Libo

四十二章経

后汉 · 迦叶摩腾、竺法兰译 · 第1巻 / 2

後漢の時代、西域から来た沙門の迦葉摩騰と竺法蘭が共に訳した。

仏家典籍

短いものは心経・金剛経・四十二章経・壇経から読み始められる。浄土は阿弥陀経・無量寿経・観経を見る。大乗の叙事と禅を見るなら、法華・維摩・楞厳・円覚・地蔵へ進む。

後漢西域沙門迦葉摩騰共法蘭譯

後漢の時代、西域から来た沙門の迦葉摩騰と竺法蘭が共に訳した。

昔漢孝明皇帝夜夢見神人,身體有金色,項有日光,飛在殿前,意中欣然,甚悅之。明日問群臣:「此為何神也?」

昔、漢の明帝が夜の夢に一人の神人を見た。身体は金色で、項の後ろには日輪のような光をたたえ、殿前を飛んでいた。明帝は心のうち喜び、いたくこれを愛した。翌日、群臣に尋ねた。「これは何の神か。」

有通人傅毅曰:「臣聞天竺有得道者,號曰佛,輕舉能飛,殆將其神也。」

古今に博通した傅毅が答えて言った。「臣が聞くところでは、天竺(古インド)に得道した者がいて、仏と号し、身は軽く飛ぶことができるそうです。おそらく陛下の御夢に現れたあの神でしょう。」

於是上悟,即遣使者張騫、羽林中郎將秦景博士弟子王遵等十二人,至大月支國寫取佛經四十二章。在第十四石函中登起立塔寺,於是道法流佈,處處修立佛寺。遠人伏化願為臣妾者,不可稱數,國內清寧,含識之類蒙恩受賴於今不絕也。

そこで皇帝は悟り、すぐに使者の張騫・羽林中郎将の秦景・博士弟子の王遵ら十二人を遣わして、大月支国へ赴き仏経四十二章を写し取らせ、第十四号の石函に収めて塔寺を建てた。ここから仏法は流布し、いたるところに仏寺が建てられた。遠方の者が帰伏して教化を受け臣と名乗ること数え切れず、国内は清平安寧となり、知覚ある生きとし生けるものすべてが恩沢に浴し、今日に至るまで絶えることがない。(底本は「張騫」とするが史実に合わない。張騫は前漢・武帝の時の人で、漢明帝より約二百年早い。後人の追述による誤りであろうが、今はそのまま写して改めない。また「在第十四石函中登起立塔寺」の一句は文義が通じず、訛脱の疑いがある。)

佛言:「辭親出家為道,名曰沙門,常行二百五十戒,為四真道行,進志清淨,成阿羅漢。阿羅漢者,能飛行變化,住壽命,動天地;次為阿那含,阿那含者,壽終魂靈上十九天,於彼得阿羅漢;次為斯陀含,斯陀含者,一上一還,即得阿羅漢;次為須陀洹,須陀洹者,七死七生,便得阿羅漢;愛欲斷者,譬如四支斷,不復用之。」

仏は言われた。「両親に別れて出家し道を修する者を沙門という。彼らは常に二百五十戒を持ち、四種の真実の道法を修し、志は精進して清浄であり、ついには阿羅漢(煩悩を断ち尽くし、二度と受生しない聖者)を成就する。阿羅漢は飛行・変化することができ、世に住する寿命を自在にし、天地を感動させることができる。その次は阿那含である。阿那含は寿命が尽きた後、神識が十九天に昇り、そこで阿羅漢を証する。その次は斯陀含である。斯陀含は一度天に生まれ、一度人間に返れば、阿羅漢を証する。その次は須陀洹である。須陀洹は七度死し七度生きて、ようやく阿羅漢を証する。愛欲を断った者は、四肢がすでに切り落とされたようなもので、もうそれを使うことはない。」

佛言:「除鬚髮,為沙門,受道法,去世資財,乞求取足,日中一食,樹下一宿,慎不再矣!使人愚弊者,愛與欲也。」

仏は言われた。「髭髪を剃り、沙門となって修道の法を受け、世間の資産財物を捨て、乞食して足りる分を得ればよい。毎日正午に一食だけを食べ、樹の下に一夜だけ住し、注意深く同じ所に二夜は住しない。人を愚昧に敗壊させるのは、まさに愛と欲である。」

佛言:「眾生以十事為善,亦以十事為惡。身三、口四、意三。身三者:殺、盜、婬;口四者:兩舌、惡罵、妄言、綺語;意三者:嫉、恚、痴,不信三尊,以邪為真。優婆塞行五事,不懈退,至十事,必得道也。」

仏は言われた。「衆生は十の事によって善を造り、またこの十の事によって悪を造る。この十は身の三・口の四・意の三に分かれる。身が造る三つは、殺生・偸盗・邪淫である。口が造る四つは、両舌(離間をそそのかすこと)・悪罵・妄言・綺語(浮華で実のない言葉)である。意が造る三つは、嫉妬・瞋恚・愚痴、すなわち三尊(仏・法・僧の三宝)を信ぜず、邪を真とすることである。在家の男居士がもし五戒を奉じて怠らず退転せず、さらにこの十の事を行えば、必ず道を得られる。」

佛言:「人有眾過,而不自悔,頓止其心,罪來歸身,猶水歸海,自成深廣矣;有惡知非,改過得善,罪日消滅,後會得道也。」

仏は言われた。「人に種々の過ちがあって自ら悔い改めず、ひたすら自分の心念を抑え止めることができなければ、罪業はその身に帰する。衆水が海に帰して自然に深く広く積もっていくようなものだ。もし悪をなしても自分の非を知り、過ちを改めて善に転じるなら、罪業は日ごとに消滅し、将来必ず道を得られる。」

佛言:「人愚吾以為不善,吾以四等慈護濟之;重以惡來者,吾重以善往,福德之氣,常在此也;害氣重殃,反在於彼。」

仏は言われた。「他人が愚昧で、私に不善の事をなしても、私は四等心(慈・悲・喜・捨という一切衆生を平等に遇する四つの心)をもって彼を護り念じ救済する。彼が重ねて悪を加えてきても、私は重ねて善をもって応える。福徳の気は常に私の方に集まり、傷害の気と重なり合う禍殃は、かえって彼自身の身に落ちる。」

有人聞佛道守大仁慈,以惡來,以善往,故來罵。佛默然不答,愍之痴冥狂愚使然。罵止,問曰:「子以禮從人,其人不納,實禮如之乎?」曰:「持歸。」「今子罵我,我亦不納,子自持歸,禍子身矣!猶響應聲,影之追形,終無免離,慎為惡也。」

ある人が、仏の行う道は大仁大慈を守り、人が悪を加えても仏は善をもって応えると聞き、わざわざ来て罵った。仏は黙して答えず、彼が痴暗・狂愚に駆り立てられてそうするのだと哀れんだ。罵り終わると、仏は彼に尋ねた。「あなたが贈り物を人に与え、その人が受け取らなければ、その贈り物はあなたに帰るのではないか。」その人は言った。「私自身に返して持ち帰ります。」仏は言われた。「今あなたが私を罵っても、私も受け取らない。あなた自身がそれを持ち帰るなら、それはあなた自身の身に禍を及ぼすことになる。これはこだまが音に応え、影が形に随うようなもので、ついに離れることができない。慎んで悪をなすな。」

佛言:「惡人害賢者,猶仰天而唾,唾不汙天,還汙己身;逆風坋人,塵不汙彼,還坋於身。賢者不可毀,禍必滅己也。」

仏は言われた。「悪人が賢者を害するのは、仰いで天に唾を吐くようなものだ。唾は天を汚せず、かえって自分の身に落ちる。また風に逆らって人に塵を飛ばすようなもので、塵は相手を汚せず、かえって自分の身にかかる。賢者は毀すことができず、禍害は必ずかえって自分を毀す。」

佛言:「夫人為道務博愛,博哀施德莫大施。守志奉道,其福甚大;覩人施道,助之歡喜,亦得福報。」

仏は言われた。「人が道を修するには、広く仁愛を行い普く哀愍を施すことに励み、種々の施与のうち仏法を布施するに勝るものはない。志を持ち正しい道を奉ずれば、福報は大きい。人が仏法を布施するのを見て、傍らから欢喜して助けることも、同じように福報を得られる。」

質曰:「彼福不當減乎?」

ある人が疑って言った。「ではもとの施者の福報は、それによって減ってしまうのではないですか。」

佛言:「猶若炬火,數千百人,各以炬來,取其火去,熟食、除冥;彼火如故,福亦如之。」

仏は言われた。「一つの炬火があって、百千の人がそれぞれ炬火を持って火を引き、火種を取って飯を炊き、暗を照らしても、もとの炬火はそれによって損なわれない。福報もまたこのようなものだ。」

佛言:「飯凡人百不如飯一善人,飯善人千不如飯持五戒者一人,飯持五戒者萬人不如飯一須陀洹,飯須陀洹百萬不如飯一斯陀含,飯斯陀含千萬不如飯一阿那含,飯阿那含一億不如飯一阿羅漢,飯阿羅漢十億不如飯辟支佛一人,飯辟支佛百億不如以三尊之教度其一世二親,教親千億不如飯一佛——學願求佛,欲濟眾生也。飯善人福最深重,凡人事天地鬼神,不如孝其親矣,二親最神也。」

仏は言われた。「百人の普通人を供養するより、一人の善人を供養するほうが勝る。千人の善人を供養するより、一人の五戒を持つ人を供養するほうが勝る。一万人の五戒を持つ人を供養するより、一人の須陀洹を供養するほうが勝る。百万の須陀洹を供養するより、一人の斯陀含を供養するほうが勝る。千万の斯陀含を供養するより、一人の阿那含を供養するほうが勝る。一億の阿那含を供養するより、一人の阿羅漢を供養するほうが勝る。十億の阿羅漢を供養するより、一人の辟支仏(師なくして自ら悟る聖者)を供養するほうが勝る。百億の辟支仏を供養するより、三宝の教法をもって今生の父母を度化するほうが勝る。千億人の父母を教化するより、一人の仏を供養するほうが勝る――仏は覚を求めて願を発し、一切衆生を救済することを志とするからだ。善人を供養して得る福が最も深く重い。普通人が天地鬼神を祭祀するより、自分の両親を孝養するほうがよい。両親こそ最も敬奉すべき神明である。」

佛言:「天下有五難:貧窮佈施難、豪貴學道難、制命不死難、得覩佛經難、生值佛世難。」

仏は言われた。「天下に五つの難しいことがある。貧しい人が布施を行うのは難しく、豪富で貴顕な人が道を学ぶのは難しく、自分の寿命を制して死なせないのは難しく、仏経を見ることができるのは難しく、仏の出世する時代に生まれるのは難しい。」

有沙門問佛:「以何緣得道?奈何知宿命?」

ある沙門が仏に問うた。「何の因縁をもって道を得られるのですか。どうすれば自分の宿世の因縁を知ることができますか。」

佛言:「道無形,知之無益,要當守志行;譬如磨鏡,垢去明存,即自見形,斷欲守空,即見道真,知宿命矣。」

仏は言われた。「道に形相はなく、ただ知解しても用はない。要は志を持し、切実に修行することだ。これは鏡を磨くようなもので、垢を去れば光明が現れ、自らの面目を照らし見る。欲望を断ち空性を守れば、道の真実を見ることができ、宿世の因縁をも知ることができる。」

佛言:「何者為善?唯行道善。何者最大?志與道合大。何者多力?忍辱最健,忍者無怨,必為人尊。何者最明?心垢除、惡行滅,內清淨無瑕;未有天地,逮於今日,十方所有,未見之萌,得無不知、無不見、無不聞,得一切智,可謂明乎。」

仏は言われた。「何を善というか。正しい道を修する者だけを善という。何を大というか。志が道と合致する者を大という。何を力というか。忍辱が最も強健であり、堪えられる者は怨恨を懐かず、必ず人に尊敬される。何を明というか。心中の垢が除かれ尽くし、悪行が滅し尽くして、内が清浄で瑕がない者。天地未生の前から今日に至るまで、十方の一切、まだ顕れていない芽生えに至るまで、知らぬことなく、見ぬことなく、聞かぬことなく、一切智を証する――これをこそ明ということができる。」

佛言:「人懷愛欲不見道,譬如濁水,以五彩投其中,致力攪之,眾人共臨水上,無能覩其影者;愛欲交錯,心中為濁,故不見道;水澄穢除,清淨無垢,即自見形。猛火著釜下,中水踴躍,以布覆上,眾生照臨,亦無覩其影者;心中本有三毒湧沸在內,五蓋覆外,終不見道;要心垢盡,乃知魂靈所從來,生死所趣向,諸佛國土、道德所在耳。」

仏は言われた。「人が愛欲を懐いていては道を見ることができない。一つの濁った水たまりに五色の顔料を投げ入れ、力いっぱい掻き混ぜ、衆人が皆その水面に身をかがめて見ても、誰も自分の影を見ることができないようなものだ。愛欲が交錯し絡み合い、心中がそれによって濁るから、道を見ることができない。水が澄み汚れが除かれ、清浄で垢なければ、自らの形貌を照らし見ることができる。また猛火が鍋の下を焼き、鍋中の水が沸騰し跳ね、上に布を蓋いていれば、衆人が身をかがめて照らしても、同じく自分の影を見ることはできない。衆生の心中にはもともと貪・瞋・痴の三毒が内で湧き、外はまた五蓋(貪欲・瞋恚・昏沈・掉悔・疑という心の性を覆い隠す五つの障り)に遮られて、終始道を見ることができない。必ず心の垢を除き尽くしてこそ、神識がどこから来て生死がどこへ往くか、および諸仏の国土と道徳の在るところを知ることができる。」

佛言:「夫為道者,譬如持炬火入冥室中,其冥即滅而明猶在,學道見諦,愚痴都滅,得無不見。」

仏は言われた。「道を修する者は、炬火を持って暗室に入るようなものだ。暗黒はたちどころに消えて光明が留まる。道を学んで真諦を見れば、愚痴はすべて滅尽し、見えないものはなくなる。」

佛言:「吾何念念道?吾何行行道?吾何言言道?吾念諦道,不忽須臾也。」

仏は言われた。「私は何を念ずるか。道を念ずる。私は何を行ずるか。道を行ずる。私は何を言うか。道を言う。私の心は真実の道を念じ、片ときも疎かにしたことがない。」

佛言:「覩天地念非常,覩山川念非常,覩萬物形體豐熾念非常;執心如此,得道疾矣。」

仏は言われた。「天地を見れば、それが恒常でないと思う。山川を見れば、それが恒常でないと思う。万物の形体が繁盛し熾烈なのを見ても、それが恒常でないと思う。心を持してこのように観ずれば、道を得るのは速い。」

佛言:「一日行,常念道、行道,遂得信根,其福無量。」

仏は言われた。「たとえ一日修行するだけでも、常に道を念じ道を行ずれば、信根を生じ、福報は無量である。」

佛言:「熟自念身中四大,名自有名都為無,吾我者寄生,生亦不久,其事如幻耳。」

仏は言われた。「自らの身の中の四大(地・水・火・風)をよく思量せよ。それぞれに名目があるが、名目の下には実は空にして有るものがない。「我」とは、ただ仮にここに寄居するもので、寄居の時も長くはない。この事は幻化のようなものである。」

佛言:「人隨情慾求華名,譬如燒香,眾人聞其香,然香以燻自燒;愚者貪流俗之名譽,不守道真,華名危己之禍,其悔在後時。」

仏は言われた。「人が情欲に随って虚名を求めるのは、香を焚くようなものだ。衆人はその香気を嗅ぐが、香は香気を放つと同時に自分を焼き尽くしている。愚人は流俗の名誉を貪求し、道の真実を守らない。虚名は自らを害する禍の根であり、悔いは必ず後からやって来る。」

佛言:「財色之於人,譬如小兒貪刀刃之蜜,甜不足一食之美,然有截舌之患也。」

仏は言われた。「財と色が人を誘惑するのは、小児が刃の上の蜜を貪って舐めるようなものだ。その甘さは一食の美味にも足りないのに、舌を断ち割く禍患がある。」

佛言:「人繫於妻子、寶宅之患,甚於牢獄、桎梏、鋃鐺。牢獄有原赦,妻子情慾雖有虎口之禍,己猶甘心投焉,其罪無赦。」

仏は言われた。「人が妻子児女・珍宝屋宅に繋がれる禍患は、牢獄・足枷手枷・鎖よりも激しい。牢獄にはまだ赦免の可能性があるが、妻子と情欲は虎口のように険しくも、人は甘んじて自らその中に投身する。このような罪は赦すことができない。」

佛言:「愛欲莫甚於色,色之為欲,其大無外。賴有一矣,假其二,普天之民,無能為道者。」

仏は言われた。「愛欲のうち色欲に勝るものはない。色の欲としては、その外に出るものがないほど大きい。幸いにこのようなものは一つしかない。もし第二のものがあれば、普天の下の人々は誰一人として道を修することができない。」

佛言:「愛欲之於人,猶執炬火逆風而行。愚者不釋炬,必有燒手之患。貪婬、恚怒、愚痴之毒,處在人身,不早以道除斯禍者,必有危殃,猶愚貪執炬,自燒其手也。」

仏は言われた。「愛欲が人に及ぼすのは、炬火を掲げて逆風を行くようなものだ。愚人は炬火を捨てることを肯んじず、必ず手を焼く禍患がある。貪淫・瞋怒・愚痴の三つの毒が人の身の中に蔵され、早く道法をもってこの禍根を除かなければ、必ず危難を招く。愚人が炬火を貪執して自分の手を焼くようなものだ。」

天神獻玉女於佛,欲以試佛意、觀佛道。佛言:「革囊眾穢,爾來何為?以可斯俗,難動六通。去!吾不用爾。」天神踰敬佛,因問道意;佛為解釋,即得須陀洹。

天神が美女を仏に献じ、これによって仏の心意を試し、仏の道行を観ようとした。仏は言われた。「汚穢を満たした一つの皮囊が、何をしに来たのか。この手管はおそらく世俗の人を動かすことはできても、六種の神通を具足する者を揺るがすことは難しい。去れ。私には用がない。」天神はこれによっていっそう仏を敬重し、修道の旨を請い教えた。仏は彼のために説き、彼はその場で須陀洹果を証した。

佛言:「夫為道者,猶木在水,尋流而行,不左觸岸,亦不右觸岸;不為人所取,不為鬼神所遮,不為洄流所住,亦不腐敗,吾保其入海矣。人為道,不為情慾所惑,不為眾邪所誑,精進無疑,吾保其得道矣。」

仏は言われた。「道を修する者は、一段の木が水中を流れに従って行くようなものだ。左に岸に触れず、右にも岸に触れず、人に取り上げられず、鬼神に遮られず、渦巻く水に困らず、腐りもしない――私はそれが終に海に流入することを保証する。人が道を修して、情欲に迷わず、種々の邪見に誑かされず、精進して疑わなければ、私は彼が終に道を得ることを保証する。」

佛告沙門:「慎無信汝意,意終不可信。慎無與色會,與色會即禍生。得阿羅漢道,乃可信汝意耳。」

仏は沙門に告げて言われた。「慎め、自分の心意を信ずるな。あなたの心意は終に頼りにならない。慎め、色欲に接するな。色欲に接すれば禍事が生ずる。阿羅漢果を証してから、ようやく自分の心意を信じることができる。」

佛告諸沙門:「慎無視女人,若見無視。慎無與言,若與言者,勅心正行,曰:『吾為沙門,處於濁世,當如蓮花不為泥所汙。老者以為母,長者以為姊,少者為妹,幼者子,敬之以禮。』意殊當諦惟觀,自頭至足自視內,彼身何有,唯盛惡露諸不淨種,以釋其意矣。」

仏は衆沙門に告げて言われた。「慎め、女人をじっと見るな。もし見ても見なかったことにせよ。慎め、彼女と語るな。万が一話すことがあれば、自分の心を誡め行いを正して言え。『我は沙門として濁世の中に処り、蓮華のように污泥に染まらぬべし』と。年長ならば母のように、少し上ならば姉のように、年少ならば妹のように、年幼ならば女のように、礼をもって敬え。心意がなお特に制し難ければ、よく審諦に観察すべし。頭から足まで自らの身内を反観し、相手のあの身体の中に何があるか――ただ膿血・汚穢など種々の不浄な物を満たしているだけだ――これをもって自分の念頭を解するのだ。」

佛言:「人為道去情慾,當如草見火,火來已卻。道人見愛欲,必當遠之。」

仏は言われた。「人が道を修するには情欲を去るべし。乾草が火に遇えば、火が来ると急いで避けるようなものだ。道を修する者が愛欲を見ても、必ず遠く避けねばならない。」

佛言:「人有患婬,情不止,踞斧刃上,以自除其陰。佛謂之曰:『若斷陰不如斷心,心為功曹,若止功曹,從者都息;邪心不止,斷陰何益?斯須即死?』」佛言:「世俗倒見,如斯痴人。」

仏は言われた。「ある人が淫欲に苦しみ、情念が止まらず、斧の刃の上に蹲って自ら性器を割こうとした。仏は彼に言われた。『あなたは性器を断つより、自分の心を断つほうがよい。心は主事の功曹のようなもので、功曹が止まれば配下も皆休む。邪心が止まなければ、性器を断って何の用があろうか。そうすればただちに命を失う。』」仏は言われた。「世俗の人は見解が顛倒しており、この痴人のようだ。」(底本は「斯須即死」の下を疑問符とするが、句読に誤りがあると疑われ、今は仏の語として連読する。)

有婬童女與彼男誓,至期不來而自悔曰:「欲吾知爾本,意以思想生,吾不思想爾,即爾而不生。」佛行道聞之,謂沙門曰:「記之!此迦葉佛偈,流在俗間。」

ある淫蕩の女がある男子と会う約束をしていたが、時になっても男子は来なかった。彼女は自ら省みて悔悟して言った。「欲よ、あなたの根本を知った。あなたは思想分別から生じるものだ。私があなたを思わなければ、あなたは生じない。」仏が道を行くときこの言葉を聞き、沙門に言われた。「記せ。これは迦葉仏の偈語で、民間に流伝しているものだ。」

佛言:「人從愛欲生憂,從憂生畏。無愛即無憂,不憂即無畏。」

仏は言われた。「人は愛欲から憂愁を生じ、憂愁から恐懼を生ずる。愛欲がなければ憂愁はなく、憂愁なければ恐懼はない。」

佛言:「人為道,譬如一人與萬人戰,被鉀、操兵、出門欲戰,意怯膽弱乃自退走,或半道還,或格鬪而死,或得大勝還國高遷。夫人能牢持其心,精銳進行,不惑於流俗狂愚之言者,欲滅惡盡,必得道矣。」

仏は言われた。「人が道を修するのは、一人が万人と戦うようなものだ。鎧を披き兵器を執って出門して迎え撃つが、ある者は意志が怯弱で胆気が衰えて自ら退き、ある者は半路で引き返し、ある者は搏闘して死に、ある者は大いに勝ち得て国に帰り高く昇る。人が自分の心をよく守り、鋭意精進し、流俗の狂妄・愚昧の言葉に迷わされなければ、欲望は消滅し悪業は除かれ尽くし、必ず道を得られる。」

有沙門夜誦經甚悲,意有悔疑,欲生思歸。佛呼沙門問之:「汝處於家將何修為?」

ある沙門が夜に経を誦し、声調がいたく悲切で、心に悔意と疑惑を生じ、還俗して家に帰ろうとした。仏は彼を呼んで問うた。「あなたは在家の時何をしていたのか。」

對曰:「恆彈琴。」佛言:「絃緩何如?」曰:「不鳴矣。」「絃急何如?」曰:「聲絕矣。」「急緩得中何如?」「諸音普悲。」佛告沙門:「學道猶然,執心調適,道可得矣。」

彼は答えた。「いつも琴を弾いていました。」仏は問うた。「弦が緩ければどうなる。」答えた。「鳴りません。」「弦があまりに張り締められればどうなる。」答えた。「音が絶えます。」「緩急が適当であればどうなる。」答えた。「種々の音がみな感動的に奏でられます。」仏は彼に告げて言われた。「道を学ぶもこのようなもので、心を適中に調えれば、道は得られる。」

佛言:「夫人為道,猶所鍛鐵漸深,棄去垢,成器必好。學道以漸深,去心垢,精進就道。暴即身疲,身疲即意惱,意惱即行退,行退即修罪。」

仏は言われた。「人が道を修するのは、鉄を鍛えるようなものだ。繰り返し鍛えて徐々に深め、雑質の垢を去れば、成り上がった器物は必ず精好である。道を学ぶも順序に従って深く進み、心中の垢を除き、精進して道に趣くべし。操り過ぎて急げば身体が疲れ、身体が疲れれば心意が煩し、心意が煩えば修行が退歩し、修行が退歩すればまた罪業を造る。」

佛言:「人為道亦苦,不為道亦苦。惟人自生至老,自老至病,自病至死,其苦無量。心惱積罪,生死不息,其苦難說。」

仏は言われた。「人は道を修しても苦しく、道を修しなくても苦しい。人は出生から衰老へ、衰老から疾病へ、疾病から死亡へと、その中の苦しみは窮尽しない。心中が煩悩し、罪業を累積し、生死が流転して止まない。その苦しみは言い尽くせない。」

佛言:「夫人離三惡道得為人難;既得為人,去女即男難;既得為男,六情完具難;六情已具,生中國難;既處中國,值奉佛道難;既奉佛道,值有道之君難,生菩薩家難;既生菩薩家,以心信三尊、值佛世難。」

仏は言われた。「人が三悪道を脱れて人と生まれるのは難しい。すでに人と生まれて、女身に生まれず男身に生まれるのは難しい。すでに男身を得て、六種の感官が無欠で具足するのは難しい。六官がすでに具足して、中国に生まれるのは難しい――仏経のいう「中国」とは仏法の流行する中心地区を指し、中華を指すのではない。すでにこのような所に身を処して、仏道に遇いこれを奉行できるのは難しい。すでに仏道を奉行して、道ある君主に遇い、仏を信ずる家に生まれるのは難しい。すでに仏を信ずる家に生まれて、心中に三宝を真に信じ、またちょうど仏の住世するに正に逢うのは、さらに難しい。」

佛問諸沙門:「人命在幾間?」對曰:「在數日間。」佛言:「子未能為道。」

仏は衆沙門に問うた。「人の生命はどれほどの時間に存在するか。」ある人が答えた。「数日の間です。」仏は言われた。「あなたはまだ道を修することを知らない。」

復問一沙門:「人命在幾間?」對曰:「在飯食間。」佛言:「子未能為道。」

仏はまた別の沙門に問うた。「人の生命はどれほどの時間に存在するか。」答えた。「一食の間の工夫です。」仏は言われた。「あなたはまだ道を修することを知らない。」

復問一沙門:「人命在幾間?」對曰:「呼吸之間。」佛言:「善哉!子可謂為道者矣。」

仏はさらに別の沙門に問うた。「人の生命はどれほどの時間に存在するか。」答えた。「一呼一吸の間です。」仏は言われた。「よいか。あなたは道を修することを知る者と言うことができる。」

佛言:「弟子去,離吾數千里,意念吾戒必得道。在吾左側,意在邪,終不得道。其實在行,近而不行,何益萬分耶!」

仏は言われた。「弟子が私から数千里離れていても、心に私の戒法を念じていれば、必ず道を得られる。もし私の身辺にいて、心の思いが邪な所に落ちていては、終に道を得られない。要は実行にある。どれほど近く寄っていても実行しなければ、何の用があろうか。」

佛言:「人為道,猶若食蜜,中邊皆甜。吾經亦爾,其義皆快,行者得道矣。」

仏は言われた。「人が道を修するのは、蜜を食べるようなものだ。中も辺も皆甘い。私の説いた経もこのようなもので、その中の義理はいたるところに畅快であり、それに従って行ずる者は道を得られる。」

佛言:「人為道,能拔愛欲之根,譬如摘懸珠,一一摘之,會有盡時。惡盡,得道也。」

仏は言われた。「人が道を修して愛欲の根を抜くのは、連なり合った珠を摘むようなものだ。一つずつ摘んでいけば、摘み尽くす時がある。悪が尽きれば、道を得る。」

佛言:「諸沙門行道,當如牛負,行深泥中,疲極,不敢左右顧,趣欲離泥,以自蘇息。沙門視情慾,甚於彼泥,直心念道可免眾苦。」

仏は言われた。「衆沙門が道を修するには、重荷を負った牛が深い泥の中を行くようにせよ。疲れ果てても左右を顧みることを敢えてせず、ただ速く泥濘を離れて一息つこうと念じる。沙門は情欲を見るに、あの泥濘を見るよりも警戒せよ。一心に道を念ずれば、衆苦を免れることができる。」

佛言:「吾視諸侯之位如過客,視金玉之寶如礫石,視㲲素之好如弊帛。」

仏は言われた。「私は諸侯の高位を見るに、行き過ぎる旅人を見るように見る。金玉珍宝を見るに、瓦礫の砕石を見るように見る。細白の綿布の華美を見るに、破れた布帛を見るように見る。」

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