了斋易说
《了斎易説》一巻、所拠は浙江呉玉墀家の蔵本なり。此の条は《四庫全書総目》が此書を著録する時に立てたる標目なり。
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
四庫全書総目提要
△《了齋易說》一卷(浙江吳玉墀家藏本)
《了斎易説》一巻、所拠は浙江呉玉墀家の蔵本なり。此の条は《四庫全書総目》が此書を著録する時に立てたる標目なり。
宋陳瓘撰。瓘字瑩中,了翁其自號也。延平人。元豐二年進士甲科。建中靖國初為右司諫,嘗移書責曾布及言蔡京、蔡卞之奸,章數十上,除名編隸合浦以死。事蹟具《宋史》本傳。此本為紹興中其孫正同所刊。馮椅謂嘗從其孫大應見了翁有《易全解》,不止一卷,多本卦變,與朱子發之說相類。胡一桂則謂尚見其初刊本,題云《了翁易說》,並未分卷。此本蓋即一桂所見也。
本書は宋人陳瓘の撰なり。陳瓘は字は瑩中、「了翁」は彼の自ら取りたる別号なり、延平(今の福建南平)の人、元豊二年に進士甲科を挙げたり。建中靖国の初年、右司諫に任ぜられ、曾て宰相曾布を責むる書を遣わし、又章を上げて蔡京・蔡卞兄弟の奸悪を糾発し、前後奏章数十道、終に官籍を削られ、合浦に編管されて死せり。其の事跡は《宋史》本伝に完く載す。今の此の本は、紹興年間に其の孫陳正同の刊刻せしなり。馮椅が自ら言うに、彼は曾て陳瓘の孫陳大応の処より了翁の《易全解》を見、篇幅は一巻に止まらず、内容は多く「卦変」に依りて説を立て、朱震(字は子発)の路数に近しと。胡一桂が曰く、彼は還た此書の初刻本を見、題名は《了翁易説》と作りて、未だ巻を分かたずと。今の此の本は、大略胡一桂の見たるあの一种ならん。
邵伯溫《聞見錄》,稱瓘說得康節之學。沈作喆《寓簡》則曰“陳瑩中嘗以邵康節說《易》,講解象數,一切屏絕,質之劉器之,器之曰:《易》固經世之用,若講解象數,一切屏絕,則聖人設卦立爻,復將何用?惟知其在象數者皆寓也,然後可以論《易》。故曰:得意忘象,得象忘言。方其未得之際而遽絕之,則吉凶與民同患之理將何以兆?恐非筌蹄之意”云云。
邵伯温は《聞見録》の中に曰く、陳瓘の学問は邵雍(康節)の一派より得たりと。沈作喆の《寓簡》は却って記載す――陳瑩中は曾て邵康節の《易》を講ずる路数を持ちて――「象数」一類の講解を一概に屏棄す――劉安世(字は器之)に請教しに行きたりと。劉安世が曰く《易》は本来経世致用の一面有り、若し象数の講解をことごとく屏棄せば、則ち聖人の卦を設け爻を立てるは還た何の用為さん。ただ象数の中の言う所は皆寄寓の詞なるを明白にして、然る後乃ち《易》を談ずべし。故に曰く「意を得て象を忘れ、象を得て言を忘る」と。正しくまだ其の意を得ざる時に急いで象数を丟開すれば、則ち「吉凶は民と患を同じくす」の道理は又何に凭りて端倪を顕さん。此れ恐らく「魚を得て筌を忘れ、兎を得て蹄を忘る」の本意に合せず。以上すなわち沈作喆の記せるあの一段の話なり。
然則瓘之《易》學,又嘗質之劉安世,不全出邵子矣。其造語頗詰屈,故陳振孫《書錄解題》病其辭旨深晦。然晁公武《讀書志》謂其以《易》數言天下治忽多驗,則瓘於《易》實有所得,非徒以艱深文淺易者,正未可以難讀廢矣。
此れを見れば、陳瓘の《易》学も亦曾て劉安世に請教し、全然邵雍の一門より出づるに非ず。彼の遣詞造句は頗る拗口なれば、故に陳振孫の《直斎書録解題》は此の書の文辞と義旨とが皆太だ幽深晦渋なるを批評す。但し晁公武の《郡斎読書志》は彼が《易》数を用いて天下の治乱興衰を推断し、多く応験有りと言えば、陳瓘の《易》の上に於て確かに得る所有るを見べし、并せ只是艱深の文字を用いて浅易の内容を掩飾するに非ず。因りて此の書は正に難読に因りて廃棄せらるべからず。
乾卦(乾下乾上)
乾下乾上。乾,大也,在人為元。其大也離乎對矣,而不無人也。不見其人,無咎。萬物資焉,名之曰始。乃統天者,乾乾也。雲行雨施,乾之作也。曰乾曰坤曰元,故曰品。其為物也無不在,不睹其形,孰知其流。大明終始,觀艮可知;六位時成,觀大畜可知。時成,其位也;時乘,其變也。初、首、元、作、潛、亢在時。不觀大畜,何以畜其徳?乃統天者,元也;以御天者,時也。變化者,乾道也。乾道精而非一,其貞各而不雜。往也而合,命也而性,故曰正。合乎天地而不見其臭,發而中節,而其發不獨。夫然,故無不利也,無不貞也。惟辟奉天,其道如是。首出庶物,何為哉?萬國咸寧,不為而寧也。
乾卦は、卦体は乾下乾上なり。「乾」の意思は大なり、人身上に落れば便ち「元」――衆善の長なり。其の大は已に一切の相対待する物を超出するも、却って人を排除せず。即ち其れを体現する人を見ずとも、亦咎害有ること無し。万物は皆それに凭りて取資すれば、故に之に命名して「始」と為す。能く天道を統摂するは、正に「乾乾」のこの剛健不息なり。「雲行雨施」は乾の運作なり。乾と称し坤と称し元と称すれば、《彖伝》が「品物流形」と説く所以なり。乾の此の物は処に在らざる無し、人は其の形体を見ず、誰か其の流行を知らん。「大明終始」の道理は、艮卦に参看すれば便ち知るべし。「六位時成」の道理は、大畜卦に参看すれば便ち知るべし。「時成」は位次を説き、「時乗」は変化を説く。初・首・元・作・潜・亢のこれらの字眼は、全て一個の「時」の上に落つ。大畜卦に参看せずば、又何を以て自己の徳を畜養せん。故に天道を統摂するは「元」、天道を駕御するは「時」、能く変化を生ずるは便ち乾道なり。乾道は精純にして一端に止まらず、其の貞正は各々分際有りて相い混雑せず。往きて能く合すれば、既是命なり亦性なり、故に「正」と曰う。其れ天地に合して声も臭も尋ぬべくなく、一たび発動すれば恰も節度に中り、而して孤発に非ず。唯だ是の如し、才かに利あらざる無く、貞ならざる無し。ただ君王が天道を奉承して、走るは正に此の路なり。「首出庶物」は刻意造作に非ず、「万国咸寧」も亦加わらずして自然安寧なり。
是故乾者,萬物之一也,而一不墮數;庶物之首也,而用而不有。是故陰陽不測之物名曰神,物成象之謂乾,見乃謂之象。是故乾行無象,自不在我。大畜之初曰「有厲利己」,不犯災也。自「陽在下也」至「天徳不可為首也」,總言聖人所以順天而無為之道。文言言元有四,無為而具者乾也。君子之行並乾而五。乾行無象,天之有象者,行乾之君子也。「勿用」者,弗用也;其弗用者,得而隠也。「不易乎世」,中不變也;「不成乎名」,實著也。遁則退也,是則時也。「無悶」,不憂也;憂,憂也。不以所建易所行,不以彼憂易此樂,所謂不易乎世也。「確乎」者,示人易也;其不可拔者,以其彚貞也。夫聖人之貞,又何以加於樂乎?
故に乾は万物中の一物なり、可なる此の「一」は并せ数目の裏に落ちて点数せず。それは衆物の首なれども、ただ起用を管して己有に拠らず。因りて陰陽変化測るべからざるあの物を「神」と曰い、凝聚して形を成すを「乾」と曰い、顕現してこそ「象」と曰う。故に乾の運行は本より睹るべき象無く、それは本来我に在らず。大畜卦初九に曰く「有厲利已」、意思は災禍を触犯せざるなり。《文言》「陽在下也」より「天徳不可為首也」に講り至るまで、通篇説く所は皆聖人の天道に順応して妄りに造作せざるの道理なり。《文言》は「元」を講じて四層の意思有り、能く造作せずして四徳自ら具はるは乾なり。君子は乾に依りて行えば、便ち第五層と成る。乾行は本来象無し、天の象見るべき有る所以は、正にあの乾に依りて行う君子なり。「勿用」は用いに行かざるなり。其の用いざる所以は、已に得有りて自ら隠るればなり。「不易乎世」は心中世俗に改められず、「不成乎名」は其の実を務めて虚名を逐わず。「遁」はすなわち退、「是」はすなわち時に合す。「无悶」は憂えず。憂に説き及べば、それこそ真の憂なり。自己の立つる志に因りて行う所を改めず、外の憂に因りて心裏の楽を換えず、此れを「不易乎世」と曰う。「確乎」は平易を以て人に示すなり。其の拔動すべからざる所以は、同類と共に其の貞を守ればなり。聖人の貞正、又還た何物か此の一份の自得の楽に勝らんや。
正中者,龍徳之中也。中故信,括故謹,非作也,正中之庸也。「閒邪」,自閒也;「存其誠」,非存之也,言行所以自閒也。「善世」者,維道之善也;「徳博」者,日新之徳也。中庸其至矣乎!獨善者必盈,徳□者必吝,故曰「見龍在田,君徳也」。君徳者,聖人之得乾者也,故曰乾以君之。徳者,得也;業者,動也。必忠必信,則其進不由;順聖人之情,則修不遷貳。「立」,言乎其不遷也;「居」,言乎其不貳也。夫聖人之修,又何以加於不遷不貳乎?「幾」者,動之微;「義」者,大君之宜。上天之載,無聲無臭,至矣;知而至之者,人也。昭明有融,髙朗令終,終矣;知而終之者,人也。
「正中」は、龍徳の居る所の中位なり。中を得れば故に能く信、能く収斂すれば故に能く謹、此れ皆刻意造作に非ずして、「正中」の常道なり。「閑邪」は自ら防閑し、「存其誠」も亦刻意して存するに非ず――言行本身すなわち自我防閑の功夫なり。「善世」は道を維繫する善、「徳博」は日日更新する徳なり。中庸は真に極致なり。ただ独善其身を顧みるは必ず自満に至り、徳に虧損有るは必ず吝嗇に至る。故に曰く「見龍在田」はすなわち君徳なり。君徳は、聖人が乾のあの処より得たるなり、故に曰く乾は君徳を以て万物を統御す。「徳」はすなわち得、「業」はすなわち動なり。必ず忠必ず信せば、其の長進は必ずしも外求を要せず。聖人の性情に順えば、修養の上に於て便ち怒を遷さず過を貳せず。「立」は遷らざるを講じ、「居」は貳せざるを講く。聖人の修養、還た何物か遷らず貳せざるを超出せん。「幾」は動の極微の処、「義」は大君の宜しき所なり。上天の載く所、声無く臭無し、此れ至極なり、而して能く此れを知りて之に達するは人なり。昭明にして寛和、高朗にして善終、此れ終了なり、而して能く此れを知りて之を完成するも亦人なり。
習至之之道者,其唯坤順乎!習終之之道者,其惟謙亨乎!窮大者必失其所居,是故居道則盈而不謙,居器則繫而不樂。是故不驕不憂者,聖人之乾乾也。乾乾因其時而惕,則品物具矣;雖危無咎,安也。上下無常而臣道常屈,進退無恆而王道恆尊。宜屈而信,是為邪也;不渙其躬,是離群也。君君臣臣之謂群,中而不倚之謂正。為邪而離群者,必以大咎終焉,故君子之大欲,必因其時而惕也。
「至」の此の一段の功夫を学ばんとせば、大略ただ坤卦の柔順のみ依るべし。「終」の此の一段の功夫を学ばんとせば、大略ただ謙卦の亨通のみ依るべし。一味に大を求めて極処に至る人は、必定自己の位置を守持せず。自ら「道」に居れば便ち自満して能く謙せず、自ら「器」に居れば便ち牽繋せられて能く楽しまず。故に驕らず憂えず、正に聖人の「乾乾」なり。乾乾の人は時に随いて警惕し、万物品類は便ち各々其の所を得る。危地に処るも咎無きは、正に其の心安ければなり。上下の位次は一定無く、可なる臣の道は總じて屈を取る。進退は常軌無く、可なる王の道は總じて尊に居る。屈すべき時に反って伸張すれば、便ち邪なり。肯んじて自身の私執を散去せざれば、便ち離群なり。君は君道を尽くし臣は臣道を尽くすを「群」と曰い、中に居りて偏倚せざるを「正」と曰う。邪を行いて又離群する人は、最後必ず大咎を以て収場す。故に君子の最大の心願は、すなわち其の時に随いて常に戒惕を存するなり。
有厲利己,習乃日新。音同故同聲,物同故同氣。響谷之相應,聲無異在;陰陽之相求,氣不殊感。凝動宿烈,同一溼燥;龍虎變化,有萬從一。大作而眾目自通,無二致也。君本乎天,臣本乎地,是故上下無常而臣道常卑。各從其類,不可違也;違則邪矣,故曰「牝馬地類,行地無疆,柔順利貞,君子攸行」。
「有厲利已」は、日日温習してこそ日日更新し得るを説く。声音は同類にして故に同じ声に相応じ、物性は同類にして故に同じ気に相求む。空谷の回声の呼応する所以は、声は本より別無きなり。陰陽の互いに求むる所以は、気は本より同じ感なり。凝と動・宿と烈とは、同じく湿燥の一理より出ず。龍と虎との変化は、千頭万緒も皆一に帰す。大の興作一たび起れば、衆人の耳目は自然貫通して、并せ両様有らず。君は天に本づき、臣は地に本づけば、故に上下の位次は定則無しと雖も、而して臣道は總じて卑を取る。各々其の類に随うは、違背すべからざるなり。一たび違背すれば便ち邪と成る。故に《坤》に曰く「牝馬地類、行地无疆、柔順利貞、君子攸行」と。
亢故悔,聖人有焉;動而亢者,有故也。聖人之用不用,天下之治不治,道之行不行,皆天也。樂則行之,故其事在中;憂則違之,故其通不窮。居征以時,試不在它,乾乾之君子也。乾元用九,人何力之有焉!陽氣潛藏,故曰潛龍勿用;勿用也,故弗用。「見龍在田,天下文明」「終日乾乾,與時偕行」者,陽氣發生而品物咸章也。
亢極して悔有る所以は、此れ聖人の身上にも亦有るべし。動きて亢に至るは、總じて縁故有り。聖人が任用せらるるか任用せられざるか、天下が治を得るか得ざるか、道が行わるるか行われざるかは、皆天に取決す。心中此れに楽しめば便ち行きに行く、故に行事は總じて一個の「中」を離れず。心中此れに憂えれば便ち避け、故に其の通達は永く窮まらず。居処と出行とは皆時に依りて定まり、考験も亦別処に在らず、此れすなわち「乾乾」の君子なり。乾元の九を用いるに、人は其の中に於て又幾多の力を出さん。「陽気潜蔵」、故に曰く「潜龍勿用」。本より用いるに当たらざれば、故に彼は用いず。「見龍在田、天下文明」と「終日乾乾、與時偕行」とに至りては、講ずるは陽気の発生、万物品類の皆光華を彰顕するなり。
乾乾匪他,其有在時。行也者,不息也;極也者,不行也。用九者,乾元也;見天則者,乾始也。曰元而始可知也,曰終始而大明可知也。大哉乾乎!終始性情,能以美利,皆乾始也。大哉乾乎!能健能順能也,以健以厚以也。坤則美在中,乾不言所利,大矣哉!剛健中正,純粹精也。所謂大哉乾乎者,如此而已。
「乾乾」は別の物に非ず、其の着落は全て一個の「時」の上に在り。謂う所の「行」は、すなわち停息せず。謂う所の「極」は、すなわち更に行かず。「用九」は乾元を指し、「見天則」は乾の始を指す。「元」を説けば、「始」の意思は便ち推知すべし。「終始」を説けば、「大明」の意思も亦推知すべし。偉大なるかな乾。終始を貫通し性情を統摂し、能く美善の利を以て万物に沢被し、此れら皆乾の始より出ず。偉大なるかな乾。それは能く健にして能く順、健を以て厚を以てす――此の二句は原本各々一字を脱す。坤は美を含蓄して内にし、乾は却って自己の利の何れに在るかを説かず、此れこそ大と曰う。剛健中正、純粹にして精なる、謂う所の「大哉乾乎」は、過ぐるも此の如くのみ。
是故乾也者,七徳之總名也。六爻發揮旁通情也,天地萬物之情發揮在爻。是故情之未發謂之中,發揮旁通謂之變。天無為也,乘六龍以御者,時也;後天而奉天時者,聖人也。雲行雨施,天下平也。知履道之坦坦者,庶幾乎其見也。以成徳為行者,元以也。何以乎?日可見之行,乾行也。何行乎?陽氣潛藏,是故而未見,行而未成,天行矣而亦未用也。成而後用,汔至亦未繘井,以乾始為師也。四以皆乾,得也。學問寛仁,所以主其得。天地設位而易行乎其中矣,其行也有在乎?故曰君子之中庸也,君子而時中也。
故に「乾」は七种の徳の総名なり。六爻発揮し、旁通して万物の情に及べば、天地万物の情状は就中爻の中に発揮され出づ。因りて情の未だ発せざるを「中」と曰い、発揮旁通を「変」と曰う。天は本より作為する所無く、六龍を駕して運行するは「時」なり。天の後にして天時を奉行するは、聖人なり。「雲行雨施」して、天下は此に由りて平治す。履卦の「履道坦坦」を懂得する人は、差不多く此の一層を見るを得ん。徳行を成就するを以て日常の行と為すは、凭るは正に「元」なり。何に凭るか。「日可見之行」、あれは乾の行なり。行う所は又何ぞや。是れ「陽気潜蔵」なり――故に蓄えて未だ現れず、行きて未だ成らず、天道は已に運行すと雖も、却って未だ発用の時に到らず。成熟したる後を須ちてこそ発用す。井卦に曰く「汔至亦未繘井」、正に乾の始を以て師法と為す。此処に四個の「以」の字は皆乾に帰し、皆得る所有り。学問を為すは寛厚仁恕を要して、こそ此の一份の所得を守持し得。天地は上下の位を設定して、而して《易》は就中其の中に運行す――其の運行は豈固定の所在有らんや。故に曰く此れ君子の中庸なり、君子は能く時に随いて中に処る。
乾乾因其時而惕,雖危無咎矣,此君子之時中者也。中不在人,故或之。行乾之君子,未始執其信也;執而有之,有而行之,小者過矣。而不觀其養,未可動也,疑之也,故無咎。是故聖人之慾及時者,猶或之也;學聖人之道者,可有其信而必行之乎?不雨之卦,既雨而猶未征也。聖人與之,與其疑,不與其必也。夫大人者,與四者合。先天之時,孰睹天之不違?後天而奉,則天時而人奉之也。其成也,成之而已;其乘也,乘之而已,後天而奉天時也。時行時極,必與偕焉。
乾乾の人は時に随いて警惕し、危境に処るも咎無し、此れすなわち君子の「時中」なり。「中」は何れの人か私有すべきに非ず、故に爻辞は一個の「或」の字を用いる。乾に依りて行う君子は、従来より自己の信念を抓死せず。一たび抓死すれば便ち己有に拠り、拠有すれば便ち行かざるべからず、則ち小者の過と成る。彼は先に自己の畜養の足るや否やを看清さずば、肯んじて軽動せず――正に此の一分の遅疑を存するに因りて、こそ咎無きを得。故に聖人は急いで時に及びて動き、用うるは仍ほ「或」の態度なり。聖人の道を学ぶ人は、豈自ら己信に恃みて非行不可と為す可けんや。小畜は「密雲不雨」の卦なり、即ち已に雨すと雖も、亦仍ほ出征に宜からず。聖人の贊許するは其の存疑の一份にして、而して其の必行のあの一份に非ず。謂う所の「大人」は、天地・日月・四時・鬼神の此の四者と相合する人なり。先天の時に於て、誰か天の彼に違背するを見んや。後天に於ては則ち奉承、天は其の時有りて人は往きて奉行す。成就すべきは、成就するのみ。順乗すべきは、順乗するのみ――此れすなわち「後天而奉天時」なり。時到りて行くべき、時到りて極むべきに、彼は必ず時と偕に行く。
困之而惕,貞厲無咎。是故君子終日乾乾之道,欲及時而已矣。九二龍徳而正中者也,庸庸則其中正矣。亢之為言也,有知焉,有不知焉,其合判矣,其惟聖人乎不失其正。四三二爻,無在無不在。
困せられて警惕を知り、正を守りて危なしと雖も咎無し。故に君子の「終日乾乾」の用功は、過ぐるも時に及びて動かんと欲するのみ。九二は「龍徳而正中」の一爻にして、能く庸常の道を以て自守すれば、自然中正なり。「亢」の此の字に至りては、其の中に知る一面有り、亦知らざる一面有り、得失の分判は就中此処に在り――大略ただ聖人のみ能く亢して其の正を失わず。四・三・二の此の三爻は、其の某処に在りと説くも是ならず、其の某処に在らずと説くも是ならず。
坤卦(坤下坤上)
坤下坤上。牝馬地類也。君子者,行乾徳者也。有攸往者,攸行也;有攸,非我有也;有攸行,非我行也。坤道其順乎!先迷者,不可先也;後得主者,得當也。變動以利言,乾不言所利。朋者,君臣之象也。君一而臣二,君上而臣下,君先而臣後。西南得朋者,順故得也;東北喪朋者,息。所不息者此而已,故喪也。安貞吉者,坤吉也;安貞之吉者,君子之吉也。
坤卦は、卦体は坤下坤上なり。「牝馬」は地の一類に属す。此処に言う所の君子は、乾徳を奉行する人なり。「有攸往」はすなわち行く所有り。「有攸」と説くは、表明するは彼は并せ我が私有に非ざるを。「有攸行」と説くは、表明するは亦我が一人の行くに非ざるを。坤道は真に柔順なり。「先迷」は前に搶走すべからず、「後得主」は随後に行きてこそ其の当を得る。変動は「利」の上より説いて、而して乾卦は却って其の利の何処に在るかを説かず。「朋」は君臣の象なり。君はただ一位にして臣は衆多有り、君は上に在りて臣は下に在り、君は先に在りて臣は後に在り。「西南得朋」は、順従すれば因りて得有るが故。「東北喪朋」は、説くは止息――止息すべきは正に此の一層、故に「喪」と称す。「安貞吉」は坤自身の吉、「安貞之吉」は則ち君子の吉なり。
大哉者,至而大也;至哉者,大而至也。坤元者,至而無不至也;萬物資生者,資而無不生也。何資乎?資至也。大乎?至乎?其物物之物乎!精而非一,氣而不有,為而無作。健覆而厚載者,豈兩物哉?而亦未始不兩,故有合也。合乎一謂之兩,合乎兩謂之參。參天兩地,聖人之能也。浩浩其天,不倚而倚。
「大哉」と説くは、先に至りて而る後に其の大を見る。「至哉」と説くは、既に大にして又之能く至る。坤元は、至りて至らざる所無し。「万資生」は、万物が之に取資して得生せざる無し。何に取資するか。あの「至」に取資す。是れ大か、至るか。それは正に万物をして各々其の物と成らしむる能くするあの「物」なり。其れ精純にして単一ならず、気にして己有に拠らず、為す所有りて痕迹を著さず。剛健なる覆冒と厚重なる承載とは、豈両個の物ならんや。可なる又未嘗て両個に非ざる無し、故にこそ「合」有り。一に合するを「両」と曰い、両に合するを「参」と曰う。参天両地は、正に聖人の本領なり。浩浩然たる天は、見るに倚傍する所無きがごとし、其の実自ら倚る所有り。
坤之為物,有時乎雜。地卑之勢定不可渝,君子以焉。一卑一髙,泰焉而並立者,皆勢也,而用則殊矣。厚徳載物,徳之朋者也。書曰鳳凰來儀,朋也;孔子曰吾已矣夫,不朋矣。霜未凝,凝之始也;馴未辯也。林鐘之氣,暑方盛也;暑盛而知寒之至,君子也。
坤の此の物は、時に免れず駁雑有り。地が卑下に処する形勢は一たび経て確定すれば便ち更改すべからず、君子は此れに取法す。一卑一高、安然として並立し、此れ皆「勢」なり。可なる其れらの功用は却って大いに相同じからず。「厚徳載物」は、説くは徳に同類の相輔する有るなり。《尚書》に曰く「鳳凰来儀」、あれは朋の来り聚まる有り。孔子が曰く「吾已矣夫」、あれは朋の待つべき無し。霜はまだ凝結せず、却って已に凝結の開端なり。只是馴致漸進の際に、人は還た分辨し出ださず。林鐘の月は正に暑気最盛に当たるも、暑盛の時に就已に寒気の至らんことを知る――此れすなわち君子の見識なり。
生也直,天也;徳方,地也。動乎其中者,乾元也。天地之元在乾坤,坤元之主在六二,故曰地道光也。光者,中正之體。中正而動,其習也大矣。含章可貞,則坤美具矣。以時發者,其發非我也。可以從王事矣,而猶或之;或之者,法乾也。知坤知乾,光大也。不出也,故成;近也,故無咎。咸之六二,順此者也,異乎其末矣。
生まれて正直なるは、あれは天なり。徳性方正なるは、あれは地なり。其の中に於て鼓動するは、乾元なり。天地の元は乾坤に分属して、而して坤元の主爻は六二に在り、故に《象伝》に曰く「地道光也」。「光」は中正の本体なり。能く中正にして動けば、其の薫習積累は大なり。「含章可貞」にして、坤の美徳は便ち皆斉備す。謂う所の「以時発」は、あの発動は并せ我の私意より出ず。已に出でて王事に従事すべきにして、爻辞は仍ほ一個の「或」の字を用いる。「或」を用いるは、正に乾に取法す。既に坤を知り又乾を知るを、こそ「光大」と曰う。軽く出でざれば、故に能く成る。相近く相親しけば、故に咎無し。咸卦六二の順う所は正に此の道理にして、其の上爻の処境とは已に同じからず。
得朋而黃,後得而裳,元無不利。文不出,入至而應也。辨方正位,可取於野,則無□。用六利永貞者,用坤元而利也。來弗克違、濡莫之陵,皆用元之利。比之原筮,筮此也;萃之匪孚,則未亡其有;未亡其有,故未光也。六者,三才之道;大者,乾元也。以大終者,終乎地道之光。直方而大,非地道之光乎?
「得朋」にして「黄」と称し、「後得」にして「裳」と称するは、「元」の上より見れば利あらざる処無し。文采が外露せざるは、入りて内に至りて上と相応ずればなり。「辨方正位」は、郊野に取象すべし、則ち咎無し。「用六利永貞」は、坤元を用いて其の利を得るなり。「来弗克違」「濡莫之陵」は、皆「元」を用いて得る所の利なり。比卦は「原筮」と説き、筮する所は正に此の一層なり。萃卦は「匪孚」と説くは、還た其の拠有する所を捨て去らず――正に還た拠有すれば、故に未だ光大する能わず。「六」は三才の道、「大」は乾元なり。「以大終」は、すなわち地道の光明に終るなり。既に直にして且つ方にして又大なるは、正に地道の光に非ずや。
是故君子有終,則尊而光也。東北喪朋,乃終有慶,所不息者此而已,則必有終矣。知光大也,其不息之慶乎!晉之失得勿恤往、升之用見大人勿恤,皆有慶也。至柔至靜,坤之至也。剛者,道之動;方者,靜之德。柔剛靜動,坤元之道之徳也。含萬物者,含□也;化光者,光之大也。
故に君子は能く終有るを得れば、既に尊貴にして又光明なり。「東北喪朋、乃終有慶」は、止息すべきは過ぐるも此の一層、能く止息すれば必定終有り。《象伝》に曰く「知光大也」、此れ大略正に不息の帯来する喜慶なり。晋卦六五「失得勿恤、往吉」、升卦「用見大人、勿恤」は、説くは皆慶有るなり。至柔至静は、坤の極致なり。剛は道の動、方は静の徳なり。柔と剛・静と動と、合してこそ坤元の道と徳なり。「含万物」は含着するなり、「化光」は光明の大なり。
坤道其順乎!承天而時行,此後天而奉天時也。易之於天也,或先焉,或後焉,故曰易逆數也。積小以髙大,積也;霜而凝,漸也。由辯之,今也,不早辯故也。升之積,順徳也;漸之吉,女歸也。立直方者,君子也。坤道其順乎!其其括,順天地之閉;發於事業,以時而發。是故闕者,君子正也。
坤道は真に柔順なり。上天を承奉して時に按じて運行すれば、此れすなわち「後天而奉天時」なり。《易》の天に対するは、時に其の前を走り、時に其の後に随う。故に曰く「易逆数也」。小を積みて以て高大に至るは、「積」に靠る。霜より凝に至るは、「漸」に靠る。謂う所の「由辯之」は、今日に到りてこそ辨明す、当初に及びて分辨せざればなり。升卦は積を講じ、あれは順徳なり。漸卦は吉を称し、あれは女子の出嫁が其の次序を得るなり。能く「直」と「方」とを立起するは、君子なり。坤道は真に柔順なり。其の収斂閉蔵するは、天地閉塞の時に順えばなり。事業に発するは、則ち時に按じて発す。故に文中缺字の処は、講ずるは仍ほ君子の守正なり。
唯君子為能通天下之志。通而不異,異而不一,其唯君子之正乎!易曰同人之先,以中直也。先以直,後以義,同人之中也。直,其正也;中,其位也。為圜者,非坤之義。敬義立者,立乎其中也;立乎其中而徳不孤矣。徳,其方也;不孤,其動也。不習則其習也乆矣。無不利者,安貞之吉也。
ただ君子のみ能く天下人の心志を貫通す。貫通すれば便ち岐異に至らず、岐異すれば便ち一に帰する能わず、能く此の一步を為すは、大略ただ君子の守正のみならん。《易》に曰く「同人之先、以中直也」。先に正直に凭り、後に道義に依る、此れすなわち同人卦の講ずる「中」なり。「直」は其の正、「中」は其の位なり。坤を解して円形と作すは、坤の本義に合せず。「敬義立」は、此の「中」の上に立つるなり。中の上に立てば、徳は便ち孤ならず。徳は、其の「方」なり。孤ならざるは、其の「動」なり。見るに練習を假らざるがごとし、其の実あの練習は已に久しきなり。謂う所の「无不利」は、すなわち「安貞」の吉なり。
夫中也,正也,其所行也不疑;其所行者,其唯君子乎!君子之正亦不疑也。天地相遇,品物咸章也。含乃亨,坤道也;坤之道,中正而已。剛遇中正,則含而行也。未有慶譽,則大而亨也。四多懼,近也;近而括,謹也;謹而不害,慎也。君子體靜方之徳,處多懼之地,謹也慎也而已矣。
「中」なりとも「正」なりとも、行えば皆遅疑せず。而して能く此の如く行うは、大略ただ君子のみならん――君子の守正も亦毫も遅疑せざるなり。天地相遇すれば、万物品類は便ち皆彰顕す。能く含蓄してこそ亨通するを得、此れ坤道なり。坤道は説き究むれば過ぐるも中正の二字のみ。剛健は中正に遇上せば、便ち含蓄して行くを得。未だ慶有り誉有る時に到らず、正に此れに因りてこそ大にして亨通す。第四爻は多く畏懼有るは、君位に迫近すればなり。迫近して収束を知るは、「謹」なり。謹にして害を受くるに至らざるは、「慎」なり。君子は静と方の徳を体会し、身は多懼の地に処りて、守る所も過ぐるも一個の謹・一個の慎のみ。
動而不括者,孚號之事,我何尸焉?地發而黃,坤索而中。於同為通,於義為理,位非一異,體不有無。承乾之美,中而暢也。通變富暢而發也,發而不過,至也,乾始故也。乾始坤終,同乎美利。乾則不言,坤在得主之後。
動きて収束を加えざるは、あれは夬卦の「孚号」一類の事にして、我に何の関かあらん。我又豈能く往きて之を主持せんや。地気は一たび発すれば黄色を現出し、坤は内に向かい索求して其の中を得。相同の処に就きては「通」と曰い、合宜の処に就きては「理」と曰う。位次を論ずれば一とも異とも説けず、体質を論ずれば有とも無とも説けず。乾の美徳を承受して、中に居りて通暢す。通変・富有・暢達して而る後に発動し、発して分を過ごさず、此れすなわち「至」、其れ乾を以て開始と為せばなり。乾は其の始を開き、坤は其の終を成して、同じく美利に帰す。乾は明かに自己の利の何処に在るかを説かず、坤は則ち「得主」の後にしてこそ其の利を見出す。
屯卦(震下坎上)
震下坎上。君子行此四徳者,或健或順,或動或隨,或浸長,或既復,或去故,而當其行,無不貞也。貞則何往乎?不往也。而不寧時措之宜,在建侯也。屯利建侯,比親諸侯,或宜一,或以眾。剛柔不交而萬物不生,交而難生,交之始也。動乎坎中者,震出而坎伏也。交非乾也,子考也。
屯卦は、卦体は震下坎上なり。元・亨・利・貞の此の四徳を奉行する君子は、時に剛健、時に柔順、時に主動、時に人に随い、時に漸漸生長、時に已に回復、時に故旧を捨棄す。ただ行い其の当を得れば、便ち貞正ならざる処無し。既に貞を守りて、還た何処に往かんとするや。其の実は往かず。而るに身は不寧の時に処りて、権衡処置の合宜の道は就中「建侯」に在り。屯卦は「利建侯」と説き、比卦は「親諸侯」と説く。一個は専一に宜しく、一個は衆を聚むるに宜し。剛柔は相交わらざれば万物は生ぜず、相交わりて生育艱難なるは、正に交合の初の情形なり。坎の中に於て鼓動するは、震は出でて坎は伏す。此の一交は并せ乾自ら交わるに非ずして、子の父業を承ぐるなり。
乾至健而常易,難則不易矣。盈天地之間者唯萬物,雷雨之動滿盈,則無不生也。生之謂動。草而未竭,昧而未麗,天造之始也。奉始之宜在建侯而不寧,建侯則慮而不息,不寧則勞而有終。比者來,商者喜。索而來者生矣,而未際也;覆矣,而未澤也。緯之繩之,君子之用也。
乾は極めて剛健にして常に平易を顕し、一旦難に遇えば、便ち更に平易ならず。天地之間に充満するはただ万物のみ、雷雨は一たび動けば充塞盈満して、万物は便ち生長せざる無し。「生」はすなわち「動」と曰う。草木は初生にして未だ繁茂せず、天色は昏昧にして未だ明麗ならず、此れ正に天の造化する開端なり。此の開端を奉承する合宜の挙は建侯に在るも、局面は仍ほ安寧ならず。建侯すれば便ち深謀して懈怠を敢えてせず、不安寧なれば便ち労苦して而る後に善終有り。親近する人が来れば、商量する人は喜悅す。求索して来りしは已に生機有りて、却って未だ交接せず。已に覆冒すと雖も、却って未だ潤沢せず。織布するがごとく之を経緯し、縄墨するがごとく之を約束し、此れこそ君子の用功なり。
周旋而不流,初也;居貞而志焉,未繩直也。初匪冦也,而二守其正,怙五以待時而後出,常徳君子也。引而未變,其唯中乎?乘而不息,是以能乆。六三君子也,殆庶則未也。何以知其未也?有即有入,是謂不如。三近而舎,四近而往求婚媾,故往;往而吉,故求,是以並受其福。
周旋応付して波に随って流れずは、説くは初九なり。正を守りて心に向かう所有るは、説くは還た未だ縄墨のごとく拉直せざる時なり。初九は本より強寇に非ずして、而して六二は仍ほ自己の正を守り、九五に依靠し時機の成熟を待ちてこそ出ず、此れ常德有る君子なり。牽引せられて本守を改めざるは、大略正に其れ中を得ればなり。剛上に居りて停息せざれば、故に能く長久す。六三も亦君子なり、只是未だ「殆庶」――幾乎道に近きの地步に到らず。何を以て未だ到らざるを知るや。「即」有り「入」有れば、此れを「不如」と曰うなり。六三は上と相近くも之を捨去し、六四は初と相近くして往きて婚媾を求む、故に曰く「往」。往きて吉を得れば、故に曰く「求」、因りて双方皆其の福を受く。
屯其膏之時,大征則得,小征則凶,此雨施施爻也,小何以任之?二之乘也,貞不字;四之乘也,求而往;上六時過之乘也。物之始生曰屯,見而不失其居。過此以往,先天也;未之或先,不可名為道。
「屯其膏」の時は、大いに作為して出征すれば得る所有り、小打ち小鬧して出征すれば反って凶険なり――此の一爻は正に雨露施降の爻にして、小者は何を以て担当を堪えんや。六二は剛に乗る、故に「貞不字」。六四も亦剛に乗る、故に求めて前往す。上六は則ち時機已に過ぎたる剛に乗るなり。万物初生を「屯」と曰い、顕現して其の居る所を失わず。此の一步を越えて再び前に往くは、便ち天時の先に搶走す。凡そ天の先に搶走するは、皆「道」と称するに足らず。
蒙卦(坎下艮上)
坎下艮上。蒙亨者,本亨而今蒙也。今則不可不求,求而不告者有矣,未有不求而告者也。言求者莫如童,求而必告者,以初筮也。王弼曰:筮者,決疑之物也。格物之學,以初筮為先;若筮其初,則有二物矣,故再三瀆,瀆則不告。陸希聲曰:初筮告,啟其宗也;再三瀆,以塞聰也。瀆則不告,乃或也;貞者,不或之物也;瀆者,反貞之名也。
蒙卦は、卦体は坎下艮上なり。謂う所の「蒙亨」は、説くは其れ本来亨通して、只是如今蒙昧なり。既に蒙昧なれば、便ち教を求めに行かざるべからず。求めて彼に告げざるの情形は是れ有り、却って絶えて求めずして主動して彼に告ぐるの道理無し。「求」に説き及べば、童蒙より懇切なるは無し。求めれば一定彼に告ぐるは、「初筮」に因るなり。王弼が曰く――筮は疑惑を決断するを用いるなり。格物の学問は初筮を以て先と為す。若し初筮に連んで還た再筮せんとせば、則ち両個の念頭有りて、故に曰く「再三瀆」、瀆せられれば便ち彼に告げず。陸希声が曰く――初筮は彼に告ぐるは、其の根本を啓発するなり。再三瀆すれば、ただ其の聡明を堵塞するのみ。瀆すれば告げざるは、心裏に「或」有ればなり。「貞」は「或」を帯びざるにして、「瀆」は則ち「貞」に違反する名目なり。
利貞而無不利矣,反貞而無不疑矣。然則乾坤之動皆有或焉,何也?曰:果行育徳,其義在蒙。不求不習者,大人變通之道,果而不執者也。孔子曰吾何執,又曰吾執御矣。坎之為物,險者也,險而止者也。地中有水者,師也。務學不如務求師。六五曰童吉,人君之於道,當初筮而求之也,況士乎?
正を守れば便ち利あらざる無し、正に違背すれば便ち疑を生ぜざる処無し。然らば則ち乾坤の動きは皆一個の「或」の字を帯ぶは、又何の為ぞや。回答に曰く――「果行育徳」の此の一層の意思は正に蒙卦の上に落つ。強求せず所習に執着せずは、大人の変通の路数にして、果決にして固執せざるなり。孔子が曰く「吾何執」、又曰く「吾執御矣」。坎の此の物は険にして、険に遇うて能く止まるなり。地中に水有るは師卦――埋頭苦学するよりは、寧ろ一位の老師を求め得んに如かず。六五に曰く「童蒙吉」――連んで人君の道に対するも尚且初筮の誠を以て教を求めに行くを以てすべきをや、況んや一般の士人をや。
書曰能自得師者王,自得之則居之安矣。孔子曰三人行必有我師焉,不求我師,豈得我師乎?擇其善者而從之,其不善者而改之,或從或改,皆得師之益也。夫善不善在彼,及我得之,則融乎一善,是以君子貴乎求師,而又貴乎自得之也。
《尚書》に曰く「能自得師者王」、自ら師を求め得れば、之に処れば便ち安穏を得。孔子が曰く「三人行必有我師焉」――我が師を求めに行かずば、又怎麼して我が師を得んや。「其の善なる者を択びて之に従い、其の善ならざる者にて之を改む」――あるいは従いあるいは改むるは、皆師を得るの益なり。善と不善とは本より別人の身上に在り、我が其の中より得る所有るに待ちては、便ちことごとく融会して一個の「善」と成る。故に君子は既に師を求むるを看重し、又自ら能く得る所有るを看重す。
齊桓公、衛靈公得管仲、仲叔圉、祝鮀、王孫賈之輔,猶足以安其身而收其功,況明哲之君用忠良之臣乎?然則觀彼之善不善者,皆可以自得也。彼三人者,莫不有善,莫不有不善,所謂莫不有文武之道焉。君子之於道,初筮而再思者,所以習坎也。三人行則損一人,應之謂告,告以剛中也。
斉桓公・衛霊公は管仲及び仲叔圉・祝鮀・王孫賈の輔佐を得て、尚且能く自身を保ち功効を収めたり、況んや明智の君主が忠良の臣を任用するをや。此の如く言えば、別人の善と不善とを観察するは、皆其の中より自ら得る所有るを得。あの「三人」の当中に、一個として全く取る可き無きも無く、亦一個として全く過失無きも無し、正に謂う所の「莫不有文武之道」なり。君子の道に対するは、初筮の後に還た思量を加うるを要す、正に用いて「習坎」――険の中に於て反復練習す。「三人行則損一人」は、感応する所有れば便ち「告」と曰い、告ぐる所の内容は便ち剛中の道なり。
筮而告者,問焉而受命也。以亨行者,以亨而行時中也。蒙以養正,聖功也,蒙以養爾。貪天之功而其極至闕,聖者大迷而終不悟也。是故君子之養必養其正,雜而著正也。正乃出,出必行;萌果種而後育者,序也。發之初,用克己則利,用說桎梏以往則吝。法出於心,正則不偏,一彼一此之謂偏。
筮して告を得るは、発問して命を領受するなり。「以亨行」は、亨通の道に凭りて其の時中を行きに行くなり。「蒙以養正、聖功也」、蒙昧は正に用いて汝のを涵養するなり。若し天の功を貪りて己有に拠せば、尽頭に走り到れば便ち文中に缺くるあの一步なり――自ら聖と命ずる人は大いに迷いて終身悟らず。故に君子の涵養は必ず其の「正」を養い、即ち駁雑の中に身を処るも正を顕し出さんを要す。正して然る後に能く出で、出でて然る後に必ず行う。萌芽・結果・下種して而る後に培育するがごとく、皆先后次第有り。啓発の初に、克己の功夫を用いれば便ち利有り、桎梏を解開するの弁法を用いて一路走下去れば便ち吝有り。法度は人心より出で、心正しければ便ち偏らず。一會に此の如く一會に彼の如くするを、便ち偏と曰う。
其吝無外,其入不獨,克家之子也。剛克柔克謂之克,克而不偏謂之中。中者,蒙之家;坎者,乾之子。乾父之蠱,意承考也,其唯克家之子乎!行乎地中,不舎晝夜,所以乾也。剛柔不接,則其乾無譽矣。是故觀蒙可以知蠱,觀蠱可以知晉。金夫者,大人也;不有躬者,渙其躬也;無攸利者,居其所而遷也。
あの一份の吝は并せ別の外因無し、あの一份の深入も亦孤零零ならず、説くは正に「克家之子」なり。剛を以て制勝し柔を以て制勝するを皆「克」と曰い、能く克して偏らざるをこそ「中」と曰う。「中」は蒙卦の家、「坎」は乾の児子なり。蠱卦は「乾父之蠱」と説き、意在るは父志を承継するにして、あれは正に能く家業を撑起する児子に非ずや。水は地中に行いて昼夜停まらず、此れすなわち「乾」の道理なり。剛と柔と相接せざれば、あの一份の剛健は便ち称誉を得ず。故に蒙卦を看てば蠱卦を懂得し、蠱卦を看てば晋卦を懂得するを得。「金夫」は大人を指し、「不有躬」は渙卦のごとく己身を散去し、「无攸利」は安く其の所に処りて却って又遷動せんと想うなり。
其行之順也如是,故勿用取女也。習坎六三之勿用,今亦勿用也。至柔而動也剛,坤也;剛以動,大壯也。女壯勿用取女,蒙之九三也。困者,升而不已者也;於彼不已,則於此息矣。四之位近也,名近而實逺矣,其逺也以獨。孔子曰:徳不孤,必有鄰。
彼女の行止の順従する此の地步に到れば、故に曰く「勿用取女」。習坎六三は「勿用」と説き、此処も亦同じく「勿用」なり。至柔にして動き起せば却って剛なるは、あれは坤なり。剛を以て動くは、あれは大壮なり。「女壮、勿用取女」は、説くは正に蒙卦九三の此の一類なり。謂う所の「困」は、上昇して肯んじて停止せざるの結果なり。あの一辺に於て肯んじて停まらざれば、此の一辺に於て便ち止息す。六四の位次は算して近しとするも、可なる名義上近くして実際上は遠し。其の遠き所以は、孤独に因るなり。孔子が曰く「徳不孤、必有隣」。
六五童吉,育徳之主也。其徳順,其用巽,巽則不果,而果以亨行者,能達其材者也。亨在初,利在貞。告其初者,終之則果;未果而止,必或擊之。御冦者,擊者也;為冦者,擊之者也。正乎上,不順也。黃帝堯舜垂衣裳而天下治,擊御冦孰順乎此?上止乎上,下止乎下,夫是之謂順。莫不具亨行之材,不能養之,卒於為冦者,非人也。解之六三是矣,在髙墉之上,上六獲焉。
六五「童蒙吉」は、徳行を涵養する主爻なり。其の徳は柔順にして、其の用は巽入なり。巽入すれば便ち果決足らず、而して能く果決にして又亨道を以て行事するは、正に能く他人の才具を成就する人なり。亨は初に在り、利は貞に在り。彼に初筮の意を告げて、彼をして始有り終有らしめば、彼は便ち果決し得。未だ果決する能わずして中止すれば、必定人の彼を撃つ者有らん。「御寇」のは出撃する一方にして、「為寇」のは撃たるる一方なり。上位に居りて正ならざれば、便ち順ならず。黄帝・堯・舜は衣裳を垂れて天下大いに治まる、「撃蒙」と「御寇」とは何れか此れより順なるや。上に在るは上に安んじ、下に在るは下に安んず、此れこそ順と曰う。人は誰か亨通して行うの材質を具備せざる有らんや、只是彼を涵養する人無く、終に寇盗に淪落すれば、則ち人道に合せず。解卦六三は正に此の如く、「公用射隼于高墉之上」、上六は終にそれを射獲せり。
需卦(乾下坎上)
乾下坎上。涉而後有功,是以須也。未濟而須,卦亦需焉。在前也,故曰險;濟而不陷,則剛不揜而健不窮矣。不揜不窮,徳之恆易者也。須焉,則見其前險;涉焉,則與之俱。易位乎天位以正中也,豈非恆易之徳乎?人須亦需,與人同功。人往而我來,闕而無不利矣。是故需以涉川,難可濟也;躁以涉川,沈可必也。雲上於天,其澤必下;養以君易,奚憂焉?
需卦は、卦体は乾下坎上なり。険阻を渡過して後に功有り、故に等待を要す。未済にして等待するは、卦象も亦正に「需」なり。険は前面に横たわる、故に「険」と曰う。能く渡過して陥落せざれば、則ち剛は掩蔽せられず健は窮尽に至らず。掩せず窮まらざるは、正に徳の恒久平易なり。肯んじて等待すれば、便ち前面の険を看清すを得。貿然として渡に往けば、便ち険と同じく陥る。九五は天位に居りて能く正中なり、此れ豈正に恒久平易の徳に非ずや。人は等待す、すなわち「需」なり、人と其の功を同じくす。別人は往きて我は来る、缺失有りと雖も亦利あらざる無し。故に従容として有待にて川を渉れば、難しきも亦済渡すを得。急躁に川を渉れば、沉溺はすなわち必然なり。雲気は天に上昇し、其の潤沢は必定下降す。君道を以て涵養すれば、一切平易にして、還た何か憂うべき有らん。
郊在易野之中,須之所也。難者,坎險之在前者也。須於中,則不犯難行矣。中者,行止未變之所也;未變之謂恆,變則有常矣。沙之聚散,發乎恆者也。沙者,衍之數;衍者,數之休。是故在焉者易也,有言者數也,大小不二而亦非一,正也。泥可陷,敬慎而不敗,則不陷矣。
「郊」は平易の曠野の中に在り、正に等待するの地なり。謂う所の「難」は、坎険の前面に横たわるなり。中位の上に於て等待すれば、便ち険を冒して行かず。「中」は、行と止とが皆未だ改変せざる位置なり。未だ変ぜざるを「恒」と曰い、一たび変ずれば便ち定常有り。「沙」の聚散は、恒に発端す。「沙」は衍算の数にして、「衍」は数の休止の処なり。故に彼処に停まるは「易」、言語を招来するは「数」なり。大と小とは并せ両様に非ず、却って亦一個に非ず、此れすなわち正なり。「泥」は能く人を陥れるなり、但し能く敬慎して敗れざれば、便ち陥り入らず。
災在外,非我也;自我致冦,非人也。非我者,無妄之災;非人者,則敬慎在我。須其在我者,而靡恤其在外,君子所以敬慎而底乎成也。剛健之力,尤見於多凶之地。需于血,出自穴也,須而聞也。坤之黃裳,中也;同人之正,正也;蒙以養正,聖功也。以中正者,正之中;以正中者,中之正。需而來,其入也,損不速之客也。敬而之終,終必得位矣。損則逆,需則不速。觀國則利賓,遇而包則不利賓,易之道也。不當位者,需之終也;元亨正位,所需也。
災禍は外面より来り、我の招く所に非ず。「自我致寇」、則ちそれは別人の事に非ず。我の招くに非ざるは、无妄の災なり。別人の事に非ざるは、敬慎の責任は我に在り。あの我に在る一分を守住して、而してあの外に在る一分を憂慮せず、此れすなわち君子が敬慎を以て成功に抵るの道理なり。剛健の力量は、尤も多凶の地に顕る。「需于血、出自穴」は、等待して而る後に聴聞する所有るなり。坤卦の「黄裳」は中、同人卦の「正」は正、「蒙以以養正」は聖功なり。「以中正」は、正当中の中なり。「以正中」は、中当中的正なり。等待して而る後に来るは、其れ内に入るなり、すなわち損卦の説く所の「不速之客」なり。恭敬して終に至れば、最後必ず位を得。損は逆、需は不速なり。観卦「観国之光、利用賓于王」は利賓、姤卦は遇うて能く包すれども利賓ならず、此れすなわち《易》の道理なり。「不当位」は需の終を説き、「元亨正位」は正に等待すべき所なり。
訟卦(坎下乾上)
坎下乾上。訟者,相違而不孚之名也。有孚窒惕則中吉,中吉終凶者,訟而不改故也。利見大人者,訟所利也;不利涉大川者,見而未利也。是故養必有訟,復乃可成。中無吉,有在則有吉,惟訟與師之九二。上剛則上不虛,下險則下不易,下不易闕而上不順者,上下違行之象也。
訟卦は、卦体は坎下乾上なり。「訟」は彼此相い違い互いに信服せざるの名目なり。「有孚窒惕」は則ち中吉なり。「中吉終凶」と説くは、争訟して肯んじて改めざるに因る。「利見大人」は、争訟の能く得る所の利なり。「不利渉大川」は、見るを得と雖も仍ほ未だ利有る時に到らざるなり。故に涵養有れば必ず争訟有り、能く回復してこそ成就す。「中」本身は吉と談ずべからず、依着する所有りてこそ吉有り、此の一点はただ訟卦と師卦の九二のみ之に当たるを得。上体は剛健なれば則ち上は虚ならず、下体は険陷なれば則ち下は平易ならず。下は平易ならずして缺有る所、上は又肯んじて順従せず、此れ正に上下相い違いて行うの象なり。
剛健本上,柔順本下,上下之所以不交者,剛不來也;剛來則得中矣。以得中之訟而將涉大川,終凶而不可成也必矣。易曰可貞無咎,具中正之徳者,其人大矣。乾之五二皆利息也,況中吉而未終者可不尚乎?善習者不違也。昧之終之義者,入非其所,終不自疑也。易曰迷復凶,不永所事者,思不逺復之義也。
剛健は本より上に在るべく、柔順は本より下に在るべし。上下の相交わらざる所以は、剛の肯んじて下り来らざるに因り、剛は一たび下り来れば便ち中を得。此の已に中を得たる争訟の身を以て大川を渉れば、最終必ず凶にして事を弁成せず。《易》に曰く「可貞无咎」――中正の徳を具備する人は、あれは了不起の人物なり。乾卦九五・九二は皆止息に利有り、況んや「中吉」にして未だ終結せざる人は、能く此の一点を崇尚せざらんや。善く温習する人は時勢に違逆せず。「終之」の此の一層の意思に昧たる人は、待つべからざる処に進入して、最後に還た自ら疑惑を生ぜざらんや。《易》に曰く「迷復凶」。「不永所事」は、講ずるは正に思慮遠からずして能く及びて回頭するの意思なり。
小有言者,括其大也。初能如是,雖小有言,辯而弗措,終必得矣。應則不克,以剛處險,應而訟也。邑人者,往於有而宜遷者也;遷而後得其所,得其所者謂之歸矣。我歸矣,彼自逋也。逋其邑人三百戶,則我無眚矣。處坎之中,歸其所也;無眚者,中之吉也。逋竄者逺矣,我則近矣,致一之益也。顏子之修身如是。
「小有言」は、大の争端を収束するなり。初六は能く此の如くせば、稍々言語の争有りと雖も、ただ辨明して搁置せざれば、最終必ず得る所有り。応有りて反って取勝する能わざるは、剛を以て険に居り応有りて訟を成せばなり。「邑人」は、身は所有の地に処りて遷走すべき人なり。遷走したる後にこそ其の所を得、其の所を得るを便ち「帰」と曰う。我が帰れば、彼は自然逃匿す。「逋其邑人三百戸」にして、我は便ち災眚無し。坎の中位に処るは、其の所に帰るなり。「无眚」は、中を得るの吉なり。逃竄する人は已に遠去し、我は却って近処に守る、此れ専一致志の得る所の益なり。顔回の修身は、正に此の如し。
舊徳者,恆簡恆易之徳也。食焉而後新,舊與新不相違,則吉無訟矣。食焉而不食者,命也,碩果是矣;食焉而食者,亦命也,井冽寒泉是矣。是故自下者掇患,從上者吉,吉凶悔吝未有不生乎下者也。貞厲而不違者,其見天地之心乎!易曰夬履貞厲,位正當也。履貞厲者,終必有乾矣。
「旧徳」は、恒に簡にして恒に易なる徳なり。旧を享用して然る後に新有り、新旧は相い違背せず、便ち吉にして訟無し。享用して其の実喰らうを得ざるは、命なり、剝卦の「碩果不食」便ち是なり。享用して確かに喰らうを得るも、亦命なり、井卦の「井冽寒泉食」便ち是なり。故に下より事端を挑起する人は自ら禍患を招き、上に順従する人は吉を得――吉凶悔吝は下より生じ来らざるは無し。正を守り危に処りて違逆せざる人は、大略就中天地の心を見ん。《易》に曰く「夬履貞厲、位正当也」。能く「履貞厲」する人は、最終必ず乾徳を得ん。
貞厲者,有無妄也。其履如是,正而無眚。小畜之尚徳載婦、噬嗑之徳當、大壯之用罔,皆貞厲也。旅焚其次,則貞厲喪矣。食焉而貞厲者終吉,去故而貞厲以需者終悔亡也。然則訟也更也,舍貞厲其可乎?詩曰:無小無大,從公於邁。或者,或之也;或從王事,則其成虧矣。是故一於貞厲者無不成也,從事而二三者無不虧也。
能く「貞厲」する人は、无妄の徳を懐くなり。其れ此の如く履践に往けば、便ち正にして災眚無し。小畜の「尚徳載」「婦貞厲」、噬嗑の「貞厲无咎」、大壮の「小人用壮、君子用罔」は、皆貞厲に属す。旅卦「焚其次」、則ちそれは貞厳を連んで丟掉せり。旧徳を享用して能く貞厲するは、最終吉を得。故旧を除去して能く貞厲を以て待つは、最終悔亡す。此の如く見れば、争訟に論ずるも改易に論ずるも、「貞厲」の二字を捨てて行う可けんや。《詩経》に曰く「无小无大、従公于邁」。謂う所の「或」は、不定の心を存するなり。「或従王事」にしては、あの成就は便ち虧欠有らん。故に貞厲に専一する人は事を成さざる無く、事を為して三心二意の人は虧損せざる無し。
易曰三人行則損一人,一人行則得其友,不克也,故訟。訟而復者,即命也。命在天,始與之違,而今與之即。安貞吉者,坤之貞也。渝而不失,則其渝得矣;渝或失或不失,易之道也。九五大人也,訟之主也。訟者,見之利也;見矣而未可涉也,涉而後利,故曰具中正之徳者其人大矣,以中正也,非元吉乎?
《易》に曰く「三人行則損一人、一人行則得其友」、正に能く相勝せざるに因りて、故に訟を成す。争訟の後に能く回頭するは、天命に就くなり。命は天に在り――起初は彼と相い違い、如今は彼と相い就く。「安貞吉」は、坤の貞なり。変じて其の守を失わざれば、あの変は便ち得る所有り。変じてあるいは失いあるいは失わざるは、本より《易》の道理なり。九五は大人にして、訟卦の主爻なり。争訟する人の図る所は「見大人」の利なり。已に見るを得て仍ほ険を渉るべからず、渉過したる後にこそ利有り、故に曰く「中正の徳を具る人は了不起の人物なり」――正に其の中正なれば、此れ豈就中元吉に非ずや。
或錫之,未蕃庶也;終朝三褫之,夕可不惕乎?晉如愁如,然後受茲介福;以訟受者,可不進乎?維用伐邑,光亨可需也。服如服膺之服,敬在復禮之後。能見其過而內焉,訟於聽訟也何有?內不自訟,人將訟之。曰爭曰更,由我則亨。訟而宜進者,何訟不親也?
「或錫之鞶帯」は、恩寵は還た豊厚と算せず。「終朝三褫之」は、傍晚に到りて能く警惕せざらんや。晋卦に曰く「晋如愁如」、然る後にこそ「受茲介福」。争訟に凭りて賞賜を得る人は、能く上進を力求せざらんや。「維用伐邑」は、光明亨通にして有待するを得。「服」は服膺の服にして、恭敬は「復礼」の後に落つるを要す。能く自己の過失を見て反りて内に求めば、則ち聴訟の此の一件の事の上に於て還た何の難処有らんや。内裏は自ら責訟せざれば、別人は便ち来りて汝を訟えん。争と説くも改と説くも、ただ我より做起すれば便ち亨通すを得。争訟して前進に宜しきは、何れの一場の争訟か彼此相い親しまざるより起らざるに因るなり。
師卦(坎下坤上)
坎下坤上。師,眾也;貞,正也;丈人,王也。剛中而應乎外,行險而順乎彼,以此毒天下而民從之,是以吉也。又何咎者,無不從之之謂。一以帥眾,師之道也;所以帥者,行其所無事而已矣。不仁傷眾,不義亂正,故誅伐也。師之失在不和,不和勝亦凶。失,不得也;得,得民也。戕而臣之者,豈心服哉?
師卦は、卦体は坎下坤上なり。「師」は衆、「貞」は正、「丈人」は王者を指す。九二は剛にして中を得、外卦と相応ず。険の中に行いて衆心は彼に順従し、此の如くの弁法を用いて天下を統御して百姓は跟従す、故に吉を得。「又何咎」と説くは、服従せざる人無きを指す。一人を以て衆人を統率するは、此れすなわち用兵の道なり。而して統率し得る所以は、過ぐるも其の事無き所を行うのみ。不仁なれば便ち民衆を傷害し、不義なれば便ち正道を撹乱す、故に征伐を要す。用兵の過失は不和に在り、不和なれば即ち打ち勝つも亦凶なり。「失」は得ざるなり、「得」は民心を得るなり。殺伐の後に強いて人をして臣と称さしむるは、怎麼して心服ならんや。
在師之吉,其惟中乎!順乎天故承天寵,毒而從故萬懐柔。在內動故或闕,順故靜,靜故常,今左次未失也。闕以師莫利於執言。尸者,師之主;輿者,師之所。謂其尸之,莫如仁也;仁一而已,弟子何尸焉?以正則功也,以小人則必亂也,故曰吉則又何咎矣。開物承天以事大君,其亨也,達之而已。人之患在好為也,故曰貞大人吉無咎。坎之險也,為伏,為心病,為耳痛,為盜,為多心。同人之先,不以中直,其免咎乎?與民同患,同人也。
師卦の中に於て吉を得る所以は、大略ただ一個の「中」の字に在り。天に順えば、故に上天の寵命を承受す。兵毒を以てするも民衆は仍ほ跟従すれば、故に万方は皆安撫を得。内に在りて動けば、故に文に闕脱有り。柔順なれば故に能く静、静なれば故に常有り、如今「左次」は并せ失当せざるなり。此処闕文の後に曰く――用兵の最も利なるは「執言」に如くは無し――師の出づるに名有り。「尸」は軍中の主帥にして、「輿」は軍隊の在る所なり。誰に由りて主持すべきかに説き及べば、仁より合適なるは無し。仁はただ一個にして、弟子は又憑る何を以て主持せんや。正道を用いれば便ち功有り、小人を用いれば便ち必ず乱る、故に曰く既に吉なれば、則ち還た何の咎有らん。万物を開通して天道を承奉して大君に事奉するは、其の亨通は過ぐるも通達のみ。人の毛病は作為を逞ぶを好むに在り、故に曰く「貞、丈人吉、无咎」。坎の険は、象を取りて潜伏と為り、心病と為り、耳痛と為り、盗と為り、多疑と為る。同人卦の「先号咷」は、若し中直に憑らざれば、咎を免るるを得んや。百姓と其の憂患を同じくすれば、此れすなわち同人なり。
比卦(坤下坎上)
坤下坎上。反從而無違者,比吉也。原筮猶初筮也。筮元永貞無咎者,猶曰孚元永貞悔亡也。不寧方來者,來乃安也;後夫凶者,剛中乃吉也。吉也者,得也;輔也者,合也。下順從者,順上之吉,從上而輔之也。中者,筮之原也;以中者,原筮也;以剛中者,比之時故也。
比卦は、卦体は坤下坎上なり。反って順従して違逆せざるを、此れ「比吉」なり。「原筮」は「初筮」の如し。謂う所の「筮元永貞无咎」は、亦等しく曰く「孚元永貞悔亡」なり。「不寧方来」は、来りてこそ安を得。「後夫凶」は、剛にして中を得てこそ吉なり。「吉」はすなわち得、「輔」はすなわち合なり。「下順従」は、上者に順従するの吉にして、上面に跟従して彼を輔助す。「中」は筮の本原にして、「以中」はすなわち原筮、「以剛中」は則ち此れ正に比卦の時勢なるに因る。
元者,四徳之首;永貞者,用六之利。順從而來可知也,來而應可知也。夫不應者,睽孤也;遇無夫交孚,則睽而不孤矣。不孤之謂應,應乃雨。既未征,小畜之君子也。君子之養動,豈敢以小畜徵乎?從言義,比言道,是故比通上下,從則下從而已。建萬國者,建而周也;親諸侯者,親而徧也,先王之用於地上有水可以觀焉。
「元」は四徳の首、「永貞」は六を用いるの利なり。順従して来れば、其の義は知るべし。来りて相応ずれば、其の義も亦知るべし。凡そ相応せざるは便ち「睽孤」なり。偏私せずして交相孚信するに遇上せば、便ち睽と雖も孤ならず。孤ならざるを便ち「応」と曰い、応有りてこそ雨は下る。既に未だ出征せざれば、あれは正に小畜の君子なり。君子の畜養と挙動とは、怎敢えて小畜のあの点の力量に憑りて出征せんや。「従」は義に就きて説き、「比」は道に就きて説く。故に比は能く上下を貫通し、「従」は則ち只是下者の跟従のみ。「建万国」は建置して周遍し、「親諸侯」は親附して普及す。先王の施用は、「地上有水」の此の象の上より便ち見出すを得。
圜而質者,缶也;盈缶,實不虛也。終來者,今未也;有它吉者,取爾靈龜,故不凶也。二為內,三為它。六二之不自失,得中也。人之道,群而已;無首,罪人也。六三比之匪人,終必兩傷。外比,比於賢者四也;有孚盈缶,非賢乎?應則位中而正也,其應貞而吉也。不曰顯乎?爻有先後,有始終,皆吉而不來者,前三爻也。天維顯斯,命不易哉!逆則舎之,先王所以順天也。邑人不郊也,不誡戒也。上使中者,民心罔中,惟爾之中也。初,始也;上,終也;始,足也;終,首也。一以初為前,一以前為尾。
円にして質朴なる器皿は「缶」なり。「盈缶」は、充実して空虚ならざるなり。「終来」は如今還た未だ来到せず。「有它吉」は、汝の霊亀に取象せば、故に凶ならず。二は内に在り、三は「它」なり。六二の「不自失」なる所以は、中を得ればなり。人の道は過ぐるも合群のみ。「无首」の人は、罪を獲たる人なり。六三の比する所は正当の人に非ず、最終必ず両敗倶傷せん。「外比」は、賢者六四に比附す。「有孚盈缶」にして、あれは正に賢者に非ずや。応有れば便ち位は既に中にして且つ正にして、其の相応は貞固にして吉なり。此れ還た顕著足らずや。爻に先后有り、始終有り、皆吉にして来らざるは、前三爻なり。「天維顕斯、命不易哉」――天命に違逆すれば便ち彼を捨棄す、此れ正に先王の天に順う做法なり。「邑人」は郊外に到らず、「不誡」は警戒を加えず。上者の中に処る人を駆使するは、民心は本より定准無く、ただ汝の中を以て中と為せばなり。初は始、上は終なり。始は足、終は首なり。一種の講法は初を以て前と為し、另一種の講法は前を以て尾と為す。
小畜卦(乾下巽上)
乾下巽上。小畜奚自?自我西郊。郊者,外而未入之地也。初復自道,則未入可知。大畜之初,有厲利己。立人之道曰仁與義,小畜之得位而上下應之者,自仁而已;需之光亨,亦仁也。健而巽,剛中而志行乃亨。小畜亨,今未亨也,未巽也,故尚往;施未行也,故志焉。小畜之不雨以巽也,小過之不過以震也。
小畜卦は、卦体は乾下巽上なり。小畜の気は何処より来るや。「自我西郊」。「郊」は外に在りて未だ内に入らざる地なり。初九「復自道」にして、未だ入らざるを見べし。大畜卦初九に曰く「有厲利已」。人を立つるの道を仁と義と曰う。小畜の能く位を得て上下皆来り相応ずる所以は、靠るはただ仁のみ。需卦の「光亨」も、亦仁なり。剛健にして能く巽順し、剛は中を得て志は行うを得て、こそ亨す。小畜は「亨」と説くも、如今其の実は還た未だ亨せず、未だ巽順せざればなり、故に曰く「尚往」。施沢は還た未だ推行せざれば、故にただ一個の「志」を説くのみ。小畜の雨せざる所以は、巽に因るなり。小過の過ぎざる所以は、震に因るなり。
柔來而文剛,天文也;得乎已,文徳也;得而懿,秉□也。復自道,其義吉也。君子之道,仁義而已矣。牽而復者,畜也;不自失者,得也;亦不自失者,小畜故也。在中而得可知,得而吉可知;在中不自失,是謂懿文徳。輿說輻,未孿也;反目,室不正也,正則兩明矣。大畜之二,牛無尤也。
柔は来りて剛を文飾するは、あれは天文なり。自身の上に於て得る所有るは、あれは文徳なり。得て美善に至るは、秉持するなり。「復自道」は、道義に就きては吉なり。君子の道は、過ぐるも仁義の二字のみ。牽引して回復するは、畜なり。自ら失わざるは、得なり。同じく自ら失わざるは、正に此れ小畜なればなり。中に居りて得有りは、推知すを得。得有りて吉なるも、亦推知すを得。中に居りて自ら失わざるを、此れを「懿文徳」と曰う。「輿説輻」は、還た未だ一対に連成せず。「反目」は、家室正ならず、正しければ則ち夫婦両々相い明白す。大畜卦九二は「輿説輹」と講ず、あの処の牛は并せ過咎無し。
巽在上,坎未來,小畜也。何天之衢,雲行雨施。六四之有孚者,鄰也。血去則不傷者,來矣;惕出則不訟者,入矣。志者,尚往之志也;上者,孿如之位也。志合上,未孿也;上合志,則孿矣。九三之反目,不合也;六四之合,鄰也。小畜寡也,尚往而志行者,未嘗即寡,是故有孚孿如,不獨富也。
巽は上に在り、坎は還た未だ来らず、此れすなわち小畜なり。「何天之衢」は、正に雲行雨施の象なり。六四の「有孚」は、指すは鄰なり。「血去」して傷を受けざるは、人の来る有るなり。「惕出」して訟を成さざるは、已に内に入ればなり。「志」は上に向かい前往する志にして、「上」は「孿如」の位なり。志を以て上に合するも、還た対を成さず。上は来りて志に合して、こそ対を成す。九三の「反目」は不合、六四の「合」は鄰有るなり。小畜は本より寡少なれども、上に向かい前往して志は行うを得る人は、未嘗て就中寡少に陥らず、故に曰く「有孚孿如」、并せ独自に富有に往くに非ず。
崇髙莫大乎富貴,故有孚孿如而未進於疑者,其得雖懿矣,其畜其養未可征也。裒多益寡在君子之終之卦,可不思乎?小畜不雨之卦也,終而既雨者何?變動不居,周流六虛,何待易卦而觀乎?小畜之尚往者,尚徳也;徳者,恆易恆簡之徳也。徳積載則德不孤矣。積而載,貞而厲,危不敢盈,在既雨既處之後,可謂君子矣。有所疑者,小畜之終也。君子有終,乃有所疑;自我不疑,終以寡征而求物與?對時止健,應涉不亦逺乎?
崇高は富貴より大なるは無し、故に「有孚孿如」にして未だ疑を生ずるあの一步に走り到らざる人は、所得は美善と雖も、其の畜養は却って還た出征に足らず。「裒多益寡」は君子の終有る謙卦の上に出現す、能く深思せざらんや。小畜は本より「密雲不雨」の卦なり、何を以て最後に到りて却って「既雨」せるや。爻象が変動して居らず、六虚の間に周流するに因る、何必ずしも一卦を換えてこそ見出だし得んや。小畜の「尚往」は、徳を崇尚するなり。而して徳は、正に恒久平易簡約の徳なり。徳は積累して能く承載するに至れば、徳は便ち孤ならず。既に積みて能く載せ、既に貞にして危を知り、危に処りて敢えて自満せず、此れ已に「既雨既処」の後に在りて、君子と称するを得。謂う所の「有所疑」は、説くは小畜の終なり。君子は能く終有るを得て、反って疑有る所を生ぜん。若し自己は毫も疑を生ぜざれば、最終豈寡少の力に憑りて出征して外に向かい物を求めんとせんや。時勢を看准して剛健を止住し、相応の時に等到して而る後に再び険を渉るは、あれは更に深遠に非ずや。
履卦(兌下乾上)
兌下乾上。不咥人者,存乎徳行,故亨;不亨乃凶。柔履剛,履也;剛中正應也。履帝位者,人也。眇跛則疚。大畜之日新,時也;動靜不失其時,艮也;止畜中正,履也。履,徳之基也,和而至矣,又以和行。上天下澤,上下辨矣;定民志者,和而已。素如素富貴之素,素其位而行,故往無咎也。
履卦は、卦体は兌下乾上なり。老虎が人を咬まざるは、関鍵は徳行に在り、故に能く亨す。能く亨せざれば便ち凶なり。柔を以て剛を踩踏するを、此れ「履」なり。九五は剛健中正にして之と相応ず。能く帝位に履居するは、人なり。眼瞎く腿跛ければ便ち病痛有らん。大畜の「日新」は時を講じ、「動静不失其時」は艮を講ず。止みて畜し中にして正しきを、講ずるは就中履なり。「履」は徳の根基にして、和順して而る後に至る所有り、又能く和を以て行う。上は天と為り下は沢と為れば、上下の分際は便ち辨明せり。民志を安定するは、亦過ぐるも一個の「和」の字のみ。「素」はすなわち「素富貴」の素にして、自己の位置に安んじて行けば、故に前往して咎無し。
獨行者,未考也。履道坦坦者,天之道也。幽人貞者,可出動也;不自亂者,道之中也。眇跛之能,未考也。履虎尾而咥人者,終不得矣。武人者,古之不殺者也;為于大君者,其志也。咥不咥者,人也;當不當者,位也。三之為尾,應首也;四之為尾,在後也。尾者,剛健之物,履剛健之物,可不戒乎?三之志、四終之戒,故也。
「独行」は、還た未だ検証を得ず。「履道坦坦」は、天の道なり。「幽人貞吉」は、出でて為す所有るを得。自ら擾乱せざるは、道の中なり。眼瞎く腿跛くるあの点の能耐も、亦還た未だ検証を得ず。虎尾を踩みて咬まるる人は、終究一の得る所も無し。「武人」は古時の軽く殺伐せざる人にして、「為于大君」は、説くは其の志向なり。咬むか咬まざるかは、人に取決す。位に当たるか当たらざるかは、位に取決す。三爻の「尾」としては、首と相応ず。四爻の「尾」としては、後面に処す。「尾」は剛健の物にして、剛健の物を踩踏するは、能く戒懼せざらんや。三爻は其の志有り、四爻は終に戒を知る、縁故は正に此処に在り。
夬者,剛長乃終也。履貞厲,終必有乾矣。貞厲者,有無闕。其履如是,正而無眚。視履考祥者,視而明也;其旋元吉者,行而正也。武人之為志有尚者,終必考旋。考,成也;成,誠也。考莫大於考祥;旋,歸也。應乎乾者,卒成之而終歸闕。孚當悔亡者,首也。
夬卦は剛が尽頭に長じてこそ終結す。能く「履貞厲」する人は、最終必ず乾徳を得ん。貞厲の「有」与「無」に至りては、原文は此処に已に闕脱有り。其れ此の如く履践に往けば、便ち正にして災眚無し。「視履考祥」は、明白に見るなり。「其旋元吉」は、端正に行うなり。武人の志を立てて崇尚する所有るは、最終必ず能く回旋を考察せん。「考」は成就、「成」はすなわち誠なり。考察は祥兆を考察するより重要なるは無し。「旋」は回帰なり。乾と相応ずる人は、終究能くそれを成就して最後に帰して――此処原文に闕有り。「孚」にして悔亡すべきは、説くは首なり。
泰卦(乾下坤上)
乾下坤上。泰者,交也;交,交也。長如苗,消如晛。屈信相感,利生害生,天地之宜,中而已。左者右之,右者左之,交也;交,輔相也。上下者,天地也;左右者,后也。成者,天地之道也;財成者,后也。人後天,坤後乾,熟而後可用。拔則必茹,二類所同,我而人,人而天也。
泰卦は、卦体は乾下坤上なり。「泰」はすなわち交なり。謂う所の交は、すなわち彼此往来なり。生長して起るは禾苗の穂を抽くがごとく、消退して去るは日出でて雪を融かすがごとし。屈と伸とは互いに感応し、利は此に由りて生じ、害も亦此に由りて生ず。天地間の合宜は、過ぐるも一個の「中」の字のみ。左辺のを右辺に移し、右辺のを左辺に移すを、此れ交なり。交は、すなわち輔相なり。上下は天地を説き、左右は君后を説く。「成」は天地の道にして、「財成」すなわち裁成は、則ち君后の職分なり。人は天の後に在り、坤は乾の後に在り、成熟したる後にこそ取用すべし。拔き起せば必定根鬚に連れ、あれは同類の相牽なり。我より人に及び、人より天に及ぶ。
其徵其貞,各以其彚。包用遺亡,皆以尚中行為得;中而不行、行而不中,皆非習坎而尚大者也。貞凶徵凶,由是而分矣。是故光者,坤之徳也;大者,乾之道也。以光而大,泰之九二也。艱初未也,艱貞乃無咎。有其信者必行之,非天者勿恤,其孚之道也。寒泉也,碩果也,食焉則並受其福。
出征に論ずるも貞を守るに論ずるも、各々其の同類に随いて行く。「包荒」「用馮河」「不遐遺」「朋亡」は、皆「中行」を崇尚するを以て得と為す。中に居りて肯んじて行かず、肯んじて行いて中に合せざるは、皆非ずあの能く習坎して大を尚ぶ人なり。「貞凶」と「征凶」との分別は、就中此処より劃き開く。故に「光」は坤の徳、「大」は乾の道なり。能く光を以て大と為すは、正に泰卦九二なり。「艱」は初の時に未だ顕現せず、能く艱にして正を守りてこそ咎無し。心中信ずる所有るは必ず往きて実行し、天意に非ざれば便ち憂慮を要せず、此れすなわち「孚」の道理なり。井卦の「寒泉」、剝卦の「碩果」は、それを享用すれば便ち一同に福を受くるを得。
在我者艱貞而已,故曰天地之道貞觀者也。翩翩,皆也;飛之疾者,艱也。不富以其鄰,所以之終也;以其不戒,孚之至也。夫食咸,虛受也。帝乙,合也;歸妹,女之終也,代也。以祉者,並受也;祉者,中之發也;中以行願,交也。城復于隍,則其城墮矣;勿用師,則其伐息矣。自邑告命,則告命出乎自邑矣。自者,泰終之臣也。貞吝,則其吝固矣,其命匪人也。亂,錯也。泰初之志,君子也;咸五之志,聖人也。內而外,本而末,同患也。
我が此の一辺に於て為し得るは、過ぐるも艱難に正を守るのみ、故に曰く天地の道は貞正を以て人に示すなり。「翩翩」は衆爻皆然なり、飛ぶこと急なるは正に其の艱を説明す。「不富以其鄰」は、能く終点に走り到る所以なり。「以其不戒」は、孚信の極処に到るなり。飲食は咸卦と一様にして、皆虚己にして人を受くるの義を取る。「帝乙」は合を講じ、「帰妹」は女子の帰宿を講ず、亦其の事を代行するなり。「以祉」は一同に福を受く。「祉」は中より発し出づるなり。中を以て心願を実現するを、就中交なり。「城復于隍」にして、あの城牆は便ち塌れり。「勿用師」にして、あの征伐は便ち止息せり。「自邑告命」は、命令は本邑より出づ。「自」は指すは泰の終のあの一位の臣子なり。「貞吝」にして、あの一份の吝は便ち固結して解け難く、其の奉ずる命も亦人道に合せず。「乱」は錯雑なり。泰卦初九の志は、君子の志なり。咸卦九五の志は、聖人の志なり。内より外に由り、本より末に由りて、其の憂患を同じくす。
否卦(坤下乾上)
坤下乾上。否者,蔽塞之名也。否之匪人者,大往者,天也;不利君子者,小來而利也。貞猶不利,其可征乎?長故利,消故不利,君子小人之道一也。交而通者,天也;交而興者,人也。天地不交,匪人也。有難之時,君子之所以或說以犯,或需不行,或動而經綸,或能正其志,或止或闢,惟其時也。
否卦は、卦体は坤下乾上なり。「否」は蔽塞の名目なり。「否之匪人」に就きて言えば、「大往」と説くは天を指す。「不利君子」と説くは、小人来りて利を得るなり。正を守りて尚且利ならざれば、還た出征を談ずるに足らんや。陽は長ずれば故に利有り、陽は消ゆれば故に利無し――君子と小人の道理は原より一様なり。相交わりて通ずるは天、相交わりて興るは人なり。天地は交わらざれば、便ち人道に合せず。艱難の時に処りて、君子はあるいは言語を以て触犯し、あるいは等待して行動せず、あるいは動きて経営籌画し、あるいは能く自己の志向を端正し、あるいは止み、あるいは避く――全て時勢の如何を看る。
以儉者或至於用愚,不可濡也。茅之為物薄而用可重也,其拔也必茹。拔不拔在時,可不可在我。征吉貞吉,其志常在也。乾以君之,志可不在乎?志在君,是謂亨。中也故包,順也故承,志在君也故亨。春秋之法,群而已;君志者,群也。詩可以群,亡而後春秋作。鴻之上下進退,不可亂也。
倹徳を以て難を避くるは、時に甚だしきは装愚の地步に至る、総じて其身を沾湿すべからず。茅草は軽薄の物なれども、用処は却って重きを為すを得。それを拔けば必定根に連れて相牽す。拔くか拔かざるかは時に取決し、可とすべきか可とすべからざるかは我に取決す。「征吉」「貞吉」は、其の志向は始終改めず。乾は君徳を以て万物を統御すれば、人の志向は能く此の上頭に置かざらんや。志は君上に在るを、此れを亨と曰う。中を得れば故に能く「包」、柔順なれば故に能く「承」、志は君上に在れば故に能く亨す。《春秋》の法度は、亦過ぐるも一個の「群」の字のみ。君子の志は、すなわち合群なり。《詩》は以て興観群怨すべし、《詩》亡びて而る後に《春秋》こそ作る。鴻雁の上下進退は、錯乱すべからざるなり。
位盛矣,包以侯羞也。不當者,不交也。有命無咎,疇離祉者,包故也。羞不羞,命也,不敢有已也。夫然後在君之志行。二之亨,初志也;五之吉,二亨也。志以包,或承或羞,順命之有不敢為也。休休其如有容,其九五之當乎?位不當故吉凶生焉,位正當者貞勝也。大人之吉,在大往之時,以安其身,以保其存,是謂貞勝。否亨者,以志也;休否者,以應也。存不忘亡,應二以俟天,其終也傾,亦匪人也,故受之以同人。
位次は已に盛大なれば、故に能く「包」して侯位に居るを以て羞と為す。「不当」は、彼此相い交わらざるなり。「有命无咎、疇離祉」は、能く包容するの縁故なり。羞と説くも羞ならざると説くも、皆命に取決し、総じて敢えて己有に拠らず。此の如くして後、志の君上に在るの心願はこそ行き通ずるを得。六二の亨は、初六の志より来る。九五の吉は、六二の亨より来る。志を以て包容し、あるいは承けあるいは羞るは、皆命に順いで敢えて妄為せず。「休休焉其如有容」は、大略正に九五に合せんか。位は当たらざれば、故に吉凶を生出す。位は正しく当たれば、則ち貞を以て勝に取る。大人の吉は、正に「大往」の時に在り――其身を安頓し其の存を保全し、此れを貞勝と曰う。「否亨」は志に憑り、「休否」は応に憑る。心に危亡を忘れずを存し、六二と相応じて天時を等待す。最後に到りて終に傾覆するも、あれも亦人道に合せず、故に下面に接ぐるは同人卦なり。
同人卦(離下乾上)
離下乾上。野者,逺於郊邑之地也。君子者,行而徳者也;貞也,正也。一而二,二而一;一而二、二而一者,應也。應乎乾者,乾應之也,故曰同人;應乎人者,人應之也,故曰民勸矣哉。唯君子為能通天下之志者,天下之志無所不通者,其唯行此四徳之君子乎!
同人卦は、卦体は離下乾上なり。「野」は郊邑を遠離する地なり。言う所の君子は、行いて徳有る人なり。「貞」はすなわち正なり。一にして二と成り、二にして一に帰す。此の一にして二、二にして一は、すなわち「応」なり。乾に応ずるは、乾来りて彼に応ずれば、故に「同人」と曰う。人に応ずるは、人来りて彼に応ずれば、故に曰く「民勧矣哉」。ただ君子のみ能く天下人の心志を貫通す。能く天下の志をして通ぜざる無からしむるは、大略ただ元・亨・利・貞の四徳を奉行する君子のみならん。
困而不失其所亨,亦唯斯人而已矣。終則有始,天行也,義在剝復;終始同時,乾行也,貞在君子。無妄元亨利貞,行乾也。旅類而惟宗,物辨而惟精,君子之用也。天與火,尊與時也。同人于野亨,出門而於野者,同人之初也。六二柔也,得位得中,是以應乎九五也。
困頓の中にして其の亨通する所を失わざるも、亦ただ此の如くの人のみ。「終則有始」は天の運行にして、其の義は剝・復の両卦に見る。「終始同時」は乾の運行にして、其の貞は君子に見る。无妄卦は「元亨利貞」と説き、あれは正に乾道を奉行す。旅は外に居りて心中はただ宗主を認め、物類は紛雑して用心はただ精純を求む、此れ君子の用功の処なり。天と火と相い親しむは、尊者の時と相配するなり。「同人于野、亨」――一たび門を出でれば便ち曠野に到る、説くは同人の初なり。六二は柔爻にして、既に位を得又中を得、故に能く上りて九五に応ず。
於宗也者,尊其應也;於吝也者,不敢圜也,此同人之道也。然則同人之六二,中道具矣。伏而升者,焚也;不興者,熄也。乾在上,故曰敵剛;不興矣,乃安行也。乘其墉者,御也;弗克攻者,彼弗克也。義者,上下之義也。困者,升而不已者也,其敵三年,可謂困矣;困而反,則是以終獲弗克之吉也。
「同人于宗」は、其の相応ずる対象を尊崇するなり。爻辞の「吝」と説くに至りては、敢えて自ら一個の円満を成さざるに因る。此れすなわち同人の道なり。此の如く見れば、同人卦六二の身上には、中道は已に完備す。潜伏して而る後に上昇するは、焚焼なり。更に興起せざるは、熄滅なり。乾は上に在れば、故に剛と敵と為ると曰う。敵意は更に興起せざれば、こそ安然として行くを得。「乗其墉」は抵禦にして、「弗克攻」は対方が攻め下す能わざるなり。「義」は上下の間の応に有るべき分際なり。謂う所の「困」は、上昇して肯んじて停止せざるの結果なり。人と敵と為ること三年は、算して困と為すを得。困して返るを知れば、故に最終に「弗克攻」の吉を得たり。
應乎天則無不同也。上下之際,同異之分,疇辨之哉?然而敵剛者,熄而後安;御下者,需其自困。衣裳冠屨不可渝之分,其應也當順常一,本不雜亂,此同人之大義也。不可能也之謂中,先乎致曲之謂直;以中直者,先也;需乃和者,後也。二人同心,其利斷金。
能く天に応ずれば、便ち相同ぜられざる無し。上下交接の際、同と異との分別を、誰か辨え得んや。然るに剛と敵と為る人は、敵意の熄滅したる後を待ちてこそ安んず。下者を駕御する人は、彼自ら困頓するを待つを要す。衣裳冠履は各々更改すべからざる分際有り、相応の時に当たりて常道に順従し専一にして雑らざるを要す、此れすなわち同人の大義なり。「不可能也」は中を説き、「致曲」に先だつを直と曰う。「以中直」は先に在り、「需而後和」は後に在り。両人同心すれば、其の鋭利は金属を斩断するに足る。
相剋相遇,不獨笑也。姤睽豐過非相遇也,應乃相遇。品物咸章,來章有慶譽吉,相遇也。含章可貞,終以時發。言相剋者,同心之言也。郊者,不邑不野之地也;於郊則不事王侯,髙尚其事矣。其動無悔,而猶曰志未得也,其為君子可知矣。
相克して又相遇すは、并せただ「後笑」のあの一層の意思のみ。姤・睽・豊・大過の此れらの卦は、皆真の相遇と算すべからず。応有りてこそ相遇と算す。「品物咸章」、豊卦「来章、有慶誉、吉」は、皆相遇なり。「含章可貞」にして、最終は還た時に按じて発するを要す。「相克」に説き及べば、あれは正に同心の人の言語なり。「郊」は既に邑内に在らず又曠野にも在らざる地にして、郊に到れば、便ち「不事王侯、高尚其事」すを得。其の挙動は悔無しと雖も、却って仍ほ「志未得」と説くは、彼は確かに君子なるを見べし。
大有卦(乾下離上)
乾下離上。有大而大有,猶畜大而大畜也。元亨則無不亨也,大有升是矣;元亨利貞則無不貞也,乾坤屯隨臨無妄革是矣。柔得尊位大中而上下應之,是以元亨;柔以時升,巽而順,剛中而應,是以大亨。元者,君也,天也,故尊;乾上故中,乾分而為大有,故曰上下應之。
大有卦は、卦体は乾下離上なり。大有りて「大有」と為るは、大を畜養して「大畜」と成ると一様なり。凡そ「元亨」と説くは、便ち亨せざる無し、大有卦・升卦便ち是なり。凡そ「元亨利貞」と説くは、便ち貞ならざる無し、乾・坤・屯・随・臨・无妄・革便ち是なり。柔爻は尊位を得て大中に居りて上下皆来り相応ずれば、故に「元亨」。升卦は柔順にして時に随いて上昇し、巽にして能く順にして剛中にして応有れば、故に「大亨」。「元」はすなわち君、すなわち天なり、故に尊し。乾は上に在れば故に能く中す。乾は分かれ開けば便ち大有と成る、故に曰く「上下応之」。
上下可以知大有,六五可以知有大。有大而大有,交也;其徳剛健而文明,應乎天而時行,交也。不交不亨。大有肖泰,應之者天,休命也;順承者坤也,交故元亨。大有者,以裒多為初,無交之害,君子不以為咎也。不以無交為咎,而終無不交之害者,以其艱耳。艱無不利,是故君子無時而不艱也。
「上下応之」より大有を懂得し、六五より「有大」とは何を謂うかを懂得すを得。大有りて大有と成るは、交に靠る。其の徳は剛健にして文明、天に応じて時に按じて運行するも、亦交なり。交わらざれば便ち亨せず。大有は泰卦と相像す。それに応ずるは天にして、あれは美善の天命なり。順承するは坤にして、交すれば、故に「元亨」。大有は「裒多益寡」を以て開端と為す。即ち相交わらざるの害处有りと雖も、君子はそれを咎と為さず。交わらざるを咎と為さざる所以、而して最終に又交わらざるの害無きは、ただ其の能く「艱」なるに因る。能く艱すれば便ち往きて利あらざる無し、故に君子は一刻も艱難戒懼の中に処らざる無し。
九二之成,忠厚爾。吉凶相感而利害生焉。初交則利,利故亨;於天子亨者,嘉之□也,小人失其利矣。明辯晰也,其明不偏矣。二乾也而載,五柔也而威如,夫是之謂交。家人利女貞,威如終吉。六五之吉,孚內達也。豐之六二,信以發志,終有來章之慶;大有之六五,信以發志,乃威如之吉。尚大而勿憂,有大而無不利,信以發志,一也。厥孚者,中孚也;交如威如,孚之交也。易者,得乾之得也;易而無險,備在其中矣。自天佑之,故吉;佑之吉,無不利也;吉無不利,上吉也。
九二の成有る所以は、ただ忠厚のみ。吉と凶とは互いに感応し、利と害とは此に由りて生ず。開始に相交われば便ち利有り、利有れば故に亨す。「公用亨于天子」の「亨」は、嘉美の会合にして、小人は此処に到れば便ち其の利を失う。「明辯」はすなわち明察にして、其の明照は一辺に偏せず。九二は乾に属して能く承載し、六五は柔にして威厳の貌有り、此れを「交」と曰う。家人卦に曰く「利女貞」、又曰く「威如終吉」。六五の吉は、孚信は内に在りて外に通達す。豊卦六二は誠信を以て心志を啓発して、最終に「来章」の喜慶有り。大有卦六五は誠信を以て心志を啓発して、便ち「威如」の吉を得。其の大を崇尚して憂うるを要せず、其の大を拠有して利あらざる無きは、凭るは皆誠信を以て心志を啓発するにして、是れ同一の道理なり。「厥孚」はすなわち中孚なり。「交如威如」は、孚信の交接なり。「易」は乾より得たるあの得にして、平易にして険無ければ、一切は皆其の中に具備す。「自天佑之」にして、故に吉。佑を受けて吉なれば、便ち利あらざる無し。吉にして利あらざる無きは、最上等の吉なり。
謙卦(艮下坤上)
艮下坤上。貞無不吉,徵無不利,其惟謙乎!天道下濟,虛者得之;地道上行,虛者見之。見人之所不見者,勞而不息;得人之所不得者,自天濟之,而其行光明。天道下濟,濟其厚也;地道上行,其行厚也。然則所以有終者,厚而已矣。盈者,不虛之謂也;之往也,代有終者,地道也。效法而天人具者,其惟謙乎!
謙卦は、卦体は艮下坤上なり。正を守りて吉ならざる無く、出征して利あらざる無しは、大略ただ謙のみ之に当たるを得。天道は下りて済助し、己を虚しくする人はこそそれを得。地道は上に向かい運行し、己を虚しくする人はこそそれを見ん。別人の見えざるを見る能くするは、勤労して停息せざるに因る。別人の得ざるを得る能くするは、上天が彼を済助すれば、因りて其の行事は光明なり。天道の下済は、済ること深厚なり。地道の上行は、行くこと深厚なり。此の如く見れば、能く「有終」し得る所以は、亦過ぐるも一個の「厚」の字のみ。「盈」はすなわち虚ならず。往に説き及べば、能く天に代りて終有るを得るは、地道なり。既に天を效法し、又天人の道を兼備するは、大略ただ謙のみならん。
闕二則多矣,小則寡矣。不虛不足以稱物,不富不足以平施。習坎而之終者,所以裒益而未嘗息也。自外來者,與時偕行。旅之上九喪牛于易,取凶在初。是故易則不勞,勞則不易;自牧於始,所以之終。貞而鳴者,未鳴而人聞之,心得故也。心未得也,以豫而鳴,不志於達矣;始求深者,鮮不如是。
此処原文に闕有り。二はすなわち多、小はすなわち少なり。虚ならざれば便ち事物を称量するに足らず、富ならざれば便ち平均して施与するに足らず。「習坎」して終点に走り到るは、正に多を減じ寡を益すること停息せざるなり。外面より来るは、時と偕に行く。旅卦上九「喪牛于易」は、凶を招く根子は却って初爻に在り。故に平易なれば便ち労苦せず、労苦すれば便ち平易ならず。開始より自ら牧養して、こそ終点に走り到るを得。正を守りて鳴く人は、還た声を出ださずして人は已に聴見す、其の心中は確かに得る所有ればなり。心裏は還た未だ得ず、ただ一時の安逸に憑りて鳴けば、則ち通達に志無し。一上来より求むること太だ深き人は、很少く此の如くならざるは無し。
謙之道,以貞為忠,以不鳴為失時。勞而不伐,則方且伐已故也。水之趣海,勞乃至也;井之勞民,可斯須息乎?撝者,撝所乘也。勞謙則無不利矣。有其善,喪厥善;撝不違則者,得位之君子也。勞而撝,猶宜之消也。上下五位皆鄰也,牧其初,中而鳴,服而能撝,鳴而可用,其鄰如此,我不富也。
謙の道理は、正を守るを以て忠と為し、鳴かざるを以て時を失うと為す。勤労して自ら誇らず、一たび自誇すれば便ち自己の功労を伐去するに等しければなり。水は大海に流向くは、労して而る後に至るなり。井卦「労民勧相」にして、あの労作は片刻も停み得んや。「撝」は、其の乗ずる所の勢を推譲し出だすなり。能く労して謙すれば、便ち往きて利あらざる無し。善有りて反ってあの善を失う。能く推譲して法則に違わざるは、位を得る君子なり。労して能く推譲するは、還た消長の宜と相合するを要す。上下五爻は皆鄰なり――開頭に於て自ら牧養し、中に居りて能く鳴き、服従して能く推譲し、鳴きて見用せらるべし――鄰居たちは皆此の地步に到れば、我は自然「不富」なり。
其不服者征之,內已中以正之,所謂征也。五位皆鄰,我之謙名失矣。不富者,謙之實歟?謙亨則有終,有終則無位而行。六五之徵,柄也;上六之徵,制也。侵者,侵之使小;伐者,伐之使弱。舜之於苗,由此而達之爾。終矣而未忘征也,不自滿假者如是。
あの服せざるに対しては便ち往きて征討し、先に内に於て自ら其の中を守りて而る後に正を以て彼を糾正するを、此れこそ「征」と曰う。五爻は皆鄰と成れば、我があの「謙」の名声は反って失われたり。謂う所の「不富」は、大略正に謙の実処ならんか。謙にして能く亨すれば便ち終有り、終有れば便ち位次に憑らずとも通行すを得。六五の「征」は柄を執るにして、上六の「征」は裁制なり。「侵」は侵削してそれを小ならしむ、「伐」は討伐してそれを弱ならしむ。舜の有苗に対待するは、就中此の路に沿いて走り通せり。終了に到りても征討を忘れず、自満自大せざる人は正に此の如し。
豫卦(坤下震上)
坤下震上。豫者,順以動之名也。乾應則坤道得行,是之謂順以動也。坤至柔而其動也剛,豫之謂也。建所研行厥正,唯豫其利乎?如之者不為也,與天地相似則亦不為矣。清者,天徳也;天徳見於刑罰,則不為可知。雷出而奮,豈為也哉?先王因情以飾豫,其作也無為,所以崇徳而防其怠也。
豫卦は、卦体は坤下震上なり。「豫」は順にして動くの名目なり。乾来りて相応ずれば、坤道は便ち推行を得、此れを順以動と曰う。坤は至柔にして其の動き起るは却って剛なり、説くは正に豫なり。研求する所を建立起してあの一份の端正を推行するは、大略ただ豫のみ此の如くの利有らんか。此の地步を為し成る人は其の実并せ刻意作為せず、天地と相似たる人も、同じく刻意作為せず。「清」は天徳なり。天徳は刑罰の上に体現すれば、并せ有意造作に非ざるを見べし。雷は地下より奮然として出づ、豈意有りて之を為さんや。先王は人情に順いて豫楽を文飾し、其の興作は無為より出で、徳行を崇尚して怠惰を防止する為なり。
雷之震,澤必隨之,物所悅也,示有驚焉。禮樂皆得謂之有徳,崇敬和而殷薦焉。以配者,祖考也;生我者考,生考者祖,敬和具矣,大矣。順動而鳴,其初不志於逺矣。喜怒哀樂之未發,中也;誠而誠之,正也。其惟幾乎!殆庶者,知之也。正位凝命則無豫也,豫則不凝矣。
雷は一たび震動すれば、沢は必ず之に随う、あれは万物の喜悦する所にして、同時に又驚懼を以て人に示す。礼と楽とは皆其の宜を得てこそ徳有ると曰い、崇敬にして和順にして、是に隆重に祭品を進献す。用いて配享するは、祖と考なり。我を生ずるは考、考を生ずるは祖なり――敬と和とは皆斉備すれば、此れ大なり。順にして動きて先に搶りて鳴くは、初六が開頭に於て長遠に志無し。喜怒哀楽は還た未だ発し出ださざるを「中」と曰い、本より已に誠にして又此の誠を成就するを「正」と曰う。此れ大略「幾」ならん。謂う所の「殆庶」は、能く幾を知る人なり。其の位を端正し天命を凝定すれば、便ち逸豫に耽らず。一たび逸豫に耽れば、便ち凝定し住まず。
位當則貞,文不當故吉凶生焉。盱遲皆生於怠。不疾而速,惟九二有焉。由九四者,上下皆順故也。同志者合,故大行;者冠焉,故承而定之。初之鳴非其應也,此坤之六四也,而其動也剛,非此爻也,自由而已,能示疑乎?疑乃戰位,以不當而遲,遲則有悔;貞以乘剛而疾,疾則不死。恆者,中之體也;恆不死則我生,其生皆可觀也。□豫不可為恆,雖成矣,知有渝則無咎。□升之不富,不可消,故利于不息之貞。
位は当たれば便ち貞正、文辞は若し当たらざれば、吉凶は便ち此に由りて産生す。「盱豫」と「遅」とは皆怠惰より出ず。急躁せずして自然迅速なるは、ただ九二のみ之を為し得。衆爻は皆九四に由りて動くは、上下皆彼に順従すればなり。同志の人は相合し、故に能く大行す。首に居るは彼処に在れば、故に彼を承接して之を安定せしむ。初六の「鳴」は并せ其の応有るべき相応に非ず。此の一爻は本より坤の六四にして、而して其の動き起るは却って剛なり、あれは已に此の一爻の本色に非ずして、只是自作主張するのみ、還た疑を以て人に示すを得んや。一たび疑えば、便ち交戦の位と成る。位当たらざるに因りて遅疑すれば、遅疑すれば便ち悔有り。貞を守り剛に乗るに因りて急躁すれば、急躁するも死するに至らず。「恒」は中の本体なり。恒にして死せざれば、我は便ち生ずるを得、生ずる所は皆一観に値す。逸豫は恒常と為すべからず、即ち已に成就すと雖も、変有るを知りてこそ咎無し。升卦の「不富」は、消損すべからざるに因りて、故に不息の貞に利有り。
随卦(震下兌上)
震下兌上。元亨利貞無咎,隨也;當乃無咎,隨時也。不曰隨之時義而曰隨時之義者,隨無時,時有隨也。天下隨時則無不利矣。天地之大義在歸妹,隨時之義在隨。說以動,所歸妹也;動而說,隨也。征凶無攸利,曷之焉?當乃無咎,隨時之義大矣哉!聖人南面而聽天下,取諸南方之卦;隨則無方也。
随卦は、卦体は震下兌上なり。「元亨利貞、无咎」は、説くは随なり。処置当を得てこそ咎無し、あれは随時なり。「随之時義」と説かずして「随時之義」と説くは、「随」は本身に固定の時無く、時の裏頭に随有ればなり。天下は皆時に随いて動けば、便ち利あらざる無し。天地の大義は帰妹に在り、随時の意義は随卦に在り。悦して而る後に動くは、帰妹なり。動きて而る後に悦するは、随なり。「征凶、无攸利」にして、あれは何処に往かんとするや。処置当を得てこそ咎無し――随時の意義は真に大なるかな。聖人は南に面して天下を聴治す、南方の卦に取象す。而して随卦は却って固定の方位無し。
用晦而明,君子向焉。出而不出,未始不休休也。變動不居,易之隨也;守而不執,隨時之義也。貞吉者,征凶也。上交不諂,下交不瀆,其知幾乎!幾者,吉之先見;不失者,吉之已象。是故隨時之義,以定其交為初。能定其交者,其唯貞乎?六二在下卦之中而有繫有與,有繫也而失大,有與也而弗兼,則爻不當其位矣。
「用晦而明」は、正に君子の向往する所なり。出でて未だ出でざるに似るは、未嘗て寛舒自得ならず。変動して居らざるは、《易》の随なり。守りて固執せざるは、随時の意義なり。「貞吉」は、すなわち「征凶」なり。上に対し交往して諂媚せず、下に対し交往して軽慢せずは、此れ大略幾を知るならん。「幾」は吉の先兆にして、「不失」は吉の已に成形せる迹象なり。故に随時の意義は、「定其交」を最初に置く。能く其の交を定むるは、大略ただ貞を守る人のみならん。六二は下卦の中に処りて、既に繋有る所又與有る所――繋有る所は便ち大を失い、與有る所は又兼ねて得る能わず、則ち此の一爻は便ち其の位に当たらず。
嚮晦入宴息,何取於震?有求而得者,繫失皆得也。利居貞者,震出故也。志能舍下,亦以其震。震無咎者,隨而宜也。隨有求,得者也。貞凶者,征吉也;隨有貞凶,則居貞之利不可執也。在道者,不居也;以明者,用其不息之明也。交而有功,其有大於不息之明乎?近而明功,隨之善者也。
「向晦入宴息」は、震と何の相干か有らん。求むる所有りて得るは、繋する所に論ずるも失う所に論ずるも、皆得有りと算す。「利居貞」は、震の出動せんとするに因るなり。心志は能く下面を捨棄するも、亦震に憑る。「震无咎」は、随其の宜を得るなり。随卦は求むる所有れば、便ち得る所有り。「貞凶」はすなわち「征吉」なり。随卦の裏に既に「貞凶」有れば、居貞の利は并せ死守すべからざるを見べし。「在道」は安居せず、「以明」は其の停息せざる明を用いるなり。相交わりて功有るは、還た何物か不息の明より大なる有らん。切近にして能く其の功を明察するは、此れ随卦の中の最好の一層なり。
嘉之吉,天徳也;其徳具,非天徳乎?孚者,其人也;正中者,其位也。隨時之義□乎九五:退而心亨,足以正志;明而動出,足以正其嘉,一也。拘係之者,不隨也;乃從維之者,從道而維心亨也。亨者,嘉之會也。是故盡隨時之義者,嘉而已矣。
「孚于嘉、吉」は天徳なり。其の徳は已に斉備せば、あれは正に天徳に非ずや。「孚」は指すはあの人、「正中」は指すは其の位なり。随時の意義は九五の此処に在り――退居して心亨すれば、足りて心志を端正す。明白にして動きて出でば、足りて其の嘉美を端正す――両者は原より一回事なり。「拘繋之」は肯んじて随わざるなり。「乃従維之」は、道に順従してあの顆の亨通の心を繋住す。「亨」は嘉美の会合なり。故に能く随時の義を極処に尽くすは、無非一個の「嘉」の字なり。
蠱卦(巽下艮上)
巽下艮上。貞固足以乾事,有事然後可大。利涉大川者,可大也。夫足以乾事,則其徳具矣。先甲後甲,事之終始也;先庚後庚,行事之終始也。事之終始,天也也;行事之終始,君臣也。山在上,乾也;下有風入,有事也,蠱也,故振。振恆則凶。蒙之果行、蠱之振民,同乎育徳;觀頤自求口實,其育全矣。
蠱卦は、卦体は巽下艮上なり。貞を守りて堅固なれば足りて事務を幹弁し、事有りて然る後にこそ其の大を成す。謂う所の「利渉大川」は、説くは其の大を成すを得なり。既に事を幹ぐに足れば、其の徳も亦斉備せり。「先甲三日、後甲三日」は事の終と始を講じ、「先庚三日、後庚三日」は行事の終と始を講ず。事の終始は天に属し、行事の終始は君臣に属す。山は上に在りて乾の象にして、下面に風の吹き入る有れば便ち事有り、此れすなわち蠱、故に「振」を要す。可なる若し「振」を以て恒常と為せば、便ち凶なり。蒙卦の「果行」・蠱卦の「振民」と「育徳」とは、原より一回事なり。頤卦「観頤、自求口実」にして、あの涵養は便ち完備せり。
有事故有子終吉,故有子者。無事則無意,厲者,誠意之物也。母之蠱,貞也,不可貞,道也。巽之九二,巽而得中;蠱之九二,入得中道。天地之心大,萬物之情小,皆無咎者,其唯中乎?乾父之蠱,小雖有悔,終必無咎矣。大者,事之終始也。初擬卒成,故曰終。方止未往,往吝見矣。
事有れば故に子有りて終に吉なり、因りて曰く「有子」。事無ければ便ち意を起すを要せず、「厲」は正に意念を誠実ならしむる物なり。「干母之蠱」は貞なれども、可なるそれは又「不可貞」と説く、此れ正に道なり。巽卦九二は巽順にして中を得、蠱卦九二は深入して中道を得。天地の心は大と為し、万物の情は小と為し、両者は皆咎無きを得、靠るは大略ただ一個の「中」ならん。「干父之蠱」にして、小悔有りと雖も、最終必定咎無し。「大」は、事の終と始を説く。開頭に擬議する所有り、最後にこそ成る所有り、故に「終」と曰う。正に止みて未だ往かざる時に当たりて、一たび往けば便ち吝を見ん。
晉初裕無咎,未受命也。事事有往,可裕乎?六五之用者,九二之道也,故皆得。六四之未得者,裕也。說研皆止矣,而不除其事者,上九也。夫巽而動,剛柔皆應,則無事矣。求皆應也,則其事可恆乎?先之後之,志乎天行。初則承考,其意得矣;終以無事,志可則也。二子初父,五五子二父,上無常相易,執者失之;雖無常而尊卑不渝,非為邪也。譎者昧焉,無大咎也,用譽也,乃能愛君。
晋卦初六「裕无咎」は、還た未だ命を受けざるに因る。若し事事に皆往く所有らんとせば、還た従容寛裕を得んや。六五の用いる所は、正に九二の道にして、故に両爻は皆得る所有り。六四の未だ得ざる所以は、正に其の「裕」なるに因る。喜悦と研求とは皆已に停下するも、却って仍ほ肯んじて其の事を除治せざるは、上九なり。巽順にして動き、剛柔は皆相応ずれば、則ち事無し。可なる求むる所は皆相応ずるを得れば、此の事は還た長久を得んや。先に在るも後に在るも、志向は皆天の運行に帰す。開始は父考を承継し、其の心意は算して得着し得とす。最後は无事に帰し、其の志向は便ち取法すを得。二は子にして初は父、五も亦子にして二は父なり。上位は并せ常主無くして彼此更替し、執着して放さざる人は反ってそれを失う。位次は常無しと雖も、尊卑の分際は改めず、故に并せ邪と算せず。行事詭譎の人は此の理に昧たれども、好在は大咎無し。能く称誉を得てこそ、乃ち其の君を愛するを談ずべし。
臨卦(兌下坤上)
兌下坤上。臨者,大也。不曰大而曰臨者,臨之大在乾,乾之臨在臨也。乾元亨利貞,乾行也;臨元亨利貞,行乾也。至于八月有凶者,有行斯有志矣,君子觀焉。是故以臨行乾,乾剛方長而思有凶也。
臨卦は、卦体は兌下坤上なり。「臨」はすなわち大なり。直截に「大」と説かずして「臨」と説くは、臨の大は乾より来り、而して乾の臨は正に此の「臨」の上に落実せばなり。乾は「元亨利貞」と説くは、乾自ら行くなり。臨は「元亨利貞」と説くは、乾道を奉行するなり。「至于八月有凶」に至りては、説くは一たび行う所有れば便ち心志有り、君子は此れに於て細看するを当とす。故に「臨」を用いて乾道を奉行するは、正に陽剛の方長の時に当たりて便ち凶有るを預想するを要す。
大之亨者,以正也;以正者,天之道。以教思無窮、容保民無疆者,人之道。消不乆者,恆而已矣,天之道也,君子觀焉,臨也。無窮者,天之行;無疆者,地之徳。聖人之教,成於徳行。元亨利貞,乾行也,咸而後具。初九九二之吉,由咸臨也。初則未中,故貞吉;二則中而得位,故吉無不利。初貞二利,皆得於乾,故皆吉也。貞而未行者,命也;志行正者,性也;吉無不利,亦命也。闕。
「大」の亨する所以は、正なればなり。而して能く正する所以は、天の道なり。「教思无窮、容保民无疆」は、則ち人の道なり。消退して能く長久せざるは、靠るはただ一個の「恒」、此れ天の道にして、君子は此れに於て観照す、すなわち「臨」なり。「无窮」は天の運行にして、「无疆」は地の徳なり。聖人の教化は、徳行の上に成就す。「元亨利貞」は乾自ら行くにして、「咸」(感)有りて而る後にこそ斉備す。初九・九二の吉なる所以は、正に「咸臨」に由る。初九は還た未だ中を得ざれば、故にただ「貞吉」と説くのみ。九二は既に中を得又位に当たれば、故に曰く「吉、无不利」。初九の貞・九二の利は、皆乾より得たれば、故に皆吉なり。正を守りて未だ施行せざるは、命なり。心志の行う所は皆正なるは、性なり。「吉无不利」も、亦命なり。此の下原文に闕有り。
観卦(坤下巽上)
坤下巽上,闕。以下觀上,為圜為大赤,孰為下求我而物與觀也?小人道非自道也,況有厲利己之道乎?知各宜易。大觀在上,我何窺焉?入于幽谷,失中矣。曰中而失中,未可也。坤之二曰不習無不利。我生進退,巽之初也;變化者,進退之象。晦其家,知有主;用六承順,有尚矣。
観卦は、卦体は坤下巽上なり、此処原文に闕有り。下者を以て上者を仰観するは、象を取りて円と為り大赤と為る。誰か肯んじて下位に屈居して我を求め、而して万物は又肯んじて我と共に観せんや。小人の道は并せ自身本より有るの道に非ず、況んや「有厲利已」のあの一路の做法をや。各々其の所宜を知れば、便ち平易なり。大の観るべきは高く上に踞る、我又何必ずしも門縫より裏へ窺看せんや。「入于幽谷」にして、便ち中を失う。口に中を得と称して其の実中を失うは、あれは行わず。坤卦六二に曰く「不習无不利」。「観我生、進退」は、巽卦初爻の意思なり。能く変化するは、正に進退の象なり。其の家を晦蔵して、こそ主有るを知る。「用六」して能く承順すれば、便ち崇尚する所有り。
觀我生君子者,觀我生行四徳者,五也。是故中正以觀天下,莫尚乎觀民。觀其生君子者,觀上也。未坦坦也而闕觀也,觀其生者未一也,非雲行也,非晦感也,非稱物之施也,非不盈之坎也,觀之極如是而已。然無咎者,觀君子也。不滅觀乎乃止,止乃即艮之時。即也,時之即艮也。
「観我生、君子无咎」は、指すは自己の生を観て四徳を奉行するあの一爻、すなわち九五なり。故に中正の徳を以て天下を観照するは、民情を観察するより要緊なるは無し。「観其生、君子无咎」は、上に在る人を仰観するなり。道路は還た坦蕩と算せず、而して此処に又「観」に言及する闕文有り。「観其生」の人は還た未だ専一に帰せず。既に「雲行」に非ず、亦「晦感」に非ず、「称物平施」の施与に非ず、亦「不盈」の坎に非ず――観の極処に到るも、亦過ぐるも此の如くのみ。然るに能く「无咎」たる所以は、観る所は君子なればなり。此の一份の観照を熄滅せざれば、こそ止むを得。一たび止めば便ち艮の時に合す。謂う所の「即」は、すなわち時機の艮に合するなり。
形而上者謂之道,道則有象矣。成象成物,在天在地。天地設位,聖人成能,行立乎其中而成,而與無不成也,無不與也,而易不與焉。在知為知,在作為作。風行地上,其化可觀,其行莫睹。方者,物之所;民者,君之二;教者,化之跡。
形而上のを道と曰い、道有れば便ち象有り。形象を成就し万物を成就するは、一は天に在り一は地に在り。天地は上下の位を設定し、聖人は自己の才能を成就し、其の中に運行確立して成る所有り。それは成さざる所無く、亦與らざる所無し、而して《易》本身は却って其の間に参与せず。「知」の上に落れば便ち知と成り、「作」の上に落れば便ち作と成る。風は地上に吹行して、其の化育は見るべく、其の運行は却って見えず。「方」は万物の処する地にして、「民」は君の第二重の身分にして、「教」は化育の留下する痕迹なり。
噬嗑卦(震下離上)
震下離上。天地養萬物,自有合也。自嘉自利,無幽不達。頤中有物,則噬而嗑也。噬嗑而亨,無合而□也。不分不合,不合不章。柔得中,明也;上行,動也;動而明,章也。蒙初六用桎梏,坎上六置叢棘,睽六三之天劓,困九五之劓刖,皆象也。中孚之議獄緩死、解之赦過、旅之不留、賁之無敢,皆君子之情也。
噬嗑卦は、卦体は震下離上なり。天地は万物を養育して、本より自ら相合する道有り。自ら能く嘉美し自ら能く物を利し、再び幽暗の角落も通達せざる無し。口中に物を含めば、便ち咬開して而る後に合上するを要す。噬嗑して能く亨するは、合せざればなり。分かれざれば便ち合攏せず、合攏せざれば便ち彰明する能わず。柔にして中を得るは、明なり。上に向かい行くは、動なり。動きて能く明なれば、便ち彰明せり。蒙卦初六「用説桎梏」、坎卦上六「寘于叢棘」、睽卦六三の「其人天且劓」、困卦九五の「劓刖」は、皆刑獄の象なり。中孚卦の「議獄緩死」・解卦の「赦過宥罪」・旅卦の「不留獄」・賁卦の「无敢折獄」は、皆君子の用心なり。
豐則多故矣,折獄致刑,其時然也,非聖人之所尚也。噬嗑之利用獄,利於除間而已矣,非以用獄為利也。豐亨王假之,豈以折獄為務哉?頤中有物,間而未合,害也,必除焉乃終。小懲大戒,所以養民。滅趾不行,養之初也。乘剛處中,則所噬皆柔,柔則易矣,如夬之決一陰也。
豊卦に到れば、事故は便ち多し。「折獄致刑」はあの時勢の然らしむ所にして、并せ聖人の崇尚する所に非ず。噬嗑卦「利用獄」は、只是中間の梗阻を除去するに利するのみ、并せ刑獄を用いるを以て利と為すに非ず。豊卦に曰く「亨、王假之」、豈断案を以て要務と為さんや。口中に物を含んで、中間に梗りて合する能わざるは、あれは害にして、必ず除去してこそ了結す。「小懲大戒」は、正に用いて民を養うなり。「屨校滅趾」して能く行かざるは、あれは養の開端なり。剛に乗りて中に処りて、咬む所は皆柔爻にして、柔なれば便ち易し、恰も夬卦のあの一個の陰爻を決去するがごとし。
絶彼之通,所尚乃窮。即戎則不足以絶之,中乃絶闕。不正過中之柔,其噬難矣,過毒者也。毒不在它,噬失而自致也,故曰小吝無咎。得金矢,則其剛直矣;損其直,乃光也。損之實難,黃金而矢可知也,當而光可知也,貞厲而章可知也。除間之序,先難而後易,得當則既除矣。貞厲無咎,孰先孰後?同乎一當。滅耳則終不聞矣;滅耳之凶,始於不聞而終於無聞。
他人の通路を断絶するは、崇尚する所は反って窮途に走り到る。真に刀兵を動起しても、還たそれを断絶するに足らず。中に居りてこそ断絶すを得――此処原文に闕有り。端正ならずして又中に過ぎたる柔爻は、咬み起せば便ち難し、あれは毒に過ぎたり。毒は別処に在らず、自ら口を咬失して自ら招くなり、故に曰く「小吝无咎」。「得金矢」にして、便ち其の剛直を見る。能く自己の直を減損して、こそ光明なり。減損は実に難し、「黄金」と「矢」との分量は此に由りて知るべし、「当而光」は此に由りて知るべし、「貞厲而章」も此に由りて知るべし。梗阻を除去する次序は先に難にして而る後に易にして、一旦当を得れば、梗阻は便ち已に除尽せり。「貞厲无咎」にして、誰か先に誰か後にするや。皆一個の「当」の字に帰す。「何校滅耳」にして、便ち終に聴見えず。滅耳の凶は、肯んじて聴かざるより起り、終に再び聴き取る能わざるに至る。
賁卦(離下艮上)
離下艮上。物相雜,天文也。文不可以色見,明以止者見之;明以止,亦文也。明庶政無敢折獄,人文也。以舎為初,剛以為義。須,需也。中而與上,故興用六之吉,終不適險。離也,故曰濡如;艮也,故曰翰如。
賁卦は、卦体は離下艮上なり。事物は互いに錯雑するは、あれは天文なり。文采はただ顔色の上より見るべからず、「明而能止」の人に靠りてこそ見るを得。明にして能く止まるは、本身も亦一种の文なり。「明庶政、无敢折獄」は、あれは人文なり。「舎」を以て開端と為し、剛を以て義と為す。「須」はすなわち等待なり。中に居りて上と相親しければ、故に「用六」の吉を興起して、終に険処に走向するに至らず。離なれば、故に曰く「濡如」。艮なれば、故に曰く「翰如」。
用六也,故終無尤;而吝皆有終者,亦以用六故也。當位疑也,故白馬翰如,匪冦婚媾,要其終也。終無尤,應初也。其義云何?舎而已矣。初九之舎,行乾也;六五之吝,用坤也。君子之文,爻異而天同,果而已,安用飾?賁,飾也,故終乃有喜。應而志上,白而非色,習謙宜熟賁爻。
六を用いるに因りて、故に最終に過尤無し。あの「吝」を帯ぶる爻も皆終有り、同じく六を用いるに因る。位に当たりて疑を生ずれば、故に曰く「白馬翰如、匪寇婚媾」、此れ其の結局に就きて言うなり。「終无尤」は、初爻と相応ずるなり。其の義理は何ぞや。過ぐるも一個の「舎」の字のみ。初九の「舎」は、乾道を奉行するなり。六五の「吝」は、坤道を取用するなり。君子の文采は、爻は各々異なるも其の天に本づく所は相同じ。果決すれば便ち足る、何必ずしも外加して修飾せんや。「賁」はすなわち修飾にして、故に最後に到りてこそ喜有り。応有りて志は上に向かい、白を尚びて顔色を取らず――謙徳を熟習せんと要せば、便ち賁卦の各爻を読透すべし。
剝卦(坤下艮上)
坤下艮上。柔變剛,名曰剝。窮則變,天也,人亦如之,故曰剝剝也。剝不利有攸往,夬亦有不利焉;否不利君子貞,泰亦有不利焉。時則行,不利則止,君子之所尚也。盈者,物之始生;息者,物之終盡。盈必有虛,消而後息,天地之終始也。終始不息之謂行,天行無止,順而止之者人也。
剝卦は、卦体は坤下艮上なり。柔は剛を変去するを、名づけて「剝」と曰う。尽頭に走り到れば便ち変ず、此れ天理にして、人事も亦一様なり、故に曰く剝はすなわち剝落なり。剝卦「不利有攸往」にして、夬卦も亦不利の処有り。否卦「不利君子貞」にして、泰卦も亦不利の処有り。時機到れば便ち行い、利ならざれば便ち止まるは、此れ君子の崇尚する所なり。「盈」は万物の生長を始む、「息」は万物の尽頭に終る。盈満の後は必ず空虚有り、消退の後にこそ生息すを得、此れすなわち天地の終りて復た始まるなり。終始して息まざるを「行」と曰い、天の運行は止息無く、能くそれに順いで適時に止住するは、人なり。
人則有觀矣。觀乃謂之象,行乃謂之徳。元亨利貞,乾之四徳也;行此四徳者,君子也。是故天行無止,而尚天行者不息。山象君,地象民;民為本,本固寧。是故上以厚則下安宅,下安其宅則上得所附。詩曰俾爾單厚,民言如是,其君可知矣;書曰光宅天下,上治如是,其下可知矣。
人は止有れば、便ち観るべき有り。観るべき有るを便ち「象」と曰い、能く行うを「徳」と曰う。元・亨・利・貞は乾の四徳にして、此の四徳を奉行するは君子なり。故に天の運行は止まず、而して天行を崇尚する人も亦停息せず。山は君を象征し、地は民を象征す。民は根本にして、本固ければ則ち国安し。故に上者は下に待つこと寛厚にして、下者は便ち其の居に安んずるを得。下者は其の居に安んずれば、上者は便ち依附する所有り。《詩》に曰く「俾爾単厚」、百姓の話は此の地步に説き到れば、其の国君は何様の人かは想い知るべし。《尚書》に曰く「光宅天下」、上者は此の地步に治理すれば、其の百姓は何様の人かは亦想い知るべし。
剝也復也,皆天行也;尚天行者,兩觀焉。剝自下始,始於蔑貞,蔑貞以情。床者,人所息偃,中而止之,有與而後濟,今未辨也。中而需,能失上下而應上九,則位雖六三而不任變剛之咎。於剝能失,則於復能獨。以足以膚,其以漸也;以辨其以中也,宮人寵猶貫乎一。六五不如是,有復乎?用其道以自利也,而盡其所以自庇者,則其終也自不可用。是故墜於地者必復。解上六之以解悖也,大矣哉!剝六五之無不利也,廣矣哉!順而止之,廣也;靜得其時。
剝と復とは皆天の運行にして、天行を崇尚する人は、此の両卦を合して看るを要す。剝は下面より始まり、「蔑貞」に起りて、而して蔑貞は私情より出ず。「床」は人の休息偃卧する処にして、中に居りてそれを止住するは、人の相助有りてこそ事を済すを得、如今還た分別し明白せず。中に居りて能く等待し、能く上下を捨棄して上りて九爻に応ずれば、則ちそれは六三の位に処ると雖も、亦「変剛」の過咎を承当せず。剝卦の裏に於て能く捨するは、復卦の裏に於て便ち能く独行して其の志を行う。「足」より「膚」に至るは、漸漸上に向かう。「辨」より「中」に至るは、「宮人寵」も亦仍ほ一に貫穿す。六五は若し此の如くならざれば、還た「復」有るを談ずるに足らんや。其の道を用いて只自ら其の利を謀り、又自我庇護の手段を用い尽くせば、則ち尽頭に到りて彼自らも亦任じ用いる可き無し。故に地に墜落するは必定会回復す。解卦上六は用いて悖乱を解除す、真に大なるかな。剝卦六五の「无不利」は、真に広きかな。順にして之を止むるは、すなわち広し。静にして能く其の時を得。
復卦(震下坤上)
震下坤上。復其見天地之心乎!亨而復大者正,正大而天地之情可見矣。復其見乎亨也,可見矣,小亨也。中也者,冬也;閉也者,拒也;不行者,貞也;后者,諸侯也;不省方者,觀息也;無祇悔者,之終也。窒惕之終,所以修身。
復卦は、卦体は震下坤上なり。復卦よりは大略天地の心を見るを得んか。亨通して能く回復するは、大者は正に帰す。既に正にして且つ大なれば、天地の情状は便ち見るべし。復卦の見る所は其の実「亨」の上に落ち、見るべきは、あの一点の小小の亨なり。謂う所の「中」は、冬なり。謂う所の「閉」は、拒なり。「不行」は貞なり。「后」は指すは諸侯なり。「不省方」は其の止息を観るなり。「无祇悔」は、終点に走り到るなり。窒塞して警惕を知り、一直に終点に走り到るは、正に用いて身を修むるなり。
下仁則得師矣,故休。頻復,勉也;厲者,義而已矣。勉而厲,及其成功一也。復於五陰之中,不可謂之眾矣,中也,故從中則自考而無不考也,坤之敦也。迷,不覺也。有災,非無妄也;有眚,匪正也。行師,訟之終也,用如是有不大敗乎?終有者,今未也。以其國君凶者,不以先王閉闗之道復其王也。閉闗,節也;出戸庭,訟不內矣,其有改乎?其體震也,而其用柔中,休也。
仁を以て自ら下に処れば、便ち老師を得着す、故に曰く「休復」。「頻復」は勉力して之を為すなり。「厲」は過ぐるも義のみ。勉力なりとも危厲なりとも、成功に等到せば、皆一様なり。五個の陰爻の当中に於て回復するは、還た「衆」と称するに足らず、只是中を得るのみ。故に此の「中」に随従して、便ち自ら省察して察せざる無し、すなわち坤卦の言う所の「敦」なり。「迷」は自覚せざるなり。「有災」は便ち无妄と算せず、「有眚」は便ち正と算せず。「行師」は争訟の結局にして、此の如く兵を用うるは、能く大敗せざらんや。「終有」は、説くは如今還た未だ有らず。「以其国君凶」は、肯んじて先王の閉関の弁法を用いて其の王道を回復せざるなり。「閉関」は節制なり。「出戸庭」にして、便ち更に争訟を家内に留めず、此れ豈改有ると算せざらんや。其の体は震にして、而して其の用は柔にして中を得、此れすなわち「休」なり。
无妄卦(震下乾上)
震下乾上。無妄元亨利貞,有無妄徳亦具。其匪正,則獨而已矣;有眚,則眇而已矣。剛自外來,復也,復則不妄矣。動而健,不孤也;剛中而應,不眇也。夫是之謂大正。大之亨,以正也。天之命,命也;天命之性也。聖人之作易,順此而已。自外來者,物也;物與則有明有行,不眇跛矣。
无妄卦は、卦体は震下乾上なり。「无妄、元亨利貞」――无妄有れば、徳も亦斉備せり。若し端正ならざれば、便ちただ孤独を剩すのみ。若し災眚有れば、便ちただ偏眇を剩すのみ。剛は外面より来る、あれは「復」なり。能く復すれば便ち妄ならず。動きて剛健なれば、便ち孤ならず。剛中にして応有れば、便ち眇ならず。此れを「大正」と曰う。「大」の亨する所以は、正に靠る。天の命ずる所は命にして、天命の賦与する所は性なり。聖人の《易》を作るは、過ぐるも此の道理に順うのみ。外面より来るは物なり。物来りて相與すれば、便ち明有り行有りて、更に又眇く又跛くるは無し。
多而一,一而多,故曰茂對時育萬物。繫辭曰:精氣為物,游魂為變。往而無不利者,無妄也;其匪正有眚,則不利有攸往。是故有無妄者,必觀其初,得失之原,制之在初;初不妄往,必得志矣。不作而成者,不耕穫也;不先而後者,不災畬也。不耕穫、不災畬,則利有攸往。未富者,需也,是謂無妄之中。
多にして一に帰し、一にして多を生出す、故に曰く「茂対時、育万物」。《繋辞》に曰く「精気為物、游魂為変」。往きて利あらざる無きは、无妄なり。若し端正ならずして災眚有れば、則ち「不利有攸往」。故に无妄の徳を懐有する人は、必定其の開端を審察す。得失の根源は就中最初に制約せり。開頭は妄動せずして往けば、必定能く志を得。刻意して為さずして自然成就するは、すなわち「不耕穫」。前に搶走せずして随後に相応ずるは、すなわち「不菑畬」。能く耕さずして穫、能く菑わずして畬なれば、便ち往く所有るに利有り。「未富」は等待にして、此れを无妄の中と曰う。
損之九二曰利貞征凶、弗損益之,象曰九二利貞,中以為志也。行人者,宜徵者也,或而繫,繫乃得牛;邑人者,宜止者也,征則凶矣。六三震也,故為行人,又為邑人;或得或災,皆失無妄之中也。志乎無妄之中者,弗損益之。正位凝命,何取於震之象乎?九四可貞無咎,乾事莫大乎享,享莫先於有無妄也。
損卦九二に曰く「利貞、征凶」「弗損益之」、《象伝》に曰く「九二利貞、中以為志也」。「行人」は出行に宜しき人にして、遅疑する所有りて繋住せられ、一たび繋すれば便ち牛を得。「邑人」は止住に宜しき人にして、一たび出征すれば便ち凶。六三は震に属すれば、故に行人と作すを得、又邑人と作すを得。あるいは得るあるいは災なるは、皆无妄の中を失うなり。心志の无妄の中に安んずる人は、こそ「弗損益之」し得。其の位を端正し天命を凝定するは、何必ずしも震の躁動に取象せんや。九四「可貞无咎」。事務を幹弁するは祭享より大なるは無く、而して祭享は又无妄の心を懐くを以て先と為す。
損乃可,可乃有,有乃恆,恆乃喜,喜乃慶。積善之家必有餘慶,外也;不家食吉,內也。疾者,未復也;可而後有喜,不可則藥。勿藥有喜,又何試乎?有眚者,不正也;有,其眇也。其往如是,終不得矣。窮之者,無妄之災也,芳自賞。
能く損してこそ「可」、可にしてこそ「有」、有にしてこそ「恒」、恒にしてこそ「喜」、喜有りてこそ「慶」有らん。「積善之家必有余慶」は、あれは外面に就きて説く。「不家食吉」は、あれは内裏に就きて説く。「疾」は還た未だ回復せず。可にして而る後にこそ喜有り、不可なれば便ち薬を用いるを得。「勿薬有喜」にして、又暫く嘗試せんことを何必ずしもせんや。「有眚」は不正にして、一個の「有」の字を説くは、正に其の偏眇を見出す。此の如く往くは、最終一の得る所も無し。人を窮途に逼到するは、正に无妄の災なり――過ぐるも徒らに芬芳有りて自我欣賞するのみ。
大畜卦(乾下艮上)
乾下艮上。豚魚吉利渉利貞者,中孚也;利貞不家食利渉者,大畜也。五大二亦大。五得尊位大中而名世者在內,剛健篤實輝光日新,時可知矣。其徳剛上,二也;尚賢能止健,五也。無尤而有慶,大正也。二之所以無尤者,以吉也;五之所以有慶者,以中也。利涉大川,應故也。何天之衢,大之終也。
大畜卦は、卦体は乾下艮上なり。「豚魚吉、利渉大川、利貞」と説くは、中孚卦なり。「利貞、不家食吉、利渉大川」と説くは、大畜卦なり。九五は大、九二も亦大なり。九五は尊位を得て大中に居りて当世に名重く、根子は却って内卦に在り。「剛健篤実、輝光日新」にして、其の時勢は此に由りて知るべし。「其徳剛上」は九二を説き、「尚賢能止健」は九五を説く。過尤無くして喜慶有るは、正に大正なり。九二の尤無き所以は、其れ吉なればなり。九五の慶有る所以は、其れ中なればなり。「利渉大川」は、上下相応ずればなり。「何天之衢」は、大の極処に到るなり。
乾坤二物也,其行不可分。名世之可名,天行也;舉名世而行天衢,故曰大畜時也。其徳者,天徳也;以畜其徳者,止乎順也。利者,坤道也;利己者,坤志也。雖危無咎,順也。已者,一已也;危而厲己,雖遇無妄之災,非我犯也。大畜之初,志而後行。輿者,五所安也;說輻者,未變也。
乾と坤とは両個の物なれども、可なる其れらの運行は截然として分開すを得ず。当世に名重くして名を称す可きは、天の運行なり。此の一份の名世を挙起して天衢に行けば、故に曰く大畜は「時」を講ず。謂う所の「其徳」は、すなわち天徳なり。用いて此の徳を畜養するは、止みて能く順なるなり。「利」は坤道にして、「利已」は坤の心志なり。危なしと雖も咎無きは、順なればなり。「已」はすなわちあの一個の「已」なり。危に処りて自ら懼を知らしむれば、即ち无妄の災に遇上するも、亦我が往きて触犯するに非ず。大畜の初爻は、先に志を立てて而る後に行う。「輿」は九五の安処する所の物にして、「説輻」は還た未だ変だ変ぜざるなり。
以健止者,中也;能止健者,慶也。大之未變者,未禴也;小之反目者,未繩也。君子之闕,時乎不正;無時乎不正者,聖人之時也。大畜也者,乾行也,利己而艱貞者也。日閒輿衛者,議之而後動也;上合志者,我無合也。良馬者,乾也;逐者,我欲也,法乾乾也,一而順。童牛也,童牛之牿,戒懼之至也。
剛健を以て能く止まるは、中なり。能く剛健を止住するは、慶有り。大者の未だ変ぜざる所以は、還た未だ「禴祭」の時に到らざるなり。小者の「反目」なる所以は、還た未だ縄墨のごとく拉直せざるなり。君子は此処に原文闕有り――時に正ならざる有り。時に正ならざる無きに至りては、あれはこそ聖人の時なり。大畜は、すなわち乾の運行にして、已を利して又艱難に正を守るなり。「日閑輿衛」は、商議して而る後に行動す。「上合志」は、我は并せ往きて相合を強求せず。「良馬」は乾を指し、「逐」は我が欲求にして、效法する所は乾乾の不息、専一にして順なり。童牛に説き及べば、「童牛之牿」は戒懼の極処に到るなり。
利己初志也,今喜焉,元吉也。童牛之牿,止其未有;豶豕之牙,克其方用。止其未有者,吉而元吉;克其方用者,大而無為。一人有慶,莫尚乎此。上行而三合,五吉而四喜。初發志者,有厲利己,中無尤之世也。何之亨?中無尤之道行矣。
「利已」は初爻の立志にして、如今喜有れば、故に「元吉」と称す。「童牛之牿」は、其れ未だ角を生ぜざるに趁りて之を止住す。「豶豕之牙」は、其れ正に力を用いんとするに趁りて之を制住す。其の未有に趁りて止住するは、吉にして又元吉なり。其の方用に趁りて制住するは、大にして作為を要せず。「一人有慶」にして、此れより崇尚すべきは無し。上爻は上行して三爻と相合し、五爻は吉を得て四爻は喜有り。初爻は其の志を発して、「有厲利已」と曰うは、あれは正に中に居りて過尤無きの時世なり。何処に往きてこそ亨せんや。中に居り尤無きの道は能く推行すれば、便ち亨せり。
頤卦(震下艮上)
震下艮上。貞吉征凶。觀而後可求者,頤也;求口實者,自也。自求自養,不可情以求也。一而不孤,二而非合,故貞者正也,其養如是則無不吉也。觀其所養,大觀也。養萬物者,天地之物也;不與聖人同憂,及萬民者,賢也,聖人養焉。是故或一以養,或以一養;物而物,人而人,其時大矣。
頤卦は、卦体は震下艮上なり、辞に曰く「貞吉、征凶」。先に観察して而る後にこそ求むべきは、頤なり。「求口実」は、自己に靠るを要す。自ら求め自ら養い、私情に憑りて求めに行くべからず。一にして孤ならず、二にして合せず、故に「貞」はすなわち正なり。此の如く養に往けば、便ち吉ならざる無し。「観其所養」は、大の観照なり。万物を養育するは、天地の物なり。聖人と其の憂を同じくせずして能く万民に惠及するは、賢人にして、聖人は則ち彼らを養育す。故に時に一己を以て人を養い、時に一人に靠りて養う有り。物をして物と成らしめ、人をして人と成らしむ――此の「時」は真に大なるかな。
頤之時、大過之時、解之時、革之時,君子之行此四徳者,乃能隨也,故曰隨時之義大矣哉。爾則公,我則利。舎爾觀我,非無覺也,其覺獨矣。頤之朵,豈亡實哉?君子之養,舎狹貴大,慎其初也。頤之貞吉,六二其位也。止乎貞,則爻位相得;違當適險,則行失類矣,是謂顛頤。
頤の時・大過の時・解の時・革の時に、君子は元亨利貞の四徳を奉行して、こそ時に随いて動くを得、故に曰く「随時之義大矣哉」。汝に在りては公、我に在りては利なり。汝を捨ててただ我を看るは、并せ全く覚悟無きに非ず、只是あの覚悟は太だ孤独なり。「頤」にして「朵」なれば、豈実在の物無からんや。君子の涵養は狭小を捨棄して宏大を看重し、最も謹慎するは開頭なり。頤卦の「貞吉」は、六二は正に其の位に当たる。能く貞に止まれば、爻と位とは便ち相い得。当たる所に違いで険処に走向すれば、行事は便ち同類を失う、此れを「顚頤」と曰う。
夫有萬物然後見天地之養也,有義民無險,見聖人之養也。君子之養,養其中爾,思出其位可乎?是故頤養之道,養則未震,群則有丘。有丘者,未始適險;猶有厲者,未有不惕;有孚者,未始不信也。觀而失,初之凶也;行而失,二之凶也;貞而失,三之凶也。
万物有りて而る後にこそ天地の養を見、義を守る百姓有りて険阻無きにこそ聖人の養を見。君子の養は、只是其の心中の「中」を養うのみ。心思は自己の位分の外に跑り出づれば、可なるか。故に頤養の道は――能く養えば便ち妄動に至らず、能く群に合すれば便ち丘陵の依るべき有り。丘の依るべき有るは、従来より険地に走向せず。仍ほ危厲を帯ぶるは、知らずして警惕せざるは無し。心に孚信を懐くは、誠実ならざるは無し。観て其の養う所を失うは、初爻の凶なり。行いて其の養う所を失うは、二爻の凶なり。貞にして其の養う所を失うは、三爻の凶なり。
是故頤之象,順上乃吉,故曰貞吉。震而無咎者,存乎悔也;存乎悔,則不至於適悔矣。頤貞吉、拂頤貞凶、拂頤拂經,皆不能從上者也,征凶矣,凶皆以拂也。隨時之義,時止時行,其可拂乎?貞乎勿用,則其徵患矣。不與時行,失從上之義,說曰道大悖也。遇而悖道,與解之大主難,皆貞凶。
故に頤卦の取象は、上者に順従してこそ吉なり、因りて曰く「貞吉」。震動して能く咎無きは、心裏に悔意を存するに靠る。心に悔意を存すれば、便ち真に悔を招来するに至らず。「頤貞吉」「拂頤貞凶」「拂頤拂経」は、皆能く上者に順く上者に順従せざるなり、故に「征凶」。此れらの凶は皆一個の「拂」の字より出ず。随時の意義は止むべきに止まり行うべきに行くに在り、怎麼して違逆す可けんや。貞を守ると雖もただ「勿用」を知れば、則ち其の出征は便ち患有り。時と偕に行かざれば、便ち上者に順従するの義を失う、故に《象伝》に曰く「道大悖也」。遇合して道に悖離するは、解卦のあの大にして患難に主ずるの情形と一様にして、皆「貞凶」なり。
當公用射禽之時,以顛悖而靈一進也。六二之顛頤,行妄也;六四之顛頤,從上也。六二之拂經,往也;六五之拂經,居也。夫經者,中而已矣。擇乎中庸者,宜以失類為戒,聖人則無擇焉,所以為法於後世者,順以從上而已矣。道不可以躐取,用不可以僣行,故曰不可涉大川。非聖人之道有可有不可也,躐僣而涉,則不可之大者也,可不戒哉!由頤者,舜之由也,非行也;由而厲,孜孜也。
正に「公用射隼」の時に当たりて、却って顛倒悖乱の方式を以て一味に進を求む。六二の「顚頤」は妄行にして、六四の「顚頤」は上者に順従す。六二の「拂経」は往にして、六五の「拂経」は居なり。謂う所の「経」は、過ぐるも一個の「中」の字のみ。中庸を択擇する人は、「失類」を以て戒と為すべし。聖人は却って揀択する所無く、其の後世の為に法を立つる能くする所以は、ただ順にして上に従うのみ。道は越級して取得すべからず、用は僭越して施行すべからず、故に曰く「不可渉大川」――并せ聖人の道はあるいは可あるいは不可有るに非ず。越級僭越して険を渉りに往くは、あれはこそ最大の不可なり、能く戒懼せざらんや。「由頤」の「由」は、舜のあの種の「由」にして、径直して行くに非ず。由りて危を知るは、正に孜孜不倦なり。
大過卦(巽下兌上)
巽下兌上。直以配專,乾之大也;直以配方,坤之光也。棟,柱也;橈,不直也,不直則不利。利有攸往乃亨,大過之時其象如此。本在於上,末在於下,本末弱,由大者過也。其所以弱者何也?得中則雖柔必強,失中則雖剛必弱也。
大過卦は、卦体は巽下兌上なり。「直」を以て「専」に配するは、あれは乾の大なり。「直」を以て「方」に配するは、あれは坤の光なり。「棟」はすなわち柱にして、「橈」は直ならざるなり。直ならざれば便ち利無し。「利有攸往」して而る後にこそ亨す――大過の時は、取象は正に此の如し。根本は上面に在り、末梢は下面に在り、本末は皆柔弱なるは、大者の太だ過ぎるに因る。其れらは何を以て柔弱なるや。中を得れば、即ち柔なりとも必ず強し。中を失えば、即ち剛なりとも必ず弱し。
剛過而中,巽而說行,然後利有攸往;利有攸往,然後亨也。夫過者,不中之名也;過而能中者,何必曰養而動?動乃不窮。過而不中,豈大者之過乎?大者之過,必與時偕,是故剛動之過,非柔行之過也。頤以養正,成蒙之功;動而亨,凶而不可咎。其出也,其動也未過,則未象,慎術在初。
剛は過ぎると雖も仍ほ能く中を得、巽順にして和悦を以て推行して、然る後にこそ「利有攸往」。利有攸往して、然る後にこそ亨す。謂う所の「過」は、中ならざるの名目なり。過ぎて能く中なる人は、何必ずしも養して而る後に動くと説かんや。一たび動けば便ち窮するに至らず。過ぎて中ならざれば、あれは還た大者の過と算すに足らんや。大者の過は、一定時と偕に行く。故にあれは剛動の過にして、柔行の過に非ず。頤卦は正を養うを以て蒙卦の功夫を成就す。動きて能く亨すれば、凶に遇うと雖も亦彼に帰咎すべからず。彼は出でて為す所有り、動きて未だ過に至らざれば、則ち還た未だ取象の地步に到らず――謹慎の功夫は最初に下すを要す。
枯楊,時也;生,陽也;稊猶女妻也,有生之道。九二中也;九三之不可,時也;上六之不可,義也。民者,君之末也;臣者,上之下也。九四剛而巽,故上不橈之吉。枯楊之時,始生始榮,天不大也;匹以衰陰,雖茍無咎,其能有譽乎?易曰乾父之蠱用譽,承以徳也。過涉,非利涉也;滅頂,不濟也;無咎,不可咎也。小人行險自禍,越理取咎,或托於此。是故大者之義,學者思焉。
「枯楊」は時を講じ、「生」は陽を講じ、「稊」は少妻のごとく、皆再び生ずべきの道理を含む。九二は中を得。九三の「不可」は時の許さざるにして、上六の「不可」は義の許さざるなり。民は君の末にして、臣は上の下なり。九四は剛にして能く巽なれば、故に「棟隆」有りて上は圧弯せられざるの吉有り。枯楊の時節は、剛々萌生し剛々開花す、天は并せ此れを以て大と為さず。配する所は又衰敗の陰にして、縱ち僥幸に咎無しと雖も、還た称誉を談ずるに足らんや。《易》に曰く「干父之蠱、用誉」、あれは徳を以て相承するなり。「過渉」は利有りて水を渡るに非ず、「滅頂」は渡り去る能わざるなり、「无咎」は彼に帰咎すべからざるなり。小人は険を冒して自ら禍患を招き、常理を越出して自ら罪咎を取るは、時に就中此の一爻を以て托辞と為す。故に大者の義は、《易》を学ぶ人は好く体会するを要す。
習坎卦(坎下坎上)
坎下坎上。四不皆非習也,習者重也。乾之徳行易以知險,得乾行乾,水之徳行也。不盈者,水之徳;流而不盈者,水之行;易而無險,水之盈也。行險而不失其信,徳之行也,夫信一而已矣。大畜之尚、豐之尚,行而有功也。設險以不可升為大,險之時用。學而無止者,初失道凶,終繫置入而迷矣。睽蹇之用忌險者,昧焉。
習坎卦は、卦体は坎下坎上なり。四個の爻は并せ皆「習」を講ずるに非ず。「習」はすなわち重畳なり。乾の徳行は平易を以て険を知るにして、乾を得て乾を行うは、正に水の徳行なり。「不盈」は水の徳にして、「流而不盈」は水の行にして、平易にして険無きは則ち水の盈満なり。険の中に行いて其の信を失わざるは、あれは徳の運行にして、而して「信」はただ一個のみ。大畜の「尚」・豊卦の「尚」は、皆行いて功有るなり。険阻を設置して攀越すべからざるを以て大と為すは、此れ「険」の時用なり。学びて止まるを知らざる人は、開頭に於て道を失いて凶にして、最後に繋縛せられ囚置せられ深陷して迷失す。睽卦・蹇卦の用処は険を忌むに在り、此の一点を明白せざる人は便ち昏昧なり。
徳行如水,則常無事矣。無事之事,教事也,習焉以焉,君子也。習坎入坎,其習坎矣。悖者,迷之始;迷者,悖之終。有險則不敢易也,厲而求,故小得。未出者,未發也;巽乎中矣,其發也有不和乎?習坎求中,當觀此爻。來則乘剛,之則無應,坎坎也。初入如是,有險者勿用也。險且枕,有險而即安也。
徳行は水のごとくなれば、便ち常に事無し。事無きの事は、すなわち教化の事なり。能く反復温習して此に依りて行うは、君子なり。習坎して又坎に入るは、あれはこそ真に「習坎」と曰う。悖乱は迷失の開始にして、迷失は悖乱の終結なり。険有れば便ち敢えて軽心を掉せず、危に処りて求むる所有れば、故に只是小さく得る所有るのみ。「未出」は還た未だ発動せず。既に中に於て巽順せば、それは一たび発動すれば、還た和せざらんや。習坎の中に於て「中」を求めんと要せば、当に此の一爻を細看すべし。来れば剛に乗り、去れば応無し、故に「坎坎」と称す。開頭は一たび入れば便ち此の如く、険有る時は便ち「勿用」を当とす。「険且枕」は、険有りと雖も就地に安頓するなり。
朋來無咎,不盈而之中行,有尚往有功者如是。樽酒簋貳,需而損也,養賢也;體不獨也,用缶以不孤也。納約不出,得也;自牖,自而它也;終無咎,君子之焉。解之初明之行,斯不出矣。不盈,虛而一也;既平,終也,無不平也;大則無不平矣,未大,坎故也。離上而坎下,或假之,或祗焉。九五之未大,中也;六二之未出,求也。習坎而繫,其有得乎?維行乃得也。維不繫,行不置,則徳行不遷,教事無間。初入之凶,有險者知其終無功也;上六失道,終不克征矣。
「朋来无咎」は、自満せずして中行に走向す。能く前往を崇尚して功有るは、正に此の如し。「樽酒簋貳」は、待つ所有りて減損するも、亦賢を養うなり。「体不独」にして、瓦缶を用いるは正に孤ならざるが為なり。「納約」して外出せざるは、得る所有り。「自牖」は、自己に由りて他人に通向す。「終无咎」は、君子は此処に於て用心す。解卦初爻は此の一層の行事の理を明白せば、便ち門を出でるを要せず。「不盈」は虚にして一に帰す。「既平」は終にして、すなわち平ならざる所無し。能く大なれば便ち平ならざる所無し、還た大ならざる所以は、正に坎なればなり。離は上に在りて坎は下に在り、時にそれに憑借し、時にそれを敬奉す。九五の還た大ならざる所以は、ただ其の中を守ればなり。六二の還た未だ出でざる所以は、還た求め中に在ればなり。習坎して又繋縛せらるれば、還た得有るを談ずるに足らんや。唯だ行のみ得有り。繋縛せられず棄置せられざれば、徳行は便ち遷改せず、教化の事も亦間断無し。開頭に坎に入るの凶は、険有る人は明かに最終に功無きを知ればなり。上六は道を失い、終究出征する能わず。
離卦(離下離上)
離下離上。牝牛,大牲之母也。重明者,日月之道也;正者,天人之道也。聖人所以繼天而化成天下者,麗乎正而已矣。柔之為道,不利逺者,麗乎中正,故亨,是以畜牝牛吉也。觀麗者可不思乎?維心亨,乃以剛中也;柔麗乎中正故亨,心亨也。重險也,故陷;重明也,故麗。麗乎正也,乃化成天下。
離卦は、卦体は離下離上なり。「牝牛」は大牲の母なり。「重明」は日月の道理にして、「正」は天人の道理なり。聖人の能く天道を承継して天下を化成する所以は、靠るはただ正に附麗するのみ。柔は一種の道として、本より遠に利せざるも、可なるそれは中正に附麗すれば、故に能く亨す、因りて曰く「畜牝牛吉」。「麗」を観察する人は、能く深思せざらんや。「維心亨」は、剛にして中を得ればなり。「柔麗乎中正故亨」は、説くは就中心亨なり。重々は険にして、故に陥る。重々は明にして、故に麗す。正に附麗して、こそ天下を化成すを得。
離上離下,兩作也。父一也,子而兩;君一也,臣而兩;明一也,離而兩。明無作也,東方作矣,人也;人則有麗,貞則無麗也。合矣,與日月合其明,而以繼明照焉,大人也。大過之初,柔而慎也;離之初,健而履也。錯者,物之雜也;敬之之敬,終始不易,徳則固矣。雜而無咎者,其唯恆乎?中道正也。
離は上に在り離は下に在るは、両重の興作なり。父はただ一個にして、子は却って両個有り。君はただ一個にして、臣は却って両個有り。明はただ一個にして、離は却って両重と成れり。明は本身并せ造作せず、可なる太陽は東方に昇起すれば便ち興作、あれは人に属す。人に属すれば便ち附麗する所有り、若し純に貞静なれば便ち附麗する所無し。能く相合して、便ち日月と其の光明を合し、連続不断の光明を用いて照臨するは、則ち大人なり。大過卦の初爻は柔にして慎を知り、離卦の初爻は健にして能く履す。「錯」は事物の錯雑なり。敬を以て敬と為して始終改めざれば、徳は便ち牢固なり。錯雑して能く咎無きは、大略ただ恒のみならん。あれは中道の正なり。
貞坤之中,維坎乎?上下敵應,不相與也。時過矣,何麗焉?憂樂以私,炎上之情也,剛過中者如是。不歌則嗟,以恆者如是乎?何可久也?突如者,小來之貌;焚如死如棄如者,焚然後熄,然後灰,突如之終也。有容徳乃大,無所不容也;終不大矣,中故大。出涕沱若,戚嗟若,吉,固患也,離王公匹也。
貞にして坤の中を守るは、あれは大略坎ならんか。上下敵対して相応じて相い親與せず。時機は已に過ぎて、還た何に附麗せんや。憂と楽とを皆一己の私に繋属するは、あれは火性炎上の情態にして、剛にして中に過ぎる人は便ち此の如し。歌わざれば便ち嘆息し、此の如くの態度を用いて恒を持するは、可なるか。怎麼して長久を得んや。「突如」は驟然として来るの様子なり。「焚如、死如、棄如」は、先に焚焼し、然る後に熄滅し、然る後に灰と成る、あれは正に「突如」の下場なり。容量有りてこそ徳は能く大、能く容せざる無し。「終不大」と説くは、能く中してこそ大なればなり。「出涕沱若、戚嗟若、吉」は、あれは本より憂患を心に有ればなり。離卦六五は王公と相配す。
是之謂中正,異乎昃離不恆之嗟也。蓋無方則不同其憂,顯道則嗟若而示人以吉。王用而公享,升之四可觀焉。晉之上九維用伐邑,未光也;離上九之出征有嘉,而嘉則光矣;解上九之匪其醜也。天地不交而萬物不興,或凶或無咎,人之終始也。邦者,國邑之總;師之開承,泰之反。無以麗正,正乃中,中故正,柔麗乎中正故亨,是以畜牝牛吉也,當中道也。文不當,故吉凶生焉;是故吉凶者,貞勝者也。習坎柔中之得在二,剛中之大在五,離上而坎下也。
此れこそ中正と曰う、「日昃之離」のあの常度を失うの嗟嘆と同じからず。大凡方所の定まらざれば、便ち人と其の憂を同じくせず。能く大道を顕明すれば、便ち嗟嘆有りと雖も仍ほ能く吉を以て人に示す。「王用亨于岐山」にして「公用享于天子」は、升卦六四は対看すを得。晋卦上九「維用伐邑」は、還た光大と算せず。離卦上九は出征して「有嘉」、有嘉すれば便ち光大せり。解卦上九は則ち「匪其醜」なり。天地は交わらざれば万物は興らず、あるいは凶あるいは咎無しは、あれは人事の終始なり。「邦」は国と邑の総称にして、師卦の開創と承継とは、正に泰卦の反面なり。若し正に附麗する所無ければ――「正」はすなわち中にして、中なれば故に能く正す。柔は中正に附麗して故に亨す、因りて曰く「畜牝牛吉」、此れ正に中道に合す。文辞は当たらざれば、吉凶は便ち此に由りて産生す。故に吉凶は貞を以て勝に取る。習坎卦の柔中の得は九二に在り、剛中の大は九五に在り、あれは離は上に在りて坎は下に在るなり。
咸卦(艮下兌上)
艮下兊上。咸則無損,損未必咸。氣則流形,形不應氣;感不可見,所可見者,化生和平而已。虛受人,凝也;止而男下女,異乎剛以動取女吉,恱以動故也。柔上而剛下,二氣感應以相與,異其如此。爻要其終,皆以際也。下也,咸之初也;行而不動也,速也。咸志在外,損自外來。
咸卦は、卦体は艮下兌上なり。咸有れば便ち損に至らず、損有れば未だ必ずしも咸有らず。気は一たび動けば便ち流布して形を成す、形は却って反って気に応ずる能わず。感応は本身見えず、見るべきは只是化生と和平のみ。「虚受人」は凝聚なり。「止而男下女」は、蒙卦の「剛以動」して「取女吉」と同じからず、此処は悦して而る後に動けばなり。柔は上に在りて剛は下に在り、両気は感応して互いに親與し、其の相同じからざるは正に此処に在り。各爻は皆其の結局を看て、皆「際」――彼此交接――を以て准と為す。「下」と説くは、指すは咸の初爻なり。「行而不動」と説くは、指すは速なり。咸の心志は外に在り、損は則ち外面より来るなり。
腓違初而不可者也,動或失矣,雖凶而居故吉,順坤之慎故不害。志而不行者,初也;居而順者,二也;志光明而順止者也。三之隨,不艮矣;不艮而執,不中而隨,其可征乎?貞吉悔亡者,思未感害,體艮也,而亦不處也,可乎?何思?不出也;不出,故未感害,思不害也,其唯不疾乎?
「腓」は初爻に違いで行き通らず、一たび動けば便ち失有る可し。凶有りと雖も能く安処すれば、故に吉を得、坤の謹慎に順えば、故に傷害を受けず。志有りて行かざるは初爻にして、安居して柔順なるは二爻なり。心志は光明にして能く順に能く止まるは、亦正にそれなり。三爻の「随」は已に能く止まらず。能く止まらずして又固執し、中を得ずして一味に人に随うは、還た出征すを得んや。「貞吉悔亡」は、心思は還た未だ感に害せられざるにして、本体は艮に属す、可なるそれも亦肯んじて安処せず、此の如くは可なるか。何を想うや。位より出でず。位より出でざれば、故に還た未だ感に害せられず、心思も亦害を受けず――あれは大略ただ「不疾」ならん。
日月寒暑之往來,何思何慮?尺蠖之求,豈有求也?思立而朋從,有感而□應,奚思奚應?中而已矣。利害未發,吉悔亡也。未濟之震亦吉悔亡,其貞同也。吉而無悔,然後其暉吉也。窮也而志行也,止也而往不羸也,伏也而位正中也。吉悔亡矣,其亡猶在也,是故貞而不諒。何思何慮則未也,此爻近矣而未光大也。悔者,聖人之心也。有民則有,無民則無。其上易知,亦同患爾。說其外也,其有序乎?其終也已。
日月寒暑は往来して息まず、何か思う可き何か慮る可き有らんや。尺蠖は身を屈して伸を求むは、豈真に意有りて往きて求めんや。心思は一たび立てば、同類は便ち之に随いて来る。感ずる所有れば便ち応ずる所有り、還た何を思い何に応ぜんや。過ぐるも一個の「中」のみ。利害は還た未だ発動せざれば、便ち「吉、悔亡」。未済卦の震も亦「吉、悔亡」と説き、両処の守る所の貞は一様なり。吉にして悔無し、然る後にこそあの一份の光輝の吉有らん。窮に処りて心志は行うを得、居止して前往して羸弱に至らず、潜伏して位は正中に居る。「吉悔亡」と説くと雖も、可なる亡ぶ可き物は其の実は仍ほ在り、故に正を守りて小信に拘らざるを要す。「何思何慮」の境地に至りては、還た未だ到らず。此の一爻は已に接近すれども、却って還た光大と算せず。「悔」は聖人の心なり。民有れば便ち有り、民無ければ便ち無し。上者の心思は了解し易し、亦過ぐるも民と患を同じくするのみ。喜悦は外に表現す、大略自ら其の次序有らんか。此処に説き到れば便ち了わりなり。
恒卦(巽下震上)
巽下震上。利有攸往,恆也。觀其所恆而天地萬物之情可見矣,觀也,萃亦如之。不感無恆,感不可恆。剛上而柔下,故恆也。相與而不雷,風動而不巽,剛柔不皆應,非恆也。貞者,所恆也;天地萬物之情在恆,而貞不可見,故曰久於其道也。至靜而徳方,坤也;立不易方,君子也。
恒卦は、卦体は巽下震上なり。「利有攸往」は恒を説く。其の恒守する所を観察すれば、天地万物の情状は便ち見るべし――此れも亦一种の「観」にして、萃卦も亦同じく此の如し。感無ければ便ち恒無し、可なる感は本身又久恒する能わず。剛は上に在りて柔は下に在れば、故に恒と曰う。彼此相與して雷声を聞かず、風は動くと雖も并せ巽順せず、剛柔は能く一々相応せざれば、則ちそれは恒に非ず。「貞」は恒守する所の物にして、天地万物の情は就中恒の裏に在り、而して此の一份の貞は却って見えず、故に曰く「久于其道」。至静にして徳性方正なるは、あれは坤なり。確立して其の方を改めざるは、あれは君子なり。
慎辨物居方,闕。利有攸往,終則有始,天地之所以恆也。治而深之之謂浚,浚而後深,求而後得,始而後終,不可已也。不可以立所而觀也。人之終始,則不可不貞,是以征凶。震徵艮貞,至失其宜者,皆失而凶。節曰貞凶悔亡,其道窮也;凶者,其義也;窮者,其道也。中則何吉何凶?悔亡者,其惟中乎?
「慎辨物居方」――此処原文に闕有り。「利有攸往」は、終りて復た始まる、此れ正に天地の能く恒する所以なり。それを治理して之を深ならしむるを、「浚」と曰う。浚してこそ深く、求めてこそ得、始有りてこそ終有り、此れ停まる能わざるなり。亦固く一処を守りて観照すべからず。人事の終始は、就中貞ならざるべからず、故に曰く「征凶」。震は征を主り、艮は貞を主る。凡そ各々其の所宜を失うは、皆失して凶を致す。節卦に曰く「貞凶、悔亡、其道窮也」。「凶」は義を講じ、「窮」は道を講ず。若し能く中を得れば、何の吉有らん何の凶有らん。能く「悔亡」するは、大略ただ中のみならん。
中不可能也,而久可能也;恆者,乆而已矣。健過之得,其能乆乎?承之者疑,能無羞乎?先貞後吝,可謂恆乎?其徳如是,可正眾乎?久之位,中而已。徳不固,雜而厭,過而貳,禽不可得矣。恆,久也,貞則利。初六貞凶,求故也;六三貞凶,得故也。然則恆不可求不可得乎?曰:始求深,求不得矣;貞其徳,得不固矣。恆,徳之固也,利貞而已。貞而不諒,可恆乎?而況于振恆者乎?上六振恆,其終也已。
「中」は勉強して為し得るに非ず、可なる「久」は却って為すを得。「恒」は過ぐるも久のみ。剛健太だ過ぎて得る所有る人は、能く久しきを得んや。彼を承接する人は心に疑慮を存せば、能く羞愧せざらんや。先に貞を守りて而る後に吝に転ずるは、還た恒と称するに足らんや。徳行は此の地步に到れば、還た衆人を匡正すを得んや。能く久しきの位次は、亦過ぐるも一個の「中」のみ。徳は牢固ならず、雑れば便ち厭を生じ、過ぎれば便ち二心を生ず、あの獲物は捉えるを得ず。「恒」はすなわち久にして、貞を守りてこそ利有り。初六「貞凶」は、求むる所有ればなり。六三「貞凶」は、得る所有ればなり。然らば則ち恒は既に求むべからず亦得べからざるか。回答に曰く――一上来より求むること太だ深ければ、反って求め得ず。ただ徳の上に於て貞を守れば、所得は反って牢固ならず。「恒」は徳の牢固にして、ただ利貞に在るのみ。正を守りて小信に拘らざるも、尚且持恒に難し、況んやあの「振恒」の人をや。上六「振恒」にして、此処に到れば便ち了わりなり。
遁卦(艮下乾上)
艮下乾上。遁而亨者,不進而亨也。亨者,嘉之□。君子之嘉遁,法遁亨也。小利貞者,浸來浸長之時也,大者浸去浸消。當位而應,不與敵也。當位者,不出其位;與時行者,不貳其與。戴其上而止其躬,天下有山之象也。應不與敵,逺小人之道也。所好在遁,於彼何惡焉?嚴者,明我之敬而已矣。
遁卦は、卦体は艮下乾上なり。遁して能く亨するは、前進せずして亨なり。「亨」は嘉美の会合なり。君子は退隠を以て美と為し、效法するは正に「遁而亨」なり。「小利貞」は、陰気の漸来漸長の時にして、而して大者は漸去漸消す。位に当たりて応有れば、便ち人と敵と為らず。位に当たる人は自己の位分を越出せず、時と偕に行く人は其の親與する対象を改換せず。其の上に頭を戴きて自身を止住するは、正に「天下有山」の象なり。応有りて人と敵と為らざるは、小人を遠離するの弁法なり。其の喜好する所は既に退隠に在れば、あの一辺に対して又何必ずしも悪を生ぜんや。「厳」は、過ぐるも我自己の敬を顕明するのみ。
姤之初六往見凶,浸至於遁,又可往乎?遁尾厲者,惕其初也;執之者,用恆也;黃牛者,坤之中也;莫之勝者,貞勝也。應乎嘉,貞說也;志乎乾,固也。繫於有疾之時,是以危也。憊者,有疾者也,可以畜小,不可以大事。用健以退,好惡可否,與彼不謀。隨之九五,吉在孚;遁之九五,貞吉在嘉。在孚可以觀時,在嘉可以觀則。位者,所觀也;孚于嘉吉,則位當可知。是故行而有嘉者悔亡。肥者,不羸也;飬而不窮者,安往而不肥?無所疑者,恆故也。
姤卦初六「往見凶」にして、陰気の漸長する遁の地步に等到すれば、還た往くを得んや。「遁尾厲」は、開頭に於て警惕するなり。「執之」は、恒を取用す。「黄牛」は、坤の中なり。「莫之勝」は、貞を以て勝に取る。嘉美に応ずるは、貞にして和悦なり。志は乾に在るは、堅固にして移らず。繋累するは疾有る時にして、故に危し。「憊」はすなわち疾有りにして、小者を畜養す可し、大事を担当す可からず。剛健の方式を以て引退するは、好悪可否は全て自己に由り、あの一辺と商量せず。随卦九五の吉は「孚」に在り、遁卦九五の「貞吉」は「嘉」に在り。「孚」よりは時を見出し、「嘉」よりは則を見出すを得。「位」は観察せらるる対象なり。既に「孚于嘉」して吉なれば、位の当たるや否やも亦知るべし。故に行いて嘉有る人は「悔亡」す。「肥」は痩弱せざるなり。養いて窮尽に至らざれば、則ち何処に走り到るも肥ならざる有らん。疑慮無き所以は、正に恒有ればなり。
大壮卦(乾下震上)
乾下震上。大壯,乾行也;大者壯,行乾也。利貞,乾之徳也;大者正,行乾之徳也。正大而天人際矣,天地之情,際而後可見。壯而後泰,乾行也;履而後泰,行乾也。大壯利貞,貞則無不孚也,又何征焉?征則凶,有孚則窮,故大壯之初以壯于趾征凶有孚為戒。易曰勿恤其孚,于食有福。壯于趾,不壯矣;用壯,不壯矣。
大壮卦は、卦体は乾下震上なり。大壮は乾自ら行くにして、大者の壮盛は則ち乾道を奉行す。「利貞」は乾の徳にして、大者の正に帰するは則ち乾の徳を奉行す。既に正にして且つ大なれば、天と人とは便ち接上せり。天地の情状は、交接したる後を要してこそ見るべし。壮して而る後に泰なるは、乾自ら行くなり。履して而る後に泰なるは、乾道を奉行するなり。大壮は「利貞」と説き、正を守れば便ち孚信せざる無し、還た何を出征せんや。一たび出征すれば便ち凶、一味に孚に恃めば便ち窮す。故に大壮の初爻は「壮于趾、征凶、有孚」を用いて告誡す。《易》に曰く「勿恤其孚、于食有福」。壮は脚趾の上に在るは、其の実壮ならず。一味に壮を用いるは、其の実も亦壮ならず。
中以動,故壯;貞而吉者,其唯九二乎?罔者,無也,虛也;有若無,實若虛,用晦戒懼,則貞厲者也。孚其剛狠,唯意妄觸,則小人之用耳。羸其角,不維伐矣,志厲矣。徳者,身之輿;謙者,徳之輻。壯于大輿之輻,則壯於徳者也。藩決,則不以力勝;不羸,則其用常壯,其往順矣。晉道其有不光乎?
中を以て動けば、故にこそ壮なり。能く貞を守りて吉を得るは、大略ただ九二のみならん。「罔」は無にして、虚なり。有りて無に似、実にして虚に似、晦蔵を用いて常に戒懼を懐くは、則ち「貞厲」の人なり。自己の剛狠に仗恃して一味に任意妄撞するは、あれは過ぐるも小人の用法のみ。「羸其角」にして、便ち更に征伐し往く能わず、心志は已に危厲なり。徳は身体の車輿にして、謙は徳の車輻なり。壮は大車の輻の上に在れば、便ち徳の上に壮有るなり。藩籬は一たび開けば、便ち力を以て勝に取るを要せず。困頓を受けざれば、其の功用は常に壮盛を保ち、前往も亦順なり。此の如くにして、晋の道理は還た光大せざらんや。
易以知險,乾徳也。無意者得之,其事在中,以貴行也,又何意乎?位不當也,無意故也。此聖人之事;若以人以天,則宜憂險阻。巽為長,不議而動,終不長矣。大有艱初則無,大壯艱終則吉。思其艱以圖其易,六五得之。處上六之地,於所不能,思其利而艱以固之,夫何咎之有?羝羊,物之狠者也,意以動故狠;觸而求通者,意也;中則不意,故曰大壯則止。
「易以知険」は、あれは乾の徳なり。私意無き人はこそそれを得着し、彼の行事は總じて一個の「中」を離れず、尊貴に凭りて行く、何処に還た私意を用いんや。「位不当」と説くは、正に其の私意無ければなり。此れ聖人の事なり。若し人事より・天時より見れば、あれは還た険阻を憂慮すべし。巽は長と為し、商議を経ずして動けば、終究長くするを得ず。大有卦は開頭に於て能く艱すれば便ち咎無く、大壮卦は終了に於て能く艱すれば便ち吉なり。其の艱を想到して、こそ其の易を謀取するを得、六五は便ち此の一点を得着せり。身は上六の地に処りて、あの力の及ばざる処に於て、能く其の中の利を想到して艱難を以て自固するは、還た何の咎有らんや。「羝羊」は牲畜の裏の性子の狠なるにして、私意に憑りて動けば故に狠なり。一味に衝撞して通を求むるは、私意なり。能く中すれば便ち私意を起さず、故に曰く「大壮則止」。
晋卦(坤下離上)
坤下離上。晉者,明出地上之名也。康者,既寧也;侯者,邑之主也。康侯用者,不它也;錫者,天也;馬者,行地也;蕃庶者,交也;晝日者,其出也;三接者,其□也;三者,皆也。物不可以終壯,故受之以晉。順則柔以靜矣,順故離,離故麗。大明者,乾道也。柔進則進而至也,上行則至而大也。
晋卦は、卦体は坤下離上なり。「晋」は光明の地上より出づるの名目なり。「康」は已に安寧にして、「侯」は一邑の主なり。「康侯用」は別に他求する無し。「錫」は天より出づ。「馬」は地に行くなり。「蕃庶」は交なり。「昼日」は其の出なり。「三接」は其の儀なり。「三」はすなわち「都」の意思なり。事物は永遠に壮盛すべからず、故に壮の後に接ぐるは晋なり。柔順なれば便ち能く静を以て自処す。順なれば故に離有り、離有れば故に麗有り。「大明」は指すは乾道なり。柔にして能く進むは、進みて能く至るなり。上に向かい行くは、至りて能く大なり。
君子進也,明徳如日之出,其明自昭,我不勞。摧者,阻也,折也;罔孚者,彼未信也,進之初也;裕者,我寛以需也。彼未信,則我獨矣;終必受命,今未也。命謂正命。愁者,憂也,悲也,苦也;介者,大也。王者,侯之主;母,主之母。非王烏事?非母烏生?以中正也,則受於主母可知。
君子は前進して、明徳は太陽の昇起するがごとく、其の光明は自然昭著にして、我は并せ力を費やさず。「摧」は阻を受け折損を受くるなり。「罔孚」は対方は還た信任せず、あれは前進の初なり。「裕」は我が寛緩して待つなり。対方は還た信任せざれば、我は便ち孤单なり。最終必定命を受く、只是如今還た未だ有らず。謂う所の「命」は、指すは正命なり。「愁」は憂・是れ悲・是れ苦なり。「介」は大なり。「王」は諸侯の主にして、「母」は主の母親なり。王に非ざれば、何に憑りて事を弁せんや。母に非ざれば、何に憑りて生養せんや。正に中に居りて正を守れば、故に能く王母のあの処より福を受く、此れ便ち明白すを得。
眾允則罔孚者信矣,眾允之則自昭而無不昭矣。志者,心之所之也;悔亡之志,豈謂我心之所之乎?內卦坤也,三在內卦之上,柔進而上行,此爻主之。鼠者,晝藏之物也;鼫者,大也。鼫鼠貞厲,猶豚魚吉也,而位不當者,正位在五。三猶往吉,近可已乎?上下敵應,不相與也,思不出焉,巽也。
「衆允」にして、原先の「罔孚」は便ち信を見るに変成せり。衆人は皆彼を認可すれば、其の光明は自然昭著にして昭せざる無し。「志」は心の趨向する処なり。「悔亡」の志は、豈指すは我心裏のあの点の私意の向かう所ならんや。内卦は坤にして、六三は内卦の上に在り、柔にして進み上に向かい行く、此の一爻は正に其の主爻なり。「鼠」は白天に蔵伏する物にして、「鼫」は大なり。「鼫鼠貞厲」は、恰も中孚の「豚魚吉」のごとし。而して「位不当」と説く所以は、正位は五に在ればなり。六三は尚且「往吉」なり、況んや已に切近せる、能く就此処に於て手を罷めんや。上下敵対して相応じて相い親與せず、心思は本位を越出せず、あれは巽なり。
悔亡者,既孚也;失得勿恤者,反壯也,柔以靜而不敢息也,故往吉無不利。萃初無咎勿恤,往也;升之用見大人,亦有慶也。角者,晉之終也,維用伐邑;厲則終不懈矣,故吉無咎;貞而不厲,則但貞而已,故吝。道者,命之行也,無時而止;道未光也,故往有慶也。
「悔亡」は、已に孚有り。「失得勿恤」は、反って壮を用い、柔を以て静にして敢えて懈怠せざれば、故に「往吉、无不利」。萃卦初爻は「无咎」「勿恤」と説き、あれは往なり。升卦は「用見大人」と説き、亦慶有るなり。「角」は晋の終にして、故に曰く「維用伐邑」。能く危厲の心を存せば、便ち始終懈怠せず、故に「吉无咎」。ただ貞を守りて危厲を知らざれば、則ち只是貞のみ、故に「吝」。「道」は命の運行にして、止むる時無し。道は還た未だ光大せざるに因りて、故に前往してこそ慶有り。
大畜利涉大川,則是往而應矣,故曰六五之吉有慶也。應而慶矣,又何之焉?兩作曰離,三接為晉。晉而上者謂之升,升則用見大人勿恤有慶也。晉之用,康侯也;升之用,元亨也。晉其角矣,但貞吝;升不當矣,不消則息。故君子之道,必怠乎光,升而不息,乃□乎極。
大畜は「利渉大川」と説き、あれは往きて応有れば、故に曰く「六五之吉、有慶也」。既に応有りて慶有れば、還た何処に往かんとするや。両重の興作を離と曰い、三度接見すれば便ち晋と成る。晋して再び上に往くを升と曰い、升はすなわち「用見大人、勿恤、有慶」。晋の用は「康侯」に在り、升の用は「元亨」に在り。晋は「其角」に到れば、便ちただ貞を剩して吝なり。升は位当たらざるに到れば、消退せざれば便ち生息するを得。故に君子の道は、必定光大の処に於て一分の警惕を存するを要す。升して肯んじて停息せざれば、便ち極処に到るなり。
明夷卦(離下坤上)
離下坤上。明夷者,明入地中之卦也。艱易貞征,唯天之從,地道也。乾則不言所利,文王之以、箕子之能,所以養正而不忘其君,一也。以此蒞眾,孰不順承?乾坤其順矣乎!垂其翼者,不可翔也;於行者,不敢息也;不食者,不食故也,三日不食,則終不食矣。有攸往主人有言,辭指所之,不敢違也。
明夷卦は、卦体は離下坤上なり。「明夷」は光明の地中に沈入するの卦なり。艱難と平易・貞を守ると出征とは、一概に天意に聴従し、此れすなわち地道なり。乾卦は自己の利の何処に在るかを説かず。文王の作為・箕子の能耐は、皆正しい道を涵養して其の君を忘れざるが為にして、用心は原より一様なり。此の如くの態度を用いて民に臨めば、誰か順従承奉せざらんや。乾坤の順は、真に極処に到れり。「垂其翼」は、能く更に飛翔せず。「于行」は、敢えて停歇せず。「不食」は、本より喰わず――三日喰わざれば、則ち終究喰わず。「有攸往、主人有言」は、言辞の指し向く方向に、彼は敢えて違背せず。
是故於行而忘在君,不食而義不敢忘。大畜也,泰也,剝也,困也,井也,鼎也,有食也,有不食也;食而食,不食而不食,問焉而以言,其受命也如向。尊其用,故曰左;麗乎巽,故曰股;拯馬壯,故曰順,順以身也。離也,故麗,易曰艮其身,止諸躬也;止也,故曰左;坤也,故曰腹。貞者,君子之心也;不可息者,君臣之義也。正其志本乎心,聖人之則,照臨九有,其可失乎?君子秉不出卑順之常,然後□明夷之志,合此心之意。夫明夷之心,未始夷也;入不入,覩不覩,由地也。
故に彼は行路の中に在ると雖も身の君に属するを忘れず、進食せざると雖も義理の上に於て敢えて遺忘せず。大畜・泰・剝・困・井・鼎の此れらの卦の裏に、食に説き及ぶ有り、亦不食に説き及ぶ有り。食すべきは便ち食い、食すべからざるは便ち食わず、詢問する所有れば便ち実に拠りて言う、彼の天命を領受するは回声のごとく迅捷なり。其の用を尊崇すれば、故に曰く「左」。巽に附麗すれば、故に曰く「股」。「拯馬壮」は故に曰く「順」、あれは自身を以て順うなり。離に属すれば故に「麗」と称す、《易》に曰く「艮其身、止諸躬也」。能く止まれば、故に曰く「左」。坤に属すれば、故に曰く「腹」。「貞」は君子の心にして、「不可息」は君臣の義なり。自己の志向を端正するは、根子は心に在り。聖人の法則は九州を照臨す、怎麼して失うを得んや。君子は卑順を越出せざるの常道を秉持して、然る後に明夷の志を正すは、正に此の一份の心意に合す。明夷の心は其の実未嘗て傷せられず。入ると入らざると、看見と看見せざるとは、皆地に由りて定まる。
家人卦(離下巽上)
離下巽上。止而不入,故為旅;旅反家人,家人內也。齊者,出乎明者也。物或暫見,恆乃乆。齊家而閒之,以悔亡為志,以立其志為初。志未變者,懼其變也。遂者,達也,成也,往也。節,止也;止則不恆,況失乎?
家人卦は、卦体は離下巽上なり。止まりて進入せざれば、故に旅と曰う。旅の反面は便ち家人にして、家人は内を講ず。謂う所の「斉」は、明の中より生出するなり。事物は時に只是暫時顕現するのみ、唯だ恒常のみ能く長久す。家道を整斉して防閑を加え、「悔亡」を以て志向と為し、此の志向を確立するを以て開端と為す。「志未変」は、其の変ぜんことを怕るなり。「遂」は通達にして、成就にして、前往なり。「節」は止なり。一たび止めば便ち恒を談ずべからず、況んや還たそれを失うをや。
富,言其有;順,言其佑。大吉者,元吉也。王假有家,尚大之義也。窮必乖,交則吉;過則嘻嘻,交則相愛。反身莫如巽,巽治莫如武人,上九兼之,有大而兼之也。家人之道,其閒於未變也,其順以巽也,皆明也。其悔也,其失也,明過矣;厲而吉,亦以明也。順在位,是以富。勿恤吉者,順天也;非其順也,孚其終乎?
「富」は説くは其の有る、「順」は説くは佑助する人有るなり。「大吉」はすなわち元吉なり。「王假有家」は、宏大を崇尚するの意思なり。窮処に走り到れば必定乖離し、能く交すれば便ち吉。頭を過ぎれば便ち嘻嘻嬉笑し、能く交してこそ彼此相い愛す。躬に反りて自省するは巽より好きは無く、家道を整治するは武人より有効なるは無し、上九は両面を兼備す、其れ大にして能く兼ねればなり。家人の道は、其の未変に趁りて防閑を加うるに在り、柔順にして能く巽入するに在り、此れら皆「明」に属す。其の悔・其の失は、明の太だ過ぎるなり。危に処りて吉を得るも、亦仍ほ明に靠る。柔順にして其の位に居れば、故に富なり。「勿恤、吉」は、天に順従す。若しあの如くの順に非ざれば、孚信は還た最後まで保つを得んや。
睽卦(兌下離上)
兊下離上。分則有合,同則有異。合故章,章則無小;異故睽,睽則有小大矣。小事吉者,大之小也,大一而已。二女同居,則其志不同行。天乾地坤,其事則同;男陽女陰,其志則通。大小多少,其物則類。名其同曰事,總其情曰志,合其散曰類。天同而地類,志行乎其中,推而行之,是以通也。同者,天也;異者,志類也。
睽卦は、卦体は兌下離上なり。分有りてこそ合有り、同有りてこそ異有り。合すれば故に彰明し、彰明すれば便ち小無し。異なれば故に睽違し、睽違すれば便ち小と大との分別有り。「小事吉」は、大の中の小にして、而して「大」はただ一個のみ。両個の女子は同じく一屋に住めば、其れらの志向は便ち同行せず。天は乾・地は坤にして、其れらの為す所の事は相同じ。男は陽に属し女は陰に属して、其れらの志向は相通ずるを得。大小多少は、物類に就きては同類なり。其れらの相同の処の為に名を立てて「事」と曰い、其れらの情を総括して「志」と曰い、其れらの分散の処を合して「類」と曰う。天は同を講じ、地は類を講じ、志は便ち其の中に行く。推広して之を行えば、故に能く通ず。相同なるは天にして、相異なるは志と類なり。
悔亡則有喪有得,皆悔亡也。喪馬則健順睽矣;勿逐自復,則我窒而彼自來也。不聞此義,不見惡人;不見惡人,不知所辟。睽之時,善惡辟就,宜觀其初動,雖未濟需,亦勿憂也。九二以六五為主,六五以九二為宗。巷之為道,野所無也;遇主于巷,何失何得?睽有同異,中無睽通。
「悔亡」と説けば、則ち喪有り・得有りも、皆悔亡すを得。「喪馬」は、剛健と柔順とは已に睽違せり。「勿逐自復」は、我が此の一辺は塞きて動かず、而して対方は自ら会来るなり。此の道理を明白せざれば、便ちただ「不見悪人」を知るのみ。悪人を見ざれば、便ち何を躲避すべきかを知らず。睽の時に処りて、善と悪・避と就とは、当に其の最初の動向を看るべし。即ち未済・需のごとく待つ所有るを須ちても、亦憂慮を要せず。九二は六五を以て主と為し、六五は九二を以て宗と為す。「巷」の此の路は、曠野の裏には無し。「遇主于巷」にして、還た何の失何の得を談ずるに足らんや。睽卦は同有り異有りて、中を得れば便ち睽無くしてただ通有るのみ。
曳,牽也,引也;掣,引縱也。上下二剛,一輿一牛,曳不可乘,掣不為用,而上九疑焉,天地位不當者,未遇也。且劓而疑亡,故曰無初有終。今無初者,睽之三;今有終者,巽之五。初九仁者也,故曰元夫。孤者遇,孚者交,然後志行;睽之志,通而已。近而通,可以觀所為主。六五,睽之主也,未始動也,故悔亡。
「曳」は牽く・拉くなり。「掣」は又拉き又放すなり。上下両個の剛爻は、一輌の車・一頭の牛なり。曳住せられれば便ち乗る能わず、掣住せられれば便ち用いる能わず、而して上九は此れに対して疑を生ず。天地の位は当たらざるは、還た未だ遇合せざるなり。「劓」に等到して疑慮は消尽し、故に曰く「无初有終」。如今の「无初」は、睽卦六三なり。「有終」は、巽卦九五なり。初九は仁者にして、故に「元夫」と称す。孤独は遇合を得、孚有るは交接するを得て、然る後に心志はこそ行き通ずるを得。睽卦の志は、無非一個の「通」の字なり。切近にして能く通ずれば、便ち其れ誰を以て主と為すかを見出すを得。六五は睽卦の主爻にして、従来より曾て妄動せず、故に「悔亡」。
厥宗噬膚,則謂我為往;謂我為往,則見其來也;見其來,斯有宗矣。有宗之慶,晉勿恤而得也。睽之時,各有見,各有遇,各有疑也;終於疑亡,則其睽同矣。同者,天之道,君子以焉。賁之白馬,疑而有也;匪冦婚媾,終無尤也。初見惡人,三見輿曳,上九見豕負塗,各有見也。
「厥宗噬膚」にして、則ちそれは我が前往せんと言うなり。我が前往せんと言えば、便ち彼の会来るを見ん。彼の会来るを見れば、是に宗主有りて之を有す。宗主有るの喜慶は、正に晋卦の「勿恤」して得る所有るなり。睽の時に処りて、各々其の見る所有り、各々其の遇合有り、各々其の疑慮有り。最後に到りて疑慮は消尽し、彼此の睽違も亦帰して同と成る。相同なるは天の道にして、君子は此れに取法す。賁卦の「白馬」は、疑いと雖も仍ほ守る所有るなり。「匪寇婚媾」にして、最終に過尤無し。初九は悪人を見、六三は「輿曳」を見、上九は「豕負塗」を見、各々其の見る所有り。
遇主、遇剛、遇元夫、遇雨,各有遇也,其時可知矣。見息而疑亡,莫尚於遇雨;勿逐自復,莫先於初之悔亡、中之有慶。睽與晉豐一也,在睽有慶,況泰同人乎?是以莫吉於中孚也。柔在內而剛得中,說而巽孚。剛得中者,貞勝也;處睽之時,以貞而勝。初二四皆無咎,以剛也;六三有終,遇剛也;六五眾剛之主,上九群疑之終,眾剛宗之,猶謙之不富而其鄰皆以,群疑之終孚也。
主に遇い、剛に遇い、元夫に遇い、雨に遇うは、各々其の遇合有りて、其れらの時機は此に由りて知るべし。所見を平息せしめ疑慮を消除せんと要せば、「遇雨」より好きは無し。「勿逐自復」を為さんと要せば、初九の「悔亡」・六五の「有慶」より先に在るは無し。睽と晋・豊とは一類なり。睽に在りて尚且慶有り、況んや泰卦・同人卦をや。故に中孚より吉なるは無し。柔は内に在りて剛は中を得、和悦にして巽順して、因りて孚有り。剛は中を得るは、貞を以て勝に取る。身は睽の時に処るは、正に貞を以て勝に取るに靠る。初九・九二・九四は皆咎無し、其れらは剛なればなり。六三「有終」は、剛に遇上すればなり。六五は衆剛の主にして、上九は群疑の終結にして、衆剛は皆それを以て宗と為す――恰も謙卦の「不富」にして其の鄰居は皆来りて帰附するがごとし。群疑の終結は、正に一個の「孚」の上に落つ。
蹇卦(艮下坎上)
艮下坎上。乾之徳行,易以知險;不利東北,以不易也。中者,坤之美;徑者,道之窮。六二之無不利,見大人也;知光大,貞吉也。交而生者,難也;險在前者,未見也;見而能止者,不可能也,其知大矣。往而止則陷,止而往則得中,知矣哉,譽也。往而有功,莫尚於利見大人;貞吉而可以正,莫如當位。
蹇卦は、卦体は艮下坎上なり。乾の徳行は平易を以て険を知るなり。「不利東北」と説くは、あの処は平易ならざればなり。「中」は坤の美にして、「徑」は道の窮処に走り到るなり。六二の「无不利」は、「見大人」に因るなり。「知光大」は、すなわち「貞吉」なり。交合して生ずるは、難なり。険の前面に横たわるは、還た未だ看見せざるなり。看見して能く止まるは、あれは一般人の為し得るに非ずして、其の智慧は便ち大なり。前に往きて中途止步すれば便ち陥落し、先に止住して而る後に往けば便ち中を得――此れこそ智慧と曰い、こそ「誉」と曰う。往きて功有らんと要せば、「利見大人」より要緊なるは無し。貞吉して又正なるを得んと要せば、「当位」より好きは無し。
需於正中,履而不疚,當也。王弼云:山上有水,蹇難之象,除難莫若反身修徳。往得中也,是故往有功也。初來而未中也,故冝待也;初之不需,終不光亨矣。來譽乎內,喜乎不知也。體篤實,用柔中而已。蹇蹇,多也;終無尤者,中故也。內喜,復也;內喜之,反也。上下皆實,承乘皆連,維不斷也。
「需于正中」は、履践して病痛無きを、此れ「当」なり。王弼が曰く――山上に水有るは、蹇難の象なり。患難を除去するは、身に反りて徳を修むるより好きは無し。往きて能く中を得れば、故に曰く「往有功」。初爻は来りて還た未だ中を得ざれば、故に等待を当とす。初爻は若し肯んじて等待せざれば、最終に光明亨通する能わず。「来誉」は内に在りて、喜は人の知らざる所に在り。其の体は篤実にして、用うる所は過ぐるも柔にして中を得るのみ。「蹇蹇」は多なり。「終无尤」は、中を得ればなり。「内喜」は復にして、「内喜之」は反なり。上下は皆実にして、承く所乗る所は皆彼此相い連なり、維繫して断絶せず。
其來也連,其孚也孿如,大者之實也。是故當位貞吉,唯在一實。連實者承,匪躬者應,朋來也。中,本也;節,和也;中節,實也,朋之大者也。往適它,今趣大,九三之朋也。爛者反矣,初三四上皆朋也,二不來,匪躬也。朋來而大,豈躬乎?不滅命也。上六陰也,從五而應三,果之碩者也;大人,九三也。五之所以大蹇蹇者,應而當位者連;上之於二,雖非其應而志在焉,其所以碩也。從三則志二可知,貴陽也,大也。朋來而大,豈躬乎?是之謂應。及身者,來也。卦往而我來,無位而志在內,可也;泰則志在外矣。
其の来るは相い連なり、其の孚は「孿如」にして、あれは大者の充実なり。故に「当位貞吉」は、全て一個の「実」の字に在り。相い連なりて充実するは「承」にして、「匪躬」のは「応」にして、すなわち「朋来」なり。「中」は本にして、「節」は和にして、中にして節有れば便ち実、あれは朋友の中の大者なり。原本は別処に奔向するも、如今転じて大者に趨向するは、あれは九三の朋なり。「爛」のは已に返回せり。初・三・四・上は皆朋にして、ただ二のみ来らず、其れ「匪躬」なればなり。朋来りて其の大を成すは、豈只自身を顧みんや。あれは肯んじて天命を埋没せざるなり。上六は陰にして、九五に随従して九三に応ず、正にあの顆の碩大の果実なり。謂う所の「大人」は、指すは九三なり。九五の「大蹇蹇」なる所以は、応有りて位に当たるの彼と相い連なればなり。上六の六二に対するは、正応に非ざると雖も、心志は却って彼処に在り、此れ正に其の「碩」たる所以の縁故なり。既に九三に随従すれば、其の六二に対する心志も亦知るべし、陽爻を貴重するは、すなわち「大」を貴重すればなり。朋来りて其の大を成すは、豈只自身を顧みんや。此れを「応」と曰う。自身の上に落つるは、「来」なり。卦象は往にして我は却って来る、位次無くして心志は内に在るは、あれは可なり。泰卦に至りては、心志は便ち外に在るなり。
解卦(坎下震上)
坎下震上。解者,赦過宥罪之名也。西南,坤所也;坤為母,無不生也;為腹,無不容也。無所往,其來復吉者,中吉也;有攸往夙吉者,其道吉也。復其見天地之心乎!其來也闕,可得而有耶?解,緩也,故夙吉。險以動,匪人也;動而免乎險,不往而往,故得眾;往而不往,故有功。
解卦は、卦体は坎下震上なり。「解」は過失を赦免し罪人を寛宥するの名目なり。「西南」は坤の在る所の方位なり。坤は母と為り、生ぜざる所無し。腹と為り、容せざる所無し。「无所往、其来復吉」は、説くは中を得て吉なり。「有攸往、夙吉」は、説くは道に合して吉なり。「復」は大略就中天地の心を見んか。其の来るは此処に原文闕有り、還た己有に拠るを得んや。「解」は寛緩にして、故に「夙吉」を貴ぶ。険を冒して動くは、人道に合せず。動きて能く険境を脱離するは、見るに往かざるに似て其の実往き、故に衆を得。見るに往けるに似て其の実往かず、故に功有り。
解者,天地之撰;作者,雷雨之能;甲拆者,百果草木之化。雷動雨施,作而無作,君子以焉,以天也。其作也皆免乎險,皆免乎險者,流不盈也。始交則經綸,際而後無咎。不一不信,非得中直,能獲彼乎?黃,其中也;失,其道也。剛得位而中,故可大事;大者之田為獲,小也。
「解」は天地の創制にして、「作」は雷雨の能事にして、「甲坼」は百果草木の化生なり。雷動雨施して、作為する所有りて痕迹を著さず、君子は此れに取法するは、天に取法するなり。其の興作は皆能く険境を脱離す。能く険境を脱離するは、流行して自満せざればなり。剛は一たび交接すれば便ち経営に着手し、交接したる後にこそ咎無し。専一ならざれば便ち誠信ならず、若し中直の道を得ざれば、能く対方を猟獲せんや。「黄」は中を講じ、「矢」は道を講ず。剛は位を得て中に居れば、故に大事を為すを得。大者は出でて田猟するも、獲る所は却って小なるなり。
不然何以用射?在得先吉,先見也。貞吝,必文之不易者也。求慢藏於六三,非也,故曰亦,故曰又。拇,震之初也,孚其至矣,而未當位也。維有解,主道也。有孚于小人,咸赦宥也;小人退者,君子進也。無所不利,今亦不利也。自我致者,自我取之也。用射者,上六之志也;六五之志,維而已矣。六不應三,藏也;致冦至,慢藏也。髙,其位也;墉,其職也;隼,其人也。上六震用也。解悖則射者,狐隼而已,可謂皆免乎險;不然,則何以見大矣哉?無所往,恕也;有攸往夙吉,戒緩也。
然らざれば何を以て射を用いるを要するや。得る所有りて先に其の吉を見るに在り――「先」はすなわち先見なり。「貞吝」と説くは、あれは再怎麼文飾するも改める能わざるなり。「慢蔵」の責任を六三の身上に推すは、あれは対ならず、故に爻辞は「亦」と説き、又「又」と説く。「拇」は震の初爻にして、孚信は已に到るも、只是位次は還た当たらず。「維有解」は、主と為るの道なり。小人に対して孚有るは、一概に赦宥す。小人は退去して、君子は便ち進用せり。「无所不利」と説くは、其の実如今仍ほ利無し。「自我致」は、自己の招き来るなり。「用射」は上六の志にして、六五の志はただ一個の「維」の字に在る。六爻は三と相応せざるは、「蔵」なり。寇を招致して来るは、「慢蔵」なり。「高」は其の位を説き、「墉」は其の職を説き、「隼」はあの人を説く。上六は震の施用なり。悖乱を解除するは只是狐と隼を射猟するのみ、此れこそ皆険を脱離したと称するに足る。然らざれば、又何に憑りて其の大を見出さんや。「无所往」は寛恕にして、「有攸往夙吉」は拖延すべからざるを告誡す。
損卦(兌下艮上)
兌下艮上。損下益上,其名曰損。有孚元吉無咎,可貞,利有攸往,損之時也;其道上行,乾行也。損而有孚元吉無咎可貞利有攸往者,損之時,損而合也。曷之乎?曷用乎?二簋可用享。無妄曰可貞無咎,有時者,損有時也;應有時者,損之有時也。損剛益柔者,損也,益也;與時偕行者,損益也。
損卦は、卦体は兌下艮上なり。下面を減損して上面を増益すれば、故に名を取りて「損」と為す。「有孚、元吉、无咎、可貞、利有攸往」は、説くは損の時なり。「其道上行」は、乾自ら行くなり。能く「損而有孚、元吉、无咎、可貞、利有攸往」たる所以は、正に損の時に処りて、損して能く合すればなり。何を用いるか。何を以て用いるか。両簋の薄物にてすら用いて祭享すを得。无妄卦は「可貞无咎」と説く。「有時」と説くは、損は自ら其の時有るなり。「応有時」と説くは、損の時機は応有るを須ちとす。「損剛益柔」は、既是損なり、亦是益なり。「与时偕行」は、正に損と益なり。
兌,說也;艮,止也。損澤益山,九陽也,故遄。已事遄者,止而未嘗息也。往無咎,酌損之者,初志也,志其所無事也。損之志曷之乎?初九所尚,合乎中矣。損者,盛之始也;初者,損之初也。剛中也,復何損益乎?損益之,是征也。初未中,故酌損之;九二則無不利也,無不貞也,可謂中矣。
兌は悦にして、艮は止なり。沢を減損して山を増益するは、あれは陽にして、故に曰く「遄」。「已事遄」は、止住して未嘗て真に止息せざるなり。「往无咎、酌損之」は、説くは初爻の志にして、志は事無きに在り。損の志向は何処に落着せんとするや。初九の崇尚する所は、已に中に合せり。「損」は盛の開端にして、「初」は損の開端なり。既に剛にして中を得れば、還た何を損し何を益せんや。一たび往きてそれを損しそれを益すれば、便ち「征」と成る。初爻は還た未だ中を得ざれば、故に「酌損之」を要す。九二は便ち利あらざる無く貞ならざる無し、中を得と言うべし。
往而有尚者,必合乎此也。友,可以一得,而一不可以謂之友。君子之於道,致一而無所疑也;疑則未征,小畜之君子是也。遄者,已事遄也;使遄者,初使而四應也。孔子曰唯神也,故不疾而速,損而使遄,故亦可喜也;喜則無懼矣。或益之者,莫知其所從來也;朋者,順而佑也;十者,數之窮者也。
往きて崇尚する所有る人は、一定此の一点に合す。朋友は其の一を得べし。若し一に止まらざれば、便ち朋友と称するに足らず。君子の道に対するは、専一にして疑う所無し。一たび疑有れば便ち出征せず、小畜卦の君子は正に此の如し。「遄」は「已事遄」なり。それを快ならしむるは、初爻が往きて駆使して四爻が来りて相応ずるなり。孔子が曰く「唯神也、故不疾而速」。損して能く之を速ならしむれば、故に亦喜ぶべし。喜ぶべければ便ち畏懼無し。「或益之」は、其れ何処より来るかを知らざるなり。「朋」は順にして佑助す。「十」は数の尽頭なり。
者頤不可舍,而終能探索鉤致者也。六五,損之主也,損必益,可違乎?上者,乾之位;乾者,天之物。損下益上,其天也。易曰自天佑之,知於益寡,終必佑也。損而無不利者,可貞也。九二利而不徵,上九吉而大得,非可貞乎?曷之用?二簋可用享。初往有尚,中合而終得。尚志而趣大者,可不思乎?
此の一爻は講ずるは頤養は捨棄すべからずして、而して最終に能く探索鉤致す。六五は損卦の主爻なり。損有れば必ず益有り、此れ能く違背せんや。「上」は乾の位にして、「乾」は天の所有する物なり。下を損して上を益するは、あれは本より天意なり。《易》に曰く「自天佑之」。能く寡少を増益し往くを懂得するは、最終必ず天の佑を得。損して利あらざる無きは、「可貞」に因るなり。九二は利有りて出征せず、上九は吉を得て大いに得る所有り、此れ正に「可貞」に非ずや。何を用いるか。両簋の薄物にてすら用いて祭享すを得。初爻は前往して崇尚する所有り、中を得て合し、最終に得有り。志向を崇尚して宏大に趨向する人は、能く深思せざらんや。
益卦(震下巽上)
震下巽上。益,利有攸往,利涉大川,所謂自天佑之吉無不利。其道大光者,天地之道也;中正有慶者,自天之慶也。益道在器為木,利用為者,往涉皆利也。夫作者,天作也;下者,形器也;不厚事者,事無積也。凡益之道,始於元吉無咎,作事謀始,所以光大也。
益卦は、卦体は震下巽上なり。「益、利有攸往、利渉大川」は、すなわち謂う所の「自天佑之、吉无不利」なり。「其道大光」は、天地の道を講ず。「中正有慶」は、上天より来るの喜慶を講ず。益道は器物の上に落てば便ち木なり。善く取用する人は、往に論ずるも渉に論ずるも皆利有り。「作」は天の作なり。「下」は有形の器なり。「不厚事」は事情は還た未だ積累せざるなり。凡そ益の道理は、皆「元吉无咎」より開始す。事を為すは謀画の開端より做起せば、故に能く光大す。
損六五元吉,六二受之,而以用六為道,用享于帝其可也,乆矣。益之用曷之用乎?上所佑也。用無不孚,執而行之,何損益焉?事無吉凶,皆以貞勝。其有也恆,而無不之也,是謂中行。益志者,中行而已。告如初筮告之告,公如公用射隼之公,從如汝則從、從筮從之從,以益志也,則其用可知。
損卦六五「元吉」にして、六二はそれを承受して、而して「用六」を以て道と為す。用いて上帝を祭享するも亦可なり、此の道理は由来越えて久し。益の用は何処に用いるべきか。上天の佑助する所に在り。用うる所は誠信ならざる無く、執守してそれを推行すれば、還た何の損何の益を談ぜんや。事情は本身吉凶の謂れ無く、一概に貞を以て勝に取る。其の持有は能く恒久にして、而又往かざる所無し、此れを「中行」と曰う。謂う所の「益志」は、亦過ぐるも中行のみ。「告」は「初筮告」の告の如く、「公」は「公用射隼」の公の如く、「従」は「汝則従」「筮従」の従の如く、皆用いて心志を増益す。此の如くにして、其の用処も亦知るべし。
其事無吉凶,皆以貞勝,去取雖大,皆可依也,其唯中行乎?有孚惠心者,中孚也;有孚惠我徳者,中而孚也。其孚也,其惠也,古今先後不可分也。是故心有危□,徳有它目。子貢聞一以知二,蓋知此也。勿問之矣,聞而行也;大得志也,知而得也。非益志也,其足尚乎?非大得也,其足以惠我徳乎?柔中而正,則自外來者益也;剛中而偏,則自外來者損也。其來也莫知其所,故曰外也。聖人之情見乎辭,豈有偏乎?偏辭者,人事也。若夫立不易方,固以惠心;如是而□至者,非我致也。
事情は本身吉凶の謂れ無く、一概に貞を以て勝に取る。去ると取るとは即ち関係重大なりとも、皆依憑する所有り、靠るは大略ただ「中行」ならんか。「有孚恵心」はすなわち中孚にして、「有孚恵我徳」は既に中にして又孚なり。其の孚・其の恵は、古と今・先と後とは、本より分開し得ず。故に心裏に「危殆」有れば、徳の上に亦別に名目有り。子貢は一を聞きて二を知るは、大略就中此の一層を懂得せるならん。「勿問之矣」は、聞きて便ち往きて之を為すなり。「大得志也」は、知りて便ち得る所有るなり。若し心志を増益するに非ざれば、還た崇尚するに値せんや。若し大いに得る所に非ざれば、還た「恵我徳」に足らんや。柔にして中を得又端正なれば、則ち外面より来るは益なり。剛にして中を得るも偏なれば、則ち外面より来るは損なり。其の来るは、人は何れより起るかを知らず、故に曰く「外」。聖人の情は文辞の上に表現す、何処に偏有らんや。偏を帯ぶる言辞は、説くは人事なり。「立不易方」に至りては、本より人を恵する心より出づ。此の如くして至るは、便ち我が自ら招き来るに非ず。
夬卦(乾下兌上)
乾下兌上。揚于王庭者,利有攸往之時也;孚號者,天之令也;有厲者,人承天也;告自邑者,告以懼也;不利即戎、利有攸往者,文告之辭也。乾為天,為君,為父;無君無父者,天所決也。孚號有厲,則天人合矣。是故去故者,孚乃悔亡;決柔者,純乃中也。天人合矣,故其危乃光;乾道純則正道光。
夬卦は、卦体は乾下兌上なり。「揚于王庭」は、「利有攸往」の時なり。「孚号」は天の号令なり。「有厲」は人の天を承奉するなり。「告自邑」は危懼を以て相い告ぐるなり。「不利即戎、利有攸往」は、あれは文告の措辞なり。乾は天と為り君と為り父と為る。君父を目無き人は、上天の決除せんとする所なり。孚有りて号し心に危厲を存せば、天と人とは便ち相合す。故に故旧を除去せんと要せば、必ず先に孚有りてこそ悔亡す。柔邪を決去せんと要せば、必ず先に純粋にしてこそ中を得。天人は既に合すれば、あの一份の危は反って光と成る。乾道は純粋にして、正道は便ち光明なり。
噬嗑之貞厲得當,可謂其危光矣。君子小人各有尚也:我尚孚號,則彼將已日而孚矣;我尚即戎,則彼之所尚可強使窮耶?不窮而通,其遇由我。故君子之有乾者,朝講夕慮,乾乾惕厲而念其終也。夬之時,施祿則下說,居健則眾忌。壯于頄者,居健也;健而說,決而和,則彼憂我樂,彼窮我光。
噬嗑卦の「貞厲」にして当を得るは、亦危にして光有ると言うべし。君子と小人とは各々崇尚する所有り。我は孚有りて号するを崇尚すれば、則ち彼も終に一日孚信する日有らん。我は兵を動かすを崇尚すれば、則ち彼の崇尚する所は、能くそれを強逼して走るに路無からしめんや。窮処に逼らずして之を通ぜしむるは、此の一層の遇合は全て我自己に在り。故に乾徳を懐有する君子は、早上は講習し晚上は思慮し、乾乾として戒懼して常に其の結局を念ず。夬の時に当たりて、禄位を施与すれば則ち下者は喜悦し、剛健に安居すれば則ち衆人は猜忌す。「壮于頄」はすなわち剛健に安居す。能く健にして悦、能く決にして和なれば、則ちあれは彼は憂えて我は楽し、彼は窮して我は光なり。
往不勝者,剛動而過也。大壯曰九二貞吉,以中也;動而不貞,則過乎中矣。五剛類聚,復何為哉?為者,動之過也。孚號者,天之令也;惕號莫夜者,奉令而不懈也;有戎者,於所不利有之而不忘也。不忘其所不利,不憂其所不勝,動而不過,往而不窮,其在得中道乎?
「往不勝」は、剛動して太だ過ぎるなり。大壮卦に曰く「九二貞吉」は、中を得ればなり。動きて能く貞を守らざれば、便ち中を過ぎたり。五個の剛爻は同類聚集すれば、還た別に何を為さんや。「為」は正に動の太だ過ぎるなり。「孚号」は天の号令なり。「惕号莫夜」は、号令を奉行して懈怠せざるなり。「有戎」は、あの利ならざる処に対して心に数有りて遺忘せざるなり。自己の利ならざる処を忘れず、自己の勝ち得ざる処を憂えず、動きて分を過ごさず、往きて窮尽せず――此れ大略就中中道を得るに在らんか。
壯于頄者,壯形於面也,決而不和者也,故有凶。壯而不勝者,其咎在為;壯而有凶者,其失在過,皆不得中道者也。不得中道,是以獨行而用其過也。在眾剛之間,獨行而應其上,則有遇雨若濡之象。慍其若濡者,眾君子之責備者也。夫君子夬夬,則彚征者眾矣,雖有獨行之過,終何咎哉?
「壮于頄」は、壮気は臉面に形る、あれは決にして和せざれば、故に凶有り。壮にして能く取勝せざるは、過咎は一個の「為」の字に在り。壮にして反って凶を招くは、過失は一個の「過」の字に在り、皆中道を得ざればなり。中道を得ざれば、故に独自に行いて過頭の処を使い出だす。衆剛の間に処りて、独行して上りて応ずれば、便ち「遇雨若濡」の象有り。其の「若濡」に対して慍怒するは、あれは衆君子のそれに対する求全責備なり。君子はただ能く「夬夬」すれば、同類の一起に前行する人は便ち多し。縱ち独行の過有りと雖も、最終又何の咎有らんや。
君子之器容隘不齊,形乎用者,或過焉,或不及焉。至於利有攸往,剛長乃終,則其道一也。得中道者,其惟九二乎?有慍而得中之助,是以終無咎也。方剛長之時,位乎九四而其居其行皆不安者何耶?憂故也。兊,陰也,羊也;牽者,柔道也,往而不前,疑而不決者也。勉所不欲以附眾剛之決,則悔亡矣。
君子の器量は各々宽窄有り、参差不斉にして、施用の上に表現すれば、あるいは太だ過ぎ、あるいは及ばず。「利有攸往、剛長乃終」に至りては、あの道理は却ってただ一個のみ。能く中道を得るは、大略ただ九二のみならん。慍怒する人有りて、反って中道の助を得、故に最終咎無し。正に剛長の時に当たりて、九四の位に居りて其の居処と行動とが皆安ならざるは、此れ何の為ぞや。憂慮に因るなり。兌は陰に属し、羊と為る。「牽」は柔順の道にして、往きて能く前ならず、疑いて能く決せず。勉強して自己の願わざる所の事を為して、以て衆剛の決断に依附すれば、便ち悔亡すを得。
兌為口舌而其耳不聰,其能聞言而信乎?終於疑而已矣。用其柔牽以處不當之位,此眾剛之所宜決也;決而當,其悔乃亡。夬夬猶蹇蹇也,中未光也,故中行無咎。孚號者,天之令也,奉天之令,可不惕乎?無號則其終可知。所謂剛長乃終者,終於純而已矣。乾以君之,可不念其終乎?乾之上九有悔之義,在夬坎損萃,不有而有者,夬之終也,訟革之義如之。困終之議,行乾之君子也。詩云唯其有之,是以似之。道之不明也,不肖者不及也。
兌は口舌と為るも其の耳朶は霊ならず、能く話を聴入れて相信す可けんや。終究ただ一個の「疑」の字を落すのみ。其の柔にして牽扯する性子を用いて、当たらざる位に処るは、此れ正に衆剛の応に決除すべき所なり。決除当を得れば、あの一份の悔はこそ消亡す。「夬夬」は蹇卦の「蹇蹇」のごとく、中道は還た未だ光大せざれば、故に曰く「中行无咎」。「孚号」は天の号令なり。天令を奉行するは、能く警惕せざらんや。号呼無ければ、其の結局も亦想い知るべし。謂う所の「剛長乃終」は、純粋に終るのみ。乾は君徳を以て万物を統御すれば、能く其の結局を顧念せざらんや。乾卦上九「有悔」の意思は、夬・坎・損・萃の各卦の裏に皆見るを得。己有に拠らずして反って能有るは、あれは夬の結局にして、訟卦・革卦の義理も亦此の如し。困卦の終了のあの番の議論は、講ずるは正に乾道を奉行する君子なり。《詩》に曰く「唯其有之、是以似之」。道の明ならざる所以は、不肖の人は到達し得ざればなり。
姤卦(巽下乾上)
巽下乾上。至柔而動也剛,坤也;剛以動,壯也。勿用取女者,坤乾也。姤,遇也,而姤有時義。柔遇剛者,其時也;剛遇中正者,其義也。夫行則剛不窮,故曰義。二簋可用享,損也;巽為長,入也;物與,無妄也;不可與,女壯也。遇柔遇剛者,遇也。睽闕。天地相遇,品物咸章也。
姤卦は、卦体は巽下乾上なり。至柔にして動き起るは却って剛なるは、あれは坤なり。剛を以て動くは、あれは大壮なり。「勿用取女」は、講ずるは坤と乾との関係なり。「姤」は遇にして、而して姤は既に「時」有り、亦「義」有り。柔は剛に遇上するは、説くは時なり。剛は中正に遇上するは、説くは義なり。剛は能く行えば便ち窮に至らず、故に「義」と称す。「二簋可用享」は損卦にして、「巽為長」は入にして、「物与」は无妄にして、「不可与」は女壮なり。柔に遇い剛に遇うは、皆遇なり。睽卦は此処に原文闕有り。天地相遇すれば、万物品類は皆彰明を得。
坤之六三,含之以從王事,不敢成也。九五中正,不舎則亦至焉。貞則靜,靜則天施地生,雲行雨施。天下有風,姤也。處姤之初,繫于金柅而守其靜貞則吉,有意於往則凶象見矣。豕,陰物也;女壯之時,志乎動者,初雖羸,後必壯。繫而不變,其唯不牽者乎?蹢躅,不靜也。
坤卦六三「含章可貞」は、含蓄して往きて王事に従い、敢えて其の成に自居せず。九五は中正にして、若し肯んじて捨棄せざれば、最終も亦能く到達せん。貞を守れば便ち静、静なれば則ち天施地生・雲行雨施す。天下に風有れば、便ち姤なり。姤の開頭に処りて、金柅に繋いで静貞を守れば便ち吉。一たび前往の意有れば、凶象は便ち現出せり。「豕」は陰物なり。女壮の時に当たりて、志は動に在るは、起初は瘦弱と雖も、後来必定壮大せん。繋住して改変せざるは、大略ただあの牽扯せられざる人のみならん。「蹢躅」は安静ならざるなり。
包有魚無咎者,中也;不利賓者,利己也,非小己也。利者,義之和也,其利已之中之利乎?不中則不和。用初九有厲之利,成九二有魚之義,非大者不能。居止皆不安而無大咎者,厲故也;巽故知大,蠱之六三亦如是。未牽者,入故也;不厲則或牽矣,可不惕乎?包無魚者,不可震也;近而逺民,起何得乎?
「包有魚、无咎」は、中を得ればなり。「不利賓」は自利にして、却って并せ其の小を私するに非ず。「利」は義の諧和にして、あの一份の自利は、其の実正に中を得るの利ならんか。中ならざれば便ち和せず。初九「有厲」の利を用いて、九二「有魚」の義を成就するは、大者に非ざれば為し得ず。居処と行止とが皆安ならずして大咎無きは、危を知ればなり。巽の能く大を知る所以は、蠱卦六三も亦此の如し。「未牽」は、能く入ればなり。危を知らざれば便ち牽扯せらるる可し、能く警惕せざらんや。「包无魚」は、軽挙妄動すべからず。近処に対して疎遠して民衆を遠離するは、起りて為す有るも又得到る可き何ぞや。
□碩果也。以杞包瓜者,用眾以包也;含章則無不包矣。有隕自天者,天錫之也;天降嘉穀,人其食矣。含章者,中正之主,志而不舎者,必至乎命。易曰大有上吉,自上佑也,自佑自來,豈人也哉?姤其角,姤之極也;吝,下也,上則窮,故吝,吝乃無咎。
あれは碩果なり。「以杞包瓜」は、衆人に憑りて包容するなり。能く章を含めば便ち包せざる無し。「有隕自天」は、上天の彼に賜う所なり。天は嘉美の穀物を降下せば、人は自然喰らうを得。「含章」は中正の主なり。志有りて肯んじて捨棄せざる人は、必定天命に抵達せん。《易》に曰く「大有上吉、自上佑也」。天より之を佑し、天より之を来らしむるは、何処に人力の為し得る有らんや。「姤其角」は、姤の極処に到るなり。「吝」と説くは、其れ下に処ればなり、上に居れば便ち窮し、故に吝――而して正に吝なれば、こそ咎無きを得。
萃卦(坤下兌上)
坤下兌上。物相遇而後聚。亨者,嘉之會也。有器無大於廟,有廟無大於王。見其亨,不見其貞;用其吉,不虛其往。是故時皆無咎,不以所遭害貞,先王之所以王也。順以說,內外也;剛中,其外也;不中不應,不應不萃。假有廟,天也;致孝享,命也。聚以正者,執中而已;順天命者,順其正也。
萃卦は、卦体は坤下兌上なり。事物は相遇して而る後にこそ聚まる。「亨」は嘉美の会合なり。器物の中は宗廟より大なるは無く、宗廟の上は王より大なるは無し。ただ其の亨を見て、其の貞を見ず。ただ其の吉を用いて、其の往を落空せしめず。故に此の時に於て各爻は皆咎無く、遭遇する所の処境に因りて其の貞を妨害せず、此れ正に先王の王たる所以の道理なり。「順以説」は内と外を講じ、「剛中」は其の外を講ず。中ならざれば便ち応せず、応せざれば便ち聚まる能わず。「假有廟」は天より出で、「致孝享」は命より出づ。正道を以て聚するは、過ぐるも中を執るのみ。天命に順うは、すなわち其の正に順うなり。
用而不有,有而不無,是故觀其所聚而天地萬物之情可見矣。天地之萬物,萬物之天地,情一乎正,是故聖人之所謂觀者,順而已矣。除戎器戒不虞者,用其全也;全故正,正故皆無咎。師以毒民、夬不利即,皆戎器也。中孚之初,其戒豫矣。孚不終,乃亂乃萃,萃之初可忘乎?
それを用いて己有に拠らず、それを拠有して又それを無に帰せしめず、故に其の聚する所を観察すれば、天地万物の情は便ち見るべし。天地の所有する万物・万物の依る所の天地は、其の情は皆「正」に統一す。故に聖人の言う所の「観」は、過ぐるも一個の「順」の字のみ。「除戎器、戒不虞」は、其の完全を用いるなり。完全なれば故に能く正、正なれば故に各爻は皆咎無し。師卦「以此毒天下」・夬卦「不利即戎」は、説くは皆兵器なり。中孚卦の初爻は、戒備は已に甚だ早し。「孚不終、乃乱乃萃」――萃の開頭は能く此の一点を忘掉せんや。
其號不孚,其握不正,其笑不夭,未貞故也。恤不往,則其志終不治矣,是故戒之在初,舜琴之言達此而已,奚為哉?孚乃利用禴,今未也;未者,匪孚元永貞悔亡故也。比之元筮,筮其求也;萃之未光,有其位也。萃之時皆無咎,用大牲吉,其唯九二乎?引而未變,中故也;終不光,卒乎引而已矣。
其の呼号は孚信を見ず、其の握手は正に合せず、其の笑は并せ本然より出ず、皆還た未だ貞を得を得ざればなり。憂慮して前往せざれば、則ち其の志向は終究整治し得ず。故に告誡は最初に下すを要す。舜の五弦の琴を弾ずるのあの句の話も、亦過ぐるも此の一層を通達するのみ、還た別に何を為さんや。「孚乃利用禴」は、如今還た到らず。到らざる所以は、正に「匪孚、元永貞、悔亡」なればなり。比卦の「原筮」は、其の求むる所を筮す。萃卦の「未光」は、徒らに其の位有るのみ。萃の時は各爻は皆咎無し、「用大牲吉」は、大略ただ九二のみ之に当たるを得。牽引して改変せざるは、中を得ればなり。最終に光大する能わざるも、亦過ぐるも一個の「引」の字に止まるのみ。
未光,需也。嗟而往者,未治故也;未治而上巽,則終不亂矣。嗟如愁如,進所尚也;小吝而往者,上巽之學;大吉而位不當者,未變之守。認而有之無咎矣,然匪孚元永貞悔亡者也。如是則非假不尚大矣。萃之極,豫生怠,故齎諮涕洟無咎;未安上者,不忘危也。是故大吉猶小吝也,故曰位不當也。食舊徳終吉者,其唯貞厲乎?
「未光」は待つ所有り。嘆息して前往するは、還た未だ整治し得ざればなり。未だ整治し得ずして上体は巽なれば、最終に乱に至らず。「嗟如愁如」は、崇尚する所は進に在り。小吝有りて仍ほ前往するは、上体の巽を学ぶなり。大吉にして位当たらざるは、未だ改変せざる本分を守るなり。それを承認しそれを拠有するは、咎無きを得、然るにあれは仍ほ「匪孚、元永貞、悔亡」の情形なり。此の如くなれば、便ち「假」に非ず、亦宏大を崇尚するを談ずべからず。萃は極処に到れば、安逸は便ち怠惰を生出す、故に「賚咨涕洟、无咎」。居上に安んぜざる人は、危難を忘れざればなり。故に大吉も亦仍ほ小吝のごとく、因りて曰く「位不当」。旧徳を享用して終に吉を得るは、大略ただ正を守り危に処る人のみならんか。
升卦(巽下坤上)
巽下坤上。聚而上者謂之升。不積則不聚,應而不連,則方積方隳,其能厚乎?大亨者,君子亨也;慶者,尚大之慶也。木生乎厚而成以漸,入而順,剛中而合,允也。中在上,初志焉;九二之孚,中孚也。外物薄,可交於神明者,君子而已矣。有喜者,勿恤也;順事者,承天也。
升卦は、卦体は巽下坤上なり。聚まりて上に向かうを「升」と曰う。積累せざれば便ち聚まる能わず。応有りと雖も相い連ならざれば、便ち剛は積み起して又垮れ下る、還た厚くするを得んや。「大亨」は君子の亨にして、「慶」は宏大を崇尚するの喜慶なり。樹木は厚土の上に生まれて漸漸長成す。巽入して柔順にして、剛中にして相合するは、則ち「允」なり。中は上位に在れば、初爻は便ちそれに志向す。九二の「孚」は、すなわち中孚なり。外物は薄しと雖も、神明と相交わる能くするは、ただ君子のみ。「有喜」は憂慮を要せず、「順事」は上天を承奉するなり。
王之所都曰侯曰國,國有君也,邑有主也。離上九之出征,以正也;謙上六之行師,征邑國也。始必怠,終必虛,虛而後無所疑。賁之翰如、巽之進退,未虛也。九三在下卦之上,邑虛矣而虛在也。不可階而升者,天也;可升而得者,賢人之中正也。虛邑不富矣,有虛矣,未消也;消則□矣,□而有不富者焉,則是升而不已者也。升而不已,必入于幽谷,是故人之意也,消則升不在器。
王の都を建つる所は、侯を説き国を説く。国には国君有り、邑には邑主有り。離卦上九の「出征」は、正道を以て征す。謙卦上六の「行師」は、邑国を征伐す。開頭は必定怠惰し、最後は必定空虚す。空虚したる後にこそ疑う所無し。賁卦の「翰如」・巽卦の「進退」は、皆還た未だ空虚に到らず。九三は下卦の上に処りて、邑は已に空く、而してあの一份の「虚」は還た在り。拾級して登るべからざるは、天なり。登りて得る所有るを得るは、賢人の中正なり。空虚の邑は便ち富ならず。「虚」有りて、還た未だ消尽せず。消尽すれば便ち、仍有りて不富ならざるは、則ち升して肯んじて止息せざるなり。升して止まらざれば、必定幽谷に墜入せん。故に曰く人心の意念は一旦消尽すれば、「升」も亦器物の上に落たらず。
困卦(坎下兌上)
坎下兌上。貞大人吉無咎者,乾所利見。當有言不信之時,貞吉無咎,是謂困亨。物歸之,有情見之詞,或不信焉,剛揜之時也。自闗以東謂取為揜,又覆也;本無取人覆之,本自易取,乃險。險以說,困而不失其所亨,其唯君子乎?無所用心,難乎其亨矣。離揜之中,唯君子之剛乎?君子以焉。
困卦は、卦体は坎下兌上なり。「貞、大人吉、无咎」は、正に乾の説く所の「利見大人」なり。正に「有言不信」の時に当たりて、正を守りて吉・咎無しを、此れを「困亨」と曰う。万物は彼に帰向するは、説くは実情見るべき言辞有るも、別人はあるいは信ぜず、あれは剛の掩蔽せらるる時なり。函谷関以東は「取」を「揜」と呼び、「揜」は又覆蓋の義有り。本より取る所無くして別人は偏って来りてそれを覆蓋し、本より軽易に取得すべきは、如今反って険と成れり。険を以て能く悦し、困して其の亨する所を失わざるは、大略ただ君子のみならんか。若し心の用いる所無ければ、便ち亨通を得難し。掩蔽せらるる処境の中に於て、唯だ君子の剛のみ能く自守し、君子は此れに取法す。
有言不信,其困自亨,一無窮通;尚口乃窮也。尚豐之大,求頤之實者,時雖困,未始窮也。雨施以坎,澤無水者,未雨也。命則志焉而後至,困而不失其所,是以致而遂也。困之時,君子之所以可知矣。處不安而上無芘,入幽谷而乆不睹,始而乆可知也。辯通寡怨,慮稽乎始;始險窮下,終不明矣,非道藏人,自不覿。
「有言不信」にして、其の困は自ら能く亨通し、窮と通との謂れ無し。一味に口舌を逞ぶは、こそ真に走るに路無きに至らん。豊卦の大を崇尚し頤卦の実を追求する人は、時は困頓と雖も、未嘗て真に窮せず。雨の施降は坎に靠る。「沢无水」は、還た未だ雨の下らざるなり。天命は先に志を立てて而る後にこそ到るを須ちとす。困して其の守る所を失わざれば、故に能く抵達して其の志を遂ぐ。困の時は、君子の君子たる所以は便ち見出だすを得。処境は安ならずして上面は庇蔭する所無く、幽谷に進入して久しく天日を見ざれば、一開頭より久困するは、想い知るべし。能く辨明すれば便ち怨少なし、思慮は開端に於て考究するを要す。開端に於て険にして下に窮困すれば、最終に明白する能わず――此れは道の人を埋没せんとするに非ずして、人自ら肯んじて出でて相見えざるなり。
於酒食者,養也;朱紱方來者,來也;方來者,未大也;利用享祀,事大也;征凶無咎,居吉也;中有慶者,中而不無也。於石則不生矣,據于蒺藜,似維而實縶矣。不見者,揜也;乘剛者,剛入窮下而柔反上矣,是困而困也,非所困而困也。初與之來也,乆不覿,來徐徐也。困于金車吝,入于幽谷故也;終吉者,兊與之也。
「于酒食」は養にして、「朱紱方来」は来なり。「方来」と説くは、還た大と算せず。「利用享祀」は、大に事す。「征凶无咎」は、安居してこそ吉なり。「中有慶」は、中を得て落空せざるなり。石頭の上に困すれば便ち物を生出せず。蒺藜の上に拠れば、見るに維繫する所有るに似て其の実絆住せり。「不見」は掩蔽せらるるなり。「乗剛」は、剛は窮下に深入して柔は反って上に居る、此れこそ困にして真の困、并せ困すべからざるにして困に非ず。初爻はそれと一同に前来して、久しく相見えざれば、故に来ること遅緩なり。「困于金車」して吝なるは、幽谷に陷入すればなり。「終吉」と説くは、兌の肯んじてそれと相親しむればなり。
文不當,故吉凶生焉。初六之凶,不當位也;雖不當位而九四與之,其有不孤矣。劓,刑其息;刖,止其行,困也。於赤紱者,方來者大矣;乃徐有者,今有兄也;中直者,中入也;利用祭祀,明而察也。辯通寡怨,莫尚乎徐,是故曰有終,五受福。彼牽以蔓,我危而獨居,動皆困;擬議而征,出揜以行,其動吉矣。九二養而未征,九四需而知有。
文辞は当たらざれば、吉凶は便ち此に由りて産生す。初六の凶は、位当たらざるなり。位当たらざると雖も九四は肯んじてそれと相親しむれば、それは便ち孤单に至らず。「劓」は刑罰を用いてそれを止息せしむ、「刖」は足を斩断してそれを行う能わからしむ、此れ皆困なり。「于赤紱」は、来る所は已に大なり。「乃徐有説」は、如今依るべきの親有り。「中直」は中に深入す。「利用祭祀」は明にして能く察す。能く辨明すれば便ち怨少なし、而して「徐」より好きは無し、故に曰く「有終」、九五は因りて福を受く。対方は藤蔓のごとく牽扯し、我は危に処りて独居し、一たび動けば便ち皆困なり。能く擬議して而る後に行い、掩蔽を摆脱して行動すれば、あの行動は便ち吉なり。九二は養いて未だ征せず、九四は待つ所有りて帰する所有るを知る。
井卦(巽下坎上)
巽下坎上。有改焉,非井也;有喪有得,非井也;有往來,非井井也。至而後繘,汔至亦未也,其瓶羸,終不至矣。上水之道,入而已;養而通,功也;未繘,故也。井不改也,不改井乃以剛中也;中,其位也;不出其位,止也;止而不盈,亨行也。勞民而民忘其勞,習勞卦也,勸相習也。
井卦は、卦体は巽下坎上なり。更改する所有れば、便ち井に非ず。喪有り得有るも、亦井に非ず。往有り来有れば、便ち「井井」と成らず。井辺に到りて然る後にこそ縄を用いて水を汲む。「汔至」も亦還た未だ到らず、其の瓶子は一たび破れれば、終究水を打ち上ぐる能わず。上に向かい水を取るの弁法は、ただ一個の「入」の字に在り。能く養いて又能く通ずるは、あれはこそ功なり。「未繘」と説くは、縁故有るなり。井は改めざるなり。井を改めざるは、正に其れ剛にして中を得ればなり。「中」は其の位を講じ、「不出其位」は止を講ず。止みて自満せざれば、こそ亨通して行くなり。百姓を労苦せしめて百姓は労苦を忘掉するは、労に習熟すればなり。此れ「労」を講ずるの卦にして、亦人を勧めて互いに熟習せしむるなり。
瓶不羸以習也,習而後熟,熟乃功。井不改也,寧有新舊?舊無禽者,今不食也;舎而不時,亦舎之。是故巽水之道,以反下為初,上合志也,時乃日新。谷則不明而未砌,射鮒則流近而施偏;甕則不可以受多,敝則不新,漏則不涸,無與之中也;中無與,則舊而已。以亨行時中也,是故食舊徳貞厲,其唯從上之吉乎?
瓶子は破れざるは、熟習に靠る。習してこそ熟し、熟してこそ功有り。井は既に改めざれば、何処に還た新と旧とを談ぜんや。「旧井无禽」は、如今更にそれを食用せず。それを捨棄して時宜に合せざれば、それも亦捨棄せらる。故に巽木の水に入るの道理は、下面に返回するを以て開端と為し、上と相合して其の志を、時機一たび到れば自然日新す。井底は谷と成れば便ち天光を照見せずして又未曾て砌治せず、鮒魚を射れば水流は太だ近くして施与偏狭なり。瓮は太だ小さければ便ち許多を装下せず、破旧すれば新と算せず、滲漏すれば便ち水を蓄住せず、此れ皆「无与」の中なり。中にして与助する所無ければ、亦ただ旧井のみ。亨道を以て行い時に随いて中を守れば、故に曰く「食旧徳、貞厲」、大略ただ上者に順従してこそ吉ならんか。
從上之吉,中吉而終者也。井渫,行修也;為我心惻者,它也;並受者,交也。先儒注云:其道不交,則莫之與也。三以剛柔,四以靜甃;終始條理,甃也。其求也豈有求哉?異乎水而已。乾為寒,於時為冬,寒而不涸,洌故也。泉之洌,味焉而後知;味不味,天也,我洌而已。不上不下,非新非舊,中正之謂也。井養之初而反下,及其收也,在上而勿幕;舊徳可食,今養不濁,井井之義如此而已。
上者に順従するの吉は、中を得るの吉にして能く終有り。「井渫」は自己の徳行を修治す。「為我心惻」は、説くは別人なり。「并受其福」は、説くは彼此相交わるなり。先儒の注に曰く――其の道は若し相交わらざれば、便ち彼と与せんとする人無し。三爻は剛を以て柔に配し、四爻は静を以て「甃」す。始有り終有り条理分明なるは、正に「甃」なり。其の求むるは、豈真に意有りて往きて求めんや。過ぐるも水と一様に自然なるのみ。乾は寒と為り、時令の上に於て冬に属す。寒にして凍結せざるは、水の清冽なればなり。泉水の清冽は、嘗めてこそ其の味を知る。能く無味の中に於て味を得るは、あれは天にして、我は只是清冽なるのみ。上ならず下ならず、新に非ず旧に非ず、此れを中正と曰う。井の涵養は最初より下面に返回す。収成の時に到れば、上に居りて「勿幕」。旧徳は享用すべく、如今養う所は濁らず――井井の意義は、過ぐるも此の如くのみ。
革卦(離下兌上)
離下兌上,闕。
革卦は、卦体は離下兌上なり。此の卦の解説は伝本の中に已に闕失し、ただ此の一行の卦体を剩すのみ、正文は考見するに由無し。
鼎卦(巽下離上)
巽下離上,闕。養不窮而卒乎食者,九五也。姤九五含章,中正也。其徳在履、在觀、在離、在益、在姤、在巽、在節;其用在豫、晉、大壯之二,需、訟、艮之五。中正者,位也,於履見之。離則柔麗而亨,巽則剛巽而志行;剛柔分而剛得中,則當位以節,中正以通。
鼎卦は、卦体は巽下離上なり、此処原文に闕有り。涵養は窮せずして最終に「食」の上に落着するは、九五なり。姤卦九五の「含章」は、正に中正なり。此の一份の徳は履・観・離・益・姤・巽・節の諸卦に見る。其の用は則ち豫・晋・大壮の二爻、及び需・訟・艮の五爻に見る。謂う所の「中正」は、指すは位にして、履卦の上に於て便ち見るべし。離は就中柔順附麗して亨し、巽は就中剛にして巽順にして心志は行うを得。剛柔は分かれ開きて剛は中を得れば、便ち能く「当位以節、中正以通」。
是故入而後艮,漸而後之,純享而不它,謂之庸亨,養之道可知也。是故亨以享上帝者,聖人也;亨以養聖賢者,乾元也。大哉乾元,自孰而無不養也。是故聞不聞、見不見、象無象者,堯舜之人也;四目則明此而已,四聰則達此而已。巽而耳目聰明,孰大於是?
故に入りて而る後に能く止まり、漸進して而る後に能く往く所有り。純粋に享して別のを攙雑せざるを、便ち「庸亨」と曰う――涵養の道理は此に由りて知るべし。故に能く亨して上帝を祭享するは、聖人なり。能く亨して聖賢を養育するは、乾元なり。偉大なるかな乾元、それは従来より養わざる所無し。故に能くあの聴見えざるを聴き、あの看見えざるを看、象無きの中に於て象を見るは、堯舜の如くの人なり。四目の能く明たる所以は、過ぐるも此のを明するのみ。四聡の能く達する所以は、過ぐるも此のを達するのみ。巽順にして耳目聡明なれば、還た何物か此れより大なる有らん。
柔進而上行,亨上也;得中而應乎剛,用中也。舜之所以事堯、所以治民者如是,是故元亨之象至今存也。或曰太平無象,此衰世冥盲之論,不足以語器矣。易曰見乃謂之象,形乃謂之器,制而用之謂之法;又曰以制器者尚其象。夫不足以語器者,其何以語聖人之見乎?
「柔進而上行」は、亨通は上に在り。「得中而応乎剛」は、中道を取用するなり。舜の能く堯に事奉し能く百姓を治理する所以は、正に此の如くにして、故に「元亨」の気象は今に至るも猶ほ存す。或る人は太平の世は象見るべき無しと言う、此れ衰敗の世の昏昧の人の議論にして、還た「器」を談ずるに配せず。《易》に曰く「見乃謂之象、形乃謂之器、制而用之謂之法」、又曰く「以制器者尚其象」。連んで「器」も談ずるに及ばざる人は、又何に憑りて聖人の見る所を談論せんや。
正位凝命,用舍由時,時無不利,猶或未順,臨之九二是也。趾,足也;顛者,顛之也;出者,不巽也;否者,不然也。因其顛而顛之,因其否而出之,非作也,故利。兌,說也,為澤為妾;得妾者,澤流而民說之也。離者,兊之子也,不以其明孰之乎?未悖者,悔亡之順也;從貴者,違故也。
其の位を端正し天命を凝定し、取用と捨棄とは皆時に随いて定まり、時時利あらざる無し、可なる時に仍ほ順と算せざる有り、臨卦九二は便ち此の如し。「趾」は脚なり。「顚」はそれを顛倒するなり。「出」は肯んじて巽順せざるなり。「否」は然りと為さざるなり。其の顛倒の勢に順いてそれを顛倒し、其の不然の勢に順いてそれを排出するは、此れ并せ刻意造作に非ず、故に利有り。兌は悦にして、沢と為り妾と為る。「得妾」は、沢水は流布して百姓は喜悦す。離は兌の児子にして、其の明に憑らざれば、誰か能く物を煮熟せんや。「未悖」は、悔亡したる後の順なり。「従貴」は、旧習に違背するの縁故なり。
更物者莫若鼎,故取新無咎之象著於初爻。有實者,爻之中;虛無者,我之仇。我仇有疾,不我能即,則中吉矣。近者覆渥,非我仇乎?中以為實者,乘焉而制之,是故有疾而不我能即也。慎所之者,之實也;終無尤者,得終也;之終得實,在裒多益寡而已矣。以制器者尚其象,六五有之。
旧物を更换せんと要せば、鼎より合適なるは無し、故に「取新无咎」の象は便ち初爻に安放せり。「有実」は指すは爻の中間にして、「虚無」は指すは我の仇敵なり。我の仇敵は疾有りて、我に靠近し得ざれば、便ち中を得て吉なり。切近なるは覆蓋沾染せらる、あれは正に我の仇に非ずや。「中」を以て実と為す人は、其の上に凌駕してそれを制服すれば、故にそれは疾有りと雖も我に近づく能わず。「慎所之」は、充実に走向せんと要す。「終无尤」は、能く好結局有らん。終点に走り到りて其の実を得んと要せば、全て「裒多益寡」の四個の字に在り。「以制器者尚其象」にして、六五は便ち此の一点を具備す。
去故之謂革,鼎耳革者,故革也。其行塞者,反泰也;雉膏者,朋澤之才也;不食者,棄也;方雨者,猶方來也,來斯雨矣。不誠故虧,妄動故悔,與時俱新,咸有終也。餗者,烹飪而成也;覆公餗者,入否可知矣。人心之所不然者,其有甚於私乎?其形者,器也;渥者,雨染也。雨之染也廣矣徧矣,染之而必變者,其唯風俗乎?慢之忽之者,以其私也;公而不私之謂信,易曰信志也。
故旧を除去するを便ち「革」と曰う。「鼎耳革」は、正に旧を革除するなり。「其行塞」は、泰卦と相反するなり。「雉膏」は、同類の相い潤すの才具なり。「不食」は、棄置せらるるなり。「方雨」は「方来」のごとく、来れば便ち雨下る。誠ならざれば故に虧有り、妄動すれば故に悔有り。能く時と倶に新なれば、便ち皆好結局有り。「餗」は烹煮して成る食物なり。「覆公餗」にして、已に否塞に陷入せるを見べし。人心の裏の最も然りと為さざるは、還た「私」より厳重なる有らんや。「其形」は器物を指し、「渥」は雨に沾染せらるるなり。雨の沾染は既に広く且つ遍し。沾染せられて必定改変するは、大略ただ風俗のみならんか。それを軽慢しそれを忽略するは、皆私心を存すればなり。公にして私無きをこそ「信」と曰う、《易》に曰く「信志也」。
有二焉,耳之受也;□而具之,舉鼎也,一而力。黃而金可知也,金而黃可知也,夫是之謂中。中以為實,則外此者皆假也。假者,似大之大也;大禹之不自滿假,實也;三苗自賢,反道敗徳,假也。貞者,無為也,明良合徳而利矣,又何為乎?剛而能變者,金也;不變而堅者,三也。中故變,上故節,鼎以玉終焉,以制器者尚其象故也。
鼎は両隻の耳有り、あれは承受する部位なり。具備して斉備せば、便ち鼎を挙ぐるを得、一たび挙げば便ち其の力を見ん。「黄」と説けば便ち金なるを知り、「金」と説けば便ち黄なるを知る、此れを「中」と曰う。中を以て実と為せば、則ち此れ以外のは皆仮なり。謂う所の「仮」は、大に貌似するの大なり。大禹は自満せず自大せず、あれは実なり。三苗は自ら以て賢と為して、正道に違反し徳行を敗壊するは、あれは仮なり。「貞」は作為する所無し。賢明の君臣は徳を合して万事順利なれば、還た別に何を作さんや。剛にして能く変ずるは金にして、変ぜずして堅硬なるは三なり。中を得れば故に能く変じ、上に居れば故に能く節す。鼎は玉鉉を以て收尾するは、正に「以制器者尚其象」の縁故なり。
剛柔節也,皆也;鼎之上九,則節也。蒙之子克家、坎之樽酒簋貳,則接也;睽之際義無咎、無初有終,遇剛也;屯六二之難、震之來厲,乘剛也;同人之伏戎于莽,敵剛也;歸妹之無攸利,柔乘剛也。敵則未退,接則方晉,遇則所遇在彼,乘則中出在我,節則際而止矣。
「剛柔節也」は、説くは各爻皆此の如し。鼎卦の上九は、正に「節」なり。蒙卦の「子克家」・坎卦の「樽酒簋貳」は、「接」に属す。睽卦の「遇元夫」して咎無き・「无初有終」は、「遇剛」に属す。屯卦六二の艱難・震卦の「来厲」は、「乗剛」に属す。同人卦の「伏戎于莽」は、「敵剛」に属す。帰妹卦の「无攸利」は、「柔乗剛」に属す。敵と為れば便ち還た未だ退かず、相い接すれば便ち正に上進し、相い遇えば則ち遇う所は対方に在り、相い乗ずれば則ち中道は我より出づ。「節」に至りては、すなわち交接して适可にして止まるなり。
震卦(震下震上)
震下震上。中以為實者,鼎也;載鼎實者,匕也;鬯,香酒也,以氣格神者也。祭莫盛於禴,祭主莫先於震,可莫可於震。亨豫生怠,恐致福,福以不亡為大。邇發者懼,則見乎逺者驚矣。出者,言乎其出也。一索而得長男也,再索而得中男也。元善不二,剛中不孤。一索而得者,初也。
震卦は、卦体は震下震上なり。中を以て実と為すは鼎にして、用いて鼎中の物を盛載するは匕なり。「鬯」は香酒にして、気味を以て神明に感通す。祭祀は禴祭より盛なるは無く、主祭するは震より先に在るは無く、承当すべきも亦震より合適なるは無し。亨通と安逸とは怠惰を生出し易く、唯だ恐懼のみ能く福を致し、而して福は失わざるを以て大と為す。近処は一たび発動すれば便ち恐懼を知る、則ち遠処の震驚も亦見るべし。「出」は、其の出を説く。一たび索めて得るは長男にして、再び索めて得るは中男なり。元善は貳ならず、剛中は孤ならず。一たび索めて得るは、すなわち初爻なり。
乘焉躋也,髙大以平者陵也,九宄也。勿逐七日得者,窒而復也。六二中也,來厲,厲未行也;往來之謂行,七日得則億喪而後復也。蘇蘇,安也;行無眚,當也。位不當者,位外也;材過其位,動不能逺,近而未光者也。遂泥者,不達而無可觀也。索而來承以恐,億喪貝,躋乃復,有乘焉,中未大中也。億之者,心之多也;危者,□之動也。
乗せらるるは便ち登り上るなり、高大にして平なるを「陵」と曰い、「九」は窮極なり。「勿逐、七日得」は、窒塞して而る後に回復す。六二は中を得。「来厲」は、危厲にして未だ行動せず。往有り来有りてこそ「行」と曰い、「七日得」は先に億万を喪失して而る後に回復す。「蘇蘇」は安にして、「行无眚」は当を得るなり。「位不当」は、位は外に在り。才具は其の位次を超過すれば、一たび動けば便ち遠に致す能わず、ただ近処に在りて光大する能わず。「遂泥」は、通達せずして観るべき無し。索求して来りて、之を恐懼に承げる。「億喪貝」して而る後に「躋乃復」は、其の中に乗ずる所有るは、中なりと雖も未だ大中に至らざるに因る。「億」は心思の太だ多きにして、「危」は危厲の動なり。
往來闕,厲之行也;七日得,不失也。其事在中,奚喪奚得?大闕之爻也。是故有孚惠心,其事在中;有孚惠我徳,而闕得也。蠱之上九髙尚其事,有而後可大者,其事闕,豈小事乎?遁畜臣妾、睽之吉、豐折其右肱、小過亨利貞,皆非其事也;乾之行、坤之發、升之闕、益之大作,豈小事哉?其事在中,是以君子有攸往而不敢成也。
「往来」は此処に闕有り、説くは危厲の行なり。「七日得」は、失う所無し。其の事は中に在れば、還た何の喪何の得を談ぜんや。此れ大にして闕有る一爻なり。故に「有孚恵心」は、事は中に在り。「有孚恵我徳」も、亦中に因りて得る所有る――此処原文に闕有り。蠱卦上九「高尚其事」は、先に有りて而る後に能く大なる、其の事は此処に闕有り、豈小事ならんや。遁卦の「畜臣妾」・睽卦の吉・豊卦の「折其右肱」・小過卦の「亨、利貞」は、皆其の事と算するに足らず。乾の運行・坤の発動・升卦の闕文・益卦の「大作」に至りては、豈小事ならんや。其の事は中に在れば、故に君子は往く所有りと雖も、敢えて其の成に自居せず。
索索矍矍,震視之極也;征凶貞吉也,於節見之。震不于其躬,渙其躬也;婚媾有言,非偏詞也。中未得者,今動出也;雖凶無咎,不可鄰哉!臣哉臣哉,鄰哉!知畏也。離躬莫大於畏鄰。
「索索」「矍矍」は、震恐と四顧とが極処に到達するなり。「征凶」「貞吉」は、節卦の上に於ても亦見るべし。「震不于其躬」は、渙卦のごとく己身を散去するなり。「婚媾有言」は、并せ偏袒の詞に非ず。「中未得」は、如今動きて外に出で行くなり。「雖凶无咎」は、隣里に波及すべからざるなり。「臣哉臣哉、鄰哉」は、説くは畏懼を知るなり。自身の患を脱離せんと要せば、隣里を畏懼するより要緊なるは無し。
艮卦(艮下艮上)
艮下艮上。艮,所也。有觀焉,獲矣;有不觀焉,見矣;有與焉,秪不平矣。上下敵應,不相與也,其唯永貞之徳、光明之道乎?習不出者,有山之象;習者多矣,兼山則其止大矣;不出其位,則其位一矣。艮之初以艮其趾為正,用六之習也,達之於史,往勝無咎,剛動而征,其孚不窮。
艮卦は、卦体は艮下艮上なり。「艮」は止まる所の処なり。観るべき有れば、便ち獲する所有り。観るべからざる有るも、亦自ら見る所有り。相與有るも、亦過ぐるも不平のみ。上下敵対して相応じて相い親親與せざれば、則ち倚靠すべきは大略ただ永貞の徳・光明の道のみならんか。「習不出」は「兼山」の象なり。温習すべき内容は甚だ多く、両山は相い重なりて、其の「止」は便ち大なり。自己の位分を越出せざれば、其の位は便ち一に帰す。艮の初爻は「艮其趾」を以て正と為す、あれは「用六」の温習なり。それを史事の上に推行すれば、便ち往きて能く勝、咎無し。剛動して出征すれば、其の孚信は便ち窮尽せず。
腓在趾限之中,趾止則腓止,限動則腓隨。不拯則反乎?用拯其心不快,則非我心不快也。退聽則當其位矣,不拯不隨,未當也;能拯其隨,則隨時之義自無不當,不出其位,當也。方進而列,未退聽也;退聽則聞矣。危熏心,終必聞,今未也。限在坤震之中,夤,中脊之肉也;前動而後隨,列也;中不我隨,厲也。
腓は趾と限との中間に在り――趾は一たび止めば、腓は便ち止まる。限は一たび動けば、腓は便ち随う。往きて救拔せず、反って好きか。救拔を用いて心中快からざれば、あれは并せ我自己の心裏の快からざるに非ず。能く退きて命を聴けば、便ち其の位に当たる。既に救拔せず亦随従せざれば、便ち還た当たらず。能く其の随う所を救拔すれば、則ち随時の意義は自然当を得ざる無し、本位を越出せざれば便ち「当」なり。正に前進して分裂するは、還た未だ退聴せざるなり。能く退聴すれば便ち聴き入るるを得。危厲は心を薫し、終究聴き入るるを得、只是如今還た未だならず。「限」は坤と震との間に在り、「夤」は脊背中間の肉なり。前面は動きて後面は跟隨するは、あれは「列」なり。中間は肯んじて我に随わざれば、則ちあれは「厲」なり。
艮其身,止諸躬也,惟精惟一,可以出位而思乎?未退聽者,中矣而未聞也。以中正也,則其所止矣。言者,大人之言也;咸其輔者,安得而聞乎?是故不出者,巽也;為口舌者,兌也。反艮之義,可不思乎?有言不信,尚口乃窮,退聽之學,豈以滕口為尚哉?
「艮其身」は、自身に止まるなり。惟精惟一如れば、還た本位を越出して胡思乱想するを得んや。還た未だ退聴せざる人は、已に中を得と雖も未だ真に聴き入らず。其れ中正なれば、故に能く其の止まる所に安んず。「言」は大人の言なり。「咸其輔」にして、又何処に何を聴き取るを得んや。故に肯んじて外出せざるは巽にして、口舌と為るは兌なり。艮の反対するあの一面は、能く深思せざらんや。「有言不信」「尚口乃窮」――退聴の学問は、豈口舌を逞ぶを以て可貴と為さんや。
其趾、其腓、其隨、其心、其夤、其限、其身、其輔,皆不出其位也。不止諸躬,則不得其時;不得其時,則其道不光明矣,是以君子思焉。厚徳,坤也;敦艮,用永貞而之終也。艮以有終吉,復以自考無悔,安土敦乎仁故能愛。反於家,然後知與震無異時、與觀無異位。反身赦過,位之分也;應乎上下,習畜皆光。
其の趾・其の腓・其の随・其の心・其の夤・其の限・其の身・其の輔は、皆各々其の位分を越出せず。自身に止まらざれば、便ち其の時を得ず。時を得ざれば、其の道は便ち光明ならず――故に君子は此の上頭に於て用心す。「厚徳」は坤なり。「敦艮」は、永貞を用いて終点に走り到るなり。艮は「有終」を以て吉とし、復は「自考」を以て悔無しとす。其の処に安んじて仁に篤厚なれば、故に能く人を愛す。家に返回して、然る後にこそ其れ震と時の上に於て異無く、観と位の上に於て異無きを知る。身に反りて自省し過失を赦免するは、位分の然らしむ所なり。上下は皆能く相応ずれば、「習」と「畜」とも亦皆光明なり。
漸卦(艮下巽上)
艮下巽上。咸恆損益無妄大畜皆利貞也,歸吉之義,君子講焉。之而無險,進而得位,往乃有功。得位則可往,以正則可正;得位然後往,故待男然後行。往而正,動也;動而不出,艮也。居者,得位之名。觀其象,考其辭,徳賢俗善,皆非一日。乾則去水未逺,義則非言。有言而無咎者,初六故也。
漸卦は、卦体は艮下巽上なり。咸・恒・損・益・无妄・大畜は皆「利貞」と説く。女子の帰嫁して吉を得るの道理は、君子は此処に於て講習するを要す。往きて険無く、進みて位を得、前往してこそ功有り。位を得れば便ち往くを得、正道に憑れば便ち端正するを得。先に位を得て而る後に往けば、故に男方の来るを待ちてこそ行うべし。往きて能く正なるは、「動」なり。動きて本位を越出せざるは、「艮」なり。「居」は位を得るの名目なり。其の象を看其の辞を考すれば、徳行・賢才・風俗・善政は、皆一日にして養成するに非ず。乾は水を離れて還た遠からず、義理に就きて言えば則ち言語に在らず。言語有りて能く咎無きは、初六の縁故なり。
漸故吉,終則凶。小子厲,大人貞,漸之初宜辨之。不憂不生,盤也;素,空也;需而樂,其養可知,志光亨也。陸,頂也,艮之陸也。以陰柔乘我者,冦也,宜御焉。孕不育,不貞不征也;我征則迷矣,故御也。御莫如貞,凶莫大於迷,故保焉;保焉則相保矣。
循序漸進すれば故に吉、尽頭に走り到れば便ち凶。「小子厲」にして「大人貞」は、漸の開頭は便ち此の一点を辨明すべし。憂愁せず妄りに事を生生ぜざるは、あれは「盤」なり。「素」は空なり。能く等待して自得の楽有れば、其の涵養は想い知るべく、心志は光明亨通す。「陸」は高処の頂にして、すなわち艮の陸なり。陰柔を以て我を欺凌するは寇にして、当に抵禦すべし。「孕不育」は、正を守らず出征せざるなり。我は一たび出征すれば便ち迷失すれば、故にただ防御するのみ。防御は貞を守るより好きは無く、凶険は迷失より大なるは無し、故に自己を保全するを要す。能く自保すれば、便ち能く彼此相い保つ。
小畜之終疑而弗徵,損之九二弗損益之,困之九二利用享祀,震之上六畏鄰戒也,大壯之初其孚不窮,未濟九三利涉大川,皆以貞也。頤之六二拂經于丘頤,斷之九三斷其義矣,貞乃孚也。是故歸妹貞凶者,反入而動也;反入而反動則征吉,故曰以恆也。征吉征凶,革亦如之,唯吉不雜,則泰升而已。
小畜の終爻は疑いで出征せず、損卦九二「弗損益之」、困卦九二「利用享祀」、震卦上六は隣里を畏懼するを以て戒と為し、大壮初爻「其孚不窮」、未済九三「利渉大川」は、靠るは皆一個の「貞」なり。頤卦六二「拂経于丘頤」は、九三の決断に比すれば、九三は断じて義に合せり、貞を守りてこそ孚有るを得。故に帰妹は「貞凶」と説くは、反って入りて而る後に動くなり。能く反りて入り反りて動けば、便ち「征吉」、故に曰く「以恒也」。「征吉」と「征凶」とは、革卦も亦此の如し。ただ吉にして攙雑せざれば、則ち泰と升と成る。
是故歸妹之終曰其位在中,以貴行也;震之六三曰其事在中,大無喪也。大哉其位乎!貞而征,征而貞,其位其事無不在中,其唯得大而貴行者乎?木,巽也;桷,極之旁行者也。漸於木,且或之;或之道,戒於止而不疑也。髙平曰陸,大陸曰阜,大阜曰陵;陵者,髙平之尤大者也。婦,二也;三歲不興,需也;終莫之勝者,貞勝也,貞者大中也。先者為首,後者不迷,序也。乾而盤,盤而陸,陸而陵,進也。進退無常,非離群也;否不亂群,鴻也。
故に帰妹の最後に曰く「其位在中、以貴行也」。震卦六三に曰く「其事在中、大无喪也」。其の位は真に大なるかな。貞にして而る後に征し、征して而る後に貞す、其の位と事とは皆「中」の上に落ち、大略ただ其の大を得て貴を以て行う人のみ為し得ならん。「木」は巽にして、「桷」は屋椽の横出する部分なり。漸進して木の上に到れば、還た一個の「或」の字を帯ぶ。「或」の道理は、止に於て戒懼して疑を生ぜざるなり。高にして平なるを「陸」と曰い、大陸を「阜」と曰い、大阜を「陵」と曰う。「陵」は高平の中の尤も大なるなり。「婦」は六二を指す。「三歳不興」は待つ所有り。「終莫之勝」は貞を以て勝に取り、而して貞はすなわち大中なり。先に在るは首と為し、後に在るは迷わず、此れ次序なり。乾より「盤」に、盤より「陸」に、陸より「陵」に至るは、あれは進なり。進退は一定無しと雖も、却って離群に非ず。否塞して群類を擾乱せざるは、鴻雁なり。
帰妹卦(兌下震上)
兊下震上。歸妹,象也;征凶無攸利,言乎其象也。聖人之情見乎詞,不交不通,匪人也;不交不興,人之終始也。是故否必通者,天地也;艮而震者,君子也。推而行之之謂通,作於中吉之謂興。歸妹,人之終始也,觀其彖辭則思過半矣。奚所觀?曰:止其所,說以動,所歸妹也。以無體之體,體不動之動,聞其言而信焉,睹其所歸乎?
帰妹卦は、卦体は兌下震上なり。帰妹は象を講ず。「征凶、无攸利」は、説くは正に此の象なり。聖人の情は文辞の上に表現す――相交わらざれば便ち通ぜず、あれは人道に合せず。相交わらざれば便ち興らず、あれは人事の終始なり。故に否塞の後に必定能く通ずるは、天地なり。能く艮にして能く震なるは、君子なり。推広して之を行うを「通」と曰い、中に於て興作して吉を得るを「興」と曰う。帰妹は人事の終始にして、其の《彖辞》を看れば便ち思い半ばを過ぐる。何を看るや。回答に曰く――其の止まるべき処に止まり、悦して而る後に動く、此れすなわち嫁ぐ所の妹なり。体無きを以て体と為し、動かざるを以て動と為す。此の話を聴きて能く信ずれば、亦其の帰宿を見るを得んか。
征凶,位不當也;以動所歸妹,又何之矣?無位之位,不當而當。無攸利,柔乘剛也;所不可見,未光也。澤上有雷動闕,言乎其所可聞也,烏睹其歸乎?永終也,故恆知敝也,故新。新故長,恆故久,天地之恆也,君子以焉。君君臣臣,父父子子,是故裒多益寡、稱物平施,君子之所以永終也;剛健篤實、輝光日新,君子之所以畜小也。
「征凶」は、位当たらざるなり。既に悦して動く所の帰る妹なれば、還た何処に往かんとするや。位無きの位は、見るに当たらざるに似て其の実当たる。「无攸利」は、柔の剛に乗るなり。あの見えざるは、還た未だ光大せざるなり。「沢上有雷」して動くは、此処原文に闕有り、説くは其の聴聞すべき一面――可なる又何処より其の帰宿を看見せんや。「永終」に在り。故に能く恒してこそ敝壊を知り、こそ更新すを得。新なれば故に能く長、恒なれば故に能く久、此れすなわち天地の恒常にして、君子は此れに取法す。君は君道を尽くし臣は臣道を尽くし、父は父道を尽くし子は子道を尽くす。故に「裒多益寡、称物平施」は、君子の用いて永終する所なり。「剛健篤実、輝光日新」は、君子の用いて小を畜する所なり。
歸妹之跛眇歸也,是故吉也利也。不足與者,不處故也;跛能履,所歸妹也。以娣,貴不行也;恆,固也;吉,承者貞勝也。相承者,交也;貞故征凶,交故征吉。初之貞,以也;二之常,中也;幽人也,故未變。須,需也,未當未光亨也;貞而需,非位不當也。
帰妹は「跛」と「眇」とに説き及ぶは、講ずるは皆「帰」にして、故に吉有り利有り。之と相処するに値せざるは、其れ其の処に安んぜざればなり。「跛能履」は、正に嫁ぐ所の妹なり。「以娣」は、貴なりと雖も能く行かざるなり。「恒」は牢固なり。「吉」と説くは、承奉する者は貞を以て勝に取ればなり。彼此相い承ぐは便ち交なり。貞を守れば故に「征凶」、相交われば故に「征吉」。初爻の貞は「以」にして、二爻の常は「中」なり。それは幽人にして、故に還た未だ変ぜず。「須」は等待にして、還た未だ位に当たらず還た未だ光明亨通せず。貞を守りて待つ所有るは、并せ位当たらざるに非ず。
須宜反,反乃歸,歸故以娣;說故須,動故期,愆而遲,未咸也;歸有時,故宜待也。帝乙歸妹,交歸也;不如其娣之袂良,用右也;月幾望,吉之終也。其位在中,則視履全矣;以貴行,則賤隨矣;以貴下賤,大得民也,經之主也。始交終歸,成言乎艮,亦君之嚴者也。
「須」は当に返回すべく、返回してこそ帰なり。帰なれば、故に曰く「以娣」。悦なれば故に待つを要し、動なれば故に期有り。愆期して遅れるは、還た未だ感通せざるなり。出嫁は自ら其の時有れば、故に等待を当とす。「帝乙帰妹」は、交して而る後に帰す。「不如其娣之袂良」は、右を以て尚と為す。「月幾望」は、吉の終了なり。「其位在中」にして、則ち「視履」は便ち完備す。「以貴行」にして、卑賤は自然跟隨す。尊貴を以て卑賤に下れば、便ち大いに民心を得、あれは綱紀の主宰なり。交に開始し帰に終結し、艮に成就するは、あれも亦正に君主の威厳の在る所なり。
無實,虛也;無血,不力也;承丕實,但也。羊,兌也,柔而不失,故曰士;獨而不婦,故曰女。本當也而貞,其有本;利也而順,其虛又何之矣?弗損益之,何征焉?無之也,何攸焉?動而歸者義,止而交者仁,天地之心乎?勞變唯兌,兌次乾,可研也。
「无実」は空虚にして、「无血」は力無きなり。盛大の実を承接するも、亦過ぐるも此の如くのみ。「羊」は兌なり。柔にして其の守を失わざれば、故に「士」と称す。独立して婦と為らざれば、故に「女」と称す。本より位に当たりて又能く貞を守れば、それは便ち本有り。利有りて又能く順従すれば、其の一份の虚は還た何処に往くを得んや。「弗損益之」にして、還た何を出征せんや。既に一の所有る無ければ、還た何の往く可き有らんや。動きて帰するは義にして、止まりて交わるは仁なり、此れ大略天地の心ならんか。労して能く変ずるはただ兌のみ。兌は乾の後に排列す、細く研求するに値す。
或曰歸妹,陰陽之情也;陰陽之情,人之義也。大哉乾元,萬物資始;坤至靜而徳方,乃終有慶。是故終萬物、始萬物者,莫盛於艮;人之終始,其唯中乎?又何之矣?故征凶。行有嘉也,故征吉。征凶居貞吉,改過之義也;不徵不居,唯其時物,可不慎乎?
或る人は帰妹は陰陽の情を講ずと言う。而して陰陽の情は、すなわち人の義なり。偉大なるかな乾元、万物はそれに靠りて始まる。坤は至静にして徳性方正にして、最終にこそ喜慶有り。故に能く万物を終結し又万物を開始するは、艮より盛なるは無し。人事の終始は、大略ただ一個の「中」の中に在るのみ。還た何処に往かんとするや。故に曰く「征凶」。行いて嘉美有れば、故に又曰く「征吉」。「征凶」にして「居貞吉」は、過を改むるの意思なり。征せず亦居せずは、全て時と物との如何を看る――能く謹慎せざらんや。
泰以其彚,升用勿恤,革之中,困之動,居也,中以為志。損不可征也,既雨既處,疑未亡也,不居其可乎?雨矣而能疑,君子也。大壯壯于趾、頥之行失類,皆以居貞為得。得其所歸者必大,窮大者必失其居,故豐亨宜日中,而小者亨,小狐汔濟,在下經之終。中庸其至矣乎!
泰卦は「以其匯」を講じ、升卦は「用勿恤」を講じ、革卦は中を講じ、困卦は動を講ず、説くは皆「居」にして、皆中を以て志と為す。損卦は出征すべからず。「既雨既処」にして、疑慮は還た未だ消尽せず、安居せざれば行う可けんや。已に雨して仍ほ能く疑を存するは、こそ君子なり。大壮の「壮于趾」・頤卦の行いて其の同類を失うは、皆「居貞」を以て得と為す。能く其の帰する所を得るは必定大にして、而して一味に大を求めて極処に到るは必定其の居る所を守持せず。故に豊卦に曰く「亨、王假之、宜日中」、而して小者も亦能く亨す――「小狐汔済」は正に下経の末尾に落つ。中庸は真に極致なり。
豊卦(離下震上)
離下震上。小畜謙震節皆亨也,大有升皆元亨也,乾坤則具矣,屯隨臨無妄革亦皆具也。亨,王假之,勿憂,宜日中,豐也。大,實也;得其所歸,明動合矣。習坎行有尚,尚大也。內也而假有家,離也而假有廟,王假之一也,尚大也,故來章。內外一也,知十遺聲,君子所以習也。
豊卦は、卦体は離下震上なり。小畜・謙・震・節は皆「亨」と説く。大有・升は皆「元亨」と説く。乾・坤は則ち四徳斉備す。屯・随・臨・无妄・革も亦皆斉備す。「亨、王假之、勿憂、宜日中」は、説くは就中豊なり。「大」はすなわち実なり。能く其の帰する所を得れば、明と動とは便ち相合す。習坎は「行有尚」と説き、あれは大を崇尚するなり。家人は内に在りて「王假有家」と説き、渙は離に属して「王假有廟」と説くは、豊の「王假之」と原より一回事にして、皆大を崇尚すれば、故に「来章」有り。内と外とは本より一致なり。能く一を聞きて十を知りて其の声迹を遺すは、正に君子の熟習せんとする所なり。
噬嗑曰剛柔分,動而明,雷電合而章,動而明合也。明以動,至也;至而王假之,尚大也。我臣之主也,所主亦主也,皆配也。十日為旬,反祥為災;旬,徧也。無妄之義,求不可浚;反,反也;過,過也。往有尚,未止也。豐其蔀、日中見斗者,見也;往得者,征吉也;疑疾有孚發若者,發也。
噬嗑は「剛柔分、動而明、雷電合而章」と説き、あれは正に動きて能く明、明と動と相合するなり。明を以て動けば、便ち能く「至」す。至りて而る後に「王假之」は、正に大を崇尚す。我は臣を以て主と為し、而して主と為す所も亦仍ほ主なり、彼此相配す。十天を一旬と曰い、祥瑞を反りて便ち災と成る。「旬」は普遍なり。无妄の意義は、求めて深浚すべからざるなり。「反」はすなわち返、「過」はすなわち過なり。「往有尚」は、還た未だ停止せざるなり。「豊其蔀、日中見斗」は、説くは「見」なり。「往得」は「征吉」なり。「有孚発若」は、説くは「発」なり。
疑則未信,疾則未復,復其見天地之心乎?心之所之謂之志。發而後知日中見斗,中乃見,見乃中也。豐之世在三,二其應也;明之極在三,三四出矣,失幽人也。四者,初之近臣也;初者,四之逺臣也。逺者遇其配主,其剛合也;近者遇其夷主,遇五也。觀其所主可以知初,觀其所為主可以知四;人之道,中而已矣。
疑を生ずれば便ち還た未だ信ぜず、疾有れば便ち還た未だ回復せず。「復」は大略就中天地の心を見んか。心の趨向する所を「志」と曰う。発動したる後にこそ「日中見斗」を知る――中を得てこそ見るを得、見てこそ中と算す。豊の世運は六三に在り、六二はそれと相応ず。明の極点も亦六三に在り、三と四とは皆出で去る、あれは幽人を失うなり。四は初の近臣にして、初は四の遠臣なり。遠の「遇其配主」は、剛と剛と相合す。近の「遇其夷主」は、九五に遇上す。其の主と為す所を看れば、以て初を知るべし。其の主と為る所以を看れば、以て四を知るべし。人の道は、亦過ぐるも一個の「中」の字のみ。
含章者皆來,勿憂矣。一人有慶,慶也;子考用譽,譽也;自天佑之,吉也。屋,覆也;蔀,藏也;戶,穴也,故曰窺。無人,不見其人也;三歲,久也;不覿,凶見得也。天,際畔也;翔,動不棲也;自藏,體不也。動之極至於如此,豈不悲哉?王假之何以見乎?曰:豐,大也,而貞大也。
能く章を含むは皆来れば、便ち憂慮を要せず。「一人有慶」は慶なり。「干父之蠱、用誉」は誉なり。「自天佑之」は吉なり。「屋」は覆蓋にして、「蔀」は遮蔵にして、「戸」は穴にして、故に曰く「窺」。「无人」はあの人を見る能わざるなり。「三歳」は久し。「不覿」は凶は已に顕現せり。「天」は辺際にして、「翔」は動きて肯んじて棲止せざるにして、「自蔵」は形体は顕れず――此の句は原文に脱字有り。動の極処は竟て此処に至る、豈悲しむべからざらんや。「王假之」は何処より見出だすを得るや。回答に曰く――豊はすなわち大にして、而して其の貞も亦大なり。
旅卦(艮下離上)
艮下離上。旅者,窮大而失其居也。是故旅巽皆小亨,而旅則貞吉,巽則往見皆利。柔得中乎外,則中未大;中未大,故小亨;而順而麗,故貞吉。獄而留,猶旅而乆也;君子之用明,達情而已。火在下,無敢也;火在上,猶慎焉。所不可有,非所困而困焉,不祥也。即次,厲也;懐其資,資在中也;得童僕貞,厲而貞也。
旅卦は、卦体は艮下離上なり。「旅」は大を求めて窮処に到りて自己の居所を失うなり。故に旅卦・巽卦は皆ただ「小亨」と説くのみ。而して旅は「貞吉」と説き、巽は往・見は皆利有りと説く。柔は外卦に於て中を得れば、則ち此の「中」は還た大と算せず。中は大と算せざれば、故に只是小亨のみ。而して其れ柔順にして又附麗すれば、故に「貞吉」。案を断じて還た犯人を羈留するは、旅居して久しく留まりて去らざるがごとし。君子は其の明を運用するは、只是情実を通達するのみ。火は下に在れば便ち敢えて妄為せず、火は上に在れば仍ほ謹慎を須ちとす。有るべからざる物は、本より困すべからざるにして偏って自ら往きて困すれば、則ち不祥なり。「即次」は危厲なり。「懐其資」は、資財は身に在り。「得童僕貞」は、危に処りて能く正を守るなり。
食舊徳貞厲終吉,是故終無尤也。終乎喪者,終不居矣。焚其次者,焚如也;喪其童僕貞厲者,皆喪也。焚其次,則失其所矣,亦以傷矣,何歸焉?與下者,親寡也。進乃麗,止則焚,九三焚矣,故曰傷於外者必反於家。處非位矣,得多矣。快者,利也;我心不快,得害之也;心未快也,我利乎?
「食旧徳、貞厲」して終に吉を得れば、故に曰く「終无尤」。最後に到りて一個の「喪」の字を落すは、便ち更に居所を守住する能わず。「焚其次」はすなわち「焚如」なり。「喪其童僕、貞厲」は、皆喪失なり。「焚其次」すれば便ち其の居る所を失い、亦傷を受く、還た何処に帰往するを得んや。下者と相処して親近するは少なし。前進してこそ附麗し、止住すれば便ち焚せられん。九三は已に焚せられれば、故に曰く「傷于外者必反于家」。処る所は其の在るべき位に非ず、得る所は却って已に少からず。「快」は利なり。「我心不快」は、所得は反ってそれを害す。心裏は既に痛快ならざれば、我は又何処に利在らんや。
坤之括,慎也;蹇之來、蠱之得、豐之來章,用括也。即次而上逮,孰有孰亡?終以譽命至也。上逮匪人也,上逮而巽可知矣。巽而喪者,我心也;一矢亡者,我心乎?噬得金矢,未亡也;解之得,得中道也;得而亡,大中也。然則六五之射也,獲乎?曰:麗止俱中,雉矢兩亡。飛鳥以凶,小過之始也;鳥焚其巢,旅之終也。先笑,先易也;牛,順也;資斧,其順乎?以旅在上,終不厲矣。初非不告,終莫之聞也。旅之時以志通為始,原始要終,取焚在初,是以終迷其在。
坤卦の「括嚢」は謹慎なり。蹇卦の「来」・蠱卦の「得」・豊卦の「来章」は、用いるは皆「括」なり。旅次に到りて上に向かい求取するは、究竟何れかが得何れかが失なるや。最終に「誉命」に憑りて至る。上に向かい求取するは正人に非ず。上に向かい求取して能く巽順するは、其の情形も亦想い知るべし。巽順して喪する所有るは、我の心なり。「一矢亡」も、亦我の心ならんか。噬嗑「得金矢」は、還た未だ喪せず。解卦の「得」は、中道を得るなり。得て又能く拠有せざれば、あれはこそ大中なり。然らば則ち六五の射は、究竟猟獲有るや無きや。回答に曰く――附麗と止とは皆中を得、雉と矢との両者は皆執着を要せず。「飛鳥以凶」は、小過の開端なり。「鳥焚其巣」は、旅の結局なり。「先笑」は先に平易を覚るなり。「牛」は順なり。「資斧」は大略も亦順ならんか。旅居の身分を以て上位に処れば、最終に危厲に至らず。当初は并せ相い告ぐる人無きに非ず、只是尽頭に到りて彼は一句も聴き入れざりき。旅の時は「志通」を以て開端と為す。其の始を推原し其の終に帰結すれば、「焚」の根子は就中最初に在り、故に終に迷失す――原文は此処に至りて脱文有り。
巽卦(巽下巽上)
巽下巽上。入而小亨,往見皆利,微乎其辨也。重巽者,皆巽也。剛巽乎中,柔亦順焉;剛巽乎正,柔亦順焉。聖人所以申命者如是。道無入,入者名而已。風之入也有入乎?隨也,風也,一而二,二而一,隨時之義亦如此而已。有象則有重也,是之謂申命。故伏申,故顯;巽為雞,申命也。
巽卦は、卦体は巽下巽上なり。能く入れば故に小亨し、往と見とは皆利有り、其の中の分別は十分に細微なり。「重巽」は説くは上下皆巽なり。剛は能く中に於て巽順すれば、柔も亦之に随いて順す。剛は能く正に於て巽順すれば、柔も亦之に随いて順す――聖人の反復して教命を申明するは、正に此の如し。道は本より「入」の謂れ無く、「入」と説くは過ぐるも一個の名目のみ。風の吹き入るは、真に謂う所の「入」有らんや。随卦は随を講じ、巽卦は風を講ず。一にして二、二にして一、随時の意義も亦過ぐるも此の如くのみ。象有れば便ち重有り、此れを「申命」と曰う。故に能く潜伏するも、亦申命に因りて能く顕明す。巽は鶏と為るは、正に申命の象を取るなり。
使而隨,召而應,信不思,教不議,中以行事,隨而已矣。進退不果也,治以果,申之初也。神無方也,有告焉;易無數也,在一二三四者有歸焉。始不求,終不得;用之時,吉無咎者,得可必也,不待得而吉。資莫如仁,斧莫如義,君臣之際,仁義而已。三之頻,斧喪矣。
一たびそれを駆使すれば便ち随従し、一たびそれを召喚すれば便ち応答す。誠信は思量を費やすを要せず、教化は議論を費やすを要せず、中道を以て行事して、随顺するのみ。進退猶予して果決せざれば、便ち果決を用いてそれを整治す、あれは申命の初なり。神は固定の方所無しと雖も、却って告ぐる所有り。《易》は固定の数無しと雖も、一・二・三・四の上に落てば却って各々帰属有り。開頭は求めに行かざれば、最終に得るを得ず。施用の時に到れば、「吉无咎」は説くは所得は必然すべく、得る所有るに等到せずしてこそ吉と算す。資財は仁より厚きは無く、斧鉞は義より利なるは無し。君臣の間は、亦過ぐるも仁義の二字のみ。九三の「頻巽」は、斧は已に喪失せり。
斧喪資,安施乎?用吉也,故得;中之吝也,故志窮。先甲後甲,事之終始也;先庚後庚,行事之終始也。事之終始,天地也;行事之終始,君臣也。初在履,故無初;終在巽,故有終。二之吉,得也;三之正,合矣。履之終也,貞吉悔亡,無初有終,則悔亡而有功者在其中矣,其亦重巽之義乎?
斧は既に喪失せば、資財は又何処に施用せんと往かんや。能く用いてこそ吉、故に得る所有り。中を得と雖も仍ほ吝を帯ぶれば、故に心志は窮困す。「先甲三日、後甲三日」は事の終始を講じ、「先庚三日、後庚三日」は行事の終始を講ず。事の終始は天地に属し、行事の終始は君臣に属す。初爻は履に在れば、故に「无初」。終爻は巽に在れば、故に「有終」。二爻の吉は「得」に在り、三爻の正は「合」に在り。履卦の終了は「貞吉悔亡」と説き、又「无初有終」と説けば、則ち悔亡して功有るも亦其の中に包含せり――此れ大略も亦正に重巽の意思ならんか。
上息偃者,或得或喪,其志不同也。用而不有者得,不有而亡者窮。上窮由失中也,九二之上息偃,求也;上九則喪矣,上故貞凶。貞可凶乎?曰:吉凶在人,失得之象,貞何與焉?巽以行權,知之事也,智不與焉。
上爻の「息偃」は、あるいは得るあるいは喪するは、其れらの志向の同じからざるに因る。能く用いて己有に拠らざれば便ち得有り、拠有せずして終に喪失するは便ち窮す。上位の窮する所以は、中を失うに由るなり。九二は上に在りて「息偃」は、あれは求むるなり。上九は就已に喪失せり、上に居れば故に「貞凶」。貞を守るも豈亦凶を招くを得んや。回答に曰く――吉凶は人に取決し、あれは過ぐるも得失の象にして、「貞」と何の相干か有らんや。「巽以行権」は、あれは真知有る者の事にして、尋常の小聡明は手を插し得ず。
兌卦(兌下兌上)
兌下兌上。亨也,無不達也;利貞者,性情也;亨利貞,故說也。剛中而柔外,是謂中道。說以利貞,猶曰中孚以利貞,其用也豈用之乎?是以順乎天而應乎人也。說之大,非說之而大也。井之用可觀於此。君子以朋友講習,其有大於麗澤乎?
兌卦は、卦体は兌下兌上なり。「亨」は通達せざる所無し。「利貞」は性情を講ず。既に亨にして能く利貞なれば、故に喜悦す。剛は中に在りて柔は外に在るを、此れを中道と曰う。「説以利貞」は、「中孚以利貞」と説くがごとし。其の用は、豈刻意して往きて之を用いんや。故に能く天に順いで人に応ず。喜悦の大なる所以は、并せ人を取悦するに靠りて大と変成するに非ず。井卦の用は、此処に於ても亦見出だすを得。君子は朋友を以て講習す、還た「麗沢」より大なる有らんや。
兌而說者,和兌也;知和而和者,行也;未疑,猶未變也。履以和行,而至於體天地之撰者,聖人終始也。是故習以始,行以慶終。說之所以大何也?亦悔亡也,亦信志也,唯嘉□之君子為能孚兊。物相雜故曰文,文不當故吉凶生焉。兌而有來,失中矣,失故凶,中則當。
兌して能く悦するは、「和兌」なり。和を懂得して一味に和を求むるは、あれは「行」なり。還た未だ疑を生ぜざれば、便ち還た未だ変ぜず。履卦「以和行」にして、能く天地の創制を体察するの地步に到達するは、聖人の終始なり。故に「習」を以て開始と為し、「行」して慶を得るを以て終結と為す。喜悦の大なる所以は、何の為ぞや。亦過ぐるも「悔亡」、亦過ぐるも「信志」なり。ただ嘉美の君子のみ能く兌に孚す。事物は相い錯雑すれば故に「文」と曰い、文辞は当たらざれば故に吉凶を生出す。兌して来る所有れば、便ち中を失う。中を失えば故に凶、中を得れば便ち当を得。
商,如商賚之商;介,爾景福之介。疾者,未寧也;商而助,斯有慶矣。孚在九五而四能承之,是以獲助。剝復皆天行也,獨孚于剝者,泯其也;泯其說者,貞勝故也。貞勝而有厲,則順乎天而應乎人者具矣,具故正;不來故當之大,其唯位正當乎?其孚貞故常,其改當故孚;引則有絶,故未光也。輝光日新,其唯不家食乎?其道光明,其唯動靜不失其時者乎?
「商」は「商賚」の商の如く、「介」は「介爾景福」の介の如し。「疾」は還た未だ安寧せず。能く商議して人の相助を得れば、便ち喜慶有らん。孚信は九五に在りて九四は能くそれを承奉すれば、故に幇助を得。剝と復とは皆天の運行にして、而して独り剝卦の上に於て孚を講ずるは、其の私を泯除せんと要すればなり――此処原文に脱字有り。能くあの一份の悦を泯除するは、貞を以て勝に取ればなり。貞を以て勝に取りて又心に危厲を存せば、則ち「順乎天而応乎人」は便ち斉備す。斉備すれば故に能く正す。更に外来の牽引無ければ、故に能く其の大に当たる――此れ大略ただ位正しく当たる九五のみならんか。其の孚は貞より出でれば、故に能く常す。其の改は当より出でれば、故に能く孚す。一旦牽引せらるれば、便ち断絶有り、故に還た光大と算せず。「輝光日新」は、大略ただ「不家食」の人のみならんか。「其道光明」は、大略ただ動静其の時を失わざる人のみならんか。
渙卦(坎下巽上)
坎下巽上。利見大人亨利貞,萃也;利涉大川利貞,渙也;王假有廟,萃也渙也,故皆利;皆利也,故亨。來而不窮者,乾道也,再索而得者也。得位乎外而上同者,坎之外、巽之內同得位也。王乃在中,柔中也;以中故得位,以位故知王。巽在上,故曰乘;乘木而木道乃行。尊尊親親,乘木之功也。享于帝,欽天也;立廟,尊祖也,祖則有兒矣。
渙卦は、卦体は坎下巽上なり。「利見大人、亨、利貞」と説くは萃卦なり。「利渉大川、利貞」と説くは渙卦なり。「王假有廟」と説くは、萃と渙と皆之有り、故に両卦は皆利有り。皆利有れば、故に能く亨す。来りて窮尽に至らざるは、乾道にして、すなわち再び索めて得るの中男なり。外卦に於て位を得て上と相同なるは、坎は外に在り巽は内に在りて、同じく各々其の位を得。「王乃在中」は、柔にして中を得るなり。中を得れば故に位を得、位を得れば故に王なるを知る。巽は上に在れば、故に曰く「乗」。木に乗れば、木道はこそ通行すを得。其の尊を尊敬し其の親を親愛するは、正に木に乗るの功用なり。「享于帝」は天を敬す。「立廟」は祖を尊ぶ。祖有りてこそ、乃ち子孫有り。
渙而後知用壯,則小用以助純則吉。初六之吉,惠迪也。機在前,王居也;奔機,用健也;敬修其可願,以悔亡為得願,中也。渙其躬者,艮之時也;匪躬之故,無往不達,泰初之志達此而已。渙其群元吉,以有丘也。山為君,三是也;丘為臣,四是也。有丘者,不敢無君臣也;思出其位,則此義夷矣,其能如六四之光大乎?
渙散したる後にこそ壮を用いるを懂得す。小さく用有りて純粋を助成すれば、便ち吉。初六の吉は、善道に順従す。「机」は前面に在りて、王の居処する所なり。「奔机」は剛健を用いるなり。恭敬して其の願う所の事を修治して、「悔亡」を以て其の願う所を遂ぐると為すは、あれは中なり。「渙其躬」は、正に艮の時なり。「王臣蹇蹇、匪躬之故」は、往きて通達せざる無し、泰卦初爻の志向も亦過ぐるも此の如くのみ。「渙其群、元吉」は、「有丘」に因るなり。山は君に比し、指すは九三。丘は臣に比し、指すは六四。丘有る人は敢えて君臣を目無からず。心思は一たび本位を跑出すれば、此の一層の義理は便ち壊毁し、還た能く六四の如く光大せんや。
物以群分,安可夷也?六四順而位明,不息者也,天之所助,是以元吉。渙汗其大號,散而不吝也;散而居,是謂正位。渙之終,其血去矣,而不能逖者,害必及之,能如上九之逺害乎?上九剛而順,剛故不吝,順故天助之無不利也。拯馬,助純也;奔其機,朝宗也;志在外,匪躬也;有丘,匪夷也。
万物は類に按じて群分すれば、怎麼して一概に鏟平す可けんや。六四は柔順にして位に居りて光明、肯んじて停息せざるにして、上天の幇助を得、故に「元吉」。「渙汗其大号」は、散布して吝惜せざるなり。散布したる後に能く安居するを、此れを正位と曰う。渙の終了は、其の血は已に去るも、可なる仍ほ遠離する能わざれば、禍害は必定波及せん。能く上九の如く禍害を遠離せんや。上九は剛にして能く順なり。剛なれば故に吝せず、順なれば故に上天はそれを助けて利あらざる無し。「拯馬」は純粋を助成し、「奔其机」は王に朝宗し、「志在外」は一身の為ならざるにして、「有丘」は肯んじて君臣の分を鏟平せざるなり。
節卦(兌下坎上)
兌下坎上。節而信之,故受之以中孚。無過無不及者,節亨也。苦甘者,味也;苦節不可貞,味焉而後知,貞無不可,不可貞者,苦節也。鼎金之爻曰中以為實也,玉鉉之爻曰剛柔節也;中也故變,上也故節。大蹇之爻曰以中節也,而家人之九三則失家節也。然則節之義可知矣。
節卦は、卦体は兌下坎上なり。節有りて人をして信服せしむれば、故に《序卦》は節の後に中孚を接ぐ。過ぎる無く及ばざる無くするを、すなわち「節、亨」なり。苦と甘とは皆味なり。「苦節不可貞」は、嘗めてこそ知るを得――「貞」は本より可ならざる無し、「不可貞」と説くは、只是苦節のみ。鼎卦の金鉉のあの一爻は「中以為実」と説き、玉鉉のあの一爻は「剛柔節也」と説く。中を得れば故に能く変じ、上に居れば故に能く節す。蹇卦「大蹇朋来」の一爻は「以中節也」と説き、而して家人九三は則ち家中の節度を失うなり。此の如く見れば、「節」の意義も亦明白せり。
是故剛柔分而剛得中,節之所以亨也。可貞則亨,不可貞則其道窮矣。味之於人,貞無不可,不可者窮也。以行險,節之宜也。知通知塞,則不出宜矣;必於不出,豈履中之宜哉?爻不當位則失矣,可不思乎?當位以節、中正以通,謂九五也。以節以通,所謂中道。四時有終始,本乎未發之中;民物無傷害,成於中節之和。
故に剛柔は分かれ開きて剛は中を得るは、正に節の能く亨する所以なり。貞を守るべければ便ち亨し、貞を守るべからざれば其の道は便ち窮す。味は人に対するは、本より貞は可ならざる無し。「不可」と説くは、窮処に走り到るなり。険を行くに就きて言えば、節は合宜なり。既に通を知り又塞を知れば、則ち外出せずとも自ら其の宜を得。若し一味に「不出」を以て必然と為せば、あれは還た中を履るの宜と算せざらんや。爻は位に当たらざれば便ち失有り、能く深思せざらんや。「当位以節、中正以通」は、説くは九五なり。既に能く節にして能く通ずれば、便ち謂う所の中道なり。四時は終有り始有りて、本源は未発の中に在り。百姓と万物とは傷害を受けず、成就是中節の和に在り。
水無大小多少,稱澤而已,君子以焉。數度起於易,徳行生於健順,制議以不出為初。節之所以不窮者,以中正也。蹇而不通,其可出乎?是道也,致而後知。極者,中也;凶者,失之象也。善觀時措之宜者,知吉凶於未象,然後爻當其位。既嗟矣,又誰咎也?近君之地,安節而後亨,上所制議,有不安焉,承者過也。
水は大小多少に論わず、ただ沢の容量に按じて定まるのみ、君子は此れに取法す。度数は「易」に起り、徳行は健順に生じ、制度と議論とは「不出」を以て開端と為す。節の窮に至らざる所以は、中正なればなり。蹇にして通ぜざる境地に処りて、還た出で去る能くせんや。此の道理は、身を親しく到りてこそ知るを得。「極」はすなわち中にして、「凶」は失の象なり。善く時勢処置の宜を観察する人は、象の未だ成形せざる時に於て便能く吉凶を予知して、然る後に爻はこそ其の位に当たる。既に已に嗟嘆せば、又誰に帰咎するを得んや。君位に靠近する処は、節に安んじて而る後に能く亨す。上面の立つる所の制度と議論とに、若し人をして安ならしめざる処有れば、則ち承奉する人は便ち過ぎたり。
節之亨以甘也,五之甘以亨也。節未熟則苦,甘則安可知。往有尚者,尚安亨也;承之使安,非賢乎?所尚如是,非尚賢乎?自天佑之,吉無不利,又以尚賢也。如是則九二安可大邪?悔亡則不可咎。
節の能く亨する所以は、「甘」に在り。九五の「甘」は正に其の能く亨する縁故なり。節は還た未だ成熟せざれば便ち苦にして、甘なれば則ち安んず、亦想い知るべし。「往有尚」は、安にして亨するを崇尚するなり。能くそれを承奉してそれを安んぜしむるは、あれは正に賢者に非ずや。崇尚する所は既に此の如くなれば、あれは正に「尚賢」に非ずや。「自天佑之、吉无不利」も、亦還た尚賢に因るなり。此の如くなれば、九二は怎麼して其の大に自居するを得んや。能く悔亡すれば、便ち帰咎すべき無し。
中孚卦(兌下巽上)
兊下巽上。豚魚吉,中孚也;信及豚魚,孚也。利涉大川利貞者,無不利也,吉之上也,利之大也。柔在內,未出也;剛得中,未發也。是故而巽,孚乃化也。不也何以知巽?不巽也何以明說?其孚如是,未足以化也。木者,木道也;舟虛者,中孚之象也。利涉大川者,其唯中孚乎?中孚以利貞者,中孚而以也,是之謂應。
中孚卦は、卦体は兌下巽上なり。「豚魚吉」は中孚を講じ、「信及豚魚」は孚を講ず。「利渉大川、利貞」は、すなわち利あらざる無し、吉中の上・利中の大なり。柔は内に在るは、還た未だ出でず。剛は中を得るは、還た未だ発せず。故に巽有るを要して、孚はこそ化育すを得。若し此の如くならざれば、何に憑りて其れ巽なるを知らんや。若し巽ならざれば、又何に憑りてあの一份の悦を顕明せんや。其の孚は若し此の地步に到るのみなれば、還た人を化育するに足らず。「木」は木道を講ず。「舟虚」は、正に中孚の象なり。能く「利渉大川」なるは、大略ただ中孚のみならんか。「中孚以利貞」は、中孚して而る後に憑借する所有り、此れを「応」と曰う。
說生趣動,有生所同。中孚以虞吉為初,相遇而聚,則以不虞為戒。有是而不它,安往而不安也?它不足有,樂而不改者知焉。化而裁之,其變大矣,初則未也。是故引而未變,萃之中也;虞而未變,孚之始也。始而終之,引而後順,用大牲也。
悦して生じ趣して動くは、凡そ生命有るは皆相同じ。中孚は「虞吉」を以て開端と為す。相遇して聚合すれば、便ち「不虞」を以て戒と為すべし。此の有りて別念を生ぜざれば、何処に走り到るも安ならざる有らん。別の物は本より拠有するに値せず、能く安楽して改めざる人は、こそ真に懂得す。能く変化して裁制を加うれば、あの変化は便ち大なり、只是開頭は還た未だ到らず。故に「引而未変」は、萃卦の中爻なり。「虞而未変」は、孚の開始なり。始有りて而る後に能く終し、牽引して而る後に能く順す、則ちあれは「用大牲」なり。
鶴在陰,子和之,吾與爾皆靡爵之子也。其鳴也音而不聲,其和也願而皆得,群之義如此而已。不離不亂,其唯中孚乎?中,其位也;得敵則不當可知。易曰艮,止也,止其所也,上下敵應,不相與也。兌之上、巽之下,此中孚之位也,止則當矣。位盛而不盈,用健而無黨,則不當者絶而其類孿矣。
「鶴鳴在陰、其子和之」、「我有好爵、吾与爾靡之」――あれは同じく一爵の子と為るなり。其の鳴は音有りて声を作さず、其の和は各々其の願を遂げて皆得る所有り。合群の意義は、亦過ぐるも此の如くのみ。離散せず錯乱せざるは、大略ただ中孚のみならんか。「中」は其の位を講ず。一旦「得敵」すれば、位当たらざるも亦知るべし。《易》に曰く「艮、止也、止其所也」、上下敵対して相応じて相い親與せず。兌の上爻・巽の下爻は、正に中孚の位なり。能く止まれば便ち当を得。位は盛なりと雖も自満せず、剛健を用いて結党せざれば、則ち位当たらざるは自然断絶して、而して其の同類は反って双を成す。
一乳二子曰孿。位正當者,以利貞也;孿如者,無不信也。信及豚魚,乃應乎天,豈止小畜之富哉?不在內非中也,不在中非孚也。是故在內則幽而可知,得中則闕而不有。或更命而悔亡,或折覆而行染,應不應也。翰音者,聲而已。易曰咸其輔頬舌,滕口也。月幾望而馬匹亡則無咎,有孚孿如,聞而知者,聖人與之。
一胎に両子を生ずるを「孿」と曰う。「位正当」は、利貞に因るなり。「孿如」は、誠信ならざる無し。「信及豚魚」にして、こそ天に応ずと算し、豈ただ小畜のあの種の「富以其鄰」のみならんや。内に在らざれば便ち中に非ず、中に在らざれば便ち孚に非ず。故に内に在れば便ち幽隠にして仍ほ知るべく、中を得れば便ち闕有る所と雖も己有に拠らず。あるいは成命を更改して悔亡し、あるいは折覆して行い沾染して習と成るは、あれは応と不応との分別なり。「翰音」は過ぐるも声音のみ。《易》に曰く「咸其輔、頬、舌」、あれは口舌を逞ぶなり。「月幾望、馬匹亡」すれば便ち咎無し。「有孚孿如」にして、一たび聴けば便ち明白する人は、聖人は彼を贊許す。
小過卦(艮下震上)
艮下震上。天地之大義,聖人之中道,一而已矣。無小無大,無可無不可,養而後動者,大學之道也。有其信者必行之,小者之亨也。大宜謙而不宜亢,況飛鳥乎?小者不失其宜,則大者得矣。吉者,得之象也。小者之不宜上,義之大防也;不出其防,用過而無不亨矣。
小過卦は、卦体は艮下震上なり。天地の大義と聖人の中道とは、原より一個なり。小の謂れ無く大の謂れ無く、可の謂れ無く不可の謂れ無し。先に涵養して而る後に行動するは、あれは《大学》の路数なり。心中信ずる所有るは必定往きて実行するは、あれは小者の亨なり。大者は尚且謙すべく亢すべからず、況んや飛鳥をや。小者は其の所宜を失わざれば、大者も亦便ち得着せり。「吉」は得有るの象なり。小者は上に向かうに宜からず、此れ義理の上の一道の大防なり。此の防線を越出せざれば、即ち用いて稍々過ぐるも亦亨せざる無し。
剛柔皆得其中,則無事不可;一得一失,有中有不中,則小大之宜辨矣。宜下而上,不順矣;不上而下,不逆矣。其止可見,而動聞於外,小者過而亨也,君子以焉。止其初,順也,以焉;凶也,動而止之,觀象也。君子之以存乎大象,小者之以戒乎初爻。
剛と柔とは皆能く中を得れば、則ち為し成らざる事無し。一たび得一たび失い、中有り中ならざる有れば、則ち小と大との各々其の所宜は便ち分辨し清楚するを要す。下に在るべきにして偏って上に往けば、便ち順ならず。上に往かずして下に安んずれば、便ち逆ならず。其の止は見るべくして、而して其の動は外に伝聞す、此れすなわち小者の過ぎて能く亨するなり、君子は此れに取法す。開頭に於て止住するは、あれは順にして、君子も亦此れに取法す。凶に至りては、則ち動きたる後に再び往きてそれを止むるは、便ちただ観象に靠るのみ。君子の取法する所は大象に在り、小者の当に戒懼すべき所は初爻に在り。
祖,初也;君,三也;二,陰也,妻道也,臣道也,六居之,遇者也。柔為順,中為美,其可過乎?不及者,遇而止也;弗過者,分也;防之者,義也。從而失義,眾得而戕之。艮,止也,所以防也。弗過者,分也;遇之者,適也。往厲者,危而往也;必戒者,必乎行也。勿用永貞,其用違坤之貞也,必故也。
「祖」は初爻を指し、「君」は三爻を指す。二は陰にして、走るは妻道・臣道にして、六は其の位に居りて、「遇」に属す。柔は順を以て徳と為し、中は美を以て貴と為す、怎麼して過ぐるを得んや。「不及」は遇上して止住するなり。「弗過」は本分の在る所なり。「防之」は義の当然する所なり。放任して義を失えば、衆人は便ち来りて彼を傷害せん。艮は止にして、正に用いて防ぐ所なり。「弗過」は分にして、「遇之」は恰好なり。「往厲」は危険を明かに知りて仍ほ前往す。「必戒」は行動の上に於て戒めざるべからざるなり。「勿用永貞」は、其の用は坤の貞に違背し、問題は就中一個の「必」の字に出づ。
陰處盛位,大者不應,雖盡心焉,取小而得不多也。弋可以得鳥,而鳥不宜上。其雨乎?有飛鳥之象焉。是故初而以凶,可以知上五而已,上終失其宜矣。小畜之宻雲者,巽也;小過之宻雲者,震也。以巽畜者,不能止健;以震過者,不能大過,是以坎皆不來。已者,既以也。
陰は盛位に居りて、大者はそれと相応せず。即ち心力を竭尽するも、取る所は既に小なれば、所得も亦多くあらず。弋射を用いれば以て鳥を得べし、可なる鳥は上に向かい飛ぶに宜からず。雨は下らんか。此処に已に飛鳥の象有り。故に初爻の凶より、便ち以て上爻と五爻とを推知す、而して上爻は終究其の所宜を失う。小畜の「密雲」は巽より出で、小過の「密雲」は震より出づ。巽を用いて畜するは剛健を止住する能わず、震を用いて過ぐるは大過する能わず、故に坎は皆肯んじて来らず。「已」はすなわち「既已」なり。
上六,鳥之亢者也,不安其適,作而取災,匪正而有眚者也。何謂匪正?作故也。何謂作?離故也。行而終麗乎凶,蓋亦不善推其所為而已,時也,有性焉。易曰勞謙君子有終吉,上六不自知其不宜,所謂知小謀大,故及。
上六は飛ぶこと太だ高き鳥にして、其の適う所に安んぜず、妄作して自ら災禍を取るは、不正にして災眚有るなり。何をか不正と曰うや。妄作するに因るなり。何をか妄作と曰うや。本分を離棄するに因るなり。行いて最終に凶に附麗するも、亦過ぐるも善く自己の作為する所の後果を推想せざるのみ――此れ時にして、其の中に亦性有り。《易》に曰く「労謙君子、有終、吉」。上六は自己の宜ならざるを知らず、正に謂う所の「知小而謀大」にして、故に禍患は身に及ぶ。
既済卦(離下坎上)
離下坎上。既濟亨者,涉川而既濟也。大哉乾元,何濟何涉?是故君子之有大者,事雖盡濟,不有其吉,知吉凶治亂循環而不窮也。小者之亨,敢不思患而豫防之乎?乾剛坤柔,大小具矣。正而位當則亨,知矣;不常而應,今雖未濟亦必濟也。
既済卦は、卦体は離下坎上なり。「既済亨」は、大川を渡過して已に成功せり。偉大なるかな乾元、還た何の済何の渉を談ぜんや。故に大徳を懐有する君子は、事情は已に全部弁成すと雖も、亦あの一份の吉を己有に拠らず、其れ吉凶治乱は循環して窮尽無きを知ればなり。小者の亨に至りては、敢えて患を思いて預め防備せざらんや。乾は剛にして坤は柔にして、大と小とは皆斉備す。正にして位当たれば便ち亨し、此れ明白なり。常ならざると雖も応有れば、如今未済と雖も、最終亦必ず能く済せん。
夫柔之為道,不利逺者,其用柔中也;或當而吉來,或應而方行,皆以得也。夫天下之事,未有終止而不遷者,故曰易窮則變,變則通,通則久。久近大小,必觀其極。朋從爾思,所以同患而防民也;鼓萬物而不與聖人同憂,則何思何慮?水在火上,可不思乎?
柔は一種の道として、本より遠に利せず、其の用は柔にして中を得るに在り。あるいは位に当たりて吉は自ら来り、あるいは応有りて正好く行うべきは、皆得る所有りと算す。天下の事は、従来より終止して遷変せざる無し、故に曰く「易窮則変、変則通、通則久」。久と近・大と小とは、一定要其の極処を看る。「朋従爾思」は、人と患を同じくして民の為に防を設けんと要す。「鼓万物而不与聖人同憂」にして、あれは還た何を思い何を慮らんや。水は火の上に在り、能く深思せざらんや。
既濟矣,事可止矣,故曳其輪也;濡其尾者,後有患也;初而慮終,思患也。茀,車蔽也,婦喪其茀則不得行矣;勿逐者,窒也;七日得者,得當也。睽之初剛也,故曰喪馬;喪茀而未發,中也;得當而後行,道也。伐也而令不克焉,憊也;憊,困劣也,柔之失中者也。雖愚必明,雖柔必強,是亦君子之道,及其成功一也。
既に已に済せば、事情は停下すべく、故に曰く「曳其輪」。「濡其尾」は、後面に還た禍患有り。一開頭より結局を顧慮するは、則ちあれは患を思うなり。「茀」は車上の帷蔽にして、婦人は車帷を失えば便ち出行する能わず。「勿逐」は塞きて通ぜず、「七日得」は其の当を得るなり。睽卦の初爻は剛にして、故に曰く「喪馬」。車帷を喪して軽挙妄動せざるは、中を得るなり。其の当を得て而る後に行うは、こそ道なり。兵を出して征伐して号令は行き通らざれば、便ち「憊」なり。「憊」は困頓羸弱にして、正に柔にして中を失うの様子なり。愚笨なりと雖も必ず能く明、柔弱なりと雖も必ず能く強、此れも亦正に君子の道にして、成功に等到せば、皆一様なり。
小人勿用,則終不用矣;用而後濟,濟豈小人之事哉?小者亨,謂小事也。四多懼,近也;終日戒,有所疑;以處多懼之地,當矣哉!豐亨王假之、萃亨王假有廟,處濟之道可知矣。萃用大牲而九五匪孚元永貞悔亡,則志未光也;六二之所以引而未變者,需其孚禴而已。盥而不薦,用其實也;實則受福,與時偕也。大來之吉,自上佑也。初吉終亂,思患而豫防也;何可久也?要其終也。首,今也;首厲不可濡,今濡其首,則後濡其尾,思防在今。
「小人勿用」にして、則ち終究彼を用いず。用いたる後にこそ済を談ずるを得、可なる済は豈小人の幹り得る事ならんや。「小者亨」は、説くは小事なり。第四爻は多く畏懼有るは、君位に迫近すればなり。「終日戒」は、心中に疑を存する所有るなり。此の如くの態度を以て多懼の地に処るは、算して当を得とす。豊卦「亨、王假之」・萃卦「亨、王假有廟」にして、済に処るの道理は此に由りて知るべし。萃卦は「用大牲」と説くも九五は仍ほ「匪孚、元永貞、悔亡」と説くは、志は還た未だ光大せざるを見べし。六二の「引而未変」なる所以は、只是其の「孚乃利用禴」を待つのみ。「盥而不薦」は、其の実を用いるなり。実有れば便ち福を受け、時と偕に行く。「大来」の吉は、上天の佑助より出づ。「初吉終乱」は、正に患を思いて預防せんと要す。「何可久也」と説くは、其の結局に就きて言うなり。「首」は当下を説く。頭部は危に処りて沾湿すべからず、如今若し頭を沾湿せば、後面は便ち尾を沾湿せん――患を防ぐの功夫は当下に下すを要す。
未済卦(坎下離上)
坎下離上。亨者,嘉之□也;既濟未也,故曰未濟亨。汔,幾也;幾,未也。汔濟之時,後有患見矣,況乎既濟而可不思患乎?小狐者,小之未定者也;小而未定,是以常有其所,其能出中乎?物不可以終濟,濟安可以為常哉?艮也者,萬物之所成終而成始也;知不續之道者,則知終矣。
未済卦は、卦体は坎下離上なり。「亨」は嘉美の会合なり。既済は未だ真に到らざれば、故に曰く「未済亨」。「汔」は幾近にして、「幾」は還た未だ到らず。将に渡せんとする時に、後面の禍患は已に顕現す、況んや已に済せる、還た患を思わざるを得んや。「小狐」は小にして未だ定まらざる物なり。小にして未だ定まらざれば、故に總じて其の着落有るを要し、それは能く中道を走出せんや。事物は永遠に「済」の上に停まるべからず、「済」は又怎麼して常態と当作するを得んや。艮は万物の終を成し又始を成す所以なり。「不相続」の此の一層の道理を懂得する人は、亦便ち何をか「終」と為すかを懂得す。
無攸利者,不當位也;雖不當位,剛柔應也,是以將濟,豈可以為常哉?萬物之物亦物也,方隅之方亦方也;順辨而居,君子所以處汔濟也,故曰無攸利。濡其尾吝,必於濟而不舍者也;初習如是,豈知建極之義哉?曳其輪,不征也;不徵,是謂行正。征則凶,故冝止;涉則利,故宜行。吉凶利害未貫乎一,故曰位不當也。
「无攸利」は、位当たらざるなり。位当たらざると雖も、剛柔は却って能く相応ずれば、故に将に済を成さんとす――可なる此れ又怎麼して常態と当作するを得んや。万物の「物」も亦只是物、方隅の「方」も亦只是方なり。其の理に順いて辨明し其の分に安んじて居処するは、正に君子の「汔済」の時に処るの弁法なり、故に曰く「无攸利」。「濡其尾」して吝なるは、一心に済を求めて肯んじて手を罷めざるなり。一上来より此の如く練習するは、何処に中極を建立するの意義を懂得せんや。「曳其輪」は出征せざるなり。出征せざれば、こそ行い正しきを得。出征すれば便ち凶、故に止むに宜し。水を渉れば便ち利、故に行くに宜し。吉と凶・利と害とは還た未だ一に貫通せざれば、故に曰く「位不当」。
近五而承之,鬼方而伐之,其志也;三年者,今未也。窮也而志行也,止也而往不羸也,伏也而位正中也,升而得也,未感害也,吉悔亡也,君子不諒也。二之曳,憂悔也,皆貞吉,其貞同也,同得之光,無往不吉。時未可濟,曳以有待,其應如是,則得位得中之柔,其有悔乎?然則六五之光,其暉在九二有孚而養之可也。首不可濡也,濡其首,有孚失是矣;失是亦不知節也。節而後信之,信而後行之,君子之行健而不息,易之終始也。了齋易說。
九五に靠近してそれを承奉し、鬼方に対いてそれを征伐するは、あれは其の志向なり。「三年」と説くは、如今還た未だ到らず。窮に処りて心志は行うを得、居止して前往して羸弱に至らず、潜伏して位は正中に居り、上昇して得る所有り、未だ感に害せられず、「吉、悔亡」にして、君子は正を守りて小信に拘らず。九二の「曳」は、其の悔有らんを憂うるなり。各爻は皆「貞吉」と説き、守る所の貞は相同じ。同じく此の一份の光明を得れば、便ち往きて吉ならざる無し。時機は還た済すべからざれば、便ち車輪を曳きて以て待つ。其の相応は既に此の如くなれば、則ち位を得中を得るの柔爻は、還た悔有らんや。此の如く見れば、六五の光は、其の光輝は其の実九二に在り――孚有りてそれを涵養すれば便ち可なり。頭は沾湿すべからざるなり。一旦「濡其首」すれば、「有孚」を連んで失掉せり。此の一点を失うは、すなわち節を懂得せざるなり。節有りて而る後に人は彼を信服し、信を得て而る後に行うべし。君子の行は剛健にして停息せず、此れすなわち《易》の終りて復た始まるなり。全書の題は《了斎易説》と曰う。
