Libo

春秋公羊传

战国 · 公羊高

隠公(経一一)元年

儒家典籍

初学は四書から入るのがよい。大学が綱を立て、論語が言を記し、孟子が展開し、中庸が収束する。続いて詩経・尚書・礼記と春秋三伝へ。荀子・春秋繁露・近思録・伝習録は、経学の外で儒学がどう語られてきたかを見る几道である。

隠公

隱公(經一一)元年

隠公(経一一)元年

元年春,王正月。

元年の春、周暦の正月です。

(傳)元年者何?君之始年也。春者何?歲之始也。王者孰謂?謂文王也。曷為先言王而後言正月?王正月也。何言乎王正月?大一統也。公何以不言即位?成公意也。何成乎公之意?公將平國而反之桓。曷為反之桓?桓幼而貴,隱長而卑,其為尊卑也微,國人莫知。隱長又賢,諸大夫扳隱而立之。隱於是焉而辭立,則未知桓之將必得立也。且如桓立,則恐諸大夫之不能相幼君也,故凡隱之立為桓立也。隱長又賢,何以不宜立?立適以長不以賢,立子以貴不以長。桓何以貴?母貴也。母貴則子何以貴?子以母貴,母以子貴。

(伝)「元年」とは何のことでしょうか。国君が治め始めた年です。「春」とは何でしょうか。一年の始まりです。「王」とは誰のことでしょうか。文王のことです。なぜ先に「王」と言い、後から「正月」と言うのでしょうか。王の正月だからです。なぜ「王正月」と言うのでしょうか。大一統を重んじるからです。なぜ隠公の「即位」を書かないのでしょうか。隠公の心意を成し遂げさせるためです。どうして彼の心意を成すのでしょうか。隠公は国を平定してから桓公に返そうと考えていました。なぜ桓公に返すのでしょうか。桓公は幼いけれど尊く、隠公は年長だけれど卑しく、その尊卑の差は微妙で、国人は誰も知りませんでした。隠公は年長でしかも賢いので、大夫たちは隠公を推して立てました。隠公がここで辞退して立たなければ、桓公が将来必ず立てるかどうか分かりませんでした。また桓公が立ったとしても、大夫たちが幼君を補佐できないことを恐れました。だから隠公が立てられたのは、もともと桓公のためだったのです。隠公は年長で賢いのに、なぜ立つべきでないのでしょうか。嫡子を立てるには年長によるのであって賢能によるのではなく、庶子を立てるには貴賤によるのであって年長によるのではありません。桓公はなぜ尊いのでしょうか。母が尊いからです。母が尊ければ、なぜ子も尊いのでしょうか。子は母によって尊くなり、母は子によって尊くなるのです。

(經一二)三月,公及邾婁儀父盟於眛。

(経一二)三月、隠公は邾婁の儀父と眛で盟を結びました。

(傳)及者何?與也,會及暨皆與也。曷為或言會,或言及,或言暨?會猶最也;及猶汲汲也;暨猶暨暨也。及我欲之,暨不得已也。儀父者何?邾婁之君也。何以名?字也。曷為稱字?褒之也。曷為褒之?為其與公盟也。與公盟者眾矣,曷為獨褒乎此?因其可褒而褒之。此其為可褒奈何?漸進也。眛者何?地期也。

(伝)「及」とは何でしょうか。「与」ということです。「会」「及」「暨」はみな「与」です。なぜある所では「会」と言い、ある所では「及」と言い、ある所では「暨」と言うのでしょうか。「会」は集まり会うようなもの、「及」は急いで赴くようなもの、「暨」は無理に付き従うようなものです。「及」はこちら側が欲したこと、「暨」はやむを得ないことです。儀父とは何者でしょうか。邾婁の国君です。なぜ名を称するのでしょうか。実は字を称しているのです。なぜ字を称するのでしょうか。彼を褒めるためです。なぜ褒めるのでしょうか。隠公と盟を結んだからです。隠公と盟を結んだ者は多いのに、なぜこの一事だけを褒めるのでしょうか。褒めるべき点があるので褒めるのです。彼の何が褒めるべき点なのでしょうか。次第に善に向かったことです。眛とは何でしょうか。相会を約束した地です。

(經一三)夏,五月,鄭伯克段於鄢。

(経一三)夏五月、鄭伯が鄢で段に勝ちました。

(傳)克之者何?殺之也。殺之則曷為謂之克?大鄭伯之惡也。曷為大鄭伯之惡?母欲立之,己殺之,如勿與而已矣。段者何?鄭伯之弟也。何以不稱弟?當國也。其地何?當國也。齊人殺無知何以不地?在內也。在內雖當國不地也。不當國雖在外亦不地也。

(伝)「克之」とは何でしょうか。彼を殺したことです。殺したのに、なぜ「克」と言うのでしょうか。鄭伯の悪を大きく書くためです。なぜ鄭伯の悪を大きく書くのでしょうか。母は段を立てたがったのに、自分は彼を殺しました。もともと与えなければ済んだことです。段とは何者でしょうか。鄭伯の弟です。なぜ「弟」と称しないのでしょうか。国の権勢を握っていたからです。なぜ地を記すのでしょうか。これも国の権勢を握っていたからです。斉人が無知を殺した時はなぜ地を記さないのでしょうか。国内でのことだからです。国内なら権勢を握っていても地を記さず、権勢を握っていなければ国外でも地を記さないのです。

(經一四)秋,七月,天王使宰咺來歸惠公仲子之賵。

(経一四)秋七月、周天子は宰咺を遣わして恵公・仲子の葬儀用の車馬を贈らせました。

(傳)宰者何?官也。咺者何?名也。曷為以官氏?宰士也。惠公者何?隱之考也。仲子者何?桓之母也。何以不稱夫人?桓未君也。賵者何?喪事有賵。賵者蓋以馬,以乘馬束帛。車馬曰賵,貨財曰賻,衣被曰襚。桓未君則諸侯曷為來賵之?隱為桓立,故以桓母之喪告於諸侯。然則何言爾?成公意也。其言來何?不及事也。其言惠公仲子何?兼之,兼之非禮也。何以不言及仲子?仲子微也。

(伝)「宰」とは何でしょうか。官名です。咺とは何でしょうか。名です。なぜ官名を氏とするのでしょうか。宰士だからです。恵公とは何者でしょうか。隠公の父です。仲子とは何者でしょうか。桓公の母です。なぜ夫人と称しないのでしょうか。桓公がまだ国君になっていないからです。「賵」とは何でしょうか。丧事には賵があります。賵はおそらく馬を用い、四馬と束帛です。車馬を賵といい、貨財を賻といい、衣被を襚といいます。桓公がまだ国君になっていないのに、諸侯はなぜ賵を贈りに来たのでしょうか。隠公は桓公のために立てられたので、桓公の母の丧を諸侯に告げたのです。ではなぜこの条を書くのでしょうか。隠公の心意を成すためです。なぜ「来」と言うのでしょうか。品が届いた時には丧事がすでに過ぎていたからです。なぜ「恵公仲子」と併せ称するのでしょうか。兼ねて贈ったからですが、兼ねて贈るのは礼ではありません。なぜ「及仲子」と言わないのでしょうか。仲子の地位が低微だったからです。

(經一五)九月,及宋人盟於宿。

(経一五)九月、宋国人と宿で盟を結びました。

(傳)孰及之?內之微者也。

(伝)「及」したのは誰でしょうか。魯国のこちら側の地位の低い者です。

(經一六)冬,十有二月,祭伯來。

(経一六)冬十二月、祭伯が来ました。

(傳)祭伯者何?天子之大夫也。何以不稱使?奔也。奔則曷為不言奔?王者無外,言奔則有外之辭也。

(伝)祭伯とは何者でしょうか。天子の大夫です。なぜ「使」と書かないのでしょうか。出奔したからです。出奔なのに、なぜ「奔」と書かないのでしょうか。王者には「外」がなく、「奔」と書けば王畿を外と見なす措辞になるからです。

(經一七)公子益師卒。

(経一七)公子益師が亡くなりました。

(傳)何以不日?遠也。所見異辭,所聞異辭,所傳聞異辭。

(伝)なぜ日を記さないのでしょうか。年代が遠いからです。目で見た時代には一つの措辞、耳で聞いた時代には一つの措辞、さらに伝聞の時代にはまた一つの措辞を用います。

隱公(經二一)二年

隠公(経二一)二年

春,公會戎於潛。(經二二)夏,五月,莒人入向。

春、隠公は潜の地で戎と会しました。(経二二)夏五月、莒国人が向に入りました。

(傳)入者何?得而不居也。

(伝)「入」とは何でしょうか。得たけれども居らないことです。

(經二三)無駭帥師入極。

(経二三)無駭が軍を率いて極に入りました。

(傳)無駭者何?展無駭也。何以不氏?貶。曷為貶?疾始滅也。始滅昉於此乎?前此矣。前此則曷為始乎此?托始焉爾。曷為托始焉爾?《春秋》之始也。此滅也,其言入何?內大惡,諱也。

(伝)無駭とは何者でしょうか。展無駭です。なぜ氏を書かないのでしょうか。貶すためです。なぜ貶すのでしょうか。国を滅ぼす端を開いたことを憎むからです。国を滅ぼすことはここから始まったのでしょうか。これ以前からありました。以前からあったのに、なぜここから始まりとするのでしょうか。ここを借りて端緒とするのです。なぜここを借りて端緒とするのでしょうか。これが《春秋》の始まりだからです。これは滅ぼしたのに、なぜ「入」と書くのでしょうか。魯国自身の大悪は隠すのです。

(經二四)秋,八月庚辰,公及戎盟於唐。

(経二四)秋八月庚辰、隠公は戎と唐で盟を結びました。

(經二五)九月,紀履緰來逆女。

(経二五)九月、紀の履緰が魯の女を迎えに来ました。

(傳)紀履緰者何?紀大夫也。何以不稱使?婚禮不稱主人。然則曷稱?稱諸父兄師友。宋公使公孫壽來納幣,則其稱主人何?辭窮也。辭窮者何?無母也。然則紀有母乎?曰有。有則何以不稱母?母不通也。外逆女不書,此何以書?譏。何譏爾?譏始不親迎也。始不親迎昉於此乎?前此矣。前此則曷為始乎?此托始焉爾。曷為托始焉爾?《春秋》之始也。女曷為或稱女,或稱婦,或稱夫人?女在其國稱女,在塗稱婦,入國稱夫人。

(伝)紀履緰とは何者でしょうか。紀国の大夫です。なぜ「使」と称しないのでしょうか。婚禮には主人を称しません。では誰を称するのでしょうか。父兄・師友を称します。宋公が公孫壽を遣わして聘礼を納めさせた時は主人を称しましたが、なぜでしょうか。措辞が尽きたからです。措辞が尽きるとはどういうことでしょうか。母がいないことです。では紀国には母がいたのでしょうか。答えは、いました。いたのに、なぜ母を称しないのでしょうか。母は外に通じることができないからです。外で女を迎えることは例によって記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。ここから自ら迎えなくなったことを譏刺するのです。自ら迎えないのはここから始まったのでしょうか。これ以前からありました。以前からあったのに、なぜここから始まりとするのでしょうか。ここを借りて端緒とするのです。なぜここを借りて端緒とするのでしょうか。これが《春秋》の始まりだからです。女子をある所では「女」と称し、ある所では「婦」と称し、ある所では「夫人」と称するのはなぜでしょうか。本国にいる間は女と称し、道中では婦と称し、夫の家の国に入れば夫人と称します。

(經二六)冬,十月,伯姬歸於紀。

(経二六)冬十月、伯姫が紀国に嫁ぎました。

(傳)伯姬者何?內女也。其言歸何?婦人謂嫁曰歸。

(伝)伯姫とは何者でしょうか。魯国の娘です。なぜ「帰」と書くのでしょうか。婦人の嫁ぐことを「帰」というのです。

(經二七)紀子伯、莒子盟於密。

(経二七)紀子伯と莒子が密で盟を結びました。

(傳)紀子伯者何?無聞焉爾。

(伝)紀子伯とは何者でしょうか。聞いたことがありません。

(經二八)十有二月乙卯,夫人子氏薨。鄭人伐衛。

(経二八)十二月乙卯、夫人子氏が亡くなりました。鄭国人が衛を攻めました。

(傳)夫人子氏者何?隱公之母也。何以不書葬?成公意也。何成乎公之意?子將不終為君,故母亦不終為夫人也。

(伝)夫人子氏とは何者でしょうか。隠公の母です。なぜ葬りを記さないのでしょうか。隠公の心意を成すためです。どうして彼の心意を成すのでしょうか。子が国君を務めきれないなら、母もまた夫人を務めきれないからです。

隱公(經三一)三年

隠公(経三一)三年

春,王二月己巳,日有食之。

春、周暦二月己巳、日食がありました。

(傳)何以書?記異也。日食則曷為或日或不日?或言朔或不言朔?曰「某月某日朔,日有食之」者,食正朔也;其或日或不日,或失之前,或失之後。失之前者,朔在前也;失之後者,朔在後也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。異常を記すのです。日食はなぜあるものは日を記し、あるものは記さないのでしょうか。またあるものは「朔」と書き、あるものは書かないのでしょうか。「某月某日朔、日これを食らう」と書くのは、ちょうど朔日に食したからです。あるものは日を記し、あるものは記さないのは、前に偏ったり後に偏ったりしたからです。前に偏れば朔が前、後に偏れば朔が後です。

(經三二)三月庚戌,天王崩。

(経三二)三月庚戌、天子が亡くなりました。

(傳)何以不書葬?天子記崩不記葬,必其時也。諸侯記卒記葬,有天子存,不得必其時也。曷為或言崩或言薨?天子曰崩,諸侯曰薨,大夫曰卒,士曰不祿。

(伝)なぜ葬りを記さないのでしょうか。天子は崩を記して葬を記しません。葬期は定まっているからです。諸侯は卒も葬も記します。上に天子があって、自分の時日どおりには必ずできないからです。なぜあるものは「崩」と書き、あるものは「薨」と書くのでしょうか。天子を崩といい、諸侯を薨といい、大夫を卒といい、士を不禄というのです。

(經三三)夏,四月辛卯,尹氏卒。

(経三三)夏四月辛卯、尹氏が亡くなりました。

(傳)尹氏者何?天子之大夫也。其稱尹氏何?貶。曷為貶?譏世卿,世卿非禮也。外大夫不卒,此何以卒?天王崩,諸侯之主也。

(伝)尹氏とは何者でしょうか。天子の大夫です。「尹氏」と称するのはなぜでしょうか。貶すためです。なぜ貶すのでしょうか。世襲の卿を譏刺するのであり、世襲の卿は礼に合いません。外の大夫は例によって亡くなっても記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。天子が亡くなった時、彼は諸侯に対する主人だったからです。

(經三四)秋,武氏子來求賻。

(経三四)秋、武氏子が助丧の財貨を求めに来ました。

(傳)武氏子者何?天子之大夫也。其稱武氏子何?譏。何譏爾?父卒子未命也。何以不稱使?當喪未君也。武氏子來求賻,何以書?譏。何譏爾?喪事無求,求賻非禮也,蓋通於下。

(伝)武氏子とは何者でしょうか。天子の大夫です。「武氏子」と称するのはなぜでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。父が死んだのに子がまだ命を受けていないことです。なぜ「使」と称しないのでしょうか。丧中であって新君がまだ即位していないからです。武氏子が賻を求めに来たことをなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。丧事は人に求めるべきではなく、賻を求めるのは礼に合いません。このことは下の者にも通じます。

(經三五)八月庚辰,宋公和卒。

(経三五)八月庚辰、宋公の和が亡くなりました。

(經三六)冬,十有二月,齊侯、鄭伯盟於石門。癸未,葬宋繆公。

(経三六)冬十二月、斉侯と鄭伯が石門で盟を結びました。癸未、宋繆公を葬りました。

(傳)葬者曷為或日或不日?不及時而日,渴葬也;不及時而不日,慢葬也。過時而日,隱之也;過時而不日,謂之不能葬也。當時而不日,正也。當時而日,危不得葬也。此當時何危爾?宣公謂繆公曰:「以吾愛與夷,則不若愛女;以為社稷宗廟主,則與夷不若女,盍終為君矣?」宣公死,繆公立,繆公逐其二子莊公馮與左師勃,曰:「爾為吾子,生毋相見,死毋相哭。」與夷復曰:「先君之所為不與臣國而納國乎君者,以君可以為社稷宗廟主也。今君逐君之二子而將致國乎與夷,此非先君之意也。且使子而可逐,則先君其逐臣矣。」繆公曰:「先君之不爾逐可知矣,吾立乎此攝也。」終致國乎與夷。莊公馮弒與夷。故君子大居正,宋之禍宣公為之也。

(伝)葬りはなぜあるものは日を記し、あるものは記さないのでしょうか。時期に至らないのに日を記すのは、急いで葬ったからです。時期に至らないのに日を記さないのは、怠って葬ったからです。時期を過ぎて日を記すのは、彼を哀れんだからです。時期を過ぎて日を記さないのは、葬ることができなかったと言うのです。時期どおりで日を記さないのは正例です。時期どおりなのに日を記すのは、葬れないことを心配したからです。この時期どおりで何を心配するのでしょうか。宣公が繆公に言いました。「私が与夷を好むことは、あなたを好むことに及ばない。社稷宗廟の主人となることは、与夷はあなたに及ばない。あなたは何としてもやり遂げて、この国君になってはどうか。」宣公が死に、繆公が立ち、繆公は自分の二人の子、荘公馮と左師勃を逐い、言いました。「お前たちが私の子であるなら、生きている間は相見ず、死んでも相哭するな。」与夷は報告して言いました。「先君が国を私に与えずあなたにお渡ししたのは、あなたが社稷宗廟の主人になれるからです。今あなたは自分の二人の子を逐って、国を与夷に渡そうとしていますが、これは先君の意ではありません。それに子が逐えるなら、先君もまた私を逐うべきでした。」繆公は言いました。「先君がお前を逐わなかった道理は、すでに知ることができる。私がこの位に居るのは、代理だ。」ついに国を与夷に渡しました。荘公馮が与夷を弑しました。それで君子は正に居ることを重んじ、宋国の禍は宣公が招いたのです。

隱公(經四一)四年

隠公(経四一)四年

春,王二月,莒人伐杞,取牟婁。

春、周暦二月、莒国人が杞を攻め、牟婁を奪いました。

(傳)牟婁者何?杞之邑也。外取邑不書,此何以書?疾始取邑也。

(伝)牟婁とは何でしょうか。杞国の城邑です。外で城邑を奪うことは例によって記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。ここから邑を奪い始めたことを憎むからです。

(經四二)戊申,衛州籲弒其君完。

(経四二)戊申、衛国の州吁がその国君の完を弑しました。

(傳)曷為以國氏?當國也。

(伝)なぜ国名を氏とするのでしょうか。国の権勢を握っていたからです。

(經四三)夏,公及宋公遇於清。

(経四三)夏、隠公は宋公と清で遇しました。

(傳)遇者何?不期也。一君出,一君要之也。

(伝)「遇」とは何でしょうか。約束がないことです。一方の国君が出かけ、もう一方の国君が彼を招いて相見ることです。

(經四四)宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭。秋,翬帥師會宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭。

(経四四)宋公・陳侯・蔡国人・衛国人が鄭を攻めました。秋、翬が軍を率いて宋公・陳侯・蔡国人・衛国人と会合して鄭を攻めました。

(傳)翬者何?公子翬也。何以不稱公子?貶。曷為貶?與弒公也。其與弒公奈何?公子翬諂乎隱公,謂隱公曰:「百姓安子,諸侯說子,盍終為君矣?」隱曰:「吾否,吾使修塗裘,吾將老焉。」公子翬恐若其言聞乎桓,於是謂桓曰:「吾為子口隱矣。隱曰:『吾不反也。』」桓曰:「然則奈何?」曰:「請作難,弒隱公。」於鍾巫之祭焉弒隱公也。

(伝)翬とは何者でしょうか。公子翬です。なぜ公子と称しないのでしょうか。貶すためです。なぜ貶すのでしょうか。隠公の弑に加担したからです。彼はどのように隠公の弑に加担したのでしょうか。公子翬は隠公に媚びて言いました。「百姓はあなたに安んじ、諸侯はあなたを好んでいます。あなたは何としてもやり遂げて、この国君になってはどうですか。」隠公は言いました。「私はしない。私は人に塗裘を治めさせ、あそこで老いを養おうと思う。」公子翬はこの言葉が桓公の耳に届くことを恐れ、そこで桓公に言いました。「私はすでにあなたのために隠公の口ぶりを探りました。隠公は『私は返さない』と言いました。」桓公は言いました。「ではどうすればよいか。」答えて言いました。「難を発し、隠公を弑してください。」鍾巫の祭祀の席上で隠公を殺しました。

(經四五)九月,衛人殺州籲於濮。

(経四五)九月、衛国人が濮で州吁を殺しました。

(傳)其稱人何?討賊之辭也。

(伝)「人」と称するのはなぜでしょうか。これは賊を討つ措辞です。

(經四六)冬,十有二月,衛人立晉。

(経四六)冬十二月、衛国人が晋を立てました。

(傳)晉者何?公子晉也。立者何?立者不宜立也。其稱人何?眾立之之辭也。然則孰立之?石碏立之。石碏立之,則其稱人何?眾之所欲立也。眾雖欲立之,其立之非也。

(伝)晋とは何者でしょうか。公子晋です。「立」とは何でしょうか。「立」の字を用いるのは、この人は本来立つべきでなかったことを示します。「人」と称するのはなぜでしょうか。衆人が彼を立てたという措辞です。では誰が立てたのでしょうか。石碏が立てたのです。石碏が立てたのに、なぜ「人」と称するのでしょうか。衆人が立てたいと思っていたからです。衆人が立てたいと思っていても、彼を立てるのはやはり正しくありませんでした。

隱公(經五一)五年

隠公(経五一)五年

春,公觀魚於棠。

春、隠公は棠の地で魚を捕るのを見ました。

(傳)何以書?譏。何譏爾?遠也。公曷為遠而觀魚?登來之也。百金之魚公張之,登來之者何?美大之之辭也。棠者何?濟上之邑也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。遠すぎるからです。隠公はなぜそんなに遠くまで魚を捕るのを見に行ったのでしょうか。「登来」してそれらを得たのです。百金に値する魚を、隠公は網で捕えました。「登来」とは何でしょうか。美め、事を大きく書く措辞です。棠とは何でしょうか。済水のほとりの城邑です。

(經五二)夏,四月,葬衛桓公。

(経五二)夏四月、衛桓公を葬りました。

(經五三)秋,衛師入盛。

(経五三)秋、衛国の軍隊が盛に入りました。

(傳)曷為或言率師或不言率師?將尊師眾稱某率師,將尊師少稱將;將卑師眾稱師,將卑師少稱人。君將不言率師,書其重者也。

(伝)なぜある所では「率師」と書き、ある所では書かないのでしょうか。将が尊く軍が多ければ「某率師」と称し、将が尊くて軍が少なければ将だけを称し、将が低微で軍が多ければ「師」と称し、将が低微で軍が少なければ「人」と称します。国君が自ら率いる時は「率師」と書かず、分量の重いほうを記すのです。

(經五四)九月,考仲子之宮。

(経五四)九月、仲子の宮廟を落成しました。

(傳)考宮者何?考猶入室也,始祭仲子也。桓未君則曷為祭仲子?隱為桓立,故為桓祭其母也。然則何言爾?成公意也。

(伝)「考宮」とは何でしょうか。「考」は室に入るようなもので、仲子への祭祀を始めることです。桓公はまだ国君になっていないのに、なぜ仲子を祭るのでしょうか。隠公は桓公のために立てられたので、桓公に代わってその母を祭るのです。ではなぜこの条を書くのでしょうか。隠公の心意を成すためです。

(經五五)初獻六羽。

(経五五)初めて六羽を進献しました。

(傳)初者何?始也。六羽者何?舞也。初獻六羽何以書?譏。何譏爾?譏始僭諸公也。六羽之為僭奈何?天子八佾,諸公六,諸侯四。諸公者何?諸侯者何?天子三公稱公,王者之後稱公,其餘大國稱侯,小國稱伯、子、男。天子三公者何?天子之相也。天子之相則何以三?自陜而東者,周公主之;自陜而西者,召公主之,一相處乎內。始僭諸公昉於此乎?前此矣。前此則曷為始乎?此僭諸公猶可言也,僭天子不可言也。

(伝)「初」とは何でしょうか。始めることです。「六羽」とは何でしょうか。楽舞です。初めて六羽を進献したことをなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。ここから諸公の礼を僭用し始めたことを譏刺するのです。六羽がどうして僭越なのでしょうか。天子は八佾を用い、諸公は六を用い、諸侯は四を用います。諸公とは何でしょうか。諸侯とは何でしょうか。天子の三公を公といい、王者の後裔を公といい、その他の大国を侯、小国を伯・子・男といいます。天子の三公とは何でしょうか。天子の相です。天子の相がなぜ三人なのでしょうか。陝から東は周公が主催し、陝から西は召公が主催し、もう一人の相は王畿の内に処します。諸公の礼を僭用するのはここから始まったのでしょうか。これ以前からありました。以前からあったのに、なぜここから始まりとするのでしょうか。ここでは諸公の礼を僭用したのはまだ言えますが、天子の礼を僭用したなら言うことができないのです。

(經五六)邾婁人、鄭人伐宋。

(経五六)邾婁人・鄭国人が宋を攻めました。

(經五七)螟。(傳)何以書?記災也。

(経五七)螟虫が害をなしました。(伝)なぜ記すのでしょうか。災害を記すのです。

(經五八)冬,十有二月辛巳,公子彄卒。宋人伐鄭,圍長葛。

(経五八)冬十二月辛巳、公子𫸩が亡くなりました。宋国人が鄭を攻め、長葛を包囲しました。

(傳)邑不言圍,此其言圍何?強也。

(伝)城邑には例によって「囲」と書きませんが、ここで「囲」と書くのはなぜでしょうか。強横だからです。

隱公(經六一)六年

隠公(経六一)六年

春,鄭人來輸平。

春、鄭国人が来て「輸平」しました。

(傳)輸平者何?輸平猶墮成也。何言乎墮成?敗其成也,曰:「吾成敗矣」,吾與鄭人末有成也。吾與鄭人則曷為末有成?狐壤之戰,隱公獲焉。然則何以不言戰?諱獲也。

(伝)「輸平」とは何でしょうか。「輸平」は成った事を毀すようなものです。なぜ成った事を毀すと言うのでしょうか。和約を破壊したのであり、「我らの和約は敗れた」と言うのに等しいのです。我らと鄭国にはもともと成った和約がありませんでした。我らと鄭国になぜ成った和約がないのでしょうか。狐壤のあの戦いで、隠公が捕えられたからです。ではなぜ交戦を書かないのでしょうか。捕えられたことを隠すのです。

(經六二)夏,五月辛酉,公會齊侯,盟於艾。

(経六二)夏五月辛酉、隠公は斉侯と会し、艾で盟を結びました。

(經六三)秋,七月。

(経六三)秋七月。

(傳)此無事,何以書?《春秋》雖無事,首時過則書。首時過則何以書?《春秋》編年,四時具然後為年。

(伝)この条は事がないのに、なぜ記すのでしょうか。《春秋》は事がなくても、一季の始まりを過ぎれば記します。一季の始まりを過ぎればなぜ記すのでしょうか。《春秋》は年によって編排し、四季がそろってはじめて一年となるからです。

(經六四)冬,宋人取長葛。

(経六四)冬、宋国人が長葛を奪いました。

(傳)外取邑不書,此何以書?久也。

(伝)外で城邑を奪うことは例によって記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。あまりに長く引いたからです。

隱公(經七一)七年

隠公(経七一)七年

春,王三月,叔姬歸於紀。滕侯卒。

春、周暦三月、叔姫が紀国に嫁ぎました。滕侯が亡くなりました。

(傳)何以不名?微國也。微國則其稱侯何?不嫌也。《春秋》貴賤不嫌同號,美惡不嫌同辭。

(伝)なぜ名を称しないのでしょうか。小国だからです。小国なのに、なぜ「侯」と称するのでしょうか。嫌疑がないからです。《春秋》は貴賤に嫌疑がなければ同じ称号を用いることができ、美悪に嫌疑がなければ同じ措辞を用いることができます。

(經七二)夏,城中丘。

(経七二)夏、中丘を築きました。

(傳)中丘者何?內之邑也。城中丘,何以書?以重書也。

(伝)中丘とは何でしょうか。魯国の城邑です。中丘を築いたことをなぜ記すのでしょうか。事が重大だから記すのです。

(經七三)齊侯使其弟年來聘。

(経七三)斉侯がその弟の年を遣わして聘問させました。

(傳)其稱弟何?母弟稱弟,母兄稱兄。

(伝)「弟」と称するのはなぜでしょうか。同母の弟を弟といい、同母の兄を兄というのです。

(經七四)秋,公伐邾婁。

(経七四)秋、隠公が邾婁を攻めました。

(經七五)冬,天王使凡伯來聘,戎伐凡伯於楚丘以歸。

(経七五)冬、周天子が凡伯を遣わして聘問させましたが、戎が楚丘で凡伯を攻め、彼を連れて帰りました。

(傳)凡伯者何?天子之大夫也。此聘也,其言伐之何?執之也。執之則其言伐之何?大之也。曷為大之?不與夷狄之執中國也。其地何?大之也。

(伝)凡伯とは何者でしょうか。天子の大夫です。これは聘問なのに、なぜ「伐」と書くのでしょうか。実は彼を捉えたのです。捉えたのに、なぜ「伐」と書くのでしょうか。彼を大きく書くためです。なぜ大きく書くのでしょうか。夷狄が中原の人を捉えることを是としないからです。なぜ地を記すのでしょうか。これも彼を大きく書くためです。

隱公(經八一)八年

隠公(経八一)八年

春,宋公、衛侯遇於垂。三月,鄭伯使宛來歸邴。

春、宋公と衛侯が垂で遇しました。三月、鄭伯が宛を遣わして邴を返させました。

(傳)宛者何?鄭之微者也。邴者何?鄭湯沐之邑也。天子有事於泰山,諸侯皆從。泰山之下,諸侯皆有湯沐之邑焉。

(伝)宛とは何者でしょうか。鄭国の地位の低い者です。邴とは何でしょうか。鄭国の湯沐邑です。天子が泰山で祭祀を行う時、諸侯はみな従います。泰山の下には、諸侯の湯沐邑があります。

(經八二)庚寅,我入邴。

(経八二)庚寅、我が鲁国が邴に入りました。

(傳)其言入何?難也。其日何?難也。其言我何?言我者非獨我也,齊亦欲之。

(伝)なぜ「入」と書くのでしょうか。この事が難しかったからです。なぜ日を記すのでしょうか。この事が難しかったからです。なぜ「我」と書くのでしょうか。「我」と書くのは、我が鲁国だけではなく、斉国もこの地を欲していたからです。

(經八三)夏,六月己亥,蔡侯考父卒。辛亥,宿男卒。

(経八三)夏六月己亥、蔡侯考父が亡くなりました。辛亥、宿男が亡くなりました。

(經八四)秋,七月庚午,宋公、齊侯、衛侯盟於瓦屋。八月,葬蔡宣公。

(経八四)秋七月庚午、宋公・斉侯・衛侯が瓦屋で盟を結びました。八月、蔡宣公を葬りました。

(傳)卒何以名而葬不名?卒從正,而葬從主人。卒何以日而葬不日?卒赴,而葬不告。

(伝)亡くなった時は名を称するのに、葬る時はなぜ名を称しないのでしょうか。亡くなった時は朝廷の正名によれば、葬る時は主人の家での呼び名によるからです。亡くなった時はなぜ日を記し、葬る時はなぜ日を記さないのでしょうか。亡くなった時は訃告があり、葬る時は報告が来ないからです。

(經八七)九月辛卯,公及莒人盟於包來。

(経八七)九月辛卯、隠公は莒国人と包来で盟を結びました。

(傳)公曷為與微者盟?稱人則從不疑也。

(伝)隠公はなぜ地位の低い者と盟を結んだのでしょうか。相手が「人」と称されていれば、順に書くことができ、疑う必要がないのです。

(經八八)螟。

(経八八)螟虫が害をなしました。

(經八九)冬,十有二月,無駭卒。

(経八九)冬十二月、無駭が亡くなりました。

(傳)此展無駭也,何以不氏?疾始滅也,故終其身不氏。

(伝)この人は展無駭ですが、なぜ氏を書かないのでしょうか。国を滅ぼす端を開いたことを憎み、死に至るまで氏を与えなかったのです。

隱公(經九一)九年

隠公(経九一)九年

春,天王使南季來聘。

春、周天子が南季を遣わして聘問させました。

(經九二)三月癸酉,大雨,震電。

(経九二)三月癸酉、大雨が降り、雷と電光がありました。

(傳)何以書?記異也。何異爾?不時也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。異常を記すのです。異常はどこにありますか。時候ではないことです。

(經九三)庚辰,大雨雪。

(経九三)庚辰、大雪が降りました。

(傳)何以書?記異也。何異爾?俶甚也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。異常を記すのです。異常はどこにありますか。甚だしく度を過ぎたことです。

(經九四)俠卒。

(経九四)侠が亡くなりました。

(傳)俠者何?吾大夫之未命者也。

(伝)侠とは何者でしょうか。我が鲁国のまだ命を受けていない大夫です。

(經九五)夏,城郎。

(経九五)夏、郎を築きました。

(經九六)秋,七月。

(経九六)秋七月。

(經九七)冬,公會齊侯於邴。

(経九七)冬、隠公は邴で斉侯と会しました。

隱公(經十一)十年

隠公(経十一)十年

春,王二月,公會齊侯、鄭伯於中丘。

春、周暦二月、隠公は中丘で斉侯・鄭伯と会しました。

(經十二)夏,翬帥師會齊人、鄭人伐宋。

(経十二)夏、翬が軍を率いて斉国人・鄭国人と会合して宋を攻めました。

(傳)此公子翬也,何以不稱公子?貶。曷為貶?隱之罪人也,故終隱之篇貶也。

(伝)この人は公子翬ですが、なぜ公子と称しないのでしょうか。貶すためです。なぜ貶すのでしょうか。彼は隠公の罪人なので、隠公のこの一篇全体で彼を貶すのです。

(經十三)六月壬戌,公敗宋師於菅。辛未取郜,辛巳取防。

(経十三)六月壬戌、隠公は菅で宋国の軍隊を破りました。辛未に郜を奪い、辛巳に防を奪いました。

(傳)取邑不日,此何以日?一月而再取也。何言乎一月而再取?甚之也。內大惡諱,此其言甚之何?《春秋》錄內而略外,於外大惡書,小惡不書,於內大惡諱,小惡書。

(伝)邑を奪うのに日を記しませんが、ここではなぜ日を記すのでしょうか。一ヶ月のうちに二度奪ったからです。なぜ一ヶ月に二度奪ったと言うのでしょうか。この事をとても重く言うのです。鲁国自身の大悪は隠すのに、ここではとても重く言うのはなぜでしょうか。《春秋》は鲁国を詳しく記し、外国を略します。外に対しては、大悪は記し小悪は記しません。鲁国に対しては、大悪は隠し小悪は記すのです。

(經十四)秋,宋人、衛人入鄭。宋人、蔡人、衛人伐載,鄭伯伐取之。

(経十四)秋、宋国人・衛国人が鄭に入りました。宋国人・蔡国人・衛国人が載を攻め、鄭伯が攻めてこれを奪いました。

(傳)其言伐取之何?易也。其易奈何?因其力也。因誰之力?因宋人、蔡人、衛人之力也。

(伝)なぜ「伐取之」と書くのでしょうか。来るのが容易だったからです。どう容易だったのでしょうか。他人の力を借りたのです。誰の力を借りたのでしょうか。宋国人・蔡国人・衛国人の力を借りたのです。

(經十五)冬,十月壬午,齊人、鄭人入盛。

(経十五)冬十月壬午、斉国人・鄭国人が盛に入りました。

隱公(經十一一)十有一年

隠公(経十一一)十有一年

春,滕侯、薛侯來朝。

春、滕侯・薛侯が朝見に来ました。

(傳)其言朝何?諸侯來曰朝,大夫來曰聘。其兼言之何?微國也。

(伝)なぜ「朝」と書くのでしょうか。諸侯が来るのを朝といい、大夫が来るのを聘というのです。なぜ併せて書くのでしょうか。どちらも小国だからです。

(經十八)夏,五月,公會鄭伯於祁黎。

(経十八)夏五月、隠公は祁黎で鄭伯と会しました。

(經十九)秋,七月壬午,公及齊侯、鄭伯入許。

(経十九)秋七月壬午、隠公は斉侯・鄭伯とともに許に入りました。

(經十十)冬,十有一月壬辰,公薨。

(経十十)冬十一月壬辰、隠公が亡くなりました。

(傳)何以不書葬?隱之也。何隱爾?弒也。弒則何以不書葬?《春秋》君弒,賊不討,不書葬,以為無臣子也。子沈子曰:「君弒,臣不討賊,非臣也。子不復讎,非子也。葬,生者之事也。《春秋》君弒,賊不討,不書葬,以為不繫乎臣子也。」公薨何以不地?不忍言也。隱何以無正月?隱將讓乎桓,故不有其正月也。

(伝)なぜ葬りを記さないのでしょうか。彼を哀れむからです。何を哀れむのでしょうか。彼は弑されたのです。弑されたのに、なぜ葬りを記さないのでしょうか。《春秋》では国君が弑されて賊が討たれなければ、葬りを記さず、これを臣子なしと見なすのです。子沈子は言いました。「国君が弑されて臣が賊を討たなければ臣ではなく、子が仇を報いなければ子ではない。葬りは生きている者のすることだ。《春秋》では国君が弑されて賊が討たれなければ、葬りを記さず、これを臣子と続かないものと見なす。」隠公の亡くなったのに、なぜ地を記さないのでしょうか。言うに忍びないからです。隠公に「正月」がないのはなぜでしょうか。隠公は桓公に譲ろうと考えていたので、正月を己のものとしなかったのです。

桓公

桓公(經一一)元年

桓公(経一一)元年

春,王正月,公即位。

春、周暦正月、桓公が即位しました。

(傳)繼弒君不言即位,此其言即位何?如其意也。

(伝)弑された国君の後に続く者は、例によって即位を書きませんが、ここで「即位」と書くのはなぜでしょうか。彼の心意に従うためです。

(經一二)三月,公會鄭伯於垂。鄭伯以璧假許田。

(経一二)三月、桓公は垂で鄭伯と会しました。鄭伯が璧を用いて許田を借りに来ました。

(傳)其言以璧假之何?易之也。易之則其言假之何?為恭也。曷為為恭?有天子存,則諸侯不得專地也。許田者何?魯朝宿之邑也。諸侯時朝乎天子,天子之郊,諸侯皆有朝宿之邑焉。此魯朝宿之邑也,則曷為謂之許田?諱取周田也。諱取周田則曷為謂之許田?系之許也。曷為系之許?近許也。此邑也,其稱田何?田多邑少稱田,邑多田少稱邑。

(伝)なぜ「璧を用いて借りに来た」と書くのでしょうか。実は交換です。交換なのに、なぜ「借」と書くのでしょうか。恭しくするためです。なぜ恭しくするのでしょうか。上に天子があれば、諸侯は土地を勝手に処分できないからです。許田とは何でしょうか。魯国が天子に朝見する時に宿泊する城邑です。諸侯は時に従って天子に朝見し、天子の郊には、諸侯の朝宿の城邑があります。これは魯国の朝宿の城邑なのに、なぜ許田と呼ぶのでしょうか。周室の田を奪ったことを隠すのです。周田を奪ったことを隠すのに、なぜまだ許田と呼ぶのでしょうか。これを許国に繋げるのです。なぜ許国に繋げるのでしょうか。許に近いからです。これは城邑なのに、なぜ「田」と称するのでしょうか。田が多く邑が少なければ田といい、邑が多く田が少なければ邑というのです。

(經一三)夏,四月丁未,公及鄭伯盟于越。

(経一三)夏四月丁未、桓公は鄭伯と越で盟を結びました。

(經一四)秋,大水。

(経一四)秋、大水がありました。

(傳)何以書?記災也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。災害を記すのです。

(經一五)冬,十月。

(経一五)冬十月。

桓公(經二一)二年

桓公(経二一)二年

春,王正月戊申,宋督弒其君與夷及其大夫孔父。

春、周暦正月戊申、宋国の華督がその国君の与夷とその大夫の孔父を弑しました。

(傳)及者何?累也。弒君多矣,舍此無累者乎?曰:有,仇牧,荀息,皆累也。舍仇牧、荀息,無累者乎?曰:有。有則此何以書?賢也。何賢乎孔父?孔父可謂義形於色矣。其義形於色奈何?督將弒殤公,孔父生而存,則殤公不可得而弒也,故於是先攻孔父之家。殤公知孔父死,己必死,趨而救之,皆死焉。孔父正色而立於朝,則人莫敢過而致難於其君者,孔父可謂義形於色矣。

(伝)「及」とは何でしょうか。累が及ぶことです。君を弑した事は多いのに、この一条のほかに累の及んだ者はいないのでしょうか。答えは、います。仇牧・荀息は、みな累の及んだ者です。仇牧・荀息のほかにはいないのでしょうか。答えは、まだいます。まだいるのに、ここではなぜ記すのでしょうか。孔父が賢いからです。孔父の賢さはどこにありますか。孔父は義がすべて神色に現れていると言えます。義が神色に現れるとはどういうことでしょうか。華督がまさに殤公を弑しようとした時、孔父が生きていれば、殤公は弑されえないので、先に孔父の家を攻めました。殤公は孔父が死ねば自分も必ず死ぬと知り、駆けつけて彼を救い、二人とも死にました。孔父が神色正しく朝上に立っていれば、国君に災いを作ろうと進み出る者はいませんでした。孔父は義がすべて神色に現れていると言えます。

(經二二)滕子來朝。三月,公會齊侯、陳侯、鄭伯於稷,以成宋亂。

(経二二)滕子が朝見に来ました。三月、桓公は稷で斉侯・陳侯・鄭伯と会し、宋国の乱事を成し遂げさせました。

(傳)內大惡諱,此其目言之何?遠也。所見異辭,所聞異辭,所傳聞異辭。隱亦遠矣,曷為為隱諱?隱賢而桓賤也。

(伝)鲁国自身の大悪は隠すのに、ここでは明らかに書き出すのはなぜでしょうか。年代が遠いからです。目で見た時代には一つの措辞、耳で聞いた時代には一つの措辞、さらに伝聞の時代にはまた一つの措辞を用います。隠公も十分に遠いのに、なぜ隠公のためにまだ隠すのでしょうか。隠公が賢く桓公が賤しいからです。

(經二三)夏,四月,取郜大鼎於宋。

(経二三)夏四月、宋国から郜国の大鼎を取り寄せました。

(傳)此取之宋,其謂之郜鼎何?器從名,地從主人。器何以從名?地何以從主人?器之與人,非有即爾。宋始以不義取之,故謂之郜鼎;至乎地之與人則不然,俄而可以為其有矣。然則為取可以為其有乎?曰:否。何者?若楚王之妻媦,無時焉可也。

(伝)これは宋国から取ったものなのに、なぜ郜鼎と呼ぶのでしょうか。器物はもとの名称に従い、土地は現在の主人に従います。器物がなぜもとの名称に従い、土地がなぜ現在の主人に従うのでしょうか。器物と人は、手に入ればすぐどうにかなるわけではありません。宋国は初め不義の手段で取ったのだから、やはり郜鼎と呼ぶのです。土地と人についてはそうではなく、瞬きの間に彼のものと数えられます。では奪い取ったものでも彼のものと数えられるのでしょうか。答えは、できません。なぜでしょうか。楚王が妻の姉妹を娶ったようなもので、いつになってもできないのです。

(經二四)戊申,納於太廟。

(経二四)戊申、鼎を太廟に納めました。

(傳)何以書?譏。何譏爾?遂亂受賂,納於太廟,非禮也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。乱事に乗じて賄賂を受け取り、太廟に納めたのは礼に合いません。

(經二五)秋,七月,紀侯來朝。蔡侯、鄭伯會於鄧。

(経二五)秋七月、紀侯が朝見に来ました。蔡侯・鄭伯が鄧で相まみえました。

(傳)離不言會,此其言會何?蓋鄧與會爾。

(伝)両方が単独で相まみえるのは「会」と書きませんが、ここで「会」と書くのはなぜでしょうか。おそらく鄧も加わったのでしょう。

(經二六)九月,入杞。公及戎盟於唐。

(経二六)九月、杞に入りました。桓公は戎と唐で盟を結びました。

(經二七)冬,公至自唐。

(経二七)冬、桓公は唐から帰りました。

桓公(經三一)三年

桓公(経三一)三年

春,正月,公會齊侯於嬴。

春正月、桓公は嬴で斉侯と会しました。

(經三二)夏,齊侯、衛侯胥命於蒲。

(経三二)夏、斉侯・衛侯が蒲で互いに命を約しました。

(傳)胥命者何?相命也。何言乎相命?近正也。此其為近正奈何?古者不盟,結言而退。

(伝)「胥命」とは何でしょうか。互いに命を約することです。なぜ互いに命を約したと書くのでしょうか。正道に近いからです。どうして正道に近いのでしょうか。古は盟誓せず、言葉を言い定めれば引き返したのです。

(經三三)六月,公會紀侯於盛。

(経三三)六月、桓公は盛で紀侯と会しました。

(經三四)秋,七月壬辰朔,日有食之,既。

(経三四)秋七月壬辰朔、日食があり、既でした。

(傳)既者何?盡也。

(伝)「既」とは何でしょうか。食い尽くしたことです。

(經三五)公子翬如齊逆女。九月,齊侯送姜氏於讙。

(経三五)公子翬が斉国へ女を迎えに行きました。九月、斉侯が姜氏を讙まで送りました。

(傳)何以書?譏。何譏爾?諸侯越竟送女,非禮也。此入國矣,何以不稱夫人?自我言齊,父母之於子,雖為鄰國夫人,猶曰吾姜氏。

(伝)なぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。諸侯が国境を越えて娘を送るのは礼に合いません。この時すでに鲁国に入っているのに、なぜまだ夫人と称しないのでしょうか。こちら側から斉国に向かって言うのであり、父母にとって娘は、たとえすでに隣国の夫人であっても、なお「わが姜氏」と呼ぶのです。

(經三六)公會齊侯於讙,夫人姜氏至自齊。

(経三六)桓公は讙で斉侯と会し、夫人姜氏が斉国から到来しました。

(傳)翬何以不致?得見乎公矣。

(伝)翬はなぜ回国と書かないのでしょうか。すでに桓公に会っていたからです。

(經三七)冬,齊侯使其弟年來聘。有年。

(経三七)冬、斉侯がその弟の年を遣わして聘問させました。この年、収穫がありました。

(傳)有年,何以書?以喜書也。大有年,何以書?亦以喜書也。此其曰有年何?僅有年也。彼其曰大有年何?大豐年也。僅有年亦足以當喜乎?恃有年也。

(伝)「有年」はなぜ記すのでしょうか。喜びがあるから記すのです。「大有年」はなぜ記すのでしょうか。これも喜びがあるから記すのです。ここで「有年」と書くのはなぜでしょうか。かろうじて収穫があっただけです。あそこで「大有年」と書くのはなぜでしょうか。大豊年だったからです。かろうじての収穫でも喜ぶに値するのでしょうか。この一年の収穫に頼らなければならないからです。

桓公(經四一)四年

桓公(経四一)四年

春,正月,公狩於郎。

春正月、桓公は郎で狩をしました。

(傳)狩者何?田狩也,春曰苗,秋曰搜,冬曰狩。常事不書,此何以書?譏。何譏爾?遠也。諸侯曷為必田狩?一曰幹豆,二曰賓客,三百充君之庖。

(伝)「狩」とは何でしょうか。田猟です。春を苗といい、秋を蒐といい、冬を狩といいます。常事は記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。遠すぎるからです。諸侯はなぜ必ず田猟をするのでしょうか。一つは乾いた祭肉を作り、二つは賓客をもてなし、三つは国君の厨房を充実させるためです。底本の「三百充君之庖」は、「百」は「曰」の誤りです。

(經四二)夏,天王使宰渠伯糾來聘。

(経四二)夏、周天子が宰渠伯糾を遣わして聘問させました。

(傳)宰渠伯糾者何?天子之大夫也。其稱宰渠伯糾何?下大夫也。

(伝)宰渠伯糾とは何者でしょうか。天子の大夫です。「宰渠伯糾」と称するのはなぜでしょうか。下大夫だからです。

桓公(經五一)五年

桓公(経五一)五年

春,正月甲戌、己丑,陳侯鮑卒。

春正月甲戌・己丑、陳侯鮑が亡くなりました。

(傳)曷為以二日卒之?怴也。甲戌之日亡、己丑之日死而得,君子疑焉,故以二日卒之也。

(伝)なぜ二つの日で彼の死を記すのでしょうか。彼が精神錯乱だったからです。甲戌の日に失踪し、己丑の日にやっと死体が見つかり、君子は疑いを持ったので、二つの日で彼の死を記すのです。

(經五二)夏,齊侯、鄭伯如紀。

(経五二)夏、斉侯・鄭伯が紀国へ行きました。

(傳)外相如不書,此何以書?離不言會。

(伝)外の彼此の往来は例によって記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。両方が単独で相まみえるのは「会」と書かないからです。

(經五三)天王使仍叔之子來聘。

(経五三)周天子が仍叔の子を遣わして聘問させました。

(傳)仍叔之子者何?天子之大夫也。其稱仍叔之子何?譏。何譏爾?譏父老子代從政也。

(伝)仍叔の子とは何者でしょうか。天子の大夫です。「仍叔之子」と称するのはなぜでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。父が老いて子が代わって政を執ることを譏刺するのです。

(經五四)葬陳桓公。

(経五四)陳桓公を葬りました。

(經五五)城祝丘。

(経五五)祝丘を築きました。

(經五六)秋,蔡人、衛人、陳人從王伐鄭。

(経五六)秋、蔡国人・衛国人・陳国人が天子に従って鄭を攻めました。

(傳)其言從王伐鄭何?從王正也。

(伝)なぜ「従王伐鄭」と書くのでしょうか。天子に従ってこそ正道に合うからです。

(經五七)大雩。

(経五七)大雩を行いました。

(傳)大雩者何?旱祭也。然則何以不言旱?言雩則旱見;言旱則雩不見。何以書?記災也。

(伝)大雩とは何でしょうか。旱のための祭祀です。ではなぜ「旱」と書かないのでしょうか。「雩」と書けば旱は見て取れますが、「旱」と書けば雩は見て取れません。なぜ記すのでしょうか。災害を記すのです。

(經五八)螽。

(経五八)蝗虫が害をなしました。

(傳)何以書?記災也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。災害を記すのです。

(經五九)冬,州公如曹。

(経五九)冬、州公が曹国へ行きました。

(傳)外相如不書,此何以書?過我也。

(伝)外の彼此の往来は例によって記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。彼が我が鲁国を経由したからです。

桓公(經六一)六年

桓公(経六一)六年

春,正月,寔來。

春正月、寔が来ました。

(傳)寔來者何?猶曰是人來也。孰謂?謂州公也。曷為謂之寔來?慢之也。曷為慢之?化我也。

(伝)「寔来」とは何でしょうか。「この人が来た」と言うようなものです。誰のことでしょうか。州公のことです。なぜ「寔来」と称するのでしょうか。彼を軽んじるためです。なぜ軽んじるのでしょうか。彼が我が鲁国を勝手にあしらえるものと見なしたからです。

(經六二)夏,四月,公會紀侯於成。

(経六二)夏四月、桓公は成で紀侯と会しました。

(經六三)秋,八月壬午,大閱。

(経六三)秋八月壬午、大閲を行いました。

(傳)大閱者何?簡車徒也。何以書?蓋以罕書也。

(伝)大閲とは何でしょうか。車馬と徒衆を閲兵することです。なぜ記すのでしょうか。おそらくこの事がめったにないので記すのです。

(經六四)蔡人殺陳佗。

(経六四)蔡国人が陳佗を殺しました。

(傳)陳佗者何?陳君也。陳君則曷為謂之陳佗?絕也。曷為絕之?賤也。其賤奈何?外淫也。惡乎淫?淫於蔡,蔡人殺之。

(伝)陳佗とは何者でしょうか。陳国の国君です。陳国の国君なのに、なぜ「陳佗」と称するのでしょうか。彼を絶つためです。なぜ絶つのでしょうか。彼が賤しいからです。どう賤しいのでしょうか。外で淫乱しました。どこで淫乱したのでしょうか。蔡国で淫乱し、蔡国人が彼を殺しました。

(經六五)九月丁卯,子同生。

(経六五)九月丁卯、子同が生まれました。

(傳)子同生者孰謂?謂莊公也。何言乎子同生?喜有正也。未有言喜有正者,此其言喜有正何?久無正也。子公羊子曰:「其諸以病桓與?」

(伝)「子同生」とは誰のことでしょうか。荘公のことです。なぜ「子同生」と書くのでしょうか。嫡子ができたことを喜ぶのです。嫡子ができたことを喜んで書いたことはかつてありませんが、ここではなぜ書くのでしょうか。久しく嫡子がなかったからです。子公羊子は言いました。「これは桓公を批評するためなのでしょう。」

(經六六)冬,紀侯來朝。

(経六六)冬、紀侯が朝見に来ました。

桓公(經七一)七年

桓公(経七一)七年

春,二月己亥,焚鹹丘。

春二月己亥、咸丘を焼きました。

(傳)焚之者何?樵之也。樵之者何?以火攻也。何言乎以火攻?疾始以火攻也。鹹丘者何?邾婁之邑也。曷為不繫乎邾婁?國之也。曷為國之?君存焉爾。

(伝)「焚之」とは何でしょうか。薪のように焼くことです。薪のように焼くとは何でしょうか。火攻めを用いることです。なぜ火攻めを用いたと書くのでしょうか。ここから火攻めを用い始めたことを憎むからです。咸丘とは何でしょうか。邾婁の城邑です。なぜ邾婁の名に繋げないのでしょうか。これを一つの国と見なすのです。なぜ一つの国と見なすのでしょうか。そこに国君がいたからです。

(經七二)夏,谷伯綏來朝。鄧侯吾離來朝。

(経七二)夏、穀伯綏が朝見に来ました。鄧侯吾離が朝見に来ました。

(傳)皆何以名?失地之君也。其稱侯朝何?貴者無後,待之以初也。

(伝)二人はなぜともに名を称されるのでしょうか。どちらも地を失った国君だからです。「侯」と称して朝見に来るのはなぜでしょうか。尊い者に後嗣がなくても、なお初めの礼で遇するのです。

桓公(經八一)八年

桓公(経八一)八年

春,正月己卯,烝。

春正月己卯、烝祭を行いました。

(傳)烝者何?冬祭也。春曰祠,夏曰礿,秋曰嘗,冬曰烝。常事不書,此何以書?譏。何譏爾?譏亟也。亟則黷,黷則不敬。君子之祭也,敬而不黷。疏則怠,怠則忘。士不及茲四者,則冬不裘,夏不葛。

(伝)烝とは何でしょうか。冬の祭祀です。春を祠といい、夏を礿といい、秋を嘗といい、冬を烝といいます。常事は記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。祭りが頻りすぎることを譏刺するのです。頻りすぎれば軽慢になり、軽慢になれば敬ではありません。君子の祭祀は、恭敬して軽慢になりません。疎かすぎれば怠惰になり、怠惰になれば忘れます。士がこの四つの祭りに及ばなければ、冬には皮衣を着ず、夏には葛衣を着ません。

(經八二)天王使家父來聘。

(経八二)周天子が家父を遣わして聘問させました。

(經八三)夏,五月丁丑,烝。

(経八三)夏五月丁丑、烝祭を行いました。

(傳)何以書?譏亟也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。祭りが頻りすぎることを譏刺するのです。

(經八三)秋,伐邾婁。

(経八三)秋、邾婁を攻めました。

(經八四)冬,十月,雨雪。

(経八四)冬十月、雪が降りました。

(傳)何以書?記異也。何異爾?不時也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。異常を記すのです。異常はどこにありますか。時候ではないことです。

(經八五)祭公來,遂逆王后於紀。

(経八五)祭公が来て、続けて紀国へ王后を迎えに行きました。

(傳)祭公者何?天子之三公也。何以不稱使?婚禮不稱主人。遂者何?生事也。大夫無遂事,此其言遂何?成使乎我也。其成使乎我奈何?使我為媒可,則因用是往逆矣。女在其國稱女,此其稱王后何?王者無外,其辭成矣。

(伝)祭公とは何者でしょうか。天子の三公です。なぜ「使」と称しないのでしょうか。婚禮には主人を称しません。「遂」とは何でしょうか。別に一事を生じることです。大夫には「遂事」はありませんが、ここで「遂」と書くのはなぜでしょうか。彼の使命が我が鲁国で成し遂げられたからです。どうして我が鲁国で成し遂げられたのでしょうか。我が鲁国に媒をさせればよいとし、この便に乗じて迎えに行ったのです。女子は本国にいる間は「女」と称しますが、ここで「王后」と称するのはなぜでしょうか。王者には「外」がなく、措辞はすでに完成しているのです。

桓公(經九一)九年

桓公(経九一)九年

春,紀季姜歸於京師。

春、紀季姜が京師に嫁ぎました。

(傳)其辭成矣,則其稱紀季姜何?自我言,紀父母之於子,雖為天王后,猶曰吾季姜。京師者何?天子之居也。京者何?大也。師者何?眾也。天子之居,必以眾大之辭言之。

(伝)措辞はすでに完成しているのに、なぜまだ「紀季姜」と称するのでしょうか。こちら側から言うのであり、紀国の父母にとって娘は、たとえすでに天子の王后であっても、なお「わが季姜」と呼ぶのです。京師とは何でしょうか。天子の居る所です。「京」とは何でしょうか。大きいことです。「師」とは何でしょうか。衆多いことです。天子の居る所は、必ずまた衆また大の字を用いて言うのです。

(經九二)夏,四月。

(経九二)夏四月。

(經九三)秋,七月。

(経九三)秋七月。

(經九四)冬,曹伯使其世子射姑來朝。

(経九四)冬、曹伯がその世子の射姑を遣わして朝見させました。

(傳)諸侯來曰朝。此世子也,其言朝何?《春秋》有譏父老子代從政者,則未知其在齊與?曹與?

(伝)諸侯が来るのを朝といいます。この人は世子なのに、なぜ「朝」と書くのでしょうか。《春秋》には父が老いて子が代わって政を執ることを譏刺する書き方がありますが、斉国のことなのか曹国のことなのか、まだ分かりません。

桓公(經十一)十年

桓公(経十一)十年

春,王正月庚申,曹伯終生卒。

春、周暦正月庚申、曹伯終生が亡くなりました。

(經十二)夏,五月,葬曹桓公。

(経十二)夏五月、曹桓公を葬りました。

(經十三)秋,公會衛侯於桃丘,弗遇。

(経十三)秋、桓公は桃丘へ衛侯と会いに行きましたが、遇いませんでした。

(傳)會者何?期辭也。其言弗遇何?公不見要也。

(伝)「会」とは何でしょうか。約束の措辞です。なぜ「弗遇」と書くのでしょうか。桓公は招かれていなかったのです。

(經十四)冬,十有二月丙午,齊侯、衛侯、鄭伯來戰於郎。

(経十四)冬十二月丙午、斉侯・衛侯・鄭伯が来て、郎で交戦しました。

(傳)郎者何?吾近邑也。吾近邑則其言來戰於郎何?近也。惡乎近?近乎圍也。此偏戰也,何以不言師敗績?內不言戰,言戰乃敗矣。

(伝)郎とは何でしょうか。我が鲁国の近くの城邑です。近くの城邑なのに、なぜ「来戦于郎」と書くのでしょうか。近いからです。どのくらい近いのでしょうか。包囲するほど近いのです。これは期日を約して戦うのに、なぜ「師敗績」と書かないのでしょうか。鲁国自身のことは「戦」と書かず、「戦」と書けばすでに敗なのです。

桓公(經十一一)十有一年

桓公(経十一一)十有一年

春,正月,齊人、衛人、鄭人盟於惡曹。

春正月、斉国人・衛国人・鄭国人が悪曹で盟を結びました。

(經十一二)夏,五月癸未,鄭伯寤生卒。

(経十一二)夏五月癸未、鄭伯寤生が亡くなりました。

(經十一三)秋,七月,葬鄭莊公。九月,宋人執鄭祭仲。

(経十一三)秋七月、鄭荘公を葬りました。九月、宋国人が鄭国の祭仲を捉えました。

(傳)祭仲者何?鄭相也。何以不名?賢也。何賢乎祭仲?以為知權也。其為知權奈何?古者鄭國處於留。先鄭伯有善於鄶公者,通乎夫人,以取其國而遷鄭焉,而野留。莊公死已葬,祭仲將往省於留,塗出於宋,宋人執之,謂之曰:「為我出忽而立突。」祭仲不從其言,則君必死、國必亡;從其言,則君可以生易死,國可以存易亡。少遼緩之,則突可故出,而忽可故反,是不可得則病,然後有鄭國。古人之有權者,祭仲之權是也。權者何?權者反於經,然後有善者也。權之所設,舍死亡無所設。行權有道,自貶損以行權,不害人以行權。殺人以自生,亡人以自存,君子不為也。

(伝)祭仲とは何者でしょうか。鄭国の相です。なぜ名を称しないのでしょうか。賢いからです。祭仲の賢さはどこにありますか。権変を知っていたとされます。どのように権変を知っていたのでしょうか。古に鄭国は留に住んでいました。先の鄭伯は鄶公と親しく、また鄶公の夫人と私通し、鄶国を奪い、鄭をそこへ迁し、留を辺邑として残しました。荘公が死に、すでに葬られ、祭仲はまさに留へ巡視に行こうとして、途中で宋を通り、宋国人が彼を捉えて言いました。「私のために忽を逐い出して突を立ててほしい。」祭仲がこの言葉に従わなければ、国君は必ず死に国家は必ず亡びます。この言葉に従えば、国君は生をもって死と換え、国家は存をもって亡と換えることができます。少し緩めれば、突はなお逐い出すことができ、忽はなお帰ってくることができます。この層ができなければ、自分に病があり、そのうえで鄭国はなお残ります。古人のうちで権を行える者とは、祭仲のような権です。「権」とは何でしょうか。権は先に常経に背き、それから利益があるものです。権の施す所は、生死存亡のほかに施す所はありません。権を行うには規矩があります。自分を損なって権を行い、他人を傷つけずに権を行うのです。他人を殺して自分を生かし、他人を滅ぼして自分を存らせることは、君子はしません。

(經十一四)突歸於鄭。

(経十一四)突が鄭国に帰りました。

(傳)突何以名?挈乎祭仲也。其言歸何?順祭仲也。

(伝)突はなぜ名を称されるのでしょうか。祭仲が彼を単に引き出したからです。なぜ「帰」と書くのでしょうか。祭仲に従うのです。

(經十一五)鄭忽出奔衛。

(経十一五)鄭の忽が衛に逃亡しました。

(傳)忽何以名?《春秋》伯、子、男一也,辭無所貶。

(伝)忽はなぜ名を称されるのでしょうか。《春秋》では伯・子・男は一等で、措辞にはこれ以上貶める所がありません。

(經十一六)柔會宋公、陳侯、蔡叔盟於折。

(経十一六)柔が宋公・陳侯・蔡叔と会合し、折で盟を結びました。

(傳)柔者何?吾大夫之未命者也。

(伝)柔とは何者でしょうか。我が鲁国のまだ命を受けていない大夫です。

(經十一七)公會宋公於夫童。

(経十一七)桓公は夫童で宋公と会しました。

(經十一八)冬,十有二月,公會宋公於闞。

(経十一八)冬十二月、桓公は闞で宋公と会しました。

桓公(經十二一)十有二年

桓公(経十二一)十有二年

春,正月。

春正月。

(經十二二)夏,六月壬寅,公會紀侯、莒子,盟於毆蛇。

(経十二二)夏六月壬寅、桓公は紀侯・莒子と会し、殴蛇で盟を結びました。

(經十二三)秋,七月丁亥,公會宋公、燕人,盟於谷丘。

(経十二三)秋七月丁亥、桓公は宋公・燕国人と会し、穀丘で盟を結びました。

(經十二四)八月,壬辰,陳侯躍卒。公會宋公於郯。

(経十二四)八月壬辰、陳侯躍が亡くなりました。桓公は郯で宋公と会しました。

(經十二五)冬,十有一月,公會宋公於龜。丙戌,公會鄭伯,盟於武父。

(経十二五)冬十一月、桓公は亀で宋公と会しました。丙戌、桓公は鄭伯と会し、武父で盟を結びました。

(經十二六)丙戌,衛侯晉卒。

(経十二六)丙戌、衛侯晋が亡くなりました。

(經十二六)十有二月,及鄭師伐宋。丁未,戰於宋。

(経十二六)十二月、鄭国の軍隊とともに宋を攻めました。丁未、宋で交戦しました。

(傳)戰不言伐,此其言伐何?闢嫌也。惡乎嫌?嫌與鄭人戰也。此偏戰也,何以不言師敗績?內不言戰,言戰乃敗矣!

(伝)交戦には「伐」を書きませんが、ここで「伐」を書くのはなぜでしょうか。嫌疑を避けるためです。何を嫌うのでしょうか。鄭国人と交戦しているかのように見えることを嫌うのです。これは期日を約して戦うのに、なぜ「師敗績」と書かないのでしょうか。鲁国自身のことは「戦」と書かず、「戦」と書けばすでに敗なのです!

桓公(經十三一)十有三年

桓公(経十三一)十有三年

春,二月,公會紀侯、鄭伯。己巳,及齊侯、宋公、衛侯、燕人戰,齊師、宋師、衛師、燕師敗績。

春二月、桓公は紀侯・鄭伯と会しました。己巳、斉侯・宋公・衛侯・燕国人と交戦し、斉国軍・宋国軍・衛国軍・燕国軍は大敗しました。

(傳)曷為後日?恃外也。其恃外奈何?得紀侯、鄭伯,然後能為日也。內不言戰,此其言戰何?從外也。曷為從外?恃外故從外也。何以不地?近也。惡乎近?近乎圍。郎亦近矣,郎何以地?郎猶可以地也。

(伝)なぜ日を後に書くのでしょうか。外に恃むからです。どうして外に恃むのでしょうか。紀侯・鄭伯を得て、それからやっと日を約することができたのです。鲁国自身のことは「戦」と書かないのに、ここで「戦」と書くのはなぜでしょうか。外に従って書くのです。なぜ外に従って書くのでしょうか。外に恃むので、外に従って書くのです。なぜ地を記さないのでしょうか。近いからです。どのくらい近いのでしょうか。包囲するほど近いのです。郎も近かったのに、なぜ郎は地を記したのでしょうか。郎はまだ地を記すことができたのです。

(經十三二)三月,葬衛宣公。

(経十三二)三月、衛宣公を葬りました。

(經十三三)夏,大水。

(経十三三)夏、大水がありました。

(經十三四)秋,七月。

(経十三四)秋七月。

(經十三五)冬,十月。

(経十三五)冬十月。

桓公(經十四一)十有四年

桓公(経十四一)十有四年

春,正月,公會鄭伯於曹。

春正月、桓公は曹で鄭伯と会しました。

(經十四二)無冰。

(経十四二)氷がありませんでした。

(傳)何以書?記異也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。異常を記すのです。

(經十四三)夏,五。鄭伯使其弟語來盟。

(経十四三)夏、五。鄭伯がその弟の語を遣わして盟を結ばせました。

(傳)夏五者何?無聞焉爾。

(伝)「夏五」とは何でしょうか。聞いたことがありません。

(經十四四)秋,八月壬申,御廩災。

(経十四四)秋八月壬申、御廩が火災を遭いました。

(傳)御廩者何?粢盛委之所藏也。御廩災,何以書?記災也。

(伝)御廩とは何でしょうか。祭祀用の穀を蔵する所です。御廩が火災を遭ったことをなぜ記すのでしょうか。災害を記すのです。

(經十四五)乙亥,嘗。

(経十四五)乙亥、嘗祭を行いました。

(傳)常事不書,此何以書?譏。何譏爾?譏嘗也。曰:猶嘗乎!御廩災,不如勿嘗而已矣!

(伝)常事は記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。それでも嘗祭を行ったことを譏刺するのです。言うなれば、まだ嘗祭をするのか!御廩がことごとく火災に遭ったのだから、嘗祭はしなければ済んだことです!

(經十四六)冬,十有二月丁巳,齊侯祿父卒。

(経十四六)冬十二月丁巳、斉侯禄父が亡くなりました。

(經十四七)宋人以齊人、衛人、蔡人、陳人伐鄭。以者何?行其意也。

(経十四七)宋国人が斉国人・衛国人・蔡国人・陳国人を連れて鄭を攻めました。「以」とは何でしょうか。宋国自身の意思を行ったことです。

桓公(經十五一)十有五年

桓公(経十五一)十有五年

春,二月,天王使家父來求車。

春二月、周天子が家父を遣わして車を求めさせました。

(傳)何以書?譏。何譏爾?王者無求;求車,非禮也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。王者は人に求めるべきではなく、車を求めるのは礼に合いません。

(經十五二)三月乙未,天王崩。

(経十五二)三月乙未、天子が亡くなりました。

(經十五三)夏,四月己巳,葬齊僖公。

(経十五三)夏四月己巳、斉僖公を葬りました。

(經十五四)五月,鄭伯突出奔蔡。

(経十五四)五月、鄭伯の突が蔡に出奔しました。

(傳)突何以名?奪正也。

(伝)突はなぜ名を称されるのでしょうか。彼が正位を奪ったからです。

(經十五五)鄭世子忽復歸於鄭。

(経十五五)鄭の世子の忽が再び鄭国に帰りました。

(傳)其稱世子何?復正也。曷為或言歸?或言復歸?復歸者,出惡,歸無惡;復入者,出無惡,入有惡。入者,出入惡。歸者,出入無惡。

(伝)「世子」と称するのはなぜでしょうか。正位を復したからです。なぜある所では「帰」と書き、ある所では「復帰」と書くのでしょうか。「復帰」は出る時は悪があって帰る時は悪がなく、「復入」は出る時は悪がなく入る時は悪があり、「入」は出る時も入る時も悪があり、「帰」は出る時も入る時も悪がないのです。

(經十五六)許叔入於許。公會齊侯於鄗。邾婁人、牟人、葛人來朝。

(経十五六)許叔が許に入りました。桓公は鄗で斉侯と会しました。邾婁人・牟人・葛人が朝見に来ました。

(傳)皆何以稱人?夷狄之也。

(伝)三人はなぜともに「人」と称されるのでしょうか。彼らを夷狄として扱うのです。

(經十五七)秋,九月,鄭伯突入於櫟。

(経十五七)秋九月、鄭伯の突が櫟に入りました。

(傳)櫟者何?鄭之邑。曷為不言入於鄭?末言爾。曷為末言爾?祭仲亡矣。然則曷為不言忽之出奔?言忽為君之微也。祭仲存則存矣,祭仲亡則亡矣!

(伝)櫟とは何でしょうか。鄭国の城邑です。なぜ「入于鄭」と書かないのでしょうか。まだその段を言うに至らないのです。なぜまだその段を言うに至らないのでしょうか。祭仲がすでにいないからです。ではなぜ忽の出奔を書かないのでしょうか。忽の国君としての微弱を書き出すためです。祭仲がいれば彼はいるが、祭仲がいなければ彼はいないのです!

(經十五八)冬,十有一月,公會齊侯、宋公、衛侯、陳侯於侈,伐鄭。

(経十五八)冬十一月、桓公は侈で斉侯・宋公・衛侯・陳侯と会し、鄭を攻めました。

桓公(經十六一)十有六年

桓公(経十六一)十有六年

春,正月,公會宋公、蔡侯、衛侯於曹。

春正月、桓公は曹で宋公・蔡侯・衛侯と会しました。

(經十六二)夏,四月,公會宋公、衛侯、陳侯、蔡侯伐鄭。

(経十六二)夏四月、桓公は宋公・衛侯・陳侯・蔡侯と会合して鄭を攻めました。

(經十六三)秋,七月,公至自伐鄭。

(経十六三)秋七月、桓公は鄭を伐った軍から帰りました。

(經十六四)冬,城向。十有一月,衛侯朔出奔齊。

(経十六四)冬、向を築きました。十一月、衛侯の朔が斉に逃亡しました。

(傳)衛侯朔何以名?絕。曷為絕之?得罪於天子也。其得罪於天子奈何?見使守衛朔,而不能使衛小眾,越在岱陰齊。屬負茲舍,不即罪爾。

(伝)衛侯朔はなぜ名を称されるのでしょうか。彼を絶つためです。なぜ絶つのでしょうか。天子に罪を得たからです。どうして天子に罪を得たのでしょうか。彼は守衛・朔日の朝見に派遣されたのに、衛国のわずかな人衆を率いることができず、泰山の北の斉国に逃げて、病だと推して住み着き、罪責を受けに行かなかったのです。

桓公(經十七一)十有七年

桓公(経十七一)十有七年

春,正月丙辰,公會齊侯、紀侯盟於黃。

春正月丙辰、桓公は斉侯・紀侯と会し、黄で盟を結びました。

(經十七二)二月丙午,公及邾婁儀父盟於趡。

(経十七二)二月丙午、桓公は邾婁儀父と趡で盟を結びました。

(經十七三)五月丙午,及齊師戰於奚。

(経十七三)五月丙午、斉国の軍隊と奚で交戦しました。

(經十七四)六月丁丑,蔡侯封人卒。

(経十七四)六月丁丑、蔡侯封人が亡くなりました。

(經十七五)秋,八月,蔡季自陳歸於蔡。癸巳,葬蔡桓侯。及宋人、衛人伐邾婁。

(経十七五)秋八月、蔡季が陳国から蔡に帰りました。癸巳、蔡桓侯を葬りました。宋国人・衛国人とともに邾婁を攻めました。

(經十七六)冬,十月朔,日有食之。

(経十七六)冬十月朔、日食がありました。

桓公(經十八一)十有八年

桓公(経十八一)十有八年

春,王正月,公會齊侯於濼。公與夫人姜氏遂如齊。

春、周暦正月、桓公は濼で斉侯と会しました。桓公は夫人姜氏とともに続けて斉国へ行きました。

(傳)公何以不言及夫人?夫人外也。夫人外者何?內辭也,其實夫人外公也。

(伝)桓公はなぜ「及夫人」と書かないのでしょうか。夫人が外にいたからです。夫人が外にいたとは何でしょうか。これは鲁国自身の隠す措辞で、実は夫人が桓公を外に排除したのです。

(經十八二)夏,四月丙子,公薨於齊。丁酉,公之喪至自齊。

(経十八二)夏四月丙子、桓公は斉国で亡くなりました。丁酉、桓公の霊柩が斉国から到来しました。

(經十八三)秋,七月。

(経十八三)秋七月。

(經十八四)冬,十有二月己丑,葬我君桓公。

(経十八四)冬十二月己丑、我が鲁国の国君桓公を葬りました。

(傳)賊未討,何以書葬?讎在外也。讎在外則何以書葬?君子辭也。

(伝)賊がまだ討たれていないのに、なぜ葬りを記すのでしょうか。仇人が国外にいるからです。仇人が国外にいるのに、なぜまだ葬りを記すのでしょうか。これは君子の措辞です。

荘公

莊公(經一一)元年

荘公(経一一)元年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(傳)公何以不言即位?《春秋》君弒,子不言即位。君弒則子何以不言即位?隱之也。孰隱?隱子也。

(伝)なぜ荘公の「即位」を書かないのか。《春秋》では国君が弑された場合、その子は即位を書かない。国君が弑されたのに、なぜ子は即位を書かないのか。彼を哀れんだのである。誰を哀れんだのか。この子を哀れんだのである。

(經一二)三月,夫人孫於齊。

(経一二)三月、夫人は斉に逃げた。

(傳)孫者何?孫猶孫也。內諱奔謂之孫。夫人固在齊矣,其言孫於齊何?念母也。正月以存君,念母以首事。夫人何以不稱姜氏?貶。曷為貶?與弒公也。其與弒公奈何?夫人譖公於齊侯,公曰:「同非吾子,齊侯之子也。」齊侯怒,與之飲酒。於其出焉,使公子彭生送之。於其乘焉,搚幹而殺之。念母者,所善也,則曷為於其念母焉貶?不與念母也。

(伝)「孫」とは何か。「孫」は「遜」と同じである。魯は自国の出奔を隠して「孫」と言う。夫人はもともと斉にいたのに、なぜ「孫于斉」と書くのか。母を思ったからである。正月をもって君を存し、母を思うことをもって事の始めとした。夫人はなぜ姜氏と称しないのか。貶めたのである。なぜ貶めたのか。桓公の弑に加担したからである。どのように加担したのか。夫人は斉侯の前で桓公を讒言し、桓公は「同はわが子ではない、斉侯の子だ」と言った。斉侯は怒り、彼とともに酒を飲んだ。出て行くところで、公子彭生に送らせた。車に乗るところで、肋骨を折って殺させた。母を思うことはもともと経文が是とするところなのに、なぜ母を思うこの箇所で貶めたのか。このような母の思い方を是としなかったのである。

(經一三)夏,單伯逆王姬。

(経一三)夏、単伯が王姫を迎えた。

(傳)單伯者何?吾大夫之命乎天子者也。何以不稱使?天子召而使之也。逆之者何?使我主之也。曷為使我主之?天子嫁女乎諸侯,必使諸侯同姓者主之。諸侯嫁女於大夫,必使大夫同姓者主之。

(伝)単伯とは何者か。我が魯国の、天子に命ぜられた大夫である。なぜ「使」と称しないのか。天子が召して派遣したからである。「逆之」とは何か。我が魯国に主宰させたのである。なぜ我が魯国に主宰させたのか。天子が娘を諸侯に嫁がせるときは必ず同姓の諸侯に主宰させ、諸侯が娘を大夫に嫁がせるときは必ず同姓の大夫に主宰させる。

(經一四)築王姬之館於外。

(経一四)外に王姫の館を築いた。

(傳)何以書?譏。何譏爾?築之,禮也;於外,非禮也。於外何以非禮?築於外,非禮也。其築之何以禮?主王姬者必為之改築。主王姬者曷為必為之改築?於路寢則不可,小寢則嫌,群公子之舍則以卑矣,其道必為之改築者也。

(伝)なぜ書いたのか。譏刺である。何を譏刺したのか。館を築くことは礼にかなうが、外に築くのは礼ではない。外に築くことがなぜ礼ではないのか。外に築くことは礼ではない。築くことはなぜ礼なのか。王姫の婚儀を主宰する者は必ず別に改築しなければならない。主宰する者はなぜ必ず改築しなければならないのか。路寝に置くのは不可であり、小寝に置くのは嫌があり、群公子の舎に置くのは卑しすぎる。その道理で必ず改築しなければならないのである。

(經一五)冬,十月乙亥,陳侯林卒。王使榮叔來錫桓公命。

(経一五)冬十月乙亥、陳侯林が卒した。王が栄叔を遣わして桓公の命を賜りに来た。

(傳)錫者何?賜也。命者何?加我服也。其言桓公何?追命也。

(伝)「錫」とは何か。賜である。「命」とは何か。我らに服を加えることである。なぜ「桓公」と言うのか。追って賜った命だからである。

(經一六)王姬歸於齊。

(経一六)王姫が斉に嫁いだ。

(傳)何以書?我主之也。

(伝)なぜ書いたのか。我が魯国が主宰したからである。

(經一七)齊師遷紀、郱、鄑、郚。

(経一七)斉の軍が紀の郱・鄑・郚を遷した。

(傳)遷之者何?取之也。取之則曷為不言取之也?為襄公諱也。外取邑不書,此何以書?大之也。何大爾?自是始滅也。

(伝)「遷之」とは何か。奪うことである。奪うのなら、なぜ「取」と書かないのか。斉襄公のために隠したのである。外が城邑を奪うことは例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか。それを大きく書いたのである。なぜ大きく書いたのか。国を滅ぼすことがここから始まるからである。

莊公(經二一)二年

荘公(経二一)二年

春,王二月,葬陳莊公。

春、周暦の二月、陳荘公を葬った。

(經二二)夏,公子慶父帥師伐於餘丘。

(経二二)夏、公子慶父が軍を率いて於余丘を伐った。

(傳)於餘丘者何?邾婁之邑也。曷為不繫乎邾婁?國之也。曷為國之?君存焉爾。

(伝)於余丘とは何か。邾婁の城邑である。なぜ邾婁に係属させないのか。それを一国として扱ったのである。なぜ一国として扱ったのか。そこに国君がいたからである。

(經二三)秋,七月,齊王姬卒。

(経二三)秋七月、斉の王姫が卒した。

(傳)外夫人不卒,此何以卒?錄焉爾。曷為錄焉爾?我主之也。

(伝)外の夫人は例によって卒を記さないのに、ここではなぜ記したのか。彼女を書き記したのである。なぜ書き記したのか。我が魯国が主宰したからである。

(經二四)冬,十有二月,夫人姜氏會齊侯於郜。乙酉,宋公馮卒。

(経二四)冬十二月、夫人姜氏が郜で斉侯に会った。乙酉、宋公馮が卒した。

莊公(經三一)三年

荘公(経三一)三年

春,王正月,溺會齊師伐衛。

春、周暦の正月、溺が斉の軍と会合して衛を伐った。

(傳)溺者何?吾大夫之未命者也。

(伝)溺とは何者か。我が魯国の、まだ命を受けていない大夫である。

(經三二)夏,四月,葬宋莊公。

(経三二)夏四月、宋荘公を葬った。

(經三三)葬桓王。

(経三三)桓王を葬った。

(傳)此未有言崩者,何以書葬?蓋改葬也。

(伝)前に「崩」と書いていないのに、なぜ葬を記したのか。おそらく改葬である。

(經三四)秋,紀季以酅入於齊。

(経三四)秋、紀季が酅を携えて斉に入った。

(傳)紀季者何?紀侯之弟也。何以不名?賢也。何賢乎紀季?服罪也。其服罪奈何?魯子曰:「請後五廟以存姑姊妹。」

(伝)紀季とは何者か。紀侯の弟である。なぜ名を称しないのか。賢だからである。紀季はどこが賢なのか。彼は罪に服した。どのように服したのか。魯子曰く、「五つの宗廟を残して、姑・姉妹を存せしめんことを請う」。

(經三五)冬,公次於郎。

(経三五)冬、荘公が郎に次した。

(傳)其言公次於郎何?刺欲救紀而後不能也。

(伝)なぜ「公次于郎」と書いたのか。彼が紀を救おうと思いながら、後にはできなかったことを譏ったのである。

莊公(經四一)四年

荘公(経四一)四年

春,王二月,夫人姜氏饗齊侯於祝丘。三月,紀伯姬卒。

春、周暦の二月、夫人姜氏が祝丘で斉侯を饗応した。三月、紀伯姫が卒した。

(經四二)夏,齊侯、陳侯、鄭伯遇於垂。

(経四二)夏、斉侯・陳侯・鄭伯が垂で遇った。

(經四三)紀侯大去其國。

(経四三)紀侯がその国を大去した。

(傳)大去者何?滅也。孰滅之?齊滅之。曷為不言齊滅之?為襄公諱也。《春秋》為賢諱。何賢乎襄公?復讎也。何讎爾?遠祖也。哀公亨乎周,紀侯譖之。以襄公之為於此焉者,事祖禰之心盡矣。盡者何?襄公將復讎乎紀,卜之曰:「師喪分焉。寡人死之,不為不吉也。」遠祖者,幾世乎?九世矣。九世猶可以復讎乎?雖百世可也。家亦可乎?曰:不可。國何以可?國君一體也;先君之恥猶今君之恥也,今君之恥猶先君之恥也。國君何以為一體?國君以國為體,諸侯世,故國君為一體也。今紀無罪,此非怒與?曰:非也。古者有明天子,則紀侯必誅,必無紀者。紀侯之不誅,至今有紀者,猶無明天子也。古者諸侯必有會聚之事、相朝聘之道,號辭必稱先君以相接,然則齊、紀無說焉,不可以並立乎天下。故將去紀侯者,不得不去紀也。有明天子,則襄公得為若行乎?曰:不得也。不得則襄公曷為為之?上無天子,下無方伯,緣恩疾者可也。

(伝)「大去」とは何か。滅亡である。誰が滅ぼしたのか。斉が滅ぼした。なぜ斉が滅ぼしたと書かないのか。襄公のために隠したのである。《春秋》は賢者のために隠す。襄公はどこが賢なのか。彼は讐を復した。讐とは何か。遠祖の讐である。哀公が周で烹られたのは、紀侯が讒言したからである。襄公のこのことにおける振る舞いを見れば、祖宗に仕える心は尽きたと言える。「尽」とは何か。襄公が紀国に讐を復さんとして卜したところ、卜辞に「軍は半分を失うであろう」とあった。襄公曰く、「寡人はこのために死すとも、不吉とは言えぬ」。遠祖とは何世か。すでに九世である。九世でもまだ讐を復せるのか。百世でもなお可である。大夫の家でも可か。答えて曰く、不可である。国はなぜ可なのか。国君は一体である。先君の恥は即ち今の国君の恥、今の国君の恥は即ち先君の恥である。国君はなぜ一体なのか。国君は国をもって体とし、諸侯は世々相継ぐ。ゆえに国君は一体である。いま紀国に罪がないのに、これは怒りを移すことではないか。答えて曰く、そうではない。古に明らかな天子があれば、紀侯は必ず誅され、必ずや紀国は再びなかったはずである。紀侯が誅されず今日に至るまで紀国があるのは、まさに明らかな天子がいなかったからである。古の諸侯は必ず会聚の事・相朝聘の義があって、辞令を称えるときは必ず先君をもって交接した。されば斉と紀とは言い合わせうべき言葉がなく、天下に並び立つことができなかった。ゆえに紀侯を去らんとすれば、紀国を去らざるを得ない。明らかな天子があれば、襄公はなおこのようなことができるか。答えて曰く、できない。できないのに、なぜ襄公はなおしたのか。上に天子なく下に方伯なければ、恩讐に従って行うことは可である。

(經四四)六月乙丑,齊侯葬紀伯姬。

(経四四)六月乙丑、斉侯が紀伯姫を葬った。

(傳)外夫人不書葬,此何以書?隱之也。何隱爾?其國亡矣,徒葬於齊爾。此復讎也,曷為葬之?滅其可滅,葬其可葬。此其為可葬奈何?復讎者非將殺之,逐之也。以為雖遇紀侯之殯,亦將葬之也。

(伝)外の夫人は葬を記さないのに、ここではなぜ記したのか。彼女を哀れんだのである。何を哀れんだのか。彼女の国は亡び、ただ斉で葬られたにすぎない。これは復讐なのに、なぜ彼女を葬ったのか。滅ぶべきは滅ぼし、葬るべきは葬る。どうすれば葬るべきか。復讐する者は彼女を殺そうとするのではなく、彼らを追い出そうとするのである。たとえ紀侯の殯に出遭っても、なお彼を葬るであろうと思ったからである。

(經四五)秋,七月。

(経四五)秋七月。

(經四六)冬,公及齊人狩於郜。

(経四六)冬、荘公が斉の人と郜で狩りをした。

(傳)公曷為與微者狩?齊侯也。齊侯則其稱人何?諱與讎狩也。前此者有事矣,後此者有事矣,則曷為讀於此焉譏?於讎者將壹譏而已,故擇其重者而譏焉,莫重乎其與讎狩也。於讎者則曷為將壹譏而已?讎者無時,焉可與通;通則為大譏,不可勝譏,故將壹譏而已,其餘從同。

(伝)荘公はなぜ地位の微しい者と狩りをしたのか。相手は実は斉侯である。斉侯なら、なぜ「人」と称したのか。讐人と狩りをすることを隠したのである。この前に事がありこの後にも事があるのに、なぜここを読んで初めて譏刺するのか。讐人に対しては一度だけ譏刺する用意があり、ゆえに最も重いものを選んで譏刺する。讐人と狩りをするより重いものはない。なぜ讐人に対し一度だけ譏刺するのか。讐人とは往き来すべき時がない。一往き来すれば大いなる譏刺となり、譏刺し尽くせない。ゆえに一度だけ譏刺する用意があり、残りはみなこの条に準じて類推する。

莊公(經五一)五年

荘公(経五一)五年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(經五二)夏,夫人姜氏如齊師。

(経五二)夏、夫人姜氏が斉の軍のもとに行った。

(經五三)秋,倪黎來來朝。

(経五三)秋、倪の黎来が来朝した。

(傳)倪者何?小邾婁也。小邾婁則曷為謂之倪?未能以其名通也。黎來者何?名也。其名何?微國也。

(伝)倪とは何か。小邾婁である。小邾婁なら、なぜ倪と言うのか。まだその名号をもって通行できないからである。黎来とは何か。名である。名を称するのはなぜか。小国だからである。

(經五四)冬,公會齊人、宋人、陳人、蔡人,伐衛。

(経五四)冬、荘公が斉人・宋人・陳人・蔡人と会合して衛を伐った。

(傳)此伐衛何?納朔也。曷為不言納衛侯朔?闢王也。

(伝)この衛を伐ったのは何のためか。朔を入れようとしたのである。なぜ「納衛侯朔」と書かないのか。天子を避けたのである。

莊公(經六一)六年

荘公(経六一)六年

春,王三月,王人子突救衛。

春、周暦の三月、王人子突が衛を救った。

(傳)王人者何?微者也。子突者何?貴也。貴則其稱人何?系諸人也。曷為系諸人?王人耳。

(伝)「王人」とは何者か。地位の微しい者である。子突とは何か。貴い者である。貴いのなら、なぜ「人」と称したのか。彼を「人」に係属させたのである。なぜ「人」に係属させたのか。彼はただ王の人にすぎないからである。

(經六二)夏,六月,衛侯朔入於衛。

(経六二)夏六月、衛侯朔が衛に入った。

(傳)衛侯朔何以名?絕。曷為絕之?犯命也。其言入何?篡辭也。

(伝)衛侯朔はなぜ名を称されるのか。彼を断ち絶ったのである。なぜ断ち絶ったのか。命令に違犯したからである。なぜ「入」と書いたのか。これは簒位の措辞である。

(經六三)秋,公至自伐衛。

(経六三)秋、荘公が衛を伐った軍から帰った。

(傳)曷為或言致會?或言致伐?得意致會,不得意致伐。衛侯朔入於衛,何以致伐?不敢勝天子也。

(伝)あるものは会から帰ったと書き、あるものは征伐から帰ったと書くのはなぜか。得意なら会から帰ったと書き、得意でなければ征伐から帰ったと書く。衛侯朔が衛に入ったのに、なぜなお征伐から帰ったと書くのか。天子に勝ったとは言いあえないからである。

(經六四)螟。

(経六四)螟虫が害をなした。

(經六五)冬,齊人來歸衛寶。

(経六五)冬、斉人が来て衛の宝器を帰した。

(傳)此衛寶也,則齊人曷為來歸之?衛人歸之也。衛人歸之,則其稱齊人何?讓乎我也。其讓乎我奈何?齊侯曰:「此非寡人之力,魯侯之力也。」

(伝)これは衛の宝器なのに、なぜ斉人が来て帰したのか。実は衛人が帰したのである。衛人が帰したのなら、なぜ斉人と称したのか。我が魯国に推し譲ったのである。どのように我が魯国に推し譲ったのか。斉侯曰く、「これは寡人の力ではない、魯侯の力である」。

莊公(經七一)七年

荘公(経七一)七年

春,夫人姜氏會齊侯於防。

春、夫人姜氏が防で斉侯に会った。

(經七二)夏,四月,辛卯夜,恆星不見,夜中星霣如雨。

(経七二)夏四月辛卯の夜、恒星が見えず、夜半に星が雨のように落ちた。

(傳)恆星者何?列星也。列星不見,則何以知?夜之中星反也。如雨者何?如雨者非雨也。非雨則曷為謂之如雨?不修《春秋》曰:「雨星不及地尺而復。」君子修之曰:「星霣如雨。」何以書?記異也。

(伝)恒星とは何か。列星である。列星が見えないのに、どうして夜半と分かるのか。星が後でまた戻ってきたからである。「如雨」とは何か。「如雨」と言うからには雨ではない。雨でないのに、なぜ「如雨」と言うのか。君子が改定する前の《春秋》には「星が雨のように墜ち、地を離れること一尺にしてまた戻る」と書かれていた。君子が改定して「星霣如雨」と書いた。なぜ記したのか。異常を記したのである。

(經七三)秋,大水。無麥、苗。

(経七三)秋、大水があった。麦もなく、苗もなかった。

(傳)無苗,則曷為先言無麥,而後言無苗?一災不書,待無麥,然後書無苗。何以書?記災也。

(伝)苗がないのに、なぜ先に「無麦」と書き、次に「無苗」と書いたのか。一つの災害は記さず、麦がなくなってから、それで初めて苗のないことを記す。なぜ記したのか。災害を記したのである。

(經七四)冬,夫人姜氏會齊侯於谷。

(経七四)冬、夫人姜氏が穀で斉侯に会った。

莊公(經八一)八年

荘公(経八一)八年

春,王正月,師次於郎,以俟陳人、蔡人。

春、周暦の正月、軍が郎に次し、陳人・蔡人を俟った。

(傳)次不言俟,此其言俟何?托不得已也。

(伝)次することは「俟」と書かないのに、ここで「俟」と書いたのはなぜか。やむを得なかったと託辞したのである。

(經八二)甲午,祠兵。

(経八二)甲午、祠兵を行った。

(傳)祠兵者何?出曰祠兵,入曰振旅,其禮一也,皆習戰也。何言乎祠兵?為久也。曷為為久?吾將以甲午之日,然後祠兵於是。

(伝)祠兵とは何か。出るのを祠兵と言い、帰るのを振旅と言い、礼は同じで、みな戦いを演習するものである。なぜ「祠兵」と書いたのか。長く引き延ばしすぎたからである。なぜ長く引き延ばしすぎたのか。我らは甲午の日を待って、それからここで祠兵しようとしたのである。

(經八三)夏,師及齊師圍成,成降於齊師。

(経八三)夏、我が軍と斉の軍が成を囲み、成は斉の軍に降った。

(傳)成者何?盛也。盛則曷為謂之成?諱滅同姓也。曷為不言降吾師?闢之也。

(伝)成とは何か。盛である。盛なら、なぜ成と言うのか。同姓を滅ぼしたことを隠したのである。なぜ我が軍に降ったと書かないのか。その点を避けたのである。

(經八四)秋,師還。

(経八四)秋、軍が帰った。

(傳)還者何?善辭也。此滅同姓何善爾?病之也,曰:師病矣!曷為病之?非師之罪也!

(伝)「還」とは何か。よい措辞である。これは同姓を滅ぼしたのに、何がよいのか。痛むのである。軍が病んだと言うに等しい。なぜ痛むのか。軍の罪ではないからである。

(經八五)冬,十有一月癸未,齊無知弒其君諸兒。

(経八五)冬十一月癸未、斉の無知がその君諸児を弑した。

莊公(經九一)九年

荘公(経九一)九年

春,齊人殺無知。公及齊大夫盟於暨。

春、斉人が無知を殺した。荘公が斉の大夫と暨で盟した。

(傳)公曷為與大夫盟?齊無君也。然則何以不名?其諱與大夫盟也,使若眾然。

(伝)荘公はなぜ大夫と盟したのか。斉に国君がいなかったからである。ではなぜ名を称しないのか。大夫と盟することを隠し、衆人と盟するように書いたのである。

(經九二)夏,公伐齊納糾。

(経九二)夏、荘公が斉を伐ち、糾を入れようとした。

(傳)納者何?入辭也。其言伐之何?伐而言納者,猶不能納也。糾者何?公子糾也。何以不稱公子?君前臣名也。

(伝)「納」とは何か。入れる措辞である。なぜ「伐」と書いたのか。伐ってなお納と書けば、ついに入れられなかったようになる。糾とは何者か。公子糾である。なぜ公子と称しないのか。国君の前では臣は名を称する。

(經九三)齊小白入於齊。

(経九三)斉の小白が斉に入った。

(傳)曷為以國氏?當國也。其言入何?篡辭也。

(伝)なぜ国名をもって氏としたのか。国の勢力を擁したからである。なぜ「入」と書いたのか。これは簒位の措辞である。

(經九四)秋,七月丁酉,葬齊襄公。

(経九四)秋七月丁酉、斉襄公を葬った。

(經九五)八月庚申,及齊師戰於干時,我師敗績。

(経九五)八月庚申、斉の軍と干時で戦い(干時は地名、底本ではこの字を乾坤の乾と作る)、我が軍は大いに敗れた。

(傳)內不言敗,此其言敗何?伐敗也。曷為伐敗?復讎也。此復讎乎大國,曷為使微者?公也。公則曷為不言公?不與公復讎也。曷為不與公復讎?復讎者在下也。

(伝)魯の自国のことは「敗」を書かないのに、ここで「敗」と書いたのはなぜか。敗戦をあらわにしたのである。なぜ敗戦をあらわにしたのか。これは復讐だからである。大国への復讐なのに、なぜ地位の微しい者を遣わしたのか。実は荘公である。荘公なら、なぜ「公」と書かないのか。荘公がこのように讐を復することを是としない。なぜ是としないのか。讐を復すべき者は下にいるからである。

(經九六)九月,齊人取子糾殺之。

(経九六)九月、斉人が子糾を取って、これを殺した。

(傳)其言取之何?內辭也;脅我,使我殺之也。其稱子糾何?貴也。其貴奈何?宜為君者也。

(伝)なぜ「取之」と書いたのか。これは魯国自身の隠す措辞である。相手が我らを脅迫し、我らに彼を殺させたのである。「子糾」と称するのはなぜか。彼が貴いからである。どう貴いのか。彼は本当は国君となるべきだった。

(經九七)冬,浚洙。

(経九七)冬、洙水を浚めた。

(傳)洙者何?水也。浚之者何?深之也。曷為深之?畏齊也。曷為畏齊也?辭殺子糾也。

(伝)洙とは何か。水である。「浚之」とは何か。それを深く掘ることである。なぜ深く掘ったのか。斉を恐れたからである。なぜ斉を恐れたのか。子糾を殺すことを辞した件である。

莊公(經十一)十年

荘公(経十一)十年

春,王正月,公敗齊師於長勺。

春、周暦の正月、荘公が長勺で斉の軍を敗った。

(經十二)二月,公侵宋。

(経十二)二月、荘公が宋に侵め入った。

(傳)曷為或言侵?或言伐?粗者曰侵,精者曰伐。戰不言伐,圍不言戰,入不言圍,滅不言入--書其重者也。

(伝)あるものは「侵」と書き、あるものは「伐」と書くのはなぜか。粗略なのを侵と言い、精詳なのを伐と言う。戦えば伐を書かず、囲めば戦を書かず、入れば囲を書かず、滅ぼせば入を書かない。分量の重いほうを記すのである。

(經十三)三月,宋人遷宿。

(経十三)三月、宋人が宿を遷した。

(傳)遷之者何?不通也,以地遷之也。子沈子曰:「不通者,蓋因而臣之也。」

(伝)「遷之」とは何か。それを隔絶し、土地をもってそれを遷すことである。子沈子曰く、「隔絶とは、おそらくこれに乗じて臣属とすることであろう」。

(經十四)夏,六月,齊師、宋師次於郎,公敗宋師於乘丘。

(経十四)夏六月、斉の軍・宋の軍が郎に次し、荘公が乗丘で宋の軍を敗った。

(傳)其言次於郎何?伐也。伐則其言次何?齊與伐而不與戰,故言伐也。我能敗之,故言次也。

(伝)なぜ「次于郎」と書いたのか。実は伐ちに来たのである。伐ちに来たのなら、なぜ「次」と書いたのか。斉は伐つことに与ったが戦うことに与らなかった、ゆえに伐つほうについて言えば、我らは彼らを敗ることができた。だから「次」と書いたのである。

(經十五)秋,九月,荊敗蔡師於莘,以蔡侯獻舞歸。

(経十五)秋九月、荊が莘で蔡の軍を敗り、蔡侯献舞を捕えて帰った。

(傳)荊者何?州名也。州不若國,國不若氏,氏不若人,人不若名,名不若字,字不若子。蔡侯獻舞何以名?絕。曷為絕之?獲也。曷為不言其獲?不與夷狄之獲中國也。

(伝)荊とは何か。州名である。州は国に及ばず、国は氏に及ばず、氏は人に及ばず、人は名に及ばず、名は字に及ばず、字は子に及ばない。蔡侯献舞はなぜ名を称されるのか。彼を断ち絶ったのである。なぜ断ち絶ったのか。彼が捕獲されたからである。なぜ捕獲と書かないのか。夷狄が中原の人を捕獲することを是としないからである。

(經十六)冬,十月,齊師滅譚,譚子奔莒。

(経十六)冬十月、斉の軍が譚を滅ぼし、譚子は莒に逃げた。

(傳)何以不言出?國以滅矣,無所出也。

(伝)なぜ「出」と書かないのか。国はすでに滅び、「出」るべき所がないからである。

莊公(經十一一)十有一年

荘公(経十一一)十有一年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(經十一二)夏,五月戊寅,公敗宋師於鄑。

(経十一二)夏五月戊寅、荘公が鄑で宋の軍を敗った。

(經十一三)秋,宋大水。

(経十一三)秋、宋に大水があった。

(傳)何以書?記災也。外災不書,此何以書?及我也。

(伝)なぜ記したのか。災害を記したのである。外の災害は例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか。我が魯国にも及んだからである。

(經十一四)冬,王姬歸於齊。

(経十一四)冬、王姫が斉に嫁いだ。

(傳)何以書?過我也。

(伝)なぜ記したのか。我が魯国を経由したからである。

莊公(經十二一)十有二年

荘公(経十二一)十有二年

春,王三月,紀叔姬歸於酅。

春、周暦の三月、紀叔姫が酅に帰った。

(傳)其言歸於酅何?隱之也。何隱爾?其國亡矣,徒歸於叔爾也。

(伝)なぜ「帰于酅」と書いたのか。彼女を哀れんだのである。何を哀れんだのか。彼女の国は亡び、ただ叔のもとに帰ったにすぎない。

(經十二二)夏,四月。

(経十二二)夏四月。

(經十二三)秋,八月甲午,宋萬弒其君接及其大夫仇牧。

(経十二三)秋八月甲午、宋の万がその君接とその大夫仇牧を弑した。

(傳)及者何?累也。弒君多矣,舍此無累者乎?孔父、荀息皆累也。舍孔父、荀息,無累者乎?曰:有。有則此何以書?賢也。何賢乎仇牧?仇牧可謂不畏強禦矣!其不畏強禦奈何?萬嘗與莊公戰,獲乎莊公;莊公歸,散舍諸宮中,數月,然後歸之。歸反為大夫於宋。與閔公博,婦人皆在側。萬曰:「甚矣,魯侯之淑,魯侯之美也!天下諸侯宜為君者,唯魯侯爾!」閔公矜此婦人,妒其言,顧曰:「此虜也!爾虜焉故,魯侯之美惡乎至?」萬怒,搏閔公,絕其脰。仇牧聞君弒,趨而至,遇之於門,手劍而叱之。萬闢殺仇牧,碎其首,齒著乎門闔。仇牧可謂不畏強禦矣!(經十二四)冬,十月,宋萬出奔陳。莊公(經十三一)十有三年

(伝)「及」とは何か。連累して一緒になることである。弑君の事は多いが、この条のほかに連累された者はいなかったのか。孔父・荀息はみな連累された。孔父・荀息のほかにはいないのか。答えて曰く、まだある。まだあるのに、なぜここで記したのか。仇牧が賢だからである。仇牧はどこが賢なのか。仇牧は強横を畏れないと言えよう。どのように強横を畏れなかったのか。万はかつて荘公と戦い、荘公に捕えられた。荘公は帰って彼を宮中に散置し、数か月して放って帰した。帰ってまた宋で大夫となった。閔公と博戯をしていたとき、婦人たちがみな傍らにいた。万曰く、「ひどいものだ、魯侯はあのように善く、魯侯はあのように美しい。天下の諸侯のうち君となるべきは、ただ魯侯だけであろう」。閔公はこれらの婦人の前で自慢しようとして、この言葉を妬み、顧みて言った、「これは捕虜だ。おまえはもともと捕虜で、魯侯の美がどうしておまえの口にかかるのか」。万は怒り、閔公をつかみ、その頸を折った。仇牧は君が弑されたと聞き、駆けつけ、門で万に出遭い、剣を持って彼を喝した。万は仇牧を撃ち殺し、その頭を砕き、歯は門扇に嵌まった。仇牧は強横を畏れないと言えよう。(経十二四)冬十月、宋の万は陳に亡命した。荘公(経十三一)十有三年

春,齊侯、宋人、陳人、蔡人、邾婁人會於北杏。

春、斉侯・宋人・陳人・蔡人・邾婁人が北杏で会した。

(經十三二)夏,六月,齊人滅遂。

(経十三二)夏六月、斉人が遂を滅ぼした。

(經十三三)秋,七月。

(経十三三)秋七月。

(經十三四)冬,公會齊侯,盟於柯。

(経十三四)冬、荘公が斉侯に会い、柯で盟した。

(傳)何以不日?易也。其易奈何?桓之盟不日,其會不致,信之也。其不日何以始乎此?莊公將會乎桓,曹子進曰:「君之意何如?」莊公曰:「寡人之生,則不若死矣!」曹子曰:「然則君請當其君,臣請當其臣。」莊公曰:「諾。」於是會乎桓。莊公升壇,曹子手劍而從之。管子進曰:「君何求乎?」曹子曰:「城壞壓竟,君不圖與?」管子曰:「然則君將何求?」曹子曰:「願請汶陽之田。」管子顧曰:「君許諾。」桓公曰:「諾。」曹子請盟,桓公下與之盟。已盟,曹子摽劍而去之。要盟可犯,而桓公不欺;曹子可讎,而桓公不怨。桓公之信著乎天下,自柯之盟始焉。

(伝)なぜ日を記さないのか。来るのが易しかったからである。どう易しかったのか。桓公の盟は日を記さず、彼の会は帰国を書かない。彼を信頼したのである。日を記さないことがなぜここから始まるのか。荘公が桓公と会おうとしたとき、曹子が進み出て言った、「君王のお考えはいかがですか」。荘公曰く、「寡人は生きているのは、死んだほうがましだ」。曹子曰く、「では君王は彼らの君を対とし、臣は彼らの臣を対といたしましょう」。荘公曰く、「よし」。そこで桓公と会した。荘公が壇に上ると、曹子は剣を握って従った。管子が進み出て言った、「何かお求めが」。曹子曰く、「城が壊れて国境を圧している。君王はお考えにならないのか」。管子曰く、「では何をお求めか」。曹子曰く、「汶陽の田を返していただきたい」。管子が顧みて言った、「君王はお許しになれ」。桓公曰く、「よし」。曹子が盟を請うと、桓公は降りて彼と盟した。盟が済むと、曹子は剣を投げ捨てて去った。要盟はもともと犯してよいのに、桓公は欺かなかった。曹子はもともと讐人とすることができたのに、桓公は怨まなかった。桓公の信が天下に著われたのは、この柯の盟からである。

莊公(經十四一)十有四年

荘公(経十四一)十有四年

春,齊人、陳人、曹人伐宋。

春、斉人・陳人・曹人が宋を伐った。

(經十四二)夏,單伯會伐宋。

(経十四二)夏、単伯が駆けつけて宋伐ちに会した。

(傳)其言會伐宋何?後會也。

(伝)なぜ「会伐宋」と書いたのか。彼が到着するのが遅く、後から会合したからである。

(經十四三)秋,七月,荊入蔡。

(経十四三)秋七月、荊が蔡に入った。

(經十四四)冬,單伯會齊侯、宋公、衛侯、鄭伯於鄄。

(経十四四)冬、単伯が鄄で斉侯・宋公・衛侯・鄭伯と会した。

莊公(經十五一)十有五年

荘公(経十五一)十有五年

春,齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯會於鄄。

春、斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯が鄄で会した。

(經十五二)夏,夫人姜氏如齊。

(経十五二)夏、夫人姜氏が斉に行った。

(經十五三)秋,宋人、齊人、邾婁人伐兒。鄭人侵宋。

(経十五三)秋、宋人・斉人・邾婁人が児を伐った。鄭人が宋に侵め入った。

(經十五四)冬,十月。

(経十五四)冬十月。

莊公(經十六一)十有六年

荘公(経十六一)十有六年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(經十六二)夏,宋人、齊人、衛人伐鄭。

(経十六二)夏、宋人・斉人・衛人が鄭を伐った。

(經十六三)荊伐鄭。

(経十六三)荊が鄭を伐った。

(經十六四)冬,十有二月,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯、滑伯、滕子,同盟於幽。

(経十六四)冬十二月、荘公が斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯・滑伯・滕子と会し、幽で同盟した。

(傳)同盟者何?同欲也。

(伝)「同盟」とは何か。心が同じであることである。

(經十六五)邾婁子克卒。

(経十六五)邾婁子克が卒した。

莊公(經十七一)十有七年

荘公(経十七一)十有七年

春,齊人執鄭瞻。

春、斉人が鄭瞻を捕えた。

(傳)鄭瞻者何?鄭之微者也。此鄭之微者,何言乎齊人執之?書甚佞也。

(伝)鄭瞻とは何者か。鄭の地位の微しい者である。鄭の微しい者なのに、なぜ斉人が彼を捕えたと書いたのか。彼が非常に諂うことを記したのである。

(經十七二)夏,齊人瀸於遂。

(経十七二)夏、斉人が遂で瀸した。

(傳)瀸者何?瀸,積也,眾殺戍者也。

(伝)「瀸」とは何か。瀸は積聚であり、衆が戍守の者を殺すことである。

(經十七三)秋,鄭瞻自齊逃來。

(経十七三)秋、鄭瞻が斉から逃げて来た。

(傳)何以書?書甚佞也。曰:佞人來矣!佞人來矣!

(伝)なぜ記したのか。彼が非常に諂うことを記したのである。佞人が来た、佞人が来たと言うに等しい。

(經十七四)冬,多糜。

(経十七四)冬、麋鹿が多かった。

(傳)何以書?記異也。

(伝)なぜ記したのか。異常を記したのである。

莊公(經十八一)十有八年

荘公(経十八一)十有八年

春,王三月,日有食之。

春、周暦の三月、日食があった。

(經十八二)夏,公追戎於濟西。

(経十八二)夏、荘公が戎を済西まで追った。

(傳)此未有言伐者,其言追何?大其為中國追也。此未有伐中國者,則其言為中國追何?大其未至而豫御之也。其言於濟西何?大之也。

(伝)前に来て伐った者がいると書いていないのに、なぜ「追」と書いたのか。彼が中原のために追撃したことを大きく書いたのである。前に中原を攻めた者はいなかったのに、なぜ中原のために追撃したと言うのか。彼がまだ至らないうちに予め防いだことを大きく書いたのである。なぜ「于済西」と書いたのか。これも大きく書いたのである。

(經十八三)秋,有蜮。

(経十八三)秋、蜮があった。

(傳)何以書?記異也。

(伝)なぜ記したのか。異常を記したのである。

(經十八四)冬,十月。

(経十八四)冬十月。

莊公(經十九一)十有九年

荘公(経十九一)十有九年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(經十九二)夏,四月。

(経十九二)夏四月。

(經十九三)秋,公子結媵陳人之婦於鄄,遂及齊侯、宋公盟。

(経十九三)秋、公子結が陪嫁を鄄に送り、陳人の新婦に与し、続いて斉侯・宋公と盟した。

(傳)媵者何?諸侯娶一國,則貳國往媵之,以侄娣從。侄者何?兄之子也。娣者何?弟也。諸侯壹聘九女,諸侯不再娶。媵不書,此何以書?為其有遂事書。大夫無遂事,此其言遂何?聘禮:大夫受命不受辭,出竟有可以安社稷、利國家者,則專之可也。

(伝)「媵」とは何か。諸侯が一国の女を娶れば、二国が陪嫁を送り、侄と娣を連れて従う。侄とは何か。兄の女である。娣とは何か。妹である。諸侯は一度に九女を聘娶し、諸侯は再び娶らない。陪嫁は例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか。彼に「遂事」があったから記したのである。大夫に「遂事」はないのに、ここで「遂」と書いたのはなぜか。聘の礼により、大夫は使命を受けるが、死んだ言辞は受けない。国境を出て、社稷を安んじ国家に利することあれば、自ら事を裁くのは可である。

(經十九四)夫人姜氏如莒。

(経十九四)夫人姜氏が莒に行った。

(經十九五)冬,齊人、宋人、陳人伐我西鄙。

(経十九五)冬、斉人・宋人・陳人が我が魯国の西鄙を伐った。

莊公(經二十一)二十年

荘公(経二十一)二十年

春,王二月,夫人姜氏如莒。

春、周暦の二月、夫人姜氏が莒に行った。

(經二十二)夏,齊大災。

(経二十二)夏、斉に大災があった。

(傳)大災者何?大瘠也。大瘠者何?癘也。何以書?記災也。外災不書,此何以書?及我也。

(伝)「大災」とは何か。大疫病である。「大瘠」とは何か。瘟疫である。なぜ記したのか。災害を記したのである。外の災害は例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか。我が魯国にも及んだからである。

(經二十三)秋,七月。

(経二十三)秋七月。

(經二十四)冬,齊人伐戎。

(経二十四)冬、斉人が戎を伐った。

莊公(經二一一)二十有一年

荘公(経二一一)二十有一年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(經二一二)夏,五月辛酉,鄭伯突卒。

(経二一二)夏五月辛酉、鄭伯突が卒した。

(經二一三)秋,七月戊戌,夫人姜氏薨。

(経二一三)秋七月戊戌、夫人姜氏が卒した。

(經二一四)冬,十有二月,葬鄭厲公。

(経二一四)冬十二月、鄭厲公を葬った。

莊公(經二二一)二十有二年

荘公(経二二一)二十有二年

春,王正月,肆大省。

春、周暦の正月、肆大省があった。

(傳)肆者何?跌也。大省者何?災省也。肆大省,何以書?譏。何譏爾?譏始忌省也。

(伝)「肆」とは何か。放縦に越えることである。「大省」とは何か。災によって省くことである。肆大省、なぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。ここから省を忌み始めることを譏刺したのである。

(經二二二)癸丑,葬我小君文姜。

(経二二二)癸丑、我が魯国の小君文姜を葬った。

(傳)文姜者何?莊公之母也。

(伝)文姜とは何者か。荘公の母である。

(經二二三)陳人殺其公子禦寇。

(経二二三)陳人がその公子御寇を殺した。

(經二二四)夏,五月。

(経二二四)夏五月。

(經二二五)秋,七月丙申,及齊高傒盟於防。

(経二二五)秋七月丙申、斉の高傒と防で盟した。

(傳)齊高傒者何?貴大夫也。曷為就吾微者而盟?公也。公則曷為不言公?諱與大夫盟也。

(伝)斉の高傒とは何者か。貴い大夫である。なぜ我が魯国の微しい者に就いて盟したのか。実は荘公である。荘公なら、なぜ「公」と書かないのか。大夫と盟することを隠したのである。

(經二二六)冬,公如齊納幣。

(経二二六)冬、荘公が斉に行って聘の礼を納めた。

(傳)納幣不書,此何以書?譏。何譏爾?親納幣,非禮也。

(伝)聘の礼を納めるのは例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。自ら聘の礼を納めるのは礼ではない。

莊公(經二三一)二十有三年

荘公(経二三一)二十有三年

春,公至自齊。

春、荘公が斉から帰った。

(傳)桓之盟不日,其會不致,信之也;此之桓國何以致?危之也。何危爾?公一陳佗也。

(伝)桓公の盟は日を記さず、彼の会は帰国を書かない。彼を信頼したのである。今回桓公の国に行ったのに、なぜ帰国を書いたのか。彼を危ぶんだのである。何を危ぶんだのか。荘公はもう一人の陳佗のようだからである。

(經二三二)蔡叔來聘。

(経二三二)蔡叔が来て聘した。

(經二三三)夏,公如齊觀社。

(経二三三)夏、荘公が斉に行って社を観た。

(傳)何以書?譏。何譏爾?諸侯越竟觀社,非禮也。

(伝)なぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。諸侯が国境を越えて社祭を観るのは礼ではない。

(經二三四)公至自齊。

(経二三四)荘公が斉から帰った。

(經二三五)荊人來聘。

(経二三五)荊人が来て聘した。

(傳)荊何以稱人?始能聘也。

(伝)荊はなぜ「人」と称するのか。彼が初めて聘に来ることができたからである。

(經二三六)公及齊侯遇於谷。蕭叔朝公。

(経二三六)荘公が斉侯と穀で遇った。蕭叔が荘公を朝見した。

(傳)其言朝公何?公在外也。

(伝)なぜ「朝公」と書いたのか。荘公が外にいたからである。

(經二三七)秋,丹桓宮楹。

(経二三七)秋、桓公廟の楹を丹で塗った。

(傳)何以書?譏。何譏爾?丹桓宮楹,非禮也。

(伝)なぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。桓公廟の楹を丹で塗るのは礼ではない。

(經二三八)冬,十有一月,曹伯射姑卒。

(経二三八)冬十一月、曹伯射姑が卒した。

(經二三九)十有二月甲寅,公會齊侯盟於扈。

(経二三九)十二月甲寅、荘公が斉侯に会い、扈で盟した。

(傳)桓之盟不日,此何以日?危之也。何危爾?我貳也。魯子曰:「我貳者,非彼然,我然也。」

(伝)桓公の盟は日を記さないのに、ここではなぜ日を記したのか。彼を危ぶんだのである。何を危ぶんだのか。我が魯国に二心があった。魯子曰く、「二心とは、相手がそうするのではなく、我らがそうするのである」。

莊公(經二四一)二十有四年

荘公(経二四一)二十有四年

春,王三月,刻桓宮桷。

春、周暦の三月、桓公廟の桷を刻んだ。

(傳)何以書?譏。何譏爾?刻桓宮桷,非禮也。

(伝)なぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。桓公廟の桷を刻むのは礼ではない。

(經二四二)葬曹莊公。

(経二四二)曹荘公を葬った。

(經二四三)夏,公如齊逆女。

(経二四三)夏、荘公が斉に行って女を迎えた。

(傳)何以書?親迎禮也。

(伝)なぜ記したのか。自ら迎えるのは礼にかなう。

(經二四四)秋,公至自齊。八月丁丑,夫人姜氏入。

(経二四四)秋、荘公が斉から帰った。八月丁丑、夫人姜氏が入った。

(傳)其言入何?難也。其言日何?難也。其難奈何?夫人不僂不可使入;與公有所約,然後入。

(伝)なぜ「入」と書いたのか。この事が難しかったからである。なぜ日を記したのか。この事が難しかったからである。どう難しかったのか。夫人が屈従しようとせず、彼女を入れる術がなかった。荘公と約束があって、それから入ったのである。

(經二四五)戊寅,大夫、宗婦覿用幣。

(経二四五)戊寅、大夫・宗婦が進見し、幣を用いた。

(傳)宗婦者何?大夫之妻也。覿者何?見也。用者何?用者不宜用也;見用幣,非禮也。然則曷用?棗、栗云乎!腶、修云乎!

(伝)宗婦とは何者か。大夫の妻である。「覿」とは何か。進見である。「用」とは何か。「用」の字は、用いるべきでないことを示す。進見に幣を用いるのは礼ではない。では何を用いるべきか。棗・栗の類、腶・脩の類である。

(經二四六)大水。

(経二四六)大水があった。

(經二四七)冬,戎侵曹,曹羈出奔陳。

(経二四七)冬、戎が曹に侵め入り、曹羈は陳に逃げた。

(傳)曹羈者何?曹大夫也。曹無大夫,此何以書?賢也。何賢乎曹羈?戎將侵曹,曹羈諫曰:「戎眾以無義,君請勿自敵也。」曹伯曰:「不可。」三諫,不從,遂去之,故君子以為得君臣之義也。

(伝)曹羈とは何者か。曹の大夫である。曹に大夫はいないのに、ここではなぜ記したのか。賢だからである。曹羈はどこが賢なのか。戎が曹に侵め入らんとしたとき、曹羈は諫めて曰く、「戎は多く、また義を解しない。国君は自ら敵に当たらないでください」。曹伯曰く、「いけない」。三度諫めても聴かず、ついに去った。ゆえに君子は彼が君臣の義を得たと思ったのである。

(經二四八)赤歸於曹郭公。

(経二四八)赤が曹に帰った。郭公。

(傳)赤者何?曹無赤者,蓋郭公也。郭公者何?失地之君也。

(伝)赤とは何者か。曹に赤という者はいない。おそらく郭公であろう。郭公とは何者か。地を失った国君である。

莊公(經二五一)二十有五年

荘公(経二五一)二十有五年

春,陳侯使女叔來聘。

春、陳侯が女叔を遣わして聘に来た。

(經二五二)夏,五月癸丑,衛侯朔卒。

(経二五二)夏五月癸丑、衛侯朔が卒した。

(經二五三)六月辛未朔,日有食之,鼓、用牲於社。

(経二五三)六月辛未朔、日食があり、鼓を撃ち、牲を用いて社に祭った。

(傳)食之則曷為鼓、用牲於社?求乎陰之道也,以朱絲營社,或曰脅之,或曰闇之,恐人犯之,故營之。

(伝)日食のとき、なぜ鼓を撃ち、牲を用いて社に祭ったのか。これは陰に求請する方法で、朱絲をもって社を縈った。ある者はそれを脅したと言い、ある者はそれを暗くして、人が犯すのを恐れて縈ったと言う。

(經二五四)伯姬歸於杞。

(経二五四)伯姫が杞に嫁いだ。

(經二五五)秋,大水,鼓、用牲於社於門。

(経二五五)秋、大水があり、鼓を撃ち、牲を用いて社と門に祭った。

(傳)其言於社於門何?於社,禮也;於門,非禮也。

(伝)なぜ「于社于門」と書いたのか。社は礼にかなうが、門は礼ではない。

(經二五六)冬,公子友如陳。

(経二五六)冬、公子友が陳に行った。

莊公(經二六一)二十有六年

荘公(経二六一)二十有六年

春,公伐戎。

春、荘公が戎を伐った。

(經二六二)夏,公至自伐戎。

(経二六二)夏、荘公が戎を伐った軍から帰った。

(經二六三)曹殺其大夫。

(経二六三)曹がその大夫を殺した。

(傳)何以不名?眾也。曷為眾殺之?不死於曹君者也。君死乎位曰滅,曷為不言其滅?為曹羈諱也。此蓋戰也,何以不言戰?為曹羈諱也。

(伝)なぜ名を称しないのか。人が多いからである。衆はなぜ彼らを殺したのか。彼らが曹の国君のために死ななかったからである。国君が位で死ぬのを「滅」と言うのに、なぜ滅と書かないのか。曹羈のために隠したのである。これはおそらく戦なのに、なぜ戦と書かないのか。これも曹羈のために隠したのである。

(經二六四)秋,公會宋人、齊人伐徐。

(経二六四)秋、荘公が宋人・斉人と会して徐を伐った。

(經二六五)冬,十有二月癸亥朔,日有食之。

(経二六五)冬十二月癸亥朔、日食があった。

莊公(經二七一)二十有七年

荘公(経二七一)二十有七年

春,公會齊伯姬於洮。

春、荘公が洮で斉の伯姫に会った。

(經二七二)夏,六月,公會齊侯、宋公、陳侯、鄭伯,同盟於幽。

(経二七二)夏六月、荘公が斉侯・宋公・陳侯・鄭伯と会し、幽で同盟した。

(經二七三)秋,公子友如陳,葬原仲。

(経二七三)秋、公子友が陳に行き、原仲の葬に与った。

(傳)原仲者何?陳大夫也。大夫不書葬,此何以書?通乎季子之私行也。何通乎季子之私行?闢內難也。君子闢內難而不闢外難。內難者何?公子慶父、公子牙、公子友皆莊公之母弟也。公子慶父、公子牙通乎夫人以脅公,季子起而治之,則不得與於國政,坐而視之則親親。因不忍見也,故於是復請至於陳,而葬原仲也。

(伝)原仲とは何者か。陳の大夫である。大夫は葬を記さないのに、ここではなぜ記したのか。季子の私行に一路を通ずるためである。なぜ季子の私行に通ずるのか。国内の患難を避けるためである。君子は国内の患難は避けるが、国外の患難は避けない。国内の患難とは何か。公子慶父・公子牙・公子友はみな荘公の同母弟である。公子慶父・公子牙は夫人と私通して、荘公を脅迫し、季子が起ち上がってこれを治めようとすれば国政に与ることができず、坐して見ていれば、また親を愛するに忍びない。見るに忍びないので、再び陳に行って原仲を葬ることを請うたのである。

(經二七四)冬,杞伯姬來。

(経二七四)冬、杞伯姫が来た。

(傳)其言來何?直來曰來,大歸曰來歸。

(伝)なぜ「来」と書いたのか。普通の帰りを「来」と言い、遣られて娘家に帰るのを「来帰」と言う。

(經二七五)莒慶來逆叔姬。

(経二七五)莒慶が来て叔姫を迎えた。

(傳)莒慶者何?莒大夫也。莒無大夫,此何以書?譏。何譏爾?大夫越竟逆女,非禮也。

(伝)莒慶とは何者か。莒の大夫である。莒に大夫はいないのに、ここではなぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。大夫が国境を越えて女を迎えるのは礼ではない。

(經二七六)杞伯來朝。

(経二七六)杞伯が来朝した。

(經二七七)公會齊侯於城濮。

(経二七七)荘公が城濮で斉侯に会った。

莊公(經二八一)二十有八年

荘公(経二八一)二十有八年

春,王三月甲寅,齊人伐衛,衛人及齊人戰,衛人敗績。

春、周暦の三月甲寅、斉人が衛を伐ち、衛人が斉人と戦い、衛人は大いに敗れた。

(傳)伐不日,此何以日?至之日也。戰不言伐,此其言伐何?至之日也。《春秋》伐者為客,伐者為主,故使衛主之也。曷為使衛主之?衛未有罪爾。敗者稱師,衛何以不稱師?未得乎師也。

(伝)伐つことは日を記さないのに、ここではなぜ日を記したのか。至った日である。戦は「伐」を書かないのに、ここで「伐」と書いたのはなぜか。これも至った日である。《春秋》は伐つ者を客とし、伐たれる者を主とする。ゆえに衛を主とした。なぜ衛を主としたのか。衛に罪がなかったからである。敗れたほうは「師」と称するのに、衛はなぜ「師」と称しないのか。まだ軍を成していなかったからである。

(經二八二)夏,四月丁未,邾婁子瑣卒。

(経二八二)夏四月丁未、邾婁子瑣が卒した。

(經二八三)秋,荊伐鄭,公會齊人、宋人、邾婁人救鄭。

(経二八三)秋、荊が鄭を伐ち、荘公が斉人・宋人・邾婁人と会して鄭を救った。

(經二八四)冬,築微。大無麥、禾。

(経二八四)冬、微を築いた。麦も禾も大いに収穫がなかった。

(傳)既見無麥、禾矣,曷為先言築微,而後言無麥、禾?諱以凶年造邑也。

(伝)すでに麦がなく禾がないと見られるのに、なぜ先に「築微」と書き、次に「無麦・禾」と書いたのか。荒年に城邑を築くことを隠したのである。

(經二八五)臧孫辰告糴於齊。

(経二八五)臧孫辰が斉に告糴した。

(傳)告糴者何?請糴也。何以不稱使?以為臧孫辰之私行也。曷為以為臧孫辰之私行?君子之為國也,必有三年之委;一年不熟,告糴,譏也。

(伝)「告糴」とは何か。糧を買うことを請うことである。なぜ「使」と称しないのか。これを臧孫辰の私行としたのである。なぜ私行としたのか。君子が国を治めるには、必ず三年の蓄えがある。一年熟れないだけで告糴するのは、譏刺である。

莊公(經二九一)二十有九年

荘公(経二九一)二十有九年

春,新延廄。

春、延厩を新たにした。

(傳)新延廄者何?修舊也。修舊不書,此何以書?譏。何譏爾?凶年不修。

(伝)「新延厩」とは何か。旧いものを修めることである。旧いものを修めるのは例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。荒年には修めるべきではない。

(經二九二)夏,鄭人侵許。

(経二九二)夏、鄭人が許に侵め入った。

(經二九三)秋,有蜚。

(経二九三)秋、蜚があった。

(傳)何以書?記異也。

(伝)なぜ記したのか。異常を記したのである。

(經二九四)冬,十有二月,紀叔姬卒。

(経二九四)冬十二月、紀叔姫が卒した。

(經二九五)城諸及防。

(経二九五)諸と防を築いた。

莊公(經三十一)三十年

荘公(経三十一)三十年

春,王正月。(經三十二)夏,師次於成。

春、周暦の正月。(経三十二)夏、軍が成に次した。

(經三十三)秋,七月,齊人降鄣。

(経三十三)秋七月、斉人が鄣を降させた。

(傳)鄣者何?紀之遺邑也。降之者何?取之也。取之則曷為不言取之?為桓公諱也。外取邑不書,此何以書?盡也。

(伝)鄣とは何か。紀国の残った城邑である。「降之」とは何か。奪うことである。奪うのなら、なぜ「取」と書かないのか。桓公のために隠したのである。外が城邑を奪うことは例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか。取り尽くしたからである。

(經三十四)八月癸亥,葬紀叔姬。

(経三十四)八月癸亥、紀叔姫を葬った。

(傳)外夫人不書葬,此何以書?隱之也。何隱爾?其國亡矣,徒葬乎叔爾。

(伝)外の夫人は葬を記さないのに、ここではなぜ記したのか。彼女を哀れんだのである。何を哀れんだのか。彼女の国は亡び、ただ叔のもとに葬られたにすぎない。

(經三十五)九月庚午朔,日有食之,鼓、用牲於社。

(経三十五)九月庚午朔、日食があり、鼓を撃ち、牲を用いて社に祭った。

(經三十六)冬,公及齊侯遇於魯濟。

(経三十六)冬、荘公が斉侯と魯済で遇った。

(經三十七)齊人伐山戎。

(経三十七)斉人が山戎を伐った。

(傳)此齊侯也,其稱人何?貶。曷為貶?子司馬子曰:「蓋以操之為已蹙以矣!」此蓋戰也,何以不言戰?《春秋》敵者言戰,桓公之與戎狄,驅之爾。

(伝)この人は斉侯なのに、なぜ「人」と称したのか。貶めたのである。なぜ貶めたのか。子司馬子曰く、「おそらく事をあまりに急ぎすぎたからであろう」。これはおそらく戦なのに、なぜ戦と書かないのか。《春秋》は敵体のものを戦と書く。桓公は戎狄に対し、ただ彼らを追い去るのみである。

莊公(經三一一)三十有一年

荘公(経三一一)三十有一年

春,築臺於郎。

春、郎に台を築いた。

(傳)何以書?譏。何譏爾?臨民之所漱浣也。

(伝)なぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。百姓の洗濯する所に臨んでいたからである。

(經三一二)夏,四月,薛伯卒。

(経三一二)夏四月、薛伯が卒した。

(經三一三)築臺於薛。

(経三一三)薛に台を築いた。

(傳)何以書?譏。何譏爾?遠也。

(伝)なぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。遠すぎたからである。

(經三一四)六月,齊侯來獻戎捷。

(経三一四)六月、斉侯が来て戎の俘と戦利品を献じた。

(傳)齊,大國也,曷為親來獻戎捷?威我也。其威我奈何?旗獲而過我也。

(伝)斉は大国なのに、なぜ自ら来て戎捷を献じたのか。我が魯国を威嚇したのである。どのように威嚇したのか。獲得した旗を掲げて我が魯国を通り過ぎたのである。

(經三一五)秋,築臺於秦。

(経三一五)秋、秦に台を築いた。

(傳)何以書?譏。何譏爾?臨國也。

(伝)なぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。他国に臨んでいたからである。

(經三一六)冬,不雨。

(経三一六)冬、雨が降らなかった。

(傳)何以書?記異也。

(伝)なぜ記したのか。異常を記したのである。

莊公(經三二一)三十有二年

荘公(経三二一)三十有二年

春,城小谷。

春、小谷を城した。

(經三二二)夏,宋公、齊侯遇於梁丘。

(経三二二)夏、宋公・斉侯が梁丘で遇った。

(經三二三)秋,七月癸巳,公子牙卒。

(経三二三)秋七月癸巳、公子牙が卒した。

(傳)何以不稱弟?殺也。殺則曷為不言刺?為季子諱殺也。曷為為季子諱殺?季子之遏惡也,不以為國獄,緣季子之心而為之諱。季子之遏惡奈何?莊公並將死,以病召季子,季子至而授之以國政,曰:「寡人即不起此病,吾將焉致乎魯國?」季子曰:「般也存,君何憂焉?」公曰:「庸得若是乎?牙謂我曰:『魯一生一及,君已知之矣。』慶父也存。」季子曰:「夫何敢?是將為亂乎!夫何敢!」俄而,牙弒械成。季子和藥而飲之,曰:「公子從吾言而飲此,則必可以無為天下戮笑,必有後乎魯國。不從吾言而不飲此,則必為天下戮笑,必無後乎魯國。」於是從其言而飲之,飲之無傫氏,至乎王堤而死。公子牙今將爾,辭曷為與親弒者同?君親無將,將而誅焉。然則善之與?曰:然。殺世子母弟,直稱君者,甚之也。季子殺母兄,何善爾?誅不得闢兄,君臣之義也。然則曷為不直誅,而酖之?行諸乎兄,隱而逃之,使托若以疾死然,親親之道也。

(伝)なぜ弟と称しないのか。殺された者だからである。殺されたのに、なぜ「刺」と書かないのか。季子のために殺を隠したのである。なぜ季子のために殺を隠したのか。季子は悪を遏止し、それを国の獄案としなかった。季子の心に順って彼のために隠したのである。季子はどのように悪を遏止したのか。荘公がまさに死なんとして、病のまま季子を召した。季子が至ると、国政を彼に付けて言った、「寡人のこの病が起き上がれなければ、魯国をどこに付そうか」。季子曰く、「般はなお在り、君王は何を憂えるのか」。荘公曰く、「どうしてそうであろう。牙が私に言うには『魯は一代に子を伝え、一代に弟を伝える。君王はすでにご存じだ』。慶父もなお在る」。季子曰く、「彼はどうして敢えてできよう。これは乱をなさんとすることか。彼はどうして敢えてできよう」。まもなく、牙が君を弑す布置が整った。季子は薬を調して彼に飲ませて言った、「公子が私の言葉を聴いてこれを飲めば、必ず天下に殺戮され恥笑されず、魯国に必ず後嗣があろう。私の言葉を聴かずこれを飲まなければ、必ず天下に殺戮され恥笑され、魯国に必ず後嗣がないであろう」。そこで彼の言葉に従って飲み、飲み終えて無傘氏に至り、王堤に歩み至って死んだ。公子牙はいまだ将にそうせんとするのみなのに、措辞が手ずから君を弑した者と同じなのはなぜか。国君と至親に対しては「将に」の説がなく、将にすれば即ち誅する。では彼を是とするのか。答えて曰く、しかりである。太子や同母弟を殺すとき、直に国君を出すのは、事を重く言うのである。季子が同母兄を殺すのに、何がよいのか。誅討は兄を避けることができない。これは君臣の義である。ではなぜ直に誅殺せず、毒酒を用いたのか。兄に手を下すものは、隠れて避け、人に病死のようだと託辞させる。これは親を愛する道である。

(經三二四)八月癸亥,公薨於路寢。

(経三二四)八月癸亥、荘公が路寝で薨じた。

(傳)路寢者何?正寢也。

(伝)路寝とは何か。正寝である。

(經三二五)冬,十月乙未,子般卒。

(経三二五)冬十月乙未、子般が卒した。

(傳)子卒雲子卒,此其稱子般卒何?君存稱世子,君薨稱子某,既葬稱子,逾年稱公。子般卒,何以不書葬?未逾年之君也。有子則廟,廟則書葬;無子不廟,不廟則不書葬。

(伝)君の子が卒すれば、普通は「子卒」と書くのに、ここで「子般卒」と称するのはなぜか。君在りては世子と称し、君薨じては子某と称し、すでに葬っては子と称し、年を踰えては公と称する。子般が卒したのに、なぜ葬を記さないのか。まだ年を踰えていない君だからである。子あれば廟を立て、廟を立てれば葬を記す。子なければ廟を立てず、廟を立てなければ葬を記さない。

(經三二六)公子慶父如齊。狄伐邢。

(経三二六)公子慶父が斉に行った。狄が邢を伐った。

閔公

閔公(經一一)元年

閔公(経一一)元年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(傳)公何以不言即位?繼弒君不言即位。孰繼?繼子般也。孰弒子般?慶父也。殺公子牙,今將爾,季子不免。慶父弒君,何以不誅?將而不免遏惡也。既而不可及,因獄有所歸,不探其情而誅焉,親親之道也。惡乎歸獄?歸獄僕人鄧扈樂。曷為歸獄僕人鄧扈樂?莊公存之時,樂曾淫於宮中,子般執而鞭之。莊公死,慶父謂樂曰:「般之辱爾,國人莫不知,盍弒之矣?」使弒子般,然後誅鄧扈樂而歸獄焉,季子至而不變也。

(伝)なぜ閔公の「即位」を書かないのか。弑された君の後に続く者は、即位を書かない。続くのは誰か。続くのは子般である。誰が子般を弑したのか。慶父である。公子牙を殺したのは、その時ただ将にそうせんとしたのみであったが、季子は彼を放さなかった。慶父が君を弑したのに、なぜ誅しないのか。将にするを放さないのは悪を遏止することで、すでに成れば及ばない。そこで罪案に落ち着きどころをつけ、実情を究めずそれによって処した。これは親を愛する道である。罪案はどこに落ちたのか。僕人の鄧扈楽に落ちた。なぜ僕人の鄧扈楽に落ちたのか。荘公がまだ在世のとき、楽はかつて宮中で淫乱し、子般が彼を捕えて鞭打った。荘公が死ぬと、慶父は楽に言った、「般はおまえを辱め、国人に知らぬ者はない。どうして彼を弑さないのか」。彼に子般を弑させて、それから鄧扈楽を誅殺し、罪案を彼に帰した。季子が至っても、またその説を変えなかった。

(經一二)齊人救邢。夏,六月辛酉,葬我君莊公。

(経一二)斉人が邢を救った。夏六月辛酉、我が魯国の君荘公を葬った。

(經一三)秋,八月,公及齊侯盟於洛姑。季子來歸。

(経一三)秋八月、閔公が斉侯と洛姑で盟した。季子が帰って来た。

(傳)其稱季子何?賢也。其言來歸何?喜之也。

(伝)「季子」と称するのはなぜか。賢だからである。なぜ「来帰」と書いたのか。彼を喜んだのである。

(經一四)冬,齊仲孫來。

(経一四)冬、斉の仲孫が来た。

(傳)齊仲孫者何?公子慶父也。公子慶父,則曷為謂之齊仲孫?系之齊也。曷為系之齊?外之也。曷為外之?春秋為尊者諱,為親者諱,為賢者諱。子女子曰:「以『春秋』為《春秋》,齊無仲孫,其諸吾仲孫與?」

(伝)斉の仲孫とは何者か。公子慶父である。公子慶父なのに、なぜ斉仲孫と言うのか。彼を斉に係属させたのである。なぜ斉に係属させたのか。彼を外人としたのである。なぜ外人としたのか。《春秋》は尊者のために隠し、親者のために隠し、賢者のために隠す。子女子曰く、「《春秋》の書き方をもって《春秋》を見れば、斉に仲孫はなく、これはおそらく我らの仲孫であろう」。

閔公(經二一)二年

閔公(経二一)二年

春,王正月,齊人遷陽。

春、周暦の正月、斉人が陽を遷した。

(經二二)夏,五月乙酉,吉禘於莊公。

(経二二)夏五月乙酉、荘公に吉禘を行った。

(傳)其言吉何?言吉者,未可以吉也。曷為未可以吉?未三年也。三年矣,曷為謂之未三年?三年之喪,實以二十五月。其言於莊公何?未可以稱宮廟也。曷為未可以稱宮廟?在三年之中矣。吉禘於莊公,何以書?譏。何譏爾?譏始不三年也。

(伝)なぜ「吉」と書いたのか。「吉」と書くのは、まだ吉とすべきでないことを言う。なぜまだ吉とすべきでないのか。まだ三年に満たない。すでに三年なのに、なぜまだ三年に満たないと言うのか。三年の喪は、実は二十五月である。なぜ「于荘公」と書いたのか。まだ宮廟と称すべきでない。なぜまだ宮廟と称すべきでないのか。なお三年の中にいるからである。荘公に吉禘を行ったのに、なぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺したのか。ここから三年に満たないことを譏刺したのである。

(經二三)秋,八月辛丑,公薨。

(経二三)秋八月辛丑、閔公が薨じた。

(傳)公薨何以不地?隱之也。何隱爾?弒也。孰弒之?慶父也。殺公子牙,今將爾,季子不免。慶父弒二君,何以不誅?將而不免,遏惡也;既而不可及,緩追逸賊,親親之道也。

(伝)閔公が薨じたのに、なぜ地を記さないのか。彼を哀れんだのである。何を哀れんだのか。彼は弑されたのである。誰が弑したのか。慶父である。公子牙を殺したのは、その時ただ将にそうせんとしたのみであったが、季子は彼を放さなかった。慶父が二君を弑したのに、なぜ誅しないのか。将にするを放さないのは悪を遏止することで、すでに成れば及ばない。追捕を緩め、逃げる賊を走らせる。これは親を愛する道である。

(經二四)九月,夫人姜氏孫於邾婁。

(経二四)九月、夫人姜氏が邾婁に逃げた。

(經二五)公子慶父出奔莒。

(経二五)公子慶父が莒に出奔した。

(經二六)冬,齊高子來盟。

(経二六)冬、斉の高子が来て盟した。

(傳)高子者何?齊大夫也。何以不稱使?我無君也。然則何以不名?喜之也。何喜爾?正我也。其正我奈何?莊公死,子般弒,閔公弒,比三君死,曠年無君。設以齊取魯,曾不興師,徒以言而已矣。桓公使高子將南陽之甲,立僖公而城魯,或曰自鹿門至於爭門者是也,或曰自爭門至於吏門者是也。魯人至今以為美談,曰:「猶望高子也。」

(伝)高子とは何者か。斉の大夫である。なぜ「使」と称しないのか。我が魯国に君がいなかったからである。ではなぜ名を称しないのか。彼を喜んだのである。何を喜んだのか。彼が来て我が魯国を匡正した。どのように匡正したのか。荘公が死に、子般が弑され、閔公が弑され、続けて三君が死に、通年君がいなかった。もし斉が魯を取らんとすれば、師を興すまでもなく、ただ一言で足りたであろう。桓公は高子に南陽の甲士を率いさせ、僖公を立て、魯のために城を築いた。ある者は鹿門から争門までがこれだと言い、ある者は争門から吏門までがこれだと言う。魯人は今日に至るまで美談として、「なお高子を望んでいる」と言う。

(經二七)十有二月,狄入衛。鄭棄其師。

(経二七)十二月、狄が衛に入った。鄭がその師を棄てた。

(傳)鄭棄其師者何?惡其將也。鄭伯惡高克,使之將逐而不納,棄師之道也。

(伝)「鄭棄其師」とは何か。その将を憎むことである。鄭伯は高克を憎み、彼に兵を率いさせ、逐い去ってなお納れない。これが師を棄てるということである。

僖公

僖公(經一一)元年

僖公(経一一)元年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(傳)公何以不言即位?繼弒君,子不言即位。此非子也,其稱子何?臣、子一例也。

(伝)なぜ僖公の「即位」を書かないのか。弑された君の後を継ぐ場合、子は即位と書かない。この人は子ではないのに、なぜ子と称するのか。臣と子は同一の例によるのである。

(經一二)齊師、宋師、曹師次於聶北,救邢。

(経一二)斉の軍隊・宋の軍隊・曹の軍隊が聶北に驻屯して、邢を救った。

(傳)救不言次,此其言次何?不及事也。不及事者何?邢已亡矣。孰亡之?蓋狄滅之。曷為不言狄滅之?為桓公諱也。曷為為桓公諱?上無天子,下無方伯,天下諸侯有相滅亡者,桓公不能救,則桓公恥之。曷為先言次而後言救?君也。君則其稱師何?不與諸侯專封也。曷為不與?實與而文不與。文曷為不與?諸侯之義不得專封也。諸侯之義不得專封,則其曰實與之何?上無天子,下無方伯,天下諸侯有相滅亡者,力能救之,則救之可也。

(伝)救うのに「次」(驻屯)とは書かないのに、ここで「次」と書くのはなぜか。事に間に合わなかったからである。事に間に合わなかったとはどういうことか。邢はすでに亡んでいた。誰が亡ぼしたのか。おそらく狄が滅ぼしたのである。なぜ狄が滅ぼしたと書かないのか。桓公のために諱んだのである。なぜ桓公のために諱むのか。上に天子なく、下に方伯なく、天下の諸侯に互いに滅ぼし合う者があり、桓公が救えなければ、桓公はそれを恥としたのである。なぜ先に「次」と言い、後に「救」と言うのか。君が率いていたからである。君ならばなぜ「師」と称するのか。諸侯が勝手に国を封じることを是としないからである。なぜ是としないのか。実は是としながら、文の上では是としないのである。文の上でなぜ是としないのか。諸侯の義として勝手に封じることは許されないからである。許されないのなら、なぜ実は是とすると言うのか。上に天子なく、下に方伯なく、天下の諸侯に互いに滅ぼし合う者があるとき、力をもって救えるならば、救うのはよいことだからである。

(經一三)夏,六月,邢遷於陳儀。

(経一三)夏の六月、邢は陳儀に迁った。

(傳)遷者何?其意也。遷之者何?非其意也。

(伝)「迁」とはどういうことか。自分の意思によるものである。「迁之」とはどういうことか。自分の意思によるものではない。

(經一四)齊師、宋師、曹師城邢。

(経一四)斉の軍隊・宋の軍隊・曹の軍隊が邢に城を築いた。

(傳)此一事也,曷為復言齊師、宋師、曹師?不復言師,則無以知其為一事也。

(伝)これは同一の事なのに、なぜ再び斉師・宋師・曹師と言うのか。再び「師」と言わなければ、それが同一の事であることを知る由もないからである。

(經一五)秋,七月戊辰,夫人姜氏薨於夷,齊人以歸。

(経一五)秋の七月戊辰、夫人姜氏が夷で薨じ、斉人が彼女を連れて帰った。

(傳)夷者何?齊地也。齊地,則其言齊人以歸何?夫人薨於夷,則齊人以歸。夫人薨於夷,則齊人曷為以歸?桓公召而縊殺之。

(伝)夷とは何か。斉の地である。斉の地ならば、なぜ「斉人以帰」と言うのか。夫人が夷で薨じたので、斉人が彼女を連れて帰ったのである。夫人が夷で薨じたのに、斉人はなぜ連れて帰ったのか。桓公が彼女を召して、縊り殺したのである。

(經一六)楚人伐鄭。八月,公會齊侯、宋公、鄭伯、曹伯、邾婁人於朾。九月,公敗邾婁師於纓。

(経一六)楚人が鄭を攻めた。八月、僖公は朾で斉侯・宋公・鄭伯・曹伯・邾婁人と会した。九月、僖公は纓で邾婁の軍隊を破った。

(經一七)冬,十月壬午,公子友帥師,敗莒師於犁,獲莒挐。

(経一七)冬の十月壬午、公子友が軍隊を率い、犁で莒の軍隊を破り、莒挐を捕らえた。

(傳)莒挐者何?莒大夫也。莒無大夫,此何以書?大季子之獲也。何大乎季子之獲?季子治內難以正,御外難以正。其御外難以正奈何?公子慶父弒閔公,走而之莒,莒人逐之,將由乎齊,齊人不納,卻反舍於汶水之上,使公子奚斯入請。季子曰:「公子不可以入,入則殺矣!」奚斯不忍反命於慶父,自南涘,北面而哭。慶父聞之曰:「嘻!此奚斯之聲也,諾已。」曰:「吾不得入矣!」於是抗輈經而死。莒人聞之曰:「吾已得子之賊矣!」以求賂乎魯。魯人不與,為是興師而伐魯,季子待之以偏戰。

(伝)莒挐とは何人か。莒の大夫である。莒に大夫はいないのに、ここでなぜ書くのか。季子の捕獲を大きく書いたのである。なぜ季子の捕獲を大きく書くのか。季子は正しい道をもって国内の禍難を治め、また正しい道をもって外の禍難を防いだ。彼がどのように正しい道で外の禍難を防いだのか。公子慶父が閔公を弑して莒に逃げ、莒人は彼を逐い、斉から出ようとしたが、斉人は受け入れず、退けて返し汶水のほとりに舍わせ、公子奚斯を入れて請わせた。季子は言った。「公子は入ってはならない。入れば殺す!」奚斯は慶父に復命するに忍びず、南の岸から北面して哭いた。慶父はこれを聞いて言った。「ああ、これは奚斯の声だ。もうだめだ。」また言った。「吾は入ることができない!」こうして車轅に寄りかかって縊れて死んだ。莒人はこれを聞いて言った。「吾らはすでにそなたたちの賊を得た!」魯に賄賂を求めた。魯人は与えず、このため軍を興して魯を伐ち、季子は約期の戦いをもってこれに対したのである。

(經一八)十有二月丁巳,夫人氏之喪至自齊。

(経一八)十二月丁巳、夫人氏の棺が斉から到着した。

(傳)夫人何以不稱姜氏?貶。曷為貶?與弒公也。然則曷為不於弒焉貶?貶必於其重者,莫重乎其以喪至也。

(伝)夫人はなぜ姜氏と称さないのか。貶めたのである。なぜ貶めるのか。閔公の弑に与ったからである。然らばなぜ弑の時に貶めないのか。貶めるのは必ずその最も重いところで行う。棺が至ることより重いものはないからである。

僖公(經二一)二年

僖公(経二一)二年

春,王正月,城楚丘。

春、周暦の正月、楚丘に城を築いた。

(傳)孰城之?城衛也。曷為不言城衛?滅也。孰滅之?蓋狄滅之。曷為不言狄滅之?為桓公諱也。曷為為桓公諱?上無天子,下無方伯,天下諸侯有相滅亡者,桓公不能救,則桓公恥之也。然則孰城之?桓公城之。曷為不言桓公城之?不與諸侯專封也。曷為不與?實與而文不與。文曷為不與?諸侯之義,不得專封。諸侯之義不得專封,則其曰實與之何?上無天子,下無方伯,天下諸侯有相滅亡者,力能救之,則救之可也。

(伝)誰が築いたのか。衛のために城を築いたのである。なぜ「城衛」と言わないのか。衛は滅びていたからである。誰が滅ぼしたのか。おそらく狄が滅ぼしたのである。なぜ狄が滅ぼしたと言わないのか。桓公のために諱んだのである。なぜ桓公のために諱むのか。上に天子なく、下に方伯なく、天下の諸侯に互いに滅ぼし合う者があり、桓公が救えなければ、桓公はそれを恥としたのである。然らば誰が築いたのか。桓公が築いたのである。なぜ桓公が築いたと言わないのか。諸侯が勝手に国を封じることを是としないからである。なぜ是としないのか。実は是としながら、文の上では是としないのである。文の上でなぜ是としないのか。諸侯の義として勝手に封じることは許されないからである。許されないのなら、なぜ実は是とすると言うのか。上に天子なく、下に方伯なく、天下の諸侯に互いに滅ぼし合う者があるとき、力をもって救えるならば、救うのはよいことだからである。

(經二二)夏,五月辛巳,葬我小君哀姜。

(経二二)夏の五月辛巳、わが魯の小君哀姜を葬った。

(傳)哀姜者何?莊公之夫人也。

(伝)哀姜とは何人か。荘公の夫人である。

(經二三)虞師、晉師滅夏陽。

(経二三)虞の軍隊・晋の軍隊が夏陽を滅ぼした。

(傳)虞,微國也,曷為序乎大國之上?使虞首惡也。曷為使虞首惡?虞受賂,假滅國者道,以取亡焉。其受賂奈何?獻公朝諸大夫而問焉,曰:「寡人夜者寢而不寐,其意也何?」諸大夫有進對者曰:「寢不安與?其諸侍御有不在側者與?」獻公不應。荀息進曰:「虞郭見與?」獻公揖而進之,遂與之入而謀曰:「吾欲攻郭,則虞救之;攻虞,則郭救之,如之何?願與子慮之。」荀息對曰:「君若用臣之謀,則今日取郭,而明日取虞爾,君何憂焉?」獻公曰:「然則奈何?」荀息曰:「請以屈產之乘與垂棘之白璧,往必可得也。則寶出之內藏,藏之外府;馬出之內廄,系之外廄爾,君何喪焉?」獻公曰:「諾。雖然,宮之奇存焉,如之何?」荀息曰:「宮之奇知則知矣!雖然,虞公貪而好寶,見寶必不從其言,請終以往。」於是終以往,虞公見寶許諾。宮之奇果諫:「記曰:『唇亡則齒寒。』虞、郭之相救,非相為賜,則晉今日取郭,而明日虞從而亡爾。君請勿許也。」虞公不從其言,終假之道以取郭。還,四年,反取虞。虞公抱寶牽馬而至。荀息見曰:「臣之謀何如?」獻公曰:「子之謀則已行矣,寶則吾寶也,雖然,吾馬之齒亦已長矣!」蓋戲之也。夏陽者何?郭之邑也。曷為不繫於郭?國之也。曷為國之?君存焉爾。

(伝)虞は小国なのに、なぜ大国の上に序列するのか。虞を首悪としたのである。なぜ虞を首悪とするのか。虞は賄賂を受けて、国を滅ぼす者に道を貸し、そのため自らも亡んだのである。彼はどのように賄賂を受けたのか。献公が大夫たちを朝見して問うた。「寡人が夜寝て眠れないのは、どういうことか。」大夫が進んで対えた。「寝て安らかでないのですか。それとも侍する者がそばにいないのですか。」献公は答えなかった。荀息が進んで言った。「虞と郭をご覧になったのではありませんか。」献公は揖して彼を請い入れ、ついに彼とともに入って謀り、言った。「吾は郭を攻めたいが、虞が救うであろう。虞を攻めれば郭が救う。どうすればよいか。そなたとともに考えたい。」荀息が対えた。「君王が臣の計を用いられれば、今日郭を取り、明日虞を取れます。君王は何を憂えられますか。」献公は言った。「然らばどうすればよいか。」荀息は言った。「屈の地の産する馬と垂棘の白璧をもって、これを送れば必ず得られます。宝物は内庫から出しても、外の府库に藏するに過ぎません。馬は内厩から出しても、外の馬厩に繋ぐに過ぎません。君王は何を失いましょうか。」献公は言った。「よし。然りと雖も、宮之奇がまだいる。どうするか。」荀息は言った。「宮之奇は聡いには聡い!然りと雖も、虞公は貪欲で宝を愛します。宝物を見れば必ず彼の言を聴きません。どうか固く送り続けてください。」こうして遂に送り、虞公は宝物を見て許した。宮之奇は果たして諫めた。「古の記に言います。『唇亡びて歯寒し。』虞と郭は互いに救い合うのであって、互いに賞賜し合うのではありません。然らば晋が今日郭を取れば、明日虞もこれに従って亡びます。どうか君王はお許しなさいませんように。」虞公は聴かず、遂に道を貸して晋に郭を取らせた。帰って、四年を過ぎてから、回師して虞を取った。虞公は宝物を抱え馬を牽いて来た。荀息はこれを見て言った。「臣の計はいかがでしたか。」献公は言った。「そなたの計はすでに行われた。宝物は依然として吾の宝物である。然りと雖も、吾の馬は年もすでに老いた!」おそらく彼と戯れたのである。夏陽とは何か。郭の邑である。なぜ郭の名下に繋げないのか。それを一国として扱ったのである。なぜ一国として扱うのか。そこに国君がいたからである。

(經二四)秋,九月,齊侯、宋公、江人、黃人盟於貫澤。(傳)江人、黃人者何?遠國之辭也。遠國至矣,則中國曷為獨言齊、宋至爾?大國言齊、宋,遠國言江、黃,則以其餘為莫敢不至也。

(経二四)秋の九月、斉侯・宋公・江人・黄人が貫沢で盟した。(伝)江人・黄人とは何か。遠国の辞である。遠国まで至ったのに、なぜ中国は斉・宋だけが至ったと言うのか。大国は斉・宋を言い、遠国は江・黄を言えば、それ以外の者は敢えて至らない者がないことを示すのである。

(經二五)冬,十月,不雨。

(経二五)冬の十月、雨が降らなかった。

(傳)何以書?記異也。(經二六)楚人侵鄭。

(伝)なぜ書くのか。異常を記したのである。(経二六)楚人が鄭に侵入した。

僖公(經三一)三年

僖公(経三一)三年

春,王正月,不雨。

春、周暦の正月、雨が降らなかった。

(經三二)夏,四月,不雨。

(経三二)夏の四月、雨が降らなかった。

(傳)何以書?記異也。

(伝)なぜ書くのか。異常を記したのである。

(經三三)徐人取舒。

(経三三)徐人が舒を取った。

(傳)其言取之何?易也。

(伝)なぜ「取之」と言うのか。容易だったからである。

(經三四)六月,雨。

(経三四)六月、雨が降った。

(傳)其言六月雨何?上雨而不甚也。

(伝)なぜ「六月雨」と言うのか。以前雨は降ったが、十分ではなかったのである。

(經三五)秋,齊侯、宋公、江人、黃人會於陽穀。

(経三五)秋、斉侯・宋公・江人・黄人が陽穀で会した。

(傳)此大會也,曷為末言爾?桓公曰:「無障谷,無貯粟,無易樹子,無以妾為妻。」

(伝)これは大会なのに、なぜ盟辞を書かないのか。桓公が言った。「谷を障塞するなかれ、粟を貯蔵するなかれ、立てた嫡子を易えるなかれ、妾をもって妻とするなかれ。」

(經三六)冬,公子友如齊蒞盟。

(経三六)冬、公子友が斉に行って莅盟した。

(傳)蒞盟者何?往盟乎彼也。其言來盟者何?來盟於我也。(經三七)楚人伐鄭。

(伝)「莅盟」とは何か。彼のところに往って盟することである。「来盟」と言うのは何か。こちらに来て我と盟することである。(経三七)楚人が鄭を攻めた。

僖公(經四一)四年

僖公(経四一)四年

春,王正月,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯侵蔡,蔡潰。

春、周暦の正月、僖公は斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯と会して蔡に侵入し、蔡は潰散した。

(傳)潰者何?下叛上也。國曰潰,邑曰叛。

(伝)「潰」とは何か。下が上に叛くことである。国については潰と言い、邑については叛と言う。

(經四二)遂伐楚,次於陘。

(経四二)続いて楚を伐ち、陘に驻屯した。

(傳)其言次於陘何?有俟也。孰俟?俟屈完也。

(伝)なぜ「次于陘」と言うのか。待つ者があったのである。誰を待つのか。屈完を待ったのである。

(經四三)夏,許男新臣卒。楚屈完來盟於師,盟於召陵。

(経四三)夏、許男新臣が卒した。楚の屈完が軍中に来て盟し、召陵で盟した。

(傳)屈完者何?楚大夫也。何以不稱使?尊屈完也。曷為尊屈完?以當桓公也。其言盟於師、盟於召陵何?師在召陵也。師在召陵,則曷為再言盟?喜服楚也。何言乎喜服楚?楚有王者則後服,無王者則先叛。夷狄也,而亟病中國,南夷與北狄交。中國不絕若線,桓公救中國,而攘夷狄,卒帖荊,以此為王者之事也。其言來何?與桓為主也。前此者有事矣,後此者有事矣,則曷為獨於此焉?與桓公為主,序績也。

(伝)屈完とは何人か。楚の大夫である。なぜ「使」と称さないのか。屈完を尊んだのである。なぜ屈完を尊ぶのか。桓公に相当する者としたのである。なぜ「盟于師・盟于召陵」と言うのか。軍隊が召陵にあったからである。軍隊がすでに召陵にあるのに、なぜ再び「盟」と言うのか。楚を服させたことを喜んだのである。なぜ楚を服させたことを喜ぶのか。楚は王者あれば後れて服し、王者なければ先に叛く。もともと夷狄でありながら、しきりに中国を病め、南夷と北狄が交代で迫った。中国は絶えぬこと糸の如しというとき、桓公は中国を救い、夷狄を攘い、ついに荊を屈服させ、これをもって王者の事業としたのである。なぜ「来」と言うのか。桓公を主としたのである。これ以前にも事があり、これ以後にも事があったのに、なぜ独りここでそうするのか。桓公を主とするのは、その功績を序列するのである。

(經四四)齊人執陳袁濤塗。

(経四四)斉人が陳の袁涛塗を捕らえた。

(傳)濤塗之罪何?闢軍之道也。其闢軍之道奈何?濤塗謂桓公曰:「君既服南夷矣,何不還師濱海而東,服東夷且歸?」桓公曰:「諾。」於是還師濱海而東,大陷於沛澤之中。顧而執濤塗。執者曷為或稱侯?或稱人?稱侯而執者,伯討也。稱人而執者,非伯討也。此執有罪,何以不得為伯討?古者周公東征則西國怨,西征則東國怨。桓公假塗於陳而伐楚,則陳人不欲其反由己者,師不正故也。不修其師而執濤塗,古人之討,則不然也。

(伝)涛塗の罪は何か。大軍の道を避けさせたことである。彼はどのように大軍の道を避けさせたのか。涛塗は桓公に言った。「君王はすでに南夷を服させました。なぜ軍を還して海に沿って東に進み、東夷を服させてからお帰りにならないのですか。」桓公は言った。「よし。」こうして軍を還して海に沿って東に進み、大いに沛沢の中に陥った。顧みて涛塗を捕らえた。捕らえるのになぜあるいは侯と称し、あるいは人と称するのか。侯と称して捕らえるのは、覇者の罪を討つことである。人と称して捕らえるのは、覇者の討ではない。今回捕らえたのは罪ある者なのに、なぜ覇者の討とできないのか。古え周公が東征すれば西の国が怨み、西征すれば東の国が怨んだ。桓公は陳に道を借りて楚を伐ったが、陳人は彼が帰りに再び自分を経ることを欲しなかった。軍が正しくなかった故である。自分の軍を修めずして涛塗を捕らえたのは、古人の討とはそうではないのである。

(經四五)秋,及江人、黃人伐陳。八月,公至自伐楚。

(経四五)秋、江人・黄人とともに陳を伐った。八月、僖公は楚を伐つ軍から帰った。

(傳)楚已服矣,何以致伐楚?叛盟也。

(伝)楚はすでに服したのに、なぜ楚を伐ったことからの帰還と書くのか。相手が盟を叛いたからである。

(經四六)葬許繆公。冬,十有二月,公孫慈帥師會齊人、宋人、衛人、鄭人、許人、曹人侵陳。

(経四六)許繆公を葬った。冬の十二月、公孫慈が軍隊を率いて斉人・宋人・衛人・鄭人・許人・曹人と会して陳に侵入した。

僖公(經五一)五年

僖公(経五一)五年

春,晉侯殺其世子申生。

春、晋侯がその世子申生を殺した。

(傳)曷為直稱晉侯以殺?殺世子母弟直稱君者,甚之也。

(伝)なぜ直ちに晋侯と称して殺を記すのか。太子あるいは同母弟を殺すとき直ちに君と称するのは、その事を甚だしく言うのである。

(經五二)杞伯姬來朝其子。

(経五二)杞伯姫がその子を伴って来て朝見した。

(傳)其言來朝其子何?內辭也,與其子俱來朝也。

(伝)なぜ「来朝其子」と言うのか。これは魯国自身の辞であり、その子とともに来て朝見したのである。

(經五三)夏,公孫慈如牟。公及齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯會王世子於首戴。

(経五三)夏、公孫慈が牟に行った。僖公は斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯とともに首戴で王世子に会した。

(傳)曷為殊會王世子?世子貴也。世子,猶世世子也。

(伝)なぜ殊更に王世子に会したと書くのか。世子が尊いからである。世子とは、世々子たる者ということである。

(經五四)秋,八月,諸侯盟於首戴。

(経五四)秋の八月、諸侯が首戴で盟した。

(傳)諸侯何以不序?一事而再見者,前目而後凡也。

(伝)諸侯はなぜ一一列挙しないのか。同一の事が再び現れるとき、前には目列し、後には凡そ総称するのである。

(經五五)鄭伯逃歸不盟。

(経五五)鄭伯が逃げ帰って盟に加わらなかった。

(傳)其言逃歸不盟者何?不可使盟也。不可使盟,則其言逃歸何?魯子曰:「蓋不以寡犯眾也。」

(伝)なぜ「逃帰不盟」と言うのか。盟させることができなかったのである。盟させることができなかったのなら、なぜ「逃帰」と言うのか。魯子が言った。「おそらく寡をもって衆を犯さないのである。」

(經五六)楚人滅弦。弦子奔黃。

(経五六)楚人が弦を滅ぼした。弦子は黄に奔った。

(經五七)九月戊申朔,日有食之。

(経五七)九月戊申朔、日食があった。

(經五八)冬,晉人執虞公。

(経五八)冬、晋人が虞公を捕らえた。

(傳)虞已滅矣,其言執之何?不與滅也。曷為不與滅?滅者亡國之善辭也。滅者,上下之同力者也。

(伝)虞はすでに滅んだのに、なぜ「執」と言うのか。「滅」という字を与しないのである。なぜ「滅」に与しないのか。「滅」は国を亡ぼしたときの善い辞である。「滅」とは上下が力を同じくしたということである。

僖公(經六一)六年

僖公(経六一)六年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(經六二)夏,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、曹伯伐鄭,圍新城。

(経六二)夏、僖公は斉侯・宋公・陳侯・衛侯・曹伯と会して鄭を伐ち、新城を囲んだ。

(傳)邑不言圍,此其言圍何?強也。

(伝)邑については例により「囲」と言わないのに、ここで「囲」と言うのはなぜか。強横だったからである。

(經六三)秋,楚人圍許,諸侯遂救許。

(経六三)秋、楚人が許を囲み、諸侯は続いて許を救った。

(經六四)冬,公至自伐鄭。

(経六四)冬、僖公は鄭を伐つ軍から帰った。

僖公(經七一)七年

僖公(経七一)七年

春,齊人伐鄭。

春、斉人が鄭を伐った。

(經七二)夏,小邾婁子來朝。鄭殺其大夫申侯。

(経七二)夏、小邾婁子が来て朝見した。鄭がその大夫申侯を殺した。

(傳)其稱國以殺何?稱國以殺者,君殺大夫之辭也。

(伝)国を称して殺を記すのはなぜか。国を称して殺を記すのは、君が大夫を殺す辞である。

(經七三)秋,七月,公會齊侯、宋公、陳世子款、鄭世子華,盟於寧毋。

(経七三)秋の七月、僖公は斉侯・宋公・陳世子款・鄭世子華と会し、寧毋で盟した。

(經七四)曹伯般卒。

(経七四)曹伯般が卒した。

(經七五)公子友如齊。

(経七五)公子友が斉に行った。

(經七六)冬,葬曹昭公。

(経七六)冬、曹昭公を葬った。

僖公(經八一)八年

僖公(経八一)八年

春,王正月,公會王人、齊侯、宋公、衛侯、許男、曹伯、陳世子款、鄭世子華,盟於洮。

春、周暦の正月、僖公は王人・斉侯・宋公・衛侯・許男・曹伯・陳世子款・鄭世子華と会し、洮で盟した。

(傳)王人者何?微者也。曷為序乎諸侯之上?先王命也。

(伝)「王人」とは何人か。微しい者である。なぜ諸侯の上に序列するのか。王命を先にするからである。

(經八二)鄭伯乞盟。

(経八二)鄭伯が盟に参加することを乞うた。

(傳)乞盟者何?處其所而請與也。其處其所而請與奈何?蓋酌之也。

(伝)「乞盟」とは何か。自らの所に処って与ることを請うことである。自らの所に処って与ることを請うとはどういうことか。おそらく盟の酒を酌んで彼に送るのである。

(經八三)夏,狄伐晉。

(経八三)夏、狄が晋を伐った。

(經八四)秋,七月,禘於太廟,用致夫人。

(経八四)秋の七月、太廟で禘祭を行い、用いて夫人を致した。

(傳)用者何?用者不宜用也。致者何?致者不宜致也。禘用致夫人,非禮也。夫人何以不稱姜氏?貶。曷為貶?譏以妾為妻也。其言以妾為妻奈何?蓋脅於齊媵女之先至者也。

(伝)「用」とは何か。「用」の字を用いるのは、用いるべきでないことを示す。「致」とは何か。「致」の字を用いるのは、致すべきでないことを示す。禘祭を用いて夫人を致すのは、礼ではない。夫人はなぜ姜氏と称さないのか。貶めたのである。なぜ貶めるのか。妾をもって妻としたことを譏るのである。どのように妾をもって妻としたのか。おそらく斉の先に至った媵女に脅されたのである。

(經八五)冬,十有二月丁未,天王崩。

(経八五)冬の十二月丁未、天子が崩じた。

僖公(經九一)九年

僖公(経九一)九年

春,王三月丁丑,宋公御說卒。

春、周暦の三月丁丑、宋公御説が卒した。

(傳)何以不書葬?為襄公諱也。

(伝)なぜ葬を記さないのか。襄公のために諱んだのである。

(經九二)夏,公會宰周公、齊侯、宋子、衛侯、鄭伯、許男、曹伯於葵丘。

(経九二)夏、僖公は葵丘で宰周公・斉侯・宋子・衛侯・鄭伯・許男・曹伯に会した。

(傳)宰周公者何?天子之為政者也。

(伝)宰周公とは何人か。天子のために政を執る者である。

(經九三)秋,七月乙酉,伯姬卒。

(経九三)秋の七月乙酉、伯姫が卒した。

(傳)此未適人,何以卒?許嫁矣。婦人許嫁,字而笄之,死則以成人之喪治之。

(伝)この人はまだ嫁いでいないのに、なぜ卒を記すのか。すでに許嫁していたからである。婦人は許嫁すれば、字を与え笄を加え、死せば成人の喪をもってこれを治める。

(經九四)九月戊辰,諸侯盟於葵丘。

(経九四)九月戊辰、諸侯が葵丘で盟した。

(傳)桓之盟不日,此何以日?危之也。何危爾?貫澤之會,桓公有憂中國之心,不召而至者,江人、黃人也。葵丘之會,桓公震而矜之,叛者九國。震之者何?猶曰振振然。矜之者何?猶曰莫若我也。

(伝)桓公の盟は日を記さないのに、ここでなぜ日を記すのか。彼を危うんだのである。何を危うんだのか。貫沢の会では、桓公に中国を憂える心があり、召さずして至ったのは江人・黄人であった。葵丘の会では、桓公は震いて矜り、叛いたのは九国あった。「震」とは何か。振振然と言うが如し。「矜」とは何か。我に及ぶものなしと言うが如し。

(經九五)甲戌,晉侯詭諸卒。冬,晉裡克弒其君之子奚齊。

(経九五)甲戌、晋侯詭諸が卒した。冬、晋の里克がその君の子奚斉を弑した。

(傳)此未逾年之君,其言弒其君之子奚齊何?殺未逾年君之號也。

(伝)これはまだ年を踰えていない君なのに、なぜ「弑其君之子奚斉」と言うのか。まだ年を踰えない君を殺すときに用いる号である。

僖公(經十一)十年

僖公(経十一)十年

春,王正月,公如齊。狄滅溫。溫子奔衛。

春、周暦の正月、僖公は斉に行った。狄が温を滅ぼした。温子は衛に奔った。

(經十二)晉裡克弒其君卓子及其大夫荀息。

(経十二)晋の里克がその君卓子およびその大夫荀息を弑した。

(傳)及者何?累也。弒君多矣,舍此無累者乎?曰:有,孔父、仇牧皆累也。舍孔父、仇牧無累者乎?曰:有。有則此何以書?賢也。何賢乎荀息?荀息可謂不食其言矣。其不食其言奈何?奚齊、卓子者,驪姬之子也,荀息傅焉。驪姬者,國色也。獻公愛之甚,欲立其子,於是殺世子申生。申生者,裡克傅之。獻公病將死,謂荀息曰:「士何如則可謂之信矣?」荀息對曰:「使死者反生,生者不愧乎其言,則可謂信矣。」獻公死,奚齊立。裡克謂荀息曰:「君殺正而立不正,廢長而立幼,如之何?願與子慮之。」荀息曰:「君嘗訊臣矣,臣對曰:『使死者反生,生者不愧乎其言,則可謂信矣。』」裡克知其不可與謀,退,弒奚齊。荀息立卓子,裡克弒卓子,荀息死之。荀息可謂不食其言矣!

(伝)「及」とは何か。累を及ぼすことである。弑君は多いが、これを除いて累のある者はいないのか。曰く、ある。孔父・仇牧はみな累である。孔父・仇牧を除いて累のある者はいないのか。曰く、ある。あるならばここでなぜ書くのか。荀息が賢だからである。荀息の何が賢なのか。荀息は言を食まない者と言うべきである。彼がどのように言を食まなかったのか。奚斉・卓子は驪姫の子であり、荀息は彼らの傅であった。驪姫は国色であり、献公は彼女を甚だ愛してその子を立てようとし、ここに世子申生を殺した。申生は里克が傅した。献公は病みて将に死なんとして、荀息に謂うた。「士はどうすれば信と謂うべきか。」荀息が対えた。「死者をして反らせ生き、生者がその言に愧じなければ、信と謂うべきです。」献公が死に、奚斉が立った。里克は荀息に謂うた。「君は正を殺して不正を立て、長を廃して幼を立てた。これをどうするか。願わくば子とともにこれを慮りたい。」荀息は言った。「君はかつて臣に訊ねた。臣は対えて曰く、『死者をして反らせ生き、生者がその言に愧じなければ、信と謂うべきです』と。」里克は彼と謀ることができないことを知り、退いて、奚斉を弑した。荀息は卓子を立て、里克は卓子を弑し、荀息は彼のために死んだ。荀息は言を食まない者と言うべきである!

(經十三)夏,齊侯、許男伐北戎。晉殺其大夫裡克。

(経十三)夏、斉侯・許男が北戎を伐った。晋がその大夫里克を殺した。

(傳)裡克弒二君,則曷為不以討賊之辭言之?惠公之大夫也。然則孰立惠公?裡克也。裡克弒奚齊、卓子,逆惠公而入。裡克立惠公,則惠公曷為殺之?惠公曰:「爾既殺夫二孺子矣,又將圖寡人,為爾君者,不亦病乎?」於是殺之。然則曷為不言惠公之入?晉之不言出入者,踴為文公諱也。齊小白入於齊,則曷為不為桓公諱?桓公之享國也長,美見乎天下,故不為之諱本惡也。文公之享國也短,美未見乎天下,故為之諱本惡也。

(伝)里克は二人の君を弑したのに、なぜ賊を討つの辞をもって言わないのか。彼は恵公の大夫だからである。然らば誰が恵公を立てたのか。里克である。里克は奚斉・卓子を弑し、恵公を迎え入れた。里克は恵公を立てたのに、恵公はなぜ彼を殺したのか。恵公は言った。「そなたはすでにあの二つの孺子を殺し、また将に寡人を圖らんとしている。そなたの君となる者、また病まないか。」こうして彼を殺した。然らばなぜ恵公の入を言わないのか。晋が出と入を言わないのは、踊んで文公のために諱むのである。斉の小白が斉に入ったとき、なぜ桓公のために諱まないのか。桓公の国に享くこと長く、美が天下に見えたから、彼の本の悪を諱まなかったのである。文公の国に享くこと短く、美はいまだ天下に見えないから、彼の本の悪を諱んだのである。

(經十四)秋,七月。

(経十四)秋の七月。

(經十五)冬,大雨雹。

(経十五)冬、大いに雹が降った。

(傳)何以書?記異也。

(伝)なぜ書くのか。異常を記したのである。

僖公(經十一一)十有一年

僖公(経十一一)十有一年

春,晉殺其大夫丕鄭父。

春、晋がその大夫丕鄭父を殺した。

(經十一二)夏,公及夫人姜氏會齊侯於陽穀。

(経十一二)夏、僖公および夫人姜氏が陽穀で斉侯に会した。

(經十一三)秋,八月,大雩。

(経十一三)秋の八月、大雩を行った。

(經十一四)冬,楚人伐黃。

(経十一四)冬、楚人が黄を伐った。

僖公(經十二一)十有二年

僖公(経十二一)十有二年

春,王三月庚午,日有食之。

春、周暦の三月庚午、日食があった。

(經十二二)夏,楚人滅黃。

(経十二二)夏、楚人が黄を滅ぼした。

(經十二三)秋,七月。

(経十二三)秋の七月。

(經十二四)冬,十有二月丁丑,陳侯處臼卒。

(経十二四)冬の十二月丁丑、陳侯処臼が卒した。

僖公(經十三一)十有三年

僖公(経十三一)十有三年

春,狄侵衛。

春、狄が衛に侵入した。

(經十三二)夏,四月,葬陳宣公。公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯於鹹。

(経十三二)夏の四月、陳宣公を葬った。僖公は咸で斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯に会した。

(經十三三)秋,九月,大雩。

(経十三三)秋の九月、大雩を行った。

(經十三四)冬,公子友如齊。

(経十三四)冬、公子友が斉に行った。

僖公(經十四一)十有四年

僖公(経十四一)十有四年

春,諸侯城緣陵。

春、諸侯が縁陵に城を築いた。

(傳)孰城之?城杞也。曷為城杞?滅也。孰滅之?蓋徐、莒脅之。曷為不言徐、莒脅之?為桓公諱也。曷為為桓公諱?上無天子,下無方伯,天下諸侯有相滅亡者,桓公不能救,則桓公恥之也。然則孰城之?桓公城之。曷為不言桓公城之?不與諸侯專封也。曷為不與?實與而文不與。文曷為不與?諸侯之義不得專封也。諸侯之義不得專封,則其曰實與之何?上無天子,下無方伯,天下諸侯有相滅亡者,力能救之,則救之可也。

(伝)誰が築いたのか。杞のために城を築いたのである。なぜ杞のために築城したのか。滅びていたからである。誰が滅ぼしたのか。おそらく徐・莒がこれを脅したのである。なぜ徐・莒が脅したと言わないのか。桓公のために諱んだのである。なぜ桓公のために諱むのか。上に天子なく、下に方伯なく、天下の諸侯に互いに滅ぼし合う者があり、桓公が救えなければ、桓公はそれを恥としたのである。然らば誰が築いたのか。桓公が築いたのである。なぜ桓公が築いたと言わないのか。諸侯が勝手に国を封じることを是としないからである。なぜ是としないのか。実は是としながら、文の上では是としないのである。文の上でなぜ是としないのか。諸侯の義として勝手に封じることは許されないからである。許されないのなら、なぜ実は是とすると言うのか。上に天子なく、下に方伯なく、天下の諸侯に互いに滅ぼし合う者があるとき、力をもって救えるならば、救うのはよいことだからである。

(經十四二)夏,六月,季姬及鄫子遇於防,使鄫子來朝。

(経十四二)夏の六月、季姫は鄫子と防で遇い、鄫子をして来て朝見させた。

(傳)鄫子曷為使乎季姬來朝?內辭也。非使來朝,使來請己也。

(伝)鄫子はなぜ季姫に使われて来て朝見したのか。これは魯国自身の辞である。彼に来て朝見させたのではなく、来て自らを請わせたのである。

(經十四三)秋,八月辛卯,沙鹿崩。

(経十四三)秋の八月辛卯、沙鹿が崩れた。

(傳)沙鹿者何?河上之邑也。此邑也,其言崩何?襲邑也。沙鹿崩,何以書?記異也。外異不書,此何以書?為天下記異也。

(伝)沙鹿とは何か。黄河のほとりの邑である。これは邑なのに、なぜ「崩」と言うのか。邑が襲われて没したのである。沙鹿が崩れたのを、なぜ書くのか。異常を記したのである。外の異常は例により書かないのに、ここでなぜ書くのか。天下のために異常を記したのである。

(經十四四)狄侵鄭。

(経十四四)狄が鄭に侵入した。

(經十四五)冬,蔡侯肸卒。

(経十四五)冬、蔡侯肸が卒した。

僖公(經十五一)十有五年

僖公(経十五一)十有五年

春,王正月,公如齊。

春、周暦の正月、僖公は斉に行った。

(經十五二)楚人伐徐。

(経十五二)楚人が徐を伐った。

(經十五三)三月,公會齊侯、宋公、陳侯、鄭伯、許男、曹伯盟於牡丘,遂次於匡。

(経十五三)三月、僖公は斉侯・宋公・陳侯・鄭伯・許男・曹伯と牡丘で盟し、続いて匡に驻屯した。

(經十五四)公孫敖率師及諸侯之大夫救徐。

(経十五四)公孫敖が軍隊を率いて諸侯の大夫たちとともに徐を救った。

(經十五五)夏,五月,日有食之。

(経十五五)夏の五月、日食があった。

(經十五六)秋,七月,齊師、曹師伐厲。

(経十五六)秋の七月、斉の軍隊・曹の軍隊が厲を伐った。

(經十五七)八月,螽。

(経十五七)八月、蝗虫が害をなした。

(經十五八)九月,公至自會。

(経十五八)九月、僖公は会から帰った。

(傳)桓公之會不致,此何以致?久也。

(伝)桓公の会は帰国を書かないのに、ここでなぜ帰国を書くのか。久しく拖びたからである。

(經十五九)季姬歸於鄫。己卯,晦,震夷伯之廟。

(経十五九)季姫が鄫に嫁いだ。己卯、晦の日、雷が夷伯の廟を撃った。

(傳)晦者何?冥也。震之者何?雷電擊夷伯之廟者也。夷伯者,曷為者也?季氏之孚也。季氏之孚則微者,其稱夷伯何?大之也。曷為大之?天戒之,故大之也。何以書?記異也。

(伝)「晦」とは何か。冥いことである。「震之」とは何か。雷電が夷伯の廟を撃ったことである。夷伯とは何人か。季氏が信頼する者である。季氏の信頼する者は微しいのに、なぜ夷伯と称するのか。彼を大きく書いたのである。なぜ大きく書くのか。天がこれを戒めたから、故に大きく書いたのである。なぜ書くのか。異常を記したのである。

(經十五十)冬,宋人伐曹。楚人敗徐於婁林。

(経十五十)冬、宋人が曹を伐った。楚人が婁林で徐を破った。

(經十五十一)十有一月,壬戌,晉侯及秦伯戰於韓,獲晉侯。

(経十五十一)十一月壬戌、晋侯と秦伯が韓で戦い、晋侯を捕らえた。

(傳)此偏戰也,何以不言師敗績?君獲,不言師敗績也。

(伝)これは約期の戦いなのに、なぜ「師敗績」と言わないのか。君が捕らえられたときは、「師敗績」と言わないのである。

僖公(經十六一)十有六年

僖公(経十六一)十有六年

春,王正月戊申朔,隕石於宋五。是月,六鷁退飛,過宋都。

春、周暦の正月戊申朔、宋に石が五つ隕った。この月、六羽の鷁が退き飛んで、宋の都を過ぎた。

(傳)曷為先言隕而後言石?隕石記聞,聞其嗔然,視之則石,察之則五。是月者何?僅逮是月也。何以不日?晦日也。晦則何以不言晦?《春秋》不書晦也。朔有事則書,晦雖有事不書。曷為先言六而後言鷁?六鷁退飛,記見也,視之則六,察之則鷁,徐而察之則退飛。五石六鷁,何以書?記異也。外異不書,此何以書?為王者之後,記異也。

(伝)なぜ先に「隕」と言い後に「石」と言うのか。隕石は聞いたことを記すのである。その磌然たる音を聞き、視れば石であり、察すれば五つであった。「是月」とは何か。わずかにこの月に及んだということである。なぜ日を記さないのか。晦日だからである。晦日ならばなぜ「晦」と言わないのか。《春秋》は晦日を書かないのである。朔日に事あれば書き、晦日は事ありと雖も書かない。なぜ先に「六」と言い後に「鷁」と言うのか。六鷁が退き飛んだのは、見たことを記すのである。視れば六羽であり、察すれば鷁であり、徐ろに察すれば退き飛んでいた。五石・六鷁を、なぜ書くのか。異常を記したのである。外の異常は例により書かないのに、ここでなぜ書くのか。宋は王者の後裔だから、彼のために異常を記したのである。

(經十六二)三月壬申,公子季友卒。

(経十六二)三月壬申、公子季友が卒した。

(傳)其稱季友何?賢也。

(伝)「季友」と称するのはなぜか。賢だからである。

(經十六三)夏,四月丙申,鄫季姬卒。

(経十六三)夏の四月丙申、鄫季姫が卒した。

(經十六四)秋,七月甲子,公孫慈卒。

(経十六四)秋の七月甲子、公孫慈が卒した。

(經十六五)冬,十有二月,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、邢侯、曹伯於淮。

(経十六五)冬の十二月、僖公は淮で斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・邢侯・曹伯に会した。

僖公(經十七一)十有七年

僖公(経十七一)十有七年

春,齊人、徐人伐英氏。

春、斉人・徐人が英氏を伐った。

(經十七二)夏,滅項。

(経十七二)夏、項を滅ぼした。

(傳)孰滅之?齊滅之。曷為不言齊滅之?為桓公諱也。《春秋》為賢者諱。此滅人之國,何賢爾?君子之惡惡也疾始,善善也樂終。桓公嘗有繼絕,存亡之功,故君子為之諱也。

(伝)誰が滅ぼしたのか。斉が滅ぼしたのである。なぜ斉が滅ぼしたと言わないのか。桓公のために諱んだのである。《春秋》は賢者のために諱む。これは人の国を滅ぼしたのだが、どこが賢なのか。君子が悪を悪むのは始めを疾み、善を善むのは終わりを楽しむ。桓公はかつて絶えた世を継ぎ、亡びた国を存す功があったから、君子は彼のために諱んだのである。

(經十七三)秋,夫人姜氏會齊於卞。

(経十七三)秋、夫人姜氏が卞で斉に会した。

(經十七四)九月,公至自會。

(経十七四)九月、僖公は会から帰った。

(經十七五)十有二月乙亥,齊侯小白卒。

(経十七五)十二月乙亥、斉侯小白が卒した。

僖公(經十八一)十有八年

僖公(経十八一)十有八年

春,王正月,宋公會曹伯、衛人、邾婁人伐齊。

春、周暦の正月、宋公が曹伯・衛人・邾婁人と会して斉を伐った。

(經十八二)夏,師救齊。五月戊寅,宋師及齊師戰於甗,齊師敗績。

(経十八二)夏、我が軍が斉を救った。五月戊寅、宋の軍隊と斉の軍隊が甗で戦い、斉の軍隊は大敗した。

(傳)戰不言伐,此其言伐何?宋公與伐而不與戰,故言伐。《春秋》伐者為客,伐者為主。曷為不使齊主之?與襄公之徵齊也。曷為與襄公之徵齊?桓公死,豎刁、易牙爭權不葬,為是故伐之也。

(伝)戦には「伐」と言わないのに、ここで「伐」と言うのはなぜか。宋公は伐つには与ったが戦には与らなかったから、「伐」と言うのである。《春秋》は伐つ者を客とし、伐たれる者を主とする。なぜ斉を主としないのか。襄公が斉を征することを与したのである。なぜ襄公の斉を征するのを与するのか。桓公が死に、竪刁・易牙が権を争って葬らなかった。この故をもってこれを伐ったのである。

(經十八三)狄救齊。

(経十八三)狄が斉を救った。

(經十八四)秋,八月丁亥,葬齊桓公。

(経十八四)秋の八月丁亥、斉桓公を葬った。

(經十八五)冬,邢人、狄人伐衛。

(経十八五)冬、邢人・狄人が衛を伐った。

僖公(經十九一)十有九年

僖公(経十九一)十有九年

春,王三月,宋人執滕子嬰齊。

春、周暦の三月、宋人が滕子嬰斉を捕らえた。

(經十九二)夏,六月,宋人、曹人、邾婁人盟於曹南。鄫子會盟於邾婁。

(経十九二)夏の六月、宋人・曹人・邾婁人が曹南で盟した。鄫子は邾婁に行って盟に加わった。

(傳)其言會盟何?後會也。

(伝)なぜ「会盟」と言うのか。後れて会したからである。

(經十九三)己酉,邾婁人執鄫子用之。

(経十九三)己酉、邾婁人が鄫子を捕らえてこれを用いた。

(傳)惡乎用之?用之社也。其用之社奈何?蓋叩其鼻以血社也。

(伝)どこに用いたのか。社に用いたのである。どのように社に用いたのか。おそらくその鼻を叩き、血をもって社を祭ったのである。

(經十九四)秋,宋人圍曹。

(経十九四)秋、宋人が曹を囲んだ。

(經十九五)衛人伐邢。

(経十九五)衛人が邢を伐った。

(經十九六)冬,公會陳人、蔡人、楚人、鄭人盟於齊。梁亡。

(経十九六)冬、僖公は陳人・蔡人・楚人・鄭人と会して斉で盟した。梁が亡びた。

(傳)此未有伐者,其言梁亡何?自亡也。其自亡奈何?魚爛而亡也。

(伝)これには伐つ者がいないのに、なぜ「梁亡」と言うのか。自ら亡びたのである。どのように自ら亡びたのか。魚が腹から爛れるようにして亡びたのである。

僖公(經二十一)二十年

僖公(経二十一)二十年

春,新作南門。

春、南門を新たに作った。

(傳)何以書?譏。何譏爾?門有古常也。

(伝)なぜ書くのか。譏りである。何を譏るのか。門には古来の常制があるのである。

(經二十二)夏,郜子來朝。

(経二十二)夏、郜子が来て朝見した。

(傳)郜子者何?失地之君也。何以不名?兄弟辭也。

(伝)郜子とは何人か。地を失った君である。なぜ名を称さないのか。兄弟の辞である。

(經二十三)五月乙巳,西宮災。

(経二十三)五月乙巳、西宮に災いがあった。

(傳)西宮者何?小寢也。小寢則曷為謂之西宮?有西宮則有東宮矣。魯子曰:「以有西宮,亦知諸侯之有三宮也。」西宮災,何以書?記災也。

(伝)西宮とは何か。小寝である。小寝ならば、なぜこれを西宮と謂うのか。西宮あれば東宮がある。魯子が言った。「西宮があることにより、諸侯に三宮あることをも知るのである。」西宮に災いがあったのを、なぜ書くのか。災いを記したのである。

(經二十四)鄭人入滑。

(経二十四)鄭人が滑に入った。

(經二十五)秋,齊人、狄人盟於邢。

(経二十五)秋、斉人・狄人が邢で盟した。

(經二十六)冬,楚人伐隨。

(経二十六)冬、楚人が随を伐った。

僖公(經二一一)二十有一年

僖公(経二一一)二十有一年

春,狄侵衛。宋人、齊人、楚人盟於鹿上。

春、狄が衛に侵入した。宋人・斉人・楚人が鹿上で盟した。

(經二一二)夏,大旱。

(経二一二)夏、大いに旱した。

(傳)何以書?記災也。

(伝)なぜ書くのか。災いを記したのである。

(經二一三)秋,宋公、楚子、陳侯、蔡侯、鄭伯、許男、曹伯會於霍,執宋公以伐宋。

(経二一三)秋、宋公・楚子・陳侯・蔡侯・鄭伯・許男・曹伯が霍で会し、宋公を捕らえて宋を伐った。

(傳)孰執之?楚子執之。曷為不言楚子執之?不與夷狄之執中國也。

(伝)誰が捕らえたのか。楚子が捕らえたのである。なぜ楚子が捕らえたと言わないのか。夷狄が中国の人を執ることを与しないのである。

(經二一四)冬,公伐邾婁。

(経二一四)冬、僖公が邾婁を伐った。

(經二一五)楚人使宜申來獻捷。

(経二一五)楚人が宜申を遣わして戦利品を献じに来させた。

(傳)此楚子也,其稱人何?貶。曷為貶?為執宋公貶。曷為為執宋公貶?宋公與楚子期以乘車之會,公子目夷諫曰:「楚,夷國也,強而無義,請君以兵車之會往。」宋公曰:「不可。吾與之約以乘車之會,自我為之,自我墮之,曰不可。」終以乘車之會往,楚人果伏兵車,執宋公以伐宋。宋公謂公子目夷曰:「子歸守國矣。國,子之國也。吾不從子之言,以至乎此。」公子目夷復曰:「君雖不言國,國固臣之國也。」於是歸設守械而守國。楚人謂宋人曰:「子不與我國,吾將殺子君矣。」宋人應之曰:「吾賴社稷之神靈,吾國已有君矣。」楚人知雖殺宋公,猶不得宋國,於是釋宋公。宋公釋乎執,走之衛。公子目夷復曰:「國為君守之,君曷為不入?」然後逆襄公歸。惡乎捷?捷乎宋。曷為不言捷乎宋?為襄公諱也。此圍辭也,曷為不言其圍?為公子目夷諱也。

(伝)この人は楚子なのに、なぜ「人」と称するのか。貶めたのである。なぜ貶めるのか。宋公を捕らえたために貶めるのである。なぜ宋公を捕らえたために貶めるのか。宋公は楚子と乗車の会を約した。公子目夷が諫めて言った。「楚は夷の国で、強くして義なし。どうか君王は兵車の会をもってお行きください。」宋公は言った。「不可である。吾は彼と乗車の会を約した。自らこれを為し、自らこれを堕すのは、不可と言う。」ついに乗車の会をもって行き、楚人は果たして兵車を伏せ、宋公を捕らえて宋を伐った。宋公は公子目夷に謂うた。「そなたは帰って国を守れ。国はそなたの国である。吾はそなたの言に従わず、この地に至った。」公子目夷は復して曰く。「君王は国と言わなくとも、国はもともと臣の国です。」こうして帰って守械を設けて国を守った。楚人は宋人に謂うた。「そなたたちが国を我らに与えなければ、そなたたちの君を殺す。」宋人はこれに応えて曰く。「吾らは社稷の神霊に恃み、わが国はすでに君がある。」楚人は宋公を殺しても宋を得られないことを知り、こうして宋公を放した。宋公は捕らえられたことから解かれて衛に走った。公子目夷はまた言った。「国は君王のために守ったのです。君王はなぜお入りにならないのですか。」それから襄公を迎えて帰らせた。戦利品はどこから来たのか。宋から来たのである。なぜ宋からの戦利品と書かないのか。襄公のために諱んだのである。これはもともと囲の辞なのに、なぜ囲と書かないのか。公子目夷のために諱んだのである。

(經二一六)十有二月癸丑,公會諸侯盟於薄。釋宋公。

(経二一六)十二月癸丑、僖公は諸侯に会して薄で盟した。宋公を釈放した。

(傳)執未有言釋之者,此其言釋之何?公與為爾也。公與為爾奈何?公與議爾也。

(伝)人を執って未だかつて「釈」と言ったことがないのに、ここで「釈」と言うのはなぜか。僖公がこの事に与ったからである。僖公はどのように与ったのか。僖公は議に与ったのである。

僖公(經二二一)二十有二年

僖公(経二二一)二十有二年

春,公伐邾婁,取須朐。

春、僖公が邾婁を伐ち、須朐を取った。

(經二二二)夏,宋公、衛侯、許男、滕子伐鄭。

(経二二二)夏、宋公・衛侯・許男・滕子が鄭を伐った。

(經二二三)秋,八月丁未,及邾婁人戰於升陘。

(経二二三)秋の八月丁未、邾婁人と升陘で戦った。

(經二二四)冬,十有一月己巳朔,宋公及楚人戰於泓,宋師敗績。

(経二二四)冬の十一月己巳朔、宋公と楚人が泓で戦い、宋の軍隊は大敗した。

(傳)偏戰者日爾,此其言朔何?《春秋》辭繁而不殺者,正也。何正爾?宋公與楚人期,戰於泓之陽。楚人濟泓而來。有司復曰:「請迨其未畢濟而系之。」宋公曰:「不可。吾聞之也:君子不厄人。吾雖喪國之餘,寡人不忍行也。」既濟,未畢陳,有司復曰:「請迨其未畢陳而擊之。」宋公曰:「不可。吾聞之也:君子不鼓不成列。」已陳,然後襄公鼓之,宋師大敗。故君子大其不鼓不成列,臨大事而不忘大禮,有君而無臣,以為雖文王之戰,亦不過此也。

(伝)約期の戦いは日を記すだけなのに、ここでなぜ「朔」と言うのか。《春秋》の辞が繁くして省かないのは、正とするものである。どこが正なのか。宋公は楚人と約して、泓水の北岸で戦うこととした。楚人は泓を済って来た。有司が復して曰く。「彼らが済り終わらないうちに遮ってください。」宋公は言った。「不可である。吾は聞いた。君子は人を窮地に追い込まない。吾は亡国の余とはいえ、寡人は忍びて行えない。」すでに済り終わり、まだ陣を列ね終わらないとき、有司が復して曰く。「彼らが陣を列ね終わらないうちに撃ってください。」宋公は言った。「不可である。吾は聞いた。君子は列を成さない者に鼓を進めない。」すでに陣を列ね、それから襄公は鼓を鳴らし、宋師は大敗した。故に君子は彼が列を成さない者に鼓を進めなかったことを大いにし、大事に臨んで大礼を忘れず、このような君がありながらこのような臣がなかった。これをもって文王の戦と雖も、これに過ぎないとしたのである。

僖公(經二三一)二十有三年

僖公(経二三一)二十有三年

春,齊侯伐宋圍緡。

春、斉侯が宋を伐ち、緡を囲んだ。

(傳)邑不言圍,此其言圍何?疾重故也。

(伝)邑については例により「囲」と言わないのに、ここで「囲」と言うのはなぜか。彼が事を重くしすぎたことを疾む故である。

(經二三二)夏,五月庚寅,宋公慈父卒。

(経二三二)夏の五月庚寅、宋公慈父が卒した。

(傳)何以不書葬?盈乎諱也。

(伝)なぜ葬を書かないのか。諱がすでに盈ちているのである。

(經二三三)秋,楚人伐陳。

(経二三三)秋、楚人が陳を伐った。

(經二三四)冬,十有一月,杞子卒。

(経二三四)冬の十一月、杞子が卒した。

僖公(經二四一)二十有四年

僖公(経二四一)二十有四年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(經二四二)夏,狄伐鄭。

(経二四二)夏、狄が鄭を伐った。

(經二四三)秋,七月。

(経二四三)秋の七月。

(經二四四)冬,天王出居於鄭。

(経二四四)冬、天子が出て、鄭に居った。

(傳)王者無外,此其言出何?不能乎母也。魯子曰:「是王也,不能乎母者,其諸此之謂與?」

(伝)王者には「外」がないのに、ここで「出」と言うのはなぜか。母に対することができなかったからである。魯子が言った。「この王は、母に対することができなかったとは、おそらくこれを謂うのではないか。」

(經二四五)晉侯夷吾卒。

(経二四五)晋侯夷吾が卒した。

僖公(經二五一)二十有五年

僖公(経二五一)二十有五年

春,王正月丙午,衛侯毀滅邢。

春、周暦の正月丙午、衛侯毀が邢を滅ぼした。

(傳)衛侯毀,何以名?絕。曷為絕之?滅同姓也。

(伝)衛侯毀はなぜ名を称するのか。絶ったのである。なぜ絶つのか。同姓を滅ぼしたからである。

(經二五二)夏,四月癸酉,衛侯毀卒。宋蕩伯姬來逆婦。

(経二五二)夏の四月癸酉、衛侯毀が卒した。宋の蕩伯姫が婦を迎えに来た。

(傳)宋蕩伯姬者何?蕩氏之母也。其言來逆婦何?兄弟辭也。其稱婦何?有姑之辭也。

(伝)宋の蕩伯姫とは何人か。蕩氏の母である。なぜ「来逆婦」と言うのか。兄弟の辞である。なぜ「婦」と称するのか。姑のある辞である。

(經二五三)宋殺其大夫。

(経二五三)宋がその大夫を殺した。

(傳)何以不名?宋三世無大夫,三世內娶也。

(伝)なぜ名を称さないのか。宋は三代大夫なし。三代とも国内で娶ったからである。

(經二五四)秋,楚人圍陳,納頓子於頓。

(経二五四)秋、楚人が陳を囲み、頓子を頓に納れた。

(傳)何以不言遂?兩之也。

(伝)なぜ「遂」と言わないのか。二つの事として扱ったのである。

(經二五五)葬衛文公。

(経二五五)衛文公を葬った。

(經二五六)冬,十有二月癸亥,公會衛子、莒慶,盟於洮。

(経二五六)冬の十二月癸亥、僖公は衛子・莒慶に会い、洮で盟した。

僖公(經二六一)二十有六年

僖公(経二六一)二十有六年

春,王正月己未,公會莒子、衛寧遬,盟於向。

春、周暦の正月己未、僖公は莒子・衛の寧遬に会い、向で盟した。

(經二六二)齊人侵我西鄙。公追齊師至酅,弗及。

(経二六二)斉人がわが魯の西の辺鄙に侵入した。僖公は斉の軍を追って酅に至ったが、及ばなかった。

(傳)其言「至酅,弗及」何?侈也。

(伝)なぜ「至酅、弗及」と言うのか。追いすぎたのである。

(經二六三)夏,齊人伐我北鄙。衛人伐齊。公子遂如楚乞師。

(経二六三)夏、斉人がわが魯の北の辺鄙を伐った。衛人が斉を伐った。公子遂が楚に行って軍隊を乞うた。

(傳)乞者何?卑辭也。曷為以外內同若辭?重師也。曷為重師?師出不正反,戰不正勝也。

(伝)「乞」とは何か。卑しい辞である。なぜ外と内で同じ辞を用いるのか。軍隊を重んじたのである。なぜ軍隊を重んじるのか。軍隊が出れば、帰ることが必ずしも正しいとは限らず、戦えば、勝つことが必ずしも正しいとは限らないからである。

(經二六四)秋,楚人滅隗,以隗子歸。

(経二六四)秋、楚人が隗を滅ぼし、隗子を連れて帰った。

(經二六五)冬,楚人伐宋,圍緡。

(経二六五)冬、楚人が宋を伐ち、緡を囲んだ。

(傳)邑不言圍,此其言圍何?刺道用師也。

(伝)邑については例により「囲」と言わないのに、ここで「囲」と言うのはなぜか。道すがら兵を用いたことを刺したのである。

(經二六六)公以楚師伐齊,取谷。公至自伐齊。

(経二六六)僖公は楚の軍隊を率いて斉を伐ち、穀を取った。僖公は斉を伐つ軍から帰った。

(傳)此已取谷矣,何以致伐?未得乎取谷也。曷為未得乎取谷?曰:患之起,必自此始也。

(伝)ここで既に穀を取ったのに、なぜ伐ったことからの帰還と書くのか。まだ取った穀を真に得ていなかったからである。なぜまだ真に得ていないのか。曰く、患の起こることは、必ずここから始まるのである。

僖公(經二七一)二十有七年

僖公(経二七一)二十有七年

春,杞子來朝。

春、杞子が来て朝見した。

(經二七二)夏,六月庚寅,齊侯昭卒。

(経二七二)夏の六月庚寅、斉侯昭が卒した。

(經二七三)秋,八月乙未,葬齊孝公。

(経二七三)秋の八月乙未、斉孝公を葬った。

(經二七四)乙巳,公子遂帥師入杞。

(経二七四)乙巳、公子遂が軍隊を率いて杞に入った。

(經二七五)冬,楚人、陳侯、蔡侯、鄭伯、許男圍宋。

(経二七五)冬、楚人・陳侯・蔡侯・鄭伯・許男が宋を囲んだ。

(傳)此楚子也,其稱人何?貶。曷為貶?為執宋公貶,故終僖之篇貶也。

(伝)この人は楚子なのに、なぜ「人」と称するのか。貶めたのである。なぜ貶めるのか。宋公を捕らえたために貶めるのであり、故に僖公の篇を終えてずっと貶めるのである。

(經二七六)十有二月甲戌,公會諸侯盟於宋。

(経二七六)十二月甲戌、僖公は諸侯に会して宋で盟した。

僖公(經二八一)二十有八年

僖公(経二八一)二十有八年

春,晉侯侵曹,晉侯伐衛。

春、晋侯が曹に侵入し、晋侯が衛を伐った。

(傳)曷為再言晉侯?非兩之也。然則何以不言遂?未侵曹也。未侵曹則其言侵曹何?致其意也。其意侵曹,則曷為伐衛?晉侯將侵曹,假塗於衛,衛曰不可得,則固將伐之也。

(伝)なぜ二度「晋侯」と言うのか。二つの事として扱ったのではない。然らばなぜ「遂」と言わないのか。まだ曹に侵入していなかったからである。まだ曹に侵入していないのに「侵曹」と言うのはなぜか。その意を致したのである。その意は曹を侵すことだったのに、なぜ衛を伐ったのか。晋侯は将に曹を侵そうとして、衛に道を借りたが、衛は借せられないと言った。ではもともと衛を伐つつもりだったのである。

(經二八二)公子買戍衛,不卒戍,刺之。

(経二八二)公子買が衛を戍ったが、戍り終わらず、彼を刺した。

(傳)不卒戍者何?不卒戍者,內辭也,不可使往也。不可使往,則其言戍衛何?遂公意也。刺之者何?殺之也。殺之則曷為謂之刺之?內諱殺大夫,謂之刺之也。

(伝)「不卒戍」とは何か。「不卒戍」は魯国内部の辞であり、実は彼を往かせることができなかったのである。往かせることができなかったのに「戍衛」と言うのはなぜか。僖公の意を遂げたのである。「刺之」とは何か。彼を殺したことである。殺したのになぜ「刺之」と謂うのか。魯国内部は大夫の殺を諱み、これを「刺之」と謂うのである。

(經二八三)楚人救衛。三月丙午,晉侯入曹,執曹伯、畀宋人。

(経二八三)楚人が衛を救った。三月丙午、晋侯が曹に入り、曹伯を捕らえて、宋人に渡した。

(傳)畀者何?與也。其言畀宋人何?與使聽之也。曹伯之罪何?甚惡也。其甚惡奈何?不可以一罪言也。

(伝)「畀」とは何か。与えることである。「畀宋人」と言うのは何か。彼らに渡して処断させることである。曹伯の罪は何か。甚だ悪い。どのくらい甚だ悪いのか。一つの罪をもって言い尽くせないほどである。

(經二八四)夏,四月己巳,晉侯、齊師、宋師、秦師及楚人戰於城濮,楚師敗績。

(経二八四)夏の四月己巳、晋侯・斉の軍隊・宋の軍隊・秦の軍隊が楚人と城濮で戦い、楚の軍隊は大敗した。

(傳)此大戰也,曷為使微者?子玉得臣也。子玉得臣則其稱人何?貶。曷為貶?大夫不敵君也。

(伝)これは大戦なのに、なぜ身分の微しい者として書くのか。実は子玉得臣である。子玉得臣ならば、なぜ「人」と称するのか。貶めたのである。なぜ貶めるのか。大夫は君に敵しないからである。

(經二八五)楚殺其大夫得臣。

(経二八五)楚がその大夫得臣を殺した。

(經二八六)衛侯出奔楚。

(経二八六)衛侯が出奔して楚に至った。

(經二八七)五月,癸丑,公會晉侯、齊侯、宋公、蔡侯、鄭伯、衛子、莒子,盟於踐土。陳侯如會。

(経二八七)五月癸丑、僖公は晋侯・斉侯・宋公・蔡侯・鄭伯・衛子・莒子に会し、践土で盟した。陳侯が会に駆けつけた。

(傳)其言如會何?後會也。

(伝)「如会」と言うのは何か。後れて会に及んだことである。

(經二八八)公朝於王所。

(経二八八)僖公は天子のいる所で朝見した。

(傳)曷為不言公如京師?天子在是也。天子在是,則曷為不言天子在是?不與致天子也。

(伝)なぜ僖公が京師に行ったと言わないのか。天子がここにいたからである。天子がここにいたのなら、なぜ天子がここにいたと言わないのか。天子を招き致すことを与しないのである。

(經二八九)六月,衛侯鄭自楚復歸於衛。

(経二八九)六月、衛侯鄭が楚から再び衛に帰った。

(經二八十)衛元咺出奔晉。

(経二八十)衛の元咺が出奔して晋に至った。

(經二八十一)陳侯款卒。

(経二八十一)陳侯款が卒した。

(經二八十二)秋,杞伯姬來。

(経二八十二)秋、杞伯姫が来た。

(經二八十三)公子遂如齊。

(経二八十三)公子遂が斉に行った。

(經二八十四)冬,公會晉侯、齊侯、宋公、蔡侯、鄭伯、陳子、莒子、邾婁子、秦人於溫。天王狩於河陽。

(経二八十四)冬、僖公は晋侯・斉侯・宋公・蔡侯・鄭伯・陳子・莒子・邾婁子・秦人と温で会した。天子は河陽で狩りをした。

(傳)狩不書,此何以書?不與再致天子也。魯子曰:「溫近而踐土遠也。」

(伝)狩は例により書かないのに、ここでなぜ書くのか。再び天子を招き致すことを与しないのである。魯子が言った。「温は近く、践土は遠い。」

(經二八十五)壬申,公朝於王所。

(経二八十五)壬申、僖公は天子のいる所で朝見した。

(傳)其日何?錄乎內也。

(伝)なぜ日を記すのか。魯国内部に対して詳しく記すからである。

(經二八十六)晉人執衛侯歸之於京師。

(経二八十六)晋人が衛侯を捕らえ、彼を京師に送り帰した。

(傳)歸之於者何?歸於者何?歸之於者罪已定矣,歸於者罪未定也。罪未定,則何以得為伯執?歸之於者,執之於天子之側者也,罪定不定,已可知矣。歸於者,非執之於天子之側者也,罪定不定,未可知也。衛侯之罪何?殺叔武也。何以不書?為叔武諱也。《春秋》為賢者諱。何賢乎叔武?讓國也。其讓國奈何?文公逐衛侯而立叔武,叔武辭立而他人立,則恐衛侯之不得反也,故於是已立,然後為踐土之會,治反衛侯。衛侯得反,曰:「叔武篡我。」元咺爭之曰:「叔武無罪。」終殺叔武,元咺走而出。此晉侯也,其稱人何?貶。曷為貶?衛之禍,文公為之也。文公為之奈何?文公逐衛侯而立叔武,使人兄弟相疑,放乎殺母弟者,文公為之也。

(伝)「帰之于」とは何か。「帰于」とは何か。「帰之于」は罪がすでに定まったものであり、「帰于」は罪がまだ定まっていないものである。罪がまだ定まっていないのに、どうして覇者の執とできるのか。「帰之于」は天子の側で捕らえたものであり、罪が定まったか定まらないかは、すでに知ることができる。「帰于」は天子の側で捕らえたものではなく、罪が定まったか定まらないかは、まだ知ることができない。衛侯の罪は何か。叔武を殺したことである。なぜ書かないのか。叔武のために諱んだのである。《春秋》は賢者のために諱む。叔武の何が賢なのか。国を譲ったことである。彼はどのように国を譲ったのか。文公は衛侯を逐って叔武を立て、叔武は立つことを辞したが、他の者が立てば衛侯が帰れないことを恐れ、故にまず自ら立ち、それから践土の会を成して衛侯を帰すことを治めた。衛侯は帰ることができて、言った。「叔武は吾を篡いだ。」元咺が争って曰く。「叔武に罪なし。」ついに叔武を殺し、元咺は走って出た。この人は晋侯なのに、なぜ「人」と称するのか。貶めたのである。なぜ貶めるのか。衛の禍は文公が為したのである。文公はどのように為したのか。文公は衛侯を逐って叔武を立て、人の兄弟をして互いに疑わせ、同母弟を殺すに放らしめたのは、文公が為したのである。

(經二八十七)衛元咺自晉復歸於衛。

(経二八十七)衛の元咺が晋から再び衛に帰った。

(傳)自者何?有力焉者也。此執其君,其言自何?為叔武爭也。

(伝)「自」とは何か。力のある者がその中にあることである。この人は自らの君を捕らえたのに、なぜ「自」と言うのか。叔武のために争ったからである。

(經二八十八)諸侯遂圍許。曹伯襄復歸於曹。遂會諸侯圍許。

(経二八十八)諸侯は続いて許を囲んだ。曹伯襄が再び曹に帰った。続いて諸侯に会して許を囲んだ。

僖公(經二九一)二十有九年

僖公(経二九一)二十有九年

春,介葛盧來。

春、介葛盧が来た。

(傳)介葛盧者何?夷狄之君也。何以不言朝?不能乎朝也。

(伝)介葛盧とは何人か。夷狄の君である。なぜ「朝」と言わないのか。朝見の礼を行うことができないからである。

(經二九二)公至自圍許。

(経二九二)僖公は許を囲む軍から帰った。

(經二九三)夏,六月,公會王人、晉人、宋人、齊人、陳人、蔡人、秦人,盟於狄泉。

(経二九三)夏の六月、僖公は王人・晋人・宋人・斉人・陳人・蔡人・秦人と会し、狄泉で盟した。

(經二九四)秋,大雨雹。

(経二九四)秋、大いに雹が降った。

(經二九五)冬,介葛盧來。

(経二九五)冬、介葛盧が来た。

僖公(經三十一)三十年

僖公(経三十一)三十年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(經三十二)夏,狄侵齊。

(経三十二)夏、狄が斉に侵入した。

(經三十三)秋,衛殺其大夫元咺及公子瑕。

(経三十三)秋、衛がその大夫元咺および公子瑕を殺した。

(傳)衛侯未至,其稱國以殺何?道殺也。

(伝)衛侯がまだ至っていないのに、なぜ国を称して殺を書くのか。道で殺したのである。

(經三十四)衛侯鄭歸於衛。

(経三十四)衛侯鄭が衛に帰った。

(傳)此殺其大夫,其言歸何?歸惡乎元咺也。曷為歸惡乎元咺?元咺之事君也,君出則己入,君入則己出,以為不臣也。

(伝)これは大夫を殺したのに、なぜ「帰」と言うのか。悪を元咺に帰したのである。なぜ悪を元咺に帰すのか。元咺が君に事えるや、君が出れば己は入り、君が入れば己は出て、臣らしくないとされたのである。

(經三十五)晉人、秦人圍鄭。

(経三十五)晋人・秦人が鄭を囲んだ。

(經三十六)介人侵蕭。

(経三十六)介人が蕭に侵入した。

(經三十七)冬,天王使宰周公來聘。

(経三十七)冬、天子が宰周公を遣わして聘問に来させた。

(經三十八)公子遂如京師,遂如晉。

(経三十八)公子遂が京師に行き、続いて晋に行った。

(傳)大夫無遂事,此其言遂何?公不得為政爾。

(伝)大夫には「遂」する事はないのに、ここで「遂」と言うのはなぜか。僖公が政を執ることができなかっただけである。

僖公(經三一一)三十有一年

僖公(経三一一)三十有一年

春,取濟西田。

春、済水の西の田を取った。

(傳)惡乎取之?取之曹也。曷為不言取之曹?諱取同姓之田也。此未有伐曹者,則其言取之曹何?晉侯執曹伯,班其所取侵地於諸侯也。晉侯執曹伯,班其所取侵地於諸侯,則何諱乎取同姓之田?久也。

(伝)どこから取ったのか。曹から取ったのである。なぜ曹から取ったと言わないのか。同姓の田を取ることを諱んだのである。ここに曹を伐つ者はいないのに、曹から取ったと言うのはなぜか。晋侯が曹伯を捕らえ、その取った侵地を諸侯に班したのである。晋侯が曹伯を捕らえ、侵地を諸侯に班したのなら、なぜ同姓の田を取ることを諱むのか。時がすでに久しいからである。

(經三一二)公子遂如晉。夏,四月,四卜郊不從,乃免牲,猶三望。

(経三一二)公子遂が晋に行った。夏の四月、四度郊祭を卜して従わず、乃ち牲を免ぜたが、依然として三望を行った。

(傳)曷為或言三卜?或言四卜?三卜,禮也;四卜,非禮也。三卜何以禮?四卜何以非禮?求吉之道三。禘、嘗不卜,郊何以卜?卜郊,非禮也。卜郊何以非禮?魯郊,非禮也。魯郊何以非禮?天子祭天,諸侯祭土。天子有方望之事,無所不通。諸侯山川有不在其封內者,則不祭也。曷為或言免牲?或言免牛?免牲,禮也;免牛,非禮也。免牛何以非禮?傷者曰牛。三望者何?望祭也。然則曷祭?祭泰山、河海。曷為祭泰山、河海?山川有能潤於百里者,天子秩而祭之。觸石而出,膚寸而合,不崇朝而遍雨乎天下者,唯泰山爾。河海潤於千里。猶者何?通可以已也。何以書?譏不郊而望祭也。

(伝)なぜあるいは「三卜」と言い、あるいは「四卜」と言うのか。三卜は礼に合い、四卜は礼に合わない。三卜はなぜ礼に合うのか。四卜はなぜ礼に合わないのか。吉を求める道は三をもって限りとする。禘・嘗は卜しないのに、郊はなぜ卜するのか。郊を卜するのは礼に合わない。郊を卜するのはなぜ礼に合わないのか。魯の郊はもともと礼に合わない。魯の郊はなぜ礼に合わないのか。天子は天を祭り、諸侯は土を祭る。天子には四方の望祭の事があり、通じない所はない。諸侯の山川でその封内にないものは祭らない。「免牲」と「免牛」はなぜ二つの書き方があるのか。免牲は礼に合い、免牛は礼に合わない。免牛はなぜ礼に合わないのか。傷ついたものを「牛」と言うからである。三望とは何か。望祭である。然らば何を祭るのか。泰山・河・海を祭る。なぜ泰山・河・海を祭るのか。山川に百里を潤すこと能くするものあれば、天子は等次をもってこれを祭る。石に触れて出で、肤寸にして合し、崇朝を待たずして天下に遍く雨を降らすものは、泰山のみである。河・海は千里を潤す。「猶」とは何か。みなもとより已めることができるということである。なぜ書くのか。郊を行わずして望祭するのを譏ったのである。

(經三一三)秋,七月。

(経三一三)秋の七月。

(經三一四)冬,杞伯姬來求婦。

(経三一四)冬、杞伯姫が婦を求めに来た。

(傳)其言來求婦何?兄弟辭也。其稱婦何?有姑之辭也。

(伝)「来求婦」と言うのは何か。兄弟の辞である。なぜ「婦」と称するのか。姑のある辞である。

(經三一五)狄圍衛。

(経三一五)狄が衛を囲んだ。

(經三一六)十有二月,衛遷於帝丘。

(経三一六)十二月、衛は帝丘に迁った。

僖公(經三二一)三十有二年

僖公(経三二一)三十有二年

春,王正月。

春、周暦の正月。

(經三二二)夏,四月己丑,鄭伯接卒。

(経三二二)夏の四月己丑、鄭伯接が卒した。

(經三二三)衛人侵狄。

(経三二三)衛人が狄に侵入した。

(經三二四)秋,衛人及狄盟。

(経三二四)秋、衛人が狄と盟した。

(經三二五)冬,十有二月己卯,晉侯重耳卒。

(経三二五)冬の十二月己卯、晋侯重耳が卒した。

僖公(經三三一)三十有三年

僖公(経三三一)三十有三年

春,王二月,秦人入滑。齊侯使國歸父來聘。

春、周暦の二月、秦人が滑に入った。斉侯が国帰父を遣わして聘問に来させた。

(經三三二)夏,四月辛巳,晉人及姜戎敗秦於殽。

(経三三二)夏の四月辛巳、晋人および姜戎が殽で秦を破った。

(傳)其謂之秦何?夷狄之也。曷為夷狄之?秦伯將襲鄭,百里子與蹇叔子諫曰:「千里而襲人,未有不亡者也。」秦伯怒曰:「若爾之年者,宰上之木拱矣,爾曷知!」師出,百里子與蹇叔子送其子而戒之曰:「爾即死,必於殽之嶔巖,是文王之所闢風雨者也,吾將屍爾焉。」子揖師而行。百里子與蹇叔子從其子而哭之。秦伯怒曰:「爾曷為哭吾師?」對曰:「臣非敢哭君師,哭臣之子也。」弦高者,鄭商也,遇之殽,矯以鄭伯之命而犒師焉,或曰往矣,或曰反矣。然而晉人與姜戎要之殽而擊之,匹馬輪無反者。其言及姜戎何?姜戎微也,稱人亦微者也。何言乎姜戎之微?先軫也,或曰襄公親之。襄公親之,則其稱人何?貶。曷為貶?君在乎殯而用師危,不得葬也。詐戰不日,此何以日?盡也。

(伝)なぜ「秦」と称して「秦人」と称さないのか。それを夷狄としたのである。なぜ夷狄とするのか。秦伯は将に鄭を襲わんとし、百里子と蹇叔子が諫めて曰く。「千里も行って人を襲うのに、亡びないことはありません。」秦伯は怒って曰く。「そなたたちの年のような者は、墓の上の木が両手で抱えるほどになっている。そなたたちが何を知るか!」軍が出発し、百里子と蹇叔子はその子を送って戒めて曰く。「そなたたちがもし死ぬなら、必ず殽の嶮巌で死ぬであろう。そこは文王が風雨を避けた所であり、吾はそこでそなたたちの屍を収めよう。」子は軍に揖して行った。百里子と蹇叔子はその子に従ってこれを哭いた。秦伯は怒って曰く。「そなたたちはなぜ吾の軍を哭くのか。」対えて曰く。「臣はあえて君の軍を哭しません。臣の子を哭するのです。」弦高は鄭の商人で、殽で彼らに遇い、鄭伯の命と偽って軍を労った。ある者は進もうと言い、ある者は帰ろうと言った。しかるに晋人と姜戎が殽で遮って撃ち、一馬一匹、一輪も帰らなかった。「及姜戎」と言うのは何か。姜戎は身分が微しく、「人」と称しても身分が微しい。なぜ姜戎を身分微しいと言うのか。実は先轸であり、一説には襄公自ら与ったともいう。襄公が自ら与ったなら、なぜ「人」と称するのか。貶めたのである。なぜ貶めるのか。君がまだ殯に在るのに兵を用いたのは、危険で、葬を得ないからである。約期のない戦いは例により日を記さないのに、ここでなぜ日を記すのか。殺し尽くしたからである。

(經三三三)癸巳,葬晉文公。

(経三三三)癸巳、晋文公を葬った。

(經三三四)狄侵齊。

(経三三四)狄が斉に侵入した。

(經三三五)公伐邾婁,取叢。

(経三三五)僖公が邾婁を伐ち、叢を取った。

(經三三六)秋,公子遂率師伐邾婁。

(経三三六)秋、公子遂が軍隊を率いて邾婁を伐った。

(經三三七)晉人敗狄於箕。

(経三三七)晋人が箕で狄を破った。

(經三三八)冬,十月,公如齊。

(経三三八)冬の十月、僖公は斉に行った。

(經三三九)十有二月,公至自齊。

(経三三九)十二月、僖公は斉から帰った。

(經三三十)乙巳,公薨於小寢。

(経三三十)乙巳、僖公は小寝で薨じた。

(經三三十一)隕霜不殺草,李、梅實。

(経三三十一)霜が降りても草を殺さず、李・梅が実を結んだ。

(傳)何以書?記異也。何異爾?不時也。

(伝)なぜ書くのか。異常を記したのである。どこが異常なのか。時季に合わないのである。

(經三三六)晉人、陳人、鄭人伐許。

(経三三六)晋人・陳人・鄭人が許を伐った。

文公

文公(經一一)元年

文公(経一一)元年

春,王正月,公即位。

春、周暦の正月、文公が即位しました。

(經一二)二月癸亥朔,日有食之。

(経一二)二月癸亥の朔、日食がありました。

(經一三)天王使叔服來會葬。

(経一三)天子が叔服を派遣して葬儀に会させました。

(傳)其言來會葬何?會葬禮也。

(伝)「来会葬」と書くのはどういう意味ですか。葬儀に会することは礼にかなっているのです。

(經一四)夏,四月丁巳,葬我君僖公。天王使毛伯來錫公命。

(経一四)夏四月丁巳、わが魯の君である僖公を葬りました。天子が毛伯を派遣して文公に命服を賜りました。

(傳)錫者何?賜也。命者何?加我服也。

(伝)「錫」とは何ですか。賜るということです。「命」とは何ですか。わたしに命服を加えることです。

(經一五)晉侯伐衛。

(経一五)晋侯が衛を攻めました。

(經一六)叔孫得臣如京師。

(経一六)叔孫得臣が京師に行きました。

(經一七)衛人伐晉。

(経一七)衛の人が晋を攻めました。

(經一八)秋,公孫敖會晉侯於戚。

(経一八)秋、公孫敖が戚で晋侯と会見しました。

(經一九)冬,十月丁未,楚世子商臣弒其君髡。

(経一九)冬十月丁未、楚の世子商臣がその君である髠を殺しました。

(經一十)公孫敖如齊。

(経一十)公孫敖が斉に行きました。

文公(經二一)二年

文公(経二一)二年

春,王二月甲子,晉侯及秦師戰於彭衙,秦師敗績。

春、周暦二月甲子、晋侯と秦の軍隊が彭衙で交戦し、秦の軍隊は大敗しました。

(經二二)丁丑,作僖公主。

(経二二)丁丑、僖公の神主を作りました。

(傳)作僖公主者何?為僖公作主也。主者曷用?虞主用桑,練主用栗。用栗者,藏主也。作僖公主,何以書?譏。何譏爾?不時也。其不時奈何?欲久喪而後不能也。

(伝)「僖公の主を作る」とはどういう意味ですか。僖公のために神主を作ったのです。神主には何を用いますか。虞祭の神主には桑の木を用い、練祭の神主には栗の木を用います。栗の木を用いるのは、廟に納める神主だからです。僖公の神主を作ったことをなぜ記すのですか。譏刺です。何を譏刺するのですか。時期に合わないことです。どのように時期に合わないのですか。もとは喪期を長く引き延ばそうとしましたが、後でそれができなかったのです。

(經二三)三月乙巳,及晉處父盟。

(経二三)三月乙巳、晋の処父と会盟しました。

(傳)此晉陽處父也,何以不氏?諱與大夫盟也。

(伝)この人は晋の陽処父ですが、なぜ氏を書かないのですか。大夫と会盟したことを隠すためです。

(經二四)夏,六月,公孫敖會宋公、陳侯、鄭伯、晉士縠,盟於垂斂。

(経二四)夏六月、公孫敖が宋公・陳侯・鄭伯・晋の士縠と会い、垂斂で会盟しました。

(經二五)自十有二月不雨,至於秋七月。

(経二五)十二月から雨が降らず、秋七月まで続きました。

(傳)何以書?記異也。大旱以災書,此亦旱也,曷為以異書?大旱之日短而云災,故以災書;此不雨之日長而無災,故以異書也。

(伝)なぜ記すのですか。異常を記すためです。大旱は災害として記しますが、これも旱です。なぜ異常として記すのですか。大旱は日数が短いからこそ災害と称し、災害として記すのです。ここでは雨の降らない日が長かったのに災害にはならなかったので、異常として記すのです。

(經二六)八月丁卯,大事於太廟,躋僖公。

(経二六)八月丁卯、太廟で大事を行い、僖公を昇らせました。

(傳)大事者何?大祫也。大祫者何?合祭也。其合祭奈何?毀廟之主,陳於太祖;未毀廟之主皆升,合食於太祖,五年而再殷祭。躋者何?升也。何言乎升僖公?譏。何譏爾?逆祀也。其逆祀奈何?先禰而後祖也。

(伝)「大事」とは何ですか。大祫です。大祫とは何ですか。合祭です。合祭とはどのようなものですか。すでに廟を毀した神主は太祖廟に並べ、まだ廟を毀していない神主はすべて昇らせて、いっしょに太祖廟で祭りを受け、五年ごとに盛大な合祭を行います。「躋」とは何ですか。昇ることです。なぜ僖公を昇らせると言うのですか。譏刺です。何を譏刺するのですか。祭祀の順序を倒したことです。どのように倒したのですか。禰(父)を先に置き、祖を後に置いたのです。

(經二七)冬,晉人、宋人、陳人、鄭人伐秦。

(経二七)冬、晋の人・宋の人・陳の人・鄭の人が秦を攻めました。

(經二八)公子遂如齊納幣。

(経二八)公子遂が斉に行って聘礼を納めました。

(傳)納幣不書,此何以書?譏。何譏爾?譏喪娶也。娶在三年之外,則何譏乎喪娶?三年之內不圖婚。吉禘於莊公,譏。然則曷為不於祭焉譏?三年之恩疾矣,非虛加之也,以人心為皆有之。以人心為皆有之,則曷為獨於娶焉譏?娶者,大吉也,非常吉也。其為吉者主於己,以為有人心焉者,則宜於此焉變矣!

(伝)聘礼を納めることは例によって記しません。ここでなぜ記すのですか。譏刺です。何を譏刺するのですか。喪期中に妻を娶ることを譏刺するのです。妻を娶るのは三年の外なのに、なぜ喪娶を譏刺するのですか。三年の内は婚事を謀るべきではないからです。荘公の廟で吉禘を行ったことも譏刺されました。ではなぜ祭祀のほうで譏刺しないのですか。三年の恩情は痛切なもので、むなしく付け加えたものではなく、人の心にはみなこの恩情があるからです。人の心にみなこの恩情があるのに、なぜ妻を娶ることだけで譏刺するのですか。妻を娶ることは大吉で、尋常の吉ではないからです。この吉は自分のためのものであり、人の心がある者は、ここで変えなければならないと考えるのです。

文公(經三一)三年

文公(経三一)三年

春,王正月,叔孫得臣會晉人、宋人、陳人、衛人、鄭人伐沈,沈潰。

春、周暦正月、叔孫得臣が晋の人・宋の人・陳の人・衛の人・鄭の人と会して沈を攻め、沈は潰敗しました(人民が逃げ散りました)。

(經三二)夏,五月,王子虎卒。

(経三二)夏五月、王子虎が亡くなりました。

(傳)王子虎者何?天子之大夫也。外大夫不卒,此何以卒?新使乎我也。

(伝)王子虎とはどのような人ですか。天子の大夫です。外の大夫は例によって死を記しません。ここでなぜ記すのですか。彼が新たに魯に使いに来たことがあるからです。

(經三三)秦人伐晉。

(経三三)秦の人が晋を攻めました。

(經三四)秋,楚人圍江。

(経三四)秋、楚の人が江を包囲しました。

(經三五)雨螽於宋。

(経三五)螽斯が雨のように宋に落ちました。

(傳)雨螽者何?死而墜也。何以書?記異也。外異不書,此何以書?為王者之後記異也。

(伝)「螽が雨のよう」とはどういう意味ですか。死んで落ちてきたのです。なぜ記すのですか。異常を記すためです。外の異常は例によって記しません。ここでなぜ記すのですか。宋は王者の末裔なので、そのために異常を記すのです。

(經三六)冬,公如晉。

(経三六)冬、文公が晋に行きました。

(經三七)十有二月己巳,公及晉侯盟。

(経三七)十二月己巳、文公が晋侯と会盟しました。

(經三八)晉陽處父帥師伐楚救江。

(経三八)晋の陽処父が軍隊を率いて楚を攻めて江を救いました。

(傳)此伐楚也,其言救江何?為諼也。其為諼奈何?伐楚為救江也。

(伝)これは楚を攻めることなのに、なぜ「江を救う」と書くのですか。欺きです。どのように欺くのですか。表面は楚を伐ちながら、実は江を救うためだったのです。

文公(經四一)四年

文公(経四一)四年

春,公至自晉。

春、文公が晋から帰りました。

(經四二)夏,逆婦姜於齊。

(経四二)夏、斉に行って婦人姜を迎えました。

(傳)其謂之逆婦姜於齊何?略之也。高子曰:「娶乎大夫者,略之也。」

(伝)なぜ「逆婦姜于斉」と書くのですか。彼を簡略に記すのです。高子が言いました。「娶る相手は大夫の娘だから、簡略に記すのだ」と。

(經四三)狄侵齊。

(経四三)狄が斉に侵入しました。

(經四四)秋,楚人滅江。

(経四四)秋、楚の人が江を滅ぼしました。

(經四五)晉侯伐秦。

(経四五)晋侯が秦を攻めました。

(經四六)衛侯使寧俞來聘。

(経四六)衛侯が寧兪を派遣して聘問に来ました。

(經四七)冬,十有一月壬寅,夫人風氏薨。

(経四七)冬十一月壬寅、夫人風氏が亡くなりました。

文公(經五一)五年

文公(経五一)五年

春,王正月,王使榮叔歸含且賵。

春、周暦正月、天子が栄叔を派遣して含玉と賵を届けさせました。

(傳)含者何?口實也。其言歸含且賵何?兼之。兼之非禮也。

(伝)「含」とは何ですか。口に入れるものです。「帰含且賵」と書くのはどういう意味ですか。二つの事を一つに並べたのです。並べるのは礼にかないません。

(經五二)三月辛亥,葬我小君成風。

(経五二)三月辛亥、わが魯の小君成風を葬りました。

(傳)成風者何?僖公之母也。

(伝)成風とはどのような人ですか。僖公の母です。

(經五三)王使召伯來會葬。

(経五三)天子が召伯を派遣して葬儀に会させました。

(經五四)夏,公孫敖如晉。

(経五四)夏、公孫敖が晋に行きました。

(經五五)秦人入鄀。

(経五五)秦の人が鄀に入りました。

(經五六)秋,楚人滅六。

(経五六)秋、楚の人が六を滅ぼしました。

(經五七)冬,十月甲申,許男業卒。

(経五七)冬十月甲申、許男業が亡くなりました。

文公(經六一)六年

文公(経六一)六年

春,葬許僖公。

春、許僖公を葬りました。

(經六二)夏,季孫行父如陳。

(経六二)夏、季孫行父が陳に行きました。

(經六三)秋,季孫行父如晉。

(経六三)秋、季孫行父が晋に行きました。

(經六四)八月乙亥,晉侯讙卒。

(経六四)八月乙亥、晋侯驩が亡くなりました。

(經六五)冬,十月,公子遂如晉。

(経六五)冬十月、公子遂が晋に行きました。

(經六六)葬晉襄公。

(経六六)晋襄公を葬りました。

(經六七)晉殺其大夫陽處父,晉狐射姑出奔狄。

(経六七)晋がその大夫陽処父を殺し、晋の狐射姑が狄に出奔しました。

(傳)晉殺其大夫陽處父,則狐射姑曷為出奔?射姑殺也。射姑殺則其稱國以殺何?君漏言也。其漏言奈何?君將使射姑將。陽處父諫曰:「射姑民眾不說,不可使將。」於是廢將。陽處父出,射姑入。君謂射姑曰:「陽處父言曰:『射姑民眾不說,不可使將。』」射姑怒,出刺陽處父於朝而走。

(伝)晋が大夫陽処父を殺したとき、狐射姑はなぜ出奔したのですか。射姑が殺したからです。射姑が殺したのなら、なぜ国名で殺と書くのですか。国君が言葉を漏らしたからです。どのように漏らしたのですか。国君は射姑に兵を率いさせようとしていました。陽処父が諫めて言いました。「射姑は民衆に好かれていません。兵を率いさせてはなりません。」そこでこの任命を取りやめました。陽処父が出て行き、射姑が入ってきました。国君が射姑に言いました。「陽処父が言った。『射姑は民衆に好かれていない。兵を率いさせてはならない』と。」射姑は怒り、出て行って朝廷で陽処父を刺し殺すと逃げました。

(經六八)閏月不告月,猶朝於廟。

(経六八)閏月に告月を行わず、それでも廟で朝見しました。

(傳)不告月者何?不告朔也。曷為不告朔?天無是月也。閏月矣,何以謂之天無是月?是月非常月也。猶者何?通可以已也。

(伝)「告月しない」とはどういう意味ですか。告朔しないということです。なぜ告朔しないのですか。天にはこの月がないからです。すでに閏月なのに、なぜ天にこの月がないと言うのですか。この月は正常な月ではないからです。「猶」とは何ですか。本来はどちらもやめてよかったということです。

文公(經七一)七年

文公(経七一)七年

春,公伐邾婁。

春、文公が邾婁を攻めました。

(經七二)三月甲戌,取須朐。

(経七二)三月甲戌、須朐を取りました。

(傳)取邑不日,此何以日?內辭也,使若他人然。

(伝)城邑を取ることは例によって日を記しません。ここでなぜ日を記すのですか。魯国内部の措辞で、他人が取ったように見せるためです。

(經七三)遂城郚。

(経七三)続けて郚城を築きました。

(經七四)夏,四月,宋公王臣卒。

(経七四)夏四月、宋公王臣が亡くなりました。

(經七五)宋人殺其大夫。

(経七五)宋の人がその大夫を殺しました。

(傳)何以不名?宋三世無大夫,三世內娶也。

(伝)なぜ名を称さないのですか。宋国には三代にわたり大夫がいなかったからです。三代とも国内で妻を娶ったからです。

(經七六)戊子,晉人及秦人戰於令狐,晉先眛以師奔秦。

(経七六)戊子、晋の人と秦の人が令狐で交戦し、晋の先眛が軍隊を率いて秦に奔りました。

(傳)此偏戰也,何以不言師敗績?敵也。此晉先眛也,其稱人何?貶。曷為貶?外也。其外奈何?以師外也。何以不言出?遂在外也。

(伝)これは期日を約して戦ったものです。なぜ軍隊の大敗を書かないのですか。勢力が拮抗していたからです。この人は晋の先眛ですが、なぜ「人」と称するのですか。貶めているのです。なぜ貶めるのですか。外に逃げたからです。どのように外に逃げたのですか。軍隊を率いて外に逃げたのです。なぜ「出」と書かないのですか。もともと外にいたからです。

(經七七)狄侵我西鄙。

(経七七)狄がわが魯の西の辺境に侵入しました。

(經七八)秋,八月,公會諸侯、晉大夫,盟於扈。

(経七八)秋八月、文公が諸侯・晋の大夫と会し、扈で会盟しました。

(傳)諸侯何以不序?大夫何以不名?公失序也。公失序奈何?諸侯不可使與公盟,眣晉大夫使與公盟也。

(伝)諸侯はなぜ順序どおりに書かれていないのですか。大夫はなぜ名を称さないのですか。文公が順序を失ったからです。文公はどのように順序を失ったのですか。諸侯が文公と会盟しようとしなかったので、晋の大夫に目くばせをさせて文公と会盟させたのです。

(經七九)冬,徐伐莒。公孫敖如莒蒞盟。

(経七九)冬、徐が莒を攻めました。公孫敖が莒に行って会盟に臨みました。

文公(經八一)八年

文公(経八一)八年

春,王正月。

春、周暦正月。

(經八二)夏,四月。

(経八二)夏四月。

(經八三)秋,八月戊申,天王崩。

(経八三)秋八月戊申、天子が亡くなりました。

(經八四)冬,十月壬午,公子遂會晉趙盾,盟于衡雍。

(経八四)冬十月壬午、公子遂が晋の趙盾と会見し、衡雍で会盟しました。

(經八五)乙酉,公子遂會伊雒戎,盟於暴。

(経八五)乙酉、公子遂が伊洛の戎と会見し、暴で会盟しました。

(經八六)公孫敖如京師,不至復;丙戌,奔莒。

(経八六)公孫敖が京師に行き、到着しないまま帰りました。丙戌、莒に出奔しました。

(傳)不至復者何?不至復者,內辭也,不可使往也。不可使往,則其言如京師何?遂公意也。何以不言出?遂在外也。

(伝)「不至復」とはどういう意味ですか。「不至復」は魯国内部の措辞で、実は彼を派遣することができなかったのです。派遣できなかったのに「如京師」と書くのはなぜですか。文公の心意を成し遂げさせるためです。なぜ「出」と書かないのですか。もともと外にいたからです。

(經八七)螽。

(経八七)螽斯が災害となりました。

(經八八)宋人殺其大夫司馬;宋司城來奔。

(経八八)宋の人がその大夫司馬を殺しました。宋の司城が投奔してきました。

(傳)司馬者何?司城者何?皆官舉也。曷為皆官舉?宋三世無大夫,三世內娶也。

(伝)司馬とは何ですか。司城とは何ですか。どちらも官名を挙げたものです。なぜどちらも官名を挙げるのですか。宋国には三代にわたり大夫がいなかったからです。三代とも国内で妻を娶ったからです。

文公(經九一)九年

文公(経九一)九年

春,毛伯來求金。

春、毛伯が金を求めに来ました。

(傳)毛伯者何?天子之大夫也。何以不稱使?當喪未君也。逾年矣,何以謂之未君?即位矣,而未稱王也。未稱王,何以知其即位?以諸侯之逾年即位,亦知天子之逾年即位也。以天子三年然後稱王,亦知諸侯於其封內三年稱子也。逾年稱公矣,則曷為於其封內三年稱子?緣民臣之心,不可一日無君;緣終始之義,一年不二君,不可曠年無君;緣孝子之心,則三年不忍當也。毛伯來求金,何以書?譏。何譏爾?王者無求,求金非禮也。然則是王者與?曰:非也。非王者則曷為謂之王者?王者無求,曰:是子也。繼文王之體,守文王之法度,文王之法無求而求,故譏之也。

(伝)毛伯とはどのような人ですか。天子の大夫です。なぜ「使」と称さないのですか。ちょうど喪期中で、まだ正式の君がいないからです。年を越えているのに、なぜまだ正式の君がいないと言うのですか。即位はしたけれど、まだ王と称していないからです。まだ王と称していないのに、どうして即位したと分かるのですか。諸侯は年を越えると即位するので、天子も年を越えると即位すると分かります。天子は三年してから王と称するので、諸侯も封疆の内で三年は「子」と称すると分かります。年を越えればすでに公と称しているのに、なぜ封疆の内では三年「子」と称するのですか。民臣の心に従えば、一日も君なしではいられません。終始の義に従えば、一年に二人の君はおらず、一年じゅう君なしでもありません。孝子の心に従えば、三年は承当するに忍びないのです。毛伯が金を求めに来たことをなぜ記すのですか。譏刺です。何を譏刺するのですか。王者には「求」がないのに、金を求めるのは礼にかなわないからです。ではこの人は王者なのですか。答えて言います。そうではありません。王者でないのに、なぜ彼を王者と称するのですか。王者には「求」がないからです。答えて言います。この人は子です。彼は文王の体統を継ぎ、文王の法度を守っています。文王の法に「求」はないのに彼が求めてきたので、彼を譏刺するのです。

(經九二)夫人姜氏如齊。

(経九二)夫人姜氏が斉に行きました。

(經九三)二月,叔孫得臣如京師。

(経九三)二月、叔孫得臣が京師に行きました。

(經九四)辛丑,葬襄王。

(経九四)辛丑、襄王を葬りました。

(傳)王者不書葬,此何以書?不及時書,過時書,我有往者則書。

(伝)王者は例によって葬りを記しません。ここでなぜ記すのですか。時期に至らなくて記し、時期を過ぎて記し、魯の人が葬儀に会して参加すれば記すのです。

(經九五)晉人殺其大夫先都。

(経九五)晋の人がその大夫先都を殺しました。

(經九六)三月,夫人姜氏至自齊。

(経九六)三月、夫人姜氏が斉から帰りました。

(經九七)晉人殺其大夫士眛及箕鄭父。

(経九七)晋の人がその大夫士縠と箕鄭父を殺しました。

(經九八)楚人伐鄭。

(経九八)楚の人が鄭を攻めました。

(經九九)公子遂會晉人、宋人、衛人、許人救鄭。

(経九九)公子遂が晋の人・宋の人・衛の人・許の人と会して鄭を救いました。

(經九十)夏,狄侵齊。

(経九十)夏、狄が斉に侵入しました。

(經九十一)秋,八月,曹伯襄卒。

(経九十一)秋八月、曹伯襄が亡くなりました。

(經九十二)九月癸酉,地震。

(経九十二)九月癸酉、地震がありました。

(傳)地震者何?動地也。何以書?記異也。

(伝)地震とは何ですか。地が動くことです。なぜ記すのですか。異常を記すためです。

(經九十三)冬,楚子使椒來聘。

(経九十三)冬、楚子が椒を派遣して聘問に来ました。

(傳)椒者何?楚大夫也。楚無大夫,此何以書?始有大夫也。始有大夫,則何以不氏?許夷狄者不一而足也。

(伝)椒とはどのような人ですか。楚の大夫です。楚には大夫がいないのに、ここでなぜ記すのですか。大夫ができ始めたからです。大夫ができ始めたのに、なぜ氏を書かないのですか。夷狄に許可を与えながらも、一気に与えきらないのです。

(經九十四)秦人來歸僖公成風之襚。

(経九十四)秦の人が僖公・成風への襚を届けに来ました。

(傳)其言僖公成風何?兼之。兼之非禮也。曷為不言及成風?成風尊也。

(伝)「僖公成風」と書くのはどういう意味ですか。二つの事を一つに並べたのです。並べるのは礼にかないません。なぜ「及成風」と書かないのですか。成風の地位が尊いからです。

(經九十五)葬曹共公。

(経九五)曹共公を葬りました。

文公(經十一)十年

文公(経十一)十年

春,王三月辛卯,臧孫辰卒。

春、周暦三月辛卯、臧孫辰が亡くなりました。

(經十二)夏,秦伐晉。

(経十二)夏、秦が晋を攻めました。

(經十三)楚殺其大夫宜申。

(経十三)楚がその大夫宜申を殺しました。

(經十四)自正月不雨,至於秋七月。

(経十四)正月から雨が降らず、秋七月まで続きました。

(經十五)及蘇子盟於女栗。

(経十五)蘇子と女栗で会盟しました。

(經十六)冬,狄侵宋。

(経十六)冬、狄が宋に侵入しました。

(經十七)楚子、蔡侯次於屈貉。

(経十七)楚子・蔡侯が屈貉に駐屯しました。

文公(經十一一)十有一年

文公(経十一一)十有一年

春,楚子伐圈。

春、楚子が圏を攻めました。

(經十一二)夏,叔彭生會晉郄缺於承匡。

(経十一二)夏、叔彭生が承匡で晋の郤缺と会見しました。

(經十一三)秋,曹伯來朝。

(経十一三)秋、曹伯が朝見に来ました。

(經十一四)公子遂如宋。

(経十一四)公子遂が宋に行きました。

(經十一五)狄侵齊。

(経十一五)狄が斉に侵入しました。

(經十一六)冬,十月甲午,叔孫得臣敗狄於鹹。

(経十一六)冬十月甲午、叔孫得臣が咸で狄を破りました。

(傳)狄者何?長狄也。兄弟三人,一者之齊,一者之魯,一者之晉。其之齊者,王子成父殺之;其之魯者,叔孫得臣殺之;則未知其之晉者也。其言敗何?大之也。其日何?大之也。其地何?大之也。何以書?記異也。

(伝)狄とは何ですか。長狄です。兄弟三人で、一人は斉に行き、一人は魯に行き、一人は晋に行きました。斉に行った者は王子成父が殺し、魯に行った者は叔孫得臣が殺し、晋に行った者は分かりません。なぜ「敗」と書くのですか。この事を誇大に書くためです。なぜ日を記すのですか。この事を誇大に書くためです。なぜ地を記すのですか。この事を誇大に書くためです。なぜ記すのですか。異常を記すためです。

文公(經十二一)十有二年

文公(経十二一)十有二年

春,王正月,盛伯來奔。

春、周暦正月、盛伯が投奔してきました。

(傳)盛伯者何?失地之君也。何以不名?兄弟辭也。

(伝)盛伯とはどのような人ですか。地を失った国君です。なぜ名を称さないのですか。これは兄弟に対する措辞です。

(經十二二)杞伯來朝。

(経十二二)杞伯が朝見に来ました。

(經十二三)二月庚子,子叔姬卒。

(経十二三)二月庚子、子叔姫が亡くなりました。

(傳)此未適人,何以卒?許嫁矣。婦人許嫁,字而笄之,死則以成人之喪治之。其稱子何?貴也。其貴奈何?母弟也。

(伝)この人はまだ嫁いでいないのに、なぜ死を記すのですか。すでに嫁ぐことを許されていたからです。婦人は嫁ぐことを許されると、字を与えられて笄を加え、死ねば成人の喪礼で扱います。なぜ「子」と称するのですか。地位が尊いからです。どのように尊いのですか。国君の同母の妹だからです。

(經十二四)夏,楚人圍巢。

(経十二四)夏、楚の人が巣を包囲しました。

(經十二五)秋,滕子來朝。

(経十二五)秋、滕子が朝見に来ました。

(經十二六)秦伯使遂來聘。

(経十二六)秦伯が遂を派遣して聘問に来ました。

(傳)遂者何?秦大夫也。秦無大夫,此何以書?賢繆公也。何賢乎繆公?以為能變也。其為能變奈何?惟諓諓善竫言。俾君子易怠,而況乎我多有之,惟一介斷斷焉無他技。其心休休,能有容,是難也。

(伝)遂とはどのような人ですか。秦の大夫です。秦には大夫がいないのに、ここでなぜ記すのですか。繆公が賢いと思うからです。繆公のどこが賢いのですか。変わることができると思うからです。どのように変わることができるのですか。巧みな言葉でよく喋る人は君子を怠けさせやすく、ましてこちらにはそうした人が多くいます。ただ一人の正直な人がいて、ほかに技能はないけれど、心が広く人を容れることができる。これこそ得がたいものです。

(經十二七)冬,十有二月戊午,晉人、秦人戰於河曲。

(経十二七)冬十二月戊午、晋の人と秦の人が河曲で交戦しました。

(傳)此偏戰也,何以不言師敗績?敵也。曷為以水地?河曲疏矣,河千里而一曲也。

(伝)これは期日を約して戦ったものです。なぜ軍隊の大敗を書かないのですか。勢力が拮抗していたからです。なぜ地名に水を帯びさせるのですか。河曲はあまりに疎遠です。黄河は千里あってようやく一曲があるのです。

(經十二八)季孫行父帥師,城諸及運。

(経十二八)季孫行父が軍隊を率いて諸と運を築きました。

文公(經十三一)十有三年

文公(経十三一)十有三年

春,王正月。

春、周暦正月。

(經十三二)夏,五月壬午,陳侯朔卒。

(経十三二)夏五月壬午、陳侯朔が亡くなりました。

(經十三三)邾婁子蘧蒢卒。

(経十三三)邾婁子蘧蒢が亡くなりました。

(經十三四)自正月不雨,至於秋七月。

(経十三四)正月から雨が降らず、秋七月まで続きました。

(經十三五)世室屋壞。

(経十三五)世室の屋根が壊れました。

(傳)世室者何?魯公之廟也。周公稱太廟,魯公稱世室,群公稱宮。此魯公之廟也,曷為謂之世室?世室,猶世室也,世世不毀也。周公何以稱太廟於魯?封魯公以為周公也。周公拜乎前,魯公拜乎後。曰:生以養周公,死以為周公主。然則周公之魯乎?曰:不之魯也,封魯公以為周公主。然則周公曷為不之魯?欲天下之一乎周也。魯祭周公,何以為牲?周公用白牡,魯公用騂犅,群公不毛。魯祭周公,何以為盛?周公盛,魯公燾,群公廩。世室屋壞,何以書?譏。何譏爾?久不修也。

(伝)世室とは何ですか。魯公の廟です。周公を太廟と称し、魯公を世室と称し、そのほかの群公を宮と称します。これは魯公の廟なのに、なぜ世室と呼ぶのですか。「世室」とは「世室」で、世々毀れないという意味です。周公はなぜ魯で太廟と称されるのですか。魯公を封じたのは周公のためです。周公が前で拝し、魯公が後で拝しました。言うには、生きている間は周公を奉養するため、死んでからは周公の主祭とするためです。では周公は魯に行ったのですか。答えて言います。魯には行かず、魯公を封じたのは周公の主祭とするためです。では周公はなぜ魯に行かなかったのですか。天下をすべて周に統一させるためです。魯が周公を祭るには、どんな犠牲を用いますか。周公には白い雄牛を用い、魯公には赤い雄牛を用い、そのほかの群公には純色でないものを用います。魯が周公を祭るとき、祭器の中の黍稷はどうですか。周公には盛り満ちたものを用い、魯公には覆い隠したものを用い、そのほかの群公には倉廩の中の並のものを用います。世室の屋根が壊れたことをなぜ記すのですか。譏刺です。何を譏刺するのですか。長いこと修繕しないことです。

(經十三六)冬,公如晉。

(経十三六)冬、文公が晋に行きました。

(經十三七)衛侯會於沓。

(経十三七)衛侯が沓で相見しました。

(經十三八)狄侵衛。

(経十三八)狄が衛に侵入しました。

(經十三九)十有二月己丑,公及晉侯盟,還自晉。

(経十三九)十二月己丑、文公が晋侯と会盟し、晋から帰りました。

(經十三十)鄭伯會公於斐。

(経十三十)鄭伯が斐で文公と会見しました。

(傳)還者何?善辭也。何善爾?往黨,衛侯會公於沓,至得與晉侯盟。反黨,鄭伯會公於斐,故善之也。

(伝)「還」とはどういう意味ですか。称賛の措辞です。何を称賛するのですか。行くときには衛侯が沓で文公と会見し、着いてからやっと晋侯と会盟しました。帰るときには鄭伯が斐で文公と会見しました。だから彼を称賛するのです。

文公(經十四一)十有四年

文公(経十四一)十有四年

春,王正月,公至自晉。

春、周暦正月、文公が晋から帰りました。

(經十四二)邾婁人伐我南鄙。

(経十四二)邾婁の人がわが魯の南の辺境を攻めました。

(經十四三)叔彭生帥師伐邾婁。

(経十四三)叔彭生が軍隊を率いて邾婁を攻めました。

(經十四四)夏,五月乙亥,齊侯潘卒。

(経十四四)夏五月乙亥、斉侯潘が亡くなりました。

(經十四五)六月,公會宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯、晉趙盾。

(経十四五)六月、文公が宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯・晋の趙盾と会しました。

(經十四六)癸酉,同盟於新城。

(経十四六)癸酉、いっしょに新城で会盟しました。

(經十四七)秋,七月,有星孛入於北斗。

(経十四七)秋七月、孛星が北斗に入りました。

(傳)孛者何?彗星也。其言入於北斗何?北斗有中也。何以書?記異也。

(伝)孛とは何ですか。彗星です。「于北斗に入る」と書くのはどういう意味ですか。北斗には中宮があります。なぜ記すのですか。異常を記すためです。

(經十四八)公至自會。

(経十四八)文公が会盟から帰りました。

(經十四九)晉人納接菑於邾婁,弗克納。

(経十四九)晋の人が接菑を邾婁に入れようとしましたが、入れることができませんでした。

(傳)納者何?入辭也。其言弗克納何?大其弗克納也。何大乎其弗克納?晉郄缺帥師,革車八百乘,以納接菑於邾婁,力沛若有餘而納之。邾婁人言曰:「接菑,晉出也;貜且,齊出也。子以其指,則接菑也四,貜且也六。子以大國壓之,則未知齊、晉孰有之也,貴則皆貴矣。雖然,貜且也長。」郄缺曰:「非吾力不能納也,義實不爾克也。」引師而去之,故君子大其弗克納也。此晉郄缺也,其稱人何?貶。曷為貶?不與大夫專廢置君也。曷為不與?實與而文不與。文曷為不與?大夫之義,不得專廢置君也。

(伝)「納」とは何ですか。入れる措辞です。「弗克納」と書くのはどういう意味ですか。入れられなかったことを誇大に書くのです。なぜ入れられなかったことを誇大に書くのですか。晋の郤缺が軍隊を率い、兵車八百乗で接菑を邾婁に入れようとしました。力は十分で、余力があるように送り込めました。邾婁の人が言いました。「接菑は晋の女子の生んだ子、貜且は斉の女子の生んだ子です。あなたが指を折って数えれば、接菑は四、貜且は六です。大国を持ち出して圧しても、斉と晋のどちらが占めるか分かりません。貴さで言えば、二人とも貴いのです。それでもなお、貜且は年長です。」郤缺が言いました。「わたしの力が入れられないのではなく、義の上では実にこのように強いて入れることができないのだ。」軍隊を率いて去ったので、君子は入れられなかったことを誇大に書くのです。この人は晋の郤缺ですが、なぜ「人」と称するのですか。貶めているのです。なぜ貶めるのですか。大夫が勝手に国君を廃立することを是としないからです。なぜ是としないのですか。実際には是としながら、文面では是としないのです。文面でなぜ是としないのですか。大夫の職分として、勝手に国君を廃立してはならないからです。

(經十四十)九月甲申,公孫敖卒於齊。

(経十四十)九月甲申、公孫敖が斉で亡くなりました。

(經十四十一)齊公子商人弒其君舍。

(経十四十一)斉の公子商人がその君である舎を殺しました。

(傳)此未逾年之君也,其言弒其君舍何?己立之,己殺之,成死者而賤生者也。

(伝)これはまだ年を越えていない国君ですが、なぜ「其君舎を弑す」と書くのですか。自分で立てて自分で殺したので、死者を成し遂げさせて生者を貶めるのです。

(經十四十二)宋子哀來奔。

(経十四十二)宋の子哀が投奔してきました。

(傳)宋子哀者何?無聞焉爾。

(伝)宋の子哀とはどのような人ですか。聞いたことがありません。

(經十四十三)冬,單伯如齊。

(経十四十三)冬、単伯が斉に行きました。

(經十四十四)齊人執單伯,齊人執子叔姬。

(経十四十四)斉の人が単伯を捉え、斉の人が子叔姫を捉えました。

(傳)執者曷為或稱行人?或不稱行人?稱行人而執者,以其事執也;不稱行人而執者,以己執也。單伯之罪何?道淫也。惡乎淫?淫乎子叔姬。然則曷為不言齊人執單伯及子叔姬?內辭也,使若異罪然。

(伝)人を捉えるのに、なぜ「行人」と称するものと称しないものがあるのですか。「行人」と称して捉えられたのは、その務めた事のゆえに捉えられたからです。「行人」と称さずに捉えられたのは、その人自身のゆえに捉えられたからです。単伯の罪は何ですか。道で淫らなことをしたことです。どこで淫らなことをしたのですか。子叔姫と淫らなことをしたのです。ではなぜ斉の人が単伯と子叔姫を捉えたと書かないのですか。魯国内部の措辞で、二つの異なる罪のように見せるためです。

文公(經十五一)十有五年

文公(経十五一)十有五年

春,季孫行父如晉。

春、季孫行父が晋に行きました。

(經十五二)三月,宋司馬華孫來盟。

(経十五二)三月、宋の司馬華孫が会盟に来ました。

(經十五三)夏,曹伯來朝。

(経十五三)夏、曹伯が朝見に来ました。

(經十五四)齊人歸公孫敖之喪。

(経十五四)斉の人が公孫敖の喪柩を返しました。

(傳)何以不言來?內辭也。脅我而歸之,筍將而來也。

(伝)なぜ「来」と書かないのですか。魯国内部の措辞です。脅されてやっと返し、竹の輿に載せて届けてきたのです。

(經十五五)六月辛丑朔,日有食之,鼓用牲於社。

(経十五五)六月辛丑の朔、日食があり、鼓を打ち犠牲を用いて社を祭りました。

(經十五六)單伯至自齊。

(経十五六)単伯が斉から帰りました。

(經十五七)晉郄缺帥師伐蔡;戊申,入蔡。

(経十五七)晋の郤缺が軍隊を率いて蔡を攻めました。戊申、蔡に入りました。

(傳)入不言伐,此其言伐何?至之日也。其日何?至之日也。

(伝)入ることは例によって「伐」と書きません。ここで「伐」と書くのはなぜですか。到着したその日に入ったからです。なぜ日を記すのですか。到着したその日だからです。

(經十五八)秋,齊人侵我西鄙。

(経十五八)秋、斉の人がわが魯の西の辺境に侵入しました。

(經十五九)季孫行父如晉。

(経十五九)季孫行父が晋に行きました。

(經十五十)冬,十有一月,諸侯盟於扈。

(経十五十)冬十一月、諸侯が扈で会盟しました。

(經十五十一)十有二月,齊人來歸子叔姬。

(経十五十一)十二月、斉の人が子叔姫を返しに来ました。

(傳)其言來何?閔之也。此有罪,何閔爾?父母之於子,雖有罪,猶若其不欲服罪然。

(伝)なぜ「来」と書くのですか。彼女を憐れむのです。この人は罪があります。何を憐れむのですか。父母は子に対して、罪があっても、なお彼女が服罪しようとしないかのように見るのです。

(經十五十二)齊侯侵我西鄙,遂伐曹,入其郛。

(経十五十二)斉侯がわが魯の西の辺境に侵入し、続けて曹を攻め、曹の外城に入りました。

(傳)郛者何?恢郭也。入郛書乎?曰:不書。入郛不書,此何以書?動我也。動我者何?內辭也。其實我動焉爾。

(伝)郛とは何ですか。拡大された外城です。外城に入ることは記しますか。答えて言います。記しません。外城に入ることは例によって記さないのに、ここでなぜ記すのですか。われわれを驚かせたからです。われわれを驚かせたとはどういう意味ですか。魯国内部の措辞です。実はわれわれが驚かされたのです。

文公(經十六一)十有六年

文公(経十六一)十有六年

春,季孫行父會齊侯於陽穀,齊侯弗及盟。

春、季孫行父が陽穀で斉侯と会見しましたが、斉侯は彼と会盟しませんでした。

(傳)其言弗及盟何?不見與盟也。

(伝)「弗及盟」と書くのはどういう意味ですか。斉侯が彼と会盟しようとしなかったのです。

(經十六二)夏,五月,公四不視朔。

(経十六二)夏五月、文公が四回視朔しませんでした。

(傳)公曷為四不視朔?公有疾也。何言乎公有疾不視朔?自是公無疾,不視朔也。然則曷為不言「公無疾不視朔」?有疾猶可言也,無疾不可言也。

(伝)文公はなぜ四回視朔しなかったのですか。文公に病気があったからです。なぜ文公に病気があって視朔しなかったと言うのですか。これ以後、文公は病気でなくても視朔しなくなったからです。ではなぜ「公無疾不視朔」と書かないのですか。病気があればまだ言えますが、病気がなければ言いにくいのです。

(經十六三)六月戊辰,公子遂及齊侯盟於犀丘。

(経十六三)六月戊辰、公子遂が斉侯と犀丘で会盟しました。

(經十六四)秋,八月辛未,夫人姜氏薨。

(経十六四)秋八月辛未、夫人姜氏が亡くなりました。

(經十六五)毀泉臺。

(経十六五)泉台を毀ちました。

(傳)泉臺者何?郎臺也。郎臺則曷為謂之泉臺?未成為郎臺,既成為泉臺。毀泉臺,何以書?譏。何譏爾?築之譏,毀之譏。先祖為之,己毀之,不如勿居而已矣!

(伝)泉台とは何ですか。郎台です。郎台なのに、なぜ泉台と呼ぶのですか。まだ建て終わっていないときは郎台と呼び、建て終わると泉台と呼ぶのです。泉台を毀ったことをなぜ記すのですか。譏刺です。何を譏刺するのですか。築くのも譏刺し、毀るのも譏刺します。先祖が築いたものを自分で毀るなら、そこに住まないだけでよかったのです。

(經十六六)楚人、秦人、巴人滅庸。

(経十六六)楚の人・秦の人・巴の人が庸を滅ぼしました。

(經十六七)冬,十有一月,宋人弒其君處臼。

(経十六七)冬十一月、宋の人がその君である処臼を殺しました。

(傳)弒君者曷為或稱名氏?或不稱名氏?大夫弒君稱名氏,賤者窮諸人;大夫相殺稱人,賤者窮諸盜。

(伝)国君を殺すのに、なぜ名氏を称するものと称しないものがあるのですか。大夫が国君を殺せば名氏を称し、低い身分の者は極まって「人」と称します。大夫同士が殺し合えば「人」と称し、低い身分の者は極まって「盗」と称します。

文公(經十七一)十有七年

文公(経十七一)十有七年

春,晉人、衛人、陳人、鄭人伐宋。

春、晋の人・衛の人・陳の人・鄭の人が宋を攻めました。

(經十七二)夏,四月癸亥,葬我小君聖姜。

(経十七二)夏四月癸亥、わが魯の小君聖姜を葬りました。

(傳)聖姜者何?文公之母也。

(伝)聖姜とはどのような人ですか。文公の母です。

(經十七三)齊侯伐我西鄙。

(経十七三)斉侯がわが魯の西の辺境を攻めました。

(經十七四)六月癸未,公及齊侯盟於谷。

(経十七四)六月癸未、文公が斉侯と穀で会盟しました。

(經十七五)諸侯會於扈。

(経十七五)諸侯が扈で相見しました。

(經十七六)秋,公至自谷。

(経十七六)秋、文公が穀から帰りました。

(經十七七)冬,公子遂如齊。

(経十七七)冬、公子遂が斉に行きました。

文公(經十八一)十有八年

文公(経十八一)十有八年

春,王二月丁丑,公薨於臺下。

春、周暦二月丁丑、文公が台の下で亡くなりました。

(經十八二)秦伯罃卒。

(経十八二)秦伯䓨が亡くなりました。

(經十八三)夏,五月戊戌,齊人弒其君商人。

(経十八三)夏五月戊戌、斉の人がその君である商人を殺しました。

(經十八四)六月癸酉,葬我君文公。

(経十八四)六月癸酉、わが魯の君である文公を葬りました。

(經十八五)秋,公子遂、叔孫得臣如齊。

(経十八五)秋、公子遂・叔孫得臣が斉に行きました。

(經十八六)冬,十月,子卒。

(経十八六)冬十月、子が亡くなりました。

(傳)子卒者孰謂?謂子赤也。何以不日?隱之也。何隱爾?弒也。弒則何以不日?不忍言也。

(伝)「子卒」とは誰のことですか。子赤のことです。なぜ日を記さないのですか。この事を痛み隠すためです。何を痛み隠すのですか。殺されたことです。殺されたのなら、なぜ日を記さないのですか。言うに忍びないからです。

(經十八七)夫人姜氏歸於齊。

(経十八七)夫人姜氏が斉に帰りました。

(經十八八)季孫行父如齊。

(経十八八)季孫行父が斉に行きました。

(經十八九)莒弒其君庶其。

(経十八九)莒がその君である庶其を殺しました。

(傳)稱國以弒何?稱國以弒者,眾弒君之辭。

(伝)なぜ国名で殺と書くのですか。国名で殺と書くのは、衆人が国君を殺す措辞です。

宣公

宣公(經一一)元年

宣公(経一一)元年

春,王正月,公即位。

春、周暦正月、宣公が即位した。

(傳)繼弒君不言即位,此其言即位何?其意也。

(伝)殺された国君の後に即位と書かないのが例であるのに、ここで即位と書くのはなぜか。宣公自身の意思である。

(經一二)公子遂如齊逆女。三月,遂以夫人婦姜至自齊。

(経一二)公子遂が斉国へ女子を迎えに行った。三月、遂は夫人婦姜を連れて斉国から帰った。

(傳)遂何以不稱公子?一事而再見者,卒名也。夫人何以不稱姜氏?貶。曷為貶?譏喪娶也。喪娶者公也,則曷為貶夫人?內無貶於公之道也。內無貶於公之道,則曷為貶夫人?夫人與公一體也。其稱婦何?有姑之辭也。

(伝)遂はなぜ公子と称されないか。一つの事が再び現れた場合、後の方は名だけを記す。夫人はなぜ姜氏と称されないか。貶(おとしめ)である。なぜ貶めるか。喪中に娶ったことを譏(そし)るためである。喪娶したのは宣公なのに、なぜ夫人を貶めるか。魯国内部には国君を貶める道理がない。国君を貶める道理がないのに、なぜ夫人を貶めるか。夫人は国君と一体だからである。「婦」と称するのはなぜか。姑(しゅうとめ)がいるという言い方である。

(經一三)夏,季孫行父如齊。

(経一三)夏、季孫行父が斉国へ行った。

(經一四)晉放其大夫胥甲父於衛。

(経一四)晋国はその大夫胥甲父を衛に放逐した。

(傳)放之者何?猶曰無去是云爾。然則何言爾?近正也。此其為近正奈何?古者大夫已去,三年待放。君放之,非也;大夫待放,正也。古者臣有大喪,則君三年不呼其門。已練可以弁冕,服金革之事。君使之,非也;臣行之,禮也。閔子要絰而服事,既而曰:「若此乎!古之道不即人心。」退而致仕。孔子蓋善之也。

(伝)「之を放つ」とはどういう意味か。「ここを離れるな」と言うのに似ている。ではなぜこう書くか。正道に近いからである。どのように正道に近いか。古は大夫がすでに国を去っても、なお三年間放逐を待った。国君が彼を放逐するのは正しくなく、大夫が放逐を待つのは正しい。古は臣に大喪があると、国君は三年間その門を呼ばなかった。練祭を過ぎれば弁冕を着けて兵事に服することができる。国君が呼んで行かせるのは正しくなく、臣が自ら行くのは礼に合う。閔子騫は腰絰を結んで事に当たり、後で「このようだな。古の道は人の心に適(かな)わない」と言い、退いて官を辞した。孔子はおそらくこのことを称賛したのである。

(經一五)公會齊侯於平州。

(経一五)宣公が平州で斉侯と会見した。

(經一六)公子遂如齊。

(経一六)公子遂が斉国へ行った。

(經一七)六月,齊人取濟西田。

(経一七)六月、斉国人が済水以西の田地を取った。

(傳)外取邑不書,此何以書?所以賂齊也。曷為賂齊?為弒子赤之賂也。

(伝)外が城邑を奪うのは例によって記さないのに、ここで記すのはなぜか。斉国への賄賂とするためである。なぜ斉国に賄賂を送るか。子赤を殺したための賄賂である。

(經一八)秋,邾婁子來朝。

(経一八)秋、邾婁子が朝見に来た。

(經一九)楚子、鄭人侵陳,遂侵宋。

(経一九)楚子・鄭国人が陳に侵入し、続いて宋に侵入した。

(經一十)晉趙盾帥師救陳。宋公、陳侯、衛侯、曹伯會晉師於斐林,伐鄭。

(経一十)晋国の趙盾が軍を率いて陳を救った。宋公・陳侯・衛侯・曹伯が斐林で晋軍と会合して鄭を攻めた。

(傳)此晉趙盾之師也,曷為不言趙盾之師?君不會大夫之辭也。

(伝)これは晋国趙盾の軍なのに、なぜ趙盾の軍と書かないか。国君が大夫と相会しないという言い方である。

(經一十一)冬,晉趙穿帥師侵柳。

(経一十一)冬、晋国の趙穿が軍を率いて柳に侵入した。

(傳)柳者何?天子之邑也。曷為不繫乎周?不與伐天子也。

(伝)柳とは何か。天子の城邑である。なぜ周に繋げて書かないか。天子を攻めることに賛成しないからである。

(經一十二)晉人、宋人伐鄭。

(経一十二)晋国人・宋国人が鄭を攻めた。

宣公(經二一)二年

宣公(経二一)二年

春,王二月壬子,宋華元帥師,及鄭公子歸生帥師,戰於大棘。宋師敗績,獲宋華元。

春、周暦二月壬子、宋国の華元が軍を率い、鄭国の公子帰生が率いる軍と大棘で交戦した。宋軍は大敗し、宋国の華元が捕らえられた。

(經二二)秦師伐晉。

(経二二)秦国の軍が晋を攻めた。

(經二三)夏,晉人、宋人、衛人、陳人侵鄭。

(経二三)夏、晋国人・宋国人・衛国人・陳国人が鄭に侵入した。

(經二四)秋,九月乙丑,晉趙盾弒其君夷嗥。

(経二四)秋九月乙丑、晋国の趙盾がその国君夷嗥を殺した。

(經二五)冬,十月乙亥,天王崩。

(経二五)冬十月乙亥、天子が崩じた。

宣公(經三一)三年

宣公(経三一)三年

春,王正月,郊牛之口傷,改卜牛。牛死,乃不郊,猶三望。

春、周暦正月、郊祭の牛の口が傷ついたので、卜を改めて別の牛を占った。その牛が死んだので、遂に郊祭を行わず、なお三望を行った。

(傳)其言之何?緩也。曷為不復卜?養牲養二卜。帝牲不吉,則扳稷牲而卜之。帝牲在於滌三月,於稷者唯具是視。郊則曷為必祭稷?王者必以其祖配。王者則曷為必以其祖配?自內出者無匹不行,自外至者無主不止。

(伝)なぜ「之」と書くか。語気を緩やかにするためである。なぜ再び卜を問わないか。祭牲は二頭養い、二度卜を問う。天を祭る牲が不吉なら、稷を祭る牲を回して卜を問う。天を祭る牲は滌宮で三か月養い、稷の牲は備え具えればよい。郊祭はなぜ必ず稷を祭るのか。王者は必ず自らの祖先をもって配祭する。王者がなぜ必ず祖先をもって配祭するか。内より出る者は配するものなくしては行なわれず、外より来る者は主なくしては止まらないからである。

(經三二)葬匡王。

(経三二)匡王を葬った。

(經三三)楚子伐賁渾戎。

(経三三)楚子が賁渾戎を攻めた。

(經三四)夏,楚人侵鄭。

(経三四)夏、楚国人が鄭に侵入した。

(經三五)秋,赤狄侵齊。

(経三五)秋、赤狄が斉に侵入した。

(經三六)宋師圍曹。

(経三六)宋軍が曹を包囲した。

(經三七)冬,十月丙戌,鄭伯蘭卒。葬鄭繆公。

(経三七)冬十月丙戌、鄭伯蘭が卒した。鄭繆公を葬った。

宣公(經四一)四年

宣公(経四一)四年

春,王正月,公及齊侯平莒及郯。莒人不肯,公伐莒,取向。

春、周暦正月、宣公と斉侯が莒と郯を調停した。莒国人が肯んじなかったので、宣公は莒を攻め、向を奪った。

(傳)此平莒也,其言不肯何?辭取向也。

(伝)これは莒を調停するのに、なぜ「肯んじず」と書くか。向を奪うための言い方である。

(經四二)秦伯稻卒。

(経四二)秦伯稲が卒した。

(經四三)夏,六月乙酉,鄭公子歸生弒其君夷。

(経四三)夏六月乙酉、鄭国の公子帰生がその国君夷を殺した。

(經四四)赤狄侵齊。

(経四四)赤狄が斉に侵入した。

(經四五)秋,公如齊。公至自齊。

(経四五)秋、宣公が斉国へ行った。宣公は斉国から帰った。

(經四六)冬,楚子伐鄭。

(経四六)冬、楚子が鄭を攻めた。

宣公(經五一)五年

宣公(経五一)五年

春,公如齊。夏,公至自齊。

春、宣公が斉国へ行った。夏、宣公は斉国から帰った。

(經五二)秋,九月,齊高固來逆子叔姬。

(経五二)秋九月、斉国の高固が子叔姫を迎えに来た。

(經五三)叔孫得臣卒。

(経五三)叔孫得臣が卒した。

(經五四)冬,齊高固及子叔姬來。

(経五四)冬、斉国の高固と子叔姫が来た。

(傳)何言乎高固之來?言叔姬之來,而不言高固之來則不可。子公羊子曰:「其諸為其雙雙而俱至者與!」(經五五)楚人伐鄭。

(伝)なぜ高固が来たと言うか。叔姫が来たとだけ言い、高固が来たと言わないわけにはいかない。子公羊子は言った。「おそらく二人が対になって一緒に来たからであろう。」(経五五)楚国人が鄭を攻めた。

宣公(經六一)六年

宣公(経六一)六年

春,晉趙盾、衛孫免侵陳。

春、晋国の趙盾・衛国の孫免が陳に侵入した。

(傳)趙盾弒君,此其復見何?親弒君者趙穿也。親弒君者趙穿,則曷為加之趙盾?不討賊也。何以謂之不討賊?晉史書賊曰:「晉趙盾弒其君夷嗥。」趙盾曰:「天乎!無辜!吾不弒君,誰謂吾弒君者乎?」史曰:「爾為仁為義,人弒爾君,而復國不討賊,此非弒君而何?」

(伝)趙盾は国君を殺したのに、ここでなぜ再び現れるか。手ずから国君を殺したのは趙穿である。手ずから殺したのは趙穿なのに、なぜ趙盾に加えるか。彼が賊を討たなかったからである。なぜ賊を討たなかったと言うか。晋国の史官が賊を記して「晋国の趙盾がその国君夷嗥を殺した」と書いた。趙盾は言った。「天よ!罪はない!私は国君を殺していない。誰が私が国君を殺したと言うのか。」史官は言った。「あなたは仁を講じ義を講じたのに、他人があなたの国君を殺したとき、国に帰って賊を討たなかった。これが国君を殺したのでなくて何であろうか。」

(傳)趙盾之復國奈何?靈公為無道,使諸大夫皆內朝,然後處乎臺上,引彈而彈之,己趨而闢丸,是樂而已矣。趙盾已朝而出,與諸大夫立於朝,有人荷畚,自閨而出者。趙盾曰:「彼何也?夫畚曷為出乎閨?」呼之不至,曰:「子大夫也,欲視之則就而視之。」趙盾就而視之,則赫然死人也。趙盾曰:「是何也?」曰:「膳宰也,熊蹯不熟,公怒以鬥摮而殺之,支解將使我棄之。」趙盾曰:「嘻!」趨而入。靈公望見趙盾,愬而再拜。趙盾逡巡北面再拜稽首,趨而出,靈公心怍焉,欲殺之。於是使勇士某者往殺之,勇士入其大門,則無人門焉者;入其閨,則無人閨焉者;上其堂,則無人焉。俯而窺其戶,方食魚飧。勇士曰:「嘻!子誠仁人也!吾太子之大門,則無人焉;太子之閨,則無人焉;上子之堂,則無人焉;是子之易也。子為晉國重卿而食魚飧,是子之儉也。君將使我殺子,吾不忍殺子也,雖然,吾亦不可復見吾君矣。」遂刎頸而死。

(伝文は続けて言う:)趙盾はどのように帰国したか。霊公は無道で、大夫たちを皆内朝に来させ、自ら台上にいて、弾弓を引いて彼らを撃ち、彼らが走って弾丸を避けるのを見て楽しんだ。趙盾が朝見を終えて出て、大夫たちと朝に立っていると、ある者が畚箕(ほんき、土を運ぶ箕)を担いで閨門から出てきた。趙盾は言った。「あれは何か。畚箕がなぜ閨門から出てくるのか。」呼んだが、彼は来ず、「あなたは大夫です。見たければ近づいて見てください」と言った。趙盾が近づいて見ると、赫然たる死人であった。趙盾は言った。「これは何者か。」答えて言った。「膳宰です。熊掌が煮えなかったので、公は怒って斗で打ち殺し、支解して私に捨てさせようとしています。」趙盾は「ああ!」と言い、急ぎ足で入って行った。霊公は趙盾を望見して驚き惧れ再拝した。趙盾は躊躇しながら北に向かって再拝稽首し、急ぎ足で出て行った。霊公は心に慙じ、彼を殺そうと思った。そこで勇士を一人遣わして殺させた。勇士は大門に入ったが門を守る者がなく、閨門に入ったが閨を守る者がなく、堂に上がっても人がいなかった。身をかがめて門内を見ると、趙盾は魚の飯を食べていた。勇士は言った。「ああ!あなたはまことに仁人です!私はあなたの大門に入っても人がなく、閨門に入っても人がなく、堂に上がっても人がいませんでした。これはあなたの平易さです。あなたは晋国の重卿でありながら魚の飯を食べている。これはあなたの倹約です。国君は私にあなたを殺させようとしていますが、私はあなたを殺すに忍びません。そうはいっても、私はもはや国君に見ることができません。」遂に頸を刎ねて死んだ。(底本は「吾太子之大門」と作るが、「太子」は「入子」の誤りである。)

(傳)靈公聞之怒,滋欲殺之甚,眾莫可使往者。於是伏甲於宮中,召趙盾而食之。趙盾之車右祁彌明者,國之力士也,仡然從乎趙盾而入,放乎堂下而立。趙盾已食,靈公謂盾曰:「吾聞子之劍蓋利劍也,子以示我,吾將觀焉。」趙盾起將進劍,祁彌明自下呼之曰:「盾食飽則出,何故拔劍於君所?」趙盾知之,躇階而走。靈公有周狗,謂之獒,呼獒而屬之,獒亦躇階而從之。祁彌明逆而踆之,絕其頷。趙盾顧曰:「君之獒不若臣之獒也!」然而宮中甲鼓而起,有起干甲中者,抱趙盾而乘之。趙盾顧曰:「吾何以得此於子?」曰:「子某時所食活我於暴桑下者也。」趙盾曰:「子名為誰?」曰:「吾君孰為介?子之乘矣,何問吾名?」趙盾驅而出,眾無留之者。趙穿緣民眾不說,起弒靈公,然後迎趙盾而入,與之立於朝,而立成公黑臀。

(伝文は続けて言う:)霊公はこれを聞いて怒り、さらに彼を殺したいと思ったが、衆に遣わす者がいなかった。そこで宮中に甲士を伏せ、趙盾を呼んで食事させた。趙盾の車右祁弥明は国中の力士で、毅然として趙盾に従って入り、堂の下に立った。趙盾が食べ終わると、霊公は盾に言った。「あなたの剣は利剣だと聞く。持って来て私に見せよ。観賞したい。」趙盾が立って剣を進めようとすると、祁弥明が下から呼ばわって言った。「盾は飽き食べれば出て行くのです。なぜ国君の前で剣を抜くのですか。」趙盾は悟って、階を踏んで駆け下りた。霊公には馴犬があり、獒と呼ばれた。獒を呼んで咬ませようとすると、獒も階を踏んで追った。祁弥明は迎えて蹴り、その頤を蹴り折った。趙盾は振り返って言った。「君の獒は臣の獒に及ばない!」しかし宮中の甲士が鼓を撃って起ち、ある者が甲士の中から起き上がり、趙盾を抱えて車に乗せた。趙盾は振り返って言った。「私は何によってあなたのような救助を得たのか。」答えて言った。「あなたがかつて翳桑の下で私に飯を与えて私を生かした者です。」趙盾は言った。「あなたの名は何か。」答えて言った。「私は国君のために護衛をしているのです。あなたが車に乗ればよいのです。なぜ私の名を問う必要がありましょうか。」趙盾は車を駆って出て行き、衆に彼を留める者はいなかった。趙穿は民衆が霊公を喜ばないのに乗じて、起って霊公を殺し、それから趙盾を迎え入れて彼と朝に立ち、成公黒臀を立てた。

(經六二)夏,四月。

(経六二)夏四月。

(經六三)秋,八月,螽。

(経六三)秋八月、螽が災いを成した。

(經六四)冬,十月。

(経六四)冬十月。

宣公(經七一)七年

宣公(経七一)七年

春,衛侯使孫良夫來盟。

春、衛侯が孫良夫を遣わして会盟に来た。

(經七二)夏,公會齊侯伐萊。

(経七二)夏、宣公は斉侯と会して萊を攻めた。

(經七三)秋,公至自伐萊。

(経七三)秋、宣公は萊を伐った軍から帰った。

(經七四)大旱。

(経七四)大旱魃があった。

(經七五)冬,公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯於黑壤。

(経七五)冬、宣公は晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯と黒壤で会した。

宣公(經八一)八年

宣公(経八一)八年

春,公至自會。

春、宣公は会盟から帰った。

(經八二)夏,六月,公子遂如齊,至黃乃復。

(経八二)夏六月、公子遂が斉国へ行き、黄に至って帰った。

(傳)其言至黃乃復何?有疾也。何言乎有疾乃復?譏。何譏爾?大夫以君命出,聞喪徐行而不反。

(伝)「黄に至り乃ち復る」と書くのはどういう意味か。病気があったのである。なぜ病気があると言って帰るか。譏りである。何を譏るか。大夫は国君の命を奉じて出て、喪の報を聞いても緩やかに行くべきであって、帰るべきではない。

(經八三)辛巳,有事於太廟。

(経八三)辛巳、太廟で祭祀があった。

(經八四)仲遂卒於垂。

(経八四)仲遂が垂で卒した。

(傳)仲遂者何?公子遂也。何以不稱公子?貶。曷為貶?為弒子赤貶。然則曷為不於其弒焉貶?於文則無罪,於子則無年。

(伝)仲遂とは何者か。公子遂である。なぜ公子と称しないか。貶めである。なぜ貶めるか。子赤を殺したために貶める。ではなぜ彼が人を殺した所で貶めないか。文公の所ではまだ罪がなく、子赤の所ではまた年を記していないからである。

(經八五)壬午,猶繹。

(経八五)壬午、なお繹祭を行った。

(經八六)萬入去龠。

(経八六)万舞を入れ、籥を去った。

(傳)繹者何?祭之明日也。萬者何?幹舞也。龠者何?龠舞也。其言萬入去龠何?去其有聲者,廢其無聲者,存其心焉爾。存其心焉爾者何?知其不可而為之也。猶者何?通可以已也。

(伝)繹とは何か。正祭の翌日である。万とは何か。盾の舞である。籥とは何か。籥の舞である。「万を入れ籥を去る」と書くのはどういう意味か。声あるものを去り、声なきものを廃し、ただその心をそこに留めるのである。心をそこに留めるとはどういう意味か。不可と知りながらなお行うことである。「猶」とはどういう意味か。もとよりみな止め得たのである。

(經八七)戊子,夫人熊氏薨。

(経八七)戊子、夫人熊氏が卒した。

(經八八)晉師、白狄伐秦。

(経八八)晋軍・白狄が秦を攻めた。

(經八九)楚人滅舒蓼。

(経八九)楚国人が舒蓼を滅ぼした。

(經八十)秋,七月甲子,日有食之,既。

(経八十)秋七月甲子、日食があり、皆既であった。

(經八十一)冬,十月己丑,葬我小君頃熊。雨不克葬。庚寅,日中而克葬。

(経八十一)冬十月己丑、我が魯国の小君頃熊を葬ろうとした。雨のために葬ることができなかった。庚寅、日の中ば(正午)にようやく葬ることができた。

(傳)頃熊者何?宣公之母也。而者何?難也。乃者何?難也。曷為或言而?或言乃?乃難乎而也。

(伝)頃熊とは何者か。宣公の母である。「而」とはどういう意味か。困難である。「乃」とはどういう意味か。困難である。なぜある所には「而」と書き、ある所には「乃」と書くか。「乃」は「而」よりもさらに困難である。

(經八十二)城平陽。(經八十三)楚師伐陳。

(経八十二)平陽を修築した。(経八三)楚軍が陳を攻めた。

宣公(經九一)九年

宣公(経九一)九年

春,王正月,公如齊。公至自齊。

春、周暦正月、宣公が斉国へ行った。宣公は斉国から帰った。

(經九二)夏,仲孫蔑如京師。

(経九二)夏、仲孫蔑が京師へ行った。

(經九三)齊侯伐萊。

(経九三)斉侯が萊を攻めた。

(經九四)秋,取根牟。

(経九四)秋、根牟を奪った。

(傳)根牟者何?邾婁之邑也。曷為不繫乎邾婁?諱亟也。

(伝)根牟とは何か。邾婁の城邑である。なぜ邾婁に繋げて書かないか。求めるのが急すぎるのを隠諱するからである。

(經九五)八月,滕子卒。

(経九五)八月、滕子が卒した。

(經九六)九月,晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯會於扈。

(経九六)九月、晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯が扈で相会した。

(經九七)晉荀林父帥師伐陳。

(経九七)晋国の荀林父が軍を率いて陳を攻めた。

(經九八)辛酉,晉侯黑臀卒於扈。

(経九八)辛酉、晋侯黒臀が扈で卒した。

(傳)扈者何?晉之邑也。諸侯卒其封內不地,此何以地?卒於會,故地也;未出其地,故不言會也。

(伝)扈とは何か。晋国の城邑である。諸侯が封疆の内で卒するのは例によって地を記さないのに、ここで地を記すのはなぜか。会盟の中で卒したので地を記し、まだその地を去らなかったので「会」と書かないのである。

(經九九)冬,十月癸酉,衛侯鄭卒。

(経九九)冬十月癸酉、衛侯鄭が卒した。

(經九十)宋人圍滕。

(経九十)宋国人が滕を包囲した。

(經九十一)楚子伐鄭,晉郄缺帥師救鄭。

(経九十一)楚子が鄭を攻め、晋国の郤缺が軍を率いて鄭を救った。

(經九十二)陳殺其大夫洩冶。

(経九十二)陳国がその大夫泄冶を殺した。

宣公(經十一)十年

宣公(経十一)十年

春,公如齊。公至自齊。

春、宣公が斉国へ行った。宣公は斉国から帰った。

(經十二)齊人歸我濟西田。

(経十二)斉国人が我が魯国の済水以西の田地を帰した。

(傳)齊已取之矣,其言我何?言我者未絕於我也。曷為未絕於我?齊已言取之矣,其實未之齊也。

(伝)斉国はすでにこれを取ったのに、なぜなお「我」と書くか。「我」と書くのは、まだ魯国から断絶していないからである。なぜまだ断絶していないか。斉国はすでに取ったと言ったが、実はまだ斉国の手に至っていないからである。

(經十三)夏,四月丙辰,日有食之。

(経十三)夏四月丙辰、日食があった。

(經十四)己巳,齊侯元卒。

(経十四)己巳、斉侯元が卒した。

(經十五)齊崔氏出奔衛。

(経十五)斉国の崔氏が衛に奔った。

(傳)崔氏者何?齊大夫也。其稱崔氏何?貶。曷為貶?譏世卿,世卿非禮也。

(伝)崔氏とは何者か。斉国の大夫である。なぜ「崔氏」と称するか。貶めである。なぜ貶めるか。世襲の卿を譏るのであり、世襲の卿は礼に合わないからである。

(經十六)公如齊。五月,公至自齊。

(経十六)宣公が斉国へ行った。五月、宣公は斉国から帰った。

(經十七)癸巳,陳夏徵舒弒其君平國。

(経十七)癸巳、陳国の夏征舒がその国君平国を殺した。

(經十八)六月,宋師伐滕。

(経十八)六月、宋軍が滕を攻めた。

(經十九)公孫歸父如齊,葬齊惠公。

(経十九)公孫帰父が斉国へ行き、斉恵公を葬った。

(經十十)晉人、宋人、衛人、曹人伐鄭。

(経十十)晋国人・宋国人・衛国人・曹国人が鄭を攻めた。

(經十十一)秋,天王使王季子來聘。

(経十十一)秋、天子が王季子を遣わして聘問に来た。

(傳)王季子者何?天子之大夫也。其稱王季子何?貴也。其貴奈何?母弟也。

(伝)王季子とは何者か。天子の大夫である。なぜ「王季子」と称するか。地位が尊いからである。どのように尊いか。天子の同母弟である。

(經十十二)公孫歸父帥師伐邾婁,取蘱。

(経十十二)公孫帰父が軍を率いて邾婁を攻め、蘱を奪った。

(經十十三)大水。

(経十十三)大水があった。

(經十十四)季孫行父如齊。

(経十十四)季孫行父が斉国へ行った。

(經十十五)冬,公孫歸父如齊。

(経十十五)冬、公孫帰父が斉国へ行った。

(經十十六)齊侯使國佐來聘。

(経十十六)斉侯が国佐を遣わして聘問に来た。

(經十十七)飢。

(経十十七)飢饉があった。

(傳)何以書?以重書也。

(伝)なぜ記すか。災情が甚だしいので記すのである。

(經十十八)楚子伐鄭。

(経十十八)楚子が鄭を攻めた。

宣公(經十一一)十有一年

宣公(経十一一)十有一年

春,王正月。

春、周暦正月。

(經十一二)夏,楚子、陳侯、鄭伯盟於辰陵。

(経十一二)夏、楚子・陳侯・鄭伯が辰陵で会盟した。

(經十一三)公孫歸父會齊人伐莒。

(経十一三)公孫帰父が斉国人と会して莒を攻めた。

(經十一四)秋,晉侯會狄於櫕函。

(経十一四)秋、晋侯が櫕函で狄と会見した。

(經十一五)冬,十月,楚人殺陳夏徵舒。

(経十一五)冬十月、楚国人が陳国の夏征舒を殺した。

(傳)此楚子也,其稱人何?貶。曷為貶?不與外討也。不與外討者,因其討乎外而不與也,雖內討亦不與也。曷為不與?實與而文不與。文曷為不與?諸侯之義,不得專討也。諸侯之義不得專討,則其曰實與之何?上無天子,下無方伯,天下諸侯有為無道者,臣弒君,子弒父,力能討之,則討之可也。

(伝)この人は楚子なのに、なぜ「人」と称するか。貶めである。なぜ貶めるか。外から来て討つことに賛成しないからである。外から来て討つことに賛成しないとは、外で討つならば賛成せず、内で討ってもなお賛成しないということである。なぜ賛成しないか。実は賛成するが、文の上では賛成しない。文の上でなぜ賛成しないか。諸侯の職分として、擅自に討伐してはならない。諸侯の職分として擅自に討伐してはならないのに、実は賛成すると言うのはなぜか。上に天子なく、下に方伯なく、天下の諸侯に無道の事を為す者あり、臣が君を殺し、子が父を殺し、力をもって討つべきならば、すなわち討ってよいのである。

(經十一五)丁亥,楚子入陳,納公孫寧、儀行父於陳。

(経十一五)丁亥、楚子が陳に入り、公孫寧・儀行父を陳に送り入れた。

(傳)此皆大夫也,其言納何?納公黨與也。

(伝)この人々はみな大夫なのに、なぜ「納」と書くか。公の党羽を送り入れるのである。

宣公(經十二一)十有二年

宣公(経十二一)十有二年

春,葬陳靈公。

春、陳霊公を葬った。

(傳)討此賊者非臣子也,何以書葬?君子辭也。楚已討之矣,臣子雖欲討之而無所討也。

(伝)この賊を討ったのは臣子ではないのに、なぜ葬りを記すか。君子の言い方である。楚国がすでに討ったので、臣子は討ちたいと思っても討つ所がなかったのである。

(經十二二)楚子圍鄭。

(経十二二)楚子が鄭を包囲した。

(經十二三)夏,六月乙卯,晉荀林父帥師及楚子戰於邲,晉師敗績。

(経十二三)夏六月乙卯、晋国の荀林父が軍を率いて楚子と邲で交戦し、晋軍は大敗した。

(傳)大夫不敵君,此其稱名氏以敵楚子何?不與晉而與楚子為禮也。曷為不與晉而與楚子為禮也?莊王伐鄭,勝乎皇門,放乎路衢。鄭伯肉袒,左執茅旌,右執鸞刀,以逆莊王曰:「寡人無良,邊垂之臣,以幹天禍,是以使君王沛焉,辱到敝邑。君如矜此喪人,錫之不毛之地,使帥一二耋老而綏焉,請唯君王之命。」莊王曰:「君之不令臣,交易為言,是以使寡人得見君之玉面而微至乎此。」莊王親自手旌,左右撝軍退舍七里。將軍子重諫曰:「南郢之與鄭相去數千裡,諸大夫死者數人,廝役扈養死者數百人,今君勝鄭而不有,無乃失民臣之力乎?」莊王曰:「古者杅不穿、皮不蠹,則不出於四方。是以君子篤於禮而薄於利,要其人而不要其土,告從,不赦不詳,吾以不詳道民,災及吾身,何日之有?」既則晉師之救鄭者至曰:「請戰。」莊王許諾。將軍子重諫曰:「晉,大國也,王師淹病矣,君請勿許也。」莊王曰:「弱者,吾威之,強者吾闢之,是以使寡人無以立乎天下!」令之還師而逆晉寇。莊王鼓之,晉師大敗,晉眾之走者,舟中之指可掬矣。莊王曰:「嘻!吾兩君不相好,百姓何罪?」令之還師而佚晉寇。

(伝)大夫は国君と対等であるべきではないのに、ここで名氏を称して楚子と敵対させるのはなぜか。晋に賛成せず楚子を礼に合うと賛成するからである。なぜ晋に賛成せず楚子を礼に合うとするか。荘王が鄭を攻め、皇門で勝ち、大逵に至った。鄭伯は上身を裸にし、左手に茅旌を執り、右手に鸞刀を執って、荘王を迎えて言った。「寡人は良くなく、辺境の臣が天の禍を招き、君王に赫焉として怒らせ、尊くも敝邑に辱臨させました。君王もしこの亡国の人を憐れみ、草も生えぬ地を賜って、一二の老人を連れて安んじさせてくださるならば、ただ君王の命に従うのみです。」荘王は言った。「あなたの不善な臣どもが交わり交わり讒言を進めたので、寡人はあなたの玉面に見えることができ、わずかにこの地步に至ったのである。」荘王は自ら旌旗を執り、左右に軍を指麾して七里退かせた。将軍子重が諫めて言った。「南郢と鄭とは数千里隔たり、大夫は数人死に、厮役扈養は数百人死にました。今君王は鄭に勝ちながらこれを有さないとは、民臣の力に背くのではありませんか。」荘王は言った。「古は盂が破れず皮が蛀まなければ、四方に兵を出さなかった。だから君子は礼に厚く利に薄く、要するに人を求めて土を求めないのである。すでに服従を表したのに、これを赦さないのは善ではない。私が不善をもって民を導くならば、禍いは我が身に落ち、あとどれほどの日があろうか。」ほどなく鄭を救う晋軍が至り、「戦わせてください」と言った。荘王はこれを許した。将軍子重が諫めて言った。「晋は大国であり、王の軍はすでに久しく疲れています。君王にお許しなさらないようお願いします。」荘王は言った。「弱ければこれを威嚇し、強ければこれを避けるのでは、寡人は何をもって天下に立たん!」令して師を回して晋軍を迎え撃たせた。荘王が鼓を撃つと、晋軍は大敗し、晋国の逃げる者が舟中に切り落とされた指は掬うほどであった。荘王は言った。「ああ!我ら二国君が相好しなかったばかりに、百姓に何の罪があろうか。」令して師を回し、晋軍を逃がしてやった。

(經十二四)秋,七月。

(経十二四)秋七月。

(經十二五)冬,十有二月戊寅,楚子滅蕭。

(経十二五)冬十二月戊寅、楚子が蕭を滅ぼした。

(經十二六)晉人、宋人、衛人、曹人同盟於清丘。

(経十二六)晋国人・宋国人・衛国人・曹国人がともに清丘で会盟した。

(經十二七)宋師伐陳。

(経十二七)宋軍が陳を攻めた。

(經十二八)衛人救陳。

(経十二八)衛国人が陳を救った。

宣公(經十三一)十有三年

宣公(経十三一)十有三年

春,齊師伐衛。

春、斉軍が衛を攻めた。

(經十三二)夏,楚子伐宋。

(経十三二)夏、楚子が宋を攻めた。

(經十三三)秋,螽。

(経十三三)秋、螽が災いを成した。

(經十三四)冬,晉殺其大夫先縠。

(経十三四)冬、晋国がその大夫先縠を殺した。

宣公(經十四一)十有四年

宣公(経十四一)十有四年

春,衛殺其大夫孔達。

春、衛国がその大夫孔達を殺した。

(經十四二)夏,五月壬申,曹伯壽卒。

(経十四二)夏五月壬申、曹伯寿が卒した。

(經十四三)晉侯伐鄭。

(経十四三)晋侯が鄭を攻めた。

(經十四四)秋,九月,楚子圍宋。

(経十四四)秋九月、楚子が宋を包囲した。

(經十四五)葬曹文公。

(経十四五)曹文公を葬った。

(經十四六)冬,公孫歸父會齊侯於谷。

(経十四六)冬、公孫帰父が穀で斉侯と会見した。

宣公(經十五一)十有五年

宣公(経十五一)十有五年

春,公孫歸父會楚子於宋。

春、公孫帰父が宋で楚子と会見した。

(經十五二)夏,五月,宋人及楚人平。

(経十五二)夏五月、宋国人と楚国人が講和した。

(傳)外平不書,此何以書?大其平乎已也。何大乎其平乎已?莊王圍宋,軍有七日之糧爾。盡此不勝,將去而歸爾。於是使司馬子反乘堙而堙宋城,宋華元亦乘堙而出見之。司馬子反曰:「子之國何如?」華元曰:「憊矣。」曰:「何如?」曰:「易子而食之,析骸而炊之。」司馬子反曰:「嘻!甚矣憊!雖然,吾聞之也:圍者柑馬而秣之,使肥者應客,是何子之情也?」華元曰:「吾聞之:君子見人之厄則矜之,小人見人之厄則幸之。吾見子之君子也,是以告情於子也。」司馬子反曰:「諾,勉之矣!吾軍亦有七日之糧爾,盡此不勝,將去而歸爾。」揖而去之,反於莊王。

(伝)外の講和は例によって記さないのに、ここで記すのはなぜか。彼らが自ら講和したことを大きく見せるためである。なぜ自ら講和したことを大きく見せるか。荘王が宋を包囲した時、軍中に七日分の糧しかなかった。これを食べ尽くしてもまだ勝てなければ、去って帰るつもりであった。そこで司馬子反を遣わして土山に登り宋城に近づかせると、宋国の華元もまた土山に登って出て彼に会った。司馬子反は言った。「あなたの国はどうですか。」華元は言った。「疲弊しきっています。」問うて言った。「どのように疲弊しているのか。」答えて言った。「子を易えて食い、骨を析いて炊いています。」司馬子反は言った。「ああ!疲弊の甚だしいことよ!そうはいっても、私は聞いた。囲まれた者は馬の口を箝ませて芻を与え、肥えた馬を出して客に応じるものだと。あなたはなぜこのように実情を吐くのですか。」華元は言った。「私は聞いた。君子は人の困厄を見ればこれを憐れみ、小人は人の困厄を見ればこれを幸うと。私はあなたを君子と見たので、実情をお告げしたのです。」司馬子反は言った。「よし。努めて守りなさい!我が軍も七日分の糧しかなく、これを食べ尽くしてもまだ勝てなければ、去って帰るつもりです。」揖して去り、荘王に報告した。

(傳)莊王曰:「何如?」司馬子反曰:「憊矣!」曰:「何如?」曰:「易子而食之,析骸而炊之。」莊王曰:「嘻!甚矣憊!雖然,吾今取此,然後而歸爾。」司馬子反曰:「不可。臣已告之矣,軍有七日之糧爾。」莊王怒曰:「吾使子往視之,子曷為告之?」司馬子反曰:「以區區之宋,猶有不欺人之臣,可以楚而無乎?是以告之也。」莊王曰:「諾。舍而止。雖然,吾猶取此然後歸爾。」司馬子反曰:「然則君請處於此,臣請歸爾。」莊王曰:「子去我而歸,吾孰與處於此?吾亦從子而歸爾。」引師而去之,故君子大其平乎已也。此皆大夫也,其稱人何?貶。曷為貶?平者在下也。

(伝文は続けて言う:)荘王は言った。「どうだったか。」司馬子反は言った。「疲弊しきっていました!」問うて言った。「どのように疲弊しているのか。」答えて言った。「子を易えて食い、骨を析いて炊いています。」荘王は言った。「ああ!疲弊の甚だしいことよ!そうはいっても、私は今これを取ってから帰る。」司馬子反は言った。「いけません。臣はすでに彼に告げました。軍中には七日分の糧しかないと。」荘王は怒って言った。「私はあなたを遣わして見させたのに、なぜ彼に告げたのか。」司馬子反は言った。「区区たる一宋にも、人を欺かない臣がいるのです。楚にかえっていないことがありましょうか。だから告げたのです。」荘王は言った。「よし。営を安んじて住め。そうはいっても、私はやはりこれを取ってから帰る。」司馬子反は言った。「では君王はここにお留まりください。臣を帰らせてください。」荘王は言った。「あなたが私を離れて帰れば、私は誰とともにここに留まろうか。私もあなたに従って帰る。」軍を引いて去った。だから君子は彼らが自ら講和したことを大きく見せるのである。この人々はみな大夫なのに、なぜ「人」と称するか。貶めである。なぜ貶めるか。講和したのが下位の者だからである。

(經十五三)六月癸卯,晉師滅赤狄潞氏,以潞子嬰兒歸。

(経十五三)六月癸卯、晋軍が赤狄潞氏を滅ぼし、潞子嬰児を連れて帰った。

(傳)潞何以稱子?潞子之為善也,躬足以亡爾。雖然,君子不可不記也。離於夷狄,而未能合於中國,晉師伐之,中國不救,狄人不有,是以亡也。

(伝)潞はなぜ「子」と称するか。潞子は善事を行ったが、自身の力は滅亡にしか足りなかった。そうはいっても君子は記さざるを得ない。彼は夷狄を離れたが、まだ中原に合わず、晋軍が彼を攻めた時、中原も救わず、狄人も彼を保有せず、だから滅んだのである。

(經十五四)秦人伐晉。

(経十五四)秦国人が晋を攻めた。

(經十五五)王札子殺召伯、毛伯。

(経十五五)王札子が召伯・毛伯を殺した。

(傳)王札子者何?長庶之號也。

(伝)王札子とは何者か。長庶の称である。

(經十五六)秋,螽。

(経十五六)秋、螽が災いを成した。

(經十五七)仲孫蔑會齊高固於牟婁。

(経十五七)仲孫蔑が牟婁で斉国の高固と会見した。

(經十五八)初稅畝。

(経十五八)初めて畝に応じて税を取った。

(傳)初者何?始也。稅畝者何?履畝而稅也。初稅畝,何以書?譏。何譏爾?譏始履畝而稅也。何譏乎始履畝而稅?古者什一而藉。古者曷為什一而藉?什一者天下之中正也。多乎什一,大桀、小桀;寡乎什一,大貉、小貉。什一者天下之中正也,什一行而頌聲作矣。

(伝)「初」とはどういう意味か。始めることである。「税畝」とはどういう意味か。田畝に応じて税を取ることである。初めて畝税を行ったのは、なぜ記すか。譏りである。何を譏るか。畝税を始めたことを譏るのである。なぜ畝税を始めたことを譏るか。古は十に一つを取り、民の力を借りて耕した。古はなぜ十に一つを取り民の力を借りて耕したか。十に一つは天下の中正である。十に一つより多く取れば大桀・小桀であり、十に一つより少なく取れば大貉・小貉である。十に一つは天下の中正であり、十に一つが行われれば頌声が起こるのである。

(經十五九)冬,蝝生。

(経十五九)冬、蝝が生じた。

(傳)未有言蝝生者,此其言蝝生何?蝝生不書,此何以書?幸之也。幸之者何?猶曰受之云爾。受之云爾者何?上變古易常,應是而有天災,其諸則宜於此焉變矣。

(伝)いまだかつて「蝝生」と書いたことがないのに、ここでなぜ「蝝生」と書くか。蝝が生じるのは例によって記さないのに、ここで記すのはなぜか。これを幸うのである。幸うとはどういう意味か。受け入れると言うに似ている。受け入れるとはどういう意味か。上が古法を変え常規を易えたので、正にこれに応じて天災があったのだから、おそらくここで変わり戻るべきなのである。

(經十五十)飢。

(経十五十)飢饉があった。

宣公(經十六一)十有六年

宣公(経十六一)十有六年

春,王正月,晉人滅赤狄甲氏及留籲。

春、周暦正月、晋国人が赤狄甲氏と留吁を滅ぼした。

(經十六二)夏,成周宣謝災。

(経十六二)夏、成周の宣謝で火災があった。

(傳)成周者何?東周也。宣謝者何?宣宮之謝也。何言乎成周宣謝災?樂器藏焉爾。成周宣謝災,何以書?記災也。外災不書,此何以書?新周也。

(伝)成周とは何か。東周である。宣謝とは何か。宣宮の台榭である。なぜ「成周宣謝災」と書くか。楽器がそこに蔵されているからである。成周宣謝の火災をなぜ記すか。災害を記したのである。外の災害は例によって記さないのに、ここで記すのはなぜか。周を新王と見なすからである。

(經十六三)秋,郯伯姬來歸。

(経十六三)秋、郯伯姫が帰って来た。

(經十六四)冬,大有年。

(経十六四)冬、大いに豊年があった。

宣公(經十七一)十有七年

宣公(経十七一)十有七年

春,王正月庚子,許男錫我卒。

春、周暦正月庚子、許男錫我が卒した。

(經十七二)丁未,蔡侯申卒。

(経十七二)丁未、蔡侯申が卒した。

(經十七三)夏,葬許昭公。

(経十七三)夏、許昭公を葬った。

(經十七四)葬蔡文公。

(経十七四)蔡文公を葬った。

(經十七五)六月癸卯,日有食之。

(経十七五)六月癸卯、日食があった。

(經十七六)己未,公會晉侯、衛侯、曹伯、邾婁子同盟於斷道。秋,公至自會。

(経十七六)己未、宣公は晋侯・衛侯・曹伯・邾婁子とともに断道で会盟した。秋、宣公は会盟から帰った。

(經十七七)冬,十有一月壬午,公弟叔肸卒。

(経十七七)冬十一月壬午、宣公の弟叔肸が卒した。

宣公(經十八一)十有八年

宣公(経十八一)十有八年

春,晉侯、衛世子臧伐齊。

春、晋侯と衛国の世子臧が斉を攻めた。

(經十八二)公伐杞。

(経十八二)宣公が杞を攻めた。

(經十八三)夏,四月。

(経十八三)夏四月。

(經十八四)秋,七月,邾婁人戕鄫子於鄫。

(経十八四)秋七月、邾婁人が鄫で鄫子を戕害した。

(傳)戕鄫子於鄫者何?殘賊而殺之也。

(伝)「鄫にて鄫子を戕う」とはどういう意味か。残虐にしてこれを殺したのである。

(經十八五)甲戌,楚子旅卒。

(経十八五)甲戌、楚子旅が卒した。

(傳)何以不書葬?吳、楚之君不書葬,闢其號也。

(伝)なぜ葬りを記さないか。呉・楚の国君は葬りを記さない。彼らの称号を避けるためである。

(經十八六)公孫歸父如晉。

(経十八六)公孫帰父が晋国へ行った。

(經十八七)冬,十月壬戌,公薨於路寢。

(経十八七)冬十月壬戌、宣公が路寝で卒した。

(經十八八)歸父還自晉,至檉,遂奔齊。

(経十八八)帰父が晋国から帰り、柽に至って、遂に斉に奔った。

(傳)還者何?善辭也。何善爾?歸父使於晉,還自晉,至檉,聞君薨家遣,墠帷,哭君成踴,反命乎介,自是走之齊。

(伝)「還」とはどういう意味か。称賛する言い方である。何を称賛するか。帰父は晋に使いし、晋から帰り、柽に至り、国君が薨じ家が遣散されたと聞き、そこで地を掃き平げ帷を張り、君を哭いて踊の礼を成し、介(副使)に復命して、これにより斉に走ったのである。

成公

成公(經一一)元年

成公(経一一)元年

春,王正月,公即位。

春、周暦の正月、成公が即位した。

(經一二)二月辛酉,葬我君宣公。

(経一二)二月辛酉、我が魯国の君主宣公を葬った。

(經一三)無冰。

(経一三)氷が張らなかった。

(經一四)三月,作丘甲。

(経一四)三月、丘甲を制作した。

(傳)何以書?譏。何譏爾?譏始丘使也。

(伝)なぜ記したのか?譏刺である。何を譏刺したのか?丘ごとに軍賦を出させ始めたことを譏刺したのである。

(經一五)夏,臧孫許及晉侯盟於赤棘。

(経一五)夏、臧孫許が晋侯と赤棘で会盟した。

(經一六)秋,王師敗績於貿戎。

(経一六)秋、周の天子の軍が貿戎で大敗した。

(傳)孰敗之?蓋晉敗之,或曰貿戎敗之。然則曷為不言晉敗之?王者無敵,莫敢當也。

(伝)誰が敗ったのか?おそらく晋が敗ったのであろう、一説に貿戎が敗ったとも言う。ではなぜ晋が敗ったと言わないのか?王者には敵がなく、敢えて当たる者はいないからである。

(經一七)冬,十月。

(経一七)冬、十月。

成公(經二一)二年

成公(経二一)二年

春,齊侯伐我北鄙。

春、斉侯が我が魯国の北部の辺境を攻めた。

(經二二)夏,四月丙戌,衛孫良夫帥師及齊師戰於新築,衛師敗績。

(経二二)夏四月丙戌、衛国の孫良夫が軍を率いて斉国の軍と新築で戦い、衛国の軍は大敗した。

(經二三)六月癸酉,季孫行父、臧孫許、叔孫僑如、公孫嬰齊帥師,會晉郄克、衛孫良夫、曹公子手及齊侯戰於鞍,齊師敗績。

(経二三)六月癸酉、季孫行父・臧孫許・叔孫僑如・公孫嬰斉が軍を率い、晋国の郤克・衛国の孫良夫・曹国の公子手と会して斉侯と鞍で戦い、斉国の軍は大敗した。

(傳)曹無大夫,公子手何以書?憂內也。

(伝)曹国には大夫がいないのに、公子手がなぜ記されるのか?魯国内を憂えたからである。

(經二四)秋,七月,齊侯使國佐如師。己酉,及國佐盟於袁婁。

(経二四)秋七月、斉侯は国佐を軍中に遣わした。己酉、国佐と袁婁で会盟した。

(傳)君不行使乎大夫,此其行使乎大夫何?佚獲也。其佚獲奈何?師還齊侯,晉郄克投戟逡巡再拜稽首馬前。逢醜父者,頃公之車右也。面目與頃公相似,衣服與頃公相似,代頃公當左。使頃公取飲,頃公操飲而至,曰:「革取清者。」頃公用是佚而不反。逢醜父曰:「吾賴社稷之神靈,吾君已免矣。」郄克曰:「欺三軍者,其法奈何?」曰:「法斮。」於是斮逢醜父。己酉,及齊國佐盟於袁婁,曷為不盟於師而盟於袁婁?前此者,晉郄克與臧孫許同時而聘於齊。蕭同侄子者,齊君之母也,踴於棓而窺客,則客或跛或眇,於是使跛者迓跛者,使眇者迓眇者。二大夫出,相與踦閭而語,移日然後相去。齊人皆曰:「患之起必自此始!」二大夫歸,相與率師為鞍之戰,齊師大敗。齊侯使國佐如師,郄克曰:「與我紀侯之甗,反魯、衛之侵地,使耕者東畝,且以蕭同侄子為質,則吾舍子矣。」國佐曰:「與我紀侯之甗,請諾。反魯、衛衛蕭同侄子為質,則吾舍子矣。」國佐曰:「與我紀侯之甗,請諾。反魯、衛之侵地,請諾。使耕者東畝,是則土齊也。蕭同侄子者,齊君之母也。齊君之母,猶晉君之母也,不可。請戰,壹戰不勝請再,再戰不勝請三,三戰不勝則齊國儘子之有也,何必以蕭同侄子為質?」揖而去之。郄克瞴魯、衛之使,使以其辭而為之請,然後許之。逮於袁婁而與之盟。

(伝)国君は大夫のもとに出向かせることはないのに、ここで大夫のもとに出向いたのはなぜか?捕らえられるのを逃れたからである。どのように捕らえられるのを逃れたか?軍が斉侯を包囲したとき、晋国の郤克は戟を投げ捨て、ためらいながら馬の前で再拝稽首した。逢丑父は頃公の車右で、顔かたちが頃公に似ており、衣服も頃公に似ていたので、頃公に代わって左に座った。頃公に水を取らせ、頃公は水を持って来て言った、「改めて清いものを取れ」。頃公はこれによって逃れて戻らなかった。逢丑父は言った、「私は社稷の神霊に頼り、我が君はすでに免れました」。郤克は言った、「三軍を欺く者は、その刑罰はどうか」。答えて曰く、「刑は斬である」。そこで逢丑父を斬った。己酉、斉国の国佐と袁婁で会盟したが、なぜ軍中で会盟せず袁婁で会盟したのか?この以前、晋国の郤克と臧孫許が同時に斉国に聘問に行った。蕭同姪子は斉君の母で、木組みの高所に登って客人をのぞき見した。客人には足の跛な者や片目の瞎えた者がいたので、跛な者には跛な者を迎えさせ、片目の瞎えた者には片目の瞎えた者を迎えさせた。二人の大夫は出て来て、門のそばに寄りかかって話し、長い間たってから別れた。斉国の人々は皆言った、「禍患の起こるのは、必ずここから始まるだろう!」二人の大夫は帰って、ともに軍を率いて鞍の戦いを行い、斉軍は大敗した。斉侯は国佐を軍中に遣わし、郤克は言った、「紀侯の甗をわれに渡し、魯・衛から侵した土地を返し、耕す者に田の畔を東西向きに作らせ、そして蕭同姪子を人質に取れば、お前たちを見逃そう」。国佐は言った、「紀侯の甗はお応えします。魯・衛から侵した土地を返すこともお応えします。耕す者に田の畔を東西向きに作らせるというのは、斉国の土地をあなた方のものとすることです。蕭同姪子は斉君の母です。斉君の母は、晋君の母と同じようなものです。できません。どうか交戦させてください。一戦して勝たなければ再戦を請い、再戦して勝たなければ三戦を請い、三戦して勝たなければ斉国はすべてあなたのものです。どうして蕭同姪子を人質に取る必要がありましょうか」。(底本では「反魯・衛」の下に残字の重複があるが、ここでは常本に従って連読する。)揖をして退いた。郤克は魯・衛の使者に目配せして、この言葉で斉国のために請わせ、それからようやく許した。袁婁に追い及いてやっと彼と会盟したのである。

(經二五)八月壬午,宋公鮑卒。

(経二五)八月壬午、宋公鮑が卒した。

(經二六)庚寅,衛侯遬卒。

(経二六)庚寅、衛侯遬が卒した。

(經二七)取汶陽田。

(経二七)汶水の北の田地を取った。

(傳)汶陽田者何?鞍之賂也。

(伝)汶陽田とは何か?鞍の戦いの賄賂である。

(經二八)冬,楚師、鄭師侵衛。

(経二八)冬、楚国の軍・鄭国の軍が衛に侵入した。

(經二九)十有一月,公會楚公子嬰齊於蜀。丙申,公及楚人、秦人、宋人、陳人、衛人、鄭人、齊人、曹人、邾婁人、薛人、鄫人盟於蜀。

(経二九)十一月、成公は蜀で楚国の公子嬰斉と会見した。丙申、成公は楚国人・秦国人・宋国人・陳国人・衛国人・鄭国人・斉国人・曹国人・邾婁人・薛国人・鄫国人と蜀で会盟した。

(傳)此楚公子嬰齊也,其稱人何?得一貶焉爾。

(伝)これは楚国の公子嬰斉だが、なぜ「人」と称するのか?一度の貶を受けたのである。

成公(經三一)三年

成公(経三一)三年

春,王正月,公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯伐鄭。

春、周暦の正月、成公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯と会して鄭を攻めた。

(經三二)辛亥,葬衛繆公。

(経三二)辛亥、衛繆公を葬った。

(經三三)二月,公至自伐鄭。

(経三三)二月、成公は鄭を伐つ軍から帰った。

(經三四)甲子,新宮災,三日哭。

(経三四)甲子、新宮が火災に遭い、三日泣いた。

(傳)新宮者何?宣公之宮也。宣宮則曷為謂之新宮?不忍言也。其言三日哭何?廟災三日哭,禮也。新宮災,何以書?記災也。

(伝)新宮とは何か?宣公の宮である。宣宮であるのに、なぜ新宮と言うのか?言うに忍びないからである。「三日哭」と書くのは何の意味か?宗廟が火災に遭って三日泣くのは、礼にかなう。新宮が火災に遭ったのを、なぜ記したのか?災害を記したのである。

(經三五)乙亥,葬宋文公。

(経三五)乙亥、宋文公を葬った。

(經三六)夏,公如晉。

(経三六)夏、成公は晋国に行った。

(經三七)鄭公子去疾率師伐許。

(経三七)鄭国の公子去疾が軍を率いて許を攻めた。

(經三八)公至自晉。

(経三八)成公は晋国から帰った。

(經三九)秋,叔孫僑如率師圍棘。

(経三九)秋、叔孫僑如が軍を率いて棘を包囲した。

(傳)棘者何?汶陽之不服邑也。其言圍之何?不聽也。

(伝)棘とは何か?汶陽の服従しない城邑である。なぜ「囲」と書くのか?従わないからである。

(經三十)大雩。

(経三十)大雩を行った。

(經三十一)晉郄克、衛孫良夫伐將咎如。

(経三十一)晋国の郤克・衛国の孫良夫が将咎如を攻めた。

(經三十二)冬,十有一月,晉侯使荀庚來聘。衛侯使孫良夫來聘。

(経三十二)冬十一月、晋侯は荀庚を遣わして聘問した。衛侯は孫良夫を遣わして聘問した。

(經三十三)丙午,及荀庚盟。丁未,及孫良夫盟。

(経三十三)丙午、荀庚と会盟した。丁未、孫良夫と会盟した。

(傳)此聘也,其言盟何?聘而言盟者,尋舊盟也。

(伝)これは聘問だが、なぜ「盟」と書くのか?聘問なのに会盟と書くのは、旧盟を重ねて温めたのである。

(經三十四)鄭伐許。

(経三十四)鄭が許を攻めた。

成公(經四一)四年

成公(経四一)四年

春,宋公使華元來聘。

春、宋公は華元を遣わして聘問した。

(經四二)三月壬申,鄭伯堅卒。

(経四二)三月壬申、鄭伯堅が卒した。

(經四三)杞伯來朝。

(経四三)杞伯が来て朝見した。

(經四四)夏,四月甲寅,臧孫許卒。

(経四四)夏四月甲寅、臧孫許が卒した。

(經四五)公如晉。

(経四五)成公は晋国に行った。

(經四六)葬鄭襄公。

(経四六)鄭襄公を葬った。

(經四七)秋,公至自晉。

(経四七)秋、成公は晋国から帰った。

(經四八)冬,城運。

(経四八)冬、運を築いた。

(經四九)鄭伯伐許。

(経四九)鄭伯が許を攻めた。

成公(經五一)五年

成公(経五一)五年

春,王正月,杞叔姬來歸。

春、周暦の正月、杞叔姫が帰って来た。

(經五二)仲孫蔑如宋。

(経五二)仲孫蔑が宋国に行った。

(經五三)夏,叔孫僑如會晉荀秀於谷。

(経五三)夏、叔孫僑如が穀で晋国の荀秀と会見した。

(經五四)梁山崩。

(経五四)梁山が崩れた。

(傳)梁山者何?河上之山也。梁山崩,何以書?記異也。何異爾?大也。何大爾?梁山崩,壅河三日不流。外異不書,此何以書?為天下記異也。

(伝)梁山とは何か?黄河のほとりの山である。梁山が崩れたのを、なぜ記したのか?異常を記したのである。どこが異常なのか?大きいのである。どこが大きいのか?梁山が崩れて黄河を塞ぎ、三日流れなかった。外の異常は例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか?天下のために異常を記したのである。

(經五五)秋,大水。

(経五五)秋、大水があった。

(經五六)冬,十有一月己酉,天王崩。

(経五六)冬十一月己酉、天子が崩じた。

(經五七)十有二月己丑,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、邾婁子、杞伯同盟於蟲牢。

(経五七)十二月己丑、成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・邾婁子・杞伯とともに虫牢で会盟した。

成公(經六一)六年

成公(経六一)六年

春,王正月,公至自會。

春、周暦の正月、成公は会盟から帰った。

(經六二)二月辛巳,立武宮。

(経六二)二月辛巳、武宮を立てた。

(傳)武宮者何?武公之宮也。立者何?立者不宜立也。立武宮,非禮也。

(伝)武宮とは何か?武公の宮である。「立」とは何か?「立」とは立てるべきでないのである。武宮を立てるのは、礼に合わない。

(經六三)取鄟。

(経六三)鄟を奪い取った。

(傳)鄟者何?邾婁之邑也。曷為不繫於邾婁?諱亟也。

(伝)鄟とは何か?邾婁の城邑である。なぜ邾婁の下に繋げないのか?求め取るのが急すぎるのを隠し諱むのである。

(經六四)衛孫良夫率師侵宋。

(経六四)衛国の孫良夫が軍を率いて宋に侵入した。

(經六五)夏,六月,邾婁子來朝。

(経六五)夏六月、邾婁子が来て朝見した。

(經六六)公孫嬰齊如晉。

(経六六)公孫嬰斉が晋国に行った。

(經六七)壬申,鄭伯費卒。

(経六七)壬申、鄭伯費が卒した。

(經六八)秋,仲孫蔑、叔孫僑如率師侵宋。

(経六八)秋、仲孫蔑・叔孫僑如が軍を率いて宋に侵入した。

(經六九)楚公子嬰齊率師伐鄭。

(経六九)楚国の公子嬰斉が軍を率いて鄭を攻めた。

(經六十)冬,季孫行父如晉。

(経六十)冬、季孫行父が晋国に行った。

(經六十一)晉欒書率師侵鄭。

(経六十一)晋国の欒書が軍を率いて鄭に侵入した。

成公(經七一)七年

成公(経七一)七年

春,王正月,鼷鼠食郊牛角。改卜牛,鼷鼠又食其角,乃免牛。

春、周暦の正月、鼷鼠が郊祭の牛の角を咬んだ。別の牛を改めて占ったが、鼷鼠がまたその角を咬んだので、その牛を免じた。

(經七二)吳伐郯。

(経七二)呉が郯を攻めた。

(經七三)夏,五月,曹伯來朝。

(経七三)夏五月、曹伯が来て朝見した。

(經七四)不郊,猶三望。

(経七四)郊祭を行わなかったが、それでも三望を行った。

(經七五)秋,楚公子嬰齊率師伐鄭。

(経七五)秋、楚国の公子嬰斉が軍を率いて鄭を攻めた。

(經七六)公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、杞伯救鄭。

(経七六)成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾婁子・杞伯と会して鄭を救った。

(經七七)八月戊辰,同盟於馬陵。

(経七七)八月戊辰、ともに馬陵で会盟した。

(經七八)公至自會。

(経七八)成公は会盟から帰った。

(經七九)吳入州來。

(経七九)呉が州来に入った。

(經七十)冬,大雩。

(経七十)冬、大雩を行った。

(經七十一)衛孫林父出奔晉。

(経七十一)衛国の孫林父が晋に出奔した。

成公(經八一)八年

成公(経八一)八年

春,晉侯使韓穿來言汶陽之田,歸之於齊。

春、晋侯は韓穿を遣わして汶陽の田地について言わせ、それを斉に返還させた。

(傳)來言者何?內辭也,脅我使我歸之也。曷為使我歸之?鞍之戰,齊師大敗,齊侯歸,吊死視疾,七年不飲酒、不食肉。晉侯聞之曰:「嘻!奈何使人之君七年不飲酒、不食肉,請皆反其所取侵地。」

(伝)「来言」とは何か?魯国内部の措辞で、我々を脅迫して返させたのである。なぜ我々に返させたのか?鞍の戦いで斉軍は大敗し、斉侯は帰って、死者を弔い病人を見舞い、七年酒を飲まず肉を食べなかった。晋侯はこれを聞いて言った、「ああ!どうして人の国君に七年も酒を飲まず肉を食べさせないことができようか、取った侵地をすべて返すように」と。

(經八二)晉欒書帥師侵蔡。

(経八二)晋国の欒書が軍を率いて蔡に侵入した。

(經八三)公孫嬰齊如莒。

(経八三)公孫嬰斉が莒に行った。

(經八四)宋公使華元來聘。

(経八四)宋公は華元を遣わして聘問した。

(經八五)夏,宋公使公孫壽來納幣。

(経八五)夏、宋公は公孫寿を遣わして聘礼を納めさせた。

(傳)納幣不書,此何以書?錄伯姬也。

(伝)聘礼を納めるのは例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか?伯姫を記録したのである。

(經八六)晉殺其大夫趙同、趙括。

(経八六)晋国がその大夫趙同・趙括を殺した。

(經八七)秋,七月,天子使召伯來錫公命。

(経八七)秋七月、天子は召伯を遣わして成公に命服を賜った。

(傳)其稱天子何?元年,春,王正月,正也,其餘皆通矣。

(伝)なぜ「天子」と称するのか?元年春の周暦正月は正称で、その他はすべて通称できる。

(經八八)冬,十月癸卯,杞叔姬卒。

(経八八)冬十月癸卯、杞叔姫が卒した。

(經八九)晉侯使士燮來聘。

(経八九)晋侯は士燮を遣わして聘問した。

(經八十)叔孫僑如會晉士燮、齊人、邾婁人伐郯。

(経八十)叔孫僑如は晋国の士燮・斉国人・邾婁人と会して郯を攻めた。

(經八十一)衛人來媵。

(経八十一)衛国人が来て媵嫁した。

(傳)媵不書,此何以書?錄伯姬也。

(伝)媵嫁は例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか?伯姫を記録したのである。

成公(經九一)九年

成公(経九一)九年

春,王正月,杞伯來逆叔姬之喪以歸。

春、周暦の正月、杞伯が来て叔姫の喪柩を迎え取って帰った。

(傳)杞伯曷為來逆叔姬之喪以歸?內辭也,脅而歸之也。

(伝)杞伯はなぜ来て叔姫の喪柩を迎え取って帰ったのか?魯国内部の措辞で、脅迫して初めて持ち帰らせたのである。

(經九二)公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、杞伯同盟於蒲。公至自會。

(経九二)成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・杞伯とともに蒲で会盟した。成公は会盟から帰った。

(經九三)二月,伯姬歸於宋。

(経九三)二月、伯姫が宋に嫁いだ。

(經九四)夏,季孫行父如宋致女。

(経九四)夏、季孫行父が宋国に行って女子を致送した。

(傳)未有言致女者,此其言致女何?錄伯姬也。

(伝)かつて「致女」と書いたことはないのに、ここではなぜ「致女」と書いたのか?伯姫を記録したのである。

(經九使)晉人來媵。

(経九五)晋国人が来て媵嫁した。

(傳)媵不書,此何以書?錄伯姬也。

(伝)媵嫁は例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか?伯姫を記録したのである。

(經九六)秋,七月丙子,齊侯無野卒。

(経九六)秋七月丙子、斉侯無野が卒した。

(經九七)晉人執鄭伯。

(経九七)晋国人が鄭伯を捉えた。

(經九八)晉欒書帥師伐鄭。

(経九八)晋国の欒書が軍を率いて鄭を攻めた。

(經九九)冬,十有一月,葬齊頃公。

(経九九)冬十一月、斉頃公を葬った。

(經九十)楚公子嬰齊帥師伐莒;庚申,莒潰。

(経九十)楚国の公子嬰斉が軍を率いて莒を攻めた。庚申、莒は潰敗した(人民が逃げ散った)。

(經九十一)楚人入運。(經九十二)秦人、白狄伐晉。

(経九十一)楚国人が運に入った。(経九十二)秦国人・白狄が晋を攻めた。

(經九十三)鄭人圍許。

(経九十三)鄭国人が許を包囲した。

(經九十四)城中城。

(経九十四)中城を築いた。

成公(經十一)十年

成公(経十一)十年

春,衛侯之弟黑背率師侵鄭。

春、衛侯の弟黒背が軍を率いて鄭に侵入した。

(經十二)夏,四月,五卜郊,不從,乃不郊。

(経十二)夏四月、五度郊祭を占ったがいずれも従わなかったので、郊祭を行わなかった。

(傳)其言乃不郊何?不免牲,故言乃不郊也。

(伝)「乃不郊」と書くのは何の意味か?祭牲を免じなかったので、「乃不郊」と書いたのである。

(經十三)五月,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯伐鄭。

(経十三)五月、成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯と会して鄭を攻めた。

(經十四)齊人來媵。

(経十四)斉国人が来て媵嫁した。

(傳)媵不書,此何以書?錄伯姬也。三國來媵非禮也,曷為皆以錄伯姬之辭言之?婦人以眾多為侈也。

(伝)媵嫁は例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか?伯姫を記録したのである。三国が来て媵嫁するのは礼に合わないが、なぜいずれも伯姫を記録する措辞で言うのか?婦人は人数が多いのをもって奢侈とするからである。

(經十五)丙午,晉侯獳卒。

(経十五)丙午、晋侯獳が卒した。

(經十六)秋,七月。

(経十六)秋七月。

(經十七)公如晉。

(経十七)成公は晋国に行った。

成公(經十一一)十有一年

成公(経十一一)十有一年

春,王三月,公至自晉。

春、周暦の三月、成公は晋国から帰った。

(經十一二)晉侯使郄州來聘。己丑,及郄州盟。

(経十一二)晋侯は郤州を遣わして聘問した。己丑、郤州と会盟した。

(經十一三)夏,季孫行父如晉。

(経十一三)夏、季孫行父が晋国に行った。

(經十一四)秋,叔孫僑如如齊。

(経十一四)秋、叔孫僑如が斉国に行った。

(經十一五)冬,十月。

(経十一五)冬十月。

成公(經十二二)十有二年

成公(経十二二)十有二年

春,周公出奔晉。

春、周公が晋に出奔した。

(傳)周公者何?天子之三公也。王者無外,此其言出何?自其私土而出也。

(伝)周公とは何者か?天子の三公である。王者には「外」がないのに、ここで「出」と書くのはなぜか?彼自身の私邑から出たからである。

(經十二二)夏,公會晉侯、衛侯於沙澤。

(経十二二)夏、成公は沙沢で晋侯・衛侯と会見した。

(經十二三)秋,晉人敗狄於交剛。

(経十二三)秋、晋国人が交剛で狄を破った。

(經十二四)冬,十月。

(経十二四)冬十月。

成公(經十三一)十有三年

成公(経十三一)十有三年

春,晉侯使郄錡來乞師。

春、晋侯は郤錡を遣わして軍を請求した。

(經十三二)三月,公如京師。

(経十三二)三月、成公は京師に行った。

(經十三三)夏,五月,公自京師,遂會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、邾婁人、滕人伐秦。

(経十三三)夏五月、成公は京師から出発し、続いて晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・邾婁人・滕人と会して秦を攻めた。

(傳)其言自京師何?公鑿行也。公鑿行奈何?不敢過天子也。

(伝)「自京師」と書くのは何の意味か?成公が開鑿して出行したのである。どのように開鑿して出行したのか?天子を越えるのを敢えてしなかったのである。

(經十三四)曹伯廬卒於師。

(経十三四)曹伯盧が軍中で卒した。

(經十三五)秋,七月,公至自伐秦。

(経十三五)秋七月、成公は秦を伐つ軍から帰った。

(經十三六)冬,葬曹宣公。

(経十三六)冬、曹宣公を葬った。

成公(經十四一)十有四年

成公(経十四一)十有四年

春,王正月,莒子朱卒。

春、周暦の正月、莒子朱が卒した。

(經十四二)夏,衛孫林父自晉歸於衛。

(経十四二)夏、衛国の孫林父が晋から衛に帰った。

(經十四三)秋,叔孫僑如如齊逆女。

(経十四三)秋、叔孫僑如が斉国に行って女子を迎え娶った。

(經十四四)鄭公子喜率師伐許。

(経十四四)鄭国の公子喜が軍を率いて許を攻めた。

(經十四五)九月,僑如以夫人婦姜氏至自齊。

(経十四五)九月、僑如は夫人婦姜氏を連れて斉国から帰った。

(經十四六)冬,十月庚寅,衛侯臧卒。

(経十四六)冬十月庚寅、衛侯臧が卒した。

(經十四七)秦伯卒。

(経十四七)秦伯が卒した。

成公(經十五一)十有五年

成公(経十五一)十有五年

春,王二月,葬衛定公。

春、周暦の二月、衛定公を葬った。

(經十五二)三月乙巳,仲嬰齊卒。

(経十五二)三月乙巳、仲嬰斉が卒した。

(傳)仲嬰齊者何?公孫嬰齊也。公孫嬰齊,則曷為謂之仲嬰齊?為兄後也。為兄後則曷為謂之仲嬰齊?為人後者為之子也。為人後者為其子,則其稱仲何?孫以王父字為氏也。然則嬰齊孰後?後歸父也。歸父使於晉而未反,何以後之?叔仲惠伯,傅子赤者也,文公死,子幼,公子遂謂叔仲惠伯曰:「君幼,如之何?願與子慮之。」叔仲惠伯曰:「吾子相之,老夫抱之,何幼君之有?」公子遂知其不可與謀,退而殺叔仲惠伯,弒子赤而立宣公。宣公死,成公幼,臧宣叔者相也。君死不哭,聚諸大夫而問焉,曰:「昔者叔仲惠伯之事,孰為之?」諸大夫皆雜然曰:「仲氏也,其然乎?」於是遣歸父之家,然後哭君,歸父使乎晉,還自晉,至檉,聞君薨家遣,墠帷,哭君成踴,反命於介,自是走之齊。魯人徐傷歸父之無後也,於是使嬰齊後之也。

(伝)仲嬰斉とは何者か?公孫嬰斉である。公孫嬰斉であるのに、なぜ仲嬰斉と言うのか?兄の後嗣となったからである。兄の後嗣となったのに、なぜ仲嬰斉と言うのか?人の後嗣となるとはその人の子となることである。人の後嗣となるとはその人の子となるのに、なぜ「仲」と称するのか?孫は祖父の字をもって氏とする。では嬰斉は誰の後嗣となったのか?帰父の後嗣となった。帰父は晋に出使してまだ帰っていないのに、なぜ彼に後を立てたのか?叔仲惠伯は子赤を輔導する者で、文公が亡くなり子が幼かったので、公子遂は叔仲惠伯に言った、「国君が幼いが、どうしましょう?あなたとともに図りたい」。叔仲惠伯は言った、「あなたが彼を輔佐し、老夫が彼を抱えれば、どこに幼君があろうか」。公子遂は彼と図れないことを知り、退いて叔仲惠伯を殺し、子赤を殺して宣公を立てた。宣公が亡くなり成公が幼く、臧宣叔が輔相であった。国君が亡くなったのに哭かず、大夫たちを集めて問うた、「昔の叔仲惠伯のことは、誰がやったのか」。大夫たちは皆言った、「仲氏でしょう」。そこで帰父の家族を追い散らし、それからようやく君を哭いた。帰父は晋に出使していて、晋から帰って柽に至り、国君の逝去と家の追い散らされたことを聞き、そこで地面を掃き平めて帷を設け、君を哭して踊の礼を終え、副使に復命し、ここから斉国に走った。魯国人はだんだん帰父に後嗣がないのを哀れみ、そこで嬰斉に彼の後嗣をさせた。

(經十五三)癸丑,公會晉侯、衛侯、鄭伯、曹伯、宋世子成、齊國佐、邾婁人同盟於戚。

(経十五三)癸丑、成公は晋侯・衛侯・鄭伯・曹伯・宋国の世子成・斉国の国佐・邾婁人とともに戚で会盟した。

(經十五四)晉侯執曹伯歸之於京師。

(経十五四)晋侯は曹伯を捉え、京師に引き渡した。

(經十五五)公至自會。

(経十五五)成公は会盟から帰った。

(經十五六)夏,六月,宋公固卒。

(経十五六)夏六月、宋公固が卒した。

(經十五七)楚子伐鄭。

(経十五七)楚子が鄭を攻めた。

(經十五八)秋,八月庚辰,葬宋共公。

(経十五八)秋八月庚辰、宋共公を葬った。

(經十五九)宋華元出奔晉。

(経十五九)宋国の華元が晋に出奔した。

(經十五十)宋華元自晉歸於宋。

(経十五十)宋国の華元が晋から宋に帰った。

(經十五十一)宋殺其大夫山。

(経十五十一)宋国がその大夫山を殺した。

(經十五十二)宋魚石出奔楚。

(経十五十二)宋国の魚石が楚に出奔した。

(經十五十三)冬,十有一月,叔孫僑如會晉士燮、齊高無咎、宋華元、衛孫林父、鄭公子鰍、邾婁人會吳於鍾離。

(経十五十三)冬十一月、叔孫僑如は晋国の士燮・斉国の高無咎・宋国の華元・衛国の孫林父・鄭国の公子鰌・邾婁人と会し、鍾離で呉と会見した。

(傳)曷為殊會吳?外吳也。曷為外也?《春秋》內其國而外諸夏,內諸夏而外夷狄。王者欲一乎天下,曷為以外內之辭言之?言自近者始也。

(伝)なぜわざわざ呉と会見すると書いたのか?呉を外と見なしたのである。なぜ外と見なしたのか?『春秋』は本国を内とし諸夏を外とし、諸夏を内として夷狄を外とする。王者が天下を統一しようとするのに、なぜなお内外の措辞で言うのか?近いところから始めるべきことを言っているのである。

(經十五十四)許遷於葉。

(経十五十四)許が葉に遷った。

成公(經十六一)十有六年

成公(経十六一)十有六年

春,王正月,雨木冰。

春、周暦の正月、雨が降り、木に氷が結んだ。

(傳)雨木冰者何?雨而木冰也。何以書?記異也。

(伝)「雨木氷」とは何か?雨が降って木に氷が結んだのである。なぜ記したのか?異常を記したのである。

(經十六二)夏,四月辛未,滕子卒。

(経十六二)夏四月辛未、滕子が卒した。

(經十六三)鄭公子喜帥師侵宋。

(経十六三)鄭国の公子喜が軍を率いて宋に侵入した。

(經十六四)六月丙寅朔,日有食之。

(経十六四)六月丙寅朔、日食があった。

(經十六五)晉侯使欒黶來乞師。

(経十六五)晋侯は欒黶を遣わして軍を請求した。

(經十六六)甲午晦。

(経十六六)甲午、天色が暗くなった。

(傳)晦者何?冥也。何以書?記異也。

(伝)「晦」とは何か?暗いことである。なぜ記したのか?異常を記したのである。

(經十六九)晉侯及楚子、鄭伯戰於鄢陵,楚子、鄭師敗績。

(経十六九)晋侯が楚子・鄭伯と鄢陵で戦い、楚子・鄭国の軍は大敗した。

(傳)敗者稱師,楚何以不稱師?王痍也。王痍者何?傷乎矢也。然則何以不言師敗績?末言爾。

(伝)敗れたのは「師」と称するのに、楚はなぜ「師」と称しないのか?王が傷を負ったからである。王が傷を負ったとは何か?矢に射られたのである。ではなぜ軍の大敗と書かないのか?言うに足りないからである。

(經十六十)楚殺其大夫公子側。

(経十六十)楚国がその大夫公子側を殺した。

(經十六十一)秋,公會晉侯、齊侯、衛侯、宋華元、邾婁人於沙隨。不見公,公至自會。

(経十六十一)秋、成公は晋侯・斉侯・衛侯・宋国の華元・邾婁人と沙随で会した。成公は会見されず、成公は会盟から帰った。

(傳)不見公者何?公不見見也。公不見見,大夫執。何以致會?不恥也。曷為不恥?公幼也。

(伝)「不見公」とは何か?成公が接見されなかったのである。成公が接見されず、大夫が捉えられた。なぜなお会盟から帰ったと書くのか?恥としなかったのである。なぜ恥としなかったのか?成公が幼かったからである。

(經十六十二)公會尹子、晉侯、齊國佐、邾婁人伐鄭。

(経十六十二)成公は尹子・晋侯・斉国の国佐・邾婁人と会して鄭を攻めた。

(經十六十三)曹伯歸自京師。

(経十六十三)曹伯が京師から帰った。

(傳)執而歸者名,曹伯何以不名?而不言復歸於曹何?易也。其易奈何?公子喜時在內也。公子喜時在內,則何以易?公子喜時者仁人也。內平其國而待之,外治諸京師而免之。其言自京師何?言甚易也,舍是無難矣!

(伝)捉えられて再び帰る者は名を称するのに、曹伯はなぜ名を称しないのか?また「復帰于曹」と書かないのはなぜか?容易だからである。どのように容易なのか?公子喜時が国内にいた。公子喜時が国内にいると、なぜ容易なのか?公子喜時は仁人である。内は彼の国を安んじて彼を待ち、外は京師で事を処理して彼を免した。「自京師」と書くのは何の意味か?非常に容易で、これ以外には難しさがないことを言うのである!

(經十六十四)九月,晉人執季孫行父,舍之於招丘。

(経十六十四)九月、晋国人は季孫行父を捉え、招丘に置いた。

(傳)執未可言舍之者,此其言舍之何?仁之也,曰在招丘悕矣。執未有言仁之者,此其言仁之何?代公執也,其代公執奈何?前此者晉人來乞師而不與。公會晉侯,將執公,季孫行父曰:「此臣之罪也。」於是執季孫行父。成公將會晉厲公,會不當期,將執公。季孫行父曰:「臣有罪,執其君;子有罪,執其父;此聽失之大者也。今此臣之罪也,舍臣之身而執臣之君,吾恐聽失之為宗廟羞也。」於是執季孫行父。

(伝)人を捉えて「舎之」と書いたことはかつてないのに、ここで「舎之」と書くのはなぜか?彼を憐れみ、招丘でかわいそうだと言ったのである。人を捉えて憐れむと言ったことはかつてないのに、ここでなぜ憐れむと言うのか?成公に代わって捉えられたからである。どのように成公に代わって捉えられたのか?この以前、晋国人が来て軍を請求したが、与えなかった。成公が晋侯と会見したとき、成公を捉えようとしたので、季孫行父は言った、「これは臣の罪です」。そこで季孫行父を捉えた。成公が晋厲公と会見しようとしたとき、会盟が期に合わず、成公を捉えようとした。季孫行父は言った、「臣に罪があればその国君を捉え、子に罪があればその父を捉える、これは訴訟を聴く最大の失です。今これは臣の罪なのに、臣の身を放して臣の国君を捉えるのは、訴訟の失が宗廟に羞恥をもたらすのを恐れます」。そこで季孫行父を捉えた。

(經十六十五)冬,十月乙亥,叔孫僑如出奔齊。

(経十六十五)冬十月乙亥、叔孫僑如が斉に出奔した。

(經十六十六)十有二月乙丑,季孫行父及晉郄州盟於扈。

(経十六十六)十二月乙丑、季孫行父と晋国の郤州が扈で会盟した。

(經十六十七)公至自會。

(経十六十七)成公は会盟から帰った。

(經十六十八)乙酉,刺公子偃。

(経十六十八)乙酉、公子偃を刺し殺した。

成公(經十七一)十有七年

成公(経十七一)十有七年

春,衛北宮結率師侵鄭。

春、衛国の北宮結が軍を率いて鄭に侵入した。

(經十七二)夏,公會尹子、單子、晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯、邾婁人伐鄭。六月,乙酉,同盟於柯陵。

(経十七二)夏、成公は尹子・単子・晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯・邾婁人と会して鄭を攻めた。六月乙酉、ともに柯陵で会盟した。

(經十七三)秋,公至自會。

(経十七三)秋、成公は会盟から帰った。

(經十七四)齊高無咎出奔莒。

(経十七四)斉国の高無咎が莒に出奔した。

(經十七五)九月辛丑,用郊。

(経十七五)九月辛丑、郊祭を用いた。

(傳)用者何?用者不宜用也。九月非所用郊也。然則郊曷用?郊用正月上辛,或曰用然後郊。

(伝)「用」とは何か?「用」とは用いるべきでないのである。九月は郊祭を行うべき時ではない。では郊祭はいつ用いるべきか?郊祭は正月の上辛を用いる、一説にまず「用」してから郊祭する。

(經十七六)晉侯使荀罃來乞師。

(経十七六)晋侯は荀䓨を遣わして軍を請求した。

(經十七七)冬,公會單子、晉侯、宋公、衛侯、曹伯、齊人、邾婁人伐鄭。十有一月,公至自伐鄭。

(経十七七)冬、成公は単子・晋侯・宋公・衛侯・曹伯・斉国人・邾婁人と会して鄭を攻めた。十一月、成公は鄭を伐つ軍から帰った。

(經十七八)壬申,公孫嬰齊卒於狸軫。

(経十七八)壬申、公孫嬰斉が貍軫で卒した。

(傳)非此月日也,曷為以此月日卒之?待君命然後卒大夫。曷為待君命然後卒大夫?前此者嬰齊走之晉,公會晉侯,將執公。嬰齊為公請,公許之反為大夫,歸。至於狸軫而卒。無君命不敢卒大夫,公至,曰:「吾固許之反為大夫。」然後卒之。

(伝)この月日ではないのに、なぜこの月日で彼の逝去を記したのか?国君の命令を待ってから大夫の逝去を記したのである。なぜ国君の命令を待ってから大夫の逝去を記したのか?この以前、嬰斉が晋に走り、成公は晋侯と会見し、成公を捉えようとした。嬰斉が成公のために請い、成公は彼を帰らせて大夫とすることを許したので、彼は帰った。貍軫に至って卒した。国君の命令がなければ敢えて大夫の逝去を記さないが、成公が到着して言った、「私はもともと彼を帰らせて大夫とすることを許した」。それからようやく彼の逝去を記したのである。

(經十七九)十有二月丁巳朔,日有食之。

(経十七九)十二月丁巳朔、日食があった。

(經十七十)邾婁子貜且卒。

(経十七十)邾婁子貜且が卒した。

(經十七十一)晉殺其大夫郄錡、郄州、郄至。

(経十七十一)晋国がその大夫郤錡・郤州・郤至を殺した。

(經十七十二)楚人滅舒庸。

(経十七十二)楚国人が舒庸を滅ぼした。

成公(經十八一)十有八年

成公(経十八一)十有八年

春,王正月,晉殺其大夫胥童。庚申,晉弒其君州蒲。

春、周暦の正月、晋国がその大夫胥童を殺した。庚申、晋国がその国君州蒲を殺した。

(經十八二)齊殺其大夫國佐。

(経十八二)斉国がその大夫国佐を殺した。

(經十八三)公如晉。

(経十八三)成公は晋国に行った。

(經十八四)夏,楚子、鄭伯伐宋。

(経十八四)夏、楚子・鄭伯が宋を攻めた。

(經十八五)宋魚石復入於彭城。

(経十八五)宋国の魚石が再び彭城に入った。

(經十六六)公至自晉。

(経十六六)成公は晋国から帰った。

(經十八七)晉侯使士丐來聘。

(経十八七)晋侯は士丐を遣わして聘問した。

(經十八八)秋,杞伯來朝。八月,邾婁子來朝。

(経十八八)秋、杞伯が来て朝見した。八月、邾婁子が来て朝見した。

(經十八九)築鹿囿。

(経十八九)鹿囿を築いた。

(傳)何以書?譏。何譏爾?有囿矣,又為也。

(伝)なぜ記したのか?譏刺である。何を譏刺したのか?すでに囿があるのに、また築いたのである。

(經十八十)己丑,公薨於路寢。

(経十八十)己丑、成公が路寝で卒した。

(經十八十一)冬,楚人、鄭人侵宋。

(経十八十一)冬、楚国人・鄭国人が宋に侵入した。

(經十八十二)晉侯使士彭來乞師。

(経十八十二)晋侯は士彭を遣わして軍を請求した。

(經十八十三)十有二月,仲孫蔑會晉侯、宋公、衛侯、邾婁子、齊崔杼同盟於虛朾。

(経十八十三)十二月、仲孫蔑は晋侯・宋公・衛侯・邾婁子・斉国の崔杼と会して虚朾で会盟した。

(經十八十四)丁未,葬我君成公。

(経十八十四)丁未、我が魯国の君主成公を葬った。

襄公

襄公(經一一)元年

襄公(経一一)元年

春,王正月,公即位。

春、周暦の正月、襄公が即位した。

(經一二)仲孫蔑會晉欒黶、宋華元、衛寧殖、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人圍宋彭城。

(経一二)仲孫蔑は晋の欒黶、宋の華元、衛の寧殖、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人と会し、宋の彭城を包囲した。

(傳)宋華元曷為與諸侯圍宋彭城?為宋誅也。其為宋誅奈何?魚石走之楚,楚為之伐宋,取彭城以封魚石。魚石之罪奈何?以入是為罪也。楚已取之矣,曷為系之宋?不與諸侯專封也。

(伝)宋の華元はなぜ諸侯とともに宋の彭城を包囲したのか。宋のために誅討するためである。どのように宋のために誅討したのか。魚石が楚に逃げ込み、楚は彼のために宋を攻め、彭城を取って魚石に封じた。魚石の罪とは何か。ここに入り込んだことが罪なのである。楚がすでにそれを取ったのに、なぜ宋に係属させるのか。諸侯が勝手に分封することを認めないからである。

(經一三)夏,晉韓屈帥師伐鄭。

(経一三)夏、晋の韓屈が軍を率いて鄭を攻めた。

(經一四)仲孫蔑會齊崔杼、曹人、邾婁人、杞人次於合。

(経一四)仲孫蔑は斉の崔杼、曹人、邾婁人、杞人と会し、合に駐屯した。

(經一五)秋,楚公子壬夫帥師侵宋。

(経一五)秋、楚の公子壬夫が軍を率いて宋に侵入した。

(經一六)九月辛酉,天王崩。

(経一六)九月辛酉、天子が崩御した。

(經一七)邾婁子來朝。

(経一七)邾婁子が朝見に来た。

(經一八)冬,衛侯使公孫剽來聘。

(経一八)冬、衛侯は公孫剽を派遣して聘問させた。

(經一九)晉侯使荀罃來聘。

(経一九)晋侯は荀䓨を派遣して聘問させた。

襄公(經二一)二年

襄公(経二一)二年

春,王正月,葬簡王。

春、周暦の正月、簡王を葬った。

(經二二)鄭師伐宋。

(経二二)鄭の軍隊が宋を攻めた。

(經二三)夏,五月庚寅,夫人姜氏薨。

(経二三)夏五月庚寅、夫人姜氏が薨去した。

(經二四)六月庚辰,鄭伯睔卒。

(経二四)六月庚辰、鄭伯睔が薨去した。

(經二五)晉師、宋師、衛寧殖侵鄭。

(経二五)晋軍・宋軍・衛の寧殖が鄭に侵入した。

(經二六)秋,七月,仲孫蔑會晉荀罃、宋華元、衛孫林父、曹人、邾婁人於戚。

(経二六)秋七月、仲孫蔑は晋の荀䓨、宋の華元、衛の孫林父、曹人、邾婁人と戚で会合した。

(經二七)己丑,葬我小君齊姜。

(経二七)己丑、わが魯の小君斉姜を葬った。

(傳)齊姜者何?齊姜與繆姜,則未知其為宣夫人與?成夫人與?

(伝)斉姜とは何者か。斉姜と繆姜とで、彼女が宣公の夫人なのか成公の夫人なのか分からない。

(經二八)叔孫豹如宋。

(経二八)叔孫豹が宋に行った。

(經二九)冬,仲孫蔑會晉荀罃、齊崔杼、宋華元、衛孫林父、曹人、邾婁人、滕人、薛人、小邾婁人於戚,遂城虎牢。

(経二九)冬、仲孫蔑は晋の荀䓨、斉の崔杼、宋の華元、衛の孫林父、曹人、邾婁人、滕人、薛人、小邾婁人と戚で会合し、続いて虎牢を修築した。

(傳)虎牢者何?鄭之邑也。其言城之何?取之也。取之則曷為不言取之?為中國諱也。曷為為中國諱?諱伐喪也。曷為不繫乎鄭?為中國諱也。大夫無遂事,此其言遂何?歸惡乎大夫也。

(伝)虎牢とは何か。鄭の城邑である。なぜ「城」と書くのか。それを奪い取ったからである。奪い取ったのに、なぜ「取」と書かないのか。中原のために諱むからである。なぜ中原のために諱むのか。喪中の国を攻めたことを諱むからである。なぜ鄭に係属させないのか。中原のために諱むからである。大夫には「遂」と続けて行うことはないのに、ここで「遂」と書くのはなぜか。罪悪を大夫に帰するためである。

(經二十)楚殺其大夫公子申。

(経二十)楚はその大夫公子申を殺した。

襄公(經三一)三年

襄公(経三一)三年

春,楚公子嬰齊帥師伐吳。

春、楚の公子嬰斉が軍を率いて呉を攻めた。

(經三二)公如晉。

(経三二)襄公が晋に行った。

(經三三)夏,四月壬戌,公及晉侯盟於長樗。

(経三三)夏四月壬戌、襄公は晋侯と長樗で会盟した。

(經三四)公至自晉。

(経三四)襄公は晋から帰った。

(經三五)六月,公會單子、晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、莒子、邾婁子、齊世子光;己未,同盟於雞澤。陳侯使袁僑如會。

(経三五)六月、襄公は単子、晋侯、宋公、衛侯、鄭伯、莒子、邾婁子、斉の世子光と会し、己未、ともに鶏沢で会盟した。陳侯は袁僑を派遣して会盟に駆けつけさせた。

(傳)其言如會何?後會也。

(伝)「如会」と書くのはどういう意味か。後から会盟に追いついたのである。

(經三六)戊寅,叔孫豹及諸侯之大夫及陳袁僑盟。

(経三六)戊寅、叔孫豹は諸侯の大夫および陳の袁僑と会盟した。

(傳)曷為殊及陳袁僑?為其與袁僑盟也。

(伝)なぜわざわざ「及陳袁僑」と書くのか。彼が袁僑と会盟したからである。

(經三七)秋,公至自會。

(経三七)秋、襄公は会盟から帰った。

(經三八)冬,晉荀罃帥師伐許。

(経三八)冬、晋の荀䓨が軍を率いて許を攻めた。

襄公(經四一)四年

襄公(経四一)四年

春,王三月己酉,陳侯午卒。

春、周暦三月己酉、陳侯午が薨去した。

(經四二)夏,叔孫豹如晉。

(経四二)夏、叔孫豹が晋に行った。

(經四三)秋,七月戊子,夫人弋氏薨。

(経四三)秋七月戊子、夫人弋氏が薨去した。

(經四四)葬陳成公。

(経四四)陳成公を葬った。

(經四五)八月辛亥,葬我小君定弋。

(経四五)八月辛亥、わが魯の小君定弋を葬った。

(傳)定弋者,襄公之母也。

(伝)定弋は襄公の母である。

(經四六)冬,公如晉。

(経四六)冬、襄公は晋に行った。

(經四七)陳人圍頓。

(経四七)陳人が頓を包囲した。

襄公(經五一)五年

襄公(経五一)五年

春,公至自晉。

春、襄公は晋から帰った。

(經五二)夏,鄭伯使公子發來聘。

(経五二)夏、鄭伯は公子発を派遣して聘問させた。

(經五三)叔孫豹、鄫世子巫如晉。

(経五三)叔孫豹、鄫の世子巫が晋に行った。

(傳)外相如不書,此何以書?為叔孫豹率而與之俱也。叔孫豹則曷為率而與之俱?蓋舅出也。莒將滅之,故相與往殆乎晉也。莒將滅之,則曷為相與往殆乎晉?取後乎莒也。其取後乎莒奈何?莒女有為鄫夫人者,蓋欲立其出也。

(伝)外国同士の往来は例によって記さないのに、ここではなぜ記すのか。叔孫豹が率いて一緒に行ったからである。叔孫豹はなぜ率いて一緒に行ったのか。おそらく舅家の外甥である。莒がまさに鄫を滅ぼそうとしているので、ともに晋に行って救援を求めた。莒がまさに鄫を滅ぼそうとしているのに、なぜともに晋に行って救援を求めたのか。莒の側から後嗣を立てようとしたからである。どうして莒の側から後嗣を立てるのか。莒国の女子に鄫の夫人となった者がおり、おそらく彼女の生んだ子を立てようとしたのである。

(經五四)仲孫蔑、衛孫林父會吳於善稻。

(経五四)仲孫蔑、衛の孫林父は善稲で呉と会見した。

(經五五)秋,大雩。

(経五五)秋、大雩を行った。

(經五六)楚殺其大夫公子壬夫。

(経五六)楚はその大夫公子壬夫を殺した。

(經五七)公會晉侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、齊世子光、吳人、鄫人於戚。

(経五七)襄公は晋侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、斉の世子光、呉人、鄫人と戚で会合した。

(傳)吳何以稱人?吳、鄫人云則不辭。

(伝)呉はなぜ「人」と称されるのか。「呉、鄫人」と書けば言葉が順当でないからである。

(經五八)公至自會。

(経五八)襄公は会盟から帰った。

(經五九)冬,戍陳。

(経五九)冬、陳を戍守した。

(傳)孰戍之?諸侯戍之。曷為不言諸侯戍之?離至不可得而序,故言我也。

(伝)誰が戍守に行ったのか。諸侯が戍守に行ったのである。なぜ諸侯の戍守と書かないのか。別々に到着して順序よく書けなかったので、魯と書いたのである。

(經五十)楚公子貞帥師伐陳。

(経五十)楚の公子貞が軍を率いて陳を攻めた。

(經五十一)公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、齊世子光,救陳。十有二月,公至自救陳。

(経五十一)襄公は晋侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、斉の世子光と会し、陳を救った。十二月、襄公は陳救援から帰った。

(經五十二)辛未,季孫行父卒。

(経五十二)辛未、季孫行父が卒した。

襄公(經六一)六年

襄公(経六一)六年

春,王三月壬午,杞伯姑容卒。

春、周暦三月壬午、杞伯姑容が薨去した。

(經六二)夏,宋華弱來奔。

(経六二)夏、宋の華弱が奔亡してきた。

(經六三)秋,葬杞桓公。

(経六三)秋、杞桓公を葬った。

(經六四)滕子來朝。

(経六四)滕子が朝見に来た。

(經六五)莒人滅鄫。

(経六五)莒人が鄫を滅ぼした。

(經六六)冬,叔孫豹如邾婁。

(経六六)冬、叔孫豹が邾婁に行った。

(經六七)季孫宿如晉。

(経六七)季孫宿が晋に行った。

(經六八)十有二月,齊侯滅萊。

(経六八)十二月、斉侯が莱を滅ぼした。

(傳)曷為不言萊君出奔?國滅,君死之,正也。

(伝)なぜ莱の国君の出奔を書かないのか。国が滅び、国君がそのために死ぬのは正道だからである。

襄公(經七一)七年

襄公(経七一)七年

春,郯子來朝。

春、郯子が朝見に来た。

(經七二)夏,四月,三卜郊,不從,乃免牲。

(経七二)夏四月、三度郊祭について卜を問うたがいずれも従わず、そこで祭牲を免じた。

(經七三)小邾婁子來朝。

(経七三)小邾婁子が朝見に来た。

(經七四)城費。

(経七四)費を修築した。

(經七五)秋,季孫宿如衛。

(経七五)秋、季孫宿が衛に行った。

(經七六)八月,螽。

(経七六)八月、螽斯が災いをなした。

(經七七)冬,十月,衛侯使孫林父來聘。

(経七七)冬十月、衛侯は孫林父を派遣して聘問させた。

(經七八)壬戌,及孫林父盟。

(経七八)壬戌、孫林父と会盟した。

(經七九)楚公子貞帥師圍陳。

(経七九)楚の公子貞が軍を率いて陳を包囲した。

(經七十)十有二月,公會晉侯、宋公、陳侯、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子於鄬。鄭伯髡原如會,未見諸侯;丙戌,卒於操。

(経七十)十二月、襄公は晋侯、宋公、陳侯、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子と鄬で会合した。鄭伯髠原は会盟に来たが諸侯に会えず、丙戌、操で薨去した。

(傳)操者何?鄭之邑也。諸侯卒其封內不地,此何以地?隱之也。何隱爾?弒也。孰弒之?其大夫弒之。曷為不言其大夫弒之?為中國諱也。曷為為中國諱?鄭伯將會諸侯於鄬,其大夫諫曰:「中國不足歸也,則不若與楚。」鄭伯曰:「不可。」其大夫曰:「以中國為義,則伐我喪;以中國為強,則不若楚。」於是弒之。鄭伯髡原何以名?傷而反,未至乎舍而卒也。未見諸侯,其言如會何?致其意也。

(伝)操とは何か。鄭の城邑である。諸侯が封疆以内で薨去した場合は例によって場所を記さないのに、ここではなぜ場所を記すのか。これを痛ましく思うからである。何を痛ましく思うのか。殺されたのである。誰が殺したのか。彼の大夫が殺したのである。なぜ彼の大夫が殺したと書かないのか。中原のために諱むからである。なぜ中原のために諱むのか。鄭伯はまさに鄬で諸侯と会おうとし、彼の大夫は諫めて言った、「中原は帰附するに足らない、それなら楚につくに如かない」と。鄭伯は「不可だ」と言った。彼の大夫は言った、「中原を義あるものと見なせば、われらの喪に乗じて攻めてきます。中原を強大と見なせば、楚に及びません」と。そこで彼を殺したのである。鄭伯髠原はなぜ名を称されるのか。傷を負って帰り、宿舎に着く前に死んだからである。諸侯に会えなかったのに、なぜ「如会」と書くのか。彼の意図を書き表すためである。

(經七十一)陳侯逃歸。

(経七十一)陳侯が逃げ帰った。

襄公(經八一)八年

襄公(経八一)八年

春,王正月,公如晉。

春、周暦正月、襄公は晋に行った。

(經八二)夏,葬鄭僖公。

(経八二)夏、鄭僖公を葬った。

(傳)賊未討,何以書葬?為中國諱也。

(伝)賊がまだ討たれていないのに、なぜ葬りを記すのか。中原のために諱むからである。

(經八三)鄭人侵蔡,獲蔡公子燮。

(経八三)鄭人が蔡に侵入し、蔡の公子燮を捕らえた。

(傳)此侵也,其言獲何?侵而言獲者,適得之也。

(伝)これは侵入であるのに、なぜ「獲」と書くのか。侵入して「獲」と書くのは、たまたま捕らえたのである。

(經八四)季孫宿會晉侯、鄭伯、齊人、宋人、衛人、邾婁人於刑丘。公至自晉。

(経八四)季孫宿は晋侯、鄭伯、斉人、宋人、衛人、邾婁人と刑丘で会合した。襄公は晋から帰った。

(經八五)莒人伐我東鄙。

(経八五)莒人がわが魯の東部の辺境を攻めた。

(經八六)秋,九月,大雩。

(経八六)秋九月、大雩を行った。

(經八七)冬,楚公子貞帥師伐鄭。

(経八七)冬、楚の公子貞が軍を率いて鄭を攻めた。

(經八八)晉侯使士丐來聘。

(経八八)晋侯は士丐を派遣して聘問させた。

襄公(經九一)九年

襄公(経九一)九年

春,宋火。

春、宋で火災があった。

(傳)曷為或言災?或言火?大者曰災,小者曰火。然則內何以不言火?內不言火者,甚之也。何以書?記災也。外災不書,此何以書?為王者之後記災也。

(伝)なぜ「災」と書く場合と「火」と書く場合があるのか。大きいのを災といい、小さいのを火という。では魯の内部ではなぜ「火」と書かないのか。内部に「火」と書かないのは、それを重く見るためである。なぜ記すのか。災害を記すのである。外部の災害は例によって記さないのに、ここではなぜ記すのか。宋は王者の末裔だから、そのために災害を記すのである。

(經九二)夏,季孫宿如晉。

(経九二)夏、季孫宿が晋に行った。

(經九三)五月辛酉,夫人姜氏薨。

(経九三)五月辛酉、夫人姜氏が薨去した。

(經九四)秋,八月癸未,葬我小君繆姜。

(経九四)秋八月癸未、わが魯の小君繆姜を葬った。

(經九五)冬,公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子、齊世子光伐鄭。十有二月己亥,同盟於戲。

(経九五)冬、襄公は晋侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子、斉の世子光と会して鄭を攻めた。十二月己亥、ともに戯で会盟した。

(經九六)楚子伐鄭。

(経九六)楚子が鄭を攻めた。

襄公(經十一)十年

襄公(経十一)十年

春,公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子、齊世子光會吳於柤。

春、襄公は晋侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子、斉の世子光と会し、柤で呉と会見した。

(經十二)夏,五月甲午,遂滅偪陽。公至自會。

(経十二)夏五月甲午、続いて偪陽を滅ぼした。襄公は会盟から帰った。

(經十三)楚公子貞、鄭公孫輒帥師伐宋。

(経十三)楚の公子貞、鄭の公孫輒が軍を率いて宋を攻めた。

(經十四)晉師伐秦。

(経十四)晋軍が秦を攻めた。

(經十五)秋,莒人伐我東鄙。公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、齊世子光、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子伐鄭。

(経十五)秋、莒人がわが魯の東部の辺境を攻めた。襄公は晋侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、斉の世子光、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子と会して鄭を攻めた。

(經十六)冬,盜殺鄭公子斐、公子發、公孫輒。戍鄭虎牢。

(経十六)冬、盗賊が鄭の公子斐、公子発、公孫輒を殺した。鄭の虎牢を戍守した。

(傳)孰戍之?諸侯戍之。曷為不言諸侯戍之?離至不可得而序,故言我也。諸侯已取之矣,曷為系之鄭?諸侯莫之主有,故反系之鄭。

(伝)誰が戍守に行ったのか。諸侯が戍守に行ったのである。なぜ諸侯の戍守と書かないのか。別々に到着して順序よく書けなかったので、魯と書いたのである。諸侯がすでに奪い取ったのに、なぜ鄭に係属させるのか。諸侯には主として占有する者がいなかったので、かえって鄭に係属させたのである。

(經十七)楚公子貞帥師救鄭。

(経十七)楚の公子貞が軍を率いて鄭を救った。

(經十八)公至自伐鄭。

(経十八)襄公は鄭討伐の軍から帰った。

襄公(經十一一)十有一年

襄公(経十一一)十有一年

春,王正月,作三軍。

春、周暦正月、三軍を設置した。

(傳)三軍者何?三卿也。作三軍,何以書?譏。何譏爾?古者上卿、下卿,上士、下士。

(伝)三軍とは何か。三人の卿である。三軍を設置したことをなぜ記すのか。譏刺するためである。何を譏刺するのか。古くは上卿・下卿、上士・下士しかなかったのである。

(經十一二)夏,四月,四卜郊,不從,乃不郊。

(経十一二)夏四月、四度郊祭について卜を問うたがいずれも従わず、そこで郊祭を行わなかった。

(經十一三)鄭公孫舍之帥師侵宋。

(経十一三)鄭の公孫舎之が軍を率いて宋に侵入した。

(經十一四)公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、齊世子光、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子伐鄭。

(経十一四)襄公は晋侯、宋公、衛侯、曹伯、斉の世子光、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子と会して鄭を攻めた。

(經十一五)秋,七月己未,同盟於京城北。

(経十一五)秋七月己未、ともに京城の北で会盟した。

(經十一六)公至自伐鄭。

(経十一六)襄公は鄭討伐の軍から帰った。

(經十一七)楚子、鄭伯伐宋。

(経十一七)楚子、鄭伯が宋を攻めた。

(經十一八)公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、齊世子光、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子伐鄭,會於蕭魚。

(経十一八)襄公は晋侯、宋公、衛侯、曹伯、斉の世子光、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子と会して鄭を攻め、蕭魚で相会した。

(傳)此伐鄭也,其言會於蕭魚何?蓋鄭與會爾。

(伝)これは鄭を攻めたのであるのに、なぜ「会于蕭魚」と書くのか。おそらく鄭も会盟に加わったからである。

(經十一九)公至自會。

(経十一九)襄公は会盟から帰った。

(經十一十)楚人執鄭行人良霄。

(経十一十)楚人が鄭の行人良霄を捕らえた。

(經十一十一)冬,秦人伐晉。

(経十一十一)冬、秦人が晋を攻めた。

襄公(經十二一)十有二年

襄公(経十二一)十有二年

春,王三月,莒人伐我東鄙,圍臺。

春、周暦三月、莒人がわが魯の東部の辺境を攻め、台を包囲した。

(傳)邑不言圍,此其言圍何?伐而言圍者,取邑之辭也;伐而不言圍者,非取邑之辭也。

(伝)城邑は例によって「囲」と書かないのに、ここで「囲」と書くのはなぜか。伐と書き囲とも書くのは、城邑を奪い取る措辞であり、伐と書いて囲と書かなければ、城邑を奪い取る措辞ではないのである。

(經十二二)季孫宿帥師救臺,遂入運。

(経十二二)季孫宿が軍を率いて台を救い、続いて運に入った。

(傳)大夫無遂事,此其言遂何?公不得為政爾。

(伝)大夫には「遂」と続けて行うことはないのに、ここで「遂」と書くのはなぜか。襄公が政事を主うことができないだけである。

(經十二三)夏,晉侯使士彭來聘。

(経十二三)夏、晋侯は士彭を派遣して聘問させた。

(經十二四)秋,九月,吳子乘卒。

(経十二四)秋九月、呉子乗が薨去した。

(經十二五)冬,楚公子貞帥師侵宋。

(経十二五)冬、楚の公子貞が軍を率いて宋に侵入した。

(經十二六)公如晉。

(経十二六)襄公は晋に行った。

襄公(經十三一)十有三年

襄公(経十三一)十有三年

春,公至自晉。

春、襄公は晋から帰った。

(經十三二)夏,取詩。

(経十三二)夏、詩を奪い取った。

(傳)詩者何?邾婁之邑也。曷為不繫乎邾婁?諱亟也。

(伝)詩とは何か。邾婁の城邑である。なぜ邾婁に係属させないのか。求めるのが急すぎたことを諱むからである。

(經十三三)秋,九月庚辰,楚子審卒。

(経十三三)秋九月庚辰、楚子審が薨去した。

(經十三四)冬,城防。

(経十三四)冬、防を修築した。

襄公(經十四一)十有四年

襄公(経十四一)十有四年

春,王正月,季孫宿、叔老會晉士丐、齊人、宋人、衛人、鄭公孫囆、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、杞人、小邾婁人會吳於向。

春、周暦正月、季孫宿、叔老は晋の士丐、斉人、宋人、衛人、鄭の公孫蠆、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、杞人、小邾婁人と会し、向で呉と会見した。

(經十四二)二月乙未朔,日有食之。

(経十四二)二月乙未朔、日食があった。

(經十四二)夏,四月,叔孫豹會晉荀偃、齊人、宋人、衛北宮結、鄭公孫囆、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、杞人、小邾婁人伐秦。

(経十四二)夏四月、叔孫豹は晋の荀偃、斉人、宋人、衛の北宮結、鄭の公孫蠆、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、杞人、小邾婁人と会して秦を攻めた。

(經十四三)己未,衛侯衎出奔齊。

(経十四三)己未、衛侯衎が斉に出奔した。

(經十四四)莒人侵我東鄙。

(経十四四)莒人がわが魯の東部の辺境に侵入した。

(經十四五)秋,楚公子貞帥師伐吳。

(経十四五)秋、楚の公子貞が軍を率いて呉を攻めた。

(經十四六)冬,季孫宿會晉士丐、宋華閱、衛孫林父、鄭公孫囆、莒人、邾婁人於戚。

(経十四六)冬、季孫宿は晋の士丐、宋の華閲、衛の孫林父、鄭の公孫蠆、莒人、邾婁人と戚で会合した。

襄公(經十五一)十有五年

襄公(経十五一)十有五年

春,宋公使向戌來聘。二月己亥,及向戌盟於劉。

春、宋公は向戌を派遣して聘問させた。二月己亥、向戌と劉で会盟した。

(經十五二)劉夏逆王后於齊。

(経十五二)劉夏が斉に行って王后を迎えた。

(傳)劉夏者何?天子之大夫也。劉者何?邑也。其稱劉何?以邑氏也。外逆女不書,此何以書?過我也。

(伝)劉夏とは何者か。天子の大夫である。劉とは何か。城邑である。なぜ「劉」と称するのか。邑をもって氏としたのである。外で女子を娶ることは例によって記さないのに、ここではなぜ記すのか。彼が魯を通過したからである。

(經十五三)夏,齊侯伐我北鄙,圍成。公救成,至遇。

(経十五三)夏、斉侯がわが魯の北部の辺境を攻め、成を包囲した。襄公は成を救い、遇に至った。

(傳)其言至遇何?不敢進也。

(伝)「至遇」と書くのはどういう意味か。進むことを敢えてしなかったのである。

(經十五四)季孫宿、叔孫豹帥師城成郛。

(経十五四)季孫宿、叔孫豹は軍を率いて成の外城を修築した。

(經十五五)秋,八月丁巳,日有食之。

(経十五五)秋八月丁巳、日食があった。

(經十五六)邾婁人伐我南鄙。

(経十五六)邾婁人がわが魯の南部の辺境を攻めた。

(經十五七)冬,十有一月癸亥,晉侯周卒。

(経十五七)冬十一月癸亥、晋侯周が薨去した。

襄公(經十六一)十有六年

襄公(経十六一)十有六年

春,王正月,葬晉悼公。

春、周暦正月、晋悼公を葬った。

(經十六二)三月,公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、薛伯、杞伯、小邾婁子於湨梁;戊寅,大夫盟。

(経十六二)三月、襄公は晋侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、薛伯、杞伯、小邾婁子と湨梁で会合し、戊寅、大夫が会盟した。

(傳)諸侯皆在是,其言大夫盟何?信在大夫也。何言乎信在大夫?遍剌天下之大夫也。曷為遍剌天下之大夫?君若贅旒然。

(伝)諸侯は皆ここにいるのに、なぜ「大夫盟」と書くのか。信用が大夫の手にあるからである。なぜ信用が大夫の手にあるというのか。天下の大夫を遍く譏刺するのである。なぜ天下の大夫を遍く譏刺するのか。国君が旗に連なる飾りの房のようになっているからである。

(經十六三)晉人執莒子、邾婁子以歸。

(経十六三)晋人が莒子・邾婁子を捕らえて連れ帰った。

(經十六四)齊侯伐我北鄙。

(経十六四)斉侯がわが魯の北部の辺境を攻めた。

(經十六五)夏,公至自會。

(経十六五)夏、襄公は会盟から帰った。

(經十六六)五月甲子,地震。

(経十六六)五月甲子、地震があった。

(經十六七)叔老會鄭伯、晉荀偃、衛寧殖、宋人,伐許。

(経十六七)叔老は鄭伯、晋の荀偃、衛の寧殖、宋人と会して許を攻めた。

(經十六八)秋,齊侯伐我北鄙,圍成。

(経十六八)秋、斉侯がわが魯の北部の辺境を攻め、成を包囲した。

(經十六九)大雩。

(経十六九)大雩を行った。

(經十六十)冬,叔孫豹如晉。

(経十六十)冬、叔孫豹が晋に行った。

襄公(經十七一)十有七年

襄公(経十七一)十有七年

春,王二月庚午,邾婁子瞷卒。

春、周暦二月庚午、邾婁子瞷が薨去した。

(經十七二)宋人伐陳。

(経十七二)宋人が陳を攻めた。

(經十七三)夏,衛石買帥師伐曹。

(経十七三)夏、衛の石買が軍を率いて曹を攻めた。

(經十七四)秋,齊侯伐我北鄙,圍洮。齊高厚帥師伐我北鄙,圍防。

(経十七四)秋、斉侯がわが魯の北部の辺境を攻め、洮を包囲した。斉の高厚が軍を率いてわが魯の北部の辺境を攻め、防を包囲した。

(經十七五)九月,大雩。

(経十七五)九月、大雩を行った。

(經十七六)宋華臣出奔陳。

(経十七六)宋の華臣が陳に出奔した。

(經十七七)冬,邾婁人伐我南鄙。

(経十七七)冬、邾婁人がわが魯の南部の辺境を攻めた。

襄公(經十八一)十有八年

襄公(経十八一)十有八年

春,白狄來。

春、白狄が来た。

(傳)白狄者何?夷狄之君也。何以不言朝?不能朝也。

(伝)白狄とは何者か。夷狄の国君である。なぜ「朝」と書かないのか。彼が朝見の礼を行うことができないからである。

(經十八二)夏,晉人執衛行人石買。

(経十八二)夏、晋人が衛の行人石買を捕らえた。

(經十八三)秋,齊師伐我北鄙。

(経十八三)秋、斉軍がわが魯の北部の辺境を攻めた。

(經十八四)冬,十月,公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子同圍齊;曹伯負芻卒於師。

(経十八四)冬十月、襄公は晋侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子とともに斉を包囲した。曹伯負芻が軍中で薨去した。

(經十八五)楚公子午帥師伐鄭。

(経十八五)楚の公子午が軍を率いて鄭を攻めた。

襄公(經十九一)十有九年

襄公(経十九一)十有九年

春,王正月,諸侯盟於祝阿。

春、周暦正月、諸侯が祝阿で会盟した。

(經十九二)晉人執邾婁子。

(経十九二)晋人が邾婁子を捕らえた。

(經十九三)公至自伐齊。

(経十九三)襄公は斉討伐の軍から帰った。

(傳)此同圍齊也,何以致伐?未圍齊也。未圍齊則其言圍齊何?抑齊也。曷為抑齊?為其亟伐也;或曰為其驕蹇,使其世子處乎諸侯之上也。

(伝)これはともに斉を包囲したのであるのに、なぜ征伐から帰ったと書くのか。まだ斉を包囲していなかったからである。まだ斉を包囲していなかったのに、斉を包囲したと書くのはなぜか。斉を抑えつけるためである。なぜ斉を抑えつけるのか。たびたび攻めてきたからである。一説に、彼が驕横で、その世子を諸侯の上に置かせたからである。

(經十九四)取邾婁田,自漷水。

(経十九四)邾婁の田地を取り、漷水からとした。

(傳)其言自漷水何?以漷為竟也。何言乎以漷為竟?漷移也。

(伝)「自漷水」と書くのはどういう意味か。漷水をもって境界としたのである。なぜ漷水をもって境界としたというのか。漷水が流れを変えたからである。

(經十九五)季孫宿如晉。

(経十九五)季孫宿が晋に行った。

(經十九六)葬曹成公。

(経十九六)曹成公を葬った。

(經十九七)夏,衛孫林父帥師伐齊。

(経十九七)夏、衛の孫林父が軍を率いて斉を攻めた。

(經十九八)秋,七月辛卯,齊侯瑗卒。

(経十九八)秋七月辛卯、斉侯瑗が薨去した。

(經十九九)晉士丐帥師侵齊,至谷,聞齊侯卒,乃還。

(経十九九)晋の士丐が軍を率いて斉に侵入し、谷に至り、斉侯の薨去を聞いて帰った。

(傳)還者何?善辭也。何善爾?大其不伐喪也。此受命乎君而伐齊,則何大乎其不伐喪?大夫以君命出,進退在大夫也。

(伝)「還」とはどういう意味か。称賛の措辞である。何を称賛するのか。彼が喪中の国を攻めなかったことを誇張するのである。これは国君の命令を受けて斉を伐ったのに、なぜ彼が喪中の国を攻めなかったことを誇張するのか。大夫は国君の命令を奉じて出たなら、進退は大夫にあるのである。

(經十九十)八月丙辰,仲孫蔑卒。

(経十九十)八月丙辰、仲孫蔑が卒した。

(經十九十一)齊殺其大夫高厚。

(経十九十一)斉はその大夫高厚を殺した。

(經十九十二)鄭殺其大夫公子喜。

(経十九十二)鄭はその大夫公子喜を殺した。

(經十九十三)冬,葬齊靈公。

(経十九十三)冬、斉霊公を葬った。

(經十九十四)城西郛。

(経十九十四)西面の外城を修築した。

(經十九十五)叔孫豹會晉士丐於柯。

(経十九十五)叔孫豹は柯で晋の士丐と会見した。

(經十九十六)城武城。

(経十九十六)武城を修築した。

襄公(經二十一)二十年

襄公(経二十一)二十年

春,王正月辛亥,仲孫遬會莒人盟於向。

春、周暦正月辛亥、仲孫遬は莒人と向で会盟した。

(經二十二)夏,六月庚申,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子盟於澶淵。

(経二十二)夏六月庚申、襄公は晋侯、斉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子と澶淵で会盟した。

(經二十三)秋,公至自會。

(経二十三)秋、襄公は会盟から帰った。

(經二十四)仲孫遬帥師伐邾婁。

(経二十四)仲孫遬が軍を率いて邾婁を攻めた。

(經二十五)蔡殺其大夫公子燮。

(経二十五)蔡はその大夫公子燮を殺した。

(經二十六)蔡公子履出奔楚。

(経二十六)蔡の公子履が楚に出奔した。

(經二十七)陳侯之弟光出奔楚。

(経二十七)陳侯の弟光が楚に出奔した。

(經二十八)叔老如齊。

(経二十八)叔老が斉に行った。

(經二十九)冬,十月丙辰朔,日有食之。

(経二十九)冬十月丙辰朔、日食があった。

(經二十十)季孫宿如宋。

(経二十十)季孫宿が宋に行った。

襄公(經二一一)二十有一年

襄公(経二一一)二十有一年

春,王正月,公如晉。

春、周暦正月、襄公は晋に行った。

(經二一二)邾婁庶其以漆閭丘來奔。

(経二一二)邾婁の庶其が漆・閭丘を携えて奔亡してきた。

(傳)邾婁庶其者何?邾婁大夫也。邾婁無大夫,此何以書?重地也。

(伝)邾婁庶其とは何者か。邾婁の大夫である。邾婁には大夫がいないのに、ここではなぜ記すのか。土地を重んじるからである。

(經二一三)夏,公至自晉。

(経二一三)夏、襄公は晋から帰った。

(經二一四)秋,晉欒盈出奔楚。

(経二一四)秋、晋の欒盈が楚に出奔した。

(經二一五)九月庚戌朔,日有食之。

(経二一五)九月庚戌朔、日食があった。

(經二一六)冬,十月庚辰朔,日有食之。

(経二一六)冬十月庚辰朔、日食があった。

(經二一七)曹伯來朝。

(経二一七)曹伯が朝見に来た。

(經二一八)公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子於商任。

(経二一八)襄公は晋侯、斉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子と商任で会合した。

(經二一九)十有一月庚子,孔子生。

(経二一九)十一月庚子、孔子が生まれた。

襄公(經二二一)二十有二年

襄公(経二二一)二十有二年

春,王正月,公至自會。

春、周暦正月、襄公は会盟から帰った。

(經二二二)夏,四月。

(経二二二)夏四月。

(經二二三)秋,七月辛酉,叔老卒。

(経二二三)秋七月辛酉、叔老が卒した。

(經二二四)冬,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子於沙隨。公至自會。

(経二二四)冬、襄公は晋侯、斉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子と沙随で会合した。襄公は会盟から帰った。

(經二二五)楚殺其大夫公子追舒。

(経二二五)楚はその大夫公子追舒を殺した。

襄公(經二三一)二十有三年

襄公(経二三一)二十有三年

春,王二月癸酉朔,日有食之。

春、周暦二月癸酉朔、日食があった。

(經二三二)三月己巳,杞伯丐卒。

(経二三二)三月己巳、杞伯丐が薨去した。

(經二三三)夏,邾婁鼻我來奔。

(経二三三)夏、邾婁の鼻我が奔亡してきた。

(傳)邾婁鼻我者何?邾婁大夫也。邾婁無大夫,此何以書?以近書也。

(伝)邾婁鼻我とは何者か。邾婁の大夫である。邾婁には大夫がいないのに、ここではなぜ記すのか。時代が近いから記すのである。

(經二三四)葬杞孝公。

(経二三四)杞孝公を葬った。

(經二三五)陳殺其大夫慶虎及慶寅。

(経二三五)陳はその大夫慶虎と慶寅を殺した。

(經二三六)陳侯之弟光自楚歸於陳。

(経二三六)陳侯の弟光が楚から陳に帰った。

(經二三七)晉欒盈復入於晉、入於曲沃。

(経二三七)晋の欒盈が再び晋に入り、曲沃に入った。

(傳)曲沃者何?晉之邑也。其言入於晉、入於曲沃何?欒盈將入晉,晉人不納,由乎曲沃而入也。

(伝)曲沃とは何か。晋の城邑である。「入于晋、入于曲沃」と書くのはどういう意味か。欒盈がまさに晋に入ろうとし、晋人が受け入れなかったので、曲沃から入ったのである。

(經二三八)秋,齊侯伐衛,遂伐晉。八月,叔孫豹帥師救晉,次於雍渝。

(経二三八)秋、斉侯が衛を攻め、続いて晋を攻めた。八月、叔孫豹が軍を率いて晋を救い、雍渝に駐屯した。

(傳)曷為先言救而後言次?先通君命也。

(伝)なぜ先に「救」と書いてから「次」と書くのか。先に国君の命令を伝えるためである。

(經二三九)己卯,仲孫遬卒。

(経二三九)己卯、仲孫遬が卒した。

(經二三十)冬,十月乙亥,臧孫紇出奔邾婁。

(経二三十)冬十月乙亥、臧孫紇が邾婁に出奔した。

(經二三十一)晉人殺欒盈。

(経二三十一)晋人が欒盈を殺した。

(傳)曷為不言殺其大夫?非其大夫也。

(伝)なぜその大夫を殺したと書かないのか。彼はすでに大夫ではなかったからである。

(經二三十二)齊侯襲莒。

(経二三十二)斉侯が莒を襲撃した。

襄公(經二四一)二十有四年

襄公(経二四一)二十有四年

春,叔孫豹如晉。仲孫羯帥師侵齊。夏,楚子伐吳。

春、叔孫豹が晋に行った。仲孫羯が軍を率いて斉に侵入した。夏、楚子が呉を攻めた。

(經二四二)秋,七月甲子朔,日有食之,既。

(経二四二)秋七月甲子朔、日食があって、皆既食であった。

(經二四三)齊崔杼帥師伐莒。

(経二四三)斉の崔杼が軍を率いて莒を攻めた。

(經二四四)大水。

(経二四四)大水があった。

(經二四五)八月癸巳朔,日有食之。

(経二四五)八月癸巳朔、日食があった。

(經二四六)公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子於陳儀。

(経二四六)襄公は晋侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子と陳儀で会合した。

(經二四七)冬,楚子、蔡侯、陳侯、許男伐鄭。公至自會。

(経二四七)冬、楚子、蔡侯、陳侯、許男が鄭を攻めた。襄公は会盟から帰った。

(經二四八)陳咸宜咎出奔楚。

(経二四八)陳の咸宜咎が楚に出奔した。

(經二四九)叔孫豹如京師。

(経二四九)叔孫豹が京師に行った。

(經二四十)大飢。

(経二四十)大飢饉であった。

襄公(經二五一)二十有五年

襄公(経二五一)二十有五年

春,齊崔杼帥師伐我北鄙。

春、斉の崔杼が軍を率いてわが魯の北部の辺境を攻めた。

(經二五二)夏,五月乙亥,齊崔杼弒其君光。

(経二五二)夏五月乙亥、斉の崔杼がその君光を弑した。

(經二五三)公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子於陳儀。

(経二五三)襄公は晋侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子と陳儀で会合した。

(經二五四)六月壬子,鄭公孫舍之帥師入陳。

(経二五四)六月壬子、鄭の公孫舎之が軍を率いて陳に入った。

(經二五五)秋,八月己巳,諸侯同盟於重丘,公至自會。

(経二五五)秋八月己巳、諸侯がともに重丘で会盟し、襄公は会盟から帰った。

(經二五六)衛侯入於陳儀。

(経二五六)衛侯が陳儀に入った。

(傳)陳儀者何?衛之邑也。曷為不言入於衛?諼君以弒也。

(伝)陳儀とは何か。衛の城邑である。なぜ衛に入ったと書かないのか。詐りをもって国君を殺すためである。

(經二五七)楚屈建帥師滅舒鳩。

(経二五七)楚の屈建が軍を率いて舒鳩を滅ぼした。

(經二五八)冬,鄭公孫囆帥師伐陳。

(経二五八)冬、鄭の公孫蠆が軍を率いて陳を攻めた。

(經二五九)十有二月,吳子謁伐楚,門於巢卒。

(経二五九)十二月、呉子謁が楚を攻め、巣の城門で卒した。

(傳)門於巢卒者何?入門乎巢而卒也。入門乎巢而卒者何?入巢之門而卒也。吳子謁,何以名?傷而反,未至乎舍而卒也。

(伝)「門于巣卒」とはどういう意味か。巣の門に入って卒したのである。巣の門に入って卒したとはどういう意味か。巣の城門に入って卒したのである。呉子謁はなぜ名を称されるのか。傷を負って帰り、宿舎に着く前に死んだからである。

襄公(經二六一)二十有六年

襄公(経二六一)二十有六年

春,王二月辛卯,衛寧喜弒其君剽。衛孫林父入於戚以叛。甲午,衛侯衎復歸於衛。

春、周暦二月辛卯、衛の寧喜がその君剽を弑した。衛の孫林父が戚に入って反逆した。甲午、衛侯衎が衛に再び帰った。

(傳)此諼君以弒也,其言復歸何?惡剽也。曷為惡剽?剽之立於是未有說也。然則曷為不言剽之立?不言剽之立者,以惡衛侯也。

(伝)これは詐りをもって国君を殺したのであるのに、なぜ「復帰」と書くのか。剽を憎むからである。なぜ剽を憎むのか。剽の立てられたことにはこの時まだ言辞がなかったからである。ではなぜ剽の立てられたことを書かないのか。剽の立てられたことを書かないのは、衛侯を憎むためである。

(經二六二)夏,晉侯使荀吳來聘。

(経二六二)夏、晋侯は荀呉を派遣して聘問させた。

(經二六三)公會晉人、鄭良霄、宋人、曹人於澶淵。

(経二六三)襄公は晋人、鄭の良霄、宋人、曹人と澶淵で会合した。

(經二六四)秋,宋公弒其世子痤。

(経二六四)秋、宋公がその世子痤を殺した。

(經二六五)晉人執衛寧喜。

(経二六五)晋人が衛の寧喜を捕らえた。

(傳)此執有罪,何以不得為伯討?不以其罪執之也。

(伝)これは罪ある者を捕らえたのに、なぜ覇者の討伐と見なせないのか。彼の罪に従って捕らえたのではないからである。

(經二六六)八月壬午,許男寧卒於楚。

(経二六六)八月壬午、許男寧が楚で薨去した。

(經二六七)冬,楚子、蔡侯、陳侯伐鄭。

(経二六七)冬、楚子、蔡侯、陳侯が鄭を攻めた。

(經二六八)葬許靈公。

(経二六八)許霊公を葬った。

襄公(經二七一)二十有七年

襄公(経二七一)二十有七年

春,齊侯使慶封來聘。

春、斉侯は慶封を派遣して聘問させた。

(經二七二)夏,叔孫豹會晉趙武、楚屈建、蔡公孫歸生、衛石惡、陳孔瑗、鄭良霄、許人、曹人於宋。

(経二七二)夏、叔孫豹は晋の趙武、楚の屈建、蔡の公孫帰生、衛の石悪、陳の孔瑗、鄭の良霄、許人、曹人と宋で会合した。

(經二七三)衛殺其大夫寧喜,衛侯之弟鱄出奔晉。

(経二七三)衛はその大夫寧喜を殺し、衛侯の弟鱄が晋に出奔した。

(傳)衛殺其大夫寧喜,則衛侯之弟鱄曷為出奔晉?為殺寧喜出奔也。曷為為殺寧喜出奔?衛寧殖與孫林父逐衛侯而立公孫剽,寧殖病將死,謂喜曰:「黜公者,非吾意也,孫氏為之。我即死,女能固納公乎?」喜曰:「諾。」寧殖死,喜立為大夫,使人謂獻公曰:「黜公者,非寧氏也,孫氏為之。吾欲納公,何如?」獻公曰:「子茍欲納我,吾請與子盟。」喜曰:「無所用盟,請使公子鱄約之。」獻公謂公子鱄曰:「寧氏將納我,吾欲與之盟。其言曰:『無所用盟,請使公子鱄約之。』子固為我與之約矣。」公子鱄辭曰:「夫負羈縶,執鈇鑕,從君東西南北,則是臣僕庶孽之事也。若夫約言為信,則非臣僕庶孽之所敢與也。」獻公怒曰:「黜我者,非寧氏與孫氏,凡在爾。」公子鱄不得已而與之約。已約,歸至,殺寧喜。公子鱄挈其妻子而去之,將濟於河,攜其妻子而與之盟,曰:「茍有履衛地、食衛粟者,昧雉彼視。」

(伝)衛が大夫寧喜を殺したのに、衛侯の弟鱄はなぜ晋に出奔したのか。寧喜を殺したために出奔したのである。なぜ寧喜を殺したために出奔したのか。衛の寧殖と孫林父は衛侯を逐い出して公孫剽を立てた。寧殖は病重く死に臨んで、喜に言った、「国君を廃黜したのは、わが意ではない、孫氏のやったことだ。わしが死んだら、お前は国君を送り返すことを堅く持することができるか」と。喜は「はい」と言った。寧殖が死に、喜は大夫に立てられ、人を遣わして献公に言わせた、「国君を廃黜したのは寧氏ではなく、孫氏のやったことです。わたしはあなたを送り返したいのですが、いかがでしょう」と。献公は言った、「あなたが本当にわたしを送り返そうというなら、あなたと会盟することを請う」と。喜は言った、「会盟の必要はありません、公子鱄を遣わして約定してください」と。献公は公子鱄に言った、「寧氏がわたしを送り返そうとしており、わたしは彼と会盟したい。彼は『会盟の必要はない、公子鱄を遣わして約定せよ』と言う。あなたは必ずわたしのために彼と約定せよ」と。公子鱄は辞して言った、「羁绊を負い斧砧を持って、国君に従って東西南北するのは、臣僕や庶孽の務めです。約誓を結んで憑信とすることは、臣僕や庶孽の敢えて与るところではありません」と。献公は怒って言った、「わたしを廃黜したのは寧氏と孫氏ではなく、すべてあなたに在る」と。公子鱄はやむをえず彼と約定した。すでに約定し、献公は帰り、寧喜を殺した。公子鱄は妻子を連れて去り、まさに河を渡ろうとして、妻子を率いて彼らに誓って言った、「もし衛の地を踏み衛の粟を食むことがあれば、この雉のように見られますように」と。

(經二七四)秋,七月辛巳,豹及諸侯之大夫盟於宋。

(経二七四)秋七月辛巳、豹は諸侯の大夫と宋で会盟した。

(傳)曷為再言豹?殆諸侯也。曷為殆諸侯?為衛石惡在是也,曰惡人之徒在是矣。

(伝)なぜ再び「豹」と書くのか。諸侯を危うくするからである。なぜ諸侯を危うくするのか。衛の石悪がここにいて、悪人の党徒がここにいると言ったからである。

(經二七五)冬,十有二月乙亥朔,日有食之。

(経二七五)冬十二月乙亥朔、日食があった。

襄公(經二八一)二十有八年

襄公(経二八一)二十有八年

春,無冰。

春、氷が張らなかった。

(經二八二)夏,衛石惡出奔晉。

(経二八二)夏、衛の石悪が晋に出奔した。

(經二八三)邾婁子來朝。

(経二八三)邾婁子が朝見に来た。

(經二八四)秋,八月,大雩。

(経二八四)秋八月、大雩を行った。

(經二八五)仲孫羯如晉。

(経二八五)仲孫羯が晋に行った。

(經二八六)冬,齊慶封來奔。

(経二八六)冬、斉の慶封が奔亡してきた。

(經二八七)十有一月,公如楚。

(経二八七)十一月、襄公は楚に行った。

(經二八八)十有二月甲寅,天王崩。

(経二八八)十二月甲寅、天子が崩御した。

(經二八九)乙未,楚子昭卒。

(経二八九)乙未、楚子昭が薨去した。

襄公(經二九一)二十有九年

襄公(経二九一)二十有九年

春,王正月,公在楚。

春、周暦正月、襄公は楚にいた。

(傳)何言乎公在楚?正月以存君也。

(伝)なぜ「公在楚」と書くのか。正月には国君を存問するからである。

(經二九二)夏,五月,公至自楚。

(経二九二)夏五月、襄公は楚から帰った。

(經二九三)庚午,衛侯衎卒。

(経二九三)庚午、衛侯衎が薨去した。

(經二九四)閽弒吳子餘祭。

(経二九四)閽人が呉子余祭を殺した。

(傳)閽者何?門人也,刑人也。刑人則曷為謂之閽?刑人非其人也。君子不近刑人,近刑人則輕死之道也。

(伝)閽とは何者か。門を守る者で、刑を受けた者である。刑を受けた者であるのに、なぜ閽というのか。刑を受けた者はすでに彼のような人ではないからである。君子は刑を受けた者に近づかない。刑を受けた者に近づくのは、死を軽んずる道である。

(經二九五)仲孫羯會晉荀盈、齊高止、宋華定、衛世叔齊、鄭公孫段、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、小邾婁人城杞。

(経二九五)仲孫羯は晋の荀盈、斉の高止、宋の華定、衛の世叔斉、鄭の公孫段、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、小邾婁人と会して杞を修築した。

(經二九六)晉侯使士鞅來聘。

(経二九六)晋侯は士鞅を派遣して聘問させた。

(經二九七)杞子來盟。

(経二九七)杞子が会盟に来た。

(經二九八)吳子使札來聘。

(経二九八)呉子は札を派遣して聘問させた。

(傳)吳無君、無大夫,此何以有君、有大夫?賢季子也。何賢乎季子?讓國也。其讓國奈何?謁也、餘祭也、夷昧也與季子同母者四,季子弱而才,兄弟皆愛之,同欲立之以為君,謁曰:「今若是迮而與季子國,季子猶不受也,請無與子而與弟,弟兄迭為君,而致國乎季子。」皆曰:「諾。」故諸為君者,皆輕死為勇,飲食必祝,曰:「天茍有吳國,尚速有悔於予身。」故謁也死,餘祭也立。餘祭也死,夷昧也立。夷昧也死,則國宜之季子者也。季子使而亡焉。僚者長庶也,即之,季子使而反,至,而君之爾。闔廬曰:「先君之所以不與子國而與弟者,凡為季子故也。將從先君之命與,則國宜之季子者也;如不從先君之命與,則我宜立者也,僚惡得為君乎?」於是使專諸剌僚,而致國乎季子。季子不受,曰:「爾弒吾君,吾受爾國,是吾與爾為篡也。爾殺吾兄,吾又殺爾,是父子兄弟相殺,終身無已也。」去之延陵,終身不入吳國。故君子以其不受為義,以其不殺為仁。賢季子則吳何以有君、有大夫?以季子為臣,則宜有君者也。札者何?吳季子之名也。《春秋》賢者不名,此何以名?許夷狄者不壹而足也。季子者所賢也,曷為不足乎季子?許人臣者必使臣,許人子者必使子也。

(伝)呉には君もなく大夫もないのに、ここではなぜ君があり大夫があるのか。季子を賢いと認めるからである。季子はどこが賢いのか。国を譲ったのである。彼はどのように国を譲ったのか。謁、余祭、夷昧と季子は同母の四人で、季子は年少ながら才能があり、兄弟は皆彼を愛し、皆彼を立てて国君にしようと思った。謁は言った、「今もし急いで国を季子に与えても、季子はやはり受けないでしょう。どうか子に与えず弟に与え、兄弟が順番に国君となり、そうして国を季子に渡しましょう」と。皆「よい」と言った。それで国君となる者は皆、死を軽く見て勇敢を表し、飲食には必ず祝禱して言った、「天がもし呉国を尚ほしいままにするなら、速やかに災禍をわが身に降してください」と。それで謁が死ぬと余祭が立ち、余祭が死ぬと夷昧が立ち、夷昧が死ねば国は季子に至るはずであった。季子は出使して外にいた。僚は長庶で、そのまま即位した。季子は出使から帰り、到着すると、彼を国君とした。闔廬は言った、「先君が子に国を与えず弟に与えたのは、みな季子のためであった。もし先君の命令に従うなら、国は季子に至るべきであり、もし先君の命令に従わないなら、わたしを立てるべきであり、僚がどうして国君になれようか」と。そこで専諸を遣わして僚を刺し殺し、国を季子に渡した。季子は受けず、言った、「あなたがわが君を殺し、わたしがあなたの国を受ければ、わたしはあなたとともに簒位したことになる。あなたがわが兄を殺し、わたしがまたあなたを殺せば、父子兄弟が互いに殺し合い、一生涯終わることがない」と。去って延陵に至り、終身呉国に入らなかった。それで君子は彼の受けないことを義とし、殺さないことを仁とした。季子を賢いと認めるなら、呉はなぜ君があり大夫があるのか。季子を臣とするなら、君があるべきである。《札》とは何か。呉季子の名である。《春秋》は賢者に対して名を称さないのに、ここではなぜ名を称するのか。夷狄に対して許可を与えても、一気に足るまで与えないのである。季子は賢いと認められた人であるのに、なぜ季子に対してまだ満足しないのか。人に臣たることを許すには必ず臣らしくさせ、人に子たることを許すには必ず子らしくさせるのである。

(經二九九)秋,九月,葬衛獻公。

(経二九九)秋九月、衛献公を葬った。

(經二九十)齊高止出奔北燕。

(経二九十)斉の高止が北燕に出奔した。

(經二九十一)冬,仲孫羯如晉。

(経二九十一)冬、仲孫羯が晋に行った。

襄公(經三十一)三十年

襄公(経三十一)三十年

春,王正月,楚子使薳頗來聘。

春、周暦正月、楚子は䓕頗を派遣して聘問させた。

(經三十二)夏,四月,蔡世子般弒其君固。

(経三十二)夏四月、蔡の世子般がその君固を弑した。

(經三十三)五月甲午,宋災,伯姬卒。

(経三十三)五月甲午、宋で火災があって、伯姫が亡くなった。

(經三十四)天王殺其弟年夫。

(経三十四)天子がその弟年夫を殺した。

(經三十五)王子瑕奔晉。

(経三十五)王子瑕が晋に出奔した。

(經三十六)秋,七月,叔弓如宋,葬宋共姬。

(経三十六)秋七月、叔弓が宋に行き、宋共姫を葬った。

(傳)外夫人不書葬,此何以書?隱之也。何隱爾?宋災,伯姬卒焉。其稱諡何?賢也。何賢爾?宋災,伯姬存焉,有司復曰:「火至矣,請出。」伯姬曰:「不可。吾聞之也:婦人夜出,不見傅母不下堂。傅至矣,母未至也。」逮乎火而死。

(伝)外の夫人は例によって葬りを記さないのに、ここではなぜ記すのか。これを痛ましく思うからである。何を痛ましく思うのか。宋で火災があって、伯姫がそこで死んだのである。なぜ諡を称するのか。彼女を賢いと認めるからである。どこが賢いのか。宋で火災があった時、伯姫はそこにいて、有司が報告して言った、「火が迫りました、お出でください」と。伯姫は言った、「不可です。わたしは聞きました、婦人は夜に出る時、傅と保姆が見えなければ堂を降りないものだと。傅は到着しましたが、保姆はまだ到着していません」と。そこで火に焼かれて死んだのである。

(經三十七)鄭良霄出奔許,自許入於鄭,鄭人殺良霄。

(経三十七)鄭の良霄が許に出奔し、許から鄭に入った。鄭人が良霄を殺した。

(經三十八)冬,十月,葬蔡景公。

(経三十八)冬十月、蔡景公を葬った。

(傳)賊未討,何以書葬?君子辭也。

(伝)賊がまだ討たれていないのに、なぜ葬りを記すのか。君子の措辞である。

(經三十九)晉人、齊人、宋人、衛人、鄭人、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、杞人、小邾婁人會於澶淵,宋災故。

(経三十九)晋人、斉人、宋人、衛人、鄭人、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、杞人、小邾婁人が澶淵で相会したのは、宋の火災のためであった。

(傳)宋災故者何?諸侯會於澶淵,凡為宋災故也。會未有言其所為者,此言所為何?錄伯姬也。諸侯相聚,而更宋之所喪,曰:「死者不可復生,爾財復矣!」此大事也,曷為使微者?卿也。卿則其稱人何?貶。曷為貶?卿不得憂諸侯也。

(伝)「宋災故」とはどういう意味か。諸侯が澶淵で相会したのは、皆宋の火災のためである。会盟にはこれまで何のためかを書くことがなかったのに、ここで何のためかを書くのはなぜか。伯姫を記録するためである。諸侯が集まって、宋の失ったものを補償して言った、「死んだ人は復活できないが、あなた方の財物はまた戻ってきた」と。これは大事であるのに、なぜ身分の低い人を派遣したのか。実は卿である。卿であるのに、なぜ「人」と称するのか。貶すためである。なぜ貶すのか。卿は諸侯のために憂えてはならないからである。

襄公(經三一一)三十有一年

襄公(経三一一)三十有一年

春,王正月。

春、周暦正月。

(經三一二)夏,六月辛巳,公薨於楚宮。

(経三一二)夏六月辛巳、襄公は楚の宮で薨去した。

(經三一三)秋,九月癸巳,子野卒。己亥,仲孫羯卒。

(経三一三)秋九月癸巳、子野が卒した。己亥、仲孫羯が卒した。

(經三一四)冬,十月,滕子來會葬。癸酉,葬我君襄公。

(経三一四)冬十月、滕子が葬儀に来た。癸酉、わが魯の国君襄公を葬った。

(經三一五)十有一月,莒人弒其君密州。

(経三一五)十一月、莒人がその君密州を殺した。

昭公

昭公(經一一)元年

昭公(経一一)元年

春,王正月,公即位。

春、周暦正月、昭公が即位する。

(經一二)叔孫豹會晉趙武、楚公子圍、齊國酌、宋向戌、衛石惡、陳公子招、蔡公孫歸生、鄭軒虎、許人、曹人於漷。

(経一二)叔孫豹が晋の趙武、楚の公子囲、斉の国酌、宋の向戌、衛の石悪、陳の公子招、蔡の公孫帰生、鄭の軒虎、許の人、曹の人と漷で会合した。

(傳)此陳侯之弟招也,何以不稱弟?貶。曷為貶?為殺世子偃師貶,曰陳侯之弟招殺陳世子偃師。大夫相殺稱人,此其稱名氏以殺何?言將自是弒君也。今將爾,詞曷為與親弒者同?君親無將,將而必誅焉。然則曷為不於其弒焉貶?以親者弒,然後其罪惡甚,《春秋》不待貶絕而罪惡見者,不貶絕以見罪惡也。貶絕然然罪惡見者,貶絕以見罪惡也。今招之罪已重矣,曷為復貶乎此?著招之有罪也。何著乎招之有罪?言楚之託乎討招以滅陳也。

(伝)これは陳侯の弟である招だが、なぜ「弟」と称しないのか。貶めたのである。なぜ貶めたのか。世子偃師を殺したから貶めたのであり、経文に「陳侯之弟招殺陳世子偃師」とある。大夫どうしの殺し合いは「人」と称するのに、ここでは名氏を挙げて殺と書くのはなぜか。彼がここから国君を殺そうとしていると言うのである。いまだ「将に」に過ぎないのに、なぜ手ずから国君を殺した場合と同じ措辞を使うのか。国君と至亲に対しては「将に」は許されず、将にとあれば必ず誅討しなければならない。では、なぜ彼が殺したところで貶さないのか。至亲が殺されて初めて罪悪がとくに重くなるのであり、《春秋》は貶絶を待たずに罪悪が顕れるものは貶絶によらずに罪悪を顕し、貶絶して初めて罪悪が顕れるものは貶絶によって罪悪を顕す。(底本は「貶絶然然」で、「然后」の誤りか。)いま招の罪はすでに重いのに、なぜここでさらに貶すのか。招に罪あることを標明するのである。なぜ標明するのか。楚が招を討つと口実にして陳を滅ぼしたと言うのである。

(經一三)三月,取運。

(経一三)三月、運を奪取した。

(傳)運者何?內之邑也。其言取之何?不聽也。

(伝)運とは何か。魯国内部の城邑である。なぜ「取」と書くのか。従わなかったからである。

(經一四)夏,秦伯之弟針出奔晉。

(経一四)夏、秦伯の弟である鍼が晋に出奔した。

(傳)秦無大夫,此何以書?仕諸晉也。曷為仕諸晉?有千乘之國,而不能容其母弟,故君子謂之出奔也。

(伝)秦には大夫がいないのに、ここでなぜ記すのか。晋に行って官につかせたからである。なぜ晋に行って官につかせたのか。千乗の国を持ちながら同母の弟を容れられなかったので、君子はこれを出奔と称したのである。

(經一五)六月丁巳,邾婁子華卒。

(経一五)六月丁巳、邾婁子華が卒した。

(經一六)晉荀吳帥師敗狄於大原。

(経一六)晋の荀呉が軍を率いて大原で狄を破った。

(傳)此大滷也,曷為謂之大原?地物從中國,邑人名從主人。原者何?上平曰原,下平曰隰。

(伝)ここはもともと大鹵なのに、なぜ大原というのか。土地・物産は中原の名称に従い、城邑・人名は主人の名称に従う。原とは何か。上が平らなところを原といい、下が平らなところを隰という。

(經一七)秋,莒去疾自齊入於莒。莒展出奔吳。叔弓帥師疆運田。

(経一七)秋、莒の去疾が斉から莒に入った。莒の展が呉に出奔した。叔弓が軍を率いて運田の疆界を画定した。

(傳)疆運田者何?與莒為竟也。與莒為竟,則曷為帥師而往?畏莒也。

(伝)「疆運田」とはどういう意味か。莒と境界を画定したのである。莒と境界を画定するのに、なぜ軍を率いて行ったのか。莒を畏れたのである。

(經一八)葬邾婁悼公。

(経一八)邾婁悼公を葬った。

(經一九)冬,十有一月己酉,楚子卷卒。

(経一九)冬十一月己酉、楚子巻が卒した。

(經一十)楚公子比出奔晉。

(経一十)楚の公子比が晋に出奔した。

昭公(經二一)二年

昭公(経二一)二年

春,晉侯使韓起來聘。

春、晋侯が韓起を派遣して聘問に来た。

(經二二)夏,叔弓如晉。

(経二二)夏、叔弓が晋に行った。

(經二三)秋,鄭殺其大夫公孫黑。

(経二三)秋、鄭がその大夫公孫黒を殺した。

(經二四)冬,公如晉,至河乃復。

(経二四)冬、昭公が晋に行き、黄河に至って引き返した。

(傳)其言至河乃復何?不敢進也。

(伝)「至河乃復」と書くのはどういう意味か。進むことを敢えてしなかったのである。

(經二五)季孫宿如晉。

(経二五)季孫宿が晋に行った。

昭公(經三一)三年

昭公(経三一)三年

春,王正月丁未,滕子泉卒。

春、周暦正月丁未、滕子泉が卒した。

(經三二)夏,叔弓如滕。

(経三二)夏、叔弓が滕に行った。

(經三三)五月,葬滕成公。

(経三三)五月、滕成公を葬った。

(經三四)秋,小邾婁子來朝。

(経三四)秋、小邾婁子が朝見に来た。

(經三五)八月,大雩。

(経三五)八月、大雩(だいう・雨乞いの祭)を行った。

(經三六)冬,大雨雹。

(経三六)冬、大きな雹が降った。

(經三七)北燕伯款出奔齊。

(経三七)北燕伯款が斉に出奔した。

昭公(經四一)四年

昭公(経四一)四年

春,王正月,大雨雪。

春、周暦正月、大雪が降った。

(經四二)夏,楚子、蔡侯、陳侯、鄭伯、許男、徐子、滕子、頓子、鬍子、沈子、小邾婁子、宋世子佐、淮夷會於申。

(経四二)夏、楚子・蔡侯・陳侯・鄭伯・許男・徐子・滕子・頓子・胡子・沈子・小邾婁子・宋の世子佐・淮夷が申で相会した。

(經四三)楚人執徐子。

(経四三)楚の人々が徐子を捕らえた。

(經四四)秋,七月,楚子、蔡侯、陳侯、許男、頓子、鬍子、沈子、淮夷伐吳,執齊慶封,殺之。

(経四四)秋七月、楚子・蔡侯・陳侯・許男・頓子・胡子・沈子・淮夷が呉を攻め、斉の慶封を捕らえて殺した。

(傳)此伐吳也,其言執齊慶封何?為齊誅也。其為齊誅奈何?慶封走之吳,吳封之於防。然則曷為不言伐防?不與諸侯專封也。慶封之罪何?脅齊君而亂齊國也。

(伝)これは呉を攻めたのだが、なぜ斉の慶封を捕らえたと書くのか。斉のために誅討したと言うのである。どうして斉のために誅討したのか。慶封は呉に逃げ、呉は彼を防に封じた。では、なぜ防を伐つと書かないのか。諸侯が勝手に分封することを是としないからである。慶封の罪は何か。斉の国君を脅迫して斉を乱したことである。

(經)遂滅厲。

(経)続いて厲を滅ぼした。

(經四五)九月,取鄫。

(経四五)九月、鄫を奪取した。

(傳)其言取之何?滅之也。滅之則其言取之何?內大惡,諱也。

(伝)なぜ「取」と書くのか。滅ぼしたのである。滅ぼしたのなら、なぜ「取」と書くのか。魯国内部の大きな悪事は、隠し諱らなければならない。

(經四六)冬,十有二月乙卯,叔孫豹卒。

(経四六)冬十二月乙卯、叔孫豹が卒した。

昭公(經五一)五年

昭公(経五一)五年

春,王正月,舍中軍。

春、周暦正月、中軍を廃した。

(傳)舍中軍者何?復古也。然則曷為不言三卿?五亦有中,三亦有中。

(伝)「舎中軍」とはどういう意味か。古制に復したのである。では、なぜ三卿と書かないのか。五にも中があり、三にも中があるからである。

(經五二)楚殺其大夫屈申。

(経五二)楚がその大夫屈申を殺した。

(經五三)公如晉。

(経五三)昭公が晋に行った。

(經五四)夏,莒牟夷以牟婁及防茲來奔。

(経五四)夏、莒の牟夷が牟婁と防・兹を携えて奔って来た。

(傳)莒牟夷者何?莒大夫也。莒無大夫,此何以書?重地也。其言及防茲來奔何?不以私邑累公邑也。

(伝)莒の牟夷とは何者か。莒の大夫である。莒には大夫がいないのに、ここでなぜ記すのか。土地を重く見たからである。「及防兹来奔」と書くのはどういう意味か。私邑をもって公邑を累わさないのである。

(經五五)秋,七月,公至自晉。

(経五五)秋七月、昭公が晋から帰った。

(經五六)戊辰,叔弓帥師敗莒師於濆泉。

(経五六)戊辰、叔弓が軍を率いて𣸣泉で莒の軍を破った。

(傳)濆泉者何?直泉也。直泉者何?湧泉也。

(伝)𣸣泉とは何か。直泉である。直泉とは何か。涌泉である。

(經五五)秦伯卒。

(経五五)秦伯が卒した。

(傳)何以不名?秦者夷也,匿嫡之名也。其名何?嫡得之也。

(伝)なぜ名を称しないのか。秦は夷であり、嫡子の名を隠すのである。名を称するものがあるのはどういうことか。嫡子が君位を得た場合である。

(經五六)冬,楚子、蔡侯、陳侯、許男、頓子、沈子、徐人、越人伐吳。

(経五六)冬、楚子・蔡侯・陳侯・許男・頓子・沈子・徐の人・越の人が呉を攻めた。

昭公(經六一)六年

昭公(経六一)六年

春,王正月,杞伯益姑卒。

春、周暦正月、杞伯益姑が卒した。

(經六二)葬秦景公。

(経六二)秦景公を葬った。

(經六三)夏,季孫宿如晉。

(経六三)夏、季孫宿が晋に行った。

(經六四)葬杞文公。

(経六四)杞文公を葬った。

(經六五)宋華合比出奔衛。

(経六五)宋の華合比が衛に出奔した。

(經六六)秋,九月,大雩。

(経六六)秋九月、大雩を行った。

(經六七)楚薳頗帥師伐吳。

(経六七)楚の䓕頗が軍を率いて呉を攻めた。

(經六八)冬,叔弓如楚。

(経六八)冬、叔弓が楚に行った。

(經六九)齊侯伐北燕。

(経六九)斉侯が北燕を攻めた。

昭公(經七一)七年

昭公(経七一)七年

春,王正月,暨齊平。

春、周暦正月、斉と講和した。

(經七二)三月,公如楚。

(経七二)三月、昭公が楚に行った。

(經七三)叔孫舍如齊蒞盟。

(経七三)叔孫舎が斉に行って会盟に参加した。

(經七四)夏,四月甲辰朔,日有食之。

(経七四)夏四月甲辰朔、日食。

(經七五)秋,八月戊辰,衛侯惡卒。

(経七五)秋八月戊辰、衛侯悪が卒した。

(經七六)九月,公至自楚。

(経七六)九月、昭公が楚から帰った。

(經七七)冬,十有一月癸未,季孫宿卒。

(経七七)冬十一月癸未、季孫宿が卒した。

(經七八)十有二月癸亥,葬衛襄公。

(経七八)十二月癸亥、衛襄公を葬った。

昭公(經八一)八年

昭公(経八一)八年

春,陳侯之弟招殺陳世子偃師。

春、陳侯の弟である招が陳の世子偃師を殺した。

(經八二)夏,四月辛丑,陳侯溺卒。

(経八二)夏四月辛丑、陳侯溺が卒した。

(經八三)叔弓如晉。

(経八三)叔弓が晋に行った。

(經八四)楚人執陳行人於徵師殺之。

(経八四)楚の人々が陳の行人于征師を捕らえて殺した。

(經八五)陳公子留出奔鄭。

(経八五)陳の公子留が鄭に出奔した。

(經八六)秋,搜於紅。

(経八六)秋、紅で大蒐(大閲兵)を行った。

(傳)搜者何?簡車徒也。何以書?蓋以罕書也。

(伝)蒐とは何か。車徒を検閲することである。なぜ記すのか。おそらく稀であるから記すのである。

(經八七)陳人殺其大夫公子過。

(経八七)陳の人々がその大夫公子過を殺した。

(經八八)大雩。

(経八八)大雩を行った。

(經八九)冬,十月壬午,楚師滅陳,執陳公子招,放之於越,殺陳孔瑗。

(経八九)冬十月壬午、楚の軍が陳を滅ぼし、陳の公子招を捕らえて越に放逐し、陳の孔瑗を殺した。

(經八十)葬陳哀公。

(経八十)陳哀公を葬った。

昭公(經九一)九年

昭公(経九一)九年

春,叔弓會楚子於陳。

春、叔弓が陳で楚子と会見した。

(經九二)許遷於夷。

(経九二)許が夷に遷った。

(經九三)夏,四月,陳火。

(経九三)夏四月、陳で火災があった。

(傳)陳已滅矣,其言陳火何?存陳也,曰存陳悕矣!曷為存陳?滅人之國,執人之罪人,殺人之賊,葬人之君,若是則陳存悕矣!

(伝)陳はすでに滅びているのに、なぜ「陳火」と書くのか。陳を保存したと言うのである。保存したと言うとは、実に哀れなことだ。なぜ陳を保存したと言うのか。人の国を滅ぼし、人の罪人を捕らえ、人の賊を殺し、人の国君を葬る。このようにして陳が保存されるとは、実に哀れなことだ。

(經九四)秋,仲孫貜如齊。

(経九四)秋、仲孫貜が斉に行った。

(經九五)冬,築郎囿。

(経九五)冬、郎囿を修築した。

昭公(經十一)十年

昭公(経十一)十年

春,王正月。

春、周暦正月。

(經十二)夏,晉欒施來奔。

(経十二)夏、晋の欒施が奔って来た。

(經十三)秋,七月,季孫隱如、叔弓、仲孫貜帥師伐莒。

(経十三)秋七月、季孫隠如・叔弓・仲孫貜が軍を率いて莒を攻めた。

(經十四)戊子,晉侯彪卒。

(経十四)戊子、晋侯彪が卒した。

(經十五)九月,叔孫舍如晉。

(経十五)九月、叔孫舎が晋に行った。

(經十六)葬晉平公。

(経十六)晋平公を葬った。

(經十七)十有二月甲子,宋公戍卒。

(経十七)十二月甲子、宋公戍が卒した。

昭公(經十一一)十有一年

昭公(経十一一)十有一年

春,王正月,叔弓如宋。

春、周暦正月、叔弓が宋に行った。

(經十一二)葬宋平公。

(経十一二)宋平公を葬った。

(經十一三)夏,四月丁巳,楚子虔誘蔡侯般,殺之於申。

(経十一三)夏四月丁巳、楚子虔が蔡侯般を誘い騙して、申で殺した。

(傳)楚子虔何以名?絕也。曷為絕之?為其誘封也。此討賊也,雖誘之則曷為絕之?懷惡而討不義,君子不予也。

(伝)楚子虔はなぜ名を称されるのか。彼を絶したのである。なぜ絶したのか。誘い騙して討伐したからである。これは賊を討つことなのだから、誘い騙したとしても、なぜ絶するのか。悪意を懐いて不義を討つことは、君子の是としないところである。

(經十一四)楚公子棄疾帥師圍蔡。

(経十一四)楚の公子弃疾が軍を率いて蔡を包囲した。

(經十一五)五月甲申,夫人歸氏薨。

(経十一五)五月甲申、夫人帰氏が卒した。

(經十一六)大搜於比蒲。

(経十一六)比蒲で大蒐を行った。

(傳)大搜者何?簡車徒也。何以書?蓋以罕書也。

(伝)大蒐とは何か。車徒を検閲することである。なぜ記すのか。おそらく稀であるから記すのである。

(經十一七)仲孫貜會邾婁子,盟於侵羊。

(経十一七)仲孫貜が邾婁子と会見し、侵羊で会盟した。

(經十一八)秋,季孫隱如會晉韓起、齊國酌、宋華亥、衛北宮佗、鄭軒虎、曹人、杞人於屈銀。

(経十一八)秋、季孫隠如が晋の韓起、斉の国酌、宋の華亥、衛の北宮佗、鄭の軒虎、曹の人、杞の人と屈銀で会合した。

(經十一九)九月,己亥,葬我小君齊歸。

(経十一九)九月己亥、わが魯の小君斉帰を葬った。

(傳)齊歸者何?昭公之母也。

(伝)斉帰とは何者か。昭公の母である。

(經十一十)冬,十有一月丁酉,楚師滅蔡,執蔡世子有以歸,用之。

(経十一十)冬十一月丁酉、楚の軍が蔡を滅ぼし、蔡の世子有を捕らえて連れ帰り、彼を用いた。

(傳)此未逾年之君也,其稱世子何?不君靈公,不成其子也。不君靈公,則曷為不成其子?誅君之子不立,非怒也,無繼也。惡乎用之?用之防也。其用之防奈何?蓋以築防也。

(伝)これはまだ年を越していない国君なのに、なぜ世子と称するのか。霊公を国君とみなさず、ゆえにその子も成り立たせないのである。霊公を国君とみなさないのに、なぜその子を成り立たせないのか。誅討された国君の子は立てられないのであり、怒りからではなく、後継ぎがないのである。どこに用いたのか。堤防に用いたのである。どうして堤防に用いたのか。おそらく彼をもって堤を築いたのである。

昭公(經十二一)十有二年

昭公(経十二一)十有二年

春,齊高偃師師納北燕伯於陽。

春、斉の高偃が軍を率いて、北燕伯を陽に送り入れた。(底本は「師師」で、「帥師」であろう。)

(傳)伯於陽者何?公子陽生也。子曰:「我乃知之矣。」在側者曰:「子茍知之,何以不革?」曰:「如爾所不知何?《春秋》之信史也,其序則齊桓、晉文,其會則主會者為之也,其詞則丘有罪焉耳!」

(伝)「伯于陽」とはどういう意味か。公子陽生である。孔子は言った、「わたしはもともとこのことを知っていた。」傍らの者が言った、「知っていながら、なぜ改めないのですか。」答えて曰く、「おまえたちの知らないところをどうするのか。《春秋》は信ずべき史書であり、その順序は斉桓・晋文、その会盟は会盟を主催した者が行い、その措辞はこの丘に罪のあるところなのだ。」

(經十二二)三月壬申,鄭伯嘉卒。

(経十二二)三月壬申、鄭伯嘉が卒した。

(經十二三)夏,宋公使華定來聘。

(経十二三)夏、宋公が華定を派遣して聘問に来た。

(經十二四)公如晉,至河乃復。

(経十二四)昭公が晋に行き、黄河に至って引き返した。

(經十二五)五月,葬鄭簡公。

(経十二五)五月、鄭簡公を葬った。

(經十二六)楚殺其大夫成然。

(経十二六)楚がその大夫成然を殺した。

(經十二七)秋,七月。

(経十二七)秋七月。

(經十二八)冬,十月,公子整出奔齊。

(経十二八)冬十月、公子整が斉に出奔した。

(經十二九)楚子伐徐。

(経十二九)楚子が徐を攻めた。

(經十二十)晉伐鮮虞。

(経十二十)晋が鮮虞を攻めた。

昭公(經十三一)十有三年

昭公(経十三一)十有三年

春,叔弓帥師圍費。

春、叔弓が軍を率いて費を包囲した。

(經十三二)夏,四月,楚公子比自晉歸於楚,弒其君虔於乾溪。

(経十三二)夏四月、楚の公子比が晋から楚に帰り、干渓でその君である虔を殺した。(底本の「干」の字は乾坤の乾である。)

(傳)此弒其君,其言歸何?歸無惡於弒立也。歸無惡於弒立者何?靈王為無道,作乾溪之臺,三年不成,楚公子棄疾脅比而立之。然後令於乾溪之役曰:「比已立矣,後歸者不得復其田裡。」眾罷而去之,靈王經而死。楚公子棄疾弒公子比,比已立矣,其稱公子何?其意不當也。其意不當,則曷為加弒焉爾?比之義宜乎效死不立。大夫相殺稱人,此其稱名氏以弒何?言將自是為君也。

(伝)これは君を殺したのだが、なぜなお「帰」と書くのか。「帰」は彼が君を殺して自立することに悪意がなかったと言うのである。悪意がなかったとはどういう意味か。霊王は無道で、干渓の台を造らせたが三年たっても成らなかった。楚の公子弃疾が比を脅して立たせた。そこで干渓の役衆に令して曰く、「比はすでに立った。後から帰る者は田里を回復できない。」衆は散って去り、霊王は首を吊って死んだ。楚の公子弃疾が公子比を殺したが、比はすでに立っていたのに、なぜなお公子と称するのか。彼の本志はもとより立つべきでなかったからである。本志が立つべきでなかったのに、なぜなお「弑」の字を加えるのか。比の義からすれば、死を決して立たないべきであった。大夫どうしの殺し合いは「人」と称するのに、ここでは名氏を挙げて「弑」と書くのはなぜか。彼がここから国君になろうとしていると言うのである。(「干渓」、底本の「干」の字は乾坤の乾である。)

(經十三三)秋,公會劉子、晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子於平丘。八月甲戌,同盟於平丘;公不與盟,晉人執季孫隱如以歸。公至自會。

(経十三三)秋、昭公が劉子・晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾婁子・滕子・薛伯・杞伯・小邾婁子と平丘で会合した。八月甲戌、ともに平丘で会盟した。昭公は会盟に参加せず、晋の人々が季孫隠如を捕らえて連れ帰った。昭公は会盟から帰った。

(傳)公不與盟者何?公不見與盟也。公不見與盟,大夫執,何以致會?不恥也。曷為不恥?諸侯遂亂,反陳、蔡,君子不恥不與焉!

(伝)「公不与盟」とはどういう意味か。昭公が会盟への参加を許されなかったのである。昭公が会盟への参加を許されず、大夫が捕らえられたのに、なぜなお会盟から帰ったと書くのか。恥としなかったからである。なぜ恥としなかったのか。諸侯はついに乱を鎮め、陳・蔡を回復させたのだから、君子は参加しなかったことを恥としないのである。

(經十三四)蔡侯廬歸於蔡。陳侯吳歸於陳。

(経十三四)蔡侯廬が蔡に帰った。陳侯呉が陳に帰った。

(傳)此皆滅國也,其言歸何?不與諸侯專封也。

(伝)これらは滅びた国なのに、なぜ「帰」と書くのか。諸侯が勝手に分封することを是としないからである。

(經十三五)冬,十月,葬蔡靈公。

(経十三五)冬十月、蔡霊公を葬った。

(經十三六)公如晉,至河乃復。

(経十三六)昭公が晋に行き、黄河に至って引き返した。

(經十三七)吳滅州來。

(経十三七)呉が州来を滅ぼした。

昭公(經十四一)十有四年

昭公(経十四一)十有四年

春,隱如至自晉。

春、隠如が晋から帰った。

(經十四二)三月,曹伯滕卒。

(経十四二)三月、曹伯滕が卒した。

(經十四三)夏,四月。

(経十四三)夏四月。

(經十四四)秋,葬曹武公。

(経十四四)秋、曹武公を葬った。

(經十四五)八月,莒子去疾卒。

(経十四五)八月、莒子去疾が卒した。

(經十四六)冬,莒殺其公子意恢。

(経十四六)冬、莒がその公子意恢を殺した。

昭公(經十五一)十有五年

昭公(経十五一)十有五年

春,王正月,吳子夷昧卒。

春、周暦正月、呉子夷昧が卒した。

(經十五二)二月癸酉,有事於武宮。

(経十五二)二月癸酉、武宮で祭祀があった。

(經十五三)龠入,叔弓卒,去樂卒事。

(経十五三)龠舞が入って来ると、叔弓が卒した。音楽を止めて、祭事をやり終えた。

(傳)其言去樂卒事何?禮也。君有事於廟,聞大夫之喪,去樂,卒事。大夫聞君之喪,攝主而往。大夫聞大夫之喪,屍事畢而往。

(伝)「去楽卒事」と書くのはどういう意味か。礼にかなうのである。国君が廟で祭祀をしていて大夫の喪を聞いたなら、音楽を止めて祭事をやり終える。大夫が国君の喪を聞いたなら、主祭を代理する者は去る。大夫が大夫の喪を聞いたなら、尸事を済ませてから行く。

(經十五四)夏,蔡昭吳奔鄭。

(経十五四)夏、蔡の昭呉が鄭に出奔した。

(經十五五)六月丁巳朔,日有食之。

(経十五五)六月丁巳朔、日食。

(經十五六)秋,晉荀吳帥師伐鮮虞。

(経十五六)秋、晋の荀呉が軍を率いて鮮虞を攻めた。

(經十五七)冬,公如晉。

(経十五七)冬、昭公が晋に行った。

昭公(經十六一)十有六年

昭公(経十六一)十有六年

春,齊侯伐徐。

春、斉侯が徐を攻めた。

(經十六二)楚子誘戎曼子,殺之。

(経十六二)楚子が戎曼子を誘い騙して殺した。

(傳)楚子何以不名?夷狄相誘,君子不疾也。曷為不疾?若不疾,乃疾之也。

(伝)楚子はなぜ名を称されないのか。夷狄どうしが誘い騙し合うことは、君子はとくに悪まない。なぜとくに悪まないのか。悪まないなら、それこそが真に悪むことなのである。

(經十六三)夏,公至自晉。

(経十六三)夏、昭公が晋から帰った。

(經十六四)秋,八月己亥,晉侯夷卒。

(経十六四)秋八月己亥、晋侯夷が卒した。

(經十六五)九月,大雩。

(経十六五)九月、大雩を行った。

(經十六七)季孫隱如如晉。

(経十六七)季孫隠如が晋に行った。

(經十六八)冬,十月,葬晉昭公。

(経十六八)冬十月、晋昭公を葬った。

昭公(經十七一)十有七年

昭公(経十七一)十有七年

春,小邾婁子來朝。

春、小邾婁子が朝見に来た。

(經十七二)夏,六月甲戌朔,日有食之。

(経十七二)夏六月甲戌朔、日食。

(經十七三)秋,郯子來朝。

(経十七三)秋、郯子が朝見に来た。

(經十七四)八月,晉荀吳帥師滅賁渾戎。

(経十七四)八月、晋の荀呉が軍を率いて賁渾戎を滅ぼした。

(經十七五)冬,有星孛於大辰。

(経十七五)冬、孛星が大辰に現れた。

(傳)孛者何?彗星也。其言於大辰何?在大辰也。大辰者何?大火也。大火為大辰,伐為大辰,北辰亦為大辰。何以書?記異也。

(伝)孛とは何か。彗星である。「于大辰」と書くのはどういう意味か。大辰にあるということである。大辰とは何か。大火である。大火は大辰であり、伐星は大辰であり、北辰も大辰である。なぜ記すのか。異常を記すのである。

(經十七六)楚人及吳戰於長岸。

(経十七六)楚の人々が呉と長岸で交戦した。

(傳)詐戰不言戰,此其言戰何?敵也。

(伝)期日を約さない交戦は「戦」と書かないのに、ここで「戦」と書くのはなぜか。勢いが拮抗していたからである。

昭公(經十八一)十有八年

昭公(経十八一)十有八年

春,王三月,曹伯須卒。

春、周暦三月、曹伯須が卒した。

(經十八二)夏,五月,壬午,宋、衛、陳、鄭災。

(経十八二)夏五月壬午、宋・衛・陳・鄭で火災があった。

(傳)何以書?記異也。何異爾?異其同日而俱災也。外異不書,此何以書?為天下記異也。

(伝)なぜ記すのか。異常を記すのである。異常とは何か。同じ日にいっせいに災いを被ったことである。国外の異常は例によって記さないのに、ここでなぜ記すのか。天下のために異常を記すのである。

(經十八三)六月,邾婁人入鄅。

(経十八三)六月、邾婁の人が鄅に入った。

(經十八四)秋,葬曹平公。

(経十八四)秋、曹平公を葬った。

(經十八五)冬,許遷於白羽。

(経十八五)冬、許が白羽に遷った。

昭公(經十九一)十有九年

昭公(経十九一)十有九年

春,宋公伐邾婁。

春、宋公が邾婁を攻めた。

(經十九二)夏,五月戊辰,許世子止弒其君買。

(経十九二)夏五月戊辰、許の世子止がその君である買を殺した。

(經十九三)己卯,地震。

(経十九三)己卯、地震。

(經十九四)秋,齊高發帥師伐莒。

(経十九四)秋、斉の高発が軍を率いて莒を攻めた。

(經十九五)冬,葬許悼公。

(経十九五)冬、許悼公を葬った。

(傳)賊未討,何以書葬?不成於弒也。曷為不成於弒?止進藥而藥殺也。止進藥而藥殺,則曷為加弒焉爾?譏子道之不盡也。其譏子道之不盡奈何?曰:樂正子春之視疾也。復加一飯則脫然愈,復損一飯則脫然愈;復加一衣則脫然愈,復損一衣則脫然愈。止進藥而藥殺,是以君子加弒焉爾,曰「許世子止弒其君買」,是君子之聽止也;「葬許悼公」,是君子之赦止也。赦止者,免止之罪辭也。

(伝)賊がまだ討伐されていないのに、なぜ葬と書くのか。弑が成立しなかったからである。なぜ弑が成立しなかったのか。止は薬を進めたが、薬が国君を毒死させたのである。止が薬を進めて薬が殺したのに、なぜなお「弑」の字を加えるのか。子の道が尽くされなかったことを譏刺するのである。子の道が尽くされなかったとはどういうことか。答えて曰く、楽正子春は病人を見るに、食事を一口増やせば霍然として癒え、食事を一口減らしても霍然として癒え、衣を一枚加えれば霍然として癒え、衣を一枚減らしても霍然として癒える。止が薬を進めて薬が殺したからこそ、君子は「弑」の字を加え、「許世子止弑其君買」と書いて、これは君子が止の罪を聴き取ったのである。「葬許悼公」と書くのは、君子が止を赦したのである。止を赦すとは、止の罪を免じる措辞である。

昭公(經二十一)二十年

昭公(経二十一)二十年

春,王正月。

春、周暦正月。

(經二十二)夏,曹公孫會自鄸出奔宋。

(経二十二)夏、曹の公孫会が鄸から宋に出奔した。

(傳)奔未有言自者,此其言自何?畔也。畔則曷為不言其畔?為公子喜時之後諱也。《春秋》為賢者諱。何賢乎公子喜時?讓國也。其讓國奈何?曹伯廬卒於師,則未知公子喜時從與?公子負芻從與?或為主於國?或為主於師?公子喜時見公子負芻之當主也,逡巡而退。賢公子喜時,則曷為為會諱?君子之善善也長,惡惡也短,惡惡止其身,善善及子孫。賢者子孫,故君子為之諱也。

(伝)出奔に「自」と書く例はいまだかつてないのに、ここでなぜ「自」と書くのか。反叛したからである。反叛したのに、なぜ彼の反叛と書かないのか。公子喜時の後代のために隠し諱るのである。《春秋》は賢者のために隠し諱る。公子喜時の賢はどこにあるか。国を譲ったことである。どうして国を譲ったのか。曹伯廬が軍中で死んだとき、公子喜時が従っていたのか、公子負芻が従っていたのか分からない。ある者は国内で主をなし、ある者は軍中で主をなした。公子喜時は公子負芻が主となるべきことを見て、逡巡して退き譲った。公子喜時を賢としながら、なぜ会のために隠し諱るのか。君子は善を称えるのは長く、悪を悪むのは短く、悪を悪むのはその身に止まり、善を称えるのは子孫に及ぶ。賢者の子孫ゆえに、君子は彼のために隠し諱るのである。

(經二十三)秋,盜殺衛侯之兄輒。

(経二十三)秋、盗賊が衛侯の兄である輒を殺した。

(傳)母兄稱兄,兄何以不立?有疾也。何疾爾?惡疾也。

(伝)同母の兄を「兄」と称するが、この兄はなぜ立たなかったのか。病があったからである。どんな病か。悪疾である。

(經二十四)冬,十月,宋華亥、向寧、華定出奔陳。

(経二十四)冬十月、宋の華亥・向寧・華定が陳に出奔した。

(經二十五)十有一月辛卯,蔡侯廬卒。

(経二十五)十一月辛卯、蔡侯廬が卒した。

昭公(經二一一)二十有一年

昭公(経二一一)二十有一年

春,王三月,葬蔡平公。

春、周暦三月、蔡平公を葬った。

(經二一二)夏,晉侯使士鞅來聘。

(経二一二)夏、晋侯が士鞅を派遣して聘問に来た。

(經二一三)宋華亥、向寧、華定自陳入於宋南里以畔。

(経二一三)宋の華亥・向寧・華定が陳から宋の南里に入って反叛した。

(傳)宋南里者何?若曰:因諸者然。

(伝)宋の南里とは何か。「因諸」のようなものと言えばよい。

(經二一四)秋,七月壬午朔,日有食之。

(経二一四)秋七月壬午朔、日食。

(經二一五)八月乙亥,叔痤卒。

(経二一五)八月乙亥、叔痤が卒した。

(經二一六)冬,蔡侯朱出奔楚。

(経二一六)冬、蔡侯朱が楚に出奔した。

(經二一七)公如晉,至河乃復。

(経二一七)昭公が晋に行き、黄河に至って引き返した。

昭公(經二二一)二十有二年

昭公(経二二一)二十有二年

春,齊侯伐莒。

春、斉侯が莒を攻めた。

(經二二二)宋華亥、向寧、華定自宋南里出奔楚。

(経二二二)宋の華亥・向寧・華定が宋の南里から楚に出奔した。

(經二二三)大搜於昌奸。

(経二二三)昌奸で大蒐を行った。

(經二二四)夏,四月乙丑,天王崩。

(経二二四)夏四月乙丑、天子が崩じた。

(經二二五)六月,叔鞅如京師。

(経二二五)六月、叔鞅が京師に行った。

(經二二六)葬景王。

(経二二六)景王を葬った。

(經二二七)王室亂。

(経二二七)王室が乱れた。

(傳)何言乎王室亂?言不及外也。

(伝)なぜ「王室乱」と書くのか。乱がまだ外に及んでいないと言うのである。

(經二二八)劉子、單子以王猛居於皇。

(経二二八)劉子・単子が王猛を奉じて皇に居った。

(傳)其稱王猛何?當國也。

(伝)なぜ「王猛」と称するのか。国を当たって政を執っているからである。

(經二二九)秋,劉子、單子以王猛入於王城。

(経二二九)秋、劉子・単子が王猛を奉じて王城に入った。

(傳)王城者何?西周也。其言入何?篡辭也。

(伝)王城とは何か。西周である。なぜ「入」と書くのか。簒位の措辞である。

(經二二十)冬,十月,王子猛卒。

(経二二十)冬十月、王子猛が卒した。

(傳)此未逾年之君也,其稱王子猛卒何?不與當也。不與當者,不與當父死子繼、兄死弟及之辭也。

(伝)これはまだ年を越していない国君なのに、なぜ「王子猛卒」と書くのか。彼の国を当たることを是としないからである。国を当たることを是としないとは、父が死に子が継ぎ、兄が死に弟が及ぶことを是としない措辞である。

(經二二十一)十有二月癸酉朔,日有食之。

(経二二十一)十二月癸酉朔、日食。

昭公(經二三一)二十有三年

昭公(経二三一)二十有三年

春,王正月,叔孫舍如晉。

春、周暦正月、叔孫舎が晋に行った。

(經二三二)癸丑,叔鞅卒。

(経二三二)癸丑、叔鞅が卒した。

(經二三三)晉人執我行人叔孫舍。

(経二三三)晋の人々がわが魯の行人叔孫舎を捕らえた。

(經二三四)晉人圍郊。

(経二三四)晋の人々が郊を包囲した。

(傳)郊者何?天子之邑也。曷為不繫於周?不與伐天子也。

(伝)郊とは何か。天子の城邑である。なぜ周に繋げて書かないのか。天子を攻めることを是としないからである。

(經二三五)夏,六月,蔡侯東國卒於楚。

(経二三五)夏六月、蔡侯東国が楚で卒した。

(經二三六)秋,七月,莒子庚輿來奔。

(経二三六)秋七月、莒子庚輿が奔って来た。

(經二三七)戊辰,吳敗頓、胡、沈、蔡、陳、許之師於雞父。鬍子髡、沈子楹滅,獲陳夏齧。

(経二三七)戊辰、呉が雞父で頓・胡・沈・蔡・陳・許の軍を破った。胡子髡・沈子楹は滅亡し、陳の夏齧を捕らえた。

(傳)此偏戰也,曷為以詐戰之辭言之?不與夷狄之主中國也。然則曷為不使中國主之?中國亦新夷狄也。其言滅獲何?別君臣也,君死於位曰滅,生得曰獲,大夫生死皆曰獲。不與夷狄之主中國,則其言獲陳夏齧何?吳少進也。

(伝)これは期日を約して戦ったのだが、なぜ期日を約さない交戦の措辞で言うのか。夷狄が中原の主となることを是としないからである。では、なぜ中原を主とさせないのか。中原もちょうど夷狄になっていたからである。「滅」「獲」と書くのはどういう意味か。君臣を分かつのである。国君が位で死んだのを滅といい、生きて捕らえられたのを獲といい、大夫は生死ともに獲という。夷狄が中原の主となることを是としないのに、なぜなお陳の夏齧を捕らえたと書くのか。呉が少し進歩したからである。

(經二三八)天王居於狄泉。

(経二三八)天子が狄泉に居った。

(傳)此未三年,其稱天王何?著有天子也。

(伝)これはまだ三年を満たしていないのに、なぜ天王と称するのか。天子があることを標明するのである。

(經二三九)尹氏立王子朝。

(経二三九)尹氏が王子朝を立てた。

(經二三十)八月乙未,地震。

(経二三十)八月乙未、地震。

(經二三十一)冬,公如晉,至河,公有疾,乃復。(傳)何言乎公有疾乃復?殺恥也。

(経二三十一)冬、昭公が晋に行き、黄河に至り、昭公に病があったため、ここに引き返した。(伝)なぜ昭公に病があって引き返したと書くのか。恥辱を軽くするのである。

昭公(經二四一)二十有四年

昭公(経二四一)二十有四年

春,王二月丙戌,仲孫貜卒。

春、周暦二月丙戌、仲孫貜が卒した。

(經二四二)叔孫舍至自晉。

(経二四二)叔孫舎が晋から帰った。

(經二四三)夏,五月乙未朔,日有食之。

(経二四三)夏五月乙未朔、日食。

(經二四四)秋,八月,大雩。

(経二四四)秋八月、大雩を行った。

(經二四五)丁酉,杞伯鬱釐卒。

(経二四五)丁酉、杞伯郁釐が卒した。

(經二四六)冬,吳滅巢。

(経二四六)冬、呉が巢を滅ぼした。

(經二四七)葬杞平公。

(経二四七)杞平公を葬った。

昭公(經二五一)二十有五年

昭公(経二五一)二十有五年

春,叔孫舍如宋。

春、叔孫舎が宋に行った。

(經二五二)夏,叔倪會晉趙鞅、宋樂世心、衛北宮喜、鄭遊吉、曹人、邾婁人、滕人、薛人、小邾婁人於黃父。

(経二五二)夏、叔倪が晋の趙鞅、宋の楽世心、衛の北宮喜、鄭の游吉、曹の人、邾婁の人、滕の人、薛の人、小邾婁の人と黄父で会合した。

(經二五三)有鸛鵒來巢。

(経二五三)鸛鵒(かんよく・ムクドリの類)が来て巣を作った。

(傳)何以書?記異也。何異爾?非中國之禽也,宜穴又巢也。

(伝)なぜ記すのか。異常を記すのである。異常とは何か。中原の鳥ではなく、洞穴に住むべきものが来て巣を作ったことである。

(經二五四)秋,七月上辛,大雩。季辛,又雩。

(経二五四)秋七月上辛、大雩を行った。季辛、また雩を行った。

(傳)又雩者何?又雩者非雩也,聚眾以逐季氏也。

(伝)「又雩」とはどういう意味か。「又雩」は雩ではなく、衆を集めて季氏を逐おうとしたのである。

(經二五五)九月己亥,公孫於齊,次於楊州。

(経二五五)九月己亥、昭公が斉に避居し、楊州に駐在した。

(經二五六)齊侯唁公於野井。

(経二五六)斉侯が野井で昭公を弔問した。

(傳)唁公者何?昭公將弒季氏,告子家駒曰:「季氏為無道,僭於公室久矣,吾欲弒之,何如?」子家駒曰:「諸侯僭於天子,大夫僭於諸侯久矣!」昭公曰:「吾何僭矣哉?」子家駒曰:「設兩觀,乘大路,朱幹,玉戚,以舞《大夏》,八佾以舞《大武》,此皆天子之禮也。且夫牛馬維婁,委己者也,而柔焉。季氏得民眾久矣,君無多辱焉!」昭公不從其言,終弒之而敗焉。走之齊,齊侯唁公於野井,曰:「奈何君去魯國之社稷?」昭公曰:「喪人不佞,失守魯國之社稷,執事以羞。」再拜顙,慶子家駒曰:「慶子免君於大難矣。」子家駒曰:「臣不佞,陷君於大難,君不忍加之以鈇鑕,賜之以死。」再拜顙。高子執簞食與四脡脯,國子執壺漿,曰:「吾寡君聞君在外,餕饔未就,敢致糗於從者。」昭公曰:「君不忘吾先君,延及喪人,錫之以大禮。」再拜稽首,以衽受。高子曰:「有夫不祥,君無所辱大禮。」昭公蓋祭而不嘗。景公曰:「寡人有不腆先君之服,未之敢服;有不腆先君之器,未之敢用,敢以請。」昭公曰:「喪人不佞,失守魯國之社稷,執事以羞,敢辱大禮?敢辭。」景公曰:「寡人有不腆先君之服,未之敢服;有不腆先君之器,未之敢用,敢固以請。」昭公曰:「以吾宗廟之在魯地,有先君之服,未之能以服;有先君之器,未之能以出,敢固辭。」景公曰:「寡人有不腆先君之服,未之敢服;有不腆先君之器,未之敢用,請以饗乎從者。」昭公曰:「喪人其何稱?」景公曰:「孰君而無稱?」昭公於是噭然而哭,諸大夫皆哭。既哭以人為菑,以幦為席,以鞍為,以遇禮相見。孔子曰:「其禮與!其辭足觀矣!」

(伝)「唁公」とはどういう意味か。昭公は季氏を殺そうとして、子家駒に告げて曰く、「季氏は無道で、公室を僭越してすでに久しい。わたしは彼を殺したいが、どうか。」子家駒は曰く、「諸侯は天子を僭越し、大夫は諸侯を僭越して、すでに久しいです。」昭公は曰く、「わたしのどこに僭越があるのか。」子家駒は曰く、「両観を設け、大路に乗り、朱塗りの盾と玉の斧をもって《大夏》を舞い、八佾をもって《大武》を舞う、これらはみな天子の礼です。それに牛馬が繋がれているのは、身の上のことを自分に任せて、ようやく柔順になるからです。季氏が民心を得てすでに久しいのですから、どうか辱めを多く受けないでください。」昭公はその言を聴かず、ついに季氏を殺そうとして失敗した。斉に逃げると、斉侯は野井で昭公を弔問して曰く、「君はなぜ魯の社稷を離れたのですか。」昭公は曰く、「喪人には才能がなく、魯の社稷を失い、執事に恥をかかせました。」再び拝して額を叩きつけ、子家駒を賀して曰く、「君を大難から免れさせたことを賀します。」子家駒は曰く、「臣には才能がなく、君を大難に陥れたのに、君は𫓧錐をわが身に加えるに忍びず、かえってわたしに一死を賜いました。」再び拝して額を叩きつけた。高子は一簞の食と四条の脡脯を持ち、国子は壺の浆を持って曰く、「わが寡君は君が外にあると聞き、饌饔の用意がまだできていないので、あえて従者に乾糧を贈ります。」昭公は曰く、「君はわが先君を忘れず、喪人にまで及ぼし、わたしに大礼を賜った。」再び拝して頭を叩きつけ、衣襟をもって受けた。高子は曰く、「このような不祥があるのに、大礼に屈する必要はありません。」昭公はおそらく祭ったが味わわなかった。景公は曰く、「寡人には豊かでない先君の服があり、なお着ることを敢えてしない。豊かでない先君の器があり、なお用いることを敢えてしない。あえてお願いする。」昭公は曰く、「喪人には才能がなく、魯の社稷を失い、執事に恥をかかせた。どうして大礼を受けようか。あえて辞する。」景公は曰く、「寡人には豊かでない先君の服があり、なお着ることを敢えてしない。豊かでない先君の器があり、なお用いることを敢えてしない。あえて再び願う。」昭公は曰く、「わが宗廟は魯の地にあるので、先君の服があっても、まだ着ることができず、先君の器があっても、まだ持ち出すことができない。あえて再び辞する。」景公は曰く、「寡人には豊かでない先君の服があり、なお着ることを敢えてしない。豊かでない先君の器があり、なお用いることを敢えてしない。どうか従者を宴饗するのに用いてほしい。」昭公は曰く、「喪人はどのように称えられるべきか。」景公は曰く、「国君でありながら称えられない者があろうか。」昭公はここに噋然として哭き、諸大夫も皆哭いた。哭き終わると、人をもって屏障とし、車幦をもって席とし、鞍をもって几として、相遇の礼をもって相見した。孔子は曰く、「あの礼か。あの措辞も一見に値する。」(底本の「以鞍為」の下に生僻字があって転写の際に失われたため、常本に従い「几」を補う。朱干は朱塗りの盾である。)

(經二五七)冬,十月戊辰,叔孫舍卒。

(経二五七)冬十月戊辰、叔孫舎が卒した。

(經二五八)十有一月己亥,宋公佐卒於曲棘。

(経二五八)十一月己亥、宋公佐が曲棘で卒した。

(傳)曲棘者何?宋之邑也。諸侯卒其封內不地,此何以地?憂內也。

(伝)曲棘とは何か。宋の城邑である。諸侯が自分の封疆内で死んだ場合は地を記さないのに、ここでなぜ地を記すのか。国内を憂えたからである。

(經二五九)十有二月,齊侯取運。

(経二五九)十二月、斉侯が運を奪取した。

(傳)外取邑不書?此何以書?為公取之也。

(伝)外が城邑を奪取することは例によって記さないのに、ここでなぜ記すのか。昭公のために奪取したのである。

昭公(經二六一)二十有六年

昭公(経二六一)二十有六年

春,王正月,葬宋元公。

春、周暦正月、宋元公を葬った。

(經二六二)三月,公至自齊,居於運。

(経二六二)三月、昭公が斉から帰り、運に居った。

(經二六三)夏,公圍成。

(経二六三)夏、昭公が成を包囲した。

(經二六四)秋,公會齊侯、莒子、邾婁子,杞伯盟於剸陵。公至自會,居於運。

(経二六四)秋、昭公が斉侯・莒子・邾婁子・杞伯と会合し、剸陵で会盟した。昭公は会盟から帰り、運に居った。

(經二六五)九月庚申,楚子居卒。

(経二六五)九月庚申、楚子居が卒した。

(經二六六)冬,十月,天王入於成周。

(経二六六)冬十月、天子が成周に入った。

(傳)成周者何?東周也。其言入何?不嫌也。

(伝)成周とは何か。東周である。なぜ「入」と書くのか。嫌疑がないからである。

(經二六七)尹氏、召伯、毛伯以王子朝奔楚。

(経二六七)尹氏・召伯・毛伯が王子朝を奉じて楚に奔った。

昭公(經二七一)二十有七年

昭公(経二七一)二十有七年

春,公如齊。公至自齊,居於運。

春、昭公が斉に行った。昭公が斉から帰り、運に居った。

(經二七二)夏,四月,吳弒其君僚。

(経二七二)夏四月、呉がその君である僚を殺した。

(經二七三)楚殺其大夫郄宛。

(経二七三)楚がその大夫郄宛を殺した。

(經二七四)秋,晉士鞅、宋樂祁犁、衛北宮喜、曹人、邾婁人、滕人會於扈。

(経二七四)秋、晋の士鞅、宋の楽祁犂、衛の北宮喜、曹の人、邾婁の人、滕の人が扈で会合した。

(經二七五)冬,十月,曹伯午卒。

(経二七五)冬十月、曹伯午が卒した。

(經二七六)邾婁快來奔。

(経二七六)邾婁の快が奔って来た。

(傳)邾婁快者何?邾婁之大夫也。邾婁無大夫,此何以書?以近書也。

(伝)邾婁の快とは何者か。邾婁の大夫である。邾婁には大夫がいないのに、ここでなぜ記すのか。時代が近いから記すのである。

(經二七七)公如齊,公至自齊,居於運。

(経二七七)昭公が斉に行き、昭公が斉から帰り、運に居った。

昭公(經二八一)二十有八年

昭公(経二八一)二十有八年

春,王三月,葬曹悼公。

春、周暦三月、曹悼公を葬った。

(經二八二)公如晉,次於幹侯。

(経二八二)昭公が晋に行き、干侯に駐在した。(底本の「干」の字は乾坤の乾である。)

(經二八三)夏,四月丙戌,鄭伯寧卒。六月,葬鄭定公。

(経二八三)夏四月丙戌、鄭伯寧が卒した。六月、鄭定公を葬った。

(經二八四)秋,七月癸巳,滕子寧卒。

(経二八四)秋七月癸巳、滕子寧が卒した。

(經二八五)冬,葬滕悼公。

(経二八五)冬、滕悼公を葬った。

昭公(經二九一)二十有九年

昭公(経二九一)二十有九年

春,公至自幹侯,居於運。

春、昭公が干侯から帰り、運に居った。

(經二九二)齊侯使高張來唁公。

(経二九二)斉侯が高張を派遣して昭公を弔問に来た。

(經二九三)公如晉,次於幹侯。

(経二九三)昭公が晋に行き、干侯に駐在した。

(經二九四)夏,四月庚子,叔倪卒。

(経二九四)夏四月庚子、叔倪が卒した。

(經二九五)秋,七月。

(経二九五)秋七月。

(經二九六)冬,十月,運潰。

(経二九六)冬十月、運が潰敗した(人民が逃散した)。

(傳)邑不言潰,此其言潰何?郛之也。曷為郛之?君存焉爾。

(伝)城邑に「潰」とは書かないのに、ここでなぜ「潰」と書くのか。都城とみなしたからである。なぜ都城とみなしたのか。国君がそこにいたからである。

昭公(經三十一)三十年

昭公(経三十一)三十年

春,王正月,公在幹侯。

春、周暦正月、昭公は干侯に在った。

(經三十二)夏,六月庚辰,晉侯去疾卒。

(経三十二)夏六月庚辰、晋侯去疾が卒した。

(經三十三)秋,八月,葬晉頃公。

(経三十三)秋八月、晋頃公を葬った。

(經三十四)冬,十有二月,吳滅徐,徐子章禹奔楚。

(経三十四)冬十二月、呉が徐を滅ぼし、徐子章禹は楚に奔った。

昭公(經三一一)三十有一年

昭公(経三一一)三十有一年

春,王正月,公在幹侯。

春、周暦正月、昭公は干侯に在った。

(經三一二)季孫隱如會晉荀櫟於適歷。

(経三一二)季孫隠如が適歴で晋の荀櫟と会見した。

(經三一三)夏,四月丁巳,薛伯谷卒。

(経三一三)夏四月丁巳、薛伯穀が卒した。

(經三一四)晉侯使荀櫟唁公於幹侯。

(経三一四)晋侯が荀櫟を派遣して干侯で昭公を弔問させた。

(經三一五)秋,葬薛獻公。

(経三一五)秋、薛献公を葬った。

(經三一六)冬,黑弓以濫來奔。

(経三一六)冬、黒弓が濫を携えて奔って来た。

(傳)文何以無邾婁?通濫也。曷為通濫?賢者子孫宜有地也。賢者孰謂?謂叔術也。何賢乎叔術?讓國也。其讓國奈何?當邾婁顏之時,邾婁女有為魯夫人者,則未知其為武公與?懿公與?孝公幼,顏淫九公子於宮中,因以納賊,則未知其為魯公子與?邾婁公子與?臧氏之母,養公者也。君幼則宜有養者,大夫之妾,士之妻,則未知臧氏之母者曷為者也?養公者必以其子入養。臧氏之母聞有賊,以其子易公,抱公以逃。賊至,湊公寢而弒之。臣有鮑廣父與梁買子者,聞有賊,趨而至。臧氏之母曰:「公不死也,在是,吾以吾子易公矣。」於是負孝公之周訴天子,天子為之誅顏而立叔術,反孝公於魯。顏夫人者,嫗盈女也,國色也,其言曰:「有能為我殺殺顏者,吾為其妻。」叔術為之殺殺顏者,而以為妻,有子焉,謂之盱。夏父者,其所為有於顏者也。盱幼而皆愛之,食必坐二子於其側而食之,有珍怪之食,盱必先取足焉。夏父曰:「以來,人未足而盱有餘。」叔術覺焉,曰:「嘻!此誠爾國也夫!」起而致國於夏父,夏父受而中分之,叔術曰:「不可!」三分之,叔術曰:「不可!」四分之,叔術曰:「不可!」五分之,然後受之。公扈子者,邾婁之父兄也,習乎邾婁之故,其言曰:「惡有言人之國賢若此者乎!」誅顏之時,天子死,叔術起而致國於夏父。當此之時,邾婁人常被兵於周,曰:「何故死吾天子?」通濫則文何以無邾婁?天下未有濫也。天下未有濫,則其言以濫來奔何?叔術者,賢大夫也,絕之則為叔術不欲絕,不絕則世大夫也。大夫之義不得世,故於是推而通之也。

(伝)文字の上になぜ「邾婁」がないのか。濫を国とみなしたのである。なぜ濫を国とみなしたのか。賢者の子孫は土地を持つべきだからである。賢者とは誰か。叔術である。叔術の賢はどこにあるか。国を譲ったことである。どうして国を譲ったのか。邾婁顔のとき、邾婁の女子に魯の夫人となった者があり、それが武公か懿公か分からない。孝公は幼く、顔は宮中で九公子と淫乱し、機に乗じて賊人を引き入れた。それが魯の公子か、邾婁の公子かも分からない。臧氏の母は公を養う者であった。国君が幼ければ養う者があるべきで、大夫の妾か、士の妻か、臧氏の母がどんな人であったか分からない。公を養う者は必ず自分の子を連れて入って養った。臧氏の母は賊がいると聞くと、自分の子で公と取り替えて、公を抱いて逃げた。賊が至って、公の寝所に入って彼を殺した。臣に鮑広父と梁買子がおり、賊がいると聞いて急いで到着した。臧氏の母は曰く、「公は死んでいません、ここにいます。わたしの子で公と取り替えました。」そこで孝公を背負って周に行って天子に訴えると、天子は彼のために顔を誅殺して叔術を立て、孝公を魯に送り返した。顔の夫人は嫗盈の娘で、国色である。彼女は曰く、「わたしのために顔を殺した者を殺してくれる人があれば、その人の妻となります。」叔術は彼女のために顔を殺した者を殺し、彼女を妻として娶り、子をなし、盱と呼んだ。夏父は彼女が顔のために生んだ子である。盱が幼いとき、皆が彼を愛し、食事は必ず二子を傍らに座らせてともに食べさせ、珍奇な食物があると盱は必ず先に取り足した。夏父は曰く、「取りなさい。ほかの者はまだ足りないのに、盱は余っている。」叔術は覚悟して曰く、「ああ!これは実におまえの国なのだ!」起って国を夏父に渡した。夏父は受けて中分しようとしたが、叔術は「ならぬ」と言った。三分しようとしたが、叔術は「ならぬ」と言った。四分しようとしたが、叔術は「ならぬ」と言った。五分して、それからやっと受けた。公扈子は邾婁の父兄で、邾婁の故事に詳しく、彼は曰く、「人の国の賢者を言うのでこのような者があるだろうか。」顔を誅したとき、天子が死んだので、叔術は起って国を夏父に渡した。このとき、邾婁人は周にしばしば兵を用いられて曰く、「なぜわれわれの天子を害死させたのか。」濫を国とみなし、文字の上になぜ「邾婁」がないのか。天下にまだ濫という国がないのである。天下にまだ濫がないのに、なぜ「以濫来奔」と書くのか。叔術は賢大夫であり、彼を絶すれば叔術を絶したくなく、絶さなければ世襲の大夫となる。大夫の義は世襲を許さないので、ここに推してこれを国とみなしたのである。

(經三一七)十有二月辛亥朔,日有食之。

(経三一七)十二月辛亥朔、日食。

昭公(經三二一)三十有二年

昭公(経三二一)三十有二年

春,王正月,公在幹侯。

春、周暦正月、昭公は干侯に在った。

(經三二二)取闞。

(経三二二)闞を奪取した。

(傳)闞者何?邾婁之邑也。曷為不繫乎邾婁?諱亟也。

(伝)闞とは何か。邾婁の城邑である。なぜ邾婁に繋げて書かないのか。奪取があまりに急であることを隠し諱るのである。

(經三二三)夏,吳伐越。

(経三二三)夏、呉が越を攻めた。

(經三二四)秋,七月。

(経三二四)秋七月。

(經三二五)冬,仲孫何忌會晉韓不信、齊高張、宋仲幾、衛世叔申、鄭國參、曹人、莒人、邾婁人、薛人、杞人、小邾婁人城成周。

(経三二五)冬、仲孫何忌が晋の韓不信、斉の高張、宋の仲幾、衛の世叔申、鄭の国参、曹の人、莒の人、邾婁の人、薛の人、杞の人、小邾婁の人と会合して成周を修築した。

(經三二六)十有二月,己未,公薨於幹侯。

(経三二六)十二月己未、昭公が干侯で薨去した。

定公

定公(經一一)元年

定公(経一一)元年

春王。

春、周王である。

(傳)定何以無正月?正月者,正即位也。定無正月者,即位後也。即位何以後?昭公在外,得入不得入,未可知也。曷為未可知?在季氏也。定、哀多微辭,主人習其讀而問其傳,則未知己之有罪焉爾。

(伝)定公に正月がないのはなぜか。正月とは即位を正す月である。定公に正月がないのは、即位が後になったからである。即位が後になったのはなぜか。昭公が外にいて、入れるかどうか分からなかったからである。なぜ分からなかったのか。季氏の手中にあったからである。定公・哀公の代には意味深な微辞が多く、主人は経文を読み慣れてから伝を問うので、自ら罪があることに気づかないのである。

(經一二)三月,晉人執宋仲幾於京師。

(経一二)三月、晋の人が宋の仲幾を京師で捕らえた。

(傳)仲幾之罪何?不哀城也。其言於京師何?伯討也。伯討則其稱人何?貶。曷為貶?不與大王專執也。曷為不與?實與而文不與。文曷為不與?大夫之義,不得專執也。

(伝)仲幾の罪は何か。城の築造に精を出さなかったことである。「京師にて」と記したのはなぜか。覇者による討伐だからである。覇者の討伐なのに「人」と称したのはなぜか。貶しである。なぜ貶すのか。大王が独断で人を捕らえることを認めないからである。なぜ認めないのか。実際には認めながら文面では認めないのである。文面で認めないのはなぜか。大夫の義として、独断で人を捕らえてはならないからである。

(經一三)夏,六月癸亥,公之喪至自幹侯。戊辰,公即位。

(経一三)夏、六月癸亥、昭公の柩が干侯から到着した。戊辰、定公が即位した。

(傳)癸亥公之喪至自幹侯,則曷為以戊辰之日然後即位?正棺於兩楹之間,然後即位。子沈子曰:「定君乎國,然後即位。」即位不日,此何以日?錄乎內也。

(伝)癸亥に昭公の柩が干侯から到着したのに、なぜ戊辰の日をもって後に即位したのか。まず棺を両楹の間に正しく安置してから即位したのである。子沈子は言った、「国において君が定まってから即位する」と。即位には日を記さないのに、ここでなぜ日を記すのか。国内で記されたからである。

(經一四)秋,七月癸巳,葬我君昭公。

(経一四)秋、七月癸巳、我が魯の君昭公を葬った。

(經一五)九月,大雩。

(経一五)九月、大雩を行った。

(經一六)立煬宮。

(経一六)煬宮を立てた。

(傳)煬宮者何?煬公之宮也。立者何?立者不宜立也。立煬宮,非禮也。

(伝)煬宮とは何か。煬公の宮である。「立」とは何か。「立」とは立てるべきでないものを立てることである。煬宮を立てるのは礼ではない。

(經一七)冬,十月,隕霜殺菽。

(経一七)冬、十月、霜が降りて豆を枯らした。

(傳)何以書?記異也。此災菽也,曷為以異書?異大乎災也。

(伝)なぜ記したのか。異常を記したのである。これは災害が豆に及んだものなのに、なぜ異常として記すのか。異常は災害より大きいからである。

定公(經二一)二年

定公(経二一)二年

春,王正月。

春、周暦正月である。

(經二二)夏,五月壬辰,雉門及兩觀災。

(経二二)夏、五月壬辰、雉門と両観が失火した。

(傳)其言雉門及兩觀災何?兩觀微也。然則曷為不言雉門災及兩觀?主災者兩觀也。時災者兩觀,則曷為後言之?不以微及大也。何以書?記災也。

(伝)なぜ「雉門及び両観に災いあり」と書くのか。両観が軽い存在だからである。ではなぜ「雉門の災いが両観に及ぶ」と書かないのか。主たる災いは両観にあるからである。そのとき災いを受けたのは両観なのに、なぜ後に言うのか。軽いものを重大なものに連ねないからである。なぜ記したのか。災害を記したのである。

(經二三)秋,楚人伐吳。

(経二三)秋、楚の人が呉を攻めた。

(經二四)冬,十月,新作雉門及兩觀。

(経二四)冬、十月、雉門と両観を新たに修した。

(傳)其言新作之何?修大也。修舊不書,此何以書?譏。何譏爾?不務乎公室也。

(伝)なぜ「新作」と書くのか。修繕を大げさに書いたのである。旧来のものを修めるのは例によって記さないのに、ここでなぜ記すのか。譏刺である。何を譏刺するのか。公室に心を用いないことを譏刺するのである。

定公(經三一)三年

定公(経三一)三年

春,王正月,公如晉,至河乃復。三月辛卯,邾婁子穿卒。

春、周暦正月、定公は晋に行き、黄河に至って帰った。三月辛卯、邾婁子穿が卒した。

(經三二)夏,四月。

(経三二)夏、四月である。

(經三三)秋,葬邾婁莊公。

(経三三)秋、邾婁荘公を葬った。

(經三四)冬,仲孫何忌及邾婁子盟於枝。

(経三四)冬、仲孫何忌が邾婁子と枝で盟を結んだ。

定公(經四一)四年

定公(経四一)四年

春,王二月癸巳,陳侯吳卒。

春、周暦二月癸巳、陳侯呉が卒した。

(經四二)三月,公會劉子、晉侯、宋公、蔡侯、衛侯、陳子、鄭伯、許男、曹伯、莒子、邾婁子、頓子、鬍子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子、齊國夏於召陵,侵楚。

(経四二)三月、定公は劉子・晋侯・宋公・蔡侯・衛侯・陳子・鄭伯・許男・曹伯・莒子・邾婁子・頓子・胡子・滕子・薛伯・杞伯・小邾婁子・斉の国夏と召陵で会し、楚を攻めた。

(經四三)夏,四月庚辰,蔡公孫歸姓帥師滅沈,以沈子嘉歸,殺之。

(経四三)夏、四月庚辰、蔡の公孫帰姓が軍を率いて沈を滅ぼし、沈子嘉を連れ帰ってこれを殺した。

(經四四)五月,公及諸侯盟於浩油;杞伯戊卒於會。

(経四四)五月、定公は諸侯と浩油で盟を結んだ。杞伯戊が会盟の中で卒した。

(經四五)六月,葬陳惠公。

(経四五)六月、陳恵公を葬った。

(經四六)許遷於容城。

(経四六)許は容城に遷った。

(經四七)秋,七月,公至自會。

(経四七)秋、七月、定公は会盟から帰った。

(經四八)劉卷卒。

(経四八)劉巻が卒した。

(傳)劉卷者何?天子之大夫也。外大夫不卒,此何以卒?我主之也。

(伝)劉巻とは何者か。天子の大夫である。外の大夫は卒を記さないのに、ここでなぜ卒を記すのか。我らが主人となってもてなしたからである。

(經四九)葬杞悼公。

(経四九)杞悼公を葬った。

(經四十)楚人圍蔡。

(経四十)楚の人が蔡を包囲した。

(經四十一)晉士鞅、衛孔圄帥師伐鮮虞。

(経四十一)晋の士鞅・衛の孔圄が軍を率いて鮮虞を攻めた。

(經四十二)葬劉文公。

(経四十二)劉文公を葬った。

(傳)外大夫不書葬,此何以書葬?錄我主也。

(伝)外の大夫は葬を記さないのに、ここでなぜ葬を記すのか。我らが主人となってもてなしたことを記したのである。

(經四十三)冬,十有一月庚午,蔡侯以吳子及楚人戰於伯莒,楚師敗績。

(経四十三)冬、十一月庚午、蔡侯は呉子を率いて楚の人と伯莒で戦い、楚の軍は大敗した。

(傳)吳何以稱子?夷狄也而憂中國。其憂中國奈何?伍子胥父誅乎楚,挾弓而去楚,以幹闔廬。闔廬曰:「士之甚!勇之甚!將為之興師而復讎於楚。」伍子胥復曰:「諸侯不為匹夫興師,且臣聞之:事君猶事父也。虧君之義,復父之讎,臣不為也。」於是止。蔡昭公朝乎楚,有美裘焉,囊瓦求之,昭公不與,為是拘昭公於南郢,數年然後歸之。於其歸焉,用事乎河,曰:「天下諸侯茍有能伐楚者,寡人請為之前列。」楚人聞之怒。為是興師,使囊瓦將而伐蔡。蔡請救於吳,伍子胥復曰:「蔡非有罪也,楚人為無道,君如有憂中國之心,則若時可矣。」於是興師而救蔡。曰:事君猶事父也,此其為可以復讎奈何?曰:父不受誅,子復讎可也;父受誅,子復讎,推刃之道也。復讎不徐害,朋友相衛,而不相迿,古之道也。

(伝)呉をなぜ「子」と称するのか。もとは夷狄であるのに中原のために憂えたからである。どのように中原を憂えたのか。伍子胥の父が楚で殺され、弓を挟んで楚を離れ、闔廬に会いに行った。闔廬は言った、「まことに士だ。まことに勇だ。私は彼のために軍を起こして楚に復讐しよう」と。伍子胥はまた言った、「諸侯は匹夫のために軍を起こしません。しかも臣は聞きました。君に仕えることは父に仕えることと同じだと。君の義を損ない父の仇を報いることは、臣はいたしません」と。そこで中止した。蔡昭公が楚に朝見し、美しい裘が一領あり、囊瓦がそれを求めたが昭公は与えず、それゆえ昭公を南郢に拘し、数年経てやっと帰した。帰るとき、河で祭祀を行い、言った、「天下の諸侯で楚を攻められる者があれば、寡人は先鋒となることを請います」と。楚の人は聞いて怒った。それゆえ軍を起こし、囊瓦に兵を率いさせて蔡を攻めた。蔡は呉に救いを求め、伍子胥はまた言った、「蔡に罪はなく、楚の人は無道です。君に中原を憂える心があれば、このときこそできます」と。そこで軍を起こして蔡を救った。曰く、君に仕えることは父に仕えることと同じであるのに、ここではなぜ復讐が許されるのか。答えて曰く、父が誅されるべきでないとき、子が復讐するのは許される。父が誅されるべきとき、子が復讐するのは刃を推し合って殺す道である。復讐は他人に累を及ぼさず、朋友は互いに衛り合いながら先んじて功を争わない、これが古来の道理である。(底本「復讐不徐害」の「徐」は疑いなく「除」の誤り。闔廬に干す、は今「求見」と作り、「干」が乾湿の干と混ざるのを避ける。)

(經四十四)楚囊瓦出奔鄭。

(経四十四)楚の囊瓦が鄭に奔った。

(經四十五)庚辰,吳入楚。

(経四十五)庚辰、呉は楚に入った。

(傳)吳何以不稱子?反夷狄也。其反夷狄奈何?君舍於君室,大夫舍於大夫室,蓋妻楚王之母也。

(伝)呉をなぜ「子」と称しないのか。再び夷狄に戻ったからである。どのように夷狄に戻ったのか。君は君の宮室に居り、大夫は大夫の宮室に居り、おそらく楚王の母を妻としたのである。

定公(經五一)五年

定公(経五一)五年

春,王正月辛亥朔,日有食之。

春、周暦正月辛亥朔、日食があった。

(經五二)夏,歸粟於蔡。

(経五二)夏、粟を蔡に送った。

(傳)孰歸之?諸侯歸之。曷為不言諸侯歸之?離至不可得而序,故言我也。

(伝)誰が送ったのか。諸侯が送ったのである。なぜ諸侯が送ったと書かないのか。別々に到着して順序の立てようがないので、我らと書いたのである。

(經五三)于越入吳。

(経五三)於越が呉に入った。

(傳)于越者何?越者何?于越者,未能以其名通也。越者,能以其名通也。

(伝)於越とは何か。越とは何か。於越と称するのは、まだこの名で通行できないからである。越と称するのは、すでにこの名で通行できるからである。

(經五四)六月丙申,季孫隱如卒。

(経五四)六月丙申、季孫隠如が卒した。

(經五五)秋,七月壬子,叔孫不敢卒。

(経五五)秋、七月壬子、叔孫不敢が卒した。

(經五六)冬,晉士鞅帥師圍鮮虞。

(経五六)冬、晋の士鞅が軍を率いて鮮虞を包囲した。

定公(經六一)六年

定公(経六一)六年

春,王正月癸亥,鄭遊遬帥師滅許,以許男斯歸。

春、周暦正月癸亥、鄭の游遬が軍を率いて許を滅ぼし、許男斯を連れ帰った。

(經六二)二月,公侵鄭。

(経六二)二月、定公は鄭を攻めた。

(經六三)公至自侵鄭。

(経六三)定公は鄭攻めから帰った。

(經六四)夏,季孫斯、仲孫何忌如晉。

(経六四)夏、季孫斯・仲孫何忌が晋に行った。

(經六五)秋,晉人執宋行人樂祁犁。

(経六五)秋、晋の人が宋の行人楽祁犂を捕らえた。

(經六六)冬,城中城。

(経六六)冬、中城を築いた。

(經六七)季孫斯、仲孫忌帥師圍運。

(経六七)季孫斯・仲孫忌が軍を率いて運を包囲した。

(傳)此仲孫何忌也,曷為謂之仲孫忌?譏二名。二名,非禮也。

(伝)これは仲孫何忌であるのに、なぜ仲孫忌と呼ぶのか。二文字の名を譏刺するのである。二文字の名は礼ではない。

定公(經七一)七年

定公(経七一)七年

春,王正月。(經七二)夏,四月。

春、周暦正月である。(経七二)夏、四月である。

(經七三)秋,齊侯、鄭伯盟於鹹。

(経七三)秋、斉侯・鄭伯が咸で盟を結んだ。

(經七四)齊人執衛行人北宮結,以侵衛。

(経七四)斉の人が衛の行人北宮結を捕らえ、衛を攻めるのに用いた。

(經七五)齊侯、衛侯盟於沙澤。

(経七五)斉侯・衛侯が沙沢で盟を結んだ。

(經七六)大雩。

(経七六)大雩を行った。

(經七七)齊國夏帥師伐我西鄙。

(経七七)斉の国夏が軍を率いて我が魯の西鄙を攻めた。

(經七八)九月,大雩。

(経七八)九月、大雩を行った。

(經七九)冬,十月。

(経七九)冬、十月である。

定公(經八一)八年

定公(経八一)八年

春,王正月,公侵齊。公至自侵齊。

春、周暦正月、定公は斉を攻めた。定公は斉攻めから帰った。

(經八二)二月,公侵齊。三月,公至自侵齊。

(経八二)二月、定公は斉を攻めた。三月、定公は斉攻めから帰った。

(經八三)曹伯露卒。

(経八三)曹伯露が卒した。

(經八三)夏,齊國夏帥師伐我西鄙。

(経八三)夏、斉の国夏が軍を率いて我が魯の西鄙を攻めた。

(經八四)公會晉師於瓦,公至自瓦。

(経八四)定公は瓦で晋の軍と会い、定公は瓦から帰った。

(經八五)秋,七月戊辰,陳侯柳卒。

(経八五)秋、七月戊辰、陳侯柳が卒した。

(經八六)晉趙鞅帥師侵鄭,遂侵衛。

(経八六)晋の趙鞅が軍を率いて鄭を攻め、続いて衛を攻めた。

(經八七)葬曹靖公。

(経八七)曹靖公を葬った。

(經八八)九月,葬陳懷公。

(経八八)九月、陳懐公を葬った。

(經八九)季孫斯、仲孫何忌帥師侵衛。

(経八九)季孫斯・仲孫何忌が軍を率いて衛を攻めた。

(經八十)冬,衛侯、鄭伯盟於曲濮。

(経八十)冬、衛侯・鄭伯が曲濮で盟を結んだ。

(經八十一)從祀先公。

(経八十一)順序に従って先公を祭祀した。

(傳)從祀者何?順祀也。文公逆祀,去者三人;定公順祀,叛者五人。

(伝)従祀とは何か。順序に従って祀ることである。文公は順序に逆らって祀り、離れた者が三人あった。定公は順序に従って祀り、叛いた者が五人あった。

(經八十二)盜竊寶玉、大弓。

(経八十二)盗賊が宝玉・大弓を盗んだ。

(傳)盜者孰謂?謂陽虎也。陽虎者,曷為者也?季氏之宰也。季氏之宰則微者也,惡乎得國寶而竊之?陽虎專季氏,季氏專魯國,陽虎拘季孫,孟氏與叔孫氏迭而食之。睋而鋟其板,曰:「某月某日,將殺我於蒲圃,力能救我則於是。」至乎日若時而出。臨南者,陽虎之出也,御之。於其乘焉,季孫謂臨南曰:「以季氏之世世有子,子可以不免我死乎?」臨南曰:「有力不足,臣何敢不勉。」陽越者,陽虎之從弟也,為右。諸陽之從者,車數十乘,至於孟衢,臨南投策而墜之,陽越下取策,臨南駷馬,而由乎孟氏,陽虎從而射之,矢著於莊門。然而甲起於琴如。弒不成,卻反舍於郊,皆說然息。或曰:「弒千乘之主,而不克舍此,可乎?」陽虎曰:「夫孺子得國而已,如丈夫何?」睋而曰:「彼哉!彼哉!趣駕。」既駕,公斂處父帥師而至,慬然後得免,自是走之晉。寶者何?璋判白,弓繡質,龜青純。

(伝)盗とは誰を指すのか。陽虎を指す。陽虎とは何者か。季氏の家宰である。季氏の家宰は微賤な者だが、どうして国宝を得て盗み去ることができたのか。陽虎は季氏を専断し、季氏は魯を専断していた。陽虎は季孫を拘禁し、孟氏と叔孫氏が交代で彼に食事を届けた。彼は目を眇めて板に字を刻み、言った、「某月某日、蒲圃で私を殺そうとする。力あって私を救う者はその時に来い」と。その日のその時刻に出て行った。臨南は陽虎の甥で、彼のために車を御した。車に乗るとき、季孫は臨南に言った、「季氏が代々あなたのような者を持ったことに凭って、あなたは私を死なせないでくれないか」と。臨南は言った、「力が足りませんが、臣はどうして力を尽くさないことができましょう」と。陽越は陽虎の従弟で、車右を務めた。陽氏の従者は車が数十両あり、孟衢に至って、臨南は馬鞭を落とし、陽越が車を降りて鞭を拾い、臨南は馬を駆って奔り、孟氏の方から通り過ぎ、陽虎は彼を追って射たが、矢は荘門に当たった。しかし甲士が琴如から起こった。君を殺すのに成功せず、退いて郊に住み、みな甲を脱いで休んだ。或る者が言った、「千乗の主を殺して成功せず、ここに住んでいてよいのか」と。陽虎は言った、「あの小児が国を得たところで、丈夫に対して何ができようか」と。目を眇めて見て言った、「あの人か。あの人か。急いで車を繋げ」と。すでに車を繋ぐと、公斂処父が軍を率いて駆けつけ、ようやく辛うじて免れ、これより晋に逃げた。宝とは何か。半ば白い璋、底に繍のある弓、青い縁の亀である。

定公(經九一)九年

定公(経九一)九年

春,王正月。

春、周暦正月である。

(經九二)夏,四月戊申,鄭伯囆卒。

(経九二)夏、四月戊申、鄭伯囆が卒した。

(經九三)得寶玉、大弓。

(経九三)宝玉・大弓を得た。

(傳)何以書?國寶也,喪之書,得之書。

(伝)なぜ記したのか。国宝であり、失えば記し、得ても記すのである。

(經九四)六月,葬鄭獻公。

(経九四)六月、鄭献公を葬った。

(經九五)秋,齊侯、衛侯次於五氏。

(経九五)秋、斉侯・衛侯が五氏に駐屯した。

(經九六)秦伯卒。

(経九六)秦伯が卒した。

(經九七)冬,葬秦哀公。

(経九七)冬、秦哀公を葬った。

定公(經十一)十年

定公(経十一)十年

春,王三月,及齊平。

春、周暦三月、斉と和を講じた。

(經十二)夏,公會齊侯於頰谷。公至自頰谷。

(経十二)夏、定公は頬谷で斉侯と会した。定公は頬谷から帰った。

(經十三)晉趙鞅帥師圍衛。

(経十三)晋の趙鞅が軍を率いて衛を包囲した。

(經十四)齊人來歸運、讙、龜陰田。

(経十四)斉の人が運・讙・亀陰の田を返しに来た。

(傳)齊人曷為來歸運、讙、龜陰田?孔子行乎季孫,三月不違,齊人為是來歸之。

(伝)斉の人はなぜ運・讙・亀陰の田を返しに来たのか。孔子が季孫のもとで事を行い、三箇月違逆することがなかったので、斉の人はそれによって返しに来たのである。

(經十五)叔孫州仇、仲孫何忌帥師圍郈。

(経十五)叔孫州仇・仲孫何忌が軍を率いて郈を包囲した。

(經十六)秋,叔孫州仇、仲孫何忌帥師圍費。

(経十六)秋、叔孫州仇・仲孫何忌が軍を率いて費を包囲した。

(經十七)宋樂世心出奔曹。宋公子池出奔陳。

(経十七)宋の楽世心が曹に奔った。宋の公子池が陳に奔った。

(經十八)冬,齊侯、衛侯、鄭遊遬會於鞍。

(経十八)冬、斉侯・衛侯・鄭の游遬が鞍で会した。

(經十九)叔孫州仇如齊。

(経十九)叔孫州仇が斉に行った。

(經十十)齊公之弟辰暨宋仲佗、石彄出奔陳。

(経十十)斉公の弟辰と宋の仲佗・石彄が陳に奔った。

定公(經十一一)十有一年

定公(経十一一)十有一年

春,宋公之弟辰及仲佗、石彄、公子池,自陳入於蕭,以叛。

春、宋公の弟辰と仲佗・石彄・公子池が、陳から蕭に入り、来て叛いた。

(經十一二)夏,四月。

(経十一二)夏、四月である。

(經十一三)秋,宋樂世心自曹入於蕭。

(経十一三)秋、宋の楽世心が曹から蕭に入った。

(經十一四)冬,及鄭平。

(経十一四)冬、鄭と和を講じた。

(經十一五)叔還如鄭蒞盟。

(経十一五)叔還が鄭に行って会盟に与った。

定公(經十二一)十有二年

定公(経十二一)十有二年

春,薛伯定卒。

春、薛伯定が卒した。

(經十二二)夏,葬薛襄公。

(経十二二)夏、薛襄公を葬った。

(經十二三)叔孫州仇帥師墮郈。

(経十二三)叔孫州仇が軍を率いて郈を堕した。

(經十二四)衛公孟彄帥師伐曹。

(経十二四)衛の公孟彄が軍を率いて曹を攻めた。

(經十二五)季孫斯、仲孫何忌帥師墮費。

(経十二五)季孫斯・仲孫何忌が軍を率いて費を堕した。

(傳)曷為帥師墮郈?帥師墮費?孔子行乎季孫,三月不違,曰:「家不藏甲,邑無百雉之城。」於是帥師墮郈,帥師墮費。雉者何?五板而堵,五堵而雉,百雉而城。

(伝)なぜ軍を率いて郈を堕し、軍を率いて費を堕したのか。孔子が季孫のもとで事を行い、三箇月違逆することがなく、言った、「私家は甲を蔵せず、城邑に百雉の城なし」と。そこで軍を率いて郈を堕し、軍を率いて費を堕したのである。雉とは何か。五板を一堵とし、五堵を一雉とし、百雉を一城とする。

(經十二六)秋,大雩。

(経十二六)秋、大雩を行った。

(經十二七)冬,十月癸亥,公會晉侯,盟於黃。

(経十二七)冬、十月癸亥、定公は晋侯と会い、黄で盟を結んだ。

(經十二八)十有一月丙寅朔,日有食之。公至自黃。

(経十二八)十一月丙寅朔、日食があった。定公は黄から帰った。

(經十二九)十有二月,公圍成,公至自圍成。

(経十二九)十二月、定公は成を包囲し、定公は成包囲から帰った。

定公(經十三一)十有三年

定公(経十三一)十有三年

春,齊侯、衛侯次於垂瑕。

春、斉侯・衛侯が垂瑕に駐屯した。

(經十三二)夏,築蛇淵囿。

(経十三二)夏、蛇淵囿を築いた。

(經十三三)大搜於比蒲。

(経十三三)比蒲で大蒐を行った。

(經十三四)衛公孟彄帥師伐曹。

(経十三四)衛の公孟彄が軍を率いて曹を攻めた。

(經十三五)秋,晉趙鞅入於晉陽,以叛。

(経十三五)秋、晋の趙鞅が晋陽に入り、来て叛いた。

(經十三六)冬,晉荀寅及士吉射入於朝歌,以叛。

(経十三六)冬、晋の荀寅と士吉射が朝歌に入り、来て叛いた。

(經十三七)晉趙鞅歸於晉。

(経十三七)晋の趙鞅が晋に帰った。

(傳)此叛也,其言歸何?以地正國也。其以地正國奈何?晉趙鞅取晉陽之甲以逐荀寅與士吉射。荀寅與士吉射者,曷為者也?君側之惡人也。此逐君側之惡人,曷為以叛言之?無君命也。(經十三八)薛弒其君比。

(伝)これは叛であるのに、なぜ「帰」と書くのか。土地をもって国を匡正したからである。どのように土地をもって国を匡正したのか。晋の趙鞅は晋陽の甲士を取り出して荀寅と士吉射を逐った。荀寅と士吉射とは何者か。君側の悪人である。これは君側の悪人を逐ったことなのに、なぜ叛として言うのか。君の命がなかったからである。(経十三八)薛はその君比を殺した。

定公(經十四一)十有四年

定公(経十四一)十有四年

春,衛公叔戍來奔。

春、衛の公叔戍が来て奔した。

(經十四二)晉趙陽出奔宋。

(経十四二)晋の趙陽が宋に奔った。

(經十四三)二月辛巳,楚公子結、陳公子佗人帥師滅頓,以頓子牄歸。

(経十四三)二月辛巳、楚の公子結・陳の公子佗人が軍を率いて頓を滅ぼし、頓子牄を連れ帰った。

(經十四四)夏,衛北宮結來奔。

(経十四四)夏、衛の北宮結が来て奔した。

(經十四五)五月,于越敗吳於醉李。

(経十四五)五月、於越が醉李で呉を敗った。

(經十四六)吳子光卒。

(経十四六)呉子光が卒した。

(經十四七)公會齊侯、衛侯于堅。公至自會。

(経十四七)定公は堅で斉侯・衛侯と会した。定公は会盟から帰った。

(經十四八)秋,齊侯、宋公會於洮。

(経十四八)秋、斉侯・宋公が洮で会した。

(經十四九)天王使石尚來歸脤。

(経十四九)天子が石尚を遣わして脤を届けさせた。

(傳)石尚者何?天子之士也。脤者何?俎實也。腥曰脤,熟曰燔。

(伝)石尚とは何者か。天子の士である。脤とは何か。俎の上の祭肉である。生のものを脤といい、熟したものを燔という。

(經十四十)衛世子蒯瞶出奔宋。

(経十四十)衛の世子蒯瞶が宋に奔った。

(經十四十一)衛公孟彄出奔鄭。

(経十四十一)衛の公孟彄が鄭に奔った。

(經十四十二)宋公之弟辰自蕭來奔。

(経十四十二)宋公の弟辰が蕭から来て奔した。

(經十四十三)大搜於比蒲。

(経十四十三)比蒲で大蒐を行った。

(經十四十四)邾婁子來會公。

(経十四十四)邾婁子が来て定公と会した。

(經十四十五)城莒父及霄。

(経十四十五)莒父と霄を築いた。

定公(經十五一)十有五年

定公(経十五一)十有五年

春,王正月,邾婁子來朝。

春、周暦正月、邾婁子が来て朝見した。

(經十五二)鼷鼠食郊牛,牛死,改卜牛。

(経十五二)鼷鼠が郊祭の牛を食らい、牛は死んだので、改めて卜して牛を換えた。

(傳)曷為不言其所食?漫也。

(伝)なぜ食らった部位を書かないのか。食らい方が際限なかったからである。

(經十五三)二月,辛丑,楚子滅胡,以鬍子豹歸。

(経十五三)二月辛丑、楚子が胡を滅ぼし、胡子豹を連れ帰った。

(經十五四)夏,五月辛亥,郊。

(経十五四)夏、五月辛亥、郊祭を行った。

(傳)曷為以夏五月郊?三卜之運也。

(伝)なぜ夏の五月に郊祭したのか。三度卜して巡り合わせたからである。

(經十五五)壬申,公薨於高寢。

(経十五五)壬申、定公が高寝で卒した。

(經十五六)鄭軒達帥師伐宋。

(経十五六)鄭の軒達が軍を率いて宋を攻めた。

(經十五七)齊侯、衛侯次於籧篨。

(経十五七)斉侯・衛侯が籧篨に駐屯した。

(經十五八)邾婁子來奔喪。

(経十五八)邾婁子が来て奔喪した。

(傳)其言來奔喪何?奔喪,非禮也。

(伝)なぜ「来奔喪」と書くのか。奔喪は礼ではないからである。

(經十五九)秋,七月壬申,姒氏卒。

(経十五九)秋、七月壬申、姒氏が卒した。

(傳)姒氏者何?哀公之母也。何以不稱夫人?哀未君也。

(伝)姒氏とは何者か。哀公の母である。なぜ夫人と称しないのか。哀公がまだ君となっていないからである。

(經十五十)八月庚辰朔,日有食之。

(経十五十)八月庚辰朔、日食があった。

(經十五十一)九月,滕子來會葬。

(経十五十一)九月、滕子が来て会葬した。

(經十五十二)丁巳,葬我君定公,雨不克葬;戊午,日下昃,乃克葬。辛巳,葬定姒。

(経十五十二)丁巳、我が魯の君定公を葬ろうとしたが、雨が降って葬ることができなかった。戊午、日が西に傾いて、ようやく葬ることができた。辛巳、定姒を葬った。

(傳)定姒何以書葬?未逾年之君也,有子則廟,廟則書葬。

(伝)定姒をなぜ葬を記すのか。年を越えていない君でも、子があれば廟があり、廟があれば葬を記すのである。

(經十五十三)冬,城漆。

(経十五十三)冬、漆を築いた。

哀公

哀公(經一一)元年

哀公(経一一)元年

春,王正月,公即位。

春、周暦正月、哀公が即位した。

(經一二)楚子、陳侯、隨侯、許男圍蔡。

(経一二)楚子・陳侯・随侯・許男が蔡を包囲した。

(經一三)鼷鼠食郊牛,改卜牛。

(経一三)鼷鼠が郊祭の牛を食らい、改めて卜して牛を換えた。

(經一四)夏,四月辛巳,郊。

(経一四)夏、四月辛巳、郊祭を行った。

(經一五)秋,齊侯、衛侯伐晉。

(経一五)秋、斉侯・衛侯が晋を攻めた。

(經一六)冬,仲孫何忌帥師伐邾婁。

(経一六)冬、仲孫何忌が軍を率いて邾婁を攻めた。

哀公(經二一)二年

哀公(経二一)二年

春,王二月,季孫斯、叔孫州仇、仲孫何忌帥師伐邾婁,取漷東田及沂西田。癸巳,叔孫州仇、仲孫何忌及邾婁子盟於句繹。

春、周暦二月、季孫斯・叔孫州仇・仲孫何忌が軍を率いて邾婁を攻め、漷東の田と沂西の田を取った。癸巳、叔孫州仇・仲孫何忌が邾婁子と句繹で盟を結んだ。

(經二二)夏,四月丙子,衛侯元卒。

(経二二)夏、四月丙子、衛侯元が卒した。

(經二三)滕子來朝。

(経二三)滕子が来て朝見した。

(經二四)晉趙鞅帥師納衛世子蒯瞶於戚。

(経二四)晋の趙鞅が軍を率いて衛の世子蒯瞶を戚に入れようとした。

(傳)戚者何?衛之邑也。曷為不言入於衛?父有子,子不得有父也。

(伝)戚とは何か。衛の城邑である。なぜ衛に入ると書かないのか。父は子を有することができるが、子は父を有することができないからである。

(經二五)秋,八月甲戌,晉趙鞅帥師及鄭軒達帥師戰於栗,鄭師敗績。

(経二五)秋、八月甲戌、晋の趙鞅が率いる軍と鄭の軒達が率いる軍が栗で戦い、鄭の軍は大敗した。

(經二六)冬,十月,葬衛靈公。

(経二六)冬、十月、衛霊公を葬った。

(經二七)十有一月,蔡遷於州來。

(経二七)十一月、蔡は州来に遷った。

(經二八)蔡殺其大夫公子駟。

(経二八)蔡はその大夫公子駟を殺した。

哀公(經三一)三年

哀公(経三一)三年

春,齊國夏、衛石曼姑帥師圍戚。

春、斉の国夏・衛の石曼姑が軍を率いて戚を包囲した。

(傳)齊國夏曷為與衛石曼姑帥師圍戚?伯討也。此其為伯討奈何?曼姑受命乎靈公而立輒,以曼姑之義為固,可以距之也。輒者曷為者也?蒯瞶之子也。然則曷為不立蒯瞶而立輒?蒯瞶為無道,靈公逐蒯瞶而立輒。然則輒之義可以立乎?曰:可。其可奈何?不以父命辭王父命,以王父命辭父命,是父之行乎子也;不以家事辭王事,以王事辭家事,是上之行乎下也。

(伝)斉の国夏がなぜ衛の石曼姑とともに軍を率いて戚を包囲したのか。覇者の討伐である。これはどうして覇者の討伐なのか。曼姑は霊公の命を受けて輒を立て、曼姑の義に照らせばもとより蒯瞶に拒むことができた。輒とは何者か。蒯瞶の子である。ではなぜ蒯瞶を立てずに輒を立てたのか。蒯瞶は無道で、霊公は蒯瞶を逐って輒を立てた。では輒の義として立つことができるのか。答えて曰く、できる。なぜできるのか。父の命をもって祖の命を辞せず、祖の命をもって父の命を辞する、これは父の命が子に行われることである。家事をもって王事を辞せず、王事をもって家事を辞する、これは上に在る者が下に在る者に行われることである。

(經三二)夏,四月甲午,地震。

(経三二)夏、四月甲午、地震があった。

(經三三)五月辛卯,桓宮、僖宮災。

(経三三)五月辛卯、桓宮・僖宮が失火した。

(傳)此皆毀廟也,其言災何?復立也。曷為不言其復立?《春秋》見者不復見也。何以不言及?敵也。何以書?記災也。

(伝)これらはすでに毀された廟であるのに、なぜ「災」と書くのか。改めて立てられたからである。なぜ改めて立てたと書かないのか。《春秋》にすでに現れたものは再び現れないからである。なぜ「及」と書かないのか。対等だからである。なぜ記したのか。災害を記したのである。

(經三四)季孫斯、叔孫州仇帥師城開陽。

(経三四)季孫斯・叔孫州仇が軍を率いて開陽を築いた。

(經三五)宋樂髡帥師伐曹。

(経三五)宋の楽髡が軍を率いて曹を攻めた。

(經三六)秋,七月丙子,季孫斯卒。

(経三六)秋、七月丙子、季孫斯が卒した。

(經三七)蔡人放其大夫公孫獵於吳。

(経三七)蔡の人がその大夫公孫猟を呉に放逐した。

(經三八)冬,十月癸卯,秦伯卒。

(経三八)冬、十月癸卯、秦伯が卒した。

(經三九)叔孫州仇、仲孫何忌帥師圍邾婁。

(経三九)叔孫州仇・仲孫何忌が軍を率いて邾婁を包囲した。

哀公(經四一)四年

哀公(経四一)四年

春,王三月庚戌,盜殺蔡侯申。

春、周暦三月庚戌、盗賊が蔡侯申を殺した。

(傳)弒君賤者窮諸人,此其稱盜以弒何?賤乎賤者也。賤乎賤者孰謂?謂罪人也。

(伝)君を殺した者は、微賤な者であれば極めて「人」と称するのに、ここでは「盗」と称して「弑」を書くのはなぜか。微賤よりさらに微賤な者だからである。微賤よりさらに微賤とは誰を指すのか。罪人を指す。

(經四二)蔡公孫辰出奔吳。

(経四二)蔡の公孫辰が呉に奔った。

(經四三)葬秦惠公。

(経四三)秦恵公を葬った。

(經四四)宋人執小邾婁子。

(経四四)宋の人が小邾婁子を捕らえた。

(經四五)夏,蔡殺其大夫公孫歸姓、公孫霍。

(経四五)夏、蔡はその大夫公孫帰姓・公孫霍を殺した。

(經四六)晉人執戎曼子赤歸於楚。

(経四六)晋の人が戎曼子赤を捕らえ、楚に送った。

(傳)赤者何?戎曼子之名也。其言歸於楚何?子北宮子曰:「闢伯晉而京師楚也。」

(伝)赤とは何か。戎曼子の名である。なぜ「楚に帰す」と書くのか。子北宮子が言った、「晋を覇者とし楚を京師とすることを避けたのである」と。

(經四七)城西郛。

(経四七)西郭を築いた。

(經四八)六月辛丑,蒲社災。

(経四八)六月辛丑、蒲社が失火した。

(傳)蒲社者何?亡國之社也。社者封也,其言災何?亡國之社蓋掩之,掩其上而柴其下。蒲社災,何以書?記災也。

(伝)蒲社とは何か。亡国の社である。社は封土なのに、なぜ「災」と書くのか。亡国の社はおそらく覆われていて、上は覆い、下は柴で囲んであった。蒲社が失火したことをなぜ記すのか。災害を記したのである。

(經四九)秋,八月甲寅,滕子結卒。

(経四九)秋、八月甲寅、滕子結が卒した。

(經四十)冬,十有二月,葬蔡昭公。

(経四十)冬、十二月、蔡昭公を葬った。

(經四十一)葬滕頃公。

(経四十一)滕頃公を葬った。

哀公(經五一)五年

哀公(経五一)五年

春,城比。

春、比を築いた。

(經五二)夏,齊侯伐宋。

(経五二)夏、斉侯が宋を攻めた。

(經五三)晉趙鞅帥師伐衛。

(経五三)晋の趙鞅が軍を率いて衛を攻めた。

(經五四)秋,九月癸酉,齊侯處臼卒。

(経五四)秋、九月癸酉、斉侯処臼が卒した。

(經五五)冬,叔還如齊。

(経五五)冬、叔還が斉に行った。

(經五六)閏月,葬齊景公。

(経五六)閏月、斉景公を葬った。

(傳)閏不書,此何以書?喪以閏數也。喪曷為以閏數?喪數略也。

(伝)閏月は例によって記さないのに、ここでなぜ記すのか。丧事は閏月をもって数えるからである。丧事はなぜ閏月をもって数えるのか。丧事の数え方は略されるからである。

哀公(經六一)六年

哀公(経六一)六年

春,城邾婁葭。

春、邾婁葭を築いた。

(經六二)晉趙鞅帥師伐鮮虞。

(経六二)晋の趙鞅が軍を率いて鮮虞を攻めた。

(經六三)吳伐陳。

(経六三)呉が陳を攻めた。

(經六四)夏,齊國夏及高張來奔。

(経六四)夏、斉の国夏と高張が来て奔した。

(經六五)叔還會吳於柤。

(経六五)叔還が柤で呉と会した。

(經六六)秋,七月庚寅,楚子軫卒。

(経六六)秋、七月庚寅、楚子軫が卒した。

(經六七)齊陽生入於齊。

(経六七)斉の陽生が斉に入った。

(經六八)齊陳乞弒其君舍。

(経六八)斉の陳乞がその君舎を殺した。

(傳)弒而立者,不以當國之辭言之,此其以當國之辭言之何?為諼也。此其為諼奈何?景公謂陳乞曰:「吾欲立舍,何如?」陳乞曰:「所樂乎為君者,欲立之則立之,不欲立則不立。君如欲立之,則臣請立之。」陽生謂陳乞曰:「吾聞子蓋將不欲立我也。」陳乞曰:「夫千乘之主,將廢正而立不正,必殺正者。吾不立子者,所以生子者也。走矣!」與之玉節而走之。景公死而舍立。陳乞使人迎陽生於諸其家。除景公之喪,諸大夫皆在朝,陳乞曰:「常之母有魚菽之祭,願諸大夫之化我也。」諸大夫皆曰:「諾。」於是皆之陳乞之家坐。陳乞曰:「吾有所為甲,請以示焉。」諸大夫皆曰:「諾。」於是使力士舉巨囊而至於中溜,諸大夫見之,皆色然而駭,開之則闖然公子陽生也。陳乞曰:「此君也已!」諸大夫不得已皆逡巡北面,再拜稽首而君之爾,自是往弒舍。

(伝)君を殺して自ら立った者には、当国執政の措辞を用いないのに、ここでは当国執政の措辞を用いて言うのはなぜか。欺罔があったからである。どのように欺罔したのか。景公は陳乞に言った、「私は舎を立てたいが、どうか」と。陳乞は言った、「君のお楽しみになることを為し、立てたければ立て、立てたくなければ立てないのです。君がもし彼を立てたいのであれば、臣は彼を立てることを請います」と。陽生は陳乞に言った、「あなたはおよそ私を立てたくないと聞きました」と。陳乞は言った、「千乗の主が、嫡を廃して庶を立てようとするときは、必ず嫡子を殺します。私があなたを立てないのは、まさにあなたを全うするためです。急いで行きなさい」と。玉節を与えて逃がした。景公が死に、舎が立った。陳乞は人を遣わして陽生を自分の家に迎えた。景公の喪が除かれ、大夫たちがみな朝に在ったとき、陳乞は言った、「常の母が魚菽の祭祀をしますので、各位の大夫にわが家においでいただきたい」と。大夫たちはみな言った、「よろしい」と。そこでみな陳乞の家に行って座った。陳乞は言った、「私に成り上がった甲があります。各位に見せたい」と。大夫たちはみな言った、「よろしい」と。そこで力士に大きな嚢を担がせて中霤に置かせ、大夫たちが見ると、みな顔色を変えて驚き駭き、開いて見ると、赫然として公子陽生であった。陳乞は言った、「これが君です」と。大夫たちはやむを得ずみな逡巡して北を向き、再拝稽首して彼を君と奉り、これより舎を殺しに行った。

(經六九)冬,仲孫何忌帥師伐邾婁。

(経六九)冬、仲孫何忌が軍を率いて邾婁を攻めた。

(經六十)宋向巢帥師伐曹。

(経六十)宋の向巢が軍を率いて曹を攻めた。

哀公(經七一)七年

哀公(経七一)七年

春,宋皇瑗帥師侵鄭。

春、宋の皇瑗が軍を率いて鄭を攻めた。

(經七二)晉魏曼多帥師侵衛。

(経七二)晋の魏曼多が軍を率いて衛を攻めた。

(經七三)夏,公會吳於鄫。

(経七三)夏、哀公は鄫で呉と会した。

(經七四)秋,公伐邾婁。

(経七四)秋、哀公は邾婁を攻めた。

(經七五)八月己酉,入邾婁,以邾婁子益來。

(経七五)八月己酉、邾婁に入り、邾婁子益を連れ帰った。

(傳)入不言伐,此其言伐何?內辭也,若使他人然。邾婁子益何以名?絕。曷為絕之?獲也。曷為不言其獲?內大惡,諱也。

(伝)入るには攻めたと書かないのに、ここでなぜ攻めたと書くのか。国内の措辞で、他人にやらせたかのようにするのである。邾婁子益をなぜ名で称するのか。断絶したからである。なぜ断絶したのか。俘虜にされたからである。なぜ俘虜にされたと書かないのか。国内の大悪は隠諱するからである。

(經七六)宋人圍曹。

(経七六)宋の人が曹を包囲した。

(經七七)冬,鄭駟弘帥師救曹。

(経七七)冬、鄭の駟弘が軍を率いて曹を救った。

哀公(經八一)八年

哀公(経八一)八年

春,王正月,宋公入曹,以曹伯陽歸。

春、周暦正月、宋公は曹に入り、曹伯陽を連れ帰った。

(傳)曹伯陽何以名?絕之。曷為絕之?滅也。曷為不言其滅?諱同姓之滅也。何諱乎同姓之滅?力能救之而不救也。

(伝)曹伯陽をなぜ名で称するのか。彼を断絶したからである。なぜ断絶したのか。滅亡したからである。なぜ滅亡と書かないのか。同姓が滅ぼされるのを隠諱するからである。なぜ同姓が滅ぼされるのを隠諱するのか。救う力がありながら救わなかったからである。

(經八二)吳伐我。

(経八二)呉が我が魯を攻めた。

(經八三)夏,齊人取讙及僤。

(経八三)夏、斉の人が讙と𫢸を取った。

(傳)外取邑不書,此何以書?所以賂齊也。曷為賂齊?為以邾婁子益來也。

(伝)外が城邑を取るのは例によって記さないのに、ここでなぜ記すのか。斉への賄賂に用いたからである。なぜ斉に賄賂したのか。邾婁子益を連れ帰ったからである。

(經八四)歸邾婁子益於邾婁。

(経八四)邾婁子益を邾婁に送り返した。

(經八五)秋,七月。

(経八五)秋、七月である。

(經八六)冬,十有二月癸亥,杞伯過卒。

(経八六)冬、十二月癸亥、杞伯過が卒した。

(經八七)齊人歸讙及僤。

(経八七)斉の人が讙と𫢸を返した。

哀公(經九一)九年

哀公(経九一)九年

春,王二月,葬杞僖公。

春、周暦二月、杞僖公を葬った。

(經九二)宋皇瑗帥師取鄭師於雍丘。

(経九二)宋の皇瑗が軍を率いて雍丘で鄭の軍を取った。

(傳)其言取之何?易也。其易奈何?詐之也。

(伝)なぜ「取」と書くのか。容易だったからである。どのように容易だったのか。欺罔を用いたからである。

(經九三)夏,楚人伐陳。

(経九三)夏、楚の人が陳を攻めた。

(經九四)秋,宋公伐鄭。

(経九四)秋、宋公が鄭を攻めた。

(經九五)冬,十月。

(経九五)冬、十月である。

哀公(經十一)十年

哀公(経十一)十年

春,王二月,邾婁子益來奔。

春、周暦二月、邾婁子益が来て奔した。

(經十二)公會吳伐齊。

(経十二)哀公は呉と会して斉を攻めた。

(經十三)三月戊戌,齊侯陽生卒。

(経十三)三月戊戌、斉侯陽生が卒した。

(經十四)夏,宋人伐鄭。

(経十四)夏、宋の人が鄭を攻めた。

(經十五)晉趙鞅帥師侵齊。

(経十五)晋の趙鞅が軍を率いて斉を攻めた。

(經十六)五月,公至自伐齊。

(経十六)五月、哀公は斉攻めから帰った。

(經十七)葬齊悼公。

(経十七)斉悼公を葬った。

(經十八)衛公孟彄自齊歸於衛。

(経十八)衛の公孟彄が斉から衛に帰った。

(經十九)薛伯寅卒。

(経十九)薛伯寅が卒した。

(經十十)秋,葬薛惠公。

(経十十)秋、薛恵公を葬った。

(經十十一)冬,楚公子結帥師伐陳。

(経十十一)冬、楚の公子結が軍を率いて陳を攻めた。

(經十十二)吳救陳。

(経十十二)呉が陳を救った。

哀公(經十一一)十有一年

哀公(経十一一)十有一年

春,齊國書帥師伐我。

春、斉の国書が軍を率いて我が魯を攻めた。

(經十一二)夏,陳袁頗出奔鄭。

(経十一二)夏、陳の袁頗が鄭に奔った。

(經十一三)五月,公會吳伐齊;甲戌,齊國書帥師及吳戰於艾陵,齊師敗績,獲齊國書。

(経十一三)五月、哀公は呉と会して斉を攻めた。甲戌、斉の国書が率いる軍と呉が艾陵で戦い、斉の軍は大敗し、斉の国書を捕らえた。

(經十一四)秋,七月辛酉,滕子虞母卒。

(経十一四)秋、七月辛酉、滕子虞母が卒した。

(經十一五)冬,十有一月,葬滕隱公。

(経十一五)冬、十一月、滕隠公を葬った。

(經十一六)衛世叔齊出奔宋。

(経十一六)衛の世叔斉が宋に奔った。

哀公(經十二一)十有二年

哀公(経十二一)十有二年

春,用田賦。

春、田に賦を用いた。

(傳)何以書?譏。何譏爾?譏始用田賦也。

(伝)なぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺するのか。初めて田に賦を用いたことを譏刺するのである。

(經十二二)夏,五月甲辰,孟子卒。

(経十二二)夏、五月甲辰、孟子が卒した。

(傳)孟子者何?昭公之夫人也。其稱孟子何?諱娶同姓,蓋吳女也。

(伝)孟子とは何者か。昭公の夫人である。なぜ孟子と称するのか。同姓を娶ったことを隠諱するので、おそらく呉の女子である。

(經十二三)公會吳於橐皋。

(経十二三)哀公は橐皐で呉と会した。

(經十二四)秋,公會衛侯、宋皇瑗於運。

(経十二四)秋、哀公は衛侯・宋の皇瑗と運で会した。

(經十二五)宋向巢帥師伐鄭。

(経十二五)宋の向巢が軍を率いて鄭を攻めた。

(經十二六)冬,十有二月,螽。

(経十二六)冬、十二月、虻がいた。

(傳)何以書?記異也。何異爾?不時也。

(伝)なぜ記したのか。異常を記したのである。異常とはどこにあるのか。時候に合わないことである。

哀公(經十三一)十有三年

哀公(経十三一)十有三年

春,鄭軒達帥師取宋於嵒。

春、鄭の軒達が軍を率いて嵒で宋の軍を取った。

(傳)其言取之何?易也。其易奈何?詐反也。

(伝)なぜ「取」と書くのか。容易だったからである。どのように容易だったのか。逆に欺罔を用いたからである。

(經十三二)夏,許男戌卒。

(経十三二)夏、許男戌が卒した。

(經十三三)公會晉侯及吳子於黃池。

(経十三三)哀公は晋侯及び呉子と会し、黄池で会した。

(傳)吳何以稱子?吳主會也。吳主會則曷為先言晉侯?不與夷狄之主中國也。其言及吳子何?會兩伯之辭也。不與夷狄之主中國,則曷為以會兩伯之辭言之?重吳也。曷為重吳?吳在是則天下諸侯莫敢不至也。

(伝)呉をなぜ「子」と称するのか。呉が会盟を主催したからである。呉が会盟を主催したのに、なぜ晋侯を先に書くのか。夷狄が中原の主となることを認めないからである。なぜ「及び呉子」と書くのか。二つの覇者に会する措辞である。夷狄が中原の主となることを認めないのに、なぜ二つの覇者に会する措辞で言うのか。呉を重んじたからである。なぜ呉を重んじたのか。呉がここにあって、天下の諸侯で敢えて来ない者はいなかったからである。

(經十三四)楚公子申帥師伐陳。

(経十三四)楚の公子申が軍を率いて陳を攻めた。

(經十三五)于越入吳。

(経十三五)於越が呉に入った。

(經十三六)秋,公至自會。

(経十三六)秋、哀公は会盟から帰った。

(經十三七)晉魏多帥師侵衛。

(経十三七)晋の魏多が軍を率いて衛を攻めた。

(傳)此晉魏曼多也,曷為謂之晉魏多?譏二名,二名非禮也。

(伝)これは晋の魏曼多であるのに、なぜ晋魏多と呼ぶのか。二文字の名を譏刺するので、二文字の名は礼ではない。

(經十三八)葬許元公。

(経十三八)許元公を葬った。

(經十三九)九月,螽。

(経十三九)九月、虻がいた。

(經十三十)冬,十有一月,有星孛於東方。

(経十三十)冬、十一月、東方に孛星があった。

(傳)孛者何?彗星也。其言於東方何?見於旦也。何以書?記異也。

(伝)孛とは何か。彗星である。なぜ「東方に」と書くのか。明け方に見えたからである。なぜ記したのか。異常を記したのである。

(經十三十一)盜殺陳夏彄夫。

(経十三十一)盗賊が陳の夏区夫を殺した。

(經十三十二)十有二月,螽。

(経十三十二)十二月、虻がいた。

哀公(經十四一)十有四年

哀公(経十四一)十有四年

春,西狩獲麟。

春、西郊で狩りをして麟を獲た。

(傳)何以書?記異也。何異爾?非中國之獸也。然則孰狩之?薪採者也。薪採者則微者也,曷為以狩言之?大之也。曷為大之?為獲麟大之也。曷為獲麟大之?麟者仁獸也。有王者則至,無王者則不至。有以告者曰:「有麇而角者。」孔子曰:「孰為來哉!孰為來哉!」反袂拭面,涕沾袍。顏淵死,子曰:「噫!天喪予。」子路死,子曰:「噫!天祝予。」西狩獲麟,孔子曰:「吾道窮矣!」《春秋》何以始乎隱?祖之所逮聞也。所見異辭,所聞異辭,所傳聞異辭。何以終乎哀十四年?曰:備矣!君子曷為為《春秋》?撥亂世,反諸正,莫近諸《春秋》。則未知其為是與?其諸君子樂道堯舜之道與?末不亦樂乎堯舜之知君子也?制《春秋》之義以俟後聖,以君子之為,亦有樂乎此也。

(伝)なぜ記したのか。異常を記したのである。異常とはどこにあるのか。中原の野獣ではないのである。では誰が猟獲したのか。柴を刈る者である。柴を刈る者は微賤な者なのに、なぜ「狩」で言うのか。この事を誇大にしたのである。なぜ誇大にしたのか。麟を獲たことをもって誇大にしたのである。なぜ麟を獲たことをもって誇大にしたのか。麟は仁獣である。王者あってこそ来るのであり、王者がなければ来ない。人が来て告げて言った、「一角を持つ麞がいます」と。孔子は言った、「誰のために来たのか。誰のために来たのか」と。袂を返して顔を拭い、涙が袍を沾わせた。顔淵が死んだとき、孔子は言った、「噫。天は我を喪わんとする」と。子路が死んだとき、孔子は言った、「噫。天は我を断たんとする」と。西郊で狩りをして麟を獲たとき、孔子は言った、「我が道は窮まった」。《春秋》はなぜ隠公から始めるのか。祖が聞き及ぶことができたところだからである。見たことの措辞は異なり、聞いたことの措辞は異なり、伝え聞いたことの措辞は異なる。なぜ哀公十四年に終わるのか。答えて曰く、備わったのである。君子はなぜ《春秋》を作ったのか。乱れた世を撥ね返して正道に返すに、《春秋》より近いものはない。それはこのためであったのか、それとも君子は堯舜の道を楽しく称えたかったのか。末はまた堯舜に君子を知らせることを楽しんだのではないか。《春秋》の義を制して後世の聖人を待つ、君子の為すところに凭れば、これにもまた楽しむところがあるのである。

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