伊川易传
周易伝文(序卦・雑卦・文言・説卦)
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
伊川易伝(宋・程頤)
巻一・周易上経
乾卦(乾下乾上)
《乾》:元,亨,利,貞。上古聖人始畫八卦,三才之道備矣。因而重之,以盡天下之變,故六畫而成卦。重乾為《乾》。乾,天也。天者天之形體,乾者天之性情。乾,健也,健而無息之謂乾。夫天,專言之則道也,天且弗違是也;分而言之,則以形體謂之天,以主宰謂之帝,以功用謂之鬼神,以妙用謂之神,以性情謂之乾。乾者萬物之始,故為天,為陽,為父,為君。
『乾』卦の卦辞に曰く:「元・亨・利・貞」。上古の聖人が初めて八卦を画いた時、天・地・人「三才」の道理はすでにその中に完备していた。後にまた八卦を両々相重ねて、以て天下万事の変化を窮め尽くさんとし、それゆえ六画にして初めて一卦を成す。乾卦と乾卦と相重なれば、すなわち『乾』卦。乾とはすなわち天。いわゆる「天」とは、天のあの有形の躯体を指し、いわゆる「乾」とは、天のあの運行やまざる性情を指す。乾はすなわち「健」——剛健に運転し、永く停歇せず、これをこそ乾と言う。天に説き及ばば、若し合わせて総べて言えば、それはすなわち「道」、『文言』のいわゆる「天且弗違」(天ですらそれに違わず)はすなわちこの層面より講ずる。若し分かちて言えば、形体に就きては「天」と称し、主宰に就きては「帝」と称し、功能作用に就きては「鬼神」と称し、変化測り難き妙用に就きては「神」と称し、性情に就きては「乾」と称す。乾は万物の開端、それゆえ象を取りて天と為し、陽と為し、父と為し、君と為す。
元亨利貞謂之四德。元者萬物之始,亨者萬物之長,利者萬物之遂,貞者萬物之成。惟《乾》、《坤》有此四德,在他卦則隨事而變焉。故元專為善大,利主於正固,亨貞之體,各稱其事。四德之義,廣矣大矣。
元・亨・利・貞この四字は、乾の「四徳」と称す。「元」は万物の発端、「亨」は万物の生長、「利」は万物の遂性順成、「貞」は万物の成就定形。ただ『乾』『坤』両卦のみ完整にこの四徳を具備す。其余の各卦に於ては、この四字はすなわち占う所の事に随いて含義を変換す。それゆえ別卦の中に於ては、「元」は専ら善の大なる者を指し、「利」は守正固持に側重し、而して「亨」と「貞」の実際の内涵もまた各々論ずる所の事に随いて定まる。この四徳の包含する意義は、実に既に広博にしてまた宏大。
初九,潛龍勿用。下爻為初。九,陽數之盛,故以名陽爻。理無形也,故假象以顯義。乾以龍為象。龍之為物,靈變不測,故以象乾道變化,陽氣消息,聖人進退。初九在一卦之下,為始物之端,陽氣方萌。聖人側微,若龍之潛隱,未可自用,當晦養以俟時。
『乾』卦の初九の爻辞に曰く:「潜竜勿用」。一卦の最も下のあの一爻を「初」と言う。「九」は陽数の中の最も盛んなる数、それゆえそれを用いて陽爻を称呼す。義理はもとより形状なく、それゆえ物象に借りて以てそれを顕明す。乾卦は「竜」を取りて象と為す:竜という物は神霊にして変化し、測度し難く、正に以て乾道の変化、陽気の消長と聖人の進退出処を象徴するに用いる。初九は一卦の最も下の位に処り、万物初生の端倪、陽気は剛だに萌動す。この時聖賢はなお卑微不顕の地位に処り、竜が潜伏隠蔵するが如く、なお自ら主張して施展すべからず、応に光芒を斂蔵し徳性を涵養し、以て時機を待つべし。
九二,見龍在田,利見大人。田,地上也。出見於地上,其德已著。以聖人言之,舜之田漁時也。利見大德之君,以行其道。君亦利見大德之臣,以共成其功。天下利見大德之人,以被其澤。大德之君,九五也。乾坤純體,不分剛柔,而以同德相應。
『乾』卦の九二の爻辞に曰く:「見竜在田、利見大人」。「田」はすなわち地面の上。竜が地面上に出現するは、それの徳性が已に顕露するを説明す。若し聖人を以て比喩せば、これは舜が歴山に於て田を耕し、雷沢に於て魚を打ちしあの時期に相当す。この時徳有る士は大徳の君主に見ゆるに利あり、好んで自己の道を推行せん。君主もまた大徳の臣子に見ゆるに利あり、好んで共に功業を成就せん。天下人もまたこの大徳の人に見ゆるに利あり、好んでその恩沢を承受せん。ここに言う所の「大徳の君」は、指す所は正に本卦の九五。『乾』『坤』両卦の六爻は純にして一色、剛柔の差別を分たず、それゆえ爻と爻とのあいだは剛柔相配に頼らず、而して同様の徳性に憑りて彼此感応す。
九三,君子終日乾乾,夕惕若,厲,無咎。三雖人位,已在下體之上,未離於下而尊顯者也。舜之玄德升聞時也。日夕不懈而兢惕,則雖處危地而無咎。在下之人而君德已著,天下將歸之,其危懼可知。雖言聖人事,苟不設戒,則何以為教?作《易》之義也。
『乾』卦の九三の爻辞に曰く:「君子終日乾乾、夕惕若、厲、无咎」。意は君子が整天勤勉して息まず、夜に至りてもなお戒懼し、処境は危険と雖も過错あらざるを謂う。三爻は六爻中の「人」の位置に属すと雖も、已に下卦の頂端に居り、身はなお下位を離れず名望は已に尊顕なる人。舜を以て比喩せば、彼の潜徳が上って朝廷に聞こゆる時に相当す。早より晩に至るまで懈怠せざるを敢えてせず、始終戦戦兢兢たれば、すなわちたとえ身は険地に処るとも災禍を招来せず。身分はなお下位に在りて而して君主たるの徳望は已に彰著なれば、天下人は将に彼に帰附せんとす、この処境の危険可畏なるは想い知るべし。この一爻の講ずる所は聖人の事と雖も、若し彼の為に戒懼の辞を設けざれば、また何を以て人を教えん。これ正に聖人が『易』を作るの用意の在る所。
九四,或躍在淵,無咎。淵,龍之所安也。或,疑辭,謂非必也。躍不躍,惟及時以就安耳。聖人之動,無不時也。舜之歷試,時也。九五,飛龍在天,利見大人。進位乎天位也。聖人既得天位,則利見在下大德之人,與共成天下之事。天下固利見夫大德之君也。
『乾』卦の九四の爻辞に曰く:「或躍在淵、无咎」。深淵は竜の棲身安処する地方。「或」は不定を表す疑辞、必ずしもこの如くならざるを意謂す。躍起するか不躍するかは、ただ能く時機に乗じて安穏の位置に進むか否かを看るのみ。聖人の一挙一動は、合時宜ならざるなし。舜が堯の層層の考験歴練を接受せしは、正に時に合せり。九五の爻辞に曰く:「飛竜在天、利見大人」。これは聖人が已に進んで天子の位に居るを言う。聖人は既に天位を得たれば、すなわち下位に在る大徳の人に見ゆるに利あり、彼らと共同して天下の事業を成就せん。天下人も当然この大徳の君主に見ゆるに利あり。
上九,亢龍,有悔。九五者,位之極中正者。得時之極,過此則亢矣。上九至於亢極,故有悔也。有過則有悔。唯聖人知進退存亡而無過,則不至於悔也。用九,見群龍無首,吉。用九者,處乾剛之道,以陽居乾體,純乎剛者也。剛柔相濟為中,而乃以純剛,是過乎剛也。見群龍,謂觀諸陽之義,無為首則吉也。以剛為天下先,凶之道也。
『乾』卦の上九の爻辞に曰く:「亢竜、有悔」。九五是れ既に極位に居りてまた中正を得る一爻、得時の至なり。更に一步を越え越ゆれば、便ち「亢」——高く過ぎて拠り所を失う。上九は亢極の地步に到れば、それゆえ悔恨あり。凡そ過失あれば、すなわち悔あり。ただ聖人のみ応に進むべき応に退くべき、応に存すべき応に亡すべきの分寸を明白にして過ちを犯すに至らず、初めて有悔の地步に走り至らず。『乾』卦は別に「用九」一辞あり:「見群竜无首、吉」。いわゆる「用九」とは、乾剛の時に身を処しどのように剛を用いるべきかを講ず。陽爻を以て乾体に居るは、純粹の剛。剛と柔と相調剤するをこそ「中」と言う。今全是れ剛なれば、あれはすなわち剛の過ぎたるなり。「見群竜」とは、諸陽爻の共同に呈する意義を通観するを言う:首領を為さんと争わざるをこそ、初めて吉。剛強に仗りて天下人の前頭に搶先するは、あれは凶を招くの路数。
《彖》曰:大哉乾元!萬物資始乃統天。雲行雨施,品物流形。大明終始,六位時成,時乘六龍以御天。乾道變化,各正性命,保合太和,乃利貞。首出庶物,萬國咸寧。卦下之辭為彖。夫子從而釋之,通謂之彖。彖者,言一卦之義。故知者觀其彖辭,則思過半矣。大哉乾元,贊乾元始萬物之道大也。四德之元,猶五常之仁,偏言則一事,專言則包四者。萬物資始乃統天,言元也。乾元統言天之道也。天道始萬物,物資始於天也。雲行雨施,品物流形,言亨也。天道運行,生育萬物也。
『乾・彖伝』に曰く:「大哉乾元!万物资始、乃統天。雲行雨施、品物流形。大明終始、六位時成、時乗六竜以御天。乾道変化、各正性命、保合太和、乃利貞。首出庶物、万国咸寧」。卦名の下に繋ぐるの断語を「彖」と言い、孔子はまた文を作りてこれを解釈す、両者は通じて「彖」と称す。彖辞の講ずる所は一卦の総義、それゆえ識有る士はただ彖辞を看懂せば、全卦の意に対してもまた大半を領会す。「大哉乾元」は、乾元の万物を開創する道の宏大を讃嘆す。四徳中の「元」は、たとえば五常中の「仁」の如し:分かちて単に説く時はそれはただ四者の一、合わせて専らに説く時はそれはまた其余の三者を統包す。「万物资始、乃統天」は、「元」を説く。「乾元」は総じて天の道を説く:天道は万物を開始し、万物は皆天よりそれの開端を取得す。「雲行雨施、品物流形」は、「亨」を説き、天道の運行已まず、万物を生養するを講ず。
大明天道之終始,則見卦之六位,各以時成。卦之初終,乃天道終始。乘此六爻之時,乃天運也。以御天,謂以當天運。乾道變化,生育萬物,洪纖高下,各以其類,各正性命也。天所賦為命,物所受為性。保合太和乃利貞,保謂常存,合謂常和,保合太和,是以利且貞也。天地之道,常久而不已者,保合太和也。天為萬物之祖,王為萬邦之宗。乾道首出庶物而萬匯亨,君道尊臨天位而四海從。王者體天之道,則萬國咸寧也。
天道の終わりて復た始まるを徹底して明らかにすれば、すなわち一卦六爻の位次が各々時に随いて成るを看出し得。一卦の初爻より上爻に至るの历程は、正に天道の一始一終。この六爻の各々の時位に乗じて行うは、すなわち天の運化。いわゆる「以御天」とは、自己の行止をして正に天の運行に当たり得らしむるを言う。「乾道変化、各正性命」とは、乾道が変化流行して万物を生養し、巨細高下を論せず、各々その類に依り、各々自己の禀する所の性と命とを端正するを言う。天の賦与する所を「命」と言い、物の承受する所を「性」と言う。「保合太和、乃利貞」:「保」は常存して失わざること、「合」は常に和順に処ること。能くあの太和の気を常存してそれを常に和らしむれば、それゆえ既に「利」にして且つ「貞」。天地の道の能く長久不息なる所以は、頼る所は正にこの「保合太和」。天は万物の始祖、王は万邦の宗主。乾道は衆物に領先して出現して万類亨通し、君道は天位に尊居して四海順従す。王たる者は能く天の道を体行せば、天下万国は自然に皆安寧す。
《象》曰:天行健,君子以自強不息。卦下象解一卦之象,爻下象解一爻之象。諸卦皆取象以為法。乾道覆育之象至大,非聖人莫能體,欲人皆可取法也,故取其行健而已,至健固足以見天道也。君子以自強不息,法天行之健也。
『乾・大象伝』に曰く:「天行健、君子以自強不息」。卦名の下に繋ぐるの象辞は、一卦の象を解釈する。爻辞の下に繋ぐるの象辞は、一爻の象を解釈する。各卦は皆物象を取りて以て人事の効法する准則と為す。乾道の覆育する気象は極めて宏大にして、聖人に非ざればそれを整個に体現する能わず。而して『易』は人々をして皆能く取りて以て法と為さしめんと欲す、それゆえただそれの「運行剛健」なるこの一点を取りて説く——極致の剛健は、もとより足りて天道を見出す。「君子以自強不息」とは、すなわち上天の運行するあの剛健已まざるを効法す。
潛龍勿用,陽在下也。陽氣在下,君子處微,未可用也。見龍在田,德施普也。見於地上,德化及物,其施已普也。終日乾乾,反復道也。進退動息,必以道也。或躍在淵,進無咎也。量可而進,適其時則無咎也。飛龍在天,大人造也。大人之為,聖人之事也。亢龍有悔,盈不可久也。盈則變,有悔也。用九,天德不可為首也。用九,天德也。天德陽剛,復用剛而好先,則過矣。
『乾・小象伝』は爻ごとに申説す。「潜竜勿用、陽在下也」——陽気はなお下位に在り、君子は微賤に身を処し、なお施展の時に至らず。「見竜在田、徳施普也」——竜が地面上に出現し、徳化は已に万物に施及し、恩沢は普遍せり。「終日乾乾、反復道也」——進・退・動・静を論せず、一挙一動は皆必ず道に依循す。「或躍在淵、進无咎也」——自己は確かに可なりと估量して初めて前進し、恰好時機に合せば、すなわち過错あらず。「飛竜在天、大人造也」——大人の作為とは、すなわち聖人の為す所の事業。「亢竜有悔、盈不可久也」——盈満すれば必ず転変す、それゆえ悔あり。「用九、天徳不可為首也」——用九の体現する所は天徳。天徳はもとより陽剛、若し陽剛の上に於て更に一味に剛を用い搶先を好まば、あれはすなわち過ぎたれり。
《文言》曰:元者善之長也,亨者嘉之會也,利者義之和也,貞者事之乾也。他卦,《彖》、《象》而已,獨《乾》、《坤》更設《文言》以發明其義,推乾之道,施於人事。元亨利貞,乾之四德,在人則元者眾善之首也,亨者嘉美之會也,利者和合於義也,貞者乾事之用也。
『乾・文言』に曰く:「元者善之長也、亨者嘉之会也、利者義之和也、貞者事之乾也」。其余の各卦はただ『彖伝』『象伝』のみあり、ただ『乾』『坤』両卦のみ別に『文言』を設けて以てその中の義理を発揮し、乾の道理を推衍し下ろして、人事の上に落実す。元・亨・利・貞は乾の四徳。人の身に落てば、「元」はすなわち衆善の首領、「亨」はすなわち一切の美好の事物の会合、「利」はすなわち「義」と和洽相合すること、「貞」はすなわち事情を幹弁するに憑藉する所の根本。
君子體仁足以長人,體法於乾之仁,乃為君長之道,足以長人也。體仁,體元也。比而效之謂之體。嘉會足以合禮,得會通之嘉,乃合於禮也。不合禮則非理,豈得為嘉?非理安有亨乎?利物足以和義,和於義乃能利物。豈有不得其宜,而能利物者乎?貞固足以乾事。貞固所以能乾事也。君子行此四德者,故曰“乾:元亨利貞。”行此四德,乃合於乾也。
『文言』は続けて曰く:「君子体仁足以長人」——乾のあの仁を体察効法するをこそ、君長たるの道理と為し、足りて衆人の首領たる。いわゆる「体仁」とは、すなわちあの「元」を体現する。比照してそれを仿効するを、「体」と言う。「嘉会足以合礼」——会通交泰の美好を得るをこそ、初めて礼に合すると算す。礼に合せざれば便ち合理ならず、何処に更に「嘉」を談ずるを得ん。合理ならずしてまた何ぞ能く亨通せん。「利物足以和義」——先ず「義」と和洽し、然る後に初めて能く万物を利益す。何ぞ処置失当にして能く万物を利益するの道理あらん。「貞固足以乾事」——正しく且つ固ければ、それゆえ能く事情を幹弁す。「君子行此四徳者、故曰『乾:元亨利貞』」——君子は能くこの四徳を実行するをこそ、初めて乾道と相合すると算す。
初九曰潛龍勿用,何謂也?子曰:龍德而隱者也。不易乎世,不成乎名,遁世無悶,不見是而無悶,樂則行之,憂則違之,確乎其不可拔,潛龍也。自此以下,言乾之用,用九之道也。初九陽之微,龍德之潛隱,乃聖賢之在側陋也。守其道,不隨世而變;晦其行,不求知於時;自信自樂,見可而動,知難而避,其守堅不可奪,潛龍之德也。
『文言』は問を設け曰く:「初九に『潜竜勿用』と言うは、何の意か」。孔子は答え曰く:「これは竜の如き徳性有りて隠居して出でざる人。彼は世俗に因りて自己を改变せず、外在の名声を成就し去らず。世を避け隠居して煩悶せず、人に認可せられざるもまた煩悶せず。意に合せばすなわち為し、意に合せざればすなわち避く。操守は堅定にして抜動し得る者なし——これすなわち潜竜」。ここより下に至るまで、講ずる所は皆乾の運用、すなわち「用九」の道理。初九は陽気の最も微弱の時、竜徳は潜蔵隠伏し、正に聖賢がなお卑陋の位に処るに比す。彼は自己の道を固守して世風に随いて変わらず、自己の行跡を隠晦して当世の知遇を求めず、自己信頼し自己楽しみ在り。看准して可行なれば初めて動き、難有るを知ればすなわち避く。この操守は堅固にして奪い去る能わず——これすなわち潜竜の徳。
九二曰見龍在田,利見大人,何謂也?子曰:龍德而正中者也,庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,德博而化。《易》曰:“見龍在田,利見大人。”君德也。以龍德而處正中者也。在卦之正中,為得正中之義。庸信庸謹,造次必於是也。既處無過之地,則唯在閒邪。邪既閒,則誠存矣。善世而不伐,不有其善也。德博而化,正己而物正也。皆大人之事,雖非君位,君之德也。
『文言』は問う:「九二に『見竜在田、利見大人』と言うは、何の意か」。孔子は答え曰く:「これは竜徳有りて正中に居る人。平常の言語は信実を講じ、平常の行事は謹慎を講じ、邪念を防閑して以て内心の誠を保全し、善は一世に及んで自ら誇らず、徳沢は広博にして能く他人を化育す。『易』に『見竜在田、利見大人』と言うは、これは君主の徳有るなり」。九二は竜徳を以て正中の位に処る:それは下卦の正中に居るがゆえに、「正中を得」の意義有り。日常言語は信実にして日常挙動は謹慎とは、倉促急遽のあいだにも必ずこの一点を守るを言う。既に過失なき地位に立ちたれば、残る功夫はただ邪念を防閑するに在り。邪念は既に防がれ、誠もまた保全せらる。「善世而不伐」とは、善を己が物と為さざるを言う。「徳博而化」とは、自己を端正すれば、别人は自然に随いて端正するを言う。これらは皆大人の事業——彼は未だ君主の位なしと雖も、却って已に君主の徳有り。
九三曰君子終日乾乾,夕惕若,厲,無咎,何謂也?子曰:君子進德修業。忠信所以進德也。修辭立其誠,所以居業也。知至至之,可與幾也;知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。
『文言』は問う:「九三に『君子終日乾乾、夕惕若、厲、无咎』と言うは、何の意か」。孔子は答え曰く:「君子の功夫は徳性を増進し功業を修治するに在り。内心の忠实誠信は、以て徳性を増進するに用い。言辞を修飭してその誠を確立するは、以て功業を安守するに用い。応に到達すべき目標を知りて努力してそれに到達するは、このような人は彼と同じく事情の幾微の徴兆を談論すべし。応に終止すべき界限を知りて果たしてあそこに終止するは、このような人は彼と同じく道義を持守すべし。これに因りて彼は上位に居りて驕縦せず、下位に処りて憂懼せず、それゆえ能く勤勉不懈にして随時警惕を保持し、危境に処ると雖も過错あらず」。
三居下之上,而君德已著,將何為哉?唯進德修業而已。內積忠信,所以進德也。擇言篤志,所以居業也。知至至之,致知也。求知所至而後至之,知之在先,故可與幾,所謂“始條理者知之事也”。知終終之,力行也。既知所終,則力進而終之,守之在後,故可與存義,所謂“終條理者聖之事也”。此學之始終也。君子之學如是,故知處上下之道而無驕憂,不懈而知懼,雖在危地而無咎也。
九三は下卦の最上位に処り、而して君主たるの徳望は已に彰著なり、この時応に何を為すか。ただ徳性を増進し功業を修治するのみ。内心に忠信を積蓄するは、徳性を増進するの弁法。言辞を選択し志向を篤定するは、功業を安守するの弁法。「知至至之」の講ずる所は「致知」:先ず到達せんと欲する境地を明白に求め、然る後に初めて真に到達す、認知は前頭を走る、それゆえ彼と同じく「幾」を談論すべしと言う。すなわち『孟子・万章下』の言う所の「始条理者、智之事也」。「知終終之」の講ずる所は「力行」:既に帰宿の在る所を知りたれば、すなわち力を竭くして前進しそれを底まで為し尽くす、持守は後頭に跟隨す、それゆえ彼と同じく「存義」すべしと言う。すなわち『孟子』の言う所の「終条理者、聖之事也」。この両句は合わさりて、正に為学の全過程。君子の学問は既にこの如し、それゆえ身の上位・下位に居るに各々どのように自処すべきかを懂得し、上に居りて驕らず下に在りて憂えず。勤勉不懈にしてまた戒懼する所を知る、これに因りてたとえ身は危地に在るとも過错あらず。
九四曰或躍在淵,無咎,何謂也?子曰:上下無常,非為邪也。進退無恆,非離群也。君子進德修業,欲及時也,故無咎。或躍或處,上下無常;或進或退,去就從宜;非為邪枉,非離群類,進德修業,欲及時耳。時行時止,不可恆也,故云或。深淵者,龍之所安也。在淵謂躍就所安。淵在深而言躍,但取進就所安之義。或,疑辭,隨時而未可必也。君子之順時,猶影之隨形,可離非道也。
『文言』は問う:「九四に『或躍在淵、无咎』と言うは、何の意か」。孔子は答え曰く:「時に上り時に下りて定準なく、邪僻の事を為さんと欲するに非ず。或いは進み或いは退きて常規なく、同類を脱離せんと欲するに非ず。君子は徳性を増進し功業を修治するは、時機に赶上せんと欲する、それゆえ過错あらず」。或いは躍起し或いは安処するは、「上下無常」。或いは前進し或いは後退し、去留は皆合宜か否かに依るは、「進退無恒」。これは邪枉を為さんがためでもなく、同類に背離せんがためでもなく、ただ徳業を増進し時機に赶上せんと欲するのみ。応に行うべければすなわち行い、応に止まるべければすなわち止まり、一つの常式に固定する能わず、それゆえ爻辞は一箇の「或」の字を用いる。深淵は竜の安身する地方。「在淵」とは、躍起して以てその安まる所に就くを言う。淵はもと深処に在りて而して偏に「躍」と説くは、ただ「前進して以て安まる所に就く」のこの層の意を取る。「或」は不定の辞にして、随時に定まり未だ予め断定する能わざるを表示す。君子は時機に順応するは、影の形体に跟うが如く緊貼して離れず——片刻も離れ得るは道に非ず。
九五曰飛龍在天,利見大人,何謂也?子曰:同聲相應,同氣相求,水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎,聖人作而萬物睹。本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。人之與聖人,類也。五以龍德升尊位,人之類莫不歸仰,況同德乎?上應於下,下從於上,同聲相應,同氣相求也。流溼就燥,從龍從虎,皆以氣類,故聖人作而萬物皆睹。上既見下,下亦見上。
『文言』は問う:「九五に『飛竜在天、利見大人』と言うは、何の意か」。孔子は答え曰く:「同類の声音は互相応和し、同類の気息は互相尋求す。水は潮湿の処に流れ、火は乾燥の処に向かい、雲は竜に随いて起こり、風は虎に随いて生ず。聖人が一たび興起すれば、万物は皆彼を仰望す。凡そ天に本ずる者は就ち上に親附し、凡そ地に本ずる者は就ち下に親附す——各々自己の同類に跟従するのみ」。普通人と聖人とはもとより同類。九五は竜徳を以て尊位に升居す、同類の人は帰心仰望せざるなし、いわんや徳性相同なる者をや。上に在る者は下に在る者を感応し、下に在る者は上に在る者に順従す、これすなわち「同声相応、同気相求」。水が湿処に流れ向かい、火が燥処に就く、雲が竜に従い風が虎に従うは、皆気類に憑りて相感ず、それゆえ聖人が興起して万物は皆瞻仰を得。上位の者は既に下面の賢人に見え、下面の人もまた上面の聖君に見ゆ。
物,人也,古語云人物物論,謂人也。《易》中“利見大人”,其言則同,義則有異。如《訟》之利見大人,謂宜見大德中正之人,則其辯明,言在見前。《乾》之二五,則聖人既出,上下相見,共成其事,所利者見大人也,言在見後。本乎天者,如日月星辰。本乎地者,如蟲獸草木。陰陽各從其類,人物莫不然也。
「万物睹」のあの「物」の字は、実は指す所は人。古語に「人物」「物論」と言う、あの「物」の字の説く所は皆人。『周易』の中に「利見大人」の一語は屡屡出現し、字面は相同じくして含義は別あり。たとえば『訟』卦の卦辞の「利見大人」は、訴訟する人は応に大徳有りて中正なる人に見ゆべきを言い、これに依りて是非曲直は初めて弁明し得るを言う、この話は「見」に先んずるのに在りて説く。而して『乾』卦の九二・九五の「利見大人」は、則ち聖人が已に世に出で、上下相見え、共同して事業を成就し、得る所の利はすなわちこの相見の本身に在り、この話は「見」の後に在りて説く。いわゆる「本乎天者」とは、日月星辰の如き。「本乎地者」とは、虫獣草木の如き。陰と陽とは各々自己の同類に跟従し、人と物とはこの如くならざるはなし。
上九曰亢龍有悔,何謂也?子曰:貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。九居上而不當尊位,是以無民無輔,動則有悔也。潛龍勿用,下也。此以下言乾之時。勿用,以在下未可用也。見龍在田,時舍也。隨時而止也。
『文言』は問う:「上九に『亢竜有悔』と言うは、何の意か」。孔子は答え曰く:「身分は貴重にして実位なく、地位は高亢にして百姓なく、賢人は皆下面に在りて来たりて彼を補佐せず、それゆえ一たび挙動あればすなわち悔恨を招致す」。上九は陽爻を以て最上に居るに、却って尊位に当たらず、これに因りて既に治むべき民衆なく、また助くべき賢才なく、一たび動けばすなわち悔あり。以下の一段は転じて乾の「時」を講ず。「潜竜勿用、下也」——施用すべからざるは、身が下位に在るがゆえ、時機はなお未だ至らず。「見竜在田、時舎也」——「舎」は止息、時勢に随いて且つこの一步に停まる。
終日乾乾,行事也。進德修業也。或躍在淵,自試也。隨時自用也。飛龍在天,上治也。得位而行上之治也。亢龍有悔,窮之災也。窮極而災至也。乾元用九,天下治也。用九之道,天與聖人同,得其用則天下治也。
「終日乾乾、行事也」——行う所の事とは、すなわち徳性を増進し功業を修治する。「或躍在淵、自試也」——時機に随いて自ら試みて施展す。「飛竜在天、上治也」——君位を得て以て上に居りて世を治するの道を施行す。「亢竜有悔、窮之災也」——窮極の地步に走り至れば、災禍は就ち跟いて来る。「乾元用九、天下治也」——「用九」の道理は、天と聖人とは一致す。能くこの剛を用いて首を為さざるの分寸を拿捏せば、天下は就ち治理せらる。
潛龍勿用,陽氣潛藏。此以下言乾之義。方陽微潛藏之時,君子亦當晦隱,未可用也。見龍在田,天下文明。龍德見於地上,則天下見其文明之化也。終日乾乾,與時偕行。隨時而進也。或躍在淵,乾道乃革。離下位而升上位,上下革矣。飛龍在天,乃位乎天德。正位乎上,位當天德。亢龍有悔,與時偕極。時既極,則處時者亦極矣。
『文言』は再び「義」の角度より爻ごとに申説す。「潜竜勿用、陽気潜蔵」——正に陽気が微弱に潜蔵する時に当たり、君子もまた応に隠晦して自処し、なお施展の時に至らず。「見竜在田、天下文明」——竜徳が地面の上に顕現し、天下は就ち彼のあの文采光明的教化を看る。「終日乾乾、与時偕行」——時勢の推移に随いて不断に前進す。「或躍在淵、乾道乃革」——下位を離れて上位に升上し、上下のあいだに変革発生す。「飛竜在天、乃位乎天徳」——端正に上位に居り、居る所の位は正に天徳に当たる。「亢竜有悔、与時偕極」——時勢は既に窮極に走り至れば、この時勢の中に処する人も就ちこれに随いて極点に走り至る。
乾元用九,乃見天則。用九之道,天之則也。天之法則謂天道也。或問:《乾》之六爻皆聖人之事乎?曰:盡其道者聖人也。得失則吉凶存焉,豈特《乾》哉?諸卦皆然也。乾元者,始而亨者也。又反覆詳說以盡其義。既始則必亨,不亨則息矣。利貞者,性情也。乾之性情也。既始而亨,非利貞其能不息乎?
「乾元用九、乃見天則」——用九の道理は、正に上天の法則。いわゆる天の法則とは、指す所はすなわち天道。人に問うあり:『乾』卦の六爻の講ずる所は皆聖人の事か。答えて曰く:能くこの一爻位の道を為し尽くせばすなわち聖人。為し得ると為し得ざるとは、吉凶は便ちここに分かる、何ぞただ『乾』卦のみこの如しや。各卦は皆この如し。以下『文言』はまた反復して詳説し、以て乾の義理を窮尽す。「乾元者、始而亨者也」——既に頭を開きたれば、すなわち必ず亨通せん。亨通せざれば、生機もまた止息す。「利貞者、性情也」——これは乾の性情を説く:既に開端して亨通せり、若し「利」と「貞」とに頼るに非ざれば、それは何を以て能く生々息々せん。
乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉!乾始之道,能使庶類生成,天下蒙其美利,而不言所利者,蓋無所不利,非可指名也。故贊其利之大曰:“大矣哉!”大哉乾乎!剛、健,中、正,純、粹,精也。
『文言』に曰く:「乾始能以美利利天下、不言所利、大矣哉」——乾の万物を開創するの道理は、能く衆類をして各々生成を得らしめ、天下は皆それの美好の利益を蒙受す、而して利益する所の何たるかを指明せず。これはそれの利せざる所なきがゆえ、根本的に一々点名する能わず。それゆえ『文言』はそれの利の宏大を讃嘆して「大矣哉」と言う。続けてまた曰く:「大哉乾乎!剛・健、中・正、純・粹、精也」。
六爻發揮,旁通情也。時乘六龍,以御天也。雲行雨施,天下平也。大哉,贊乾道之大也。以剛、健、中、正、純、粹六者,形容乾道。精謂六者之精極。以六爻發揮旁通,盡其情義。乘六爻之時以當天運,則天之功用著矣。故見雲行雨施,陰陽溥暢,天下和平之道也。
『文言』は続きて説く:「六爻発揮、旁通情也。時乗六竜、以御天也。雲行雨施、天下平也」。「大哉」は乾道の宏大を讃嘆す。剛・健・中・正・純・粹この六字を用いて乾道を形容し、而して「精」はこの六者が皆極致に達したるを説く。六爻の推衍発揮・四通八達に憑りて、乾道の情状義蘊を説き尽くす。六爻の各々の時位に乗じて以て天の運行に当たれば、上天の功用は就ち顕現す。それゆえ能く雲行雨施・陰陽普遍暢達するを見るは、あれは正に天下太平の道理。
君子以成德為行,日可見之行也。潛之為言也,隱而未見,行而未成,是以君子弗用也。德之成,其事可見者行也。德成而後可施於用。初方潛隱未見,其行未成。未成,未著也,是以君子弗用也。
『文言』に曰く:「君子以成徳為行、日可見之行也。潜之為言也、隠而未見、行而未成、是以君子弗用也」。徳性が成就したる後、具体的事情の上に落ちて人人に見え得るを、すなわち「行」と言う。徳性が成就し、然る後に初めて以て用に施すべし。初九は正に潜伏隠蔵にして未だ顕現せざる段階に処り、彼の「行」はなお未だ成形せず。いわゆる「未成」とは、すなわちなお未だ顕著ならず。これを以て君子はこの時に於て施用せず。
君子學以聚之,問以辨之,寬以居之,仁以行之。《易》曰:“見龍在田,利見大人。”君德也。聖人在下,雖已顯而未得位,則進德修業而已。學、聚、問、辨,進德也。寬居、仁行,修業也。君德已著,利見大人,而進以行之耳。進居其位者,舜、禹也。進行其道者,伊、傅也。
『文言』はまた曰く:「君子学以聚之、問以辨之、寛以居之、仁以行之。『易』に曰く『見竜在田、利見大人』、君徳也」。聖人はなお下位に在る時、徳望は已に顕露するも未だ相応の職位を得ざれば、為し得る所はただ徳性を増進し功業を修治するのみ。学問を以て見識を積聚し、詢問を以て是非を辨明す、これは「進徳」。寛厚を以て自処し、仁愛を以て行事す、これは「修業」。君主の徳は已に彰著なり、それゆえ「利見大人」と言う。すなわち更に一步進んでこの徳行を推行し出す。進んで君位を拠有するは、舜と禹。進んでその道を当世に推行するは、伊尹と傅説。
九三重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。三重剛,剛之盛也。過中而居下之上,上未至於天,而下已離於田,危懼之地也。因時順處,乾乾兢惕以防危,故雖危而不至於咎。君子順時兢惕,所以能泰也。
『文言』に曰く:「九三重剛而不中、上不在天、下不在田、故乾乾因其時而惕、雖危无咎矣」。九三は陽爻を以て陽位に居り、是れ剛の上に剛を加え、剛強は極盛に至る。それは下卦の中を越え越えて下卦の頂端に処り、上に向かいては未だ天位に到達せず、下に向かいてはまた已に田間を離脱し、正に人をして危懼せしむる処境。ただ時勢に依りて理に順い自処し、勤勉不懈にして戒慎恐懼して危険を防備するのみ、それゆえ危険と雖も過错を招来するに至らず。君子は時勢に順応して常に警惕を懐くは、正に彼が能く危を転じて安と為すの縁故。
九四重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故或之。或之者,疑之也,故無咎。四不在天,不在田而出人之上矣,危地也。疑者未決之辭。處非可必也,或進或退,唯所安耳,所以無咎也。
『文言』に曰く:「九四重剛而不中、上不在天、下不在田、中不在人、故或之。或之者、疑之也、故无咎」。九四は既に天位に在らず、また田間に在らず、しかも已に「人」の位置を超出せり、是れ危険の地方。「疑」は未だ決断せざるの説法。このような位置の上に処れば、予め断定すべき者なく、或いは前進し或いは後退し、ただ安穏の処に進まんを求めるのみ、それゆえ過错あらず。
夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶,先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?大人與天地日月四時鬼神合者,合乎道也。天地者道也,鬼神者造化之跡也。聖人先於天而天同之,後於天而能順天者,合於道而已。合於道,則人與鬼神豈能違也?
『文言』に曰く:「いわゆる大人とは、その徳性は天地と相合し、その光明は日月と相合し、その次序は四時と相合し、その吉凶は鬼神と相合す。天時に先んじて行うも上天は彼に違わず、天時に後れて行うも彼は上天の時令を恭奉す。天すらなお彼に違わざるに、いわんや人をや、いわんや鬼神をや」。大人の能く天地・日月・四時・鬼神と相合する所以は、彼が「道」に合するがゆえ。天地は便ち道の呈現、鬼神は則ち造化運行の遺したる痕跡。聖人は天の前頭に走りて天は彼と同步し、天の後頭に走りて能く天意を順承す、憑る所はただ道に合するのみ。既に道に合すれば、人と鬼神とはまた何を以て彼に違わんや。
亢之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。其唯聖人乎!知進退存亡而不失其正者,其唯聖人乎!極之甚為亢。至於亢者,不知進退存亡得喪之理也。聖人則知而處之,皆不失其正,故不至於亢也。
『文言』に曰く:「いわゆる『亢』とは、すなわちただ前進を知りて後退を知らず、ただ保存を知りて消亡を知らず、ただ獲得を知りて喪失を知らず。能くこの如くならざるは、ほぼ聖人のみあらんか。進退存亡の分寸を懂得して終始その正を失わざるは、ほぼ聖人のみあらんか」。過ぎて極点に至るをこそ「亢」と言う。凡そ亢のこの一步に走り至る人は、皆進退・存亡・得失のこの道理を明白にせざる者。聖人は則ちこの道理を明白にして拠りて自処し、処処その正を失わず、それゆえ亢に陥入するに至らず。
坤卦(坤下坤上)
《坤》:元,亨,利,牝馬之貞。坤,乾之對也。四德同,而貞體則異。乾以剛固為貞,坤則柔順而貞。牝馬柔順而健行,故取其象曰牝馬之貞。君子有攸往,君子所行柔順而利且貞,合坤德也。先迷,後得,主利。陰,從陽者也,待唱而和。陰而先陽,則為迷錯,居後乃得其常也。主利,利萬物則主於坤,生成皆地之功也。臣道亦然,君令臣行,勞於事者臣之職也。
『坤』卦の卦辞に曰く:「元・亨・利、牝馬之貞」。坤は乾の対偶、それは乾と同様に四徳を具備するも、「貞」の体性は同じからず:乾は剛強堅固を以て貞と為し、坤は則ち柔順を以て貞と為す。母馬は性情柔順にしてまた能く健行已まず、それゆえそれを取りて象と為し、「牝馬之貞」と称す。卦辞はまた曰く「君子有攸往」——君子の作為する所は柔順にしてまた利にして且つ正しければ、正に坤徳に合す。また曰く「先迷、後得、主利」——陰は陽に跟従する者、須らく陽の先に倡導するを待ちて然る後に応和すべし。陰が若し陽の前頭に搶先すれば、便ち迷乱錯乱と為り、後位に居るをこそ初めてそれの常道に合す。いわゆる「主利」とは、万物を利益するこの事は坤を以て主と為すを言う:万物の生長成就は皆大地の功労。臣子の道もまたこの如し:君主は令を発し臣下は執行し、事務の上に操労するは正に臣子の本職。
西南得朋,東北喪朋,安貞,吉。西南陰方,東北陽方。陰必從陽,離喪其朋類,乃能成化育之功,而有安貞之吉。得其常則安,安於常則貞,是以吉也。《彖》曰:至哉坤元!萬物資生,乃順承天。坤厚載物,德合無疆。資生之道,可謂大矣。乾既稱大,故坤稱至。至義差緩,不若大之盛也。聖人於尊卑之辨,謹嚴如此。萬物資乾以始,資坤以生,父母之道也。順承天施,以成其功,坤之厚德,持載萬物,合於乾之無疆也。
卦辞に曰く:「西南得朋、東北喪朋、安貞、吉」。西南は陰の方位、東北は陽の方位。陰は必ず陽に跟従し、自己の同類を離れ捨てるを肯んずるを要し、初めて万物を化育するの功業を成就し、従りて正道に安んずるの吉祥を獲得す。自己の常道を得ればすなわち安穏し、常道に安んずればすなわち正しき、それゆえ吉。『坤・彖伝』に曰く:「至哉坤元!万物资生、乃順承天。坤厚載物、徳合無疆」。万物がそれに憑りて生ずるの道理は、宏大と言うべし。乾は既に「大」の字を以て称讃せり、それゆえ坤は就ち「至」の字を用いる。「至」の語意は稍や緩く、「大」の如く盛んならず。聖人は尊卑を分辨するに、謹厳なることこの地步に至る。万物は乾に頼りて開端有り、坤に頼りて生長を得、これ正に父母各々の職分。坤は上天の施与に順承し、従りてその功業を成就す。坤のあの深厚の徳性は万物を承載し、正に乾の無辺無際と相配合す。
含弘光大,品物咸亨。牝馬地類,行地無疆;柔順利貞,君子攸行。以含、弘、光、大四者形容坤道,猶乾之剛、健、中、正、純、粹也。含,包容也。弘,寬裕也。光,昭明也。大,博厚也。有此四者,故能成承天之功,品物咸得亨遂。取牝馬為象者,以其柔順而健行,地之類也。行地無疆,謂健也。乾健坤順,坤亦健乎?曰:非健何以配乾?未有乾行而坤止也。其動也剛,不害其為柔也。柔順而利貞,乃坤德也,君子之所行也。君子之道合坤德也。
『彖伝』は続けて曰く:「含弘光大、品物咸亨。牝馬地類、行地無疆。柔順利貞、君子攸行」。ここに含・弘・光・大の四字を用いて坤道を形容するは、正に剛・健・中・正・純・粹の六字を用いて乾道を形容するが如し。「含」は包容、「弘」は寛裕、「光」は昭明、「大」は博厚。この四者を具備すれば、それゆえ能く上天に承奉するの功業を成就し、万物をして皆亨通順遂せしむ。母馬を取りて象と為すは、それが柔順にしてまた能く健行し、大地の一類に属するがゆえ。「行地無疆」の説く所は、正にそれの健。人に問うあり:乾は健にして坤は順なり、何ぞ坤もまた健と算すべきや。答えて曰く:健ならざればまた何を以て乾と相配せん。従来乾は運行に在りて坤は却って停住して動かざるはなし。坤は動けば剛なり、然るもこれはそれの本質上の柔を妨害せず。柔順にしてまた利にして且つ正しき、これすなわち坤徳、また正に君子の応に践行すべき所。君子の道は、正に坤徳と相合す。
先迷失道,後順得常。西南得朋,乃與類行;東北喪朋,乃終有慶。安貞之吉,應地無疆。乾之用,陽之為也。坤之用,陰之為也。形而上曰天地之道,形而下曰陰陽之功。先迷後得以下,言陰道也。先唱則迷失陰道,後和則順而得其常理。西南陰方,從其類,得朋也。東北陽方,離其類,喪朋也。
『彖伝』に曰く:「先迷失道、後順得常。西南得朋、乃与類行。東北喪朋、乃終有慶。安貞之吉、応地無疆」。乾の功用は、陽の作為。坤の功用は、陰の作為。形而上に就きて言えば、天地之「道」と言い、形而下に就きて言えば、陰陽之「功」と言う。「先迷後得」より下、講ずる所は皆陰の道。前頭に搶りて倡導すれば、すなわち陰の道を迷失し、後に随いて応和すれば、すなわち理に順いその常を得。西南は陰の方位、自己の同類に跟従す、それゆえ「得朋」と言う。東北は陽の方位、自己の同類を離脱す、それゆえ「喪朋」と言う。
離其類而從陽,則能成生物之功,終有吉慶也。與類行者本也,從於陽者用也。陰體柔躁,故從於陽則能安貞而吉,應地道之無疆也。陰而不安貞,豈能應地之道。《彖》有三無疆,蓋不同也。“德合無疆”,天之不已也。“應地無疆”,地之無窮也。“行地無疆”,馬之健行也。
同類を離れて陽に跟従するをこそ、初めて万物を生養するの功業を成就し、最終に吉慶有り。同類と同行するは、陰の本体の在る所。陽に跟従するは、陰の功用の在る所。陰の体性は柔弱にして躁動す、それゆえただ陽に跟従することをこそ、初めて能く正道に安んじて吉を獲得し、大地の道の無辺無際と相応す。陰は若し能く正道を安守せざれば、また何を以て地道と相応せん。『坤・彖伝』の中に三箇の「無疆」出現し、含義は各々相同じず。「徳合無疆」の説く所は天の運行已まざること、「応地無疆」の説く所は地の広袤無窮なること、「行地無疆」の説く所は馬の健行不倦なること。
《象》曰:地勢坤,君子以厚德載物。坤道之大猶乾也,非聖人孰能體之?地厚而其勢順傾,故取其順厚之象,而云地勢坤也。君子觀坤厚之象,以深厚之德,容載庶物。初六,履霜,堅冰至。陰爻稱六,陰之盛也。八則陽生矣,非純盛也。陰始生於下,至微也。聖人於陰之始生,以其將長,則為之戒。陰之始凝而為霜,履霜則當知陰漸盛而至堅冰矣。猶小人始雖甚微,不可使長,長則至於盛也。
『坤・大象伝』に曰く:「地勢坤、君子以厚徳載物」。坤道の宏大は乾と同じく、聖人に非ざれば誰か能くそれを整個に体現せん。大地は深厚にしてその地勢は高下相承り、勢に順いて傾く、それゆえそれの順にして厚きの形象を取りて「地勢坤」と言う。君子は坤のこの深厚の気象を観察して、すなわち深厚の徳性を以て万物を容納承載す。初六の爻辞に曰く:「履霜、堅冰至」。陰爻は「六」と称す、六は陰数の盛なれば。若し「八」ならば、陽は已にその中に於て萌生し、便ち純盛と算すべからず。陰気は最初に下位に於て生じ、極めて微弱。聖人は陰気が剛だに萌生する時に、それが将に滋長せんとするに因りて予め警戒を立下す:陰気は初めて凝結して霜と為り、一たび霜を踏めば、すなわち陰気が漸々加盛し堅冰に結成するに至るを知るべし。これは小人が起初は十分微弱と雖も、断じて彼をして坐大せしむべからず。一旦坐大せば、すなわち勢盛にして制し難きの地步に発展するに至るが如し。
《象》曰:履霜堅冰,陰始凝也;馴致其道,至堅冰也。陰始凝而為霜,漸盛則至於堅冰。小人雖微,長則漸至於盛,故戒於初。馴謂習,習而至於盛,習因循也。六二,直、方、大,不習無不利。二,陰位在下,故為坤之主,統言坤道中正在下,地之道也。以直方大三者形容其德用,盡地之道矣。由直、方、大,故不習而無所不利。不習謂其自然,在坤道則莫之為而為也,在聖人則從容中道也。
『小象伝』に曰く:「履霜堅冰、陰始凝也。馴致其道、至堅冰也」。陰気は初めて凝結して霜と為り、逐漸加盛すれば便ち堅冰と為る。小人は眼下は微弱と雖も、滋長し続ければ漸々勢盛なり、それゆえ最初に於て戒めを加えるを要す。「馴」はすなわち習、一路習慣し続ければ便ち勢盛に至る。「習」もまたすなわち因循して改めざること。六二の爻辞に曰く:「直・方・大、不習无不利」。六二は陰爻を以て陰位に居りて下卦の中に処るがゆえに、坤卦の主爻たり。総じて言えば、坤道は中正にして下に居るは、これ正に大地の道。「直」「方」「大」の三字を用いてその徳性功用を形容すれば、大地の道もまた説き尽くされり。正に直・方・大なるがゆえに、勉強習練を待たずして利あらざるなし。「不習」とは、それが自然に出づるを言う:坤道に於ては作為する所なくして自然に成就有り、聖人に於ては則ち従容不迫にして自然に中道に合す。
直、方、大,孟子所謂至大至剛以直也。在坤體,故以方易剛,猶貞加牝馬也。言氣,則先大。大,氣之體也。於坤,則先直方,由直方而大也。直方大足以盡地道,在人識之耳。乾坤純體,以位相應。二,坤之主,故不取五應,不以君道處五也。乾則二五相應。
「直・方・大」とは、すなわち『孟子・公孫丑上』が浩然の気を論ずる時に言う所の「至大至剛以直」。ここに説く所は坤体なるがゆえに、「剛」を「方」に換えたるは、正に「貞」の字の上に「牝馬」の二字を加えたるが如し。孟子は気を論ずるに、先ず「大」を説く、「大」は気の本体なれば。坤に於ては、則ち先ず直と方とを説き、直・方に由りて而る後にその大を成す。直・方・大の三者は足りて地道を説き尽くし、残るはただ人が自ら体認するに在るのみ。『乾』『坤』両卦の六爻は純にして一色、ただ位次に按じて相応ず。六二は坤卦の主爻、それゆえここにそれと九五と相応の義を取らず、坤卦は君道を以て五位を安置せざれば。『乾』卦に至りては、則ち二と五と相応す。
《象》曰:六二之動,直以方也。不習無不利,地道光也。承天而動,直以方耳,直方則大矣。直方之義,其大無窮,地道光顯,其功順成。豈習而後利哉?六三,含章可貞,或從王事,無成有終。三居下之上,得位者也。為臣之道,當含晦其章美,有善則歸之於君,乃可常而得正。上無忌惡之心,下得柔順之道也。可貞謂可貞固守之,又可以常久而無悔咎也。或從上之事,不敢當其成功,惟奉事以守其終耳。守職以終其事,臣之道也。
『小象伝』に曰く:「六二之動、直以方也。不習无不利、地道光也」。大地は上天を承奉して動くは、ただ直にして且つ方なるのみ。能く直にして能く方なれば、自然に大なり。直と方との意義は、その大なること窮まりなし。地道はこれに因りて光明显著にして、その功業は理に順いて成る、何ぞ勉強習練して然る後に利有らんを用いんや。六三の爻辞に曰く:「含章可貞、或従王事、无成有終」。六三は下卦の頂端に処り、是れ位に当たるの一爻。臣子たるの道理は、応に自己の文采美德を含蓄収斂し、善績有ればすなわち君主に帰し、これに依りて初めて能く長久にして正道に合す。上に対しては君主の猜忌厭悪を招来せず、下に対してもまた柔順の道を守住せり。「可貞」とは、能く堅定にこの一条を守住し得るを言い、また能く長久保持して悔恨災禍を生ぜしめず。時に君上に随従して事を弁むも、成功を己が頭上に算するを敢えてせず、ただ命を奉じて事を行い事情を底まで為し尽くすのみ。職分を恪守して善始善終す、これ正に臣たるの道。
《象》曰:含章可貞,以時發也。夫子懼人之守文而不達義也,又從而明之:言為臣處下之道,不當有其功善,必含晦其美,乃正而可常;然義所當為者,則以時而發,不有其功耳。不失其宜,乃以時也,非含藏終不為也。含而不為,不盡忠者也。
『小象伝』に曰く:「含章可貞、以時発也」。孔子は人が字面に拘守して義理に通暁せざるを怕れ、それゆえまた更に一步進んで申明す:臣子を為し下位に処るの道理は、功労善績を己が物と為すべからず、必ず自己の美德を含蓄せねばならず、これに依りて初めて既に正当にしてまた能く長久なり。然るも凡そ道義上応に為すべき事は、仍り合適の時機に於て施展し出すべく、ただ功を拠りて自居せざるのみ。いわゆる「以時」とは、すなわち為してその宜を失わざること、決して一味に含蔵して始終作為せざるに非ず。若しただ含蔵を知りて何事も為さざれば、あれはすなわち忠心を尽くさざる人。
或從王事,知光大也。《象》只舉上句解義,則並及下文,他卦皆然。或從王事,而能無成有終者,是其知之光大也。唯其知之光大,故能含晦。淺暗之人有善唯恐人之不知,豈能含章也。
『小象伝』に曰く:「或従王事、知光大也」。『象伝』は往々にしてただ爻辞の上一句を挙出して解釈するも、含義は下面の話に連なりて併せて説き至る、其他の各卦も皆この体例。君上に随従して事を弁むに、却って能くその成を居らずして始有り終有るを為すは、正に彼の見識の光明宏大なるを説明す。ただそれの見識光明宏大なるがゆえに、初めて含蓄して得住す。見識浅陋昏暗の人は、稍や一点の善績有れば便ち别人に知られざるを恐れ、何ぞ能く「含章」を為さんや。
六四,括囊無咎,無譽。四居近五之位,而無相得之義,乃上下閉隔之時。其自處以正,危疑之地也。若晦藏其知,如括結囊口而不露,則可得無咎,不然則有害也。既晦藏,則無譽矣。
『坤』卦の六四の爻辞に曰く:「括嚢无咎、无誉」。六四は九五の位に近づくも、上と相得の情分なく、正に上下閉塞隔絶の時に当たる。それは自処に正を守ると雖も、居る所は危疑の地。この時若し自己の才智を隠蔵して、口袋の口を扎緊するが如く外に露わさざれば、すなわち災禍を免れ得。この如くせざれば便ち害を受く。既に隠蔵して露わさざれば、自然に称誉を得ること能わず。
《象》曰:括囊無咎,慎不害也。能慎如此,則無害也。六五,黃裳元吉。坤雖臣道,五實君位,故為之戒云,黃裳元吉。黃,中色。裳,下服。守中而居下,則元吉,謂守其分也。元,大而善也。爻象唯言守中居下則元吉,不盡發其義也。黃裳既元吉,則居尊為天下大凶可知。後之人未達,則此義晦矣,不得不辨也。
『小象伝』に曰く:「括嚢无咎、慎不害也」。能く謹慎にしてこの地步に至れば、すなわち禍害を招致せず。六五の爻辞に曰く:「黄裳元吉」。『坤』卦は整体に於て臣道を講ずと雖も、五のこの位置は実は君位、それゆえ特地にそれの為に告戒を立下して「黄裳元吉」と言う。黄は五色の中に居るの色、裳は下身に穿するの衣服。中道を守住して甘んじて下位に居れば、すなわち大吉、すなわち自己の本分を安守す。「元」は大にして且つ善の意。爻辞と象辞はただ中を守り下に居れば便ち大吉を得と言うのみ、未だその中の道理を皆点破せず。既に「黄裳」にして初めて大吉なれば、あればすなわち陰柔を以て尊に居りて自ら専らにするは、天下に対して是大凶、この層の意思は推知すべし。後世の人は読み通せず、この層の意思は便ち埋没せられ、それゆえ辨明せざるべからず。
五,尊位也。在他卦,六居五,或為柔順,或為文明,或為闇弱;在坤,則為居尊位。陰者臣道也,婦道也。臣居尊位,羿、莽是也,猶可言也。婦居尊位,女媧氏、武氏是也,非常之變,不可言也,故有黃裳之戒而不盡言也。或疑在《革》,湯、武之事猶盡言之,獨於此不言,何也?曰:廢興,理之常也。以陰居尊位,非常之變也。
五は尊位。別の卦の裡に於ては、陰爻が五位に居るは、時には柔順を表し、時には文明を表し、時には暗弱を表す。而して『坤』卦の裡に於ては、便ち陰を以て尊に居ると為る。陰が代表する所は臣道、また婦道。臣子が尊位を占拠するは、后羿・王莽の如き事は、なお明説すべし。婦人が尊位を占拠するは、女媧氏・武則天の如き事は、反常の変故に属し、便ち明説に便ならず、それゆえただ「黄裳」を用いて告戒を立下して話を講じ尽くさず。人に疑惑あり:『革』卦の裡に於ては、商湯の桀を放ち、周武の紂を伐つ事はなお情を尽くして説けり、ただここに於てのみ説かざるは、何の故か。答えて曰く:一朝の廃・一朝の興は、常理の内の事に属す。而して陰柔を以て尊位を占拠するは、則ち常理の外の変故。
《象》曰:黃裳元吉,文在中也。黃中之文,在中不過也。內積至美而居下,故為元吉。上六,龍戰于野,其血玄黃。陰從陽者也,然盛極則抗而爭。六既極矣,復進不已,則必戰,故云戰于野。野謂進至於外也。既敵矣,必皆傷,故其血玄黃。《象》曰:龍戰于野,其道窮也。陰盛至於窮極,則必爭而傷也。
『小象伝』に曰く:「黄裳元吉、文在中也」。黄色の代表する所のあの文采は内に蘊含して外に溢れず、正に中に居りて過分ならず。内裡に極美の徳性を積蓄しながら甘んじて下位に居る、それゆえ是れ大吉。上六の爻辞に曰く:「竜戦于野、其血玄黄」。陰はもとより陽に跟従する者、然るも盛んなること極点に至れば、すなわち陽と抗衡争闘せんと欲す。上六は已に陰の極点なり、なお一味に前進して止まず、あればすなわち必ず交戦せん、それゆえ「戦于野」と言う。「野」とは已に外面に進み出でたるを言う。既に敵手を結成せれば、双方は必ず皆傷を受け、それゆえ流出する血は一は玄一は黄。『小象伝』に曰く:「竜戦于野、其道窮也」。陰は盛んなること窮極の地步に至れば、すなわち必ず争闘して両敗俱傷せん。
用六,利永貞。坤之用六,猶乾之用九,用陰之道也。陰道柔而難常,故用六之道,利在常永貞固。《象》曰:用六永貞,以大終也。陰既貞固不足,則不能永終。故用六之道,利在盛大於終,能大於終,乃永貞也。
『坤』卦の「用六」に曰く:「利永貞」。坤の「用六」は、正に乾の「用九」の如く、陰を運用するの道理を講ず。陰の道は柔弱にして持久し難し、それゆえ用六の道は、利は長久に正を守り固持するに在り。『小象伝』に曰く:「用六永貞、以大終也」。陰はもとより正を守り固持するの上に於て不足する所有り、因りて終始を貫徹する能わず。それゆえ用六の道は、利はそれをして收尾の処に於て盛大を顕出せしむるに在り——能く終了の処に於て盛大なるをこそ、初めて長久に正を守るを談ずるに足る。
《文言》曰:坤至柔而動也剛,至靜而德方。後得主而有常,含萬物而化光。坤道其順乎!承天而時行。坤道至柔,而其動則剛;坤體至靜,而其德則方。動剛故應乾不違,德方故生物有常。陰之道不唱而和,故居後為得,而主利成萬物,坤之常也。含容萬類,其功化光大也。主字下脫“利”字。坤道其順乎,承天而時行,承天之施,行不違時,贊坤道之順也。
『坤・文言』に曰く:「坤至柔而動也剛、至静而徳方。後得主而有常、含万物而化光。坤道其順乎!承天而時行」。坤道は極めて柔弱、然るも一たび動けば却って剛なり。坤体は極めて安静、然るもその徳性は却って方正なり。動きて能く剛なるがゆえに、乾道に感応して相違わず。徳性方正なるがゆえに、万物を生養するに常軌有り。陰の道理は先に倡導せずしてただ応和を為す、それゆえ後に居るをこそ初めて得当と算し、而して万物を利益し万物を成就することを主と為すは、正に坤の常道。それは万類を包容し、功業教化は因りて光大す。(按:「後得主而有常」の「主」の字の下は一箇の「利」の字を脱漏せり。)「坤道其順乎!承天而時行」——上天の施与を承受し、行動は時節に違わず、これは坤道の柔順を讃嘆するなり。
巻二・周易上経
謙卦(艮下坤上)
《謙》,《序卦》:“有大者不可以盈,故受之以謙。”其有既大,不可至於盈滿,必在謙損,故大有之後,受之以謙也。為卦,坤上艮下,地中有山也。地體卑下,山,高大之物,而居地之下,謙之象也。以崇高之德,而處卑之下,謙之義也。
『謙』卦に就いて、『序卦伝』に曰く:「有大者不可以盈、故受之以謙」。有する所は既に盛大なれば、すなわち盈満に走り至るべからず、必ず謙退自損に頼りて節制す、それゆえ『大有』卦の後に続きて『謙』卦を安排す。卦体に就きて言えば、坤は上に在り艮は下に在り、是れ大地の中に高山有り。大地の形体は卑下、山は高大の物にして、却って大地の下に安居す、これすなわち「謙」の象。崇高の徳性を卑下の位置上に安放するは、これすなわち「謙」の義。
謙:亨,君子有終。謙有亨之道也。有其德而不居,謂之謙。人以謙巽自處,何往而不亨乎。君子有終,君子志存乎謙巽,達理,故樂天而不競,內充,故退讓而不矜,安履乎謙,終身不易,自卑而人益尊之,自晦而德益光顯,此所謂君子有終也。在小人則有欲必競,有德必伐,雖使勉慕于謙,亦不能安行而固守,不能有終也。
『謙』卦の卦辞に曰く:「亨、君子有終」。謙は本身の中に亨通の道理を含む。あの徳性有りて自居せざるを、謙と言う。人は若し謙遜卑順を以て自処せば、何れの処に行きて亨通せざる有らんや。「君子有終」に至りては:君子の心志は謙遜の上に安放す。事理に通达するがゆえに、天を楽しみ命を知りて人と相争わず。内裡充実するがゆえに、退譲して自ら誇らず。彼は安然として謙道を践行し、終身改めず。自処は越ゆるほど卑下なれば、別人は越えて発して彼を尊敬す。自我は越ゆるほど隠晦なれば、徳望は却って越えて光顕す——これすなわちいわゆる「君子有終」。小人に至りては、欲望有れば必ず争いに往き、徳行有れば必ず自ら誇る。たとえ勉めて謙道を羡慕して学びて之を為すとも、能く安然として実行し牢固に持守する能わず、それゆえ始有り終有るを為す能わず。
《彖》曰:謙亨,天道下濟而光明,地道卑而上行。濟當為際。此明謙而能亨之義。天之道,以其氣下際,故能化育萬物,其道光明。下際謂下交也。地之道,以其處卑,所以其氣上行,交於天,皆以卑降而亨也。
『謙・彖伝』に曰く:「謙亨、天道下済而光明、地道卑而上行」。按:「済」の字は応に「際」と作るべし。これは謙が何の故に能く亨通するかの道理を闡明す。天の道は、その気が下に向かいて交接するがゆえに、能く万物を化育し、その道は光明。「下際」とはすなわち下に向かいて交接するの意。地の道は、それが卑下に自処するがゆえに、その気は能く上行して天と相交わる。両者は皆卑下俯就に頼りて亨通を得。
天道虧盈而益謙,以天行而言,盈者則虧,謙者則益,日月陰陽是也。地道變盈而流謙,以地勢而言,盈滿者傾變而反陷,卑下者流注而益增也。鬼神害盈而福謙,鬼神謂造化之跡。盈滿者禍害之,謙損者福祐之,凡過而損,不足而益者,皆是也。人道惡盈而好謙。人情疾惡於盈滿,而好與于謙巽也。謙者人之至德,故聖人詳言,所以戒盈而勸謙也。
「天道虧盈而益謙」——上天の運行に就きて言えば、盈満するは虧損せられ、謙退するは却って増益せらる、日月の盈虧・陰陽の消長は即ちこの如し。「地道変盈而流謙」——地勢に就きて言えば、隆起盈満の地方は崩壊傾陷し、低窪卑下の地方は則ち水流が匯注して日益增高す。「鬼神害盈而福謙」——鬼神の指す所は造化運行の痕跡:盈満するはすなわちこれに禍害を降し、謙損するはすなわちこれに福祐を賜う。凡そ過ぎたればすなわちこれを減損し、足らざればすなわちこれを増益するは、皆この類に属す。「人道悪盈而好謙」——人の常情は、盈満自大の人を厭悪し、而して謙遜卑順の人に親附することを楽しむ。謙は人の徳性の中の極致、それゆえ聖人はその詳を厭わず反復して申説し、以て盈満を警戒し謙退を勧勉す。
謙尊而光,卑而不可逾,君子之終也。謙為卑巽也,而其道尊大而光顯。自處雖卑屈,而其德實高不可加尚,是不可逾也。君子至誠于謙,恆而不變,有終也,故尊光。《象》曰:地中有山,謙,君子以裒多益寡,稱物平施。
『彖伝』に曰く:「謙尊而光、卑而不可逾、君子之終也」。謙の姿態は卑下柔順、然るもその道理は却って尊大にして光顕。彼は自処は卑屈と雖も、而してその徳性は実は高きこと以て加うるなし、これをこそ「不可逾」と言う。君子は至誠より出でて謙を行い、持久して変わらず、能く善始善終す、それゆえ既に尊にして且つ光。『謙・大象伝』に曰く:「地中有山、謙、君子以裒多益寡、称物平施」。
地體卑下,山之高大而在地中,外卑下而內蘊高大之象,故為謙也。不云山在地中,而曰地中有山,言卑下之中蘊其崇高也。若言崇高蘊於卑下之中,則文理不順。諸象皆然,觀文可見。君子以裒多益寡,稱物平施,君子觀謙之象,山而在地下,是高者下之,卑者上之,見抑高舉下、損過益不及之義;以施於事,則裒取多者,增益寡者,稱物之多寡以均其施與,使得其平也。
大地の形体は卑下にして、高大の山は却って大地の中に在り、これは外表卑下にして内裡に高大を蘊含するの形象、それゆえ「謙」と称す。『象伝』は「山在地中」と言わずして「地中有山」と言うは、卑下の中に崇高を蘊蔵するを点明せんと欲するがゆえ。若し「崇高は卑下の中に蘊る」と説かば、文理は便ち順ならず。各卦の象辞は皆この写法、文字を看れば便ち明白す。「君子以裒多益寡、称物平施」:君子は謙卦の象を観察す——山は却って地の下に在るは、高きを圧し下げ低きを抬し上ぐるなり。中より抑高挙下・有余を損じて不足を補うの道理を看出し、それを具体的事務の上に施用すれば、すなわち多きのあの辺より取り来たりて、少なきのあの辺に添え与え、各物の多寡を衡量して施与を均匀ならしめ、彼此をして皆その平を得しむ。
初六,謙謙君子,用涉大川,吉。初六以柔順處謙,又居一卦之下,為自處卑下之至,謙而又謙也,故曰謙謙。能如是者,君子也。自處至謙,眾所共與也,雖用涉險難,亦無患害,況居平易乎?何所不吉也?初處謙而以柔居下,得無過於謙乎?曰:柔居下,乃其常也,但見其謙之至,故為謙謙,未見其失也。
『謙』卦の初六の爻辞に曰く:「謙謙君子、用渉大川、吉」。初六は柔順の質を以て謙の時勢の裡に処り、また一卦の最下位に居り、自処卑下なること極点に至り、謙にしてまた更に謙す、それゆえ「謙謙」と言う。能くこの如くする人は、すなわち君子。自処極めて謙なる人は、衆人は皆彼を助くるを楽しむ。たとえ彼を用いて険難を渉越するに用うるとも、禍患あらじ、いわんや平易の境地に処るをや。また何の不吉あらん。人に問うあり:初六はもと已に謙の時勢に処り、また柔爻を以て下位に居る、豈に謙の過分ならざらんや。答えて曰く:柔爻が下位に居るは、もとよりそれの常態、ここにただそれの謙の極処に至るを見出すのみ、それゆえ「謙謙」と称す、何の過失有るを看出さず。
《象》曰:謙謙君子,卑以自牧也。謙謙,謙之至也。謂君子以謙卑之道自牧也。自牧,自處也。《詩》云:“自牧歸荑。”六二,鳴謙,貞吉。二以柔順居中,是為謙德積於中。謙德充積於中,故發於外,見於聲音顏色,故曰鳴謙。居中得正,有中正之德也,故云貞吉。凡貞吉,有為貞且吉者,有為得貞則吉者,六二之貞吉,所自有也。
『小象伝』に曰く:「謙謙君子、卑以自牧也」。「謙謙」は謙の極処に至る、これは君子が謙卑の道を用いて自己を畜養するを言う。「自牧」はすなわち自処。『詩経・邶風・静女』に「自牧帰荑」の句有り、この字の用法を証すべし。六二の爻辞に曰く:「鳴謙、貞吉」。六二は柔順の質を以て下卦の中に居る、これは謙徳が内心に積蓄せる。謙徳は内裡に於て充実積累し、自然に外に発露して声音容色の上に表現す、それゆえこれを「鳴謙」と言う。それは中に居りてまた正を得、中正の徳を具備す、それゆえ「貞吉」と言う。凡そ「貞吉」は、或いは既に正しく且つ吉を言い、或いは能く正を守れば初めて吉ならんと言う。六二の「貞吉」は、それ本身が自有するのあの一種に属す。
《象》曰:鳴謙貞吉,中心得也。二之謙德,由至誠積於中,所以發於聲音,中心所自得也,非勉為之也。九三,勞謙,君子有終,吉。三以陽剛之德而居下體,為眾陰所宗,履得其位,為下之上,是上為君所任,下為眾所從,有功勞而持謙德者也,故曰勞謙。古之人有當之者,周公是也。身當天下之大任,上奉幼弱之主,謙恭自牧,夔夔如畏然,可謂有勞而能謙矣。
『小象伝』に曰く:「鳴謙貞吉、中心得也」。六二の謙徳は、至誠が心中に積累せられて来たる由、それゆえ自然に声音に発露す、是れ内心に自ら得る所有りて、勉強して作り出せるに非ず。九三の爻辞に曰く:「労謙、君子有終、吉」。九三は陽剛の徳を以て下卦に居り、群陰の宗仰する所と為る。処する所の位は得当、また下卦の上にして、正に上は君主の委任を受け下は衆人の擁戴と為るの地位——功労を立てて能く謙徳を持守す、それゆえこれを「労謙」と言う。古人の中にこの一爻に当たる者は、周公。彼は身に天下の重任を負い、上は年幼柔弱の成王に奉事し、却って謙恭に自己を約束し、戦戦兢兢として畏懼する所有るが如し、真に功労有りて能く謙退すると言うべし。
既能勞謙,又須君子行之有終,則吉。夫樂高喜勝,人之常情。平時能謙,固已鮮矣,況有功勞可尊乎?雖使知謙之善,勉而為之,若矜負之心不忘,則不能常久,欲其有終,不可得也。唯君子安履謙順,乃其常行,故久而不變,乃所謂有終,有終則吉也。九三以剛居正,能終者也。此爻之德最盛,故象辭特重。
既に能く労にして能く謙なるを為し得れば、また必ず君子の如くそれを堅持して底に至るを要し、初めて吉。高に居るを喜び人に勝るを喜ぶは、人の常情。平常の時に能く謙退するは、もとより已に少なし、いわんや功労を立て自尊の資本有る人をや。たとえ謙は好事なるを知りて勉力して之を為すとも、ただあの自矜自負の心思はなお除浄せられざれば、便ち能く長久ならず、始有り終有らんと欲するもまた為す能わざるなり。ただ君子のみ謙順を以て安身立命の常態と為し、日常この如く行い去る、それゆえ久しきを歴て改めず、これこそいわゆる「有終」。能く終有れば、自然に吉。九三は陽剛を以て正位に居り、正に能く堅持して底に至る人。この一爻の徳性は全卦の中に於て最も盛美、それゆえ『象伝』はそれに対して格外に鄭重。
《象》曰:勞謙君子,萬民服也。能勞謙之君子,萬民所尊服也。《繫辭》云:“勞而不伐,有功而不德,厚之至也。語以其功下人者也。德言盛,禮言恭。謙也者,致恭以存其位者也。”有勞而不自矜伐,有功而不自以為德,是其德弘厚之至也。言以其功勞而自謙,以下於人也。
『小象伝』に曰く:「労謙君子、万民服也」。能く労にして能く謙なる君子は、万民の尊崇服膺する所。『繋辞上伝』に曰く:「労而不伐、有功而不徳、厚之至也。語以其功下人者也。徳言盛、礼言恭。謙也者、致恭以存其位者也」。これは言う所は:力を出して自ら誇耀せず、功労有りて自ら恩徳有りと為さず、これは徳性の弘厚なること極点に至る。講ずる所は正にあの自己の功労に憑りて却って更に自ら謙り、身段を別人の下に放つ人。
德言盛,禮言恭。以其德言之,則至盛,以其自處之禮言之,則至恭,此所謂謙也。夫謙也者,謂致恭以存其位者也。存,守也。致其恭巽以守其位,故高而不危,滿而不溢,是以能終吉也。夫君子履謙,乃其常行,非為保其位而為之也。而言存其位者,蓋能致恭所以能存其位,言謙之道如此。如言為善有令名,君子豈為令名而為善也哉?亦言其令名者,為善之故也。
「徳言盛、礼言恭」——彼の徳性に就きて言えば、極めて盛美。彼の自処する礼節に就きて言えば、極めて恭敬。これをこそ謙と言う。「謙也者、致恭以存其位者也」に至りては、「存」は守の意。恭順を極尽して以て自己の位子を守住す、それゆえ地位は高しと雖も危険ならず、権勢は満つと雖も外に溢れず、これに因りて終に吉を得るを能くす。君子が謙道を践行するは、もとより彼の日常の行為、位を保住せんが為にこの如くするに非ず。ここに却って「存其位」と説くは、能く恭順を極尽すれば自然に位を守住し得るがゆえ、ただ謙道の効験に就きてこの如く講ずるのみ。これはたとえば「善を行えば美名有らん」と言うが如し、君子は豈に美名の為に善を行わんや。ただあの美名は善を行うの帯び来たる結果なるを言うのみ。
六四,無不利□謙。四居上體,切近君位,六五之君又以謙柔自處,九三又有大功德,為上所任、眾所宗,而己居其上,當恭畏以奉謙德之君,卑巽以讓勞謙之臣,動作施為,無所不利於□謙也。□,施布之象,如人手之□也。動息進退,必施其謙,蓋居多懼之地,又在賢臣之上故也。
『謙』卦の六四の爻辞に曰く:「无不利、□謙」(この字は底本残欠、伝世本は「撝」と作る、是れ手を揮いて施布するの意)。六四は已に上卦に進入し、君位に緊挨す。六五の君はまた謙柔を以て自処し、九三はまた大功大徳を立て、上は君主の倚任を受け下は衆人の宗仰と為り、而して自己は偏偏として九三の上に居る。このような処境は、理応恭敬畏慎を以てあの謙徳有る君主に奉事し、卑遜退譲を以てあの労にして能く謙なる臣子を対待すべし。それゆえ一挙一動・一施一為は、謙徳を揮洒施布し出すに適宜せざるはなし。あの缺字の取る所は正に施布の象、人が手臂を揮動して東西を散布するが如し。行動するも静処するも、前進するも後退するも、皆必ず謙を施展し出すべし、その処する所は正に惧るべき多きの位置にして、しかもなお賢臣の上に在るがゆえ。
《象》曰:無不利□謙,不違則也。凡人之謙,有所宜施,不可過其宜也。如六五或用侵伐是也。唯四以處近君之地,據勞臣之上,故凡所動作,靡不利於施謙,如是然後中於法則,故曰不違則也,謂得其宜也。
『小象伝』に曰く:「无不利、□謙、不違則也」。一般人が謙を行うにも、また応に施すべきと施すべからざるの分寸有り、それの応有の限度を超出すべからず——たとえば六五の爻に「或用侵伐」と説き至るが如き、あれはすなわち応に威武を動用すべき時。ただ六四のみ君主に緊靠する地位に処し、また功有る臣の上頭に居るがゆえに、それの一切の挙動は、謙徳を施展するに適宜せざるはなし。この如くして初めて正に法則に合す、それゆえ「不違則」と言う、すなわちそれの為す所は恰当合宜なるを言う。
六五,不富以其鄰,利用侵伐,無不利。富者眾之所歸,唯財為能聚人。五以君位之尊,而執謙順以接於下,眾所歸也,故不富而能有其鄰也。鄰,近也。不富而得人之親也,為人君而持謙順,天下所歸心也。然君道不可專尚謙柔,必須威武相濟,然後能懷服天下,故利用行侵伐也。威德並著,然後盡君道之宜,而無所不利也。蓋五之謙柔,當防於過,故發此義。
『謙』卦の六五の爻辞に曰く:「不富以其鄰、利用侵伐、无不利」。富有の人は衆人の帰附する対象、ただ財貨のみ能く人心を聚攏するがゆえ。六五は君位の尊を以て、却って謙順を執守して下面の人を接待す、衆人は自然に彼に帰向す、それゆえ財富に靠らずと雖も隣近の人の擁戴を得。「鄰」はすなわち近処の人。財富に靠らずして別人の親附を得るは、身が人君たりて能く謙順を持守するに因り、天下人は自然に帰心す。然るも君主たる者は一味に謙柔を崇尚する能わず、必ず威武有りて相輔相成し、然る後に初めて天下をして心から悦服せしめ得、それゆえ「利用侵伐」と言う。威と徳と両者は皆彰顕し出づれば、初めて君道の宜を尽くしたと算し、因りて利あらざるなし。これは六五が謙柔に偏するがゆえに、須らくそれが謙の過頭に至るを防ぐべし、それゆえ特地にこの層の意思を発明す。
《象》曰:利用侵伐,征不服也。徵其文德謙巽所不能服者也。文德所不能服,而不用威武,何以平治天下?非人君之中道,謙之過也。上六,鳴謙,利用行師,征邑國。六以柔處柔,順之極,又處謙之極,極乎謙者也。以極謙而反居高,未得遂其謙之志,故至發於聲音;又柔處謙之極,亦必見於聲色,故曰鳴謙。雖居無位之地,非任天下之事,然人之行己,必須剛柔相濟。上,謙之極也,至於大甚,則反為過矣。故利在以剛武自治。邑國,己之私有。行師,謂用剛武。征邑國,謂自治其私。
『小象伝』に曰く:「利用侵伐、征不服也」。征討する所は、あの文徳謙遜を以て感化し得ざる人。文徳は感化し得ず、而して又た威武を動用するを肯んぜざれば、何を以て天下を平治せん。あればすなわち人君の中道に非ず、而して謙の過頭に過ぎたれり。上六の爻辞に曰く:「鳴謙、利用行師、征邑国」。上六は陰柔の爻を以て陰柔の位に居り、柔順なること極点に至る。また謙卦の終極に処り、是れ謙の極処に至る人。謙の極処に至りて却って身は高位に居るがゆえに、謙譲の心志は遂行するに由なく、それゆえ声音に発するを要す。加うるに柔弱にして謙の極に処れば、また必ず声色に形る、それゆえこれを「鳴謙」と言う。それは職位なき地方に処ると雖も、天下の事務を担当せざると雖も、然るも人の立身行事は、総じて剛柔相輔を須いる。上六は謙の極処、過甚すれば却って偏失と為る、それゆえ利は剛武を用いて自己を整治するに在り。「邑国」は自己の私有封地、「行師」は剛武を動用し、「征邑国」はすなわち自己の分内の事を整治す。
《象》曰:鳴謙,志未得也,可用行師征邑國也。謙極而居上,欲謙之志未得,故不勝其切,至於鳴也。雖不當位,謙既過極,宜以剛武自治其私,故云利用行師征邑國也。
『小象伝』に曰く:「鳴謙、志未得也、可用行師征邑国也」。謙の極処に至りてまた身は上位に居り、あの謙退せんと欲するの心志は実現するに由なく、それゆえ心情は迫切にして按捺し得ず、終に声と為りて発す。それは尊位に当たらざると雖も、但し謙は既に限度を過ぎたれば、応に剛武を用いて自己分内の事を整治すべし、それゆえ「利用行師征邑国」と言う。
豫卦(坤下震上)
《豫》,《序卦》:“有大而能謙必豫,故受之以豫。”承二卦之義而為次也,有既大而能謙,則有豫樂也。豫者,安和悅樂之義。為卦,震上坤下,順動之象。動而和順,是以豫也。九四為動之主,上下群陰所共應也,坤又承之以順,是以動而上下順應,故為和豫之義。以二象言之,雷出於地上。陽始潛閉於地中,及其動而出地,奮發其聲,通暢和豫,故為豫也。
『豫』卦に就いて、『序卦伝』に曰く:「有大而能謙必豫、故受之以豫」。これは『大有』『謙』両卦の意思を承接して次序を排定す:所有は既に盛大にしてまた能く謙退せば、自然に和楽有り。「豫」はすなわち安和悦楽の意。卦体に就きて言えば、震は上に在り坤は下に在り、是れ理に順いて動くの象。動きてまた和順、それゆえ豫と為す。九四は全卦発動の主爻、上下の衆陰爻は共同してそれに応和し、坤はまた下に在りて柔順を以てそれに承奉す、これに因りて一たび動けば上下順応し、それゆえ和楽の義有り。両卦の象に就きて言えば、是れ雷が地面の上より発出す:陽気は起初は潜伏閉蔵して地中に在り、それが一たび動きて地面に出ずるを待ち、奮然として声響を発出し、暢通和楽、それゆえこれを豫と言う。
豫:利建侯行師。豫,順而動也。豫之義,所利在於建侯行師。夫建侯樹屏,所以共安天下,諸侯和順則萬民悅服,兵師之興,眾心和悅,則順從而有功,故悅豫之道,利於建侯行師也。又上動而下順,諸侯從王,師眾順令之象。君萬邦,聚大眾,非和悅不能使之服從也。
『豫』卦の卦辞に曰く:「利建侯行師」。豫は、理に順いて動く。豫の意義は、利は諸侯を分封し軍隊を出動するに在り。諸侯を分封し屏藩を樹立するは、共同して天下を安定せんが為。諸侯は和順すれば、万民は就ち悦服す。兵を興し衆を動かすの際、衆人の心裡和悦なれば、便ち順従して功を立てん。それゆえ和悦歓豫の道は、建侯と行師とに宜しきなり。再び言えば、上卦は震の動にして下卦は坤の順、正に諸侯が天王に服従し軍隊が号令に順従するの形象。万邦を統御し大衆を聚集するに、若し人をして和悦せしめ能わざれば、彼らをして服従せしむるの法なし。
《彖》曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。剛應,謂四為群陰所應,剛得眾應也。志行,謂陽志上行,動而上下順從,其志得行也。順以動豫,震動而坤順為動而順理,順理而動又為動而眾順,所以豫也。
『豫・彖伝』に曰く:「豫、剛応而志行、順以動、豫」。「剛応」とは九四のこの一陽爻が衆陰爻の応和する所と為るを言う、剛は衆人の響応を得たり。「志行」とは陽の心志が上に向かいて推行するを言う、一たび動けば上下皆順従し、その志向は実現を得。「順以動、豫」:震は動にして坤は順、すなわち行動は順理に合す。順理に動けば、また衆人の順従を帯び来たす、それゆえ能く和楽。
豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎?以豫順而動,則天地如之而弗違,況建侯行師,豈有不順乎?天地之道,萬物之理,唯至順而已。大人所以先天後天而不違者,亦順乎理而已。天地以順動,故日月不過而四時不忒;聖人以順動,則刑罰清而民服。復詳言順動之道。天地之運,以其順動,所以日月之度不過差,四時之行不愆忒;聖人以順動,故經正而民興於善,刑罰清簡而萬民服也。
『彖伝』に曰く:「豫順以動、故天地如之、而況建侯行師乎」。和豫にして順理に動くを以て、天地もまたこれと相同じくして相違わず、いわんや諸侯を分封し軍隊を出動するをや、何ぞ順ならざる有らん。天地の道・万物の理は、帰結すればただ一箇の「至順」のみ。大人の天時に先んじて行い、之に後れて行いても皆相違わざる所以も、またただ理に順うのみ。『彖伝』また曰く:「天地以順動、故日月不過而四時不忒。聖人以順動、則刑罰清而民服」。これは更に一步進んで順動の道理を詳説す:天地の運行は理に順いて動くがゆえに、日月の度数は差錯を出さず、四時の運行は舛誤を生ぜず。聖人は理に順いて動くがゆえに、綱紀は端正にして百姓は善に興起し、刑罰は清簡にして万民は服従す。
豫之時義大矣哉!既言豫順之道矣,然其旨味淵永,言盡而意有餘也,故復贊之云:“豫之時義大矣哉!”欲人研味其理,優柔涵泳而識之也。時義,謂豫之時義。諸卦之時與義用大者,皆贊其大矣哉,《豫》以下十一卦是也。《豫》、《遁》、《後》、《旅》言時義,《坎》、《暌》、《蹇》言時用,《頤》、《大過》、《解》、《革》言時,各以其大者也。
『彖伝』は最後に曰く:「豫之時義大矣哉」!既に和豫順動の道理を説き了えり、然るもその中は意味深長、話は説き尽くして余意は未だ窮まらず、それゆえ再び一句を讃嘆して「豫之時義大矣哉」と曰くは、人をしてその中の道理を細細に体味し、従容涵泳して然る後に領会有らんと欲する。「時義」の指す所はすなわち豫のこの一時勢の含む所の意義。凡そ卦の「時」と「義」と「用」との宏大なる者は、『彖伝』は皆一句を讃して「大矣哉」と曰く。『豫』卦より下より共に十一卦:『豫』『遯』『姤』『旅』は「時義」を説き、『坎』『睽』『蹇』は「時用」を説き、『頤』『大過』『解』『革』はただ「時」のみを説き、各々その中の最も宏大なる一面に就きて言を立つ。
《象》曰:雷出地奮,豫,先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。雷者,陽氣奮發,陰陽相薄而成聲也。陽始潛閉地中,及其動,則出地奮震也。始閉鬱,及奮發則通暢和豫,故為豫也。坤順震發,和順積中而發於聲,樂之象也。先王觀雷出地而奮,和暢發於聲之象,作聲樂以褒崇功德,其殷盛至於薦之上帝,推配之以祖考。殷,盛也。禮有殷奠,謂盛也。薦上帝,配祖考,盛之至也。
『豫・大象伝』に曰く:「雷出地奮、豫、先王以作楽崇徳、殷薦之上帝、以配祖考」。雷は、陽気が奮然として発動し陰陽相激して形成する声響。陽気は起初は潜伏閉蔵して地中に在り、それが一たび動くを待ち、便ち地面を冲出して奮然として震響す。起先は鬱結閉塞し、一旦奮発すれば、便ち暢通和楽、それゆえこれを豫と言う。坤は柔順、震は発動、和順の気は中に積りて声音と為りて発す、これ正に音楽の形象。先王は雷が地面に出でて奮発し和暢の気が声響と為りて発する形象を観察し、そこに於て音楽を創制して以て功徳を褒揚崇奉す。隆盛の至り、乃至それを用いて上帝に献享し、併せて祖先を以て配享す。「殷」は盛大の意、古礼の中に「殷奠」有り、説く所はすなわち盛大。上帝に献享し祖考を以て配享するは、盛大なること極点に至る。
初六,鳴豫,凶。初六以陰柔居下,四豫之主也,而應之,是不中正之小人處豫,而為上所寵,其志意滿極,不勝其豫,至發於聲音,輕淺如是,必至於凶也。鳴,發於聲也。《象》曰:初六鳴豫,志窮凶也。雲初六,謂其以陰柔處下,而志意窮極,不勝其豫,至於鳴也,必驕肆而致凶矣。
『豫』卦の初六の爻辞に曰く:「鳴豫、凶」。初六は陰柔を以て最下位に居り、而して九四は全卦歓豫の主爻にして、またそれと相応す。これはたとえば一箇の不中不正の小人が歓楽の世に身を処し、偏偏として上面の寵幸を得、そこに於て志得意満なること極点に至り、快楽して按捺し得ず、竟に声音に発するに至るが如し。軽浮浅薄なることこの地步に至れば、必ず凶険に走向す。「鳴」はすなわち声音と為りて発す。『小象伝』に曰く:「初六鳴豫、志窮凶也」。特地に「初六」の二字を標出するは、それが陰柔を以て下位に処り、心志は却って得意なること極処に至り、楽しみて按捺し得ずして声に形るを言う、この如くすれば必然に驕縦放肆して凶禍を招致せん。
六二,介于石,不終日,貞吉。逸豫之道,放則失正,故豫之諸爻,多不得正,才與時合也。唯六二一爻處中正,又無應,為自守之象。當豫之時,獨能以中正自守,可謂特立之操,是其節介如石之堅也。介于石,其介如石也。人之於豫樂,心悅之,故遲遲遂至於耽戀不能已也。二以中正自守,其介如石,其去之速,不俟終日,故貞正而吉也。處豫不可安且久也,久則溺矣。如二,可謂見幾而作者也。
『豫』卦の六二の爻辞に曰く:「介于石、不終日、貞吉」。安逸歓楽のこの路は、一たび放縦すればすなわち正を失う、それゆえ『豫』卦の各爻は大多その正を得ず——これは爻の才質と処する所の時勢とが相配合するの縁故。ただ六二のこの一爻のみ既に中にして且つ正、また相応する爻なく、それゆえ自守の象を呈す。身は歓豫の時に当たりて、独り中正を以て自守し得るは、真に卓然独立の操守と言うべく、その節操の堅定なること石頭の如し。「介于石」とは、すなわちその耿介なること石の如きを言う。人は歓楽に対しては、心裡は総じて之を喜ぶ、それゆえ往々にして拖延して、終に沉溺留恋して自ら抜く能わず。六二は中正を以て自守し、耿介として石の如く、身を抽き去るの快さ、一日の過ぎ了るを待たず、それゆえ既に正しく且つ吉。歓豫の中に身を処するは、安然として久留すべからず、久しければすなわち陥溺せん。六二の如きは、苗头を看出せば便ち即座に行動する人と言うべし。
夫子因二之見幾,而極言知幾之道,曰:“知幾其神乎!君子上交不諂,下交不瀆,其知幾乎!幾者動之微、吉之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。《易》曰:‘介于石,不終日,貞吉。’介如石焉,寧用終日,斷可識矣。君子知微知彰,知柔知剛,萬夫之望。”
孔子は六二の「見幾」に借りて、幾を知るの道理を極処に説き至れり。『繋辞下伝』は彼の話を記して曰く:「能く幾微を識るは、真に神妙なり。君子は上と交際するに諂媚せず、下と交際するに軽慢せず、ほぼ幾微を懂得するか。いわゆる『幾』とは、事物の発動する時のあの点の細微の苗头、吉兆の預め顕露して未だ顕著ならざる時。君子は一たび苗头を見ればすなわち行動し、一日の過ぎ了るを待たず。『易』に『介于石、不終日、貞吉』と曰く——既に耿介として石の如ければ、何ぞ終日を待つを用いん、分辨は清清楚楚たり。君子は既に細微を知りまた顕著を知り、既に柔弱を知りまた剛強を知る、それゆえ万人の仰望する所なり」。
夫見事之幾微者,其神妙矣乎!君子上交不至於諂,下交不至於瀆者,蓋知幾也。不知幾,則至於過而不已。交於上以恭巽,故過則為諂;交於下以和易,故過則為瀆。君子見於幾微,故不至於過也。所謂幾者,始動之微也,吉凶之端可先見而未著者也。獨言吉者,見之於先,豈復至有凶也?
事情の幾微の徴兆を看出し得る人は、あの見識は真に神妙なり。君子は上位者と交際するに諂媚に至らず、下位者と交際するに軽慢に至らざるは、正に彼が幾を知るに因る。幾を知らざれば、便ち一路過ぎて収め住む能わざらん:上と交際するに頼る所は恭敬卑順、過ぎれば便ち諂媚と為る。下と交際するに頼る所は和易平実、過ぎれば便ち軽慢と為る。君子は幾微の処に於て已に看見す、それゆえ過頭に至らず。いわゆる「幾」とは、すなわち事情が剛だに発動を開始する時のあの一点の極細微の苗头、吉凶の端倪は已に預見可にして未だ顕著ならざる時。ここに単に「吉」を説くは、既に事に先んじて看見したれば、何ぞ凶のあの一步に走り至らんや。
君子明哲,見事之幾微,故能其介如石,其守既堅,則不惑而明,見幾而動,豈俟終日也?斷,別也。其判別可見矣。微與彰,柔與剛,相對者也。君子見微則知彰矣,見柔則知剛矣,知幾如是,眾所仰也,故贊之曰“萬夫之望”。
君子は明智通達にして、事情の幾微を看見し得、それゆえ能く耿介として石の如くするを為し得。操守は既に堅定なれば、便ち迷惑せずして清明、一たび苗头を見れば便ち行動す、何ぞ一日の過ぎ了るを待つを得んや。「断」は分辨の意、其中の是非分際は清清楚楚にして看出すべきを言う。細微と顕著・柔弱と剛強とは、皆相対して言う所:君子は細微を見れば便ちそれの顕著の時の様子を知り、柔弱を見れば便ちそれの剛強の時の様子を知る。幾を知ることこの地步に至るは、衆人の仰望する所、それゆえ孔子は彼を讃嘆して「万夫之望」と為す。
《象》曰:不終日貞吉,以中正也。能不終日而貞且吉者,以有中正之德也。中正故其守堅,而能辨之早,去之速。爻言六二處豫之道,為教之意深矣。六三,盱豫,悔,遲有悔。六三陰而居陽,不中不正之人也。以不中正而處豫,動皆有悔。盱,上視也。上瞻望於四,則以不中正不為四所取,故有悔也。四,豫之主,與之切近,苟遲遲而不前,則見棄絕,亦有悔也。蓋處身不正,進退皆有悔吝。當如之何?在正身而已。君子處己有道,以禮制心,雖處豫時,不失中正,故無悔也。
『小象伝』に曰く:「不終日貞吉、以中正也」。能く一日の過ぎ了るを待たずして身を抽くは、因りて既に正しく且つ吉、それが中正の徳を具備するに由る。ただそれの中正なるがゆえに、操守は堅定にして辨ること早く、走ること速し。この一爻は六二が歓豫の世に身を処するの自処の道を講じ、教誨の用意は甚だ深し。六三の爻辞に曰く:「盱豫、悔、遅有悔」。六三は陰爻を以て陽位に居るは、是れ既に中ならず且つ正ならざる人。不中不正の資質を以て歓豫の世に処れば、一挙一動は皆悔有らん。「盱」は頭を抬げて上を看る。それは頭を抬げて九四を仰望するも、自己が不中不正なるに因りて九四に接納せられず、それゆえ悔あり。九四は全卦歓豫の主爻、それと挨れること極めて近し、若しそれが遅疑して前進せざれば、また棄絶せられん、同じく悔あり。見ゆべし、立身正ならざれば、進んでも悔あり退いても悔あり。あれは則ち如何せん。ただ自身を端正するのみ。君子の自処は自ら法度有り、礼を以て心念を節制す、たとえ身は歓豫の世に処るとも、中正を失わず、それゆえ悔なし。
《象》曰:盱豫有悔,位不當也。自處不當,失中正也,是以進退有悔。九四,由豫,大有得,勿疑,朋盍簪。豫之所以為豫者,由九四也,為動之主,動而眾陰悅順,為豫之義。四,大臣之位,六五之君順從之,以陽剛而任上之事,豫之所由也,故云由豫。大有得,言得大行其志,以致天下之豫也。
『小象伝』に曰く:「盱豫有悔、位不当也」。自処する位置は不当、すなわち中正を失う、それゆえ進退皆悔あり。九四の爻辞に曰く:「由豫、大有得、勿疑、朋盍簪」。全卦のその「豫」たる所以を成すは、九四に由りて来る。それは発動の主爻、一たび動けば衆陰爻は皆欣悦順従す、これ正に豫の意義。四は大臣の位、六五の君は彼に順従し、彼は陽剛の才を以て上に在る者の事務を担当し、天下の和楽は彼に由りて生ず、それゆえ「由豫」と言う。「大有得」とは、彼が得て大いに自己の抱負を施行し、従りて天下をして皆和楽に帰せしむるを言う。
勿疑,朋盍簪:四居大臣之位,承柔弱之君,而當天下之任,危疑之地也,獨當上之倚任,而下無同德之助,所以疑也。唯當盡其至誠,勿有疑慮,則朋類自當盍聚。夫欲上下之信,唯至誠而已。苟盡其至誠,則何患乎其無助也?簪,聚也。簪之名簪,取聚髮也。或曰:卦唯一陽,安得同德之助?曰:居上位而至誠求助,理必得之。《後》之九五曰有隕自天是也。
「勿疑、朋盍簪」:九四は身に大臣の位を居り、上面には柔弱の君主に奉事し、自己は却って天下の重任を担う、これは危疑の地。彼は独自に君主の倚重を承受し、下面にはまた同徳の人の相助なく、それゆえ疑慮を生ず。あの時ただ自己の至誠を拿出して疑慮せざるのみ、同道の人は自然に聚攏し来たらん。上下の信任を取得せんとするは、頼る所はただ至誠の二字。ただ至誠を尽くせば、なお相助する人なきを愁えんや。「簪」は聚の意、簪子の名を簪と為す所以は、取る所は正に頭髪を聚攏するの義。人に問うあり:『豫』卦はただ一箇の陽爻のみ有り、何処より来たれるか同徳の助。答えて曰く:身は上位に居りて至誠を以て求助せば、理に按じて必ず得るを能くすべし。『姤』卦の九五に「有隕自天」と言うは、講ずる所はすなわちこの道理。
四以陽剛,迫近君位,而專主乎豫,聖人宜為之戒,而不然者,豫和順之道也,由和順之道,不失為臣之正也。如此而專主於豫,乃是任天下之事而致時於豫者也,故唯戒以至誠勿疑。《象》曰:由豫,大有得,志大行也。由己而致天下於樂豫,故為大有得,謂其志得大行也。
九四は陽剛の質を以て君位に緊逼し、また和楽の権を独攬す、理に照らせば聖人は応に彼に対して告戒有るべし、然るも并せず、これは何の為。豫はもとより和順の道、和順の道に循いて行えば、すなわち臣子たるの正当の分際を失わず。この如くして独り豫の主に当たるは、正に天下の事務を担當し時局を和楽に帯び向かわしむる人、それゆえただ彼に至誠なるべく疑慮せざるべきを告戒するのみ。『小象伝』に曰く:「由豫、大有得、志大行也」。天下の和楽は自己に由りて来る、それゆえ「大有得」と言う、すなわち彼の抱負は大いに施行するを得を言う。
六五,貞疾,恆不死。六五以陰柔居君位,當豫之時,沉溺於豫,不能自立者也。權之所主,眾之所歸,皆在於四。四之陽剛得眾,非耽惑柔弱之君所能制也,乃柔弱不能自立之君,受制於專權之臣也,居得君位貞也,受制於下有疾苦也。六居尊位,權雖失而位未亡也,故云貞疾恆不死,言貞而有疾,常疾而不死,如漢、魏末世之君也。
六五の爻辞に曰く:「貞疾、恒不死」。六五は陰柔を以て君位に居り、正に歓豫の世に当たり、自己は安楽の裡に沉溺す、是れ能く自立せざる君主。権柄の在る所・衆心の帰向は、皆九四のあそこに在り。九四は陽剛にして衆を得、是れ一箇の享楽に沉溺し性情柔弱の君主の管束し得る所に非ず。これは便ち柔弱にして能く自立せざる君主が専権の臣に受制するを成す。彼は君位を占す、これは「貞」。臣下に受制す、これは「疾」。陰爻を以て尊位に居れば、権柄は失せたれども位子は却ってなお在り、それゆえ「貞疾、恒不死」と言う——意思は名分は正しきと雖も身に痼疾有り、長年病を抱きて而して一時に死せず、漢朝・魏朝の末世のあれらの君主の如し。
人君致危亡之道非一,而以豫為多。在四不言失正,而於五乃見其強逼者,四本無失,故於四言大臣任天下之事之義,於五則言柔弱居尊,不能自立,威權去己之義,各據爻以取義,故不同也。若五不失君道,而四主於豫,乃是任得其人安享其功,如太甲、成王也。《蒙》亦以陰居尊位,二以陽為蒙之主,然彼吉而此疾者,時不同也。童蒙而資之於人,宜也;耽豫而失之於人,危亡之道也。故蒙相應,則倚任者也;《豫》相逼,則失權者也。又上下之心專歸於四也。
君主の危亡を招致するの途径はただ一条に止まらず、而して安楽に耽るに因りて禍を招くは最も多し。九四のあそこに於ては彼の正を失うを説かず、六五のここに到りては却って臣下の強勢相逼するを見出すは、九四の本身は并せて過失なきがゆえに、九四に就きて説く所は大臣が天下の事務を担当するの道理、六五に就きて説く所は柔弱の君が尊に居りて能く自立せず威権が旁落するの道理——各々本爻に就きて義を取る、それゆえ説法は同じからず。仮令六五が君主の道を失わずして、九四が和楽の政を主持せば、あれは便ち用人得当にして安んじてその成を享くるなり、太甲の伊尹に於ける、成王の周公に於けるが如し。『蒙』卦もまた陰爻が尊位に居り、九二は陽爻を以て全卦の主と為す、然るも『蒙』卦は吉にしてここは却って疾たるは、原因は時勢の相同じからざるに在り:童蒙は無知にして別人に倚仗するは、応然なり。享楽に沉溺して権柄を別人に丢与するは、あれはすなわち危亡の道。それゆえ『蒙』卦は二と五と相応するは、倚重任用。『豫』卦は四と五と相逼するは、権柄を喪失す。いわんや上下の人心はまた皆専ら九四に帰するをや。
《象》曰:六五貞疾,乘剛也;恆不死,中未亡也。貞而疾,由乘剛為剛所逼也。恆不死,中之尊位未亡也。上六,冥豫成,有渝無咎。上六陰柔,非有中正之德,以陰居上,不正也。而當豫極之時,以君子居斯時,亦當戒懼,況陰柔乎?乃耽肆於豫,昏迷不知反者也。在豫之終,故為昏冥已成也。若能有渝變,則可以無咎矣。在豫之終,有變之義。人之失,苟能自變,皆可以無咎,故冥豫雖已成,能變則善也。聖人發此義,所以勸遷善也,故更不言冥之凶,專言渝之無咎。《象》曰:冥豫在上,何可長也?昏冥於豫,至於終極,災咎行及矣。其可長然乎?當速渝也。
『小象伝』に曰く:「六五貞疾、乗剛也。恒不死、中未亡也」。名分は正しきと雖も身に疾患あるは、それが陽剛の上に凌駕し、却って陽剛に逼められたるに因る。長年死せざるは、中に居るあの尊位がなお丢れざるに因る。上六の爻辞に曰く:「冥豫成、有渝无咎」。上六は陰柔にして、并せて中正の徳を具備せず、陰爻を以て最上に居るは、正ならざるなり。いわんや正に歓豫の極点に到る時に当たるをや——たとえ君子がこのような時に処するも、応に戒慎恐懼すべし、いわんや陰柔の人をや。そこに於て彼は享楽に沉湎放縦し、昏昧迷失して回头を知らず。豫卦の終末に処するがゆえに、昏冥は已に鋳成せられたりと言う。倘若し能く変改する所有れば、すなわち災禍を免れ得。一卦の終に処するは、もとより変の意味を含む。人の過失は、ただ能く自己改变すれば、皆災禍を免れ得、それゆえ豫に於て昏冥は已に鋳成せりと雖も、能く変わればすなわち好し。聖人がこの層の意思を発明するは、人に勧めて善に遷らしめんが為、それゆえ索性に昏冥の凶険を説かず、ただ変改すれば過错なからんと説くのみ。『小象伝』また曰く:「冥豫在上、何可長也」。昏昧に享楽に沉溺して、一直に終極の地步に到れば、災禍は馬上に臨頭せんとす、豈に能くこの如く長久に下去らんや。応に赶紧に変改するを是れとす。
随卦(震下兌上)
《隨》,《序卦》:“豫必有隨,故受之以隨。”夫悅豫之道,物所隨也,隨所以次豫也。為卦,兌上震下,兌為說,震為動,說而動,動而說,皆隨之義。女隨人者也,以少女從長男,隨之義也。又震為雷,兌為澤,雷震於澤中,澤隨而動,隨之象也。又以卦變言之,乾之上來居坤之下,坤之初往居乾之上,陽來下於陰也。以陽下陰,陰必說隨,為隨之義。凡成卦,既取二體之義,又有取爻義者,復有更取卦變之義者,如隨之取義,尤為詳備。
『随』卦に就いて、『序卦伝』に曰く:「豫必有随、故受之以随」。歓悦和楽の道は、万物の願いて跟従する所、それゆえ『随』卦は『豫』卦の後に排す。卦体に就きて言えば、兌は上に在り震は下に在り:兌は悦、震は動。心裡悦然として而る後に行動し、行動してまた人をして悦然たらしむは、皆「随」の意。再び言えば、女子は人に随う者、ここに少女を以て長男に跟従するは、また随の意。また震は雷と為り兌は沢と為り、雷は沢の中に在りて震動し、沢水はこれに随いて動く、これは随の形象。更に卦変の上より言えば、乾卦の上爻は下りて坤の下に居り、坤卦の初爻は上りて乾の上に居る、是れ陽が陰の下面に来る。陽を以て陰下に屈居せば、陰は必ず欣悦して跟従す、これもまた随の意。大凡そ一卦の成立は、既に上下両体の意義を取り、また爻位の意義を取る者有り、更に別に卦変の意義を取る者有り。『随』卦の如く多方に義を取るは、尤も詳備。
隨:元,亨,利,貞,無咎。隨之道,可以致大亨也。君子之道,為眾所隨,與己隨於人,及臨事擇所隨,皆隨也。隨得其道,則可以致大亨也。凡人君之從善,臣下之奉命,學者之徙義,臨事而從長,皆隨也。隨之道,利在於貞正,隨得其正,然後能大亨而無咎。失其正則有咎矣,豈能亨乎?
『随』卦の卦辞に曰く:「元・亨・利・貞、无咎」。随のこの路は、大亨通に達すべし。君子の道が衆人に跟随せられ、自己が別人に跟随し、および事に臨みて誰に跟随するかを選択するは、これらは皆「随」に属す。跟随して法を得れば、すなわち能く大いに亨通す。凡そ君主の善に従うこと流るるが如く、臣下の命令を奉行し、求学者の義に迁就し、事に臨みて賢長の意見を聴従するは、皆随なり。随の道理は、利は正を守るに在り:跟随してその正を得、然る後に初めて能く大亨通して過错を出さず。正を失えば、すなわち過错を出さん、何処に更に亨通を談ずるを得ん。
《彖》曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞,無咎,而天下隨時。卦所以為隨,以剛來而下柔,動而說也,謂乾之上九來居坤之下,坤之初六往居乾之上,以陽剛來下於陰柔,是以上下下,以貴下賤,能如是,物之所說隨也。又下動而上說,動而可說也,所以隨也。如是則可大亨而得正,能大亨而得正,則為無咎。不能亨,不得正,則非可隨之道,豈能使天下隨之乎?天下所隨者時也,故云“天下隨時”。
『随・彖伝』に曰く:「随、剛来而下柔、動而説、随。大亨貞、无咎、而天下随時」。この一卦の「随」と称する所以は、剛爻が下りて柔爻の下に屈居し、しかも動きて人をして喜悦せしむるに在り。いわゆる剛来下柔とは、乾の上九が下りて坤の下に居り、坤の初六が上りて乾の上に居るを言う:陽剛を以て甘んじて陰柔の下に居るは、これすなわち上位に在る者が下位に在る者に俯就し、尊貴なるが卑賎なるに俯就するなり。能くこの如くすれば、万物は自然に欣悦して跟従す。再び言えば下卦は震の動にして上卦は兌の悦、動きて能く人をして喜悦せしむれば、それゆえ随と為す。この如くすれば能く大いに亨通してまた正道を持守す。能く大亨して正を得れば、初めて過错あらず。能く亨通せずその正を得ざれば、便ち跟随すべきに値する道に非ず、何ぞ能く天下人をして跟随せしめんや。天下の跟随する所は「時」、それゆえ「天下随時」と言う。
隨時之義大矣哉!君子之道,隨時而動,從宜適變,不可為典要,非造道之深,知幾能權者,不能與於此也。故贊之曰“隨時之義大矣哉!”凡贊之者,欲人知其義之大,玩而識之也。此贊隨時之義大,與《豫》等諸卦不同,諸卦時與義是兩事。
『彖伝』は讃嘆して曰く:「随時之義大矣哉」!君子の道は、時勢に随いて動き、どのように合宜すればどのように応変し、一套の固定不変の条例に立成する能わず。造詣極めて深く、能く幾微を識りて権衡に善き人に非ざれば、この境界に参与するに到らず、それゆえ一句を讃嘆して「随時之義大矣哉」と曰く。凡そこの類の讃嘆は、皆人をしてその中の意義の大なるを知らしめ、反復して玩味して而る後に領会せしめんと欲する。不過ここに讃ずる所は「随時」のこの層の意義の大、『豫』等の卦と同じからず:あの数卦の裡に於ては、「時」と「義」はもとより両回事。
《象》曰:澤中有雷,隨,君子以嚮晦入宴息。雷震於澤中,澤隨震而動,為隨之象。君子觀象,以隨時而動。隨時之宜,萬事皆然,取其最明且近者言之。君子以嚮晦入宴息:君子晝則自強不息,及向昏晦,則入居於內,宴息以安其身,起居隨時,適其宜也。《禮》:君子晝不居內,夜不居外,隨時之道也。
『随・大象伝』に曰く:「沢中有雷、随、君子以向晦入宴息」。雷は沢の中に在りて震動し、沢水は雷震に随いて動く、これは随の形象。君子はこの象を観察して、中より随時に動くの道理を学得す。時に随いて宜を制すは、万事は皆応にこの如くすべし。ここにただその中の最も浅近明白の一件を取りて説く:「君子以向晦入宴息」——君子は白日は自強不息して事を為し、天色が晩に向かうに至れば、便ち室内に退入し、安歇休息して以てその身体を養う。起居作息は時候に随いて定まり、各々その宜を得。『礼記』に「君子昼不居内、夜不居外」の説法有り、講ずる所は正に随時の道。
初九,官有渝,貞吉,出門交有功。九居隨時而震體且動之主,有所隨者也。官,主守也。既有所隨,是其所主守有變易也,故曰官有渝,貞吉,所隨得正則吉也。有渝而不得正,乃過動也。出門交有功:人心所從,多所親愛者也。常人之情,愛之則見其是,惡之則見其非,故妻孥之言雖失而多從,所憎之言雖善為惡也。苟以親愛而隨之,則是私情所與,豈合正理,故出門而交則有功也。出門謂非私暱,交不以私,故其隨當而有功。
『随』卦の初九の爻辞に曰く:「官有渝、貞吉、出門交有功」。初九は陽爻を以て随の時勢の裡に処り、また震体に属して発動の主爻たり、是れ跟随する所有る人。「官」は主管・守持の意。既に跟随の対象有れば、あれば彼の原先の主守する所の物はすなわち変動を発生せん、それゆえ「官有渝」と言う。「貞吉」と言うは、跟随する所の対象がその正を得れば初めて吉なるに因る。変わりて而して正を得ざれば、あれはすなわち妄動。「出門交有功」:人心の跟従する所は、多半は自己の親近喜愛する人。常人の情は、誰を喜べばすなわち彼の何処を看ても皆是、誰を厭悪すればすなわち彼の何処を看ても皆非。それゆえ妻子児女の話はたとえ説き錯えりとも常常聴従し、憎悪する所の人はたとえ説き当たりとも対ならずと為す。倘若し親愛に因りて人家に跟随せば、あれは私情の偏袒より出づ、何処に正理に合せんや。それゆえ家門を走出して交接すれば、初めて功有らんと言う。「出門」とは私昵の人に限らざるを言う。交接は私情を掺入せざれば、跟随する所は自然に得当にして功效有らん。
《象》曰:官有渝,從正吉也。既有隨而變,必所從得正則吉也。所從不正,則有悔吝。出門交有功,不失也。出門而交,非牽於私,其交必正矣,正則無失而有功。六二,係小子,失丈夫。二應五而比初,隨先於近柔,不能固守,故為之戒云:若係小子,則失丈夫也。初陽在下,小子也;五正應在上,丈夫也。二若志繫於初,則失九五之正應,是失丈夫也。係小子而失丈夫,舍正應而從不正,其咎大矣。二有中正之德,非必至如是也,在隨之時,當為之戒也。
『小象伝』に曰く:「官有渝、従正吉也」。既に跟随する所有るに因りて変動を生ぜば、あれば必ず跟従する所の対象が正を得れば初めて吉。跟従する所の正ならざれば、便ち悔恨と羞吝と有らん。「出門交有功、不失也」——門を走出して交接し、私情に牵扯せられざれば、交往は必ず端正。端正なれば便ち閃失あらずして功を建つるを能くす。六二の爻辞に曰く:「系小子、失丈夫」。六二はもとより九五と相応すべし、然るもまた初九に緊挨す。随の時は容易に眼前の近隣に先ず跟従し、柔弱の質はまた守りて牢ならず、それゆえ特地にそれの為に戒を立てて曰く:若し往きてあの「小子」を牽系せば、すなわちあの「丈夫」を失わん。初九は陽爻にして下に在るは、「小子」。九五は正応にして上に在るは、「丈夫」。六二は若し心志を初九の身上に系えば、すなわち九五のこの正応を失い、すなわち丈夫を失う。小子を牽系して丈夫を失うは、正応を捨棄して不正に跟従するなり、過失は便ち大なるべし。六二はもとより中正の徳有り、未必しも真にこの地步に到らん、ただ身が随の時勢に処するに因り、理応先にそれの為に告戒を立下すべし。
《象》曰:係小子,弗兼與也。人之所隨,得正則遠邪,從非則失是,無兩從之理。二苟繫初,則失五矣,弗能兼與也。所以戒人從正當專一也。六三,係丈夫,失小子,隨有求得,利居貞。
『小象伝』に曰く:「系小子、弗兼与也」。人の跟随する対象は、正に跟し得ればすなわち邪を遠離し、非に跟し錯えればすなわち是を失う、同時に両辺に跟従するの道理なし。六二は若し初九を牽系せば、すなわち九五を失い、両辺は兼ねて得る能わず。これは人を告戒する:正道に跟従するは必ず専一なるべし。六三の爻辞に曰く:「系丈夫、失小子、随有求得、利居貞」。
丈夫九四也,小子初也。陽之在上者丈夫也,居下者小子也。三雖與初同體,而切近於四,故繫於四也。大抵陰柔不能自立,常親繫於所近者。上繫於四,故下失於初,舍初從上,得隨之宜也,上隨則善也。如昏之隨明,事之從善,上隨也。背是從非,舍明逐暗,下隨也。
ここに言う「丈夫」は九四を指し、「小子」は初九を指す:陽爻は上位に在るはすなわち丈夫、下位に居るはすなわち小子。六三は初九と同じく下卦に在ると雖も、却って九四に緊挨す、それゆえ九四に牽系す。大抵陰柔の質は能く自立せず、総じて自己に最も近き人に親附牽系す。それは上に向かいて九四に系う、これに因りて下に向かいては便ち初九を失う。初九を捨棄して上面に跟従するは、正に随の適宜の道に合す——上に向かいて跟随するはすなわち好し。たとえば昏昧の人が明達の人に跟随し、事を弁ずる人が良善の一方に依従するは、これは上に向かうの随。正確に背離して錯誤に跟従し、光明を捨棄して昏暗を追逐するは、これすなわち下に向かうの随。
四亦無應,無隨之者也,近得三之隨,必與之親善。故三之隨四,有求必得也。人之隨於上,而上與之,是得所求也。又凡所求者可得也。雖然,固不可非理枉道以隨於上,苟取愛說以遂所求。如此,乃小人邪諂趨利之為也,故云利居貞。自處於正,則所謂有求而必得者,乃正事君子之隨也。
九四もまた相応の爻なく、もとより跟随する人なし。如今近くに就きて六三の跟随を得れば、必ず六三と親近友善す、それゆえ六三が九四に跟随するは、求むる所有れば必ず得るを得。人は上位に在る者に跟随して上に在る者が彼を接納するは、これすなわち願う所を求得す。しかも凡そ求むる所有れば、も大抵皆願いの如くを得。話はこの如しと雖も、却って断じて事理に違背し正道を歪曲して上面に攀附すべからず、苟且に上面の歓心を換取して以て自己の求むる所を達成す。あのように為せば、すなわち小人の邪佞諂媚・趨炎逐利の行従。それゆえ爻辞に「利居貞」と言う。自己は正しく立てば、あればいわゆる「有求必得」なる所は、初めて正当事情の上の君子式の跟随。
《象》曰:係丈夫,志舍下也。既隨於上,則是其志舍下而不從也。舍下而從上,舍卑而從高也,於隨為善矣。九四,隨有獲,貞凶。有孚,在道,以明,何咎?九四以陽剛之才,處臣位之極,若於隨有獲,則雖正亦凶。有獲,謂得天下之心隨於己。為臣之道,當使恩威一出於上,眾心皆隨於君。若人心從己,危疑之道也,故凶。
『小象伝』に曰く:「系丈夫、志舎下也」。既に上面に跟随したれば、すなわちそれの心志は已に下面を捨棄して更に跟従せざるを説明す。下を舎して上に従うは、卑者を捨棄して尊者に跟従するなり、随の時勢の裡に於ては好しと算す。九四の爻辞に曰く:「随有獲、貞凶。有孚、在道、以明、何咎」。九四は陽剛の才を以て臣位の頂端に処り、若し「随」の上に於て收獲有らば、あればたとえ自己は正を守るともなお凶なり。いわゆる「有獲」とは、天下人心を得て皆自己に跟随せしむるを言う。臣子たるの道理は、応に恩沢と威権とをして全て君主より出づらしめ、衆人の心をして皆君主に帰向せしむべし。若し人心が跟従する所は自己ならば、あれはすなわち危疑の道、それゆえ凶。
居此地者奈何?唯孚誠積於中,動為合於道,以明哲處之,則又何咎?古之人有行之者,伊尹、周公、孔明是也,皆德及於民,而民隨之。其得民之隨,所以成其君之功,致其國之安,其至誠存乎中,是有孚也;其所施為無不中道,在道也;唯其明哲,故能如是以明也,復何過咎之有?是以下信而上不疑,位極而無逼上之嫌,勢重而無專強之過。非聖人大賢,則不能也。其次如唐之郭子儀,威震主而主不疑,亦由中有誠孚而處無甚失也,非明哲能如是乎?
このような地位に処する人は応に如何せん。ただ内心に誠信を積み、一挙一動は皆道に合し、更に明達叡智を用いて以て応付するのみ、あればまた何の過错あらん。古人の中にこの一步に做り到る者は、伊尹・周公・諸葛孔明:彼らの徳沢は皆百姓に施及し、百姓は因りて彼らに跟随す。而して彼らが百姓の跟随を得るは、正に用いて君主の功業を成就し国家の安定を換取するに在り。至誠が心中に存するは、すなわち「有孚」。為す所作為す所は皆中道に合するは、すなわち「在道」。ただそれが明達叡智なるがゆえに、能くこの如くするを為し得、すなわち「以明」。この如くすればまた何処に過咎あらん。これに因りて下面の人は信服して上面の君主は猜疑せず、位置は頂点に到れども君を逼るの嫌疑なく、勢力は甚だ重しと雖も専横の過失なし。聖人大賢に非ざれば、この一点を為し得ず。次一等のは、唐朝の郭子儀の如き、威望は君主を震動するも君主は并せて彼を猜疑せず、また内心に確かに誠信有り処事の上に大なる閃失なきに由る。若し明達叡智に非ざれば、能くこの如くせんや。
《象》曰:隨有獲,其義凶也。有孚在道,明功也。居近君之位而有獲,其義固凶。能有孚而在道,則無咎,蓋明哲之功也。九五,孚于嘉,吉。九五居尊得正而中實,是其中誠在於隨善,其吉可知。嘉,善也。自人君至於庶人,隨道之吉,唯在隨善而已。下應二之正中,為隨善之義。
『小象伝』に曰く:「随有獲、其義凶也。有孚在道、明功也」。身は君主に靠近する位置に居りて人心を收得するは、道理に按じてもとより凶。能く内に誠信を懐きて行事は道に合せば、便ち過錯あらず、これは全て明達叡智の功効。九五の爻辞に曰く:「孚于嘉、吉」。九五は尊位に居り、既にその正を得、しかも陽爻は中に居りて内裡充実す、見ゆべし彼の心中の誠意は便ち善道に跟従するの上に落つ、吉は想い見るべし。「嘉」はすなわち善。上は君主より下は百姓に至るまで、随の吉たる所以は、ただ随う所の善なるに在るのみ。九五は下って六二のこの既に正しく且つ中なる爻に応ず、正に「随善」の意。
《象》曰:孚于嘉吉,位正中也。處正中之位,由正中之道,孚誠所隨者正中也,所謂嘉也,其吉可知。所孚之嘉,謂六二也。隨以得中為善,隨之所防者過也,蓋心所說隨,則不知其過矣。
『小象伝』に曰く:「孚于嘉吉、位正中也」。身は既に正しく且つ中なる位置に処し、行う所は既に正しく且つ中なる道、彼が誠意を以て跟随する対象もまた既に正しく且つ中なり、これすなわちいわゆる「嘉」、吉は想い見るべし。彼の誠信する所のあの「嘉」は、指す所は六二。随は中を得るを以て好しと為す、随の最も堤防を要する所はすなわち過頭なるがゆえ:人は一旦心裡に跟随する所の対象を喜歡せば、便ち自己が已に過頭せるを察覚し得ず。
上六,拘係之,乃從維之,王用亨于西山。上六以柔順而居隨之極,極乎隨者也。拘係之,謂隨之極,如拘持縻繫之。乃從維之,又從而維繫之也,謂隨之固結如此。王用亨于西山,隨之極如是。昔者太王用此道,亨王業於西山。太王避狄之難,去豳來岐,豳人老稚扶攜以隨之如歸市,蓋其人心之隨,固結如此,用此故能亨盛其王業於西山。西山,岐山也。周之王業,蓋興於此。上居隨極,固為大過,然在得民之隨,與隨善之固,如此乃為善也,施於他則過矣。《象》曰:拘係之,上窮也。隨之固如拘繫維持,隨道之窮極也。
上六の爻辞に曰く:「拘系之、乃従維之、王用亨于西山」。上六は柔順の質を以て随の極点に処り、是れ随の尽頭に至る人。「拘系之」とは、随の極処に至れば、拘え缚え固められたるが如きを言う。「乃従維之」とは、随後また纏系を加うるを言い、この種の跟随の牢固なること何の地步に至るかを形容す。「王用亨于西山」とは、随がこのような程度に至れば如何なる結果有るかを言う:従前周の太王は正にこの路に憑りて、西山に於て王業を弘揚光大せり。太王は狄人の侵擾を躲避するが為、豳地を離れて岐山に遷徙し、豳地の人は老少を論せず皆扶老携幼して彼に跟いて走り、赶集するが如く紛紛として至る。見ゆべし人心の跟随の牢固なることこの地步に至れば、それに頼りて初めて能く西山に於て王業を発揚興盛せしめん。西山はすなわち岐山、周朝の王業はほぼ正にここより興起せり。上六は随の極点に居り、もとより太過と算すべし。然るも「民心之随を得」と「随善之堅固」のこの事の上に置けば、この如くは却って好し——別の事情の上に換えれば、便ち過分なり。『小象伝』に曰く:「拘系之、上窮也」。跟随の牢固なること拘執纏系せらるるが如きは、これは随の道が窮極に走り至れるなり。
蠱卦(巽下艮上)
《蠱》,《序卦》:“以喜隨人者必有事,故受之以蠱。”承二卦之義以為次也。夫喜悅以隨於人者,必有事也。無事,則何喜,何隨?蠱所以次隨也。蠱,事也。蠱非訓事,蠱乃有事也。為卦,山下有風,風在山下,遇山而回則物亂,是為蠱象。蠱之義,壞亂也。在文為蟲皿,皿之有蟲,蠱壞之義。《左氏傳》云:“風落山,女惑男。”以長女下於少男,亂其情也。風遇山而回,物皆撓亂,是為有事之象,故云蠱者事也。既蠱而治之,亦事也。以卦之象言之,所以成蠱也;以卦之才言之,所以治蠱也。
『蠱』卦に就いて、『序卦伝』に曰く:「以喜随人者必有事、故受之以蠱」。これは前の両卦の意思を承接して次序を排定す:歓歓喜喜として別人に跟随する者は、必ず事情有らん。若し事情なければ、喜は何処より来たらん、随は何処より来たらん。それゆえ『蠱』卦は『随』卦の後に排す。「蠱」はすなわち事。其実蠱の字は本身は并せて「事」と訓せず、而して蠱壊の時に逢えば必然に弁ずべき事有るを言う。卦体に就きて言えば、是れ山下に風有り:風は山下に在り、山の阻挡に遇い而迴旋すれば、万物は便ち吹きて紛乱せらる、これすなわち蠱の形象。蠱の意義は敗壊・混乱。字形に就きて言えば、蠱の字は虫より皿に従う、器皿の中に虫を生ずれば、正に蠱壊の義。『左伝』は医和の蠱を論ずるを記して、「風落山、女惑男」と言う。この一卦は長女を以て少男の下に屈居せしむ、正に男女の情を乱るなり。風は山に遇いて迴旋し、万物は皆攪擾紛乱せらる、これすなわち「有事」の象、それゆえ蠱はすなわち事と言う。既に敗壊して整治に着手するも、また事なり。一卦の象に就きて言えば、講ずる所は蠱の何以に形成するか。一卦の才質に就きて言えば、講ずる所はどのように蠱壊を整治するか。
蠱:元,亨,利涉大川。既蠱則有復治之理。自古治必因亂,亂則開治,理自然也。如卦之才以治蠱,則能致元亨也。蠱之大者,濟時之艱難險阻也,故曰利涉大川。先甲三日,後甲三日。
『蠱』卦の卦辞に曰く:「元・亨、利渉大川」。既に敗壊したれば、すなわちその中に重新に整治するの道理を含む。古来自来、大治は必ず大乱に因りて起こり、乱は極処に至ればすなわち治の局面を開出す、これは自然の理。若しこの一卦の才質に照らして蠱壊を整治せば、すなわち能く大いに亨通に達せん。蠱壊の中の最大なるは、時局の艱難険阻を救済するを要す、それゆえ「利渉大川」と言う。卦辞は続けて曰く:「先甲三日、後甲三日」。
甲,數之首,事之始也,如辰之甲乙。甲第,甲令,皆謂首也,事之端也。治蠱之道,當思慮其先後三日,蓋推原先後,為救弊可久之道。先甲謂先於此,究其所以然也。後甲謂後於此,慮其將然也。一日二日至於三日,言慮之深,推之遠也。究其所以然,則知救之之道;慮其將然,則知備之之方。
「甲」は天干の首、事情の開端を代表す、干支排列の中に甲・乙の前に居るが如し。科挙は「甲第」と称し、法令は「甲令」と称す、皆「首」の意を取る、すなわち事情の開端。蠱壊を整治するの道理は、応に甲日の前と後の三天を皆仔細に思量し、すなわち前に往きて推原し後に往きて設想し、初めて能く積弊を革除して持久すべきの弁法を找到せん。「先甲」とはこの一点の前に於て、事情の敗壊してこの如くなる所以の縁由を追究するを言う。「後甲」とはこの一点の後に於て、事情の将来に出現し得べき変化を考慮するを言う。一日・二日以至三日を説くは、思慮の深き・推想の遠きを形容す。それの何以にこの如くなるを追究すれば、すなわち補救の門径を懂得す。それの将に如何ならんとするを考慮すれば、すなわち防備の弁法を懂得す。
善救則前弊可革,善備則後利可久,此古之聖王所以新天下而垂後世也。後之治蠱者,不明聖人先甲後甲之誡,慮淺而事近,故勞於救世而亂不革,功未及成而弊已生矣。甲者事之首,庚者變更之首。制作政教之類,則云甲,舉其首也。發號施令之事,則云庚,庚猶更也,有所更變也。
補救に善ければ、従前の積弊は便ち革除し得。防備に善ければ、日后の利益は便ち持久し得。これ正に古代の聖王の能く天下を革新し後世に垂範する所以の縁故。後世に蠱壊を整治する人は、聖人の「先甲三日、後甲三日」のこの一告戒を明白にせず、思慮は浅く眼光は近し、それゆえ忙忙碌碌として時を救いて乱象は除かれず、功業は未だ成就せざるに而して新たの弊病は已に生出し来れり。「甲」は事情の開端、「庚」は変更の開端:凡そ政令教化の類を創制するは、すなわち「甲」を説く、是れそれの起頭に就きて言う。凡そ号令を発施する類は、すなわち「庚」を説く、庚は更改の意有り、変更有る所を表示す。
《彖》曰:蠱,剛上而柔下,巽而止,蠱。以卦變及二體之義而言。剛上而柔下,謂乾之初九上而為上九,坤之上六下而為初六也。陽剛,尊而在上者也,今往居於上;陰柔,卑而在下者也,今來居於下。男雖少而居上,女雖長而在下,尊卑得正,上下順理,治蠱之道也。由剛之上,柔之下,變而為艮巽。艮,止也。巽,順也。下巽而上止,止於巽順也。以巽順之道治蠱,是以元亨也。
『蠱・彖伝』に曰く:「蠱、剛上而柔下、巽而止、蠱」。これは卦変と上下両体の意義に就きて言う所。「剛上而柔下」とは、乾卦の初九が上升して上九と為り、坤卦の上六が下降して初六と為るを指す。陽剛はもとより尊貴にして応に上に居るべき、如今は上に往きて最上に居る。陰柔はもとより卑下にして応に下に居るべき、如今は下り来て最下に居る。少男は年少と雖も上に居り、長女は年長と雖も下に在り、尊卑は各々その正を得、上下は条理に順う、これ正に蠱壊を整治するの道理。剛上柔下に由りて、卦体は便ち艮と巽とに変成す:艮は止、巽は順。下卦は巽順にして上卦は静止、すなわち巽順に於て安止す。巽順の道を用いて以て蠱壊を整治す、それゆえ能く大いに亨通す。
蠱元亨而天下治也。治蠱之道,如卦之才,則元亨而天下治矣。夫治亂者,苟能使尊卑上下之義正,在下者巽順,在上者能止齊安定之,事皆止於順,則何蠱之不治也?其道大善而亨也,如此則天下治矣。
『彖伝』に曰く:「蠱元亨而天下治也」。蠱壊を整治するの弁法は、若し能くこの一卦の才質の如くせば、便ち大いに亨通して天下は治を得ん。凡そ乱局を治理する人は、ただ能く尊卑上下の名分をして各々その位を正さしめ、下に在る者は巽順にして命を聴き、上に在る者は能く安止整粛してそれを安定せしめ、事事皆順に帰せば、あればまた何の蠱壊か治し好さざるあらん。この路は既に大善にしてまた亨通、これに照らしてこの如く為せば、天下は便ち治理せられん。
利涉大川,往有事也。方天下壞亂之際,宜涉艱險以往而濟之,是往有所事也。先甲三日,後甲三日,終則有始,天行也。夫有始則必有終,既終則必有始,天之道也。聖人知終始之道,故能原始而究其所以然,要終而備其將然,先甲後甲而為之慮,所以能治蠱而致元亨也。
『彖伝』に曰く:「利渉大川、往有事也」。正に天下敗壊混乱の時に当たりて、すなわち応に艱険を冒して往きてそれを救済すべし、これすなわち「往而有所事」。また曰く:「先甲三日、後甲三日、終則有始、天行也」。開始有れば必ず終結有り、終結すればまた必ず別に開始有り、これは天の運行の道。聖人は終始相循の道理を懂得す、それゆえ能く事情の開端を推原してそれの何以にこの如くなるを追究し、また能く事情の終局を帰結してそれの将に如何ならんを防備す。甲日の前後に於て皆それの為に籌划周全し、これに因りて能く蠱壊を整治して大いに亨通に達す。
巻三
周易下経・咸卦(艮下兌上)
《咸》,《序卦》:“有天地然後有萬物,有萬物然後有男女,有男女然後有夫婦,有夫婦然後有父子,有父子然後有君臣,有君臣然後有上下,有上下然後禮義有所錯。”天地萬物之本,夫婦人倫之始,所以上經首《乾》、《坤》,下經首《咸》繼以《恆》也。天地二物,故二卦分為天地之道。男女交合而成夫婦,故《咸》與《恆》皆二體合為夫婦之義。咸,感也,以說為主;恆,常也,以正為本。而說之道自有正也,正之道固有說焉,巽而動,剛柔皆應,說也。咸之為卦,兌上艮下,少女少男也。男女相感之深,莫如少者,故二少為咸也。艮體篤實,止為誠愨之義。男志篤實以下交,女心說而上應,男感之先也。男先以誠感,則女說而應也。
『咸』卦、『序卦伝』に曰く:「天地有りて、然る後に万物有り。万物有りて、然る後に男女有り。男女有りて、然る後に夫婦有り。夫婦有りて、然る後に父子有り。父子有りて、然る後に君臣有り。君臣有りて、然る後に上下の分有り。上下の分有りて、礼義は初めて安放施行するの地方有り」。天地は万物の根本、夫婦は人倫の起点、それゆえ『周易』の上経は『乾』『坤』両卦を以て開頭と為し、下経は則ち『咸』卦を以て開頭と為して『恒』卦を接ぐ。天と地とは両様の各自独立の物、それゆえ『乾』『坤』は分かちて両卦と為り、各々天道と地道とを表す。男女は却要して交合して初めて夫婦と為る、それゆえ『咸』と『恒』とは皆上下両体の合わさりて初めて夫婦の義を成す。「咸」は感応、彼此欣悦を以て主と為す。「恒」は長久、正を守るを以て本と為す。然るも欣悦の道の裡には自然に正を含み、守正の道の裡にはもとよりまた欣悦を含む——『恒』卦は下に巽順にして上に震動し、六爻の剛柔は各々相応ず、これすなわち欣悦。『咸』卦の卦体は兌が上に在り艮が下に在る、すなわち少女が上に在り少男が下に在る。男女の相感の最深切なるは年少の一輩に若くはなし、それゆえ両箇の「少」を取りて『咸』卦を立つ。艮の卦徳は篤厚誠実、「止」は正に誠懇専一の意。男子は心志篤実にして肯んじて女子の下に屈居してこれと相交わり、女子は内心欣悦して上に向かいて回応す、これは男方の先に往きて対方を感動するなり。男子は先ず誠意を以て相感ずれば、女子は便ち歓喜して応和す。
咸:亨,利貞,取女吉。咸,感也。不曰感者,咸有皆義,男女交相感也。物之相感,莫如男女,而少復甚焉。凡君臣上下,以至萬物,皆有相感之道。物之相感,則有亨通之理。君臣能相感,則君臣之道通;上下能相感,則上下之志通;以至父子、夫婦、親戚、朋友,皆情意相感,則和順而亨通。事物皆然,故咸有亨之理也。利貞,相感之道利在於正也。不以正,則入於惡矣,如夫婦之以淫姣,君臣之以媚說,上下之以邪僻,皆相感之不以正也。取女吉,以卦才言也。卦有柔上剛下,二氣感應,相與止而說,男下女之義。以此義取女,則得正而吉也。
『咸』卦の卦辞に曰く:「咸:亨、利貞、取女吉」。「咸」はすなわち感応。直ちに「感」と言わずして「咸」と言うは、「咸」はなお兼ねて「都」「遍」の意有るがゆえ、男女双方の交相感動するを表示し、単方面の事に非ず。万物のあいだの相感は、男女より真切なるはなし、而して少男少女のあいだはまた格外に深切。凡そ君臣・上下、以至天地万物は、皆各々相感の道有り。事物は一旦互相感通すれば、すなわち亨通の道理有り:君臣は能く相感すれば、君臣の道は通暢す。上下は能く相感すれば、上下の志は通达す。父子・夫婦・親戚・朋友に推及すれば、ただ情意の彼此相感ずるに依りて、すなわち和順にして亨通す。事事物物は皆この如し、それゆえ『咸』卦は「亨」の道理有り。「利貞」と言うは、相感の道は正を守るを以て宜しきと為すを講ず。若し正道を以て相感せざれば、すなわち邪悪に堕陥す:たとえば夫婦のあいだは淫佚妖冶を靠りて相引き、君臣のあいだは諂媚取悦を靠りて相結び、上下のあいだは邪僻不正を靠りて相通ずるは、皆相感してその正を以てせざるなり。「取女吉」と言うは、卦の才質に就きて言う所。この卦は柔爻が上に在り剛爻が下に在り、陰陽二気は交相感応して彼此相与し、下卦は艮止にして上卦は兌悦、また男方が女方の下に屈居するの意有り。このような態度を以て妻を娶れば、すなわち能くその正を得て吉利ならん。
《彖》曰:咸,感也。柔上而剛下,二氣感應,以相與止而說,男下女,是以亨利貞,取女吉也。咸之義感也。在卦,則柔爻上而剛爻下,柔上變剛而成兌,剛下變柔而成艮,陰陽相交,為男女交感之義。又兌女在上,艮男居下,亦柔上剛下也。陰陽二氣,相感相應而和合,是相與也。止而說,止於說,為堅愨之意。艮止於下,篤誠相下也;兌說於上,和說相應也。以男下女,和之至也。相感之道如此,是以能亨通而得正,取女如是則吉也。卦才如此,大率感道利於正也。
『咸・彖伝』に曰く:「咸、感也。柔上而剛下、二気感応、以相与止而説、男下女、是以亨利貞、取女吉也」。「咸」の意義はすなわち感応。卦体に就きて言えば、柔爻は上面に升り剛爻は下面に降る:柔爻は上行して元の剛を変じて兌と為り、剛爻は下行して元の柔を変じて艮と為り、陰陽は彼此その位を交換す、正に男女交感の意。再び言えば兌は少女と為して上に居り、艮は少男と為して下に居るは、また仍り「柔上而剛下」。陰陽二気は互相感召し互相応和して融洽結合す、これすなわち「相与」。「止而説」とは、欣悦の上に安止し、堅定誠篤の意を含む:艮は下に止まるは、篤厚誠懇にして甘んじて人の下に居る。兌は上に悦ぶは、和悦欣然として上に応ずるなり。男子を以て身を女子の下に屈するは、和順なること極処に至る。相感の道は能くこの如くなれば、それゆえ能く亨通して各々その正を得、この種の態度を用いて妻を娶れば自然に吉利なり。この卦の才質はこの如し、総じて言えば、感通の道は正を守るを以て宜しきと為す。
天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平。觀其所感,而天地萬物之情可見矣。既言男女相感之義,復推極感道,以盡天地之理、聖人之用。天地二氣交感而化生萬物,聖人至誠以感億兆之心而天下和平。天下之心所以和平,由聖人感之也。觀天地交感化生萬物之理,與聖人感人心致和平之道,則天地萬物之情可見矣。感通之理,知道者默而觀之可也。
『彖伝』は続けて曰く:「天地感而万物化生、聖人感人心而天下和平。観其所感、而天地万物之情可見矣」。前面は已に男女相感の意義を説けり、ここに再び感応の道を極処に推して、以て天地の道理と聖人の功用とを窮尽せん。天地陰陽二気は交相感応し、因りて万物を化育生成す。聖人は至誠の心を以て億万の人の心を感動し、因りて天下は和睦太平す。天下人心の和平なる所以は、正に聖人がそれを感動したるに由る。天地の交感して万物を化生するの道理と、聖人の人心を感動して天下太平を致すの方法とを観察すれば、あれば天地万物の真実の情状は皆看見すべし。感通の道理は極めて精微、道を懂得する人は黙然として体察すれば便ち可なり、強いて言説を作るを須いず。
《象》曰:山下有澤,咸,君子以虛受人。澤性潤下,土性受潤,澤在山上而其漸潤通徹,是二物之氣相感通也。君子觀山澤通氣之象,而虛其中以受於人。夫人中虛則能受,實則不能入矣。虛中者,無我也。中無私主,則無感不通。以量而容之,擇合而受之,非聖人有感必通之道也。
『咸・大象伝』に曰く:「山下有沢、咸、君子以虚受人」。沢の本性は滋潤にして下に向かい、土の本性は滋潤を承受す。沢は山上に在ると雖も、而してその潤沢は層層に滲透し上下通徹す、これすなわち両種の物性の気の互相感通。君子は山沢の互通するその気の卦象を観察し、そこに於て自己の胸中を虚空にして、以て他人を容受す。人心は中が空虚なるをこそ初めて能く容受し、塞ぎて満満たれば便ち再び入り去る能わず。いわゆる「虚中」とは、すなわち私我なきこと。心裡に私意有りて主宰を為さざれば、あれば感ぜずして通ぜざるなし。若し先ず一番量度して初めて容納し、先ず意に合うを挑揀して初めて接受せば、あればすなわち聖人の「有感必通」の胸懐に非ず。
初六,咸其拇。初六在下卦之下,與四相感。以微處初,其感未深,豈能動於人?故如人拇之動,未足以進也。拇,足大指。人之相感,有淺深輕重之異,識其時勢,則所處不失其宜矣。《象》曰:咸其拇,志在外也。初志之動,感於四也,故曰在外。志雖動而感未深,如拇之動,未足以進也。
『咸』卦の初六の爻辞に曰く:「咸其拇」。初六は下卦の最下位に処り、九四と相感応す。それは微弱の質を以て全卦の初に処り、感ずる所はなお甚だ浅く、何ぞ能く別人を感動せんや。それゆえ人の脚上の大拇趾が一たび動きしが如く、なお足りて真に歩を邁して前進せず。「拇」はすなわち脚の大趾。人と人との相感は、浅き深き・軽き重きの分別有り、能く自己の処する所の時位と形勢とを認清せば、あれば応対するに起りてその宜を失わざらん。『小象伝』に曰く:「咸其拇、志在外也」。初六の心志の萌動は、上面の九四に感ぜられたるに因る、それゆえ「志在外」と言う。心志は已に萌動すれども感応は尚浅し、正に大拇趾が一たび動きたるが如く、なお足りて真に前進せず。
六二,咸其腓,凶,居吉。二以陰居下,與五為應,故設咸腓之戒。腓,足肚,行則先動,足乃舉之,非如腓之自動也。二若不守道,待上之求,而如腓自動,則躁妄自失,所以凶也。安其居而不動,以待上之求,則得進退之道而吉也。二,中正之人,以其在咸而應五,故為此戒。復云居吉,若安其分,不自動,則吉也。《象》曰:雖凶,居吉,順不害也。二居中得正,所應又中正,其才本善,以其在咸之時,質柔而上應,故戒以先動求君則凶,居以自守則吉。《象》復明之云:非戒之不得相感,唯順理則不害,謂守道不先動也。
六二の爻辞に曰く:「咸其腓、凶、居吉」。六二は陰柔を以て下卦の中に居り、九五と相応す、それゆえ「咸其腓」の告戒を設下す。「腓」は小腿肚、人が歩路する時それは似乎先に動く、其実は脚がそれを帯び起こすなり、小腿肚が自ら会いて動くに非ず。六二は若し能く正道を守住して上に在る者の求め来たるを待たずして、却って小腿肚の如く自ら主張して搶先して動かば、便ち躁進妄為・自らその守を失うと成る、それゆえ凶あり。其の位に安処して軽動せず、静かに待ちて上に在る者の求め来たるを待たば、あればすなわち進退の道に合して吉利なり。六二はもとより中に居りて正を守る人、ただ身が『咸』卦の相感の時に処して上って九五に応ずるに因り、それゆえ特地に此の戒辞を立つ。また「居吉」と言うは、若し能く本分に安んじて擅自に躁動せざれば、すなわち吉利なるを言う。『小象伝』に曰く:「雖凶、居吉、順不害也」。六二は中に居りて正を得、応ずる所の九五はまた中正なり、それの才質はもとより好し。ただこの相感の時に当たり、自身は陰柔にして急に上に向かいて応を求めんと欲するに因り、それゆえそれに告戒して搶先躁動して君上を求めに往けば凶、安居して自守すれば吉と曰く。『小象伝』また申明して曰く:并せてそれの上と相感ずるを禁止するに非ず、ただ理に順いて行えば便ち害あらず——意思は正に正道を守住して搶先妄動せざるなり。
九三,咸其股,執其隨,往吝。九三以陽居剛,有剛陽之才,而為主於內,居下之上,是宜自得於正道,以感於物,而乃應於上六。陽好上而說,陰上居感說之極,故三感而從之。股者,在身之下,足之上,不能自由,隨身而動者也,故以為象,言九三不能自主,隨物而動,如股然,其所執守者隨於物也。剛陽之才,感於所說而隨之,如此而往,可羞吝也。
九三の爻辞に曰く:「咸其股、執其随、往吝」。九三は陽爻を以て陽位に居り、剛健の才質有り、また下体艮卦の主爻にして、下卦の上に処り、もとより応に自ら正道を守住して外物を感動すべきに、却って往きて上六に応和す。陽性は上に向かうを喜び、また欣悦を貪り、上六は正に感悦の極処に居るがゆえに、九三はそれに感動せられて跟いて走る。「股」は大腿、身の下・足の上に在り、自ら作主する能わず、ただ身子に随いて動くのみ、それゆえ取り来たりて象を立つ。是れ九三が能く自主せずしてただ外物に随いて動くを言う、大腿の如く、それの執守する所は不過「随人」の二字のみ。剛陽の才質を以て、却って自己の喜悦する対象に牽動せられて跟いて走る、この如くして前往するは、羞ずべき惜しむべきなり。
《象》曰:咸其股,亦不處也;志在隨人,所執下也。雲亦者,蓋《象》辭本不與《易》相比,自作一處,故諸爻之《象》辭,意有相續者。此言亦者,承上爻辭也。上云:“咸其拇,志在外也,雖凶居吉,順不害也。”咸其股,亦不處也。前二陰爻皆有感而動,三雖陽爻亦然,故云“亦不處也”。不處謂動也。有剛陽之質,而不能自主,志反在於隨人,是所操執者卑下之甚也。
『小象伝』に曰く:「咸其股、亦不処也。志在随人、所執下也」。ここに一箇の「亦」の字を用いるは、『象伝』の文辞はもとより『易』の経文と逐条に并列せず、而して自ら一処を成すがゆえ、それゆえ各爻の『象』辞は、意思は常常に前後相承す。ここに「亦」と説くは、正に上面の数爻の『象』辞を承接して来るなり:上面に「咸其拇、志在外也」「雖凶居吉、順不害也」と説き、続きて初めて「咸其股、亦不処也」と説く。前面の初六・六二の両陰爻は皆一たび感有ればすなわち動く、九三は陽爻と雖も、同様に能く安処せず、それゆえ「亦不処也」と言う。「不処」はすなわち躁動して安ならざること。九三はもとより剛陽の資質有り、而して能く自ら主宰を作さず、心志は却って別人を追随するの上に放つ、これはすなわちそれの執守する所の物の卑下なること極点に至るを説明す。
九四,貞吉,悔亡。憧憧往來,朋從爾思。感者,人之動也,故皆就人身取象。拇取在下而動之微,腓取先動,股取其隨。九四無所取,直言感之道,不言咸其心,感乃心也。四在中而居上,當心之位,故為感之主,而言感之道。貞正則吉而悔亡,感不以正,則有悔也。又四說體,居陰而應初,故戒於貞感之道,無所不通,有所私繫,則害於感通,乃有悔也。聖人感天下之心,如寒暑雨暘,無不通,無不應者,亦貞而已矣。貞者,虛中無我之謂也。憧憧往來,朋從爾思,夫貞一則所感無不通,若往來憧憧然,用其私心以感物,則思之所及者有能感而動,所不及者不能感也,是其朋類則從其思也,以有繫之私心,既主於一隅一事,豈能廓然無所不通乎?
九四の爻辞に曰く:「貞吉、悔亡。憧憧往来、朋従爾思」。感応は人心の活動、それゆえ『咸』卦の六爻は皆人身に就きて象を取る:初六は脚趾が下に在りて動くこと最も微なるを取り、六二は小腿肚の搶先して動くを取り、九三は大腿のただ跟随を知るを取る。九四に到りては却って更に身体部位を取らず、而して直ちに感応の道を講ず。「咸其心」と説かざるは、「感」はもとよりすなわち心の事なるがゆえ。九四は全卦の中に在りて進んで上体に居り、正に心の位置に当たる、それゆえ是れ感応の主爻、因りて直ちに感通の道理を説き出す。正を守持して固くすればすなわち吉利にして悔恨消失す。感応は正道を以てせざれば、便ち悔有らん。再び言えば九四は兌悦の体に属し、陽を以て陰位に居りて下って初六に応ず、それゆえそれに告戒して正を守るべし。感通の道はもとより通ぜざる所なし、一旦偏私の牽系有れば、すなわち感通を妨害し、そこに於て悔有り。聖人は天下の人心を感動するは、寒暑の往来・雨晴の交替するが如く、通ぜざる所なく応ぜざる所なし、頼る所は亦不過一箇の「正」の字。いわゆる「貞」とは、すなわち胸中虚静にして私我なきこと。「憧憧往来、朋従爾思」に至りては:能く貞一なれば、感ずる所は便ち通ぜざるなし。若し心思が忙乱して往来不定にして、私心を用いて外物を感動せば、あれば思慮の及ぶ所の人は乃ち能く感動せられ、思慮の及ばざるは便ち感動する能わず、そこに於てただ同類朋党のみ初めて能くあなたの心思に跟従せん。この種の系缚する所有る私心を抱けば、既にただ一角一事の上に専注するのみ、何処に更に能く廓然開闊・通ぜざる所なからんや。
《繫辭》曰:“天下何思何慮?天下同歸而殊途,一致而百慮,天下何思何慮?”夫子因咸極論感通之道。夫以思慮之私心感物,所感狹矣。天下之理一也,塗雖殊而其歸則同,慮雖百而其致則一。雖物有萬殊,事有萬變,統之以一,則無能違也。故貞其意,則窮天下無不感通焉,故曰:“天下何思何慮?”用其思慮之私心,豈能無所不感也?
『繋辞伝』に曰く:「天下何思何慮?天下同帰而殊途、一致而百慮、天下何思何慮」?孔子は正に『咸』卦の九四のこの一爻に就きて、極力して感通の道を申論す。思慮私心を用いて外物を感動せば、感ずる所の範囲は便ち狭小す。天下の道理はただ一箇:路途は千差万別と雖も、帰宿は却って同一処。憂慮は百種有ると雖も、致す所の結果は却って一致。縦使物に万种の差異有り事に万般の変化有るとも、ただこの一箇の理を用いて以て統摂せば、便ち能くそれに違背するなし。それゆえただ自己の心意を貞定すれば、便ち天下を窮尽して感通せざるなし、これに因りて「天下何思何慮」と言う。若しあの点の思慮私心を動用せば、何処に能く感ぜざる所なきを為さんや。
“日往則月來,月往則日來,日月相推而明生焉。寒往則暑來,暑往則寒來,寒暑相推而歲成焉。往者屈也,來者信也,屈信相感而利生焉。”此以往來屈信明感應之理。屈則有信,信則有屈,所謂感應也。故日月相推而明生,寒暑相推而歲成,功用由是而成,故曰屈信相感而利生焉。感,動也,有感必有應。凡有動皆為感,感則必有應,所應復為感,感復有應,所以不已也。
『繋辞伝』は続けて曰く:「日往則月来、月往則日来、日月相推而明生焉。寒往則暑来、暑往則寒来、寒暑相推而歳成焉。往者屈也、来者信也、屈信相感而利生焉」。これは往来屈伸を用いて以て感応の道理を説明す。屈すれば便ち伸び、伸びればまた屈す——「信」はここに於てはすなわち「伸」——これをこそ感応と言う。それゆえ日月は互相推移して光明生出し、寒暑は互相推移して一年完成す、天地の功用はこれに由りて成る、これに因りて「屈伸相感而利生焉」と言う。「感」はすなわち動、感有れば必ず応有り。凡そ動く所有るは皆感と算し、一たび感すれば便ち必ず応有り、応ずる所はまた新たの感と為り、感すればまた応有り、それゆえ循環往復して停息せず。
“尺蠖之屈,以求信也。龍蛇之蟄,以存身也。精義入神,以致用也。利用安身,以崇德也。過此以往,未之或知也。”前云屈信之理矣,復取物以明之。尺蠖之行,先屈而後信,蓋不屈則無信,信而後有屈,觀尺蠖則知感應之理矣。龍蛇之藏,所以存息其身,而後能奮迅也,不蟄則不能奮矣。動息相感,乃屈信也。君子潛心精微之義,入於神妙,所以致其用也。潛心精微,積也;致用,施也。積與施乃屈信也。
『繋辞伝』はまた曰く:「尺蠖之屈、以求信也。竜蛇之蟄、以存身也。精義入神、以致用也。利用安身、以崇徳也。過此以往、未之或知也」。前面は已に屈伸の道理を講じ了えり、ここに再び具体の物象を取りて以て説明す。尺蠖の爬行は、総じて先ず身子を弓起して而る後に伸展す、先ず屈せざればすなわち伸ぶるに従なし、伸び開けばまた再び屈せん、尺蠖を看れば便ち能く感応の理を懂得す。竜蛇の冬眠潜蔵するは、以てその身体を保存休養せんが為、然る後に初めて能く奮起騰躍す。蟄伏せざれば便ち奮発の力量なし。一動一静は互相感召す、正に屈と伸。君子は沉潜して精微の義理を研究し、深入して神妙の境地に至るは、正に将来に能く致用せんが為。沉潜精微は積蓄、致用施行は発散、積と施とはもすなわち屈と伸。
“利用安身,以崇德也”,承上文致用而言,利其施用,安處其身,所以崇大其德業也。所為合理,則事正而身安,聖人能事盡於此矣,故云“過此以往,未之或知也”。“窮神知化,德之盛也”。既云“過此以往,未之或知”,更以此語終之,雲窮極至神之妙,知化育之道,德之至盛也,無加於此矣。
「利用安身、以崇徳也」に至りては、上文の「致用」を承接して説く所。自己の施為を善用し、自己の身心を安処し、因りて能く自己の徳業を崇大す。所作所為は皆理に合すれば、事情は便ち正に帰し、自身もまたこれに随いて安穏す、聖人の能く為す所の事はここに到りて便ち窮尽す、それゆえ「過此以往、未之或知也」と言う。『繋辞伝』は末にまた「窮神知化、徳之盛也」と言う。既に「過此以往、未之或知」を説きたれば、更にこの一句を用いて結を為す:至神の微妙に窮究し、造化生育の道理に通暁するは、これは徳の極盛、更に能くそれを超過する者なし。
《象》曰:貞吉悔亡,未感害也;憧憧往來,未光大也。貞則吉而悔亡,未為私感所害也;繫私應則害於感矣。憧憧往來,以私心相感,感之道狹矣,故云未光大也。九五,咸其脢,無悔。九居尊位,當以至誠感天下,而應二比上。若係二而說上,則偏私淺狹,非人君之道,豈能感天下乎?脢,背肉也,與心相背而所不見也。言能背其私心,感非其所見而說者,則得人君感天下之正,而無悔也。
『小象伝』に曰く:「貞吉悔亡、未感害也。憧憧往来、未光大也」。正を守ればすなわち吉利にして悔恨消失す、未だ偏私の感応に損害せられざるに因る。一旦私を系えて相応和せば、すなわち感通を妨害す。「憧憧往来」は私心を用いて以て相感ずるなり、感通の道は便ち狭窄す、それゆえそれを「未光大」と言う。九五の爻辞に曰く:「咸其脢、无悔」。九五は陽剛を以て尊位に居り、もとより応に至誠を以て天下を感動すべきに、却って下って六二に応じ上って上六に比す。若し六二を牽系してまた上六を欣悦せば、すなわち偏私浅狭に流れ、是れ人君たるの道理に非ず、何ぞ能く天下を感動せんや。「脢」は脊背上の肉、心と相背いて而して自己の看見し得ざる地方。爻辞の用意は在りて:能く自己の私心に背離して、あの并せて眼前の見る所悦ぶ所に非ざる人と事とに感通し去れば、すなわち人君の天下を感動するの正道を得、因りて悔恨あらざらん。
《象》曰:咸其脢,志末也。戒使背其心而咸脢者,為其存心淺末,繫二而說上,感於私慾也。上六,咸其輔頰舌。上陰柔而說體,為說之主,又居感之極,是其欲感物之極也,故不能以至誠感物,而發見於口舌之間,小人女子之常態也,豈能動於人乎?不直云口,而云輔頰舌,亦猶今人謂口過曰唇吻,曰頰舌也,輔頰舌皆所用以言也。《象》曰:咸其輔頰舌,滕口說也。唯至誠為能感人,乃以柔說騰揚於口舌,言說豈能感於人乎?
『小象伝』に曰く:「咸其脢、志末也」。九五に告戒して私心に背離して「咸其脢」せしむる所以は、正にそれが存心浅薄にして末流に落ち、六二を牽系してまた上六を欣悦し、感ずる所はただ私欲のみなるがゆえ。上六の爻辞に曰く:「咸其輔頬舌」。上六は陰柔にして兌悦の体に処り、是れ欣悦の主爻、また全卦感応の極処に居る、見ゆべしそれの別人を感動せんと欲するの心思は已に極点に到れり。因りて能く至誠を以て人を感ずる能わず、ただ心思を口舌のあいだに発露す、これは識見浅陋の者の常有する情態、何ぞ能く真に人を感動せんや。直ちに「口」と言わずして「輔頬舌」と言うは、また今人の口舌上の過失を「唇吻」「頬舌」と称するが如く、「輔」「頬」「舌」は皆説話する時に用いる所の部位。『小象伝』に曰く:「咸其輔頬舌、滕口説也」。ただ至誠のみ初めて能く人を感動す、如今却って柔媚の言辞を用いて口舌の上に於て騰揚張揚す——口空しく説くのみ、豈に便ち能く人を感動せんや。
恒卦(巽下震上)
《恆》,《序卦》:“夫婦之道,不可以不久也,故受之以恆,恆,久也。”咸,夫婦之道。夫婦終身不變者也,故咸之後受之以恆也。咸,少男在少女之下,以男下女,是男女交感之義。恆,長男在長女之上,男尊女卑,夫婦居室之常道也。論交感之情,則少為親切;論尊卑之序,則長當謹正;故兌艮為咸,而震巽為恆也。男在女上,男動於外,女順於內,人理之常,故為恆也。又剛上柔下,雷風相與,巽而動,剛柔相應,皆恆之義也。
『恒』卦、『序卦伝』に曰く:「夫婦之道、不可以不久也、故受之以恒。恒、久也」。『咸』の講ずる所は夫婦の道、而して夫婦は終身不変、それゆえ『咸』の後に『恒』卦を接ぐ。『咸』卦は少男が少女の下に在り、男を以て女に屈就し、男女交相感応の意を取る。『恒』卦は長男の震が長女の巽の上に在り、男尊女卑、これは夫婦の同じく一室に居るの常道。交感の情に就きて言えば、年少のは更に親切。尊卑の次序に就きて言えば、年長のは更に応に正分を謹守すべし:それゆえ兌上艮下にして『咸』と為り、而して震上巽下にして『恒』と為る。男は女の上に在り、男子は外に在りて行動し、女子は内に在りて順従す、これは人倫の常理、それゆえこれを「恒」と言う。再び言えば剛爻は上に在り柔爻は下に在り、雷と風とは互相助長し、下は巽順にして上は震動し、六爻の剛柔は各々相応ず、これらは皆「恒久」の意義。
恆:亨,無咎;利貞,利有攸往。恆者,常久也。恆之道可以亨通,恆而能亨,乃無咎也。恆而不可以亨,非可恆之道也,為有咎矣。如君子之恆於善,可恆之道也;小人恆於惡,失可恆之道也。恆所以能亨,由貞正也,故云利貞。夫所謂恆,謂可恆久之道,非守一隅而不知變也,故利於有往。唯其有往,故能恆也,一定則不能常矣。又常久之道,何往不利?
『恒』卦の卦辞に曰く:「恒:亨、无咎。利貞、利有攸往」。「恒」はすなわち長久。恒久の道は亨通すべく、能く恒久にしてまた亨通すれば、初めて過错あらず。若し恒守し続けて却って行き通らざれば、あればすなわち恒守すべきの道に非ず、却って過错有り。たとえば君子の恒久に善を行うは、これは恒なるべきの道。小人の恒久に悪を為すは、すなわち恒なるべきの道を喪失せり。恒の能く亨通する所以は、貞正に由るがゆえに、それゆえ「利貞」と言う。而して所謂「恒」とは、指す所は能く長久に遵行すべきの道理、并せて一隅に死守して変通を知らざるに非ず、それゆえ「利有攸往」と言う。正に往く所有り時に随いて推移するがゆえに、初めて能く恒久を保持す。一旦僵定不移となれば、却って能く長久ならず。再び言えば、恒久の道は天下に通行す、何処に往きて利あらざるあらんや。
《彖》曰:恆,久也。恆者長久之義。剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔皆應,恆。卦才有此四者,成恆之義也。剛上而柔下,謂乾之初上居於四,坤之初下居於初,剛爻上而柔爻下也。二爻易處則成震巽,震上巽下,亦剛上而柔下也。剛處上而柔居下,乃恆道也。雷風相與,雷震則風發,二者相須,交助其勢,故云相與,乃其常也。巽而動,下巽順,上震動,為以巽而動。天地造化,恆久不已者,順動而已。巽而動,常久之道也。動而不順,豈能常也?剛柔皆應,一卦剛柔之爻皆相應。剛柔相應,理之常也。此四者,恆之道也,卦所以為恆也。
『恒・彖伝』に曰く:「恒、久也」。「恒」はすなわち長久の意。又た曰く:「剛上而柔下、雷風相与、巽而動、剛柔皆応、恒」。卦の才質はこの四項を具備して、初めて「恒」の意義を成就す。所謂「剛上而柔下」とは、乾卦の初爻が上升して第四位に居り、坤卦の初爻が下降して初位に居り、剛爻は上行し柔爻は下行するを言う。この両爻は一たび位置を交換すれば、便ち震と巽と成り、震上巽下、また仍り剛は上に在り柔は下に在る。剛は上位に居り柔は下位に処るをこそ、初めて恒久の道と為す。所謂「雷風相与」とは、雷が一たび震動すれば則ち風は就ち発作し、両者は互相依待し交相その声勢を助長す、それゆえ「相与」と言う、これ正にそれらの常態。所謂「巽而動」とは、下体は巽順にして上体は震動、すなわち順従の道を以て行動するに往く。天地造化の恒久不停なる所以は、頼る所は亦不過理に順いて動く。理に順いて動くをこそ、初めて長久の道。若し動きて理に順わざれば、怎麼様にして能く長久ならんや。所謂「剛柔皆応」とは、全卦の剛爻柔爻は両両相応ずるを言う。剛柔相応ずるは、正に常理。この四項はすなわち恒久の道、また正に此の卦の名を『恒』と得るの縁故。
恆:亨,無咎,利貞,久於其道也。恆之道,可致亨而無過咎,但所恆宜得其正,失正則非可恆之道也,故曰久於其道。其道,可恆之正道也。不恆其德,與恆於不正,皆不能亨而有咎也。天地之道,恆久而不已也。天地之所以不已,蓋有恆久之道。人能恆於可恆之道,則合天地之理也。
『彖伝』に曰く:「恒:亨、无咎、利貞、久于其道也」。恒久の道は能く亨通を招致して過错なし、但し恒守する所は必ずその正を得るを須いる。一旦正を失えば、すなわち恒守すべきの道に非ず、それゆえ「久于其道」と言う。ここの「其道」は、指す所は能く恒久に遵行すべきの正道。徳行の反復無常と、恒久に不正の物を守ると、両者は皆能く亨通せずして必ず過错有らん。『彖伝』はまた曰く:「天地之道、恒久而不已也」。天地の能く運行不息なる所以は、正にその中に恒久の道有るがゆえ。人は若し能く恒守すべきの正道上に恒守せば、すなわち天地の道理に合す。
利有攸往,終則有始也。天下之理,未有不動而能恆者也。動則終而復始,所以恆而不窮,凡天地所生之物,雖山嶽之堅厚,未有能不變者也,故恆非一定之謂也,一定則不能恆矣。唯隨時變易,乃常道也,故云利有攸往。明理之如是,懼人之泥於常也。
『彖伝』に曰く:「利有攸往、終則有始也」。天下の道理は、従来静止不動にして能く長久なるはなし。一たび動けばすなわち終わりて復た始まり、循環して端なく、それゆえ能く恒久にして窮竭せず。凡そ天地の生ずる所の物は、たとえ山岳の如く堅固厚重なると雖も、能く永遠に変化せざるはなし、それゆえ「恒」は并せて固定不動の意に非ず——固定不動は却って能く恒久ならず。ただ時勢に随いて変通改易するをこそ、真の常道、それゆえ「利有攸往」と言う。『彖伝』がこの道理を点明するは、正に人が死板の「常」に拘泥して変通を知らざるを怕るがゆえ。
日月得天而能久照,四時變化而能久成,聖人久於其道而天下化成。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣。此極言常理。日月,陰陽之精氣耳,唯其順天之道,往來盈縮,故能久照而不已。得天,順天理也。四時,陰陽之氣耳,往來變化,生成萬物,亦以得天,故常久不已。聖人以常久之道,行之有常,而天下化之以成美俗也。觀其所恆,謂觀日月之久照、四時之久成、聖人之道所以能常久之理。觀此,則天地萬物之情理可見矣。天地常久之道,天下常久之理,非知道者孰能識之?《象》曰:雷風,恆,君子以立不易方。君子觀雷風相與成恆之象,以常久其德,自立於大中常久之道,不變易其方所也。
『彖伝』に曰く:「日月得天而能久照、四時変化而能久成、聖人久于其道而天下化成。観其所恒、而天地万物之情可見矣」。これは「常」の道理を極処に説き至る。日月は不過陰陽の精気のみ、ただそれが天の運行の道に順い、一往一来・一盈一縮するに因りて、それゆえ能く長久に照耀して停息せず。所謂「得天」とは、すなわち天理に順合す。四時も亦不過陰陽の気のみ、往来変化して万物を生成す、同じく天道に順合するに因りて、それゆえ恒久にして已まず。聖人は長久の道を以て行事して之を持するに常有り、天下は便ち彼に感化せられて美好の風俗を形成す。「観其所恒」とは、日月の何の故に能く長久に照耀するか、四時の何の故に能く長久に物を成すか、聖人の道の何の故に能く長久に衰えざるかの道理を観察するを言う。この一層を看透すれば、天地万物の実情実理は皆見るべし。天地の長久なる運行の道、天下の長久なる当然の理、若し真に道を懂得する人に非ざれば、誰か能くそれを認識せん。『恒・大象伝』に曰く:「雷風、恒、君子以立不易方」。君子は雷と風との互相助長して恒久を成就するの卦象を観察し、そこに於て自己の徳行をして常久にして変わらざらしめ、広大中正にして長久すべきの道上に自立し、自己の方向と立足の処とを改換せず。
初六,浚恆,貞凶,無攸利。初居下而四為正應,柔暗之人,能守常而不能度勢。四震體而陽性,以剛居高,志上而不下,又為二三所隔,應初之志異乎常矣,而初乃求望之深,是知常而不知變也。浚,深之也。浚恆謂求恆之深也。守常而不度勢,求望於上之深,堅固守此,凶之道也。泥常如此,無所往而利矣。世之責望故素而致悔咎者,皆浚恆者也。志既上求之深,是不能恆安其處者也。柔微而不恆安其處,亦致凶之道。凡卦之初終,淺與深、微與盛之地也。在下而求深,亦不知時矣。
初六の爻辞に曰く:「浚恒、貞凶、无攸利」。初六は全卦の最下位に居り、而して九四はそれの正応。それは柔弱昏暗の人、ただ常規を固守するを知りて形勢を審度することを会せず。九四は震体に属して性は陽に属し、剛爻を以て高位に居り、心志は上に向かいて肯んじて下に向かわず、また六二・九三に中間に隔てられ、それが初六に回応するの心意は已に尋常と同じからず。初六は仍りそれに向かいて深深と求索す、これすなわちただ常有るを知りて変有るを知らず。「浚」は掘り深むる、「浚恒」はすなわち「その恒久を求むる」のこの事を為すこと過深なり。常規を固守して形勢を審度せず、一味に上に向かいて深く求め、なお頑固に堅持して改めず、これ正に凶を招くの道。この如く常に拘泥すれば、何処に往くを論せず皆利あらじ。世上のあの老交情・老情分を以て苛責期望を別人にする者、結果は悔恨と過错とを招来するは、皆「浚恒」の一類の人。心志は既に一味に上に向かいて深く求むれば、見ゆべしそれは并せて能く自己の当下の位置に安処せず。本已に柔弱微小にして、また能くその居る所に安んぜず、これも同じく凶を招くの道。大凡そ一卦の初爻と上爻とは、正に浅と深・微と盛とが相対応するの位置。身は最下に居りて求むること過深なるは、また時宜を識らざるなり。
《象》曰:浚恆之凶,始求深也。居恆之始,而求望於上之深,是知常而不知度勢之甚也。所以凶,陰暗不得恆之宜也。九二,悔亡。在恆之義,居得其正,則常道也。九,陽爻,居陰位,非常理也。處非其常,本當有悔,而九二以中德而應於五,五復居中,以中而應中,其處與動,皆得中也,是能恆久於中也。能恆久於中,則不失正矣。中重於正,中則正矣,正不必中也。九二以剛中之德而應於中,德之勝也,足以亡其悔矣。人能識重輕之勢,則可以言《易》矣。
『小象伝』に曰く:「浚恒之凶、始求深也」。恒道の開端に処りて、却って上に向かいて深深と求望す、これはただ常規を知りて全く形勢を審度することを会せざるなり。それの凶なる所以は、陰柔昏暗にして能く恒久の道の分寸に合せざるに因る。九二の爻辞に曰く:「悔亡」。『恒』卦の意義に就きて言えば、位に居りてその正を得るをこそ、初めて常道。九は陽爻にして却って第二のこの陰位に居るは、もとより常理に合せず。処する所は既にその常に非ず、もとより応に悔恨有るべし。然るも九二は居中の徳有りて上って六五に応じ、六五もまた同じく中に居り、中を以て中に応ずれば、それの静処と行動とは皆中道に合す、これすなわち能く恒久に中を守るなり。能く恒久に中を守れば、もまた正を失わざらん。「中」は「正」より更に緊要:能く中なれば必ず正、能く正なれば未必しも能く中ならず。九二は剛健守中の徳を以て上って居中の君に応ずるは、是れ徳行が位置の偏失に勝過するなり、足りて悔恨を消失せしむ。人は若し能く軽重緩急の分際を識得せば、すなわち彼と同じく『易』を談ずべし。
《象》曰:九二悔亡,能久中也。所以得悔亡者,由其能恆久於中也。人能恆久於中,豈止亡其悔,德之善也。九三,不恆其德,或承之羞,貞吝。三,陽爻,居陽位,處得其位,是其常處也;乃志從於上六,不唯陰陽相應,風復從雷,於恆處而不處,不恆之人也。其德不恆,則羞辱或承之矣。或承之,謂有時而至也。貞吝,固守不恆以為恆,豈不可羞吝乎?
『小象伝』に曰く:「九二悔亡、能久中也」。九二の能く悔恨を消失せしむる所以は、正にそれが能く恒久に中道を守るに由る。人は若し能く恒久に中を守れば、何啻悔恨を消除するのみならんや、あれは本身すなわち徳行の美善。九三の爻辞に曰く:「不恒其徳、或承之羞、貞吝」。九三は陽爻にして陽位に居り、位置はもとより相称、これ正にそれの応に安処すべきの常位。それは却って一心に上六に跟従す——但し陰陽は彼此相応ずるのみならず、しかも下は巽で風、上は震で雷、風はまた雷に随いて動くを慣わしとす——もとより応に安処すべきの位置上に於て偏に安処せず、これはすなわち一箇の反復無常の人。徳行は能く恒久ならざれば、羞辱は時時に彼の身上に落ち来たらん。「或承之」とは、羞辱はいつ来たるか定まらざるを言う。「貞吝」とは:頑固に「不恒」を以て自己の常態と為して守り続くるは、豈に羞ずべき惜しむべきならざらんやと言う。
《象》曰:不恆其德,無所容也。人既無恆,何所容處?當處之地,既不能恆,處非其據,豈能恆哉?是不恆之人,無所容處其身也。九四,田無禽。以陽居陰,處非其位,處非其所,雖常何益?人之所為,得其道則久而成功,不得其道則雖久何益?故以田為喻,言九之居四,雖使恆久,如田獵而無禽獸之獲,謂徒用力而無功也。
『小象伝』に曰く:「不恒其徳、无所容也」。人は既に反復無常なれば、なお何処に彼を容れ得る有らん。もとより応に安処すべきの位置上に於ても能く恒守せず、走り去りて自己に属さざる地方を占拠するは、また怎麼様にして能く長久ならんや。それゆえ反復無常の人は、天下に彼の安身する地方なし。九四の爻辞に曰く:「田无禽」。九四は陽爻を以て陰位に居り、処する所はその位に当たらず、立つ所は自己の応に立つべき地方に非ず、縦令恒守し続くるともまた何の好処あらん。人の事を為すは、路を走り正しくせば初めて能く日久しくして成功す。路を走り錯えれば、たとえ堅持すること甚だ久しきともまた何の益あらん。それゆえ田猟を用いて以て比方を打つ、是れ九が陽爻を以て第四位に居り、たとえ長久に守り去るとも、出でて猟を打つに而して一頭の野獣も打ち得ざるが如く、気力を白费して而して功效毫もなしを言う。
《象》曰:久非其位,安得禽也?處非其位,雖久何所得乎?以田為喻,故云安得禽也。六五,恆其德,貞。婦人吉,夫子凶。五應於二,以陰柔而應陽剛,居中而所應又中,陰柔之正也,故恆久其德則為貞也。夫以順從為恆者,婦人之道,在婦人則為貞,故吉;若丈夫而以順從於人為恆,則失其剛陽之正,乃凶也。五,君位,而不以君道言者,如六五之義,在丈夫猶凶,況人君之道乎?在它卦,六居君位而應剛,未為失也;在恆,故不可耳。君道豈可以柔順為恆也?
『小象伝』に曰く:「久非其位、安得禽也」。処する所は既に自己の応に在るべき位置に非ず、守ること再び久しきともまた何を得るを能くせん。爻辞が田猟を以て比方を作すがゆえに、『象伝』は順いて「何処に猟物を打ち得んや」と言う。六五の爻辞に曰く:「恒其徳、貞。婦人吉、夫子凶」。六五は下って九二に応ず、是れ陰柔を以て陽剛に応ずるなり、自己は中に居りて応ずる所はまた中に居る、これは陰柔の一方の正道、それゆえ恒久にこのような徳行を保持すれば便ち「貞」と算す。然るも順従を以て終身の常と為すは、婦人の道理:婦人の身上に於ては正、それゆえ吉。若し男子もまた別人に順従することを常態と為さば、あればすなわち陽剛の正を喪失し、そこに於て凶有り。六五はもとより君位、程頤は却って君道に按じて講ぜざるは、六五のこの種の一味に柔順の意義の如きを、普通男子の身上に放つもなお是れ凶、いわんや君たるの道をや。別の卦の裡に於ては、六爻が陰を以て君位に居りて剛爻に応ずるは、未必しも失当と算せず。ただ『恒』卦の裡に於ては可ならざるのみ。君たるの道は、怎麼能く柔順を以て長久不変の常法と為さんや。
《象》曰:婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。如五之從二,在婦人則為正而吉,婦人以從為正,以順為德,當終守於從一。夫子則以義制者也,從婦人之道,則為凶也。上六,振恆,凶。六居恆之極,在震之終,恆極則不常,震終則動極。以陰居上,非其安處,又陰柔不能堅固其守,皆不常之義也,故為振恆,以振為恆也。振者,動之速也,如振衣,如振書,抖擻運動之意。在上而其動無節,以此為恆,其凶宜矣。《象》曰:振恆在上,大無功也。居上之道,必有恆德,乃能有功。若躁動不常,豈能有所成乎?居上而不恆,其凶甚矣。《象》又言其不能有所成立,故曰大無功也。
『小象伝』に曰く:「婦人貞吉、従一而終也。夫子制義、従婦凶也」。六五の如く九二に順従するは、婦人に於ては便ち正にして吉利。婦人は順従を以て正と為し柔順を以て徳と為すは、もとより応に始終一を守りて従うべし。男子は則ち応に義理を以て事情を裁断すべし、若し婦人のあの種の一味に順従の態度を采取せば、すなわち凶。上六の爻辞に曰く:「振恒、凶」。上六は『恒』卦の極点に処り、また上体震卦の末端に在り:恒は極点に到れば却って能く恒ならず、震動は末端に到れば便ち動の極処に到る。それは陰柔を以て最上に居り、もとより安穏の所に非ず、加うるに陰柔はまた能く堅定に自己を守住する能わず、これらは皆「能く恒常ならず」の意、それゆえ「振恒」と言う、すなわち揺動を以て常態と為す。「振」は急速に動くこと、衣服を抖う・書冊を抖うが如く、是れ抖擻揺動の様子。身は高位に居りて挙動に節度毫もなく、またこの個を以て常法と為せば、凶を招くは理の当然なる所。『小象伝』に曰く:「振恒在上、大无功也」。上位に居るの道理は、必ず恒久の徳有るを須い、初めて能く功業を成就す。若し躁動して安んぜず変化して常なければ、何処に能く成就する所有らんや。身は上位に在りて恒徳なければ、凶険は便ち更に深重なり。『象伝』はまた彼が終竟に能く何を建立するもなきを指出す、それゆえ「大无功」と言う。
遯卦(艮下乾上)
《遁》,《序卦》:“恆者久也,物不可以久居其所,故受之以遁,遁者退也。”夫久則有去,相須之理也,遁所以繼恆也。遁,退也,避也,去之之謂也。為卦,天下有山。天,在上之物,陽性上進。山,高起之物,形雖高起,體乃止。物有上陵之象而止不進,天乃上進而去之,下陵而上去,是相違遁,故為遁去之義。二陰生於下,陰長將盛,陽消而退,小人漸盛,君子退而避之,故為遁也。
『遯』卦、『序卦伝』に曰く:「恒者久也、物不可以久居其所、故受之以遯。遯者退也」。久しく一地に処れば必ず離去するの時有り、これは彼此相須の道理、それゆえ『遯』卦は『恒』卦の後に接ぐ。「遯」はすなわち退、すなわち避、離去することを指して言う。卦象に就きて言えば、是れ天下に山有り:天は上位に居る物、陽性は上に向かいて升進す。山は高聳する物、形体は高高隆起すと雖も、その性は却って静止。山は上に向かいて凌逼するの象有りて而も停住して更に前進せず、天は却って一直に上升してそれを離れ去る——下面のは凌逼して上り来たり、上面のは却って退走す、両者は互相背離す、それゆえ「退避して去る」の意を取る。再び爻画より看れば、両箇の陰爻は卦の下に生じ、陰気は漸長して将に壮盛ならんとし、陽気は消退して後撤す、正に小人が一天天に勢を得、君子は只好く引退回避するが如し、それゆえこれを『遯』と言う。
遁:亨,小利貞。遁者,陰長陽消,君子遁藏之時也。君子退藏以伸其道,道不屈則為亨,故遁所以有亨也。在事,亦有由遁避而亨者。雖小人道長之時,君子知幾退避,固善也。然事有不齊,與時消息,無必同也。陰柔方長,而未至於甚盛,君子尚有遲遲致力之道,不可大貞,而尚利小貞也。
『遯』卦の卦辞に曰く:「遯:亨、小利貞」。『遯』は陰気漸長・陽気漸消にして、君子が退隠藏身するの時。君子が退隠藏身するは、正に自己の守る所の道を伸張せんが為。道は屈折せられず、すなわち亨通、それゆえ『遯』卦は却って「亨」有り。具体の事情に就きて言えば、また常に退避に因りて初めて亨通を得る有り。小人の勢を得る時に在ると雖も、君子は能く微兆を察見して及早に退避す、固より是れ好し。然るも世事は参差斉ならず、時勢の消長に随いて斟酌すべく、人人一律を必せず。陰柔が剛剛に生長し始めて未だ極盛に到らざる時に当たりては、君子はなお従容に力を出し遅遅として去らざるの余地有り、それゆえ大処に於て強いて正を守るべからず、而して只宜しく小処に於て正を守るべし、これすなわち「小利貞」。
《彖》曰:遁亨,遁而亨也。小人道長之時,君子遁退,乃其道之亨也。君子遁藏,所以伸道也。此言處遁之道,自“剛當位而應”以下,則論時與卦才,尚有可為之理也。剛當位而應,與時行也。雖遁之時,君子處之,未有必遁之義。五以剛陽之德,處中正之位,又下與六二以中正相應,雖陰長之時,如卦之才,尚當隨時消息,苟可以致其力,無不至誠自盡以扶持其道,未必於遁藏而不為,故曰與時行也。
『遯・彖伝』に曰く:「遯亨、遯而亨也」。小人の道が日益に滋長する時に当たりて、君子が退避引去するは、正に彼の守る所の道の亨通。君子の退隠藏身するは、為す所はこの道を伸張するに在り。この一句の講ずる所は身が『遯』の時に処するの原則。而して「剛当位而応」以下は、則ち転じて時勢と卦の才質とを討論し、その中に仍り能く作為する所有るの道理を説明す。『彖伝』に曰く:「剛当位而応、与時行也」。たとえ身が退避の時に処するとも、君子は処置するに起りて、未必しも便ち退せざるべからずに非ず。九五は陽剛の徳を具備し、中正の位に居り、また下って六二と中正の道を以て相応ず。正当に陰気漸長の際に在ると雖も、この一卦の才質に憑りて、なお応に時勢の消長に随いて進退を斟酌すべし。ただ能く力を出し得る間は、便ち至誠を竭くして正道を扶持せざるなし、未必しも一味に退蔵して而して何をも為さざるに非ず、それゆえ「与時行也」と言う。
小利貞,浸而長也。遁之時義大矣哉!當陰長之時,不可大貞,而尚小利貞者,蓋陰長必以浸漸,未能遽盛,君子尚可小貞其道,所謂小利貞,扶持使未遂亡也。遁者陰之始長,君子知微,故當深戒,而聖人之意未便遽已也,故有“與時行,小利貞”之教。聖賢之於天下,雖知道之將廢,豈肯坐視其亂而不救?必區區致力於未極之間,強此之衰,艱彼之進,圖其暫安,苟得為之,孔、孟之所屑為也,王允、謝安之於漢、晉是也。若有可變之道,可亨之理,更不假言也,此處遁時之道也。故聖人贊其時義大矣哉!或久或速,其義皆大也。
『彖伝』に曰く:「小利貞、浸而長也。遯之時義大矣哉」!正当に陰気が生長する時に在りて、大処に於て強守すべからずと雖も、仍り「小利貞」と言うは、陰気の滋長は必ず逐漸浸潤にして、一時には未だ能く驟然に壮盛ならず、君子はなお小処に於て自己の道を守住し得るに因る——所謂「小利貞」とは、すなわち勉力して扶持し、正道をして至らずして立刻に覆亡せざらしむるなり。『遯』は陰気が剛剛に滋長し始め、君子は能く微を見て著を知る、それゆえ応に深深と警惕すべし。然るも聖人の用意は并せて人をして馬上に撒手して管せざらしめんと欲するに非ず、それゆえ初めて「与時行」「小利貞」の教誨有る。聖賢の天下に対しては、たとえ明らかに将に廃壊せんとするを知るとも、また怎肯しく坐視して禍乱を救挽せざらんや。必ず事情が未だ極処に到らざるの時に於て、自己の微薄の力を尽くし、勉强に正道の衰頽を支撐し、邪佞の進逼に障碍を設置し、一時の安定を謀求す。ただなお為すべきの余地有る間は、孔子・孟子もまた肯んじてこの如く為すなり、東漢の王允の漢室に於ける、東晋の謝安の晋室に於けるが如きは、すなわちこのような例。至りて若し真に能く扭転すべきの機会・能く亨通すべきの道理有らば、あれば則ち更に多説を須いず。これすなわち身が『遯』の時に処するの原則、それゆえ聖人は讃嘆して「遯之時義大矣哉」と曰く——或いは遅遅として去らず、或いは迅速に引退す、その中の意義は皆極めて重大なり。
《象》曰:天下有山,遁,君子以遠小人,不惡而嚴。天下有山,山下起而乃止,天上進而相違,是遁避之象也。君子觀其象,以避遠乎小人,遠小人之道,若以惡聲厲色,適足以致其怨忿,唯在乎矜莊威嚴,使知敬畏,則自然遠矣。
『遯・大象伝』に曰く:「天下有山、遯、君子以遠小人、不悪而厳」。天の下面に山有り、山は下面より隆起するも終竟に停住し、天は則ち一路上升してこれと相背く、これすなわち退避の象。君子はこの象を観察して、因りて小人を遠離すべきを懂得す。小人を遠離するの弁法:若し悪言厲色を用いて以て対付せば、恰好に彼らの怨恨忿怒を招来す。ただ自己の挙止操守を端厳荘重にするをこそ、彼らをして心裡に敬畏を生ぜしめ、自然に疏遠して開け去らん。これすなわち「不悪而厳」——声色を動かさずして自ら威重有り。
初六,遁尾厲,勿用有攸往。他卦以下為初。遁者往遁也,在前者先進,故初乃為尾。尾,在後之物也,遁而在後不及者也,是以危也。初以柔處微,既已後矣,不可往也,往則危矣。微者易於晦藏,往既有危,不若不往之無災也。《象》曰:遁尾之厲,不往何災也?見幾先遁,固為善也;遁而為尾,危之道也。往既有危,不若不往而晦藏,可免於災,處微故也。古人處微下,隱亂世,而不去者多矣。
初六の爻辞に曰く:「遯尾厲、勿用有攸往」。別の卦は皆最下の一爻を以て「初」と為す。『遯』の講ずる所は外に往きて退避するなり、前面を走るは先ず出で去る、それゆえ最下のこの一爻は却って「尾」と為る。「尾」は後に落ちる物、退避して後頭に落ちて走脱に及ばざれば、それゆえ危険。初六は柔弱の質を以て微賎の位に処り、既に已に後れたれば、すなわち更に前に往くべからず、往けば却って危険。地位微賎の人はもとより容易に隠晦藏身す、既に前に往けば危険有れば、動かずして災なきに如かず。『小象伝』に曰く:「遯尾之厲、不往何災也」。能く苗头を看出して搶先に退避するは、固より是れ上策。退避して最後に落つるは、すなわち危を招くの道。既に前往すれば危険有れば、動かずして隠晦藏身するに如かず、却って能く禍を免れん、これは彼の地位が微賎なるがゆえの縁故。古人の身が卑微下位に処り、乱世の中に隠没して而して始終離去せざる者は、多くは皆この如し。
六二,執之用黃牛之革,莫之勝說。二與五為正應,雖在相違遁之時,二以中正順應於五,五以中正親合於二,其交自固。黃,中色,牛,順物,革,堅固之物。二五以中正順道相與,其固如執繫之以牛革也。莫之勝說,謂其交之固,不可勝言也。在遁之時,故極言之。《象》曰:執用黃牛,固志也。上下以中順之道相固結,其心志甚堅,如執之以牛革也。
六二の爻辞に曰く:「執之用黄牛之革、莫之勝説」。六二と九五とは正応、身は彼此背離退避するの時に処するも、六二は却って中正柔順を以て九五に応合し、九五もまた中正の道を以て六二に親附す、両者の交誼は自然に牢固。「黄」は居中の色、「牛」は柔順の物、「革」は堅韌の物。六二・九五は中正柔順の道を以て相交わる、その牢固なること牛皮の縄を用いて縛り住するが如し。「莫之勝説」の「説」はすなわち「脱」、是れこの交誼の牢固なること、簡直に説き尽くすべからずを言う——人人相背いて去るの『遯』の時に在りて、特地に話を極処に説く所以。『小象伝』に曰く:「執用黄牛、固志也」。上下双方は中正柔順の道を以て彼此固結し、心志は極めて堅定、牛皮の縄に系えられたるが如し。
九三,係遁,有疾厲,畜臣妾吉。陽志說陰,三與二切比,繫乎二者也。遁貴速而遠,有所繫累,則安能速且遠也?害於遁矣,故為有疾也。遁而不速,是以危也。臣妾,小人女子,懷恩而不知義,親愛之則忠其上。繫戀之私恩,懷小人女子之道也,故以畜養臣妾,則得其心為吉也。然君子之待小人,亦不如是也。三與二非正應,以暱比相親,非待君子之道。若以正,則雖係,不得為有疾,蜀先主之不忍棄士民是也。雖危,為無咎矣。
九三の爻辞に曰く:「系遯、有疾厲、畜臣妾吉」。陽爻の心性は陰爻に親近するを喜び、九三と六二とは緊緊と相隣す、是れ六二に牽系せられたるなり。退避は快にして且つ遠きを貴ぶ、一たび牽挂拖累有れば、怎麼能く又快且遠ならんや。これはすなわち退避を妨害す、それゆえ「有疾」と言う——身上に病を帯びたるが如し。退避して而して能く迅速ならざれば、これに因りて危険。「臣妾」は指す所は僕隷婢妾の一流の人、彼らはただ恩情を感念して而大義を明白にせず、あなたが彼らを親近愛護すれば、彼らは便ち主上に対して忠を尽くす。私恩を用いて以て籠絡牽系するは、正に臣妾に対待するの弁法、それゆえ用いて臣妾を畜養せば、能くその心を得、是れ吉利。然るも君子の小人に対待するは、却って応にこの様子なるべからず。九三と六二とは并せて正応に非ず、ただ狎近相親するのみ、これは君子を接待するの正道に非ず。倘若し牽系は正當の理由より出づれば、あればたとえ系恋する所有るとも、また「有疾」と算せず——蜀汉の先主劉備の南奔する時に追随する百姓を抛下するに忍びざりしが如きは、すなわちこの如し。処境は危険と雖も、却って過错なし。
《象》曰:係遁之厲,有疾憊也;畜臣妾吉,不可大事也。遁而有繫累,必以困憊致危;其有疾,乃憊也,蓋力亦不足矣。以此暱愛之心畜養臣妾則吉,豈可以當大事乎?九四,好遁,君子吉,小人否。四與初為正應,是所好愛者也。君子雖有所好愛,義苟當遁,則去而不疑,所謂克己復禮,以道制欲,是以吉也。小人則不能以義處,暱於所好,牽於所私,至於陷辱其身而不能已,故在小人則否也。否,不善也。四,乾體能剛斷者。聖人以其處陰而有繫,故設小人之戒,恐其失於正也。
『小象伝』に曰く:「系遯之厲、有疾憊也。畜臣妾吉、不可大事也」。退避して牽挂拖累を帯ぶれば、必ず困頓疲憊に因りて危険を招致せん。所謂「有疾」とは、すなわち疲憊不振、気力もまた足らざるを説明す。この種の狎昵愛怜の心思を用いて臣妾を畜養すれば自然に吉利、然るもそれを拿りて天下の大事を担当せば、怎麼行わんや。九四の爻辞に曰く:「好遯、君子吉、小人否」。九四と初六とは正応、是れ彼の愛好眷戀する所の対象。君子は縦令愛好眷戀する所有るとも、ただ道義の上に於て応に退避すべければ、便ち断然として離去して而して毫も遅疑せず、これすなわち自己を克制して礼法に回復し、道義を用いて以て欲望を節制す、それゆえ吉利。小人は却って能く義理に按じて自処せず、自己の愛好する所に狎昵し、私情に牽えられて、自身が汚辱に陥るに至るまでなお停まる能わず、それゆえ小人に於ては便ち「否」。「否」はすなわち不善。九四はもとより乾体に属し、是れ能く剛断する者。聖人はそれが陰位に居りて而又た牽系する所有るに因りて、それゆえ特に意を設けて小人に針対するの告戒を為す、それがこの上頭に於て正を失わんことを怕るがゆえ。
《象》曰:君子好遁,小人否也。君子雖有好而能遁,不失於義;小人則不能勝其私意,而至於不善也。九五,嘉遁,貞吉。九五中正,遁之嘉美者也。處得中正之道,時止時行,乃所謂嘉美也,故為貞正而吉。九五非無繫應,然與二皆以中正自處,是其心志及乎動止,莫非中正,而無私繫之失,所以為嘉也。在《彖》則概言遁時,故云“與時行,小利貞”,尚有濟遁之意;於爻至五,遁將極矣,故唯以中正處遁言之。遁非人君之事,故不主君位言,然人君之所避遠乃遁也,亦在中正而已。《象》曰:嘉遁貞吉,以正志也。志正則動必由正,所以為遁之嘉也。
『小象伝』に曰く:「君子好遯、小人否也」。君子は愛好する所有ると雖も仍り能く退避して、義理に失わず。小人は則ち自己の私意に勝過すること能わず、終竟に不善に陥るに至る。九五の爻辞に曰く:「嘉遯、貞吉」。九五は中に居りて正を得、是れ退避の中の最も完美なる一種。処置は中正の道に合し、停まるべきは便ち停まり行くべきは便ち行く、これをこそ「嘉美」と言う、それゆえ是れ正を守りて吉利。九五は并せて相応牽系の対象なきに非ず、然るもそれと六二とは皆中正を以て自処す、見ゆべしそれの心志以至一動一静は、中正より出でざるなく、而して私相牽系の毛病なし、それゆえ「嘉」と称す。『彖伝』の裡に於ては籠統に整个の退避の時を講ず、それゆえ「与時行」「小利貞」と言い、なお時局を挽救するの意思を含む。爻辞に到りて第五爻を講ずれば、退避は已将に極点に到らんとす、それゆえただ「中正の道を以て退避に自処する」に就きて言う。退避はもとより人君の分内の事に非ず、それゆえ此の爻は君位に按じて説を立てず。不過人君の疏遠回避するを要する所は、もすなわち一箇の「遯」の字、その要領は同じくただ中正に在るのみ。『小象伝』に曰く:「嘉遯貞吉、以正志也」。心志は端正なれば、行動は便ち必ず正道に循る、これ正に退避の「嘉」たる所以の縁由。
居中得正,而應中正,是其志正也,所以為吉。人之遁也,止也,唯在正其志而已矣。上九,肥遁,無不利。肥者,充大寬裕之意。遁者,唯飄然遠逝,無所繫滯之為善。上九乾體剛斷,在卦之外矣,又下無所繫,是遁之遠而無累,可謂寬綽有餘裕也。遁者窮困之時也,善處則為肥矣。其遁如此,何所不利?《象》曰:肥遁無不利,無所疑也。其遁之遠,無所疑滯也。蓋在外則已遠,無應則無累,故為剛決無疑也。
九五は中に居りて正を得、応ずる所の六二もまた中正、これはすなわちそれの心志端正の表現、それゆえ吉利。人の退避も亦た好し、安止も亦た好し、関鍵はただ自己の心志を端正するに在るのみ。上九の爻辞に曰く:「肥遯、无不利」。「肥」は充実寛大・绰として余裕有りの意。退避のこの事は、ただ飄然として遠く去り一たび牽挂滞礙なきをこそ上乘と算す。上九は乾体に属し、能く剛毅決断し、位置はまた全卦の外に在り、下面は更に相応する爻あってそれを牽住するなし、これは退くること又た遠く而して拖累なし、寛舒にして余地有りと言うべし。退避はもとより処境困窘の時、善く自処する人は却って能く過ごすこと従容寛裕、これすなわち「肥」。このような退避は、また何の不利有らん。『小象伝』に曰く:「肥遯无不利、无所疑也」。それは退くること遠し、それゆえ遅疑滞礙毫もなし:身は卦の外に在ればすなわち已に離るること足りるほど遠く、下に正応なければすなわち牽累なし、因りて能く剛毅決断して毫も猶豫せず。
大壮卦(乾下震上)
《大壯》,《序卦》:“遁者退也,物不可以終遁,故受之以大壯。”遁為違去之義,壯為進盛之義。遁者,陰長而陽遁也。大壯,陽之壯盛也。衰則必盛,消息相須,故既遁則必壯,大壯所以次遁也。為卦,震上乾下。乾剛而震動,以剛而動,大壯之義也。剛陽大也,陽長已過中矣。大者壯盛也。又雷之威震而在天上,亦大壯之義也。
『大壮』卦、『序卦伝』に曰く:「遯者退也、物不可以終遯、故受之以大壮」。「遯」は背離して去るの意、「壮」は進取壮盛の意。『遯』卦は陰気漸長して陽気は退避す。『大壮』は則ち陽気の壮盛。衰敗の後は必ず重新に興盛し、消と長とはもとより互相依待す、それゆえ既に退避し過ぎたれば必ず転じて壮盛と為る。『大壮』はこれに因りて『遯』卦の後に排す。卦体に就きて言えば、是れ震が上に在り乾が下に在り:乾性は剛健にして震は動作を主とし、剛健の質を以て行動するは、正に「大壮」の意。陽剛はすなわち「大」、此の卦は四箇の陽爻が下より生長して、已に六爻の中を越過せり。所謂「大者壮盛」は正に此を指す。再び言えば、雷威は震響して高く天上に居るは、また大いに壮盛の意。
大壯:利貞。大壯之道,利於貞正也。大壯而不得其正,強猛之為耳,非君子之道壯盛也。《彖》曰:大壯,大者壯也,剛以動故壯。所以名大壯者,謂大者壯也。陰為小,陽為大。陽長以盛,是大者壯也。下剛而上動,以乾之至剛而動,故為大壯。為大者壯,與壯之大也。
『大壮』卦の卦辞に曰く:「大壮:利貞」。壮盛の道は、正を守持して固きを以て宜しきと為す。若し壮盛にして能くその正を得ざれば、あればすなわち只だ強を逞し猛を使するのみ、并せて君子の道の壮盛に非ず。『彖伝』に曰く:「大壮、大者壮也、剛以動故壮」。此の卦の「大壮」と称する所以は、「大の一方」が壮盛し起こったを言う。陰は小と為り陽は大と為り、陽気は生長して盛に至るは、正に大の一方の壮盛。下体は剛健にして上体は震動、乾の至剛を以て行動に往く、それゆえ「大壮」と言う。この句話は既に「大者壮盛」の意を含み、また「壮盛なること甚だ大」の意を含む。
大壯利貞,大者正也。正大而天地之情可見矣。大者既壯,則利於貞正。正而大者道也,極正大之理,則天地之情可見矣。天地之道,常久而不已者,至大至正也。正大之理,學者默識心通可也。不云大正,而云正大,恐疑為一事也。《象》曰:雷在天上,大壯,君子以非禮弗履。雷震於天上,大而壯也。君子觀大壯之象,以行其壯。君子之大壯者,莫若克己復禮。古人云:“自勝之謂強。”《中庸》於“和而不流”“中立而不倚”,皆曰“強哉矯”“赴湯火”“蹈白刃”,武夫之勇可能也。至於克己復禮,則非君子之大壯不可能也,故云:君子以非禮弗履。
『彖伝』に曰く:「大壮利貞、大者正也。正大而天地之情可見矣」。大の一方は既に壮盛たれば、すなわち応に正を守持して固くすべし。既に正しく且つ大なるをこそ、初めてこれを「道」と言う。正大の道理を推究して極処に至れば、天地の真実の情状は便ち見るべし。天地の運行の能く恒久不息なる所以は、正にそれが至大にして而又至正なるがゆえ。この正大の道理は、学者は只だ黙黙として体会し心中に融通すれば便ち可なり。ここに「大正」と言わずして「正大」と言うは、人が「正」と「大」とを一回事と誤認せんことを怕るがゆえ。『大壮・大象伝』に曰く:「雷在天上、大壮、君子以非礼弗履」。雷は天上に在りて震響す、声勢は又大又壮。君子は大壮の卦象を観察し、因りて自己の壮盛を何処に用いるべきを懂得す:君子の真の大壮は、私欲を克制して礼法に回復するに比ぶべき更要緊なるはなし。古人は言う:「能く自己に戦勝するをこそ強と言う」。『中庸』は「和而不流」「中立而不倚」に講じ到りて、皆讃嘆して「強哉矯」と言う。至りて湯に赴き火に蹈み白刃を脚踏するは、あれは武夫の勇もまた能く為し得る所、然るも克己復礼せんと要すれば、若し君子の大壮に非ざれば便ち為し得ず。それゆえ「君子以非礼弗履」と言う——凡そ礼に合せざるは、一步も踏上せず。
巻四
周易下経・困卦(坎下兌上)
《困》,《序卦》:“升而不已必困,故受之以困。”升者自下而上,自下升上,以力進也,不已必困矣,故升之後受之以困也。困者憊乏之義。為卦,兌上而坎下。水居澤上,則澤中有水也;乃在澤下,枯涸無水之象,為困乏之義。又兌以陰在上,坎以陽居下,與上六在二陽之上,而九二陷於二陰之中,皆陰柔揜於陽剛,所以為困也。君子為小人所揜蔽,窮困之時也。
『困』卦、『序卦伝』に曰く:「升而不已必困、故受之以困」。上升は下より上に往く、下より上に向かいて升るは、力を使して前進するに頼る、一直に力を用いて停まらざれば必ず困乏す、それゆえ『升』卦の後に『困』卦を接ぐ。「困」は疲憊窮乏の意。卦体に就きて言えば、兌は上に在りて坎は下に在り:水は若し沢の上方に居れば、あればすなわち沢の中に水有り。如今水は却って沢の下面に在り、成りて乾涸して水無きの象、正に困乏の義。再び言えば兌は陰爻が上に在り、坎は陽爻が中間に陥る——上六は両箇の陽爻の上に圧し、九二は両箇の陰爻の中に陥る——皆陽剛が陰柔に掩蔽せられたるなり、それゆえこれを『困』と言う。これ正に君子が小人に遮蔽圧制せられ、処境窮困の時。
困:亨,貞大人吉,無咎,有言不信。如卦之才,則困而能亨,且得貞正,乃大人處困之道也,故能吉而無咎。大人處困,不唯其道自吉,樂天安命,乃不失其吉也。況隨時善處,復有裕乎。有言不信,當困而言,人誰信之。《彖》曰:困,剛揜也。卦所以為困,以剛為柔所掩蔽也。陷於下而掩於上,所以困也。陷亦揜也。剛陽君子而為陰柔小人所掩蔽,君子之道困窒之時也。
『困』卦の卦辞に曰く:「困:亨、貞大人吉、无咎、有言不信」。この一卦の才質に憑れば、すなわち能く身が困境に処りて而して仍り亨通し、并せて正を守住し得るを得、これ正に大人の困に処するの方法、それゆえ能く吉利にして過错なし。大人は困境に処すれば、但し彼の守る所の道は本身すなわち吉なるのみならず、しかも彼は楽天知命・遇う所に安んず、これに因りて并せてその吉を失わず。いわんや彼はなお能く時に随いて妥善に応対するをや、更に绰として余裕有り。「有言不信」に至りては、是れ人が正に困頓の時に当たりて口を開きて説話すれば、誰か肯んじて相信せんやを言う。『彖伝』に曰く:「困、剛揜也」。此の卦の困と為る所以は、陽剛が陰柔に遮蔽せられたるに因る:九二は下面に陥り、上六は上面に圧す、それゆえ困。「陥」は其実もすなわち遮蔽。陽剛君子が陰柔小人に遮蔽せらるるは、正に君子の道の困阻窒塞せらるるの時。
險以說,困而不失其所亨,其唯君子乎!以卦才言處困之道也。下險而上說,為處險而能說,雖在困窮艱險之中,樂天安義,自得其說樂也。時雖困也,處不失義,則其道自亨,困而不失其所亨也。能如是者,其唯君子乎!若時當困而反亨,身雖亨,乃其道之困也。君子,大人通稱。貞大人吉,以剛中也。困而能貞,大人所以吉也,蓋其以剛中之道也。五與二是也。非剛中,則遇困而失其正矣。
『彖伝』に曰く:「険以説、困而不失其所亨、其唯君子乎」!これは卦の才質に就きて困に処するの道を講ず。下体の坎は険にして上体の兌は悦、すなわち身が険中に処りて而して仍り能く欣悦す。困窮艱険の中に在ると雖も、却って楽天知命して義理に安んじ、自ら一つの怡然の快楽有り。時勢は困頓と雖も、自処は義理を失わざれば、あれば彼の守る所の道は自然に亨通す、これすなわち「困而不失其所亨」。能くこの一步に做り到るは、ほぼただ君子のみか。反りて言えば、若し時勢はもとより応に困頓すべきに而して彼は偏偏として通达せば、あれば彼の一身は顕達と雖も、其実は彼の守る所の道が困住したるなり。ここの「君子」と「大人」とは通用の称呼。『彖伝』はまた曰く:「貞大人吉、以剛中也」。困に処りて能く正を守るは、大人の吉利なる所以の縁故、頼る所は剛健にして中を守るの道理、九五と九二とは正にこの如し。若し剛にして中を得るに非ざれば、一たび困厄に遇えば便ち自己の正を失わん。
有言不信,尚口乃窮也。當困而言,人所不信,欲以口免困,乃所以致窮也。以說處困,故有尚口之戒。《象》曰:澤無水,困,君子以致命遂志。澤無水,困乏之象也。君子當困窮之時,既盡其防慮之道,而不得免,則命也,當推致其命,以遂其志。知命之當然也,則窮塞禍患不以動其心,行吾義而已。苟不知命,則恐懼於險難,隕穫於窮厄,所守亡矣,安能遂其為善之志乎?
『彖伝』に曰く:「有言不信、尚口乃窮也」。人が正に困頓の時に当たりて説話すれば、別人は信ぜず。一張の嘴に靠りて困境を脱岀せんと想うは、恰恰に自己を窮途末路に弄り至るなり。此の卦は兌悦の体を以て困に処り、兌は口舌と為す、それゆえ特に「口舌を崇尚する勿れ」の告戒を設く。『困・大象伝』に曰く:「沢无水、困、君子以致命遂志」。沢の裡に水無し、正に困乏の象。君子は窮困の時に当たり、防範謀慮の功夫は已に尽くし做して而して仍り能く免れざれば、あれはすなわち命。この時は応に命を推究して底に至り坦然として領受し、従りて自己の志向を成全すべし。命はもとより応にこの如くなるを懂得せば、あれば窮塞禍患は彼の心を動揺する能わず、彼は只管に自己の応に為すべきの義事を為すのみ。倘若し命を知らざれば、便ち険難の面前に於て恐懼し、窮厄の中に於て頽喪沉淪し、自己の守る所をも丢し去る、何処に更に能く彼の善を為すの志向を成全せんや。
初六,臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。六以陰柔處於至卑,又居坎險之下,在困不能自濟者也。必得在上剛明之人為援助,則可以濟其困矣。初與四為正應,九四以陽而居陰為不正,失剛而不中,又方困於陰揜,是惡能濟人之困。猶株木之下,不能蔭覆於物。株木,無枝葉之木也。四近君之位,在他卦不為無助,以居困而不能庇物,故為株木。臀,所以居也。臀困于株木,謂無所庇而不得安其居,居安則非困也。入于幽谷,陰柔之人,非能安其所遇,既不能免於困,則益迷暗妄動,入於深困。幽谷,深暗之所也。方益入於困,無自出之勢,故至於三歲不覿,終困者也。不覿,不遇其所亨也。
初六の爻辞に曰く:「臀困于株木、入于幽谷、三歳不覿」。初六は陰柔の質を以て最も卑下の位置に処り、また坎険の最底層に在り、是れ身が困境に陥りて而して力なくして自ら救う能わざる人。彼は必ず上面の剛健明智の人を得て援助するを須い、初めて能く困を脱せん。初六と九四とはもとより正応、然るも九四は陽爻を以て陰位に居り、位置は正ならず、既に陽剛の守を失いまた中に居らず、自己又た正に陰柔に遮蔽せられて困られり、何処に更に能く別人の困厄を解救せんや。光禿禿の樹桩の底下の如く、何物をも遮住する能わず。「株木」はすなわち枝叶なきの樹桩。九四はもとより君に近きの位に処り、別の卦の裡に於ては助力なしと算せず、ただそれが身は困の中に在りて人を庇護し得ざるに因り、それゆえ樹桩に比ぶ。「臀」は用いて坐る部位、「臀困于株木」は庇蔭する所なくして坐ること安穏ならざるを言う。若し坐ること安穏ならば、あれは便ち困と言わず。「入于幽谷」に至りては:陰柔の人は能く自己の遭遇に安んぜず、既に困頓を免れざれば、愈發に昏昧妄動して、一頭を更に深きの困境に栽入す。「幽谷」は幽深昏暗の所在。彼は正に一步步に陥りて更に深く、自ら出で来るの勢頭なし、それゆえ「三年不見」の地步に到る、是れ終身に困を受くる人。「不覿」はすなわち始終にあの亨通すべきの機会に遇上らざること。
《象》曰:入于幽谷,幽不明也。幽,不明也,謂益入昏暗,自陷於深困也。明則不至於陷矣。九二,困于酒食,朱紱方來,利用亨祀,征凶,無咎。酒食,人所欲而所以施惠也。二以剛中之才,而處困之時,君子安其所遇,雖窮厄險難,無所動其心,不恤其為困也。所困者,唯困於所欲耳。君子之所欲者,澤天下之民,濟天下之困也。二未得遂其欲、施其惠,故為困于酒食也。大人君子懷其道而困於下,必得有道之君求而用之,然後能施其所蘊。二以剛中之德困於下,上有九五剛中之君,道同德合,必來相求,故云朱紱方來。方來,方且來也。朱紱,王者之服,蔽膝也。以行來為義,故以蔽膝言之。
『小象伝』に曰く:「入于幽谷、幽不明也」。「幽」はすなわち不明、是れ彼が越走越走して昏暗に入り、自己が自己を更に深きの困境に陥入せしむるを言う。若し心裡明白なれば、便ち陥落に至らざらん。九二の爻辞に曰く:「困于酒食、朱紱方来、利用亨祀、征凶、无咎」。酒食は人人の欲する所の物、また用いて人に施恵するの物。九二は剛健守中の才質有りて而して身が困頓の時に処り、君子は自己の遭遇に安んじ、縦令窮厄険難が当前に在るとも彼の心を動揺する能わず、彼は并せて自身の困頓を心上に放たず。彼の困る所は、ただ自己の心願の実現を得ざるに困るのみ。君子の心願は、天下の百姓を潤沢し天下の困厄を解救せんと欲するを要す。九二は未だ能くその願を遂げその恵を施す能わず、それゆえ「困于酒食」と言う。大人君子は道を懐抱して而して下位に困るは、必ず道有るの君の来訪任用するを須い、然る後に初めて能く藴蓄する所の抱負を施展せん。九二は剛中の徳を以て下位に困る、上面に九五のこの剛中の君主有り、両人は道同じく徳合す、必ず来りて相求めん、それゆえ「朱紱方来」と言う。「方来」はすなわち正に来たらんとする。「朱紱」は王者の服飾、すなわち蔽膝。要するに「往来行走」の意を取るがゆえに、それゆえ身前に穿くる蔽膝を用いて言う。
利用亨祀,亨祀,以至誠通神明也。在困之時,利用至誠,如亨祀然,其德既誠,自能感通於上。自昔賢哲困於幽遠,而德卒升聞,道卒為用者,惟自守至誠而已。征凶無咎,方困之時,若不至誠安處以俟命,征而求之,則犯難得凶,乃自取也,將誰咎乎。不度時而征,乃不安其所,為困所動也。失剛中之德,自取凶悔,何所怨咎?諸卦二五以陰陽相應而吉,惟《小畜》與《困》,乃厄於陰,故同道相求:《小畜》,陽為陰所畜;《困》,陽為陰所揜也。
「利用亨祀」に至りては:「亨祀」はすなわち「享祀」、是れ至誠を用いて神明に通达するに往く。身は困頓の中に在り、最も宜しく至誠を拿出すべし、祭享するが如く。徳行は既に真誠なれば、自然に能く上に向かいて感通す。古来自来、賢哲は幽僻遙遠の地に困処して、而して徳名は終竟に上って朝に聞こえ、守る所の道は終竟に世に見用せらるるは、頼る所は不過自ら一箇の至誠を守るのみ。「征凶无咎」に至りては:正に困頓の時に当たり、若し能く至誠を以て安処して時命を静候せずして、偏に奔走干求するを要せば、あれはすなわち冒険犯難して自ら凶禍を取るなり、誰を怪まんや。時勢を衡量せずして貿然として前往するは、正に彼が自己の位置を安んじ得ざるを説明し、困境に心志を擾動せられたるなり。剛健守中の徳を丢掉して、凶険悔恨は皆自己の招来する所、また何の埋怨帰咎すべき有らん。各卦の二爻と五爻とは、多くは陰陽相応に因りて吉、唯独『小畜』と『困』の両卦は、陰爻に厄せられたるがゆえに、それゆえ同道のあいだの彼此相求を頼るを要す:『小畜』は陽が陰に畜止せられたる、『困』は陽が陰に遮蔽せられたるなり。
《象》曰:困于酒食,中有慶也。雖困於所欲,未能施惠於人,然守其剛中之德,必能致亨而有福慶也。雖使時未亨通,守其中德,亦君子之道,亨乃有慶也。六三,困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。六三以陰柔不中正之質,處險極而用剛。居陽,用剛也,不善處困之甚者也。石,堅重難勝之物。蒺藜,刺不可據之物。三以剛險而上進,則二陽在上,力不能勝,堅不可犯,益自困耳,困于石也。以不善之德,居九二剛中之上,其不安猶藉刺,據于蒺藜也。進退既皆益困,欲安其所,益不能矣。宮,其居所安也。妻,所安之主也。知進退之不可,而欲安其居,則失其所安矣。進退與處皆不可,唯死而已,其凶可知。
『小象伝』に曰く:「困于酒食、中有慶也」。九二は心願の実現を得ざるに困りて未だ能く人に恵を施す能わずと雖も、然るも彼は剛健守中の徳を守住す、終竟に必ず亨通を招致して福慶有らん。たとえ時勢は一時に通ぜずとも、能く中道の徳を守住せば、も仍り是れ君子の道。亨通するに及べば、福慶は自然にこれに随わん。六三の爻辞に曰く:「困于石、据于蒺藜、入于其宮、不見其妻、凶」。六三は陰柔にして而又中ならず正ならざるの資質を以て、下体坎険の極点に処りて而して偏に剛を逞しゅうす——それは陰爻を以て陽位に居るは、すなわち剛を逞しゅうす——これは困に処して処すること極めて糟なる人。「石」は堅硬沈重にして撼き動かし得ざる物。「蒺藜」は刺を帯びて坐り得ざる物。六三は剛険の姿を用いて上に向かいて闖入す、上面に九四・九五の両箇の陽爻有り、力量は抵敵し過ぐる能わず、堅固にして冒犯すべからず、結果はただ自己を困らしめて更に死なるのみ、これすなわち「困于石」。それは不善の徳を以て、剛健守中の九二の頭上に圧し、坐ること安穏ならずして荆刺を垫くるが如し、これすなわち「据于蒺藜」。進むも困、退くも困、安頓せんと想うも更に可能ならず。「宮」は彼の安身する居所、「妻」は彼の依靠する所の家中の主。明らかに進退は皆行き通らざるを知りて而して、却ってなおその位に安居せんと想えば、結果は彼の依靠する所をも失掉せり。前進・後退・安処の三条の路は皆行き通らざれば、あればただ一死有るのみ、その凶険は想い知るべし。
《繫辭》曰:“非所困而困焉,名必辱;非所據而據焉,身必危。既辱且危,死期將至,妻其可得見耶。”二陽不可犯也,而犯之以取困,是非所困而困也。名辱,其事惡也。三在二上,固為據之,然苟能謙柔以下之,則無害矣;乃用剛險以乘之,則不安而取困,如據蒺藜也。如是,死其將至,所安之主可得而見乎。《象》曰:據于蒺藜,乘剛也;入于其宮,不見其妻,不祥也。據于蒺藜,謂乘九二之剛,不安猶藉刺也。不祥者,不善之徵;失其所安者,不善之效;故云不見其妻不祥也。
『繋辞伝』に曰く:「非所困而困焉、名必辱。非所据而据焉、身必危。既辱且危、死期将至、妻其可得見耶」。上面の両箇の陽爻はもとより冒犯すべからざる、彼は偏に冒犯して自ら困厄を取る、これすなわち「もとより困るべからざるの地方に偏に自己を困住せしむ」。名声は辱を受くるは、彼の為す所の事がもとより悪劣なるに因る。六三は九二の上に在り、形式上は固より是れそれを「据」る。然るもただ能く謙遜柔順してその下に屈居せば、もとより害あらざらん、如今却って剛強凶険の姿態を用いて人家の頭上に圧すれば、そこに於て坐立安んぜずして自ら困厄を取る、蒺藜の上に坐るが如し。この如く下去れば死期は将至り、彼の依靠する所の家主は何処に更に見得んや。『小象伝』に曰く:「据于蒺藜、乗剛也。入于其宮、不見其妻、不祥也」。所謂「据于蒺藜」とは、それが九二の陽剛の上に凌駕するを指し、安穏ならざること荆刺を垫くるが如同なり。「不祥」は不善の征兆。自己の安身依靠する所を失掉するは、則ち不善の結果、それゆえ「不見其妻」と言うはすなわち不祥。
九四,來徐徐,困于金車,吝,有終。唯力不足故困,亨困之道,必由援助。當困之時,上下相求,理當然也。四與初為正應,然四以不中正處困,其才不足以濟人之困。初比二,二有剛中之才,足以拯困,則宜為初所從矣。金,剛也。車,載物者也。二以剛在下載己,故謂之金車。四欲從初而阻於二,故其來遲疑而徐徐,是困于金車也。
九四の爻辞に曰く:「来徐徐、困于金車、吝、有終」。正に力量足らざるに因りて初めて困る、而して困境を通達せしむるの弁法は、必ず外来の援助に依靠するを須い。困頓の時に当たりて、上下は彼此助を求むは、もとより理の当然。九四と初六とは正応、然るも九四は不中不正の質を以て困に処り、才力は別人の困厄を救うに足らず。初六は九二に緊挨し、九二は剛健守中の才有りて足りて困厄を拯救す、あれば初六は自然に応に往きて九二に跟従せん。「金」は剛、「車」は物を載する物。九二は陽剛を以て初六の下に居りてそれを承載す、それゆえこれを「金車」と称す。九四は往きて初六に就かんと欲するも九二に隔阻せられ、これに因りて来ること遅疑緩慢、これすなわち「困于金車」。
己之所應,疑其少己而之他,將從之,則猶豫不敢遽前,豈不可羞吝乎?有終者,事之所歸者正也。初四正應,終必相從也。寒士之妻,弱國之臣,各安其正而已,苟擇勢而從,則惡之大者,不容於世矣。二與四皆以陽居陰,而二以剛中之才,所以能濟困也。居陰者,尚柔也;得中者,不失剛柔之宜也。《象》曰:來徐徐,志在下也,雖不當位,有與也。四應於初而隔於二,志在下求,故徐徐而來;雖居不當位為未善,然其正應相與,故有終也。
九四は疑心して自己の正応は彼を足らずと嫌い而して別に他人に投ずとし、往きて追随せんと欲するもまた猶豫して敢えて径直に上前せず、これは豈に羞ずべき惜しむべきならざらんや。それを「有終」と言うは、事情の最終の帰宿は一箇の「正」の字の上に在るに因る:初六と九四とはもとより正応、終竟に必ず彼此相従す。貧寒の士の妻・弱小の国の臣子の如く、各々自己の名分を安守するのみ。倘若し勢力の大小を挑揀して門庭を改換せば、あれはすなわち天大の悪行、世に容れられず。九二と九四とは皆陽爻を以て陰位に居る、然るも九二は剛にして中を守るの才有り、それゆえ能く困を救う。陰位に居るは、是れ柔を崇尚す。能く中を得るは、是れ剛柔の分寸の拿捏する所その宜を失わざるなり。『小象伝』に曰く:「来徐徐、志在下也。雖不当位、有与也」。九四は初六に応合するも九二に中間に隔てられ、心志は下に向かいて助を求むるに在る、それゆえ緩緩として来たる。所居の位は当たらずして完善と算せざると雖も、然るもそれと初六とはもとより正応にして彼此相与す、それゆえ終竟に好き結果有らん。
九五,劓刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。截鼻曰劓,傷於上也。去足為刖,傷於下也。上下皆揜於陰,為其傷害,劓刖之象也。五,君位也。人君之困,由上下無與也。赤紱,臣下之服,取行來之義,故以紱言。人君之困,以天下不來也,天下皆來,則非困也。五雖在困,而有剛中之德,下有九二剛中之賢,道同德合,徐必相應而來,共濟天下之困,是始困而徐有喜說也。
九五の爻辞に曰く:「劓刖、困于赤紱、乃徐有説、利用祭祀」。鼻を割去するを「劓」と言う、是れ上部に於て傷う。脚を砍去するを「刖」と言う、是れ下部に於て傷う。九五は上は上六に被り下は六三に遮蔽せられ、両頭は皆その傷害を受く、正に「劓刖」の象。第五爻は君位、人君の困る所以は、上下に皆彼と相助くる人なきに由る。「赤紱」は臣下の服飾、要するに「往来行走」の意を取るがゆえに、それゆえ蔽膝を用いて言う。人君の困は、天下の賢才の肯んじて来帰せざるに在り。天下は皆来りて帰附せば、あれは便ち困に非ず。九五は困の中に在ると雖も、却って剛健守中の徳有り、下面にまた九二のこの剛中の賢者有り、両人は道同じく徳合す、慢慢として必然に彼此応和して来たり、共同に天下の困厄を解救せん、これすなわち起初は困頓にして漸漸に欣悦に転ずるなり。
利用祭祀,祭祀之事,必致其誠敬,而後受福。人君在困時,宜念天下之困,求天下之賢,若祭祀然,致其誠敬,則能致天下之賢,濟天下之困矣。五與二同德,而云上下無與,何也?曰:陰陽相應者,自然相應也,如夫婦骨肉,分定也。五與二皆陽爻,以剛中之德,同而相應,相求而後合者也。如君臣朋友,義合也。方其始困,安有上下之與?有與,則非困,故徐合而後有說也。二雲享祀,五雲祭祀,大意則宜用至誠,乃受福也。祭與祀享,泛言之則可通,分而言之,祭天神,祀地祗,享人鬼。五君位言祭,二在下言享,各以其所當用也。
「利用祭祀」に至りては:祭祀のこの事は、必ず十足の誠敬を献出して、然る後に初めて能く福を受く。人君は身が困頓の時に在り、応に天下人の困苦を挂念し、天下の賢才を訪求し、祭祀するが如く誠敬の心を拿出すべし、あれば便ち能く天下の賢者を招来し、天下の困厄を解救せん。人有りて問う:九五と九二とは徳行相同、何の故に仍り上下に彼と相助くる人なしと言うや。回答えて曰く:陰陽相応するは、あれは自然而然の相応、たとえば夫婦骨肉の如く、名分は早已に定下せり。九五と九二とは同じく陽爻、ただ剛中の徳を以て彼此意気相同にして相応ず、須く互相尋求して而る後に初めて能く結合すべし、たとえば君臣朋友の如く、是れ義理に靠りて会合す。彼が剛に困頓に陥入したるの際に当たりて、何処に便ち上下相与有らんや。若し一開始に便ち相与する人有らば、あれはもすなわち困に非ず、それゆえ慢慢として会合して而る後に初めて欣悦有るを要す。九二は「享祀」と言いて九五は「祭祀」と言うは、大意は皆至誠を用いるを要し、然る後に初めて能く福を受くべし。「祭」と「祀」「享」とは、籠統に言えば通用すべし。分かちて言えば、則ち祭の対象は天神、祀の対象は地祇、享の対象は人鬼。九五は君位に在るがゆえに「祭」と言い、九二は下位に在るがゆえに「享」と言う、各々自己の応に用いるべき名目に按ずるのみ。
《象》曰:劓刖,志未得也;乃徐有說,以中直也;利用祭祀,受福也。始為陰揜,無上下之與,方困未得志之時也。徐而有說,以中直之道,得在下之賢,共濟於困也。不曰中正,與二合者雲直乃宜也。直比正意差緩。盡其誠意,如祭祀然,以求天下之賢,則能亨天下之困,而享受其福慶也。
『小象伝』に曰く:「劓刖、志未得也。乃徐有説、以中直也。利用祭祀、受福也」。起初は陰爻に上下遮蔽せられ、相助くる人なし、正に困頓にして志向は施展を得ざるの時。漸漸に欣悦に転ずるは、憑る所は中を守りて正直なるの道理、下位の賢者を得て、共同に困厄を解救す。ここに「中正」と言わずして「中直」と言うは、九五と九二との結合は義気相合なるがゆえに、「直」の字を用いるをこそ恰當。「直」は「正」に比ぶれば、語意は要すれば寛緩。自己の誠意を竭尽して、祭祀するが如く、この份の誠意を用いて天下の賢才を訪求せば、便ち能く天下の困厄をして亨通せしめ、而してその带来する所の福慶を享受せん。
上六,困于葛藟,于臲卼,曰動悔有悔,征吉。物極則反,事極則變。困既極矣,理當變矣。葛藟,纏束之物,臲卼,危動之狀。六處困之極,為困所纏束,而居最高危之地,困于葛藟與臲卼也。動悔,動輒有悔,無所不困也。有悔,咎前之失也。曰,自謂也。若能曰,如是動皆得悔,當變前之所為,有悔也;能悔,則往而得吉也。困極而征,則出於困矣,故吉。
上六の爻辞に曰く:「困于葛藟、于臲卼、曰動悔有悔、征吉」。事物は極点に到れば便ち反転し、事情は極点に到れば便ち変化す。困は既に已に極点に到れば、理に按じて応に変有るべし。「葛藟」は纏繞捆束するの藤蔓、「臲卼」は摇摇欲墜の危険の状。上六は困の極点に処り、困境に層層に纏えられ、また最も高く最も険しきの地方に居る、それゆえ葛藟に困る・臲卼に困ると言う。「動悔」は一たび動けばすなわち悔を招くを言い、困まらざる所なし。「有悔」は則ち自己の従前の過失を追咎す。「曰」は自己が自己に対して言う。倘若し彼が能く自ら一句を言わん:既にこの如く動けば輙ち悔有れば、すなわち応に従前の做法を改変すべし——これ便ち是れ「有悔」。能く悔改の心を生起せば、前往すれば便ち吉を得。困の極処に到りて肯んじて身を動かし前行せば、便ち困境を走出す、それゆえ吉。
三以陰在下卦之上而凶,上居一卦之上而無凶,何也?曰:三居剛而處險,困而用剛,險故凶。上以柔居說,唯為困極耳,困極則有變困之道也。《困》與《屯》之上,皆以無應居卦終,《屯》則泣血漣如,《困》則有悔征吉,《屯》險極而《困》說體故也,以說順進,可以離乎困也。《象》曰:困于葛藟,未當也;動悔有悔,吉行也。為困所纏,而不能變,未得其道也,是處之未當也。知動則得悔,遂有悔而去之,可出於困,是其行而吉也。
人有りて問う:六三は陰爻を以て下卦の上に処りて而して凶有り、上六は全卦の最上に居りて而して却って凶なし、これは何の為ぞや。回答えて曰く:六三は陽位に居りて而又た身は坎険に処り、困頓の中に於てなお強を逞し剛を用い、加うるに険、それゆえ凶。上六は則ち柔順の質を以て兌悦の体に処り、不過困の極点に到りたるのみ、困は極点に到れば自然に困局を転変するの道理を含む。『困』卦と『屯』卦の上爻とは、皆正応なくして一卦の終に処る。『屯』卦の上六は「泣血漣如」、『困』卦の上六は却って「有悔征吉」、正に『屯』の上体は坎険の極処に到りたるにして、而して『困』の上体は兌悦——和悦順遂の態を以て前進すれば、便ち能く困境を脱離せん。『小象伝』に曰く:「困于葛藟、未当也。動悔有悔、吉行也」。困境に纏えられて而して変通を知らざるは、未だ出路を找到せざるなり、彼の自処する所の恰当ならざるを説明す。一たび動けばすなわち悔を招かんと明白するに及びて、そこに於て悔心を生起して旧辙を改掉すれば、便ち能く困境を走出す、これすなわち彼が身を動かして前行して吉を得るなり。
井卦(巽下坎上)
《井》,《序卦》:“困乎上者必反下,故受之以井。”承上“升而不已必困”為言,謂上升不已而困,則必反於下也。物之在下者莫如井,井所以次困也。為卦,坎上巽下。坎,水也,巽之象則木也,巽之義則入也。木,器之象。木入於水下而上乎水,汲井之象也。
『井』卦、『序卦伝』に曰く:「困乎上者必反下、故受之以井」。これは上文の「升而不已必困」を承接して言う所:一路上升して已まず以致困頓すれば、すなわち必ず下面に退回するを要す。位置の最も低下なる物は井より甚だしきはなし、それゆえ『井』卦は『困』卦の後に排す。卦体に就きて言えば、坎は上に在り巽は下に在り:坎は水。巽は象を取れば則ち木、義を取れば則ち「入」。木は以て器具を作るべく、木器は水底に沈みて而して水を提げ上ぐるは、これすなわち井裡より汲水するの象。
井:改邑不改井,無喪無得,往來井井。井之為物,常而不可改也。邑可改而之他,井不可遷也,故曰改邑不改井。汲之而不竭,存之而不盈,無喪無得也。至者皆得其用,往來井井也。無喪無得,其德也常;往來井井,其用也周。常也,周也,井之道也。
『井』卦の卦辞に曰く:「改邑不改井、无喪无得、往来井井」。井のこの様の物は、恒常にして改動すべからざるなり。城邑は別処に遷り往くべく、井は却って搬ち去る能わず、それゆえ「改邑不改井」と言う。断えずそれを汲取するも枯竭せず、長久に擱置するも溢満せず、これすなわち「无喪无得」——減損なし、また增益なし。凡そ井辺に来到する人は皆能く所需を取得す、これすなわち「往来井井」。「无喪无得」は、説く所は井の徳性の恒常。「往来井井」は、説く所は井の功用の周遍。恒常にして而又周遍、これすなわち井の道。
汔至,亦未濆井,羸其瓶,凶。汔,幾也。繘,綆也。井以濟用為功,幾至而未及用,亦與未下繘於井同也。君子之道,貴乎有成,所以五穀不熟,不如荑稗;掘井九仞而不及泉,猶為棄井。有濟物之用,而未及物,猶無有也。羸敗其瓶而失之,其用喪矣,是以凶也。羸,毀敗也。
卦辞は続けて曰く:「汔至、亦未繘井、羸其瓶、凶」。「汔」は幾乎・將近、「繘」は汲水の繩索。井は能く人の取用に供するを以て功と為す、水は快く提げ上げられんとするも終竟に能く用い得ざれば、あれは繩子を根本に井に放下し得ざると是れ一般。君子の道は成就する所有るを貴ぶ、それゆえ『孟子』は五穀が若し成熟せざれば、稊稗の如き野草に如かざると言う。井を掘りて七八丈の深きに掘り到りて而して泉水に掘り到らざれば、仍り一口の廃井と算す。物を済すの用有りて而して終竟に物に恵及せざれば、すなわち無きに等し。汲水の瓦瓶を碰破してそれを丢したるに至りては、あれば井の功用もすなわち喪失せり、これに因りて凶有り。「羸」はすなわち毀壞。
《彖》曰:巽乎水而上水,井。井,養而不窮也。改邑不改井,乃以剛中也。巽入於水下而上其水者井也。井之養於物,不有窮已,取之而不竭,德有常也。邑可改,井不可遷,亦其德之常也。二五之爻,剛中之德,其常乃如是,卦之才與義合也。
『井・彖伝』に曰く:「巽乎水而上水、井。井、養而不窮也。改邑不改井、乃以剛中也」。器具は深入して水の下に在りて而して水を提げ上ぐる、これすなわち井。井の万物に対するの養育は窮尽なく、人の取用に任せて而して枯竭せず、これはその徳性の常有。『改邑不改井』は、同じくその徳性有常の表現。九二・九五の両爻は陽剛居中の徳を具備し、あの份の恒常は正に此と相合す、見ゆべし此の卦の才質とその取義とは相応ずるなり。
汔至亦未繘井,未有功也;羸其瓶,是以凶也。雖使幾至,既未為用,亦與未繘井同。井以濟用為功,水出乃為用,未出則何功也?瓶所以上水而致用也,羸敗具瓶,則不為用矣,是以凶也。《象》曰:木上有水,井,君子以勞民勸相。木承水而上之,乃器汲水而出井之象。君子觀井之象,法井之德,以勞徠其民,而勸勉以相助之道也。勞徠其民,法井之用也;勸民使相助,法井之施也。
『彖伝』に曰く:「汔至亦未繘井、未有功也。羸其瓶、是以凶也」。縱令水は已に提げて井口を出んとするに快しと雖も、既に終竟に能く人の取用に供し得ざれば、あれはも繩索を井に放下し得ざると一般。井は能く人の取用に供するを以て功と為す、水は井口を出でて初めて用有りと算す、出で得ざればまた何の功效を談ぜん。瓦瓶は用いて水を提げて用を致すの器具、瓶を碰破せば、便ち再び用場に派する能わず、これに因りて凶有り。『井・大象伝』に曰く:「木上有水、井、君子以労民勧相」。木器は水を托して往に上升す、正に器具を用いて井中より汲水して出づるの象。君子は井の卦象を観察し、井の徳性を效法して、因りて自己の百姓を慰労招徠し、并せて彼らを勧勉して互相帮助せしむ。百姓を慰労招徠するは、是れ井の功用を效法す。百姓を勧導して互相扶助せしむるは、是れ井の施与を效法す。
初六,井泥不食,舊井無禽。井與鼎皆物也,就物以為義。六以陰柔居下,上無應援,無上水之象。不能濟物,乃井之不可食也。井之不可食,以泥汙也。在井之下,有泥之象。井之用,以其水之養人也,無水,則舍置不用矣。井水之上,人獲其用,禽鳥亦就而求焉。舊廢之井,人既不食,水不復上,則禽鳥亦不復往矣,蓋無以濟物也。井本濟人之物,六以陰居下,無上水之象,故為不食。井之不食,以泥也,猶人當濟物之時,而才弱無援,不能及物,為時所舍也。
初六の爻辞に曰く:「井泥不食、旧井无禽」。『井』と『鼎』の両卦は皆具體の器物を取りて卦を立て、器物に就着して以て義理を説明す。初六は陰柔を以て最下に居り、上面に応援の爻なく、水を提げ上ぐるの象なし。能く物を済さざれば、すなわち井水の飲用すべからざるに等し。井水の飲用すべからざる所以は、泥に汚濁せられたるに因る——それは井の最底層に在り、正に淤泥の象有り。井の用処は水が能く人を養うに在り、水なければ、便ち棄置して用いられず。井水は上面に提げ来れば、人はその用処を得、禽鳥をも飛来して飲を求めしむ。一口の廃棄已に久しきの旧井は、人は既に更に取飲せず、水もまた更に提げ上げられざれば、あれば禽鳥もすなわち更に飛来せず、それが已に能く物を済す法なきに因る。井はもとより人を済すの物、初六は陰爻を以て下に居り、水を上ぐるの象なし、それゆえ「不食」と言う。井水の飲用せられざるは泥有るに因る、譬するに一人が正当に力を出して世を済すべきの時に当たりて、却って才力薄弱にして又た援引する人なく、別人に恵及し得ず、因りて時世に棄置せらるるが如し。
《象》曰:井泥不食,下也;舊井無禽,時舍也。以陰而居井之下,泥之象也。無水而泥,人所不食也。人不食,則水不上,無以及禽鳥,禽鳥亦不至矣。見其不能濟物,為時所舍置不用也。若能及禽鳥,是亦有所濟也。舍,上聲,與《乾》之“時舍”音不同。
『小象伝』に曰く:「井泥不食、下也。旧井无禽、時舎也」。陰爻を以て井の最底層に居るは、正に淤泥の象。水なくして泥あるのみ、人は自然に飲まず。人は来りて飲まざれば、水は就ち提げ上げられず、も禽鳥に恵及するに従なく、禽鳥は便ち亦た来らず。これに由りて見ゆべしそれが能く物を済さざるを、因りて時世に棄置せられて用いられず。倘若しそれがなお能く禽鳥に恵及せば、あれはも有所済と算せん。ここの「舎」は上声に読み、是れ棄置の意、『乾』卦の文言「時舎也」のあの「舎」の読音と同じからず。
九二,井谷射鮒,甕敝漏。二雖剛陽之才而居下,上無應而比於初,不上而下之象也。井之道,上行者也;澗谷之水,則旁出而就下。二居井而就下,失井之道,乃井而如谷也。井上出,則養人而濟物,今乃下就汙泥,注於鮒而已。鮒,或以為蝦,或以為蟆,井泥中微物耳。射,注也,如谷之下流,注於鮒也。甕敝漏,如甕之破漏也。
九二の爻辞に曰く:「井谷射鮒、甕敝漏」。九二は陽剛の才有ると雖も却って下位に居り、上面に正応なくして只だ初六と相隣るのみ、是れ上に向かわずして反って下に向かうの象。井の道はもとより上に向かいて水を出す。山澗谿谷の裡の水は、却って傍より流出して下に往く。九二は身は井中に在りて而して下に向かいて流る、井の道を失い、成りて名は井と曰うも実は谿谷と同じ。井水は上に向かいて出づれば、便ち能く人を養い物を済す。如今却って下に向かいて汚泥の裡に流れて、幾只かの小魚を澆灌するのみ。「鮒」は或る人は小蝦と言い、或る人は蝦蟆と言う、総じて之れは井泥の中の微小生物。「射」はすなわち注、谿谷の水の下に向かいて流注して鮒の身上に澆るが如し。「甕敝漏」とは、瓦甕の破れて水漏るるが如きを言う。
陽剛之才,本可以養人濟物,而上無應援,故不能上而就下,是以無濟用之功。如水之在甕,本可為用,乃破敝而漏之,不為用也。井之初二無功,而不言悔咎,何也?曰:失則有悔,過則為咎。無應援而不能成用,非悔咎也。居二比初,豈非過乎?曰:處中非過也。不能上,由無援,非以比初也。《象》曰:井谷射鮒,無與也。井以上出為功。二,陽剛之才,本可濟用。以在下而上無應援,是以下比而射鮒。若上有與之者,則當汲引而上,成井之功矣。
九二はもとより陽剛の才有り、もとより以て人を養い物を済すべきに、只だ上面に応援なきに因りて、それゆえ能く上に向かわずして反って下に趨く、これに因りて物を済し用を致すの功效なし。水の甕中に在るが如く、もとより以て用場に派すべきに、甕は却って破れて漏り尽くし、用い成らず。人有りて問う:『井』卦の初六・九二は皆功效なきに、爻辞は却って「悔」「咎」を説かざるは、これは何の為ぞや。回答えて曰く:失う所有れば初めて悔有り、過错有れば初めて咎有り。応援なくして因りて能く功用を成就せざるは、これは既に失に非ず過に非ず。又た問う:九二は中に居りて而して初六と相隣近す、豈に過と算せざらんや。回答えて曰く:それが中位に処するは便ち過と算せず。それが能く上に向かわざるは、人の援引する者なきに由り、并せて初六に親近するに因るに非ず。『小象伝』に曰く:「井谷射鮒、无与也」。井は水の能く上に向かいて出づるを以て功と為す。九二は陽剛の才有り、もとより能く物を済し用を致すべく、只だ身が下位に居りて而して上面に人の相応する者なきに因りて、初めて下に向かいて初六に親近して「射鮒」す。倘若し上面に彼と相応する人有らば、彼は自然に汲引せられて上り、井の功用を成就せん。
九三,井渫不食,為我心惻,可用汲,王明並受其福。三以陽剛居得其正,是有濟用之才者也;在井下之上,木之清潔可食者也。井以上為用,居下,未得其用也。陽之性上,又志應上六,處剛而過中,汲汲於上進,乃有才用而切於施為;未得其用,則如井之渫治清潔,而不見食,為心之惻怛也。三居井之時,剛而不中,故切於施為,異乎用之則行、舍之則藏者也。然明王用人,豈求備也?故王明則受福矣。三之才足以濟用,如井之清潔,可用汲而食也。若上有明王,則當用之而得其效。賢才見用,則己得行其道,君得享其功,下得被其澤,上下並受其福也。
九三の爻辞に曰く:「井渫不食、為我心惻、可用汲、王明並受其福」。九三は陽剛を以て居りてその正を得、是れ世を済し用を致すの才有る人。それは下体の上に処り、井水の已に淘洗して清潔にして飲むべきに比ぶ。井は水の上面に出でるを以て初めて用有りと算す、九三はなお下体に在り、それゆえ未だ用いられざるを見ず。陽の本性は上に向かう、それはまた心志が上って上六に応じ、陽位に処りて已に下卦の中を過ぎ、急切にして上進せんと欲す、見ゆべし是れ才具有りて而又迫切に有所作為せんと想う人。才具は未だ施展を得ず、井の已に淘治して清潔なれども汲飲に来る人なきが如し、これに因りて心中惻然として傷感す。九三は身が『井』の時に処り、剛強にして而して中に居らず、それゆえ有所施為せんと急す、あの種の「我を用いればすなわち出仕し我を用いざればすなわち蔵る」の従容の態度と同じからず。然るも英明の君主の人を用いるは、何処に全を求め責を備えんや。それゆえただ君王が明察せらば、上下は皆福を受く。九三の才具は足りて世を済し用を致す、正に井水の清潔なるが如く、尽く以て汲み上げて飲用すべし。倘若し上面に英明の君王有らば、すなわち応に彼を任用して実効を収むべし。賢才は任用せられれば、あれば自己は以て守る所の道を推行し得、君主は以て彼の功績を享有し得、百姓は以て彼の恩沢に蒙受し得、上上下下は皆福を受く。
《象》曰:井渫不食,行惻也;求王明,受福也。井渫治而不見食,乃人有才知而不見用,以不得行為憂惻也。既以不得行為惻,則豈免有求也?故求王明而受福,志切於行也。六四,井甃無咎。四雖陰柔而處正,上承九五之君,才不足以廣施利物,亦可自守者也,故能修治,則得無咎。甃,砌累也,謂修治也。四雖才弱,不能廣濟物之功,修治其事,不至於廢可也。若不能修治,廢其養人之功,則失井之道,其咎大矣。居高位而得剛陽中正之君,但能處正承上,不廢其事,亦可以免咎也。
『小象伝』に曰く:「井渫不食、行惻也。求王明、受福也」。井は已に淘洗して乾淨なれども汲飲に来る人なきは、正に人に才智有りて而して任用せられざるが如く、自己の道が行き出さざるに因りて憂傷惻然とす。既に道の行かれざるが為に傷感すれば、また怎麼能く求むる所有るを免れんや。それゆえ君王の明察を求得して其の福を共に受くると言う、見ゆべし彼の己道を推行するの心志の何等か迫切なる。『小象伝』に曰く:六四の爻辞に曰く:「井甃无咎」。六四は陰柔と雖も、位置は却って端正、上に向かいて九五の君に承奉す。それの才力は広く恵を施し物を利するに足らざると雖も、但しなお本分を守住すべし、それゆえただ肯んじて井壁を修治すれば、便ち能く過错なし。「甃」は磚石を用いて井壁を壘砌する、すなわち修繕整治。六四は才力薄弱と雖も、広く物に済及するの大功を做し出す能わざるも、能く分内の事を修治好して廢弛に至らざれば、もすなわち可なり。若し修治をも為し得ざれば、井の人を養うの功用を廢掉せば、あればすなわち井の道を失う、過错は便ち大なり。身は高位に居りて而して剛健中正の君主に遇上るは、ただ能く正道を持守し上に在る者に承奉し、本職の事を荒廢せしめざれば、もすなわち能く過错を免れん。
《象》曰:井甃無咎,修井也。甃者,修治於井也。雖不能大其濟物之功,亦能修治不廢也,故無咎,僅能免咎而已。若在剛陽,自不至如是,如是則可咎矣。九五,井洌寒泉食。五以陽剛中正,居尊位,其才其德,盡善盡美,井洌寒泉食也。洌,謂甘潔也。井泉以寒為美。甘潔之寒泉,可為人食也。於井道為至善也,然而不言吉者,井以上出為成功,未至於上,未及用也,故至上而後言元吉。《象》曰:寒泉之食,中正也。寒泉而可食,井道之至善者也。九五中正之德,為至善之義。
『小象伝』に曰く:「井甃无咎、修井也」。「甃」はすなわち井壁を修治する。六四は能く物に済すの功效を拡大する能わざると雖も、却っても能く修治維護して而して荒廢せしめず、それゆえ過错なし——不過僅僅に過错を免るるのみ。若し陽剛の才に換えてこの位置に在らば、もとより只だこの一步を做し到るに至らざらん。只だこの一步を做し到れば、便ち応に過错有るべし。九五の爻辞に曰く:「井洌寒泉食」。九五は陽剛中正の質を以て尊位に居り、才具と徳行とは皆尽美尽善、正に井水の甘潔・寒泉の飲むべきが如し。「洌」は甘甜清潔の意。井泉は清寒を以て美と為す、甘潔の寒泉は正に人の飲用に供すべし、井の道に就きて言えば是れ最も完善。『然るも爻辞は「吉」と言わざるは、井は水の上面に出でるを以て成功と算するがゆえに、九五は未だ最上の一爻に到らず、尚未だ真に人の取用に供せず、それゆえ上六に到りて初めて「元吉」と言う。『小象伝』に曰く:「寒泉之食、中正也」。寒泉にして而して飲用すべきは、井道の最も美善なる境地。九五の中正の徳は、正にこの種の至善の意義に対応す。
上六,井收勿幕,有孚元吉。井以上出為用。居井之上,井道之成也。收,汲取也。幕,蔽覆也。取而不蔽,其利無窮,井之施廣矣,大矣。有孚,有常而不變也。博施而有常,大善之吉也。夫體井之用,博施而有常,非大人就能?他卦之終,為極為變,唯《井》與《鼎》終乃為成功,是以吉也。《象》曰:元吉在上,大成也。以大善之吉,在卦之上,井道之大成也。井以上為成功。
上六の爻辞に曰く:「井收勿幕、有孚元吉」。井は水の上面に出でるを以て初めて用有りと算す。上六は井の最上位に居り、正に井道の完成。「收」は汲取、「幕」は遮蓋。人の汲取に任せて而して遮蓋を加えざれば、その利益は便ち無窮無尽、井の施与もすなわち広大なり。「有孚」は恒常にして而して改変せざること。広く人に施して而又之を持するに常有り、正に大善の吉利。井の功用を体現して、広施して而有常を為し到るを要せば、若し大人物に非ざれば、誰か能く為し到らん。別の卦は最上の一爻に到れば、多半は窮極して変を生ず、唯独『井』と『鼎』の両卦は、終了に到りて初めて成功と算す、それゆえ是れ吉。『小象伝』に曰く:「元吉在上、大成也」。この大善の吉利は全卦の最上位に出現す、正に井道の大功の告成——井は水の上面に出でるを以て成功と為す。
革卦(離下兌上)
《革》,《序卦》:“井道不可不革,故受之以革。”井之為物,存之則穢敗,易之則清潔,不可不革者也,故井之後,受之以革也。為卦,兌上離下,澤中有火也。革,變革也。水火,相息之物,水滅火,火涸水,相變革者也。火之性上,水之性下,若相違行,則睽而已。乃火在下,水在上,相就而相剋,相滅息者也,所以為革也。又二女同居,而其歸各異,其志不同,為不相得也,故為革也。
『革』卦、『序卦伝』に曰く:「井道不可不革、故受之以革」。井のこの様の物は、擱置して動かさざればすなわち汚穢敗壊し、更新を加えて初めて清潔ならん、是れ能く変革を加えざるべからざるなり、それゆえ『井』卦の後に『革』卦を接ぐ。卦体に就きて言えば、兌は上に在り離は下に在り、是れ沢中に火有り。「革」はすなわち変革。水と火とは彼此消滅するの物:水は能く火を撲滅し、火は能く水を烤乾す、両者は互相変革す。火性は上に向かい、水性は下に向かう、若し両者が道に背いて行けば、あれは不過彼此乖違するのみ。如今火は下に在り水は上に在り、両者は相就りて相克し彼此消滅す、それゆえこれを『革』と言う。再び言えば兌は少女と為り離は中女と為り、両箇の女子は同じく一処に住して而して各々各々の帰宿有り、心志は同じからず、彼此合不来、それゆえまた変革の義を取る。
革:巳日乃孚,元亨,利貞,悔亡。革者,變其故也。變其故,則人未能遽信,故必巳日,然後人心信從。元亨利貞,悔亡,弊壞而後革之,革之所以致其通也,故革之而可以大亨;革之而利於正,道則可久而得去故之義;無變動之悔,乃悔亡也。革而無甚益,猶可悔也,況反害乎?古人所以重改作也。
『革』卦の卦辞に曰く:「巳日乃孚、元亨、利貞、悔亡」。「革」はすなわち旧有する所を改変す。旧きは一たび改めれば、人々は一時には未だ能く馬上に相信する能わず、それゆえ必ず「巳日」に到るを須い、すなわち一段の時日を過ごして之後に、人心は初めて肯んじて信従す。「元亨、利貞、悔亡」に至りては:事情は已に弊壊して、然る後に変革を加う、変革は正にそれを重新に通暢せしめんが為、それゆえ変革すればすなわち能く大いに亨通す。変革はまた正を守るを以て宜しきと為す、この如くすればその道は初めて能く長久にして、真に旧弊を革除するの意義に合す。妄動に因りて生ずるの悔恨を留下せざれば、これすなわち「悔亡」。変革して而して多大の益処なきは、尚且つ悔に値す。いわんや反って禍害を招来するをや。これすなわち古人の改弦更張に対する何の以てこのように鄭重なる所以の縁故。
《彖》曰:革,水火相息,二女同居,其志不相得,曰革。澤火相滅息,又二女志不相得,故為革。息為止息,又為生息。物止而後有生,故為生義。革之相息,謂止息也。巳日乃孚,革而信之。事之變革,人心豈能便信?必終日而後孚。在上者於改為之際,當詳告申令,至於巳日,使人信之。人心不信,雖強之行,不能成也。先王政令,人心始以為疑者有矣,然其久也必信。終不孚而成善治者,未之有也。
『革・彖伝』に曰く:「革、水火相息、二女同居、其志不相得、曰革」。沢と火とは互相消滅し、加うるに両箇の女子は心志合わず、それゆえ名を取りて『革』と為す。「息」の字は両義有り:既に止息、また生息——事物は停止したる之後に初めて新生有り、それゆえまた生長の義を含む。此処の「相息」は、取る所は止息の一義。『彖伝』はまた曰く:「巳日乃孚、革而信之」。事情は一たび変革有れば、人心は豈に能く立刻に信ぜんや。必ず一段の時日を経過して初めて信服せん。上位に在る人は改作に着手するの際に当たり、応に詳細に曉諭し反復して号令を申明して、「巳日」に到りて、人々をして信じ得るに過ぐらしむべし。人心は信ぜざれば、たとえ強行して推し下ぐるとも弁成らず。先王の政令を頒布するも、人心は起初にも疑慮するの時有り、但し日子は久しくなれば必ず信服す。頭より尾に至るまで信任を得ずして而して能く善政を成就するは、従来有ることなし。
文明以說,大亨以正,革而當,其悔乃亡。以卦才言革之道也。離為文明,兌為說。文明則理無不盡,事無不察;說則人心和順。革而能照察事理,和順人心,可致大亨,而得貞正。如是,變革得其至當,故悔亡也。天下之事,革之不得其道,則反致弊害,故革有悔之道。惟革之至當,則新舊之悔皆亡也。
『彖伝』に曰く:「文明以説、大亨以正、革而当、其悔乃亡」。これは卦の才質に就きて変革の道を講ず。下体の離は文明にして上体の兌は欣悦:文明なれば、則ち道理に講き透らざるなく事情に察し清らざるなし。欣悦なれば、則ち人心は和順。変革して而能く事理を洞察し人心に順遂すれば、すなわち能く大亨通を招致し、并せて正を守住し得。能くこの如くせば、変革は便ち極めて妥当に做り得、それゆえ悔恨消失す。天下の事は、変革は若しその道を得ざれば、反って弊害を招来す、それゆえ変革は本身に悔を招くの可能を含む。ただ変革が極めて恰当なるをこそ、新舊両方面の悔恨は初めて皆消失せん。
天地革而四時成,湯、武革命,順乎天而應乎人。革之時大矣哉!推革之道,極乎天地變易,時運終始也。天地陰陽推遷改易而成四時,萬物於是生長成終,各得其宜,革而後四時成也。時運既終,必有革而新之者。王者之興,受命於天,故易世謂之革命。湯、武之王,上順天命,下應人心,順乎天而應乎人也。天道變改,世故遷易,革之至大也,故贊之曰,革之時大矣哉!
『彖伝』に曰く:「天地革而四時成、湯・武革命、順乎天而応乎人。革之時大矣哉」!これは変革の道を一直に天地の変易・時運の終始の上に推して言う。天地のあいだの陰陽の推移改易して而して四季を形成す、万物はそこに於て生長し成熟し終結し、各々その宜を得、見ゆべし正に変革有るに因りて、四季は初めて能く成就せらるるを。一段の時運は既に終結せば、必ず人の変革を加えて之を更新せしむるを要す。王者の興起は天命を承受す、それゆえ改朝换代を「革命」と言う。商湯・周武の王と称するは、上は天命に順い下は人心に応ず、これすなわち「順乎天而応乎人」。天道は変改し世事は遷易す、変革は天下の最も重大の事、それゆえ『彖伝』は讃嘆して曰く:「革之時大矣哉」!
《象》曰:澤中有火,革,君子以治曆明時。以初九時,位才皆不可以有為,故當以中順自固也。水火相息為革,革,變也。君子觀變革之象,推日月星辰之遷易,以治曆數,明四時之序也。夫變易之道,事之至大,理之至明,跡之至著,莫如四時;觀四時而順變革,則與天地合其序矣。
『革・大象伝』に曰く:「沢中有火、革、君子以治暦明時」。(此の句の下の「以初九時、位才皆不可以有為、故当以中順自固也」の一句は、下文の初九の『小象』の注文の誤って重出して此に在るの錯簡、『大象』の義と関係なし。)水と火との互相消滅するはすなわち「革」、「革」はすなわち変。君子は変革の卦象を観察し、因りて日月星辰の遷移変化を推算して、用いて暦法を修治し四季の次序を明定す。変易の道理は、一件事と為すに於て最も重大、一箇の理と為すに於て最も顕明、一種の迹象と為すに於て最も昭著なるは、四季より清楚なるはなし。四季を観察して変革に順応すれば、すなわち天地の節序と相合す。
初九,鞏用黃牛之革。變革,事之大也,必有其時,有其位,有其才,審慮而慎動,而後可以無悔。九,以時則初也,動於事初,則無審慎之意,而有躁易之象;以位則下也,無時無援而動於下,則有僭妄之咎,而無體勢之重;以才則離體而陽也,離性上而剛體健,皆速於動也。其才如此,有為則凶咎至矣,蓋剛不中而體躁,所不足者中與順也,當以中順自固而無妄動則可也。鞏,局束也。革,所以包束。黃,中色。牛,順物。鞏用黃牛之革,謂以中順之道自固,不妄動也。不云吉凶,何也?曰:妄動則有凶咎,以中順自固,則不革而已,安得便有吉凶乎?
初九の爻辞に曰く:「鞏用黄牛之革」。変革は天下の大事、必ず合適の時機有り相称の地位有り勝任の才具有りて、審慎に思慮して而る後に謹慎に行動し、然る後に初めて能く悔恨なからん。初九のこの一爻は、時機に就きて言えば是れ最初、事情が剛に開頭するに於て便ち手を動かせば、便ち審慎を顕出せずして、反って軽率躁進の象有り。地位に就きて言えば是れ最下、既に時機なくまた奥援なくして而して下面に於て妄動すれば、便ち越分僭妄の過错有りて、而して足りて人を服せしむるの身份声勢を缺少す。才具に就きて言えば、それは離体に属して而又た陽爻、離性は上に向かい陽体は剛健、両様は皆行動せんと急す。才性この如し、一たび作為有れば、凶険過错は便ち来たる:それが剛にして而して中に居らざるに因り、本体はまた躁急、欠ける所は正に「中」と「順」、それゆえ応に中順の道を用いて自己を穏住して軽挙妄動せざるを初めて好しとす。「鞏」は束縛固定、「革」は用いて包裹捆束するの皮革、「黄」は居中の色、「牛」は柔順の物。「鞏用黄牛之革」とは、すなわち中正柔順の道理を用いて自己を固定して妄動せざらしめんと言う。人有りて問う:爻辞は何の故に吉凶を講ぜざるや。回答えて曰く:妄動すればすなわち凶咎有り、中順の道を用いて自守すれば、あれは亦不過暫時変革せざるのみ、何処に便ち吉凶を説き得んや。
《象》曰:鞏用黃牛,不可以有為也。以初九時,位才皆不可以有為,故當以中順自固也。六二,巳日乃革之,征吉,無咎。以六居二,柔順而得中正,又文明之主,上有剛陽之君,同德相應。中正則無偏蔽,文明則盡事理,應上則得權勢,體順則無違悖。時可矣,位得矣,才足矣,處革之至善者也。然臣道不當為革之先,又必待上下之信,故巳日乃革之也。
『小象伝』に曰く:「鞏用黄牛、不可以有為也」。初九は時機・地位・才具の三方面に就きて看れば皆能く作為有るべからざるに因りて、それゆえ応に中正柔順の道を用いて自己を穏住すべし。六二の爻辞に曰く:「巳日乃革之、征吉、无咎」。陰爻を以て第二位に居り、柔順にして而して中を得正を得、また是れ下体離卦の文明の主爻、上面に九五のこの陽剛の君有りてそれと同徳相応す。中に居りて正を得れば、便ち偏私蒙蔽なし。文明なれば、便ち能く事理を窮尽す。上って九五に応ずれば、便ち推行の権勢を取得す。本体柔順なれば、便ち違逆抵觸せず。時機は成熟し位置は得当、才具もまた足れり、これは『革』の時に処するの最も完善。不過臣子たるは応に君上の前頭に搶って変革を発動すべからず、また必ず上下が皆信服するを待つを須い、それゆえ「些時日を過ごして初めて手を動かして変革する」ことを要す。
如二之才德,所居之地,所逢之時,足以革天下之弊,新天下之治,當進而上輔於君,以行其道,則吉而無咎也。不進則失可為之時,為有咎也。以二體柔而處當位,體柔則其進緩,當位則其處固。變革者,事之大,故有此戒。二得中而應剛,未至失於柔也。聖人因其有可戒之疑,而明其義耳,使賢才不失可為之時也。《象》曰:巳日革之,行有嘉也。巳日而革之,征則吉而無咎者,行則有嘉慶也,謂可以革天下之弊,新天下之事。處而不行,是無救弊濟世之心,失時而有咎也。
六二のこのような才徳の如く、加うるにそれの居る所の地位・逢う所の時機は、足りて天下の積弊を革除し天下の政治を更新す、すなわち応に挺身して上前し君主を輔佐して、往きて自己の守る所の道を推行すべし、あればすなわち吉利にして過错なし。若し肯んじて前進せざれば、便ち能く作為有るべきの時機を錯過し、反って過错と為る。六二は本体柔順にして而して居る所の位はまた正なるに因る:本体柔順なれば便ち前進すること遅緩、位置端正なれば便ち安処すること牢固——変革はもとより大事、それゆえ特地にこの一句の告戒を設下す。六二は既に中道を得て而又た上って陽剛の君に応ずれば、なお柔弱に失するに至らず。聖人は只だそれが遅疑し得べきの地方に就きて道理を点明するのみ、賢才をして為すべきの時を錯過せざらしめんと好しとす。『小象伝』に曰く:「巳日革之、行有嘉也」。些時日を過ごして初めて手を動かして変革するは、前往すれば便ち吉利にして過错なし、是れこのように為せば便ち美好の結果有りて、能く天下の積弊を革除し天下の事務を更新せんを言う。若し安坐して動かずして而して肯んじて施行せざれば、あれはすなわち弊を救い世を済うの心なし、時機を錯過して而して過错有り。
九三,征凶,貞厲,革言三就,有孚。九三以剛陽為下之上,又居離之上而不得中,躁動於革者也。在下而躁於變革,以是而行,則有凶也。然居下之上,事苟當革,豈可不為也?在乎守貞正而懷危懼,順從公論,則可行之不疑。革言,謂當革之論。就,成也,合也。審察當革之言,至於三而皆合,則可信也。言重慎之至能如是,則必得至當,乃有孚也。己可信而眾所信也,如此則可以革矣。在革之時,居下之上,事之當革,若畏懼而不為,則失時為害;唯當慎重之至,不自任其剛明,審稽公論,至於三就而後革之,則無過矣。
九三の爻辞に曰く:「征凶、貞厲、革言三就、有孚」。九三は陽剛を以て下体の最上位に居り、また離卦の上に処りて而して中位を得ず、是れ変革に対して躁急妄動の人。身は下位に在りて而して変革せんと急す、このように貿然として行事せば、便ち凶険有り。然るもそれは畢竟に下体の上に居り、事情は倘若し確かに応に変革すべければ、また豈に為さざるべけんや。関鍵は貞正を守住して而して心に危懼を懐き、公衆の議論に順従するに在り、あればすなわち能く手を放して為して而して遅疑を須いず。「革言」は指す所は応に変革すべきか否かに関するの議論。「就」は成、是れ合。詳細にあの変革を主張するの意見を審察して、三次に到りて而して皆相合せば、便ち能く相信すべし。これは慎重なること極点に至るを言う、能くこの一步を為し到れば、必ず最も恰当の弁法を得着せん、そこに於て「孚」有り——自己は信じ得るに過ぎ、衆人もまた信じ得るに過ぐ。能くこの如くすれば便ち以て変革に着手すべし。身は『革』の時に処りて而して下体の上に居り、事情は応に変革すべし、若し畏懼に因りて為さざれば、便ち時機を誤りて禍害を生ず。ただ慎の又た慎にして、自己の剛強明察を自恃せず、詳細に公論を稽考して、「三就」したる之後に初めて手を動かせば、便ち過失あらざらん。
《象》曰:革言三就,又何之矣?稽之眾論,至於三就,事至當也。又何之矣?乃俗語更何往也?如是而行,乃順理時行,非己之私意所欲為也,必得其宜矣。九四,悔亡,有孚,改命吉。九四,革之盛也。陽剛,革之才也。離下體而進上體,革之時也。居水火之際,革之勢也。得近君之位,革之任也。下無繫應,革之志也。以九居四,剛柔相際,革之用也。四既具此,可謂當革之時也。事之可悔而後革之,革之而當,其悔乃亡也。革之既當,唯在處之以至誠,故有孚則改命吉。改命,改為也,謂革之也。既事當而弊革,行之以誠,上信而下順,其吉可知。四非中正,而至善,何也?曰:唯其處柔也,故剛而不過,近而不逼,順承中正之君,乃中正之人也。《易》之取義無常也,隨時而已。
『小象伝』に曰く:「革言三就、又何之矣」?衆人の議論を稽考して、三次の相合に到れば、事情は便ち極めて妥当。「又何之矣」は当時の俗語、「更に何処に往かんや」と言うに等し。このように為し去れば、すなわち道理に順い時勢に合して行くなり、并せて自己の私意に憑りて如何せんと想えば如何せんとするに非ず、必ず能くその宜を得ん。九四の爻辞に曰く:「悔亡、有孚、改命吉」。九四は『革』卦の最も盛なる一爻:それは陽剛、これは変革の才具。それは下体を離れて上体に進入す、これは変革の時機。それは水火の交界の処に処り、これは変革の形勢。それは君主に接近するの位置を得、これは変革の職任。それの下面に相応牽系の爻なし、これは変革の心志。陽爻を以て陰位に居り、剛柔交済、これは変革の手段。九四は既に六者を兼備すれば、以て正に変革の時に当たると言うべし。事情は已に悔改に値するの地步に到りて然る後に変革を加え、変革し得て又た恰当なれば、悔恨は初めて消失せん。変革は既に恰当たれば、余る所は只だ至誠を以てそれに待するに在るのみ、それゆえ誠信有ればすなわち「改命吉」と言う。「改命」はすなわち改作、もすなわち変革。事情は既に為すこと恰当にして而して積弊は革除を得、また誠意を用いて以て推行せば、上面は信任し下面は順従す、その吉利は想い知るべし。人有りて問う:九四は并せて中正ならざるに、何の故に反ってそれを至善と言うや。回答えて曰く:正にそれが柔位に居るに因りて、それゆえ剛強にして而して過分ならず、君位に接近して而して逼廹を構成せず、柔順にして中正の君に承奉す、これは便ち中正の人と成る。『易』の義を取るはもとより定法なく、只だ時に随いて定まるのみ。
《象》曰:改命之吉,信志也。改命而吉,以上下信其志也。誠既至,則上下信矣。革之道,以上下之信為本。不當不孚則不信。當而不信,猶不可行也,況不當乎?九五,大人虎變,未占有孚。九五以剛陽之才,中正之德,居尊位,大人也。以大人之道,革天下之事,無不當也,無不時也。所過變化,事理炳著,如虎之文采,故云虎變。龍虎,大人之象也。變者,事物之變。曰虎,何也?曰:大人變之,乃大人之變也。以大人中正之道變革之,炳然昭著,不待占決,知其至當而天下必信也。天下蒙大人之革,不待占決,知其至當而信之也。
『小象伝』に曰く:「改命之吉、信志也」。改作して而して吉を得るは、上下が皆彼の心志を信じ得るに過ぐるに因る。誠意は既に極処に到れば、上下は自然に信服す。変革の道は、上下の信任を以て根本と為す:為すこと恰当ならざれば、便ち誠信を得ず、も無人相信す。たとえ為すこと恰当にして而して人が相信せざるとも、尚且つ推行し下ぐる能わず、いわんや為すこと恰当ならざるをや。九五の爻辞に曰く:「大人虎変、未占有孚」。九五は陽剛の才・中正の徳を以て而して尊位に居るは、是れ大人。大人の道を用いて天下の事を変革するは、恰当ならざるなく、また時に合せざるなし。凡そ彼の経手して改変したる所は、事理は皆焕然として顕著、虎皮の上の花紋の如く、それゆえ「虎変」と言う。竜と虎とは皆大人の象。「変」は事物の変化、何の故に単に虎を説くや。是れ大人が来りてそれを変革するに因りて、それゆえこの変化もすなわち大人の変。大人の中正の道を用いて変革すれば、光彩昭著・一目瞭然、占問決疑を待つを須いずして、人々は便ちそれの極めて恰当にして天下は必ず信従するを知る。天下は大人の変革の恵に蒙受するは、占問を須いずして、便ちその至当を知りて而してそれを相信す。
《象》曰:大人虎變,其文炳也。事理明著,若虎文之炳煥明盛也,天下有不孚乎?上六,君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。革之終,革道之成也。君子謂善人,良善則己從革而變,其著見,若豹之彬蔚也。小人,昏愚難遷者,雖未能心化,亦革其面以從上之教令也。龍虎,大人之象,故大人云虎,君子云豹也。人性本善,皆可以變化,然有下愚,雖聖人不能移者。以堯、舜為君,以聖繼聖百有餘年,天下被化,可謂深且久矣,而有苗、有象,其來格烝乂,蓋亦革面而已。
『小象伝』に曰く:「大人虎変、其文炳也」。事理は明白顕著、虎紋の如く光彩煥発・鮮明盛大、天下に更に誰か信服せざる有らん。上六の爻辞に曰く:「君子豹変、小人革面、征凶、居貞吉」。上六は『革』卦の終了に処り、是れ変革の道の完成。ここの「君子」は善人を指す:本性良善の人は早已に変革に随いて自己を改変し、その外に表現する所は、豹紋の如く斑斕文雅。「小人」は昏昧愚頑・善に遷ること難きの人を指し、彼らは内心は未必しも真に感化せられたると雖も、も自己の表面態度を改変して上面の教令に服従す。竜虎は皆大人の象、それゆえ大人を説くに「虎」を用い、君子を説くに「豹」を用いる。人性はもとより是れ善、人人皆能く変化すべし。然るも確かに所謂「下愚」有り、聖人をもしても移易する能わず。堯・舜の如きの君主を以て、聖人は聖人に接いで位に在ること一百餘年、天下はその感化を受く、謂るべし既に深く且つ久しきを、而して三苗と舜の弟の象とは、前者は『尚書』はその「有苗来格」を記し、後者はその「烝烝乂」を記して奸悪に至らざる、大概も亦不過表面を改変したるのみ。
小人既革其外,革道可以為成也。苟更從而深治之,則為已甚,已甚非道也。故至革之終而又徵,則凶也,當貞固以自守。革至於極,而不守以貞,則所革隨復變矣。天下之事,始則患乎難革,已革則患乎不能守也,故革之終戒以居貞則吉也。居貞非為六戒乎?曰:為革終言也,莫不在其中矣。
小人は既に已に外表を改変せば、変革の道は便ち完成と算す。倘若し更に跟いで深究窮治せんと要せば、あればすなわち為すこと太過。太過なれば便ち道に合せず。それゆえ変革の終了に到りてなお一味に前征せんと要せば、便ち凶険有り、この時は応に正を守持して固くして以て自ら保つべし。変革は極処に到りて而して能く正固を以て守住せざれば、あれば已に革成したる局面は随即にまた変壊せん。天下の事情は、起初は変革し難きを擔心し、革成の後は守住し得ざるを擔心す、それゆえ『革』卦の最後の一爻は「居貞則吉」を以て相戒む。人有りて問う:この句の「居貞」は豈に并せて専に上六のこの一陰爻の為に設けたる告戒ならざらんや。回答えて曰く:それは整个の変革の終局に就きて言う所、上六は自然もその中に包含す。
人性本善,有不可革者,何也?曰:語其性則皆善也,語其才則有下愚之不移。所謂下愚有二焉:自暴也,自棄也。人苟以善自治,則無不可移者,雖昏愚之至,皆可漸磨而進也。唯自暴者,拒之以不信;自棄者,絕之以不為;雖聖人與居,不能化而入也,仲尼之所謂下愚也。然天下自棄自暴者,非必皆昏愚也,往往強戾而才力有過人者,商辛是也。聖人以其自絕於善,謂之下愚,然考其歸,則誠愚也。既曰下愚,其能革面,何也?曰:心雖絕於善道,其畏威而寡罪,則與人同也。唯其有與人同,所以知其非性之罪也。
人有りて問う:人性はもとより是れ善、何の故に仍り変革し得ざるの人有るや。回答えて曰く:本性に就きて言えば、人人皆善。才質に就きて言えば、却って『論語』の所謂「下愚不移」の一類有り。所謂下愚は両種有り:一種は「自暴」、一種は「自弃」。人はただ肯んじて善を用いて自己を修治すれば、便ち移易すべからざるなし、縦令昏愚なること極点に至るとも、亦皆能く慢慢に磨砺して長進す。唯独自暴の人は、一口に咬定して善道を信ぜずして而してそれを拒斥す。自弃の人は、索性に念頭を断ちて而して肯んじて為さざるなり:たとえ聖人が彼と同じく住むとも、感化し入る能わず、これすなわち孔子の言う所の「下愚」。然るも天下の自暴自棄の人は、未必しも皆昏昧愚笨、往往にして強横凶狠にして才力人に過ぐる者、商の紂王帝辛は便ちこのような人。聖人は彼が善に自絶するに因りて、彼を称して下愚と為す。不過彼の最終の帰宿を考察すれば、あれはも確かに是れ愚。又た問う:既に下愚と言うは、何の故に還って能く「革面」するや。回答えて曰く:彼の心裡は善道と縁を絶つと雖も、然るも威刑を畏懼して而して敢えて多く犯罪せず、この一点は常人と相同なり。正に彼が還って常人と相同なる地方有るに因りて、それゆえ彼の不善は并せて本性の罪過に非ざるを知る。
《象》曰:君子豹變,其文蔚也;小人革面,順以從君也。君子從化遷善,成文彬蔚,章見於外也。中人以上,莫不變革,雖不移之小人,則亦不敢肆其惡,革易其外,以順從君上之教令,是革面也。至此,革道成矣。小人勉而假善,君子所容也,更往而治之,則凶矣。
『小象伝』に曰く:「君子豹変、其文蔚也。小人革面、順以従君也」。君子は教化に随いて善道に遷り、徳行は斑斕の文采を成就して、外に顕露す。中等資質以上の人は之に随いて変革せざるなし。たとえあの種の移易し動かざるの小人とも、も敢えて再び放肆して悪を為さず、只好く自己の外表を改換して、以て君上の教令に順従する、これすなわち「革面」。この一步に到れば、変革の道は便ち完成と算す。小人は勉强に自己して而して假装して善を為すも、も君子の能く容納する所。若し還って継続して追究整治せんと要せば、あればすなわち凶。
鼎卦(巽下離上)
《鼎》,《序卦》:“革物者莫若鼎,故受之以鼎。”鼎之為用,所以革物也,變腥而為熟,易堅而為柔,水火不可同處也,能使相合為用而不相害,是能革物也,鼎所以次革也。為卦,上離下巽。所以為鼎,則取其象焉,取其義焉。取其象者有二:以全體言之,則下植為足,中實為腹,受物在中之象,對峙於上者耳也,橫亙乎上者鉉也,鼎之象也;以上下二體言之,則中虛在上,下有足以承之,亦鼎之象也。取其義,則木從火也,巽入也,順從之義,以木從火,為然之象。火之用惟燔與烹,燔不假器,故取烹象而為鼎,以木巽火,烹飪之象也。
『鼎』卦、『序卦伝』に曰く:「革物者莫若鼎、故受之以鼎」。鼎の用処は正に物性を改変するに在り:生腥のを変じて熟せると為し、堅硬のを変じて柔軟と為す。水と火とはもとより能く一地に共処せず、鼎は却って能く両者を結合して作用を発揮せしめて而して互相損害せず、これすなわち能く物性を改変す、それゆえ『鼎』卦は『革』卦の後に排す。卦体に就きて言えば、上体は離にして下体は巽。それの「鼎」と称する所以は、一方面は鼎の形象を取り、一方面は鼎の意義を取る。形象を取るは両層有り:六爻の整体に就きて看れば、最下の一爻は直立して鼎足の如く、中間の数爻は充実して鼎腹の如く、正に物を裡面に盛るの象、上面に両両相対して豎起するは鼎耳、最上に横貫するは鼎を挙ぐるの鉉、これは鼎の形象。上下両体に就きて看れば、則ち中間空虚の部分は上に在り、下面に足有りて承托す、も鼎の形象。意義を取るは則ち木が火に順従する:巽は「入」、順従の義を含み、木を以て火に順従するは、正に燃焼の象。火の用処はただ燒烤と烹煮の両種のみ、燒烤は器皿に借助を須いず、それゆえ烹煮の象を取りて而して鼎と為る——木を以て火に順従するは、すなわち烹飪の象。
制器取其象也,乃象器以為卦乎?曰:制器取於象也,象存乎卦,而卦不必先器。聖人制器,不待見卦而後知象,以眾人之不能知象也,故設卦以示之。卦器之先後,不害於義也。或疑鼎非自然之象,乃人為也。曰:固人為也,然烹飪可以成物,形制如是則可用,此非人為,自然也。在井亦然,器雖在卦先,而所取者乃卦之象,卦復用器以為義也。
人有りて問う:器物を制作するは卦象に取法する、あればここに豈に器物の様子に照らして卦を造ると成らざらんや。回答えて曰く:器物を制作するは固より象に取法す、象はもとより卦の中に存在す、然るも卦は未必しも一定に器物より先に出現せず。聖人の器物を制作するは、先ず卦を看見して初めて象を懂得するを須いず。只だ衆人が能く自ら象を領会せざるに因りて、それゆえ聖人は初めて卦を設立して彼らに指点す。卦と器との孰れ先孰れ後は、義理に害なし。又た人の疑う有り:鼎は天然の形象に非ず、而して人の造る所。回答えて曰く:鼎は固より人の造る所、然るも烹煮は能く食物を成熟せしめ、形制はこの様子を做り成して初めて用い易し——この一点は并せて人の能く憑空に安排する所に非ず、而して自然の理。『井』卦も亦たこの如し:器具は卦の先に出現したると雖も、而して卦の取る所は仍り卦本身の象、卦はまた器物を借りて以て義を立つるのみ。
鼎:元吉亨。以卦才言也。如卦之才,可以致元亨也。止當云元亨,文羨吉字。卦才可以致元亨,未便有元吉也。彖復止雲元亨,其羨明矣。《彖》曰:鼎,象也。卦之為鼎,取鼎之象也;鼎之為器,法卦之象也。有象而後有器,卦復用器而為義也。鼎,大器也,重寶也,故其制作形模,法象尤嚴。鼎之名正也,古人訓方,方實正也。以形言,則耳對植於上,足分峙於下,周圓內外,高卑厚薄,莫不有法而至正,至正然後成安重之象。故鼎者法象之器,卦之為鼎,以其象也。
『鼎』卦の卦辞に曰く:「元吉亨」。これは卦の才質に就きて言う所:この一卦の才質の如きは、能く大いに亨通を招致すべし。其実ここは只だ「元亨」と作るべし、「吉」の字は衍文。卦の才質は能く大亨を招致するも、却って見るに及ばず立刻に便ち大吉有り。『彖伝』の引述する時も只だ「元亨」と言うのみ、見ゆべし「吉」の字は多く出たるなり。『彖伝』に曰く:「鼎、象也」。この一卦の『鼎』と称する所以は、鼎の形象を取る。而して鼎のこの件の器物は、亦た正に卦の形象を效法して而して造る。象有りて然る後に器有り、卦はまた器を借りて以て義を立つ。鼎は重大の器物・貴重の宝器、それゆえその形制模様は、象に取法すること格外に厳整。「鼎」の名を得るは、取る所は端正の義。古人は「鼎」を「方」と訓す、「方」は其実すなわち正。形制の上より言えば、両耳は相対して上に豎立し、三足は分かれて下に鼎峙し、周身の圓転・内外の深浅・上下の高低・器壁の厚薄は、一処として法度に合せざるなくして而して極めて端正。極めて端正にして、然る後に初めて安穏凝重の気象を成就す。それゆえ鼎は象に取法するの器物、此の卦の『鼎』と為る所以は、正にそれがこの象有るに因る。
以木巽火,亨飪也;聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。以二體言鼎之用也。以木巽火,以木從火,所以亨飪也。鼎之為器,生人所賴至切者也。極其用之大,則聖人亨以享上帝,大亨以養聖賢。聖人,古之聖王。大,言其廣。巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。
『彖伝』に曰く:「以木巽火、亨飪也。聖人亨以享上帝、而大亨以養聖賢」。これは上下両体に就きて鼎の功用を講ず。「以木巽火」はすなわち木を以て火に順従する、それゆえ能く烹煮す。鼎のこの件の器物は、活人の依頼する所の最も切要なる者。その用処を最大に推せば、すなわち聖人は牲物を烹煮して上帝を祭享し、また大規模に烹煮して以て聖賢を供養す。ここの「聖人」は古代の聖王を指す。「大」は是れ範囲の広きを言う。『彖伝』は続けて曰く:「巽而耳目聡明、柔進而上行、得中而応乎剛、是以元亨」。
周易伝文(序卦・雑卦・文言・説卦)
『序卦伝』上篇
有天地,然後萬物生焉。盈天地之間者唯萬物,故受之以屯。屯者,盈也。屯者,物之始生也。物生必蒙,故受之以蒙。蒙者,蒙也,物之穉也。物穉不可不養也,故受之以需。需者,飲食之道也。飲食必有訟,故受之以訟。訟必有眾起,故受之以師,師者,眾也。眾必有所比,故受之以比。比者,比也。比必有所畜,故受之以小畜。物畜然後有禮,故受之以履。履而泰然後安,故受之以泰。泰者,通也。
先ず天地有り——すなわち『乾』『坤』両卦——然る後に万物は初めて中より生出す。天地のあいだに充満するはただ万物のみ、それゆえ『乾』『坤』の後に『屯』卦を接ぐ。「屯」は充盈の意、また万物初生の意——「屯」の字は「屮」に従い「一」に従う、「屮」は草、「一」は地、正に草木の嫩芽が地皮を頂いて冒出するが如し。万物の初生は必ず蒙昧幼稚、それゆえ『屯』の後に『蒙』卦を接ぐ。「蒙」はすなわち蒙昧、事物の尚幼小なる階段を指す。幼小の物は養育を加えざるべからず、それゆえ『蒙』の後に『需』卦を接ぐ。「需」の講ずる所は飲食の道。飲食有れば必ず争奪有り、それゆえ『需』の後に『訟』卦を接ぐ。争訟は一たび起これば必ず衆人聚集有り、それゆえ『訟』の後に『師』卦を接ぐ、「師」はすなわち衆人・軍旅。衆人は一処に聚まれば必ず親附する所有り、それゆえ『師』の後に『比』卦を接ぐ、「比」はすなわち親近相輔。親附の後は必ず積聚する所有り、それゆえ『比』の後に『小畜』卦を接ぐ。積蓄有りて然る後に初めて礼儀を講じ起るを得、それゆえ『小畜』の後に『履』卦を接ぐ——「履」はもとより鞋を指し、引申して礼法を践行す。礼法を践行して而して通泰し、然る後に初めて安定を得、それゆえ『履』の後に『泰』卦を接ぐ、「泰」はすなわち通达。
物不可以終通,故受之以否。物不可以終否,故受之以同人。與人同者,物必歸焉,故受之以大有。有大者不可以盈,故受之以謙。有大而能謙必豫,故受之以豫。豫必有隨,故受之以隨。以喜隨人者必有事,故受之以蠱。蠱者,事也。有事而後可大,故受之以臨。臨者,大也。物大然後可觀,故受之以觀。可觀而後有所合,故受之以噬嗑。嗑者,合也。物不可以苟合而已,故受之以賁。賁者,飾也。
事物は能く永遠に通达するは得ざるを得ず、それゆえ『泰』の後に『否』卦を接ぐ——『否』は上に乾下に坤、天地は相交わらず、故に閉塞と為る。事物もまた能く一直に閉塞し下去るは得ざるを得ず、それゆえ『否』の後に『同人』卦を接ぐ。能く人と和同するは、衆人は必ず彼に帰附す、それゆえ『同人』の後に『大有』卦を接ぐ——古人は豊年を「有」と称し、大豊年を「大有」と称す。広大を擁有するは以て自満すべからず、それゆえ『大有』の後に『謙』卦を接ぐ。既に広大にして而又能く謙退すれば、必ず安楽、それゆえ『謙』の後に『豫』卦を接ぐ、「豫」是れ歓愉——『豫』は下に坤為地・上に震為雷、雷は地上に出でて而して万物奮発す。歓愉は必ず相随う人有り、それゆえ『豫』の後に『随』卦を接ぐ。喜悦に因りて別人を追随するは、必ず事端を生出す、それゆえ『随』の後に『蠱』卦を接ぐ、「蠱」はすなわち事——「蠱」の字は本義は器皿の中の食物の腐壊して虫を生ずる、引申して敗壊と為し、敗壊せば便ち整治の事有り。事あって為すべければ然る後に初めて能く壮大す、それゆえ『蠱』の後に『臨』卦を接ぐ、「臨」是れ盛大——『臨』卦は二陽浸長して而して四陰に逼近す。事物は盛大にして然る後に初めて観仰するに値す、それゆえ『臨』の後に『観』卦を接ぐ。観仰に供すべければ然る後に会合する所有り、それゆえ『観』の後に『噬嗑』卦を接ぐ、「嗑」はすなわち合——口中に物を含みて咬合す。事物は以て只だ苟且に凑合するのみならんことを得ず、それゆえ『噬嗑』の後に『賁』卦を接ぐ、「賁」はすなわち文飾。
致飾然後亨則盡矣,故受之以剝。剝者,剝也。物不可以終盡剝,窮上反下,故受之以復。復則不妄矣,故受之以無妄。有無妄,然後可畜,故受之以大畜。物畜然後可養,故受之以頤。頤者,養也。不養則不可動,故受之以大過。物不可以終過,故受之以坎。坎者,陷也。陷必有所麗,故受之以離。離者,麗也。
文飾は極処に到れば、亨通の道もすなわち窮尽す、それゆえ『賁』の後に『剥』卦を接ぐ、「剥」はすなわち剥落——『剥』は下に坤為地・上に艮為山、山はもとより高峻なれども却って反って地に附着す、故に剥落の義有り。事物は能く剥落して底に到りて而して永遠に尽絶するは得ざるを得ず、陽気は上に於て剥尽せば、便ち下面に返りて重新に生起す、それゆえ『剥』の後に『復』卦を接ぐ。能く本原に復帰すれば、便ち妄行せざらん、それゆえ『復』の後に『无妄』卦を接ぐ。妄為せざるの操守有りて、然る後に初めて蓄養を談ずるを得、それゆえ『无妄』の後に『大畜』卦を接ぐ。積蓄する所有りて然る後に初めて能く供養す、それゆえ『大畜』の後に『頤』卦を接ぐ、「頤」はすなわち養——「頤」はもとより両腮を指し、卦画は上下に両陽にして中に四陰を含み、正に口腔の象。養育を加えざれば能く動作する所有るを得ず、それゆえ『頤』の後に『大過』卦を接ぐ。事物は能く一直に過甚し下去るは得ざるを得ず、それゆえ『大過』の後に『坎』卦を接ぐ、「坎」はすなわち陥——陽爻は両陰の中に陥る。陥落の後は必ず附麗依托する所有り、それゆえ『坎』の後に『離』卦を接ぐ、「離」はすなわち附麗——陰爻は陽爻に依附す。
『序卦伝』下篇
有天地然後有萬物。有萬物,然後有男女,有男女,然後有夫婦。有夫婦,然後有父子。有父子,然後有君臣。有君臣,然後有上下。有上下,然後禮儀有所錯。夫婦之道,不可以不久也,故受之以恆。恆者,久也。物不可以久居其所,故受之以遯。遯者,退也。
先ず天地有り、然る後に初めて万物を化生す。万物有りて、然る後に初めて雌雄男女を分出す。男女有りて、然る後に初めて夫婦を結成す。夫婦有りて、然る後に初めて父子を生出す。父子有りて、然る後に初めて君臣を立起す。君臣有りて、然る後に初めて上下尊卑を分出す。上下尊卑有りて、然る後に礼節儀制は初めて安放施設の処有り——「錯」はすなわち安置・設立。『下経』は『咸』卦を以て篇を開く、正に艮少男の下に在り・兌少女の上に在り、二気感応して而して夫婦の義を成すを取る。夫婦の相処する道は能く長久ならざるべからず、それゆえ『咸』の後に緊接して『恒』卦、「恒」はすなわち恒久、巽風と震雷とが相与して離れず、正に長久の象。然るも万物はまた能く長久に一箇の位置に停まりて動かざるを得ず、それゆえ『恒』の後に『遯』卦を接ぐ、「遯」はすなわち退避引身。
物不可以終遯,故受之以大壯。物不可以終壯,故受之以晉。晉者,進也。進必有所傷,故受之以明夷。夷者,傷也。傷於外者必反一於家,故受之以家人。家道窮必乖,故受之以睽。睽者,乖也。乖必有難,故受之以蹇。蹇者,難也。
事物は能く永遠に退避し下去ることせざるを得ず、退くること極処に至れば必ず奮起に転ず、それゆえ『遯』の後に『大壮』卦を接ぐ。然るもまた能く一味に強壮なるべからず、壮盛の勢は総じて有所進取するを要す、それゆえ『大壮』の後に『晋』卦を接ぐ、「晋」はすなわち上進——『晋』は下に坤為地・上に離為日、日は地面より出でて節節に上升す。然るも一味に前進すれば必ず損傷を招来す、それゆえ『晋』の後に『明夷』卦を接ぐ、「夷」はすなわち創傷。『明夷』と『晋』とは正に相反し、是れ太陽の地中に落入して、光明は戕害を受く。外面に於て傷を受けたる人は一定に家中に回返す、それゆえ『明夷』の後に『家人』卦を接ぐ。一家の道は窮処に走り到れば必ず乖違を生ず、それゆえ『睽』卦を接ぐ、「睽」は両目の相視せざる、引申して乖異離散。乖離は必然に患難を招致す、それゆえ『蹇』卦を接ぐ、「蹇」はもとより腿脚の跛行を指し、引申して艱難。
物不可以終難,故受之以解。解者,緩也。緩必有所失,故受之以損,損而不已必益,故受之以益。益而不已必決,故受之以夬。夬者,決也。決必有遇,故受之以姤。姤者,遇也。
事物は能く一直に患難の裡に困在するは得ざるを得ず、険難は終に紓解の一日有り、それゆえ『蹇』の後に『解』卦を接ぐ、「解」はすなわち緩解・松开、雷は上に於て動き雨は下に於て落ち、欝結は自ら散ず。然るも一たび松緩し来れば必ず疏失虧損する所有り、それゆえ『解』の後に『損』卦を接ぐ。減損して而して停止せざれば、損の極処に到れば却って転じて増益と為る、それゆえ『損』の後に『益』卦を接ぐ。増益して而して停止せざれば、蓄え満ちれば必ず潰決して沖開す、それゆえ『益』の後に『夬』卦を接ぐ、「夬」はすなわち決断・決去、『夬』是れ五陽が下に在りて最上の一陰を決去するの象。旧きを決去せば必ず新しきの相遇有り、それゆえ『夬』の後に『姤』卦を接ぐ、「姤」はすなわち期せずして遇う、『姤』是れ一陰が初めて下に生じて、上面の五陽と相遇う。
物相遇而後聚,故受之以萃。萃者,聚也。聚而上者謂之升。故受之以升。升而不已必困,故受之以困。困乎上者必反下,故受之以井。井道不可不革,故受之以革。革物者莫若鼎,故受之以鼎。主器者莫若長子,故受之以震。震者,動也。
万物は相遇して而る後に初めて聚合す、それゆえ『姤』の後に『萃』卦を接ぐ、「萃」はすなわち聚集。聚合し起こりて而して又能く上に向かいて升騰するを、これを上升と言う、それゆえ『萃』の後に『升』卦を接ぐ、地中に木を生じ、日長にして日高し。上升して而して肯んじて停歇せざれば、力尽き勢窮まれば便ち困頓に陥入す、それゆえ『升』の後に『困』卦を接ぐ。上位に在りて困を受くるは終竟に下面に反回するを要す、それゆえ『困』の後に『井』卦を接ぐ——水は沢下に漏りて沢上は乾涸するは便ち「困」、水は木上に於て汲引して出で人を養いて窮まらざるは便ち「井」。井は久しければ必ず淤り、井を取るの道は変革淘洗を加えざるべからず、それゆえ『井』の後に『革』卦を接ぐ。而して旧物を変革し新味を烹出するの器具は鼎に比ぶるはなし、それゆえ『革』の後に『鼎』卦を接ぐ。宗廟鼎器の祭祀を主持する人は長子に比ぶるはなし、古代の宗法は長子を以て承祧と為す、それゆえ『鼎』の後に長男を象征する『震』卦を接ぐ、「震」はすなわち奮動。
物不可以終動,止之,故受之以艮。艮者,止也。物不可以終止,故受之以漸。漸者,進也。進必有所歸,故受之以歸妹。得其所歸者必大,故受之以豐。豐者,大也。窮大者必失其居,故受之以旅。旅而無所容,故受之以巽。巽者,入也。入而後說之,故受之以兌。兌者,說也。
事物は能く永遠に動きて已まざること能わず、動きて時候に到ればすなわち応に止住すべし、それゆえ『震』の後に『艮』卦を接ぐ、「艮」はすなわち静止。然るもまた能く永遠に静止して前ならざるべからず、それゆえ『艮』の後に『漸』卦を接ぐ、「漸」はすなわち循序にして進む、古代の女子の出嫁は六礼に依りて徐徐として行う、正にこれを「漸」と言う。前進は必ず帰宿する所有り、それゆえ『漸』の後に『帰妹』卦を接ぐ、「帰」はすなわち女子の出嫁。帰宿を得るの家業は必然に壮大、それゆえ『豊』卦を接ぐ、「豊」はすなわち盛大。然るも盛大を窮極に推すの人は反って安居の所を失掉す、それゆえ『豊』の後に『旅』卦を接ぐ。羈旅して外に在りて容身する処なければ、只好く卑遜して容を求む、それゆえ『旅』の後に『巽』卦を接ぐ、「巽」はすなわち深入、風は孔あれば入らざるなし。能く人心に入りて而る後に初めて人をして喜悦せしむ、それゆえ『巽』の後に『兌』卦を接ぐ、「兌」は「悦」に通ず、すなわち喜悦。
說而後散之,故受之以渙。渙者,離也。物不可以終離,故受之以節,節而信之,故受之以中孚。有其信者必行之,故受之以小過。有過物者必濟,故受之以既濟。物不可窮也,故受之以未濟。終焉。
心裡は喜悦せば、欝結の気は便ち之に随いて涣散して開け去る、それゆえ『兌』の後に『渙』卦を接ぐ、「渙」はすなわち離散、風は水上に行きて而して水を吹きて四散せしむ。然るも事物は能く一直に離散し下去ること能わず、散ずればすなわち制度を以て約束を加うるを要す、それゆえ『渙』の後に『節』卦を接ぐ、沢上に水有りて而して容量に限有るは、正に節度の象。節制して而又能く人に信を取る、それゆえ『節』の後に『中孚』卦を接ぐ、「中孚」是れ内心に誠信を懐有す。心中に真に誠信有るの人は必ず行動に之を見る、行動は難免して稍稍常度を超過す、それゆえ『中孚』の後に『小過』卦を接ぐ——ここの「過」是れ経過・略越、過失に非ず。能く常物を超越するは必ず能く事情を成し弁ず、それゆえ『小過』の後に『既済』卦を接ぐ、「済」是れ渡過、引申して成功と為す。然るも万物の道理は窮尽の日なし、事成の後はまた新たの開端、それゆえ最後に『未済』卦を以て全経を收束す。六十四卦の次序は此に到りて終結す。
『雑卦伝』
乾剛坤柔,比樂師憂。臨觀之義,或與或求。屯見而不失其居,蒙雜而著。震,起也;艮,止也。損益,盛衰之始也。大畜,時也;無妄,災也。萃聚而升不來也,謙輕而豫怠也。噬嗑,食也;賁,無色也。兌見而巽伏也。
『乾』は六爻純陽、それゆえ是れ剛健。『坤』は六爻純陰、それゆえ是れ柔順。『比』は親近輔助を講ず、それゆえ可楽。『師』は興兵行険を主とし、それゆえ可憂。『臨』と『観』の両卦は相反し、一箇は二陽が下に在りて上に臨撫し、施与の義を取る。一箇は二陽が上に在りて衆陰は仰観し、営求の義を取る。『屯』是れ万物初生にして而して各爻皆位に当たる、それゆえ顕現して而してその居る所を失わずと言う。『蒙』是れ二陽位を失い陰陽雑処して而して蒙昧の中に漸く顕著有り。『震』是れ発動奮起、『艮』是れ抑止不行。『損』と『益』とは、正に盛より衰に転じ衰より盛に転ずるの起点。『大畜』是れその徳を畜養して時を待ちて用を為す、古は「時」と「待」とは相通ず。『无妄』は則ち天災は人力の能く妄りに求むる所に非ず、京房は此の卦を解して大旱の年と為す。『萃』是れ衆陰の内に聚る、『升』是れ衆陰の外に升りて而して更に返回せず。『謙』是れ自処して卑退にして己を軽んず、『豫』是れ逸楽に安んじて怠緩す。『噬嗑』是れ口中に物を含みて咀嚼す、それゆえ吃と言う。『賁』は文飾を取ると雖も、而して離日は艮山の下に在りて光なし、それゆえ反って無色と言う。『兌』是れ一陰の上に顕現する、『巽』是れ一陰の下に潜伏する。
隨,無故也;蠱,則飭也。剝,爛也;復,反也。晉,晝也;明夷,誅也。井通而困相遇也。咸,速也;恆,久也。渙,離也;節,止也。解,緩也;蹇,難也。睽,外也;家人,內也。否泰,反其類也。
『随』是れ時に随いて安んじ事を為すなし、『象伝』の所謂「君子以向晦入宴息」は便ち是れ。『蠱』の字は本義は器皿の中の食物の腐敗して虫を生ずる、事は已に敗壊せり、それゆえ整飭修治するを要す。『剥』是れ果実の熟爛して剥落す、『復』是れ一陽の初位に返回す、「反」は「返」に通ず。『晋』是れ日の地上に出づ、それゆえ白昼を象す。『明夷』是れ日の地中に入る、光明は戕害せられ、それゆえ傷誅と言う。『井』の水は木上より汲引して出で、往来して窮まらざるを以て之を通と謂う。『困』の水は沢下に漏り、沢上は乾涸し、反って処処に阻隔に遭遇す。『咸』是れ二気感応して行かずして至る、それゆえ最も神速。『恒』是れ雷風相与する、それゆえ能く持久す。『渙』是れ風の水上に行きて而して披離解散す、『節』是れ水の沢中に在りて限有りて而して止まるを知る。『解』是れ雷雨作りて而して険難紓緩す、『蹇』是れ険を見て歩を止めて而して行路艱難。『睽』是れ離女の外卦に居る、女子の家を離れて外に在るを象す。『家人』是れ離女の内卦に居る、女子の家内に守るを象す。『否』と『泰』とは卦画相反し、その事類もまた正好に相反す。
大壯則止,遯則退也。大有,眾也;同人,親也。革,去故也;鼎,取新也。小過,過也;中孚,信也。豐,多故也;親寡,旅也。離上而坎下也。小畜,寡也;履,不處也。需,不進也;訟,不親也。
『大壮』は四陽盛長して已に中途を過ぎ、盛極まれば将に止まらんとす、それゆえ是れ止と言う。『遯』は二陰漸長して而して陽を逼る、陽気は身を引きて去る、それゆえ是れ退と言う。『大有』是れ六五の一柔が尊位に居りて上下の五陽は皆来りて応和す、それゆえ衆多と言う。『同人』是れ六二が中に居りて正を得て而して衆陽は皆来りて親附す、それゆえ親和と言う。『革』是れ旧物を革除す、『鼎』是れ烹飪して熟を待ちて而してその新成を取る。『小過』是れ二陰が二陽を経過して陰盛にして陽に過ぐ、『中孚』是れ誠信の中心より発す。『豊』は古人は之を日蝕の卦と視す、日蝕は不祥と為る、それゆえ事故多しと言う。羈旅して外に在りて容身する所なし、それゆえ親附する者稀少と言う——明人の何楷・清人の崔述は皆文例と韵脚とに拠りて此の句はもとより「旅寡親也」と作るを考定す。離火の性は炎上し、坎水の性は潤下す、二者は道に背いて行く。『小畜』是れ一陰が五陽を畜止す、陽衆にして陰寡。『履』是れ践履して行くの義を取る、肯んじて原位に滞留せず。『需』是れ前に坎険有りて而して時機を須待す、それゆえ進まず。『訟』是れ天と水とが各々その道を行く、それゆえ相親しまず。
大過,顛也。姤,遇也,柔遇剛也。漸,女歸待男行也。頤,養正也,即濟,定也。歸妹,女之終也。未濟,男之窮也。夬,決也。剛決柔也。君子道長,小人道憂也。
『大過』是れ巽木が兌沢に淹れられ、中間に四陽にして本末の両陰は倶に弱し、それゆえ是れ顛覆と言う。『姤』是れ相遇、一陰は下より生起して而して五陽と相遇う、是れ柔の来りて剛に遇う。『漸』は下に艮少男・上に巽長女、説く所は女子の出嫁は須く男方の来りて迎親するを待つを。『頤』は上に艮止して下に震動す、口の食を進むるが如く、身を養い徳を養うに正を以て吉と為すの義を取る。『既済』は六爻は陰は陰位に居り陽は陽位に居り、各々その分に安んず、それゆえ是れ定と言う。『帰妹』是れ少女の長男に嫁ぐ、女子は出嫁を以て終身の帰と為す。『未済』は三陽は皆その正を失い窮極して上に在り、それゆえ是れ男子の困窮と言う。『夬』是れ決断、五陽は盛長して而して上面の一陰を決去す、陽は君子を象し陰は小人を象す、正に君子の道の生長し小人の道の憂懼するの時。
『文言伝』・乾卦
“元”者,善之長也;“亨”者,嘉之會也;“利”者,義之和也;“貞”者,事之乾也。君子體仁足以長人,嘉會足以合禮,利物足以和義,貞固足以乾事。君子行此四德者,故曰:“乾、元、亨、利、貞。”
『乾』卦の卦辞の「元」は、衆善の首長、万物は此に由りて発端す。「亨」は、衆美の会合、古人は婚礼を「嘉」と称し、正に群美畢集の意を取る。「利」は、各々その宜を得て而して彼此調和す、『中庸』は「義者、宜也」と言う、正に此の意。「貞」は、事情の乾干、樹木の旁生するは枝・正出するは乾、枝叶は皆樹乾に依って初めて立ち得、それゆえ「乾」は兼ねて正と本の両層の意思有り。君子は仁を以て本体と為せば、足りて衆人の君長を為す。能く衆美を會聚せば、足りて礼に合す。能く万物をして各々その利を得せしめば、足りて義に調和す。能く正を守りて堅固なれば、足りて事業を干成す。君子は元・亨・利・貞のこの四種の徳性を躬行す、それゆえ卦辞に曰く:「乾、元・亨・利・貞」。
初九曰:“潛龍勿用。”何謂也?子曰:“龍德而隱者也,不易乎世,不成乎名,遯世無悶,不見是而無悶,樂則行之,憂則違之,確乎其不可拔,潛龍也。”
『乾』卦の初九の爻辞に曰く:「潜伏するの竜、施用すべからず」。これは何の意ぞや。孔子は解釈して曰く:これは竜の如きの陽剛の徳を具有して而して暫時下位に隠居する人。彼は世俗風気に因りて操守を改移せず、また名声を成就せんと汲汲とせず。世を避けて隠居して而して心中に煩悶を生ぜず、世人に認可せられずしても煩悶を生ぜず。道に合して可楽なるは便ち往きて実行し、道に合せずして可憂なるは便ち避けて之を遠くす。あの份の剛強堅定の操守は誰も彼を抜き動かす能わず——これをこそ「潜竜」と言う。
九二曰:“見龍在田,利見大人。”何謂也?子曰:“龍德而正中者也。庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,德博而化,《易》曰‘見龍在田,利見大人’。君德也。”
『乾』卦の九二の爻辞に曰く:「竜は已に田野の上に出現す、大人を見るに利あり」。これは何の意ぞや。孔子は解釈して曰く:これは竜徳有りて而して内卦の中位に居り、正を守り中を持する人。平常の言語は必ず誠信を求め、平常の行事は必ず謹慎を求め、邪念を防閑して而して内心の真誠を存養し、徳業は広く世に被りて而して自ら誇耀せず、徳沢は寛博にして而して能く衆人を感化す。『周易』は「竜は已に田野の上に出現す、大人を見るに利あり」と言う、講ずる所は正に人君の応有すべきの徳性。
九三曰:“君子終日乾乾,夕惕若厲,無咎。”何謂也?子曰:“君子進德修業。忠信所以進德也。修辭立其誠,所以居業也。知至至之,可與幾也。知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。”
『乾』卦の九三の爻辞に曰く:「君子は整日勤め励んで懈らず、夜晚に到りても仍り戒懼し、処境は危険と雖も過错あらざらん」。これは何の意ぞや。孔子は解釈して曰く:君子の務むる所は、徳性を増進し学業を修治するに在り。存心は忠実守信を以て、用いて徳性を増進す。言辞を修飭して自己の誠意を確立するを以て、用いて学業を守住す。応に哪の一步に達すべきを知れば便ち努力して之に達する、このような人才は初めて彼と「幾」を談論すべし——『繋辞』は「幾者、動之微、吉之先見者也」と言う。応に哪の一步に於て終止すべきを知れば便ち断然として終止す、このような人才は初めて彼と同じく義理を持守すべし。それゆえ彼は内卦の上に居りて而して驕慢せず、外卦の下に処りて而して憂懼せず、只だ終日勤め励み時勢に随いて警惕す、この如くすれば縦令身が危地に処するとも、災禍あらざらん。
九四曰:“或躍在淵,無咎。”何謂也?子曰:“上下無常,非為邪也。進退無恆,非離群也。君子進德修業,欲及時也,故無咎。”
『乾』卦の九四の爻辞に曰く:「或いは騰躍して起こらん、或いは仍り深淵に留まらん、皆過错あらざらん」。これは何の意ぞや。孔子は解釈して曰く:九四は陽を以て陰位に居り、上は九五に承奉すべく下は初九に応和すべく、或いは上或いは下にして并せて一定なし、然るも心に邪枉を存するに非ず。上は五位に進居すべく下は三位に退居すべく、或いは進或いは退にして并せて常規なし、亦た自己の同類に背離せんとするに非ず——『乾』の六爻は皆陽、同じく一群を為す。君子のこの如くする所以は、只だ徳性を増進し学業を修治せんが為、力めて時機に赶上せんと求むるのみ、それゆえ災禍あらざらん。
九五曰:“飛龍在天,利見大人。”何謂也?子曰:“同聲相應,同氣相求。水流溼,火就燥。雲從龍,風從虎。聖人作而萬物覩。本乎天者親上,本乎地者親下。則各從其類也。”
『乾』卦の九五の爻辞に曰く:「竜は飛騰して天上に在り、大人を見るに利あり」。これは何の意ぞや。孔子は解釈して曰く:声音相同なるは自然に彼此応和し、気類相同なるは自然に彼此尋求す。水は低湿の処に往きて流れ、火は乾燥の処に向かいて燒く。雲はもとより水気、竜はもとより水中の物、同類は相致す、それゆえ雲は竜に随いて生ず。風是れ震動の気、虎是れ威猛の獣、虎は嘯して而して風起こる、それゆえ風は虎に随いて来たる。聖人は興起して上位に在れば、万物は便ち皆頭を仰ぎて観看す。凡そ本源の天より出づるは便ち上に親附し、本源の地より出づるは便ち下に親附す——万物は不過各々自己の同類に依従するのみ。
上九曰:“亢龍有悔。”何謂也?子曰:“貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。”
『乾』卦の上九の爻辞に曰く:「極高処に升りたるの竜は、悔恨有らん」。これは何の意ぞや。孔子は解釈して曰く:上九は六爻の尽頭に処り、身分は尊貴と雖も而して実際の職位なし、地勢は高峻と雖も而して治むべきの百姓なし、底下の賢人は各々その位に安んじて而して来りて彼を輔佐せず。孤高にして而して憑依する所なし、それゆえ一たび挙動有れば便ち悔恨を招来す。
『乾文言』は六爻を申釈す
“潛龍勿用”,下也;“見龍在田”,時舍也;“終日乾乾”,行事也;“或躍中淵”,自試也;“飛龍在天”,上治也;“亢龍有悔”,窮之災也;乾元“用九”,天下治也。
以下は先ず人事に就きて『乾』卦の爻辞を解説す。「潜竜勿用」は、初九が最下に居りて位卑なりに因る。「見竜在田」は、竜はもとより応に天に在るべきに、如今却って田間に在り、一時に棄置せられて用いられず。「終日乾乾」是れ九三の勤め励みて事を弁ずる。「或躍在淵」是れ九四の自ら時機を試探す。「飛竜在天」是れ九五の尊位に居りて而して上に在りて天下を治理す。「亢竜有悔」是れ上九の窮極する所の招来する災禍。『乾』卦の「用九」して而して群竜無首を見るは、則ち天下大治の気象。
“潛龍勿用”,陽氣潛藏;“見龍在田”,天下文明;“終日乾乾”,與時偕行;“或躍在淵”,乾道乃革;“飛龍在天”,乃位乎天德;“亢龍有悔”,與時偕極;乾元“用九”,乃現天則。
以下は再び天道に就きて『乾』卦の爻辞を解説す。「潜竜勿用」是れ陽気はなお下に潜蔵して而して未曾に発動せず。「見竜在田」是れ陽気の上升して天下は文彩光明を呈現す。「終日乾乾」是れ時勢に随いて一同に運行す。「或躍在淵」是れ九四の上卦に進入して、乾道は此に到りて変革を発生す。「飛竜在天」是れ陽気は九五に升りて而して天位天徳に居る。「亢竜有悔」是れ時勢に随いて一同に終極に走り到る。『乾』卦の「用九」は、則ち上天の運行する法則を顕現す。
乾“元”者,始而亨者也;“利貞”者,性情也。乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉,大哉乾乎,剛健中正,純粹精也。六爻發揮,旁通情也,時乘六龍,以御天也。雲行雨施,天下平也。
『乾』卦の「元」は、万物がそれに由りて始まりて而して通达无碍なるを言う。「利貞」は、説く所は乾道の性と情——性是れ天賦の性、情是れ物に感じて生ずるの意、人物は陰陽を禀受して生ず、それゆえ性有情有り。乾道は万物を創始し、能く美善の利を以て天下を普く利す、而して却って従来に自ら利の何処に在るかを道わず、これ真に偉大なるかな。偉大なるかな乾道、それは剛強・健行・居中・守正、純にして雑ならず精にして粗ならず——色は雑ならざるを純と言い、米は雑ならざるを粹と言い、米は至細を精と言う。六爻は各々発動散布して、旁通曲達に万物の情を写尽くす。聖人は時に依りてこの六条の竜を駕御す、辔を執りて車を駕るが如く天道を統御す。雲気は流行し雨沢は布施す、天下はそこに於て均平和洽す。
君子以成德為行,日可見之行也。“潛”之為言也,隱而未見,行而未成,是以君子弗用也。君子學以聚之,問以辯之,寬以居之,仁以行之。《易》曰:“見龍在田,利見大人。”君德也。
君子は已に成就したるの徳性を以て行事の根本と為す、あれは毎日に看見すべきの実行。所謂「潜」とは、徳は已に具わりて而して仍り隠蔵して未だ顕れず、行は已に発して而して尚未だ成就せざるを言う、それゆえ初九のこの一爻に於ては、君子は暫且施用せず。九二に至りては、君子は勤学に靠りて以て見聞を積聚し、請教に靠りて以て是非を辨明し、寛宏の胸襟を用いて其中に安処し、仁愛の心腸を用いて実行に付す。『周易』は「竜は已に田野の上に出現す、大人を見るに利あり」と言う、講ずる所は正に人君の応有すべきの徳性。
九三重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危“無咎”矣。九四重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故“或”之,或之者,疑之也。故“無咎”。
九三は内卦乾の終点に処りて上は外卦乾の起点に接す、両乾は相重なり、それゆえ「重剛」と言う。それはまた二・五の中位に在らず、上に往けば九五の「天」に及ばず、下に往けば已に九二の「田」を離れ、進退は皆倚靠する所なし、それゆえ只だ能く終日勤め励み時勢に随いて警惕するのみ、この如くすれば危地に処するも過错あらざらん。九四も同じく是れ重剛にして而して中に居らず、上は九五の天位に到らず、下は九二の田位に在らず、一卦の中に居ると雖も又た当たらず三爻の人位に、それゆえ爻辞は一箇の「或」の字を用いる。「或」はすなわち遅疑審慎・観望して時を待つの意、ただそれがこの如くするをこそ初めて災禍あらざらん。
夫“大人”者,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶。先天而天弗違,後天而奉天時,天且弗違,而況於人乎!況於鬼神乎!
言う所の「大人」とは、九五のこのような聖明徳備の人を指す:彼の徳性は天地と相合し、彼の光明は日月と相合し、彼の施為は四時の次序と相合し、彼の断ずる所の吉凶は鬼神の屈伸変化の道理と相合す。彼は天時に先んじて動きて、上天もまた彼に違背せず。天時に後れて動けば、彼は便ち上天の時令を奉行す。上天すら尚且つ彼に違背せざるに、いわんや人をや。いわんや鬼神をや。
“亢”之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪,其唯聖人乎!知進退存亡而不失其正者,其唯聖人乎!
所謂「亢」とは、すなわち只だ前進を知りて而して退守を知らず、只だ保全を知りて而して喪亡有るを知らず、只だ獲取を知りて而して喪失有るを知らず——このような人は何処に聖人と称し得んや(王粛の伝する所の本は此の句は正に「其唯愚人乎」と作り、下句の聖人と相対して文を成す)。真に能く進退存亡の分際を明白にして而して始終にその正を失わざるは、ほぼただ聖人のみか。
『文言伝』・坤卦
坤至柔而動也剛,至靜而德方,後得主而有常,含萬物而化光。坤道其順乎,承天而時行。
『坤』は六爻純陰、柔順なること極点に到れり、然るも一旦陽に感じて動けば却って剛勁有力。それは静定なること極点に到りて、而して得る所の品德は是れ方正——古人は圓を以て天体の運行を説き、方を以て大地の静止を説く、この「方」は正に卦辞の裡の「貞」に対す。卦辞は「先迷後得主」と言う、『文言』は申説して人に随いて後にしてその主を得ると為し、因りて常久不変の法則有り。それは万物を涵容して而して化育の功は広大にして辺際なし。坤道はほぼ一箇の「順」の字か:上天の施与を承奉して、時序に随いて運行す。
積善之家必有餘慶,積不善之家必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣。由辯之不早辯也。《易》曰:“履霜,堅冰至。”蓋言順也。
善行を累積するの人家は、必ず子孫に余多の福慶を留下せん。悪行を累積するの人家は、必ず子孫に余多の禍殃を留下せん。臣子が国君を殺害し兒子が父親を殺害するは、決して一朝一夕のあいだに突然に発生するに非ず、それの由来は一点一点の積漸して成る、只だ当に辨察すべきの時に及ばずして及早に辨察せざるのみ。『周易』『坤』卦の初六の爻辞は「脚下に霜を踏み到れば、すなわち応に堅氷を結ぶの日子の将に来たらんとするを知るべし」と言う、講ずる所は正にこの種の微より著に至り勢に順い相因するの道理。
“直”其正也,“方”其義也。君子敬以直內,義以方外,敬義立而德不孤。“直方大,不習無不利。”則不疑其所行也。
『坤』卦の六二の爻辞の裡の「直」は、説く所は内心の中正。「方」は、説く所は行事の得宜。君子は「敬」を用いて以て自己の内心を端直にし、「義」を用いて以て自己の外在挙止を方正にす。敬と義とが一旦立定すれば、徳性は自然に日益に盛大にして而して孤単ならざらん。爻辞は「正直・方正・宏大、刻意に演習せずとも亦た利あらざる所なし」と言う、正にこのような人は自己の行う所の道路に対して更に半点の疑惑なきに因る。
陰雖有美,“含”之以從王事,弗敢成也。地道也,妻道也,臣道也。地道“無成”而代“有終”也。
『坤』卦の六三は陰柔を以て陽位に居り、章美を含有すると雖も、却ってそれを含蔵して、用いて君王に追随して事を弁し、敢えて成功を自己の名下に帰せず。これすなわち大地の法則・妻子の法則・臣子の法則。地道は自ら成功の名を居らず、只だ天に代わりて承擔して、事情を為して終了に到らしむるのみ。
天地變化,草木蕃,天地閉,賢人隱。《易》曰:“括囊,無咎無譽。”蓋言謹也。君子“黃”中通理,正位居體,美在其中,而暢於四支,發於事業,美之至也!
天地の気は交通変化すれば、草木は便ち繁茂生長す。天地の気は閉塞して交わらざれば、賢人は便ち隠退藏身す。『周易』『坤』卦の六四の爻辞は「口袋を扎緊するが如く緘黙して自守せば、既に過错あらず、また称誉有らざらん」と言う、講ずる所は正に慎密にして軽発せざるの道理。六五に至りては、君子は「黄」のこのような居中の徳を懐いて而して文理に通达す——五行は土を以て中に居り、土色は黄と為る、それゆえ黄はすなわち中色——彼は身は正位に居りて而してその体に安処し、美徳は裡面に蕴含して、四肢百体に畅達し、発用して一番の事業と為る、これをこそ美の極処に到るの境界と為す。
陰疑於陽必戰,為其嫌於無陽也。故稱“龍”焉猶未離其類也,故稱“血”焉。夫“玄黃”者,天地之雜也,天玄而地黃。
『坤』卦の上六は、陰気の凝聚壮盛して陽と相匹敵するに到れば、必ず陽と交戦せんと要す。正に人々が此処には已に陽なしと疑心するがゆえに、それゆえ爻辞は特に意を以てそれを称して「竜」と作す。然るもそれは畢竟にまだ陰の類属を脱離せず、それゆえまたそれを称して「血」と作す。爻辞の言う所の「玄黄」に至りては、是れ天地二色の相雑:天色は玄黑、地色は土黄——これ正に陰陽相遇交戦して両敗倶傷の景象。
『説卦伝』
昔者聖人之作《易》也,幽贊於神明而生著,參天兩地而倚數,觀變於陰陽而立卦,發揮於剛柔而生爻,和順於道德,而理於義,窮理盡性,以至於命。
従前聖人は『周易』を創作し、深深として神妙莫测の天地造化に祈求し、因りて揲蓍占筮の法を創立す。「参天両地」を取る——天数は三・地数は二のこの両箇の各自兼ねて陰陽を含むの最小の生数——以て数を立るの依憑と為す。老陰老陽・少陰少陽の変化を観察して而して卦体を確立す。剛画柔画の往復を推動して而して爻位を生出す。この部の書は天道と所得の徳とに和順し、事物の宜する所に条理し、万物の理を窮究し万物の性を窮尽し、一直に上達して天命に至る。
昔者聖人之作《易》也,將以順性命之理,是以立天之道曰陰與陽,立地之道曰柔與剛,立人之道曰仁與義。兼三才而兩之,故《易》六畫而成卦。分陰分陽,迭用剛柔,故《易》六位而成章。
従前聖人は『周易』を創作するは、是れ要するに性と命との道理に順応せんとす、それゆえ天の法則を確立して之を「陰」と「陽」と言う、あれは天の気に就きて言う。地の法則を確立して之を「柔」と「剛」と言う、あれは地の質に就きて言う。人の法則を確立して之を「仁」と「義」と言う、あれは人の徳に就きて言う。天・地・人の三才を兼備して而して再び各々一層を重畳す、それゆえ『周易』は六画を要して初めて一卦を成す。六位の中にはまた陰位と陽位とを分出し、交替して剛画と柔画とを使用す、それゆえ『周易』の六箇の爻位は剛柔雑居して而して文彩を成就す。
天地定位,山澤通氣,雷風相薄,水火不相射,八卦相錯。數往者順,知來者逆,是故《易》逆數也。
乾天は上に在り坤地は下に在り、尊卑の位は確定せり。艮山と兌沢との気息は互相流通し、震雷と巽風とは互相迫近激盪し、坎水と離火とは并せて相厭い相滅せず、八卦はこの如く両両交錯排列す。数を用いて已往の事を推算するは順に走る、往事は簡より繁に至り一より千万に至る、その勢は順を為す。未来の事を預知せんと要するは却って逆に走る、万有一千五百二十の策より倒推して九・八・七・六の数に回るを須い、多より少に至る、その勢は逆を為す。正に此の如くなるに因りて、『周易』の用うる所は逆推の数。
雷以動之,風以散之,雨以潤之,日以烜之,艮以止之,兌以說之,乾以君之,坤以藏之。
震雷は用いて万物を鼓動す、一声の春雷にして而して百虫は驚き起こる。巽風は用いて万物を吹散す、生気を四方に布散す。坎雨は用いて万物を滋潤す。離日は用いて万物を晒乾す、「烜」はすなわち之を乾燥せしむるなり。艮山は用いて万物を止住す。兌沢は用いて万物を悦懌せしむ、「説」は「悦」に通ず。乾天は用いて万物を統領主宰す。坤地は用いて万物を包蔵畜養す。
帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。
生化を主宰するの天帝は、震卦の居る所の東方より発動して出で、巽卦の居る所の東南に到りて斉整一斉と為り、離卦の居る所の南方に於て彼此顕現し、坤卦のあそこに到りて養育の事に致力し、兌卦のあそこに於て欣悦歓説し、乾卦のあそこに到りて陰陽交接して相迫り、坎卦のあそこに於て労倦して而して蔵に帰りて休息し、最後に艮卦のあそこに到りて成就終結して而又新たの始を開啓す。
萬物出乎震。震,東方也。齊乎巽。巽,東南也。齊也者言萬物之絜齊也。離也者,明也。萬物皆相見,南方之卦也。聖人南面而聽天下,嚮明而治,蓋取諸此也。
万物は震卦より生発して出ず、震是れ東方の卦、春雷の震動して而して生機萌起するを象す。万物は巽卦の裡に於て長るること斉整たり、巽是れ東南の卦。所謂「斉」とは、万物が此に到りて斉整一斉を修すを言う——「絜」はもとより縄子を用いて囲量するを指し、引申して修整と為す。離は、すなわち光明。万物は此に到りて皆彼此顕現す、それ是れ南方の卦。古代は北に坐して南に向かうを以て尊位と為し、聖人は南方に面向して而して天下を聴治し、光明の方向に朝着して治理を施行す、ほぼ是れこの一卦に取法するなり。
坤也者,地也,萬物皆致養焉,故曰致役乎坤。兌,正秋也,萬物之所說也,故曰說言乎兌。戰乎乾。乾,西北之卦也,言陰陽相薄也。坎者,水也。正北方之卦也,勞卦也,萬物之所歸也,故曰勞乎坎。艮,東北之卦也,萬物之所成終。而所成始也。故曰成言乎艮。
坤は、すなわち大地、万物は皆ここに於て養育を得、それゆえ「致役乎坤」と言う——「役」は従事、養育の功に致力するを指す。兌は正秋の時に当たり、万物は成熟す、是れ万物の欣悦するの時節、それゆえ「説言乎兌」と言う。「戦乎乾」に至りては、乾是れ西北方の卦、位は秋冬の交に当たる、説く所は陰気と陽気とがここに於て迫近相接す。坎は、すなわち水、是れ正北方の卦、是れ労倦の卦、万物は此に到りて皆蔵に帰りて休息す、それゆえ「労乎坎」と言う。艮是れ東北方の卦、位は丑寅のあいだに当たる、丑は旧歳の末・寅は新歳の初、万物はここに於て終結を完成し、またここに於て生発を開始す、それゆえ「成言乎艮」と言う。
神也者,妙萬物而為言者也。動萬物者,莫疾乎雷;橈萬物者,莫疾乎風;燥萬物者,莫煥乎火;說萬物者,莫說乎澤;潤萬物者,莫潤乎水;終萬物始萬物者,莫盛乎艮。故水火不相逮,雷風不相悖,山澤通氣,然後能變化,即成萬物也。
所謂「神」は、造化が万物を生成するの神妙不測に就きて立てたるの名。万物を鼓動するは、雷より迅疾なるはなし。万物を吹拂散布するは、風より迅疾なるはなし。万物を乾燥せしむるは、火より熾盛なるはなし。万物を欣悦せしむるは、沢より能く取悦するはなし。万物を滋潤するは、水より潤沢なるはなし。万物を終結せしめ而又万物を開始せしむるは、艮山より能く成就するはなし。それゆえ水と火とは性は相反すると雖も気息は互相追及し、雷と風とは勢は相激すると雖も而して并せて彼此違逆せず、山と沢とは気息相通ず、この如くして陰陽往来交錯して、然る後に初めて能く変化を生出し、能く万物を成就す。
乾,健也;坤,順也;震,動也;巽,入也;坎,陷也;離,麗也;艮,止也;兌,說也。
八卦の各自の徳性に就きて言えば:乾是れ剛健不息、坤是れ柔順承載、震是れ奮起して動く、巽是れ深入無間、坎是れ陽は両陰の中に陥りて而して険陥を成し、離是れ陰は両陽のあいだに依附して而して附麗を成す、艮是れ静止不行、兌是れ欣悦和説。
乾為馬,坤為牛,震為龍,巽為雞,坎為豕,離為雉,艮為狗,兌為澤。
八卦の取る所の動物の象に就きて言えば:乾は健行已まず、それゆえ象を馬と為す。坤は柔順にして任重し、それゆえ象を牛と為す。震は奮動して而して変化す、それゆえ象を竜と為す。巽は伏して而して時を知る、それゆえ象を鶏と為す。坎は水と為りて而して猪性は水を喜ぶ、それゆえ象を豕と為す。離は文明と為る、それゆえ象を羽毛斑斕の野鶏と為す。艮は止守を主とす、それゆえ象を狗と為す。兌は此に本は「兌為羊」と作る、今の伝本は誤写して沢と為れり。
乾為首,坤為腹,震為足,巽不股,坎為耳,離為目,艮為手,兌為口。
八卦の取る所の人身の象に就きて言えば:乾は上に居りて尊し、それゆえ頭と為る。坤は能く容蔵す、それゆえ腹と為る、『素問』は腹は至陰の居る所の処と言う。震は動を主とす、それゆえ足と為る。巽は大腿と為る、此処の「不」は当に「為」と作るべし。坎は耳と為り、離は目と為る、『淮南子』は「耳目、日月也」と言う。艮は止取を主とす、それゆえ手と為る。兌は言説を主とす、それゆえ口と為る。
乾,天也,故稱乎父;坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男,巽一索而得女,故謂之長女;
乾は天、それゆえ一家の中に於ては父と称す。坤は地、それゆえ母と称す。乾坤は交互に求索して而して六子を生ず:坤は乾に向かいて第一次の求索して而して陽爻を得て震を成す、それゆえ震は之を長男と言う。乾は坤に向かいて第一次の求索して而して陰爻を得て巽を成す、それゆえ巽は之を長女と言う。
坎再索而得男,故謂之中男,巽一索而得女,故謂之長女;坎索而得男,故謂之中男;離再索而得女,故謂之中女;艮三索而得男,故謂之少男;兌三索而得女,故謂之少女。
第二次の求索して而して陽爻を得て坎を成す、それゆえ坎は之を中男と言う。第二次の求索して而して陰爻を得て離を成す、それゆえ離は之を中女と言う。第三次の求索して而して陽爻を得て艮を成す、それゆえ艮は之を少男と言う。第三次の求索して而して陰爻を得て兌を成す、それゆえ兌は之を少女と言う。八卦の父母六子の名は此に由りて定まる。(今の伝本は此の段の文字に重出訛奪有り、「巽一索而得女」「坎再索而得男」の両句は復見す、当に震巽を長・坎離を中・艮兌を少と為すの次第を以て正と為すべし。)
説卦伝・広八卦の象
乾為天,為圜,為君,為父,為玉,為金;為寒,為冰;為大赤;為良馬,為老馬,為瘠馬,為駁馬;為木果。
『説卦伝』の此の章は八卦の取る所の物象を広く列す。「乾」は天と為り、円と為る——「圜」はすなわち円、天体は渾円にして而して運転不息。君主と為り父と為る。玉と為り金と為る、玉と金とは皆質地剛潔。乾位は西北に居り時は厳冬に当たる、故に寒と為り氷と為る。その色は日の如し、故に大赤と為る、すなわち朝会の用うる所の赤色の旗。馬類に於ては、良馬・老馬・瘦馬と毛色駁雑の馬と為る。草木に於ては、樹上の果実と為る。これらの物象は皆乾徳の純剛不息の義を取る:諸馬はその健行不已を取り、木果は一歳の生意の開端、正に乾の万物の資始する所と為るが如し。
坤為地,為母,為布;為釜;為吝嗇;為均;為子母牛;為大輿;為文;為眾,為柄;其於地也為黑。
「坤」は大地と為り、母親と為り、布帛と為る(「布」もまた古代の銭幣の名、その流布広被の義を取る)。釜と為る、すなわち炊煮の鍋、能く物を容れて而して成化す。吝嗇と為る、地徳の収斂閉蔵を謂う。均平と為る、物を載するに一たび偏私なきを謂う。小牛を帯びたるの母牛と為る、その柔順にして而して能く生育するを取る。大車と為る、その任重致遠を取る。文采と為る、万物は地に雑陳して而して文を成す。衆庶と為る。柄と為る、万物は皆地を以て本と為す、器物の柄有りて執るべきが猶し。地の顔色に就きて言えば、坤は黒と為る、あれは純陰の色。
震為雷,為龍,為玄黃;為旉;為大塗;為長子;為決躁;為蒼筤竹;為萑葦;其於馬也,為善鳴,為$足,為作足,為的顙;其於稼也,為反生,其究為健,為蕃鮮。
「震」は雷と為り、竜と為り、玄黄と為る——玄是れ天の色、黄是れ地の色、震は一陽を以て地下に於て始動す、天地の色は相雑す、故に玄黄と為る。「旉」と為る、すなわち花の開きて布散す。大道と為る。長子と為る。決躁と為る、急疾奮発の貌。青嫩の竹と為り、荻と蘆葦と為る、皆その春に生じ易く長ずるを取る。馬類に於ては、嘶鳴に善きの馬・後の左蹄の白きの馬・行走する時に四足斉しく動くの馬・白額の馬と為る。庄稼に於ては、「反生」と為る、すなわち麻豆の類の甲を戴きて土を破りて反りて長じ出ずる者。震動は極処に到れば便ち転じて剛健と為る、それゆえ「其究為健」と言う、草木もまた此に由りて蕃育して而して鮮明ならん。
巽為木;為風,為長女;為繩直,為工;為白;為長;為高;為進退;為不果;為臭;其於人也,為寡髮,為廣顙,為多白眼;為近利市三位;其究為躁卦。
「巽」は木と為り、風と為り、長女と為る。縄直と為り百工と為る、木匠は墨縄を以て直を取る、故に巽は縄直・工匠の象有り。白と為る。長と為る。高と為る。進退と為る、風は行くに常なし、故に進退不定の象有り。果決ならざると為る。気味と為る。人身に於ては、頭髪稀少の人・額頭寛闊の人・眼白多きの人と為る。巽は東南に居り、「離」の日中為市の位と相近し、故に市利に近きと為る、三倍の息を得んとす。巽性は入と伏蔵とを主とす、動くこと極処に到れば則ち反りて躁動と成る、それゆえ「其究為躁卦」と言う、終竟に「震」に帰す。
坎為水,為溝瀆;為隱伏;為矯輮;為弓輪;其於人也,為加憂,為心病,為耳痛;為血卦,為赤;其於馬也,為美脊,為亟心,為下首,為薄蹄,為曳;其於輿也,為多眚;為通;為月;為盜;其於木也,為堅多心。
「坎」は水と為り、溝渠と為る。隠伏と為る、坎は一陽を以て二陰の中に陥蔵す、故に隠伏の象有り。「矯輮」と為る、弯曲せるを直に変ぜしむるを矯と言い、笔直なるを曲に変ぜしむるを輮と言う。弓と為り車輪と為る、二者は皆矯輮に由りて成る。人身に於ては、憂慮加重・心病・耳痛と為る。人身に血有るは大地に水有るが猶し、それゆえ坎は血卦と為る、その色は赤と為る。馬類に於ては、脊背健美の馬・性情急躁敏捷の馬・頭を低くするの馬・蹄甲磨薄の馬・拖曳して行き難きの馬と為る。車輿に於ては、多災多難と為る。又た通达と為り月と為り盗賊と為る。草木に於ては、木質堅硬にして而して心多きの樹と為る、棘棗の類の如し。
離為火,為日,為電;為中女;為甲冑,為戈兵;其於人也,為大腹;為乾卦;為鱉,為蟹,為蠃,為蚌,為龜;其於木也,為科上槁。
「離」は火と為り、日と為り、電と為る——離は南方に居り、南方は火に属す、日は火気の精、故に日と為り電と為る。中女と為る。鎧甲と頭盔と為り、戈矛兵器と為る、離は外は剛にして内は柔、甲冑兵器は正に外堅を以て内柔を衛護す。人身に於ては、大腹の人と為る、その中は虚にして外は包むを取る。乾燥の卦と為る、火性は能く物を燥す、故に「為乾卦」と説く。又た鼈と為り蟹と為り螺と為り蚌と為り亀と為る、皆外に甲殻を具えて而して内質柔軟の物。草木に於ては、中心空虚にして上端枯槁の樹と為る。
艮為山,為徑路,為小石;為門闕;為果蓏;為閽寺;為指;為狗,為鼠,為黔喙之屬;其於木也,為堅多節。
「艮」は山と為り、山間の小路と為り、小塊の石頭と為る。門闕と為る、すなわち宮門両旁の台観。「果蓏」と為る、木本の実を果と言い、草本の実を蓏と言う、瓜類の如し。「閽寺」と為る、すなわち宮門を守るの閽人と宮中の寺人、皆門禁を掌管するを以て職と為す。手指と為る。狗と為り鼠と為り黒嘴の猛獣の類と為る。草木に於ては、質地堅硬にして而して結節多きの樹と為る。これらの物象は皆艮の「止」の義を取る:山は止まりて而して遷らず、閽寺は人の出入を止め、狗鼠黔喙は能く守り能く噬い、多節の木はその止まる最も堅し。
兌為澤;為少女;為巫;為口舌;為毀折,為附決;其於地也,為剛滷;為妾;為羊。
「兌」は沼沢と為る。少女と為る。巫と為る、古時に能く歌舞を以て神を降すの女子を巫と言い、男子を覡と言う、巫は口舌を以て神明に通ず、それゆえ兌は巫と為る。口舌と為る。毀折と為る、兌の上一爻は断缺せり、物の毀壊折損するが如し、兌はまた西方の秋を主とし、万物は此に到りて凋落摧折す。附決と為る、兼ねて依附と決去の両義有り。土地に就きて言えば、堅硬の鹽鹼の地と為る。妾と為る、少女の位は卑下、故に妾と為る。羊と為る。兌は一陰を以て二陽の上に顕現し、その象は多く和悦にして之を外に形するの義を取る。
