せる所なり。」
子髙適魏防秦兵將至信陵君懼造子髙之舘而問祈勝之禮焉子髙曰命勇謀之將以禦敵先使之迎於敵所從來之方為壇祈克於五帝衣服隨其方色執事人數從其方之數牲則用其方之牲祝史告於社稷宗廟邦域之內名山大川君親素服誓眾於太廟曰某人不道侵犯大國二三子尚皆同心比力死守將帥稽首再拜受命既誓將帥勒士卒陳於廟之右君立太廟之庭祝史立於社百官各警其事御於君以待命乃大鼓於廟門詔將帥命卒習射三發擊刺三行告廟用兵於敵也五兵備効乃鼔而出以即敵此諸侯應敵之禮也信陵君曰敬受教信陵君問子髙曰古者軍旅賞人必於祖戮人必於社其義何也答曰賞功於祖告分之均示不敢専也戮罪於社告中於土示聽之當也
子高は魏国に到り、秦兵は将に至らんとす。信陵君は害怕して、子高の館舎に到りて勝利を祈求する礼を問う。子高は曰く——「勇にして而も謀有る将領を任命して敵を抵禦せしめ、先ず彼をして敵の従り來るの方位に迎え向かわしめ、壇を築きて五帝に向いて敵を克たんことを祈求す。衣服は其の方位の顔色に随い、執事の人数は其の方位の数に依り、牲は其の方位の牲を用う。祝史は社稷・宗廟および邦域内の名山大川に告ぐ。国君は親しく素服を穿き、太廟に於いて衆に誓いて曰く——『某人は道無く、大国を侵犯す。二三子は皆心を同じく力を合わせて死守せよ。』将帥は稽首再拝して命を受く。誓い過ぎて後、将帥は士卒を約束し、廟の右辺に於いて列陣す。国君は太廟の庭中に立ち、祝史は社に立ち、百官は各々職事を警備し、君の跟前に於いて命を待つ。ここに於いて廟門に於いて大鼓し、将帥を詔告し、士卒をして射を習うこと三発・撃刺すること三行せしめ、廟に告げて将に敵に対して兵を用いんとす。五兵は皆准備し畢わりて、乃ち鼓を撃ちて出発し敵に趨赴す。これ諸侯の敵に應ずるの礼なり。」信陵君は曰く——「敬して教えを受けん。」信陵君は子高に問うた。「古代は軍旅は人を賞するに必ず祖廟に於いてし、人を殺すに必ず社に於いてす。義理は何ぞ。」子高は答えた。「祖廟に於いて功を賞するは、祖先に向いて分配の均平なるを報告して、敢て専断せざるを表示す。社に於いて罪有る人を殺すは、土神に向いて処罰の中を得るを報告して、聴断の得当なるを表示す。」
陳尫【魏人】性多穢訾每得酒食必先撥捐之然後乃食子髙告之曰子無然也似有態者昔君子之於酒食有率甞之義無捐放之道假其可食其上下如擇假令不潔其下滋甚陳尫曰吾知其無益意欲如此子髙曰意不可恣也夫木之性以櫽括自直可以人而不如木乎子不見夫雞耶聚糓如陵跪而啄之若縱子之意則與雞豈有異乎陳尫跪曰吾今而後知過矣請終改之子髙任司馬乂為將於齊與燕戰而敗齊君曰以子賢明故信子也答曰君知穿孰若周公齊君曰周公聖人而子賢者弗如也子髙曰然臣固弗如周公也以臣之知乂孰若周公之知其弟齊君曰兄弟審於他人子髙曰君之言是也夫以周公之聖兄弟相知之審而近失於管蔡明人難知也臣與乂相見觀其材志察其所履齊國之士弗能過也書曰知人則哲惟帝難之穿何慚焉且曹子為魯三與齊戰三敗失地然後以勇敢之節奮三尺之劒要桓公管仲於盟壇卒收其所防夫君子之敗如日月之蝕人各有能乂庸可棄乎今燕以詐破乂是乂不能於詐也臣之稱乂稱其武勇才藝不稱其詐也乂雖敗臣固不失其所稱焉齊君屈辭而不黜司馬乂
陳尫【魏人】は生性にして穢訾多し。酒食を得る毎に、必ず先ず撥掉して若干を扔棄して而る後に乃ち食らう。子高は彼に告げた。「あなたは此のごとくする勿れ。有意に做作する有るがごとし。昔、君子は酒食に対して、先に嘗むるの義有りて、扔棄するの道理無し。假に食らう可ければ、上下は皆同じく揀択す。假に潔ならざれば、下のは更に甚し。」陳尫は曰く——「我は益無きを知る。心裏は此のごとくせんと想う。」子高は曰く——「心意は放縦す可からず。木の本性は、檃括を用いれば則ち直を変る能し。人は反りて木に如かざるか。あなたは鶏を見ざるか。穀は堆積して山陵のごとし。彼は跪きて啄む。若しあなたの心意を放縦せば、鶏と何の分別かあらん。」陳尫は跪きて曰く——「我は今より後に錯りを知る。我に改めて到底せしめんを請う。」子高は司馬義を挙荐して斉国の将と為し、燕と作戦して而も敗れたり。斉君は曰く——「あなたが賢明なるを以て、だからあなたを信任せり。」子高は答えた。「あなたが穿を了解するは、周公を了解するに比べ得べきか。」斉君は曰く——「周公は聖人、而もあなたは賢者なり。比ぶ可からず。」子高は曰く——「そうだ。臣は固より周公に如かず。臣の司馬義に対する了解を以て、周公の彼の弟弟に対する了解に比ぶ可きか。」斉君は曰く——「兄弟は外人に比べて審察すること清楚なり。」子高は曰く——「あなたの話は対し。周公の聖・兄弟相知の審慎を以てすら、尚お近処に於いて管・蔡に対して失有り。人の了解し難きを見る可し。臣は司馬義と相見て、彼の材志を観察し・彼の履行する所を審察す。斉国の士は彼を超過する能わざるなり。『尚書』に曰く——『人を知れば則ち哲なり。惟れ帝も之を難しとす。』穿は何の慚愧か有らん。況んや曹劌は魯の為に三たび斉と戦い・三たび敗れ・土地を失去せり。後に勇敢の節操を凭に、奮起して三尺の剣を以て桓公・管仲を盟壇に於いて要挟し、終に失去せる所の土地を收回せり。君子の敗は、日月の蝕のごとし。人は各々能くする所有り。司馬義は豈に以て抛棄す可けんや。今、燕は詐を用いて司馬義を撃破せり。是れ司馬義は詐に擅まざるなり。臣が司馬義を称するは、彼の武勇・才芸を称す。彼の詐を称せず。司馬義は敗れたりと雖も、臣は并ならず称する所を失わず。」斉君は理屈し、因りて司馬義を黜免せず。
對魏王第十四
対魏王第十四
魏王問人主所以為患【魏安釐王】子髙對曰建大臣而不與謀嬖倖者言用則知士以疎自疑【自疑上之疎已也】嬖臣以遇徼倖者內則射合主心外則挺主之非此最人主之大患也
魏王は人主の以て患と為す所は何ぞと問うた。【魏安釐王。】子高は答えた。「大臣を設立して而も彼と謀画せず、嬖幸の話は採用せらるれば、智士は則ち疏遠せらるるに因りて自ら疑心す【自ら疑心すは上が己を疏遠するなり】。嬖臣は遇合せらるるに因りて僥倖し、内に於いては則ち主上の心に迎合し、外に於いては則ち主上の過錯を助長す。これは人主の最大の患なり。」
子髙謂魏王曰臣入魏國見君之二計臣焉張叔謀有餘範威智不逮然其功一也王曰叔也有餘威也不逮何同乎答曰駑驥同轅伯樂為之諮嗟玉石相揉和氏為之嘆息故賢愚共貫則能士匿謀真偽相錯則正士結舌叔雖有餘猶威不逮也
子高は魏王に対して曰く——「臣は魏国に入りて、あなたの両位の計臣を見る——張叔は謀画余有り、范威は智慮及ばず。然る而も彼らの功は却って一様なり。」王は曰く——「叔は余有り、威は及ばず。何を以て同じからん。」子高は答えた。「駑馬と駿馬とは同一の轅に駕すれば、伯楽は之が為に咨嗟す。玉と石とを一緒に混ぜれば、和氏は之が為に嘆息す。だから賢愚は一箇の価碼を共用すれば、能士は謀画を蔵起す。真偽は錯雑すれば、正士は口を閉す。張叔は余有りと雖も、亦た尚お是れ范威の及ばざると同じなり。」
魏王問何如可謂大臣子髙答曰大臣則必取眾人之選能犯顔諫爭公正無私者計陳事成主裁其賞事敗臣執其咎主任之而無疑臣當之而弗避君總其美臣行其義然則君不猜於臣臣不隠於君故動無過計舉無敗事是以臣主並各有得也
魏王は問うた。「如何にして以て大臣と称す可きか。」子高は答えた。「大臣は必ず衆人の推選する所・能く顔を犯して諫争し・公正にして私無き人を取らん。計謀は陳上し・事情は成功せば、主上は賞賜を裁定す。事情は失敗せば、臣子は咎責を承担す。主上は彼を任用して而も懐疑せず、臣子は担当して而も回避せず。君は其の美を総攬し、臣は其の義を実行す。此のごとくして君は臣を猜疑せず、臣は君を隠瞞せず。だから行動は錯誤の計謀無く、挙措は失敗の事無し。此に因りて臣と主とは各々皆得る所有り。」
信陵君問曰古之善為國至於無訟其道何由答曰由乎政善也上下勤徳而無私徳無不化俗無不移眾之所譽政之所是也眾之所毀政之所非也譭譽是非與政相應所以無訟也
信陵君は問うた。「古代は善く国を治め、訴訟無きに至れり。那の道は何れより來たるか。」子高は答えた。「政治の好きより來れり。上下は徳に勤んで而も私無ければ、徳は感化せざる無く、俗は転移せざる無し。衆人の称誉する所は、即ち政の肯定する所。衆人の毀る所は、即ち政の否定する所。毀誉・是非は政と相應ずれば、だから訴訟無し。」
齊王行車裂之刑群臣諍之弗聽子髙見於齊王曰聞君行車裂之刑無道之刑也而君行之臣竊以為下吏之過也王曰寡人爾民多犯法為法之輕也子髙曰然此誠君之盛意也夫人含五常之性有喜怒哀樂喜怒哀樂無過其節節過則毀於義民多犯法以法重無所措手足也今天下悠悠士無定處有徳則住無徳則去欲規覇王之業與眾大國為難而行酷刑以懼逺近國內之民將叛四方之士不至此乃亡國之道君之下吏不具以聞徒恐逆主意以為憂不慮不諫之危亡其所矜者小所防者大故曰下吏之過也臣觀之又非徒不諍而已也心知此事之為不可將有非議在後則因曰君忿意實然我諫諍必有龍逢比干之禍是為虛自居於忠正之地而闇推君主使同於桀紂也且夫為人臣見主非而不諍以陷主於危亡罪之大者也人主疾臣之弼已而惡之資臣以箕子比干之忠惑之大者也齊王曰謹聞命遂除車裂之法焉
斉王は車裂の刑罰を実行す。群臣は諫争すれども、彼は聴かず。子高は往きて斉王に見えて曰く——「あなたが車裂の刑を実行すると聞く。これは道無きの刑なり。而もあなたは之を実行す。臣は私に以て是れ下吏の過錯と為す。」王は曰く——「寡人の此のごとくするは、百姓の法を犯すこと多きを以て、法を太も軽しと覚ゆるなり。」子高は曰く——「そうだ。これは誠にあなたの盛意なり。人は五常の性を含み、喜怒哀楽有り。喜怒哀楽は節度を超過せざれば、節度は過ぎれば則ち義を毀坏す。百姓の法を犯すこと多きは、法の太も重きを以て、手脚は往きて放つ処を知らず。今、天下は悠悠として、士は固定の住処無し。徳有れば則ち留下し、徳無ければ則ち離去す。霸王の業を規画し、衆大国と難を為さんと欲するに、而も酷刑を以て遠近を恐嚇すれば、国内の百姓は将に叛離し、四方の士は來たらず。これ正しく亡国の路なり。あなたの下吏は此の等を皆禀告せず。只だ主上の意に逆らわんを怕れ、以て憂と為し、而も諫せざるの危亡を考慮せず——顧惜する所は小にして、妨碍する所は大なり。だから曰く——是れ下吏の過錯なり。臣は彼らを看るに、又た不只だ諫せざるのみ。心裏は此の事の可ならざるを知り、以後の非議有らんを怕れて、則ち曰く——『君の忿怒の心意は実に此のごとし。我は若し諫争せば、必ず関竜逢・比干の禍有らん。』これは自ら虚しく忠正の位子上に占め、而も暗中に君主を桀・紂と同じきに推し進む。況んや人臣を為るに、主上の対せざるを見て而も諫争せず、主上を危亡に陥るは、罪の裏の最大なり。人主は臣子の己を輔弼するを恨みて而も彼を厭悪し、箕子・比干の忠を以て臣子に与えて資本と為すは、惑の裏の最大なり。」斉王は曰く——「謹んで命を聞かん。」ここに於いて車裂の法を廃除す。
子髙見齊王齊王問誰可臨淄宰稱管穆焉王曰穆容貌陋民不敬答曰夫見敬在徳且臣所稱稱其材也君王聞晏子趙文子乎晏子長不過三尺面貌惡齊國上下莫不宗焉趙文子其身如不勝衣其言如不出口非但體陋辭氣又吶吶然其相晉國晉國以寧諸侯敬服皆有徳故也以穆軀形方之二子猶悉賢之昔臣嘗行臨淄市見屠商焉身脩八尺鬚髯如防面正紅白市之男女未有敬之者無徳故也王曰是所謂祖龍始者也【祖龍始乃屠商姓名】忱如先生之言於是乃以管穆為臨淄宰
子高は斉王に見えた。斉王は誰を以て臨淄宰と為す可きかを問う。子高は管穆を称道す。王は曰く——「管穆は容貌丑陋、百姓は敬わず。」子高は答えた。「人に敬重せらるるは徳に在り。況んや臣の称する所は其の才を称するなり。君王は晏子・趙文子を聞きし有るか。晏子は身長は三尺に過ぎず、面貌は丑陋なり。斉国の上下は彼を尊崇せざる無し。趙文子は身子は衣服を撑起するに似ず、話すことは口より出づるに似ず。不只だ体貌陋なるのみならず、辞気も亦た呐呐然たり。彼は晋国の相を為し、晋国は此に因りて安寧し、諸侯は敬服す。皆是れ徳有るを以てなり。管穆の躯形を以て此の両人と比ぶれば、尚お彼らに比べて賢なり。昔、臣は嘗て臨淄の市を走り過ぎ、一箇の屠商を見たり——身長八尺、須髯は戟のごとく、臉色は紅白端正なり。市上の男女は彼を敬重する無し。是れ徳無きを以てなり。」王は曰く——「これ即ち謂う所の祖竜始の彼の人なり【祖竜始は屠商の姓名】。果して先生の言うがごとし。」ここに於いて管穆を以て臨淄宰と為す。
陳士義第十五
陳士義第十五
魏王遣使者奉黃金束帛聘子順為相【孔武后名斌字子順子髙之子】子順謂使者曰若玉信能用吾道吾道固為治世也雖疏食飲水吾猶為之若徒欲制服吾身委以重祿吾猶一夫爾則魏王不少於一夫子度魏王之心以告我使者曰魏國狹小乏於聖賢寡君乆聞下風願委國先生親受教訓如肯降節豈惟魏國君臣是賴其亦社稷之神只實永受慶於是乃之魏魏王郊迎謂子順曰寡人不肖嗣先君之業先生聖人之後道徳懿邵幸見顧臨願圖國政對曰臣覊旅之臣慕君髙義是以戾此君辱貺而問以政事敢不敬受君之明命
魏王は使者を派し、黄金・束帛を捧げて子順を相と為さんと招聘す。【孔武は後に名を斌、字を子順。子高の子なり。】子順は使者に対して曰く——「若し大王は真に我が道を用い得ば、我が道は本より是れ世を治むるなり。たとえ粗飯・清水なりとも、我も亦た往きて為さん。若し只だ我が身を制服し・厚禄を以て我に委託せんと欲せば、我は不過一箇の匹夫なり。魏王は并ならず一箇の匹夫を缺少せず。あなたは魏王の心を度量して我に告げよ。」使者は曰く——「魏国は狭小にして聖賢を缺少す。寡君は久しく下風を聞き、願わくは国家を以て先生に委託し、親しく教訓を接受せん。若し肯んじて節を降して前來せば、豈に止む魏国君臣の依頼するのみならんや、社稷の神祇も亦た永遠に慶賜を承受せん。」ここに於いて子順は魏に到る。魏王は郊外に到りて迎接し、子順に対して曰く——「寡人は不肖にして、先君の事業を継承す。先生は聖人の後にして、道徳は美盛なり。幸いに顧臨し、共に国政を謀画せんを願う。」子順は答えた。「臣は羈旅の臣なり。あなたの高義を仰慕して乃ち此に到る。あなたは賜を辱めて而も政事を問う。敢てあなたの明命を敬受せざらんや。」
魏王朝群臣問理國之所先季文對曰唯在知人王未之應子順進曰知人則哲帝堯所病故四防在朝鯀任無功夫豈樂然哉人難知故也今文之對不稱吾君之所能行而乃欲強吾君以聖人所難此不可行之説也王曰先生言之對曰當今所急在修仁尚義崇徳敦禮以接鄰國而已昔舜命眾官群臣競譲徳禮之致也苟使朝臣皆有推賢之心主雖不知人則臣位必當若皆以知人為治則人主宜未過堯且其目所不見者亦必漏矣王曰善矣
魏王は群臣を朝見し、国を治むるに当たりて何を先とすべきかを問う。季文は対答して曰く——「只だ人を知るに在り。」王は應えず。子順は進み前に出でて曰く——「人を知れば則ち哲なり。帝堯も亦た此を以て病と為せり。だから四凶は尚お朝に在り・鯀は任用せられて而も功無し。何ぞ是れ此のごとくを楽しむや。是れ人の了解し難きの故なり。今、季文の対答は、吾が君の能く行う所を称説せず、而も吾が君をして聖人も亦た難しと覚ゆる事を為さんと強迫せんと欲す。これは行う可からざるの説法なり。」王は曰く——「先生に説かんを請う。」子順は答えた。「当今の急ぐ所は、仁を修め義を尚び・徳を崇び礼を敦くして以て隣国と交接するに在るのみ。昔、舜は衆官を任命せり。群臣は競い譲譲せり。是れ徳礼の致す所なり。假に朝臣をして皆賢を推す心有らしめば、主上はたとえ人を了解せずとも、臣位も亦た必ず得当ならん。若し皆人を知るを以て治と為さば、人主は当に未だ堯を超過せざるべし。況んや彼の眼睛の見えざるも亦た必ず遺漏有らんをや。」王は曰く——「善し。」
秦王得西戎利刀以之割玉如割木焉以示東方諸侯魏王問子順曰古亦有之乎對曰周穆王大征西戎西戎獻錕鋘之劒火浣之布其劒長尺有咫鏈鋼赤劒用之切玉如泥焉是則古亦有也王曰火浣之布若何對曰周書火浣布垢必投諸火布則火色垢乃灰色出火振之皜然疑乎雪焉王曰今何以獨無對曰秦貪而多求求欲無厭是故西戎閉而不致此以素防絶之也然則人主貪慾乃異物所以不至不可不慎也
秦王は西戎の利刀を得、之を以て玉を割ること木頭を割くがごとし。東方の諸侯に看せしめんと持ち來る。魏王は子順に問うた。「古代にも亦た有りや。」子順は答えた。「周穆王は大いに西戎を征し、西戎は錕鋘の剣・火浣の布を献上せり。那の剣は長さ一尺八寸、鏈鋼・赤刃。以て玉を切ること泥を切るがごとし。此のごとく見れば古代にも亦た有り。」王は曰く——「火浣の布は如何。」子順は答えた。「『周書』に曰く——火浣布は垢有れば必ず火の裏に投じれば、布は則ち火色を呈し、垢は乃ち灰色を呈す。火より出でて一たび抖せば、白きこと雪のごとし。」王は曰く——「今は何の故に独り無きか。」子順は答えた。「秦は貪婪にして求むること多し。求欲は満足無し。だから西戎は関を閉じて送り來らず。これは素を用いて以て之を隔絶す。則ち人主の貪欲は、正しく異物の來らざる所以なり。以て謹まざる可からず。」
魏王曰吾聞道士登華山則長生不死意亦願之對曰古無是道非所也王曰吾聞信之對曰未審君之所聞親聞之於不死者耶聞之於傳聞者耶君聞之於傳聞者也若聞之於不死者今安在在者君學之勿疑不在者君勿學無疑
魏王は曰く——「我は聞く——道士は華山に登れば則ち能く長生不死す。心裏も亦た願う。」子順は答えた。「古代に此の道無し。当に学ぶ所に非ず。」王は曰く——「我は聞きて而も信ず。」子順は答えた。「あなたの聞く所を知らず——是れ親耳に不死の人より聞きしか、抑も伝聞より聞きしか。若し伝聞より聞かば、則ち是れ訛伝なり。若し不死の人より聞かば、那の人は今何れの処に在るか。在れば、あなたは彼を学ぶに必ずしも疑う勿れ。在らざれば、あなたは学ぶ勿れ。亦た必ずしも疑う勿れ。」
李由之母少寡與李音竊相好而生由由有才藝仕於魏王甚愛之或曰李由母奸不知其父不足貴也王以告由且曰吾不以此賤子也雖然古之聖賢亦有似子者乎吾將舉以折毀子者李由對曰今人不通於逺在臣欲言誰爾且孔子少孤則亦不知其父者也孔子母死殯於五父之衢人見之皆以為孤葬問鄹曼父之母得合塟於防此則聖人與臣同者也王笑曰善子順聞之問魏王曰李由安得斯言王曰假以自顯無傷也對曰虛造謗言以誣聖人非無傷也且夫明主之於臣唯徳所在不以小疵妨大行也昔鬭子文生於淫而不害其為令尹今李由可則寵之何患於人之言而使橫生不然之説若欺有知則有知不受若欺凡人則凡人無知必以問臣則臣亦不為君之故誣祖以顯由也如此群臣更知由惡此必聚矣所謂求白潔而益其垢猶抱石以救溺愈不濟矣
李由の母は少年にして寡を守り、李音と私下に相好して而も李由を生下せり。李由は才芸有りて、魏に於いて官を為す。王は彼を甚だ喜愛す。或る人は曰く——「李由の母は淫乱にして、彼の父が誰かを知らず。看重するに値せず。」王は此の話を李由に告げ、且つ曰く——「我は此に因りてあなたを看輕せず。此のごとしと雖も、古代の聖賢にも亦たあなたのごとき有りや。我は将に挙げ出してあなたを毀謗する人を折服せん。」李由は答えた。「今の人は遠古に通ぜず。臣は言わんと欲するに、又た能く誰を説かん。況んや孔子は少なくして孤なり。亦た彼の父を知らず。孔子の母は死せり。五父の衢に殯す。人は見て皆以て孤葬と為す。鄹曼父の母に問いて、乃ち防に合葬するを得たり。これ即ち聖人と臣と相同じきの処なり。」王は笑いて曰く——「善し。」子順は之を聞いて、魏王に問うた。「李由は何を以て此のごときの話を説き出す能うや。」王は曰く——「假借して以て己を顕揚するのみ。傷害無し。」子順は答えた。「虚造して謗言を誣蔑し聖人を誣るは、并ならず傷害無きに非ず。況んや明主は臣に対して、只だ徳の在る処を看るのみ。小疵に因りて大行を妨碍せず。昔、鬭子文は淫乱に生まれ、并ならず彼の令尹を為るを妨碍せず。今、李由は可なれば、則ち彼を寵せよ。何ぞ必ず人の話を憂慮して、而も彼をして横に然らざるの説を生ぜしめんや。若し知有る人を欺騙せば、知有る人は接受せず。若し凡人を欺騙せば、凡人は知無し。必ず此を以て臣に問えば、臣も亦たあなたの故の為に祖先を誣蔑して以て李由を顕揚せざらん。此のごとくせば、群臣は更に李由の悪を知り、毀謗は必ず聚集せん。謂う所の潔白を求めて而も垢污を增加するは、猶お石を抱きて往きて溺水の人を救うがごとく、更に済わざるなり。」
魏王使相國修好鄰國遂連和於趙趙王既賔之而燕問子順曰今寡人慾來北狄不知其所以然答曰誘之以其所利而與之通市則自至矣王曰寡人慾因而弱之若與交市分我國貨散於夷狄是彊之也可乎答曰夫與之市者將以我無用之貨取其有用之物是故所以弱之之術也王曰何謂我之無用彼之有用答曰衣服之物則有珠玉五防飲食之物則有酒醪五熟【五味也】此即我之所有而彼之所利者也夷狄之貨唯牛馬旃裘弓矢之噐是其所饒而輕以與人者也以吾所有易彼所饒如斯不已則夷狄之用將麋於衣食矣殆可舉棰而驅之豈徒弱之而已乎趙王曰敬受教
魏王は相国を派して隣国と修好せしめ、ここに於いて趙と連和す。趙王は既に彼を以て賓客と為せり。燕人は子順に問うた。「今、寡人は北狄を招來せんと欲す。如何にすべきかを知らず。」子順は答えた。「彼らの貪る所の利を用いて以て誘引し、彼らと互通して市場すれば、彼らは自ら将に來らん。」趙王は曰く——「寡人は此に趁って彼らを削弱せんと欲す。若し彼らと交易せば、我が国の貨物を夷狄に分散するは、是れ彼らを増強す。可なるか。」子順は答えた。「彼らと交易するは、我らの用無きの貨を以て、彼らの用有るの物と換うるを取る。だから正しく是れ彼らを削弱するの辦法なり。」王は曰く——「何を我の無用・彼らの有用と謂うか。」子順は答えた。「衣服の一類は則ち珠玉・五采有り、飲食の一類は則ち酒醪・五味有り【五味】。これ即ち我らの有る所にして彼らの貪る所なり。夷狄の貨は只だ牛馬・旃裘・弓矢の器有るのみ。是れ彼らの饒多にして而も軽易に人に与える所なり。我らの有る所を以て彼らの饒多なる所と換うれば、此のごとくして停まらざれば、夷狄の器用は将に衣食の上に消耗せん。幾らか棰杖を挙げて以て彼らを駆趕する可きに至る。豈に止む削弱するのみならんや。」趙王は曰く——「敬して教えを受けん。」
枚產【魏人】問子順曰臣匱於財聞猗頓善殖貨欲學之然先生同國也當知其術願以告我答曰然知之猗頓魯之窮士也耕則常飢桑則常寒聞陶朱公富往而問術焉朱公告之曰子欲速富當畜五牸於是乃適西河大畜牛羊於猗氏之南十年之間其滋息不可計貲擬王公馳名天下以興富於猗氏故曰猗頓且夫為富者非唯一術今子徒問猗頓何也枚產曰亦將問之於先生也答曰吾貧而子問以富術縱有其術是不可用之術也昔人有言能得長生者道士聞而欲學之比往言者死矣道士髙蹈而恨夫所欲學學不死也其人已死而猶恨之是不知所以為學也今子欲求殖貨而問術於我我且自貧安能教子以富乎子之此問有似道士之學不死者也
枚産【魏人】は子順に問うた。「臣は財用匱乏す。猗頓は善く貨財を增殖すと聞く。彼を学ばんと欲す。先生は彼と同国なり。当に彼の辦法を知るべし。我に告げんを願う。」子順は答えた。「そうだ、知れり。猗頓は魯国の窮士なり。耕種すれば常に挨餓し、種桑すれば常に受寒す。陶朱公の富なるを聞きて、前に往きて術を問う。朱公は彼に告げて曰く——『あなたは快く富まんと欲せば、当に五牸を畜養すべし。』ここに於いて彼は西河に到り、猗氏の南に於いて大量に牛羊を畜養す。十年の間、滋息は計算す可からず。資財は王公に比擬し、天下に驰名す。猗氏に於いて富を興せしを以て、だから猗頓と呼ぶ。況んや富を致すは一種の辦法のみ有るに非ず。今、あなたは只だ猗頓を問う。何の故ぞ。」枚産は曰く——「亦た将に先生に向いて問わん。」子順は答えた。「我は貧窮にして而もあなたは富を致すの術を問う。たとえ彼の種の術有りとも、亦た是れ用う可からざるの術なり。昔、或る人は能く長生を得ると言えり。道士は之を聞いて学ばんと欲す。彼の処に走り至るに及びて、話す人は已に死せり。道士は足を頓かせて悔恨す。彼の学ばんと欲する所は是れ不死を学ぶ。其の人は已に死せるに尚お悔恨するは、是れ以て学ぶべきは何ぞを知らざるなり。今、あなたは貨財を增殖せんを求めて、而も我に向いて術を問う。我は自身尚お貧窮す。何を以てあなたに富を致すを教えん。あなたの此の一問は、幾らか道士の不死を学ぶに似たり。」
東里閭【魏人】空腹而好自賢欲自親於子順子順不下或曰夫君子之交於世士亦取其一節而已東閭子疏達亮直大丈夫也求為先生役而先生無意接之斯者無乃非周公之交人乎子順曰此吾所以行周公之行也夫東閭子外質頑拙有似疏直然內懐容媚諂魅非大丈夫之節也若其度骸稱膚面目鬢眉實美於人聖人論士不以為貴者無益於徳故也然東閭子中不應外侮慢世士即所謂愚人而謂人為愚者也持其虛狀以不徳於人此乃周公之所罪何交之有
東里閭【魏人】は腹中空虚にして而も自ら賢と為すを好み、子順に親近せんと欲したが、子順は身份を降下せず。或る人は言った。「君子は世上の士と交往するに、亦た只だ彼の一節を取れば則ち可なり。東閭子は疏達亮直、是れ大丈夫なり。先生の為に服役せんを求む。先生は接待の意無し。これ恐らく周公の人に交わる道理に非ざらんか。」子順は言った。「これ正しく我が周公の行を実行する所以の故なり。東閭子は外貌は質朴・頑拙にして、幾らか疏直に似たり。然る可く内心は容媚・諂魅を懐く。是れ大丈夫の節に非ず。躯体を度量し・肌肤を称量し・面目・鬢眉に至るまで、実に人に比べて美なり。聖人が士を論じて此を以て貴と為さざるは、是れ徳に益無きを以てなり。然る可く東閭子は内裏は外貌に應せず、世上の士を侮慢す。即ち謂う所の己は愚にして而も人を愚と説くの人なり。空虚の状貌を以て・徳を以て人に待せざるは、此れ正しく周公の罪責する所なり。何の交わる可きかあらん。」
宮他【魏人】見子順曰他困貧賤將欲自托富貴之門庶克免乎子順曰夫富而可以托貧貴而可以寄賤者天下寡矣非信義君子明識窮逹則不可今子所欲托者誰也宮他曰將適趙公子子順曰非其人矣雖好養士自奉而已終弗能稱也宮他曰將適燕相國子順曰彼徒兄弟甥舅各濟其私無求賢之志不足歸也宮他曰將適齊田氏子順曰齊大國也其士大夫皆有自多之心不能容子也他曰然則何向而可子順曰吾勿識也宮他曰唯先生知人願告所擇將往庇焉子順曰濟子之慾則宜若郈成子者也昔郈成子自魯聘晉過乎衞右宰谷臣止而觴之陳樂而不作送以寶璧反過而不辭其僕曰日者右宰之觴吾子甚歡也今過而不辭何也成子曰夫止而觴我與我歡也陳樂而不作告我哀也送我以璧寄之我也若由此觀之衞其有亂乎背衞三十里聞喜作難右宰死之還車而臨三舉而歸反命於君乃使人迎其妻子隔宅而居之分祿而食之其子長而反其璧夫子聞之曰智可與徵謀仁可以託孤廉可以寄財者其郈成子之謂乎今子求若人之比庇焉可也宮他曰循先生之言舍先生將安之請從執事子順辭不得已乃言之魏王而升諸朝
宮他【魏人】は子順に見えて言った。「彼は貧賤に困み、富貴の門に身を托さんと欲す。或いは能く免れんか。」子順は言った。「富にして而も以て貧を托し可く、貴にして而も以て賤を寄せ可きは、天下に甚少し。信義の君子・窮達を明識するに非ざれば、則ち以て可ならず。今、あなたの托せんと欲するは誰ぞ。」宮他は曰く——「将に趙公子の所に至らん。」子順は曰く——「彼の種の人に非ず。彼は士を養うを好むと雖も、只だ是れ己を奉養するのみ。終に能く相称せず。」宮他は曰く——「将に燕の相国の所に至らん。」子順は曰く——「彼の人は只だ兄弟・甥舅が各々其の私を済すのみ。賢を求むるの志無し。帰附するに値せず。」宮他は曰く——「将に斉の田氏の所に至らん。」子順は曰く——「斉は是れ大国なり。士大夫は皆自ら以て多しと為すの心有り。能くあなたを容納せず。」宮他は曰く——「然らば則ち何れに向いて乃ち可ならん。」子順は曰く——「我は知らず。」宮他は曰く——「只だ先生は人を知る。選擇する所を告げんを願う。我は将に往きて托庇せん。」子順は曰く——「あなたの願望を満足せしめんと欲せば、当に郈成子のごときの人のごとくすべし。昔、郈成子は魯より晋に聘し、衛を経過し、右宰谷臣は彼を留めて酒を飲ましめ、楽器を陳列して而も奏せず、彼に宝璧を送る。返りて経過するに而も辞別せず。僕人は曰く——『日前に右宰はあなたに酒を飲ましめて請うこと甚だ歡喜せり。今、経過して而も辞せざるは何の故ぞ。』成子は曰く——『我を留めて酒を飲ましめたるは、是れ我と歡好せり。楽を陳して而も奏せざるは、是れ我に哀有るを告ぐるなり。我に宝璧を送るは、是れ我が処に寄放するなり。此より観れば、衛国は大概乱有らんか。』衛を背離すること三十里、甯喜の乱を作すを聞き、右宰は死せり。車を掉転して往きて臨哭し、哭すること三度にして乃ち帰り、国君に向いて命を復し、人を遣りて右宰の妻子を迎接し、宅院を隔てて彼らを住ましめ、俸禄を分ちて彼らに食わしむ。子は長大して、璧を以て還帰せしむ。夫子は之を聞いて曰く——『智は以て彼と謀を徴し可く、仁は以て孤を彼に托し可く、廉は以て財を彼に寄せ可きは、蓋し郈成子ならんか。』今、あなたは此のごときの人を求めて以て托庇せば、乃ち可なり。」宮他は曰く——「先生の話に遵循せば、先生を離れて尚お能く何れの処に往かん。執事に跟随せんを請う。」子順は推辞するも已むを得ず、乃ち魏王に向いて説き、彼を朝堂に升上せしめた。
子順相魏改嬖寵之官以事賢才奪無任之祿以賜有功諸防職秩者不悅乃造謗言文諮【魏人】以告且曰夫不害前政而有成孰與變之而起謗哉子順曰民不可與慮始乆矣古之善為政者其初不能無謗子產相鄭三年而後謗止吾先君之相魯三月而後謗止今吾為政日新雖不能及聖賢庸知謗止獨無時乎文諮曰子產之謗嘗亦聞之未識先君之謗何也子順曰先君初相魯魯人謗誦曰麛裘而芾投之無戾芾之麛裘投之無郵及三年政成化既行民又作誦曰袞衣章甫實獲我所章甫袞衣惠我無私文諮喜曰乃知先生亦不異乎聖賢矣
子順は魏の相を為し、嬖寵の官位を改換して以て賢才を安置し、職事無きの俸禄を奪去して功有る人に賜与す。彼の職秩を丟掉せし人は高興せず、ここに於いて謗言を造る。文咨【魏人】は此を以て彼に告げ、且つ曰く——「先前の政を妨害せずして而も成就有るは、変更して而も謗言を引起すに比べて、何れか好きか。」子順は曰く——「百姓は以て彼らと開始を謀画す可からず、已に久し。古代は善く政を為す者、起初は能く謗無からざらず。子産は鄭を相し、三年にして後に謗は止む。吾が先君は魯を相し、三箇月にして後に謗は止む。今、我は政を為して日日更新す。聖賢に趕上らずと雖も、何を以て謗の止むに独り時無きを知らんや。」文咨は曰く——「子産の謗も亦た嘗て聞けり。先君の謗は怎様なるを知らず。」子順は曰く——「先君は初め魯を相し、魯人は謗誦して曰く——『麛裘して芾たり、之を投ずるに戾無し。芾たるの麛裘、之を投ずるに郵無し。』三年に及びて、政は成り化は行われ、百姓は又た誦を作して曰く——『袞衣・章甫、実に我が所を獲たり。章甫・袞衣、我に惠めて私無し。』」文咨は高興して曰く——「乃ち先生も亦た聖賢に異ならざるを知れり。」
魏王謂子順曰吾欲致天下之士奈何子順對曰昔周穆王問祭公謀父曰吾欲得天下賢才對曰去其帝王之色則幾乎得賢才矣今臣亦請君去其尊貴之色而已王曰吾欲得無慾之士為臣何如子順曰人之可使以有欲也故欲多者其所得用亦多欲少者其所得用亦少夫夷齊無慾雖文武不能制君安得而臣之
魏王は子順に対して曰く——「我は天下の士を招致せんと欲す。当に如何に弁ずべきか。」子順は答えた。「昔、周穆王は祭公謀父に問うて曰く——『我は天下の賢才を得んと欲す。』対答して曰く——『那の帝王の顔色を去れば、則ち幾らか能く賢才を得ん。』今、臣も亦たあなたに請う——尊貴の顔色を去るのみ。」王は曰く——「我は欲望無きの士を得て臣と為さんと欲す。如何。」子順は曰く——「人の以て使嗌し得る所以は、是れ欲望有るに因る。だから欲望の多きは、用い得る所も亦た多し。欲望の少なきは、用い得る所も亦た少なし。伯夷・叔斉は欲望無し。たとえ文王・武王も亦た能く制約せざらん。あなたは何を以て彼らを用いて臣と為さん。」
論勢第十六
論勢第十六
魏王問相國曰今秦負強以無道陵天下天下莫不患寡人慾割國之半以親諸侯求從事於秦可乎子順對曰以臣觀之殆無益也今天下諸侯畏秦之日乆矣數被其毒無慾復之之志心無所計委國於遊説之士遊説之士挾強秦以為資賣其國以收利義手服從曽不能制如君之謀未獲其利而祗為名適足以速秦之首誅則無以得之不如守常以須其變也王曰秦其遂有天下乎對曰必然焉雖然取不以道得不以道自古以來未有能終之者五國西誅秦子順防之秦未入境而還諸侯留兵於成臯子順謂市丘子曰此師楚為之主今兵罷而不散殆有異意君其備之市丘子曰先生幸而教之願以國寄先生子順許諾遂見楚王曰王約五國而西伐秦事既不集又乆師於市丘謗君者或以君欲攻市丘以償兵費天下之士且以是輕君而重秦又且不義君之為矣王可不卜交乎楚王曰奈何子順曰王出令使五國勿攻市丘五國重王則聽王之令矣不重王則且反王之令而攻市丘以此卜五國交王之輕重必明矣楚王敬諾而五國散
魏王は相国に問うた。「今、秦は強を仗りて、道無きを以て天下を陵駕す。天下は憂患せざる無し。寡人は国土の一半を割きて以て諸侯に親附し、求めて共に秦に對付せんと欲す。可なるか。」子順は答えた。「臣の看るに按れば、大概益無し。今、天下の諸侯が秦を畏るるの日は已に久し。屡々彼に毒害せられて、再び報復の志無し。心裏は計策無く、国家を以て遊説の士に委託す。遊説の士は強秦を挟みて以て資本と為し、彼の国を出賣して以て利を收む。拱手して服从し、竟に能く制約せず。あなたのごとく謀画するは、未だ利を得ざるに、只だ名声を成すのみ。正好く以て秦の首先の誅伐を加速す。則ち法なくして求むる所を得ず。如かず常道を守りて以て変化を待たん。」王は曰く——「秦は将に終に天下有らんか。」子順は答えた。「必然此のごとし。此のごとしと雖も、取るに道を以てせず・得るに道を以てせざれば、自古より來りて能く善終する未だ有らず。」五国は西に向いて秦を誅す。子順は参与す。未だ秦境に入らずして而も帰る。諸侯は兵を以て成皋に留む。子順は市丘子に対して曰く——「此の軍隊は楚を以て主と為す。今、兵を停めて而も解散せざるは、大概別の意思有らん。あなたは防備を要す。」市丘子は曰く——「先生は幸いに我を教え、願わくは国家を以て先生に寄托せん。」子順は答允し、ここに於いて楚王に見えて曰く——「王は五国を約して西に秦を伐つ。事は既に成功せず、又た久しく市丘に駐軍す。あなたを謗る人は或いは以てあなたが市丘を攻打して以て兵費を補償せんと欲すと為さん。天下の士は将に此に因りてあなたを看輕して而も秦を看重し、又将にあなたの行為を以て義ならずと認めん。王は以て交情を算せざる可けんや。」楚王は曰く——「当に如何に弁ずべきか。」子順は曰く——「王は令を下して五国をして市丘を攻せしむる勿れ。五国は王を看重せば、則ち王の令を聴かん。王を看重せざれば、則ち将に王の令を違反して往きて市丘を攻めん。此を用いて五国と王との交情の軽重を卜せば、必ず明白ならん。」楚王は敬諾し、五国はここに於いて散去せり。
趙閒魏將以求親於秦子順謂趙王曰【趙悼防王】此君之下吏計過也比目之魚所以不見得於人者以偶視而俱走也今秦有兼吞天下之志日夜伺間不忘於側息也趙魏與之隣接而強弱不敵秦所以不敢圖並趙魏者徒以二國並目周旋者也今無故自離以資強秦天下拙謀無過此者故臣曰君之下吏計過也夫連雞不能上捷亦猶二國搆難不能自免於秦也願王熟慮之趙王曰敬受教
趙国は魏将を窺伺し、以て秦に親を求めんと欲す。子順は趙王に対して曰く——【趙悼襄王。底本の「襄」字は訛じて「防」と作る。】「これはあなたの下吏の計謀の錯りなり。比目魚が人に捉えられざる所以は、是れ対を成して看・一緒に走るを以てなり。今、秦は天下を兼呑するの志有り。日夜は間隙を窺伺し、側臥して喘息すとも忘れず。趙・魏は彼と隣接す。強弱は能く匹敵せず。秦が敢て趙・魏を呑併せんを圖謀せざる所以は、只だ両国が比目のごとく周旋するに因る。今、故無く自ら分離して以て強秦に資助するは、天下の拙劣の謀画は此を超過する無し。だから臣はあなたの下吏の計謀の錯りと曰く。連なる鶏は能く木架に飛び上がらず。亦た猶お両国が難を構えて、能く自ら秦を免れざるがごとし。願わくは王は仔細に考慮せよ。」趙王は曰く——「敬して教えを受けん。」
韓與魏有隙子順謂韓王曰昭釐侯一世之明君也【韓宣恵王乃昭釐侯之子】申不害一世之賢相也韓與魏敵侔之國而釐侯執圭見梁君者非好卑而惡尊慮過而計失也與嚴敵為隣而動有防亡之變獨勁不能支二難故降心以相從屈己以求存也申不害慮事而言忠臣也昭釐侯聽而行之明君也今韓弱於始之韓魏弱於始之魏秦強於始之秦而背先人之舊好以區區之眾居二敵之間非良策也齊楚逺而難恃秦魏呼吸而至舍近而求逺是以虛名自累而不免近敵之困者也為王計者莫如除小忿全大好也呉越之人同舟濟江中流遇風波其相救如左右手者所患同也今不恤所同之患是不如呉越之舟人也韓王曰善
韓と魏とは嫌隙有り。子順は韓王に対して曰く——「昭釐侯は是れ一世の明君【韓宣惠王は昭釐侯の子】、申不害は是れ一世の賢相なり。韓と魏とは是れ勢均力敵の国なり。而も釐侯は圭を執りて往きて梁君に見ゆ。是れ卑下を喜びて尊貴を厭惡するに非ず。亦た思慮の過当・計謀の失誤に非ず。強敵と隣を為せば、一たび動けば則ち滅亡の変故有り。独り剛強は能く両難を支撑せず。だから心を降して相従い、己を委屈して以て存を求む。申不害は事を慮りて而も言う。是れ忠臣なり。昭釐侯は聴きて而も実行す。是れ明君なり。今、韓は起初の韓に比べて弱し、魏は起初の魏に比べて弱し、秦は起初の秦に比べて強し。而も先人の旧好を背棄し、区区の衆を以て両個の敵人の中間に処す。是れ良策に非ず。斉・楚は遠くして而も依靠し難し。秦・魏は呼吸の間に則ち到る。近を捨てて遠を求むるは、是れ虚名を以て己を拖累して、而も近敵の困迫を免れず。王の為に打算すれば、小忿を除去し・大好を保全するに如かず。呉越の人は同船にして江を渡る。中流に於いて風波に遇えば、互相に救援すること左右手のごとし。是れ患う所の相同じきを以てなり。今、同じき所の患を体恤せざれば、これ則ち呉越の同船の人に如かず。」韓王は曰く——「善し。」
秦兵攻趙魏大夫以為於魏便子順曰何謂曰勝趙則吾因而服焉不勝趙則可乗弊而擊之子順曰不然秦自孝公以來戰未嘗屈今皆良將何弊之乗大夫曰縱其勝趙於我何損鄰之不修國之福也子順曰秦貪暴之國也勝趙必復他求吾恐於時受其師也先人有言燕雀處屋子母相哺喣喣然其相樂也自以為安矣灶突炎上棟宇將焚燕雀顔不變不知禍之及己也今子不悟趙破患將及己可以人而同於燕雀乎
秦兵は趙を攻む。魏の大夫は以て魏に対して利有りと為す。子順は曰く——「如何に講するか。」大夫は曰く——「秦が趙に勝てば、我らは則ち因りて服从す。秦が趙に勝たざれば、則ち以て弊に乗じて攻撃す可し。」子順は曰く——「此のごとくに非ず。秦は孝公より以来り、戦は未だ嘗て屈服せず。今は皆是れ良将なり。何の弊に乗ぜん。」大夫は曰く——「たとえ彼が趙に勝つとも、我らに対して何の損害かあらん。隣国は整治せず。是れ我が国の福なり。」子順は曰く——「秦は是れ貪暴の国なり。趙に勝てば必ず再び別処に向いて求取せん。我は其の時には則ち其の軍隊を受けんことを怕る。先人に話有り——燕雀は屋裏に住み、母子は相哺み、喣喣然として相楽しみ、自ら以て安しと為す。灶突の火は上に向いて焼き、棟宇は将に焚かれんとす。燕雀は臉色は変わらず、禍の已に己身上に到るを知らず。今、あなたは趙の攻破せられ・患の将に己に到らんとするに醒悟せず。人は豈に以て燕雀と一様ならんや。」
齊攻趙圍廩丘趙使孔青帥五萬擊之尅齊軍獲屍三萬趙王詔勿歸其屍將以困之子順聘趙問王曰不歸屍其困何也曰其父兄子弟悲苦無已廢其產也子順曰非所以困之也死一也歸屍與不悲苦胡異焉以臣愚計貧齊之術乃宜歸屍王曰何謂對曰使其家逺來迎屍不得事農一費也歸所塟使其送死終事二費也二年之中防卒三萬三費也欲無困貧不能得已王曰善既而齊大夫聞其子順之謀曰君子之謀其利溥哉子順相魏凡九月陳大計輙不用乃喟然嘆曰不見用是吾言之不當也言不當於主而居人之官食人之祿是尸利也尸利素飱吾罪深矣退而以病致事魏王遣使入其館謝曰寡人昧於政事不顯明是非以啟罪於先生今知改矣願先生為百姓故幸起而教之辭曰臣有犬馬之疾不任國事苟得從四民之列子弟供魏國之徵乃君惠也敢辱君命以速刑書人謂子順曰王不用子子其行乎答曰吾將行如之山東則山東之國將並於秦秦為不義義所不入遂窮於家
斉は趙を攻め、廩丘を囲む。趙は孔青を派して五万を率いて斉を撃たしめ、斉軍に戦勝し、三万の尸体を獲得す。趙王は尸体を還帰せしむる勿れと詔令し、此を用いて斉を困住せんと欲す。子順は趙に聘し、王に問うた。「尸体を還帰せざるは、何れに於いて困むか。」王は曰く——「彼らの父兄子弟は悲苦して已まず。産業は則ち廃せん。」子順は曰く——「これは以て彼らを困むるに用いるに非ず。死は是れ一様なり。尸体を還帰すると還帰せざると、悲苦は何の不同かあらん。臣の愚計に按れば、斉を貧窮せしむるの辦法は、乃ち当に尸体を還帰すべし。」王は曰く——「如何に講するか。」子順は答えた。「彼らの家裏をして遠処より來りて尸を迎えしめ、能く農作に従事せざらしむ。これ是れ第一筆の費なり。帰りて安葬し、彼らをして死を送るの事を辦完せしむ。これ是れ第二筆の費なり。両年の中に傷亡の士卒は三万。これ是れ第三筆の費なり。困貧せざらんと欲するも、亦た辦り到らず。」王は曰く——「善し。」過ぎて後、斉の大夫は子順の謀画を聞いて曰く——「君子の謀画は、利益は真に広大なり。」子順は魏を相すること一共九箇月。大計を陳上するも總べて用いられず。ここに於いて喟然として嘆息す——「用いられざるは、是れ我が話の得当ならざるなり。話は主に於いて得当ならずして、而も人の官を占め・人の禄を食らうは、是れ尸位にして利を取るなり。尸位素餐、我が罪は深し。」ここに於いて病と称して職を辞す。魏王は人を派して館舎に到りて道歉せしめて曰く——「寡人は政事に昧りて、能く是非を顕明せず。以て先生に得罪するに致れり。今は改むるを知る。願わくは先生は百姓の故の為に、幸いに起きて我を教えよ。」子順は辞謝す——「臣は犬馬の疾有り。能く国事を担任せず。若能く四民の行列裏に跟いて、子弟は魏国の征役を供給せば、則ち是れあなたの恩惠なり。敢てあなたの命令を辱めて以て刑書を加速せんや。」或る人は子順に対して曰く——「王はあなたを用いず。あなたは当に走るべきか。」子順は答えた。「我は将に走らん。若し山東に到らば、山東の国は将に秦に呑併せられん。秦は義ならざるの事を為す。義の入る所に非ず。ここに於いて家裏に於いて窮処す。」
秦急攻魏王恐或謂子順曰如之何答曰吾私有計然豈能賢於執政故無言焉魏王聞之駕如孔氏親問焉曰國亡矣如之何對曰夫棄之不如用之之易也死之不如棄之之易也人能棄之弗能用也能死之不能棄也今王亡地數百里亡城數十而患不解是王棄之非用之也秦之強天下無敵魏之弱甚矣而王是以質秦【景閔王為太子時嘗質於秦】此王能死不能棄之也是重過也若能用臣之訃則虧地不足傷國卑體不足苦身患除怨報矣今秦四境之內執政以下固曰與嫪氏乎與呂氏乎門閭之下廊廟之上猶皆如是今王誠能割地賂秦以為嫪毒功卑身尊秦以固嫪毒王是以國贊嫪毒也則嫪毒勝矣於是太后之徳王也深如骨肉王之交最為天下之上矣孰不棄呂氏而從嫪毒天下皆然則王怨必報矣【按此策甚疎必非子順語】
秦は急ぎて魏を攻む。王は恐懼す。或る人は子順に対して曰く——「当に如何に弁ずべきか。」子順は答えた。「我は私下に計策有り。然る可く何れの処に於いて能く執政に比べて高明ならん。だから説かず。」魏王は之を聞いて、車を駕りて孔氏に到り、親しく問うた。「国は将に亡びんとす。当に如何に弁ずべきか。」子順は答えた。「之を抛棄するは、之を使用するに如かずして易し。之を死守するは、之を抛棄するに如かずして易し。人は能く抛棄して而も能く使用せず、能く死守して而も能く抛棄せず。今、王は土地幾百里を丟失し・城幾十座を丟失して、而も患は尚お解けず。是れ王は之を抛棄するにして、之を使用するに非ず。秦の強は、天下敵無し。魏の弱は、已に甚だ厲し。而も王は尚お此に因りて秦の為に人質を為す【景閔王は太子を為る時に嘗て秦に質せり】。これは王は能く死守して而も能く抛棄せざるなり。これは過錯を加重す。若能く臣の計を用いれば、則ち地を虧くは以て国を傷るに足らず、体を卑しくするは以て身を苦しむるに足らず。患は除去し・怨も亦た報いん。今、秦の四境の内は、執政より以下は固より皆在りて曰く——嫪氏に跟従するか、是れか吕氏に跟従するか。里巷の下・廊廟の上、皆尚お此のごとし。今、王は果して能く地を割きて秦を賄賂し、以て嫪毐の功と為し、身を卑しくして秦を尊び、以て嫪毐を鞏固せば、王は是れ国家を以て嫪毐を賛助すれば、則ち嫪毐は則ち勝たん。ここに於いて太后は王に感戴し、深きこと骨肉のごとし。王と秦との交情は則ち天下の最上等なり。誰か吕氏を抛棄して而も嫪毐に跟従せざらん。天下は皆此のごとくせば、王の怨は必ず報いん。」【按——此の条の計策は甚だ疏闊なり。必ず子順の話に非ず。】
執節第十七
執節第十七
趙孝成王問曰昔伊尹為臣而放其君其君不怨何行而得乎此也子順答曰伊尹執人臣之節而弼其君以禮亦行此道而已矣王曰方以放君為名而先生稱禮何也子順曰以禮括其君使入於善也曰其説可得聞乎答曰其在商書太甲嗣立而幹冢宰之政伊尹曰惟王舊行不義習與性成予不狎於不順王始即桐邇於先王其訓罔以後人迷王往居憂允思厥祖之明徳是言太甲在防不明乎人子之道而欲知政於是伊尹使之居桐近湯之墓處憂哀之地放之不俾知政三年服竟然後反之即所以奉禮執節事太甲者也率其君以義強其君以孝道未有行此見怨也王曰善哉我未之聞也
趙孝成王は問うた。「昔、伊尹は臣を為して而も彼の君を放逐せり。彼の君は怨まず。是れ如何に為して乃ち此のごときを得たるか。」子順は答えた。「伊尹は人臣の節を執守し、礼を以て彼の君を輔弼す。亦た不過此の道を実行するのみ。」王は曰く——「剛ち放君を以て名目と為す。先生は而も礼を称す。何の故ぞ。」子順は曰く——「礼を以て彼の君を約束し、彼をして善に入らしむるなり。」王は曰く——「那の説法は以て聴き得べきか。」子順は答えた。「『商書』の裏に在り。太甲は位を継ぎて而も冢宰の政事を干預す。伊尹は曰く——『王の旧日の行為は義ならず。習慣は本性と養成せり。我は順ならざるを親近せず。王は始めに於いて則ち桐に住み、先王に靠近し、教訓を接受して、後人をして迷惑せしむる勿れ。』王は前往して憂に居り、真に祖父の明徳を思念す。これは太甲が喪に在りて、人の子を為るの道理を明白せずして而も政事を主持せんと欲するを説く。ここに於いて伊尹は彼をして桐に住ましめ、湯の墓に靠近せしめ、憂哀の地に処せしめ、彼を放して而も彼をして政を知らしめず。三年の喪服は畢わりて、然る後に彼をして帰來せしむ。これ即ち以て礼を奉じ節を執りて太甲に事うる所以なり。義を以て彼の君を率領し、孝道を以て彼の君を強制す。此のごとく為して而も怨まるる未だ有らず。」王は曰く——「善いかな。我は未だ嘗て聞かざりき。」
魏安釐王問子順曰馬回之為人雖少才文梗梗亮直【一作緶】有大丈夫之節吾欲以為相可乎答曰知臣莫若君何有不可至於亮直之節臣未明也王曰何故答曰聞諸孫卿雲其為人也長目而豕視者必體方而心圓每以其法相人千百不失臣見回非不偉其體幹也然甚疑其目王卒用之三月果以諂得罪
魏安釐王は子順に問うた。「馬回は人を為して少才文と雖も、而も梗梗として亮直【一作に『緶』】、大丈夫の節有り。我は彼を以て相と為さんと欲す。可なるか。」子順は答えた。「臣を了解するは君に比ぶる無し。何の不可か有らん。亮直の節に至っては、臣は尚お明白ならず。」王は曰く——「何の故ぞ。」子順は答えた。「孫卿の説くを聴く——人を為して眼睛は長くして而も猪のごとく看る者は、必ず体は方にして而も心は円なり。此の法を以て人を相すること毎に、千百次に失誤無し。臣は馬回を看るに、彼の体干の偉岸なるを覚えざるに非ずと雖も、而も甚だ彼の眼睛を懐疑す。」王は終に彼を用いたり。三箇月の後に果して諂媚に因りて罪を獲たり。
新垣固謂子順曰賢者所在必興化致治今子相魏未聞異政而即自退其有志不得白何去之速也答曰以無異政所以自退也且死病無良毉今秦有吞食天下之心以義事之固不獲安救亡不暇何化之興昔伊摯在夏呂望在商而二國不理豈伊呂之不欲哉勢不可也當如今日山東之國弊而不振三晉割地以求安二週折節而入秦燕齊宋楚已屈服矣以此觀之不出二十年天下盡為秦乎
新垣固は子順に対して曰く——「賢人の在る所は、必ず教化を興し・治理を致す。今、あなたは魏を相し、異常の政有るを聞かずして、而も即ち自ら引退す。是れ志向が表白を得ざるか。何の故に去ること此のごとく快きか。」子順は答えた。「正しく異常の政無きを以て、だから自ら引退す。況んや死症は良医無し。今、秦は天下を吞食するの心有り。義を以て往きて之に事うるは、固より安を得る能わず。亡を救うも尚お及ばず。何の教化を興さん。昔、伊尹は夏に在り・吕望は商に在りて、両国は而も治理せず。豈に是れ伊・吕の想わざらんや。是れ勢の可ならざるなり。今日の山東の国の弊敗不振のごときは、三晋は地を割きて安を求め、二周は節を折りて秦に入り、燕・斉・宋・楚は已に屈服せり。此より観れば、二十年を出でずして、天下は将に尽く秦に属さんか。」
季節見於子順子順賜之酒辭問其故對曰今日家之忌日也故不敢飲子順曰飲也【禮忌日不樂而己未有無飲者】禮雖服衰麻見於君及先生與之粱肉無辭所以敬尊長而不敢遂其私也忌日方於有服則輕矣
季節は來りて子順に見え、子順は彼に酒を賜う。彼は推辞す。緣故を問えば、答えて曰く——「今日は是れ家裏の忌日なり。だから敢て飲まず。」子順は曰く——「飲め。【礼——忌日は只だ娯楽せざるのみ。飲酒せざる無し。】礼——たとえ衰麻を穿くとも、君と先生とに見え、彼に粱肉を給すれば亦た推辞せず。為す所は是れ尊長を敬して而も敢て己の私を遂げざるなり。忌日は喪服有るに比べて、尚お幾らか軽し。」
魏安釐王問天下之髙士子順曰世無其人也抑可以為次其魯仲連乎王曰魯仲連強作之者非體自然也答曰人皆作之作之不止乃成君子文武欲作堯舜而至焉昔我先君夫子欲作文武而至焉作之不變習與體成習與體成則自然矣
魏安釐王は天下の高士を問うた。子順は曰く——「世上に彼の種の人無し。或いは以て次一等を算す可きは、蓋し魯仲連ならんか。」王は曰く——「魯仲連は是れ勉強して做出せるにして、体認自然に非ず。」子順は答えた。「人は皆是れ做出するなり。做ること停まらずして、乃ち君子と成る。文王・武王は堯舜を做成せんと欲して而も達到せり。昔、我先君夫子は文王・武王を做成せんと欲して而も達到せり。做して而も改変せざれば、習慣は身体と一体に長成す。習慣は身体と一体に長成すれば、則ち是れ自然なり。」
虞卿著書名曰春秋魏齊曰子無然也春秋孔聖所以名經也今子之書大抵談説而已亦以為名何答曰經者取其事常也可常則為經矣且不為孔子其無經乎齊問子順子順曰無傷也魯之史記曰春秋經因以為名焉又晏子之書亦曰春秋吾聞泰山之上封禪者七十有二君其見稱述數不盈十所謂貴賤不嫌同名也邯鄲之民以正月之旦獻雀於趙王而綴之以五絲趙王大悅申叔以告子順曰王何以為也對曰正旦放之示有生也子順曰此委巷之鄙事爾非先王之法也且又不令申叔曰敢問何謂不令答曰夫雀者取其名焉則宜受之於上不宜取之於下下人非所得制爵也而王悅此殆非吉祥矣昔虢公祈神神賜之土田是失國而更受田之祥也今以一國之王受民之雀將何悅哉申叔問曰犬馬之名皆因其形色而名焉唯韓盧宋鵲獨否何也子順答曰盧黑色鵲白黑色非色而何魏公子無忌死韓君將親吊焉其子榮之以告子順子順曰必辭之禮鄰國君吊君主之今君不命子則子無所受其君也其子辭韓韓君乃止
虞卿は書を著わし、名づけて『春秋』と曰う。魏斉は曰く——「あなたは此のごとくする勿れ。『春秋』は是れ孔聖の以て経と称するの名なり。今、あなたの書は大抵只だ談説するのみ。亦た此の名を用うるは何の故ぞ。」虞卿は答えた。「経は、是れ其の事の以て常行し可きを取る。以て常行し可ければ則ち是れ経なり。況んや孔子に非ざれば、則ち経無からんや。」魏斉は子順に問うた。子順は曰く——「傷害無し。魯の史記は『春秋』と呼ばる。経は因りて此の名を用う。又た、晏子の書も亦た『春秋』と呼ばる。我は聞く——泰山上に封禅する有りて七十二君。称述せらるるの数は十に満たず。謂う所の貴賤は同名を嫌わず。」邯鄲の百姓は正月初一に於いて雀を趙王に献じ、五色の絲を以て係えたり。趙王は大いに悦ぶ。申叔は此を以て子順に告げて曰く——「王は之を以て何を為さん。」子順は曰く——「正旦に生を放つは、生機有るを表示す。」子順は又た曰く——「これは陋巷の鄙事なり。先王の法に非ず。而も且つ又た善ならず。」申叔は曰く——「敢て問う——何を以て不善と謂うか。」子順は答えた。「雀は、是れ其の名(爵)を取る。則ち当に上面より接受すべく、当に下面より求取すべからず。下面の人は非ず爵位を制約し得る所なり。王は而も此を喜ぶ。大概是れ吉祥に非ず。昔、虢公は神に向いて祈請し、神は彼に土田を賜う。彼は是れ国を失いて而も別に田を受くるの祥兆なり。今、一国の王を以て百姓の雀を接受す。何の悦ぶ可きか有らん。」申叔は問うた。「犬馬の名称は皆形色に因りて命名す。只だ韓盧・宋鵲は是れ非ず。何の故ぞ。」子順は答えた。「盧は是れ黒色、鵲は是れ白にして而も黒を帶ぶ。是れ顔色に非ずして而も又何ぞ。」魏公子無忌は死せり。韓君は将に親しく來りて吊せんとす。其の子は此を以て栄と為し、子順に告ぐ。子順は曰く——「必ず辞謝せんことを要す。礼——隣国の国君は來りて吊せば、君主を由りて主持と為す。今、君は未だあなたに命ぜず。あなたは則ち彼の国君の名分を接受する無し。」其の子は韓を辞謝す。韓君はここに於いて作罷せり。
子髙以為趙平原君覇世之士惜其不遇時也其子子順以為衰世之好事公子無伯相之才也申叔問子順曰子之家公有道先生既論之矣今子易之是非焉在答曰言貴盡心亦各有所見也若是非則明智者裁之申叔問子順曰禮為人臣三諫不從可以稱其君之非乎答曰禮所不得也曰叔也昔者逮事有道先生問此義焉而告叔曰得稱其非者所以使天下人君不敢遂其非也子順曰然吾亦聞之是亡考起時之言非禮意也禮受放之臣不説人以無罪先君夫子曰事君欲諫不欲陳言不欲顯君之非也申叔曰然則晏子叔向皆非禮也答曰此二大夫相與私燕言及國事未以為非禮也晏子既陳屨賤而踴貴於其君其君為之省刑然以及叔向叔向聽晏子之私又承其問所宜亦答以其事也
子高は以て趙の平原君は是れ霸世の士と為し、彼の時に遇わざるを惜しむ。其の子の子順は以て只だ是れ衰世の好事の公子にして、霸相の才無しと為す。申叔は子順に問うた。「あなたの家父は道有り。先生は已に論じ済ませたり。今、あなたは看法を改めたり。是非は何れに在るか。」子順は答えた。「話は尽心を貴ぶ。亦た各々見る所有り。是非に至っては、明智の人に由りて裁断せらる。」申叔は子順に問うた。「礼——人臣を為りて三度諫争して聴従せられざれば、以て彼の国君の対せざるを称説す可きか。」子順は答えた。「礼の允許せざる所なり。」申叔は曰く——「叔は昔、有道の先生に事えるに趕上り、此の義を問えり。彼は叔に告げて曰く——『能く彼の対せざるを称説するは、為す所は是れ天下の人君をして敢て其の対せざるを遂成せしめざらんと欲するなり。』」子順は曰く——「そうだ。我も亦た聞けり。彼は是れ先父の興起する時の話なり。礼の本意に非ず。礼——放逐を受くるの臣は、人に向いて己の無罪を辯説せず。先君夫子は曰く——君に事うるは諫争を要して、陳説する勿れ。話を説くは君の対せざるを顕揚する勿れ。」申叔は曰く——「然らば則ち晏子・叔向は皆礼に合わざるか。」子順は答えた。「此の両位の大夫は互相に私下に宴飲し、国事を談到す。尚お以て非礼と算せず。晏子は已に彼の君に向いて『屨は賤にして踊は貴し』と陳説せり。彼の君は此の為に刑罰を減省せり。此の話は叔向に到り、叔向は晏子の私語を聴き、又た彼の問う所の当に如何なるべきを承接し、亦た則ち彼の事に按じて回答せり。」
魏王問子順曰寡人聞昔者上天神異后稷而為之下嘉穀周以遂興往中山之地無故有谷非人所為雲天雨之反亡國何故也答曰天雖至神自古及今未聞下谷與人也詩美后稷能大教民種嘉穀以利天下故詩曰誕降嘉種猶書所謂稷降播種農殖嘉穀皆説種之其義一也若中山之谷妖恠之事非所謂天祥也趙王問相於平原君平原君曰鄒文可【趙人】王曰其行如何對曰夫孔子髙天下之髙士也取友以行交遊以道文與之遊稱曰好義王其用之王卒不用後以平原君言問子順且曰先生知之乎答曰先父之所交也何敢不知王曰寡人雖失之在前猶願聞其行於先生也答曰行不苟合雖賤不渝君子人也王遂禮之固以老辭趙王問子順曰寡人聞孔氏之世自正考父以來儒林相繼仲尼重之以大聖自茲以降世業不替天下諸侯鹹資禮焉先生承其緒作二國師從古及今載徳流聲未有若先生之嗣率由前訓將與天地相敝矣答曰若先祖父並稟聖人之性如君王之言也至如臣者學行不敏寄食於趙祿仕於魏幸遇二國之君寛以容之若乃師也未敢承命假令賴君之願後世克祚不忝前人不泯祖業豈徒一家之賜哉亦天下之慶也王曰必然必然
魏王は子順に問うた。「寡人は聞く——昔、上天は后稷を神異し、彼の為に嘉谷を降下せり。周は此に因りて興盛せり。往日、中山の地は故無く谷有り。是れ人の種植する所に非ず。説く——是れ天の降らす雨なり。反りて国を亡ぼす。何の故ぞ。」子順は答えた。「天は至神と雖も、古より今に至るまで、谷を以て人に降るを聞かざりき。『詩』は后稷の能く大力に民を教えて嘉谷を種植して以て天下を利することを贊美す。だから『詩』に曰く『誕に嘉種を降す』。猶お『書』の謂う所の『稷は播種を降し、農は嘉谷を殖す』のごとし。皆是れ種植を説く。義は是れ一様なり。中山の谷に至っては、是れ妖怪の事なり。謂う所の天祥に非ず。」趙王は平原君に向いて誰を以て相と為す可きかを問うた。平原君は曰く——「鄒文は可なり。【趙人。】」王は曰く——「彼の行為は如何。」平原君は答えた。「孔子高は是れ天下の高士なり。友を取るは行為を看、交游は道を看す。鄒文は彼と交游し、彼を好義と称す。王は彼を用いよ。」王は終に用いず。後に平原君の話を以て子順に問い、且つ曰く——「先生は彼を知るか。」子順は答えた。「先父の交わる所の人は、何ぞ敢て知らざらん。」王は曰く——「寡人は先前は錯過せりと雖も、尚お願わくは先生の処より彼の行為を聴かん。」子順は答えた。「事を行いて苟且附和せず。たとえ貧賤なりとも亦た改変せず。是れ君子なり。」王はここに於いて礼を以て相待せり。鄒文は堅く年老を以て推辞す。趙王は子順に問うた。「寡人は聞く——孔氏の世は、正考父より以来り儒林は相継ぎ、仲尼は再び加上して大聖す。彼より後、世業は替わらず。天下の諸侯は皆資取して礼敬す。先生は統緒を継承し、両国の師を為せり。古より今に至るまで徳を載せ声を流すに、先生のごとく嗣続し・前訓を遵循し・将に天地と相終わらんとする未有り。」子順は答えた。「先祖父のごときは皆聖人の性を禀受す。正しく君王の言うがごとし。臣に至っては、学行は不敏にして、趙に於いて食を寄せ・魏に於いて禄仕す。幸いに両国の君の寛容容納に遇う。師を為るに至っては、敢て命に従わず。假にあなたの願に靠れば、後世は能く福祚を保有し、前人を辱めず、祖業を泯滅せざれば、豈に止む一家の賜のみならんや、亦た是れ天下の慶なり。」王は曰く——「必然、必然。」
詰墨第十八【墨翟著書誣稱孔晏之事故孔鮒詰辨之】
『詰墨』第十八。【墨翟は書を著わし、孔子・晏子の事を誣称す。だから孔鮒は詰辨す。】
【墨子稱景公問晏子以孔子而不對又問三皆不對公曰以孔子語寡人者眾矣俱以為賢人今問子而不對何也晏子曰嬰聞孔子之荊知白公謀而奉之以石乞勸下亂上教臣弒君非聖賢之行也】
【墨子は称す——斉景公は孔子を以て晏子に問う。晏子は答えず。又た問う。三度皆答えず。景公は曰く——「孔子を以て寡人に告ぐる人は多し。皆以て賢人と為す。今、あなたに問えば而も答えず。何の故ぞ。」晏子は曰く——「嬰は聞く——孔子は楚に到り、白公の謀画を知りて、而も石乞を以て彼に交え、下を勧めて乱を作して上を犯さしめ、臣子に君を弑するを教えし。是れ聖賢の行為に非ず。」】
詰之曰楚昭王之世夫子應聘如荊不用而反周旋乎陳宋齊衞楚昭王卒惠王立十年令尹子西乃召王孫勝以為白公【史雲二年】是時魯哀公十五年也夫子自衞反魯居五年矣白公立一年然後乃謀作亂亂作在哀公十六年秋也夫子已卒十旬矣墨子雖欲謗毀聖人虛造妄言奈此年世不相值何
詰問して曰く——楚昭王の世、夫子は聘に應じて楚に到り、用いられずして而も返り、陳・宋・斉・衛に周旋せり。楚昭王は死し、恵王は立つこと十年にして、令尹子西は乃ち王孫勝を召して白公を為さしむ【史書は是れ二年と説く】。此の時は是れ魯哀公十五年なり。夫子は衛より魯に帰る已に五年なり。白公は立つこと一年にして然る後に乃ち乱を作さんと謀画す。乱は哀公十六年秋に作れり。夫子は已に去世すること一百日なり。墨子は聖人を謗毀し・妄言を虚造せんと欲するも、此の等の年代は對せざるに無奈何と雖も、又た如何せん。
【墨子曰孔子之齊見景公公悅之封之以尼谿晏子曰不可夫儒浩居而自順立命而怠事崇防遂哀盛用繁禮其道不可以治國其學不可以導家公曰善】
【墨子は曰く——孔子は斉に到りて景公に見え、景公は彼を喜び、尼溪を以て彼に封ぜんと欲す。晏子は曰く——「可ならず。儒者は傲慢にして而も自ら以て是と為し、命に安んじて而も事に怠け、喪礼を崇尚して其の哀を尽くし、繁礼を盛んに用う。彼の道は以て国を治む可からず。彼の学は以て家を導く可からず。」景公は曰く——「善し。」】
詰之曰即如此言晏子為非儒惡禮不欲崇防遂哀也察傳記晏子之所行未有以異於儒焉又景公問所以為政晏子答以禮雲景公曰禮其可以治乎晏子曰禮於政與天地並此則未有以惡於禮也晏桓子卒晏嬰斬衰枕草苴絰帶杖菅菲食粥居於倚廬遂哀三年此又未有以異於儒也若能以口非之而躬行之晏子所弗為
詰問して曰く——若し此の話に按せば、晏子は是れ儒を非とし礼を惡み、喪礼を崇尚し其の哀を尽くさんと欲せず。傳記を察看すれば、晏子の行う所は、儒と同じからざる無し。又た、景公は政を為る所以を問う。晏子は礼を以て答えたり。景公は曰く——「礼は以て国を治む可きか。」晏子は曰く——「礼は政に對して、天地と並列す。」これ則ち礼を厭惡する無し。晏桓子は死せり。晏嬰は斬衰し・草を枕とし・苴絰・杖を帶び・菅鞋を穿き・粥を食らい・倚廬に住み、哀を尽くすこと三年。これ又た儒と同じからざる無し。若能く嘴を以て否定して而も親身に実行するは、晏子の為す所に非ず。
【墨子曰孔子怒景公之不封已乃樹防夷子皮于田常之門】
【墨子は曰く——孔子は景公の己を封ぜざるを惱み、ここに於いて田夷子皮を田常の門下に安插せり。】
詰之曰夫樹人為信己也記曰孔子適齊惡陳常而終不見【即田常】常病之亦惡孔子交相惡而又任事其然矣記又曰陳常弒其君孔子齋戒沐浴而朝請討之觀其終不樹子皮審矣
詰問して曰く——人を安插するは為す所は是れ己に信を取らんとするなり。『記』に曰く——孔子は斉に到り、陳常を厭惡して始終見えず【即ち田常】。陳常は此を以て病と為し、亦た孔子を厭惡す。互相に厭惡すれば、又た豈に以て事を托付せんや。那の道理は則ち此のごとし。『記』は又た曰く——陳常は其の君を弑せり。孔子は斎戒沐浴して朝に上がり、討伐を請求せり。彼を看るに始終子皮を安插せざれば、則ち清楚なり。
【墨子曰孔子為魯司寇舍公家而奉季孫】
【墨子は曰く——孔子は魯の司寇を為し、公家を舎棄して而も季孫に事えたり。】
詰之曰若以季孫為相司宼統焉奉之自法也若附意季孫季孫既受女樂則孔子去之季孫欲殺囚則孔子赦之非苟順之謂也
詰問して曰く——若し季孫は是れ相なれば、司寇は彼に統轄を帰す。彼に事うるは是れ法に依るなり。若し説かば意を曲げて季孫に附和せんと——季孫は女楽を接受せば、孔子は則ち離去せり。季孫は囚犯を殺さんと欲せば、孔子は則ち赦免せり。是れ苟且順従の意思に非ず。
【墨子曰孔子厄於陳蔡之間子路烹豚孔子不問肉之所由來而食之剝人之衣以沽酒孔子不問酒之所由來而飲之】
【墨子は曰く——孔子は陳蔡の間に困み、子路は豚を煮え、孔子は肉の何れより來るを問わずして則ち食らう。人の衣を剝して以て酒を買えば、孔子は酒の何れより來るを問わずして則ち飲む。】
詰之曰所謂厄者沽酒無處藜藿不粒乏食七日若烹豚飲酒則何言乎厄斯不然矣且子路為人勇於見義縱有豚酒不以義不取之可知也又何問焉
詰問して曰く——謂う所の困厄は、是れ酒を買うに処無く、藜藿は粒米無く、食を缺くこと七天なり。若能く豚を煮え酒を飲まば、尚お何の困厄を説かん。これは事実に非ず。況んや子路は人を為して義を見るに勇なり。たとえ豚酒有りとも、義に合わざれば則ち取らざらん。以て知る可し。又た何を問わん。
【墨子曰孔子諸弟子子貢季路輔孔悝以亂衞陽貨亂魯佛肸以中牟畔漆雕開形殘】
【墨子は曰く——孔子の弟子の裏、子貢・季路は孔悝を輔佐して衛に於いて乱を作し、陽貨は魯に於いて乱を作し、佛肸は中牟に拠りて反叛し、漆彫開は形体残缺せり。】
詰之曰如此言衞之亂子貢季路為之耶斯不待言而了矣陽貨欲見孔子孔子不見何弟子之有佛肸以中牟叛召孔子則有之矣為孔子弟子未之聞也且漆雕開形殘非行己之致何傷於徳哉
詰問して曰く——此の話に按せば、衛の乱は是れ子貢・季路の為せるか。これは説を待たずして明白なり。陽貨は孔子に見えんと欲すれども、孔子は見えず。何れの処に弟子の名分か有らん。佛肸は中牟に拠りて反叛し、孔子を召せるは、倒是れ有り。孔子の弟子を為るは、未だ嘗て聞かざりき。況んや漆彫開は形体残缺するは、己の行事の致す所に非ず。徳に對して何の傷害か有らん。
【墨子曰孔子相魯齊景公患之謂晏子曰鄰有聖人國之憂也今孔子相魯為之若何晏子對曰君其勿憂彼魯君弱主也孔子聖相也不如陰重孔子欲以相齊則必強諫魯君魯君不聽將適齊君勿受則孔子困矣】
【墨子は曰く——孔子は魯を相せり。斉景公は憂慮し、晏子に對して曰く——「隣に聖人有るは、是れ国の憂なり。今、孔子は魯を相す。当に如何に弁ずべきか。」晏子は答えた。「君は必ずしも憂うる勿れ。那の魯君は是れ弱主、孔子は是れ聖相なり。如かず暗中に孔子を看重し、彼を以て斉相を為さんと欲せば、彼は則ち必ず魯君を強諫せん。魯君は聴かざれば、将に斉に到らん。君は接受する勿れ。孔子は則ち困らん。」】
詰之曰按如此辭則景公晏子畏孔子之聖也上乃雲非聖賢之行上下相反若晏子悖可也否則不然矣【墨子曰孔子見景公公曰先生素不見晏子乎對曰晏子事三君而得順焉是有三心所以不見也公告晏子晏子曰三君皆欲其國安是以嬰得順也聞君子獨立不慙於影今孔子伐樹削跡不自以為辱身窮陳蔡不自以為約始吾望儒貴之今則疑之】
詰問して曰く——此のごときの辞に按せば、景公・晏子は是れ孔子の聖を畏るるなり。上面は而も聖賢の行為に非ずと説く。上下は相反す。若し晏子は悖ると説かば、尚お以て可とす。然らざれば、則ち是れ此のごとくに非ず。【墨子は曰く——孔子は景公に見え、景公は曰く——「先生は一向に晏子に見えざるか。」對答して曰く——「晏子は三個の君に事えて皆能く順なり。これは是れ三心有り。だから見えず。」景公は晏子に告ぐ。晏子は曰く——「三個の君は皆彼の国を安からしめんと欲す。だから嬰は能く順なり。聞く——君子は独立し、影に慙じず。今、孔子は樹を伐られ・跡を削られて、自ら以て辱と為さず。身は陳蔡に窮して、自ら以て約と為さず。起初我は儒を望みて而も之を貴ぶ。今は而も之を懐疑す。」】
詰之曰若是乎孔子晏子交相毀也小人有之君子則否孔子曰靈公汙而晏子事之以潔莊公怯而晏子事之以勇景公侈而晏子事之以儉晏子君子也梁丘據問晏子曰事三君而不同心而俱順焉仁人固多心乎晏子曰一心可以事百君百心不可以事一君故三君之心非一也而嬰之心非三也孔子聞之曰小子記之晏子以一心事三君君子也如此則孔子譽晏子非所謂毀而不見也景公問晏子曰若人之眾則有孔子乎對曰孔子者君子行有節者也晏子又曰盈成匡父之孝子兄之弟弟也其父尚為孔子門人門人且以為貴則其師亦不賤矣是則晏子亦譽孔子可知也夫徳之不修己之罪也不幸而屈於人己之命也伐樹削跡絶糧七日何約乎哉若晏子以此而疑儒則晏子亦不足賢矣
詰問して曰く——若し是れ此のごとくせば、孔子・晏子は交り毀謗す。小人は此のごとき有り。君子は則ち無し。孔子は曰く——靈公は汚濁、晏子は彼に事えて而も潔なり。莊公は怯、晏子は彼に事えて而も勇なり。景公は侈、晏子は彼に事えて而も儉なり。晏子は是れ君子なり。梁丘據は晏子に問うて曰く——「三個の君に事えて而も心を同じくせずして、而も皆能く順なり。仁人は本來多心なるか。」晏子は曰く——「一心は以て百個の君に事う可く、百心は以て一個の君に事う可からず。だから三君の心は是れ一個に非ず。嬰の心は而も三個に非ず。」孔子は之を聞いて曰く——「小子は之を記せよ——晏子は一心を以て三個の君に事う。是れ君子なり。」此のごとくせば則ち孔子は晏子を称誉す。是れ謂う所の毀して而も見えざるに非ず。景公は晏子に問うて曰く——「人は此のごとく多し。尚お孔子有るか。」對答して曰く——「孔子は是れ君子、行事に節有るの人なり。」晏子は又た曰く——盈成匡は是れ父親の孝子・兄長の悌弟なり。彼の父は尚お是れ孔子の門人なり。門人は尚お看重せらるれば、則ち彼の師も亦た賤ならず。此のごとくせば則ち晏子も亦た孔子を称誉す。以て知る可し。徳は修養せざるは、是れ己の罪なり。不幸にして人に屈を受くるは、是れ己の命なり。樹を伐られ・跡を削られ・糧を絶たること七天、何の約か有らん。若し晏子は此に因りて儒を懐疑せば、晏子も亦た賢に足らざるなり。
【墨子曰景公祭路寢聞哭聲問梁丘據對曰魯孔子之徒也其母死服防三年哭泣甚哀公曰豈不可哉晏子曰古者聖人非不能也而不為者知其無補於死者而深害生事故也】
【墨子は曰く——景公は路寝に於いて祭祀し、哭声を聞き、梁丘據に問う。對答して曰く——「是れ魯国の孔子の門徒なり。彼の母は死せり。三年に服喪し、哭泣は甚だ哀なり。」景公は曰く——「豈に以て可ならざるか。」晏子は曰く——「古代の聖人は能わざるに非ずして、而も為さざるは、是れ死者に對して補益無きを知るにして、而も深く生者の事を妨害す。」】
詰之曰墨子欲以親死不服三日哭而已於意安者卒自行之空用晏子為引而同乎己適證其非耳且晏子服父禮則無緣非行禮者也
詰問して曰く——墨子は親死に對して喪を服せず・哭すること三日にして停まらんと欲す。己の心裏の安き者は、終に己に於いて実行せり。空しく晏子を以て引と作りて來りて己と相同じくするは、正好く以て彼自身の対せざるを証明す。況んや晏子は父親の為に礼を服せば、則ち礼を行う人を否定するの理由無し。
曹明問子魚曰【子魚孔鮒】觀子詰墨者之辭事義相反墨者妄矣假使墨者復起對之乎答曰苟得其理雖百墨吾益明白焉失其正雖一人猶不能當前也墨子之所引者矯晏子晏子之善吾先君先君之善晏子其事庸盡乎曹明曰可得聞諸子魚曰昔齊景公問晏子曰吾欲善治可以覇諸侯乎對曰官未具也臣亟以聞而君未肯然也臣聞孔子聖人然猶居處勌惰廉隅不修則原憲季羔侍氣鬱而疾志意不通則仲由卜商侍徳不盛行不勤則顔閔冉雍侍今君之朝臣萬人立車千乗不善之政加於下民者眾矣未能以聞者臣故曰官未備也此又晏子之善孔子者也子曰晏平仲善與人交乆而敬之此又孔子之貴晏子者也曹明曰吾始謂墨子可疑今則決妄不疑矣
曹明は子魚に問うた。【子魚は即ち孔鮒。】「あなたの墨者を詰するの辞を看るに、事義は相反す。墨者は虚妄なり。假に墨者は再び起き來らば、能く對答せんか。」子魚は答えた。「只だ理を得れば、たとえ百個の墨者なりとも、我は更に明白ならん。正を失えば、たとえ一個の人なりとも亦た能く對面せざらん。」墨子の引く所は、是れ晏子を假托す。晏子は吾が先君を善と称し、先君は晏子を善と称す。彼の等の事は説き尽くす可けんや。」曹明は曰く——「以て聴き得べきか。」子魚は曰く——「昔、斉景公は晏子に問うて曰く——『我は善く治めて以て諸侯に霸を称す可きか。』對答して曰く——『官は尚お未だ斉備せず。臣は屡々此を以て進聞せし。君は而も此のごとくするを肯んぜず。臣は聞く——孔子は是れ聖人なり。然る可く居処は尚お倦惰・廉隅は修めず、則ち原憲・季羔の侍従有り。気は鬱して而も病・志意は通ぜず、則ち仲由・卜商の侍従有り。徳は盛ならず・行は勤ならず、則ち顔回・閔子騫・冉雍の侍従有り。今、君の朝臣は上万・立車は千乘。善ならざるの政の下民に加わるは多し。而も能く以て進聞する無し。臣の以て官は尚お未だ斉備せずと曰く所以なり。』これ又た是れ晏子の孔子を善と称するなり。孔子は曰く——『晏平仲は善く人と交往す。久しきは愈々彼を敬重す。』これ又た是れ孔子の晏子を看重するなり。」曹明は曰く——「我は起初は以て墨子は可疑と為せり。今は則ち決然として虚妄なり。疑わず。」
獨治第十九
独治第十九
子魚生於戰國之世長於兵戎之間然獨樂先王之道講習不倦季則謂子魚曰丈夫不生則已生則有云為於世者也今先生澹泊世務脩無用之業當身不防其榮百姓不獲其利竊為先生不取也子魚曰不如子之言也武者可以進取文者可與守成今天下將擾擾焉終必有所定子修武以助之取吾修文以助之守不亦可乎且吾不才無軍旅之任徒能保其祖業優遊以卒嵗者也
子魚は戦国の世に生まれ、兵戎の間に長じて、而も独り先王の道を楽しみ、講習して倦まず。季則は子魚に對して曰く——「丈夫は生まれざれば則ち已まん。生まれれば則ち世上に對して作為有らんを要す。今、先生は世務を淡泊し、用無きの業を修習す。自身は栄を得ず、百姓は利を得ず。私に以て先生は取るに足らずと為す。」子魚は曰く——「あなたの言うがごとくに非ず。武は以て進取し可く、文は以て守成し可し。今、天下は将に擾擾たらん。終竟は必ず定まる所有らん。あなたは武を修めて以て進取を幇助せよ。我は文を修めて以て守成を幇助せん。亦た可ならずや。況んや我は才無し。軍旅の任職無し。只だ能く祖業を保住し、優游して歲月を度るのみ。」
秦始皇東並子魚謂其徒叔孫通曰子之學可矣盍仕乎對曰臣所學於先生者不用於今不可仕也子魚曰子之材能見時變今為不用之學殆非子情也叔孫通遂辭去以法仕秦
秦始皇は東に向いて兼併す。子魚は門徒の叔孫通に對して曰く——「あなたの学は已に以て可なり。何ぞ官を為さざる。」叔孫通は答えた。「臣は先生より学ぶ所は、今は用上がらず。以て官を為す可からず。」子魚は曰く——「あなたの才は能く時変を看出す。今、用いざるの学を為すは、大概是れあなたの実情に非ず。」叔孫通はここに於いて辞去し、法に按じて秦に於いて官を為せり。
尹曽謂子魚曰子之讀先王之書將奚以為答曰為治也世治則助之行道世亂則獨治其身治之至也陳餘謂子魚曰秦將防先王之籍而子為書籍之主其危矣子魚曰顧有可懼者必或求天下之書焚之書不出則有禍吾將先藏之以待其求求至無患矣
尹曾は子魚に對して曰く——「あなたは先王の書を讀み、将に以て何を為さんとするか。」子魚は答えた。「為す所は是れ治なり。世は治まれば則ち彼を幇助して道を行わしめ、世は乱れれば則ち独自に自身を治理す。これ是れ治の極致なり。」陳余は子魚に對して曰く——「秦は将に先王の典籍を毀滅せんとす。而もあなたは是れ書籍の主なり。危険なり。」子魚は曰く——「真に懼る可きは、必ず是れ天下の書を求めて以て焚毀せんとする人有らん。書は拿出さざれば則ち禍有り。我は将に先に收藏して以て求取を待たん。求め到れば則ち亦た患無し。」
子魚居魏與張耳陳餘相善耳餘魏之名士也秦防魏求耳餘懼走防陳勝呉廣起兵於陳欲以誅秦餘謂陳王曰今必欲定天下取王侯者其道莫若師賢而友智孔子之孫今在魏居亂世能正其行修其祖業不為時變其父相魏以聖道輔戰國見利不易操名諸侯世有家法其人通材足以幹天下博知足以慮未形必宗此人天下無敵矣陳王大悅遣使者齎千金加束帛以車三乗聘焉耳又使謂子魚曰天下之事已可見矣今陳王興義兵討不義子宜速來以集其事王又聞子賢欲諮良謀虛意相望也子魚遂往陳王郊迎而執其手議世務子魚以覇王之業勸之王悅其言遂尊以博士為太師諮度焉
子魚は魏に住み、張耳・陳余と交好す。張耳・陳余は是れ魏の名士なり。秦は魏を滅し、張耳・陳余を搜求す。両人は害怕して逃走す。後に陳勝・呉廣は陳に於いて兵を起こし、秦を誅滅せんと欲す。陳余は陳王に對して曰く——「今、必ず天下を平定し・王侯を取得せんと欲せば、那の道は賢人を師事し・智者を交結するに比べて更に好き無し。孔子の孫子は今魏に在り。乱世に處して而も能く行為を端正し・祖業を修習し、時変に因りて而も改変せず。彼の父は魏を相し、聖道を以て戦国を輔佐し、利を見ても亦た操守を改めず。名は諸侯に聞こゆ。世代は家法有り。此の人は通才は以て天下を干るに足り、博知は以て未だ成形せざるの事に慮及するに足る。必ず此の人を尊崇せば、天下は則ち敵無し。」陳王は大いに悦び、使者を派して千金を帶びて束帛を加上し、三輛の車を以て往きて招聘せしむ。張耳は又た人をして子魚に告げしめて曰く——「天下の事は已に以て看見す可し。今、陳王は義兵を興して不義を討伐す。あなたは当に快く來りて此の事を成就すべし。王は又たあなたの賢を聞き、良謀を咨詢せんと欲し、虚心して盼望す。」子魚はここに於いて前往せり。陳王は郊外に到りて迎接し、彼の手を握りて世務を議論す。子魚は霸王の業を以て彼を勧め、王は彼の話を喜び、ここに於いて博士と尊び・太師を為らしめ、彼に向いて度量を咨詢す。
子魚名鮒甲陳人或謂之子鮒或稱孔甲陳勝既立為王其妻之父兄往焉勝以眾賔待之長揖不拜無加其禮其妻之父怒曰估亂僭號而傲長者不能乆矣不辭而去陳王跪謝遂不為顧王心慙焉遂適博士太師之舘而言曰予雖丈夫哉然塞於禮義以啟於姻婭唯先生幸訓誨之使免於戾可乎子魚曰王所問者善也敢固無辭以對乎今以禮言耶則禮無不拜且宗族婚媾又與眾賔異敬者也敬而加親自古以然也王曰雖已失之於前庶欲收之於後也願先生修明其事必遵奉焉對曰昔唐堯內親九族外協萬邦禮以婚為昆弟妻之父母為外舅姑由是明之則拜之可知夫婚親之義非宗賢之類也雖自已臣莫敢不敬昔魏信陵君嘗以此質臣之父臣之父曰於諸母之昆弟妻之諸父則以親配徳年以上雖拜之可也防於己者揖之可也此出於人情而可常者也王曰善哉請問同姓而服不及者其制何耶對曰先王制禮雖國君有合族之道宗人掌其列繼之以姓而無別醊之以食而無殊各隨本屬之隆殺屬近則死為之免屬逺則吊之而已禮之正也是故臣之家哭孔氏之別姓於弗父之廟哭孔氏則於夫子之廟此有據而然也周之道雖百世婚姻不通重先君之同體也王跪曰先生之言厥義博哉寡人雖固敢不盡心
子魚は名は鮒、又た甲と呼ぶ。陳人は彼を子鮒と呼ぶ者有り、或いは孔甲と称す。陳勝は既に立ちて王を為せり。彼の妻子の父兄は前往す。勝は衆賓の礼を以て對待し、長揖して拜せず。礼を加えざりき。妻子の父は發怒して曰く——「乱に乗じて僭號して而も長者を傲視す。能く長久せざらん。」辞せずして而も離去す。陳王は跪きて道歉すれども、彼は而も再び回頭せず。王は心裏慚愧し、ここに於いて博士太師の館舎に到りて曰く——「我は丈夫と雖も、而も礼義に堵塞せられ、因りて姻婭に得罪せり。先生の訓誨を願い、我をして罪過を免れしめん。可なるか。」子魚は曰く——「王の問う所は是れ好事なり。敢て辞無くして以て對答せざるを言わんや。今、礼に按じて言えば、礼は拜せざる無し。況んや宗族・婚媾は、又た衆賓と敬重を同じくせず。敬して而も親を加上するは、自古より是れ此のごとし。」王は曰く——「先前は已に失せりと雖も、尚お後面に於いて收回せんと欲す。願わくは先生は此の事を講明白せよ。我は必ず遵奉せん。」子魚は答えた。「昔、唐堯は内は九族を親しみ、外は万邦を協和せり。礼は岳父を以て兄弟と為し、妻の父母を以て外舅姑と為す。此より明白せば、則ち拜するは以て知る可し。婚親の義は、宗賢の一類に非ず。たとえ己の臣なりとも、亦た敢て敬せざる無し。昔、魏の信陵君は嘗て此を以て臣の父に問えり。臣の父は曰く——諸母の兄弟・妻の諸父に對しては、則ち親に按じて徳を配す。比べて以上のはたとえ拜するとも亦た可なり。比べて以下のは揖を作せば則ち可なり。これは人情より出でて而も以て常行し可し。」王は曰く——「善いかな。請い問う——同姓にして而も喪服は及ばざるは、制度は如何。」子魚は答えた。「先王は礼を制し、たとえ国君なりとも亦た族を合するの道有り。宗人は序列を掌管し、姓を以て継ぎて而も分別無く、食礼を以て連綴して而も差異無し。各々本属の隆殺に随う——属は近ければ則ち死せば彼の為に免服を穿き、属は遠ければ則ち只だ吊唁するのみ。これ是れ礼の正なり。だから臣の家は孔氏の別姓を哭するは、弗父の廟に於いてす。孔氏を哭するは、則ち夫子の廟に於いてす。これ是れ依拠有りて乃ち此のごとし。周の道は、たとえ百世の婚姻なりとも亦た通ぜず。是れ先君の同体を看重するなり。」王は跪きて曰く——「先生の話は、義は真に博大なり。寡人は固陋と雖も、敢て尽心せざらんや。」
問軍禮第二十
問軍礼第二十
陳王問太師曰行軍之禮可得備聞乎答曰天下有道禮樂征伐自天子出自天子出必以嵗之孟秋賞軍師武人於朝簡練傑俊任用有功命將選士以誅不義於是孟冬以級授軍司徒執撲北面而誓之誓於社以習其事先期五日太史筮於祖廟擇吉日齋戒告於郊社稷宗廟既筮則獻兆於天子天子使有司以牲特告社告以所徵之事而受命焉舍奠於帝學以受成然後乃類於上帝柴於郊以出以齊車遷廟之主及社主行大司馬職奉之無遷廟主則以幣帛皮圭告於祖禰謂之主命亦載齊車凡行主皮圭幣帛皆每舍奠焉而後就舘主車止於中門之外外門之內廟主居於道左社主居於道右其所經名山大川皆祭告焉及至敵所將戰太史卜戰日卜右御先期三日有司明以敵人罪狀告之史史定誓命戰日將帥陳列車甲卒伍于軍門之前有司讀誥誓使周定三令五申既畢遂禱戰祈克於上帝然後即敵將士戰全已克敵史擇吉日復禡於所徵之地柴於上帝祭社奠祖以告克者不頓兵傷士也戰不克則不告也凡類禡皆用甲丙戊庚壬之剛日有司簡功行賞不稽於時其用命者則加爵受賜於祖奠之前其奔北犯令者則加刑罰戮於社主之前然後鳴金振旅有司徧告捷於時所有事之山川既至舍於國外三日齋以特牛親格於祖禰然後入設奠以反主若主命則卒奠斂主埋之於廟兩階間反社主如初迎之禮舍奠於帝學以訊馘告大享於群吏用備樂饗有功於祖廟舍爵策勲焉謂之飲至天子親征之禮也陳王曰其命將出徵則如之何太師曰古者大將受命而出則忘其國即戎師陣則忘其家故天子命將出徵親潔齋盛服設奠於祖以詔之大將先入軍吏畢從皆北面再拜稽首而受天子當階南面命授之節鉞大將受天子乃東向西面而揖之亦弗御也然後告大社冢宰執蜃宜於社之右南面授大將大將北面稽首再拜而受之承所頒賜于軍吏其出不類其克不禡戰之所在有大山川則祈焉禱克於五帝捷則報之振旅覆命簡異功勤親告廟告社而後適朝禮也王曰將居軍中之禮勝敗之變則如之何太師曰將帥尚左士卒尚右出國先鋒入國後刃介冑在身執鋭在列雖君父不拜若不幸軍敗則驛騎赴告於載櫜韔天子素服哭於庫門之外三日大夫素服哭於社亦如之亡將失城則皆哭七日天子使使迎于軍命將帥無請罪然後將帥結草自縛袒右肩而入葢防禮也王曰行古禮如何太師曰古之禮固為於今也有其人行其禮則可無其人行其禮則民弗與也
陳王は太師に問うた。「行軍の礼は、以て詳尽に聴き得べきか。」太師は答えた。「天下に道有れば、礼楽・征伐は天子より出づ。天子より出づれば、必ず每年孟秋に於いて朝に於いて軍師・武人を賞し、俊傑を簡練し、功有るを任用し、将を命じ士を選びて以て不義を誅す。ここに於いて孟冬に等級に按じて軍を授け、司徒は扑を執り、面は北に朝きて師を誓い、社前に於いて宣誓して以て其の事を演習す。期に先んずること五天、太史は祖廟に於いて筮し、吉日を擇び斎戒し、郊・社稷・宗廟に告ぐ。既に筮せば則ち兆を以て天子に献じ、天子は有司をして特牲を以て社に告げしめ、征伐する所の事を告知して而も命を受く。帝学に於いて奠を設けて以て成を受け、然る後に上帝を類祭し・郊に於いて柴を燔して而も出づ。斎車を以て廟主と社主とを遷し同行せしめ、大司馬は職掌して奉持す。若し遷廟主無ければ、則ち幣帛・皮圭を以て祖禰に告ぐ。之を主命と呼ぶ。亦た斎車上に載す。およそ行主の用いる所の皮圭・幣帛は、一処に停留する毎に皆奠を設け、然る後に乃ち館に就く。主車は中門の外・外門の内に停め、廟主は道の左、社主は道の右に在り。経る所の名山大川は皆祭告す。敵の所に到りて将に戦わんとすれば、太史は戦日を卜し・右御を卜す。期に先んずること三日、有司は明白に敵人の罪状を史官に告知し、史官は誓命を擬定す。戦日、将帥は軍門の前に於いて車甲・卒伍を陳列し、有司は誥誓を宣讀し、之を周遍せしめ、三令五申す。畢わりて後、上帝に向いて祷告して敵を克たんことを祈求し、然る後に敵に趨赴す。将士は戦いて而も保全し・已に敵を克てば、史官は吉日を擇び、再び征する所の地に於いて祃祭し、上帝に於いて柴を燔し、社を祭り祖を奠し、敵を克て而も兵を頓け士を傷ぜざるを報告す。戦いて克たざれば則ち告げず。およそ類祭・祃祭は皆甲・丙・戊・庚・壬の此の等の剛日を用う。有司は功労を簡核して賞を行い、時日を拖延せず——命を用いるは則ち祖奠の前に於いて爵を加え賜を受け、奔北し令を犯すは則ち社主の前に於いて刑罰を加え戮す。然る後に金を鳴らして兵を收め、有司は当时事有るの山川に向いて遍く捷報を告ぐ。既に到れば、国外に住し、斎戒すること三天、特牛を以て親しく祖禰の所に到り、然る後に城に入り、奠を設けて神主を送帰す。若し是れ主命なれば、則ち祭の畢わるに於いて神主を收斂し、廟の両階の間に埋む。社主を送帰するは、当初迎接せるの礼のごとくす。帝学に於いて奠を設け、獲得せる所の訊馘を以て來りて告げ、群吏を大享し、完備の楽を用い、祖廟に於いて功有る人を宴饗し、爵を設けて勲労を記す。之を飲至と呼ぶ。これ是れ天子の親征の礼なり。」陳王は曰く——「将を命じて出征せしむるは又た如何。」太師は曰く——「古代は大将は命を受けて出づれば則ち彼の国を忘れ、戎陣に到れば則ち彼の家を忘る。だから天子は将を命じて出征せしむるに、親しく潔斎して盛服し、祖廟に於いて奠を設けて以て詔告す。大将は先に入り、軍吏は皆跟随し、皆面は北に朝きて再拜稽首して而も受く。天子は階上に於いて面は南に朝きて節鉞を授与す。大将は接受す。天子はここに於いて東に向き・西面して揖を作す。亦た再び駕馭せず。然る後に大社に告げ、冢宰は蜃を執り、社の右辺に於いて南面して大将に授与す。大将は北面して稽首再拜して而も受け、頒賜する所を以て軍吏に轉じ給う。出發は類祭せず、敵を克つも祃祭せず。戦地に若し大山川有れば則ち祈請し、五帝に向いて敵を克たんことを祷告す。捷てば則ち報答す。兵を收め命を復し、異常の功勤を簡核し、親しく廟に告げ社に告げ、然る後に朝に上がる。これ是れ礼なり。」王は曰く——「将領の軍中に在るの礼・勝敗の変故は又た如何。」太師は曰く——「将帥は左を尚び、士卒は右を尚ぶ。国を出づる時は先鋒は前に在り、国に入る時は刃は後に在り。介冑は身に在り・鋭を執りて列に在れば、たとえ君父なりとも亦た拜せず。若し不幸にして軍敗せば、則ち驛騎を派して赴告せしめ、弓を以て櫜韔に装む。天子は素服を穿きて庫門の外に於いて哭くこと三天。大夫は素服を穿きて社に於いて哭く。亦た一様なり。将を亡い城を失うは、皆哭くこと七天。天子は使者を派して軍中に到りて迎接し、将帥に請罪せざれと命じ、然る後に将帥は草を結びて自ら縛り・右肩を袒露して而も入る。これ大概是れ礼なり。」王は曰く——「古礼を行うは如何。」太師は曰く——「古礼は本來も亦た今日の為に設けたり。彼の種の人有りて彼の種の礼を行えば則ち可なり。彼の種の人無くして而も彼の種の礼を行えば、百姓は則ち親附せざらん。」
答問第二十一
答問第二十一
陳人有武臣謂子鮒曰夫聖人者誠髙材美稱也吾謂聖人之知必見未形之前功垂於身後立教而戾夫弗犯吐言而辯士不破也子之先君可謂當之矣然韓子立法其所以異夫子之謂者紛如也予每探其意而校其事持乆歴逺遏奸勸善韓氏未必非孔子未必得也吾今而後乃知聖人無世不有前聖後聖法制固不一也若韓非者亦當世之聖人也子鮒曰子信之為然是固未免凡俗也今世人有言髙者必以極天為稱言下者必以深淵為名是資勢之談而無其實者也好事而未必鑿也必言經以自輔援聖以自賢欲以取信於群愚而度其説也若諸子之書其義皆然吾先君之所自志也請畧説一隅而君子審其信否焉武臣曰諾子鮒曰乃者趙韓共並知氏趙防子之行賞先加具臣而後有功韓非書云夫子善之引以張本然後難之豈有不似哉然實詐也何以明其然昔我先君以春秋哀公十六年四月己丑卒至二十七年荀瑤與韓趙魏伐鄭遇東垣而還是時夫子卒已十一年矣而晉四卿皆在也後悼公十四年知氏乃亡此先後甚逺而韓非公穪之曽無怍意是則世多好事之徒皆非之罪也故吾以是黙口於小道塞耳於諸子乆矣而子立尺表以度天植寸指以測淵蒙大道而不悟信誣説以疑聖殆非所望也武臣義手跪謝施施而退遂告人曰吾自以為學之博矣而可否於孔氏方知學不在多要在精之也陳王問太師曰寡人不得為賢所推而得南面稱孤其幸多矣今既賴二三君子且又欲規乆長之圖何施而可答曰信王之言萬世之福也敢稱古以對昔周代殷乃興防繼絶以為政首今誠法之則六國定不擕抑乆長之本王曰周存二代別有三恪其事云何答曰封夏殷之後以為二代紹虞帝備為三恪恪敬也禮之如賔客也非謂特有二代別有三恪也凡所以立二代者備王道通三綂也王曰三綂者何答曰各自用其正朔二代與周是謂三綂王曰六國之後君吾不能封也逺世之王於我何有吾自舉不及於周又安能純法之乎陳王涉讀國語言申生事顧博士曰始予信聖賢之道乃今知其不誠也先生以為何如答曰王何謂哉王曰晉獻惑聽讒而書又載驪姬夜泣公而以信入其言人之夫婦夜處幽室之中莫能知其私焉雖黔首猶然況國君乎予以是知其不信乃好事者為之辭將欲成其説以誣愚俗也故使予並疑於聖人也博士曰不然也古者人君外朝有國史內朝則有女史舉則左史書之言則右史書之以無諱示後世善以為式惡以為戒廢而不記史失其官故凡若晉侯驪姬床第之私房中之事不得舍焉若夫設教之言驅群俗使人入道而不知其所以者也今此皆書實事累累若貫珠可無疑矣王曰先生真聖人之後風也今幸得聞命寡人無過焉陳王涉使周章為將西入闗以誅秦秦使將章邯拒之陳王以秦國之亂也有輕之之意勢若有餘而不設敵備博士太師諫曰章邯秦之名將周章非其敵也今王使章霈然自得而不設備臣竊惑焉夫雖天之所舍其禍福吉防大者在天小者由人今王不修人利以應天祥若跌而不振悔之無及也王曰寡人之軍先生無累也請先生息慮也又諫曰臣聞兵法無恃敵之不我攻恃我之不可攻也今恃敵而不自恃非良計也王曰先生所言計策深妙予不識也先生休矣已而告人曰儒者可與守成難與進取信哉博士他日復諫曰臣聞國大兵眾無備難恃一人善射百夫決拾章邯梟將卒皆死士也周章若懦使彼席捲來前莫有當其鋒者王曰先生所稱寡人昧昧焉願以人間近事喻之答曰流俗之事臣所不忍也今王命之敢不盡情願王察之也臣昔在梁梁人有陽由者其力扛鼎伎巧過人骨騰肉飛手搏獸國人懼之然無治室之訓禮教不立妻不畏憚浸相洩瀆方乃積怒妻坐於床答焉左手建杖右手製其頭妻亦奮恚因授以背使杖擊之而自撮其隂由乃仆地氣絶而不能興鄰人聞其防防也窺而見之趨而救之妻愈戇忿莫肯舍旃或發其裳然後乃放夫以無敵之伎力而劣於女子之手者何也輕之無備故也今王與秦角強弱非若由之夫妻也而輕秦過甚臣是以懼故區區之心欲王備患之也王曰譬類忱佳然實不同也弗聽周章果敗而無後救邯遂進兵擊陳王師大敗
陳人に武臣なる者有りて子鮒に對して曰く——「聖人は誠に是れ高才の美称なり。我は以て聖人の智は、必ず能く未だ成形せざるの事の前を見、功業は身後に垂れ、教を立てて而も暴戾の人は敢て犯さず、言を吐きて而も辯士は能く破らず。あなたの先君は以て此に當ると説く可し。然る可く韓子は法を立て、夫子の説く所と同じからざる所以は、紛紜として甚だし。我は彼の意を探り・彼の事を校する毎に、之を持すること久遠にして、奸を遏め善を勧む。韓氏は未必対ならず、孔子は未必得ならず。我は今より後に乃ち聖人は世代に無き無きを知れり。前聖・後聖は法制は本來便ち一様ならず。韓非のごときは、亦た是れ当世の聖人なり。」子鮒は曰く——「あなたは以て此のごとしと信ずれば、本來尚お未だ凡俗を免れず。今、世人は高きを説くは必ず極天を以て称し、下を説くは必ず深淵を以て名づく。これは是れ勢に凭借するの談にして而も実無し。事を好むも而も未必確実ならず。必ず経を称して來りて自ら輔き・聖を援けて來りて自ら賢とし、群愚に對して信を取りて以て彼の説を推行せんと欲す。諸子の書は、義は皆是れ此のごとし。吾が先君は自ら便ち記下せり。請うらくは略々一隅を説かん。君子は其の信なるか否かを審察せよ。」武臣は曰く——「善し。」子鮒は曰く——「往日、趙・韓は一緒に知氏を呑併せり。趙襄子は賞を行い、先ず備位の臣に加え、然る後に乃ち功有るに加えたり。韓非の書の裏に夫子が此の事を善と称したと説き、引きて來りて張本と為し、然る後に非難す。豈に甚だ似たるに非ずや。其の実は是れ詐なり。何を以て証明せん。昔、我先君は『春秋』の哀公十六年四月己丑に去世し、二十七年に至りて荀瑶は韓・趙・魏と鄭を伐ち、東垣に於いて相遇して而も還れり。此の時、夫子は去世す已に十一年。晋の四卿は皆尚お在り。後に悼公十四年に知氏は乃ち滅亡せり。此の先後は差ること甚だ遠し。韓非は公然として称説し、竟に慚愧の意思無し。これ即ち世上に好事の徒多きは、皆是れ韓非の罪なり。だから我は此に因りて小道に對して口を閉じ・諸子に對して耳を塞ぐ已に久し。あなたは而も一尺の表を立てて以て天を量り、一寸の指を豎てて以て淵を測り、大道に蒙りて而も醒悟せず、誣説を信じて而も聖人を懷疑す。大概是れ期望する所に非ず。」武臣は拱手して跪きて道歉し、施施然として退下し、ここに於いて人に告げて曰く——「我は自ら以て学は博く得たりと為せり。而も孔氏に可なり或いは不可なりと説かる。乃ち学は多きに在らずして、精に在るを要するを知れり。」陳王は太師に問うた。「寡人は賢人に推戴せられずして而も南面して孤を称するを得たり。幸運は已に多し。今、既に二三君子に依頼し、又た長久の圖を規画せんと欲す。如何に施行せば乃ち可ならん。」太師は答えた。「王の此の話を信ずれば、是れ万世の福なり。敢て古來を称して對答せん。昔、周は殷を取代せば、ここに於いて滅を興し絕を継ぎ、以て政を為るの首務と作せり。今、果して效法せば、六国は則ち安定して而も携貳せず。これ乃ち是れ長久の本なり。」王は曰く——「周は二代を存し、別に三恪有り。那の事は如何。」太師は答えた。「夏・殷の後人を封じて二代を為し、虞帝の後裔を接続して以て三恪に備う。恪は是れ敬なり。賓客のごとく礼待するを象す。是れ別に特に二代の外に別に三恪有るを説くに非ず。およそ二代を立つる所以は、是れ王道を完備し・三統を貫通す。」王は曰く——「三統は是れ何ぞ。」太師は答えた。「各々自ら其の正朔を用う。二代と周と、之を三統と呼ぶ。」王は曰く——「六国の後君は、我は能く封ぜず。遠世の王は我と何の相干か有らん。我は自ら事を舉ぐも周に趕上らず。又た何を以て純粹に效法せん。」陳王涉は『國語』を讀みて申生の事を講し、頭を回らして博士に對して曰く——「起初我は聖賢の道を信じたり。今日に至りて乃ち其の誠ならざるを知れり。先生は以て如何。」太師は答えた。「王は何の故に此のごとく説くか。」王は曰く——「晋献公は讒言に迷惑せられ、『書』は又た驪姬の夜に哭泣するを記載す。公は而も彼女の話を以て真と為せり。人の夫婦は夜に幽室の中に處す。人は能く彼らの私を知る無し。たとえ黔首なりとも尚お此のごとし。況んや国君をや。我は此に因りて其の信ならざるを知る。是れ好事の者の編むるの辞にして、己の説を成全して以て愚俗を誣せんと欲し、だから我をして亦た一併に聖人を懷疑せしむ。」博士は曰く——「是れ此のごとくに非ず。古代の人君は、外朝に國史有り、内朝に女史有り——舉動すれば則ち左史は書寫し、言論すれば則ち右史は書寫す。以て諱まざるを以て後世に顯示す。善は以て法式と作し、惡は以て警戒と作す。廢して而も記せざるは、是れ史は其の官を失う。だからおよそ晋侯・驪姬の床笫の私・房中の事のごときは、舎去するを得ず。設教の話に至っては、是れ群俗を驅使して人をして道に入らしめて而も所以然を知らしめず。今、此の等は皆是れ實事を寫す。累累として貫珠のごとし。以て疑わざる可し。」王は曰く——「先生は真に是れ聖人の後の風範なり。今、幸いに教命を聞くを得たり。寡人は過錯無し。」陳王涉は周章を派して将を為らしめ、西に關に入りて秦を誅さしむ。秦は将章邯を派して抵御せしむ。陳王は秦国の乱に因りて、輕視の意思有り。勢は若お余有るがごとくして而も敵備を設けず。博士太師は諫して曰く——「章邯は是れ秦の名将なり。周章は是れ彼の對手に非ず。今、王は周章をして沛然自得せしめて而も設備せず。臣は私下に迷惑す。たとえ天の舎する所なりとも、禍福・吉凶は大なるは天に在り、小なるは人に由る。今、王は人利を修めて以て天祥に應ぜず。若し跌倒して而も能く振起せざれば、後悔も亦た來たるに及ばず。」王は曰く——「寡人の軍は、先生は牽累する勿れ。先生の息慮を請う。」又た諫して曰く——「臣は聞く——兵法——敵の我を攻めざるを仗る勿れ。我の攻む可からざるを仗るを要す。今、敵を仗りて而も己を仗らざるは、良計に非ず。」王は曰く——「先生の説く所の計策は深妙なり。我は識らず。先生は休息せよ。」過ぎて後、人に告げて曰く——「儒者は以て彼らと守成す可く、彼らと進取するは難し。真に是れ此のごとし。」博士は改日して再び諫して曰く——「臣は聞く——国大にして兵衆なれば、防備無ければ則ち依靠し難し。一人は射を善くすれば、百夫は皆決拾を准備す。章邯は是れ梟将なり。士卒は皆是れ死士なり。周章は若し怯懦なれば、対方をして席卷して前來せしめば、鋒を擋り得る無し。」王は曰く——「先生の称する所は、寡人は昏昧なり。願わくは人間の近事を以て比喻せよ。」太師は答えた。「流俗の事は、臣の忍びて説かざる所なり。今、王は我に命ず。敢て尽情せざらんや。願わくは王は察看せよ。臣は昔、梁に在り。梁人に陽由なる者有り。力は鼎を扛ぐ能し。伎巧は人を過ぐ。骨は騰き肉は飛び、徒手して猛獸を搏つ。国人は彼を懼怕せり。然る可く家を治むるの訓無く・礼教は立たず。妻子は畏憚せず、漸々互相に褻瀆す。怒を積むに及びて、妻子は床上に坐す。彼は彼女を笞打す。左手は杖を舉げ、右手は彼女の頭を按す。妻子も亦た奮怒し、背を以て彼に給し、杖に打たしめ、自ら往きて彼の陰を撮る。陽由はここに於いて地に仆倒し、気絕して起き來る能わず。隣人は喧閙を聞き、窺見して跑きて救えり。妻子は更に戇忿し、肯んじて手を放さず。或る人は彼女の衣裳を拉開し、然る後に乃ち放きたり。無敵の伎力を以て而も女子の手に劣るは、何の故ぞ。輕視して而も防備無きの故なり。今、王は秦と強弱を較量す。陽由の夫妻に似ざるも、而も秦を輕むること過甚なり。臣は此に因りて懼怕す。だから区区の心は、王をして患を防備せしめんと欲す。」王は曰く——「譬類は誠に好し。其の実は同じからず。」聴かず。周章は果して敗れて而も後援無し。章邯はここに於いて兵を進めて陳を撃ち、王の軍隊は大敗せり。
博士凡仕六旬老於陳將沒戒其弟子曰魯天下有仁義之國也戰國之世講頌不衰且先君之廟在焉吾謂叔孫通處濁世而清其身學儒術而知權變是今師也宗於有道必有令圖歸必事焉
博士は官を為ること一共六十日。陳地に於いて年老いたり。将に死なんとして、弟子に告誡して曰く——「魯は是れ天下に仁義有るの国なり。戦国の世は講誦は衰えず。況んや先君の廟は彼の処に在る。我は以て叔孫通は濁世に處して而も能く己身を清潔し、儒術を学びて而も權變を知る。是れ当今の師なり。有道に宗せば、必ず好き圖謀有らん。帰りて必ず彼に事えよ。」
孔叢子卷中
孔叢子巻中
孔叢子卷下漢孔臧撰連叢子上第二十二
孔叢子巻下 漢孔臧撰 連叢子上第二十二
敘書
叙書
家之族一世相承以至九世相魏居大梁【孔子生鯉字伯魚鯉生伋字子思伋生白字子上白生求字子家求生箕字子京箕生穿字子髙穿生子順相魏自叔梁紇至子順凡九世】始有三子焉長子之後承殷綂為宋公中子之後奉夫子祀為褒成侯少子之後彥以將事髙祖有功封蓼侯其子臧嗣焉歴位九卿遷御史大夫辭曰臣世以經學為家轉相承作訓法然今俗儒繁説逺本雜以妖妄難可以教侍中安國【安國孔忠之子】受詔綴集古義臣乞為太常典臣家業與安國紀綱古訓使永垂來嗣孝武皇帝重違其意遂拜太常其禮賜如三公在官數年著書十篇而卒先時嘗為賦二十四篇四篇別不在集似其防時之作也又為書與從弟及戒子皆有義故列之於左
孔氏の族胤は一世相承し、第九世に至りて魏に於いて相を為し、大梁に住す。【孔子は鯉を生み字は伯魚、鯉は伋を生み字は子思、伋は白を生み字は子上、白は求を生み字は子家、求は箕を生み字は子京、箕は穿を生み字は子高、穿は子順を生み、魏を相す。叔梁紇より子順に至るまで共に九世。】始めに三個の兒子有り——長子の後裔は殷統を承接して宋公を為り、中子の後裔は夫子の祀を奉じて褒成侯を為り、少子の後裔の孔彦因は高祖に事えて功有りて蓼侯を封ぜられ、彼の兒子の孔臧は爵を嗣ぐ。九卿に歷位し、御史大夫に遷り、辞謝して曰く——「臣は世代は經學を以て家と為し、轉相承じて訓法を作す。然る可く今、俗儒は繁說して本原を遠離し、妖妄を以て雜え、以て施教するに難し。侍中安國【安國は孔忠の子】は詔を受けて古義を綴集す。臣は太常を為らんを請い、臣の家業を典掌し、安國と一起に古訓を紀綱し、永遠に來嗣に垂給せしめん。」孝武皇帝は彼の意思に違背するに難し。ここに於いて太常に拜し、礼賜は三公のごとし。官に在ること幾年、書十篇を著わして而も卒す。先前は嘗て賦二十四篇を作せり。四篇は別に集の裏に在らず。似たる是れ彼の時の作品なり。又た從弟に與える書および兒子を告誡する有り。皆義有り。だから左邊に列す。
諫格虎賦
諫格虎賦
帝使亡諸大夫問乎下國下國之君方帥將士於中原車騎駢闐被行岡巒手格猛虎生縛犴昧爽而出見星而還國政不恤惟此為歡乃誇於大夫曰下國鄙固不知帝者之事敢問天子之格虎豈有異術哉大夫未之應因又言曰下國褊陋莫以娯心故乃闢四封以為藪圍境內以為林禽鳥育之驛驛淫淫晝則鳴嚾夜則嘷吟飛禽起而翳日走獸動而審音犯之者其罪死驚之者其刑深虞侯苑令是掌厥禁於是分幕將士營遮榛叢戴星入野列火求蹤見虎自來乃往尋從張罝網羅刃鋒驅檻車聽鼓鍾猛虎顛遽奔走西東怖駭內懷迷冒怔忪耳目防精值網而沖局然自縛或只或雙車徒抃贊鹹稱曰工乃縛以絲組斬其爪牙支輪登較【支與榰同言獲獸多可榰其輈輪登滿較式】髙載歸家孟賁被髮瞠目躁猾紛華故都邑百姓莫不於邁陳列路隅鹹稱萬嵗斯亦畋獵之至樂也大夫曰順君之心樂矣然則樂之至也者與百姓同之謂夫兕虎之生與天地偕山林澤藪又其宅也被有徳之君則不為害今君荒於遊獵莫恤國政驅民入山林格虎於其廷妨害農業殘夭民命國政其必亂民命其必散國亂民散君誰與處以此為至樂所未聞也於是下國之君乃頓首曰臣實不敏習之日乆矣幸今承誨請遂改之
皇帝は無諸大夫を派して下國を問わしむ。下國の君は正しく将士を率領して中原に在り。車騎は駢阗し、遍く岡巒を行き、徒手して猛虎を格殺し、豺犴を活捉す。天は未だ亮まらざるに出で、星星を見て乃ち還る。國政は體恤せず、只だ此を以て歡と為す。ここに於いて大夫に向いて誇耀して曰く——「下國は鄙固にして、帝者の事を知らず。敢て問う——天子が虎を格するは、豈に不同の術有るか。」大夫は未だ應答せざるに、彼は又た曰く——「下國は褊陋にして、以て心を娛める無し。だから四封を開闢して以て苑囿と作し、境内を圍みて林と成す。禽鳥は其の裏に蕃育し、驛驛として淫淫たり。白天は鳴叫喧嘩し、夜裏は嚎吟す。飛禽は一起すれば則ち太陽を遮蔽し、走獸は一動すれば則ち能く聲音を辨出す。觸犯する人は罪は死に當たり、驚嚇する人は刑は重きに當たる。虞侯・苑令は此の等の禁令を掌管す。ここに於いて将士を分派し、榛叢を營遮し、星を戴きて野に入り、火を列して蹤を求む。虎の自ら來るを見て、乃ち前往して跟從し、罝網・羅刃鋒を張開し、檻車を驅趕し、鼓鍾を聽く。猛虎は顛仆して急走し、東西に奔竄し、怖駭は内に在り、迷冒怔忪し、耳目は精を失い、網に碰上すれば則ち衝き、局促として自ら縛り、或いは一隻或いは一雙。車徒は拍手して稱贊し、皆工巧を稱す。ここに於いて絲組を以て縛住し、爪牙を斬掉し、車輪を支え・車較に登る【支は榰と同じ。是れ獲獸の多きを説き、以て輈輪を撑住し・較軾に登満す可きなり】。高高と載せて家に歸る。孟賁は髮を披き目を瞠り、躁猾紛華たり。だから都邑の百姓は趕來せざる無し。路傍に陳列す。皆萬歲を稱す。これ亦た是れ畋獵の至樂なり。」大夫は曰く——「あなたの心に順えば、快樂せり。然る可く樂の極致は、百姓と樂を同じくするに在り。那の兕虎の生命は天地と並存す。山林・澤藪は又た是れ彼らの宅なり。徳有る君に遇えば、則ち害を為さず。今、あなたは遊獵に荒れ、國政を體恤せず、百姓を驅使して山林に入らしめ、庭中に於いて虎を格し、農業を妨害し、民命を殘害す。國政は必ず乱れ、民命は必ず散ぜん。國乱れ民散ずれば、あなたは誰と相處せん。此を以て至樂と為すは、未だ嘗て聞かざる所なり。」ここに於いて下國の君は頓首して曰く——「臣は實に不敏なり。習慣は已に久し。幸いに今天教を承く。請うらくは此に就きて改正せん。」
楊柳賦
楊柳賦
嗟茲楊柳先生後傷蔚茂炎夏多陰可涼伐之原野樹之中塘溉浸以時日引月長巨本洪枝條修逺夭繞連枝猗那其房或拳局以逮下或擢跡而接穹蒼緑葉累疊鬱茂翳沈防籠交錯應風悲吟鳴鵠集聚百變其音爾乃觀其四布運其所臨南垂大陽北被隂西奄梓園東覆果林規方冒乎半頃清室莫與比深於是朋友同好几筵列行論道飲燕流川浮觴殽核紛雜賦詩斷章合陳厥志考以先王賞恭罰慢事有紀綱洗觶酌樽兕觥並飲不至醉樂不及荒威儀抑抑動合典常退坐分別其樂難忘惟萬物之自然固神妙之不如意此楊樹依我以生未寧一紀我賴以寧暑不御防悽而涼清內蔭我宇外及有生物有可貴云何不銘乃作斯賦以敘斯情
嘆ず可き此の楊柳は、先生して後に凋む。炎夏は蔚然として茂盛し、陰多くして以て凉に乘ず可し。原野より砍下し、中塘に種え、時に按じて灌溉し、日に引き月に長ず。巨大の本・洪大の枝。枝條は修長にして遠揚し、夭繞して枝を連ね、猗那として房を成す。或るは拳曲して下垂し、或るは條を抽きて上に蒼穹を接す。綠葉は層層疊疊、郁茂として蔭沉し、籠罩交錯し、風に應じて悲吟す。鳴鵠は聚集し、其の音を百變す。ここに於いて其の四面分布し・蔭臨する所の処を看る——南は太陽を垂れ、北は玄陰を被り、西は梓園を掩い、東は果林を覆う。規方は覆蓋して將に半頃。清凉の屋子は其の更深きに比ぶる無し。ここに於いて朋友・同好、几筵は行を列し、道を論じ宴を飲み、流川に觴を浮かべ、肴核は紛雜し、詩を賦し章を斷じ、一起に志向を陳說し、先王を以て考核す。恭を賞し慢を罰し、事は紀綱有り。觶を洗い樽を酌み、兕觥は並び舉がり、飲は醉に至らず、樂は荒に至らず。威儀は抑抑として、舉動は典常に合す。退坐分別す。那份の樂は人をして忘れ難からしむ。萬物の自然は、本來神妙の如かざるなり。此の楊樹が我に依り彼に靠れて生長するを想うに、尚お一紀に滿たず。我は彼に依賴して安寧す——暑天は扇を需めず、凄清にして凉爽なり。内は我の屋宇を蔭し、外は有生の物に及ぶ。物は貴ぶ可き有り。何ぞ能く銘記せざらん。ここに於いて此の篇の賦を作して以て此の情を叙す。
鴞賦
鴞賦
季夏庚子思道靜居爰有飛鴞集我屋隅異物之來吉防之符觀之歡然覽考經書在徳為常棄常為妖尋氣而應天道不逾昔在賈生有志之士忌茲鵩鳥卒用防己諮我令考信道秉真變恠生家謂之天神修徳防邪化及其鄰禍福無門惟人所求聽天任命慎厥所修棲遲養志老氏之疇爵祿之求秪増我憂時去不索時來不逆庶幾中庸仁義之宅何思何慮自今勤劇
季夏庚子、道を思考して静居す。ここに於いて飛鴞有りて我が屋角に停る。異物の到來は、是れ吉凶の符なり。之を看て心裏歡然として、經書を査閱考訂す——徳に在れば則ち是れ常、常を棄つれば則ち是れ妖。氣を尋ねて應ずれば、天道は逾越せず。昔、賈生は是れ有志の士、此の鵩鳥を忌諱し、終に此に因りて己を傷害せり。嘆ず可き我が已故の父は、道を信じ誠を秉持し、變怪は家裏に生ずれば、之を天神と稱す。徳行を修養し・邪僻を防止し、教化は鄰里に及ぶ。禍福は門無し。只だ人の求むる所に在り。天に聽き命に任せ、修むる所を謹慎す。棲遲して志を養うは、是れ老氏の一流なり。爵祿の求取は、只だ我が憂を增加するのみ。時は去れば索求せず、時は來れば違逆せず。庶幾中庸は、是れ仁義の宅なり。尚お何を想い何を慮らん。今より勤勉して勞劇せん。
蓼蟲賦
蓼虫賦
季夏既望暑往涼還逍遙諷誦遂歴東園周旋覽觀憇於南藩覩茲茂蓼結葩吐榮猗那隨風緑葉紫莖爰有蠕蟲厥狀似螟群聚其間食之以生於是悟物託事推況乎人幼長斯蓼莫或知辛膏梁之子豈曰不雲惟非徳非義不以為家安逸無心如禽獸何逸必致驕驕必致亡匪惟辛苦乃丁大殃
季夏は既望、暑は往き凉は還る。逍遥して諷誦し、ここに於いて東園を経過し、周旋して觀覽し、南藩に於いて歇息す。此の茂盛なる蓼を見る——花を開き榮を吐き、猗那として風に随い、綠葉・紫莖。ここに於いて蠕虫有り。形狀は螟のごとく、群を成して其の裏に聚まり、之を吃って生存す。ここに於いて物に覺悟し・事に托して況を人に推す——小より大まで此の蓼の裏に在りて、誰か辛を知る者有らん。膏粱の子弟、豈に以て説く可からざるか。只だ是れ徳に非ず義に非ざれば、以て家を成さず。安逸は心無し。禽獸と何の分別か有らん。逸は必ず驕を致し、驕は必ず亡を致す。不只だ辛苦のみならず、竟に大殃に遭う。
與侍中從弟安國書
侍中從弟安國に與える書
臧報侍中相知忿俗儒淫辭冒義有意欲校亂反正由來乆矣然雅達博通不世而出流學守株比肩皆是眾口非非正將焉立每獨念至此夙夜反側誠懼仁弟道非信於世而以獨知為愆也人之所欲天必從舊章潛於壁室正於紛擾之際欻爾而見俗儒結舌古訓復申豈非聖祖之靈慾令仁弟贊明其道以闡其業者哉且曩雖為今學亦多所不信唯聞尚書二十八篇取象二十八宿謂為至然也何圖古文乃有百篇邪如堯典説者以為堯舜同道弟素常以為雜有舜典今果如所論及成王道雷風周公信自在俗儒群驅狗吠雷同不得其髣髴惡能明聖道之真乎知以今讐古之篆推科斗已定五十餘篇併為之傳云其餘錯亂文字摩防不可分了欲垂待後賢誠合先君闕疑之義顧惟世移名制改變文體義類轉益難知以弟博洽溫敏既善推理又習其書而猶尚絶意莫肯垂留三思縱使來世亦有篤古碩儒其若斯何嗚呼惜哉先王遺典缺而不補聖祖之業分半而泯後之君子將焉取法假令顔閔不歿遊夏更生其豈然乎不得已已貴復申之
臧は侍中に報告す——彼此は相知し、俗儒が淫辭を以て義を冒犯するを忿恨す。意有りて混亂を校正し・正に歸らんと欲す。由來は已に久し。然る可く雅達・博通の人は每世に出現するに非ず。陳規を拘守するの流學は而も比肩して皆是なり。衆口は紛紛として否定す。正は将に何れの処に立たんか。獨り此に想到る毎に、夙夜反側す。實に仁弟の道が世に取信せられずして、而も獨知に因りて愆尤と成らんを怕る。人の欲する所は、天は必ず依從す。舊章は壁室に潛藏せり。紛擾の際に於いて忽然として出現す。俗儒は舌を結び、古訓は重新して申明す。豈に聖祖の靈が仁弟をして那の道を贊助闡明し・以て那の業を開闡せしめんと欲するに非ざらんや。況んや先前は今文の學を為せりと雖も、亦た多く信ぜざる有り。只だ『尚書』二十八篇は二十八宿に取象すと聞き、以て此に至るに止まると為せり。何れか古文は竟に百篇有らんを想到せしや。『堯典』のごときは、説く者は以て堯舜は道を同じくすと為す。弟は素より以て其の裏に『舜典』を雜うと為せり。今は果して論ずる所のごとし。および成王は雷風に遇い、周公は誠信は自在す。俗儒は群起して狗吠のごとく雷同せり。其の髣彿を得ず。又た何を以て聖道の真を明白せん。以て今文を用いて古文の蝌蚪篆を讐校し、科斗を推求す。已に五十餘篇を寫定し且つ傳を作れり。其の餘は錯亂して文字は磨損して分辨す可からず。後賢に留めんと欲す。誠に先君の疑を闕くの義に合す。只だ世は移り・名制は改變し、文體・義類は愈々知り難しと想う。弟の博洽・溫敏を以て、既に理を推するに善く、又た彼の等の書に熟習す。而も尚お決意して留めて三思せざるを肯んぜず。たとえ來世も亦た篤古・碩儒有るを縱しとも、此に對して又た如何せん。嗚呼惜しいかな。先王の遺典は缺して而も補われず、聖祖の業は一半を分掉して而も泯滅す。後來の君子は将に何れより法を取らん。假に顏・閔は死せず、游・夏は再生せば、豈に此のごとくならんや。已むを得ずや已むを得ず、貴ぶ所は再び之を申明す。
與子琳書
子琳に與える書
告琳頃來聞汝與諸友書講肄學傳滋滋晝夜衎衎不怠善矣人之進道惟問其志取必以漸勤則得多山霤至柔石為之穿蠍蟲至弱木為之弊夫霤非石之鑿蠍非木之鑽然而能以微脆之形陷堅剛之體豈非積漸之致乎訓曰徒學知之未可多履而行之乃足佳故學者所以飾百行也侍中子國明達淵博雅學絶倫言不及利行不欺名動遵禮法少小長操故雖與群臣並叅侍見待崇禮不供防事獨得掌御唾壺朝廷之士莫不榮之此汝親所見詩不云乎毋念爾祖聿修厥徳又曰操斧伐柯其則不逺逺則尼父近則子國於以立身其庶矣乎
琳に告ぐ——近來、あなたが各位朋友と學問を講習し・學業を傳授し、晝夜は滋滋・衎衎として怠らざるを聞く。善いかな。人の道に進むは、只だ志向を問う。求取は必ず漸進せんを要す。勤なれば則ち多く得る能し。山間の滴水は至柔にして、石は彼に穿破せらる。蝎虫は至弱にして、木は彼に弊壞せらる。滴水は是れ石を鑿るの鑿に非ず。蝎は是れ木を鑽るの鑽に非ず。而も能く微脆の形を以て堅剛の體に陷入す。豈に積漸の致す所に非ざらんや。訓は説く——只だ學して而も尚お多からざるを知るは、履行實行して乃ち足りて好し。だから學は是れ以て百行を修飾するに用いる。侍中子國は明達・淵博、雅學は絶倫なり。話を説くは利に及ばず、事を行うは名を欺かず、舉動は禮法を遵守す。小より以來りて操守を養成せり。だから群臣と一起に參侍進見するも、崇禮を以て待せられ、雜事を供せず、獨り御用の唾壺を掌管するを得る。朝廷の士は彼を以て榮と為さざる無し。これはあなたの親眼の見る所なり。『詩經』は説かざるや——「爾の祖を念ぜ、厥の徳を修めよ。」又た曰く——「斧を操りて柯を伐る。其の則は遠からず。」遠きは則ち尼父、近きは則ち子國。以て身を立つるは、大概以て可ならん。
敘世
叙世
臧子琳位至諸吏亦博學問琳子黃厥徳不修失侯爵大司徒光以其祖有功德而邑土廢絶分所食邑三百戸封黃弟茂為闗內侯茂子子國生子卯為諸生特善詩禮而傳之子卯生仲驩為博士農守善春秋三傳公羊穀梁訓諸生仲驩生子立善詩書少遊京師與劉歆友善嘗以清論譏貶史丹史丹諸子並用事為是不仕以詩書教於闕里數百人子立生子元以郎校書時歆大用事而子元校書七年官不益故或譏以為不恤於進取唯揚子云善之子元生子建與崔義防相善長相親也義仕王莽為建新大尹數以世利勸子建仕子建答曰吾有布衣之心子有袞冕之志各從所好不亦善乎且昔與子防同志故相友也今子以富貴為榮而吾以貧賤為樂志已乖矣乖而相友非中情也請與子辭遂歸鄉里【崔義當作毅字】光武中興天下未悉從化董憲彭豐等部眾於鄒魯之間郡守上黨鮑府君君長患之是時闕里無故荊棘叢生一旦自闢廣千數百步從舊講堂坦然至里門府君大驚謂子建曰豈卿先君欲令太守行饗禮助太守誅惡耶子建對曰其然府君曰為之奈何對曰庠序之儀廢來乆矣今誠修之民必觀焉且憲豐為盜或聚或散非有堅固部曲也若行饗射之禮內為禽之之備外示以簡易憲等無何依眾觀化可因而縛也府君從之用格憲等子建生仁以文學為議郎博士南海太守生子豐子豐以學行聞三府交命委質司空拜髙第御史建初元嵗大旱天子憂之問群臣政教得失子豐乃上疏曰臣聞為不善而災報得其應也為善而災至遭時運也陛下即位日新視民如傷而不幸耗旱時運之防爾非政教之所致也昔成湯遭旱因自責省故散積減御損膳而大有年意者陛下未為成湯之事焉天子納其言而從之三日雨即降轉拜黃門侍郎典東觀事子豐生子和【史作孔僖字仲和此書葢孔氏子孫所作故不書名】大中大夫鮑彥曰人之性分氣度不同有體貌亢疏色厲矜莊儀容氷栗似若能斷而當事少決不遂其為者或性靜不與俗競氣不勝辭似若無能而涉事不顧臨危不撓者是為似若彊焉而不能勝似若弱焉而不可奪也君子觀之以表推內察容而度心所以得之也若是似類相亂如何取實乎子豐曰夫人者患在不察也人之所綜物才志也慮協於理固以守之此之謂彊知足以通變明足以破偽情足以審疑果足以必志固可以先事而成功矣即所謂寛柔內思不報無道之彊豈待形氣之助乎若乃貌厲內荏髙氣亢戾多意倨跡理不充分業不一定執志不果此謂剛愎非彊者也是故君子欲必其行由是論之彊弱之分不取於氣色明矣必也察志在觀其履事乎非定計於內而敏發於外孰能稱此彊名乎哉
孔臧の兒子の孔琳は、官は諸吏に至る。亦た博學にして好問なり。孔琳の兒子の孔黃は、德行は修めず、侯爵を失去す。大司徒孔光は彼の祖先の功德有るを以て而も邑土は廢絕せるに因りて、食する所の邑を分ちて三百戸とし、孔黃の弟弟の孔茂を封じて關内侯と為す。孔茂の兒子の子國は子卯を生み、諸生を為り、特に『詩』『禮』に善くして而も後人に傳う。子卯は仲驩を生み、博士・弘農守を為り、『春秋』三傳・『公羊』『穀梁』に善くして、諸生を訓授す。仲驩は子立を生み、『詩』『書』に善くし、少年にして京師に游び、劉歆と交好す。嘗て清論を以て史丹を譏貶せり。史丹の兒子らは皆權を當りたり。此に因りて官を為らず、闕里に於いて『詩』『書』を以て幾百人を教えたり。子立は子元を生み、郎を以て書を校す。當時、劉歆は大いに權を當りたり。子元は書を校すること七年にして官は升らず。だから或る人は彼を譏って進取を恤まざると為す。只だ楊子雲は彼を善と稱せり。子元は子建を生み、崔義と少年に交好し、長じて相親しむ。崔義は王莽の手下に於いて官を為り、建新大尹を為す。屢々世利を以て子建に官を為れと勸む。子建は答えた。「我は布衣の心有り。あなたは袞冕の志有り。各々好む所に從う。亦た好からずや。況んや昔、あなたと少年は志を同じくして交わる所以なり。今、あなたは富貴を以て榮と為し、我は貧賤を以て樂と為す。志向は已に乖離せり。乖離して而も尚お交わるは、衷情に非ず。あなたと辭別せんを請う。」ここに於いて鄉里に歸る。【崔義は当に毅字と作るべし。】光武は中興せり。天下は尚お未だ盡く歸化せず。董憲・彭豊等の部衆は鄒魯の間に在り。郡守上黨の鮑府君君長は憂慮せり。此の時、闕里は故無く荊棘は叢生せり。一日にして自ら辟開し、寬廣は千數百步。舊講堂より坦然として里門に通ず。府君は大いに驚き、子建に對して曰く——「豈に是れあなたの先君が太守をして饗禮を行い・太守を幇助して惡を誅せしめんと欲するに非ざらんか。」子建は答えた。「是れ此のごとし。」府君は曰く——「当に如何に辦ずべきか。」對答して曰く——「庠序の儀は廢すること已に久し。今、果して修習せば、百姓は必ず來りて觀看せん。況んや董憲・彭豊は盜を為し、或いは聚まり或いは散ず。堅固の部曲無し。若し饗射の禮を行い、内裏は擒獲の准備を為し、外面は簡易を顯示せば、憲等は端無く衆人に依りて來りて化を觀ずれば、以て機に乘じて縛住す可し。」府君は聽從し、因りて董憲等を擒獲せり。子建は孔仁を生み、文學を以て議郎・博士・南海太守を為り、子豊を生む。子豊は學行を以て聞こゆ。三府は交り征命す。司空に委質し、高第御史に拜せらる。建初元年に大旱せり。天子は憂慮し、群臣に政教の得失を問う。子豊はここに於いて疏を上げて曰く——「臣は聞く——不善を為して而も災は來りて報ゆるは、是れ相應を得るなり。善を為して而も災は到來するは、是れ時運に遭遇す。陛下は即位して日新し、百姓を看ること傷者を看るがごとし。而も不幸にして旱を耗す。只だ是れ時運の此のごとくするにして、政教の致す所に非ず。昔、成湯は旱に遭遇し、因りて自ら責め省察せり。だから積蓄を散じ・御用を減じ・膳食を損じて而も大有年せり。想うに陛下は尚お未だ成湯のごときの事を為さざるなり。」天子は彼の話を採納して而も聽從せり。三天にして雨は則ち降下せり。轉じて黃門侍郎に拜し、東觀の事を典掌す。子豊は子和を生む【史書は孔僖字仲和と作る。此の書は大概是れ孔氏の子孫の作せる所。だから名を寫さず】。大中大夫鮑彥は曰く——「人の性分・氣度は同じからず——體貌は亢疏・色は厲にして矜莊・儀容は冰のごとく凛栗たる者有りて、似たる能く決斷するがごとく、事に臨みて而も少決斷・能く其の為す所を遂成せざる者有り。性は玄靜・俗と爭わず・氣は辭に勝たざる者有りて、似たる能無きがごとく、然る可く事に遇えば顧みず・危に臨みて撓まざる者有り。これ是れ似たる強にして而も能く勝たず・似たる弱にして而も奪う可からず。君子が觀察するは、表より内を推し、容を察して心を度る。だから能く得るなり。若し此のごとく類に似て相亂るれば、如何にして實を取らん。」子豊は曰く——「人の患は察せざるに在り。人の綜理する所は是れ物・才・志なり。思慮は理に合し、堅定して守住す。これを強と呼ぶ。知は以て通變するに足り、明は以て偽を破るに足り、情は以て疑を審らかにするに足り、果は以て志を必にするに足る。本來以て事に先んじて而も成功す可し。即ち謂う所の寬柔・内思・道無きに報ゆる勿れの強なり。何ぞ形氣を待ちて以て幇助せんを要せん。貌は厲にして内は荏・氣は高く亢戾・意は倨傲多く・理は充分ならず・業は一定せず・志を執るも果ならざるに至っては、これを剛愎と呼ぶ。是れ強に非ず。だから君子は必ず彼の行を要す。此より論ずれば、強弱の分別は氣色に取らず。則ち明白なり。必ず志向を察せんと欲せば、彼の事を為すを看るに在り。内に於いて計を定めて而も外に於いて敏捷に發出するに非ざれば、誰か此の強の名を稱せん。」
子豐曰夫物有定名而論有一至是故有可以一言而得其極雖十言不能奪者惟析理即實為得不以濫麗費辭為賢也然而世俗之人聰達者寡隨聲者眾持論無主俯仰為資因貴勢而附從托浮説以為定不求之於本不考之於理故冗長溷殽之言而眾莫能折其中所以為口實而無得也夫論辨者貴其能別是非之理非巧説之謂也當要者訥言得理此乃辨也聽者由弗之察辭氣支離取喻多端幸較以類理不應實而聽者因形飾偽徒贊然之是所謂以巧辭多喻為辨而莫識一言之別實者也人皆欲剖析分理揆度真偽固不知所以精之如自為得其謬惑莫之甚焉是故舉多敗事而寡特之知困於群醜也夫聰者不可亂以淫聲明者不可以邪色而世人不必聰明故有氣勢者益得之半無此二者損得之半也
子豊は曰く——「物は定名有り、論は一個の極至有り。だから以て一句の話に其の極處を得・たとえ十句の話なりとも亦た能く奪わざる者有り。只だ事理を分析し・實に就着するを算得して、華麗鋪張の費辭を以て賢と為さず。然る可く世俗の人は、聰達は少なく、聲に随うは多し。持論は主見無く、俯仰を以て資本と為し、貴勢に因りて附從し、浮説に托して以て定と為す。之を本に求めず、之を理に考えず。だから冗長・混雜の話は、衆人は能く折中せず、口實と成りて而も得る所無し。論辨の貴ぶ所は、是非の理を分別する能くするに在りて、巧妙の説に在らず。要處に當りて言語は遲鈍して而も理を得る。これ乃ち是れ辨なり。聴く者は尚お察せず。辭氣は支離し、喻を取ること多端にして、僥倖して類を以て比較す。理は而も實に應せず。聴く者は形に因りて偽を飾り、徒らに贊嘆して以て然と為す。これ即ち謂う所の巧辭多喻を以て辨と為して、而も一句の話に就いて則ち能く實を分別するを識らざるなり。人は皆剖析分理・真偽を揆度せんと欲するも、而も本來精審の方法を知らず。似たる自ら得たりとするは、那の謬惑は此より甚だしき無し。だから事を舉ぐれば多く敗れ、而も少数の特出する知は群醜の裏に困る。聰の人は以て淫聲に擾亂せられず、明の人は以て邪色に蒙蔽せられず。而も世上の人は未必聰明ならず。だから氣勢有る人は多く一半を得、此の両樣無き人は少なく一半を得る。」
子豐善於經學不好諸家書鮑彥與子豐名齊而業殊故謂子豐曰家書多才辭莫過淮南也讀之令人斷氣方自知為陋爾子豐曰試説其最工不可及者彥曰君子有酒小人鼔缶雖不可好亦不可醜此語何如子豐曰不急爾彥曰且效作此語子豐曰君子樂醼小人擊抃雖不足貴亦不可賤君子舞象小人擊壌上化使然又何足賞吾能作數十曲但無益於世故不為爾鮑子於是屈而無辭
子豊は經學に善くして、諸家の書を喜好せず。鮑彥は子豊と名氣は相當して而も學業は不同なり。だから子豊に對して曰く——「家裏の書の才辭の多きは、『淮南』を超過する無し。讀めば人をして氣を喘がしめざらしむ。乃ち己の陋なるを知れり。」子豊は曰く——「試みに其の最も工にして而も及ばざるを説け。」鮑彥は曰く——「『君子に酒有り、小人は缶を鼓す。好む可からずと雖も、亦た醜しむ可からず。』此の話は如何。」子豊は曰く——「急ならず。」鮑彥は曰く——「姑且く此のごときの話を仿作せよ。」子豊は曰く——「君子は宴を樂しみ、小人は抃を擊つ。貴ぶに足らずと雖も、亦た賤しむ可からず。君子は象を舞い、小人は壤を擊つ。上の化の使たらしむる所、又た何ぞ必ず賞せん。我は能く幾十曲を作る。只だ世に益無きを以て、だから為さず。」鮑子はここに於いて屈服して話無し。
左氏傳義詁序
左氏傳義詁序
先生名竒字子異其先魯人即褒成君次孺第二子之後也【孔覇字次孺】家於茂陵以世學之門未嘗就逺方師也唯兄君魚少從劉子駿受春秋左氏傳具於講業最明精究其義子駿自以才學不若也其或訪經傳於子駿輙曰幸問孔君魚吾已還從之諮道矣由是大以春秋見稱當世【孔奮字君魚覇之曽孫】王莽之末君魚避地至大河之西依大將竇融為家常為上賔從容以論道為事是時先生年二十一矣每與其兄議學其兄謝服焉及世祖即阼君魚乃仕官至武都太守闗內侯以清儉聞海內先生雅好儒術淡忽榮祿不願從政遂刪撮左氏傳之難者集為義詁發伏闡幽贊明聖祖之道以袪後學者書未畢而早世不永宗人子通痛其不遂惜茲大訓不行於世乃校其篇目各如本第並序答問凡三十一卷將來君子倘肯遊意幸詳録之焉
先生は名は奇、字は子異。先人は是れ魯人。即ち褒成君次孺の第二子の後裔なり【孔覇字次孺】。家は茂陵に在り。是れ世學の門なるを以て、未だ嘗て遠方に至りて師を求めず。只だ兄君の子魚は少年にして劉子駿に從いて『春秋左氏氏傳』を學び、講業上に於いて最も明にして・其の義を精究せり。子駿は自ら以て才學は彼に如かずと為し、或る人は子駿に向いて經傳を訪ねば、總べて曰く——「幸いに孔君魚に問え。我は已に頭を回らして彼に向いて道を咨せり。」此に因りて大いに『春秋』を以て当世に見稱せらる。【孔奮字君魚、是れ孔覇の曾孫。】王莽の末年、君魚は地を避けて大河の西に到り、大將竇融に依附して家と為し、常常に上賓を為り、從容として道を論ずるを以て事と為せり。此の時、先生は二十一歳なり。兄長と學を議する毎に、兄長は皆彼を服せり。世祖が位に即くに及びて、君魚は乃ち官を為り、官は武都太守・關内侯に至る。清儉を以て海内に聞こゆ。先生は儒術を雅好し、榮祿を淡忽し、政に從るを願わず。ここに於いて『左氏傳』の裏の難き所を刪撮し、『義詁』を集成す。伏を發し幽を闡き、聖祖の道を贊助闡明して、以て後學の疑惑を祛除せんとす。書は未だ完わらずして而も早世して永からず。宗人の子通は彼の未だ完成せざるを痛惜し、此の大訓の能く世に行われざるを惜しみ、ここに於いて篇目を校訂して各々本來の次第のごとくし、并せて答問を序す。一共三十一卷。將來の君子は倘若肯んじて留意せば、詳細に著錄せんを願う。
連叢子下第二十三
連叢子下第二十三
元和二年三月孝章皇帝東巡過魯幸闕里以太牢祠聖師作六代之樂天子升廟西面群臣在庭北面皆再拜天子進爵而後坐乃召諸孔丈夫年二十以上者六十三人臨賜酒飯子和自陳曰臣草莽所蔽才非干時行非絶倫托備先聖嗣世名學家陛下謬加拔擢微臣蘭臺令史防值車駕東巡先禮聖師猥以餘福惠及臣宗誠非碎首所能報謝詔曰治何經對曰為詩書頗涉禮傳詔曰今日之防寧於卿宗有光榮乎對曰非所敢當也臣聞明王聖主莫不尊師而貴道今陛下尊臣祖之靈貴臣祖之道親屈萬乗辱臨敝裡此乃陛下所以崇聖也若夫顧其遺嗣得與群臣同受釐福此乃陛下愛屋及烏惠下之道所以崇徳作聖臣宗弗與於光榮非所敢承天子嘆曰非聖者子孫惡有斯言遂拜子和郎中詔隨車駕賜孔氏男女錢帛子和從還京師遂校書東觀其年十二月為臨晉令其友崔駰以其家卦林占之謂為不吉語子和曰盍辭乎【漢崔篆嘗著易林篆乃駰之祖故曰家】答曰學不為人仕不擇官所以為吉也且卜以決疑不疑何卜吉防由人而由卦林乎徑往之官三年秋八月天子巡后土登龍門子和自請從行在所天子識其狀貌燕見移時賜帛十端還而九月既望寢疾不瘳乃命其二子留塟焉二子長曰長彥年十有二次曰季彥年十嵗父之友西洛人姚進先有道徵不就養志於家長彥季彥常受教焉既除防則苦身勞力以自衣食家有先人遺書兄弟相勉諷誦不倦於時蒲阪令汝南許君然造其宅勸使歸魯奉車二乗辭曰載柩而返則違父遺命舍父而去則心所不忍君然曰以孫就祖於禮為得子無疑答曰若以死有知也祖猶有鄰宗族父獨留此不亦劇乎吾以定矣遂還其車於是甘貧味道研精墳典十餘年間防徒數百故時人為之語曰魯國孔氏好讀經兄弟講誦皆可聽學士來者有聲名不過孔氏那得成長彥頗隨時為今學【其時多為章句學】季彥壹其家業兼修史漢不好諸家之書
元和二年三月、孝章皇帝は東に巡りて魯を經過し、駕は闕里に幸し、太牢を以て聖師を祠り、六代の樂を演奏す。天子は廟に升りて面は西に朝き、群臣は庭中に於いて面は北に朝き、皆再拜す。天子は爵を進めて然る後に坐し、ここに於いて孔氏の男子二十歳以上の六十三人を召請し、酒飯を臨賜す。子和は自ら陳説して曰く——「臣は草莽に蔽われ、才は能く時に干らず、行は能く倫に絕せず。先聖の後嗣に托して、世代は學に名有り。陛下の謬く拔擢を加うるを承け、微臣は蘭臺令史を為る。車駕の東に巡るに正值し、先ず聖師を禮す。猥りに餘福を以て臣の宗族に惠及す。實に碎首の能く報謝する所に非ず。」詔は問う——「何の經を治するか。」對答して曰く——「『詩』『書』を治し、亦た頗る『禮』傳に渉る。」詔は曰く——「今日の會は、豈に卿の宗族に對して光榮有るか。」對答して曰く——「敢て當る所に非ず。臣は聞く——明王・聖主は師を尊びて而も道を貴ばざる無し。今、陛下は臣の祖の靈を尊び・臣の祖の道を貴び、親しく萬乘を屈して敝里に辱臨す。これ是れ陛下の聖を崇むる所以なり。遺嗣を顧念し、群臣と同じく祭餘の福を受くるを得るに至っては、これ是れ陛下の屋を愛して烏に及び・下に惠むの道なり。だから德を崇め聖を作す。臣の宗族は并ならず光榮に参与せず。敢て承受する所に非ず。」天子は嘆息して曰く——「聖人の子孫に非ざれば、何れの処に此のごときの話有らん。」ここに於いて子和を拜して郎中と為し、詔して車駕に隨從せしめ、孔氏の男女に錢帛を賜う。子和は從いて京師に歸り、ここに於いて東觀に於いて書を校す。其の年十二月に臨晋令を為る。其の朋友の崔駰は彼の家の『卦林』を以て占卜し、以て吉ならずと為し、子和に對して曰く——「何ぞ辭謝せざる。」【漢の崔篆は嘗て『易林』を著せり。篆は駰の祖父。だから家と稱す。】子和は答えた。「學は是れ人の為ならず。仕は官を選擇せず。だから吉と為す。況んや卜は是れ以て疑を決するに用いる。疑わざれば何を卜せん。吉凶は人に由る。豈に『卦林』に由らんや。」徑直に前往して就任せり。三年秋八月、天子は后土を巡視し・龍門に登る。子和は自ら行在所に隨從せんを請求す。天子は彼の狀貌を認得す。燕見すること移時、帛十端を賜う。歸りて來りて後、九月既望に病に臥して愈えず。ここに於いて両個の兒子をして当地に留めて安葬せしむ。二子——長子の長彥は年十二、次子の季彥は年十歲。父親の朋友の西洛人姚進先は、道有りて征せられて而も就かず、家に於いて志を養い、長彥・季彥は常常に教えを受けたり。喪を除して後は身を苦め力を勞して以て自ら衣食す。家裏に先人の遺書有り。兄弟は相勉勵して諷誦して倦まず。當時、蒲阪令汝南の許君然は彼の宅里に到り、彼らを勸めて魯に歸らしめんとし、両輛の車を准備せり。辭して曰く——「柩を載せて返れば則ち父親の遺命に違背し、父親を舎棄して離去すれば則ち心の忍びざる所なり。」君然は曰く——「孫を以て祖に就くは、禮に於いて得と為す。あなたは必ずしも疑う勿れ。」對答して曰く——「若し死して而も知有ると以為せば、祖父は尚お宗族に鄰有り。父親は獨り此處に留む。亦た太甚ならずや。我は已に定めたり。」ここに於いて車を以て還去せり。ここに於いて貧に甘んじ・道を體味し、墳典を研精す。十餘年の間、學徒は幾百人。だから當時の人は彼らの為に話を編んで曰く——「魯国の孔氏は經を讀むを好み、兄弟は講誦して皆聴く可し。學士の來る者は聲名有り。孔氏を過ぎざれば那ぞ成るを得ん。」長彥は頗る時に随いて今學を為す【當時は多く章句學を為す】。季彥は專一して家業に於いてし、兼ねて『史』『漢』を修め、諸家の書を喜好せず。
華隂張太常問何如斯可謂備徳君子季彥答曰性能沉邃則不可測志不在小則不可度砥礪廉隅則不可越行髙體卑則不可階興事教業與言俱立捨己從善不恥服人交友以義不慕勢利並立相下不倡遊言若此可謂備徳矣張生曰不有孝弟忠信乎答曰別而論之則應此條總而目之則曰孝弟忠信張生聞是言喜而書之
華陰の張太常は問うた。「如何にして以て備德の君子と稱す可きか。」季彥は答えた。「性は能く沈邃すれば則ち測る可からず、志は小に在らざれば則ち度る可からず、廉隅を砥礪すれば則ち越える可からず、行は高くして體は卑ければ則ち一級級に爬上る可からず。事を興し業を立つるは、言と一起に成立す。己を舎てて善に從うは、以て人に服するを恥と為さず。友を交えるは義を以てし、勢利を慕わず。並立の時は互相に謙下し、游言を倡せず。此のごときを以て備德と稱す可し。」張生は曰く——「孝弟・忠信無きか。」季彥は答えた。「分別して論ずれば則ち此の等の條目の裏に應ず。總べて看れば則ち孝弟・忠信と呼ぶ。」張生は此の話を聞いて、高興して記下せり。
魯人有同嵗上計而死者欲為之服問於季彥季彥曰有恩好其緦乎昔諸侯大夫同防事於王及以君命同盟覇主其死則有哭臨之禮今之上計並覲天子有交燕之歡同盟綈素上紀先君下録子弟相敦以好相厲以義又數相往來特有私親雖比之朋友不亦可乎崔駰學於太學而糧乏鄧衞尉欲餼焉而未果季彥年九嵗以其父命往見衞尉曰夫言不在多在於當理施不在豐期於救乏崔生臣父之執也不幸而貧公許賑之言既當理矣從來有日嘉貺未至或欲豐之然後乃至乎答曰家物少湏租入當猥送季彥曰公顧盻崔生欲分祿以周其無君之惠也必欲待君租入然後猥致則於崔生為贏非義崔生所不為也且今已乏矣而方湏租入是猶古人慾決江河以救牛蹄之魚之類也鄧公曰諾
魯人に同年に上計して而も死せる有り。彼の為に喪を服せんと欲し、季彥に問うた。季彥は曰く——「恩好有れば、大概緦麻を穿つべきか。昔、諸侯・大夫は一同に王の所に於いて事を辦じ、以及君命を奉じて霸主と同盟せり。对方は死せば則ち哭臨の禮有り。今、上計は一并に天子を觐見す。交宴の歡有り。同盟は綈素し、上は先君を記し、下は子弟を錄す。互相に以て好を以て相敦し・義を以て相勵す。又た屢々往來す。特に私親有り。たとえ朋友に比作するとも、亦た可ならずや。」崔駰は太學に於いて學習して而も糧食は乏し。鄧衛尉は彼を供給せんと欲するも尚お未だ實行せず。季彥は九歳。父親の命を奉じて往きて衛尉に見えて曰く——「話は多きに在らず。理に當るに在り。施は豐なるに在らず。能く乏を救うを期望す。崔生は是れ臣の父親の執友なり。不幸にして而も貧す。公は賑濟を許諾せり。話は已に理に當れり。從來して幾日か有り。嘉賜は尚お到らず。或いは是れ豊厚にして然る後に乃ち到らんと欲するか。」對答して曰く——「家裏の东西は少なし。租の入るを待ちて当に一并に送去せん。」季彥は曰く——「公は崔生を顧念し、俸禄を分ちて以て彼の匱乏を周濟せんと欲す。是れ君の惠なり。必ずあなたの租の入るを待ちて然る後に一并に致送せば、崔生に對しては則ち多余なり。是れ義に非ず。崔生の為さざる所なり。況んや今は已に乏しきに、而も尚お租の入るを待つは、猶お古人が江河を決して以て牛蹄の窩裏の魚を救わんと欲するの一類のごとし。」鄧公は曰く——「善し。」
梁人取後妻後妻殺夫其子又殺之季彥返魯過梁梁相曰此子後以大逆論禮繼母如母是殺母也季彥曰言如母則與親母不等欲以義督之也昔文姜與弒魯桓春秋去其姜氏傳曰不稱姜氏絶不為親禮也絶不為親即凡人爾且夫手殺重於知情知情猶不得為親則此下手之時母名絶矣方之古義是子宜以非司寇而擅殺當之不得為殺母而論以逆也梁相從之農太守皇甫威明問仲淵曰【即皇甫規仲淵乃季彥族】吾聞孔氏自三父之後能傳祖之業者常在於叔祖今觀連叢所記信如所聞然則伯季之後弗克負荷矣答曰不然也先君所以為業者非惟經傳而已可以學則學可以進則進可以止則止故曰無可無不可也葢惟執行中庸其於得道非末嗣子孫所能及也是以先父各取所能能仕則仕能學則學自伯祖之子孫世仕有位季祖之子孫或學或仕或文或武所綂不一故學不稽古仕無髙官文非俎豆武非戢兵不専故也皇甫曰如髙明之言是故弗克負荷矣答曰伯之子孫今其可仕季之子孫何所能任所以世得聞焉且人之才聖受天有分若如君之論則成王伯禽雖致太平皆當以不聖弗克負荷之罪乎皇甫笑曰善既而或謂仲淵曰以古人推之自可如皇甫之言爾而子矜之何也皇甫雖口與子心實不與也答曰吾其然然此君來言頗欲相侵故激至於此豈曰得道由不獲已也
梁人は後妻を娶り、後妻は丈夫を殺せり。彼の兒子は又た後妻を殺せり。季彥は魯に歸りて梁を經過す。梁相は彼に對して曰く——「此の兒子は後に大逆を按じて論處せん。禮——繼母は母のごとし。これ是れ母を殺すなり。」季彥は曰く——「『母のごとし』と説くは、則ち親母と等しからず。是れ義を以て督察せんと欲するなり。昔、文姜は魯桓公を弑するに参与せり。『春秋』は彼女の姜氏を去りて曰く——『姜氏を稱せざるは、絕して親を為さざるは、禮なり。』絕して親を為さざれば、則ち普通人なり。況んや手ずから殺すは知情に比べて更に重し。知情は尚お親を為るを得ず。則ち此の手を下すの時、母の名は已に絕えたり。古義に比照すれば、此の兒子は当に『司寇に非ずして而も擅自に人を殺す』に按じて判ずべし。以て母を殺すと作りて論じて逆と為すを得ず。」梁相は聽從せり。弘農太守の皇甫威明は仲淵に問うた。【即ち皇甫規。仲淵は季彥の族人。】「我は聞く——孔氏は三父の後より、祖業を傳うる能くするは常に叔祖に在り。今、『連叢』の記す所を看れば、信に聞くがごとし。則ち伯・季の後裔は能く負荷せざるか。」對答して曰く——「是れ此のごとくに非ず。先君の以て業と為す所は、不只だ經傳のみ——學ぶ可ければ則ち學び、進む可ければ則ち進み、止まる可ければ則ち止まる。だから曰く——可無く不可も無し。大概只だ中庸を執行し、道を得るに對しては、末嗣の子孫の及ぶ能くする所に非ず。だから先父は各々能くする所を取る——能く仕すれば則ち仕え、能く學べば則ち學ぶ。從伯祖の子孫は、世代は官を為りて位有り。季祖の子孫は、或いは學び或いは仕え、或いは文或いは武。統する所は一ならず。だから學は古を考究せず、仕は高官無し、文は俎豆に非ず、武は戢兵に非ず。是れ專ならざるの故なり。」皇甫は曰く——「高明の話に按せば、だから能く負荷せざるなり。」對答して曰く——「伯の子孫は今以て官を為る可し。季の子孫は何の能く担任する所有らん。だから世代は以て聞名するを得る。況んや人の才聖は、天を受けて分有り。若しあなたの論に按せば、則ち成王・伯禽はたとえ太平を致すとも、皆当に聖ならざるを以て負荷する能わざるの罪を承担すべきか。」皇甫は笑いて曰く——「善し。」過ぎて後、或る人は仲淵に對して曰く——「古人を以て推せば、自然以て皇甫の言うがごとくす可し。あなたは而も矜持す。何の故ぞ。皇甫は嘴里はあなたに贊同すと雖も、心裏は其の實は贊同せず。」對答して曰く——「我は大概是れ此のごとし。然る可く此の位の來言は、頗る相侵せんと欲す。だから此の歩に激る。何れの処に得道を説き上げん。是れ已むを得ざるなり。」
長孫尚書問季彥曰處士聖人之後也豈知聖人之徳惡乎齊答曰徳行邈於世智達秀於人幾於如此矣曰聖人者必能聞於無聲見於無形然後稱聖爾如處士所言大賢則能為之季彥曰君之論宜若未之近也夫有聲故可得而聽有形故可得而見若乃無聲雖師曠側耳將何聞乎無形雖離婁並照將何覩乎書曰惟狂克唸作聖狂人念思道徳猶為聖人聖人大賢之清者也賢人中人之清者也
長孫尚書は季彥に問うた。「處士は是れ聖人の後なり。豈に聖人の德は如何に齊備するを知るや。」季彥は答えた。「德行は当世を超越し、智達は人に秀出す。幾らか則ち此のごとし。」長孫は曰く——「聖人は必ず能く聲無きを聴き・形無きを見て、然る後に聖と稱す。處士の言うがごときは、大賢は則ち能く為し到る。」季彥は曰く——「あなたの論は似たる尚お未だ接近せず。聲有りて乃ち聴く可く、形有りて乃ち見る可し。聲無きに至っては、たとえ師曠なりとも耳を側けて将に何を聴かん。形無きは、たとえ離婁なりとも照を并べて将に何を看ん。『書』に曰く『惟れ狂は念を克れば聖を作す』——狂人は道德を念思して尚お能く聖人と成る。聖人は是れ大賢の裏の清なり。賢人は是れ中人の裏の清なり。」
孔大夫謂季彥曰【大夫乃孔昱字元世】今朝廷以下四海之內皆為章句內學【西漢士論以經術為內學諸子雜説為外學季彥之時方尚辭文乃以章句為內學經術為外學】而君獨治古義治古義則不能不非章句非章句內學則危身之道也獨善固不容於世今古義雖善時世所廢也而獨為之必將有患盍姑已乎答曰君之此言殆非所望也君以為學學知乎學愚乎大夫曰學所以求知也季彥曰君頻日聞吾説古義一言輙再稱善善其使人知也以為章句內學迂誕不通即使人愚也今欲使吾釋善善之知業習迂誕不通之愚學為人謀如此於義何居且吾子立論必析是非以是易非何傷之如主上聰明庸知不欲兩聞其義博覽古今擇善從之以廣其聖乎吾學不要祿貴得其義爾復以此受患猶甘心焉先聖垂訓壁出古文臨淮傳義可謂妙矣而不在科策之例世人固莫識其竒矣斯業之所以不泯賴吾家世世獨修之也今君猥為祿利之故欲廢先君之道此殆非所望也若從君言是為先君之義防於今日將使來世達人見今文俗説因嗤笑前聖吾之力此葢為先人也物極則變此百年之外必當有明慎君子恨不與吾同世者於是大夫悵然曰吾意實不及此也敢謝不敏
孔大夫は季彥に對して曰く——【大夫は是れ孔昱、字元世。】「今、朝廷以下・四海の内は皆章句の内學を為す【西漢の士論は經術を以て内學と為し・諸子雜説を以て外學と為す。季彥の時は正しく辭章を崇尚せり。乃ち章句を以て内學と為し・經術を以て外學と為す】。而もあなたは獨り古義を治す。古義を治すれば則ち章句を否定せざる可からず。章句の内學を否定すれば則ち是れ身を危うくするの路なり。善を獨りするは本來世に容れられず。今、古義は好しと雖も、是れ時世の廢する所なり。而も獨り往きて為す。必ず将に患有らん。何ぞ姑且く作罷せざる。」季彥は答えた。「あなたの此の話は、大概是れ期望する所に非ず。あなたは以て學は是れ知を學ぶか、抑も愚を學ぶか。」大夫は曰く——「學は是れ以て知を求むるに用いる。」季彥は曰く——「あなたは連日、我が古義を説くを聴き、一句の話に則ち再び善を稱す。是れ其の能く人をして知らしむるを善とす。以て章句の内學は迂誕にして通ぜずと為す。則ち是れ人をして愚ならしむ。今、我をして知らしむるの善業を放下して、往きて迂誕にして通ぜざるの愚學を習わしめんと欲す。人の為に謀劃して此のごとくするは、義の上に於いて立つか。況んや吾子は論を立てば必ず是非を分析す。是を以て非と換うれば、何の傷害か有らん。主上は聰明なり。何を以て両面皆其の義を聴かんと欲せざるを知らん。古今を博覽し・善を擇びて從い、以て彼の聖を廣大せん。我が學は是れ祿を要するに非ず。義を得るを貴ぶ。たとえ此に因りて患を受くとも、尚お甘心なり。先聖は訓を垂れ、壁中は古文を出し、臨淮は義を傳う。以て妙と説く可し。而も科策の例に在らず。世人は本來其の奇を識らず。此の業の泯滅せざる所以は、我が家の世代の獨修に靠る。今、あなたは竟に祿利の故に因りて先君の道を廢せんと欲す。これ大概是れ期望する所に非ず。若しあなたの話に依從せば、則ち是れ先君の義は今日に於いて絕え、将に來世の達人をして今文の俗説を見て、因りて前聖を嗤笑せしめん。我は此に於いて力を用うるは、是れ先人の為なり。物は極まれば則ち變ず。此の百年の外は、必ず明慎の君子有りて我と世を同じくせざるを恨まん。」ここに於いて大夫は悵然として曰く——「我の意思は實に此の一層に想到らざりき。敢て不敏を謝す。」
楊太尉【楊震】問季彥曰吾聞臨晉君異才博聞周合群籍如世不歸大儒何答曰不為祿學故也惡直醜正實繁有徒辨經説義輙見憎疾但以所據者正故眾人不能用爾免害為幸何大儒之能歸乎
楊太尉【楊震】は季彥に問うた。「我は聞く——臨晋君は異才・博聞にして、群籍を周合す。何の故に当世は大儒に歸向せざるか。」季彥は答えた。「是れ祿の為に學ばざるを以てなり。正直を厭惡し・正人を醜化する者は、實に其の徒は繁く有り。經を辨し義を説くは、總べて憎疾せらる。只だ所依據の正なるを以て、だから衆人は能く用いず。害を免るれば則ち幸なり。何れの処に能く大儒に歸向せん。」
季彥見劉公客適有獻魚者公熟視魚嘆曰厚哉天之於人也生五穀以為食育鳥獸以為餚眾座僉曰誠如明公之教季彥曰賤子愚意竊與眾君子不同以為不如明公之教也何者萬物之生各稟天地未必為人人徒以知得而食焉故孝經曰天地之性人為貴貴有知也伏羲始甞草木一日而遇七十二毒然後五穀乃形非天本為人而生也蚊蚋食人蚓蟲食土非天故為蚊蚋生人為蚓蟲生地也知此不然則五穀鳥獸之生本不為人可以無疑矣公良乆曰辨哉眾座黙然
季彥は劉公に見えた。座上は正好く魚を献ずる者有り。劉公は那の魚を熟視し、嘆息して曰く——「天は人に對して真に厚きかな——五穀を生じて以て食と作し、鳥獸を育てて以て肴と作す。」衆座は皆曰く——「誠に明公の教える所のごとし。」季彥は曰く——「賤子の愚意は、私下に衆君子と同じからず。以て明公の教える所のごとくならずと為す。何の故ぞ。萬物の生は、各々天地を禀受す。未必人の為ならず。人は只だ知に凭りて乃ち得て而も食う。だから『孝經』に曰く『天地の性は人を貴と為す』——貴ぶ所は知有るに在り。伏羲は始めて草木を嘗め、一日に七十二毒に遇う。然る後に五穀は乃ち形を成せり。是れ天が本來人の為に生ずるに非ず。蚊蚋は人を吃い、蚓虫は土を吃う。是れ天が故意に蚊蚋の為に人を生じ・蚓虫の為に地を生ずるに非ず。其の然らざるを知れば、則ち五穀・鳥獸の生は、本來人の為に非ず。以て疑わざる可し。」劉公は沉默すること久しくして曰く——「善く辨するかな。」衆座は默然たり。
永初二年季彥如京師省宗人仲淵是年夏河南四縣雨雹如棬杯大者如鬥殺禽畜雉兎折樹木秋苗盡天子責躬省過並令幽隱有道術之士各得假變事亟陳厥故季彥與仲淵説道其意狀曰此陰乗陽也貴臣擅權母后黨盛多致此異然乃漢家大忌時下邳長孫子逸止仲淵第聞是言也心善之因見上説焉上召季彥季彥見於德陽殿陳其事如與仲淵言也曰陛下増修聖德慮此二者而已夫物之相感必以類推其甚者必有山崩地震乖氣相因其事不可盡論往者延平中鄧後稱制而東垣巨屋山大崩聲動安邑即前事之驗者帝黙然左右皆不善其言季彥聞之曰吾豈容媚勢臣而欺天子乎後子逸相魯舉季彥孝防固辭不就防遭兄長彥憂遂止乎家季彥為人謙退愛厚簡而不華終不以榮利變其恬然之志見不義而富貴者視之如僕舉筆則典誥成章吐言必正名務理故每所交遊莫不推先以為楷則也年四十有九延光三年十一月丁丑卒【史稱年四十七】
永初二年、季彥は京師に到りて宗人の仲淵を看望す。此の年の夏、河南の四縣は雹を下す。杯口のごとき大きさ、大ききは斗のごとし。禽畜・雉兎を殺し、樹木を折斷し、秋苗は盡く毀れたり。天子は躬を責め過を省み、并せて幽隱に道術有るの士に各々變事を借りて緊急に緣故を陳述せしむ。季彥は仲淵と其の中の意狀を講説して曰く——「これ是れ陰が陽に乘ずるなり。貴臣は權を擅にし・母后は黨は盛んなり。多く此の種の災異を致す。而も是れ漢家の大忌なり。」當時、下邳の長孫子逸は仲淵の宅里に住み、此の話を聞き、心裏は善を稱し、因りて上に見えて陳説す。上は季彥を召し、季彥は德陽殿に於いて接見せられ、其の事を陳述すること仲淵と説くがごとくして曰く——「陛下は聖德を增修し、此の兩件の事に慮及せば則ち可なり。物の相感は必ず類を按じて推す。厲害なるは必ず山崩・地震・乖氣の相因有り。那の事は能く盡く論ぜず。往日、延平中に鄧后は制を稱し、東垣の巨屋山は崩塌し、聲は安邑を動かせり。即ち是れ前事の應驗なり。」帝は默然たり。左右は皆彼の話を喜ばず。季彥は之を聞いて曰く——「我は豈に勢臣に容媚して而も天子を欺騙せんや。」後に子逸は魯相を為り、季彥を孝廉に擧ぐ。彼は堅く推辭して就かず。後に兄長の彥の喪に遭い、ここに於いて家裏に留む。季彥は人を為して謙退・愛厚、簡にして華ならず。始終榮利を以て恬然の志を改變せず。義ならずして富貴するを見るは、彼を看ること僕役のごとし。筆を擧げれば則ち典誥は章を成し、言を吐けば必ず名を正しくし理を務む。だから交游する所毎に、彼を推して先と為し・以て楷則と作さざる無し。年四十九、延光三年十一月丁丑に去世す。【史書は年四十七と稱す。】
孔叢子卷下
孔叢子巻下
