中论
釈僧叡の序
仏家典籍
短いものは心経・金剛経・四十二章経・壇経から読み始められる。浄土は阿弥陀経・無量寿経・観経を見る。大乗の叙事と禅を見るなら、法華・維摩・楞厳・円覚・地蔵へ進む。
中論 巻第一
釋僧叡序
釈僧叡の序
《中論》有五百偈,龍樹菩薩之所造也。以中為名者,照其實也;以論為稱者,盡其言也。實非名不悟,故寄中以宣之;言非釋不盡,故假論以明之。其實既宣、其言既明,於菩薩之行、道場之照朗然懸解矣。夫滯惑生於倒見,三界以之而淪溺;偏悟起於厭智,耿介以之而致乖。故知大覺在乎曠照、小智纏乎隘心,照之不曠則不足以夷有無一道俗、知之不盡則未可以涉中途泯二際,道俗之不夷、二際之不泯,菩薩之憂也。是以龍樹大士,析之以中道,使惑趣之徒望玄指而一變;括之以即化,令玄悟之賓喪諮詢於朝徹。蕩蕩焉,真可謂坦夷路於沖階、敞玄門於宇內,扇慧風於陳枚、流甘露於枯悴者矣。夫百梁之搆興則鄙茅茨之仄陋,覩斯論之宏曠則知偏悟之鄙倍。幸哉此區之赤縣,忽得移靈鷲以作鎮;險陂之邊情,乃蒙流光之餘惠。而今而後,談道之賢始可與論實矣。雲天竺諸國敢預學者之流,無不翫味斯論以為喉衿,其染翰申釋者甚亦不少。今所出者,是天竺梵志名賓伽羅、秦言青目之所釋也。其人雖信解深法而辭不雅中,其中乖闕煩重者法師皆裁而裨之,於經通之理盡矣,文或左右未盡善也。《百論》治外以閑邪,斯文袪內以流滯,《大智釋論》之淵博,《十二門觀》之精詣,尋斯四者,真若日月入懷,無不朗然鑒徹矣。予翫之味之,不能釋手,遂復忘其鄙拙託悟懷於一序,並目品義題之於首。豈期能釋耶?蓋是欣自同之懷耳。
《中論》には五百首の偈があり、竜樹菩薩(菩提薩埵の略称、覚りを求め衆生をも度する人)が造ったものである。「中」を名としたのは、それが顕そうとする実相を照らし見るためであり、「論」を称としたのは、言葉を説き尽くすためである。実相は名によらなければ悟り入ることができないので、「中」を借りて宣説し、言葉は解釈によらなければ説き透ることができないので、「論」を借りて発明する。実相がすでに宣べ出され、言葉がすでに説き清められれば、菩薩の修行についても、道場におけるあの一照についても、皆朗らかに解き開かれる。滞塞した迷いは顛倒した見解から生じ、三界(欲界・色界・無色界)はこれによって沈淪する。偏頗な覚りは厭離の小智から起こり、剛直にして褊狭がゆえに偏る。ゆえに知るべきは、大覚は照らすことが開け広いところにあり、小聡明は心量の狭さに纏わるということである。照らすことが開け広くなければ、有と無・出家と在家を一条の路に平らげるに足らない。知ることが徹底しなければ、なお中道に歩み入って生死と涅槃(煩悩が止まり、もはや生死を流転しない境地)という両辺を泯ることができない。出家・在家を平らげず、両辺を泯らなければ、まさに菩薩の憂えるところである。ここにおいて竜樹大士は中道をもって剖析し、迷いに陥った人にその玄微な指し示すところを望んで一たび身を転じさせ、また「当下即是の化」をもって収摂し、すでに玄悟した人には「朝夕の間に忽然と徹悟する」の問い尋ねすらもはや問わせない。浩浩として蕩々たり、まさに平坦の路を冲虚の階へと敷き、玄門を天下に向かって開き、智慧の風を枯枝に吹かせ、甘露を枯れた人に灌ぐというべきである。百の根柱の大厦がいったん立てば、茅屋の狭陋を嫌うようになる。この論の宏闊を見れば、偏悟がいかに浅陋で倍加するかが分かる。幸いなるかな、この一片の赤県神州に、忽然として霊鷲山が移されて依止となり、険陂の辺地の心情も余光の恵みに浴した。今より後、道を談ずる賢才はともに実相を論じ合うことができる。天竺の諸国でおのれを学者の列に居すと敢えてする者は、この論を喉と衣襟のように反芻して味わわない者はなく、筆を執って釈を作る者も少なくない。いま訳出したのは、天竺の梵志で名を賓迦羅、漢言に青目という者の作った釈である。この人は深法を信解するが、文辞は雅正適中とはいえず、その中の乖失・缺漏・煩冗なところは、法師が皆裁削し補正した。経論を貫通する道理はすでにその中に尽きており、文字に或いは左右するものはあっても、なお尽善とはいえない。《百論》は外道に対治して邪説を防ぎ、この篇は内部の滞塞を清めて流通させ、《大智度論》は淵博で、《十二門論》は精詣である。この四部を尋ねれば、まさに日月が懐に入るようで、朗らかに鑑照して底まで至らないものはない。私は再三玩味して手を放せず、ここにおいて自らの鄙陋拙劣を顧みず、一点の体会をこの序に寄せ、各品の大義を巻首に標した。どうして真に解釈し尽くせることを望もうか。ただ自分が作者と心を同じくすることを歓喜するだけである。
中論觀因緣品第一(十六偈)
《中論》観因縁品第一(十六首の偈)
龍樹菩薩造梵志青目釋
竜樹菩薩が頌を造り、梵志青目が釈を作った。
姚秦三藏鳩摩羅什譯
後秦姚秦の時代の三蔵法師鳩摩羅什が翻訳した。
不生亦不滅,不常亦不斷,
生ぜず、また滅せず。恒常でもなく、断滅でもなく、
不一亦不異,不來亦不出。
単一でもなく、差異でもない。他の処から来ることもなく、他の処へ出て行くこともない。
能說是因緣,善滅諸戲論,
仏はこのような因縁を説くことができ、善く種々の戯論を熄め滅する。
我稽首禮佛,諸說中第一。
私は稽首して仏を礼敬する――一切の説法の中で、これが第一である。
問曰:何故造此論?
問う者曰く、なぜこの論を造るのか。
答曰:有人言萬物從大自在天生、有言從韋紐天生、有言從和合生、有言從時生、有言從世性生、有言從變生、有言從自然生、有言從微塵生。有如是等謬故,墮於無因、邪因、斷常等邪見,種種說我我所,不知正法。佛欲斷如是等諸邪見令知佛法故,先於聲聞法中說十二因緣,又為已習行有大心堪受深法者以大乘法說因緣相,所謂一切法不生不滅、不一不異等,畢竟空、無所有。如《般若波羅蜜》中說:佛告須菩提:「菩薩坐道場時,觀十二因緣,如虛空不可盡。」佛滅度後,後五百歲像法中,人根轉鈍、深著諸法,求十二因緣、五陰、十二入、十八界等決定相,不知佛意,但著文字,聞大乘法中說畢竟空,不知何因緣故空,即生疑見:若都畢竟空,云何分別有罪福報應等?如是則無世諦、第一義諦。取是空相而起貪著,於畢竟空中生種種過。龍樹菩薩為是等故,造此中論。
答える者曰く、ある人は万物が大自在天から生ずると言い、ある人は韋紐天から生ずると言い、ある人は種々の条件の和合から生ずると言い、ある人は時間から生ずると言い、ある人は世性(数論派の立てる根本自性)から生ずると言い、ある人は転変から生ずると言い、ある人は自然にあると言い、ある人は微塵から生ずると言う。この類の錯誤があるがゆえに、無因・邪因・断見常見などの邪見に落ち、種々に「我」と「我所」を安立して正法を知らない。仏はこの類の邪見を截断し、人に仏法を知らせるため、まず声聞法(仏説を聞いて修行する一乗)の中で十二因縁を説き、またすでに修習して心量が大きく、深い法を受け容れられる人のために、大乗法をもって因縁の相状を説いた。すなわち、一切法は生もなく滅もなく、一でもなく異でもない等々、畢竟空であって少しの自体も得るべきものがない。《般若波羅蜜》(般若はボーレーと音し、実相を洞見する智慧を指し、世間の聡明とは別物である。波羅蜜は「彼岸に到る」の意)の中に説かれるように、仏は須菩提に告げた。「菩薩が道場に坐するとき、十二因縁を観じて、虚空のように窮尽することができない。」仏が滅度した後、後五百年像法に入り、人の根器は転じて鈍くなり、深く種々の法に執着して、十二因縁・五陰・十二入・十八界の上に決定実有の相を求めようとした――(これらの一連の名目は、後文の四縁・自性・心所とともに、論書における一組の互いに咬合する分析枠組みであって、互いに無関係な語ではない。本訳は原詞のまま用い、ある条が初めて単独で論じられる時にのみ枠組み内の位置を示し、語ごとに夾注しない。)――仏の本意を知らず、ただ文字に粘着した。大乗法の中に畢竟空と説くのを聞いて、何の縁によって空なのかを知らず、疑見を生じた。もし一切が畢竟空ならば、どうして罪・福・報応を分別できるのか。こうなれば世諦と第一義諦(世俗に随って安立される真理と、空性に就いて説かれる究竟の真理)もまた無くなってしまう。この空相を取って貪着し、また畢竟空の中に種々の過失を生じる。竜樹菩薩はこのような人のためにこの《中論》を造ったのである。
「不生亦不滅,不常亦不斷,
「生ぜず、また滅せず。恒常でもなく、断滅でもなく、
不一亦不異,不來亦不出。
単一でもなく、差異でもない。他の処から来ることもなく、他の処へ出て行くこともない。
能說是因緣,善滅諸戲論,
仏はこのような因縁を説くことができ、善く種々の戯論を熄め滅する。
我稽首禮佛,諸說中第一。」
私は稽首して仏を礼敬する――一切の説法の中で、これが第一である。」
以此二偈讚佛,則已略說第一義。
この二首の偈をもって仏を讃えれば、第一義はすでに大略説き尽くされた。
問曰:諸法無量,何故但以此八事破?
問う者曰く、法は数なく多いのに、なぜこの八事だけをもって破るのか。
答曰:法雖無量,略說八事則為總破一切法。不生者,諸論師種種說生相,或謂因果一、或謂因果異、或謂因中先有果、或謂因中先無果、或謂自體生、或謂從他生、或謂共生、或謂有生、或謂無生。如是等說生相皆不然,此事後當廣說。生相決定不可得,故不生。不滅者,若無生何得有滅?以無生、無滅故,餘六事亦無。
答える者曰く、法は数ないとはいえ、大略この八事を挙げれば、すなわち一切法を総破するのである。いわゆる不生とは、各家の論師は「生」の相状について種々異なって説き、あるいは因果が一であると言い、あるいは因果が異であると言い、あるいは因の中に先に果があると言い、あるいは因の中に先に果がないと言い、あるいは自体から生ずると言い、あるいは他から生ずると言い、あるいは共に生ずると言い、あるいは生あると言い、あるいは無生だと言う。この類の生相についての説は皆当らず、後において広く説く。生の相状は決定して求めて得られないので、不生という。いわゆる不滅とは、生がなければ、どうして滅があろうか。無生・無滅がゆえに、残りの六事もまたない。
問曰:不生、不滅已總破一切法。何故復說六事?
問う者曰く、不生・不滅はすでに一切法を総破したのに、なぜさらに六事を説くのか。
答曰:為成不生不滅義故。有人不受不生不滅,而信不常不斷。若深求不常不斷,即是不生不滅。何以故?法若實有則不應無,先有今無是即為斷,若先有性是則為常,是故說不常不斷,即入不生不滅義。有人雖聞四種破諸法,猶以四門成諸法。是亦不然。若一則無緣,若異則無相續,後當種種破,是故復說不一不異。有人雖聞六種破諸法,猶以來出成諸法。來者言諸法從自在天、世性、微塵等來,出者還去至本處。復次萬物無生。何以故?世間現見故。世間眼見劫初穀不生。何以故?離劫初穀,今穀不可得。若離劫初穀有今穀者則應有生;而實不爾,是故不生。
答える者曰く、不生不滅の義理を立て固めるためである。ある人は不生不滅を受け入れないが、不常不断を信じる。深く不常不断を求めれば、それは実は不生不滅である。なぜか。法がもし実有ならば、無に変わるべきではない。先に有って今無いのは、これが断である。もし先にすでに自性があれば、これが常である。ゆえに不常不断といえば、不生不滅の義理に入る。ある人は四種をもって諸法を破るのを聞いたが、なお別の四門をもって諸法を成立させようとする。これもまた当らない。もし一ならば、条件を作る「縁」がない。もし異ならば、相続がない。後においてなお種々に破るので、さらに不一不異を説く。ある人は六種をもって諸法を破るのを聞いたが、なお「来」と「出」をもって諸法を成立させようとする。来とは、諸法が自在天・世性・微塵などの処から来ることをいう。出とは、また本来の処所に還ることをいう。さらにいえば、万物は無生である。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。劫初の穀は別に一つの「生」があるのではない。なぜか。劫初の穀を離れれば、現在の穀が得られない。もし劫初の穀を離れてなお現在の穀があれば、それこそ生があってしかるべきだが、事実はそうではない。ゆえに不生である。
問曰:若不生則應滅。
問う者曰く、もし不生ならば、それは滅すべきである。
答曰:不滅。何以故?世間現見故。世間眼見劫初穀不滅。若滅,今不應有穀;而實有穀,是故不滅。
答える者曰く、不滅である。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。劫初の穀は滅していない。もし滅したならば、今穀があるべきではない。しかし事実、穀がある。ゆえに不滅である。
問曰:若不滅則應常。
問う者曰く、もし不滅ならば、それは常であるべきである。
答曰:不常。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不常,如穀芽時種則變壞,是故不常。
答える者曰く、不常である。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は恒常でない。たとえば穀が芽生える時、種子は変わり壊れる。ゆえに不常である。
問曰:若不常則應斷。
問う者曰く、もし不常ならば、それは断であるべきである。
答曰:不斷。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不斷,如從穀有芽,是故不斷;若斷,不應相續。
答える者曰く、不断である。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は断滅しない。たとえば穀から芽がある。ゆえに不断である。もし断ならば、相続するべきではない。
問曰:若爾者,萬物是一。
問う者曰く、もしこのようであれば、万物は一である。
答曰:不一。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不一,如穀不作芽、芽不作穀。若穀作芽、芽作穀者應是一;而實不爾,是故不一。
答える者曰く、一ではない。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は一でない。たとえば穀は芽を作らず、芽は穀を作らない。もし穀がすなわち芽で、芽がすなわち穀ならば、それこそ一であってしかるべきだが、事実はそうではない。ゆえに一ではない。
問曰:若不一則應異。
問う者曰く、もし一でなければ、それは異であるべきである。
答曰:不異。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不異。若異者,何故分別穀芽、穀莖、穀葉?不說樹芽、樹莖、樹葉,是故不異。
答える者曰く、異ではない。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は異でない。もし異ならば、なぜ分かちて穀芽・穀茎・穀葉と言って、樹芽・樹茎・樹葉と言わないのか。ゆえに異ではない。
問曰:若不異,應有來。
問う者曰く、もし異でなければ、来があるべきである。
答曰:無來。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不來,如穀子中芽無所從來。若來者,芽應從餘處來,如鳥來棲樹;而實不爾,是故不來。
答える者曰く、来はない。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は別の処から来ない。たとえば穀子の中の芽に来る処はない。もし来ならば、芽は別の処所から来るべきで、鳥が飛び来たって樹に棲まうようであるべきだが、事実はそうではない。ゆえに来ない。
問曰:若不來,應有出。
問う者曰く、もし来なければ、出があるべきである。
答曰:不出。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不出。若有出,應見芽從穀出,如蛇從穴出;而實不爾,是故不出。
答える者曰く、出ない。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は内から外に出ない。もし出があれば、芽が穀の中から出るのを見るべきで、蛇が洞穴から出るようであるべきだが、事実はそうではない。ゆえに出ない。
問曰:汝雖釋不生不滅義,我欲聞造論者所說。
問う者曰く、あなたは不生不滅の義理を解釈したが、私はなお造論の人自身がどう説くかを聞きたい。
答曰:
答える者曰く、
「諸法不自生,亦不從他生,
「諸法は自ら生ぜず、また他からも生ぜず、
不共不無因,是故知無生。」
共に生ずるのでもなく、また無因に生ずるのでもない。ゆえに無生と知る。」
不自生者,萬物無有從自體生,必待眾因。復次若從自體生,則一法有二體:一謂生、二謂生者。若離餘因從自體生者,則無因無緣。又生更有生,生則無窮。自無故,他亦無。何以故?有自故有他。若不從自生,亦不從他生,共生則有二過:自生、他生故。若無因而有萬物者,是則為常。是事不然。無因則無果,若無因有果者,佈施持戒等應墮地獄、十惡五逆應當生天,以無因故。復次:
いわゆる不自生とは、万物は自体から生じ出ることがなく、必ず衆多の因を待つことをいう。さらにいえば、もし自体から生ずれば、同一の法に二つの体があることになる。一つは「生」、二つは「能生する者」である。もしその余の因を離れて、ただ自体から生ずれば、それは無因無縁である。しかも生じてなお再生せば、生は窮尽することなく尽きない。自己のこの辺になければ、他のあの辺にもない。なぜか。「自」があってこそ「他」がある。もし自から生ぜず、他からも生ぜなければ、共生は二重の過失がある。すなわち自生に堕ち、また他生に堕ちる。もし因がなくして万物があれば、それは常である。この事は当らない。因がなければ果がない。もし因なくして果があれば、布施・持戒などの善行は地獄に堕ち、十悪五逆は天に生ずるべきである。因として決定するものがないからである。さらにいえば、
「如諸法自性,不在於緣中,
「諸法の自性は、衆縁の中に在らず、
以無自性故,他性亦復無。」
自性がないがゆえに、他性もまたない。」
諸法自性不在眾緣中,但眾緣和合故得名字。自性即是自體,眾緣中無自性。自性無故不自生,自性無故他性亦無。何以故?因自性有他性,他性於他亦是自性。若破自性即破他性,是故不應從他性生。若破自性、他性,即破共義。無因則有大過,有因尚可破,何況無因!於四句中生不可得,是故不生。
諸法の自性は衆縁の中に在らず、ただ衆縁が和合するがゆえに、はじめて一つの名字を得る。自性とはすなわち自体であり、衆縁の中に自性はない。自性がないので、自から生ぜず。自性がないので、他性もまたない。なぜか。自性に依ってこそ他性があり、他性は「他」の側においてもまた実は自性である。もし自性を破れば、すなわち他性をも破るので、他性から生ずるべきではない。もし自性・他性を破れば、共生の義理もまた破れる。無因は大きな過失がある。有因すらなお破ることができるのに、いわんや無因をや。この四句の中に「生」を求めて皆得られないので、不生という。
問曰:阿毘曇人言「諸法從四緣生」,云何言不生?何謂四緣?
問う者曰く、阿毘曇(対法、仏説を分析編排して系統とした論書)の人は「諸法は四縁から生ず」というのに、どうして不生と言えるのか。四縁とは何か。
「因緣次第緣,緣緣增上緣,
「因縁・次第縁、縁縁・増上縁、
四緣生諸法,更無第五緣。」
四縁が諸法を生じ出す。さらに第五の縁はない。」
一切所有緣,皆攝在四緣,以是四緣萬物得生。因緣名一切有為法;次第緣除過去現在阿羅漢最後心心數法,餘過去現在心心數法;緣緣、增上緣一切法。
一切あるところの縁は皆この四縁の中に収まり、この四縁によって万物がはじめて生を得る。因縁とは、一切の有為法を指す。次第縁とは、過去・現在の阿羅漢(煩悩を断尽し、もはや受生しない聖者)の最後の心と心所を除いて、その余の過去・現在の心と心所は皆これである。縁縁と増上縁は、一切法に通ずる。
答曰:
答える者曰く、
「果為從緣生,為從非緣生?
「果は縁から生ずるのか、それとも非縁から生ずるのか。
是緣為有果,是緣為無果?」
この縁はすでに果があるのか、それとも果がないのか。」
若謂有果,是果為從緣生、為從非緣生?若謂有緣,是緣為有果、為無果?二俱不然。何以故?
もし果が有ると言うならば、この果は縁から生ずるか、それとも非縁から生ずるか。もし縁が有ると言うならば、この縁はすでに果が有るか、それとも果が無いか。二種とも当らない。なぜか。
「因是法生果,是法名為緣;
「この法が果を生じ出すがゆえに、この法を縁と名づける。
若是果未生,何不名非緣?」
もしこの果がまだ生ぜざれば、なぜ非縁と名づけないのか。」
諸緣無決定。何以故?若果未生,是時不名為緣;但眼見從緣生果,故名之為緣。緣成由於果,以果後、緣先故。若未有果,何得名為緣?如瓶以水土和合故有瓶生,見瓶故知水土等是瓶緣。若瓶未生時,何以不名水土等為非緣?是故果不從緣生。緣尚不生,何況非緣。復次:
種々の縁に皆決定性がない。なぜか。もし果がまだ生ぜなければ、この時は縁と名づけない。ただ眼が縁から果を生ずるのを見るがゆえに、はじめてそれを縁と名づける。縁の成立する所以は、果に依る。果は後にあり、縁は先にある。もしまだ果がなければ、何によって縁と名づけるのか。たとえば瓶は、水土が和合してこそ瓶が生じ出て、瓶を見てはじめて水土などが瓶の縁であることを知る。もし瓶がまだ生ぜない時に、なぜ水土などを非縁と名づけないのか。ゆえに果は縁から生ぜない。縁すらなお生ずることができないのに、いわんや非縁をや。さらにいえば、
「果先於緣中,有無俱不可。
「果がもし預め縁の中にあれば、有と言っても無と言っても成り立たない。
先無為誰緣,先有何用緣。」
先に無ければ、誰の縁か。先にすでに有れば、なお縁を何に用いるのか。」
緣中先非有果、非無果。若先有果,不名為緣,果先有故。若先無果,亦不名為緣,不生餘物故。
縁の中に預めあるのは果有でもなく、果無でもない。もし預め果が有れば、縁と名づけない。果がすでに先に有るからである。もし預め果が無ければ、また縁と名づけない。それは別の物を生じ出さないからである。
問曰:已總破一切因緣,今欲聞一一破諸緣。
問う者曰く、すでに一切の因縁を総破したが、今、一つ一つ種々の縁を破るのを聞きたい。
答曰:
答える者曰く、
「若果非有生,亦復非無生,
「果がもし「有」から生ぜず、「無」からも生ぜず、
亦非有無生,何得言有緣?」
また「亦有亦無」からも生ぜなければ、どうして縁有りと言えようか。」
若緣能生果,應有三種:若有、若無、若有無。如先偈中說,緣中若先有果,不應言生,以先有故。若先無果,不應言生,以先無故,亦應與非緣同故。有無亦不生者,有無名為半有半無,二俱有過。又有與無相違,無與有相違,何得一法有二相?如是三種求果生相不可得故,云何言有因緣?次第緣者:
もし縁が果を生ずることができるならば、ただ三種あるべきである。あるいは有、あるいは無、あるいは亦有亦無。前の偈に説かれたように、縁の中にもし預め果が有れば、さらに生を説くべきでない。すでに先に有るからである。もし預め果が無ければ、また生を説くべきでない。先に無ければ、すなわち非縁と同じくなるべきだからである。亦有亦無もまた生ずることができない。いわゆる有無とは、半有半無に過ぎず、両辺の過失を皆負っている。しかも有と無は互いに相違背し、無と有も互いに相違背する。同一の法がどうして二種の相を持てようか。このように三種で果の生相を求めて皆得られない。どうして因縁有りと言えようか。さらに次第縁を説く。
「果若未生時,則不應有滅,
「果がもしまだ生ぜざれば、すでに滅有るべからず。
滅法何能緣?故無次第緣。」
すでに滅した法がどうしてなお縁を作ることができようか。ゆえに次第縁はない。」
諸心心數法於三世中次第生。現在心心數法滅,與未來心作次第緣。未來法未生,與誰作次第緣?若未來法已有,即是生,何用次第緣?現在心心數法無有住時,若不住,何能為次第緣,若有住,則非有為法。何以故,一切有為法常有滅相故。若滅已,則不能與作次第緣。若言滅法猶有則是常,若常則無罪福等。若謂滅時能與作次第緣,滅時半滅半未滅,更無第三法名為滅時。又佛說:一切有為法念念滅,無一念時住。云何言現在法有欲滅未欲滅?汝謂一念中無是欲滅未欲滅,則破自法。汝阿毘曇說:有滅法、有不滅法;有欲滅法、有不欲滅法。欲滅法者,現在法將欲滅。未欲滅法者,除現在將欲滅法,餘現在法及過去未來無為法,是名不欲滅法。是故無次第緣。緣緣者:
種々の心と心所は過去・現在・未来の三世に次いで生じ起る。現在の心と心所が滅して、未来の心のために次第縁を作る。未来の法はまだ生ぜないのに、誰のために次第縁を作るのか。もし未来の法がすでに有れば、それはすでに生じたのであって、なお次第縁を何に用いるのか。現在の心と心所には停留の時がない。もし住せざれば、どうして次第縁を作ることができようか。もし住すれば、有為法ではない。なぜか。一切の有為法は常に滅の相を帯びているからである。もしすでに滅したならば、再び他のために次第縁を作ることができない。もし滅した法がなお在ると言うならば、それは常である。もし常ならば、罪福の類の事がない。もし正に滅する時に次第縁を作ることができると言うならば、滅する時は半滅半未滅であり、この外にさらに第三の「滅時」と名づく法はない。さらにいえば、仏は説かれた。一切の有為法は念々に滅し、一念の停留もないと。どうして現在法に「將に滅せんとする」と「まだ滅せんと欲しない」とがあろうか。もしあなたが一念の中にこの「將滅/未滅欲」がないと言えば、自らの法を破ることになる。あなたがた阿毘曇は言う。滅する法有り、滅せざる法有り。將に滅せんとする法有り、將に滅せんとせざる法有り、と。將に滅せんとする法とは、現在法が正に滅せんとすることを指す。將に滅せんとせざる法とは、現在正に滅せんとするものを除いて、その余の現在法および過去・未来・無為法を、皆將に滅せんとせざる法と名づける。ゆえに次第縁はない。さらに縁縁を説く。
「如諸佛所說,真實微妙法,
「諸仏の説かれたような、真実にして微細な法は、
於此無緣法,云何有緣緣?」
ここには縁すべき法がないのに、どうしてなお縁縁があろうか。」
佛說大乘諸法,若有色無色、有形無形、有漏無漏、有為無為等諸法相入於法性,一切皆空無相無緣。譬如眾流入海同為一味。實法可信,隨宜所說不可為實,是故無緣緣。增上緣者:
仏の説く大乗の諸法は、有色無色・有形無形・有漏無漏・有為無為を問わず、これらの法相は皆法性に入り、一切は空で、相もなく、所縁もない。たとえば衆流が大海に匯入して同じく一味となるようである。信ずべきはこの実法であり、随宜して説かれたものは実有とすることができない。ゆえに縁縁はない。さらに増上縁を説く。
「諸法無自性,故無有有相;
「諸法に自性がないがゆえに、「有」の相もまたない。
說有是事故,是事有不然。」
「この事有るが故に、彼の事有る」と説くも、この事は成立しない。」
經說十二因緣,是事有故是事有。此則不然。何以故?諸法從眾緣生故自無定性,自無定性故無有有相。有相無故,何得言是事有故是事有?是故無增上緣,佛隨凡夫分別有無故說。復次:
経の上に説く十二因縁は、「この事有るが故に、彼の事有る」である。これは当らない。なぜか。諸法は衆縁に随って生じ、自ら決定の性がない。自ら決定の性がなければ、「有」の相がない。有の相すらないのに、どうして「この事有るが故に、彼の事有る」と言えようか。ゆえに増上縁はない――仏はただ凡夫の有無を分別するに随ってこのように説かれただけである。さらにいえば、
「略廣因緣中,求果不可得;
「略説と広説の因縁の中に、果を求めて皆得られない。
因緣中若無,云何從緣出?」
因縁の中にもし無ければ、どうして縁の中から生じ出ることができようか。」
略者,於和合因緣中無果。廣者,於一一緣中亦無果。若略廣因緣中無果,云何言果從因緣出?復次:
いわゆる略とは、和合した因縁の中に果がないことである。いわゆる広とは、一つ一つの縁の中にも果がないことである。もし略説・広説の因縁の中に皆果がなければ、どうして果が因縁の中から出て来ると言えようか。さらにいえば、
「若謂緣無果,而從緣中出;
「もし縁の中に果がないと言いながら、しかも縁の中から生じ出るというならば、
是果何不從,非緣中而出?」
この果はなぜ非縁の中から生じ出ないのか。」
若因緣中求果不可得,何故不從非緣出?如泥中無瓶,何故不從乳中出?復次:
もし因縁の中に果を求めて得られなければ、なぜ非縁の中から生じ出ないのか。たとえば泥の中に瓶がないのに、なぜ乳の中から生じ出ないのか。さらにいえば、
「若果從緣生,是緣無自性,
「もし果が縁から生ずれば、この縁には自性がない。
從無自性生,何得從緣生?
自性のないものから生じ出て、どうして縁から生ずると算えられようか。
果不從緣生,不從非緣生,
果はすなわち縁から生ぜず、また非縁からも生ぜない。
以果無有故,緣非緣亦無。」
果それ自体がそもそも無いがゆえに、縁と非縁もまた皆ない。」
果從眾緣生,是緣無自性。若無自性則無法,無法何能生?是故果不從緣生。不從非緣生者,破緣故說非緣。實無非緣法,是故不從非緣生。若不從二生,是則無果。無果故,緣非緣亦無。
果は衆縁から生ずるが、これらの縁に自性がない。もし自性がなければすなわち法がなく、法がなければどうして生ずることができようか。ゆえに果は縁から生ぜない。いわゆる非縁から生ぜないとは、「非縁」と説くのはただ縁を破るために説くのであって、実際には非縁と名づく法がない。ゆえにまた非縁からも生ぜない。もしこの両辺から生ぜなければ、すなわち果がない。果がなければ、縁と非縁もまた皆ない。
中論觀去來品第二(二十五偈)
《中論》観去来品第二(二十五首の偈)
問曰:世間眼見三時有作:已去、未去、去時。以有作故,當知有諸法。
問う者曰く、世間は眼で見て三種の時に皆「作」がある。すなわち已去・未去・去時である。作が有るがゆえに、諸法が有ると知るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「已去無有去,未去亦無去,
「已去の中に去はなく、未去の中にも去はなく、
離已去未去,去時亦無去。」
已去と未去を離れて、去時にも去はない。」
已去無有去,已去故。若離去有去業,是事不然。未去亦無去,未有去法故。去時名半去半未去,不離已去、未去故。
已去の中に去はない。すでに去ったからである。もし「去」を離れてなお去の作業があれば、この事は当らない。未去の中にも去はない。まだ去っていない法だからである。いわゆる去時とは、半去半未去に過ぎず、已去と未去を離れない。
問曰:
問う者曰く、
「動處則有去,此中有去時,
「動作ある処に去有り。ここに正に去时有り。
非已去未去,是故去時去。」
已去でもなく、未去でもない。ゆえに去時が去るのである。」
隨有作業處,是中應有去。眼見去時中有作業、已去中作業已滅、未去中未有作業,是故當知去時有去。
およそ作業ある処には、そこに去が有るべきである。眼に見える。去時の中に作業があり、已去の中には作業がすでに滅し、未去の中にはまだ作業がない。ゆえに去時に去有ると知るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「云何於去時,而當有去法?
「どうして去時の中に、また一つの去の法があろうか。
若離於去法,去時不可得。」
もし去の法を離れれば、去時は得られない。」
去時有去法,是事不然。何以故?離去法去時不可得。若離去法有去時者,應去時中有去,如器中有果。復次:
去時の中に去の法が有ると説くのは、この事は当らない。なぜか。去の法を離れれば、去時は得られない。もし去の法を離れてなお去時があれば、それは去時の中に去を装い入れることになり、器具の中に果を装い入れるようである。さらにいえば、
「若言去時去,是人則有咎;
「もし去時が去ると言えば、この人に過失が有る。
離去有去時,去時獨去故。」
それは去を離れてなお去時有りとなり、去時が独りで去るに等しい。」
若謂已去未去中無去、去時實有去者,是人則有咎。若離去法有去時,則不相因待。何以故?若說去時有去,是則為二;而實不爾,是故不得言離去有去時。復次:
もし已去・未去の中に去はなく、ただ去時に真実に去が有ると言えば、この人に過失が有る。もし去の法を離れてなお去時があれば、二者は相因待しない。なぜか。もし去時に去が有ると言えば、それは二つの事である。しかし事実はそうではない。ゆえに去を離れてなお去時有りとは言えない。さらにいえば、
「若去時有去,則有二種去:
「もし去時の中に去があれば、二種の去が有ることになる。
一謂為去時,二謂去時去。」
一つは去時と名づけ、一つは去時が去ると名づける。」
若謂去時有去,是則有過,所謂有二去:一者因去有去時;二者去時中有去。
もし去時に去が有ると言えば、これに過失が有る。いわゆる二種の去とは、一つは去が有るがゆえに去時が有るのであり、二つは去時の中にまた去が有ることである。
問曰:若有二去,有何咎?
問う者曰く、もし二種の去が有れば、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若有二去法,則有二去者;
「もし二種の去の法が有れば、二人の去者が有ることになる。
以離於去者,去法不可得。」
去者を離れれば、去の法は得られないからである。」
若有二去法,則有二去者。何以故?因去法有去者故。一人有二去二去者,此則不然,是故去時亦無去。
もし二種の去の法が有れば、二人の去者が有ることになる。なぜか。去の法によってこそ去者が有るからである。一人なのに二種の去・二人の去者が有るとは、この事は当らない。ゆえに去時の中にも去はない。
問曰:離去者無去法,可爾。今三時中定有去者。
問う者曰く、去者を離れれば去の法がないというのは、なお可とする。今、三種の時の中に必ず去者が有る。
答曰:
答える者曰く、
「若離於去者,去法不可得;
「もし去者を離れれば、去の法は得られない。
以無去法故,何得有去者?」
去の法がないのに、どうして去者があろうか。」
若離於去者,則去法不可得。今云何於無去法中言三時定有去者?復次:
もし去者を離れれば、去の法は得られない。今どうして去の法のない中に、三種の時に必ず去者が有ると言えようか。さらにいえば、
「去者則不去,不去者不去;
「去者は去らず、不去者も去らず。
離去不去者,無第三去者。」
去者と不去者を離れて、第三の去者はない。」
無有去者。何以故?若有去者,則有二種:若去者、若不去者。若離是二,無第三去者。
去者は存在しない。なぜか。もし去者が有れば、ただ二種があるのみで、あるいは去者、あるいは不去者である。もしこの二種を離れれば、第三の去者はない。
問曰:若去者去,有何咎?
問う者曰く、もし去者が去るならば、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若言去者去,云何有此義?
「もし去者が去ると言えば、この言説はどうして成立しようか。
若離於去法,去者不可得。」
もし去の法を離れれば、去者は得られない。」
若謂定有去者用去法,是事不然。何以故?離去法,去者不可得故。若離去者定有去法,則去者能用去法;而實不爾。復次:
もし決定して去者が去の法を使用するものが有ると言えば、この事は当らない。なぜか。去の法を離れれば、去者は得られない。もし去者を離れて決定して去の法が有れば、それこそ去者が去の法を使用できると談じるに足る。しかし事実はそうではない。さらにいえば、
「若去者有去,則有二種去:
「もし去者に去が有れば、二種の去が有ることになる。
一謂去者去,二謂去法去。」
一つは去者が去るのであり、一つは去の法が去るのである。」
若言去者用去法,則有二過,於一去者中而有二去:一以去法成去者、二以去者成去法。去者成已然後用去法,是事不然。是故先三時中謂定有去者用去法,是事不然。復次:
もし去者が去の法を使用すると言えば、二重の過失が有る。一つの去者の中に二種の去が有ることになる。一つは去の法を用いて去者を成就し、二つは去者を用いて去の法を成就する。去者が先に成就して、それから後に去の法を使用するというのは、この事は当らない。ゆえに先に説いた「三種の時の中に必ず去者が有って去の法を使用する」という事は当らない。さらにいえば、もし決定して去有り、去者有るならば、最初の発動が有るべきである。しかし三種の時の中にこの発動を求めて皆得られない。なぜか。
「若謂去者去,是人則有咎,
「もし去者が去ると言えば、この人に過失が有る。
離去有去者,說去者有去。」
それは去を離れてなお去者有りとなり、去者に去有りと言うことになる。」
若人說去者能用去法,是人則有咎,離去法有去者。何以故?說去者用去法,是為先有去者後有去法。是事不然,是故三時中無有去者。復次,若決定有去、有去者,應有初發。而於三時中求發不可得。何以故?
もし人が去者が去の法を使用できると言えば、この人に過失が有る。去の法を離れてなお去者が有ることに等しいからである。なぜか。去者が去の法を使用すると言うのは、先に去者が有り、後に去の法が有ることになる。この事は当らない。ゆえに三種の時の中に去者はない。さらにいえば、もし決定して去有り、去者有れば、最初の発動が有るべきである。しかし三種の時の中にこの発動を求めて皆得られない。なぜか。
「已去中無發,未去中無發,
「已去の中に発動はなく、未去の中にも発動はなく、
去時中無發,何處當有發?」
去時の中にも発動はない。なおどこに発動があろうか。」
何以故三時中無發?
なぜ三種の時の中に皆発動がないのか。
「未發無去時,亦無有已去,
「まだ発動せざれば、去時もなく、已去もなく、
是二應有發,未去何有發?
発動はこの二処に有るべきだが、未去の中にどうして発動があろうか。
無去無未去,亦復無去時,
去もなく、未去もなく、さらに去時もなく、
一切無有發,何故而分別?」
一切に発動がないのに、なおこれらを分別して何をするのか。」
若人未發則無去時亦無已去;若有發當在二處:去時、已去中。二俱不然,未去時未有發故。未去中何有發?發無故無去,無去故無去者,何得有已去、未去、去時。
人がもしまだ発動しなければ、すなわち去時もなく、已去もない。もし発動があれば、二処に堕するべきである。去時と已去である。二処とも当らない。まだ去っていない時にはまだ発動がないからである。未去の中にどうして発動があろうか。発動がなければ去がなく、去がなければ去者もない。どうして已去・未去・去時があろうか。
問曰:若無去、無去者,應有住、住者。答曰:
問う者曰く、もし去なく去者もなければ、住有り、住者有るべきである。答える者曰く、
「去者則不住,不去者不住,
「去者は住せず、不去者も住せず。
離去不去者,何有第三住?」
去者と不去者を離れて、どうして第三の住があろうか。」
若有住、有住者,應去者住、若不去者住。若離此二,應有第三住。是事不然。去者不住,去未息故,與去相違名為住。不去者亦不住。何以故?因去法滅故有住,無去則無住。離去者不去者,更無第三住者。若有第三住者,即在去者、不去者中。以是故,不得言去者住。復次:
もし住有り住者有れば、すなわち去者が住するか、不去者が住するかであろう。もしこの二種を離れれば、第三の住が有るべきである。この事は当らない。去者は住しない。去がまだ停まらないからであり、去と相違するものを住という。不去者も住しない。なぜか。去の法が滅することによってこそ住が有り、去がなければ住もないからである。去者と不去者を離れて、さらに第三の住者はない。もし第三の住者が有れば、すなわち去者・不去者の中に堕する。これにより、去者が住するとは言えない。さらにいえば、
「去者若當住,云何有此義?
「去者がもし住すれば、この言説はどうして成立しようか。
若當離於去,去者不可得。」
もし去を離れれば、去者は得られない。」
汝謂去者住。是事不然。何以故。離去法,去者不可得。若去者在去相,云何當有住?去住相違故。復次:
あなたは去者が住すると言う。この事は当らない。なぜか。去の法を離れれば、去者は得られない。もし去者が正に去の相の中に落ちていれば、どうしてなお住があろうか。去と住は相違するものである。さらにいえば、
「去未去無住,去時亦無住,
「已去・未去の中に住はなく、去時の中にも住はなく、
所有行止法,皆同於去義。」
すべての行と止の法は、皆去と同一の道理である。」
若謂去者住,是人應在去時、已去、未去中住。三處皆無住,是故汝言去者有住,是則不然。如破去法、住法,行、止亦如是。行者,如從穀子相續至芽莖葉等。止者,穀子滅故芽莖葉滅。相續故名行,斷故名止。又如無明緣諸行乃至老死是名行,無明滅故諸行等滅是名止。
もし去者が住すると言えば、この人は去時・已去・未去の中に住するべきである。三処に皆住がない。ゆえにあなたが去者に住有りと言うのは当らない。去の法・住の法を破ったのと同じように、行と止もこのようである。いわゆる行とは、たとえば穀子から相続して芽・茎・葉などに至ることである。いわゆる止とは、穀子が滅すれば芽・茎・葉もまた滅することである。相続を行と名づけ、断えるを止と名づける。またたとえば無明が縁して諸行となり老死に至るまで、これを行と名づける。無明が滅すれば諸行などもまた滅する。これを止と名づける。
問曰:汝雖種種門破去去者、住住者,而眼見有去住。
問う者曰く、あなたは種々の門路をもって去と去者、住と住者を破ったが、眼には明明と去有り住有りと見える。
答曰:肉眼所見不可信。若實有去去者,為以一法成?為以二法成?二俱有過。何以故?
答える者曰く、肉眼の見るところは信ずべきではない。もし真実に去有り去者有れば、一つの法をもって成就したのか、それとも二つの法をもって成就したのか。二種とも過失が有る。なぜか。
「去法即去者,是事則不然;
「去の法がすなわち去者であるというのは、この事は当らない。
去法異去者,是事亦不然。」
去の法が去者と異なるというのも、この事は当らない。」
若去法、去者一,是則不然,異亦不然。
もし去の法と去者が一ならば当らず、異ならばこれも当らない。
問曰:一、異有何過?
問う者曰く、一であると異であると、それぞれどのような過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若謂於去法,即為是去者;
「もし去の法がすなわち去者だと言えば、
作者及作業,是事則為一。
作者と作業が一つの事となってしまう。
若謂於去法,有異於去者;
もし去の法が去者と異なると言えば、
離去者有去,離去有去者。」
それは去者を離れて去有り、去を離れて去者有りとなる。」
如是二俱有過。何以故?若去法即是去者,是則錯亂,破於因緣。因去有去者,因去者有去。又去名為法,去者名為人,人常法無常。若一者,則二俱應常、二俱無常。一中有如是等過。若異者則相違。未有去法應有去者,未有去者應有去法,不相因待,一法滅應一法在。異中有如是等過。復次:
このように二種とも過失が有る。なぜか。もし去の法がすなわち去者ならば、それは錯乱し、因縁を破ることになる。去によってこそ去者が有り、去者によってこそ去が有るからである。しかも去は法と名づけ、去者は人と名づける。人は常で、法は無常である。もし一ならば、二つとも常であるか、あるいは二つとも無常であるべきである。一であるとは、この類の過失が有る。もし異ならば、互いに相違背する。まだ去の法がないのにすでに去者が有るべきであり、まだ去者がないのにすでに去の法が有るべきで、彼此相因待しない。一つの法が滅しても、もう一つの法はなお在るべきである。異であるとは、この類の過失が有る。さらにいえば、
「去去者是二,若一異法成,
「去と去者の二つを、もし一または異をもって成就せんとすれば、
二門俱不成,云何當有成?」
この二門ともに成就できないのに、どうして成就を談じ得ようか。」
若去者、去法有,若以一法成、若以異法成,二俱不可得;先已說無第三法成。若謂有成,應說因緣。無去無去者,今當更說。
もし去者・去の法が有れば、一つの法をもって成就するにしても、相異なる法をもって成就するにしても、二種とも得られない。前にすでに説いたように、第三の成就の法はない。もし成就が有ると言うならば、因縁を説き出すべきである。去なく去者もないことは、今さらに説かんとする。
「因去知去者,不能用是去;
「去によってこそ去者が有ると知るが、さらにこの去を用いることはできない。
先無有去法,故無去者去。」
先にもとより去の法がなかったがゆえに、「去者が去る」はない。」
隨以何去法知去者?是去者不能用是去法。何以故?是去法未有時無有去者,亦無去時、已去、未去。如先有人、有城邑,得有所起。去法、去者則不然,去者因去法成,去法因去者成故。復次:
どの去の法をもって去者有りと知るにしても、この去者はさらにこの去の法を用いることができない。なぜか。この去の法がまだない時には、去者もなく、去時・已去・未去もないからである。たとえば先に人有り・城邑有ってこそ、興起する所がある。去の法と去者はそうではない。去者は去の法によってこそ成立し、去の法は去者によってこそ成立するからである。さらにいえば、
「因去知去者,不能用異去,
「去によってこそ去者が有ると知るが、さらに別の去を用いることはできない。
於一去者中,不得二去故。」
一つの去者の中に、二種の去は得られないからである。」
隨以何去法知去者,是去者不能用異去法。何以故?一去者中二去法不可得故。復次:
どの去の法をもって去者有りと知るにしても、この去者はさらに別の去の法を用いることができない。なぜか。一つの去者の中に二種の去の法は得られないからである。さらにいえば、
「決定有去者,不能用三去;
「決定有の去者は、三種の去を使用できない。
不決定去者,亦不用三去。
決定ならざる去者も、三種の去を使用できない。
去法定不定,去者不用三,
去の法は決定であれ決定でなくても、去者はこの三種を使用しない。
是故去去者,所去處皆無。」
ゆえに去・去者・所去の処所は、皆ない。」
決定者,名本實有,不因去法生。去法名身動。三種名未去、已去、去時。若決定有去者,離去法應有去者,不應有住,是故說決定有去者不能用三去。若去者不決定,不決定名本實無,以因去法得名去者,以無去法故不能用三去。因去法故有去者,若先無去法則無去者。云何言不決定去者用三去?如去者,去法亦如是。若先離去者決定有去法,則不因去者有去法,是故去者不能用三去法。若決定無去法,去者何所用?如是思惟觀察,去法、去者、所去處,是法皆相因待。因去法有去者,因去者有去法,因是二法則有可去處,不得言定有、不得言定無,是故決定知,三法虛妄,空無所有,但有假名,如幻如化。
いわゆる決定とは、本来実有であって、去の法によってはじめて生ずるのではないことをいう。去の法とは、身体の動作を指す。三種とは、未去・已去・去時を指す。もし決定して去者が有れば、去の法を離れてすでに去者が有るべきであり、住が有るべきではない。ゆえに決定有の去者は三種の去を使用できないという。もし去者が決定でない――いわゆる不決定とは、本来実無であって、去の法によってはじめて「去者」という名を得ることである――去の法がないがゆえに、また三種の去を使用できない。去の法によってこそ去者が有る。もし先に去の法がなければ、去者がない。どうして不決定の去者が三種の去を使用していると言えようか。去者がこのようであるように、去の法もまたこのようである。もし先に去者を離れて決定して去の法が有れば、それは去者によって去の法が有るのではない。ゆえに去者は三種の去の法を使用できない。もし決定して去の法がなければ、去者はそれを用いて何をするのか。このように思惟観察すれば、去の法・去者・所去の処所というこれらの法は皆互いに相因待する。去の法によってこそ去者が有り、去者によってこそ去の法が有り、この二法によってこそ可去の処所が有る。決定有とも言えず、決定無とも言えない。ゆえに決定して知る。この三法は虚妄で、空にして有るところなく、ただ仮名のみ、幻の如く化の如し、と。
中論觀六情品第三(八偈)
《中論》観六情品第三(八首の偈)
問曰:經中說有六情,所謂:
問う者曰く、経の中に六情有りと説く。いわゆる、
「眼耳及鼻舌、身意等六情,
「眼・耳および鼻・舌、身・意などの六情、
此眼等六情,行色等六塵。」
この眼等の六情は、色等の六塵に行ず。」
此中眼為內情、色為外塵,眼能見色,乃至意為內情、法為外塵,意能知法。
ここに眼は内情、色は外塵で、眼はよく色を見る。意は内情、法は外塵で、意はよく法を知るに至るまで同じである。
答曰:無也。何以故?
答える者曰く、ない。なぜか。
「是眼則不能,自見其己體;
「この眼は自らの本体を見ることができない。
若不能自見,云何見餘物?」
自らを見ることができなければ、どうしてその余の物を見ることができようか。」
是眼不能見自體。何以故?如燈能自照亦能照他。眼若是見相,亦應自見亦應見他。而實不爾,是故偈中說「若眼不自見,何能見餘物?」
この眼は自らの本体を見ることができない。なぜか。たとえば燈はよく自照しまた他を照らす。眼がもし真実に「見」の相ならば、よく自見しまた他を見るべきである。しかし事実はそうではない。ゆえに偈に言う。「もし眼が自見せざれば、どうしてその余の物を見ることができようか」と。
問曰:眼雖不能自見,而能見他。如火能燒他,不能自燒。
問う者曰く、眼は自見できないが、他を見ることはできる。火が他を焼くことができ、自焼できないようである。
答曰:
答える者曰く、
「火喻則不能,成於眼見法;
「火の比喩は眼が見える法を成就することはできない。
去未去去時,已總答是事。」
已去・未去・去時については、この事をすでに総答した。」
汝雖作火喻,不能成眼見法。是事〈去來品〉中已答,如已去中無去、未去中無去、去時中無去;如已燒、未燒、燒時俱無有燒,如是已見、未見、見時俱無見相。復次:
あなたは火の比喩を作ったが、眼が見える法を成就することはできない。この事は〈去来品〉の中ですでに答えた。已去の中に去なく、未去の中に去なく、去時の中に去なきが如く、同じく已焼・未焼・焼時にも皆焼なく、已見・未見・見時にも皆見の相がない。さらにいえば、
「見若未見時,則不名為見;
「見がもしなお未見の時にあれば、見と名づけない。
而言見能見,是事則不然。」
それなのに見がよく見ると言うのは、この事は当らない。」
眼未對色則不能見,爾時不名為見,因對色名為見。是故偈中說「未見時無見」,云何以見能見?復次二處俱無見法。何以故?
眼がまだ色に対していなければ見ることができず、その時は見と名づけない。色に対するがゆえに、はじめて見と名づける。ゆえに偈に「未見の時に見なし」と言う。どうして「見」によって見ることができようか。さらにいえば、二処に皆見の法がない。なぜか。
「見不能有見,非見亦不見;
「見はよく見有りとせず、非見もまた見ることができない。
若已破於見,則為破見者。」
もしすでに見を破れば、すなわち能見の者をも破る。」
見不能見,先已說過故。非見亦不見,無見相故。若無見相,云何能見?見法無故,見者亦無。何以故?若離見有見者,無眼者亦應以餘情見。若以見見,則見中有見相。見者無見相,是故偈中說「若已破於見,則為破見者。」復次:
見はよく見ることができないことは、前にすでに説いた。非見もまた見ることができない。見の相がないからである。もし見の相がなければ、どうして見ることができようか。見の法がなければ、能見の者もない。なぜか。もし見を離れてなお能見の者があれば、眼なき者もまたその余の情を用いて見ることができるはずである。もし見によって見るならば、見の中に見の相が有るべきである。能見の者には見の相がない。ゆえに偈に言う。「もしすでに見を破れば、すなわち能見の者をも破る」と。さらにいえば、
「離見不離見,見者不可得;
「見を離れても離れなくても、能見の者は得られない。
以無見者故,何有見可見?」
能見の者がないがゆえに、どうして見と可見があろうか。」
若有見,見者則不成;若無見,見者亦不成。見者無故,云何有見可見?若無見者,誰能用見法分別外色?是故偈中說「以無見者故,何有見可見?」復次:
もし見が有れば、能見の者は成立しない。もし見がなければ、能見の者も成立しない。能見の者がないのに、どうして見と可見があろうか。もし能見の者がなければ、誰が見の法を用いて外色を分別しよう。ゆえに偈に言う。「能見の者がないがゆえに、どうして見と可見があろうか」と。さらにいえば、
「見可見無故,識等四法無;
「見と可見がなければ、識等の四法もまたない。
四取等諸緣,云何當得有?」
四取等の種々の縁は、なおどうして有ることができようか。」
見、可見法無故,識、觸、受、愛四法皆無。以無愛等故,四取等十二因緣分亦無。復次:
見・可見の法がなければ、識・触・受・愛の四法も皆ない。愛等がないがゆえに、四取等の十二因縁の支分もない。さらにいえば、
「耳鼻舌身意,聲及聞者等,
「耳・鼻・舌・身・意、声および能聞の者等、
當知如是義,皆同於上說。」
これらの義理は、皆前に説いたと同じであると知るべきである。」
如見、可見法空,屬眾緣故無決定。餘耳等五情聲等五塵,當知亦同見可見法,義同故不別說。
見・可見の法が空であるが如く、衆縁に属するがゆえに決定がない。その余の耳等の五情・声等の五塵は、皆見・可見の法と同じであると知るべきである。義理が同じなので、別に説かない。
中論觀五陰品第四(九偈)
《中論》観五陰品第四(九首の偈)
問曰:經說有五陰。是事云何?
問う者曰く、経の上に五陰有りと説く。この事はどうか。
答曰:
答える者曰く、
「若離於色因,色則不可得;
「もし色の因を離れれば、色は得られない。
若當離於色,色因不可得。」
もし色を離れれば、色の因も得られない。」
色因者,如布因縷,除縷則無布,除布則無縷。布如色,縷如因。
いわゆる色の因とは、たとえば布の因は縷であるが如く、縷を除けば布がなく、布を除けば縷もない。布は色に譬え、縷は因に譬える。
問曰:若離色因有色,有何過?
問う者曰く、もし色の因を離れて色があれば、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「離色因有色,是色則無因;
「色の因を離れて色があれば、この色は無因である。
無因而有法,是事則不然。」
因なきのに法有りとは、この事は当らない。」
如離縷有布,布則無因。無因而有法,世間所無有。
縷を離れて布があれば、布は無因であるが如し。因なきのに法有りとは、世間にこの事はない。
問曰:佛法、外道法、世間法中皆有無因法。佛法有三無為,無為常故無因。外道法中虛空、時、方、神、微塵、涅槃等。世間法虛空、時、方等。是三法無處不有故名為常,常故無因。汝何以說無因法世間所無?
問う者曰く、仏法・外道法・世間法の中に皆無因の法が有る。仏法には三種の無為があり、無為は常であり、ゆえに無因である。外道法の中には虚空・時・方・神・微塵・涅槃などがある。世間法の中には虚空・時・方等がある。この三法は処に在ることがなく、ゆえに常と名づける。常であるがゆえに無因である。あなたはなぜ無因の法は世間にないと言うのか。
答曰:此無因法但有言說,思惟分別則皆無。若法從因緣有,不應言無因。若無因緣,則如我說。
答える者曰く、これらの無因の法はただ言説があるのみで、一たび思惟分別を加えれば皆ない。もし法が因縁に随って有れば、無因と説くべきではない。もし因縁がなければ、それはまさに私の説くところである。
問曰:有二種因:一者作因、二者言說因。是無因法無作因,但有言說因,令人知故。
問う者曰く、二種の因が有る。一つは作因、一つは言説因である。これらの無因の法には作因がなく、ただ言説因が有るのみで、人に知らしめるためである。
答曰:雖有言說因,是事不然。虛空如六種中破,餘事後當破。復次現事尚皆可破,何況微塵等不可見法?是故說無因法世間所無。
答える者曰く、言説因が有るとはいえ、この事はなお当らない。虚空の相は六種の中で破ったが如く、その余の事は後においてなお破る。さらにいえば、眼前の事すらなお皆破ることができるのに、いわんや微塵等の見えない法をや。ゆえに無因の法は世間にないと説く。
問曰:若離色有色因,有何過?
問う者曰く、もし色を離れて色の因があれば、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若離色有因,則是無果因;
「もし色を離れて因があれば、それは果なきの因である。
若言無果因,則無有是處。」
もし果なきの因有りと言えば、それはこの道理がない。」
若除色果但有色因者,即是無果因。
もし色という果を除いて、ただ色の因を残せば、それは果なきの因である。
問曰:若無果有因,有何咎?
問う者曰く、もし果なきのに因有れば、何の過失が有るか。
答曰:無果有因,世間所無。何以故?以果故名為因。若無果,云何名因?復次若因中無果者,物何以不從非因生?是事如〈破因緣品〉中說。是故無有無果因。復次:
答える者曰く、果なきのに因有るとは、世間にこの事はない。なぜか。果有るがゆえに因と名づける。もし果がなければ、どうして因と名づけようか。さらにいえば、もし因の中に果がなければ、事物はなぜ非因から生じ出ないのか。この事は〈破因縁品〉の中に説いたが如し。ゆえに「果なきの因」はない。さらにいえば、
「若已有色者,則不用色因;
「もしすでに色有れば、色の因を用いるに足らず。
若無有色者,亦不用色因。」
もし色無ければ、また色の因を用いるに足らず。」
二處有色因,是則不然。若先因中有色,不名為色因;若先因中無色,亦不名為色因。
二処に皆色の因有りとは、これは当らない。もし先前に因の中にすでに色有れば、色の因と名づけない。もし先前に因の中に色無ければ、また色の因と名づけない。
問曰:若二處俱不然,但有無因色,有何咎?
問う者曰く、もし二処とも当らなければ、ただ無因の色を残すのみ。何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「無因而有色,是事終不然。
「因なきのに色有りとは、この事は終に当らない。
是故有智者,不應分別色。」
ゆえに智慧有る者は、色を分別すべきではない。」
若因中有果、因中無果,此事尚不可得,何況無因有色。是故言「無因而有色,是事終不然。是故有智者,不應分別色。」分別名凡夫,以無明愛染貪著色,然後以邪見生分別戲論,說因中有果、無果等。今此中求色不可得,是故智者不應分別。復次:
因の中に果有り・因の中に果無しは、なお求めて得られないのに、いわんや因なきのに色有るをや。ゆえに説く。「因なきのに色有りとは、この事は終に当らない。ゆえに智慧有る者は、色を分別すべきではない」と。いわゆる分別とは凡夫を指す。無明・愛染のために色に貪着し、それから邪見をもって分別戯論を生じ、因の中に果有り・無し等と説く。今ここに色を求めて得られない。ゆえに智者は分別すべきではない。さらにいえば、
「若果似於因,是事則不然;
「もし果が因に相似すれば、この事は当らない。
果若不似因,是事亦不然。」
もし果が因に相似せざれば、この事もまた当らない。」
若果與因相似,是事不然,因細果麁故。因果色力等各異,如布似縷則不名布,縷多布一故。不得言因果相似。若因果不相似,是亦不然。如麻縷不成絹,麁縷無出細布,是故不得言因果不相似。二義不然,故無色、無色因。
もし果が因に相似すれば、この事は当らない。因は細く果は粗いからである。因と果は色・力などの方面において各々同じからない。もし布が縷に相似せば、布と名づけない。縷は多く布は一だからである。因果相似とは言えない。もし因果が相似せざれば、これも当らない。たとえば麻縷は絹を織り成さず、粗縷は細布を織り出さないが如し。ゆえに因果不相似とは言えない。二種の義理とも当らない。ゆえに色もなく、色の因もない。
「受陰及想陰、行陰識陰等,
「受陰および想陰・行陰・識陰等、
其餘一切法,皆同於色陰。」
その余の一切法も、皆色陰と同じである。」
四陰及一切法,亦應如是思惟破。又今造論者欲讚美空義故而說偈:
その余の四陰および一切法も、このように思惟して破るべきである。さらにいえば、いま造論の人は空の義理を讃美せんがため、また偈を説いて曰く、
「若人有問者,離空而欲答,
「もし人が来たりて問わば、空を離れて答えんと欲すれば、
是則不成答,俱同於彼疑。
これは回答を成せず、双方とも同一の疑に堕す。
若人有難問,離空說其過,
もし人が来たりて問難し、空を離れて彼の過失を説けば、
是不成難問,俱同於彼疑。」
これは問難を成せず、双方とも同一の疑に堕す。」
若人論議時各有所執,離於空義而有問答者,皆不成問答,俱亦同疑。如人言:「瓶是無常。」問者言:「何以故無常?」答言:「從無常因生故。」此不名答。何以故?因緣中亦疑,不知為常、為無常?是為同彼所疑。問者若欲說其過,不依於空而說諸法無常,則不名問難。何以故?汝因無常破我常,我亦因常破汝無常。若實無常則無業報,眼耳等諸法念念滅,亦無有分別。有如是等過,皆不成問難,同彼所疑。若依空破常者,則無有過。何以故?此人不取空相故。是故若欲問答,尚應依於空法,何況欲求離苦寂滅相者。
人が論議する時それぞれ執する所が有る。もし空の義理を離れて問有り答有れば、皆問答を成せず、双方もまた同一の疑に堕す。たとえばある人が言う。「瓶は無常である。」問う者曰く、「なぜ無常か。」答える者曰く、「無常の因から生じたからである。」これを答とは名づけない。なぜか。因縁の中にも同じく疑いが有り、それが常か無常かを知らない。これがすなわち彼の疑う所と同じである。問う者がもし彼の過失を説かんと欲して、空に依らずして諸法無常と説けば、また問難と名づけない。なぜか。あなたは無常をもって我が常を破るが、我もまた常をもってあなたの無常を破る。もし真に無常ならば、業報がなく、眼耳等の法は念々に滅し、分別もない。この類の過失が有り、皆問難を成せず、彼の疑う所と同じである。もし空に依って常を破れば、過失がない。なぜか。この人は空の相を取らないからである。ゆえに若し問答せんと欲せば、なお空法に依るべきである。いわんや苦を離れ寂滅の相を得んと欲する者をや。
中論觀六種品第五(八偈)
《中論》観六種品第五(八首の偈)
問曰:六種各有定相,有定相故則有六種。
問う者曰く、六種は各々確定の相有り。確定の相有るがゆえに、六種有り。
答曰:
答える者曰く、
「空相未有時,則無虛空法;
「空の相がまだない時には、虚空という法はない。
若先有虛空,即為是無相。」
もし先前にすでに虚空有れば、それは無相である。」
若未有虛空相先有虛空法者,虛空則無相。何以故?無色處名虛空相。色是作法無常,若色未生,未生則無滅,爾時無虛空相。因色故有無色處,無色處名虛空相。
もし虚空の相がまだなくて、先に虚空という法有れば、虚空は無相である。なぜか。色なきの処所を虚空の相と名づける。色は所作の法で、無常である。もし色がまだ生ぜなければ、未生には滅がなく、その時にもまた虚空の相がない。色有るがゆえに、はじめて無色の処所有り。無色の処所をはじめて虚空の相と名づける。
問曰:若無相有虛空,有何咎?
問う者曰く、もし相なきのに虚空有れば、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「是無相之法,一切處無有;
「この種の無相の法は、一切の処に皆ない。
於無相法中,相則無所相。」
無相の法の中には、相の往きて相する対象がない。」
若於常無常法中,求無相法不可得。如論者言,是有是無,云何知各有相?故生住滅是有為相,無生住滅是無為相。虛空若無相,則無虛空。若謂先無相、後相來相者,是亦不然。若先無相,則無法可相。何以故?
常の法の中であれ無常の法の中であれ、無相の法を求めて皆得られない。論議の人が「これは有、これは無」と言うのは、何によって各々の相が有ると知るのか。ゆえに生・住・滅は有為の相であり、無生・無住・無滅は無為の相である。虚空がもし無相ならば、虚空はない。もし先前に無相で、後に相が来たりてこれを相すると言うならば、これも当らない。もし先前に無相ならば、相すべき法がない。なぜか。
「有相無相中,相則無所住;
「有相の中にも、無相の中にも、相は住する処なし。
離有相無相,餘處亦不住。」
有相と無相を離れて、その余の処にも住すること能わず。」
如有峰有角、尾端有毛、頸下垂𩑶,是名牛相。若離是相則無牛。若無牛,是諸相無所住。是故說於無相法中相則無所相。有相中相亦不住,先有相故。如水相中火相不住,先有自相故。復次若無相中相住者,則為無因,無因名為無法而有相。相、可相、常相,因待故。離有相無相法,更無第三處可相。是故偈中說「離有相無相,餘處亦不住。」復次:
たとえば峰有り、角有り、尾端に毛有り、頸の下に垂れているあの肉有り、これを牛の相と名づける。もしこれらの相を離れれば、牛がない。もし牛がなければ、これらの相にも住する処がない。ゆえに説く。無相の法の中には、相の往きて相する対象がないと。有相の中にも相は住すること能わず。先前にすでに相有るからである。水の相の中に、火の相は住し入らないが如し。先前にすでに自らの相有るからである。さらにいえば、もし無相の中に相が住すれば、それは無因である。いわゆる無因とは、法なきのに相有ることである。相と可相は、常に互いに相因待する。有相・無相の法を離れて、さらに第三の相すべき処はない。ゆえに偈に言う。「有相と無相を離れて、その余の処にも住すること能わず」と。さらにいえば、
「相法無有故,可相法亦無;
「相の法なければ、可相の法もまたない。
可相法無故,相法亦復無。」
可相の法なければ、相の法もまたない。」
相無所住故,則無可相法;可相法無故,相法亦無。何以故?因相有可相,因可相有相,共相因待故。
相に住する処がなければ、可相の法がない。可相の法がなければ、相の法もまたない。なぜか。相によってこそ可相が有り、可相によってこそ相が有る。彼此互いに相因待する。
「是故今無相,亦無有可相;
「ゆえに今、相もなく、可相もない。
離相可相已,更亦無有物。」
相と可相を離れての後、さらに別の物はない。」
於因緣中本末推求,相、可相決定不可得。是二不可得故,一切法皆無。一切法皆攝在相、可相二法中,或相為可相、或可相為相。如火以煙為相,煙亦復以火為相。
因縁の中に本より末に推し求めれば、相と可相は決定して皆得られない。この二つが得られなければ、一切法は皆ない。一切法は皆相・可相の二法の中に収まる。あるいは相を以て可相と為し、あるいは可相を以て相と為す。火が烟を以て相と為し、烟がまた火を以て相と為すが如し。
問曰:若無有有,應當有無。
問う者曰く、もし「有」がなければ、「無」が有るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「若使無有有,云何當有無?
「もし「有」すらなければ、どうして「無」があろうか。
有無既已無,知有無者誰?」
有と無がすでに皆なければ、有無を知る者は誰か。」
凡物若自壞、若為他壞,名為無。無不自有,從有而有。是故言「若使無有有,云何當有無?」眼見耳聞尚不可得,何況無物。
およそ事物は、あるいは自ら壊れ、あるいは他に壊されて、無と名づく。無は自ら有するのでなく、有から有る。ゆえに説く。「もし「有」すらなければ、どうして「無」があろうか」と。眼見耳聞すら得られないのに、いわんや無い物をや。
問曰:以無有有故無亦無,應當有知有無者。
問う者曰く、「有」なきがゆえに「無」もなければ、有無を知る者が有るべきである。
答曰:若有知者,應在有中、應在無中?有無既破,知者亦同破。
答える者曰く、もし知る者が有れば、彼は有の中に堕するか、無の中に堕するか。有と無がすでに破られたれば、知る者もまた同じく破られる。
「是故知虛空,非有亦非無,
「ゆえに虚空は、有でもなく無でもないと知るべし。
非相非可相,餘五同虛空。」
相でもなく可相でもない。その余の五種も虚空と同じである。」
如虛空種種求相不可得,餘五種亦如是。
虚空がこのように種々に相を求めて得られないが如く、その余の五種もまたこのようである。
問曰
問う者曰く、
虛空不在初、不在後。何以先破?
虚空は最も先に在るのでもなく、最も後に在るのでもない。なぜ先にそれを破るのか。
答曰:地、水、火、風眾緣和合,故易破。識以苦樂因故知無常變異,故易破。虛空無如是相,但凡夫悕望為有,是故先破。復次虛空能持四大,四大因緣有識,是故先破根本,餘者自破。
答える者曰く、地・水・火・風は衆縁の和合であり、ゆえに破り易い。識は苦楽の因であるがゆえに、その無常変異を知ることができ、ゆえに破り易い。虚空にはこの類の相がなく、ただ凡夫がそれを有と望むのみ。ゆえに先に破る。さらにいえば、虚空はよく四大を持し、四大の因縁によってこそ識有り。ゆえに先に根本を破れば、その余は自ずから破れる。
問曰:世間人盡見諸法是有是無,汝何以獨與世間相違,言無所見?
問う者曰く、世間の人は皆諸法が是有・是無であると見るのに、あなたはなぜ独り世間と相違して、何も見えないと言うのか。
答曰:
答える者曰く、
「淺智見諸法,若有若無相,
「浅薄の智は諸法を見て、あるいは有相に堕し、あるいは無相に堕す。
是則不能見,滅見安隱法。」
このようでは、あの諸見を滅尽し安穏なる法を見ることができない。」
若人未得道,不見諸法實相,愛見因緣故種種戲論。見法生時謂之為有,取相言有;見法滅時謂之為斷,取相言無。智者見諸法生即滅無見,見諸法滅即滅有見,是故於一切法雖有所見,皆如幻如夢,乃至無漏道見尚滅,何況餘見。是故若不見滅、見安隱法者,則見有見無。
人がもしまだ道を得なければ、諸法の実相を見ることができず、愛見の因縁によって種々の戯論を生ずる。法の生ずるを見ては、それを有と言い、相を取りて有と言う。法の滅するを見ては、それを断と言い、相を取りて無と言う。智者は諸法の生ずるを見て、当下に「無」の見を滅し、諸法の滅するを見て、当下に「有」の見を滅する。ゆえに一切法について見る所有るも、皆幻の如く夢の如し。無漏道の見すらなお滅すべきに、いわんやその余の見をや。ゆえにもしあの諸見を滅尽し安穏なる法を見なければ、有を見、無を見することになる。
中論觀染染者品第六(十偈)
《中論》観染染者品第六(十首の偈)
問曰:經說貪欲、瞋恚、愚痴是世間根本。貪欲有種種名,初名愛、次名著、次名染、次名婬欲、次名貪欲,有如是等名字。此是結使,依止眾生眾生名染者,貪欲名染法。有染法、染者故,則有貪欲。餘二亦如是,有瞋則有瞋者、有痴則有痴者。以此三毒因緣起三業,三業因緣起三界,是故有一切法。
問う者曰く、経の上に貪欲・瞋恚・愚癡は世間の根本であると説く。貪欲には種々の名字が有る。初めは愛と名づけ、次には着と名づけ、次には染と名づけ、次には婬欲と名づけ、次には貪欲と名づく。この類の名字が有る。これは結使であり、衆生の身に依止する。衆生を染者と名づけ、貪欲を染法と名づける。染法有り染者有るがゆえに、貪欲有り。その余の二種もまたこのようである。瞋有れば瞋者有り、癡有れば癡者有り。この三毒の因縁によって身口意の三業を起こし、三業の因縁によって三界を起こす。ゆえに一切法有り。
答曰:經雖說有三毒名字,求實不可得。何以故?
答える者曰く、経の上に三毒の名字有りと説くも、その実を求めれば得られない。なぜか。
「若離於染法,先自有染者,
「もし染法を離れて、先前にすでに染者有れば、
因是染欲者,應生於染法;
この染欲有る人によって、染法を生ずべきである。
若無有染者,云何當有染?
もし染者なければ、どうしてなお染があろうか。
若有若無染,染者亦如是。」
染有りても染無きも、染者もまたこのようである。」
若先定有染者,則不更須染,染者先已染故。若先定無染者,亦復不應起染,要當先有染者然後起染。若先無染者,則無受染者。染法亦如是,若先離人定有染法,此則無因,云何得起?似如無薪火。若先定無染法則無有染者,是故偈中說「若有若無染,染者亦如是。」
もし先前に決定して染者有れば、さらに染を要せず。染者は先前にすでに染せりからである。もし先前に決定して染者無ければ、また染を生起すべきではない。総じて先に染者有りて、しかる後に染を起こすべきである。もし先前に染者無ければ、染を受ける人がない。染法もまたこのようである。もし先前に人を離れて決定して染法有れば、これに因がない。どうして生起できようか。柴なきの火の如し。もし先前に決定して染法無ければ、染者もない。ゆえに偈に言う。「染有りても染無きも、染者もまたこのようである」と。
問曰:若染法、染者先後相待生,是事不可得者。若一時生,有何咎?答曰:
問う者曰く、もし染法・染者が先後相待して生ずるならば、この事は得られない。もし同時に生ずれば、何の過失が有るか。答える者曰く、
「染者及染法,俱成則不然;
「染者と染法が同時に成就するのは、当らない。
染者染法俱,則無有相待。」
染者と染法がもし同時ならば、互いに因待することなし。」
若染法、染者一時成,則不相待,不因染者有染法。不因染法有染者,是二應常,已無因成故。若常則多過,無有解脫法。復次今當以一異法破染法、染者。何以故?
もし染法・染者が同時に成就すれば、相待しない。染者によって染法有るのでなく、染法によって染者有るのでもなく、この二つは常であるべきである。すでに因なきに成就すればからである。もし常ならば、過失は多く、解脱の法もない。さらにいえば、いま一と異をもって染法・染者を破らんとする。なぜか。
「染者染法一,一法雲何合?
「染者と染法がもし一ならば、一つの法はどうして合せん。
染者染法異,異法雲何合?」
染者と染法がもし異ならば、相異なる法はどうして合せん。」
染法、染者,若以一法合、若以異法合。若一則無合。何以故?一法雲何自合?如指端不能自觸。若以異法合,是亦不可。何以故?以異成故。若各成竟,不須復合,雖合猶異。復次一異俱不可。何以故?
染法・染者は、あるいは「是一」をもって合し、あるいは「是異」をもって合する。もし一ならば、合はない。なぜか。一つの法はどうして自らに合できようか。指尖が自らに触ること能わざるが如し。もし相異をもって合すれば、これも行えない。なぜか。各々すでに成就したれば、さらに合するを要せず。たとい合すとも、なお異である。さらにいえば、一と異ともに行えない。なぜか。
「若一有合者,離伴應有合;
「もし一にして合有れば、同伴を離れても合有るべし。
若異有合者,離伴亦應合。」
もし異にして合有れば、同伴を離れても合有るべし。」
若染、染者一,強名為合者,應離餘因緣而有染、染者。復次若一,亦不應有染、染者二名,染是法、染者是人。若人法為一,是則大亂。若染、染者各異而言合者,則不須餘因緣而有合。若異而合者,雖遠亦應合。
もし染と染者が一にして、強いて合と名づくれば、すなわちその余の因縁を離れて染と染者有るべきである。さらにいえば、もし一ならば、また染・染者の二つの名字が有るべきではない。染は法であり、染者は人である。もし人と法が一ならば、それは大いに乱るるである。もし染と染者が各々異なのに合と言えば、すなわちその余の因縁を要せずして合有るべきである。もし相異にして合すれば、隔たることいかに遠くとも合すべきである。
問曰:一不合,可爾;眼見異法共合。
問う者曰く、一では合能わざることはなお可とする。眼に相異なる法の共に合するを見る。
答曰:
答える者曰く、
「若異而有合,染染者何事?
「もし相異にして合有れば、染と染者はなお何事を成さん。
是二相先異,然後說合相。」
この二相は先前にすでに異なりて、しかる後に合の相を説く。」
若染、染者先有決定異相而後合者,是則不合。何以故?是二相先已異,而後強說合。復次:
もし染と染者が先前にすでに決定の異相有りて、しかる後に合すれば、これは合ではない。なぜか。この二相は先前にすでに異なりて、しかる後に強いて合と説くからである。さらにいえば、
「若染及染者,先各成異相,
「もし染および染者が、先前に各々異相を成就せば、
既已成異相,云何而言合?」
すでに異相を成就したれば、どうしてなお合を説くことができようか。」
若染、染者先各成別相,汝今何以強說合相?復次:
もし染と染者が先前に各々別別の相を成就せば、あなたは今何によって強いて合の相を説くのか。さらにいえば、
「異相無有成,是故汝欲合;
「異相は成就せざるがゆえに、あなたは合を思い、
合相竟無成,而復說異相。」
合の相は終に成就せず、それなのにまた異相を説く。」
汝已染、染者異相不成故,復說合相。合相中有過,染、染者不成。汝為成合相故,復說異相。汝自已為定,而所說不定。何以故?
あなたは染・染者の異相が成立しないがゆえに、また改めて合の相を説く。合の相の中に過失が有り、染・染者はなお成立しない。あなたは合の相を成就せんがため、また異相を説く。あなた自身はすでに確定と為したつもりでも、説く所はなお確定していない。なぜか。
「異相不成故,合相則不成;
「異相が成立せざれば、合の相は成立せず。
於何異相中,而欲說合相?」
どの種の異相の中にあって、なお合の相を説かんと欲するか。」
以此中染、染者異相不成故,合相亦不成。汝於何異相中而欲說合相?復次:
ここに染・染者の異相が成立せず、合の相も成立しないがゆえに、あなたはどの種の異相の中にあってなお合の相を説かんと欲するのか。さらにいえば、
「如是染染者,非合不合成;
「このようだから、染と染者は、合でもなく、不合でも成就できない。
諸法亦如是,非合不合成。」
諸法もまたこのようで、合でもなく、不合でも成就できない。」
如染,恚痴亦如是。如三毒,一切煩惱、一切法亦如是。非先非後、非合非散等,因緣所成。
染がこのようであるが如く、恚と癡もまたこのようである。三毒がこのようであるが如く、一切の煩悩・一切法もまたこのようである。先ではなく、後でもなく、合でもなく、散でもなく、等々、皆因縁の所成である。
中論巻第一
中論巻第二
龍樹菩薩造梵志青目釋
龍樹菩薩が頌を造り、梵志青目が釈を作す。
姚秦三藏鳩摩羅什譯
後秦・姚秦時代の三蔵法師鳩摩羅什が翻訳。
觀三相品第七(三十五偈)
観三相品第七(三十五首の偈)
問曰:經說有為法有三相:生、住、滅。萬物以生法生、以住法住、以滅法滅,是故有諸法。
問う者曰く、経の上に有為の法に三相有りと説く。生・住・滅である。万物は生の法を用いて生じ、住の法を用いて住し、滅の法を用いて滅する。ゆえに諸法有り。
答曰:不爾。何以故?三相無決定故。是三相為是有為能作有為相?為是無為能作有為相?二俱不然。何以故?
答える者曰く、そうではない。なぜか。三相に決定性がない。この三相は、有為だからこそ有為の相を作し得るのか、無為だからこそ有為の相を作し得るのか。二種とも当らない。なぜか。
「若生是有為,則應有三相;
「もし生が有為ならば、別に三相传るべきである。
若生是無為,何名有為相?」
もし生が無為ならば、どうして有為の相と名づけようか。」
若生是有為,應有三相生住滅。是事不然。何以故?共相違故。相違者,生相應生法、住相應住法、滅相應滅法。若法生時,不應有住、滅相違法。一時則不然,如明闇不俱。以是故,生不應是有為法;住、滅相亦應如是。
もし生が有為ならば、三相有るべきである。生・住・滅である。この事は当らない。なぜか。彼此相い違する。いわゆる相違とは、生相は法を生ぜしめるべきであり、住相は法を住せしめるべきであり、滅相は法を滅せしめるべきである。もし法がまさに生ずる時、同時に住・滅という相違の法が有るべきではない。同一時刻に行われざるは、明と暗が並存し得ざるが如し。これによりて、生は有為法であるべきではない。住・滅の相もまたこのように観るべきである。
問曰:若生非有為,若是無為,有何咎?
問う者曰く、もし生が有為でなく無為ならば、何の過失が有るか。
答曰:若生是無為,云何能為有為法作相。何以故?無為法無性故。因滅有為名無為,是故說不生不滅名無為相,更無自相。是故無法,不能為法作相,如兔角龜毛等不能為法作相。是故生非無為;住、滅亦如是。復次:
答える者曰く、もし生が無為ならば、どうして有為法のために相を作し得ようか。なぜか。無為法には自性がない。有為を滅したるをはじめて無為と名づくがゆえに、不生不滅を無為の相と説く。さらに自らの相がない。ゆえにそれに法がなく、法のために相を作すことができない。兎角・亀毛等が法のために相を作し得ざるが如し。ゆえに生は無為ではない。住・滅もまたこのようである。さらにいえば、
「三相若聚散,不能有所相;
「三相は聚めても散らしても、相すべきところがない。
云何於一處,一時有三相?」
どうして同一の処・同一の時刻に三相有ることができようか。」
是生、住、滅相,若一一能為有為法作相?若和合能與有為法作相?二俱不然。何以故?若謂一一者,於一處中或有有相、或有無相,生時無住、滅,住時無生、滅,滅時無生、住。若和合者,共相違法,云何一時俱?若謂三相更有三相者,是亦不然。何以故?
この生・住・滅の相は、一つ一つにして有為法のために相を作し得るのか、和合して有為法のために相を作し得るのか。二種とも当らない。なぜか。もし一つ一つと言えば、同一の処において、あるものは相有り、あるものは相無しとなる。生の時には住・滅なく、住の時には生・滅なく、滅の時には生・住ない。もし和合と言えば、彼此相い違する法がどうして同一時刻に皆在ることができようか。もし三相に別にまた三相传ると言えば、これも当らない。なぜか。
「若謂生住滅,更有有為相,
「もし生・住・滅に別にまた有為の相传ると言えば、
是即為無窮,無即非有為。」
すなわち無窮无尽となる。もしなければ、有為ではない。」
若謂生、住、滅更有有為相,生更有生、有住、有滅。如是三相,復應更有相,若爾則無窮。若更無相,是三相則不名有為法,亦不能為有為法作相。
もし生・住・滅に別にまた有為の相传ると言えば、生はさらに生有り・住有り・滅有るべきである。これによれば三相はまた別に相传るべきであり、それはすなわち無窮である。もしさらに相がなければ、この三相は有為法と名づけず、有為法のために相を作すこともできない。
問曰:汝說三相為無窮。是事不然。生、住、滅雖是有為,而非無窮。何以故?
問う者曰く、あなたは三相が無窮になると言う。この事は当らない。生・住・滅は有為といえども、無窮ではない。なぜか。
「生生之所生,生於彼本生,
「生生の生ずる所は、あの本生を生ず。
本生之所生,還生於生生。」
本生の生ずる所は、またかえってあの生生を生ず。」
法生時通自體七法共生:一法、二生、三住、四滅、五生生、六住住、七滅滅。是七法中,本生除自體,能生六法。生生能生本生,本生能生生生,是故三相雖是有為,而非無窮。
法が生ずる時、自体を連ねて都合七法がともに生ずる。一は法、二は生、三は住、四は滅、五は生生、六は住住、七は滅滅である。この七法の中、本生は自体を除いて、その余の六法を生ずることができる。生生は本生を生じることができ、本生は生生を生ずることができる。ゆえに三相は有為といえども無窮ではない。
答曰:
答える者曰く、
「若謂是生生,能生於本生;
「もしこの生生があの本生を生ずると言うならば、
生生從本生,何能生本生?」
生生は本生から来たるのに、どうして本生を生ずることができようか。」
若是生生能生本生者,是生生則不名從本生生。何以故?是生生從本生生,云何能生本生。復次:
もしこの生生が本生を生ずることができるならば、この生生は本生から生じたと名づけるべきではない。なぜか。この生生は本生から生じ出たるのに、どうして本生を生ずることができようか。さらにいえば、
「若謂是本生,能生於生生;
「もしこの本生があの生生を生ずると言うならば、
本生從彼生,何能生生生?」
本生はあの生から来たるのに、どうして生生を生ずることができようか。」
若謂本生能生生生者,是本生不名從生生生。何以故?是本生從生生生,云何能生生生?生生法應生本生。而今生生不能生本生,生生未有自體,何能生本生?是故本生不能生生生。
もし本生が生生を生ずることができると言うならば、この本生は生生から生じたと名づけるべきではない。なぜか。この本生は生生から生じ出たるのに、どうして生生を生ずることができようか。生生という法は本生を生ずべきである。しかるにいま生生は本生を生ずることができない。生生はなお自体がないのに、どうして本生を生ずることができようか。ゆえに本生もまた生生を生ずることができない。
問曰:是生生生時,非先非後能生本生,但生生生時能生本生。
問う者曰く、この生生は生ずる時、先でもなく後でもなく本生を生ずる。ただ生生がまさに生ずる時に本生を生じることができる。
答曰:不然。何以故?
答える者曰く、そうではない。なぜか。
「若生生生時,能生於本生;
「もし生生がまさに生ずる時に本生を生じることができるならば、
生生尚未有,何能生本生?」
生生はなおないのに、どうして本生を生ずることができようか。」
若謂生生生時能生本生可爾,而實未有,是故生生生時不能生本生。復次:
もし生生がまさに生ずる時に本生を生じることができると言うならば、この言は似たことはあるが、実際にはなおない。ゆえに生生がまさに生ずる時には本生を生ずることができない。さらにいえば、
「若本生生時,能生於生生;
「もし本生がまさに生ずる時に生生を生じることができるならば、
本生尚未有,何能生生生?」
本生はなおないのに、どうして生生を生ずることができようか。」
若謂是本生生時能生生生可爾,而實未有,是故本生生時不能生生生。
もし本生がまさに生ずる時に生生を生じることができると言うならば、この言は似たことはあるが、実際にはなおない。ゆえに本生がまさに生ずる時には生生を生ずることができない。
問曰:
問う者曰く、
「如燈能自照,亦能照於彼;
「燈が自らを照らすこともでき、かの所を照らすこともできるが如く、
生法亦如是,自生亦生彼。」
生の法もまたこのようで、自ら生じ、かの所をも生ず。」
如燈入於闇室,照了諸物亦能自照。生亦如是,能生於彼亦能自生。
燈が暗室に入りて、種々の物を照らして、また自らをも照らし得るが如く、生もまたこのようで、かの所を生ずることもでき、自ら生ずることもできる。
答曰:不然。何以故?
答える者曰く、そうではない。なぜか。
「燈中自無闇,住處亦無闇,
「燈の中に自ら暗なく、その在る所にも暗なく、
破闇乃名照,無闇則無照。」
暗を破るをこそ照と名づける。暗なければ照なし。」
燈體自無闇,明所及處亦無闇,明闇相違故。破闇故名照,無闇則無照,何得言燈自照亦照彼?
燈の本体には自ら暗がなく、光明の至る所にも暗がない。明と暗と相い違するがゆえである。暗を破るをこそ照と名づける。暗なければ照なし。どうして燈が自照しまたかの所を照らすと言えようか。
問曰:是燈非未生有照,亦非生已有照,但燈生時能自照亦照彼。
問う者曰く、この燈はまだ生ぜなければ照あるのでもなく、生じ了わってから照あるのでもない。ただ燈がまさに生ずる時に自照しまたかの所を照らすことができる。
答曰:
答える者曰く、
「云何燈生時,而能破於闇?
「燈がまさに生ずる時、どうして暗を破ることができようか。
此燈初生時,不能及於闇。」
この燈は生じ始めたばかりで、なお暗に及ばない。」
燈生時名半生半未生,燈體未成就,云何能破闇?又燈不能及闇,如人得賊乃名為破。若謂燈雖不到闇而能破闇者,是亦不然。何以故?
燈がまさに生ずる時は、半生半未生と名づけ、燈の本体はなお成就していない。どうして暗を破ることができようか。しかも燈は暗に及ばない。人が賊を捕らえてはじめて破と名づけるが如し。もし燈は暗に到らないが暗を破ることができると言うならば、これも当らない。なぜか。
「燈若未及闇,而能破闇者,
「もし燈がなお暗に及ばないのに暗を破ることができるならば、
燈在於此間,則破一切闇。」
燈はここに在りて、一切の処の暗を破るべきである。」
若燈有力,不到闇而能破者。此處燃燈,應破一切處闇,俱不及故。復次燈不應自照、照彼。何以故?
もし燈に力有りて、暗に到らないのに破ることができるならば、ここに燈を点すれば、一切の処の暗を破るべきである。同じく皆及ばないからである。さらにいえば、燈は自照すべきでもなく、かの所を照らすべきでもない。なぜか。
「若燈能自照,亦能照於彼;
「もし燈が自らを照らすこともでき、かの所を照らすこともできるならば、
闇亦應自闇,亦能闇於彼。」
暗もまた自ら暗く、かの所を暗くすることができるべきである。」
若燈與闇相違故,能自照亦照於彼。闇與燈相違故,亦應自蔽蔽彼。若闇與燈相違,不能自蔽蔽彼。燈與闇相違,亦不應自照亦照彼。是故燈喻非也。破生因緣未盡故,今當更說。
もし燈が暗と相い違するがゆえに、自照しまたかの所を照らすことができるならば、暗もまた燈と相い違するがゆえに、自ら遮蔽し、またかの所を遮蔽すべきである。もし暗が燈と相い違するのに自ら遮蔽することができず、かの所を遮蔽することもできなければ、燈もまた暗と相い違するのに自照しまたかの所を照らすべきではない。ゆえに燈の比喩は当らない。生を破る因縁はなお説き尽くしていない。いまさらに説かんとする。
「此生若未生,云何能自生?
「この生がもしなお生ぜなければ、どうして自ら生ずることができようか。
若生已自生,生已何用生?」
もしすでに生じてさらに自ら生ずれば、すでに生じたのに生じて何をせん。」
是生自生時,為生已生?為未生生?若未生生,則是無法,無法何能自生?若謂生已生,則為已成,不須復生,如已作不應更作。若已生、若未生,是二俱不生,故無生。汝先說生如燈,能自生亦生彼,是事不然;住、滅亦如是。復次:
この生が自ら生ずる時、すでに生じてさらに生ずるのか、なお生ぜずして生ずるのか。もしなお生ぜずして生ずれば、それはない法である。ない法がどうして自ら生ずることができようか。もしすでに生じてさらに生ずると言えば、それはすでに成就したるで、さらに生ずるを要しない。すでに作り了えた者はさらに作すべきではないが如し。すでに生じたるもなお生ぜざるも、この二種とも生ずることができない。ゆえに無生である。あなたは先前に生は燈の如く、自ら生じることもでき、かの所をも生ずると説いたが、この事は当らない。住・滅もまたこのようである。さらにいえば、
「生非生已生,亦非未生生,
「生はすでに生じてさらに生ずるのでもなく、なお生ぜずして生ずるのでもない。
生時亦不生,去來中已答。」
まさに生ずる時にも生ぜず、〈去来品〉の中ですでに答えた。」
生名眾緣和合有生,已生中無作故無生,未生中無作故無生。生時亦不然,離生法生時不可得、離生時生法亦不可得、云何生時生?是事〈去來〉中已答。已生法不可生。何以故?生已復生,如是展轉則為無窮,如作已復作。復次若生已更生者,以何生法生?是生相未生。而言生已生者,則自違所說。何以故?生相未生而汝謂生。若未生謂生者,法或可生已而生、或可未生而生。汝先說生已生,是則不定。復次如燒已不應復燒、去已不應復去,如是等因緣故,生已不應生。未生法亦不生。何以故?法若未生則不應與生緣和合,若不與生緣和合則無法生。若法未與生緣和合而生者,應無作法而作、無去法而去、無染法而染、無恚法而恚、無痴法而痴。如是則皆破世間法,是故未生法不生。復次若未生法生者,世間未生法皆應生,一切凡夫未生菩提今應生菩提,不壞法阿羅漢無有煩惱今應生煩惱,兔等無角今皆應生。但是事不然,是故未生法亦不生。
いわゆる生とは、衆縁和合してこそ生有る。すでに生じたの中に「作」がなく、ゆえに無生。なお生ぜざるの中に「作」がなく、ゆえに無生。まさに生ずる時にも当らない。生の法を離れて生時は得られず、生時を離れて生の法も得られない。どうして生時に生ずると言えようか。この事は〈去来品〉の中ですでに答えた。すでに生じた法はさらに生ずることができない。なぜか。生じてさらに生ずれば、これより展転してすなわち無窮となる。作ってまた作るが如し。さらにいえば、もしすでに生じてさらに生ずれば、どの生の法を用いて生ずるのか。この生の相はなお生じていない。それなのにすでに生じてさらに生ずると言えば、自ら説く所に背く。なぜか。生の相はなお生じていないのに、あなたはそれを生ずると言う。もしなお生ぜずして生ずると言うならば、法はあるいはすでに生じてさらに生ずることができ、あるいはなお生ぜずして生ずることができるはずである。あなたが先前にすでに生じてさらに生ずると説いたのは、これすなわち不確定である。さらにいえば、焼き了わった者はさらに焼くべきではなく、去り了わった者はさらに去るべきではないが如く、この類の因縁によりて、すでに生じた者はさらに生ずべきではない。なお生ぜざる法もまた生ぜず。なぜか。法がもしなお生ぜなければ、生の縁と和合すべきではない。もし生の縁と和合せなければ、生ずる法がない。もし法がなお生の縁と和合せずして生ずれば、作の法なきに作有り、去の法なきに去有り、染の法なきに染有り、恚の法なきに恚有り、癡の法なきに癡有りというべきである。これにようては皆世間法を破ることになる。ゆえになお生ぜざる法は生ぜず。さらにいえば、もしなお生ぜざる法が生じ得れば、世間のなお生ぜざる法は皆生ずべきである。一切の凡夫はなお菩提を生ぜざれば、いま菩提を生ずべきである。法を壊せざる阿羅漢には煩悩がなければ、いま煩悩を生ずべきである。兎等には角がなければ、いま皆角を生ずべきである。しかるにこの事はそうではない。ゆえになお生ぜざる法もまた生ぜず。
問曰:未生法不生者,以未有緣、無作、無作者、無時、無方等故不生。若有緣、有作、有作者、有時、有方等和合故,未生法生。是故若說一切未生法皆不生,是事不爾。
問う者曰く、なお生ぜざる法が生法が生ぜざるは、なお縁なく・作なく・作者なく・時なく・方等がないがゆえに生に生ぜざる。もし縁有り・作有り・作者有り・時有り・方等有りて和合せば、なお生ぜざる法は生ず。ゆえにもし一切のなお生ぜざる法は皆生ぜずと言えば、この事は当らない。
答曰:若法有緣、有時、有方等和合則生者,先有亦不生、先無亦不生、有無亦不生。三種先已破,是故生已不生。未生亦不生、生時亦不生。何以故?已生分不生,未生分亦不生,如先答。復次若離生有生時者,應生時生。但離生無生時,是故生時亦不生。復次若言生時生者,則有二生過:一以生故名生時;二以生時中生。二皆不然。無有二法,云何有二生?是故生時亦不生。復次生法未發則無生時,生時無故生何所依?是故不得言生時生。如是推求,生已無生、未生無生、生時無生,無生故生不成,生不成故住、滅亦不成。生、住、滅不成,故有為法不成。是故偈中說去未去去時中已答。
答える者曰く、もし法が縁有り・時有り・方等有りて和合して生ずれば、先前に有るも生ぜず、先前に無くも生ぜず、また有りまた無くも生ぜない。この三種は前にすでに破った。ゆえにすでに生じたるは生ぜず、なお生ぜざるも生ぜず、まさに生ずるも生ぜない。なぜか。すでに生じたるの那分は生ぜず、なお生ぜざるの那分も生ぜざるは、先前に答えたが如し。さらにいえば、もし生を離れてなお生時有れば、こそ生時に生ずると言うべきである。しかるに生を離れれば生時がない。ゆえに生時にも生ぜず。さらにいえば、もし生時に生ずると言えば、二種の生の過失が有る。一つは生によりてこそ生時と名づく、二つは生時の中にまた生ず。この二種とも当らない。二つの法なければ、どうして二種の生があろうか。ゆえに生時にも生ぜず。さらにいえば、生の法はなお発動せざれば、生時がない。生時なければ、生はなお何に依止するか。ゆえに生時に生ずるとは言えない。このように推し求めれば、すでに生じたるは無生、なお生ぜざるは無生、生時は無生。無生なるがゆえに生は成就せず。生が成就せざれば、住・滅も成就せず。生・住・滅が成就せざれば、有為法は成就せず。ゆえに偈に言う。已去・未去・去時の中ですでに答えた、と。
問曰:我不定言生已生、未生生、生時生,但眾緣和合故有生。
問う者曰く、私はすでに生じてさらに生ずる・なお生ぜずして生ずる・生時に生ずると確定して説くのではなく、ただ衆縁和合するがゆえに生有ると言う。
答曰:汝雖有是說,此則不然。何以故?
答える者曰く、あなたはこの言有りといえども、これなお当らない。なぜか。
「若謂生時生,是事已不成;
「もし生時に生ずると言うならば、この事はすでに不成立である。
云何眾緣合,爾時而得生?」
どうして衆縁和合すれば、その時に生ずることができようか。」
生時生已種種因緣破,汝今何以更說眾緣和合故有生?若眾緣具足、不具足,皆與生同破。復次:
生時に生ずることは、すでに種々の因縁をもって破られた。あなたは今何によってさらに衆縁和合するがゆえに生有ると説くのか。衆縁具足するも具足せざるも、皆生とともに破られた。さらにいえば、
「若法眾緣生,即是寂滅性;
「もし法が衆縁から生ずれば、それは寂滅の性である。
是故生生時,是二俱寂滅。」
ゆえに生と生時は、この二つとも寂滅である。」
眾緣所生法,無自性故寂滅,寂滅名為無此無彼無相,斷言語道、滅諸戲論。眾緣名,如因縷有布、因蒲有席。若縷自有定相,不應從麻出。若布自有定相,不應從縷出。而實從縷有布、從麻有縷,是故縷亦無定性、布亦無定性。如燃、可燃因緣和合成,無有自性,可燃無故燃亦無、燃無故可燃亦無。一切法亦如是,是故從眾緣生法無自性,無自性故空,如野馬無實。是故偈中說生與生時二俱寂滅,不應說生時生。汝雖種種因緣欲成生相,皆是戲論,非寂滅相。
衆縁の生ずる所の法は、自性がないがゆえに寂滅である。いわゆる寂滅とは、此なく・彼なく・相なく、言語の路を截断し、種種の戯論を熄滅することである。いわゆる衆縁とは、縷によってこそ布有り、蒲によってこそ蓆有るが如し。もし縷が自ら確定の相有れば、麻から出るべきではない。もし布が自ら確定の相有れば、縷から出るべきではない。しかるに実際には縷から布有り、麻から縷有る。ゆえに縷にも定性なく、布にも定性がない。燃と可燃が因縁和合して成るが如く、自性がない。可燃なければ燃もなく、燃なければ可燃もない。一切法もまたこのようである。ゆえに衆縁から生ずる法は自性がなく、自性なきがゆえに空である。陽焔に実体なきが如し。ゆえに偈に生と生時の二つとも寂滅であると言い、生時に生ずると言うべきではない。あなたは種種の因縁をもって生の相を成就せんと思うも、皆戯論であって、寂滅の相ではない。
問曰:定有三世別異。未來世法得生,因緣即生。何故言無生?答曰:
問う者曰く、決定して三世の差別が有る。未来世の法は生の因縁を得れば生ず。なぜ無生と言うのか。答える者曰く、
「若有未生法,說言有生者,
「もしなお生ぜざる法有りて、それに生有りと言うならば、
此法先已有,更復何用生?」
この法は先前にすでに有りて、なお生じて何をせん。」
若未來世中有未生法而生,是法先已有,何用更生?有法不應更生。
もし未来世の中になお生ぜざる法有りて生ずれば、この法は先前にすでに有る。なおさらに生じて何をせん。すでに有る法はさらに生ずべきではない。
問曰:未來雖有,非如現在相,以現在相故說生。
問う者曰く、未来には有るといえども、現在の相の如くではない。現在の相を現出するがゆえに、はじめて生と説く。
答曰:現在相未來中無,若無,云何言未來生法生;若有,不名未來,應名現在,現在不應更生。二俱無生,故不生。復次汝謂生時生亦能生彼。今當更說。
答える者曰く、現在の相は未来の中にない。もしなければ、どうして未来の生法が生ずると言えようか。もし有れば、未来と名づけず、現在と名づくべきである。現在はさらに生ずべきではない。二種とも無生。ゆえに生ぜず。さらにいえば、あなたは生時に生ずると言い、またかの所を生じることができると言う。いまさらに説かんとする。
「若言生時生,是能有所生;
「もし生時に生ずると言うならば、それはよく生ずる所有る。
何得更有生,而能生是生?」
どうしてさらに別に一つの生有りて、この生を生ぜしめようか。」
若生生時能生彼,是生誰復能生?
もし生が生ずる時にかの所を生じることができるならば、この生はまた誰がそれを生じることができるか。
「若謂更有生,生生則無窮,
「もし別にまた生有ると言えば、生は無窮となる。
離生生有生,法皆能自生。」
もし生生を離れてなお生有れば、一切法は皆自ら生ずることができる。」
若生更有生,生則無窮。若是生更無生而自生者,一切法亦皆能自生,而實不爾。復次:
もし生に別にまた生有れば、生は無窮となる。もしこの生がさらに生なくして自ら生じ得れば、一切法もまた皆自ら生ずることができるべきである。しかるに実際はそうではない。さらにいえば、
「有法不應生,無亦不應生,
「有る法は生ずべきではなく、無の法もまた生ずべきではない。
有無亦不生,此義先已說。」
また有りまた無くも生ぜず。この義理は前にすでに説いた。」
凡所有生,為有法有生?為無法有生?為有無法有生?是皆不然,是事先已說。離此三事更無有生,是故無生。復次:
およそ生有りとは、有る法に生有るか、無の法に生有るか、また有りまた無の法に生有るか。これら皆当らない。この事は前にすでに説いた。この三事を離れてさらに生はない。ゆえに無生である。さらにいえば、
「若諸法滅時,是時不應生;
「もし諸法がまさに滅する時は、この時に生ずべきではない。
法若不滅者,終無有是事。」
法がもし滅せざれば、終にこの事はない。」
若法滅相,是法不應生。何以故?二相相違故。一是滅相,知法是滅。一是生相,知法是生。二相相違法,一時則不然,是故滅相法不應生。
もし法が滅の相を帯びれば、この法は生ずべきではない。なぜか。二種の相が相い違するからである。一つは滅の相で、法が滅であることを知らしめるために用いる。一つは生の相で、法が生であることを知らしめるために用いる。二種の相い違する法は、同一時刻に行われない。ゆえに滅相を帯びる法は生ずべきではない。
問曰:若滅相法不應生,不滅相法應生。
問う者曰く、もし滅相を帯びる法が生ずべきでなければ、滅相を帯びない法は生ずべきである。
答曰:一切有為法念念滅故,無不滅法。離有為,無有決定無為法。無為法但有名字,是故說不滅法,終無有是事。
答える者曰く、一切の有為法は念々滅するがゆえに、不滅の法がない。有為を離れて、決定の無為法はない。無為法はただ名字があるのみ。ゆえに不滅の法とは、終にこの事はないと説く。
問曰:若法無生,應有住。
問う者曰く、もし法に生なければ、住が有るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「不住法不住,住法亦不住,
「住せざる法は住せず、住する法もまた住せず。
住時亦不住,無生云何住?」
まさに住する時にも住せず。生なければ、どうして住せん。」
不住法不住,無住相故。住法亦不住。何以故?已有住故。因去故有住,若住法先有,不應更住。住時亦不住,離住、不住更無住時,是故亦不住。如是一切處求住不可得故,即是無生。若無生,云何有住?復次:
住せざる法は住せず。住の相がないからである。住する法もまた住せず。なぜか。すでに住有るがゆえである。去によってこそ住有り。もし住の法が先前にすでに有れば、さらに住すべきではない。まさに住する時にも住せず。住と不住を離れて、さらに住時がないがゆえに、また住せず。このように一切の処に住を求めて皆得られない。これがすなわち無生である。もし無生ならば、どうして住有ることができようか。さらにいえば、
「若諸法滅時,是則不應住;
「もし諸法がまさに滅する時は、住すべきではない。
法若不滅者,終無有是事。」
法がもし滅せざれば、終にこの事はない。」
若法滅相,是法無有住相。何以故?一法中有二相相違故,一是滅相、二是住相。一時一處有住滅相,是事不然,是故不得言滅相法有住。
もし法が滅の相を帯びれば、この法に住の相がない。なぜか。同一の法の中に二種の相い違が有る。一つは滅の相、一つは住の相。同一時刻・同一処所に住・滅の両相有りとは、この事は当らない。ゆえに滅相を帯びる法に住有るとは言えない。
問曰:若法不滅,應有住。
問う者曰く、もし法が滅せざれば、住が有るべきである。
答曰:無有不滅法。何以故?
答える者曰く、不滅の法はない。なぜか。
「所有一切法,皆是老死相,
「すべての一切法は、皆老死の相を帯びる。
終不見有法,離老死有住。」
終に老死を離れてなお住する法を見ることなし。」
一切法生時,無常常隨逐。無常有二,名老及死。如是一切法常有老死,故無住時。復次:
一切法が生ずる時、無常は常に随い従う。無常には二種の名字が有る。老と死である。このように一切法は常に老死有り。ゆえに住の時がない。さらにいえば、
「住不自相住,亦不異相住;
「住は自らの相によって住するのでもなく、相異なる相によって住するのでもない。
如生不自生,亦不異相生。」
生が自ら生ずるのでもなく、相異なる相によって生ずるのでもないが如し。」
若有住法,為自相住?為他相住?二俱不然。若自相住,則為是常。一切有為法從眾緣生,若住法自住,則不名有為。住若自相住,法亦應自相住。如眼不能自見,住亦如是。若異相住,則住更有住,是則無窮。復次見異法生異相,不得不因異法而有異相,異相不定故。因異相而住者,是事不然。
もし住の法有れば、自らの相によって住するか、他の相によって住するか。二種とも当らない。もし自らの相によって住すれば、それは常である。一切の有為法は衆縁から生ず。もし住の法が自ら住すれば、有為と名づけない。住がもし自らの相によって住すれば、法もまた自らの相によって住すべきである。眼が自らを見ること能わざるが如く、住もまたこのようである。もし相異なる相によって住すれば、住はさらに別に住有るべきであり、それは無窮となる。さらにいえば、相異なる法が相異なる相を生ずるを見るが、相異なる法によってこそ相異なる相有るを要せざるは、相異なる相は確定していないからである。相異なる相によって住することは、この事は当らない。
問曰:若無住,應有滅。
問う者曰く、もし住なければ、滅が有るべきである。
答曰:無。何以故?
答える者曰く、ない。なぜか。
「法已滅不滅,未滅亦不滅,
「法はすでに滅したれば滅せず、なお滅せざるも滅せず。
滅時亦不滅,無生何有滅?」
まさに滅する時にも滅せず。生なければ、どうして滅があろうか。」
若法已滅則不滅,以先滅故。未滅亦不滅,離滅相故。滅時亦不滅,離二更無滅時。如是推求,滅法即是無生,無生何有滅?復次:
もし法がすでに滅したれば滅せず。先前にすでに滅したればからである。なお滅せざるも滅せず。滅の相を離れたればからである。まさに滅する時にも滅せず。この両辺を離れてさらに滅時がないからである。このように推し求めれば、滅の法もすなわち無生である。無生なるがゆえに、どうして滅があろうか。さらにいえば、
「法若有住者,是則不應滅;
「法がもし住有れば、滅すべきではない。
法若不住者,是亦不應滅。」
法がもし住せざれば、また滅すべきではない。」
若法定住則無有滅。何以故?由有住相故。若住法滅,則有二相:住相、滅相。是故不得言住中有滅,如生死不得一時有。若法不住,亦無有滅。何以故?離住相故。若離住相則無法,無法雲何滅?復次:
もし法が決定して住すれば、滅がない。なぜか。住の相有るがゆえである。もし住の法が滅すれば、二種の相有ることとなる。住の相・滅の相である。ゆえに住の中に滅有るとは言えない。生と死が同一時刻に有ること能わざるが如し。もし法が住せざれば、また滅もない。なぜか。住の相を離れたればからである。もし住の相を離れれば法がなく、法なければどうして滅せん。さらにいえば、
「是法於是時,不於是時滅;
「この法はこの時に在る時、この時に滅するのではない。
是法於異時,不於異時滅。」
この法が別の時に在る時も、別の時に滅するのではない。」
若法有滅相,是法為自相滅?為異相滅?二俱不然。何以故?如乳不於乳時滅。隨有乳時,乳相定住故。非乳時亦不滅,若非乳不得言乳滅。復次:
もし法に滅の相有れば、この法は自らの相によって滅するか、相異なる相によって滅するか。二種とも当らない。なぜか。乳は乳の時に滅するのではないが如し。なお乳の時有るかぎり、乳の相は確定して住する。乳の時でなくも滅しない。乳でなければ、乳が滅すと言うことができないからである。さらにいえば、
「如一切諸法,生相不可得;
「一切の諸法の如く、生の相は皆得られない。
以無生相故,即亦無滅相。」
生の相がないがゆえに、滅の相もまたない。」
如先推求,一切法生相不可得,爾時即無滅相,破生故無生,無生云何有滅?若汝意猶未已,今當更說破滅因緣。
先前に推し求めたが如く、一切法の生相は皆得られない。その時にもまた滅の相がない。生を破ったがゆえに無生であり、無生なるがゆえにどうしてなお滅があろうか。もしあなたの心がなお止んでいなければ、いまさらに滅を破る因縁を説かんとする。
「若法是有者,是即無有滅;
「もし法が有ならば、滅はない。
不應於一法,而有有無相。」
同一の法の上に、既に「有」の相有りてまた「無」の相有るべきではない。」
諸法有時,推求滅相不可得。何以故?云何一法中亦有亦無相?如光影不同處。復次:
諸法がなお有る時、滅の相を推し求めて得られない。なぜか。どうして同一の法の中にまた有りまた無の相があろうか。光と影が同一の処に在らざるが如し。さらにいえば、
「若法是無者,是即無有滅;
「もし法が無ならば、滅はない。
譬如第二頭,無故不可斷。」
たとえば第二の頭の如く、なきがゆえに斫断することができない。」
法若無者則無滅相,如第二頭、第三手,無故不可斷。復次:
法がもし無ならば、滅の相がない。第二の頭・第三の手の如く、なきがゆえに斫断することができない。さらにいえば、
「法不自相滅,他相亦不滅;
「法は自らの相によって滅するのでもなく、他の相によって滅するのでもない。
如自相不生,他相亦不生。」
自らの相によって生ずるのでもなく、他の相によって生ずるのでもないが如し。」
如先說生相,生不自生亦不從他生。若以自體生,是則不然,一切物皆從眾緣生。如指端不能自觸,如是生不能自生。從他生亦不然。何以故?生未有故,不應從他生。是生無故無自體,自體無故他亦無,是故從他生亦不然。滅法亦如是,不自相滅、不他相滅。復次:
先前に生の相を説いたが如く、生は自ら生ぜず、また他から生ぜない。もし自体によって生ずれば、これは当らない。一切の物は皆衆縁から生ずるからである。指尖が自らに触ること能わざるが如く、生もまた自ら生ずることができない。他から生ずるもまた当らない。なぜか。生はなおないのに、他から生ずべきではない。この生がなければ、すなわち自体がない。自体なければ、他もまたない。ゆえに他から生ずるもまた当らない。滅の法もまたこのようである。自らの相によって滅せず、他の相によって滅せない。さらにいえば、
「生住滅不成,故無有有為;
「生・住・滅が皆成立せざれば、有為はない。
有為法無故,何得有無為?」
有為法なければ、どうして無為があろうか。」
汝先說有生、住、滅相故有有為,以有有為故有無為。今以理推求,三相不可得,云何得有有為?如先說,無有無相法,有為法無故,何得有無為?無為相名不生不住不滅。止有為相故名無為相,無為自無別相,因是三相有無為相。如火為熱相、地為堅相、水為冷相,無為則不然。
あなたは先前に生・住・滅の相有るがゆえに有為有り、有為有るがゆえに無為有りと説いた。いま理によりて推し求めれば、三相は皆得られない。どうして有為があろうか。先前に説いたが如く、無相の法はない。有為法なければ、どうしてなお無為があろうか。無為の相とは、不生・不住・不滅と名づける。有為の相を止息してこそ、はじめて無為の相と名づく。無為は自ら別の相がなく、この三相によってこそ無為の相有る。火が熱を以て相と為し、地が堅を以て相と為し、水が冷を以て相と為すが如く、無為はしかくはない。
問曰:若是生、住、滅畢竟無者,云何論中得說名字?
問う者曰く、もし生・住・滅が畢竟なければ、論の中にどうしてなおこれらの名字を説くことができようか。
答曰:
答える者曰く、
「如幻亦如夢,如乾闥婆城,
「幻の如く、また夢の如く、乾闥婆城(蜃気の成す城郭で、遠く望めば有るが如く、近づけばなし)の如く、
所說生住滅,其相亦如是。」
説く所の生・住・滅も、その相はこのようである。」
生、住、滅相無有決定,凡人貪著謂有決定。諸賢聖憐愍欲止其顛倒,還以其所著名字為說,語言雖同其心則異。如是說生、住、滅相,不應有難。如幻化所作,不應責其所由,不應於中有憂喜想,但應眼見而已。如夢中所見不應求實,如乾闥婆城日出時現而無有實,但假為名字不久則滅。生、住、滅亦如是,凡夫分別為有,智者推求則不可得。
生・住・滅の相には決定がない。凡人は貪着して、決定有ると説く。諸の賢聖はこれを憐れみ、彼らの顛倒を止めんと欲し、なお彼らの執著する名字を用いて説く。言語は同じといえども、心の中は同じからない。このように生・住・滅の相を説けば、さらに問難すべきではない。幻化の作る所の如く、それがどこから来たかを追究すべきではなく、その中に憂喜の想を生ずべきではなく、ただ眼をもって見るのみであるべきである。夢に見る所の如く、実を求めるべきではない。乾闥婆城の如く、日の出る時に顕現するも実体がなく、ただ仮に名字を立て、久しからずして滅する。生・住・滅もまたこのようである。凡夫は分別して有と為し、智者は一たび推し求めれば得られない。
中論觀作作者品第八(十二偈)
《中論》観作作者品第八(十二首の偈)
問曰:現有作、有作者、有所用作法,三事和合故有果報,是故應有作者、作業。
問う者曰く、現前に作有り・作者有り・所用の作法有り、三事和合するがゆえに果報有り。これによりて作者有り・作業有るべきである。
答曰:上來品品中破一切法皆無有餘。如破三相,三相無故無有有為,有為無故無無為。有為無為無故,一切法盡無作、作者。若是有為,有為中已破。若是無為,無為中已破。不應復問。汝著心深故而復更問,今當復答。
答える者曰く、上來一々の品において一切法を破りて、皆すでに余すところなし。三相を破るが如く、三相なければすなわち有為なく、有為なければすなわち無為なし。有為・無為ともになければ、一切法は皆作なく・作者なし。もしそれが有為ならば、有為の中ですでに破った。もしそれが無為ならば、無為の中ですでに破った。さらに問うべきではない。あなたは執著の心が深いがゆえに、またさらに問う。いまさらに答えんとする。
「決定有作者,不作決定業;
「決定有の作者は、決定の業を作さず。
決定無作者,不作無定業。」
決定無の作者も、決定ならざる業を作さない。」
若先定有作者、定有作業,則不應作。若先定無作者、定無作業,亦不應作。何以故?
もし先前に決定して作者有り・決定して作業有れば、さらに作すべきではない。もし先前に決定して作者無し・決定して作業無ければ、また作すべきではない。なぜか。
「決定業無作,是業無作者;
「決定の業は作すことなく、この業に作者なし。
定作者無作,作者亦無業。」
決定の作者は作すことなく、作者にも業なし。」
若先決定有作業,不應更有作者;又離作者應有作業。但是事不然。若先決定有作者,不應更有作業;又離作業應有作者。但是事不然。是故決定作者、決定作業,不應有作。不決定作者、不決定作業,亦不應有作。何以故?本來無故。有作者、有作業尚不能作,何況無作者、無作業。復次:
もし先前に決定して作業有れば、さらに作者有るべきではない。しかも作者を離れてすでに作業有るべきである。しかるにこの事はそうではない。もし先前に決定して作者有れば、さらに作業有るべきではない。しかも作業を離れてすでに作者有るべきである。しかるにこの事はそうではない。ゆえに決定の作者・決定の作業は、作有るべきではない。決定ならざる作者・決定ならざる作業も、作有るべきではない。なぜか。本来有ることなければからである。作者有り・作業有るすらなお作すことができないのに、いわんや作者なく・作業なきをや。さらにいえば、
「若定有作者,亦定有作業,
「もし決定して作者有り、また決定して作業有れば、
作者及作業,即墮於無因。」
作者および作業は、すなわち無因に堕する。」
若先定有作者、定有作業,汝謂作者有作,即為無因,離作業有作者、離作者有作業,則不從因緣有。
もし先前に決定して作者有り・決定して作業有れば、あなたがなお作者に作有りと説くは、すなわち無因である。作業を離れて作者有り、作者を離れて作業有れば、因縁に随って有るのではない。
問曰:若不從因緣有作者、有作業,有何咎?
問う者曰く、もし因縁に随って作者有り・作業有るのでなければ、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若墮於無因,則無因無果,
「もし無因に堕せば、因なく果なく、
無作無作者,無所用作法。
作なく・作者なく、所用の作法もまたなし。
若無作等法,則無有罪福,
もし作等の法がなければ、罪福なし。
罪福等無故,罪福報亦無。
罪福等なければ、罪福の果報もまたなし。
若無罪福報,亦無有涅槃,
もし罪福の果報がなければ、涅槃もまたなし。
諸可有所作,皆空無有果。」
およそ作する所あるべきものは、皆空にして果なし。」
若墮於無因,一切法則無因無果。能生法名為因、所生法名為果,是二即無。是二無故,無作、無作者亦無所用作法,亦無罪福。罪福無故,亦無罪福果報及涅槃道。是故不得從無因生。
もし無因に堕せば、一切法は因なく・果なし。よく生ずる法を因と名づけ、生ぜられる法を果と名づく。この二つは皆ない。この二つなければ、作なく・作者なく、所用の作法もなく、罪福もない。罪福なければ、すなわち罪福の果報と涅槃の道もない。ゆえに無因から生ずることはできない。
問曰:若作者不定,而作不定業,有何咎?
問う者曰く、もし作者が決定ならざるのに、決定ならざる業を作せば、何の過失が有るか。
答曰:一事無尚不能起作業,何況二事都無。譬如化人以虛空為舍,但有言說,而無作者、作業。
答える者曰く、一つの事すらなければ、なお作業を生起することができない。いわんや二つの事ともになきをや。たとえば幻化の人が虚空を以て屋舎と為すが如く、ただ言説があるのみで、作者なく・作業なし。
問曰:若無作者、無作業,不能有所作;今有作者、有作業,應有作。
問う者曰く、もし作者なく・作業なければ、作する所あらず。いま作者有り・作業有れば、作有るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「作者定不定,不能作二業,
「作者は決定であれ決定でなくても、この二種の業を作すことができない。
有無相違故,一處則無二。」
有と無とは相い違し、同一の処に両様あること能わず。」
作者定不定,不能作定不定業。何以故?有無相違故,一處不應有二。有是決定、無是不決定,一人一事云何有有無?復次:
作者は決定であれ決定でなくても、決定または不決定の業を作すことができない。なぜか。有と無とは相い違し、同一の処に両様有るべきではない。有とはすなわち決定、無とはすなわち不決定。同一の人・同一の事が、どうしてまた能く有りまた能く無きことができようか。さらにいえば、
「有不能作無,無不能作有,
「有は無を作すこと能わず、無は有を作すこと能わず。
若有作作者,其過如先說。」
もし作と作者有れば、過失は先前に説いたが如し。」
若有作者而無業,何能有所作?若無作者而有業,亦不能有所作。何以故?如先說。有中若先有業,作者復何所作?若先無業,云何可得作?如是則破罪福等因緣果報。是故偈中說「有不能作無,無不能作有,若有作作者,其過如先說。」復次:
もし作者有りて業なければ、どうして作する所あらんか。もし作者なくして業有れば、また作する所あらず。なぜか。先前に説いたが如し。有の中にもし先前にすでに業有れば、作者はなお何を作さんか。もし先前に業なければ、どうして作り出すことができようか。これによりては罪福等の因縁果報を破ることとなる。ゆえに偈に言う。「有は無を作すこと能わず、無は有を作すこと能わず。もし作と作者有れば、過失は先前に説いたが如し」と。さらにいえば、
「作者不作定,亦不作不定,
「作者は決定を作さず、不決定も作さず、
及定不定業,其過如先說。」
また決定また不決定の業も作さず。過失は先前に説いたが如し。」
定業已破,不定業亦破,定不定業亦破;今欲一時總破,故說是偈,是故作者不能作三種業。今三種作者,亦不能作業。何以故?
決定の業はすでに破り、不決定の業もまた破り、また決定また不決定の業もまた破った。いま同一時に総べて破らんと欲し、ゆえにこの首の偈を説く。これによりて作者は三種の業を作すことができない。いま三種の作者もまた作業することができない。なぜか。
「作者定不定、亦定亦不定,
「作者はあるいは決定、あるいは不決定、あるいはまた決定また不決定、
不能作於業,其過如先說。」
いずれも作業することができない。過失は先前に説いたが如し。」
作者定、不定、亦定亦不定,不能作於業。何以故?如先三種過因緣。此中應廣說,如是一切處求作者作業,皆不可得。
作者はあるいは決定、あるいは不決定、あるいはまた決定また不決定、いずれも作業することができない。なぜか。先前に説いた三種の過失の因縁の如し。ここに広く説くべきである。このように一切の処に作者・作業を求めて、皆得られない。
問曰:若言無作、無作者,則復墮無因。
問う者曰く、もし作なく・作者なしと言うならば、また無因に堕する。
答曰:是業從眾緣生,假名為有,無有決定。不如汝所說。何以故?
答える者曰く、この業は衆縁に随って生じ、仮名をもって有と名づくのであって、決定有るのではない。あなたの説く所の如くではない。なぜか。
「因業有作者,因作者有業,
「業によってこそ作者有り、作者によってこそ業有り。
成業義如是,更無有餘事。」
業を成就する義理はこのようであって、さらにその余の事はない。」
業先無決定,因人起業;因業有作者,作者亦無決定。因有作業,名為作者,二事和合故得成作、作者。若從和合生則無自性,無自性故空,空則無所生。但隨凡夫憶想分別故,說有作業有作者;第一義中無作業、無作者。復次:
業は先前に決定なく、人によってこそ業を起こす。業によってこそ作者有り、作者にもまた決定がない。作業有るがゆえにこそ作者と名づく。両事和合してこそ、作と作者とを成就する。もし和合から生ずれば、自性がない。自性なきがゆえに空である。空なれば、生ずる所なし。ただ凡夫の憶想分別に随うがゆえに、作業有り・作者有りと説く。第一義には作業なく・作者なし。さらにいえば、
「如破作作者,受受者亦爾,
「作と作者を破るが如く、受と受者もまたこのようであり、
及一切諸法,亦應如是破。」
および一切の諸法もまた、このように破るべきである。」
如作、作者不得相離,不相離故不決定,無決定故無自性。受受者亦如是,受名五陰身,受者是人,如是離人無五陰、離五陰無人,但從眾緣生如受受者。餘一切法亦應如是破。
作と作者が互いに相離れること能わざるが如く、相離れること能わざるがゆえに不決定であり、不決定なるがゆえに自性がない。受と受者もまたこのようである。受とは五陰身を指し、受者とは人である。人を離れて五陰なく、五陰を離れて人なし。ただ衆縁に随って生ずるは、受と受者の如し。その余の一切法もまたこのように破るべきである。
中論觀本住品第九(十二偈)
《中論》観本住品第九(十二首の偈)
問曰:有人言:
問う者曰く、ある人は説く。
「眼耳等諸根,苦樂等諸法,
「眼耳等の諸根、苦楽等の諸法、
誰有如是事?是則名本住。
誰がこれらの事を有するか。それをこそ本住と名づける。
若無有本住,誰有眼等法?
もし本住なければ、誰が眼耳等のこれらの法を有するか。
以是故當知,先已有本住。」
これによりて知るべし、先前にすでに本住有ることを。」
眼耳鼻舌身命等諸根,名為眼耳等根。苦受、樂受、不苦不樂受、想、思、憶念等心心數法,名為苦樂等法。有論師言:先未有眼等法,應有本住。因是本住,眼等諸根得增長。若無本住,身及眼等諸根,為因何生而得增長?答曰:
眼・耳・鼻・舌・身・命等の諸根を眼耳等根と名づく。苦受・楽受・不苦不楽受・想・思・憶念等の心と心所を苦楽等法と名づく。ある論師は説く。まだ眼等の法がない時に、すでに本住有るべきである。この本住によって、眼等の諸根はこそ増長を得る。もし本住なければ、身および眼等の諸根は、何の因に随って生じ出て増長せんか。答える者曰く、
「若離眼等根,及苦樂等法,
「もし眼等根を離れ、および苦楽等法を離れて、
先有本住者,以何而可知?」
先前にすでに本住有れば、何によってか知ることができよう。」
若離眼耳等根、苦樂等法先有本住者,以何可說?以何可知?如外法瓶衣等,以眼等根得知;內法以苦樂等根得知。如經中說:可壞是色相,能受是受相,能識是識相。汝說離眼耳苦樂等先有本住者,以何可知說有是法?
もし眼耳等根・苦楽等法を離れて、先前にすでに本住有れば、何によって説くことができ、何によって知ることができようか。外在の瓶・衣等の如く、眼等根によってこそ知る。内在の法は、苦楽等によってこそ知る。経の中に説くが如く、可壊は色の相、能受は受の相、能識は識の相である。あなたは眼耳・苦楽等を離れて、先前にすでに本住有りと説くが、何によって知り、何によってこの法有りと説くのか。
問曰:有論師言:出入息、視眴、壽命、思惟、苦樂、憎愛、動發等是神相。若無有神,云何有出入息等相?是故當知,離眼耳等根、苦樂等法先有本住。
問う者曰く、ある論師は説く。出入息・眨眼・寿命・思惟・苦楽・憎愛・発動等は神の相である。もし神なければ、どうして出入息等の相があろうか。ゆえに知るべし、眼耳等根・苦楽等法を離れて、先前にすでに本住有ることを。
答曰:是神若有,應在身內,如壁中有柱;若在身外,如人被鎧。若在身內,身則不可壞,神常在內故。是故言神在身內,但有言說,虛妄無實。若在身外覆身如鎧者,身應不可見,神細密覆故。亦應不可壞,而今實見身壞。是故當知,離苦樂等先無餘法。若謂斷臂時神縮在內不可斷者,斷頭時亦應縮在內不應死,而實有死。是故知離苦樂等先有神者,但有言說虛妄無實。復次若言身大則神大、身小則神小,如燈大則明大、燈小則明小者,如是神則隨身不應常。若隨身者,身無則神無,如燈滅則明滅。若神無常,則與眼耳苦樂等同。是故當知,離眼耳等先無別神。復次如風狂病人不得自在,不應作而作。若有神是諸作主者,云何言不得自在?若風狂病不惱神者,應離神別有所作。如是種種推求,離眼耳等根苦樂等法先無本住。若必謂離眼耳等根苦樂等法有本住者,無有是事。何以故?
答える者曰く、この神がもし有れば、身の中に在るべきである。壁の中に柱有るが如し。もし身の外に在れば、人が鎧を被るが如し。もし身の中に在れば、身は可壊であるべきではない。神が常にその中に在るからである。ゆえに神は身の中に在ると説くは、ただ言説のみで、虚妄にして実ならず。もし身の外に在りて身を覆うこと鎧の如ければ、身は見えるべきではない。神が細密に覆っているからである。また可壊であるべきでもない。しかるにいま実に身の壊るるを見る。ゆえに知るべし、苦楽等を離れて先前にその余の法なきことを。もし手臂を斫る時に神は裏に縮んで斫れないと言うならば、頭を斫る時にも裏に縮んで死ぬべきではない。しかるに実際には死有る。ゆえに知るべし、苦楽等を離れて先前に神有ると説くは、ただ言説のみで、虚妄にして実ならざることを。さらにいえば、もし身大なれば神大・身小なれば神小と言えば、燈大なれば光明大・燈小なれば光明小なるが如く、これにようては神は身に随い、常であるべきではない。もし身に随えば、身なければ神なし。燈滅すれば光明滅するが如し。もし神が無常ならば、眼耳・苦楽等と相同じとなる。ゆえに知るべし、眼耳等を離れて先前に別の神なきことを。さらにいえば、風狂の病人は自在を得ず、作すべからざるを作すが如し。もし神有りてこれらの作為の主人ならば、どうして自在を得ずと言うことができようか。もし風狂の病が神を悩乱せざれば、すなわち神を離れて別に作する所有るべきである。このように種種に推し求めれば、眼耳等根・苦楽等法を離れて先前に本住なし。もし必ず眼耳等根・苦楽等法を離れて本住有りと言うならば、この事はない。なぜか。
「若離眼耳等,而有本住者;
「もし眼耳等を離れて本住有れば、
亦應離本住,而有眼耳等。」
また本住を離れて眼耳等有るべきである。」
若本住離眼耳等根、苦樂等法先有者,今眼耳等根、苦樂等法亦應離本住而有。
もし本住が眼耳等根・苦楽等法を離れて先前にすでに有れば、いま眼耳等根・苦楽等法もまた本住を離れて有るべきである。
問曰:二事相離可爾,但使有本住。
問う者曰く、両事が互いに相離れるはなお可とする。ただ本住を有せしめればよい。
答曰:
答える者曰く、
「以法知有人,以人知有法;
「法によってこそ人有ると知り、人によってこそ法有ると知る。
離法何有人?離人何有法?」
法を離れてどこに人があらん。人を離れてどこに法があらん。」
法者,眼耳苦樂等。人者,是本住。汝謂以有法故知有人、以有人故知有法。今離眼耳等法何有人?離人何有眼耳等法?復次:
いわゆる法とは、眼耳・苦楽等である。いわゆる人とは、本住である。あなたは法有るがゆえに人有ると知り、人有るがゆえに法有ると知ると説く。いま眼耳等法を離れて、どこに人があらんか。人を離れて、どこに眼耳等法があらんか。さらにいえば、
「一切眼等根,實無有本住;
「一切の眼等根には、実に本住なし。
眼耳等諸根,異相而分別。」
眼耳等の諸根は、各各同じからぬ相をもって分別す。」
眼耳等諸根、苦樂等諸法,實無有本住。因眼緣色生眼識,以和合因緣知有眼耳等諸根,不以本住故知。是故偈中說「一切眼等根,實無有本住」,眼耳等諸根,各自能分別。問曰:
眼耳等の諸根・苦楽等の諸法には、実に本住なし。眼が色に縁りて眼識を生じ、和合の因縁によってこそ眼耳等の諸根有ると知るのであって、本住によって知るのではない。ゆえに偈に「一切の眼等根には、実に本住なし」と言い、眼耳等の諸根は各々よく分別する。問う者曰く、
「若眼等諸根,無有本住者,
「もし眼等の諸根に本住なければ、
眼等一一根,云何能知塵?」
眼等の一々の根は、どうして塵を知ることができようか。」
若一切眼耳等諸根、苦樂等諸法無本住者,今一一根云何能知塵?眼耳等諸根無思惟,不應有知。而實知塵,當知離眼耳等諸根,更有能知塵者。
もし一切の眼耳等の諸根・苦楽等の諸法に皆本住なければ、いま一々の根がどうして塵を知ることができようか。眼耳等の諸根には思惟がなく、知有るべきではない。しかるに実際には塵を知る。知るべし、眼耳等の諸根を離れて、別によく塵を知る者有ることを。
答曰:若爾者,為一一根中各有知者?為一知者在諸根中?二俱有過。何以故?
答える者曰く、もしこのようであれば、それは一々の根の中に各々一つの知者有るか、それとも一つの知者が諸根の中に在るか。二種とも過失が有る。なぜか。
「見者即聞者,聞者即受者,
「能見はすなわち能聞、能聞はすなわち能受ならば、
如是等諸根,則應有本住。」
このようであればこれらの根に、本住有るべきである。」
若見者即是聞者、聞者即是受者,則是一神。如是眼等諸根應先有本住。色聲香等無有定知者,或可以眼聞聲,如人有六向隨意見聞。若聞者、見者是一,於眼等根隨意見聞,但是事不然。
もし能見がすなわち能聞であり、能聞がすなわち能受ならば、それは同一の神である。このようであれば眼等の諸根に、先前にすでに本住有るべきである。色声香等には確定の知者がなく、あるいは眼をもって声を聞くことができるはずである。人が六方有りて意に随って見聞するが如し。もし能聞・能見が一にして、眼等根の上に意に随って見聞すれば――しかるにこの事はそうではない。
「若見聞各異,受者亦各異,
「もし見と聞とが各各同じからず、受者もまた各各同じからなければ、
見時亦應聞,如是則神多。」
見る時にもまた聞くべきであり、これにようては神は多し。」
若見者、聞者、受者各異,則見時亦應聞。何以故?離見者有聞者故。如是鼻舌身中,神應一時行。若爾者,人一而神多,以一切根一時知諸塵。而實不爾,是故見者、聞者、受者不應俱用。復次:
もし能見・能聞・能受が各各同じからなければ、見る時にもまた聞くべきである。なぜか。能見を離れてなお能聞有るがゆえである。これにようては鼻・舌・身の中に、神は同一時に運行すべきである。もしこのようであれば、人は一にして神は多し。一切の根が同一時に種種の塵を知るがゆえである。しかるに実際はそうではない。ゆえに能見・能聞・能受は同時に並びて用いるべきではない。さらにいえば、
「眼耳等諸根,苦樂等諸法,
「眼耳等の諸根、苦楽等の諸法、
所從生諸大,彼大亦無神。」
それらの生ずる所の諸大、それらの大の中にもまた神なし。」
若人言離眼耳等諸根、苦樂等諸法別有本住,是事已破。今於眼耳等所因四大,是四大中亦無本住。
もしある人が眼耳等の諸根・苦楽等の諸法を離れて別に本住有ると言うならば、この事はすでに破った。いま眼耳等の依る所の四大、この四大の中にもまた本住なし。
問曰:若眼耳等諸根、苦樂等諸法,無有本住可爾。眼耳等諸根、苦樂等諸法應有。
問う者曰く、もし眼耳等の諸根・苦楽等の諸法に本住なければ、これなお可とする。眼耳等の諸根・苦楽等の諸法自体は有るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「若眼耳等根,苦樂等諸法,
「もし眼耳等根、苦楽等の諸法に、
無有本住者,眼等亦應無。」
本住なければ、眼等もすなわち無有るべきである。」
若眼耳苦樂等諸法無有本住者,誰有此眼耳等?何緣而有?是故眼耳等亦無。復次:
もし眼耳・苦楽等の諸法に本住なければ、誰がこれらの眼耳等を有するか。何の因縁に依って有るか。ゆえに眼耳等もまたなし。さらにいえば、
「眼等無本住,今後亦復無,
「眼等に本住なく、今後もまたなし。
以三世無故,無有無分別。」
三世に皆なきがゆえに、「有」なく、分別もまたなし。」
思惟推求本住,於眼等先無,今後亦無。若三世無,即是無生寂滅。不應有難:若無本住,云何有眼等?如是問答、戲論則滅。戲論滅故,諸法則空。
思惟推求すれば本住は、眼等の先にもなく、今後にもない。もし三世に皆なければ、すなわち無生寂滅である。さらに問難すべきではない。もし本住なければ、どうして眼等有るかと。このようであれば問答・戯論は滅す。戯論滅せば、諸法はすなわち空である。
中論觀燃可燃品第十(十六偈)
《中論》観燃可燃品第十(十六首の偈)
問曰:應有受、受者,如燃、可燃,燃是受者、可燃是受,所謂五陰。
問う者曰く、受有り・受者有るべきである。燃と可燃の如し。燃は受者であり、可燃は受であって、いわゆる五陰である。
答曰:是事不然。何以故?燃、可燃俱不成故。燃、可燃若以一法成,若以二法成,二俱不成。
答える者曰く、この事は当らない。なぜか。燃と可燃は皆成立しない。燃と可燃がもし一つの法をもって成就するか、二つの法をもって成就するか、二種とも成立しない。
問曰:且置一異法。若言無燃、可燃,今云何以一異相破?如兔角龜毛,無故不可破。世間眼見實有事,而後可思惟。如有金,然後可燒可鍛。若無燃、可燃,不應以一異法思惟。若汝許有一異法,當知有燃、可燃。若許有者,則為已有。
問う者曰く、是れ一か是れ異かは、しばらく置かん。もし燃なく可燃なきと言うならば、いま何によって一・異の相をもって破るのか。兎角・亀毛の如く、なきがゆえに破ること能わず。世間は眼をもって実有の事を見て、しかる後にこそ思惟することができる。先に金有りて、しかる後にこそ焼くべく鍛ふべきが如し。もし燃・可燃なければ、一・異をもって思惟すべきではない。もしあなたが一・異有ると認めるならば、燃・可燃有ると知るべきである。もし有ると認めるならば、それはすでに有るとしたことになる。
答曰:隨世俗法言說,不應有過。燃、可燃若說一若說異,不名為受。若離世俗言說,則無所論。若不說燃、可燃,云何能有所破?若無所說,則義不可明。如有論者欲破有無,必應言有無,不以稱有無故而受有無。是以隨世間言說故無咎。若口有言便是受者,汝言破即為自破,燃、可燃亦如是。雖有言說亦復不受,是故以一異法思惟燃、可燃,二俱不成。何以故?
答える者曰く、世俗法に随って言説するに、過失有るべきではない。燃・可燃は一と言うも異と言うも、「受」とは名づけない。もし世俗言説を離れれば、論ずべきものなし。もし燃・可燃を説かなければ、どうして破する所有らんか。もし説く所なければ、義理は明らかにならない。論議する人が有無を破らんと欲すれば、必ず有無に言及するが如く、口に有無を称するによって、有無を受けるのではない。これによりて世間言説に随うは、過失なし。もし口が一たび説けばすなわち受けたことになるならば、あなたが「破」と言うもまた自らを破ることになる。燃・可燃もまたこのようである。言説有るといえども、受けることはしない。ゆえに一・異をもって燃・可燃を思惟するに、二種とも成立しない。なぜか。
「若燃是可燃,作作者則一;
「もし燃がすなわち可燃ならば、作と作者とは一である。
若燃異可燃,離可燃有燃。」
もし燃が可燃と異なれば、可燃を離れてなお燃有り。」
燃是火、可燃是薪。作者是人、作是業。若燃、可燃一,則作、作者亦應一。若作、作者一,則陶師與瓶一。作者是陶師、作是瓶,陶師非瓶、瓶非陶師,云何為一?是以作、作者不一;故燃、可燃亦不一。若謂一不可則應異。是亦不然。何以故?若燃與可燃異,應離可燃別有燃。分別是可燃、是燃,處處離可燃應有燃。而實不爾,是故異亦不可。復次:
燃は火であり、可燃は薪である。作者は人であり、作は業である。もし燃と可燃が一ならば、作と作者もまた一であるべきである。もし作と作者が一ならば、陶師と瓶とは一である。作者は陶師であり、作は瓶である。陶師は瓶でなく、瓶は陶師ではない。どうして一であろうか。これによりて作と作者は一ではない。ゆえに燃と可燃もまた一ではない。もし一が行えなければ、異であるべきである。これも当らない。なぜか。もし燃と可燃が異ならば、可燃を離れて別に燃有るべきである。これを可燃、かれを燃と分別して、処処に可燃を離れて皆燃有るべきである。しかるに実際はそうではない。ゆえに異もまた行えない。さらにいえば、
「如是常應燃,不因可燃生;
「このようであれば常に燃えるべきで、可燃を因待せずして生ず。
則無燃火功,亦名無作火。」
すなわち燃火の功作なく、また無作の火と名づくべし。」
若燃、可燃異,則燃不待可燃而常燃。若常燃者則自住其體、不待因緣,人功則空。人功者,將護火令燃。是功現有,是故知火不異可燃。
もし燃と可燃が異ならば、燃は可燃を待たずして常に燃えるべきである。もし常に燃えれば、自らその体に住して因縁を待たず、人の功作は空しきとなる。いわゆる人の功作とは、火を看護して燃えしむることである。この功作が現前に有るがゆえに、火は可燃に異ならざると知る。
復次若燃異可燃,燃即無作。離可燃,火何所然?若爾者,火則無作。無作火,無有是事。
さらにいえば、もし燃が可燃に異なれば、燃には作がない。可燃を離れて、火はなお何を焼くか。もしこのようであれば、火には作がない。作なきの火とは、この事はない。
問曰:云何火不從因緣生,人功亦空?
問う者曰く、なぜ火は因縁から生ぜず、人の功作も空しきと言うのか。
答曰:
答える者曰く、
「燃不待可燃,則不從緣生;
「燃は可燃を待たざれば、縁に随って生ぜず。
火若常燃者,人功則應空。」
火がもし常に燃えれば、人の功作は空しきとなるべし。」
燃、可燃若異,則不待可燃有燃。若不待可燃有然,則無相因法,是故不從因緣生。復次若燃異可燃,則應常燃。若常燃者,應離可燃別見有燃,更不須人功。何以故?
燃と可燃がもし異ならば、可燃を待たずして燃有り。もし可燃を待たずして燃有れば、互いに因待する法なし。ゆえに因縁に随って生ぜず。さらにいえば、もし燃が可燃に異なれば、常に燃えるべきである。もし常に燃えれば、可燃を離れて別に燃有るを見るべきであり、さらに人の功作を須いない。なぜか。
「若汝謂燃時,名為可燃者;
「もしあなたが、まさに燃ゆる時をこそ可燃と名づくと言うならば、
爾時但有薪,何物燃可燃?」
その時にはただ薪あるのみで、何物がこの可燃を燃やすか。」
若謂先有薪,燒時名可燃者,是事不爾。若離燃別有可燃者,云何言燃時名可燃?復次:
もし先前にすでに薪有りて、焼く時をこそ可燃と名づくと言うならば、この事は当らない。もし燃を離れて別に可燃有れば、どうして燃ゆる時をこそ可燃と名づくと言えようか。さらにいえば、
「若異則不至,不至則不燒,
「もし異なれば到ること能わず、到らざれば焼かず。
不燒則不滅,不滅則常住。」
焼かざれば滅せず、滅せざれば常住なり。」
若燃異可燃,則燃不應至可燃。何以故?不相待成故。若燃不相待成,則自住其體,何用可燃?是故不至。若不至,則不燃可燃。何以故?無有不至而能燒故。若不燒則無滅,應常住自相。是事不爾。
もし燃が可燃に異なれば、燃は可燃に到るべきではない。なぜか。相待せずして成就するがゆえである。もし燃が相待せずして成就すれば、自らその体に住して、さらに可燃を用いて何をせんか。ゆえに到ること能わず。もし到らざれば、可燃を燃やさず。なぜか。到らざるにして能く焼くことはないからである。もし焼かざればすなわち滅なく、常にその相に住すべきである。この事はそうではない。
問曰:
問う者曰く、
「燃與可燃異,而能至可燃;
「燃と可燃は異なれども、可燃に到ることができる。
如此至彼人,彼人至此人。」
この人がかの人に至り、かの人がこの人に至るが如し。」
燃與可燃異,而能至可燃;如男至於女,如女至於男。
燃と可燃は異なれども、可燃に到ることができる。男が女の許に至り、女が男の許に至るが如し。
答曰:
答える者曰く、
「若謂燃可燃,二俱相離者,
「もし燃と可燃の二つが皆互いに相離れると言えば、
如是燃則能,至於彼可燃。」
このようであってこそ燃はかの可燃に到ることができる。」
若離燃有可燃、若離可燃有燃,各自成者,如是則應燃至可燃。而實不爾。何以故?離燃無可燃、離可燃無燃故。今離男有女、離女有男,是故汝喻非也。喻不成故,燃不至可燃。
もし燃を離れて可燃有り、可燃を離れて燃有りて、各々成就せば、こそ燃は可燃に到るべきである。しかるに実際はそうではない。なぜか。燃を離れて可燃なく、可燃を離れて燃なし。いま男を離れて女有り、女を離れて男有るがゆえに、あなたの比喩は当らない。比喩が成立せざれば、燃は可燃に到ることができない。
問曰:燃、可燃相待而有,因可燃有燃、因燃有可燃,二法相待成。
問う者曰く、燃と可燃は互いに因待して有る。可燃によってこそ燃有り、燃によってこそ可燃有り。二法は相待して成就する。
答曰:
答える者曰く、
「若因可燃燃,因燃有可燃,
「もし可燃によってこそ燃有り、燃によってこそ可燃有れば、
先定有何法,而有燃可燃?」
先前にまずどの法を定めてか、燃と可燃とを有さんか。」
若因可燃而燃成,亦應因燃可燃成。是中若先定有可燃,則因可燃而燃成。若先定有燃,則因燃可燃成。今若因可燃而燃成者,則先有可燃而後有燃,不應待燃而有可燃。何以故?可燃在先、燃在後故。若燃不燃可燃,是則可燃不成;又可燃不在餘處,離於燃故。若可燃不成,燃亦不成。若先燃後有可燃,燃亦有如是過。是故燃、可燃二俱不成。復次:
もし可燃によって燃が成就すれば、また燃によって可燃が成就すべきである。ここにもし先前に決定してすでに可燃有れば、こそ可燃によって燃が成就するを談じ得る。もし先前に決定してすでに燃有れば、こそ燃によって可燃が成就するを談じ得る。いまもし可燃によって燃が成就すれば、すなわち先に可燃有りて後に燃有る。さらに燃を待ちて可燃有るを要すべきではない。なぜか。可燃は先に在り、燃は後に在るからである。もし燃が可燃を燃やさざれば、可燃は成立しない。しかも可燃は別の処に在るのではない。燃を離れたればからである。もし可燃が成立せざれば、燃もまた成立しない。もし先に燃有りて後に可燃有れば、燃もまた同様の過失が有る。ゆえに燃・可燃の二つとも成立しない。さらにいえば、
「若因可燃燃,則燃成復成;
「もし可燃によってこそ燃有れば、燃は成就してなおさらに成就せんとす。
是為可燃中,則為無有燃。」
これはすなわち可燃の中に燃なきに等しき。」
若欲因可燃而成燃,則燃成已復成。何以故?燃自住於燃中。若燃不自住其體,從可燃成者,無有是事。是故有是燃從可燃成,今則燃成復成,有如是過。復有可燃無燃過。何以故?可燃離燃自住其體故。是故燃可燃相因待,無有是事。復次:
もし可燃を想いをもって燃を成就せんとすれば、すなわち燃はすでに成就してなおさらに成就せんとする。なぜか。燃は自ら燃の中に住するからである。もし燃が自らその体に住せずして可燃から成就すれば、この事はない。ゆえに既にこの燃有りて可燃から成就し、いままた燃は成就してさらに成就せんとする。この類の過失が有る。また可燃に燃なきの過失も有る。なぜか。可燃は燃を離れて自らその体に住するがゆえである。ゆえに燃・可燃が互いに因待すると説くは、この事はない。さらにいえば、
「若法因待成,是法還成待;
「もし法が因待によって成就せば、この法はまたかえってかの待つ所を成就する。
今則無因待,亦無所成法。」
いまやすなわち因待もなく、成就する所の法もなし。」
若法因待成,是法還成本因待。如是決定則無二事。如因可燃而成燃,還因於燃而成可燃,是則二俱無定。無定故,不可得。何以故?
もし法が因待によって成就せば、この法はまたかえって本来の待つ所を成就する。このように決定すれば、二つの事は皆なし。可燃によって燃を成就し、またかえって燃によって可燃を成就するが如く、この二つは皆確定なし。確定なきがゆえに得られない。なぜか。
「若法有待成,未成云何待?
「もし法が待つ所有りて成就せば、なお成就せざる時にどうして待たんか。
若成已有待,成已何用待?」
もしすでに成就して待有れば、すでに成就したのになお待ちて何をせん。」
若法因待成,是法先未成,未成則無,無則云何有因待?若是法先已成,已成何用因待?是二俱不相因待,是故汝先說燃,可燃相因待成,無有是事。是故:
もし法が因待によって成就せば、この法は先前にまだ成就していない。まだ成就せざればすなわち無であり、無がどうしてなお因待があらんか。もしこの法が先前にすでに成就せば、すでに成就したのになお因待を用いて何をせんか。この二種とも相因待しない。ゆえにあなたが先前に燃・可燃は相因待して成就すると説いたは、この事はない。これによりて、
「因可燃無燃,不因亦無燃;
「可燃によって燃なく、可燃によらずしても燃なし。
因燃無可燃,不因無可燃。」
燃によって可燃なく、燃によらずしても可燃なし。」
今因待可燃,燃不成;不因待可燃,燃亦不成。可燃亦如是。因燃、不因燃,二俱不成,是過先已說。復次:
いま可燃を因待すれば燃は成立せず、可燃を因待せざれば燃も成立せず。可燃もまたこのようである。燃によらず、燃によらざれば、二種とも成立しない。これらの過失は前にすでに説いた。さらにいえば、
「燃不餘處來,燃處亦無燃,
「燃は別の処から来るのでもなく、燃の処所の中にも燃なし。
可燃亦如是,餘如去來說。」
可燃もまたこのようである。その余は〈去来品〉の説くが如し。」
燃不於餘方來入可燃,可燃中亦無燃,析薪求燃不可得故。可燃亦如是,不從餘處來入燃中,燃中亦無可燃。如燃已不燃,未燃不燃、燃時不燃,是義如〈去來〉中說。是故:
燃は別の処所から来たりて可燃に入るのではなく、可燃の中にも燃がない。薪を劈きて燃を求めて得られざるがゆえである。可燃もまたこのようで、別の処所から来たりて燃の中に入るのではなく、燃の中にも可燃がない。すでに燃えたるは燃やさず、まだ燃えざるは燃やさず、まさに燃ゆるも燃やさず。この義理は〈去来品〉の説くが如し。これによりて、
「可燃即非燃,離可燃無燃;
「可燃はすなわち燃ではなく、可燃を離れて燃なし。
燃無有可燃,燃中無可燃,
燃には可燃なく、燃の中に可燃なく、
可燃中無燃。」
可燃の中にも燃なし。」
可燃即非燃。何以故?先已說作、作者一過故。離可燃無燃,有常燃等過故。燃無有可燃、燃中無可燃、可燃中無燃,以有異過故,三皆不成。
可燃はすなわち燃ではない。なぜか。先前にすでに作・作者が一なるの過失を説いたがゆえである。可燃を離れて燃なし。常に燃える等の過失有るがゆえである。燃には可燃なく、燃の中に可燃なく、可燃の中に燃なし。「是異」の過失有るがゆえに、三種とも成立しない。
問曰:何故說燃、可燃?
問う者曰く、なぜ燃・可燃を説くのか。
答曰:如因可燃有燃,如是因受有受者。受名五陰,受者名人。燃可燃不成故,受受者亦不成。何以故?
答える者曰く、可燃によってこそ燃有るが如く、このように受によってこそ受者有る。受とは五陰を指し、受者とは人を指す。燃・可燃が成立せざれば、受・受者もまた成立しない。なぜか。
「以燃可燃法,說受受者法,
「燃・可燃の法を用いて、受・受者の法を説き、
及以說瓶衣,一切等諸法。」
および瓶・衣を説き、一切等の諸法を説く。」
如可燃非燃,如是受非受者,作作者一過故。又離受無受者,異不可得故。以異過故,三皆不成。如受受者,外瓶衣等一切法皆同上說,無生畢竟空。是故:
可燃が燃でないが如く、このように受は受者でない。作・作者が一なるの過失有るがゆえである。また受を離れて受者なし。「是異」が得られざるがゆえである。「是異」の過失有るがゆえに、三種とも成立しない。受・受者がこのようであるが如く、外在の瓶・衣等の一切法も皆前に説いたと同じく、無生にして畢竟空である。これによりて、
「若人說有我,諸法各異相;
「もしある人が我有りと言い、諸法は各々の相有りと言わば、
當知如是人,不得佛法味。」
かかる人は仏法の滋味を得られないと知るべきである。」
諸法從本已來無生,畢竟寂滅相,是故品末說是偈。若人說我相,如犢子部眾說:不得言色即是我、不得言離色是我,我在第五不可說藏中。如薩婆多部眾說:諸法各各相,是善、是不善、是無記。是有漏、無漏、有為、無為等別異。如是等人不得諸法寂滅相,以佛語作種種戲論。
諸法は本よりこのかた無生にして畢竟寂滅の相である。ゆえに品の末にこの首の偈を説く。もしある人が我の相を言わば、犢子部衆の言うが如く、色がすなわち我とは言えず、色を離れて我とも言えず、我は第五の「不可説」の蔵に在ると説く。あるいは薩婆多部衆の言うが如く、諸法は各各に相有り、これは善・これは不善・これは無記、これは有漏・無漏・有為・無為等々の各各差別有りと説く。かかる人は諸法寂滅の相を得られず、仏の言を取りて種種の戯論を作す。
中論觀本際品第十一(八偈)
《中論》観本際品第十一(八首の偈)
問曰:《無本際經》說:眾生往來生死,本際不可得。是中說有眾生、有生死。以何因緣故而作是說?
問う者曰く、《無本際経》に説く。衆生は生死に往来して、本際は求めて得られない、と。ここに衆生有り・生死有りと言う。何の因縁に依ってかかる説を作すか。
答曰:
答える者曰く、
「大聖之所說,本際不可得,
「大聖の説く所は、本際は求めて得られない。
生死無有始,亦復無有終。」
生死には始めなく、終わりもまたなし。」
聖人有三種:一者外道五神通;二者阿羅漢辟支佛;三者得神通大菩薩。佛於三種中最上,故言大聖。佛所言說,無不是實說。生死無始。何以故?生死初後不可得,是故言無始。汝謂若無初後,應有中者,是亦不然。何以故?
聖人には三種有る。一つは外道の五神通、二つは阿羅漢・辟支仏、三つは神通を得た大菩薩である。仏はこの三種の中に最も上であるがゆえに大聖と名づく。仏の説く所に如実ならざることなし。生死には始めがない。なぜか。生死の初と後とを求めて皆得られないがゆえに無始と説く。あなたは初なく・後なければ中が有るべきだと言う。これも当らない。なぜか。
「若無有始終,中當云何有?
「もし始なく終わりなければ、中はなおどうして有ることができようか。
是故於此中,先後共亦無。」
ゆえにこの中において、先・後・同時も皆なし。」
因中、後故有初,因初、中故有後。若無初無後,云何有中?生死中無初、中、後,是故說先後共不可得。何以故?
中と後によってこそ初有り、初と中によってこそ後有り。もし初なく・後なければ、どうして中有らんか。生死の中に初・中・後なきがゆえに、先・後・同時も求めて得られないと説く。なぜか。
「若使先有生,後有老死者;
「もし先に生有りて、後に老死有らしめば、
不老死有生,不生有老死。
これはすなわち不老死にして生有り、不生にして老死有らん。
若先有老死,而後有生者;
もし先に老死有りて、しかる後に生有らば、
是則為無因,不生有老死。」
これはすなわち無因にして、不生なれども老死有らん。」
生死眾生,若先生、漸有老而後有死者,則生無老死。法應生有老死、老死有生。又不老死而生,是亦不然;又不因生有老死。若先老死後生,老死則無因,生在後故;又不生,何有老死?若謂生老死先後不可,謂一時成者,是亦有過。何以故?
生死の中の衆生が、もし先に生じて漸々に老有り、しかる後に死有れば、生には老死がない。理によりては生に老死有り、老死に生有るべきである。また不老死にして生ずるも当らず、また生に依らずして老死有るも当らない。もし先に老死有りて後に生有れば、老死はすなわち無因である。生が後に在るがゆえである。また不生なれば、どうして老死があらんか。もし生・老死が先後して行えざると言い、同一時に成就すると説くも、これも過失が有る。なぜか。
「生及於老死,不得一時共;
「生および老死は、同一時に俱り在ること能わず。
生時則有死,是二俱無因。」
生ずる時にすなわち死有れば、この二つは因なきに堕せん。」
若生老死一時,則不然。何以故?生時即有死故。法應生時有、死時無,若生時有死,是事不然。若一時生,則無有相因。如牛角一時出則不相因。是故:
もし生と老死が同一時なれば、これは当らない。なぜか。生ずる時にすなわち死有るからである。理によりては生ずる時に有り、死する時に無かるべきである。もし生ずる時に死有れば、この事は当らない。もし同一時に生ずれば、互いに因待することなし。牛の両角が同一時に生出ずるが如く、相因待しない。これによりて、
「若使初後共,是皆不然者,
「もし初・後・同時のこれらが皆当らなければ、
何故而戲論,謂有生老死?」
なにゆえにぞなお戯論して、生老死有りと言うか。」
思惟生老死三皆有過故,即無生,畢竟空。汝今何故貪著戲論生老死,謂有決定相?復次:
生・老・死の三種を思惟すれば皆過失が有り、これすなわち無生にして畢竟空である。あなたは今なにゆえにぞ戯論の生老死に貪着して、決定の相有りと言うか。さらにいえば、
「諸所有因果,相及可相法,
「すべての一切の因果、相および可相の法、
受及受者等,所有一切法,
受および受者等、すべての一切法は、
非但於生死,本際不可得,
ただ生死のみならず、本際は求めて得られず、
如是一切法,本際皆亦無。」
このように一切法は、本際も皆なし。」
一切法者,所謂因果相可相、受及受者等,皆無本際,非但生死無本際。以略開示故,說生死無本際。
いわゆる一切法とは、因果・相と可相・受と受者等であって、皆本際がない。ただ生死のみ本際なきにあらず。大略を開示せんがために、こそ生死に本際なしと説いた。
中論觀苦品第十二(十偈)
《中論》観苦品第十二(十首の偈)
有人說曰:
ある人は説く、
「自作及他作,共作無因作,
「自作、他作、共作、無因作、
如是說諸苦,於果則不然。」
このように諸苦を説くは、果に堕せば皆当らない。」
有人言:苦惱自作;或言他作;或言亦自作亦他作;或言無因作,於果皆不然。於果皆不然者,眾生以眾緣致苦,厭苦欲求滅。不知苦惱實因緣有四種謬,是故說於果皆不然。何以故?
ある人は説く。苦悩は自ら作したると、あるいは他の作したると説き、あるいはまた自作また他作と説き、あるいは無因作と説く。果に堕せば皆当らない。いわゆる果に堕せば皆当らないとは、衆生は衆縁に依って苦を招来し、苦を厭いて滅を求めんと思うも、苦悩の真実の因縁を知らず、四種の謬見を生ず。ゆえに果に堕せば皆当らないと言う。なぜか。
「苦若自作者,則不從緣生,
「苦がもし自作ならば、縁に随って生ぜず。
因有此陰故,而有彼陰生。」
この一陰有るがゆえに、かの一陰生ずるがゆえである。」
若苦自作,則不從眾緣生,自名從自性生。是事不然。何以故?因前五陰有後五陰生,是故苦不得自作。
もし苦が自作ならば、衆縁に随って生ぜない。いわゆる自とは、自性から生ずることである。この事は当らない。なぜか。先前の五陰に依ってこそ後の五陰が生ずるがゆえに、苦は自作ではあり得ない。
問曰:若言此五陰作彼五陰者,則是他作。
問う者曰く、もしこの一五陰がかの一五陰を作すと言うならば、すなわち他作である。
答曰:是事不然。何以故?
答える者曰く、この事は当らない。なぜか。
「若謂此五陰,異彼五陰者,
「もしこの一五陰がかの一五陰と異なると言うならば、
如是則應言,從他而作苦。」
かくのごときにこそ、苦は他に随って作すと説くべきである。」
若此五陰與彼五陰異,彼五陰與此五陰異者應從他作。如縷與布異者,應離縷有布。若離縷無布者,則布不異縷。如是彼五陰異此五陰者,則應離此五陰有彼五陰。若離此五陰無彼五陰者,則此五陰不異彼五陰,是故不應言苦從他作。
もしこの一五陰がかの一五陰と異なり、かの一五陰がこの一五陰と異なれば、こそ他に随って作すと言うべきである。縷と布とがもし異なれば、縷を離れてなお布有るべきであるが如し。もし縷を離れて布なければ、布は縷に異ならない。このようにかの一五陰がもしこの一五陰に異なれば、この一五陰を離れてなおかの一五陰有るべきである。もしこの一五陰を離れてかの一五陰なければ、この一五陰はかの一五陰に異ならない。ゆえに苦は他に随って作すと説くべきではない。
問曰:自作者,是人人自作苦、自受苦。
問う者曰く、いわゆる自作とは、人が自ら苦を作し、自ら苦を受けることである。
答曰:
答える者曰く、
「若人自作苦,離苦何有人?
「もし人が自ら苦を作せば、苦を離れてどこに人があらんか。
而謂於彼人,而能自作苦。」
それなのにかの人の身上において、彼が自ら苦を作すと言う。」
若謂人自作苦者,離五陰苦,何處別有人而能自作苦?應說是人,而不可說,是故苦非人自作。若謂人不自作苦,他人作苦與此人者,是亦不然。何以故?
もし人が自ら苦を作すと言うならば、五陰という苦を離れて、どこに別に人が有りて自ら苦を作すことができようか。この人を説き出すべきであるが、説き出すことができない。ゆえに苦は人が自ら作したのではない。もし人が自ら苦を作すのではなく、他人が苦を作してこの人に与えると言うならば、これも当らない。なぜか。
「若苦他人作,而與此人者;
「もし苦が他人の作したるを、まましてこの人に与うれば、
若當離於苦,何有此人受?」
もし苦を離れれば、どこにこの人有りてこれを受けんか。」
若他人作苦與此人者,離五陰無有此人受。復次:
もし他人が苦を作してこの人に与うれば、五陰を離れてこの人なくしてこれを受けん。さらにいえば、
「苦若彼人作,持與此人者;
「もし苦がかの人の作したるを、取りてこの人に与えんとすれば、
離苦何有人,而能授於此?」
苦を離れてどこに人有りて、それをこの辺に授与し得んか。」
若謂彼人作苦授與此人者,離五陰苦,何有彼人作苦持與此人?若有者,應說其相。復次:
もしかの人が苦を作してこの人に授与する言うならば、五陰という苦を離れて、どこにかの人有りて苦を作して取りてこの人に与うことができようか。もし有れば、その相を説き出すべきである。さらにいえば、
「自作若不成,云何彼作苦?
「自作がもしなお成立せざれば、どうして他が苦を作すと言えようか。
若彼人作苦,即亦名自作。」
もしかの人が苦を作せば、かの許においてもまた自作と名づくべし。」
種種因緣彼自作苦不成,而言他作苦。是亦不然。何以故?此彼相待故。若彼作苦,於彼亦名自作苦。自作苦先已破,汝受自作苦不成故,他作亦不成。復次:
種種の因縁において、かの辺の自作苦も皆成立せざるに、他が苦を作すと言う。これも当らない。なぜか。此と彼と互いに相因待するがゆえである。もしかの辺が苦を作せば、かの辺においてもまた自作苦と名づく。自作苦は前にすでに破った。あなたが自作苦は成立せざると認めるならば、他作もまた成立しない。さらにいえば、
「苦不名自作,法不自作法,
「苦は自作と名づけず、法は自ら法を作さない。
彼無有自體,何有彼作苦?」
かの辺に自体なければ、どうしてなお他が苦を作さんか。」
自作苦不然。何以故?如刀不能自割。如是法不能自作法,是故不能自作。他作亦不然。何以故?離苦無彼自性。若離苦有彼自性者,應言彼作苦,彼亦即是苦,云何苦自作苦?
自作苦は当らない。なぜか。刀が自らを割くこと能わざるが如し。このように法は自ら法を作すことができない。ゆえに自作すること能わず。他作もまた当らない。なぜか。苦を離れて、かの辺に自性がない。もし苦を離れてかの辺の自性有れば、こそかの辺が苦を作すと説くべきである。かの辺はすなわち苦である。苦がどうして自ら苦を作さんか。
問曰:若自作、他作不然,應有共作。
問う者曰く、もし自作・他作ともに当らなければ、共作が有るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「若此彼苦成,應有共作苦;
「もし此と彼の苦が皆成立せば、こそ共に苦を作す有るべきである。
此彼尚無作,何況無因作!」
此と彼すらなお作なく、いわんや無因作をや。」
自作、他作猶尚有過,何況無因作。無因多過,如〈破作作者品〉中說。復次:
自作・他作すらなお過失有るに、いわんや無因作をや。無因は過失さらに多し。〈破作作者品〉の中の説くが如し。さらにいえば、
「非但說於苦,四種義不成;
「ただ苦を説くのみならず、四種の義理とも成立せず。
一切外萬物,四義亦不成。」
一切の外在の万物も、四種の義理とも成立しない。」
佛法中雖說五受陰為苦,有外道人謂苦受為苦,是故說不但說於苦四種義不成,外萬物地水山木等一切法皆亦不成。
仏法の中には五受陰を苦と説くも、外道人は苦受を取りて苦と為すがゆえに説く。ただ苦を説くのみならず、四種の義理とも成立せず。外在の万物、地・水・山・木等の一切法も、皆成立しないと。
中論觀行品第十三(九偈)
《中論》観行品第十三(九首の偈)
問曰:
問う者曰く、
「如佛經所說,虛誑妄取相,
「仏経の説く所の如く、虚誑はすなわち妄取の相である。
諸行妄取故,是名為虛誑。」
諸行は妄取なるがゆえに、虚誑と名づく。」
佛經中說,虛誑者,即是妄取相;第一實者,所謂涅槃,非妄取相。以是經說故,當知有諸行虛誑妄取相。
仏経の中に説く。いわゆる虚誑とは、すなわち妄取の相である。第一真実とは、いわゆる涅槃であり、妄取の相ではない。経がかく説くがゆえに、諸行有りて虚誑・妄取の相なりと知るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「虛誑妄取者,是中何所取?
「虚誑・妄取――この中に取る所は何ぞ。
佛說如是事,欲以示空義。」
仏がかかる事を説くは、以って空の義理を顕示せんと欲するなり。」
若妄取相法即是虛誑者,是諸行中為何所取?佛如是說,當知說空義。
もし妄取相の法がすなわち虚誑ならば、これらの行の中に取る所は何に取る所は何ぞ。仏がかく説くは、空の義理を説くに在りと知るべきである。
問曰:云何知一切諸行皆是空?
問う者曰く、何によってか一切の諸行は皆空なりと知るか。
答曰:一切諸行虛妄相故空。諸行生滅不住,無自性故空。諸行名五陰,從行生故。五陰名行,是五陰皆虛妄無有定相。何以故?如嬰兒時色非匍匐時色、匍匐時色非行時色、行時色非童子時色、童子時色非壯年時色、壯年時色非老年時色。如色念念不住故,分別決定性不可得。嬰兒色為即是匍匐色乃至老年色,為異,二俱有過。何以故?若嬰兒色即是匍匐色乃至老年色者,如是則是一色皆為嬰兒,無有匍匐乃至老年。又如泥團常是泥團,終不作瓶。何以故?色常定故。若嬰兒色異匍匐色者,則嬰兒不作匍匐、匍匐不作嬰兒。何以故?二色異故。如是童子、少年、壯年、老年色不應相續有,失親屬法無父無子。若爾者,唯有嬰兒應得父,餘則匍匐乃至老年不應有分。是故二俱有過。
答える者曰く、一切の諸行は虚妄の相なるがゆえに空である。諸行は生滅住せず、自性なきがゆえに空である。諸行とは五陰を指し、行に随って生ず。五陰を行と名づく。この五陰は皆虚妄にして確定の相なし。なぜか。嬰児の時の色は匍匐の時の色でなく、匍匐の時の色は行歩の時の色でなく、行歩の時の色は童子の時の色でなく、童子の時の色は壮年の時の色でなく、壮年の時の色は老年の時の色でないが如し。色は念々住せざるがゆえに、一つの決定の性を分別して求めて得られない。嬰児の色は、すなわち匍匐の色より老年の色に至るまで同一か、それとも相異か。二種とも過失が有る。なぜか。もし嬰児の色がすなわち匍匐の色より老年の色に至るならば、これにようてはただ一種の色あるのみで、皆嬰児と成るべきで、匍匐より老年に至るまでなし。また泥団が常に泥団にして、終に瓶を作さざるが如し。なぜか。色が常に確定するがゆえである。もし嬰児の色が匍匐の色に異なれば、嬰児は匍匐を作さず、匍匐もまた嬰児を作さない。なぜか。二種の色が相異なるがゆえである。このようであれば童子・少年・壮年・老年の色は相続して有るべきではなく、すなわち親属の法を失い、父なく子なし。もしこのようであれば、ただ嬰児のみ父を作ることを得べきで、その余の匍匐より老年に至るまで分有るべきではない。ゆえに二種とも過失が有る。
問曰:色雖不定,嬰兒色滅已,相續更生乃至老年色,無有如上過。
問う者曰く、色は確定しないといえども、嬰児の色が滅したる後、相続してさらに生じて老年の色に至る。前の諸の過失はない。
答曰:嬰兒色相續生者,為滅已相續生?為不滅相續生?若嬰兒色滅,云何有相續?以無因故。如雖有薪可燃,火滅故無有相續。若嬰兒色不滅而相續者,則嬰兒色不滅,常住本相亦無相續。
答える者曰く、いわゆる嬰児の色が相続して生ずとは、滅したる後に相続して生ずるか、それとも滅せずして相続して生ずるか。もし嬰児の色が滅せば、どうしてなお相続があらんか。因なきがゆえである。薪有りて燃ゆべきも、火滅せば相続なきが如し。もし嬰児の色が滅せずして相続すれば、嬰児の色は滅せず、常に本よりの相に住して、また相続なし。
問曰:我不說滅不滅故相續生,但說不住相似生,故言相續生。
問う者曰く、私は滅または不滅によりて相続して生ずと説くのではなく、ただ住せずして相似して生ずると説くのみ。ゆえに相続生と名づく。
答曰:若爾者,則有定色而更生,如是應有千萬種色。但是事不然,如是亦無相續。如是一切處求色無有定相,但以世俗言說故有。如芭蕉樹求實不可得,但有皮葉。如是智者求色相念念滅,更無實色可得,不住色形色相。相似次第生難可分別,如燈炎分別定色不可得,從是定色更有色生不可得。是故色無性故空,但以世俗言說故有。受亦如是,智者種種觀察,次第相似故生滅難可別知,如水流相續,但以覺故說三受在身。是故當知,受同色說。想因名相生,若離名相則不生。是故佛說,分別知名字相故名為想。非決定先有,從眾緣生無定性,無定性故如影隨形。因形有影、無形則無影,影無決定性。若定有者,離形應有影。而實不爾,是故從眾緣生,無自性故不可得。想亦如是,但因外名相,以世俗言說故有。識因色聲香味觸等、眼耳鼻舌身等生,以眼等諸根別異故,識有別異。是識為在色、為在眼、為在中間?無有決定。但生已識塵識此人、識彼人。知此人識為即是知彼人識。為異是二,難可分別。如眼識,耳識亦難可分別。以難分別故,或言一或言異,無有決定分別,但從眾緣生故,眼等分別故空無自性。如伎人含一珠出已復示人則生疑,為是本珠、為更有異?識亦如是,生已更生,為是本識、為是異識?是故當知,識不住故無自性,虛誑如幻。諸行亦如是。諸行者,身、口、意。行有二種:淨、不淨。何等為不淨?惱眾生、貪著等,名不淨。不惱眾生、實語、不貪著等,名淨,或增或減。淨行者,在人中、欲天、色天、無色天受果報已則減,還作故名增。不淨行者亦如是,在地獄、畜生、餓鬼、阿修羅中受果報已則減,還作故名增。是故諸行有增有減故不住。如人有病,隨宜將適病則除愈,不將適病則還集。諸行亦如是,有增有減故不決定,但以世俗言說故有,因世諦故得見第一義諦。
答える者曰く、もしこのようであれば、確定の色有りてさらに生ず。これにようては千万種の色有るべきである。しかるにこの事はそうではない。このようにもまた相続なし。このように一切の処に色を求めて確定の相なく、ただ世俗言説に随いてこそ有る。芭蕉樹の如く、実を求めて得られず、ただ皮と葉のみ。このように智者が色の相を求むれば、念々に滅して、さらに実在の色を得べからず、住著する色の形の色の相もなし。相似次第に生じて、分別し難きこと灯焔の如し。一つの確定の色を分別して求めて得られず、この確定の色からさらに色を生ずるもまた求めて得られない。ゆえに色に性なく、これによりて空である。ただ世俗言説に随いてこそ有る。受もまたこのようである。智者が種種に観察すれば、次第相似なるがゆえに生滅は分別知り難く、水流の相続するが如く、ただ覚察するによって身の上に三種の受有りと説く。ゆえに知るべし、受は色と同じく説くと。想は、名と相によって生ず。もし名と相を離れれば生ぜない。ゆえに仏は説く、名字の相を分別了知してこそ想と名づくと。決定して先前にすでに有るのではなく、衆縁に随って生じ、定性なし。定性なきは、影の形に随うが如し。形によってこそ影有り、形なければ影なし。影に決定の性なし。もし決定有れば、形を離れて影有るべきである。しかるに実際はそうではない。ゆえに衆縁に随って生じ、自性なきがゆえに求めて得られない。想もまたこのようで、ただ外在の名相に依り、世俗言説に随いてこそ有る。識は、色声香味触等・眼耳鼻舌身等に依って生ず。眼等の諸根が各各差別なるがゆえに、識に差別有り。この識は色の中に在るか、眼の中に在るか、中間に在るか。いずれも決定なし。ただ生じたる後に、塵を識り、この人を識り、かの人を識る。この人を知る識は、すなわちかの人を知る識か、それとも相異か。この二種は分別し難し。眼識がこのようであれば、耳識もまた分別し難し。分別し難きがゆえに、あるいは一と説き、あるいは異と説く。決定の分別なく、ただ衆縁に随って生じ、眼等の分別なるがゆえに、空にして自性なし。伎人の一つの珠を含み、取り出してまた人に示せば、疑いを生ず。本来の那の珠か、別に一つの珠有るかと。識もまたこのようで、生じてさらに生ず。本来の識か、別の一つの識か。ゆえに知るべし、識は住せず、これによりて自性なく、虚誑にして幻の如しと。諸行もまたこのようである。いわゆる諸行とは、身・口・意である。行に二種有る。浄と不浄である。何を不浄と為すか。衆生を悩乱し、貪着等を、不浄と名づく。衆生を悩乱せず、実語・不貪着等を、浄と名づく。あるいは増あり、あるいは減あり。浄行は、人中・欲天・色天・無色天の中にて果報を受け了われば減し、さらに作せば増と名づく。不浄行もまたこのようで、地獄・畜生・餓鬼・阿修羅の中にて果報を受け了われば減し、さらに作せば増と名づく。ゆえに諸行には増減有り。これによりて住せず。人の病有るが如く、宜に随って調理すれば病は除愈し、調理せざれば病は還りて聚まる。諸行もまたこのようで、増減有るがゆえに確定せず、ただ世俗言説に随いてこそ有る。世諦に依ってこそ、第一義諦を見ることを得る。
所謂無明緣諸行,從諸行有識著,識著故有名色,從名色有六入,從六入有觸,從觸有受,從受有愛,從愛有取,從取有有,從有有生,從生有老、死、憂悲苦惱、恩愛別苦、怨憎會苦等,如是諸苦皆以行為本。佛以世諦故說,若得第一義諦生真智慧者則無明息,無明息故諸行亦不集,諸行不集故見諦所斷身見、疑、戒取等斷,及思惟所斷貪、恚、色染、無色染、調戲無明亦斷。以是斷故一一分滅,所謂無明、諸行、識、名色、六入、觸、受、愛、取、有、生、老死憂悲苦惱恩愛別苦怨憎會苦等皆滅。以是滅故,五陰身畢竟滅更無有餘,唯但有空。是故佛欲示空義故,說諸行虛誑。復次諸法無性故虛誑,虛誑故空。如偈說:
いわゆる無明縁の諸行とは、諸行に随って識の執著有り、識が執著するがゆえに名色有り、名色に随って六入有り、六入に随って触有り、触に随って受有り、受に随って愛有り、愛に随って取有り、取に随って有有り、有に随って生有り、生に随って老・死・憂悲苦悩・恩愛別離之苦・怨憎相会之苦等が有る。これらの苦は皆行を以て根本と為す。仏は世諦のためにこそかく説く。もし第一義諦を得て真の智慧を生ぜば、無明は息む。無明息めば、諸行もまた聚まらない。諸行聚まらざれば、見諦の断ずる所の身見・疑・戒取等は断し、および思惟の断ずる所の貪・恚・色染・無色染・掉挙・無明もまた断ず。これらが断ずるがゆえに、一々の支は滅す。いわゆる無明・諸行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死憂悲苦悩恩愛別離之苦怨憎相会之苦等、皆滅す。これらが滅するがゆえに、五陰身は畢竟に滅して、さらに余残なく、ただ空のみ残る。ゆえに仏は空の義理を顕示せんと欲して、諸行は虚誑と説く。さらにいえば、諸法に性なきがゆえに虚誑であり、虚誑なるがゆえに空である。偈の説く所の如く、
「諸法有異故,知皆是無性;
「諸法は差異有るがゆえに、性なきことを知る。
無性法亦無,一切法空故。」
性なきの法もまたなし。一切法空なるがゆえである。」
諸法無有性。何以故?諸法雖生,不住自性,是故無性。如嬰兒定住自性者,終不作匍匐乃至老年。而嬰兒次第相續有異相現,匍匐乃至老年,是故說見諸法異相故知無性。
諸法に性なし。なぜか。諸法は生ずるといえども、自性に住せざるがゆえに性なし。嬰児がもし確定して自性に住せば、終に匍匐より老年に至るを作さざるが如し。しかるに嬰児は次第相続して、相異の相を顕現し、匍匐より老年に至る。ゆえに諸法の相異なる相を見て、こそ性なきことを知ると説く。
問曰:若諸法異相無性,即有無性法,有何咎?
問う者曰く、もし諸法が相異の相によりて性なきがゆえに、性なしという法が有れば、何の過失が有るか。
答曰:若無性,云何有法?云何有相?何以故?無有根本故。但為破性,故說無性。是無性法若有者,不名一切法空;若一切法空,云何有無性法?
答える者曰く、もし性なければ、どうして法有り、どうして相有ることができようか。なぜか。根本なきがゆえである。ただ性を破るがためにこそ性なしと説く。この性なきの法がもし有れば、一切法空と名づけない。もし一切法空なれば、どうしてなお性なきの法があらんか。
問曰:
問う者曰く、
「諸法若無性,云何說嬰兒,
「諸法に性なければ、どうして嬰児より
乃至於老年,而有種種異?」
老年に至るまで、種種の差異有るを説き得んか。」
諸法若無性則無有異相,而汝說有異相,是故有諸法性。若無諸法性,云何有異相?
諸法に性なければ、相異の相なし。しかるにあなたは相異の相有りと説くがゆえに、諸法の性有り。もし諸法の性なければ、どうして相異の相があらんか。
答曰:
答える者曰く、
「若諸法有性,云何而得異?
「諸法にもし性有れば、どうしてなお差異できようか。
若諸法無性,云何而有異?」
諸法に性なければ、どうしてなお差異有ることができようか。」
若諸法決定有性,云何可得異?性名決定有,不可變異。如真金不可變,又如暗性不變為明、明性不變為暗。復次:
もし諸法に決定の性有れば、どうしてなお差異できようか。性とは、決定有ると名づけ、変異すべからず。真金の変すべからざるが如く、また暗の性は明に変らず、明の性は暗に変らざるが如し。さらにいえば、
「是法則無異,異法亦無異,
「この法に差異なく、相異なる法にも差異なし。
如壯不作老,老亦不作壯。」
壮年は老年を作さず、老年もまた壮年を作さざるが如し。」
若法有異者,則應有異相。為即是法異?為異法異?是二不然。若即是法異,則老應作老;而老實不作老。若異法異者,老與壯異,壯應作老;而壯實不作老。二俱有過。
もし法に差異有れば、相異の相有るべきである。是れこの法が差異するか、それとも別の一法が差異するか。この二種とも当らない。もしこの法が差異するならば、老年は老年を作すべきである。しかるに老年は実に老年を作さない。もし別の一法が差異するならば、老年は壮年と相異なり、壮年は老年を作すべきである。しかるに壮年は実に老年を作さない。二種とも過失が有る。
問曰:若法即異,有何咎?如今眼見年少經日月歲數則老。
問う者曰く、もしこの法が差異すると言うに、何の過失が有るか。いま眼に年少の日月歳数を経て老いるを見る。
答曰:
答える者曰く、
「若是法即異,乳應即是酪;
「もしこの法が差異すれば、乳はすなわち酪であるべきである。
離乳有何法,而能作於酪?」
乳を離れてさらに何の法が有りて、酪を作り成すことができようか。」
若是法即異者,乳應即是酪,更不須因緣。是事不然。何以故?乳與酪有種種異故。乳不即是酪,是故法不即異。若謂異法為異者,是亦不然,離乳更有何物為酪?如是思惟,是法不異、異法亦不異,是故不應偏有所執。
もしこの法が差異すれば、乳はすなわち酪であるべきで、さらに因縁を須いない。この事は当らない。なぜか。乳と酪とには種種の差異有るがゆえである。乳はすなわち酪ではない。ゆえに法はすなわち差異ではない。もし別の一法が差異すると言うならば、これも当らない。乳を離れて、さらに何の物が有りて酪ならんか。このように思惟すれば、この法は差異せず、相異なる法もまた差異せず。ゆえに一辺に偏執すべきではない。
問曰:破是、破異猶有空在,空即是法。
問う者曰く、「是」を破り「異」を破れば、なお空有り。空はすなわち法である。
答曰:
答える者曰く、
「若有不空法,則應有空法;
「もし不空の法有れば、空の法有るべきである。
實無不空法,何得有空法?」
実に不空の法なければ、どうしてなお空の法があらんか。」
若有不空法,相因故應有空法。而上來種種因緣破不空法,不空法無故則無相待,無相待故何有空法?
もし不空の法有れば、相因なるがゆえに空の法有るべきである。しかるに上に種種の因縁をもって不空の法を破った。不空の法なければ、相待なし。相待なければ、どうしてなお空の法があらんか。
問曰:汝說不空法無故空法亦無。若爾者,即是說空但無相待,故不應有執。若有對應有相待、若無對則無相待,相待無故則無相,無相故則無執。如是即為說空。
問う者曰く、あなたは不空の法なく、空の法もまたなしと説く。もしこのようであれば、すなわち空を説くに在り。ただ相待なきがゆえに、執有るべきではない。もし对有れば、相待有るべきである。もし対なければ、相待なし。相待なければ、相なし。相なければ、執なし。このようにもすなわち空を説くに在り。
答曰:
答える者曰く、
「大聖說空法,為離諸見故;
「大聖が空法を説くは、種種の見を離れしめんがためである。
若復見有空,諸佛所不化。」
もしまた空有ると見れば、諸仏も教化すること能わず。」
大聖為破六十二諸見,及無明、愛等諸煩惱故說空。若人於空復生見者,是人不可化。譬如有病須服藥可治,若藥復為病則不可治。如火從薪出以水可滅,若從水生為用何滅?如空是水,能滅諸煩惱火,有人罪重貪著心深,智慧鈍故於空生見,或謂有空、或謂無空,因有無還起煩惱。若以空化此人者,則言我久知是空,若離是空則無涅槃道。如經說,離空無相無作門得解脫者,但有言說。
大聖は六十二種の見、および無明・愛等の種種の煩悩を破らんがため、こそ空を説く。もし人が空に於いてまた見を生ぜば、この人は教化すべからず。たとえば病有りて薬を服することを須うれば治すべきが如し。もし薬がまた病と成れば、治すべからず。火が薪の中から出れば、水をもって滅すべきが如し。もし水の中から生ぜば、何をもって滅さんか。空は水の如く、よく種種の煩悩の火を滅す。ある人は罪重く、貪着の心深く、智慧鈍くして、空に於いて見を生じ、あるいは空有りと言い、あるいは空なしと言い、有無によりてまた煩悩を生起す。もし空を用いてこの人を教化せば、彼は言わん、我はすでにこの空を知る、と。もしこの空を離れれば、すなわち涅槃の道なし。経の上に説くが如く、空・無相・無作の三門を離れて解脱を得るは、ただ言説のみ。
中論觀合品第十四(八偈)
《中論》観合品第十四(八首の偈)
說曰:上〈破根品〉中說見、所見、見者皆不成。此三事無異法故則無合。無合義今當說。問曰:何故眼等三事無合?
説く者曰く、上〈破根品〉の中に見・所見・見者は皆成立せざると説いた。この三事に相異の法なきがゆえに、合なし。合なきの義理を、いま説くべきである。問う者曰く、なぜ眼等の三事に合なきか。
答曰:
答える者曰く、
「見可見見者,是三各異方;
「見・可見・見者は、この三つは各各同じからぬ処に在り。
如是三法異,終無有合時。」
このように三法は相異にして、終に合の時なし。」
見是眼根、可見是色塵、見者是我,是三事各在異處,終無合時。異處者,眼在身內,色在身外,我者或言在身內、或言遍一切處,是故無合。復次若謂有見法,為合而見、不合而見?二俱不然。何以故?若合而見者,隨有塵處應有根有我。但是事不然,是故不合。若不合而見者,根我塵各在異處亦應有見,而不見。何以故?如眼根在此,不見遠處瓶,是故二俱不見。
見は眼根、可見は色塵、見者は我である。この三事は各各同じからぬ処所に在り、終に合の時なし。いわゆる同じからぬ処所とは、眼は身の中に在り、色は身の外に在り、我はあるいは身の中に在ると説き、あるいは遍く一切の処に在ると説く。ゆえに合なし。さらにいえば、もし見の法有れば、合してこそ見るか、合せずしても見るか。二種とも当らない。なぜか。もし合してこそ見れば、およそ塵有る処には皆根有り・我有るべきである。しかるにこの事はそうではない。ゆえに合せず。もし合せずしても見れば、根・我・塵が各各同じからぬ処所に在るも、見有るべきであるが、見えない。なぜか。眼根がここに在るが如く、遠処の瓶を見ること能わず。ゆえに二種とも見えない。
問曰:我、意、根、塵四事合,故有知生,能知瓶衣等萬物,是故有見、可見、見者。
問う者曰く、我・意・根・塵の四事が和合するがゆえに、知が生じ出て、瓶・衣等の万物を知ることができる。ゆえに見・可見・見者有る。
答曰:是事〈根品〉中已破,今當更說。汝說四事合故知生,是知為見瓶衣等物已生、為未見而生?若見已生者,知則無用。若未見而生者,是則未合。云何有知生?若謂四事一時合而知生,是亦不然。若一時生則無相待。何以故?先有瓶、次見、後知生,一時則無先後。知無故,見、可見、見者亦無。如是諸法如幻如夢無有定相,何得有合?無合故空。復次:
答える者曰く、この事は〈根品〉の中ですでに破った。いまさらに説かんとする。あなたは四事和合するがゆえに知が生ずと言う。この知は、瓶・衣等の物を見て後に生ずるか、まだ見ざれば生ずるか。もし見て後に生ずれば、知は用なし。もしまだ見ざれば生ずれば、それはまだ合していない。どうして知の生ずる有らんか。もし四事が同一時に合して知が生ずと言うならば、これも当らない。もし同一時に生ずれば、相待なし。なぜか。先に瓶有り、次に見有り、しかる後に知が生ず。同一時なれば先後なし。知なければ、見・可見・見者もまたなし。このように諸法は幻の如く夢の如く、確定の相なし。どうして合があらんか。合なきがゆえに空である。さらにいえば、
「染與於可染,染者亦復然,
「染および可染、染者もまたこのようであり、
餘入餘煩惱,皆亦復如是。」
その余の入、その余の煩悩も、皆このようである。」
如見、可見、見者無合故,染、可染、染者亦應無合。如說見、可見、見者三法,則說聞、可聞、聞者餘入等。如說染、可染、染者,則說瞋、可瞋、瞋者餘煩惱等。復次:
見・可見・見者に合なきが如く、染・可染・染者もまた合なかるべきである。見・可見・見者の三法を説けば、すなわち聞・可聞・聞者およびその余の入を説いたことになる。染・可染・染者を説けば、すなわち瞋・可瞋・瞋者およびその余の煩悩を説いたことになる。さらにいえば、
「異法當有合,見等無有異,
「相異なる法にこそ合有るべきである。見等は並びて相異なし。
異相不成故,見等云何合?」
相異の相が成立せざれば、見等はどうして合せんか。」
凡物皆以異故有合,而見等異相不可得,是故無合。復次:
およそ物は皆相異なるがゆえに合有る。しかるに見等の相異の相は求めて得られない。ゆえに合なし。さらにいえば、
「非但見等法,異相不可得;
「ただ見等のこれらの法のみならず、相異の相は求めて得られず。
所有一切法,皆亦無異相。」
すべての一切法も、相異の相なし。」
非但見、可見、見者等三事異相不可得,一切法皆無異相。
ただ見・可見・見者等の三事のみ相異の相は求めて得られざるにあらず、一切法も皆相異の相なし。
問曰:何故無有異相?
問う者曰く、なぜ相異の相なきか。
答曰:
答える者曰く、
「異因異有異,異離異無異;
「異は異によりてこそ異有り、異を離れて異なし。
若法從因出,是法不異因。」
もし法が因から出れば、この法は因に異ならず。」
汝所謂異,是異因異法故名為異。離異法不名為異。何以故?若法從眾緣生,是法不異因,因壞果亦壞故。如因梁椽等有舍,舍不異梁椽,梁椽等壞舍亦壞故。
あなたの謂う所の異とは、この異は相異の法有るがゆえに異と名づく。相異の法を離れて異と名づけない。なぜか。もし法が衆縁に随って生ずれば、この法は因に異ならない。因壊すれば果も壊するがゆえである。梁椽等に依ってこそ房舎有り、房舎は梁椽に異ならず。梁椽等が壊せば、房舎も壊するが如し。
問曰:若有定異法,有何咎?
問う者曰く、もし確定の相異の法有れば、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若離從異異,應餘異有異;
「もし「異に随りて来る異」を離れれば、その余の異の上に別に異有るべきである。
離從異無異,是故無有異。」
「異に随りて来る」を離れて異なきがゆえに、実に異なし。」
若離從異有異法者,則應離餘異有異法。而實離從異無有異法,是故無餘異。如離五指異,有拳異者,拳異應於瓶等異物有異。今離五指異,拳異不可得,是故拳異於瓶等無有異法。
もし「異に随りて来る」を離れてなお相異の法有れば、その余の異を離れてなお相異の法有るべきである。しかるに実際には「異に随りて来る」を離れて相異の法なし。ゆえにその余の異なし。五指の異を離れて拳の異有るが如く、拳の異は瓶等の相異の物に対してもまた異有るべきである。いま五指の異を離れて拳の異は求めて得られない。ゆえに拳の異は瓶等に対して相異の法なし。
問曰:我經說,異相不從眾緣生,分別總相故有異相,因異相故有異法。
問う者曰く、我が経の上に説く。相異の相は衆縁に随って生ぜず、総相を分別するがゆえに相異の相有り、相異の相によってこそ相異の法有ると。
答曰:
答える者曰く、
「異中無異相,不異中亦無;
「異の中に異相なく、不異の中にもまたなし。
無有異相故,則無此彼異。」
異相なきがゆえに、此と彼の異なし。」
汝言分別總相故有異相,因異相故有異法。若爾者,異相從眾緣生,如是即說眾緣法,是異相離異法不可得故。異相因異法而有,不能獨成。今異法中無異相。何以故?先有異法故,何用異相?不異法中亦無異相。何以故?若異相在不異法中,不名不異法。若二處俱無,即無異相,異相無故此彼法亦無。復次,異法無故亦無合。
あなたは総相を分別するがゆえに異相有り、異相によってこそ異法有ると説く。もしこのようであれば、異相は衆縁に随って生ず。これにようてはすなわち衆縁の法を説くに在り。この異相は異法を離れて求めて得られざるがゆえである。異相は異法によってこそ有り、独りで成就すること能わず。いま異法の中に異相なし。なぜか。先前にすでに異法有れば、さらに異相を用いて何をせんか。不異の法の中にも異相なし。なぜか。もし異相が不異の法の中にあれば、不異の法と名づけない。もし両処ともになければ、すなわち異相なし。異相なければ、此法と彼法もまたなし。さらにいえば、異法なければ、すなわち合なし。
「是法不自合,異法亦不合,
「この法は自ら合せず、相異なる法もまた合せず。
合者及合時,合法亦皆無。」
合する人および合する時、合する法も皆なし。」
是法自體不合,以一故,如一指不自合。異法亦不合,以異故,異事已成不須合故。如是思惟,合法不可得。是故說合者、合時、合法皆不可得。
この法の自体は合せず。一なればがゆえである。一つの指頭が自らに合せざるが如し。相異なる法もまた合せず。異なればがゆえに、相異の事はすでに成就して、さらに合するを要せず。このように思惟すれば、合の法は求めて得られない。ゆえに合する人・合する時・合する法は皆求めて得られないと説く。
中論巻第二
中論巻第三
龍樹菩薩造梵志青目釋
龍樹菩薩が頌を造り、梵志青目が釈を作す。
姚秦三藏鳩摩羅什譯
後秦・姚秦時代の三蔵法師鳩摩羅什が翻訳。
觀有無品第十五(十一偈)
観有無品第十五(十一首の偈)
問曰:諸法各有性,以有力用故,如瓶有瓶性、布有布性,是性眾緣合時則出。
問う者曰く、諸法は各々性有る。力用有るがゆえである。瓶に瓶性有り、布に布性有るが如く、この性は衆縁和合の時に出る。
答曰:
答える者曰く、
「眾緣中有性,是事則不然;
「衆縁の中に性有りとは、この事は当らない。
性從眾緣出,即名為作法。」
性がもし衆縁から出れば、すなわち所作の法と名づく。」
若諸法有性,不應從眾緣出。何以故?若從眾緣出,即是作法,無有定性。
もし諸法に性有れば、衆縁から出るべきではない。なぜか。もし衆縁から出れば、すなわち所作の法であって、決定の性はない。
問曰:若諸法性從眾緣作,有何咎?
問う者曰く、もし諸法の性が衆縁から作り成せば、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「性若是作者,云何有此義?
「性がもし所作ならば、この言はどうして成立できようか。
性名為無作,不待異法成。」
性は無作と名づけ、相異の法を待たずして成就す。」
如金雜銅則非真金,如是若有性,則不須眾緣,若從眾緣出,當知無真性。又性若決定,不應待他出,非如長短、彼此,無定性故待他而有。問曰:諸法若無自性,應有他性。
金に銅を混ぜれば真の金でなくなるが如く、このように性有れば、衆縁を須いない。もし衆縁から出れば、真性なきと知るべきである。しかも性がもし決定ならば、他を待たずして出るべきである。長短・彼此の如くではない。定性なきがゆえに他を待ちて有る。問う者曰く、諸法にもし自性なければ、他性有るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「法若無自性,云何有他性?
「法に自性なければ、どうしてなお他性があらんか。
自性於他性,亦名為他性。」
自性は他性に対しても、また他性と名づく。」
諸法性眾緣作故,亦因待成,故無自性。若爾者,他性於他亦是自性,亦從眾緣生相待故,亦無。無故,云何言諸法從他性生?他性亦是自性故。
諸法の性は衆縁の所作なるがゆえに、また相待して成就するがゆえに、自性なし。もしこのようであれば、他性もまたかの辺においては自性であって、また衆縁に随って生じ、また相待するがゆえに、またなし。なければ、どうして諸法は他性に随って生ずと言えようか。他性もまた自性なればがゆえである。
問曰:若離自性、他性有諸法,有何咎?
問う者曰く、もし自性・他性を離れてなお諸法有れば、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「離自性他性,何得更有法?
「自性と他性を離れて、どうしてなお法があらんか。
若有自他性,諸法則得成。」
自性と他性有れば、諸法はこそ成立し得る。」
汝說離自性、他性有法者,是事不然。若離自性他性,則無有法。何以故?有自性、他性法則成,如瓶體是自性、依物是他性。
あなたは自性・他性を離れてなお法有ると説く。この事は当らない。もし自性・他性を離れれば、法なし。なぜか。自性・他性有れば、法はこそ成立するがゆえである。瓶の体は自性、依る所の物は他性とするが如し。
問曰:若以自性、他性破有者,今應有無。
問う者曰く、もし自性・他性を用いて有を破れば、いま無が有るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「有若不成者,無云何可成?
「有がもしなお成立せざれば、無はどうして成立できようか。
因有有法故,有壞名為無。」
「有」という法有るがゆえに、有が壊れてこそ無と名づく。」
若汝已受有不成者,亦應受無亦無。何以故?有法壞敗故名無,是無因有壞而有。復次:
もしあなたがすでに有は成立せざると認めたれば、また無もなきと認むべきである。なぜか。有の法が敗壊してこそ無と名づく。この無は有が壊るるによりてこそ有る。さらにいえば、
「若人見有無,見自性他性;
「もし人が有無を見、自性と他性を見れば、
如是則不見,佛法真實義。」
このようでは仏法の真実義を見ること能わず。」
若人深著諸法,必求有見。若破自性則見他性,若破他性則見有,若破有則見無,若破無則迷惑。若利根著心薄者,知滅諸見安隱故,更不生四種戲論,是人則見佛法真實義。是故說上偈。復次:
人がもし諸法に深く執著せば、必ず有見を求めんとす。もし自性を破れば他性を見、もし他性を破れば有を見、もし有を破れば無を見、もし無を破れば迷惑する。もし根器利く、執著の心薄ければ、諸見を滅尽してこそ安穏なりと知りて、さらにこの四種の戯論を生ぜず。この人はすなわち仏法の真実義を見る。ゆえに上の这首の偈を説く。さらにいえば、
「佛能滅有無,如化迦旃延,
「仏はよく有と無とを滅す。迦旃延を教化するが如く、
經中之所說,離有亦離無。」
経の中の説く所は、有を離れまた無を離れり。」
《刪陀迦旃延經》中,佛為說正見義離有離無。若諸法中少決定有者,佛不應破有,無若破有,則人謂為無。佛通達諸法相故,說二俱無。是故汝應捨有無見。復次:
《刪陀迦旃延経》の中に、仏は彼のために正見の義理を説く。有を離れ、無を離れよ、と。もし諸法の中に少しくも決定有有れば、仏は有を破るべきではない。無がもし有を破れば、人はすなわち無と為さん。仏は諸法の相に通達せり。ゆえに両辺ともになしと説く。これによりてあなたは有見・無見を捨つべきである。さらにいえば、
「若法實有性,後則不應異;
「もし法に実に性有れば、後に差異すべきではない。
性若有異相,是事終不然。」
性にもし相異の相有れば、この事は終に当らない。」
若諸法決定有性,終不應變異。何以故?若定有自性,不應有異相,如上真金喻。今現見諸法有異相故,當知無有定相。復次:
もし諸法に決定の性有れば、終に変異すべきではない。なぜか。もし決定の自性有れば、相異の相有るべきではない。上の真金の比喩の如し。いま現前に諸法に相異の相有るを見る。ゆえに確定の相なきと知るべきである。さらにいえば、
「若法實有性,云何而可異?
「もし法に実に性有れば、どうしてなお差異できようか。
若法實無性,云何而可異?」
もし法に実に性なければ、どうしてなお差異できようか。」
若法定有性,云何可變異?若無性,則無自體,云何可變異?復次:
もし法に決定の性有れば、どうして変異できようか。もし性なければ、自体なし。どうして変異できようか。さらにいえば、
「定有則著常,定無則著斷;
「決定有なれば常に堕し、決定無なれば断に堕す。
是故有智者,不應著有無。」
ゆえに智慧有る者は、有無に執著すべきではない。」
若法定有有相,則終無無相,是即為常。何以故?如說三世者,未來中有法相,是法來至現在,轉入過去,不捨本相,是則為常。又說因中先有果,是亦為常。若說定有無,是無必先有今無,是則為斷滅,斷滅名無相續因。由是二見,即遠離佛法。
もし法に決定の「有」の相有れば、終に「無」の相なし。これはすなわち常である。なぜか。三世を説く人の如く、未来の中に法の相有り、この法は現在に来たり、過去に転入して、本よりの相を捨てない。これはすなわち常である。また因の中に先に果有りと説くも、これもまた常である。もし決定の有無を説けば、この無は必ず先前に有りて今に無し。これはすなわち断滅である。断滅とは、相続の因なきと名づく。この二種の見によりて、すなわち仏法に遠離する。
問曰:何故因有生常見、因無生斷見?
問う者曰く、なぜ有生によりて常見あり、無生によりて断見有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若法有定性,非無則是常;
「もし法に決定の性有れば、無ではなく、それはすなわち常である。
先有而今無,是則為斷滅。」
先前に有りて今に無ければ、それはすなわち断滅である。」
若法性定有,則是有相非無相,終不應無。若無則非有,即為無法,先已說過故,如是則墮常見。若法先有,敗壞而無者,是名斷滅。何以故?有不應無故,汝謂有無各有定相故。若有斷常見者,則無罪福等,破世間事,是故應捨。
もし法の性に決定有有れば、すなわち有の相であって無の相ではなく、終に無あるべきではない。もし無なればすなわち有ではなく、すなわちなきの法である。前にすでに説いたが如く、これにようては常見に堕せん。もし法が先前に有りて、敗壊して無と成れば、これを断滅と名づく。なぜか。��は無と成るべきではないのに、あなたは有と無と各々確定の相有りと認める。もし断見・常見有れば、すなわち罪福等なく、世間の事を破る。ゆえに捨つべきである。
中論觀縛解品第十六(十偈)
《中論》観縛解品第十六(十首の偈)
問曰:生死非都無根本,於中應有眾生往來、若諸行往來。汝以何因緣故,說眾生及諸行盡空,無有往來?
問う者曰く、生死は並びて根本なきにあらず。その中に衆生の往来有るべきで、あるいは諸行の往来有るべきである。あなたは何の因縁に依って、衆生および諸行は皆空にして往来なしと説くか。
答曰:
答える者曰く、
「諸行往來者,常不應往來,
「諸行の往来するものは、常なれば往来すべきではない。
無常亦不應,眾生亦復然。」
無常もまた往来すべきではない。衆生もまたこのようである。」
諸行往來六道生死中者,為常相往來?為無常相往來?二俱不然。若常相往來者,則無生死相續,以決定故、自性住故。若以無常往來者,亦無往來生死相續,以不決定故、無自性故。若眾生往來者,亦有如是過。復次:
諸行が六道の生死の中に往来するは、常の相を帯びて往来するか、無常の相を帯びて往来するか。二種とも当らない。もし常の相を帯びて往来すれば、生死の相続なし。すでに決定して自性住著するがゆえである。もし無常を帯びて往来すれば、また往来する生死の相続なし。並びに決定せず、自性なきがゆえである。もし衆生が往来すれば、またこの類の過失が有る。さらにいえば、
「若眾生往來,陰界諸入中,
「もし衆生が往来すれば、陰・界・諸入の中に於いて、
五種求盡無,誰有往來者?」
五種に推し求めて皆尽くなければ、誰が往来する者か。」
生死陰界入即是一義。若眾生於此陰界入中往來者,是眾生於〈燃可燃品〉中五種求不可得,誰於陰界入中而有往來者?復次:
生死・陰・界・入は、実に一つの義である。もし衆生がこれらの陰・界・入の中に往来すれば、この衆生は〈燃可燃品〉の中に五種に推し求めて皆得られない。誰が陰・界・入の中になお往来有らんか。さらにいえば、
「若從身至身,往來即無身;
「もし一身から一身に至れば、往来する者は身なし。
若其無有身,則無有往來。」
もし身並びになければ、すなわち往来なし。」
若眾生往來,為有身往來?為無身往來?二俱不然。何以故?若有身往來,從一身至一身,如是則往來者無身。又若先已有身,不應復從身至身。若先無身則無有,若無有云何有生死往來?
もし衆生が往来すれば、身有りて往来するか、身なきに往来するか。二種とも当らない。なぜか。もし身有りて往来すれば、一身から一身に至る。これにようては往来する者は身なし。しかももし先前にすでに身有れば、さらに身から身に至るべきではない。もし先前に身なければ、すなわち「有」なし。もし「有」なければ、どうして生死往来があらんか。
問曰:經說有涅槃滅一切苦,是滅應諸行滅、若眾生滅。
問う者曰く、経の上に涅槃有りて一切の苦を滅すと説く。この滅は、諸行の滅か、あるいは衆生の滅か。
答曰:二俱不滅。何以故?
答える者曰く、二種とも滅せず。なぜか。
「諸行若滅者,是事終不然;
「諸行がもし滅せば、この事は終に当らない。
眾生若滅者,是事亦不然。」
衆生がもし滅せば、この事もまた当らない。」
汝說若諸行滅、若眾生滅,是事先已答,諸行無有性,眾生亦種種推求生死往來不可得,是故諸行不滅,眾生亦不滅。
あなたはあるいは諸行の滅、あるいは衆生の滅と説く。この事は前にすでに答えた。諸行に性なく、衆生もまた種種に推し求めて生死往来を得られないがゆえに、諸行は滅せず、衆生もまた滅せない。
問曰:若爾者則無縛無解,根本不可得故。
問う者曰く、もしこのようであれば、縛なく解なし。根本は求めて得られざるがゆえである。
答曰:
答える者曰く、
「諸行生滅相,不縛亦不解;
「諸行は生滅の相にして、縛せず解けもしない。
眾生如先說,不縛亦不解。」
衆生は先前に説いたが如く、縛せず解けもしない。」
汝謂諸行及眾生有縛解者,是事不然。諸行念念生滅故,不應有縛解。眾生先說五種推求不可得,云何有縛解?復次:
あなたは諸行および衆生に縛有り解有りと認める。この事は当らない。諸行は念々生滅して、縛解有るべきではない。衆生は先前に説いたが如く五種に推し求めて皆得られない。どうして縛解があらんか。さらにいえば、
「若身名為縛,有身則不縛,
「もし身を縛と名づくれば、身有れば縛せず、
無身亦不縛,於何而有縛?」
身なきもまた縛せず。なおどこに在りて縛有ることができようか。」
若謂五陰身名為縛,若眾生先有五陰,則不應縛。何以故?一人有二身故。無身亦不應縛。何以故?若無身則無五陰,無五陰則空,云何可縛?如是第三更無所縛。復次:
もし五陰身を縛と名づくと言うならば、もし衆生が先前にすでに五陰有れば、縛すべきではない。なぜか。同一の人が二つの身有ることとなるがゆえである。身なきもまた縛すべきではない。なぜか。もし身なければすなわち五陰なく、五陰なければすなわち空である。どうして縛すべきあらんか。このように第三の更に縛すべきものなし。さらにいえば、
「若可縛先縛,則應縛可縛;
「もし可縛が先前にすでに縛有れば、こそこの可縛を縛すべきである。
而先實無縛,餘如去來答。」
しかるに先前に実に縛なし。その余は〈去来品〉の答えたが如し。」
若謂可縛先有縛,則應縛可縛。而實離可縛先無縛,是故不得言眾生有縛。或言,眾生是可縛、五陰是縛;或言,五陰中諸煩惱是縛、餘五陰是可縛。是事不然。何以故?若離五陰先有眾生者,則應以五陰縛眾生,而實離五陰無別眾生。若離五陰別有煩惱者,則應以煩惱縛五陰,而實離五陰無別煩惱。復次如〈去來品〉中說,已去不去、未去不去、去時不去,如是未縛不縛、縛已不縛、縛時不縛。復次亦無有解。何以故?
もし可縛が先前にすでに縛有ると言うならば、こそこの可縛を縛すべきである。しかるに実際には可縛を離れて先前に縛なし。ゆえに衆生に縛有るとは言えない。あるいは衆生は可縛、五陰は縛と説き、あるいは五陰の中の種種の煩悩は縛、その余の五陰は可縛と説く。この事は当らない。なぜか。もし五陰を離れて先前にすでに衆生有れば、こそ五陰を用いて衆生を縛すべきである。しかるに実際には五陰を離れて別の衆生なし。もし五陰を離れて別に煩悩有れば、こそ煩悩を用いて五陰を縛すべきである。しかるに実際には五陰を離れて別の煩悩なし。さらにいえば、〈去来品〉の中の説くが如く、すでに去りたるは去らず、まだ去らざるは去らず、去時もまた去らず。このようにまだ縛せざるは縛せず、すでに縛せりたるは縛せず、まさに縛する時もまた縛せない。さらにいえば、また解なし。なぜか。
「縛者無有解,無縛亦無解,
「すでに縛せりたるに解なく、縛せざるにも解なし。
縛時有解者,縛解則一時。」
もしまさに縛する時に解有れば、縛と解とはすなわち同一時なり。」
縛者無有解。何以故?已縛故。無縛亦無解。何以故?無縛故。若謂縛時有解,則縛解一時,是事不然,又縛解相違故。
すでに縛せりたるに解なし。なぜか。すでに縛せりたればがゆえである。縛せざるにも解なし。なぜか。縛なきがゆえである。もしまさに縛する時に解有ると言うならば、縛と解とはすなわち同一時である。この事は当らない。しかも縛と解とは相い違する。
問曰:有人修道現入涅槃得解脫,云何言無?
問う者曰く、ある人は道を修して、現前に涅槃に入りて解脱を得る。どうしてなしと言うことができようか。
答曰:
答える者曰く、
「若不受諸法,我當得涅槃;
「もし諸法を受けざれば、我は涅槃を得ん。
若人如是者,還為受所縛。」
人がもしこのようであれば、なお受の縛する所なり。」
若人作是念:我離受得涅槃。是人即為受所縛。復次:
人がもしこの念を作さば、我は受を離れて涅槃を得ん、と。この人はすなわち受の縛する所となる。さらにいえば、
「不離於生死,而別有涅槃,
「並びに生死を離れずして、別に涅槃有り。
實相義如是,云何有分別?」
実相の義理はこのようである。どうしてなお分別できようか。」
諸法實相第一義中,不說離生死別有涅槃。如經說,涅槃即生死、生死即涅槃。如是諸法實相中,云何言是生死、是涅槃?
諸法の実相・第一義の中には、生死を離れて別に涅槃有ると説かない。経の上の説くが如く、涅槃はすなわち生死、生死はすなわち涅槃。このように諸法の実相の中に於いて、どうしてこれを生死、これを涅槃と言うことができようか。
中論觀業品第十七(三十三偈)
《中論》観業品第十七(三十三首の偈)
問曰:汝雖種種破諸法,而業決定有,能令一切眾生受果報。如經說,一切眾生皆隨業而生,惡者入地獄、修福者生天、行道者得涅槃,是故一切法不應空。所謂業者:
問う者曰く、あなたは種種に諸法を破るといえども、業は決定有りて、よく一切の衆生に果報を受けしむ。経の上の説くが如く、一切の衆生は皆業に随って生ず。悪を作す者は地獄に入り、福を修する者は天に生じ、道を行ずる者は涅槃を得る。ゆえに一切法は空であるべきではない。いわゆる業とは、
「人能降伏心,利益於眾生,
「人はよく心を降伏し、衆生を利益し、
是名為慈善,二世果報種。」
これを慈善と名づく。両世の果報の種子なり。」
人有三毒,為惱他故生行。善者先自滅惡,是故說降伏其心利益他人。利益他者,行佈施、持戒、忍辱等,不惱眾生,是名利益他,亦名慈善福德,亦名今世後世樂果種子。復次:
人に三毒有りて、他人を悩乱せんがために行を生ず。善の人は先ず自ら悪を滅す。ゆえにその心を降伏し、他人を利益すと説く。いわゆる他を利益するとは、布施・持戒・忍辱等を行じ、衆生を悩乱せず。これを他を利益すと名づけ、また慈善福徳と名づけ、また今世後世の楽果の種子と名づく。さらにいえば、
「大聖說二業,思與從思生,
「大聖は二種の業を説く。思および思に随って生ず、と。
是業別相中,種種分別說。」
業の各別の相の中に於いて、種種に分別して説く。」
大聖略說業有二種:一者思、二者從思生,是二業如阿毘曇中廣說。
大聖は大略に業に二種有ると説く。一つは思、二つは思に随って生ず。この二種の業は阿毘曇の中の広く説くが如し。
「佛所說思者,所謂意業是;
「仏の説く所の思とは、すなわち意業である。
所從思生者,即是身口業。」
思に随って生ずる所は、すなわち身業・口業である。」
思是心數法,諸心數法中能發起、有所作,故名業。因是思故起外身口業。雖因餘心心數法有所作,但思為所作本,故說思為業。是業今當說相。
思は心所法である。諸の心所法の中に発起し能く作する所有るがゆえに、業と名づく。この思によりてこそ、外に身業・口業を生起す。なおその余の心と心所に依っても作する所有るといえども、思は所作の根本であるがゆえに、思を業と為すと説く。この業をいま相を説くべきである。
「身業及口業,作與無作業,
「身業および口業、作と無作の業、
如是四事中,亦善亦不善。
かくのごとき四事の中に、また善有り、また不善有り。
從用生福德,罪生亦如是,
受用に随って福徳を生じ、罪の生もまたこのようであり、
及思為七法,能了諸業相。」
および思と、合わせて七法と為し、能く諸業の相を了別す。」
口業者,四種口業。身業者,三種身業。是七種業有二種差別,有作、有無作。作時名作業,作已常隨逐生,名無作業。是二種有善、不善。不善名不止惡,善名止惡。復有從用生福德,如施主施受者,若受者受用,施主得二種福:一從施生;二從用生。如人以箭射人,若箭殺人,有二種罪:一者從射生;二者從殺生。若射不殺,射者但得射罪,無殺罪。是故偈中說罪福從用生,如是名為六種業。第七名思,是七種即是分別業相。是業有今世、後世果報,是故決定有業、有果報故,諸法不應空。
口業とは、四種の口業である。身業とは、三種の身業である。この七種の業に二種の差別有る。作有り、無作有る。まさに作する時を業と名づけ、作り了わりて常に随い生ずるを無作業と名づく。この二種に善有り、不善有り。不善とは、悪を止めざると名づく。善とは、悪を止めると名づく。また受用に随って福徳を生ず有り。施主が受者に布施するが如く、もし受者が受用せば、施主は二種の福を得る。一つは布施に随って生じ、二つは受用に随って生ず。人が箭をもって人を射るが如く、もし箭が人を殺せば、二種の罪有る。一つは射に随って生じ、二つは殺に随って生ず。もし射るも殺さざれば、射る人はただ射の罪を得るのみで、殺の罪なし。ゆえに偈に罪福は受用に随って生ずと言う。このようにして六種の業と名づく。第七は思と名づく。この七種はすなわち業の相を分別するものである。この業に今世・後世の果報有るがゆえに、決定して業有り・果報有り。諸法は空であるべきではない。
答曰:
答える者曰く、
「業住至受報,是業即為常;
「業が報を受くるに至るまで住せば、この業はすなわち常である。
若滅即無業,云何生果報?」
もし滅せばすなわち業なし。どうしてなお果報を生じ得んか。」
業若住至受果報,即為是常。是事不然。何以故?業是生滅相,一念尚不住,何況至果報!若謂業滅,滅則無,云何能生果報?
業がもし果報を受くるに至るまで住せば、それはすなわち常である。この事は当らない。なぜか。業は生滅の相にして、一念すらなお住せざるに、いわんや果報に至るまで住せんや。もし業は滅すと言うならば、滅せばすなわち無である。どうして果報を生じ得んか。
問曰:
問う者曰く、
「如芽等相續,皆從種子生,
「芽等の相続の如く、皆種子に随って生じ、
從是而生果,離種無相續。
これより果を生ず。種子を離れて相続なし。
從種有相續,從相續有果,
種子に随って相続有り、相続に随って果有り。
先種後有果,不斷亦不常。
先に種有りて後に果有り。断ぜずしてまた常ならず。
如是從初心,心法相續生,
このように最初の心に随りて、心法は相続して生じ、
從是而有果,離心無相續。
これより果有る。心を離れて相続なし。
從心有相續,從相續有果,
心に随って相続有り、相続に随って果有り。
先業後有果,不斷亦不常。」
先に業有りて後に果有り。断ぜずしてまた常ならず。」
如從穀有芽,從芽有莖葉等相續,從是相續而有果生。離種無相續生,是故從穀子有相續,從相續有果。先種後有果,故不斷亦不常。如穀種喻,業果亦如是。初心起罪福,猶如穀種。因是心,餘心心數法相續生,乃至果報。先業後果故,不斷亦不常。若離業有果報,則有斷常。是善業因緣果報者,所謂:
穀に随って芽有り、芽に随って茎葉等の相続有り、この相続に随って果の生有るが如し。種子を離れて相続の生なし。ゆえに穀子に随って相続有り、相続に随って果有り。先に種有りて後に果有り。ゆえに断ぜずしてまた常ならず。穀種の比喩の如く、業果もまたこのようである。最初の心は罪福を起こす。穀種に譬うるが如し。この心によりて、その余の心と心所と相続して生じ、果報に至る。先に業有りて後に果有り。ゆえに断ぜずしてまた常ならず。もし業を離れてなお果報有れば、すなわち断有り・常有るべきである。いわゆる善業因縁の果報とは、
「能成福德者,是十白業道,
「能く福徳を成就するは、十種の白業道である。
二世五欲樂,即是白業報。」
両世の五欲の楽は、すなわち白業の果報なり。」
白名善淨。成福德因緣者,從是十白業道生,不殺、不盜、不邪婬、不妄語、不兩舌、不惡口、不無益語、不嫉、不恚、不邪見,是名為善。從身口意生是果報者,得今世名利,後世天人中貴處生。佈施恭敬等雖有種種福德,略說則攝在十善道中。
白とは、善浄と名づく。福徳を成就する因縁は、この十種の白業道に随って生ず。不殺・不盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不無益語・不嫉・不恚・不邪見、これを善と名づく。身口意に随ってこれらの果報を生出す。今世の名利を得、後世に天・人の中の貴き処に受生す。布施・恭敬等に種種の福徳有るといえども、大略に説いて皆十善道の中に収む。
答曰:
答える者曰く、
「若如汝分別,其過則甚多,
「もしあなたのごとく分別すれば、過失はすなわち甚だ多し。
是故汝所說,於義則不然。」
ゆえにあなたの説く所は、義理の上に当らず。」
若以業果報相續故,以穀子為喻者,其過甚多,但此中不廣說。汝說穀子喻者,是喻不然。何以故?穀子有觸有形,可見有相續。我思惟是事,尚未受此言,況心及業,無觸無形不可見。生滅不住欲以相續,是事不然。復次從穀子有芽等相續者,為滅已相續?為不滅相續?若穀子滅已相續者,則為無因。若穀子不滅而相續者,從是穀子常生諸穀。若如是者,一穀子則生一切世間穀。是事不然,是故業果報相續則不然。
もし業果報の相続なるがゆえに、穀子を取りて比喩と作せば、過失は甚だ多し。ただここには広く説かず。あなたの説く穀子の比喩は、この比喩は当らない。なぜか。穀子には触有り・形有り、見るべきもの有り、相続有り。我この事を思惟するに、なおこの言を受けず。いわんや心および業は、触なく・形なく・見るべからざるにして、生滅住せず、それなのに相続を用いて説かんと欲するは、この事は当らない。さらにいえば、穀子に随って芽等の相続有るは、滅したる後に相続するか、滅せずして相続するか。もし穀子が滅したる後にこそ相続せば、すなわち無因である。もし穀子が滅せずして相続すれば、この穀子に随っては常に種種の穀を生出すべきである。もしこのようであれば、一つの穀子が一切の世間の穀を生出すこととなる。この事は当らない。ゆえに業果報の相続は当らない。
問曰:
問う者曰く、
「今當復更說,順業果報義,
「いまさらに業果報に随順する義理を説かんとす。
諸佛辟支佛,賢聖所稱歎。」
これは諸仏・辟支仏・賢聖の称嘆する所なり。」
所謂:
いわゆる、
「不失法如券,業如負財物,
「不失法は券契の如く、業は欠負の財物の如し。
此性則無記,分別有四種。
この性は無記にして、分別して四種有り。
見諦所不斷,但思惟所斷,
見諦の断ずる所にあらず、ただ思惟の断ずる所なり。
以是不失法,諸業有果報。
この不失法有るがゆえに、諸業にこそ果報有る。
若見諦所斷,而業至相似,
もし見諦の断ずる所なれども、業はなお相似に至れば、
則得破業等,如是之過咎。
すなわち破業等のこの類の過失を得ん。
一切諸行業,相似不相似,
一切の諸の行業は、相似・不相似の、
一界初受身,爾時報獨生。
一界の中に最初に身を受くる時、その時に果報は独り生ず。
如是二種業,現世受果報,
このように二種の業は、現世に果報を受け、
或言受報已,而業猶故在。
あるいは報を受け了わりて後、業はなお在ると説き、
若度果已滅,若死已而滅,
あるいは果を度して後に滅し、あるいは死して後に滅す。
於是中分別,有漏及無漏。」
この中において分別する、有漏および無漏を。」
不失法者當知如券,業者如取物。是不失法,欲界繫、色界繫、無色界繫亦不繫。若分別善、不善、無記中,但是無記。是無記義,阿毘曇中廣說。見諦所不斷,從一果至一果,於中思惟所斷。是以諸業,以不失法故果生。若見諦所斷而業至相似,則得破業過。是事阿毘曇中廣說。復次不失法者,於一界諸業相似不相似,初受身時果報獨生,於現在身從業更生業。是業有二種,隨重而受報。或有言,是業受報已業猶在,以不念念滅故。若度果已滅、若死已而滅者,須陀洹等度果已而滅,諸凡夫及阿羅漢死已而滅。於此中分別有漏及無漏者,從須陀洹等諸賢聖,有漏、無漏等應分別。
いわゆる不失法とは、券契の如きと知るべきである。業とは、取り去る所の財物の如し。この不失法は、欲界繋・色界繋・無色界繋有り、また不繋も有る。もし善・不善・無記に分別せば、それはただ無記である。この無記の義理は、阿毘曇の中の広く説くが如し。見諦の断ずる所にあらず、一果から一果に至るに、その中に於いては思惟の断ずる所なり。これによりて諸業は不失法有るがゆえに、果はこそ生ず。もし見諦の断ずる所なれども業はなお相似に至れば、すなわち破業の過失有らん。この事は阿毘曇の中の広く説くが如し。さらにいえば、いわゆる不失法とは、一界の中に諸業は相似・不相似にして、最初に身を受くる時に果報は独り生ず。現在の身の上に、業に随ってさらに業を生ず。この業に二種有りて、重きに随って報を受く。あるいはある人は説く。この業は報を受け了わりて後も業はなお在り。念々滅するにあらざるがゆえである、と。いわゆる果を度して已に滅し、死已にして滅すとは、須陀洹等は果を度して後に滅し、諸の凡夫および阿羅漢は死して後に滅す。この中において有漏および無漏を分別す。須陀洹等の諸の賢聖より、有漏・無漏等は分別すべきである。
答曰:是義俱不離斷常過,是故亦不應受。
答える者曰く、これらの義理は皆断・常の過失を離れず。ゆえにまた受くべきではない。
問曰:若爾者,則無業果報。
問う者曰く、もしこのようであれば、すなわち業果報なし。
答曰:
答える者曰く、
「雖空亦不斷,雖有亦不常,
「空なるも断ぜず、有なるも常ならず。
業果報不失,是名佛所說。」
業果報は失わず。これをこそ仏の説く所と為す。」
此論所說義離於斷常。何以故?業畢竟空、寂滅相、自性離,有何法可斷、何法可失?顛倒因緣故,往來生死亦不常。何以故?若法從顛倒起則是虛妄無實,無實故非常。復次貪著顛倒不知實相故,言業不失。此是佛所說。復次:
この部の論の説く所の義理は、断と常とを離れたり。なぜか。業は畢竟空にして寂滅の相、自性遠離なれば、なお何の法か断ずべき、何の法か失うべきがあらんか。顛倒の因縁によりて生死に往来するも、また常ならず。なぜか。もし法が顛倒から生起せば、すなわち虚妄にして実ならず。実ならざるがゆえに常ならず。さらにいえば、顛倒に貪着して実相を知らざれば、こそ業は失わずと説く。これは仏の説く所なり。さらにいえば、
「諸業本不生,以無定性故;
「諸業は本より生ぜず。定性なきがゆえである。
諸業亦不滅,以其不生故。
諸業はまた滅せず。それ生ぜざるがゆえである。
若業有性者,是則名為常,
もし業に性有れば、それはすなわち常と名づく。
不作亦名業,常則不可作。
作さずしても業と名づくれば、常はすなわち作すことができない。
若有不作業,不作而有罪,
もし不作业有れば、作さずして罪有り、
不斷於梵行,而有不淨過。
梵行を断ぜずして、不浄の過失有らん。
是則破一切,世間語言法,
このようでは一切の世間言語の法を破り、
作罪及作福,亦無有差別。
罪を作すことおよび福を作すことも、また差別なし。
若言業決定,而自有性者,
もし業は決定して自ら性有りと言わば、
受於果報已,而應更復受。
果報を受け了わりて後も、なおさらに受くべきである。
若諸世間業,從於煩惱生,
もし世間の諸業が煩悩に随って生ずれば、
是煩惱非實,業當何有實?」
これらの煩悩は実ならざるに、業はなおどうして実有らんか。」
第一義中諸業不生。何以故?無性故。以不生因緣故則不滅,非以常故不滅。若不爾者,業性應決定有。若業決定有性則為是常,若常則是不作業。何以故?常法不可作故。復次若有不作業者,則他人作罪此人受報,又他人斷梵行而此人有罪,則破世俗法。若先有者,冬不應思為春事,春不應思為夏事。有如是等過。復次作福及作罪者則無有別異,起佈施持戒等業名為作福,起殺盜等業名為作罪。若不作而有業,則無有分別。復次是業若決定有性,則一時受果報已復應更受。是故汝說以不失法故有業報,則有如是等過。復次若業從煩惱起,是煩惱無有決定,但從憶想分別有。若諸煩惱無實,業云何有實?何以故?因無性故業亦無性。
第一義には諸業は生ぜず。なぜか。性なきがゆえである。不生の因縁なるがゆえに、また滅せず。常なるがゆえに滅せざるのではない。もしこのようでなければ、業の性は決定有るべきである。もし業に決定の性有れば、それはすなわち常である。もし常なれば、すなわち作すことなし。なぜか。常の法は作すこと能わざるがゆえである。さらにいえば、もし不作业有れば、すなわち他人が罪を作して此人が報を受け、また他人が梵行を断じて此人に罪有ることとなり、世俗法を破る。もし先前にすでに有れば、冬には春の事を思量すべきではなく、春には夏の事を思量すべきではない。この類の過失が有る。さらにいえば、福を作すことおよび罪を作すことに差別なし。布施・持戒等の業を起こすを作福と名づけ、殺・盗等の業を起こすを作罪と名づく。もし作さずして業有れば、分別なし。さらにいえば、この業がもし決定の性有れば、同一時に果報を受け了わりて後もなおさらに受くべきである。ゆえにあなたが不失法有るがゆえに業報有りと説くは、この類の過失が有る。さらにいえば、もし業が煩悩に随って生起せば、これらの煩悩は並びに決定なく、ただ憶想分別に随って有る。もし諸の煩悩が実ならざれば、業はどうして実有らんか。なぜか。因に性なければ、業にも性なきがゆえである。
問曰:若諸煩惱及業無性不實,今果報身現有,應是實。
問う者曰く、もし諸の煩悩および業に性なく実ならざれば、いま果報の身が現前に有るは、実であるべきである。
答曰:
答える者曰く、
「諸煩惱及業,是說身因緣;
「諸の煩悩および業は、身の因縁と説かるるも、
煩惱諸業空,何況於諸身。」
煩悩と諸業とは皆空なるに、いわんやこれらの身をや。」
諸賢聖說煩惱及業是身因緣,是中愛能潤生,業能生上中下好醜貴賤等果報。今諸煩惱及業,種種推求無有決定,何況諸身有決定果?隨因緣故。
諸の賢聖は煩悩および業は身の因縁と説く。その中に愛はよく生を潤し、業はよく上中下・好醜貴賤等の果報を生ず。いま諸の煩悩および業を、種種に推し求めて皆決定なきに、いわんや諸の身に決定の果あらんや。ただ因縁に随うのみである。
問曰:汝雖種種因緣破業及果報,而經說,有起業者。起業者有故,有業有果報。如說:
問う者曰く、あなたは種種の因縁を用いて業および果報を破るといえども、経の上に業を起こす人有りと説く。業を起こす人有るがゆえに、業有り・果報有る。説く所の如く、
「無明之所蔽,愛結之所縛,
「無明の蔽う所となり、愛結の縛する所となりて、
而於本作者,不即亦不異。」
しかるに本よりの作者に対して、即でもなく異でもなし。」
《無始經》中說,眾生為無明所覆、愛結所縛,於無始生死中往來,受種種苦樂。今受者於先作者,不即是、亦不異。若即是,人作罪受牛形,則人不作牛、牛不作人。若異則失業果報,墮於無因,無因則斷滅。是故今受者於先作者,不即是、亦不異。
《無始経》の中に説く。衆生は無明の覆う所となり、愛結の縛する所となりて、無始の生死の中に往来して、種種の苦楽を受く。いま受ける者は先前に作した者に対して、即でもなく異でもない。もし即なれば、人は罪を作して牛形を受くれば、人は牛を作さず、牛もまた人を作さない。もし異なれば、すなわち業果報を失い、無因に堕す。無因はすなわち断滅である。ゆえにいま受ける者は先前に作した者に対して、即でもなく異でもない。
答曰:
答える者曰く、
「業不從緣生,不從非緣生,
「業は縁に随って生ぜず、また非縁に随っても生ぜず。
是故則無有,能起於業者。
ゆえに能く業を起こす者なし。
無業無作者,何有業生果?
業なく作者なければ、どうして業が果を生ぜんか。
若其無有果,何有受果者?」
もし果並びになければ、どうして果を受ける人があらんか。」
若無業、無作業者,何有從業生果報?若無果報,云何有受果報者?業有三種:五陰中假名人是作者,是業於善惡處生,名為果報。若起業者尚無,何況有業、有果報及受果報者?
もし業なく・作業する人なければ、どうして業に随って生じ出る果報があらんか。もし果報なければ、どうして果報を受ける人があらんか。業に三種有りて、五陰の中に仮に人を立てて作者と為す。この業は善悪の処に生じて、果報と名づく。もし業を起こす人すらなおなければ、いわんや業有り・果報有りおよび果報を受ける人をや。
問曰:汝雖種種破業、果報及起業者,而今現見眾生作業受果報。是事云何?
問う者曰く、あなたは種種に業・果報および業を起こす人を破るといえども、いま現前に衆生が業を作し果報を受くるを見る。この事はどうか。
答曰:
答える者曰く、
「如世尊神通,所作變化人,
「世尊が神通を以て作す所の変化人の如く、
如是變化人,復變作化人。
かくのごとき変化人は、また変化して化人を作す。
如初變化人,是名為作者,
最初の変化人の如く、かれをこそ作者と名づく。
變化人所作,是則名為業。
変化人の作す所は、かれをこそ業と名づく。
諸煩惱及業,作者及果報,
諸の煩悩および業、作者および果報は、
皆如幻與夢,如炎亦如嚮。」
皆幻と夢の如く、陽焔の如く、また廻響の如し。」
如佛神通力所作化人,是化人復化作化人。如化人,無有實事但可眼見,又化人口業說法、身業佈施等,是業雖無實而可眼見。如是生死身作者及業,亦應如是知。諸煩惱者,名為三毒,分別有九十八使、九結、十纏、六垢等無量諸煩惱。業名為身、口、意業。今世、後世分別有善、不善、無記,苦報、樂報、不苦不樂報,現報業、生報業、後報業,如是等無量。作者名為能起諸煩惱業、能受果報者。果報名從善惡業生無記五陰,如是等諸業皆空無性,如幻如夢、如炎如嚮。
仏が神通力を以て作す所の化人の如く、この化人はまた化して化人を作す。化人の如く、実事なし、ただ眼をもって見るべきのみ。また化人の口業は法を説き、身業は布施等するも、これらの業は実ならざるといえども、眼をもって見るべきものあり。このように生死身の作者および業もまた、かくのごとく知るべきである。いわゆる諸の煩悩とは、三毒と名づけ、分別して九十八使・九結・十纏・六垢等の無量の諸煩悩有る。業とは、身・口・意業と名づく。今世・後世に分別して善・不善・無記、苦報・楽報・不苦不楽報、現報業・生報業・後報業、かくのごとき無量あり。作者とは、能く諸の煩悩業を起こし、能く果報を受くる者と名づく。果報とは、善悪の業に随って生出ずる無記の五陰と名づく。このように諸業は皆空にして性なく、幻の如く夢の如く、陽焔の如く廻響の如し。
中論觀法品第十八(十二偈)
《中論》観法品第十八(十二首の偈)
問曰:若諸法盡畢竟空、無生無滅,是名諸法實相者,云何入?
問う者曰く、もし諸法が皆畢竟空にして無生無滅なれば、これを諸法の実相と名づく。どうして入るか。
答曰:滅我我所著故,得一切法空。無我慧名為入。
答える者曰く、我および我所への執を滅して、一切法空を得る。無我の慧を、入と名づく。
問曰:云何知諸法無我?
問う者曰く、何によってか諸法無我なりと知るか。
答曰:
答える者曰く、
「若我是五陰,我即為生滅;
「もし我がすなわち五陰ならば、我はすなわち生滅と成る。
若我異五陰,則非五陰相。
もし我が五陰と異なれば、すなわち五陰の相ではない。
若無有我者,何得有我所?
もし我なければ、どうしてなお我所があらんか。
滅我我所故,名得無我智。
我・我所を滅するを、無我の智を得と名づく。
得無我智者,是則名實觀;
無我の智を得る者は、かれをこそ如実観と名づく。
得無我智者,是人為希有。
無我の智を得る者は、この人は希有なり。
內外我我所,盡滅無有故,
内外の我・我所は皆滅尽してなければ、
諸受即為滅,受滅則身滅。
諸受はすなわち滅し、受滅せばすなわち身滅す。
業煩惱滅故,名之為解脫,
業と煩悩と滅するを、解脱と名づく。
業煩惱非實,入空戲論滅。
業と煩悩とは実ならず、空に入れば戯論は滅す。
諸佛或說我,或說於無我,
諸仏はあるいは我を説き、あるいは無我を説く。
諸法實相中,無我無非我。
諸法の実相の中に於いては、我なく、また非我もなし。
諸法實相者,心行言語斷,
諸法の実相は、心行と言語と皆断ぜん。
無生亦無滅,寂滅如涅槃。
生ぜずまた滅せず、寂滅にして涅槃の如し。
一切實非實,亦實亦非實,
一切実・非実、また実また非実、
非實非非實,是名諸佛法。
非実非非実、これをこそ諸仏の法と名づく。
自知不隨他,寂滅無戲論,
自ら知りて他に随わず、寂滅にして戯論なく、
無異無分別,是則名實相。
差異なく分別なきは、かれをこそ実相と名づく。
若法從緣生,不即不異因,
もし法が縁に随って生ずれば、因に即せず、また因に異ならず。
是故名實相,不斷亦不常。
ゆえに実相と名づく。断ぜずしてまた常ならず。
不一亦不異,不常亦不斷,
一でもなく異でもなく、常ならず断ぜず、
是名諸世尊,教化甘露味。
これをこそ諸の世尊の教化の甘露味と名づく。
若佛不出世,佛法已滅盡,
もし仏が世に出ざれば、仏法はすでに滅尽して、
諸辟支佛智,從於遠離生。」
諸の辟支仏の智は、遠離に随って生ず。」
有人說神,應有二種:若五陰即是神、若離五陰有神。若五陰是神者,神則生滅相,如偈中說。若神是五陰,即是生滅相。何以故?生已壞敗故。以生滅相故,五陰是無常。如五陰無常,生滅二法亦是無常。何以故?生滅亦生已壞敗故無常。神若是五陰,五陰無常故,神亦應無常生滅相;但是事不然。若離五陰有神,神即無五陰相,如偈中說。若神異五陰,則非五陰相,而離五陰更無有法。若離五陰有法者,以何相何法而有?若謂神如虛空,離五陰而有者,是亦不然。何以故?〈破六種品〉中已破,虛空無有法名為虛空。若謂以有信故有神,是事不然。何以故?信有四種:一現事可信;二名比知可信,如見煙知有火;三名譬喻可信,如國無鍮石喻之如金;四名賢聖所說故可信,如說有地獄、有天、有欝單曰。無有見者,信聖人語故知。是神於一切信中不可得,現事中亦無,比知中亦無。何以故?比知名先見故後比類而知,如人先見火有煙,後但見煙則知有火。神義不然,誰能先見神與五陰合,後見五陰知有神?若謂有三種比知:一者如本;二者如殘;三者共見。如本名先見火有煙,今見煙知如本有火。如殘名如炊飯,一粒熟知餘者皆熟。共見名如眼見人從此去到彼,亦見其去;日亦如是,從東方出至西方。雖不見去,以人有去相故,知日亦有去。如是苦樂憎愛覺知等,亦應有所依。如見人民,知必依王。是事皆不然。何以故?共相信先見人與去法合而至餘方,後見日到餘方,故知有去法。無有先見五陰與神合,後見五陰知有神,是故共相比知中亦無神。聖人所說中亦無神。何以故?聖人所說皆先眼見而後說,又諸聖人說餘事可信故,當知說地獄等亦可信。而神不爾,無有先見神而後說者,是故於四信等諸信中求神不可得,求神不可得故無,是故離五陰無別神。
ある人は神を説くに、二種有るべきとする。あるいは五陰がすなわち神、あるいは五陰を離れて神有る。もし五陰が神ならば、神はすなわち生滅の相である。偈の中の説くが如く、もし神が五陰なれば、すなわち生滅の相である、と。なぜか。生じては壊敗するがゆえである。生滅の相なれば、五陰は無常である。五陰が無常なるが如く、生滅の二法もまた無常である。なぜか。生滅もまた生じては壊敗するがゆえに無常である。神がもし五陰なれば、五陰は無常なれば、神もまた無常・生滅の相であるべきである。しかるにこの事はそうではない。もし五陰を離れて神有れば、神には五陰の相なし。偈の中の説くが如く、もし神が五陰に異なれば、すなわち五陰の相ではない、と。しかるに五陰を離れてさらに法なし。もし五陰を離れて法有れば、何の相・何の法を以ってか有らんか。もし神は虚空の如く、五陰を離れて有ると説くならば、これも当らない。なぜか。〈破六種品〉の中ですでに破った。虚空には並びに一つの虚空と名づく法なし。もし信有るがゆえに神有ると説くならば、この事は当らない。なぜか。信に四種有る。一、現前の事は信ずべし。二、比知と名づくは信ずべし。烟を見て火有ると知るが如し。三、譬喻と名づくは信ずべし。国の中に鍮石なき時に金を以て比喩するが如し。四、賢聖の説く所なるがゆえに信ずべし。地獄有り・天有り・鬱単越有りと説くが如く、見ざる人も聖人の言を信ずるがゆえにこそ知る。この神は一切の信の中に求めて得られない。現前の事の中にもなく、比知の中にもなし。なぜか。いわゆる比知とは、先前に見て、後に比類してこそ知る。人が先前に火に烟有るを見て、後にただ烟を見てすなわち火有ると知るが如し。神の義理はこのようではない。誰か先前に神と五陰の合するを見て、後に五陰を見てこそ神有ると知る者あらんか。もし三種の比知有ると言うならば、一は如本、二は如残、三は共見である。如本とは、先前に火に烟有るを見、いま烟を見て、本のごとく火有ると知ると名づく。如残とは、飯を炊くに一粒熟せばその余は皆熟すと知るが如きと名づく。共見とは、眼に人が此から彼に至るを見、また彼の去るを見るが如く、日もまたこのようで、東方より出て西方に至る。去るは見えずといえども、人に去の相有るがゆえに、日にも去有ると知るが如きと名づく。このように苦楽憎愛覚知等もまた、依る所有るべきである。人民を見て、必ず王に依ると知るが如し。これらの事は皆当らない。なぜか。共相の信とは、先前に人と去の法と和合して別の処に至るを見て、後に日の別の処に至るを見て、こそ去の法有ると知る。並びに先前に五陰と神の合するを見たることなく、後に五陰を見てこそ神有ると知る。ゆえに共相比知の中にも神なし。聖人の説く所の中にも神なし。なぜか。聖人の説く所は皆先前に眼見してしかる後にこそ説く。また諸の聖人はその余の事を説いて信ずべし、地獄等を説くも信ずべきと知るべきである。しかるに神はこのようではない。先前に神を見てしかる後に説くことなし。ゆえに四信等の諸信の中に神を求めて得られない。神を求めて得られざれば、すなわち無である。これによりて五陰を離れて並びに別の神なし。
復次〈破根品〉中見、見者、可見破故,神亦同破。又眼見麁法尚不可得,何況虛妄憶想等而有神,是故知無我。因有我故有我所,若無我則無我所,修習八聖道分,滅我我所因緣故,得無我無我所決定智慧。
さらにいえば、〈破根品〉の中に見・見者・可見を破れば、神もまた同じく破らる。また眼に見る所の粗法すらなお求めて得られないのに、いわんや虚妄の憶想等に神有らんや。ゆえに無我と知る。我有るがゆえにこそ我所有る。もし我なければすなわち我所なし。八聖道分を修習して、我・我所の因縁を滅して、無我・無我所の決定の智慧を得る。
又無我無我所者,於第一義中亦不可得。無我無我所者,能真見諸法。凡夫人以我我所障慧眼故,不能見實。今聖人無我我所故,諸煩惱亦滅。諸煩惱滅故,能見諸法實相。內外我我所滅故諸受亦滅,諸受滅故無量後身皆亦滅,是名說無餘涅槃。
また無我・無我所は、第一義の中にも求めて得られない。無我・無我所の人は、能く真に諸法を見る。凡夫人は我・我所によりて慧眼を障されて、実を見ること能わず。いま聖人は我・我所なく、諸の煩悩もまた滅す。諸の煩悩滅せば、能く諸法の実相を見る。内外の我・我所滅せば、諸受もまた滅す。諸受滅せば、無量の後身も皆滅す。これを無余涅槃を説くと名づく。
問曰:有餘涅槃云何?
問う者曰く、有余涅槃はどうか。
答曰:諸煩惱及業滅故,名心得解脫。是諸煩惱業皆從憶想分別生、無有實,諸憶想分別皆從戲論生。得諸法實相畢竟空,諸戲論則滅,是名說有餘涅槃。實相法如是。諸佛以一切智觀眾生故,種種為說,亦說有我亦說無我。若心未熟者,未有涅槃分,不知畏罪,為是等故說有我。又有得道者,知諸法空,但假名有我,為是等故說我無咎。又有佈施持戒等福德,厭離生死苦惱畏涅槃永滅,是故佛為是等說無我。諸法但因緣和合,生時空生、滅時空滅,是故說無我,但假名說有我。又得道者,知無我不墮斷滅,故說無我無咎。是故偈中說,諸佛說有我,亦說於無我,若於真實中,不說我非我。
答える者曰く、諸の煩悩および業滅するを、心の解脱を得と名づく。これらの煩悩業は皆憶想分別に随って生じ、並びに実ならず。諸の憶想分別は皆戯論に随って生ず。諸法の実相畢竟空を得れば、諸の戯論は滅す。これを有余涅槃を説くと名づく。実相の法はこのようである。諸仏は一切智を以て衆生を観察して、種種に彼のために説く。あるいは我有ると説き、あるいは無我と説く。もし心なお熟さず、なお涅槃の分なく、罪を畏るることを知らざれば、これらの人のために我有ると説く。また道を得る人は諸法空なりと知りて、ただ仮名に我有るのみ。これらの人のために我を説くに過失なし。また布施・持戒等の福徳有りて、生死の苦悩を厭離し、涅槃の永久の滅を畏るるがゆえに、仏はこれらの人のために無我を説く。諸法はただ因縁和合なり。生ずる時には空に生じ、滅する時には空に滅す。ゆえに無我を説き、ただ仮名に我有ると説く。また道を得る人は無我を知りて断滅に堕せざるがゆえに、無我を説くに過失なし。これによりて偈に言う。諸仏は我有ると説き、また無我と説く。もし真実の中に於いては、我・非我を説かない、と。
問曰:若無我是實,但以世俗故說有我,有何咎?
問う者曰く、もし無我が実にして、ただ世俗のためにこそ我有ると説くに、何の過失が有るか。
答曰:因破我法有無我,我決定不可得,何有無我。若決定有無我,則是斷滅生於貪著。如《般若》中說菩薩有我亦非行、無我亦非行。
答える者曰く、我という法を破るがゆえにこそ無我有る。我は決定して求めて得られないのに、どうしてなお無我があらんか。もし決定して無我有れば、すなわち断滅であって、貪着を生出す。《般若》の中の説くが如く、菩薩には我あるも行ではなく、無我あるも行ではない。
問曰:若不說我非我、空不空,佛法為何所說?
問う者曰く、もし我・非我・空・不空を説かなければ、仏法の説く所は何ぞ。
答曰:佛說諸法實相,實相中無語言道、滅諸心行。心以取相緣生,以先世業果報故有,不能實見諸法,是故說心行滅。
答える者曰く、仏は諸法の実相を説く。実相の中に言語の路なく、諸の心行を滅尽す。心は取相・縁に因って生じ、先世の業の果報に因って有るがゆえに、如実に諸法を見ること能わず。ゆえに心行滅すと説く。
問曰:若諸凡夫心不能見實,聖人心應能見實,何故說一切心行滅?
問う者曰く、もし諸の凡夫の心は実を見ること能わざれば、聖人の心は実を見るべきである。なぜ一切の心行は滅すと説くか。
答曰:諸法實相即是涅槃。涅槃名滅,是滅為向涅槃,故亦名為滅。若心是實,何用空等解脫門?諸禪定中,何故以滅盡定為第一?又亦終歸無餘涅槃。是故當知,一切心行皆是虛妄,虛妄故應滅。諸法實相者,出諸心數法,無生無滅、寂滅相,如涅槃。
答える者曰く、諸法の実相はすなわち涅槃である。涅槃は滅と名づく。この滅は涅槃に趣向せんがためなれば、また滅と名づく。もし心が実なれば、なお空等の解脱門を用いて何をせんか。諸の禅定の中に、なにゆえに滅尽定を以て第一と為すか。また終に無余涅槃に帰す。ゆえに知るべし、一切の心行は皆虚妄なりと。虚妄なるがゆえに滅すべきである。諸法の実相は諸の心所法を超出し、無生無滅・寂滅の相にして、涅槃の如し。
問曰:經中說,諸法先來寂滅相即是涅槃。何以言如涅槃?
問う者曰く、経の中に説く、諸法は本よりこのかた寂滅の相にして、すなわち涅槃なり、と。なにゆえに「涅槃の如し」と説くか。
答曰:著法者分別法有二種:是世間、是涅槃。說涅槃是寂滅,不說世間是寂滅。此論中說一切法性空寂滅相,為著法者不解故,以涅槃為喻。如汝說涅槃相空無相寂滅無戲論,一切世間法亦如是。
答える者曰く、法に執著する人は法を分別して二種有りとす。これは世間、これは涅槃と。涅槃は寂滅と説き、世間は寂滅と説かない。この部の論の中に一切法は性空にして寂滅の相と説く。法に執著する人は解えざるがゆえに、こそ涅槃を以て比喩と為す。あなたの説く涅槃の相は空・無相・寂滅・戯論なきが如く、一切の世間法もまたこのようである。
問曰:若佛不說我非我,諸心行滅、言語道斷者,云何令人知諸法實相?
問う者曰く、もし仏が我・非我を説かず、諸の心行滅して言語の路断ぜば、どうして人に諸法の実相を知らしめんか。
答曰:諸佛無量方便力,諸法無決定相,為度眾生或說一切實、或說一切不實、或說一切實不實、或說一切非實非不實。一切實者,推求諸法實性,皆入第一義平等一相,所謂無相。如諸流異色異味,入於大海則一色一味。一切不實者,諸法未入實相時,各各分別觀皆無有實,但眾緣合故有。一切實不實者,眾生有三品,有上、中、下。上者觀諸法相非實非不實;中者觀諸法相一切實一切不實;下者智力淺故,觀諸法相少實少不實,觀涅槃無為法不壞故實,觀生死有為法虛偽故不實。非實非不實者,為破實不實,故說非實非不實。
答える者曰く、諸仏に無量の方便力有り。諸法に決定の相なきがゆえに、衆生を度せんがため、あるいは一切実を説き、あるいは一切不実を説き、あるいは一切はまた実また不実を説き、あるいは一切は非実非不実を説く。いわゆる一切実とは、諸法の実性を推し求めて、皆第一義に入り、平等一相にして、いわゆる無相。諸の流の色異なり味異なりて、大海に入ればすなわち一色一味なるが如し。いわゆる一切不実とは、諸法がまだ実相に入らざる時、各各に分別観察すれば皆実なし。ただ衆縁の和合に因ってこそ有る。いわゆる一切はまた実また不実とは、衆生に三品有り、上・中・下有るがゆえである。上の人は諸法の相を観察して非実非不実とす。中の人は諸法の相を観察して一切実・一切不実とす。下の人は智力浅くして、諸法の相を観察して少しく実・少しく不実とす。涅槃の無為法は壊れざるを見て実と為し、生死の有為法は虚偽なるを見て不実と為す。いわゆる非実非不実とは、実と不実を破らんがために、こそ非実非不実を説く。
問曰:佛於餘處說離非有非無,此中何以言非有非無是佛所說?
問う者曰く、仏は別の処に非有非無を離るべしと説くに、ここにはなにゆえに非有非無は仏の説く所と言うか。
答曰:餘處為破四種貪著故說。而此中於四句無戲論,聞佛說則得道,是故言非實非不實。
答える者曰く、別の処には四種の貪着を破らんがために説く。しかるにここには四句に於いて戯論なきを、仏の説を聞いてすなわち道を得るがゆえに、非実非不実を説く。
問曰:知佛以是四句因緣說,又得諸法實相者以何相可知?又實相云何?答曰:若能不隨他。不隨他者,若外道雖現神力說是道是非道,自信其心而不隨之,乃至變身雖不知非佛,善解實相故心不可迴。此中無法可取可捨故,名寂滅相。寂滅相故,不為戲論所戲論。戲論有二種,一者愛論、二者見論,是中無此二戲論。二戲論無故,無憶想分別、無別異相,是名實相。
問う者曰く、仏がこの四句の因縁を用いて説くを知れり。また諸法の実相を得る人は、何の相を以てか知るべきか。また実相はどのようか。答える者曰く、能く他に随わざるを以てなり。いわゆる他に随わずとは、もし外道が神力を現じてこれは道・これは道にあらずと説くも、自ら其の心を信じて他に随わず、乃至身を変えて彼が仏にあらざるを知らずとも、善く実相を解するがゆえに、心は回転すべからず。ここに取るべき捨つべき法なく、これを寂滅の相と名づく。寂滅の相なれば、戯論の戯論する所とならず。戯論に二種有る。一は愛論、二は見論。ここにこの二種の戯論なし。二種の戯論なければ、すなわち憶想分別なく、各別差異の相なし。これを実相と名づく。
問曰:若諸法盡空,將不墮斷滅耶?又不生不滅或墮常耶?
問う者曰く、もし諸法が皆空なれば、断滅に堕するにあらずや。また不生不滅なれば、あるいは常に堕するか。
答曰:不然。先說實相無戲論,心相寂滅言語道斷。汝今貪著取相,於實相法中見斷常過。得實相者,說諸法從眾緣生,不即是因亦不異因,是故不斷不常。若果異因則是斷,若不異因則是常。
答える者曰く、そうではない。先前に実相には戯論なく、心相寂滅にして言語の路断ずと説いた。あなたはいま取相に貪着して、実相の法の中に断・常の過失を見る。実相を得る人は、諸法は衆縁に随って生じ、因に即せず、また因に異ならずと説く。ゆえに不断不常である。もし果が因に異なればすなわち断であり、もし因に異ならなければすなわち常である。
問曰:若如是解,有何等利?
問う者曰く、もしこのように解れば、何の利益が有るか。
答曰:若行道者能通達如是義,則於一切法不一不異、不斷不常。若能如是,即得滅諸煩惱戲論,得常樂涅槃,是故說諸佛以甘露味教化。如世間言得天甘露漿,則無老病死無諸衰惱。此實相法是真甘露味,佛說實相有三種:若得諸法實相、滅諸煩惱,名為聲聞法;若生大悲發無上心,名為大乘;若佛不出世,無有佛法時,辟支佛因遠離生智。若佛度眾生已入無餘涅槃,遺法滅盡。先世若有應得道者,少觀厭離因緣,獨入山林遠離憒鬧得道,名辟支佛。
答える者曰く、もし道を行ずる人が能くこの義理に通達せば、すなわち一切法に於いて是一でもなく是異でもなく、不断不常なり。もし能くこのようであれば、すなわち諸の煩悩戯論を滅尽して、常楽涅槃を得る。ゆえに諸仏は甘露味を用いて教化すと説く。世間に天の甘露漿を得れば老病死なく、種種の衰悩なしと説くが如し。この実相法は真の甘露味である。仏の説く実相に三種有り。もし諸法の実相を得て諸の煩悩を滅尽せば、声聞法と名づく。もし大悲を生じ無上の心を発せば、大乘と名づく。もし仏が世に出ず、仏法なき時には、辟支仏は遠離に因って智を生ず。もし仏が衆生を度し了えてすでに無余涅槃に入り、遺法滅尽せば、先世にもし道を得べき人有りて、少しく厭離の因縁を観察し、独り山林に入りて喧閙に遠離して道を得るを、辟支仏と名づく。
中論觀時品第十九(六偈)
《中論》観時品第十九(六首の偈)
問曰:應有時,以因待故成。因有過去時,則有未來、現在時;因現在時,有過去、未來時;因未來時,有過去、現在時。上中下一異等法,亦相因待故有。
問う者曰く、時有るべきである。相待に因ってこそ成立するがゆえである。過去時有るがゆえに、こそ未来・現在時有り。現在時有るがゆえに、こそ過去・未来時有り。未来時有るがゆえに、こそ過去・現在時有り。上中下・一異等の法も、また相待に因ってこそ有る。
答曰:
答える者曰く、
「若因過去時,有未來現在;
「もし過去時に因ってこそ未来・現在有れば、
未來及現在,應在過去時。」
未来および現在は、過去時の中に有るべきである。」
若因過去時,有未來、現在時者,則過去時中應有未來、現在時。何以故?隨所因處有法成,是處應有是法。如因燈有明成,隨有燈處應有明。如是因過去時,成未來、現在時者,則過去時中應有未來、現在時。若過去時中有未來、現在時者,則三時盡名過去時。何以故?未來、現在時在過去時中故。若一切時盡過去者,則無未來、現在時,盡過去故。若無未來、現在時,亦應無過去時。何以故?過去時因未來、現在時故名過去時。如因過去時成未來、現在時,如是亦應因未來、現在時成過去時。今無未來、現在時故,過去時亦應無。是故先說,因過去時成未來、現在時,是事不然。若謂過去時中無未來、現在時,而因過去時成未來、現在時。是事不然。何以故?
もし過去時に因ってこそ未来・現在時有れば、過去時の中に未来・現在時有るべきである。なぜか。因る所の処所に随って法有りて成就せば、かの処所にはこの法有るべきであるがゆえである。燈に因ってこそ光明成就するが如く、燈有る処所に随って光明有るべきである。このように過去時に因ってこそ未来・現在時成就すれば、過去時の中に未来・現在時有るべきである。もし過去時の中に未来・現在時有れば、三時は皆過去時と名づくべきである。なぜか。未来・現在時が過去時の中に在るがゆえである。もし一切の時が皆過去なれば、未来・現在時なし。皆過去と成ればがゆえである。もし未来・現在時なければ、また過去時もあるべきではない。なぜか。過去時は未来・現在時に因ってこそ過去時と名づくがゆえである。過去時に因って未来・現在時を成就するが如く、このようにまた未来・現在時に因って過去時を成就すべきである。いま未来・現在時なければ、過去時もまたあるべきではない。ゆえに先前に過去時に因って未来・現在時を成就すと説くは、この事は当らない。もし過去時の中に未来・現在時なけれども、過去時に因って未来・現在時を成就すと言うならば、この事は当らない。なぜか。
「若過去時中,無未來現在;
「もし過去時の中に未来・現在なければ、
未來現在時,云何因過去?」
未来・現在時は、どうしてなお過去に因らんか。」
若未來、現在時不在過去時中者,云何因過去時成未來、現在時。何以故?若三時各異相,不應相因待成,如瓶衣等物各自別成不相因待。而今不因過去時,則未來、現在時不成。不因現在時,則過去、未來時不成。不因未來時,則過去、現在時不成。汝先說過去時中雖無未來、現在時,而因過去時成未來、現在時者。是事不然。
もし未来・現在時が過去時の中に在らざれば、どうして過去時に因って未来・現在時を成就せんか。なぜか。もし三時に各々の相有れば、相待して成就すべきではない。瓶・衣等の物が各々別に成就して相因待せざるが如し。しかるにいま過去時に因らざれば、未来・現在時は成立せず。現在時に因らざれば、過去・未来時は成立せず。未来時に因らざれば、過去・現在時は成立せず。あなたが先前に過去時の中に未来・現在時なけれども、過去時に因って未来・現在時を成就すと説くは、この事は当らない。
問曰:若不因過去時成未來、現在時,而有何咎?
問う者曰く、もし過去時に因らずして未来・現在時を成就せば、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「不因過去時,則無未來時,
「過去時に因らざれば、すなわち未来時なく、
亦無現在時,是故無二時。」
また現在時もなし。ゆえにこの両時はなし。」
不因過去時,則不成未來、現在時。何以故?若不因過去時有現在時者,於何處有現在時?未來亦如是,於何處有未來時?是故不因過去時則無未來、現在時,如是相待有故,實無有時。
過去時に因らざれば、未来・現在時は成立せず。なぜか。もし過去時に因らずして現在時有れば、どこに在りて現在時があらんか。未来もまたこのようで、どこに在りて未来時があらんか。ゆえに過去時に因らざれば、すなわち未来・現在時なし。このように相待に因ってこそ有るにして、実に時なし。
「以如是義故,則知餘二時,
「この義理に因って、すなわちその余の両時を知る。
上中下一異,是等法皆無。」
上中下・一異のこれらの法も皆なし。」
以如是義故,當知餘未來現在亦應無,及上中下一異等諸法亦應皆無。如因上有中下,離上則無中下。若離上有中下,則不應相因待。因一故有異、因異故有一,若一實有,不應因異而有;若異實有,不應因一而有。如是等諸法,亦應如是破。
この義理に因って、こそその余の未来・現在もまたあるべきではないと知るべきである。および上中下・一異等の諸法もまた皆なかるべきである。上に因ってこそ中下有るが如く、上を離れて中下有れば、相待すべきではない。一に因ってこそ異有り、異に因ってこそ一有る。もし一が実有れば、異に因って有るべきではない。もし異が実有れば、一に因って有るべきではない。このように諸法もまたこのように破るべきである。
問曰:如有歲月日須臾等差別,故知有時。
問う者曰く、年・月・日・須臾等の差別有るがゆえに、時有ると知る。
答曰:
答える者曰く、
「時住不可得,時去亦叵得,
「時は住すれども求めて得られず、時は去るも求めて得られず。
時若不可得,云何說時相?
時がもし求めて得られなければ、どうして時の相を説かんか。
因物故有時,離物何有時?
物に因ってこそ時有り、物を離れてどこに時があらんか。
物尚無所有,何況當有時!」
物すらなおなきに、いわんやなお時有らんや。」
時若不住,不應可得,時住亦無。若時不可得,云何說時相?若無時相則無時。因物生故則名時,若離物則無時。上來種種因緣破諸物,物無故,何有時?
時がもし住せざれば、可得であるべきではない。時の住にもまたなし。もし時を求めて得られなければ、どうして時の相を説かんか。もし時の相なければ、すなわち時なし。物生ずるに因ってこそ時と名づく。もし物を離れればすなわち時なし。上に種種の因縁を以て諸物を破った。物なければ、どこに時があらんか。
中論觀因果品第二十(二十四偈)
《中論》観因果品第二十(二十四首の偈)
問曰:眾因緣和合現有果生故,當知是果從眾緣和合有。
問う者曰く、衆因縁和合して、現前に果の生有る。知るべし、この果は衆縁和合に随って有ると。
答曰:
答える者曰く、
「若眾緣和合,而有果生者;
「もし衆縁和合して果の生有れば、
和合中已有,何須和合生?」
和合の中にすでに有れば、なお和合して生ずるを用いて何をせん。」
若謂眾因緣和合有果生,是果則和合中已有。而從和合生者,是事不然。何以故?果若先有定體,則不應從和合生。
もし衆因縁和合して果の生有ると説くならば、この果はすなわち和合の中にすでに有る。それなのにまた和合に随って生ずるは、この事は当らない。なぜか。果がもし先前にすでに確定の体有れば、和合に随って生ずべきではない。
問曰:眾緣和合中雖無果,而果從眾緣生者,有何咎?
問う者曰く、衆縁和合の中に果なけれども、果は衆縁に随って生ず。何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若眾緣和合,是中無果者,
「もし衆縁和合に、この中に果なければ、
云何從眾緣,和合而果生?」
どうして衆縁和合に随って果生ぜんか。」
若從眾緣和合則果生者,是和合中無果,而從和合生。是事不然。何以故?若物無自性,是物終不生。復次:
もし衆縁和合に随って則ち果生ずれば、この和合の中に果なきに、和合に随って生ず。この事は当らない。なぜか。もし物に自性なければ、この物は終に生に生ぜざるがゆえである。さらにいえば、
「若眾緣和合,是中有果者;
「もし衆縁和合に、この中に果有れば、
和合中應有,而實不可得。」
和合の中に有るべきであるが、実に求めて得られず。」
若從眾緣和合中有果者,若色應可眼見、若非色應可意知,而實和合中果不可得。是故和合中有果,是事不然。復次:
もし衆縁和合の中に果有れば、色なれば眼を用いて見るべきであり、色でなければ意を用いて知るべきである。しかるに実に和合の中に果は求めて得られない。ゆえに和合の中に果有るは、この事は当らない。さらにいえば、
「若眾緣和合,是中無果者;
「もし衆縁和合に、この中に果なければ、
是則眾因緣,與非因緣同。」
これらの衆因縁はすなわち非因縁と相同じとなる。」
若眾緣和合中無果者,則眾因緣即同非因緣。如乳是酪因緣,若乳中無酪,水中亦無酪。若乳中無酪,則與水同,不應言但從乳出。是故眾緣和合中無果者,是事不然。
もし衆縁和合の中に果なければ、衆因縁はすなわち非因縁と相同じとなる。乳は酪の因縁なるが如く、もし乳の中に酪なければ、水の中にも酪なし。もし乳の中に酪なければ、すなわち水と相同じとなる。ただ乳から出ると説くべきではない。ゆえに衆縁和合の中に果なしは、この事は当らない。
問曰:因為果作因已滅,而有因果。無如是咎。
問う者曰く、果のために因を作してすでに滅したれば、かえって因有り果有る。この類の過失なし。
答曰:
答える者曰く、
「若因與果因,作因已而滅,
「もし因が果に与えて因を作し、作り了わりて因滅せば、
是因有二體,一與一則滅。」
この因に二つの体有り。一は与、一は滅。」
若因與果作因已而滅者,是因則有二體:一謂與因;二謂滅因。是事不然,一法有二體故。是故因與果作因已而滅,是事不然。
もし因が果に与えて因を作してすでに滅せば、この因に二つの体有る。一つを与の因と名づけ、二つを滅の因と名づく。この事は当らない。同一の法に二つの体有ればがゆえである。ゆえに因が果に与えて因を作してすでに滅すは、この事は当らない。
問曰:若謂因不與果作因已而滅,亦有果生,有何咎。
問う者曰く、もし因は果に与えて因を作さずしてすでに滅したるも、また果の生有ると言うに、何の過失あらん。
答曰:
答える者曰く、
「若因不與果,作因已而滅,
「もし因が果に与えて因を作さずしてすでに滅せば、
因滅而果生,是果則無因。」
因滅して果生ず。この果はすなわち無因なり。」
若是因不與果作因已而滅者,則因滅已而果生,是果則無因。是事不然。何以故?現見一切果,無有無因生者。是故汝說因不與果作因已而滅亦有果生者,是事不然。
もしこの因が果に与えて因を作さずしてすでに滅せば、すなわち因滅して果生ず。この果はすなわち無因である。この事は当らない。なぜか。現前に一切の果を見るに、無因にして生ずることなきがゆえである。ゆえにあなたが因は果に与えて因を作さずしてすでに滅したるも果の生有ると説くは、この事は当らない。
問曰:眾緣合時而有果生者,有何咎?
問う者曰く、衆縁合する時に果の生有るに、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若眾緣合時,而有果生者,
「もし衆縁合する時に果の生有れば、
生者及可生,則為一時俱。」
能生および可生は、すなわち同一時に俱り在らん。」
若眾緣合時有果生者,則生者可生即一時俱。但是事不爾。何以故?如父子不得一時生。是故汝說眾緣合時有果生者,是事不然。
もし衆縁合する時に果の生有れば、能生と可生とすなわち同一時に俱り在る。しかるにこの事はそうではない。なぜか。父と子は同一時に生ずること能わざるが如し。ゆえにあなたが衆縁合する時に果の生有ると説くは、この事は当らない。
問曰:若先有果生,而後眾緣合,有何咎?
問う者曰く、もし先に果生じて、しかる後に衆縁こそ合するに、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若先有果生,而後眾緣合,
「もし先に果生じて、しかる後に衆縁こそ合せば、
此即離因緣,名為無因果。」
これはすなわち因縁を離れて、無因の果と名づく。」
若眾緣未合而先有果生者,是事不然,果離因緣故則名無因果。是故汝說眾緣未合時先有果生者,是事則不然。
もし衆縁まだ合せざるに先に果の生有れば、この事は当らない。果が因縁を離れるは、すなわち無因の果と名づく。ゆえにあなたが衆縁まだ合せざる時に先に果生ずと説くは、この事は当らない。
問曰:因滅變為果者,有何咎?
問う者曰く、因が滅して果に変ずるに、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若因變為果,因即至於果,
「もし因が果に変ずれば、因はすなわち果に至り、
是則前生因,生已而復生。」
それはすなわち先前に生じたる因が、生じてさらに生ず。」
因有二種:一者前生;二者共生。若因滅變為果,是前生因應還更生。但是事不然。何以故?已生物不應更生。若謂是因即變為果,是亦不然。何以故?若即是不名為變,若變不名即是。
因に二種有る。一つは先前に生じたる、二つは共に生ずる。もし因が滅して果に変ずれば、この先前に生じたる因は還りてさらに生ずべきである。しかるにこの事は当らない。なぜか。すでに生出したる物はさらに生ずべきではないからである。もしこの因がすなわち果に変ずと言うならば、これも当らない。なぜか。もしすなわちなれば、変と名づけない。もし変なれば、すなわちと名づけないからである。
問曰:因不盡滅但名字滅,而因體變為果,如泥團變為瓶,失泥團名而瓶名生。
問う者曰く、因は尽く滅するのではなく、ただ名字が滅するのみで、因の体が果に変ず。泥団が瓶に変じて、泥団の名字を失い瓶の名字が生ずるが如し。
答曰:泥團先滅而有瓶生,不名為變。又泥團體不獨生,瓶瓫甕等皆從泥中出。若泥團但有名,不應變為瓶,變名如乳變為酪。是故汝說因名雖滅而變為果,是事不然。
答える者曰く、泥団は先に滅してこそ瓶の生有る。変と名づけない。しかも泥団の体は独りで生ぜず、瓶・瓫・瓮等皆泥から出る。もし泥団がただ名字のみあれば、瓶に変ずべきではない。いわゆる変とは、乳の酪に変ずるが如し。ゆえにあなたが因の名字は滅すれども果に変ずと説くは、この事は当らない。
問曰:因雖滅失而能生果,是故有果。無如是咎。
問う者曰く、因は滅失するといえども能く果を生ず。ゆえに果有る。この類の過失なし。
答曰:
答える者曰く、
「云何因滅失,而能生於果?
「どうして因が滅失してなお果を生ずることができようか。
又若因在果,云何因生果?」
またもし因が果の中に在れば、どうして因はなお果を生ぜんか。」
若因滅失已,云何能生果?若因不滅而與果合,何能更生果?
もし因が滅失せば、どうして果を生ずることができようか。もし因が滅せずして果と合せば、どうしてなお果を生ずることができようか。
問曰:是因遍有果而果生。
問う者曰く、この因は遍く果有りて果生ず。
答曰:
答える者曰く、
「若因遍有果,更生何等果?
「もし因が遍く果有れば、なおどのような果をさらに生ぜんか。
因見不見果,是二俱不生。」
因はあるいは果を見、あるいは果を見ず。二種とも生ぜず。」
是因若不見果,尚不應生果,何況見!若因自不見果,則不應生果。何以故?若不見果,果則不隨因。又未有果,云何生果?若因先見果,不應復生,果已有故。復次:
この因がもし果を見ざれば、なお果を生ずべきではない。いわんや見るをや。もし因が自ら果を見ざれば、果を生ずべきではない。なぜか。もし果を見ざれば、果は因に随わざるがゆえである。またまだ果なければ、どうして果を生ぜんか。もし因が先前にすでに果を見れば、さらに生ずべきではない。果はすでに有ればがゆえである。さらにいえば、
「若言過去因,而於過去果,
「もし過去の因を説くに、過去の果に対して、
未來現在果,是則終不合。
未来・現在の果に対して、終に皆合せず。
若言未來因,而於未來果,
もし未来の因を説くに、未来の果に対して、
現在過去果,是則終不合。
現在・過去の果に対して、終に皆合せず。
若言現在因,而於現在果,
もし現在の因を説くに、現在の果に対して、
未來過去果,是則終不合。」
未来・過去の果に対して、終に皆合せず。」
過去果不與過去、未來、現在因合。未來果不與未來、現在、過去因合。現在果不與現在、未來、過去因合。如是三種果,終不與過去、未來、現在因合。復次:
過去の果は過去・未来・現在の因と合せず。未来の果は未来・現在・過去の因と合せず。現在の果は現在・未来・過去の因と合せず。このように三種の果は、終に過去・未来・現在の因と合せず。さらにいえば、
「若不和合者,因何能生果?
「もし和合せざれば、因はどうして果を生じ得んか。
若有和合者,因何能生果?」
もし和合有れば、因はどうして果を生じ得んか。」
若因果不和合則無果,若無果云何因能生果?若謂因果和合時因能生果者,是亦不然。何以故?若果在因中,則因中已有果,云何而復生?復次:
もし因果が和合せざれば、すなわち果なし。もし果なければ、因はどうして果を生じ得んか。もし因果が和合する時に因は果を生じ得ると言うならば、これも当らない。なぜか。もし果が因の中にあれば、因の中にすでに果有り。どうしてなおさらに生ぜんか。さらにいえば、
「若因空無果,因何能生果?
「もし因が空にして果なければ、因はどうして果を生じ得んか。
若因不空果,因何能生果?」
もし因が空ならずして果有れば、因はどうして果を生じ得んか。」
若因無果者,以無果故因空,云何因生果?如人不懷姙,云何能生子?若因先有果,已有果故不應復生。復次,今當說果。
もし因に果なければ、果なきがゆえに因は空である。因はどうして果を生ぜんか。人が妊せざれば、どうして子を生じ得んかとするが如し。もし因が先前にすでに果有れば、すでに果有るがゆえに、さらに生ずべきではない。さらにいえば、いま果を説くべきである。
「果不空不生,果不空不滅,
「果が不空なれば生ぜず、果が不空なれば滅せず。
以果不空故,不生亦不滅。
果が不空なるがゆえに、生ぜずまた滅せず。
果空故不生,果空故不滅,
果が空なれば生ぜず、果が空なれば滅せず。
以果是空故,不生亦不滅。」
果が是れ空なるがゆえに、生ぜずまた滅せず。」
果若不空,不應生、不應滅。何以故?果若因中先決定有,更不須復生,生無故無滅,是故果不空故不生不滅。若謂果空故有生滅,是亦不然。何以故?果若空,空名無所有,云何當有生滅?是故說果空故不生不滅。復次,今以一異破因果。
果がもし不空なれば、生ずべきではなく、滅すべきでもない。なぜか。果がもし因の中に先前に決定してすでに有れば、さらに生ずるを須いない。生なければ、すなわち滅なし。ゆえに果は不空なれば、これによりて不生不滅である。もし果が空なるがゆえに生滅有ると言うならば、これも当らない。なぜか。果がもし空なれば、空は無所有と名づく。どうしてなお生滅があらんか。ゆえに果は空なれば、これによりて不生不滅と説く。さらにいえば、いま一・異を以て因果を破らんとする。
「因果是一者,是事終不然;
「因果が一なれば、この事は終に当らない。
因果若異者,是事亦不然。
因果が異なれば、この事もまた当らない。
若因果是一,生及所生一;
もし因果が一なれば、能生と所生とは一となる。
若因果是異,因則同非因。
もし因果が異なれば、因はすなわち非因と相同じとなる。
若果定有性,因為何所生?
もし果に決定の性有れば、因はなお何を生ぜんか。
若果定無性,因為何所生?
もし果に決定の性なければ、因はなお何を生ぜんか。
因不生果者,則無有因相,
因がもし果を生ぜなければ、因の相なし。
若無有因相,誰能有是果?
もし因の相なければ、誰がなおこの果を有せんか。
若從眾因緣,而有和合生,
もし衆因縁に随って和合の生有れば、
和合自不生,云何能生果?
和合は自ら生生ぜざれば、どうして果を生じ得んか。
是故果不從,緣合不合生;
ゆえに果は縁の合に随って生ぜず、また不合に随っても生ぜず。
若無有果者,何處有合法?」
もし果なければ、どうしてなお合の法があらんか。」
是眾緣和合法,不能生自體。自體無故,云何能生果?是故果不從緣合生,亦不從不合生。若無有果者,何處有合法?
この衆縁和合の法は、自らの体を生ずること能わず。自体なければ、どうして果を生じ得んか。ゆえに果は縁の合に随って生ぜず、また不合に随っても生ぜず。もし果なければ、どうしてなお合の法があらんか。
中論觀成壞品第二十一(二十偈)
《中論》観成壊品第二十一(二十首の偈)
問曰:一切世間事現是壞敗相,是故有壞。
問う者曰く、一切の世間の事は現前に皆壊敗の相なり。ゆえに壊有る。
答曰:
答える者曰く、
「離成及共成,是中無有壞;
「成を離れおよび成と俱に在るに、この中に壊なし。
離壞及共壞,是中亦無成。」
壊を離れおよび壊と俱に在るに、この中にも成なし。」
若有成、若無成,俱無壞。若有壞、若無壞,俱無成。何以故?
成有るも成無きも、壊なし。壊有るも壊無きも、成なし。なぜか。
「若離於成者,云何而有壞?
「もし成を離れて、どうしてなお壊があらんか。
如離生有死,是事則不然。
生を離れて死有るが如く、この事は当らない。
成壞共有者,云何有成壞?
成と壊とがもし俱に在れば、どうして成有り壊有らんか。
如世間生死,一時俱不然。
世間の生と死の如く、同一時に皆当らず。
若離於壞者,云何當有成?
もし壊を離れて、どうしてなお成があらんか。
無常未曾有,不在諸法時。」
無常は本より諸法の上に在らざる時なし。」
若離成,壞不可得。何以故?若離成有壞者,則不因成有壞,壞則無因,又無成法而可壞。成名眾緣合,壞名眾緣散,若離成有壞者,無成誰當壞?如無瓶,不得言瓶壞,是故離成無壞。若謂共成有壞者,是亦不然。何以故?法先別成而後有合,合法不離異。若壞離異,壞則無因,是故共成亦無壞。若離壞共壞無有成者,若離壞有成,成則為常,常是不壞相。而實不見有法常不壞相,是故離壞無成。若謂共壞有成者,是亦不然。成壞相違,云何一時有?如人有髮無髮不得一時俱,成壞亦爾,是故共壞有成是事不然。何以故?若謂分別法者,說成中常有壞。是事不然。何以故?若成中常有壞,則不應有住法;而實有住,是故若離壞共壞不應有成。復次:
もし成を離れて、壊は求めて得られない。なぜか。もし成を離れてなお壊有れば、成に依らずして壊有る。壊はすなわち無因であり、また成の法なくして壊せらるべきものなし。成とは衆縁合と名づけ、壊とは衆縁散と名づく。もし成を離れてなお壊有れば、成なきに、誰か当に壊せんか。瓶なければ、瓶の壊るるを言うこと能わざるが如し。ゆえに成を離れて壊なし。もし成と俱に在りて壊有ると言うならば、これも当らない。なぜか。法は先前に別に成就してしかる後にこそ合有る。合の法は相異を離れず。もし壊が相異を離れれば、壊はすなわち無因である。ゆえに成と俱に在りても壊なし。いわゆる壊を離れ・壊と俱に在るに皆成なしとは、もし壊を離れてなお成有れば、成はすなわち常であり、常は不壊の相である。しかるに実に法有りて常に不壊の相なるを見ず。ゆえに壊を離れて成なし。もし壊と俱に在りて成有ると言うならば、これも当らない。成と壊とは相い違す。どうして同一時に有ることができようか。人が髮有り無髮と同一時に俱り在ること能わざるが如く、成と壊もまたこのようである。ゆえに壊と俱に在りて成有るは、この事は当らない。なぜか。もし法を分別する人が成の中に常に壊有ると言うならば、この事は当らない。なぜか。もし成の中に常に壊有れば、住の法有るべきではない。しかるに実に住有る。ゆえに壊を離れても壊と俱に在るも、皆成有るべきではない。さらにいえば、
「成壞共無成,離亦無有成,
「成と壊と俱に在りて成なく、離れてもまた成なし。
是二俱不可,云何當有成?」
この二種とも行えざれば、どうしてなお成があらんか。」
若成壞共亦無成、離亦無成。若共成則二法相違,云何一時?若離則無因。二門俱不成,云何當有成?若有應說。
もし成と壊と俱に在りても成なく、離れてもまた成なし。もし俱に在りて成就せば、二法は相い違す。どうして同一時ならんか。もし離れればすなわち無因である。両門ともに成立せず。どうしてなお成があらんか。もし有れば、説き出すべきである。
問曰:現有盡滅相法。是盡滅相法,亦說盡亦說不盡,如是則應有成壞。
問う者曰く、現前に尽滅相の法有る。この尽滅相の法は、また尽と説き、また不尽と説く。これによりて成有り壊有るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「盡則無有成,不盡亦無成;
「尽きればすなわち成なく、尽きざれば成なし。
盡則無有壞,不盡亦不壞。」
尽きればすなわち壊なく、尽きざれば壊せず。」
諸法日夜中念念常滅盡,過去如水流不住,是則名盡。是事不可取、不可說,如野馬無決定性可得。如是盡無決定性可得,云何可得分別說有成?是故言盡亦不成。成無故,亦不應有壞,是故說盡亦無有壞。又念念生滅常相續不斷故名不盡,如是法決定常住不斷。云何可得分別說言今是成時?是故說無盡亦無成。成無故無壞,是故說不盡亦無壞。如是推求,實事不可得,故無成無壞。
諸法は日夜に念々常に滅尽して、過去は水流の住せざるが如し。これを尽と名づく。この事は取るべからず、説くべからず。陽焔に決定の性の得べきなきが如し。このように尽に決定の性の得べきなし。どうして得て成有ると分別説くことができようか。ゆえに尽きても成せずと説く。成なければ、また壊有るべきではない。ゆえに尽きても壊なしと説く。また念々生滅して常に相続断ぜざるを、不尽と名づく。このような法は決定して常住して断ぜざる。どうして得ていま是れ成の時と分別説くことができようか。ゆえに無尽にも成なしと説く。成なければすなわち壊なし。ゆえに不尽にも壊なしと説く。このように推し求めて、実事は求めて得られない。ゆえに成なく壊なし。
問曰:且置成壞。但令有法,有何咎?
問う者曰く、成壊はしばらく置かん。ただ法有せしめれば、何の過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若離於成壞,是亦無有法;
「もし成壊を離れて、この中にも法なし。
若當離於法,亦無有成壞。」
もし法を離れても、成壊なし。」
離成壞無法者,若法無成無壞,是法應或無或常。而世間無有常法,汝說離成壞有法,是事不然。
いわゆる成壊を離れて法なしとは、もし法に成なく壊なければ、この法はすなわちあるいは無、あるいは常であるべきである。しかるに世間に常法なし。あなたが成壊を離れて法有ると説くは、この事は当らない。
問曰:若離法但有成壞,有何咎?
問う者曰く、もし法を離れてただ成壊有れば、何の過失が有るか。
答曰:離法有成壞,是亦不然。何以故?若離法,誰成誰壞。是故離法有成壞,是事不然。復次:
答える者曰く、法を離れて成壊有るは、これも当らない。なぜか。もし法を離れれば、誰が成り誰が壊るるか。ゆえに法を離れて成壊有るは、この事は当らない。さらにいえば、
「若法性空者,誰當有成壞?
「もし法の性が空なれば、誰がなお成壊があらんか。
若性不空者,亦無有成壞。」
もし性が空ならざれば、また成壊なし。」
若諸法性空,空何有成壞?若諸法性不空,不空則決定有,亦不應有成壞。復次:
もし諸法の性が空なれば、空にどうして成壊があらんか。もし諸法の性が空ならざれば、空ならざればすなわち決定有り。また成壊有るべきではない。さらにいえば、
「成壞若一者,是事則不然;
「成と壊とがもし一なれば、この事は当らない。
成壞若異者,是事亦不然。」
成と壊とがもし異なれば、この事もまた当らない。」
推求成壞一則不可得。何以故?異相故、種種分別故。又成壞異亦不可得。何以故?無有別故、亦無因故。復次:
成と壊とが一を推し求めて、得られない。なぜか。相異なるがゆえ、種種に分別するがゆえである。また成と壊とが異なるも求めて得られない。なぜか。分別なきがゆえ、また因なきがゆえである。さらにいえば、
「若謂以眼見,而有生滅者,
「もし眼に見る所に因って生滅有ると説くならば、
則為是痴妄,而見有生滅。」
それはすなわち愚癡虚妄にして、こそ生滅を見るなり。」
若謂以眼見有生滅者,云何以言說破?是事不然。何以故?眼見生滅者,則是愚痴顛倒故。見諸法性空、無決定、如幻如夢,但凡夫先世顛倒因緣得此眼,今世憶想分別因緣故,言眼見生滅。第一義中實無生滅,是事已於〈破相品〉中廣說。復次:
もし眼に見る所に因って生滅有ると説くならば、何を以て言説を用いて破せんか。この事は当らない。なぜか。眼に生滅を見るは、それは愚癡顛倒である。諸法の性空・決定なきを見るは、幻の如く夢の如し。ただ凡夫が先世の顛倒の因縁によりてこの眼を得、今世に憶想分別の因縁によりて、こそ眼に生滅を見ると説く。第一義には実に生滅なし。この事はすでに〈破相品〉の中に広く説いた。さらにいえば、
「從法不生法,亦不生非法;
「法に随って法を生ぜず、また非法を生ぜず。
從非法不生,法及於非法。」
非法に随って法を生ぜず、また非法を生ぜず。」
從法不生法者,若失若至,二俱不然。從法生法,若至若失,是則無因,無因則墮斷常。若已至從法生法,是法至已而名為生,則為是常,又生已更生,又亦無因生。是事不然。若已失從法生法者,是則失因,生者無因,是故從失亦不生法。從法不生非法者,非法名無所有、法名有,云何從有相生無相?是故從法不生非法。從非法不生法者,非法名為無,無云何生有?若從無生有者,是則無因,無因則有大過,是故不從非法生法。不從非法生非法者,非法名無所有,云何從無所有生無所有?如兔角不生龜毛,是故不從非法生非法。
いわゆる法に随って法を生ぜずとは、失するも至るも、二種とも当らない。法に随って法を生ぜば、至るも失するも、すなわち無因である。無因なればすなわち断・常に堕せん。もしすでに至りて法に随って法を生ぜば、この法は至りてこそ生と名づく。すなわち常であり、また生じてさらに生ず。また無因の生である。この事は当らない。もしすでに失して法に随って法を生ぜば、すなわち因を失し去る。生ずる人は因なし。ゆえに失に随っても法を生ぜず。いわゆる法に随って非法を生ぜずとは、非法は無所有と名づけ、法は有と名づく。どうして有の相に随って無の相を生ぜんか。ゆえに法に随って非法を生ぜず。いわゆる非法に随って法を生ぜずとは、非法は無と名づく。無はどうして有を生ぜんか。もし無に随って有を生ぜば、すなわち無因である。無因なればすなわち大きな過失有る。ゆえに非法に随って法を生ぜず。いわゆる非法に随って非法を生ぜずとは、非法は無所有と名づく。どうして無所有に随って無所有を生ぜんか。兎角が亀毛を生ぜざるが如し。ゆえに非法に随って非法を生ぜず。
問曰:法非法雖種種分別故無生,但法應生法。
問う者曰く、法・非法は種種に分別するがゆえに無生なれども、法は法を生ずべきである。
答曰:
答える者曰く、
「法不從自生,亦不從他生,
「法は自に随って生ぜず、また他に随って生ぜず。
不從自他生,云何而有生?」
自と他とに随って生ぜざれば、どうしてなお生があらんか。」
法未生時無所有故,又即自不生故,是故法不自生。若法未生則亦無他,無他故不得言從他生。又未生則無自,無自亦無他,共亦不生。若三種不生,云何從法有法生?復次:
法がまだ生ぜざる時は無所有であって、またすなわち自が生ぜざるがゆえに、法は自ら生ぜず。もし法がまだ生ぜなければ、すなわち他なし。他なければ、他に随って生ずと言うこと能わず。またまだ生ぜざればすなわち自なし。自なければすなわち他なし。共にもまた生ぜず。もし三種ともに生ぜざれば、どうして法に随って法の生有らんか。さらにいえば、
「若有所受法,即墮於斷常,
「もし執受する所の法有れば、すなわち断・常に堕せん。
當知所受法,為常為無常。」
知るべし、執受する所の法は、あるいは常、あるいは無常なりと。」
受法者,分別是善是不善、常無常等,是人必墮若常見若斷見。何以故?所受法應有二種:若常、若無常。二俱不然。何以故?若常即墮常邊,若無常即墮斷邊。
いわゆる受法とは、これは善・これは不善・常無常等を分別すれば、この人は必ず常見または断見に堕せん。なぜか。執受する所の法は二種有るべきである。あるいは常、あるいは無常。二種とも当らない。なぜか。もし常なればすなわち常辺に堕し、もし無常なればすなわち断辺に堕するがゆえである。
問曰:
問う者曰く、
「所有受法者,不墮於斷常,
「すべての法を執受する人は、並びに断・常に堕せず。
因果相續故,不斷亦不常。」
因果相続するがゆえに、断ぜずしてまた常ならず。」
有人雖信受分別說諸法,而不墮斷常。如經說五陰無常苦空無我,而不斷滅;雖說罪福無量劫數不失,而不是常。何以故?是法因果常生滅相續故往來不絕,生滅故不常,相續故不斷。
ある人は信受して諸法を分別説くといえども、断・常に堕せず。経の上に五陰は無常・苦・空・無我と説くも断滅せず、罪福は無量劫数に失せざると説くも常にあらざるが如し。なぜか。この法は因果常に生滅相続するがゆえに、往来絶えず。生滅するがゆえに常ならず、相続するがゆえに断ぜず。
答曰:
答える者曰く、
「若因果生滅,相續而不斷;
「もし因果生滅相続して断ぜざると言うならば、
滅更不生故,因即為斷滅。」
滅してさらに生ぜざれば、因はすなわち断滅なり。」
若汝說諸法因果相續故不斷不常。若滅法已滅更不復生,是則因斷。若因斷,云何有相續?已滅不生故。復次:
もしあなたが諸法は因果相続するがゆえに不断不常と説くならば、もし滅の法がすでに滅してさらに生ぜざれば、この因はすなわち断である。もし因が断ぜば、どうしてなお相続があらんか。すでに滅して生ぜざるがゆえである。さらにいえば、
「法住於自性,不應有有無;
「法が自性に住せば、有・無は有るべきではない。
涅槃滅相續,則墮於斷滅。」
涅槃に於いて相続を滅せば、すなわち断滅に堕せん。」
法決定在有相中,爾時無無相,如瓶定在瓶相,爾時無失壞相。隨有瓶時無失壞相,無瓶時亦無失壞相。何以故?若無瓶則無所破,以是義故滅不可得。離滅故亦無生。何以故?生滅相因待故。又有常等過故,是故不應於一法而有有無。又汝先說因果生滅相續故,雖受諸法不墮斷常。是事不然。何以故?汝說因果相續故有三有相續,滅相續名涅槃。若爾者,涅槃時應墮斷滅,以滅三有相續故。復次:
法が決定して有の相の中にあれば、その時に無の相なし。瓶が決定して瓶の相の中に在るが如く、その時に失壊の相なし。なお瓶有る時には失壊の相なく、瓶なき時にも失壊の相なし。なぜか。もし瓶なければ、破すべきものなきがゆえである。この義理に因って、滅は求めて得られない。滅を離れてまた生なし。なぜか。生滅は互いに相因待するがゆえである。また常等の過失が有るがゆえに、同一の法の上に既に有りてまた無有るべきではない。またあなたは先前に因果生滅相続すると説いて、執受して諸法あれども断・常に堕せずとした。この事は当らない。なぜか。あなたは因果相続するがゆえに三有の相続有り、相続を滅するを涅槃と名づくと説く。もしこのようであれば、涅槃の時にすなわち断滅に堕すべきである。三有の相続を滅するがゆえである。さらにいえば、
「若初有滅者,則無有後有;
「もし初有が滅せば、すなわち后有なし。
初有若不滅,亦無有後有。」
初有がもし滅せざれば、また后有なし。」
初有名今世有,後有名來世有。若初有滅次有後有,是即無因。是事不然,是故不得言初有滅有後有。若初有不滅,亦不應有後有。何以故?若初有未滅而有後有者,是則一時有二有。是事不然,是故初有不滅無有後有。
初有とは、今世有と名づく。后有とは、来世有と名づく。もし初有が滅して其次に后有有れば、すなわち無因である。この事は当らない。ゆえに初有が滅してこそ后有有ると言うこと能わず。もし初有が滅せざれば、また后有有るべきではない。なぜか。もし初有がまだ滅せざるに后有有れば、すなわち同一時に二つの有有り。この事は当らない。ゆえに初有は滅せず、后有なし。
問曰:後有不以初有滅生、不以不滅生,但滅時生。
問う者曰く、后有は初有の滅するに因ってこそ生ずるのでもなく、また滅せざるに因って生ずるのでもない。ただ滅する時に生ず。
答曰:
答える者曰く、
「若初有滅時,而後有生者,
「もし初有がまさに滅するに、しかる後生有れば、
滅時是一有,生時是一有。」
滅する時に一の有有り、生ずる時に一の有有らん。」
若初有滅時後有生者,即二有一時俱:一有是滅時,一有是生時。
もし初有がまさに滅するに后有の生有れば、すなわち二つの有が同一時に俱り在る。一つの有は滅する時、一つの有は生ずる時である。
問曰:滅時生時二有俱者則不然。但現見初有滅時後有生。
問う者曰く、滅時・生時に二つの有が俱り在るは当らない。ただ現前に初有がまさに滅するに后有生ずるを見る。
答曰:
答える者曰く、
「若言於生滅,而謂一時者,
「もし生滅の上に於いて同一時と認むるを説くならば、
則於此陰死,即於此陰生。」
すなわちこの一陰に於いて死し、すなわちこの一陰に於いて生ぜん。」
若生時滅時一時無二有,而謂初有滅時後有生者,今應隨在何陰中死,即於此陰生,不應餘陰中生。何以故?死者即是生者。如是死生相違法,不應一時一處。是故汝先說滅時生時一時無二有,但現見初有滅時後有生者,是事不然。復次:
もし生時・滅時は同一時にして並びに二つの有なしと言いながら、初有がまさに滅するに后有生ずと言うならば、いま当にどの一陰の中に随って死するか、すなわちこの一陰に於いて生ずべきで、その余の陰の中に生ずべきではない。なぜか。死する人はすなわち生ずる人なればがゆえである。このように死と生と相い違する法は、同一時・同一処所であるべきではない。ゆえにあなたが先前に滅時・生時は同一時にして並びに二つの有なし、ただ現前に初有がまさに滅するに后有生ずるを見ると説くは、この事は当らない。さらにいえば、
「三世中求有,相續不可得,
「三世の中に於いて有を求めて、相続は求めて得られず。
若三世中無,何有有相續?」
もし三世の中に皆なければ、どうしてなお有の相続があらんか。」
三有名欲有、色有、無色有。無始生死中不得實智故,常有三有相續。今於三世中諦求不可得。若三世中無有,當於何處有有相續?當知有有相續,皆從愚痴顛倒故有,實中則無。
三有とは、欲有・色有・無色有と名づく。無始の生死の中に実智を得ざるがゆえに、常に三有の相続有り。いま三世の中に如実に推し求めて、得られない。もし三世の中に有なければ、どこに在りて有の相続が有るべきか。知るべし、有の相続有るは皆愚癡顛倒に随ってこそ有る。実の中にはすなわちなし。
中論巻第三
中論巻第四
龍樹菩薩造梵志青目釋
龍樹菩薩が頌を造り、梵志青目が釈を作す。
姚秦三藏鳩摩羅什譯
後秦・姚秦時代の三蔵法師鳩摩羅什が翻訳。
觀如來品第二十二(十六偈)
観如来品第二十二(十六首の偈)
問曰:一切世中尊,唯有如來正遍知號為法王,一切智人是則應有。
問う者曰く、一切の世間の尊は、ただ如来の正遍知、法王と号し、一切智人なり。これすなわち有るべきである。
答曰:今諦思惟,若有應取;若無何所取?何以故?如來,
答える者曰く、いま如実に思惟せん。もし有れば、こそ取るべきである。もし無ければ、何を取らんか。なぜか。如来は、
「非陰不離陰,此彼不相在;
「陰ではなく、陰を離れず、此と彼とは相い在らず。
如來不有陰,何處有如來?」
如来は並びに陰を有せず。どうしてなお如来があらんか。」
若如來實有者,為五陰是如來?為離五陰有如來?為如來中有五陰?為五陰中有如來?為如來有五陰。是事皆不然。五陰非是如來。何以故?生滅相故。五陰生滅相,若如來是五陰,如來即是生滅相。若生滅相者,如來即有無常斷滅等過。又受者受法則一,受者是如來、受法是五陰。是事不然,是故如來非是五陰。離五陰亦無如來,若離五陰有如來者,不應有生滅相。若爾者,如來有常等過。又眼等諸根不能見知,但是事不然,是故離五陰亦無如來。如來中亦無五陰。何以故?若如來中有五陰,如器中有果、水中有魚者,則為有異。若異者,即有如上常等過,是故如來中無五陰。又五陰中無如來。何以故?若五陰中有如來,如床上有人、器中有乳者,如是則有別異,如上說過,是故五陰中無如來。如來亦不有五陰。何以故?若如來有五陰,如人有子,如是則有別異。若爾者,有如上過。是事不然,是故如來不有五陰。如是五種求不可得,何等是如來?
もし如来が実有れば、五陰がすなわち如来か。それとも五陰を離れて如来有るか。それとも如来の中に五陰有るか。それとも五陰の中に如来有るか。それとも如来が五陰を有するか。これら皆当らない。五陰は如来ではない。なぜか。生滅の相なればがゆえである。五陰は生滅の相である。もし如来が五陰なれば、如来はすなわち生滅の相である。もし生滅の相なれば、如来には無常・断滅等の過失有る。また受者と受の法とはすなわち一となる。受者は如来、受の法は五陰。この事は当らない。ゆえに如来は五陰ではない。五陰を離れてもまた如来なし。もし五陰を離れて如来有れば、生滅の相有るべきではない。もしこのようであれば、如来に常等の過失有る。また眼等の諸根は見ること能わず、知ること能わざるべきである。しかるにこの事は当らない。ゆえに五陰を離れてもまた如来なし。如来の中にも五陰なし。なぜか。もし如来の中に五陰有れば、器具の中に果有り、水の中に魚有るが如く、すなわち異有る。もし異なれば、上の常等の過失有る。ゆえに如来の中に五陰なし。また五陰の中にも如来なし。なぜか。もし五陰の中に如来有れば、床上に人有り、器具の中に乳有るが如く、このようであればすなわち分別差異有り。上に説いた過失の如し。ゆえに五陰の中に如来なし。如来もまた五陰を有せず。なぜか。もし如来が五陰を有せば、人の子有るが如く、このようであればすなわち分別差異有り。もしこのようであれば、上の過失有る。この事は当らない。ゆえに如来は五陰を有せず。このように五種に推し求めて皆得られない。何を以てか如来と為さんか。
問曰:如是義求如來不可得,而五陰和合有如來。
問う者曰く、このように義理に随って如来を推し求めて得られざるに、五陰和合して如来有る。
答曰:
答える者曰く、
「陰合有如來,則無有自性;
「陰和合してこそ如来有れば、すなわち自性なし。
若無有自性,云何因他有?」
もし自性なければ、どうして他に因って有らんか。」
若如來五陰和合故有,即無自性。何以故?因五陰和合有故。
もし如来が五陰和合に因ってこそ有れば、すなわち自性なし。なぜか。五陰和合に因ってこそ有るがゆえである。
問曰:如來不以自性有,但因他性有。
問う者曰く、如来は並びに自性に因って有るのではなく、ただ他性に因って有る。
答曰:若無自性,云何因他性有?何以故?他性亦無自性。又無相待因故,他性不可得,不可得故不名為他。復次:
答える者曰く、もし自性なければ、どうして他性に因って有らんか。なぜか。他性もまた自性なきがゆえである。また相待の因なく、他性は求めて得られない。求めて得られざれば、他と名づけない。さらにいえば、
「法若因他生,是即為非我;
「もし法が他に因って生ぜば、これはすなわち我ではない。
若法非我者,云何是如來?」
もし法が我でなければ、どうしてなお如来ならんか。」
若法因眾緣生,即無有我。如因五指有拳,是拳無有自體。如是因五陰名我,是我即無自體。我有種種名,或名眾生、人、天、如來等。若如來因五陰有,即無自性,無自性故無我。若無我,云何說名如來?是故偈中說「法若因他生,是即為非我;若法非我者,云何是如來?」復次:
もし法が衆縁に因って生ぜば、すなわち我なし。五指に因ってこそ拳有るが如く、この拳に自体なし。このように五陰に因ってこそ我と名づく。この我に自体なし。我に種種の名字有る。あるいは衆生・人・天・如来等と名づく。もし如来が五陰に因ってこそ有れば、すなわち自性なし。自性なきがゆえに無我。もし無我なれば、どうしてなお如来と名づくと言えようか。ゆえに偈に言う。「もし法が他に因って生ぜば、これはすなわち我ではない。もし法が我でなければ、どうしてなお如来ならんか」と。さらにいえば、
「若無有自性,云何有他性?
「もし自性なければ、どうしてなお他性があらんか。
離自性他性,何名為如來?」
自性と他性を離れて、何をか如来と名づけん。」
若無自性,他性亦不應有。因自性故名他性,此無故彼亦無,是故自性、他性二俱無。若離自性、他性,誰為如來?復次:
もし自性なければ、他性もまた有るべきではない。自性有るがゆえにこそ他性と名づくがゆえである。此なければ、彼もまたなし。ゆえに自性・他性の両様ともになし。もし自性・他性を離れて、誰をか如来と為さんか。さらにいえば、
「若不因五陰,先有如來者,
「もし五陰に因らずして、先前にすでに如来有り、
以今受陰故,則說為如來。
いま陰を受くるに因って、こそ彼を如来と説く。
今實不受陰,更無如來法,
いま実に受陰なく、さらに如来という法なし。
若以不受無,今當云何受?
もし不受なるがゆえになければ、いまなおどうして受けんか。
若其未有受,所受不名受,
もしまだ受けざれば、受くる所は受と名づけない。
無有無受法,而名為如來。
並びに無受の法にして如来と名づくことなし。
若於一異中,如來不可得,
もし一・異の中に於いて如来を求めて得られざれば、
五種求亦無,云何受中有?
五種に推し求めてもまたなし。どうして受の中に於いて有らんか。
又所受五陰,不從自性有,
また受くる所の五陰は、並びに自性に随って有るのではない。
若無自性者,云何有他性?」
もし自性なければ、どうしてなお他性があらんか。」
若未受五陰先有如來者,是如來今應受五陰已作如來,而實未受五陰時先無如來,今云何當受?又不受五陰者,五陰不名為受,無有無受而名為如來。又如來一異中求不可得,五陰中五種求亦不可得。若爾者,云何於五陰中說有如來?又所受五陰,不從自性有。若謂從他性有。若不從自性有。云何從他性有?何以故?以無自性故,又他性亦無。復次:
もしまだ五陰を受けざるに先前にすでに如来有れば、この如来はいま五陰を受けてこそ如来を作すべきである。しかるに実にまだ五陰を受けざる時に先前に如来なし。いまなおどうして受けんか。また五陰を受けざれば、五陰は受と名づけない。並びに無受にして如来と名づくことなし。また如来は一・異の中に求めて得られず、五陰の中に五種に推し求めても得られない。もしこのようであれば、どうして五陰の中に如来有ると言えようか。また受くる所の五陰は、並びに自性に随って有るのではない。もし他性に随って有ると説くならば、もし自性に随って有るのでなければ、どうして他性に随って有らんか。なぜか。自性なきがゆえに、また他性もなきがゆえである。さらにいえば、
「以如是義故,受空受者空,
「かかる義理に因って、受は空、受者も空。
云何當以空,而說空如來?」
どうしてなお空を用いて空の如来を説くことができようか。」
以是義思惟,受及受者皆空。若受空者,云何以空受而說空如來?
この義理に随って思惟すれば、受および受者は皆空である。もし受が空なれば、どうして空の受を用いて空の如来を説くことができようか。
問曰:汝謂受空、受者空,則定有空耶?
問う者曰く、あなたは受空・受者空と認める。それでは決定して空有るか。
答曰?
答える者曰く、
不然。何以故?
そうではない。なぜか。
「空則不可說,非空不可說,
「空はすなわち説くべからず、非空もまた説くべからず。
共不共叵說,但以假名說。」
共および不共も皆説くことを得ず。ただ仮名を用いて説く。」
諸法空則不應說,諸法不空亦不應說,諸法空不空亦不應說,非空非不空亦不應說。何以故?但破相違故以假名說。如是正觀思惟,諸法實相中不應以諸難為難。何以故?
諸法は空なれば説くべきではなく、諸法は不空なればまた説くべきではなく、諸法はまた空また不空なればまた説くべきではなく、非空非不空なればまた説くべきではない。なぜか。ただ相違を破らんがためにこそ仮名を用いて説く。このように正観思惟すれば、諸法の実相の中に種種の問難を以て難を作すべきではない。なぜか。
「寂滅相中無,常無常等四;
「寂滅の相の中に、常・無常等の四句なし。
寂滅相中無,邊無邊等四。」
寂滅の相の中に、辺・無辺等の四句なし。」
諸法實相如是微妙寂滅,但因過去世起四種邪見:世間有常、世間無常、世間常無常、世間非常非無常;寂滅中盡無。何以故?諸法實相畢竟清淨不可取,空尚不受,何況有四種見。四種見皆因受生,諸法實相無所因受。四種見皆以自見為貴、他見為賤,諸法實相無有此彼。是故說寂滅中無四種見。如因過去世有四種見,因未來世有四種見亦如是。世間有邊、世間無邊、世間有邊無邊、世間非有邊非無邊。
諸法の実相はこのように微妙寂滅にして、ただ過去世に因って四種の邪見を生ず。世間は常有・世間は無常・世間はまた常また無常・世間は非常非無常。寂滅の中に皆なし。なぜか。諸法の実相は畢竟清浄にして取るべからず。空すらなお受けざるに、いわんや四種の見をや。四種の見は皆受に因って生ず。諸法の実相に因る所の受なし。四種の見は皆自らの見を貴と為し他の見を賤と為す。諸法の実相に此と彼なし。ゆえに寂滅の中に四種の見なしと説く。過去世に因って四種の見有るが如く、未来世に因って四種の見有るもまたこのようである。世間は辺有り・世間は辺なし・世間はまた辺有りまた辺なし・世間は非有辺非無辺。
問曰:若如是破如來者,則無如來耶?
問う者曰く、もしこのように如来を破れば、すなわち如来なきか。
答曰:
答える者曰く、
「邪見深厚者,則說無如來;
「邪見の深厚なる者は、こそ如来なしと説く。
如來寂滅相,分別有亦非。」
如来は寂滅の相にして、分別して有ると説くも当らず。」
邪見有二種:一者破世間樂;二者破涅槃道。破世間樂者是麁邪見,言無罪無福,無如來等賢聖。起是邪見,捨善為惡,則破世間樂。破涅槃道者,貪著於我,分別有無,起善滅惡。起善故得世間樂,分別有無故不得涅槃。是故若言無如來者,是深厚邪見,乃失世間樂,何況涅槃!若言有如來,亦是邪見。何以故?如來寂滅相,而種種分別故。是故寂滅相中,分別有如來亦為非。
邪見に二種有る。一つは世間の楽を破る、二つは涅槃道を破る。世間の楽を破るは粗き邪見で、罪なく福なく、如来等の賢聖なしと説く。この邪見を生起して、善を捨てて悪を為せば、すなわち世間の楽を破る。涅槃道を破るは、我に貪着して有無を分別し、善を起こして悪を滅す。善を起こすがゆえに世間の楽を得、有無を分別するがゆえに涅槃を得ず。ゆえにもし如来なしと言えば、深厚の邪見であって、世間の楽すら失うに、いわんや涅槃をや。もし如来有ると言うも、また邪見である。なぜか。如来は寂滅の相にして、それなのに種種に分別するがゆえである。ゆえに寂滅の相の中に、分別して如来有ると説くも当らない。
「如是性空中,思惟亦不可,
「このように性空の中に於いては、思惟もまた得べからず。
如來滅度後,分別於有無。」
如来が滅度して後、有無に於いて分別せん。」
諸法實相性空故,不應於如來滅後思惟若有、若無、若有無。如來從本已來畢竟空,何況滅後!
諸法の実相は性空なるがゆえに、如来が滅したる後に於いてあるいは有・あるいは無・あるいはまた有また無と思惟すべきではない。如来は本よりこのかた畢竟空なり。いわんや滅後をや。
「如來過戲論,而人生戲論,
「如来は戯論を超出せるに、人は戯論を生出す。
戲論破慧眼,是皆不見佛。」
戯論は慧眼を破る。これらの人は皆仏を見ず。」
戲論名憶念取相分別此彼。言佛滅不滅等,是人為戲論,覆慧眼故,不能見如來法身。此〈如來品〉中,初中後思惟,如來定性不可得。是故偈說:
戯論とは、憶念・取相・此彼を分別すると名づく。仏は滅す・滅せず等と説けば、この人は戯論に慧眼を覆われて、如来の法身を見ること能わず。この〈如来品〉の中に、初・中・後に思惟して、如来の定性は求めて得られない。ゆえに偈に言う。
「如來所有性,即是世間性;
「如来の所有の性は、すなわち世間の性である。
如來無有性,世間亦無性。」
如来に性なければ、世間もまた性なし。」
此品中思惟推求,如來性即是一切世間性。
この一品の中に思惟推求すれば、如来の性はすなわち一切世間の性である。
問曰:何等是如來性?
問う者曰く、何をか如来の性と為すか。
答曰:如來無有性,同世間無性。
答える者曰く、如来に性なし。世間に性なきと相同じ。
中論觀顛倒品第二十三(二十四偈)
《中論》観顛倒品第二十三(二十四首の偈)
問曰:
問う者曰く、
「從憶想分別,生於貪恚痴,
「憶想分別に随って、貪・恚・癡を生じ、
淨不淨顛倒,皆從眾緣生。」
浄・不浄の顛倒は、皆衆縁に随って生ず。」
經說因淨不淨顛倒,憶想分別生貪恚痴。是故當知有貪恚痴。
経の上に浄・不浄の顛倒に因って、憶想分別が貪・恚・癡を生ずと説く。ゆえに知るべし、貪・恚・癡有ることを。
答曰:
答える者曰く、
「若因淨不淨,顛倒生三毒,
「もし浄・不浄の顛倒に因って三毒を生ぜば、
三毒即無性,故煩惱無實。」
三毒に性なきがゆえに、煩悩は実ならず。」
若諸煩惱因淨不淨顛倒憶想分別生,即無自性,是故諸煩惱無實。復次:
もし諸の煩悩が浄・不浄の顛倒・憶想分別に因って生ぜば、すなわち自性なし。ゆえに諸の煩悩は実ならず。さらにいえば、
「我法有以無,是事終不成;
「我という法は、有るも無くも、この事は終に成立せず。
無我諸煩惱,有無亦不成。」
我なければ、諸の煩悩の有無もまた成立せず。」
我無有因緣若有若無而可成,今無我諸煩惱云何以有無而可成?何以故?
我は並びに因縁有るも無くも以て成立すべきものなし。いま我なきに、諸の煩悩はどうして有無を用いて成立せんか。なぜか。
「誰有此煩惱,是即為不成;
「誰がこれらの煩悩を有するか。これはすなわち成立せず。
若離是而有,煩惱則無屬。」
もしこの人を離れて有れば、煩悩は帰属する所なし。」
煩惱名為能惱他,惱他者應是眾生,是眾生於一切處推求不可得。若謂離眾生但有煩惱,是煩惱則無所屬。若謂雖無我而煩惱屬心,是事亦不然。何以故?
煩悩とは、能く他を悩乱するを名づく。他を悩乱する者は衆生であるべきである。この衆生は一切の処に推し求めて皆得られない。もし衆生を離れてただ煩悩有ると言うならば、これらの煩悩はすなわち帰属する所なし。もし我なしといえども煩悩は心に属すると言うならば、この事もまた当らない。なぜか。
「如身見五種,求之不可得,
「身見が五種に推し求めて皆得られざるが如く、
煩惱於垢心,五求亦不得。」
煩悩も垢心に対して、五種に推し求めて得られず。」
如身見,五陰中五種求不可得;諸煩惱亦於垢心中,五種求亦不可得。又垢心於煩惱中,五種求亦不可得。復次:
身見が五陰の中に五種に推し求めて得られざるが如く、諸の煩悩も垢心に対して五種に推し求めて得られない。また垢心も煩悩に対して五種に推し求めて得られない。さらにいえば、
「淨不淨顛倒,是則無自性;
「浄・不浄の顛倒は、これはすなわち自性なし。
云何因此二,而生諸煩惱?」
どうしてこの二様に因って諸の煩悩を生出せんか。」
淨不淨顛倒者,顛倒名虛妄。若虛妄即無性,無性則無顛倒。若無顛倒,云何因顛倒起諸煩惱?
いわゆる浄・不浄の顛倒とは、顛倒は虚妄と名づく。もし虚妄なればすなわち性なし。性なければすなわち顛倒なし。もし顛倒なければ、どうして顛倒に因って諸の煩悩を生起せんか。
問曰:
問う者曰く、
「色聲香味觸,及法為六種,
「色声香味触および法のこの六種は、
如是之六種,是三毒根本。」
かくのごとき六種は、三毒の根本なり。」
是六入,三毒根本,因此六入生淨不淨顛倒,因淨不淨顛倒生貪恚痴。
この六入は三毒の根本である。この六入に因って浄・不浄の顛倒を生じ、浄・不浄の顛倒に因って貪・恚・癡を生ずるがゆえである。
答曰:
答える者曰く、
「色聲香味觸,及法體六種,
「色声香味触および法のこの六種の体は、
皆空如炎夢,如乾闥婆城。
皆空にして、陽焔の如く夢の如く、乾闥婆城の如し。
如是六種中,何有淨不淨?
このように六種の中に、どうして浄・不浄があらんか。
猶如幻化人,亦如鏡中像。」
たとえば幻化の人の如く、また鏡の中の像の如し。」
色聲香味觸法自體,未與心和合時空無所有,如炎如夢,如化如鏡中像,但誑惑於心,無有定相。如是六入中,何有淨不淨?復次:
色声香味触法の自体は、まだ心と和合せざる時は空にして有るところなく、陽焔の如く夢の如く、幻化の如く鏡の中の像の如く、ただ心を誑惑するのみで、確定の相なし。このように六入の中に、どうして浄・不浄があらんか。さらにいえば、
「不因於淨相,則無有不淨;
「浄の相に因らざれば、すなわち不浄なし。
因淨有不淨,是故無不淨。」
浄に因ってこそ不浄有るがゆえに、不浄なし。」
若不因於淨,先無有不淨,因何而說不淨?是故無不淨。復次:
もし浄に因らざれば、先前に並びに不浄なし。何を以てか不浄を説かんか。ゆえに不浄なし。さらにいえば、
「不因於不淨,則亦無有淨;
「不浄に因らざれば、また浄なし。
因不淨有淨,是故無有淨。」
不浄に因ってこそ浄有るがゆえに、浄なし。」
若不因不淨,先無有淨,因何而說淨?是故無有淨。復次:
もし不浄に因らざれば、先前に並びに浄なし。何を以てか浄を説かんか。ゆえに浄なし。さらにいえば、
「若無有淨者,何由而有貪?
「もし浄なければ、何を以てかなお貪有らんか。
若無有不淨,何由而有恚?」
もし不浄なければ、何を以てかなお恚有らんか。」
無淨不淨故,則不生貪恚。
浄・不浄なければ、すなわち貪・恚を生ぜず。
問曰:經說常等四顛倒。若無常中見常,是名顛倒;若無常中見無常,此非顛倒。餘三顛倒亦如是。有顛倒故,顛倒者亦應有,何故言都無?
問う者曰く、経の上に常等の四顛倒を説く。もし無常の中に於いて常を見れば、これを顛倒と名づく。もし無常の中に於いて無常を見れば、これを顛倒と名づけない。その余の三顛倒もまたこのようである。顛倒有るがゆえに、顛倒する人もまた有るべきである。なぜ皆なしと言うか。
答曰:
答える者曰く、
「於無常著常,是則名顛倒;
「無常に於いて常を執れば、これをこそ顛倒と名づく。
空中無有常,何處有常倒?」
空の中に常なきに、どうしてなお常の顛倒があらんか。」
若於無常中著常,名為顛倒。諸法性空中無有常,是中何處有常顛倒?餘三亦如是。復次:
もし無常の中に於いて常を執すれば、顛倒と名づく。諸法の性空の中に常なし。この中にどうしてなお常の顛倒があらんか。その余の三種もまたこのようである。さらにいえば、
「若於無常中,著無常非倒;
「もし無常の中に於いて無常を執すれば、顛倒にあらず。
空中無無常,何有非顛倒?」
空の中に無常なきに、どうしてなお非顛倒があらんか。」
若著無常言是無常,不名為顛倒者,諸法性空中無無常,無常無故,誰為非顛倒?餘三亦如是。復次:
もし無常を執してこれは無常と言うは、顛倒と名づけない。諸法の性空の中に無常なし。無常なきに、誰が非顛倒ならんか。その余の三種もまたこのようである。さらにいえば、
「可著著者著,及所用著法,
「可着・著者・着、および所用の着法は、
是皆寂滅相,云何而有著?」
これらは皆寂滅の相にして、どうしてなお着があらんか。」
可著名物,著者名作者,著名業,所用法名所用事,是皆性空寂滅相。如〈如來品〉中所說,是故無有著。復次:
可着とは物と名づけ、著者とは作者と名づけ、着とは業と名づけ、所用の法とは所用の事と名づく。これらは皆性空・寂滅の相である。〈如来品〉の中の説く所の如し。ゆえに着なし。さらにいえば、
「若無有著法,言邪是顛倒,
「もし着の法なければ、邪を説いて顛倒と為し、
言正不顛倒,誰有如是事?」
正を説いて不顛倒と為すは、誰がかかる事有らんか。」
著名憶想分別此彼有無等。若無此著者,誰為邪顛倒?誰為正不顛倒?復次:
着とは、憶想分別の此彼有無等を名づく。もしこの着なければ、誰が邪の顛倒ならん、誰が正の不顛倒ならんか。さらにいえば、
「有倒不生倒,無倒不生倒,
「すでに倒有るは倒を生ぜず、倒なきは倒を生ぜず。
倒者不生倒,不倒亦不生。
倒する者は倒を生ぜず、倒せざる者もまた生ぜず。
若於顛倒時,亦不生顛倒,
もしまさに顛倒する時にも、また顛倒を生ぜず。
汝可自觀察,誰生於顛倒?」
あなたは自ら観察してみよ、誰が顛倒を生出すか。」
已顛倒者,則更不生顛倒,已顛倒故。不顛倒者亦不顛倒,無有顛倒故。顛倒時亦不顛倒,有二過故。汝今除憍慢心,善自觀察,誰為顛倒者?復次:
すでに顛倒したる人は、さらに顛倒を生ぜず。すでに顛倒したればがゆえである。顛倒せざる人もまた顛倒せず。顛倒なきがゆえである。まさに顛倒する時にもまた顛倒せず。両重の過失有るがゆえである。あなたはいま憍慢の心を去りて、善く自ら観察せよ。誰が顛倒する者か。さらにいえば、
「諸顛倒不生,云何有此義?
「諸の顛倒は生ぜず。この言はどうして成立できようか。
無有顛倒故,何有顛倒者?」
顛倒なきがゆえに、どうしてなお顛倒する人があらんか。」
顛倒種種因緣破故,墮在不生。彼貪著不生,謂不生是顛倒實相。是故偈說,云何名不生為顛倒?乃至無漏法尚不名為不生相,何況顛倒是不生相。顛倒無故,何有顛倒者?因顛倒有顛倒者。復次:
顛倒は種種の因縁を用いて破られて不生に堕す。かの辺は不生に貪着して、不生を説いて顛倒の実相と為す。ゆえに偈に言う。どうして不生を以て顛倒と言うことができようか。乃至無漏法すらなお不生の相と名づけざるに、いわんや顛倒が不生の相ならんや。顛倒なければ、どうしてなお顛倒する人があらんか。顛倒有るがゆえにこそ顛倒する人有る。さらにいえば、
「若常我樂淨,而是實有者,
「もし常・我・楽・浄のこれらが実有なれば、
是常我樂淨,則非是顛倒。」
これらの常・我・楽・浄はすなわち顛倒にあらず。」
若常我樂淨是四實有性者,是常我樂淨則非顛倒。何以故?定有實事故。云何言顛倒?若謂常我樂淨倒是四無者,無常苦無我不淨是四應實有,不名顛倒。顛倒相違故名不顛倒。是事不然。何以故?
もし常・我・楽・浄の四様が実に性有れば、これらの常・我・楽・浄はすなわち顛倒ではない。なぜか。決定の実事有るがゆえに、どうして顛倒と言うことができようか。もし常・我・楽・浄を倒してこの四様なしと言うならば、無常・苦・無我・不浄の四様は実有るべきで、顛倒と名づけない。顛倒と相い違するに因ってこそ不顛倒と名づく。この事は当らない。なぜか。
「若常我樂淨,而實無有者;
「もし常・我・楽・浄が実に並びになければ、
無常苦不淨,是則亦應無。」
無常・苦・不浄のこれらもまたなかるべきである。」
若常我樂淨是四實無,無故無常等四事亦不應有。何以故?無相因待故。復次:
もし常・我・楽・浄の四様が実になければ、なきがゆえに無常等の四事もまた有るべきではない。なぜか。相対待の相なきがゆえである。さらにいえば、
「如是顛倒滅,無明則亦滅,
「このように顛倒滅せば、無明もまた滅す。
以無明滅故,諸行等亦滅。」
無明滅するに因って、諸行等もまた滅す。」
如是者,如其義。滅諸顛倒故,十二因緣根本無明亦滅,無明滅故三種行業乃至老死等皆滅。復次:
いわゆるこのようとは、すなわちその義理に照る。諸の顛倒を滅せば、十二因縁の根本の無明もまた滅す。無明滅せば、三種の行業乃至老死等も皆滅す。さらにいえば、
「若煩惱性實,而有所屬者,
「もし煩悩の性が実にして、並びに帰属する所有れば、
云何當可斷?誰能斷其性?」
どうしてなお断ずることができようか。誰がその性を断ぜんか。」
若諸煩惱即是顛倒而實有性者,云何可斷?誰能斷其性?若謂諸煩惱皆虛妄無性而可斷者,是亦不然。何以故?
もし諸の煩悩がすなわち顛倒にして実に性有れば、どうして断ずることができようか。誰がその性を断ぜんか。もし諸の煩悩は皆虚妄にして性なく断ずべきと言うならば、これも当らない。なぜか。
「若煩惱虛妄,無性無屬者,
「もし煩悩が虚妄にして性なく、帰属する所なければ、
云何當可斷?誰能斷無性?」
どうしてなお断ずることができようか。誰が性なきを断ぜんか。」
若諸煩惱虛妄無性,則無所屬,云何可斷?誰能斷無性法?
もし諸の煩悩が虚妄にして性なければ、すなわち帰属する所なし。どうして断ずることができようか。誰が性なきの法を断ぜんか。
中論觀四諦品第二十四(四十偈)
《中論》観四諦品第二十四(四十首の偈)
問曰:破四顛倒,通達四諦,得四沙門果。
問う者曰く、四顛倒を破り、四諦に通達して、四沙門果を得る。
「若一切皆空,無生亦無滅,
「もし一切が空にして、生なくまた滅なければ、
如是則無有,四聖諦之法。
このようではすなわち四聖諦という法なし。
以無四諦故,見苦與斷集,
四諦なきに因って、苦を見集を断じ、
證滅及修道,如是事皆無。
滅を証しおよび道を修する、かかる事も皆なし。
以是事無故,則無四道果;
これらの事なきに因って、すなわち四道果なし。
無有四果故,得曏者亦無。
四果なければ、果を得・果に向かう人もまたなし。
若無八賢聖,則無有僧寶;
もし八賢聖なければ、すなわち僧宝なし。
以無四諦故,亦無有法寶;
四諦なきに因って、また法宝なし。
以無法僧寶,亦無有佛寶。
法宝・僧宝なきに因って、また仏宝なし。
如是說空者,是則破三寶。」
このように空を説く者は、これはすなわち三宝を破る。」
若一切世間皆空無所有者,即應無生無滅。以無生無滅故,則無四聖諦。何以故?從集諦生苦諦,集諦是因、苦諦是果。滅苦集諦名為滅諦,能至滅諦名為道諦。道諦是因、滅諦是果。如是四諦有因有果,若無生無滅則無四諦。四諦無故,則無見苦、斷集、證滅、修道。見苦斷集證滅修道無故,則無四沙門果。四沙門果無故,則無四向四得者。若無此八賢聖,則無僧寶。又四聖諦無故,法寶亦無。若無法寶、僧寶者,云何有佛?得法名為佛,無法何有佛?汝說諸法皆空,則壞三寶。復次:
もし一切の世間が皆空にして無所有なれば、生なく滅なかるべきである。生滅なきに因って、すなわち四聖諦なし。なぜか。集諦に随って苦諦を生じ、集諦は因・苦諦は果。苦・集諦を滅するを滅諦と名づけ、能く滅諦に至るを道諦と名づく。道諦は因・滅諦は果。このように四諦に因有り果有る。もし生滅なければ、すなわち四諦なし。四諦なければ、すなわち苦を見・集を断・滅を証・道を修するなし。苦を見・集を断・滅を証・道を修するなければ、すなわち四沙門果なし。四沙門果なければ、すなわち四向・四得の人なし。もしこの八賢聖なければ、すなわち僧宝なし。また四聖諦なければ、法宝もまたなし。もし法宝・僧宝なければ、どうしてなお仏があらんか。法を得てこそ仏と名づく。法なければどうして仏があらんか。あなたが諸法は皆空と説くは、すなわち三宝を毀壊す。さらにいえば、
「空法壞因果,亦壞於罪福,
「空法は因果を毀壊し、また罪福をも毀壊し、
亦復悉毀壞,一切世俗法。」
しかもまた総べて一切の世俗法を毀壊す。」
若受空法者,則破罪福及罪福果報,亦破世俗法。有如是等諸過故,諸法不應空。
もし空法を受ければ、すなわち罪福および罪福の果報を破り、また世俗法をも破る。かくのごとき種種の過失有り。ゆえに諸法は空であるべきではない。
答曰:
答える者曰く、
「汝今實不能,知空空因緣,
「あなたは今実に空・空の因縁、
及知於空義,是故自生惱。」
および空の義理を知ること能わざれば、自ら惱乱を生ず。」
汝不解云何是空相?以何因緣說空?亦不解空義。不能如實知故,生如是疑難。復次:
あなたは何をか空の相と為すかを解せず、何の因縁に依ってか空を説くかも解せず。また空の義理を解せず。如実に知ること能わざるがゆえに、かくのごとき疑難を生出す。さらにいえば、
「諸佛依二諦,為眾生說法:
「諸仏は二諦に依って衆生のために法を説く。
一以世俗諦,二第一義諦。
一は世俗諦、二は第一義諦。
若人不能知,分別於二諦,
もし人がこの二諦の分別を知ること能わざれば、
則於深佛法,不知真實義。」
すなわち深き仏法に於いて、真実義を知らず。」
世俗諦者,一切法性空,而世間顛倒,故生虛妄法,於世間是實。諸賢聖真知顛倒性,故知一切法皆空無生,於聖人是第一義諦名為實。諸佛依是二諦,而為眾生說法。若人不能如實分別二諦,則於甚深佛法不知實義。若謂一切法不生是第一義諦,不須第二俗諦者,是亦不然。何以故?
いわゆる世俗諦とは、一切法は性空なるに、世間は顛倒なるがゆえに虚妄の法を生じ、世間に於いては是れ実なり。諸の賢聖は真に顛倒の性を知るがゆえに、一切法は皆空にして無生なりと知る。聖人に於いては是れ第一義諦にして、実と名づく。諸仏はこの二諦に依って衆生のために法を説く。もし人が能く如実に二諦を分別せざれば、すなわち甚深の仏法に於いて実義を知らず。もし一切法不生は第一義諦にして、第二の俗諦を須いずと説くならば、これも当らない。なぜか。
「若不依俗諦,不得第一義;
「もし俗諦に依らざれば、第一義を得ることを得ず。
不得第一義,則不得涅槃。」
第一義を得ざれば、すなわち涅槃を得ることを得ず。」
第一義皆因言說,言說是世俗,是故若不依世俗,第一義則不可說。若不得第一義,云何得至涅槃?是故諸法雖無生,而有二諦。復次:
第一義は皆因って言説に在り、言説は世俗である。ゆえにもし世俗に依らざれば、第一義は説くべからず。もし第一義を得ざれば、どうして涅槃に至ることを得んか。ゆえに諸法は無生なれども、二諦有る。さらにいえば、
「不能正觀空,鈍根則自害,
「能く空を正観せざれば、鈍根はすなわち自らを害す。
如不善呪術,不善捉毒蛇。」
呪術を善くせざるが如く、毒蛇を善く捉えざるが如し。」
若人鈍根不善解空法,於空有失而生邪見。如為利捉毒蛇,不能善捉反為所害。又如呪術,欲有所作不能善成則還自害。鈍根觀空法亦如是。復次:
もし人が鈍根にして空法を善解せず、空に於いて過失有りて邪見を生出す。利益を為さんがために毒蛇を捉えんとすれども、善く捉えずしてかえってその害するところとなるが如し。また呪術の如く、作為せんと欲するも善く成ること能わざれば、すなわちかえって自らを害す。鈍根が空法を観ずるもまたこのようである。さらにいえば、
「世尊知是法,甚深微妙相,
「世尊はこの法の甚深微妙の相を知りて、
非鈍根所及,是故不欲說。」
鈍根の及ぶ所にあらざれば、説かんと欲せず。」
世尊以法甚深微妙,非鈍根所解,是故不欲說。復次:
世尊は法の甚深微妙にして、鈍根の解し得る所にあらざるに因って、説かんと欲せず。さらにいえば、
「汝謂我著空,而為我生過;
「あなたは我が空を執すると認めて、我に過失を生ぜしむ。
汝今所說過,於空則無有。」
あなたが今説く所の過失は、空に於いてはなし。」
汝謂我著空故,為我生過。我所說性空,空亦復空,無如是過。復次:
あなたは我が空を執すると認めて、我に過失を生ぜしむ。我の説く所の性空は、空もまた還りて空なり。このような過失なし。さらにいえば、
「以有空義故,一切法得成;
「空の義理有るに因って、一切法はこそ成立し得る。
若無空義者,一切則不成。」
もし空の義理なければ、一切は皆成り立たず。」
以有空義故,一切世間、出世間法皆悉成就。若無空義,則皆不成就。復次:
空の義理有るに因って、一切の世間・出世間法は皆成就す。もし空の義理なければ、皆成り立たず。さらにいえば、
「汝今自有過,而以迴向我,
「あなたは今自ら過失有るに、それを転じて我に向う。
如人乘馬者,自忘於所乘。」
人が馬に乗りて、自ら乗る所を忘るるが如し。」
汝於有法中有過不能自覺,而於空中見過,如人乘馬而忘其所乘。何以故?
あなたは有法の中に過失有るも自ら覚ること能わざるに、空の中に於いて過失を見る。人が馬に乗りて乗る所を忘るるが如し。なぜか。
「若汝見諸法,決定有性者,
「もしあなたが諸法に決定の性有るを見れば、
即為見諸法,無因亦無緣。」
すなわちこれ諸法に因なくまた縁なきを見るなり。」
汝說諸法有定性。若爾者,則見諸法無因無緣。何以故?若法決定有性,則應不生不滅,如是法何用因緣?若諸法從因緣生,則無有性。是故諸法決定有性,則無因緣。若謂諸法決定住自性,是則不然。何以故?
あなたは諸法に定性有ると説く。もしこのようであれば、すなわちこれ諸法に因なく・縁なきを見るなり。なぜか。もし法に決定の性有れば、生滅すべきではない。このような法はなお因縁を用いて何をせんか。もし諸法が因縁に随って生ぜば、すなわち性なし。ゆえに諸法に決定の性有れば、すなわち因縁なし。もし諸法は決定して自性に住すと説くならば、これは当らない。なぜか。
「即為破因果,作作者作法,
「すなわちこれ因果・作・作者・作法を破り、
亦復壞一切,萬物之生滅。」
しかもまた一切万物の生滅を毀壊せん。」
諸法有定性,則無因果等諸事。如偈說:
諸法に定性有れば、すなわち因果等の種種の事なし。偈の説く所の如く、
「眾因緣生法,我說即是無,
「衆因縁の生ずる所の法は、我説けばすなわち是れ無、
亦為是假名,亦是中道義。
また是れ仮名、亦是れ中道の義理なり。
未曾有一法,不從因緣生,
未曾て一の法有りて因縁に随って生ぜざることなし。
是故一切法,無不是空者。」
ゆえに一切法に空ならざるはなし。」
眾因緣生法,我說即是空。何以故?眾緣具足和合而物生,是物屬眾因緣故無自性,無自性故空,空亦復空。但為引導眾生故,以假名說,離有無二邊,故名為中道。是法無性故不得言有,亦無空故不得言無。若法有性相,則不待眾緣而有,若不待眾緣則無法,是故無有不空法。汝上所說空法有過者,此過今還在汝。何以故?
衆因縁の生ずる所の法は、我説けばすなわち是れ空なり。なぜか。衆縁具足して和合して物生ず。この物は衆因縁に属するがゆえに自性なし。自性なきがゆえに空なり。空もまた還りて空なり。ただ衆生を引導せんがためにこそ仮名を用いて説く。有・無の両辺を離るるがゆえに中道と名づく。この法に性なきがゆえに有と説くこと能わず。また空ならざるがゆえに無と説くこと能わず。もし法に性相有れば、衆縁を待たずして有らん。もし衆縁を待たざれば、すなわち法なし。ゆえに不空の法なし。あなたが上に説いた空法に過失有りとは、この過失はいまなおあなたの辺に在り。なぜか。
「若一切不空,則無有生滅,
「もし一切が不空なれば、すなわち生滅なし。
如是則無有,四聖諦之法。」
このようではすなわち四聖諦という法なし。」
若一切法各各有性不空者,則無有生滅。無生滅故,則無四聖諦法。何以故?
もし一切法が各各に性有りて不空なれば、すなわち生滅なし。生滅なければ、すなわち四聖諦の法なし。なぜか。
「苦不從緣生,云何當有苦?
「苦がもし縁に随って生ぜなければ、どうしてなお苦があらんか。
無常是苦義,定性無無常。」
無常は苦の義理なり。定性有ればすなわち無常なし。」
苦不從緣生故則無苦。何以故?經說無常是苦義。若苦有定性,云何有無常?以不捨自性故。復次:
苦が縁に随って生ぜなければ、すなわち苦なし。なぜか。経の上に無常は苦の義理と説くがゆえである。もし苦に定性有れば、どうしてなお無常があらんか。自性を捨てざるがゆえである。さらにいえば、
「若苦有定性,何故從集生?
「もし苦に定性有れば、何に因ってか集に随って生ぜんか。
是故無有集,以破空義故。」
ゆえに集はなし。空の義理を破るがゆえである。」
若苦有定性者,則不應更生,先已有故。若爾者,則無集諦,以壞空義故。復次:
もし苦に定性有れば、さらに生ずべきではない。先前にすでに有ればがゆえである。もしこのようであれば、すなわち集諦なし。空の義理を毀壊するがゆえである。さらにいえば、
「苦若有定性,則不應有滅。
「苦にもし定性有れば、滅有るべきではない。
汝著定性故,即破於滅諦。」
あなたが定性を執著すれば、すなわち滅諦を破る。」
苦若有定性者,則不應滅。何以故?性則無滅故。復次:
苦にもし定性有れば、滅すべきではない。なぜか。性はすなわち滅せざるがゆえである。さらにいえば、
「苦若有定性,則無有修道;
「苦にもし定性有れば、すなわち道の修習なし。
若道可修習,即無有定性。」
もし道が修習すべきなれば、すなわち定性なし。」
法若定有,則無有修道。何以故?若法實者則是常,常則不可增益。若道可修,道則無有定性。復次:
法がもし決定有れば、すなわち道の修習なし。なぜか。もし法が実なれば、すなわち常である。常なれば增益すべからず。もし道が修すべきなれば、道にすなわち定性なし。さらにいえば、
「若無有苦諦,及無集滅諦,
「もし苦諦なく、および集・滅諦なければ、
所可滅苦道,竟為何所至?」
能く苦を滅するの道は、畢竟いずこに至らんか。」
諸法若先定有性,則無苦集滅諦。今滅苦道,竟為至何滅苦處?復次:
諸法がもし先前に決定の性有れば、すなわち苦・集・滅諦なし。いま苦を滅するの道は、畢竟いずこの滅苦の処に至らんか。さらにいえば、
「若苦定有性,先來所不見,
「もし苦が決定の性有れば、先前に本より見ること能わず。
於今云何見?其性不異故。」
いまどうして見ることを得んか。その性は異ならざるがゆえに。」
若先凡夫時不能見苦性,今亦不應見。何以故?不見性定故。復次:
もし先前に凡夫の時に苦の性を見ること能わざれば、いまもまた見るべきではない。なぜか。見ること能わざるの性は定なればがゆえである。さらにいえば、
「如見苦不然,斷集及證滅,
「苦を見るが当らざるが如く、集を断じおよび滅を証し、
修道及四果,是亦皆不然。」
道を修しおよび四果のこれらも、皆当らず。」
如苦諦性,先不見者後亦不應見。如是亦不應有斷集、證滅、修道。何以故?是集性先來不斷,今亦不應斷,性不可斷故。滅先來不證,今亦不應證,先來不證故。道先來不修,今亦不應修,先來不修故。是故四聖諦見斷證修四種行,皆不應有。四種行無故,四道果亦無。何以故?
苦諦の性の如く、先前に見ること能わざるは後もまた見るべきではない。このようにまた集を断・滅を証・道を修する有るべきではない。なぜか。この集の性は先前に本より断ぜず、いまもまた断ずべきではない。性は断ずべからざるがゆえである。滅は先前に本より証せず、いまもまた証すべきではない。先前に証せざるがゆえである。道は先前に本より修せず、いまもまた修すべきではない。先前に修せざるがゆえである。ゆえに四聖諦の見・断・証・修の四種の行は皆有るべきではない。四種の行なければ、四道果もまたなし。なぜか。
「是四道果性,先來不可得;
「この四道果の性は、先前に本より求めて得られず。
諸法性若定,今云何可得?」
諸法の性がもし定なれば、いまどうして得ることができようか。」
諸法若有定性,四沙門果先來未得,今云何可得?若可得者,性則無定。復次:
諸法にもし定性有れば、四沙門果は先前に本より得ず。いまどうして得ることができようか。もし得ることができれば、性は定ならず。さらにいえば、
「若無有四果,則無得曏者,
「もし四果なければ、果を得・果に向かう人なし。
以無八聖故,則無有僧寶。」
八聖なきに因って、すなわち僧宝なし。」
無四沙門果故,則無得果、向果者。無八賢聖故,則無有僧寶。而經說八賢聖,名為僧寶。復次:
四沙門果なければ、すなわち果を得・果に向かう人なし。八賢聖なければ、すなわち僧宝なし。しかるに経の上に八賢聖を僧宝と名づくと説く。さらにいえば、
「無四聖諦故,亦無有法寶,
「四聖諦なければ、また法宝なし。
無法寶僧寶,云何有佛寶?」
法宝・僧宝なければ、どうしてなお仏宝があらんか。」
行四聖諦得涅槃法,若無四諦則無法寶,若無二寶云何當有佛寶?汝以如是因緣,說諸法定性,則壞三寶。
四聖諦を修行して涅槃法を得る。もし四諦なければすなわち法宝なし。もし二宝なければ、どうしてなお仏宝があらんか。あなたがかかる因縁を用いて諸法に定性有ると説くは、すなわち三宝を毀壊す。
問曰:汝雖破諸法,究竟道阿耨多羅三藐三菩提應有,因是道故名為佛。
問う者曰く、あなたは諸法を破るといえども、究竟道阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚)は有るべきである。この道有るがゆえにこそ仏と名づく。
答曰:
答える者曰く、
「汝說則不因,菩提而有佛;
「あなたの説く所に随えば、菩提に因らずして仏有らず。
亦復不因佛,而有於菩提。」
また仏に因らずして菩提供らず。」
汝說諸法有定性者,則不應因菩提有佛、因佛有菩提,是二性常定故。復次:
あなたは諸法に定性有ると説く。菩提に因って仏有り・仏に因って菩提供るべきではない。この二様の性は常に定なればがゆえである。さらにいえば、
「雖復勤精進,修行菩提道,
「たといさらに勤めて精進して菩提道を修行するも、
若先非佛性,不應得成佛。」
もし先前に仏性ならざれば、成仏を得るべきではない。」
以先無性故,如鐵無金性,雖復種種鍛煉終不成金。復次:
先前に性なきに因って、鉄に金性なきが如く、たといさらに種種に鍛錬するも終に金と成らず。さらにいえば、
「若諸法不空,無作罪福者,
「もし諸法が不空なれば、すなわち罪福を作す人なし。
不空何所作?以其性定故。」
不空なればなお何を作さんか。その性は定なればがゆえに。」
若諸法不空,終無有人作罪福者。何以故?罪福性先已定故,又無作作者故。復次:
もし諸法が不空なれば、終に罪福を作す人なし。なぜか。罪福の性は先前にすでに定まり、また作・作者なきがゆえである。さらにいえば、
「汝於罪福中,不生果報者,
「あなたは罪福の中に於いて果報を生ぜざれば、
是則離罪福,而有諸果報。」
これはすなわち罪福を離れて諸の果報有らん。」
汝於罪福因緣中皆無果報者,則應離罪福因緣而有果報。何以故?果報不待因出故。
あなたは罪福の因縁の中に於いて皆果報なければ、罪福の因縁を離れて果報有るべきである。なぜか。果報は因を待たずして出るがゆえである。
問曰:離罪福可無善惡果報,但從罪福有善惡果報。
問う者曰く、罪福を離れて善悪の果報なきことは可とするも、ただ罪福に随ってこそ善悪の果報有る。
答曰:
答える者曰く、
「若謂從罪福,而生果報者,
「もし罪福に随って果報を生出すと説かば、
果從罪福生,云何言不空?」
果は罪福に随って生ず。どうしてなお不空と言うことができようか。」
若離罪福無善惡果,云何言果不空?若爾,離作者則無罪福。汝先說諸法不空,是事不然。復次:
もし罪福を離れて善悪の果なければ、どうして果は不空と言うことができようか。もしこのようであれば、作者を離れてすなわち罪福なし。あなたが先前に諸法は不空と説くは、この事は当らない。さらにいえば、
「汝破一切法,諸因緣空義,
「あなたが一切法・諸の因縁の空義を破れば、
則破於世俗,諸餘所有法。」
すなわち世俗のその余の所有の法を破らん。」
汝若破眾因緣法第一空義者,則破一切世俗法。何以故?
あなたがもし衆因縁法の第一の空義を破れば、すなわち一切の世俗法を破る。なぜか。
「若破於空義,即應無所作;
「もし空義を破れば、所作なかるべきに、
無作而有作,不作名作者。」
作なきのに作有り、作さずして作者と名づくべきならん。」
若破空義,則一切果皆無作無因,又不作而作,又一切作者不應有所作,又離作者應有業、有果報、有受者。但是事皆不然,是故不應破空。復次:
もし空義を破れば、一切の果に作なく・因なし。また作さずして作有り、また一切の作者は作する所有るべきではなく、また作者を離れて業有り・果報有り・受者有るべきである。しかるにこれらの事は皆当らない。ゆえに空を破るべきではない。さらにいえば、
「若有決定性,世間種種相,
「もし決定の性有れば、世間の種種の相は、
則不生不滅,常住而不壞。」
すなわち不生不滅にして、常住して壊れず。」
若諸法有定性,則世間種種相,天、人、畜生、萬物,皆應不生不滅常住不壞。何以故?有實性不可變異故。而現見萬物各有變異相生滅變易,是故不應有定性。復次:
もし諸法に定性有れば、世間の種種の相、天・人・畜生・万物は皆不生不滅にして常住不壊であるべきである。なぜか。実性有りて変異すべからざるがゆえである。しかるに現前に万物に各々変異の相・生滅変易有るを見る。ゆえに定性有るべきではない。さらにいえば、
「若無有空者,未得不應得,
「もし空なければ、未だ得ざるは得るべきではなく、
亦無斷煩惱,亦無苦盡事。」
また煩悩を断ずることなく、また苦尽の事もなし。」
若無有空法者,則世間、出世間所有功德,未得者皆不應得,亦不應有斷煩惱者,亦無苦盡。何以故?以性定故。
もし空法なければ、世間・出世間の所有の功徳は、未だ得ざるは皆得るべきではなく、また煩悩を断ずる人有るべきではなく、また苦尽もなし。なぜか。性は定なればがゆえである。
「是故經中說,若見因緣法,
「ゆえに経の中に説く、もし因縁法を見れば、
則為能見佛,見苦集滅道。」
すなわち能く仏を見、苦・集・滅・道を見ん。」
若人見一切法從眾緣生,是人即能見佛法身,增益智慧,能見四聖諦苦集滅道,見四聖諦得四果滅諸苦惱,是故不應破空義。若破空義則破因緣法,破因緣法則破三寶,若破三寶則為自破。
もし人が一切法は衆縁に随って生ずを見れば、この人はすなわち能く仏の法身を見、智慧を増益し、能く四聖諦の苦・集・滅・道を見ん。四聖諦を見て、四果を得、諸の苦悩を滅す。ゆえに空義を破るべきではない。もし空義を破ればすなわち因縁法を破り、因縁法を破ればすなわち三宝を破る。もし三宝を破ればすなわち自らを破るなり。
中論觀涅槃品第二十五(二十四偈)
《中論》観涅槃品第二十五(二十四首の偈)
問曰:
問う者曰く、
「若一切法空,無生無滅者,
「もし一切法が空にして、生なく・滅なければ、
何斷何所滅,而稱為涅槃?」
何を断じ何を滅してか、涅槃と称せんか。」
若一切法空,則無生無滅。無生無滅者,何所斷何所滅,而名為涅槃?是故一切法不應空。以諸法不空故,斷諸煩惱滅五陰,名為涅槃。
もし一切法が空なれば、すなわち生なく・滅なし。生滅なければ、何を断じ何を滅してか、涅槃と名づけんか。ゆえに一切法は空であるべきではない。諸法不空なるに因って、諸の煩悩を断じ五陰を滅するを涅槃と名づく。
答曰:
答える者曰く、
「若諸法不空,則無生無滅;
「もし諸法が不空なれば、すなわち生なく・滅なし。
何斷何所滅,而稱為涅槃?」
何を断じ何を滅してか、涅槃と称せんか。」
若一切世間不空,則無生無滅,何所斷何所滅而名為涅槃?是故有無二門,則非至涅槃。所名涅槃者:
もし一切の世間が不空なれば、すなわち生なく・滅なし。何を断じ何を滅してか涅槃と名づけんか。ゆえに有・無の両門とも涅槃に至るにあらず。いわゆる涅槃とは、
「無得亦無至,不斷亦不常,
「得なくまた至なく、断ぜずしてまた常ならず、
不生亦不滅,是說名涅槃。」
生ぜずしてまた滅せず。これをこそ涅槃と名づく。」
無得者,於行於果無所得。無至者,無處可至。不斷者,五陰先來畢竟空故,得道入無餘涅槃時亦無所斷。不常者,若有法可得分別者則名為常,涅槃寂滅無法可分別故,不名為常。生滅亦爾,如是相者名為涅槃。復次經說,涅槃非有、非無、非有無、非非有非非無,一切法不受,內寂滅名涅槃。何以故?
いわゆる無得とは、行に於いて果に於いて得る所なきことである。いわゆる無至とは、至るべき処なきことである。いわゆる不断とは、五陰は先前よりこのかた畢竟空にして、道を得て無余涅槃に入る時にも断ずる所なきことである。いわゆる不常とは、もし法有りて得べく分別すべきものあれば、すなわち常と名づく。涅槃は寂滅にして分別すべき法なし。ゆえに常と名づけない。生滅もまたこのようである。かくのごとき相有るを、涅槃と名づく。さらにいえば経の上に説く、涅槃は非有・非無・非又有又無・非非有非非無、一切法不受、内に寂滅を涅槃と名づくと。なぜか。
「涅槃不名有,有則老死相;
「涅槃は有と名づけず。有はすなわち老死の相なり。
終無有有法,離於老死相。」
終に一の有法有りて老死の相を離るることなし。」
眼見一切萬物皆生滅故,是老死相。涅槃若是有,則應有老死相。但是事不然,是故涅槃不名有。又不見離生滅老死別有定法而名涅槃。若涅槃是有,即應有生滅老死相;以離老死相故,名為涅槃。復次:
眼に一切の万物は皆生滅するを見る。これは老死の相である。涅槃がもし有なれば、老死の相有るべきである。しかるにこの事は当らない。ゆえに涅槃は有と名づけない。また生滅老死を離れて別に定法有りて涅槃と名づくを見ず。もし涅槃が有なれば、生滅老死の相有るべきである。老死の相を離るるに因ってこそ涅槃と名づくがゆえである。さらにいえば、
「若涅槃是有,涅槃即有為;
「もし涅槃が有なれば、涅槃はすなわち有為なり。
終無有一法,而是無為者。」
終に一の法有りて無為なることなし。」
涅槃非是有。何以故?一切萬物從眾緣生,皆是有為。無有一法名為無為者,雖常法假名無為,以理推之,無常法尚無有,何況常法不可見不可得者。復次:
涅槃は有ではない。なぜか。一切の万物は衆縁に随って生じ、皆是れ有為なり。一の法有りて無為と名づくことなし。常法は仮名に無為と名づくといえども、理に随って推し求めれば、無常の法すらなおなきに、いわんや常法は見るべからず、求めて得られざるをや。さらにいえば、
「若涅槃是有,云何名無受?
「もし涅槃が有なれば、どうして無受と名づけんか。
無有不從受,而名為有法。」
本より受に随わずして有法と名づくことなし。」
若謂涅槃是有法者,經則不應說無受是涅槃。何以故?無有有法不受而有,是故涅槃非有。
もし涅槃は有法と言うならば、経は無受は涅槃と説くべきではない。なぜか。有法は受に随わずして有ることなきがゆえである。ゆえに涅槃は有ではない。
問曰:若有非涅槃者,無應是涅槃耶?
問う者曰く、もし有が涅槃でなければ、無は涅槃であるべきか。
答曰:
答える者曰く、
「有尚非涅槃,何況於無耶!
「有すらなお涅槃にあらず。いわんや無をや。
涅槃無有有,何處當有無?」
涅槃に有なければ、どうしてなお無があらんか。」
若有非涅槃,無云何是涅槃?何以故?因有故有無;若無有,何有無?如經說,先有今無則名無。涅槃則不爾。何以故?非有法變為無故。是故無亦不作涅槃。復次:
もし有が涅槃でなければ、無はどうして涅槃ならんか。なぜか。有有るに因ってこそ無有るがゆえである。もし有なければ、どうして無があらんか。経の上の説くが如く、先前に有りて今に無し、こそ無と名づく。涅槃はしかくはない。なぜか。有法が変じて無と為るのではない。ゆえに無もまた涅槃を作さない。さらにいえば、
「若無是涅槃,云何名不受?
「もし無が涅槃なれば、どうして不受と名づけんか。
未曾有不受,而名為無法。」
本より不受にして無法と名づくことなし。」
若謂無是涅槃,經則不應說不受名涅槃。何以故?無有不受而名無法,是故知涅槃非無。
もし無が涅槃と言うならば、経は不受を涅槃と名づくと説くべきではない。なぜか。不受にして無法と名づくことなきがゆえに、涅槃は無ではないと知る。
問曰:若涅槃非有非無者,何等是涅槃?
問う者曰く、もし涅槃が有でもなく無でもなければ、何をか涅槃と為すか。
答曰:
答える者曰く、
「受諸因緣故,輪轉生死中;
「諸の因縁を受くるがゆえに、生死の中に輪転す。
不受諸因緣,是名為涅槃。」
諸の因縁を受けざれば、これをこそ涅槃と名づく。」
不如實知顛倒故,因五受陰往來生死。如實知顛倒故,則不復因五受陰往來生死。無性五陰不復相續故,說名涅槃。復次:
如実に知らず顛倒なるに因って、五受陰に依って生死に往来す。如実に顛倒を知れば、さらに五受陰に依って生死に往来せず。無性の五陰はさらに相続せず。ゆえに涅槃と名づく。さらにいえば、
「如佛經中說,斷有斷非有;
「仏経の中の説くが如く、有を断じ非有を断ず。
是故知涅槃,非有亦非無。」
ゆえに知るべし、涅槃は非有また非無なりと。」
有名三有,非有名三有斷滅。佛說斷此二事故,當知涅槃非有亦非無。
有とは三有と名づけ、非有とは三有の断滅と名づく。仏はこの二事を断ずと説く。知るべし、涅槃は非有また非無なりと。
問曰:若有若無非涅槃者,今有無共合是涅槃耶?
問う者曰く、もし有も無も涅槃でなければ、いま有と無とを合せたるが涅槃か。
答曰:
答える者曰く、
「若謂於有無,合為涅槃者,
「もし有無を合せたるを涅槃と為すと言うならば、
有無即解脫,是事則不然。」
有無はすなわち解脱なり。この事は当らず。」
若謂於有無合為涅槃者,即有無二事合為解脫。是事不然。何以故?有無二事相違故,云何一處有?復次:
もし有無を合せたるを涅槃と為すと言うならば、すなわち有・無の両事を合せて解脱と為すなり。この事は当らない。なぜか。有・無の両事は相い違す。どうして一処に有らんか。さらにいえば、
「若謂於有無,合為涅槃者;
「もし有無を合せたるを涅槃と為すと言うならば、
涅槃非無受,是二從受生。」
涅槃はすなわち無受にあらず。この二様は皆受に随って生ず。」
若謂有無合為涅槃者,經不應說涅槃名無受。何以故?有無二事從受生,相因而有。是故有無二事,不得合為涅槃。復次:
もし有無を合せたるを涅槃と為すと言うならば、経は涅槃は無受と名づくと説くべきではない。なぜか。有・無の両事は受に随って生じ、相因して有るがゆえである。ゆえに有・無の両事は合せて涅槃と為すこと能わず。さらにいえば、
「有無共合成,云何名涅槃?
「有無が共に合成するは、どうして涅槃と名づけんか。
涅槃名無為,有無是有為。」
涅槃は無為と名づく。有無は是れ有為なり。」
有無二事共合,不得名涅槃。涅槃名無為,有無是有為,是故有無非是涅槃。復次:
有・無の両事が共に合成するは、涅槃と名づくこと能わず。涅槃は無為と名づき、有無は是れ有為なり。ゆえに有無は涅槃ではない。さらにいえば、
「有無二事共,云何是涅槃?
「有無の両事が共なるは、どうして涅槃ならんか。
是二不同處,如明暗不俱。」
この二様は同じ処ならず。明暗は同時に能わざるが如し。」
有無二事不得名涅槃。何以故?有無相違,一處不可得,如明暗不俱。是故有時無無、無時無有,云何有無共合而名為涅槃?
有・無の両事は涅槃と名づくこと能わず。なぜか。有無は相い違して、一処に求めて得られず、明暗は同時に能わざるが如し。ゆえに有の時には無なく、無の時には有なし。どうして有無が共に合成して涅槃と名づけんか。
問曰:若有無共合非涅槃者,今非有非無應是涅槃。
問う者曰く、もし有無の共に合成するが涅槃でなければ、いま非有非無が涅槃であるべきである。
答曰:
答える者曰く、
「若非有非無,名之為涅槃;
「もし非有非無を涅槃と名づくれば、
此非有非無,以何而分別?」
この非有非無は、何を以てか分別せんか。」
若涅槃非有非無者,此非有非無因何而分別?是故非有非無是涅槃者,是事不然。復次:
もし涅槃が非有非無なれば、この非有非無は何を以てか分別せんか。ゆえに非有非無が涅槃とは、この事は当らない。さらにいえば、
「分別非有無,如是名涅槃;
「非有非無を分別して、このようであってこそ涅槃と名づく。
若有無成者,非有非無成。」
もし有無が能く成立せば、こそ非有非無もまた成立せん。」
汝分別非有非無是涅槃者,是事不然。何以故?若有無成者,然後非有非無成。有相違名無、無相違名有,是有無第三句中已破。有無無故,云何有非有非無?是故涅槃非非有非非無。復次:
あなたが非有非無を分別して涅槃と為すは、この事は当らない。なぜか。もし有無が能く成立して、しかる後にこそ非有非無もまた成立す。有に相い違するを無と名づけ、無に相い違するを有と名づく。この有無は第三句の中にすでに破った。有無なきに、どうしてなお非有非無があらんか。ゆえに涅槃は非非有・非非無ではない。さらにいえば、
「如來滅度後,不言有與無,
「如来が滅度して後、有と無とを説かず。
亦不言有無,非有及非無。
また又有又無を説かず、および非有と非無をも。
如來現在時,不言有與無,
如来が現在の時に、有と無とを説かず。
亦不言有無,非有及非無。」
また又有又無を説かず、および非有と非無をも。」
若如來滅後、若現在,有如來亦不受,無如來亦不受,亦有如來亦無如來亦不受,非有如來非無如來亦不受。以不受故,不應分別涅槃有無等。離如來,誰當得涅槃?何時何處以何法說涅槃?是故一切時一切種、求涅槃相不可得。復次:
如来の滅後であれ現在であれ、如来有りも受けず、如来無きも受けず、又有如来又無如来も受けず、非有如来非無如来も受けない。不受なるがゆえに、涅槃の有無等を分別すべきではない。如来を離れて、誰が涅槃を得るべきか。何の時・何の処・何の法を以てか涅槃を説かんか。ゆえに一切の時・一切の種に、涅槃の相を推し求めて皆得られない。さらにいえば、
「涅槃與世間,無有少分別;
「涅槃と世間とは、少許の分別もなし。
世間與涅槃,亦無少分別。」
世間と涅槃とも、また少許の分別なし。」
五陰相續往來因緣故,說名世間。五陰性畢竟空無受寂滅,此義先已說。以一切法不生不滅故,世間與涅槃無有分別,涅槃與世間亦無分別。復次:
五陰が相続して往来する因縁を、世間と名づく。五陰の性は畢竟空・無受・寂滅なり。この義理は先前にすでに説いた。一切法が不生不滅なるに因って、世間と涅槃と分別なく、涅槃と世間ともまた分別なし。さらにいえば、
「涅槃之實際,及與世間際,
「涅槃の実際、および世間の際は、
如是二際者,無毫釐差別。」
このように二つの際は、毫厘の差別なし。」
究竟推求世間、涅槃、實際、無生際,以平等不可得故,無毫釐差別。復次:
究竟に世間・涅槃・実際・無生際を推し求めれば、平等にして求めて得られざるに因って、毫厘の差別なし。さらにいえば、
「滅後有無等,有邊等常等,
「滅後の有無等、有辺等・常等は、
諸見依涅槃,未來過去世。」
諸の見は涅槃・未来・過去世に依るなり。」
如來滅後有如來、無如來、亦有如來亦無如來、非有如來非無如來。世間有邊、世間無邊、世間亦有邊亦無邊、世間非有邊非無邊。世間常、世間無常、世間亦常亦無常、世間非有常非無常。此三種十二見。如來滅後有無等四見,依涅槃起。世間有邊無邊等四見,依未來世起。世間常無常等四見,依過去世起。如來滅後有無等不可得,涅槃亦如是。如世間前際後際、有邊無邊、有常無常等不可得,涅槃亦如是。是故說世間、涅槃等無有異。復次:
如来の滅後に如来有り・如来無し・又有如来又無如来・非有如来非無如来。世間は辺有り・世間は辺なし・世間は又有辺又無辺・世間は非有辺非無辺。世間は常・世間は無常・世間は又常又無常・世間は非有常非無常。この三種の十二見。如来の滅後の有無等の四見は、涅槃に依って生起す。世間の有辺無辺等の四見は、未来世に依って生起す。世間の常無常等の四見は、過去世に依って生起す。如来の滅後の有無等は求めて得られず、涅槃もまたこのようである。世間の前際後際・有辺無辺・有常無常等が求めて得られざるが如く、涅槃もまたこのようである。ゆえに世間・涅槃等に差異なしと説く。さらにいえば、
「一切法空故,何有邊無邊,
「一切法空なれば、どうしてなお辺・無辺有らんか、
亦邊亦無邊,非有非無邊?
又辺又無辺・非有辺非無辺があらんか。
何者為一異,何有常無常,
何をか一・異と為し、どうして常・無常有らんか、
亦常亦無常,非常非無常?
又常又無常・非常非無常があらんか。
諸法不可得,滅一切戲論,
諸法は求めて得られず、一切の戯論を滅して、
無人亦無處,佛亦無所說。」
人なくまた処なし。仏もまた説く所なし。」
一切法、一切時、一切種,從眾緣生故,畢竟空故無自性。如是法中,何者是有邊,誰為有邊?何者是無邊,亦有邊亦無邊,非有邊非無邊。誰為非有邊非無邊?何者是常,誰為是常?何者是無常,常無常非常非無常,誰為非常非無常?何者身即是神,何者身異於神?如是等六十二邪見,於畢竟空中皆不可得。諸有所得皆息、戲論皆滅。戲論滅故,通達諸法實相得安隱道。從〈因緣品〉來,分別推求諸法,有亦無、無亦無、有無亦無、非有非無亦無,是名諸法實相,亦名如,法性,實際,涅槃。是故如來無時無處為人說涅槃定相,是故說諸有所得皆息、戲論皆滅。
一切法・一切時・一切種は衆縁に随って生ず。ゆえに畢竟空なり。ゆえに自性なし。このような法の中に、何をか有辺と為し、誰をか有辺と為さんか。何をか無辺と為し、又有辺又無辺・非有辺非無辺、誰をか非有辺非無辺と為さんか。何をか常と為し、誰をか常と為さんか。何をか無常と為し、又常又無常・非常非無常、誰をか非常非無常と為さんか。何をか身はすなわち神と為し、何をか身は神に異なりと為さんか。このように六十二の邪見は、畢竟空の中に皆求めて得られない。諸の所得有るは皆止息し、戯論は皆滅す。戯論滅せば、諸法の実相に通達して、安隱の道を得る。〈因縁品〉よりこのかた、諸法を分別推求するに、有もまたなし、無もまたなし、又有又無もまたなし、非有非無もまたなし。これをこそ諸法の実相と名づけ、また如・法性・実際・涅槃と名づく。ゆえに如来は時なく・処なく人のために涅槃の定相を説かず。ゆえに諸の所得有るは皆止息し、戯論は皆滅すと説く。
中論觀十二因緣品第二十六(九偈)
《中論》観十二因縁品第二十六(九首の偈)
問曰:汝以摩訶衍說第一義道,我今欲聞說聲聞法入第一義道。
問う者曰く、あなたは摩訶衍を用いて第一義道を説いた。いま声聞法を用いて第一義道に入るを聞かんと欲す。
答曰:
答える者曰く、
「眾生痴所覆,為後起三行,
「衆生は癡の覆う所となりて、後有のために三行を起こす。
以起是行故,隨行墮六趣。
これらの行を起こすに因って、行に随って六趣に堕す。
以諸行因緣,識受六道身,
諸行の因縁に因って、識は六道の身を受取る。
以有識著故,增長於名色。
識の執著有るに因って、名色に増長す。
名色增長故,因而生六入,
名色が増長して、因って六入を生出す。
情塵識和合,而生於六觸。
根・塵・識が和合して、六触を生出す。
因於六觸故,即生於三受,
六触に因って、すなわち三受を生出す。
以因三受故,而生於渴愛。
三受に因って、渇愛を生出す。
因愛有四取,因取故有有,
愛に因って四取有り、取に因って有有り。
若取者不取,則解脫無有。
もし取る人が取らざれば、すなわち解脱して有なし。
從有而有生,從生有老死,
有に随って生有り、生に随って老死在り。
從老死故有,憂悲諸苦惱。
老死に随ってゆえに憂悲の諸の苦悩有り。
如是等諸事,皆從生而有,
このように種種の事は、皆生に随って有り。
但以是因緣,而集大苦陰。
ただこれらの因縁に因って、大苦陰を集起す。
是謂為生死,諸行之根本,
これをこそ生死・諸行の根本と名づく。
無明者所造,智者所不為。
是れ無明の人の造る所にして、智者の為さざる所なり。
以是事滅故,是事則不生,
この事滅するに因って、この事はすなわち生ぜず。
但是苦陰聚,如是而正滅。」
ただ苦陰の聚にして、かくのごとくにこそ正滅す。」
凡夫為無明所盲故,以身口意業,為後身起六趣諸行。隨所起行有上中下,識入六趣隨行受身。以識著因緣故名色集,名色集故有六入,六入因緣故有六觸,六觸因緣故有三受,三受因緣故生渴愛,渴愛因緣故有四取,四取取時以身口意業起罪福,令後三有相續。從有而有生,從生而有老死,從老死有憂悲苦惱種種眾患,但有大苦陰集。是故知凡夫無智,起此生死諸行根本。智者所不起,以如實見故,則無明滅。無明滅故諸行亦滅,以因滅故果亦滅,如是修習觀十二因緣生滅智故是事滅,是事滅故乃至生老死憂悲大苦陰皆如實正滅,正滅者畢竟滅。是十二因緣生滅義,如阿毘曇、修多羅中廣說。
凡夫は無明の盲う所なれば、身口意業を用いて後身のために六趣の諸行を起こす。起こす所の行に随って上・中・下有り、識は六趣に入りて行に随って身を受く。識が執著する因縁に因って、名色集起す。名色集起せば、ゆえに六入有り。六入の因縁に因って、ゆえに六触有り。六触の因縁に因って、ゆえに三受有り。三受の因縁に因って、ゆえに渇愛を生出す。渇愛の因縁に因って、ゆえに四取有り。四取は取する時に身口意業を用いて罪福を起こし、後の三有を相続せしむ。有に随って生有り、生に随って老死在り、老死に随って憂悲苦悩の種種の衆患有り。ただ大苦陰集起するのみ。ゆえに凡夫は無智にして、この生死諸行の根本を生起すと知る。智者は生起せざる所なり。如実に見るに因って、無明すなわち滅す。無明滅せば、諸行もまた滅す。因滅するに因って、果もまた滅す。このように修習して十二因縁の生滅を観ずるの智は、この事を滅す。この事滅せば、乃至生・老死・憂悲・大苦陰も皆如実に正滅す。いわゆる正滅とは、畢竟滅である。この十二因縁生滅の義理は、阿毘曇・修多羅の中の広く説くが如し。
中論觀邪見品第二十七(三十一偈)
《中論》観邪見品第二十七(三十一首の偈)
問曰:已聞大乘法破邪見,今欲聞聲聞法破邪見。
問う者曰く、すでに大乘法にて邪見を破るを聞き了われり。いま声聞法を用いて邪見を破るを聞かんと欲す。
答曰:
答える者曰く、
「我於過去世,為有為是無?
「我は過去世に、有るか無か。
世間常等見,皆依過去世。
世間の常等の見は、皆過去世に依る。
我於未來世,為作為不作?
我は未来世に、作するか作さざるか。
有邊等諸見,皆依未來世。」
有辺等の諸の見は、皆未来世に依る。」
我於過去世,為有、為無、為有無、為非有非無?是名常等諸見依過去世。我於未來世,為作、為不作、為作不作、為非作非不作?是名邊無邊等諸見依未來世。如是等諸邪見,何因緣故名為邪見?是事今當說。
我は過去世に、有るか・無か・又有又無か・非有非無か。これをこそ常等の諸見と名づけ、過去世に依る。我は未来世に、作するか・作さざるか・又作又不作か・非作非不作か。これをこそ辺・無辺等の諸見と名づけ、未来世に依る。このように種種の邪見は、何の因縁を以てか邪見と名づくか。この事をいま説くべきである。
「過去世有我,是事不可得,
「過去世に我有るは、この事は求めて得られず。
過去世中我,不作今世我。
過去世の中の我は、並びに今世の我を作さず。
若謂我即是,而身有異相,
もし我がすなわちかれと言うに、身に同じからぬ相有るは、
若當離於身,何處別有我?
もし身を離るべければ、どうしてなお別に我有らんか。
離身無有我,是事為已成,
身を離れて我なきは、この事はすでに成立せり。
若謂身即我,若都無有我。
もし身がすなわち我と言わば、あるいは皆我なからんか。
但身不為我,身相生滅故,
ただ身は並びに我にあらず。身の相は生滅するがゆえに。
云何當以受,而作於受者?
どうして受を用いて受者を作り成さんか。
若離身有我,是事則不然,
もし身を離れて我有れば、この事は当らず。
無受而有我,而實不可得。
受なきのに我有るは、実に求めて得られず。
今我不離受,亦不即是受,
いま我は受を離れず、またすなわち受でもなく、
非無受非無,此即決定義。」
無受でもなく、無でもなし。これはすなわち決定の義理なり。」
我於過去世有者,是事不然。何以故?先世中我不即作今我,有常過故。若常則有無量過。何以故?如人修福因緣故作天而後作人,若先世我即是今我者,天即是人。又人以罪業因緣故作旃陀羅,後作婆羅門。若先世我即是今我者,旃陀羅即是婆羅門。譬如舍衛國婆羅門名提婆達,到王舍城亦名提婆達,不以至王舍城故為異。若先作天後作人,則天即是人,旃陀羅即是婆羅門。但是事不然。何以故?天不即是人,旃陀羅不即是婆羅門,有此等常過故。若謂先世我不作今我,如人浣衣時名為浣者,刈時名為刈者,而浣者與刈者雖不異,而浣者不即是刈者。如是我受天身名為天,我受人身名為人,我不異而身有異者,是事不然。何以故?若即是者,不應言天作人。今浣者於刈者,為異為不異?若不異,浣者應即是刈者,如是先世天即是人,旃陀羅即是婆羅門,我亦有常過。若異者,浣者即不作刈者,如是天不作人,我亦無常,無常則無我相。是故不得言即是。
我は過去世に有るは、この事は当らない。なぜか。先世の中の我は並びにいまの我ではない。常の過失有るがゆえである。もし常なれば無量の過失有る。なぜか。人が福を修する因縁によりて天を作し、しかる後人を作すが如く、もし先世の我がすなわちいまの我なれば、天はすなわち人である。また人が罪業の因縁によりて旃陀羅を作し、後に婆羅門を作す。もし先世の我がすなわちいまの我なれば、旃陀羅はすなわち婆羅門である。たとえば舎衛国に一の婆羅門ありて提婆達と名づき、王舎城に至りてもまた提婆達と名づく。王舎城に至るに因って別の者となることなし。もし先前に天を作して後に人を作せば、天はすなわち人であり、旃陀羅はすなわち婆羅門である。しかるにこの事は当らない。なぜか。天は並びに人ではなく、旃陀羅は並びに婆羅門ではない。かくのごとき常の過失有るがゆえである。もし先世の我は並びにいまの我を作さずと言うならば、人が衣を浣する時に浣衣人と名づけ、草を刈る時に刈草人と名づくが如く、浣衣人と刈草人は別ではないといえども、浣衣人は並びに刈草人ではない。このように我は天身を受けて天と名づけ、我は人身を受けて人と名づく。我に差異なくして身に差異有り。この事は当らない。なぜか。もしすなわちかれなれば、天が人を作すと説くべきではない。いま浣衣人は刈草人に対して、異なるか異ならざるか。もし異ならざれば、浣衣人はすなわち刈草人であるべきである。これにようては先世の天はすなわち人であり、旃陀羅はすなわち婆羅門であり、我もまた常の過失有る。もし異なれば、浣衣人は刈草人を作さず。これにようては天は人を作さず、我もまた無常である。無常なればすなわち我の相なし。ゆえにすなわちかれとは言うこと能わず。
問曰:我即是,但因受故分別是天是人,受名五陰身,以業因緣故分別是天是人、是旃陀羅是婆羅門,而我實非天非人、非旃陀羅非婆羅門。是故無如是過。
問う者曰く、我はすなわちかれなり。ただ受に因ってこそ天・人と分別する。受とは五陰身と名づく。業の因縁に因って天・人と分別し、旃陀羅・婆羅門と分別するが、我は実に天ではなく人でもなく、旃陀羅でもなく婆羅門でもない。ゆえにかくのごとき過失なし。
答曰:是事不然。何以故?若身作天作人,作旃陀羅作婆羅門,非是我者,則離身別有我。今罪福生死往來,皆是身非是我。罪因緣故墮三惡道,福因緣故生三善道,若苦樂瞋喜憂怖等,皆是身非我者,何用我為?如治俗人罪,不豫出家人。五陰因緣相續罪福不失故有解脫,若皆是身非我者,何用我為?
答える者曰く、この事は当らない。なぜか。もし身が天を作し人を作し、旃陀羅を作し婆羅門を作すに、並びに我でなければ、すなわち身を離れて別に我有ることとなる。いま罪福・生死往来は皆身であって我ではない。罪の因縁に因って三悪道に堕し、福の因縁に因って三善道に生ず。もし苦楽・瞋喜・憂怖等が皆身であって我でなければ、なお我を用いて何をせんか。俗人の罪を治するに出家人に及ばざるが如し。五陰は因縁相続して罪福失せざるがゆえに解脱有る。もし皆身であって我でなければ、なお我を用いて何をせんか。
問曰:罪福等依止於我,我有所知、身無所知故,知者應是我。起業因緣罪福是作法,當知應有作者。作者是我,身是我所用,亦是我所住處。譬如舍主以草木泥塈等治舍,自為身故隨所用治舍有好惡。我亦如是,隨作善惡等得好醜身,六道生死皆我所作,是故罪福之身皆屬於我。譬如舍但屬舍主不屬他人。
問う者曰く、罪福等は我に依止す。我は知る所有り、身は知る所なし。ゆえに能く知る者は我であるべきである。業を起こす因縁・罪福は作法なれば、作者有るべきと知るべきである。作者は我であり、身は我の用いる所にして、また我の住する処なり。たとえば房主が草木・泥灰等を用いて屋舎を修するが如く、自らの身のために、用いる所に随って屋舎を修して好醜有り。我もまたこのようで、善悪等を作すに随って好醜の身を得。六道の生死は皆我の作す所なり。ゆえに罪福の身は皆我に属す。屋舎がただ房主に属して他人に属せざるが如し。
答曰:是喻不然。何以故?舍主有形,有觸有力,故能治舍。汝所說我,無形無觸故無作力,自無作力亦不能使他作。若世間有一法無形無觸能有所作者,則可信受知有作者。但是事不然。若我是作者,則不應自作苦事。若是念者,可貪樂事不應忘失。若我不作苦而苦強生者,餘一切皆亦自生,非我所作。若見者是我,眼能見色眼應是我。若眼見而非我,則違先言見者是我。若見者是我,我則不應得聞聲等諸塵。何以故?眼是見者,不能得聞聲等塵故。是故我是見者,是事不然。若謂如刈者用鎌刈草,我亦如是以手等能有所作者,是事不然。何以故?今離鎌別有刈者,而離身心諸根無別作者。若謂作者雖非眼耳等所得亦有作者,則石女兒能有所作,如是一切諸根皆應無我。若謂右眼見物而左眼識,當知別有見者。是事不然。今右手習作左手不能,是故無別有作者。若別有作者,右手所習左手亦應能,而實不能,是故更無作者。復次有我者言,見他食果口中涎出,是為我相。是事不然。何以故?是念力故,非是我力。又亦即是破我因緣。人在眾中愧於涎出,而涎強出不得自在,當知無我。復次又有顛倒過罪。先世是父今世為子,是父子我一,但身有異。如從一舍至一舍,父故是父,不以入異舍故便有異。若有我,是二應一,如是則有大過。若謂無我五陰相續中亦有是過。是事不然。何以故?五陰雖相續,或時有用、或時無用,如蒲桃漿持戒者應飲,蒲桃酒不應飲,若變為苦酒還復應飲。五陰相續亦如是,有用有不用,若始終一我,有如是過。五陰相續無如是過,但五陰和合故假名為我,無有決定。如梁椽和合有舍,離梁椽無別舍。如是五陰和合故有我,若離五陰實無別我,是故我但有假名無有定實。汝先說離受別有受者,以受分別受者是天是人,是皆不然。當知但有受無別受者,若謂離受別有我,是事不然。
答える者曰く、この譬喩は当らない。なぜか。房主に形有り、触有り・力有るがゆえに、能く屋舎を修す。あなたの説く所の我は、形なく触なし。ゆえに造作の力なし。自ら造作の力なければ、また他をして作さしむることもできず。もし世間に一法有りて形なく触なくして能く作為有らば、すなわち信受して作者有ると知るべきである。しかるにこの事は当らない。もし我が作者なれば、自ら苦事を作すべきではない。もし能く念ずる者なれば、貪すべき楽すべきの事は忘失すべきではない。もし我が苦を作さざるに苦が生じ出れば、その余の一切もまた皆自ら生ずべきで、我の作す所ではない。もし見者が我なれば、眼が色を見る能くすれば、眼はすなわち我であるべきである。もし眼が見るのに我でなければ、先に見者は我と説いたに違背す。もし見者が我なれば、我は声等の諸塵を聞くことを得るべきではない。なぜか。眼は見者にして、声等の塵を聞くことを得ざるがゆえである。ゆえに我は見者とは、この事は当らない。もし刈草人が鎌を用いて草を刈るが如く、我もまたこのようで手等を用いて作為有ると言うならば、この事は当らない。なぜか。いま鎌を離れて別に刈草人有るが、身心の諸根を離れて別の作者なきがゆえである。もし作者は眼耳等の得る所にあらざるも作者有ると言うならば、すなわち石女の女児もまた作為有るべきである。これにようては一切の諸根は皆我無かるべきである。もし右眼は物を見て左眼は識知すると言うならば、別に見者有ると知るべきである。この事は当らない。いま右手の習する所の事を左手は能くせざれば、別の作者なし。もし別に作者有れば、右手の習する所を左手もまた能くすべきである。しかるに実に能くせざれば、さらに作者なし。さらにいえば、我有ると主張する人は説く。人の果を食するを見て、口より涎水を流すを見る。これは我の相なり、と。この事は当らない。なぜか。これは念力にして、我の力にあらず。このまた我を破る因縁なり。人が衆人の中に於いて涎の出るを羞ぢるに、涎は強いられて流出れて自在を得ず。知るべし、我なきことを。さらにいえば、また顛倒の過失有り。前世は父にして今世は子なり。この父子の我は一にして、ただ身に差異有るのみ。一の房舎より一の房舎に至るが如く、父はなお父にして、別の房舎に入るに因って差異有ることなし。もし我有れば、この両人はすなわち一であるべきである。これにようては大きな過失有る。もし我なしと言うに五陰相続の中にもまたこの過失有りと言うならば、この事は当らない。なぜか。五陰は相続するといえども、あるいは用有りあるいは用なし。葡萄漿は持戒の人は飲むべきに、葡萄酒は飲むべからず。もし醋と変ればなお飲むべきが如し。五陰相続もまたこのようで、用有り用なし。もし始終一の我なれば、かくのごとき過失有る。五陰相続にはかくのごとき過失なし。ただ五陰和合してこそ仮名に我と名づき、決定なし。梁椽和合してこそ房舎有るが如く、梁椽を離れて別の房舎なし。このように五陰和合してこそ我有り。もし五陰を離れて実に別の我なし。ゆえに我はただ仮名のみにして定実なし。あなたは先前に受を離れて別に受者有りて、受を用いて受者が天か人かを分別すと説いた。これら皆当らない。知るべし、ただ受有るのみにして別の受者なし。もし受を離れて別に我有ると説くは、この事は当らない。
若離受有我,云何可得說是我相?若無相可說,則離受無我。若謂離身無我但身是我,是亦不然。何以故?身有生滅相,我則不爾。復次云何以受即名受者?若謂離受有受者,是亦不然。若不受五陰而有受者,應離五陰別有受者。眼等根可得,而實不可得,是故我不離受、不即是受,亦非無受、亦復非無,此是定義。是故當知,過去世有我者,是事不然。何以故?
もし受を離れて我有れば、どうしてこれは我の相と言うことができようか。もし説くべき相なければ、すなわち受を離れて我なし。もし身を離れて我なく、ただ身が我と言うならば、これも当らない。なぜか。身に生滅の相有るに、我はしかくはなきがゆえである。さらにいえば、どうして受をこそ受者と言うことができようか。もし受を離れて受者有ると言うならば、これも当らない。もし五陰を受けずして受者有れば、五陰を離れて別に受者有るべきである。眼等根は得べきであるが、実に求めて得られない。ゆえに我は受を離れず、すなわち受でもなく、また無受でもなく、無でもなし。これは定の義理である。ゆえに知るべし、過去世に我有るは、この事は当らないと。なぜか。
「過去我不作,是事則不然;
「過去の我は並びに作さずとは、この事は当らず。
過去世中我,異今亦不然。
過去世の中の我が、いまに異なるも当らず。
若謂有異者,離彼應有今,
もし差異有ると言うならば、かれを離れていま有るべきに、
我住過去世,而今我自生。
我は過去世に住して、しかるにいまの我は自ら生ず。
如是則斷滅,失於業果報,
このようであればすなわち断滅にして、業の果報を失せん。
彼作而此受,有如是等過。
かの人が作して、この人が受くる。かくのごとき種種の過失有り。
先無而今有,此中亦有過,
先前になくしていま有るは、この中にもまた過失有り。
我則是作法,亦為是無因。」
我はすなわち所作の法と成りて、また無因と成らん。」
過去世中我不作今我,是事不然。何以故?過去世中我與今我不異。若今我與過去世我異者,應離彼我而有今我,又過去世我亦應住彼,此身自更生。若爾者,即墮斷邊,失諸業果報。又彼人作罪,此人受報。有如是等無量過。又是我應先無而今有,是亦有過。我則是作法,亦是無因生。是故過去我不作今我,是事不然。復次:
過去世の中の我は並びにいまの我を作さずとは、この事は当らない。なぜか。過去世の中の我といまの我とに差異なきがゆえである。もしいまの我が過去世の我に差異有れば、かの我を離れていまの我有るべきであり、また過去世の我もまたかの辺に住すべきで、この身は自らさらに生ず。もしこのようであれば、すなわち断辺に堕し、諸の業果報を失せん。またかの人が罪を作して、この人が報を受く。かくのごとき無量の過失有る。またこの我が先前になくしていま有るも、これにも過失有る。我はすなわち所作の法と成り、また無因の生なり。ゆえに過去の我は並びにいまの我を作さずとは、この事は当らない。さらにいえば、
「如過去世中,有我無我見,
「過去世の中の有我・無我の見の如く、
若共若不共,是事皆不然。」
あるいは共なりあるいは不共なり。これらの事は皆当らず。」
如是推求過去世中邪見有、無、亦有亦無、非有非無,是諸邪見,先說因緣過故,是皆不然。
このように過去世の中の邪見の有・無・又有又無・非有非無を推し求めれば、これらの邪見は、先前に因縁の過失を説いたがゆえに、これらは皆当らない。
「我於未來世,為作為不作?
「我は未来世に、作するか作さざるか。
如是之見者,皆同過去世。」
かくのごとき見は、皆過去世と同じ。」
我於未來世中,為作為不作?如是四句,如過去世中過咎,應在此中說。復次:
我は未来世の中に、作するか作さざるか。かくのごとき四句は、過去世の中の過失の如く、ここに説くべきである。さらにいえば、
「若天即是人,則墮於常邊;
「もし天がすなわち人なれば、すなわち常辺に堕せん。
天則為無生,常法不生故。」
天はすなわち無生と成らん。常法は生ぜざるがゆえに。」
若天即是人,是則為常。若天不生人中,云何名為人?常法不生故。常亦不然。復次:
もし天がすなわち人なれば、これはすなわち常と成る。もし天が人中に生ぜざれば、どうして人と名づけんか。常法は生ぜざるがゆえである。常もまた当らない。さらにいえば、
「若天異於人,是即為無常;
「もし天が人に異なれば、これはすなわち無常なり。
若天異人者,是則無相續。」
もし天が人に異なれば、これはすなわち相続なし。」
若天與人異則為無常,無常則為斷滅等過,如先說過。若天與人異則無相續,若有相續不得言異。復次:
もし天が人に異なればすなわち無常と成る。無常なればすなわち断滅等の過失有る。先前に説いた過失の如し。もし天が人に異なればすなわち相続なし。もし相続有れば、異なりと言うこと能わず。さらにいえば、
「若半天半人,則墮於二邊,
「もし半ばは天半ばは人なれば、すなわち両辺に堕せん。
常及於無常,是事則不然。」
常および無常に、この事は当らず。」
若眾生半身是天、半身是人,若爾則有常無常。半天是常、半人是無常,但是事不然。何以故?一身有二相過故。復次:
もし衆生の半身が天にして半身が人なれば、もしこのようであれば、すなわち常・無常有る。半ばの天は常、半ばの人は無常である。しかるにこの事は当らない。なぜか。一身に二種の相有るの過失あればがゆえである。さらにいえば、
「若常及無常,是二俱成者,
「もし常および無常の二様が皆能く成立せば、
如是則應成,非常非無常。」
このようであればこそ非常非無常を成立すべきである。」
若常無常二俱成者,然後成非常非無常,與常無常相違故。今實常無常不成,是故非常非無常亦不成。復次今生死無始,是亦不然。何以故?
もし常・無常の二様が皆能く成立して、しかる後にこそ非常非無常を成立すべきである。常・無常に相い違するがゆえである。いま実に常・無常ともに成立せざれば、ゆえに非常非無常もまた成立せず。さらにいえば、いま生死は無始と説くに、これも当らない。なぜか。
「法若定有來,及定有去者,
「法がもし決定して来有り、および決定して去有れば、
生死則無始,而實無此事。」
生死にすなわち始なかるべきであるが、実にこの事はなし。」
法若決定有所從來、有所從去者,生死則應無始。是法以智慧推求,不得有所從來、有所從去。是故生死無始,是事不然。復次:
法がもし決定して来る所有り・去る所有れば、生死にすなわち始なかるべきである。この法を智慧を用いて推し求めて、来る所・去る所有るを求めて得られない。ゆえに生死は無始とは、この事は当らない。さらにいえば、
「今若無有常,云何有無常,
「いまもし常なければ、どうしてなお無常有らんか、
亦常亦無常,非常非無常?」
又常又無常・非常非無常があらんか。」
若爾者,以智慧推求,無法可得常者,誰當有無常?因常有無常故。若二俱無者,云何有亦有常亦無常?若無有常無常,云何有非有常非無常?因亦有常亦無常故,有非有常非無常。是故依止過去世,常等四句不可得。有邊無邊等四句,依止未來世,是事不可得,今當說。何以故?
もしこのようであれば、智慧を用いて推し求めて、常を得べき法なし。誰がなお無常有らんか。常に依ってこそ無常有るがゆえである。もし二様ともになければ、どうしてなお又有常又無常があらんか。もし有常・無常なければ、どうしてなお非有常非無常があらんか。又有常又無常に依ってこそ非有常非無常有るがゆえである。ゆえに過去世に依止する常等の四句は求めて得られない。有辺・無辺等の四句は未来世に依止するに於いて、この事は求めて得られず。いま説くべきである。なぜか。
「若世間有邊,云何有後世?
「もし世間に辺有れば、どうしてなお後世有らんか。
若世間無邊,云何有後世?」
もし世間に辺なければ、どうしてなお後世有らんか。」
若世間有邊,不應有後世,而今實有後世,是故世間有邊不然。若世間無邊,亦不應有後世,而實有後世,是故世間無邊亦不然。復次是二邊不可得。何以故?
もし世間に辺有れば、後世有るべきではない。しかるにいま実に後世有るがゆえに、世間に辺有るは当らない。もし世間に辺なければ、また後世有るべきではない。しかるに実に後世有るがゆえに、世間に辺なしもまた当らない。さらにいえば、この両辺は求めて得られない。なぜか。
「五陰常相續,猶如燈火炎;
「五陰は常に相続す。灯火の焔に譬ゆるが如し。
以是故世間,不應邊無邊。」
この義理に因って、世間は辺・無辺と説くべきではない。」
從五陰復生五陰,是五陰次第相續,如眾緣和合有燈炎。若眾緣不盡,燈則不滅,若盡則滅。是故不得說世間有邊無邊。復次:
五陰に随ってさらに五陰を生じ、これらの五陰は次第相続す。衆縁和合してこそ灯焔有るが如し。もし衆縁尽きざれば、灯は滅せず。もし尽きれば滅す。ゆえに世間は辺有り・辺なしと言うこと能わず。さらにいえば、
「若先五陰壞,不因是五陰,
「もし先前の五陰が壊れて、これらの五陰に因らずして、
更生後五陰,世間則有邊。
さらに後の五陰を生ぜば、世間にすなわち辺有らん。
若先陰不壞,亦不因是陰,
もし先前の陰が壊れずして、またこれらの陰に因らずして、
而生後五陰,世間則無邊。」
しかる後に五陰を生ぜば、世間にすなわち辺なからん。」
若先五陰壞,不因是五陰更生後五陰,如是則世間有邊。若先五陰滅已,更不生餘五陰,是名為邊,邊名末後身。若先五陰不壞,不因是五陰而生後五陰,世間則無邊,是則為常。而實不爾,是故世間無邊。是事不然。世間有二種:國土世間、眾生世間。此是眾生世間。復次如四百觀中說:
もし先前の五陰が壊れて、これらの五陰に因らずしてさらに後の五陰を生ぜば、このようであればすなわち世間に辺有る。もし先前の五陰が滅して、さらにその余の五陰を生ぜざれば、これを辺と名づく。辺とは最後身と名づく。もし先前の五陰が壊れずして、これらの五陰に因らずして後の五陰を生ぜば、世間にすなわち辺なし。これはすなわち常と成る。しかるに実にそうではない。ゆえに世間に辺なしは、この事は当らない。世間に二種有る。国土世間・衆生世間。ここに説く所は衆生世間である。さらにいえば、《四百観》の中に説くが如く、
「真法及說者,聽者難得故,
「真法および説く人・聞く人は得難し。
如是則生死,非有邊無邊。」
このようであればすなわち生死は辺有り辺なしにあらず。」
不得真法因緣故,生死往來無有邊。或時得聞真法得道故,不得言無邊。今當更破亦有邊亦無邊。
真法の因縁を得ざれば、ゆえに生死往来に辺なし。あるいは真法を聞くことを得て道を得る時有れば、ゆえに辺なしと言うこと能わず。いまさらに又有辺又無辺を破るべきである。
「若世半有邊,世間半無邊;
「もし世間の半ばに辺有り、世間の半ばに辺なければ、
是則亦有邊,亦無邊不然。」
これはすなわち又有辺又無辺なり。当らず。」
若世間半有邊半無邊,則應是亦有邊亦無邊。若爾者,則一法二相,是事不然。何以故?
もし世間の半ばに辺有り半ばに辺なければ、すなわち又有辺又無辺であるべきである。もしこのようであれば、すなわち一法に二種の相有り。この事は当らない。なぜか。
「彼受五陰者,云何一分破?
「かの五陰を受くる者は、どうして一分に破れて、
一分而不破,是事則不然。
一分には破れざらんか。この事は当らず。
受亦復如是,云何一分破?
受もまたこのようで、どうして一分に破れて、
一分而不破,是事亦不然。」
一分には破れざらんか。この事もまた当らず。」
受五陰者,云何一分破、一分不破?一事不得亦常亦無常。受亦如是,云何一分破、一分不破?常無常二相過故。是故世間亦有邊亦無邊則不然。今當破非有邊非無邊見。
五陰を受くる者は、どうして一分に破れて一分には破れざらんか。一つの事はまた常また無常なること能わず。受もまたこのようで、どうして一分に破れて一分には破れざらんか。常・無常の二種の相の過失あればがゆえである。ゆえに世間は又有辺又無辺とは当らない。いま非有辺非無辺の見を破るべきである。
「若亦有無邊,是二得成者,
「もし又有辺又無辺の二様が能く成立せば、
非有非無邊,是則亦應成。」
非有辺非無辺もまた成立すべきである。」
與有邊相違故有無邊,如長相違有短。與有無相違,則有亦有亦無。與亦有亦無相違故,則有非有非無。若亦有邊亦無邊定成者,應有非有邊非無邊。何以故?因相待故。上已破亦有邊亦無邊第三句,今云何當有非有邊非無邊?以無相待故。如是推求,依止未來世有邊等四見皆不可得。復次:
有辺に相い違するがゆえに無辺有る。長に相い違してこそ短有るが如し。有・無に相い違すれば、又有又無有る。又有又無に相い違すれば、非有非無有る。もし又有辺又無辺が決定して成立せば、すなわち非有辺非無辺有るべきである。なぜか。相対待有るがゆえである。上にすでに又有辺又無辺のこの第三句を破った。いまどうしてなお非有辺非無辺があらんか。相対待なきがゆえである。このように推し求めれば、未来世に依止する有辺等の四見は皆求めて得られない。さらにいえば、
「一切法空故,世間常等見,
「一切法空なれば、世間の常等の見は、
何處於何時,誰起是諸見?」
どの処に在り・何の時に、誰がこれらの見を生起せんか。」
上以聲聞法破諸見,今此大乘法中說。諸法從本以來畢竟空性,如是空性法中無人無法,不應生邪見正見。處名土地,時名日月歲數,誰名為人?是名諸見體。若有常無常等決定見者,應當有人出生此見;破我故無人生是見。應有處所色法現見尚可破,何況時方!若有諸見者應有定實,若定則不應破。上來以種種因緣破,是故當知見無定體,云何得生?如偈說「何處於何時,誰起是諸見?」
上に声聞法を用いて諸の見を破り了わり、いまこの大乘法の中に説く。諸法は本よりこのかた畢竟の空性なり。このような空性の法の中に人なく法なし。邪見・正見を生出すべきではない。処とは土地と名づき、時とは日月歳数と名づき、誰とは人と名づく。これをこそ諸見の体と名づく。もし常・無常等の決定の見有れば、すなわち人有りてこの見を生出すべきである。我を破れば、ゆえに人有りてこの見を生出すことなし。処所有るべきとは、色法は現前に見るべきすらなお破るべきに、いわんや時・方をや。もし諸の見有れば、すなわち定実有るべきである。もし定なれば破るべきではない。上に種種の因縁を用いて破った。ゆえに知るべし、見に定体なく、どうして生じ得んか。偈の説く所の如く、「どの処に在り・何の時に、誰がこれらの見を生起せんか」と。
「瞿曇大聖主,憐愍說是法,
「瞿曇の大聖主は、憐愍してこの法を説き、
悉斷一切見,我今稽首禮。」
悉く一切の見を断ぜしむ。我いま稽首礼拝す。」
一切見者,略說則五見,廣說則六十二見,為斷是諸見故說法。大聖主瞿曇,是無量無邊不可思議智慧者,是故我稽首禮。
いわゆる一切見とは、略して説けばすなわち五見、広く説けばすなわち六十二見。これらの見を断ぜんがためにこそ法を説く。大聖主瞿曇は、無量無辺・不可思議の智慧の人なり。ゆえに我は稽首礼拝す。
