Libo

春秋左传

春秋 · 左丘明(旧题)

【伝】恵公の元妃は孟子であった。孟子が亡くなると、声子を継室として、隠公が生まれた。宋武公には仲子が生まれた。仲子は生まれたとき手に字のよう…

儒家典籍

初学は四書から入るのがよい。大学が綱を立て、論語が言を記し、孟子が展開し、中庸が収束する。続いて詩経・尚書・礼記と春秋三伝へ。荀子・春秋繁露・近思録・伝習録は、経学の外で儒学がどう語られてきたかを見る几道である。

隠公(元年~十一年)

【傳】惠公元妃孟子。孟子卒,繼室以聲子,生隱公。宋武公生仲子。仲子生而有文在其手,曰為魯夫人,故仲子歸於我。生桓公而惠公薨,是以隱公立而奉之。

【伝】恵公の元妃は孟子であった。孟子が亡くなると、声子を継室として、隠公が生まれた。宋武公には仲子が生まれた。仲子は生まれたとき手に字のような文があって、「魯の夫人」とあったので、仲子は我が国に嫁いだ。桓公を生んだ後に恵公が亡くなったため、隠公が摂政となり桓公を奉った。

◇隱公元年

◇隠公元年

【經】元年春王正月。三月,公及邾儀父盟於蔑。夏五月,鄭伯克段於鄢。

【経】元年春、周天子の暦の正月。三月、隠公は邾の儀父と蔑で盟約を結んだ。夏五月、鄭伯が鄢で段を破った。

秋七月,天王使宰咺來歸惠公、仲子之賵。九月,及宋人盟於宿。冬十有二月,祭伯來。公子益師卒。

秋七月、周天子は宰咺を遣わし、恵公と仲子への助喪の車馬・衣類を贈った。九月、宋の人と宿で盟約を結んだ。冬十二月、祭伯が来た。公子益師が亡くなった。

【傳】元年春,王周正月。不書即位,攝也。

【伝】元年春、用いたのは周王室の正月である。『春秋』が隠公の即位を記さないのは、彼が摂政に過ぎないからである。

三月,公及邾儀父盟於蔑,邾子克也。未王命,故不書爵。曰“儀父”,貴之也。公攝位而欲求好於邾,故為蔑之盟。

三月、隠公は邾の儀父と蔑で盟約を結んだ——儀父とは邾子克のことである。まだ周天子の爵命を受けていなかったので、『春秋』は爵位を記さない。「儀父」と称したのは、彼を尊重したからである。隠公は摂政として邾国と結ぼうとし、蔑での盟約を行った。

夏四月,費伯帥師城郎。不書,非公命也。

夏四月、費伯が軍隊を率いて郎に城を築いた。『春秋』に記さないのは、隠公の命令ではなかったからである。

初,鄭武公娶於申,曰武姜,生莊公及共叔段。莊公寤生,驚姜氏,故名曰“寤生”,遂惡之。愛共叔段,欲立之。亟請於武公,公弗許。及莊公即位,為之請制。公曰:“制,巖邑也,虢叔死焉。佗邑唯命。”請京,使居之,謂之京城大叔。祭仲曰:“都,城過百雉,國之害也。先王之制:大都,不過參國之一;中,五之一;小,九之一。今京不度,非制也,君將不堪。”公曰:“姜氏欲之,焉闢害?”對曰:“姜氏何厭之有?不如早為之所,無使滋蔓!蔓,難圖也。蔓草猶不可除,況君之寵弟乎?”公曰:“多行不義,必自斃,子姑待之。”

むかし、鄭武公は申国から妻を娶り、武姜といい、荘公と共叔段を生んだ。荘公は難産で生まれ、姜氏を驚かせたので「寤生」と名づけられ、それ以来嫌われた。姜氏は共叔段を寵愛し、太子に立てようとしてしばしば武公に願ったが、武公は許さなかった。荘公が即位すると、姜氏は共叔段のために制という地を請うた。荘公は「制は険要な城邑で、虢叔がそこで死んだ。他の城邑なら仰せの通りにする」と言った。姜氏が京を請うと、荘公は共叔段をそこに住まわせ、人は京城太叔と呼んだ。祭仲が言うには「都城の城壁が百雉(城壁の長さの単位)を超えるのは国の害です。先王の制度では、大きな都は国都の三分の一を超えず、中は五分の一、小は九分の一を超えません。いま京は法度に合わず制度を越えており、君は堪えられなくなります」と。荘公は「姜氏がそう望むのだから、害をどう避けられよう」と言った。祭仲は「姜氏に満足の時がありましょうか。早く彼の居場所を定め、蔓延させないようにすべきです。蔓延すれば対処が難しくなります。蔓草でさえ除ききれないのに、まして君の寵愛される弟です」と答えた。荘公は「不義を多く行えば、必ず自ら倒れる。しばらく待っていなさい」と言った。

既而大叔命西鄙、北鄙貳於己。公子呂曰:“國不堪貳,君將若之何?欲與大叔,臣請事之;若弗與,則請除之,無生民心。”公曰:“無庸,將自及。”

まもなく太叔は西鄙・北鄙を二属とし、荘公と自分の双方に従わせた。公子呂が言うには「国は二属に堪えません。君はどうするおつもりですか。もし君位を太叔に与えるなら、臣が彼に仕えることをお許しください。与えないなら、彼を除き、民に二心を抱かせないでください」と。荘公は「その必要はない、彼は自ら禍に行き着くだろう」と言った。

大叔又收貳以為己邑,至於廩延。子封曰:“可矣,厚將得眾。”公曰:“不義不暱,厚將崩。”

太叔はまた二属の辺境の邑を自らの邑とし、廩延まで広げた。子封が「動くべき時です。地盤が厚くなれば民を得ます」と言うと、荘公は「君に不義、兄に不親では、地盤が厚くても崩れる」と言った。

大叔完聚,繕甲兵,具卒乘,將襲鄭,夫人將啟之。公聞其期,曰:“可矣!”命子封帥車二百乘以伐京。京叛大叔段,段入於鄢,公伐諸鄢。五月辛丑,大叔出奔共。

太叔は城郭を修め民を集め、甲冑と兵器を整え、歩兵と戦車を備えて鄭の都を襲おうとし、姜氏が彼のために城門を開くことになっていた。荘公は約束の日を聞き「よし!」と言い、子封に戦車二百乗を率いさせて京を討たせた。京の人は太叔段に背き、段は鄢に逃れ、荘公はまた鄢まで彼を討った。五月辛丑、太叔は共に逃亡した。

書曰:“鄭伯克段於鄢。”段不弟,故不言弟;如二君,故曰克;稱鄭伯,譏失教也:謂之鄭志。不言出奔,難之也。

『春秋』は「鄭伯克段于鄢」と書く。段が弟らしくなかったので弟と呼ばず、双方が二つの国君のように敵対したので「克」を用い、「鄭伯」と称したのは荘公が弟への教えを失したことを譏るためである——これは鄭伯の本意から出たことを示す。『春秋』が段の出奔を書かないのは、書きづらかったからである。

遂寘姜氏於城潁,而誓之曰:“不及黃泉,無相見也。”既而悔之。

そこで姜氏を城潁に置き、誓って「黄泉に至らなければ、二度と会わない」と言った。まもなく後悔した。

潁考叔為潁谷封人,聞之,有獻於公,公賜之食,食舍肉。公問之,對曰:“小人有母,皆嘗小人之食矣,未嘗君之羹,請以遺之。”公曰:“爾有母遺,繄我獨無!”潁考叔曰:“敢問何謂也?”公語之故,且告之悔。對曰:“君何患焉?若闕地及泉,隧而相見,其誰曰不然?”公從之。公入而賦:“大隧之中,其樂也融融!”姜出而賦:“大隧之外,其樂也洩洩!”遂為母子如初。

潁考叔は潁谷の封人で、このことを聞き、荘公に献る物があった。荘公が食事を賜ると、彼は肉を取り分けて置いた。荘公が問うと「小人には母がおり、小人の食物はすべて母が嘗めましたが、まだ君の肉羹を嘗めたことがありません。持ち帰って母に献じさせてください」と答えた。荘公は「お前には孝を尽くす母がいる。ただ私にはない!」と言った。潁考叔が「敢えてお尋ねしますが、どういう意味ですか」と言うと、荘公は事情を告げ、後悔していると言った。潁考叔は「君が何を憂えることがありましょうか。地を穿って泉に会い、隧道を掘ってそこで会えば、誰が黄泉での再会でないと言えましょうか」と答えた。荘公はこれに従った。荘公は隧道に入って詩を賦し「大隧の中、其の楽しみ融融たり!」と。姜氏は隧道を出て詩を賦し「大隧の外、其の楽しみ泄泄たり!」と。こうして母子は当初のようになった。

君子曰:“潁考叔,純孝也,愛其母,施及莊公。《詩》曰‘孝子不匱,永錫爾類。’其是之謂乎!”秋七月,天王使宰咺來歸惠公、仲子之賵。緩,且子氏未薨,故名。天子七月而葬,同軌畢至;諸侯五月,同盟至;大夫三月,同位至;士逾月,外姻至。

君子曰く「潁考叔は純孝の人で、己の母を愛し、荘公にまで及んだ。『詩』に『孝子の孝は窮まることなく、永くその類に福を賜う』とあるのは、このことであろう」と。秋七月、周天子は宰咺を遣わし、恵公と仲子への助喪の車馬・衣類を贈った。来るのが遅く、しかも仲子はまだ亡くなっていなかったので、『春秋』は宰咺の名を記した。天子は死後七か月で葬り、同じ車軌制度の諸侯は皆赴き、諸侯は五か月で同盟者が赴き、大夫は三か月で官位の同じ者が赴き、士は一か月を過ぎて外姻が赴く。

贈死不及屍,吊生不及哀,豫凶事,非禮也。

死者への贈り物が入殮に間に合わず、生者への弔問が哀期に間に合わず、あらかじめ喪事を取り仕切るのは礼に合わない。

八月,紀人伐夷。夷不告,故不書。

八月、紀人が夷を討った。夷が報告に来なかったので、『春秋』は記さない。

有蜚。不為災,亦不書。

蜚虫が現れた。災害をもたらさなかったので、『春秋』も記さない。

惠公之季年,敗宋師於黃。公立而求成焉。九月,及宋人盟於宿,始通也。

恵公の晚年、黄で宋軍を破った。隠公が即位すると宋と媾和を謀った。九月、宋の人と宿で盟約を結び、これより往来を始めた。

冬十月庚申,改葬惠公。公弗臨,故不書。惠公之薨也,有宋師,太子少,葬故有闕,是以改葬。衛侯來會葬,不見公,亦不書。鄭共叔之亂,公孫滑出奔衛。衛人為之伐鄭,取廩延。鄭人以王師、虢師伐衛南鄙。請師於邾。邾子使私於公子豫,豫請往,公弗許,遂行。及邾人、鄭人盟於翼。不書,非公命也。

冬十月庚申、恵公を改葬した。隠公は臨まなかったので、『春秋』は記さない。恵公が亡くなったとき、ちょうど宋との戦があり、太子は幼く、葬儀に欠けたところがあったので改葬した。衛侯が葬に会しに来たが、隠公に会えず、『春秋』も記さない。鄭国の共叔段が乱を起こしたとき、公孫滑は衛国に奔った。衛人は彼のために鄭国を討ち、廩延をを取った。鄭人は王室の軍隊と虢国の軍隊で衛国の南鄙を討った。邾国に兵を請うた。邾子はひそかに公子豫に告げ、公子豫は行くことを請うたが、隠公は許さず、彼はついに自ら行った。邾人・鄭人と翼で盟約を結んだ。『春秋』に記さないのは、隠公の命令ではなかったからである。

新作南門。不書,亦非公命也。

新たに南門を作った。『春秋』に記さないのも、隠公の命令ではなかったからである。

十二月,祭伯來,非王命也。

十二月、祭伯が来たのは、周天子の命令ではなかった。

眾父卒。公不與小斂,故不書日。

衆父が亡くなった。隠公は小斂に臨まなかったので、『春秋』は日付を書かない。

◇隱公二年

◇隠公二年

【經】二年春,公會戎於潛。夏五月,莒人入向。無駭帥師入極。秋八月庚辰,公及戎盟於唐。九月,紀裂繻來逆女。冬十月,伯姬歸於紀。紀子帛、莒子盟於密。十有二月乙卯,夫人子氏薨。鄭人伐衛。

【経】二年春、隠公は潜で戎と会見した。夏五月、莒人が向に入った。無駭が軍隊を率いて極に入った。秋八月庚辰、隠公は戎と唐で盟約を結んだ。九月、紀裂𦈡が来て娶った。冬十月、伯姫が紀国に嫁いだ。紀子帛・莒子が密で盟約を結んだ。十二月乙卯、夫人子氏が亡くなった。鄭人が衛国を討った。

【傳】二年春,公會戎於潛,修惠公之好也。戎請盟,公辭。

【伝】二年春、隠公が潜で戎と会見したのは、恵公の時の友好を修め直すためであった。戎は盟約を請うたが、隠公は辞した。

莒子娶於向,向姜不安莒而歸。夏,莒人入向,以姜氏還。

莒子は向国から妻を娶ったが、向姜は莒で暮らせず実家に帰った。夏、莒人は向に入り、姜氏を連れて帰った。

司空無駭入極,費庈父勝之。

司空無駭が極に入り、費庈父が極を打ち取った。

戎請盟。秋,盟於唐,復修戎好也。

戎が盟約を請うた。秋、唐で盟約を結んだのは、再び戎との友好を修めるためであった。

九月,紀裂繻來逆女,卿為君逆也。

九月、紀裂𦈡が来て娶ったのは、卿が国君のために来て娶ったのである。

冬,紀子帛、莒子盟於密,魯故也。

冬、紀子帛・莒子が密で盟約を結んだのは、魯国のためであった。

鄭人伐衛,討公孫滑之亂也。

鄭人が衛国を討ったのは、公孫滑の乱を討つためであった。

◇隱公三年

◇隠公三年

【經】三年春王二月,己巳,日有食之。三月庚戌,天王崩。夏四月辛卯,君氏卒。秋,武氏子來求賻。八月庚辰,宋公和卒。冬十有二月,齊侯,鄭伯盟於石門。癸未,葬宋穆公。

【経】三年春、周天子の暦の二月己巳、日食があった。三月庚戌、周天子が亡くなった。夏四月辛卯、君氏が亡くなった。秋、武氏子が来て助喪の財物を求めた。八月庚辰、宋公和が亡くなった。冬十二月、斉侯・鄭伯が石門で盟約を結んだ。癸未、宋穆公を葬った。

【傳】三年春,王三月壬戌,平王崩。赴以庚戌,故書之。

【伝】三年春、周暦三月壬戌、平王が亡くなった。訃告は庚戌と告げたので、『春秋』は訃告に従って書いた。

夏,君氏卒。聲子也。不赴於諸侯,不反哭於寢,不祔於姑,故不曰薨。不稱夫人,故不言葬,不書姓。為公故,曰“君氏”。

夏、君氏が亡くなった。これは声子である。諸侯に訃告せず、祖廟に帰って哭吊せず、神主を姑に附祭しなかったので「薨」と称さない。夫人と称さないので、安葬を記さず姓も書かない。隠公の生母だったので「君氏」と称した。

鄭武公、莊公為平王卿士。王貳於虢,鄭伯怨王,王曰“無之”。故周、鄭交質。王子狐為質於鄭,鄭公子忽為質於周。王崩,周人將畀虢公政。四月,鄭祭足帥師取溫之麥。秋,又取成周之禾。周、鄭交惡。

鄭武公・荘公は相次いで平王の卿士となった。天子はまた政事を虢公に分けたので、鄭伯は天子を怨み、天子は「そんなことはない」と言った。そこで周・鄭は人質を交換した。王子狐が鄭で人質となり、鄭公子忽が周で人質となった。天子が亡くなると、周人は政権を虢公に渡そうとした。四月、鄭国の祭足は軍隊を率いて温地の麦を刈り取った。秋、また成周の禾を刈り取った。周・鄭は交悪した。

君子曰:“信不由中,質無益也。明恕而行,要之以禮,雖無有質,誰能間之?苟有明信,澗溪沼沚之毛,蘋蘩薀藻之菜,筐筥錡釜之器,潢汙行潦之水,可薦於鬼神,可羞於王公,而況君子結二國之信,行之以禮,又焉用質?《風》有《採繁》、《採蘋》,《雅》有《行葦》、《泂酌》,昭忠信也。”

君子曰く「誠信が心から発しないなら、人質も役に立たない。明察と恕道を本として行い、礼をもってこれを束ねれば、人質がなくても、誰が彼らを離間できようか。もし明信があれば、澗溪沼沚の野草、蘋・蘩・蕰藻の類の菜、筐筥錡釜の類の器、溜り水や路上の流水でも、鬼神に献じ王公に奉ることができる。まして君子が両国の誠信を結び、礼に従って行うのに、どうして人質が要ろうか。『国風』に『采蘩』(底本は「采繁」)『采苹』、『雅』に『行葦』『泂酌』があるのは、いずれも忠信を表彰するものである」と。

武氏子來求賻,王未葬也。

武氏子が来て助喪の財物を求めたのは、天子がまだ葬られていなかったからである。

宋穆公疾,召大司馬孔父而屬殤公焉,曰:“先君舍與夷而立寡人,寡人弗敢忘。若以大夫之靈,得保首領以沒,先君若問與夷,其將何辭以對?請子奉之,以主社稷,寡人雖死,亦無悔焉。”對曰:“群臣願奉馮也。”公曰:“不可。

宋穆公は病重くなり、大司馬孔父を召して、殤公を託して言った「先君は与夷を捨てて私を立てた。私は忘れない。もし大夫の福にあずかり、頭を全うして死ぬことができたとき、先君が与夷について問うたら、私は何と答えようか。あなたが彼を奉じて社稷を主らせてくれれば、私は死んでも悔いがない」と。孔父は「群臣は公子馮を奉じたいと願っています」と答えた。穆公は「いけない」と言った。

先君以寡人為賢,使主社稷,若棄德不讓,是廢先君之舉也,豈曰能賢?光昭先君之令德,可不務乎?吾子其無廢先君之功。”使公子馮出居於鄭。八月庚辰,宋穆公卒。殤公即位。

(宋穆公は続けて言った)先君は私を賢能として社稷を主らせた。もし徳を捨てて位を譲らなければ、先君の挙拔を廃することになり、どうして賢能と言えようか。先君の美徳を発揚し光大することに努めなくてよいものか。あなたは先君の功業を廃してはならない」と。そこで公子馮を鄭国に出て住まわせた。八月庚辰、宋穆公が亡くなった。殤公が即位した。

君子曰:“宋宣公可謂知人矣。立穆公,其子饗之,命以義夫。《商頌》曰:‘殷受命咸宜,百祿是荷。’其是之謂乎!”冬,齊、鄭盟於石門,尋盧之盟也。庚戌,鄭伯之車僨於濟。

君子曰く「宋宣公は人を知る者といえよう。穆公を立てたが、その子が君位を享けたのは、義をもって任命したからである。『商頌』に『殷の命受くること咸宜しく、百禄是れ荷う』とあるのは、このことであろう」と。冬、斉・鄭が石門で盟約を結んだのは、盧地の盟約を温め直すためであった。庚戌、鄭伯の車が済水で転覆した。

衛莊公娶於齊東宮得臣之妹,曰莊姜,美而無子,衛人所為賦《碩人》也。

衛荘公は斉国の東宮得臣の妹を娶り、荘姜といい、美しかったが子がなく、衛人はこれによって『碩人』という詩を作った。

又娶於陳,曰厲媯,生孝伯,早死。其娣戴媯生桓公,莊姜以為己子。公子州籲,嬖人之子也,有寵而好兵,公弗禁,莊姜惡之。石碏諫曰:“臣聞愛子,教之以義方,弗納於邪。驕、奢、淫、泆,所自邪也。四者之來,寵祿過也。將立州籲,乃定之矣,若猶未也,階之為禍。夫寵而不驕,驕而能降,降而不憾,憾而能眕者鮮矣。且夫賤妨貴,少陵長,遠間親,新間舊,小加大,淫破義,所謂六逆也。君義,臣行,父慈,子孝,兄愛,弟敬,所謂六順也。去順效逆,所以速禍也。君人者將禍是務去,而速之,無乃不可乎?”弗聽,其子厚與州籲遊,禁之,不可。桓公立,乃老。

また陳国から妻を娶り、厲嬀といい、孝伯を生んだが早く死んだ。その妹の戴嬀は桓公を生み、荘姜は彼を己の子とした。公子州吁は寵妾の子で、寵を受け兵を好んだが、荘公は禁じず、荘姜は彼を嫌った。石碏が諫めて言うには「臣は聞きました、子を愛するには正道で教え、邪道に走らせてはならないと。驕・奢・淫・泆は邪道に入るもとです。この四つが来るのは、寵禄が度を超えたためです。もし州吁を立てるなら定めてください。まだ定まっていないなら、彼に禍階を作っているのです。寵を受けて驕らず、驕いて降等に安んじ、降等して怨まず、怨んで抑えられる者は稀です。しかも卑賤が尊貴を妨げ、年少が年長に陵ぎ、疏遠が親近を離間し、新人が旧人を離間し、弱小が強大を凌ぎ、淫乱が道義を破る——これを六逆といいます。君が義を行い臣が行を執り、父が慈で子が孝、兄が愛で弟が敬——これを六順といいます。順を捨てて逆に倣うのは、禍患を速めることです。人君は禍患を去ることに務めるべきなのに、それを速めるのは、恐らく不可でしょう」と。荘公は聞かなかった。石碏の子の石厚は州吁と交遊し、石碏は禁じたが禁じきれなかった。桓公が即位すると、石碏は告老した。

◇隱公四年

◇隠公四年

【經】四年春王二月,莒人伐杞,取牟婁。戊申,衛州籲弒其君完。夏,公及宋公遇於清。宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭。秋,翬帥師會宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭。九月,衛人殺州籲於濮。冬十有二月,衛人立晉。

【経】四年春、周天子の暦の二月、莒人が杞を討ち、牟婁を取った。戊申、衛の州吁がその君完を弑した。夏、隠公と宋公は清で不意に会った。宋公・陳侯・蔡人・衛人が鄭国を討った。秋、翬が軍隊を率い宋公・陳侯・蔡人・衛人と会して鄭国を討った。九月、衛人は濮で州吁を殺した。冬十二月、衛人は晋を立てて君とした。

【傳】四年春,衛州籲弒桓公而立。公與宋公為會,將尋宿之盟。未及期,衛人來告亂。夏,公及宋公遇於清。

【伝】四年春、衛の州吁は桓公を弑して自立した。隠公と宋公は会見を約し、宿地の盟約を温め直そうとしていた。約束の日に至らないうちに、衛人が来て動乱が起きたと報告した。夏、隠公と宋公は清で不意に会った。

宋殤公之即位也,公子馮出奔鄭,鄭人慾納之。及衛州籲立,將修先君之怨於鄭,而求寵於諸侯以和其民,使告於宋曰:“君若伐鄭以除君害,君為主,敝邑以賦與陳、蔡從,則衛國之願也。”宋人許之。於是,陳、蔡方睦於衛,故宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭,圍其東門,五日而還。

宋殤公が即位したとき、公子馮は鄭国に奔り、鄭人は彼を送り帰して君にしようとした。衛州吁が立つと、先君と鄭との怨恨に報いようとし、諸侯に寵信を求めて自国の民を安んじようとし、宋国に人を遣わして言った「君が鄭国を討って君の害を除くなら、君が主となり、弊邑は軍賦を出して陳・蔡に従う——それが衛国の願いです」と。宋人は許した。当時陳・蔡は衛と和していたので、宋公・陳侯・蔡人・衛人は鄭国を討ち、東門を包囲し、五日して帰った。

公問於眾仲曰:“衛州籲其成乎?”對曰:“臣聞以德和民,不聞以亂。以亂,猶治絲而棼之也。夫州籲,阻兵而安忍。阻兵無眾,安忍無親,眾叛親離,難以濟矣。夫兵猶火也,弗戢,將自焚也。夫州籲弒其君而虐用其民,於是乎不務令德,而欲以亂成,必不免矣。”

隠公が衆仲に問うた「衛の州吁は成せるか」。衆仲は答えた「臣は聞きます、徳をもって百姓を安んずることは聞きますが、乱をもってするのは聞きません。乱を用いるのは、糸を理しようとしてかえって乱すようなものです。州吁という人は、兵力に恃み残忍に安んじます。兵力に恃めば民なく、残忍に安んずれば親なし、衆叛親離で成しがたし。兵は火のようなもの、収めなければ自らに焼き及びます。州吁はその国君を弑し、暴虐に百姓を役使し、善徳に務めず、乱によって成ろうとする——必ず禍を免れません」と。

秋,諸侯復伐鄭。宋公使來乞師,公辭之。羽父請以師會之,公弗許,固請而行。故書曰“翬帥師”,疾之也。諸侯之師敗鄭徒兵,取其禾而還。

秋、諸侯は再び鄭国を討った。宋公が人を遣わして出兵を請うたが、隠公は辞した。羽父は軍隊を率いて会することを請うたが、隠公は許さず、彼は固く請うて行った。だから『春秋』は「翬帥師」と書く、彼を憎んだのである。諸侯の軍隊は鄭国の歩兵を破り、禾稲を刈って帰った。

州籲未能和其民,厚問定君於石子。石子曰:“王覲為可。”曰:“何以得覲?”曰:“陳桓公方有寵於王,陳、衛方睦,若朝陳使請,必可得也。”厚從州籲如陳。石碏使告於陳曰:“衛國褊小,老夫耄矣,無能為也。此二人者,實弒寡君,敢即圖之。”陳人執之而請蒞於衛。九月,衛人使右宰醜蒞殺州籲於濮,石碏使其宰獳羊肩蒞殺石厚於陳。

州吁はその百姓を安んじられなかった。石厚が石碏に君位を安んずる方策を問うと、石碏は「天子に朝見すればよい」と言った。「どうすれば朝見を許されるか」と問うと「陳桓公はいま天子に寵信され、陳・衛は和している。陳に朝して代わりに請わせれば、必ず得られる」と言った。石厚は州吁に従って陳国に往いた。石碏は人を遣わして陳国に告げた「衛国は狭小で、老夫は年寄り、為すことができません。この二人は実に寡君を弑した者、敢えて就便にお処置ください」と。陳人は彼らを拘え、衛国に来て現地で処置するよう請うた。九月、衛人は右宰丑を濮に遣わしてその場で州吁を殺し、石碏はその家宰獳羊肩を陳に遣わしてその場で石厚を殺した。

君子曰:“石碏,純臣也,惡州籲而厚與焉。‘大義滅親’,其是之謂乎!”衛人逆公子晉於邢。冬十二月,宣公即位。書曰“衛人立晉”眾也。

君子曰く「石碏は純臣、州吁を憎み、石厚も併せて除かれた。『大義親を滅す』とは、このことであろう」と。衛人は邢に往き公子晋を迎えた。冬十二月、宣公が即位した。『春秋』が「衛人立晋」と書くのは、衆人によるからである。

◇隱公五年

◇隠公五年

【經】五年春,公矢魚於棠。夏四月,葬衛桓公。秋,衛師入郕。九月,考仲子之宮。初獻六羽。邾人、鄭人伐宋。螟。冬十有二月辛巳,公子彄卒。

【経】五年春、隠公は棠で漁具を陳列した。夏四月、衛桓公を葬った。秋、衛軍が郕に入った。九月、仲子の廟を落成した。初めて六羽の舞を献じた。邾人・鄭人が宋国を討った。螟の災いがあった。冬十二月辛巳、公子𫸩が亡くなった。

宋人伐鄭,圍長葛。

宋人が鄭国を討ち、長葛を包囲した。

【傳】五年春,公將如棠觀魚者。臧僖伯諫曰:“凡物不足以講大事,其材不足以備器用,則君不舉焉。君將納民於軌物者也。故講事以度軌量謂之軌,取材以章物採謂之物,不軌不物謂之亂政。亂政亟行,所以敗也。故春蒐夏苗,秋獮冬狩,皆於農隙以講事也。三年而治兵,入而振旅,歸而飲至,以數軍實。昭文章,明貴賤,辨等列,順少長,習威儀也。鳥獸之肉不登於俎,皮革齒牙、骨角毛羽不登於器,則公不射,古之制也。若夫山林川澤之實,器用之資,皂隸之事,官司之守,非君所及也。”公曰:“吾將略地焉。”遂往,陳魚而觀之。僖伯稱疾,不從。書曰“公矢魚於棠”,非禮也,且言遠地也。

【伝】五年春、隠公は棠に往き漁する者を見ようとした。臧僖伯が諫めて言うには「およそ物が大事を講習するに足らず、材が器用を備えるに足らなければ、国君は挙動しません。国君は百姓を軌・物に納める者です。だから大事を講習して法度を正すのを軌といい、材を取りて物色文采を彰明するのを物といい、軌ならず物ならざるを乱政といいます。乱政をたびたび行えば、だから敗亡します。それゆえ春蒐・夏苗・秋獮・冬狩は、いずれも農閑に大事を講習します。三年に一度軍隊を整え、城に入って隊伍を整頓し、帰って祭告し飲至し、軍用物資を点検します。文采を彰明し、貴賤を辨え、等列を分け、少長を順にする——これが威儀の熟習です。鳥獣の肉が祭俎に上らず、皮革歯牙・骨角毛羽が器物に用いられなければ、国君は射ません、これが古制です。山林川沢の物産や器用の資材は、皂隷の事・官司の職守で、国君の関知すべきことではありません」と。隠公は「私は辺境を巡視するのだ」と言い、そこで往き、漁具を陳列して見た。僖伯は病を称して従わなかった。『春秋』が「公矢魚于棠」と書くのは、礼に合わず、しかも遠い地だと明らかにするためである。

曲沃莊伯以鄭人、邢人伐翼,王使尹氏、武氏助之。翼侯奔隨。

曲沃荘伯は鄭人・邢人を率いて翼を討ち、天子は尹氏・武氏を遣わして彼を助けた。翼侯は随に奔った。

夏,葬衛桓公。衛亂,是以緩。

夏、衛桓公を葬った。衛国に動乱があったので遅れた。

四月,鄭人侵衛牧,以報東門之役。衛人以燕師伐鄭。鄭祭足、原繁、洩駕以三軍軍其前,使曼伯與子元潛軍軍其後。燕人畏鄭三軍而不虞制人。六月,鄭二公子以制人敗燕師於北制。君子曰:“不備不虞,不可以師。”

四月、鄭人は衛国の郊牧を侵し、東門の役の報復とした。衛人は燕国の軍隊で鄭国を討った。鄭国の祭足・原繁・泄駕は三軍を率いて前に陣を張り、曼伯と子元に制地の軍隊を率いさせ、ひそかに後ろに陣を張らせた。燕人は鄭の三軍を恐れたが、制地の者を備えなかった。六月、鄭国の二人の公子は制地の者を用いて北制で燕軍を破った。君子曰く「意外を備えなければ、兵を出すべからず」と。

曲沃叛王。秋,王命虢公伐曲沃而立哀侯於翼。

曲沃が天子に背いた。秋、天子は虢公に命じて曲沃を討たせ、翼に哀侯を立てた。

衛之亂也,郕人侵衛,故衛師入郕。

衛国に動乱があったとき、郕人は衛国を侵したので、衛軍が郕に入った。

九月,考仲子之宮,將萬焉。公問羽數於眾仲。對曰:“天子用八,諸侯用六,大夫四,士二。夫舞所以節八音而行八風,故自八以下。”公從之。於是初獻六羽,始用六佾也。

九月、仲子の廟を落成し、そこで万舞を行おうとした。隠公は衆仲に羽の数を問うた。衆仲は答えた「天子は八を用い、諸侯は六、大夫は四、士は二です。舞は八音を節し八風を宣導するもの、だから八から下へ減じます」と。隠公はこれに従った。そこで初めて六羽を献じ、六佾を用い始めた。

宋人取邾田。邾人告於鄭曰:“請君釋憾於宋,敝邑為道。”鄭人以王師會之。伐宋,入其郛,以報東門之役。宋人使來告命。公聞其入郛也,將救之,問於使者曰:“師何及?”對曰:“未及國。”公怒,乃止,辭使者曰:“君命寡人同恤社稷之難,今問諸使者,曰‘師未及國’,非寡人之所敢知也。”

宋人は邾国の田を奪った。邾人は鄭国に告げた「君に宋に鬱憤を晴らしていただきたい、弊邑が道案内をします」と。鄭人は王室の軍隊を連れて邾と会した。宋国を討ち、外城に入り、東門の役の報復とした。宋人は人を遣わして国君の命令を帯びて報告した。隠公は鄭軍がすでに外城に入ったと聞き、救援しようとして使者に「軍隊はどこに至ったか」と問うた。使者は「まだ国都に達していません」と答えた。隠公は怒り、出兵をやめ、使者に辞して「君が我に社稷の危難を共に憂恤せよと命じたのに、いま使者に問えば『軍隊はまだ国都に至らない』と言う。これでは私の敢えて問うところではない」と言った。

冬十二月辛已,臧僖伯卒。公曰:“叔父有憾於寡人,寡人弗敢忘。葬之加一等。

冬十二月辛巳(底本は「辛已」、「已」は「巳」の譌)、臧僖伯が亡くなった。隠公は「叔父は私に怨恨があったが、私は忘れられない。葬るに等級を一つ加えよう」と言った。

宋人伐鄭,圍長葛,以報入郛之役也。

宋人は鄭国を討ち、長葛を包囲した——外城に入った役の報復である。

◇隱公六年

◇隠公六年

【經】六年春,鄭人來渝平。夏五月辛酉,公會齊侯盟於艾。秋七月。冬,宋人取長葛。

【経】六年春、鄭人が来て和約の改訂を請うた。夏五月辛酉、隠公は斉侯と会見し、艾で盟約を結んだ。秋七月。冬、宋人は長葛を取った。

【傳】六年春,鄭人來渝平,更成也。

【伝】六年春、鄭人が来て和約の改訂を請うた——改めて媾和したのである。

翼九宗、五正、頃父之子嘉父逆晉侯於隨,納諸鄂。晉人謂之鄂侯。

翼の九宗・五正・頃父の子の嘉父は随に往き晋侯を迎え、鄂に置いた。晋人は彼を鄂侯と呼んだ。

夏,盟於艾,始平於齊也。

夏、艾で盟約を結び、斉国との媾和を始めた。

五月庚申,鄭伯侵陳,大獲。

五月庚申、鄭伯は陳国を侵し、獲るところが多かった。

往歲,鄭伯請成於陳,陳侯不許。五父諫曰:“親仁善鄰,國之寶也。君其許鄭。”陳侯曰:“宋、衛實難,鄭何能為?”遂不許。

往年、鄭伯は陳に媾和を請うたが、陳侯は許さなかった。五父が諫めて言うには「仁者に親しみ隣国と善くするのは、国の宝です。君は鄭国に応じなさい」と。陳侯は「宋・衛こそ畏るべきだ、鄭が何をできよう」と言い、ついに許さなかった。

君子曰:“善不可失,惡不可長,其陳桓公之謂乎!長惡不悛,從自及也。

君子曰く「善は失うべからず、悪は滋長すべからず、言うのは陳桓公のことであろう。悪を滋長して改めなければ、禍患が自ら追いつく。

雖欲救之,其將能乎?《商書》曰:‘惡之易也,如火之燎於原,不可鄉邇,其猶可撲滅?’周任有言曰:‘為國家者,見惡如農夫之務去草焉,芟夷蘊崇之,絕其本根,勿使能殖,則善者信矣。’”秋,宋人取長葛。

(君子は続けて言う)たとえ挽救しようとしても、なお及ぶことができようか。『商書』に『悪の延びるや、火の原野を焼くが如く、近づくべからず、なお撲滅できようか』とある。周任に言あり『国を治める者は、悪を見ること農夫の務めて草を除くが如く、これを芟夷し蘊崇し、その本根を断ちて殖ゆることなくせよ。すれば善なる者伸ばん』と」と。秋、宋人は長葛を取った。

冬,京師來告飢。公為之請糴於宋、衛、齊、鄭,禮也。

冬、京師が来て饑饉を報告した。隠公は周室のために宋・衛・斉・鄭に糧を求糴した、これは礼に合う。

鄭伯如周,始朝桓王也。王不禮焉。周桓公言於王曰:“我周之東遷,晉、鄭焉依。善鄭以勸來者,猶懼不,況不禮焉?鄭不來矣!”

鄭伯は周に往き、桓王に朝見し始めた。天子は礼をもって遇しなかった。周桓公は天子に言った「我ら周室が東に遷ったのは、晋・鄭に頼ったからです。鄭国を善く遇して後の者を勧めましょう、それでもなお来ないことを惧れるのに(底本「犹惧不」の下は疑らく「来」の字を脱す)、まして礼をもって遇しないとは。鄭国は二度と来ないでしょう!」

◇隱公七年

◇隠公七年

【經】七年春王三月,叔姬歸於紀。滕侯卒。夏,城中丘。齊侯使其弟年來聘。秋,公伐邾。冬,天王使凡伯來聘。戎伐凡伯於楚丘以歸。

【経】七年春、周天子の暦の三月、叔姫が紀国に嫁いだ。滕侯が亡くなった。夏、中丘に城を築いた。斉侯はその弟の年を遣わして聘問した。秋、隠公は邾を討った。冬、周天子は凡伯を遣わして聘問した。戎は楚丘で凡伯を邀撃し、彼を連れ帰った。

【傳】七年春,滕侯卒。不書名,未同盟也。凡諸侯同盟,於是稱名,故薨則赴以名,告終嗣也,以繼好息民,謂之禮經。

【伝】七年春、滕侯が亡くなった。『春秋』がその名を書かないのは、同盟していなかったからである。およそ諸侯が同盟すれば、ここに名を称する。だから亡くなれば名で訃告し、終りを報告し後継者を告げる——友好を続け百姓を安んずるためであり、これを礼経という。

夏,城中丘,書,不時也。

夏、中丘に城を築いた。『春秋』に記すのは、時節に合わないからである。

齊侯使夷仲年來聘,結艾之盟也。

斉侯は夷仲年を遣わして聘問した、艾地の盟約を固めるためである。

秋,宋及鄭平。七月庚申,盟於宿。公伐邾,為宋討也。

秋、宋と鄭が媾和した。七月庚申、宿で盟約を結んだ。隠公が邾を討ったのは、宋のために討ったのである。

初,戎朝於周,發幣於公卿,凡伯弗賓。冬,王使凡伯來聘。還,戎伐之於楚丘以歸。

むかし、戎は周天子に朝見し、公卿に財幣を分けたが、凡伯は賓礼をもって迎えなかった。冬、天子は凡伯を遣わして聘問した。帰るとき、戎は楚丘で彼を邀撃し、連れ帰った。

陳及鄭平。十二月,陳五父如鄭蒞盟。壬申,及鄭伯盟,歃如忘,洩伯曰:“五父必不免,不賴盟矣。”

陳と鄭が媾和した。十二月、陳の五父は鄭に行き自ら盟に臨んだ。壬申、鄭伯と盟約を結んだが、歃血するとき心が在らず、泄伯は「五父は必ず禍を免れない、彼は盟約を頼みとしていない」と言った。

鄭良佐如陳蒞盟,辛巳,及陳侯盟,亦知陳之將亂也。

鄭の良佐は陳に行き自ら盟に臨み、辛巳、陳侯と盟約を結んだが、陳が乱れようとしているのも見た。

鄭公子忽在王所,故陳侯請妻之。鄭伯許之,乃成昏。

鄭公子忽が天子のもとにいたので、陳侯は女を彼に嫁がせるよう請うた。鄭伯は許し、そこで婚約が定まった。

◇隱公八年

◇隠公八年

【經】八年春,宋公、衛侯遇於垂。三月,鄭伯使宛來歸祊。庚寅,我入祊。夏六月己亥,蔡侯考父卒。辛亥,宿男卒。秋七月庚午,宋公、齊侯、衛侯盟於瓦屋。八月,葬蔡宣公。九月辛卯,公及莒入盟於浮來。螟。冬十有二月,無駭卒。

【経】八年春、宋公・衛侯が垂で不意に会った。三月、鄭伯は宛を遣わして祊を交付させた。庚寅、我が国は祊を受け取った。夏六月己亥、蔡侯考父が亡くなった。辛亥、宿男が亡くなった。秋七月庚午、宋公・斉侯・衛侯が瓦屋で盟約を結んだ。八月、蔡宣公を葬った。九月辛卯、隠公は莒人と浮来で盟約を結んだ(底本は「莒入」、「入」は「人」の譌)。螟の災いがあった。冬十二月、無駭が亡くなった。

【傳】八年春,齊侯將平宋、衛,有會期。宋公以幣請於衛,請先相見,衛侯許之,故遇於犬丘。

【伝】八年春、斉侯は宋・衛を媾和させようとして、すでに会見の日を定めていた。宋公は財幣で衛に請い、先に相見ることを求め、衛侯は許した。だから犬丘で不意に会ったのである(即ち経文の垂)。

鄭伯請釋泰山之祀而祀周公,以泰山之祊易許田。三月,鄭伯使宛來歸祊,不祀泰山也。

鄭伯は泰山への祭祀を捨てて周公を祀り替えたいと請い、泰山下の祊で許田と交換しようとした。三月、鄭伯は宛を遣わして祊を交付させた、泰山を祀らなくなったからである。

夏,虢公忌父始作卿士於周。

夏、虢公忌父が周で卿士となり始めた。

四月甲辰,鄭公子忽如陳逆婦媯。辛亥,以媯氏歸。甲寅,入於鄭。陳針子送女。先配而後祖。針子曰:“是不為夫婦。誣其祖矣,非禮也,何以能育?”齊人卒平宋、衛於鄭。秋,會於溫,盟於瓦屋,以釋東門之役,禮也。

四月甲辰、鄭公子忽は陳に行き婦人の嬀氏を娶った。辛亥、嬀氏を連れて帰った。甲寅、鄭の都に入った。陳の鍼子が女を送った。先に同衾して後で廟に告げた。鍼子は「これではまだ夫婦とは言えない。その祖先を欺くのは礼に合わない、どうして生育できようか」と言った。斉人はついに宋・衛を鄭と媾和させた。秋、温で会見し、瓦屋で盟約を結び、東門の役を解消した、これは礼に合う。

八月丙戌,鄭伯以齊人朝王,禮也。

八月丙戌、鄭伯は斉人を率いて天子に朝見した、これは礼に合う。

公及莒人盟於浮來,以成紀好也。

隠公が莒人と浮来で盟約を結んだのは、紀との友好を成すためである。

冬,齊侯使來告成三國。公使眾仲對曰:“君釋三國之圖以鳩其民,君之惠也。寡君聞命矣,敢不承受君之明德。”

冬、斉侯は人を遣わして三国を媾和させたことを報告した。隠公は衆仲を遣わして答えて言わせた「君は三国の図を釈してその百姓を安んじられた、これは君の恵です。寡君は命令を聞きました、敢えて君の明德を受けましょう」と。

無駭卒。羽父請諡與族。公問族於眾仲。眾仲對曰:“天子建德,因生以賜姓,胙之土而命之氏。諸侯以字為諡,因以為族。官有世功,則有官族,邑亦如之。”公命以字為展氏。

無駭が亡くなった。羽父は諡と族氏を賜るよう請うた。隠公は衆仲に族氏のことを問うた。衆仲は答えた「天子は徳ある者を立て、その生地によって姓を賜い、土地を分封して氏を命じます。諸侯は字を諡とし、それによって族とします。官職に世々の功労があれば官族があり、采邑もまた同じです」と。隠公は無駭の字を用いるよう命じ、展氏と定めた。

◇隱公九年

◇隠公九年

【經】九年春,天子使南季來聘。三月癸酉,大雨,震電。庚辰,大雨雪。

【経】九年春、天子は南季を遣わして聘問した。三月癸酉、大雨、雷電。庚辰、大雨雪。

挾卒。夏,城郎。秋七月。冬,公會齊侯於防。

挟が亡くなった。夏、郎に城を築いた。秋七月。冬、隠公は防で斉侯と会見した。

【傳】九年春,王三月癸酉,大雨霖以震,書始也。庚辰,大雨雪,亦如之。

【伝】九年春、周暦三月癸酉、大雨が連続し雷が鳴った、『春秋』の記すのは始まりを記すものである。庚辰、大雪が降った、同じくそうである。

書,時失也。凡雨,自三日以往為霖。平地尺為大雪。

『春秋』が記したのは、節気が違っていたからである。およそ雨は三日以上を霖という。平地に雪が一尺積もるのを大雪という。

夏,城郎,書,不時也。

夏、郎に城を築いた。『春秋』に記すのは、時節に合わないからである。

宋公不王。鄭伯為王左卿士,以王命討之,伐宋。宋以入郛之役怨公,不告命。公怒,絕宋使。

宋公が天子に朝見しなかった。鄭伯は天子の左卿士として、王命をもって彼を討ち、宋国を討った。宋は外城に入られた役のことで隠公を恨み、報告に来なかった。隠公は怒り、宋の使者を絶った。

秋,鄭人以王命來告伐宋。

秋、鄭人は王命をもって来て宋国を討つことを報告した。

冬,公會齊侯於防,謀伐宋也。

冬、隠公が防で斉侯と会見したのは、宋国を討つことを謀議したのである。

北戎侵鄭,鄭伯御之。患戎師,曰;“彼徒我車,懼其侵軼我也。”公子突曰:“使勇而無剛者嘗寇,而速去之。君為三覆以待之。戎輕而不整,貪而無親,勝不相讓,敗不相救。先者見獲必務進,進而遇覆必速奔,後者不救,則無繼矣。

北戎が鄭国を侵し、鄭伯は彼らを防いだ。戎軍を憂えて「彼らは歩兵、我らは戦車。彼らが後ろから突然我を襲い越えるのを恐れる」と言った。公子突が「勇敢で剛愎でない者を遣わして敵寇を試させ、その後速やかに退きます。君は三カ所に伏兵を設けて彼らを待ちなさい。戎は軽佻で整わず、貪婪で親情なく、勝てば互いに譲らず、敗れれば互いに救わず。前を行く者は獲る所を見れば必ず一意に進み、進んで伏兵に遇えば必ず速やかに奔逃し、後の者が救わなければ継ぐ者がありません。

乃可以逞。”從之。

(公子突は続けて言った)こうしてこそ志を得られます」と。荘公はこれに従った。

戎人之前遇覆者奔。祝聃逐之。衷戎師,前後擊之,盡殪。戎師大奔。十一月甲寅,鄭人大敗戎師。

戎人の前を行く者は伏兵に遇うと奔逃した。祝聃が彼らを追撃した。中ほどで戎軍を遮断し、前後で挟撃し、全部殺した。戎軍は大いに奔った。十一月甲寅、鄭人は戎軍を大いに破った。

◇隱公十年

◇隠公十年

【經】十年春王二月,公會齊侯、鄭伯於中丘。夏,翬帥師會齊人、鄭人伐宋。六月壬戌,公敗宋師於菅。辛未,取郜。辛巳,取防。秋,宋人、衛人入鄭。

【経】十年春、周天子の暦の二月、隠公は中丘で斉侯・鄭伯と会見した。夏、翬は軍隊を率い斉人・鄭人と会して宋国を討った。六月壬戌、隠公は菅で宋軍を破った。辛未、郜を取った。辛巳、防を取った。秋、宋人・衛人は鄭国に入った。

宋人、蔡人、衛人伐戴。鄭伯伐取之。冬十月壬午,齊人、鄭人入郕。

宋人・蔡人・衛人は戴を討った。鄭伯は彼らを討ち取った。冬十月壬午、斉人・鄭人は郕に入った。

【傳】十年春,王正月,公會齊侯、鄭伯於中丘。癸丑,盟於鄧,為師期。

【伝】十年春、周暦正月、隠公は中丘で斉侯・鄭伯と会見した。癸丑、鄧で盟約を結び、出兵の日を約した。

夏五月,羽父先會齊侯、鄭伯伐宋。

夏五月、羽父は先に往き斉侯・鄭伯と会して宋国を討った。

六月戊申,公會齊侯、鄭伯於老桃。壬戌,公敗宋師於菅。庚午,鄭師入郜。

六月戊申、隠公は老桃で斉侯・鄭伯と会見した。壬戌、隠公は菅で宋軍を破った。庚午、鄭軍は郜に入った。

辛未,歸於我。庚辰,鄭師入防。辛巳,歸於我。

辛未、郜は我が国に帰した。庚辰、鄭軍は防に入った。辛巳、防は我が国に帰した。

君子謂:“鄭莊公於是乎可謂正矣。以王命討不庭,不貪其土以勞王爵,正之體也。”

君子は考える「鄭荘公はこの事において正しかった。王命をもって朝せぬ者を討ち、その土地を貪らず、王爵ある者に酬いたのは、正しき体統である」と。

蔡人、衛人、郕人不會王命。

蔡人・衛人・郕人は来て会し、王命を奉じなかった。

秋七月庚寅,鄭師入郊。猶在郊,宋人、衛人入鄭。蔡人從之,伐戴。八月壬戌,鄭伯圍戴。癸亥,克之,取三師焉。宋、衛既入鄭,而以伐戴召蔡人,蔡人怒,故不和而敗。

秋七月庚寅、鄭軍は本国の遠郊に入り、なお郊に留まった。宋人・衛人は鄭国に入った。蔡人は彼らに従い、戴を討った。八月壬戌、鄭伯は戴を包囲した。癸亥、勝ちを制し、三国の軍隊を俘にした。宋・衛はすでに鄭国に入っていたのに、戴を伐つと言って蔡人を召したので、蔡人は怒り、だから和せず敗れた。

九月戊寅,鄭伯入宋。

九月戊寅、鄭伯は宋国に入った。

冬,齊人、鄭人入郕,討違王命也。

冬、斉人・鄭人が郕に入ったのは、王命に背いたのを討ったのである。

◇隱公十一年

◇隠公十一年

【經】十有一年春,滕侯、薛侯來朝。夏,公會鄭伯於時來。秋七月壬午,公及齊侯、鄭伯入許。冬十有一月壬辰,公薨。

【経】十一年春、滕侯・薛侯が来て朝見した。夏、隠公は時来で鄭伯と会見した。秋七月壬午、隠公は斉侯・鄭伯と許に入った。冬十一月壬辰、隠公が亡くなった。

【傳】十一年春,滕侯、薛侯來朝,爭長。薛侯曰:“我先封。”滕侯曰:“我,周之卜正也。薛,庶姓也,我不可以後之。”

【伝】十一年春、滕侯・薛侯が来て朝見し、先を争った。薛侯は「私が先に封を受けた」と言い、滕侯は「私は周の卜正だ。薛は庶姓、私は彼の後に並ぶことはできない」と言った。

公使羽父請於薛侯曰:“君與滕君辱在寡人。周諺有之曰:‘山有木,工則度之;賓有禮,主則擇之。’周之宗盟,異姓為後。寡人若朝於薛,不敢與諸任齒。君若辱貺寡人,則願以滕君為請。”

隠公は羽父を遣わして薛侯に請わせて言った「君と滕君が駕を枉げて寡人のもとに光臨された。周の諺にこうあります『山に樹木あれば工匠が往きてこれを度量し、賓客に礼あれば主人がこれを選ぶ』。周の宗盟は、異姓を後にします。寡人が薛に往き朝見しても、任姓の諸国と並ぶことは敢えてしません。君が尊を屈して寡人に恵まれるなら、滕君の事を先に許されることを願います」と。

薛侯許之,乃長滕侯。

薛侯は許し、そこで滕侯を先とした。

夏,公會鄭伯於郲,謀伐許也。

夏、隠公が郲で鄭伯と会見したのは(即ち経文の時来)、許国を討つことを謀議したのである。

鄭伯將伐許,五月甲辰,授兵於大宮。公孫閼與潁考叔爭車,潁考叔挾輈以走,子都拔棘以逐之,及大逵,弗及,子都怒。

鄭伯は許国を討とうとして、五月甲辰、太廟で兵器を発した。公孫閼と潁考叔は車を争い、潁考叔は車の轅を挟んで走り、子都は戟を抜いて彼を追い、大路に及んだが追いつかず、子都は怒った。

秋七月,公會齊侯、鄭伯伐許。庚辰,傅於許,潁考叔取鄭伯之旗蝥弧以先登。子都自下射之,顛。瑕叔盈又以蝥弧登,周麾而呼曰:“君登矣!”鄭師畢登。壬午,遂入許。許莊公奔衛。

秋七月、隠公は斉侯・鄭伯と会して許国を討った。庚辰、許城に迫り、潁考叔は鄭伯の旗・蝥弧を取り率先して城に登った。子都は下から彼を射、彼は城上から落ちた。瑕叔盈はまた蝥弧を持って城に登り、四面に旗を振って叫んだ「国君が登った!」鄭軍は全部登った。壬午、そこで許に入った。許荘公は衛国に奔った。

齊侯以許讓公。公曰:“君謂許不共,故從君討之。許既伏其罪矣,雖君有命,寡人弗敢與聞。”乃與鄭人。

斉侯は許を隠公に譲った。隠公は「君は許国が職貢をしないと言ったので、君に従ってこれを討ちました。許はすでに罪に服しました、たとえ君に命令があっても、寡人は敢えてこの事に与りません」と言った。そこで鄭人に与えた。

鄭伯使許大夫百里奉許叔以居許東偏,曰:“天禍許國,鬼神實不逞於許君,而假手於我寡人。寡人唯是一二父兄不能共億,其敢以許自為功乎?寡人有弟,不能和協,而使糊其口於四方,其況能久有許乎?吾子其奉許叔以撫柔此民也,吾將使獲也佐吾子。若寡人得沒於地,天其以禮悔禍於許?無寧茲許公復奉其社稷。唯我鄭國之有請謁焉,如舊昏媾,其能降以相從也。無滋他族,實逼處此,以與我鄭國爭此土也。吾子孫其覆亡之不暇,而況能禋祀許乎?寡人之使吾子處此,不唯許國之為,亦聊以固吾圉也。”

鄭伯は許の大夫百里に許叔を奉事させ、許城の東に住まわせて言った「天が許国に禍を降し、鬼神は実に許君に不満で、私の手を借りて罰したのだ。私は一、二の父兄とさえ互いに安んじられないのに、敢えて許を己の功とすることができようか。私には弟があり、和睦できずに彼を四方に食を求めさせているのに、どうして長く許を有することができようか。あなたは許叔を奉じてここの百姓を安んじなさい、私は公孫獲を遣わしてあなたを輔けさせます。もし私が終を全うして土に入ることができれば、天はあるいは礼によって許への禍罰を撤し、許公に再びその社稷を奉じさせるやもしれない。我ら鄭国に請いあれば、旧日の婚姻の国のごとく、許はおおよそ心を降して相従うであろう。他の族姓をして近づきここに住まわせて、我ら鄭国とこの土を争わせるな。私の子孫は覆亡を救うに暇あらず、またどうして許の山川を祀ることができようか。私があなたをここに住まわせるのは、ただ许国のためだけでなく、また私の辺疆を固めるためでもある」と。

乃使公孫獲處許西偏,曰:“凡而器用財賄,無置於許。我死,乃亟去之。

そこで公孫獲を許城の西に住まわせて言った「およそあなたの器用財貨は、許に置くな。私が死んだら、速やかに去れ。

吾先君新邑於此,王室而既卑矣,周之子孫日失其序。夫許,大嶽之胤也,天而既厭周德矣,吾其能與許爭乎?”君子謂:“鄭莊公於是乎有禮。禮,經國家,定社稷,序民人,利後嗣者也。

(鄭伯は続けて言った)我ら先君がここに城邑を新たに建てたとき、王室はすでに卑微で、周の子孫は日々その位次を失いつつある。許は太岳の後裔、天はすでに周の徳を厭いている、私はなお許と争うことができようか」と。君子は考える「鄭荘公はこの事において礼があった。礼とは、国を経営し社稷を定め、民人を序立し後嗣に利するものである。

許無刑而伐之,服而舍之,度德而處之,量力而行之,相時而動,無累後人,可謂知禮矣。”

(君子は続けて言う)許が法度なくなればこれを討ち、服すればこれを赦し、徳行を度量して処置し、力量を忖度して行い、時機を観て動き、後人を累わさない——可謂知礼である」と。

鄭伯使卒出豭,行出犬雞,以詛射潁考叔者。君子謂:“鄭莊公失政刑矣。

鄭伯は卒ごとに雄豚を一頭、行ごとに犬と鶏を出させて、潁考叔を射殺した者を詛った。君子は考える「鄭荘公は政と刑に缺失がある。

政以治民,刑以正邪,既無德政,又無威刑,是以及邪。邪而詛之,將何益矣!”王取鄔、劉、功蒍、邗之田於鄭,而與鄭人蘇忿生之田溫、原、絺、樊、隰郕、欑茅、向、盟、州、陘、隤、懷。君子是以知桓王之失鄭也。恕而行之,德之則也,禮之經也。己弗能有而以與人,人之不至,不亦宜乎?鄭、息有違言,息侯伐鄭。鄭伯與戰於竟,息師大敗而還。君子是以知息之將亡也。不度德,不量力,不親親,不徵辭,不察有罪,犯五不韙而以伐人,其喪師也,不亦宜乎!冬十月,鄭伯以虢師伐宋。壬戌,大敗宋師,以報其入鄭也。宋不告命,故不書。凡諸侯有命,告則書,不然則否。師出臧否,亦如之。雖及滅國,滅不告敗,勝不告克,不書於策。羽父請殺桓公,將以求大宰。公曰:“為其少故也,吾將授之矣。使營菟裘,吾將老焉。”羽父懼,反譖公於桓公而請弒之。公之為公子也,與鄭人戰於狐壤,止焉。鄭人囚諸尹氏,賂尹氏而禱於其主鍾巫,遂與尹氏歸而立其主。十一月,公祭鍾巫,齊於社圃,館於寪氏。壬辰,羽父使賊弒公於寪氏,立桓公而討寪氏,有死者。不書葬,不成喪也。

(君子は続けて言う)政は以て百姓を治め、刑は以て邪悪を正す。徳政もなく威刑もなければ、だから邪悪が出るのだ。すでに邪悪となってから詛っても、何の益があろうか!」天子は鄭から鄔・劉・功𫇭・邗の田を取り、蘇忿生の田の温・原・𫄨・樊・隰郕・欑茅・向・盟・州・陘・𬯎・懐を鄭人に与えた。君子はこれによって桓王が鄭を失うであろうことを知った。恕道を本として行うのは、徳の準則、礼の常である。自ら保てないのに人に与える、人が来ないのもまた当然ではないか。鄭・息に言い争いがあり、息侯は鄭国を討った。鄭伯は彼と辺境で戦い、息軍は大敗して帰った。君子はこれによって息が亡びようとしていることを知った。徳を度量せず、力を忖度せず、親戚に親しまず、手の辞を覈せず、誰に罪あるかを察せず、この五つの過ちを犯して人を討つ——その軍を喪うのもまた当然ではないか。冬十月、鄭伯は虢軍を率いて宋国を討った。壬戌、宋軍を大いに破り、宋が鄭に入った役の報復とした。宋が来て報告しなかったので、『春秋』は記さない。およそ諸侯に大事あれば、来て報告すれば記し、否なら記さない。出兵の善悪もまた同じである。滅国に及んでも、滅びた方が敗を報告せず、勝った方が克を報告しなければ、『春秋』は簡策に書かない。羽父は桓公を殺すことを請い、これによって太宰を求めようとした。隠公は「彼が年少だからこそ私が摂位したのだ、まさに君位を彼に授けようとしている。人を遣わして菟裘に営造させ、私はそこで老いを養おうとしている」と言った。羽父は恐れ、かえって桓公のもとで隠公を讒し、彼を弑するよう請うた。隠公が公子であったとき、鄭人と狐壤で戦い、俘にされた。鄭人は彼を尹氏のもとに囚え、彼は財貨で尹氏に通じ、また尹氏の神主・鍾巫に祈祷し、そこで尹氏とともに国に帰り、鍾巫の神主を立てた。十一月、隠公は鍾巫を祭り、社圃で斎戒し、寪氏の家に宿った。壬辰、羽父は賊人を遣わして寪氏のもとで隠公を弑し、桓公を立て、併せて寪氏を討ち、殺された者がいた。『春秋』が安葬を記さないのは、喪礼を成さなかったからである。

桓公(元年~十八年)

◇桓公元年

◇桓公元年

【經】元年春王正月,公即位。三月,公會鄭伯於垂,鄭伯以璧假許田。夏四月丁未,公及鄭伯盟于越。秋,大水。冬十月。

【経】元年春、周天子の暦の正月、桓公が即位した。三月、桓公は垂で鄭伯と会見し、鄭伯は璧をもって許田を借りた。夏四月丁未、桓公は鄭伯と越で盟約を結んだ。秋、大水。冬十月。

【傳】元年春,公即位,修好於鄭。鄭人請復祀周公,卒易祊田。公許之。

【伝】元年春、桓公が即位し、鄭国と友好を修め直した。鄭人は周公への祭祀を復するよう請い、ついに祊田と交換した。桓公は許した。

三月,鄭伯以璧假許田,為周公、祊故也。

三月、鄭伯が璧をもって許田を借りたのは、周公と祊のためである。

夏四月丁未,公及鄭伯盟于越,結祊成也。盟曰:“渝盟無享國。”

夏四月丁未、桓公が鄭伯と越で盟約を結んだのは、祊を交換する和約を固めるためである。盟辞に「盟約に背く者は、その国を享有することができない」と。

秋,大水。凡平原出水為大水。

秋、大水。およそ平原に水が溢れたのを大水という。

冬,鄭伯拜盟。

冬、鄭伯が来て盟約に拜謝した。

宋華父督見孔父之妻於路,目逆而送之,曰:“美而豔。”

宋の華父督は路上で孔父の妻を見て、目で迎えて送り、「美しく、また光り艶やかだ」と言った。

◇桓公二年

◇桓公二年

【經】二年春,王正月戊申,宋督弒其君與夷及其大夫孔父。滕子來朝。三月,公會齊侯、陳侯、鄭伯於稷,以成宋亂。夏四月,取郜大鼎於宋。戊申,納於大廟。秋七月,杞侯來朝。蔡侯、鄭伯會於鄧。九月,入杞。公及戎盟於唐。

【経】二年春、周天子の正月戊申、宋の督がその君与夷およびその大夫孔父を弑した。滕子が来て朝見した。三月、桓公は稷で斉侯・陳侯・鄭伯と会見し、宋国の動乱を成就するためであった。夏四月、宋から郜国の大鼎を取ってきた。戊申、太廟に納めた。秋七月、杞侯が来て朝見した。蔡侯・鄭伯は鄧で会見した。九月、杞に攻入した。桓公は戎と唐で盟約を結んだ。

冬,公至自唐。

冬、桓公は唐から帰った。

【傳】二年春,宋督攻孔氏,殺孔父而取其妻。公怒,督懼,遂弒殤公。

【伝】二年春、宋の督は孔氏を攻め、孔父を殺してその妻を奪った。殤公が怒り、督は恐れて、そこで殤公を弑した。

君子以督為有無君之心而後動於惡,故先書弒其君。會於稷以成宋亂,為賂故,立華氏也。

君子は考える、督は先に目にその君なしの心があり、それから悪を行ったので、『春秋』は先に弑其君と書いた。稷で会見して宋国の動乱を成就したのは、財貨が疏通したためで、華氏を立てるためであった。

宋殤公立,十年十一戰,民不堪命。孔父嘉為司馬,督為大宰,故因民之不堪命,先宣言曰:“司馬則然。”已殺孔父而弒殤公,召莊公於鄭而立之,以親鄭。以郜大鼎賂公,齊、陳、鄭皆有賂,故遂相宋公。

宋殤公が即位して、十年に十一回戦い、百姓は堪えられなかった。孔父嘉は司馬となり、督は太宰となった。だから百姓の堪えられないのに乗じ、先に言を放って「すべて司馬の致すところだ」と言った。すでに孔父を殺しまた殤公を弑して、鄭から荘公を呼び戻して国君に立て、鄭国に親しむためであった。郜国の大鼎をもって桓公に賂を行い、斉・陳・鄭も財貨を得たので、督はついに宋公の宰相となった。

夏四月,取郜大鼎於宋。戊申,納於大廟。非禮也。臧哀伯諫曰:“君人者將昭德塞違,以臨照百官,猶懼或失之。故昭令德以示子孫:是以清廟茅屋,大路越席,大羹不致,粢食不鑿,昭其儉也。袞、冕、黻、珽,帶、裳、幅、舄,衡、紞、紘、綖,昭其度也。藻、率、鞞、革咅,鞶、厲、遊、纓,昭其數也。

夏四月、宋から郜国の大鼎を取ってきた。戊申、太廟に納めた。これは礼に合わない。臧哀伯が諫めて言うには「人君たる者は徳を彰明し、違礼の事を塞ぎ、以て百官に照臨する、なお失があることを惧れます。だから美德を彰明して子孫に示します。それゆえ清廟は茅で屋根を葺き、大路の車は蒲の席、大羹は五味を調せず、主食の米は精舂しないのは、節倹を彰明するためです。袞・冕・黻・珽、帯・裳・幅・舄、衡・紞・紘・綖は、法度を彰明するものです。藻・率・鞞・琫(底本は「革咅」、当に「琫」の譌)、鞶・厲・游・纓は、等級の数を彰明するものです。

火、龍、黼、黻,昭其文也。五色比象,昭其物也。錫、鸞、和、鈴,昭其聲也。

(臧哀伯は続けて言う)火・龍・黼・黻は、文采を彰明するものです。五色は物象に比し、器物を彰明するものです。錫・鸞・和・鈴は、声を彰明するものです。

三辰旂旗,昭其明也。夫德,儉而有度,登降有數。文物以紀之,聲明以發之,以臨照百官,百官於是乎戒懼,而不敢易紀律。今滅德立違,而置其賂器於大廟,以明示百官,百官象之,其又何誅焉?國家之敗,由官邪也。官之失德,寵賂章也。郜鼎在廟,章孰甚焉?武王克商,遷九鼎於雒邑,義士猶或非之,而況將昭違亂之賂器於大廟,其若之何?”公不聽。周內史聞之曰:“臧孫達其有後於魯乎!君違不忘諫之以德。”

(臧哀伯は続けて言う)日月星を旌旗に画くのは、光明を彰明するものです。徳とは、節倹にして法度あり、増減に定数あり。文采器物をもってこれを標記し、声音の明るさをもってこれを発揚し、以て百官に照臨すれば、百官はここに戒め惧れ、紀律を改易することを敢えてしません。いま徳を滅し違礼の事を樹てて、あの財貨で換えた器物を太廟に置き、明らかに百官に示せば、百官がこれに象(なら)うのに、また誰を罰することができましょうか。国の敗亡は官吏の邪悪に由ります。官吏の徳を失うは、寵と財貨が公に顕れるに由ります。郜鼎が廟にあれば、これより顕れるものがありましょうか。武王が商に勝ち、九鼎を雒邑に遷したとき、義士でさえあるいは之を非としたのに、まして彰明な違乱の賂器を太廟に置こうとするのを、どうしましょう」と。桓公は聞かなかった。周の内史はこれを聞いて言った「臧孫達は魯におおよそ後があるであろう!国君が礼に違うも、彼はなお徳をもって諫めることを忘れない」と。

秋七月,杞侯來朝,不敬。杞侯歸,乃謀伐之。

秋七月、杞侯が来て朝見したが、態度が恭敬でなかった。杞侯が帰ると、魯は彼を討つことを謀った。

蔡侯、鄭伯會於鄧,始懼楚也。

蔡侯・鄭伯が鄧で会見したのは、楚を畏れ始めたからである。

九月,入杞,討不敬也。

九月、杞に攻入したのは、その不恭敬を討ったのである。

公及戎盟於唐,修舊好也。

桓公が戎と唐で盟約を結んだのは、旧日の友好を修め直すためである。

冬,公至自唐,告於廟也。凡公行,告於宗廟;反行,飲至、舍爵,策勳焉,禮也。

冬、桓公は唐から帰り、宗廟に祭告した。およそ公が出行すれば宗廟に祭告し、帰れば飲至を行い酒爵を置き、功勲を簡策に書く、これは礼に合う。

特相會,往來稱地,讓事也。自參以上,則往稱地,來稱會,成事也。

単独に一国と会すれば、往きも来も地を書くのは、事がまだ譲って定まらないからである。三国以上からは、往きは地を書き、帰りはただ「会」と称するのは、事がすでに成ったからである。

初,晉穆侯之夫人姜氏以條之役生太子,命之曰仇。其弟以千畝之戰生,命之曰成師。師服曰:“異哉,君之名子也!夫名以制義,義以出禮,禮以體政,政以正民。是以政成而民聽,易則生亂。嘉耦曰妃,怨耦曰仇,古之命也。今君命大子曰仇,弟曰成師,始兆亂矣,兄其替乎?”惠之二十四年,晉始亂,故封桓叔於曲沃,靖侯之孫欒賓傅之。師服曰:“吾聞國家之立也,本大而末小,是以能固。故天子建國,諸侯立家,卿置側室,大夫有貳宗,士有隸子弟,庶人、工、商,各有分親,皆有等衰。是以民服事其上而下無覬覦。今晉,甸侯也,而建國。本既弱矣,其能久乎?”惠之三十年,晉潘父弒昭侯而立桓叔,不克。晉人立孝侯。

むかし、晋穆侯の夫人姜氏は条地の役で太子を生み、仇と命名した。その弟は千畝の戦で生まれ、成師と命名した。師服が言うには「怪しいな、君が子に名づけることがこのようでは!名は以て義を制するもの、義は礼を出し、礼は政を体し、政は以て百姓を正す。だから政が成れば百姓は従い、之に反すれば乱を生じる。好配偶を妃といい、怨偶を仇という、これは古代の命名である。いま君は太子を仇と名づけ、弟を成師と名づけた、すでに乱兆を顕し始めた、兄はおおよそ取代されるであろう」と。恵公二十四年、晋は動乱し始め、だから桓叔を曲沃に封じ、靖侯の孫欒賓に彼を輔けさせた。師服は言う「私は聞く、国の建てるは、本大にして末小、だから能く固い。それゆえ天子は諸侯を封建し、諸侯は卿の家を立て、卿は側室を置き、大夫は貳宗あり、士は隷属する子弟あり、庶人・工・商は各々親疎あり、みな等級の差次あり。だから百姓は上に事え、下に非分の想いなし。いま晋は甸服の侯に過ぎないのに、別に一つの都を建てた。本はすでに弱い、なお長くすることができようか」と。恵公三十年、晋の潘父は昭侯を弑して桓叔を立てたが、成らなかった。晋人は孝侯を立てた。

惠之四十五年,曲沃莊伯伐翼,弒孝侯。翼人立其弟鄂侯。鄂侯生哀侯。哀侯侵陘庭之田。陘庭南鄙啟曲沃伐翼。

恵公四十五年、曲沃荘伯は翼を討ち、孝侯を弑した。翼人はその弟鄂侯を立てた。鄂侯は哀侯を生んだ。哀侯は陘庭の田を侵した。陘庭の南鄙は曲沃に道案内をして翼を討たせた。

◇桓公三年

◇桓公三年

【經】三年春正月,公會齊侯於嬴。夏,齊侯、衛侯胥命於蒲。六月,公會杞侯於郕。秋七月壬辰朔,日有食之,既。公子翬如齊逆女。九月,齊侯送姜氏於歡。公會齊侯於歡。夫人姜氏至自齊。冬,齊侯使其弟年來聘。有年。

【経】三年春正月、桓公は嬴で斉侯と会見した。夏、斉侯・衛侯は蒲で相胥命した。六月、桓公は郕で杞侯と会見した。秋七月壬辰朔、日食、既。公子翬は斉に行き娶った。九月、斉侯は姜氏を歡に送った。桓公は歡で斉侯と会見した。夫人姜氏が斉から至った。冬、斉侯はその弟の年を遣わして聘問した。この年、有年であった。

【傳】三年春,曲沃武公伐翼,次於陘庭,韓萬御戎,梁弘為右,逐翼侯於汾隰,驂絓而止。夜獲之,及欒共叔。

【伝】三年春、曲沃武公は翼を討ち、陘庭に駐屯した。韓万が彼のために戎車を御し、梁弘が車右となった。汾水ほとりの低地で翼侯を追い、驂馬が絆されて止まった。夜、翼侯と欒共叔を俘にした。

會於嬴,成昏於齊也。

嬴で会見したのは、斉と婚を定めたのである。

夏,齊侯、衛侯胥命於蒲,不盟也。

夏、斉侯・衛侯が蒲で相胥命したが、盟礼を行わなかった。

公會杞侯於歡,杞求成也。

桓公が歡で杞侯と会見したのは、杞が媾和を求めたからである。

秋,公子翬如齊逆女。修先君之好,故曰“公子”。

秋、公子翬は斉に行き娶った。先君の友好を修め直したので、『春秋』は「公子」と称す。

齊侯送姜氏於歡,非禮也。凡公女嫁於敵國,姊妹則上卿送之,以禮於先君;公子則下卿送之;於大國,雖公子亦上卿送之;於天子,則諸卿皆行,公不自送;於小國,則上大夫送之。

斉侯が姜氏を歡に送ったのは、礼に合わない。およそ公の女が対等の国に嫁ぐとき、姉妹なら上卿がこれを送り、以て先君に礼を行う。女なら下卿が送る。大国に嫁ぐときは、たとえ女でも上卿が送る。天子に嫁ぐときは、諸卿が皆一行するが、公は自ら送らない。小国に嫁ぐときは、上大夫が送る。

冬,齊仲年來聘,致夫人也。

冬、斉仲年が聘問したのは、夫人を送り届けたのである。

芮伯萬之母芮姜惡芮伯之多寵人也,故逐之,出居於魏。

芮伯万の母芮姜は、芮伯が寵する人が多すぎるのを嫌い、だから彼を逐い、魏に出て居らせた。

◇桓公四年

◇桓公四年

【經】四年春正月,公狩於郎。夏,天王使宰渠伯糾來聘。

【経】四年春正月、桓公は郎で狩した。夏、周天子は宰渠伯糾を遣わして聘問した。

【傳】四年春正月,公狩於郎。書,時,禮也。

【伝】四年春正月、桓公が郎で狩した。『春秋』に記すのは、時節に合い、礼に合うからである。

夏,周宰渠伯糾來聘。父在,故名。

夏、周の宰官渠伯糾が来て聘問した。その父がまだいるので、『春秋』はその名を書いた。

秋,秦師侵芮,敗焉,小之也。

秋、秦軍は芮を侵し、かえって敗れたのは、芮を小さく見たからである。

冬,王師、秦師圍魏,執芮伯以歸。

冬、王室の軍隊と秦軍は魏を包囲し、芮伯を拘えて連れ帰った。

◇桓公五年

◇桓公五年

【經】五年春正月,甲戌、己丑,陳侯鮑卒。夏,齊侯鄭伯如紀。天王使仍叔之子來聘。葬陳桓公。城祝丘。秋,蔡人、衛人、陳人從王伐鄭。大雩。螽。

【経】五年春正月、甲戌・己丑、陳侯鮑が亡くなった。夏、斉侯・鄭伯は紀に往いた。周天子は仍叔の子を遣わして聘問した。陳桓公を葬った。祝丘に城を築いた。秋、蔡人・衛人・陳人は天子に従って鄭を討った。大雩を行った。螽の災いがあった。

冬,州公如曹。

冬、州公は曹に往いた。

【傳】五年春正月,甲戌,己丑,陳侯鮑卒,再赴也。於是陳亂,文公子佗殺大子免而代之。公疾病而亂作,國人分散,故再赴。

【伝】五年春正月、甲戌・己丑、陳侯鮑が亡くなったのは、二度訃告を発したからである。当時陳国は動乱し、文公の子佗は太子免を殺してこれに代わった。陳侯が病重いとき乱が起き、国人は分散したので、二度訃告を発した。

夏,齊侯、鄭伯朝於紀,欲以襲之。紀人知之。

夏、斉侯・鄭伯は紀に往き朝見した、隙に乗じてこれを襲おうとしたのである。紀人は察した。

王奪鄭伯政,鄭伯不朝。

天子は鄭伯の政権を奪い、鄭伯は来朝しなくなった。

秋,王以諸侯伐鄭,鄭伯御之。

秋、天子は諸侯を率いて鄭を討ち、鄭伯はこれを禦いだ。

王為中軍;虢公林父將右軍,蔡人、衛人屬焉;周公黑肩將左軍,陳人屬焉。

天子は中軍を統率した。虢公林父は右軍を率い、蔡人・衛人が隷属した。周公黒肩は左軍を率い、陳人が隷属した。

鄭子元請為左拒以當蔡人、衛人,為右拒以當陳人,曰:“陳亂,民莫有鬥心,若先犯之,必奔。王卒顧之,必亂。蔡、衛不枝,固將先奔,既而萃於王卒,可以集事。”從之。曼伯為右拒,祭仲足為左拒,原繁、高渠彌以中軍奉公,為魚麗之陳,先偏後伍,伍承彌縫。戰於繻葛,命二拒曰:“旝動而鼓。”蔡、衛、陳皆奔,王卒亂,鄭師合以攻之,王卒大敗。祝聃射王中肩,王亦能軍。祝聃請從之。公曰:“君子不欲多上人,況敢陵天子乎!苟自救也,社稷無隕,多矣。”

鄭子元は左の方陣を組んで蔡人・衛人に当たり、右の方陣を組んで陳人に当たるよう請いて言った「陳国は動乱し、百姓に闘志がありません。もし先に彼らを衝けば、必ず奔逃します。天子の士卒は顧みて、陣脚は必ず乱れます。蔡・衛が支えきれなければ、自然に先に奔逃し、その後天子の士卒を集めて対付すれば、事を成すことができます」と。鄭伯はこれに従った。曼伯が右の方陣の主将となり、祭仲足が左の方陣の主将となり、原繁・高渠弥は中軍を率いて鄭伯を衛奉し、魚麗の陣を布き、前は偏、後は伍、伍は縫隙を承け弥縫した。𦈡葛で交戦し、二つの方陣に命じて「大旗を揮れば鼓を撃て」と言った。蔡・衛・陳はみな奔逃し、天子の士卒は大いに乱れ、鄭軍は合して攻め、天子の士卒は大敗した。祝聃は天子の肩を射中てたが、天子はなお軍隊を約束しえた。祝聃は追撃を請うた。鄭伯は「君子は人に多く凌駕することを欲せず、まして敢えて天子を欺陵しようか。もし自ら救うことができて社稷が陨落しなければ、足りる」と言った。

夜,鄭伯使祭足勞王,且問左右。

夜、鄭伯は祭足を遣わして天子を慰労し、併せて左右の者に問候した。

仍叔之子,弱也。

仍叔の子は、まだ年少なので、『春秋』はこのように書く。

秋,大雩,書,不時也。凡祀,啟蟄而郊,龍見而雩,始殺而嘗,閉蟄而烝。

秋、大雩を行った。『春秋』に記すのは、時節に合わないからである。およそ祭祀は、啓蟄に郊祭し、龍星が見えるとき雩祭し、涼気が始まり殺するとき嘗祭し、昆虫が閉蔵するとき烝祭する。

過則書。

時節を過ぎれば、『春秋』は記す。

冬,淳于公如曹。度其國危,遂不復。

冬、淳于公は曹に往いた。彼は自国の危険を忖度し、ついに帰らなかった。

◇桓公六年

◇桓公六年

【經】六年春正月,實來。夏四月,公會紀侯於成。秋八月壬午,大閱。蔡人殺陳佗。九月丁卯,子同生。冬,紀侯來朝。

【経】六年春正月、州公が実来した。夏四月、桓公は成で紀侯と会見した。秋八月壬午、大閲を行った。蔡人は陳佗を殺した。九月丁卯、子同が生まれた。冬、紀侯が来て朝見した。

【傳】六年春,自曹來朝。書曰“實來”,不復其國也。

【伝】六年春、州公は曹から来て朝見した。『春秋』が「実来」と書くのは、彼がその国に帰らなくなったからである。

楚武王侵隨,使薳章求成焉。軍於瑕以待之。隨人使少師董成。鬥伯比言於楚子曰:“吾不得志於漢東也,我則使然。我張吾三軍而被吾甲兵,以武臨之,彼則懼而協以謀我,故難間也。漢東之國隨為大,隨張必棄小國,小國離,楚之利也。少師侈,請羸師以張之。”熊率且比曰:“季梁在,何益?”鬥伯比曰:“以為後圖,少師得其君。”王毀軍而納少師。

楚武王は随を侵し、䓕章を遣わして和を求めた。軍隊は瑕に駐して待った。随人は少師を遣わして和議を主らせた。鬬伯比は楚子に言った「我らが漢水以東で志を得られないのは、我ら自ら致したところです。我らは三軍を張り甲兵を被せ、武力をもって彼らに臨めば、彼らは惧れて合して我に対するを謀る、だから離間しがたい。漢東の国は随が最大、随がいったん自大すれば必ず小国を棄て、小国が離散すれば、これは楚の利です。少師は驕侈、軍隊に疲弱を見せて彼を自大させてください」と。熊率且比は「季梁がいる、何の益があろう」と言った。鬬伯比は「これは後のための計です、少師はその国君の信任を得ています」と言った。楚王は軍容を毁損して少師を迎えた。

少師歸,請追楚師,隨侯將許之。季梁止之曰:“天方授楚,楚之蠃,其誘我也,君何急焉?臣聞小之能敵大也,小道大淫。所謂道,忠於民而信於神也。

少師は帰り、楚軍を追撃するよう請い、随侯は許そうとした。季梁が止めて言うには「天はまさに楚を授けんとしており、楚軍の疲弱は、我らを誘うものです。君は何を急ぎましょうか。臣は聞きます、小が大に敵するは、小に道あり大に淫侈あればです。謂う所の道は、民に忠にして神に信なること。

上思利民,忠也;祝史正辭,信也。今民餒而君逞欲,祝史矯舉以祭,臣不知其可也。”公曰:“吾牲牷肥腯,粢盛豐備,何則不信?”對曰:“夫民,神之主也。是以聖王先成民而後致力於神。故奉牲以告曰‘博碩肥腯’,謂民力之普存也,謂其畜之碩大蕃滋也,謂其不疾瘯蠡也,謂其備腯鹹有也。奉盛以告曰‘潔粢豐盛’,謂其三時不害而民和年豐也。奉酒醴以告曰‘嘉栗旨酒’,謂其上下皆有嘉德而無違心也。所謂馨香,無讒慝也。故務其三時,修其五教,親其九族,以致其禋祀。於是乎民和而神降之福,故動則有成。今民各有心,而鬼神乏主,君雖獨豐,其何福之有!君姑修政而親兄弟之國,庶免於難。”隨侯懼而修政,楚不敢伐。

(季梁は続けて言う)上にある者が民に利あるを思うを忠といい、祝史が誠実の言辞を用いるを信といいます。いま百姓は飢えて君は私欲を縦にし、祝史は功徳を虚報して祭祀する、臣はこれがどうして可なのか知りません」と。随侯は「我が犠牲は毛色が純く膃肥し体壯で、黍稷は豊滿して斉く備わる、どうして信を取らぬことがあろう」と言った。季梁は答えた「百姓は神の主人です。だから聖王は先ず百姓を成し、それから神に力を致します。故に犠牲を献じて告げて曰く『博く大にして肥く壯なり』とは、民力が普く存し、牲畜は碩大に蕃滋し、疥癬を生ぜず、肥畜の各類あるを言います。祭器の穀を献じて告げて曰く『潔粢豊盛』とは、春夏秋の三時に農事を害せず、百姓和して年成豊かなるを言います。酒醴を献じて告げて曰く『嘉栗旨酒』とは、上下皆美德ありて違逆の心なきを言います。謂う所の馨香は、讒言と邪念なきことです。故に三時に務め、五教を修め、九族に親しみ、以て祭祀を致します。ここに百姓和して神降福あり、動けば成すことができます。いま百姓は各々その心を有し、鬼神は主人を乏しくし、君は独り豊かなるも、何の福かあらん。君はしばらく政事を修明し兄弟の国に親しみ、あるいは禍難を免れることができよう」と。随侯は惧れ、政事を修明し、楚は敢えて来て討たなかった。

夏,會於成,紀來諮謀齊難也。

夏、成で会見したのは、紀が来て斉国の禍難を諮問したからである。

北戎伐齊,齊侯使乞師於鄭。鄭大子忽帥師救齊。六月,大敗戎師,獲其二帥大良、少良,甲首三百,以獻於齊。於是,諸侯之大夫戍齊,齊人饋之餼,使魯為其班,後鄭。鄭忽以其有功也,怒,故有郎之師。

北戎が斉を討ち、斉侯は人を遣わして鄭に出兵を請うた。鄭太子忽は軍隊を率いて斉を救った。六月、戎軍を大いに破り、その二つの将帥大良・少良を俘にし、甲士の首級三百を斉に献じた。当時諸侯の大夫は斉を戍守し、斉人は糧餉を饋送し、魯に班次を排定させ、鄭を後にした。鄭忽は己が功あるを以て怒り、だから後に郎地の一戦があった。

公之未昏於齊也,齊侯欲以文姜妻鄭大子忽。大子忽辭,人問其故,大子曰:“人各有耦,齊大,非吾耦也。《詩》云:‘自求多福。’在我而已,大國何為?”君子曰:“善自為謀。”及其敗戎師也,齊侯又請妻之,固辭。人問其故,大子曰:“無事於齊,吾猶不敢。今以君命奔齊之急,而受室以歸,是以師昏也。民其謂我何?”遂辭諸鄭伯。

桓公がまだ斉と結親しないとき、斉侯は文姜を鄭太子忽に嫁がせようとした。太子忽は辞し、人に故を問われると、太子は言った「人には各々配偶あり、斉国は大きすぎて、我が配偶ではない。『詩』に『自ら多くの福を求む』とある。我が自身にあるのみ、大国が何をなそう」と。君子曰く「自らのために謀るに善し」と。彼が戎軍を破るに及び、斉侯はまた女を彼に嫁がせんことを請い、彼は固く辞した。人に故を問われると、太子は言った「斉に功なきとき、私はなお敢えてしなかった。いま君命を奉じて斉の急難に奔赴し、妻室を受けて帰る——これは出兵を以て婚を成すこと、百姓は私をどう言うであろう」と。そこで鄭伯に辞した。

秋,大閱,簡車馬也。

秋、大閲を行ったのは、車馬を検閲したのである。

九月丁卯,子同生,以大子生之禮舉之,接以大牢,卜士負之,士妻食之。

九月丁卯、子同が生まれ、太子出生の礼で办し、太牢で子を接し、卜を問いて士を選んで彼を抱かせ、士の妻に乳を与えさせた。

公與文姜、宗婦命之。

桓公と文姜・同宗の婦人が彼のために命名した。

公問名於申繻。對曰:“名有五,有信,有義,有象,有假,有類。以名生為信,以德命為義,以類命為象,取於物為假,取於父為類。不以國,不以官,不以山川,不以隱疾,不以畜牲,不以器幣。周人以諱事神,名,終將諱之。故以國則廢名,以官則廢職,以山川則廢主,以畜牲則廢祀,以器幣則廢禮。晉以僖侯廢司徒,宋以武公廢司空,先君獻、武廢二山,是以大物不可以命。”公曰:“是其生也,與吾同物,命之曰同。”

桓公は申繻に命名のことを問うた。申繻は答えた「名に五つの種あり、信あり、義あり、象あり、假あり、類あり。出生時の特徴をもって名づけるを信といい、徳行をもって名づけるを義といい、相類の事物をもって名づけるを象といい、器物を借りて名づけるを假といい、父と同じを取るを類といいます。国名を用いず、官名を用いず、山川を用いず、隠疾を用いず、畜牲を用いず、礼器玉帛を用いません。周人は避諱をもって神に事え、名は、死に及んで終に諱む。だから国名を用いれば国名を廃し、官名を用いれば官職を廃し、山川を用いれば神主を廃し、畜牲を用いれば祭祀を廃し、礼器玉帛を用いれば礼儀を廃します。晋は僖侯のために司徒を廃し、宋は武公のために司空を廃し、先君献公・武公は二つの山名を廃した、だから大物件は以て名づくべからず」と。桓公は「この子の生まれ、私と同じ日、就いて同と命名する」と言った。

冬,紀侯來朝,請王命以求成於齊,公告不能。

冬、紀侯が来て朝見し、天子の命令をもって斉と媾和することを請うたが、桓公はできないと告げた。

◇桓公七年

◇桓公七年

【經】七年春二月己亥,焚鹹丘。夏,谷伯綏來朝。鄧侯吾離來朝。

【経】七年春二月己亥、咸丘を焚いた。夏、穀伯綏が来て朝見した。鄧侯吾離が来て朝見した。

【傳】七年春,谷伯、鄧侯來朝。名,賤之也。

【伝】七年春、穀伯・鄧侯が来て朝見した。『春秋』がその名を書くのは、彼らを賤視したからである。

夏,盟、向求成於鄭,既而背之。

夏、盟・向は鄭に和を求め、まもなくまた背いた。

秋,鄭人、齊人、衛人伐盟、向。王遷盟、向之民於郟。

秋、鄭人・斉人・衛人は盟・向を討った。天子は盟・向の百姓を郟に遷した。

冬,曲沃伯誘晉小子侯,殺之。

冬、曲沃伯は晋の小子侯を誘い、彼を殺した。

◇桓公八年

◇桓公八年

【經】八年春正月己卯,烝。天王使家父來聘。夏五月丁丑,烝秋,伐邾。

【経】八年春正月己卯、烝祭を行った。周天子は家父を遣わして聘問した。夏五月丁丑、また烝祭を行った。秋、邾を討った。

冬十月,雨雪。祭公來,遂逆王后於紀。

冬十月、雪。祭公が来て、続いて紀に往き王后を迎えた。

【傳】八年春,滅翼。

【伝】八年春、翼を滅した。

隨少師有寵。楚鬥伯比曰:“可矣。仇有釁,不可失也。”

随の少師が寵を得た。楚の鬬伯比は「よし。仇敵に隙がある、逃してはならない」と言った。

夏,楚子合諸侯於沈鹿。黃、隨不會,使薳章讓黃。楚子伐隨,軍於漢、淮之間。

夏、楚子は沈鹿で諸侯を会合した。黄・随は会に来ず、䓕章を遣わして黄を責めさせた。楚子は随を討ち、軍隊は漢水・淮水の間に駐した。

季梁請下之:“弗許而後戰,所以怒我而怠寇也。”少師謂隨侯曰:“必速戰。不然,將失楚師。”隨侯御之,望楚師。季梁曰:“楚人上左,君必左,無與王遇。且攻其右,右無良焉,必敗。偏敗,眾乃攜矣。”少師曰:“不當王,非敵也。”弗從。戰於速杞,隨師敗績。隨侯逸,鬥丹獲其戎車,與其戎右少師。

季梁は先に楚に屈することを請いた「許さずしてそれから戦うは、我が軍を激怒させ敵軍を怠らせるためです」と。少師は随侯に「必ず速戦しなければ。さもなければ楚軍を逃します」と言った。随侯は兵を出して禦ぎ、遠く楚軍を望見した。季梁は「楚人は上首の左を尊びとし、君は必ず左にいます。楚王と正面から遇うなかれ。しばらくその右軍を攻めなさい、右軍に良将なく、必ず敗れます。偏師が敗れれば大軍は離散します」と言った。少師は「楚王に当たらなければ、対等の敵手ではない」と言った。随侯は季梁を聞かなかった。速杞で交戦し、随軍は大敗した。随侯は逃げ、鬬丹は彼の戎車と、車右の少師を獲た。

秋,隨及楚平。楚子將不許,鬥伯比曰:“天去其疾矣,隨未可克也。”乃盟而還。

秋、随と楚が媾和した。楚子は許さざるべくしたが、鬬伯比は「天はすでにその病害を去った、随はまだ勝てない」と言った。そこで盟約を結んで帰国した。

冬,王命虢仲立晉哀侯之弟緡於晉。

冬、天子は虢仲に命じて晋に晋哀侯の弟の緡を立てさせた。

祭公來,遂逆王后於紀,禮也。

祭公が来て、続いて紀に往き王后を迎えた、これは礼に合う。

◇桓公九年

◇桓公九年

【經】九年春,紀季姜歸於京師。夏四月,秋七月。冬,曹伯使其世子射姑來朝。

【経】九年春、紀季姜が京師に嫁いだ。夏四月、秋七月。冬、曹伯はその世子射姑を遣わして来て朝見させた。

【傳】九年春,紀季姜歸於京師。凡諸侯之女行,唯王后書。

【伝】九年春、紀季姜が京師に嫁いだ。およそ諸侯の女の出行は、王后となる者のみ記す。

巴子使韓服告於楚,請與鄧為好。楚子使道朔將巴客以聘於鄧。鄧南鄙鄾人攻而奪之幣,殺道朔及巴行人。楚子使薳章讓於鄧,鄧人弗受。

巴子は韓服を遣わして楚に報告し、鄧と結好することを請うた。楚子は道朔を遣わして巴国の客を率いて鄧に聘問させた。鄧国南鄙の鄾人は彼らを攻め、財幣を奪い、道朔と巴国の行人を殺した。楚子は䓕章を遣わして鄧を責めさせたが、鄧人は受け入れなかった。

夏,楚使鬥廉帥師及巴師圍鄾。鄧養甥、聃甥帥師救鄾。三逐巴師,不克。

夏、楚は鬬廉を遣わして軍隊を率い巴軍とともに鄾を包囲した。鄧の養甥・聃甥は軍隊を率いて鄾を救った。三たび巴軍を追ったが、勝てなかった。

鬥廉衡陳其師於巴師之中,以戰,而北。鄧人逐之,背巴師而夾攻之。鄧師大敗,鄾人宵潰。

鬬廉は軍隊を横に列ねて巴軍の中に入れて交戦し、それから敗逃を装った。鄧人は追い、巴軍を背にし、両面から攻められた。鄧軍は大敗し、鄾人は夜に潰散した。

秋,虢仲、芮伯、梁伯、荀侯、賈伯伐曲沃。

秋、虢仲・芮伯・梁伯・荀侯・賈伯は曲沃を討った。

冬,曹大子來朝,賓之以上卿,禮也。享曹大子,初獻,樂奏而嘆。施父曰:“曹大子其有憂乎?非嘆所也。”

冬、曹太子が来て朝見し、上卿の礼で彼を接待した、これは礼に合う。曹太子を宴享し、初めて酒を献じて楽曲が奏するとき彼は嘆息した。施父は「曹太子はおおよそ憂いがあるのであろうか。ここは嘆息する場ではない」と言った。

◇桓公十年

◇桓公十年

【經】十年春王正月,庚申,曹伯終生卒。夏五月,葬曹桓公。秋,公會衛侯於桃丘,弗遇。冬十有二月丙午,齊侯、衛侯、鄭伯來戰於郎。

【経】十年春、周天子の暦の正月庚申、曹伯終生が亡くなった。夏五月、曹桓公を葬った。秋、桓公は桃丘で衛侯と会見し、遇わなかった。冬十二月丙午、斉侯・衛侯・鄭伯が来て、郎で戦った。

【傳】十年春,曹桓公卒。

【伝】十年春、曹桓公が亡くなった。

虢仲譖其大夫詹父於王。詹父有辭,以王師伐虢。夏,虢公出奔虞。

虢仲は天子の前でその大夫詹父を讒した。詹父に理があったので、王師を率いて虢を討った。夏、虢公は虞に奔った。

秋,秦人納芮伯萬於芮。

秋、秦人は芮伯万を芮に送り返した。

初,虞叔有玉,虞公求旃。弗獻,既而悔之,曰:“周諺有之:‘匹夫無罪,懷璧其罪。’吾焉用此,其以賈害也?”乃獻之。又求其寶劍。叔曰:“是無厭也。無厭,將及我。”遂伐虞公,故虞公出奔共池。

むかし、虞叔に玉があった。虞公が彼に求めた。彼は献じず、まもなく後悔して言った「周の諺にこうあります『匹夫に罪なく、懐に璧を蔵すれば罪あり』。私はこの玉をどうしよう、まさかこれで禍を買うのか」と。そこで献じた。虞公はまたその宝剣を求めた。虞叔は「これは貪りて厭きなし。貪りて厭きなければ、禍は我が身に及ぶであろう」と言った。そこで虞公を討った、だから虞公は共池に奔った。

冬,齊、衛、鄭來戰於郎,我有辭也。

冬、斉・衛・鄭が来て郎で戦ったのは、我が国に理があったからである。

初,北戎病齊,諸侯救之。鄭公子忽有功焉。齊人餼諸侯,使魯次之。魯以周班後鄭。鄭人怒,請師於齊。齊人以衛師助之。故不稱侵伐。先書齊、衛,王爵也。

むかし、北戎は斉を困らせ、諸侯は往きて救った。鄭公子忽はその中で功があった。斉人は諸侯に糧餉を送らせ、魯に班次を排定させた。魯は周室の爵位の次序で鄭を後にした。鄭人は怒り、斉に兵を請うた。斉人は衛軍をもって彼らを助けた。だから『春秋』は侵とも伐とも称さない。先に斉・衛を書くのは、王爵の次序による。

◇桓公十一年

◇桓公十一年

【經】十有一年春正月,齊人、衛人、鄭人盟於惡曹。夏五月癸未,鄭伯寤生卒。秋七月,葬鄭莊公。九月,宋人執鄭祭仲。突歸於鄭。鄭忽出奔衛。柔會宋公、陳侯、蔡叔盟於折。公會宋公於夫鍾。冬十月有二月,公會宋公於闞。

【経】十一年春正月、斉人・衛人・鄭人は悪曹で盟約を結んだ。夏五月癸未、鄭伯寤生が亡くなった。秋七月、鄭荘公を葬った。九月、宋人は鄭国の祭仲を拘えた。突は鄭に帰った。鄭忽は衛に奔った。柔は宋公・陳侯・蔡叔と会見し、折で盟約を結んだ。桓公は夫鍾で宋公と会見した。冬十二月(底本は「十月有二月」、当に「十有二月」)、桓公は闞で宋公と会見した。

【傳】十一年春,齊、衛、鄭、宋盟於惡曹。

【伝】十一年春、斉・衛・鄭・宋は悪曹で盟約を結んだ。

楚屈瑕將盟貳、軫。鄖人軍於蒲騷,將與隨、絞、州、蓼伐楚師。莫敖患之。

楚の屈瑕は貳・軫と盟約を結ぼうとした。鄖人は蒲騒に軍を駐し、随・絞・州・蓼とともに楚軍を討たんとした。莫敖はこれを憂えた。

鬥廉曰:“鄖人軍其郊,必不誡,且日虞四邑之至也。君次於郊郢,以御四邑。

鬬廉が言った「鄖人は自国の郊に駐して必ず戒備せず、しかも日々四国の至るを望んでいます。君は郊郢に駐して四国を禦ぎなさい。

我以銳師宵加於鄖,鄖有虞心而恃其城,莫有鬥志。若敗鄖師,四邑必離。”莫敖曰:“盍請濟師於王?”對曰:“師克在和,不在眾。商、周之不敵,君之所聞也。成軍以出,又何濟焉?”莫敖曰:“卜之?”對曰:“卜以決疑,不疑何卜?”遂敗鄖師於蒲騷,卒盟而還。鄭昭公之敗北戎也,齊人將妻之,昭公辭。

(鬬廉は続けて言う)私は精鋭をもって夜に兵を鄖に加えます。鄖人は援を望む心があり城に恃みあり、闘志なし。鄖軍を敗れば四国は必ず離散します」と。莫敖は「どうして天子に増兵を請わない」と言った。鬬廉は答えた「軍隊の勝つは和に在り、衆の多きにあらず。商・周の敵せざるは、君の聞く所です。すでに軍を成して出すに、また何を増やそう」と。莫敖は「卜に問おうか」と言った。答えて曰く「卜は以て疑惑を断ずるもの、疑惑なくして何のために卜を問おう」と。そこで蒲騒で鄖軍を破り、ついに盟約を結んで帰国した。鄭昭公が北戎を破ったとき、斉人は女を彼に嫁がせようとしたが、昭公は辞した。

祭仲曰:“必取之。君多內寵,子無大援,將不立。三公子皆君也。”弗從。

祭仲は「必ず娶るべきです。君は内宠が多く、あなたには強大な外援がない、将に立つことあたわず。三人の公子はみな国君となるべきです」と言った。昭公は聞かなかった。

夏,鄭莊公卒。

夏、鄭荘公が亡くなった。

初,祭封人仲足有寵於莊公,莊公使為卿。為公娶鄧曼,生昭公,故祭仲立之。宋雍氏女於鄭莊公,曰雍姞,生厲公。雍氏宗有寵於宋莊公,故誘祭仲而執之,曰:“不立突,將死。”亦執厲公而求賂焉。祭仲與宋人盟,以厲公歸而立之。

むかし、祭地の封人仲足は荘公に寵信され、荘公は彼を卿とした。彼は荘公のために鄧曼を娶り、昭公を生んだ。だから祭仲は昭公を立てた。宋の雍氏は女をを鄭荘公に嫁がせ、雍姞といい、厲公を生んだ。雍氏の宗族は宋荘公に寵信されたので、祭仲を誘い拘えて言った「突を立てなければ、汝を処す」と。また厲公を拘えて財貨を求めた。祭仲は宋人と盟約を結び、厲公を連れて帰国し彼を君に立てた。

秋九月丁亥,昭公奔衛。己亥,厲公立。

秋九月丁亥、昭公は衛に奔った。己亥、厲公が即位した。

◇桓公十二年

◇桓公十二年

【經】十有二年春正月。夏六月壬寅,公會杞侯、莒子盟於曲池。秋七月丁亥,公會宋公、燕人盟於谷丘。八月壬辰,陳侯躍卒。公會宋公於虛。冬十有一月,公會宋公於龜。丙戌,公會鄭伯,盟於武父。丙戌,衛侯晉卒。十有二月,及鄭師伐宋。丁未,戰於宋。

【経】十二年春正月。夏六月壬寅、桓公は杞侯・莒子と会見し、曲池で盟約を結んだ。秋七月丁亥、桓公は宋公・燕人と会見し、穀丘で盟約を結んだ。八月壬辰、陳侯躍が亡くなった。桓公は虚で宋公と会見した。冬十一月、桓公は亀で宋公と会見した。丙戌、桓公は鄭伯と会見し、武父で盟約を結んだ。丙戌、衛侯晋が亡くなった。十二月、鄭軍とともに宋を討った。丁未、宋で戦った。

【傳】十二年夏,盟於曲池,平杞、莒也。

【伝】十二年夏、曲池で盟約を結んだのは、杞・莒を媾和させたのである。

公欲平宋、鄭。秋,公及宋公盟於句瀆之丘。宋成未可知也,故又會於虛。

桓公は宋・鄭を媾和させようとした。秋、桓公は宋公と句濆の丘で盟約を結んだ。宋が真に媾和できるかまだ知るべくもなく、だからまた虚で会見した。

冬,又會於龜。宋公辭平,故與鄭伯盟於武父。遂帥師而伐宋,戰焉,宋無信也。

冬、また亀で会見した。宋公が媾和を拒んだので、鄭伯と武父で盟約を結んだ。そこで軍隊を率いて宋を討ち、そこで戦った、宋に信用がなかったからである。

君子曰:“苟信不繼,盟無益也。《詩》云:‘君子屢盟,亂是用長。’無信也。”

君子曰く「もし信用が続かなければ、盟約も用なし。『詩』に『君子屢盟すれば、乱是用長ず』とあるのは、信用なきに由る」と。

楚伐絞,軍其南門。莫敖屈瑕曰:“絞小而輕,輕則寡謀,請無扞採樵者以誘之。”從之。絞人獲三十人。明日,絞人爭出,驅楚役徒于山中。楚人坐其北門,而覆諸山下,大敗之,為城下之盟而還。

楚が絞を討ち、南門に軍を駐した。莫敖屈瑕は言った「絞は小さくして軽佻、軽佻なれば謀少なし、柴を刈る者を衛るなかれ、以て彼らを誘わん」と。楚人はこれに従った。絞人は三十人を獲た。翌日、絞人は争って城を出て、楚の役徒を山中に追い込んだ。楚人は北門を坐守し、また山下に伏を設け、絞を大いに破り、城下の盟を結んで帰国した。

伐絞之役,楚師分涉於彭。羅人慾伐之,使伯嘉諜之,三巡,數之。

絞を討った役に、楚軍は彭水を分けて渡った。羅人は彼らを襲おうとして、伯嘉を遣わして偵察させ、三たび巡視し、人数を数えた。

◇桓公十三年

◇桓公十三年

【經】十有三年春二月,公會紀侯、鄭伯。己巳,及齊侯、宋公、衛侯、燕人戰。齊師、宋師、衛師、燕師敗績。三月,葬衛宣公。夏,大水。秋七月。冬十月。

【経】十三年春二月、桓公は紀侯・鄭伯と会見した。己巳、斉侯・宋公・衛侯・燕人と戦った。斉軍・宋軍・衛軍・燕軍は大敗した。三月、衛宣公を葬った。夏、大水。秋七月。冬十月。

【傳】十三年春,楚屈瑕伐羅,鬥伯比送之。還,謂其御曰:“莫敖必敗。

【伝】十三年春、楚の屈瑕は羅を討ち、鬬伯比が彼を送った。帰り、その御者に言った「莫敖は必ず敗れる。

舉趾高,心不固矣。”遂見楚子曰:“必濟師。”楚子辭焉。入告夫人鄧曼。鄧曼曰:“大夫其非眾之謂,其謂君撫小民以信,訓諸司以德,而威莫敖以刑也。

(鬬伯比は続けて言う)彼は足を高く挙げ、心はすでに定まっていない」と。そこで楚子に進見して言った「必ず増兵すべきです」と。楚子は拒んだ。入って夫人鄧曼に告げた。鄧曼は「大夫の言うは人の多少の問題ではなく、君が信をもって小民を撫し、徳をもって官員を訓導し、刑をもって莫敖を威懾せよということです。

莫敖狃於蒲騷之役,將自用也,必小羅。君若不鎮撫,其不設備乎?夫固謂君訓眾而好鎮撫之,召諸司而勸之以令德,見莫敖而告諸天之不假易也。不然,夫豈不知楚師之盡行也?”楚子使賴人追之,不及。

(鄧曼は続けて言う)莫敖は蒲騒の役の勝に慣れ、剛愎自用心あるでしょう、必ず羅を小さく見ます。君が鎮撫に往かなければ、彼は備を設けないでしょう。あの人は本は君に部衆を訓導し善く鎮撫せよと言い、官員を集めて美德をもって彼らを勧め、莫敖に見えて天は軽慢を貸さないと告げよというのです。さもなくば、彼は楚軍がすでに尽く出たことを知らないのでしょうか」と。楚子は頼人を遣わして追わせたが、追いつかなかった。

莫敖使徇於師曰:“諫者有刑。”及鄢,亂次以濟。遂無次,且不設備。及羅,羅與盧戎兩軍之。大敗之。莫敖縊於荒谷,群帥囚於冶父以聽刑。楚子曰:“孤之罪也。”皆免之。

莫敖は軍中を巡り令を伝えて「諫むる者は刑あり」と言った。鄢に至り、次序乱れて河を渡った。ここに陣列なく、しかも備を設けず。羅に至り、羅と盧戎が両面から挟撃した。彼を大いに破った。莫敖は荒谷で縊れ、諸将帥は冶父に囚えられ刑を聴した。楚子は「是れ我が罪なり」と言い、彼らを皆免した。

宋多責賂於鄭,鄭不堪命。故以紀、魯及齊與宋、衛、燕戰。不書所戰,後也。

宋はしばしば鄭に財貨を求め、鄭は堪えられなかった。だから紀・魯を率いて斉・宋・衛・燕と戦った。『春秋』が交戦の地を書かないのは、魯が遅れて至ったからである。

鄭人來請修好。

鄭人が来て友好を修め直すよう請うた。

◇桓公十四年

◇桓公十四年

【經】十有四年春正月,公會鄭伯於曹。無冰。夏五,鄭伯使其弟語來盟。

【経】十四年春正月、桓公は曹で鄭伯と会見した。氷なし。夏五月、鄭伯はその弟語を遣わして来て盟約させた。

秋八月壬申,御廩災。乙亥,嘗。冬十有二月丁巳,齊侯祿父卒。宋人以齊人、蔡人、衛人、陳人伐鄭。

秋八月壬申、御廩が失火した。乙亥、嘗祭を行った。冬十二月丁巳、斉侯禄父が亡くなった。宋人は斉人・蔡人・衛人・陳人を率いて鄭を討った。

【傳】十四年春,會於曹。曹人致餼,禮也。

【伝】十四年春、曹で会見した。曹人は糧餉を送った、これは礼に合う。

夏,鄭子人來尋盟,且修曹之會。

夏、鄭子人が来て盟約を温め直し、併せて曹地の会見を修め直した。

秋八月壬申,御廩災。乙亥,嘗。書,不害也。

秋八月壬申、御廩が失火した。乙亥、嘗祭を行った。『春秋』に記すのは、祭祀を害さなかったからである。

冬,宋人以諸侯伐鄭,報宋之戰也。焚渠門,入,及大逵。伐東郊,取牛首。

冬、宋人は諸侯を率いて鄭を討ち、宋での戦いの報復とした。渠門を焼き、入って、大路に至った。東郊を討ち、牛首を取った。

以大宮之椽歸,為盧門之椽。

鄭の太廟の椽木を持ち帰り、盧門の椽とした。

◇桓公十五年

◇桓公十五年

【經】十有五年春二月,天王使家父來求車。三月乙未,天王崩。夏四月己巳,葬齊僖公。五月,鄭伯突出奔蔡。鄭世子忽復歸於鄭。許叔入於許。公會齊侯於艾。邾人、牟人、葛人來朝。秋九月,鄭伯突入於櫟。冬十有一月,公會宋公、衛侯、陳侯於衰,伐鄭。

【経】十五年春二月、周天子は家父を遣わして来て車を求めさせた。三月乙未、周天子が亡くなった。夏四月己巳、斉僖公を葬った。五月、鄭伯突は蔡に奔った。鄭世子忽は復帰して鄭に入った。許叔は許に入った。桓公は艾で斉侯と会見した。邾人・牟人・葛人が来て朝見した。秋九月、鄭伯突は櫟に入った。冬十一月、桓公は衰で宋公・衛侯・陳侯と会見し、鄭を討った。

【傳】十五年春,天王使家父來求車,非禮也。諸侯不貢車、服,天子不私求財。

【伝】十五年春、周天子が家父を遣わして来て車を求めさせたのは、礼に合わない。諸侯は車・服飾を貢がず、天子は己の私に財物を求めない。

祭仲專,鄭伯患之,使其婿雍糾殺之。將享諸郊。雍姬知之,謂其母曰:“父與夫孰親?”其母曰:“人盡夫也,父一而已,胡可比也?”遂告祭仲曰:“雍氏舍其室而將享子於郊,吾惑之,以告。”祭仲殺雍糾,屍諸周氏之汪。公載以出,曰:“謀及婦人,宜其死也。”夏,厲公出奔蔡。

祭仲が権を専らにし、鄭伯は憂え、その女婿雍糾を遣わして彼を殺させようとした。郊で祭仲を宴しようとした。雍姫はこれを知り、その母に問うた「父と夫とどちらが親しいか」と。母は「人はみな夫となりうるが、父はただ一人、どうして比べられよう」と言った。そこで祭仲に告げて言った「雍氏はその家を離れて郊であなたを宴しようとしています、私はこれを疑い、だから告げに来ました」と。祭仲は雍糾を殺し、死体を周氏の池のほとりに陳した。厲公は雍糾の死体を載せて出逃し、「婦人と謀る、彼が死するは当然だ」と言った。夏、厲公は蔡に奔った。

六月乙亥,昭公入。

六月乙亥、昭公は国都に入った。

許叔入於許。

許叔は許に入った。

公會齊侯於艾,謀定許也。

桓公が艾で斉侯と会見したのは、許国を安んずるを謀議したのである。

秋,鄭伯因櫟人殺檀伯,而遂居櫟。

秋、鄭伯は櫟人によりて檀伯を殺し、そこで櫟に居た。

冬,會於衰,謀伐鄭,將納厲公也。弗克而還。

冬、衰で会見し、鄭を討つことを謀議し、厲公を送り帰そうとした。成功せず帰った。

◇桓公十六年

◇桓公十六年

【經】十有六年春正月,公會宋公、蔡侯、衛侯於曹。夏四月,公會宋公、衛侯、陳侯、蔡侯伐鄭。秋七月,公至自伐鄭。冬,城向。十有一月,衛侯朔出奔齊。

【経】十六年春正月、桓公は曹で宋公・蔡侯・衛侯と会見した。夏四月、桓公は宋公・衛侯・陳侯・蔡侯と会して鄭を討った。秋七月、桓公は伐鄭から帰った。冬、向に城を築いた。十一月、衛侯朔は斉に奔った。

【傳】十六年春正月,會於曹,謀伐鄭也。

【伝】十六年春正月、曹で会見したのは、鄭を討つことを謀議したのである。

夏,伐鄭。

夏、鄭を討った。

秋七月,公至自伐鄭,以飲至之禮也。

秋七月、桓公は伐鄭から帰り、飲至の礼を行った。

冬,城向,書,時也。

冬、向に城を築いた。『春秋』に記すのは、時節に合うからである。

初,衛宣公烝於夷姜,生急子,屬諸右公子。為之娶於齊,而美,公取之,生壽及朔,屬壽於左公子。夷姜縊。宣姜與公子朔構急子。公使諸齊,使盜待諸莘,將殺之。壽子告之,使行。不可,曰:“棄父之命,惡用子矣!有無父之國則可也。”及行,飲以酒,壽子載其旌以先,盜殺之。急子至,曰:“我之求也。

むかし、衛宣公は夷姜と通じ、急子を生み、右公子に託した。彼のために斉から妻を娶ったが、女子が美しかったので、宣公は自ら娶った。寿と朔を生み、寿を左公子に託した。夷姜は縊れて死んだ。宣姜と公子朔は急子を讒した。宣公は急子を斉に遣わし、また盗賊を莘に待たせ、彼を殺そうとした。寿子は彼に告げ、逃げるよう促した。彼は肯んぜず言った「父の命令を棄てて、なお子を用いるものか。父なき国あらばのみ可なり」と。路に上がると、寿子は彼に酒を飲ませ、自らその旌旗を載せて先に行き、盗賊は寿子を殺した。急子が駆けつけて言った「彼らが求めるは我なり。

此何罪?請殺我乎!”又殺之。二公子故怨惠公。

(急子は続けて言う)この人に何の罪がある。私を殺してくれ!」また彼をも殺した。二公子はこれによって恵公を怨んだ。

十一月,左公子洩、右公子職立公子黔牟。惠公奔齊。

十一月、左公子泄・右公子職は公子黔牟を立てた。恵公は斉に奔った。

◇桓公十七年

◇桓公十七年

【經】十有七年春正月丙辰,公會齊侯、紀侯盟於黃。二月丙午,公會邾儀父,盟於趡。夏五月丙午,及齊師戰於奚。六月丁丑,蔡侯封人卒。秋八月,蔡季自陳歸於蔡。癸巳,葬蔡桓侯。及宋人、衛人伐邾。冬十月朔,日有食之。

【経】十七年春正月丙辰、桓公は斉侯・紀侯と会見し、黄で盟約を結んだ。二月丙午、桓公は邾儀父と会見し、趡で盟約を結んだ。夏五月丙午、斉軍と奚で戦った。六月丁丑、蔡侯封人が亡くなった。秋八月、蔡季は陳から蔡に帰った。癸巳、蔡桓侯を葬った。宋人・衛人とともに邾を討った。冬十月朔、日食。

【傳】十七年春,盟於黃,平齊、紀,且謀衛故也。

【伝】十七年春、黄で盟約を結んだのは、斉・紀を媾和させ、併せて衛国の事を謀議するためである。

乃邾儀父盟於趡,尋蔑之盟也。

邾儀父と趡で盟約を結んだのは(底本は「乃邾儀父」、「乃」は「及」の譌)、蔑地の盟約を温め直すためである。

夏,及齊師戰於奚,疆事也。於是齊人侵魯疆,疆吏來告,公曰:“疆場之事,慎守其一,而備其不虞。姑盡所備焉。事至而戰,又何謁焉?”蔡桓侯卒。蔡人召蔡季於陳。

夏、斉軍と奚で戦ったのは、疆界上の事である。当時斉人は魯の疆界を侵し、疆吏が来て報告した。桓公は「疆場の事は、慎んで自らの一辺を守り、意外を備えよ。しばらく為すべき防備を尽くせ。事が来れば戦え、何を請うことがあろう」と言った。蔡桓侯が亡くなった。蔡人は陳から蔡季を呼び戻した。

秋,蔡季自陳歸於蔡,蔡人嘉之也。

秋、蔡季が陳から蔡に帰ったのは、蔡人が彼を嘉したからである。

伐邾,宋志也。

邾を討ったのは、宋の志である。

冬十月朔,日有食之。不書日,官失之也。天子有日官,諸侯有日御。日官居卿以厎日,禮也。日御不失日,以授百官於朝。

冬十月朔、日食。『春秋』が干支日を書かないのは、史官の失職である。天子には日官あり、諸侯には日御あり。日官は卿の位に居って暦日を推歩する、これは礼に合う。日御は日を遺さず、朝廷で百官に授ける。

初,鄭伯將以高渠彌為卿,昭公惡之,固諫,不聽,昭公立,懼其殺己也。

むかし、鄭伯は高渠弥を卿にしようとしたが、昭公は彼を憎み、固く諫めたが、荘公は聞かなかった。昭公が即位し、高渠弥は昭公が己を殺すことを恐れた。

辛卯,弒昭公,而立公子亹。

辛卯、昭公を弑し、公子亹を立てた。

君子謂昭公知所惡矣。公子達曰:“高伯其為戮乎?復惡已甚矣。”

君子は昭公は憎むべき者を知っていたと考える。公子達は「高伯はおおよそ殺されるであろう。旧怨に報いることあまりに過分なり」と言った。

◇桓公十八年

◇桓公十八年

【經】十有八年春王正月,公會齊侯於濼。公與夫人姜氏遂如齊。夏四月丙子,公薨於齊。丁酉,公之喪至自齊。秋七月,冬十有二月己丑,葬我君桓公。

【経】十八年春、周天子の暦の正月、桓公は濼で斉侯と会見した。桓公は夫人姜氏とともに斉に往いた。夏四月丙子、桓公は斉で薨じた。丁酉、桓公の喪が斉より至った。秋七月、冬十二月己丑、我が国君桓公を葬った。

【傳】十八年春,公將有行,遂與姜氏如齊。申繻曰:“女有家,男有室,無相瀆也,謂之有禮。易此,必敗。”

【伝】十八年春、桓公が出行しようとして、姜氏とともに斉に往こうとした。申繻は言う「女には夫家あり、男には妻室あり、相褻(あいけが)すなかれ、これを礼ありという。これを易えれば、必ず敗亡す」と。

公會齊侯於濼,遂及文姜如齊。齊侯通焉。公謫之,以告。

桓公は濼で斉侯と会見し、文姜とともに斉に往いた。斉侯は文姜と通じた。桓公は彼女を譴責し、彼女は斉侯に告げた。

夏四月丙子,享公。使公子彭生乘公,公薨於車。

夏四月丙子、宴を設けて桓公を享した。公子彭生を遣わして桓公の乗車を助けさせたところ、桓公は車上で薨じた。

魯人告於齊曰:“寡君畏君之威,不敢寧居,來修舊好,禮成而不反,無所歸咎,惡於諸侯。請以彭生除之。”齊人殺彭生。

魯人は斉に告げた「寡君は君の威を畏れ、安んじて居ることを敢えてせず、来て旧好を修めた。礼は成れたが帰ることができず、罪を帰する者なし、諸侯の間に悪名を遺さん。彭生を以てこの事を除いてほしい」と。斉人は彭生を殺した。

秋,齊侯師於首止,子亹會之,高渠彌相。七月戊戌,齊人殺子亹而轘高渠彌,祭仲逆鄭子於陳而立之。是行也,祭仲知之,故稱疾不往。人曰:“祭仲以知免。”仲曰:“信也。”

秋、斉侯は軍を首止に駐め、子亹が往きて会見し、高渠弥が傧相となった。七月戊戌、斉人は子亹を殺し、高渠弥を轘(かん)し、祭仲は陳に往き鄭子(子儀)を迎えて国君に立てた。この出行は、祭仲が先に知っていたので、病を称して往かなかった。ある人曰く「祭仲は明知を以て禍を免れた」と。祭仲は「実に然り」と言った。

周公欲弒莊王而立王子克。辛伯告王,遂與王殺周公黑肩。王子克奔燕。

周公は荘王を弑して王子克を立てようとした。辛伯は荘王に告げ、そこで荘王とともに周公黒肩を殺した。王子克は燕に奔った。

初,子儀有寵於桓王,桓王屬諸周公。辛伯諫曰:“並後、匹嫡、兩政、耦國,亂之本也。”周公弗從,故及。

むかし、子儀は桓王に寵信され、桓王は彼を周公に託した。辛伯は諫めて言うには「妾と王后と並び、庶子と嫡子と敵し、政権を執る者が二つ、都が二つ立つは、動乱の源なり」と。周公は聞かず、だから禍に遇った。

荘公(元年~三十二年)

◇莊公元年

◇荘公元年

【經】元年春王正月。三月,夫人孫於齊。夏,單伯送王姬。秋,築王姬之館於外。冬十月乙亥,陳侯林卒。王使榮叔來錫桓公命。王姬歸於齊。齊師遷紀、郱、鄑、郚。

【経】元年春、周天子の暦の正月。三月、夫人が斉に出奔した。夏、単伯は王姫を送った。秋、城外に王姫の館を築いた。冬十月乙亥、陳侯林が亡くなった。天子は栄叔を遣わして来て桓公に命服を賜わせた。王姫は斉に嫁いだ。斉軍は紀の郱・鄑・郚を遷した。

【傳】元年春,不稱即位,文姜出故也。

【伝】元年春、『春秋』が即位を称しないのは、文姜が国を出たためである。

三月,夫人孫於齊。不稱姜氏,絕不為親,禮也。

三月、夫人が斉に出奔した。姜氏と称しないのは、絶して親と認めないため、これは礼に合う。

秋,築王姬之館於外。為外,禮也。

秋、城外に王姫の館を築いた。外の者のためだから、これは礼に合う。

◇莊公二年

◇荘公二年

【經】二年春王二月,葬陳莊公。夏,公子慶父帥師伐於餘丘。秋七月,齊王姬卒。冬十有二月,夫人姜氏會齊侯於禚。乙酉,宋公馮卒。

【経】二年春、周天子の暦の二月、陳荘公を葬った。夏、公子慶父は軍隊を率いて余丘を討った。秋七月、斉の王姫が亡くなった。冬十二月、夫人姜氏は禚で斉侯と会見した。乙酉、宋公馮が亡くなった。

【傳】二年冬,夫人姜氏會齊侯於禚。書,奸也。

【伝】二年冬、夫人姜氏が禚で斉侯と会見した。『春秋』に記すのは、淫乱である。

◇莊公三年

◇荘公三年

【經】三年春王正月,溺會齊師伐衛。夏四月,葬宋莊公。五月,葬桓王。

【経】三年春、周天子の暦の正月、溺は斉軍と会して衛を討った。夏四月、宋荘公を葬った。五月、桓王を葬った。

秋,紀季以酅入於齊。冬,公次於滑。

秋、紀季は酅を以て斉に帰入した。冬、荘公は滑に次した。

【傳】三年春,溺會齊師伐衛,疾之也。

【伝】三年春、溺が斉軍と会して衛を討った。『春秋』がこのように書くのは、彼を憎んだからである。

夏五月,葬桓王,緩也。

夏五月、桓王を葬ったのは、遅れたのである。

秋,紀季以酅入於齊,紀於是乎始判。

秋、紀季が酅を以て斉に帰入したのは、紀がここに分裂を始めたのである。

冬,公次於滑,將會鄭伯,謀紀故也。鄭伯辭以難。凡師,一宿為舍,再宿為信,過信為次。

冬、荘公が滑に次したのは、鄭伯と会見し、紀国の事を謀議しようとしたのである。鄭伯は国内に難ありを以て辞した。およそ軍隊は、一夜止まるを舎といい、二夜止まるを信といい、信を過ぐれば次という。

◇莊公四年

◇荘公四年

【經】四年春王二月,夫人姜氏享齊侯於祝丘。三月,紀伯姬卒。夏,齊侯、陳侯、鄭伯遇於垂。紀侯大去其國。六月乙丑,齊侯葬紀伯姬。秋七月。冬,公及齊人狩於禚。

【経】四年春、周天子の暦の二月、夫人姜氏は祝丘で斉侯を饗した。三月、紀伯姫が亡くなった。夏、斉侯・陳侯・鄭伯は垂で遇した。紀侯は大きく其の国を去った。六月乙丑、斉侯は紀伯姫を葬った。秋七月。冬、荘公は斉人と禚で狩した。

【傳】四年春,王三月,楚武王荊尸,授師孑焉,以伐隨。將齊,入告夫人鄧曼曰:“餘心蕩。”鄧曼嘆曰:“王祿盡矣。盈而蕩,天之道也。先君其知之矣,故臨武事,將發大命,而蕩王心焉。若師徒無虧,王薨於行,國之福也。”

【伝】四年春、周暦三月、楚武王は荊尸の法に従い、戟を軍隊に授け、随を討ちに行った。斎戒しようとして、入って夫人鄧曼に告げた「余の心が蕩う」と。鄧曼は嘆して言った「王の禄は尽きた。満盈すれば蕩くは、天の道なり。先君は之を知れるが故に、武事に臨み大命を発せんとして、王の心を蕩かせたのであろう。もし師に損なく、王が行に薨ずれば、国の福なり」と。

王遂行,卒於樠木之下。令尹鬥祁、莫敖屈重除道梁溠,營軍臨隨。隨人懼,行成。莫敖以王命入盟隨侯,且請為會於漢汭而還。濟漢而後發喪。

王はすなわち行き、檹木の下で薨じた。令尹鬬祁・莫敖屈重は道を除き、溠水に橋を架け、営を伴せて随に進み臨んだ。随人は惧れ、和を求めた。莫敖は王命を以て入り随侯と盟約を結び、漢水之汭で会見することを請い、それから帰国した。漢水を渡り済みてのち、発喪した。

紀侯不能下齊,以與紀季。夏,紀侯大去其國,違齊難也。

紀侯は斉の下に屈することができず、国を紀季に与えた。夏、紀侯が大きく其の国を去ったのは、斉の禍難を避けたのである。

◇莊公五年

◇荘公五年

【經】五年春王正月。夏,夫人姜氏如齊師。秋,郳犁來來朝。冬,公會齊人、宋人、陳人、蔡人伐衛。

【経】五年春、周天子の暦の正月。夏、夫人姜氏は斉軍に往いた。秋、郳犂来が来て朝見した。冬、荘公は斉人・宋人・陳人・蔡人と会して衛を討った。

【傳】五年秋,郳犁來來朝,名,未王命也。

【伝】五年秋、郳犂来が来て朝見した。『春秋』がその名を書くのは、まだ周天子の爵命を得ていないからである。

冬,伐衛,納惠公也。

冬、衛を討ったのは、恵公を送り帰すためである。

◇莊公六年

◇荘公六年

【經】六年春王正月,王人子突救衛。夏六月,衛侯朔入於衛。秋,公至自伐衛。螟。冬,齊人來歸衛俘。

【経】六年春、周天子の暦の正月、王室の人子突が衛を救った。夏六月、衛侯朔は衛に入った。秋、荘公は伐衛から帰った。螟の災いがあった。冬、斉人が来て衛の俘を帰した。

【傳】六年春,王人救衛。

【伝】六年春、王室の人は衛を救った。

夏,衛侯入,放公子黔牟於周,放寧跪於秦,殺左公子洩、右公子職,乃即位。

夏、衛侯が入り、公子黔牟を周に放ち、寧跪を秦に放ち、左公子泄・右公子職を殺して、それから即位した。

君子以二公子之立黔牟為不度矣。夫能固位者,必度於本末而後立衷焉。不知其本,不謀。知本之不枝,弗強。《詩》云:“本枝百世。”

君子は二公子が黔牟を立てたのは度量がなかったと考える。君位を固くしうる者は、必ず本末を度量し、それからその中に立てる。その本を知らなければ、謀ることなかれ。本を知って枝葉を生ぜしむべからざれば、強うるなかれ。『詩』に『本枝百世』とある。

冬,齊人來歸衛寶,文姜請之也。

冬、斉人が来て衛の宝器を帰したのは、文姜が請うたからである。

楚文王伐申,過鄧。鄧祁侯曰:“吾甥也。”止而享之。騅甥、聃甥、養甥請殺楚子,鄧侯弗許。三甥曰:“亡鄧國者,必此人也。若不早圖,後君噬齊。

楚文王は申を討ち、鄧を過ぎた。鄧祁侯は「我が甥なり」と言い、留めて饗した。騅甥・聃甥・養甥は楚子を殺すよう請うたが、鄧侯は許さなかった。三甥は言った「鄧国を亡ぼすは、必ずこの人。早く図らずんば、君は後に其の臍を噛むも及ばず。

其及圖之乎?圖之,此為時矣。”鄧侯曰:“人將不食吾餘。”對曰:“若不從三臣,抑社稷實不血食,而君焉取餘?”弗從。還年,楚子伐鄧。十六年,楚復伐鄧,滅之。

(三甥は続けて言う)なお彼を図るに及ぶか。彼を図るは、此の時なり」と。鄧侯は「人は将に我が餘を食わざらん」と言った。彼らは答えた「若し三臣に従わずんば、社稷は実に血食を得ざらんと、君は焉んぞ餘を取らん」と。鄧侯は聞かなかった。楚子が申を伐ちて帰った年、鄧を討った。十六年、楚は再び鄧を討ち、之を亡ぼした。

◇莊公七年

◇荘公七年

【經】七年春,夫人姜氏會齊侯於防。夏四月辛卯,夜,恆星不見。夜中,星隕如雨。秋,大水。無麥苗。冬,夫人姜氏會齊侯於谷。

【経】七年春、夫人姜氏は防で斉侯と会見した。夏四月辛卯、夜、恒星が見えなかった。夜半、星が雨のごとく隕れた。秋、大水。麦苗なし。冬、夫人姜氏は穀で斉侯と会見した。

【傳】七年春,文姜會齊侯於防,齊志也。

【伝】七年春、文姜が防で斉侯と会見したのは、斉の志である。

夏,恆星不見,夜明也。星隕如雨,與雨偕也。

夏、恒星が見えなかったのは、夜空が明るかったからである。星が雨のごとく隕れたのは、雨とともに下ったのである。

秋,無麥苗,不害嘉穀也。

秋、麦苗はなかったが、黍稷の好穀を害さなかった。

◇莊公八年

◇荘公八年

【經】八年春王正月,師次於郎,以俟陳人,蔡人。甲午,治兵。夏,師及齊師圍郕,郕降於齊師。秋,師還。冬十有一月癸未,齊無知弒其君諸兒。

【経】八年春、周天子の暦の正月、軍隊は郎に次し、陳人・蔡人を俟った。甲午、治兵した。夏、我が軍と斉軍は郕を包囲し、郕は斉軍に降った。秋、軍隊は帰国した。冬十一月癸未、斉の無知がその君諸児を弑した。

【傳】八年春,治兵於廟,禮也。

【伝】八年春、太廟で兵を治めた、これは礼に合う。

夏,師及齊師圍郕。郕降於齊師。仲慶父請伐齊師。公曰:“不可。我實不德,齊師何罪?罪我之由。《夏書》曰:‘皋陶邁種德,德,乃降。’姑務修德以待時乎。”秋,師還。君子是以善魯莊公。

夏、我が軍と斉軍は郕を包囲した。郕は斉軍に降った。仲慶父は斉軍を攻撃するよう請うた。荘公は「いけない。実に我が徳を修めざるに由る、斉軍に何の罪かある。罪は我より来る。『夏書』に『皐陶邁種德すれば、德あれば降す』とある。しばらく徳を修めるに務めて時を俟とう」と言った。秋、軍隊は帰国した。君子はこれによって魯荘公を美した。

齊侯使連稱、管至父戍葵丘。瓜時而往,曰:“及瓜而代。”期戍,公問不至。請代,弗許。故謀作亂。

斉侯は連称・管至父を遣わして葵丘を戍守させた。瓜熟の時に往き、「来年の瓜熟に至れば人を遣わして替えよう」と言った。戍守一年満ちて、斉侯の命が至らなかった。替えることを請うたが、許さなかった。だから乱を謀った。

僖公之母弟曰夷仲年,生公孫無知,有寵於僖公,衣服禮秩如適。襄公絀之。

僖公の同母弟は夷仲年といい、公孫無知を生み、僖公に寵信され、衣服礼秩は嫡子のごとくであった。襄公は彼を黜した。

二人因之以作亂。連稱有從妹在公宮,無寵,使間公,曰:“捷,吾以女為夫人。”

二人は彼に依って乱を起こした。連称に従妹が公宮にあり、寵を受けず、彼女に襄公を窺わせて「事が成れば、汝を夫人としよう」と言った。

冬十二月,齊侯遊於姑棼,遂田於貝丘。見大豕,從者曰:“公子彭生也。”

冬十二月、斉侯は姑棼で遊び、続いて貝丘で田獵した。大きな猪を見て、従者は「公子彭生です」と言った。

公怒曰:“彭生敢見!”射之,豕人立而啼。公懼,墜於車,傷足喪屨。反,誅屨於徒人費。弗得,鞭之,見血。走出,遇賊於門,劫而束之。費曰:“我奚御哉!”袒而示之背,信之。費請先入,伏公而出,鬥,死於門中。石之紛如死於階下。遂入,殺孟陽於床。曰:“非君也,不類。”見公之足於戶下,遂弒之,而立無知。

斉侯は怒って「彭生が敢えて見るか!」と言い、それを射ると、猪は人のごとく立って啼いた。斉侯は惧れ、車から墜ちて、足を傷め履を失った。帰り、徒人費に履を責めた。得られず、彼を鞭ちて、血を出した。費は走り出て、門で賊人に遇い、劫えられ縛された。費は言った「我は何ぞ汝らに御まん。衣を解いて背の傷を見せれば、賊人は信じた。費は先に入ることを請い、襄公を蔵して出て、搏ち、門の中に死した。石之紛如は階下に死した。賊人はそこで入り、床上で孟陽を殺した。「国君ではない、貌が似ない」と言い、襄公の足を門扇の下に見て、そこで彼を弑し、無知を立てた。

初襄公立,無常。鮑叔牙曰:“君使民慢,亂將作矣。”奉公子小白出奔莒。

むかし襄公が即位し、政令に常がなかった。鮑叔牙は「君は百姓を怠らせ、乱は将に起こらんとす」と言い、公子小白に事えて莒に奔った。

亂作,管夷吾、召忽奉公子糾來奔。

乱が起きると、管夷吾・召忽は公子糾に事えて魯に奔った。

初,公孫無知虐於雍廩。

むかし、公孫無知は雍廪を虐にした。

◇莊公九年

◇荘公九年

【經】九年春,齊人殺無知。公及齊大夫盟於既。夏,公伐齊納子糾。齊小白入於齊。秋七月丁酉,葬齊襄公。八月庚申,及齊師戰於乾時,我師敗績。九月,齊人取子糾殺之。冬,浚洙。

【経】九年春、斉人は無知を殺した。荘公は斉の大夫と既で盟約を結んだ。夏、荘公は斉を討ち、子糾を送り帰した。斉小白は斉に入った。秋七月丁酉、斉襄公を葬った。八月庚申、斉軍と乾時で戦い、我が軍は大敗した。九月、斉人は子糾を取って殺した。冬、洙水を濬えた。

【傳】九年春,雍廩殺無知。

【伝】九年春、雍廪は無知を殺した。

公及齊大夫盟於蔇,齊無君也。

荘公は斉の大夫と蔇で盟約を結んだ、斉に国君がなかったからである。

夏,公伐齊,納子糾。桓公自莒先入。

夏、荘公は斉を討ち、子糾を送り帰した。桓公は莒より先に入った。

秋,師及齊師戰於乾時,我師敗績,公喪戎路,傳乘而歸。秦子、梁子以公旗闢於下道,是以皆止。

秋、我が軍は斉軍と乾時で戦い、我が軍は大敗し、荘公は戎車を棄て、別の車に乗りて帰国した。秦子・梁子は荘公の旗を打って小路に避けたので、ともに俘にされた。

鮑叔帥師來言曰:“子糾,親也,請君討之。管、召、仇也,請受而甘心焉。”

鮑叔は軍隊を率いて来て伝えて言った「子糾は、親なり、君にこれを討たしめんことを請う。管・召は、仇なり、我らに受けて心を甘んぜしめんことを請う」と。

乃殺子糾於生竇,召忽死之。管仲請囚,鮑叔受之,及堂阜而稅之。歸而以告曰:“管夷吾治於高傒,使相可也。”公從之。

そこで生竇で子糾を殺し、召忽は彼のために死した。管仲は囚たることを請い、鮑叔はこれを受け、堂阜に至って之を解いた。帰り桓公に告げて言った「管夷吾の治之才は高傒に過ぎたり、彼を宰相とするは可なり」と。桓公はこれに従った。

◇莊公十年

◇荘公十年

【經】十年春王正月,公敗齊師於長勺。二月,公侵宋。三月,宋人遷宿。

【経】十年春、周天子の暦の正月、荘公は長勺で斉軍を敗した。二月、荘公は宋を侵した。三月、宋人は宿を遷した。

夏六月,齊師、宋師次於郎。公敗宋師於乘丘。秋九月,荊敗蔡師於莘,以蔡侯獻舞歸。冬十月,齊師滅譚,譚子奔莒。

夏六月、斉軍・宋軍は郎に次した。荘公は乗丘で宋軍を敗した。秋九月、楚は莘で蔡軍を敗し、蔡侯献舞を連れて帰った。冬十月、斉軍は譚を滅し、譚子は莒に奔った。

【傳】十年春,齊師伐我。公將戰,曹劌請見。其鄉人曰:“肉食者謀之,又何間焉。劌曰:“肉食者鄙,未能遠謀。”乃入見。問何以戰。公曰:“衣食所安,弗敢專也,必以分人。”對曰:“小惠未遍,民弗從也。”公曰:“犠牲玉帛,弗敢加也,必以信。”對曰:“小信未孚,神弗福也。”公曰:“小大之獄,雖不能察,必以情。”對曰:“忠之屬也,可以一戰,戰則請從。”

【伝】十年春、斉軍が来て我が国を討った。荘公が戦わんとしたとき、曹劌は進見を請うた。その郷人は「肉食する者がこれを謀る、汝は何ぞ与ることを要せん」と言った。曹劌は「肉食する者は鄙陋、遠く謀る能わず」と言い、そこで入りて見えた。何を以て戦うかを問うた。荘公は「衣食の身を安んずる所は、敢えて専有せず、必ず人に分かつ」と言った。曹劌は答えて「小惠は遍からざれば、百姓は従わざらん」と。荘公は「犠牲玉帛は、敢えて加えず、必ず信を以てす」と言った。答えて「小信は神に孚せざれば、神は福を降さざらん」と。荘公は「小大の獄は、察する能わざると雖も、必ず情を以てす」と言った。答えて「是れ忠の属なり、以て一戦すべし。戦わば請う従わん」と。

公與之乘。戰於長勺。公將鼓之。劌曰;“未可。”齊人三鼓,劌曰:“可矣。”齊師敗績。公將馳之。劌曰:“未可。”下,視其轍,登,軾而望之,曰:“可矣。”遂逐齊師。

荘公は彼と乗を同じくした。長勺で戦った。荘公は鼓を撃てんとした。曹劌は「未だ可ならず」と言った。斉人は三たび鼓し、曹劌は「可なり」と言った。斉軍は敗績した。荘公は馳逐せんとした。曹劌は「未だ可ならず」と言った。車を下り、斉軍の轍を視、車に登りて軾に凭りて望み、「可なり」と言った。そこで斉軍を逐った。

既克,公問其故。對曰:“夫戰,勇氣也,一鼓作氣,再而衰,三而竭。彼竭我盈,故克之。夫大國難測也,懼有伏焉。吾視其轍亂,望其旗靡,故逐之。”

すでに勝ち克りて、荘公はその故を問うた。曹劌は答えた「戦は、勇気なり。一鼓して気を作し、再びて衰え、三たびして竭く。彼竭れて我盈つ、故に克たり。大国は測りがたく、伏あるを惧れたり。我が其の轍の乱れ、旗の靡を見れば、故に逐たり」と。

夏六月,齊師、宋師次於郎。公子偃曰:“宋師不整,可敗也。宋敗,齊必還,請擊之。”公弗許。自雩門竊出,蒙皋比而先犯之。公從之。大敗宋師於乘丘。齊師乃還。

夏六月、斉軍・宋軍は郎に次した。公子偃は「宋軍は整わず、敗すべし。宋敗れれば斉は必ず帰らん、撃たんことを請う」と言った。荘公は許さなかった。公子偃は雩門より私出て、虎皮を蒙めて先に衝いた。荘公は彼に従った。乗丘で宋軍を大いに敗った。斉軍はそこで帰った。

蔡哀侯娶於陳,息侯亦娶焉。息媯將歸,過蔡。蔡侯曰:“吾姨也。”止而見之,弗賓。息侯聞之,怒,使謂楚文王曰:“伐我,吾求救於蔡而伐之。”楚子從之。秋九月,楚敗蔡師於莘,以蔡侯獻舞歸。

蔡哀侯は陳から妻を娶り、息侯もまた陳から妻を娶った。息嬀が嫁がんとして、蔡を過ぎた。蔡侯は「我が姨なり」と言い、留めて見た、賓礼を以てせず。息侯はこれを聞き、怒り、人を遣わして楚文王に告げて言った「来て我を伐て、我は蔡に救を求めん、子はまた蔡を伐て」と。楚子はこれに従った。秋九月、楚は莘で蔡軍を敗し、蔡侯献舞を連れて帰った。

齊侯之出也,過譚,譚不禮焉。及其入也,諸侯皆賀,譚又不至。冬,齊師滅譚,譚無禮也。譚子奔莒,同盟故也。

斉侯が出奔したとき、譚を過ぎたが、譚は礼を以てせず。彼が帰国するに及び、諸侯は皆賀しに来たが、譚はまた来ず。冬、斉軍は譚を滅した、譚の無礼に由る。譚子は莒に奔った、同盟のためである。

◇莊公十一年

◇荘公十一年

【經】十有一年春王正月。夏五月,戊寅,公敗宋師於鄑。秋,宋大水。

【経】十一年春、周天子の暦の正月。夏五月戊寅、荘公は鄑で宋軍を敗した。秋、宋に大水。

冬,王姬歸於齊。

冬、王姫は斉に嫁いだ。

【傳】十一年夏,宋為乘丘之役故侵我。公御之,宋師未陳而薄之,敗諸鄑。

【伝】十一年夏、宋は乗丘の役の故を以て我が国を侵した。荘公は禦ぎ、宋軍がまだ陣せざるに薄めて、鄑でこれを敗った。

凡師,敵未陳曰敗某師,皆陳曰戰,大崩曰敗績,得俊曰克,覆而敗之曰取某師,京師敗曰王師敗績於某。

およそ軍隊は、敵が未だ陣せざるを「某師を敗る」といい、皆陣するを「戦」といい、大崩するを「敗績」といい、敵の俊傑を俘にするを「克」といい、伏を以て敗るを「某師を取る」といい、天子の軍隊の敗を「王師敗績于某」という。

秋,宋大水。公使吊焉,曰:“天作淫雨,害於粢盛,若之何不弔?”對曰:“孤實不敬,天降之災,又以為君憂,拜命之辱。”臧文仲曰:“宋其興乎。禹、湯罪己,其興也悖焉,桀、紂罪人,其亡也忽焉。且列國有兇稱孤,禮也。言懼而名禮,其庶乎。”既而聞之曰公子御說之辭也。臧孫達曰:“是宜為君,有恤民之心。”

秋、宋に大水。荘公は人を遣わして弔して言わせた「天は淫雨を降し、粢盛を害す、何ぞ弔せざらん」と。宋公は答えた「実に我が不敬にして、天は殃を降し、また以て君を憂えしむ、君の辱命を拜す」と。臧文仲は「宋は其れ興らんとするか。禹・湯は己に罪し、其の興り也勃焉。桀・紂は人に罪し、其の亡び也忽焉。且つ列国に凶あらば孤と称す、礼なり。言を戒惧して名称は礼なり、其れ庶幾ならん」と。ほどなく公子御の言なりと聞えた。臧孫達は「是の人は国君と為るに宜しき、恤民の心有り」と言った。

冬,齊侯來逆共姬。

冬、斉侯は来て共姫を娶った。

乘丘之役,公以金僕姑射南宮長萬,公右遄孫生搏之。宋人請之,宋公靳之,曰:“始吾敬子,今子,魯囚也。吾弗敬子矣。”病之。

乗丘の役、荘公は金僕姑を以て南宮長万を射中て、車右歂孫が之を生擒にした。宋人は之を帰すことを請い、宋公は彼を戲れて言った「始め我は子を敬せり、今は子は魯の囚、我は子を敬せざらん」と。南宮長万はこれを病にした。

◇莊公十二年

◇荘公十二年

【經】十有二年春王三月,紀叔姬歸於酅。夏四月。秋八月甲午,宋萬弒其君捷及其大夫仇牧。十月,宋萬出奔陳。

【経】十二年春、周天子の暦の三月、紀叔姫は酅に帰した。夏四月。秋八月甲午、宋万はその君捷およびその大夫仇牧を弑した。十月、宋万は陳に奔った。

【傳】十二年秋,宋萬弒閔公於蒙澤。遇仇牧於門,批而殺之。遇大宰督於東宮之西,又殺之。立子游。群公子奔蕭。公子御說奔亳。南宮牛、猛獲帥師圍亳。

【伝】十二年秋、宋万は蒙沢で閔公を弑した。門で仇牧に遇い、批して之を殺した。東宮の西で太宰督に遇い、また之を殺した。子游を立てた。群公子は蕭に奔った。公子御説は亳に奔った。南宮牛・猛獲は軍隊を率いて亳を包囲した。

冬十月,蕭叔大心及戴、武、宣、穆、莊之族以曹師伐之。殺南宮牛於師,殺子游於宋,立桓公。猛獲奔衛。南宮萬奔陳,以乘車輦其母,一日而至。

冬十月、蕭叔大心および戴・武・宣・穆・荘の族は曹軍を以て之を討った。軍中で南宮牛を殺し、宋都で子游を殺し、桓公を立てた。猛獲は衛に奔った。南宮万は陳に奔り、乗車を以てその母を輦して、一日にして至った。

宋人請猛獲於衛,衛人慾勿與,石祁子曰:“不可。天下之惡一也,惡於宋而保於我,保之何補?得一夫而失一國,與惡而棄好,非謀也。”衛人歸之。亦請南宮萬於陳,以賂。陳人使婦人飲之酒,而以犀革裹之。比及宋,手足皆見。

宋人は衛に猛獲を帰すことを請うた。衛人は与えざらんとしたが、石祁子は「不可なり。天下の悪は一なり、宋に悪を為して我に保たる、保って何の益かある。一夫を得て一国を失い、悪人と結びて好を棄つ、是れ謀に非ず」と言った。衛人は之を帰した。また陳に南宮万を帰すことを請い、財貨を以てした。陳人は婦人をして之に飲ませ、犀革を以て裹めた。宋に至るを及びて、手足みな見えた。

宋人皆醢之。

宋人は皆彼らを醢にした。

◇莊公十三年

◇荘公十三年

【經】十有三年春,齊侯、宋人、陳人、蔡人、邾人會於北杏。夏六月,齊人滅遂。秋七月。冬,公會齊侯盟於柯。

【経】十三年春、斉侯・宋人・陳人・蔡人・邾人は北杏で会した。夏六月、斉人は遂を滅した。秋七月。冬、荘公は斉侯と会見し、柯で盟約を結んだ。

【傳】十三年春,會於北杏,以平宋亂。遂人不至。

【伝】十三年春、北杏で会したのは、宋の乱を平ぐるためである。遂人は来ず。

夏,齊人滅遂而戍之。

夏、斉人は遂を滅して之を戍った。

冬,盟於柯,始及齊平也。

冬、柯で盟約を結んだのは、斉との媾和を始めたのである。

宋人背北杏之會。

宋人は北杏の会に背いた。

◇莊公十四年

◇荘公十四年

【經】十有四年春,齊人、陳人、曹人伐宋。夏,單伯會伐宋。秋七月,荊入蔡。冬,單伯會齊侯、宋公、衛侯、鄭伯於鄄。

【経】十四年春、斉人・陳人・曹人は宋を討った。夏、単伯は会して宋を討った。秋七月、楚は蔡に入った。冬、単伯は鄄で斉侯・宋公・衛侯・鄭伯と会見した。

【傳】十四年春,諸侯伐宋,齊請師於周。夏,單伯會之,取成於宋而還。

【伝】十四年春、諸侯は宋を討ち、斉は周に出兵を請うた。夏、単伯は彼らと会し、宋と和を成して帰国した。

鄭厲公自櫟侵鄭,及大陵,獲傅瑕。傅瑕曰:“苟舍我,吾請納君。”與之盟而赦之。六月甲子,傅瑕殺鄭子及其二子而納厲公。

鄭厲公は櫟より鄭都を侵し、大陵に至り、傅瑕を獲た。傅瑕は「若し我を舎めば、君を帰さんことを請う」と言った。彼と盟約して赦した。六月甲子、傅瑕は鄭子およびその二子を殺し、厲公を送り帰した。

初,內蛇與外蛇鬥於鄭南門中,內蛇死。六年而厲公入。公聞之,問於申繻曰:“猶有妖乎?”對曰:“人之所忌,其氣焰以取之,妖由人興也。人無釁焉,妖不自作。人棄常則妖興,故有妖。”

むかし、内蛇と外蛇は鄭の南門の中で闘い、内蛇は死んだ。六年経て厲公が入った。厲公はこれを聞き、申繻に問うた「なお妖あらんや」と。申繻は答えた「人の忌む所は、其の炎は人より起こる。人に釁なくば、妖は自作せざらん。人が常を棄てれば、妖は興る、故に妖あり」と。

厲公入,遂殺傅瑕。使謂原繁曰:“傅瑕貳,周有常刑,既伏其罪矣。納我而無二心者,吾皆許之上大夫之事,吾願與伯父圖之。且寡人出,伯父無裡言,入,又不念寡人,寡人憾焉。”對曰:“先君桓公命我先人典司宗祏。社稷有主而外其心,其何貳如之?苟主社稷,國內之民其誰不為臣?臣無二心,天之制也。子儀在位十四年矣,而謀召君者,庸非二乎。莊公之子猶有八人,若皆以官爵行賂勸貳而可以濟事,君其若之何?臣聞命矣。”乃縊而死。

厲公が入り、ついに傅瑕を殺した。人を遣わして原繁に告げて言わせた「傅瑕は貳心あり、周に常刑あり、已に罪に服せり。我を帰して貳心なき者は、我は皆上大夫の職事を許さん、我は伯父とともに謀らんと欲す。且つ我が出の時、伯父は里の言を通ぜず、我が帰るや、また我を念わず、我は憾と為す」と。原繁は答えた「先君桓公は我が先人に命じて宗廟の石室を典せしめり。社稷に主有りて其心外有らば、亦た何ぞ貳の如からん。苟に社稷を主れば、国内の民は誰か臣ならざらん。臣に貳心なきは、天之制なり。子儀の位に在るや十四年、而して召君の計を為す者は、庸く貳にあらずや。荘公の子は猶八人有り、若し皆以官爵行賂して貳を勧めて済らば、君は則ち若何。臣は命を聞けり」と。乃ち縊れて死した。

蔡哀侯為莘故,繩息媯以語楚子。楚子如息,以食入享,遂滅息。以息媯歸,生堵敖及成王焉,未言。楚子問之,對曰:“吾一婦人而事二夫,縱弗能死,其又奚言?”楚子以蔡侯滅息,遂伐蔡。秋七月,楚入蔡。

蔡哀侯は莘の役の故を以て、楚子の前で息嬀を誉した。楚子は息に往き、食を將して入りて饗し、そこで息を滅した。息嬀を連れて帰り、堵敖と成王を生んだが、彼女は言わなかった。楚子は彼女に問う、彼女は答えて言った「吾一婦人として二夫に事え、縦に死する能わざるも、また何を言うことを得ん」と。楚子は蔡侯の故を以て息を滅し、そこで蔡を討った。秋七月、楚は蔡に入った。

君子曰:“《商書》所謂‘惡之易也,如火之燎於原,不可鄉邇,其猶可撲滅’者,其如蔡哀侯乎。”

君子曰く「『商書』の謂う『悪の延びるや、火の原野を焼くが如く、近づくべからず、尚ほ克く撲滅せんや』とは、蔡哀侯の如きなり」と。

冬,會於鄄,宋服故也。

冬、鄄で会したのは、宋が服したからである。

◇莊公十五年

◇荘公十五年

【經】十有五年春,齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯會於鄄。夏,夫人姜氏如齊。秋,宋人、齊人、邾人伐郳。鄭人侵宋。冬十月。

【経】十五年春、斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯は鄄で会した。夏、夫人姜氏は斉に往いた。秋、宋人・斉人・邾人は郳を討った。鄭人は宋を侵した。冬十月。

【傳】十五年春,復會焉,齊始霸也。

【伝】十五年春、また彼の地で会し、斉は覇を始めた。

秋,諸侯為宋伐郳。鄭人間之而侵宋。

秋、諸侯は宋のために郳を討った。鄭人は間に乗じて宋を侵した。

◇莊公十六年

◇荘公十六年

【經】十有六年春王正月。夏,宋人、齊人、衛人伐鄭。秋,荊伐鄭。冬十有二月,會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、滑伯、滕子同盟於幽。邾子克卒。

【経】十六年春、周天子の暦の正月。夏、宋人・斉人・衛人は鄭を討った。秋、楚は鄭を討った。冬十二月、斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・滑伯・滕子と会し、幽で同盟した。邾子克が亡くなった。

【傳】十六年夏,諸侯伐鄭,宋故也。

【伝】十六年夏、諸侯が鄭を討ったのは、宋のためである。

鄭伯自櫟入,緩告於楚。秋,楚伐鄭,及櫟,為不禮故也。

鄭伯は櫟より国都に入り、楚への報告が遅れた。秋、楚は鄭を討ち、櫟に及んだ、鄭が礼を以てせざるに由る。

鄭伯治與於雍糾之亂者。九月,殺公子閼,刖強鉏。公父定叔出奔衛。三年而復之,曰:“不可使共叔無後於鄭。”使以十月入,曰:“良月也,就盈數焉。”

鄭伯は雍糾の乱に与った者を治めた。九月、公子閼を殺し、強鉏の足を刖した。公父定叔は衛に奔った。三年して彼を帰し、曰く「共叔を鄭に後無からしむべからず」と。彼を十月に入れ、曰く「良月なり、盈数に就かんとす」と。

君子謂:“強鉏不能衛其足。”

君子は「強鉏は其の足を衛る能わず」と考えた。

冬,同盟於幽,鄭成也。

冬、幽で同盟したのは、鄭が媾和したからである。

王使虢公命曲沃伯以一軍為晉侯。

天子は虢公を遣わして曲沃伯に命じ、一軍の為に晋侯とならしめた。

初,晉武公伐夷,執夷詭諸。蒍國請而免之。既而弗報。故子國作亂,謂晉人曰:“與我伐夷而取其地。”遂以晉師伐夷,殺夷詭諸。周公忌父出奔虢。惠王立而復之。

むかし、晋武公は夷を討ち、夷詭諸を執えた。𫇭国は彼のために請い赦さしめた。過ぎて報いず。だから子国は乱を作し、晋人に言って曰く「我とともに夷を討ちて其の地を奪わん」と。そこで晋軍を帥いて夷を討ち、夷詭諸を殺した。周公忌父は虢に奔った。恵王が即位して彼を帰した。

◇莊公十七年

◇荘公十七年

【經】十有七年春,齊人執鄭詹。夏,齊人殲於遂。秋,鄭詹自齊逃來。冬,多麋。

【経】十七年春、斉人は鄭詹を執えた。夏、斉人は遂で殲めされた。秋、鄭詹は斉より奔りて来た。冬、麋多し。

【傳】十七年春,齊人執鄭詹,鄭不朝也。

【伝】十七年春、斉人が鄭詹を執えたのは、鄭が朝見せざるに由る。

夏,遂因氏,頜氏、工婁氏、須遂氏饗齊戍,醉而殺之,齊人殲焉。

夏、遂の因氏・頜氏・工婁氏・須遂氏は斉の戍卒を饗し、醉わせて之を殺した。斉人は遂族を殲め尽した。

◇莊公十八年

◇荘公十八年

【經】十有八年春王三月,日有食之。夏,公追戎於濟西。秋,有蜮。冬十月。

【経】十八年春、周天子の暦の三月、日食。夏、荘公は戎を済水の西に追撃した。秋、蜮あり。冬十月。

【傳】十八年春,虢公、晉侯朝王,王饗醴,命之宥,皆賜玉五瑴,馬三匹。

【伝】十八年春、虢公・晋侯は天子に朝見し、天子は醴を以て之を饗し、之に宥を命じ、皆玉を五毀、馬を三匹賜わった。

非禮也。王命諸侯,名位不同,禮亦異數,不以禮假人。

これは礼に合わない。天子が諸侯を策命するに、名位同じからざれば、礼数もまた同じからず、礼を以て人に仮るべからず。

虢公、晉侯、鄭伯使原莊公逆王后於陳。陳媯歸於京師,實惠後。

虢公・晋侯・鄭伯は原荘公を遣わして陳に王后を迎えさせた。陳嬀が京師に嫁いだ、即ち恵后である。

夏,公追戎於濟西。不言其來,諱之也。

夏、荘公が戎を済水の西に追撃した。『春秋』に戎の来を書かないのは、諱だからである。

秋,有蜮,為災也。

秋、蜮あらわれたるは、災いを為したからである。

初,楚武王克權,使鬥緡尹之。以叛,圍而殺之。遷權於那處,使閻敖尹之。

むかし、楚武王は権に勝ち、鬬緡を遣わして之を尹させた。鬬緡は之に据りて畔き、楚は囲みて之を殺した。権を遷して那処とし、閻敖を遣わして之を尹させた。

及文王即位,與巴人伐申而驚其師。巴人叛楚而伐那處,取之,遂門於楚。閻敖遊湧而逸。楚子殺之,其族為亂。冬,巴人因之以伐楚。

文王が即位するに及び、巴人とともに申を討ち、卻って其の師を驚せしめた。巴人は楚に畔き、那処を討ち、之を取りて、乃ち楚の城門を攻めた。閻敖は涌水を游みて逸れた。楚子は之を殺し、その族人は乱を作した。冬、巴人は間に乗じて楚を討った。

◇莊公十九年

◇荘公十九年

【經】十有九年春王正月。夏四月。秋,公子結媵陳人之婦於鄄,遂及齊侯、宋公盟。夫人姜氏如莒。冬,齊人、宋人、陳人伐我西鄙。

【経】十九年春、周天子の暦の正月。夏四月。秋、公子結は媵を鄄の陳人の婦に送り、遂に斉侯・宋公と盟した。夫人姜氏は莒に往いた。冬、斉人・宋人・陳人は我が西鄙を討った。

【傳】十九年春,楚子御之,大敗於津。還,鬻拳弗納。遂伐黃,敗黃師於碏陵。還,及湫,有疾。夏六月庚申卒,鬻拳葬諸夕室,亦自殺也,而葬於絰初,鬻拳強諫楚子,楚子弗從,臨之以兵,懼而從之。鬻拳曰:“吾懼君以皇。兵,罪莫大焉。”遂自刖也。楚人以為大閽,謂之大伯,使其後掌之。君子曰:“鬻拳可謂愛君矣,諫以自納於刑,刑猶不忘納君於善。”

【伝】十九年春、楚子は巴人を禦ぎ、津で大いに敗れた。帰り、鬻拳は弗く納れず。そこで黄を討ち、碏陵で黄師を敗った。帰り、湫に及びて、疾あり。夏六月庚申に卒し、鬻拳は之を夕室に葬り、亦た自殺して、綍皇に葬られた。むかし、鬻拳は強めて楚子に諫め、楚子は従わず、彼は兵を以て楚子に臨めば、楚子は懼れて従った。鬻拳は曰く「吾は兵を以て君を懼れしめり。兵は、罪莫けん也」と。乃ち自ら刖して其の足を斷てり。楚人は之を大閽と為し、大伯と謂う、其の後嗣をして之を掌らしむ。君子曰く「鬻拳は可謂君を愛す、諫めて自ら刑に納れ、刑に納れて猶君を納るに宜からんと欲す」と。

初,王姚嬖於莊王,生子頹。子頹有寵,蒍國為之師。及惠王即位,取蒍國之圃以為囿,邊伯之宮近於王宮,王取之。王奪子禽,祝跪與詹父田,而收膳夫之秩。故蒍國、邊伯、石速、詹父、子禽祝跪作亂,因蘇氏。秋,五大夫奉子頹以伐王,不克,出奔溫。蘇子奉子頹以奔衛。衛師、燕師伐周。冬,立子頹。

むかし、王姚は荘王に寵愛され、子頽を生んだ。子頽は寵を得て、蔿国は其の師と為る。恵王が即位するに及び、蔿国の園圃を取りて以て囿と為し、辺伯の宮は王宮に近ければ、王亦た之を取りたり。王は子禽祝跪と詹父の田を奪い、而して膳夫の収を收めたり。故に蔿国・辺伯・石速・詹父・子禽祝跪は乱を作し、蘇氏に依る。秋、五大夫は子頽を奉じて王を伐ち、不克、温に奔たり。蘇子は子頽を奉じて衛に奔たり。衛師・燕師は周を伐ち。冬、子頽を立てたり。

◇莊公二十年

◇荘公二十年

【經】二十年春王二月,夫人姜氏如莒。夏,齊大災。秋七月。冬,齊人伐戎。

【経】二十年春、周天子の暦の二月、夫人姜氏は莒に往いた。夏、斉に大災あり。秋七月。冬、斉人は戎を討った。

【傳】二十年春,鄭伯和王室,不克。執燕仲父。夏,鄭伯遂以王歸,王處於櫟。秋,王及鄭伯入於鄔。遂入成周,取其寶器而還。

【伝】二十年春、鄭伯は王室を和調せしめんとし、克たず。燕仲父を執えたり。夏、鄭伯は遂に王を以て帰り、王は櫟に処れり。秋、王と鄭伯は鄔に入れり。遂に成周に入り、宝器を取りて後に還れり。

冬,王子頹享五大夫,樂及遍舞。鄭伯聞之,見虢叔,曰:“寡人聞之,哀樂失時,殃咎必至。今王子頹歌舞不倦,樂禍也。夫司寇行戮,君為之不舉,而況敢樂禍乎!奸王之位,禍孰大焉?臨禍忘憂,憂必及之。盍納王乎?”虢公曰:“寡人之願也。”

冬、王子頽は五大夫を饗し、楽及びて遍し舞えり。鄭伯は之を聞き、虢叔に見えて曰く「寡人は之を聞き、哀楽時を失えば、殃咎は必ず至る。今の王子頽は歌舞に倦まず、是れ以て禍為楽なり。司寇は戮を行えば、君は為に饗を挙げざれ、況して敢えて禍を以て楽むを乎!姦天位に就くは、禍孰か大きき。禍に臨みて憂を忘るれば、憂は必ず之に及ばん。盍ぞ王を納れんと為ざる」と。虢公は曰く「寡人の願わくなり」と。

◇莊公二十一年

◇荘公二十一年

【經】二十有一年春,王正月。夏五月辛酉,鄭伯突卒。秋七月戊戌,夫人姜氏薨。冬十有二月,葬鄭厲公。

【経】二十一年春、周天子の正月。夏五月辛酉、鄭伯突が亡くなった。秋七月戊戌、夫人姜氏が亡くなった。冬十二月、鄭厲公を葬った。

【傳】二十一年春,胥命於弭。夏,同伐王城。鄭伯將王,自圉門入,虢叔自北門入,殺王子頹及五大夫。鄭伯享王於闕西闢,樂備。王與之武公之略,自虎牢以東。原伯曰:“鄭伯效尤,其亦將有咎。”五月,鄭厲公卒。

【伝】二十一年春、弭で胥命した。夏、同じく王城を討った。鄭伯は王を將して圉門より入り、虢叔は北門より入り、王子頽と五大夫を殺した。鄭伯は西闕の辟で王を饗し、楽備えり。王は之に武公之略を与え、自ら虎牢以東。原伯は曰く「鄭伯は效尤なり、其れ亦た咎あらん」と。五月、鄭厲公が亡くなった。

王巡虢守。虢公為王宮於玤,王與之酒泉。鄭伯之享王也,王以後之鞶鑑予之。虢公請器,王予之爵。鄭伯由是始惡於王。

天子は虢の守を巡視した。虢公は王のために玤に宮を為り、王は之に酒泉を与えたり。鄭伯の王を饗するや、王は之に鞶鑑を与えたり。虢公は器を請い、王は之に爵を与えたり。鄭伯は是より王を惎め始めたり。

冬,王歸自虢。

冬、王は虢より帰りたり。

◇莊公二十二年

◇荘公二十二年

【經】二十二年春王正月,肆大眚。癸丑,葬我小君文姜。陳人殺其公子禦寇。夏五月。秋七月丙申,及齊高傒盟於防。冬,公如齊納幣。

【経】二十二年春、周天子の暦の正月、有を肆えて罪人を赦した。癸丑、我が小君文姜を葬った。陳人は其の公子御寇を殺した。夏五月。秋七月丙申、斉の高傒と防で盟した。冬、荘公は斉に如き納幣した。

【傳】二十二年春,陳人殺其大子禦寇,陳公子完與顓孫奔齊。顓孫自齊來奔。

【伝】二十二年春、陳人は其の太子御寇を殺し、陳公子完と顓孫は斉に奔たり。顓孫は斉より来て奔たり。

齊侯使敬仲為卿。辭曰:“羈旅之臣,幸若獲宥,及於寬政,赦其不閒於教訓而免於罪戾,弛於負擔,君之惠也,所獲多矣。敢辱高位,以速官謗。請以死告。《詩》云:‘翹翹車乘,招我以弓,豈不欲往,畏我友朋。’”使為工正。

斉侯は敬仲を卿と為さんと欲した。敬仲は辞して曰く「羈旅の臣、幸いに若し寬宥を獲て、寛政を蒙り、不敏を赦して罪を除き、其の負担を弛まれば、君の恵なり、獲る所多し、敢えて高位を辱め、以て官誇を速めんや。請う死を以て告げん。『詩』に曰く『翹翹車乗、招我以弓、豈不欲往、畏我友朋』」と。使い工正を為しめたり。

飲桓公酒,樂。公曰:“以火繼之。”辭曰:“臣卜其晝,未卜其夜,不敢。”

敬仲は桓公を酒す、飲みて楽しみ。公は曰く「火を以て繼げ」と。辞して曰く「臣は卜其昼、未だ卜其夜、敢えず」と。

君子曰:“酒以成禮,不繼以淫,義也。以君成禮,弗納於淫,仁也。”

君子曰く「酒は以て礼を成するなり、不繼以淫、義なり。以君成礼、弗納于淫、仁なり」と。

初,懿氏卜妻敬仲,其妻占之,曰:“吉,是謂‘鳳皇于飛,和鳴鏘鏘,有媯之後,將育於姜。五世其昌,並於正卿。八世之後,莫之與京。’”陳厲公,蔡出也。故蔡人殺五父而立之,生敬仲。其少也。周史有以《周易》見陳侯者,陳侯使筮之,遇《觀》之《否》。曰:“是謂‘觀國之光,利用賓於王。’此其代陳有國乎。不在此,其在異國;非此其身,在其子孫。光,遠而自他有耀者也。

むかし、懿氏は女を敬仲に妻せんと卜した。其の妻は之を占して曰く「吉、是の謂鳳皇于飛、和鳴鏘鏘、有嬀之後、將育于姜、五世其昌、並于正卿、八世之後、莫之与京」と。陳厲公は蔡女の出なり。故に蔡人は五父を殺して之を立てり、敬仲を生めり。其の少きや、周の史官有りて『周易』を以て陳侯に見えり、陳侯は之を筮せしめ、遇観之否を獲り。曰く「是の謂観国之光、利用賓于王。此れ其れ代陳有国乎。不在此、其在異国、非此其身、在其子孫。光、遠而自他有耀者也。

《坤》,土也。《巽》,風也。《乾》,天也。風為天於土上,山也。有山之材而照之以天光,於是乎居土上,故曰:‘觀國之光,利用賓於王。’庭實旅百,奉之以玉帛,天地之美具焉,故曰:‘利用賓於王。’猶有觀焉,故曰其在後乎。

(史官は続けて言う)『坤』は土也。『巽』は風也。『乾』は天也。風在土上而為天、山也。有山之材而照之以天光、于是乎居土上、故曰『観国之光、利用賓于王』。庭実旅百、奉之以玉帛、天地之美具焉、故曰『利用賓于王』。猶有観焉、故曰其在後乎。

風行而著於土,故曰其在異國乎。若在異國,必姜姓也。姜,大嶽之後也。山嶽則配天,物莫能兩大。陳衰,此其昌乎。”

(史官は続けて言う)風行而着于土、故曰其在異国乎。若在異国、必姜姓也。姜、大嶽之後也。山嶽則配天、物莫能両大。陳衰、此其昌乎」と。

及陳之初亡也,陳桓子始大於齊。其後亡也,成子得政。

及び陳之初亡、陳桓子始大於斉。其後陳卒亡、成子得政。

◇莊公二十三年

◇荘公二十三年

【經】二十有三年春,公至自齊。祭叔來聘。夏,公如齊觀社。公至自齊。

【経】二十三年春、荘公は斉より至れり。祭叔来聘。夏、荘公は斉に如きて社を観た。荘公は斉より至れり。

荊人來聘。公及齊侯遇於谷。蕭叔朝公。秋,丹桓宮楹。冬十有一月,曹伯射姑卒。十有二月甲寅,公會齊侯盟於扈。

楚人来聘。荘公は斉侯と穀で遇えり。蕭叔朝公。秋、丹桓宮楹。冬十一月、曹伯射姑が亡くなった。十有二月甲寅、荘公は斉侯と会、盟于扈。

【傳】二十三年夏,公如齊觀社,非禮也。曹劌諫曰:“不可。夫禮,所以整民也。故會以訓上下之則,制財用之節;朝以正班爵之義,帥長幼之序;征伐以討其不然。諸侯有王,王有巡守,以大習之。非是,君不舉矣。君舉必書,書而不法,後嗣何觀?”晉桓、莊之族逼,獻公患之。士蒍曰:“去富子,則群公子可謀也已。”公曰:“爾試其事。”士蒍與群公子謀,譖富子而去之。

【伝】二十三年夏、荘公は斉に如きて社を観た、非礼なり。曹劌諫めて曰く「不可。夫礼、所以整民也。故会以訓上下之則、制財用之節、朝以正班爵之義、帥長幼之序、征伐以討其不然。諸侯有王、王有巡守、以大習之。非是、君不挙矣。君挙必書、書而不法、後嗣何観」と。晋桓荘之族偪、献公患之。士蔿曰く「去富子、則群公子可謀也已」と。公曰く「爾試其事」と。士蔿与群公子謀、譖富子而去之。

秋,丹桓宮之楹。

秋、丹桓宮楹。

◇莊公二十四年

◇荘公二十四年

【經】二十有四年春王三月,刻桓宮桷。葬曹莊公。夏,公如齊逆女。秋,公至自齊。八月丁丑,夫人姜氏入。戊寅,大夫宗婦覿,用幣。大水。冬,戎侵曹。曹羈出奔陳。赤歸於曹。郭公。

【経】二十四年春、周天子の暦の三月、刻桓宮桷。葬曹荘公。夏、荘公如斉逆女。秋、公至自斉。八月丁丑、夫人姜氏入。戊寅、大夫宗婦覿、用幣。大水。冬、戎侵曹。曹羈出奔陳。赤帰于曹。郭公。

【傳】二十四年春,刻其桷,皆非禮也。御孫諫曰:“臣聞之:‘儉,德之共也;侈,惡之大也。’先君有共德而君納諸大惡,無乃不可乎!”秋,哀姜至。公使宗婦覿,用幣,非禮也。御孫曰:“男贄大者玉帛,小者禽鳥,以章物也。女贄不過榛栗棗修,以告虔也。今男女同贄,是無別也。男女之別,國之大節也。而由夫人亂之,無乃不可乎!”晉士蒍又與群公子謀,使殺遊氏之二子。士蒍告晉侯曰:“可矣。不過二年,君必無患。”

【伝】二十四年春、刻其桷、皆非礼也。御孫諫曰く「臣聞之、倹、徳之共也、侈、悪之大也。先君有共徳、而君納諸大悪、无乃不可乎」と。秋、哀姜至、公使宗婦覿、用幣、非礼也。御孫曰く「男贄、大者玉帛、小者禽鳥、以章物也。女贄、不過榛栗棗脩、以告虔也。今男女同贄、是无別也。男女之別、国之大節也。而由夫人乱之、无乃不可乎」と。晋士蔿又与群公子謀、使殺游氏之二子。士蔿告晋侯曰く「可矣。不過二年、君必无患」と。

◇莊公二十五年

◇荘公二十五年

【經】二十有五年春,陳侯使女叔來聘。夏五月癸丑,衛侯朔卒。六月辛未,朔,日有食之,鼓,用牲於社。伯姬歸於杞。秋,大水,鼓,用牲於社、於門。

【経】二十五年春、陳侯使女叔来聘。夏五月癸丑、衛侯朔が亡くなった。六月辛未朔、日有食之、鼓、用牲于社。伯姫帰于杞。秋、大水、鼓、用牲于社、于門。

冬,公子友如陳。

冬、公子友如陳。

【傳】二十五年春,陳女叔來聘,始結陳好也。嘉之,故不名。

【伝】二十五年春、陳女叔来聘、始結陳好也。嘉之、故不名。

夏六月辛未,朔,日有食之。鼓,用牲於社,非常也。唯正月之朔,慝未作,日有食之,於是乎用幣於社,伐鼓於朝。

夏六月辛未朔、日有食之、鼓、用牲于社、非常也。唯正月之朔、慝未作、日有食之、于是乎用幣于社、伐鼓于朝。

秋,大水。鼓,用牲於社、於門,亦非常也。凡天災,有幣無牲。非日月之眚,不鼓。

秋、大水、鼓、用牲于社、于門、亦非常也。凡天災、有幣无牲。非日月之眚、不鼓。

晉士蒍使群公子盡殺遊氏之族,乃城聚而處之。

晋士蔿使群公子尽殺游氏之族、乃城聚而處之。

冬,晉侯圍聚,盡殺群公子。

冬、晋侯囲聚、尽殺群公子。

◇莊公二十六年

◇荘公二十六年

【經】二十有六年春,公伐戎。夏,公至自伐戎。曹殺其大夫。秋,公會宋人、齊人,伐徐。冬十有二月癸亥,朔,日有食之。

【経】二十六年春、荘公伐戎。夏、荘公至自伐戎。曹殺其大夫。秋、荘公会宋人・斉人、伐徐。冬十二月癸亥朔、日有食之。

【傳】二十六年春,晉士蒍為大司空。

【伝】二十六年春、晋士蔿為大司空。

夏,士蒍城絳,以深其宮。

夏、士蔿城絳、以深其宮。

秋,虢人侵晉。冬,虢人又侵晉。

秋、虢人侵晋。冬、虢人又侵晋。

◇莊公二十七年

◇荘公二十七年

【經】二十有七年春,公會杞伯姬於洮。夏六月,公會齊侯、宋公、陳侯、鄭伯同盟於幽。秋,公子友如陳,葬原仲。冬,杞伯姬來。莒慶來逆叔姬。杞伯來朝。公會齊侯於城濮。

【経】二十七年春、荘公会杞伯姫于洮。夏六月、荘公会斉侯・宋公・陳侯・鄭伯、同盟于幽。秋、公子友如陳、葬原仲。冬、杞伯姫来。莒慶来逆叔姫。杞伯来朝。荘公会斉侯于城濮。

【傳】二十七年春,公會杞伯姬於洮,非事也。天子非展義不巡守,諸侯非民事不舉,卿非君命不越竟。

【伝】二十七年春、荘公会杞伯姫于洮、非事也。天子非展義不巡守、諸侯非民事不挙、卿非君命不越竟。

夏,同盟於幽,陳、鄭服也。

夏、同盟于幽、陳鄭服也。

秋,公子友如陳,葬原仲,非禮也。原仲,季友之舊也。

秋、公子友如陳葬原仲、非礼也。原仲、季友之旧也。

冬,杞伯姬來,歸寧也。凡諸侯之女,歸寧曰來,出曰來歸。夫人歸寧曰如某,出曰歸於某。

冬、杞伯姫来、帰寧也。凡諸侯之女、帰寧曰来、出曰来帰。夫人帰寧曰如某、出曰帰于某。

晉侯將伐虢,士蒍曰:“不可,虢公驕,若驟得勝於我,必棄其民。無眾而後伐之,欲御我誰與?夫禮樂慈愛,戰所畜也。夫民讓事樂和,愛親哀喪而後可用也。虢弗畜也,亟戰將飢。”

晋侯将伐虢、士蔿曰く「不可。虢公驕、若驟得勝于我、必棄其民。无衆而後伐之、欲御我、誰与?夫礼楽慈愛、戦所畜也。夫民譲事楽和、愛親哀喪、而後可用也。虢弗畜也、亟戦将飢」と。

王使召伯廖賜齊侯命,且請伐衛,以其立子頹也。

王使召伯廖賜斉侯命、且請伐衛、以其立子頽也。

◇莊公二十八年

◇荘公二十八年

【經】二十有八年春,王三月甲寅,齊人伐衛。衛人及齊人戰,衛人敗績。

【経】二十八年春、周天子三月甲寅、斉人伐衛。衛人及斉人戦、衛人敗績。

夏四月丁未,邾子瑣卒。秋,荊伐鄭,公會齊人、宋人救鄭。冬,築郿。大無麥、禾,臧孫辰告糴於齊。

夏四月丁未、邾子瑣が亡くなった。秋、楚伐鄭、荘公会斉人・宋人救鄭。冬、築郿。大無麦禾、臧孫辰告糴于斉。

【傳】二十八年春,齊侯伐衛。戰,敗衛師。數之以王命,取賂而還。

【伝】二十八年春、斉侯伐衛。戦、敗衛師。数之以王命、取賂而還。

晉獻公娶於賈,無子。烝於齊姜,生秦穆夫人及大子申生。又娶二女於戎,大戎狐姬生重耳,小戎子生夷吾。晉伐驪戎,驪戎男女以驪姬。歸生奚齊。其娣生卓子。驪姬嬖,欲立其子,賂外嬖梁五,與東關嬖五,使言於公曰:“曲沃,君之宗也。蒲與二屈,君之疆也。不可以無主。宗邑無主則民不威,疆埸無主則啟戎心。戎之生心,民慢其政,國之患也。若使大子主曲沃,而重耳、夷吾主蒲與屈,則可以威民而懼戎,且旌君伐。”使俱曰:“狄之廣莫,於晉為都。晉之啟土,不亦宜乎?”晉侯說之。夏,使大子居曲沃,重耳居蒲城,夷吾居屈。群公子皆鄙,唯二姬之子在絳。二五卒與驪姬譖群公子而立奚齊,晉人謂之二耦。

晋献公烝于斉姜、生秦穆夫人及太子申生。又娶二女于戎、大戎狐姫生重耳、小戎子生夷吾。晋伐驪戎、驪戎男女以驪姫。帰生奚斉。其娣生卓子。驪姫嬖、欲立其子、賂外嬖梁五与東関嬖五、使言于公曰く「曲沃、君之宗也。蒲与二屈、君之疆也。不可以无主。宗邑无主、則民不威、疆埸无主、則啓戎心。戎之生心、民慢其政、国之患也。若使太子主曲沃、而重耳・夷吾主蒲与屈、則可以威民而懼戎、且旌君伐」。使俱曰「狄之広莫、于晋為都。晋之啓土、不亦宜乎」。晋侯説之。夏、使太子居曲沃、重耳居蒲城、夷吾居屈。群公子皆鄙、唯二姫之子在絳。二五卒与驪姫譖群公子而立奚斉、晋人謂之二耦。

楚令尹子元欲蠱文夫人,為館於其宮側,而振萬焉。夫人聞之,泣曰:“先君以是舞也,習戎備也。今令尹不尋諸仇讎,而於未亡人之側,不亦異乎!”御人以告子元。子元曰:“婦人不忘襲仇,我反忘之!”秋,子元以車六百乘伐鄭,入於桔柣之門。子元、鬥御疆、鬥梧、耿之不比為旆,鬥班、王孫遊、王孫喜殿。眾車入自純門,及逵市。縣門不發,楚言而出。子元曰:“鄭有人焉。”諸侯救鄭,楚師夜遁。鄭人將奔桐丘,諜告曰:“楚幕有烏。”乃止。

楚令尹子元欲蠱文夫人、為館于其宮側而振万焉。夫人聞之、泣曰「先君以是舞也、習戎備也。今令尹不尋諸仇讐、而于未亡人之側、不亦異乎」。御人以告子元。子元曰「婦人不忘襲讐、我反忘之」。秋、子元以車六百乗伐鄭、入于桔柣之門。子元・鬬御疆・鬬梧・耿之不比為旄、鬬班・王孫游・王孫喜殿。衆車入自純門、及逵市。縣門不發、楚言而出。子元曰「鄭有人焉」。諸侯救鄭、楚師夜遁。鄭人将奔桐丘、諜告曰「楚幕有烏」。乃止。

冬,飢。臧孫辰告糴於齊,禮也。

冬、饑なり。臧孫辰が斉に糴を告げたのは、礼なり。

築郿,非都也。凡邑有宗廟先君之主曰都,無曰邑。邑曰築,都曰城。

築郿、匪都也。凡そ邑に宗廟先君之主あるを曰く都、无きを曰く邑。邑を曰く築、都を曰く城。

◇莊公二十九年

◇荘公二十九年

【經】二十有九年春,新延廄。夏,鄭人侵許。秋,有蜚。冬十有二月,紀叔姬卒。城諸及防。

【経】二十九年春、新延厩。夏、鄭人侵許。秋、有蜚。冬十有二月、紀叔姫が亡くなった。城諸及防。

【傳】二十九年春,新作延廄。書,不時也。凡馬日中而出,日中而入。

【伝】二十九年春、新延厩。書、不時也。凡そ馬、日中而出、日中而入。

夏,鄭人侵許。凡師有鐘鼓曰伐,無曰侵,輕曰襲。

夏、鄭人侵許。凡そ師有鐘鼓曰伐、無曰侵、軽曰襲。

秋,有蜚,為災也。凡物不為災不書。

秋、有蜚、為災也。凡そ物不為災、不書。

冬十二月,城諸及防,書,時也。凡土功,龍見而畢務,戒事也。火見而致用,水昏正而栽,日至而畢。

冬十有二月、城諸及防、書、時也。凡そ土功、龍見而畢務、戒事也、火見而致用、水昏正而栽、日至而畢。

樊皮叛王。

樊皮叛王。

◇莊公三十年

◇荘公三十年

【經】三十年春王正月。夏,次於成。秋七月,齊人降鄣。八月癸亥,葬紀叔姬。九月庚午朔,日有食之,鼓,用牲於社。冬,公及齊侯遇於魯濟。齊人伐山戎。

【経】三十年春、周天子の暦の正月。夏、次于成。秋七月、斉人降鄣。八月癸亥、葬紀叔姫。九月庚午朔、日有食之、鼓、用牲于社。冬、荘公及斉侯遇于魯済。斉人伐山戎。

【傳】三十年春,王命虢公討樊皮。夏四月丙辰,虢公入樊,執樊仲皮,歸於京師。

【伝】三十年春、王命虢公討樊皮。夏四月丙辰、虢公入樊、執樊仲皮、以帰于京師。

楚公子元歸自伐鄭,而處王宮,鬥射師諫,則執而梏之。

楚公子元帰自伐鄭、而處王宮、鬬射師諫、則執而梏之。

秋,申公斗班殺子元,鬥谷於菟為令尹,自毀其家以紓楚國之難。

秋、申公鬬班殺子元、鬬穀於菟為令尹、自毀其家、以紓楚国之難。

冬,遇於魯濟,謀山戎也,以其病燕故也。

冬、遇于魯済、謀山戎也、以其病燕故也。

◇莊公三十一年

◇荘公三十一年

【經】三十有一年春,築臺於郎。夏四月,薛伯卒。築臺於薛。六月,齊侯來獻戎捷。秋,築臺於秦。冬,不雨。

【経】三十一年春、築台于郎。夏四月、薛伯が亡くなった。築台于薛。六月、斉侯来献戎捷。秋、築台于秦。冬、不雨。

【傳】三十一年夏六月,齊侯來獻戎捷,非禮也。凡諸侯有四夷之功,則獻於王,王以警於夷。中國則否。諸侯不相遺俘。

【伝】三十一年夏六月、斉侯来献戎捷、非礼也。凡そ諸侯有四夷之功、則献于王、王以警于夷。中国則否。諸侯不相遺俘。

◇莊公三十二年

◇荘公三十二年

【經】三十有二年春,城小谷。夏,宋公、齊侯遇於梁丘。秋七月癸巳,公子牙卒。八月癸亥,公薨於路寢。冬十月己未,子般卒。公子慶父如齊。狄伐邢。

【経】三十二年春、城小穀。夏、宋公・斉侯遇于梁丘。秋七月癸巳、公子牙が亡くなった。八月癸亥、荘公薨于路寝。冬十月己未、子般が亡くなった。公子慶父如斉。狄伐邢。

【傳】三十二年春,城小谷,為管仲也。

【伝】三十二年春、城小穀、為管仲也。

齊侯為楚伐鄭之故,請會於諸侯。宋公請先見於齊侯。夏,遇於梁丘。

斉侯為楚伐鄭之故、請会于諸侯。宋公請先見于斉侯。夏、遇于梁丘。

秋七月,有神降於莘。

秋七月、有神降于莘。

惠王問諸內史過曰:“是何故也?”對曰:“國之將興,明神降之,監其德也;將亡,神又降之,觀其惡也。故有得神以興,亦有以亡,虞、夏、商、周皆有之。”王曰:“若之何?”對曰:“以其物享焉,其至之日,亦其物也。”王從之。內史過往,聞虢請命,反曰:“虢必亡矣,虐而聽於神。”

恵王問諸内史過曰く「是何故也」と。対曰く「国之将興、明神降之、監其徳也、将亡、神又降之、観其悪也。故有得神以興、亦有以亡、虞・夏・商・周皆有之」と。王曰く「若之何」と。対曰く「以其物享焉、其至之日、亦其物也」と。王従之。内史過往、聞虢請命、反曰く「虢必亡矣、虐而聽于神」と。

神居莘六月。虢公使祝應、宗區、史嚚享焉。神賜之土田。史嚚曰:“虢其亡乎!吾聞之:國將興,聽於民;將亡,聽於神。神,聰明正直而一者也,依人而行。虢多涼德,其何土之能得!”初,公築臺臨黨氏,見孟任,從之。閟,而以夫人言許之。割臂盟公,生子般焉。雩,講於梁氏,女公子觀之。圉人犖自牆外與之戲。子般怒,使鞭之。公曰:“不如殺之,是不可鞭。犖有力焉,能投蓋於稷門。”

神居莘六月。虢公使祝應・宗區・史嚚享焉。神賜之土田。史嚚曰く「虢其亡乎!吾聞之、国将興、聽于民、将亡、聽于神。神、聰明正直而壹者也、依人而行。虢多涼徳、其何土之能得!」むかし、荘公築台臨党氏、見孟任、従之。閟、而以夫人言、許之。割臂盟公、生子般焉。雩、講于梁氏、女公子観之。圉人犖自墻外与之戯。子般怒、使鞭之。公曰く「不如殺之、是不可鞭。犖有力焉、能投蓋于稷門」と。

公疾,問後於叔牙。對曰:“慶父材。”問於季友,對曰:“臣以死奉般。”

荘公疾、問後于叔牙。対曰く「慶父材」と。問于季友、対曰く「臣以死奉般」と。

公曰:“鄉者牙曰慶父材。”成季使以君命命僖叔待於針巫氏,使針季鴆之,曰:“飲此則有後於魯國,不然,死且無後。”飲之,歸及逵泉而卒,立叔孫氏。

公曰く「郷者牙曰慶父材」と。成季使以君命命僖叔待于鍼巫氏、使鍼季酖之、曰く「飲此、則有後于魯国、不然、死且无後」と。飲之、帰及逵泉而卒、立叔孫氏。

八月癸亥,公薨於路寢。子般即位,次於黨氏。冬十月己未,共仲使圉人犖賊子般於黨氏。成季奔陳。立閔公。

八月癸亥、荘公薨于路寝。子般即位、次于党氏。冬十月己未、共仲使圉人犖賊子般于党氏。成季奔陳。立閔公。

閔公(元年~二年)

◇閔公元年

◇閔公元年

【經】元年春王正月。齊人救邢。夏六月辛酉,葬我君莊公。秋八月,公及齊侯盟於落姑。季子來歸。冬,齊仲孫來。

【経】元年春、周天子の暦の正月。斉人救邢。夏六月辛酉、葬我君荘公。秋八月、閔公及斉侯盟于落姑。季子来帰。冬、斉仲孫来。

【傳】元年春,不書即位,亂故也。

【伝】元年春、不書即位、乱故也。

狄人伐邢。管敬仲言於齊侯曰:“戎狄豺狼,不可厭也。諸夏親暱,不可棄也。宴安鴆毒,不可懷也。《詩》云:‘豈不懷歸,畏此簡書。’簡書,同惡相恤之謂也。請救邢以從簡書。”齊人救邢。

狄人伐邢。管敬仲言于斉侯曰く「戎狄豺狼、不可厭也。諸夏親暱、不可棄也。宴安酖毒、不可懐也。『詩』云『豈不懐帰、畏此簡書』。簡書、同悪相恤之謂也。請救邢以従簡書」と。斉人救邢。

夏六月,葬莊公,亂故,是以緩。

夏六月、葬荘公、乱故、是以緩。

秋八月,公及齊侯盟於落姑,請復季友也。齊侯許之,使召諸陳,公次於郎以待之。“季子來歸”,嘉之也。

秋八月、閔公及斉侯盟于落姑、請復季友也。斉侯許之、使召諸陳、公次于郎以待之。「季子来帰」、嘉之也。

冬,齊仲孫湫來省難。書曰“仲孫”,亦嘉之也。

冬、斉仲孫湫来省難。書曰「仲孫」、亦嘉之也。

仲孫歸曰:“不去慶父,魯難未已。”公曰:“若之何而去之?”對曰:“難不已,將自斃,君其待之。”公曰:“魯可取乎?”對曰:“不可,猶秉周禮。周禮,所以本也。臣聞之,國將亡,本必先顛,而後枝葉從之。魯不棄周禮,未可動也。君其務寧魯難而親之。親有禮,因重固,間攜貳,覆昏亂,霸王之器也。”

仲孫帰曰く「不去慶父、魯難未已」と。公曰く「若之何而去之」と。対曰く「難不已、将自斃、君其待之」と。公曰く「魯可取乎」と。対曰く「不可。猶秉周礼。周礼、所以本也。臣聞之、国将亡、本必先顛、而後枝葉従之。魯不棄周礼、未可動也。君其務寧魯難而親之。親有礼、因重固、間携貳、覆昏乱、霸王之器也」と。

晉侯作二軍,公將上軍,大子申生將下軍。趙夙御戎,畢萬為右,以滅耿、滅霍、滅魏。還,為大子城曲沃。賜趙夙耿,賜畢萬魏,以為大夫。

晋侯作二軍、公将上軍、大子申生将下軍。趙夙御戎、畢万為右、以滅耿、滅霍、滅魏。還、為大子城曲沃。賜趙夙耿、賜畢万魏、以為大夫。

士蒍曰:“大子不得立矣,分之都城而位以卿,先為之極,又焉得立。不如逃之,無使罪至。為吳大伯,不亦可乎?猶有令名,與其及也。且諺曰:‘心苟無瑕,何恤乎無家。’天若祚大子,其無晉乎。”

士蔿曰く「大子不得立矣、分之都城、而位以卿、先為之極、又焉得立。不如逃之、无使罪至。為呉大伯、不亦可乎、猶有令名、与其及也。且諺曰『心苟无瑕、何恤乎无家』。天若祚大子、其无晋乎」と。

卜偃曰:“畢萬之後必大。萬,盈數也;魏,大名也;以是始賞,天啟之矣。

卜偃曰く「畢万之後必大。万、盈数也、魏、大名也、以是始賞、天啓之矣。

天子曰兆民,諸侯曰萬民。今名之大,以從盈數,其必有眾。”

(卜偃は続けて言う)天子曰兆民、諸侯曰万民。今名之大、以従盈数、其必有衆」と。

初,畢萬筮仕於晉,遇《屯》ⅴⅲ之《比》ⅴⅰ。辛廖占之,曰:“吉。

むかし、畢万筮仕于晋、遇屯之比。辛廖占之、曰く「吉。

《屯》固《比》入,吉孰大焉?其必蕃昌。《震》為土,車從馬,足居之,兄長之,母覆之,眾歸之,六體不易,合而能固,安而能殺。公侯之卦也。公侯之子孫,必復其始。”

(辛廖は続けて言う)屯固比入、吉孰大焉。其必蕃昌。震為土、車従馬、足居之、兄長之、母覆之、衆帰之、六体不易、合而能固、安而能殺、公侯之卦也。公侯之子孫、必復其始」と。

◇閔公二年

◇閔公二年

【經】二年春王正月,齊人遷陽。夏五月乙酉,吉禘於莊公。秋八月辛丑,公薨。九月,夫人姜氏孫於邾。公子慶父出奔莒。冬,齊高子來盟。十有二月,狄入衛。鄭棄其師。

【経】二年春、周天子の暦の正月、斉人遷陽。夏五月乙酉、吉禘于荘公。秋八月辛丑、閔公が亡くなった。九月、夫人姜氏孫于邾。公子慶父出奔莒。冬、斉高子来盟。十有二月、狄入衛。鄭棄其師。

【傳】二年春,虢公敗犬戎於渭汭。舟之僑曰:“無德而祿,殃也。殃將至矣。”遂奔晉。

【伝】二年春、虢公敗犬戎于渭汭。舟之僑曰く「无徳而禄、殃也。殃将至矣」と。遂奔晋。

夏,吉禘於莊公,速也。

夏、吉禘于荘公、速也。

初,公傅奪卜齮田,公不禁。

むかし、閔公之傅奪卜齮田、公不禁。

秋八月辛丑,共仲使卜齮賊公於武闈。成季以僖公適邾。共仲奔莒,乃入,立之。以賂求共仲於莒,莒人歸之。及密,使公子魚請,不許。哭而往,共仲曰:“奚斯之聲也。”乃縊。

秋八月辛丑、共仲使卜齮賊公于武闈。成季以僖公適邾。共仲奔莒、乃入、立之。以賂求共仲于莒、莒人帰之。及密、使公子魚請、不許。哭而往、共仲曰く「奚斯之声也」。乃縊。

閔公,哀姜之娣叔姜之子也,故齊人立之。共仲通於哀姜,哀姜欲立之。閔公之死也,哀姜與知之,故孫於邾。齊人取而殺之於夷,以其屍歸,僖公請而葬之。

閔公、哀姜之娣叔姜之子也、故斉人立之。共仲通于哀姜、哀姜欲立之。閔公之死也、哀姜与知之、故孫于邾。斉人取而殺之于夷、以其尸帰、僖公請而葬之。

成季之將生也,桓公使卜楚丘之父卜之。曰:“男也。其名曰友,在公之右。

成季之将生也、桓公使卜楚丘之父卜之。曰く「男也。其名曰友、在公之右。

間於兩社,為公室輔。季氏亡,則魯不昌。”又筮之,遇《大有》ⅵⅰ之《乾》ⅰⅰ,曰:“同復於父,敬如君所。”及生,有文在其手曰“友”,遂以命之。

(卜人は続けて言う)間于両社、為公室輔。季氏亡、則魯不昌」と。又筮之、遇大有之乾、曰く「同復于父、敬如君所」と。及生、有文在其手曰「友」、遂以命之。

冬十二月,狄人伐衛。衛懿公好鶴,鶴有乘軒者。將戰,國人受甲者皆曰:“使鶴,鶴實有祿位,餘焉能戰!”公與石祁子玦,與甯莊子矢,使守,曰:“以此贊國,擇利而為之。”與夫人繡衣,曰:“聽於二子。”渠孔御戎,子伯為右,黃夷前驅,孔嬰齊殿。及狄人戰於熒澤,衛師敗績,遂滅衛。衛侯不去其旗,是以甚敗。狄人囚史華龍滑與禮孔以逐衛人。二人曰:“我,大史也,實掌其祭。不先,國不可得也。”乃先之。至則告守曰:“不可待也。”夜與國人出。

冬十二月、狄人伐衛。衛懿公好鶴、鶴有乗軒者。将戦、国人受甲者皆曰「使鶴、鶴実有禄位、余焉能戦!」公与石祁子玦、与寧荘子矢、使守、曰く「以此賛国、択利而為之」と。与夫人繡衣、曰く「聴于二子」。渠孔御戎、子伯為右、黄夷前駆、孔嬰斉殿。及狄人戦于熒沢、衛師敗績、遂滅衛。衛侯不去其旗、是以甚敗。狄人囚史華竜滑与礼孔以逐衛人。二人曰「我大史也、実掌其祭。不先、国不可得也」。乃先之。至則告守曰「不可待也」。夜与国人出。

狄入衛,遂從之,又敗諸河。

狄入衛、遂従之、又敗諸河。

初,惠公之即位也少,齊人使昭伯烝於宣姜,不可,強之。生齊子、戴公、文公、宋桓夫人、許穆夫人。文公為衛之多患也,先適齊。及敗,宋桓公逆諸河,宵濟。衛之遺民男女七百有三十人,益之以共、滕之民為五千人,立戴公以廬於曹。許穆夫人賦《載馳》。齊侯使公子無虧帥車三百乘、甲士三千人以戍曹。歸公乘馬,祭服五稱,牛羊豕雞狗皆三百,與門材。歸夫人魚軒,重錦三十兩。

むかし、恵公之即位也少、斉人使昭伯烝于宣姜、不可、強之。生斉子・戴公・文公・宋桓夫人・許穆夫人。文公為衛之多患也、先適斉。及敗、宋桓公逆諸河、宵済。衛之遺民男女七百有三十人、益之以共・滕之民為五千人、立戴公以廬于曹。許穆夫人賦載馳。斉侯使公子無虧帥車三百乗・甲士三千人以戍曹。帰公乗馬、祭服五称、牛羊豕雞狗皆三百、与門材。帰夫人魚軒、重錦三十両。

鄭人惡高克,使帥師次於河上,久而弗召。師潰而歸,高克奔陳。鄭人為之賦《清人》。

鄭人惡高克、使帥師次于河上、久而弗召。師潰而帰、高克奔陳。鄭人為之賦清人。

晉侯使大子申生伐東山皋落氏。裡克諫曰:“大子奉冢祀,社稷之粢盛,以朝夕視君膳者也,故曰冢子。君行則守,有守則從。從曰撫軍,守曰監國,古之制也。夫帥師,專行謀,誓車旅,君與國政之所圖也,非大子之事也。師在制命而已。稟命則不威,專命則不孝。故君之嗣適不可以帥師。君失其官,帥師不威,將焉用之。且臣聞皋落氏將戰,君其舍之。”公曰:“寡人有子,未知其誰立焉。”

晋侯使大子申生伐東山皋落氏。里克諫曰く「大子奉冢祀社稷之粢盛、以朝夕視君膳者也、故曰冢子。君行則守、有守則従。従曰撫軍、守曰監国、古之制也。夫帥師、専行謀、誓車旅、君与国政之所図也、非大子之事也。師在制命而已。禀命則不威、専命則不孝。故君之嗣適不可以帥師。君失其官、帥師不威、将焉用之。且臣聞皋落氏将戦、君其舍之」と。献公曰く「寡人有子、未知其誰立焉」と。

不對而退。

不对而退。

見大子,大子曰:“吾其廢乎?”對曰:“告之以臨民,教之以軍旅,不共是懼,何故廢乎?且子懼不孝,無懼弗得立,修己而不責人,則免於難。”

見大子、大子曰「吾其廃乎」。对曰「告之以臨民、教之以軍旅、不共是懼、何故廃乎。且子懼不孝、无懼弗得立、脩己而不責人、則免于難」

大子帥師,公衣之偏衣,佩之金玦。狐突御戎,先友為右,梁餘子養御罕夷,先丹木為右。羊舌大夫為尉。光友曰:“衣身之偏,握兵之要,在此行也,子其勉之。偏躬無慝,兵要遠災,親以無災,又何患焉!”狐突嘆曰:“時,事之徵也;衣,身之章也;佩,衷之旗也。故敬其事則命以始,服其身則衣之純,用期衷則佩之度。今命以時卒,閟其事也;衣之尨服,遠其躬也;佩以金玦,棄其衷也。服以遠之,時以閟之,尨涼冬殺,金寒玦離,胡可恃也?雖欲勉之,狄可盡乎?”梁餘子養曰:帥師者受命於廟,受脤於社,有常服矣。不獲而龍,命可知也。死而不孝,不如逃之。”罕夷曰:“尨奇無常,金玦不復,雖復何為,君有心矣。”先丹木曰:“是服也。狂夫阻之。曰‘盡敵而反’,敵可盡乎!雖盡敵,猶有內讒,不如違之。”狐突欲行。羊舌大夫曰:“不可。違命不孝,棄事不忠。

大子帥師、公衣之偏衣、佩之金玦。狐突御戎、先友為右、梁餘子養御罕夷、先丹木為右。羊舌大夫為尉。先友曰「衣身之偏、握兵之要、在此行也、子其勉之。偏躬无慝、兵要遠災、親以无災、又何患焉!」狐突歎曰「時、事之徴也、衣、身之章也、佩、衷之旗也。故敬其事則命以始、服其身則衣之純、用期衷則佩之度。今命以時卒、閟其事也、衣之尨服、遠其躬也、佩以金玦、棄其衷也。服以遠之、時以閟之、尨涼冬殺、金寒玦離、胡可恃也?雖欲勉之、狄可尽乎?」梁餘子養曰「帥師者受命于廟、受脤于社、有常服矣。不獲而尨、命可知也。死而不孝、不如逃之」。罕夷曰「尨奇无常、金玦不复、雖復何為、君有心矣」。先丹木曰「是服也、狂夫阻之。曰『尽敵而反』、敵可尽乎!雖尽敵、猶有内讒、不如違之」。狐突欲行。羊舌大夫曰「不可。違命不孝、棄事不忠。

雖知其寒,惡不可取,子其死之。”

(羊舌大夫は続けて言う)雖知其寒、悪不可取、子其死之」と。

大子將戰,狐突諫曰:“不可,昔辛伯諗周桓公云:‘內寵並後,外寵二政,嬖子配適,大都耦國,亂之本也。’周公弗從,故及於難。今亂本成矣,立可必乎?孝而安民,子其圖之,與其危身以速罪也。”

大子将戦、狐突諫曰「不可、昔辛伯諗周桓公云『内寵並后、外寵二政、嬖子配適、大都耦国、乱之本也』。周公弗従、故及于難。今乱本成矣、立可必乎?孝而安民、子其図之、与其危身以速罪也」

成風聞成季之繇,乃事之,而屬僖公焉,故成季立之。

成風聞成季之繇、乃事之、而属僖公焉、故成季立之。

僖之元年,齊桓公遷邢於夷儀。二年,封衛於楚丘。邢遷如歸,衛國忘亡。

僖之元年、斉桓公遷邢于夷儀。二年、封衛于楚丘。邢遷如帰、衛国忘亡。

衛文公大布之衣,大帛之冠,務材訓農,通商惠工,敬教勸學,授方任能。

衛文公大布之衣、大帛之冠、務材訓農、通商恵工、敬教勧学、授方任能。

元年革車三十乘,季年乃三百乘。

元年革車三十乗、季年乃三百乗。

僖公(元年~三十三年)

◇僖公元年

◇僖公元年

【經】元年春王正月。齊師、宋師、曹伯次於聶北,救邢。夏六月,邢遷於夷儀。齊師、宋師、曹師城邢。秋七月戊辰,夫人姜氏薨於夷,齊人以歸。楚人伐鄭。八月,公會齊侯、宋公、鄭伯、曹伯、邾人於檉。九月,公敗邾師於偃。

【経】元年春、周天子の暦の正月。斉師・宋師・曹伯次于聶北、救邢。夏六月、邢遷于夷儀。斉師・宋師・曹師城邢。秋七月戊辰、夫人姜氏薨于夷、斉人以帰。楚人伐鄭。八月、僖公会斉侯・宋公・鄭伯・曹伯・邾人于檉。九月、僖公敗邾師于偃。

冬十月壬午,公子友帥師敗莒於酈。獲莒拏。十有二月丁巳,夫人氏之喪至自齊。

冬十月壬午、公子友帥師敗莒于酈。獲莒拏。十有二月丁巳、夫人氏之喪至自斉。

【傳】元年春,不稱即位,公出故也。公出復入,不書,諱之也。諱國惡,禮也。

【伝】元年春、『春秋』に即位を称さないのは、僖公が国に出た故なり。僖公が出てまた帰れり、『春秋』に記さざるは、諱なり。国の悪を諱むは、礼に合す。

諸侯救邢。邢人潰,出奔師。師遂逐狄人,具邢器用而遷之,師無私焉。

諸侯は邢を救い。邢人は潰えて、諸侯の師に奔たり。師は遂に狄を逐えて、具備其邢器用而遷之、師無私焉。

夏,邢遷夷儀,諸侯城之,救患也。凡侯伯救患分災討罪,禮也。

夏、邢は夷儀に遷れり、諸侯は之を城せり、救患なり。凡そ侯伯は患を救い、災を分かち、有罪を討つ、礼なり。

秋,楚人伐鄭,鄭即齊故也。盟於犖,謀救鄭也。

秋、楚人が鄭を討ったるは、鄭が即斉なり。犖で盟せり、謀救鄭也。

九月,公敗邾師於偃,虛丘之戍將歸者也。

九月、僖公が邾師を偃で敗れるは、虚丘の戍が帰らんとする者なり。

冬,莒人來求賂。公子友敗諸酈,獲莒子之弟拏。非卿也,嘉獲之也。公賜季友汶陽之田及費。

冬、莒人は賂を求めに来れり。公子友は酈で之を敗り、莒子の弟拏を獲たり。非卿也、嘉獲也。僖公は季友に汶陽の田と費を賜えり。

夫人氏之喪至自齊。君子以齊人殺哀姜也為已甚矣,女子,從人者也。

夫人氏の喪は斉より至れり。君子は斉人の哀姜を殺す已甚と為す、女子、従人者也。

◇僖公二年

◇僖公二年

【經】二年春王正月,城楚丘。夏五月辛巳,葬我小君哀姜。虞師、晉師滅下陽。秋九月,齊侯、宋公、江人、黃人盟於貫。冬十月,不雨。楚人侵鄭。

【経】二年春、周天子の暦の正月、城楚丘。夏五月辛巳、葬我小君哀姜。虞師・晋師滅下陽。秋九月、斉侯・宋公・江人・黄人盟于貫。冬十月、不雨。楚人侵鄭。

【傳】二年春,諸侯城楚丘而封衛焉。不書所會,後也。

【伝】二年春、諸侯は楚丘を城して衛を封ぜり。不書敷会、後至也。

晉荀息請以屈產之乘與垂棘之璧,假道於虞以伐虢。公曰:“是吾寶也。”

晋荀息は屈産之乗と垂棘之璧を請い、道を虞に仮して虢を伐てんとす。献公曰く「是吾宝也」と。

對曰:“若得道於虞,猶外府也。”公曰:“宮之奇存焉。”對曰:“宮之奇之為人也,懦而不能強諫,且少長於君,君暱之,雖諫,將不聽。”乃使荀息假道於虞,曰:“冀為不道,入自顛軨,伐鄍三門。冀之既病,則亦唯君故。

荀息対曰く「若得道于虞、猶外府也」と。公曰く「宮之奇存焉」と。対曰く「宮之奇之為人也、懦而不能強諫、且少長于君、君暱之、雖諫、将不聴」と。乃使荀息仮道于虞、曰く「冀為不道、入自顛軨、伐鄍三門。冀之既病、則亦唯君故。

今虢為不道,保於逆旅,以侵敝邑之南鄙。敢請假道以請罪於虢。”虞公許之,且請先伐虢。宮之奇諫,不聽,遂起師。夏,晉裡克、荀息帥師會虞師伐虢,滅下陽。先書虞,賄故也。

(荀息は続けて言う)今虢為不道、保于逆旅、以侵敝邑之南鄙。敢請仮道以請罪于虢」と。虞公許之、且請先伐虢。宮之奇諫、不聴、遂起師。夏、晋里克・荀息帥師会虞師伐虢、滅下陽。先書虞、賄故也。

秋,盟於貫,服江、黃也。

秋、盟于貫、服江黄也。

齊寺人貂始漏師於多魚。

斉寺人貂始漏師于多魚。

虢公敗戎於桑田。晉卜偃曰:“虢必亡矣。亡下陽不懼,而又有功,是天奪之鑑,而益其疾也。必易晉而不撫其民矣,不可以五稔。”

虢公敗戎于桑田。晋卜偃曰「虢必亡矣。亡下陽不懼、而又有功、是天奪之鑑、而益其疾也。必易晋而不撫其民矣、不可以五稔」

冬,楚人伐鄭,鬥章囚鄭聃伯。

冬、楚人伐鄭、鬬章囚鄭聃伯。

◇僖公三年

◇僖公三年

【經】三年春王正月,不雨。夏四月不雨。徐人取舒。六月雨。秋,齊侯、宋公、江人、黃人會於陽穀。冬,公子友如齊涖盟。楚人伐鄭。

【経】三年春、周天子の暦の正月、不雨。夏四月不雨。徐人取舒。六月雨。秋、斉侯・宋公・江人・黄人会于陽穀。冬、公子友如斉莅盟。楚人伐鄭。

【傳】三年春,不雨。夏六月,雨。自十月不雨至於五月,不曰旱,不為災也。

【伝】三年春、不雨。夏六月、雨。自十月不雨至于五月、不曰旱、不為災也。

秋,會於陽穀,謀伐楚也。

秋、会于陽穀、謀伐楚也。

齊侯為陽穀之會,來尋盟。冬,公子友如齊涖盟。

斉侯為陽穀之会、来尋盟。冬、公子友如斉莅盟。

楚人伐鄭,鄭伯欲成。孔叔不可,曰:“齊方勤我,棄德不祥。”

楚人伐鄭、鄭伯欲成。孔叔不可、曰「斉方勤我、棄徳不祥」

齊侯與蔡姬乘舟於囿,蕩公。公懼,變色。禁之,不可。公怒,歸之,未絕之也。蔡人嫁之。

斉侯与蔡姫乗舟于囿、蕩公。公懼変色、禁之、不可。公怒、帰之、未絶之也。蔡人嫁之。

◇僖公四年

◇僖公四年

【經】四年春王正月,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯,許男、曹伯侵蔡。蔡潰,遂伐楚,次於陘。夏,許男新臣卒。楚屈完來盟於師,盟於召陵。齊人執陳轅濤塗。秋,及江人、黃人伐陳。八月,公至自伐楚。葬許穆公。冬十有二月,公孫茲帥師會齊人、宋人、衛人、鄭人、許人、曹人侵陳。

【経】四年春、周天子の暦の正月、僖公会斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯侵蔡。蔡潰、遂伐楚、次于陘。夏、許男新臣が亡くなった。楚屈完来盟于師、盟于召陵。斉人執陳轅涛塗。秋、及江人・黄人伐陳。八月、僖公至自伐楚。葬許穆公。冬十有二月、公孫茲帥師会斉人・宋人・衛人・鄭人・許人・曹人侵陳。

【傳】四年春,齊侯以諸侯之師侵蔡。蔡潰。遂伐楚。楚子使與師言曰:“君處北海,寡人處南海,唯是風馬牛不相及也。不虞君之涉吾地也,何故?”管仲對曰:“昔召康公命我先君大公曰:‘五侯九伯,女實徵之,以夾輔周室。’賜我先君履,東至於海,西至於河,南至於穆陵,北至於無棣。爾貢包茅不入,王祭不共,無以縮酒,寡人是徵。昭王南征而不復,寡人是問。”對曰:“貢之不入,寡君之罪也,敢不共給。昭王之不復,君其問諸水濱。”師進,次於陘。

【伝】四年春、斉侯以諸侯之師侵蔡。蔡潰、遂伐楚。楚子使与師言曰「君處北海、寡人處南海、唯是風馬牛不相及也。不虞君之渉吾地也、何故?」管仲對曰「昔召康公命我先君大公曰『五侯九伯、女実征之、以夾輔周室』。賜我先君履、東至于海、西至于河、南至于穆陵、北至于無棣。爾貢包茅不入、王祭不共、無以縮酒、寡人是徴。昭王南征而不復、寡人是問」。對曰「貢之不入、寡君之罪也、敢不共給。昭王之不復、君其問諸水濱」。師進、次于陘。

夏,楚子使屈完如師。師退,次於召陵。

夏、楚子使屈完如師。師退、次于召陵。

齊侯陳諸侯之師,與屈完乘而觀之。齊侯曰:“豈不穀是為?先君之好是繼。

斉侯陳諸侯之師、与屈完乗而而観之。斉侯曰「豈不穀是為、先君之好是継。

與不穀同好,如何?”對曰:“君惠徼福於敝邑之社稷,辱收寡君,寡君之願也。”

(斉侯は続けて言う)与不穀同好、如何」。對曰「君恵徼福于敝邑之社稷、辱収寡君、寡君之願也」

齊侯曰:“以此眾戰,誰能御之?以此攻城,何城不克?”對曰:“君若以德綏諸侯,誰敢不服?君若以力,楚國方城以為城,漢水以為池,雖眾,無所用之。”

斉侯曰「以此衆戦、誰能禦之。以此攻城、何城不克」。對曰「君若以德綏諸侯、誰敢不服。君若以力、楚国方城以為城、漢水以為池、雖衆、無所用之」

屈完及諸侯盟。

屈完及諸侯盟。

陳轅濤塗謂鄭申侯曰:“師出於陳、鄭之間,國必甚病。若出於東方,觀兵於東夷,循海而歸,其可也。”申侯曰:“善。”濤塗以告,齊侯許之。申侯見,曰:“師老矣,若出於東方而遇敵,懼不可用也。若出於陳、鄭之間,共其資糧屝屨,其可也。”齊侯說,與之虎牢。執轅濤塗。

陳轅涛塗謂鄭申侯曰「師出于陳鄭之間、国必甚病。若出于東方、観兵于東夷、循海而帰、其可也」。申侯曰「善」。涛塗以告、斉侯許之。申侯見曰「師老矣、若出于東方而遇敵、懼不可用也。若出于陳鄭之間、共其資糧屝屨、其可也」。斉侯説、与之虎牢。執轅涛塗。

秋,伐陳,討不忠也。

秋、伐陳、討不忠也。

許穆公卒於師,葬之以侯,禮也。凡諸侯薨於朝會,加一等;死王事,加二等。於是有以袞斂。

許穆公卒于師、葬之以侯、礼也。凡諸侯薨于朝会、加一等、死王事、加二等。于是有以衮斂。

冬,叔孫戴伯帥師,會諸侯之師侵陳。陳成,歸轅濤塗。

冬、叔孫戴伯帥師、会諸侯之師侵陳。陳成、帰轅涛塗。

初,晉獻公欲以驪姬為夫人,卜之,不吉;筮之,吉。公曰:“從筮。”卜人曰:“筮短龜長,不如從長。且其繇曰:‘專之渝,攘公之羭。一薰一蕕,十年尚猶有臭。’必不可。”弗聽,立之。生奚齊,其娣生卓子。及將立奚齊,既與中大夫成謀,姬謂大子曰:“君夢齊姜,必速祭之。”大子祭於曲沃,歸胙於公。公田,姬置諸宮六日。公至,毒而獻之。公祭之地,地墳。與犬,犬斃。

むかし、晋献公欲以驪姫為夫人、卜之、不吉、筮之、吉。公曰「従筮」。卜人曰「筮短亀長、不如従長。且其繇曰『専之渝、攘公之羭。一薰一蕕、十年尚猶有臭』。必不可」。弗聴、立之。生奚斉、其娣生卓子。及将立奚斉、既与中大夫成謀、姫謂大子曰「君夢斉姜、必速祭之」。大子祭于曲沃、帰胙于公。公田、姫寘諸宮六日。公至、毒而献之。公祭之地、地墳。与犬、犬斃。

與小臣,小臣亦斃。姬泣曰:“賊由大子。”大子奔新城。公殺其傅杜原款。或謂大子:“子辭,君必辯焉。”大子曰:“君非姬氏,居不安,食不飽。我辭,姬必有罪。君老矣,吾又不樂。”曰:“子其行乎!”大子曰:“君實不察其罪,被此名也以出,人誰納我?”十二月戊申,縊於新城。姬遂譖二公子曰:“皆知之。”重耳奔蒲。夷吾奔屈。

与小臣、小臣亦斃。姫泣曰「賊由大子」。大子奔新城。公殺其傅杜原款。或謂大子曰「子辞、君必弁焉」。大子曰「君非姫氏、居不安、食不飽。我辞、姫必有罪。君老矣、吾又不楽」。曰「子其行乎!」大子曰「君実不察其罪、被此名也以出、人誰納我?」十二月戊申、縊于新城。姫遂譖二公子曰「皆知之」。重耳奔蒲。夷吾奔屈。

◇僖公五年

◇僖公五年

【經】五年春,晉侯殺其世子申生。杞伯姬來朝其子。夏,公孫茲如牟。公及齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯會王世子於首止。秋八月,諸侯盟於首止。鄭伯逃歸不盟。楚人滅弦,弦子奔黃。九月戊申朔,日有食之。冬,晉人執虞公。

【経】五年春、晋侯殺其世子申生。杞伯姫来朝其子。夏、公孫茲如牟。僖公及斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯会王世子于首止。秋八月、諸侯盟于首止。鄭伯逃帰不盟。楚人滅弦、弦子奔黄。九月戊申朔、日有食之。冬、晋人執虞公。

【傳】五年春,王正月辛亥朔,日南至。公既視朔,遂登觀臺以望。而書,禮也。凡分、至、啟、閉,必書云物,為備故也。

【伝】五年春、王正月辛亥朔、日南至。公既視朔、遂登観台以望。而書、礼也。凡分至啓閉、必書雲物、為備故也。

晉侯使以殺大子申生之故來告。

晋侯使以殺大子申生之故来告。

初,晉侯使士蒍為二公子築蒲與屈,不慎,置薪焉。夷吾訴之。公使讓之。

むかし、晋侯使士蔿為二公子築蒲与屈、不慎、寘薪焉。夷吾訴之。公使譲之。

士蒍稽首而對曰:“臣聞之,無喪而戚,憂必仇焉。無戎而城,仇必保焉。寇仇之保,又何慎焉!守官廢命不敬,固仇之保不忠,失忠與敬,何以事君?《詩》云:‘懷德惟寧,宗子惟城。’君其修德而固宗子,何城如之?三年將尋師焉,焉用慎?”退而賦曰:“狐裘尨茸,一國三公,吾誰適從?”及難,公使寺人披伐蒲。重耳曰:“君父之命不校。”乃徇曰:“校者吾仇也。”逾垣而走。披斬其祛,遂出奔翟。

士蔿稽首而對曰「臣聞之、无喪而慼、憂必讐焉。无戎而城、讐必保焉。寇讐之保、又何慎焉!守官廃命不敬、固讐之保不忠、失忠与敬、何以事君?『詩』云『懐徳惟寧、宗子惟城』。君其脩徳而固宗子、何城如之?三年将尋師焉、焉用慎?」退而賦曰「狐裘尨茸、一国三公、吾誰適従?」及難、公使寺人披伐蒲。重耳曰「君父之命不校」。乃徇曰「校者吾讐也」。踰垣而走。披斬其袪、遂出奔翟。

夏,公孫茲如牟,娶焉。

夏、公孫茲如牟、娶焉。

會於首止,會王大子鄭,謀寧周也。

会于首止、会王大子鄭、謀寧周也。

陳轅宣仲怨鄭申侯之反己於召陵,故勸之城其賜邑,曰:“美城之,大名也,子孫不忘。吾助子請。”乃為之請於諸侯而城之,美。遂譖諸鄭伯,曰:“美城其賜邑,將以叛也。”申侯由是得罪。

陳轅宣仲怨鄭申侯之反己于召陵、故勸之城其賜邑、曰「美城之、大名也、子孫不忘。吾助子請」。乃為之請于諸侯而城之、美。遂譖諸鄭伯、曰「美城其賜邑、将以叛也」。申侯由是得罪。

秋,諸侯盟。王使周公召鄭伯,曰:“吾撫女以從楚,輔之以晉,可以少安。”

秋、諸侯盟。王使周公召鄭伯、曰「吾撫女以従楚、輔之以晋、可以少安」

鄭伯喜於王命而懼其不朝於齊也,故逃歸不盟。孔叔止之曰:“國君不可以輕,輕則失親。失親患必至,病而乞盟,所喪多矣,君必悔之。”弗聽,逃其師而歸。

鄭伯喜于王命、而懼其不朝于斉也、故逃帰不盟。孔叔止之、曰「国君不可以軽、軽則失親。失親患必至、病而乞盟、所喪多矣、君必悔之」。弗聴、逃其師而帰。

楚鬥谷於菟滅弦,弦子奔黃。

楚鬬穀於菟滅弦、弦子奔黄。

於是江、黃、道、柏方睦於齊,皆弦姻也。弦子恃之而不事楚,又不設備,故亡。

于是江・黄・道・柏方睦于斉、皆弦姻也。弦子恃之而不事楚、又不設備、故亡。

晉侯復假道於虞以伐虢。宮之奇諫曰:“虢,虞之表也。虢亡,虞必從之。

晋侯復仮道于虞以伐虢。宮之奇諫曰「虢、虞之表也。虢亡、虞必従之。

晉不可啟,寇不可翫,一之謂甚,其可再乎?諺所謂‘輔車相依,唇亡齒寒’者,其虞、虢之謂也。”公曰:“晉,吾宗也,豈害我哉?”對曰:大伯、虞仲,大王之昭也。大伯不從,是以不嗣。虢仲、虢叔,王季之穆也,為文王卿士,勳在王室,藏於盟府。將虢是滅,何愛於虞?且虞能親於桓,莊乎,其愛之也?桓、莊之族何罪,而以為戮,不唯逼乎?親以寵逼,猶尚害之,況以國乎?”公曰:“吾享祀豐潔,神必據我。”對曰:“臣聞之,鬼神非人實親,惟德是依。故《周書》曰:‘皇天無親,惟德是輔。’又曰:‘黍稷非馨,明德惟馨。’又曰:‘民不易物,惟德繄物。’如是,則非德,民不和,神不享矣。神所馮依,將在德矣。若晉取虞而明德以薦馨香,神其吐之乎?”弗聽,許晉使。宮之奇以其族行,曰:“虞不臘矣,在此行也,晉不更舉矣。”

(宮之奇は続けて言う)晋不可啓、寇不可翫、一之謂甚、其可再乎?諺所謂『輔車相依、唇亡歯寒』者、其虞虢之謂也」。公曰「晋吾宗也、豈害我哉」。對曰「大伯・虞仲、大王之昭也。大伯不従、是以不嗣。虢仲・虢叔、王季之穆也、為文王卿士、勲在王室、蔵于盟府。将虢是滅、何愛于虞?且虞能親于桓荘乎、其愛之也?桓荘之族何罪、而以為戮、不唯偪乎?親以寵偪、猶尚害之、況以国乎?」公曰「吾享祀豊絜、神必拠我」。對曰「臣聞之、鬼神非人実親、惟徳是依。故『周書』曰『皇天无親、惟徳是輔』。又曰『黍稷非馨、明徳惟馨』。又曰『民不易物、惟徳繄物』。如是、則非徳民不和、神不享矣。神所馮依、将在徳矣。若晋取虞而明徳以薦馨香、神其吐之乎?」弗聴、許晋使。宮之奇以其族行、曰「虞不臘矣、在此行也、晋不更挙矣」

八月甲午,晉侯圍上陽。問於卜偃曰:“吾其濟乎”?對曰:“克之。”公曰:“何時?”對曰:“童謠云:‘丙之晨,龍尾伏辰,均服振振,取虢之旂。

八月甲午、晋侯囲上陽。問于卜偃曰「吾其済乎」。對曰「克之」。公曰「何時」。對曰「童謡云『丙之晨、龍尾伏辰、均服振振、取虢之旂。

鶉之賁賁,天策焞々,火中成軍,虢公其奔。’其九月、十月之交乎。丙子旦,日在尾,月在策,鶉火中,必是時也。”

(卜偃は続けて言う)鶉之賁賁、天策焞焞、火中成軍、虢公其奔』。其九月十月之交乎。丙子旦、日在尾、月在策、鶉火中、必是時也」

冬十二月丙子朔,晉滅虢,虢公醜奔京師。師還,館於虞,遂襲虞,滅之,執虞公及其大夫井伯,以媵秦穆姬。而修虞祀,且歸其職貢於王。

冬十二月丙子朔、晋滅虢、虢公醜奔京師。師還、館于虞、遂襲虞、滅之、執虞公及其大夫井伯、以媵秦穆姫。而脩虞祀、且帰其職貢于王。

故書曰:“晉人執虞公。”罪虞,且言易也。

故書曰「晋人執虞公」。罪虞、且言易也。

◇僖公六年

◇僖公六年

【經】六年春王正月。夏,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、曹伯伐鄭,圍新城。秋,楚人圍許,諸侯遂救許。冬,公至自伐鄭。

【経】六年春、周天子の暦の正月。夏、僖公会斉侯・宋公・陳侯・衛侯・曹伯伐鄭、囲新城。秋、楚人囲許、諸侯遂救許。冬、僖公至自伐鄭。

【傳】六年春,晉侯使賈華伐屈。夷吾不能守,盟而行。將奔狄,郤芮曰:“後出同走,罪也。不如之梁。梁近秦而幸焉。”乃之梁。

【伝】六年春、晋侯使賈華伐屈。夷吾不能守、盟而行。将奔狄、郤芮曰「後出同走、罪也。不如之梁。梁近秦而幸焉」。乃之梁。

夏,諸侯伐鄭,以其逃首止之盟故也。圍新密,鄭所以不時城也。

夏、諸侯伐鄭、以其逃首止之盟故也。囲新密、鄭所以不時城也。

秋,楚子圍許以救鄭,諸侯救許,乃還。

秋、楚子囲許以救鄭、諸侯救許、乃還。

冬,蔡穆侯將許僖公以見楚子於武城。許男面縛,銜璧,大夫衰絰,士輿櫬。

冬、蔡穆侯将許僖公以見楚子于武城。許男面縛銜璧、大夫衰絰、士輿櫬。

楚子問諸逢伯,對曰:“昔武王克殷,微子啟如是。武王親釋其縛,受其璧而祓之。焚其櫬,禮而命之,使復其所。”楚子從之。

楚子問諸逢伯、對曰「昔武王克殷、微子啓如是。武王親釈其縛、受其璧而祓之。焚其櫬、礼而命之、使復其所」。楚子従之。

◇僖公七年

◇僖公七年

【經】七年春,齊人伐鄭。夏,小邾子來朝。鄭殺其大夫申侯。秋七月,公會齊侯、宋公、陳世子款、鄭世子華盟於寧母。曹伯班卒。公子友如齊。冬,葬曹昭公。

【経】七年春、斉人伐鄭。夏、小邾子来朝。鄭殺其大夫申侯。秋七月、僖公会斉侯・宋公・陳世子款・鄭世子華盟于寧母。曹伯班が亡くなった。公子友如斉。冬、葬曹昭公。

【傳】七年春,齊人伐鄭。孔叔言於鄭伯曰:“諺有之曰:‘心則不競,何憚於病。’既不能強,又不能弱,所以斃也。國危矣,請下齊以救國。”公曰:“吾知其所由來矣。姑少待我。”對曰:“朝不及夕,何以待君?”夏,鄭殺申侯以說於齊,且用陳轅濤塗之譖也。

【伝】七年春、斉人伐鄭。孔叔言于鄭伯曰「諺有之曰『心則不競、何憚于病』。既不能強、又不能弱、所以斃也。国危矣、請下斉以救国」。公曰「吾知其所由来矣。姑少待我」。対曰「朝不及夕、何以待君?」夏、鄭殺申侯以説于斉、且用陳轅涛塗之譖也。

初,申侯,申出也,有寵於楚文王。文王將死,與之璧,使行,曰,“唯我知女,女專利而不厭,予取予求,不女疵瑕也。後之人將求多於女,女必不免。

むかし、申侯、申出也、有寵于楚文王。文王将死、与之璧、使行、曰「唯我知女。女専利而不厭、予取予求、不女疵瑕也。後之人将求多于女、女必不免。

我死,女必速行。無適小國,將不女容焉。”既葬,出奔鄭,又有寵於厲公。子文聞其死也,曰:“古人有言曰‘知臣莫若君。’弗可改也已。”

(楚文王は続けて言う)我死、女必速行。无適小国、将不女容焉」。既葬、出奔鄭、又有寵于厲公。子文聞其死也、曰「古人有言曰『知臣莫若君』。弗可改也已」

秋,盟於寧母,謀鄭故也。

秋、盟于寧母、謀鄭故也。

管仲言於齊侯曰:“臣聞之,招攜以禮,懷遠以德,德禮不易,無人不懷。”

管仲は斉侯に言った。「臣が聞くところでは、離心の者を招き撫するには礼を用い、遠方の者を安んずるには徳を用います。徳と礼が変わらなければ、帰附しない者はありません」と。

齊侯修禮於諸侯,諸侯官受方物。

斉侯は諸侯に礼儀を修明し、諸侯の官はそれぞれ貢ぐべき土産を受け取った。

鄭伯使大子華聽命於會,言於齊侯曰:“洩氏、孔氏、子人氏三族,實違君命。若君去之以為成。我以鄭為內臣,君亦無所不利焉。”齊侯將許之。管仲曰:“君以禮與信屬諸侯,而以奸終之,無乃不可乎?子父不奸之謂禮,守命共時之謂信。違此二者,奸莫大焉。”公曰:“諸侯有討於鄭,未捷。今苟有釁,從之,不亦可乎?”對曰:“君若綏之以德,加之以訓辭,而帥諸侯以討鄭,鄭將覆亡之不暇,豈敢不懼?若總其罪人以臨之,鄭有辭矣,何懼?且夫合諸侯以崇德也,會而列奸,何以示後嗣?夫諸侯之會,其德刑禮義,無國不記。記奸之位,君盟替矣。作而不記,非盛德也。君其勿許,鄭必受盟。夫子華既為大子而求介於大國,以弱其國,亦必不免。鄭有叔詹、堵叔、師叔三良為政,未可間也。”齊侯辭焉。子華由是得罪於鄭。

鄭伯は太子華を会上に遣わして命を聴かせた。太子華は斉侯に言った。「洩氏・孔氏・子人氏の三族は、実にあなたの命令に背いています。もしあなたが彼らを除いて講和されるなら、私は鄭国をあなたの内臣とさせ、あなたに不利なこともありません」と。斉侯は許そうとした。管仲は言った。「あなたは礼と信を以て諸侯を糾合しながら、奸邪を以て締めくくるのは、恐らくできないでしょう。父子が背かないを礼と言い、君命を守り時宜に合うを信と言います。この二条に背くことは、奸邪はこれより大きいものはありません」と。斉侯は言った。「諸侯は鄭国を討ったが、まだ勝っていない。今もし間隙があれば、この機会に乗じるのも、よいではないか」と。管仲は答えた。「あなたが徳を以て彼らを安んじ、訓戒の言葉を加え、再び諸侯を率いて鄭国を討てば、鄭国は危亡を救うのに間に合わず、どうして敢えて恐れないでしょう。もし彼らの罪人を連れて彼らを圧すれば、鄭国は言い分ができて、何を恐れましょうか。しかも諸侯を会すのは徳を崇めるためです。会盟で奸人を位次に列せば、何を以て後代に見せましょうか。諸侯の会見では、徳・刑・礼・義、どの国も記録しないものがありません。奸人の位次を記録すれば、あなたの盟約は廃れます。行って記録しないも、盛徳ではありません。あなたはやはりお許しにならないでください。鄭国は必ず来て盟を受けるでしょう。子華はすでに太子でありながら、大国に依頼して自国を削弱しようとすれば、また必ず免れられないでしょう。鄭国には叔詹・堵叔・師叔の三人の賢臣が政を執っており、まだ隙を窺うことはできません」と。斉侯は断った。子華はこれより鄭国で罪を得た。

冬,鄭伯請盟於齊。

冬、鄭伯は斉国と盟約を結ぶことを請うた。

閏月,惠王崩。襄王惡大叔帶之難,懼不立,不發喪而告難於齊。

閏月、恵王が亡くなった。襄王は大叔帯が乱を起こすことを恐れ、自ら立てないことを怕れて、発喪せずに斉国に急を告げた。

◇僖公八年

◇僖公八年

【經】八年春王正月,公會王人、齊侯、宋公、衛侯、許男、曹伯、陳世子款盟於洮。鄭伯乞盟。夏,狄伐晉。秋七月,禘於大廟,用致夫人。冬十有二月丁未,天王崩。

【経】八年春、周天子の暦の正月、僖公は王室の人・斉侯・宋公・衛侯・許男・曹伯・陳国の世子款と洮で盟約した。鄭伯は盟に加わることを請うた。夏、狄人は晋を攻めた。秋七月、太廟で禘祭を行い、夫人の神主を入れた。冬十二月丁未、天子が崩じた。

【傳】八年春,盟於洮,謀王室也。鄭伯乞盟,請服也。襄王定位而後發喪。

【伝】八年春、洮で盟約したのは、王室を安んじることを謀るためである。鄭伯が盟に加わることを請うたのは、罪に服する請いである。襄王の地位が安らいで後に発喪した。

晉裡克帥師,梁由靡御。虢射為右,以敗狄於採桑。梁由靡曰:“狄無恥,從之必大克。”裡克曰:“拒之而已,無速眾狄。”虢射曰:“期年,狄必至,示之弱矣。”

晋の里克は軍を率い、梁由靡が御し、虢射が車右を務め、采桑で狄人を敗った。梁由靡は言った。「狄人は恥を知らない、追撃すれば必ず大勝ちできます」と。里克は言った。「彼らを止めるだけでよい、各部の狄人を招くな」と。虢射は言った。「一年後、狄人は必ず再来します。すでに軟弱を彼らに見せました」と。

夏,狄伐晉,報採桑之役也。復期月。

夏、狄人が晋を攻めたのは、采桑の戦いの報復である。満一年の期限に応えた。

秋,禘而致哀姜焉,非禮也。凡夫人不薨於寢,不殯於廟,不赴於同,不祔於姑,則弗致也。

秋、禘祭を行い哀姜の神主を太廟に入れたのは、礼に合わない。凡そ夫人は、正寝で死なず、祖廟で殯を停めず、同盟の国に訃を告げず、祖姑に陪祀せざれば、神主を入れない。

冬,王人來告喪,難故也,是以緩。

冬、王室の人が来て喪を告げたのは、禍難があったためで、遅れた。

宋公疾,大子茲父固請曰:“目夷長,且仁,君其立之。”公命子魚,子魚辭,曰:“能以國讓,仁孰大焉?臣不及也,且又不順。”遂走而退。

宋公が病み、太子茲父は強く請うて言った。「目夷は年長であり、かつ仁愛です。あなたは彼を立ててください」と。宋公は子魚に継がせることを命じ、子魚は辞して言った。「国を他者に譲ることができるなら、これより大きな仁があるでしょうか。臣は彼に及ばず、しかもこれは順ではありません」と。于是快歩して退いた。

◇僖公九年

◇僖公九年

【經】九年春王三月丁丑,宋公御說卒。夏,公會宰周公、齊侯、宋子、衛侯、鄭伯、許男、曹伯於葵丘。秋七月乙酉,伯姬卒。九月戊辰,諸侯盟於葵丘。

【経】九年春、周天子の暦の三月丁丑、宋公御説が亡くなった。夏、僖公は宰周公・斉侯・宋子・衛侯・鄭伯・許男・曹伯と葵丘で会見した。秋七月乙酉、伯姫が亡くなった。九月戊辰、諸侯は葵丘で盟約した。

甲子,晉侯佹諸卒。冬,晉裡奚克殺其君之子奚齊。

甲子、晋侯佹諸が亡くなった。冬、晋の里克は国君の子奚斉を殺した。底本は「里奚克」とする、即ち里克である。

【傳】九年春,宋桓公卒,未葬而襄公會諸侯,故曰子。凡在喪,王曰小童,公侯曰子。

【伝】九年春、宋桓公が亡くなり、まだ葬られていないのに、襄公は諸侯に会いに行ったので、『春秋』は彼を「子」と称した。凡そ喪事の期間は、天子は小童と称し、公侯は子と称する。

夏,會於葵丘,尋盟,且修好,禮也。

夏、葵丘で会見し、旧盟を重温し、かつ友好を修め直したのは、礼に合う。

王使宰孔賜齊侯胙,曰:“天子有事於文武,使孔賜伯舅胙。”齊侯將下拜。

天子は宰孔を遣わして斉侯に祭肉を賜い、言った。「天子は文王・武王に祭祀があり、孔を遣わして伯舅に祭肉を賜る」と。斉侯は階を下りて拝謝しようとした。

孔曰:“且有後命。天子使孔曰:‘以伯舅耋老,加勞,賜一級,無下拜’”。

宰孔は言った。「さらに後の命令があります。天子が孔を遣わして言うには『伯舅が年高であり、功労を加え、一等を進めて賜い、階を下りて拝むことは要らない』」と。

對曰:“天威不違顏咫尺,小白餘敢貪天子之命無下拜?恐隕越於下,以遺天子羞。敢不下拜?”下,拜;登,受。

斉侯は答えた。「天子の威厳は私の顔から咫尺も離れていないのに、小白の私が天子の命令を貪って下拝しないとは、恐らく下で礼を失し、天子に羞辱をもたらすでしょう。敢えて下拝しないでいられようか」と。于是階を下り、拝謝し、堂に登り、受け取った。

秋,齊侯盟諸侯於葵丘,曰:“凡我同盟之人,既盟之後,言歸於好。”宰孔先歸,遇晉侯曰:“可無會也。齊侯不務德而勤遠略,故北伐山戎,南伐楚,西為此會也。東略之不知,西則否矣。其在亂乎。君務靖亂,無勤於行。”晉侯乃還。

秋、斉侯は諸侯と葵丘で盟約し、言った。「凡そ我らが同盟の者は、盟約を結んだ後、皆友好に帰れ」と。宰孔は先に帰り、晋侯に遇い、言った。「参加しなくてもよい。斉侯は徳を務めずして遠方を経略に勤しむので、北に山戎を攻め、南に楚を攻め、西でこの会を開いた。東はどう経略するかまだ知れず、西はもう駄目だ。晋国の憂患は恐らく内乱にあるだろう。あなたは内乱を平定することに専念し、出行に急ぐ必要はない」と。晋侯は于是帰った。

九月,晉獻公卒,裡克、鄭欲納文公,故以三公子之徒作亂。

九月、晋献公が亡くなった。里克・鄭は文公を迎え入れたいので、三公子の党羽に依頼して乱を起こした。

初,獻公使荀息傅奚齊,公疾,召之,曰:“以是藐諸孤,辱在大夫,其若之何?”稽首而對曰:“臣竭其股肱之力,加之以忠貞。其濟,君之靈也;不濟,則以死繼之。”公曰:“何謂忠貞?”對曰:“公家之利,知無不為,忠也。送往事居,耦俱無猜。貞也。”及裡克將殺奚齊,先告荀息曰:“三怨將作,秦、晉輔之,子將何如?”荀息曰:“將死之。”裡克曰:“無益也。”荀叔曰:“吾與先君言矣,不可以貳。能欲復言而愛身乎?雖無益也,將焉闢之?且人之慾善,誰不如我?我欲無貳而能謂人已乎?”冬十月,裡克殺奚齊於次。書曰:“殺其君之子。”未葬也。荀息將死之,人曰:“不如立卓子而輔之。”荀息立公子卓以葬。十一月,裡克殺公子卓於朝,荀息死之。君子曰:“詩所謂‘白圭之玷,尚可磨也;斯言之玷,不可為也,’荀息有焉。”

むかし、献公は荀息に奚斉を輔けさせた。献公が病み、荀息を召見して言った。「この幼弱な孤児を大夫に託す、あなたはどうするつもりか」と。荀息は頭を叩いて答えた。「臣は股肱の力を尽くし、さらに忠貞を加えます。事が成れば、あなたの天の霊に托り、成らなければ、死を以て従います」と。献公は言った。「忠貞とは何か」と。荀息は答えた。「公家に利ある事は、知れば為さないことはない、これが忠です。死者を送り生者に事えて、両方に猜疑がない、これが貞です」と。里克が奚斉を殺そうとするに及び、先ず荀息に告げて言った。「三方面の怨みが発作しようとしており、秦国・晋国に人が彼らを輔けています。あなたはどうするつもりか」と。荀息は言った。「私はこれのために死ぬだろう」と。里克は言った。「益はない」と。荀息は言った。「私はすでに先君に言いました。二心を持つことはできません。諾を践みながら身を惜しむことがあろうか。益がなくても、どこに避けることができようか。しかも人が善を為そうとするのは、誰が私と異ならないでしょう。私自身が二心を持たないと思うのに、人に止めろと要求できますか」と。冬十月、里克は居喪の茅屋で奚斉を殺した。『春秋』は「殺其君之子」と記す。まだ葬られていないためである。荀息は死のうとしたが、ある人が言った。「卓子を立てて輔けるのがよい」と。荀息は公子卓を立てて葬礼を成し遂げた。十一月、里克は朝廷で公子卓を殺し、荀息はこれのために死んだ。君子は言う。「『詩』に云う『白圭の瑕は磨くことができる、言葉の瑕は去ることができない』、荀息はこれである」と。

齊侯以諸侯之師伐晉,及高梁而還,討晉亂也。令不及魯,故不書。

斉侯は諸侯の軍を率いて晋を攻め、高梁に至って帰った、晋の内乱を討ったのである。命令は魯に下らなかったので、『春秋』は記さない。

晉郤芮使夷吾重賂秦以求入,曰:“人實有國,我何愛焉。入而能民,土於何有。”從之。齊隰朋帥師會秦師,納晉惠公。秦伯謂郤芮曰:“公子誰恃?”對曰:“臣聞亡人無黨,有黨必有仇。夷吾弱不好弄,能鬥不過,長亦不改,不識其他。”公謂公孫枝曰:“夷吾其定乎?對曰:“臣聞之,唯則定國。《詩》曰:‘不識不知,順帝之則。’文王之謂也。又曰:‘不僣不賊,鮮不為則。’無好無惡,不忌不克之謂也。今其言多忌克,難哉!”公曰:“忌則多怨,又焉能克?是吾利也。”

晋の郤芮は夷吾に重い賂を以て秦国に請い、彼を国に帰させるよう言った。「国家はもともと他人が据えているもの、私に何を惜しむことがあろうか。入れば百姓を得られ、土地はまた何ものでもない」と。夷吾は従った。斉の隰朋は軍を率い秦軍と会し、晋恵公を晋に送り入れた。秦伯は郤芮に問うた。「公子は誰に依るか」と。郤芮は答えた。「臣が聞くところでは、逃亡する者に党羽はなく、党羽があれば必ず仇人があります。夷吾は幼い頃遊びを好まず、争いはできても過度ではなく、長じても改めず、その他は知りません」と。秦伯は公孫枝に言った。「夷吾は国を安んじられるか」と。公孫枝は答えた。「臣が聞くところでは、法則に合うのみ国を安んじられます。『詩』に云う『知らず識らず、天の法則に順う』、これは文王を言います。また云う『僭越せず賊害せず、法則とならないことは少ない』。私好なく私悪なく、嫉妬せず勝を好まざれば、これがその意です。今彼の言葉には嫉妬と好勝が多い、難しいでしょう」と。秦伯は言った。「嫉妬すれば多くの怨恨を持ち、またどうして勝つことができようか。これは我に利がある」と。

宋襄公即位,以公子目夷為仁,使為左師以聽政,於是宋治。故魚氏世為左師。

宋襄公が即位し、公子目夷を仁愛と認め、彼を左師にして政を掌らせたので、宋国は治まった。故に魚氏は世々左師を為す。

◇僖公十年

◇僖公十年

【經】十年春王正月,公如齊。狄滅溫,溫子奔衛。晉裡克弒其君卓及其大夫荀息。夏,齊侯、許男伐北戎。晉殺其大夫裡克。秋七月。冬,大雨雪。

【経】十年春、周天子の暦の正月、僖公は斉に如いた。狄人は温を滅ぼし、温子は衛に奔たり。晋の里克は其の君卓及び大夫荀息を弑した。夏、斉侯・許男は北戎を伐った。晋は其の大夫里克を殺した。秋七月。冬、大雨雪。

【傳】十年春,狄滅溫,蘇子無信也。蘇子叛王即狄,又不能於狄,狄人伐之,王不救,故滅。蘇子奔衛。

【伝】十年春、狄人が温を滅ぼしたのは、蘇子に信がなかったためである。蘇子は天子に叛き狄に親しみ、しかも狄の喜びを得られなかったので、狄が彼を伐ち、天子は救わず、因而滅んだ。蘇子は衛に奔たり。

夏四月,周公忌父、王子黨會齊隰朋立晉侯。晉侯殺裡克以說。將殺裡克,公使謂之曰:“微子則不及此。雖然,子弒二君與一大夫,為子君者不亦難乎?”對曰:“不有廢也,君何以興?欲加之罪,其無辭乎?臣聞命矣。”伏劍而死。

夏四月、周公忌父・王子党は斉の隰朋と会して晋侯を立てた。晋侯は里克を殺して説明し討ちを悦ばせた。里克を殺そうとする時、晋侯は人に言わせた。「あなたがいなければ私はこの歩みに至れなかった。然りといえども、あなたは二君と一大夫を弑した。あなたの君となるのは難しくないか」と。里克は答えた。「廃黜がなければ、君は何を以て興るのか。罪名を加えたいなら、措辞がないことを恐れるか。臣は命令を聞いた」と。于是伏剣して死んだ。

於是鄭聘於秦,且謝緩賂,故不及。

この時鄭は秦に聘問し、かつ財貨の交付を遅らせたことを謝したので、この事に間に合わなかった。

晉侯改葬共大子。

晋侯は恭太子を改葬した。

秋,狐突適下國,遇大子,大子使登,僕,而告之曰:“夷吾無禮,餘得請於帝矣。將以晉畀秦,秦將祀餘。”對曰:“臣聞之,神不歆非類,民不祀非族。

秋、狐突は曲沃に如き、太子に遇った。太子は彼を車に乗せ、自ら御し、彼に告げて言った。「夷吾は礼数がない。私はすでに天帝に請いました。晋を秦に与え、秦は私を祭るでしょう」と。狐突は答えた。「臣が聞くところでは、神霊は其の族類でない祭品を享さず、百姓は其の族類でない人を祭りません。

君祀無乃殄乎?且民何罪?失刑乏祀,君其圖之。”君曰:“諾。吾將復請。七日新城西偏,將有巫者而見我焉。”許之,遂不見。及期而往,告之曰:“帝許我罰有罪矣,敝於韓。”

(狐突は続けて言う)あなたの祭祀は恐らく絶えるでしょう。しかも百姓に何の罪がありますか。刑罰が当たらず祭祀が乏絶するのは、あなたが考えてください」と。太子は言った。「よし。私は再び請います。七日後に新城の西辺で、巫師があなたに私を見せます」と。狐突は許した。太子は見えなくなった。約束の日に至って往くと、巫師は彼に告げて言った。「天帝は私に罪ある者を罰することを許しました。彼は韓で敗れるでしょう」と。

鄭之如秦也,言於秦伯曰:“呂甥、郤稱、冀芮實為不從,若重問以召之,臣出晉君,君納重耳,蔑不濟矣。”

鄭は秦に如いた時、秦伯に言った。「呂甥・郤称・冀芮は実際には服従しません。もし厚礼を以て彼らを召請すれば、私は晋君を逐い、あなたは重耳を納れ、成らないことはありません」と。

冬,秦伯使冷至報問,且召三子。郤芮曰:“幣重而言甘,誘我也。”遂殺鄭、祁舉及七輿大夫:左行共華、右行賈華、叔堅、騅顓、累虎、特宮、山祁,皆裡、之黨也。豹奔秦,言於秦伯曰:“晉侯背大主而忌小怨,民弗與也,伐之必出。”公曰:“失眾,焉能殺。違禍,誰能出君。”

冬、秦伯は冷至を遣わして報聘し、かつこの三人を召請した。郤芮は言った。「幣が重く言が甘いは、我らを誘うものです」と。于是鄭・祁挙と七輿大夫:左行共華・右行賈華・叔堅・騅顓・累虎・特宮・山祁を殺した、皆里克の党の人である。底本「里、」の下は疑わしく脱文あり。豹は秦に奔り、秦伯に言った。「晋侯は大きな靠山を背き小さな怨みを記し、百姓は彼に親しみません。彼を伐てば必ず彼を逐えます」と。秦伯は言った。「すでに衆を失い、どうして人を殺せよう。禍を避けるのに、誰が君を逐えよう」と。

◇僖公十一年

◇僖公十一年

【經】十有一年春。晉殺其大夫鄭父。夏,公及夫人姜氏會齊侯於陽穀。

【経】十一年春。晋は其の大夫鄭父を殺した。夏、僖公及び夫人姜氏は斉侯を陽穀で会した。

秋八月,大雩。冬,楚人伐黃。

秋八月、大雩。冬、楚人伐黄。

【傳】十一年春,晉侯使以鄭之亂來告。

【伝】十一年春、晋侯は人を遣わして鄭の乱を告げに来させた。

天王使召武公、內史過賜晉侯命。受玉惰。過歸,告王曰:“晉侯其無後乎。

天子は召武公・内史過を遣わして晋侯に命圭を賜った。晋侯が玉圭を受ける時態度が怠惰であった。内史過は帰りて天子に告げて言った。「晋侯は恐らく後嗣がないでしょう。

王賜之命而惰於受瑞,先自棄也已,其何繼之有?禮,國之幹也。敬,禮之輿也。

(内史過は続けて言う)天子が彼に命圭を賜うに、彼が瑞玉を受けるに怠惰であったのは、自ら先に自らを棄てたのです。まだ何の継承人があろうか。礼は国の躯干です。敬は礼を載せる車です。

不敬則禮不行,禮不行則上下昏,何以長世?”夏,揚、拒、泉、皋、伊、洛之戎同伐京師,入王城,焚東門,王子帶召之也。秦、晉、伐戎以救周。秋,晉侯平戎於王。

(内史過は続けて言う)敬しなければ礼は行えず、礼が行えなければ上下は昏乱し、何を以て長久とせよう」と。夏、揚・拒・泉・皋・伊・洛の戎が同じく京師を伐ち、王城に入り、東門を焚いた。王子帯が召したのである。秦・晋は戎を伐って周室を救った。秋、晋侯は天子のために戎を和せた。

黃人不歸楚貢。冬,楚人伐黃。

黄人は楚に貢品を納めなかった。冬、楚人は黄を伐った。

◇僖公十二年

◇僖公十二年

【經】十有二年春王三月庚午,日有食之。夏,楚人滅黃。秋七月。冬十有二月丁丑,陳侯杵臼卒。

【経】十二年春、周天子の暦の三月庚午、日有食之。夏、楚人滅黄。秋七月。冬十有二月丁丑、陳侯杵臼が亡くなった。

【傳】十二年春,諸侯城衛楚丘之郛,懼狄難也。

【伝】十二年春、諸侯は衛の楚丘の外城を築いたのは、狄人の禍難を惧れたためである。

黃人恃諸侯之睦於齊也,不共楚職,曰:“自郢及我九百里,焉能害我?”夏,楚滅黃。

黄人は諸侯が斉と睦び合うを恃み、楚に職貢を行わず、言った。「郢から我らまで九百里、どうして我らを害せよう」と。夏、楚は黄を滅ぼした。

王以戎難故,討王子帶。秋,王子帶奔齊。

天子は戎人の禍難のため、王子帯を討った。秋、王子帯は斉に奔たり。

冬,齊侯使管夷吾平戎於王,使隰朋平戎於晉。

冬、斉侯は管夷吾を遣わして天子のために戎を和し、隰朋を遣わして晋のために戎を和した。

王以上卿之禮饗管仲,管仲辭曰:“臣,賤有司也,有天子之二守國、高在。

天子は上卿の礼で管仲を饗し、管仲は辞して言った。「臣は低賤の執事、天子が任命する守臣国氏・高氏が在ります。

若節春秋來承王命,何以禮焉?陪臣敢辭。”王曰:“舅氏,餘嘉乃勳,應乃懿德,謂督不忘。往踐乃職,無逆朕命。”管仲受下卿之禮而還。君子曰:“管氏之世祀也宜哉!讓不忘其上。《詩》曰:‘愷悌君子,神所勞矣。’”

(管仲は続けて言う)彼らが春秋二季に王命を受けに来れば、また何の礼で彼らを遇しますか。陪臣は敢えて当たりません」と。天子は言った。「舅氏、私はあなたの功勲を嘉し、あなたの美しい徳を承け、深厚と言えて忘れない。あなたの職分を履行し、我が命令に逆らうな」と。管仲は下卿の礼を受けて国に帰った。君子は言う。「管氏が世々祭祀を享くるは当然である。譲りて上を忘れず。『詩』に云う『和楽平易の君子、神霊は彼を保つ』」と。

◇僖公十三年

◇僖公十三年

【經】十有三年春,狄侵衛。夏四月,葬陳宣公。公會齊侯、宋公、陳侯、鄭伯、許男、曹伯於鹹。秋九月,大雩。冬,公子友如齊。

【経】十三年春、狄人侵衛。夏四月、葬陳宣公。僖公会斉侯・宋公・陳侯・鄭伯・許男・曹伯于咸。秋九月、大雩。冬、公子友如斉。

【傳】十三年春,齊侯使仲孫湫聘於周,且言王子帶。事畢,不與王言。歸,覆命曰:“未可。王怒未怠,其十年乎。不十年,王弗召也。”

【伝】十三年春、斉侯は仲孫湫を遣わして周室に聘問し、かつ王子帯のことを談じた。事が済み、天子にこのことを談じなかった。帰りて命を復して言った。「未だ可ならず。天子の怒りは未だ消えず、恐らく十年でしょう。十年に至らなければ、天子は彼を召して帰さないでしょう」と。

夏,會於鹹,淮夷病杞故,且謀王室也。

夏、咸で会したのは、淮夷が杞を困らせ、かつ王室のことを謀るためである。

秋,為戎難故,諸侯戍周,齊仲孫湫致之。

秋、戎人の禍難のため、諸侯は兵を遣わして周室を戍し、斉の仲孫湫が戍卒を送った。

冬,晉荐饑,使乞糴於秦。秦伯謂子桑:“與諸乎?”對曰:“重施而報,君將何求?重施而不報,其民必攜,攜而討焉,無眾必敗。”謂百里:“與諸乎?”對曰:“天災流行,國家代有,救災恤鄰,道也。行道有福。”

冬、晋は連年饑饉し、人を遣わして秦に糴を請うた。秦伯は子桑に問うた「与うべきか」。子桑は答えた「重ねて恩を施して報いを得れば、あなたは何を求めますか。重ねて恩を施して報いられなければ、彼らの百姓は必ず離れ、離れて後に討てば、民なしに必ず敗れます」と。又百里に問うた「与うべきか」。百里は答えた「天災流行、国家は代々有り、災を救い鄰を恤むは、道です。道を行えば福あり」と。

鄭之子豹在秦,請伐晉。秦伯曰:“其君是惡,其民何罪?”秦於是乎輸粟於晉,自雍及絳相繼,命之曰泛舟之役。

鄭の子豹は秦に在り、晋を伐つことを請うた。秦伯は言った「其の君を惡むは、百姓何の罪ぞ」と。秦は于是粟を晋に輸し、雍より絳に至りて相継ぎ、この事を「泛舟之役」と称した。

◇僖公十四年

◇僖公十四年

【經】十有四年春,諸侯城緣陵。夏六月,季姬及鄫子遇於防。使鄫子來朝。秋八月辛卯,沙鹿崩。狄侵鄭。冬,蔡侯肝卒。

【経】十四年春、諸侯城縁陵。夏六月、季姫及び鄫子遇于防。使鄫子来朝。秋八月辛卯、沙鹿崩。狄人侵鄭。冬、蔡侯肸が亡くなった。底本は「肝」とする、即ち肸である。

【傳】十四年春,諸侯城緣陵而遷杞焉。不書其人,有闕也。

【伝】十四年春、諸侯は縁陵に城を築き杞を遷した。『春秋』に具体の人を記さざるは、記載に欠漏があるためである。

鄫季姬來寧,公怒,止之,以鄫子之不朝也。夏,遇於防,而使來朝。

鄫の季姫は寧に帰り、僖公は怒り、彼女を留めた、鄫子が来朝しないためである。夏、防で遇い、かつ鄫子に来朝させた。

秋八月辛卯,沙鹿崩。晉卜偃曰:“期年將有大咎,幾亡國。”

秋八月辛卯、沙鹿崩。晋卜偃曰「期年に将に大咎あり、幾亡国せん」と。

冬,秦飢,使乞糴於晉,晉人弗與。慶鄭曰:“背施無親,幸災不仁,貪愛不祥,怒鄰不義。四德皆失,何以守國?”虢射曰:“皮之不存,毛將安傅?”慶鄭曰:“棄信背鄰,患孰恤之?無信患作,失授必斃,是則然矣。”虢射曰:“無損於怨而厚於寇,不如勿與。”慶鄭曰:“背施幸災,民所棄也。近猶仇之,況怨敵乎?”弗聽。退曰:“君其悔是哉!”

冬、秦饑、使乞糴于晋、晋人弗与。慶鄭曰「背施無親、幸災不仁、貪愛不祥、怒鄰不義。四徳皆失、何以守国?」虢射曰「皮之不存、毛将安傅?」慶鄭曰「棄信背鄰、患孰恤之?無信患作、失援必斃。是則然矣」。虢射曰「無損于怨、而厚于寇、不如勿与」。慶鄭曰「背施幸災、民所棄也。近猶讐之、況怨敵乎?」弗聴。退曰「君其悔是哉!」

◇僖公十五年

◇僖公十五年

【經】十有五年春王正月,公如齊。楚人伐徐。三月,公會齊侯、宋公、陳侯、衛候、鄭伯、許男、曹伯盟於牡丘,遂次於匡。公孫敖帥師及諸侯之大夫救徐。夏五月,日有食之。秋七月,齊師、曹師伐厲。八月,螽。九月,公至自會。

【経】十五年春、周天子の暦の正月、僖公如斉。楚人伐徐。三月、僖公会斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯盟于牡丘、遂次于匡。公孫敖帥師及諸侯之大夫救徐。夏五月、日有食之。秋七月、斉師・曹師伐厲。八月、螽。九月、僖公至自会。底本「衛候」即衛侯。

季姬歸於鄫。己卯晦,震夷伯之廟。冬,宋人伐曹。楚人敗徐於婁林。十有一月壬戌,晉侯及秦伯戰於韓,獲晉侯。

季姫帰于鄫。己卯晦、震夷伯之廟。冬、宋人伐曹。楚人敗徐于婁林。十有一月壬戌、晋侯及秦伯戦于韓、獲晋侯。

【傳】十五年春,楚人伐徐,徐即諸夏故也。三月,盟於牡丘,尋蔡丘之盟,且救徐也。孟穆伯帥師及諸侯之師救徐,諸侯次於匡以待之。

【伝】十五年春、楚人伐徐、徐即諸夏故也。三月、盟于牡丘、尋葵丘之盟、且救徐也。底本は「蔡丘」とする、即ち葵丘である。孟穆伯帥師及諸侯之師救徐、諸侯次于匡以待之。

夏五月,日有食之。不書朔與日,官失之也。

夏五月、日有食之。不書朔与日、官失之也。

秋,伐厲,以救徐也。

秋、伐厲、以救徐也。

晉侯之入也,秦穆姬屬賈君焉,且曰:“盡納群公子。”晉侯烝於賈君,又不納群公子,是以穆姬怨之。晉侯許賂中大夫,既而皆背之。賂秦伯以河外列城五,東盡虢略,南及華山,內及解梁城,既而不與。晉飢,秦輸之粟;秦飢,晉閉之糴,故秦伯伐晉。

晋侯之入也、秦穆姫属賈君焉、且曰「尽納群公子」。晋侯烝于賈君、又不納群公子、是以穆姫怨之。晋侯許賂中大夫、既而皆背之。賂秦伯以河外列城五、東尽虢略、南及華山、内及解梁城、既而不与。晋饑、秦輸之粟、秦饑、晋閉之糴、故秦伯伐晋。

卜徒父筮之,吉。涉河,侯車敗。詰之,對曰:“乃大吉也,三敗必獲晉君。

卜徒父筮之、吉。渉河、侯車敗。詰之、對曰「乃大吉也、三敗必獲晋君。

其卦遇《蠱》ⅶⅳ,曰:‘千乘三去,三去之餘,獲其雄狐。’夫狐蠱,必其君也。《蠱》之貞,風也;其悔,山也。歲雲秋矣,我落其實而取其材,所以克也。

(卜徒父は続けて言う)其卦遇蠱、曰『千乗三去、三去之餘、獲其雄狐』。夫狐蠱、必其君也。蠱之貞、風也、其悔、山也。歳云秋矣、我落其実而取其材、所以克也。

實落材亡,不敗何待?”三敗及韓。晉侯謂慶鄭曰:“寇深矣,若之何?”對曰:“君實深之,可若何?”公曰:“不孫。”卜右,慶鄭吉,弗使。步揚御戎,家僕徒為右,乘小駟,鄭入也。慶鄭曰:“古者大事,必乘其產,生其水土而知其人心,安其教訓而服習其道,唯所納之,無不如志。今乘異產,以從戎事,及懼而變,將與人易。亂氣狡憤,陰血周作,張脈僨興,外強中乾。進退不可,周旋不能,君必悔之。”

(卜徒父は続けて言う)実落材亡、不敗何待?」三敗及韓。晋侯謂慶鄭曰「寇深矣、若之何?」對曰「君実深之、可若何?」公曰「不孫」。卜右、慶鄭吉、弗使。歩揚御戎、家僕徒為右、乗小駟、鄭入也。慶鄭曰「古者大事、必乗其産、生其水土而知其人心、安其教訓而服習其道、唯所納之、无不如志。今乗異産以従戎事、及懼而変、将与人易。乱気狡憤、陰血周作、張脈僨興、外彊中乾。進退不可、周旋不能、君必悔之」

弗聽。

弗聴。

九月,晉侯逆秦師,使韓簡視師,復曰:“師少於我,鬥士倍我。”公曰:“何故?”對曰:“出因其資,入用其寵,飢食其粟,三施而無報,是以來也。

九月、晋侯逆秦師、使韓簡視師、復曰「師少于我、闘士倍我」。公曰「何故」。對曰「出因其資、入用其寵、饑食其粟、三施而無報、是以來也。

今又擊之,我怠秦奮,倍猶未也。”公曰:“一夫不可狃,況國乎。”遂使請戰,曰:“寡人不佞,能合其眾而不能離也,君若不還,無所逃命。”秦伯使公孫枝對曰:“君之未入,寡人懼之,入而未定列,猶吾憂也。苟列定矣,敢不承命。”

(韓簡は続けて言う)今又擊之、我怠秦奮、倍猶未也」。公曰「一夫不可狃、況国乎」。遂使請戦、曰「寡人不佞、能合其衆而不能離也。君若不還、無所逃命」。秦伯使公孫枝對曰「君之未入、寡人懼之、入而未定列、猶吾憂也。苟列定矣、敢不承命」

韓簡退曰:“吾幸而得囚。”

韓簡退曰「吾幸而得囚」

壬戌,戰於韓原,晉戎馬還濘而止。公號慶鄭。慶鄭曰:“愎諫違卜,固敗是求,又何逃焉?”遂去之。梁由靡御韓簡,虢射為右,輅秦伯,將止之。鄭以救公誤之,遂失秦伯。秦獲晉侯以歸。晉大夫反首拔舍從之。秦伯使辭焉,曰:“二三子何其戚也?寡人之從君而西也,亦晉之妖夢是踐,豈敢以至。”晉大夫三拜稽首曰:“君履后土而戴皇天,皇天后土實聞君之言,群臣敢在下風。”

壬戌、戦于韓原、晋戎馬還濘而止。公號慶鄭。慶鄭曰「愎諫違卜、固敗是求、又何逃焉」。遂去之。梁由靡御韓簡、虢射為右、輅秦伯、将止之。鄭以救公誤之、遂失秦伯。秦獲晋侯以帰。晋大夫反首拔舍従之。秦伯使辞焉、曰「二三子何其慼也?寡人之従君而西也、亦晋之妖夢是踐、豈敢以至」。晋大夫三拝稽首曰「君履后土而戴皇天、皇天后土実聞君之言、群臣敢在下風」

穆姬聞晉侯將至,以大子犖、弘與女簡、璧登臺而履薪焉,使以免服衰絰逆,且告曰:“上天降災,使我兩君匪以玉帛相見,而以興戎。若晉君朝以入,則婢子夕以死;夕以入,則朝以死。唯君裁之。”乃舍諸靈臺。

穆姫聞晋侯将至、以大子罃、弘与女簡璧登台而履薪焉、使以免服衰絰逆、且告曰「上天降災、使我両君匪以玉帛相見、而以興戎。若晋君朝以入、則婢子夕以死、夕以入、則朝以死。唯君裁之」。乃舎諸霊台。

大夫請以入。公曰:“獲晉侯,以厚歸也。既而喪歸,焉用之?大夫其何有焉?且晉人戚憂以重我,天地以要我。不圖晉憂,重其怒也;我食吾言,背天地也。重怒難任,背天不祥,必歸晉君。”公子縶曰:“不如殺之,無聚慝焉。”

大夫請以入。公曰「獲晋侯、以厚帰也、既而喪帰、焉用之?大夫其何有焉?且晋人慼憂以重我、天地以要我。不図晋憂、重其怒也、我食吾言、背天地也。重怒難任、背天不祥、必帰晋君」。公子縶曰「不如殺之、無聚慝焉」

子桑曰:“歸之而質其大子,必得大成。晉未可滅而殺其君,只以成惡。且史佚有言曰:‘無始禍,無怙亂,無重怒。’重怒難任,陵人不祥。”乃許晉平。

子桑曰「帰之而質其大子、必得大成。晋未可滅、而殺其君、只以成惡。且史佚有言曰『無始禍、無怙乱、無重怒』。重怒難任、陵人不祥」。乃許晋平。

晉侯使郤乞告瑕呂飴甥,且召之。子金教之言曰:“朝國人而以君命賞,且告之曰:‘孤雖歸,辱社稷矣。其卜貳圉也。’”眾皆哭。晉於是乎作爰田。呂甥曰:“君亡之不恤,而群臣是憂,惠之至也。將若君何?”眾曰:“何為而可?”對曰:“徵繕以輔孺子,諸侯聞之,喪君有君,群臣輯睦,甲兵益多,好我者勸,惡我者懼,庶有益乎!”眾說。晉於是乎作州兵。

晋侯使郤乞告瑕呂飴甥、且召之。子金教之言曰「朝国人而以君命賞、且告之曰『孤雖帰、辱社稷矣。其卜貳圉也』」。衆皆哭。晋于是乎作爰田。呂甥曰「君亡之不恤、而群臣是憂、惠之至也。将若君何?」衆曰「何為而可?」對曰「征繕以輔孺子、諸侯聞之、喪君有君、群臣輯睦、甲兵益多、好我者勧、惡我者懼、庶有益乎!」衆説。晋于是乎作州兵。

初,晉獻公筮嫁伯姬於秦,遇《歸妹》ⅲⅷ之《睽》ⅵⅷ。史蘇占之曰:“不吉。其繇曰:‘士刲羊,亦無{亡皿}也。女承筐,亦無貺也。西鄰責言,不可償也。《歸妹》之《睽》,猶無相也。’《震》之《離》,亦《離》之《震》,為雷為火。為嬴敗姬,車說其輹,火焚其旗,不利行師,敗於宗丘。《歸妹》《睽》孤,寇張之弧,侄其從姑,六年其逋,逃歸其國,而棄其家,明年其死於高梁之虛。”及惠公在秦,曰:“先君若從史蘇之占,吾不及此夫。”韓簡侍,曰:“龜,象也;筮,數也。物生而後有象,象而後有滋,滋而後有數。先君之敗德,及可數乎?史蘇是占,勿從何益?《詩》曰:‘下民之孽,匪降自天,僔沓背憎,職競由人。’”震夷伯之廟,罪之也,於是展氏有隱慝焉。

むかし、晋献公筮嫁伯姫于秦、遇帰妹之睽。史蘇占之、曰「不吉。其繇曰『士刲羊、亦無衁也。女承筐、亦無貺也。西鄰責言、不可償也。帰妹之睽、猶無相也』。底本「亡皿」為合文、即衁、血。震之離、亦離之震、為雷為火、為嬴敗姫。車説其輹、火焚其旗、不利行師、敗于宗丘。帰妹睽孤、寇張之弧、姪其従姑、六年其逋、逃帰其国、而棄其家、明年其死于高梁之虚」。及恵公在秦、曰「先君若従史蘇之占、吾不及此夫」。韓簡侍、曰「亀、象也、筮、数也。物生而後有象、象而後有滋、滋而後有数。先君之敗徳、及可数乎?史蘇是占、勿従何益?『詩』曰『下民之孽、匪降自天、僔沓背憎、職競由人』」。震夷伯之廟、罪之也、于是展氏有隠慝焉。

冬,宋人伐曹,討舊怨也。

冬、宋人伐曹、討舊怨也。

楚敗徐於婁林,徐恃救也。

楚人敗徐于婁林、徐恃救也。

十月,晉陰飴甥會秦伯,盟於王城。

十月、晋陰飴甥会秦伯、盟于王城。

秦伯曰:“晉國和乎?”對曰:“不和。小人恥失其君而悼喪其親,不憚徵繕以立圉也,曰:‘必報仇,寧事戎狄。’君子愛其君而知其罪,不憚徵繕以待秦命,曰:‘必報德,有死無二。’以此不和。”秦伯曰:“國謂君何?”對曰:“小人戚,謂之不免。君子恕,以為必歸。小人曰:‘我毒秦,秦豈歸君?’君子曰:‘我知罪矣,秦必歸君。貳而執之,服而舍之,德莫厚焉,刑莫威焉。服者懷德,貳者畏刑。此一役也,秦可以霸。納而不定,廢而不立,以德為怨,秦不其然。’”秦伯曰:“是吾心也。”改館晉侯,饋七牢焉。

秦伯曰「晋国和乎」。對曰「不和。小人恥失其君、而悼喪其親、不憚征繕以立圉也、曰『必報讐、寧事戎狄』。君子愛其君而知其罪、不憚征繕以待秦命、曰『必報徳、有死無二』。以此不和」。秦伯曰「国謂君何」。對曰「小人慼、謂之不免、君子恕、以為必帰。小人曰『我毒秦、秦豈帰君』。君子曰『我知罪矣、秦必帰君。貳而執之、服而舎之、徳莫厚焉、刑莫威焉。服者懐徳、貳者畏刑。此一役也、秦可以霸。納而不定、廢而不立、以徳為怨、秦不其然』」。秦伯曰「是吾心也」。改館晋侯、饋七牢焉。

蛾析謂慶鄭曰:“盍行乎?”對曰:“陷君於敗,敗而不死,又使失刑,非人臣也。臣而不臣,行將焉入?”十一月,晉侯歸。丁丑,殺慶鄭而後入。

蛾析謂慶鄭曰「盍行乎」。對曰「陷君于敗、敗而不死、又使失刑、非人臣也。臣而不臣、行将焉入?」十一月、晋侯帰。丁丑、殺慶鄭而後入。

是歲,晉又飢,秦伯又餼之粟,曰:“吾怨其君而矜其民。且吾聞唐叔之封也,箕子曰:‘其後必大。’晉其庸可冀乎!姑樹德焉以待能者。”於是秦始徵晉河東,置官司焉。

是歳、晋又饑、秦伯又餼之粟、曰「吾怨其君而矜其民。且吾聞唐叔之封也、箕子曰『其後必大』。晋其庸可冀乎!姑樹徳焉、以待能者」。于是秦始征晋河東、置官司焉。

◇僖公十六年

◇僖公十六年

【經】十有六年春王正月戊申朔,隕石於宋五。是月,六鷁退飛,過宋都。

【経】十六年春、周天子の暦の正月戊申朔、隕石于宋五。是月、六鷁退飛過宋都。

三月壬申,公子季友卒。夏四月丙申,鄫季姬卒。秋七月甲子,公孫茲卒。冬十有二月,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、邢侯、曹伯於淮。

三月壬申、公子季友が亡くなった。夏四月丙申、鄫季姫が亡くなった。秋七月甲子、公孫茲が亡くなった。冬十有二月、僖公会斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・邢侯・曹伯于淮。

【傳】十六年春,隕石於宋五,隕星也。六鷁退飛過宋都,風也。周內史叔興聘於宋,宋襄公問焉,曰;“是何祥也?吉凶焉在?”對曰:“今茲魯多大喪,明年齊有亂,君將得諸侯而不終。”退而告人曰:“君失問。是陰陽之事,非吉凶所生也。吉凶由人,吾不敢逆君故也。”

【伝】十六年春、隕石于宋五、隕星也。六鷁退飛過宋都、風也。周内史叔興聘于宋、宋襄公問焉、曰「是何祥也、吉凶焉在」。對曰「今茲魯多大喪、明年斉有乱、君将得諸侯而不終」。退而告人曰「君失問。是陰陽之事、非吉凶所生也。吉凶由人、吾不敢逆君故也」

夏,齊伐厲不克,救徐而還。

夏、斉伐厲不克、救徐而還。

秋,狄侵晉,取狐、廚、受鐸,涉汾,及昆都,因晉敗也。

秋、狄侵晋、取狐厨・受鐸、渉汾、及昆都、因晋敗也。

王以戎難告於齊,齊徵諸侯而戍周。

王以戎難告于斉、斉徴諸侯而戍周。

冬,十一月乙卯,鄭殺子華。

冬、十一月乙卯、鄭殺子華。

十二月會於淮,謀鄶,且東略也。城鄫,役人病。有夜登丘而呼曰:“齊有亂。”不果城而還。

十二月会于淮、謀鄫、且東略也。底本は「鄶」とする、下の城鄫、即ち鄫。城鄫、役人病。有夜登丘而呼曰「斉有乱」。不果城而還。

◇僖公十七年

◇僖公十七年

【經】十有七年春,齊人、徐人伐英氏。夏,滅項。秋,夫人姜氏會齊侯於卞。九月,公至自會。冬十有二月乙亥,齊侯小白卒。

【経】十七年春、斉人・徐人伐英氏。夏、滅項。秋、夫人姜氏会斉侯于卞。九月、僖公至自会。冬十有二月乙亥、斉侯小白が亡くなった。

【傳】十七年春,齊人為徐伐英氏,以報婁林之役也。

【伝】十七年春、斉人為徐伐英氏、以報婁林之役也。

夏,晉大子圉為質於秦,秦歸河東而妻之。惠公之在梁也,梁伯妻之。梁贏孕,過期,卜招父與其子卜之。其子曰:“將生一男一女。”招曰:“然。男為人臣,女為人妾。”故名男曰圉,女曰妾。及子圉西質,妾為宦女焉。

夏、晋大子圉為質于秦、秦帰河東而妻之。恵公之在梁也、梁伯妻之。梁嬴孕過期、卜招父与其子卜之。其子曰「将生一男一女」。招曰「然。男為人臣、女為人妾」。故名男曰圉、女曰妾。及子圉西質、妾為宦女焉。

師滅項。淮之會,公有諸侯之事,未歸而取項。齊人以為討,而止公。

師滅項。淮之会、公有諸侯之事、未帰而取項。斉人以為討、而止公。

秋,聲姜以公故,會齊侯於卞。九月,公至。書曰:“至自會。”猶有諸侯之事焉,且諱之也。

秋、声姜以公故、会斉侯于卞。九月、公至。書曰「至自会」、猶有諸侯之事焉、且諱之也。

齊侯之夫人三:王姬,徐嬴,蔡姬,皆無子。齊侯好內,多內寵,內嬖如夫人者六人:長衛姬,生武孟;少衛姬,生惠公;鄭姬,生孝公;葛嬴,生昭公;密姬,生懿公;宋華子,生公子雍。公與管仲屬孝公於宋襄公,以為太子。雍巫有寵於衛共姬,因寺人貂以薦羞於公,亦有寵,公許之立武孟。

斉侯之夫人三、王姫・徐嬴・蔡姫、皆無子。斉侯好内、多内寵、内嬖如夫人者六人、長衛姫、生武孟、少衛姫、生恵公、鄭姫、生孝公、葛嬴、生昭公、密姫、生懿公、宋華子、生公子雍。公与管仲属孝公于宋襄公、以為大子。雍巫有寵于衛共姫、因寺人貂以薦羞于公、亦有寵、公許之立武孟。

管仲卒,五公子皆求立。冬十月乙亥,齊桓公卒。易牙入,與寺人貂因內寵以殺群吏,而立公子無虧。孝公奔宋。十二月乙亥赴。辛巳夜殯。

管仲卒、五公子皆求立。冬十月乙亥、斉桓公卒。易牙入、与寺人貂因内寵以殺群吏、而立公子無虧。孝公奔宋。十二月乙亥赴。辛巳夜殯。

◇僖公十八年

◇僖公十八年

【經】十有八年春王正月,宋公、曹伯、衛人、邾人伐齊。夏,師救齊。五月戊寅,宋師及齊師戰於甗,齊師敗績。狄救齊。秋八月丁亥,葬齊桓公。冬,邢人,狄人伐衛。

【経】十八年春、周天子の暦の正月、宋公・曹伯・衛人・邾人伐斉。夏、師救斉。五月戊寅、宋師及斉師戦于甗、斉師敗績。狄救斉。秋八月丁亥、葬斉桓公。冬、邢人・狄人伐衛。

【傳】十八年春,宋襄公以諸侯伐齊。三月,齊人殺無虧。

【伝】十八年春、宋襄公以諸侯伐斉。三月、斉人殺無虧。

鄭伯始朝於楚,楚子賜之金,既而悔之,與之盟曰:“無以鑄兵。”故以鑄三鍾。

鄭伯始朝于楚、楚子賜之金、既而悔之、与之盟曰「無以鋳兵」。故以鋳三鍾。

齊人將立孝公,不勝,四公子之徒遂與宋人戰。夏五月,宋敗齊師於甗,立孝公而還。

斉人将立孝公、不勝、四公子之徒遂与宋人戦。夏五月、宋敗斉師于甗、立孝公而還。

秋八月,葬齊桓公。

秋八月、葬斉桓公。

冬,邢人、狄人伐衛,圍菟圃。衛侯以國讓父兄子弟及朝眾曰:“苟能治之,燬請從焉。”眾不可,而後師於訾婁。狄師還。

冬、邢人・狄人伐衛、囲菟圃。衛侯以国譲父兄子弟及朝衆、曰「苟能治之、燬請従焉」。衆不可、而従師于訾婁。狄師還。

梁伯益其國而不能實也,命曰新裡,秦取之。

梁伯益其国而不能実也、命曰新里、秦取之。

◇僖公十九年

◇僖公十九年

【經】十有九年春王三月,宋人執滕子嬰齊。夏六月,宋公、曹人、邾人盟於曹南。鄫子會盟於邾。己酉,邾人執鄶子,用之。秋,宋人圍曹。衛人伐邢。

【経】十九年春、周天子の暦の三月、宋人執滕子嬰斉。夏六月、宋公・曹人・邾人盟于曹南。鄫子会盟于邾。己酉、邾人執郐子用之。秋、宋人囲曹。衛人伐邢。

冬,會陳人、蔡人、楚人、鄭人盟於齊。梁亡。

冬、会陳人・蔡人・楚人・鄭人盟于斉。梁亡。

【傳】十九年春,遂城而居之。

【伝】十九年春、遂城而居之。

宋人執滕宣公。

宋人執滕宣公。

夏,宋公使邾文公用鄫子於次睢之社,欲以屬東夷。司馬子魚曰:“古者六畜不相為用,小事不用大牲,而況敢用人乎?祭祀以為人也。民,神之主也。

夏、宋公使邾文公用鄫子于次睢之社、欲以属東夷。司馬子魚曰「古者六畜不相為用、小事不用大牲、而況敢用人乎?祭祀為人也。民、神之主也。

用人,其誰饗之?齊桓公存三亡國以屬諸侯,義士猶曰薄德。今一會而虐二國之君,又用諸淫昏之鬼,將以求霸,不亦難乎?得死為幸!”秋,衛人伐邢,以報菟圃之役。於是衛大旱,卜有事于山川,不吉。甯莊子曰:“昔周飢,克殷而年豐。今邢方無道,諸侯無伯,天其或者欲使衛討邢乎?”從之,師興而雨。

(子魚は続けて言う)用人、其誰饗之?斉桓公存三亡国以属諸侯、義士猶曰薄徳。今一会而虐二国之君、又用諸淫昏之鬼、将以求霸、不亦難乎?得死為幸!」秋、衛人伐邢、以報菟圃之役。于是衛大旱、卜有事于山川、不吉。寧荘子曰「昔周饑、克殷而年豊。今邢方無道、諸侯無伯、天其或者欲使衛討邢乎?」従之、師興而雨。

宋人圍曹,討不服也。子魚言於宋公曰:“文王聞崇德亂而伐之,軍三旬而不降,退修教而復伐之,因壘而降。《詩》曰:‘刑于寡妻,至於兄弟,以御於家邦。’今君德無乃猶有所闕,而以伐人,若之何?盍姑內省德乎?無闕而後動。”

宋人囲曹、討不服也。子魚言于宋公曰「文王聞崇徳乱而伐之、軍三旬而不降、退修教而復伐之、因壘而降。『詩』云『刑于寡妻、至于兄弟、以御于家邦』。今君徳無乃猶有所闕、而以伐人、若之何?盍姑内省徳乎、無闕而後動」

陳穆公請修好於諸侯,以無忘齊桓之德。冬,盟於齊,修桓公之好也。

陳穆公請修好于諸侯、以無忘斉桓之徳。冬、盟于斉、修桓公之好也。

梁亡,不書其主,自取之也。初,梁伯好土功,亟城而弗處,民罷而弗堪,則曰:“某寇將至。”乃溝公宮,曰:“秦將襲我。”民懼而潰,秦遂取梁。

梁亡、不書其主、自取之也。初、梁伯好土功、亟城而弗処、民罷而弗堪、則曰「某寇将至」。乃溝公宮、曰「秦将襲我」。民懼而潰、秦遂取梁。

◇僖公二十年

◇僖公二十年

【經】二十年春,新作南門。夏,郜子來朝。五月乙巳,西宮災。鄭人入滑。

【経】二十年春、新作南門。夏、郜子来朝。五月乙巳、西宮災。鄭人入滑。

秋,齊人、狄人盟於邢。冬,楚人伐隨。

秋、斉人・狄人盟于邢。冬、楚人伐随。

【傳】二十年春,新作南門。書,不時也。凡啟塞從時。

【伝】二十年春、新作南門。書、不時也。凡啓塞従時。

滑人叛鄭而服於衛。夏,鄭公子士、洩堵寇帥師入滑。

滑人叛鄭而服于衛。夏、鄭公子士、洩堵寇帥師入滑。

秋,齊、狄盟於邢,為邢謀衛難也。於是衛方病邢。

秋、斉・狄盟于邢、為邢謀衛難也。于是衛方病邢。

隨以漢東諸侯叛楚。冬,楚鬥穀於菟帥師伐隨,取成而還。君子曰:“隨之見伐,不量力也。量力而動,其過鮮矣。善敗由己,而由人乎哉?《詩》曰:‘豈不夙夜,謂行多露。’”宋襄公欲合諸侯,臧文仲聞之,曰:“以欲從人,則可;以人從欲,鮮濟。”

随以漢東諸侯叛楚。冬、楚鬬穀於菟帥師伐随、取成而還。君子曰「随之見伐、不量力也。量力而動、其過鮮矣。善敗由己、而由人乎哉?『詩』曰『豈不夙夜、謂行多露』」。宋襄公欲合諸侯、臧文仲聞之、曰「以欲従人則可、以人従欲鮮済」

◇僖公二十一年

◇僖公二十一年

【經】二十有一年春,狄侵衛。宋人、齊人、楚人盟於鹿上。夏,大旱。秋,宋公、楚子、陳侯、蔡侯、鄭伯、許男、曹伯會於盂。執宋公以伐宋。冬,公伐邾。楚人使宜申來獻捷。十有二月癸丑,公會諸侯盟於薄。釋宋公。

【経】二十一年春、狄侵衛。宋人・斉人・楚人盟于鹿上。夏、大旱。秋、宋公・楚子・陳侯・蔡侯・鄭伯・許男・曹伯会于盂。執宋公以伐宋。冬、僖公伐邾。楚人使宜申来献捷。十有二月癸丑、僖公会諸侯盟于薄。釈宋公。

【傳】二十一年春,宋人為鹿上之盟,以求諸侯於楚。楚人許之。公子目夷曰:“小國爭盟,禍也。宋其亡乎,幸而後敗。”

【伝】二十一年春、宋人為鹿上之盟、以求諸侯于楚。楚人許之。公子目夷曰「小国争盟、禍也。宋其亡乎、幸而後敗」

夏,大旱。公欲焚巫兀。臧文仲曰:“非旱備也。修城郭,貶食省用,務穡勸分,此其務也。巫兀何為?天欲殺之,則如勿生;若能為旱,焚之滋甚。”公從之。是歲也,飢而不害。

夏、大旱。公欲焚巫尪。底本は「巫兀」とする、即ち巫尪。臧文仲曰「非旱備。修城郭、貶食省用、務穡勧分、此其務也。巫尪何為?天欲殺之、則如勿生、若能為旱、焚之滋甚」。公従之。是歳也、饑而不害。

秋,諸侯會宋公於盂。子魚曰:“禍其在此乎!君欲已甚,其何以堪之?”於是楚執宋公以伐宋。

秋、諸侯会宋公于盂。子魚曰「禍其在此乎!君欲已甚、其何以堪之?」于是楚執宋公以伐宋。

冬,會於薄以釋之。子魚曰:“禍猶未也,未足以懲君。”

冬、会于薄以釈之。子魚曰「禍猶未也、未足以懲君」

任、宿、須句、顓臾,風姓也。實司大皞與有濟之祀,以服事諸夏。邾人滅須句,須句子來奔,因成風也。成風為之言於公曰:“崇明祀,保小寡,周禮也;蠻夷猾夏,周禍也。若封須句,是崇皞、濟而修祀,紓禍也。”

任・宿・須句・顓臾は皆風姓で、太皥と済水の祭祀を主管し、中原の諸夏に服事した。邾人が須句を滅ぼし、須句の子が奔りて来たのは、成風の故である。成風は彼のために僖公に言った。「明るい祭祀を尊び、弱小を保つは、周の礼です。蛮夷が諸夏を乱すは、周の禍です。もし須句を封じれば、皥・済を尊んで祭祀を修明し、禍患を緩めることになります」と。

◇僖公二十二年

◇僖公二十二年

【經】二十有二年春,公伐邾,取須句。夏,宋公、衛侯、許男、滕子伐鄭。

【経】二十二年春、僖公は邾を伐ち、須句を取った。夏、宋公・衛侯・許男・滕子は鄭を伐った。

秋八月丁未,及邾人戰於升陘。冬十有一月己巳朔,宋公及楚人戰於泓,宋師敗績。

秋八月丁未、邾人と升陘で戦った。冬十一月己巳朔、宋公は楚人と泓で戦い、宋師は大敗した。

【傳】二十二年春,伐邾,取須句,反其君焉,禮也。

【伝】二十二年春、邾を伐ち、須句を取り、其の君を帰したのは、礼に合う。

三月,鄭伯如楚。

三月、鄭伯は楚に如いた。

夏,宋公伐鄭。子魚曰:“所謂禍在此矣。”

夏、宋公は鄭を伐った。子魚は言った。「謂われる禍患はここにあります」と。

初,平王之東遷也,辛有適伊川,見被髮而祭於野者,曰:“不及百年,此其戎乎!其禮先亡矣。”秋,秦、晉遷陸渾之戎於伊川。

むかし、平王が東に遷った時、辛有は伊川に適き、披髪して野で祭る者を見て言った。「百年に至らず、ここは戎の地とならん!其の礼は先に亡びた」と。秋、秦・晋は陸渾之戎を伊川に遷した。

晉大子圉為質於秦,將逃歸,謂嬴氏曰:“與子歸乎?”對曰:“子,晉大子,而辱於秦,子之慾歸,不亦宜乎?寡君之使婢子侍執巾櫛,以固子也。從子而歸,棄君命也。不敢從,亦不敢言。”遂逃歸。

晋の太子圉は秦に質し、逃げ帰ろうとして、嬴氏に言った。「あなたと共に帰るか」と。嬴氏は答えた。「あなたは晋の太子でありながら、秦に屈しています。あなたが帰りたいのは、もっともではありませんか。寡君は婢子に巾櫛を奉じさせ、あなたを固めようとしました。あなたに従って帰れば、君命を棄てることになります。敢えて従わず、敢えて言いません」と。于是太子は逃げ帰った。

富辰言於王曰:“請召大叔。《詩》曰:‘協比其鄰,昏姻孔雲。’吾兄弟之不協,焉能怨諸侯之不睦?”王說。王子帶自齊復歸於京師,王召之也。

富辰は天子に言った。「大叔を召し帰してください。『詩』に云う『隣と協わせ近づけ、婚姻は孔云うや』。我ら兄弟が和せざれば、諸侯が睦まぬを怨み得ようか」と。天子は悦び。王子帯は斉より復り京師に帰れり、天子が之を召したのである。

邾人以須句故出師。公卑邾,不設備而御之。臧文仲曰:“國無小,不可易也。無備,雖眾不可恃也。《詩》曰:‘戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰。’又曰:‘敬之敬之,天惟顯思,命不易哉!’先王之明德,猶無不難也,無不懼也,況我小國乎!君其無謂邾小。蜂蠆有毒,而況國乎?”弗聽。

邾人は須句の故に師を出した。僖公は邾を軽んじ、設備せずに禦ぎに行った。臧文仲は言った。「国に小なしと謂うなかれ、軽んずべからず。設備なければ、衆多と雖も恃むべからず。『詩』に云う『戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷』。又曰く『敬之敬之、天維顕思、命不易哉』。先王の明徳の如き、猶無有不難、無有不懼、況れん我が小国をや!君は邾の小さきを謂うなかれ。蜂蠆皆有毒、況れん国をや」と。僖公は聴かず。

八月丁未,公及邾師戰於升陘,我師敗績。邾人獲公胄,縣諸魚門。

八月丁未、僖公は邾師と升陘で戦い、我が師は敗績した。邾人は僖公の冑を獲て、魚門に懸けた。

楚人伐宋以救鄭。宋公將戰,大司馬固諫曰:“天之棄商久矣,君將興之,弗可赦也已。”弗聽,冬十一月己巳朔,宋公及楚人戰於泓。宋人既成列,楚人未既濟。司馬曰:“彼眾我寡,及其未既濟也請擊之。”公曰:“不可。”既濟而未成列,又以告。

楚人は鄭を救うべく宋を伐った。宋公は戦おうとして、大司馬固は諫めて言った。「天之棄商久矣、君将興之、弗可赦也已」と。宋公は聴かず。冬十一月己巳朔、宋公及び楚人戦于泓。宋人既成列、楚人未既済。司馬曰「彼衆我寡、及其未既済也、請擊之」。公曰「不可」。既済而未成列、又以告。

公曰:“未可。”既陳而後擊之,宋師敗績。公傷股,門官殲焉。

宋公曰「未可」。既陳而後擊之、宋師敗績。公傷股、門官殲焉。

國人皆咎公。公曰:“君子不重傷,不禽二毛。古之為軍也,不以阻隘也。

国人皆咎公。公曰「君子不重傷、不禽二毛。古之為軍也、不以阻隘也。

寡人雖亡國之餘,不鼓不成列。”子魚曰:“君未知戰。勍敵之人隘而不列,天讚我也。阻而鼓之,不亦可乎?猶有懼焉。且今之勍者,皆吾敵也。雖及胡耈,獲則取之,何有於二毛?明恥教戰,求殺敵也,傷未及死,如何勿重?若愛重傷,則如勿傷;愛其二毛,則如服焉。三軍以利用也,金鼓以聲氣也。利而用之,阻隘可也;聲盛致志,鼓儳可也。”

(宋公は続けて言う)寡人雖亡国之余、不鼓不成列」。子魚曰「君未知戦。勍敵之人隘而不列、天賛我也。阻而鼓之、不亦可乎?猶有懼焉。且今之勍者、皆吾敵也。雖及胡耇、獲則取之、何有于二毛?明恥教戦、求殺敵也。傷未及死、如何勿重?若愛重傷、則如勿傷、愛其二毛、則如服焉。三軍以利用也、金鼓以声気也。利而用之、阻隘可也。声盛致志、鼓儳可也」

丙子晨,鄭文夫人羋氏、姜氏勞楚子於柯澤。楚子使師縉示之俘馘。君子曰:“非禮也。婦人送迎不出門,見兄弟不逾閾,戎事不邇女器。”

丙子晨、鄭文公夫人羋氏・姜氏労楚子于柯沢。楚子使師縉示之俘馘。君子曰「非礼也。婦人送迎不出門、見兄弟不踰閾、戎事不邇女器」

丁丑,楚子入饗於鄭,九獻,庭實旅百,加籩豆六品。饗畢,夜出,文羋送于軍,取鄭二姬以歸。叔詹曰:“楚王其不沒乎!為禮卒於無別,無別不可謂禮,將何以沒?”諸侯是以知其不遂霸也。

丁丑、楚子入饗、九献、庭実旅百、加籩豆六品。饗畢、夜出、文羋送于軍、楚子取鄭二姫以帰。叔詹曰「楚王其不没乎!為礼卒于無別、無別不可謂礼、将何以没?」諸侯是以知其不遂霸也。

◇僖公二十三年

◇僖公二十三年

【經】二十有三年春,齊侯伐宋,圍緍。夏五月庚寅,宋公茲父卒。秋,楚人伐陳。冬十有一月,杞子卒。

【経】二十三年春、斉侯伐宋、囲緍。夏五月庚寅、宋公茲父が亡くなった。秋、楚人伐陳。冬十有一月、杞子が亡くなった。

【傳】二十三年春,齊侯伐宋,圍緡,以討其不與盟於齊也。

【伝】二十三年春、斉侯伐宋、囲緍、討其不与盟于斉也。

夏五月,宋襄公卒,傷於泓故也。

夏五月、宋襄公卒、傷于泓故也。

秋,楚成得臣帥師伐陳,討其貳於宋也。遂取焦、夷,城頓而還。子文以為之功,使為令尹。叔伯曰:“子若國何?”對曰:“吾以靖國也。夫有大功而無貴仕,其人能靖者與有幾?”九月,晉惠公卒。懷公命無從亡人。期,期而不至,無赦。狐突之子毛及偃從重耳在秦,弗召。冬,懷公執狐突曰:“子來則免。”對曰:“子之能仕,父教之忠,古之制也。策名委質,貳乃闢也。今臣之子,名在重耳,有年數矣。若又召之,教之貳也。父教子貳,何以事君?刑之不濫,君之明也,臣之願也。淫刑以逞,誰則無罪?臣聞命矣。”乃殺之。

秋、楚成得臣帥師伐陳、討其貳于宋也。遂取焦・夷、城頓而還。子文以為之功、使為令尹。叔伯曰「子若国何」。對曰「吾以靖国也。夫有大功而無貴仕、其人能靖者与有幾?」九月、晋恵公卒。懐公命無従亡人、期、期而不至、無赦。狐突之子毛及偃従重耳在秦、弗召。冬、懐公執狐突、曰「子来則免」。對曰「子之能仕、父教之忠、古之制也。策名委質、貳乃辟也。今臣之子、名在重耳有年数矣。若又召之、教之貳也。父教子貳、何以事君?刑之不濫、君之明也、臣之願也。淫刑以逞、誰則無罪?臣聞命矣」。乃殺之。

卜偃稱疾不出,曰:“《周書》有之:‘乃大明服。’己則不明而殺人以逞,不亦難乎?民不見德而唯戮是聞,其何後之有?”十一月,杞成公卒。書曰“子”,杞,夷也。不書名,未同盟也。凡諸侯同盟,死則赴以名,禮也。赴以名,則亦書之,不然則否,闢不敏也。

卜偃称疾不出、曰「『周書』有之『乃大明服』。己則不明、而殺人以逞、不亦難乎?民不見徳、而唯戮是聞、其何後之有?」十一月、杞成公卒。書曰「子」、杞、夷也。不书名、未同盟也。凡諸侯同盟、死則赴以名、礼也。赴以名、則亦書之、不然則否、辟不敏也。

晉公子重耳之及於難也,晉人伐諸蒲城。蒲城人慾戰。重耳不可,曰:“保君父之命而享其生祿,於是乎得人。有人而校,罪莫大焉。吾其奔也。”遂奔狄。

晋公子重耳之及于難也、晋人伐諸蒲城。蒲城人欲戦、重耳不可、曰「保君父之命而享其生禄、于是乎得人。有人而校、罪莫大焉。吾其奔也」。遂奔狄。

從者狐偃、趙衰、顛頡、魏武子、司空季子。狄人伐廧咎如,獲其二女:叔隗、季隗,納諸公子。公子取季隗,生伯儵、叔劉,以叔隗妻趙衰,生盾。將適齊,謂季隗曰:“待我二十五年,不來而後嫁。”對曰:“我二十五年矣,又如是而嫁,則就木焉。請待子。”處狄十二年而行。

従者狐偃・趙衰・顛頡・魏武子・司空季子。狄人伐廧咎如、獲其二女叔隗・季隗、納諸公子。公子取季隗、生伯鯈・叔劉、以叔隗妻趙衰、生盾。将適斉、謂季隗曰「待我二十五年、不来而後嫁」。對曰「我二十五年矣、又如是而嫁、則就木焉。請待子」。處狄十二年而行。

過衛。衛文公不禮焉。出於五鹿,乞食於野人,野人與之塊,公子怒,欲鞭之。子犯曰:“天賜也。”稽首,受而載之。

過衛。衛文公不礼焉。出于五鹿、乞食于野人、野人与之塊。公子怒、欲鞭之。子犯曰「天賜也」。稽首受而載之。

及齊,齊桓公妻之,有馬二十乘,公子安之。從者以為不可。將行,謀於桑下。蠶妾在其上,以告姜氏。姜氏殺之,而謂公子曰:“子有四方之志,其聞之者吾殺之矣。”公子曰:“無之。”姜曰:’行也。懷與安,實敗名。”公子不可。姜與子犯謀,醉而遣之。醒,以戈逐子犯。

及斉、斉桓公妻之、有馬二十乗、公子安之。従者以為不可。将行、謀于桑下。蚕妾在其上、以告姜氏。姜氏殺之、而謂公子曰「子有四方之志、其聞之者吾殺之矣」。公子曰「無之」。姜曰「行也。懐与安、実敗名」。公子不可。姜与子犯謀、醉而遣之。醒、以戈逐子犯。

及曹,曹共公聞其駢脅,欲觀其裸。浴,薄而觀之。僖負羈之妻曰:“吾觀晉公子之從者,皆足以相國。若以相,夫子必反其國。反其國,必得志於諸侯。

及曹、曹共公聞其駢脅、欲観其裸。浴、薄而観之。僖負羈之妻曰「吾観晋公子之従者、皆足以相国。若以相、夫子必反其国。反其国、必得志于諸侯。

得志於諸侯而誅無禮,曹其首也。子盍蚤自貳焉。”乃饋盤飧,置璧焉。公子受飧反璧。

(僖負羈の妻は続けて言う)得志于諸侯而誅無礼、曹其首也。子盍蚤自貳焉」。乃饋盤飧、寘璧焉。公子受飧反璧。

及宋,宋襄公贈之以馬二十乘。

及宋、宋襄公贈之以馬二十乗。

及鄭,鄭文公亦不禮焉。叔詹諫曰:“臣聞天之所啟,人弗及也。晉公子有三焉,天其或者將建諸,君其禮焉。男女同姓,其生不蕃。晉公子,姬出也,而至於今,一也。離外之患,而天不靖晉國,殆將啟之,二也。有三士足以上人而從之,三也。晉、鄭同儕,其過子弟,固將禮焉,況天之所啟乎?”弗聽。

及鄭、鄭文公亦不礼焉。叔詹諫曰「臣聞天之所啓、人弗及也。晋公子有三焉、天其或者将建諸、君其礼焉。男女同姓、其生不蕃。晋公子、姫出也、而至于今、一也。離外之患、而天不靖晋国、殆将啓之、二也。有三士足以上人而従之、三也。晋・鄭同儕、其過子弟、固将礼焉、況天之所啓乎」。鄭伯弗聴。

及楚,楚之饗之,曰:“公子若反晉國,則何以報不穀?”對曰:“子女玉帛則君有之,羽毛齒革則君地生焉。其波及晉國者,君之餘也,其何以報君?”曰:“雖然,何以報我?”對曰:“若以君之靈,得反晉國,晉、楚治兵,遇於中原,其辟君三舍。若不獲命,其左執鞭弭、右屬櫜鞬,以與君周旋。”子玉請殺之。楚子曰:“晉公子廣而儉,文而有禮。其從者肅而寬,忠而能力。晉侯無親,外內惡之。吾聞姬姓,唐叔之後,其後衰者也,其將由晉公子乎。天將興之,誰能廢之。違天必有大咎。”乃送諸秦。秦伯納女五人,懷嬴與焉。奉匜沃盥,既而揮之。怒曰:“秦、晉匹也,何以卑我!”公子懼,降服而囚。

及楚、楚成王饗之、曰「公子若反晋国、則何以報不穀」。對曰「子女玉帛則君有之、羽毛歯革則君地生焉。其波及晋国者、君之餘也、其何以報君」。王曰「雖然、何以報我」。對曰「若以君之霊、得反晋国、晋・楚治兵、遇于中原、其辟君三舎。若不獲命、其左執鞭弭、右属櫜鞬、以与君周旋」。子玉請殺之。楚子曰「晋公子広而倹、文而有礼。其従者粛而寛、忠而能力。晋侯無親、外内惡之。吾聞姫姓、唐叔之後、其後衰者也、其将由晋公子乎。天将興之、誰能廃之。違天必有大咎」。乃送諸秦。秦伯納女五人、懐嬴与焉。奉匜沃盥、既而揮之。怒曰「秦・晋匹也、何以卑我」。公子懼、降服而囚。

他日,公享之。子犯曰:“吾不如衰之文也。請使衰從。公子賦《河水》,公賦《六月》。趙衰曰:“重耳拜賜。”公子降,拜,稽首,公降一級而辭焉。

他日、公享之。子犯曰「吾不如衰之文也。請使衰従」。公子賦河水、公賦六月。趙衰曰「重耳拜賜」。公子降、拝、稽首、公降一級而辞焉。

衰曰:“君稱所以佐天子者命重耳,重耳敢不拜。”

衰曰「君称所以佐天子者命重耳、重耳敢不拝」。

◇僖公二十四年

◇僖公二十四年

【經】二十有四年春王正月。夏,狄伐鄭。秋七月。冬,天王出居於鄭。晉侯夷吾卒。

【経】二十四年春、周天子の暦の正月。夏、狄伐鄭。秋七月。冬、天王出居于鄭。晋侯夷吾が亡くなった。

【傳】二十四年春,王正月,秦伯納之,不書,不告入也。

【伝】二十四年春、王正月、秦伯納之。不書、不告入也。

及河,子犯以璧授公子,曰:“臣負羈紲從君巡於天下,臣之罪甚多矣。臣猶知之,而況君乎?請由此亡。”公子曰:“所不與舅氏同心者,有如白水。”

及河、子犯以璧授公子、曰「臣負羈絏従君巡于天下、臣之罪甚多矣。臣猶知之、而況君乎?請由此亡」。公子曰「所不与舅氏同心者、有如白水」。

投其璧於河。濟河,圍令狐,入桑泉,取臼衰。二月甲午,晉師軍於廬柳。秦伯使公子縶如晉師,師退,軍於郇。辛丑,狐偃及秦、晉之大夫盟於郇。壬寅,公子入於晉師。丙午,入於曲沃。丁未,朝於武宮。戊申,使殺懷公於高梁。不書,亦不告也。呂、郤畏逼,將焚公宮而弒晉侯。寺人披請見,公使讓之,且辭焉,曰:“蒲城之役,君命一宿,女即至。其後餘從狄君以田渭濱,女為惠公來求殺餘,命女三宿,女中宿至。雖有君命,何其速也。夫祛猶在,女其行乎。”對曰:“臣謂君之入也,其知之矣。若猶未也,又將及難。君命無二,古之制也。除君之惡,唯力是視。蒲人、狄人,餘何有焉。今君即位,其無蒲、狄乎?齊桓公置射鉤而使管仲相,君若易之,何辱命焉?行者甚眾,豈唯刑臣。”公見之,以難告。三月,晉侯潛會秦伯於王城。己丑晦,公宮火,瑕甥、郤芮不獲公,乃如河上,秦伯誘而殺之。晉侯逆夫人嬴氏以歸。秦伯送衛於晉三千人,實紀綱之僕。

投其璧于河。済河、囲令狐、入桑泉、取臼衰。二月甲午、晋師軍于廬柳。秦伯使公子縶如晋師、師退、軍于郇。辛丑、狐偃及秦・晋之大夫盟于郇。壬寅、公子入于晋師。丙午、入于曲沃。丁未、朝于武宮。戊申、使殺懐公于高梁。不書、亦不告也。呂甥・郤芮畏偪、将焚公宮而弑晋侯。寺人披請見、公使譲之、且辞焉、曰「蒲城之役、君命一宿、女即至。其後余従狄君以田渭濱、女為恵公来求殺余、命女三宿、女中宿至。雖有君命、何其速也。夫袪猶在、女其行乎」。對曰「臣謂君之入也、其知之矣。若猶未也、又将及難。君命無二、古之制也。除君之惡、唯力是視。蒲人・狄人、余何有焉?今君即位、其無蒲・狄乎?斉桓公置射鉤而使管仲相、君若易之、何辱命焉?行者甚衆、豈唯刑臣」。公見之、以難告。三月、晋侯潜会秦伯于王城。己丑晦、公宮火、瑕甥・郤芮不獲公、乃如河上、秦伯誘而殺之。晋侯逆夫人嬴氏以帰。秦伯送衛于晋三千人、実紀綱之僕。

初,晉侯之豎頭須,守藏者也。其出也,竊藏以逃,盡用以求納之。及入,求見,公辭焉以沐。謂僕人曰:“沐則心覆,心覆則圖反,宜吾不得見也。居者為社稷之守,行者為羈紲之僕,其亦可也,何必罪居者?國君而仇匹夫,懼者甚眾矣。”僕人以告,公遽見之。

むかし、晋侯之豎頭須、守蔵者也。其出也、竊蔵以逃、尽用以求納之。及入、求見、公辞焉以沐。謂僕人曰「沐則心覆、心覆則図反、宜吾不得見也。居者為社稷之守、行者為羈絏之僕、其亦可也、何必罪居者?国君而讐匹夫、懼者甚衆矣」。僕人以告、公遽見之。

狄人歸季隗於晉而請其二子。文公妻趙衰,生原同、屏括、摟嬰。趙姬請逆盾與其母,子餘辭。姬曰:“得寵而忘舊,何以使人?必逆之!”固請,許之,來,以盾為才,固請於公以為嫡子,而使其三子下之,以叔隗為內子而己下之。

狄人帰季隗于晋、而請其二子。文公妻趙衰、生原同・屏括・楼嬰。趙姫請逆盾与其母、子餘辞。姫曰「得寵而忘旧、何以使人?必逆之!」固請、許之。来、以盾為才、固請于公、以為嫡子、而使其三子下之、以叔隗為内子而己下之。

晉侯賞從亡者,介之推不言祿,祿亦弗及。推曰“獻公之子九人,唯君在矣。

晋侯賞従亡者、介之推不言禄、禄亦弗及。推曰「献公之子九人、唯君在矣。

惠、懷無親,外內棄之。天未絕晉,必將有主。主晉祀者,非君而誰?天實置之,而二三子以為己力,不亦誣乎?竊人之財,猶謂之盜,況貪天之功以為己力乎?下義其罪,上賞其奸,上下相蒙,難與處矣!”其母曰:“盍亦求之,以死誰懟?”對曰:“尤而效之,罪又甚焉,且出怨言,不食其食。”其母曰:“亦使知之若何?”對曰:“言,身之文也。身將隱,焉用文之?是求顯也。”其母曰:“能如是乎?與女偕隱。”遂隱而死。晉侯求之,不獲,以綿上為之田,曰:“以志吾過,且旌善人。”

(介之推は続けて言う)恵公・懐公無親、外内棄之。天未絶晋、必将有主。主晋祀者、非君而誰?天実置之、而二三子以為己力、不亦誣乎?竊人之財、猶謂之盗、況貪天之功以為己力乎?下義其罪、上賞其奸、上下相蒙、難与處矣!」其母曰「盍亦求之、以死誰慭」。對曰「尤而效之、罪又甚焉。且出怨言、不食其食」。其母曰「亦使知之、若何」。對曰「言、身之文也。身将隠、焉用文之?是求顕也」。其母曰「能如是乎?与女偕隠」。遂隠而死。晋侯求之不獲、以綿上為之田、曰「以志吾過、且旌善人」

鄭之入滑也,滑人聽命。師還,又即衛。鄭公子士、洩堵俞彌帥師伐滑。王使伯服、遊孫伯如鄭請滑。鄭伯怨惠王之入而不與厲公爵也,又怨襄王之與衛、滑也,故不聽王命而執二子。王怒,將以狄伐鄭。富辰諫曰:“不可。臣聞之,大上以德撫民,其次親親以相及也。昔周公吊二叔之不鹹,故封建親戚以蕃屏周。

鄭之入滑也、滑人聴命。師還、又即衛。鄭公子士、洩堵俞弥帥師伐滑。王使伯服・游孫伯如鄭請滑。鄭伯怨恵王之入而不与厲公爵也、又怨襄王之与衛滑也、故不聴王命而執二子。王怒、将以狄伐鄭。富辰諫曰「不可。臣聞之、大上以德撫民、其次親親以相及也。昔周公弔二叔之不咸、故封建親戚以蕃屏周。

管蔡郕霍,魯衛毛聃,郜雍曹滕,畢原酆郇,文之昭也。邘晉應韓,武之穆也。凡蔣刑茅胙祭,周公之胤也。召穆公思周德之不類,故糾合宗族於成周而作詩,曰:‘常棣之華,鄂不々,凡今之人,莫如兄弟。’其四章曰:‘兄弟鬩於牆,外禦其侮。’如是,則兄弟雖有小忿,不廢懿親。今天子不忍小忿以棄鄭親,其若之何?庸勳親親,暱近尊賢,德之大者也。即聾從昧,與頑用嚚,奸之大者也。棄德崇奸,禍之大者也。鄭有平、惠之勳,又有厲、宣之親,棄嬖寵而用三良,於諸姬為近,四德具矣。耳不聽五聲之和為聾,目不別五色之章為昧,心不則德義之經為頑,口不道忠信之言為嚚,狄皆則之,四奸具矣。周之有懿德也,猶曰‘莫如兄弟’,故封建之。其懷柔天下也,猶懼有外侮,扞禦侮者莫如親親,故以親屏周。召穆公亦云。今周德既衰,於是乎又渝周、召以從諸奸,無乃不可乎?民未忘禍,王又興之,其若文、武何?”王弗聽,使頹叔、桃子出狄師。夏,狄伐鄭,取櫟。

(富辰は続けて言う)管・蔡・郕・霍・魯・衛・毛・聃・郜・雍・曹・滕・畢・原・酆・郇、文之昭也。邘・晋・応・韓、武之穆也。凡・蒋・邢・茅・胙・祭、周公之胤也。召穆公思周徳之不類、故糾合宗族于成周而作詩、曰『常棣之華、鄂不韡韡、凡今之人、莫如兄弟』。其四章曰『兄弟鬩于墻、外御其侮』。如是、則兄弟雖有小忿、不廃懿親。今天子不忍小忿以棄鄭親、其若之何?庸勲親親暱近尊賢、徳之大者也。即聾従昧与頑用嚚、奸之大者也。棄徳崇奸、禍之大者也。鄭有平恵之勲、又有厲宣之親、棄嬖臣而用三良、于諸姫為近、四徳具矣。耳不聴五声之和為聾、目不別五色之章為昧、心不則徳義之経為頑、口不道忠信之言為嚚、狄皆則之、四奸具矣。周之有懿徳也、猶曰『莫如兄弟』、故封建之。其懐柔天下也、猶懼有外侮、扞禦侮者莫如親親、故以親屏周。召穆公亦云。今周徳既衰、于是乎又渝周召以従諸奸、無乃不可乎?民未忘禍、王又興之、其若文武何?」王弗聴、使頽叔・桃子出狄師。夏、狄伐鄭、取櫟。

王德狄人,將以其女為後。富辰諫曰:“不可。臣聞之曰:‘報者倦矣,施者未厭。’狄固貪惏,王又啟之,女德無極,婦怨無終,狄必為患。”王又弗聽。

王徳狄人、将以其女為后。富辰諫曰「不可。臣聞之曰『報者倦矣、施者未厭』。狄固貪惏、王又啓之。女徳無極、婦怨無終、狄必為患」。王又弗聴。

初,甘昭公有寵於惠後,惠後將立之,未及而卒。昭公奔齊,王復之,又通於隗氏。王替隗氏。頹叔、桃子曰:“我實使狄,狄其怨我。”遂奉大叔,以狄師攻王。王御士將御之。王曰:“先後其謂我何?寧使諸侯圖之。王遂出。及坎欿,國人納之。

初、甘昭公有寵于恵后、恵后将立之、未及而卒。昭公奔斉、王復之、又通于隗氏。王替隗氏。頽叔・桃子曰「我実使狄、狄其怨我」。遂奉大叔、以狄師攻王。王御士将禦之。王曰「先后其謂我何?寧使諸侯図之」。王遂出。及坎欿、国人納之。

秋,頹叔、桃子奉大叔,以狄師伐周,大敗周師,獲周公忌父、原伯、毛伯、富辰。王出適鄭,處於汜。大叔以隗氏居於溫。

秋、頽叔・桃子奉大叔、以狄師伐周、大敗周師、獲周公忌父・原伯・毛伯・富辰。王出適鄭、處于汜。大叔以隗氏居于温。

鄭子華之弟子臧出奔宋,好聚鷸冠。鄭伯聞而惡之,使盜誘之。八月,盜殺之於陳、宋之間。君子曰:“服之不衷,身之災也。《詩》曰:‘彼己之子,不稱其服。’子臧之服,不稱也夫。《詩》曰,‘自詒伊戚’,其子臧之謂矣。

鄭子華之弟子臧出奔宋、好聚鷸冠。鄭伯聞而惡之、使盗誘之。八月、盗殺之于陳宋之間。君子曰「服之不衷、身之災也。『詩』曰『彼己之子、不称其服』。子臧之服、不称也夫。『詩』曰『自詒伊慼』、其子臧之謂矣。

《夏書》曰,‘地平天成’,稱也。”

(君子は続けて言う)『夏書』曰『地平天成』、称也」

宋及楚平。宋成公如楚,還入於鄭。鄭伯將享之,問禮於皇武子。對曰:“宋,先代之後也,於周為客,天子有事膰焉,有喪拜焉,豐厚可也。”鄭伯從之,享宋公有加,禮也。

宋及楚平。宋成公如楚、還入于鄭。鄭伯将享之、問礼于皇武子。對曰「宋、先代之後也、于周為客、天子有事膰焉、有喪拜焉、豊厚可也」。鄭伯従之、享宋公有加、礼也。

冬,王使來告難曰:“不穀不德,得罪於母弟之寵子帶,鄙在鄭地汜,敢告叔父。”臧文仲對曰:“天子蒙塵於外,敢不奔問官守。”王使簡師父告於晉,使左鄢父告於秦。天子無出,書曰“天王出居於鄭”,闢母弟之難也。天子凶服降名,禮也。鄭伯與孔將鉏、石甲父、侯宣多省視官具於汜,而後聽其私政,禮也。

冬、王使来告難、曰「不穀不徳、得罪于母弟之寵子帯、鄙在鄭地汜、敢告叔父」。臧文仲對曰「天子蒙塵于外、敢不奔問官守」。王使簡師父告于晋、使左鄢父告于秦。天子無出、書曰「天王出居于鄭」、辟母弟之難也。天子凶服降名、礼也。鄭伯与孔将鉏・石甲父・侯宣多省視官具于汜、而後聴其私政、礼也。

衛人將伐邢,禮至曰:“不得其守,國不可得也。我請昆弟仕焉。”乃往,得仕。

衛人将伐邢、礼至曰「不得其守、国不可得也。我請昆弟仕焉」。乃往得仕。

◇僖公二十五年

◇僖公二十五年

【經】二十有五年春王正月,丙午,衛侯燬滅邢。夏四月癸酉,衛侯燬卒。宋蕩伯姬來逆婦。宋殺其大夫。秋,楚人圍陳,納頓子於頓。葬衛文公。冬十有二月癸亥,公會衛子、莒慶盟於洮。

【経】二十五年春、周天子の暦の正月丙午、衛侯燬滅邢。夏四月癸酉、衛侯燬が亡くなった。宋蕩伯姫来逆婦。宋殺其大夫。秋、楚人囲陳、納頓子于頓。葬衛文公。冬十有二月癸亥、僖公会衛子・莒慶盟于洮。

【傳】二十五年春,衛人伐邢,二禮從國子巡城,掖以赴外,殺之。正月丙午,衛侯燬滅邢,同姓也,故名。禮至為銘曰:“餘掖殺國子,莫餘敢止。”

【伝】二十五年春、衛人伐邢、二礼従国子巡城、掖以赴外、殺之。正月丙午、衛侯燬滅邢、同姓也、故名。礼至為銘曰「余掖殺国子、莫余敢止」

秦伯師於河上,將納王。狐偃言於晉侯曰:“求諸侯,莫如勤王。諸侯信之,且大義也。繼文之業而信宣於諸侯,今為可矣。”使卜偃卜之,曰:“吉。遇黃帝戰於阪泉之兆。”公曰:“吾不堪也。”對曰:“周禮未改。今之王,古之帝也。”公曰:“筮之。”筮之,遇《大有》ⅵⅰ之《睽》ⅵⅷ,曰:“吉。遇‘公用享於天子’之卦也。戰克而王饗,吉孰大焉,且是卦也,天為澤以當日,天子降心以逆公,不亦可乎?《大有》去《睽》而復,亦其所也。”晉侯辭秦師而下。三月甲辰,次於陽樊。右師圍溫,左師逆王。夏四月丁巳,王入於王城,取大叔於溫,殺之於隰城。

秦伯師于河上、将納王。狐偃言于晋侯曰「求諸侯、莫如勤王。諸侯信之、且大義也。継文之業而信宣于諸侯、今為可矣」。使卜偃卜之、曰「吉。遇黄帝戦于阪泉之兆」。公曰「吾不堪也」。對曰「周礼未改。今之王、古之帝也」。公曰「筮之」。筮之、遇大有之睽、曰「吉。遇『公用享于天子』之卦。戦克而王饗、吉孰大焉?且是卦也、天為沢以当日、天子降心以逆公、不亦可乎?大有去睽而復、亦其所也」。晋侯辞秦師而下。三月甲辰、次于陽樊。右師囲温、左師逆王。夏四月丁巳、王入于王城、取大叔于温、殺之于隰城。

戊午,晉侯朝王,王饗醴,命之宥。請隧,弗許,曰:“王章也。未有代德而有二王,亦叔父之所惡也。”與之陽樊、溫、原、欑茅之田。晉於是始啟南陽。

戊午、晋侯朝王、王饗醴、命之宥。請隧、弗許、曰「王章也。未有代徳而有二王、亦叔父之所惡也」。与之陽樊・温・原・欑茅之田。晋于是始啓南陽。

陽樊不服,圍之。蒼葛呼曰:“德以柔中國,刑以威四夷,宜吾不敢服也。

陽樊不服、囲之。蒼葛呼曰「徳以柔中国、刑以威四夷、宜吾不敢服也。

此誰非王之親姻,其俘之也!”乃出其民。

(蒼葛は続けて言う)此誰非王之親姻、其俘之也!」乃出其民。

秋,秦、晉伐鄀。楚鬥克、屈禦寇以申、息之師戍商密。秦人過析隈,入而系輿人以圍商密,昏而傅焉。宵,坎血加書,偽與子儀、子邊盟者。商密人懼曰:“秦取析矣,戍人反矣。”乃降秦師。囚申公子儀、息公子邊以歸。楚令尹子玉追秦師,弗及,遂圍陳,納頓子於頓。

秋、秦・晋伐鄀。楚鬬克・屈御寇以申・息之師戍商密。秦人過析隈、入而係輿人以囲商密、昏而傅焉。宵坎血加書、偽与子儀・子辺盟者。商密人懼曰「秦取析矣、戍人反矣」。乃降秦師。秦師囚申公子儀・息公子辺以帰。楚令尹子玉追秦師、弗及、遂囲陳、納頓子于頓。

冬,晉侯圍原,命三日之糧。原不降,命去之。諜出,曰:“原將降矣。”

冬、晋侯囲原、命三日之糧。原不降、命去之。諜出、曰「原将降矣」。

軍吏曰:“請待之。”公曰:“信,國之寶也,民之所庇也,得原失信,何以庇之?所亡滋多。”退一舍而原降。遷原伯貫於冀。趙衰為原大夫,狐溱為溫大夫。

軍吏曰「請待之」。公曰「信、国之宝也、民之所庇也。得原失信、何以庇之?所亡滋多」。退一舎而原降。遷原伯貫于冀。趙衰為原大夫、狐溱為温大夫。

衛人平莒於我,十二月,盟於洮,修衛文公之好,且及莒平也。

衛人平莒于我、十二月、盟于洮、修衛文公之好、且及莒平也。

晉侯問原守於寺人勃鞮,對曰:“昔趙衰以壺飱從徑,餒而弗食。”故使處原。

晋侯問原守于寺人勃鞮、對曰「昔趙衰以壺飧従徑、餒而弗食」。故使處原。

◇僖公二十六年

◇僖公二十六年

【經】二十有六年春王正月,己未,公會莒子、衛寧速盟於向。齊人侵我西鄙,公追齊師,至酅,不及。夏,齊人伐我北鄙。衛人伐齊。公子遂如楚乞師。

【経】二十六年春、周天子の暦の正月己未、僖公会莒子・衛寧速盟于向。斉人侵我西鄙、僖公追斉師至酅、弗及。夏、斉人伐我北鄙。衛人伐斉。公子遂如楚乞師。

秋,楚人滅夔,以夔子歸。冬,楚人伐宋,圍緍。公以楚師伐齊,取谷。公至自伐齊。

秋、楚人滅夔、以夔子帰。冬、楚人伐宋、囲緍。僖公以楚師伐斉、取穀。僖公至自伐斉。

【傳】二十六年春,王正月,公會莒茲公、甯莊子盟於向,尋洮之盟也。

【伝】二十六年春、王正月、僖公会莒茲丕公・寧荘子盟于向、尋洮之盟也。

齊師侵我西鄙,討是二盟也。夏,齊孝公伐我北鄙。衛人伐齊,洮之盟故也。公使展喜犒師,使受命於展禽。

斉軍が我が西鄙を侵伐したのは、この二回の盟約を討つためである。夏、斉孝公が我が北鄙を伐った。衛人が斉を伐ったのは、洮の盟約のためである。僖公は展喜を遣わして斉師を犒し、展禽に辞令を受けさせた。

齊侯未入竟,展喜從之,曰:“寡君聞君親舉玉趾,將辱於敝邑,使下臣犒執事。”齊侯曰:“魯人恐乎?”對曰:“小人恐矣,君子則否。”齊侯曰:“室如縣罄,野無青草,何恃而不恐?”對曰:“恃先王之命。昔周公、大公股肱周室,夾輔成王。成王勞之而賜之盟,曰:‘世世子孫,無相害也。’載在盟府,大師職之。桓公是以糾合諸侯而謀其不協,彌縫其闕而匡救其災,昭舊職也。

斉侯がまだ国境に入らないうち、展喜は迎えて言った。「寡君は君王が親しく歩みを運び、敝邑に辱臨されると聞き、下臣を遣わして左右を犒させます」と。斉侯は言った。「魯人は恐れるか」と。展喜は答えた。「小人は恐れます、君子はそうではありません」と。斉侯は言った。「家室は磬を懸けたように空しく、田野は青草がない、何を以て恐れないか」と。展喜は答えた。「先王の命令に依ります。むかし周公・太公は周室の股肱として、左右に成王を輔けました。成王は彼らを労い盟約を賜い、言わく『世々の子孫、互いに害することなかれ』。載書は盟府に蔵され、太史が之を職とします。桓公はこれにより諸侯を糾合し、其の不和を謀り、闕を弥縫い、災患を匡救し、旧の職分を顕揚しました。

及君即位,諸侯之望曰:‘其率桓之功。’我敝邑用不敢保聚,曰:‘豈其嗣世九年而棄命廢職,其若先君何?’君必不然。恃此以不恐。”齊侯乃還。

(展喜は続けて言う)あなたが即位して以来、諸侯は望んで言いました。『彼は恐らく桓公の功業を率いるだろう』。我らが敝邑はこのために衆を集めて守備せず、言いました。『彼は継位九年にして命令を棄て、職分を廃し、先君をどうするのか』。あなたは必ずそうではありません。これに依り恐れないのです」と。斉侯は于是軍を還した。

東門襄仲、臧文仲如楚乞師,臧孫見子玉而道之伐齊、宋,以其不臣也。

東門襄仲・臧文仲は楚に師を乞い、臧孫は子玉に見え、彼を導いて斉・宋を伐たせた、彼らが楚に臣ならないためである。

夔子不祀祝融與鬻熊,楚人讓之,對曰:“我先王熊摯有疾,鬼神弗赦而自竄於夔。吾是以失楚,又何祀焉?”秋,楚成得臣、鬥宜申帥師滅夔,以夔子歸。

夔子は祝融・鬻熊を祭らず、楚人は彼を譲り、彼は答えた。「我らの先王熊摯は疾あり、鬼神は赦さず、自ら夔に亂した。我らはこのために楚を失い、また何を祭ろうか」と。秋、楚成得臣・鬬宜申は師を率いて夔を滅ぼし、夔子を連れて帰った。

宋以其善於晉侯也,叛楚即晉。冬,楚令尹子玉、司馬子西帥師伐宋,圍緡。

宋は其の晋侯に好けむ由を以て、楚に叛き晋に親しんだ。冬、楚令尹子玉・司馬子西は師を率いて宋を伐ち、緍を囲んだ。

公以楚師伐齊,取谷。凡師能左右之曰以。置桓公子雍於谷,易牙奉之以為魯援。楚申公叔侯戍之。桓公之子七人,為七大夫於楚。

僖公は楚師を以て斉を伐ち、穀を取った。凡そ軍が自ら調度に聴くことを「以」と言う。桓公の子雍を穀に置き、易牙は彼に事えて魯の援とした。楚の申公叔侯はそこに戍した。桓公の子は七人、楚で七大夫となった。

◇僖公二十七年

◇僖公二十七年

【經】二十有七年春,杞子來朝。夏六月庚寅,齊侯昭卒。秋八月乙未,葬齊孝公。乙巳,公子遂帥師入杞。冬,楚人、陳侯、蔡侯、鄭伯、許男圍宋。十有二月甲戌,公會諸侯,盟於宋。

【経】二十七年春、杞子来朝。夏六月庚寅、斉侯昭が亡くなった。秋八月乙未、葬斉孝公。乙巳、公子遂帥師入杞。冬、楚人・陳侯・蔡侯・鄭伯・許男囲宋。十有二月甲戌、僖公会諸侯、盟于宋。

【傳】二十七年春,杞桓公來朝,用夷禮,故曰子。公卑杞,杞不共也。

【伝】二十七年春、杞桓公来朝、用夷礼、故曰「子」。僖公卑杞、以其不恭也。

夏,齊孝公卒。有齊怨,不廢喪紀,禮也。

夏、斉孝公卒。斉に怨有りと雖も、不廃喪紀、礼也。

秋,入杞,責無禮也。

秋、入杞、責無礼也。

楚子將圍宋,使子文治兵於睽,終朝而畢,不戮一人。子玉復治兵於蒍,終日而畢,鞭七人,貫三人耳。國老皆賀子文,子文飲之酒。蒍賈尚幼,後至,不賀。子文問之,對曰:“不知所賀。子之傳政於子玉,曰:‘以靖國也。’靖諸內而敗諸外,所獲幾何?子玉之敗,子之舉也。舉以敗國,將何賀焉?子玉剛而無禮,不可以治民。過三百乘,其不能以入矣。苟入而賀,何後之有?”冬,楚子及諸侯圍宋,宋公孫固如晉告急。先軫曰:“報施救患,取威定霸,於是乎在矣。”狐偃曰:“楚始得曹而新昏於衛,若伐曹、衛,楚必救之,則齊、宋免矣。”於是乎蒐於被廬,作三軍。謀元帥。趙衰曰:“郤縠可。臣亟聞其言矣,說禮樂而敦《詩》、《書》。《詩》、《書》,義之府也。禮樂,德之則也。

楚子将囲宋、使子文治兵于睽、終朝而畢、不戮一人。子玉復治兵于蔿、終日而畢、鞭七人、貫三人耳。国老皆賀子文、子文飲之酒。蔿賈尚幼、後至、不賀。子文問之、對曰「不知所賀。子之伝政于子玉、曰『以靖国也』。靖諸内而敗諸外、所獲幾何?子玉之敗、子之挙也。挙以敗国、将何賀焉?子玉剛而無礼、不可以治民。過三百乗、其不能以入矣。苟入而賀、何後之有?」冬、楚子及諸侯囲宋、宋公孫固如晋告急。先軫曰「報施救患、取威定霸、于是乎在矣」。狐偃曰「楚始得曹、而新昏于衛、若伐曹衛、楚必救之、則斉宋免矣」。于是乎蒐于被廬、作三軍。謀元帥。趙衰曰「郤縠可。臣亟聞其言矣、説礼楽而敦詩書。詩書、義之府也。礼楽、徳之則也。

德義,利之本也。《夏書》曰:‘賦納以言,明試以功,車服以庸。’君其試之。”

(趙衰は続けて言う)徳義、利之本也。『夏書』曰『賦納以言、明試以功、車服以庸』。君其試之」

及使郤縠將中軍,郤溱佐之;使狐偃將上軍,讓於狐毛,而佐之;命趙衰為卿,讓於欒枝、先軫。使欒枝將下軍,先軫佐之。荀林父御戎,魏準為右。

乃使郤縠将中軍、郤溱佐之、使狐偃将上軍、譲于狐毛而佐之。命趙衰為卿、譲于欒枝・先軫。使欒枝将下軍、先軫佐之。荀林父御戎、魏犨為右。

晉侯始入而教其民,二年,欲用之。子犯曰:“民未知義,未安其居。”於是乎出定襄王,入務利民,民懷生矣,將用之。子犯曰:“民未知信,未宣其用。”

晋侯始入而教其民、二年、欲用之。子犯曰「民未知義、未安其居」。于是乎出定襄王、入務利民、民懐生矣、将用之。子犯曰「民未知信、未宣其用」。

於是乎伐原以示之信。民易資者不求豐焉,明徵其辭。公曰:“可矣乎?”子犯曰:“民未知禮,未生其共。”於是乎大蒐以示之禮,作執秩以正其官,民聽不惑而後用之。出谷戍,釋宋圍,一戰而霸,文之教也。

于是乎伐原以示之信。民易資者不求豊焉、明徴其辞。公曰「可矣乎」。子犯曰「民未知礼、未生其共」。于是乎大蒐以示之礼、作執秩以正其官、民聴不惑、而後用之。出穀戍、釈宋囲、一戦而霸、文之教也。

◇僖公二十八年

◇僖公二十八年

【經】二十有八年春,晉侯侵曹,晉侯伐衛。公子買戍衛,不卒戍,刺之。

【経】二十八年春、晋侯侵曹、晋侯伐衛。公子買戍衛、不卒戍、刺之。

楚人救衛。三月丙午,晉侯入曹,執曹伯。畀宋人。夏四月己巳,晉侯、齊師、宋師、秦師及楚人戰於城濮,楚師敗績。楚殺其大夫得臣。衛侯出奔楚。五月癸丑,公會晉侯、齊侯、宋公、蔡侯、鄭伯、衛子、莒子,盟於踐土。陳侯如會。

楚人救衛。三月丙午、晋侯入曹、執曹伯。畀宋人。夏四月己巳、晋侯・斉師・宋師・秦師及楚人戦于城濮、楚師敗績。楚殺其大夫得臣。衛侯出奔楚。五月癸丑、僖公会晋侯・斉侯・宋公・蔡侯・鄭伯・衛子・莒子、盟于踐土。陳侯如会。

公朝於王所。六月,衛侯鄭自楚復歸於衛。衛元咺出奔晉。陳侯款卒。秋,杞伯姬來。公子遂如齊。冬,公會晉侯、齊侯、宋公、蔡侯、鄭伯、陳子、莒子、邾人、秦人於溫。天王狩於河陽。壬申,公朝於王所。晉人執衛侯,歸之於京師。

僖公朝于王所。六月、衛侯鄭自楚復帰于衛。衛元咺出奔晋。陳侯款が亡くなった。秋、杞伯姫来。公子遂如斉。冬、僖公会晋侯・斉侯・宋公・蔡侯・鄭伯・陳子・莒子・邾人・秦人于温。天王狩于河陽。壬申、僖公朝于王所。晋人執衛侯、帰之于京師。

衛元咺自晉復歸於衛。諸侯遂圍許。曹伯襄復歸於曹,遂會諸侯圍許。

衛元咺自晋復帰于衛。諸侯遂囲許。曹伯襄復帰于曹、遂会諸侯囲許。

【傳】二十八年春,晉侯將伐曹,假道於衛,衛人弗許。還,自南河濟。侵曹伐衛。正月戊申,取五鹿。二月,晉郤縠卒。原軫將中軍,胥臣佐下軍,上德也。晉侯、齊侯盟於斂盂。衛侯請盟,晉人弗許。衛侯欲與楚,國人不欲,故出其君以說於晉。衛侯出居於襄牛。

【伝】二十八年春、晋侯将伐曹、仮道于衛、衛人弗許。還自河南済。侵曹伐衛。正月戊申、取五鹿。二月、晋郤縠卒。原軫将中軍、胥臣佐下軍、上徳也。晋侯・斉侯盟于斂盂。衛侯請盟、晋人弗許。衛侯欲与楚、国人不欲、故出其君以説于晋。衛侯出居于襄牛。

公子買戍衛,楚人救衛,不克。公懼於晉,殺子叢以說焉。謂楚人曰:“不卒戍也。”

公子買戍衛、楚人救衛、不克。公懼于晋、殺子叢以説焉、謂楚人曰「不卒戍也」

晉侯圍曹,門焉,多死,曹人屍諸城上,晉侯患之,聽輿人之謀曰:“稱舍於墓。”師遷焉,曹人兇懼,為其所得者棺而出之,因其兇也而攻之。三月丙午,入曹。數之,以其不用僖負羈而乘軒者三百人也。且曰:“獻狀。”令無入僖負羈之宮而免其族,報施也。魏犨、顛頡怒曰:“勞之不圖,報於何有!”蓺僖負羈氏。魏犨傷於胸,公欲殺之而愛其材,使問,且視之。病,將殺之。魏犨束胸見使者曰:“以君之靈,不有寧也。”距躍三百,曲踴三百。乃舍之。殺顛頡以徇於師,立舟之僑以為戎右。

晋侯囲曹、門焉多死、曹人尸諸城上、晋侯患之。聴輿人之謀、曰「称舎于墓」。師遷焉、曹人兇懼、為其所得者棺而出之、因其兇也而攻之。三月丙午、入曹。数之以其不用僖負羈、而乗軒者三百人也。且曰「献状」。令無入僖負羈之宮、而免其族、報施也。魏犨・顛頡怒曰「労之不図、報于何有!」爇僖負羈氏。魏犨傷于胸、公欲殺之而愛其材、使問且視之。病、将殺之。魏犨束胸見使者、曰「以君之霊、不有寧也」。距躍三百、曲踊三百。乃舎之。殺顛頡以徇于師、立舟之僑以為戎右。

宋人使門尹般如晉師告急。公曰:“宋人告急,舍之則絕,告楚不許。我欲戰矣,齊、秦未可,若之何?”先軫曰:“使宋舍我而賂齊、秦,藉之告楚。我執曹君而分曹、衛之田以賜宋人。楚愛曹、衛,必不許也。喜賂怒頑,能無戰乎?”公說,執曹伯,分曹、衛之田以畀宋人。

宋人使門尹般如晋師告急。公曰「宋人告急、舎之則絶、告楚不許。我欲戦矣、斉・秦未可、若之何?」先軫曰「使宋舎我而賂斉秦、藉之告楚。我執曹君、而分曹衛之田以賜宋人。楚愛曹衛、必不許也。喜賂怒頑、能無戦乎?」公説、執曹伯、分曹衛之田以畀宋人。

楚子入居於申,使申叔去谷,使子玉去宋,曰:“無從晉師。晉侯在外十九年矣,而果得晉國。險阻艱難,備嘗之矣;民之情偽,盡知之矣。天假之年,而除其害。天之所置,其可廢乎?《軍志》曰:‘允當則歸。’又曰:‘知難而退。’又曰:‘有德不可敵。’此三志者,晉之謂矣。”子玉使伯棼請戰,曰:“非敢必有功也,願以間執讒慝之口。”王怒,少與之師,唯西廣、東宮與若敖之六卒實從之。

楚子入居于申、使申叔去穀、使子玉去宋、曰「無従晋師。晋侯在外十九年矣、而果得晋国。険阻艱難、備嘗之矣。民之情偽、尽知之矣。天假之年、而除其害。天之所置、其可廃乎?『軍志』曰『允当則帰』。又曰『知難而退』。又曰『有徳不可敵』。此三志者、晋之謂矣」。子玉使伯棼請戦、曰「非敢必有功也、願以間執讒慝之口」。王怒、少与之師、唯西広・東宮与若敖之六卒実従之。

子玉使宛春告於晉師曰:“請復衛侯而封曹,臣亦釋宋之圍。”子犯曰:“子玉無禮哉!君取一,臣取二,不可失矣。”先軫曰:“子與之。定人之謂禮,楚一言而定三國,我一言而亡之。我則無禮,何以戰乎?不許楚言,是棄宋也。

子玉使宛春告于晋師曰「請復衛侯而封曹、臣亦釈宋之囲」。子犯曰「子玉無礼哉!君取一、臣取二、不可失矣」。先軫曰「子与之。定人之謂礼、楚一言而定三国、我一言而亡之。我則無礼、何以戦乎?不許楚言、是棄宋也。

救而棄之,謂諸侯何?楚有三施,我有三怨,怨仇已多,將何以戰?不如私許復曹、衛以攜之,執宛春以怒楚,既戰而後圖之。”公說,乃拘宛春於衛,且私許復曹、衛。曹、衛告絕於楚。

(先軫は続けて言う)救而棄之、謂諸侯何?楚有三施、我有三怨、怨讐已多、将何以戦?不如私許復曹衛以携之、執宛春以怒楚、既戦而後図之」。公説、乃拘宛春于衛、且私許復曹衛。曹衛告絶于楚。

子玉怒,從晉師。晉師退。軍吏曰:“以君闢臣,辱也。且楚師老矣,何故退?”子犯曰:“師直為壯,曲為老。豈在久乎?微楚之惠不及此,退三舍闢之,所以報也。背惠食言,以亢其仇,我曲楚直。其眾素飽,不可謂老。我退而楚還,我將何求?若其不還,君退臣犯,曲在彼矣。”退三舍。楚眾欲止,子玉不可。

子玉怒、従晋師。晋師退。軍吏曰「以君辟臣、辱也。且楚師老矣、何故退?」子犯曰「師直為壮、曲為老、豈在久乎?微楚之恵不及此、退三舎辟之、所以報也。背恵食言、以亢其讐、我曲楚直。其衆素飽、不可謂老。我退而楚還、我将何求?若其不還、君退臣犯、曲在彼矣」。退三舎。楚衆欲止、子玉不可。

夏四月戊辰,晉侯、宋公、齊國歸父、崔夭、秦小子憖次於城濮。楚師背酅而舍,晉侯患之,聽輿人之誦,曰:“原田每每,舍其舊而新是謀。”公疑焉。

夏四月戊辰、晋侯・宋公・斉国帰父・崔夭・秦小子慭次于城濮。楚師背酅而舎、晋侯患之。聴輿人之誦、曰「原田每每、舎其旧而新是謀」。公疑焉。

子犯曰:“戰也。戰而捷,必得諸侯。若其不捷,表裡山河,必無害也。”公曰:“若楚惠何?”欒貞子曰:“漢陽諸姬,楚實盡之,思小惠而忘大恥,不如戰也。”

子犯曰「戦也。戦而捷、必得諸侯。若其不捷、表裏山河、必無害也」。公曰「若楚恵何」。欒貞子曰「漢陽諸姫、楚実尽之。思小恵而忘大恥、不如戦也」

晉侯夢與楚子搏,楚子伏己而盬其腦,是以懼。子犯曰:“吉。我得天,楚伏其罪,吾且柔之矣。”

晋侯夢与楚子搏、楚子伏己而盬其脳、是以懼。子犯曰「吉。我得天、楚伏其罪、吾且柔之矣」

子玉使鬥勃請戰,曰:“請與君之士戲,君馮軾而觀之,得臣與寓目焉。”

子玉使鬬勃請戦、曰「請与君之士戯、君馮軾而観之、得臣与寓目焉」

晉侯使欒枝對曰:“寡君聞命矣。楚君之惠未之敢忘,是以在此。為大夫退,其敢當君乎?既不獲命矣,敢煩大夫謂二三子,戒爾車乘,敬爾君事,詰朝將見。”

晋侯使欒枝對曰「寡君聞命矣。楚君之恵、未之敢忘、是以在此。為大夫退、其敢当君乎?既不獲命矣、敢煩大夫謂二三子、戒爾車乗、敬爾君事、詰朝将見」

晉車七百乘,、靷、鞅、靽。晉侯登有莘之虛以觀師,曰:“少長有禮,其可用也。”遂伐其木以益其兵。己巳,晉師陳於莘北,胥臣以下軍之佐當陳、蔡。子玉以若敖六卒將中軍,曰:“今日必無晉矣。”子西將左,子上將右。胥臣蒙馬以虎皮,先犯陳、蔡。陳、蔡奔,楚右師潰。狐毛設二旆而退之。

晋車七百乗、韅靷鞅靽。底本「乗」の下は脱文あり。晋侯登有莘之虚以観師、曰「少長有礼、其可用也」。遂伐其木以益其兵。己巳、晋師陳于莘北、胥臣以下軍之佐当陳蔡。子玉以若敖之六卒将中軍、曰「今日必無晋矣」。子西将左、子上将右。胥臣蒙馬以虎皮、先犯陳蔡。陳蔡奔、楚右師潰。狐毛設二旆而退之。

欒枝使輿曳柴而偽遁,楚師馳之。原軫、郤溱以中軍公族橫擊之。狐毛、狐偃以上軍夾攻子西,楚左師潰。楚師敗績。子玉收其卒而止,故不敗。

欒枝使輿曳柴而偽遁、楚師馳之。原軫・郤溱以中軍公族横擊之。狐毛・狐偃以上軍夾攻子西、楚左師潰。楚師敗績。子玉収其卒而止、故不敗。

晉師三日館穀,及癸酉而還。甲午,至於衡雍,作王宮於踐土。

晋師三日館穀、及癸酉而還。甲午、至于衡雍、作王宮于踐土。

鄉役之三月,鄭伯如楚致其師,為楚師既敗而懼,使子人九行成於晉。晉欒枝入盟鄭伯。五月丙午,晉侯及鄭伯盟于衡雍。丁未,獻楚俘於王,駟介百乘,徒兵千。鄭伯傅王,用平禮也。己酉,王享醴,命晉侯宥。王命尹氏及王子虎、內史叔興父策命晉侯為侯伯,賜之大輅之服,戎輅之服,彤弓一,彤矢百,玈弓矢千,秬鬯一卣,虎賁三百人。曰:“王謂叔父,敬服王命,以綏四國。糾逖王慝。”晉侯三辭,從命。曰:“重耳敢再拜稽首,奉揚天子之丕顯休命。”受策以出,出入三覲。

郷役之三月、鄭伯如楚致其師。為楚師既敗而懼、使子人九行成于晋。晋欒枝入盟鄭伯。五月丙午、晋侯及鄭伯盟于衡雍。丁未、献楚俘于王、駟介百乗、徒兵千。鄭伯傅王、用平礼也。己酉、王享醴、命晋侯宥。王命尹氏及王子虎・内史叔興父策命晋侯為侯伯、賜之大輅之服・戎輅之服、彤弓一、彤矢百、玈弓矢千、秬鬯一卣、虎賁三百人。曰「王謂叔父、敬服王命、以綏四国、糾逖王慝」。晋侯三辞従命、曰「重耳敢再拝稽首、奉揚天子之丕顕休命」。受策以出、出入三観。

衛侯聞楚師敗,懼,出奔楚,遂適陳,使元咺奉叔武以受盟。癸亥,王子虎盟諸侯於王庭,要言曰:“皆獎王室,無相害也。有渝此盟,明神殛之,俾隊其師,無克祚國,及而玄孫,無有老幼。”君子謂是盟也信,謂晉於是役也能以德攻。

衛侯聞楚師敗、懼、出奔楚、遂適陳、使元咺奉叔武以受盟。癸亥、王子虎盟諸侯于王庭、要言曰「皆奨王室、無相害也。有渝此盟、明神殛之、俾隊其師、無克祚国、及而玄孫、無有老幼」。君子謂是盟也信、謂晋于是役也、能以徳攻。

初,楚子玉自為瓊弁玉纓,未之服也。先戰,夢河神謂己曰:“畀餘,餘賜女孟諸之麋。”弗致也。大心與子西使榮黃諫,弗聽。榮季曰:“死而利國。猶或為之,況瓊玉乎?是糞土也,而可以濟師,將何愛焉?”弗聽。出,告二子曰:“非神敗令尹,令尹其不勤民,實自敗也。”既敗,王使謂之曰:“大夫若入,其若申、息之老何?”子西、孫伯曰:“得臣將死,二臣止之曰:‘君其將以為戮。’”及連谷而死。晉侯聞之而後喜可知也,曰:“莫余毒也已!蒍呂臣實為令尹,奉己而已,不在民矣。”

初、楚子玉自為瓊弁玉纓、未之服也。先戦、夢河神謂己曰「畀余、余賜女孟諸之麋」。弗致也。大心与子西使栄黄諫、不聴。栄季曰「死而利国、猶或為之、況瓊玉乎?是糞土也、而可以済師、将何愛焉?」弗聴。出告二子曰「非神敗令尹、令尹其不勤民、実自敗也」。既敗、王使謂之曰「大夫若入、其若申息之老何?」子西・孫伯曰「得臣将死、二臣止之曰『君其将為戮』」。及連穀而死。晋侯聞之而後喜可知也、曰「莫余毒也已!蔿呂臣為令尹、奉己而已、不在民矣」

或訴元咺於衛侯曰:“立叔武矣。”其子角從公,公使殺之。咺不廢命,奉夷叔以入守。

或訴元咺于衛侯曰「立叔武矣」。其子角従公、公使人殺之。咺不廃命、奉夷叔以入守。

六月,晉人復衛侯。甯武子與衛人盟於宛濮,曰:“天禍衛國,君臣不協,以及此憂也。今天誘其衷,使皆降心以相從也。不有居者,誰守社稷?不有行者,誰扞牧圉?不協之故,用昭乞盟於爾大神以誘天衷。自今日以往,既盟之後,行者無保其力,居者無懼其罪。有渝此盟,以相及也。明神先君,是糾是殛。”國人聞此盟也,而後不貳。衛侯先期入,寧子先,長佯守門,以為使也,與之乘而入。公子顓犬、華仲前驅。叔武將沐,聞君至,喜,捉髮走出,前驅射而殺之。

六月、晋人復衛侯。寧武子与衛人盟于宛濮、曰「天禍衛国、君臣不協、以及此憂也。今天誘其衷、使皆降心以相従也。不有居者、誰守社稷?不有行者、誰扞牧圉?不協之故、用昭乞盟于爾大神以誘天衷。自今日以従、既盟之後、行者無保其力、居者無懼其罪。有渝此盟、以相及也。明神先君、是糾是殛」。国人聞此盟也、而後不貳。衛侯先期入、寧子先、長牂守門、以為使也、与之乗而入。公子颛犬・華仲前駆。叔武将沐、聞君至、喜、捉髪走出、前駆射而殺之。

公知其無罪也,枕之股而哭之。顓犬走出,公使殺之。元咺出奔晉。

公知其無罪也、枕之股而哭之。颛犬走出、公使殺之。元咺出奔晋。

城濮之戰,晉中軍風於澤,亡大旆之左旃。祁瞞奸命,司馬殺之,以徇於諸侯,使茅茷代之。師還。壬午,濟河。舟之僑先歸,士會攝右。秋七月丙申,振旅,愷以入於晉。獻俘授馘,飲至大賞,徵會討貳。殺舟之僑以徇於國,民於是大服。

城濮之戦、晋中軍風于沢、亡大旆之左旃。祁瞞奸命、司馬殺之、以徇于諸侯、使茅茷代之。師還。壬午、済河。舟之僑先帰、士会摂右。秋七月丙申、振旅、愷以入于晋。献俘授馘、飲至大賞、徴会討貳。殺舟之僑以徇于国、民于是大服。

君子謂:“文公其能刑矣,三罪而民服。《詩》云:‘惠此中國,以綏四方。’不失賞刑之謂也。”

君子謂「文公其能刑矣、三罪而民服。『詩』云『恵此中国、以綏四方』、不失賞刑之謂也」

冬,會於溫,討不服也。

冬、会于温、討不服也。

衛侯與元咺訟,甯武子為輔,針莊子為坐,士榮為大士。衛侯不勝。殺士榮,刖針莊子,謂寧俞忠而免之。執衛侯,歸之於京師,置諸深室。寧子職納橐饘焉。元咺歸於衛,立公子瑕。

衛侯与元咺訟、寧武子為輔、鍼荘子為坐、士栄為大士。衛侯不勝。殺士栄、刖鍼荘子、謂寧俞忠而免之。執衛侯、帰之于京師、寘諸深室。寧子職納槖饘焉。元咺帰于衛、立公子瑕。

是會也,晉侯召王,以諸侯見,且使王狩。仲尼曰:“以臣召君,不可以訓。”

是会也、晋侯召王、以諸侯見、且使王狩。仲尼曰「以臣召君、不可以訓」

故書曰:“天王狩於河陽。”言非其地也,且明德也。

故書曰「天王狩于河陽」。言非其地也、且明徳也。

壬申,公朝於王所。

壬申、公朝于王所。

丁丑,諸侯圍許。

丁丑、諸侯囲許。

晉侯有疾,曹伯之豎侯孺貨筮史,使曰:“以曹為解。齊桓公為會而封異姓,今君為會而滅同姓。曹叔振鐸,文之昭也。先君唐叔,武之穆也。且合諸侯而滅兄弟,非禮也。與衛偕命,而不與偕復,非信也。同罪異罰,非刑也。禮以行義,信以守禮,刑以正邪,舍此三者,君將若之何?”公說,復曹伯,遂會諸侯於許。

晋侯有疾、曹伯之豎侯獳貨筮史、使曰「以曹為解。斉桓公為会而封異姓、今君為会而滅同姓。曹叔振鐸、文之昭也。先君唐叔、武之穆也。且合諸侯而滅兄弟、非礼也。与衛偕命、而不与偕復、非信也。同罪異罰、非刑也。礼以行義、信以守礼、刑以正邪、舎此三者、君将若之何?」公説、復曹伯、遂会諸侯于許。

晉侯作三行以御狄,荀林父將中行,屠擊將右行,先蔑將左行。

晋侯作三行以御狄、荀林父将中行、屠擊将右行、先蔑将左行。

◇僖公二十九年

◇僖公二十九年

【經】二十有九年春,介葛盧來。公至自圍許。夏六月,會王人、晉人、宋人、齊人、陳人、蔡人、秦人盟於翟泉。秋,大雨雹。冬,介葛盧來。

【経】二十九年春、介葛盧来。僖公至自囲許。夏六月、会王人・晋人・宋人・斉人・陳人・蔡人・秦人、盟于翟泉。秋、大雨雹。冬、介葛盧来。

【傳】二十九年春,葛盧來朝,舍於昌衍之上。公在會,饋之芻米,禮也。

【伝】二十九年春、葛盧来朝、舎于昌衍之上。僖公会、饋之芻米、礼也。

夏,公會王子虎、晉狐偃、宋公孫固、齊國歸父、陳轅濤塗、秦小子憖,盟於翟泉,尋踐土之盟,且謀伐鄭也。卿不書,罪之也。在禮,卿不會公、侯,會伯、子、男可也。

夏、僖公会王子虎・晋狐偃・宋公孫固・斉国帰父・陳轅涛塗・秦小子慭、盟于翟泉、尋踐土之盟、且謀伐鄭也。卿不書、罪之也。在礼、卿不会公侯、会伯子男可也。

秋,大雨雹,為災也。

秋、大雨雹、為災也。

冬,介葛盧來,以未見公,故復來朝,禮之,加燕好。

冬、介葛盧来、以未見僖公、故复来朝。礼之、加燕好。

介葛盧聞牛鳴,曰:“是生三犠,皆用之矣,其音雲。”問之而信。

介葛盧聞牛鳴、曰「是生三犠、皆用之矣、其音云」。問之而信。

◇僖公三十年

◇僖公三十年

【經】三十年春王正月。夏,狄侵齊。秋,衛殺其大夫元咺及公子瑕。衛侯鄭歸於衛。晉人、秦人圍鄭。介人侵蕭。冬,天王使宰周公來聘。公子遂如京師。遂如晉。

【経】三十年春、周天子の暦の正月。夏、狄侵斉。秋、衛殺其大夫元咺及公子瑕。衛侯鄭帰于衛。晋人・秦人囲鄭。介人侵蕭。冬、天王使宰周公来聘。公子遂如京師、遂如晋。

【傳】三十年春,晉人侵鄭,以觀其可攻與否。狄間晉之有鄭虞也,夏,狄侵齊。

【伝】三十年春、晋人侵鄭、以観其可攻与否。狄間晋之有鄭虞也、夏、狄侵斉。

晉侯使醫衍鴆衛侯。寧俞貨醫,使薄其鴆,不死。公為之請,納玉於王與晉侯。皆十瑴。王許之。秋,乃釋衛侯。衛侯使賂周顓、冶廑,曰:“苟能納我,吾使爾為卿。”周、冶殺元咺及子適、子儀。公入祀先君。周、冶既服將命,周顓先入,及門,遇疾而死。冶廑辭卿。

晋侯使医衍酖衛侯。寧俞貨医、使薄其酖、不死。僖公為之請、納玉于王与晋侯、皆十毀。王許之。秋、乃釈衛侯。衛侯使賂周歂・冶厲、曰「苟能納我、吾使爾為卿」。周冶殺元咺及子適・子儀。公入祀先君。周冶既服将命、周歂先入、及門、遇疾而死。冶厲辞卿。

九月甲午,晉侯、秦伯圍鄭,以其無禮於晉,且貳於楚也。晉軍函陵,秦軍汜南。佚之狐言於鄭伯曰:“國危矣,若使燭之武見秦君,師必退。”公從之。

九月甲午、晋侯・秦伯囲鄭、以其無礼于晋、且貳于楚也。晋軍函陵、秦軍汜南。佚之狐言于鄭伯曰「国危矣、若使燭之武見秦君、師必退」。公従之。

辭曰:“臣之壯也,猶不如人,今老矣,無能為也已。”公曰:“吾不能早用子,今急而求子,是寡人之過也。然鄭亡,子亦有不利焉。”許之,夜縋而出,見秦伯,曰:“秦、晉圍鄭,鄭既知亡矣。若亡鄭而有益於君,敢以煩執事。越國以鄙遠,君知其難也,焉用亡鄭以陪鄰。鄰之厚,君之薄也。若舍鄭以為東道主,行李之往來,共其乏困,君亦無所害。且君嘗為晉君賜矣,許君焦、瑕,朝濟而夕設版焉,君之所知也。夫晉何厭之有?既東封鄭,又欲肆其西封,不闕秦,將焉取之?闕秦以利晉,唯君圖之。”秦伯說,與鄭人盟,使杞子、逢孫、揚孫戍之,乃還。

辞曰「臣之壮也、猶不如人、今老矣、無能為也已」。公曰「吾不能早用子、今急而求子、是寡人之過也。然鄭亡、子亦有不利焉」。許之、夜縋而出、見秦伯、曰「秦晋囲鄭、鄭既知亡矣。若亡鄭而有益于君、敢以煩執事。越国以鄙遠、君知其難也、焉用亡鄭以陪鄰?鄰之厚、君之薄也。若舎鄭以為東道主、行李之往来、共其乏困、君亦無所害。且君嘗為晋君賜矣、許君焦瑕、朝済而夕設版焉、君之所知也。夫晋何厭之有?既東封鄭、又欲肆其西封、若不闕秦、将焉取之?闕秦以利晋、唯君図之」。秦伯説、与鄭人盟、使杞子・逢孫・揚孫戍之、乃還。

子犯請擊之,公曰:“不可。微夫人力不及此。因人之力而敝之,不仁。失其所與,不知。以亂易整,不武。吾其還也。”亦去之。

子犯請擊之、公曰「不可。微夫人之力不及此。因人之力而敝之、不仁。失其所与、不知。以乱易整、不武。吾其還也」。亦去之。

初,鄭公子蘭出奔晉,從於晉侯。伐鄭,請無與圍鄭。許之,使待命於東。

むかし、鄭公子蘭出奔晋、従于晋侯。伐鄭、請無与囲鄭。許之、使待命于東。

鄭石甲父、侯宣多逆以為大子,以求成於晉,晉人許之。

鄭石甲父・侯宣多逆以為大子、以求成于晋、晋人許之。

冬,王使周公閱來聘,饗有昌歜、白、黑、形鹽。辭曰:“國君,文足昭也,武可畏也,則有備物之饗以象其德。薦五味,羞嘉穀,鹽虎形,以獻其功。

冬、天子は周公閲を遣わして来聘し、宴饗に昌蒲菹・白米糕・黒黍糕・虎形の塩を陳べた。周公閲は辞して言った。「国君は、文は以て昭明するに足り、武は以て人を畏れさせるに足るとき、備物の饗があって其の徳を象る。五味を進め、嘉穀を羞じ、塩を虎の形にして、其の功業を表す。

吾何以堪之?”東門襄仲將聘於周,遂初聘於晉。

(周公閲は続けて言う)余が何を以てかこれに当たるや」と。東門襄仲は将に周に聘せんとして、遂に初めて晋に聘した。

◇僖公三十一年

◇僖公三十一年

【經】三十有一年春,取濟西田。公子遂如晉。夏四月,四卜郊,不從,乃免牲。猶三望。秋七月。冬,杞伯姬來求婦。狄圍衛。十有二月,衛遷於帝丘。

【経】三十有一年春、取済西田。公子遂如晋。夏四月、四卜郊不従、乃免牲。猶三望。秋七月。冬、杞伯姫来求婦。狄囲衛。十有二月、衛遷于帝丘。

【傳】三十一年春,取濟西田,分曹地也。使臧文仲往,宿於重館。重館人告曰:“晉新得諸侯,必親其共,不速行,將無及也。”從之,分曹地,自洮以南,東傅於濟,盡曹地也。

【伝】三十一年春、取済西田、分曹地也。使臧文仲往、宿于重館。重館人告曰「晋新得諸侯、必親其共、不速行、将无及也」。従之、分曹地、自洮以南、東傅于済、尽曹地也。

襄仲如晉,拜曹田也。

襄仲如晋、拜曹田也。

夏四月,四卜郊,不從,乃免牲,非禮也。猶三望,亦非禮也。禮不卜常祀,而卜其牲、日,牛卜日曰牲。牲成而卜郊,上怠慢也。望,郊之細也。不郊,亦無望可也。

夏四月、四卜郊不従、乃免牲、非礼也。猶三望、亦非礼也。礼不卜常祀、而卜其牲日。牛卜日曰牲。牲成而卜郊、上怠慢也。望、郊之細也。不郊、亦無望可也。

秋,晉搜於清原,作五軍御狄。趙衰為卿。

秋、晋蒐于清原、作五軍以御狄。趙衰為卿。

冬,狄圍衛,衛遷於帝丘。卜曰三百年。衛成公夢康叔曰:“相奪予享。”

冬、狄囲衛、衛遷于帝丘。卜曰三百年。衛成公夢康叔曰「相奪予享」。

公命祀相。甯武子不可,曰:“鬼神非其族類,不歆其祀。杞、鄫何事?相之不享於此。久矣,非衛之罪也,不可以間成王、周公之命祀。請改祀命。”

公命祀相。寧武子不可、曰「鬼神非其族類、不歆其祀。杞・鄫何事?相之不享于此久矣、非衛之罪也、不可以間成王・周公之命祀。請改祀命」。

鄭洩駕惡公子瑕,鄭伯亦惡之,故公子瑕出奔楚。

鄭洩駕悪公子瑕、鄭伯亦悪之、故公子瑕出奔楚。

◇僖公三十二年

◇僖公三十二年

【經】三十有二年春王正月。夏四月己丑,鄭伯捷卒。衛人侵狄。秋,衛人及狄盟。冬十有二月己卯,晉侯重耳卒。

【経】三十有二年春、周天子の暦の正月。夏四月己丑、鄭伯捷卒。衛人侵狄。秋、衛人及狄盟。冬十有二月己卯、晋侯重耳卒。

【傳】三十二年春,楚鬥章請平於晉,晉陽處父報之。晉、楚始通。

【伝】三十三年春、楚鬬章請平于晋、晋陽處父報之。晋・楚始通。

夏,狄有亂。衛人侵狄,狄請平焉。秋,衛人及狄盟。

夏、狄有乱。衛人侵狄、狄請平。秋、衛人及狄盟。

冬,晉文公卒。庚辰,將殯於曲沃,出絳,柩有聲如牛。卜偃使大夫拜。曰:“君命大事。將有西師過軼我,擊之,必大捷焉。”杞子自鄭使告於秦,曰:“鄭人使我掌其北門之管,若潛師以來,國可得也。”穆公訪諸蹇叔,蹇叔曰:“勞師以襲遠,非所聞也。師勞力竭,遠主備之,無乃不可乎!師之所為,鄭必知之。勤而無所,必有悖心。且行千里,其誰不知?”公辭焉。召孟明、西乞、白乙,使出師於東門之外。蹇叔哭之,曰:“孟子,吾見師之出而不見其入也。”

冬、晋文公卒。庚辰、将殯于曲沃、出絳、柩有声如牛。卜偃使大夫拜、曰「君命大事。将有西師過軼我、撃之、必大捷焉」。杞子自鄭使告于秦曰「鄭人使我掌其北門之管、若潜師以来、国可得也」。穆公訪諸蹇叔、蹇叔曰「労師以襲遠、非所聞也。師労力竭、遠主備之、無乃不可乎!師之所為、鄭必知之。勤而無所、必有悖心。且行千里、其誰不知?」公辞焉。召孟明・西乞・白乙、使出師于東門之外。蹇叔哭之、曰「孟子、吾見師之出而不見其入也」。

公使謂之曰:“爾何知?中壽,爾墓之木拱矣。”蹇叔之子與師,哭而送之,曰:“晉人御師必於殽。殽有二陵焉。其南陵,夏後皋之墓也;其北陵,文王之所闢風雨也。必死是間,餘收爾骨焉。”秦師遂東。

公使謂之曰「爾何知?中寿、爾墓之木拱矣」。蹇叔之子与師、哭而送之、曰「晋人御師必于殽。殽有二陵焉。其南陵、夏后皋之墓也;其北陵、文王之所辟風雨也。必死是間、余収爾骨焉」。秦師遂東。

◇僖公三十三年

◇僖公三十三年

【經】三十有三年春王二月,秦人入滑。齊侯使國歸父來聘。夏四月辛巳,晉人及姜戎敗秦師於殽。癸巳,葬晉文公。狄侵齊。公伐邾,取訾婁。秋,公子遂帥師伐邾。晉人敗狄於箕。冬十月,公如齊。十有二月,公至自齊。乙巳,公薨於小寢。隕霜不殺草。李梅實。晉人、陳人、鄭人伐許。

【経】三十三年春、王二月、秦人入滑。斉侯使国帰父来聘。夏四月辛巳、晋人及姜戎敗秦師于殽。癸巳、葬晋文公。狄侵斉。公伐邾、取訾婁。秋、公子遂帥師伐邾。晋人敗狄于箕。冬十月、公如斉。十有二月、公至自斉。乙巳、公薨于小寝。隕霜不殺草、李梅実。晋人・陳人・鄭人伐許。

【傳】三十三年春,秦師過周北門,左右免冑而下。超乘者三百乘。王孫滿尚幼,觀之,言於王曰:“秦師輕而無禮,必敗。輕則寡謀,無禮則脫。入險而脫。又不能謀,能無敗乎?”及滑,鄭商人弦高將市於周,遇之。以乘韋先,牛十二犒師,曰:“寡君聞吾子將步師出於敝邑,敢犒從者,不腆敝邑,為從者之淹,居則具一日之積,行則備一夕之衛。”且使遽告於鄭。鄭穆公使視客館,則束載、厲兵、秣馬矣。使皇武子辭焉,曰:“吾子淹久於敝邑,唯是脯資餼牽竭矣。為吾子之將行也,鄭之有原圃,猶秦之有具囿也。吾子取其麋鹿以閒敝邑,若何?”杞子奔齊,逢孫、揚孫奔宋。孟明曰:“鄭有備矣,不可冀也。

【伝】三十三年春、秦師過周北門、左右免冑而下。超乗者三百乗。王孫満尚幼、観之、言于王曰「秦師軽而無礼、必敗。軽則寡謀、無礼則脱。入険而脱、又不能謀、能無敗乎?」及滑、鄭商人弦高将市于周、遇之。以乗韋先、牛十二犒師、曰「寡君聞吾子将步師出于敝邑、敢犒従者。不腆敝邑、為従者之淹、居則具一日之積、行則備一夕之衛」。且使遽告于鄭。鄭穆公使視客館、則束載・厲兵・秣馬矣。使皇武子辞焉、曰「吾子淹久于敝邑、唯是脯資餼牽竭矣。為吾子之将行也、鄭之有原圃、猶秦之有具囿也、吾子取其麋鹿以閒敝邑、若何?」杞子奔斉、逢孫・楊孫奔宋。孟明曰「鄭有備矣、不可冀也。

攻之不克,圍之不繼,吾其還也。”滅滑而還。

(孟明は続けて言う)攻之不克、囲之不継、吾其還也」。滅滑而還。

齊國莊子來聘,自郊勞至於贈賄,禮成而加之以敏。臧文仲言於公曰:“國子為政,齊猶有禮,君其朝焉。臣聞之,服於有禮,社稷之衛也。”

斉国荘子来聘、自郊労至于贈賄、礼成而加之以敏。臧文仲言于僖公曰「国子為政、斉猶有礼、君其朝焉。臣聞之:服于有礼、社稷之衛也」。

晉原軫曰:“秦違蹇叔,而以貪勤民,天奉我也。奉不可失,敵不可縱。縱敵患生,違天不祥。必伐秦師。”欒枝曰:“未報秦施而伐其師,其為死君乎?”先軫曰:“秦不哀吾喪而伐吾同姓,秦則無禮,何施之為?吾聞之,一日縱敵,數世之患也。謀及子孫,可謂死君乎?”遂發命,遽興姜戎。子墨衰絰,梁弘御戎,萊駒為右。

晋原軫曰「秦違蹇叔、而以貪勤民、天奉我也。奉不可失、敵不可縦。縦敵患生、違天不祥。必伐秦師」。欒枝曰「未報秦施而伐其師、其為死君乎」。先軫曰「秦不哀吾喪而伐吾同姓、秦則無礼、何施之為?吾聞之:一日縦敵、数世之患也。謀及子孫、可謂死君乎?」遂発命、遽興姜戎。子墨衰絰、梁弘御戎、莱駒為右。

夏四月辛巳,敗秦師於殽,獲百里孟明視、西乞術、白乙丙以歸,遂墨以葬文公。晉於是始墨。

夏四月辛巳、敗秦師于殽、獲百里孟明視・西乞術・白乙丙以帰、遂墨以葬文公。晋于是始墨。

文嬴請三帥,曰:“彼實構吾二君,寡君若得而食之,不厭,君何辱討焉!使歸就戮於秦,以逞寡君之志,若何?”公許之,先軫朝。問秦囚。公曰:“夫人請之,吾舍之矣。”先軫怒曰:“武伕力而拘諸原,婦人暫而免諸國。墮軍實而長寇仇,亡無日矣。”不顧而唾。公使陽處父追之,及諸河,則在舟中矣。釋左驂,以公命贈孟明。孟明稽首曰:“君之惠,不以累臣釁鼓,使歸就戮於秦,寡君之以為戮,死且不朽。若從君惠而免之,三年將拜君賜。”

文嬴請三帥、曰「彼実構吾二君、寡君若得而食之不厭、君何辱討焉!使帰就戮于秦、以逞寡君之志、若何?」公許之。先軫朝、問秦囚。公曰「夫人請之、吾舎之矣」。先軫怒曰「武夫力而拘諸原、婦人暫而免諸国。墮軍実而長寇讐、亡無日矣」。不顧而唾。公使陽處父追之、及諸河、則在舟中矣。釈左驂、以公命贈孟明。孟明稽首曰「君之恵、不以纍臣釁鼓、使帰就戮于秦。寡君之以為戮、死且不朽。若従君恵而免之、三年将拜君賜」。

秦伯素服郊次,鄉師而哭曰:“孤違蹇叔以辱二三子,孤之罪也。不替孟明,孤之過也。大夫何罪?且吾不以一眚掩大德。”

秦伯素服郊次、郷師而哭曰「孤違蹇叔、以辱二三子、孤之罪也。不替孟明、孤之過也。大夫何罪?且吾不以一眚掩大徳」。

狄侵齊,因晉喪也。

狄侵斉、因晋喪也。

公伐邾,取訾婁,以報升陘之役。邾人不設備。秋,襄仲復伐邾。

公伐邾、取訾婁、以報升陘之役。邾人不設備。秋、襄仲復伐邾。

狄伐晉,及箕。八月戊子,晉侯敗狄於箕。郤缺獲白狄子。先軫曰:“匹夫逞志於君而無討,敢不自討乎?”免冑入狄師,死焉。狄人歸其元,面如生。

狄伐晋、及箕。八月戊子、晋侯敗狄于箕。郤缺獲白狄子。先軫曰「匹夫逞志于君而無討、敢不自討乎?」免冑入狄師、死焉。狄人帰其元、面如生。

初,臼季使過冀,見冀缺耨,其妻饁之。敬,相待如賓。與之歸,言諸文公曰:“敬,德之聚也。能敬必有德,德以治民,君請用之。臣聞之,出門如賓,承事如祭,仁之則也。”公曰:“其父有罪,可乎?”對曰:“舜之罪也殛鯀,其舉也興禹。管敬仲,桓之賊也,實相以濟。《康誥》曰:‘父不慈,子不祗,兄不友,弟不共,不相及也。’《詩》曰:‘採葑採菲,無以下體。’君取節焉可也。”文公以為下軍大夫。反自箕,襄公以三命命先且居將中軍,以再命命先茅之縣賞胥臣曰:“舉郤缺,子之功也。”以一命命郤缺為卿,復與之冀,亦未有軍行。

初、臼季使過冀、見冀缺耨、其妻饁之。敬、相待如賓。与之帰、言諸文公曰「敬、徳之聚也。能敬必有徳、徳以治民、君請用之。臣聞之:出門如賓、承事如祭、仁之則也」。公曰「其父有罪、可乎」。對曰「舜之罪也殛鮌、其挙也興禹。管敬仲、桓之賊也、実相以済。『康誥』曰『父不慈、子不祗、兄不友、弟不共、不相及也』。『詩』曰『采葑采菲、無以下體』。君取節焉可也」。文公以為下軍大夫。反自箕、襄公以三命命先且居将中軍、以再命命先茅之県賞胥臣、曰「挙郤缺、子之功也」。以一命命郤缺為卿、復与之冀、亦未有軍行。

冬,公如齊,朝,且吊有狄師也。反,薨於小寢,即安也。

冬、公如斉朝、且弔有狄師也。反、薨于小寝、即安也。

晉、陳、鄭伐許,討其貳於楚也。

晋・陳・鄭伐許、討其貳于楚也。

楚令尹子上侵陳、蔡。陳、蔡成,遂伐鄭,將納公子瑕,門於桔柣之門。

楚令尹子上侵陳・蔡。陳・蔡成、遂伐鄭、将納公子瑕、門于桔柣之門。

瑕覆於周氏之汪,外僕髡屯禽之以獻。文夫人斂而葬之鄶城之下。

瑕覆于周氏之汪、外僕髡屯禽之以献。文夫人斂而葬之郐城之下。

晉陽處父侵蔡,楚子上救之,與晉師夾泜而軍。陽子患之,使謂子上曰:“吾聞之,文不犯順,武不違敵。子若欲戰,則吾退舍,子濟而陳,遲速唯命,不然紓我。老師費財,亦無益也。”乃駕以待。子上欲涉,大孫伯曰:“不可。

晋陽處父侵蔡、楚子上救之、与晋師夾泜而軍。陽子患之、使謂子上曰「吾聞之:文不犯順、武不違敵。子若欲戦、則吾退舎、子済而陳、遅速唯命;不然紓我。老師費財、亦無益也」。乃駕以待。子上欲渉、大孫伯曰「不可。

晉人無信,半涉而薄我,悔敗何及,不如紓之。”乃退舍。陽子宣言曰:“楚師遁矣。”遂歸。楚師亦歸。大子商臣譖子上曰:“受晉賂而闢之,楚之恥也,罪莫大焉。”王殺子上。

(大孫伯は続けて言う)晋人無信、半渉而薄我、悔敗何及、不如紓之」。乃退舎。陽子宣言曰「楚師遁矣」。遂帰。楚師亦帰。大子商臣譖子上曰「受晋賂而辟之、楚之恥也、罪莫大焉」。王殺子上。

葬僖公,緩作主,非禮也。凡君薨,卒哭而祔,祔而作主,特祀於主,烝嘗禘於廟。

葬僖公、緩作主、非礼也。凡君薨、卒哭而祔、祔而作主、特祀于主、烝嘗禘于廟。

文公(元年~十八年)

◇文公元年

◇文公元年

【經】元年春王正月,公即位。二月癸亥,日有食之。天王使叔服來會葬。

【経】元年春、王正月、公即位。二月癸亥、日有食之。天王使叔服来会葬。

夏四月丁巳,葬我君僖公。天王使毛伯來錫公命。晉侯伐衛。叔孫得臣如京師。

夏四月丁巳、葬我君僖公。天王使毛伯来錫公命。晋侯伐衛。叔孫得臣如京師。

衛人伐晉。秋,公孫敖會晉侯於戚。冬十月丁未,楚世子商臣弒其君頵。公孫敖如齊。

衛人伐晋。秋、公孫敖会晋侯于戚。冬十月丁未、楚世子商臣弒其君頵。公孫敖如斉。

【傳】元年春,王使內史叔服來會葬。公孫敖聞其能相人也,見其二子焉。

【伝】元年春、王使内史叔服来会葬。公孫敖聞其能相人也、見其二子焉。

叔服曰:“谷也食子,難也收子。谷也豐下,必有後於魯國。”

叔服曰「穀也食子、難也収子。穀也豊下、必有後于魯国」。

於是閏三月,非禮也。先王之正時也,履端於始,舉正於中,歸餘於終。履端於始,序則不愆。舉正於中,民則不惑。歸餘於終,事則不悖。

於是閏三月、非礼也。先王之正時也、履端于始、挙正于中、帰余于終。履端于始、序則不愆。挙正于中、民則不惑。帰余于終、事則不悖。

夏四月丁巳,葬僖公。

夏四月丁巳、葬僖公。

王使毛伯衛來錫公命。叔孫得臣如周拜。

王使毛伯衛来錫公命。叔孫得臣如周拜。

晉文公之季年,諸侯朝晉。衛成公不朝,使孔達侵鄭,伐綿、訾,及匡。晉襄公既祥,使告於諸侯而伐衛,及南陽。先且居曰:“效尤,禍也。請君朝王,臣從師。”晉侯朝王於溫,先且居、胥臣伐衛。五月辛酉朔,晉師圍戚。六月戊戌,取之,獲孫昭子。

晋文公之季年、諸侯朝晋。衛成公不朝、使孔達侵鄭、伐綿・訾、及匡。晋襄公既祥、使告于諸侯而伐衛、及南陽。先且居曰「效尤、禍也。請君朝王、臣従師」。晋侯朝王于温、先且居・胥臣伐衛。五月辛酉朔、晋師囲戚。六月戊戌、取之、獲孫昭子。

衛人使告於陳。陳共公曰:“更伐之,我辭之。”衛孔達帥師伐晉,君子以為古。古者越國而謀。

衛人使告于陳。陳共公曰「更伐之、我辞之」。衛孔達帥師伐晋。君子以為古。古者越国而謀。

秋,晉侯疆戚田,故公孫敖會之。

秋、晋侯疆戚田、故公孫敖会之。

初,楚子將以商臣為大子,訪諸令尹子上。子上曰:“君之齒未也。而又多愛,黜乃亂也。楚國之舉,恆在少者。且是人也,蜂目而豺聲,忍人也,不可立也。”弗聽。既又欲立王子職而黜大子商臣。商臣聞之而未察,告其師潘崇曰:“若之何而察之?”潘崇曰:“享江羋而勿敬也。”從之。江羋怒曰:“呼,役夫!宜君王之慾殺女而立職也。”告潘崇曰:“信矣。”潘崇曰:“能事諸乎?”曰:“不能。”“能行乎?”曰:“不能。”“能行大事乎?”曰:“能。”

初、楚子将以商臣為大子、訪諸令尹子上。子上曰「君之歯未也、而又多愛、黜乃乱也。楚国之挙、恒在少者。且是人也、蜂目而豺声、忍人也、不可立也」。弗聴。既又欲立王子職而黜大子商臣。商臣聞之而未察、告其師潘崇曰「若之何而察之」。潘崇曰「享江羋而勿敬也」。従之。江羋怒曰「呼、役夫!宜君王之欲殺女而立職也」。告潘崇曰「信矣」。潘崇曰「能事諸乎」。曰「不能」。「能行乎」。曰「不能」。「能行大事乎」。曰「能」。

冬十月,以宮甲圍成王。王請食熊蹯而死。弗聽。丁未,王縊。諡之曰:“靈”,不瞑;曰:“成”,乃瞑。穆王立,以其為大子之室與潘崇,使為大師,且掌環列之尹。

冬十月、以宮甲囲成王。王請食熊蹯而死。弗聴。丁未、王縊。謚之曰「霊」、不瞑;曰「成」、乃瞑。穆王立、以其為大子之室与潘崇、使為大師、且掌環列之尹。

穆伯如齊,始聘焉,禮也。凡君即位,卿出並聘,踐修舊好,要結外授,好事鄰國,以衛社稷,忠信卑讓之道也。忠,德之正也;信,德之固也;卑讓,德之基也。

穆伯如斉、始聘焉、礼也。凡君即位、卿出並聘、践脩旧好、要結外援、好事隣国、以衛社稷、忠信卑譲之道也。忠、徳之正也;信、徳之固也;卑譲、徳之基也。

殽之役,晉人既歸秦帥,秦大夫及左右皆言於秦伯曰:“是敗也,孟明之罪也,必殺之。”秦伯曰:“是孤之罪也。周芮良夫之詩曰;‘大風有隧,貪人敗類,聽言則對,誦言如醉,匪用其良,覆俾我悖。’是貪故也,孤之謂矣。孤實貪以禍夫子,夫子何罪?”復使為政。

殽之役、晋人既帰秦帥、秦大夫及左右皆言于秦伯曰「是敗也、孟明之罪也、必殺之」。秦伯曰「是孤之罪也。周芮良夫之詩曰『大風有隧、貪人敗類。聴言則對、誦言如醉。匪用其良、覆俾我悖』。是貪故也、孤之謂矣。孤実貪以禍夫子、夫子何罪?」復使為政。

◇文公二年

◇文公二年

【經】二年春王二月甲子,晉侯及秦師戰於彭衙,秦師敗績。丁丑,作僖公主。三月乙巳,及晉處父盟。夏六月,公孫敖會宋公、陳侯、鄭伯、晉士縠盟於垂隴。自十有二月不雨,至於秋七月。八月丁卯,大事於大廟,躋僖公。冬,晉人、宋人、陳人、鄭人伐秦。公子遂如齊納幣。

【経】二年春、王二月甲子、晋侯及秦師戦于彭衙、秦師敗績。丁丑、作僖公主。三月乙巳、及晋處父盟。夏六月、公孫敖会宋公・陳侯・鄭伯・晋士縠、盟于垂隴。自十有二月不雨、至于秋七月。八月丁卯、大事于大廟、躋僖公。冬、晋人・宋人・陳人・鄭人伐秦。公子遂如斉納幣。

【傳】二年春,秦孟明視帥師伐晉,以報殽之役。二月,晉侯御之。先且居將中軍,趙衰佐之。王官無地御戎,狐鞫居為右。甲子,及秦師戰於彭衙。秦師敗績。晉人謂秦“拜賜之師”。

【伝】二年春、秦孟明視帥師伐晋、以報殽之役。二月、晋侯御之。先且居将中軍、趙衰佐之。王官無地御戎、狐鞫居為右。甲子、及秦師戦于彭衙。秦師敗績。晋人謂秦「拜賜之師」。

戰於殽也,晉梁弘御戎,萊駒為右。戰之明日,晉襄公縛秦囚,使萊駒以戈斬之。囚呼,萊駒失戈,狼瞫取戈以斬囚,禽之以從公乘,遂以為右。箕之役,先軫黜之而立續簡伯。狼瞫怒。其友曰:“盍死之?”瞫曰:“吾未獲死所。”

戦于殽也、晋梁弘御戎、莱駒為右。戦之明日、晋襄公縛秦囚、使莱駒以戈斬之。囚呼、莱駒失戈、狼瞫取戈以斬囚、禽之以従公乗、遂以為右。箕之役、先軫黜之而立續簡伯。狼瞫怒。其友曰「盍死之?」瞫曰「吾未獲死所」。

其友曰:“吾與女為難。”瞫曰;“《周志》有之,‘勇則害上,不登於明堂。’死而不義,非勇也。共用之謂勇。吾以勇求右,無勇而黜,亦其所也。謂上不我知,黜而宜,乃知我矣。子姑待之。”及彭衙,既陳,以其屬馳秦師,死焉。晉師從之,大敗秦師。君子謂:“狼瞫於是乎君子。詩曰:‘君子如怒,亂庶遄沮。’又曰:‘王赫斯怒,爰整其旅。’怒不作亂而以從師,可謂君子矣。”

其友曰「吾与女為難」。瞫曰「『周志』有之『勇則害上、不登于明堂』。死而不義、非勇也。共用之謂勇。吾以勇求右、無勇而黜、亦其所也。謂上不我知、黜而宜、乃知我矣。子姑待之」。及彭衙、既陳、以其属馳秦師、死焉。晋師従之、大敗秦師。君子謂「狼瞫于是乎君子。『詩』曰『君子如怒、乱庶遄沮』。又曰『王赫斯怒、爰整其旅』。怒不作乱、而以従師、可謂君子矣」。

秦伯猶用孟明。孟明增修國政,重施於民。趙成子言於諸大夫曰:“秦師又至,將必闢之,懼而增德,不可當也。詩曰:‘毋念爾祖,聿修厥德。’孟明念之矣,念德不怠,其可敵乎?”丁丑,作僖公主,書,不時也。

秦伯猶用孟明。孟明增脩国政、重施于民。趙成子言于諸大夫曰「秦師又至、将必辟之、懼而増徳、不可当也。『詩』曰『毋念爾祖、聿脩厥徳』。孟明念之矣。念徳不怠、其可敵乎?」丁丑、作僖公主、書、不時也。

晉人以公不朝來討,公如晉。夏四月己巳,晉人使陽處父盟公以恥之。書曰:“及晉處父盟。”以厭之也。適晉不書,諱之也。公未至,六月,穆伯會諸侯及晉司空士縠盟於垂隴,晉討衛故也。書士縠,堪其事也。

晋人以其不朝而討、文公如晋。夏四月己巳、晋人使陽處父盟公以恥之。書曰「及晋處父盟」、以厭之也。適晋不書、諱之也。公未至、六月、穆伯会諸侯及晋司空士縠盟于垂隴、晋討衛故也。書士縠、堪其事也。

陳侯為衛請成於晉,執孔達以說。

陳侯為衛請成于晋、執孔達以説。

秋八月丁卯,大事於大廟,躋僖公,逆祀也。於是夏父弗忌為宗伯,尊僖公,且明見曰:“吾見新鬼大,故鬼小。先大後小,順也。躋聖賢,明也。明、順,禮也。”

秋八月丁卯、大事于大廟、躋僖公、逆祀也。于是夏父弗忌為宗伯、尊僖公、且明見曰「吾見新鬼大、故鬼小。先大後小、順也。躋聖賢、明也。明順、礼也」。

君子以為失禮。禮無不順。祀,國之大事也,而逆之,可謂禮乎?子雖齊聖,不先父食久矣。故禹不先鯀,湯不先契,文、武不先不窋。宋祖帝乙,鄭祖厲王,猶上祖也。是以《魯頌》曰:“春秋匪解,享祀不忒,皇皇后帝,皇祖后稷。”

君子以為失礼。礼無不順。祀、国之大事也、而逆之、可謂礼乎?子雖斉聖、不先父食久矣。故禹不先鮌、湯不先契、文武不先不窋。宋祖帝乙、鄭祖厲王、猶上祖也。是以『魯頌』曰「春秋匪解、享祀不忒、皇皇后帝、皇祖後稷」

君子曰禮,謂其後稷親而先帝也。《詩》曰:“問我諸姑,遂及伯姊。”君子曰禮,謂其姊親而先姑也。仲尼曰:“臧文仲,其不仁者三,不知者三。下展禽,廢六關,妾織蒲,三不仁也。作虛器,縱逆祀,祀爰居,三不知也。”

君子曰礼、謂其後稷親而先帝也。『詩』曰「問我諸姑、遂及伯姊」。君子曰礼、謂其姉親而先姑也。仲尼曰「臧文仲、其不仁者三、不知者三。下展禽、廢六関、妾織蒲、三不仁也。作虚器、縦逆祀、祀爰居、三不知也」

冬,晉先且居、宋公子成、陳轅選、鄭公子歸生伐秦,取汪,及彭衙而還,以報彭衙之役。卿不書,為穆公故,尊秦也,謂之崇德。

冬、晋先且居・宋公子成・陳轅選・鄭公子帰生伐秦、取汪、及彭衙而還、以報彭衙之役。卿不書、為穆公故、尊秦也、謂之崇徳。

襄仲如齊納幣,禮也。凡君即位,好舅甥,修昏姻,娶元妃以奉粢盛,孝也。

襄仲如斉納幣、礼也。凡君即位、好舅甥、脩昏姻、娶元妃以奉粢盛、孝也。

孝,禮之始也。

孝、礼之始也。

◇文公三年

◇文公三年

【經】三年春王正月,叔孫得臣會晉人、宋人、陳人、衛人、鄭人伐沈。沈潰。夏五月,王子虎卒。秦人伐晉。秋,楚人圍江。雨螽於宋。冬,公如晉。十有二月己巳,公及晉侯盟。晉陽處父帥師伐楚以救江。

【経】三年春、王正月、叔孫得臣会晋人・宋人・陳人・衛人・鄭人伐沈。沈潰。夏五月、王子虎卒。秦人伐晋。秋、楚人囲江。雨螽于宋。冬、公如晋。十有二月己巳、公及晋侯盟。晋陽處父帥師伐楚以救江。

【傳】三年春,莊叔會諸侯之師伐沈,以其服於楚也。沈潰。凡民逃其上曰潰,在上曰逃。

【伝】三年春、荘叔会諸侯之師伐沈、以其服于楚也。沈潰。凡民逃其上曰潰、在上曰逃。

衛侯如陳,拜晉成也。

衛侯如陳、拜晋成也。

夏四月乙亥,王叔文公卒,來赴吊如同盟,禮也。

夏四月乙亥、王叔文公卒、来赴、弔如同盟、礼也。

秦伯伐晉,濟河焚舟,取王官,及郊。晉人不出,遂自茅津濟,封殽屍而還。

秦伯伐晋、済河焚舟、取王官、及郊。晋人不出、遂自茅津済、封殽尸而還。

遂霸西戎,用孟明也。君子是以知“秦穆公之為君也,舉人之周也,與人之壹也;孟明之臣也,其不解也,能懼思也;子桑之忠也,其知人也,能舉善也。《詩》曰:‘於以采蘩,於沼於沚,於以用之公侯之事’,秦穆有焉。‘夙夜匪解,以事一人’,孟明有焉。‘詒闕孫謀,以燕翼子’,子桑有焉。”

遂霸西戎、用孟明也。君子是以知「秦穆公之為君也、挙人之周也、与人之壹也;孟明之為臣也、其不解也、能懼思也;子桑之忠也、其知人也、能挙善也。『詩』曰『于以采蘩、于沼于沚、于以用之、公侯之事』、秦穆有焉。『夙夜匪解、以事一人』、孟明有焉。『詒厥孫謀、以燕翼子』、子桑有焉」

秋,雨螽於宋,隊而死也。

秋、雨螽于宋、墜而死也。

楚師圍江。晉先僕伐楚以救江。

楚師囲江。晋先僕伐楚以救江。

冬,晉以江故告於周。王叔桓公、晉陽處父伐楚以救江,門於方城,遇息公子朱而還。

冬、晋以江故告于周。王叔桓公・晋陽處父伐楚以救江、門于方城、遇息公子朱而還。

晉人懼其無禮於公也,請改盟。公如晉,及晉侯盟。晉侯饗公,賦《菁菁者莪》。莊叔以公降,拜,曰:“小國受命於大國,敢不慎儀。君貺之以大禮,何樂如之。抑小國之樂,大國之惠也。”晉侯降,辭。登,成拜。公賦《嘉樂》。

晋人懼其無礼于公也、請改盟。公如晋、及晋侯盟。晋侯饗公、賦『菁菁者莪』。荘叔以公降拜、曰「小国受命于大国、敢不慎儀。君貺之以大礼、何楽如之。抑小国之楽、大国之恵也」。晋侯降辞。登成拜。公賦『嘉楽』。

◇文公四年

◇文公四年

【經】四年春,公至自晉。夏,逆婦姜於齊。狄侵齊。秋,楚人滅江。晉侯伐秦。衛侯使寧俞來聘。冬十有一月壬寅,夫人風氏薨。

【経】四年春、公至自晋。夏、逆婦姜于斉。狄侵斉。秋、楚人滅江。晋侯伐秦。衛侯使寧俞来聘。冬十有一月壬寅、夫人風氏薨。

【傳】四年春,晉人歸孔達於衛,以為衛之良也,故免之。

【伝】四年春、晋人帰孔達于衛、以為衛之良也、故免之。

夏,衛侯如晉拜。曹伯如晉,會正。

夏、衛侯如晋拜。曹伯如晋会正。

逆婦姜於齊,卿不行,非禮也。君子是以知出姜之不允於魯也。曰:“貴聘而賤逆之,君而卑之,立而廢之,棄信而壞其主,在國必亂,在家必亡。不允宜哉?《詩》曰:‘畏天之威,於時保之。’敬主之謂也。”

逆婦姜于斉、卿不行、非礼也。君子是以知出姜之不允于魯也。曰「貴聘而賤逆之、君而卑之、立而廢之、棄信而壊其主、在国必乱、在家必亡。不允宜哉?『詩』曰『畏天之威、于時保之』、敬主之謂也」。

秋,晉侯伐秦,圍刓、新城,以報王官之役。

秋、晋侯伐秦、囲刓・新城、以報王官之役。

楚人滅江,秦伯為之降服、出次、不舉、過數。大夫諫,公曰:“同盟滅,雖不能救,敢不矜乎!吾自懼也。”君子曰:“《詩》云:‘惟彼二國,其政不獲,惟此四國,爰究爰度。’其秦穆之謂矣。”

楚人滅江、秦伯為之降服・出次・不挙、過数也。大夫諫、公曰「同盟滅、雖不能救、敢不矜乎!吾自懼也」。君子曰「『詩』云『惟彼二国、其政不獲;惟此四国、爰究爰度』、其秦穆之謂矣」

衛甯武子來聘,公與之宴,為賦《湛露》及《彤弓》。不辭,又不答賦。使行人私焉。對曰:“臣以為肄業及之也。昔諸侯朝正於王,王宴樂之,於是乎賦《湛露》,則天子當陽,諸侯用命也。諸侯敵王所愾而獻其功,王於是乎賜之彤弓一,彤矢百,玈弓矢千,以覺報宴。今陪臣來繼舊好,君辱貺之,其敢幹大禮以自取戾。”

衛寧武子来聘、公与之宴、為賦『湛露』及『彤弓』。不辞、又不答賦。使行人私焉。對曰「臣以為肄業及之也。昔諸侯朝正于王、王宴楽之、于是乎賦『湛露』、則天子当陽、諸侯用命也。諸侯敵王所愾、而献其功、王于是乎賜之彤弓一・彤矢百・玈弓矢千、以覚報宴。今陪臣来継旧好、君辱貺之、其敢干大礼以自取戾」

冬,成風薨。

冬、成風薨。

◇文公五年

◇文公五年

【經】五年春王正月,王使榮叔歸含,且賵。三月辛亥,葬我小君成風。王使召伯來會葬。夏,公孫敖如晉。秦人入鄀。秋,楚人滅六。冬十月甲申,許男業卒。

【経】五年春、王正月、王使栄叔帰含且賵。三月辛亥、葬我小君成風。王使召伯来会葬。夏、公孫敖如晋。秦人入鄀。秋、楚人滅六。冬十月甲申、許男業卒。

【傳】五年春,王使榮叔來含且賵,召昭公來會葬,禮也。

【伝】五年春、王使栄叔来含且賵、召昭公来会葬、礼也。

初,鄀叛楚即秦,又貳於楚。夏,秦人入鄀。

初、鄀叛楚即秦、又貳于楚。夏、秦人入鄀。

六人叛楚即東夷。秋,楚成大心、仲歸帥師滅六。

六人叛楚即東夷。秋、楚成大心・仲帰帥師滅六。

冬,楚公子燮滅蓼,臧文仲聞六與蓼滅,曰:“皋陶庭堅不祀忽諸。德之不建,民之無援,哀哉!”晉陽處父聘於衛,反過寧,寧嬴從之,及溫而還。其妻問之,嬴曰;“以剛。

冬、楚公子燮滅蓼。臧文仲聞六与蓼滅、曰「皋陶・庭堅不祀忽諸。徳之不建、民之無援、哀哉!」晋陽處父聘于衛、反過寧、寧嬴従之、及温而還。其妻問之、嬴曰「以剛。

《商書》曰:‘沈漸剛克,高明柔克。’夫子壹之,其不沒乎。天為剛德,猶不幹時,況在人乎?且華而不實,怨之所聚也,犯而聚怨,不可以定身。餘懼不獲其利而離其難,是以去之。”

(寧嬴は続けて言う)『商書』曰『沈漸剛克、高明柔克』。夫子壹之、其不沒乎。天為剛徳、猶不干時、況在人乎?且華而不実、怨之所聚也。犯而聚怨、不可以定身。余懼不獲其利而離其難、是以去之」

晉趙成子,欒貞子、霍伯、臼季皆卒。

晋趙成子・欒貞子・霍伯・臼季皆卒。

◇文公六年

◇文公六年

【經】六年春,葬許僖公。夏,季孫行父如陳。秋,季孫行父如晉。八月乙亥,晉侯歡卒。冬十月,公子遂如晉。葬晉襄公。晉殺其大夫陽處父。晉狐射姑出奔狄。閏月不告月,猶朝於廟。

【経】六年春、葬許僖公。夏、季孫行父如陳。秋、季孫行父如晋。八月乙亥、晋侯驩卒。冬十月、公子遂如晋。葬晋襄公。晋殺其大夫陽處父。晋狐射姑出奔狄。閏月不告月、猶朝于廟。

【傳】六年春,晉蒐於夷,舍二軍。使狐射姑將中軍,趙盾佐之。陽處父至自溫,改蒐於董,易中軍。陽子,成季之屬也,故黨於趙氏,且謂趙盾能,曰:“使能,國之利也。”是以上之。宣子於是乎始為國政,制事典,正法罪。闢獄刑,董逋逃。由質要,治舊汙,本秩禮,續常職,出滯淹。既成,以授大傅陽子與大師賈佗,使行諸晉國,以為常法。

【伝】六年春、晋蒐于夷、舎二軍。使狐射姑将中軍、趙盾佐之。陽處父至自温、改蒐于董、易中軍。陽子、成季之属也、故党于趙氏、且謂趙盾能、曰「使能、国之利也」。是以上之。宣子于是乎始為国政、制事典、正法罪、辟獄刑、董逋逃、由質要、治旧洿、本秩礼、續常職、出滞淹。既成、以授大傅陽子与大師賈佗、使行諸晋国、以為常法。

臧文仲以陳、衛之睦也,欲求好於陳。夏,季文子聘於陳,且娶焉。

臧文仲以陳・衛之睦也、欲求好于陳。夏、季文子聘于陳、且娶焉。

秦伯任好卒。以子車氏之三子奄息、仲行、針虎為殉。皆秦之良也。國人哀之,為之賦《黃鳥》。君子曰:“秦穆之不為盟主也,宜哉。死而棄民。先王違世,猶詒之法,而況奪之善人乎!《詩》曰:‘人之雲亡,邦國殄瘁。’無善人之謂。若之何奪之?”古之王者知命之不長,是以並建聖哲,樹之風聲,分之採物,著之話言,為之律度,陳之藝極,引之表儀,予之法制,告之訓典,教之防利,委之常秩,道之禮則,使毋失其土宜,眾隸賴之,而後即命。聖王同之。

秦伯任好卒。以子車氏之三子奄息・仲行・鍼虎為殉、皆秦之良也。国人哀之、為之賦『黄鳥』。君子曰「秦穆之不為盟主也、宜哉。死而棄民。先王違世、猶詒之法、而況奪之善人乎!『詩』曰『人之云亡、邦国殄瘁』、無善人之謂。若之何奪之?」古之王者知命之不長、是以並建聖哲、樹之風声、分之采物、著之話言、為之律度、陳之藝極、引之表儀、予之法制、告之訓典、教之防利、委之常秩、道之礼則、使毋失其土宜、衆隷頼之、而後即命。聖王同之。

今縱無法以遺後嗣,而又收其良以死,難以在上矣。君子是以知秦之不復東征也。

(君子は続けて言う)今縦無法以遺後嗣、而又収其良以死、難以在上矣。君子是以知秦之不復東征也。

秋,季文子將聘於晉,使求遭喪之禮以行。其人曰:“將焉用之?”文子曰:“備豫不虞,古之善教也。求而無之,實難,過求何害?”八月乙亥,晉襄公卒。靈公少,晉人以難故,欲立長君。趙孟曰:“立公子雍。好善而長,先君愛之,且近於秦。秦,舊好也。置善則固,事長則順,立愛則孝,結舊則安。為難故,故欲立長君,有此四德者,難必抒矣。”賈季曰:“不如立公子樂。辰嬴嬖於二君,立其子,民必安之。”趙孟曰:“辰嬴賤,班在九人,其子何震之有?且為二嬖,淫也。為先君子,不能求大而出在小國,闢也。母淫子闢,無威。陳小而遠,無援。將何安焉?杜祁以君故,讓偪姞而上之,以狄故,讓季隗而己次之,故班在四。先君是以愛其子而仕諸秦,為亞卿焉。

秋、季文子将聘于晋、使求遭喪之礼以行。其人曰「将焉用之」。文子曰「備豫不虞、古之善教也。求而無之、実難、過求何害」八月乙亥、晋襄公卒。霊公少、晋人以難故、欲立長君。趙孟曰「立公子雍。好善而長、先君愛之、且近于秦。秦、旧好也。置善則固、事長則順、立愛則孝、結旧則安。為難故、故欲立長君、有此四徳者、難必抒矣」。賈季曰「不如立公子楽。辰嬴嬖于二君、立其子、民必安之」。趙孟曰「辰嬴賤、班在九人、其子何震之有?且為二嬖、淫也。為先君子、不能求大而出在小国、辟也。母淫子辟、無威。陳小而遠、無援、将何安焉?杜祁以君故、譲偪姞而上之、以狄故、譲季隗而己次之、故班在四。先君是以愛其子而仕諸秦、為亜卿焉。

秦大而近,足以為援,母義子愛,足以威民,立之不亦可乎?”使先蔑、士會如秦,逆公子雍。賈季亦使召公子樂於陳。趙孟使殺諸郫。賈季怨陽子之易其班也,而知其無援於晉也。九月,賈季使續鞫居殺陽處父。書曰:“晉殺其大夫。”侵官也。

(趙孟は続けて言う)秦大而近、足以為援、母義子愛、足以威民、立之不亦可乎」使先蔑・士会如秦、逆公子雍。賈季亦使召公子楽于陳。趙孟使殺諸郫。賈季怨陽子之易其班也、而知其無援于晋也。九月、賈季使續鞫居殺陽處父。書曰「晋殺其大夫」、侵官也。

冬十月,襄仲如晉。葬襄公。

冬十月、襄仲如晋。葬襄公。

十一月丙寅,晉殺續簡伯。賈季奔狄。宣子使臾駢送其帑。夷之蒐,賈季戮臾駢,臾駢之人慾盡殺賈氏以報焉。臾駢曰:“不可。吾聞《前志》有之曰:‘敵惠敵怨,不在後嗣’,忠之道也。夫子禮於賈季,我以其寵報私怨,無乃不可乎?介人之寵,非勇也。損怨益仇,非知也。以私害公,非忠也。釋此三者,何以事夫子?”盡具其帑,與其器用財賄,親帥扞之,送致諸竟。

十一月丙寅、晋殺續簡伯。賈季奔狄。宣子使臾駢送其帑。夷之蒐、賈季戮臾駢、臾駢之人欲尽殺賈氏以報焉。臾駢曰「不可。吾聞『前志』有之曰『敵恵敵怨、不在後嗣』、忠之道也。夫子礼于賈季、我以其寵報私怨、無乃不可乎?介人之寵、非勇也。損怨益仇、非知也。以私害公、非忠也。釈此三者、何以事夫子?」尽具其帑、与其器用財賄、親帥扞之、送致諸境。

閏月不告朔,非禮也。閏以正時,時以作事,事以厚生,生民之道,於是乎在矣。不告閏朔,棄時政也,何以為民?

閏月不告朔、非礼也。閏以正時、時以作事、事以厚生、生民之道于是乎在矣。不告閏朔、棄時政也、何以為民?

◇文公七年

◇文公七年

【經】七年春,公伐邾。三月甲戌,取須句。遂城郚。夏四月,宋公王臣卒。宋人殺其大夫。戊子,晉人及秦人戰於令狐。晉先蔑奔秦。狄侵我西鄙。秋八月,公會諸侯、晉大夫盟於扈。冬,徐伐莒。公孫敖如莒蒞盟。

【経】七年春、公伐邾。三月甲戌、取須句。遂城郚。夏四月、宋公王臣卒。宋人殺其大夫。戊子、晋人及秦人戦于令狐。晋先蔑奔秦。狄侵我西鄙。秋八月、公会諸侯・晋大夫、盟于扈。冬、徐伐莒。公孫敖如莒涖盟。

【傳】七年春,公伐邾。間晉難也。

【伝】七年春、公伐邾。間晋難也。

三月甲戌,取須句,置文公子焉,非禮也。

三月甲戌、取須句、寘文公子焉、非礼也。

夏四月,宋成公卒。於是公子成為右師,公孫友左師,樂豫為司馬,鱗矔為司徒,公子蕩為司城,華御事為司寇。

夏四月、宋成公卒。于是公子成為右師、公孫友為左師、楽豫為司馬、鱗矔為司徒、公子蕩為司城、華御事為司寇。

昭公將去群公子,樂豫曰:“不可。公族,公室之枝葉也,若去之則本根無所庇廕矣。葛藟猶能庇其本根,故君子以為比,況國君乎?此諺所謂庇焉而縱尋斧焉者也。必不可,君其圖之。親之以德,皆股肱也,誰敢攜貳?若之何去之?”不聽。穆、襄之族率國人以攻公,殺公孫固、公孫鄭於公宮。六卿和公室,樂豫舍司馬以讓公子卬,昭公即位而葬。書曰:“宋人殺其大夫。”不稱名,眾也,且言非其罪也。

昭公将去群公子、楽豫曰「不可。公族、公室之枝葉也、若去之、則本根無所庇陰矣。葛藟猶能庇其本根、故君子以為比、況国君乎?此諺所謂『庇焉而縦尋斧焉』者也。必不可、君其図之。親之以徳、皆股肱也、誰敢携貳?若之何去之」不聴。穆襄之族率国人以攻公、殺公孫固・公孫鄭于公宮。六卿和公室、楽豫舎司馬以譲公子卬、昭公即位而葬。書曰「宋人殺其大夫」、不称名、衆也、且言非其罪也。

秦康公送公子雍於晉,曰:“文公之入也無衛,故有呂、郤之難。”乃多與之徒衛。穆贏日抱大子以啼於朝,曰:“先君何罪?其嗣亦何罪?舍適嗣不立而外求君,將焉置此?”出朝,則抱以適趙氏,頓首於宣子曰:“先君奉此子也而屬諸子,曰:‘此子也才,吾受子之賜;不才,吾唯子之怨。’今君雖終,言猶在耳,而棄之,若何?”宣子與諸大夫皆患穆嬴,且畏逼,乃背先蔑而立靈公,以御秦師。箕鄭居守。趙盾將中軍,先克佐之。荀林父佐上軍。先蔑將下軍,先都佐之。步招御戎,戎津為右。及堇陰,宣子曰:“我若受秦,秦則賓也;不受,寇也。既不受矣,而復緩師,秦將生心。先人有奪人之心,軍之善謀也。逐寇如追逃,軍之善政也。”訓卒利兵,秣馬蓐食,潛師夜起。戊子,敗秦師於令狐,至於刳首。己丑,先蔑奔秦。士會從之。

秦康公送公子雍于晋、曰「文公之入也無衛、故有呂・郤之難」。乃多与之徒衛。穆嬴日抱大子以啼于朝、曰「先君何罪?其嗣亦何罪?舎適嗣不立而外求君、将焉寘此?」出朝、則抱以適趙氏、頓首于宣子曰「先君奉此子也而属諸子、曰『此子也才、吾受子之賜;不才、吾唯子之怨』。今君雖終、言猶在耳、而棄之、若何」宣子与諸大夫皆患穆嬴、且畏偪、乃背先蔑而立霊公、以御秦師。箕鄭居守。趙盾将中軍、先克佐之。荀林父佐上軍。先蔑将下軍、先都佐之。歩招御戎、戎津為右。及堇陰、宣子曰「我若受秦、秦則賓也;不受、寇也。既不受矣、而復緩師、秦将生心。先人有奪人之心、軍之善謀也。逐寇如追逃、軍之善政也」。訓卒利兵、秣馬蓐食、潜師夜起。戊子、敗秦師于令狐、至于刳首。己丑、先蔑奔秦。士会従之。

先蔑之使也,荀林父止之,曰:“夫人、大子猶在,而外求君,此必不行。

先蔑之使也、荀林父止之、曰「夫人大子猶在、而外求君、此必不行。

子以疾辭,若何?不然,將及。攝卿以往可也,何必子?同官為寮,吾嘗同寮,敢不盡心乎!”弗聽。為賦《板》之三章。又弗聽。及亡,荀伯盡送其帑及其器用財賄於秦,曰:“為同寮故也。”

(荀林父は続けて言う)子以疾辞、若何?不然、将及。攝卿以往可也、何必子?同官為寮、吾嘗同寮、敢不尽心乎」弗聴。為賦『板』之三章。又弗聴。及亡、荀伯尽送其帑及其器用財賄于秦、曰「為同寮故也」

士會在秦三年,不見士伯。其人曰:“能亡人於國,不能見於此,焉用之?”士季曰:“吾與之同罪,非義之也,將何見焉?”及歸,遂不見。

士会在秦三年、不見士伯。其人曰「能亡人于国、不能見于此、焉用之」士季曰「吾与之同罪、非義之也、将何見焉」及帰、遂不見。

狄侵我西鄙,公使告於晉。趙宣子使因賈季問酆舒,且讓之。酆舒問於賈季曰:“趙衰、趙盾孰賢?”對曰:“趙衰,冬日之日也。趙盾,夏日之日也。”

狄侵我西鄙、公使告于晋。趙宣子使因賈季問酆舒、且責之。酆舒問于賈季曰「趙衰・趙盾孰賢」對曰「趙衰、冬日之日也。趙盾、夏日之日也」

秋八月,齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、許男、曹伯會晉趙盾盟於扈,晉侯立故也。公後至,故不書所會。凡會諸侯,不書所會,後也。後至,不書其國,闢不敏也。

秋八月、斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・許男・曹伯会晋趙盾、盟于扈、晋侯立故也。公後至、故不書所会。凡会諸侯、不書所会、後也。後至不書其国、辟不敏也。

穆伯娶於莒,曰戴己,生文伯,其娣聲己生惠叔。戴己卒,又聘於莒,莒人以聲己辭,則為襄仲聘焉。

穆伯娶于莒、曰戴己、生文伯、其娣声己生恵叔。戴己卒、又聘于莒、莒人以声己辞、則為襄仲聘焉。

冬,徐伐莒。莒人來請盟。穆伯如莒蒞盟,且為仲逆。及鄢陵。登城見之,美,自為娶之。仲請攻之,公將許之。叔仲惠伯諫曰:“臣聞之,兵作於內為亂,於外為寇,寇猶及人,亂自及也。今臣作亂而君不禁,以啟寇仇,若之何?”公止之,惠伯成之。使仲舍之,公孫敖反之,復為兄弟如初。從之。

冬、徐伐莒。莒人来請盟。穆伯如莒涖盟、且為仲逆。及鄢陵、登城見之、美、自為娶之。仲請攻之、公将許之。叔仲恵伯諫曰「臣聞之:兵作于内為乱、于外為寇。寇猶及人、乱自及也。今臣作乱而君不禁、以啓寇讐、若之何」公止之、恵伯成之。使仲舎之、公孫敖反之、復為兄弟如初。従之。

晉郤缺言於趙宣子曰:“日衛不睦,故取其地,今已睦矣,可以歸之。叛而不討,何以示威?服而不柔,何以示懷?非威非懷,何以示德?無德,何以主盟?子為正卿,以主諸侯,而不務德,將若之何?《夏書》曰:‘戒之用休,董之用威,勸之以《九歌》,勿使壞。’九功之德皆可歌也,謂之九歌。六府、三事,謂之九功。水、火、金、木、土、谷,謂之六府。正德、利用、厚生,謂之三事。

晋郤缺言于趙宣子曰「日衛不睦、故取其地、今已睦矣、可以帰之。叛而不討、何以示威?服而不柔、何以示懐?非威非懐、何以示徳?無徳、何以主盟?子為正卿、以主諸侯、而不務徳、将若之何?『夏書』曰『戒之用休、董之用威、勧之以九歌、勿使壊』。九功之徳皆可歌也、謂之九歌。六府・三事、謂之九功。水・火・金・木・土・穀、謂之六府。正徳・利用・厚生、謂之三事。

義而行之,謂之德、禮。無禮不樂,所由叛也。若吾子之德莫可歌也,其誰來之?盍使睦者歌吾子乎?”宣子說之。

(郤缺は続けて言う)義而行之、謂之徳・礼。無礼不楽、所由叛也。若吾子之徳莫可歌也、其誰来之?盍使睦者歌吾子乎」宣子説之。

◇文公八年

◇文公八年

【經】八年春王正月。夏四月。秋八月戊申,天王崩。冬十月壬午,公子遂會晉趙盾盟于衡雍。乙酉,公子遂會洛戎盟於暴。公孫敖如京師,不至而復。丙戌,奔莒。螽。宋人殺其大夫司馬。宋司城來奔。

【経】八年春、王正月。夏四月。秋八月戊申、天王崩。冬十月壬午、公子遂会晋趙盾、盟于衡雍。乙酉、公子遂会雒戎、盟于暴。公孫敖如京師、不至而復。丙戌、奔莒。螽。宋人殺其大夫司馬。宋司城来奔。

【傳】八年春,晉侯使解揚歸匡、戚之田於衛,且復致公婿池之封,自申至於虎牢之竟。

【伝】八年春、晋侯使解揚帰匡・戚之田于衛、且復致公壻池之封、自申至于虎牢之境。

夏,秦人伐晉,取武城,以報令狐之役。

夏、秦人伐晋、取武城、以報令狐之役。

秋,襄王崩。

秋、襄王崩。

晉人以扈之盟來討。冬,襄仲會晉趙孟,盟于衡雍,報扈之盟也,遂會伊洛之戎。書曰“公子遂”,珍之也。

晋人以扈之盟来討。冬、襄仲会晋趙孟、盟于衡雍、報扈之盟也、遂会伊雒之戎。書曰「公子遂」、珍之也。

穆伯如周弔喪,不至,以幣奔莒,從己氏焉。

穆伯如周弔喪、不至、以幣奔莒、従己氏焉。

宋襄夫人,襄王之姊也,昭公不禮焉。夫人因戴氏之族,以殺襄公之孫孔叔、公孫鍾離及大司馬公子卬,皆昭公之黨也。司馬握節以死,故書以官。司城蕩意諸來奔,效節於府人而出。公以其官逆之,皆復之,亦書以官,皆貴之也。

宋襄夫人、襄王之姊也、昭公不礼焉。夫人因戴氏之族、以殺襄之孫孔叔・公孫鍾離及大司馬公子卬、皆昭之党也。司馬握節以死、故書以官。司城蕩意諸来奔、效節于府人而出。公以其官逆之、皆復之、亦書以官、皆貴之也。

夷之蒐,晉侯將登箕鄭父、先都,而使士縠、梁益耳將中軍。先克曰:“狐、趙之勳,不可廢也。”從之。先克奪蒯得田於堇陰。故箕鄭父、先都、士縠、梁益耳、蒯得作亂。

夷之蒐、晋侯将登箕鄭父・先都、而使士縠・梁益耳将中軍。先克曰「狐・趙之勲、不可廃也」。従之。先克奪蒯得田于堇陰。故箕鄭父・先都・士縠・梁益耳・蒯得作乱。

◇文公九年

◇文公九年

【經】九年春,毛伯來求金。夫人姜氏如齊。二月,叔孫得臣如京師。辛丑,葬襄王。晉人殺其大夫先都。三月,夫人姜氏至自齊。晉人殺其大夫士縠及箕鄭父。楚人伐鄭。公子遂會晉人、宋人、衛人、許人救鄭。夏,狄侵齊。秋八月,曹伯襄卒。九月癸西,地震。冬,楚子使椒來聘。秦人來歸僖公、成風之襚。

【経】九年春、毛伯来求金。夫人姜氏如斉。二月、叔孫得臣如京師。辛丑、葬襄王。晋人殺其大夫先都。三月、夫人姜氏至自斉。晋人殺其大夫士縠及箕鄭父。楚人伐鄭。公子遂会晋人・宋人・衛人・許人救鄭。夏、狄侵斉。秋八月、曹伯襄卒。九月癸酉、地震。底本「癸西」はすなわち癸酉。冬、楚子使椒来聘。秦人来帰僖公・成風之襚。

葬曹共公。

葬曹共公。

【傳】九年春,王正月己酉,使賊殺先克。乙丑,晉人殺先都,梁益耳。

【伝】九年春、王正月己酉、使賊殺先克。乙丑、晋人殺先都・梁益耳。

毛伯衛來求金,非禮也。不書王命,未葬也。

毛伯衛来求金、非礼也。不書王命、未葬也。

二月,莊叔如周。葬襄王。

二月、荘叔如周。葬襄王。

三月甲戌,晉人殺箕鄭父、士縠、蒯得。

三月甲戌、晋人殺箕鄭父・士縠・蒯得。

範山言於楚子曰:“晉君少,不在諸侯,北方可圖也。”楚子師於狼淵以伐鄭。囚公子堅、公子龍及樂耳。鄭及楚平。公子遂會晉趙盾、宋華耦、衛孔達、許大夫救鄭,不及楚師。卿不書,緩也,以懲不恪。

范山言于楚子曰「晋君少、不在諸侯、北方可図也」。楚子師于狼淵以伐鄭。囚公子堅・公子尨及楽耳。鄭及楚平。公子遂会晋趙盾・宋華耦・衛孔達・許大夫救鄭、不及楚師。卿不書、緩也、以懲不恪。

夏,楚侵陳,克壺丘,以其服於晉也。

夏、楚侵陳、克壺丘、以其服于晋也。

秋,楚公子朱自東夷伐陳,陳人敗之,獲公子伐。陳懼,乃及楚平。

秋、楚公子朱自東夷伐陳、陳人敗之、獲公子茷。陳懼、乃及楚平。

冬,楚子越椒來聘,執幣傲。叔仲惠伯曰:“是必滅若敖氏之宗。傲其先君,神弗福也。”

冬、楚子越椒来聘、執幣傲。叔仲恵伯曰「是必滅若敖氏之宗。傲其先君、神弗福也」

秦人來歸僖公、成風之襚,禮也。諸侯相吊賀也,雖不當事,苟有禮焉,書也,以無忘舊好。

秦人来帰僖公・成風之襚、礼也。諸侯相弔賀也、雖不当事、苟有礼焉、書也、以無忘旧好。

◇文公十年

◇文公十年

【經】十年春王三月辛卯,臧孫辰卒。夏,秦伐晉。楚殺其大夫宜申。自正月不雨,至於秋七月。及蘇子盟於女栗。冬,狄侵宋。楚子、蔡侯次於厥貉。

【経】十年春、王三月辛卯、臧孫辰卒。夏、秦伐晋。楚殺其大夫宜申。自正月不雨、至于秋七月。及蘇子盟于女栗。冬、狄侵宋。楚子・蔡侯次于厥貉。

【傳】十年春,晉人伐秦,取少梁。

【伝】十年春、晋人伐秦、取少梁。

夏,秦伯伐晉,取北征。

夏、秦伯伐晋、取北徴。

初,楚範巫矞似謂成王與子玉、子西曰:“三君皆將強死。”城濮之役,王思之,故使止子玉曰:“毋死。”不及。止子西,子西縊而縣絕,王使適至,遂止之,使為商公。沿漢溯江,將入郢。王在渚宮,下,見之。懼而辭曰:“臣免於死,又有讒言,謂臣將逃,臣歸死於司敗也。”王使為工尹,又與子家謀弒穆王。穆王聞之。五月殺鬥宜申及仲歸。

初、楚范巫矞似謂成王与子玉・子西曰「三君皆将強死」。城濮之役、王思之、故使止子玉曰「毋死」。不及。止子西、子西縊而県絶、王使適至、遂止之、使為商公。沿漢泝江、将入郢。王在渚宮、下見之。懼、辞曰「臣免于死、又有讒言、謂臣将逃、臣帰死于司敗也」。王使為工尹、又与子家謀弒穆王。穆王聞之、五月殺鬬宜申及仲帰。

秋七月,及蘇子盟於女栗,頃王立故也。

秋七月、及蘇子盟于女栗、頃王立故也。

陳侯、鄭伯會楚子於息。冬,遂及蔡侯次於厥貉。將以伐宋。宋華御事曰:“楚欲弱我也。先為之弱乎,何必使誘我?我實不能,民何罪?”乃逆楚子,勞,且聽命。遂道以田孟諸。宋公為右盂,鄭伯為左盂。期思公復遂為右司馬,子朱及文之無畏為左司馬。命夙駕載燧,宋公違命,無畏抶其僕以徇。

陳侯・鄭伯会楚子于息。冬、遂及蔡侯次于厥貉。将以伐宋。宋華御事曰「楚欲弱我也。先為之弱乎、何必使誘我?我実不能、民何罪」乃逆楚子、労且聴命。遂道以田孟諸。宋公為右盂、鄭伯為左盂。期思公復遂為右司馬、子朱及文之無畏為左司馬。命夙駕載燧、宋公違命、無畏抶其僕以徇。

或謂子舟曰:“國君不可戮也。”子舟曰:“當官而行,何強之有?《詩》曰:‘剛亦不吐,柔亦不茹。’‘毋從詭隨,以謹罔極。’是亦非闢強也,敢愛死以亂官乎!”厥貉之會,麇子逃歸。

或謂子舟曰「国君不可戮也」。子舟曰「当官而行、何強之有?『詩』曰『剛亦不吐、柔亦不茹』。『毋従詭随、以謹罔極』。是亦非辟強也、敢愛死以乱官乎!」厥貉之会、麇子逃帰。

◇文公十一年

◇文公十一年

【經】十有一年春,楚子伐麋。夏,叔仲彭生會晉郤缺於承筐。秋,曹伯來朝。公子遂如宋。狄侵齊。冬十月甲午,叔孫得臣敗狄於鹹。

【経】十有一年春、楚子伐麇。夏、叔仲彭生会晋郤缺于承筐。秋、曹伯来朝。公子遂如宋。狄侵斉。冬十月甲午、叔孫得臣敗狄于咸。

【傳】十一年春,楚子伐麇,成大心敗麇師於防渚。潘崇復伐麇,至於錫穴。

【伝】十有一年春、楚子伐麇、成大心敗麇師于防渚。潘崇復伐麇、至于錫穴。

夏,叔仲惠伯會晉郤缺於承筐,謀諸侯之從於楚者。

夏、叔仲恵伯会晋郤缺于承筐、謀諸侯之従于楚者。

秋,曹文公來朝,即位而來見也。

秋、曹文公来朝、即位而来見也。

襄仲聘於宋,且言司城蕩意諸而復之,因賀楚師之不害也。

襄仲聘于宋、且言司城蕩意諸而復之、因賀楚師之不害也。

鄋瞞侵齊。遂伐我。公卜使叔孫得臣追之,吉。侯叔夏御莊叔,綿房甥為右,富父終甥駟乘。冬十月甲午,敗狄於鹹,獲長狄僑如。富父終甥摏其喉以戈,殺之,埋其首於子駒之門,以命宣伯。

鄋瞞侵斉、遂伐我。公卜使叔孫得臣追之、吉。侯叔夏御荘叔、綿房甥為右、富父終甥駟乗。冬十月甲午、敗狄于咸、獲長狄僑如。富父終甥摏其喉以戈、殺之、埋其首于子駒之門、以命宣伯。

初,宋武公之世,鄋瞞伐宋,司徒皇父帥師御之,耏班御皇父充石,公子谷甥為右,司寇牛父駟乘,以敗狄於長丘,獲長狄緣斯,皇父之二子死焉。宋公於是以門賞耏班,使食其徵,謂之耏門。晉之滅潞也,獲僑如之弟焚如。

初、宋武公之世、鄋瞞伐宋、司徒皇父帥師御之、耏班御皇父充石、公子穀甥為右、司寇牛父駟乗、以敗狄于長丘、獲長狄縁斯、皇父之二子死焉。宋公于是以門賞耏班而食其征、謂之耏門。晋之滅潞也、獲僑如之弟焚如。

齊襄公之二年,鄋瞞伐齊,齊王子成父獲其弟榮如,埋其首於周首之北門。衛人獲其季簡如,鄋瞞由是遂亡。

斉襄公之二年、鄋瞞伐斉、斉王子成父獲其弟栄如、埋其首于周首之北門。衛人獲其季弟簡如、鄋瞞由是遂亡。

郕大子朱儒自安於夫鍾,國人弗徇。

郕大子朱儒自安于夫鍾、国人弗徇。

◇文公十二年

◇文公十二年

【經】十有二年春王正月,郕伯來奔。杞伯來朝。二月庚子,子叔姬卒。

【経】十有二年春、王正月、郕伯来奔。杞伯来朝。二月庚子、子叔姫卒。

夏,楚人圍巢。秋,滕子來朝。秦伯使術來聘。冬十有二戊午,晉人、秦人戰於河曲。季孫行父帥師城諸及鄆。

夏、楚人囲巢。秋、滕子来朝。秦伯使術来聘。冬十有二月戊午、晋人・秦人戦于河曲。底本「十有二」の下は「月」脱す。季孫行父帥師城諸及鄆。

【傳】十二年春,郕伯卒,郕人立君。大子以夫鍾與郕邽來奔。公以諸侯逆之,非禮也。故書曰:“郕伯來奔。”不書地,尊諸侯也。

【伝】十有二年春、郕伯卒、郕人立君。大子以夫鍾与郕邦来奔。公以諸侯逆之、非礼也。故書曰「郕伯来奔」。不書地、尊諸侯也。

杞桓公來朝,始朝公也。且請絕叔姬而無絕昏,公許之。

杞桓公来朝、始朝公也。且請絶叔姫而無絶昏、公許之。

二月,叔姬卒,不言杞,絕也。書叔姬,言非女也。

二月、叔姫卒、不言杞、絶也。書叔姫、言非女也。

楚令尹大孫伯卒,成嘉為令尹。群舒叛楚。夏,子孔執舒子平及宗子,遂圍巢。

楚令尹大孫伯卒、成嘉為令尹。群舒叛楚。夏、子孔執舒子平及宗子、遂囲巢。

秋,滕昭公來朝,亦始朝公也。

秋、滕昭公来朝、亦始朝公也。

秦伯使西乞術來聘,且言將伐晉。襄仲辭玉曰:“君不忘先君之好,照臨魯國,鎮撫其社稷,重之以大器,寡君敢辭玉。”對曰:“不腆敝器,不足辭也。”

秦伯使西乞術来聘、且言将伐晋。襄仲辞玉曰「君不忘先君之好、照臨魯国、鎮撫其社稷、重之以大器、寡君敢辞玉」。對曰「不腆敝器、不足辞也」

主人三辭。賓客曰:“寡君願徼福於周公、魯公以事君,不腆先君之敝器,使下臣致諸執事以為瑞節,要結好命,所以藉寡君之命,結二國之好,是以敢致之。”

主人三辞。賓曰「寡君願徼福于周公・魯公以事君、不腆先君之敝器、使下臣致諸執事以為瑞節、要結好命、所以藉寡君之命、結二国之好、是以敢致之」

襄仲曰:“不有君子,其能國乎?國無陋矣。”厚賄之。

襄仲曰「不有君子、其能国乎?国無陋矣」厚賄之。

秦為令狐之役故,冬,秦伯伐晉,取羈馬。晉人御之。趙盾將中軍,荀林父佐之。郤缺將上軍,臾駢佐之。欒盾將下軍,胥甲佐之。範無恤御戎,以從秦師於河曲。臾駢曰:“秦不能久,請深壘固軍以待之。”從之。

秦為令狐之役故、冬、秦伯伐晋、取羈馬。晋人御之。趙盾将中軍、荀林父佐之。郤缺将上軍、臾駢佐之。欒盾将下軍、胥甲佐之。范無恤御戎、以従秦師于河曲。臾駢曰「秦不能久、請深壘固軍以待之」。従之。

秦人慾戰,秦伯謂士會曰:“若何而戰?”對曰:“趙氏新出其屬曰臾駢,必實為此謀,將以老我師也。趙有側室曰穿,晉君之婿也,有寵而弱,不在軍事,好勇而狂,且惡臾駢之佐上軍也,若使輕者肆焉,其可。”秦伯以璧祈戰於河。

秦人欲戦、秦伯謂士会曰「若何而戦」對曰「趙氏新出其属曰臾駢、必実為此謀、将以老我師也。趙有側室曰穿、晋君之壻也、有寵而弱、不在軍事、好勇而狂、且悪臾駢之佐上軍也。若使軽者肆焉、其可」秦伯以璧祈戦于河。

十二月戊午,秦軍掩晉上軍,趙穿追之,不及。反,怒曰:“裹糧坐甲,固敵是求,敵至不擊,將何俟焉?”軍吏曰:“將有待也。”穿曰:“我不知謀,將獨出。”乃以其屬出。宣子曰:“秦獲穿也,獲一卿矣。秦以勝歸,我何以報?”乃皆出戰,交綏。秦行人夜戒晉師曰:“兩君之士皆未憖也,明日請相見也。”

十有二月戊午、秦軍掩晋上軍、趙穿追之、不及。反、怒曰「裹粮坐甲、固敵是求、敵至不撃、将何俟焉」軍吏曰「将有待也」穿曰「我不知謀、将独出」乃以其属出。宣子曰「秦獲穿也、獲一卿矣。秦以勝帰、我何以報」乃皆出戦、交綏。秦行人夜戒晋師曰「両君之士皆未慭也、来日請相見」

臾駢曰:“使者目動而言肆,懼我也,將遁矣。薄諸河,必敗之。”胥甲、趙穿當軍門呼曰:“死傷未收而棄之,不惠也;不待期而薄人於險,無勇也。”乃止。

臾駢曰「使者目動而言肆、懼我也、将遁矣。薄諸河、必敗之」胥甲・趙穿当軍門呼曰「死傷未収而棄之、不恵也。不待期而薄人于険、無勇也」乃止。

秦師夜遁。復侵晉,入瑕。

秦師夜遁。復侵晋、入瑕。

城諸及鄆,書,時也。

城諸及鄆、書、時也。

◇文公十三年

◇文公十三年

【經】十有三春王正月。夏五月壬午,陳侯朔卒。邾子蘧蒢卒。自正月不雨,至於秋七月。大室屋壞。冬,公如晉。衛侯會公於沓。狄侵衛。十有二月己丑,公及晉侯盟。公還自晉,鄭伯會公於棐。

【経】十有三年春、王正月。夏五月壬午、陳侯朔卒。邾子蘧蒢卒。自正月不雨、至于秋七月。大室屋壊。冬、公如晋。衛侯会公于沓。狄侵衛。十有二月己丑、公及晋侯盟。公還自晋、鄭伯会公于棐。

【傳】十三年春,晉侯使詹嘉處瑕,以守桃林之塞。

【伝】十有三年春、晋侯使詹嘉處瑕、以守桃林之塞。

晉人患秦之用士會也,夏,六卿相見於諸浮,趙宣子曰;“隨會在秦,賈季在狄,難日至矣,若之何?”中行桓子曰:“請復賈季,能外事,且由舊勳。”

晋人患秦之用士会也、夏、六卿相見于諸浮。趙宣子曰「随会在秦、賈季在狄、難日至矣、若之何」中行桓子曰「請復賈季、能外事、且由旧勲」

郤成子曰:“賈季亂,且罪大,不如隨會,能賤而有恥,柔而不犯,其知足使也,且無罪。”

郤成子曰「賈季乱、且罪大、不如随会、能賤而有恥、柔而不犯、其知足使也、且無罪」

乃使魏壽餘偽以魏叛者以誘士會,執其帑於晉,使夜逸。請自歸於秦,秦伯許之。履士會之足於朝。秦伯師於河西,魏人在東。壽餘曰:“請東人之能與夫二三有司言者,吾與之先。”使士會。士會辭曰:“晉人,虎狼也,若背其言,臣死,妻子為戮,無益於君,不可悔也。”秦伯曰:“若背其言,所不歸爾帑者,有如河。”乃行。繞朝贈之以策,曰:“子無謂秦無人,吾謀適不用也。”既濟,魏人噪而還。秦人歸其帑。其處者為劉氏。

乃使魏寿余偽以魏叛者以誘士会、執其帑于晋、使夜逸。請自帰于秦、秦伯許之。履士会之足于朝。秦伯師于河西、魏人在東。寿余曰「請東人之能与夫二三有司言者、吾与之先」使士会。士会辞曰「晋人、虎狼也、若背其言、臣死、妻子為戮、無益于君、不可悔也」秦伯曰「若背其言、所不帰爾帑者、有如河」乃行。繞朝贈之以策、曰「子無謂秦無人、吾謀適不用也」既済、魏人噪而還。秦人帰其帑。其處者為劉氏。

邾文公卜遷於繹。史曰:“利於民而不利於君。”邾子曰:“苟利於民,孤之利也。天生民而樹之君,以利之也。民既利矣,孤必與焉。”左右曰:“命可長也,君何弗為?”邾子曰:“命在養民。死之短長,時也。民苟利矣,遷也,吉莫如之!”遂遷於繹。

邾文公卜遷于繹。史曰「利于民而不利于君」邾子曰「苟利于民、孤之利也。天生民而樹之君、以利之也。民既利矣、孤必与焉」左右曰「命可長也、君何弗為」邾子曰「命在養民。死之短長、時也。民苟利矣、遷也、吉莫如之」遂遷于繹。

五月,邾文公卒。君子曰:“知命。”

五月、邾文公卒。君子曰「知命」

秋七月,大室之屋壞,書,不共也。

秋七月、大室之屋壊、書、不共也。

冬,公如晉,朝,且尋盟。衛侯會公於沓,請平於晉。公還,鄭伯會公於棐,亦請平於晉。公皆成之。鄭伯與公宴於棐。子家賦《鴻雁》。季文子曰:“寡君未免於此。”文子賦《四月》。子家賦《載馳》之四章。文子賦《采薇》之四章。

冬、公如晋朝、且尋盟。衛侯会公于沓、請平于晋。公還、鄭伯会公于棐、亦請平于晋。公皆成之。鄭伯与公宴于棐。子家賦『鴻雁』。季文子曰「寡君未免于此」文子賦『四月』。子家賦『載馳』之四章。文子賦『采薇』之四章。

鄭伯拜。公答拜。

鄭伯拜。公答拜。

◇文公十四年

◇文公十四年

【經】十有四年春王正月,公至自晉。邾人伐我南鄙,叔彭生帥師伐邾。夏五月乙亥,齊侯潘卒。六月,公會宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯、晉趙盾。癸酉,同盟於新城。秋七月,有星孛入於北斗。公至自會。晉人納捷菑於邾。

【経】十有四年春、王正月、公至自晋。邾人伐我南鄙、叔彭生帥師伐邾。夏五月乙亥、斉侯潘卒。六月、公会宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯・晋趙盾。癸酉、同盟于新城。秋七月、有星孛入于北斗。公至自会。晋人納捷菑于邾。

弗克納。九月甲申,公孫敖卒於齊。齊公子商人弒其君舍。宋子哀來奔。冬,單伯如齊。齊人執單伯。齊人執子叔姬。

弗克納。九月甲申、公孫敖卒于斉。斉公子商人弒其君舎。宋子哀来奔。冬、単伯如斉。斉人執単伯。斉人執子叔姫。

【傳】十四年春,頃王崩。周公閱與王孫蘇爭政,故不赴。凡崩、薨,不赴,則不書。禍、福,不告亦不書,懲不敬也。

【伝】十四年春、頃王崩。周公閲与王孫蘇争政、故不赴。凡崩薨、不赴則不書。禍福、不告亦不書、懲不敬也。

邾文公之卒也,公使吊焉,不敬。邾人來討,伐我南鄙,故惠伯伐邾。

邾文公之卒也、公使弔焉、不敬。邾人来討、伐我南鄙、故恵伯伐邾。

子叔姬妃齊昭公,生舍。叔姬無寵,舍無威。公子商人驟施於國,而多聚士,盡其家,貸於公,有司以繼之。夏五月,昭公卒,舍即位。

子叔姫妃斉昭公、生舎。叔姫無寵、舎無威。公子商人驟施于国、而多聚士、尽其家、貸于公有司以継之。夏五月、昭公卒、舎即位。

邾文公元妃齊姜生定公,二妃晉姬生捷菑。文公卒,邾人立定公,捷菑奔晉。

邾文公元妃斉姜生定公、二妃晋姫生捷菑。文公卒、邾人立定公、捷菑奔晋。

六月,同盟於新城,從於楚者服,且謀邾也。

六月、同盟于新城、従于楚者服、且謀邾也。

秋七月乙卯夜,齊商人弒舍而讓元。元曰:“爾求之久矣。我能事爾,爾不可使多蓄憾。將免我乎?爾為之!”有星孛入於北斗,周內史叔服曰:“不出七年,宋、齊、晉之君皆將死亂。”

秋七月乙卯夜、斉商人弒舎而譲元。元曰「爾求之久矣。我能事爾、爾不可使多蓄憾。将免我乎?爾為之」有星孛入于北斗、周内史叔服曰「不出七年、宋・斉・晋之君皆将死乱」

晉趙盾以諸侯之師八百乘納捷菑於邾。邾人辭曰:“齊出玃且長。”宣子曰:“辭順而弗從,不祥。”乃還。

晋趙盾以諸侯之師八百乗納捷菑于邾。邾人辞曰「斉出玃且長」宣子曰「辞順而弗従、不祥」乃還。

周公將與王孫蘇訟於晉,王叛王孫蘇,而使尹氏與聃啟訟周公於晉。趙宣子平王室而復之。

周公将与王孫蘇訟于晋、王叛王孫蘇、而使尹氏与聃啓訟周公于晋。趙宣子平王室而復之。

楚莊王立,子孔、潘崇將襲群舒,使公子燮與子儀守而伐舒蓼。二子作亂,城郢而使賊殺子孔,不克而還。八月,二子以楚子出,將如商密。廬戢梨及叔麋誘之,遂殺鬥克及公子燮。

楚荘王立、子孔・潘崇将襲群舒、使公子燮与子儀守而伐舒蓼。二子作乱、城郢而使賊殺子孔、不克而還。八月、二子以楚子出、将如商密。廬戢梨及叔麋誘之、遂殺鬬克及公子燮。

初,鬥克囚於秦,秦有殽之敗,而使歸求成,成而不得志。公子燮求令尹而不得。故二子作亂。

初、鬬克囚于秦、秦有殽之敗、使帰求成、成而不得志。公子燮求令尹而不得。故二子作乱。

穆伯之從己氏也,魯人立文伯。穆伯生二子於莒而求復,文伯以為請。襄仲使無朝。聽命,復而不出,二年而盡室以復適莒。文伯疾而請曰:“谷之子弱,請立難也。”許之。文伯卒,立惠叔。穆伯請重賂以求復,惠叔以為請,許之。

穆伯之従己氏也、魯人立文伯。穆伯生二子于莒而求復、文伯以為請。襄仲使無朝聴命。復而不出、三年而尽室以復適莒。文伯疾、而請曰「穀之子弱、請立難也」許之。文伯卒、立恵叔。穆伯請重賂以求復、恵叔以為請、許之。

將來,九月卒於齊,告喪,請葬,弗許。

将来、九月卒于斉。告喪、請葬、弗許。

宋高哀為蕭封人,以為卿,不義宋公而出,遂來奔。書曰:“宋子哀來奔。”

宋高哀為蕭封人、以為卿、不義宋公而出、遂来奔。書曰「宋子哀来奔」。

貴之也。

貴之也。

齊人定懿公,使來告難,故書以九月。齊公子元不順懿公之為政也,終不曰“公”,曰“夫己氏”。

斉人定懿公、使来告難、故書以九月。斉公子元不服懿公之為政也、終不曰「公」、曰「夫己氏」。

襄仲使告於王,請以王寵求昭姬於齊。曰:“殺其子,焉用其母?請受而罪之。”

襄仲使告于王、請以王寵求昭姫于斉。曰「殺其子、焉用其母?請受而罪之」

冬,單伯如齊,請子叔姬,齊人執之。又執子叔姬。

冬、単伯如斉、請子叔姫、斉人執之。又執子叔姫。

◇文公十五年

◇文公十五年

【經】十有五年春,季孫行父如晉。三月,宋司馬華孫來盟。夏,曹伯來朝。

【経】十有五年春、季孫行父如晋。三月、宋司馬華孫来盟。夏、曹伯来朝。

齊人歸公孫敖之喪。六月辛丑朔,日有食之。鼓,用牲於社。單伯至自齊。晉郤缺帥師伐蔡。戊申,入蔡。齊人侵我西鄙。季孫行父如晉。冬十有一月,諸侯盟於扈。十有二月,齊人來歸子叔姬。齊侯侵我西鄙,遂伐曹,入其郛。

斉人帰公孫敖之喪。六月辛丑朔、日有食之。鼓、用牲于社。単伯至自斉。晋郤缺帥師伐蔡。戊申、入蔡。斉人侵我西鄙。季孫行父如晋。冬十有一月、諸侯盟于扈。十有二月、斉人来帰子叔姫。斉侯侵我西鄙、遂伐曹、入其郛。

【傳】十五年春,季文子如晉,為單伯與子叔姬故也。

【伝】十五年春、季文子如晋、為単伯与子叔姫故也。

三月,宋華耦來盟,其官皆從之。書曰“宋司馬華孫”,貴之也。

三月、宋華耦来盟、其官皆従之。書曰「宋司馬華孫」、貴之也。

公與之宴,辭曰:“君之先臣督,得罪於宋殤公,名在諸侯之策。臣承其祀,其敢辱君,請承命於亞旅。”魯人以為敏。

公与之宴、辞曰「君之先臣督、得罪于宋殤公、名在諸侯之策。臣承其祀、其敢辱君、請承命于亜旅」。魯人以為敏。

夏,曹伯來朝,禮也。諸侯五年再相朝,以修王命,古之制也。

夏、曹伯来朝、礼也。諸侯五年再相朝、以脩王命、古之制也。

齊人或為孟氏謀,曰:“魯,爾親也。飾棺置諸堂阜,魯必取之。”從之。

斉人或為孟氏謀、曰「魯、爾親也。飾棺寘諸堂阜、魯必取之」。従之。

卞人以告。惠叔猶毀以為請,立於朝以待命。許之,取而殯之。齊人送之。書曰:“齊人歸公孫敖之喪。”為孟氏,且國故也。葬視共仲。

卞人以告。恵叔猶毀以為請、立于朝以待命。許之、取而殯之。斉人送之。書曰「斉人帰公孫敖之喪」、為孟氏、且国故也。葬視共仲。

聲己不視,帷堂而哭。襄仲欲勿哭,惠伯曰:“喪,親之終也。雖不能始,善終可也。史佚有言曰:‘兄弟致美。’救乏、賀善、吊災、祭敬、喪哀,情雖不同,毋絕其愛,親之道也。子無失道,何怨於人?”襄仲說,帥兄弟以哭之。

声己不視、帷堂而哭。襄仲欲勿哭、恵伯曰「喪、親之終也。雖不能始、善終可也。史佚有言曰『兄弟致美』。救乏・賀善・弔災・祭敬・喪哀、情雖不同、毋絶其愛、親之道也。子無失道、何怨於人」襄仲説、帥兄弟以哭之。

他年,其二子來,孟獻子愛之,聞於國。或譖之曰:“將殺子。”獻子以告季文子。二子曰:“夫子以愛我聞,我以將殺子聞,不亦遠於禮乎?遠禮不如死。”

他年、其二子来、孟献子愛之、聞于国。或譖之曰「将殺子」。献子以告季文子。二子曰「夫子以愛我聞、我以将殺子聞、不亦遠于礼乎?遠礼不如死」

一人門於句鼆,一人門於戾丘,皆死。

一人門于句鼆、一人門于戾丘、皆死。

六月辛丑朔,日有食之,鼓,用牲於社,非禮也。日有食之,天子不舉,伐鼓於社,諸侯用幣於社,伐鼓於朝,以昭事神、訓民、事君,示有等威,古之道也。

六月辛丑朔、日有食之、鼓・用牲于社、非礼也。日有食之、天子不挙、伐鼓于社;諸侯用幣于社、伐鼓于朝、以昭事神・訓民・事君、示有等威、古之道也。

齊人許單伯請而赦之,使來致命。書曰:“單伯至自齊。”貴之也。

斉人許単伯請而赦之、使来致命。書曰「単伯至自斉」、貴之也。

新城之盟,蔡人不與。晉郤缺以上軍、下軍伐蔡,曰:“君弱,不可以怠。”

新城之盟、蔡人不与。晋郤缺以上軍・下軍伐蔡、曰「君弱、不可以怠」

戊申,入蔡,以城下之盟而還。凡勝國,曰滅之;獲大城焉,曰入之。

戊申、入蔡、以城下之盟而還。凡勝国曰滅、獲大城焉曰入。

秋,齊人侵我西鄙,故季文子告於晉。

秋、斉人侵我西鄙、故季文子告于晋。

冬十一月,晉侯、宋公、衛侯、蔡侯、鄭伯、許男、曹伯盟於扈,尋新城之盟,且謀伐齊也。齊人賂晉侯,故不克而還。於是有齊難,是以公不會。書曰:“諸侯盟於扈。”無能為故也。凡諸侯會,公不與,不書,諱君惡也。與而不書,後也。

冬十一月、晋侯・宋公・衛侯・蔡侯・鄭伯・許男・曹伯盟于扈、尋新城之盟、且謀伐斉也。斉人賂晋侯、故不克而還。于是有斉難、是以公不会。書曰「諸侯盟于扈」、無能為故也。凡諸侯会、公不与不書、諱君悪也。与而不書、後也。

齊人來歸子叔姬,王故也。

斉人来帰子叔姫、王故也。

齊侯侵我西鄙,謂諸侯不能也。遂伐曹,入其郛,討其來朝也。季文子曰:“齊侯其不免乎。己則無禮,而討於有禮者,曰:‘女何故行禮!’禮以順天,天之道也,己則反天,而又以討人,難以免矣。詩曰:‘胡不相畏,不畏於天?’君子之不虐幼賤,畏於天也。在周頌曰:‘畏天之威,於時保之。’不畏於天,將何能保?以亂取國,奉禮以守,猶懼不終,多行無禮,弗能在矣!”

斉侯侵我西鄙、謂諸侯不能也。遂伐曹、入其郛、討其来朝也。季文子曰「斉侯其不免乎。己則無礼、而討于有礼者、曰『女何故行礼』。礼以順天、天之道也。己則反天、而又以討人、難以免矣。『詩』曰『胡不相畏、不畏于天』。君子之不虐幼賤、畏于天也。在『周頌』曰『畏天之威、于時保之』。不畏于天、将何能保?以乱取国、奉礼以守、猶懼不終、多行無礼、弗能在矣」

◇文公十六年

◇文公十六年

【經】十有六年春,季孫行父會齊侯於陽穀,齊侯弗及盟。夏五月,公四不視朔。六月戊辰,公子遂及齊侯盟於郪丘。秋八月辛未,夫人姜氏薨。毀泉臺。

【経】十有六年春、季孫行父会斉侯于陽穀、斉侯弗及盟。夏五月、公四不視朔。六月戊辰、公子遂及斉侯盟于郪丘。秋八月辛未、夫人姜氏薨。毀泉臺。

楚人、秦人、巴人滅庸。冬十有一月,宋人弒其君杵臼。

楚人・秦人・巴人滅庸。冬十有一月、宋人弒其君杵臼。

【傳】十六年春,王正月,及齊平。公有疾,使季文子會齊侯於陽穀。請盟,齊侯不肯,曰:“請俟君間。”

【伝】十有六年春、王正月、及斉平。公有疾、使季文子会斉侯于陽穀。請盟、斉侯不肯、曰「請俟君間」

夏五月,公四不視朔,疾也。公使襄仲納賂於齊侯,故盟於郪丘。

夏五月、公四不視朔、疾也。公使襄仲納賂于斉侯、故盟于郪丘。

有蛇自泉宮出,入於國,如先君之數。秋八月辛未,聲姜薨,毀泉臺。

有蛇自泉宮出、入于国、如先君之数。秋八月辛未、声姜薨、毀泉臺。

楚大飢,戎伐其西南,至於阜山,師於大林。又伐其東南,至於陽丘,以侵訾枝。庸人帥群蠻以叛楚。麇人率百濮聚於選,將伐楚。於是申、息之北門不啟。

楚大饑、戎伐其西南、至于阜山、師于大林。又伐其東南、至于陽丘、以侵訾枝。庸人帥群蠻以叛楚。麇人率百濮聚于選、将伐楚。于是申・息之北門不啓。

楚人謀徙於阪高。蒍賈曰:“不可。我能往,寇亦能住。不如伐庸。夫麇與百濮,謂我飢不能師,故伐我也。若我出師,必懼而歸。百濮離居,將各走其邑,誰暇謀人?”乃出師。旬有五日,百濮乃罷。自廬以往,振廩同食。次於句澨。

楚人謀徙于阪高。蔿賈曰「不可。我能往、寇亦能往。不如伐庸。夫麇与百濮、謂我饑不能師、故伐我也。若我出師、必懼而帰。百濮離居、将各走其邑、誰暇謀人」乃出師。旬有五日、百濮乃罷。自廬以往、振廩同食。次于句澨。

使廬戢黎侵庸,及庸方城。庸人逐之,囚子揚窗。三宿而逸,曰:“庸師眾,群蠻聚焉,不如復大師,且起王卒,合而後進。”師叔曰:“不可。姑又與之遇以驕之。彼驕我怒,而後可克,先君蚡冒所以服陘隰也。”又與之遇,七遇皆北,唯裨、鯈、魚人實逐之。

使廬戢梨侵庸、及庸方城。庸人逐之、囚子揚窓。三宿而逸、曰「庸師衆、群蠻聚焉、不如復大師、且起王卒、合而後進」師叔曰「不可。姑又与之遇以驕之。彼驕我怒、而後可克、先君蚡冒所以服陘隰也」。又与之遇、七遇皆北、唯裨・鯈・魚人実逐之。

庸人曰:“楚不足與戰矣。”遂不設備。楚子乘馹,會師於臨品,分為二隊,子越自石溪,子貝自仞,以伐庸。秦人、巴人從楚師,群蠻從楚子盟。遂滅庸。

庸人曰「楚不足与戦矣」遂不設備。楚子乗馹、会師于臨品、分為二隊、子越自石谿、子貝自仞、以伐庸。秦人・巴人従楚師、群蠻従楚子盟。遂滅庸。

宋公子鮑禮於國人,宋飢,竭其粟而貸之。年自七十以上,無不饋飴也,時加羞珍異。無日不數於六卿之門,國之才人,無不事也,親自桓以下,無不恤也。

宋公子鮑礼于国人、宋饑、竭其粟而貸之。年自七十以上、無不饋詒也、時加羞珍異。無日不数于六卿之門、国之材人、無不事也、親自桓以下、無不恤也。

公子鮑美而豔,襄夫人慾通之,而不可,夫人助之施。昭公無道,國人奉公子鮑以因夫人。

公子鮑美而艶、襄夫人欲通之、而不可、夫人助之施。昭公無道、国人奉公子鮑以因夫人。

於是華元為右師,公孫友為左師,華耦為司馬,鱗魚雚為司徒,蕩意諸為司城,公子朝為司寇。初,司城蕩卒,公孫壽辭司城,請使意諸為之。既而告人曰:“君無道,吾官近,懼及焉。棄官則族無所庇。子,身之貳也,姑紓死焉。雖亡子,猶不亡族。”既,夫人將使公田孟諸而殺之。公知之,盡以寶行。蕩意諸曰:“盍適諸侯?”公曰:“不能其大夫至於君祖母以及國人,諸侯誰納我?且既為人君,而又為人臣,不如死。”盡以其寶賜左右以使行。夫人使謂司城去公,對曰:“臣之而逃其難,若後君何?”冬十一月甲寅,宋昭公將田孟諸,未至,夫人王姬使帥甸攻而殺之。蕩意諸死之。書曰:“宋人弒其君杵臼。”君無道也。

于是華元為右師、公孫友為左師、華耦為司馬、鱗矔為司徒、蕩意諸為司城、公子朝為司寇。初、司城蕩卒、公孫寿辞司城、請使意諸為之。既而告人曰「君無道、吾官近、懼及焉。棄官則族無所庇。子、身之貳也、姑紓死焉。雖亡子、猶不亡族」既、夫人将使公田孟諸而殺之。公知之、尽以宝行。蕩意諸曰「盍適諸侯」公曰「不能其大夫至于君祖母以及国人、諸侯誰納我?且既為人君、而又為人臣、不如死」尽以其宝賜左右而使行。夫人使謂司城去公、對曰「臣之而逃其難、若後君何」冬十一月甲寅、宋昭公将田孟諸、未至、夫人王姫使帥甸攻而殺之。蕩意諸死之。書曰「宋人弒其君杵臼」、君無道也。

文公即位,使母弟須為司城。華耦卒,而使蕩虺為司馬。

文公即位、使母弟須為司城。華耦卒、而使蕩虺為司馬。

◇文公十七年

◇文公十七年

【經】十有七年春,晉人、衛人、陳人、鄭人伐宋。夏四月癸亥,葬我小君聲姜。齊侯伐我西鄙。六月癸未,公及齊侯盟於谷。諸侯會於扈。秋,公至自谷。

【経】十有七年春、晋人・衛人・陳人・鄭人伐宋。夏四月癸亥、葬我小君声姜。斉侯伐我西鄙。六月癸未、公及斉侯盟于穀。諸侯会于扈。秋、公至自穀。

冬,公子遂如齊。

冬、公子遂如斉。

【傳】十七年春,晉荀林父、衛孔達、陳公孫寧、鄭石楚伐宋。討曰:“何故弒君!”猶立文公而還,卿不書,失其所也。

【伝】十有七年春、晋荀林父・衛孔達・陳公孫寧・鄭石楚伐宋。討曰「何故弒君」猶立文公而還。卿不書、失其所也。

夏四月癸亥,葬聲姜。有齊難,是以緩。

夏四月癸亥、葬声姜。有斉難、是以緩。

齊侯伐我北鄙,襄仲請盟。六月,盟於谷。

斉侯伐我北鄙、襄仲請盟。六月、盟于穀。

晉侯蒐於黃父,遂複合諸侯於扈,平宋也。公不與會,齊難故也。書曰“諸侯”,無功也。

晋侯蒐于黄父、遂復合諸侯于扈、平宋也。公不与会、斉難故也。書曰「諸侯」、無功也。

於是,晉侯不見鄭伯,以為貳於楚也。

于是、晋侯不見鄭伯、以為貳于楚也。

鄭子家使執訊而與之書,以告趙宣子,曰:“寡君即位三年,召蔡侯而與之事君。九月,蔡侯入於敝邑以行。敝邑以侯宣多之難,寡君是以不得與蔡侯偕。

鄭子家使執訊而与之書、以告趙宣子、曰「寡君即位三年、召蔡侯而与之事君。九月、蔡侯入于敝邑以行。敝邑以侯宣多之難、寡君是以不得与蔡侯偕。

十一月,克滅侯宣多而隨蔡侯以朝於執事。十二年六月,歸生佐寡君之嫡夷,以請陳侯於楚而朝諸君。十四年七月,寡君又朝,以蕆陳事。十五年五月,陳侯自敝邑往朝於君。往年正月,燭之武往朝夷也。八月,寡君又往朝。以陳、蔡之密邇於楚而不敢貳焉,則敝邑之故也。雖敝邑之事君,何以不免?在位之中,一朝於襄,而再見於君。夷與孤之二三臣相及於絳,雖我小國,則蔑以過之矣。今大國曰:‘爾未逞吾志。’敝邑有亡,無以加焉。古人有言曰:‘畏首畏尾,身其餘幾。’又曰:‘鹿死不擇音。’小國之事大國也,德,則其人也;不德,則其鹿也,鋌而走險,急何能擇?命之罔極,亦知亡矣。將悉敝賦以待於鯈,唯執事命之。

(子家は続けて言う)十一月、克減侯宣多、而随蔡侯以朝于執事。十二年六月、帰生佐寡君之嫡夷、以請陳侯于楚、而朝諸君。十四年七月、寡君又朝、以蒇陳事。十五年五月、陳侯自敝邑往朝于君。往年正月、燭之武往朝夷也。八月、寡君又往朝。以陳・蔡之密邇于楚、而不敢貳焉、則敝邑之故也。雖敝邑之事君、何以不免?在位之中、一朝于襄、而再見于君。夷与孤之二三臣相及于絳、雖我小国、則蔑以過之矣。今大国曰『爾未逞吾志』。敝邑有亡無以加焉。古人有言曰『畏首畏尾、身其餘幾』。又曰『鹿死不擇音』。小国之事大国也、徳、則其人也;不徳、則其鹿也、鋌而走険、急何能擇?命之罔極、亦知亡矣。将悉敝賦以待于鯈、唯執事之。

文公二年六月壬申,朝於齊。四年二月壬戌,為齊侵蔡,亦獲成於楚。居大國之間而從於強令,豈其罪也。大國若弗圖,無所逃命。”

(子家は続けて言う)文公二年六月壬申、朝于斉。四年二月壬戌、為斉侵蔡、亦獲成于楚。居大国之間而従于強令、豈其罪乎?大国若弗図、無所逃命」

晉鞏朔行成於鄭,趙穿、公婿池為質焉。

晋鞏朔行成于鄭、趙穿・公壻池為質焉。

秋,周甘蜀敗戎於垂,乘其飲酒也。

秋、周甘歜敗戎于邥垂、乗其飲酒也。

冬十月,鄭大子夷、石楚為質於晉。

冬十月、鄭大子夷・石楚為質于晋。

襄仲如齊,拜谷之盟。復曰:“臣聞齊人將食魯之麥。以臣觀之,將不能。

襄仲如斉、拜穀之盟。復曰「臣聞斉人将食魯之麦。以臣観之、将不能。

齊君之語偷。臧文仲有言曰:‘民主偷必死’。”

(襄仲は続けて言う)斉君之語偷。臧文仲有言曰『民主偷、必死』」

◇文公十八年

◇文公十八年

【經】十有八年春王二月丁丑,公薨於臺下。秦伯犖卒。夏五月戊戌,齊人弒其君商人。六月癸酉,葬我君文公。秋,公子遂、叔孫得臣如齊。冬十月,子卒。夫人姜氏歸於齊。季孫行父如齊。莒弒其君庶其。

【経】十有八年春、王二月丁丑、公薨于台下。秦伯罃卒。夏五月戊戌、斉人弒其君商人。六月癸酉、葬我君文公。秋、公子遂・叔孫得臣如斉。冬十月、子卒。夫人姜氏帰于斉。季孫行父如斉。莒弒其君庶其。

【傳】十八年春,齊侯戒師期,而有疾,醫曰:“不及秋,將死。”公聞之,卜曰:“尚無及期。”惠伯令龜,卜楚丘占之曰:“齊侯不及期,非疾也。君亦不聞。令龜有咎。”二月丁丑,公薨。

【伝】十有八年春、斉侯戒師期、而有疾、医曰「不及秋、将死」公聞之、卜曰「尚無及期」恵伯令亀、卜楚丘占之曰「斉侯不及期、非疾也。君亦不聞。令亀有咎」二月丁丑、公薨。

齊懿公之為公子也,與邴蜀之父爭田,弗勝。及即位,乃掘而刖之,而使蜀僕。納閻職之妻,而使職驂乘。

斉懿公之為公子也、与邴蜀之父争田、弗勝。及即位、乃掘而刖之、而使蜀僕。納閻職之妻、而使職驂乗。

夏五月,公遊於申池。二人浴於池,蜀以撲抶職。職怒。曰:“人奪女妻而不怒,一抶女庸何傷!”職曰:“與刖其父而弗能病者何如?”乃謀弒懿公,納諸竹中。歸,舍爵而行。齊人立公子元。

夏五月、公游于申池。二人浴于池、蜀以扑抶職。職怒。蜀曰「人奪女妻而不怒、一抶女庸何傷」職曰「与刖其父而病不能者、孰何」乃謀弒懿公、納諸竹中。帰、舎爵而行。斉人立公子元。

六月,葬文公。

六月、葬文公。

秋,襄仲、莊叔如齊,惠公立故,且拜葬也。

秋、襄仲・荘叔如斉、恵公立故、且拜葬也。

文公二妃敬贏生宣公。敬贏嬖而私事襄仲。宣公長而屬諸襄仲,襄仲欲立之,叔仲不可。仲見於齊侯而請之。齊侯新立而欲親魯,許之。

文公二妃敬嬴生宣公。敬嬴嬖、而私事襄仲。宣公長而属諸襄仲、襄仲欲立之、叔仲不可。仲見于斉侯而請之。斉侯新立、而欲親魯、許之。

冬十月,仲殺惡及視而立宣公。書曰“子卒”,諱之也。仲以君命召惠伯。

冬十月、仲殺悪及視而立宣公。書曰「子卒」、諱之也。仲以君命召恵伯。

其宰公冉務人止之,曰:“入必死。”叔仲曰:“死君命可也。”公冉務人曰:“若君命可死,非君命何聽?”弗聽,乃入,殺而埋之馬矢之中。公冉務人奉其帑以奔蔡,既而復叔仲氏。

其宰公冉務人止之、曰「入必死」叔仲曰「死君命可也」公冉務人曰「若君命可死、非君命何聴」弗聴、乃入、殺而埋之馬矢之中。公冉務人奉其帑以奔蔡、既而復叔仲氏。

夫人姜氏歸於齊,大歸也。將行,哭而過市曰:“天乎,仲為不道,殺適立庶。”市人皆哭,魯人謂之哀姜。

夫人姜氏帰于斉、大帰也。将行、哭而過市曰「天乎、仲為不道、殺適立庶」市人皆哭、魯人謂之哀姜。

莒紀公生大子僕,又生季佗,愛季佗而黜僕,且多行無禮於國。僕因國人以弒紀公,以其寶玉來奔,納諸宣公。公命與之邑,曰:“今日必授。”季文子使司寇出諸竟,曰:“今日必達。”公問其故。季文子使大史克對曰:“先大夫臧文仲教行父事君之禮,行父奉以周旋,弗敢失隊。曰:‘見有禮於其君者,事之如孝子之養父母也。見無禮於其君者,誅之如鷹鸇之逐鳥雀也。’先君周公制《周禮》曰:‘則以觀德,德以處事,事以度功,功以食民。’作《誓命》曰:‘毀則為賊,掩賊為藏,竊賄為盜,盜器為奸。主藏之名,賴奸之用,為大凶德,有常無赦,在《九刑》不忘。’行父還觀莒僕,莫可則也。孝敬忠信為吉德,盜賊藏奸為凶德。夫莒僕,則其孝敬,則弒君父矣;則其忠信,則竊寶玉矣。其人,則盜賊也;其器,則奸兆也,保而利之,則主藏也。以訓則昏,民無則焉。不度於善,而皆在於凶德,是以去之。

莒紀公生大子僕、又生季佗、愛季佗而黜僕、且多行無礼于国。僕因国人以弒紀公、以其宝玉来奔、納諸宣公。公命与之邑、曰「今日必授」季文子使司寇出諸境、曰「今日必達」公問其故。季文子使大史克対曰「先大夫臧文仲教行父事君之礼、行父奉以周旋、弗敢失隊。曰『見有礼于其君者、事之如孝子之養父母也;見無礼于其君者、誅之如鷹鸇之逐鳥雀也』。先君周公制周礼曰『則以観徳、徳以処事、事以度功、功以食民』。作『誓命』曰『毀則為賊、掩賊為蔵、竊賄為盗、盗器為姦。主蔵之名、頼姦之用、為大凶徳、有常無赦、在九刑不忘』。行父還観莒僕、莫可則也。孝敬忠信為吉徳、盗賊蔵姦為凶徳。夫莒僕、則其孝敬、則弒君父矣;則其忠信、則竊宝玉矣。其人、則盗賊也;其器、則姦兆也。保而利之、則主蔵也。以訓則昏、民無則焉。不度于善、而皆在于凶徳、是以去之。

“昔高陽氏有才子八人,蒼舒、隤敳、檮戭、大臨、尨降、庭堅、仲容、叔達,齊聖廣淵,明允篤誠,天下之民謂之八愷。高辛氏有才子八人,伯奮、仲堪、叔獻、季仲、伯虎、仲熊、叔豹、季狸,忠肅共懿,宣慈惠和,天下之民謂之八元。此十六族也,世濟其美,不隕其名,以至於堯,堯不能舉。舜臣堯,舉八愷,使主后土,以揆百事,莫不時序,地平天成。舉八元,使布五教於四方,父義、母慈、兄友、弟共、子孝,內平外成。昔帝鴻氏有不才子,掩義隱賊,好行兇德,醜類惡物,頑嚚不友,是與比周,天下之民謂之渾敦。少嗥氏有不才子,毀信廢忠,崇飾惡言,靖譖庸回,服讒蒐慝,以誣盛德,天下之民謂之窮奇。顓頊有不才子,不可教訓,不知話言,告之則頑,舍之則嚚,傲很明德,以亂天常,天下之民謂之檮杌。此三族也,世濟其兇,增其惡名,以至於堯,堯不能去。縉雲氏有不才子,貪於飲食,冒於貨賄,侵欲崇侈,不可盈厭,聚斂積實,不知紀極,不分孤寡,不恤窮匱,天下之民以比三兇,謂之饕餮。舜臣堯,賓於四門,流四凶族渾敦、窮奇、檮杌、饕餮,投諸四裔,以御魑魅。是以堯崩而天下如一,同心戴舜以為天子,以其舉十六相,去四凶也。故《虞書》數舜之功,曰‘慎徽五典,五典克從’,無違教也。曰‘納於百揆,百揆時序’,無廢事也。曰‘賓於四門,四門穆穆’,無兇人也。

(太史克は続けて言う)昔高陽氏有才子八人、蒼舒・隤敳・檮戭・大臨・尨降・庭堅・仲容・叔達、斉聖広淵、明允篤誠、天下之民謂之八愷。高辛氏有才子八人、伯奮・仲堪・叔献・季仲・伯虎・仲熊・叔豹・季貍、忠粛共懿、宣慈恵和、天下之民謂之八元。此十六族也、世済其美、不隕其名、以至于堯、堯不能挙。舜臣堯、挙八愷、使主后土、以揆百事、莫不時序、地平天成。挙八元、使布五教于四方:父義・母慈・兄友・弟恭・子孝、内平外成。昔帝鴻氏有不才子、掩義隠賊、好行凶徳、醜類惡物、頑嚚不友、是与比周、天下之民謂之渾敦。少皞氏有不才子、毀信廃忠、崇飾悪言、靖譖庸回、服讒蒐慝、以誣盛徳、天下之民謂之窮奇。顓頊氏有不才子、不可教訓、不知話言、告之則頑、舎之則嚚、傲很明徳、以乱天常、天下之民謂之檮杌。此三族也、世済其凶、増其悪名、以至于堯、堯不能去。縉雲氏有不才子、貪于飲食、冒于貨賄、侵欲崇侈、不可盈厭、聚斂積実、不知紀極、不分孤寡、不恤窮匱、天下之民以比三凶、謂之饕飻。舜臣堯、賓于四門、流四凶族渾敦・窮奇・檮杌・饕飻、投諸四裔、以御魑魅。是以堯崩而天下如一、同心戴舜以為天子、以其挙十六相・去四凶也。故『虞書』数舜之功、曰『慎徽五典、五典克従』、無違教也。曰『納于百揆、百揆時序』、無廃事也。曰『賓于四門、四門穆穆』、無凶人也。

舜有大功二十而為天子,今行父雖未獲一吉人,去一兇矣,於舜之功,二十之一也,庶幾免於戾乎!”宋武氏之族道昭公子,將奉司城須以作亂。十二月,宋公殺母弟須及昭公子,使戴、莊、桓之族攻武氏於司馬子伯之館。遂出武、穆之族,使公孫師為司城,公子朝卒,使樂呂為司寇,以靖國人。

(太史克は続けて言う)舜有大功二十而為天子、今行父雖未獲一吉人、去一凶矣、于舜之功、二十之一也、庶幾免于戾乎」宋武氏之族道昭公子、将奉司城須以作乱。十二月、宋公殺母弟須及昭公子、使戴・荘・桓之族攻武氏于司馬子伯之館。遂出武・穆之族、使公孫師為司城、公子朝卒、使楽呂為司寇、以靖国人。

宣公(元年~十八年)

◇宣公元年

◇宣公元年

【經】元年春王正月,公即位。公子遂如齊逆女。三月,遂以夫人婦姜至自齊。夏,季孫行父如齊。晉放其大夫胥甲父於衛。公會齊侯於平州。公子遂如齊。

【経】元年春、王正月、公即位。公子遂如斉逆女。三月、遂以夫人婦姜至自斉。夏、季孫行父如斉。晋放其大夫胥甲父于衛。公会斉侯于平州。公子遂如斉。

六月,齊人取濟西田。秋,邾子來朝。楚子、鄭人侵陳,遂侵宋。晉趙盾帥師救陳。宋公、陳侯、衛侯、曹伯會晉師於棐林,伐鄭。冬,晉趙穿帥師侵崇。晉人、宋人伐鄭。

六月、斉人取済西之田。秋、邾子来朝。楚子・鄭人侵陳、遂侵宋。晋趙盾帥師救陳。宋公・陳侯・衛侯・曹伯会晋師于棐林、伐鄭。冬、晋趙穿帥師侵崇。晋人・宋人伐鄭。

【傳】元年春,王正月,公子遂如齊逆女,尊君命也。三月,遂以夫人婦姜至自齊,尊夫人也。

【伝】元年春、王正月、公子遂如斉逆女、尊君命也。三月、遂以夫人婦姜至自斉、尊夫人也。

夏,季文子如齊,納賂以請會。

夏、季文子如斉、納賂以請会。

晉人討不用命者,放胥甲父於衛,而立胥克。先辛奔齊。

晋人懲治不听命者、放胥甲父于衛、而立胥克。先辛奔斉。

會於平州,以定公位。東門襄仲如齊拜成。

会于平州、以定公位。東門襄仲如斉、拜成也。

六月,齊人取濟西之田,為立公故,以賂齊也。

六月、斉人取済西之田、為立公故、以賂斉也。

宋人之弒昭公也,晉荀林父以諸侯之師伐宋,宋及晉平,宋文公受盟於晉。

宋人之弒昭公也、晋荀林父以諸侯之師伐宋、宋及晋平、宋文公受盟于晋。

又會諸侯於扈,將為魯討齊,皆取賂而還。鄭穆公曰:“晉不足與也。”遂受盟於楚。陳共公之卒,楚人不禮焉。陳靈公受盟於晉。

又会諸侯于扈、将為魯討斉、皆取賂而還。鄭穆公曰「晋不足与也」遂受盟于楚。陳共公之卒、楚人不礼焉。陳霊公受盟于晋。

秋,楚子侵陳,遂侵宋。晉趙盾帥師救陳、宋。會於棐林,以伐鄭也。楚蒍賈救鄭,遇於北林。囚晉解揚,晉人乃還。

秋、楚子侵陳、遂侵宋。晋趙盾帥師救陳・宋。会于棐林、以伐鄭也。楚蔿賈救鄭、遇于北林。囚晋解揚、晋人乃還。

晉欲求成於秦,趙穿曰:“我侵崇,秦急崇,必救之。吾以求成焉。”冬,趙穿侵崇,秦弗與成。

晋人欲求成于秦、趙穿曰「我侵崇、秦急崇、必救之。我以求成焉」冬、趙穿侵崇、秦弗与成。

晉人伐鄭,以報北林之役。於是,晉侯侈,趙宣子為政,驟諫而不入,故不競於楚。

晋人伐鄭、以報北林之役。于是晋侯侈、趙宣子為政、驟諫而不入、故不競于楚。

◇宣公二年

◇宣公二年

【經】二年春王二月壬子,宋華元帥師及鄭公子歸生帥師,戰於大棘,宋師敗績,獲宋華元。秦師伐晉。夏,晉人、宋人、衛人、陳人侵鄭。秋九月乙丑,晉趙盾弒其君夷皋。冬十月乙亥,天王崩。

【経】二年春、王二月壬子、宋華元帥師及鄭公子帰生帥師、戦于大棘、宋師敗績、獲宋華元。秦師伐晋。夏、晋人・宋人・衛人・陳人侵鄭。秋九月乙丑、晋趙盾弒其君夷皋。冬十月乙亥、天王崩。

【傳】二年春,鄭公子歸生受命於楚,伐宋。宋華元、樂呂御之。二月壬子,戰於大棘,宋師敗績,囚華元,獲樂呂,及甲車四百六十乘,俘二百五十人,馘百人。狂狡輅鄭人,鄭人入於井,倒戟而出之,獲狂狡。君子曰:“失禮違命,宜其為禽也。戎,昭果毅以聽之之謂禮,殺敵為果,致果為毅。易之,戮也。”

【伝】二年春、鄭公子帰生受命于楚、伐宋。宋華元・楽呂御之。二月壬子、戦于大棘、宋師敗績、囚華元、獲楽呂、及甲車四百六十乗、俘二百五十人、馘百人。狂狡輅鄭人、鄭人入于井、倒戟而出之、獲狂狡。君子曰「失礼違命、宜其為禽也。戎、昭果毅以聴之之謂礼。殺敵為果、致果為毅。易之、刑也」

將戰,華元殺羊食士,其御羊斟不與。及戰,曰:“疇昔之羊,子為政,今日之事,我為政。”與入鄭師,故敗。君子謂:“羊斟非人也,以其私憾,敗國殄民。於是刑孰大焉。《詩》所謂‘人之無良’者,其羊斟之謂乎,殘民以逞。”

将戦、華元殺羊食士、其御羊斟不与。及戦、曰「疇昔之羊、子為政;今日之事、我為政」与入鄭師、故敗。君子謂「羊斟非人也、以其私憾、敗国殄民。于是刑孰大焉?『詩』所謂『人之無良』者、其羊斟之謂乎、殘民以逞」

宋人以兵車百乘、文馬百駟以贖華元於鄭。半入,華元逃歸,立於門外,告而入。見叔佯,曰:“子之馬然也。”對曰:“非馬也,其人也。”既合而來奔。

宋人以兵車百乗・文馬百駟以贖華元于鄭。半入、華元逃帰、立于門外、告而入。見叔牂、曰「子之馬然也」對曰「非馬也、其人也」既合而来奔。

宋城,華元為植,巡功。城者謳曰:“睅其目,皤其腹,棄甲而復。于思于思,棄甲復來。”使其驂乘謂之曰:“牛則有皮,犀兕尚多,棄甲則那?”役人曰:“從其有皮,丹漆若何?”華元曰:“去之,夫其口眾我寡。”

宋城、華元為植、巡功。城者謳曰「睅其目、皤其腹、棄甲而復。于思于思、棄甲復来」使其驂乗謂之曰「牛則有皮、犀兕尚多、棄甲則那」役人曰「従其有皮、丹漆若何」華元曰「去之、夫其口衆我寡」

秦師伐晉,以報崇也,遂圍焦。夏,晉趙盾救焦,遂自陰地,及諸侯之師侵鄭,以報大棘之役。楚鬥椒救鄭,曰:“能欲諸侯而惡其難乎?”遂次於鄭以待晉師。趙盾曰:“彼宗競於楚,殆將斃矣。姑益其疾。”乃去之。

秦師伐晋、以報崇也、遂囲焦。夏、晋趙盾救焦、遂自陰地、及諸侯之師侵鄭、以報大棘之役。楚鬬椒救鄭、曰「能欲諸侯而悪其難乎」遂次于鄭以待晋師。趙盾曰「彼宗競于楚、殆将斃矣。姑益其疾」乃去之。

晉靈公不君:厚斂以雕牆;從臺上彈人,而觀其闢丸也;宰夫腸熊蹯不熟,殺之,置諸畚,使婦人載以過朝。趙盾、士季見其手,問其故,而患之。將諫,士季曰:“諫而不入,則莫之繼也。會請先,不入則子繼之。”三進,及溜,而後視之。曰:“吾知所過矣,將改之。”稽首而對曰:“人誰無過?過而能改,善莫大焉。《詩》曰:‘靡不有初,鮮克有終。’夫如是,則能補過者鮮矣。君能有終,則社稷之固也,豈唯群臣賴之。又曰:‘袞職有闕,惟仲山甫補之。’能補過也。君能補過,兗不廢矣。”猶不改。宣子驟諫,公患之,使鉏麑賊之。

晋霊公不君:厚斂以彫牆;従台上弾人、而観其辟丸也;宰夫胹熊蹯不孰、殺之、寘諸畚、使婦人載以過朝。趙盾・士季見其手、問其故、而患之。将諫、士季曰「諫而不入、則莫之継也。会請先、不入則子継之」三進及溜、而後視之。曰「吾知所過矣、将改之」稽首而對曰「人誰無過?過而能改、善莫大焉。『詩』曰『靡不有初、鮮克有終』。夫如是、則能補過者鮮矣。君能有終、則社稷之固也、豈唯群臣頼之。又曰『衮職有闕、惟仲山甫補之』、能補過也。君能補過、衮不廃矣」底本「兗」はすなわち衮。猶不改。宣子驟諫、公患之、使鉏麑賊之。

晨往,寢門闢矣,盛服將朝,尚早,坐而假寐。麑退,嘆而言曰:“不忘恭敬,民之主也。賊民之主,不忠。棄君之命,不信。有一於此,不如死也。”觸槐而死。

晨往、寝門闢矣、盛服将朝、尚早、坐而假寐。麑退、歎而言曰「不忘恭敬、民之主也。賊民之主、不忠。棄君之命、不信。有一于此、不如死也」触槐而死。

秋九月,晉侯飲趙盾酒,伏甲將攻之。其右提彌明知之,趨登曰:“臣侍君宴,過三爵,非禮也。”遂扶以下,公嗾夫獒焉。明搏而殺之。盾曰:“棄人用犬,雖猛何為。”鬥且出,提彌明死之。

秋九月、晋侯飲趙盾酒、伏甲将攻之。其右提弥明知之、趨登曰「臣侍君宴、過三爵、非礼也」遂扶以下。公嗾夫獒焉。明搏而殺之。盾曰「棄人用犬、雖猛何為」鬬且出、提弥明死之。

初,宣子田於首山,舍於翳桑,見靈輒餓,問其病。曰:“不食三日矣。”

初、宣子田于首山、舎于翳桑、見霊輒餓、問其病。曰「不食三日矣」

食之,舍其半。問之,曰:“宦三年矣,未知母之存否,今近焉,請以遺之。”

食之、舎其半。問之、曰「宦三年矣、未知母之存否、今近焉、請以遺之」

使盡之,而為之簞食與肉,置諸橐以與之。既而與為公介,倒戟以御公徒,而免之。問何故。對曰:“翳桑之餓人也。”問其名居,不告而退,遂自亡也。

使尽之、而為之簞食与肉、寘諸橐以与之。既而与為公介、倒戟以御公徒、而免之。問何故、對曰「翳桑之餓人也」問其名居、不告而退、遂自亡也。

乙丑,趙穿攻靈公於桃園。宣子未出山而復。大史書曰:“趙盾弒其君。”

乙丑、趙穿攻霊公于桃園。宣子未出山而復。大史書曰「趙盾弒其君」

以示於朝。宣子曰:“不然。”對曰:“子為正卿,亡不越竟,反不討賊,非子而誰?”宣子曰:“烏呼,‘我之懷矣,自詒伊戚’,其我之謂矣!”孔子曰:“董孤,古之良史也,書法不隱。趙宣子,古之良大夫也,為法受惡。惜也,越竟乃免。”

以示于朝。宣子曰「不然」對曰「子為正卿、亡不越竟、反不討賊、非子而誰」宣子曰「嗚呼、『我之懐矣、自詒伊戚』、其我之謂矣」孔子曰「董狐、古之良史也、書法不隠。趙宣子、古之良大夫也、為法受悪。惜也、越竟乃免」

宣子使趙穿逆公子黑臀於周而立之。壬申,朝於武宮。

宣子使趙穿逆公子黑臀于周而立之。壬申、朝于武宮。

初,麗姬之亂,詛無畜群公子,自是晉無公族。及成公即位,乃宦卿之適子而為之田,以為公族,又宦其餘子亦為餘子,其庶子為公行。晉於是有公族、餘子、公行。趙盾請以括為公族,曰:“君姬氏之愛子也。微君姬氏,則臣狄人也。”

初、麗姫之乱、詛無畜群公子、自是晋無公族。及成公即位、乃宦卿之適子而為之田、以為公族、又宦其餘子、亦為餘子、其庶子為公行。晋于是有公族・餘子・公行。趙盾請以括為公族、曰「君姫氏之愛子也。微君姫氏、則臣狄人也」

公許之。

公許之。

冬,趙盾為旄車之族。使屏季以其故族為公族大夫。

冬、趙盾為旄車之族。使屏季以其故族為公族大夫。

◇宣公三年

◇宣公三年

【經】三年春王正月,郊牛之口傷,改卜牛。牛死,乃不郊。猶三望。葬匡王。楚子伐陸渾之戎。夏,楚人侵鄭。秋,赤狄侵齊。宋師圍曹。冬十月丙戌。

【経】三年春、王正月、郊牛之口傷、改卜牛。牛死、乃不郊。猶三望。葬匡王。楚子伐陸渾之戎。夏、楚人侵鄭。秋、赤狄侵斉。宋師囲曹。冬十月丙戌。

鄭伯蘭卒。葬鄭穆公。

鄭伯蘭卒。葬鄭穆公。

【傳】三年春,不郊而望,皆非禮也。望,郊之屬也。不郊亦無望,可也。

【伝】三年春、不郊而望、皆非礼也。望、郊之属也。不郊亦無望可也。

晉侯伐鄭,及郔。鄭及晉平,士會入盟。

晋侯伐鄭、及郔。鄭及晋平、士会入盟。

楚子伐陸渾之戎,遂至於洛,觀兵於周疆。定王使王孫滿勞楚子。楚子問鼎之大小輕重焉。對曰:“在德不在鼎。昔夏之方有德也,遠方圖物,貢金九牧,鑄鼎象物,百物而為之備,使民知神、奸。故民入川澤山林,不逢不若。螭魅罔兩,莫能逢之,用能協於上下以承天休。桀有昏德,鼎遷於商,載祀六百。商紂暴虐,鼎遷於周。德之休明,雖小,重也。其奸回昏亂,雖大,輕也。天祚明德,有所厎止。成王定鼎於郟鄏,卜世三十,卜年七百,天所命也。周德雖衰,天命未改,鼎之輕重,未可問也。”

楚子伐陸渾之戎、遂至于雒、観兵于周疆。定王使王孫満労楚子。楚子問鼎之大小軽重焉。對曰「在徳不在鼎。昔夏之方有徳也、遠方図物、貢金九牧、鋳鼎象物、百物而為之備、使民知神姦。故民入川沢山林、不逢不若。螭魅罔両、莫能逢之、用能協于上下、以承天休。桀有昏徳、鼎遷于商、載祀六百。商紂暴虐、鼎遷于周。徳之休明、雖小、重也。其姦回昏乱、雖大、軽也。天祚明徳、有所厎止。成王定鼎于郟鄏、卜世三十・卜年七百、天所命也。周徳雖衰、天命未改、鼎之軽重、未可問也」

夏,楚人侵鄭,鄭即晉故也。

夏、楚人侵鄭、鄭即晋故也。

宋文公即位三年,殺母弟須及昭公子。武氏之謀也,使戴、桓之族攻武氏於司馬子伯之館。盡逐武、穆之族。武、穆之族以曹師伐宋。秋,宋師圍曹,報武氏之亂也。

宋文公即位三年、殺母弟須及昭公子。武氏之謀也、使戴・桓之族攻武氏于司馬子伯之館。尽逐武・穆之族。武・穆之族以曹師伐宋。秋、宋師囲曹、報武氏之乱也。

冬,鄭穆公卒。

冬、鄭穆公卒。

初,鄭文公有賤妾曰燕姞,夢天使與己蘭,曰:“餘為伯鯈。餘,而祖也,以是為而子。以蘭有國香,人服媚之如是。”既而文公見之,與之蘭而御之。辭曰:“妾不才,幸而有子,將不信,敢徵蘭乎。”公曰:“諾。”生穆公,名之曰蘭。

初、鄭文公有賤妾曰燕姞、夢天使与己蘭、曰「余為伯鯈。余、而祖也、以是為而子。以蘭有国香、人服媚之如是」既而文公見之、与之蘭而御之。辞曰「妾不才、幸而有子、将不信、敢徴蘭乎」公曰「諾」生穆公、名之曰蘭。

文公報鄭子之妃,曰陳媯,生子華、子臧。子臧得罪而出。誘子華而殺之南里,使盜殺子臧於陳、宋之間。又娶於江,生公子士。朝於楚,楚人鴆之,及葉而死。又娶於蘇,生子瑕、子俞彌。俞彌早卒。洩駕惡瑕,文公亦惡之,故不立也。公逐群公子,公子蘭奔晉,從晉文公伐鄭。石癸曰:“吾聞姬、姞耦,其子孫必蕃。姞,吉人也,后稷之元妃也,今公子蘭,姞甥也。天或啟之,必將為君,其後必蕃,先納之可以亢寵。”與孔將鋤、侯宣多納之,盟於大宮而立之。以與晉平。

文公報鄭子之妃、曰陳嬀、生子華・子臧。子臧得罪而出誘。誘子華而殺之南里、使盗殺子臧于陳宋之間。又娶于江、生公子士。朝于楚、楚人酖之、及葉而死。又娶于蘇、生子瑕・子俞弥。俞弥早卒。洩駕悪瑕、文公亦悪之、故不立也。公逐群公子、公子蘭奔晋、従晋文公伐鄭。石癸曰「吾聞姫・姞耦、其子孫必蕃。姞、吉人也、后稷之元妃也。今公子蘭、姞甥也。天或啓之、必将為君、其後必蕃、先納之可以亢寵」与孔将鉏・侯宣多納之、盟于大宮而立之。以与晋平。

穆公有疾,曰:“蘭死,吾其死乎,吾所以生也。”刈蘭而卒。

穆公有疾、曰「蘭死、吾其死乎、吾所以生也」刈蘭而卒。

◇宣公四年

◇宣公四年

【經】四年春王正月,公及齊侯平莒及郯。莒人不肯。公伐莒,取向。秦伯稻卒。夏六月乙酉,鄭公子歸生弒其君夷。赤狄侵齊。秋,公如齊。公至自齊。

【経】四年春、王正月、公及斉侯平莒及郯。莒人不肯。公伐莒、取向。秦伯稲卒。夏六月乙酉、鄭公子帰生弒其君夷。赤狄侵斉。秋、公如斉。公至自斉。

冬,楚子伐鄭。

冬、楚子伐鄭。

【傳】四年春,公及齊侯平莒及郯,莒人不肯。公伐莒,取向,非禮也。平國以禮不以亂,伐而不治,亂也。以亂平亂,何治之有?無治,何以行禮?楚人獻黿於鄭靈公。公子宋與子家將見。子公之食指動,以示子家,曰:“他日我如此,必嘗異味。”及入,宰夫將解黿,相視而笑。公問之,子家以告,及食大夫黿,召子公而弗與也。子公怒,染指於鼎,嘗之而出。公怒,欲殺子公。

【伝】四年春、公及斉侯平莒及郯、莒人不肯。公伐莒、取向、非礼也。平国以礼不以乱、伐而不治、乱也。以乱平乱、何治之有?無治、何以行礼?楚人献黿于鄭霊公。公子宋与子家将見。子公之食指動、以示子家、曰「他日我如此、必嘗異味」及入、宰夫将解黿、相視而笑。公問之、子家以告。及食大夫黿、召子公而弗与也。子公怒、染指于鼎、嘗之而出。公怒、欲殺子公。

子公與子家謀先。子家曰:“畜老,猶憚殺之,而況君乎?”反譖子家,子家懼而從之。夏,弒靈公。書曰:“鄭公子歸生弒其君夷。”權不足也。君子曰:“仁而不武,無能達也。”凡弒君,稱君,君無道也;稱臣,臣之罪也。

子公与子家謀先。子家曰「畜老、猶憚殺之、而況君乎」反譖子家、子家懼而従之。夏、弒霊公。書曰「鄭公子帰生弒其君夷」、権不足也。君子曰「仁而不武、無能達也」凡弒君、称君、君無道也;称臣、臣之罪也。

鄭人立子良,辭曰:“以賢則去疾不足,以順則公子堅長。”乃立襄公。襄公將去穆氏,而舍子良。子良不可,曰:“穆氏宜存,則固願也。若將亡之,則亦皆亡,去疾何為?”乃舍之,皆為大夫。

鄭人立子良、辞曰「以賢則去疾不足、以順則公子堅長」乃立襄公。襄公将去穆氏、而舎子良。子良不可、曰「穆氏宜存、則固願也。若将亡之、則亦皆亡、去疾何為」乃舎之、皆為大夫。

初,楚司馬子良生子越椒,子文曰:“必殺之。是子也,熊虎之狀,而豺狼之聲,弗殺,必滅若敖氏矣。諺曰:‘狼子野心。’是乃狼也,其可畜乎?”子良不可。子文以為大戚,及將死,聚其族,曰:“椒也知政,乃速行矣,無及於難。”且泣曰:“鬼猶求食,若敖氏之鬼,不其餒而?”及令尹子文卒,鬥般為令尹,子越為司馬。蒍賈為工正,譖子揚而殺之,子越為令尹,己為司馬。子越又惡之,乃以若敖氏之族圄伯嬴於轑陽而殺之,遂處烝野,將攻王。王以三王之子為質焉,弗受,師於漳澨。秋七月戊戌,楚子與若敖氏戰於皋滸。伯棼射王,汰輈,及鼓跗,著於丁寧。又射汰輈,以貫笠轂。師懼,退。王使巡師曰:“吾先君文王克息,獲三矢焉。伯棼竊其二,盡於是矣。”鼓而進之,遂滅若敖氏。

初、楚司馬子良生子越椒、子文曰「必殺之。是子也、熊虎之状、而豺狼之声、弗殺、必滅若敖氏矣。諺曰『狼子野心』。是乃狼也、其可畜乎」子良不可。子文以為大慼、及将死、聚其族、曰「椒也知政、乃速行矣、無及于難」且泣曰「鬼猶求食、若敖氏之鬼、不其餒而」及令尹子文卒、鬬般為令尹、子越為司馬。蔿賈為工正、譖子揚而殺之、子越為令尹、己為司馬。子越又悪之、乃以若敖氏之族圄伯嬴于轑陽而殺之、遂處烝野、将攻王。王以三王之子為質焉、弗受。師于漳澨。秋七月戊戌、楚子与若敖氏戦于皋滸。伯棼射王、汍輈及鼓跗、著于丁寧。又射、汍輈、以貫笠轂。師懼、退。王使巡師曰「吾先君文王克息、獲三矢焉。伯棼竊其二、尽于是矣」鼓而進之、遂滅若敖氏。

初,若敖娶於雲阝,生鬥伯比。若敖卒,從其母畜於雲阝,淫於雲阝子之女,生子文焉。雲阝夫人使棄諸夢中,虎乳之。雲阝子田,見之,懼而歸,以告,遂使收之。楚人謂乳谷,謂虎於菟,故命之曰鬥谷於菟。以其女妻伯比,實為令尹子文。其孫箴尹克黃使於齊,還,及宋,聞亂。其人曰,“不可以入矣。”箴尹曰:“棄君之命,獨誰受之?君,天也,天可逃乎?”遂歸,覆命而自拘於司敗。

初、若敖娶于鄖、生鬬伯比。底本「云阝」はすなわち鄖。若敖卒、従其母畜于鄖、淫于鄖子之女、生子文焉。鄖夫人使棄諸夢中、虎乳之。鄖子田、見之、懼而帰、夫人以告、遂使収之。楚人謂乳穀、謂虎於菟、故命之曰鬬穀於菟。以其女妻伯比、実為令尹子文。其孫箴尹克黄使于斉、還及宋、聞乱。其人曰「不可以入矣」箴尹曰「棄君之命、獨誰受之?君、天也、天可逃乎」遂帰、復命、而自拘于司敗。

王思子文之治楚國也,曰:“子文無後,何以勸善?”使復其所,改命曰生。

王思子文之治楚国也、曰「子文無後、何以勧善」使復其所、改命曰生。

冬,楚子伐鄭,鄭未服也。

冬、楚子伐鄭、鄭未服也。

◇宣公五年

◇宣公五年

【經】五年春,公如齊。夏,公至自齊。秋九月,齊高固來逆叔姬。叔孫得臣卒。冬,齊高固及子叔姬來。楚人伐鄭。

【経】五年春、公如斉。夏、公至自斉。秋九月、斉高固来逆叔姫。叔孫得臣卒。冬、斉高固及子叔姫来。楚人伐鄭。

【傳】五年春,公如齊,高固使齊侯止公,請叔姬焉。

【伝】五年春、公如斉、高固使斉侯止公、請叔姫焉。

夏,公至自齊,書,過也。

夏、公至自斉、書、過也。

秋九月,齊高固來逆女,自為也。故書曰:“逆叔姬。”即自逆也。

秋九月、斉高固来逆女、自為也。故書曰「逆叔姫」、即自逆也。

冬,來,反馬也。

冬来、反馬也。

楚子伐鄭,陳及楚平。晉荀林父救鄭,伐陳。

楚子伐鄭、陳及楚平。晋荀林父救鄭、伐陳。

◇宣公六年

◇宣公六年

【經】六年春,晉趙盾、衛孫免侵陳。夏四月。秋八月,螽。冬十月。

【経】六年春、晋趙盾・衛孫免侵陳。夏四月。秋八月、螽。冬十月。

【傳】六年春,晉、衛侵陳,陳即楚故也。

【伝】六年春、晋・衛侵陳、陳即楚故也。

夏,定王使子服求後於齊。

夏、定王使子服求后于斉。

秋,赤狄伐晉。圍懷,及邢丘。晉侯欲伐之。中行桓子曰:“使疾其民,以盈其貫,將可殪也。《周書》曰:‘殪戎殷。’此類之謂也。”

秋、赤狄伐晋。囲懐、及邢丘。晋侯欲伐之。中行桓子曰「使疾其民、以盈其貫、将可殪也。『周書』曰『殪戎殷』、此類之謂也」

冬,召桓公逆王后於齊。

冬、召桓公逆王后于斉。

楚人伐鄭,取成而還。

楚人伐鄭、取成而還。

鄭公子曼滿與王子伯廖語,欲為卿。伯廖告人曰:“無德而貪,其在《周易》《豐》ⅲⅵ之《離》ⅵⅵ,弗過之矣。”間一歲,鄭人殺之。

鄭公子曼満与王子伯廖語、欲為卿。伯廖告人曰「無徳而貪、其在『周易』『豊』之『離』、弗過之矣」間一歳、鄭人殺之。

◇宣公七年

◇宣公七年

【經】七年春,衛侯使孫良夫來盟。夏,公會齊侯伐萊。秋,公至自伐萊。

【経】七年春、衛侯使孫良夫来盟。夏、公会斉侯伐莱。秋、公至自伐莱。

大旱。冬,公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯於黑壤。

大旱。冬、公会晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯于黒壌。

【傳】七年春,衛孫桓子來盟,始通,且謀會晉也。

【伝】七年春、衛孫桓子来盟、始通、且謀会晋也。

夏,公會齊侯伐萊,不與謀也。凡師出,與謀曰及,不與某曰會。

夏、公会斉侯伐莱、不与謀也。凡師出、与謀曰及、不与謀曰会。底本「不与某」はすなわち「不与謀」。

赤狄侵晉,取向陰之禾。

赤狄侵晋、取向陰之禾。

鄭及晉平,公子宋之謀也,故相鄭伯以會。冬,盟於黑壤,王叔桓公臨之,以謀不睦。

鄭及晋平、公子宋之謀也、故相鄭伯以会。冬、盟于黒壌、王叔桓公臨之、以謀不睦。

晉侯之立也,公不朝焉,又不使大夫聘,晉人止公於會,盟於黃父。公不與盟,以賂免。故黑壤之盟不書,諱之也。

晋侯之立也、公不朝焉、又不使大夫聘、晋人止公于会、盟于黄父。公不与盟、以賂免。故黒壌之盟不書、諱之也。

◇宣公八年

◇宣公八年

【經】八年春,公至自會。夏六月,公子遂如齊,至黃乃復。辛巳,有事於大廟,仲遂卒於垂。壬午,猶繹。萬入,去籥。戊子,夫人贏氏薨。晉師、白狄伐秦。楚人滅舒蓼。秋七月甲子,日有食之,既。冬十月己丑,葬我小君敬贏。

【経】八年春、公至自会。夏六月、公子遂如斉、至黄乃復。辛巳、有事于大廟、仲遂卒于垂。壬午、猶繹。万入去籥。戊子、夫人嬴氏薨。晋師・白狄伐秦。楚人滅舒蓼。秋七月甲子、日有食之、既。冬十月己丑、葬我小君敬嬴。

雨,不克葬。庚寅,日中而克葬。城平陽。楚師伐陳。

雨、不克葬。庚寅、日中而克葬。城平陽。楚師伐陳。

【傳】八年春,白狄及晉平。夏,會晉伐秦。晉人獲秦諜,殺諸絳市,六日而蘇。

【伝】八年春、白狄及晋平。夏、会晋伐秦。晋人獲秦諜、殺諸絳市、六日而蘇。

有事於大廟,襄仲卒而繹,非禮也。

有事于大廟、襄仲卒而繹、非礼也。

楚為眾舒叛,故伐舒蓼,滅之。楚子疆之,及滑汭。盟吳、越而還。

楚為衆舒叛故、伐舒蓼、滅之。楚子疆之、及滑汭。盟呉・越而還。

晉胥克有蠱疾,郤缺為政。秋,廢胥克。使趙朔佐下軍。

晋胥克有蠱疾、郤缺為政。秋、廃胥克。使趙朔佐下軍。

冬,葬敬贏。旱,無麻,始用葛茀。雨,不克葬,禮也。禮,卜葬,先遠日,闢不懷也。

冬、葬敬嬴。旱、無麻、始用葛茀。雨、不克葬、礼也。礼、卜葬、先遠日、辟不懐也。

城平陽,書,時也。

城平陽、書、時也。

陳及晉平。楚師伐陳,取成而還。

陳及晋平。楚師伐陳、取成而還。

◇宣公九年

◇宣公九年

【經】九年春王正月,公如齊。公至自齊。夏,仲孫蔑如京師。齊侯伐萊。

【経】九年春、王正月、公如斉。公至自斉。夏、仲孫蔑如京師。斉侯伐莱。

秋,取根牟。八月,滕子卒。九月,晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯會於扈。晉荀林父帥師伐陳。辛酉,晉侯黑臀卒於扈。冬十月癸酉,衛侯鄭卒。宋人圍滕。

秋、取根牟。八月、滕子卒。九月、晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯会于扈。晋荀林父帥師伐陳。辛酉、晋侯黒臀卒于扈。冬十月癸酉、衛侯鄭卒。宋人囲滕。

楚子伐鄭。晉郤缺帥師救鄭。陳殺其大夫洩冶。

楚子伐鄭。晋郤缺帥師救鄭。陳殺其大夫洩冶。

【傳】九年春,王使來徵聘。夏,孟獻於聘於周,王以為有禮,厚賄之。

【伝】九年春、王使来徴聘。夏、孟献子聘于周。底本「孟献于」はすなわち孟献子。王以為有礼、厚賄之。

秋,取根牟,言易也。

秋、取根牟、言易也。

滕昭公卒。

滕昭公卒。

會於扈,討不睦也。陳侯不會。晉荀林父以諸侯之師伐陳。晉侯卒於扈,乃還。

会于扈、討不睦也。陳侯不会。晋荀林父以諸侯之師伐陳。晋侯卒于扈、乃還。

冬,宋人圍滕,因其喪也。

冬、宋人囲滕、因其喪也。

陳靈公與孔寧、儀行父通於夏姬,皆衷其礻日服以戲於朝。洩冶諫曰:“公卿宣淫,民無效焉,且聞不令,君其納之。”公曰:“吾能改矣。”公告二子,二子請殺之,公弗禁,遂殺洩冶。孔子曰:“《詩》云:‘民之多闢,無自立闢。’其洩冶之謂乎。”

陳霊公与孔寧・儀行父通于夏姫、皆衷其衵服以戯于朝。底本「礻日」はすなわち衵。洩冶諫曰「公卿宣淫、民無效焉、且聞不令、君其納之」公曰「吾能改矣」公告二子、二子請殺之、公弗禁、遂殺洩冶。孔子曰「『詩』云『民之多辟、無自立辟』、其洩冶之謂乎」

楚子為厲之役故,伐鄭。

楚子為厲之役故、伐鄭。

晉郤缺救鄭,鄭伯敗楚師於柳棼。國人皆喜,唯子良憂曰:“是國之災也,吾死無日矣。”

晋郤缺救鄭、鄭伯敗楚師于柳棼。国人皆喜、唯子良憂曰「是国之災也、吾死無日」

◇宣公十年

◇宣公十年

【經】十年春,公如齊。公至自齊。齊人歸我濟西田。夏四月丙辰,日有食之。己巳,齊侯元卒。齊崔氏出奔衛。公如齊。五月,公至自齊。癸巳,陳夏徵舒弒其君平國。六月,宋師伐滕。公孫歸父如齊,葬齊惠公。晉人、宋人、衛人、曹人伐鄭。秋,天王使王季子來聘。公孫歸父帥師伐邾,取繹。大水。季孫行父如齊。冬,公孫歸父如齊。齊侯使國佐來聘。飢。楚子伐鄭。

【経】十年春、公如斉。公至自斉。斉人帰我済西田。夏四月丙辰、日有食之。己巳、斉侯元卒。斉崔氏出奔衛。公如斉。五月、公至自斉。癸巳、陳夏徴舒弒其君平国。六月、宋師伐滕。公孫帰父如斉、葬斉恵公。晋人・宋人・衛人・曹人伐鄭。秋、天王使王季子来聘。公孫帰父帥師伐邾、取繹。大水。季孫行父如斉。冬、公孫帰父如斉。斉侯使国佐来聘。饑。楚子伐鄭。

【傳】十年春,公如齊。齊侯以我服故,歸濟西之田。

【伝】十年春、公如斉。斉侯以我服故、帰済西之田。

夏,齊惠公卒。崔杼有寵於惠公,高、國畏其逼也,公卒而逐之,奔衛。書曰“崔氏”,非其罪也,且告以族,不以名。凡諸侯之大夫違,告於諸侯曰:“某氏之守臣某,失守宗廟,敢告。”所有玉帛之使者,則告,不然,則否。

夏、斉恵公卒。崔杼有寵于恵公、高・国畏其偪也、公卒而逐之、奔衛。書曰「崔氏」、非其罪也、且告以族、不以名。凡諸侯之大夫違、告于諸侯曰「某氏之守臣某、失守宗廟、敢告」所有玉帛之使者、則告、不然、則否。

公如齊奔喪。

公如斉奔喪。

陳靈公與孔寧、儀行父飲酒於夏氏。公謂行父曰:“徵舒似女。”對曰:“亦似君。”徵舒病之。公出,自其廄射而殺之。二子奔楚。

陳霊公与孔寧・儀行父飲酒于夏氏。公謂行父曰「徴舒似女」對曰「亦似君」徴舒病之。公出、自其廐射而殺之。二子奔楚。

滕人恃晉而不事宋,六月,宋師伐滕。

滕人恃晋而不事宋、六月、宋師伐滕。

鄭及楚平。諸侯之師伐鄭,取成而還。

鄭及楚平。諸侯之師伐鄭、取成而還。

秋,劉康公來報聘。

秋、劉康公來報聘。

師伐邾,取繹。

師伐邾、取繹。

季文子初聘於齊。

季文子初聘于斉。

冬,子家如齊,伐邾故也。

冬、子家如斉、伐邾故也。

國武子來報聘。

国武子來報聘。

楚子伐鄭。晉士會救鄭,逐楚師於潁北。諸侯之師戍鄭。鄭子家卒。鄭人討幽公之亂,斫子家之棺而逐其族。改葬幽公,諡之曰靈。

楚子伐鄭。晋士会救鄭、逐楚師于潁北。諸侯之師戍鄭。鄭子家卒。鄭人討幽公之乱、斫子家之棺而逐其族。改葬幽公、諡之曰「霊」。

◇宣公十一年

◇宣公十一年

【經】十有一年春王正月。夏,楚子、陳侯、鄭伯盟於辰陵。公孫歸父會齊人伐莒。秋,晉侯會狄於欑函。冬十月,楚人殺陳夏徵舒。丁亥,楚子入陳。

【経】十有一年春、王正月。夏、楚子・陳侯・鄭伯盟于辰陵。公孫帰父会斉人伐莒。秋、晋侯会狄于欑函。冬十月、楚人殺陳夏徴舒。丁亥、楚子入陳。

納公孫寧、儀行父於陳。

納公孫寧・儀行父于陳。

【傳】十一年春,楚子伐鄭,及櫟。子良曰:“晉、楚不務德而兵爭,與其來者可也。晉、楚無信,我焉得有信。”乃從楚。夏,楚盟於辰陵,陳、鄭服也。

【伝】十有一年春、楚子伐鄭、及櫟。子良曰「晋・楚不務徳而兵争、与其来者可也。晋・楚無信、我焉得有信」乃従楚。夏、楚盟于辰陵、陳・鄭服也。

楚左尹子重侵宋,王待諸郔。令尹蒍艾獵城沂,使封人慮事,以授司徒。

楚左尹子重侵宋、王待諸郔。令尹蔿艾猟城沂、使封人慮事、以授司徒。

量功命日,分財用,平板幹,稱畚築,程土物,議遠邇,略基趾,具餱糧,度有司,事三旬而成,不愆於素。

量功命日、分財用、平板榦、称畚築、程土物、議遠邇、略基趾、具餱粮、度有司、事三旬而成、不愆于素。

晉郤成子求成於眾狄,眾狄疾赤狄之役,遂服於晉。秋,會於欑函,眾狄服也。是行也。諸大夫欲召狄。郤成子曰:“吾聞之,非德,莫如勤,非勤,何以求人?能勤有繼,其從之也。《詩》曰:‘文王既勤止。’文王猶勤,況寡德乎?”冬,楚子為陳夏氏亂故,伐陳。謂陳人無動,將討於少西氏。遂入陳,殺夏徵舒,轘諸栗門,因縣陳。陳侯在晉。

晋郤成子求成于衆狄、衆狄疾赤狄之役、遂服于晋。秋、会于欑函、衆狄服也。是行也、諸大夫欲召狄。郤成子曰「吾聞之:非徳、莫如勤;非勤、何以求人?能勤有継、其従之也。『詩』曰『文王既勤止』。文王猶勤、況寡徳乎」冬、楚子為陳夏氏乱故、伐陳。謂陳人無動、将討于少西氏。遂入陳、殺夏徴舒、轘諸栗門、因県陳。陳侯在晋。

申叔時使於齊,反,覆命而退。王使讓之曰:“夏徵舒為不道,弒其君,寡人以諸侯討而戮之,諸侯、縣公皆慶寡人,女獨不慶寡人,何故”對曰:“猶可辭乎?”王曰:“可哉”曰:夏徵舒弒其君,其罪大矣,討而戮之,君之義也。

申叔時使于斉、反、復命而退。王使讓之曰「夏徴舒為不道、弒其君、寡人以諸侯討而戮之、諸侯・県公皆慶寡人、女独不慶寡人、何故」對曰「猶可辞乎」王曰「可哉」曰「夏徴舒弒其君、其罪大矣、討而戮之、君之義也。

抑人亦有言曰:‘牽牛以蹊人之田,而奪之牛。’牽牛以蹊者,信有罪矣;而奪之牛,罰已重矣。諸侯之從也,曰討有罪也。今縣陳,貪其富也。以討召諸侯,而以貪歸之,無乃不可乎?王曰:“善哉!”吾未之聞也。反之,可乎?對曰:“可哉!吾儕小人所謂取諸其懷而與之也。”乃復封陳,鄉取一人焉以歸,謂之夏州。故書曰:“楚子入陳,納公孫寧、儀行父於陳。”書有禮也。

(申叔時は続けて言う)抑人亦有言曰『牽牛以蹊人之田、而奪之牛』。牽牛以蹊者、信有罪矣;而奪之牛、罰已重矣。諸侯之従也、曰討有罪也。今県陳、貪其富也。以討召諸侯、而以貪帰之、無乃不可乎」王曰「善哉!吾未之聞也。反之、可乎」對曰「可哉!吾儕小人所謂取諸其懐而与之也」乃復封陳、郷取一人焉以帰、謂之夏州。故書曰「楚子入陳、納公孫寧・儀行父于陳」、書有礼也。

厲之役,鄭伯逃歸,自是楚未得志焉。鄭既受盟於辰陵,又徼事於晉。

厲之役、鄭伯逃帰、自是楚未得志焉。鄭既受盟于辰陵、又徼事于晋。

◇宣公十二年

◇宣公十二年

【經】十有二年春,葬陳靈公。楚子圍鄭。夏六月乙卯,晉荀林父帥師及楚子戰於邲,晉師敗績。秋七月。冬十有二月戊寅,楚子滅蕭。晉人、宋人、衛人、曹人同盟於清丘。宋師伐陳。衛人救陳。

【経】十有二年春、葬陳霊公。楚子囲鄭。夏六月乙卯、晋荀林父帥師及楚子戦于邲、晋師敗績。秋七月。冬十有二月戊寅、楚子滅蕭。晋人・宋人・衛人・曹人同盟于清丘。宋師伐陳。衛人救陳。

【傳】十二年春,楚子圍鄭。旬有七日,鄭人卜行成,不吉。卜臨於大宮,且巷出車,吉。國人大臨,守陴者皆哭。楚子退師,鄭人修城,進復圍之,三月克之。入自皇門,至於逵路。鄭伯肉袒牽羊以逆,曰:“孤不天,不能事君,使君懷怒以及敝邑,孤之罪也。敢不唯命是聽。其俘諸江南以實海濱,亦唯命。其翦以賜諸侯,使臣妾之,亦唯命。若惠顧前好,徼福於厲、宣、桓、武,不泯其社稷,使改事君,夷於九縣,君之惠也,孤之願之,非所敢望也。敢布腹心,君實圖之。”左右曰:“不可許也,得國無赦。”王曰:“其君能下人,必能信用其民矣,庸可幾乎?”退三十里而許之平。潘尫入盟,子良出質。

【伝】十有二年春、楚子囲鄭。旬有七日、鄭人卜行成、不吉。卜臨于大宮、且巷出車、吉。国人大臨、守陴者皆哭。楚子退師、鄭人脩城、進復囲之、三月克之。入自皇門、至于逵路。鄭伯肉袒牽羊以逆、曰「孤不天、不能事君、使君懐怒以及敝邑、孤之罪也。敢不唯命是聴。其俘諸江南以実海濱、亦唯命。其翦以賜諸侯、使臣妾之、亦唯命。若恵顧前好、徼福于厲宣・桓武、不泯其社稷、使改事君、夷于九県、君之恵也、孤之願也、非所敢望也。敢布腹心、君実図之」左右曰「不可許也、得国無赦」王曰「其君能下人、必能信用其民矣、庸可幾乎」退三十里而許之平。潘尫入盟、子良出質。

夏六月,晉師救鄭。荀林父將中軍,先縠佐之。士會將上軍,郤克佐之。趙朔將下軍,欒書佐之。趙括、趙嬰齊為中軍大夫。鞏朔、韓穿為上軍大夫。荀首、趙同為下軍大夫。韓厥為司馬。及河,聞鄭既及楚平,桓子欲還,曰:“無及於鄭而剿民,焉用之?楚歸而動,不後。”隨武子曰:“善。會聞用師,觀釁而動。

夏六月、晋師救鄭。荀林父将中軍、先縠佐之。士会将上軍、郤克佐之。趙朔将下軍、欒書佐之。趙括・趙嬰斉為中軍大夫。鞏朔・韓穿為上軍大夫。荀首・趙同為下軍大夫。韓厥為司馬。及河、聞鄭既及楚平、桓子欲還、曰「無及于鄭而勦民、焉用之?楚帰而動、不後」随武子曰「善。会聞用師、観釁而動。

德刑政事典禮不易,不可敵也,不為是徵。楚軍討鄭,怒其貳而哀其卑,叛而伐之,服而舍之,德刑成矣。伐叛,刑也;柔服,德也。二者立矣。昔歲入陳,今茲入鄭,民不罷勞,君無怨讟,政有經矣。荊尸而舉,商農工賈不敗其業,而卒乘輯睦,事不奸矣。蒍敖為宰,擇楚國之令典,軍行,右轅,左追蓐,前茅慮無,中權,後勁,百官象物而動,軍政不戒而備,能用典矣。其君之舉也,內姓選於親,外姓選於舊;舉不失德,賞不失勞;老有加惠,旅有施捨;君子小人,物有服章,貴有常尊,賤有等威;禮不逆矣。德立,刑行,政成,事時,典從,禮順,若之何敵之?見可而進,知難而退,軍之善政也。兼弱攻昧,武之善經也。子姑整軍而經武乎,猶有弱而昧者,何必楚?仲虺有言曰:‘取亂侮亡。’兼弱也。

(随武子は続けて言う)徳・刑・政・事・典・礼不易、不可敵也、不為是征。楚軍討鄭、怒其貳而哀其卑、叛而伐之、服而舎之、徳刑成矣。伐叛、刑也;柔服、徳也。二者立矣。昔歳入陳、今茲入鄭、民不罷労、君無怨讟、政有經矣。荊尸而挙、商農工賈不敗其業、而卒乗輯睦、事不奸矣。蔿敖為宰、擇楚国之令典、軍行、右轅左追蓐、前茅慮無、中権後勁、百官象物而動、軍政不戒而備、能用典矣。其君之挙也、内姓選于親、外姓選于旧、挙不失徳、賞不失労、老有加恵、旅有施舍、君子小人、物有服章、貴有常尊、賤有等威、礼不逆矣。徳立・刑行・政成・事時・典従・礼順、若之何敵之?見可而進、知難而退、軍之善政也。兼弱攻昧、武之善經也。子姑整軍而経武乎、猶有弱而昧者、何必楚?仲虺有言曰『取乱侮亡』、兼弱也。

《汋》曰:‘於鑠王師,遵養時晦。’耆昧也。《武》曰:‘無競惟烈。’撫弱耆昧以務烈所,可也。”彘子曰:“不可。晉所以霸,師武臣力也。今失諸侯,不可謂力。有敵而不從,不可謂武。由我失霸,不如死。且成師以出,聞敵強而退,非夫也。命為軍師,而卒以非夫,唯群子能,我弗為也。”以中軍佐濟。

(随武子は続けて言う)『汋』曰『於鑠王師、遵養時晦』、耆昧也。『武』曰『無競惟烈』。撫弱耆昧、以務烈所、可也」彘子曰「不可。晋所以霸、師武臣力也。今失諸侯、不可謂力。有敵而不従、不可謂武。由我失霸、不如死。且成師以出、聞敵強而退、非夫也。命為軍帥、而卒以非夫、唯群子能、我弗為也」以中軍佐済。

知莊子曰:“此師殆哉。《周易》有之,在《師》三之《臨》三,曰:‘師出以律,否臧兇。’執事順成為臧,逆為否,眾散為弱,川壅為澤,有律以如己也,故曰律。否臧,且律竭也。盈而以竭,夭且不整,所以兇也。不行謂之《臨》,有帥而不從,臨孰甚焉!此之謂矣。果遇,必敗,彘子屍之。雖免而歸,必有大咎。”韓獻子謂桓子曰:“彘子以偏師陷,子罪大矣。子為元師,師不用命,誰之罪也?失屬亡師,為罪已重,不如進也。事之不捷,惡有所分,與其專罪,六人同之,不猶愈乎?”師遂濟。

知荘子曰「此師殆哉。『周易』有之、在『師』之『臨』、曰『師出以律、否臧凶』。執事順成為臧、逆為否。衆散為弱、川壅為沢、有律以如己也、故曰律。否臧、且律竭也。盈而以竭、夭且不整、所以凶也。不行之謂『臨』、有帥而不従、臨孰甚焉!此之謂矣。果遇必敗、彘子尸之。雖免而帰、必有大咎」韓献子謂桓子曰「彘子以偏師陷、子罪大矣。子為元帥、師不用命、誰之罪也?失属亡師、為罪已重、不如進也。事之不捷、悪有所分、与其専罪、六人同之、不猶愈乎」師遂済。

楚子北,師次於郔,沈尹將中軍,子重將左,子反將右,將飲馬於河而歸。

楚子北師次于郔。沈尹将中軍、子重将左、子反将右、将飲馬于河而帰。

聞晉師既濟,王欲還,嬖人伍參欲戰。令尹孫叔敖弗欲,曰:“昔歲入陳,今茲入鄭,不無事矣。戰而不捷,參之肉其足食乎?”參曰:“若事之捷,孫叔為無謀矣。不捷,參之肉將在晉軍,可得食乎?”令尹南轅反旆,伍參言於王曰:“晉之從政者新,未能行令。其佐先縠剛愎不仁,未肯用命。其三帥者專行不獲,聽而無上,眾誰適從?此行也,晉師必敗。且君而逃臣,若社稷何?”王病之,告令尹,改乘轅而北之,次於管以待之。

聞晋師既済、王欲還、嬖人伍参欲戦。令尹孫叔敖弗欲、曰「昔歳入陳、今茲入鄭、不無事矣。戦而不捷、参之肉其足食乎」参曰「若事之捷、孫叔為無謀矣。不捷、参之肉将在晋軍、可得食乎」令尹南轅反旆。伍参言于王曰「晋之従政者新、未能行令。其佐先縠剛愎不仁、未肯用命。其三帥者専行不獲、聴而無上、衆誰適従?此行也、晋師必敗。且君而逃臣、若社稷何」王病之、告令尹、改乗轅而北之、次于管以待之。

晉師在敖、鄗之間。鄭皇戌使如晉師,曰:“鄭之從楚,社稷之故也,未有貳心。楚師驟勝而驕,其師老矣,而不設備,子擊之,鄭師為承,楚師必敗。”

晋師在敖・鄗之間。鄭皇戌使如晋師、曰「鄭之従楚、社稷之故也、未有貳心。楚師驟勝而驕、其師老矣、而不設備、子撃之、鄭師為承、楚師必敗」

彘子曰:“敗楚服鄭,於此在矣,必許之。”欒武子曰:“楚自克庸以來,其君無日不討國人而訓之於民生之不易,禍至之無日,戒懼之不可以怠。在軍,無日不討軍實而申儆之於勝之不可保,紂之百克,而卒無後。訓以若敖、蚡冒,篳路藍縷,以啟山林。箴之曰:‘民生在勤,勤則不匱。’不可謂驕。先大夫子犯有言曰:‘師直為壯,曲為老。’我則不德,而徼怨於楚,我曲楚直,不可謂老。

彘子曰「敗楚服鄭、于此在矣、必許之」欒武子曰「楚自克庸以来、其君無日不討国人而訓之于民生之不易・禍至之無日・戒懼之不可以怠。在軍、無日不討軍実而申儆之于勝之不可保・紂之百克而卒無後。訓之以若敖・蚡冒篳路藍縷以啓山林。箴之曰『民生在勤、勤則不匱』。不可謂驕。先大夫子犯有言曰『師直為壮、曲為老』。我則不徳而徼怨于楚、我曲楚直、不可謂老。

其君之戎,分為二廣,廣有一卒,卒偏之兩。右廣初駕,數及日中;左則受之,以至於昏。內官序當其夜,以待不虞,不可謂無備。子良,鄭之良也。師叔,楚之崇也。師叔入盟,子良在楚,楚、鄭親矣。來勸我戰,我克則來,不克遂往,以我卜也,鄭不可從。”趙括、趙同曰:“率師以來,唯敵是求。克敵得屬,又何矣?必從彘子。”知季曰:“原、屏,咎之徒也。”趙莊子曰:“欒伯善哉,實其言,必長晉國。”

(欒武子は続けて言う)其君之戎也、分為二広、広有一卒、卒偏之両。右広初駕、数及日中;左則受之、以至于昏。内官序当其夜、以待不虞、不可謂無備。子良、鄭之良也。師叔、楚之崇也。師叔入盟、子良在楚、楚・鄭親矣。来勧我戦、我克則来、不克遂往、以我卜也、鄭不可従」趙括・趙同曰「率師以来、唯敵是求。克敵得属、又何俟?必従彘子」知季曰「原・屏、咎之徒也」趙荘子曰「欒伯善哉、実其言、必長晋国」

楚少宰如晉師,曰:“寡君少遭閔凶,不能文。聞二先君之出入此行也,將鄭是訓定,豈敢求罪於晉。二三子無淹久。”隨季對曰:“昔平王命我先君文侯曰:‘與鄭夾輔周室,毋廢王命。’今鄭不率,寡君使群臣問諸鄭,豈敢辱候人?敢拜君命之辱。”彘子以為諂,使趙括從而更之,曰:“行人失辭。寡君使群臣遷大國之跡於鄭,曰:‘無闢敵。’群臣無所逃命。”

楚少宰如晋師、曰「寡君少遭閔凶、不能文。聞二先君之出入于此行也、将鄭是訓定、豈敢求罪于晋。二三子無淹久」随季對曰「昔平王命我先君文侯曰『与鄭夾輔周室、毋廃王命』。今鄭不率、寡君使群臣問諸鄭、豈敢辱候人?敢拜君命之辱」彘子以為諂、使趙括従而更之曰「行人失辞。寡君使群臣遷大国之迹于鄭、曰『無辟敵』。群臣無所逃命」

楚子又使求成於晉,晉人許之,盟有日矣。楚許伯御樂伯,攝叔為右,以致晉師,許伯曰:“吾聞致師者,御靡旌摩壘而還。”樂伯曰:“吾聞致師者,左射以菆,代御執轡,御下兩馬,掉鞅而還。”攝叔曰:“吾聞致師者,右入壘,折馘,執俘而還。”皆行其所聞而復。晉人逐之,左右角之。樂伯左射馬而右射人,角不能進,矢一而已。麋興於前,射麋麗龜。晉鮑癸當其後,使攝叔奉麋獻焉,曰:“以歲之非時,獻禽之未至,敢膳諸從者。”鮑癸止之,曰:“其左善射,其右有辭,君子也。”既免。

楚子又使求成于晋、晋人許之、盟有日矣。楚許伯為楽伯御、摂叔為右、以致晋師。許伯曰「吾聞致師者、御靡旌摩壘而還」楽伯曰「吾聞致師者、左射以菆、代御執轡、御下両馬、掉鞅而還」摂叔曰「吾聞致師者、右入壘、折馘執俘而還」皆行其所聞而復。晋人逐之、左右角之。楽伯左射馬而右射人、角不能進、矢一而已。麋興于前、射麋麗亀。晋鮑癸当其後、使摂叔奉麋献焉、曰「以歳之非時、献禽之未至、敢膳諸従者」鮑癸止之、曰「其左善射、其右有辞、君子也」既免。

晉魏錡求公族未得,而怒,欲敗晉師。請致師,弗許。請使,許之。遂往,請戰而還。楚潘黨逐之,及熒澤,見六麋,射一麋以顧獻曰:“子有軍事,獸人無乃不給於鮮,敢獻於從者。”叔黨命去之。趙旃求卿未得,且怒於失楚之致師者。請挑戰,弗許。請召盟,許之。與魏錡皆命而往。郤獻子曰:“二憾往矣,弗備必敗。”彘子曰:“鄭人勸戰,弗敢從也。楚人求成,弗能好也。師無成命,多備何為。”士季曰:“備之善。若二子怒楚,楚人乘我,喪師無日矣。不如備之。楚之無惡,除備而盟,何損於好?若以惡來,有備不敗。且雖諸侯相見,軍衛不徹,警也。”彘子不可。

晋魏錡求公族未得、而怒、欲敗晋師。請致師、弗許。請使、許之。遂往、請戦而還。楚潘党逐之、及熒沢、見六麋、射一麋以顧献、曰「子有軍事、獣人無乃不給于鮮、敢献于従者」叔党命去之。趙旃求卿未得、且怒于失楚之致師者。請挑戦、弗許。請召盟、許之。与魏錡皆命而往。郤献子曰「二憾往矣、弗備必敗」彘子曰「鄭人勧戦、弗敢従也。楚人求成、弗能好也。師無成命、多備何為」士季曰「備之善。若二子怒楚、楚人乗我、喪師無日矣。不如備之。楚之無悪、除備而盟、何損于好?若以悪来、有備不敗。且雖諸侯相見、軍衛不徹、警也」彘子不可。

士季使鞏朔、韓穿帥七覆於敖前,故上軍不敗。趙嬰齊使其徒先具舟於河,故敗而先濟。

士季使鞏朔・韓穿帥七覆于敖前、故上軍不敗。趙嬰斉使其徒先具舟于河、故敗而先済。

潘黨既逐魏錡,趙旃夜至於楚軍,席于軍門之外,使其徒入之。楚子為乘廣三十乘,分為左右。右廣雞鳴而駕,日中而說。左則受之,日入而說。許偃御右廣,養由基為右。彭名御左廣,屈蕩為右。乙卯,王乘左廣以逐趙旃。趙旃棄車而走林,屈蕩搏之,得其甲裳。晉人懼二子之怒楚師也,使軘車逆之。潘黨望其塵,使騁而告曰:“晉師至矣。”楚人亦懼王之入晉軍也,遂出陳。孫叔曰:“進之。寧我薄人,無人薄我。《詩》云:‘元戎十乘,以先啟行。’先人也。

潘党既逐魏錡、趙旃夜至于楚軍、席于軍門之外、使其徒入之。楚子為乗広三十乗、分為左右。右広鶏鳴而駕、日中而説。左則受之、日入而説。許偃御右広、養由基為右。彭名御左広、屈蕩為右。乙卯、王乗左広以逐趙旃。趙旃棄車而走林、屈蕩搏之、得其甲裳。晋人懼二子之怒楚師也、使軘車逆之。潘党望其塵、使聘而告曰「晋師至矣」楚人亦懼王之入晋軍也、遂出陳。孫叔曰「進之。寧我薄人、無人薄我。『詩』云『元戎十乗、以先啓行』、先人也。

《軍志》曰:‘先人有奪人之心’。薄之也。”遂疾進師,車馳卒奔,乘晉軍。

(孫叔は続けて言う)『軍志』曰『先人有奪人之心』、薄之也」遂疾進師、車馳卒奔、乗晋軍。

桓子不知所為,鼓于軍中曰:“先濟者有賞。”中軍、下軍爭舟,舟中之指可掬也。

桓子不知所為、鼓于軍中曰「先済者有賞」中軍・下軍争舟、舟中之指可掬也。

晉師右移,上軍未動。工尹齊將右拒卒以逐下軍。楚子使唐狡與蔡鳩居告唐惠侯曰:“不穀不德而貪,以遇大敵,不穀之罪也。然楚不克,君之羞也,敢藉君靈以濟楚師。”使潘黨率遊闕四十乘,從唐侯以為左拒,以從上軍。駒伯曰:“待諸乎?”隨季曰:“楚師方壯,若萃於我,吾師必盡,不如收而去之。分謗生民,不亦可乎?”殿其卒而退,不敗。

晋師右移、上軍未動。工尹斉将右拒卒以逐下軍。楚子使唐狡与蔡鳩居告唐恵侯曰「不穀不徳而貪、以遇大敵、不穀之罪也。然楚不克、君之羞也、敢藉君之霊以済楚師」使潘党率游闕四十乗、従唐侯以為左拒、以従上軍。駒伯曰「待諸乎」随季曰「楚師方壮、若萃于我、吾師必尽、不如収而去之。分謗生民、不亦可乎」殿其卒而退、不敗。

王見右廣,將從之乘。屈蕩屍之,曰:“君以此始,亦必以終。”自是楚之乘廣先左。

王見右広、将従之乗。屈蕩尸之、曰「君以此始、亦必以終」自是楚之乗広先左。

晉人或以廣隊不能進,楚人惎之脫扃,少進,馬還,又惎之拔旆投衡,乃出。

晋人或以広隊不能進、楚人惎之脱扃、少進、馬還、又惎之拔旆投衡、乃出。

顧曰:“吾不如大國之數奔也。”

顧而曰「吾儕不如大国之数奔也」

趙旃以其良馬二,濟其兄與叔父,以他馬反,遇敵不能去,棄車而走林。逢大夫與其二子乘,謂其二子無顧。顧曰:“趙傁在後。”怒之,使下,指木曰:“屍女於是。”授趙旃綏,以免。明日以表屍之,皆重獲在木下。

趙旃以其良馬二、済其兄与叔父、以他馬反、遇敵不能去、棄車而走林。逢大夫与其二子乗、謂其二子無顧。顧曰「趙叟在後」。怒之、使下、指木曰「尸女于是」授趙旃綏以免。明日以表尸之、皆重獲在木下。

楚熊負羈囚知犖。知莊子以其族反之,廚武子御,下軍之士多從之。每射,抽矢,菆,納諸廚子之房。廚子怒曰:“非子之求而蒲之愛,董澤之蒲,可勝既乎?”知季曰:“不以人子,吾子其可得乎?吾不可以苟射故也。”射連尹襄老,獲之,遂載其屍。射公子谷臣,囚之。以二者還。

楚熊負羈囚知罃。知荘子以其族反之、厨武子御、下軍之士多従之。每射抽矢菆、納諸厨子之房。厨子怒曰「非子之求而蒲之愛、董沢之蒲、可勝既乎」知季曰「不以人子、吾子其可得乎?吾不可以苟射故也」射連尹襄老、獲之、遂載其尸。射公子穀臣、囚之。以二者還。

及昏,楚師軍於邲,晉之餘師不能軍,宵濟,亦終夜有聲。

及昏、楚師軍于邲、晋之餘師不能軍、宵済、亦終夜有声。

丙辰,楚重至於邲,遂次於衡雍。潘黨曰:“君盍築武軍,而收晉屍以為京觀。臣聞克敵必示子孫,以無忘武功。”楚子曰:“非爾所知也。夫文,止戈為武。武王克商。作《頌》曰:‘載戢干戈,載櫜弓矢。我求懿德,肆於時夏,允王保之。’又作《武》,其卒章曰‘耆定爾功’。其三曰:‘鋪時繹思,我徂求定。’其六曰:‘綏萬邦,屢豐年。’夫武,禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和眾、豐財者也。故使子孫無忘其章。今我使二國暴骨,暴矣;觀兵以威諸侯,兵不戢矣。暴而不戢,安能保大?猶有晉在,焉得定功?所違民欲猶多,民何安焉?無德而強爭諸侯,何以和眾?利人之幾,而安人之亂,以為己榮,何以豐財?武有七德,我無一焉,何以示子孫?其為先君宮,告成事而已。武非吾功也。古者明王伐不敬,取其鯨鯢而封之,以為大戮,於是乎有京觀,以懲淫慝。今罪無所,而民皆盡忠以死君命,又可以為京觀乎?”祀於河,作先君宮,告成事而還。

丙辰、楚重至于邲、遂次于衡雍。潘党曰「君盍築武軍、而収晋尸以為京観。臣聞克敵必示子孫、以無忘武功」楚子曰「非爾所知也。夫文、止戈為武。武王克商、作『頌』曰『載戢干戈、載櫜弓矢。我求懿徳、肆于時夏、允王保之』。又作『武』、其卒章曰『耆定爾功』。其三曰『鋪時繹思、我徂惟求定』。其六曰『綏万邦、屢豊年』。夫武、禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財者也。故使子孫無忘其章。今我使二国暴骨、暴矣;観兵以威諸侯、兵不戢矣。暴而不戢、安能保大?猶有晋在、焉得定功?所違民欲猶多、民何安焉?無徳而強争諸侯、何以和衆?利人之幾、而安人之乱、以為己榮、何以豊財?武有七徳、我無一焉、何以示子孫?其為先君宮、告成事而已。武非吾功也。古者明王伐不敬、取其鯨鯢而封之、以為大戮、于是乎有京観、以懲淫慝。今罪無所、而民皆尽忠以死君命、又可以為京観乎」祀于河、作先君宮、告成事而還。

是役也,鄭石制實入楚師,將以分鄭而立公子魚臣。辛未,鄭殺僕叔及子服。

是役也、鄭石制実入楚師、将以分鄭而立公子魚臣。辛未、鄭殺僕叔及子服。

君子曰:“史佚所謂毋怙亂者,謂是類也。《詩》曰:‘亂離瘼矣,爰其適歸?’歸於怙亂者也夫。”

君子曰「史佚所謂毋怙乱者、謂是類也。『詩』曰『乱離瘼矣、爰其適帰』、帰于怙乱者也夫」。

鄭伯、許男如楚。

鄭伯・許男如楚。

秋,晉師歸,桓子請死,晉侯欲許之。士貞子諫曰:“不可。城濮之役,晉師三日谷,文公猶有憂色。左右曰:‘有喜而憂,如有憂而喜乎?’公曰:‘得臣猶在,憂未歇也。困獸猶鬥,況國相乎!’及楚殺子玉,公喜而後可知也,曰:‘莫余毒也已。’是晉再克而楚再敗也。楚是以再世不競。今天或者大警晉也,而又殺林父以重楚勝,其無乃久不競乎?林父之事君也,進思盡忠,退思補過,社稷之衛也,若之何殺之?夫其敗也,如日月之食焉,何損於明?”晉侯使復其位。

秋、晋師帰、桓子請死、晋侯欲許之。士貞子諫曰「不可。城濮之役、晋師三日穀、文公猶有憂色。左右曰『有喜而憂、如有憂而喜乎』公曰『得臣猶在、憂未歇也。困獣猶鬬、況国相乎』及楚殺子玉、公喜而後可知也、曰『莫余毒也已』。是晋再克而楚再敗也。楚是以再世不競。今天或者大警晋也、而又殺林父以重楚勝、其無乃久不競乎?林父之事君也、進思尽忠、退思補過、社稷之衛也、若之何殺之?夫其敗也、如日月之食焉、何損于明」晋侯使復其位。

冬,楚子伐蕭,宋華椒以蔡人救蕭。蕭人囚熊相宜僚及公子丙。王曰:“勿殺,吾退。”蕭人殺之。王怒,遂圍蕭。蕭潰。申公巫臣曰:“師人多寒。”王巡三軍,拊而勉之。三軍之士,皆如挾纊。遂傅於蕭。還無社與司馬卯言,號申叔展。叔展曰:“有麥曲乎?”曰:“無”。“有山鞠窮乎?”曰:“無”。

冬、楚子伐蕭、宋華椒以蔡人救蕭。蕭人囚熊相宜僚及公子丙。王曰「勿殺、吾退」蕭人殺之。王怒、遂囲蕭。蕭潰。申公巫臣曰「師人多寒」王巡三軍、拊而勉之。三軍之士、皆如挾纊。遂傅于蕭。還無社与司馬卯言、号申叔展。叔展曰「有麦麴乎」曰「無」。「有山鞠窮乎」曰「無」

“河魚腹疾奈何?”曰:“目於眢井而拯之。”“若為茅絰,哭井則己。”明日蕭潰,申叔視其井,則茅絰存焉,號而出之。

(申叔展は続けて言う)河魚腹疾奈何」曰「目于眢井而拯之」若為茅経、哭井則己」明日蕭潰、申叔視其井、則茅経存焉、号而出之。

晉原縠、宋華椒、衛孔達、曹人同盟於清丘。曰:“恤病討貳。”於是卿不書,不實其言也。宋為盟故,伐陳。衛人救之。孔達曰:“先君有約言焉,若大國討,我則死之。”

晋原縠・宋華椒・衛孔達・曹人同盟于清丘、曰「恤病討貳」。于是卿不書、不実其言也。宋為盟故、伐陳。衛人救之。孔達曰「先君有約言焉、若大国討、我則死之」

◇宣公十三年

◇宣公十三年

【經】十有三年春,齊師伐莒。夏,楚子伐宋。秋,螽。冬,晉殺其大夫先縠。

【経】十有三年春、斉師伐莒。夏、楚子伐宋。秋、螽。冬、晋殺其大夫先縠。

【傳】十三年春,齊師伐莒,莒恃晉而不事齊故也。

【伝】十有三年春、斉師伐莒、莒恃晋也。

夏,楚子伐宋,以其救蕭也。君子曰:“清丘之盟,唯宋可以免焉。”

夏、楚子伐宋、以其救蕭也。君子曰「清丘之盟、惟宋可以免焉」。

秋,赤狄伐晉,及清,先縠召之也。

秋、赤狄伐晋、及清、先縠召之也。

冬,晉人討邲之敗,與清之師,歸罪於先縠而殺之,盡滅其族。君子曰:“惡之來也,己則取之,其先縠之謂乎。”

冬、晋人討邲之敗与清之師、帰罪于先縠而殺之、尽滅其族。君子曰「悪之来也、己則取之、其先縠之謂乎」。

清丘之盟,晉以衛之救陳也討焉。使人弗去,曰:“罪無所歸,將加而師。”

清丘之盟、晋以衛之救陳也、討焉。使人弗去、曰「罪無所帰、将加而師」

孔達曰:“苟利社稷,請以我說。罪我之由。我則為政而亢大國之討,將以誰任?我則死之。”

孔達曰「苟利社稷、請以我説。罪我之由。我則為政而亢大国之討、将以誰任?我則死之」

◇宣公十四年

◇宣公十四年

【經】十有四年春,衛殺其大夫孔達。夏五月壬申,曹伯壽卒。晉侯伐鄭。

【経】十有四年春、衛殺其大夫孔達。夏五月壬申、曹伯寿卒。晋侯伐鄭。

秋九月,楚子圍宋。葬曹文公。冬,公孫歸父會齊侯於谷。

秋九月、楚子囲宋。葬曹文公。冬、公孫帰父会斉侯于穀。

【傳】十四年春,孔達縊而死。衛人以說於晉而免。遂告於諸侯曰:“寡君有不令之臣達,構我敝邑於大國,既伏其罪矣,敢告。”衛人以為成勞,復室其子,使復其位。

【伝】十有四年春、孔達縊而死、衛人以説于晋而免。遂告于諸侯曰「寡君有不令之臣達、構我敝邑于大国、既伏其罪矣、敢告」衛人以為成労、復室其子、使復其位。

夏,晉侯伐鄭,為邲故也。告於諸侯,蒐焉而還。中行桓子之謀也。曰:“示之以整,使謀而來。”鄭人懼,使子張代子良於楚。鄭伯如楚,謀晉故也。

夏、晋侯伐鄭、為邲故也。告于諸侯、蒐焉而還。是中行桓子之謀也。曰「示之以整、使謀而来」鄭人懼、使子張代子良于楚。鄭伯如楚、謀晋故也。

鄭以子良為有禮,故召之。

鄭以子良為有礼、故召之。

楚子使申舟聘於齊,曰:“無假道於宋。”亦使公子馮聘於晉,不假道於鄭。

楚子使申舟聘于斉、曰「無仮道于宋」亦使公子馮聘于晋、不假道于鄭。

申舟以孟諸之役惡宋,曰:“鄭昭宋聾,晉使不害,我則必死。”王曰:“殺女,我伐之。”見犀而行。及宋,宋人止之,華元曰:“過我而不假道,鄙我也。鄙我,亡也。殺其使者必伐我,伐我亦亡也。亡一也。”乃殺之。楚子聞之,投袂而起,屨及於窒皇,劍及於寢門之外,車及於蒲胥之市。秋九月,楚子圍宋。

申舟以孟諸之役悪宋、曰「鄭昭宋聾、晋使不害、我則必死」王曰「殺女、我伐之」見犀而行。及宋、宋人止之。華元曰「過我而不仮道、鄙我也。鄙我、亡也。殺其使者必伐我、伐我亦亡也。亡一也」乃殺之。楚子聞之、投袂而起、屨及于窒皇、剣及于寝門之外、車及于蒲胥之市。秋九月、楚子囲宋。

冬,公孫歸父會齊侯於谷。見晏桓子,與之言魯樂。桓子告高宣子曰:“子家其亡乎,懷於魯矣。懷必貪,貪必謀人。謀人,人亦謀己。一國謀之,何以不亡?”孟獻子言於公曰:“臣聞小國之免於大國也,聘而獻物,於是有庭實旅百。

冬、公孫帰父会斉侯于穀。見晏桓子、与之言魯楽。桓子告高宣子曰「子家其亡乎、懐于魯矣。懐必貪、貪必謀人。謀人、人亦謀己。一国謀之、何以不亡」孟献子言于公曰「臣聞小国之免於大国也、聘而献物、于是有庭実旅百。

朝而獻功,於是有容貌採章嘉淑,而有加貨。謀其不免也。誅而薦賄,則無及也。

(孟献子は続けて言う)朝而献功、于是有容貌采章嘉淑、而有加貨。謀其不免也。誅而薦賄、則無及也。

今楚在宋,君其圖之。”公說。

(孟献子は続けて言う)今楚在宋、君其図之」公説。

◇宣公十五年

◇宣公十五年

【經】十有五年春,公孫歸父會楚子於宋。夏五月,宋人及楚人平。六月癸卯,晉師滅赤狄潞氏,以潞子嬰兒歸。秦人伐晉。王札子殺召伯、毛伯。秋,螽。

【経】十有五年春、公孫帰父会楚子于宋。夏五月、宋人及楚人平。六月癸卯、晋師滅赤狄潞氏、以潞子嬰児帰。秦人伐晋。王札子殺召伯・毛伯。秋、螽。

仲孫蔑會齊高固於無婁。初稅畝。冬,蝝生。飢。

仲孫蔑会斉高固于無婁。初税畝。冬、蝝生。饑。

【傳】十五年春,公孫歸父會楚子於宋。

【伝】十有五年春、公孫帰父会楚子于宋。

宋人使樂嬰齊告急於晉。晉侯欲救之。伯宗曰:“不可。古人有言曰:‘雖鞭之長,不及馬腹。’天方授楚,未可與爭。雖晉之強,能違天乎?諺曰:‘高下在心。’川澤納汙,山藪藏疾,瑾瑜匿瑕,國君含垢,天之道也,君其待之。”

宋人使楽嬰斉告急于晋。侯欲救之。伯宗曰「不可。古人有言曰『雖鞭之長、不及馬腹』。天方授楚、未可与争。雖晋之強、能違天乎?諺曰『高下在心』。川沢納汙、山藪蔵疾、瑾瑜匿瑕、国君含垢、天之道也、君其待之」

乃止。使解揚如宋,使無降楚,曰:“晉師悉起,將至矣。”鄭人囚而獻諸楚,楚子厚賂之,使反其言,不許,三而許之。登諸樓車,使呼宋人而告之。遂致其君命。楚子將殺之,使與之言曰:“爾既許不穀而反之,何故?非我無信,女則棄之,速即爾刑。”對曰:“臣聞之,君能制命為義,臣能承命為信,信載義而行之為利。謀不失利,以衛社稷,民之主也。義無二信,信無二命。君之賂臣,不知命也。受命以出,有死無霣,又可賂乎?臣之許君,以成命也。死而成命,臣之祿也。寡君有信臣,下臣獲考死,又何求?”楚子舍之以歸。

乃止。使解揚如宋、使無降楚、曰「晋師悉起、将至矣」鄭人囚而献諸楚、楚子厚賂之、使反其言、不許、三而許之。登諸樓車、使呼宋人而告之。遂致其君命。楚子将殺之、使与之言曰「爾既許不穀而反之、何故?非我無信、女則棄之、速即爾刑」對曰「臣聞之、君能制命為義、臣能承命為信、信載義而行之為利。謀不失利、以衛社稷、民之主也。義無二信、信無二命。君之賂臣、不知命也。受命以出、有死無霣、又可賂乎?臣之許君、以成命也。死而成命、臣之禄也。寡君有信臣、下臣獲考死、又何求」楚子舎之以帰。

夏五月,楚師將去宋。申犀稽首於王之馬前,曰:“毋畏知死而不敢廢王命,王棄言焉。”王不能答。申叔時僕,曰:“築室反耕者,宋必聽命。”從之。宋人懼,使華元夜入楚師,登子反之床,起之曰:“寡君使元以病告,曰:‘敝邑易子而食,析骸以爨。雖然,城下之盟,有以國斃,不能從也。去我三十里,唯命是聽。’”子反懼,與之盟而告王。退三十里。宋及楚平,華元為質。盟曰:“我無爾詐,爾無我虞。”

夏五月、楚師将去宋。申犀稽首于王之馬前、曰「毋畏知死而不敢廃王命、王棄言焉」王不能答。申叔時僕、曰「築室反耕者、宋必聴命」従之。宋人懼、使華元夜入楚師、登子反之床、起之、曰「寡君使元以病告、曰『敝邑易子而食、析骸以爨。雖然、城下之盟、有以国斃、不能従也。去我三十里、唯命是聴』」子反懼、与之盟而告王。退三十里。宋及楚平、華元為質。盟曰「我無爾詐、爾無我虞」

潞子嬰兒之夫人,晉景公之姊也。酆舒為政而殺之,又傷潞子之目。晉侯將伐之,諸大夫皆曰:“不可。酆舒有三俊才,不如待後之人。”伯宗曰:“必伐之。狄有五罪,俊才雖多,何補焉?不祀,一也。耆酒,二也。棄仲章而奪黎氏地,三也。虐我伯姬,四也。傷其君目,五也。怙其俊才,而不以茂德,茲益罪也。後之人或者將敬奉德義以事神人,而申固其命,若之何待之?不討有罪,曰將待後,後有辭而討焉,毋乃不可乎?夫恃才與眾,亡之道也。商紂由之,故滅。

潞子嬰児之夫人、晋景公之姊也。酆舒為政而殺之、又傷潞子之目。晋侯将伐之、諸大夫皆曰「不可。酆舒有三儁才、不如待後之人」伯宗曰「必伐之。狄有五罪、儁才雖多、何補焉?不祀、一也。耆酒、二也。棄仲章而奪黎氏地、三也。虐我伯姫、四也。傷其君目、五也。怙其儁才、而不以茂徳、茲益罪也。後之人或者将敬奉徳義以事神人、而申固其命、若之何待之?不討有罪、曰将待後、後有辞而討、無乃不可乎?夫恃才与衆、亡之道也。商紂由之、故滅。

天反時為災,地反物為妖,民反德為亂,亂則妖災生。故文反正為乏。盡在狄矣。”

(伯宗は続けて言う)天反時為災、地反物為妖、民反徳為乱、乱則妖災生。故文反正為乏。尽在狄矣」

晉侯從之。六月癸卯,晉荀林父敗赤狄於曲梁。辛亥,滅潞。酆舒奔衛,衛人歸諸晉,晉人殺之。

晋侯従之。六月癸卯、晋荀林父敗赤狄于曲梁。辛亥、滅潞。酆舒奔衛、衛人帰諸晋、晋人殺之。

王孫蘇與召氏、毛氏爭政,使王子捷殺召戴公及毛伯衛。卒立召襄。

王孫蘇与召氏・毛氏争政、使王子捷殺召戴公及毛伯衛。卒立召襄。

秋七月,秦桓公伐晉,次於輔氏。壬午,晉侯治兵於稷以略狄土,立黎侯而還。及洛,魏顆敗秦師於輔氏。獲杜回,秦之力人也。

秋七月、秦桓公伐晋、次于輔氏。壬午、晋侯治兵于稷、以略狄土、立黎侯而還。及雒、魏顆敗秦師于輔氏。獲杜回、秦之力人也。

初,魏武子有嬖妾,無子。武子疾,命顆曰:“必嫁是。”疾病,則曰:“必以為殉。”及卒,顆嫁之,曰:“疾病則亂,吾從其治也。”及輔氏之役,顆見老人結草以亢杜回,杜回躓而顛,故獲之。夜夢之曰:“餘,而所嫁婦人之父也。爾用先人之治命,餘是以報。”

初、魏武子有嬖妾、無子。武子疾、命顆曰「必嫁是」疾病、則曰「必以為殉」及卒、顆嫁之、曰「疾病則乱、吾従其治也」及輔氏之役、顆見老人結草以亢杜回、杜回躓而顛、故獲之。夜夢之曰「余、而所嫁婦人之父也。爾用先人之治命、余是以報」

晉侯賞桓子狄臣千室,亦賞士伯以瓜衍之縣。曰:“吾獲狄土,子之功也。

晋侯賞桓子狄臣千室、亦賞士伯以瓜衍之県。曰「吾獲狄土、子之功也。

微子,吾喪伯氏矣。”羊舌職說是賞也,曰:“《周書》所謂‘庸庸祗祗’者,謂此物也夫。士伯庸中行伯,君信之,亦庸士伯,此之謂明德矣。文王所以造周,不是過也。故《詩》曰:‘陳錫哉周。’能施也。率是道也,其何不濟?”晉侯使趙同獻狄俘於周,不敬。劉康公曰:“不及十年,原叔必有大咎,天奪之魄矣。”

(晋侯は続けて言う)微子、吾喪伯氏矣」羊舌職説是賞也、曰「『周書』所謂『庸庸祗祗』者、謂此物也夫。士伯庸中行伯、君信之、亦庸士伯、此之謂明徳矣。文王所以造周、不是過也。故『詩』曰『陳錫哉周』、能施也。率是道也、其何不済」晋侯使趙同献狄俘于周、不敬。劉康公曰「不及十年、原叔必有大咎、天奪之魄矣」

初稅畝,非禮也。谷出不過藉,以豐財也。

初税畝、非礼也。穀出不過藉、以豊財也。

冬,蝝生,飢。幸之也。

冬、蝝生、饑。幸之也。

◇宣公十六年

◇宣公十六年

【經】十有六年春王正月。晉人滅赤狄甲氏及留籲。夏,成周宣榭火。秋,郯伯姬來歸。冬,大有年。

【経】十有六年春、王正月。晋人滅赤狄甲氏及留吁。夏、成周宣榭火。秋、郯伯姫来帰。冬、大有年。

【傳】十六年春,晉士會帥師滅赤狄甲氏及留籲、鐸辰。

【伝】十有六年春、晋士会帥師滅赤狄甲氏及留吁・鐸辰。

三月,獻狄俘。晉侯請於王。戊申,以黻冕命士會將中軍,且為大傅。於是晉國之盜逃奔於秦。羊舌職曰:“吾聞之,‘禹稱善人,不善人遠’,此之謂也夫。《詩》曰:‘戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰。’善人在上也。善人在上,則國無幸民。諺曰:‘民之多幸,國之不幸也。’是無善人之謂也。”

三月、献狄俘。晋侯請于王。戊申、以黻冕命士会将中軍、且為大傅。于是晋国之盗逃奔于秦。羊舌職曰「吾聞之『禹称善人、不善人遠』、此之謂也夫。『詩』曰『戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷』、善人在上也。善人在上、則国無幸民。諺曰『民之多幸、国之不幸也』、是無善人之謂也」

夏,成周宣榭火,人火之也。凡火,人火曰火,天火曰災。

夏、成周宣榭火、人火之也。凡火、人火曰火、天火曰災。

秋,郯伯姬來歸,出也。

秋、郯伯姫来帰、出也。

為毛、召之難故,王室復亂。王孫蘇奔晉,晉人復之。

為毛・召之難故、王室復乱。王孫蘇奔晋、晋人復之。

冬,晉侯使士會平王室,定王享之,原襄公相禮,殽烝。武子私問其故。王聞之,召武子曰:“季氏,而弗聞乎?王享有體薦,宴有折俎。公當享,卿當宴,王室之禮也。”武子歸而講求典禮,以修晉國之法。

冬、晋侯使士会平王室、定王享之、原襄公相礼、殽烝。武子私問其故。王聞之、召武子曰「季氏、而弗聞乎?王享有体薦、宴有折俎。公当享、卿当宴、王室之礼也」武子帰而講求典礼、以脩晋国之法。

◇宣公十七年

◇宣公十七年

【經】十有七年春王正月庚子,許男錫我卒。丁未,蔡侯申卒。夏,葬許昭公。葬蔡文公。六月癸卯,日有食之。己未,公會晉侯、衛侯、曹伯、邾子同盟於斷道。秋,公至自會。冬十有一月壬午,公弟叔肸卒。

【経】十有七年春、王正月庚子、許男錫我卒。丁未、蔡侯申卒。夏、葬許昭公。葬蔡文公。六月癸卯、日有食之。己未、公会晋侯・衛侯・曹伯・邾子同盟于断道。秋、公至自会。冬十有一月壬午、公弟叔肸卒。

【傳】十七年春,晉侯使郤克徵會於齊。齊頃公帷婦人,使觀之。郤子登,婦人笑於房。獻子怒,出而誓曰:“所不此報,無能涉河。”獻子先歸,使欒京廬待命於齊,曰:“不得齊事,無覆命矣。”郤子至,請伐齊,晉侯弗許。請以其私屬,又弗許。

【伝】十有七年春、晋侯使郤克徴会于斉。斉頃公帷婦人使観之。郤子登、婦人笑于房。献子怒、出而誓曰「所不此報、無能渉河」献子先帰、使欒京廬待命于斉、曰「不得斉事、無復命矣」郤子至、請伐斉、晋侯弗許。請以其私属、又弗許。

齊侯使高固、晏弱、蔡朝、南郭偃會。及斂盂,高固逃歸。夏,會於斷道,討貳也。盟於卷楚,辭齊人。晉人執晏弱於野王,執蔡朝於原,執南郭偃於溫。

斉侯使高固・晏弱・蔡朝・南郭偃会。及斂盂、高固逃帰。夏、会于断道、討貳也。盟于卷楚、辞斉人。晋人執晏弱于野王、執蔡朝于原、執南郭偃于温。

苗賁皇使,見晏桓子,歸,言於晉侯曰:“夫晏子何罪?昔者諸侯事吾先君,皆如不逮,舉言群臣不信,諸侯皆有貳志。齊君恐不得禮,故不出,而使四子來。

苗賁皇使、見晏桓子、帰言于晋侯曰「夫晏子何罪?昔者諸侯事吾先君、皆如不逮、皆言群臣不信、諸侯皆有貳志。斉君恐不得礼、故不出、而使四子来。

左右或沮之,曰:‘君不出,必執吾使。’故高子及斂盂而逃。夫三子者曰:‘若絕君好,寧歸死焉。’為是犯難而來,吾若善逆彼以懷來者。吾又執之,以信齊沮,吾不既過矣乎?過而不改,而又久之,以成其悔,何利之有焉?使反者得辭,而害來者,以懼諸侯,將焉用之?”晉人緩之,逸。

(苗賁皇は続けて言う)左右或止之、曰『君不出、必執吾使』。故高子及斂盂而逃。夫三子者曰『若絶君好、寧帰死焉』。為是犯難而来。吾若善逆彼以懐来者。吾又執之、以信斉阻、吾不既過矣乎?過而不改、而又久之、以成其悔、何利之有焉?使反者得辞、而害来者、以懼諸侯、将焉用之」晋人緩之、逸。

秋八月,晉師還。

秋八月、晋師還。

範武子將老,召文子曰:“燮乎!吾聞之,喜怒以類者鮮,易者實多。《詩》曰:‘君子如怒,亂庶遄沮;君子如祉,亂庶遄已。’君子之喜怒,以已亂也。

范武子将老、召文子曰「燮乎!吾聞、喜怒以類者鮮、易者実多。『詩』曰『君子如怒、乱庶遄沮;君子如祉、乱庶遄已』。君子之喜怒、以已乱也。

弗已者,必益之。郤子其或者欲已亂於齊乎?不然,餘懼其益之也。餘將老,使郤子逞其志,庶有豸乎?爾從二三子唯敬。”乃請老,郤獻子為政。

(范武子は続けて言う)弗已者、必益之。郤子其或者欲已乱于斉乎?不然、余懼其益之也。余将老、使郤子逞其志、庶有豸乎?爾従二三子唯敬」乃請老、郤献子為政。

冬,公弟叔肸卒。公母弟也。凡大子之母弟,公在曰公子,不在曰弟。凡稱弟,皆母弟也。

冬、公弟叔肸卒。公母弟也。凡大子之母弟、公在曰公子、不在曰弟。凡称弟、皆母弟也。

◇宣公十八年

◇宣公十八年

【經】十有八年春,晉侯、衛世子臧伐齊。公伐杞。夏四月。秋七月,邾人伐鄫子於鄫。甲戌,楚子旅卒。公孫歸父如晉。冬十月壬戌,公薨於路寢。

【経】十有八年春、晋侯・衛世子臧伐斉。公伐杞。夏四月。秋七月、邾人戕鄫子于鄫。甲戌、楚子旅卒。公孫帰父如晋。冬十月壬戌、公薨于路寝。

歸父還自晉,至笙。遂奔齊,

帰父還自晋、至笙。遂奔斉。

【傳】十八年春,晉侯、衛大子臧伐齊,至於陽穀。齊侯會晉侯盟於繒,以公子強為質於晉。晉師還,蔡朝、南郭偃逃歸。

【伝】十有八年春、晋侯・衛大子臧伐斉、至于陽穀。斉侯会晋侯盟于繒、以公子彊為質于晋。晋師還、蔡朝・南郭偃逃帰。

夏,公使如楚乞師,欲以伐齊。

夏、公使如楚乞師、欲以伐斉。

秋,邾人戕鄫子於鄫。凡自虐其君曰弒,自外曰戕。

秋、邾人戕鄫子于鄫。凡自虐其君曰弒、自外曰戕。

楚莊王卒。楚師不出,既而用晉師,楚於是乎有蜀之役。

楚荘王卒。楚師不出、既而用晋師、楚于是乎有蜀之役。

公孫歸父以襄仲之立公也,有寵,欲去三桓以張公室。與公謀而聘於晉,欲以晉人去之。冬,公薨。季文子言於朝曰:“使我殺適立庶以失大援者,仲也夫。”

公孫帰父以襄仲之立公也、有寵、欲去三桓以張公室。与公謀而聘于晋、欲以晋人去之。冬、公薨。季文子言于朝曰「使我殺適立庶以失大援者、仲也夫」

臧宣叔怒曰:“當其時不能治也,後之人何罪?子欲去之,許請去之。”遂逐東門氏。子家還,及笙,壇帷,覆命於介。既覆命,袒、括髮,即位哭,三踴而出。

臧宣叔怒曰「当其時不能治也、後之人何罪?子欲去之、許請去之」遂逐東門氏。子家還、及笙、壇帷、復命于介。既復命、袒括髪、即位哭、三踊而出。

遂奔齊。書曰“歸父還自晉。”善之也。

遂奔斉。書曰「帰父還自晋」、善之也。

成公(元年~十八年)

◇成公元年

◇成公元年

【經】元年春王正月,公即位。二月辛酉,葬我君宣公。無冰。三月,作丘甲。夏,臧孫許及晉侯盟於赤棘。秋,王師敗績於茅戎。冬十月。

【経】元年春、周天子の暦の正月、成公が即位した。二月辛酉、わが君宣公を葬った。氷がなかった。三月、丘甲の制を定めた。夏、臧孫許が晋侯と赤棘で盟した。秋、天子の軍が茅戎で大敗した。冬十月。

【傳】元年春,晉侯使瑕嘉平戎於王,單襄公如晉拜成。劉康公徼戎,將遂伐之。叔服曰:“背盟而欺大國,此必敗。背盟,不祥;欺大國,不義;神人弗助,將何以勝?”不聽,遂伐茅戎。三月癸未,敗績于徐吾氏。

【伝】元年春、晋侯は瑕嘉を派遣して天子のために戎と和睦し、単襄公が晋に行って事の成を拝謝した。劉康公は戎に利を求め、続けてこれを伐とうとした。叔服が言った、「盟約を背いて大国を欺くのは、必ず敗れます。盟約を背くは不祥、大国を欺くは不義、神も人も助けず、何をもって勝ちましょうか」と。聴かず、ついに茅戎を伐った。三月癸未、徐吾氏で大敗した。

為齊難故,作丘甲。

斉の難のため、丘甲の制を定めた。

聞齊將出楚師,夏,盟於赤棘。

斉が楚の軍を出そうとしていると聞き、夏、赤棘で盟した。

秋,王人來告敗。

秋、周人が敗戦を報告に来た。

冬,臧宣叔令修賦、繕完、具守備,曰:“齊、楚結好,我新與晉盟,晉、楚爭盟,齊師必至。雖晉人伐齊,楚必救之,是齊、楚同我也。知難而有備,乃可以逞。”

冬、臧宣叔は軍賦を整え城郭を修め守備を備えるよう命じて言った、「斉と楚が結び、われわれは新たに晋と盟を結びました。晋・楚が盟主を争えば、斉軍は必ず来ます。たとえ晋が斉を攻めても、楚は必ずこれを救い、これは斉・楚がともにわれわれに当たることです。難を知って備えがあってこそ、緩めることができます」と。

◇成公二年

◇成公二年

【經】二年春,齊侯伐我北鄙。夏四月丙戌,衛孫良夫帥師及齊師戰於新築,衛師敗績。六月癸酉,季孫行父、臧孫許、叔孫僑如、公孫嬰齊帥師會晉郤克、衛孫良夫、曹公子首及齊侯戰於鞍,齊師敗績。秋七月,齊侯使國佐如師。己酉,及國佐盟於袁婁。八月壬卒。宋公鮑卒。庚寅,衛侯速卒。取汶陽田。冬,楚師、鄭師侵衛。十有一月,公會楚公子嬰齊於蜀。丙申,公及楚人、秦人、宋人、陳人、衛人、鄭人、齊人、曹人、邾人、薛人、鄫人盟於蜀。

【経】二年春、斉侯がわが国の北部国境を攻めた。夏四月丙戌、衛の孫良夫が軍を率いて斉軍と新築で戦い、衛軍は大敗した。六月癸酉、季孫行父・臧孫許・叔孫僑如・公孫嬰斉が軍を率いて晋の郤克・衛の孫良夫・曹の公子首と会合し、斉侯と鞍で戦い、斉軍は大敗した。秋七月、斉侯は国佐を軍中に派遣した。己酉、国佐と袁婁で盟を結んだ。八月壬戌、宋公鮑が死去した。底本の「壬卒」は壬戌、宋公鮑が卒した。庚寅、衛侯速が死去した。汶水以北の田を得た。冬、楚軍・鄭軍が衛を侵伐した。十一月、成公が楚の公子嬰斉と蜀で会見した。丙申、成公が楚人・秦人・宋人・陳人・衛人・鄭人・斉人・曹人・邾人・薛人・鄫人と蜀で盟を結んだ。

【傳】二年春,齊侯伐我北鄙,圍龍。頃公之嬖人盧蒲就魁門焉,龍人囚之。

【伝】二年春、斉侯がわが国の北部国境を攻め、龍を包囲した。頃公の寵臣盧蒲就魁が城門を攻めると、龍人が彼を捕らえた。

齊侯曰:“勿殺!吾與而盟,無入而封。”弗聽,殺而膊諸城上。齊侯親鼓,士陵城,三日,取龍,遂南侵及巢丘。

斉侯は言った、「殺すな!あなたたちと盟を結び、あなたたちの封疆に入らないようにしよう」と。聴かず、彼を殺して城上に屍をさらした。斉侯は自ら鼓を撃ち、士卒が城壁に登り、三日で龍を取り、南に侵伐して巢丘に達した。

衛侯使孫良夫、石稷、寧相、向禽將侵齊,與齊師遇。石子欲還,孫子曰:“不可。以師伐人,遇其師而還,將謂君何?若知不能,則如無出。今既遇矣,不如戰也。”

衛侯は孫良夫・石稷・寧相・向禽将を派遣して斉を侵伐させ、斉軍と遭遇した。石子は帰ろうとしたが、孫子は言った、「だめです。軍をもって人を攻め、その軍に遭えば帰るとは、国君をどうするのですか。できないと知っていたなら、初めから出ないほうがよかった。すでに遭った以上、戦うに及びません」と。

夏,有。

夏、有った。

石成子曰:“師敗矣。子不少須,眾懼盡。子喪師徒,何以覆命?”皆不對。

石成子が言った、「軍が敗れました。あなたが少しお待ちにならなければ、衆は尽きてしまうでしょう。あなたが部衆を失って、何をもって復命しますか」と。皆答えなかった。

又曰:“子,國卿也。隕子,辱矣。子以眾退,我此乃止。”且告車來甚眾。齊師乃止,次於鞫居。新築人仲叔於奚救孫桓子,桓子是以免。

また言った、「あなたは国の卿です。あなたを失えば恥辱です。あなたは衆を率いて退き、私はここに留まります」と。そして後の兵車が多く来ていると伝告した。斉軍はそれで止まり、鞫居に駐屯した。新築人の仲叔于奚が孫桓子を救い、桓子はこれによって免れた。

既,衛人賞之以邑,辭。請曲縣、繁纓以朝,許之。仲尼聞之曰:“惜也,不如多與之邑。唯器與名,不可以假人,君之所司也。名以出信,信以守器,器以藏禮,禮以行義,義以生利,利以平民,政之大節也。若以假人,與人政也。

事後、衛人は城邑をもって彼に賞したが、辞退した。曲縣・繁纓をもって朝見することを請い、許された。仲尼がこれを聞いて言った、「惜しいことだ、城邑を多く与えるに如かず。礼器と名号だけは人に貸してはならない。国君の掌るところである。名号は信を出すため、信は礼器を守るため、礼器は礼を蔵するため、礼は義を行うため、義は利を生むため、利は百姓を安んずるためのもので、政事の大節である。もし人に貸せば、政事を人に与えることになる。

政亡,則國家從之,弗可止也已。”

(仲尼は続けて言う:)政事が亡べば国もこれに従って亡び、止めることができなくなる」と。

孫桓子還於新築,不入,遂如晉乞師。臧宣叔亦如晉乞師。皆主郤獻子。晉侯許之七百乘。郤子曰:“此城濮之賦也。有先君之明與先大夫之肅,故捷。克於先大夫,無能為役,請八百乘。”許之。郤克將中軍,士燮佐上軍,欒書將下軍,韓厥為司馬,以救魯、衛。臧宣叔逆晉師,且道之。季文子帥師會之。及衛地,韓獻子將斬人,郤獻子馳,將救之,至則既斬之矣。郤子使速以徇,告其僕曰:“吾以分謗也。”

孫桓子は新築から帰り、城に入らず、晋に行って出兵を請うた。臧宣叔も晋に行って出兵を請うた。皆、郤献子を主人とした。晋侯は七百乘を与えると許した。郤子は言った、「これは城濮の軍賦です。先君の明察と先大夫の敏捷があったから勝てたのです。克は先大夫に比べ、その役使にも堪えません。八百乘を請います」と。許された。郤克が中軍を率い、士燮が上軍を輔佐し、欒書が下軍を率い、韓厥が司馬となり、魯・衛を救いに来た。臧宣叔が晋軍を迎え、かつ嚮導を務めた。季文子が軍を率いて会合した。衛地に至り、韓献子が人を斬ろうとすると、郤献子は車を馳せて救いに行ったが、至った時にはすでに斬られていた。郤子は速やかに徇らせて衆に示させ、御者に言った、「私はこれをもって毀謗を分かち担うのだ」と。

師從齊師於莘。六月壬申,師至於靡笄之下。齊侯使請戰,曰:“子以君師,辱於敝邑,不腆敝賦,詰朝請見。”對曰:“晉與魯、衛,兄弟也。來告曰:‘大國朝夕釋憾於敝邑之地。’寡君不忍,使群臣請於大國,無令輿師淹於君地。

軍が莘で斉軍に追いついた。六月壬申、軍が靡笄山の下に至った。斉侯は人を遣わして戦を請わせて言った、「あなたが国君の軍を率いて辱くも敝邑に臨み、敝邑の豊かならざる軍賦を、明日の朝お目にかかりたい」と。答えて言った、「晋と魯・衛は兄弟です。彼らが来て告げて言う、『大国が朝夕敝邑の土地に憾みを発散しています』と。寡君は忍びず、群臣を派遣して大国に請い、衆多の軍を君王の土地に久留させないことを求めました。

能進不能退,君無所辱命。”齊侯曰:“大夫之許,寡人之願也;若其不許,亦將見也。”齊高固入晉師,桀石以投人,禽之而乘其車,系桑本焉,以徇齊壘,曰:“欲勇者賈餘餘勇。”

(行人は続けて言う:)進めるが退けず、君王の命令を辱めるところはありません」と。斉侯は言った、「大夫が許すのは寡人の願いです。もし許さなくても、相見ることになるでしょう」と。斉の高固が晋軍に突入し、石を挙げて人を投げ、その人を捉えてその車に乗り、桑の根を車に繋いで斉の営塁を徇行して言った、「勇気が欲しい者は、私の余った勇気を買いなさい」と。

癸酉,師陳於鞍。邴夏御齊侯,逢醜父為右。晉解張御郤克,鄭丘緩為右。

癸酉、軍が鞍で陣を布いた。邴夏が斉侯の御を務め、逢丑父が車右となった。晋の解張が郤克の御を務め、鄭丘緩が車右となった。

齊侯曰:“餘姑翦滅此而朝食。”不介馬而馳之。郤克傷於矢,流血及屨,未絕鼓音,曰:“餘病矣!”張侯曰:“自始合,而矢貫餘手及肘,餘折以御,左輪朱殷,豈敢言病。吾子忍之!”緩曰:“自始合,苟有險,餘必下推車,子豈識之?然子病矣!”張侯曰:“師之耳目,在吾旗鼓,進退從之。此車一人殿之,可以集事,若之何其以病敗君之大事也?擐甲執兵,固即死也。病未及死,吾子勉之!”左並轡,右援枹而鼓,馬逸不能止,師從之。齊師敗績。逐之,三週華不注。

斉侯は言った、「私はひとまずこの輩を滅ぼしてから朝食を食べよう」と。馬に甲を被せず駆けさせた。郤克は矢に傷つき、血が履まで流れたが、鼓声は絶えず、言った、「私は傷ついた!」張侯は言った、「戦いの始めから、矢が私の手を肘まで貫き、私は矢を折って車を御し続け、左の車輪は殷紅に染まりました。あえて傷ついたとは言いません。お忍びください!」緩は言った、「戦いの始めから、険路があるたびに必ず車を降りて推しましたが、あなたはどこでご存じでしたか。しかしあなたは確かに傷ついています!」張侯は言った、「軍の耳目はわれわれの旗と鼓にあり、進退は皆これに従います。この車に一人鎮まる者がいれば事を成せます。どうして傷のために国君の大事を敗りましょうか。甲を着て兵器を執るは、もとより死に赴くことです。傷はまだ死に至らず、お励みください!」左手に轡を併せ持ち、右手に桴を取って鼓を撃つと、馬は奔って止まらず、軍がこれに従った。斉軍は大敗し、彼らを追って華不注山を三周した。

韓厥夢子輿謂己曰:“且闢左右。”故中御而從齊侯。邴夏曰:“射其御者,君子也。”公曰:“謂之君子而射之,非禮也。”射其左,越於車下。射其右,斃於車中,綦毋張喪車,從韓厥,曰:“請寓乘。”從左右,皆肘之,使立於後。

韓厥は夢に子輿が自分に「しばらく左右を避けよ」と言うのを見た。それで車の中間に立って御し、斉侯を追った。邴夏は言った、「あの御者を射よ、君子だ」と。斉侯は言った、「君子と言いながら射るは礼に合わない」と。車左を射ると車下に墜ちた。車右を射ると車中で死んだ。綦毋張は車を失い、韓厥に追いついて言った、「お乗せください」と。左右についてこようとするのを、韓厥は皆肘で退けて後ろに立たせた。

韓厥俯,定其右。逢醜父與公易位。將及華泉,驂絓於木而止。醜父寢於轏中,蛇出於其下,以肱擊之,傷而匿之,故不能推車而及。韓厥執縶馬前,再拜稽首,奉觴加璧以進,曰:“寡君使群臣為魯、衛請,曰:‘無令輿師陷入君地。’下臣不幸,屬當戎行,無所逃隱。且懼奔闢而忝兩君,臣辱戎士,敢告不敏,攝官承乏。”醜父使公下,如華泉取飲。鄭周父御佐車,宛伐為右,載齊侯以免。

韓厥は身を屈めて車右の屍を安んじて置いた。逢丑父は斉侯と位置を換えた。華泉に至らんとして、驂馬が木に絡まって止まった。丑父はかつて栈車の中で寝ていて、蛇が下から出たのを臂で打ち、傷ついたが隠していたので、車を推すことができず追いつかれた。韓厥は絆馬索を執って馬の前に進み、再拜稽首し、酒杯を捧げ玉璧を加えて進上して言った、「寡君は群臣を派遣して魯・衛のために請わせ、『衆多の軍を君王の土地に陥れてはならない』と言いました。下臣は不幸、ちょうど戎行に当たり、逃避する場所がありません。また奔走逃避して両国君を辱めることを恐れ、臣は戎士として愧じ、あえて不聡明を報告し、官を代理して欠員を補います」と。丑父は斉侯に車を降りさせ、華泉に水を取りに行かせた。鄭周父が副車を御し、宛伐が車右となり、斉侯を載せて免れた。

韓厥獻醜父,郤獻子將戮之。呼曰:“自今無有代其君任患者,有一於此,將為戮乎!”郤子曰:“人不難以死免其君。我戮之不祥,赦之以勸事君者。”乃免之。

韓厥は丑父を献じ、郤献子は彼を殺そうとした。丑父は呼んで言った、「今後国君に代わって患難を受ける者はいなくなります。ここに一人いるのに、殺されようとしているのですか!」郤子は言った、「人は死をもって国君を免れさせることを恐れない。私が彼を殺すのは不吉だ。赦して国君に事える者を励まそう」と。こうして彼を免した。

齊侯免,求醜父,三入三出。每出,齊師以帥退。入於狄卒,狄卒皆抽戈楯冒之。以入於衛師,衛師免之。遂自徐關入。齊侯見保者,曰:“勉之!齊師敗矣。”闢女子,女子曰:“君免乎?”曰:“免矣。”曰:“銳司徒免乎?”曰:“免矣。”曰:“苟君與吾父免矣,可若何!”乃奔。齊侯以為有禮,既而問之,闢司徒之妻也。予之石窌。

斉侯は免れ、丑父を求めて三度突入し三度突出した。出るたびに斉軍は皆主帥を衛護して退いた。狄人の歩卒の中に入ると、狄卒は皆戈楯を抽き出して彼を遮護した。また衛軍に入ると、衛軍は彼を過ぎさせた。こうして徐関から城に入った。斉侯は城を守る者を見て言った、「励め!斉軍は敗れた」と。一人の女子に避けさせると、女子は言った、「国君は免れましたか」と。「免れた」と。「鋭司徒は免れましたか」と。「免れた」と。言った、「国君と私の父が皆免れたなら、これ以上何を求めましょう」と。こうして走り去った。斉侯は彼女に礼ありとし、後に問うと、辟司徒の妻であった。彼女に石窌を与えた。

晉師從齊師,入自丘輿,擊馬陘。齊侯使賓媚人賂以紀甗、玉磬與地。不可,則聽客之所為。賓媚人致賂,晉人不可,曰:“必以蕭同叔子為質,而使齊之封內盡東其畝。”對曰:“蕭同叔子非他,寡君之母也。若以匹敵,則亦晉君之母也。吾子布大命於諸侯,而曰:‘必質其母以為信。’其若王命何?且是以不孝令也。《詩》曰:‘孝子不匱,永錫爾類。’若以不孝令於諸侯,其無乃非德類也乎?先王疆理天下物土之宜,而布其利,故《詩》曰:‘我疆我理,南東其畝。’今吾子疆理諸侯,而曰‘盡東其畝’而已,唯吾子戎車是利,無顧土宜,其無乃非先王之命也乎?反先王則不義,何以為盟主?其晉實有闕。四王之王也,樹德而濟同欲焉。五伯之霸也,勤而撫之,以役王命。今吾子求合諸侯,以逞無疆之慾。《詩》曰‘佈政優優,百祿是遒。’子實不優,而棄百祿,諸侯何害焉!不然,寡君之命使臣則有辭矣,曰:‘子以君師辱於敝邑,不腆敝賦,以犒從者。

晋軍は斉軍に追いつき、丘輿から入って馬陘を攻めた。斉侯は賓媚人を遣わし、紀の甗・玉磬と土地をもって賂を行わせた。もし許されなければ、客人のなすがままに任せることとした。賓媚人が財貨を進上すると、晋人は許さず言った、「必ず蕭同叔子を人質とし、かつ斉国の境内の田畝をすべて東向きにせよ」と。賓媚人は答えて言った、「蕭同叔子は他の人ではなく、寡君の母です。対等に言えば、晋君の母でもあります。あなたが諸侯に大命を布きながら、『必ず人の母を人質として信を取れ』とは、王命をどうするのですか。しかもこれは不孝をもって命ずることです。《詩》に言う、『孝子の孝は匱せず、永く爾の同類に賜る』と。もし不孝をもって諸侯に命ずれば、おそらく徳の同類ではないでしょう。先王は天下の疆界を划し土地を理め、土宜に従って利益を布いた。故に《詩》に言う、『我が疆を划り我が理め、田畝に南あり東あり』と。今あなたは諸侯の疆理を划定しながら、ただ『田畝をすべて東に』と言い、あなたの兵車の便利のみを図り、土地の宜しきを顧みない。おそらく先王の命令ではないでしょう。先王に背くは不義であり、何をもって盟主となりましょうか。晋は実に失があります。四王が王と為ったのは、徳を樹てて共同の願いを成し遂げたからです。五伯が覇したのは、勤労して安んじ、王命のために服役したからです。今あなたは諸侯を会合しようとして、際限なき欲望を満たそうとしています。《詩》に言う、『政を施すこと寛和なれば、百の福禄皆聚まる』と。あなたは実に寛和でなく、百の福禄を棄てています。諸侯に何の害がありましょうか。さもなければ、寡君が使臣に命じた言がまだあります。『あなたが国君の軍を率いて辱くも敝邑に臨み、敝邑の豊かならざる軍賦をもって従者を犒います。

畏君之震,師徒橈敗,吾子惠徼齊國之福,不泯其社稷,使繼舊好,唯是先君之敝器、土地不敢愛。子又不許,請收合餘燼,背城借一。敝邑之幸,亦云從也。

(賓媚人は続けて転述する:)君王の威を畏れて軍が挫敗したのに、あなたが恵みて斉のために福を求め、社稷を滅ぼさず旧日の友好を続けさせてくださるなら、先君の破れた器物・土地のみ、あえて惜しみません。それでもなお許されなければ、残りを収集して城壁を背に死を決して戦います。敝邑に幸あれば、なお従います。

況其不幸,敢不唯命是聽。’”魯、衛諫曰:“齊疾我矣!其死亡者,皆親暱也。

(賓媚人は続けて転述する:)しかも不幸にして、あえて命に従わざりえましょうか』と」。魯・衛は勧めて言った、「斉はわれわれを恨んでいます!亡んだ者は皆親しい人でした。

子若不許,仇我必甚。唯子則又何求?子得其國寶,我亦得地,而紓於難,其榮多矣!齊、晉亦唯天所授,豈必晉?”晉人許之,對曰:“群臣帥賦輿以為魯、衛請,若苟有以藉口而復於寡君,君之惠也。敢不唯命是聽。”

(魯・衛は続けて言う:)あなたが許されなければ、われわれへの恨みは必ずさらに深まります。あなたはまだ何を求めるのですか。あなたは国宝を得、われわれも土地を得て、かつ患難を緩められました。光栄はすでに多いです!斉・晋も皆ただ天が誰に授けるかを見るだけで、どうして必ず晋でありましょうか」と。晋人は許し、答えて言った、「群臣が軍賦の兵車を率いて魯・衛のために請い、もし言うべきことがあれば寡君に復命します。これが君王の恵みです。あえて命に従わざりえましょうか」と。

禽鄭自師逆公。

禽鄭が軍中から成公を迎えた。

秋七月,晉師及齊國佐盟於爰婁,使齊人歸我汶陽之田。公會晉師於上鄍,賜三帥先路三命之服,司馬、司空、輿帥、候正、亞旅,皆受一命之服。

秋七月、晋軍は斉の国佐と爰婁で盟を結び、斉人にわが国の汶水以北の田を返還させた。成公は上鄍で晋軍に会見し、三位の主帥に先路と三命の礼服を賜い、司馬・司空・輿帥・候正・亜旅は皆一命の礼服を受けた。

八月,宋文公卒。始厚葬,用蜃炭,益車馬,始用殉。重器備,槨有四阿,棺有翰檜。

八月、宋文公が死去した。初めて厚葬し、蜃灰を用い、車馬を増やし、初めて生人を殉葬に用いた。器物の装備を増やし、槨に四阿があり、棺に翰と檜があった。

君子謂:“華元、樂舉,於是乎不臣。臣治煩去惑者也,是以伏死而爭。今二子者,君生則縱其惑,死又益其侈,是棄君於惡也。何臣之為?”九月,衛穆公卒,晉二子自役吊焉,哭於大門之外。衛人逆之,婦人哭於門內,送亦如之。遂常以葬。

君子は思う、「華元・楽挙は、この事において臣に似ていない。臣とは煩乱を治め迷惑を去る者で、それゆえ死を賭して争諫する。今この二人は、国君の生きている時はその迷惑を放縦にし、死してまた奢侈を増した。国君を悪の中に置いたのだ。何の臣か」と。九月、衛穆公が死去し、晋の二位の主将が軍役から弔いに来て大門の外で哭いた。衛人は彼らを迎え、婦人が門内で哭き、送る時もこのようであった。これより葬礼の常制となった。

楚之討陳夏氏也,莊王欲納夏姬,申公巫臣曰:“不可。君召諸侯,以討罪也。今納夏姬,貪其色也。貪色為淫,淫為大罰。《周書》曰:‘明德慎罰。’文王所以造周也。明德,務崇之之謂也;慎罰,務去之之謂也。若興諸侯,以取大罰,非慎之也。君其圖之!”王乃止。子反欲取之,巫臣曰:“是不祥人也!是夭子蠻,殺御叔,弒靈侯,戮夏南,出孔、儀,喪陳國,何不祥如是?人生實難,其有不獲死乎?天下多美婦人,何必是?”子反乃止。王以予連尹襄老。襄老死於邲,不獲其屍,其子黑要烝焉。巫臣使道焉,曰:“歸!吾聘女。”又使自鄭召之,曰:“屍可得也,必來逆之。”姬以告王,王問諸屈巫。對曰:“其信!知犖之父,成公之嬖也,而中行伯之季弟也,新佐中軍,而善鄭皇戌,甚愛此子。其必因鄭而歸王子與襄老之屍以求之。鄭人懼於邲之役而欲求媚於晉,其必許之。”王遣夏姬歸。將行,謂送者曰:“不得屍,吾不反矣。”巫臣聘諸鄭,鄭伯許之。及共王即位,將為陽橋之役,使屈巫聘於齊,且告師期。巫臣盡室以行。申叔跪從其父將適郢,遇之,曰:“異哉!夫子有三軍之懼,而又有《桑中》之喜,宜將竊妻以逃者也。”及鄭,使介反幣,而以夏姬行。將奔齊,齊師新敗,曰:“吾不處不勝之國。”遂奔晉,而因郤至,以臣於晉。晉人使為邢大夫。子反請以重幣錮之,王曰:“止!其自為謀也,則過矣。其為吾先君謀也,則忠。忠,社稷之固也,所蓋多矣。且彼若能利國家,雖重幣,晉將可乎?若無益於晉,晉將棄之,何勞錮焉。”

楚が陳の夏氏を討った時、荘王は夏姫を納れようとしたが、申公巫臣は言った、「いけません。君王が諸侯を召集したのは罪を討つためです。今夏姫を納れるはその美色を貪ることです。色を貪るは淫、淫は大罰です。《周書》に言う、『徳を明らかにし刑を慎しむ』と。文王が周を創った所以です。徳を明らかにするとは務めてこれを崇めること、刑を慎しむとは務めてこれを去ることです。もし諸侯を動かして大罰を取れば、慎しむことではありません。君王のお考えを請います!」荘王はこうして止めた。子反が彼女を娶ろうとすると、巫臣は言った、「これは不吉な人です!彼女は子蛮を夭折させ、御叔を殺し、霊侯を弑し、夏南を殺し、孔寧・儀行父を奔らせ、陳国を亡ぼしました。これほど不吉なものがあるでしょうか。人生は実に難しく、おそらく好い死を得られないでしょう。天下に美婦人は多いのに、どうして必ず彼女でなければなりませんか」と。子反はこうして止めた。荘王は彼女を連尹襄老に与えた。襄老は邲で死に、屍を得られず、その子の黒要が彼女と烝した。巫臣は人を遣わして彼女を導かせて言った、「帰れ!私があなたを聘娶する」と。また人を遣わして鄭国から彼女を召して言った、「屍は得られる。必ず迎えに来い」と。夏姫は楚王に告げ、楚王は屈巫に問うた。答えて言った、「それは信じられます!知䓨の父は成公の寵臣であり、また中行伯の小弟弟で、新たに中軍を輔佐し、鄭の皇戌と交好し、この子を大変愛しています。必ず鄭国を借りて王子と襄老の屍を返し知䓨を求めるでしょう。鄭人は邲の役を恐れ、晋に媚びようとして、必ず許すでしょう」と。楚王は夏姫を帰した。行かんとして、彼女は送る人に言った、「屍を得られなければ、私は帰りません」と。巫臣は鄭国で彼女を聘し、鄭伯は許した。共王が即位するに及び、陽橋の役を行おうとして屈巫を斉国に聘問させ、かつ出兵の日を告げさせた。巫臣は家室をすべて携えて行った。申叔跪は父に従って郢に行かんとして彼に遇い、言った、「怪しいな!この人は三軍の戒懼がありながら、また《桑中》の喜びがある。まさに妻を盗んで逃げようとしているのだ」と。鄭国に至り、副使に聘礼を返させ、夏姫を連れて行った。斉国に奔ろうとしたが、斉軍は新たに敗れたばかりで、言った、「私は勝つことのできない国には住まない」と。こうして晋に奔り、郤至を通じて晋で臣となった。

晉師歸,範文子後入。武子曰:“無為吾望爾也乎?”對曰:“師有功,國人喜以逆之,先入,必屬耳目焉,是代帥受名也,故不敢。”武子曰:“吾知免矣。”

晋軍が帰ると、范文子は後から城に入った。武子は言った、「私があなたを望んでいたのではないか」と。答えて言った、「軍に功あれば国人が喜んで迎えます。先に城に入れば必ず耳目の注ぐところとなり、主帥に代わって名声を受けることになります。だから敢えてしませんでした」と。武子は言った、「私はこれで禍を免れられると知った」と。

郤伯見,公曰:“子之力也夫!”對曰:“君之訓也,二三子之力也,臣何力之有焉!”范叔見,勞之如郤伯,對曰:“庚所命也,克之制也,燮何力之有焉!”欒伯見,公亦如之,對曰:“燮之詔也,士用命也,書何力之有焉!”宣公使求好於楚。莊王卒,宣公薨,不克作好。公即位,受盟於晉,會晉伐齊。衛人不行使於楚,而亦受盟於晉,從於伐齊。故楚令尹子重為陽橋之役以求齊。將起師,子重曰:“君弱,群臣不如先大夫,師眾而後可。《詩》曰:‘濟濟多士,文王以寧。’夫文王猶用眾,況吾儕乎?且先君莊王屬之曰:‘無德以及遠方,莫如惠恤其民,而善用之。’”乃大戶,已責,逮鰥,救乏,赦罪,悉師,王卒盡行。彭名御戎,蔡景公為左,許靈公為右。二君弱,皆強冠之。

郤伯が進見すると、晋侯は言った、「あなたの力ですね」と。答えて言った、「君王の教訓、幾人かの力です。臣に何の力がありましょうか」と。范叔が進見すると、郤伯を慰労したように彼を慰労し、答えて言った、「庚の命するところ、克の制するところです。燮に何の力がありましょうか」と。欒伯が進見すると、晋侯も同じようにし、答えて言った、「燮の指示し、士卒が命令に従いました。書に何の力がありましょうか」と。宣公は人を遣わして楚に好を求めた。荘王が死去し、宣公が死去し、結好できなかった。成公が即位し、晋で盟を受け、晋と会合して斉を攻めた。衛人は楚に使者を遣わさず、晋で盟を受け、従って斉を攻めた。それで楚の令尹子重が陽橋の役を発動して斉を救った。出兵しようとして子重は言った、「国君は年幼く、群臣は先大夫に及ばず、軍は人多くしてこそ行えます。《詩》に言う、『済済たる多士、文王これによって寧し』と。文王尚且衆を用いた。ましてわれわれの輩をや。しかも先君荘王が嘱して言った、『徳が遠方に及ばないなら、百姓に恵み体恤するに如かず、善く彼らを用いよ』と」。こうして大いに戸口を登録し、債務を免除し、鰥夫に施し、困乏を救済し、罪人を赦し、軍を尽くして出し、楚王の直属部隊は皆出行した。彭名が戎車を御し、蔡景公が左に、許霊公が右にいた。二国の君は年幼く、皆強いて冠礼を行った。

冬,楚師侵衛,遂侵我,師於蜀。使臧孫往,辭曰:“楚遠而久,固將退矣。

冬、楚軍が衛を侵伐し、続けてわが国を侵伐し、蜀に駐軍した。臧孫を遣わして往かせると、辞退して言った、「楚は路遠くかつ長く留まり、もともと退こうとしています。

無功而受名,臣不敢。”楚侵及陽橋,孟孫請往,賂之以執斫、執針、織紝,皆百人。公衡為質,以請盟,楚人許平。

(臧孫は続けて言う:)功なくして名を受けるは、臣が敢えてしません」と。楚軍が侵伐して陽橋に至ると、孟孫は往かんことを請い、執斫・執針・織紝各百人をもって賂を行った。公衡が人質となり、盟を請い、楚人は講和を許した。

十一月,公及楚公子嬰齊、蔡侯、許男、秦右大夫說、宋華元、陳公孫寧、衛孫良夫、鄭公子去疾及齊國之大夫盟於蜀。卿不書,匱盟也。於是乎畏晉而竊與楚盟,故曰匱盟。蔡侯、許男不書,乘楚車也,謂之失位。君子曰:“位其不可不慎也乎!蔡、許之君,一失其位,不得列於諸侯,況其下乎?《詩》曰:‘不解於位,民之攸塈。’其是之謂矣。”

十一月、成公は楚の公子嬰斉・蔡侯・許男・秦の右大夫説・宋の華元・陳の公孫寧・衛の孫良夫・鄭の公子去疾および斉国の大夫と蜀で盟を結んだ。卿の名を《春秋》に記さないのは、これが内容を欠いた盟だからです。この時晋を恐れてこっそり楚と盟を結んだので、匱盟と言う。蔡侯・許男を《春秋》に記さないのは、楚の車に乗ったからで、失位と言う。君子は言った、「地位は慎まなければならないでしょう!蔡・許の君は、一旦位を失えば諸侯に列することができない。ましてその下の者をや。《詩》に言う、『位に在りて懈らざれば、百姓これによって安息す』と。これを言うのです」と。

楚師及宋,公衡逃歸。臧宣叔曰:“衡父不忍數年之不宴,以棄魯國,國將若之何?誰居?後之人必有任是夫!國棄矣。”

楚軍が宋国に至ると、公衡が逃げ帰った。臧宣叔は言った、「衡父は数年の不安に耐えられず、魯国を棄てた。国はどうするのか。誰が留まるのか。後の者は必ずこの任を負う者がいる!国が棄てられたのだ」と。

是行也,晉闢楚,畏其眾也。君子曰:“眾之不可以已也。大夫為政,猶以眾克,況明君而善用其眾乎?《大誓》所謂商兆民離,周十人同者眾也。”

この度の出行で、晋は楚を避けた。その人の多さを恐れたのだ。君子は言った、「人衆は止められない。大夫が政を執るも尚且人衆を恃って勝つ。まして明君が衆を善く用いるをや。《大誓》に言う、商の億万の民は心を離れ、周の十人は心を同じくす、とは人衆のことだ」と。

晉侯使鞏朔獻齊捷於周,王弗見,使單襄公辭焉,曰:“蠻夷戎狄,不式王命,淫湎毀常,王命伐之,則有獻捷,王親受而勞之,所以懲不敬,勸有功也。

晋侯は鞏朔を遣わして周室に斉の俘虜を献じさせた。天子は見ず、単襄公を遣わして辞退させて言った、「蛮夷戎狄は王命を遵行せず、淫湎して常道を毀る。王が命じて彼らを討てば献捷があり、天子が自ら受けて慰労する。これは不敬を懲戒し功あるを勧めるためです。

兄弟甥舅,侵敗王略,王命伐之,告事而已,不獻其功,所以敬親暱,禁淫慝也。

(単襄公は続けて言う:)兄弟甥舅の国は、王の法度を侵敗しても、王が命じて討てば事を報告するのみで功を献じない。これは親近を敬し淫邪を禁ずるためです。

今叔父克遂,有功於齊,而不使命卿鎮撫王室,所使來撫餘一人,而鞏伯實來,未有職司於王室,又奸先王之禮,餘雖欲於鞏伯、其敢廢舊典以忝叔父?夫齊,甥舅之國也,而大師之後也,寧不亦淫從其欲以怒叔父,抑豈不可諫誨?”士莊伯不能對。王使委於三吏,禮之如侯伯克敵使大夫告慶之禮,降於卿禮一等。王以鞏伯宴,而私賄之。使相告之曰:“非禮也,勿籍。”

(単襄公は続けて言う:)今叔父は順に功を成し、斉に功があったのに、職命ある卿を遣わして王室を鎮撫させず、遣わして我一入を撫慰する所は実は鞏伯が来たことで、王室に職司がなく、また先王の礼を干犯しました。私は鞏伯を好むが、あえて旧典を廃して叔父を辱めましょうか。斉国は甥舅の国で、また太師の後裔です。欲望を放縦にして叔父を激怒させたのではないか、それとも誡め教えることができないのか」と。士荘伯は答えることができなかった。天子は事を三吏に委託し、侯伯が敵に勝って大夫を遣わして慶を報じる礼をもって接待し、卿礼より一等降らせた。天子は鞏伯と宴飲し、私に財貨を与えた。相礼の者に彼に告げさせた、「これは礼に合わない。記すな」と。

◇成公三年

◇成公三年

【經】三年春王正月,公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯伐鄭。辛亥,葬衛穆公。

【経】三年春、周天子の暦の正月、成公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯と会合して鄭を攻めた。辛亥、衛穆公を葬った。

二月,公至自伐鄭。甲子,新宮災。三日哭。乙亥,葬宋文公。夏,公如晉。鄭公子去疾帥師伐許。公至自晉。秋,叔孫僑如帥師圍棘。大雩。晉郤克、衛孫良夫伐嗇咎如。冬十有一月,晉侯使荀庚來聘。衛侯使孫良夫來聘。丙午,及荀庚盟。丁未,及孫良夫盟。鄭伐許。

二月、成公は鄭を攻めたところから帰った。甲子、新宮が火災に遭った。三日哭いた。乙亥、宋文公を葬った。夏、成公は晋に行った。鄭の公子去疾が軍を率いて許を攻めた。成公は晋から帰った。秋、叔孫僑如が軍を率いて棘を包囲した。大雩を行った。晋の郤克・衛の孫良夫が啬咎如を攻めた。冬十一月、晋侯は荀庚を遣わして聘問させた。衛侯は孫良夫を遣わして聘問させた。丙午、荀庚と盟を結んだ。丁未、孫良夫と盟を結んだ。鄭が許を攻めた。

【傳】三年春,諸侯伐鄭,次於伯牛,討邲之役也,遂東侵鄭。鄭公子偃帥師御之,使東鄙覆諸鄤,敗諸丘輿。皇戌如楚獻捷。

【伝】三年春、諸侯が鄭を攻め、伯牛に駐屯した。邲の役を討ったので、こうして東に鄭を侵伐した。鄭の公子偃が軍を率いてこれを禦ぎ、東部の国境に鄤で伏兵を設け、丘輿で彼らを破った。皇戌が楚に俘虜を献じに行った。

夏,公如晉,拜汶陽之田。

夏、成公は晋に行き、汶水以北の田を拜謝した。

許恃楚而不事鄭,鄭子良伐許。

許は楚を恃んで鄭に事えなかったので、鄭の子良が許を攻めた。

晉人歸公子谷臣與連尹襄老之屍於楚,以求知罃。於是荀首佐中軍矣,故楚人許之。王送知罃,曰:“子其怨我乎?”對曰:“二國治戎,臣不才,不勝其任,以為俘馘。執事不以釁鼓,使歸即戮,君之惠也。臣實不才,又誰敢怨?”王曰:“然則德我乎?”對曰:“二國圖其社稷,而求紓其民,各懲其忿以相宥也,兩釋累囚以成其好。二國有好,臣不與及,其誰敢德?”王曰:“子歸,何以報我?”對曰:“臣不任受怨,君亦不任受德,無怨無德,不知所報。”王曰:“雖然,必告不穀。”對曰:“以君之靈,累臣得歸骨於晉,寡君之以為戮,死且不朽。若從君之惠而免之,以賜君之外臣首;首其請於寡君而以戮於宗,亦死且不朽。若不獲命,而使嗣宗職,次及於事,而帥偏師以修封疆,雖遇執事,其弗敢違。其竭力致死,無有二心,以盡臣禮,所以報也。”王曰:“晉未可與爭。”

晋人は公子穀臣と連尹襄老の屍を楚に帰し、知䓨を求めた。この時荀首はすでに中軍を輔佐していたので、楚人は許した。楚王は知䓨を送って言った、「あなたは私を怨みますか」と。答えて言った、「両国が兵を交え、臣は才能なく任に堪えず、俘虜となりました。執事が臣の血をもって鼓を塗らず、臣を帰して刑に就かせたのは君王の恵みです。臣は実に才能なく、また敢えて誰を怨みましょうか」と。楚王は言った、「では私を感じますか」と。答えて言った、「両国はその社稷のために謀り、百姓の緩を求め、各々その忿恨を懲めて相宥め、両辺の囚を釈放して友好を成し遂げました。両国に友好あれば、臣はその辺に及ばず、また敢えて誰を感じましょうか」と。楚王は言った、「あなたが帰れば、何をもって私に報いますか」と。答えて言った、「臣は怨を担うに堪えず、君王も徳を担うに堪えず、怨なく徳なし。何を報いるか知りません」と。楚王は言った、「それでも必ず不穀に告げよ」と。答えて言った、「君王の威霊に藉り、囚の臣が骨を晋に帰することができ、寡君が私を殺せば、死しても栄です。もし君王の恵みによって死を免れ、私を君王の外臣首に賜い、首が寡君に請いて宗廟で私を殺せば、これも死して栄です。もし許されず、私に宗族の職事を継がせ、次序に従って軍職に当たらせ、偏師を率いて封疆を整治せしめるなら、たとえ執事に遇うとも敢えて回避しません。力を竭くして死に致し、二心なく臣礼を尽くす。これが報いです」と。楚王は言った、「晋は争えない」と。

重為之禮而歸之。

隆盛に礼を設けて彼を帰した。

秋,叔孫僑如圍棘,取汶陽之田。棘不服,故圍之。

秋、叔孫僑如が棘を包囲し、汶水以北の田を取った。棘が服従しなかったので包囲したのだ。

晉郤克、衛孫良夫伐嗇咎如,討赤狄之餘焉。嗇咎如潰,上失民也。

晋の郤克・衛の孫良夫が啬咎如を攻めた。赤狄の残りを討ったのだ。啬咎如は潰散した。上が百姓を失ったからだ。

冬十一月,晉侯使荀庚來聘,且尋盟。衛侯使孫良夫來聘,且尋盟。公問諸臧宣叔曰:“中行伯之於晉也,其位在三。孫子之於衛也,位為上卿,將誰先?”對曰:“次國之上卿當大國之中,中當其下,下當其上大夫。小國之上卿當大國之下卿,中當其上大夫,下當其下大夫。上下如是,古之制也。衛在晉,不得為次國。晉為盟主,其將先之。”丙午,盟晉,丁未,盟衛,禮也。

冬十一月、晋侯は荀庚を遣わして聘問し、かつ盟を重温させた。衛侯は孫良夫を遣わして聘問し、かつ盟を重温させた。成公は臧宣叔に問うて言った、「中行伯は晋で位が第三です。孫子は衛で位が上卿です。誰を先にしましょうか」と。答えて言った、「次国の上卿は大国の中卿に当たり、中卿はその下卿に当たり、下卿はその上大夫に当たります。小国の上卿は大国の下卿に当たり、中卿はその上大夫に当たり、下卿はその下大夫に当たります。上下がこのようであるのは古の制度です。衛は晋に対して次国と言えません。晋は盟主です。これを先にします」と。丙午、晋と盟を結び、丁未、衛と盟を結んだ。これは礼に合う。

十二月甲戌,晉作六軍。韓厥、趙括、鞏朔、韓穿、荀騅、趙旃皆為卿,賞鞍之功也。

十二月甲戌、晋は六軍を設置した。韓厥・趙括・鞏朔・韓穿・荀騅・趙旃が皆卿となった。鞍の功を賞したのだ。

齊侯朝於晉,將授玉。郤克趨進曰:“此行也,君為婦人之笑辱也,寡君未之敢任。”晉侯享齊侯。齊侯視韓厥,韓厥曰:“君知厥也乎?”齊侯曰:“服改矣。”韓厥登,舉爵曰:“臣之不敢愛死,為兩君之在此堂也。”

斉侯が晋に朝見した。玉を授けようとすると、郤克が歩を進めて言った、「この度の出行は、君王は婦人の笑いのために辱を受けました。寡君は敢えて当たりません」と。晋侯は享礼を設けて斉侯を招待した。斉侯は韓厥を見て、韓厥は言った、「君王は厥を識りますか」と。斉侯は言った、「衣服が変わった」と。韓厥は堂に登り、爵を挙げて言った、「臣は一死を惜しまないのは、二国君がこの堂に在るからです」と。

荀罃之在楚也,鄭賈人有將置諸褚中以出。既謀之,未行,而楚人歸之。

荀䓨が楚にいた時、鄭の商人のある者が彼を袋の中に藏して連れ出そうとした。すでに相談が定まり、まだ行わないうちに、楚人が彼を送り帰した。

賈人如晉,荀罃善視之,如實出己,賈人曰:“吾無其功,敢有其實乎?吾小人,不可以厚誣君子。”遂適齊。

商人は晋に至ると、荀䓨は彼を善く遇し、まことに彼が自分を連れ出したかのようにした。商人は言った、「私にその功はなく、あえてその実恵を受けましょうか。私は小人で、君子を厚く誣いてはなりません」と。こうして斉に行った。

◇成公四年

◇成公四年

【經】四年春,宋公使華元來聘。三月壬申,鄭伯堅卒。杞伯來朝。夏四月甲寅,臧孫許卒。公如晉。葬鄭襄公。秋,公至自晉。冬,城鄆。鄭伯伐許。

【経】四年春、宋公は華元を遣わして聘問させた。三月壬申、鄭伯堅が死去した。杞伯が朝見に来た。夏四月甲寅、臧孫許が死去した。成公は晋に行った。鄭襄公を葬った。秋、成公は晋から帰った。冬、鄆城を修築した。鄭伯が許を攻めた。

【傳】四年春,宋華元來聘,通嗣君也。

【伝】四年春、宋の華元が聘問に来た。新たに即位した国君に好を通じるためである。

杞伯來朝,歸叔姬故也。

杞伯が朝見に来たのは、叔姫を送り返したゆえである。

夏,公如晉,晉侯見公,不敬。季文子曰:“晉侯必不免。《詩》曰:‘敬之敬之!天惟顯思,命不易哉!’夫晉侯之命在諸侯矣,可不敬乎?”秋,公至自晉,欲求成於楚而叛晉,季文子曰:“不可。晉雖無道,未可叛也。國大臣睦,而邇於我,諸侯聽焉,未可以貳。史佚之《志》有之,曰:‘非我族類,其心必異。’楚雖大,非吾族也,其肯字我乎?”公乃止。

夏、成公は晋に行き、晋侯は成公を接見したが、恭敬でなかった。季文子は言った、「晋侯は必ず禍を免れられないでしょう。《詩》に言う、『敬なるかな敬なるかな!天は明らかにし、命は易からず』と。晋侯の命は諸侯の手にあり、敬まないことができますか」と。秋、成公は晋から帰り、楚と和を求めて晋に背こうとした。季文子は言った、「いけません。晋は無道といえども背いてはなりません。国は大きく大臣は和睦し、またわれわれに近く、諸侯は聴従しています。二心を持ってはなりません。史佚の《志》にこの言があります。『われわれの族類でなければ、その心は必ず異なる』と。楚は大きいといえどもわれわれの族ではなく、どうしてわれわれを愛しましょうか」と。成公はこうして止めた。

冬十一月,鄭公孫申帥師疆許田,許人敗諸展陂。鄭伯伐許,取任、泠敦之田。

冬十一月、鄭の公孫申が軍を率いて許田の疆界を划定した。許人が展陂で彼らを破った。鄭伯は許を攻め、任・泠敦の田を得た。

晉欒書將中軍,荀首佐之,士燮佐上軍,以救許伐鄭,取氾、祭。楚子反救鄭,鄭伯與許男訟焉。皇戌攝鄭伯之辭,子反不能決也,曰:“君若辱在寡君,寡君與其二三臣共聽兩君之所欲,成其可知也。不然,側不足以知二國之成。”

晋の欒書が中軍を率い、荀首が輔佐し、士燮が上軍を輔佐して、許を救い鄭を攻めに来て、泛・祭を取った。楚の子反が鄭を救い、鄭伯と許男が彼のもとで争訟した。皇戌が鄭伯の言を代述し、子反は決断できず言った、「君王がもし屈んで寡君のもとに至れば、寡君と数臣がともに二国君の願いを聴き、調停すれば知ることができます。さもなければ、側は両国の是非を知るに足りません」と。

晉趙嬰通於趙莊姬。

晋の趙嬰が趙荘姫と私通した。

◇成公五年

◇成公五年

【經】五年春王正月,杞叔姬來歸。仲孫蔑如宋。夏,叔孫僑如會晉荀首於谷。梁山崩。秋,大水。冬十有一月己酉,天王崩。十有二月己丑,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、邾子、杞伯同盟於蟲牢。

【経】五年春、周天子の暦の正月、杞叔姫が帰った。仲孫蔑が宋に行った。夏、叔孫僑如が穀で晋の荀首に会見した。梁山が崩れた。秋、大水があった。冬十一月己酉、天子が死去した。十二月己丑、成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・邾子・杞伯と虫牢でともに盟を結んだ。

【傳】五年春,原、屏放諸齊。嬰曰:“我在,故欒氏不作。我亡,吾二昆其憂哉!且人各有能有不能,舍我何害?”弗聽。嬰夢天使謂己:“祭餘,餘福女。”使問諸士貞伯,貞伯曰:“不識也。”既而告其人曰:“神福仁而禍淫,淫而無罰,福也。祭,其得亡乎?”祭之,之明日而亡。孟獻子如宋,報華元也。

【伝】五年春、原・屏が趙嬰を斉に放逐した。嬰は言った、「私がいるから欒氏は乱をなさない。私が逃亡すれば、わが二兄はおそらく憂えるでしょう!しかも人には各々能と不能があり、私を留めて何の害がありましょうか」と。聴かなかった。嬰は夢に天使が自分に「私を祭れ、私が福を賜わん」と言うのを見た。人を遣わして士貞伯に問うと、貞伯は言った、「知らない」と。後に彼に告げた者は言った、「神は仁に福を賜い、淫に禍を降す。淫なのに罰がなければ、それが福です。祭れば、おそらく逃亡を得るでしょう」と。祭り、翌日逃亡した。孟献子が宋に行ったのは、華元への返報である。

孟獻子如宋,報華元也。

孟献子が宋に行ったのは、華元への返報である。

夏,晉荀首如齊逆女,故宣伯餫諸谷。

夏、晋の荀首が斉に夫人を迎えに行ったので、宣伯は穀で食物を饋送した。

梁山崩,晉侯以傳召伯宗。伯宗闢重,曰:“闢傳!”重人曰:“待我,不如捷之速也。”問其所,曰:“絳人也。”問絳事焉,曰:“梁山崩,將召伯宗謀之。”問:“將若之何?”曰:“山有朽壤而崩,可若何?國主山川。故山崩川竭,君為之不舉,降服,乘縵,徹樂,出次,祝幣,史辭以禮焉。其如此而已,雖伯宗若之何?”伯宗請見之,不可。遂以告而從之。

梁山が崩れ、晋侯は伝車をもって伯宗を召した。伯宗は載重車に避けさせて言った、「伝車を避けよ!」と。重車を駆る者は言った、「私が避けるのを待つより、近道を行くほうが速い」と。彼にどこの人か問うと、「絳人」と。絳の事を問うと、「梁山が崩れ、伯宗を召して相談しようとしています」と。問う、「どうするか」と。言った、「山に腐朽した土壌があって崩れる。どうしようがありましょうか。国は山川を主とします。だから山が崩れ河川が涸れれば、国君はこれがために膳を減らし服色を降げ、文飾なき車に乗り、音楽を撤し、正寝を離れ、祭品を陳列し、史官が辞を述べて礼敬します。これに過ぎません。たとえ伯宗でもまたどうできましょうか」と。伯宗は彼を引見させようと請うたが、同意しなかった。こうして彼の言のとおり報告し照らし行った。

許靈公愬鄭伯於楚。六月,鄭悼公如楚,訟,不勝。楚人執皇戌及子國。故鄭伯歸,使公子偃請成於晉。秋八月,鄭伯及晉趙同盟於垂棘。

許霊公が楚に鄭伯を訴えた。六月、鄭悼公が楚に行って争訟したが、勝たなかった。楚人は皇戌と子国を執えた。それで鄭伯は帰り、公子偃を遣わして晋に和を求めた。秋八月、鄭伯は晋の趙氏と垂棘で盟を結んだ。

宋公子圍龜為質於楚而還,華元享之。請鼓譟以出,鼓譟以復入,曰:“習功華氏。”宋公殺之。

宋の公子圍亀は楚で人質となってから帰った。華元は享礼を設けて彼を招待した。彼は鼓を撃ち誼譁して出て、また鼓を撃ち誼譁して入ることを請い、言った、「華氏を攻める演習です」と。宋公は彼を殺した。

冬,同盟於蟲牢,鄭服也。諸侯謀復會,宋公使向為人辭以子靈之難。

冬、虫牢でともに盟を結んだのは、鄭が帰服したからである。諸侯は再び会見することを商量し、宋公は向為人を遣わして子霊の患難をもって辞退した。

十一月己酉,定王崩。

十一月己酉、定王が死去した。

◇成公六年

◇成公六年

【經】六年春王正月,公至自會。二月辛巳,立武宮。取鄟。衛孫良夫帥師侵宋。夏六月,邾子來朝。公孫嬰齊如晉。壬申,鄭伯費卒。秋,仲孫蔑、叔孫僑如帥師侵宋。楚公子嬰齊帥師伐鄭。冬,季孫行父如晉。晉欒書帥師救鄭。

【経】六年春、周天子の暦の正月、成公は会から帰った。二月辛巳、武宮を立てた。鄟を取った。衛の孫良夫が軍を率いて宋を侵伐した。夏六月、邾子が朝見に来た。公孫嬰斉が晋に行った。壬申、鄭伯費が死去した。秋、仲孫蔑・叔孫僑如が軍を率いて宋を侵伐した。楚の公子嬰斉が軍を率いて鄭を攻めた。冬、季孫行父が晋に行った。晋の欒書が軍を率いて鄭を救った。

【傳】六年春,鄭伯如晉拜成,子游相,授玉於東楹之東。士貞伯曰:“鄭伯其死乎?自棄也已!視流而行速,不安其位,宜不能久。”

【伝】六年春、鄭伯が晋に行って講和を拜謝し、子游が相礼し、東楹の東で玉を授けた。士貞伯は言った、「鄭伯はおそらく死ぬだろうか?自らを棄てている!目光が流れ歩行が速く、自らの位に安んじない。長久できないだろう」と。

二月,季文子以鞍之功立武宮,非禮也。聽於人以救其難,不可以立武。立武由己,非由人也。

二月、季文子は鞍の功によって武宮を立てた。これは礼に合わない。人に命を聴いて自らの患難を救うのに、武を立てるべきではない。武を立てるは自らによるのであって、人によるのではない。

取鄟,言易也。

鄟を取ったとは、易しかったことを言う。

三月,晉伯宗、夏陽說,衛孫良夫、寧相,鄭人,伊、洛之戎,陸渾蠻氏侵宋,以其辭會也。師於針,衛人不保。說欲襲衛,曰:“雖不可入,多俘而歸,有罪不及死。”伯宗曰:“不可。衛唯信晉,故師在其郊而不設備。若襲之,是棄信也。雖多衛俘,而晉無信,何以求諸侯?”乃止,師還,衛人登陴。

三月、晋の伯宗・夏陽説、衛の孫良夫・寧相、鄭人、伊・洛の戎、陸渾の蛮氏が宋を侵伐した。それが会見を辞退したからである。軍は針に駐屯し、衛人は防備を設けなかった。衛を襲撃しようと言う者がいて、言った、「たとえ入れなくても、俘虜を多く連れて帰れば、罪あっても死に至らないでしょう」と。伯宗は言った、「いけない。衛はただ晋を信じているので、軍が郊外にいるのに防備を設けない。もし襲撃すれば、信用を棄てることだ。たとえ衛の俘虜を多く得ても、晋に信用がなければ、何をもって諸侯を求めよう」と。こうして止めた。軍が帰ると、衛人は城の女牆に登った。

晉人謀去故絳。諸大夫皆曰:“必居郇瑕氏之地,沃饒而近盬,國利君樂,不可失也。”韓獻子將新中軍,且為僕大夫。公揖而入。獻子從。公立於寢庭,謂獻子曰:“何如?”對曰:“不可。郇瑕氏土薄水淺,其惡易覯。易覯則民愁,民愁則墊隘,於是乎有沉溺重膇之疾。不如新田,土厚水深,居之不疾,有汾、澮以流其惡,且民從教,十世之利也。夫山、澤、林、盬,國之寶也。國饒,則民驕佚。近寶,公室乃貧,不可謂樂。”公說,從之。夏四月丁丑,晉遷於新田。

晋人は旧絳を離れることを商量した。大夫たちは皆言った、「必ず郇瑕氏の地に住みなさい。肥沃で富饒で、また塩池に近い。国に利あり国君に楽あり、失うべからず」と。韓献子は新中軍を率い、かつ僕大夫を務めた。晋侯は揖をして入った。献子が従った。晋侯は寝庭に立ち、献子に言った、「どうか」と。答えて言った、「いけません。郇瑕氏は土薄く水浅く、汚穢が積聚しやすい。積聚しやすければ百姓が愁苦し、百姓が愁苦すれば瘦弱困頓し、ここに沉溺・脚腫の疾が起こります。新田に如きません。土厚く水深く、そこに住めば疾せず、汾水・澮水が汚穢を流し去り、かつ百姓は教化に従い、十世の利益です。山・沢・林・塩は国の宝です。国が富饒すれば百姓は驕縦安逸します。宝に近づけば公室はかえって貧窮し、楽しみと言うべきではありません」と。晋侯は喜び、従った。夏四月丁丑、晋は新田に遷都した。

六月,鄭悼公卒。

六月、鄭悼公が死去した。

子叔聲伯如晉。命伐宋。

子叔声伯が晋に行った。宋を攻める命を受けた。

秋,孟獻子、叔孫宣伯侵宋,晉命也。

秋、孟献子・叔孫宣伯が宋を侵伐した。晋の命令である。

楚子重伐鄭,鄭從晉故也。

楚の子重が鄭を攻めたのは、鄭が晋に従ったからである。

冬,季文子如晉,賀遷也。

冬、季文子が晋に行ったのは、遷都を賀するためである。

晉欒書救鄭,與楚師遇於繞角。楚師還,晉師遂侵蔡。楚公子申、公子成以申、息之師救蔡,御諸桑隧。趙同、趙括欲戰,請於武子,武子將許之。知莊子、範文子、韓獻子諫曰:“不可。吾來救鄭,楚師去我,吾遂至於此,是遷戮也。

晋の欒書が鄭を救い、楚軍と繞角で遇った。楚軍が帰ると、晋軍はこうして蔡を侵伐した。楚の公子申・公子成が申・息の軍を率いて蔡を救い、桑隧で抵御した。趙同・趙括は交戦しようとして武子に請い、武子は許そうとした。知荘子・范文子・韓献子が勧諫して言った、「いけません。われわれは鄭を救いに来て、楚軍がわれわれを去ったので、こうしてここに至りました。これは殺戮を他所に遷すことです。

戮而不已,又怒楚師,戰必不克。雖克,不令。成師以出,而敗楚之二縣,何榮之有焉?若不能敗,為辱已甚,不如還也。”乃遂還。

(三位は続けて言う:)殺戮が止まず、また楚軍を激怒させ、交戦しても必ず勝てません。たとえ勝っても、美しくありません。軍を整えて出たのに、ただ楚の二県を破るのみ、何の光栄がありましょうか。もし破ることができなければ、羞辱はすでに太甚です。帰るに如きません」と。こうして帰った。

於是,軍帥之慾戰者眾,或謂欒武子曰:“聖人與眾同欲,是以濟事。子盍從眾?子為大政,將酌於民者也。子之佐十一人,其不欲戰者,三人而已。欲戰者可謂眾矣。《商書》曰:‘三人占,從二人。’眾故也。”武子曰:“善鈞,從眾。夫善,眾之主也。三卿為主,可謂眾矣。從之,不亦可乎?”

当時、軍帥の中で交戦したい者が多く、ある人が欒武子に言った、「聖人は衆人と願いを同じくするので、事を成すことができます。あなたはなぜ衆人に従わないのですか。あなたは大政を為し、百姓を斟酌すべきです。あなたの輔佐は十一人で、交戦したくないのはわずか三人です。交戦したい者は衆と言えます。《商書》に言う、『三人が占えば二人に従う』と。人が衆だからです」と。武子は言った、「善が等しくてこそ、衆人に従う。善は衆人の主導である。三卿が主導なれば、衆と言えます。彼らに従うは、また可なりではないか」と。

◇成公七年

◇成公七年

【經】七年春王正月,鼷鼠食郊牛角,改卜牛。鼷鼠又食其角,乃免牛。吳伐郯。夏五月,曹伯來朝。不郊,猶三望。秋,楚公子嬰齊帥師伐鄭。公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾子、杞伯救鄭。八月戊辰,同盟於馬陵。公至自會。吳入州來。冬,大雩。衛孫林父出奔晉。

【経】七年春、周天子の暦の正月、鼷鼠が郊祭の牛の角を咬み、別に卜して牛を選んだ。鼷鼠がまたその角を咬み、こうしてその牛を免じた。呉が郯を攻めた。夏五月、曹伯が朝見に来た。郊祭を行わず、なお三度の望祭を行った。秋、楚の公子嬰斉が軍を率いて鄭を攻めた。成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾子・杞伯と会合して鄭を救った。八月戊辰、馬陵でともに盟を結んだ。成公は会から帰った。呉人が州来に入った。冬、大雩を行った。衛の孫林父が晋に出奔した。

【傳】七年春,吳伐郯,郯成。季文子曰:“中國不振旅,蠻夷入伐,而莫之或恤,無吊者也夫!《詩》曰:‘不弔昊天,亂靡有定。’其此之謂乎!有上不弔,其誰不受亂?吾亡無日矣!”君子曰:“如懼如是,斯不亡矣。”

【伝】七年春、呉が郯を攻め、郯は講和した。季文子は言った、「中原の諸夏が軍隊を整えず、蛮夷が入って攻めるのに、憂恤する者がいない。弔問すべき人がいないのですね!《詩》に言う、『弔問せざる昊天、乱に安定なし』と。これを言うのですね!上に在って弔問せざれば、誰が乱を受けずにいられましょうか。われわれの亡びるは幾日もありません!」君子は言った、「このように畏れれば、亡びないでしょう」と。

鄭子良相成公以如晉,見,且拜師。

鄭の子良が成公のために相礼して晋に行き、進見し、かつ出兵を拜謝した。

夏,曹宣公來朝。

夏、曹宣公が朝見に来た。

秋,楚子重伐鄭,師於汜。諸侯救鄭。鄭共仲、侯羽軍楚師,囚鄖公鍾儀,獻諸晉。

秋、楚の子重が鄭を攻め、泛に駐軍した。諸侯が鄭を救った。鄭の共仲・侯羽が楚軍を包囲し、鄖公鍾儀を囚えて晋に献じた。

八月,同盟於馬陵,尋蟲牢之盟,且莒服故也。

八月、馬陵でともに盟を結んだ。虫牢の盟を重温し、かつ莒が帰服したからである。

晉人以鍾儀歸,囚諸軍府。

晋人は鍾儀を連れて帰り、軍府に囚えた。

楚圍宋之役,師還,子重請取於申、呂以為賞田,王許之。申公巫臣曰:“不可。此申、呂所以邑也,是以為賦,以御北方。若取之,是無申、呂也。晉、鄭必至於漢。”王乃止。子重是以怨巫臣。子反欲取夏姬,巫臣止之,遂取以行,子反亦怨之。及共王即位,子重、子反殺巫臣之族子閻、子蕩及清尹弗忌及襄老之子黑要,而分其室。子重取子閻之室,使沈尹與王子罷分子蕩之室,子反取黑要與清尹之室。巫臣自晉遺二子書,曰:“爾以讒慝貪婪事君,而多殺不辜。餘必使爾罷於奔命以死。”

楚が宋を包囲した役で、軍が帰ると、子重は申・呂の一部を賞田とすることを請い、楚王は許した。申公巫臣は言った、「いけません。これは申・呂が城邑と為る所以の凭借で、これに依って軍賦を出し、北方を抵御します。もし取れば、申・呂はなくなります。晋・鄭は必ず漢水に至るでしょう」と。楚王はこうして止めた。子重はこれによって巫臣を怨恨した。子反が夏姫を娶ろうとしたのを巫臣が止め、後に彼女を連れて行ったので、子反も彼を怨恨した。共王が即位するに及び、子重・子反は巫臣の族の子閻・子蕩と清尹弗忌および襄老の子黒要を殺し、かつその家室を瓜分した。子重は子閻の家室を取り、沈尹と王子罷に子蕩の家室を分けさせ、子反は黒要と清尹の家室を取った。巫臣は晋からこの二人に書を送り、言った、「あなたたちは讒邪貪婪をもって国君に事え、また無辜を多く殺した。私は必ずあなたたちを奔命に疲れさせて死なせる」と。

巫臣請使於吳,晉侯許之。吳子壽夢說之。乃通吳於晉。以兩之一卒適吳,舍偏兩之一焉。與其射御,教吳乘車,教之戰陳,教之叛楚。置其子狐庸焉,使為行人於吳。吳始伐楚,伐巢、伐徐。子重奔命。馬陵之會,吳入州來。子重自鄭奔命。子重、子反於是乎一歲七奔命。蠻夷屬於楚者,吳盡取之,是以始大,通吳於上國。

巫臣は呉に出使することを請い、晋侯は許した。呉子寿夢は彼を喜んだ。こうして呉と晋を往来させた。両偏の中の一卒を連れて呉に行き、偏両の中の一偏を留めた。彼に射御する者を与え、呉人に戦車に乗ることを教え、戦陣を教え、楚に背くことを教えた。子の狐庸をそこに置き、呉で行人とさせた。呉は始めて楚を攻め、巢を攻め、徐を攻めた。子重は奔走して救急した。馬陵の会で、呉人は州来に入った。子重は鄭から奔走して救急した。子重・子反はこれによって一年に七度奔走して救急した。楚に属する蛮夷を、呉はすべて取った。これによって始めて強大となり、中原の上国と往来した。

衛定公惡孫林父。冬,孫林父出奔晉。衛侯如晉,晉反戚焉。

衛定公は孫林父を憎悪した。冬、孫林父は晋に出奔した。衛侯が晋に行くと、晋は戚を彼に返還した。

◇成公八年

◇成公八年

【經】八年春,晉侯使韓穿來言汶陽之田,歸之於齊。晉欒書帥師侵蔡。公孫嬰齊如莒。宋公使華元來聘。夏,宋公使公孫壽來納幣。晉殺其大夫趙同、趙括。秋七月,天子使召伯來賜公命。冬十月癸卯,杞叔姬卒。晉侯使士燮來聘。

【経】八年春、晋侯は韓穿を遣わして汶水以北の田を談じ、これを斉に返還させた。晋の欒書が軍を率いて蔡を侵伐した。公孫嬰斉が莒に行った。宋公は華元を遣わして聘問させた。夏、宋公は公孫寿を遣わして聘礼を送らせた。晋はその大夫趙同・趙括を殺した。秋七月、天子は召伯を遣わして成公に命服を賜わせた。冬十月癸卯、杞叔姫が死去した。晋侯は士燮を遣わして聘問させた。

叔孫僑如會晉士燮、齊人、邾人代郯。衛人來媵。

叔孫僑如は晋の士燮・斉人・邾人と会合して郯を攻めた。底本の「代郯」は即ち伐郯。衛人が媵妾を陪送しに来た。

【傳】八年春,晉侯使韓穿來言汶陽之田,歸之於齊。季文子餞之,私焉,曰:“大國制義以為盟主,是以諸侯懷德畏討,無有貳心。謂汶陽之田,敝邑之舊也,而用師於齊,使歸諸敝邑。今有二命曰:‘歸諸齊。’信以行義,義以成命,小國所望而懷也。信不可知,義無所立,四方諸侯,其誰不解體?《詩》曰:‘女也不爽,士貳其行。士也罔極,二三其德。’七年之中,一與一奪,二三孰甚焉!士之二三,猶喪妃耦,而況霸主?霸主將德是以,而二三之,其何以長有諸侯乎?《詩》曰:‘猶之未遠,是用大簡。’行父懼晉之不遠猶而失諸侯也,是以敢私言之。”

【伝】八年春、晋侯は韓穿を遣わして汶水以北の田を談じ、これを斉に返還させた。季文子は彼のために餞行し、私に言った、「大国は義を裁制して盟主と為る。だから諸侯は徳を感念し討伐を恐れ、二心がありません。汶水以北の田は敝邑の旧有と言い、斉に兵を用い、敝邑に返還させました。今また第二の命令があり、『斉に返還せよ』と。信用は義を行うため、義は命令を成すためのもので、小国の望み感念するところです。信用は知るべからず、義は落ち着くところなく、四方の諸侯、誰が人心離散せずにいられましょうか。《詩》に言う、『女子に差失なし、男子は行いを弐にす。男子は準則なく、その徳は反復す』と。七年の中に、一度与え一度奪い、反復してこれより甚だしきがありますか。士人が反復しても尚且配偶を失う。まして霸主をや。霸主は徳に依るべきなのに、反復しては、何をもって長く諸侯を保有しましょうか。《詩》に言う、『謀ること尚遠からず、これによって大いに勧諫す』と。行父は晋の謀ることが遠からずして諸侯を失うことを恐れ、だから敢えて私にこれを言います」と。

晉欒書侵蔡,遂侵楚,獲申驪。楚師之還也,晉侵沈,獲沈子揖初,從知、範、韓也。君子曰:“從善如流,宜哉!《詩》曰:‘愷悌君子,遐不作人。’求善也夫!作人,斯有功績矣。”是行也,鄭伯將會晉師,門於許東門,大獲焉。

晋の欒書が蔡を侵伐し、続けて楚を侵伐し、申驪を俘獲した。楚軍が帰る時、晋は沈を侵伐し、沈子揖初を俘獲した。知・范・韓の意見に従ったのだ。君子は言った、「善に従うこと流るるが如し、当然である!《詩》に言う、『和楽平易の君子、どうして人材を造就せざらん』と。これは善を求めることです!人材を造就すれば、功績があります」と。この度の出行で、鄭伯は晋軍に会見しようとして、許の東門を攻め、大いに俘獲があった。

聲伯如莒,逆也。

声伯が莒に行ったのは、夫人を迎えるためである。

宋華元來聘,聘共姬也。

宋の華元が聘問に来たのは、共姫のために聘を行うためである。

夏,宋公使公孫壽來納幣,禮也。

夏、宋公は公孫寿を遣わして聘礼を送らせた。これは礼に合う。

晉趙莊姬為趙嬰之亡故,譖之於晉侯,曰:“原、屏將為亂。”欒、郤為徵。

晋の趙荘姫は趙嬰が逃亡した故によって、晋侯に彼らを誣告して言った、「原・屏はまさに乱をなさんとしています」と。欒氏・郤氏が証人となった。

六月,晉討趙同、趙括。武從姬氏畜於公宮。以其田與祁奚。韓厥言於晉侯曰:“成季之勳,宣孟之忠,而無後,為善者其懼矣。三代之令王,皆數百年保天之祿。夫豈無闢王,賴前哲以免也。《周書》曰:‘不敢侮鰥寡。’所以明德也。”

六月、晋は趙同・趙括を討った。趙武は姫氏に従って公宮で養われた。彼らの田を祁奚に与えた。韓厥は晋侯に言った、「成季の功勲、宣孟の忠誠が、後嗣なく、善をなす者はおそらく懼れるでしょう。三代の好君王は皆数百年天の福禄を保有しました。邪僻の王がなかったのではなく、前代の哲人に恃って亡びを免れたのです。《周書》に言う、『鰥寡を欺侮する敢えてせず』と。これは徳を明らかにするためです」と。

乃立武,而反其田焉。

こうして趙武を立て、かつその田を返還した。

秋,召桓公來賜公命。

秋、召桓公が来て成公に命服を賜った。

晉侯使申公巫臣如吳,假道於莒。與渠丘公立於池上,曰:“城已惡!”莒子曰:“闢陋在夷,其孰以我為虞?”對曰:“夫狡焉思啟封疆以利社稷者,何國蔑有?唯然,故多大國矣,唯或思或縱也。勇夫重閉,況國乎?”冬,杞叔姬卒。來歸自杞,故書。

晋侯は申公巫臣を遣わして呉に行かせ、莒に道を借りた。渠丘公とともに護城河の上に立ち、言った、「城はすでに壊れています!」莒子は言った、「僻陋にして夷地に在り、誰がわれわれを図謀の対象としましょうか」と。答えて言った、「狡猾に封疆を辟いて社稷に利あらんと思う者は、どの国にもあります。まさにこれがため、大国が多いのです。ただ戒備するものと放縦するものがあるを見るのみです。勇夫でも尚戸を重ねて閉じる。まして国家をや」と。冬、杞叔姫が死去した。杞から帰った者なので、《春秋》に記す。

晉士燮來聘,言伐郯也,以其事吳故。公賂之,請緩師,文子不可,曰:“君命無貳,失信不立。禮無加貨,事無二成。君後諸侯,是寡君不得事君也。

晋の士燮が聘問に来て、郯を攻めることを談じた。それが呉に事えたからである。成公は彼に財貨を与え、出兵の延期を請うたが、文子は同意せず言った、「国君の命令に二心なく、信用を失えば立身できません。礼に額外の財貨なく、事に二つの成功なし。君王が諸侯に後れれば、寡君は君王に事えることができません。

燮將復之。”季孫懼,使宣伯帥師會伐郯。

(士燮は続けて言う:)燮はこのように復命します」と。季孫は懼れ、宣伯を遣わして軍を率いて会合して郯を攻めさせた。

衛人來媵共姬,禮也。凡諸侯嫁女,同姓媵之,異姓則否。

衛人が共姫のために媵妾を陪送しに来た。これは礼に合う。およそ諸侯が女を嫁がせるには、同姓が媵妾を陪送し、異姓はそうしない。

◇成公九年

◇成公九年

【經】九年春王正月,杞伯來逆叔姬之喪以歸。公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、杞伯,同盟於蒲。公至自會。二月伯姬歸於宋。夏,季孫行父如宋致女。晉人來媵。秋七月丙子,齊侯無野卒。晉人執鄭伯。晉欒書帥師伐鄭。冬十有一月,葬齊頃公。楚公子嬰齊帥師伐莒。庚申,莒潰。楚人入鄆。

【経】九年春、周天子の暦の正月、杞伯が叔姫の喪柩を迎えて帰った。成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・杞伯と会合し、蒲でともに盟を結んだ。成公は会から帰った。二月、伯姫が宋に嫁いだ。夏、季孫行父が宋に送嫁に行った。晋人が媵妾を陪送しに来た。秋七月丙子、斉侯無野が死去した。晋人が鄭伯を執えた。晋の欒書が軍を率いて鄭を攻めた。冬十一月、斉頃公を葬った。楚の公子嬰斉が軍を率いて莒を攻めた。庚申、莒国が潰散した。楚人が鄆に入った。

秦人、白狄伐晉。鄭人圍許。城中城。

秦人・白狄が晋を攻めた。鄭人が許を包囲した。中城を修築した。

【傳】九年春,杞桓公來逆叔姬之喪,請之也。杞叔姬卒,為杞故也。逆叔姬,為我也。

【伝】九年春、杞桓公が叔姫の喪柩を迎えに来たのは、請うてこうしたのである。杞叔姫が死去したのは、杞国のためである。叔姫を迎えたのは、わが国のためである。

為歸汶陽之田故,諸侯貳於晉。晉人懼,會於蒲,以尋馬陵之盟。季文子謂範文子曰:“德則不競,尋盟何為?”範文子曰:“勤以撫之,寬以待之,堅強以御之,明神以要之,柔服而伐貳,德之次也。”是行也,將始會吳,吳人不至。

汶水以北の田を返還した故に、諸侯は晋に二心を抱いた。晋人は懼れ、蒲で会見し、馬陵の盟を重温した。季文子は范文子に言った、「徳はすでに争い勝てない。盟を重温して何をなす」と。范文子は言った、「勤労をもって安んじ、寛厚をもって対し、堅強をもって御し、神明をもって要する。服従する者を撫し、二心ある者を伐つ。これは次等の徳です」と。この度の出行で、呉と会見を始めようとしたが、呉人は来なかった。

二月,伯姬歸於宋。

二月、伯姫が宋に嫁いだ。

楚人以重賂求鄭,鄭伯會楚公子成於鄧。

楚人は重礼をもって鄭を求め、鄭伯は楚の公子成と鄧で会見した。

夏,季文子如宋致女,覆命,公享之。賦《韓奕》之五章,穆姜出於房,再拜,曰:“大夫勤辱,不忘先君以及嗣君,施及未亡人。先君猶有望也!敢拜大夫之重勤。”又賦《綠衣》之卒章而入。

夏、季文子が宋に送嫁に行き、帰って復命すると、成公は享礼を設けて招待した。《韓奕》の第五章を賦すると、穆姜が房から出てきて再拜し、言った、「大夫は勤労を辱められ、先君および嗣君を忘れず、未亡人にまで施してくださる。先君もまたこの望みがあったでしょう!敢えて大夫の倍の勤労を拜謝します」と。さらに《緑衣》の末章を賦してから入った。

晉人來媵,禮也。

晋人が媵妾を陪送しに来た。これは礼に合う。

秋,鄭伯如晉。晉人討其貳於楚也,執諸銅鞮。

秋、鄭伯は晋に行った。晋人は彼の楚への二心を討ち、銅鞮で彼を執えた。

欒書伐鄭,鄭人使伯蠲行成,晉人殺之,非禮也。兵交,使在其間可也。楚子重侵陳以救鄭。

欒書が鄭を攻め、鄭人は伯蠲を遣わして和を求めたが、晋人は彼を殺した。これは礼に合わない。交兵の時、使者は中間にあってよい。楚の子重が陳を侵伐して鄭を救った。

晉侯觀于軍府,見鍾儀,問之曰:“南冠而縶者,誰也?”有司對曰:“鄭人所獻楚囚也。”使稅之,召而吊之。再拜稽首。問其族,對曰:“泠人也。”

晋侯は軍府を巡視し、鍾儀を見て問うた、「南冠を戴いて拘系されている者は誰か」と。関係の官员は答えた、「鄭人が献じた楚の俘虜です」と。彼を解かせ、召して慰問した。鍾儀は再拜稽首した。その族氏を問うと、答えて言った、「楽官です」と。

公曰:“能樂乎?”對曰:“先父之職官也,敢有二事?”使與之琴,操南音。

晋侯は言った、「楽を奏でられるか」と。答えて言った、「先父の職官です。敢えて二の事がありましょうか」と。琴を与えると、南方の音調を弾奏した。

公曰:“君王何如?”對曰:“非小人之所得知也。”固問之,對曰:“其為大子也,師保奉之,以朝於嬰齊而夕於側也。不知其他。”公語範文子,文子曰:“楚囚,君子也。言稱先職,不背本也。樂操土風,不忘舊也。稱大子,抑無私也。名其二卿,尊君也。不背本,仁也。不忘舊,信也。無私,忠也。尊君。敏也。仁以接事,信以守之,忠以成之,敏以行之。事雖大,必濟。君盍歸之,使合晉、楚之成。”公從之,重為之禮,使歸求成。

晋侯は言った、「君王はどうか」と。答えて言った、「小人の知るところではありません」と。再三問うと、答えて言った、「彼が太子の時、師保が彼に事え、朝は嬰斉に教えを請い、夜は側に教えを請いました。その他は知りません」と。晋侯は范文子に告げた。文子は言った、「楚の俘虜は君子です。話に先人の職事を称すのは、根本を背かないこと。音楽に郷土の音を弾くのは、故旧を忘れないこと。太子を称すのは、私心を抑えること。二卿の名を称すのは、国君を尊ぶこと。根本を背かないは仁、故旧を忘れないは信、私心なきは忠、国君を尊ぶは敏。仁をもって事に接し、信をもって守り、忠をもって成し、敏をもって行う。事はたとえ大きくても必ず成ります。君王はどうして彼を帰して、晋・楚の講和を成させないのですか」と。晋侯は従い、隆盛に礼を設けて彼を帰して和を求めさせた。

冬十一月,楚子重自陳伐莒,圍渠丘。渠丘城惡,眾潰,奔莒。戊申,楚入渠丘。莒人囚楚公子平,楚人曰:“勿殺!吾歸而俘。”莒人殺之。楚師圍莒。

冬十一月、楚の子重は陳から莒を攻め、渠丘を包囲した。渠丘の城が壊れ、衆は潰散して莒に奔った。戊申、楚人は渠丘に入った。莒人は楚の公子平を囚えた。楚人は言った、「殺すな!われわれはあなたたちの俘虜を返そう」と。莒人は彼を殺した。楚軍は莒を包囲した。

莒城亦惡,庚申,莒潰。楚遂入鄆,莒無備故也。

莒城も壊れ、庚申、莒国は潰散した。楚人はこうして鄆に入った。莒国に備えがなかったからである。

君子曰:“恃陋而不備,罪之大者也;備豫不虞,善之大者也。莒恃其陋,而不修城郭,浹辰之間,而楚克其三都,無備也夫!《詩》曰:‘雖有絲、麻,無棄菅、蒯;雖有姬、姜,無棄蕉萃。凡百君子,莫不代匱。’言備之不可以已也。”

君子は言った、「簡陋を恃んで備えないは、罪の中で最大。あらかじめ意外に備えるは、善の中で最大。莒国は簡陋を恃み、城郭を修めず、十二日の間に楚がその三都邑を攻克した。備えがなかったのだ!《詩》に言う、『糸・麻あれども、菅・蒯を棄てるなかれ。姫・姜あれども、憔悴の人を棄てるなかれ。およそ君子、匱乏に遭わざるはなし』と。備えは止めてはならないと言うのです」と。

秦人、白狄伐晉,諸侯貳故也。

秦人・白狄が晋を攻めたのは、諸侯に二心があったからである。

鄭人圍許,示晉不急君也。是則公孫申謀之,曰:“我出師以圍許,為將改立君者,而紓晉使,晉必歸君。”

鄭人が許を包囲したのは、晋に国君を急いで帰さないと示すためである。これは公孫申の計謀で、言った、「われわれが軍を出して許を包囲し、まさに別の国君を立てようとするかのごとく装い、かつ晋への使者を暫く緩めれば、晋は必ず国君を返すでしょう」と。

城中城,書,時也。

中城を修築したこと、《春秋》に記したのは、時令に合ったからである。

十二月,楚子使公子辰如晉,報鍾儀之使,請修好結成。

十二月、楚子は公子辰を遣わして晋に行かせ、鍾儀の出使に報い、修好して和約を結ぶことを請うた。

◇成公十年

◇成公十年

【經】十年春,衛侯之弟黑背帥師侵鄭。夏四月,五卜郊,不從,乃不郊。

【経】十年春、衛侯の弟黒背が軍を率いて鄭を侵伐した。夏四月、郊祭のために五度卜したが、皆従わず、こうして郊祭を行わなかった。

五月,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯伐鄭。齊人來媵。丙午,晉侯獳卒。

五月、成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯と会合して鄭を攻めた。斉人が媵妾を陪送しに来た。丙午、晋侯獳が死去した。

秋七月,公如晉。冬十月。

秋七月、成公は晋に行った。冬十月。

【傳】十年春,晉侯使糴伐如楚,報大宰子商之使也。

【伝】十年春、晋侯は糴茷を遣わして楚に行かせた。太宰子商の出使に報いるためである。

衛子叔黑背侵鄭,晉命也。

衛の子叔黒背が鄭を侵伐したのは、晋の命令である。

鄭公子班聞叔申之謀。三月,子如立公子繻。夏四月,鄭人殺繻,立髡頑。

鄭の公子班は叔申の計謀を聞き知った。三月、子如は公子繻を立てた。夏四月、鄭人は繻を殺し、髡頑を立てた。

子如奔許。欒武子曰:“鄭人立君,我執一人焉,何益?不如伐鄭而歸其君,以求成焉。”晉侯有疾。五月,晉立大子州蒲以為君,而會諸侯伐鄭。鄭子罕賂以襄鍾,子然盟於修澤,子駟為質。辛巳,鄭伯歸。

子如は許に逃げ奔った。欒武子は言った、「鄭人が国君を立てたのに、われわれが一人を執えて何の益があろう。鄭を攻めてその国君を返し、和を求めるに如かず」と。晋侯は病があった。五月、晋は太子州蒲を君に立て、諸侯と会合して鄭を攻めた。鄭の子罕は襄公の鍾をもって賂を行い、子然は修沢で盟を結び、子駟が人質となった。辛巳、鄭伯は帰った。

晉侯夢大厲,被髮及地,搏膺而踴,曰:“殺餘孫,不義。餘得請於帝矣!”壞大門及寢門而入。公懼,入於室。又壞戶。公覺,召桑田巫。巫言如夢。公曰:“何如?曰:“不食新矣。”公疾病,求醫於秦。秦伯使醫緩為之。未至,公夢疾為二豎子,曰:“彼,良醫也。懼傷我,焉逃之?”其一曰:“居肓之上,膏之下,若我何?”醫至,曰:“疾不可為也。在肓之上,膏之下,攻之不可,達之不及,藥不至焉,不可為也。”公曰:“良醫也。”厚為之禮而歸之。六月丙午,晉侯欲麥,使甸人獻麥,饋人為之。召桑田巫,示而殺之。將食,張,如廁,陷而卒。小臣有晨夢負公以登天,及日中,負晉侯出諸廁,遂以為殉。

晋侯は夢に大悪鬼を見た。髪は地に披き、胸を捶き足を踏み鳴らして言った、「我が子孫を殺したは不義。私はすでに天帝に請い許された!」大門と寝門を壊して入った。晋侯は懼れて内室に入った。また戸を壊した。晋侯は覚め、桑田の巫を召した。巫の言うことは夢と同じであった。晋侯は言った、「どうか」と。巫は言った、「新麦を食べられないでしょう」と。晋侯は病が重くなり、秦に医を求めた。秦伯は医緩を遣わして治させた。至らないうちに、晋侯は夢に疾病が二つの小人となり、言った、「あの人は良い医だ。われわれを傷つけるのを恐れる。どこに逃げよう」と。その一つは言った、「肓の上・膏の下に居れば、われわれをどうできよう」と。医が至り、言った、「病は治せません。肓の上・膏の下にあり、灸は可ならず、針刺は及ばず、薬は至らず。治せません」と。晋侯は言った、「良い医だ」と。厚く礼をして帰した。六月丙午、晋侯は麦を食べたいと思い、甸人に麦を献じさせ、食人に作らせた。桑田の巫を召し、見せてから殺した。まさに食べようとして、腹が脹り、厠に行き、墜ち込んで死んだ。ある小臣が朝に晋侯を背負って天に登る夢を見て、正午に至り、晋侯を背負って厠から出た。こうして彼を殉葬させた。

鄭伯討立君者,戊申,殺叔申、叔禽。君子曰:“忠為令德,非其人猶不可,況不令乎?”秋,公如晉。晉人止公,使送葬。於是糴伐未反。

鄭伯は君を立てた者を討ち、戊申、叔申・叔禽を殺した。君子は言った、「忠は美徳だが、対象が正しくなければ尚不可。ましてその身が善くないをや」と。秋、成公は晋に行った。晋人は成公を扣留し、葬を送らせた。この時糴茷はまだ帰っていなかった。

冬,葬晉景公。公送葬,諸侯莫在。魯人辱之,故不書,諱之也。

冬、晋景公を葬った。成公は葬を送ったが、諸侯は在場しなかった。魯人はこれを辱としたので、《春秋》に記さない。諱するのだ。

◇成公十一年

◇成公十一年

【經】十有一年春王三月,公至自晉。晉侯使郤犨來聘,己丑,及郤犨盟。

【経】十一年春、周天子の暦の三月、成公は晋から帰った。晋侯は郤犨を遣わして聘問させ、己丑、郤犨と盟を結んだ。

夏,季孫行父如晉。秋,叔孫僑如如齊。冬十月。

夏、季孫行父が晋に行った。秋、叔孫僑如が斉に行った。冬十月。

【傳】十一年春,王三月,公至自晉。晉人以公為貳於楚,故止公。公請受盟,而後使歸。

【伝】十一年春、周天子の暦の三月、成公は晋から帰った。晋人は成公が楚に二心ありとし、だから彼を扣留した。成公は盟を受けることを請い、その後で彼を帰した。

郤犨來聘,且蒞盟。

郤犨が聘問に来て、かつ盟に臨んだ。

聲伯之母不聘,穆姜曰:“吾不以妾為姒。”生聲伯而出之,嫁於齊管於奚。

声伯の母は聘礼を行わなかった。穆姜は言った、「私は妾を妯娌としない」と。声伯を生んでから彼女を休し、斉の管于奚に嫁がせた。

生二子而寡,以歸聲伯。聲伯以其外弟為大夫,而嫁其外妹於施孝叔。郤犨來聘,求婦於聲伯。聲伯奪施氏婦以與之。婦人曰:“鳥獸猶不失儷,子將若何?”曰:“吾不能死亡。”婦人遂行,生二子於郤氏。郤氏亡,晉人歸之施氏,施氏逆諸河,沉其二子。婦人怒曰:“己不能庇其伉儷而亡之,又不能字人之孤而殺之,將何以終?”遂誓施氏。

二子を生んでから寡居し、声伯のもとに帰った。声伯はその外弟を大夫とし、外妹を施孝叔に嫁がせた。郤犨が聘問に来て、声伯に婦を求めた。声伯は施氏の婦人を奪って彼に与えた。婦人は言った、「鳥獣尚且配偶を失わない。あなたはどうするのですか」と。言った、「私はこのため死ぬことはできない」と。婦人はこうして行き、郤氏で二子を生んだ。郤氏が亡びると、晋人は彼女を施氏に返した。施氏は黄河の辺で迎え、彼女の二子を河に沈めた。婦人は怒って言った、「自ら配偶を庇うことができずして彼女を失わせ、また人の孤児を愛せず殺す。何をもって善終しましょうか」と。こうして施氏に誓って絶えた。

夏,季文子如晉報聘,且蒞盟也。

夏、季文子は晋に行って聘問に報い、かつ盟に臨んだ。

周公楚惡惠、襄之逼也,且與伯與爭政,不勝,怒而出。及陽樊,王使劉子復之,盟於鄄而入。三日,復出奔晉。

周公楚は恵王・襄王の族人の逼迫を憎悪し、また伯輿と執政を争い、勝てず、怒って出走した。陽樊に至ると、天子は劉子を遣わして彼を帰らせ、鄄で盟を結んでから城に入った。三日、また晋に出奔した。

秋,宣伯聘於齊,以修前好。

秋、宣伯は斉に聘問し、従前の友好を重修しに来た。

晉郤至與周爭鄇田,王命劉康公、單襄公訟諸晉。郤至曰:“溫,吾故也,故不敢失。”劉子、單子曰:“昔周克商,使諸侯撫封,蘇忿生以溫為司寇,與檀伯達封於河。蘇氏即狄,又不能於狄而奔衛。襄王勞文公而賜之溫,狐氏、陽氏先處之,而後及子。若治其故,則王官之邑也,子安得之?”晉侯使郤至勿敢爭。

晋の郤至は周室と鄇田を争った。天子は劉康公・単襄公に命じて晋に争訟させた。郤至は言った、「温はわれわれの旧有なので、敢えて失いません」と。劉子・単子は言った、「昔周が商を克した時、諸侯に封疆を安んじさせ、蘇忿生が温をもって司寇となり、檀伯達とともに黄河の辺に封じられた。蘇氏は狄人に親しみ、また狄人と相処することができず衛に奔った。襄王は文公を慰労し、温を彼に賜った。狐氏・陽氏が先にそこに住み、その後にやっとあなたに及んだ。もし旧有を追究すれば、それは王官の城邑であり、あなたがどうして得られよう」と。晋侯は郤至に争うことを敢えてさせなかった。

宋華元善於令尹子重,又善於欒武子。聞楚人既許晉糴伐成,而使歸覆命矣。

宋の華元は令尹子重と交好し、また欒武子と交好した。楚人がすでに晋の糴茷に講和を許し、かつ彼を帰して復命させたと聞いた。

冬,華元如楚,遂如晉,合晉、楚之成。

冬、華元は楚に行き、続けて晋に行き、晋・楚の講和を促成した。

秦、晉為成,將會於令狐。晉侯先至焉,秦伯不肯涉河,次於王城,使史顆盟晉侯於河東。晉郤犨盟秦伯於河西。範文子曰:“是盟也何益?齊盟,所以質信也。會所,信之始也。始之不從,其何質乎?”秦伯歸而背晉成。

秦・晋は講和し、令狐で会見しようとした。晋侯が先に至ったが、秦伯は河を渡ることを肯んじず、王城に駐屯し、史颗を遣わして河東で晋侯と盟を結ばせた。晋の郤犨は河西で秦伯と盟を結んだ。范文子は言った、「この盟に何の益があるか。盟をともに結ぶは、信用を質証するため。会見の地点は信用の始め。始めに聴従せずして、また何を質証するか」と。秦伯は帰って晋との和約を背いた。

◇成公十二年

◇成公十二年

【經】十有二年春,周公出奔晉。夏,公會晉侯、衛侯於瑣澤。秋,晉人敗狄於交剛。冬十月。

【経】十二年春、周公が晋に出奔した。夏、成公は晋侯・衛侯と瑣沢で会見した。秋、晋人は交剛で狄人を破った。冬十月。

【傳】十二年春,王使以周公之難來告。書曰:“周公出奔晉。”凡自周無出,周公自出故也。

【伝】十二年春、天子は人を遣わして周公の患難を告げに来させた。《春秋》に記して「周公出奔晋」と。およそ周室から出るのは「出」と言わない。周公は自ら出走したからである。

宋華元克合晉、楚之成。夏五月,晉士燮會楚公子罷、許偃。癸亥,盟於宋西門之外,曰:“凡晉、楚無相加戎,好惡同之,同恤菑危,備救兇患。若有害楚,則晉伐之。在晉,楚亦如之。交贄往來,道路無壅,謀其不協,而討不庭。

宋の華元はついに晋・楚の講和を促成した。夏五月、晋の士燮は楚の公子罷・許偃と会見した。癸亥、宋の西門の外で盟を結び、言った、「およそ晋・楚は相い兵を用いず、好悪を同じくし、ともに災危を体恤し、凶患を備え救う。もし楚を害する者あれば、晋は彼を攻める。晋においては、楚もまたこのよう。使者が往来し、道路は壅塞せず、和協せぬを謀り、天子に朝せぬを討つ。

有渝此盟,明神殛之,俾隊其師,無克胙國。”鄭伯如晉聽成,會於瑣澤,成故也。

(盟辞は続く:)この盟に背く者あれば、神明は彼を誅殺し、その軍を墜落させ、国家を享有させじ」と。鄭伯は晋に行って和約を聴き、瑣沢で会見した。講和の故である。

狄人間宋之盟以侵晉,而不設備。秋,晉人敗狄於交剛。

狄人は宋の盟に乗じて晋を侵伐したが、防備を設けなかった。秋、晋人は交剛で狄人を破った。

晉郤至如楚聘,且蒞盟。楚子享之,子反相,為地室而縣焉。郤至將登,金奏作於下,驚而走出。子反曰:“日雲莫矣,寡君須矣,吾子其入也!”賓曰:“君不忘先君之好,施及下臣,貺之以大禮,重之以備樂。如天之福,兩君相見,何以代此。下臣不敢。”子反曰:“如天之福,兩君相見,無亦唯是一矢以相加遺,焉用樂?寡君須矣,吾子其入也!”賓曰:“若讓之以一矢,禍之大者,其何福之為?世之治也,諸侯鬧於天子之事,則相朝也,於是乎有享宴之禮。享以訓共儉,宴以示慈惠。共儉以行禮,而慈惠以佈政。政以禮成,民是以息。百官承事,朝而不夕,此公侯之所以扞城其民也。故《詩》曰:‘赳赳武夫,公侯干城。’及其亂也,諸侯貪冒,侵欲不忌,爭尋常以盡其民,略其武夫,以為己腹心股肱爪牙。故《詩》曰:‘赳赳武夫,公侯腹心。’天下有道,則公侯能為民干城,而制其腹心。亂則反之。今吾子之言,亂之道也,不可以為法。然吾子,主也,至敢不從?”遂入,卒事。歸,以語範文子。文子曰:“無禮必食言,吾死無日矣夫!”冬,楚公子罷如晉聘,且蒞盟。十二月,晉侯及楚公子罷盟於赤棘。

晋の郤至は楚に聘問し、かつ盟に臨んだ。楚子は享礼を設けて招待し、子反が相礼し、地室を掘って楽器を懸けた。郤至がまさに堂に登らんとすると、金石の楽が下で奏起し、驚いて走り出た。子反は言った、「天はすでに晩い。寡君が待っています。あなたはやはり入りなさい!」賓は言った、「君王は先君の友好を忘れず、下臣に施し、大礼を賜い、さらに齐备の音楽を加えました。もし天が福を賜い、二国君が相見れば、何をもってこれに代えましょうか。下臣は敢えてしません」と。子反は言った、「もし天が福を賜い、二国君が相見るも、ただ一矢をもって相贈るに過ぎない。どうして音楽を用いる必要があろう。寡君が待っています。あなたはやはり入りなさい!」賓は言った、「もし一矢をもって相譲るは、禍患の中で最大です。何の福をなしましょうか。天下が治まる時は、諸侯は天子の事を成し、こうして相朝見し、ここに享宴の礼があります。底本の「鬧」は即ち間。享は恭倹を訓導するため、宴は慈恵を示すため。恭倹は礼を行うため、慈恵は政を布くため。政事は礼をもって成り、百姓はこれによって安息します。百官は職事を承け、朝に朝見して晩に再び朝せない。これは公侯が百姓を扞衛する所以です。だから《詩》に言う、『赳赳たる武夫、公侯の干城なり』と。乱の時に及ぶと、諸侯は貪冒し、侵奪の欲望に忌憚なく、尺寸の地のために争い百姓を尽くし、あの武夫を奪い取って、自らの腹心股肱爪牙とします。だから《詩》に言う、『赳赳たる武夫、公侯の腹心なり』と。天下に道あれば、公侯は百姓の干城と為ることができ、かつその腹心を節制します。乱れれば反対です。今あなたの言は乱の道理です。法則とすべからず。しかしあなたは主人です。至は敢えて聴かざりえましょうか」と。こうして入り、事を終えた。帰って范文子に告げた。文子は言った、「礼なければ必ず言が算せず、われわれの死は幾日もない!」冬、楚の公子罷が晋に聘問し、かつ盟に臨んだ。十二月、晋侯は楚の公子罷と赤棘で盟を結んだ。

◇成公十三年

◇成公十三年

【經】十有三年春,晉侯使郤錡來乞師。三月,公如京師。夏五月,公自京師,遂會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、邾人、滕人伐秦。曹伯盧卒於師。秋七月,公至自伐秦。冬,葬曹宣公。

【経】十三年春、晋侯は郤錡を遣わして出兵を請わせた。三月、成公は京師に行った。夏五月、成公は京師から発し、こうして晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・邾人・滕人と会合して秦を攻めた。曹伯盧が軍中で死去した。秋七月、成公は秦を攻めたところから帰った。冬、曹宣公を葬った。

【傳】十三年春,晉侯使郤錡來乞師,將事不敬。孟獻子曰:“郤氏其亡乎!禮,身之幹也。敬,身之基也。郤子無基。且先君之嗣卿也,受命以求師,將社稷是衛,而惰,棄君命也。不亡何為?”三月,公如京師。宣伯欲賜,請先使,王以行人之禮禮焉。孟獻子從。王以為介,而重賄之。

【伝】十三年春、晋侯は郤錡を遣わして出兵を請わせたが、事を行うに恭敬でなかった。孟献子は言った、「郤氏はおそらく亡びるだろう!礼は身の軀幹、敬は身の根基。郤子に根基がない。しかも先君の嗣卿で、命を受けて兵を求めに来たは、社稷を衛護することなのに、怠惰とは、国君の命令を棄てることだ。亡びずして何をなす」と。三月、成公は京師に行った。宣伯は賞賜を得ようとして先に出使することを請い、天子は行人の礼をもって接待した。孟献子が従った。天子は彼を副使とし、厚く財貨を贈った。

公及諸侯朝王,遂從劉康公、成肅公會晉侯伐秦。成子受脤於社,不敬。劉子曰:“吾聞之,民受天地之中以生,所謂命也。是以有動作禮義威儀之則,以定命也。能者養以之福,不能者敗以取禍。是故君子勤禮,小人盡力,勤禮莫如致敬,盡力莫如敦篤。敬在養神,篤在守業。國之大事,在祀與戎,祀有執膰,戎有受脤,神之大節也。今成子惰,棄其命矣,其不反乎?”夏四月戊午,晉侯使呂相絕秦,曰:“昔逮我獻公,及穆公相好,戮力同心,申之以盟誓,重之以昏姻。天禍晉國,文公如齊,惠公如秦。無祿,獻公即世,穆公不忘舊德,俾我惠公用能奉祀於晉。又不能成大勳,而為韓之師。亦悔於厥心,用集我文公,是穆之成也。文公躬擐甲冑,跋履山川,逾越險阻,征東之諸侯,虞、夏、商、周之胤,而朝諸秦,則亦既報舊德矣。鄭人怒君之疆埸,我文公帥諸侯及秦圍鄭。秦大夫不詢於我寡君,擅及鄭盟。諸侯疾之,將致命於秦。

成公は諸侯とともに天子に朝見し、こうして劉康公・成粛公に従い晋侯と会合して秦を攻めた。成子は社で祭肉を受けたが、恭敬でなかった。劉子は言った、「私が聞くに、人は天地の中和の気を禀受して生まれ、これを命と言う。それゆえ動作礼義威儀の法則があり、命を安んじる。能くする者はこれを養って福を得、能くせぬ者はこれを敗って禍を取る。だから君子は礼に勤しみ、小人は力を尽くす。礼に勤しむは敬を致すに如くはなく、力を尽くすは敦厚篤実に如くはない。敬は神を奉養するに在り、篤は本業を守るに在り。国家の大事は祭祀と軍事に在り、祭祀には祭肉の頒布あり、軍事には祭肉の授受あり。神に事える大節である。今成子は怠惰で、その命を棄てた。おそらく帰らないだろう」と。夏四月戊午、晋侯は呂相を遣わして秦と絶交させ、言わせた、「昔わが献公から穆公と相好し、力を合わせ心を同じくし、盟誓をもって申明し、婚姻をもって加重した。天が晋に禍を降し、文公は斉に行き、恵公は秦に行った。不幸、献公が死去し、穆公は旧徳を忘れず、わが恵公をして晋で奉祀せしめた。また大功を成すことができず、韓の出兵があった。後に心に悔い、これによってわが文公を成した。これは穆公の成全である。文公は自ら甲冑を身に着け、山川を跋涉し、険阻を越え、東方の諸侯、虞・夏・商・周の後裔を征召して秦に朝見せしめた。すなわちすでに旧徳に報いた。鄭人が君王の辺疆を怒らせると、わが文公は諸侯を率い秦とともに鄭を包囲した。秦の大夫はわが寡君に問わず、擅自に鄭と盟を結んだ。諸侯は憎悪し、秦に対し命を賭けようとした。

文公恐懼,綏靜諸侯,秦師克還無害,則是我有大造於西也。無祿,文公即世,穆為不弔,蔑死我君,寡我襄公,迭我淆地,奸絕我好,伐我保城,殄滅我費滑,散離我兄弟,撓亂我同盟,傾覆我國家。我襄公未忘君之舊勳,而懼社稷之隕,是以有殽之師。猶願赦罪於穆公,穆公弗聽,而即楚謀我。天誘其衷,成王殞命,穆公是以不克逞志於我。穆、襄即世,康、靈即位。康公,我之自出,又欲闕翦我公室,傾覆我社稷,帥我蝥賊,以來蕩搖我邊疆。我是以有令狐之役。康猶不悛,入我河曲,伐我涑川,俘我王官,翦我羈馬,我是以有河曲之戰。東道之不通,則是康公絕我好也。

(呂相は続けて言う:)文公は恐懼して諸侯を安んじ、秦軍が害を受けず帰ることができた。これはわれわれが西方に大いに功労あることである。不幸、文公が死去し、穆公は善く弔問せず、わが亡き国君を蔑視し、わが襄公を欺寡し、突然わが殽地を侵犯した。底本の「淆」は即ち殽。わが友好を断絶し、わが城堡を攻打し、わが費滑を滅絶し、わが兄弟を離散し、わが同盟を扰乱し、わが国家を傾覆した。わが襄公は君王の旧日の功労を忘れなかったが、社稷の隕落を恐れ、これによって殽の役があった。なお穆公に罪を請うことを願ったが、穆公は聴かず、かえって楚に親しんでわれわれを謀った。天がその心意を導き、成王が命を喪い、穆公はこれによってわれわれに志を逞しゅうできなかった。穆公・襄公が死去し、康公・霊公が即位した。康公はわれわれから出た者で、またわが公室を亏缺翦除し、わが社稷を傾覆し、わが蟊賊を率いて、わが辺疆を動揺させようとした。われわれはこれによって令狐の役があった。康公は尚改悔せず、わが河曲に入り、わが涑川を攻め、わが王官を俘掠し、わが羈馬を翦除した。われわれはこれによって河曲の交戦があった。東の道路が通ぜぬは、康公がわが友好を断絶したからである。

及君之嗣也,我君景公引領西望曰:‘庶撫我乎!’君亦不惠稱盟,利吾有狄難,入我河縣,焚我箕、郜,芟夷我農功,虔劉我邊陲。我是以有輔氏之聚。

(呂相は続けて言う:)君王が位を継ぐに及び、わが国君景公は頸を伸ばして西を望み、言った、『おそらくわれわれを安んじてくれるだろう!』君王も恵を施して盟を行わず、われわれに狄の患難あるを利用し、わが黄河の辺の県に入り、わが箕・郜を焚燒し、わが農事の収穫を刈り取り、わが辺境を殺害した。われわれはこれによって輔氏の聚集があった。

“君亦悔禍之延,而欲徼福於先君獻、穆,使伯車來,命我景公曰:‘吾與女同好棄惡,復修舊德,以追念前勳,’言誓未就,景公即世,我寡君是以有令狐之會。君又不祥,背棄盟誓。白狄及君同州,君之仇讎,而我之昏姻也。君來賜命曰:‘吾與女伐狄。’寡君不敢顧昏姻,畏君之威,而受命於吏。君有二心於狄,曰:‘晉將伐女。’狄應且憎,是用告我。楚人惡君之二三其德也,亦來告我曰:‘秦背令狐之盟,而來求盟於我:“昭告昊天上帝、秦三公、楚三王曰:‘餘雖與晉出入,餘唯利是視。’不穀惡其無成德,是用宣之,以懲不壹。”諸侯備聞此言,斯是用痛心疾首,暱就寡人。寡人帥以聽命,唯好是求。君若惠顧諸侯,矜哀寡人,而賜之盟,則寡人之願也。其承寧諸侯以退,豈敢徼亂。君若不施大惠,寡人不佞,其不能以諸侯退矣。敢盡布之執事,俾執事實圖利之!”秦桓公既與晉厲公為令狐之盟,而又召狄與楚,欲道以伐晉,諸侯是以睦於晉。晉欒書將中軍,荀庚佐之。士燮將上軍,郤錡佐之。韓厥將下軍,荀罃佐之。

(呂相は続けて言う:)「君王もまた禍患の延長を悔い、先君献公・穆公に福を求めんとして、伯車を遣わして来て、わが景公に命じて言った、『我と汝とともに友好し、仇恨を棄て、改めて旧徳を修明し、従前の功勲を追念しよう』と。誓言はまだ成らないうちに景公が死去し、わが寡君はこれによって令狐の会見があった。君王はまた善くせず、盟誓を背棄した。白狄は君王と同じく一州に在り、君王の仇讐で、しかもわれわれの婚姻です。君王は来て命を賜い言った、『我と汝と狄人を攻めん』と。寡君は婚姻を顧念することを敢えてせず、君王の威を畏れ、吏人から命令を受けました。君王は狄人に二心を抱き、言った、『晋はまさにあなたたちを攻めんとしている』と。狄人は表面は許し心に憎悪し、これによってわれわれに告げました。楚人は君王の徳の反復を悪み、また来てわれわれに告げて言った、『秦は令狐の盟を背棄し、かえってわれわれに盟を求めて言う、明らかに昊天上帝・秦の三公・楚の三王に祷告して言う、私は晋と来往するが、私はただ利益を見るのみ、と。不穀は彼の成徳なきを悪み、これによって宣揚し、不専一を懲戒する』と。諸侯は皆これらの言を聞き、これによって痛心疾首し、寡人に親しみました。寡人は彼らを率いて命令を聴き、ただ友好を求めます。君王がもし諸侯を恵顧し、寡人を憐れみ、盟を賜われば、これが寡人の願いです。諸侯を安定させて退兵することを奉じ、あえて乱を求めましょうか。君王がもし大恵を施さなければ、寡人は不才、諸侯を率いて退くことができません。敢えてすべて執事に陳述し、執事が利害を切実に考慮することを望みます!」秦桓公はすでに晋厲公と令狐の盟を結んでいたのに、また狄人と楚を召し、彼らを導いて晋を攻めようとした。諸侯はこれによって晋と和睦した。晋の欒書が中軍を率い、荀庚が輔佐した。士燮が上軍を率い、郤錡が輔佐した。韓厥が下軍を率い、荀䓨が輔佐した。

趙旃將新軍,郤至佐之。郤毅御戎,欒針為右。孟獻子曰:“晉帥乘和,師必有大功。”五月丁亥,晉師以諸侯之師及秦師戰於麻隧。秦師敗績,獲秦成差及不更女父。曹宣公卒於師。師遂濟涇,及侯麗而還。迓晉侯於新楚。

趙旃が新軍を率い、郤至が輔佐した。郤毅が戎車を御し、欒鍼が車右となった。孟献子は言った、「晋の帥と車乘が和睦すれば、軍は必ず大功がある」と。五月丁亥、晋軍は諸侯の軍を率いて秦軍と麻隧で交戦した。秦軍は大敗し、秦の成差と不更女父を俘獲した。曹宣公は軍中で死去した。軍はこうして涇水を渡り、侯麗に至って帰った。新楚で晋侯を迎えた。

成肅公卒於瑕。

成粛公は瑕で死去した。

六月丁卯夜,鄭公子班自訾求入於大宮,不能,殺子印、子羽。反軍於市,己巳,予駟帥國人盟於大宮,遂從而盡焚之,殺子如、子駹、孫叔、孫知。

六月丁卯の夜、鄭の公子班は訾から太宮に入ることを請い、叶わず、子印・子羽を殺した。返って市に駐軍した。己巳、子駟は国人を率いて太宮で盟を結んだ。底本の「予駟」は即ち子駟。こうして追いつき彼らをすべて焼き、子如・子駹・孫叔・孫知を殺した。

曹人使公子負芻守,使公子欣時逆曹伯之喪。秋,負芻殺其大子而自立也。

曹人は公子負芻を留守させ、公子欣時を遣わして曹伯の喪柩を迎えさせた。秋、負芻は太子を殺して自立した。

諸侯乃請討之,晉人以其役之勞,請俟他年。冬,葬曹宣公。既葬,子臧將亡,國人皆將從之。成公乃懼,告罪,且請焉,乃反,而致其邑。

諸侯はこうして討伐を請うたが、晋人は彼らがこの度の軍役の労苦であったため、他年を待つことを請うた。冬、曹宣公を葬った。葬り終え、子臧はまさに逃亡しようとし、国人は皆彼に従おうとした。成公はこうして懼れ、罪を認め、かつ彼に留まることを請い、やっと帰り、自らの城邑を返還した。

◇成公十四年

◇成公十四年

【經】十有四年春王正月,莒子朱卒。夏,衛孫林父自晉歸於衛。秋,叔孫僑如如齊逆女。鄭公子喜帥師伐許。九月,僑如以夫人婦姜氏至自齊。冬十月庚寅,衛侯臧卒。秦伯卒。

【経】十四年春、周天子の暦の正月、莒子朱が死去した。夏、衛の孫林父が晋から衛に帰った。秋、叔孫僑如が斉に夫人を迎えに行った。鄭の公子喜が軍を率いて許を攻めた。九月、僑如は夫人婦姜氏を連れて斉から帰った。冬十月庚寅、衛侯臧が死去した。秦伯が死去した。

【傳】十四年春,衛侯如晉,晉侯強見孫林父焉,定公不可。夏,衛侯既歸,晉侯使郤犨送孫林父而見之。衛侯欲辭,定姜曰:“不可。是先君宗卿之嗣也,大國又以為請,不許,將亡。雖惡之,不猶愈於亡乎?君其忍之!安民而宥宗卿,不亦可乎?”衛侯見而復之。

【伝】十四年春、衛侯は晋に行き、晋侯は彼に孫林父に見えることを強いたが、定公は同意しなかった。夏、衛侯はすでに帰り、晋侯は郤犨を遣わして孫林父を送って彼に見えさせた。衛侯は辞退しようとしたが、定姜は言った、「いけません。これは先君の宗卿の後嗣で、大国もまたこれをもって請います。許さなければ、まさに亡びようとしています。たとえ彼を悪んでも、返さないことが亡びるよりまさりますか。君王の忍耐を請います!百姓を安んじかつ宗卿を寛宥するは、また可ではありませんか」と。衛侯は接見し彼を復職させた。

衛侯饗苦成叔,甯惠子相。苦成叔傲。寧子曰:“苦成家其亡乎!古之為享食也,以觀威儀、省禍福也。故《詩》曰:‘兕觥其觩,旨酒思柔,彼交匪傲,萬福來求。’今夫子傲,取禍之道也。”

衛侯は饗礼を設けて苦成叔を招待し、寧恵子が相礼した。苦成叔は傲慢であった。寧子は言った、「苦成のこの家はおそらく亡びるだろう!古に享食を設けるは、威儀を観察し禍福を省察するため。だから《詩》に言う、『兕觥は曲がり、美酒は柔らか、相交り傲慢ならず、万福来たり求めん』と。今この傲慢は、禍を取る道です」と。

秋,宣伯如齊逆女。稱族,尊君命也。

秋、宣伯は斉に夫人を迎えに行った。族氏を記したのは、国君の命令を尊重するためである。

八月,鄭子罕伐許,敗焉。戊戌,鄭伯復伐許。庚子,入其郛。許人平以叔申之封。

八月、鄭の子罕が許を攻め、戦敗した。戊戌、鄭伯は再び許を攻めた。庚子、外城に入った。許人は叔申の封地をもって講和した。

九月,僑如以夫人婦姜氏至自齊。舍族,尊夫人也。故君子曰:“《春秋》之稱,微而顯,志而晦,婉而成章,盡而不汙,懲惡而勸善。非聖人誰能修之?”衛侯有疾,使孔成子、甯惠子立敬姒之子衎以為大子。冬十月,衛定公卒。

九月、僑如は夫人婦姜氏を連れて斉から帰った。族氏を記さないのは、夫人を尊重するためである。だから君子は言った、「《春秋》の称谓は、隠微にして顕明、記載にして含蓄、委婉にして成章、詳尽にして歪曲せず、悪行を懲戒し善行を勧勉する。聖人でなければ誰がこれを修訂できよう」と。衛侯は病があり、孔成子・寧恵子に敬姒の子衎を太子に立てさせた。冬十月、衛定公が死去した。

夫人姜氏既哭而息,見大子之不哀也,不內酌飲。嘆曰:“是夫也,將不唯衛國之敗,其必始於未亡人!烏呼!天禍衛國也夫!吾不獲鱄也使主社稷。”大夫聞之,無不聳懼。孫文子自是不敢舍其重器於衛,盡置諸戚,而甚善晉大夫。

夫人姜氏は哭き終えて休み、太子が悲哀でないのを見て、水飲を進めなかった。嘆息して言った、「この人は、衛国を敗壊するだけでなく、必ず未亡人から始めるだろう!ああ!天は衛国に禍を降すのか!私は鱄を得て社稷を主持させることができなかった」と。大夫はこれを聞いて、驚懼せぬ者はなかった。孫文子はこれより貴重な器物を衛都に置くことを敢えてせず、すべて戚に置き、かつ晋の大夫と甚だ結びついた。

◇成公十五年

◇成公十五年

【經】十有五年春王二月,葬衛定公。三月乙巳,仲嬰齊卒。癸丑,公會晉侯、衛侯、鄭伯、曹伯、宋世子成、齊國佐,邾人同盟於戚。晉侯執曹伯歸於京師。公至自會。夏六月,宋公固卒。楚子伐鄭。秋八月庚辰,葬宋共公。宋華元出奔晉。宋華元自晉歸於宋。宋殺其大夫山。宋魚石出奔楚。冬十有一月,叔孫僑如會晉士燮、齊高無咎、宋華元、衛孫林父、鄭公子、邾人會吳於鍾離。

【経】十五年春、周天子の暦の二月、衛定公を葬った。三月乙巳、仲嬰斉が死去した。癸丑、成公は晋侯・衛侯・鄭伯・曹伯・宋世子成・斉の国佐・邾人と戚でともに盟を結んだ。晋侯は曹伯を執えて京師に送った。成公は会から帰った。夏六月、宋公固が死去した。楚子が鄭を攻めた。秋八月庚辰、宋共公を葬った。宋の華元が晋に出奔した。宋の華元が晋から宋に帰った。宋はその大夫山を殺した。宋の魚石が楚に出奔した。冬十一月、叔孫僑如は晋の士燮・斉の高無咎・宋の華元・衛の孫林父・鄭の公子𩔖・邾人と会合し、鍾離で呉に会見した。

許遷於葉。

許は葉に遷った。

【傳】十五年春,會於戚,討曹成公也。執而歸諸京師。書曰:“晉侯執曹伯。”不及其民也。凡君不道於其民,諸侯討而執之,則曰某人執某侯。不然,則否。

【伝】十五年春、戚で会見したのは、曹成公を討つためである。執えて京師に送った。《春秋》に記して「晋侯執曹伯」と。彼の罪が百姓に延及しなかったからである。およそ国君が百姓に無道で、諸侯が討ちこれを執えれば、某人執某侯と言う。そうでなければこのように書かない。

諸侯將見子臧於王而立之,子臧辭曰:“《前志》有之,曰:‘聖達節,次守節,下失節。’為君,非吾節也。雖不能聖,敢失守乎?”遂逃,奔宋。

諸侯は子臧を天子に進見させて立てようとしたが、子臧は推辞して言った、「《前志》にこの言があります。『聖人は節義に通達し、次は節義を守り、下等は節義を失う』と。国君を為すは、私の節ではありません。たとえ聖人になれなくとも、敢えて守ることを失いましょうか」と。こうして逃げ走り、宋に向かった。

夏六月,宋共公卒。

夏六月、宋共公が死去した。

楚將北師。子囊曰:“新與晉盟而背之,無乃不可乎?”子反曰:“敵利則進,何盟之有?”申叔時老矣,在申,聞之,曰:“子反必不免。信以守禮,禮以庇身,信禮之亡,欲免得乎?”楚子侵鄭,及暴隧,遂侵衛,及首止。鄭子罕侵楚,取新石。欒武子欲報楚,韓獻子曰:“無庸,使重其罪,民將叛之。無民,孰戰?”秋八月,葬宋共公。於是華元為右師,魚石為左師,蕩澤為司馬,華喜為司徒,公孫師為司城,向為人為大司寇,鱗朱為少司寇,向帶為大宰,魚府為少宰。

楚は北に出兵しようとした。子囊は言った、「新たに晋と盟を結んだのに背棄するは、おそらく不可でしょう」と。子反は言った、「敵に利あれば進む。何の盟があろう」と。申叔時はすでに年老いて申にいたが、聞いて言った、「子反は必ず免れない。信用は礼を守るため、礼は身を庇うため。信用と礼が亡びて、禍を免れようとすることができますか」と。楚子は鄭を侵伐し、暴隧に至り、続けて衛を侵伐し、首止に至った。鄭の子罕は楚を侵伐し、新石を取った。欒武子は楚に報復しようとしたが、韓献子は言った、「用いません。彼らに罪を加重させれば、百姓は背くでしょう。百姓なくして、誰と交戦しましょう」と。秋八月、宋共公を葬った。この時華元は右師、魚石は左師、蕩沢は司馬、華喜は司徒、公孫師は司城、向為人は大司寇、鱗朱は少司寇、向帯は太宰、魚府は少宰であった。

蕩澤弱公室,殺公子肥。華元曰:“我為右師,君臣之訓,師所司也。今公室卑而不能正,吾罪大矣。不能治官,敢賴寵乎?”乃出奔晉。

蕩沢は公室を削弱し、公子肥を殺した。華元は言った、「私が右師を為し、君臣の教訓は師の掌るところ。今公室が卑微なのに正すことができず、私の罪は大きい。官職を治めることができず、敢えて寵信に倚りましょうか」と。こうして晋に出奔した。

二華,戴族也;司城,莊族也;六官者,皆桓族也。魚石將止華元,魚府曰:“右師反,必討,是無桓氏也。”魚石曰:“右師苟獲反,雖許之討,必不敢。

二華氏は戴族、司城は荘族、六位の官員は皆桓族。魚石は華元を遮り止めようとしたが、魚府は言った、「右師が帰れば、必ず討伐し、これでは桓氏がなくなります」と。魚石は言った、「右師がもし帰ることができれば、たとえ討伐を許しても、必ず敢えてしないでしょう。

且多大功,國人與之,不反,懼桓氏之無祀於宋也。右師討,猶有戌在,桓氏雖亡,必偏。”魚石自止華元於河上。請討,許之,乃反。使華喜、公孫師帥國人攻蕩氏,殺子山。書曰:“宋殺大夫山。”言背其族也。

(魚石は続けて言う:)しかも功が大きく、国人が親附する。帰らなければ、桓氏が宋で祭祀がなくなることを恐れます。右師が討伐しても、なお戌が在り、桓氏はたとえ亡びても、必ず一部に過ぎないでしょう」と。魚石は自ら黄河の辺に至り華元を遮り止めた。華元は討伐を請い、許されて、やっと帰った。華喜・公孫師に国人を率いて蕩氏を攻めさせ、子山を殺した。《春秋》に記して「宋殺大夫山」と。彼が自らの族を背棄したと言うのだ。

魚石、向為人、鱗朱、向帶、魚府出舍於睢上。華元使止之,不可。冬十月,華元自止之,不可。乃反。魚府曰:“今不從,不得入矣。右師視速而言疾,有異志焉。若不我納,今將馳矣。”登丘而望之,則馳。聘而從之,則決睢澨,閉門登陴矣。左師、二司寇、二宰遂出奔楚。華元使向戌為左師,老佐為司馬,樂裔為司寇,以靖國人。

魚石・向為人・鱗朱・向帯・魚府は城を出て睢水の辺に住んだ。華元は人を遣わして彼らを止めたが、同意しなかった。冬十月、華元は自ら行って止めたが、同意しなかった。こうして帰った。魚府は言った、「今従わなければ、城に入ることができません。右師は目光が迅速で話が急、別の打算があります。もしわれわれを接納しなければ、今まさに車を馳せようとしています」と。丘に登って眺めると、果たして車を馳せていた。車を駆って追うと、華元はすでに睢水の堤防を掘き開き、城門を閉じて城の女牆に登っていた。左師・二司寇・二宰はこうして楚に出奔した。華元は向戌を左師とし、老佐を司馬とし、楽裔を司寇として、国人を安んじた。

晉三郤害伯宗,譖而殺之,及欒弗忌。伯州犁奔楚。韓獻子曰:“郤氏其不免乎!善人,天地之紀也,而驟絕之,不亡何待?”初,伯宗每朝,其妻必戒之曰:“‘盜憎主人,民惡其上。’子好直言,必及於難。”

晋の三郤氏は伯宗を陥れ、誣して彼を殺し、および欒弗忌を殺した。伯州犁は楚に逃げ奔った。韓献子は言った、「郤氏はおそらく免れないだろう!善人は天地の紀綱なのに、屡々滅絶する。亡びずして何を待つか」と。初め、伯宗は朝するたびに、その妻は必ず誡めて言った、「『盗賊は主人を憎み、百姓は上に在る者を悪む』と。あなたは直言を好むから、必ず患難に遭うでしょう」と。

十一月,會吳於鍾離,始通吳也。

十一月、鍾離で呉に会見したのは、始めて呉と往来するためである。

許靈公畏逼於鄭,請遷於楚。辛丑,楚公子申遷許於葉。

許霊公は鄭の逼迫を懼れ、楚に遷ることを請うた。辛丑、楚の公子申は許を葉に遷した。

◇成公十六年

◇成公十六年

【經】十有六年春王正月,雨,木冰。夏四月辛未,滕子卒。鄭公子喜帥師侵宋。六月丙寅朔,日有食之。晉侯使欒黶來乞師。甲午晦,晉侯及楚子、鄭伯戰於鄢陵。楚子、鄭師敗績。楚殺其大夫公子側。秋,公會晉侯、齊侯、衛侯、宋華元、邾人於沙隨,不見公。公至自會。公會尹子、晉侯、齊國佐、邾人伐鄭。

【経】十六年春、周天子の暦の正月、雨が降り木に氷が結した。夏四月辛未、滕子が死去した。鄭の公子喜が軍を率いて宋を侵伐した。六月丙寅の朔、日食があった。晋侯は欒黶を遣わして出兵を請わせた。甲午の月末、晋侯は楚子・鄭伯と鄢陵で交戦した。楚子・鄭軍は大敗した。楚はその大夫公子側を殺した。秋、成公は晋侯・斉侯・衛侯・宋の華元・邾人と沙随で会見したが、成公に見えなかった。成公は会から帰った。成公は尹子・晋侯・斉の国佐・邾人と会合して鄭を攻めた。

曹伯歸自京師。九月,晉人執季孫行父,舍之於苕丘。冬十月乙亥,叔孫僑如出奔齊。十有二月乙丑,季孫行父及晉郤犨盟於扈。公至自會。乙酉,刺公子偃。

曹伯は京師から帰った。九月、晋人は季孫行父を執え、苕丘に置いた。冬十月乙亥、叔孫僑如が斉に出奔した。十二月乙丑、季孫行父は晋の郤犨と扈で盟を結んだ。成公は会から帰った。乙酉、公子偃を刺し殺した。

【傳】十六年春,楚子自武城使公子成以汝陰之田求成於鄭。鄭叛晉,子駟從楚子盟於武城。

【伝】十六年春、楚子は武城から公子成を遣わし、汝陰の田をもって鄭に和を求めさせた。鄭は晋に背き、子駟は楚子に従い武城で盟を結んだ。

夏四月,滕文公卒。

夏四月、滕文公が死去した。

鄭子罕伐宋,宋將鉏、樂懼敗諸汋陂。退,舍於夫渠,不儆,鄭人覆之,敗諸汋陵,獲將鉏、樂懼。宋恃勝也。

鄭の子罕が宋を攻め、宋の将鉏・楽懼が汋陂で彼らを破った。宋軍が退き、夫渠に宿り、警戒せず、鄭人は伏兵を設け、汋陵で彼らを破り、将鉏・楽懼を俘獲した。宋が勝利を恃んだからである。

衛侯伐鄭,至於鳴雁,為晉故也。

衛侯は鄭を攻め、鳴雁に至った。晋のためである。

晉侯將伐鄭,範文子曰:“若逞吾願,諸侯皆叛,晉可以逞。若唯鄭叛,晉國之憂,可立俟也。”欒武子曰:“不可以當吾世而失諸侯,必伐鄭。”乃興師。

晋侯は鄭を攻めようとした。范文子は言った、「もしわが願いを満たすなら、諸侯が皆背いてこそ、晋は緩められる。もし鄭のみが背けば、晋の憂患は立って待つべし」と。欒武子は言った、「われわれの世で諸侯を失ってはならない。必ず鄭を攻める」と。こうして兵を起こした。

欒書將中軍,士燮佐之。郤錡將上軍,荀偃佐之。韓厥將下軍,郤至佐新軍,荀罃居守。郤犨如衛,遂如齊,皆乞師焉。欒黶來乞師,孟獻子曰:“有勝矣。”

欒書が中軍を率い、士燮が輔佐した。郤錡が上軍を率い、荀偃が輔佐した。韓厥が下軍を率い、郤至が新軍を輔佐し、荀䓨が留守を務めた。郤犨は衛に行き、続けて斉に行き、皆出兵を請うた。欒黶が出兵を請いに来ると、孟献子は言った、「勝算がある」と。

戊寅,晉師起。

戊寅、晋軍が出発した。

鄭人聞有晉師,使告於楚,姚句耳與往。楚子救鄭,司馬將中軍,令尹將左,右尹子辛將右。過申,子反入見申叔時,曰:“師其何如?”對曰:“德、刑、詳、義、禮、信,戰之器也。德以施惠,刑以正邪,詳以事神,義以建利,禮以順時,信以守物。民生厚而德正,用利而事節,時順而物成。上下和睦,周旋不逆,求無不具,各知其極。故《詩》曰:‘立我烝民,莫匪爾極。’是以神降之福,時無災害,民生敦龐,和同以聽,莫不盡力以從上命,致死以補其闕。此戰之所由克也。今楚內棄其民,而外絕其好,瀆齊盟,而食話言,奸時以動,而疲民以逞。民不知信,進退罪也。人恤所厎,其誰致死?子其勉之!吾不復見子矣。”

鄭人は晋軍あるを聞き、人を遣わして楚に告げ、姚句耳がともに往った。楚子は鄭を救い、司馬が中軍を率い、令尹が左軍を率い、右尹子辛が右軍を率いた。申を過ぐると、子反は入って申叔時に見え、言った、「軍はどうでしょう」と。答えて言った、「徳・刑・祥・義・礼・信は、交戦の器具です。徳は恩惠を施すため、刑は邪僻を正すため、祥は神に事えるため、義は利益を建てるため、礼は時令に順うため、信は事物を守るため。民生が丰厚なれば徳行が端正し、器用が便利なれば事に節あり、時令が順なれば万物が成る。上下が和睦し、周旋が悖逆せず、需用に備わらざるなく、各々準則を知る。だから《詩》に言う、『我が衆民を安んじ、汝の準則ならざるなし』と。これによって神は福を降し、時令に災害なく、民生は敦厚充実し、和同して聴従し、上命に力を尽くして従わぬなく、死をもって欠を補う。これが交戦して勝てる所以です。今楚は内に百姓を棄て、外に友好を絶ち、共同の盟を瀆し、言が算せず、時令に背いて出し、百姓を疲弊させて逞快する。百姓は信用を知らず、進退は皆罪です。人々は皆自らの帰する所を憂え、誰が死を致そうか。あなたは努力しなさい!私はもうあなたに会いません」と。

姚句耳先歸,子駟問焉,對曰:“其行速,過險而不整。速則失志,不整喪列。

姚句耳が先に帰り、子駟が彼に問うと、答えて言った、「彼らは行くこと速く、険地を過ぐるに整斉せず。速ければ思慮を失い、整斉せざれば行列を喪う。

志失列喪,將何以戰?楚懼不可用也。”

(姚句耳は続けて言う:)思慮を失い行列を喪えば、何をもって交戦しましょうか。楚はおそらく用いられません」と。

五月,晉師濟河。聞楚師將至,範文子欲反,曰:“我偽逃楚,可以紓憂。

五月、晋軍は河を渡った。楚軍がまさに至ると聞き、范文子は返そうとして言った、「われわれが楚を逃れ避けるふりをすれば、憂患を緩められます。

夫合諸侯,非吾所能也,以遺能者。我若群臣輯睦以事君,多矣。”武子曰:“不可。”

(范文子は続けて言う:)諸侯を会合するは、私の能くするところではなく、能くする者に留めます。われわれが群臣として和睦して国君に事えれば、足ります」と。武子は言った、「いけない」と。

六月,晉、楚遇於鄢陵。範文子不欲戰,郤至曰:“韓之戰,惠公不振旅。

六月、晋・楚は鄢陵で遇った。范文子は交戦を欲しなかった。郤至は言った、「韓の交戦に、恵公は軍を整えて帰ることができず。

箕之役,先軫不反命,邲之師,荀伯不復從。皆晉之恥也。子亦見先君之事矣。

(郤至は続けて言う:)箕の役に、先軫は帰って復命することができず、邲の一軍は、荀伯は再び従うことができなかった。皆晋の恥です。あなたも先君の事を見ています。

今我闢楚,又益恥也。”文子曰:“吾先君之亟戰也,有故。秦、狄、齊、楚皆強,不盡力,子孫將弱。今三強服矣,敵楚而已。唯聖人能外內無患,自非聖人,外寧必有內憂。盍釋楚以為外懼乎?”甲午晦,楚晨壓晉軍而陳。軍吏患之。範匄趨進,曰:“塞井夷灶,陳于軍中,而疏行首。晉、楚唯天所授,何患焉?”文子執戈逐之,曰:“國之存亡,天也。童子何知焉?”欒書曰:“楚師輕窕,固壘而待之,三日必退。退而擊之,必獲勝焉。”郤至曰:“楚有六間,不可失也:其二卿相惡;王卒以舊;鄭陳而不整;蠻軍而不陳;陳不違晦;在陳而囂,合而加囂,各顧其後,莫有鬥心。舊不必良,以犯天忌。我必克之。”

(郤至は続けて言う:)今われわれが楚を避ければ、また恥を増します」と。文子は言った、「わが先君が屡々交戦したのは、故がある。秦・狄・斉・楚は皆強く、力を尽くさなければ、子孫は弱くなったでしょう。今三つの強国はすでに服し、敵は楚のみ残る。聖人のみが内外に憂患なくできる。自ら聖人でなければ、外が安寧すれば必ず内憂あり。どうして楚を放って外部の戒懼としないのか」と。甲午の月末、楚軍は朝に晋軍に迫り陣を列した。軍吏は憂えた。范匄が歩を進めて言った、「井を填め竈を平げ、軍中で陣を列し、行列の前鋒を疎にせよ。晋・楚はただ天が誰に授けるかを見るのみ。何を憂える」と。文子は戈を執って彼を逐い、言った、「国家の存亡は天に在り。小児が何を知る」と。欒書は言った、「楚軍は軽佻。営塁を固めて待てば、三日で必ず退く。退いてから撃てば、必ず勝つ」と。郤至は言った、「楚に六つの間隙あり、失うべからず。二卿が相憎悪し、楚王の直属部隊は旧人を用い、鄭軍は陣を列しても整斉せず、蛮人は軍を成しても陣を列せず、陣を列するに月末を避けず、陣中で誼譁し、会合の後はさらに誼譁し、各々後を顧みて斗心なし。旧人は必ずしも精良でなく、また天の忌諱に犯る。われわれは必ず勝てます」と。

楚子登巢車以望晉軍,子重使大宰伯州犁侍於王后。王曰:“騁而左右,何也?”曰:“召軍吏也。”“皆聚于軍中矣!”曰:“合謀也。”“張幕矣。”

楚子は巢車に登って晋軍を眺め、子重は太宰伯州犁に楚王の後に侍立させた。楚王は言った、「左右に馳騁するは、何をなすか」と。「軍吏を召集します」。「皆軍中に集まった!」「ともに謀っています」。「帳幕を張った」。

曰:“虔卜於先君也。”“徹幕矣!”曰:“將發命也。”“甚囂,且塵上矣!”曰:“將塞井夷灶而為行也。”“皆乘矣,左右執兵而下矣!”曰:“聽誓也。”

(伯州犁は続けて言う:)「先君のもとで虔に卜します」。「帳幕を撤した!」「命令を発布しようとしています」。「甚だ誼譁し、かつ塵が揚がった!」「井を填め竈を平げて行列を列べようとしています」。「皆車に登り、左右は兵器を執ってまた降りた!」「誓辞を聴いています」。

“戰乎?”曰:“未可知也。”“乘而左右皆下矣!”曰:“戰禱也。”伯州犁以公卒告王。苗賁皇在晉侯之側,亦以王卒告。皆曰:“國士在,且厚,不可當也。”苗賁皇言於晉侯曰:“楚之良,在其中軍王族而已。請分良以擊其左右,而三軍萃於王卒,必大敗之。”公筮之,史曰:“吉。其卦遇《復》ⅱⅲ,曰:‘南國戚,射其元王中厥目。’國戚王傷,不敗何待?”公從之。有淖於前,乃皆左右相違於淖。步毅御晉厲公,欒針為右。彭名御楚共王,潘黨為右。石首御鄭成公,唐苟為右。欒、範以其族夾公行,陷於淖。欒書將載晉侯,針曰:“書退!國有大任,焉得專之?且侵官,冒也;失官,慢也;離局,奸也。有三罪焉,不可犯也。”乃掀公以出於淖。

「交戦するか」「まだ知るべからず」。「車に登り、左右はまた皆降りた!」「戦前の祈祷です」。伯州犁は晋侯の直属部隊を楚王に告げた。苗賁皇は晋侯の辺にいて、楚王の直属部隊を晋侯に告げた。衆人は皆言った、「国士が彼らに在り、かつ人が厚い。当たるべからず」と。苗賁皇は晋侯に言った、「楚の精鋭は、ただ中軍の王族のみ。精鋭を分かちてその左右を撃ち、三軍を集めて楚王の直属部隊に当たれば、必ず大いに彼らを破ります」と。晋侯はこれがために筮し、史官は言った、「吉。卦は《復》に遇い、言う、『南国に憂戚あり、その元首の王を射て、その目に中る』と。国に憂戚あり王に傷あれば、敗れずして何を待つか」と。晋侯は従った。前に泥沼があり、こうして皆左右から泥沼を避けた。歩毅が晋厲公の御を務め、欒鍼が車右となった。彭名が楚共王の御を務め、潘黨が車右となった。石首が鄭成公の御を務め、唐苟が車右となった。欒氏・范氏は族人を連れて晋侯を夾護して前行したが、泥沼に陥った。欒書は晋侯を自らの車に登らせようとしたが、鍼は言った、「書は退け!国家に大任あり、どうして専擅できよう。しかも官を侵犯するは冒犯、官を棄つるは怠慢、崗位を離れるは奸邪。三つの罪あり、触れるべからず」と。こうして晋侯の車を掀き上げて泥沼を脱した。

癸巳,潘尫之黨與養由基蹲甲而射之,徹七札焉。以示王,曰:“君有二臣如此,何憂於戰?”王怒曰:“大辱國。詰朝,爾射,死藝。”呂錡夢射月,中之,退入於泥。占之,曰:“姬姓,日也。異姓,月也,必楚王也。射而中之,退入於泥,亦必死矣。”及戰,射共王,中目。王召養由基,與之兩矢,使射呂錡,中項,伏弢。以一矢覆命。

癸巳、潘尫の子黨と養由基は鎧を重ねて射て、七層を穿った。楚王に見せて言った、「君王にこのような二臣があれば、交戦を何を憂えましょう」と。楚王は怒って言った、「大いに国を辱めた。明日の朝、あなたたちが射れば、技芸に死ぬだろう」と。呂錡は夢に月を射て中り、退いて泥に陥るのを見た。占うと、言った、「姫姓は日。異姓は月。必ず楚王です。射中り、退いて泥に陥るは、必ず死です」と。交戦に及び、共王を射て目に中った。楚王は養由基を召し、二矢を与えて呂錡を射させ、項に中り、弓袋に伏した。残りの一矢をもって復命した。

郤至三遇楚子之卒,見楚子,必下,免冑而趨風。楚子使工尹襄問之以弓,曰:“方事之殷也,有韎韋之跗注,君子也。識見不穀而趨,無乃傷乎?”郤至見客,免冑承命,曰:“君之外臣至,從寡君之戎事,以君之靈,間蒙甲冑,不敢拜命,敢告不寧君命之辱,為事之故,敢肅使者。”三肅使者而退。

郤至は三度楚子の士卒に遇い、楚子を見るたびに必ず車を降り、冑を脱いで風のごとく走った。楚子は工尹襄を遣わし、弓をもって彼を問候させて言った、「事の緊張する時に、浅紅色の熟皮の裹腿を着けた者がいた。君子だ。不穀を見るたびに走る。傷ついたのではないか」と。郤至は来客に見え、冑を脱いで命令を受け、言った、「君王の外臣至は、寡君の軍事に従い、君王の威霊に託り、甲冑を披き戴くに参じ、敢えて命令を拜受せず、敢えて内心の不安を報告します。辱くも君王の命令を承け、軍事の故をもって、敢えて使者に粛拜します」と。使者に三度粛拜して退いた。

晉韓厥從鄭伯,其御杜溷羅曰:“速從之!其御屢顧,不在馬,可及也。”

晋の韓厥は鄭伯を追い、その御者杜溷羅は言った、「速く追いつけ!彼の御者は屡々顧みて馬を御することに専せず。追いつけます」と。

韓厥曰:“不可以再辱國君。”乃止。郤至從鄭伯,其右茀翰胡曰:“諜輅之,餘從之乘而俘以下。”郤至曰:“傷國君有刑。”亦止。石首曰:“衛懿公唯不去其旗,是以敗於熒。”乃內旌於弢中。唐苟謂石首曰:“子在君側,敗者壹大。

韓厥は言った、「国君を再び辱めてはならない」と。こうして止めた。郤至は鄭伯を追い、その車右茀翰胡は言った、「偵察兵を出して迎撃し、私はその車に追いついて彼を捉え下ろします」と。郤至は言った、「国君を傷つけるは刑罰あり」と。も止めた。石首は言った、「衛懿公はただ旗を収めなかったので、熒地で戦敗しました」と。こうして旌旗を弓袋に収めた。唐苟は石首に言った、「あなたは国君の辺に在り、敗れた一方は注意力を大きな目標に注ぎます。

我不如子,子以君免,我請止。”乃死。

(唐苟は続けて言う:)私はあなたに如かず。あなたは国君を連れて禍を免れなさい。私は留まることを請います」と。こうして戦死した。

楚師薄於險,叔山冉謂養由基曰:“雖君有命,為國故,子必射!”乃射。

楚軍は険地に逼せられ、叔山冉は養由基に言った、「たとえ君王の命令があっても、国のために、あなたは必ず射なさい!」こうして射た。

再發,盡殪。叔山冉搏人以投,中車,折軾。晉師乃止。囚楚公子茷。

再び射て、すべて射殺した。叔山冉は人を抓んで投げ出し、車に中り、車軾を折った。晋軍はこうして止まった。楚の公子茷を囚えた。

欒針見子重之旌,請曰:“楚人謂夫旌,子重之麾也。彼其子重也。日臣之使於楚也,子重問晉國之勇。臣對曰:‘好以眾整。’曰:‘又何如?’臣對曰:‘好以暇。’今兩國治戎,行人不使,不可謂整。臨事而食言,不可謂暇。

欒鍼は子重の旌旗を見て請うて言った、「楚人はあの旌旗は子重の麾と言います。あの人が子重です。往日臣は楚に出使し、子重は晋の勇を問いました。臣は答えて、『衆を整えんことを好む』と言いました。『さらにどうか』と言うと、臣は答えて、『従容を好む』と言いました。今両国は兵を交え、行人を遣わさぬは、整えんと言うべからず。事に臨んで言が算せざるは、従容と言うべからず。

請攝飲焉。”公許之。使行人執榼承飲,造於子重,曰:“寡君乏使,使針御持矛。是以不得犒從者,使某攝飲。”子重曰:“夫子嘗與吾言於楚,必是故也,不亦識乎!”受而飲之。免使者而復鼓。

(欒鍼は続けて言う:)人を遣わして酒を代わりに送ることを請います」と。晋侯は許した。行人に酒器を持たせ酒を盛らせ、子重のもとに至らせて言わせた、「寡君は使者に乏しく、鍼をして車上で矛を持たせています。これによって従者を犒うことができず、某を遣わして酒を代わりに送らせます」と。子重は言った、「あの人はかつて楚で私と話した。必ずこの故だ。よく覚えているではないか!」受けて飲んだ。使者を放してから鼓を撃ち直した。

旦而戰,見星未已。子反命軍吏察夷傷,補卒乘,繕甲兵,展車馬,雞鳴而食,唯命是聽。晉人患之。苗賁皇徇曰:“蒐乘補卒,秣馬利兵,修陳固列,蓐食申禱,明日復戰。”乃逸楚囚。王聞之,召子反謀。穀陽豎獻飲於子反,子反醉而不能見。王曰:“天敗楚也夫!餘不可以待。”乃宵遁。晉入楚軍,三日谷。

天亮から交戦し、星が見えてもまだ終わらなかった。子反は軍吏に傷を察し、歩卒車乘を補充し、甲兵を修繕し、車馬を陳列し、鶏鳴に食し、ただ命を聴くことを命じた。晋人は憂えた。苗賁皇は徇行して言った、「車乘を閲し士卒を補い、馬を飼い兵器を磨き、陣列を整え行列を固め、早起きして食し、反復して祈祷し、明日再び戦おう」と。こうして楚の俘虜を放した。楚王は聞き、子反を召して商量した。穀陽竪が子反に酒を献じ、子反は酔って進見できなかった。楚王は言った、「天は楚を敗らせるのか!私は待つべからず」と。こうして夜に逃げ去った。晋人は楚軍に入り、獲た糧を三日食用した。

範文子立於戎馬之前,曰:“君幼,諸臣不佞,何以及此?君其戒之!《周書》曰‘唯命不於常’,有德之謂。”

范文子は晋侯の戎馬の前に立ち、言った、「君王は年幼く、諸臣は不才、どうしてこの歩に至れましたか。君王の警戒を請います!《周書》に言う、『天命は常在せず』と。徳あるを言うのです」と。

楚師還,及瑕,王使謂子反曰:“先大夫之覆師徒者,君不在。子無以為過,不穀之罪也。”子反再拜稽首曰:“君賜臣死,死且不朽。臣之卒實奔,臣之罪也。”子重複謂子反曰:“初隕師徒者,而亦聞之矣!盍圖之?”對曰:“雖微先大夫有之,大夫命側,側敢不義?側亡君師,敢忘其死。”王使止之,弗及而卒。

楚軍が帰り、瑕に至ると、楚王は人を遣わして子反に言わせた、「先大夫が部衆を覆滅させた時、国君は軍に在らず。あなたは自らの過ちと思うな。不穀の罪だ」と。子反は再拜稽首して言った、「君王が臣に死を賜わば、死しても栄です。臣の士卒は実に奔逃しました。臣の罪です」と。子重はまた子反に言った、「初めに部衆を覆滅させた人を、あなたも聞いた!どうして考えないか」と。答えて言った、「たとえ先大夫の事なくとも、大夫が側に命じれば、側は敢えて不義の事をしましょうか。側は国君の軍を喪い、敢えて一死を忘れません」と。楚王は人を遣わして止めたが、彼が死ぬのに間に合わなかった。

戰之日,齊國佐、高無咎至於師。衛侯出於衛,公出於壞隤。宣伯通於穆姜,欲去季、孟,而取其室。將行,穆姜送公,而使逐二子。公以晉難告,曰:“請反而聽命。”姜怒,公子偃、公子鉏趨過,指之曰:“女不可,是皆君也。”公待於壞隤,申宮儆備,設守而後行,是以後。使孟獻子守於公宮。

交戦の日、斉の国佐・高無咎が軍中に至った。衛侯は衛から出発し、成公は壊隤から出発した。宣伯は穆姜と私通し、季氏・孟氏を去り、彼らの家室を取ろうとした。まさに出行しようとすると、穆姜は成公を送り、彼にこの二人を逐わせようとした。成公は晋の患難を彼女に告げ、言った、「帰ってから命を聴くことを請います」と。姜は怒り、公子偃・公子鉏が歩を進めて過ぐると、彼らを指して言った、「あなたが不可なら、これらは皆国君です」と。成公は壊隤で待ち、宮禁を申明し警戒防備し、守衛を設けてから出行したので、後れた。孟献子を公宮に留守させた。

秋,會於沙隨,謀伐鄭也。宣伯使告郤犨曰:“魯侯待於壞隤以待勝者。”

秋、沙随で会見したのは、鄭を攻めることを商量したのである。宣伯は人を遣わして郤犨に告げて言わせた、「魯侯は壊隤で待ち、勝つ一方を待っています」と。

郤犨將新軍,且為公族大夫,以主東諸侯。取貨於宣伯而訴公於晉侯,晉侯不見公。

郤犨は新軍を率い、かつ公族大夫を務め、東方の諸侯を主管した。宣伯から財貨を取り、晋侯に成公を訴えた。晋侯は成公に見えなかった。

曹人請於晉曰:“自我先君宣公即位,國人曰:‘若之何憂猶未弭?’而又討我寡君,以亡曹國社稷之鎮公子,是大泯曹也。先君無乃有罪乎?若有罪,則君列諸會矣。君唯不遺德刑,以伯諸侯。豈獨遺諸敝邑?敢私布之。”

曹人は晋に請うて言った、「わが先君宣公が即位してから、国人は言いました、『憂患はなぜまだ止息しないのか』と。それなのにまたわが寡君を討ち、曹の社稷の倚重する公子を亡させました。これは大いに曹を滅ぼすことです。先君はおそらく罪があったのでしょうか。もし罪があれば、君王はすでに彼を会に列しました。君王はただ徳と刑を遺漏せぬことをもって、諸侯に覇します。どうして独り敝邑を遺漏するのですか。敢えて私に陳述します」と。

七月,公會尹武公及諸侯伐鄭。將行,姜又命公如初。公又申守而行。諸侯之師次於鄭西。我師次於督揚,不敢過鄭。子叔聲伯使叔孫豹請逆於晉師。為食於鄭郊。師逆以至。聲伯四日不食以待之,食使者而後食。

七月、成公は尹武公および諸侯と会合して鄭を攻めた。まさに出行しようとすると、姜はまた当初のように成公に命じた。成公はまた守備を申明してから出行した。諸侯の軍は鄭の西に駐屯した。わが軍は督揚に駐屯し、鄭都を経ることを敢えてしなかった。子叔声伯は叔孫豹を遣わして晋軍に迎接を請わせた。鄭の郊外で食物を備えた。軍が迎接して至った。声伯は四日食せず待ち、使者に食べさせてから自ら食べた。

諸侯遷於制田。知武子佐下軍,以諸侯之師侵陳,至於鳴鹿。遂侵蔡。未反,諸侯遷於潁上。戊午,鄭子罕宵軍之,宋、齊、衛皆失軍。

諸侯は制田に遷った。知武子は下軍を輔佐し、諸侯の軍を率いて陳を侵伐し、鳴鹿に至った。続けて蔡を侵伐した。まだ帰らないうちに、諸侯は潁上に遷った。戊午、鄭の子罕が夜に出撃し、宋・斉・衛は皆軍を喪った。

曹人復請於晉,晉侯謂子臧:“反,吾歸而君。”子臧反,曹伯歸。子臧盡致其邑與卿而不出。

曹人は再び晋に請うと、晋侯は子臧に言った、「帰れ、私はあなたたちの国君を返そう」と。子臧は帰り、曹伯は帰った。子臧は城邑と卿位をすべて交還し、再び出なかった。

宣伯使告郤犨曰:“魯之有季、孟,猶晉之有欒、範也,政令於是乎成。今其謀曰:‘晉政多門,不可從也。寧事齊、楚,有亡而已,蔑從晉矣。’若欲得志於魯,請止行父而殺之,我斃蔑也而事晉,蔑有貳矣。魯不貳,小國必睦。不然,歸必叛矣。”

宣伯は人を遣わして郤犨に告げて言わせた、「魯に季氏・孟氏あるは、晋に欒氏・范氏あるがごとく、政令は彼らのもとで成ります。今彼らは謀って言います、『晋の政事は多門で、従うべからず。斉・楚に事えるに寧し、滅亡に過ぎぬのみ、もはや晋に従わない』と。もし魯で志を得ようとするなら、行父を扣留しこれを殺しなさい。私は蔑を殺して晋に事え、魯は二心なくなります。魯に二心なければ、小国は必ず和睦します。さもなければ、帰って必ず背きます」と。

九月,晉人執季文子於苕丘。公還,待於鄆。使子叔聲伯請季孫於晉,郤犨曰:“苟去仲孫蔑而止季孫行父,吾與子國,親於公室。”對曰:“僑如之情,子必聞之矣。若去蔑與行父,是大棄魯國而罪寡君也。若猶不棄,而惠徼周公之福,使寡君得事晉君。則夫二人者,魯國社稷之臣也。若朝亡之,魯必夕亡。以魯之密邇仇讎,亡而為仇,治之何及?”郤犨曰:“吾為子請邑。”對曰:“嬰齊,魯之常隸也,敢介大國以求厚焉!承寡君之命以請,若得所請,吾子之賜多矣。又何求?”範文子謂欒武子曰:“季孫於魯,相二君矣。妾不衣帛,馬不食粟,可不謂忠乎?信讒慝而棄忠良,若諸侯何?子叔嬰齊奉君命無私,謀國家不貳,圖其身不忘其君。若虛其請,是棄善人也。子其圖之!”乃許魯平,赦季孫。

九月、晋人は苕丘で季文子を執えた。成公は帰り、鄆で待った。子叔声伯を遣わして晋に季孫の釈放を請わせた。郤犨は言った、「もし仲孫蔑を去り季孫行父を扣留するなら、私はあなたに城邑を与えよう。公室よりも親しく」と。答えて言った、「僑如の情形は、あなたは必ず聞いたでしょう。もし蔑と行父を去れば、大いに魯を棄て寡君に罪を加えることです。もしなお棄てず、恵みて周公に福を求め、寡君をして晋君に事えしむるならば、あの二人は魯の社稷の臣です。もし朝に彼らを亡せば、魯は晩に必ず亡びます。魯をもって仇敵に近づけば、亡びて仇敵となる。治めて間に合いましょうか」と。郤犨は言った、「私はあなたのために城邑を請おう」と。答えて言った、「嬰斉は魯の普通の皂隷です。敢えて大国に恃んで厚禄を求めましょうか!寡君の命令を承けて請いに来ました。もし請うところを得れば、あなたの賞賜はすでに多い。まだ何を求めましょうか」と。范文子は欒武子に言った、「季孫は魯で、すでに二国君を輔佐した。妾は帛を衣ず、馬は粟を食わず。忠と言うべからずや。讒邪を聴信して忠良を棄てれば、諸侯をどうするのか。子叔嬰斉は君命を奉行して私心なく、国を謀って二心なく、自らのためを図るにも国君を忘れない。もしその請いを落空させれば、善人を棄てることだ。あなたの考慮を請います!」こうして魯に講和を許し、季孫を赦した。

冬十月,出叔孫僑如而盟之,僑如奔齊。

冬十月、叔孫僑如を逐い国人と盟を結んだ。僑如は斉に逃げ奔った。

十二月,季孫及郤犨盟於扈。歸,刺公子偃,召叔孫豹於齊而立之。

十二月、季孫は郤犨と扈で盟を結んだ。帰り、公子偃を刺し殺し、斉から叔孫豹を召しこれを立てた。

齊聲孟子通僑如,使立於高、國之間。僑如曰:“不可以再罪。”奔衛,亦間於卿。

斉の声孟子は僑如と私通し、彼の地位を高氏・国氏の間に置こうとした。僑如は言った、「再び罪を得るべからず」と。衛に逃げ奔り、また卿の間に挿された。

晉侯使郤至獻楚捷於周,與單襄公語,驟稱其伐。單子語諸大夫曰:“溫季其亡乎!位於七人之下,而求掩其上。怨之所聚,亂之本也。多怨而階亂,何以在位?《夏書》曰:‘怨豈在明?不見是圖。’將慎其細也。今而明之,其可乎?”

晋侯は郤至を遣わして周室に楚の俘虜を献じさせた。単襄公と話すに、屡々自らの功労を称道した。単子は大夫たちに言った、「温季はおそらく亡びるだろう!位は七人の下にありながら、上の人を掩盖しようと求める。怨恨の聚まるところは、乱の根本。怨多きに乱の階を為せば、何をもって位に在らん。《夏書》に言う、『怨はあえて明らかなるところに在るのみならず。見えざるもまた謀るべし』と。細微を慎めということだ。今これを顕明する、可か」と。

◇成公十七年

◇成公十七年

【經】十有七年春,衛北宮括帥師侵鄭。夏,公會尹子、單子、晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯、邾人伐鄭。六月乙酋,同盟於柯陵。秋,公至自會。齊高無咎出奔莒。九月辛丑,用郊。晉侯使荀罃來乞師。冬,公會單子、晉侯、宋公、衛侯、曹伯、齊人、邾人伐鄭。十有一月,公至自伐鄭。壬申,公孫嬰卒於貍脤。

【経】十七年春、衛の北宮括が軍を率いて鄭を侵伐した。夏、成公は尹子・単子・晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯・邾人と会合して鄭を攻めた。六月乙酉、柯陵でともに盟を結んだ。底本の「乙酋」は即ち乙酉。秋、成公は会から帰った。斉の高無咎が莒に出奔した。九月辛丑、郊祭を行った。晋侯は荀䓨を遣わして出兵を請わせた。冬、成公は単子・晋侯・宋公・衛侯・曹伯・斉人・邾人と会合して鄭を攻めた。十一月、成公は鄭を攻めたところから帰った。壬申、公孫嬰斉が狸脤で死去した。底本の「公孫嬰」は即ち公孫嬰斉。

十有二月丁巳朔,日有食之。邾子玃且卒。晉殺其大夫郤錡、郤犨、郤至。楚人滅舒庸。

十二月丁巳の朔、日食があった。邾子玃且が死去した。晋はその大夫郤錡・郤犨・郤至を殺した。楚人は舒庸を滅ぼした。

【傳】十七年春,王正月,鄭子駟侵晉虛、滑。衛北宮括救晉,侵鄭,至於高氏。

【伝】十七年春、周天子の暦の正月、鄭の子駟が晋の虚・滑を侵伐した。衛の北宮括は晋を救い、鄭を侵伐し、高氏に至った。

夏五月,鄭大子髡頑、侯孺為質於楚,楚公子成、公子寅戍鄭。公會尹武公、單襄公及諸侯伐鄭,自戲童至於曲洧。

夏五月、鄭の太子髡頑・侯孺は楚で人質となり、楚の公子成・公子寅は鄭を戍守した。成公は尹武公・単襄公および諸侯と会合して鄭を攻め、戯童から曲洧に至った。

晉範文子反自鄢陵,使其祝宗祈死,曰:“君驕侈而克敵,是天益其疾也。

晋の范文子は鄢陵から帰り、その祝宗に死を祈祷させて言った、「国君は驕侈なのに敵に勝った。天がその病を加重するのだ。

難將作矣!愛我者惟祝我,使我速死,無及於難,范氏之福也。”六月戊辰,士燮卒。

(范文子は続けて言う:)患難がまさに作ろうとしている!私を愛する者はただ私のために祈祷し、私を速く死なせ、患難に遭わせないでください。范氏の福です」と。六月戊辰、士燮が死去した。

乙酉,同盟於柯陵,尋戚之盟也。

乙酉、柯陵でともに盟を結んだ。戚の盟を重温したのだ。

楚子重救鄭,師於首止。諸侯還。

楚の子重が鄭を救い、首止に駐軍した。諸侯は帰った。

齊慶克通於聲孟子,與婦人蒙衣乘輦而入於閎。鮑牽見之,以告國武子,武子召慶克而謂之。慶克久不出,而告夫人曰:“國子謫我!”夫人怒。國子相靈公以會,高、鮑處守。及還,將至,閉門而索客。孟子訴之曰:“高、鮑將不納君,而立公子角。國子知之。”秋七月壬寅,刖鮑牽而逐高無咎。無咎奔莒,高弱以盧叛。齊人來召鮑國而立之。

斉の慶克は声孟子と私通し、婦人と衣を蒙って輦に乗り宮中の小門に入った。鮑牽がこれを見て国武子に告げ、武子は慶克を召してこの事を言った。慶克は久しく出て来ず、夫人に告げて言った、「国子が私を責めました!」夫人は怒った。国子は霊公のために相礼して会見に往き、高氏・鮑氏が留守を務めた。帰りまさに至らんとして、城門を閉じて客を清查した。孟子は訴えて言った、「高・鮑は国君を接納せず、公子角を立てようとしています。国子は知っています」と。秋七月壬寅、鮑牽の足を刖いで高無咎を逐った。無咎は莒に逃げ奔り、高弱は盧に拠って反した。斉人は来て鮑国を召しこれを立てた。

初,鮑國去鮑氏而來為施孝叔臣。施氏卜宰,匡句須吉。施氏之宰,有百室之邑。與匡句須邑,使為宰。以讓鮑國,而致邑焉。施孝叔曰:“子實吉。”對曰:“能與忠良,吉孰大焉!”鮑國相施氏忠,故齊人取以為鮑氏後。仲尼曰:“鮑莊子之知不如葵,葵猶能衛其足。”

初め、鮑国は鮑氏を離れて来て施孝叔の臣となった。施氏は家宰を卜し、匡句須が吉となった。施氏の家宰には百家の城邑があった。匡句須に城邑を与え、家宰とさせようとした。彼はその職位を鮑国に譲り、かつ城邑を交還した。施孝叔は言った、「あなたは実に吉だ」と。答えて言った、「忠良に与えられるは、これより大きい吉がありますか!」と。鮑国は施氏を輔佐して忠誠であったので、斉人は彼を取って鮑氏の後嗣とした。仲尼は言った、「鮑荘子の智は葵に如かず。葵は尚自らの足を護る」と。

冬,諸侯伐鄭。十月庚午,圍鄭。楚公子申救鄭,師於汝上。十一月,諸侯還。

冬、諸侯は鄭を攻めた。十月庚午、鄭を包囲した。楚の公子申が鄭を救い、汝水の辺に駐軍した。十一月、諸侯は帰った。

初,聲伯夢涉洹,或與己瓊瑰,食之,泣而為瓊瑰,盈其懷。從而歌之曰:“濟洹之水,贈我以瓊瑰。歸乎!歸乎!瓊瑰盈吾懷乎!”懼不敢占也。還自鄭,壬申,至於狸脤而占之,曰:“餘恐死,故不敢占也。今眾繁而從餘三年矣,無傷也。”言之,之莫而卒。

初め、声伯は夢に徒歩で洹水を渡り、人が自らに瓊瑰を与え、食べると、哭泣が瓊瑰となり、衣懐に満ちたのを見た。従って歌うと、言った、「洹水を渡り、瓊瑰を我に贈る。帰れよ!帰れよ!瓊瑰は我が衣懐に満つ!」懼れて占うことを敢えてしなかった。鄭から帰り、壬申、狸脤に至りやっと占い、言った、「私は死を恐れたので占うことを敢えてしなかった。今私に従う者は多く、すでに三年。妨げなし」と。言い終え、その夜死んだ。

齊侯使崔杼為大夫,使慶克佐之,帥師圍盧。國佐從諸侯圍鄭,以難請而歸。

斉侯は崔杼を大夫とし、慶克を輔佐とさせ、軍を率いて盧を包囲させた。国佐は諸侯に従い鄭を包囲していたが、国内の患難をもって帰ることを請うた。

遂如盧師,殺慶克,以谷叛。齊侯與之盟于徐關而復之。十二月,盧降。使國勝告難於晉,待命於清。

こうして盧を包囲する軍に至り、慶克を殺し、穀に拠って反した。斉侯は彼と徐関で盟を結んでから彼を復位させた。十二月、盧は降した。国勝を遣わして晋に患難を報告させ、清で待命させた。

晉厲公侈,多外嬖。反自鄢陵,欲盡去群大夫,而立其左右。胥童以胥克之廢也,怨郤氏,而嬖於厲公。郤錡奪夷陽五田,五亦嬖於厲公。郤犨與長魚矯爭田,執而梏之,與其父母妻子同一轅。既,矯亦嬖於厲公。欒書怨郤至,以其不從己而敗楚師也,欲廢之。使楚公子伐告公曰:“此戰也,郤至實召寡君。以東師之未至也,與軍帥之不具也,曰:‘此必敗!吾因奉孫周以事君。’”公告欒書,書曰:“其有焉!不然,豈其死之不恤,而受敵使乎?君盍嘗使諸周而察之?”郤至聘於周,欒書使孫周見之。公使覘之,信。遂怨郤至。

晋厲公は奢侈で、外の寵臣が多かった。鄢陵から帰り、諸大夫をすべて去り、その左右の者を立てようとした。胥童は胥克が廃された故に、郤氏を怨恨し、厲公の寵愛を得た。郤錡は夷陽五の田を奪い、五もまた厲公の寵愛を得た。郤犨は長魚矯と田を争い、彼を捉えて桎梏し、その父母妻子と同一の車轅に縛り付けた。後に、矯もまた厲公の寵愛を得た。欒書は郤至を怨恨した。彼が自らに従わずして楚軍を破ったからで、彼を廃そうとした。楚の公子茷に厲公に告げさせて言わせた、「この役は、実は郤至が寡君を召して来たのです。東方の軍がまだ至らず、軍帥も整わないので、言いました、『これは必ず敗れる!私は機に乗じて孫周に事えて君王に事えん』と」。厲公は欒書に告げ、書は言った、「おそらくこの事があるでしょう!さもなければ、どうして彼は死を恐れず、敵の使者を受けたのですか。君王はどうして試しに彼を周室に遣わして観察しないのですか」と。郤至は周室に聘問し、欒書は孫周に彼に見えさせた。厲公は人を遣わして窺わせ、信じた。こうして郤至を怨恨した。

厲公田,與婦人先殺而飲酒,後使大夫殺。郤至奉豕,寺人孟張奪之,郤至射而殺之。公曰:“季子欺餘。”

厲公は狩猟し、婦人と先に獲物を射殺し酒を飲み、その後で大夫に射殺させた。郤至は豕を献じたが、寺人孟張が奪い取り、郤至は彼を射殺した。厲公は言った、「季子は我を欺く」と。

厲公將作難,胥童曰:“必先三郤,族大多怨。去大族不逼,敵多怨有庸。”

厲公は難を発しようとし、胥童は言った、「必ず先に三郤を当たるべし。族は大きく怨恨は多い。大族を去れば逼迫せず、怨多き者に当たれば功あり」と。

公曰:“然。”郤氏聞之,郤錡欲攻公,曰:“雖死,君必危。”郤至曰:“人所以立,信、知、勇也。信不叛君,知不害民,勇不作亂。失茲三者,其誰與我?死而多怨,將安用之?君實有臣而殺之,其謂君何?我之有罪,吾死後矣!若殺不辜,將失其民,欲安,得乎?待命而已!受君之祿,是以聚黨。有黨而爭命,罪孰大焉!”壬午,胥童、夷羊五帥甲八百,將攻郤氏。長魚矯請無用眾,公使清沸魋助之,抽戈結衽,而偽訟者。三郤將謀於榭。矯以戈殺駒伯、苦成叔於其位。溫季曰:“逃威也!”遂趨。矯及諸其車,以戈殺之,皆屍諸朝。

厲公は言った、「然り」と。郤氏は聞き、郤錡は厲公を攻めようとして言った、「たとえ死しても、国君は必ず危険になる」と。郤至は言った、「人が立身する所以は、信・智・勇。信は国君に背かず、智は百姓を害せず、勇は乱をなさず。この三つを失えば、誰がわれわれに親附するか。死して怨を増せば、何の用にならん。国君は実に臣ありながらこれを殺せば、国君をどうするか。私にもし罪あれば、私の死はすでに晩い!もし無辜を殺せば、百姓を失う。安んじようとして、得られようか。命令を待つのみです!国君の俸禄を受けるがゆえに党羽を聚める。党羽あって命を争うは、罪はこれより大きいがありますか!」壬午、胥童・夷羊五は甲士八百を率い、郤氏を攻めようとした。長魚矯は衆を用いないことを請い、厲公は清沸魋を遣わして彼を助けさせ、戈を抽き襟を結び、争訟する者を装った。三郤は台の上で謀っていた。矯は戈をもって座上で駒伯・苦成叔を殺した。温季は言った、「威勢を逃れよ!」こうして快走した。矯はその車に追いつき、戈をもって殺した。皆朝廷に屍をさらした。

胥童以甲劫欒書、中行偃於朝。矯曰:“不殺二子,憂必及君。”公曰:“一朝而屍三卿,餘不忍益也。”對曰:“人將忍君。臣聞亂在外為奸,在內為軌。御奸以德,御軌以刑。不施而殺,不可謂德。臣逼而不討,不可謂刑。德刑不立,奸軌並至。臣請行。”遂出奔狄。公使辭於二子,曰:“寡人有討於郤氏,既伏其辜矣。大夫無辱,其復職位。”皆再拜稽首曰:“君討有罪,而免臣於死,君之惠也。二臣雖死,敢忘君德。”乃皆歸。公使胥童為卿。

胥童は甲士をもって朝廷で欒書・中行偃を劫した。矯は言った、「この二人を殺さなければ、憂患は必ず国君に至ります」と。厲公は言った、「一朝に三卿を屍とした。私は増すに忍びない」と。答えて言った、「人は君王に忍ぶでしょう。臣が聞くに、乱は外に在れば奸と言い、内に在れば軌と言います。奸を御するに徳をもってし、軌を御するに刑をもってします。徳を施さずして人を殺すは、徳と言うべからず。臣が逼迫せるを討たざるは、刑と言うべからず。徳と刑が立たなければ、奸と軌は斉しく至ります。臣は走ることを請います」と。こうして狄に出奔した。厲公は人を遣わしてあの二人に辞を致させて言わせた、「寡人は郤氏を討ち、すでに罪に伏した。大夫は辱を受けず。やはり職位を復せよ」と。皆再拜稽首して言った、「君王は有罪を討ち、臣を死より免れさせた。君王の恩惠です。二臣はたとえ死しても、敢えて君王の徳を忘れましょうか」と。こうして皆帰った。厲公は胥童を卿とした。

公遊於匠麗氏,欒書、中行偃遂執公焉。召士匄,士匄辭。召韓厥,韓厥辭,曰:“昔吾畜於趙氏,孟姬之讒,吾能違兵。古人有言曰:‘殺老牛莫之敢屍。’而況君乎?二三子不能事君,焉用厥也!”舒庸人以楚師之敗也,道吳人圍巢,伐駕,圍釐、虺,遂恃吳而不設備。楚公子櫜師襲舒庸,滅之。

厲公は匠麗氏で游び、欒書・中行偃はこうして厲公を執えた。士匄を召すと、士匄は推辞した。韓厥を召すと、韓厥は推辞して言った、「昔私は趙氏で養われ、孟姫が讒を進めた時、私は兵を用いないことができた。古人に言あり、『老牛を殺すに主を為す人なし』と。まして国君をや。あなたたちは国君に事えることができず、どうして厥を用いるか!」舒庸人は楚軍が戦敗したため、呉人を導いて巢を包囲し、駕を攻め、釐・虺を包囲し、こうして呉を恃んで防備を設けなかった。楚の公子櫜師は舒庸を襲撃し、これを滅ぼした。

閏月乙卯晦,欒書、中行偃殺胥童。民不與郤氏,胥童道君為亂,故皆書曰:“晉殺其大夫。”

閏月乙卯の月末、欒書・中行偃は胥童を殺した。百姓は郤氏に親附せず、胥童は国君を導いて乱をなしたので、《春秋》は皆記して「晋殺其大夫」と。

◇成公十八年

◇成公十八年

【經】十有八年春王正月,晉殺其大夫胥童。庚申,晉弒其君州蒲。齊殺其大夫國佐。公如晉。夏,楚子、鄭伯伐宋。宋魚石復入於彭城。公至自晉。晉侯使士匄來聘。秋,杞伯來朝。八月,邾子來朝,築鹿囿。己丑,公薨於路寢。冬,楚人、鄭人侵宋。晉侯使士魴來乞師。十有二月,仲孫蔑會晉侯、宋公、衛侯、邾子、齊崔杼同盟於虛朾。丁未,葬我君成公。

【経】十八年春、周天子の暦の正月、晋はその大夫胥童を殺した。庚申、晋人は国君州蒲を弑した。斉はその大夫国佐を殺した。成公は晋に行った。夏、楚子・鄭伯が宋を攻めた。宋の魚石が再び彭城に入った。成公は晋から帰った。晋侯は士匄を遣わして聘問させた。秋、杞伯が朝見に来た。八月、邾子が朝見に来て、鹿囿を修築した。己丑、成公は路寝で死去した。冬、楚人・鄭人が宋を侵伐した。晋侯は士魴を遣わして出兵を請わせた。十二月、仲孫蔑は晋侯・宋公・衛侯・邾子・斉の崔杼と会合して虚朾でともに盟を結んだ。丁未、わが国君成公を葬った。

【傳】十八年春,王正月庚申,晉欒書、中行偃使程滑弒厲公,葬之於翼東門之外,以車一乘。使荀罃、士魴逆周子於京師而立之,生十四年矣。大夫逆於清原,周子曰:“孤始願不及此。雖及此,豈非天乎!抑人之求君,使出命也,立而不從,將安用君?二三子用我今日,否亦今日,共而從君,神之所福也。”

【伝】十八年春、周天子の暦の正月庚申、晋の欒書・中行偃は程滑を遣わして厲公を弑し、翼の東門外に葬り、車を一乘用いた。荀䓨・士魴を遣わして京師に周子を迎えこれを立てさせた。すでに十四歳であった。大夫は清原で迎え、周子は言った、「孤の当初の願いはこの歩に至らなかった。たとえ至っても、天ではないか!ただ人が国君を求めるは、命令を発布させるため。立てて聴従せざれば、国君を何に用いるか。あなたたちが私を用いるは今日に在り、用いないも今日に在り。恭敬して国君に従うは、神の福を賜わるところだ」と。

對曰:“群臣之願也,敢不唯命是聽。”庚午,盟而入,館於伯子同氏。辛巳,朝於武宮,逐不臣者七人。周子有兄而無慧,不能辨菽麥,故不可立。

答えて言った、「群臣の願いです。敢えて命に従わざりえましょうか」と。庚午、盟を結んでから城に入り、伯子同氏に宿った。辛巳、武宮で朝見し、臣に似ない七人を逐った。周子には兄があったが智慧なく、豆と麦を分辨できなかったので、立てられなかったのだ。

齊為慶氏之難故,甲申晦,齊侯使士華免以戈殺國佐於內宮之朝。師逃於夫人之宮。書曰:“齊殺其大夫國佐。”棄命,專殺,以谷叛故也。使清人殺國勝。

斉は慶氏の患難によって、甲申の月末、斉侯は士華免を遣わし、戈をもって内宮の朝上で国佐を殺させた。軍は夫人の宮に逃げ込んだ。《春秋》に記して「斉殺其大夫国佐」と。命令を棄て、専擅して人を殺し、穀に拠って反したからである。清人に国勝を殺させた。

國弱來奔,王湫奔萊。慶封為大夫,慶佐為司寇。既,齊侯反國弱,使嗣國氏,禮也。

国弱は来て奔り、王湫は莱に逃げ奔った。慶封は大夫を為し、慶佐は司寇を為した。後に、斉侯は国弱を帰させ、国氏を継がせた。これは礼に合う。

二月乙酉朔,晉悼公即位於朝。始命百官,施捨、己責,逮鰥寡,振廢滯,匡乏困,救災患,禁淫慝,薄賦斂,宥罪戾,節器用,時用民,欲無犯時。使魏相、士魴、魏頡、趙武為卿。荀家、荀會、欒黶、韓無忌為公族大夫,使訓卿之子弟共儉孝弟。使士渥濁為大傅,使修範武子之法。右行辛為司空,使修士蒍之法。弁糾御戎,校正屬焉,使訓諸御知義。荀賓為右,司士屬焉,使訓勇力之士時使。卿無共御,立軍尉以攝之。祁奚為中軍尉,羊舌職佐之,魏絳為司馬,張老為候奄。鐸遏寇為上軍尉,籍偃為之司馬,使訓卒乘親以聽命。程鄭為乘馬御,六騶屬焉,使訓群騶知禮。凡六官之長,皆民譽也。舉不失職,官不易方,爵不逾德,師不陵正,旅不逼師,民無謗言,所以復霸也。

二月乙酉の朔、晋悼公は朝廷で即位した。始めて百官を任命し、施舍し、債務を免除し、鰥寡に施し、廃滞せる者を起用し、困乏を匡正し、災患を救助し、淫邪を禁止し、賦斂を軽減し、罪戾を寛宥し、器用を節制し、農時に従って民力を用い、欲望は時令に犯らなかった。魏相・士魴・魏頡・趙武を卿とした。荀家・荀会・欒黶・韓无忌を公族大夫とし、彼らに卿の子弟を恭倹孝悌に訓導させた。士渥濁を太傅とし、范武子の法度を修明させた。右行辛を司空とし、士𫇭の法度を修明させた。弁糾が戎車を御し、校正は彼に隷属し、彼に諸御を義を知るよう訓導させた。荀賓を車右とし、司士は彼に隷属し、彼に勇力の士を時に用いるよう訓導させた。卿に固定の御者なく、軍尉を設けて代理させた。祁奚を中軍尉とし、羊舌職が輔佐し、魏絳を司馬とし、張老を候奄とした。鐸遏寇を上軍尉とし、籍偃をその司馬とし、彼らに歩卒車乘を親み命を聴従するよう訓導させた。程鄭を乘馬御とし、六騶は彼に隷属し、彼に衆騶を礼を知るよう訓導させた。およそ六官の長は、皆百姓の称誉する者であった。推举は職事を失わず、官職は常道を変えず、爵位は徳を越えず、師は正を陵越せず、旅は師を逼迫せず、百姓に怨言なく、よって再び覇を称した。

公如晉,朝嗣君也。

成公が晋に行ったのは、新たに即位した国君に朝見するためである。

夏六月,鄭伯侵宋,及曹門外。遂會楚子伐宋,取朝郟。楚子辛、鄭皇辰侵城郜,取幽丘,同伐彭城,納宋魚石、向為人、鱗朱、向帶、魚府焉,以三百乘戍之而還。書曰“復入”,凡去其國,國逆而立之,曰“入”;復其位,曰“復歸”;諸侯納之,曰“歸”。以惡曰復入。宋人患之。西鉏吾曰:“何也?若楚人與吾同惡,以德於我,吾固事之也,不敢貳矣。大國無厭,鄙我猶憾。不然,而收吾憎,使贊其政,以間吾釁,亦吾患也。今將崇諸侯之奸,而披其地,以塞夷庚。逞奸而攜服,毒諸侯而懼吳、晉。吾庸多矣,非吾憂也。且事晉何為?晉必恤之。”

夏六月、鄭伯は宋を侵伐し、曹門の外に至った。こうして楚子と会合して宋を攻め、朝郟を取った。楚の子辛・鄭の皇辰は城郜を侵伐し、幽丘を取り、ともに彭城を攻め、宋の魚石・向為人・鱗朱・向帯・魚府を送り入れ、三百乘をもって戍守してから帰った。《春秋》に記して「復入」と。およそ自らの国を離れ、本国が迎えてこれを立てるを「入」と言い、元の職位を復するを「復帰」と言い、諸侯が送り入れるを「帰」と言う。武力を用いるを「復入」と言う。宋人は憂えた。西鉏吾は言った、「何を憂えるか。もし楚人がわれわれと悪を同じくし、徳をわれわれに施せば、われわれはもともと事えていた。敢えて二心せず。大国は貪得厭なく、われわれを辺邑とみなして尚遺憾とする。さもなければ、われわれの憎悪する者を収容し、彼らに政事を賛助させ、われわれの隙を鑽けるも、またわれわれの患。今諸侯の中の奸人を推崇し、土地を分かち彼らに与え、往来の要道を堵塞する。奸人を逞せしめ、服従する者を離心させ、諸侯を毒害し、かつ呉・晋を懼れさせる。われわれの用は多し。われわれの憂ではない。しかも晋に事えて何をなす。晋は必ず体恤する」と。

公至自晉。晉範宣子來聘,且拜朝也。君子謂:“晉於是乎有禮。”

成公は晋から帰った。晋の范宣子が聘問に来て、かつ朝見を拜謝した。君子は思う、「晋はこの事に礼あり」と。

秋,杞桓公來朝,勞公,且問晉故。公以晉君語之。杞伯於是驟朝於晉而請為昏。

秋、杞桓公が朝見に来て、成公を慰労し、かつ晋の事を問うた。成公は晋君の情況を彼に告げた。杞伯はこうして屡々晋に朝見し婚姻を請うた。

七月,宋老佐、華喜圍彭城,老佐卒焉。

七月、宋の老佐・華喜が彭城を包囲し、老佐はそこで死んだ。

八月,邾宣公來朝,即位而來見也。

八月、邾宣公が朝見に来た。即位してから進見したのだ。

築鹿囿,書,不時也。

鹿囿を修築したこと、《春秋》に記したのは、時令に合わなかったからである。

己丑,公薨於路寢,言道也。

己丑、成公は路寝で死去した。正道に合ったと言うのだ。

冬十一月,楚子重救彭城,伐宋,宋華元如晉告急。韓獻子為政,曰:“欲求得人,必先勤之,成霸安強,自宋始矣。”晉侯師於臺谷以救宋,遇楚師於靡角之谷。楚師還。

冬十一月、楚の子重は彭城を救い、宋を攻め、宋の華元は晋に告急した。韓献子が執政し、言った、「人を求めんとすれば、必ず先に彼のために勤労せよ。覇業を成し強者を安んずるは、宋から始まる」と。晋侯は台谷に駐軍して宋を救い、靡角之谷で楚軍に遇った。楚軍は帰った。

晉士魴來乞師。季文子問師數於臧武仲,對曰:“伐鄭之役,知伯實來,下軍之佐也。今彘季亦佐下軍,如伐鄭可也。事大國,無失班爵而加敬焉,禮也。”

晋の士魴が出兵を請いに来た。季文子は臧武仲に出兵人数を問うと、答えて言った、「鄭を攻めたあの時、知伯が来たのは下軍の輔佐でした。今彘季もまた下軍を輔佐する。鄭を攻めたようにすればよいです。大国に事えるに、班爵を失わずかつ恭敬を加えるは、礼です」と。

從之。

従った。

十二月,孟獻子會於虛朾,謀救宋也。宋人辭諸侯而請師以圍彭城。孟獻子請於諸侯,而先歸會葬。

十二月、孟献子が虚朾で会見したのは、宋を救うことを商量したのである。宋人は諸侯に辞謝して出兵して彭城を包囲することを請うた。孟献子は諸侯に請い、先に帰って葬礼に与った。

丁未,葬我君成公,書,順也。

丁未、わが国君成公を葬った。《春秋》に記したのは、理に順ったからである。

襄公(元年~三十一年)

◇襄公元年

◇襄公元年

【經】元年春王正月,公即位。仲孫蔑會晉欒黶、宋華元、衛寧殖、曹人、莒人、邾人、滕人、薛人圍宋彭城。夏,晉韓厥帥師伐鄭,仲孫蔑會齊崔杼、曹人、邾人、杞人次於鄫。秋,楚公子壬夫帥師侵宋。九月辛酉,天王崩。邾子來朝。冬,衛侯使公孫剽來聘。晉侯使荀罃來聘。

【経】元年春、周天子の暦の正月、襄公が即位した。仲孫蔑は晋の欒黶・宋の華元・衛の寧殖・曹人・莒人・邾人・滕人・薛人と会合して宋の彭城を包囲した。夏、晋の韓厥が軍を率いて鄭を攻め、仲孫蔑は斉の崔杼・曹人・邾人・杞人と会合して鄫に駐屯した。秋、楚の公子壬夫が軍を率いて宋を侵伐した。九月辛酉、天子が死去した。邾子が朝見に来た。冬、衛侯は公孫剽を遣わして聘問させた。晋侯は荀䓨を遣わして聘問させた。

【傳】元年春己亥,圍宋彭城。非宋地,追書也。於是為宋討魚石,故稱宋,且不登叛人也,謂之宋志。彭城降晉,晉人以宋五大夫在彭城者歸,置諸瓠丘。

【伝】元年春己亥、宋の彭城を包囲した。当時すでに宋の地ではなく、《春秋》は追記したのだ。この時宋のために魚石を討ったので宋と称し、かつ叛乱の者を得志させない。これを宋人の意志と言う。彭城は晋に降し、晋人は彭城に在った宋の五位の大夫を連れて帰り、瓠丘に置いた。

齊人不會彭城,晉人以為討。二月,齊大子光為質於晉。

斉人は彭城の包囲に参加せず、晋人はこれによって討伐した。二月、斉の太子光が晋に人質として至った。

夏五月,晉韓厥、荀偃帥諸侯之師伐鄭,入其郛,敗其徒兵於洧上。於是東諸侯之師次於鄫,以待晉師。晉師自鄭以鄫之師侵楚焦夷及陳,晉侯、衛侯次於戚,以為之援。

夏五月、晋の韓厥・荀偃は諸侯の軍を率いて鄭を攻め、外城に入り、洧水の辺で鄭の歩兵を破った。この時東方の諸侯の軍は鄫に駐屯し、晋軍を待っていた。晋軍は鄭から鄫の軍を率いて楚の焦・夷および陳を侵伐し、晋侯・衛侯は戚に駐屯し、後援とした。

秋,楚子辛救鄭,侵宋呂、留。鄭子然侵宋,取犬丘。

秋、楚の子辛は鄭を救い、宋の呂・留を侵伐した。鄭の子然は宋を侵伐し、犬丘を取った。

九月,邾子來朝,禮也。

九月、邾子が朝見に来た。これは礼に合う。

冬,衛子叔、晉知武子來聘,禮也。凡諸侯即位,小國朝之,大國聘焉,以繼好結信,謀事補闕,禮之大者也。

冬、衛の子叔・晋の知武子が聘問に来た。これは礼に合う。およそ諸侯が即位すれば、小国は朝見に来て、大国は聘問に来る。友好を続け信用を結び、事を商量し缺失を弥補するは、礼の中で最大である。

◇襄公二年

◇襄公二年

【經】二年春王正月,葬簡王。鄭師伐宋。夏五月庚寅,夫人姜氏薨。六月庚辰,鄭伯侖卒。晉師、宋師、衛寧殖侵鄭。秋七月,仲孫蔑會晉荀罃、宋華元、衛孫林父、曹人、邾人於戚。己丑,葬我小君齊姜。叔孫豹如宋。冬,仲孫蔑會晉荀罃、齊崔杼、宋華元、衛孫林父、曹人、邾人、滕人、薛人、小邾人於戚,遂城虎牢。楚殺其大夫公子申。

【経】二年春、周天子の暦の正月、簡王を葬った。鄭軍が宋を攻めた。夏五月庚寅、夫人姜氏が死去した。六月庚辰、鄭伯崙が死去した。晋軍・宋軍・衛の寧殖が鄭を侵伐した。秋七月、仲孫蔑は晋の荀䓨・宋の華元・衛の孫林父・曹人・邾人と戚で会見した。己丑、わが小君斉姜を葬った。叔孫豹は宋に行った。冬、仲孫蔑は晋の荀䓨・斉の崔杼・宋の華元・衛の孫林父・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と戚で会見し、こうして虎牢城を修築した。楚はその大夫公子申を殺した。

【傳】二年春,鄭師侵宋,楚令也。

【伝】二年春、鄭軍が宋を侵伐したのは、楚の命令である。

齊侯伐萊,萊人使正輿子賂夙沙衛以索馬牛,皆百匹,齊師乃還。君子是以知齊靈公之為“靈”也。

斉侯は萊を攻め、萊人は正輿子を遣わして精選の馬牛各百匹をもって夙沙衛に賂を行わせ、斉軍はこうして帰った。君子はこれによって斉霊公が「霊」と諡される所以を知る。

夏,齊姜薨。初,穆姜使擇美檟,以自為櫬與頌琴。季文子取以葬。君子曰:“非禮也。禮無所逆,婦,養姑者也,虧姑以成婦,逆莫大焉。《詩》曰:‘其惟哲人,告之話言,順德之行。’季孫於是為不哲矣。且姜氏,君之妣也。

夏、斉姜が死去した。初め、穆姜は人に善い檟木を選ばせ、自らのために棺と頌琴を作らせた。季文子はこれを取って葬った。君子は言った、「これは礼に合わない。礼は悖逆なし。婦は姑を奉養する者で、姑を亏損して婦を成すは、悖逆これより大きいなし。《詩》に言う、『哲人のみあれど、善言を彼に告げ、徳行に順って行う』と。季孫はこの事に哲人と算されません。しかも姜氏は国君の祖母です。

《詩》曰:‘為酒為醴,烝畀祖妣,以洽百禮,降福孔偕。’”齊侯使諸姜宗婦來送葬。召萊子,萊子不會,故晏弱城東陽以逼之。

(君子は続けて言う:)《詩》に言う、『酒を為し醴を為し、祖妣に進献し、もって諸礼に配合す。降る福は甚だ普遍なり』と」。斉侯は諸姜の婦女と同宗の婦人を遣わして葬を送らせた。萊子を召したが、萊子は会見に参加せず、だから晏弱は東陽城を修築して彼を逼迫した。

鄭成公疾,子駟請息肩於晉。公曰:“楚君以鄭故,親集矢於其目,非異人任,寡人也。若背之,是棄力與言,其誰暱我?免寡人,唯二三子!”秋七月庚辰,鄭伯侖卒。於是子罕當國,子駟為政,子國為司馬。晉師侵鄭,諸大夫欲從晉。子駟曰:“官命未改。”

鄭成公は病み、子駟は晋に負担を卸すことを請うた。成公は言った、「楚君は鄭の故のために、自ら箭に集中して目を中られた。担当したは他の人ではなく、寡人である。もし彼を背棄すれば、人の出力と諾言を棄てることだ。誰がわれわれに親しもうか。寡人を罪より免れさせるは、ただあなたたちにあるのみ!」秋七月庚辰、鄭伯崙が死去した。この時子罕が国事を主持し、子駟が執政し、子国が司馬を務めた。晋軍は鄭を侵伐し、大夫たちは晋に従おうとした。子駟は言った、「国君の命令はまだ変わっていない」と。

會於戚,謀鄭故也。孟獻子曰:“請城虎牢以逼鄭。”知武子曰:“善。鄫之會,吾子聞崔子之言,今不來矣。滕、薛、小邾之不至,皆齊故也。寡君之憂不唯鄭。罃將復於寡君,而請於齊。得請而告,吾子之功也。若不得請,事將在齊。君子之請,諸侯之福也,豈唯寡君賴之。”

戚で会見したのは、鄭の事を商量したのである。孟献子は言った、「虎牢城を修築して鄭を逼迫することを請います」と。知武子は言った、「よし。鄫の会見で、あなたは崔子の言を聞いたが、今彼は来ない。滕・薛・小邾が至らないは、皆斉の故です。寡君の憂患は鄭のみならず。䓨は寡君に復命し、かつ斉に請いましょう。請いが許されてから告げるは、あなたの功です。もし請いが叶わなければ、事は斉に在ります。あなたの請いは諸侯の福です。どうして寡君のみの頼りとしましょうか」と。

穆叔聘於宋,通嗣君也。

穆叔が宋に聘問したのは、新たに即位した国君に好を通じるためである。

冬,復會於戚,齊崔武子及滕、薛、小邾之大夫皆會,知武子之言故也。遂城虎牢,鄭人乃成。

冬、再び戚で会見し、斉の崔武子および滕・薛・小邾の大夫が皆参加した。知武子のあの言の故である。こうして虎牢城を修築し、鄭人はこうして講和した。

楚公子申為右司馬,多受小國之賂,以逼子重、子辛,楚人殺之。故書曰:“楚殺其大夫公子申。”

楚の公子申は右司馬を為り、小国から財貨を多く取り、子重・子辛を逼迫したので、楚人は彼を殺した。だから《春秋》に記して「楚殺其大夫公子申」と。

◇襄公三年

◇襄公三年

【經】三年春,楚公子嬰齊帥師伐吳。公如晉。夏四月壬戌,公及晉侯盟於長樗。公至自晉。六月,公會單子、晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、莒子、邾子、齊世子光。己未,同盟於雞澤。陳侯使袁僑如會。戊寅,叔孫豹及諸侯之大夫及陳袁僑盟。秋,公至自會。冬,晉荀罃帥師伐許。

【経】三年春、楚の公子嬰斉が軍を率いて呉を攻めた。襄公は晋に行った。夏四月壬戌、襄公は晋侯と長樗で盟を結んだ。襄公は晋から帰った。六月、襄公は単子・晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・莒子・邾子・斉世子光と会見した。己未、鶏沢でともに盟を結んだ。陳侯は袁僑を遣わして会に至らせた。戊寅、叔孫豹および諸侯の大夫は陳の袁僑と盟を結んだ。秋、襄公は会から帰った。冬、晋の荀䓨が軍を率いて許を攻めた。

【傳】三年春,楚子重伐吳,為簡之師,克鳩茲,至於衡山。使鄧廖帥組甲三百、被練三千以侵吳。吳人要而擊之,獲鄧廖。其能免者,組甲八十、被練三百而已。子重歸,既飲至,三日,吳人伐楚,取駕。駕,良邑也。鄧廖,亦楚之良也。君子謂:“子重於是役也,所獲不如所亡。”楚人以是咎子重。子重病之,遂遇心病而卒。

【伝】三年春、楚の子重が呉を攻め、選抜した軍を組成し、鳩兹を攻克し、衡山に至った。鄧廖を遣わして組甲三百・被練三千を率いて呉を侵伐させた。呉人は腰を遮って撃ち、鄧廖を俘獲した。免れ得たは、組甲八十・被練三百のみ。子重は帰り、すでに飲至し、三日を過ぐると、呉人は楚を攻め、駕を取った。駕は良い城邑である。鄧廖もまた楚の賢人である。君子は思う、「子重はこの役に、得るところは失うところに如かず」と。楚人はこれによって子重を責めた。子重はこれを病とし、こうして心病を得て死んだ。

公如晉,始朝也。夏,盟於長樗。孟獻子相,公稽首。知武子曰:“天子在,而君辱稽首,寡君懼矣。”孟獻子曰:“以敝邑介在東表,密邇仇讎,寡君將君是望,敢不稽首?”晉為鄭服故,且欲修吳好,將合諸侯。使士匄告於齊曰:“寡君使匄,以歲之不易,不虞之不戒,寡君願與一二兄弟相見,以謀不協,請君臨之,使匄乞盟。”

襄公が晋に行ったのは、初めての朝見である。夏、長樗で盟を結んだ。孟献子が相礼し、襄公は稽首した。知武子は言った、「天子が在るのに、君王は自らを辱めて稽首する。寡君は懼れます」と。孟献子は言った、「敝邑が東に在り、仇敵に近づき、寡君は君王を頼りとします。敢えて稽首せずにいられましょうか」と。晋は鄭が帰服したので、かつ呉と修好しようとし、諸侯を会合しようとした。士匄を遣わして斉に告げさせて言わせた、「寡君は匄を遣わして来させ、年成が良くなく、意外の事に戒備なく、寡君はあなたたちと兄弟として見え、不和協の事を商量し、君王の親臨を請い、匄を遣わして盟を請わせたい」と。

齊侯欲勿許,而難為不協,乃盟於耏外。

斉侯は許そうと欲しなかったが、不和協を表すことも難しく、こうして耏水の外で盟を結んだ。

祁奚請老,晉侯問嗣焉。稱解狐,其仇也,將立之而卒。又問焉,對曰:“午也可。”於是羊舌職死矣,晉侯曰:“孰可以代之?”對曰:“赤也可。”

祁奚は告老を請い、晋侯は後継の人を問うた。彼は解狐を推举したが、それは彼の仇人で、まさに立てようとして死んだ。また問うと、答えて言った、「午は可」。

於是使祁午為中軍尉,羊舌赤佐之。君子謂:“祁奚於是能舉善矣。稱其仇,不為諂。立其子,不為比。舉其偏,不為黨。《商書》曰:‘無偏無黨,王道蕩蕩。’其祁奚之謂矣!解狐得舉,祁午得位,伯華得官,建一官而三物成,能舉善也夫!唯善,故能舉其類。《詩》云:‘惟其有之,是以似之。’祁奚有焉。”

こうして祁午を中軍尉とし、羊舌赤を輔佐とした。君子は思う、「祁奚はこの事に善人を推举できた。仇人を推举するは、諂媚と算されず。自らの子を立てるは、偏私と算されず。副手を推举するは、結党と算されず。《商書》に言う、『偏私なく結党なし、王道は平坦寛広なり』と。祁奚を言うのでしょう!解狐は推举を得、祁午は職位を得、伯華は官職を得、一つの官を建てて三つの事が成就した。能く善人を推举する者だ!ただ善なればこそ、その同類を推举できる。《詩》に言う、『ただ彼の有るがゆえに、能く彼のごとくなれり』と。祁奚にはこの徳がある」と。

六月,公會單頃公及諸侯。己未,同盟於雞澤。

六月、襄公は単頃公および諸侯と会見した。己未、鶏沢でともに盟を結んだ。

晉侯使荀會逆吳子於淮上,吳子不至。

晋侯は荀会を遣わして淮水の辺に呉子を迎えさせたが、呉子は至らなかった。

楚子辛為令尹,侵欲於小國。陳成公使袁僑如會求成,晉侯使和組父告於諸侯。秋,叔孫豹及諸侯之大夫及陳袁僑盟,陳請服也。

楚の子辛は令尹を為り、小国に対し侵奪貪欲した。陳成公は袁僑を遣わして会に和を求めさせ、晋侯は和組父を遣わして諸侯に告知させた。秋、叔孫豹および諸侯の大夫は陳の袁僑と盟を結んだ。陳が帰服を請うたからである。

晉侯之弟揚幹亂行於曲梁,魏絳戮其僕。晉侯怒,謂羊舌赤曰:“合諸侯以為榮也,揚幹為戮,何辱如之?必殺魏絳,無失也!”對曰:“絳無貳志,事君不闢難,有罪不逃刑,其將來辭,何辱命焉?”言終,魏絳至,授僕人書,將伏劍。士魴、張老止之。公讀其書曰:“日君乏使,使臣斯司馬。臣聞師眾以順為武,軍事有死無犯為敬。君合諸侯,臣敢不敬?君師不武,執事不敬,罪莫大焉。

晋侯の弟揚干が曲梁で行列を扰乱したので、魏絳はその御者を殺した。晋侯は怒り、羊舌赤に言った、「諸侯を会合するは光栄のため。揚干が刑戮を受けたは、これより羞辱がありますか。必ず魏絳を殺せ、失なうな!」答えて言った、「絳は二心なく、国君に事えるに患難を避けず、罪あって刑罰を逃避せず。彼は自ら来て陳辞するでしょう。どうして命令を辱める必要がありますか」と。言が終わると、魏絳が至り、書信を僕人に与え、剣に伏して自殺しようとした。士魴・張老が彼を遮り止めた。晋侯はその書信を読み、「往日君王は使者に乏しく、臣にこの司馬を為らせました。臣が聞くに、軍隊は順従をもって武と為し、軍事は死を寧くして犯さざるをもって敬と為すと。君王は諸侯を会合し、臣は敢えて敬まざりえましょうか。君王の軍隊が武ならず、執事が敬ならざるは、罪はこれより大きいなし。

臣懼其死,以及揚幹,無所逃罪。不能致訓,至於用鉞。臣之罪重,敢有不從,以怒君心,請歸死於司寇。”公跣而出,曰:“寡人之言,親愛也。吾子之討,軍禮也。寡人有弟,弗能教訓,使幹大命,寡人之過也。子無重寡人之過,敢以為請。”

(魏絳の書信は続く:)臣は自ら死罪を獲ることを恐れ、揚干に累を及ぼし、罪を逃避する場所なし。訓導が位に至らず、大斧を動かすに至った。臣の罪は重く、敢えて聴従せざることあって君王の心を激怒させましょうか。帰って司寇で死することを請います」と。晋侯は跣足して出て言った、「寡人の言は、弟を親愛するがゆえ。あなたの討伐は、軍礼である。寡人に弟あって、教訓できず、彼に大命に犯らせたは、寡人の過ち。あなたは寡人の過ちを加重するな。敢えてこれをもって請います」と。

晉侯以魏絳為能以刑佐民矣,反役,與之禮食,使佐新軍。張老為中軍司馬,士富為候奄。

晋侯は魏絳が刑罰をもって百姓を輔佐治理できるとし、軍役から帰り、彼に礼食を与え、新軍を輔佐させた。張老を中軍司馬とし、士富を候奄とした。

楚司馬公子何忌侵陳,陳叛故也。

楚の司馬公子何忌が陳を侵伐したのは、陳が背叛したからである。

許靈公事楚,不會於雞澤。冬,晉知武子帥師伐許。

許霊公は楚に事え、鶏沢の会見に参加しなかった。冬、晋の知武子が軍を率いて許を攻めた。

◇襄公四年

◇襄公四年

【經】四年春王三月己酉,陳侯午卒。夏,叔孫豹如晉。秋七月戊子,夫人姒氏薨。葬陳成公。八月辛亥,葬我小君定姒。冬,公如晉。陳人圍頓。

【経】四年春、周天子の暦の三月己酉、陳侯午が死去した。夏、叔孫豹は晋に行った。秋七月戊子、夫人姒氏が死去した。陳成公を葬った。八月辛亥、わが小君定姒を葬った。冬、襄公は晋に行った。陳人は頓を包囲した。

【傳】四年春,楚師為陳叛故,猶在繁陽。韓獻子患之,言於朝曰:“文王帥殷之叛國以事紂,唯知時也。今我易之,難哉!”三月,陳成公卒。楚人將伐陳,聞喪乃止。陳人不聽命。臧武仲聞之,曰:“陳不服於楚,必亡。大國行禮焉而不服,在大猶有咎,而況小乎?”夏,楚彭名侵陳,陳無禮故也。

【伝】四年春、楚軍は陳の背叛の故に、なお繁陽にいた。韓献子は憂え、朝廷で言った、「文王は殷商の叛国を率いて紂に事えた。ただ時宜を知ったからである。今われわれは反対のことをする。難しい!」三月、陳成公が死去した。楚人は陳を攻めようとしたが、喪あると聞いて止めた。陳人は命令に聴従しなかった。臧武仲は聞いて言った、「陳が楚に服従せざれば、必ず亡びる。大国が礼を施行しても服従せざれば、大国にも禍ある。まして小国をや」と。夏、楚の彭名が陳を侵伐した。陳に礼がなかったからである。

穆叔如晉,報知武子之聘也,晉侯享之。金奏《肆夏》之三,不拜。工歌《文王》之三,又不拜。歌《鹿鳴》之三,三拜。韓獻子使行人子員問之,曰:“子以君命,辱於敝邑。先君之禮,藉之以樂,以辱吾子。吾子舍其大,而重拜其細,敢問何禮也?”對曰:“三《夏》,天子所以享元侯也,使臣弗敢與聞。

穆叔は晋に行き、知武子の聘問に報いた。晋侯は享礼を設けて招待した。金石をもって《肆夏》の三章を奏したが、拜さなかった。楽工が《文王》の三篇を歌唱しても、また拜さなかった。《鹿鳴》の三篇を歌唱すると、三度拜した。韓献子は行人子員を遣わして彼に問わせて言わせた、「あなたは国君の命令を帯び、辱くも敝邑に臨んだ。先君の礼に、音楽を加えて、あなたを辱めました。あなたは大なるを捨てて、細なるに重拜する。敢えて何の礼か問います」と。答えて言った、「三《夏》は、天子が元侯を享待するためのもので、使臣は敢えて聴くに与りません。

《文王》,兩君相見之樂也,使臣不敢及。《鹿鳴》,君所以嘉寡君也,敢不拜嘉。?《四牡》,君所以勞使臣也,敢不重拜?《皇皇者華》,君教使臣曰:‘必諮於周。’臣聞之:‘訪問於善為諮,諮親為詢,諮禮為度,諮事為諏,諮難為謀。’臣獲五善,敢不重拜?”秋,定姒薨。不殯於廟,無櫬,不虞。匠慶謂季文子曰:“子為正卿,而小君之喪不成,不終君也。君長,誰受其咎?”初,季孫為己樹六檟於蒲圃東門之外。匠慶請木,季孫曰:“略。”匠慶用蒲圃之檟,季孫不御。君子曰:“《志》所謂‘多行無禮,必自及也’,其是之謂乎!”冬,公如晉聽政,晉侯享公。公請屬鄫,晉侯不許。孟獻子曰:“以寡君之密邇於仇讎,而願固事君,無失官命。鄫無賦於司馬,為執事朝夕之命敝邑,敝邑褊小,闕而為罪,寡君是以願藉助焉!”晉侯許之。

(穆叔は続けて言う:)《文王》は、二国君が相見する楽で、使臣は敢えて及びません。《鹿鳴》は、国君が寡君を嘉奖するためのもので、敢えて嘉奖を拜謝せずにいられましょうか。《四牡》は、国君が使臣を慰労するためのもので、敢えて重拜せずにいられましょうか。《皇皇者華》は、国君が使臣に教えて言う、『必ず忠信の人に諮問せよ』と。臣が聞くに、『善人に訪問するを咨と言い、咨問して親戚を問うを詢と言い、咨問して礼を問うを度と言い、咨問して事を問うを諏と言い、咨問して難を問うを謀と言う』と。臣は五つの善を得ました。敢えて重拜せずにいられましょうか」と。秋、定姒が死去した。祖廟に停殯せず、内棺なく、虞祭を行わなかった。匠慶は季文子に言った、「あなたは正卿を為すのに、小君の喪事が礼を成さない。国君の終を送ることができません。国君が長じて、誰がこの過ちを受けましょうか」と。初め、季孫は自らのために蒲圃の東門の外に六株の檟樹を植えた。匠慶は木材を請い、季孫は言った、「簡略に行え」と。匠慶は蒲圃の檟木を用い、季孫は阻止しなかった。君子は言った、「《志》の謂うところ『無礼の事を多くなせば、必ず自らに輪る』とは、これを言うのでしょう!」冬、襄公は晋に行って貢賦の政令を聴き、晋侯は享礼を設けて襄公を招待した。襄公は鄫を附属とすることを請い、晋侯は許さなかった。孟献子は言った、「寡君は仇敵に近づきながら、願わくは牢固に君王に事え、官命を失わざること。鄫は司馬に軍賦を納めず、執事は朝夕敝邑に命じ、敝邑は狭小で、缺失すれば即ち罪です。寡君はこれによってそれを借りて助けとすることを願います!」晋侯は許した。

楚人使頓間陳而侵伐之,故陳人圍頓。

楚人は頓に陳の隙を鑚けさせてこれを侵伐させたので、陳人は頓を包囲した。

無終子嘉父使孟樂如晉,因魏莊子納虎豹之皮,以請和諸戎。晉侯曰:“戎狄無親而貪,不如伐之。”魏絳曰:“諸侯新服,陳新來和,將觀於我,我德則睦,否則攜貳。勞師於戎,而楚伐陳,必弗能救,是棄陳也,諸華必叛。戎,禽獸也,獲戎失華,無乃不可乎?《夏訓》有之曰:‘有窮后羿。’”公曰:“后羿何如?”對曰:“昔有夏之方衰也,后羿自鉏遷於窮石,因夏民以代夏政。恃其射也,不修民事而淫於原獸。棄武羅、伯困、熊髡、龍圉而用寒浞。寒浞,伯明氏之讒子弟也。伯明後寒棄之,夷羿收之,信而使之,以為己相。浞行媚於內而施賂於外,愚弄其民而虞羿于田,樹之詐慝以取其國家,外內鹹服。羿猶不悛,將歸自田,家眾殺而亨之,以食其子。其子不忍食諸,死於窮門。靡奔有鬲氏。

無終子嘉父は孟楽を遣わして晋に行かせ、魏荘子を通じて虎豹の皮を献じ、諸部の戎人と講和することを請わせた。晋侯は言った、「戎狄は親情なく貪婪。攻めるに如かず」と。魏絳は言った、「諸侯は新たに帰服し、陳は新たに講和し、われわれを観察するでしょう。われわれに徳あれば和睦し、さもなければ離心します。戎に師を労せば、楚が陳を攻め、必ず救うことができず、陳を棄てることです。諸夏は必ず背きます。戎は禽獣です。戎人を得て華夏を失うは、おそらく不可でしょう。《夏訓》にこの言があります、『有窮后羿』と」。晋侯は言った、「后羿はどうか」と。答えて言った、「昔夏がまさに衰微した時、后羿は鉏から窮石に遷り、夏の百姓に憑って夏政を代った。射芸を恃み、民事を修めずして田獵に沈迷した。武羅・伯困・熊髠・龍圉を棄てて寒浞を任用した。寒浞は伯明氏の讒を進めた子弟である。伯明后寒が彼を棄て、夷羿が收留し、信任し使用して、自らの相とした。浞は内に媚を献じ外に賂を行い、百姓を愚弄し、羿に田獵で娯楽させ、詐邪を培植してその国を奪った。内外は皆服従した。羿は尚改悔せず、田獵から帰ろうとすると、家の衆人は彼を殺して烹り、その子に食わせた。その子は食うに忍びず、窮門で死んだ。靡は有鬲氏に逃げ奔った。

浞因羿室,生澆及豷,恃其讒慝詐偽而不德於民。使澆用師,滅斟灌及斟尋氏。

(魏絳は続けて言う:)浞は羿の妻妾を占有し、澆と豷を生み、讒邪詐偽を恃み、百姓に徳を施さなかった。澆に出兵させ、斟灌と斟尋氏を滅ぼした。

處澆於過,處豷於戈。靡自有鬲氏,收二國之燼,以滅浞而立少康。少康滅澆於過,後杼滅豷於戈。有窮由是遂亡,失人故也。昔周辛甲之為大史也,命百官,官箴王闕。於《虞人之箴》曰:‘芒芒禹跡,畫為九州,經啟九道。民有寢廟,獸有茂草,各有攸處,德用不擾。在帝夷羿,冒於原獸,忘其國恤,而思其麀牡。

(魏絳は続けて言う:)澆を過に置き、豷を戈に置いた。靡は有鬲氏から両国の残余を収集し、浞を滅ぼして少康を立てた。少康は過で澆を滅ぼし、后杼は戈で豷を滅ぼした。有窮はこれによってついに亡びた。人を失ったからである。昔周の辛甲は太史を為り、百官に命じ、各官は天子の缺失を規箴した。《虞人之箴》に言う、『茫茫たる禹の足迹、划分して九州と為し、九州の道を開通す。百姓には寝室・廟あり、野獣には茂草あり、各々処るところあり、徳はこれによって乱れず。帝夷羿に在りては、田獵の野獣を貪り、国家の憂恤を忘れ、ただあの母鹿公獣を思うのみ。

武不可重,用不恢於夏家。獸臣司原,敢告僕伕。’《虞箴》如是,可不懲乎?”於是晉侯好田,故魏絳及之。

(箴辞は続く:)武事は重きに過ぐべからず、これによって夏家を拡大できず。獣臣は原野を掌り、敢えて僕夫に報告す』と。《虞箴》はこのようである。戒めとすべからずや」と。当時晋侯は田獵を好んだので、魏絳はここに至って言ったのだ。

公曰:“然則莫如和戎乎?”對曰:“和戎有五利焉:戎狄荐居,貴貨易土,土可賈焉,一也。邊鄙不聳,民狎其野,穡人成功,二也。戎狄事晉,四鄰振動,諸侯威懷,三也。以德綏戎,師徒不勤,甲兵不頓,四也。鑑於后羿,而用德度,遠至邇安,五也。君其圖之!”公說,使魏絳盟諸戎,修民事,田以時。

晋侯は言った、「では戎と講和するに如くはないか」と。答えて言った、「戎と講和するに五つの利益あり。戎狄は水草を逐うて居り、貨物を重んじ土地を軽んず。土地は買うべし、一。辺境は驚懼せず、百姓は田野に熟悉し、耕種する者は成功する、二。戎狄が晋に事えれば、四隣は震動し、諸侯は威徳に感ぜられる、三。徳をもって戎人を安んずれば、軍隊は勤苦せず、甲兵は損壊せず、四。后羿を借鉴し、徳の法度を用い、遠方は到来し近処は安定す、五。君王の考慮を請います!」晋侯は喜び、魏絳を遣わして諸部の戎人と盟を結ばせ、民事を修明し、農時に従って田獵した。

冬十月,邾人、莒人伐鄫。臧紇救鄫,侵邾,敗於狐駘。國人逆喪者皆髽。魯於是乎始髽,國人誦之曰:“臧之狐裘,敗我於狐駘。我君小子,朱儒是使。朱儒!朱儒!使我敗於邾。”

冬十月、邾人・莒人が鄫を攻めた。臧紇は鄫を救い、邾を侵伐し、狐駘で戦敗した。国人は喪車を迎える者皆麻をもって髪を束ねた。魯はこれより麻をもって髪を束ね始め、国人は誦して言った、「臧は狐裘を着て、われわれを狐駘で敗らせた。わが国君は小子なのに、侏儒を派遣した。侏儒!侏儒!われわれを邾で敗らせた」と。

◇襄公五年

◇襄公五年

【經】五年春,公至自晉。夏,鄭伯使公子發來聘。叔孫豹、鄫世子巫如晉。仲孫蔑、衛孫林父子會吳於善道。秋,大雩。楚殺其大夫公子壬夫。公會晉侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、齊世子光、吳人、鄫人於戚。公至自會。冬,戍陳。楚公子貞帥師伐陳。公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、齊世子光救陳。十有二月,公至自救陳。辛未,季孫行父卒。

【経】五年春、襄公は晋から帰った。夏、鄭伯は公子発を遣わして聘問させた。叔孫豹・鄫世子巫は晋に行った。仲孫蔑・衛の孫林父は善道で呉に会見した。秋、大雩を行った。楚はその大夫公子壬夫を殺した。襄公は晋侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・斉世子光・呉人・鄫人と戚で会見した。襄公は会から帰った。冬、陳を戍守した。楚の公子貞が軍を率いて陳を攻めた。襄公は晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・斉世子光と会合して陳を救った。十二月、襄公は陳を救ったところから帰った。辛未、季孫行父が死去した。

【傳】五年春,公至自晉。

【伝】五年春、襄公は晋から帰った。

王使王叔陳生愬戎於晉,晉人執之。士魴如京師,言王叔之貳於戎也。

天子は王叔陳生を遣わして晋に戎人を訴えさせたが、晋人は彼を執えた。士魴は京師に行き、王叔が戎に二心あると言った。

夏,鄭子國來聘,通嗣君也。

夏、鄭の子国が聘問に来た。新たに即位した国君に好を通じるためである。

穆叔覿鄫大子於晉,以成屬鄫。書曰:“叔孫豹、鄫大子巫如晉。”

穆叔は鄫の太子を連れて晋に進見し、鄫を附属とすることを成し遂げに来た。《春秋》に記して「叔孫豹、鄫大子巫如晋」と。

言比諸魯大夫也。

彼を魯の大夫に比同するを言うのだ。

吳子使壽越如晉,辭不會於雞澤之故,且請聽諸侯之好。晉人將為之合諸侯,使魯、衛先會吳,且告會期。故孟獻子、孫文子會吳於善道。

呉子は寿越を遣わして晋に行かせ、鶏沢の会見に参加しなかった故を解釈し、かつ諸侯との友好に聴従することを請わせた。晋人は彼のために諸侯を会合しようとし、魯・衛に先に呉と会見させ、かつ会期を告知させた。だから孟献子・孫文子は善道で呉に会見した。

秋,大雩,旱也。

秋、大雩を行ったのは、旱のためである。

楚人討陳叛故,曰:“由令尹子辛實侵欲焉。”乃殺之。書曰:“楚殺其大夫公子壬夫。”貪也。君子謂:“楚共王於是不刑。《詩》曰:‘周道挺挺,我心扃扃,講事不令,集人來定。’己則無信,而殺人以逞,不亦難乎?《夏書》曰:‘成允成功。’”九月丙午,盟於戚,會吳,且命戍陳也。穆叔以屬鄫為不利,使鄫大夫聽命於會。

楚人は陳の背叛の故を追究し、言った、「実は令尹子辛が侵奪貪欲した」と。こうして彼を殺した。《春秋》に記して「楚殺其大夫公子壬夫」と。彼が貪婪だったからである。君子は思う、「楚共王はこの事に刑を用いること当たらず。《詩》に言う、『周道は筆直、我が心は明察、謀事は善ならず、人を聚めて定める』と。自ら信用なく、人を殺して逞快するは、また難しくないか!《夏書》に言う、『信用を成してこそ功業を成せり』と」。九月丙午、戚で盟を結んだ。呉に会見し、かつ陳を戍守することを命じたのだ。穆叔は鄫を附属とすることが不利とし、鄫の大夫に会上で命を聴かせた。

楚子囊為令尹。範宣子曰:“我喪陳矣!楚人討貳而立子囊,必改行而疾討陳。陳近於楚,民朝夕急,能無往乎?有陳,非吾事也,無之而後可。”

楚の子囊が令尹を為った。范宣子は言った、「われわれは陳を失うだろう!楚人は二心あるを討ちかつ子囊を立てた。必ず做法を変えて速やかに陳を討つでしょう。陳は楚に近く、百姓は朝夕危急。去らずにいられましょうか。陳を保有するはわれわれの事ではなく、それなくしてこそ可です」と。

冬,諸侯戍陳。子囊伐陳。十一月甲午,會於城棣以救之。

冬、諸侯は陳を戍守した。子囊は陳を攻めた。十一月甲午、城棣で会見して救いに行った。

季文子卒。大夫入斂,公在位。宰庀家器為葬備,無衣帛之妾,無食粟之馬,無藏金玉,無重器備。君子是以知季文子之忠於公室也。相三君矣,而無私積,可不謂忠乎?

季文子が死去した。大夫が入斂し、襄公は位に在った。家宰は家の器物を備えて葬具とし、帛を着た妾なく、粟を食う馬なく、金玉を蔵せず、重複の器物装備なかった。君子はこれによって季文子が公室に忠誠であったことを知る。すでに三国君を輔佐したのに、私積なく。忠と言うべからずや。

◇襄公六年

◇襄公六年

【經】六年春王三月,壬午,杞伯姑容卒。夏,宋華弱來奔。秋,杞葬桓公。

【経】六年春、周天子の暦の三月壬午、杞伯姑容が死去した。夏、宋の華弱が奔り来た。秋、杞桓公を葬った。底本の「杞葬桓公」は即ち葬杞桓公。

滕子來朝。莒人滅鄫。冬,叔孫豹如邾,季孫宿如晉。十有二月,齊侯滅萊。

滕子が朝見に来た。莒人は鄫を滅ぼした。冬、叔孫豹は邾に行き、季孫宿は晋に行った。十二月、斉侯は萊を滅ぼした。

【傳】六年春,杞桓公卒,始赴以名,同盟故也。

【伝】六年春、杞桓公が死去し、始めて名を用いて訃告した。同盟の故である。

宋華弱與樂轡少相狎,長相優,又相謗也。子蕩怒,以弓梏華弱於朝。平公見之,曰:“司武而梏於朝,難以勝矣!”遂逐之。夏,宋華弱來奔。司城子罕曰:“同罪異罰,非刑也。專戮於朝,罪孰大焉!”亦逐子蕩。子蕩射子罕之門,曰:“幾日而不我從!”子罕善之如初。

宋の華弱と楽轡は少時に相親暱し、長じて相戯謔し、また相毀謗した。子蕩は怒り、弓をもって朝廷で華弱を梏した。平公は見て言った、「司武を為る者が朝廷で梏されるは、勝ち難し!」こうして彼を逐った。夏、宋の華弱が奔り来た。司城子罕は言った、「同じ罪に異なる罰は、刑ではない。朝廷で刑戮を専擅するは、罪はこれより大きいあらんや!」子蕩もまた逐った。子蕩は子罕の門を射て言った、「数日たらずして尚我に従わずや!」子罕は尚当初のように彼を善待した。

秋,滕成公來朝,始朝公也。

秋、滕成公が朝見に来た。初めて襄公に朝見したのだ。

莒人滅鄫,鄫恃賂也。

莒人が鄫を滅ぼしたのは、鄫が財貨を恃んだからである。

冬,穆叔如邾,聘,且修平。

冬、穆叔は邾に行き、聘問し、かつ和好を重修した。

晉人以鄫故來討,曰:“何故亡鄫?”季武子如晉見,且聽命。

晋人は鄫の故のために来て討伐し、言った、「なぜ鄫を滅ぼした」と。季武子は晋に進見し、かつ命を聴いた。

十一月,齊侯滅萊,萊恃謀也。於鄭子國之來聘也,四月,晏弱城東陽,而遂圍萊。甲寅,堙之環城,傅於堞。及杞桓公卒之月,乙未,王湫帥師及正輿子、棠人軍齊師,齊師大敗之。丁未,入萊。萊共公浮柔奔棠。正輿子、王湫奔莒,莒人殺之。四月,陳無宇獻萊宗器於襄宮。晏弱圍棠,十一月丙辰,而滅之。遷萊於郳。高厚、崔杼定其田。

十一月、斉侯は萊を滅ぼした。萊が計謀を恃んだからである。鄭の子国が聘問に来た時、四月、晏弱は東陽城を修築し、続けて萊を包囲した。甲寅、土山を堆して城壁を環繞し、女牆に逼った。杞桓公が死去したあの月に至り、乙未、王湫は軍を率いて正輿子・棠人とともに斉軍を抗撃したが、斉軍は彼らを大いに破った。丁未、萊に入った。萊共公浮柔は棠に逃げ奔った。正輿子・王湫は莒に逃げ奔り、莒人は彼らを殺した。四月、陳無宇は萊の宗廟の器物を襄宮に献じた。晏弱は棠を包囲し、十一月丙辰、これを滅ぼした。萊人を郳に遷した。高厚・崔杼はその地の田を划定した。

◇襄公七年

◇襄公七年

【經】七年春,郯子來朝。夏四月,三卜郊,不從,乃免牲。小邾子來朝。

【経】七年春、郯子が朝見に来た。夏四月、郊祭のために三度卜したが、皆従わず、こうして犠牲を免じた。小邾子が朝見に来た。

城費。秋,季孫宿如衛。八月,螽。冬十月,衛侯使孫林父來聘。壬戌,及孫林父盟。楚公子貞帥師圍陳。十有二月,公會晉侯、宋公、陳侯、衛侯、曹伯、莒子、邾子於鄬。鄭伯髡頑如會,未見諸侯,丙戌,卒於鄵。陳侯逃歸。

費城を修築した。秋、季孫宿は衛に行った。八月、蝗災があった。冬十月、衛侯は孫林父を遣わして聘問させた。壬戌、孫林父と盟を結んだ。楚の公子貞が軍を率いて陳を包囲した。十二月、襄公は晋侯・宋公・陳侯・衛侯・曹伯・莒子・邾子と鄬で会見した。鄭伯髡頑は会に赴いたが、まだ諸侯に見えず、丙戌、鄵で死去した。陳侯は逃げ帰った。

【傳】七年春,郯子來朝,始朝公也。

【伝】七年春、郯子が朝見に来た。初めて襄公に朝見したのだ。

夏四月,三卜郊,不從,乃免牲。孟獻子曰:“吾乃今而後知有卜筮。夫郊,祀后稷以祈農事也。是故啟蟄而郊,郊而後耕。今既耕而卜郊,宜其不從也。”

夏四月、郊祭のために三度卜したが、皆従わず、こうして犠牲を免じた。孟献子は言った、「私は今日に至って初めて卜筮あるを知った。郊祭は、后稷を祭祀して農事を祈るもの。だから啓蟄に郊祭を行い、郊祭の後に耕種する。今すでに耕種したのに郊祭のために卜すは、従わぬが当然だ」と。

南遺為費宰。叔仲昭伯為隧正,欲善季氏而求媚於南遺,謂遺:“請城費,吾多與而役。”故季氏城費。

南遺は費の邑宰を為った。叔仲昭伯は隧正を為り、季氏に媚び南遺に諂おうとして、遺に言った、「費城を修築することを請います。私はあなたに役徒を多く与えます」と。だから季氏は費城を修築した。

小邾穆公來朝,亦始朝公也。

小邾穆公が朝見に来た。これも初めて襄公に朝見したのだ。

秋,季武子如衛,報子叔之聘,且辭緩報,非貳也。

秋、季武子は衛に行き、子叔の聘問に報い、かつ回報が晩れたを解釈し、二心ではないとした。

冬十月,晉韓獻子告老。公族穆子有廢疾,將立之。辭曰:“《詩》曰:‘豈不夙夜,謂行多露。’又曰:‘弗躬弗親,庶民弗信。’無忌不才,讓,其可乎?請立起也!與田蘇遊,而曰好仁。《詩》曰:‘靖共爾位,好是正直。神之聽之,介爾景福。’恤民為德,正直為正,正曲為直,參和為仁。如是,則神聽之,介福降之。立之,不亦可乎?”庚戌,使宣子朝,遂老。晉侯謂韓無忌仁,使掌公族大夫。

冬十月、晋の韓献子は告老した。公族穆子に疾があった。彼を立てようとしたが、彼は推辞して言った、「《詩》に言う、『朝夕に奔走せぬを欲せざらんや、ただ路上に露多し』と。また言う、『自ら行わざれば、百姓は信ぜず』と。无忌は才能なく、位を譲る、可か。起を立てることを請います!彼は田蘇と交游し、田蘇は彼が仁を好むと言います。《詩》に言う、『安静恭敬に汝の職位を守り、これ正直を好め。神はこれを聞き、大福を汝に賜う』と。百姓を体恤するは徳、自らを正しくするは正、人の曲がるを直くするは直、三者が会合するは仁。このようであれば、神は彼を聴き、大福が降る。彼を立てるは、また可ではないか」と。庚戌、宣子に朝見させ、こうして告老した。晋侯は韓无忌を仁とし、彼に公族大夫を掌らせた。

衛孫文子來聘,且拜武子之言,而尋孫桓子之盟。公登亦登。叔孫穆子相,趨進曰:“諸侯之會,寡君未嘗後衛君。今吾子不後寡君,寡君未知所過。吾子其少安!”孫子無辭,亦無悛容。

衛の孫文子が聘問に来て、かつ武子の言を拜拜謝し、孫桓子の盟を重温した。襄公が階に登ると、彼もまた階に登った。叔孫穆子が相礼し、歩を進めて言った、「諸侯の会見に、寡君はかつて衛君に後れたことがない。今あなたは寡君に後れず、寡君はまだ過ちの所在を知りません。あなたの少し緩めるを請います!」孫子は言なく、また悔改の神色もなかった。

穆叔曰:“孫子必亡。為臣而君,過而不悛,亡之本也。《詩》曰:‘退食自公,委蛇委蛇。’謂從者也。衡而委蛇必折。”

穆叔は言った、「孫子は必ず亡びる。臣を為るに国君のごとく、過ちあって改めざるは、亡びの根本。《詩》に言う、『公朝より退きて食す、従容自得なり』と。順従する人を言う。横逆にして従容なれば、必ず折れる」と。

楚子囊圍陳,會於鄬以救之。

楚の子囊が陳を包囲し、鄬で会見して救いに行った。

鄭僖公之為大子也,於成之十六年,與子罕適晉,不禮焉。又與子豐適楚,亦不禮焉。及其元年,朝於晉。子豐欲愬諸晉而廢之,子罕止之。及將會於鄬,子駟相,又不禮焉。侍者諫,不聽,又諫,殺之。及鄵,子駟使賊夜弒僖公,而以瘧疾赴於諸侯。簡公生五年,奉而立之。

鄭僖公が太子の時、成公十六年に、子罕とともに晋に行き、礼をもって相待せず。また子豊とともに楚に行き、また礼をもって相待せず。彼の元年に及び、晋に朝見した。子豊は晋に訴えて彼を廃しようとしたが、子罕が遮り止めた。まさに鄬で会見せんとして、子駟が相礼し、また礼をもって相待せず。侍者が勧諫しても聴かず、再び勧めると、侍者を殺した。鄵に至り、子駟は賊人を遣わして夜に僖公を弑し、瘧疾をもって諸侯に訃告した。簡公は生まれて五年、奉り立てた。

陳人患楚。慶虎、慶寅謂楚人曰:“吾使公子黃往而執之。”楚人從之。二慶使告陳侯於會,曰:“楚人執公子黃矣!君若不來,群臣不忍社稷宗廟,懼有二圖。”陳侯逃歸。

陳人は楚を憂えた。慶虎・慶寅は楚人に言った、「われわれは公子黄を往かせる。あなたたちは彼を執えよ」と。楚人は従った。二慶は人を遣わして会上で陳侯に告げて言わせた、「楚人はすでに公子黄を執えました!君王がもし来なければ、群臣は社稷宗廟を忍ばず、おそらく第二の打算ありでしょう」と。陳侯は逃げ帰った。

◇襄公八年

◇襄公八年

【經】八年春王正月,公如晉。夏,葬鄭僖公。鄭人侵蔡,獲蔡公子燮。季孫宿會晉侯、鄭伯、齊人、宋人、衛人、邾人於邢丘。公至自晉。莒人伐我東鄙。

【経】八年春、周天子の暦の正月、襄公は晋に行った。夏、鄭僖公を葬った。鄭人は蔡を侵伐し、蔡の公子燮を俘獲した。季孫宿は晋侯・鄭伯・斉人・宋人・衛人・邾人と邢丘で会見した。襄公は晋から帰った。莒人がわが国の東部辺境を攻めた。

秋九月,大雩。冬,楚公子貞帥師伐鄭。晉侯使士匄來聘。

秋九月、大雩を行った。冬、楚の公子貞が軍を率いて鄭を攻めた。晋侯は士匄を遣わして聘問させた。

【傳】八年春,公如晉,朝,且聽朝聘之數。

【伝】八年春、襄公は晋に行き、朝見し、かつ朝聘の礼数を聴いた。

鄭群公子以僖公之死也,謀子駟。子駟先之。夏四月庚辰,闢殺子狐、子熙、子侯、子丁。孫擊、孫惡出奔衛。

鄭の諸公子は僖公の死によって、子駟に対するを謀った。子駟は先に手を下した。夏四月庚辰、子狐・子熙・子侯・子丁を辟して殺した。孫撃・孫悪は衛に出奔した。

庚寅,鄭子國、子耳侵蔡,獲蔡司馬公子燮。鄭人皆喜,唯子產不順,曰:“小國無文德,而有武功,禍莫大焉。楚人來討,能勿從乎?從之,晉師必至。

庚寅、鄭の子国・子耳が蔡を侵伐し、蔡の司馬公子燮を俘獲した。鄭人は皆喜んだが、ただ子産のみ附和せず、言った、「小国は文徳なく、武功あり。禍はこれより大きいなし。楚人が来て討伐せば、聴従せずにいられましょうか。聴従すれば、晋軍は必ず至る。

晉、楚伐鄭,自今鄭國不四五年,弗得寧矣。”子國怒之曰:“爾何知?國有大命,而有正卿。童子言焉,將為戮矣。”

(子産は続けて言う:)晋・楚が鄭を攻めれば、今より鄭は四五年なしに、安寧を得られない」と。子国は彼に怒って言った、「あなたは何を知る。国家に大命あり、また正卿あり。小児が来て話すは、まさに殺されるだろう」と。

五月甲辰,會於邢丘,以命朝聘之數,使諸侯之大夫聽命。季孫宿、齊高厚、宋向戌、衛寧殖、邾大夫會之。鄭伯獻捷於會,故親聽命。大夫不書,尊晉侯也。

五月甲辰、邢丘で会見し、朝聘の礼数を規定し、諸侯の大夫に命を聴かせた。季孫宿・斉の高厚・宋の向戌・衛の寧殖・邾の大夫が参加した。鄭伯は会上で俘虜を献じたので、自ら命を聴いた。大夫の名を《春秋》に記さないのは、晋侯を尊重するためである。

莒人伐我東鄙,以疆鄫田。

莒人がわが国の東部辺境を攻めたのは、鄫田の疆界を划定に来たのだ。

秋九月,大雩,旱也。

秋九月、大雩を行ったのは、旱のためである。

冬,楚子囊伐鄭,討其侵蔡也。

冬、楚の子囊が鄭を攻めた。蔡を侵伐したことを討伐したのだ。

子駟、子國、子耳欲從楚,子孔、子蟜、子展欲待晉。子駟曰:“《周詩》有之曰:‘俟河之清,人壽幾何?兆雲詢多,職競作羅。’謀之多族,民之多違,事滋無成。民急矣,姑從楚以紓吾民。晉師至,吾又從之。敬共幣帛,以待來者,小國之道也。犠牲玉帛,待於二競,以待強者而庇民焉。寇不為害,民不罷病,不亦可乎?”子展曰:“小所以事大,信也。小國無信,兵亂日至,亡無日矣。

子駟・子国・子耳は楚に従おうと欲し、子孔・子蟜・子展は晋を待とうとした。子駟は言った、「《周詩》にこの言あり、『黄河水の清まるを俟てば、人の寿命はいかほどか。占兆を問うこと多くしては、ただ競い羅網を結ぶのみ』と。謀る族氏多ければ、百姓の背くも多く、事はさらに成らず。百姓は危急である。しばらく楚に従いてわが百姓を緩解せん。晋軍が至れば、われわれはまた晋に従わん。恭しく币帛を備えて、来る者を待つは、小国の道である。犠牲玉帛を両辺の境に置き、強者の来て百姓を庇護するを待つ。寇は害を為さず、百姓は疲病せず。可ではないか」と。子展は言った、「小国が大国に事える所以は、信用である。小国に信用なくば、兵乱は日々至り、亡びるに数日ない。

五會之信,今將背之,雖楚救我,將安用之?親我無成,鄙我是欲,不可從也。

(子展は続けて言う:)五度の会見の信用を、今まさに背棄せんとする。たとえ楚がわれわれを救援しても、何の用があろう。われわれに親しんで事を成せず、われわれを辺邑とするこそ彼らの願いである。聴従すべからず。

不如待晉。晉君方明,四軍無闕,八卿和睦,必不棄鄭。楚師遼遠,糧食將盡,必將速歸,何患焉?舍之聞之:‘杖莫如信。’完守以老楚,杖信以待晉,不亦可乎?”子駟曰:“《詩》云:‘謀夫孔多,是用不集。發言盈庭,誰敢執其咎?如匪行邁謀,是用不得於道。’請從楚,騑也受其咎。”乃及楚平。

(子展は続けて言う:)晋を待つに如かず。晋君はまさに明察で、四軍に欠員なく、八卿は和睦し、必ず鄭を棄てない。楚軍は路遠く、糧食は尽きようとして、必ず速やかに帰る。何を憂えるか。舍之が聞くに、『仗恃すべきは信用より善きはなし』と。守備を完善して楚軍を疲弊させ、信用を仗恃して晋を待つ。可ではないか」と。子駟は言った、「《詩》に言う、『主意を出す人が多すぎて、成功できざるゆえ。発言は庭中に充満し、誰が敢えて過ちを承当せん。歩かずして人と商量するがごとく、正道を得られざるゆえ』と。楚に従うを請う。𬴂が来て過ちを承当せん」と。こうして楚と講和した。

使王子伯駢告於晉,曰:“君命敝邑:‘修而車賦,儆而師徒,以討亂略。’蔡人不從,敝邑之人,不敢寧處,悉索敝賦,以討於蔡,獲司馬燮,獻於邢丘。

王子伯駢を遣わして晋に告げさせて言わせた、「君王は敝邑に命じて、『なんじらの車賦を整治し、なんじらの軍隊を警戒し、もって乱と侵奪を討伐せよ』と。蔡人は聴従せず、敝邑の人は安処すること敢えてせず、敝邑の軍賦を捜尽して、蔡を討伐し、司馬燮を俘獲し、邢丘で進献しました。

今楚來討曰:‘女何故稱兵於蔡?’焚我郊保,馮陵我城郭。敝邑之眾,夫婦男女,不皇啟處,以相救也。翦焉傾覆,無所控告。民死亡者,非其父兄,即其子弟,夫人愁痛,不知所庇。民知窮困,而受盟於楚,狐也與其二三臣不能禁止。

(伯駢は続けて言う:)今楚が来て討伐して言う、『なんじらはなぜ蔡に兵を用いたか』と。わが郊外の城堡を焚焼し、わが城郭を侵陵しました。敝邑の衆人、夫婦男女、安処の閑なく、互いに救援しました。翦滅傾覆されるがごとく、控告する場所なし。百姓の死亡したは、父兄でなければ子弟で、人々皆愁痛し、庇護の所在を知りません。百姓は窮困を知り、楚で盟約を受けました。狐とあの数名の臣が禁止できるものではありません。

不敢不告。”知武子使行人子員對之曰:“君有楚命,亦不使一介行李告於寡君,而即安於楚。君之所欲也,誰敢違君?寡君將帥諸侯以見於城下,唯君圖之!”晉範宣子來聘,且拜公之辱,告將用師於鄭。公享之,宣子賦《摽有梅》。

(伯駢は続けて言う:)告げずにはいられません」と。知武子は行人子員を遣わして答えさせて言わせた、「君王は楚の命令あれば、一つの行李も遣わして寡君に告げずして、即ち楚に安んずる。これは君王の願いである。誰が敢えて君王に背こうか。寡君は諸侯を率いて城下で見えるだろう。君王の考慮を請う!」晋の范宣子が聘問に来て、かつ襄公の辱臨を拜謝し、鄭に兵を用いることを告知した。襄公は享礼を設けて招待し、宣子は《摽有梅》を賦した。

季武子曰:“誰敢哉!今譬於草木,寡君在君,君之臭味也。歡以承命,何時之有?”武子賦《角弓》。賓將出,武子賦《彤弓》。宣子曰:“城濮之役,我先君文公獻功于衡雍,受彤弓於襄王,以為子孫藏。匄也,先君守官之嗣也,敢不承命?”君子以為知禮。

季武子は言った、「誰が敢えて時に及ばざらん!今草木をもって比するに、寡君は君王に対して、君王の匂いです。喜んで命令を承る、どうして時がありましょうか」と。武子は《角弓》を賦した。賓がまさに出ようとするに、武子は《彤弓》を賦した。宣子は言った、「城濮のあの戦いに、わが先君文公は衡雍で功を献じ、襄王から彤弓を受けて、子孫に蔵せしめた。匄は先君の守官の後嗣である。敢えて命令を承えざらんや」と。君子は彼が礼を知るとした。

◇襄公九年

◇襄公九年

【經】九年春,宋災。夏,季孫宿如晉。五月辛酉,夫人姜氏薨。秋八月癸未,葬我小君穆姜。冬,公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯,小邾子、齊世子光伐鄭。十有二月己亥,同盟於戲。楚子伐鄭。

【経】九年春、宋に火災があった。夏、季孫宿は晋に行った。五月辛酉、夫人姜氏が死去した。秋八月癸未、わが小君穆姜を葬った。冬、襄公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・斉世子光と会合して鄭を攻めた。十二月己亥、戯でともに盟を結んだ。楚子が鄭を攻めた。

【傳】九年春,宋災。樂喜為司城以為政。使伯氏司裡,火所未至,徹小屋,塗大屋;陳畚挶,具綆缶,備水器;量輕重,蓄水潦,積土塗;巡丈城,繕守備,表火道。使華臣具正徒,令隧正納郊保,奔火所。使華閱討右官,官庀其司。

【伝】九年春、宋に火災があった。楽喜が司城を為り執政した。伯氏に里巷を掌らせ、火がまだ至らぬ所では、小屋を撤去し、泥をもって大屋を塗り、畚箕と抬土の器具を陈列し、井縄と瓦罐を備え、水を盛る器具を準備した。軽重を估量し、潦水を蓄積し、泥土を堆積した。城墙を巡視し、守備を修繕し、火道を標明した。華臣に徒役を備えさせ、隧正に郊外の城堡の徒卒を納めさせ、火の起こった所に奔赴させた。華閲に右師の属官を督察させ、官員に各々の職事を備えさせた。

向戌討左,亦如之。使樂遄庀刑器,亦如之。使皇鄖命校正出馬,工正出車,備甲兵,庀武守。使西鉏吾庀府守。令司宮、巷伯儆宮。二師令四鄉正敬享,祝宗用馬於四墉,祀盤庚於西門之外。

向戌に左師を督察させ、またこのようにした。楽遄に刑器を備えさせ、またこのようにした。皇鄖に校正を命じて馬を出し、工正に車を出し、甲兵を備え、武備の職守を整治させた。西鉏吾に府庫の職守を整治させた。司宮・巷伯に宮中を警戒するよう命じた。両師に四つの郷正を命じて恭敬に祭祀させ、祝宗に四面の城墙上で馬をもって祭祀させ、西門の外で盤庚を祭祀させた。

晉侯問於士弱曰:“吾聞之,宋災,於是乎知有天道。何故?”對曰:“古之火正,或食於心,或食於咮,以出內火。是故咮為鶉火,心為大火。陶唐氏之火正閼伯居商丘,祀大火,而火紀時焉。相土因之,故商主大火。商人閱其禍敗之釁,必始於火,是以日知其有天道也。”公曰:“可必乎?”對曰:“在道。國亂無象,不可知也。”

晋侯は士弱に問うて言った、「私が聞くに、宋に火災あり、これによって天道あるを知ると。何の故か」と。答えて言った、「古の火正は、あるいは心宿に配祭し、あるいは咮宿に配祭して、もって大火を出納した。だから咮は鶉火、心は大火である。陶唐氏の火正閼伯は商丘に住み、大火を祭祀し、火をもって時を記した。相土がこれを沿袭したので、商は大火を主とした。商人は禍敗の縫隙を考察して、必ず火より始まる。だから今天道あるを知る」と。晋侯は言った、「必ずできるか」と。答えて言った、「道に在り。国が乱れれば征象なく、知るべからず」と。

夏,季武子如晉,報宣子之聘也。

夏、季武子は晋に行き、宣子の聘問に報いた。

穆姜薨於東宮。始往而筮之,遇《艮》之八ⅶⅶ。史曰:“是謂《艮》之《隨》ⅷⅲ。《隨》其出也。君必速也。”姜曰:“亡。是於《周易》曰:‘《隨》,元亨利貞,無咎。’元,體之長也;亨,嘉之會也;利,義之和也;貞,事之幹也。體仁足以長人,嘉德足以合禮,利物足以和義,貞固足以幹事,然,故不可誣也,是以雖《隨》無咎。今我婦人而與於亂。固在下位而有不仁,不可謂元。不靖國家,不可謂亨。作而害身,不可謂利。棄位而姣,不可謂貞。

穆姜は東宮で死去した。初めに入った時これのために占筮し、《艮》の八を得た。史官は言った、「これを《艮》が《随》に変ずと言う。《随》は出るである。君は必ず速やかに出るでしょう」と。姜は言った、「その事なし。これは《周易》に言う、『《随》、元亨利貞、災咎なし』と。元は、身の首。亨は、嘉美の会合。利は、義の和。貞は、事の骨干。体仁あれば足りて人の首を為し、嘉徳あれば足りて礼に配合し、利物あれば足りて義を和し、貞固あれば足りて事の骨干を為す。このようであれば、だから欺くべからず。これによって《随》と雖も災咎なし。今私は婦人にして乱に参与した。本は下位に在りて不仁、元と言うべからず。国家を安定できず、亨と言うべからず。起きて身を傷る、利と言うべからず。位を棄てて姣好を修飾する、貞と言うべからず。

有四德者,《隨》而無咎。我皆無之,豈《隨》也哉?我則取惡,能無咎乎?必死於此,弗得出矣。”

(穆姜は続けて言う:)この四つの徳行ある者は、《随》にしてこそ災咎なし。私は皆なし。なお《随》であろうか。私は自ら悪を取った。災咎なきを得られようか。必ずここで死し、出ること能わず」と。

秦景公使士雃乞師於楚,將以伐晉,楚子許之。子囊曰:“不可。當今吾不能與晉爭。晉君類能而使之,舉不失選,官不易方。其卿讓於善,其大夫不失守,其士競於教,其庶人力於農穡。商工皂隸,不知遷業。韓厥老矣,知罃稟焉以為政。範匄少於中行偃而上之,使佐中軍。韓起少於欒黶,而欒黶、士魴上之,使佐上軍。魏絳多功,以趙武為賢而為之佐。君明臣忠,上讓下競。當是時也,晉不可敵,事之而後可。君其圖之!”王曰:“吾既許之矣。雖不及晉,必將出師。”秋,楚子師於武城以為秦援。秦人侵晉,晉飢,弗能報也。

秦景公は士雃を遣わして楚に出兵を請わせ、晋を攻めようとした。楚子は許した。子囊は言った、「不可。今われわれは晋と争えません。晋君は才能によって分類して用い、推举は選ぶ人を失わず、官職は常道を変えず。卿は善人に譲り、大夫は職守を失わず、士は教訓において勝ちを争い、庶人は農事に力す。商工皂隸は、改行を知らず。韓厥は告老し、知䓨が彼に継いで執政する。范匄は中行偃より年少いが彼の上にあり、彼に中軍を輔佐させる。韓起は欒黶より年少い。欒黶・士魴は彼を上におき、彼に上軍を輔佐させる。魏絳は功労多く、趙武が賢能なるがゆえに彼の輔佐を為る。国君は明に臣子は忠、上は譲り下は勝ちを争う。この時に、晋は当たるべからず。これに事えてこそ可です。君王の考慮を請います!」楚王は言った、「私はすでに許した。晋に及ばずとも、必ず出兵する」と。秋、楚子は武城に軍を駐めて秦の後援とした。秦人は晋を侵伐し、晋は饑饉で、報復できなかった。

冬十月,諸侯伐鄭。庚午,季武子、齊崔杼、宋皇鄖從荀罃、士匄門於鄟門。衛北宮括、曹人、邾人從荀偃、韓起門於師之梁。滕人、薛人從欒黶、士魴門於北門。杞人、郳人從趙武、魏絳斬行栗。甲戌,師於汜,令於諸侯曰:“修器備,盛餱糧,歸老幼,居疾於虎牢,肆眚,圍鄭。”鄭人恐,乃行成。中行獻子曰:“遂圍之,以待楚人之救也而與之戰。不然,無成。”知武子曰:“許之盟而還師,以敝楚人。吾三分四軍,與諸侯之銳以逆來者,於我未病,楚不能矣,猶愈於戰。暴骨以逞,不可以爭。大勞未艾。君子勞心,小人勞力,先王之制也”諸侯皆不欲戰,乃許鄭成。十一月己亥,同盟於戲,鄭服也。

冬十月、諸侯は鄭を攻めた。庚午、季武子・斉の崔杼・宋の皇鄖は荀䓨・士匄に従いて鄟門を攻めた。衛の北宮括・曹人・邾人は荀偃・韓起に従いて師之梁を攻めた。滕人・薛人は欒黶・士魴に従いて北門を攻めた。杞人・郳人は趙武・魏絳に従いて路上の栗樹を斫り落とした。甲戌、氾に軍を駐め、諸侯に下令して言った、「器物装備を修治し、乾糧を装い、老幼を送り帰り、病人を虎牢に居らせ、過ある者を寛赦し、鄭を包囲せよ」と。鄭人は懼れ、こうして和を求めた。中行献子は言った、「これによって包囲し、楚人が救いに来るを待ってから彼らと交戦せよ。さもなくば、真の講和なし」と。知武子は言った、「盟約を許して軍を撤し、もって楚人を疲弊させよ。われわれは四軍を三分し、諸侯の精鋭とともに来る者を迎撃すれば、われわれに未だ病困なく、楚は能わざる。なお交戦に勝る。尸骨を暴露して逞快するは、争うべからず。大労はまだ尽きず。君子は心を労し、小人は力を労すは、先王の制度である」と。諸侯は皆交戦を欲せず、こうして鄭の講和を許した。十一月己亥、戯でともに盟を結んだ。鄭が帰服したからである。

將盟,鄭六卿公子騑、公子發、公子嘉、公孫輒、公孫蠆、公孫舍之及其大夫、門子皆從鄭伯。晉士莊子為載書,曰:“自今日既盟之後,鄭國而不唯晉命是聽,而或有異志者,有如此盟。”公子騑趨進曰:“天禍鄭國,使介居二大國之間。大國不加德音而亂以要之,使其鬼神不獲歆其禋祀,其民人不獲享其土利,夫婦辛苦墊隘,無所底告。自今日既盟之後,鄭國而不唯有禮與強可以庇民者是從,而敢有異志者,亦如之。”荀偃曰:“改載書。”公孫舍之曰:“昭大神,要言焉。若可改也,大國亦可叛也。”知武子謂獻子曰:“我實不德,而要人以盟,豈禮也哉!非禮,何以主盟?姑盟而退,修德息師而來,終必獲鄭,何必今日?我之不德,民將棄我,豈唯鄭?若能休和,遠人將至,何恃於鄭?”乃盟而還。

まさに盟を結ばんとして、鄭の六卿公子𬴂・公子発・公子嘉・公孫輒・公孫蠆・公孫舍之および大夫・門子は皆鄭伯に従った。晋の士荘子が盟書を為りて言った、「今日盟を結ぶより後、鄭国もし晋の命令のみに聴従せずして、あるいは別の打算あらば、あの盟約の言うがごとくあれ」と。公子𬴂は歩を進めて言った、「天は鄭国に禍を降し、両大国の間に夾ませた。大国は善言を与えずして乱をもって約束し、その鬼神に祭祀を享受させず、百姓に土地の利を享受させず、夫婦は辛苦困頓し、告げる場所なし。今日盟を結ぶより後、鄭国はもし礼ありかつ強大にして百姓を庇護できるに従うのみならずして、敢えて別の打算あらば、またこのごとくあれ」と。荀偃は言った、「盟書を改めよ」と。公孫舍之は言った、「すでに大神に昭告し、言を約定した。もし改むべければ、大国もまた背叛できる」と。知武子は献子に言った、「われわれは実に徳を修めずして、盟約をもって人を約束する。あに礼ならんや!礼ならざれば、何をもって盟を主持せん。しばらく盟を結んで退き、徳を修め軍を休整して再来すれば、終に必ず鄭を得る。何必今日にあらん。われわれが徳を修めざれば、百姓はまさにわれわれを棄てん。どうして鄭のみならん。もし美好和睦できれば、遠人は将に至らん。何必鄭を仗恃せん」と。こうして盟を結んで帰った。

晉人不得志於鄭,以諸侯復伐之。十二月癸亥,門其三門。閏月,戊寅,濟於陰阪,侵鄭。次於陰口而還。子孔曰:“晉師可擊也,師老而勞,且有歸志,必大克之。”子展曰:“不可。”

晋人は鄭で志を得ず、諸侯を率いて再び攻めた。十二月癸亥、その三つの城門を攻めた。閏月戊寅、陰阪で河を渡り、鄭を侵伐した。陰口に駐屯して帰った。子孔は言った、「晋軍は攻撃できる。軍は疲労し、かつ帰る心あり。必ず大勝できる」と。子展は言った、「不可」と。

公送晉侯。晉侯以公宴於河上,問公年,季武子對曰:“會於沙隨之歲,寡君以生。”晉侯曰:“十二年矣!是謂一終,一星終也。國君十五而生子。冠而生子,禮也,君可以冠矣!大夫盍為冠具?”武子對曰:“君冠,必以祼享之禮行之,以金石之樂節之,以先君之祧處之。今寡君在行,未可具也。請及兄弟之國而假備焉。”晉侯曰:“諾。”公還,及衛,冠於成公之廟,假鐘磬焉,禮也。

襄公は晋侯を送った。晋侯は襄公と黄河の辺で宴飲し、襄公の年紀を問うと、季武子は答えて言った、「沙随で会見したあの年、寡君は生まれた」と。晋侯は言った、「十二年か!これを一終と言う。一つの星の周期である。国君は十五歳で子を生む。冠礼を行って後子を生むは礼である。君王は冠礼を行うべし!大夫は何ぞ冠礼の用具を備えざるか」と。武子は答えて言った、「国君が冠礼を行うは、必ず祼享の礼をもって行い、金石の音楽をもって節制し、先君の祧廟で行う。今寡君は出行中で、備えることができません。兄弟の国に至って器具を借用することを請います」と。晋侯は言った、「よし」と。襄公は帰り、衛に至り、成公の廟で冠礼を行い、鐘磬を借用した。これは礼に合う。

楚子伐鄭,子駟將及楚平。子孔、子蟜曰:“與大國盟,口血未乾而背之,可乎?”子駟、子展曰:“吾盟固云:‘唯強是從。’今楚師至,晉不我救,則楚強矣。盟誓之言,豈敢背之?且要盟無質,神弗臨也,所臨唯信。信者,言之瑞也,善之主也,是故臨之。明神不蠲要盟,背之可也。”乃及楚平。公子罷戎入盟,同盟於中分。

楚子は鄭を攻め、子駟は楚と講和しようとした。子孔・子蟜は言った、「大国と盟を結び、口血がまだ乾かぬに背棄するは、可か」と。子駟・子展は言った、「わが盟約はもとより言う、『強きに従うのみ』と。今楚軍が至り、晋はわれわれを救援せざれば、では楚こそ強きである。盟誓の言、あえて背棄せんや。しかも要挟せられた盟約は質証なく、神は降臨せず。降臨するはただ信のみ。信は、言の符瑞、善の主導、だから降臨する。明神は要挟せられた盟約を潔しとせず。背棄するは可なり」と。こうして楚と講和した。公子罷戎が入りて盟を結び、中分でともに盟を結んだ。

楚莊夫人卒,王未能定鄭而歸。

楚荘夫人が死去し、楚王は鄭を安定せぬまま帰った。

晉侯歸,謀所以息民。魏絳請施捨,輸積聚以貸。自公以下,苟有積者,盡出之。國無滯積,亦無困人。公無禁利,亦無貪民。祈以幣更,賓以特牲,器用不作,車服從給。行之期年,國乃有節。三駕而楚不能與爭。

晋侯は帰り、百姓を安息させる法を商量した。魏絳は施舍を請い、積聚を出して貸借した。公以下、積蓄ある者は、全部出した。国に滞積なく、また困乏の人もなかった。公室に禁止の利益なく、また貪婪の百姓もなかった。祈祷は币帛をもって犠牲に代え、宴賓は一頭の牲を用い、器物は新作せず、車服は足りるのみ。一年行って、国は節度あらん。三度出兵して楚はこれと争えなかった。

◇襄公十年

◇襄公十年

【經】十年春,公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子、齊世子光會吳於柤。夏,五月甲午,遂滅偪陽。公至自會。楚公子貞、鄭公孫輒帥師伐宋。晉師伐秦。秋,莒人伐我東鄙。公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾子、齊世子光、滕子、薛伯、杞伯、小邾子伐鄭。冬,盜殺鄭公子騑、公子發、公孫輒。戍鄭虎牢。楚公子貞帥師救鄭。公至自伐鄭。

【経】十年春、襄公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・斉世子光と会合し、柤で呉に会見した。夏五月甲午、こうして偪陽を滅ぼした。襄公は会から帰った。楚の公子貞・鄭の公孫輒が軍を率いて宋を攻めた。晋軍は秦を攻めた。秋、莒人がわが国の東部辺境を攻めた。襄公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾子・斉世子光・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と会合して鄭を攻めた。冬、盗賊が鄭の公子𬴂・公子発・公孫輒を殺した。鄭の虎牢を戍守した。楚の公子貞が軍を率いて鄭を救った。襄公は鄭を攻めたところから帰った。

【傳】十年春,會於柤,會吳子壽夢也。三月癸丑,齊高厚相大子光以先會諸侯於鍾離,不敬。士莊子曰:“高子相大子以會諸侯,將社稷是衛,而皆不敬,棄社稷也,其將不免乎!”夏四月戊午,會於柤。

【伝】十年春、柤で会見したのは、呉子寿夢に会見するである。三月癸丑、斉の高厚は太子光のために相礼し、先に鍾離で諸侯に会見したが、恭敬でなかった。士荘子は言った、「高子が太子のために相礼して諸侯に会見するは、社稷を衛護する。しかるに皆恭敬ならざるは、社稷を棄てる。おそらく免れられまい!」夏四月戊午、柤で会見した。

晉荀偃、士匄請伐偪陽,而封宋向戌焉。荀罃曰:“城小而固,勝之不武,弗勝為笑。”固請。丙寅,圍之,弗克。孟氏之臣秦堇父輦重如役。偪陽人啟門,諸侯之士門焉。縣門發,郰人紇抉之以出門者。狄虒彌建大車之輪而蒙之以甲以為櫓,左執之,右拔戟,以成一隊。孟獻子曰:“《詩》所謂‘有力如虎’者也。”主人縣布,堇父登之,及堞而絕之。隊則又縣之,蘇而復上者三。主人辭焉,乃退,帶其斷以徇于軍三日。

晋の荀偃・士匄は偪陽を攻めて、それを宋の向戌に封じることを請うた。荀䓨は言った、「城は小さいが堅固。勝っても勇武と算されず、勝たずば笑いとなる」と。彼らは堅く請うた。丙寅、包囲したが、攻克せず。孟氏の家臣秦堇父は輜重車を牽いて軍中に至った。偪陽人は城門を開き、諸侯の士卒は門を攻めた。懸門が下りると、郰人紇がこれを托し、城門の内の人を放出した。狄虒彌は大車の輪を立てて、鎧甲を蒙せて大盾と為し、左手に持ち、右手に戟を抜いて、自ら一隊と成した。孟献子は言った、「これが《詩》の謂う『力は虎のごとし』の人である」と。城の内の人は布を垂れ、堇父は攀じて上ったが、女牆に至ると彼らは布を割断した。堕ちて彼らはまた垂らし、蘇醒してまた上り、このように三度した。主人は彼に辞を致し、やっと退下し、あの断布を帯びて軍中を三日巡行した。

諸侯之師久於偪陽,荀偃、士匄請於荀罃曰:“水潦將降,懼不能歸,請班師。”知伯怒,投之以機,出於其間,曰:“女成二事而後告餘。餘恐亂命,以不女違。女既勤君而興諸侯,牽帥老夫以至於此,既無武守,而又欲易餘罪,曰:‘是實班師,不然克矣’。餘贏老也,可重任乎?七日不克,必爾乎取之!”五月庚寅,荀偃、士匄帥卒攻偪陽,親受矢石。甲午,滅之。書曰“遂滅偪陽”,言自會也。以與向戌,向戌辭曰:“君若猶辱鎮撫宋國,而以偪陽光啟寡君,群臣安矣,其何貺如之?若專賜臣,是臣興諸侯以自封也,其何罪大焉?敢以死請。”

諸侯の軍が偪陽に久しく留まると、荀偃・士匄は荀䓨に請うて言った、「雨水はまさに下らんとし、帰ることができないを恐れます。軍を撤することを請います」と。知伯は怒り、弩機を擲って彼らの中間を穿ち過ぎて言った、「なんじらはこの二つの事を成就してから私に告げよ。私は命令を扰乱することを恐れ、だからなんじらに背かなかった。なんじらはすでに国君を労し諸侯を発動し、老夫を牽いてここに至った。勇武の職守なくして、またわが罪を改換しようとして、言う、『実はこの人が軍を撤した。さもなくば攻克した』と。私は衰老した。なお再び担当できようか。七日して攻克せざれば、必ずなんじらからなんじらの首を取る!」五月庚寅、荀偃・士匄は士卒を率いて偪陽を攻め、自ら箭石を承えた。甲午、これを滅ぼした。《春秋》に記して「遂滅偪陽」と言うは、会見から続けて為したを言う。それを向戌に与えると、向戌は推辞して言った、「君王がもしなお辱くも宋国を鎮撫し、偪陽をもって寡君を光大開啓すれば、群臣は安定します。これより大きい賞賜がありますか。もし専ら臣に賜わば、即ち臣が諸侯を発動して自らのために封を求めたことです。罪はこれより大きいあらんや。敢えて死をもって請います」と。

乃予宋公。

こうして宋公に与えた。

宋公享晉侯於楚丘,請以《桑林》。荀罃辭。荀偃、士匄曰:“諸侯宋、魯,於是觀禮。魯有禘樂,賓祭用之。宋以《桑林》享君,不亦可乎?”舞,師題以旌夏,晉侯懼而退入於房。去旌,卒享而還。及著雍,疾。卜,桑林見。荀偃、士匄欲奔請禱焉。荀罃不可,曰:“我辭禮矣,彼則以之。猶有鬼神,於彼加之。”

宋公は楚丘で享礼を設けて晋侯を招待し、《桑林》を用いることを請うた。荀䓨は推辞した。荀偃・士匄は言った、「諸侯の中で宋・魯は、ここで礼を観る。魯には禘楽あり、宴賓祭祀に用いる。宋は《桑林》をもって国君を享待する。可ではないか」と。舞を起こし、楽師は大旌をもって標明すると、晋侯は懼れて房に退いた。旌を去り、享礼が畢って帰った。著雍に至り、病んだ。卜に問うと、桑林の神が現れた。荀偃・士匄は奔り帰って祈祷を請おうとした。荀䓨は同意せず、言った、「私はすでに礼を辞した。彼らが用いたのだ。もし鬼神あらば、彼らに加えよ」と。

晉侯有間,以偪陽子歸,獻於武宮,謂之夷俘。偪陽妘姓也。使周內史選其族嗣,納諸霍人,禮也。

晋侯の病は愈え、偪陽子を帯びて帰り、武宮に献じて、夷俘と言った。偪陽は妘姓である。周の内史にその族嗣を挑選させ、霍人に安置した。これは礼に合う。

師歸,孟獻子以秦堇父為右。生秦丕茲,事仲尼。

軍が帰ると、孟献子は秦堇父に車右を為らせた。秦丕兹を生み、仲尼に事えた。

六月,楚子囊、鄭子耳伐宋,師於訾毋。庚午,圍宋,門於桐門。

六月、楚の子囊・鄭の子耳は宋を攻め、訾毋に軍を駐めた。庚午、宋を包囲し、桐門を攻めた。

晉荀罃伐秦,報其侵也。

晋の荀䓨は秦を攻め、その侵伐に報復した。

衛侯救宋,師於襄牛。鄭子展曰:“必伐衛,不然,是不與楚也。得罪於晉,又得罪於楚,國將若之何?”子駟曰:“國病矣!”子展曰:“得罪於二大國,必亡。病不猶愈於亡乎?”諸大夫皆以為然。故鄭皇耳帥師侵衛,楚令也。孫文子卜追之,獻兆於定姜。姜氏問繇。曰:“兆如山陵,有夫出征,而喪其雄。”

衛侯は宋を救い、襄牛に軍を駐めた。鄭の子展は言った、「必ず衛を攻めよ。さもなくば、即ち楚に親附せざることです。晋の罪を得て、また楚の罪を得れば、国はまさにどうせん」と。子駟は言った、「国は困病している!」子展は言った、「二つの大国の罪を得れば、必ず亡びる。困病はなお亡びに如かずや」と。大夫たちは皆然とした。だから鄭の皇耳は軍を率いて衛を侵伐した。楚の命令である。孫文子は追撃のために卜に問い、兆象を定姜に献じた。姜氏は繇辞を問うた。言った、「兆象は山陵のごとく、丈夫出征して、その雄傑を喪う」と。

姜氏曰:“徵者喪雄,禦寇之利也。大夫圖之!”衛人追之,孫蒯獲鄭皇耳於犬丘。

姜氏は言った、「出征する者が雄傑を喪うは、寇を御するに吉利。大夫は慮れ!」衛人は追撃し、孫蒯は犬丘で鄭の皇耳を俘獲した。

秋七月,楚子囊、鄭子耳伐我西鄙。還,圍蕭,八月丙寅,克之。九月,子耳侵宋北鄙。孟獻子曰:“鄭其有災乎!師競已甚。周猶不堪競,況鄭乎?有災,其執政之三士乎!”莒人間諸侯之有事也,故伐我東鄙。

秋七月、楚の子囊・鄭の子耳はわが国の西部辺境を攻めた。帰りて、蕭を包囲し、八月丙寅、攻克した。九月、子耳は宋の北部辺境を侵伐した。孟献子は言った、「鄭はおそらく災あろう!軍隊の争競はすでに太甚。周ですら争競に堪えず、まして鄭をや。災あれば、おそらく執政の三氏に在ろう!」莒人は諸侯に事あるに趁い、だからわが国の東部辺境を攻めた。

諸侯伐鄭。齊崔杼使大子光先至於師,故長於滕。己酉,師於牛首。

諸侯は鄭を攻めた。斉の崔杼は太子光を先に軍中に至らせたので、滕国の前に排した。己酉、牛首に軍を駐めた。

初,子駟與尉止有爭,將御諸侯之師而黜其車。尉止獲,又與之爭。子駟抑尉止曰:“爾車,非禮也。”遂弗使獻。初,子駟為田洫,司氏、堵氏、侯氏、子師氏皆喪田焉,故五族聚群不逞之人,因公子之徒以作亂。於是子駟當國,子國為司馬,子耳為司空,子孔為司徒。冬十月戊辰,尉止、司臣、侯晉、堵女父、子師僕帥賊以入,晨攻執政於西宮之朝,殺子駟、子國、子耳,劫鄭伯以如北宮。

初め、子駟は尉止と争執あり、まさに諸侯の軍を御するとして彼の兵車を減少した。尉止は俘獲あるも、また彼と争った。子駟は尉止を壓制して言った、「なんじの車は、礼に合わない」と。こうして彼に進献させなかった。初め、子駟は田間の水溝を開き、司氏・堵氏・侯氏・子師氏は皆田地を喪失したので、五族は一群の志を得ざる人を聚集し、公子の党徒を借りて乱を為した。この時子駟が国事を主持し、子国が司馬を為り、子耳が司空を為り、子孔が司徒を為った。冬十月戊辰、尉止・司臣・侯晋・堵女父・子師僕は賊人を率いて入り、朝に西宮の朝上で執政を攻め、子駟・子国・子耳を殺し、鄭伯を劫して北宮に至った。

子孔知之,故不死。書曰“盜”,言無大夫焉。

子孔は事前に知っていたので、死ななかった。《春秋》に記して「盗」と言うは、大夫が内にいないを言う。

子西聞盜,不儆而出,屍而追盜,盜入於北宮,乃歸授甲。臣妾多逃,器用多喪。子產聞盜,為門者,庀群司,閉府庫,慎閉藏,完守備,成列而後出,兵車十七乘,屍而攻盜於北宮。子蟜帥國人助之,殺尉止,子師僕,盜眾盡死。

子西は盗あるを聞くと、警戒せずして出て、尸を収めてから盗を追ったが、盗は北宮に入り、やっと帰って甲を授かった。臣妾は逃げること多く、器用は喪失多かった。子産は盗あるを聞くと、門を守る人を設け、各官の職事を備え、府庫を閉じ、謹んで閉蔵し、守備を完善し、行列を排してから出て、兵車十七乘、尸を収めて北宮で盗を攻めた。子蟜は国人を率いて助け、尉止・子師僕を殺し、盗衆は全部死んだ。

侯晉奔晉。堵女父、司臣、尉翩、司齊奔宋。

侯晋は晋に逃げ奔った。堵女父・司臣・尉翩・司斉は宋に逃げ奔った。

子孔當國,為載書,以位序,聽政闢。大夫、諸司、門子弗順,將誅之。子產止之,請為之焚書。子孔不可,曰:“為書以定國,眾怒而焚之,是眾為政也,國不亦難乎?”子產曰:“眾怒難犯,專欲難成,合二難以安國,危之道也。不如焚書以安眾,子得所欲,眾亦得安,不亦可乎?專欲無成,犯眾興禍,子必從之。”乃焚書於倉門之外,眾而後定。

子孔は国事を主持し、盟書を制定し、地位の次序により、国君の法令に聴従させた。大夫・各官・門子は順従せず、子孔は彼らを誅殺しようとした。子産は遮り、彼のために盟書を焼掉することを請うた。子孔は同意せず、言った、「文書を制定して国を安定しようとするに、衆人が怒れば焼掉するは、これは衆人が執政する。国はまた難しくないか」と。子産は言った、「衆人の怒は犯すべからず、専擅の欲望は成功し難し。二つの難を合わせて国を安定せんとは、危険の道です。文書を焼掉して衆人を安定するに如かず。あなたは欲する所を得、衆人もまた安定できる。可ではないか。専擅の欲望は成功せず、衆人に犯れば禍患を興す。あなたは必ず聴従すべし」と。こうして倉門の外で文書を焼掉し、衆人はこうして安定した。

諸侯之師城虎牢而戍之。晉師城梧及制,士魴、魏絳戍之。書曰“戍鄭虎牢”,非鄭地也,言將歸焉。鄭及晉平。楚子囊救鄭。十一月,諸侯之師還鄭而南,至於陽陵,楚師不退。知武子欲退,曰:“今我逃楚,楚必驕,驕則可與戰矣。”

諸侯の軍は虎牢を修築して戍守した。晋軍は梧と制を修築し、士魴・魏絳が戍守した。《春秋》に記して「戍鄭虎牢」と言うは、当時すでに鄭地ではなく、まさに帰還せんとするを言う。鄭は晋と講和した。楚の子囊は鄭を救った。十一月、諸侯の軍は鄭都を繞って南し、陽陵に至ったが、楚軍は退かなかった。知武子は退こうと欲して言った、「今われわれが楚を逃避すれば、楚は必ず驕傲し、驕傲すればこれと交戦できる」と。

欒黶曰:“逃楚,晉之恥也。合諸侯以益恥,不如死!我將獨進。”師遂進。己亥,與楚師夾潁而軍。子矯曰:“諸侯既有成行,必不戰矣。從之將退,不從亦退。退,楚必圍我。猶將退也。不如從楚,亦以退之。”宵涉潁,與楚人盟。欒黶欲伐鄭師,荀罃不可,曰:“我實不能御楚,又不能庇鄭,鄭何罪?不如致怨焉而還。今伐其師,楚必救之,戰而不克,為諸侯笑。克不可命,不如還也!”丁未,諸侯之師還,侵鄭北鄙而歸。楚人亦還。

欒黶は言った、「楚を逃避するは、晋の恥辱。諸侯を会合して恥辱を増加するは、死に如かず!私は将に独り前進せん」と。軍はこうして前進した。己亥、楚軍と潁水を隔てて駐屯した。子蟜は言った、「諸侯はすでに帰る行列あり。必ず交戦しない。彼らに従えば退き、従わなくても退く。退けば、楚は必ずわれわれを包囲する。いずれ退くなら、楚に従うに如かず。またもって彼らを退かせる」と。夜に潁水を渡り、楚人と盟を結んだ。底本の「子矯」は即ち子蟜。欒黶は鄭軍を攻めようとしたが、荀䓨は同意せず、言った、「われわれは実に楚を抵御できず、また鄭を庇護できず。鄭に何の罪がある。怨恨を彼らに送って帰るに如かず。今その軍を攻めれば、楚は必ず救援し、交戦して勝てず、諸侯の笑いとなる。勝利は必ず得られず。帰るに如かず!」丁未、諸侯の軍は帰り、鄭の北部辺境を侵伐して帰った。楚人も帰った。

王叔陳生與伯輿爭政。王右伯輿,王叔陳生怒而出奔。及河,王復之,殺史狡以說焉。不入,遂處之。晉侯使士匄平王室,王叔與伯輿訟焉。王叔之宰與伯輿之大夫瑕禽坐獄於王庭,士匄聽之。王叔之宰曰:“篳門閨竇之人而皆陵其上,其難為上矣!”瑕禽曰:“昔平王東遷,吾七姓從王,牲用備具。王賴之,而賜之騂旄之盟,曰:‘世世無失職。’若篳門閨竇,其能來東底乎?且王何賴焉?今自王叔之相也,政以賄成,而刑放於寵。官之師旅,不勝其富,吾能無篳門閨竇乎?唯大國圖之!下而無直,則何謂正矣?”範宣子曰:“天子所右,寡君亦右之。所左,亦左之。”使王叔氏與伯輿合要,王叔氏不能舉其契。王叔奔晉。

王叔陳生と伯輿は執政を争った。天子は伯輿を袒護し、王叔陳生は怒って出奔した。黄河に至り、天子は彼を帰らせ、史狡を殺して解釈した。城に入らず、こうしてそこに住んだ。晋侯は士匄を遣わして王室を調停させ、王叔と伯輿は争訟した。王叔の家宰と伯輿の大夫瑕禽は王庭で対質し、士匄が聴訟した。王叔の家宰は言った、「柴門小戸の人が上の人に陵駕するは、上の人は為し難し!」瑕禽は言った、「昔平王が東に遷った時、われわれ七姓は天子に従い、犠牲用品は斉備した。天子は頼り、騂旄の盟約を賜りて言う、『世々職事を失わず』と。もし柴門小戸ならば、東方に来て止まることができようか。しかも天子は何に頼るか。今王叔が輔政してより、政事は賄賂をもって辦成し、刑罰は寵臣に放任した。官員の師旅は、富は受けきれず。われわれは柴門小戸なくしていられようか。大国の考慮を請います!下に理なくば、なお何の正を言わん」と。范宣子は言った、「天子の袒護するは、寡君もまた袒護する。袒護せざるは、また袒護せず」と。王叔氏と伯輿に約辞を対証させると、王叔氏は契約を出せなかった。王叔は晋に逃げ奔った。

不書,不告也。單靖公為卿士,以相王室。

《春秋》に記さないのは、告げに来なかったからである。単靖公が卿士を為り、王室を輔佐した。

◇襄公十一年

◇襄公十一年

【經】十有一年春王正月,作三軍。夏四月,四卜郊,不從,乃不郊。鄭公孫舍之帥師侵宋。公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、齊世子光、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子伐鄭。秋七月己未,同盟於亳城北。公至自伐鄭。楚子、鄭伯伐宋。公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、齊世子光、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子伐鄭,會於蕭魚。公至自會。楚執鄭行人良霄。冬,秦人伐晉。

【経】十一年春、周天子の暦の正月、三軍を建立した。夏四月、郊祭のために四度卜したが、皆従わず、こうして郊祭を行わなかった。鄭の公孫舍之が軍を率いて宋を侵伐した。襄公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・斉世子光・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と会合して鄭を攻めた。秋七月己未、亳城の北でともに盟を結んだ。襄公は鄭を攻めたところから帰った。楚子・鄭伯は宋を攻めた。襄公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・斉世子光・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と会合して鄭を攻め、蕭魚で会見した。襄公は会から帰った。楚は鄭の行人良霄を執えた。冬、秦人は晋を攻めた。

【傳】十一年春,季武子將作三軍,告叔孫穆子曰:“請為三軍,各徵其軍。”

【伝】十一年春、季武子は三軍を建立しようとして、叔孫穆子に告げて言った、「三軍を建て、各自その軍隊を征発することを請います」と。

穆子曰:“政將及子,子必不能。”武子固請之,穆子曰:“然則盟諸?”乃盟諸僖閎,詛諸五父之衢。

穆子は言った、「政事はまさにあなたの手に至らん。あなたは必ず承当できない」と。武子は堅く請い、穆子は言った、「では盟を結ぶか」と。こうして僖公の廟門で盟を結び、五父之衢で詛咒した。

正月,作三軍,三分公室而各有其一。三子各毀其乘。李氏使其乘之人,以其役邑入者,無徵;不入者,倍徵。孟氏使半為臣,若子若弟。叔孫氏使盡為臣,不然,不捨。

正月、三軍を建立し、公室を三份に分け、各々一份を得た。三家は各々その私属の車乘を毀した。季氏はその車乘に上る人に、服役する城邑を帰入する者は税を徵せず、帰入せざる者は税を倍に徵した。底本の「李氏」は即ち季氏。孟氏は半分を臣とし、あるいは子あるいは弟とした。叔孫氏は全部を臣とし、さもなくば、併入しなかった。

鄭人患晉、楚之故,諸大夫曰:“不從晉,國幾亡。楚弱於晉,晉不吾疾也。

鄭人は晋・楚の故を憂え、大夫たちは言った、「晋に従わざれば、国はほぼ亡びる。楚は晋より弱く、晋はわれわれに急でない。

晉疾,楚將闢之。何為而使晉師致死於我,楚弗敢敵,而後可固與也。”子展曰:“與宋為惡,諸侯必至,吾從之盟。楚師至,吾又從之,則晉怒甚矣。晉能驟來,楚將不能,吾乃固與晉。”大夫說之,使疆埸之司惡於宋。宋向戌侵鄭,大獲。

(大夫たちは続けて言う:)晋が一たび急なれば、楚はまさに避ける。どうすれば晋軍にわれわれのために致死用命させ、楚が敢えて当たらぬようにし、然る後牢固に親附できるか」と。子展は言った、「宋と悪を結べば、諸侯は必ず至る。われわれは彼らに従いて盟を結ぶ。楚軍が至れば、われわれはまた楚に従う。晋の怒は甚だ深くなる。晋は屢々来ることができ、楚は能わず。われわれはこうして牢固に晋に親附する」と。大夫たちは喜び、辺疆の官吏に宋に悪事を為させた。宋の向戌は鄭を侵伐し、大いに俘獲した。

子展曰:“師而伐宋可矣。若我伐宋,諸侯之伐我必疾,吾乃聽命焉,且告於楚。

子展は言った、「兵を出して宋を攻めれば可。もしわれわれが宋を攻めれば、諸侯がわれわれを攻めるは必ず急。われわれはこうして命を聴き、かつ楚に告げる。

楚師至,吾又與之盟,而重賂晉師,乃免矣。”夏,鄭子展侵宋。

(子展は続けて言う:)楚軍が至れば、われわれはまたこれと盟を結び、并重く晋軍に賂すれば、即ち免れる」と。夏、鄭の子展は宋を侵伐した。

四月,諸侯伐鄭。己亥,齊大子光、宋向戌先至於鄭,門於東門。其莫,晉荀罃至於西郊,東侵舊許。衛孫林父侵其北鄙。六月,諸侯會於北林,師於向,右還,次於瑣,圍鄭。觀兵於南門,西濟於濟隧。鄭人懼,乃行成。

四月、諸侯は鄭を攻めた。己亥、斉の太子光・宋の向戌が先に鄭に至り、東門を攻めた。その夜、晋の荀䓨は西郊に至り、東して旧許を侵伐した。衛の孫林父は北部辺境を侵伐した。六月、諸侯は北林で会合し、向に軍を駐め、右に回転し、瑣に駐屯し、鄭を包囲した。南門で軍隊を検閲し、西して済隧を渡った。鄭人は懼れ、こうして和を求めた。

秋七月,同盟於亳。範宣子曰:“不慎,必失諸侯。諸侯道敝而無成,能無貳乎?”乃盟,載書曰:“凡我同盟,毋蘊年,毋壅利,毋保奸,毋留慝,救災患,恤禍亂,同好惡,獎王室。或間茲命,司慎司盟,名山名川,群神群祀,先王先公,七姓十二國之祖,明神殛之,俾失其民,隊命亡氏,踣其國家。”

秋七月、亳でともに盟を結んだ。范宣子は言った、「謹慎せざれば、必ず諸侯を失う。諸侯は路上に疲弊して成就なく、二心なくしていられようか」と。こうして盟を結び、盟書に言った、「およそわれわれ同盟は、年穀を屯積するな、利益を堵塞するな、奸人を庇護するな、邪悪を留蔵するな。災患を救助し、禍乱を体恤し、好悪を同じくし、王室を輔助せよ。人あってこの命令に冒犯せば、司慎・司盟、名山名川、群神群祀、先王先公、七姓十二国の祖先、神明は彼を誅殺し、彼に百姓を失わせ、性命を墜落し族氏を滅亡せしめ、その国を顛覆せしめん」と。

楚子囊乞旅於秦,秦右大夫詹帥師從楚子,將以伐鄭。鄭伯逆之。丙子,伐宋。

楚の子囊は秦に出兵を請い、秦の右大夫詹は軍を率いて楚子に従い、鄭を攻めようとした。鄭伯は迎えた。丙子、宋を攻めた。

九月,諸侯悉師以復伐鄭。鄭人使良霄、大宰石如楚,告將服於晉,曰:“孤以社稷之故,不能懷君。君若能以玉帛綏晉,不然則武震以攝威之,孤之願也。”楚人執之,書曰“行人”,言使人也。諸侯之師觀兵於鄭東門,鄭人使王子伯駢行成。甲戌,晉趙武入盟鄭伯。冬十月丁亥,鄭子展出盟晉侯。十二月戊寅,會於蕭魚。庚辰,赦鄭囚,皆禮而歸之。納斥候,禁侵掠。晉侯使叔肸告於諸侯。公使臧孫紇對曰:“凡我同盟,小國有罪,大國致討,苟有以藉手,鮮不赦宥。寡君聞命矣。”鄭人賂晉侯以師悝、師觸、師蠲,廣車、軘車淳十五乘,甲兵備,凡兵車百乘,歌鐘二肆,及其鎛磐,女樂二八。

九月、諸侯は全軍を出して再び鄭を攻めた。鄭人は良霄・太宰石を遣わして楚に行かせ、まさに晋に帰服せんとするを告知して言わせた、「孤は社稷の故のために、君王を懐念できません。君王もし玉帛をもって晋を安撫し、さもなくば武威をもってこれを震懾できれば、是れ孤の願いです」と。楚人は彼を執え、《春秋》に記して「行人」と言うは、彼が使者であるを言う。諸侯の軍は鄭の東門で検閲し、鄭人は王子伯駢を遣わして和を求めさせた。甲戌、晋の趙武は入りて鄭伯と盟を結んだ。冬十月丁亥、鄭の子展は出て晋侯と盟を結んだ。十二月戊寅、蕭魚で会見した。庚辰、鄭の俘虜を赦免し、皆礼をもって送り帰した。偵察兵を收回し、侵掠を禁止した。晋侯は叔肸を遣わして諸侯に告知させた。襄公は臧孫紇を遣わして答えさせて言わせた、「およそわれわれ同盟は、小国有罪あれば、大国はこれに討伐を加える。もし言うべき言あれば、赦免寛宥せざるは少なし。寡君は命令を聞いた」と。鄭人は師悝・師触・師蠲を晋侯に賂送し、広車・軘車は対に配して十五乘、甲兵は斉備し、兵車は合わせて百乘、歌鐘は二肆、およびその鎛磬、女楽十六人。底本の「鎛磐」は即ち鎛磬。

晉侯以樂之半賜魏絳,曰:“子教寡人和諸戎狄,以正諸華。八年之中,九合諸侯,如樂之和,無所不諧。請與子樂之。”辭曰:“夫和戎狄,國之福也;八年之中,九合諸侯,諸侯無慝,君之靈也,二三子之勞也,臣何力之有焉?抑臣願君安其樂而思其終也!《詩》曰:‘樂只君子,殿天子之邦。樂只君子,福祿攸同。便蕃左右,亦是帥從。’夫樂以安德,義以處之,禮以行之,信以守之,仁以厲之,而後可以殿邦國,同福祿,來遠人,所謂樂也。《書》曰:‘居安思危。’思則有備,有備無患,敢以此規。”公曰:“子之教,敢不承命。抑微子,寡人無以待戎,不能濟河。夫賞,國之典也,藏在盟府,不可廢也,子其受之!”魏絳於是乎始有金石之樂,禮也。

晋侯は楽器の半分を魏絳に賜りて言った、「あなたは寡人に戎狄と和好するを教え、もって諸夏を整頓した。八年の中に、九度諸侯を会合し、音楽の和のごとく、協調せざるなし。あなたと共に享することを請う」と。魏絳は推辞して言った、「戎狄と和好するは、国家の福。八年の中に九度諸侯を会合し、諸侯に邪悪なきは、君王の威霊、あの数名の労苦です。臣に何の力がありますか。ただ臣は君王が楽しみに安んじて終極を思うを願います!《詩》に言う、『楽しきかな君子、天子の邦国を鎮撫す。楽しきかな君子、福禄の同じ。左右を安撫し、また皆従う』と。楽は徳を安定するに用い、義は自処するに用い、礼は実行するに用い、信は守るに用い、仁は砥礪するに用い、然る後邦国を鎮撫し、福禄を同享し、遠人を招来するべし。即ち謂うところの楽です。《書》に言う、『安きに処りて危きを思う』と。思えば即ち防備あり、防備あれば即ち禍患なし。敢えてこれをもって規諫します」と。晋侯は言った、「あなたの教訓、敢えて命令を承えざらんや。ただあなたなくば、寡人は戎人を対待する法なく、黄河を渡ることができなかった。賞賜は、国家の典制で、盟府に蔵する。廃すべからず。あなたの受けるを請う!」魏絳はこれより金石の楽あるを始めた。これは礼に合う。

秦庶長鮑、庶長武帥師伐晉以救鄭。鮑先入晉地,士魴御之,少秦師而弗設備。壬午,武濟自輔氏,與鮑交伐晉師。己丑,秦、晉戰於櫟,晉師敗績,易秦故也。

秦の庶長鮑・庶長武は軍を率いて晋を攻め、鄭を救いに来た。鮑は先に晋地に入り、士魴は御したが、秦軍は人少ないとして防備を設けなかった。壬午、武は輔氏から渡り、鮑と交替して晋軍を攻めた。己丑、秦・晋は櫟で交戦し、晋軍は大敗した。秦を軽視した故である。

◇襄公十二年

◇襄公十二年

【經】十有二年春王二月,莒人伐我東鄙,圍臺。季孫宿帥師救臺,遂入鄆。

【経】十二年春、周天子の暦の二月、莒人はわが国の東部辺境を攻め、台を包囲した。季孫宿は軍を率いて台を救い、こうして鄆に入った。

夏,晉侯使士魴來聘。秋九月,吳子乘卒。冬,楚公子貞帥師侵宋。公如晉。

夏、晋侯は士魴を遣わして聘問させた。秋九月、呉子乘が死去した。冬、楚の公子貞が軍を率いて宋を侵伐した。襄公は晋に行った。

【傳】十二年春,莒人伐我東鄙,圍臺。季武子救臺,遂入鄆,取其鍾以為公盤。

【伝】十二年春、莒人はわが国の東部辺境を攻め、台を包囲した。季武子は台を救い、こうして鄆に入り、その鐘を取って公室の盤と為した。

夏,晉士魴來聘,且拜師。

夏、晋の士魴が聘問に来て、かつ出兵を拜謝した。

秋,吳子壽夢卒。臨於周廟,禮也。凡諸侯之喪,異姓臨於外,同姓於宗廟,同宗於祖廟,同族於禰廟。是故魯為諸姬,臨於周廟。為邢、凡、蔣、茅、胙、祭臨於周公之廟。

秋、呉子寿夢が死去した。周廟で哭臨した。これは礼に合う。およそ諸侯の喪事は、異姓は城外で哭臨し、同姓は宗廟、同宗は祖廟、同族は禰廟。だから魯は諸姫姓のために、周廟で哭臨する。邢・凡・蔣・茅・胙・祭のためには、周公の廟で哭臨する。

冬,楚子囊、秦庶長無地伐宋,師於揚梁,以報晉之取鄭也。

冬、楚の子囊・秦の庶長無地は宋を攻め、揚梁に軍を駐めた。晋が鄭を取得したに報復する。

靈王求後於齊。齊侯問對於晏桓子,桓子對曰:“先王之禮辭有之,天子求後於諸侯,諸侯對曰:‘夫婦所生若而人。妾婦之子若而人。’無女而有姊妹及姑姊妹,則曰:‘先守某公之遺女若而人。’”齊侯許昏,王使陰裡逆之。

霊王は斉に王后を求娶した。斉侯は晏桓子に対答の言を問うと、桓子は答えて言った、「先王の礼辞にこのようなものあり。天子が諸侯に王后を求娶すれば、諸侯は答えて、『嫡妻の生んだは若干人。妾婦の子は若干人』と。女なくして姉妹および姑姉妹あれば、言う、『先君某公の遺した女は若干人』と」と。斉侯は婚姻を許し、天子は陰里を遣わして迎えさせた。

公如晉,朝,且拜士魴之辱,禮也。

襄公は晋に行き、朝見し、かつ士魴の辱臨を拜謝した。これは礼に合う。

秦嬴歸於楚。楚司馬子庚聘於秦,為夫人寧,禮也。

秦嬴は楚に嫁いだ。楚の司馬子庚は秦に聘問し、夫人のために娘家に安を問わせた。これは礼に合う。

◇襄公十三年

◇襄公十三年

【經】十有三年春,公至自晉。夏,取邿。秋九月庚辰,楚子審卒。冬,城防。

【経】十三年春、襄公は晋から帰った。夏、邿を取得した。秋九月庚辰、楚子審が死去した。冬、防城を修築した。

【傳】十三年春,公至自晉,孟獻子書勞於廟,禮也。

【伝】十三年春、襄公は晋から帰り、孟献子は廟で功労を記載した。これは礼に合う。

夏,邿亂,分為三。師救邿,遂取之。凡書“取”,言易也。用大師焉曰“滅”。弗地曰“入”。

夏、邿国に内乱あり、三份に分かれた。軍は邿を救い、こうしてそれを取得した。およそ《春秋》に「取」と記すは、容易いを言う。大軍を動かすを「滅」と言う。土地を占有せざるを「入」と言う。

荀罃、士魴卒。晉侯蒐於綿上以治兵,使士匄將中軍,辭曰:“伯遊長。昔臣習於知伯,是以佐之,非能賢也。請從伯遊。”荀偃將中軍,士匄佐之。使韓起將上軍,辭以趙武。又使欒黶,辭曰:“臣不如韓起。韓起願上趙武,君其聽之!”使趙武將上軍,韓起佐之。欒黶將下軍,魏絳佐之。新軍無帥,晉侯難其人,使其什吏,率其卒乘官屬,以從於下軍,禮也。晉國之民,是以大和,諸侯遂睦。君子曰:“讓,禮之主也。範宣子讓,其下皆讓。欒黶為汰,弗敢違也。

荀䓨・士魴が死去した。晋侯は綿上で大蒐を行い兵を治め、士匄に中軍を統率させようとすると、推辞して言った、「伯游が年長である。昔臣は知伯に熟悉していたので、彼を輔佐した。賢能のためではない。伯游に従うことを請います」と。荀偃が中軍を統率し、士匄が輔佐した。韓起に上軍を統率させようとすると、趙武をもって推辞した。また欒黶に譲ると、推辞して言った、「臣は韓起に如かず。韓起は趙武を上に置くを願います。君王の聴従を請います!」趙武に上軍を統率させ、韓起が輔佐した。欒黶が下軍を統率し、魏絳が輔佐した。新軍に主師なく、晋侯は合適な人を難く求め、その十の吏に歩卒車乘と官属を率いさせ、下軍に従わせた。これは礼に合う。晋の百姓はこれによって大いに和睦し、諸侯はこうして和睦した。君子は言った、「譲は、礼の主導。范宣子は譲り、その下の人は皆譲る。欒黶は驕縦するも、敢えて背かず。

晉國以平,數世賴之。刑善也夫!一人刑善,百姓休和,可不務乎?《書》曰:‘一人有慶,兆民賴之,其寧惟永。’其是之謂乎?周之興也,其《詩》曰:‘儀刑文王,萬邦作孚。’言刑善也。及其衰也,其《詩》曰:‘大夫不均,我從事獨賢。’言不讓也。世之治也,君子尚能而讓其下,小人農力以事其上,是以上下有禮,而讒慝黜遠,由不爭也,謂之懿德。及其亂也,君子稱其功以加小人,小人伐其技以馮君子,是以上下無禮,亂虐並生,由爭善也,謂之昏德。國家之敝,恆必由之。”

(君子は続けて言う:)晋はこれによって平安で、幾世も頼る。善に取法するである!一人が善に取法すれば、百姓は美好和睦する。致力せずにいられようか。《書》に言う、『一人に善あれば、兆民は頼り、安寧は長久なり』と。これを言うのでしょう。周が興起した時、その《詩》に言う、『文王に取法せよ、万邦は信任す』と。善に取法するを言う。衰微するに及び、その《詩》に言う、『大夫は平均ならず、我が事を為すは独り賢能なり』と。譲らざるを言う。天下が治まる時、君子は才能を崇尚して下に譲り、小人は農事を努力して上に事える。だから上下に礼あり、讒邪は斥遠される。争わざるによる。これを懿徳と言う。乱るるに及び、君子は自らの功労を称して小人に陵駕し、小人は自らの技能を誇って君子に陵駕する。だから上下に礼なく、乱虐は斉しく発生する。争い善を称するによる。これを昏徳と言う。国の敗壊は、常に必ずこれによる」と。

楚子疾,告大夫曰:“不穀不德,少主社稷,生十年而喪先君,未及習師保之教訓,而應受多福。是以不德,而亡師於鄢,以辱社稷,為大夫憂,其弘多矣。

楚子は病み、大夫に告げて言った、「不穀は徳行なく、年少にして社稷を主持し、生まれて十年にして先君を失い、師保の教訓を熟習するに及ばずして、多くの福を承えた。これによって徳なく、鄢陵で軍隊を喪い、社稷を辱め、大夫の憂慮と為した。すでに大きい。

若以大夫之靈,獲保首領以歿於地,唯是春秋窀穸之事,所以從先君於禰廟者,請為‘靈’若‘厲’。大夫擇焉!”莫對。及五命乃許。

(楚子は続けて言う:)もし大夫の威霊に托して、頭を保って地に死すことができれば、ただこの春秋安葬の事、もって禰廟で先君に従うのに、『霊』あるいは『厲』を用いるを請う。大夫は選べ!」人は答える者なし。命令が五度に及んでやっと応えた。

秋,楚共王卒。子囊謀諡。大夫曰:“君有命矣。”子囊曰:“君命以共,若之何毀之?赫赫楚國,而君臨之,撫有蠻夷,奄征南海,以屬諸夏,而知其過,可不謂共乎?請諡之‘共’。”大夫從之。

秋、楚共王が死去した。子囊は諡号を商量した。大夫は言った、「国君はすでに命令あり」と。子囊は言った、「国君の命令は『共』を用いる。どうしてこれを毀すか。赫赫たる楚国、国君はこれを治理し、蛮夷を安撫し、南海を大征し、諸夏に帰属させ、しかも自らの過ちを知った。共と言うべからずや。『共』と諡することを請います」と。大夫は従った。

吳侵楚,養由基奔命,子庚以師繼之。養叔曰:“吳乘我喪,謂我不能師也,必易我而不戒。子為三覆以待我,我請誘之。”子庚從之。戰於庸浦,大敗吳師,獲公子黨。君子以吳為不弔。《詩》曰:“不弔昊天,亂靡有定。”

呉は楚を侵伐し、養由基は奔走して急を救い、子庚は軍隊を帯びて接上した。養叔は言った、「呉はわれわれに喪あるに趁い、われわれが出兵できないとして、必ずわれわれを軽視して警戒しない。あなたは三か所の伏兵を設けて私を待て。私は彼らを誘引することを請います」と。子庚は従った。庸浦で交戦し、呉軍を大いに破り、公子党を俘獲した。君子は呉が吊問を善くしないとした。《詩》に言う、「吊問を善くせざる昊天、乱は安定なし」と。

冬,城防,書事,時也。於是將早城,臧武仲請俟畢農事,禮也。

冬、防城を修築した。《春秋》にこの事を記すは、時令に合ったからである。当時早く城を修めようとしたが、臧武仲は農事が畢るを待つを請い求めた。これは礼に合う。

鄭良霄、大宰石猶在楚。石言於子囊曰:“先王卜征五年,而歲習其祥,祥習則行,不習則增修德而改卜。今楚實不競,行人何罪?止鄭一卿,以除其逼,使睦而疾楚,以固於晉,焉用之?使歸而廢其使,怨其君以疾其大夫,而相牽引也,不猶愈乎?”楚人歸之。

鄭の良霄・太宰石はなお楚にいた。石は子囊に言った、「先王は出征のために五年卜に問い、毎年吉祥を重ね、吉祥が重なってこそ出行し、重ならずば徳行を増修してまた別に卜に問うた。今楚は実に争勝できず。行人に何の罪がある。鄭の一卿を扣留して、彼らの逼迫を除き、彼らを和睦させて楚を憎ませ、晋に牢固に親附させるは、何の用がある。彼を帰らせてその使命を廃すれば、国君を怨恨し大夫を憎み、互いに牽制する。なお善くはないか」と。楚人は彼らを放って帰した。

◇襄公十四年

◇襄公十四年

【經】十有四年春王正月,季孫宿、叔老會晉士匄、齊人、宋人、衛人、鄭公孫蠆、曹人、莒人、邾人、滕人、薛人、杞人、小邾人會吳於向。二月乙朔,日有食之。夏四月,叔孫豹會晉荀偃、齊人、宋人、衛北宮括、鄭公孫蠆、曹人、莒人、邾人、滕人、薛人、杞人、小邾人伐秦。己未,衛侯出奔齊。莒人侵我東鄙。秋,楚公子貞帥師伐吳。冬,季孫宿會晉士匄、宋華閱、衛孫林父、鄭公孫蠆、莒人、邾人於戚。

【経】十四年春、周天子の暦の正月、季孫宿・叔老は晋の士匄・斉人・宋人・衛人・鄭の公孫蠆・曹人・莒人・邾人・滕人・薛人・杞人・小邾人と会同し、呉と向で会見した。二月乙朔、日食があった。底本の「乙朔」は日干を欠く。補わず。夏四月、叔孫豹は晋の荀偃・斉人・宋人・衛の北宮括・鄭の公孫蠆・曹人・莒人・邾人・滕人・薛人・杞人・小邾人と会同して秦を攻めた。己未、衛侯は斉に出奔した。莒人はわが国の東部辺境を侵伐した。秋、楚の公子貞が軍を率いて呉を攻めた。冬、季孫宿は晋の士匄・宋の華閲・衛の孫林父・鄭の公孫蠆・莒人・邾人と戚で会見した。

【傳】十四年春,吳告敗於晉。會於向,為吳謀楚故也。範宣子數吳之不德也,以退吳人。

【伝】十四年春、呉は晋に戦敗を報告した。向で会見したのは、呉のために楚に対するを謀るである。范宣子は呉が徳なきを責め、もって呉人を退かせた。

執莒公子務婁,以其通楚使也。

莒の公子務婁を執えた。楚の使者と交通したからである。

將執戎子駒支。範宣子親數諸朝,曰:“來!姜戎氏!昔秦人迫逐乃祖吾離於瓜州,乃祖吾離被苫蓋,蒙荊棘,以來歸我先君。我先君惠公有不腆之田,與女剖分而食之。今諸侯之事我寡君不如昔者,蓋言語漏洩,則職女之由。詰朝之事,爾無與焉!與將執女!”對曰:“昔秦人負恃其眾,貪於土地,逐我諸戎。

まさに戎子駒支を執えんとした。范宣子は自ら朝上で彼を責めて言った、「来い!姜戎氏!昔秦人はなんじの祖先吾離を瓜州から駆逐した。なんじの祖先吾離は苫蓋を披き、荆棘を蒙って、わが先君に帰附しに来た。わが先君恵公は豊かならざる田地ありて、なんじと半分に分けて食した。今諸侯はわが寡君に事えること昔に如かず。おそらく言語が泄漏したのであろう。即ちそれはなんじの職分の為すところ。明日の朝会の事、なんじは参与するな!参与すれば即ちなんじを執える!」答えて言った、「昔秦人は人多きを恃み、土地を貪り、われわれ諸戎を駆逐した。

惠公蠲其大德,謂我諸戎,是四嶽之裔胄也,毋是翦棄。賜我南鄙之田,狐狸所居,豺狼所嗥。我諸戎除翦其荊棘,驅其狐狸豺狼,以為先君不侵不叛之臣,至於今不貳。昔文公與秦伐鄭,秦人竊與鄭盟而舍戍焉,於是乎有殽之師。晉御其上,戎亢其下,秦師不復,我諸戎實然。譬如捕鹿,晉人角之,諸戎掎之,與晉踣之,戎何以不免?自是以來,晉之百役,與我諸戎相繼於時,以從執政,猶殽志也。豈敢離逖?今官之師旅,無乃實有所闕,以攜諸侯,而罪我諸戎!我諸戎飲食衣服,不與華同,贄幣不通,言語不達,何惡之能為?不與於會,亦無瞢焉!”賦《青蠅》而退。宣子辭焉,使即事於會,成愷悌也。於是,子叔齊子為季武子介以會,自是晉人輕魯幣,而益敬其使。

恵公はその大徳を顕明し、われわれ諸戎を四岳の後裔と認め、このように翦棄することなかれとした。われわれに南部辺境の田を賜った。狐狸の住む所、豺狼の嗥く所である。われわれ諸戎は荆棘を翦除し、狐狸豺狼を駆走し、先君の侵さず叛かざる臣と為り、今に至るまで二心なし。昔文公は秦とともに鄭を攻め、秦人はこっそり鄭と盟を結んで戍守を留めた。こうして殽の戦いがあった。晋はその上を抵御し、戎人はその下を抵挡し、秦軍は帰ることができなかった。実にわれわれ諸戎の為したところである。鹿を捕えるにたとえれば、晋人は角を抓み、諸戎は腿を拉し、晋とともにこれを踣倒した。戎人は何をもって罪を免れざらん。あの時より以来、晋の百の戦役に、われわれ諸戎は相継いで時令に趕き、執政に従う。なお殽の戦の心志である。どうして敢えて遠離せん。今官員の師旅は、おそらく実に缺失あって、諸侯を离心せしめたのに、われわれ諸戎に罪を帰する!われわれ諸戎は飲食衣服は華夏と同じからず、贄币は通じず、言語は達せず。能く何の悪事を為さん。会見に参与せずとも、また悶々と楽しまざるなし!」《青蠅》を賦して然る後退下した。宣子は謝罪し、彼を会上の職に就かせ、愷悌を成就した。当時、子叔斉子は季武子の副手として会見に往き、これより晋人は魯の币を軽減し、かつその使者をさらに敬重した。

吳子諸樊既除喪,將立季札。季札辭曰:“曹宣公之卒也,諸侯與曹人不義曹君,將立子臧。子臧去之,遂弗為也,以成曹君。君子曰:‘能守節。’君,義嗣也。誰敢奸君?有國,非吾節也。札雖不才,願附於子臧,以無失節。”固立之。棄其室而耕。乃舍之。

呉子諸樊はすでに喪服を除き、季札を立てようとした。季札は推辞して言った、「曹宣公が死去した時、諸侯と曹人は曹君を義とせず、子臧を立てようとした。子臧は去り、こうして成さずして、曹君を成就した。君子は言う、『能く節を守る』と。君王は義嗣です。誰が敢えて君王に冒犯せん。国を有するは、我が節操にあらず。札は才能なしと雖も、子臧に依附して、節操を失わざるを願います」と。彼を立てることに堅かった。彼は家室を棄てて耕種に行った。こうして放棄した。

夏,諸侯之大夫從晉侯伐秦,以報櫟之役也。晉侯待於竟,使六卿帥諸侯之師以進。及涇,不濟。叔向見叔孫穆子。穆子賦《匏有苦葉》。叔向退而具舟,魯人、莒人先濟。鄭子蟜見衛北宮懿子曰:“與人而不固,取惡莫甚焉!若社稷何?”懿子說。二子見諸侯之師而勸之濟,濟涇而次。秦人毒涇上流,師人多死。鄭司馬子蟜帥鄭師以進,師皆從之,至於棫林,不獲成焉。荀偃令曰:“雞鳴而駕,塞井夷灶,唯餘馬首是瞻!”欒黶曰:“晉國之命,未是有也。餘馬首欲東。”乃歸。下軍從之。左史謂魏莊子曰:“不待中行伯乎?”莊子曰:“夫子命從帥。欒伯,吾帥也,吾將從之。從帥,所以待夫子也。”伯遊曰:“吾令實過,悔之何及,多遺秦禽。”乃命大還。晉人謂之遷延之役。

夏、諸侯の大夫は晋侯に従いて秦を攻め、櫟の戦に報復した。晋侯は国境で待ち、六卿を遣わして諸侯の軍を率いて前進させた。涇水に至ったが、渡らなかった。叔向は叔孫穆子に見えた。穆子は《匏有苦葉》を賦した。叔向は退いて船を準備し、魯人・莒人が先に渡った。鄭の子蟜は衛の北宮懿子に見えて言った、「人に従うに牢固せざれば、悪を取るはこれより甚だしきなし!社稷をどうするか」と。懿子は喜んだ。両人は諸侯の軍に見えて彼らに渡河を勧め、涇水を渡って駐屯した。秦人は涙水の上流に毒を投げ、軍人の死ぬこと多かった。鄭の司馬子蟜は鄭軍を率いて前進し、軍隊は皆従い、棫林に至ったが、媾和を獲ず。荀偃は下令して言った、「鶏が鳴けば馬に駕し、井を填め竈を平げ、ただわが馬頭の向く所を見よ!」欒黶は言った、「晋の命令に、かつてこのようなものなし。わが馬頭は東に向かおうと欲す」と。こうして帰った。下軍は彼に従った。左史は魏荘子に言った、「中行伯を待たずか」と。荘子は言った、「夫子は主師に従えと命じた。欒伯はわが主師である。私はまさに彼に従わん。主師に従うは、即ち夫子を対待する所以である」と。伯游は言った、「わが命令は実に誤った。悔いるはどうして及ばん。ただ秦に擒獲を多く留めるのみ」と。こうして大いに撤回するを命じた。晋人はこれを遷延の役と言う。

欒針曰:“此役也,報櫟之敗也。役又無功,晉之恥也。吾有二位於戎路,敢不恥乎?”與士鞅馳秦師,死焉。士鞅反,欒黶謂士匄曰:“餘弟不欲住,而子召之。餘弟死,而子來,是而子殺餘之弟也。弗逐,餘亦將殺之。”士鞅奔秦。

欒鍼は言った、「この戦役は、櫟の敗に報復する。戦役はまた功労なく、是れ晋の恥辱。私は戎路に二つの位あり。敢えて恥とせざらんや」と。士鞅とともに秦軍に馳向かい、そこで死んだ。士鞅は帰り、欒黶は士匄に言った、「わが弟は行きたがらなかったのに、なんじの子が彼を召した。わが弟は死んだのに、なんじの子は帰った。是れなんじの子がわが弟を殺した。追放せずば、私もまた彼を殺さん」と。士鞅は秦に出奔した。

於是,齊崔杼、宋華閱、仲江會伐秦,不書,惰也。向之會亦如之。衛北宮括不書於向,書於伐秦,攝也。

当時、斉の崔杼・宋の華閲・仲江は会合して秦を攻めたが、《春秋》に記さないは、怠惰の故である。向の会見もまたこのよう。衛の北宮括は向で記さず、秦を伐って記すは、補い上げたからである。

秦伯問於士鞅曰:“晉大夫其誰先亡?”對曰:“其欒氏乎!”秦伯曰:“以其汰乎?”對曰:“然。欒黶汰虐已甚,猶可以免。其在盈乎!”秦伯曰:“何故?”對曰:“武子之德在民,如周人之思召公焉,愛其甘棠,況其子乎?欒黶死,盈之善未能及人,武子所施沒矣,而黶之怨實章,將於是乎在。”秦伯以為知言,為之請於晉而復之。

秦伯は士鞅に問うて言った、「晋の大夫で誰が先に滅亡するか」と。答えて言った、「おそらく欒氏でしょう!」秦伯は言った、「彼が驕汰だからか」と。答えて言った、「然り。欒黶の驕汰暴虐はすでに過分、なお免れるべし。おそらく盈に在るでしょう!」秦伯は言った、「何の故か」と。答えて言った、「武子の徳は百姓の中にあり、周人が召公を思い、その甘棠を愛するがごとし。ましてその子をや。欒黶が死ねば、盈の善はまだ人に及ばず、武子の施したはすでに没し、黶の怨恨は実に顕著。まさにここに在らん」と。秦伯はこれを見識ある言とし、彼のために晋に請いて彼を帰らせた。

衛獻公戒孫文子、甯惠子食,皆服而朝。日旰不召,而射鴻於囿。二子從之,不釋皮冠而與之言。二子怒。孫文子如戚,孫蒯入使。公飲之酒,使大師歌《巧言》之卒章。大師辭,師曹請為之。初,公有嬖妾,使師曹誨之琴,師曹鞭之。

衛献公は孫文子・寧恵子とともに食するを約し、皆朝服を着て朝に上った。天が晩れても尚召見せず、かえって苑囿で鴻を射た。両人は跟して往き、皮冠を脱がずして彼らと語った。両人は怒った。孫文子は戚に至り、孫蒯は朝に入り出使した。公は彼に酒を与え、太師に《巧言》の末章を唱わせた。太師は推辞し、師曹がこの事を為るを請うた。初め、公に寵妾あり、師曹に彼女に琴を教えさせたが、師曹は彼女を鞭打した。

公怒,鞭師曹三百。故師曹欲歌之,以怒孫子以報公。公使歌之,遂誦之。

公は怒り、師曹を三百鞭打った。だから師曹はそれを唱いたく、孫子を激怒させて公に報復せんとした。公は唱わせ、こうして朗誦して出した。

蒯懼,告文子。文子曰:“君忌我矣,弗先。必死。”並帑於戚而入,見蘧伯玉曰:“君之暴虐,子所知也。大懼社稷之傾覆,將若之何?”對曰:“君制其國,臣敢奸之?雖奸之,庸如愈乎?”遂行,從近關出。公使子蟜、子伯、子皮與孫子盟於丘宮,孫子皆殺之。四月己未,子展奔齊。公如鄄,使子行於孫子,孫子又殺之。公出奔齊,孫氏追之,敗公徒於河澤。鄄人執之。

蒯は懼れ、文子に告げた。文子は言った、「君王は私を忌恨した。先に手を動かさずば、必ず死す」と。家属を併せて戚に入れてから進み、蘧伯玉に見えて言った、「君王の暴虐は、あなたの知る所。社稷の傾覆するを甚だ恐れる。まさにどうせん」と。答えて言った、「君王はその国を制御す。臣は敢えて冒犯せんや。たとえ冒犯しても、あにより善からんや」と。こうして去り、近関より出た。公は子蟜・子伯・子皮を遣わして孫子と丘宮で盟を結ばせたが、孫子は皆彼らを殺した。四月己未、子展は斉に出奔した。公は鄄に至り、子行を遣わして孫子の所に至らせたが、孫子はまた彼を殺した。公は斉に出奔し、孫氏は追撃し、河沢で公の徒衆を破った。鄄人は彼らを執えた。

初,尹公佗學射於庚公差,庚公差學射於公孫丁。二子追公,公孫丁御公。

初め、尹公佗は庚公差に射を学び、庚公差は公孫丁に射を学んだ。両人は公を追い、公孫丁は公のために車を駕した。

子魚曰:“射為背師,不射為戮,射為禮乎。”射兩軥而還。尹公佗曰:“子為師,我則遠矣。”乃反之。公孫丁授公轡而射之,貫臂。

子魚は言った、「射てば師を背叛し、射ざれば殺される。射るは礼に合うか」と。両軥を射中てて然る後帰った。尹公佗は言った、「あなたは師である。私は遠い」と。こうして折り返した。公孫丁は轡を公に与えて然る後彼を射て、手臂を射穿した。

子鮮從公,及竟,公使祝宗告亡,且告無罪。定姜曰:“無神何告?若有,不可誣也。有罪,若何告無?舍大臣而與小臣謀,一罪也。先君有冢卿以為師保,而蔑之,二罪也。餘以巾櫛事先君,而暴妾使餘,三罪也。告亡而已,無告無罪。”

子鮮は公に従い、国境に至り、公は祝宗に逃亡を報告させ、かつ罪なきを報告させた。定姜は言った、「神なくば何を報告せん。もしあらば、欺くべからず。罪あれば、どうして無しと報告せん。大臣を棄てて小臣と謀るは、一罪。先君に冢卿ありて師保を為すに、彼らを蔑視すは、二罪。私は巾櫛をもって先君に事えたに、暴妾を待つがごとく私を役使すは、三罪。逃亡を報告すれば可。罪なしを報告するな」と。

公使厚成叔吊於衛,曰:“寡君使瘠,聞君不撫社稷,而越在他竟,若之何不弔?以同盟之故,使瘠敢私於執事曰:‘有君不弔,有臣不敏,君不赦宥,臣亦不帥職,增淫發洩,其若之何?’”衛人使大叔儀對曰:“群臣不佞,得罪於寡君。寡君不以即刑而悼棄之,以為君憂。君不忘先君之好,辱吊群臣,又重恤之。敢拜君命之辱,重拜大貺。”厚孫歸,覆命,語臧武仲曰:“衛君其必歸乎!有大叔儀以守,有母弟鱄以出,或撫其內,或營其外,能無歸乎?”齊人以郲寄衛侯。及其復也,以郲糧歸。右宰谷從而逃歸,衛人將殺之。

襄公は厚成叔を遣わして衛に吊問させて言わせた、「寡君は瘠を遣わして来させ、君王が社稷を撫有できずして、遠く別国の境に在るを聞いた。どうして吊問せざるを得ん。同盟の故のために、瘠をして敢えて私に執事に言わしむ、『君王ありて吊問を善くせず、臣ありて敏達せず、君王は赦免寛宥せず、臣もまた職を尽さず。積久の悪は発泄して出た。まさにどうせん』と」と。衛人は大叔儀を遣わして答えさせて言わせた、「群臣は才不才なく、寡君の罪を得た。寡君は彼らを刑罰に交付せずして遠く拠棄し、君王の憂慮と為した。君王は先君の友好を忘れず、辱くも群臣を吊問し、また体恤を加えた。敢えて君王の命令の辱臨を拜し、再拜して大賜す」と。厚孫は帰って復命し、臧武仲に言った、「衛君はおそらく必ず帰れるでしょう!大叔儀ありて国内を守り、母弟鱄ありて国外に従い、人ありて内部を安撫し、人ありて外部を経営す。帰らざるを得んや」と。斉人は郲を衛侯に寄せた。彼が帰るに及び、郲の糧食を帯びて帰った。右宰穀は従ったが逃げ帰り、衛人は彼を殺そうとした。

辭曰:“餘不說初矣,餘狐裘而羔袖。”乃赦之。衛人立公孫剽,孫林父、寧殖相之,以聽命於諸侯。

彼は推辞して言った、「私は初めより喜ばず。私は狐裘にして羔袖を用いた」と。こうして赦免した。衛人は公孫剽を立て、孫林父・寧殖が彼を輔佐し、もって諸侯に命を聴いた。

衛侯在郲,臧紇如齊,唁衛侯。與之言,虐。退而告其人曰:“衛侯其不得入矣!其言糞土也,亡而不變,何以復國?”子展、子鮮聞之,見臧紇,與之言,道。臧孫說,謂其人曰:“衛君必入。夫二子者,或輓之,或推之,欲無入,得乎?”師歸自伐秦,晉侯舍新軍,禮也。成國不過半天子之軍,周為六軍,諸侯之大者,三軍可也。於是知朔生盈而死,盈生六年而武子卒,彘裘亦幼,皆未可立也。新軍無帥,故舍之。

衛侯が郲に在る時、臧紇は斉に行き、衛侯を慰問した。彼と語るに、暴虐。退いて彼の人に告げて言った、「衛侯はおそらく入ることができまい!その言は糞土のごとく、逃亡しても改めず。何をもって国を回復せん」と。子展・子鮮は聞き、臧紇に見え、彼と語るに、道理に合った。臧孫は喜び、その人に言った、「衛君は必ず入ることができる。あの両人は、あるいは拉し、あるいは推す。入らざるを欲すも、能わんや」と。軍は秦を攻めて帰り、晋侯は新軍を撤消した。これは礼に合う。成国は天子の軍の半を過ぐべからず。周は六軍、諸侯の大なるは、三軍で可。この時知朔は盈を生んで即ち死し、盈は生まれて六年にして武子が死去し、彘裘もまた年幼く、皆立つことができず。新軍に主師なく、だから撤消した。

師曠侍於晉侯。晉侯曰:“衛人出其君,不亦甚乎?”對曰:“或者其君實甚。良君將賞善而刑淫,養民如子,蓋之如天,容之如地。民奉其君,愛之如父母,仰之如日月,敬之如神明,畏之如雷霆,其可出乎?夫君,神之主而民之望也。若困民之主,匱神乏祀,百姓絕望,社稷無主,將安用之?弗去何為?天生民而立之君,使司牧之,勿使失性。有君而為之貳,使師保之,勿使過度。是故天子有公,諸侯有卿,卿置側室,大夫有貳宗,士有朋友,庶人、工、商、皂、隸、牧、圉皆有親暱,以相輔佐也。善則賞之,過則匡之,患則救之,失則革之。

師礦は晋侯の辺に侍奉した。晋侯は言った、「衛人はその国君を逐出した。また过分ではないか」と。答えて言った、「あるいはその国君が実に过分なのでしょう。善き国君はまさに善良を賞し淫邪を罰し、百姓を養うこと子のごとく、彼らを覆うこと天のごとく、彼らを容れること地のごとし。百姓が国君に事えるは、彼を愛すること父母のごとく、彼を仰ぐこと日月のごとく、彼を敬うこと神明のごとく、彼を懼るること雷霆のごとし。あに逐出すべからんや。国君は神の主祭者、百姓の仰望である。もし百姓の生計を困らせ、神に祭祀を乏しくせしめ、百姓を絶望せしめ、社稷に主なくば、なお彼を用いて何を為さん。去らずして何を為さん。上天は百姓を生みて国君を立て、彼に治理牧養させ、彼らに本性を失わせざらんとす。国君ありてまた彼のために輔佐を設け、師保に教導させ、彼に过分せざらんとす。だから天子には公あり、諸侯には卿あり、卿は側室を設け、大夫には貳宗あり、士には朋友あり、庶人・工・商・皂・隸・牧・圉は皆親暱ありて、もって互いに輔佐す。善なれば賞し、過あれば匡正し、患難あれば救助し、失誤あれば改正す。

自王以下,各有父兄子弟,以補察其政。史為書,瞽為詩,工誦箴諫,大夫規誨,士傳言,庶人謗,商旅於市,百工獻藝。故《夏書》曰:‘遒人以木鐸徇於路。

天子以下より、各々父兄子弟ありて、もってその政事を補察す。史官は記載し、瞽者は詩を作り、楽工は箴諫を誦し、大夫は規誨し、士は言を伝達し、庶人は謗議し、商旅は市上にあり、百工は藝を献ず。だから《夏書》に言う、『遒人は木鐸をもって路上に巡行す。

官師相規,工執藝事以諫。’正月孟春,於是乎有之,諫失常也。天之愛民甚矣。

官師は互いに規正し、工匠は技藝の事を執りて進諫す』と。正月孟春、こうしてこの事あり。進諫の失常である。上天が百姓を愛することは甚だ深い。

豈其使一人肆於民上,以從其淫,而棄天地之性?必不然矣。”

あに一人をして百姓の頭上に放肆せしめ、もってその淫欲を放縱せしめ、天地の本性を拋棄せしめんや。必ずこのようではない」と。

秋,楚子為庸浦之役故,子囊師於棠以伐吳,吳不出而還。子囊殿,以吳為不能而弗儆。吳人自皋舟之隘要而擊之,楚人不能相救。吳人敗之,獲楚公子宜谷。

秋、楚子は庸浦の戦の故のために、子囊に棠に軍を駐めて呉を攻めさせたが、呉は出兵せず彼は帰った。子囊は殿後したが、呉は能わずとして警戒しなかった。呉人は皋舟の隘口から攔撃し、楚人は互いに救援できず。呉人は彼らを破り、楚の公子宜穀を俘獲した。

王使劉定公賜齊侯命,曰:“昔伯舅大公,右我先王,股肱周室,師保萬民,世胙大師,以表東海。王室之不壞,繄伯舅是賴。今餘命女環!茲率舅氏之典,纂乃祖考,無忝乃舊。敬之哉,無廢朕命!”晉侯問衛故於中行獻子,對曰:“不如因而定之。衛有君矣,伐之,未可以得志而勤諸侯。史佚有言曰:‘因重而撫之。’仲虺有言曰:‘亡者侮之,亂者取之,推亡固存,國之道也。’君其定衛以待時乎!”冬,會於戚,謀定衛也。

天子は劉定公を遣わして斉侯に策命を賜らせて言わせた、「昔伯舅太公は、わが先王を輔佐し、周室の股肱を為し、万民を師保し、世々太師に酬報し、もって東海に表率した。王室が敗壊せざるは、伯舅に頼る。今朕はなんじ環に命ず!このように舅氏の典制に遵循し、なんじの祖考を継承し、なんじの旧徳を辱めるな。敬慎せよ、わが命令を廃棄するな!」晋侯は中行献子に衛の事を問うと、答えて言った、「勢いに就いてこれを安定するに如かず。衛はすでに国君あり。これを攻めば、未だ必ず志を得ずして諸侯を労するのみ。史佚に言あり、『重きに就いて安撫せよ』と。仲虺に言あり、『亡ぶるは彼を欺侮し、乱るるは彼を奪取し、亡を推進し存を鞏固するは、国の道理である』と。君王はなお衛を安定して時機を待て!」冬、戚で会見し、衛を安定するを謀った。

範宣子假羽毛於齊而弗歸,齊人始貳。

范宣子は斉に羽毛を借りて帰さず、斉人は初めて二心を抱いた。

楚子囊還自伐吳,卒。將死,遺言謂子庚:“必城郢。”君子謂:“子囊忠。

楚の子囊は呉を攻めて帰り、死去した。まさに死せんとして、言を遺して子庚に言った、「必ず郢城を修築せよ」と。君子は思う、「子囊は忠誠。

君薨不忘增其名,將死不忘衛社稷,可不謂忠乎?忠,民之望也。《詩》曰:‘行歸於周,萬民所望。’忠也。”

国君が死去してもその名号を増すを忘れず、まさに死せんとしても社稷を衛護するを忘れず。忠誠と言うべからずや。忠誠は、百姓の仰望である。《詩》に言う、『行いは忠信に帰し、万民の仰望す』と。即ち忠誠である」と。

◇襄公十五年

◇襄公十五年

【經】十有五年春,宋公使向戌來聘。二月己亥,及向戌盟於劉。劉夏逆王后於齊。夏,齊侯伐我北鄙,圍成。公救成,至遇。季孫宿、叔孫豹帥師城成郛。

【経】十五年春、宋公は向戌を遣わして聘問させた。二月己亥、向戌と劉で盟を結んだ。劉夏は斉に王后を迎えに行った。夏、斉侯はわが国の北部辺境を攻め、成を包囲した。襄公は成を救い、遇に至った。季孫宿・叔孫豹は軍を率いて成の外城を修築した。

秋八月丁巳,日有食之。邾人伐我南鄙。冬十有一月癸亥,晉侯周卒。

秋八月丁巳、日食があった。邾人はわが国の南部辺境を攻めた。冬十一月癸亥、晋侯周が死去した。

【傳】十五年春,宋向戌來聘,且尋盟。見孟獻子,尤其室,曰:“子有令聞,而美其室,非所望也!”對曰:“我在晉,吾兄為之,毀之重勞,且不敢間。”

【伝】十五年春、宋の向戌が聘問に来て、かつ盟約を重温した。孟献子に見え、その房屋を責めて言った、「あなたは美好の名声ありながら、房屋を華美に作る。期する所ではない!」答えて言った、「私が晋に在る時、わが兄が為した。毀るはまた労苦を加重し、かつ非議すること敢えてせず」と。

官師從單靖公逆王后於齊。卿不行,非禮也。

官師は単靖公に従いて斉に王后を迎えに行った。卿が往かざるは、礼に合わない。

楚公子午為令尹,公子罷戎為右尹,蒍子馮為大司馬,公子櫜師為右司馬,公子成為左司馬,屈到為莫敖,公子追舒為箴尹,屈蕩為連尹,養由基為宮廄尹,以靖國人。君子謂:“楚於是乎能官人。官人,國之急也。能官人,則民無覦心。

楚の公子午は令尹を為り、公子罷戎は右尹を為り、𫇭子馮は大司馬を為り、公子櫜師は右司馬を為り、公子成は左司馬を為り、屈到は莫敖を為り、公子追舒は箴尹を為り、屈蕩は連尹を為り、養由基は宮廐尹を為り、もって国人を安定した。君子は思う、「楚はこの時官員を任用できた。官員を任用するは、国家の急務。能く官員を任用すれば、百姓に非分の心なし。

《詩》云:“嗟我懷人,置彼周行。’能官人也。王及公、侯、伯、子、男、甸、採、衛大夫,各居其列,所謂周行也。”

《詩》に言う、『嗟嘆して我が想念する人を、周行に安置す』と。即ち能く官員を任用するである。天子および公・侯・伯・子・男・甸・采・衛の大夫は、各々行列に処る。即ち謂うところの周行である」と。

鄭尉氏、司氏之亂,其餘盜在宋。鄭人以子西、伯有、子產之故,納賄於宋,以馬四十乘與師伐、師慧。三月,公孫黑為質焉。司城子罕以堵女父、尉翩、司齊與之。良司臣而逸之,托諸季武子,武子置諸卞。鄭人醢之,三人也。

鄭の尉氏・司氏の乱事、その余の盗賊は宋に在り。鄭人は子西・伯有・子産の故のために、宋に賄を納め、馬四十乘と師伐・師慧をもってした。底本の「師伐」は即ち師茷。三月、公孫黑はそこで人質を為った。司城子罕は堵女父・尉翩・司斉を彼らに与えた。司臣を善しとして彼を放走し、季武子に托付し、武子は卞に安置した。鄭人は三人を肉醤にした。

師慧過宋朝,將私焉。其相曰:“朝也。”慧曰:“無人焉。”相曰:“朝也,何故無人?”慧曰:“必無人焉。若猶有人,豈其以千乘之相易淫樂之矇?必無人焉故也。”子罕聞之,固請而歸之。

師慧は宋の朝廷を経過し、まさに小便せんとした。その相は言った、「これは朝廷である」と。慧は言った、「人はここにいない」と。相は言った、「朝廷である。なぜ人がいない」と。慧は言った、「必ず人いない。もし尚人あらば、あに千乗の国の宰相をもって淫楽の盲楽師と交換せんや。必ず人いない故である」と。子罕は聞き、堅く請いて彼を帰らせた。

夏,齊侯圍成,貳於晉故也。於是乎城成郛。

夏、斉侯は成を包囲した。晋に二心ある故である。こうして成の外城を修築した。

秋,邾人伐我南鄙。使告於晉,晉將為會以討邾、莒。晉侯有疾,乃止。冬,晉悼公卒,遂不克會。

秋、邾人はわが国の南部辺境を攻めた。人を遣わして晋に告げ、晋はまさに会見を行い邾・莒を討伐せんとした。晋侯に病あり、こうして停止した。冬、晋悼公が死去し、ついに会見を行うこと能わず。

鄭公孫夏如晉奔喪,子蟜送葬。

鄭の公孫夏は晋に奔喪し、子蟜は葬を送った。

宋人或得玉,獻諸子罕。子罕弗受。獻玉者曰:“以示玉人,玉人以為寶也,故敢獻之。”子罕曰:“我以不貪為寶,爾以玉為寶,若以與我,皆喪寶也。不若人有其寶。”稽首而告曰:“小人懷璧,不可以越鄉。納此以請死也。”子罕置諸其裡,使玉人為之攻之,富而後使復其所。

宋人に玉を得る者あり、子罕に献じた。子罕は受けず。玉を献ずる人は言った、「玉人に見せたところ、玉人は宝とした。だから敢えて献じる」と。子罕は言った、「私は貪ならざるをもって宝とし、なんじは玉をもって宝とす。もし私に与えれば、皆宝を喪う。各々その宝を保有するに如かず」と。叩頭して告げて言った、「小人は璧を懐き、郷里を越えるべからず。これを交納して死を免れるを請います」と。子罕は彼をその里巷に安置し、玉人に彼のために加工させ、富んで後彼を原所に帰らせた。

十二月,鄭人奪堵狗之妻,而歸諸范氏。

十二月、鄭人は堵狗の妻を奪い、范氏に帰還した。

◇襄公十六年

◇襄公十六年

【經】十有六年春王正月,葬晉悼公。三月,公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、薛伯、杞伯、小邾子,於湨梁。戊寅,大夫盟。晉人執莒子、邾子以歸。齊侯伐我北鄙。夏,公至自會。五月甲子,地震。叔老會鄭伯、晉荀偃、衛寧殖、宋人伐許。秋,齊侯伐我北鄙,圍郕。大雩。冬,叔孫豹如晉。

【経】十六年春、周天子の暦の正月、晋悼公を葬った。三月、襄公は晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・薛伯・杞伯・小邾子と会合し、湨梁で会見した。戊寅、大夫は盟を結んだ。晋人は莒子・邾子を執えて帰した。斉侯はわが国の北部辺境を攻めた。夏、襄公は会から帰った。五月甲子、地震があった。叔老は鄭伯・晋の荀偃・衛の寧殖・宋人と会同して許を攻めた。秋、斉侯はわが国の北部辺境を攻め、郕を包囲した。大雩を行った。冬、叔孫豹は晋に行った。

【傳】十六年春,葬晉悼公。平公即位,羊舌肸為傅,張君臣為中軍司馬,祁奚、韓襄、欒盈、士鞅為公族大夫,虞丘書為乘馬御。改服修官,烝於曲沃。

【伝】十六年春、晋悼公を葬った。平公が即位し、羊舌肸を太傅とし、張君臣を中軍司馬とし、祁奚・韓襄・欒盈・士鞅を公族大夫とし、虞丘書を乘馬御とした。喪服を改換し、官職を整治し、曲沃で烝祭を行った。

警守而下,會於湨梁。命歸侵田。以我故,執邾宣公、莒犁比公,且曰:“通齊、楚之使。”

守衛を警戒して然る後東下し、湨梁で会見した。侵奪した田を帰還するを命じた。わが国の故のために、邾宣公・莒犁比公を執え、かつ言った、「斉・楚の使者と交通した」と。

晉侯與諸侯宴於溫,使諸大夫舞,曰:“歌詩必類!”齊高厚之詩不類。荀偃怒,且曰:“諸侯有異志矣!”使諸大夫盟高厚,高厚逃歸。於是,叔孫豹、晉荀偃、宋向戌、衛寧殖、鄭公孫蠆、小邾之大夫盟曰:“同討不庭。”

晋侯は諸侯と温で宴飲し、諸大夫に舞を起こさせて言った、「歌詩は必ず類に相合せよ!」斉の高厚の詩は類に合わず。荀偃は怒り、かつ言った、「諸侯に異志あり!」諸大夫に高厚と盟を結ばせようとしたが、高厚は逃げ帰った。当時、叔孫豹・晋の荀偃・宋の向戌・衛の寧殖・鄭の公孫蠆・小邾の大夫は盟を結んで言った、「ともに朝せざるを討伐せん」と。

許男請遷於晉。諸侯遂遷許,許大夫不可。晉人歸諸侯。

許男は晋に遷るを請うた。諸侯はこうして許を遷したが、許の大夫は同意せず。晋人は諸侯を帰らせた。

鄭子蟜聞將伐許,遂相鄭伯以從諸侯之師。穆叔從公。齊子帥師會晉荀偃。

鄭の子蟜はまさに許を攻めんとするを聞き、こうして鄭伯を輔佐して諸侯の軍に従った。穆叔は襄公に従った。斉子は軍を率いて晋の荀偃と会合した。

書曰:“會鄭伯。”為夷故也。

《春秋》に記して「会鄭伯」と言うは、地位相当の故のためである。

夏六月,次於棫林。庚寅,伐許,次於函氏。

夏六月、棫林に駐屯した。庚寅、許を攻め、函氏に駐屯した。

晉荀偃、欒黶帥師伐楚,以報宋揚梁之役。楚公子格帥師及晉師戰於湛阪,楚師敗績。晉師遂侵方城之外,復伐許而還。

晋の荀偃・欒黶は軍を率いて楚を攻め、宋の揚梁の戦に報復した。楚の公子格は軍を率いて晋軍と湛阪で交戦し、楚軍は大敗した。晋軍はこうして方城の外を侵伐し、再び許を攻めて然る後帰った。

秋,齊侯圍郕,孟孺子速徼之。齊侯曰:“是好勇,去之以為之名。”速遂塞海陘而還。

秋、斉侯は郕を包囲し、孟孺子速は攔撃した。斉侯は言った、「この人は勇武を好む。離れてその名を成就せよ」と。速はこうして海陘を堵塞して然る後帰った。

冬,穆叔如晉聘,且言齊故。晉人曰:“以寡君之未禘祀,與民之未息。不然,不敢忘。”穆叔曰:“以齊人之朝夕釋憾於敝邑之地,是以大請!敝邑之急,朝不及夕,引領西望曰:‘庶幾乎!’比執事之間,恐無及也!”見中行獻子,賦《圻父》。獻子曰:“偃知罪矣!敢不從執事以同恤社稷,而使魯及此。”見範宣子,賦《鴻雁》之卒章。宣子曰:“匄在此,敢使魯無鳩乎?”

冬、穆叔は晋に聘問し、かつ斉の事を言った。晋人は言った、「寡君はまだ禘祀を行わず、百姓とまだ休息せず。さもなくば、忘れること敢えてせず」と。穆叔は言った、「斉人が朝夕に敝邑の地で憾恨を発泄するがために、力を尽くして請い求めます!敝邑の急難は、朝は晩を待たず、頚を伸べて西に望んで言う、『ほぼ至るか!』と。執事の空閑を待つに及ばば、おそらく及ばざるでしょう!」中行献子に見え、《圻父》を賦した。献子は言った、「偃は罪を知った!敢えて執事に従いてともに社稷を体恤せずして、魯をこの歩に至らしめんや」と。范宣子に見え、《鴻雁》の末章を賦した。宣子は言った、「匄はここに在り。敢えて魯を安寧ならざらしめんや」と。

◇襄公十七年

◇襄公十七年

【經】十有七年春王二月庚午,邾子卒。宋人伐陳。夏,衛石買帥師伐曹。

【経】十七年春、周天子の暦の二月庚午、邾子が死去した。宋人は陳を攻めた。夏、衛の石買は軍を率いて曹を攻めた。

秋,齊侯伐我北鄙,圍桃。高厚帥師伐我北鄙,圍防。九月,大雩。宋華臣出奔陳。冬,邾人伐我南鄙。

秋、斉侯はわが国の北部辺境を攻め、桃を包囲した。高厚は軍を率いてわが国の北部辺境を攻め、防を包囲した。九月、大雩を行った。宋の華臣は陳に出奔した。冬、邾人はわが国の南部辺境を攻めた。

【傳】十七年春,宋莊朝伐陳,獲司徒卬,卑宋也。

【伝】十七年春、宋の荘朝は陳を攻め、司徒卬を俘獲した。宋を軽視したからである。

衛孫蒯田於曹隧,飲馬於重丘,毀其瓶。重丘人閉門而訽之,曰:“親逐而君,爾父為厲。是之不憂,而何以田為?”夏,衛石買、孫蒯伐曹,取重丘。曹人愬於晉。

衛の孫蒯は曹隧で田獵し、重丘で馬を飲ませ、瓶子を毀した。重丘人は門を關じて彼を罵りて言った、「親しくなんじの国君を逐出し、なんじの父は悪鬼を為す。このを憂えずして、何のため田獵する」と。夏、衛の石買・孫蒯は曹を攻め、重丘を取得した。曹人は晋に訴えた。

齊人以其未得志於我故,秋,齊侯伐我北鄙,圍桃。高厚圍臧紇於防。師自陽關逆臧孫,至於旅松。郰叔紇、臧疇、臧賈帥甲三百,宵犯齊師,送之而復。

斉人はわが国で志を得られざる故のために、秋、斉侯はわが国の北部辺境を攻め、桃を包囲した。高厚は防で臧紇を包囲した。軍は陽關から臧孫を迎え、旅松に至った。郰叔紇・臧疇・臧賈は甲士三百を率いて、夜に斉軍を進犯し、彼を送り去って然る後帰った。

齊師去之。

斉軍は離れた。

齊人獲臧堅。齊侯使夙沙衛唁之,且曰:“無死!”堅稽首曰:“拜命之辱!抑君賜不終,姑又使其刑臣禮於士。”以杙抉其傷而死。

斉人は臧堅を俘獲した。斉侯は夙沙衛を遣わして彼を慰問させ、かつ言わせた、「死するな!」堅は叩頭して言った、「命令の辱臨を拜謝す!ただ君王の賞賜は始めあって終わりなく、またその刑余の臣に士に礼を行わせる」と。木橛をもって傷口を戳進して死んだ。

冬,邾人伐我南鄙,為齊故也。

冬、邾人はわが国の南部辺境を攻めた。斉の故のためである。

宋華閱卒。華臣弱皋比之室,使賊殺其宰華吳。賊六人以鈹殺諸盧門合左師之後。左師懼曰:“老夫無罪。”賊曰:“皋比私有討於吳。”遂幽其妻,曰:“畀餘而大璧!”宋公聞之,曰:“臣也,不唯其宗室是暴,大亂宋國之政,必逐之!”左師曰:“臣也,亦卿也。大臣不順,國之恥也。不如蓋之。”乃舍之。

宋の華閲が死去した。華臣は皋比の家室を侵凌し、賊を遣わしてその家宰華呉を殺させた。六つの賊は鈹をもって盧門で左師の後を合い彼を殺した。左師は懼れて言った、「老夫は罪なし」と。賊は言った、「皋比は私に呉に討伐あり」と。こうしてその妻子を幽禁して言った、「我に大璧を与えよ!」宋公は聞いて言った、「臣という人は、ただその宗室を暴虐するのみならず、宋の政事を大いに乱す。必ず彼を追放せん!」左師は言った、「臣もまた卿である。大臣が和順せざるは、国家の恥辱。掩盖するに如かず」と。こうして放過した。

左師為己短策,苟過華臣之門,必聘。

左師は自らのために短馬鞭を作り、ただ華臣の門を経過すれば、必ず馬を打って快跑した。

十一月甲午,國人逐瘈狗,瘈狗入於華臣氏,國人從之。華臣懼,遂奔陳。

十一月甲午、国人は瘋狗を追逐し、瘋狗は華臣氏に入り、国人は跟して入った。華臣は懼れ、こうして陳に出奔した。

宋皇國父為大宰,為平公築臺,妨於農功。子罕請俟農功之畢,公弗許。築者謳曰:“澤門之皙,實興我役。邑中之黔,實尉我心。”子罕聞之,親執撲,以行築者,而抶其不勉者,曰:“吾儕小人,皆有闔廬以闢燥溼寒暑。今君為一臺而不速成,何以為役?”謳者乃止。或問其故,子罕曰:“宋國區區,而且詛有祝,禍之本也。”

宋の皇国父は太宰を為り、平公のために台を築き、農功を妨害した。子罕は農功が畢るを待つを請い求めたが、公は許さず。台を築く人は唱えて曰く、「澤門のあの皮膚白きは、確かにわれわれの労役を発動す。城の内のあの皮膚黒きは、確かにわれわれの心を安慰す」と。子罕は聞き、自ら扑杖を執りて、台を築く人を巡行し、努力せざる者を鞭打して言った、「われわれこの小人は、皆闔門の房屋ありて燥湿寒暑を避く。今君王は一座の台を築くに速やかに完成せず。何をもって労役を為さん」と。唱歌する人はこうして停止した。人あって故を問うと、子罕は言った、「宋は区区の地であり、しかもすでに詛咒ありまた祝祷あり。是れ禍乱の根本」と。

齊晏桓子卒。晏嬰粗縗斬,苴絰、帶、杖,菅屨,食鬻,居倚廬,寢苫,枕草。其老曰:“非大夫之禮也。”曰:“唯卿為大夫。”

斉の晏桓子が死去した。晏嬰は粗衰斬を着、苴麻をもって絰・帯・杖と為し、菅草鞋を穿ち、粥を食し、倚廬に住み、草苫に寝て、草を枕とした。その家臣の長は言った、「これは大夫の礼ではない」と。言った、「ただ卿のみ大夫の礼を行う」と。

◇襄公十八年

◇襄公十八年

【經】十有八年春,白狄來。夏,晉人執衛行人石買。秋,齊師伐我北鄙。

【経】十八年春、白狄が来た。夏、晋人は衛の行人石買を執えた。秋、斉軍はわが国の北部辺境を攻めた。

冬十月,公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子同圍齊。曹伯負芻卒於師。楚公子午帥師伐鄭。

冬十月、襄公は晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子とともに斉を包囲した。曹伯負芻は軍中で死去した。楚の公子午は軍を率いて鄭を攻めた。

【傳】十八年春,白狄始來。

【伝】十八年春、白狄が始めて来た。

夏,晉人執衛行人石買於長子,執孫蒯於純留,為曹故也。

夏、晋人は長子で衛の行人石買を執え、純留で孫蒯を執えた。曹の故のためである。

秋,齊侯伐我北鄙。中行獻子將伐齊,夢與厲公訟,弗勝,公以戈擊之,首隊於前,跪而戴之,奉之以走,見梗陽之巫皋。他日,見諸道,與之言,同。巫曰:“今茲主必死,若有事於東方,則可以逞。”獻子許諾。

秋、斉侯はわが国の北部辺境を攻めた。中行献子はまさに斉を攻めんとして、厲公と争訟するを夢見、勝たず、公は戈をもって彼を撃ち、頭は前に墜ち、跪いてこれを戴き、それを捧げて跑り、梗陽の巫皋に遇った。後のある日、路上で遇い、彼と語るに、相同じ。巫は言った、「今年主人は必ず死す。もし東方に事あれば、得逞できる」と。献子は諾した。

晉侯伐齊,將濟河。獻子以朱絲系玉二瑴,而禱曰:“齊環怙恃其險,負其眾庶,棄好背盟,陵虐神主。曾臣彪將率諸侯以討焉,其官臣偃實先後之。苟捷有功,無作神羞,官臣偃無敢復濟。唯爾有神裁之!”沉玉而濟。

晋侯は斉を攻め、まさに河を渡らんとした。献子は朱絲をもって二つの瑴玉を繋いで、祷告して言った、「斉環は険要を恃み、民衆を恃み、友好を拋棄し盟約を背棄し、神主を陵虐す。陪臣彪はまさに諸侯を率いて討伐せんとす。その官臣偃は実に前後輔助す。もし勝利功あらば、神に羞辱を帯びせず。官臣偃は敢えて再び渡らず。ただ神の裁断を請う!」玉を河中に沈めて然る後渡った。

冬十月,會於魯濟,尋湨梁之言,同伐齊。齊侯御諸平陰,塹防門而守之,廣裡。夙沙衛曰:“不能戰,莫如守險。”弗聽。諸侯之士門焉,齊人多死。範宣子告析文子曰:“吾知子,敢匿情乎?魯人、莒人皆請以車千乘自其鄉入,既許之矣。若入,君必失國。子盍圖之?”子家以告公,公恐。晏嬰聞之曰:“君固無勇,而又聞是,弗能久矣。”齊侯登巫山以望晉師。晉人使司馬斥山澤之險,雖所不至,必旆而疏陳之。使乘車者左實右偽,以旆先,輿曳柴而從之。齊侯見之,畏其眾也,乃脫歸。丙寅晦,齊師夜遁。師曠告晉侯曰:“鳥烏之聲樂,齊師其遁。”邢伯告中行伯曰:“有班馬之聲,齊師其遁。”叔向告晉侯曰:“城上有烏,齊師其遁。”

冬十月、魯済で会見し、湨梁の言を重温し、ともに斉を攻めた。斉侯は平陰で抵御し、壕を挖いて防門を守り、広さ一里。夙沙衛は言った、「交戦できず。険を守るに如かず」と。聴かず。諸侯の士は城門を攻め、斉人の死ぬこと多かった。范宣子は析文子に告げて言った、「私はあなたを了解す。敢えて実情を隠瞞せんや。魯人・莒人は皆車一千乘をもって彼らのあの面から入るを請い、すでに許した。もし入れば、君王は必ず国を失う。あなたは何ぞ謀らざる」と。子家は公に告げ、公は恐懼した。晏嬰は聞いて言った、「君王はもとより勇気なく、またこのを聞いた。長久できない」と。斉侯は巫山に登りて晋軍を眺望した。晋人は司馬を遣わして山沢の険要を偵察させ、軍隊の至らざる所にも、必ず旗幟を挿して疎らに陈列した。乗車の左を真人右を假人とし、旗幟をもって前を走らせ、車子は柴を拖いて従った。斉侯は見て、彼らが人多きを恐れ、こうして脱して帰った。丙寅の晦日、斉軍は夜に逃げ走った。師礦は晋侯に告げて言った、「烏鴉の叫声は歓楽。斉軍はおそらく逃げ走った」と。邢伯は中行伯に告げて言った、「馬匹が盤旋する声あり。斉軍はおそらく逃げ走った」と。叔向は晋侯に告げて言った、「城上に烏鴉あり。斉軍はおそらく逃げ走った」と。

十一月丁卯朔,入平陰,遂從齊師。夙沙衛連大車以塞隧而殿。殖綽、郭最曰:“子殿國師,齊之辱也。子姑先乎!”乃代之殿。衛殺馬於隘以塞道。晉州綽及之,射殖綽,中肩,兩矢夾脰,曰:“止,將為三軍獲。不止,將取其衷。”

十一月丁卯の朔日、平陰に入り、こうして斉軍を追った。夙沙衛は大車を連ねて隧道を堵塞して殿後した。殖綽・郭最は言った、「あなたが国軍を殿後するは、斉の恥辱。あなたはしばらく先に走れ!」こうして彼に代わって殿後した。衛は馬を殺して隘口で道路を堵塞した。晋の州綽は追い及び、殖綽を射て、肩膀に中り、二支の箭が頚を夾んで、言った、「止まれ、三軍の俘虜と為らん。止まらずば、なんじの正中を射ん」と。

顧曰:“為私誓。”州綽曰:“有如日!”乃弛弓而自後縛之。其右具丙亦舍兵而縛郭最,皆衿甲面縛,坐於中軍之鼓下。

回頭して言った、「私の誓約を為せ」と。州綽は言った、「太陽のごとくあれ!」こうして弓を鬆めて後ろから彼を綁った。その車右具丙もまた兵器を放下して郭最を綁り、皆鎧甲を穿着して面して捆綁し、中軍の鼓の下に坐した。

晉人慾逐歸者,魯、衛請攻險。己卯,荀偃、士匄以中軍克京茲。乙酉,魏絳、欒盈以下軍克邿。趙武、韓起以上軍圍盧,弗克。十二月戊戌,及秦周,伐雍門之萩。範鞅門於雍門,其御追喜以戈殺犬於門中。孟莊子斬其橁以為公琴。己亥,焚雍門及西郭、南郭。劉難、士弱率諸侯之師焚申池之竹木。壬寅,焚東郭、北郭。範鞅門於揚門。州綽門於東閭,左驂迫,還於門中,以枚數闔。

晋人は回去する人を驅逐しようとし、魯・衛は険要を攻めるを請い求めた。己卯、荀偃・士匄は中軍をもって京兹を攻克した。乙酉、魏絳・欒盈は下軍をもって邿を攻克した。趙武・韓起は上軍をもって盧を包囲したが、攻克せず。十二月戊戌、秦周に至り、雍門の萩を砍伐した。范鞅は雍門を攻め、その御者追喜は戈をもって門中で狗を殺した。孟荘子は橁木を砍下して公室の琴と為した。己亥、雍門および西郭・南郭を焚焼した。劉難・士弱は諸侯の軍を率いて申池の竹木を焚焼した。壬寅、東郭・北郭を焚焼した。范鞅は揚門を攻めた。州綽は東閭を攻め、左の驂馬は擠れ、門中で盤旋し、馬鞭をもって門扇を点数した。

齊侯駕,將走郵棠。大子與郭榮扣馬,曰:“師速而疾,略也。將退矣,君何懼焉!且社稷之主,不可以輕,輕則失眾。君必待之。”將犯之,大子抽劍斷鞅,乃止。甲辰,東侵及濰,南及沂。

斉侯は車を駕し、まさに郵棠に逃げ往かんとした。太子と郭榮は馬を拉して言った、「軍隊は迅速にして猛烈。是れ掠取である。まさに退かんとす。君王は何を怕れる。しかも社稷の主は軽動すべからず。軽動すれば即ち民衆を失う。君王は必ず待て」と。まさに沖り過ぎんとするに、太子は剣を抽きて鞅を砍断し、こうして停止した。甲辰、東して濰に侵伐し至り、南して沂に至った。

鄭子孔欲去諸大夫,將叛晉而起楚師以去之。使告子庚,子庚弗許。楚子聞之,使楊豚尹宜告子庚曰:“國人謂不穀主社稷,而不出師,死不從禮。不穀即位,於今五年,師徒不出,人其以不穀為自逸,而忘先君之業矣。大夫圖之!其若之何?”子庚嘆曰:“君王其謂午懷安乎!吾以利社稷也。”見使者,稽首而對曰:“諸侯方睦於晉,臣請嘗之。若可,君而繼之。不可,收師而退,可以無害,君亦無辱。”子庚帥師治兵於汾。於是子蟜、伯有、子張從鄭伯伐齊,子孔、子展、子西守。二子知子孔之謀,完守入保。子孔不敢會楚師。

鄭の子孔は諸大夫を去ろうと欲し、まさに晋を背叛して楚軍を発動して彼らを去らんとした。人を遣わして子庚に告げたが、子庚は許さず。楚子は聞き、楊豚尹宜を遣わして子庚に告げさせて言わせた、「国人は不穀が社稷を主持して出兵せざるを以て、死して礼に合わざるとす。不穀は即位してより今五年、軍隊は出さず。人はおそらく不穀が自ら安逸して、先君の事業を忘れたと思う。大夫は謀れ!まさにどうせん」と。子庚は歎息して言った、「君王はおそらく午が安逸を貪ると思うのでしょう!私は社稷に利あるためである」と。使者に見え、叩頭して答えて言った、「諸侯はまさに晋と和睦せんとす。臣は試探するを請います。もし可ならば、君王は再接上せよ。不可ならば、兵を収め退下し、害なきを得られ、君王にも羞辱なし」と。子庚は軍を率いて汾で兵を治めた。当時子蟜・伯有・子張は鄭伯に従いて斉を攻め、子孔・子展・子西は留守した。あの両人は子孔の謀を知り、守備を完善して城堡に入った。子孔は敢えて楚軍と会合せず。

楚師伐鄭,次於魚陵。右師城上棘,遂涉潁,次於旃然。蒍子馮、公子格率銳師侵費滑、胥靡、獻於、雍梁,右回梅山,侵鄭東北,至於蟲牢而反。子庚門於純門,信於城下而還。涉於魚齒之下,甚雨及之,楚師多凍,役徒幾盡。

楚軍は鄭を攻め、魚陵に駐屯した。右師は上棘を修築し、こうして頟水を渡り、旃然に駐屯した。蒍子馮・公子格は精鋭を率いて費滑・胥靡・献于・雍梁を侵伐し、右に梅山を繞り、鄭の東北を侵伐し、虫牢に至りて然る後返った。子庚は純門を攻め、城下に両夜住んで然る後帰った。魚齒の下で渡河するに、大雨に趕き、楚軍の凍傷すること多く、役徒はほぼ死に尽きた。

晉人聞有楚師,師曠曰:“不害。吾驟歌北風,又歌南風。南風不競,多死聲。楚必無功。”董叔曰:“天道多在西北,南師不時,必無功。”叔向曰:“在其君之德也。”

晋人は楚軍あるを聞き、師礦は言った、「妨害せず。私は驟然と北風を唱え、また南風を唱えた。南風は強からず、死声多し。楚は必ず功労なし」と。董叔は言った、「天道は多く西北に在り、南方の軍隊は時令に合わず。必ず功労なし」と。叔向は言った、「彼らの国君の徳行に在り」と。

◇襄公十九年

◇襄公十九年

【經】十有九年春王正月,諸侯盟於祝柯。晉人執邾子,公至自伐齊。取邾田,自漷水。季孫宿如晉。葬曹成公。夏,衛孫林父帥師伐齊。秋七月辛卯,齊侯環卒。晉士匄帥師侵齊,至谷,聞齊侯卒,乃還。八月丙辰,仲孫蔑卒。齊殺其大夫高厚。鄭殺其大夫公子嘉。冬,葬齊靈公。城西郛。叔孫豹會晉士匄於柯。城武城。

【経】十九年春、周天子の暦の正月、諸侯は祝柯で盟を結んだ。晋人は邾子を執えた。襄公は斉を攻めたところから帰った。邾国の田を取得し、漷水より始めた。季孫宿は晋に行った。曹成公を葬った。夏、衛の孫林父は軍を率いて斉を攻めた。秋七月辛卯、斉侯環が死去した。晋の士匄は軍を率いて斉を侵伐し、穀に至り、斉侯の死去を聞き、こうして帰った。八月丙辰、仲孫蔑が死去した。斉はその大夫高厚を殺した。鄭はその大夫公子嘉を殺した。冬、斉霊公を葬った。西郭を修築した。叔孫豹は晋の士匄と柯で会見した。武城を修築した。

【傳】十九年春,諸侯還自沂上,盟於督揚,曰:“大毋侵小。”

【伝】十九年春、諸侯は沂上より帰り、督揚で盟を結んで言った、「大なるは小なるを侵伐するな」と。

執邾悼公,以其伐我故。遂次於泗上,疆我田。取邾田,自漷水歸之於我。

邾悼公を執えた。わが国を攻めた故のためである。こうして泗上に駐屯し、わが国の田界を划定した。邾国の田を取得し、漷水よりわが国に帰した。

晉侯先歸。公享晉六卿於蒲圃,賜之三命之服。軍尉、司馬、司空、輿尉、候奄,皆受一命之服。賄荀偃束錦,加璧,乘馬,先吳壽夢之鼎。

晋侯は先に帰った。襄公は蒲圃で晋の六卿を宴享し、彼らに三命の礼服を賜った。軍尉・司馬・司空・輿尉・候奄は、皆一命の礼服を受けた。束錦をもって荀偃に賂し、璧を加え、四匹の馬、先に呉寿夢の鼎を送り上げた。

荀偃癉疽,生瘍於頭。濟河,及著雍,病,目出。大夫先歸者皆反。士匄請見,弗內。請後,曰:“鄭甥可。”二月甲寅,卒,而視,不可含。宣子盥而撫之,曰:“事吳,敢不如事主!”猶視。欒懷子曰:“其為未卒事於齊故也乎?”乃復撫之曰:“主苟終,所不嗣事於齊者,有如河!”乃暝,受含。宣子出,曰:“吾淺之為丈夫也。”

荀偃は癉疽を得、頭に瘍を生じた。河を渡り、著雍に至り、病が重く、眼珠は突出した。大夫の先に帰ったは皆返った。士匄は進見を請うたが、接納せず。継承人を問うと、言った、「鄭の甥は可」と。二月甲寅、死去したが、目を睜いて、玉を含むことができず。宣子は手を洗い彼を撫して言った、「呉に事えるに、敢えて主君のごとく事えざらんや!」なお目を睜いていた。欒懐子は言った、「おそらく斉の事が未完成だからでしょうか」と。こうしてまた彼を撫して言った、「主君もし終了せば、斉に兵を用いるを継続せざるあらば、河神のごとくあれ!」こうして目を閉じ、玉を含むを受けた。宣子は出て言った、「私は丈夫として太だ浅い」と。

晉欒魴帥師從衛孫文子伐齊。季武子如晉拜師,晉侯享之。範宣子為政,賦《黍苗》。季武子興,再拜稽首曰:“小國之仰大國也,如百穀之仰膏雨焉!若常膏之,其天下輯睦,豈唯敝邑?”賦《六月》。

晋の欒魴は軍を率いて衛の孫文子に従いて斉を攻めた。季武子は晋に行き出兵を拜謝し、晋侯は彼を宴享した。范宣子は執政し、《黍苗》を賦した。季武子は身を起こし、再拜叩頭して言った、「小国は大国を仰ぐこと、百穀が膏雨を仰ぐがごとし!もし常に潤沢あらば、天下はまさに和睦せん。あに敝邑のみならんや」と。《六月》を賦した。

季武子以所得於齊之兵,作林鐘而銘魯功焉。臧武仲謂季孫曰:“非禮也。

季武子は斉から得た兵器をもって、林鐘を作りて魯の功労を銘刻した。臧武仲は季孫に言った、「礼に合わない。

夫銘,天子令德,諸侯言時計功,大夫稱伐。今稱伐則下等也,計功則借人也,言時則妨民多矣,何以為銘?且夫大伐小,取其所得以作彝器,銘其功烈以示子孫,昭明德而懲無禮也。今將借人之力以救其死,若之何銘之?小國幸於大國,而昭所獲焉以怒之,亡之道也。”

銘文は、天子は美徳を記載し、諸侯は時に合い功労を計算し、大夫は征伐を称述す。今征伐を称述するは即ち下等、功労を計算するは即ち他人の力を借る、時に合うと言うは即ち百姓を妨害すること多し。何をもって銘を為さん。しかも大なるが小なるを攻め、得た所を取りて彝器を作り、功烈を銘刻して子孫に見せ、徳行を顕明し無礼を懲戒す。今まさに他人の力を借りて自らの死を救わんとす。どうしてこれを銘刻せん。小国が大国に僥倖して、獲得した所を顕明してこれを激怒せしむは、滅亡の道」と。

齊侯娶於魯,曰顏懿姬,無子。其侄鬲聲姬,生光,以為大子。諸子仲子、戎子,戎子嬖。仲子生牙,屬諸戎子。戎子請以為大子,許之。仲子曰:“不可。

斉侯は魯から妻を娶り、顔懿姬と言い、子なし。その姪女鬲声姬は、光を生み、太子に立てられた。諸妾仲子・戎子、戎子は寵を受けた。仲子は牙を生み、戎子に托付した。戎子は太子に立てるを請い求め、許した。仲子は言った、「可ならず。

廢常,不祥;間諸侯,難。光之立也,列於諸侯矣。今無故而廢之,是專黜諸侯,而以難犯不祥也。君必悔之。”公曰:“在我而已。”遂東大子光。使高厚傅牙,以為大子,夙沙衛為少傅。

常規を廃棄するは、不吉。諸侯に触犯するは、困難。光の即位は、すでに諸侯に列した。今故なく廃するは、専断に諸侯を貶黜する。困難をもって不吉に冒犯す。君王は必ず悔いる」と。公は言った、「私に在るのみ」と。こうして太子光を東部に遷した。高厚に牙を輔導させ、太子に立て、夙沙衛を少傅とした。

齊侯疾,崔杼微逆光。疾病,而立之。光殺戎子,屍諸朝,非禮也。婦人無刑。雖有刑,不在朝市。

斉侯は病み、崔杼は暗に光を迎えた。病が危うく、彼を立てた。光は戎子を殺し、尸を朝廷に陳した。礼に合わない。婦人にこのような刑罰なし。たとえ刑罰あっても、朝廷集市に在らず。

夏五月壬辰晦,齊靈公卒。莊公即位,執公子牙於句瀆之丘。以夙沙衛易己,衛奔高唐以叛。

夏五月壬辰の晦日、斉霊公が死去した。荘公が即位し、句瀆之丘で公子牙を執えた。夙沙衛が自らを改換したがために、衛は高唐に出奔して背叛した。

晉士匄侵齊,及谷,聞喪而還,禮也。

晋の士匄は斉を侵伐し、穀に至り、喪あるを聞いて帰った。これは礼に合う。

於四月丁未,鄭公孫蠆卒,赴於晉大夫。範宣子言於晉侯,以其善於伐秦也。

四月丁未に在りて、鄭の公孫蠆が死去し、晋の大夫に訃告した。范宣子は晋侯に言った。彼が秦を攻めた時に表現善かったからである。

六月,晉侯請於王,王追賜之大路,使以行,禮也。

六月、晋侯は天子に請い、天子は追って彼に大路を賜い、もって葬を送らせた。これは礼に合う。

秋八月,齊崔杼殺高厚於灑藍而兼其室。書曰:“齊殺其大夫。”從君於昏也。

秋八月、斉の崔杼は洒藍で高厚を殺し、その家室を兼并した。《春秋》に記して「斉殺其大夫」と言うは、国君に従いて昏乱せるである。

鄭子孔之為政也專。國人患之,乃討西宮之難,與純門之師。子孔當罪,以其甲及子革、子良氏之甲守。甲辰,子展、子西率國人伐之,殺子孔而分其室。

鄭の子孔は執政専断した。国人は憂患し、こうして西宮の難を討伐し、純門の出兵を與えた。子孔は当に罪あるべく、その甲士および子革・子良氏の甲士をもって守衛した。甲辰、子展・子西は国人を率いて彼を攻め、子孔を殺しその家室を瓜分した。

書曰:“鄭殺其大夫。”專也。子然、子孔,宋子之子也;士子孔,圭媯之子也。

《春秋》に記して「鄭殺其大夫」と言うは、専断の故である。子然・子孔は、宋子の子。士子孔は、圭嬀の子。

圭媯之班亞宋子,而相親也;二子孔亦相親也。僖之四年,子然卒,簡之元年,士子孔卒。司徒孔實相子革、子良之室,三室如一,故及於難。子革、子良出奔楚,子革為右尹。鄭人使子展當國,子西聽政,立子產為卿。

圭嬀の班次は宋子の下に在るも、互いに親近した。両子孔もまた互いに親近した。僖公四年、子然死去し、簡公元年、士子孔死去した。司徒孔は実に子革・子良の家室を輔佐し、三家は一家のごとく、だから災難に趕いた。子革・子良は楚に出奔し、子革は右尹を為った。鄭人は子展に国事を主持させ、子西は政を聴き、子産を卿に立てた。

齊慶封圍高唐,弗克。冬十一月,齊侯圍之,見衛在城上,號之,乃下。問守備焉,以無備告。揖之,乃登。聞師將傅,食高唐人。殖綽、工僂會夜縋納師,醢衛于軍。

斉の慶封は高唐を包囲したが、攻克せず。冬十一月、斉侯はこれを包囲し、衛が城上に在るを見て、彼を喊し、こうして下りた。守備を問うに、防備なしを以て告げた。揖を作し、こうして城に登った。軍隊がまさに城を爬らんとするを聞き、高唐人に飯を食わせた。殖綽・工僂会は夜に縄をもって軍隊を縋り入れ、軍中で衛を肉醤にした。

城西郛,懼齊也。

西郭を修築したのは、斉を怕れたからである。

齊及晉平,盟於大隧。故穆叔會範宣子於柯。穆叔見叔向,賦《載馳》之四章。叔向曰:“肸敢不承命。”穆叔曰:“齊猶未也,不可以不懼。”乃城武城。

斉は晋と講和し、大隧で盟を結んだ。だから穆叔は范宣子と柯で会見した。穆叔は叔向に見え、《載馳》の第四章を賦した。叔向は言った、「肸は敢えて命令を承えざらんや」と。穆叔は言った、「斉はまだ終わっていない。懼れざるべからず」と。こうして武城を修築した。

衛石共子卒,悼子不哀。孔成子曰:“是謂蹶其本,必不有其宗。”

衛の石共子が死去したが、悼子は悲哀しなかった。孔成子は言った、「これを蹶動根本と言う。必ずその宗族を保有できない」と。

◇襄公二十年

◇襄公二十年

【經】二十年春王正月辛亥,仲孫速會莒人盟於向。夏六月庚申,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯,小邾子盟於澶淵。秋,公至自會。仲孫速帥師伐邾。蔡殺其大夫公子燮。蔡公子履出奔楚。

【経】二十年春、周天子の暦の正月辛亥、仲孫速は莒人と会同して向で盟を結んだ。夏六月庚申、襄公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と澶淵で盟を結んだ。秋、襄公は会から帰った。仲孫速は軍を率いて邾を攻めた。蔡はその大夫公子燮を殺した。蔡の公子履は楚に出奔した。

陳侯之弟黃出奔楚。叔老如齊。冬十月丙辰朔,日有食之。季孫宿如宋。

陳侯の弟黄は楚に出奔した。叔老は斉に行った。冬十月丙辰の朔日、日食があった。季孫宿は宋に行った。

【傳】二十年春,及莒平。孟莊子會莒人,盟於向,督揚之盟故也。

【伝】二十年春、莒と講和した。孟荘子は莒人と会見し、向で盟を結んだ。督揚の盟の故である。

夏,盟於澶淵,齊成故也。

夏、澶淵で盟を結んだ。斉が講和を成した故である。

邾人驟至,以諸侯之事,弗能報也。秋,孟莊子伐邾以報之。

邾人は屢々来たが、諸侯の事務のために、報復できなかった。秋、孟荘子は邾を攻めて報復した。

蔡公子燮欲以蔡之晉,蔡人殺之。公子履,其母弟也,故出奔楚。

蔡の公子燮は蔡を晋に傾けようと欲し、蔡人は彼を殺した。公子履はその同母弟なので、楚に出奔した。

陳慶虎、慶寅畏公子黃之逼,愬諸楚曰:“與蔡司馬同謀。”楚人以為討。

陳の慶虎・慶寅は公子黄の逼迫を怕れ、楚に訴えて言った、「蔡の司馬とともに謀った」と。楚人はこれによって討伐した。

公子黃出奔楚。

公子黄は楚に出奔した。

初,蔡文侯欲事晉,曰:“先君與於踐士之盟,晉不可棄,且兄弟也。”畏楚,不能行而卒。楚人使蔡無常,公子燮求從先君以利蔡,不能而死。書曰:“蔡殺其大夫公子燮”,言不與民同欲也;“陳侯之弟黃出奔楚”,言非其罪也。

初め、蔡文侯は晋に事えようと欲して言った、「先君は践土の盟に参与し、晋は棄てるべからず。しかも兄弟である」と。楚を怕れ、実行できずして死去した。楚人は蔡に対し常規なく、公子燮は先君に従うを請いて蔡に利あらんとしたが、能わずして死去した。《春秋》に記して「蔡殺其大夫公子燮」と言うは、百姓と同一の願いを為さざるを言う。「陳侯之弟黄出奔楚」と言うは、彼の罪ではないを言う。

公子黃將出奔,呼於國曰:“慶氏無道,求專陳國,暴蔑其君,而去其親,五年不滅,是無天也。”

公子黄はまさに出奔せんとして、国中で喊して言った、「慶氏は無道、陳を専断せんと求め、国君を暴虐蔑視し、その親人を去らんとす。五年して滅亡せざれば、これは天なし」と。

齊子初聘於齊,禮也。

斉子は初めて斉に聘問した。これは礼に合う。

冬,季武子如宋,報向戌之聘也。褚師段逆之以受享,賦《常棣》之七章以卒。宋人重賄之。歸,覆命,公享之。賦《魚麗》之卒章。公賦《南山有臺》。

冬、季武子は宋に行き、向戌の聘問に報いた。褚師段が彼を迎えて宴享を受け、《常棣》の第七章より卒章に至るまで賦した。宋人は重ねて彼に賂した。帰って復命し、襄公は彼を宴享した。《魚麗》の卒章を賦した。襄公は《南山有台》を賦した。

武子去所,曰:“臣不堪也。”

武子は座席を離れて言った、「臣は承当に堪えません」と。

衛甯惠子疾,召悼子曰:“吾得罪於君,悔而無及也。名藏在諸侯之策,曰:‘孫林父、寧殖出其君。’君入則掩之。若能掩之,則吾子也。若不能,猶有鬼神,吾有餒而已,不來食矣。”悼子許諾,惠子遂卒。

衛の寧恵子は病み、悼子を召して言った、「私は国君の罪を得た。悔いるに及ばず。名は諸侯の簡策に蔵されて言う、『孫林父・寧殖はその国君を逐出した』と。国君が入れば掩盖する。もし掩盖できれば、即ちわが子である。もし能わずば、なお鬼神あり。私はただ飢餓するのみ、来て食わない」と。悼子は応え、恵子はこうして死去した。

◇襄公二十一年

◇襄公二十一年

【經】二十有一年春王正月,公如晉。邾庶其以漆、閭丘來奔。夏,公至自晉。秋,晉盈出奔楚。九月庚戌朔,日有食之。冬十月庚辰朔,日有食之。曹伯來朝。公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子於商任。

【経】二十一年春、周天子の暦の正月、襄公は晋に行った。邾庶其は漆・閭丘を帯びて奔り来た。夏、襄公は晋から帰った。秋、晋盈は楚に出奔した。九月庚戌の朔日、日食があった。冬十月庚辰の朔日、日食があった。曹伯が朝見に来た。襄公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子と商任で会見した。

【傳】二十一年春,公如晉,拜師及取邾田也。

【伝】二十一年春、襄公は晋に行き、出兵および邾の田を取得したを拜謝した。

邾庶其以漆、閭丘來奔。季武子以公姑姊妻之,皆有賜於其從者。

邾庶其は漆・閭丘を帯びて奔り来た。季武子は襄公の姑姉を彼に嫁がせ、その随従に皆賞賜した。

於是魯多盜。季孫謂臧武仲曰:“子盍詰盜?”武仲曰:“不可詰也,紇又不能。”季孫曰:“我有四封,而詰其盜,何故不可?子為司寇,將盜是務去,若之何不能?”武仲曰:“子召外盜而大禮焉,何以止吾盜?子為正卿,而來外盜;使紇去之,將何以能?庶其竊邑於邾以來,子以姬氏妻之,而與之邑,其從者皆有賜焉。若大盜禮焉以君之姑姊與其大邑,其次皂牧輿馬,其小者衣裳劍帶,是賞盜也。賞而去之,其或難焉。紇也聞之,在上位者,灑濯其心,壹以待人,軌度其信,可明徵也,而後可以治人。夫上之所為,民之歸也。上所不為而民或為之,是以加刑罰焉,而莫敢不懲。若上之所為而民亦為之,乃其所也,又可禁乎?《夏書》曰:‘念茲在茲,釋茲在茲,名言茲在茲,允出茲在茲,惟帝念功。’將謂由己壹也。信由己壹,而後功可念也。”

当時魯に盗賊が多かった。季孫は臧武仲に言った、「あなたは何ぞ盗賊を詰問せざる」と。武仲は言った、「詰問すべからず。紇はまた能わず」と。季孫は言った、「私は四面の封疆あるに、境内の盗を詰問する。なぜ不可か。あなたは司寇を為し、まさに盗を去るを務めとせんとす。どうして能わず」と。武仲は言った、「あなたは外盗を召来して大いに礼遇する。何をもってわが盗を禁止せん。あなたは正卿を為すに、かえって外盗を招来す。紇に去らせるは、まさに何をもって能きとせん。庶其は邾から城邑を窃みて来たに、あなたは姫氏を彼に嫁がせ、かつ彼に城邑を与え、その随従は皆賞賜あり。もし大盗に国君的姑姉と大邑をもって礼遇し、その次は皂牧輿馬、小は衣裳剣帯を与えれば、これは盗を賞する。賞して去るは、あるいは困難でしょう。紇が聞くに、上位に在る者はその心を洗濯し、専一に人を待ち、その信用を法度して、明らかに検証すべくして、然る後人を治めるべし。上の為す所は、百姓の帰向である。上が為さずして百姓あるいは為せば、これによって刑罰を施加すれば、人は敢えて懲戒せざるなし。もし上の為す所にして百姓もまた為せば、すなわち彼らの処所である。また禁止すべからんや。《夏書》に言う、『これを念ずるはこれに在り、これを放下するはこれに在り、名言これはこれに在り、誠信はこれを出すはこれに在り、ただ帝は功労を思念す』と。自ら専一するを言う。信用は自ら専一し、然る後功労は思念すべし」と。

庶其非卿也,以地來,雖賤必書,重地也。

庶其は卿ではないが、土地を帯びて来た。たとえ低賤でも必ず記す。土地を重んずるからである。

齊侯使慶佐為大夫,復討公子牙之黨,執公子買於句瀆之丘。公子鉏來奔。

斉侯は慶佐に大夫を為らせ、再び公子牙の党羽を討伐し、句瀆之丘で公子買を執えた。公子鉏は奔り来た。

叔孫還奔燕。

叔孫還は燕に出奔した。

夏,楚子庚卒,楚子使薳子馮為令尹。訪於申叔豫,叔豫曰:“國多寵而王弱,國不可為也。”遂以疾辭。方署,闕地,下冰而床焉。重繭衣裘,鮮食而寢。

夏、楚の子庚が死去し、楚子は䓕子馮に令尹を為らせた。申叔豫に諮詢すると、叔豫は言った、「国家に寵幸の人多く君王は弱い。国家は治めるべからず」と。こうして病をもって辞した。まさに暑熱で、底本の「署」は即ち暑。地を挖り、下に氷を放ちて再び床を設けた。両層の綿衣と皮衣を穿ち、食を少なくして然る後睡った。

楚子使醫視之,復曰:“瘠則甚矣,而血氣未動。”乃使子南為令尹。

楚子は医を遣わして察看させると、回報して言った、「痩せたは甚だ痩せたが、血気は動かず」と。こうして子南に令尹を為らせた。

欒桓子娶於範宣子,生懷子。範鞅以其亡也,怨欒氏,故與欒盈為公族大夫而不相能。桓子卒,欒祁與其老州賓通,幾亡室矣。懷子患之。祁懼其討也,愬諸宣子曰:“盈將為亂,以范氏為死桓主而專政矣,曰:‘吾父逐鞅也,不怒而以寵報之,又與吾同官而專之,吾父死而益富。死吾父而專於國,有死而已,吾蔑從之矣!’其謀如是,懼害於主,吾不敢不言。”範鞅為之徵。懷子好施,士多歸之。宣子畏其多士也,信之。懷子為下卿,宣子使城著而遂逐之。

欒桓子は范宣子の女を娶り、懐子を生んだ。范鞅はその逃亡の事によって欒氏を怨恨したので、欒盈とともに公族大夫を為るも合わなかった。桓子が死去し、欒祁はその家臣の長州賓と私通し、ほぼ家室を失わんとした。懐子はこの事を憂患した。祁は彼が討伐するを怕れ、宣子に訴えて言った、「盈はまさに乱を為さんとし、范氏が桓主を弄死して政事を専断したとし、言う、『わが父は鞅を驅逐し、怒らずしてかえって寵幸をもって報い、またわと同一官職にして専断す。わが父が死ねばますます富む。わが父を弄死して国中で専断するは、ただ死するのみ。私は彼に従わない!』その謀はこのようである。主君を妨害するを怕れ、私は敢えて言わざるべからず」と。范鞅は彼女のために証を為した。懐子は施舍を好み、士は多く彼に帰附した。宣子はその士多きを怕れ、信じた。懐子は下卿を為り、宣子は彼に著を修築させて然る後彼を驅逐した。

秋,欒盈出奔楚。宣子殺箕遺、黃淵、嘉父、司空靖、邴豫、董叔、邴師、申書、羊舌虎、叔羆。囚伯華、叔向、籍偃。人謂叔向曰:“子離於罪,其為不知乎?”叔向曰:“與其死亡若何?《詩》曰:‘優哉遊哉,聊以卒歲。’知也。”

秋、欒盈は楚に出奔した。宣子は箕遺・黄淵・嘉父・司空靖・邴豫・董叔・邴師・申書・羊舌虎・叔羆を殺した。伯華・叔向・籍偃を囚禁した。人あって叔向に言った、「あなたが罪に陥るは、おそらく不智でしょうか」と。叔向は言った、「死亡と比べてどうか。《詩》に言う、『優遊たるかな、しばらく歳月を過ごさん』と。即ち智である」と。

樂王鮒見叔向曰:“吾為子請!”叔向弗應。出,不拜。其人皆咎叔向。叔向曰:“必祁大夫。。”室老聞之,曰:“樂王鮒言於君無不行,求赦吾子,吾子不許。

楽王鮒は叔向に見えて言った、「私はあなたのために請いましょう!」叔向は応えず。出て、拜さず。その人は皆叔向を責めた。叔向は言った、「必ず祁大夫であろう」と。室老は聞いて言った、「楽王鮒は国君に言うに行なわざるなし。吾子を赦免するを請い、吾子は応えず。

祁大夫所不能也,而曰‘必由之’,何也?”叔向曰:“樂王鮒,從君者也,何能行?祁大夫外舉不棄仇,內舉不失親,其獨遺我乎?《詩》曰:‘有覺德行,四國順之。’夫子,覺者也。”

祁大夫の能わざる所に、かえって『必ず彼による』と言う。なぜか」と。叔向は言った、「楽王鮒は国君に従う人である。どうして行えよう。祁大夫は外に举荐して仇人を棄てず、内に举荐して親人を失わず。あに独り私を遺棄せんや。《詩》に言う、『正直の徳行あれば、四方の国は順従す』と。夫子は正直の人である」と。

晉侯問叔向之罪於樂王鮒,對曰:“不棄其親,其有焉。”於是祁奚老矣,聞之,乘馹而見宣子,曰:“《詩》曰:‘惠我無疆,子孫保之。’《書》曰:‘聖有謨勳,明徵定保。’夫謀而鮮過,惠訓不倦者,叔向有焉,社稷之固也。

晋侯は楽王鮒に叔向の罪を問うと、答えて言った、「その親人を棄てず。おそらくあるでしょう」と。当時祁奚はすでに告老していたが、聞いて、駅車に乗って宣子に見えて言った、「《詩》に言う、『恵を我に施すこと疆界なし、子孫はこれを保有す』と。《書》に言う、『聖明にして謀略功勳あり、明らかに検証して安定保護す』と。謀りて過ち少なく、恵を施し教訓して倦怠せざるは、叔向はこれを備える。是れ社稷の穏固である。

猶將十世宥之,以勸能者。今壹不免其身,以棄社稷,不亦惑乎?鯀殛而禹興。

なお十世に寛宥して、もって才能あるを勉励せん。今一度もその身を免ぜずして、もって社稷を拋棄するは、また迷惑ではないか。鯀は誅せられて禹が興起した。

伊尹放大甲而相之,卒無怨色。管、蔡為戮,周公右王。若之何其以虎也棄社稷?子為善,誰敢不勉?多殺何為?”宣子說,與之乘,以言諸公而免之。不見叔向而歸。叔向亦不告免焉而朝。

伊尹は太甲を放逐してかえって彼を輔佐し、終に怨色なし。管・蔡は殺され、周公は王を輔佐した。どうして虎のために社稷を棄てん。あなたが善事を為せば、誰が敢えて努力せざらん。多殺して何を為さん」と。宣子は喜び、彼と同乗し、公に言って赦免した。叔向に見えずして帰った。叔向もまた赦免を告知せずして朝に上った。

初,叔向之母妒叔虎之母美而不使,其子皆諫其母。其母曰:“深山大澤,實生龍蛇。彼美,餘懼其生龍蛇以禍女。女,敝族也。國多大寵,不仁人間之,不亦難乎?餘何愛焉!”使往視寢,生叔虎。美而有勇力,欒懷子嬖之,故羊舌氏之族及於難。

初め、叔向の母は叔虎の母の美を妒忌して侍寝させず、子たちは皆母を勧諫した。母は言った、「深山大沢は、実に龍蛇を生ず。彼女は美である。私は彼女が龍蛇を生みてなんじらを禍害するを怕れる。なんじらは衰敗の族である。国に大宠多く、不仁の人はその中から離間する。また困難ではないか。私に何の惜しむことがあろう!」彼女をして侍寝せしめ、叔虎を生んだ。美しくして勇力あり、欒懐子は彼を寵愛した。だから羊舌氏の族は災難に趕いた。

欒盈過於周,周西鄙掠之。辭於行人,曰:“天子陪臣盈,得罪於王之守臣,將逃罪。罪重於郊甸,無所伏竄,敢布其死。昔陪臣書能輸力於王室,王施惠焉。

欒盈は周を経過し、周の西部辺境の人は彼を掠奪した。行人に陳辞して言った、「天子の陪臣盈は、王の守臣の罪を得て、まさに罪を逃避せんとす。罪は郊甸に重く、逃窜する場所なし。敢えて死罪を陳述す。昔陪臣書は王室に力を出す能く、王は恩恵を施した。

其子黶,不能保任其父之勞。大君若不棄書之力,亡臣猶有所逃。若棄書之力,而思黶之罪,臣,戮餘也,將歸死於尉氏,不敢還矣。敢布四體,唯大君命焉!”王曰:“尤而效之,其又甚焉!”使司徒禁掠欒氏者,歸所取焉。使候出諸轘轅。

その子黶は、父の労苦を保任できず。大君もし書の出力を棄てずば、逃亡の臣はなお逃るべき所あり。もし書の出力を棄てて黶の罪を思念せば、臣は刑戮の余剩、まさに帰って尉氏で死せん。敢えて帰らず。敢えて四肢を攤開し、ただ大君の命令を聴くのみ!」王は言った、「責めてかえって仿效するは、即ちさらに甚だし!」司徒を遣わして欒氏を掠奪する人を禁止させ、取った所を帰還させた。候人を遣わして轘轅から彼を送り出させた。

冬,曹武公來朝,始見也。

冬、曹武公が朝見に来た。初めての進見である。

會於商任,錮欒氏也。齊侯、衛侯不敬。叔向曰:“二君者必不免。會朝,禮之經也;禮,政之輿也;政,身之守也;怠禮失政,失政不立,是以亂也。”

商任で会見したのは、欒氏を禁錮するである。斉侯・衛侯は恭敬でなかった。叔向は言った、「この二国の君は必ず免れない。会見朝見は、礼の綱常。礼は、政事の車子。政事は、身の守護。礼を怠慢すれば政事を失い、政事を失えば立身できず。これによって乱あり」と。

知起、中行喜、州綽、邢蒯出奔齊,皆欒氏之黨也。樂王鮒謂範宣子曰:“盍反州綽、邢蒯,勇士也。”宣子曰:“彼欒氏之勇也,餘何獲焉?”王鮒曰:“子為彼欒氏,乃亦子之勇也。”

知起・中行喜・州綽・邢蒯は斉に出奔した。皆欒氏の党羽である。楽王鮒は范宣子に言った、「何ぞ州綽・邢蒯を帰らせざる。彼らは勇士である」と。宣子は言った、「あれは欒氏の勇である。私は何を得よう」と。王鮒は言った、「あなたが彼らの欒氏を為れば、即ちあなたの勇と成る」と。

齊莊公朝,指殖綽、郭最曰:“是寡人之雄也。”州綽曰:“君以為雄,誰敢不雄?然臣不敏,平陰之役,先二子鳴。”莊公為勇爵。殖綽、郭最欲與焉。

斉荘公は朝に上り、殖綽・郭最を指して言った、「これは寡人の雄である」と。州綽は言った、「君王がこれを雄とせば、誰が敢えて雄ならざらん。しかるに臣は聡敏ならず、平陰の戦に、あの両人より先に鳴いた」と。荘公は勇爵を設置した。殖綽・郭最は参与せんと欲した。

州綽曰:“東閭之役,臣左驂迫,還於門中,識其枚數。其可以與於此乎?”公曰:“子為晉君也。”對曰:“臣為隸新。然二子者,譬於禽獸,臣食其肉而寢處其皮矣。”

州綽は言った、「東閭の戦に、臣の左の驂馬は擠れ、門中で盤旋し、門扇の枚数を認識す。おそらくこのに参与できるでしょうか」と。公は言った、「あなたは晋君のためであった」と。答えて言った、「臣は隸を為ること新たなり。しかるにあの両人は、禽獣に比すれば、臣はその肉を食いその皮に睡った」と。

◇襄公二十二年

◇襄公二十二年

【經】二十有二年春王正月,公至自會。夏四月。秋七月辛酉,叔老卒。冬,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、薛伯、杞伯、小邾子於沙隨。公至自會。楚殺其大夫公子追舒。

【経】二十二年春、周天子の暦の正月、襄公は会から帰った。夏四月。秋七月辛酉、叔老が死去した。冬、襄公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・薛伯・杞伯・小邾子と沙随で会見した。襄公は会から帰った。楚はその大夫公子追舒を殺した。

【傳】二十二年春,臧武仲如晉,雨,過御叔。御叔在其邑,將飲酒,曰:“焉用聖人!我將飲酒而已,雨行,何以聖為?”穆叔聞之曰:“不可使也,而傲使人,國之蠹也。”令倍其賦。

【伝】二十二年春、臧武仲は晋に行き、雨が降り、御叔の所を経過した。御叔はその城邑に在り、まさに酒を飲まんとして言った、「圣人を用いて何を為さん!私はまさに酒を飲むのみ。雨を冒して路を趕くは、何をもって聖と算せん」と。穆叔は聞いて言った、「出使すべからざるに、使者を傲視す。是れ国家の蠹虫」と。その賦税を加倍するを命じた。

夏,晉人徵朝於鄭。鄭人使少正公孫僑對曰:“在晉先君悼公九年,我寡君於是即位。即位八月,而我先大夫子駟從寡君以朝於執事。執事不禮於寡君。寡君懼,因是行也,我二年六月朝於楚,晉是以有戲之役。楚人猶競,而申禮於敝邑。敝邑欲從執事而懼為大尤,曰晉其謂我不共有禮,是以不敢攜貳於楚。我四年三月,先大夫子蟜又從寡君以觀釁於楚,晉於是乎有蕭魚之役。謂我敝邑,邇在晉國,譬諸草木,吾臭味也,而何敢差池?楚亦不競,寡君盡其土實,重之以宗器,以受齊盟。遂帥群臣隨於執事以會歲終。貳於楚者,子侯、石盂,歸而討之。湨梁之明年,子蟜老矣,公孫夏從寡君以朝於君,見於嘗酎,與執燔焉。間二年,聞君將靖東夏,四月又朝,以聽事期。不朝之間,無歲不聘,無役不從。以大國政令之無常,國家罷病,不虞薦至,無日不惕,豈敢忘職?大國若安定之,其朝夕在庭,何辱命焉?若不恤其患,而以為口實,其無乃不堪任命,而翦為仇讎,敝邑是懼。其敢忘君命?委諸執事,執事實重圖之。”

夏、晋人は鄭に朝見を征求した。鄭人は少正公孫僑を遣わして答えさせて言わせた、「晋の先君悼公九年に、わが寡君はここに即位した。即位八ヶ月、わが先大夫子駟は寡君に従いて執事に朝見した。執事は寡君に礼なし。寡君は恐懼し、この出行によって、われわれは二年六月に楚に朝見し、晋はこれによって戯の戦あり。楚人はなお強盛なれど、かえって敝邑に礼を申明す。敝邑は執事に従おうと欲すも大過と為るを怕れ、晋はおそらくわれわれを恭敬有礼ならずとするであろうと言い、これによって敢えて楚に二心せず。われわれ四年三月、先大夫子蟜はまた寡君に従いて楚に至り間隙を観察し、晋はこうして蕭魚の戦あり。わが敝邑を晋に近しとして、草木に比すれば、われわれは同一の匂いである。どうして敢えて差池せん。楚もまた強盛せず。寡君は土地の出産を尽く出し、宗廟の器物を加えて、もって斎戒の盟約を受けた。こうして群臣を率いて執事に従いて歳終の会合に来た。楚に二心あるは、子侯・石盂。帰りて彼らを討伐した。湨梁の明年、子蟜は告老し、公孫夏は寡君に従いて君王に朝見し、嘗酎の時に進見し、執燔に参与した。二年を隔て、君王がまさに東夏を安定せんとするを聞き、四月また朝見に来て、事務の日期を聴いた。朝見せざる間隔、聘問せざる年なく、戦役に従わざるなし。大国の政令に常規なきがために、国家は疲弊困病し、意外の事は接続して至り、一日も警惕せざるなし。あに敢えて職分を忘れんや。大国もし敝邑を安定せば、即ち朝夕に庭上に在らん。どうして辱くも命令を臨まん。もしその患難を体恤せずして、かえってこれを話柄と為さば、おそらく任命を承当できず、翦除せられて仇敵と為らん。敝邑はこれを怕れる。あに敢えて君王の命令を忘れんや。執事に委托す。執事は実に鄭重に謀るべし」と。

秋,欒盈自楚適齊。晏平仲言於齊侯曰:“商任之會,受命於晉。今納欒氏,將安用之?小所以事大,信也。失信不立,君其圖之。”弗聽。退告陳文子曰:“君人執信,臣人執共,忠信篤敬,上下同之,天之道也。君自棄也,弗能久矣!”九月,鄭公孫黑肱有疾,歸邑於公。召室老、宗人立段,而使黜官、薄祭。

秋、欒盈は楚から斉に至った。晏平仲は斉侯に言った、「商任の会に、晋から命令を受けた。今欒氏を接納するは、まさに彼をどう用いん。小なるは大なるに事えるは、信用。信用を失えば立身できず。君王はなお謀れ」と。聴かず。退いて陳文子に告げて言った、「人君を為るは信用を執守し、人臣を為るは恭敬を執守す。忠信篤敬、上下共同す。是れ天の道理。君王は自ら拋棄す。長久できない!」九月、鄭の公孫黑肱は病あり、城邑を公に帰還した。室老・宗人を召して段を立て、官属を減省し祭祀を菲薄せしめた。

祭以特羊,殷以少牢。足以共祀,盡歸其餘邑。曰:“吾聞之,生於亂世,貴而能貧,民無求焉,可以後亡。敬共事君,與二三子。生在敬戒,不在富也。”己巳,伯張卒。君子曰:“善戒。《詩》曰:‘慎爾侯度,用戒不虞。’鄭子張其有焉。”

祭祀は特羊を用い、殷祭は少牢を用いた。祭祀に供給するに足り、余りの城邑を全部帰還した。言った、「私が聞くに、乱世に生まれて、尊貴にして能く貧窮なれば、百姓は彼に需求なく、後れて亡びるべし。敬恭して国君に事え、あの数名とともにせよ。生存は敬戒に在り、富に在らず」と。己巳、伯張が死去した。君子は言った、「戒備を善くす。《詩》に言う、『なんじ諸侯の法度を謹慎し、もって意外に戒備せよ』と。鄭の子張はおそらくこれを備える」と。

冬,會於沙隨,復錮欒氏也。

冬、沙随で会見し、再び欒氏を禁錮した。

欒盈猶在齊,晏子曰:“禍將作矣!齊將伐晉,不可以不懼。”

欒盈はなお斉に在り、晏子は言った、「禍乱はまさに発作せん!斉はまさに晋を攻めん。懼れざるべからず」と。

楚觀起有寵於令尹子南,未益祿,而有馬數十乘。楚人患之,王將討焉。子南之子棄疾為王御士,王每見之,必泣。棄疾曰:“君三泣臣矣,敢問誰之罪也?”王曰:“令尹之不能,爾所知也。國將討焉,爾其居乎?”對曰:“父戮子居,君焉用之?洩命重刑,臣亦不為。”王遂殺子南於朝,轘觀起於四竟。子南之臣謂棄疾,請徙子屍於朝,曰:“君臣有禮,唯二三子。”三日,棄疾請屍,王許之。既葬,其徒曰:“行乎?”曰:“吾與殺吾父,行將焉入?”曰:“然則臣王乎?”曰:“棄父事仇,吾弗忍也。”遂縊而死。

楚の観起は令尹子南の寵幸を受け、まだ俸禄を増さざるに、馬数十乗あり。楚人は憂患し、王はまさに討伐せんとした。子南の子棄疾は王の御士を為り、王は彼を見るたびに、必ず哭泣した。棄疾は言った、「君王は臣に対して三度哭いた。敢えて誰の罪か問います」と。王は言った、「令尹の不能は、なんじの知る所。国はまさに彼を討伐せん。なんじはなお留まるか」と。答えて言った、「父が殺されて子が留まるは、君王は何に用いん。命令を泄漏するは重刑。臣もまた為さず」と。王はこうして朝廷で子南を殺し、四境で観起を車裂した。子南の家臣は棄疾に言い、子の尸を朝廷から遷るを請い、言った、「君臣に礼あり。ただあの数名に在る」と。三日、棄疾は尸を請い、王は許した。すでに安葬し、その徒衆は言った、「走るか」と。言った、「私は父を殺すに参与した。走ればどこに入らん」と。言った、「では王の臣を為るか」と。言った、「父を棄てて仇人に事えるは、私は忍びず」と。こうして縊りて死んだ。

復使薳子馮為令尹,公子齮為司馬。屈建為莫敖。有寵於薳子者八人,皆無祿而多馬。他日朝,與申叔豫言。弗應而退。從之,入於人中。又從之,遂歸。

再び䓕子馮に令尹を為らせ、公子𬺈を司馬とした。屈建は莫敖を為った。䓕子の寵幸を受ける八人は、皆俸禄なくして馬多し。後のある日朝に上り、申叔豫と語った。応えずして退下した。彼に跟い、人の群れに入った。また跟い、こうして帰った。

退朝,見之,曰:“子三困我於朝,吾懼,不敢不見。吾過,子姑告我。何疾我也?”對曰:“吾不免是懼,何敢告子?”曰:“何故?”對曰:“昔觀起有寵於子南,子南得罪,觀起車裂。何故不懼?”自御而歸,不能當道。至,謂八人者曰:“吾見申叔,夫子所謂生死而肉骨也。知我者,如夫子則可。不然,請止。”

朝を退き、彼に見えて言った、「あなたは三度朝廷で私を困らせた。私は懼れ、敢えて見えざるべからず。私に過失あれば、あなたはしばらく私に告げよ。なぜ私を悪むか」と。答えて言った、「私は罪を免れる能わざるを怕れる。どうして敢えてあなたに告げん」と。言った、「何の故か」と。答えて言った、「昔観起は子南の寵幸を受け、子南は罪を得、観起は車裂せられた。どうして懼れざらん」と。自ら車を駕して帰り、道路の正中を走る能わず。至り、あの八人に言った、「私は申叔に見えた。夫子は即ち謂うところの死人を復生せしめ白骨に肉を長ぜしめる人。私を了解するは、夫子のごときであれば可。さもなくば、停止を請う」と。

辭八人者,而後王安之。

あの八人を辞退し、然る後王はやっと心安くなった。

十二月,鄭遊販將歸晉,未出竟,遭逆妻者,奪之,以館於邑。丁巳,其夫攻子明,殺之,以其妻行。子展廢良而立大叔,曰:“國卿,君之貳也,民之主也,不可以苟。請舍子明之類。”求亡妻者,使復其所。使遊氏勿怨,曰:“無昭惡也。”

十二月、鄭の游販はまさに晋に帰らんとして、まだ国境を出ず、妻を迎娶する人に遇い、彼女を奪い、城邑に安置した。丁巳、その夫は子明を攻め、彼を殺し、妻を帯びて走った。子展は良を廃して大叔を立てて言った、「国卿は、国君の副手、百姓の主人である。苟且すべからず。子明のこの類を捨棄することを請います」と。妻を失った人を尋ね、彼を原所に帰らせた。游氏に怨恨せざらしめて言った、「邪悪を顕明するな」と。

◇襄公二十三年

◇襄公二十三年

【經】二十有三年春王二月癸酉朔,日有食之。三月己巳,杞伯匄卒。夏,邾畀我來奔。葬杞孝公。陳殺其大夫慶虎及慶寅。陳侯之弟黃自楚歸於陳。晉欒盈復入於晉,入於曲沃。秋,齊侯伐衛,遂伐晉。八月,叔孫豹帥師救晉,次於雍榆。己卯,仲孫速卒。冬十月乙亥,臧孫紇出奔邾。晉人殺欒盈。齊侯襲莒。

【経】二十三年春、周天子の暦の二月癸酉の朔日、日食があった。三月己巳、杞伯匄が死去した。夏、邾畀我が奔り来た。杞孝公を葬った。陳はその大夫慶虎および慶寅を殺した。陳侯の弟黄は楚から陳に帰った。晋の欒盈は再び晋に入り、曲沃に入った。秋、斉侯は衛を攻め、こうして晋を攻めた。八月、叔孫豹は軍を率いて晋を救い、雍楡に駐屯した。己卯、仲孫速が死去した。冬十月乙亥、臧孫紇は邾に出奔した。晋人は欒盈を殺した。斉侯は莒を襲撃した。

【傳】二十三年春,杞孝公卒,晉悼夫人喪之。平公不徹樂,非禮也。禮,為鄰國闕。

【伝】二十三年春、杞孝公が死去し、晋悼夫人は彼のために喪を服した。平公は音楽を撤除せず。礼に合わない。礼は、隣国のために音楽を停止する。

陳侯如楚。公子黃愬二慶於楚,楚人召之。使慶樂往,殺之。慶氏以陳叛。

陳侯は楚に行った。公子黄は楚に二慶を訴え、楚人は彼らを召した。慶楽を遣わして往かせたが、彼を殺した。慶氏は陳に拠りて背叛した。

夏,屈建從陳侯圍陳。陳人城,板隊而殺人。役人相命,各殺其長。遂殺慶虎、慶寅。楚人納公子黃。君子謂:“慶氏不義,不可肆也。故《書》曰:‘惟命不於常。’”晉將嫁女於吳,齊侯使析歸父媵之,以藩載欒盈及其士,納諸曲沃。欒盈夜見胥午而告之。對曰:“不可。天之所廢,誰能興之?子必不免。吾非愛死也,知不集也。”盈曰:“雖然,因子而死,吾無悔矣。我實不天,子無咎焉。”許諾。伏之,而觴曲沃人。樂作。午言曰:“今也得欒孺子,何如?”對曰:“得主而為之死,猶不死也。”皆嘆,有泣者。爵行,又言。皆曰:“得主,何貳之有?”盈出,遍拜之。

夏、屈建は陳侯に従いて陳を包囲した。陳人は城を築き、夾板が墜ちれば即ち人を殺した。役夫は互いに令を伝え、各々その頭目を殺した。こうして慶虎・慶寅を殺した。楚人は公子黄を送り帰した。君子は思う、「慶氏は不義、放縦すべからず。だから《書》に言う、『天命は常ならず』と」。晋はまさに女を呉に嫁がせんとし、斉侯は析帰父を遣わして媵妾を送らせ、藩籬ある車をもって欒盈とその士を装い、曲沃に送り入れた。欒盈は夜に胥午に見えて告げた。答えて言った、「不可。天の廃する所、誰が能くこれを興さん。あなたは必ず免れない。私は死を吝惜するにあらず、事の成就できざるを知る」と。盈は言った、「このようと雖も、あなたに借りて死する。私は悔いなし。私は実に天に保佑せられず。あなたに過ちなし」と。許した。彼を蔵め、曲沃人に酒を飲ませた。音楽が奏起すると、午は言った、「今欒孺子を得れば、どうか」と。答えて言った、「主君を得れば彼のために死す。なお死せざるがごとし」と。皆歎息し、哭泣する者あり。酒爵を巡行し、また言うと、皆言った、「主君を得れば、何の二心があらん」と。盈は出て、一々彼らを拜した。

四月,欒盈帥曲沃之甲,因魏獻子,以晝入絳。初,欒盈佐魏莊子於下軍,獻子私焉,故因之。趙氏以原、屏之難怨欒氏,韓、趙方睦。中行氏以伐秦之役怨欒氏,而固與范氏和親。知悼子少,而聽於中行氏。程鄭嬖於公。唯魏氏及七輿大夫與之。

四月、欒盈は曲沃の甲士を率い、魏献子に倚り、白昼に絳に入った。初め、欒盈は下軍で魏荘子を輔佐し、献子は彼と親近した。だから彼に倚る。趙氏は原・屏の災難によって欒氏を怨恨し、韓・趙はまさに和睦す。中行氏は秦を攻めた戦役によって欒氏を怨恨し、もとより范氏と和親す。知悼子は年少く、中行氏に命を聴いた。程鄭は公の寵幸を受けた。ただ魏氏および七輿大夫のみ欒氏に従った。

樂王鮒待坐於範宣子。或告曰:“欒氏至矣!”宣子懼。桓子曰:“奉君以走固宮,必無害也。且欒氏多怨,子為政,欒氏自外,子在位,其利多矣。既有利權,又執民柄,將何懼焉?欒氏所得,其唯魏氏乎!而可強取也。夫克亂在權,子無懈矣。”公有姻喪,王鮒使宣子墨縗冒絰,二婦人輦以如公,奉公以如固宮。

楽王鮒は范宣子の辺に侍坐した。人あって報告して言った、「欒氏が至った!」宣子は懼れた。桓子は言った、「国君に事えて固宮に跑り入れば、必ず妨害なし。しかも欒氏は怨恨多く、あなたは執政し、欒氏は外から来る。あなたは位子上に在る。利益は多い。すでに利権あり、また百姓の権柄を掌握す。なお何を怕れん。欒氏の得られる所は、おそらくただ魏氏のみでしょう!しかし強取できる。乱を平定するは権に在り。あなたは懈怠するな」と。公に姻親の喪事あり、王鮒は宣子に黒衰・蒙絰を着せ、二つの婦人が車を推して公の所に至り、公に事えて固宮に入った。

範鞅逆魏舒,則成列既乘,將逆欒氏矣。趨進,曰:“欒氏帥賊以入,鞅之父與二三子在君所矣。使鞅逆吾子。鞅請驂乘。”持帶,遂超乘,右撫劍,左援帶,命驅之出。僕請,鞅曰:“之公。”宣子逆諸階,執其手,賂之以曲沃。

范鞅は魏舒を迎え、すでに行列を排して車に上り、まさに欒氏を迎えんとした。歩を進めて言った、「欒氏は賊を率いて入った。鞅の父はあの数名とともに国君の所に在る。鞅を遣わして吾子を迎えさせた。鞅は驂乗を為るを請います」と。帯を拉し、こうして車に跳び乗り、右手は剣を按え、左手は帯を拉し、駆車して出るを命じた。御者が請示すると、鞅は言った、「公の所に至れ」と。宣子は階で迎え、その手を握り、曲沃を彼に賂した。

初,斐豹隸也,著于丹書。欒氏之力臣曰督戎,國人懼之。斐豹謂宣子曰:“苟焚丹書,我殺督戎。”宣子喜,曰:“而殺之,所不請於君焚丹書者,有如日!”乃出豹而閉之,督戎從之。逾隱而待之,督戎逾入,豹自後擊而殺之。范氏之徒在臺後,欒氏乘公門。宣子謂鞅曰:“矢及君屋,死之!”鞅用劍以帥卒,欒氏退。攝車從之,遇欒氏,曰:“樂免之,死將訟女於天。”樂射之,不中;又注,則乘槐本而覆。或以戟鉤之,斷肘而死。欒魴傷。欒盈奔曲沃,晉人圍之。

初め、斐豹は奴隷で、丹書に記載されていた。欒氏の力士を督戎と言い、国人は彼を怕れた。斐豹は宣子に言った、「もし丹書を焼掉せば、私は督戎を殺す」と。宣子は喜び、言った、「なんじが彼を殺せば、国君に丹書を焼掉するを請わざるあらば、太陽のごとくあれ!」こうして豹を放出して關じた。督戎は彼に跟った。矮牆を越えて待ち、督戎が越えて入ると、豹は後ろから彼を撃殺した。范氏の徒衆は台の後ろにあり、欒氏は公門に登った。宣子は鞅に言った、「箭は国君の屋に至る。これのために死せ!」鞅は剣をもって士卒を率い、欒氏は退去した。車に跳び乗りて追趕し、欒氏に遇い、言った、「楽は私を放過せよ。死せばまさに天上でなんじと争訟せん」と。楽は彼を射たが、中らず。また箭を搭うるに、車子は槐樹の根に碰上して翻った。人あって戟をもって彼を鈎り、肘を砍断して死んだ。欒魴は傷を受けた。欒盈は曲沃に逃げ奔り、晋人は彼を包囲した。

秋,齊侯伐衛。先驅,谷榮御王孫揮,召揚為右。申驅,成秩御莒恆,申鮮虞之傅摯為右。曹開御戎,晏父戎為右。貳廣,上之登御邢公,盧蒲癸為右。啟,牢成御襄罷師,狼蘧疏為右。胠,商子車御侯朝,桓跳為右。大殿,商子游御夏之禦寇,崔如為右,燭庸之越駟乘。

秋、斉侯は衛を攻めた。先鋒は、穀榮が王孫揮のために車を駕し、召揚が車右を為った。第二隊は、成秩が莒恒のために車を駕し、申鮮虞の子傅摯が車右を為った。曹開が戎車を駕し、晏父戎が車右を為った。副車は、上之登が邢公のために車を駕し、盧蒲癸が車右を為った。左翼は、牢成が襄罷師のために車を駕し、狼蘧疏が車右を為った。右翼は、商子車が侯朝のために車を駕し、桓跳が車右を為った。大殿は、商子游が夏之御寇のために車を駕し、崔如が車右を為り、燭庸之越が駟乗を為った。

自衛將遂伐晉。晏平仲曰:“君恃勇力以伐盟主,若不濟,國之福也。不德而有功,憂必及君。”崔杼諫曰:“不可。臣聞之,小國間大國之敗而毀焉,必受其咎。君其圖之!”弗聽。陳文子見崔武子,曰:“將如君何?”武子曰:“吾言於君,君弗聽也。以為盟主,而利其難。群臣若急,君於何有?子姑止之。”

衛より将に続けて晋を攻めんとした。晏平仲は言った、「君王は勇力を恃んで盟主を攻める。もし成功せずば、是れ国の福。徳なくして功労あれば、憂患は必ず君王の身に至る」と。崔杼は進諫して言った、「不可。臣が聞くに、小国は大国の失敗の隙を鑚けてこれを毀壊すれば、必ず災咎を承受す。君王はなお謀れ!」聴かず。陳文子は崔武子に見えて言った、「まさに国君をどうせん」と。武子は言った、「私は国君に言ったが、国君は聴かず。彼を盟主と為すに、かえってその災難を利用す。群臣もし急ならば、国君はなお何かあらん。あなたはしばらく停止せよ」と。

文子退,告其人曰:“崔子將死乎!謂君甚,而又過之,不得其死。過君以義,猶自抑也,況以惡乎?”齊侯遂伐晉,取朝歌,為二隊,入孟門,登大行,張武軍於熒庭,戍郫邵,封少水,以報平陰之役,乃還。趙勝帥東陽之師以追之,獲晏犛。八月,叔孫豹帥師救晉,次於雍榆,禮也。

文子は退き、その人に告げて言った、「崔子はまさに死せんか!国君を过分と言って、自らまた彼に過ぐ。善死を得られない。義をもって国君に過ぐるも、なお自ら抑制するを要す。まして悪をもってせんや」と。斉侯はこうして晋を攻め、朝歌を取得し、二隊に分かれ、孟門に入り、太行に登り、熒庭に武軍を設け、郫邵を戍守し、少水で土を封じて功を記し、平陰の戦に報復し、こうして帰った。趙勝は東陽の軍を率いて追趕し、晏牦を俘獲した。八月、叔孫豹は軍を率いて晋を救い、雍楡に駐屯した。これは礼に合う。

季武子無適子,公彌長,而愛悼子,欲立之。訪於申豐,曰:“彌與紇,吾皆愛之,欲擇才焉而立之。”申豐趨退,歸,盡室將行。他日,又訪焉,對曰:“其然,將具敝車而行。”乃止。訪於臧紇,臧紇曰:“飲我酒,吾為子立之。”

季武子に嫡子なく、公彌は年長なれど、かえって悼子を喜愛し、彼を立てようと欲した。申豐に諮詢して言った、「彌と紇は、私は皆喜愛す。才能あるを選んで立てたい」と。申豊は歩を進めて退下し、帰り、家を整えてまさに行かんとした。後のある日、また諮詢すると、答えて言った、「もしこのようであれば、まさに破車を備えて行かん」と。こうして停止した。臧紇に諮詢すると、臧紇は言った、「我に酒を飲ませよ。私はあなたのために彼を立てん」と。

季氏飲大夫酒,臧紇為客。既獻,臧孫命北面重席,新尊絜之。召悼之,降,逆之。大夫皆起。及旅,而召公鉏,使與之齒,季孫失色。

季氏は大夫に酒を飲ませ、臧紇を客人とした。すでに酒を献じ、臧孫は朝北に座席を重畳するを命じ、新たな酒尊を拭き潔くした。悼子を召し、階を下りて迎えた。大夫は皆身を起こした。旅酬に至って、やっと公鉏を召し、彼らと年齢によって排列せしめた。季孫は色を変えた。

季氏以公鉏為馬正,慍而不出。閔子馬見之,曰:“子無然!禍福無門,唯人所召。為人子者,患不孝,不患無所。敬共父命,何常之有?若能孝敬,富倍季氏可也。奸回不軌,禍倍下民可也。”公鉏然之。敬共朝夕,恪居官次。季孫喜,使飲己酒,而以具往,盡舍旃。故公鉏氏富,又出為公左宰。

季氏は公鉏に馬正を為らせたが、惱怒して門を出ず。閔子馬は彼に見えて言った、「あなたはこのようになるな!禍福に門なく、ただ人の召く所。子を為るは、不孝を憂え、処所なきを憂えず。父の命令を敬恭すれば、何の常規があらん。もし能く孝敬せば、富は季氏に加倍すべし。奸邪不軌なれば、禍は下民に加倍すべし」と。公鉏は然とした。朝夕に敬恭し、官位に謹んで処した。季孫は喜び、彼に自らに酒を飲ませ、器具を帯びて往き、全部留めた。だから公鉏氏は富み、また出て公の左宰を為った。

孟孫惡臧孫,季孫愛之。孟氏之御騶豐點好羯也,曰:“從餘言,必為孟孫。”

孟孫は臧孫を悪み、季孫は彼を喜愛した。孟氏の御騶豊点は羯を喜好し、言った、「わが言に従えば、必ず孟孫を為さん」と。

再三云,羯從之。孟莊子疾,豐點謂公鉏:“苟立羯,請仇臧氏。”公鉏謂季孫曰:“孺子秩,固其所也。若羯立,則季氏信有力於臧氏矣。”弗應。己卯,孟孫卒,公鉏奉羯立於戶側。季孫至,入,哭,而出,曰:“秩焉在?”公鉏曰:“羯在此矣!”季孫曰:“孺子長。”公鉏曰:“何長之有?唯其才也。且夫子之命也。”遂立羯。秩奔邾。

再三言い、羯は彼に従った。孟荘子は病み、豊点は公鉏に言った、「もし羯を立てば、臧氏を仇視することを請う」と。公鉏は季孫に言った、「孺子秩は、もとよりその位である。もし羯が立てば、季氏は臧氏に対して確かに力あり」と。許さず。己卯、孟孫が死去し、公鉏は羯に事えて門の旁に立たせた。季孫は至り、入り、哭し、然る後出て言った、「秩はどこに在る」と。公鉏は言った、「羯はここに在る!」季孫は言った、「孺子は年長である」と。公鉏は言った、「何の年長があらん。ただその才能を見るのみ。しかも夫子の命令である」と。こうして羯を立てた。秩は邾に出奔した。

臧孫入,哭甚哀,多涕。出,其御曰:“孟孫之惡子也,而哀如是。季孫若死,其若之何?”臧孫曰:“季孫之愛我,疾疢也。孟孫之惡我,藥石也。美疢不如惡石。夫石猶生我,疢之美,其毒滋多。孟孫死,吾亡無日矣。”

臧孫は入り、哭くこと甚だ哀傷し、眼涙は多かった。出て、その御者は言った、「孟孫はあなたを悪むに、哀傷することこのよう。季孫もし死せば、まさにどうせん」と。臧孫は言った、「季孫が私を喜愛するは、疾病である。孟孫が私を悪むは、薬石である。美なる疾病は悪なる薬石に如かず。石はなお我を生かす能く、疾病はたとえ美なりとも、毒素はさらに多し。孟孫が死した。我が滅亡は数日なし」と。

孟氏閉門,告於季秋曰:“臧氏將為亂,不使我葬。”季孫不信。臧孫聞之,戒。冬十月,孟氏將闢,藉除於臧氏。臧孫使正夫助之,除於東門,甲從己而視之。孟氏又告季孫。季孫怒,命攻臧氏。乙亥,臧紇斬鹿門之關以出,奔邾。

孟氏は門を關じて、季孫に告げて言った、「臧氏はまさに乱を為さんとし、われわれに安葬を許さず」と。底本の「季秋」は即ち季孫。季孫は信じず。臧孫は聞き、警戒した。冬十月、孟氏はまさに墓道を挖らんとして、臧氏に除役を借りた。臧孫は正夫を遣わして助けさせ、東門で清除し、甲士は自らを跟えて見に行った。孟氏はまた季孫に告げた。季孫は怒り、臧氏を攻めるを命じた。乙亥、臧紇は鹿門の門閂を砍断して出て、邾に出奔した。

初,臧宣叔娶於鑄,生賈及為而死。繼室以其侄,穆姜之姨子也。生紇,長於公宮。姜氏愛之,故立之。臧賈、臧為出在鑄。臧武仲自邾使告臧賈,且致大蔡焉,曰:“紇不佞,失守宗祧,敢告不弔。紇之罪,不及不祀。子以大蔡納請,其可。”賈曰:“是家之禍也,非子之過也。賈聞命矣。”再拜受龜。使為以納請,遂自為也。臧孫如防,使來告曰:“紇非能害也,知不足也。非敢私請!苟守先祀,無廢二勳,敢不闢邑。”乃立臧為。臧紇致防而奔齊。其人曰:“其盟我乎?”臧孫曰:“無辭。”將盟臧氏,季孫召外史掌惡臣,而問盟首焉,對曰:“盟東門氏也,曰:‘毋或如東門遂,不聽公命,殺適立庶。’盟叔孫氏也,曰:‘毋或如叔孫僑如,欲廢國常,蕩覆公室。’”季孫曰:“臧孫之罪,皆不及此。”

初め、臧宣叔は鑄国から妻を娶り、賈および為を生んで死んだ。その姪女をもって継室と為し、是れ穆姜の姨母の女である。紇を生み、公宮で長じた。姜氏は彼を喜愛したので、彼を立てた。臧賈・臧為は出て鑄に居った。臧武仲は邾より人を遣わして臧賈に告げ、かつ大蔡の龜を送りて言った、「紇は不才、宗廟を失守した。敢えて吊問を善くせざるを告ぐ。紇の罪は、なお祭祀を断絶するに至らず。あなたは大蔡をもって交納して請えば、おそらく可」と。賈は言った、「これは家の禍で、あなたの過ちではない。賈は命令を聞いた」と。再拜して龜を受けた。為を遣わして交納して請わせるに、こうして自らのために請うた。臧孫は防に至り、人を遣わして告げさせて言わせた、「紇は能く人を害するにあらず。智謀の足らざるである。敢えて私に請わず!もし先人の祭祀を守り、両位の功勲を廃棄せざれば、敢えて城邑を離れざらん」と。こうして臧為を立てた。臧紇は防を交出して斉に出奔した。その人は言った、「われわれと盟約を結ぶか」と。臧孫は言った、「盟辞なし」と。まさに臧氏と盟約を結ばんとして、季孫は悪臣を掌管する外史を召し、盟辞の開頭を問うと、答えて言った、「東門氏と盟約を結ぶに、言う、『東門遂のごとくするな。公の命令を聴かず、嫡を殺し庶を立てた』と。叔孫氏と盟約を結ぶに、言う、『叔孫僑如のごとくするな。国家の常規を廃棄せんと欲し、公室を傾覆した』と」と。季孫は言った、「臧孫の罪は、皆このに至らず」と。

孟椒曰:“盍以其犯門斬關?”季孫用之。乃盟臧氏曰:“無或如臧孫紇,幹國之紀,犯門斬關。”臧孫聞之,曰:“國有人焉!誰居?其孟椒乎!”晉人克欒盈於曲沃,盡殺欒氏之族黨。欒魴出奔宋。書曰:“晉人殺欒盈。”

孟椒は言った、「何ぞ彼が城門に沖犯して門閂を砍断したを以てせざる」と。季孫は採用した。こうして臧氏と盟約を結んで言った、「臧孫紇のごとくするな。国家の法紀に触犯し、城門に沖犯して門閂を砍断した」と。臧孫は聞いて言った、「国に人あり!是れ誰ぞ。おそらく孟椒であろう!」晋人は曲沃で欒盈を攻克し、欒氏の族党を殺し尽くした。欒魴は宋に出奔した。《春秋》に記して「晋人殺欒盈」と。

不言大夫,言自外也。

大夫と言わざるは、外から入ったを言う。

齊侯還自晉,不入。遂襲莒,門於且於,傷股而退。明日,將復戰,期於壽舒。杞殖、華還載甲,夜入且於之隧,宿於莒郊。明日,先遇莒子於蒲侯氏。莒子重賂之,使無死,曰:“請有盟。”華周對曰:“貪貨棄命,亦君所惡也。昏而受命,日未中而棄之,何以事君?”莒子親鼓之,從而伐之,獲杞梁。莒人行成。

斉侯は晋から帰り、城に入らず。こうして莒を襲撃し、且于を攻め、大腿を傷つけて退いた。翌日、まさに再び交戦せんとして、寿舒で約定した。杞殖・華還は甲士を装い、夜に且于の隧道に入り、莒の郊外に住んだ。翌日、先に蒲侯氏で莒子に遇った。莒子は重ねて彼らに賂し、彼らに死なざらしめんとして言った、「盟約を結ぶことを請います」と。華周は答えて言った、「貨物を貪りて命令を拋棄するは、また君王の悪む所。黄昏に命令を受けて、太陽がまだ中午に至らずして拋棄するは、何をもって君王に事えん」と。莒子は自ら鼓を撃ち、跟って彼らを攻め、杞梁を俘獲した。莒人は和を求めた。

齊侯歸,遇杞梁之妻於郊,使吊之。辭曰:“殖之有罪,何辱命焉?若免於罪,猶有先人之敝廬在,下妾不得與郊吊。”齊侯吊諸其室。

斉侯は帰り、郊外で杞梁の妻に遇い、人を遣わして吊問させた。推辞して言った、「殖もし罪あれば、どうして辱くも命令を臨まん。もし罪を免れれば、なお先人の破房子あり。下妾は郊外の吊問に参与できません」と。斉侯はその家に至りて吊問した。

齊侯將為臧紇田。臧孫聞之,見齊侯,與之言伐晉,對曰:“多則多矣!抑君似鼠。夫鼠晝伏夜動,不穴於寢廟,畏人故也。今君聞晉之亂而後作焉。寧將事之,非鼠如何?”乃弗與田。

斉侯はまさに臧紇に田を与えんとした。臧孫は聞き、斉侯に見え、彼と晋を攻めるを談ずるに、答えて言った、「多しは多し!ただ君王は老鼠のごとし。老鼠は昼は蔵れ夜は動く。寝廟に洞を打たざるは、人を怕るる故である。今君王は晋の乱を聞いて然る後行動す。寧ろこれに事えよ。老鼠でなくして何ぞ」と。こうして田を与えず。

仲尼曰:“知之難也。有臧武仲之知,而不容於魯國,抑有由也。作不順而施不恕也。《夏書》曰:‘念茲在茲。’順事、恕施也。”

仲尼は言った、「智は難しい。臧武仲の智ありても、魯に容れられる能わず。なお故あり。為すに順ならずして、施与するに恕ならず。《夏書》に言う、『これを念ずるはこれに在り』と。事に順い、恕道をもって施与するを言う」と。

◇襄公二十四年

◇襄公二十四年

【經】二十有四年春,叔孫豹如晉。仲孫羯帥師侵齊。夏,楚子伐吳。秋七月甲子朔,日有食之,既。齊崔杼帥師伐莒。大水。八月癸巳朔,日有食之。公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子於夷儀。冬,楚子、蔡侯、陳侯、許男伐鄭。公至自會。陳針宜咎出奔楚。叔孫豹如京師。大飢。

【経】二十四年春、叔孫豹は晋に行った。仲孫羯は軍を率いて斉を侵伐した。夏、楚子は呉を攻めた。秋七月甲子の朔日、日食あり、食尽した。斉の崔杼は軍を率いて莒を攻めた。大水あり。八月癸巳の朔日、日食があった。襄公は晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と夷儀で会見した。冬、楚子・蔡侯・陳侯・許男は鄭を攻めた。襄公は会から帰った。陳の針宜咎は楚に出奔した。叔孫豹は京師に行った。大饑饉あった。

【傳】二十四年春,穆叔如晉。範宣子逆之,問焉,曰:“古人有言曰,‘死而不朽’,何謂也?”穆叔未對。宣子曰:“昔匄之祖,自虞以上,為陶唐氏,在夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周為唐杜氏,晉主夏盟為范氏,其是之謂乎?”穆叔曰:“以豹所聞,此之謂世祿,非不朽也。魯有先大夫曰臧文仲,既沒,其言立。其是之謂乎!豹聞之,大上有立德,其次有立功,其次有立言,雖久不廢,此之謂不朽。若夫保姓受氏,以守宗祊,世不絕祀,無國無之,祿之大者,不可謂不朽。”

【伝】二十四年春、穆叔は晋に行った。范宣子は彼を迎え、彼に問うて言った、「古人に言あり、『死して朽ちず』とは、何の意か」と。穆叔はまだ答えず。宣子は言った、「昔匄の祖先は、虞以上は陶唐氏、夏には御龍氏、商には豕韋氏、周には唐杜氏、晋が華夏の盟会を主持するは范氏である。おそらくこれを言うのでしょうか」と。穆叔は言った、「豹の聞く所を以てすれば、これを世禄と言う。不朽ではない。魯に先大夫あって臧文仲と言う。すでに死すれど、その言はなお立つ。おそらくこれを言うのでしょう!豹が聞くに、最上は徳を立て、其の次は功を立て、其の次は言を立つ。たとえ久しくとも廃棄せず。これを不朽と言う。姓氏を保有し氏号を受けて、もって宗廟を守り、世々祭祀を断絶せざるに至るは、国なくしてなきことなし。是れ禄の大なる、不朽と言うべからず」と。

範宣子為政,諸侯之幣重。鄭人病之。二月,鄭伯如晉。子產寓書於子西以告宣子,曰:“子為晉國,四鄰諸侯,不聞令德,而聞重幣,僑也惑之。僑聞君子長國家者,非無賄之患,而無令名之難。夫諸侯之賄聚於公室,則諸侯貳。若吾子賴之,則晉國貳。諸侯貳,則晉國壞。晉國貳,則子之家壞。何沒沒也!將焉用賄?夫令名,德之輿也。德,國家之基也。有基無壞,無亦是務乎!有德則樂,樂則能久。《詩》云:‘樂只君子,邦家之基。’有令德也夫!‘上帝臨女,無貳爾心。’有令名也夫!恕思以明德,則令名載而行之,是以遠至邇安。毋寧使人謂子‘子實生我’,而謂‘子濬我以生’乎?象有齒以焚其身,賄也。”宣子說,乃輕幣。是行也,鄭伯朝晉,為重幣故,且請伐陳也。鄭伯稽首,宣子辭。

范宣子は執政し、諸侯の币は重かった。鄭人はこれを病とした。二月、鄭伯は晋に行った。子産は書信を子西に托付して宣子に告げさせて言わせた、「あなたは晋を治め、四隣の諸侯は美徳を聞かずして、かえって重币を聞く。僑はこれに迷惑す。僑が聞くに、君子の国を掌管するは、財貨なきを憂患するにあらずして、美名なきに難しとす。諸侯の財貨が公室に聚れば、諸侯は即ち二心あり。もし吾子がこれに倚りて利を得れば、晋は即ち二心あり。諸侯に二心あれば、晋は即ち毀壞す。晋に二心あれば、あなたの家は即ち毀壞す。なぜこのように沉迷する!まさにどこに財貨を用いん。美名は、徳の車子。徳は、国家の根基。根基あれば毀壞せず。なおこれに致力すべからずや。徳あれば快楽し、快楽すれば即ち長久す。《詩》に言う、『楽しきかな君子、邦家の根基なり』と。美徳あるである!『上帝はなんじを臨視す。なんじの心に二を為すな』と。美名あるである!恕道をもって思索して徳行を顕明せば、美名は即ちそれを承載して実行す。これによって遠は到来し近は安定す。寧ろ人に言わしめよ『あなたは実に我を生かす』と。しかして『あなたは我を榨取して自らを養う』と言わせんや。象は牙あってこそ自らを毀滅す。即ち財貨である」と。宣子は喜び、こうして币を軽減した。この出行は、鄭伯が晋に朝見したは、重币の故のためであり、かつ陳を攻めるを請うた。鄭伯は叩頭し、宣子は推辞した。

子西相,曰:“以陳國之介恃大國而陵虐於敝邑,寡君是以請罪焉。敢不稽首。”

子西は輔佐して言った、「陳が大国を恃んで敝邑を陵虐するがために、寡君はこれによって罪を請う。敢えて叩頭せざらんや」と。

孟孝伯侵齊,晉故也。

孟孝伯は斉を侵伐した。晋の故のためである。

夏,楚子為舟師以伐吳,不為軍政,無功而還。

夏、楚子は水軍を組成して呉を攻め、軍政を整治せず、功労なくして帰った。

齊侯既伐晉而懼,將欲見楚子。楚子使薳啟強如齊聘,且請期。齊社,搜軍實,使客觀之。陳文子曰:“齊將有寇。吾聞之,兵不戢,必取其族。”

斉侯はすでに晋を攻めたるも怕れ、まさに楚子に見えんとした。楚子は䓕啓彊を遣わして斉に聘問させ、かつ日期を請わせた。斉は社神を祭祀し、軍実を検閲し、客人に観せしめた。陳文子は言った、「斉はまさに寇あらん。私が聞くに、兵器を収斂せざれば、必ずその族を危害す」と。

秋,齊侯聞將有晉師,使陳無宇從薳啟強如楚,辭,且乞師。崔杼帥師送之,遂伐莒,侵介根。

秋、斉侯はまさに晋軍あらんとするを聞き、陳無宇を遣わして䓕啓彊に従いて楚に行かせ、致歉し、かつ出兵を請わせた。崔杼は軍を率いて送行し、こうして莒を攻め、介根を侵伐した。

會於夷儀,將以伐齊,水,不克。

夷儀で会見し、まさに斉を攻めんとしたが、大水のために、成功しなかった。

冬,楚子伐鄭以救齊,門於東門,次於棘澤。諸侯還救鄭。晉侯使張骼、輔躒致楚師,求御於鄭。鄭人卜宛射犬,吉。子大叔戒之曰:“大國之人,不可與也。”對曰:“無有眾寡,其上一也。”大叔曰:“不然,部婁無松柏。”二子在幄,坐射犬於外,既食而後食之。使御廣車而行,己皆乘乘車。將及楚師,而後從之乘,皆踞轉而鼓琴。近,不告而馳之。皆取胄於櫜而胄,入壘,皆下,搏人以投,收禽挾囚。弗待而出。皆超乘,抽弓而射。既免,復踞轉而鼓琴,曰:“公孫!同乘,兄弟也。胡再不謀?”對曰:“曩者志入而已,今則怯也。”皆笑,曰:“公孫之亟也。”

冬、楚子は鄭を攻めて斉を救援し、東門を攻め、棘沢に駐屯した。諸侯は帰りて鄭を救った。晋侯は張骼・輔躒を遣わして楚軍に挑戦させ、鄭に御者を求めた。鄭人は宛射犬のために卜に問うと、吉利。子大叔は彼に告誡して言った、「大国の人は、彼らと平起平坐すべからず」と。答えて言った、「人多きと少なきとを問わず、上に在るは同一である」と。大叔は言った、「このようではない。小土山に松柏なし」と。あの両人は帳幕の裏に在り、射犬を外面に坐させ、自ら食い畢って然る後彼に食わせた。彼に広車を駕して行かせ、自らは皆乗車に乗った。まさに楚軍に至らんとして、然る後彼と同乗し、皆車の横木上に蹲りて琴を彈いた。近づくと、告げずして敵営に馳向かった。皆袋の中から頭盔を取り出して戴上し、営塁に入り、皆車を下り、人を抓住して扔出し、俘虜を收拾し囚犯を夾えた。彼を待たずして出た。皆車に跳び乗り、弓を抽きて射撃した。すでに危険を免れ、また横木上に蹲りて琴を彈き、言った、「公孫!同乗は兄弟である。なぜ二度も商量せざるか」と。答えて言った、「先にはただ入るを思うのみ。今は即ち胆怯である」と。皆笑いて言った、「公孫は真に急ぐ」と。

楚子自棘澤還,使薳啟強帥師送陳無宇。

楚子は棘沢から帰り、䓕啓彊を遣わして軍を率いて陳無宇を送らせた。

吳人為楚舟師之役故,召舒鳩人,舒鳩人叛楚。楚子師於荒浦,使沈尹壽與師祁犁讓之。舒鳩子敬逆二子,而告無之,且請受盟。二子覆命,王欲伐之。薳子曰:“不可。彼告不叛,且請受盟,而又伐之,伐無罪也。姑歸息民,以待其卒。卒而不貳,吾又何求?若猶叛我,無辭有庸。”乃還。

呉人は楚の水軍の戦の故のために、舒鳩人を召し、舒鳩人は楚に背叛した。楚子は荒浦に軍を駐め、沈尹寿と師祁犁を遣わして彼らを責めさせた。舒鳩子は恭敬に両人を迎え、無此の事を告げ、かつ盟約を接受するを請い求めた。両人は帰って復命し、王は攻めようと欲した。䓕子は言った、「不可。彼らは背叛せずと告げ、かつ盟約を接受するを請い求めたに、かえって彼らを攻めるは、無罪を攻める。しばらく帰りて百姓を休息させ、もってその結果を待て。結果に二心なくば、われわれはまた何を求めん。もしなおわれわれを背叛せば、彼らに言なくわれわれに功労あり」と。こうして帰った。

陳人復討慶氏之黨,針宜咎出奔楚。

陳人は再び慶氏の党羽を討伐し、針宜咎は楚に出奔した。

齊人城郟。穆叔如周聘,且賀城。王嘉其有禮也,賜之大路。

斉人は郟城を修築した。穆叔は周に聘問し、かつ城を築いたを祝賀した。天子は彼の礼あるを嘉許し、彼に大路を賜った。

晉侯嬖程鄭,使佐下軍。鄭行人公孫揮如晉聘。程鄭問焉,曰:“敢問降階何由?”子羽不能對。歸以語然明,然明曰:“是將死矣。不然將亡。貴而知懼,懼而思降,乃得其階,下人而已,又何問焉?且夫既登而求降階者,知人也,不在程鄭。其有亡釁乎?不然,其有惑疾,將死而憂也。”

晋侯は程鄭を寵幸し、彼に下軍を輔佐させた。鄭の行人公孫揮は晋に聘問した。程鄭は彼に問うて言った、「敢えて官階を降低するはどこから来るか問います」と。子羽は答える能わず。帰りて然明に告げると、然明は言った、「この人はまさに死せん。さもなくばまさに逃亡せん。尊貴にして懼れるを知り、懼れれば即ち下降せんと欲し、こうしてその階位を得る。ただ人の下に居るのみ。また何を問わん。しかもすでに登りて下降せんを求むるは、智者である。程鄭に在らず。おそらく逃亡の迹象あらんか。さもなくば、おそらく迷惑の病あり。まさに死して憂慮せん」と。

◇襄公二十五年

◇襄公二十五年

【經】二十有五年春,齊崔杼帥師伐我北鄙。夏五月乙亥,齊崔杼弒其君光。

【経】二十五年春、斉の崔杼は軍を率いてわが国の北部辺境を攻めた。夏五月乙亥、斉の崔杼はその国君光を弑殺した。

公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子於夷儀。六月壬子,鄭公孫舍之帥師入陳。秋八月己巳,諸侯同盟於重丘。公至自會。衛侯入於夷儀。楚屈建帥師滅舒鳩。冬,鄭公孫夏帥師伐陳。十有二月,吳子遏伐楚,門於巢,卒。

襄公は晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と夷儀で会見した。六月壬子、鄭の公孫舍之は軍を率いて陳に入った。秋八月己巳、諸侯は重丘で共に盟を結んだ。襄公は会から帰った。衛侯は夷儀に入った。楚の屈建は軍を率いて舒鳩を滅ぼした。冬、鄭の公孫夏は軍を率いて陳を攻めた。十二月、呉子遏は楚を攻め、巢の城門を攻め、死去した。

【傳】二十五年春,齊崔杼帥師伐我北鄙,以報孝伯之師也。公患之,使告於晉。孟公綽曰:“崔子將有大志,不在病我,必速歸,何患焉!其來也不寇,使民不嚴,異於他日。”齊師徒歸。

【伝】二十五年春、斉の崔杼は軍を率いてわが国の北部辺境を攻めた。孝伯の出兵に報復するである。襄公は憂患し、人を遣わして晋に告げた。孟公綽は言った、「崔子はまさに大志あらん。われわれを困病するに在らず。必ず速やかに帰る。何を憂患せん!彼が来て侵掠せず、百姓を役使して厳しくせず、往日と異なる」と。斉軍は手を空しくして帰った。

齊棠公之妻,東郭偃之姊也。東郭偃臣崔武子。棠公死,偃御武子以吊焉。

斉の棠公の妻は、東郭偃の姉である。東郭偃は崔武子の家臣を為った。棠公が死すと、偃は武子のために車を駕して吊問に往った。

見棠姜而美之,使偃取之。偃曰:“男女辨姓,今君出自丁,臣出自桓,不可。”

棠姜を見てその美しきを覚え、偃に自らのために彼女を娶らせた。偃は言った、「男女は姓を分別するを要す。今君王は丁公より出で、臣は桓公より出づ。不可」と。

武子筮之,遇《困》ⅷⅴ之《大過》ⅷⅳ。史皆曰:“吉。”示陳文子,文子曰:“夫從風,風隕,妻不可娶也。且其《繇》曰:‘困於石,據於蒺藜,入於其宮,不見其妻,兇。’困於石,往不濟也。據於蒺藜,所恃傷也。入於其宮,不見其妻,兇,無所歸也。”崔子曰:“嫠也何害?先夫當之矣。”遂取之。莊公通焉,驟如崔氏。以崔子之冠賜人,侍者曰:“不可。”公曰:“不為崔子,其無冠乎?”崔子因是,又以其間伐晉也,曰:“晉必將報。”欲弒公以說於晉,而不獲間。

武子は占筮し、《困》を得て《大過》に変わった。史官は皆言った、「吉利」と。陳文子に見せると、文子は言った、「夫は風に従い、風は墜落す。妻は娶るべからず。しかもその繇辞に言う、『石に困み、蒺藜に拠り、その宮に入りて、その妻を見ず。凶』と。石に困むは、往けども成就せず。蒺藜に拠るは、依拠する所は傷害せん。その宮に入りて、その妻を見ずとは、凶。帰る処なし」と。崔子は言った、「寡婦に何の妨害があらん。先夫はすでに承当した」と。こうして彼女を娶った。荘公は彼女と私通し、屢々崔氏に至った。崔子の帽子を人に賜るに、侍者は言った、「不可」と。公は言った、「崔子でなければ、帽子なしとや」と。崔子はこれによって、また彼が隙を鑚けて晋を攻めたによって、言った、「晋は必ずまさに報復せん」と。公を弑殺して晋を取悦せんと欲したが、空隙を得なかった。

公鞭侍人賈舉而又近之,乃為崔子間公。

公は侍人賈举を鞭打してかえって彼に親近した。こうして崔子のために公の空隙を窺探した。

夏五月,莒為且於之役故,莒子朝於齊。甲戌,饗諸北郭。崔子稱疾,不視事。乙亥,公問崔子,遂從姜氏。姜入於室,與崔子自側戶出。公拊楹而歌。侍人賈舉止眾從者,而入閉門。甲興,公登臺而請,弗許;請盟,弗許;請自刃於廟,勿許。皆曰:“君之臣杼疾病,不能聽命。近於公宮,陪臣幹掫有淫者,不知二命。”公逾牆。又射之,中股,反隊,遂弒之。賈舉,州綽、邴師、公孫敖、封具、鐸父、襄伊、僂堙皆死。祝佗父祭於高唐,至,覆命。不說弁而死於崔氏。申蒯侍漁者,退,謂其宰曰:“爾以帑免,我將死。”其宰曰:“免,是反子之義也。”與之皆死。崔氏殺融蔑於平陰。

夏五月、莒は且于の戦の故のために、莒子は斉に朝見した。甲戌、北郭で宴享した。崔子は病を称して、事務を処理せず。乙亥、公は崔子を問候し、こうして姜氏に従った。姜は内室に入り、崔子とともに側門から出た。公は柱を拍ちて歌った。侍人賈举は衆の随従を拦え、入って門を關じた。甲士が起こり、公は台に登りて請うも、許されず。盟約を結ぶを請うも、許されず。廟で自殺するを請うも、許されず。皆言った、「君王の臣杼は病重く、命を聴く能わず。公宮に近く、陪臣は夜を巡りて淫者を捉えた。第二种の命令を知らず」と。公は牆を翻る。また彼を射て、大腿に中り、墜ちた。こうして彼を弑殺した。賈举・州綽・邴師・公孫敖・封具・鐸父・襄伊・僂堙は皆死んだ。祝佗父は高唐で祭祀し、至りて、復命した。弁帽を脱がずして崔氏で死んだ。申蒯は漁を侍る者で、退き、その家宰に言った、「なんじは家属を帯びて逃げよ。私はまさに死せん」と。その家宰は言った、「逃げるは、あなたの義に違反す」と。彼とともに死んだ。崔氏は平陰で融蔑を殺した。

晏子立於崔氏之門外,其人曰:“死乎?”曰:“獨吾君也乎哉?吾死也。”

晏子は崔氏の門外に立ち、その人は言った、「死するか」と。言った、「ただ我一人の国君か。我死せん」と。

曰:“行乎?”曰:“吾罪也乎哉?吾亡也。”“歸乎?”曰:“君死,安歸?君民者,豈以陵民?社稷是主。臣君者,豈為其口實,社稷是養。故君為社稷死,則死之;為社稷亡,則亡之。若為己死而為己亡,非其私暱,誰敢任之?且人有君而弒之,吾焉得死之,而焉得亡之?將庸何歸?”門啟而入,枕屍股而哭。興,三踴而出。人謂崔子:“必殺之!”崔子曰:“民之望也!舍之,得民。”盧蒲癸奔晉,王何奔莒。

言った、「走るか」と。言った、「我の罪か。我逃亡せん」「帰るか」と。言った、「国君が死した。どこに帰らん。百姓の国君を為るは、あに百姓を陵駕せんとするか。是れ社稷を主持す。国君の臣を為るは、あにその俸禄のためか。是れ社稷を養護す。だから国君が社稷のために死すれば、即ち彼のために死す。社稷のために逃亡すれば、即ち彼のために逃亡す。もし自らのために死し、自らのために逃亡するは、彼の私人親暱にあらざれば、誰が敢えて担当せん。しかも他人に国君あってかえって彼を弑殺するに、我はどうして彼のために死せん、どうして彼のために逃亡せん。まさにどこに帰らん」と。門が開きて入り、尸を大腿に枕して哭いた。起き、脚を跳らせること三度して然る後出た。人あって崔子に言った、「必ず彼を殺せ!」崔子は言った、「是れ百姓の仰望する人!彼を放過せば、民心を得る能し」と。盧蒲癸は晋に出奔し、王何は莒に出奔した。

叔孫宣伯之在齊也,叔孫還納其女於靈公。嬖,生景公。丁丑,崔杼立而相之。慶封為左相。盟國人於大宮,曰:“所不與崔、慶者。”晏子仰天嘆曰:“嬰所不唯忠於君利社稷者是與,有如上帝。”乃歃。辛巳,公與大夫及莒子盟。

叔孫宣伯が斉に在った時、叔孫還はその女を霊公に送った。寵を受け、景公を生んだ。丁丑、崔杼は彼を立てて輔佐した。慶封は左相を為った。太宮で国人と盟約を結んで言った、「崔・慶に親附せざるあらば」と。晏子は天を仰ぎて歎息して言った、「嬰もしただ国君に忠で社稷に利あるに親附せざれば、上帝のごとくあれ」と。こうして歃血した。辛巳、公は大夫および莒子と盟約を結んだ。

大史書曰:“崔杼弒其君。”崔子殺之。其弟嗣書而死者,二人。其弟又書,乃舍之。南史氏聞大史盡死,執簡以往。聞既書矣,乃還。

太史は記載して言った、「崔杼はその国君を弑殺した」と。崔子は彼を殺した。その弟は接続して記載し、こうして死したるは、二人あり。その弟はまた記載し、こうして放過した。南史氏は太史が皆死したを聞き、簡を執りて往かんとした。すでに記載したを聞き、こうして帰った。

閭丘嬰以帷縛其妻而載之,與申鮮虞乘而出,鮮虞推而下之,曰:“君昏不能匡,危不能救,死不能死,而知匿其暱,其誰納之?”行及弇中,將舍。嬰曰:“崔、慶其追我!”鮮虞曰:“一與一,誰能懼我?”遂舍,枕轡而寢,食馬而食。駕而行,出弇中,謂嬰曰:“速驅之!崔、慶之眾,不可當也。”遂來奔。

閭丘嬰は帷幕をもって妻を綁して車に装い、申鮮虞と同乗して出ると、鮮虞は彼女を車から推し下ろして言った、「国君の昏乱を匡正する能わず、危険を救援する能わず、死して従って死する能わずして、かえって親暱の人を藏匿するを知るは、誰が接納せん」と。弇中に至りて、まさに宿せんとした。嬰は言った、「崔・慶はおそらく我を追わん!」鮮虞は言った、「一対一ならば、誰が我を懼れしめん」と。こうして宿り、轡を枕して睡り、馬を喂いて然る後自ら食った。車を駕して行き、弇中を出て、嬰に言った、「疾く車を駆れ!崔・慶の兵衆は、抵当すべからず」と。こうして奔り来た。

崔氏側莊公於北郭。丁亥,葬諸士孫之裡,四翣,不蹕,下車七乘,不以兵甲。

崔氏は荘公の棺側を北郭に放った。丁亥、士孫之里に安葬し、四把の翣扇、行人を禁止せず、下車七乗、兵器鎧甲を用いず。

晉侯濟自泮,會於夷儀,伐齊,以報朝歌之役。齊人以莊公說,使隰鉏請成。

晋侯は泮から渡り、夷儀で会見し、斉を攻めて、朝歌の戦に報復した。斉人は荘公の事をもって解説し、隰鉏を遣わして講和を請わせた。

慶封如師,男女以班。賂晉侯以宗器、樂器。自六正、五吏、三十帥、三軍之大夫、百官之正長、師旅及處守者,皆有賂。晉侯許之。使叔向告於諸侯。公使子服惠伯對曰:“君舍有罪,以靖小國,君之惠也。寡君聞命矣!”晉侯使魏舒、宛沒逆衛侯,將使衛與之夷儀。崔子止其帑,以求五鹿。

慶封は軍隊の裏に至り、男女は班列によって分かれた。宗器・樂器を晋侯に賂した。六正・五吏・三十帥・三軍の大夫・百官の正長・師旅および留守の者より、皆賂あり。晋侯は許した。叔向を遣わして諸侯に告げさせた。襄公は子服恵伯を遣わして答えさせて言わせた、「君王は有罪を赦免し、もって小国を安定す。是れ君王の恩恵。寡君は命令を聞いた!」晋侯は魏舒・宛没を遣わして衛侯を迎えさせ、まさに衛に夷儀を与えんとした。崔子はその家属を扣留して、もって五鹿を求めた。

初,陳侯會楚子伐鄭,當陳隧者,井堙木刊。鄭人怨之,六月,鄭子展、子產帥車七百乘伐陳,宵突陳城,遂入之。陳侯扶其大子偃師奔墓,遇司馬桓子,曰:“載餘!”曰:“將巡城。”遇賈獲,載其母妻,下之,而授公車。公曰:“舍而母!”辭曰:“不祥。”與其妻扶其母以奔墓,亦免。子展命師無入公宮,與子產親御諸門。陳侯使司馬桓子賂以宗器。陳侯免,擁社。使其眾,男女別而累,以待於朝。子展執縶而見,再拜稽首,承飲而進獻。子美入,數俘而出。祝祓社,司徒致民,司馬致節,司空致地,乃還。

初め、陳侯は楚子と会合して鄭を攻め、まさに陳の軍隊の経過する所、水井は填塞し樹木は砍伐された。鄭人は怨恨した。六月、鄭の子展・子産は兵車七百乗を率いて陳を攻め、夜に陳城を突撃し、こうして入った。陳侯は太子偃師を扶えて墓地に逃げ、司馬桓子に遇い、言った、「我を載せよ!」言った、「まさに城を巡らん」と。賈獲に遇い、その母と妻を装い、彼らに車を下りさせ、車を公に交した。公は言った、「なんじの母を放下せよ!」推辞して言った、「不吉」と。彼の妻とともに母を扶えて墓地に逃げ、また難を免れた。子展は軍隊に公宮に入るなかれと命じ、子産とともに自ら門前で抵御した。陳侯は司馬桓子を遣わして宗器をもって賂した。陳侯は上衣を脱ぎ去り、社主を抱えた。その民衆に、男女を分かちて捆綁し、朝廷で待たせた。子展は牽牲の繩を執りて進見し、再拜叩頭し、飲器を捧げて進献した。子美は入り、俘虜を清点数えて然る後出た。祝は社神の前で祓除し、司徒は百姓を交還し、司馬は符節を交還し、司空は土地を交還し、こうして帰った。

秋七月己巳,同盟於重丘,齊成故也。

秋七月己巳、重丘で共に盟を結んだ。斉が講和を成した故である。

趙文子為政,令薄諸侯之幣而重其禮。穆叔見之,謂穆叔曰:“自今以往,兵其少弭矣!齊崔、慶新得政,將求善於諸侯。武也知楚令尹。若敬行其禮,道之以文辭,以靖諸侯,兵可以弭。”

趙文子は執政し、諸侯の币を軽減して礼を加重するを命じた。穆叔は彼に見えた。彼は穆叔に言った、「今より後、兵事はおそらくやや停息せん!斉の崔・慶は新たに政事を得て、まさに諸侯に好を求めん。武は楚の令尹を了解す。もし恭敬に礼を実行し、文辞をもって引導し、もって諸侯を安定せば、兵事は停息すべし」と。

楚薳子馮卒,屈建為令尹。屈蕩為莫敖。舒鳩人卒叛楚。令尹子木伐之,及離城。吳人救之,子木遽以右師先,子強、息桓、子捷、子駢、子盂帥左師以退。

楚の䓕子馮が死去し、屈建が令尹を為った。屈蕩は莫敖を為った。舒鳩人は終に楚に背叛した。令尹子木は彼らを攻め、離城に至った。呉人は救援し、子木は急いで右師をもって先に行かせ、子彊・息桓・子捷・子駢・子盂は左師を率いて退下した。

吳人居其間七日。子強曰:“久將墊隘,隘乃禽也。不如速戰!請以其私卒誘之,簡師陳以待我。我克則進,奔則亦視之,乃可以免。不然,必為吳禽。”從之。

呉人は彼らの中間に処ること七日。子彊は言った、「久しければまさに頓困狭窄し、狭窄すれば即ち擒せらる。快く打つに如かず!わが私卒をもって誘引し、精選の軍隊は陣を列ねて我を待つを請います。我が勝てば即ち前進し、敗逃すればまた見て処す。乃ち免るべし。さもなくば、必ず呉に擒獲せらる」と。従った。

五人以其私卒先擊吳師。吳師奔,登山以望,見楚師不繼,復逐之,傅諸其軍。

五人はその私卒をもって先に呉軍を攻撃した。呉軍は奔逃し、山に登りて眺望し、楚軍の接上せざるを見て、また追逐し、彼らの本軍に逼近した。

簡師會之,吳師大敗。遂圍舒鳩,舒鳩潰。八月,楚滅舒鳩。

精選の軍隊は会合し、呉軍は大敗した。こうして舒鳩を包囲し、舒鳩は崩潰した。八月、楚は舒鳩を滅ぼした。

衛獻公入於夷儀。

衛献公は夷儀に入った。

鄭子產獻捷於晉,戎服將事。晉人問陳之罪,對曰:“昔虞閼父為周陶正,以服事我先王。我先王賴其利器用也,與其神明之後也,庸以元女大姬配胡公,而封諸陳,以備三恪。則我周之自出,至於今是賴。桓公之亂,蔡人慾立其出。

鄭の子産は晋に捷を献じ、軍服を着て事を弁じた。晋人は陳の罪を問うと、答えて言った、「昔虞閼父は周の陶正を為り、わが先王に服事した。わが先王はその器具の好用なると、および彼が神明の後代なるに依頼し、こうして長女大姬を胡公に匹配し、陳に封じて、もって三恪に備えた。然ればわれわれは周の外甥で、今に至るもなお依頼す。桓公の乱事に、蔡人はその外甥を立てんと欲した。

我先君莊公奉五父而立之,蔡人殺之。我又與蔡人奉戴厲公,至於莊、宣,皆我之自立。夏氏之亂,成公播蕩,又我之自入,君所知也。今陳忘周之大德,蔑我大惠,棄我姻親,介恃楚眾,以憑陵我敝邑,不可億逞。我是以有往年之告。未獲成命,則有我東門之役。當陳隧者,井堙木刊。敝邑大懼不竟,而恥大姬。天誘其衷,啟敝邑之心。陳知其罪,授手於我。用敢獻功!”晉人曰:“何故侵小?”對曰:“先王之命,唯罪所在,各致其闢。且昔天子之地一圻,列國一同,自是以衰。今大國多數圻矣!若無侵小,何以至焉?”晉人曰:“何故戎服?”對曰:“我先君武、莊,為平、桓卿士。城濮之役,文公佈命,曰:‘各復舊職!’命我文公戎服輔王,以授楚捷,不敢廢王命故也。”士莊伯不能詰,復於趙文子。

わが先君荘公は五父に事えて彼を立てたが、蔡人は彼を殺した。われわれはまた蔡人とともに事えて厲公を擁戴し、荘公・宣公に至るまで、皆われわれ自らの立つ所である。夏氏の乱事に、成公は流離し、またわれわれ自ら彼を送り帰したは、君王の知る所である。今陳は周の大德を忘れ、われわれの大惠を蔑視し、われわれの姻親を拋棄し、楚の兵衆を恃んで、もって敝邑を陵駕す。欲望は滿足すべからず。われわれはこれによって去年の報告あり。成命を獲得せずして、即ちわれわれ東門の戦あり。まさに陳の軍隊の経過する所、水井は填塞し樹木は砍伐された。敝邑は甚だ強盛ならざるを怕れ、大姬を辱めしむるを以てす。上天はその内心を誘導し、敝邑の心意を開啓す。陳はその罪を知り、手をわれわれに交した。これによって敢えて功労を献ず!」晋人は言った、「なぜ小国を侵伐したか」と。答えて言った、「先王の命令は、ただ罪の在る所を見て、各々刑罰を施加す。しかも昔天子の土地は一千里、列国は百里、これより遞減す。今大国は多数の千里!もし小国を侵伐せざれば、何をもってこの歩に至らん」と。晋人は言った、「なぜ軍服を着たか」と。答えて言った、「わが先君武公・荘公は、平王・桓王の卿士である。城濮の戦に、文公は命令を発布して言う、『各々旧職を恢復せよ!』と。わが文公に軍服を着て天子を輔佐し、もって楚に対する捷報を進献せよと命じたは、敢えて王命を廢棄せざる故である」と。士荘伯は詰問する能わず、趙文子に回報した。

文子曰:“其辭順,犯順不祥。”乃受之。

文子は言った、「その言辞は理に順う。理に順うを冒犯するは不吉」と。こうして接受した。

冬十月,子展相鄭伯如晉,拜陳之功。子西復伐陳,陳及鄭平。仲尼曰:“《志》有之:‘言以足志,文以足言。’不言,誰知其志?言之無文,行而不遠。晉為伯,鄭入陳,非文辭不為功。慎辭也!”楚蒍掩為司馬,子木使庀賦,數甲兵。甲午,蒍掩書土田,度山林,鳩藪澤,辨京陵,表淳滷,數疆潦,規偃豬,町原防,牧隰皋,井衍沃,量入修賦。賦車籍馬,賦車兵、徒卒、甲楯之數。既成,以授子木,禮也。

冬十月、子展は鄭伯を輔佐して晋に行き、陳に対する功労を拜謝した。子西は再び陳を攻め、陳は鄭と講和した。仲尼は言った、「《志》にこの言あり、『言語はもって心意を完成し、文采はもって言語を完成す』と。言わずば、誰がその心意を知らん。言いて文采なくば、行くこと遠からず。晋が霸主を為り、鄭が陳に入るは、文辞あらざれば成功せざるなり。言辞を謹慎すべし!」楚の𫇭掩は司馬を為り、子木は彼に軍賦を治理させ、甲兵を清点させた。甲午、𫇭掩は土地田畝を記載し、山林を度量し、藪沢を聚集し、丘陵を辨別し、鹽鹹地を標明し、水淹地を計算し、陂塘を規劃し、堤防間の田を劃分し、低湿水辺に放牧し、平美の地に井田を劃り、收入を估量して軍賦を修訂した。賦車は馬を登記し、賦車兵・徒卒・甲楯の數目を記した。すでに完成し、子木に交した。これは礼に合う。

十二月,吳子諸樊伐楚,以報舟師之役。門於巢。巢牛臣曰:“吳王勇而輕,若啟之,將親門。我獲射之,必殪。是君也死,疆其少安!”從之。吳子門焉,牛臣隱於短牆以射之,卒。

十二月、呉子諸樊は楚を攻め、水軍の戦に報復した。巢の城門を攻めた。巢の牛臣は言った、「呉王は勇猛にして軽率。もし開けば、まさに自ら門を攻めん。我は彼を射るを得て、必ず射殺さん。この君王が死せば、辺疆はやや安定せん!」従った。呉子は門を攻め、牛臣は短牆の後ろに蔵れて彼を射た。死去した。

楚子以滅舒鳩賞子木。辭曰:“先大夫蒍子之功也。”以與蒍掩。

楚子は舒鳩を滅ぼしたによって子木を賞賜した。推辞して言った、「是れ先大夫𫇭子の功労」と。𫇭掩に与えた。

晉程鄭卒。子產始知然明,問為政焉。對曰:“視民如子。見不仁者誅之,如鷹鸇之逐鳥雀也。”子產喜,以語子大叔,且曰:“他日吾見蔑之面而已,今吾見其心矣。”子大叔問政於子產。子產曰:“政如農功,日夜思之,思其始而成其終。朝夕而行之,行無越思,如農之有畔。其過鮮矣。”

晋の程鄭が死去した。子産は始めて然明を了解し、彼に為政を問うた。答えて言った、「百姓を看待すること兒子のごとくせよ。不仁の人を見れば即ち誅殺せよ。鷹鸇の鳥雀を追逐するがごとく」と。子産は喜び、子大叔に告げ、かつ言った、「往日私はただ蔑の面孔を見るのみ。今その心を見た」と。子大叔は子産に政を問うた。子産は言った、「政事は農功のごとし。日夜に思索し、その開始を想いかつその終結を完成す。朝夕に実行し、行動は想う所を越えず。農田に田界あるがごとし。過ちは即ち少なし」と。

衛獻公自夷儀使與寧喜言,寧喜許之。大叔文子聞之,曰:“烏乎!《詩》所謂‘我躬不說,皇恤我後’者,寧子可謂不恤其後矣。將可乎哉?殆必不可。

衛献公は夷儀より人を遣わして寧喜と話させ、寧喜は応えた。大叔文子は聞いて言った、「ああ!《詩》の謂う所の『我が身はなお容れられる能わず、どこでわが後嗣を顧みん』と。寧子はその後嗣を顧みずと言うべし。まさに可ならんか。おそらく必ず不可。

君子之行,思其終也,思其復也。《書》曰:‘慎始而敬終,終以不困。’《詩》曰:‘夙夜匪解,以事一人。’今寧子視君不如弈棋,其何以免乎?弈者舉棋不定,不勝其耦。而況置君而弗定乎?必不免矣。九世之卿族,一舉而滅之。可哀也哉!”會於夷儀之歲,齊人城郟。其五月,秦、晉為成。晉韓起如秦蒞盟,秦伯車如晉蒞盟,成而不結。

君子の行動は、その終結を想い、その再次を想う。《書》に言う、『開始を謹慎し終結を敬重せば、終結はこれによって困らず』と。《詩》に言う、『早晚に懈怠せず、もって一人に事えよ』と。今寧子は国君を看待するに下棋に如かず。何をもって免れん。下棋する人は棋を举げて定まらざれば、対手に勝つ能わず。まして国君を安置して確定せざるをや。必ず免れない。九世の卿族、一度の举动に即ち滅亡す。悲しむべきかな!」夷儀で会見したあの年に、斉人は郟城を修築した。その年五月、秦・晋は講和を成した。晋の韓起は秦に至りて盟約に参加し、秦の伯車は晋に至りて盟約に参加した。講和を成すも牢固ならず。

◇襄公二十六年

◇襄公二十六年

【經】二十有六年春王二月辛卯,衛寧喜弒其君剽。衛孫林父入於戚以叛。

【経】二十六年春、周天子の暦の二月辛卯、衛の寧喜はその国君剽を弑殺した。衛の孫林父は戚に入りて背叛した。

甲午,衛侯衎復歸於衛。夏,晉侯使荀吳來聘。公會晉人、鄭良霄、宋人、曹人於澶淵。秋,宋公殺其世子痤。晉人執衛寧喜。八月壬午,許男寧卒於楚。冬,楚子、蔡侯、陳侯伐鄭。葬許靈公。

甲午、衛侯衎は再び衛に帰った。夏、晋侯は荀呉を遣わして聘問に来させた。襄公は晋人・鄭の良霄・宋人・曹人と澶淵で会合した。秋、宋公はその世子痤を殺した。晋人は衛の寧喜を執えた。八月壬午、許男寧は楚で死去した。冬、楚子・蔡侯・陳侯は鄭を攻めた。許霊公を葬った。

【傳】二十六年春,秦伯之弟針如晉修成,叔向命召行人子員。行人子朱曰:“朱也當御。”三云,叔向不應。子朱怒,曰:“班爵同,何以黜朱於朝?”撫劍從之。叔向曰:“秦、晉不和久矣!今日之事,幸而集,晉國賴之。不集,三軍暴骨。子員道二國之言無私,子常易之。奸以事君者,吾所能御也。”拂衣從之。人救之。平公曰:“晉其庶乎!吾臣之所爭者大。”師曠曰:“公室懼卑。

【伝】二十六年春、秦伯の弟鍼は晋に至りて和好を重ね温め、叔向は行人子員を召すを下した。行人子朱は言った、「朱はまさに当値すべし」と。三度言うも、叔向は応えず。子朱は怒りて言った、「班爵は相同なり。なぜ朝廷で朱を貶黜するか」と。剣を按えて跟い上った。叔向は言った、「秦・晋の不和はすでに久し!今日の事は、僥倖に成功せば、晋はこれに依頼す。成功せざれば、三軍は尸骨を暴露せん。子員は両国の話を溝通するに私心なし。あなたは常に改換す。奸邪をもって国君に事えるは、我は抵御する能し」と。衣を拂い跟い上った。人々は救い開いた。平公は言った、「晋はおそらくほぼ足りるであろう!我が臣の争う所は大事である」と。師曠は言った、「公室は怕くは卑微せん。

臣不心競而力爭,不務德而爭善,私慾已侈,能無卑乎?”衛獻公使子鮮為復,辭。敬姒強命之。對曰:“君無信,臣懼不免。”敬姒曰:“雖然,以吾故也。”許諾。初,獻公使與寧喜言,寧喜曰:“必子鮮在,不然必敗。”故公使子鮮。子鮮不獲命於敬姒,以公命與寧喜言,曰:“苟反,政由寧氏,祭則寡人。”寧喜告蘧伯玉,伯玉曰:“瑗不得聞君之出,敢聞其入?”遂行,從近關出。告右宰谷,右宰谷曰:“不可。獲罪於兩君,天下誰畜之?”悼子曰:“吾受命於先人,不可以貳。”谷曰:“我請使焉而觀之。”遂見公於夷儀。反曰:“君淹恤在外十二年矣,而無憂色,亦無寬言,猶夫人也。若不已,死無日矣。”悼子曰:“子鮮在。”右宰谷曰:“子鮮在,何益?多而能亡,於我何為?”悼子曰:“雖然,不可以已。”孫文子在戚,孫嘉聘於齊,孫襄居守。

臣は心裏に競争せずして気力を争い、徳を致力せずして善を称うを争い、私欲はすでに奢侈す。能く卑微せざらんや」と。衛献公は子鮮に復位を謀らせた。推辞した。敬姒は強迫して彼に命じた。答えて言った、「君王は信用なし。臣は免れざるを怕れます」と。敬姒は言った、「このようと雖も、我の份上を見よ」と。応えた。初め、献公は人を遣わして寧喜と話させ、寧喜は言った、「必ず子鮮の在るを要す。さもなくば必ず失敗す」と。だから公は子鮮を遣わした。子鮮は敬姉より命令を獲得せずして、公の命令をもって寧喜と話して言った、「もし帰れば、政事は寧氏により、祭祀は即ち寡人による」と。寧喜は蘧伯玉に告げ、伯玉は言った、「瑗は君王の出るを聞く能わず。敢えてその入るを聞かんや」と。こうして走り、近關から出た。右宰穀に告げ、右宰穀は言った、「不可。二つの国君の罪を得れば、天下の誰が収養せん」と。悼子は言った、「私は先人より命令を受けた。二心すべからず」と。穀は言った、「私は出使して観察するを請います」と。こうして夷儀で公に見えた。帰りて言った、「君王は外に憂患すること十二年に、しかも憂色なく、また寛厚の話なし。なおあの人である。もし停止せざれば、死は数日なし」と。悼子は言った、「子鮮が在る」と。右宰穀は言った、「子鮮が在るも、何の益あらん。多くても逃亡する能くのみ。われわれに何を為さん」と。悼子は言った、「このようと雖も、停止すべからず」と。孫文子は戚に在り、孫嘉は斉に聘問し、孫襄は留守した。

二月庚寅,寧喜、右宰谷伐孫氏,不克。伯國傷。寧子出舍於郊。伯國死,孫氏夜哭。國人召寧子,寧子復攻孫氏,克之。辛卯,殺子叔及大子角。書曰:“寧喜弒其君剽。”言罪之在寧氏也。孫林父以戚如晉。書曰:“入於戚以叛。”

二月庚寅、寧喜・右宰穀は孫氏を攻めたが、攻克せず。伯国は傷を受けた。寧子は出て郊外に住んだ。伯国が死に、孫氏は夜に哭した。国人は寧子を召し、寧子は再び孫氏を攻め、攻克した。辛卯、子叔および太子角を殺した。《春秋》に記して「寧喜弑其君剽」と言うは、罪が寧氏に在るを言う。孫林父は戚を帯びて晋に至った。《春秋》に記して「入于戚以叛」と。

罪孫氏也。臣之祿,君實有之。義則進,否則奉身而退,專祿以周旋,戮也。

是れ孫氏に帰罪す。臣の俸禄は、実は国君の所有。義に合えば前進し、然らざれば身を保護して退下す。俸禄を專有して周旋するは、是れ殺すべし。

甲午,衛侯入。書曰:“復歸。”國納之也。大夫逆於竟者,執其手而與之言。道逆者,自車揖之。逆於門者,頷之而已。公至,使讓大叔文子曰:“寡人淹恤在外,二三子皆使寡人朝夕聞衛國之言,吾子獨不在寡人。古人有言曰:‘非所怨勿怨。’寡人怨矣。”對曰:“臣知罪矣!臣不佞不能負羈洩,以紲扌幹牧圉,臣之罪一也。有出者,有居者。臣不能貳,通外內之言以事君,臣之罪二也。有二罪,敢忘其死?”乃行,從近關出。公使止之。

甲午、衛侯は入った。《春秋》に記して「復帰」と言うは、国家が彼を接納するを言う。大夫の国境で迎えるは、手を握りて彼と話した。路上で迎えるは、車上より揖を作した。城門で迎えるは、ただ頷くのみ。公は至り、人を遣わして大叔文子を責めて言わせた、「寡人は外に憂患し、あの数名は皆寡人に早晚に衛の話を聞かせた。吾子は独り寡人を在意せず。古人に言あり、『怨むべからざるを怨むるな』と。寡人は怨んだ」と。答えて言った、「臣は罪を知った!臣は不才、馬の籠頭韁繩を背負う能わず、もって牛馬を牽引す。是れ臣の罪一。出る者あり、留まる者あり。臣は二心する能わず、内外の話を溝通して国君に事えるは、是れ臣の罪二。二つの罪あり。敢えて死を忘れんや」と。こうして走り、近關から出た。公は人を遣わして彼を拦えた。

衛人侵戚東鄙,孫氏愬於晉,晉戍茅氏。殖綽伐茅氏,殺晉戍三百人。孫蒯追之,弗敢擊。文子曰:“厲之不如!”遂從衛師,敗之圉。雍鉏獲殖綽。復愬於晉。

衛人は戚の東部辺境を侵伐し、孫氏は晋に控訴し、晋は茅氏を戍守した。殖綽は茅氏を攻め、晋の戍卒三百人を殺した。孫蒯は追趕したが、攻撃を敢えてせず。文子は言った、「悪鬼にすら及ばず!」こうして衛軍を追趕し、圉で彼らを敗った。雍鉏は殖綽を俘獲した。再び晋に控訴した。

鄭伯賞入陳之功。三月甲寅朔,享子展,賜之先路、三命之服,先八邑。賜子產次路、再命之服,先六邑。子產辭邑,曰:“自上以下,隆殺以兩,禮也。

鄭伯は陳に入った功労を賞賜した。三月甲寅の朔日、子展を宴享し、彼に先路・三命の礼袍を賜い、先に八邑を給した。子産に次路・再命の礼袍を賜い、先に六邑を給した。子産は城邑を推辞して言った、「上より下に至るまで、隆重と減殺は二をもって差と為す。これは礼。

臣之位在四,且子展之功也。臣不敢及及賞禮,請辭邑。”公固予之,乃受三邑。

臣の位子は第四に在り、しかも是れ子展の功労。臣は敢えて賞賜の礼に够らず。城邑を推辞することを請います」と。底本の「及及」は衍して「及」一つ。公は堅く彼に給し、こうして三邑を受けた。

公孫揮曰:“子產其將知政矣!讓不失禮。”

公孫揮は言った、「子産はおそらくまさに政事を執掌せん!謙讓して礼を失わず」と。

晉人為孫氏故,召諸侯,將以討衛也。夏,中行穆子來聘,召公也。

晋人は孫氏の故のために、諸侯を召集し、まさに衛を討伐せんとした。夏、中行穆子が聘問に来た。是れ襄公を召すである。

楚子、秦人侵吳,及雩婁,聞吳有備而還。遂侵鄭,五月,至於城麇。鄭皇頡戍之,出,與楚師戰,敗。穿封戌囚皇頡,公子圍與之爭之。正於伯州犁,伯州犁曰:“請問於囚。”乃立囚。伯州犁曰:“所爭,君子也,其何不知?”上其手,曰:“夫子為王子圍,寡君之貴介弟也。”下其手,曰:“此子為穿封戌,方城外之縣尹也。誰獲子?”囚曰:“頡遇王子,弱焉。”戌怒,抽戈逐王子圍,弗及。楚人以皇頡歸。

楚子・秦人は呉を侵伐し、雩婁に至り、呉に防備あるを聞きて帰った。こうして鄭を侵伐し、五月、城麇に至った。鄭の皇頡は戍守し、城を出て楚軍と交戦し、戦敗した。穿封戌は皇頡を囚禁し、公子圍は彼と功を争った。伯州犁に裁正を請い、伯州犁は言った、「囚犯に問うことを請います」と。こうして囚犯を立たせた。伯州犁は言った、「争う所は君子である。彼に何の知らざるがあらん」と。手を抬高して言った、「あの夫子は王子圍、寡君の尊貴の弟」と。手を放下して言った、「このは穿封戌、方城外の県尹。誰があなたを俘獲したか」と。囚犯は言った、「頡は王子に遇い、敵せず」と。戌は怒り、戈を抽きて王子圍を追ったが、追い及ばず。楚人は皇頡を帯びて帰った。

印堇父與皇頡戍城麇,楚人囚之,以獻於秦。鄭人取貨於印氏以請之,子大叔為令正,以為請。子產曰:“不獲。受楚之功而取貨於鄭,不可謂國,秦不其然。若曰:‘拜君之勤鄭國,微君之惠,楚師其猶在敝邑之城下。’其可。”弗從,遂行。秦人不予。更幣,從子產而後獲之。

印堇父は皇頡とともに城麇を戍守し、楚人は彼を囚禁し、秦に献じた。鄭人は印氏より財貨を取りて釈放を請うと、子大叔は令正を為り、これをもって請うた。子産は言った、「得られない。楚の功労を受けて鄭より財貨を取るは、国家と言うべからず。秦はこのようでない。もし言わば、『君王が鄭のために勤労したを拜謝す。君王の恩恵なくば、楚軍はおそらくなお敝邑の城下に在らん』と。乃ち可」と。従わず、こうして往った。秦人は給さず。币を改換し、子産に従いて然る後彼を得た。

六月,公會晉趙武、宋向戌、鄭良霄、曹人於澶淵以討衛,疆戚田。取衛西鄙懿氏六十以與孫氏。趙武不書,尊公也。向戌不書,後也。鄭先宋,不失所也。

六月、襄公は晋の趙武・宋の向戌・鄭の良霄・曹人と澶淵で会合して衛を討伐し、戚の田界を劃定した。衛の西部辺境懿氏六十邑を取りて孫氏に給した。《春秋》に趙武を記さざるは、襄公を尊重するである。向戌を記さざるは、彼が後れて至ったのためである。鄭が宋の前に在るは、位置を失わざるである。

於是衛侯會之。晉人執寧喜、北宮遺,使女齊以先歸。衛侯如晉,晉人執而囚之於士弱氏。

当時衛侯は会に与った。晋人は寧喜・北宮遺を執え、女齊を遣わして先に帯ち帰らせた。衛侯は晋に至り、晋人は彼を執えて士弱氏に囚禁した。

秋七月,齊侯、鄭伯為衛侯故,如晉,晉侯兼享之。晉侯賦《嘉樂》。國景子相齊侯,賦《蓼蕭》。子展相鄭伯,賦《緇衣》。叔向命晉侯拜二君曰:“寡君敢拜齊君之安我先君之宗祧也,敢拜鄭君之不貳也。”國子使晏平仲私於叔向,曰:“晉君宣其明德於諸侯,恤其患而補其闕,正其違而治其煩,所以為盟主也。

秋七月、斉侯・鄭伯は衛侯の故のために晋に至り、晋侯は併せて彼らを宴享した。晋侯は《嘉樂》を賦した。国景子は斉侯を輔佐し、《蓼蕭》を賦した。子展は鄭伯を輔佐し、《緇衣》を賦した。叔向は晋侯に両国の君を拜謝させて言わせた、「寡君は敢えて斉君がわが先君の宗廟を安定したを拜し、敢えて鄭君が二心なきを拜す」と。国子は晏平仲に私に叔向に言わせた、「晋君は諸侯に明徳を宣揚し、患難を体恤し闕失を補救し、違失を糾正し煩乱を治理す。だから盟主を為る。

今為臣執君,若之何?”叔向告趙文子,文子以告晉侯。晉侯言衛侯之罪,使叔向告二君。國子賦《轡之柔矣》,子展賦《將仲子兮》,晉侯乃許歸衛侯。叔向曰:“鄭七穆,罕氏其後亡者也。子展儉而壹。”

今臣のために国君を執える。どうせん」と。叔向は趙文子に告げ、文子は晋侯に告げた。晋侯は衛侯の罪を言い、叔向を遣わして両国の君に告げさせた。国子は《轡之柔矣》を賦し、子展は《将仲子兮》を賦し、晋侯はこうして衛侯を放回するを許した。叔向は言った、「鄭の七穆は、罕氏は最後に滅亡する。子展は節儉にして専一」と。

初,宋芮司徒生女子,赤而毛,棄諸堤下,共姬之妾取以入,名之曰棄。長而美。平公入夕,共姬與之食。公見棄也,而視之,尤。姬納諸御,嬖,生佐。

初め、宋の芮司徒は女を生み、皮膚は紅くして毛あり、堤下に丢った。共姬の妾は取り入れ、彼女に名を起こして棄と言った。長じて美しし。平公は夜に入り、共姬は彼と飯した。公は棄を見て、彼女を視るに、特に美しし。姬は彼女を御妾に送り入れ、寵を受け、佐を生んだ。

惡而婉。大子痤美而很,合左師畏而惡之。寺人惠牆伊戾為大子內師而無寵。

貌は醜なれど温順。太子痤は美麗にして狠戾。合左師は怕れて彼を悪んだ。寺人惠牆伊戾は太子の內師を為るも寵を受けず。

秋,楚客聘於晉,過宋。大子知之,請野享之。公使往,伊戾請從之。公曰:“夫不惡女乎?”對曰:“小人之事君子也,惡之不敢遠,好之不敢近。敬以待命,敢有貳心乎?縱有共其外,莫共其內,臣請往也。”遣之。至,則臽欠,用牲,加書,徵之,而聘告公曰:“大子將為亂,既與楚客盟矣。”公曰:“為我子,又何求?”對曰:“欲速。”公使視之,則信有焉。問諸夫人與左師,則皆曰:“固聞之。”公囚大子。大子曰:“唯佐也能免我。”召而使請,曰:“日中不來,吾知死矣。”左師聞之,聒而與之語。過期,乃縊而死。佐為大子。公徐聞其無罪也,乃亨伊戾。

秋、楚の客人は晋に聘問し、宋を経過した。太子は彼と熟し、野外で宴享するを請うた。公は彼を行かせ、伊戾は跟従するを請うた。公は言った、「彼はあなたを悪むではないか」と。答えて言った、「小人が君子に事えるは、悪まれども遠離を敢えてせず、喜ばれども靠近を敢えてせず。恭敬して命令を待ち、敢えて二心あらんや。たとえ人の外面を供給するあれど、人の裏面を供給するなし。臣は往くを請います」と。彼を派遣した。至り、即ち坑を挖り、牲を用い、盟書を加え、取りて証を為し、跑りて公に告げて言った、「太子はまさに乱を為さんとし、すでに楚客と盟約を結んだ」と。底本の「臽欠」は即ち坎。公は言った、「是れ我の子である。また何を求めん」と。答えて言った、「快を欲す」と。公は人を遣わして見せると、確かにあり。夫人と左師に問うと、皆言った、「もとより聞いた」と。公は太子を囚禁した。太子は言った、「ただ佐のみ我を免る能し」と。彼を召して請わせるに、言った、「日中に来ずば、我は死せんを知る」と。左師は聞き、絮々叨叨として彼と話した。期限を過ぎ、こうして縊りて死んだ。佐は太子を為った。公は漸く彼が罪なきを聞き、こうして伊戾を烹った。

左師見夫人之步馬者,問之,對曰:“君夫人氏也。”左師曰:“誰為君夫人?餘胡弗知?”圉人歸,以告夫人。夫人使饋之錦與馬,先之以玉,曰:“君之妾棄使某獻。”左師改命曰:“君夫人。”而後再拜稽首受之。

左師は夫人の馬を遛う人を見て、彼に問うと、答えて言った、「是れ君夫人氏」と。左師は言った、「誰が君夫人か。我はどうして知らざる」と。圉人は帰りて、夫人に告げた。夫人は人を遣わして錦と馬を饋贈し、先に玉を送上して言わせた、「君王の妾棄は某人を遣わして奉献す」と。左師は改称して言った、「君夫人」と。然る後再拜叩頭して受けた。

鄭伯歸自晉,使子西如晉聘,辭曰:“寡君來煩執事,懼不免於戾,使夏謝不敏。”君子曰:“善事大國。”

鄭伯は晋より帰り、子西を遣わして晋に聘問させ、致辞して言わせた、「寡君は来て執事を煩労し、罪を免れざるを怕れ、夏を遣わして不聡敏を謝せしむ」と。君子は言った、「大国に事えるを善くす」と。

初,楚伍參與蔡太師子朝友,其子伍舉與聲子相善也。伍舉娶於王子牟,王子牟為申公而亡,楚人曰:“伍舉實送之。”伍舉奔鄭,將遂奔晉。聲子將如晉,遇之於鄭郊,班荊相與食,而言復故。聲子曰:“子行也!吾必復子。”及宋向戌將平晉、楚,聲子通使於晉。還如楚,令尹子木與之語,問晉故焉,且曰:“晉大夫與楚孰賢?”對曰:“晉卿不如楚,其大夫則賢,皆卿材也。如杞、梓、皮革,自楚往也。雖楚有材,晉實用之。”子木曰:“夫獨無族姻乎?”對曰:“雖有,而用楚材實多。歸生聞之:‘善為國者,賞不僣而刑不濫。’賞僣,則懼及淫人;刑濫,則懼及善人。若不幸而過,寧僣無濫。與其失善,寧其利淫。

初め、楚の伍参は蔡の太師子朝と友好し、その子伍举は声子と相好した。伍举は王子牟の女を娶り、王子牟は申公を為りて逃亡し、楚人は言った、「実は伍举が彼を送り走らせた」と。伍举は鄭に出奔し、まさに続けて晋に出奔せんとした。声子はまさに晋に至らんとして、鄭の郊外で彼に遇い、荆を鋪きて坐りてともに食い、帰国の事を談じた。声子は言った、「あなたは行け!私は必ずあなたを帰らせん」と。宋の向戌がまさに晋・楚を講和せしめんとするに及び、声子は晋に至りて使を通じた。帰りて楚に至り、令尹子木は彼と話し、晋の事を問い、かつ言った、「晋の大夫と楚とは誰が賢か」と。答えて言った、「晋の卿は楚に如かず。その大夫はしかし賢、皆卿の材料である。杞・梓・皮革のごとき、是れ楚より往ける。楚に人材あると雖も、実は晋がこれを用う」と。子木は言った、「あに族姻なからんや」と。答えて言った、「あると雖も、楚の人材を用うるは実に多し。歸生が聞くに、『国を治めるを善くするは、賞は僭越せずして刑は濫せず』と。賞が僭越すれば、即ち淫邪の人に落つるを怕れ、刑が濫すれば、即ち善人に落つるを怕る。もし不幸にして過分ならば、寧ろ僭越して濫するなかれ。善人を失うより、寧ろ淫邪に利あれ。

無善人,則國從之。《詩》曰:‘人之雲亡,邦國殄瘁。’無善人之謂也。故《夏書》曰:‘與其殺不辜,寧失不經。’懼失善也。《商頌》有之曰:‘不僣不濫,不敢怠皇,命於下國,封建厥福。’此湯所以獲天福也。古之治民者,勸賞而畏刑,恤民不倦。賞以春夏,刑以秋冬。是以將賞,為之加膳,加膳則飫賜,此以知其勸賞也。將刑,為之不舉,不舉則徹樂,此以知其畏刑也。夙興夜寐,朝夕臨政,此以知其恤民也。三者,禮之大節也。有禮無敗。今楚多淫刑,其大夫逃死於四方,而為之謀主,以害楚國,不可救療,所謂不能也。子儀之亂,析公奔晉。晉人置諸戎車之殿,以為謀主。繞角之役,晉將遁矣,析公曰:‘楚師輕窕,易震盪也。若多鼓鈞聲,以夜軍之,楚師必遁。’晉人從之,楚師宵潰。

善人なくば、国家は即ち従いて終わる。《詩》に言う、『人亡びぬれば、邦国は困病す』と。善人なきを言う。だから《夏書》に言う、『無辜を殺すより、寧ろ常法を守らざるを失え』と。是れ善人を失うを怕るる。《商頌》に言あり、『僭越せず濫せず、怠慢匆忙を敢えてせず、下国に命じて、その福を分封す』と。是れ湯が天福を獲得した故。古代の百姓を治めるは、賞賜を勉励して刑を用うるを畏懼し、百姓を体恤して倦怠せず。賞は春夏に在り、刑は秋冬に在り。これによってまさに賞せんとすれば、これのために膳を加え、膳を加えれば即ち飽足して下に賜う。これによってその賞賜を勉励するを知る。まさに刑を用いんとすれば、これのために牲を殺し盛饌せず、盛饌せざれば即ち音楽を撤除す。これによってその刑を用うるを畏懼するを知る。早起き晩睡り、朝夕に政に臨む。これによってその百姓を体恤するを知る。此の三樣は、礼の大節である。礼あれば敗亡なし。今楚は淫刑多く、大夫は死を逃れて四方に至り、あのの謀主を為り、もって楚を害す。救治すべからず。即ち謂う所の不能。子儀の乱事に、析公は晋に出奔した。晋人は彼を戎車の後ろに安置し、謀主を為らせた。繞角の戦に、晋はまさに逃げ走らんとしたに、析公は言った、『楚軍は軽佻、震蕩し易し。もし多処に鼓を撃ちて同様の声を發せば、夜に全軍をもって進攻せば、楚軍は必ず逃げ走らん』と。晋人は従い、楚軍は夜に崩潰した。

晉遂侵蔡,襲沈,獲其君;敗申、息之師於桑隧,獲申麗而還。鄭於是不敢南面。

晋はこうして蔡を侵伐し、沈を襲撃し、その国君を俘獲し。桑隧で申・息の軍隊を敗り、申麗を俘獲して然る後帰った。鄭はこうして敢えて南に向かわず。

楚失華夏,則析公之為也。雍子之父兄譖雍子,君與大夫不善是也。雍子奔晉。

楚が華夏を失うは、即ち析公の為す所。雍子の父兄は雍子を誣陷し、国君と大夫は妥善に処理する能わず。雍子は晋に出奔した。

晉人與之鄐,以為謀主。彭城之役,晉、楚遇於靡角之谷。晉將遁矣。雍子發命于軍曰:‘歸老幼,反孤疾,二人役,歸一人,簡兵蒐乘,秣馬蓐食,師陳焚次,明日將戰。’行歸者而逸楚囚,楚師宵潰。晉降彭城而歸諸宋,以魚石歸。

晋人は彼に鄐を給し、謀主を為らせた。彭城の戦に、晋・楚は靡角之谷で相遇した。晋はまさに逃げ走らんとした。雍子は軍隊に令を發して言った、『老いる小さきは帰れ、孤儿病人は返回せよ、一家に二人服役するは、一人を帰れ。精選士兵に車乘を檢閱し、馬を喂い飽かせ飯を食い飽かせ、軍隊は陣を列ねて駐地を焼掉せよ。明日まさに交戦せん』と。帰るべきを行かせかつ楚の俘虜を放走せしむるに、楚軍は夜に崩潰した。晋は彭城を降服して宋に帰還し、魚石を帯びて帰った。

楚失東夷,子辛死之,則雍子之為也。子反與子靈爭夏姬,而雍害其事,子靈奔晉。晉人與之邢,以為謀主。扞禦北狄,通吳於晉,教吳叛楚,教之乘車、射御、驅侵,使其子孤庸為吳行人焉。吳於是伐巢、取駕、克棘、入州來,楚罷於奔命,至今為患,則子靈之為也。若敖之亂,伯賁之子賁皇奔晉。晉人與之苗,以為謀主。鄢陵之役,楚晨壓晉軍而陳,晉將遁矣。苗賁皇曰:‘楚師之良,在其中軍王族而已。若塞井夷灶,成陳以當之,欒、範易行以誘之,中行、二郤必克二穆。

楚が東夷を失うは、子辛はこのために死す。即ち雍子の為す所。子反と子霊は夏姬を争い、彼の事を阻擾し、子霊は晋に出奔した。晋人は彼に邢を給し、謀主を為らせた。北狄を抵御し、呉をして晋と交通せしめ、呉に楚を背叛するを教え、彼らに乗車・射御・驅馳侵伐を教え、その子狐庸に呉の行人を為らせた。呉はこうして巢を攻め駕を取得し棘を攻克し州來に入り、楚は奔命に疲れ、今に至るもなお禍患。即ち子霊の為す所。若敖の乱事に、伯賁の子賁皇は晋に出奔した。晋人は彼に苗を給し、謀主を為らせた。鄢陵の戦に、楚軍は早朝に晋軍に逼近して陣を列ね、晋はまさに逃げ走らんとした。苗賁皇は言った、『楚軍の精良は、ただその中軍の王族に在るのみ。もし井を填め灶を平げ、陣を列ねて抵当せば、欒・范は行列を改變して誘引し、中行・二郤は必ず二穆を攻克せん。

吾乃四萃於其王族,必大敗之。’晉人從之,楚師大敗,王夷師熸,子反死之。

われわれはこうして四面より集中してその王族を打てば、必ず彼らを大敗せん』と。晋人は従い、楚軍は大敗し、君王は傷を受け軍隊の士気は熄滅し、子反はこのために死した。

鄭叛吳興,楚失諸侯,則苗賁皇之為也。”子木曰:“是皆然矣。”聲子曰:“今又有甚於此。椒舉娶於申公子牟,子牟得戾而亡,君大夫謂椒舉:‘女實遣之!’懼而奔鄭,引領南望曰:‘庶幾赦餘!’亦弗圖也。今在晉矣。晉人將與之縣,以比叔向。彼若謀害楚國,豈不為患?”子木懼,言諸王,益其祿爵而復之。聲子使椒鳴逆之。

鄭の背叛・呉の興起、楚が諸侯を失うは、即ち苗賁皇の為す所」と。子木は言った、「これら皆対である」と。声子は言った、「今またこれより甚だしきあり。椒举は申公子牟の女を娶り、子牟は罪を得て逃亡し、君王と大夫は椒举に言った、『実はなんじが遣送した!』懼れて鄭に出奔し、頸を伸ばして南を望みて言った、『ほぼ我を赦免せんか!』とも謀らず。今晋に在る。晋人はまさに彼に県を給し、もって叔向に比擬せん。彼もし楚を害するを謀れば、あに禍患ならざらんや」と。子木は懼れ、王に告げ、その禄爵を増して彼を帰らせた。声子は椒鳴を遣わして迎えさせた。

許靈公如楚,請伐鄭,曰:“師不興,孤不歸矣!”八月,卒於楚。楚子曰:“不伐鄭,何以求諸侯?”冬十月,楚子伐鄭。鄭人將御之,子產曰:“晉、楚將平,諸侯將和,楚王是故昧於一來。不如使逞而歸,乃易成也。夫小人之性,釁於勇,嗇於禍,以足其性而求名焉者,非國家之利也。若何從之?”子展說,不禦寇。十二月乙酉,入南里,墮其城。涉於樂氏,門於師之梁。縣門發,獲九人焉。涉入氾而歸,而後葬許靈公。

許霊公は楚に至り、鄭を攻めるを請うて言った、「軍隊を發動せずば、孤は帰らない!」八月、楚で死去した。楚子は言った、「鄭を攻めずば、何をもって諸侯を求めん」と。冬十月、楚子は鄭を攻めた。鄭人はまさに抵御せんとし、子産は言った、「晋・楚はまさに講和し、諸侯はまさに和睦せん。楚王はこれによって冒昧に来るこの一度。彼をして得逞して帰らしむるに如かず。乃ち成功し易し。小人の本性は、勇において釁を尋ね、禍において吝嗇し、もって本性を滿足し名を求めるは、国家の利益にあらず。どうして彼らに従わん」と。子展は喜び、寇を抵御せず。十二月乙酉、南里に入り、その城を拆毀した。樂氏で渡河し、師之梁を攻めた。懸門は放下し、九人を俘獲した。渡河して泛に入りて然る後帰った。然る後許霊公を葬った。

衛人歸衛姬於晉,乃釋衛侯。君子是以知平公之失政也。

衛人は衛姬を晋に送り、こうして衛侯を釋放した。君子はこれによって平公が政事を失ったを知る。

晉韓宣子聘於周。王使請事。對曰:“晉士起將歸時事於宰旅,無他事矣。”

晋の韓宣子は周に聘問した。天子は人を遣わして何事かを問わせた。答えて言った、「晋の士起はまさに宰旅に四時の貢事を交納せん。別の事なし」と。

王聞之曰:“韓氏其昌阜於晉乎!辭不失舊。”

天子は聞いて言った、「韓氏はおそらく晋において昌盛せんか!言辞は旧典を失わず」と。

齊人城郟之歲,其夏,齊烏餘以廩丘奔晉,襲衛羊角,取之;遂襲我高魚。

斉人が郟城を修築したあの年、その年夏、斉の烏余は廪丘を帯びて晋に奔り、衛の羊角を襲撃して、それを取得した。こうしてわが国の高魚を襲撃した。

有大雨,自其竇入,介於其庫,以登其城,克而取之。又取邑於宋。於是範宣子卒,諸侯弗能治也,及趙文子為政,乃卒治之。文子言於晉侯曰:“晉為盟主。

大雨あり、城牆の水道より入り、府庫裏で甲を着て、城に登り、攻克して取得した。また宋より城邑を取得した。当時范宣子が死去し、諸侯は治理する能わず。趙文子が執政するに及び、やっと終に治理した。文子は晋侯に言った、「晋は盟主を為る。

諸侯或相侵也,則討而使歸其地。今烏餘之邑,皆討類也,而貪之,是無以為盟主也。請歸之!”公曰:“諾。孰可使也?”對曰:“胥梁帶能無用師。”晉侯使往。

諸侯に互相に侵伐するあれば、即ち討伐してかつ土地を帰還せしむ。今烏余の城邑は、皆討伐すべきの類であるに、かえってこれを貪图す。このようでは盟主を為る法なし。帰還するを請います!」公は言った、「好し。誰を派遣すべきか」と。答えて言った、「胥梁帶は軍隊を用いずする能し」と。晋侯は彼を遣わした。

◇襄公二十七年

◇襄公二十七年

【經】二十有七春,齊侯使慶封聘。夏,叔孫豹會晉趙武、楚屈建、蔡公孫歸生、衛石惡、陳孔奐、鄭良霄、許人、曹人於宋。衛殺其大夫寧喜。衛侯之弟鱄出奔晉。秋七月辛巳,豹及諸侯之大夫盟於宋。冬十有二月乙卯朔,日有食之。

【経】二十七年春、斉侯は慶封を遣わして聘問させた。底本の「二十有七」の下は「年」を缺く。夏、叔孫豹は晋の趙武・楚の屈建・蔡の公孫歸生・衛の石惡・陳の孔奐・鄭の良霄・許人・曹人と宋で会合した。衛はその大夫寧喜を殺した。衛侯の弟鱄は晋に出奔した。秋七月辛巳、豹は諸侯の大夫と宋で盟約を結んだ。冬十二月乙卯の朔日、日食があった。

【傳】二十七年春,胥梁帶使諸喪邑者具具車徒以受地,必周。使烏余車徒以受封,烏餘以眾出。使諸侯偽效烏餘之封者,而遂執之,盡獲之。皆取其邑而歸諸侯,諸侯是以睦於晉。

【伝】二十七年春、胥梁帶は各々城邑を喪失せるに車徒を備えて土地を受けんことを令し、必ず周密たらしめた。烏余の車徒をして封地を受けに来らせるに、烏余は衆を帯びて出た。諸侯をして仮に烏余に封地を呈献する人を装わせ、こうして彼を執え、全部俘獲した。皆城邑を取り還して諸侯に帰し、諸侯はこれによって晋と和睦した。

齊慶封來聘,其車美。孟孫謂叔孫曰:“慶季之車,不亦美乎?”叔孫曰:“豹聞之:‘服美不稱,必以惡終。’美車何為?”叔孫與慶封食,不敬。為賦《相鼠》,亦不知也。衛寧喜專,公患之。公孫免餘請殺之。公曰:“微寧子不及此,吾與之言矣。事未可知,只成惡名,止也。”對曰:“臣殺之,君勿與知。”

斉の慶封が聘問に来て、その車子は華美であった。孟孫は叔孫に言った、「慶季の車子は、また華美ではないか」と。叔孫は言った、「豹が聞くに、『服飾が華美にして徳と稱せざれば、必ず惡終す』と。華美の車子を何にせん」と。叔孫は慶封に飯を給し、恭敬せず。これのために《相鼠》を賦するも、また知らず。衛の寧喜は專断し、公は憂患した。公孫免余は彼を殺すを請うた。公は言った、「寧子なくばこの歩に至らず。我は彼と話した。事はなお知るべからず。ただ惡名を成就するのみ。止めよ」と。答えて言った、「臣は彼を殺す。君王は参与して知るなかれ」と。

乃與公孫無地、公孫臣謀,使攻寧氏。弗克,皆死。公曰:“臣也無罪,父子死餘矣!”夏,免餘復攻寧氏,殺寧喜及右宰谷,屍諸朝。石惡將會宋之盟,受命而出。衣其屍,枕之股而哭之。欲斂以亡,懼不免,且曰:“受命矣。”乃行。

こうして公孫無地・公孫臣と謀劃し、彼らを遣わして寧氏を攻めさせた。攻克せず、皆死んだ。公は言った、「臣は罪なし。父子は我のために死した!」夏、免余は再び寧氏を攻め、寧喜および右宰穀を殺し、尸を朝廷に陳した。石惡はまさに宋の盟会に参加せんとして、命令を受けて出た。彼に上衣を着せ、頭を大腿に枕して哭いた。入殮して然る後逃亡せんと欲したが、免れざるを怕れ、かつ言った、「すでに命令を受けた」と。こうして行った。

子鮮曰:“逐我者出,納我者死,賞罰無章,何以沮勸?君失其信,而國無刑。不亦難乎!且鱄實使之。”遂出奔晉。公使止之,不可。及河,又使止之。

子鮮は言った、「我を驅逐するは出て、我を接納するは死した。賞罰に章程なく、何をもって惡を止め善を勸めん。君王は信用を失い、国家に刑罰なし。また困難ではないか!しかも実は鱄が彼をしてこのようにならしめた」と。こうして晋に出奔した。公は人を遣わして拦えたが、不可。黄河に至り、また人を遣わして拦えた。

止使者而盟於河,托於木門,不鄉衛國而坐。木門大夫勸之仕,不可,曰:“仕而廢其事,罪也。從之,昭吾所以出也。將準愬乎?吾不可以立於人之朝矣。”

使者を拦えて黄河辺で盟約を結び、木門に寄居し、衛に面向して坐せず。木門の大夫は彼に官を為るを勸めたが、不可で、言った、「官を為して職事を廢棄するは、罪。職事に従えば、即ち我の出た故を顯明す。まさに誰に控訴せん。我は他人の朝廷に立つべからず」と。底本の「准」は即ち誰。

終身不仕。公喪之,如稅服,終身。

終身官を為らず。公は彼のために喪を服し、税服のごとく、終身に至るまで。

公與免餘邑六十,辭曰:“唯卿備百邑,臣六十矣。下有上祿,亂也,臣弗敢聞。且寧子唯多邑,故死。臣懼死之速及也。”公固與之,受其半。以為少師。

公は免余に六十邑を給した。推辞して言った、「ただ卿のみ百邑を備有す。臣はすでに六十である。下級に上級の禄あるは、乱。臣は敢えて聞かず。しかも寧子はただ城邑の多きによって、だから死した。臣は死の来ること速きを怕れます」と。公は堅く彼に給し、半分を受けた。少師を為った。

公使為卿,辭曰:“大叔儀不貳,能贊大事。君其命之!”乃使文子為卿。

公は彼に卿を為らせんとし、推辞して言った、「大叔儀は二心なく、大事を贊助する能し。君王はなお彼に命じよ!」こうして文子に卿を為らせた。

宋向戌善於趙文子,又善於令尹子木,欲弭諸侯之兵以為名。如晉,告趙孟。

宋の向戌は趙文子と相好し、また令尹子木と相好して、諸侯の兵を停息して名を求めんと欲した。晋に至り、趙孟に告げた。

趙孟謀於諸大夫,韓宣子曰:“兵,民之殘也,財用之蠹,小國之大災也。將或弭之,雖曰不可,必將許之。弗許,楚將許之,以召諸侯,則我失為盟主矣。”

趙孟は諸大夫と謀劃し、韓宣子は言った、「兵は、百姓を殘害する、是れ財用の蠹虫、小国の大災。まさに人のこれを停息せんとするあらん。たとえ不可と言うとも、必ずまさに許さん。許さずば、楚はまさに許して、もって諸侯を召集し、われわれは即ち盟主を為るを失わん」と。

晉人許之。如楚,楚亦許之。如齊,齊人難之。陳文子曰:“晉、楚許之,我焉得已。且人曰弭兵,而我弗許,則固攜吾民矣!將焉用之?”齊人許之。告於秦,秦亦許之。皆告於小國,為會於宋。

晋人は許した。楚に至り、楚もまた許した。斉に至り、斉人は難を感じた。陳文子は言った、「晋・楚は許した。われわれはどうして停止できよう。しかも人は兵事を停息すると言うに、われわれが許さざれば、即ちもとよりわれわれの百姓を離散せん!まさにどこに用いん」と。斉人は許した。秦に告げると、秦もまた許した。皆小国に告げ、宋で会見した。

五月甲辰,晉趙武至於宋。丙午,鄭良霄至。六月丁未朔,宋人享趙文子,叔向為介。司馬置折俎,禮也。仲尼使舉是禮也,以為多文辭。戊申,叔孫豹、齊慶封、陳須無、衛石惡至。甲寅,晉荀盈從趙武至。丙辰,邾悼公至。壬戌,楚公子黑肱先至,成言於晉。丁卯,宋向戌如陳,從子木成言於楚。戊辰,滕成公至。子木謂向戌:“請晉、楚之從交相見也。”庚午,向戌復於趙孟。趙孟曰:“晉、楚、齊、秦,匹也。晉之不能於齊,猶楚之不能於秦也。楚君若能使秦君辱於敝邑,寡君敢不固請於齊?”壬申,左師復言於子木。子木使馹謁諸王,王曰:“釋齊、秦,他國請相見也。”秋七月戊寅,左師至。是夜也,趙孟及子皙盟,以齊言。庚辰,子木至自陳。陳孔奐、蔡公孫歸生至。曹、許之大夫皆至。

五月甲辰、晋の趙武は宋に到達した。丙午、鄭の良霄が到達した。六月丁未の朔日、宋人は趙文子を宴享し、叔向は副手を為った。司馬は折俎を設置した。これは礼に合う。仲尼は人にこの礼を記下させ、文辞の多きを以てした。戊申、叔孫豹・斉の慶封・陳須無・衛の石惡が到達した。甲寅、晋の荀盈は趙武に従いて到達した。丙辰、邾悼公が到達した。壬戌、楚の公子黑肱は先に至り、晋と談定した。丁卯、宋の向戌は陳に至り、子木に従いて楚と談定した。戊辰、滕成公が到達した。子木は向戌に言った、「晋・楚の各々の与国に互相に朝見するを請います」と。庚午、向戌は趙孟に回報した。趙孟は言った、「晋・楚・斉・秦は匹敵する。晋は斉を役使する能わざるは、楚が秦を役使する能わざるがごとし。楚君もし秦君をして辱くも敝邑に臨ましむる能わば、寡君は敢えて斉に堅く請わざらんや」と。壬申、左師は再び子木に言った。子木は驛車を遣わして王に請示し、王は言った、「斉・秦を放開し、その他の国は互相に朝見するを請え」と。秋七月戊寅、左師が到達した。この日の夜、趙孟は子皙と盟約を結び、言辞を統一した。庚辰、子木は陳より到達した。陳の孔奐・蔡の公孫歸生が到達した。曹・許の大夫は皆至った。

以藩為軍,晉、楚各處其偏。伯夙謂趙孟曰:“楚氛甚惡,懼難。”趙孟曰:“吾左還,入於宋,若我何?”辛巳,將盟於宋西門之外,楚人衷甲。伯州犁曰:“合諸侯之師,以為不信,無乃不可乎?夫諸侯望信於楚,是以來服。若不信,是棄其所以服諸侯也。”固請釋甲。子木曰:“晉、楚無信久矣,事利而已。苟得志焉,焉用有信?”大宰退,告人曰:“令尹將死矣,不及三年。求逞志而棄信,志將逞乎?志以發言,言以出信,信以立志,參以定之。信亡,何以及三?”趙孟患楚衷甲,以告叔向。

藩籬をもって軍営を為し、晋・楚は各々一辺に処った。伯夙は趙孟に言った、「楚の気氛は甚だ壞れたり。難あらんを怕れます」と。趙孟は言った、「我は左に轉彎し、宋に入れば、我をどうせん」と。辛巳、まさに宋の西門外で盟約を結ばんとして、楚人は衣の裏に甲を穿いた。伯州犁は言った、「諸侯の軍隊を会合して、かえって不信の事を為す。おそらく不可でしょうか?諸侯は楚に信用を期望し、これによって前に歸服す。もし守信せざれば、是れ諸侯を歸服せしむるに用うる所を拋棄す」と。堅く甲を脱ぐを請うた。子木は言った、「晋・楚は信用なきことすでに久し。ただ事の利あるを見るのみ。もし志を得れば、どうして信用あるを用いん」と。太宰は退き、人に告げて言った、「令尹はまさに死せん。三年に至らず。志を逞するを求めてかえって信用を拋棄す。志はなお得逞する能くせんや。志はもって言を發し、言はもって信用を出し、信用はもって志を立つ。三者はもって安定す。信用が亡ぶれば、何をもって三年に至らん」と。趙孟は楚人の衣の裏に甲を穿くを憂患し、叔向に告げた。

叔向曰:“何害也?匹夫一為不信,猶不可,單斃其死。若合諸侯之卿,以為不信,必不捷矣。食言者不病,非子之患也。夫以信召人,而以僣濟之。必莫之與也,安能害我?且吾因宋以守病,則夫能致死,與宋致死,雖倍楚可也。子何懼焉?又不及是。曰弭兵以召諸侯,而稱兵以害我,吾庸多矣,非所患也。”

叔向は言った、「何の妨害があらん。匹夫は一度不守信するも、なお不可。独自に斃命す。もし諸侯の卿を会合してかえって不守信の事を為さば、必ず成功しない。話して算数せざる人は人を困病せず。あなたの憂患にあらず。信用をもって人を召して、かえって僭越をもって成就すれば、必ず人の親附するなし。どうしてわれわれを害せん。しかもわれわれは宋に倚りて困病を守り、あの人は致死力する能く、宋と致死力すれば、たとえ楚に加倍するとも可。あなたは何を怕れん。またこの歩に至らず。兵事を停息するを言いて諸侯を召集し、かえって兵を動かしてわれわれを害するは、われわれの功労は即ち多し。憂患する所にあらず」と。

季武子使謂叔孫以公命,曰:“視邾、滕。”既而齊人請邾,宋人請滕,皆不與盟。叔孫曰:“邾、滕,人之私也;我,列國也,何故視之?宋、衛,吾匹也。”乃盟。故不書其族,言違命也。

季武子は人を遣わして襄公の命令をもって叔孫に告げさせて言わせた、「邾・滕に比照せよ」と。続いて斉人は邾を屬国と為すを請い、宋人は滕を屬国と為すを請い、皆盟約に参加せず。叔孫は言った、「邾・滕は他人の私屬。われわれは列国である。なぜ彼らに比照せん。宋・衛はわれわれの匹敵」と。こうして盟約を結んだ。だから《春秋》にその族氏を記さざるは、命令に違背したを言う。

晉、楚爭先。晉人曰:“晉固為諸侯盟主,未有先晉者也。”楚人曰:“子言晉、楚匹也,若晉常先,是楚弱也。且晉、楚狎主諸侯之盟也久矣!豈專在晉?”叔向謂趙孟曰:“諸侯歸晉之德只,非歸其屍盟也。子務德,無爭先!且諸侯盟,小國固必有屍盟者。楚為晉細,不亦可乎?”乃先楚人。書先晉,晉有信也。

晋・楚は先に立つを争った。晋人は言った、「晋はもとより諸侯の盟主。晋より先なるはなし」と。楚人は言った、「あなたは晋・楚匹敵と言う。もし晋が常に先に在れば、是れ楚の弱。しかも晋・楚は交替して諸侯の盟約を主持すことすでに久し!あに専ら晋に在らんや」と。叔向は趙孟に言った、「諸侯の歸向するはただ晋の徳である。それが盟約を主持するに歸向せず。あなたは徳を致力し、先を争うなかれ!しかも諸侯が盟約を結ぶに、小国はもとより必ず盟約を主持するあり。楚が晋のために細事を為すは、また可ではないか」と。こうして楚人を先にさせた。《春秋》に晋を先に記すは、晋に信用あるを言う。

壬午,宋公兼享晉、楚之大夫,趙孟為客。子木與之言,弗能對。使叔向侍言焉,子木亦不能對也。

壬午、宋公は併せて晋・楚の大夫を宴享し、趙孟は客人を為った。子木は彼と話すも、對答する能わず。叔向をして伴い話させるに、子木もまた對答する能わず。

乙酉,宋公及諸侯之大夫盟於蒙門之外。子木問於趙孟曰:“範武子之德何如?”對曰:“夫人之家事治,言於晉國無隱情。其祝史陳信於鬼神,無愧辭。”

乙酉、宋公は諸侯の大夫と蒙門外で盟約を結んだ。子木は趙孟に問うて言った、「范武子の徳はどうか」と。答えて言った、「あの人は家事を治理するを善くし、晋に対して話して隱瞞なし。その祝史は鬼神に陳說するに誠信あり。慚愧の話なし。

子木歸,以語王。王曰:“尚矣哉!能歆神人,宜其光輔五君以為盟主也。”子木又語王曰:“宜晉之伯也!有叔向以佐其卿,楚無以當之,不可與爭。”晉荀寅遂如楚蒞盟。

子木は帰り、王に告げた。王は言った、「高尚なるかな!能く神と人を喜悅せしむ。宜しく五位の国君を光輔して盟主を為るべし」と。子木はまた王に言った、「晋が霸主を為るは是れ應該である!叔向あってその卿を輔佐す。楚に抵当する能くするなし。彼と争うべからず」と。晋の荀寅はこうして楚に至りて盟約に参加した。

鄭伯享趙孟於垂隴,子展、伯有、子西、子產、子大叔、二子石從。趙孟曰:“七子從君,以寵武也。請皆賦以卒君貺,武亦以觀七子之志。”子展賦《草蟲》,趙孟曰:“善哉!民之主也。抑武也不足以當之。”伯有賦《鶉之賁賁》,趙孟曰:“床第之言不逾閾,況在野乎?非使人之所得聞也。”子西賦《黍苗》之四章,趙孟曰:“寡君在,武何能焉?”子產賦《隰桑》,趙孟曰:“武請受其卒章。”子大叔賦《野有蔓草》,趙孟曰:“吾子之惠也。”印段賦《蟋蟀》,趙孟曰:“善哉!保家之主也,吾有望矣!”公孫段賦《桑扈》,趙孟曰:“‘匪交匪敖’,福將焉往?若保是言也,欲辭福祿,得乎?”卒享。文子告叔向曰:“伯有將為戮矣!詩以言志,志誣其上,而公怨之,以為賓榮,其能久乎?幸而後亡。”叔向曰:“然。已侈!所謂不及五稔者,夫子之謂矣。”文子曰:“其餘皆數世之主也。子展其後亡者也,在上不忘降。印氏其次也,樂而不荒。樂以安民,不淫以使之,後亡,不亦可乎?”宋左師請賞,曰:“請免死之邑。”公與之邑六十。以示子罕,子罕曰:“凡諸侯小國,晉、楚所以兵威之。畏而後上下慈和,慈和而後能安靖其國家,以事大國,所以存也。無威則驕,驕則亂生,亂生必滅,所以亡也。天生五材,民並用之,廢一不可,誰能去兵?兵之設久矣,所以威不軌而昭文德也。聖人以興,亂人以廢,廢興存亡昏明之術,皆兵之由也。而子求去之,不亦誣乎?以誣道蔽諸侯,罪莫大焉。縱無大討,而又求賞,無厭之甚也!”削而投之。左師辭邑。向氏欲攻司城,左師曰:“我將亡,夫子存我,德莫大焉,又可攻乎?”君子曰:“‘彼己之子,邦之司直。’樂喜之謂乎?‘何以恤我,我其收之。’向戌之謂乎?”齊崔杼生成及強而寡。娶東郭姜,生明。

鄭伯は垂隴で趙孟を宴享し、子展・伯有・子西・子産・子大叔・両位の子石が従った。趙孟は言った、「七位は国君に従う。是れ武を寵幸す。皆詩を賦して君王の賞賜を完成し、武もまたもって七位の心志を観察せんことを請います」と。子展は《草蟲》を賦し、趙孟は言った、「好し!是れ百姓の主人。ただ武は承当に足らず」と。伯有は《鶉之賁賁》を賦し、趙孟は言った、「床第の話は門檻を越えず。まして野外においてや。使者の聞くべき所にあらず」と。子西は《黍苗》第四章を賦し、趙孟は言った、「寡君が在る。武は何を為す能くせん」と。子産は《隰桑》を賦し、趙孟は言った、「武はその卒章を接受せんを請います」と。子大叔は《野有蔓草》を賦し、趙孟は言った、「是れ吾子の恩恵」と。印段は《蟋蟀》を賦し、趙孟は言った、「好し!是れ家を保つ主人。我に期望あり!」公孫段は《桑扈》を賦し、趙孟は言った、「『交結せず驕傲せず』、福はまさにどこに至らん。もしこの話を保有せば、福祿を推辞せんと欲するも、能くせんや」と。宴享は結束した。文子は叔向に告げて言った、「伯有はまさに殺されん!詩はもって心志を表達す。心志は上級を誣蔑し、また公開に怨恨し、もって賓客に榮耀を給う。能く長久せんや。僥倖して然る後乃ち滅亡す」と。叔向は言った、「是のごとし。すでに奢侈せり!謂う所の五年に至らざるは、夫子を言う」と。文子は言った、「その余は皆幾世を維持する能くする主人。子展は最後に滅亡する。上に在りて降抑を忘れず。印氏はその次。快楽にして荒廢せず。快楽はもって百姓を安定し、過分に彼らを役使せず。後れて滅亡するは、また可ではないか」と。宋の左師は賞賜を請いて言った、「免死の城邑を給るを請います」と。公は彼に六十邑を給した。子罕に見せると、子罕は言った、「およそ諸侯の小国は、晋・楚は兵を用いて威懾す。畏懼して然る後上下は慈愛和睦し、慈愛和睦して然る後能く国家を安定し、もって大国に事え、だから存在する能し。威なくば即ち驕傲し、驕傲すれば即ち乱を生じ、乱生じれば必ず滅亡す。だから滅亡す。天は五材を生じ、百姓は皆これを使用す。一樣を廢掉するは不可。誰が能く兵を去らん。兵の設置はすでに久し。もって不軌を威懾し文徳を顯明す。聖人はこれによって興起し、乱人はこれによって廢棄す。廢興存亡昏明の方法は、皆兵より来る。あなたはかえってこれを去らんを求む。また誣妄ではないか。誣妄の道理をもって諸侯を蒙蔽するは、罪過はこれより大ききはなし。たとえ大討伐なくとも、また賞賜を求むるは、貪婪の至極!」簡を削りて投げた。左師は城邑を推辞した。向氏は司城を攻めんと欲し、左師は言った、「我はまさに滅亡せんとするに、夫子は我を保存す。徳はこれより大ききはなし。また攻めるべからんや」と。君子は言った、「『あの人は、邦国の正直を主持する』とは、楽喜を言うのであろうか。『何をもって我を体恤せん、我はこれを收取せん』とは、向戌を言うのであろうか」と。斉の崔杼は成および彊を生みて妻を喪った。東郭姜を娶り、明を生んだ。

東郭姜以孤入,曰棠無咎,與東郭偃相崔氏。崔成有疾,而廢之,而立明。成請老於崔,崔子許之。偃與無咎弗予,曰:“崔,宗邑也,必在宗主。”成與強怒,將殺之。告慶封曰:“夫子之身亦子所知也,唯無咎與偃是從,父兄莫得進矣。大恐害夫子,敢以告。”慶封曰:“子姑退,吾圖之。”告盧蒲弊。盧蒲弊曰:“彼,君之仇也。天或者將棄彼矣。

東郭姜は孤儿を帯びて入り、棠無咎と言い、東郭偃とともに崔氏を輔佐した。崔成は病あり、彼を廢掉し、明を立てた。成は崔地で養老するを請い、崔子は許した。偃と無咎は給さずして言った、「崔は宗邑。必ず宗主に在るべし」と。成と彊は怒り、まさに彼らを殺さんとした。慶封に告げて言った、「夫子の處境はまたあなたの知る所。ただ無咎と偃に従い、父兄は進言する能わず。甚だ夫子を妨害するを怕れ、敢えて告げに来た」と。慶封は言った、「あなたはしばらく退下せよ。我は謀劃す」と。盧蒲弊に告げた。盧蒲弊は言った、「彼は君王の仇人。上天はあるいはまさに彼を拋棄せん。

彼實家亂,子何病焉!崔之薄,慶之厚也。”他日又告。慶封曰:“苟利夫子,必去之!難,吾助女。”

彼は実は家に乱ある。あなたは何を憂患せん!崔氏が薄ければ、即ち慶氏は厚し」と。後のある日また告げた。慶封は言った、「もし夫子に利あれば、必ず彼らを去らん!難あれば、我はあなたを幫助す」と。

九月庚辰,崔成、崔強殺東郭偃、棠無咎於崔氏之朝。崔子怒而出,其眾皆逃,求人使駕,不得。使圉人駕,寺人御而出。且曰:“崔氏有福,止餘猶可。”

九月庚辰、崔成・崔彊は崔氏の朝廷で東郭偃・棠無咎を殺した。崔子は怒りて出ると、その衆は皆逃走し、人を找して車を駕せしめんとするも、找えず。圉人に車を駕せしめ、寺人が駕して出た。かつ言った、「崔氏に福あれば、ただ我を留むるもなお可」と。

遂見慶封。慶封曰:“崔、慶一也。是何敢然?請為子討之。”使盧蒲弊帥甲以攻崔氏。崔氏堞其宮而守之,弗克。使國人助之,遂滅崔氏,殺成與強,而盡俘其家。其妻縊。弊覆命於崔子,且御而歸之。至,則無歸矣,乃縊。崔明夜闢諸大墓。辛巳,崔明來奔,慶封當國。

こうして慶封に見えた。慶封は言った、「崔・慶は一家。これらの人はどうして敢えてこのようか。あなたのために討伐せんを請います」と。盧蒲弊を遣わして甲士を率いて崔氏を攻めさせた。崔氏は宮牆を加高して守衛し、攻克せず。国人に幫助せしめ、こうして崔氏を滅亡し、成と彊を殺し、その家を全部俘虜した。その妻は縊った。弊は崔子に復命し、かつ車を駕して彼を送り帰した。至り、すでに歸るべき処なし。こうして縊った。崔明は夜に大墓に躲れた。辛巳、崔明は奔り来た。慶封は国事を主持した。

楚薳罷如晉蒞盟,晉將享之。將出,賦《既醉》。叔向曰:“薳氏之有後於楚國也,宜哉!承君命,不忘敏。子蕩將知政矣。敏以事君,必能養民。政其焉往?”崔氏之亂,申鮮虞來奔,僕賃於野,以喪莊公。冬,楚人召之,遂如楚為右尹。

楚の䓕罷は晋に至りて盟約に参加し、晋はまさに彼を宴享せんとした。まさに出でんとして、《既醉》を賦した。叔向は言った、「䓕氏は楚において後嗣あるは、是れ應該である!国君の命令を承受して、敏捷を忘れず。子蕩はまさに政事を執掌せん。敏捷をもって国君に事えれば、必ず能く百姓を養わん。政事はなおどこに至らん」と。崔氏の乱事に、申鮮虞は奔り来て、野外で人を雇いて車を駕せしめ、荘公のために喪を服した。冬、楚人は彼を召し、こうして楚に至りて右尹を為った。

十一月乙亥朔,日有食之。辰在申,司歷過也,再失閏矣。

十一月乙亥の朔日、日食があった。辰星は申に在り。是れ司曆の過錯、二度閏を失した。

◇襄公二十八年

◇襄公二十八年

【經】二十有八年春,無冰。夏,衛石惡出奔晉。邾子來朝。秋八月,大雩。

【経】二十八年春、氷なし。夏、衛の石惡は晋に出奔した。邾子が朝見に来た。秋八月、大雩を行った。

仲孫羯如晉。冬,齊慶封來奔。十有一月,公如楚。十有二月甲寅,天王崩。乙未,楚子昭卒。

仲孫羯は晋に行った。冬、斉の慶封が奔り来た。十一月、襄公は楚に行った。十二月甲寅、天子が死去した。乙未、楚子昭が死去した。

【傳】二十八年春,無冰。梓慎曰:“今茲宋、鄭其飢乎?歲在星紀,而淫於玄枵,以有時災,陰不堪陽。蛇乘龍。龍,宋、鄭之星也,宋、鄭必飢。玄枵,虛中也。枵,耗名也。土虛而民耗,不飢何為?”夏。齊侯、陳侯、蔡侯、北燕伯、杞伯、鬍子、沈子、白狄朝於晉,宋之盟故也。齊侯將行,慶封曰:“我不與盟,何為於晉?”陳文子曰:“先事後賄,禮也。小事大,未獲事焉,從之如志,禮也。雖不與盟,敢叛晉乎?重丘之盟,未可忘也。子其勸行!”衛人討寧氏之黨,故石惡出奔晉。衛人立其從子圃以守石氏之祀,禮也。

【伝】二十八年春、氷なし。梓慎は言った、「今年宋・鄭はおそらく饑饉せんか?歳星は星紀に在るに、かえって頭を過ぎて玄枵に至る。これによって時令の災あり。陰は陽を承受する能わず。蛇は龍に乗る。龍は宋・鄭の星。宋・鄭は必ず饑饉す。玄枵は、中間は虚。枵は耗の名。土地は空虚にして百姓は耗損す。饑饉せずして何を為さん」と。夏。斉侯・陳侯・蔡侯・北燕伯・杞伯・胡子・沈子・白狄は晋に朝見した。宋の盟の故である。斉侯はまさに出行せんとし、慶封は言った、「われわれは盟約に参加せず。なぜ晋に行かん」と。陳文子は言った、「先に事を為して然る後財貨を談ずるは、礼。小なるは大なるに事え、まだ事えるを獲得せざれば、それに従うはそれの願うがごとくするは、礼。たとえ盟約に参加せずとも、敢えて晋を背叛せんや。重丘の盟は忘れるべからず。あなたはなお彼に行くを勸めよ!」衛人は寧氏の党羽を討伐した。だから石惡は晋に出奔した。衛人はその姪圃を立てて石氏の祭祀を守らしめた。これは礼に合う。

邾悼公來朝,時事也。

邾悼公が朝見に来た。是れ時の事である。

秋八月,大雩,旱也。

秋八月、大雩を行った。旱のためである。

蔡侯歸自晉,入於鄭。鄭伯享之,不敬。子產曰:“蔡侯其不免乎?日其過此也,君使子展廷勞於東門之外,而傲。吾曰:‘猶將更之。’今還,受享而惰,乃其心也。君小國事大國,而惰傲以為己心,將得死乎?若不免,必由其子。其為君也,淫而不父。僑聞之,如是者,恆有子禍。”

蔡侯は晋より帰り、鄭に入った。鄭伯は彼を宴享したが、恭敬せず。子産は言った、「蔡侯はおそらく免れないでしょう?往日彼がここを経過し、君王は子展を遣わして東門外で慰勞したに、驕傲した。我は言った、『なお改正せん』と。今帰りて、宴享を受けて怠惰す。即ちこれがその心である。君王は小国をもって大国に事えるに、かえって怠惰驕傲をもってその心と為す。まさに死を得る能くせんや。もし免れずば、必ずその子による。彼は国君を為るに、淫乱して父に似ず。僑が聞くに、このごときは、常に子の禍あり」と。

孟孝伯如晉,告將為宋之盟故如楚也。

孟孝伯は晋に行き、まさに宋の盟の故のために楚に行かんとするを告知した。

蔡侯之如晉也,鄭伯使遊吉如楚。及漢,楚人還之,曰:“宋之盟,君實親辱。今吾子來,寡君謂吾子姑還!吾將使馹奔問諸晉而以告。”子大叔曰:“宋之盟,君命將利小國,而亦使安定其社稷,鎮撫其民人,以禮承天之休,此君之憲令,而小國之望也。寡君是故使吉奉其皮幣,以歲之不易,聘於下執事。今執事有命曰:‘女何與政令之有?必使而君棄而封守,跋涉山川,蒙犯霜露,以逞君心。’小國將君是望,敢不唯命是聽。無乃非盟載之言,以闕君德,而執事有不利焉,小國是懼。不然,其何勞之敢憚?”子大叔歸,覆命,告子展曰:“楚子將死矣!不修其政德,而貪昧於諸侯,以逞其願,欲久,得乎?《周易》有之,在《復》ⅱⅲ之《頤》ⅶⅲ,曰:‘迷復,兇。’其楚子之謂乎?欲復其願,而棄其本,復歸無所,是謂迷復。能無兇乎?君其往也!送葬而歸,以快楚心。楚不幾十年,未能恤諸侯也。吾乃休吾民矣。”裨灶曰:“今茲周王及楚子皆將死。

蔡侯が晋に行った時、鄭伯は游吉を遣わして楚に行かせた。漢水に至り、楚人は彼を帰らせて言った、「宋の盟に、君王は実に自ら辱くも臨んだ。今吾子が来る。寡君は言う、吾子はしばらく帰れ!我はまさに驛車を遣わして晋に問いて然る後告げん」と。子大叔は言った、「宋の盟に、君王の命令はまさに小国を利し、また社稷を安定し、民人を鎮撫し、礼をもって天の福を承受せしめんとす。是れ君王の憲令、小国の期望。寡君はこれによって吉を遣わして皮幣を奉上せしめ、年成が容易ならざるによって、下面の執事に聘問せしめた。今執事に命令ありて言う、『なんじは政令に何の相干あらん。必ずなんじの国君に封守を拋棄せしめ、山川を跋涉し、霜露を蒙受して、もって君王の心意を滿足せしめよ』と。小国はただ君王を期望するのみ。敢えて唯命を聽かざらんや。おそらく盟書の話に符合せずして、君王の徳に缺を為さしめ、執事もまた不利あらん。小国はこれを怕れる。然らずんば、敢えて何の労苦を怕れん」と。子大叔は帰りて復命し、子展に告げて言った、「楚子はまさに死せん!政徳を修めずして、かえって諸侯に貪昧し、もって願望を滿足す。長久を欲するも、能くせんや。《周易》にこれあり、《復》の《頤》に変わるに、言う、『迷復、凶』と。おそらく楚子を言うのであろうか?その願望を恢復せんと欲して、かえって根本を拋棄す。帰るに処なし。これを迷復と言う。能く凶ならざらんや。君王はなお往け!葬を送りて然る後帰り、もって楚を快意せしめよ。楚はなお十年に近づかず、諸侯を体恤する能わず。われわれはこうしてわれわれの百姓を休息せん」と。裨竈は言った、「今年周王および楚子は皆まさに死せん。

歲棄其次,而旅於明年之次,以害鳥帑。周、楚惡之。”

歳星はその位置を離れ、明年の位置に寄旅して、もって鳥の尾を害す。周・楚はこれを惡とす」。

九月,鄭遊吉如晉,告將朝於楚,以從宋之盟。子產相鄭伯以如楚,舍不為壇。外僕言曰:“昔先大夫相先君,適四國,未嘗不為壇。自是至今,亦皆循之。

九月、鄭の游吉は晋に行き、まさに楚に朝見せんとするを告知し、もって宋の盟に従わんとした。子産は鄭伯を輔佐して楚に至り、住みて壇を築かず。外僕は言った、「昔先大夫は先君を輔佐し、四つの国に至り、未嘗て壇を築かざるなし。あの時より今に至るまで、皆遵循す。

今子草舍,無乃不可乎?”子產曰:“大適小,則為壇。小適大,苟舍而已,焉用壇?僑聞之,大適小有五美:宥其罪戾,赦其過失,救其災患,賞其德刑,教其不及。小國不困,懷服如歸。是故作壇以昭其功,宣告後人,無怠於德。小適大有五惡:說其罪戾,請其不足,行其政事,共某職貢,從其時命。不然,則重其幣帛,以賀其福而吊其兇,皆小國之禍也。焉用作壇以昭其禍?所以告子孫,無昭禍焉可也。”

今あなたは草地上に住みて、おそらく不可でしょう?」子産は言った、「大なるは小なるに至れば、即ち壇を築く。小なるは大なるに至れば、隨便に住むのみ。どうして壇を用いん。僑が聞くに、大なるが小なるに至るに五美あり。罪戾を寬宥し、過失を赦免し、災患を救助し、徳行刑罰を賞賜し、達せざるを教導す。小国は困せず、歸服すること家に帰るがごとし。だから壇を築きて功労を顯明し、後人に宣告し、徳を怠慢するなかれ。小なるが大なるに至るに五惡あり。罪戾を解說し、不足を請求し、その政事を實行し、職貢を供給し、それに従うは時の命令。然らずんば、即ち幣帛を加重し、もって福を祝賀し凶を吊問す。皆小国の禍。どうして壇を築きて禍を顯明せん。もって子孫に告げて、禍を顯明するなかれとせば即可」と。底本の「共某職貢」の「某」は即ち其。

齊莊封好田而耆酒,與慶舍政。則以其內實遷於盧蒲弊氏,易內而飲酒。數日,國遷朝焉。使諸亡人得賊者,以告而反之,故反盧蒲癸。癸臣子之,有寵,妻之。慶舍之士謂盧蒲癸曰:“男女辨姓。子不闢宗,何也?”曰:“宗不餘闢,餘獨焉闢之?賦詩斷章,餘取所求焉,惡識宗?”癸言王何而反之,二人皆嬖,使執寢戈,而先後之。

斉の慶封は田獵を喜好し酒を嗜み、政事を慶舍に交した。こうして內室を盧蒲弊氏に遷し、妻妾を交換して酒を飲んだ。數日の後、國人は改めてあそこに上朝した。各々逃亡の人にして賊人を得る能くするに、來て報告すれば即ち彼らを帰らしめた。だから盧蒲癸を帰らしめた。癸は子之の家臣を為り、寵を受け、女を彼に嫁がせた。慶舍の士は盧蒲癸に言った、「男女は姓を分別するを要す。あなたは宗を避けず。なぜか」と。言った、「宗は我を避けず。我は獨りどこでそれを避けん。賦詩は章を斷じ、我は我の求むる所を取る。どうして宗を認識せん」と。底本の「莊封」は即ち慶封。癸は王何を說きて彼を帰らしめた。兩人は皆寵を受け、彼らに寢戈を持たせ、前後で護衛した。

公膳,日雙雞。饔人竊更之以鶩。御者知之,則去其肉而以其洎饋。子雅、子尾怒。慶封告盧蒲弊。盧蒲弊曰;“譬之如禽獸,吾寢處之矣。”使析歸父告晏平仲。平仲曰:“嬰之眾不足用也,知無能謀也。言弗敢出,有盟可也。”子家曰:“子之言云,又焉用盟?”告北郭子車。子車曰:“人各有以事君,非佐之所能也。”陳文子謂桓子曰:“禍將作矣!吾其何得?”對曰:“得慶氏之木百車於莊。”文子曰:“可慎守也已!”盧蒲癸、王何卜攻慶氏,示子之兆,曰:“或卜攻讎,敢獻其兆。”子之曰:“克,見血。”冬十月,慶封田於萊,陳無宇從。丙辰,文子使召之。請曰:“無宇之母疾病,請歸。”慶季卜之,示之兆,曰:“死。”奉龜而泣。乃使歸。

公家の膳食は、每日雞二隻。饔人は竊かに鴨子に換えた。御者はこれを知りて、即ち肉を去りて肉汁のみを送上した。子雅・子尾は怒った。慶封は盧蒲弊に告げた。盧蒲弊は言った、「禽獸に比すれば、我はすでにそれらの皮上に睡った」と。析歸父を遣わして晏平仲に告げさせた。平仲は言った、「嬰の兵衆は用に足らず。智は謀る能わず。話は敢えて口を出さず。盟約あれば即可」と。子家は言った、「あなたの話はすでにこのよう。またどうして盟約を用いん」と。北郭子車に告げた。子車は言った、「人は各々國君に事える方式あり。佐の能くする所にあらず」と。陳文子は桓子に言った、「禍亂はまさに發作せん!われわれは何を得られん」と。答えて言った、「莊地で慶氏の木頭一百車を得る」と。文子は言った、「謹慎して守住すべし!」盧蒲癸・王何は慶氏を攻めるを卜に問い、兆を子之に見せて言った、「人ありて仇人を攻めるを卜に問う。敢えて兆を獻上す」と。子之は言った、「攻克する能し。血を見た」と。冬十月、慶封は萊で田獵し、陳無宇は跟從した。丙辰、文子は人を遣わして彼を召した。請うて言った、「無宇の母は病重し。帰るを請います」と。慶季はこのために卜に問い、兆を彼に見せて言った、「死」と。龜を捧げて哭泣した。こうして彼を帰らせた。

慶嗣聞之,曰:“禍將作矣!謂子家:“速歸!禍作必於嘗,歸猶可及也。”子家弗聽,亦無悛志。子息曰:“亡矣!幸而獲在吳、越。”陳無宇濟水而戕舟發梁。盧蒲姜謂癸曰:“有事而不告我,必不捷矣。”癸告之。姜曰:“夫子愎,莫之止,將不出,我請止之。”癸曰:“諾。”十一月乙亥,嘗於大公之廟,慶舍蒞事。盧蒲姜告之,且止之。弗聽,曰:“誰敢者!”遂如公。麻嬰為屍,慶圭為上獻。盧蒲癸、王何執寢戈。慶氏以其甲環公宮。陳氏、鮑氏之圉人為優。

慶嗣は聞いて言った、「禍亂はまさに發作せん!」子家に言った、「速やかに帰れ!禍は發作して必ず秋祭に在り。帰ればなお及ぶ」と。子家は聽かず、また悔改の心意なし。子息は言った、「畢竟した!僥倖に呉・越において容身を獲得せん」と。陳無宇は水を渡る後船を毀り橋を拆いた。盧蒲姜は癸に言った、「事ありてかえって我に告げざれば、必ず成功しない」と。癸は彼女に告げた。姜は言った、「夫子は剛愎。人の拦むなくば、まさに出でざらん。我は彼を拦むるを請います」と。癸は言った、「好し」と。十一月乙亥、太公廟で秋祭を舉行し、慶舍は場に至りて主持した。盧蒲姜は彼に告げ、かつ彼を拦えた。聽かずして言った、「誰が敢えてか」と。こうして公に至った。麻嬰は尸を為り、慶圭は上獻を為った。盧蒲癸・王何は寢戈を持った。慶氏は甲士をもって公宮を環繞した。陳氏・鮑氏の圉人は俳優を為った。

慶氏之馬善驚,士皆釋甲束馬而飲酒,且觀優,至於魚裡。欒、高、陳、鮑之徒介慶氏之甲。子尾抽桷擊扉三,盧蒲癸自後刺子之,王何以戈擊之,解其左肩。

慶氏の馬は驚き易し。士は皆甲を脫ぎて馬を拴いで酒を飲み、かつ俳優を觀て、魚里に至るまで。欒・高・陳・鮑の徒衆は慶氏の甲を著けた。子尾は椽子を抽き出して門を三下敲き、盧蒲癸は後ろより子之を刺し、王何は戈をもって彼を擊ち、左肩を卸下した。

猶援廟桷,動於甍,以俎壺投,殺人而後死。遂殺慶繩、麻嬰。公懼,鮑國曰:“群臣為君故也。”陳須無以公歸,稅服而如內宮。

なお廟椽を抓著し、屋脊を震動し、俎と壺をもって投擲し、人を殺して然る後死した。こうして慶繩・麻嬰を殺した。公は恐懼し、鮑國は言った、「群臣は君王の故のためである」と。陳須無は公を帶びて帰り、祭服を脫ぎ去りて內宮に入った。

慶封歸,遇告亂者,丁亥,伐西門,弗克。還伐北門,克之。入,伐內宮,弗克。反,陳於嶽,請戰,弗許。遂來奔。獻車於季武子,美澤可以鑑。展莊叔見之,曰:“車甚澤,人必瘁,宜其亡也。”叔孫穆子食慶封,慶封汜祭。穆子不說,使工為之誦《茅鴟》,亦不知。既而齊人來讓,奔吳。吳句餘予之朱方,聚其族焉而居之,富於其舊。子服惠伯謂叔孫曰:“天殆富淫人,慶封又富矣。”

慶封は帰り、亂事を報告する人に遇い、丁亥、西門を攻めたが、攻克せず。回りて北門を攻め、攻克した。入りて、內宮を攻めたが、攻克せず。返回し、岳で陣を列ね、交戰を請うも、許されず。こうして奔り来た。車子を季武子に獻じ、光澤は鏡子と為るべし。展莊叔はこれを見て言った、「車子は甚だ光澤。人は必ず憔悴す。滅亡すべし」と。叔孫穆子は慶封に飯を給し、慶封は遍く祭した。穆子は喜ばず、樂工に彼のために《茅鴟》を誦させるも、また知らず。隨後齊人は來て責め、呉に出奔した。呉の句余は彼に朱方を給し、族人を聚集してあそこに住まわせ、原來よりさらに富んだ。子服恵伯は叔孫に言った、「上天はおそらく淫邪の人を富ましむ。慶封はまた富んだ」と。

穆子曰:“善人富謂之賞,淫人富謂之殃。天其殃之也,其將聚而殲旃?”癸巳,天王崩。未來赴,亦未書,禮也。

穆子は言った、「善人の富むを賞と言い、淫邪の人の富むを殃と言う。上天はおそらく彼に殃を與えんとして、まさに聚集して然る後彼らを殲滅せんか」と。癸巳、天子が死去した。訃告はまだ來ず、また記載せず。これは禮に合う。

崔氏之亂,喪群公子。故鉏在魯,叔孫還在燕,賈在句瀆之丘。及慶氏亡,皆召之,具其器用而反其邑焉。與晏子邶殿,其鄙六十,弗受。子尾曰:“富,人之所欲也,何獨弗欲?”對曰:“慶氏之邑足欲,故亡。吾邑不足欲也。益之以邶殿,乃足欲。足欲,亡無日矣。在外,不得宰吾一邑。不受邶殿,非惡富也,恐失富也。且夫富如布帛之有幅焉,為之制度,使無遷也。夫民生厚而用利,於是乎正德以幅之,使無黜嫚,謂之幅利。利過則為敗。吾不敢貪多,所謂幅也。”

崔氏の亂事に、諸公子を喪失した。だから鉏は魯に在り、叔孫還は燕に在り、賈は句瀆之丘に在り。慶氏の滅亡に及び、皆召して帰りて、器用を備辦し城邑を歸還した。晏子に邶殿の邊邑六十を給したが、受けず。子尾は言った、「富は人の欲する所。なぜ獨り欲せざる」と。答えて言った、「慶氏の城邑は欲望を滿足した。だから滅亡した。我の城邑はなお欲望を滿足せず。邶殿を加えれば、即ち欲望を滿足す。欲望を滿足すれば、滅亡は數日なし。外に在りては、我の一邑を主宰する能わず。邶殿を受けざるは、富を惡むにあらず。富を失うを怕るる。しかも富は布帛に幅度あるがごとし。それのために制度を制定し、それを遷移せざらしむ。百姓の生活は豊厚にして器用は利あり、こうして徳行を端正して幅度を限制し、貶損怠慢せざらしむ。これを幅利と言う。利が過分なれば即ち敗壞す。我は敢えて多くを貪らず。即ち謂う所の幅」と。

與北郭佐邑六十,受之。與子雅邑,辭多受少。與子尾邑,受而稍致之。公以為忠,故有寵。

北郭佐に六十邑を給し、受けた。子雅に城邑を給するに、多きを推辞して少なきを受けた。子尾に城邑を給するに、受けて漸く送り還した。公は忠誠とし、だから寵あり。

釋盧蒲弊於北竟。求崔杼之屍,將戮之,不得。叔孫穆子曰:“必得之。武王有亂臣十人,崔杼其有乎?不十人,不足以葬。”既,崔氏之臣曰:“與我其拱璧,吾獻其柩。”於是得之。十二月乙亥朔,齊人遷莊公,殯於大寢。以其棺屍崔杼於市,國人猶知之,皆曰:“崔子也。”

盧蒲弊を北部辺境に放逐した。崔杼の尸體を求め、まさに尸を戮せんとしたが、得られず。叔孫穆子は言った、「必ず得られる能し。武王に亂臣十人あり。崔杼にあるか。十人に至らず、安葬するに用うるに足らず」と。後、崔氏の家臣は言った、「我にあの大璧を給せば、我は棺柩を獻出せん」と。こうして得た。十二月乙亥の朔日、齊人は莊公を遷し、正寢に停殯した。その棺をもって崔杼を市上に陳尸し、國人はなお認識して皆言った、「是れ崔子」と。

為宋之盟故,公及宋公、陳侯、鄭伯、許男如楚。公過鄭,鄭伯不在。伯有勞於黃崖,不敬。穆叔曰:“伯有無戾於鄭,鄭必有大咎。敬,民之主也,而棄之,何以承守?鄭人不討,必受其辜,濟澤之阿,行潦之蘋藻,置諸宗室,季蘭屍之,敬也。敬可棄乎?”及漢,楚康王卒。公欲反,叔仲昭伯曰:“我楚國之為,豈為一人?行也!”子服惠伯曰:“君子有遠慮,小人從邇。飢寒之不恤,誰遑其後?不如姑歸也。”

宋の盟の故のために、襄公および宋公・陳侯・鄭伯・許男は楚に行った。襄公は鄭を經過し、鄭伯は在らず。伯有は黃崖で慰勞したが、恭敬せず。穆叔は言った、「伯有もし鄭において罪なくば、鄭は必ず大災咎あらん。恭敬は百姓の主人であるに、かえってこれを拋棄す。何をもって守持を承受せん。鄭人は討伐せずば、必ず辜を受けん。濟沢の旁の土山、路辺積水中の苹藻は、宗室に放ち、季蘭は尸を為す。即ち恭敬。恭敬は拋棄すべからんや」と。漢水に至り、楚康王が死去した。襄公は帰らんと欲し、叔仲昭伯は言った、「われわれは楚のためである。あに一人のためか。行け!」子服恵伯は言った、「君子は長遠の謀劃あり、小人は近きに從う。饑寒も体恤せず。誰が後事を顧みん。姑く帰るに如かず」と。

叔孫穆子曰:“叔仲子專之矣,子服子始學者也。”榮成伯曰:“遠圖者,忠也。”

叔孫穆子は言った、「叔仲子は專斷した。子服子は始めて學習する人」と。榮成伯は言った、「遠くを謀劃するは、是れ忠誠」と。

公遂行。宋向戌曰:“我一人之為,非為楚也。飢寒之不恤,誰能恤楚?姑歸而息民,待其立君而為之備。”宋公遂反。

襄公はこうして前行した。宋の向戌は言った、「われわれは一人のためである。楚のためではない。饑寒も体恤せず。誰が能く楚を体恤せん。姑く帰りて百姓を休息させ、彼らが國君を立てるを待ちて然る後防備を為せ」と。宋公はこうして帰った。

楚屈建卒。趙文子喪之如同盟,禮也。

楚の屈建が死去した。趙文子は彼のために同盟のごとく喪を服した。これは禮に合う。

王人來告喪,問崩日,以甲寅告,故書之,以徵過也。

王室の人は來て喪事を報告し、死去の日を問うに、甲寅をもって報告した。だから記載する。もって過錯を驗證す。

◇襄公二十九年

◇襄公二十九年

【經】二十有九年春王正月,公在楚。夏五月,公至自楚。庚午,衛侯衎卒,閽弒吳子餘祭。仲孫羯會晉荀盈、齊高止、宋華定、衛世叔儀、鄭公孫段、曹人、莒人、滕子、薛人、小邾人城杞。晉侯使士鞅來聘。杞子來盟。吳子使札來聘。

【經】二十九年春、周天子の暦の正月、襄公は楚に在り。夏五月、襄公は楚より歸った。庚午、衛侯衎が死去し、門を看る人は呉子余祭を弑殺した。仲孫羯は晋の荀盈・齊の高止・宋の華定・衛の世叔儀・鄭の公孫段・曹人・莒人・滕子・薛人・小邾人と會合して杞城を修築した。晋侯は士鞅を遣わして聘問に來させた。杞子は來て盟約を結んだ。呉子は札を遣わして聘問に來させた。

秋九月,葬衛獻公。齊高止出奔北燕。冬,仲孫羯如晉。

秋九月、衛獻公を葬った。齊の高止は北燕に出奔した。冬、仲孫羯は晋に行った。

【傳】二十九年春,王正月,公在楚,釋不朝正於廟也。楚人使公親襚,公患之。穆叔曰:“祓殯而襚,則布幣也。”乃使巫以桃列先祓殯。楚人弗禁,既而悔之。

【傳】二十九年春、周天子の暦の正月、襄公は楚に在るは、廟で朝正せざるを解釋す。楚人は襄公に自ら死者のために衣を著せしめ、襄公は憂患した。穆叔は言った、「先に殯を祓除して然る後衣を著せば、即ち幣を陳列するに等し」と。こうして巫を遣わして桃茢をもって先に殯を祓除せしめた。楚人は禁止せず、隨後后悔した。底本の「桃列」は即ち桃茢。

二月癸卯,齊人葬莊公於北郭。

二月癸卯、齊人は北郭で莊公を安葬した。

夏四月,葬楚康王。公及陳侯、鄭伯、許男送葬,至於西門之外。諸侯之大夫皆至於墓。楚郟敖即位。王子圍為令尹。鄭行人子羽曰:“是謂不宜,必代之昌。松柏之下,其草不殖。”

夏四月、楚康王を安葬した。襄公および陳侯・鄭伯・許男は葬を送り、西門外に到達した。諸侯の大夫は皆墓上に至った。楚の郟敖は即位した。王子圍は令尹を為った。鄭の行人子羽は言った、「これを不合適と言う。必ず彼に代わりて昌盛せん。松柏の下に、草は繁殖する能わず」と。

公還,及方城。季武子取卞,使公冶問,璽書追而與之,曰:“聞守卞者將叛,臣帥徒以討之,既得之矣,敢告。”公冶致使而退,及舍而後聞取卞。公曰:“欲之而言叛,只見疏也。”公謂公冶曰:“吾可以入乎?”對曰:“君實有國,誰敢違君!”公與公冶冕服。固辭,強之而後受。公欲無入,榮成伯賦《式微》,乃歸。五月,公至自楚。公冶致其邑於季氏,而終不入焉。曰:“欺其君,何必使餘?”季孫見之,則言季氏如他日。不見,則終不言季氏。及疾,聚其臣,曰:“我死,必以在冕服斂,非德賞也。且無使季氏葬我。”

襄公は歸り、方城に到達した。季武子は卞を取得し、公冶を遣わして問候せしめ、璽書をもって追いかけて彼に給して言わせた、「卞を守る者はまさに背叛せんとするを聞く。臣は徒衆を率いて討伐し、すでに得た。敢えて告知す」と。公冶は使命を完成して即ち退下し、館舍に至りて然る後卞を取得したを聞いた。襄公は言った、「それを欲してかえって背叛と言うは、ただ疎遠せられたのみ」と。襄公は公冶に言った、「我は入るべきか」と。答えて言った、「君王は實に國家を有す。誰が敢えて君王に違背せん」と。襄公は公冶に冕服を給した。堅く推辞し、強迫して然る後受けた。襄公は城に入らざらんと欲し、榮成伯は《式微》を賦し、こうして歸った。五月、襄公は楚より歸った。公冶はその城邑を季氏に交還し、終に入らず。言った、「國君を欺騙するは、何ぞ我を遣わさん」と。季孫は彼に見えれば、即ち季氏を往日のごとく談じた。見えずば、即ち始終季氏を談ぜず。病むに及び、家臣を聚集して言った、「我が死せば、必ずここに在る冕服をもって入殮せよ。徳による賞賜にあらざるが故に。かつ季氏に我を葬らしむるなかれ」と。

葬靈王,鄭上卿有事,子展使印段往。伯有曰:“弱,不可。”子展曰:“與其莫往,弱不猶愈乎?《詩》云:‘王事靡盬,不遑啟處,東西南北,誰敢寧處?堅事晉、楚,以蕃王室也。王事無曠,何常之有?”遂使印段如周。

靈王を安葬するに、鄭の上卿は事あり、子展は印段を遣わして往かせた。伯有は言った、「年少。不可」と。子展は言った、「人の往くなきより、年少はなおよくないか。《詩》に言う、『王事に止息なく、閒暇なくして安處せず。東西南北、誰が敢えて安寧に居住せん』と。堅定に晋・楚に事え、もって王室を藩衛せよ。王事に曠缺なくば、何の常規があらん」と。こうして印段を遣わして周に往かせた。

吳人伐越,獲俘焉,以為閽,使守舟。吳子餘祭觀舟,閽以刀弒之。

呉人は越を攻め、俘虜を獲得し、門を看る人を為らせ、船を守らせた。呉子余祭は船を觀看し、門を看る人は刀をもって彼を弑殺した。

鄭子展卒,子皮即位。於是鄭飢而未及麥,民病。子皮以子展之命,餼國人粟,戶一鍾,是以得鄭國之民。故罕氏常掌國政,以為上卿。宋司城子罕聞之,曰:“鄰於善,民之望也。”宋亦飢,請於平公,出公粟以貸。使大夫皆貸。司城氏貸而不書,為大夫之無者貸。宋無飢人。叔向聞之,曰:“鄭之罕,宋之樂,其後亡者也!二者其皆得國乎!民之歸也。施而不德,樂氏加焉,其以宋升降乎!”晉平公,杞出也,故治杞。六月,知悼子合諸侯之大夫以城杞,孟孝伯會之。

鄭の子展が死去し、子皮が即位した。當時鄭は饑饉してまだ麥熟に至らず、百姓は困病した。子皮は子展の命令をもって、國人に粟を發放し、每戸一鐘。これによって鄭の百姓を得た。だから罕氏は常に國政を掌管し、上卿を為った。宋の司城子罕は聞いて言った、「善に靠近するは、是れ百姓の仰望」と。宋もまた饑饉し、平公に請い、公家の粟を出して借貸せしめた。大夫に皆借貸せしめた。司城氏は借貸して記載せず。粟なき大夫のために借貸した。宋に饑民なし。叔向は聞いて言った、「鄭の罕、宋の樂は、是れ最後に滅亡する!此の兩家はおそらく皆國家を得る能くせんか!是れ百姓の歸向。施與してかえって自ら徳ありとせず。樂氏はさらに増加し、おそらくまさに宋とともに升降せんか!」晋平公は杞女の生む所。だから杞を修治した。六月、知悼子は諸侯の大夫と會合して杞城を修築し、孟孝伯は會合した。

鄭子大叔與伯石往。子大叔見大叔文子,與之語。文子曰:“甚乎!其城杞也。”

鄭の子大叔は伯石とともに前往した。子大叔は大叔文子に見え、彼と話した。文子は言った、「過分なるかな!杞城を修築する」と。

子大叔曰:“若之何哉?晉國不恤周宗之闕,而夏肄是屏。其棄諸姬,亦可知也已。諸姬是棄,其誰歸之?吉也聞之,棄同即異,是謂離德。《詩》曰:‘協比其鄰,昏姻孔雲。’晉不鄰矣,其誰雲之?”齊高子容與宋司徒見知伯,女齊相禮。賓出,司馬侯言於知伯曰:“二子皆將不免。子容專,司徒移,皆亡家之主也。”知伯曰:“何如?”對曰:“專則速及,侈將以其力斃,專則人實斃之,將及矣。”

子大叔は言った、「どうせんか?晋は周宗の缺失を体恤せずして、かえって夏の餘孽を保護す。それが諸姬姓を拋棄するは、また知るべし。諸姬姓を皆拋棄すれば、誰がそれに歸向せん。吉が聞くに、相同を拋棄して相異に靠近するは、これを離徳と言う。《詩》に言う、『その鄰人に親近し、婚姻は甚だ盛んなり』と。晋は人を鄰と為さず。誰がなおそれに親附せん」と。齊の高子容と宋の司徒は知伯に見え、女齊は禮を相した。客人が出ると、司馬侯は知伯に言った、「此の兩位は皆免れざらん。子容は專斷し、司徒は奢侈す。皆家族を滅亡する主人」と。知伯は言った、「どうか」と。答えて言った、「專斷すれば即ち來ること速し。奢侈すればまさに自らの力に憑りて斃命せん。專斷は即ち他人が彼を斃さしむ。まさに至らん」と。

範獻子來聘,拜城杞也。公享之,展莊叔執幣。射者三耦,公臣不足,取於家臣,家臣:展瑕、展玉父為一耦。公臣,公巫召伯、仲顏莊叔為一耦,鄫鼓父、黨叔為一耦。

范獻子は聘問に來り、杞城を修築したを拜謝した。襄公は彼を宴享し、展莊叔は幣を持った。射る人は三耦。公臣は足らず、家臣より取った。家臣:展瑕・展玉父は一耦を為す。公臣は、公巫召伯・仲顏莊叔は一耦を為し、鄫鼓父・黨叔は一耦を為す。

晉侯使司馬女叔侯來治杞田,弗盡歸也。晉悼夫人慍曰:“齊也取貨。先君若有知也,不尚取之!”公告叔侯,叔侯曰:“虞、虢、焦、滑、霍、揚、韓、魏,皆姬姓也,晉是以大。若非侵小,將何所取?武、獻以下,兼國多矣,誰得治之?杞,夏餘也,而即東夷。魯,周公之後也,而睦於晉。以杞封魯猶可,而何有焉?魯之於晉也,職貢不乏,玩好時至,公卿大夫相繼於朝,史不絕書,府無虛月。如是可矣,何必瘠魯以肥杞?且先君而有知也,毋寧夫人,而焉用老臣?”杞文公來盟。書曰“子”,賤之也。

晋侯は司馬女叔侯を遣わして來て杞田を治理せしめたが、全部歸還せず。晋悼夫人は惱怒して言った、「齊は財貨を收取した。先君もし知あれば、こんな取を贊成せざらん!」公は叔侯に告げ、叔侯は言った、「虞・虢・焦・滑・霍・揚・韓・魏は、皆姬姓。晋はこれによって壯大した。もし小なるを侵伐せざれば、まさにどこより取らん。武公・獻公以下、兼併した國は多し。誰が能く治理せん。杞は夏の餘裔にして、かえって東夷に靠近す。魯は周公の後裔にして、かえって晋と和睦す。杞を魯に封ずるもなお可。また何かあらん。魯の晋に對するは、職貢は缺かず、玩好は時に送到し、公卿大夫は朝廷に相繼ぎ、史官は記載を斷絕せず、府庫に空月なし。このようであれば足る。何ぞ必ず魯を瘦せて杞を肥やさん。しかも先君もし知あれば、寧ろ夫人を責めん。どうして老臣を用いん」と。杞文公は來て盟約を結んだ。《春秋》に記して「子」と言うは、彼を貶低するである。

吳公子札來聘,見叔孫穆子,說之。謂穆子曰:“子其不得死乎?好善而不能擇人。吾聞‘君子務在擇人’。吾子為魯宗卿,而任其大政,不慎舉,何以堪之?禍必及子!”請觀於周樂。使工為之歌《周南》、《召南》,曰:“美哉!始基之矣,猶未也。然勤而不怨矣。”為之歌《邶》、《鄘》、《衛》,曰:“美哉,淵乎!憂而不困者也。吾聞衛康叔、武公之德如是,是其《衛風》乎?”為之歌《王》,曰:“美哉!思而不懼,其周之東乎?”為之歌《鄭》,曰:“美哉!其細已甚,民弗堪也,是其先亡乎!”為之歌《齊》,曰:“美哉!泱泱乎!大風也哉!表東海者,其大公乎!國未可量也。”為之歌《豳》,曰:“美哉!蕩乎!樂而不淫,其周公之東乎?”為之歌《秦》,曰:“此之謂夏聲。夫能夏則大,大之至也,其周之舊乎?”為之歌《魏》,曰:“美哉!渢渢乎!大而婉,險而易行,以德輔此,則明主也。”為之歌《唐》,曰:“思深哉!其有陶唐氏之遺民乎?不然,何憂之遠也?非令德之後,誰能若是?”為之歌《陳》,曰:“國無主,其能久乎?”自《鄶》以下無譏焉。為之歌《小雅》,曰:“美哉!思而不貳,怨而不言,其周德之衰乎?猶有先王之遺民焉。”為之歌《大雅》,曰:“廣哉!熙熙乎!曲而有直體,其文王之德乎?”為之歌《頌》,曰:“至矣哉!直而不倨,曲而不屈,邇而不逼,遠而不攜,遷而不淫,復而不厭,哀而不愁,樂而不荒,用而不匱,廣而不宣,施而不費,取而不貪,處而不底,行而不流,五聲和,八風平,節有度,守有序,盛德之所同也。”

呉の公子札は聘問に來り、叔孫穆子に見え、彼を喜んだ。穆子に言った、「あなたはおそらく善死を得ざらんか?善を喜好して人を選擇する能わず。我が聞くに『君子の要務は人を選擇するに在り』と。吾子は魯の宗卿を為り、大政を擔任す。謹慎に擧薦せずば、何をもって承受せん。禍は必ずあなたの身に至らん!」周樂を觀看するを請うた。樂工に彼のために《周南》・《召南》を歌わせ、言った、「美なるかな!始めて基礎を奠定す。まだ完成せず。しかるに勤勞にして怨なし」と。彼のために《邶》・《鄘》・《衛》を歌わせ、言った、「美なるかな、深きかな!憂愁にして困頓せず。我が聞くに衛康叔・武公の徳はこのごとし。是れその《衛風》か」と。彼のために《王》を歌わせ、言った、「美なるかな!思念にして懼懼せず。是れ周の東遷か」と。彼のために《鄭》を歌わせ、言った、「美なるかな!その細はすでに太過し、百姓は承受する能わず。是れその先に滅亡せんか」と。彼のために《齊》を歌わせ、言った、「美なるかな!泱泱たるかな!是れ大風か!東海を表率するは、是れ太公か!國家は限量すべからず」と。彼のために《豳》を歌わせ、言った、「美なるかな!坦蕩たるかな!快樂にして過分せず。是れ周公の東征か」と。彼のために《秦》を歌わせ、言った、「これを夏聲と言う。能く夏なれば即ち大なり。大なるの極に至る。是れ周の舊地か」と。彼のために《魏》を歌わせ、言った、「美なるかな!渢渢たるかな!大なるに溫婉、險なるに易く實行す。徳をもってこれを輔佐せば、即ち明主」と。彼のために《唐》を歌わせ、言った、「思慮の深きかな!おそらく陶唐氏の遺民あらんか?然らずんば、なぜ憂慮することこのように遠き。美徳の後裔にあらざれば、誰が能くこのごとくせん」と。彼のために《陳》を歌わせ、言った、「國家に主人なくば、能く長久せんや」と。《鄶》以下より譏評を加えず。彼のために《小雅》を歌わせ、言った、「美なるかな!思念にして二心なく、怨恨にして言わず。是れ周徳の衰微か?なお先王の遺民あり」と。彼のために《大雅》を歌わせ、言った、「廣大なるかな!和樂なるかな!曲折にして正直の本體あり。是れ文王の徳か」と。彼のために《頌》を歌わせ、言った、「極に至れり!直にして倨傲せず、曲にして屈服せず、近にして逼迫せず、遠にして離心せず、遷徙にして過分せず、反復にして厭倦せず、哀にして愁せず、樂にして荒れず、用いて匱乏せず、廣にして顯揚せず、施與して耗費せず、取りて貪らず、處して停滯せず、行して流蕩せず。五聲は和諧し、八風は平靜し、節奏に度あり、守持に序あり。是れ盛徳の共にする所」と。

見舞《象箾》《南籥》者,曰:“美哉!猶有憾。”見舞《大武》者,曰:“美哉!周之盛也,其若此乎!”見舞《韶濩》者,曰:“聖人之弘也,而猶有慚德,聖人之難也。”見舞《大夏》者,曰:“美哉!勤而不德,非禹其誰能修之?”見舞《韶箾》者,曰:“德至矣哉!大矣!如天之無不幬也,如地之無不載也,雖甚盛德,其蔑以加於此矣。觀止矣!若有他樂,吾不敢請已!”其出聘也,通嗣君也。故遂聘於齊,說晏平仲,謂之曰:“子速納邑與政!無邑無政,乃免於難。齊國之政,將有所歸,未獲所歸,難未歇也。”故晏子因陳桓子以納政與邑,是以免於欒、高之難。

舞《象箾》《南籥》を見て、言った、「美なるかな!なお遺憾あり」と。舞《大武》を見て、言った、「美なるかな!周の盛時は、おそらくこのごとくであろう!」舞《韶濩》を見て、言った、「聖人の弘大なるに、なお慚愧の徳あり。聖人の難處」と。舞《大夏》を見て、言った、「美なるかな!勤勞にして自ら徳ありとせず。禹にあらざれば誰が能く修成せん」と。舞《韶箾》を見て、言った、「徳は極に至れり!大なるかな!天の覆わざるなく、地の載せざるなきがごとし。たとえ盛徳なりとも、これに加える能くするなし。觀看はこれに止まる!もしなお他の樂あらば、我は敢えて請わざらん」と。彼が國を出でて聘問するは、繼位の國君のために交通するである。だから続けて齊に聘問し、晏平仲を喜び、彼に言った、「あなたは速やかに城邑と政事を交出せよ!城邑なく政事なくば、乃ち難を免るべし。齊の政事はまさに歸する所有らん。まだ歸處を獲得せず。難は停歇なし」と。だから晏子は陳桓子を通じて政事と城邑を交出し、これによって欒・高の災難を免れた。

聘於鄭,見子產,如舊相識,與之縞帶,子產獻紵衣焉。謂子產曰:“鄭之執政侈,難將至矣!政必及子。子為政,慎之以禮。不然,鄭國將敗。”

鄭に聘問し、子産に見え、舊相識のごとく、彼に縞帶を給し、子産は紵衣を獻じた。子産に言った、「鄭の執政は奢侈す。難はまさに至らん!政事は必ずあなたに至らん。あなたが執政すれば、禮をもって謹慎せよ。然らずんば、鄭はまさに敗れん」と。

適衛,說蘧瑗、史狗、史鰍,公子荊、公叔發、公子朝,曰:“衛多君子,未有患也。”

衛に至り、蘧瑗・史狗・史鰌・公子荆・公叔發・公子朝を喜び、言った、「衛に君子多し。まだ患難なし」と。

自衛如晉,將宿於戚。聞鐘聲焉,曰:“異哉!吾聞之也:‘辯而不德,必加於戮。’夫子獲罪於君以在此,懼猶不足,而又何樂?夫子之在此也,猶燕之巢於幕上。君又在殯,而可以樂乎?”遂去之。文子聞之,終身不聽琴瑟。

衛より晋に至り、まさに戚に住まんとした。鐘聲を聞きて、言った、「奇異なるかな!我が聞くに、『辯才ありて徳なくば、必ず刑戮を加えらる』と。夫子は國君の罪をここに得た。懼れるもなお足らず、また何を快樂せん。夫子はここに在るは、燕子が帳幕上に巢を為すがごとし。國君はまた殯に在り。しかして作樂すべきか」と。こうして離れた。文子は聞いて、終身琴瑟を聽かず。

適晉,說趙文子、韓宣子、魏獻子,曰:“晉國其萃於三族乎!”說叔向,將行,謂叔向曰:“吾子勉之!君侈而多良,大夫皆富,政將在家。吾子好直,必思自免於難。”

晋に至り、趙文子・韓宣子・魏獻子を喜び、言った、「晋はおそらくこの三族に聚集せんか!」叔向を喜び、まさに走らんとして、叔向に言った、「吾子は努力せよ!國君は奢侈にして賢良の人は多く、大夫は皆富み、政事はまさに私家に在らん。吾子は直を喜好す。必ず自ら難を免れんを想え」と。

秋九月,齊公孫蠆、公孫灶放其大夫高止於北燕。乙未,出。書曰:“出奔。”

秋九月、齊の公孫蠆・公孫竈はその大夫高止を北燕に放逐した。乙未、國を出た。《春秋》に記して「出奔」と。

罪高止也。高止好以事自為功,且專,故難及之。

是れ高止に歸罪す。高止は用事を喜好して自ら功に居り、かつ專斷す。だから災難は彼の身に至った。

冬,孟孝伯如晉,報范叔也。

冬、孟孝伯は晋に行き、范叔に報いた。

為高氏之難故,高豎以盧叛。十月庚寅,閭丘嬰帥師圍盧。高豎曰:“苟請高氏有後,請致邑。”齊人立敬仲之曾孫宴酀,良敬仲也。十一月乙卯,高豎致盧而出奔晉,晉人城綿而置旃。

高氏の災難の故のために、高竪は盧に拠りて背叛した。十月庚寅、閭丘嬰は軍を率いて盧を包圍した。高竪は言った、「もし高氏に後嗣あらしめんを請えば、城邑を交出せんを請います」と。齊人は敬仲の曾孫宴酀を立てた。是れ敬仲を好しとするである。十一月乙卯、高竪は盧を交出して晋に出奔し、晋人は綿を修築して彼を安置した。

鄭伯有使公孫黑如楚,辭曰:“楚、鄭方惡,而使餘往,是殺餘也。”伯有曰:“世行也。”子皙曰:“可則往,難則已,何世之有?”伯有將強使之。子皙怒,將伐伯有氏,大夫和之。十二月己巳,鄭大夫盟於伯有氏。裨諶曰:“是盟也,其與幾何?《詩》曰:‘君子屢盟,亂是用長。’今是長亂之道也。禍未歇也,必三年而後能紓。”然明曰:“政將焉往?”裨諶曰:“善之代不善,天命也,其焉闢子產?舉不逾等,則位班也。擇善而舉,則世隆也。天又除之,奪伯有魄,子西即世,將焉闢之?天禍鄭久矣,其必使子產息之,乃猶可以戾。不然,將亡矣。”

鄭の伯有は公孫黑を遣わして楚に行かせんとした。推辞して言った、「楚・鄭はまさに交惡す。かえって我を遣わすは、是れ我を殺さんとす」と。伯有は言った、「是れ世世代代行人を為る」と。子皙は言った、「可なれば即ち往き、難なれば即ち停止す。何の世代があらん」と。伯有はまさに強迫して彼を遣わさんとした。子皙は怒り、まさに伯有氏を攻めんとして、大夫は調解した。十二月己巳、鄭の大夫は伯有氏で盟約を結んだ。裨諶は言った、「この盟約は、能く維持すること幾久しきか。《詩》に言う、『君子は屢々盟約を結び、亂はこれによって增長す』と。今是れ亂を增長する道路。禍は停歇なく、必ず三年して然る後乃ち緩解する能し」と。然明は言った、「政事はまさにどこに至らん」と。裨諶は言った、「善は不善に代わる。是れ天命。どうして子産を避ける能くせん。擧薦は等級を超えず。即ち位次である。善を選擇して擧れば、即ち世道は隆盛。上天はまた清除し、伯有の魄を奪い去り、子西は死去す。まさにどこに避けん。上天は鄭を禍害すること久し。必ず子産をして止息せしめて、乃ちなお安定すべし。然らずんば、まさに滅亡せん」と。

◇襄公三十年

◇襄公三十年

【經】三十年春王正月,楚子使薳罷來聘。夏四月,蔡世子般弒其君固。五月甲午。宋災。宋伯姬卒。天王殺其弟佞夫。王子瑕奔晉。秋七月,叔弓如宋,葬宋共姬。鄭良霄出奔許,自許入於鄭,鄭人殺良霄。冬十月,葬蔡景公。晉人、齊人、宋人、衛人、鄭人、曹人、莒人、邾人、滕子、薛人、杞人、小邾人會於澶淵,宋災故。

【經】三十年春、周天子の暦の正月、楚子は䓕罷を遣わして聘問に來させた。夏四月、蔡の世子般はその國君固を弑殺した。五月甲午。宋に火災あり。宋の伯姬が死去した。天子はその弟佞夫を殺した。王子瑕は晋に出奔した。秋七月、叔弓は宋に行き、宋共姬を安葬した。鄭の良霄は許に出奔し、許より鄭に入り、鄭人は良霄を殺した。冬十月、蔡景公を葬った。晋人・齊人・宋人・衛人・鄭人・曹人・莒人・邾人・滕子・薛人・杞人・小邾人は澶淵で會見した。宋の火災の故のためである。

【傳】三十年春,王正月,楚子使薳罷來聘,通嗣君也。穆叔問:“王子之為政何如?”對曰:“吾儕小人,食而聽事,猶懼不給命而不免於戾,焉與知政?”固問焉,不告。穆叔告大夫曰:“楚令尹將有大事,子蕩將與焉,助之匿其情矣。”

【傳】三十年春、周天子の暦の正月、楚子は䓕罷を遣わして聘問に來させた。是れ繼位の國君のために交通するである。穆叔は問うて言った、「王子が執政するはどうか」と。答えて言った、「われら小人は、飯を食いて差を聽く。なお命令を供應し及ばずして罪を免れざるを怕る。どうして政事に參與して知らん」と。堅く問うも、告げず。穆叔は大夫に告げて言った、「楚の令尹はまさに大事あらん。子蕩はまさに參與し、彼を幫助して實情を隱瞞した」と。

子產相鄭伯以如晉,叔向問鄭國之政焉。對曰:“吾得見與否,在此歲也。

子産は鄭伯を輔佐して晋に行き、叔向は鄭の政事を問うた。答えて言った、「我が見る能くするや否やは、此の一年に在る。

駟、良方爭,未知所成。若有所成,吾得見,乃可知也。”叔向曰:“不既和矣乎?”對曰:“伯有侈而愎,子皙好在人上,莫能相下也。雖其和也,猶相積惡也,惡至無日矣。”

駟・良はまさに爭う。どうして了結するかを知らず。もし了結あれば、我は見る能し。乃ち知るべし」と。叔向は言った、「すでに和好せずや」と。答えて言った、「伯有は奢侈にして剛愎、子皙は人の上に處るを喜好す。互いに下に居る能くするなし。たとえ和好すとも、なお互いに惡を積む。惡の來るは數日なし」と。

三月癸未,晉悼夫人食輿人之城杞者。絳縣人或年長矣,無子,而往與於食。

三月癸未、晋悼夫人は杞城を修築する輿人に飯を給した。絳縣に人ありて年紀老いたり。子なく、かえって飯に參加しに往いた。

有與疑年,使之年。曰:“臣小人也,不知紀年。臣生之歲,正月甲子朔,四百有四十五甲子矣,其季於今三之一也。”吏走問諸朝,師曠曰:“魯叔仲惠伯會郤成子於承匡之歲也。是歲也,狄伐魯。叔孫莊叔於是乎敗狄於鹹,獲長狄僑如及虺也豹也,而皆以名其子。七十三年矣。”史趙曰:“亥有二首六身,下二如身,是其日數也。”士文伯曰:“然則二萬六千六百有六旬也。”

人ありてその年齡を懷疑し、彼に年歲を言わしめた。言った、「臣は小人。年を記することを知らず。臣の出生の年は、正月甲子の朔日。すでに四百四十五個の甲子を經たり。最末の一個は今日に至るは三分之一」と。吏は朝廷に走りて問うと、師曠は言った、「是れ魯の叔仲恵伯が承匡で郤成子と會見した年。あの年、狄は魯を攻めた。叔孫莊叔はこうして鹹で狄を敗り、長狄僑如および虺・豹を俘獲し、皆もって兒子に名を起こした。七十三年」と。史趙は言った、「亥は二を頭と為し六を身と為す。二を移し下ろして身のごとくせば、即ちその日數」と。士文伯は言った、「然れば二萬六千六百六十日」と。

趙孟問其縣大夫,則其屬也。召之,而謝過焉,曰:“武不才,任君之大事,以晉國之多虞,不能由吾子,使吾子辱在泥塗久矣,武之罪也。敢謝不才。”遂仕之,使助為政。辭以老。與之田,使為君復陶,以為絳縣師,而廢其輿尉。於是,魯使者在晉,歸以語諸大夫。季武子曰:“晉未可媮也。有趙孟以為大夫,有伯瑕以為佐,有史趙、師曠而諮度焉,有叔向、女齊以師保其君。其朝多君子,其庸可媮乎?勉事之而後可。”

趙孟はその縣大夫を問うに、自らの下屬。彼を召し、道歉して言った、「武は才能なく、君王の大事を擔任す。晋の憂患多きによって、吾子を任用する能わず。吾子を泥涂に屈辱せしむること久し。是れ武の罪。敢えて才能なきを謝す」と。こうして彼に官を為らせ、執政を幫助せしめた。年老をもって推辞した。彼に田を給し、國君のために衣服を管理せしめ、絳縣師を為らせ、かつあの輿尉を廢掉した。當時、魯の使者は晋に在り、歸りて諸大夫に告げた。季武子は言った、「晋は輕視すべからず。趙孟あって大夫を為り、伯瑕あって輔佐を為り、史趙・師曠あって諮詢度量し、叔向・女齊あって國君の師保を為る。朝廷に君子多し。どうして輕視すべからん。努力して事えて然る後乃ち可」と。

夏四月己亥,鄭伯及其大夫盟。君子是以知鄭難之不已也。

夏四月己亥、鄭伯はその大夫と盟約を結んだ。君子はこれによって鄭の災難の停止せざるを知る。

蔡景侯為大子般娶於楚,通焉。大子弒景侯。

蔡景侯は太子般のために楚より妻を娶り、彼女と私通した。太子は景侯を弑殺した。

初,王儋季卒,其子括將見王,而嘆。單公子愆期為靈王御士,過諸廷,聞其嘆而言曰:“烏乎!必有此夫!”入以告王,且曰:“必殺之!不戚而願大,視躁而足高,心在他矣。不殺,必害。”王曰:“童子何知?”及靈王崩,儋括欲立王子佞夫,佞夫弗知。戊子,儋括圍蒍,逐成愆。成愆奔平畦。五月癸巳,尹言多、劉毅、單蔑、甘過、鞏成殺佞夫。括、瑕、廖奔晉。書曰“天王殺其弟佞夫。”罪在王也。

初め、王室の儋季が死去し、その子括はまさに王に見えんとして、歎息した。單公子愆期は靈王の御士を為り、朝廷を經過し、彼の歎息するを聞きて言った、「ああ!必ずこのを得んと欲す!」入りて王に告げ、かつ言った、「必ず彼を殺せ!悲哀せずして願望大なり。目光は浮躁にして脚步は高し。心は別處に在り。殺さずば、必ず害あらん」と。王は言った、「小孩子は何を知らん」と。靈王の死去に及び、儋括は王子佞夫を立てんと欲したが、佞夫は知らず。戊子、儋括は䓕を包圍し、成愆を驅逐した。成愆は平畦に出奔した。五月癸巳、尹言多・劉毅・單蔑・甘過・鞏成は佞夫を殺した。括・瑕・廖は晋に出奔した。《春秋》に記して「天王殺其弟佞夫」と言うは、罪は王に在り。

或叫於宋大廟,曰:“譆,譆!出出!”鳥鳴於亳社,如曰:“譆譆。”甲午,宋大災。宋伯姬卒,待姆也。君子謂:“宋共姬,女而不婦。女待人,婦義事也。”

人ありて宋の太廟で喊して言った、「譆、譆!出出!」鳥は亳社で叫び、言うがごとし、「譆譆」と。甲午、宋に大火災あり。宋の伯姬が死去した。是れ保姆を待つ。君子は思う、「宋共姬は、是れ女兒にして婦人にあらず。女兒は人を待ち、婦人は權宜に行事する可し」と。

六月,鄭子產如陳蒞盟。歸,覆命。告大夫曰:“陳,亡國也,不可與也。

六月、鄭の子産は陳に至りて盟約に參加した。歸りて復命した。大夫に告げて言った、「陳はまさに亡ぶ國家。親近すべからず。

聚禾粟,繕城郭,恃此二者,而不撫其民。其君弱植,公子侈,大子卑,大夫敖,政多門,以介於大國,能無亡乎?不過十年矣。”

禾粟を聚集し、城郭を修繕し、此の兩樣を恃むに、かえって百姓を安撫せず。國君は根基弱く、公子は奢侈し、太子は卑微し、大夫は驕傲し、政事は門多く、大國の間に處す。能く滅亡せざらんや。十年を超えず」と。

秋七月,叔弓如宋,葬共姬也。

秋七月、叔弓は宋に行った。是れ共姬を安葬する。

鄭伯有耆酒,為窟室,而夜飲酒擊鐘焉,朝至未已。朝者曰:“公焉在?”其人曰:“吾公在壑谷。”皆自朝布路而罷。既而朝,則又將使子皙如楚,歸而飲酒。庚子,子皙以駟氏之甲伐而焚之。伯有奔雍梁,醒而後知之,遂奔許。大夫聚謀,子皮曰:“《仲虺之志》云:‘亂者取之,亡者侮之。推亡固存,國之利也。’罕、駟、豐同生。伯有汰侈,故不免。”

鄭の伯有は酒を嗜み、地下室を作り、夜に酒を飲み鐘を擊ち、朝見する人は至るもまだ畢らず。朝見する人は言った、「公はどこに在る」と。その人は言った、「わが公は壑谷に在る」と。皆朝廷より路を分かちて散った。隨後上朝し、またまさに子皙を遣わして楚に行かせんとした。歸りて即ち酒を飲んだ。庚子、子皙は駟氏の甲士をもって攻めかつ燒掉した。伯有は雍梁に出奔し、酒醒めて然る後知り、こうして許に出奔した。大夫は聚集して謀劃し、子皮は言った、「《仲虺之志》に言う、『亂するは彼を奪取し、滅亡するは彼を欺侮す。滅亡を推進し存在を鞏固するは、國家の利益』と。罕・駟・豐は同胞。伯有は驕汰奢侈す。だから免れず」と。

人謂子產:“就直助強!”子產曰:“豈為我徒?國之禍難,誰知所儆?或主強直,難乃不生。姑成吾所。”辛丑,子產斂伯有氏之死者而殯之,不及謀而遂行。印段從之。子皮止之,眾曰:“人不我順,何止焉?”子皮曰:“夫人禮於死者,況生者乎?”遂自止之。壬寅,子產入。癸卯,子石入。皆受盟於子皙氏。乙巳,鄭伯及其大夫盟於大宮。盟國人於師之梁之外。

人ありて子産に言った、「正直に靠近し強きを幫助せよ!」子産は言った、「あに我の黨徒ならんや。國家の禍難は、誰が誰を警戒するかを知らん。あるいは人ありて強直を主持せば、災難は乃ち發生せざらん。姑く我の位置を成就せん」と。辛丑、子産は伯有氏の死者を收殮して殯葬し、謀劃に及ばずして走った。印段は跟從した。子皮は彼を拦え、衆人は言った、「人はわれわれに順從せず。何を拦むる」と。子皮は言った、「あの人は死者に禮あり。まして活人をや」と。こうして自ら拦えた。壬寅、子産は入った。癸卯、子石は入った。皆子皙氏で盟約を受けた。乙巳、鄭伯はその大夫と太宮で盟約を結んだ。師之梁の外で國人と盟約を結んだ。

伯有聞鄭人之盟己也,怒。聞子皮之甲不與攻己也,喜。曰:“子皮與我矣。”

伯有は鄭人が自らに針對して盟約を結んだを聞き、怒った。子皮の甲士が自らを攻めるに參與せざるを聞き、喜んだ。言った、「子皮は我に親附した」と。

癸丑,晨,自墓門之瀆入,因馬師頡介於襄庫,以伐舊北門。駟帶率國人以伐之。

癸丑、早朝、墓門の水道より入り、馬師頡に倚りて襄庫で甲を著て、舊北門を攻めた。駟帶は國人を率いて彼を攻めた。

皆召子產。子產曰:“兄弟而及此,吾從天所與。”伯有死於羊肆,子產襚之,枕之股而哭之,斂而殯諸伯有之臣在市側者。既而葬諸斗城。子駟氏欲攻子產,子皮怒之曰:“禮,國之幹也,殺有禮,禍莫大焉。”乃止。

皆子産を召した。子産は言った、「兄弟はこの地步に至った。我は上天の與うる所に從う」と。伯有は羊肆で死し、子産は彼のために衣を著せ、頭を大腿に枕して哭し、入殮して伯有の市旁の家臣の所に殯した。隨後斗城に安葬した。子駟氏は子産を攻めんと欲し、子皮は怒りて言った、「禮は國家の骨幹。禮ある人を殺すは、禍はこれより大ききはなし」と。こうして停止した。

於是遊吉如晉還,聞難不入,覆命於介。八月甲子,奔晉。駟帶追之,及酸棗。與子上盟,用兩珪質於河。使公孫肸入盟大夫。己巳,復歸。書曰“鄭人殺良霄。”不稱大夫,言自外入也。

當時游吉は晋より歸り、災難を聞きて城に入らず、副手に復命した。八月甲子、晋に出奔した。駟帶は追趕し、酸棗に到達した。子上と盟約を結び、兩珪をもって黃河に質證した。公孫肸を遣わして城に進み大夫と盟約を結ばせた。己巳、再び歸った。《春秋》に記して「鄭人殺良霄」と。大夫と稱せざるは、外より入ったを言う。

於子蟜之卒也,將葬,公孫揮與裨灶晨會事焉。過伯有氏,其門上生莠。

子蟜の死去の時に在り、まさに安葬せんとして、公孫揮と裨竈は早朝に會合して事を辦じた。伯有氏を經過し、門上に莠草が生えた。

子羽曰:“其莠猶在乎?”於是歲在降婁,降婁中而旦。裨灶指之曰:“猶可以終歲,歲不及此次也已。”及其亡也,歲在娵訾之口。其明年,乃及降婁。

子羽は言った、「あの莠草はなお在るか」と。當時歲星は降婁に在り、降婁は中天に在りて天亮した。裨竈は指して言った、「なお此の一歲を過ごす能し。歲星は此の位置に至らざらん」と。彼の滅亡に及ぶに、歲星は娵訾之口に在り。第二年、乃ち降婁に至った。

僕展從伯有,與之皆死。羽頡出奔晉,為任大夫。雞澤之會,鄭樂成奔楚,遂適晉。羽頡因之,與之比,而事趙文子,言伐鄭之說焉。以宋之盟故,不可。

僕展は伯有に跟從し、彼とともに死んだ。羽頡は晋に出奔し、任地の大夫を為った。鷄沢の會に、鄭の樂成は楚に出奔し、こうして晋に至った。羽頡は彼に倚りて、彼と勾結し、趙文子に事えて、鄭を攻める主張を言った。宋の盟の故のために、不可。

子皮以公孫鉏為馬師。

子皮は公孫鉏に馬師を為らせた。

楚公子圍殺大司馬蒍掩而取其室。申無宇曰:“王子必不免。善人,國之主也。王子相楚國,將善是封殖,而虐之,是禍國也。且司馬,令尹之偏,而王之四體也。絕民之主,去身之偏,艾王之體,以禍其國,無不祥大焉!何以得免?”為宋災故,諸侯之大夫會,以謀歸宋財。冬十月,叔孫豹會晉趙武、齊公孫蠆、宋向戌、衛北宮佗、鄭罕虎及小邾之大夫,會於澶淵。既而無歸於宋,故不書其人。

楚の公子圍は大司馬𫇭掩を殺しかつその家室を奪取した。申無宇は言った、「王子は必ず免れざらん。善人は國家の主人。王子は楚を輔佐し、應當に善を培養すべきに、かえって虐害す。是れ國家を禍害す。しかも司馬は令尹の輔佐、是れ王の四肢。百姓の主人を斷絕し、自身の輔佐を去り、王の肢體を砍掉して、もってその國家を禍害す。不祥はこれより大ききはなし!何をもって免れん」と。宋の火災の故のために、諸侯の大夫は會見し、宋に財貨を歸還するを謀劃した。冬十月、叔孫豹は晋の趙武・齊の公孫蠆・宋の向戌・衛の北宮佗・鄭の罕虎および小邾の大夫と會合し、澶淵で會見した。隨後宋に歸給せず。だから《春秋》にあの人々を記さず。

君子曰:“信其不可不慎乎!澶淵之會,卿不書,不信也夫!諸侯之上卿,會而不信,寵名皆棄,不信之不可也如是!《詩》曰:‘文王陟降,在帝左右。’信之謂也。又曰:‘淑慎爾止,無載爾偽。’不信之謂也。”書曰“某人某人會於澶淵,宋災故。”尤之也。不書魯大夫,諱之也。

君子は言った、「信用は謹慎せざるべからざるか!澶淵の會に、卿を記さざるは、守信せざるである!諸侯の上卿は、會見してかえって守信せず。寵と名は皆拋棄せり。守信せざるはこのごとくすべからず!《詩》に言う、『文王は升降し、上帝の左右に在り』と。是れ信用を言う。また言う、『よくよくなんじの舉止を謹慎し、虚僞を帶びるなかれ』と。是れ守信せざるを言う」。《春秋》に記して「某人某人會于澶淵、宋災故」と言うは、責備する。魯の大夫を記さざるは、避諱する。

鄭子皮授子產政,辭曰:“國小而逼,族大寵多,不可為也。”子皮曰:“虎帥以聽,誰敢犯子?子善相之,國無小,小能事大,國乃寬。”

鄭の子皮は政事を子産に交した。推辞して言った、「國家は小にして逼迫せられ、族は大にして寵幸の人多し。治理すべからず」と。子皮は言った、「虎は率いて命を聽かん。誰が敢えてあなたを冒犯せん。あなたはよくよく輔佐せよ。國家に小なきはなし。小なるは能く大なるに事えれば、國家は乃ち寬緩す」と。

子產為政,有事伯石,賂與之邑。子大叔曰:“國,皆其國也。奚獨賂焉?”子產曰:“無慾實難。皆得其欲,以從其事,而要其成,非我有成,其在人乎?何愛於邑?邑將焉往?”子大叔曰:“若四國何?”子產曰:“非相違也,而相從也,四國何尤焉?《鄭書》有之曰:‘安定國家,必大焉先。’姑先安大,以待其所歸。”既,伯石懼而歸邑,卒與之。伯有既死,使大史命伯石為卿,辭。

子産は執政し、事ありて伯石を需要し、城邑をもって彼を賄賂した。子大叔は言った、「國家は皆彼の國家。なぜ獨り賄賂する」と。子産は言った、「欲望なきは實に難し。皆欲望を得て、もって事に跟從し、かつ成功を要求す。我に成功あるにあらず。あに他人に在らんや。城邑に何の吝惜があらん。城邑はまさにどこに至らん」と。子大叔は言った、「四方之國に對してどうせん」と。子産は言った、「互相に違背するにあらずして、互相に跟從す。四方之國は何を責備せん。《鄭書》に言あり、『國家を安定するは、必ず先に大族を照顧せよ』と。姑く先に大なるを安定して、もってその歸向を待て」と。後、伯石は懼怕して城邑を歸還したが、終にやはり彼に給した。伯有はすでに死した。太史を遣わして伯石に卿を為るを命じせしむるに、推辞した。

大史退,則請命焉。覆命之,又辭。如是三,乃受策入拜。子產是以惡其為人也,使次己位。

太史は退下し、即ち任命を請求した。再び任命し、また推辞した。このごとく三度して、乃ち策書を受けて入りて拜謝した。子産はこれによってその為人を惡み、彼を位次に自らの下に處らしめた。

子產使都鄙有章,上下有服,田有封洫,廬井有伍。大人之忠儉者,從而與之。泰侈者,因而斃之。

子産は都城邊邑に章程あらしめ、上下に服飾あり、田に封疆溝洫あり、廬井に編制あり。大人中に忠誠節儉なるは、跟從親近す。驕泰奢侈なるは、こうして斃さしめた。

豐卷將祭,請田焉。弗許,曰:“唯君用鮮,眾給而已。”子張怒,退而徵役。子產奔晉,子皮止之而逐豐卷。豐卷奔晉。子產請其田裡,三年而復之,反其田裡及其入焉。

豐卷はまさに祭祀せんとして、田獵を請求した。許さずして言った、「ただ國君のみ鮮獸を用う。衆人は充足せば即可」と。子張は怒り、退下して徒役を徵發した。子産は晋に出奔し、子皮は彼を拦えかつ豐卷を驅逐した。豐卷は晋に出奔した。子産はその田里を保留するを請い、三年後に彼を歸らせ、田里および收入を歸還した。

從政一年,輿人誦之,曰:“取我衣冠而褚之,取我田疇而伍之。孰殺子產,吾其與之!”及三年,又誦之,曰;“我有子弟,子產誨之。我有田疇,子產殖之。子產而死,誰其嗣之?”

執政すること一年、輿人は誦して言った、「我の衣冠を取りて收藏し、我の田畝を取りて編制す。誰が子産を殺さん。我は參與せん!」三年に至り、また誦して言った、「我に子弟あり、子産は教誨す。我に田畝あり、子産は繁殖す。子産もし死せば、誰が彼を繼承せん」と。

◇襄公三十一年

◇襄公三十一年

【經】三十有一年春王正月。夏六月辛巳,公薨於楚宮。秋九月癸巳,子野卒。己亥,仲孫羯卒。冬十月,滕子來會葬。癸酉,葬我君襄公。十有一月,莒人殺其君密州。

【經】三十一年春、周天子の暦の正月。夏六月辛巳、襄公は楚宮で死去した。秋九月癸巳、子野が死去した。己亥、仲孫羯が死去した。冬十月、滕子は會葬に來た。癸酉、わが國君襄公を安葬した。十一月、莒人はその國君密州を殺した。

【傳】三十一年春,王正月,穆叔至自會,見孟孝伯,語之曰:“趙孟將死矣。其語偷,不似民主。且年未盈五十,而諄諄焉如八九十者,弗能久矣。若趙孟死,為政者其韓子乎!吾子盍與季孫言之,可以樹善,君子也。晉君將失政矣,若不樹焉,使早備魯,既而政在大夫,韓子懦弱,大夫多貪,求欲無厭,齊、楚未足與也,魯其懼哉!”孝伯曰:“人生幾何?誰能無偷?朝不及夕,將安用樹?”穆叔出而告人曰:“孟孫將死矣。吾語諸趙孟之偷也,而又甚焉。”又與季孫語晉故,季孫不從。

【傳】三十一年春、周天子の暦の正月、穆叔は會より歸り、孟孝伯に見え、彼に言った、「趙孟はまさに死せん。その話は苟且、百姓の主人に似ず。しかも年紀はなお五十に滿たずして、かえって諄諄として八九十歲の人のごとし。能く長久せざらん。もし趙孟が死せば、執政するはおそらく韓子であろうか!吾子は何ぞ季孫と言わざる。友好を樹立すべし。是れ君子。晋君はまさに政事を失わん。もし樹立せずば、彼をして早く魯を防備せしめよ。隨後政事は大夫に在り。韓子は懦弱、大夫は多く貪り、欲望を求めて滿足せず。齊・楚はなお親附に足らず。魯はおそらくまさに懼れんか!」孝伯は言った、「人生は能く幾久しきか。誰が能く苟且せざらん。早晨は晚上を待たず。まさにどこに樹立を用いん」と。穆叔は出でて人に告げて言った、「孟孫はまさに死せん。我は彼に趙孟の苟且を談ずるに、彼自らはさらに甚だし」と。また季孫と晋の事を談じたが、季孫は聽從せず。

及趙文子卒,晉公室卑,政在侈家。韓宣子為政,為能圖諸侯。魯不堪晉求,讒慝弘多,是以有平丘之會。

趙文子の死去に及び、晋の公室は卑微し、政事は奢侈の私家に在り。韓宣子は執政し、なお諸侯を謀劃する能し。魯は晋の需求に承當する能わず。讒邪は多し。これによって平丘之會あり。

齊子尾害閭丘嬰,欲殺之,使帥師以伐陽州。我問師故。夏五月,子尾殺閭丘嬰以說於我師。工僂灑、渻灶、孔虺、賈寅出奔莒。出群公子。

齊の子尾は閭丘嬰を忌害し、彼を殺さんと欲し、彼を遣わして軍を率いて陽州を攻めさせた。わが國は出兵の故を詢問した。夏五月、子尾は閭丘嬰を殺してわが軍に解說した。工僂洒・渻竈・孔虺・賈寅は莒に出奔した。諸公子を放出した。

公作楚宮。穆叔曰:“《大誓》云:‘民之所欲,天必從之。’君欲楚也夫!故作其宮。若不復適楚,必死是宮也。”六月辛巳,公薨於楚宮。叔仲帶竊其拱璧,以與御人,納諸其懷而從取之,由是得罪。

襄公は楚宮を建造した。穆叔は言った、「《大誓》に言う、『百姓の欲する所は、上天は必ず跟從す』と。君王は楚を欲すか!だからこんな宮を建造す。もし再び楚に至らざれば、必ずこの宮裏で死せん」と。六月辛巳、襄公は楚宮で死去した。叔仲帶はその大璧を偷走し、御者に給して、懷裏に放ちて再び跟いて取り去らせ、これによって罪を得た。

立胡女敬歸之子子野,次於季氏。秋九月癸巳,卒,毀也。

胡女敬歸の子子野を立て、季氏に住まわせた。秋九月癸巳、死去した。是れ哀毀。

己亥,孟孝伯卒。

己亥、孟孝伯が死去した。

立敬歸之娣齊歸之子公子裯,穆叔不欲,曰:“大子死,有母弟則立之,無則長立。年鈞擇賢,義鈞則卜,古之道也。非適嗣,何必娣之子?且是人也,居喪而不哀,在戚而有嘉容,是謂不度。不度之人,鮮不為患。若果立之,必為季氏憂。”武子不聽,卒立之。比及葬,三易衰,衰衽如故衰。於是昭公十九年矣,猶有童心,君子是以知其不能終也。

敬歸の妹齊歸の子公子裯を立てんとし、穆叔は欲せずして言った、「太子が死せば、同母弟あれば即ち立て、なければ即ち年長を立つ。年歲相同なれば賢を選擇し、道義相同なれば即ち占卜す。是れ古代の道理。嫡嗣にあらざれば、何ぞ必ず妹の子を立てん。しかも此の人は、喪に居りて悲哀せず、憂戚の中に喜悅の面容あり。これを法度に合わずと言う。法度に合わざる人は、少なくして禍患を為さざるなし。もし真に彼を立てば、必ず季氏の憂慮と為らん」と。武子は聽かず、終に立てた。安葬に及び、三度衰服を更換し、衰服の衣襟は舊衰のごとく壞れたり。當時昭公は十九歲にして、なお童心あり。君子はこれによって彼が善終する能わざるを知る。

冬十月,滕成公來會葬,惰而多涕。子服惠伯曰:“滕君將死矣!怠於其位,而哀已甚,兆於死所矣。能無從乎?”癸酉,葬襄公。

冬十月、滕成公は會葬に來り、怠惰にして眼淚多し。子服恵伯は言った、「滕君はまさに死せん!その位子上に在りて怠惰し、哀傷はすでに過分し、死の處所で預兆を顯出す。能く跟わざらんや」と。癸酉、襄公を安葬した。

公薨之月,子產相鄭伯以如晉,晉侯以我喪故,未之見也。子產使盡壞其館之垣而納車馬焉。士文伯讓之,曰:“敝邑以政刑之不修,寇盜充斥,無若諸侯之屬辱在寡君者何?是以令吏人完客所館,高其閈閎,厚其牆垣,以無憂客使。

襄公の死去の月に、子産は鄭伯を輔佐して晋に行き、晋侯はわが國の喪事の故のために、まだ彼に見えず。子産は人に館舍の牆を全部拆壞せしめ、車馬を放ち入れた。士文伯は責備して言った、「敝邑は政刑の修整せざるによって、寇盜は充滿し、諸侯の屬官の辱くも寡君に臨むに辦法なし。これによって吏人に客人の住む館舍を完善せしめ、里門大門を加高し、牆垣を加厚して、もって客使を憂慮せざらしむ。

今吾子壞之,雖從者能戒,其若異客何?以敝邑之為盟主,繕完葺牆,以待賓客,若皆毀之,其何以共命?寡君使匄請命。”對曰:“以敝邑褊小,介於大國,誅求無時,是以不敢寧居,悉索敝賦,以來會時事。逢執事之不間,而未得見,又不獲聞命,未知見時,不敢輸幣,亦不敢暴露。其輸之,則君之府實也,非薦陳之,不敢輸也。其暴露之,則恐燥溼之不時而朽蠹,以重敝邑之罪。僑聞文公之為盟主也,宮室卑庳,無觀臺榭,以崇大諸侯之館。館如公寢,庫廄繕修,司空以時平易道路,圬人以時塓館宮室。諸侯賓至,甸設庭燎,僕人巡宮,車馬有所,賓從有代,巾車脂轄,隸人牧圉,各瞻其事,百官之屬,各展其物。公不留賓,而亦無廢事,憂樂同之,事則巡之,教其不知,而恤其不足。賓至如歸,無寧災患?不畏寇盜,而亦不患燥溼。今銅鞮之宮數里,而諸侯舍於隸人。門不容車,而不可逾越。盜賊公行,而天厲不戒。賓見無時,命不可知。若又勿壞,是無所藏幣,以重罪也。敢請執事,將何以命之?雖君之有魯喪,亦敝邑之憂也。

今吾子はそれを拆壞す。たとえ隨從は警戒する能くとも、別の客人に對してどうせん。敝邑が盟主を為るによって、修繕して完好し牆壁を修補して、もって賓客を待つ。もし皆毀壞せば、何をもって命令を供給せん。寡君は匄を遣わして命令を請示せしむ」と。答えて言った、「敝邑の狹小にして大國の間に處するによって、責求に定時なく、これによって敢えて安居せず。敝邑の賦稅を盡く搜して、もって四時の貢事に會合す。執事に閒暇なきに碰上し、まだ進見する能わず、また命令を得ず。進見の時間を知らず。幣を交納するを敢えてせず、またそれを暴露せしむるを敢えてせず。交納すれば、即ち君王府庫の財物。進薦陳列せずば、敢えて交納せず。暴露せば、燥濕の時に按せずして朽爛生蠹するを怕れ、敝邑の罪を加重せんとす。僑が聞くに文公が盟主を為りし時、宮室は低矮、觀臺樓榭なく、もって諸侯の館舍を增高加大せり。館舍は公の寢宮のごとく、庫房馬廐は修繕し、司空は時に道路を平整し、泥瓦匠は時に館舍宮室を粉刷す。諸侯賓客至れば、甸人は庭燎を設置し、僕人は宮室を巡視し、車馬に處所あり、賓客隨從に人の替代あり、巾車は車軸に油を上げ、隸人牧圉は各々職事を照看し、百官の所屬は各々その物を陳列す。公は賓客を滞留せず、また廢棄の事なし。憂樂は相同、事あれば即ち巡視し、知らざるを教導し、足らざるを体恤す。賓客至ること家に歸るがごとし。あになお災患あらんや。寇盜を怕れず、また燥濕を怕れず。今銅鞮の宮は數里あり、諸侯はかえって隸人の所に住む。門は車子を容れず、また翻越すべからず。盜賊は公然に行走し、天災瘟疫は警戒せず。賓客の進見は定時なく、命令は知るべからず。もしまた拆壞せざれば、即ち幣を藏むる處なく、もって罪を加重せんとす。敢えて執事に請問す。まさに何をもって命令せん。たとえ君王に魯の喪事あれども、また敝邑の憂慮。

若獲薦幣,修垣而行,君之惠也,敢憚勤勞?”文伯覆命,趙文子曰:“信!我實不德,而以隸人之垣以贏諸侯,是吾罪也。”使士文伯謝不敏焉。晉侯見鄭伯,有加禮,厚其宴好而歸之。乃築諸侯之館。

もし進薦幣を獲得して、牆を修好して走らば、是れ君王の恩恵。敢えて勤勞を怕れんや」と。文伯は復命し、趙文子は言った、「確かに!われわれは實に徳なく、隸人の牆垣をもって諸侯を接納す。是れわれわれの罪」と。士文伯を遣わして不聰敏を謝せしめた。晋侯は鄭伯に見え、禮節は增加し、宴享友好を加厚して然る後彼を歸らせた。こうして諸侯の館舍を修築した。

叔向曰:“辭之不可以已也如是夫!子產有辭,諸侯賴之,若之何其釋辭也?《詩》曰:‘辭之輯矣,民之協矣。辭之繹矣,民之莫矣。’其知之矣。”

叔向は言った、「言辞の停止すべからざるはこのごとし!子産に言辞あれば、諸侯は依頼す。どうして言辞を放下せん。《詩》に言う、『言辞は和洽すれば、百姓は即ち協同す。言辞は連續すれば、百姓は即ち安定す』と。彼は是れを知る」と。

鄭子皮使印段如楚,以適晉告,禮也。

鄭の子皮は印段を遣わして楚に行かせ、晋に至った事を告知した。これは禮に合う。

莒犁比公生去疾及展輿,既立展輿,又廢之。犁比公虐,國人患之。十一月,展輿因國人以攻莒子,弒之,乃立。去疾奔齊,齊出也。展輿,吳出也。書曰“莒人弒其君買朱鉏。”言罪之在也。

莒犁比公は去疾および展輿を生み、すでに展輿を立て、また廢掉した。犁比公は暴虐、國人は憂患した。十一月、展輿は國人に倚りて莒子を攻め、彼を弑殺し、こうして即位した。去疾は齊に出奔した。是れ齊女の生む所。展輿は呉女の生む所。《春秋》に記して「莒人弑其君買朱鉏」と言うは、罪は國君に在るを言う。

吳子使屈狐庸聘於晉,通路也。趙文子問焉,曰:“延州來季子其果立乎?巢隕諸樊,閽戕戴吳,天似啟之,何如?”對曰:“不立。是二王之命也,非啟季子也。若天所啟,其在今嗣君乎!甚德而度,德不失民,度不失事,民親而事有序,其天所啟也。有吳國者,必此君之子孫實終之。季子,守節者也。雖有國,不立。”

呉子は屈狐庸を遣わして晋に聘問させた。是れ道路を開通する。趙文子は彼に問うて言った、「延州來季子は果たして立つ能くせんや。巢は諸樊を隕落せしめ、門を看る人は戴呉を殺害せり。上天はあたかも彼を開啓するがごとし。どうか」と。答えて言った、「立たず。此は兩位の王の命數。季子を開啓するにあらず。もし上天の開啓する所は、おそらく今の繼位國君に在らんか!甚だ徳ありて法度あり。徳は百姓を失わず、法度は事を失わず。百姓は親近して事は次序あり。是れ上天の開啓する所。呉を保有するは、必ず此の國君の子孫が終に保有す。季子は節を守る人。たとえ國家あれども、立たず」と。

十二月,北宮文子相衛襄公以如楚,宋之盟故也。過鄭,印段勞於棐林,如聘禮而以勞辭。文子入聘。子羽為行人,馮簡子與子大叔逆客。事畢而出,言於衛侯曰:“鄭有禮,其數世之福也,其無大國之討乎!《詩》曰:‘誰能執熱,逝不以濯。’禮之於政,如熱之有濯也。濯以救熱,何患之有?”子產之從政也,擇能而使之。馮簡子能斷大事,子大叔美秀而文,公孫揮能知四國之為,而辨於其大夫之族姓、班位、貴賤、能否,而又善為辭令,裨諶能謀,謀於野則獲,謀於邑則否。鄭國將有諸侯之事,子產乃問四國之為於子羽,且使多為辭令。與裨諶乘以適野,使謀可否。而告馮簡子,使斷之。事成,乃授子大叔使行之,以應對賓客。是以鮮有敗事。北宮文子所謂有禮也。

十二月、北宮文子は衛襄公を輔佐して楚に行った。是れ宋の盟の故である。鄭を經過し、印段は棐林で慰勞し、聘禮のごとくして慰勞の辭を用いた。文子は城に進みて聘問した。子羽は行人を為り、馮簡子と子大叔は客人を迎接した。事が畢りて出で、衛侯に言った、「鄭は禮あり。是れ幾世の福。おそらく大國の討伐なからんか!《詩》に言う、『誰が能く熱を持して、往きて水洗を用いざらん』と。禮の政事に對するは、熱に水洗あるがごとし。洗いて熱を救うに、何の患難があらん」と。子産は執政し、才能あるを選擇して使用した。馮簡子は能く大事を決斷し、子大叔は美秀にして文采あり、公孫揮は能く四國の作為を知り、かつ大夫の族姓・班位・貴賤・能否を分辨し、また辭令を善くす。裨諶は能く謀劃す。野外で謀劃すれば即ち得當し、城裏で謀劃すれば即ち得當せず。鄭はまさに諸侯の事あらんとすれば、子産は即ち子羽に四國の作為を問い、かつ彼に多く辭令を作らしめた。裨諶と乘車して野外に至り、彼に可否を謀劃せしめた。然る後馮簡子に告げ、彼に決斷せしめた。事が定まりて、乃ち子大叔に交して實行せしめ、もって賓客に應對した。これによって敗れる事は少なし。即ち北宮文子の謂う所の禮あり。

鄭人遊於鄉校,以論執政。然明謂子產曰:“毀鄉校,何如?”子產曰:“何為?夫人朝夕退而遊焉,以議執政之善否。其所善者,吾則行之。其所惡者,吾則改之。是吾師也,若之何毀之?我聞忠善以損怨,不聞作威以防怨。豈不遽止,然猶防川,大決所犯,傷人必多,吾不克救也。不如小決使道。不如吾聞而藥之也。”然明曰:“蔑也今而後知吾子之信可事也。小人實不才,若果行此,其鄭國實賴之,豈唯二三臣?”仲尼聞是語也,曰:“以是觀之,人謂子產不仁,吾不信也。”

鄭人は鄉校で游玩し、もって執政を議論した。然明は子産に言った、「鄉校を毀掉するは、どうか」と。子産は言った、「何を為さん。あの人々は朝夕に歸りて游玩し、もって執政の好壞を議論す。彼らの好とするは、我は即ち實行す。彼らの惡むは、我は即ち改正す。是れ我の師。どうして毀掉せん。我が聞くに忠善をもって怨を減少すと聞くも、威を作して怨を防止すとは聞かず。あに即時に止住する能わざらんや。しかるに水を防ぐがごとく、大決口の衝犯する所は、人を傷すること必ず多し。我は救う能わず。小口を開きて疎導するに如かず。我の聞くをもって藥と為すに如かず」と。然明は言った、「蔑は今より後吾子が確かに事えるべきを知る。小人は實に才能なし。もし真に此を實行せば、鄭は實に依頼せん。あに此の數位の臣のみならんや」と。仲尼は此の話を聞きて言った、「此より觀れば、人は子産を不仁と言う。我は信じず」と。

子皮欲使尹何為邑。子產曰:“少,未知可否?”子皮曰:“願,吾愛之,不吾叛也。使夫往而學焉,夫亦愈知治矣。”子產曰:“不可。人之愛人,求利之也。今吾子愛人則以政,猶未能操刀而使割也,其傷實多。子之愛人,傷之而已,其誰敢求愛於子?子於鄭國,棟也,棟折榱崩,僑將厭焉,敢不盡言?子有美錦,不使人學制焉。大官、大邑,身之所庇也,而使學者制焉,其為美錦,不亦多乎?僑聞學而後入政,未聞以政學者也。若果行此,必有所害。譬如田獵,射御貫則能獲禽,若未嘗登車射御,則敗績厭覆是懼,何暇思獲?”子皮曰:“善哉!虎不敏。吾聞君子務知大者、遠者,小人務知小者、近者。我,小人也。

子皮は尹何をして邑を治理せしめんと欲した。子産は言った、「年少。可不可を知らずや」と。子皮は言った、「謹厚。我は彼を喜愛す。我を背叛せざらん。彼をして學習せしめば、彼もまたさらに治理を知らん」と。子産は言った、「不可。人が人を喜愛するは、彼に利あるを求む。今吾子は人を喜愛してかえって政事を彼に給す。まだ刀を拿る能わざるに彼をして切割せしむるがごとし。傷害は實に多し。あなたが人を喜愛するは、ただ彼を傷害するのみ。誰が敢えてあなたに喜愛を求めん。あなたは鄭に對して棟樑。棟樑折れて椽子崩れれば、僑はまさに壓せらるん。敢えて言盡せざらんや。あなたに美錦あれど、人に學んで裁るを讓らず。大官・大邑は自身の庇護する所にして、かえって學習する人に裁らしむ。それの美錦に對するは、また多すぎではないか。僑が聞くに學習して然る後政事に入ると聞くも、政事をもって學習するとは聞かず。もし真に此を實行せば、必ず害處あらん。田獵に比すれば、射御熟練すれば即ち禽獸を獲得する能し。もしまだ車に登りて射御せざれば、即ち敗績翻車壓迫を怕る。どうして獲得を空想する暇あらん」と。子皮は言った、「善し!虎は聰敏ならず。我が聞くに君子は大なる遠なるを知るに致力し、小人は小なる近なるを知るに致力す。我は小人。

衣服附在吾身,我知而慎之。大官、大邑所以庇身也,我遠而慢之。微子之言,吾不知也。他日我曰:‘子為鄭國,我為吾家,以庇焉,其可也。’今而後知不足。自今,請雖吾家,聽子而行。”子產曰:“人心之不同,如其面焉。吾豈敢謂子面如吾面乎?抑心所謂危,亦以告也。”子皮以為忠,故委政焉。子產是以能為鄭國。

衣服は我の身に附するに、我は知りかつ謹慎す。大官・大邑はもって自身を庇護するに、我は疎遠かつ怠慢す。あなたの話なくば、我は知らざらん。往日我は言った、『あなたは鄭を治理し、我は我が家を治理し、もって庇護す。おそらく可』と。今より後不足を知る。今より後、請う、たとえ我が家なりとも、あなたに聽きて實行せん」と。子産は言った、「人心の不同は、面孔のごとし。我はどうして敢えてあなたの面孔が我の面孔に似ると言わん。ただ心裏に危險と思うを、またもって告げるのみ」と。子皮は忠誠とし、だから政事を彼に委託した。子産はこれによって能く鄭を治理した。

衛侯在楚,北宮文子見令尹圍之威儀,言於衛侯曰:“令尹似君矣!將有他志,雖獲其志,不能終也。《詩》云:‘靡不有初,鮮克有終。’終之實難,令尹其將不免?”公曰:“子何以知之?”對曰:“《詩》云:‘敬慎威儀,惟民之則。’令尹無威儀,民無則焉。民所不則,以在民上,不可以終。”公曰:“善哉!何謂威儀?”對曰:“有威而可畏謂之威,有儀而可象謂之儀。君有君之威儀,其臣畏而愛之,則而象之,故能有其國家,令聞長世。臣有臣之威儀,其下畏而愛之,故能守其官職,保族宜家。順是以下皆如是,是以上下能相固也。

衛侯は楚に在り、北宮文子は令尹圍の威儀を見て、衛侯に言った、「令尹は國君に似たり!まさに別の心志あらん。たとえ心志を獲得すとも、善終する能わず。《詩》に言う、『始めなきなく、終結する能くする少なし』と。終結は實に難し。令尹はおそらく免れざらんか」と。公は言った、「あなたは何をもって知る」と。答えて言った、「《詩》に言う、『威儀を敬慎すれば、是れ百姓の法則』と。令尹に威儀なくば、百姓に法則なし。百姓の取法せざる所にして、かえって百姓の上に在るは、善終すべからず」と。公は言った、「善し!何を威儀と言う」と。答えて言った、「威ありて畏懼すべきを威と言い、儀ありて仿效すべきを儀と言う。國君に國君の威儀あり。その臣は畏懼して愛戴し、取法して仿效す。だから能く國家を保有し、美名は世に傳わる。臣に臣の威儀あり。その下の人は畏懼して愛戴す。だから能く官職を守住し、族を保ち家を宜しうす。此に順い以下皆此のごとし。だから上下は能く互相に鞏固す。

《衛詩》曰:‘威儀棣棣,不可選也。’言君臣、上下、父子、兄弟、內外、大小皆有威儀也。《周詩》曰:‘朋友攸攝,攝以威儀。’言朋友之道,必相教訓以威儀也。《周書》數文王之德,曰:‘大國畏其力,小國懷其德。’言畏而愛之也。《詩》云:‘不識不知,順帝之則。’言則而象之也。紂囚文王七年,諸侯皆從之囚。紂於是乎懼而歸之,可謂愛之。文王伐崇,再駕而降為臣,蠻夷帥服,可謂畏之。文王之功,天下誦而歌舞之,可謂則之,文王之行,至今為法,可謂象之。有威儀也。故君子在位可畏,施捨可愛,進退可度,周旋可則,容止可觀,作事可法,德行可象,聲氣可樂,動作有文,言語有章,以臨其下,謂之有威儀也。”

《衛詩》に言う、『威儀棣棣、計算すべからず』と。是れ君臣・上下・父子・兄弟・內外・大小に皆威儀あるを言う。《周詩》に言う、『朋友の輔佐する所は、威儀をもって輔佐す』と。是れ朋友の道理は、必ず互相に威儀をもって教訓するを言う。《周書》に文王の徳を計數して言う、『大國はその力を畏懼し、小國はその徳を懷念す』と。是れ畏懼して愛戴するを言う。《詩》に言う、『識らず知らず、上帝の法則に順從す』と。是れ取法して仿效するを言う。紂は文王を七年囚禁し、諸侯は皆彼に跟いて囚せられた。紂はこうして懼れて放ち歸した。愛戴と言うべし。文王は崇を攻め、二度出兵して即ち降服して臣と為し、蠻夷は率いて歸服した。畏懼と言うべし。文王の功勞は、天下は誦讀歌舞す。取法と言うべし。文王の行為は、今に至るも法則。仿效と言うべし。威儀あり。だから君子は位子上に在りて畏るべく、施舍は愛すべく、進退は度量すべく、周旋は取法すべく、容止は觀看すべく、事を作すは效法すべく、徳行は仿效すべく、聲氣は快樂すべく、動作に文采あり、言語に條理あり、下に臨み視るに、これを威儀ありと言う」と。

昭公(元年~三十二年)

◇昭公元年

◇昭公元年

【經】元年春王正月,公即位。叔孫豹會晉趙武、楚公子圍、齊國弱、宋向戌、衛齊惡、陳公子招、蔡公孫歸生、鄭罕虎、許人、曹人於虢。三月,取鄆。

【経】元年春、周天子の暦の正月、昭公が即位した。叔孫豹が晋の趙武、楚の公子囲、斉の国弱、宋の向戌、衛の斉悪、陳の公子招、蔡の公孫帰生、鄭の罕虎、許人、曹人と虢で会合した。三月、鄆を取った。

夏,秦伯之弟針出奔晉。六月丁巳,邾子華卒。晉荀吳帥師敗狄於大滷。秋,莒去疾自齊入於莒。莒展輿出奔吳。叔弓帥師疆鄆田。葬邾悼公。冬十有一月己酉,楚子麇卒。公子比出奔晉。

夏、秦伯の弟の鍼が晋に出奔した。六月丁巳、邾子華が死去した。晋の荀呉が軍を率いて大鹵で狄を破った。秋、莒の去疾が斉から莒国に入った。莒の展輿が呉に出奔した。叔弓が軍を率いて鄆の田境を画定した。邾悼公を葬った。冬十一月己酉、楚子麇が死去した。公子比が晋に出奔した。

【傳】元年春,楚公子圍聘於鄭,且娶於公孫段氏,伍舉為介。將入館,鄭人惡之,使行人子羽與之言,乃館於外。既聘,將以眾逆。子產患之,使子羽辭,曰:“以敝邑褊小,不足以容從者,請墠聽命!”令尹命大宰伯州犁對曰:“君辱貺寡大夫圍,謂圍:‘將使豐氏撫有而室。圍布几筵,告於莊、共之廟而來。若野賜之,是委君貺於草莽也!是寡大夫不得列於諸卿也!不寧唯是,又使圍蒙其先君,將不得為寡君老,其蔑以復矣。唯大夫圖之!”子羽曰:“小國無罪,恃實其罪。將恃大國之安靖己,而無乃包藏禍心以圖之。小國失恃而懲諸侯,使莫不憾者,距違君命,而有所壅塞不行是懼!不然,敝邑,館人之屬也,其敢愛豐氏之祧?”伍舉知其有備也,請垂橐而入。許之。

【伝】元年春、楚の公子囲が鄭に聘問し、かつ公孫段氏の娘を娶ることになり、伍挙が副使を務めた。館舎に入ろうとすると、鄭人はこれを嫌い、行人の子羽を派遣して彼らと話をさせ、ついに城外に宿った。すでに聘問を終え、众人を率いて迎えに行こうとした。子産はこれを憂え、子羽を派遣して辞退させて言わせた、「弊邑は狭小で、従者を容れるに足りません。草を除いた平地で命を承りたい」と。令尹は太宰伯州犁に命じて答えさせた、「君王は辱めて寡大夫の囲に賜り、囲に対して『豊氏にあなたの家室を保有させよう』と言いました。囲は几筵を並べ、荘王・共王の廟で祭告してから来ました。もし野外で賜るなら、君王の賜りを草莽に棄てることです!寡大夫が諸卿に列することができないことです!そればかりか、また囲にその先君を欺かせ、寡君の老臣となることができず、帰る顔がありません。ただ大夫のご打算を請います」と。子羽は言った、「小国に罪はなく、恃むことがその罪です。大国を恃んで自らを安んじようとすれば、おそらく禍心を包蔵してこれを謀るでしょう。小国が恃みを失い諸侯を戒めさせ、憾まない者がなく、君王の命令に抗拒・違背して、壅塞して行えなくなることが、恐れるところです!さもなければ、弊邑は館人の類で、あえて豊氏の祖廟を惜しみましょうか」と。伍挙は備えがあることを知り、箭袋を逆さにして入ることを請うた。許された。

正月乙未,入,逆而出。遂會於虢,尋宋之盟也。祁午謂趙文子曰:“宋之盟,楚人得志於晉。今令尹之不信,諸侯之所聞也。子弗戒,懼又如宋。子木之信稱於諸侯,猶詐晉而駕焉,況不信之尤者乎?楚重得志於晉,晉之恥也。子相晉國以為盟主,於今七年矣!再合諸侯,三合大夫,服齊、狄,寧東夏,平秦亂,城淳于,師徒不頓,國家不罷,民無謗讟,諸侯無怨,天無大災,子之力也。有令名矣,而終之以恥,午也是懼。吾子其不可以不戒!”文子曰:“武受賜矣!然宋之盟,子木有禍人之心,武有仁人之心,是楚所以駕於晉也。今武猶是心也,楚又行僣,非所害也。武將信以為本,循而行之。譬如農夫,是穮是蓘,雖有饑饉,必有豐年。且吾聞之:‘能信不為人下。’吾未能也。《詩》曰:‘不僣不賊,鮮不為則。’信也。能為人則者,不為人下矣。吾不能是難,楚不為患。”

正月乙未、城に入り、迎えてから出た。ここで虢で会見し、宋の盟を重温した。祁午が趙文子に言った、「宋の盟では、楚人が晋に対して志を得ました。今、令尹は信を守らず、諸侯が聞き知るところです。あなたが戒めなければ、また宋のようになることを恐れます。子木の信は諸侯に称えられ、なお晋を欺いて凌駕しました。まして信を守らないことが甚だしい者をや!楚が再び晋に対して志を得るのは、晋の恥です。あなたが晋を輔佐して盟主となり、今に至って七年です!二度諸侯を会合し、三度大夫を会合し、斉・狄を帰服させ、東夏を安定させ、秦の乱を平定し、淳于を修築し、軍隊は頓挫せず、国家は疲弊せず、百姓に誹謗なく、諸侯に怨恨なく、天に大災なし。これはあなたの力です。美名がありながら、恥をもって終えるのは、午が恐れるところです。吾子は戒めざるを得ません!」文子は言った、「武は賜教を受けました!しかし宋の盟では、子木に人を害する心があり、武に人を愛する心があった。これが楚が晋を凌駕した所以です。今も武はこの心であり、楚がまた僭越の事をしても、害することはできません。武は信用を根本とし、循ってこれを行います。たとえば農夫が草を除き土を培うように、たとえ饑饉があっても、必ず豊年があります。况且わが聞くに、『能く信を守れば人の下とならず』と。まだ能くしていません。《詩》に言う、『僭越せず賊害せず、鮮しと法則を為さざるはなし』と。これが信用です。人の法則を為すことができる者は、人の下となりません。わが難きはこれができないことにあり、楚は患ではありません」

楚令尹圍請用牲,讀舊書,加於牲上而已。晉人許之。

楚の令尹囲は牲を用い、旧盟書を読み、牲の上に置くだけで済ませることを請うた。晋人はこれを許した。

三月甲辰,盟。楚公子圍設服離衛。叔孫穆子曰:“楚公子美矣,君哉!”鄭子皮曰:“二執戈者前矣!”蔡子家曰:“蒲宮有前,不亦可乎?”楚伯州犁曰:“此行也,辭而假之寡君。”鄭行人揮曰:“假不反矣!”伯州犁曰:“子姑憂子皙之慾背誕也。”子羽曰:“當璧猶在,假而不反,子其無憂乎?”齊國子曰:“吾代二子愍矣!”陳公子招曰:“不憂何成,二子樂矣。”衛齊子曰:“苟或知之,雖憂何害?”宋合左師曰:“大國令,小國共。吾知共而已。”晉樂王鮒曰:“《小旻》之卒章善矣,吾從之。”

三月甲辰、盟約を結んだ。楚の公子囲は国君の服飾と二列の衛士を設けた。叔孫穆子は言った、「楚の公子は華美で、国君のようだ!」鄭の子皮は言った、「戈を執る者二人が前にいる!」蔡の子家は言った、「蒲宮に前導があっても、よいではないか?」楚の伯州犁は言った、「この行は、辞譲して寡君から借りたのです」鄭の行人揮は言った、「借りて返さない!」伯州犁は言った、「あなたは姑く子皙が背叛し放诞しようとするのを憂えなさい」子羽は言った、「璧に当たる者はまだいる。借りて返さなければ、あなたに憂いはないのか?」斉の国子は言った、「私はこの二人のために憂える!」陳の公子招は言った、「憂えなければどうして成す、二人は楽しんでいる」衛の斉子は言った、「もし知る者があれば、憂えても何の害があろう?」宋の合左師は言った、「大国が命令し、小国は恭しく供える。私は恭しく供えることだけを知る」晋の楽王鮒は言った、「《小旻》の卒章がよい、私はこれに従う」

退會,子羽謂子皮曰:“叔孫絞而婉,宋左師簡而禮,樂王鮒字而敬,子與子家持之,皆保世之主也。齊、衛、陳大夫其不免乎?國子代人憂,子招樂憂,齊子雖憂弗害。夫弗及而憂,與可憂而樂,與憂而弗害,皆取憂之道也,憂必及之。《大誓》曰:‘民之所欲,天必從之。’三大夫兆憂,能無至乎?言以知物,其是之謂矣。”

会を退き、子羽は子皮に言った、「叔孫は切直でありながら婉曲、宋の左師は簡要で礼あり、楽王鮒は字を愛し敬い、あなたと子家は中を持つ。皆、数世を保てる主です。斉・衛・陳の大夫はおそらく免れないでしょう?国子は人に代わって憂え、子招は憂いをもって楽しみとし、斉子は憂えても害としません。まだ及ばないのに憂えるのと、憂うべきなのに楽しむのと、憂えても害としないのと、皆憂いを取る道で、憂患は必ず彼らに及びます。《大誓》に言う、『民の欲するところ、天は必ずこれに従う』と。三人の大夫は憂患の兆し、至らないことがありえましょうか?言によって物を知るとは、このことです」

季武子伐莒,取鄆,莒人告於會。楚告於晉曰:“尋盟未退,而魯伐莒,瀆齊盟,請戮其使。”樂桓子相趙文子,欲求貨於叔孫而為之請,使請帶焉,弗與。

季武子が莒国を攻め、鄆を取り、莒人は会見に告げた。楚は晋に告げて言った、「盟を重温してまだ退かないのに、魯が莒を攻め、斎盟を瀆しました。その使者を戮してください」楽桓子は趙文子を輔佐し、叔孫に財貨を求めて彼のために請おうとし、人を遣わして帯を請わせたが、与えなかった。

梁其踁曰:“貨以藩身,子何愛焉?”叔孫曰:“諸侯之會,衛社稷也。我以貨免,魯必受師。是禍之也,何衛之為?人之有牆,以蔽惡也。牆之隙壞,誰之咎也?衛而惡之,吾又甚焉。雖怨季孫,魯國何罪?叔出季處,有自來矣,吾又誰怨?然鮒也賄,弗與,不已。”召使者,裂裳帛而與之,曰:“帶其褊矣。”

梁其踁は言った、「財貨は身を藩衛するのに用います。あなたは何を惜しむのですか?」叔孫は言った、「諸侯の会見は社稷を衛るためです。私が財貨で罪を免れれば、魯は必ず軍隊の攻撃を受けます。これはそれを禍するので、何を衛るというのですか?人に牆があるのは、悪を蔽うためです。牆の隙が壊れたら、誰の咎ですか?衛りながら悪を加えるのは、私がさらに甚だしい。たとえ季孫を怨んでも、魯国に何の罪がありますか?叔が出使し季が処るのは、由来が久しい。私は誰を怨みましょうか?しかし鮒は賄を貪る。与えなければ、止まないでしょう」使者を召し、裳帛を裂いて与えて言った、「帯が狭くなったようだ」

趙孟聞之,曰:“臨患不忘國,忠也。思難不越官,信也;圖國忘死,貞也;謀主三者,義也。有是四者,又可戮乎?”乃請諸楚曰:“魯雖有罪,其執事不闢難,畏威而敬命矣。子若免之,以勸左右可也。若子之群吏處不闢汙,出不逃難,其何患之有?患之所生,汙而不治,難而不守,所由來也。能是二者,又何患焉?不靖其能,其誰從之?魯叔孫豹可謂能矣,請免之以靖能者。子會而赦有罪,又賞其賢,諸侯其誰不欣焉望楚而歸之,視遠如邇?疆埸之邑,一彼一此,何常之有?王伯之令也,引其封疆,而樹之官。舉之表旗,而著之制令。過則有刑,猶不可壹。於是乎虞有三苗,夏有觀、扈,商有姺、邳,周有徐、奄。自無令王,諸侯逐進,狎主齊盟,其又可壹乎?恤大舍小,足以為盟主,又焉用之?封疆之削,何國蔑有?主齊盟者,誰能辯焉?吳、濮有釁,楚之執事豈其顧盟?莒之疆事,楚勿與知,諸侯無煩,不亦可乎?莒、魯爭鄆,為日久矣,苟無大害於其社稷,可無亢也。去煩宥善,莫不競勸。子其圖之!”固請諸楚,楚人許之,乃免叔孫。

趙孟はこれを聞いて言った、「患難に臨んで国を忘れないのは忠。難を思って官を越えないのは信。国を謀って死を忘れるのは貞。謀るにこの三者を主とするのは義。この四者があって、また戮すことができますか?」そこで楚に請うて言った、「魯は罪があるとはいえ、その執事は難を避けず、威を畏れて命を敬いました。あなたがもしこれを免ずれば、左右を勧めるのに足ります。もしあなたの群吏が内に汚を避けず、外に難を逃れなければ、何の患がありましょうか?患の生ずるは、汚して治めず、難いて守らないことの由来です。能くこの二者を為せば、また何を患えましょうか?能ある者を靖めなければ、誰が従いましょうか?魯の叔孫豹は能あると言えます。これを免じて能者を靖めてください。あなたが会して有罪を赦し、またその賢を賞すれば、諸侯で誰が欣びて楚を望んで帰し、遠を視ること邇のごとくせざりましょう?疆埸の邑は、一彼一此、何の常がありましょうか?王伯の令は、その封疆を引き、官を樹て、表旗を挙げて制令に著します。過てば刑があり、なお壹とすべからず。ここにおいて虞に三苗あり、夏に観・扈あり、商に姺・邳あり、周に徐・奄あり。令王なきより、諸侯は逐い進み、狎に斎盟を主とし、また壹とすべからざらんや?大を恤れ小を舍つれば、足りて盟主と為り、また何をかこれを用いん?封疆の削は、何の国か蔑からん?斎盟を主とする者、誰か能く辨わん?呉・濮に釁あり、楚の執事は豈に盟を顧みんや?莒の疆事は、楚は与知せず、諸侯に煩なし、また可ならずや?莒・魯が鄆を争うのは、日すでに久しい。苟もその社稷に大害なくば、亢なきを可とす。煩を去り善を宥するに、競い勸めざる莫し。あなたはこれを図れ!」と。固く楚に請うて、楚人はこれを許し、乃ち叔孫を免じた。

令尹享趙孟,賦《大明》之首章。趙孟賦《小宛》之二章。事畢,趙孟謂叔向曰:“令尹自以為王矣,何如?”對曰:“王弱,令尹強,其可哉!雖可,不終。”趙孟曰:“何故?”對曰:“強以克弱而安之,強不義也。不義而強,其斃必速。《詩》曰:‘赫赫宗周,褒姒滅之。’強不義也。令尹為王,必求諸侯。

令尹は趙孟を宴享し、《大明》の首章を賦した。趙孟は《小宛》の二章を賦した。事が毕わり、趙孟は叔向に言った、「令尹は自ら王と思っているようだ。どうか?」対えて言った、「王は弱く、令尹は強い。その可なるか!可なりと雖も、終わらざらん」趙孟は言った、「何故か?」対えて言った、「強をもって弱を克ちてこれに安んずるは、強くして義ならず。義なくして強ければ、その毙れること必ず速やかなり。《詩》に言う、『赫赫たる宗周、褒姒これを滅す』と。強くして義ならざるなり。令尹が王と為らば、必ず諸侯を求めん。

晉少懦矣,諸侯將往。若獲諸侯,其虐滋甚。民弗堪也,將何以終?夫以強取,不義而克,必以為道。道以淫虐,弗可久已矣!”夏四月,趙孟、叔孫豹、曹大夫入於鄭,鄭伯兼享之。子皮戒趙孟,禮終,趙孟賦《瓠葉》。子皮遂戒穆叔,且告之。穆叔曰:“趙孟欲一獻,子其從之!”子皮曰:“敢乎?”穆叔曰:“夫人之所欲也,又何不敢?”及享,具五獻之籩豆於幕下。趙孟辭,私於子產曰:“武請於冢宰矣。”乃用一獻。趙孟為客,禮終乃宴。穆叔賦《鵲巢》。趙孟曰:“武不堪也。”又賦《采蘩》,曰:“小國為蘩,大國省穡而用之,其何實非命?”子皮賦《野有死麇》之卒章。趙孟賦《常棣》,且曰:“吾兄弟比以安,尨也可使無吠。”穆叔、子皮及曹大夫興,拜,舉兕爵,曰:“小國賴子,知免於戾矣。”飲酒樂。趙孟出,曰:“吾不復此矣。”

晋は少し懦弱となった。諸侯は往かんとす。もし諸侯を獲れば、その虐いよいよ甚だし。民は堪えず、将に何をもって終わらん?強をもって取り、義なくして克つは、必ずこれを道と為さん。道、淫虐をもってすれば、久しき可からざるなり!」夏四月、趙孟・叔孫豹・曹の大夫が鄭に入り、鄭伯は兼ねてこれを享した。子皮は趙孟を戒め、礼が终わると趙孟は《瓠葉》を賦した。子皮は遂に穆叔を戒め、且つこれに告げた。穆叔は言った、「趙孟は一献を欲す。あなたはこれに従え!」子皮は言った、「敢えてか?」穆叔は言った、「あの人の欲するところ、また何を敢えてせざらん?」享に及び、五献の籩豆を幕下に具えた。趙孟は辞し、私に子産に言った、「武は冢宰に請いました」乃ち一献を用いた。趙孟は客と為り、礼が终わって乃ち宴した。穆叔は《鵲巣》を賦した。趙孟は言った、「武は堪えません」また《采蘩》を賦して言った、「小国は蘩と為り、大国は省穑してこれを用いる。その実、命に非ざる何ぞや?」子皮は《野有死麇》の卒章を賦した。趙孟は《常棣》を賦し、且つ言った、「吾が兄弟は比びて安んず。尨もまた吠えしめざる可し」穆叔・子皮及び曹の大夫は興り、拜して兕爵を挙げて言った、「小国は子に頼り、戾を免れるを知りました」酒を飲んで楽しんだ。趙孟は出て言った、「吾は再び此のごときを為さじ」

天王使劉定公勞趙孟於潁,館於洛汭。劉子曰:“美哉禹功,明德遠矣!微禹,吾其魚乎!吾與子弁冕端委,以治民臨諸侯,禹之力也。子盍亦遠績禹功,而大庇民乎?”對曰:“老夫罪戾是懼,焉能恤遠?吾儕偷食,朝不謀夕,何其長也?”劉子歸,以語王曰:“諺所為老將知而耄及之者,其趙孟之謂乎!為晉正卿,以主諸侯,而儕於隸人,朝不謀夕,棄神人矣。神怒民叛,何以能久?趙孟不復年矣。神怒,不歆其祀;民叛,不即其事。祀事不從,又何以年?”叔孫歸,曾夭御季孫以勞之。旦及日中不出。曾夭謂曾阜曰:“旦及日中,吾知罪矣。魯以相忍為國也,忍其外不忍其內,焉用之?”阜曰:“數月於外,一旦於是,庸何傷?賈而欲贏,而惡囂乎?”阜謂叔孫曰:“可以出矣!”叔孫指楹曰:“雖惡是,其可去乎?”乃出見之。

天子は劉定公を遣わして潁水の辺で趙孟を労い、洛汭に館した。劉子は言った、「美しいかな禹の功、明德は遠し!禹なくば、吾ら其れ魚とならん!吾と子は弁冕端委を以て民を治め諸侯に臨むは、禹の力なり。子は盍ぞ亦遠く禹の功を績し、大いに民を庇わざるや?」対えて言った、「老夫は罪戾を惧れるのみ、焉んぞ能く遠きを恤えん?吾侪は偷食し、朝に夕を謀らず、何その長きや?」劉子は帰り、王に語って言った、「諺に謂う、老いて将に知あらんとして耄及ぶとは、其れ趙孟の謂いか!晋の正卿と為り、以て諸侯を主とするに、隷人に侪し、朝に夕を謀らず、神人を棄つ。神怒り民叛かば、何を以て能く久しからん?趙孟は年を復せず。神怒れば、その祀を歆かず。民叛かば、その事に即かず。祀事従わず、また何を以て年とせん?」叔孫が帰ると、曾夭は季孫のために御してこれを労った。旦より日中に及ぶも出ず。曾夭は曾阜に言った、「旦より日中に及ぶ。吾は罪を知りました。魯は相い忍ぶを以て国と為す。外を忍びて内を忍ばず、焉んぞこれを用いん?」阜は言った、「数月外にあり、一旦ここにあり。庸い何をか傷えん?賈して嬴を欲し、囂を悪まんや?」阜は叔孫に言った、「出る可きなり!」叔孫は楹を指して言った、「是を悪むと雖も、其れ去る可けんや?」乃ち出でてこれを見た。

鄭徐吾犯之妹美,公孫楚聘之矣,公孫黑又使強委禽焉。犯懼,告子產。子產曰:“是國無政,非子之患也。唯所欲與。”犯請於二子,請使女擇焉。皆許之,子皙盛飾入,布幣而出。子南戎服入。左右射,超乘而出。女自房觀之,曰:“子皙信美矣,抑子南夫也。夫夫婦婦,所謂順也。”適子南氏。子皙怒,既而櫜甲以見子南,欲殺之而取其妻。子南知之,執戈逐之。及沖,擊之以戈。子皙傷而歸,告大夫曰:“我好見之,不知其有異志也,故傷。”

鄭の徐吾犯の妹は美しかった。公孫楚がすでに聘し、公孫黑はまた人をして強いて禽を委せしめた。犯は懼れ、子産に告げた。子産は言った、「これ国に政なきなり。子の患に非ず。唯だ欲する所に与え」犯は二子に請い、女をして擇ばしめんことを請うた。皆これを許し、子皙は盛飾して入り、币を布いて出た。子南は戎服して入り、左右に射て、超乗して出た。女は房よりこれを観て言った、「子皙は信に美しきなり。抑々子南は夫なり。夫々婦々とは、謂う所の順なり」子南氏に適いた。子皙は怒り、既にして甲を櫜て以て子南を見んとし、これを殺してその妻を取らんと欲した。子南はこれを知り、戈を執りてこれを逐い、衝に及び、戈を以てこれを撃った。子皙は傷を負いて帰り、大夫に告げて言った、「我は好くこれを見たが、その異志あるを知らず、故に傷ついた」

大夫皆謀之。子產曰:“直鈞,幼賤有罪。罪在楚也。”乃執子南而數之,曰:“國之大節有五,女皆奸之:畏君之威,聽其政,尊其貴,事其長,養其親。

大夫は皆これを謀った。子産は言った、「直鈞なり。幼賤なる者に罪あり。罪は楚に在り」乃ち子南を執えてこれを数えて言った、「国の大節に五あり。女は皆これを奸す:君の威を畏れ、その政を聴き、その貴を尊び、その長を事え、その親を養うなり。

五者所以為國也。今君在國,女用兵焉,不畏威也。奸國之紀,不聽政也。子皙,上大夫,女,嬖大夫,而弗下之,不尊貴也。幼而不忌,不事長也。兵其從兄,不養親也。君曰:‘餘不女忍殺,宥女以遠。’勉,速行乎,無重而罪!”五月庚辰,鄭放遊楚於吳,將行子南,子產諮於大叔。大叔曰:“吉不能亢身,焉能亢宗?彼,國政也,非私難也。子圖鄭國,利則行之,又何疑焉?周公殺管叔而蔡蔡叔,夫豈不愛?王室故也。吉若獲戾,子將行之,何有於諸遊?”秦後子有寵於桓,如二君於景。其母曰:“弗去,懼選。”癸卯,針適晉,其車千乘。書曰:“秦伯之弟針出奔晉。”罪秦伯也。後子享晉侯,造舟於河,十里舍車,自雍及絳。歸取酬幣,終事八反。司馬侯問焉,曰:“子之車,盡於此而已乎?”對曰:“此之謂多矣!若能少此,吾何以得見?”女叔齊以告公,且曰:“秦公子必歸。臣聞君子能知其過,必有令圖。令圖,天所贊也。”

この五は、以て国を立つるなり。今、君は国に在り、女は兵器を用う。是れ威を畏れざるなり。国の法紀を犯す。是れ政を聴かざるなり。子皙は上大夫、女は嬖大夫、而も下に居らず。是れ貴を尊ばざるなり。幼くして忌まず。是れ長を事えざるなり。従兄に兵器を動かす。是れ親を養わざるなり。君は曰わく、『我は女を殺すに忍びず。女を遠きに宥せん』と。勉めよ、速やかに行け、女の罪を重ねること勿れ!」五月庚辰、鄭は游楚を呉に放逐した。子南将に行かんとす。子産は大叔に諮った。大叔は言った、「吉は自らを庇う能わず、焉んぞ能く宗族を庇わん?それ国政なり、私家の災に非ず。子は鄭国を謀り、利あれば行い、また何を疑わん?周公は管叔を殺し蔡叔を放ち、豈に愛せざらんや?王室の為なり。吉もし罪を獲ば、子は将に行わんとす。諸游氏に何ぞ?」秦の后子は桓公に寵せられ、景公の時、二君のごとし。その母は言った、「去らざれば、放逐を恐れん」と。癸卯、鍼は晋に適き、車千乗。《春秋》に書して曰く「秦伯之弟鍼出奔晋」、罪を秦伯に帰す。后子は晋侯を享し、河上に舟を連ねて橋と為し、十里ごとに車を置き、雍より絳に至る。酬币を取りに帰り、事毕わりて往反八たびす。司馬侯はこれに問うて言った、「子の車は、尽くここに在りや?」対えて言った、「これを多しと謂う!もし此より少なき能わば、我は何を以て見えん?」女叔斉は公に告げ、且つ言った、「秦の公子は必ず帰らん。臣聞く、君子は能く己の過を知れば、必ず良き謀あり。良き謀は、天の賛する所なり」

後子見趙孟。趙孟曰:“吾子其曷歸?”對曰:“針懼選於寡君,是以在此,將待嗣君。”趙孟曰:“秦君何如?”對曰:“無道。”趙孟曰:“亡乎?”對曰:“何為?一世無道,國未艾也。國於天地,有與立焉。不數世淫,弗能斃也。”趙孟曰:“天乎?”對曰:“有焉。”趙孟曰:“其幾何?”對曰:“針聞之,國無道而年穀和熟,天贊之也。鮮不五稔。”趙孟視蔭,曰:“朝夕不相及,誰能待五?”後子出,而告人曰:“趙孟將死矣。主民,玩歲而愒日,其與幾何?”鄭為遊楚亂故,六月丁巳,鄭伯及其大夫盟於公孫段氏,罕虎、公孫僑、公孫段、印段、遊吉、駟帶私盟於閨門之外,實薰隧。公孫黑強與於盟,使大史書其名,且曰七子。子產弗討。

后子は趙孟を見た。趙孟は言った、「吾子はいつ帰らん?」対えて言った、「鍼は寡君に放逐を恐れ、以て此に在り。嗣君を待たん」趙孟は言った、「秦君は何如?」対えて言った、「無道」趙孟は言った、「亡ぶか?」対えて言った、「何をか?一世無道なりと雖も、国は未だ殞に至らず。国は天地の間に立つに、与に立つる者有り。幾世か淫泆せざれば、毙る能わず」趙孟は言った、「天か?」対えて言った、「有り」趙孟は言った、「幾何ぞ?」対えて言った、「鍼聞く、国無道にして年谷和熟せば、天の賛する所なり。鮮しと五年に至らざるはなし」趙孟は日影を視て言った、「朝夕相い及ばず、誰か五年を待たん?」后子は出でて人に告げて言った、「趙孟は将に死なん。民を主として歳を玩び日を愒く、能く幾何ぞ?」鄭は游楚の乱の故を以て、六月丁巳、鄭伯はその大夫と公孫段氏に盟し、罕虎・公孫僑・公孫段・印段・游吉・駟帯は閨門外に私盟す。実は薰隧なり。公孫黑は強いて盟に与り、太史をして其名を書せしめ、且つ七子と曰わしむ。子産は討たず。

晉中行穆子敗無終及群狄於大原,崇卒也。將戰,魏舒曰:“彼徒我車,所遇又厄,以什共車必克。困諸厄,又克。請皆卒,自我始。”乃毀車以為行,五乘為三伍。荀吳之嬖人不肯即卒,斬以徇。為五陳以相離,兩於前,伍於後,專為右角,參為左角,偏為前拒,以誘之。翟人笑之。未陳而薄之,大敗之。

晋の中行穆子は大原で無終及び群狄を破った。歩卒を崇ぶなり。将に戦わんとし、魏舒は言った、「彼らは徒、我は車、所遇はまた隘なり。什を以て共に一車に当たれば、必ず克たん。隘に困めば、また克たん。皆徒と為らんことを請う。舒より始めん」乃ち車を毁りて行と為し、五乗を三伍と為す。荀呉の嬖人は歩卒に肯んぜず、以て徇に斬る。五陣を為りて以て相い離る、両を前に為し、伍を後に為し、専を右角と為し、参を左角と為し、偏を以て前拒と為し、以てこれを誘う。狄人はこれを笑う。未だ陳せざるにこれに迫り、大いにこれを敗る。

莒展輿立,而奪群公子秩。公子召去疾於齊。秋,齊公子鉏納去疾,展輿奔吳。

莒の展輿が即位し、群公子の禄を奪う。公子は斉より去疾を召す。秋、斉の公子鉏は去疾を送りて莒に入れ、展輿は呉に出奔した。

叔弓帥師疆鄆田,因莒亂也。於是莒務婁、瞀胡及公子滅明以大厖與常儀靡奔齊。君子曰:“莒展之不立,棄人也夫!人可棄乎?《詩》曰:‘無競維人。’善矣。”

叔弓は師を帥て鄆田を疆す。莒の乱に因るなり。是の時、莒の務婁・瞀胡及び公子滅明は大厖と常儀靡を以て斉に出奔した。君子は曰わく、「莒展は立つ能わず。人を棄てばなり!人は棄て可けんや?《詩》に曰わく、『強きことは人に競うのみ』と。善いかな」

晉侯有疾,鄭伯使公孫僑如晉聘,且問疾。叔向問焉,曰:“寡君之疾病,卜人曰:‘實沈、臺駘為祟。’史莫之知,敢問此何神也?”子產曰:“昔高辛氏有二子,伯曰閼伯,季曰實沈,居於曠林,不相能也。日尋干戈,以相征討。

晋侯に疾あり。鄭伯は公孫僑をして晋に聘せしめ、且つ疾を問わしむ。叔向はこれに問うて曰わく、「寡君の疾、卜人曰わく、『実沈・台駘の崇なり』と。史官は知る者莫し。敢えて問う、此れ何の神ぞや?」子産曰わく、「昔、高辛氏に二子有り。伯は闕伯と曰い、季は実沈と曰い、曠林に居りて能く相いす。日に干戈を尋ねて以て相い征討す。

后帝不臧,遷閼伯於商丘,主辰。商人是因,故辰為商星。遷實沈於大夏,主參。

后帝は臧ならざるを以て、闕伯を商丘に遷し、辰を主らしむ。商人はこれに因り、故に辰は商星と為る。実沈を大夏に遷し、参を主らしむ。

唐人是因,以服事夏、商。其季世曰唐叔虞。當武王邑姜方震大叔,夢帝謂己:‘餘命而子曰虞,將與之唐,屬諸參,而蕃育其子孫。’及生,有文在其手曰:‘虞’,遂以命之。及成王滅唐而封大叔焉,故參為晉星。由是觀之,則實沈,參神也。昔金天氏有裔子曰昧,為玄冥師,生允格、臺駘。臺駘能業其官,宣汾、洮,障大澤,以處大原。帝用嘉之,封諸汾川。沈、姒、蓐、黃,實守其祀。今晉主汾而滅之矣。由是觀之,則臺駘,汾神也。抑此二者,不及君身。山川之神,則水旱癘疫之災,於是乎禜之。日月星辰之神,則雪霜風雨之不時,於是乎禜之。

唐人はこれに因り、以て夏・商に事服す。その季世は唐叔虞と曰わく。武王の邑姜、方に大叔を娠むに当たり、帝、己に謂うを夢みて曰わく、『余、命じて而子を虞と曰わしめ、唐を与え、参に属し、その蕃息を殖さん』と。生まれて文有りて手に在りて「虞」なり。遂に以てこれを命ず。成王が唐を滅して大叔をこれに封ずるに及び、故に参は晋星なり。是より以て之を觀れば、則ち実沈は参神なり。昔、金天氏に裔子有りて昧と曰い、玄冥師と為り、允格・台駘を生む。台駘は能くその官を継ぎ、汾・洮を宣め、大沢を障して以て大原に処る。帝はこれを嘉びて、汾川に封ず。沈・姒・蓐・黄は実にその祀を守る。今、晋は汾を主とし而もこれを滅ぼす。是より以て之を觀れば、則ち台駘は汾神なり。抑々此の二者は、君の身に及ばず。山川の神は、則ち水旱癘疫の災、於是乎これを禜す。日月星辰の神は、則ち雪霜風雨の時ならざる、於是乎これを禜す。

若君身,則亦出入飲食哀樂之事也,山川星辰之神,又何為焉”?僑聞之,君子有四時:朝以聽政,晝以訪問,夕以修令,夜以安身。於是乎節宣其氣,勿使有所壅閉湫底,以露其體。茲心不爽,而昏亂百度。今無乃壹之,則生疾矣。僑又聞之,內官不及同姓,其生不殖,美先盡矣,則相生疾,君子是以惡之。故《志》曰:‘買妾不知其姓,則卜之。’違此二者,古之所慎也。男女辨姓,禮之大司也。今君內實有四姬焉,其無乃是也乎?若由是二者,弗可為也已。四姬有省猶可,無則必生疾矣。”叔向曰:“善哉!肸未之聞也。此皆然矣。”

君の身に若きは、亦た出入飲食哀楽の事のみ。山川星辰の神は、又何をか為さん?」僑聞く、君子に四時有り:朝に以て政を聴き、昼に以て訪問し、夕に以て令を修め、夜に以て身を安んず。於是乎節宣して其の気を節宣し、壅閉湫底して以て露其の体せしめず。兹の心不爽ならざれば、而も昏乱百度。今は乃ち壹に生まんや。僑又聞く、内官に同姓有るは及ばざるなり。其の生は殖たらざるなり。美は先づ尽きて、則ち相い以て疾を生ず。君子は是の故にこれを惡む。故に《志》に曰わく、『妾を買うて其の姓を知らざれば、これを卜せ』と。此の二を違るは、古之慎む所なり。男女は姓を辨ず、礼の大司なり。今、君王の内には実に四姫有り。其れ是の故なるのみ。若し此の二を由とせば、已に可為す無きなり。四姫は省きて猶ほ可なり。省かざれば必ず疾を生ぜん」叔向曰わく、「善いかな!肸は未だ之を聞かず。皆然なり」

叔向出,行人揮送之。叔向問鄭故焉,且問子皙。對曰:“其與幾何?無禮而好陵人,怙富而卑其上,弗能久矣。”

叔向出づ。行人揮、之を送る。叔向は鄭の事を問い、且つ子皙を問う。對えて曰わく、「其れ幾何ぞ?礼無くして人を陵駕し、富に怙りて上に卑し。能く久しからず」

晉侯聞子產之言,曰:“博物君子也。”重賄之。

晋侯は子産の言を聞いて曰わく、「博物の君子なり」重ねて之を賄う。

晉侯求醫於秦。秦伯使醫和視之,曰:“疾不可為也。是謂:‘近女室,疾如蠱。非鬼非食,惑以喪志。良巨將死,天命不佑’”公曰:“女不可近乎?”對曰:“節之。先王之樂,所以節百事也。故有五節,遲速本末以相及,中聲以降,五降之後,不容彈矣。於是有煩手淫聲,慆堙心耳,乃忘平和,君子弗德也。物亦如之,至於煩,乃舍也已,無以生疾。君子之近琴瑟,以儀節也,非以慆心也。天有六氣,降生五味,發為五色,徵為五聲,淫生六疾。六氣曰陰、陽、風、雨、晦、明也。分為四時,序為五節,過則為災。陰淫寒疾,陽淫熱疾,風淫末疾,雨淫腹疾,晦淫惑疾,明淫心疾。女,陽物而晦時,淫則生內熱惑蠱之疾。今君不節不時,能無及此乎?”出,告趙孟。趙孟曰:“誰當良臣?”對曰:“主是謂矣!主相晉國,於今八年,晉國無亂,諸侯無闕,可謂良矣。和聞之,國之大臣,榮其寵祿,任其寵節,有災禍興而無改焉,必受其咎。今君至於淫以生疾,將不能圖恤社稷,禍孰大焉!主不能御,吾是以雲也。”趙孟曰:“何謂蠱”對曰:“淫溺惑亂之所生也。於文,皿蟲為蠱。谷之飛亦為蠱。在《周易》,女惑男,風落山,謂之《蠱》ⅶⅳ。皆同物也。”趙孟曰:“良醫也。”厚其禮歸之。

晋侯は秦に医を求む。秦伯は医和をして之を視せしむ。曰わく、「疾は治すべからず。是れを謂う、『女室に近く、疾は蠱の如し。鬼に非ず食に非ず、惑して以て志を喪す。良臣将に死せんとす。天命は祐けず』」公曰わく、「女は近づくべからざるか?」對えて曰わく、「これを節せよ。先王の楽は、以て百の事を節す。故に五節有り、遅速本末は相い以て及び、中声以て降、五降の後、弾くを容れず。於是乎煩手淫声有り、慆堙心耳して以て平和を忘れ、君子は聴かず。物も亦た此の如し。煩に至れば舍れ、以て疾を生ぜしむる勿れ。君子の琴瑟に近きは、以て儀節を為すなり、以て心を慆らしむるに非ず。天に六気有り、降生して五昧を為し、発して五色と為り、徵して五声と為す。淫して六疾を生ず。六気は曰く陰・陽・風・雨・晦・明なり。分かれて四時と為り、序を為して五節と為り、過ぎれば則ち災と為る。陰淫は寒疾、陽淫は熱疾、風淫は末疾、雨淫は腹疾、晦淫は惑疾、明淫は心疾。女は陽物にして晦時なり。淫せば則ち内熱惑蠱の疾を生ず。今、君は節せず時ならず、能く此に及ばざらんや?」出でて趙孟に告ぐ。趙孟曰わく、「誰か良臣に当たる?」對えて曰わく、「主君の謂いなり!主君は晋に相し、於今八年、晋に乱無く、諸侯に闕無し。良と謂う可し。和聞く、国の大臣は、その寵祿に栄え、大節を任う。禍笛有りて兴起し而も改めざれば、必ず其の咎を受く。今、君王は淫に至りて以て病を為す。将に社稷を図恤する能わざらんとす。禍、孰れか大きなる?主君は能くこれを御ぐることなし。吾は是を以て云うなり」趙孟曰わく、「何をか蠱と謂う?」對えて曰わく、「淫溺惑乱の生ずる所なり。文に於ては、皿虫を蠱と為す。穀の飛ぶも亦た蠱と為す。《周易》に於ては、女は男を惑わし、風は山を落とす。之を《蠱》と謂う。皆同物なり」趙孟曰わく、「良医なり」その礼を厚くして之を帰す。

楚公子圍使公子黑肱、伯州犁城犨、櫟、郟,鄭人懼。子產曰:“不害。令尹將行大事,而先除二子也。禍不及鄭,何患焉?”冬,楚公子圍將聘於鄭,伍舉為介。未出竟,聞王有疾而還。伍舉遂聘。十一月己酉,公子圍至,入問王疾,縊而弒之。遂殺其二子幕及平夏。右尹子幹出奔晉。宮廄尹子皙出奔鄭。殺大宰伯州犁於郟。葬王於郟,謂之郟敖。使赴於鄭,伍舉問應為後之辭焉。對曰:“寡大夫圍。”伍舉更之曰:“共王之子圍為長。”

楚の公子囲は公子黑肱・伯州犁を遣わして犨・櫟・郟を城せしむ。鄭人は懼れた。子産曰わく、「害無し。令尹は将に大事を行わんとして、先づ此の二臣を除き、害れん。患わざらん。何をか患えん?」冬、楚の公子囲は将に鄭に聘せんとす。伍挙、之が介と為る。未だ竟を出ざるに、王に疾有りと聞こえて還る。伍挙は遂に聘す。十一月己酉、公子囲至り、入りて王疾を問い、縊して之を弑す。遂に其二子幕及び平夏を殺す。右尹子干は晋に出奔。宮厩尹子皙は鄭に出奔。太宰伯州犁を郟に殺す。王を郟に葬る。郟敖と謂う。使いをして鄭に赴せしむ。伍挙は後の為の辞を問う。對えて曰わく、「寡大夫囲」伍挙は更めて曰わく、「共王の子囲が長なり」

子幹奔晉,從車五乘。叔向使與秦公子同食,皆百人之餼。趙文子曰:“秦公子富。”叔向曰:“厎祿以德,德鈞以年,年同以尊。公子以國,不聞以富。

子干は晋に奔る。従車五乘。叔向は之を秦公子と同じく食祿せしむ。皆百の餼なり。趙文子曰わく、「秦公子は富なり」叔向曰わく、「祿を底るは徳を以てし、徳は鈞にして年を以てし、年同じくば尊を以てす。公子は国を以てす。未だ富を以てするを聞かざるなり。

且夫以千乘去其國,強御已甚。《詩》曰:‘不侮鰥寡,不畏強禦。’秦、楚,匹也。”使後子與子幹齒。辭曰:“針懼選,楚公子不獲,是以皆來,亦唯命。

且つ夫れ千乗を以て其の国を去るは、強甚なり。《詩》曰わく、『鰥寡を侮らず、強御を畏れず』と。秦・楚は匹なり」后子をして子干と並び立せしむ。辞して曰わく、「鍼は逐を懼れ、楚公子は寵を獲ず。故に皆来れり。固に唯だ命を聴くのみ。

且臣與羈齒,無乃不可乎?史佚有言曰:‘非羈何忌?’”楚靈王即位,薳罷為令尹,薳啟強為大宰。鄭遊吉如楚,葬郟敖,且聘立君。

且つ臣をして羈人と並ばしめんか?其の不可なるか!史佚有りて言有りて曰わく、『羈旅に非ざれば、何をか忌まん?』」楚霊王即位し、䓕罷を令尹と為し、䓕啓彊を太宰と為す。鄭の游吉は楚に如き、郟敖を葬り、且つ立君を聘する為なり。

歸,謂子產曰:“具行器矣!楚王汰侈而自說其事,必合諸侯。吾往無日矣。”

帰りて子産に言うて曰わく、「行具を具えよ。楚王は驕侈にして自ら其の事を說ばん。必ず諸侯を合さん。吾、往くこと日無幾し」

子產曰:“不數年,未能也。”

子産曰わく、「数年ならざれば、未だ能くする莫し」

十二月,晉既烝,趙孟適南陽,將會孟子餘。甲辰朔,烝於溫。庚戌,卒。

十二月、晋は既に烝す。趙孟は南陽に適き、将に孟子余を烝せんとす。甲辰朔、温に烝す。庚戌、卒す。

鄭伯如晉吊,及雍乃復。

鄭伯は晋に如き、雍に至りて乃ち復る。

◇昭公二年

◇昭公二年

【經】二年春,晉侯使韓起來聘。夏,叔弓如晉。秋,鄭殺其大夫公孫黑。

【経】二年春、晋侯は韓起をして聘せしむ。夏、叔弓は晋に如く。秋、鄭は其の大夫公孫黑を殺す。

冬,公如晉,至河乃復。季孫宿如晉。

冬、公は晋に如く、河に至りて乃ち復る。季孫宿は晋に如く。

【傳】二年春,晉侯使韓宣子來聘,且告為政而來見,禮也。觀書於大史氏,見《易》《象》與《魯春秋》,曰:“周禮盡在魯矣。吾乃今知周公之德,與周之所以王也。”公享之。季武子賦《綿》之卒章。韓子賦《角弓》。季武子拜,曰:“敢拜子之彌縫敝邑,寡君有望矣。”武子賦《節》之卒章。既享,宴於季氏,有嘉樹焉,宣子譽之。武子曰:“宿敢不封殖此樹,以無忘《角弓》。”遂賦《甘棠》。宣子曰:“起不堪也,無以及召公。”

【伝】二年春、晋侯は韓宣子をして聘せしめ、且つ政を為す為に告げて来りて見えた。礼なり。太史氏に於て書を観、《易》《象》と《魯春秋》を見て曰わく、「周礼は尽く魯に在り。吾は今乃ち周公の徳と、周の王たる所以を知る」と。公は之を享す。季武子は《綿》の卒章を賦す。韓子は《角弓》を賦す。季武子は拝して曰わく、「敢えて拝す、子の弊邑を弥縫せんことを。寡君に望み有り」と。武子は《節》の卒章を賦す。享ぜんが已りて、季氏に於て宴す。嘉木有り、宣子は之を誉む。武子曰わく、「宿、敢えて此の樹を殖えて《角弓》を忘れざらんことを怠らじ」と。遂に《甘棠》を賦す。宣子曰わく、「起は堪えず、召公に及ぶ者無し」

宣子遂如齊納幣。見子雅。子雅召子旗,使見宣子。宣子曰:“非保家之主也,不臣。”見子尾。子尾見強,宣子謂之如子旗。大夫多笑之,唯晏子信之,曰:“夫子,君子也。君子有信,其有以知之矣。”自齊聘於衛。衛侯享之,北宮文子賦《淇澳》。宣子賦《木瓜》。

宣子は遂に斉に如きて贄を致す。子雅を見る。子雅は子旗を召して宣子に見えしむ。宣子曰わく、「家を保つ主に非ず、臣の如し」子尾を見る。子尾は彊をして見えしむ。宣子は之を子旗の如しと言う。大夫は多く之を笑う。晏子のみ信じて曰わく、「夫子は君子なり。君子は信有りて以て知る有り」と。斉より衛に如きて聘す。衛侯は之を享す。北宮文子は《淇澳》を賦す。宣子は《木瓜》を賦す。

夏四月,韓須如齊逆女。齊陳無宇送女,致少姜。少姜有寵於晉侯,晉侯謂之少齊。謂陳無宇非卿,執諸中都。少姜為之請曰:“送從逆班,畏大國也,猶有所易,是以亂作。”

夏四月、韓須は斉に如きて逆女す。斉の陳無宇は女を致し、少姜を致す。少姜は晋侯に寵有り、晋侯は之を少斉と謂う。陳無宇を以て卿に非ずと為し、中都に於て之を執る。少姜は之が為に請うて曰わく、「送は逆の班に従うなり。大国を畏れるなり。猶ほ改易する所有り。以て釁を生ず」

叔弓聘於晉,報宣子也。晉侯使郊勞。辭曰:“寡君使弓來繼舊好,固曰:‘女無敢為賓!’徹命於執事,敝邑弘矣。敢辱郊使?請辭。”致館。辭曰:“寡君命下臣來繼舊好,好合使成,臣之祿也。敢辱大館?”叔向曰:“子叔子知禮哉!吾聞之曰:‘忠信,禮之器也。卑讓,禮之宗也。’辭不忘國,忠信也。

叔弓は晋に如きて聘す。宣子の役を報じるなり。晋侯は使いをして郊に於て之を労わしむ。辞して曰わく、「寡君は弓をして来りて旧好を嗣がしむ。固く曰わく、『女は敢えて賓客を為すなかれ』と。執事に命を徹すれば、弊邑は弘まらん。敢えて郊使を辱けんや?請う、辞せん」と。館に致す。辞して曰わく、「寡君は命じて下臣をして来りて旧好を嗣がしむ。好は合し使は成る。臣の福祿なり。敢えて大館を辱けんや?」叔向曰わく、「子叔子は礼を知れるかな!吾聞く、『忠信は礼の器なり。卑譲は礼の宗なり』と。辞は国を忘れず。忠信なり。

先國後己,卑讓也。《詩》曰:‘敬慎威儀,以近有德。’夫子近德矣。”

先ず国、後に身。卑譲なり。《詩》曰わく、『敬慎威儀、以て徳に近づく』と。夫子は徳に近づくなり」

秋,鄭公孫黑將作亂,欲去遊氏而代其位,傷疾作而不果。駟氏與諸大夫欲殺之。子產在鄙,聞之,懼弗及,乘遽而至。使吏數之,曰:“伯有之亂,以大國之事,而未爾討也。爾有亂心,無厭,國不女堪。專伐伯有,而罪一也。昆弟爭室,而罪二也。薰隧之盟,女矯君位,而罪三也。有死罪三,何以堪之?不速死,大刑將至。”再拜稽首,辭曰:“死在朝夕,無助天為虐。”子產曰:“人誰不死?兇人不終,命也。作凶事,為兇人。不助天,其助兇人乎?”請以印為褚師。子產曰:“印也若才,君將任之。不才,將朝夕從女。女罪之不恤,而又何請焉?不速死,司寇將至。”七月壬寅,縊。屍諸周氏之衢,加木焉。

秋、鄭の公孫黑は将に乱を作さんとし、游氏を去りて其の位に代わらんと欲し、傷疾作りて果たさず。駟氏と諸大夫は之を殺さんと欲す。子産は鄙に在り。之を聞き、及ばざるを懼れ、乗遽して至る。吏をして之を数責せしめて曰わく、「伯有の乱は、大国の役を以て、未だ女を討たず。女は乱心有り、餍足せず。国は女を堪えず。専ら伯有を伐つ、其の罪一なり。昆弟は室を争う、其の罪二なり。薰隧の盟、女は位を矯う、其の罪三なり。死罪三有り、何を以て之を堪えん?速やかに死せざれば、大刑将に加わらん」再拝稽首して辞して曰わく、「死は朝夕に在り。天を助けて虐を為す勿れ」子産曰わく、「人、誰か死せざる?凶人は終りを得ず。命なり。凶事を為すは則ち凶人なり。天を助けざれば、豈に凶人を助けんや?」印をして褚師たらしめんことを請う。子産曰わく、「印も若し才あらば、君将に用いん。才無くば、将に朝夕にして従わん。女の罪は恤えず、また何を請わん?速やかに死せざれば、司寇将至らん」七月壬寅、縊る。諸尸を周氏の衢に陳し、木を加えて罪を書す。

晉少姜卒。公如晉,及河。晉侯使士文伯來辭,曰:“非伉儷也。請君無辱!”公還,季孫宿遂致服焉。叔向言陳無宇於晉侯曰:“彼何罪?君使公族逆之,齊使上大夫送之。猶曰不共,君求以貪。國則不共,而執其使。君刑已頗,何以為盟主?且少姜有辭。”冬十月,陳無宇歸。

晋の少姜卒す。公は晋に如く、河に至る。晋侯は士文伯をして辞せしめて曰わく、「伉儷に非ず。請う、君辱むる勿れ」と。公は還り、季孫宿は遂に襚を致す。叔向は晋侯に陳無宇を為に言うて曰わく、「彼は何の罪か有る?君は公族を以て之を逆え、斉は上大夫を以て之を送る。猶ほ不敬と曰う。君の求むる已に過たり。己は不敬にして、使者を執る。君の刑は已に偏頗なり。何を以て盟主と為らん?且つ少姜に辞有り」冬十月、陳無宇は帰る。

十一月,鄭印段如晉吊。

十一月、鄭の印段は晋に如きて弔う。

◇昭公三年

◇昭公三年

【經】三年春王正月丁未,滕子原卒。夏,叔弓如滕。五月,葬滕成公。秋,小邾子來朝。八月,大雩。冬,大雨雹。北燕伯款出奔齊。

【経】三年春、王正月丁未、滕子原卒す。夏、叔弓は滕に如く。五月、滕成公を葬る。秋、小邾子來朝す。八月、大雩す。冬、大雨雹。北燕伯款、斉に出奔す。

【傳】三年春,王正月,鄭遊吉如晉,送少姜之葬。梁丙與張趯見之。梁丙曰:“甚矣哉!子之為此來也。”子大叔曰:“將得已乎?昔文、襄之霸也,其務不煩諸侯。令諸侯三歲而聘,五歲而朝,有事而會,不協而盟。君薨,大夫吊,卿共葬事。夫人,士吊,大夫送葬。足以昭禮命事謀闕而已,無加命矣。今嬖寵之喪,不敢擇位,而數於守適,唯懼獲戾,豈敢憚煩?少姜有寵而死,齊必繼室。

【伝】三年春、王正月、鄭の游吉は晋に如き、少姜の葬を送る。梁丙と張趯は之を見る。梁丙曰わく、「甚だしき哉!子之が為に此に来る」子大叔曰わく、「将に已むを得んや?昔、文・襄は伯を為りて、務は諸侯を煩わさず。令して諸侯に三歳に聘し五歳に朝せしめ、事有れば会し、協せざれば盟す。君薨ずれば大夫は弔い、卿は葬事を共す。夫人は士は弔い、大夫は送葬す。礼を昭かにし命を發し闕を謀るのみ。餘命無きなり。今、寵嬖の喪に、敢えて位を擇ばず、而も守適の數に數し、獲咎を恐るのみ。何ぞ敢えて煩を懼れん?少姜は寵有りて死す。斉は必ず繼室を送らん。

今茲吾又將來賀,不唯此行也。”張趯曰:“善哉!吾得聞此數也。然自今,子其無事矣。譬如火焉,火中,寒暑乃退。此其極也,能無退乎?晉將失諸侯,諸侯求煩不獲。”二大夫退。子大叔告人曰:“張趯有知,其猶在君子之後乎!”丁未,滕子原卒。同盟,故書名。

今兹、吾又將に賀せんとす。唯だ此の行のみに非ず」張趯曰わく、「善いかな!吾は此の禮數を聞くを得たり。然れども自今以後、子其れ事無からん。譬へば火の如し。火中すれば寒暑乃ち退く。此れ其の極なり。能く退かざらんや?晋將に諸侯を失わんとす。諸侯、煩を求めて得莫し」二大夫は退く。子大叔は人に告げて曰わく、「張趯は智有り。其れ猶ほ君子の後に在らん」丁未、滕子原卒す。同盟なり。故に《春秋》は名を書す。

齊侯使晏嬰請繼室於晉,曰:“寡君使嬰曰:‘寡人願事君,朝夕不倦,將奉質幣,以無失時,則國家多難,是以不獲。不腆先君之適,以備內官,焜耀寡人之望,則又無祿,早世殞命,寡人失望。君若不忘先君之好,惠顧齊國,辱收寡人,徼福於大公、丁公,照臨敝邑,鎮撫其社稷,則猶有先君之適及遺姑姊妹若而人。君若不棄敝邑,而辱使董振擇之,以備嬪嬙,寡人之望也。’”韓宣子使叔向對曰:“寡君之願也。寡君不能獨任其社稷之事,未有伉儷。在縗絰之中,是以未敢請。君有辱命,惠莫大焉。若惠顧敝邑,撫有晉國,賜之內主,豈唯寡君,舉群臣實受其貺。其自唐叔以下,實寵嘉之。”

齊侯は晏嬰をして晋に繼室を請はしめて曰わく、「寡君は嬰をして曰はしむ、『寡人は願わくは君王に事え、朝夕に倦まず、質幣を將て時を失はざらんとす。國家に難多し。是の故に能くせず。腆に非ざる先君之適、以て內官に充備し、焜耀して寡人之望、而も又福無く、不早して隕命す。寡人は望を失う。君王若し先君之好を忘れず、惠に顧みて齊國、辱めて寡人を收め、太公・丁公に福を求め、弊邑を照臨し、社稷を鎭撫せば、則ち猶ほ先君之適及び遺姑姊妹、若而人有り。君王若し弊邑を棄てず、辱めて使を振選せしめ、以て嬪嬙に充備せば、寡人之望なり』」韓宣子は叔向をして對へしめて曰わく、「寡君之願なり。寡君は能く獨り社稷之事に任うる能はず。未有伉儷。在縗絰之中、是を以て未だ敢えて請はず。君の辱命有り、惠莫大なり。若し惠に顧みて弊邑、撫有晋國、賜之内主せば、豈に唯だ寡君のみならん、舉群臣實受其貺。自唐叔以下、實寵嘉之」

既成昏,晏子受禮。叔向從之宴,相與語。叔向曰:“齊其何如?”晏子曰:“此季世也,吾弗知。齊其為陳氏矣!公棄其民,而歸於陳氏。齊舊四量,豆、區、釜、鍾。四升為豆,各自其四,以登於釜。釜十則鍾。陳氏三量,皆登一焉,鍾乃大矣。以家量貸,而以公量收之。山木如市,弗加於山。魚鹽蜃蛤,弗加於海。民參其力,二入於公,而衣食其一。公聚朽蠹,而三老凍餒。國之諸市,屨賤踴貴。民人痛疾,而或燠休之,其愛之如父母,而歸之如流水,欲無獲民,將焉闢之?箕伯、直柄、虞遂、伯戲,其相胡公、大姬,已在齊矣。”

既に成昏。晏子は禮を受く。叔向從りて宴、相與に語る。叔向曰わく、「齊其れ何如?」晏子曰わく、「此れ季世なり。吾は弗く知らず。齊其れ陳氏と為らん!公は其の民を棄て、而も陳氏に歸す。齊、舊に四量有り、豆・區・釜・鍾。四升を豆と為し、各自其四に登り、以て釜に至る。釜十則ち鍾。陳氏の三量は皆一を登せしむ。鍾乃ち大なり。以て家量貸し、而も以て公量收之。山木は市に如く、弗く加於山。魚鹽蜃蛤は弗く加於海。民は三其力と為り、二は公に入り、而も衣食は一に在り。公聚朽蠹すれども、而も三老は凍餒す。國之諸市は屨賤く踊貴し。民人痛疾すれども、或は之を燠休す。其れ之を愛すること父母の如く、而も歸すること流水の如し。欲して民を獲ざらん、將に之を避けん?箕伯・直柄・虞遂・伯戲、其れ胡公・大姬に相、已に齊に在り」

叔向曰:“然。雖吾公室,今亦季世也。戎馬不駕,卿無軍行,公乘無人,卒列無長。庶民罷敝,而宮室滋侈。道殣相望,而女富溢尤。民聞公命,如逃寇仇。欒、郤、胥、原、狐、續、慶、伯,降在皂隸。政在家門,民無所依,君日不悛,以樂慆憂。公室之卑,其何日之有?《讒鼎之銘》曰:‘昧旦丕顯,後世猶怠。’況日不悛,其能久乎?”宴子曰:“子將若何?”叔向曰:“晉之公族盡矣。肸聞之,公室將卑,其宗族枝葉先落,則公從之。肸之宗十一族,唯羊舌氏在而已。肸又無子。公室無度,幸而得死,豈其獲祀?”初,景公欲更晏子之宅,曰:“子之宅近市,湫隘囂塵,不可以居,請更諸爽塏者。”辭曰:“君之先臣容焉,臣不足以嗣之,於臣侈矣。且小人近市,朝夕得所求,小人之利也。敢煩裡旅?”公笑曰:“子近市,識貴賤乎?”對曰:“既利之,敢不識乎?”公曰:“何貴何賤?”於是景公繁於刑,有鬻踴者。故對曰:“踴貴屨賤。”既已告於君,故與叔向語而稱之。景公為是省於刑。君子曰:“仁人之言,其利博哉。晏子一言而齊侯省刑。《詩》曰:‘君子如祉,亂庶遄已。’其是之謂乎!”及宴子如晉,公更其宅,反,則成矣。既拜,乃毀之,而為裡室,皆如其舊。

叔向曰わく、「然り。雖か吾公室、今も亦季世なり。戎馬は駕せず、卿は軍行無し、公乘は無人、卒列は無長。庶民は罷敝し、而も宮室は滋えに侈。道殣は相望れども、而も女富は溢尤。民は公命を聞くに寇仇を逃るるが如し。欒・郤・胥・原・狐・續・慶・伯は皂隸に降る。政は在家門、民は依る所無し。君は日に悛まず、以て樂は慆を慆す。公室之卑、其れ何日之有?《讒鼎之銘》曰わく、『昧旦丕顯、後世猶ほ怠』と。況や日に悛まず、其れ能く久しからん?」晏子曰わく、「子將に何をか為さん?」叔向曰わく、「晋之公族は盡す。肸聞く、公室將に卑まらんとすれば、其の宗族枝葉は先づ落ち、則ち公之に從う。肸之宗十一族、唯だ羊舌氏在る而已。肸又無子。公室は無度、幸而も死を獲、豈に獲祀せん?」初、景公、晏子之宅を更へんと欲して曰わく、「子之宅は市に近く、湫隘囂塵、以て居る可からず。請う、諸爽塏に更へん」辞して曰わく、「君之先臣、容焉。臣は以て嗣ぐに足らず。於臣侈なり。且つ小人は市に近く、朝夕は所求を得。小人之利なり。敢えて里旅を煩はさん?」公笑うて曰わく、「子は市に近く、貴賤を識り乎?」對えて曰わく、「既に以て利と為せば、敢えて識らざらん?」公曰わく、「何が貴く何が賤?」是の時、景公は刑に繁く、鬻踊之者有り。故に對えて曰わく、「踊貴く屨賤し」已に君を告げたり。故に叔向と語りて之を言う。景公、是の故に刑罰を省く。君子曰わく、「仁人之言、其れ利溥い哉。晏子の一言にして齊侯は刑を省く。《詩》曰わく、『君子如祉、亂庶遄已』と。斯之謂乎!」及び晏子が晋に如く、公、其の宅を更う。反れば則ち成る。既に拜す。乃ち毀り、而も為里室、皆その旧の如し。

則使宅人反之,曰:“諺曰:‘非宅是卜,唯鄰是卜。’二三子先卜鄰矣,違卜不祥。君子不犯非禮,小人不犯不祥,古之制也。吾敢違諸乎?”卒復其舊宅。

則ち宅之人をして反らしめて曰わく、「諺曰わく、『非宅是卜、唯鄰是卜』と。二三子は先づ鄰を卜せり。卜に違れば不祥。君子は非禮を犯さず、小人は不祥を犯さず。古之制なり。吾敢えて諸に違わん?」卒に其の舊宅を復す。

公弗許,因陳桓子以請,乃許之。

公は許さず。因りて陳桓子に請い、乃ち許之。

夏四月,鄭伯如晉,公孫段相,甚敬而卑,禮無違者。晉侯嘉焉,授之以策,曰:“子豐有勞於晉國,餘聞而弗忘。賜女州田,以胙乃舊勳。”伯石再拜稽首,受策以出。君子曰:“禮,其人之急也乎!伯石之汰也,一為禮於晉,猶荷其祿,況以禮終始乎?《詩》曰:‘人而無禮,胡不遄死?’其是之謂乎!”初,州縣,欒豹之邑也。及欒氏亡,範宣子、趙文子、韓宣子皆欲之。文子曰:“溫,吾縣也。”二宣子曰:“自郤稱以別,三傳矣。晉之別縣不唯州,誰獲治之?”文子病之,乃舍之。二子曰:“吾不可以正議而自與也。”皆舍之。

夏四月、鄭伯は晋に如く。公孫段は相、甚だ敬而卑、禮無違者。晋侯は嘉び、之に策を授けて曰わく、「子豐は勞於晋國、余聞いて弗く忘れ。賜女州田、以て胙乃舊勳」伯石は再拝稽首し、策を受けて以て出。君子曰わく、「禮、其れ人之急乎!伯石之汰も、壹爲禮於晋、猶ほ荷其祿。況以禮終始者乎!《詩》曰わく、『人而無禮、胡不遄死』と。其れ是之謂乎!」初、州縣は欒豹之邑。及欒氏亡、范宣子・趙文子・韓宣子皆欲之。文子曰わく、「温は吾縣也」二宣子曰わく、「自郤稱以別、三傳矣。晋之別縣不唯州、誰獲治之?」文子病之、乃舍之。二子曰わく、「吾不可以正議而自與也」皆舍之。

及文子為政,趙獲曰:“可以取州矣。”文子曰:“退!二子之言,義也。違義,禍也。餘不能治餘縣,又焉用州?其以徼禍也?君子曰:‘弗知實難。’知而弗從,禍莫大焉。有言州必死。”

及文子爲政、趙獲曰わく、「可以取州矣」文子曰わく、「退!二子之言、義也。違義、禍也。余不能治余縣、又焉用州?其以徼禍也?君子曰わく、『弗知實難』。知而弗從、禍莫大焉。有言州必死」

豐氏故主韓氏,伯石之獲州也,韓宣子為請之,為其復取之之故。

豐氏故主韓氏。伯石之獲州也、韓宣子爲之請之、爲其復取之故。

五月,叔弓如滕,葬滕成公,子服椒為介。及郊,遇懿伯之忌,敬子不入。

五月、叔弓如滕、葬滕成公、子服椒爲介。及郊、遇懿伯之忌、敬子不入。

惠伯曰:“公事有公利,無私忌,椒請先入。”乃先受館。敬子從之。

惠伯曰わく、「公事有公利、無私忌。椒請先入」乃先受館。敬子從之。

晉韓起如齊逆女。公孫蠆為少姜之有寵也,以其子更公女而嫁公子。人謂宣子:“子尾欺晉,晉胡受之?”宣子曰:“我欲得齊而遠其寵,寵將來乎?”秋七月,鄭罕虎如晉,賀夫人,且告曰:“楚人日徵敝邑,以不朝立王之故。

晋韓起如齊逆女。公孫蠆以少姜之有寵也、以其子更公女而嫁公子。人謂宣子曰わく、「子尾欺晋、晋胡受之?」宣子曰わく、「我欲得齊而遠其寵、寵將來乎?」秋七月、鄭罕虎如晋、賀夫人、且告曰わく、「楚人日徵敝邑、以不朝立王之故。

敝邑之往,則畏執事,其謂寡君‘而固有外心。’其不往,則宋之盟雲。進退罪也。寡君使虎布之。”宣子使叔向對曰:“君若辱有寡君,在楚何害?修宋盟也。

敝邑往、則懼執事其謂寡君『而固有外心』。其不往、則宋之盟云。進退維罪。寡君使虎布之」宣子使叔向對曰わく、「君若辱有寡君、在楚何害?修宋盟也。

君苟思盟,寡君乃知免於戾矣。君若不有寡君,雖朝夕辱於敝邑,寡君猜焉。君實有心,何辱命焉?君其往也!苟有寡君,在楚猶在晉也。”

君苟思盟、寡君乃知免於戾矣。君若不有寡君、雖朝夕辱於敝邑、寡君猜焉。君實有心、何辱命焉?君其往也!苟有寡君、在楚猶在晋也」

張趯使謂大叔曰:“自子之歸也,小人糞除先人之敝廬,曰子其將來。今子皮實來,小人失望。”大叔曰:“吉賤,不獲來,畏大國,尊夫人也。且孟曰:‘而將無事。’吉庶幾焉。”

張趯使人謂大叔曰わく、「自子之歸也、小人糞除先人之敝廬、曰子其將來。今子皮實來、小人失望」大叔曰わく、「吉賤、不獲來、畏大國、尊夫人也。且孟曰『而將無事』、吉庶幾焉」

小邾穆公來朝。季武子欲卑之,穆叔曰:“不可。曹、滕、二邾,實不忘我好,敬以逆之,猶懼其貳。又卑一睦,焉逆群好也?其如舊而加敬焉!《志》曰:‘能敬無災。’又曰:‘敬逆來者,天所福也。’”季孫從之。

小邾穆公來朝。季武子欲卑諸。穆叔曰わく、「不可。曹・滕・二邾實不忘我好、敬以逆之、猶懼其貳。又卑一睦、焉逆羣好?其如舊而加敬焉!《志》曰わく、『能敬無災』。又曰わく、『敬逆來者、天所福也』」季孫從之。

八月,大雩,旱也。

八月、大雩、旱也。

齊侯田於莒,盧蒲弊見,泣且請曰:“餘發如此種種,餘奚能為?”公曰:“諾,吾告二子。”歸而告之。子尾欲復之,子雅不可,曰:“彼其發短而心甚長,其或寢處我矣。”九月,子雅放盧蒲弊於北燕。

齊侯田於莒、盧蒲弊見、泣且請曰わく、「余髮如此種種、余奚能爲?」公曰わく、「諾、吾告二子」歸而告之。子尾欲復之、子雅不可、曰わく、「彼其髮短而心甚長、其或寢處我矣」九月、子雅放盧蒲弊於北燕。

燕簡公多嬖寵,欲去諸大夫而立其寵人。冬,燕大夫比以殺公之外嬖。公懼,奔齊。書曰:“北燕伯款出奔齊。”罪之也。

燕簡公多嬖寵、欲去諸大夫而立其寵人。冬、燕大夫比以殺公之外嬖。公懼、奔齊。《春秋》書曰「北燕伯款出奔齊」、罪之也。

十月,鄭伯如楚,子產相。楚子享之,賦《吉日》。既享,子產乃具田備,王以田江南之夢。

十月、鄭伯如楚、子産相。楚子享之、賦《吉日》。既享、子産乃具田備、王以田江南之夢。

齊公孫灶卒。司馬灶見晏子,曰:“又喪子雅矣。”晏子曰:“惜也!子旗不免,殆哉!姜族弱矣,而媯將始昌。二惠競爽,猶可,又弱一個焉,姜其危哉!”

齊公孫竈卒。司馬竈見晏子、曰わく、「又喪子雅矣」晏子曰わく、「惜也!子旗不免、殆哉!姜族弱矣、而嬀將始昌。二惠競爽猶可、又弱一个焉、姜其危哉!」

◇昭公四年

◇昭公四年

【經】四年春王正月,大雨雹。夏,楚子、蔡侯、陳侯、鄭伯、許男、徐子、滕子、頓子、鬍子、沈子、小邾子、宋世子佐、淮夷會於申。楚子執徐子。秋七月,楚子、蔡侯、陳侯、許男、頓子、鬍子、沈子、淮夷伐吳,執齊慶封,殺之。

【経】四年春王正月、大雨雹。夏、楚子・蔡侯・陳侯・鄭伯・許男・徐子・滕子・頓子・胡子・沈子・小邾子・宋世子佐・淮夷會於申。楚子執徐子。秋七月、楚子・蔡侯・陳侯・許男・頓子・胡子・沈子・淮夷伐呉、執齊慶封、殺之。

遂滅賴。九月,取鄫。冬十有二月乙卯,叔孫豹卒。

遂滅賴。九月、取鄫。冬十有二月乙卯、叔孫豹卒。

【傳】四年春,王正月,許男如楚,楚子止之,遂止鄭伯,復田江南,許男與焉。使椒舉如晉求諸侯,二君待之。椒舉致命曰:“寡君使舉曰:‘日君有惠,賜盟於宋,曰:晉、楚之從,交相見也。以歲之不易,寡人願結歡於二三君。’使舉請間。君若苟無四方之虞,則願假寵以請於諸侯。”

【伝】四年春王正月、許男如楚、楚子止之、遂止鄭伯、復田江南、許男與焉。使椒舉如晋求諸侯、二君待之。椒舉致命曰わく、「寡君使舉曰わく、『日君有惠、賜盟于宋、曰:晋・楚之從交相見也。以歲之不易、寡人願結驩於二三君』。使舉請間。君若苟無四方之虞、則願假寵以請於諸侯」

晉侯欲勿許。司馬侯曰:“不可。楚王方侈,天或者欲逞其心,以厚其毒而降之罰,未可知也。其使能終,亦未可知也。晉、楚唯天所相,不可與爭。君其許之,而修德以待其歸。若歸於德,吾猶將事之,況諸侯乎?若適淫虐,楚將棄之,吾又誰與爭?”曰:“晉有三不殆,其何敵之有?國險而多馬,齊、楚多難。

晋侯欲勿許。司馬侯曰わく、「不可。楚王方侈、天或者欲逞其心、以厚其毒而降之罰、未可知也。其使能終、亦未可知也。晋・楚唯天所相、不可與爭。君其許之、而修德以待其歸。若歸於德、吾猶將事之、况諸侯乎?若適淫虐、楚將棄之、吾又誰與爭?」曰わく、「晋有三不殆、其何敵之有?國險而多馬、齊・楚多難。

有是三者,何鄉而不濟?”對曰:“恃險與馬,而虞鄰國之難,是三殆也。四嶽、三塗、陽城、大室、荊山、中南,九州之險也,是不一姓。冀之北土,馬之所生,無興國焉。恃險與馬,不可以為固也,從古以然。是以先王務修德音以亨神人,不聞其務險與馬也。鄰國之難,不可虞也。或多難以固其國,啟其疆土;或無難以喪其國,失其守宇。若何虞難?齊有仲孫之難而獲桓公,至今賴之。晉有裡、丕之難而獲文公,是以為盟主。衛、邢無難,敵亦喪之。故人之難,不可虞也。

有是三者、何鄉而不濟?」對曰わく、「恃險與馬、而虞鄰國之難、是三殆也。四嶽・三塗・陽城・太室・荆山・中南、九州之險也、是不一姓。冀之北土、馬之所生、無興國焉。恃險與馬、不可以爲固也、從古以然。是以先王務修德音以亨神人、不聞其務險與馬也。鄰國之難、不可虞也。或多難以固其國、啓其疆土;或無難以喪其國、失其守宇。若何虞難?齊有仲孫之難而獲桓公、至今賴之。晋有里・丕之難而獲文公、是以爲盟主。衛・邢無難、敵亦喪之。故人之難、不可虞也。

恃此三者,而不修政德,亡於不暇,又何能濟?君其許之!紂作淫虐,文王惠和,殷是以隕,周是以興,夫豈爭諸侯?”乃許楚使。使叔向對曰:“寡君有社稷之事,是以不獲春秋時見。諸侯,君實有之,何辱命焉?”椒舉遂請昏,晉侯許之。

恃此三者、而不修政德、亡於不暇、又何能濟?君其許之!紂作淫虐、文王惠和、殷是以隕、周是以興、夫豈爭諸侯?」乃許楚使。使叔向對曰わく、「寡君有社稷之事、是以不獲春秋時見。諸侯、君實有之、何辱命焉?」椒舉遂請昏、晋侯許之。

楚子問於子產曰:“晉其許我諸侯乎?”對曰:“許君。晉君少安,不在諸侯。其大夫多求,莫匡其君。在宋之盟,又曰如一,若不許君,將焉用之?”王曰:“諸侯其來乎?”對曰:“必來。從宋之盟,承君之歡,不畏大國,何故不來?不來者,其魯、衛、曹、邾乎?曹畏宋,邾畏魯,魯、衛逼於齊而親於晉,唯是不來。其餘,君之所及也,誰敢不至?”王曰:“然則吾所求者,無不可乎?”對曰:“求逞於人,不可;與人同欲,盡濟。”

楚子問於子産曰わく、「晋其許我諸侯乎?」對曰わく、「許君。晋君少安、不在諸侯。其大夫多求、莫匡其君。在宋之盟、又曰如一、若不許君、將焉用之?」王曰わく、「諸侯其來乎?」對曰わく、「必來。從宋之盟、承君之歡、不畏大國、何故不來?不來者、其魯・衛・曹・邾乎?曹畏宋、邾畏魯、魯・衛偪於齊而親於晋、唯是不來。其餘、君之所及也、誰敢不至?」王曰わく、「然則吾所求者、無不可乎?」對曰わく、「求逞於人、不可;與人同欲、盡濟」

大雨雹。季武子問於申豐曰:“雹可御乎?”對曰:“聖人在上,無雹,雖有,不為災。古者,日在北陸而藏冰;西陸,朝覿而出之。其藏冰也,深山窮谷,固陰冱寒,於是乎取之。其出之也,朝之祿位,賓食喪祭,於是乎用之。其藏之也,黑牲、秬黍,以享司寒。其出之也,桃弧、棘矢,以除其災。其出入也時。

大雨雹。季武子は申豊に問うて曰わく、「雹は禦ぐ可きか?」對えて曰わく、「聖人上に在れば雹無し。有りと雖も災を為さず。古は日在北陸にして氷を蔵し、西陸にして朝観して出す。其の蔵する也、深山窮谷、固陰冱寒、於是乎取る。其の出す也、朝の祿位、賓食喪祭、於是乎用う。其の蔵する也、黒牡・秬黍、以て司寒を享す。其の出す也、桃弧・棘矢、以て其の災を除く。其の出入も時なり。

食肉之祿,冰皆與焉。大夫命婦,喪浴用冰。祭寒而藏之,獻羔而啟之,公始用之。火出而畢賦。自命夫、命婦,至於老疾,無不受冰。山人取之,縣人傳之,輿人納之,隸人藏之。夫冰以風壯,而以風出。其藏之也周,其用之也遍,則冬無愆陽,夏無伏陰,春無悽風,秋無苦雨,雷不出震,無災霜雹,癘疾不降,民不夭札。今藏川池之冰,棄而不用。風不越而殺,雷不發而震。雹之為災,誰能御之?《七月》之卒章,藏冰之道也。”

食肉之祿有るは、氷皆與る。大夫命婦は、喪浴に氷を用う。寒を祭りて而後に藏め、羔を獻じて而後に啓き、公始めて用う。火出でて而後に畢わる。自命夫・命婦至于老疾、氷を受けざる無し。山人は取り、縣人は傳え、輿人は納め、隸人は藏む。夫の氷は風窮にして壯なり、以て風因りて出す。其の藏める也周密、其の用う也徧なれば、則ち冬無愆陽、夏無伏陰、春無凄風、秋無苦雨、雷出不震、無災霜雹、癘疾不降、民不夭札。今、川池之氷を藏めて棄而も用いず。風は越せず殺し、雷は不發にして震す。雹之為災、誰能禦之?《七月》之卒章、藏冰之道也」

夏,諸侯如楚,魯、衛、曹、邾不會。曹、邾辭以難,公辭以時祭,衛侯辭以疾。鄭伯先待於申。六月丙午,楚子合諸侯於申。椒舉言於楚子曰:“臣聞諸侯無歸,禮以為歸。今君始得諸侯,其慎禮矣。霸之濟否,在此會也。夏啟有鈞臺之享,商湯有景亳之命,周武有孟津之誓,成有岐陽之搜,康有酆宮之朝,穆有塗山之會,齊桓有召陵之師,晉文有踐土之盟。君其何用?宋向戌、鄭公孫僑在,諸侯之良也,君其選焉。”王曰:“吾用齊桓。”王使問禮於左師與子產。

夏、諸侯は楚に如く。魯・衛・曹・邾は會に辭す。曹・邾は難を以て辭し、公は時祭を以て辭し、衛侯は疾を以て辭す。鄭伯は先づ申に待つ。六月丙午、楚子は申に於て諸侯を會す。椒舉は楚子に言うて曰わく、「臣聞く、諸侯は無歸、禮を以て歸と為す。今、君始めて諸侯を得。其れ禮を慎め。霸與否は、在此會也。夏啓は鈞臺之享、商湯は景亳之命、周武は孟津之誓、成は岐陽之蒐、康は酆宮之朝、穆是塗山之會、齊桓是召陵之師、晋文是踐土之盟。君其何用?宋向戌・鄭公孫僑在、諸侯之良也、君其選焉」王曰わく、「吾用齊桓」王は使いをして左師與子産に禮を問はしむ。

左師曰:“小國習之,大國用之,敢不薦聞?”獻公合諸侯之禮六。子產曰:“小國共職,敢不薦守?”獻伯、子、男會公之禮六。君子謂合左師善守先代,子產善相小國。王使椒舉侍於後,以規過。卒事,不規。王問其故,對曰:“禮,吾所未見者有六焉,又何以規?”宋大子佐後至,王田於武城,久而弗見。椒舉請辭焉。王使往,曰:“屬有宗祧之事於武城,寡君將墮幣焉,敢謝後見。”

左師曰わく、「小國は習し、大國は用う。敢えて所聞を獻ぜざらん?」公會諸侯之禮六を獻す。子産曰わく、「小國は共職、敢えて所守を獻ぜざらん?」伯・子・男會公之禮六を獻す。君子以て合左師は善く先代を守り、子産は善く小國を相すとす。王は椒舉を侍せしめて以て糾過す。卒事、糾無し。王問其故。對曰わく、「禮、吾所未見者六焉、又何以糾?」宋太子佐後至。王田於武城、久而弗見。椒舉請辭焉。王使往、曰わく、「屬有宗祧之事於武城、寡君將墮幣焉、敢謝後見」

徐子,吳出也,以為貳焉,故執諸申。

徐子は呉出也、以て貳焉。故執諸申。

楚子示諸侯侈,椒舉曰:“夫六王二公之事,皆所以示諸侯禮也,諸侯所由用命也。夏桀為仍之會,有緍叛之。商紂為黎之蒐,東夷叛之。周幽為大室之盟,戎狄叛之。皆所以示諸侯汰也,諸侯所由棄命也。今君以汰,無乃不濟乎?”王弗聽。

楚子示諸侯侈。椒舉曰わく、「夫六王二公之事、皆所以示諸侯禮也、諸侯所由用命也。夏桀為仍之會、有緡叛之。商紂為黎之蒐、東夷叛之。周幽為大室之盟、戎狄叛之。皆所以示諸侯汰也、諸侯所由棄命也。今君以汰、無乃不濟乎?」王弗聽。

子產見左師曰:“吾不患楚矣,汰而愎諫,不過十年。”左師曰:“然。不十年侈,其惡不遠,遠惡而後棄。善亦如之,德遠而後興。”

子産見左師曰わく、「吾不患楚矣、汰而愎諫、不過十年」左師曰わく、「然。不十年侈、其惡不遠、遠惡而後棄。善亦如之、德遠而後興」

秋七月,楚子以諸侯伐吳。宋大子、鄭伯先歸。宋華費遂、鄭大夫從。使屈申圍朱方,八月甲申,克之。執齊慶封而盡滅其族。將戮慶封。椒舉曰:“臣聞無瑕者可以戮人。慶封唯逆命,是以在此,其肯從於戮乎?播於諸侯,焉用之?”王弗聽,負之斧鉞,以徇於諸侯,使言曰:“無或如齊慶封,弒其君,弱其孤,以盟其大夫。”慶封曰:“無或如楚共王之庶子圍,弒其君、兄之子麇而代之,以盟諸侯。”王使速殺之。

秋七月、楚子以諸侯伐呉。宋太子・鄭伯先歸。宋華費遂・鄭大夫從。使屈申圍朱方、八月甲申、克之。執齊慶封而盡滅其族。將戮慶封。椒舉曰わく、「臣聞無瑕者可以戮人。慶封唯逆命、是以在此、其肯從於戮乎?播於諸侯、焉用之?」王弗聽、負之斧鉞、以徇於諸侯、使言曰わく、「無或如齊慶封、弑其君、弱其孤、以盟其大夫」慶封曰わく、「無或如楚共王之庶子圍、弑其君兄之子麇而代之、以盟諸侯」王使速殺之。

遂以諸侯滅賴。賴子面縛銜璧,士袒,輿櫬從之,造於中軍。王問諸椒舉,對曰:“成王克許,許僖公如是,王親釋其縛,受其璧,焚其櫬。”王從之。遷賴於鄢。楚子欲遷許於賴,使鬥韋龜與公子棄疾城之而還。申無宇曰:“楚禍之首,將在此矣。召諸侯而來,伐國而克,城竟莫校。王心不違,民其居乎?民之不處,其誰堪之?不堪王命,乃禍亂也。”

遂以諸侯滅賴。賴子面縛銜璧、士袒、轝櫬從之、造於中軍。王問諸椒舉、對曰わく、「成王克許、許僖公如是、王親釋其縛、受其璧、焚其櫬」王從之。遷賴於鄢。楚子欲遷許於賴、使鬬韋龜與公子棄疾城之而還。申無宇曰わく、「楚禍之首、將在此矣。召諸侯而來、伐國而克、城竟莫校。王心不違、民其居乎?民之不處、其誰堪之?不堪王命、乃禍亂也」

九月,取鄫,言易也。莒亂,著丘公立而不撫鄫,鄫叛而來,故曰取。

九月、取鄫、言易也。莒亂、著丘公立而不撫鄫、鄫叛而來、故曰取。

凡克邑不用師徒曰取。

凡克邑不用師徒曰取。

鄭子產作丘賦。國人謗之,曰:“其父死於路,己為蠆尾。以令於國,國將若之何?”子寬以告。子產曰:“何害?苟利社稷,死生以之。且吾聞為善者不改其度,故能有濟也。民不可逞,度不可改。《詩》曰:‘禮義不愆,何恤於人言。’吾不遷矣。渾罕曰:“國氏其先亡乎!君子作法於涼,其敝猶貪。作法於貪,敝將若之何?姬在列者,蔡及曹、滕其先亡乎!逼而無禮。鄭先衛亡,逼而無法。政不率法,而制於心。民各有心,何上之有?”冬,吳伐楚,入棘、櫟、麻,以報朱方之役。楚沈尹射奔命於夏汭,鹹尹宜咎城鍾離,薳啟強城巢,然丹城州來。東國水,不可以城。彭生罷賴之師。

鄭子産作丘賦。國人謗之、曰わく、「其父死於路、己為蠆尾。以令於國、國將若之何?」子寬以告。子産曰わく、「何害?苟利社稷、死生以之。且吾聞為善者不改其度、故能有濟也。民不可逞、度不可改。《詩》曰わく、『禮義不愆、何恤於人言』。吾不遷矣」渾罕曰わく、「國氏其先亡乎!君子作法於涼、其敝猶貪。作法於貪、敝將若之何?姬在列者、蔡及曹・滕其先亡乎!偪而無禮。鄭先衛亡、偪而無法。政不率法、而制於心。民各有心、何上之有?」冬、呉伐楚、入棘・櫟・麻、以報朱方之役。楚沈尹射奔命於夏汭、咸尹宜咎城鍾離、䓕啓彊城巢、然丹城州來。東國水、不可以城。彭生罷賴之師。

初,穆子去叔孫氏,及庚宗,遇婦人,使私為食而宿焉。問其行,告之故,哭而送之。適齊,娶於國氏,生孟丙、仲壬。夢天壓己,弗勝。顧而見人,黑而上僂,深目而豭喙。號之曰:“牛!助餘!”乃勝之。旦而皆召其徒,無之。且曰:“志之。”及宣伯奔齊,饋之。宣伯曰:“魯以先子之故,將存吾宗,必召女。召女,何如?”對曰:“願之久矣。”魯人召之,不告而歸。既立,所宿庚宗之婦人,獻以雉。問其姓,對曰:“餘子長矣,能奉雉而從我矣。”召而見之,則所夢也。未問其名,號之曰:“牛!”曰:“唯”。皆召其徒,使視之,遂使為豎。有寵,長使為政。公孫明知叔孫於齊,歸,未逆國姜,子明取之。故怒,其子長而後使逆之。田於丘蕕,遂遇疾焉。豎牛欲亂其室而有之,強與孟盟,不可。叔孫為孟鍾,曰:“爾未際,饗大夫以落之。”既具,使豎牛請日。入,弗謁。出,命之日。及賓至,聞鐘聲。牛曰:“孟有北婦人之客。”怒,將往,牛止之。賓出,使拘而殺諸外,牛又強與仲盟,不可。仲與公御萊書觀於公,公與之環。使牛入示之。入,不示。出,命佩之。牛謂叔孫:“見仲而何?”叔孫曰:“何為?”曰:“不見,既自見矣。公與之環而佩之矣。”遂逐之,奔齊。疾急,命召仲,牛許而不召。

初、穆子去叔孫氏、及庚宗、遇婦人、使私為食而宿焉。問其行、告之故、哭而送之。適齊、娶於國氏、生孟丙・仲壬。夢天壓己、弗勝。顧而見人、黑而上僂、深目而豭喙。號之曰わく、「牛!助余!」乃勝之。旦而皆召其徒、無之。且曰わく、「志之」及宣伯奔齊、饋之。宣伯曰わく、「魯以先子之故、將存吾宗、必召女。召女、何如?」對曰わく、「願之久矣」魯人召之、不告而歸。既立、所宿庚宗之婦人獻以雉。問其子、對曰わく、「余子長矣、能奉雉而從我矣」召而見之、則所夢也。未問其名、號之曰「牛」、曰「唯」。皆召其徒使視之、遂使為豎。有寵、長使為政。公孫明知叔孫於齊、歸、未逆國姜、子明取之。故怒、其子長而後使逆之。田於丘蕕、遂遇疾焉。豎牛欲亂其室而有之、強與孟盟、不可。叔孫為孟鍾、曰わく、「爾未際、饗大夫以落之」既具、使豎牛請日。入、弗謁。出、命之日。及賓至、聞鍾聲。牛曰わく、「孟有北婦人之客」怒、將往、牛止之。賓出、使拘而殺諸外。牛又強與仲盟、不可。仲與公御萊書觀於公、公與之環。使牛入示之。入、不示。出、命佩之。牛謂叔孫曰わく、「見仲何如?」叔孫曰わく、「何為?」曰わく、「不見、既自見矣。公與之環而佩之矣」遂逐之、奔齊。疾急、命召仲、牛許而不召。

杜洩見,告之飢渴,授之戈。對曰:“求之而至,又何去焉?”豎牛曰:“夫子疾病,不欲見人。”使置饋於個而退。牛弗進,則置虛,命徹。十二月癸丑,叔孫不食。乙卯,卒。牛立昭子而相之。

杜洩見、告之飢渴、授之戈。對曰わく、「求之而至、又何去焉?」豎牛曰わく、「夫子疾病、不欲見人」使寘饋于个而退。牛弗進、則置虛、命徹。十二月癸丑、叔孫不食。乙卯、卒。牛立昭子而相之。

公使杜洩葬叔孫。豎牛賂叔仲昭子與南遺,使惡杜洩於季孫而去之。杜洩將以路葬,且盡卿禮。南遺謂季孫曰:“叔孫未乘路,葬焉用之?且冢卿無路,介卿以葬,不亦左乎?”季孫曰:“然。”使杜洩舍路。不可,曰:“夫子受命於朝,而聘於王。王思舊勳而賜之路。覆命而致之君,君不敢逆王命而復賜之,使三官書之。吾子為司徒,實書名。夫子為司馬,與工正書服。孟孫為司空,以書勳。今死而弗以,是棄君命也。書在公府而弗以,是廢三官也。若命服,生弗敢服,死又不以,將焉用之?”乃使以葬。

公使杜洩葬叔孫。豎牛賂叔仲昭子與南遺、使惡杜洩於季孫而去之。杜洩將以路葬、且盡卿禮。南遺謂季孫曰わく、「叔孫未乘路、葬焉用之?且冢卿無路、介卿以葬、不亦左乎?」季孫曰わく、「然」使杜洩舍路。不可、曰わく、「夫子受命於朝、而聘于王。王思舊勳而賜之路。復命而致之君、君不敢逆王命而復賜之、使三官書之。吾子為司徒、實書名。夫子為司馬、與工正書服。孟孫為司空、以書勳。今死而弗以、是棄君命也。書在公府而弗以、是廢三官也。若命服、生弗敢服、死又不以、將焉用之?」乃使以葬。

季孫謀去中軍。豎牛曰:“夫子固欲去之。”

季孫謀去中軍。豎牛曰わく、「夫子固欲去之」

◇昭公五年

◇昭公五年

【經】五年春王正月,舍中軍。楚殺其大夫屈申。公如晉。夏,莒牟夷以牟婁及防、茲來奔。秋七月,公至自晉。戊辰,叔弓帥師敗莒師於蚡泉。秦伯卒。

【経】五年春王正月、舍中軍。楚殺其大夫屈申。公如晋。夏、莒牟夷以牟婁及防・兹來奔。秋七月、公至自晋。戊辰、叔弓帥師敗莒師於蚡泉。秦伯卒。

冬,楚子、蔡侯、陳侯、許男、頓子、沈子、徐人、越人伐吳。

冬、楚子・蔡侯・陳侯・許男・頓子・沈子・徐人・越人伐呉。

【傳】五年春,王正月,舍中軍,卑公室也。毀中軍於施氏,成諸臧氏。初作中軍,三分公室而各有其一。季氏盡徵之,叔孫氏臣其子弟,孟氏取其半焉。

【伝】五年春王正月、舍中軍、卑公室也。毀中軍于施氏、成諸臧氏。初作中軍、三分公室而各有其一。季氏盡征之、叔孫氏臣其子弟、孟氏取其半焉。

及其舍之也,四分公室,季氏擇二,二子各一。皆盡徵之,而貢於公。以書。使杜洩告於殯,曰:“子固欲毀中軍,既毀之矣,故告。”杜洩曰:“夫子唯不欲毀也,故盟諸僖閎,詛諸五父之衢。”受其書而投之,帥士而哭之。叔仲子謂季孫曰:“帶受命於子叔孫曰:‘葬鮮者自西門。’”季孫命杜洩。杜洩曰:“卿喪自朝,魯禮也。吾子為國政,未改禮,而又遷之。群臣懼死,不敢自也。”既葬而行。

及其舍之也、四分公室、季氏擇二、二子各一。皆盡征之、而貢于公。以書。使杜洩告於殯、曰わく、「子固欲毀中軍、既毀之矣、故告」杜洩曰わく、「夫子唯不欲毀也、故盟諸僖閎、詛諸五父之衢」受其書而投之、帥士而哭之。叔仲子謂季孫曰わく、「帶受命於子叔孫曰わく、『葬鮮者自西門』」季孫命杜洩。杜洩曰わく、「卿喪自朝、魯禮也。吾子為國政、未改禮、而又遷之。群臣懼死、不敢自也」既葬而行。

仲至自齊,季孫欲立之。南遺曰:“叔孫氏厚則季氏薄。彼實家亂,子勿與知,不亦可乎?”南遺使國人助豎牛以攻諸大庫之庭。司宮射之,中目而死。豎牛取東鄙三十邑,以與南遺。

仲至自齊、季孫欲立之。南遺曰わく、「叔孫氏厚則季氏薄。彼實家亂、子勿與知、不亦可乎?」南遺使國人助豎牛以攻諸大庫之庭。司宮射之、中目而死。豎牛取東鄙三十邑、以與南遺。

昭子即位,朝其家眾,曰:“豎牛禍叔孫氏,使亂大從,殺適立庶,又披其邑,將以赦罪,罪莫大焉。必速殺之。”豎牛懼,奔齊。孟、仲之子殺諸塞關之外,投其首於寧風之棘上。

昭子即位、朝其家衆、曰わく、「豎牛禍叔孫氏、使亂大從、殺適立庶、又披其邑、將以赦罪、罪莫大焉。必速殺之」豎牛懼、奔齊。孟・仲之子殺諸塞關之外、投其首於寧風之棘上。

仲尼曰:“叔孫昭子之不勞,不可能也。周任有言曰:‘為政者不賞私勞,不罰私怨。’《詩》云:‘有覺德行,四國順之。’”初,穆子之生也,莊叔以《周易》筮之,遇《明夷》ⅱⅵ之《謙》ⅱⅶ,以示卜楚丘。曰:“是將行,而歸為子祀。以讒人入,其名曰牛,卒以餒死。《明夷》,日也。日之數十,故有十時,亦當十位。自王已下,其二為公,其三為卿。

仲尼曰わく、「叔孫昭子之不勞、不可能也。周任有言曰わく、『為政者不賞私勞、不罰私怨』。《詩》云、『有覺德行、四國順之』」初、穆子之生也、莊叔以《周易》筮之、遇《明夷》之《謙》、以示卜楚丘。曰わく、「是將行、而歸為子祀。以讒人入、其名曰牛、卒以餒死。《明夷》、日也。日之數十、故有十時、亦當十位。自王已下、其二為公、其三為卿。

日上其中,食日為二,旦日為三。《明夷》之《謙》,明而未融,其當旦乎,故曰:‘為子祀’。日之《謙》,當鳥,故曰‘明夷于飛’。明之未融,故曰‘垂其翼’。象日之動,故曰‘君子於行’。當三在旦,故曰‘三日不食’。《離》,火也。《艮》,山也。《離》為火,火焚山,山敗。於人為言,敗言為讒,故曰‘有攸往,主人有言’,言必讒也。純《離》為牛,世亂讒勝,勝將適《離》,故曰‘其名曰牛’。謙不足,飛不翔,垂不峻,翼不廣,故曰‘其為子後乎’。

日上其中、食日為二、旦日為三。《明夷》之《謙》、明而未融、其當旦乎、故曰『為子祀』。日之《謙》當鳥、故曰『明夷于飛』。明而未融、故曰『垂其翼』。象日之動、故曰『君子于行』。當三在旦、故曰『三日不食』。《離》、火也。《艮》、山也。《離》為火、火焚山、山敗。於人為言、敗言為讒、故曰『有攸往、主人有言』、言必讒也。純《離》為牛、世亂讒勝、勝將適《離》、故曰『其名曰牛』。謙不足、飛不翔、垂不峻、翼不廣、故曰『其為子後乎』。

吾子,亞卿也,抑少不終。”

吾子、亞卿也、抑少不終」

楚子以屈申為貳於吳,乃殺之。以屈生為莫敖,使與令尹子蕩如晉逆女。過鄭,鄭伯勞子蕩於汜,勞屈生於菟氏。晉侯送女於邢丘。子產相鄭伯,會晉侯於邢丘。

楚子以屈申為貳於呉、乃殺之。以屈生為莫敖、使與令尹子蕩如晋逆女。過鄭、鄭伯勞子蕩于汜、勞屈生于菟氏。晋侯送女于邢丘。子産相鄭伯會晋侯于邢丘。

公如晉,自郊勞至於贈賄,無失禮。晉侯謂女叔齊曰:“魯侯不亦善於禮乎?”對曰:“魯侯焉知禮?”公曰:“何為?自郊勞至於贈賄,禮無違者,何故不知?”對曰:“是儀也,不可謂禮。禮所以守其國,行其政令,無失其民者也。今政令在家,不能取也。有子家羈,弗能用也。奸大國之盟,陵虐小國。利人之難,不知其私。公室四分,民食於他。思莫在公,不圖其終。為國君,難將及身,不恤其所。禮之本末,將於此乎在,而屑屑焉習儀以亟。言善於禮,不亦遠乎?君子謂:“叔侯於是乎知禮。”

公如晋、自郊勞至于贈賄、無失禮。晋侯謂女叔齊曰わく、「魯侯不亦善於禮乎?」對曰わく、「魯侯焉知禮?」公曰わく、「何為?自郊勞至于贈賄、禮無違者、何故不知?」對曰わく、「是儀也、不可謂禮。禮所以守其國、行其政令、無失其民者也。今政令在家、不能取也。有子家羈、弗能用也。奸大國之盟、陵虐小國。利人之難、不知其私。公室四分、民食於他。思莫在公、不圖民終。為國君、難將及身、不恤其所。禮之本末將於此乎在、而屑屑焉習儀以亟。言善於禮、不亦遠乎?」君子謂、「叔侯於是乎知禮」

晉韓宣子如楚送女,叔向為介。鄭子皮、子大叔勞諸索氏。大叔謂叔向曰:“楚王汰侈已甚,子其戒之。”叔向曰:“汰侈已甚,身之災也,焉能及人?若奉吾幣帛,慎吾威儀,守之以信,行之以禮,敬始而思終,終無不復,從而不失儀,敬而不失威,道之以訓辭,奉之以舊法,考之以先王,度之以二國,雖汰侈,若我何?”及楚,楚子朝其大夫,曰:“晉,吾仇敵也。苟得志焉,無恤其他。今其來者,上卿、上大夫也。若吾以韓起為閽,以羊舌肸為司宮,足以辱晉,吾亦得志矣。可乎?”大夫莫對。薳啟強曰:“可。苟有其備,何故不可?恥匹夫不可以無備,況恥國乎?是以聖王務行禮,不求恥人,朝聘有珪,享覜有璋。小有述職,大有巡功。設機而不倚,爵盈而不飲;宴有好貨,飧有陪鼎,入有郊勞,出有贈賄,禮之至也。國家之敗,失之道也,則禍亂興。城濮之役,晉無楚備,以敗於邲。邲之役,楚無晉備,以敗於鄢。自鄢以來,晉不失備,而加之以禮,重之以睦,是以楚弗能報而求親焉。既獲姻親,又欲恥之,以召寇仇,備之若何?誰其重此?若有其人,恥之可也。若其未有,君亦圖之。晉之事君,臣曰可矣:求諸侯而麇至;求昏而薦女,君親送之,上卿及上大夫致之。猶欲恥之,君其亦有備矣。不然,奈何?韓起之下,趙成、中行吳、魏舒、範鞅、知盈;羊舌肸之下,祁午、張趯、籍談、女齊、梁丙、張骼、輔躒、苗賁皇,皆諸侯之選也。韓襄為公族大夫,韓須受命而使矣。箕襄、邢帶、叔禽、叔椒、子羽,皆大家也。

晋韓宣子如楚送女、叔向為介。鄭子皮・子大叔勞諸索氏。大叔謂叔向曰わく、「楚王汰侈已甚、子其戒之」叔向曰わく、「汰侈已甚、身之災也、焉能及人?若奉吾幣帛、慎吾威儀、守之以信、行之以禮、敬始而思終、終無不復、從而不失儀、敬而不失威、道之以訓辭、奉之以舊法、考之以先王、度之以二國、雖汰侈、若我何?」及楚、楚子朝其大夫、曰わく、「晋、吾仇敵也。苟得志焉、無恤其他。今其來者、上卿・上大夫也。若吾以韓起為閽、以羊舌肸為司宮、足以辱晋、吾亦得志矣。可乎?」大夫莫對。䓕啓彊曰わく、「可。苟有其備、何故不可?耻匹夫不可以無備、况耻國乎?是以聖王務行禮、不求耻人。朝聘有珪、享覜有璋。小有述職、大有巡功。設机而不倚、爵盈而不飲。宴有好貨、飱有陪鼎。入有郊勞、出有贈賄、禮之至也。國家之敗、失之道也、則禍亂興。城濮之役、晋無楚備、以敗於邲。邲之役、楚無晋備、以敗於鄢。自鄢以來、晋不失備、而加之以禮、重之以睦、是以楚弗能報而求親焉。既獲姻親、又欲耻之、以召寇讎、備之若何?誰其重此?若有其人、耻之可也。若其未有、君亦圖之。晋之事君、臣曰可矣:求諸侯而麇至、求昏而薦女、君親送之、上卿及上大夫致之。猶欲耻之、君其亦有備矣。不然、奈何?韓起之下、趙成・中行呉・魏舒・范鞅・知盈;羊舌肸之下、祁午・張趯・籍談・女齊・梁丙・張骼・輔躒・苗賁皇、皆諸侯之選也。韓襄為公族大夫、韓須受命而使矣。箕襄・邢帶・叔禽・叔椒・子羽、皆大家也。

韓賦七邑,皆成縣也。羊舌四族,皆強家也。晉人若喪韓起、楊肸,五卿八大夫輔韓須、楊石,因其十家九縣,長轂九百,其餘四十縣,遺守四千,奮其武怒,以報其大恥,伯華謀之,中行伯、魏舒帥之,其蔑不濟矣。君將以親易怨,實無禮以速寇,而未有其備,使群臣往遺之禽,以逞君心,何不可之有?”王曰:“不穀之過也,大夫無辱。”厚為韓子禮。王欲敖叔向以其所不知,而不能,亦厚其禮。

韓賦七邑、皆成縣也。羊舌四族、皆彊家也。晋人若喪韓起・楊肸、五卿八大夫輔韓須・楊石、因其十家九縣、長轂九百、其餘四十縣、遺守四千、奮其武怒、以報其大恥。伯華謀之、中行伯・魏舒帥之、其蔑不濟矣。君將以親易怨、實無禮以速寇、而未有其備、使群臣往遺之禽、以逞君心、何不可之有?」王曰わく、「不穀之過也、大夫無辱」厚為韓子禮。王欲敖叔向以其所不知、而不能、亦厚其禮。

韓起反,鄭伯勞諸圉。辭不敢見,禮也。

韓起反、鄭伯勞諸圉。辭不敢見、禮也。

鄭罕虎如齊,娶於子尾氏。晏子驟見之,陳桓子問其故,對曰:“能用善人,民之主也。”

鄭罕虎如齊、娶於子尾氏。晏子驟見之。陳桓子問其故、對曰わく、「能用善人、民之主也」

夏,莒牟夷以牟婁及防茲來奔。牟夷非卿而書,尊地也。莒人愬於晉。晉侯欲止公,範獻子曰:“不可。人朝而執之,誘也。討不以師,而誘以成之,惰也。

夏、莒牟夷以牟婁及防・兹來奔。牟夷非卿而書、尊地也。莒人愬於晋。晋侯欲止公、范獻子曰わく、「不可。人朝而執之、誘也。討不以師、而誘以成之、惰也。

為盟主而犯此二者,無乃不可乎?請歸之,間而以師討焉。”乃歸公。秋七月,公至自晉。

為盟主而犯此二者、無乃不可乎?請歸之、間而以師討焉」乃歸公。秋七月、公至自晋。

莒人來討,不設備。戊辰,叔弓敗諸蚡泉,莒未陳也。

莒人來討、不設備。戊辰、叔弓敗諸蚡泉、莒未陳也。

冬十月,楚子以諸侯及東夷伐吳,以報棘、櫟、麻之役。薳射以繁揚之師,會於夏汭。越大夫常壽過帥師會楚子於瑣。聞吳師出,薳啟強帥師從之,遽不設備,吳人敗諸鵲岸。

冬十月、楚子以諸侯及東夷伐呉、以報棘・櫟・麻之役。䓕射以繁揚之師會於夏汭。越大夫常壽過帥師會楚子于瑣。聞呉師出、䓕啓彊帥師從之、遽不設備、呉人敗諸鵲岸。

楚子以馹至於羅汭。吳子使其弟蹶由犒師,楚人執之,將以釁鼓。王使問焉,曰:“女卜來吉乎?”對曰:“吉。寡君聞君將治兵於敝邑,卜之以守龜,曰:‘餘亟使人犒師,請行以觀王怒之疾徐,而為之備,尚克知之。’龜兆告吉,曰:‘克可知也。’君若歡焉,好逆使臣,滋敝邑休殆,而忘其死,亡無日矣。今君奮焉,震電馮怒,虐執使臣,將以釁鼓,則吳知所備矣。敝邑雖羸,若早修完,其可以息師。難易有備,可謂吉矣。且吳社稷是卜,豈為一人?使臣獲釁軍鼓,而敝邑知備,以御不虞,其為吉孰大焉?國之守龜,其何事不卜?一臧一否,其誰能常之?城濮之兆,其報在邲。今此行也,其庸有報志?”乃弗殺。

楚子以馹至于羅汭。呉子使其弟蹶由犒師、楚人執之、將以釁鼓。王使問焉、曰わく、「女卜來吉乎?」對曰わく、「吉。寡君聞君將治兵於敝邑、卜之以守龜、曰わく、『余亟使人犒師、請行以觀王怒之疾徐、而為之備、尚克知之』。龜兆告吉、曰わく、『克可知也』。君若驩焉好逆使臣、滋敝邑休怠、而忘其死、亡無日矣。今君奮焉震電馮怒、虐執使臣、將以釁鼓、則呉知所備矣。敝邑雖羸、若早修完、其可以息師。難易有備、可謂吉矣。且呉社稷是卜、豈為一人?使臣獲釁軍鼓、而敝邑知備、以禦不虞、其為吉孰大焉?國之守龜、其何事不卜?一臧一否、其誰能常之?城濮之兆、其報在邲。今此行也、其庸有報志?」乃弗殺。

楚師濟於羅汭,沈尹赤會楚子,次於萊山。薳射帥繁揚之師,先入南懷,楚師從之。及汝清,吳不可入。楚子遂觀兵於坻箕之山。是行也,吳早設備,楚無功而還,以蹶由歸。楚子懼吳,使沈尹射待命於巢,薳啟強待命於雩婁,禮也。

楚師濟於羅汭、沈尹赤會楚子、次於萊山。䓕射帥繁揚之師先入南懷、楚師從之。及汝清、呉不可入。楚子遂觀兵於坻箕之山。是行也、呉早設備、楚無功而還、以蹶由歸。楚子懼呉、使沈尹射待命于巢、䓕啓彊待命于雩婁、禮也。

秦後子復歸於秦,景公卒故也。

秦后子復歸於秦、景公卒故也。

◇昭公六年

◇昭公六年

【經】六年春王正月,杞伯益姑卒。葬秦景公。夏,季孫宿如晉。葬杞文公。

【経】六年春王正月、杞伯益姑卒。秦景公を葬る。夏、季孫宿如晋。杞文公を葬る。

宋華合比出奔衛。秋九月,大雩。楚薳罷帥師伐吳。冬,叔弓如楚。齊侯伐北燕。

宋華合比出奔衛。秋九月、大雩。楚䓕罷帥師伐呉。冬、叔弓如楚。齊侯伐北燕。

【傳】六年春,王正月,杞文公卒,吊如同盟,禮也。大夫如秦,葬景公,禮也。

【伝】六年春王正月、杞文公卒、弔如同盟、禮也。大夫如秦、葬景公、禮也。

三月,鄭人鑄刑書。叔向使詒子產書,曰:“始吾有虞於子,今則已矣。昔先王議事以制,不為刑辟,懼民之有爭心也。猶不可禁御,是故閒之以義,糾之以政,行之以禮,守之以信,奉之以仁,製為祿位以勸其從,嚴斷刑罰以威其淫。

三月、鄭人鑄刑書。叔向使詒子産書曰わく、「始吾有虞於子、今則已矣。昔先王議事以制、不為刑辟、懼民之有爭心也。猶不可禁禦、是故閑之以義、糾之以政、行之以禮、守之以信、奉之以仁、制為祿位以勸其從、嚴斷刑罰以威其淫。

懼其未也,故誨之以忠,聳之以行,教之以務,使之以和,臨之以敬,蒞之以強,斷之以剛。猶求聖哲之上,明察之官,忠信之長,慈惠之師,民於是乎可任使也,而不生禍亂。民知有闢,則不忌於上,並有爭心,以徵於書,而徼倖以成之,弗可為矣。夏有亂政而作《禹刑》,商有亂政而作《湯刑》,周有亂政而作《九刑》,三辟之興,皆叔世也。今吾子相鄭國,作封洫,立謗政,制參闢,鑄刑書,將以靖民,不亦難乎?《詩》曰:‘儀式刑文王之德,日靖四方。’又曰:‘儀刑文王,萬邦作孚。’如是,何闢之有?民知爭端矣,將棄禮而徵於書。錐刀之末,將盡爭之。亂獄滋豐,賄賂並行,終子之世,鄭其敗乎!肸聞之,國將亡,必多制,其此之謂乎!”復書曰:“若吾子之言,僑不才,不能及子孫,吾以救世也。

懼其未也、故誨之以忠、聳之以行、教之以務、使之以和、臨之以敬、涖之以彊、斷之以剛。猶求聖哲之上、明察之官、忠信之長、慈惠之師、民於是乎可任使也、而不生禍亂。民知有辟、則不忌於上、並有爭心、以徵於書、而徼幸以成之、弗可為矣。夏有亂政而作《禹刑》、商有亂政而作《湯刑》、周有亂政而作《九刑》、三辟之興、皆叔世也。今吾子相鄭國、作封洫、立謗政、制參辟、鑄刑書、將以靖民、不亦難乎?《詩》曰わく、『儀式刑文王之德、日靖四方』。又曰わく、『儀刑文王、萬邦作孚』。如是、何辟之有?民知爭端矣、將棄禮而徵於書。錐刀之末、將盡爭之。亂獄滋豐、賄賂並行、終子之世、鄭其敗乎!肸聞之、國將亡、必多制、其此之謂乎!」復書曰わく、「若吾子之言、僑不才、不能及子孫、吾以救世也。

既不承命,敢忘大惠?”士文伯曰:“火見,鄭其火乎?火未出而作火以鑄刑器,藏爭闢焉。火如象之,不火何為?”夏,季孫宿如晉,拜莒田也。晉侯享之,有加籩。武子退,使行人告曰:“小國之事大國也,苟免於討,不敢求貺。得貺不過三獻。今豆有加,下臣弗堪,無乃戾也。”韓宣子曰:“寡君以為歡也。”對曰:“寡君猶未敢,況下臣,君之隸也,敢聞加貺?”固請徹加而後卒事。晉人以為知禮,重其好貨。

既不承命、敢忘大惠?」士文伯曰わく、「火見、鄭其火乎?火未出而作火以鑄刑器、藏爭辟焉。火如象之、不火何為?」夏、季孫宿如晋、拜莒田也。晋侯享之、有加籩。武子退、使行人告曰わく、「小國之事大國也、苟免於討、不敢求貺。得貺不過三獻。今豆有加、下臣弗堪、無乃戾也」韓宣子曰わく、「寡君以為驩也」對曰わく、「寡君猶未敢、况下臣、君之隸也、敢聞加貺?」固請徹加而後卒事。晋人以為知禮、重其好貨。

宋寺人柳有寵,大子佐惡之。華合比曰:“我殺之。”柳聞之,乃坎、用牲、埋書,而告公曰:“合比將納亡人之族,既盟於北郭矣。”公使視之,有焉,遂逐華合比,合比奔衛。於是華亥欲代右師,乃與寺人柳比,從為之徵,曰“聞之久矣。”公使代之,見於左師,左師曰:“女夫也。必亡!女喪而宗室,於人何有?人亦於女何有?《詩》曰:‘宗子維城,毋俾城壞,毋獨斯畏。’女其畏哉!”六月丙戌,鄭災。

宋寺人柳有寵、大子佐惡之。華合比曰わく、「我殺之」柳聞之、乃坎、用牲、埋書、而告公曰わく、「合比將納亡人之族、既盟于北郭矣」公使視之、有焉、遂逐華合比、合比奔衛。於是華亥欲代右師、乃與寺人柳比、從為之徵、曰聞之久矣。公使代之。見于左師、左師曰わく、「女夫也。必亡!女喪而宗室、於人何有?人亦於女何有?《詩》曰わく、『宗子維城、毋俾城壞、毋獨斯畏』。女其畏哉!」六月丙戌、鄭災。

楚公子棄疾如晉,報韓子也。過鄭,鄭罕虎、公孫僑、遊吉從鄭伯以勞諸柤。辭不敢見,固請見之,見,如見王,以其乘馬八匹私面。見子皮如上卿,以馬六匹。見子產,以馬四匹。見子大叔,以馬二匹。禁芻牧採樵,不入田,不樵樹,不採刈,不抽屋,不強匄。誓曰:“有犯命者,君子廢,小人降。”舍不為暴,主不慁賓。往來如是。鄭三卿皆知其將為王也。

楚公子棄疾如晋、報韓子也。過鄭、鄭罕虎・公孫僑・游吉從鄭伯以勞諸柤。辭不敢見、固請見之、見如見王、以其乘馬八匹私面。見子皮如上卿、以馬六匹。見子産、以馬四匹。見子大叔、以馬二匹。禁芻牧採樵、不入田、不樵樹、不采蓺、不抽屋、不強匄。誓曰わく、「有犯命者、君子廢、小人降」舍不為暴、主不慍賓。往來如是。鄭三卿皆知其將為王也。

韓宣子之適楚也,楚人弗逆。公子棄疾及晉竟,晉侯將亦弗逆。叔向曰:“楚闢我衷,若何效闢?《詩》曰:‘爾之教矣,民胥效矣。’從我而已,焉用效人之闢?《書》曰:‘聖作則。’無寧以善人為則,而則人之闢乎?匹夫為善,民猶則之,況國君乎?”晉侯說,乃逆之。

韓宣子之適楚也、楚人弗逆。公子棄疾及晋竟、晋侯將亦弗逆。叔向曰わく、「楚辟我衷、若何效辟?《詩》曰わく、『爾之教矣、民胥效矣』。從我而已、焉用效人之辟?《書》曰わく、『聖作則』。無寧以善人為則、而則人之辟乎?匹夫為善、民猶則之、况國君乎?」晋侯說、乃逆之。

秋九月,大雩,旱也。

秋九月、大雩、旱也。

徐儀楚聘於楚。楚子執之,逃歸。懼其叛也,使薳洩伐徐。吳人救之。令尹子蕩帥師伐吳,師於豫章,而次於乾溪。吳人敗其師於房鍾,獲宮廄尹棄疾。子蕩歸罪於薳洩而殺之。

徐儀楚聘于楚。楚子執之、逃歸。懼其叛也、使䓕泄伐徐。呉人救之。令尹子蕩帥師伐呉、師于豫章、而次于乾谿。呉人敗其師於房鍾、獲宮厩尹棄疾。子蕩歸罪於䓕泄而殺之。

冬,叔弓如楚聘,且吊敗也。

冬、叔弓如楚、聘且弔敗也。

十一月,齊侯如晉,請伐北燕也。士匄相士鞅,逆諸河,禮也。晉侯許之。

十一月、齊侯如晋、請伐北燕也。士匄相士鞅逆諸河、禮也。晋侯許之。

十二月,齊侯遂伐北燕,將納簡公。晏子曰:“不入。燕有君矣,民不貳。吾君賄,左右諂諛,作大事不以信,未嘗可也。”

十二月、齊侯遂伐北燕、將納簡公也。晏子曰わく、「不入。燕有君矣、民不貳。吾君賄、左右諂諛、作大事不以信、未嘗可也」

◇昭公七年

◇昭公七年

【經】七年春王正月,暨齊平。三月,公如楚。叔孫婼如齊蒞盟。夏四月甲辰朔,日有食之。秋八月戊辰,衛侯惡卒。九月,公至自楚。冬十有一月癸未,季孫宿卒。十有二月癸亥,葬衛襄公。

【経】七年春王正月、暨齊平。三月、公如楚。叔孫婼如齊涖盟。夏四月甲辰朔、日有食之。秋八月戊辰、衛侯惡卒。九月、公至自楚。冬十有一月癸未、季孫宿卒。十有二月癸亥、葬衛襄公。

【傳】七年春,王正月,暨齊平,齊求之也。癸巳,齊侯次於虢。燕人行成,曰:“敝邑知罪,敢不聽命?先君之敝器,請以謝罪。”公孫皙曰:“受服而退,俟釁而動,可也。”二月戊午,盟於濡上。燕人歸燕姬,賂以瑤甕、玉櫝、鬥耳,不克而還。

【伝】七年春王正月、暨齊平、齊求之也。癸巳、齊侯次于虢。燕人請成、曰わく、「敝邑知罪、敢不聽命?先君之敝器、請以謝罪」公孫皙曰わく、「受服而退、俟釁而動、可也」二月戊午、盟于濡上。燕人歸燕姬、賂以瑶罋・玉櫝・斝耳。不克而還。

楚子之為令尹也,為王旌以田。芋尹無宇斷之,曰:“一國兩君,其誰堪之?”及即位,為章華之宮,納亡人以實之。無宇之閽入焉。無宇執之,有司弗與,曰:“執人於王宮,其罪大矣。”執而謁諸王。王將飲酒,無宇辭曰:“天子經略,諸侯正封,古之制也。封略之內,何非君土?食土之毛,誰非君臣?故《詩》曰:‘普天之下,莫非王土。率土之濱,莫非王臣。’天有十日,人有十等,下所以事上,上所以共神也。故王臣公,公臣大夫,大夫臣士,士臣皂,皂臣輿,輿臣隸,隸臣僚,僚臣僕,僕臣臺。馬有圉,牛有牧,以待百事。今有司曰:‘女胡執人於王宮?’將焉執之?周文王之法曰:‘有亡,荒閱’,所以得天下也。吾先君文王,作僕區之法,曰:‘盜所隱器,與盜同罪’,所以封汝也。若從有司,是無所執逃臣也。逃而舍之,是無陪臺也。王事無乃闕乎?昔武王數紂之罪,以告諸侯曰:‘紂為天下逋逃主,萃淵藪’,故夫致死焉。君王始求諸侯而則紂,無乃不可乎?若以二文之法取之,盜有所在矣。”王曰:“取而臣以往,盜有寵,未可得也。”遂赦之。

楚子之為令尹也、為王旌以田。芋尹無宇斷之、曰わく、「一國兩君、其誰堪之?」及即位、為章華之宮、納亡人以實之。無宇之閽入焉。無宇執之、有司弗與、曰わく、「執人於王宮、其罪大矣」執而謁諸王。王將飲酒、無宇辭曰わく、「天子經略、諸侯正封、古之制也。封略之內、何非君土?食土之毛、誰非君臣?故《詩》曰わく、『普天之下、莫非王土。率土之濱、莫非王臣』。天有十日、人有十等、下所以事上、上所以共神也。故王臣公、公臣大夫、大夫臣士、士臣皂、皂臣輿、輿臣隸、隸臣僚、僚臣僕、僕臣臺。馬有圉、牛有牧、以待百事。今有司曰わく、『女胡執人於王宮?』將焉執之?周文王之法曰わく、『有亡荒閱』、所以得天下也。吾先君文王作僕區之法、曰わく、『盜所隱器、與盜同罪』、所以封汝也。若從有司、是無所執逃臣也。逃而舍之、是無陪臺也。王事無乃闕乎?昔武王數紂之罪以告諸侯曰わく、『紂為天下逋逃主、萃淵藪』、故夫致死焉。君王始求諸侯而則紂、無乃不可乎?若以二文之法取之、盜有所在矣」王曰わく、「取而臣以往。盜有寵、未可得也」遂赦之。

楚子成章華之臺,願與諸侯落之。大宰薳啟強曰:“臣能得魯侯。”薳啟強來召公,辭曰:“昔先君成公,命我先大夫嬰齊曰:‘吾不忘先君之好,將使衡父照臨楚國,鎮撫其社稷,以輯寧爾民’。嬰齊受命於蜀,奉承以來,弗敢失隕,而致諸宗祧。日我先君共王,引領北望,日月以冀。傳序相授,於今四王矣。嘉惠未至,唯襄公之辱臨我喪。孤與其二三臣,悼心失圖,社稷之不皇,況能懷思君德!今君若步玉趾,辱見寡君,寵靈楚國,以信蜀之役,致君之嘉惠,是寡君既受貺矣,何蜀之敢望?其先君鬼神,實嘉賴之,豈唯寡君?君若不來,使臣請問行期,寡君將承質幣而見於蜀,以請先君之貺。”

楚子成章華之臺、願與諸侯落之。大宰䓕啓彊曰わく、「臣能得魯侯」䓕啓彊來召公、辭曰わく、「昔先君成公、命我先大夫嬰齊曰わく、『吾不忘先君之好、將使衡父照臨楚國、鎮撫其社稷、以輯寧爾民』。嬰齊受命於蜀、奉承以來、弗敢失隕、而致諸宗祧。日我先君共王、引領北望、日月以冀。傳序相授、於今四王矣。嘉惠未至、唯襄公之辱臨我喪。孤與其二三臣、悼心失圖、社稷之不皇、况能懷思君德!今君若步玉趾、辱見寡君、寵靈楚國、以信蜀之役、致君之嘉惠、是寡君既受貺矣、何蜀之敢望?先君鬼神、實嘉賴之、豈唯寡君?君若不來、使臣請問行期、寡君將承質幣而見于蜀、以請先君之貺」

公將往,夢襄公祖。梓慎曰:“君不果行。襄公之適楚也,夢周公祖而行。

公將往、夢襄公祖。梓慎曰わく、「君不果行。襄公之適楚也、夢周公祖而行。

今襄公實祖,君其不行。”子服惠伯曰:“行。先君未嘗適楚,故周公祖以道之。

今襄公實祖、君其不行」子服惠伯曰わく、「行。先君未嘗適楚、故周公祖以道之。

襄公適楚矣,而祖以道君,不行,何之?”三月,公如楚,鄭伯勞於師之梁。孟僖子為介,不能相儀。及楚,不能答郊勞。

襄公適楚矣、而祖以道君、不行、何之?」三月、公如楚、鄭伯勞于師之梁。孟僖子為介、不能相儀。及楚、不能答郊勞。

夏四月甲辰朔,日有食之。晉侯問於士文伯曰:“誰將當日食?”對曰:“魯、衛惡之,衛大魯小。”公曰:“何故?”對曰:“去衛地,如魯地。於是有災,魯實受之。其大咎,其衛君乎?魯將上卿。”公曰:“《詩》所謂‘彼日而食,於何不臧’者,何也?”對曰:“不善政之謂也。國無政,不用善,則自取謫於日月之災,故政不可不慎也。務三而已,一曰擇人,二曰因民,三曰從時。”

夏四月甲辰朔、日有食之。晋侯問於士文伯曰わく、「誰將當日食?」對曰わく、「魯・衛惡之、衛大魯小」公曰わく、「何故?」對曰わく、「去衛地、如魯地、於是有災、魯實受之。其大咎、其衛君乎?魯將上卿」公曰わく、「《詩》所謂『彼日而食、于何不臧』者、何也?」對曰わく、「不善政之謂也。國無政、不用善、則自取謫于日月之災、故政不可不慎也。務三而已、一曰擇人、二曰因民、三曰從時」

晉人來治杞田,季孫將以成與之。謝息為孟孫守,不可。曰:“人有言曰:‘雖有挈瓶之知,守不假器,禮也’。夫子從君,而守臣喪邑,雖吾子亦有猜焉。”

晋人來治杞田、季孫將以成與之。謝息為孟孫守、不可、曰わく、「人有言曰わく、『雖有挈瓶之知、守不假器、禮也』。夫子從君、而守臣喪邑、雖吾子亦有猜焉」

季孫曰:“君之在楚,於晉罪也。又不聽晉,魯罪重矣。晉師必至,吾無以待之,不如與之,間晉而取諸杞。吾與子桃,成反,誰敢有之?是得二成也。魯無憂而孟孫益邑,子何病焉?”辭以無山,與之萊、柞,乃遷於桃。晉人為杞取成。

季孫曰わく、「君之在楚、於晋罪也。又不聽晋、魯罪重矣。晋師必至、吾無以待之、不如與之、間晋而取諸杞。吾與子桃、成反、誰敢有之?是得二成也。魯無憂而孟孫益邑、子何病焉?」辭以無山、與之萊柞、乃遷于桃。晋人為杞取成。

楚子享公於新臺,使長鬛者相,好以大屈。既而悔之。薳啟強聞之,見公。

楚子享公于新臺、使長鬣者相。好以大屈。既而悔之。䓕啓彊聞之、見公。

公語之,拜賀。公曰:“何賀?對曰:“齊與晉、越欲此久矣。寡君無適與也,而傳諸君,君其備禦三鄰。慎守寶矣,敢不賀乎?”公懼,乃反之。

公語之、拜賀。公曰わく、「何賀?」對曰わく、「齊與晋・越欲此久矣。寡君無適與也、而傳諸君。君其備禦三鄰、慎守寶矣。敢不賀乎?」公懼、乃反之。

鄭子產聘於晉。晉侯疾,韓宣子逆客,私焉,曰:“寡君寢疾,於今三月矣,並走群望,有加而無瘳。今夢黃熊入於寢門,其何厲鬼也?”對曰:“以君之明,子為大政,其何厲之有?昔堯殛鯀於羽山,其神化為黃熊,以入於羽淵,實為夏郊,三代祀之。晉為盟主,其或者未之祀也乎?”韓子祀夏郊,晉侯有間,賜子產莒之二方鼎。

鄭子産聘于晋。晋侯有疾、韓宣子逆客、私焉、曰わく、「寡君寢疾、於今三月矣、並走群望、有加而無瘳。今夢黃熊入于寢門、其何厲鬼也?」對曰わく、「以君之明、子為大政、其何厲之有?昔堯殛鯀于羽山、其神化為黃熊、以入于羽淵、實為夏郊、三代祀之。晋為盟主、其或者未之祀也乎?」韓子祀夏郊、晋侯有間、賜子産莒之二方鼎。

子產為豐施歸州田於韓宣子,曰:“日君以夫公孫段為能任其事,而賜之州田,今無祿早世,不獲久享君德。其子弗敢有,不敢以聞於君,私致諸子。”宣子辭。子產曰:“古人有言曰:‘其父析薪,其子弗克負荷’。施將懼不能任其先人之祿,其況能任大國之賜?縱吾子為政而可,後之人若屬有疆場之言,敝邑獲戾,而豐氏受其大討。吾子取州,是免敝邑於戾,而建置豐氏也。敢以為請。”

子産為豐施歸州田於韓宣子、曰わく、「日君以夫公孫段為能任其事、而賜之州田、今無祿早世、不獲久享君德。其子弗敢有、不敢以聞於君、私致諸子」宣子辭。子産曰わく、「古人有言曰わく、『其父析薪、其子弗克負荷』。施將懼不能任其先人之祿、其况能任大國之賜?縱吾子為政而可、後之人若屬有疆埸之言、敝邑獲戾、而豐氏受其大討。吾子取州、是免敝邑於戾、而建置豐氏也。敢以為請」

宣子受之,以告晉侯。晉侯以與宣子。宣子為初言,病有之,以易原縣於樂大心。

宣子受之、以告晋侯。晋侯以與宣子。宣子為初言、病有之、以易原縣於樂大心。

鄭人相驚以伯有,曰“伯有至矣”,則皆走,不知所往。鑄刑書之歲二月,或夢伯有介而行,曰:“壬子,餘將殺帶也。明年壬寅,餘又將殺段也。”及壬子,駟帶卒,國人益懼。齊、燕平之月壬寅,公孫段卒。國人愈懼。其明月,子產立公孫洩及良止以撫之,乃止。子大叔問其故,子產曰:“鬼有所歸,乃不為厲,吾為之歸也。”大叔曰:“公孫洩何為?”子產曰:“說也。為身無義而圖說,從政有所反之,以取媚也。不媚,不信。不信,民不從也。”

鄭人相驚以伯有、曰「伯有至矣」、則皆走、不知所往。鑄刑書之歲二月、或夢伯有介而行、曰わく、「壬子、余將殺帶也。明年壬寅、余又將殺段」及壬子、駟帶卒、國人益懼。齊・燕平之月壬寅、公孫段卒。國人愈懼。其明月、子産立公孫洩及良止以撫之、乃止。子大叔問其故、子産曰わく、「鬼有所歸、乃不為厲、吾為之歸也」大叔曰わく、「公孫洩何為?」子産曰わく、「說也。為身無義而圖說、從政有所反之、以取媚也。不媚、不信。不信、民不從也」

及子產適晉,趙景子問焉,曰:“伯有猶能為鬼乎?”子產曰:“能。人生始化曰魄,既生魄,陽曰魂。用物精多,則魂魄強。是以有精爽,至於神明。匹夫匹婦強死,其魂魄猶能馮依於人,以為淫厲,況良霄,我先君穆公之胄,子良之孫,子耳之子,敝邑之卿,從政三世矣。鄭雖無腆,抑諺曰‘蕞爾國’,而三世執其政柄,其用物也弘矣,其取精也多矣。其族又大,所馮厚矣。而強死,能為鬼,不亦宜乎?”子皮之族飲酒無度,故馬師氏與子皮氏有惡。齊師還自燕之月,罕朔殺罕魋。

及子産如晋、趙景子問焉、曰わく、「伯有猶能為鬼乎?」子産曰わく、「能。人生始化曰魄、既生魄、陽曰魂。用物精多、則魂魄強。是以有精爽、至于神明。匹夫匹婦強死、其魂魄猶能憑依於人、以為淫厲、况良霄、我先君穆公之胄、子良之孫、子耳之子、敝邑之卿、從政三世矣。鄭雖無腆、抑諺曰『蕞爾國』、而三世執其政柄、其用物也弘矣、其取精也多矣。其族又大、所馮厚矣。而強死、能為鬼、不亦宜乎?」子皮之族飲酒無度、故馬師氏與子皮氏有惡。齊師還自燕之月、罕朔殺罕魋。

罕朔奔晉。韓宣子問其位於子產。子產曰:“君之羈臣,苟得容以逃死,何位之敢擇?卿違,從大夫之位,罪人以其罪降,古之制也。朔於敝邑,亞大夫也,其官,馬師也。獲戾而逃,唯執政所置之。得免其死,為惠大矣,又敢求位?”宣子為子產之敏也,使從嬖大夫。

罕朔奔晋。韓宣子問其位於子産。子産曰わく、「君之羈臣、苟得容以逃死、何位之敢擇?卿違、從大夫之位、罪人以其罪降、古之制也。朔於敝邑、亞大夫也、其官、馬師也。獲戾而逃、唯執政所寘之。得免其死、為惠大矣、又敢求位?」宣子為子産之敏也、使從嬖大夫。

秋八月,衛襄公卒。晉大夫言於範獻子曰:“衛事晉為睦,晉不禮焉,庇其賊人而取其地,故諸侯貳。《詩》曰:‘鶺鴒在原,兄弟急難。’又曰:‘死喪之威,兄弟孔懷。’兄弟之不睦,於是乎不弔,況遠人,誰敢歸之?今又不禮於衛之嗣,衛必叛我,是絕諸侯也。”獻子以告韓宣子。宣子說,使獻子如衛吊,且反戚田。

秋八月、衛襄公卒。晋大夫言於范獻子曰わく、「衛事晋為睦、晋不禮焉、庇其賊人而取其地、故諸侯貳。《詩》曰わく、『鶺鴒在原、兄弟急難』。又曰わく、『死喪之威、兄弟孔懷』。兄弟之不睦、於是乎不弔、况遠人、誰敢歸之?今又不禮於衛之嗣、衛必叛我、是絕諸侯也」獻子以告韓宣子。宣子說、使獻子如衛弔、且反戚田。

衛齊惡告喪於周,且請命。王使成簡公如衛吊,且追命襄公曰:“叔父陟恪,在我先王之左右,以佐事上帝。餘敢高圉、亞圉?”九月,公至自楚。孟僖子病不能相禮,乃講學之,苟能禮者從之。及其將死也,召其大夫曰:“禮,人之幹也。無禮,無以立。吾聞將有達者曰孔丘,聖人之後也,而滅於宋。其祖弗父何,以有宋而授厲公。及正考父,佐戴、武、宣,三命茲益共。故其鼎銘云:‘一命而僂,再命而傴,三命而俯。循牆而走,亦莫餘敢侮。饘於是,鬻於是,以糊餘口。’其共也如是。臧孫紇有言曰:‘聖人有明德者,若不當世,其後必有達人。’今其將在孔丘乎?我若獲沒,必屬說與何忌於夫子,使事之,而學禮焉,以定其位。”故孟懿子與南宮敬叔師事仲尼。

衛齊惡告喪于周、且請命。王使成簡公如衛弔、且追命襄公曰わく、「叔父陟恪、在我先王之左右、以佐事上帝。余敢忘高圉・亞圉?」九月、公至自楚。孟僖子病不能相禮、乃講學之、苟能禮者從之。及其將死也、召其大夫曰わく、「禮、人之幹也。無禮、無以立。吾聞將有達者曰孔丘、聖人之後也、而滅於宋。其祖弗父何、以有宋而授厲公。及正考父、佐戴・武・宣、三命兹益共。故其鼎銘云、『一命而僂、再命而傴、三命而俯。循牆而走、亦莫余敢侮。饘於是、鬻於是、以餬余口』。其共也如是。臧孫紇有言曰わく、『聖人有明德者、若不當世、其後必有達人』。今其將在孔丘乎?我若獲沒、必屬說與何忌於夫子、使事之而學禮焉、以定其位」故孟懿子與南宮敬叔師事仲尼。

仲尼曰:“能補過者,君子也。《詩》曰:‘君子是則是效。’孟僖子可則效已矣。”

仲尼曰わく、「能補過者、君子也。《詩》曰わく、『君子是則是傚』。孟僖子可則傚已矣」

單獻公棄親用羈。冬十月辛酉,襄、頃之族殺獻公而立成公。

單獻公棄親用羈。冬十月辛酉、襄・頃之族殺獻公而立成公。

十一月,季武子卒。晉侯謂伯瑕曰:“吾所問日食,從矣,可常乎?”對曰:“不可。六物不同,民心不一,事序不類,官職不則,同始異終,胡可常也?《詩》曰:‘或燕燕居息,或憔悴事國。’其異終也如是。”公曰:“何謂六物?”對曰:“歲、時、日、月、星、辰,是謂也。”公曰:“多語寡人辰,而莫同。

十一月、季武子卒。晋侯謂伯瑕曰わく、「吾所問日食、從矣、可常乎?」對曰わく、「不可。六物不同、民心不壹、事序不類、官職不則、同始異終、胡可常也?《詩》曰わく、『或燕燕居息、或憔悴事國』。其異終也如是」公曰わく、「何謂六物?」對曰わく、「歲・時・日・月・星・辰、是謂也」公曰わく、「多語寡人辰而莫同。

何謂辰?”對曰:“日月之會,是謂辰,故以配日。”

何謂辰?」對曰わく、「日月之會是謂辰、故以配日」

衛襄公夫人姜氏無子,嬖人婤姶生孟縶。孔成子夢康叔謂己:“立元,餘使羈之孫圉與史苟相之。”史朝亦夢康叔謂己:“餘將命而子苟與孔烝鉏之曾孫圉相元。”史朝見成子,告之夢,夢協。晉韓宣子為政聘於諸侯之歲,婤姶生子,名之曰元。孟縶之足不良,能行。孔成子以《周易》筮之,曰:“元尚享衛國主其社稷。”遇《屯》ⅴⅲ。又曰:“餘尚立縶,尚克嘉之。”遇《屯》ⅴⅲ之比ⅴⅱ。以示史朝。史朝曰:‘元亨’,又何疑焉?”成子曰:“非長之謂乎?”對曰:“康叔名之,可謂長矣。孟非人也,將不列於宗,不可謂長。且其繇曰‘利建侯’。嗣吉,何建?建非嗣也。二卦皆云,子其建之。康叔命之,二筮襲於夢,武王所用也,弗從何為?弱足者居,侯主社稷,臨祭祀,奉民人,事民人,鬼神,從會朝,又焉得居?各以所利,不亦可乎?”故孔成子立靈公。

衛襄公夫人姜氏無子、嬖人婤姶生孟縶。孔成子夢康叔謂己、「立元、余使羈之孫圉與史苟相之」。史朝亦夢康叔謂己、「余將命而子苟與孔烝鉏之曾孫圉相元」。史朝見成子、告之夢、夢協。晋韓宣子為政聘于諸侯之歲、婤姶生子、名之曰元。孟縶之足不良、能行。孔成子以《周易》筮之、曰わく、「元尚享衛國、主其社稷」。遇《屯》。又曰わく、「余尚立縶、尚克嘉之」。遇《屯》之《比》。以示史朝。史朝曰わく、「『元亨』、又何疑焉?」成子曰わく、「非長之謂乎?」對曰わく、「康叔名之、可謂長矣。孟非人也、將不列於宗、不可謂長。且其繇曰『利建侯』。嗣吉何建?建非嗣也。二卦皆云、子其建之。康叔命之、二筮告于夢、武王所用也、弗從何為?弱足者居、侯主社稷、臨祭祀、奉民人、事鬼神、從會朝、又焉得居?各以所利、不亦可乎?」故孔成子立靈公。

十二月癸亥,葬衛襄公。

十有二月癸亥、衛襄公を葬る。

◇昭公八年

◇昭公八年

【經】八年春,陳侯之弟招殺陳世子偃師。夏四月辛丑,陳侯溺卒。叔弓如晉。楚人執陳行人幹徵師殺之。陳公子留出奔鄭。秋,蒐於紅。陳人殺其大夫公子過。大雩,冬十月壬午,楚師滅陳。執陳公子招,放之於越。殺陳孔奐。葬陳哀公。

【経】八年春、陳侯之弟招殺陳世子偃師。夏四月辛丑、陳侯溺卒。叔弓如晋。楚人執陳行人干徵師殺之。陳公子留出奔鄭。秋、蒐于紅。陳人殺其大夫公子過。大雩。冬十月壬午、楚師滅陳。執陳公子招、放之于越。殺陳孔奐。葬陳哀公。

【傳】八年春,石言於晉魏榆。晉侯問於師曠曰:“石何故言?”對曰:“石不能言,或馮焉。不然,民聽濫也。抑臣又聞之曰:‘作事不時,怨讟動於民,則有非言之物而言。’今宮室崇侈,民力凋盡,怨讟並作,莫保其性。石言,不亦宜乎?”於是晉侯方築虒祁之宮。叔向曰:“子野之言,君子哉!君子之言,信而有徵,故怨遠於其身。小人之言,僣而無徵,故怨咎及之。《詩》曰:‘哀哉不能言,匪舌是出,唯躬是瘁。哿矣能言,巧言如流,俾躬處休。’其是之謂乎?是宮也成,諸侯必叛,君必有咎,夫子知之矣。”

【伝】八年春、石言于晋魏榆。晋侯問於師曠曰わく、「石何故言?」對曰わく、「石不能言、或馮焉。不然、民聽濫也。抑臣又聞之曰わく、『作事不時、怨讟動于民、則有非言之物而言』。今宮室崇侈、民力凋盡、怨讟並作、莫保其性。石言、不亦宜乎?」於是晋侯方築虒祁之宮。叔向曰わく、「子野之言、君子哉!君子之言、信而有徵、故怨遠於其身。小人之言、僭而無徵、故怨咎及之。《詩》曰わく、『哀哉不能言、匪舌是出、唯躬是瘁。哿矣能言、巧言如流、俾躬處休』。其是之謂乎?是宮也成、諸侯必叛、君必有咎、夫子知之矣」

陳哀公元妃鄭姬,生悼大子偃師,二妃生公子留,下妃生公子勝。二妃嬖,留有寵,屬諸徒招與公子過。哀公有廢疾。三月甲申,公子招、公子過殺悼大子偃師,而立公子留。

陳哀公元妃鄭姬、生悼大子偃師、二妃生公子留、下妃生公子勝。二妃嬖、留有寵、屬諸徒招與公子過。哀公有癈疾。三月甲申、公子招・公子過殺悼大子偃師、立公子留。

夏四月辛亥,哀公縊。幹徵師赴於楚,且告有立君。公子勝愬之於楚,楚人執而殺之。公子留奔鄭。書曰“陳侯之弟招殺陳世子偃師”,罪在招也;“楚人執陳行人幹徵師殺之”,罪不在行人也。

夏四月辛亥、哀公縊。干徵師赴于楚、且告有立君。公子勝愬之于楚、楚人執而殺之。公子留奔鄭。《春秋》書「陳侯之弟招殺陳世子偃師」、罪在招也。「楚人執陳行人干徵師殺之」、罪不在行人也。

叔弓如晉,賀虒祁也。遊吉相鄭伯以如晉,亦賀虒祁也。史趙見子大叔,曰:“甚哉,其相蒙也!可吊也,而又賀之?”子大叔曰:“若何吊也?其非唯我賀,將天下實賀。”

叔弓如晋、賀虒祁也。游吉相鄭伯以如晋、亦賀虒祁也。史趙見子大叔、曰わく、「甚哉其相蒙也!可弔也、而又賀之?」子大叔曰わく、「若何弔也?其非唯我賀、天下將皆賀」

秋,大蒐於紅,自根牟至於商、衛,革車千乘。

秋、大蒐于紅、自根牟至于商・衛、革車千乘。

七月甲戌,齊子尾卒,子旗欲治其室。丁丑,殺梁嬰。八月庚戌,逐子成、子工、子車,皆來奔,而立子良氏之宰。其臣曰:“孺子長矣,而相吾室,欲兼我也。”授甲,將攻之。陳桓子善於子尾,亦授甲,將助之。或告子旗,子旗不信。則數人告。將往,又數人告於道,遂如陳氏。桓子將出矣,聞之而還,遊服而逆之。請命,對曰:“聞強氏授甲將攻子,子聞諸?”曰:“弗聞。”“子盍亦授甲?無宇請從。”子旗曰:“子胡然?彼孺子也,吾誨之猶懼其不濟,吾又寵秩之。其若先人何?子盍謂之?《周書》曰:‘惠不惠,茂不茂。’康叔所以服弘大也。”桓子稽顙曰:“頃、靈福子,吾猶有望。”遂和之如初。

七月甲戌、齊子尾卒。子旗欲治其室。丁丑、殺梁嬰。八月庚戌、逐子成・子工・子車、皆來奔、而立子良氏之宰。其臣曰わく、「孺子長矣、而相吾室、欲兼我也」授甲、將攻之。陳桓子善於子尾、亦授甲、將助之。或告子旗、子旗不信。則數人告。將往、又數人告於道、遂如陳氏。桓子將出矣、聞之而還、游服而逆之。請命、對曰わく、「聞彊氏授甲將攻子、子聞諸?」曰わく、「弗聞」「子盍亦授甲?無宇請從」子旗曰わく、「子胡然?彼、孺子也、吾誨之猶懼其不濟、吾又寵秩之。其若先人何?子盍謂之?《周書》曰わく、『惠不惠、懋不懋』。康叔所以服弘大也」桓子稽顙曰わく、「頃・靈福子、吾猶有望」遂和之如初。

陳公子招歸罪於公子過而殺之。九月,楚公子棄疾帥師奉孫吳圍陳,宋戴惡會之。冬十一月壬午,滅陳。輿嬖袁克,殺馬毀玉以葬。楚人將殺之,請置之。

陳公子招歸罪於公子過而殺之。九月、楚公子棄疾帥師奉孫呉圍陳、宋戴惡會之。冬十一月壬午、滅陳。輿嬖袁克殺馬毀玉以葬。楚人將殺之、請寘。

既又請私,私於幄,加絰於顙而逃。使穿封戌為陳公,曰:“城麇之役,不諂。”

既而請私、私於幄、加絰於顙而逃。使穿封戌為陳公、曰わく、「城麇之役不諂」

侍飲酒於王,王曰:“城麇之役,女知寡人之及此,女其闢寡人乎?”對曰:“若知君之及此,臣必致死禮,以息楚國。”晉侯問於史趙,曰:“陳其遂亡乎?”對曰:“未也。”公曰:“何故?”對曰:“陳,顓頊之族也。歲在鶉火,是以卒滅,陳將如之。今在析木之津,猶將復由。且陳氏得政於齊而後陳卒亡。自幕至於瞽瞍,無違命。舜重之以明德,置德於遂,遂世守之。及胡公不淫,胡周賜之姓,使祀虞帝。臣聞盛德必百世祀,虞之世數未也。繼守將在齊,其兆既存矣。”

侍飲於王、王曰わく、「城麇之役、女知寡人之及此、女其辟寡人乎?」對曰わく、「若知君之及此、臣必致死禮、以息楚」晋侯問於史趙曰わく、「陳其遂亡乎?」對曰わく、「未也」公曰わく、「何故?」對曰わく、「陳、顓頊之族也。歲在鶉火、是以卒滅、陳將如之。今在析木之津、猶將復由。且陳氏得政于齊而後陳卒亡。自幕至于瞽瞍無違命、舜重之以明德、寘德於遂、遂世守之。及胡公不淫、故周賜之姓、使祀虞帝。臣聞盛德必百世祀、虞之世數未也。繼守將在齊、其兆既存矣」

◇昭公九年

◇昭公九年

【經】九年春,叔弓會楚子於陳。許遷於夷。夏四月,陳災。秋,仲孫玃如齊。冬,築郎囿。

【経】九年春、叔弓會楚子于陳。許遷于夷。夏四月、陳災。秋、仲孫玃如齊。冬、築郎囿。

【傳】九年春,叔弓、宋華亥、鄭遊吉、衛趙黶會楚子於陳。

【伝】九年春、叔弓・宋華亥・鄭游吉・衛趙黶會楚子于陳。

二月庚申,楚公子棄疾遷許於夷,實城父,取州來淮北之田以益之。伍舉授許男田。然丹遷城父人於陳,以夷濮西田益之。遷方城外人於許。

二月庚申、楚公子棄疾遷許于夷、實城父、取州來淮北之田以益之。伍舉授許男田。然丹遷城父人於陳、以夷濮西田益之。遷方城外人於許。

周甘人與晉閻嘉爭閻田。晉梁丙、張趯率陰戎伐潁。王使詹桓伯辭於晉曰:“我自夏以後稷,魏、駘、芮、岐、畢,吾西土也。及武王克商,蒲姑、商奄,吾東土也;巴、濮、楚、鄧,吾南土也;肅慎、燕、亳,吾北土也。吾何邇封之有?文、武、成、康之建母弟,以蕃屏周,亦其廢隊是為,豈如弁髦而因以敝之?先王居檮杌於四裔,以御螭魅,故允姓之奸,居於瓜州,伯父惠公歸自秦,而誘以來,使逼我諸姬,入我郊甸,則戎焉取之。戎有中國,誰之咎也?后稷封殖天下,今戎制之,不亦難乎?伯父圖之。我在伯父,猶衣服之有冠冕,木水之有本原,民人之有謀主也。伯父若裂冠毀冕,拔本塞原,專棄謀主,雖戎狄其何有餘一人?”叔向謂宣子曰:“文之伯也,豈能改物?翼戴天子而加之以共。自文以來,世有衰德而暴滅宗周,以宣示其侈,諸侯之貳,不亦宜乎?且王辭直,子其圖之。”宣子說。

周甘人與晋閻嘉爭閻田。晋梁丙・張趯率陰戎伐潁。王使詹桓伯辭於晋曰わく、「我自夏以后稷、魏・駘・芮・岐・畢、吾西土也。及武王克商、蒲姑・商奄、吾東土也。巴・濮・楚・鄧、吾南土也。肅慎・燕・亳、吾北土也。吾何邇封之有?文・武・成・康之建母弟、以蕃屏周、亦其廢隊是為、豈如弁髦而因以敝之?先王居檮杌于四裔、以禦螭魅、故允姓之奸居于瓜州。伯父惠公歸自秦、而誘以來、使偪我諸姬、入我郊甸、則戎焉取之。戎有中國、誰之咎也?后稷封殖天下、今戎制之、不亦難乎?伯父圖之。我在伯父、猶衣服之有冠冕、木水之有本原、民人之有謀主也。伯父若裂冠毀冕、拔本塞原、專棄謀主、雖戎狄其何有余一人?」叔向謂宣子曰わく、「文公之伯也、豈能改物?翼戴天子而加之以共。自文以來、世有衰德而暴滅宗周、以宣示其侈、諸侯之貳、不亦宜乎?且王辭直、子其圖之」宣子說。

王有姻喪,使趙成如周吊,且致閻田與襚,反潁俘。王亦使賓滑執甘大夫襄以說於晉,晉人禮而歸之。

王有姻喪、使趙成如周弔、且致閻田與襚、反潁俘。王亦使賓滑執甘大夫襄以說於晋、晋人禮而歸之。

夏四月,陳災。鄭裨灶曰:“五年,陳將復封。封五十二年而遂亡。”子產問其故,對曰:“陳,水屬也,火,水妃也,而楚所相也。今火出而火陳,逐楚而建陳也。妃以五成,故曰五年。歲五及鶉火,而後陳卒亡,楚克有之,天之道也,故曰五十二年。”

夏四月、陳災。鄭裨竈曰わく、「五年、陳將復封、封五十二年而遂亡」子産問其故、對曰わく、「陳、水屬也、火、水妃也、而楚所相也。今火出而火陳、逐楚而建陳也。妃以五成、故曰五年。歲五及鶉火、而後陳卒亡、楚克有之、天之道也、故曰五十二年」

晉荀盈如齊逆女,還,六月,卒於戲陽。殯於絳,未葬。晉侯飲酒,樂。膳宰屠蒯趨入,請佐公使尊,許之。而遂酌以飲工,曰:“女為君耳,將司聰也。

晋荀盈如齊逆女、還、六月卒于戲陽。殯于絳、未葬。晋侯飲酒樂。膳宰屠蒯趨入、請佐公使尊、許之。而遂酌以飲工、曰わく、「女為君耳、將司聰也。

辰在子卯,謂之疾日。君徹宴樂,學人舍業,為疾故也。君之卿佐,是謂股肱。

辰在子卯、謂之疾日。君徹宴樂、學人舍業、為疾故也。君之卿佐、是謂股肱。

股肱或虧,何痛如之?女弗聞而樂,是不聰也。”又飲外嬖嬖叔曰:“女為君目,將司明也。服以旌禮,禮以行事,事有其物,物有其容。今君之容,非其物也,而女不見。是不明也。”亦自飲也,曰:“味以行氣,氣以實志,志以定言,言以出令。臣實司味,二御失官,而君弗命,臣之罪也。”公說,徹酒。

股肱或虧、何痛如之?女弗聞而樂、是不聰也」又飲外嬖嬖叔、曰わく、「女為君目、將司明也。服以旌禮、禮以行事、事有其物、物有其容。今君之容、非其物也、而女不見。是不明也」亦自飲也、曰わく、「味以行氣、氣以實志、志以定言、言以出令。臣實司味、二御失官、而君弗命、臣之罪也」公說、徹酒。

初,公欲廢知氏而立其外嬖,為是悛而止。秋八月,使荀躒佐下軍以說焉。

初、公欲廢知氏而立其外嬖、為是悛而止。秋八月、使荀躒佐下軍以說焉。

孟僖子如齊殷聘,禮也。

孟僖子如齊殷聘、禮也。

冬,築郎囿,書,時也。季平子欲其速成也,叔孫昭子曰:“《詩》曰:‘經始勿亟,庶民子來。’焉用速成?其以剿民也?無囿猶可,無民其可乎?”

冬、築郎囿、書、時也。季平子欲其速成也、叔孫昭子曰わく、「《詩》曰わく、『經始勿亟、庶民子來』。焉用速成?其以勦民也。無囿猶可、無民其可乎?」

◇昭公十年

◇昭公十年

【經】十年春王正月。夏,齊欒施來奔。秋七月,季孫意如、叔弓、仲孫玃帥師伐莒。戊子,晉侯彪卒。九月,叔孫婼如晉,葬晉平公。十有二月甲子,宋公成卒。

【経】十年春王正月。夏、齊欒施來奔。秋七月、季孫意如・叔弓・仲孫玃帥師伐莒。戊子、晋侯彪卒。九月、叔孫婼如晋、葬晋平公。十有二月甲子、宋公成卒。

【傳】十年春,王正月,有星出於婺女。鄭裨灶言於子產曰:“七月戊子,晉君將死。今茲歲在顓頊之虛,姜氏、任氏實守其地。居其維首,而有妖星焉,告邑姜也。邑姜,晉之妣也。天以七紀。戊子,逢公以登,星斯於是乎出。吾是以譏之。”

【伝】十年春王正月、有星出于婺女。鄭裨竈言於子産曰わく、「七月戊子、晋君將死。今兹歲在顓頊之虛、姜氏・任氏實守其地。居其維首、而有妖星焉、告邑姜也。邑姜、晋之妣也。天以七紀。戊子、逢公以登、星斯於是乎出。吾是以譏之」

齊惠欒、高氏皆耆酒,信內多怨,強於陳、鮑氏而惡之。

齊惠欒・高氏皆耆酒、信內多怨、彊於陳・鮑氏而惡之。

夏,有告陳桓子曰:“子旗、子良將攻陳、鮑。”亦告鮑氏。桓子授甲而如鮑氏,遭子良醉而騁,遂見文子,則亦授甲矣。使視二子,則皆從飲酒。桓子曰:“彼雖不信,聞我授甲,則必逐我。及其飲酒也,先伐諸?”陳、鮑方睦,遂伐欒、高氏。子良曰:“先得公,陳、鮑焉往?”遂伐虎門。

夏、有告陳桓子曰わく、「子旗・子良將攻陳・鮑」亦告鮑氏。桓子授甲而如鮑氏、遭子良醉而騁、遂見文子、則亦授甲矣。使視二子、則皆從飲酒。桓子曰わく、「彼雖不信、聞我授甲、則必逐我。及其飲酒也、先伐諸?」陳・鮑方睦、遂伐欒・高氏。子良曰わく、「先得公、陳・鮑焉往?」遂伐虎門。

晏平仲端委立於虎門之外,四族召之,無所往。其徒曰:“助陳、鮑乎?”曰:“何善焉?”“助欒、高乎?”曰:“庸愈乎?”“然則歸乎?”曰:“君伐,焉歸?”公召之而後入。公卜使王黑以靈姑釒率,吉,請斷三尺焉而用之。

晏平仲端委立于虎門之外、四族召之、無所往。其徒曰わく、「助陳・鮑乎?」曰わく、「何善焉?」「助欒・高乎?」曰わく、「庸愈乎?」「然則歸乎?」曰わく、「君伐、焉歸?」公召之而后入。公卜使王黑以靈姑銔率、吉、請斷三尺焉而用之。

五月庚辰,戰於稷,欒、高敗,又敗諸莊。國人追之,又敗諸鹿門。欒施、高強來奔。陳、鮑分其室。

五月庚辰、戰于稷、欒・高敗、又敗諸莊。國人追之、又敗諸鹿門。欒施・高彊來奔。陳・鮑分其室。

晏子謂桓子:“必致諸公。讓,德之主也,讓之謂懿德。凡有血氣,皆有爭心,故利不可強,思義為愈。義,利之本也,蘊利生孽。姑使無蘊乎!可以滋長。”

晏子謂桓子曰わく、「必致諸公。讓、德之主也、讓之謂懿德。凡有血氣、皆有爭心、故利不可強、思義為愈。義、利之本也、蘊利生孽。姑使無蘊乎、可以滋長」

桓子盡致諸公,而請老於莒。

桓子盡致諸公、而請老于莒。

桓子召子山,私具幄幕、器用、從者之衣屨,而反棘焉。子商亦如之,而反其邑。子周亦如之,而與之夫於。反子城、子公、公孫捷,而皆益其祿。凡公子、公孫之無祿者,私分之邑。國之貧約孤寡者,私與之粟。曰:“《詩》云:‘陳錫載周’,能施也,桓公是以霸。”

桓子召子山、私具幄幕・器用・從者之衣屨、而反棘焉。子商亦如之、而反其邑。子周亦如之、而與之夫于。反子城・子公・公孫捷、而皆益其祿。凡公子・公孫之無祿者、私分其邑。國之貧約孤寡者、私與之粟。曰わく、「《詩》云、『陳錫載周』、能施也。桓公是以霸」

公與桓子莒之旁邑,辭。穆孟姬為之請高唐,陳氏始大。秋七月,平子伐莒,取郠,獻俘,始用人於亳社。臧武仲在齊,聞之,曰:“周公其不饗魯祭乎!周公饗義,魯無義。《詩》曰:‘德音孔昭,視民不佻。’佻之謂甚矣,而壹用之,將誰福哉?”戊子,晉平公卒。鄭伯如晉,及河,晉人辭之。遊吉遂如晉。九月,叔孫婼、齊國弱、宋華定、衛北宮喜、鄭罕虎、許人、曹人、莒人、邾人、薛人、杞人、小邾人如晉,葬平公也。鄭子皮將以幣行。子產曰:“喪焉用幣?用幣必百兩,百兩必千人,千人至,將不行。不行,必盡用之。幾千人而國不亡?”子皮固請以行。既葬,諸侯之大夫欲因見新君。叔孫昭子曰:“非禮也。”弗聽。叔向辭之,曰:“大夫之事畢矣。而又命孤,孤斬焉在衰絰之中。其以嘉服見,則喪禮未畢。其以喪服見,是重受吊也。大夫將若之何?”皆無辭以見。子皮盡用其幣,歸,謂子羽曰:“非知之實難,將在行之。夫子知之矣,我則不足。《書》曰:‘欲敗度,縱敗禮。’我之謂矣。夫子知度與禮矣,我實縱慾而不能自克也。”

公與桓子莒之旁邑、辭。穆孟姬為之請高唐、陳氏始大。秋七月、平子伐莒、取郠、獻俘、始用人於亳社。臧武仲在齊、聞之、曰わく、「周公其不饗魯祭乎!周公饗義、魯無義。《詩》曰わく、『德音孔昭、視民不佻』。佻之謂甚矣、而壹用之、將誰福哉?」戊子、晋平公卒。鄭伯如晋、及河、晋人辭之。游吉遂如晋。九月、叔孫婼・齊國弱・宋華定・衛北宮喜・鄭罕虎・許人・曹人・莒人・邾人・薛人・杞人・小邾人如晋、葬平公也。鄭子皮將以幣行。子産曰わく、「喪焉用幣?用幣必百兩、百兩必千人、千人至、將不行。不行、必盡用之。幾千人而國不亡?」子皮固請以行。既葬、諸侯之大夫欲因見新君。叔孫昭子曰わく、「非禮也」弗聽。叔向辭之、曰わく、「大夫之事畢矣。而又命孤、孤斬焉在衰絰之中。其以嘉服見、則喪禮未畢。其以喪服見、是重受弔也。大夫將若之何?」皆無辭以見。子皮盡用其幣、歸、謂子羽曰わく、「非知之實難、將在行之。夫子知之矣、我則不足。《書》曰わく、『欲敗度、縱敗禮』。我之謂矣。夫子知度與禮矣、我實縱欲而不能自克也」

昭子至自晉,大夫皆見。高強見而退。昭子語諸大夫曰:“為人子,不可不慎也哉!昔慶封亡,子尾多受邑而稍致諸君,君以為忠而甚寵之。將死,疾於公宮,輦而歸,君親推之。其子不能任,是以在此。忠為令德,其子弗能任,罪猶及之,難不慎也?喪夫人之力,棄德曠宗,以及其身,不亦害乎?《詩》曰:‘不自我先,不自我後。’其是之謂乎!”冬十二月,宋平公卒。初,元公惡寺人柳。欲殺之。及喪,柳熾炭於位,將至,則去之。比葬,又有寵。

昭子至自晋、大夫皆見。高彊見而退。昭子語諸大夫曰わく、「為人子、不可不慎也哉!昔慶封亡、子尾多受邑而稍致諸君、君以為忠而甚寵之。將死、疾于公宮、輦而歸、君親推之。其子不能任、是以在此。忠為令德、其子弗能任、罪猶及之、難不慎也?喪夫人之力、棄德曠宗、以及其身、不亦害乎?《詩》曰わく、『不自我先、不自我後』。其是之謂乎!」冬十二月、宋平公卒。初、元公惡寺人柳、欲殺之。及喪、柳熾炭于位、將至、則去之。比葬、又有寵。

◇昭公十一年

◇昭公十一年

【經】十有一年春王二月,叔弓如宋。葬宋平公。夏四月丁巳,楚子虔誘蔡侯般,殺之於申。楚公子棄疾帥師圍蔡。五月甲申,夫人歸氏薨。大蒐於比蒲。

【経】十有一年春王二月、叔弓如宋。葬宋平公。夏四月丁巳、楚子虔誘蔡侯般殺之于申。楚公子棄疾帥師圍蔡。五月甲申、夫人歸氏薨。大蒐于比蒲。

仲孫玃會邾子,盟於祲祥。秋,季孫意如會晉韓起、齊國弱、宋華亥、衛北宮佗、鄭罕虎、曹人、杞人於厥憖。九月己亥,葬我小君齊歸。冬十有一月丁酉,楚師滅蔡,執蔡世子有以歸,用之。

仲孫玃會邾子、盟于祲祥。秋、季孫意如會晋韓起・齊國弱・宋華亥・衛北宮佗・鄭罕虎・曹人・杞人于厥慭。九月己亥、葬我小君齊歸。冬十有一月丁酉、楚師滅蔡、執蔡世子有以歸、用之。

【傳】十一年春,王二月,叔弓如宋,葬平公也。

【伝】十一年春、周天子の暦の二月、叔弓が宋に行ったのは平公を葬るためである。

景王問於萇弘曰:“今茲諸侯,何實吉?何實兇?”對曰:“蔡兇。此蔡侯般弒其君之歲也,歲在豕韋,弗過此矣。楚將有之,然壅也。歲及大梁,蔡復,楚兇,天之道也。”

景王が萇弘に問うて曰わく、「今年の諸侯で、誰が実際に吉で、誰が実際に凶か」。対えて曰わく、「蔡が凶です。これは蔡侯般がその国君を弑した年で、歳星が豕韋にあり、この年を超えません。楚国が占有するでしょうが、壅塞するに過ぎません。歳星が大梁に至れば蔡が回復し、楚が凶となるのは天の道理です」

楚子在申,召蔡靈侯。靈侯將往,蔡大夫曰:“王貪而無信,唯蔡於感,今幣重而言甘,誘我也,不如無往。”蔡侯不可。五月丙申,楚子伏甲而饗蔡侯於申,醉而執之。夏四月丁巳,殺之,刑其士七十人。公子棄疾帥師圍蔡。

楚子が申にいて蔡霊侯を召した。霊侯が行こうとすると、蔡国の大夫が曰わく、「王は貪で信用がなく、蔡国にのみ憾みがあります。今币が重く言葉が甘いのは我々を誘騙するのです。行かない方がよいでしょう」。蔡侯は同意しなかった。五月丙申、楚子が甲士を申に伏せて饗礼を設け蔡侯を招待し、酔わせて執えた。夏四月丁巳、彼を殺し、士七十人に刑を加えた。公子棄疾が軍を率いて蔡国を包囲した。

韓宣子問於叔向曰:“楚其克乎?”對曰:“克哉!蔡侯獲罪於其君,而不能其民,天將假手於楚以斃之,何故不克?然肸聞之,不信以幸,不可再也。楚王奉孫吳以討於陳,曰:‘將定而國。’陳人聽命,而遂縣之。今又誘蔡而殺其君,以圍其國,雖幸而克,必受其咎,弗能久矣。桀克有緍以喪其國,紂克東夷而隕其身。楚小位下,而亟暴於二王,能無咎乎?天之假助不善,非祚之也,厚其兇惡而降之罰也。且譬之如天,其有五材而將用之,力盡而敝之,是以無拯,不可沒振。”

韓宣子が叔向に問うて曰わく、「楚国はおそらく克つでしょうか」。対えて曰わく、「克ちますよ!蔡侯はその国君に罪を得て、また民を得られず、天は楚国の手を借りて彼を毙そうとするのです。なぜ克たないことがありましょう。しかし肸が聞くに、信用を講らずして僥倖を得るのは再び可ならずです。楚王が孫呉を奉じて陳国を討ち、曰く『あなたの国を安定させよう』と。陳人が命を聴くと、ここに県を設けました。今また蔡国を誘騙してその国君を殺し、その国を包囲しました。たとえ僥倖に克っても、必ず咎を受け、長くは続きません。桀が有緍を克って国を失い、紂が東夷を克って身を陨したように。楚国は小さく位が低いのに、屡々二王に暴を加えます。咎がないことがあり得ましょうか。天は不善を借りて助けるのではなく、福を賜うのではなく、その凶悪を厚くしてから罰を降すのです。しかも天の例えに、五材があって将に用いんとし、力尽きれば敝棄します。ゆえに救う術がなく、再び振起できません」

五月,齊歸薨,大蒐於比蒲,非禮也。

五月、斉帰が薨じ、比蒲で大蒐を行ったのは礼に合わない。

孟僖子會邾莊公,盟於祲祥,修好,禮也。泉丘人有女夢以其帷幕孟氏之廟,遂奔僖子,其僚從之。盟於清丘之社,曰:“有子,無相棄也。”僖子使助薳氏之簉。反自祲祥,宿於薳氏,生懿子及南宮敬叔於泉丘人。其僚無子,使字敬叔。

孟僖子が邾荘公と会見し、祲祥で盟約を結び、旧好を修めたのは礼に合う。泉丘人に女子があって、帷幕で孟氏の廟を覆う夢を見て、僖子に奔り、その僚伴が従った。清丘之社で盟約を結び、曰わく、「子があれば互いに捨てないでほしい」。僖子は彼女に䓕氏の副妾を助けさせた。祲祥から帰り、䓕氏に住み、泉丘人に懿子および南宮敬叔を生んだ。僚伴に子がなかったので、彼女に敬叔を養育させた。

楚師在蔡,晉荀吳謂韓宣子曰:“不能救陳,又不能救蔡,物以無親,晉之不能,亦可知也已!為盟主而不恤亡國,將焉用之?”秋,會於厥憖,謀救蔡也。鄭子皮將行,子產曰:“行不遠。不能救蔡也。

楚軍が蔡国にいて、晋荀呉が韓宣子に曰わく、「陳を救えず、また蔡を救えず、事物はこれによって親附しません。晋国の不能は知るべきです!盟主でありながら亡国を恤めないなら、それを何に用いますか」。秋、厥慭で会見したのは蔡を救う計らいである。鄭国の子皮が行こうとすると、子産が曰わく、「遠くは行けません。蔡を救えません。

蔡小而不順,楚大而不德,天將棄蔡以壅楚,盈而罰之。蔡必亡矣,且喪君而能守者,鮮矣。三年,王其有咎乎!美惡周必復,王惡周矣。”晉人使狐父請蔡於楚,弗許。

蔡国は小さくて順せず、楚国は大きくて徳がありません。天は蔡を棄てて楚を壅塞させ、満ちてから罰するでしょう。蔡国は必ず亡びます。況んや国君を失ってなお守れる者は少ないのです。三年後、王はおそらく咎があるでしょう!美悪は循環して必ず回復し、王の悪はすでに循環しました」。晋人が狐父を遣わして楚国に蔡国を請うたが、許されなかった。

單子會韓宣子於戚,視下言徐。叔向曰:“單子其將死乎!朝有著定,會有表,衣有禬,帶有結。會朝之言,必聞於表著之位,所以昭事序也。視不過結、禬之中,所以道容貌也。言以命之,容貌以明之,失則有闕。今單子為王官伯,而命事於會,視不登帶,言不過步,貌不道容,而言不昭矣。不道,不共;不昭,不從。無守氣矣。”

単子が戚で韓宣子と会見し、視線が下で話が緩かった。叔向が曰わく、「単子はおそらく死ぬでしょう!朝には定まった位があり、会には表位があり、衣には交会有り、帯には結あり。会朝の言は必ず表著の位に聞かせ、事の次序を昭明にするためです。視線は結・交会の中を超えず、容貌を導くためです。言で命令し、容貌で表明し、失えば闕が生じます。今単子が王官伯として会で事を命ずるに、視線が帯に至らず、話が一歩を超えず、貌が容を導かず、言が昭明でありません。導かなければ恭ならず、昭明でなければ従いません。守気がありません」

九月,葬齊歸,公不戚。晉士之送葬者,歸以語史趙。史趙曰:“必為魯郊。”

九月、斉帰を葬り、昭公が哀戚しなかった。晋国の葬送する士が帰って史趙に告げた。史趙が曰わく、「必ず鲁国の郊外の人となるでしょう」

侍者曰:“何故?”曰:“歸,姓也,不思親,祖不歸也。”叔向曰:“魯公室其卑乎?君有大喪,國不廢蒐。有三年之喪,而無一日之戚。國不恤喪,不忌君也。君無戚容,不顧親也。國不忌君,君不顧親,能無卑乎?殆其失國。”

侍者が曰わく、「何の故ですか」。曰わく、「帰は姓で、親を思わず、祖先が帰附しません」。叔向が曰わく、「鲁国の公室はおそらく卑微でしょうか?国君に大喪があるのに国家が大蒐を廃止しません。三年の喪があるのに一日の哀戚がありません。国家が喪を恤めないのは国君を忌憚しないことです。国君に哀戚の容がないのは親を顧みないことです。国家が国君を忌憚せず、国君が親を顧みないなら、卑微でないことがあり得ましょうか。おそらく国を失うでしょう」

冬十一月,楚子滅蔡,用隱大子於岡山。申無宇曰:“不祥。五牲不相為用,況用諸侯乎?王必悔之。”

冬十一月、楚子が蔡国を滅ぼし、岡山で隠太子を用いて祭祀した。申無宇が曰わく、「不祥です。五牲は互いに牲とせず、況んや諸侯を用いるや?王は必ず悔いるでしょう」

十二月,單成公卒。

十二月、単成公が薨じた。

楚子城陳、蔡、不羹。使棄疾為蔡公。王問於申無宇曰:“棄疾在蔡,何如?”對曰:“擇子莫如父,擇臣莫如君。鄭莊公城櫟而置子元焉,使昭公不立。齊桓公城谷而置管仲焉,至於今賴之。臣聞五大不在邊,五細不在庭。親不在外,羈不在內,今棄疾在外,鄭丹在內。君其少戒。”王曰:“國有大城,何如?”對曰:“鄭京、櫟實殺曼伯,宋蕭、亳實殺子游,齊渠丘實殺無知,衛蒲、戚實出獻公,若由是觀之,則害於國。末大必折,尾大不掉,君所知也。”

楚子が陳・蔡・不羹に城を築いた。棄疾を蔡公とした。王が申無宇に問うて曰わく、「棄疾が蔡にいるが、どうか」。対えて曰わく、「子を選ぶに父に比べるものなく、臣を選ぶに国君に比べるものなし。鄭荘公が櫟に城を築き子元を安置し、昭公を立てられなくしました。斉桓公が穀に城を築き管仲を安置し、今もなお頼っています。臣が聞くに、五大は辺境になく、五細は朝廷にありません。親人は外に在らず、羈旅は内に在りません。今棄疾は外にいて、鄭丹は内にいます。君王はなお少々警戒されよ」。王が曰わく、「国家に大城があるが、どうか」。対えて曰わく、「鄭国の京・櫟が実に曼伯を殺し、宋国の蕭・亳が実に子游を殺し、斉国の渠丘が実に無知を殺し、衛国の蒲・戚が実に献公を出奔させました。これを見れば国に害があります。末梢が大きければ必ず折れ、尾が大きければ掉げません。君王が知るところです」

◇昭公十二年

◇昭公十二年

【經】十有二年春,齊高偃帥師納北燕伯於陽。三月壬申,鄭伯嘉卒。夏,宋公使華定來聘。公如晉,至河乃復。五月,葬鄭簡公。楚殺其大夫成熊。秋七月。冬十月,公子憖出奔齊。楚子伐徐。晉伐鮮虞。

【経】十二年春、斉高偃が軍を率いて北燕伯を陽に送った。三月壬申、鄭伯嘉が薨じた。夏、宋公が華定を遣わして聘問に来た。昭公が晋に行き、黄河に至って帰った。五月、鄭簡公を葬った。楚国がその大夫成熊を殺した。秋七月。冬十月、公子慭が斉に出奔した。楚子が徐国を攻めた。晋国が鮮虞を攻めた。

【傳】十二年春,齊高偃納北燕伯款於唐,因其眾也。

【伝】十二年春、斉高偃が北燕伯款を唐に送ったのはその部衆に憑ったのである。

三月,鄭簡公卒,將為葬除。及遊氏之廟,將毀焉。子大叔使其除徒執用以立,而無庸毀,曰:“子產過女,而問何故不毀,乃曰:‘不忍廟也!諾,將毀矣!’”既如是,子產乃使闢之。司墓之室有當道者,毀之,則朝而塴;弗毀,則日中而塴。子大叔請毀之,曰:“無若諸侯之賓何!”子產曰:“諸侯之賓,能來會吾喪,豈憚日中?無損於賓,而民不害,何故不為?”遂弗毀,日中而葬。

三月、鄭簡公が薨じ、葬事のため道路を清めようとした。游氏の廟に至り、毀そうとした。子大叔がその除道徒衆に器具を持たせて立たせたが毀さず、曰わく、「子産があなたを経て問うなら、なぜ毀さないかと。曰え、『廟を毀るに忍びません!これを毀ろうとしています!』」。すでにこのようになれば、子産は避けさせた。司墓の屋に道を遮るものがあれば毀れば朝に葬れ、毀らなければ日中に葬る。子大叔が毀ることを請うて曰わく、「諸侯の賓客に対してどうしますか!」。子産が曰わく、「諸侯の賓客が来て我らの喪に会するのに、日中を憚るでしょうか。賓客に損害がなく、百姓に害がなければ、なぜしないのですか」。ここに毀らず、日中に葬った。

君子謂:“子產於是乎知禮。禮,無毀人以自成也。”

君子が以為えらく、「子産はこの時に礼を知っていた。礼とは他人を毀って自己を成さないことである」

夏,宋華定來聘,通嗣君也。享之,為賦《蓼蕭》,弗知,又不答賦。昭子曰:“必亡。宴語之不懷,寵光之不宣,令德之不知,同福之不受,將何以在?”齊侯、衛侯、鄭伯如晉,朝嗣君也。公如晉,至河乃復。取郠之役,莒人訴於晉,晉有平公之喪,未之治也,故辭公。公子憖遂如晉。晉侯享諸侯,子產相鄭伯,辭於享,請免喪而後聽命。晉人許之,禮也。晉侯以齊侯宴,中行穆子相。投壺,晉侯先。穆子曰:“有酒如淮,有肉如坻。寡君中此,為諸侯師。”

夏、宋華定が聘問に来たのは新君のために通じるためである。享礼を設けて、彼のために《蓼蕭》を賦したが、知らず、また答賦しなかった。昭子が曰わく、「必ず亡びます。宴語に懐念せず、寵光を宣揚せず、令徳を知らず、同福を受けないなら、何を憑って存立しますか」。斉侯・衛侯・鄭伯が晋に行き、新君を朝見した。昭公が晋に行き、黄河に至って帰った。郠を取る戦いで、莒人が晋国に訴え、晋国に平公の喪があってまだ治めなかったので、昭公を辞した。公子慭がここに晋に行った。晋侯が諸侯のために享礼を設け、子産が鄭伯を輔佐し、享礼で辞し、免喪してから命を聴くことを請うた。晋人が許したのは礼に合う。晋侯と斉侯が宴飲し、中行穆子が傧相をした。投壺で、晋侯が先に投げた。穆子が曰わく、「酒は淮の如く、肉は坻の如し。寡君がこれを中てれば、諸侯の師となろう」。

中之。齊侯舉矢,曰:“有酒如澠,有肉如陵。寡人中此,與君代興。”亦中之。

中てた。斉侯が矢を挙げて曰わく、「酒は澠の如く、肉は陵の如し。寡人がこれを中てれば、君と交代で興ろう」。また中てた。

伯瑕謂穆子曰:“子失辭。吾固師諸侯矣,壺何為焉,其以中俊也?齊君弱吾君,歸弗來矣!”穆子曰:“吾軍帥強御,卒乘競勸,今猶古也,齊將何事?”公孫傁趨進曰:“日旰君勤,可以出矣!”以齊侯出。

伯瑕が穆子に曰わく、「あなたは辞を失しました。我らはもともと諸侯の師です。壺が何をしますか、投げて中てるだけで俊なのですか?斉君が我らの国君を軽んじているので、帰れば再び来ないでしょう!」。穆子が曰わく、「我らの軍帥は強御で、歩卒・車士が争って勉励し、今も古代の如くです。斉国は何をしますか」。公孫傁が快步進み曰わく、「日が晩くなり国君が勤労です。出るべきです!」。斉侯を連れて出た。

楚子謂成虎若敖之餘也,遂殺之。或譖成虎於楚子,成虎知之而不能行。書曰:“楚殺其大夫成虎。”懷寵也。

楚子が成虎を若敖の余党とし、ここに彼を殺した。ある人が楚子に成虎を誣告し、成虎は知ったが去ることができなかった。《春秋》に「楚がその大夫成虎を殺した」と記したのは寵を懐恋したからである。

六月,葬鄭簡公。

六月、鄭簡公を葬った。

晉荀吳偽會齊師者,假道於鮮虞,遂入昔陽。秋八月壬午,滅肥,以肥子綿皋歸。

晋荀呉が斉軍に会すると偽り、鮮虞に道を借り、ここに昔陽に入った。秋八月壬午、肥を滅ぼし、肥子綿皋を連れて帰った。

周原伯絞虐其輿臣,使曹逃。冬十月壬申朔,原輿人逐絞而立公子跪尋,絞奔郊。

周原伯絞がその輿臣を虐害し、彼らを成群に逃走させた。冬十月壬申朔、原の輿人が絞を逐い公子跪尋を立て、絞は郊に出奔した。

甘簡公無子,立其弟過。過將去成、景之族,成、景之族賂劉獻公。丙申,殺甘悼公,而立成公之孫鰍。丁酉,殺獻太子之傅庾皮之子過,殺瑕辛於市,及宮嬖綽、王孫沒、劉州鳩、陰忌、老陽子。

甘簡公に子がなく、その弟過を立てた。過は成・景の族を去ろうとし、成・景の族が劉献公に賄賂を送った。丙申、甘悼公を殺し、成公の孫鰍を立てた。丁酉、献太子の傅庾皮の子過を殺し、市上で瑕辛を殺し、および宮嬖綽・王孫没・劉州鳩・陰忌・老陽子を殺した。

季平子立,而不禮於南蒯。南蒯謂子仲:“吾出季氏,而歸其室於公。子更其位。我以費為公臣。”子仲許之。南蒯語叔仲穆子,且告之故。

季平子が立ったが、南蒯を礼で遇しなかった。南蒯が子仲に曰わく、「私は季氏を逐い、その家室を公に帰します。あなたはその位を代えてください。私は費を帯びて公臣となります」。子仲が許した。南蒯が叔仲穆子に告げ、また故を告げた。

季悼子之卒也,叔孫昭子以再命為卿。及平子伐莒,克之,更受三命。叔仲子欲構二家,謂平子曰:“三命逾父兄,非禮也。”平子曰:“然。”故使昭子。

季悼子が薨じた時、叔孫昭子は再命で卿となった。平子が莒国を攻めて克ったとき、再び三命を受けた。叔仲子が両家を構陥しようとし、平子に曰わく、「三命が父兄を超えるのは礼に合いません」。平子が曰わく、「そうだ」。これにより昭子を指嗾した。

昭子曰:“叔孫氏有家禍,殺適立庶,故婼也及此。若因禍以斃之,則聞命矣。

昭子が曰わく、「叔孫氏に家禍があり、嫡を殺し庶を立てたので、婼がこの歩に至りました。禍を借りて毙すれば、命令を聞きました。

若不廢君命,則固有著矣。”昭子朝,而命吏曰:“婼將與季氏訟,書辭無頗。”

君命を廃しなければ、もともと固定位があります」。昭子が朝に上り、吏に命じて曰わく、「婼が季氏と争訟するので、文辞を偏頗に書かないでください」。

季孫懼,而歸罪於叔仲子。故叔仲小、南蒯、公子憖謀季氏。憖告公,而遂從公如晉。南蒯懼不克,以費叛如齊。子仲還,及衛,聞亂,逃介而先。及郊,聞費叛,遂奔齊。

季孫が懼れ、罪を叔仲子に帰した。これにより叔仲小・南蒯・公子慭が季氏を謀った。慭が昭公に告げ、ここに昭公に従って晋に行った。南蒯が成し得ないことを懼れ、費を帯びて斉に叛変した。子仲が帰り、衛に至り、乱を聞き、副手を棄てて先に行った。郊に至り、費が叛変したと聞き、ここに斉に出奔した。

南蒯之將叛也,其鄉人或知之,過之而嘆,且言曰:“恤恤乎,湫乎,攸乎!深思而淺謀,邇身而遠志,家臣而君圖,有人矣哉!”南蒯枚筮之,遇《坤》ⅱⅱ之《比》ⅴⅱ,曰:“黃裳元吉。”以為大吉也,示子服惠伯,曰:“即欲有事,何如?”惠伯曰:“吾嘗學此矣,忠信之事則可,不然必敗。外強內溫,忠也。和以率貞,信也。故曰‘黃裳元吉’。黃,中之色也。裳,下之飾也。元,善之長也。中不忠,不得其色。下不共,不得其飾。事不善,不得其極。外內倡和為忠,率事以信為共,供養三德為善,非此三者弗當。且夫《易》,不可以占險,將何事也?且可飾乎?中美能黃,上美為元,下美則裳,參成可筮。猶有闕也,筮雖吉,未也。”

南蒯が叛変しようとし、その郷人のある者が知り、彼を経て叹息し、かつ曰わく、「憂愁や、愁や、遠いや!深く思うのに浅く謀り、身に近いのに志が遠く、家臣なのに国君を図る。こんな人がいるのか!」。南蒯が銜枚して占筮し、《坤》を得て《比》に変わり、曰わく、「黄裳元吉」。大吉と以為し、子服惠伯に見せて曰わく、「もし事を為そうとするなら、どうですか」。惠伯が曰わく、「私はかつてこれを学びました。忠信の事なら可ですが、さもなければ必ず敗れます。外が強く内が温なのは忠です。和を用いて貞を率いるのは信です。ゆえに『黄裳元吉』と曰う。黄は中の色です。裳は下の飾です。元は善の長です。中が忠でなければその色を得られません。下が恭でなければその飾を得られません。事が善でなければその極を得られません。外内が倡和するのは忠で、信を用いて事を率いるのは恭で、三徳を供養するのは善です。この三つでなければ相当しません。況んや《易》は険事を占うべきではありません。何の事を為そうとするのですか。それは飾りにできますか。中美は黄を能くし、上美は元で、下美は裳です。三つが完成すれば占筮できます。闕があれば、占筮が吉でもなお行えません」

將適費,飲鄉人酒。鄉人或歌之曰:“我有圃,生之杞乎!從我者子乎,去我者鄙乎,倍其鄰者恥乎!已乎已乎,非吾黨之士乎!”平子欲使昭子逐叔仲小。小聞之,不敢朝。昭子命吏謂小待政於朝,曰:“吾不為怨府。”楚子狩於州來,次於潁尾,使蕩侯、潘子、司馬督、囂尹午、陵尹喜帥師圍徐以懼吳。楚子次於乾溪,以為之援。雨雪,王皮冠,秦復陶,翠被,豹舄,執鞭以出,僕析父從。右尹子革夕,王見之,去冠、被,舍鞭,與之語曰:“昔我先王熊繹,與呂級、王孫牟、燮父、禽父,並事康王,四國皆有分,我獨無有。今吾使人於周,求鼎以為分,王其與我乎?”對曰:“與君王哉!昔我先王熊繹,闢在荊山,篳路藍縷,以處草莽。跋涉山林,以事天子。唯是桃弧、棘矢,以共御王事。齊,王舅也。晉及魯、衛,王母弟也。楚是以無分,而彼皆有。今周與四國服事君王,將唯命是從,豈其愛鼎?”王曰:“昔我皇祖伯父昆吾,舊許是宅。今鄭人貪賴其田,而不我與。我若求之,其與我乎?”對曰:“與君王哉!周不愛鼎,鄭敢愛田?”王曰:“昔諸侯遠我而畏晉,今我大城陳、蔡、不羹,賦皆千乘,子與有勞焉。諸侯其畏我乎?”對曰:“畏君王哉!是四國者,專足畏也,又加之以楚,敢不畏君王哉!”工尹路請曰:“君王命剝圭以為釒戚鉍,敢請命。”王入視之。析父謂子革:“吾子,楚國之望也!今與王言如響,國其若之何?”子革曰:“摩厲以須,王出,吾刃將斬矣。”王出,復語。左史倚相趨過。王曰:“是良史也,子善視之。

費に行こうとして、郷人に酒を請った。郷人のある者が歌って曰わく、「我に菜圃あり、杞を生ずるや!我に従う者は男子漢、我を離れる者は鄙陋、鄰居を背く者は恥辱!已矣已矣、我ら一党の人士ではないや!」。平子が昭子に叔仲小を逐わせようとした。小が聞き、敢えて朝に上がらなかった。昭子が吏に命じて小に朝廷で政事を待たせ、曰わく、「私は怨恨聚集の府庫とはなりません」。楚子が州来で冬猟し、潁尾に駐屯し、蕩侯・潘子・司馬督・囂尹午・陵尹喜を遣わして軍を率い徐国を包囲して呉国を懼れさせた。楚子が乾谿に駐屯して彼らの後援となった。雪が降り、王は皮冠を戴き、秦復陶を着、翠羽披、豹皮鞋を履き、鞭を持って出て、僕析父が従った。右尹子革が夜に進見し、王が彼を見て、冠・披を去り、鞭を下ろし、彼と話して曰わく、「昔我らの先王熊繹は、呂級・王孫牟・燮父・禽父とともに康王に事奉し、四国は皆分器があったのに我らだけがなかった。今我が周に人を遣わし、鼎を分器として求めれば、王はおそらく我らに与えるでしょうか」。対えて曰わく、「君王に与えますよ!昔我らの先王熊繹は、荊山に僻処し、柴車破衣で草莽に処り、山林を跋涉して天子に事奉しました。桃弧・棘矢のみで王事に供御しました。斉は王の舅です。晋および魯・衛は王の母弟です。楚はこのため分器がなく、彼らは皆ありました。今周と四国が君王に服事し、将に命令のみを聴かんとするのに、鼎を惜しみましょうか」。王が曰わく、「昔我が皇祖伯父昆吾は、旧許が住宅でした。今鄭人がその田を貪頼して我らに与えません。我が求めれば、おそらく与えるでしょうか」。対えて曰わく、「君王に与えますよ!周が鼎を惜しまないのに、鄭が田を惜しみましょうか」。王が曰わく、「昔諸侯が我らを疎遠にして晋を懼れました。今我が大挙して陳・蔡・不羹の城を修築し、賦は皆千乗です。あなたにも功労があります。諸侯はおそらく我を懼れるでしょうか」。対えて曰わく、「君王を懼れますよ!この四国は専らでも人を懼れさせるに足り、さらに楚を加えれば、敢えて君王を懼れないことがありましょうか!」。工尹路が請示して曰わく、「君王が圭を剥いで斧柄の装飾(底本「钅戚」は鏚の類)を作れと命じました。請示を敢えてします」。王が入って見た。析父が子革に曰わく、「吾子は楚国の望です!今王との話が回響の如くなら、国家はどうなりますか」。子革が曰わく、「磨き快く待ち、王が出れば、我の刃は斬るでしょう」。王が出て再び話した。左史倚相が快步で過ぎた。王が曰わく、「これは良史です。あなたはよく彼を看待しなさい。…」

是能讀《三墳》、《五典》、《八索》、《九丘》。”對曰:“臣嘗問焉。昔穆王欲肆其心,周行天下,將皆必有車轍馬跡焉。祭公謀父作《祈招》之詩,以止王心,王是以獲沒於祗宮。臣問其詩而不知也。若問遠焉,其焉能知之?”王曰:“子能乎?”對曰:“能。其詩曰:‘祈招之愔愔,式昭德音。思我王度,式如玉,式如金。形民之力,而無醉飽之心。’”王揖而入,饋不食,寢不寐,數日,不能自克,以及於難。

この人は《三墳》《五典》《八索》《九丘》を読むことができます」。対えて曰わく、「臣はかつて問いました。昔穆王が心意を放肆にして天下を遍く行こうとし、必ず至る所に車轍馬跡を留めようとしました。祭公謀父が《祈招》の詩を作り、王心を止めました。王はこれにより祗宮で善終を得ました。臣が彼に詩を問うたが知りませんでした。もし更に遠いことを問えば、彼はどこで知ることができましょう」。王が曰わく、「あなたはできますか」。対えて曰わく、「できます。詩に曰く、『祈招安和し、以て明德音を昭にす。我ら王の法度を思う、玉の如く、金の如し。百姓の力を衡量し、酔飽の心なし』」。王が揖して入り、食を進めて食わず、寝て寐せず、数日、自らを克制できず、これにより難に遇った。

仲尼曰:“古也有志:‘克己復禮,仁也’。信善哉!楚靈王若能如是,豈其辱於乾溪?”晉伐鮮虞,因肥之役也。

仲尼が曰わく、「古代に記載あり。『己を克して礼を復するは仁である』。実によい言葉だ!楚霊王がもしこのようであれば、どうして乾谿で辱めを受けただろうか」。晋国が鮮虞を攻めたのは肥の戦いを借りたのである。

◇昭公十三年

◇昭公十三年

【經】十有三年春,叔弓帥師圍費。夏四月,楚公子比自晉歸於楚,殺其君虔於乾溪。楚公子棄疾殺公子比。秋,公會劉子、晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子於平丘。八月甲戌,同盟於平丘。

【経】十三年春、叔弓が軍を率いて費を包囲した。夏四月、楚公子比が晋から楚に帰り、乾谿でその国君虔を殺した。楚公子棄疾が公子比を殺した。秋、昭公が平丘で劉子・晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と会見した。八月甲戌、平丘で共に盟約を結んだ。

公不與盟。晉人執季孫意如以歸。公至自會。蔡侯廬歸於蔡。陳侯吳歸於陳。冬十月,葬蔡靈公。公如晉,至河乃復。吳滅州來。

昭公は盟に参加しなかった。晋人が季孫意如を執えて帰った。昭公が盟会から帰った。蔡侯廬が蔡国に帰った。陳侯呉が陳国に帰った。冬十月、蔡霊公を葬った。昭公が晋に行き、黄河に至って帰った。呉国が州来を滅ぼした。

【傳】十三年春,叔弓圍費,弗克,敗焉。平子怒,令見費人執之以為囚俘。

【伝】十三年春、叔弓が費を包囲したが克てず、敗戦した。平子が怒り、費人を見れば執えて囚俘とするよう命じた。

冶區夫曰:“非也。若見費人,寒者衣之,飢者食之,為之令主,而共其乏困。

冶区夫が曰わく、「違います。もし費人を見れば、寒い者には衣を与え、飢えた者には食を与え、彼らの良き主となり、その困乏を供給すべきです。

費來如歸,南氏亡矣,民將叛之,誰與居邑?若憚之以威,懼之以怒,民疾而叛,為之聚也。若諸侯皆然,費人無歸,不親南氏,將焉入矣?”平子從之,費人叛南氏。

費人が来ること家に帰るが如くなれば、南氏は亡びます。百姓は彼を叛き、誰が彼と城邑に同居しましょうか。威を用いて怕らせ、怒を用いて懼らせれば、百姓は痛恨して叛き、これは彼のために聚めることになります。諸侯が皆このようであれば、費人に帰処がなく、南氏に親附せず、どこに入りましょうか」。平子が聴き従い、費人が南氏を背叛した。

楚子之為令尹也,殺大司馬薳掩而取其室。及即位,奪薳居田;遷許而質許圍。蔡洧有寵於王,王之滅蔡也,其父死焉,王使與於守而行。申之會,越大夫戮焉。王奪鬥韋龜中犨,又奪成然邑而使為郊尹。蔓成然故事蔡公,故薳氏之族及薳居、許圍、蔡洧、蔓成然,皆王所不禮也。因群喪職之族,啟越大夫常壽過作亂,圍固城,克息舟,城而居之。

楚子が令尹の時、大司馬䓕掩を殺し、その家室を取った。即位に及び、䓕居の田を奪い、許を遷し許囲を人質とした。蔡洧が王に寵を得た。王が蔡を滅ぼすとき、その父がそこで死んだので、王は彼に守衛に参与させてから出行した。申之会で越国の大夫が殺された。王が斗韋亀の中犨を奪い、また成然の城邑を奪って彼を郊尹とした。蔓成然はかつて蔡公に事奉した。ゆえに䓕氏の族および䓕居・許囲・蔡洧・蔓成然は皆王が礼をもって遇しない者である。職を失った族の群に憑り、越国大夫常寿過を啓発して乱を作らせ、固城を包囲し、息舟を克り、城を築いて住んだ。

觀起之死也,其子從在蔡,事朝吳,曰:“今不封蔡,蔡不封矣。我請試之。”

観起が死んだとき、その子従が蔡国にいて朝呉に事奉し、曰わく、「今蔡を封ぜずんば、蔡は封ぜられません。私は試みることを請います」。

以蔡公之命召子幹、子皙,及郊,而告之情,強與之盟,入襲蔡。蔡公將食,見之而逃。觀從使子幹食,坎,用牲,加書,而速行。己徇於蔡曰:“蔡公召二子,將納之,與之盟而遣之矣,將師而從之。”蔡人聚,將執之。辭曰:“失賊成軍,而殺餘,何益?”乃釋之。朝吳曰:“二三子若能死亡,則如違之,以待所濟。

蔡公の命令を用いて子干・子皙を召し、郊に至ってやっと実情を告げ、強いて彼らと盟約を結ばせ、入って蔡を襲った。蔡公が将に食せんとする時、見て逃げ去った。観従が子干に食させ、坑を掘り、犠牲を用い、文書を加え、急いで行かせた。自ら蔡人に向かって巡行して曰わく、「蔡公が二位を召し、将に送り入れようとし、彼らと盟約を結んで遣わし去り、軍を率いて従おうとしています」。蔡人が聚集し、彼を執えようとした。推辞して曰わく、「賊人を失って軍隊を成したのに、私を殺して何の益がありますか」。ここに釈放した。朝呉が曰わく、「几位がもし死を去ることができれば、違抗して、成す所を待ちましょう。

若求安定,則如與之,以濟所欲。且違上,何適而可?”眾曰:“與之。”乃奉蔡公,召二子而盟於鄧,依陳、蔡人以國。楚公子比、公子黑肱、公子棄疾、蔓成然、蔡朝吳帥陳、蔡、不羹、許、葉之師,因四族之徒,以入楚。及郊,陳、蔡欲為名,故請為武軍。蔡公知之曰:“欲速。且役病矣,請藩而已。”乃藩為軍。蔡公使須務牟與史卑先入,因正僕人殺大子祿及公子罷敵。公子比為王,公子黑肱為令尹,次於魚陂。公子棄疾為司馬,先除王宮。使觀從從師於乾溪,而遂告之,且曰:“先歸復所,後者劓。”師及訾梁而潰。

もし安定を求めるなら、参与して、思う所を成し遂げましょう。況んや上にある者に違抗すれば、どこに至るのが適切ですか」。衆人が曰わく、「参与します」。ここに蔡公を奉じ、二位を召して鄧で盟約を結び、陳・蔡人に依り頼んで国を立てた。楚公子比・公子黑肱・公子棄疾・蔓成然・蔡朝呉が陳・蔡・不羹・許・葉の軍を率い、四族の徒衆に憑り、楚に入った。郊に至り、陳・蔡が名を求めようとしたので、武軍を作ることを請うた。蔡公が知って曰わく、「速いことを欲します。況んや役徒が疲病しているのに、藩籬のみを設けることを請います」。ここに藩籬を以て軍営とした。蔡公が須務牟と史卑を先に入れ、正仆人に憑って太子禄および公子罷敵を殺させた。公子比が王となり、公子黑肱が令尹となり、魚陂に駐屯した。公子棄疾が司馬となり、先に王宮を清除した。観従を乾谿に遣わして軍隊に従わせ、彼らに告知し、かつ曰わく、「先に帰る者は住所を回復し、後に至る者は鼻を割かれる」。軍隊が訾梁に至ると潰散した。

王聞群公子之死也,自投於車下,曰:“人之愛其子也,亦如餘乎?”侍者曰:“甚焉。小人老而無子,知擠於溝壑矣。”王曰:“餘殺人子多矣,能無及此乎?”右尹子革曰:“請待於郊,以聽國人。”王曰:“眾怒不可犯也。”曰:“若入於大都而乞師於諸侯。”王曰:“皆叛矣。”曰:“若亡於諸侯,以聽大國之圖君也。”王曰:“大福不再,只取辱焉。”然丹乃歸於楚。王沿夏,將欲入鄢。芋尹無宇之子申亥曰:“吾父再奸王命,王弗誅,惠孰大焉?君不可忍,惠不可棄,吾其從王。”乃求王,遇諸棘圍以歸。夏五月癸亥,王縊於芋尹申亥氏。申亥以其二女殉而葬之。

王が諸公子の死を聞き、自ら車下に投げて曰わく、「人がその子を愛するのも、我の如くか」。侍者が曰わく、「更に甚しいです。小人が老いて子がなければ、沟壑に挤らされると知ります」。王が曰わく、「我が人の子を殺すこと多し、この歩に至らないことがあり得ようか」。右尹子革が曰わく、「郊で待って、国人の言を聴くことを請います」。王が曰わく、「衆怒は犯せません」。曰わく、「もし大なる都城に入りて諸侯に軍を乞うたら」。王が曰わく、「皆叛変しました」。曰わく、「もし諸侯に逃亡し、大国に君王を謀らせたら」。王が曰わく、「大福は再び来ず、辱を取るのみです」。然丹がここに楚に帰った。王が夏水に沿い、鄢に入ろうとした。芋尹無宇の子申亥が曰わく、「我が父は二度王命を触犯したのに、王は誅殺しませんでした。恩惠はこれより大きいものがありましょうか。君は狠心すべからず、惠は棄てるべからず、私はなお王に従います」。ここに王を求め、棘囲で遇い連れて帰った。夏五月癸亥、王が芋尹申亥氏で縊れた。申亥がその二女を以て殉葬した。

觀從謂子幹曰:“不殺棄疾,雖得國,猶受禍也。”子幹曰:“餘不忍也。”

観従が子干に曰わく、「棄疾を殺さずんば、たとえ国を得ても、なお禍を受けます」。子干が曰わく、「我は忍びません」。

子玉曰:“人將忍子,吾不忍俟也。”乃行。國每夜駭曰:“王入矣!”乙卯夜,棄疾使周走而呼曰:“王至矣!”國人大驚。使蔓成然走告子幹、子皙曰:“王至矣!國人殺君司馬,將來矣!君若早自圖也,可以無辱。眾怒如水火焉,不可為謀。”又有呼而走至者曰:“眾至矣!”二子皆自殺。丙辰,棄疾即位,名曰熊居。葬子幹於訾,實訾敖。殺囚,衣之王服而流諸漢,乃取而葬之,以靖國人。

子玉が曰わく、「人はあなたに忍ぶでしょう。私は忍んで待ちます」。ここに去った。国中が夜ごと驚駭して曰わく、「王が入ってきた!」。乙卯の夜、棄疾が人を遣わして周走呼ばせて曰わく、「王が至った!」。国人が大驚した。蔓成然を遣わして走り子干・子皙に告知して曰わく、「王が至りました!国人が君王の司馬を殺し、将に来ます!君王がもし早く自ら謀れば、辱を受けずに済みます。衆怒は水火の如く、謀るべからず」。また呼喊して走り至る者があって曰わく、「衆人が至りました!」。二位は皆自殺した。丙辰、棄疾が即位し、名を熊居といった。訾で子干を葬り、実は訾敖である。囚徒を殺し、彼に王服を着せて漢水に漂わせ、再び取り来たって葬り、国人を安定させた。

使子旗為令尹。

子旗を令尹とした。

楚師還自徐,吳人敗諸豫章,獲其五帥。

楚軍が徐国から帰ると、呉人が豫章で彼らを敗り、五位の軍帥を俘獲した。

平王封陳、蔡,復遷邑,致群賂,施捨寬民,宥罪舉職。召觀從,王曰:“唯爾所欲。”對曰:“臣之先,佐開卜。”乃使為卜尹。使枝如子躬聘於鄭,且致犨、櫟之田。事畢,弗致。鄭人請曰:“聞諸道路,將命寡君以犨、櫟,敢請命。”對曰:“臣未聞命。”既復,王問犨、櫟。降服而對,曰:“臣過失命,未之致也。”王執其手,曰:“子毋勤。姑歸,不穀有事,其告子也。”他年芋尹申亥以王柩告,乃改葬之。

平王が陳・蔡を封じ、遷走した城邑を回復し、各様の賄賂を送還し、百姓に施舍寛待し、罪を赦免して職ある者を挙用した。観従を召し、王が曰わく、「あなたの欲する所にのみ従う」。対えて曰わく、「臣の先人は開卜を輔佐しました」。ここに彼を卜尹とした。枝如子躬を鄭国に遣わして聘問し、かつ犨・櫟の田を送還させた。事が畢わったが、送らなかった。鄭人が請うて曰わく、「道路上に聞くに、犨・櫟を寡君に命じると。敢えて請示します」。対えて曰わく、「臣は命令を聞きませんでした」。すでに回復し、王が犨・櫟を問うた。降服して対え、曰わく、「臣が命令を過ち、送达しませんでした」。王が彼の手を握り、曰わく、「あなたは労するな。姑く帰れ。不穀に事あれば、あなたに告げよう」。後に芋尹申亥が王の柩を告知し、ここに改葬した。

初,靈王卜,曰:“餘尚得天下。”不吉,投龜,詬天而呼曰:“是區區者而不餘畀,餘必自取之。”民患王之無厭也,故從亂如歸。

初め、霊王が卜に問うて曰わく、「我はなお天下を得たい」。不吉で、亀を投げ棄て、天を罵り呼喊して曰わく、「この一点々を我に与えないなら、我は必ず自ら取る」。百姓が王の不満足に苦しみ、ゆえに乱に従うこと家に帰るが如くであった。

初,共王無冢適,有寵子五人,無適立焉。乃大有事於群望,而祈曰:“請神擇於五人者,使主社稷。”乃遍以璧見於群望,曰:“當璧而拜者,神所立也,誰敢違之?”既,乃與巴姬密埋璧於大室之庭,使五人齊,而長入拜。康王跨之,靈王肘加焉,子幹、子皙皆遠之。平王弱,抱而入,再拜,皆厭紐。鬥韋龜屬成然焉,且曰:“棄禮違命,楚其危哉!”子幹歸,韓宣子問於叔向曰:“子幹其濟乎?”對曰:“難。”宣子曰:“同惡相求,如市賈焉,何難?”對曰:“無與同好,誰與同惡?取國有五難:有寵而無人,一也;有人而無主,二也;有主而無謀,三也;有謀而無民,四也;有民而無德,五也。子幹在晉十三年矣,晉、楚之從,不聞達者,可謂無人。族盡親叛,可謂無主。無釁而動,可謂無謀。為羈終世,可謂無民。亡無愛徵,可謂無德。王虐而不忌,楚君子幹,涉五難以弒舊君,誰能濟之?有楚國者,其棄疾乎!君陳、蔡,城外屬焉。苛慝不作,盜賊伏隱,私慾不違,民無怨心。先神命之。國民信之,羋姓有亂,必季實立,楚之常也。獲神,一也;有民,二也;令德,三也;寵貴,四也;居常,五也。有五利以去五難,誰能害之?子幹之官,則右尹也。數其貴寵,則庶子也。以神所命,則又遠之。其貴亡矣,其寵棄矣,民無懷焉,國無與焉,將何以立?”宣子曰:“齊桓、晉文,不亦是乎?”對曰:“齊桓,衛姬之子也,有寵於僖。有鮑叔牙、賓須無、隰朋以為輔佐,有莒、衛以為外主,有國、高以為內主。從善如流,下善齊肅,不藏賄,不從欲,施捨不倦,求善不厭,是以有國,不亦宜乎?我先君文公,狐季姬之子也,有寵於獻。

初め、共王に嫡長がなく、寵子五人があって、適当に立てる者がなかった。ここに群望に大挙祭祀し、祈祷して曰わく、「神に請う、五人の中から選び、社稷を主持させよ」。ここに遍く璧を取り群望に見え、曰わく、「璧に対して拜する者は、神の立つ所です。誰が敢えて違抗しましょう」。随い、巴姫と密かに璧を大室の庭に埋め、五人に斎戒させ、長幼の順に入らせ拜させた。康王は跨ぎ、霊王は胳膊肘を加え、子干・子皙は皆遠く離れた。平王は幼小で、抱かれて入り、二度拜し、皆紐を圧した。斗韋亀が成然を彼に託し、かつ曰わく、「礼を棄て命に背くなら、楚はおそらく危うい!」。子干が帰り、韓宣子が叔向に問うて曰わく、「子干はおそらく成功するでしょうか」。対えて曰わく、「難しいです」。宣子が曰わく、「同悪が互いに求め合うのは市の商賈の如く、何が難しいですか」。対えて曰わく、「同好がなければ、誰が彼と同悪しましょう。国を取るに五難あり。寵あるも人なし、一。人あるも主なし、二。主あるも謀なし、三。謀あるも民なし、四。民あるも徳なし、五。子干が晋に十三年、晋・楚の従者に通達したと聞かず、人なしと言えます。族尽し親人叛き、主なしと言えます。空隙なく動き、謀なしと言えます。羈旅として一生、民なしと言えます。逃亡に人愛の征象なく、徳なしと言えます。王は暴虐で忌憚せず、楚国は子干を君子とし、五難を渉って旧君を弑するに、誰が成功しましょう。楚国を有する者は、おそらく棄疾でしょう!陳・蔡の君となり、城外が帰属します。苛虐・奸悪が発作せず、盗賊が潜伏し、私欲が違背せず、百姓に怨心なし。先に神より命令あり。国民が信任し、芈姓に乱あれば必ず季子が実に立つを得るは楚の常理です。神を獲る、一。民有り、二。令徳、三。寵貴、四。居常、五。五利を以て五難を去るに、誰が彼を害しましょう。子干の官は右尹です。その貴寵を数えれば庶子です。神の命ずる所に按ずれば、また遠く離れます。その貴は亡び、寵は棄てられ、百姓は懐念せず、国内に親附なし。何を憑って立たん」。宣子が曰わく、「斉桓・晋文もまたこのようではなかったか」。対えて曰わく、「斉桓は衛姫の子で、僖に寵を得ました。鮑叔牙・賓須無・隰朋を輔佐とし、莒・衛を外主とし、国・高を内主としました。善に従うこと流るるが如く、下に善斉・粛で、賄を蔵せず、欲望を放縦せず、施舍に倦まず、善を求めて厭かず、これにより国を有したのは当然ではありませんか。我らの先君文公は狐季姫の子で、献に寵を得ました。…」

好學而不貳,生十七年,有士五人。有先大夫子餘、子犯以為腹心,有魏犨、賈佗以為股肱,有齊、宋、秦、楚以為外主,有欒、郤、狐、先以為內主。亡十九年,守志彌篤。惠、懷棄民,民從而與之。獻無異親,民無異望,天方相晉,將何以代文?此二君者,異於子幹。共有寵子,國有奧主。無施於民,無援於外,去晉而不送,歸楚而不逆,何以冀國?”晉成虒祁,諸侯朝而歸者皆有貳心。為取郠故,晉將以諸侯來討。叔向曰:“諸侯不可以不示威。”乃並徵會,告於吳。秋,晉侯會吳子於良。水道不可,吳子辭,乃還。

学を好み二心なく、生れて十七年、士五人あり。先大夫子余・子犯を腹心とし、魏犨・賈佗を股肱とし、斉・宋・秦・楚を外主とし、欒・郤・狐・先を内主としました。逃亡十九年、志を守ること益々篤く。恵・懐が百姓を棄て、百姓は従って彼に親附しました。献に他の親人なく、百姓に他の指望なく、天は正に晋を助く。何を以て文に代えん。この二国君は子干と同じくありません。共に寵子あり、国に深蔵の主あり。百姓に施すことなく、外に援なく、晋を離れて送る人なく、楚に帰って迎える人なし。何を憑って国を得んと望みましょう」。晋国が虒祁を成し、諸侯の朝見して帰る者は皆二心あり。郠を取った故により、晋は諸侯を率いて来討せんとした。叔向が曰わく、「諸侯に威を示さざるべからず」。ここに并せて征召会合し、呉に告げた。秋、晋侯が良で呉子と会見した。水道が不可で、呉子が推辞し、ここに帰った。

七月丙寅,治兵於邾南,甲車四千乘,羊舌鮒攝司馬,遂合諸侯於平丘。子產、子大叔相鄭伯以會。子產以幄幕九張行。子大叔以四十,既而悔之,每舍,損焉。及會,亦如之。

七月丙寅、邾南で治兵し、甲車四千乗、羊舌鮒が司馬を代理し、ここに平丘で諸侯を会合した。子産・子大叔が鄭伯を輔佐して会に来た。子産は幄幕九張を帯びて行き、子大叔は四十張を帯び、随後悔い、宿るごとに減らした。会に至っても、あの如くであった。

次於衛地,叔鮒求貨於衛,淫芻蕘者。衛人使屠伯饋叔向羹,與一篋錦,曰:“諸侯事晉,未敢攜貳,況衛在君之宇下,而敢有異志?芻蕘者異於他日,敢請之。”叔向受羹反錦,曰:“晉有羊舌鮒者,瀆貨無厭,亦將及矣。為此役也,子若以君命賜之,其已。”客從之,未退,而禁之。

衛地に駐屯し、叔鮒が衛に貨を求め、割草打柴の者を放任した。衛人が屠伯を遣わして叔向に羹を送り、一箱の錦を与えて曰わく、「諸侯が晋に事奉し、敢えて二心なく、況んや衛は君の屋檐下にあって、敢えて異志がありましょうか。割草打柴の者が往日と異なります。敢えて請います」。叔向が羹を受け錦を退けて曰わく、「晋に羊舌鮒あり、貨を貪って満足せず、また将に至るでしょう。今回の役のため、あなたがもし君命を以て彼に賜えば、おそらく止むでしょう」。客が聴き従い、まだ退かないうちに禁止した。

晉人將尋盟,齊人不可。晉侯使叔向告劉獻公曰:“抑齊人不盟,若之何?”對曰:“盟以厎信。君苟有信,諸侯不貳,何患焉?告之以文辭,董之以武師,雖齊不許,君庸多矣。天子之老,請帥王賦,‘元戎十乘,以先啟行’,遲速唯君。”叔向告於齊,曰:“諸侯求盟,已在此矣。今君弗利,寡君以為請。”對曰:“諸侯討貳,則有尋盟。若皆用命,何盟之尋?”叔向曰:“國家之敗,有事而無業,事則不經。有業而無禮,經則不序。有禮而無威,序則不共。有威而不昭,共則不明。不明棄共,百事不終,所由傾覆也。是故明王之制,使諸侯歲聘以志業,間朝以講禮,再朝而會以示威,再會而盟以顯昭明。志業於好,講禮於等。示威於眾,昭明於神。自古以來,未之或失也。存亡之道,恆由是興。晉禮主盟,懼有不治。奉承齊犠,而布諸君,求終事也。君曰:‘餘必廢之,何齊之有?’唯君圖之,寡君聞命矣!”齊人懼,對曰:“小國言之,大國制之,敢不聽從?既聞命矣,敬共以往,遲速唯君。”叔向曰:“諸侯有間矣,不可以不示眾。”八月辛未,治兵,建而不旆。壬申,復旆之。諸侯畏之。

晋人が盟約を重温せんとし、斉人が同意しなかった。晋侯が叔向を遣わして劉献公に告げて曰わく、「斉人が盟を結ばないが、どうすればよいか」。対えて曰わく、「盟は信用を達成するために用います。君がもし信あれば、諸侯に二心なく、何を憂えますか。文辞を以て告げ、武師を以て督察すれば、たとえ斉が許さなくても、君の功は多くなります。天子の老臣が、王の軍賦を率いることを請います。『元戎十乗、先に行を啓く』、快慢はただ君に聴きます」。叔向が斉に告げて曰わく、「諸侯が盟を求め、すでにここにあります。今君が利とせず、寡君はこれを以て請います」。対えて曰わく、「諸侯が二心あるを討伐するならば、重温の盟があります。もし皆命を用いれば、何の盟を重温しますか」。叔向が曰わく、「国家の敗亡は、事あって産業なければ、事は常ならず。産業あって礼なければ、常に次序なし。礼あって威なければ、次序に恭あらず。威あって昭明せざれば、恭は明白ならず。明白ならず恭を棄てれば、百事は終結せず、傾覆はこれによります。ゆえに明王の制度は、諸侯をして歳に聘問して産業を記し、時を隔てて朝見して礼を講じ、再び朝して会して威を示し、再び会して盟して昭明を顕さしめます。友好の中に産業を記し、等級の中に礼を講じます。衆人に威を示し、神に昭明す。古来より、失誤したことがありません。存亡の道理は、常にこれにより興ります。晋が礼を以て盟を主し、治めざるを畏れます。斉備の犠牲を奉承し、諸君に陳列するは事の完成を求めるためです。君が曰く、『我は必ず廃する。何の斉備があらん』と。ただ君の謀るを請います。寡君は命令を聞きました!」。斉人が懼れ、対えて曰わく、「小国が曰い、大国が裁断するに、敢えて聴かざらんや。すでに命令を聞きました。恭敬して往き、快慢はただ君に聴きます」。叔向が曰わく、「諸侯に空隙あり。衆人に示さざるべからず」。八月辛未、治兵し、旗を樹てて旆を垂れず。壬申、再び旆を垂れた。諸侯が懼れた。

邾人、莒人訁斥於晉曰:“魯朝夕伐我,幾亡矣。我之不共,魯故之以。”

邾人・莒人が晋国に訴えて曰わく、「鲁国が朝夕に我らを攻め、ほとんど亡びます。我らが供給できないのは魯の故です」。

晉侯不見公,使叔向來辭曰:“諸侯將以甲戌盟,寡君知不得事君矣,請君無勤。”

晋侯が昭公に見えず、叔向を遣わして来て辞谢して曰わく、「諸侯が甲戌に盟約を結ぼうとしています。寡君は君に事奉できないと知りました。君は労しないでください」。

子服惠伯對曰:“君信蠻夷之訴,以絕兄弟之國,棄周公之後,亦唯君。寡君聞命矣。”叔向曰:“寡君有甲車四千乘在,雖以無道行之,必可畏也,況其率道,其何敵之有?牛雖瘠,僨於豚上,其畏不死?南蒯、子仲之憂,其庸可棄乎?若奉晉之眾,用諸侯之師,因邾、莒、杞、鄫之怒,以討魯罪,間其二憂,何求而弗克?”魯人懼,聽命。

子服惠伯が対えて曰わく、「君が蛮夷の訴を聴信し、兄弟之国を断絶し、周公の後代を拋棄するも、ただ君によります。寡君は命令を聞きました」。叔向が曰わく、「寡君に甲車四千乗あり。たとえ無道を以て用いても、必ず畏るべし。況んや道に遵循すれば、何の敵手があらん。牛がたとえ瘦せても、小猪の上に圧せば、死を畏れざらんや。南蒯・子仲の憂は、棄てるべからざらんや。もし晋の部衆を奉じ、諸侯の軍を用い、邾・莒・杞・鄫の怒に憑り、魯の罪を討伐し、その二件の憂に乗ずれば、何を求めて成らざらん」。魯人が懼れ、命を聴いた。

甲戌,同盟於平丘,齊服也。令諸侯日中造於除。癸酉,退朝。子產命外僕速張於除,子大叔止之,使待明日。及夕,子產聞其未張也,使速往,乃無所張矣。

甲戌、平丘で共に盟約を結んだのは斉国が帰服したからである。諸侯に日中に除地に至るよう命じた。癸酉、退朝した。子産が外僕に除地で張設を急がせ、子大叔が阻止し、明日まで待たせた。晩に至り、子産がまだ張設していないと聞き、急いで行かせたが、すでに張設する所がなかった。

及盟,子產爭承,曰:“昔天子班貢,輕重以列,列尊貢重,周之制也。卑而貢重者,甸服也。鄭伯,男也,而使從公侯之貢,懼弗給也,敢以為請。諸侯靖兵,好以為事。行理之命,無月不至,貢之無藝,小國有闕,所以得罪也。諸侯修盟,存小國也。貢獻無及,亡可待也。存亡之制,將在今矣。”自日中以爭,至於昏,晉人許之。既盟,子大叔咎之曰:“諸侯若討,其可瀆乎?”子產曰:“晉政多門,貳偷之不暇,何暇討?國不競亦陵,何國之為?”公不與盟。晉人執季孫意如,以幕蒙之,使狄人守之。司鐸射懷錦,奉壺飲冰,以蒲伏焉。守者御之,乃與之錦而入。晉人以平子歸,子服湫從。

盟約を結ぶに及び、子産が貢賦の等級を争って曰わく、「昔天子が貢を排列し、軽重は位列に按ず。位列が尊ければ貢は重し。これは周の制度です。低下なのに貢重きは甸服です。鄭伯は男なのに、公侯の貢に従わせるは供給し得ぬを畏れ、敢えてこれを以て請います。諸侯が兵を停め、友好を以て事とします。行人の命令は月に至らざるなく、貢に限度なく、小国に闕あり、ゆえに罪を得ます。諸侯が盟を修めるは小国を存するためです。貢献が及ばざれば、滅亡は待つべし。存亡の制度は今日に在らん」。日中より昏黒まで争い、晋人が許した。すでに盟約を結び、子大叔が責めて曰わく、「諸侯がもし討伐すれば、軽慢すべきか」。子産が曰わく、「晋国の政事は多門で、二心苟且も及ばず、どこに討伐の暇があらん。国家が争わなくても陵されるに、何を以て国とするか」。昭公は盟に参加しなかった。晋人が季孫意如を執え、幕を以て蒙い、狄人に看守させた。司鐸射が懐に錦を蔵し、壺を捧げて氷を飲み、匍匐して往いた。看守が阻んだので、彼に錦を与えて入った。晋人が平子を連れて帰り、子服湫が従った。

子產歸,未至,聞子皮卒,哭,且曰:“吾已,無為為善矣,唯夫子知我。”

子産が帰り、まだ至らないうちに、子皮が薨じたと聞き、哭して曰わく、「我は完了した。善を共にする人がいない。ただ夫子のみが我を知っていた」。

仲尼謂:“子產於是行也,足以為國基矣。《詩》曰:‘樂只君子,邦家之基。’子產,君子之求樂者也。”且曰:“合諸侯,藝貢事,禮也。”

仲尼が以為えらく、「子産はこの行に、国家の根基となるに足る。《詩》に曰く、『楽しいかな君子、邦家の根基なり』。子産は君子が楽を求める人である」。かつ曰わく、「諸侯を会合し、貢事を制定するは礼である」。

鮮虞人聞晉師之悉起也,而不警邊,且不修備。晉荀吳自著雍以上軍侵鮮虞,及中人,驅沖競,大獲而歸。

鮮虞人が晋軍が全部出動したと聞くも、辺境を警戒せず、また守備を修めなかった。晋荀呉が著雍より上軍を率いて鮮虞を侵襲し、中人に至り、衝車を駆って競進し、大いに獲て帰った。

楚之滅蔡也,靈王遷許、胡、沈、道、房、申於荊焉。平王即位,既封陳、蔡,而皆復之,禮也。隱大子之子廬歸於蔡,禮也。悼大子之子吳歸於陳,禮也。

楚が蔡を滅ぼすとき、霊王が許・胡・沈・道・房・申を荊に遷した。平王が即位し、すでに陳・蔡を封じ、皆帰らせたのは礼に合う。隠太子の子廬が蔡に帰ったのは礼に合う。悼太子の子呉が陳に帰ったのは礼に合う。

冬十月,葬蔡靈公,禮也。

冬十月、蔡霊公を葬ったのは礼に合う。

公如晉。荀吳謂韓宣子曰:“諸侯相朝,講舊好也,執其卿而朝其君,有不好焉,不如辭之。”乃使士景伯辭公於河。

昭公が晋に行った。荀呉が韓宣子に曰わく、「諸侯が互いに朝見するは旧好を講ず。彼の卿を執えて彼の国君を朝見するは好ましからず。辞谢するに如かず」。ここに士景伯を遣わして黄河辺で昭公を辞谢した。

吳滅州來。令尹子期請伐吳,王弗許,曰:“吾未撫民人,未事鬼神,未修守備,未定國家,而用民力,敗不可悔。州來在吳,猶在楚也。子姑待之。”

呉国が州来を滅ぼした。令尹子期が呉を攻めることを請うたが、王が許さず曰わく、「我はまだ民人を安撫せず、まだ鬼神に事奉せず、まだ守備を修めず、まだ国家を安定せず、しかるに民力を用いる。敗れれば悔いても及ばず。州来が呉にあるは、なお楚にあるが如し。あなたは姑く待て」。

季孫猶在晉,子服惠伯私於中行穆子曰:“魯事晉,何以不如夷之小國?魯,兄弟也,土地猶大,所命能具。若為夷棄之,使事齊、楚,其何瘳於晉?親親,與大,賞共、罰否,所以為盟主也。子其圖之。諺曰:‘臣一主二。’吾豈無大國?”穆子告韓宣子,且曰:“楚滅陳、蔡,不能救,而為夷執親,將焉用之?”乃歸季孫。惠伯曰:“寡君未知其罪,合諸侯而執其老。若猶有罪,死命可也。

季孫がなお晋国にいるとき、子服惠伯が私に中行穆子に曰わく、「鲁国が晋に事奉するに、どこが夷の小国に如かざるか。魯は兄弟で、土地もなお大きく、命令する所は具備できます。もし夷のために棄て、それを斉・楚に事奉させれば、晋に何の益があらん。親を親しみ、大に親附し、供給する者を賞賜し、供給せぬ者を懲罰するは、盟主となる所以です。あなたはなお謀れ。諺に曰く、『臣は一主二なり』。我らに大国がないであろうか」。穆子が韓宣子に告げ、かつ曰わく、「楚が陳・蔡を滅ぼすに救えず、夷のために親人を執えるは、それを何に用いるか」。ここに季孫を帰らせた。惠伯が曰わく、「寡君はまだ罪を知らず、諸侯を会合して彼の老臣を執えます。もし罪あれば、命令に死すも可です。

若曰無罪而惠免之,諸侯不聞,是逃命也,何免之?為請從君惠於會。”宣子患之,謂叔向曰:“子能歸季孫乎?”對曰:“不能。鮒也能。”乃使叔魚。叔魚見季孫曰:“昔鮒也得罪於晉君,自歸於魯君。微武子之賜,不至於今。雖獲歸骨於晉,猶子則肉之,敢不盡情?歸子而不歸,鮒也聞諸吏,將為子除館於西河,其若之何?”且泣。平子懼,先歸。惠伯待禮。

もし罪なく加惠赦免するというなら、諸侯は聞かず、これは命令を逃避するで、何の赦免ぞや。会上で君の恩惠に従うことを請います」。宣子が憂え、叔向に曰わく、「あなたは季孫を帰らせることができるか」。対えて曰わく、「できません。鮒ができます」。ここに叔魚を遣わした。叔魚が季孫に見えて曰わく、「昔鮒が晋君に罪を得て、自ら魯君に帰向しました。武子の賜なくして今日に至らず。たとえ晋に帰骨を得るも、なおあなたが彼に肉を与えた。敢えて情を尽くさざらん。あなたを帰らせようとしてあなたが回らないのは、鮒が吏より聞くに、あなたのために西河に館舎を備えると。どうしますか」。かつ哭泣した。平子が懼れ、先に帰った。惠伯が礼を待った。

◇昭公十四年

◇昭公十四年

【經】十有四年春,意如至自晉。三月,曹伯滕卒。夏四月。秋,葬曹武公。

【経】十四年春、意如が晋から帰った。三月、曹伯滕が薨じた。夏四月。秋、曹武公を葬った。

八月,莒子去疾卒。冬,莒殺其公子意恢。

八月、莒子去疾が薨じた。冬、莒国がその公子意恢を殺した。

【傳】十四年春,意如至自晉,尊晉罪己也。尊晉、罪己,禮也。

【伝】十四年春、意如が晋から帰ったのは晋を尊敬し罪を自らに帰したからである。晋を尊敬し罪を自らに帰するは礼に合う。

南蒯之將叛也,盟費人。司徒老祁、慮癸偽廢疾,使請於南蒯曰:“臣願受盟而疾興,若以君靈不死,請待間而盟。”許之。二子因民之慾叛也,請朝眾而盟。遂劫南蒯曰:“群臣不忘其君,畏子以及今,三年聽命矣。子若弗圖,費人不忍其君,將不能畏子矣。子何所不逞欲?請送子。”請期五日。遂奔齊。侍飲酒於景公。公曰:“叛夫?”對曰:“臣欲張公室也。”子韓皙曰:“家臣而欲張公室,罪莫大焉。”司徒老祁、慮癸來歸費,齊侯使鮑文子致之。

南蒯が叛変せんとして、費人と盟約を結んだ。司徒老祁・慮癸が廃疾を偽り、南蒯に請うて曰わく、「臣は盟を受けることを願うも疾病が発作し、もし君の霊に憑り死なずば、空隙を待って再び盟することを請います」。許された。二位は百姓に憑り叛変せんとし、衆人に朝見して再び盟することを請うた。ここに南蒯を劫持して曰わく、「群臣は国君を忘れず、あなたを今まで畏れ、三年命を聴きました。あなたがもし謀らずば、費人は国君に忍びず、あなたを畏れなくなるでしょう。あなたはどこに在って欲望を満足させぬことがあらん。あなたを送り去ることを請います」。期限五日を請うた。ここに斉に出奔した。景公に陪侍して飲酒し、公が曰わく、「叛変した者か」。対えて曰わく、「臣は公室を張大せんと欲しました」。子韓皙が曰わく、「家臣なのに公室を張大せんと欲するは、罪はこれより大きいものなし」。司徒老祁・慮癸が来て費を帰還し、斉侯が鮑文子を遣わして送达した。

夏,楚子使然丹簡上國之兵於宗丘,且撫其民。分貧,振窮;長孤幼,養老疾,收介特,救災患,宥孤寡,赦罪戾;詰奸慝,舉淹滯;禮新,敘舊;祿勳,合親;任良,物官。使屈罷簡東國之兵於召陵,亦如之。好於邊疆,息民五年,而後用師,禮也。

夏、楚子が然丹を遣わして宗丘で上国の兵を檢閲し、かつ百姓を安撫した。貧なる者に分与し、窮なる者を救済し、孤幼を養長し、老病を養い、単身を收容し、災患を救い、孤寡を寛免し、罪戾を赦免した。奸悪を詰問し、淹滞を挙用し、新しきを礼待し、旧きを叙用し、功ある者に禄を与え、親人を聚合し、賢良を任用し、官吏を物色した。屈罷を遣わして召陵で東国の兵を檢閲し、またこの如くした。辺疆と友好し、百姓を五年休息させて後に兵を用いるは礼に合う。

秋八月,莒著丘公卒,郊公不戚。國人弗順,欲立著丘公之弟庚輿。蒲餘侯惡公子意恢而善於庚輿,郊公惡公子鐸而善於意恢。公子鐸因蒲餘侯而與之謀曰:“爾殺意恢,我出君而納庚輿。”許之。

秋八月、莒著丘公が薨じ、郊公が哀戚しなかった。国人が順従せず、著丘公の弟庚輿を立てんと欲した。蒲余侯が公子意恢を悪んで庚輿と交好し、郊公が公子鐸を悪んで意恢と交好した。公子鐸が蒲余侯に憑って彼と謀って曰わく、「あなたは意恢を殺し、我は国君を逐い庚輿を送り入れよう」。許した。

楚令尹子旗有德於王,不知度。與養氏比,而求無厭。王患之。九月甲午,楚子殺鬥成然,而滅養氏之族。使鬥辛居鄖,以無忘舊勳。

楚令尹子旗が王に恩徳あり、節度を知らず。養氏と勾結し、求取に満足なし。王が憂えた。九月甲午、楚子が斗成然を殺し、養氏の族を滅ぼした。斗辛を遣わして鄖に住まわせ、旧勲を忘れざらんとした。

冬十二月,蒲餘侯茲夫殺莒公子意恢,郊公奔齊。公子鐸逆庚輿於齊。齊隰黨、公子鋤送之,有賂田。

冬十二月、蒲余侯茲夫が莒公子意恢を殺し、郊公が斉に出奔した。公子鐸が斉から庚輿を迎えた。斉隰党・公子鋤が彼を送り、賄賂の田があった。

晉邢侯與雍子爭賂田,久而無成。士景伯如楚,叔魚攝理,韓宣子命斷舊獄,罪在雍子。雍子納其女於叔魚,叔魚蔽罪邢侯。邢侯怒,殺叔魚與雍子於朝。宣子問其罪於叔向。叔向曰:“三人同罪,施生戮死可也。雍子自知其罪而賂以買直,鮒也鬻獄,刑侯專殺,其罪一也。己惡而掠美為昏,貪以敗官為墨,殺人不忌為賊。《夏書》曰:‘昏、墨、賊,殺。’皋陶之刑也。請從之。”乃施邢侯而屍雍子與叔魚於市。

晋邢侯と雍子が賂田を争い、長く決着しなかった。士景伯が楚に行き、叔魚が獄官を代理し、韓宣子が旧獄を裁断するよう命じ、罪は雍子にあった。雍子がその女を叔魚に送り、叔魚が罪を邢侯に判した。邢侯が怒り、朝廷で叔魚と雍子を殺した。宣子が叔向に彼らの罪を問うた。叔向が曰わく、「三人は同じく罪あり。生きたるを殺し死せるを陳尸すれば可です。雍子は自ら罪を知りながら賄賂を以て直を買い、鮒は獄訟を出売し、邢侯は専擅して人を殺した。罪は同じです。自ら悪しきに美名を掠取するは昏、貪りて官守を敗壊するは墨、人を殺して忌憚せぬは賊。《夏書》に曰く、『昏・墨・賊は殺す』。これは皋陶の刑です。従うことを請います」。ここに邢侯を殺し、雍子と叔魚の尸を市上に置いた。

仲尼曰:“叔向,古之遺直也。治國制刑,不隱於親,三數叔魚之惡,不為末減。曰義也夫,可謂直矣。平丘之會,數其賄也,以寬衛國,晉不為暴。歸魯季孫,稱其詐也,以寬魯國,晉不為虐。邢侯之獄,言其貪也,以正刑書,晉不為頗。三言而除三惡,加三利,殺親益榮,猶義也夫!”

仲尼が曰わく、「叔向は古代の遺直です。国を治め刑を制するに、親を隠護せず、三度叔魚の悪を数説して減軽せず。義と曰うは、正直と言えます。平丘之会で、彼の貪賄を数説して衛国を寛待し、晋は暴虐ならず。魯の季孫を帰らせ、その詐を称説して魯国を寛待し、晋は残虐ならず。邢侯の獄で、その貪を説いて刑書を端正し、晋は偏頗ならず。三言で三悪を除き三利を加え、親を殺して益々栄えるはなお義です!」

◇昭公十五年

◇昭公十五年

【經】十有五年春王正月,吳子夷末卒。二月癸酉,有事於武宮。籥入,叔弓卒。去樂,卒事。夏,蔡朝吳出奔鄭。六月丁巳朔,日有食之。秋,晉荀吳帥師伐鮮虞。冬,公如晉。

【経】十五年春、周天子の暦の正月、呉子夷末が薨じた。二月癸酉、武宮で祭祀があった。籥が進み、叔弓が薨じた。楽を去って祭祀を畢えた。夏、蔡朝呉が鄭に出奔した。六月丁巳朔、日食。秋、晋荀呉が軍を率いて鮮虞を攻めた。冬、昭公が晋に行った。

【傳】十五年春,將禘於武公,戒百官。梓慎曰:“禘之日,其有咎乎!吾見赤黑之祲,非祭祥也,喪氛也。其在蒞事乎?”二月癸酉,禘,叔弓蒞事,籥入而卒。去樂,卒事,禮也。

【伝】十五年春、武公で禘祭を行おうとし、百官を告戒した。梓慎が曰わく、「禘祭の日、おそらく咎があるでしょう!私は赤黑の祲気を見ました。祭祀の祥ではなく、喪の氛です。おそらく臨事する人でしょう」。二月癸酉、禘祭をし、叔弓が臨事し、籥が進むと薨じた。楽を去って祭祀を畢えたのは礼に合う。

楚費無極害朝吳之在蔡也,欲去之。乃謂之曰:“王唯信子,故處子於蔡。

楚費無極が朝呉の蔡にいるを忌害し、彼を去らせたかった。ここに彼に対して曰わく、「王はただあなたを信任するので、あなたを蔡に安置した。

子亦長矣,而在下位,辱。必求之,吾助子請。”又謂其上之人曰:“王唯信吳,故處諸蔡,二三子莫之如也。而在其上,不亦難乎?弗圖,必及於難。”夏,蔡人遂朝吳。朝吳出奔鄭。王怒,曰:“餘唯信吳,故置諸蔡。且微吳,吾不及此。

あなたも年長いのに下位にいるのは辱です。必ず求めなさい。私はあなたのために請います」。また上の人に対して曰わく、「王はただ呉を信任するので蔡に安置した。几位は彼に及ぶ者なし。しかるに彼の上にいるのは難くないか。謀らずんば必ず難に至る」。夏、蔡人が朝呉を逐った。朝呉が鄭に出奔した。王が怒って曰わく、「我はただ呉を信任するので蔡に安置した。況んや呉なくして、我はこの歩に至らなかった。

女何故去之?”無極對曰:“臣豈不欲吳?然而前知其為人之異也。吳在蔡,蔡必速飛。去吳,所以翦其翼也。”

あなたはなぜ彼を去らせたか」。無極が対えて曰わく、「臣はあえて呉を欲しないのでしょうか。しかしあらかじめ彼の人となるが同じくあらざるを知りました。呉が蔡にあれば、蔡は必ず速く飛び去ります。呉を去るはその翼を剪る所以です」。

六月乙丑,王大子壽卒。

六月乙丑、王の太子寿が薨じた。

秋八月戊寅,王穆後崩。

秋八月戊寅、王穆后が崩じた。

晉荀吳帥師伐鮮虞,圍鼓。鼓人或請以城叛,穆子弗許。左右曰:“師徒不勤,而可以獲城,何故不為?”穆子曰:“吾聞諸叔向曰:‘好惡不愆,民知所適,事無不濟。’或以吾城叛,吾所甚惡也。人以城來,吾獨何好焉?賞所甚惡,若所好何?若其弗賞,是失信也,何以庇民?力能則進,否則退,量力而行。吾不可以欲城而邇奸,所喪滋多。”使鼓人殺叛人而繕守備。圍鼓三月,鼓人或請降,使其民見,曰:“猶有食色,姑修而城。”軍吏曰:“獲城而弗取,勤民而頓兵,何以事君?”穆子曰:“吾以事君也。獲一邑而教民怠,將焉用邑?邑以賈怠,不如完舊,賈怠無卒,棄舊不祥。鼓人能事其君,我亦能事吾君。率義不爽,好惡不愆,城可獲而民知義所,有死命而無二心,不亦可乎!”鼓人告食竭力盡,而後取之。克鼓而反,不戮一人,以鼓子鳶鞮歸。

晋荀呉が軍を率いて鮮虞を攻め、鼓を包囲した。鼓人のある者が城を帯びて叛変せんことを請うたが、穆子が許さなかった。左右が曰わく、「軍隊を労せずして城を獲られるに、なぜしませんか」。穆子が曰わく、「私は叔向に聞くに、『好悪が分を過ぎずば、百姓は往く所を知り、事は成らざるなし』。我らの城を帯びて叛変する者は我らの甚だ悪む所です。他人が城を帯びて来れば、我はあえて独り好みましょうか。甚だ悪むを賞するなら、好む所に対してどうしますか。もし賞せずば、これは信を失う。何を以て百姓を庇いましょう。力能あれば進み、否れば退き、力を量って事を行います。我は城を欲して奸に近づくべからず。失う所はなお多いです」。鼓人に叛変する者を殺させ守備を修繕させた。鼓を包囲すること三月、鼓人のある者が降服を請い、その百姓を見に来させ、曰わく、「まだ食う気色あり。姑くあなたがたの城を修めよ」。軍吏が曰わく、「城を獲て取らず、百姓を労苦し兵器を頓挫するは、何を以て国君に事奉しますか」。穆子が曰わく、「我はこれを以て国君に事奉します。一邑を獲て百姓に怠惰を教えるなら、邑を何に用いましょう。邑を以て怠惰を買うは旧を保全するに如かず。怠惰を買うは終結なく、旧を棄てるは不祥です。鼓人がその国君に事奉し得るなら、我もまた我らの国君に事奉し得ます。義に遵循して差なく、好悪が分を過ぎず、城は獲られて百姓は義の在所を知り、命令に死して二心なく、また可ではありませんか!」。鼓人が食糧竭き力尽きたと告知し、然る後にそれを取った。鼓を克って帰り、一人を殺さず、鼓子鳶鞮を連れて帰った。

冬,公如晉,平丘之會故也。

冬、昭公が晋に行ったのは平丘之会の故である。

十二月,晉荀躒如周,葬穆後,籍談為介。既葬,除喪,以文伯宴,樽以魯壺。王曰:“伯氏,諸侯皆有以鎮撫室,晉獨無有,何也?”文伯揖籍談,對曰:“諸侯之封也,皆受明器於王室,以鎮撫其社稷,故能薦彝器於王。晉居深山,戎狄之與鄰,而遠於王室。王靈不及,拜戎不暇,其何以獻器?”王曰:“叔氏,而忘諸乎?叔父唐叔,成王之母弟也,其反無分乎?密須之鼓,與其大路,文所以大蒐也。闕鞏之甲,武所以克商也。唐叔受之以處參虛,匡有戎狄。其後襄之二路,釒戚鉞,秬鬯,彤弓,虎賁,文公受之,以有南陽之田,撫征東夏,非分而何?夫有勳而不廢,有績而載,奉之以土田,撫之以彝器,旌之以車服,明之以文章,子孫不忘,所謂福也。福祚之不登,叔父焉在?且昔而高祖孫伯黶,司晉之典籍,以為大政,故曰籍氏。及辛有之二子董之晉,於是乎有董史。女,司典之後也,何故忘之?”籍談不能對。賓出,王曰:“籍父其無後乎!數典而忘其祖。”

十二月、晋荀躒が周に行き、穆后を葬り、籍談が副手となった。すでに葬り、喪服を除き、文伯と宴飲し、魯壺を樽とした。王が曰わく、「伯氏、諸侯は皆宮室を鎮撫するに用いるものがあるのに、晋だけがないのは何の故か」。文伯が籍談に揖して対えて曰わく、「諸侯が封を受けるとき、皆王室より明器を受けて社稷を鎮撫し、ゆえに王に彝器を進献できました。晋は深山に居り、戎狄と隣り、王室より遠く離れます。王の威霊が及ばず、戎に対するに及ばず、何を以て器を献ぜん」。王が曰わく、「叔氏、あなたは忘れたか。叔父唐叔は成王の母弟で、反って分器がなかったか。密須の鼓とその大路は文王が大蒐に用いたものです。闕鞏の甲は武王が商を克るに用いたものです。唐叔が受けて参虚に処り、戎狄を匡正しました。後に襄王の二路・斧鉞(底本「钅戚」は鏚)・秬鬯・彤弓・虎賁を文公が受け、これにより南陽の田があり、東夏を撫征した。分器でなくて何か。勲労あれば廃棄せず、功績あれば記載し、土田を以て奉じ、彝器を以て撫し、車服を以て旌表し、文章を以て顕明し、子孫が忘れざるは、いわゆる福です。福祚が登らざれば、叔父はどこにあらん。況んや昔あなたの高祖孫伯黶は晋の典籍を主管し、大政を為したので籍氏と曰われました。辛有の二子董が晋に至るに及び、ここに董史がありました。あなたは司典の後代で、なぜ忘れたか」。籍談は対えられなかった。賓客が出た後、王が曰わく、「籍父はおそらく後嗣がないでしょう!典を数えて祖先を忘れた」。

籍談歸,以告叔向。叔向曰:“王其不終乎!吾聞之:‘所樂必卒焉。’今王樂憂,若卒以憂,不可謂終。王一歲而有三年之喪二焉,於是乎以喪賓宴,又求彝器,樂憂甚矣,且非禮也。彝器之來,嘉功之由,非由喪也。三年之喪,雖貴遂服,禮也。王雖弗遂,宴樂以早,亦非禮也。禮,王之大經也。一動而失二禮,無大經矣。言以考典,典以志經,忘經而多言舉典,將焉用之?”

籍談が帰り、叔向に告げた。叔向が曰わく、「王はおそらく善終できないでしょう!私は聞くに、『楽しむ所は必ずそこに終わる』。今王は憂を以て楽とする。もし憂により死すれば、終と呼ぶべからず。王が一年に二度三年之喪あり、ここに喪賓を以て宴飲し、また彝器を求め、憂を以て楽とするが過分であり、かつ礼に合わず。彝器の至るは嘉功により、喪によるにあらず。三年之喪は、たとえ尊貴でも喪服を畢えるは礼です。王はたとえ畢えずとも、宴楽は太早すぎ、また礼に合わず。礼は王の大経です。一動して両様の礼を失えば、大経なし。話は典を考えるに用い、典は経を記すに用いる。経を忘れて多く話し典を列挙するは、それを何に用いん」。

◇昭公十六年

◇昭公十六年

【經】十有六年春,齊侯伐徐。楚子誘戎蠻子殺之。夏,公至自晉。秋八月己亥,晉侯夷卒。九月,大雩。季孫意如如晉。冬十月,葬晉昭公。

【経】十六年春、斉侯が徐国を攻めた。楚子が戎蛮子を誘騙して彼を殺した。夏、昭公が晋から帰った。秋八月己亥、晋侯夷が薨じた。九月、大雩祭を行った。季孫意如が晋に行った。冬十月、晋昭公を葬った。

【傳】十六年春,王正月,公在晉,晉人止公。不書,諱之也。

【伝】十六年春、周天子の暦の正月、昭公が晋にいて、晋人が昭公を留めた。《春秋》が記載しないのは避諱である。

齊侯伐徐。

斉侯が徐国を攻めた。

楚子聞蠻氏之亂也,與蠻子之無質也,使然丹誘戎蠻子嘉殺之,遂取蠻氏。

楚子が蛮氏の乱と蛮子に信質なきを聞き、然丹を遣わして戎蛮子嘉を誘騙して彼を殺し、ここに蛮氏を取得した。

既而復立其子焉,禮也。

随いて再びその子を立てたのは礼に合う。

二月丙申,齊師至於蒲隧。徐人行成。徐子及郯人、莒人會齊侯,盟於蒲隧,賂以甲父之鼎。叔孫昭子曰:“諸侯之無伯,害哉!齊君之無道也,興師而伐遠方,會之,有成而還,莫之亢也,無伯也夫!《詩》曰:‘宗周既滅,靡所止戾。

二月丙申、斉軍が蒲隧に至った。徐人が和を求めた。徐子および郯人・莒人が斉侯と会見し、蒲隧で盟約を結び、甲父之鼎を以て賄賂とした。叔孫昭子が曰わく、「諸侯に霸主なきは害です!斉君は無道で、師を興して遠方を攻め、会合し、和あれば帰り、抗衡する人なし。これは霸主なきです!《詩》に曰く、『宗周はすでに滅び、止息する所なし。

正大夫離居,莫知我肄。’其是之謂乎!”二月,晉韓起聘於鄭,鄭伯享之。子產戒曰:“苟有位於朝,無有不共恪。”

正大夫は離散して居り、我が労苦を知る人なし』。おそらくこれを説くのでしょう!」。二月、晋韓起が鄭国に聘問し、鄭伯が享礼を設けた。子産が告戒して曰わく、「もし朝廷に位子あれば、不恭敬あるべからず」。

孔張後至,立於客間。執政御之,適客後。又御之,適縣間。客從而笑之。事畢,富子諫曰:“夫大國之人,不可不慎也,幾為之笑而不陵我?我皆有禮,夫猶鄙我。國而無禮,何以求榮?孔張失位,吾子之恥也。”子產怒曰:“發命之不衷,出令之不信,刑之頗類,獄之放紛,會朝之不敬,使命之不聽,取陵於大國,罷民而無功,罪及而弗知,僑之恥也。孔張,君之昆孫,子孔之後也,執政之嗣也,為嗣大夫,承命以使,周於諸侯,國人所尊,諸侯所知。立於朝而祀於家,有祿於國,有賦于軍,喪祭有職,受脤、歸脤,其祭在廟,已有著位,在位數世,世守其業,而忘其所,僑焉得恥之?辟邪之人而皆及執政,是先王無刑罰也。子寧以他規我。”

孔張が後れて至り、客人の中間に立った。執政が阻み、客人の後ろに至った。また阻み、懸楽の中間に至った。客人が従って彼を笑った。事が畢わり、富子が進諫して曰わく、「大国の人には謹慎すべからず。ほとんど彼らに笑われて我らを陵しないことがありましょうか。我らが皆礼あるに彼らはなお我らを鄙視します。国家に礼なければ、何を憑って栄を求めん。孔張が位子を失うは吾子の恥です」。子産が怒って曰わく、「命を發して恰當せず、令を出して信用なく、刑罰偏頗し、獄訟放紛し、会朝敬せず、使命聴かれず、大国に陵され、百姓を疲惫して功労なく、罪至るを知らざるは僑の恥です。孔張は国君の兄孫、子孔の後代、執政の嗣で、嗣大夫を為し、命令を受けて出使し、諸侯に遍く、国人の尊ぶ所、諸侯の知る所です。朝廷に位子あり、家に祭祀あり、国に禄あり、軍に賦あり、喪祭に職あり、脤を受け脤を送還し、祭祀は廟にあり、すでに固定位あり、位に在ること幾世、世々業を守るのに処所を忘るるは、僑はどこを以て恥とせん。邪僻の人が皆執政に帰するは先王に刑罰なきです。あなたは寧ろ他を以て我を規勸せよ」。

宣子有環,有一在鄭商。宣子謁諸鄭伯,子產弗與,曰:“非官府之守器也,寡君不知。”子大叔、子羽謂子產曰:“韓子亦無幾求,晉國亦未可以貳。晉國、韓子,不可偷也。若屬有讒人交鬥其間,鬼神而助之,以興其兇怒,悔之何及?吾子何愛於一環,其以取憎於大國也,盍求而與之?”子產曰:“吾非偷晉而有二心,將終事之,是以弗與,忠信故也。僑聞君子非無賄之難,立而無令名之患。

宣子に玉環があり、一只が鄭国の商人の所にあった。宣子が鄭伯に求めたが、子産が与えず曰わく、「官府が守る器物にあらず。寡君は知りません」。子大叔・子羽が子産に曰わく、「韓子もまた多少の要求なく、晋国もまた二心すべからず。晋国・韓子は怠慢すべからず。もし恰好に讒人が中間に交斗し、鬼神が助け、凶怒を興せば、悔いるに何処で及ばん。吾子が一只の環を愛惜するは大国に憎を取るに用いる。何で求めて彼に与えざるか」。子産が曰わく、「我は晋を怠慢して二心するにあらず。終始事奉せんとし、ゆえに与えず。これは忠信の故です。僑が聞くに、君子が難とするは賄なきにあらず、立身に美名なきを患う。

僑聞為國非不能事大字小之難,無禮以定其位之患。夫大國之人,令於小國,而皆獲其求,將何以給之?一共一否,為罪滋大。大國之求,無禮以斥之,何饜之有?吾且為鄙邑,則失位矣。若韓子奉命以使,而求玉焉,貪淫甚矣,獨非罪乎?出一玉以起二罪,吾又失位,韓子成貪,將焉用之?且吾以玉賈罪,不亦銳乎?”韓子買諸賈人,既成賈矣,商人曰:“必告君大夫。”韓子請諸子產曰:“日起請夫環,執政弗義,弗敢復也。今買諸商人,商人曰,必以聞,敢以為請。”

僑が聞くに、国を治めるに難きは大に事奉し小を安撫できざるにあらず、礼を以て位子を安んずるなきを患う。大国の人が小国に令を發し、皆求むる所を獲れば、何を以て供給せん。一は給し一は給せずば、罪は更に大。大国の求に礼を以て駁斥せざれば、どこに満足があらん。我らは辺邑となり、位子を失うでしょう。もし韓子が奉命出使して玉を求めば、貪淫太過分で、罪ではありませんか。一塊の玉を出して両様の罪を興し、我らはまた位子を失い、韓子は貪となる。それを何に用いん。況んや我が玉を以て罪を買うは、尖刻ではありませんか」。韓子が商人に買い、すでに成交したが、商人が曰わく、「必ず君大夫に告げます」。韓子が子産に請求して曰わく、「往日にその環を請うたが、執政が不義と以為し、敢えて再び求めず。今商人に買うに、商人が必ず聞かせると曰う。敢えてこれを以て請います」。

子產對曰:“昔我先君桓公,與商人皆出自周,庸次比耦,以艾殺此地,斬之蓬蒿藜藿,而共處之。世有盟誓,以相信也,曰:‘爾無我叛,我無強賈,毋或丐奪。爾有利市寶賄,我勿與知。’恃此質誓,故能相保,以至於今。今吾子以好來辱,而謂敝邑強奪商人,是教弊邑背盟誓也,毋乃不可乎!吾子得玉而失諸侯,必不為也。若大國令,而共無藝,鄭,鄙邑也,亦弗為也。僑若獻玉,不知所成,敢私布之。”韓子辭玉,曰:“起不敏,敢求玉以徼二罪?敢辭之。”

子産が対えて曰わく、「昔我らの先君桓公は商人とともに皆周より出て、輪次配对し、この地を開墾し、蓬蒿藜藿を斬除し、共に居住しました。世々盟誓あり、互いに信任して曰わく、『あなたは我を背叛するな。我は強買せず、乞掠するな。あなたに利市宝賄あれば、我は参与して知ること勿れ』。この質誓に憑り、ゆえに互いに保ち今に至ります。今吾子が友好に因り屈尊して来り、しかるに敝邑が商人を強奪するというは、弊邑に盟誓を背棄せしむるを教え、おそらく不可でしょう!吾子が玉を得て諸侯を失うは必ず為さず。もし大国が下令し、供給に限度なければ、鄭は辺邑で、また為さず。僑がもし玉を献ずれば、何を成就するか知らず。敢えて私に陳述します」。韓子が玉を辞谢し、曰わく、「起は聡敏ならず。敢えて玉を求めて両様の罪を求めましょうか。敢えて辞谢します」。

夏四月,鄭六卿餞宣子於郊。宣子曰:“二三君子請皆賦,起亦以知鄭志。”

夏四月、鄭国の六卿が郊で宣子のために餞行した。宣子が曰わく、「几位君子、皆詩を賦することを請います。起もこれに借りて鄭の心志を知らん」。

子齹賦《野有蔓草》。宣子曰:“孺子善哉!吾有望矣。”子產賦鄭之《羔裘》。宣子曰:“起不堪也。”子大叔賦《褰裳》。宣子曰:“起在此,敢勤子至於他人乎?”子大叔拜。宣子曰:“善哉,子之言是!不有是事,其能終乎?”子游賦《風雨》,子旗賦《有女同車》,子柳賦《蘀兮》。宣子喜曰:“鄭其庶乎!二三君子以君命貺起,賦不出鄭志,皆暱燕好也。二三君子,數世之主也,可以無懼矣。”宣子皆獻馬焉,而賦《我將》。子產拜,使五卿皆拜,曰:“吾子靖亂,敢不拜德?”宣子私覲於子產以玉與馬,曰:“子命起舍夫玉,是賜我玉而免吾死也,敢不藉手以拜?”公至自晉。子服昭伯語季平子曰:“晉之公室,其將遂卑矣。君幼弱,六卿強而奢傲,將因是以習,習實為常,能無卑乎?”平子曰:“爾幼,惡識國?”秋八月,晉昭公卒。

子齹が《野有蔓草》を賦した。宣子が曰わく、「孺子よい哉!我に指望あり」。子産が鄭の《羔裘》を賦した。宣子が曰わく、「起は堪えられません」。子大叔が《褰裳》を賦した。宣子が曰わく、「起はここに在り。敢えてあなたを他人の所に労せしめましょうか」。子大叔が下拜した。宣子が曰わく、「よい哉、あなたがこれを説く!この事なくして、終結あらんや」。子游が《風雨》を賦し、子旗が《有女同車》を賦し、子柳が《蘀兮》を賦した。宣子が喜び曰わく、「鄭はおそらく差不多でしょう!几位君子が君命を以て起を賞し、賦するは鄭の詩を出ず、皆親近燕好です。几位君子は幾世の主で、懼れざるべし」。宣子が皆馬を献じ、《我将》を賦した。子産が下拜し、五卿に皆拜させて曰わく、「吾子が乱を安定せしむるに、敢えて徳を拜せざらんや」。宣子が玉と馬を以て私に子産に見え、曰わく、「あなたが起にあの玉を放下せよと命じたは、我に玉を賜いかつ我を死を免れしむる。敢えて手を借りて拜せざらん」。昭公が晋から帰った。子服昭伯が季平子に曰わく、「晋の公室はおそらく将に卑微に終わらん。国君は幼弱で、六卿が強く奢傲。これにより習慣を養い、習慣は実に常となる。卑微ならざらんや」。平子が曰わく、「あなたは年幼し。どこに国を懂らん」。秋八月、晋昭公が薨じた。

九月,大雩,旱也。鄭大旱,使屠擊、祝款、豎柎有事於桑山。斬其木,不雨。子產曰:“有事于山,蓺山林也,而斬其木,其罪大矣。”奪之官邑。

九月、大雩祭を行ったのは旱のためである。鄭国が大旱で、屠擊・祝款・竪柎を遣わして桑山で祭祀した。樹木を斬ったが雨が降らなかった。子産が曰わく、「山で祭祀するは山林を養護するを、しかるに樹木を斬るは罪大なり」。彼らの官邑を剥奪した。

冬十月,季平子如晉葬昭公。平子曰:“子服回之言猶信,子服氏有子哉!”

冬十月、季平子が晋に行き昭公を葬った。平子が曰わく、「子服回の話はなお信ずべし。子服氏に子あり!」

◇昭公十七年

◇昭公十七年

【經】十有七年春,小邾子來朝。夏六月甲戌朔,日有食之。秋,郯子來朝。

【経】十七年春、小邾子が朝見に来た。夏六月甲戌朔、日食。秋、郯子が朝見に来た。

八月,晉荀吳帥師滅陸渾之戎。冬,有星孛於大辰。楚人及吳戰於長岸。

八月、晋荀呉が軍を率いて陸渾之戎を滅ぼした。冬、星孛が大辰に現れた。楚人と呉が長岸で交戦した。

【傳】十七年春,小邾穆公來朝,公與之燕。季平子賦《採叔》,穆公賦《菁菁者莪》。昭子曰:“不有以國,其能久乎?”夏六月甲戌朔,日有食之。祝史請所用幣。昭子曰:“日有食之,天子不舉,伐鼓於社;諸侯用幣於社,伐鼓於朝。禮也。”平子御之,曰:“止也。唯正月朔,慝未作,日有食之,於是乎有伐鼓用幣,禮也。其餘則否。”大史曰:“在此月也。日過分而未至,三辰有災。於是乎百官降物,君不舉,闢移時,樂奏鼓,祝用幣,史用辭。故《夏書》曰:‘辰不集於房,瞽奏鼓,嗇夫馳,庶人走。’此月朔之謂也。當夏四月,是謂孟夏。”平子弗從。昭子退曰:“夫子將有異志,不君君矣。”

【伝】十七年春、小邾穆公が朝見に来て、昭公が彼と宴飲した。季平子が《采叔》を賦し、穆公が《菁菁者莪》を賦した。昭子が曰わく、「国を治めるに用いるなくして、長久あらんや」。夏六月甲戌朔、日食。祝史が用いる币を請示した。昭子が曰わく、「日食に、天子は盛饌を挙げず、社で鼓を伐ち。諸侯は社で币を用い、朝廷で鼓を伐つ。これは礼です」。平子が止めて曰わく、「止めよ。ただ正月初一のみ、陰悪まだ發作せず、日食に、ここに鼓を伐ち币を用いるは礼です。其余は然らず」。太史が曰わく、「この月に在り。日が春分を過ぎて夏至に至らず、三辰に災あり。ここに百官は物を降し、国君は盛饌を挙げず、避けて時を移し、楽人が鼓を撃ち、祝が币を用い、史が辞を用います。ゆえに《夏書》に曰く、『辰が房に集まらず、楽師が鼓を撃ち、嗇夫が馳せ、庶人が走る』。説くはこの月の初一です。正に夏四月に当り、孟夏と曰います」。平子が聴き従わなかった。昭子が退き曰わく、「夫子は将に異志あらん。国君を以て国君とせず」。

秋,郯子來朝,公與之宴。昭子問焉,曰:“少皞氏鳥名官,何故也?”郯子曰:“吾祖也,我知之。昔者黃帝氏以雲紀,故為雲師而云名;炎帝氏以火紀,故為火師而火名;共工氏以水紀,故為水師而水名;大皞氏以龍紀,故為龍師而龍名。我高祖少皞摯之立也,鳳鳥適至,故紀於鳥,為鳥師而鳥名。鳳鳥氏,歷正也;玄鳥氏,司分者也;伯趙氏,司至者也;青鳥氏,司啟者也;丹鳥氏,司閉者也。祝鳩氏,司徒也;鴡鳩氏,司馬也;鳲鳩氏,司空也;爽鳩氏,司寇也;鶻鳩氏,司事也。五鳩,鳩民者也。五雉,為五工正,利器用、正度量,夷民者也。九扈為九農正,扈民無淫者也。自顓頊以來,不能紀遠,乃紀於近,為民師而命以民事,則不能故也。”仲尼聞之,見於郯子而學之。既而告人曰:“吾聞之:‘天子失官,學在四夷’,猶信。”

秋、郯子が朝見に来て、昭公が彼と宴飲した。昭子が彼に問うて曰わく、「少皞氏が鳥で官を名づけたのは何の故か」。郯子が曰わく、「我が祖先で、我は知ります。昔黄帝氏は雲を以て記し、ゆえに雲師を為して雲で名づけ。炎帝氏は火を以て記し、ゆえに火師を為して火で名づけ。共工氏は水を以て記し、ゆえに水師を為して水で名づけ。大皞氏は龍を以て記し、ゆえに龍師を為して龍で名づけました。我が高祖少皞摯が即位し、鳳鳥が恰好至り、ゆえに鳥を以て記し、鳥師を為して鳥で名づけました。鳳鳥氏は暦正。玄鳥氏は春分秋分を主管。伯趙氏は冬至夏至を主管。青鳥氏は立春立夏を主管。丹鳥氏は立秋立冬を主管。祝鳩氏は司徒。鴡鳩氏は司馬。鳲鳩氏は司空。爽鳩氏は司寇。鶻鳩氏は司事。五鳩は百姓を聚集する者。五雉は五工正を為し、器用を便利し度量を端正し、百姓を平らかにする者。九扈は九農正を為し、百姓に節制なきを防止する者。顓頊より以来、遠きを記し得ず、近きを記し、百姓の師を為して民事を以て命名したのは、その旧法を用い得ざる故です」。仲尼が聞き、郯子に見えて学んだ。随いて人に告げて曰わく、「我は聞くに、『天子が官守を失えば、学問は四夷に在り』。なお信ずべし」。

晉侯使屠蒯如周,請有事於雒與三塗。萇弘謂劉子曰:“客容猛,非祭也,其伐戎乎?陸渾氏甚睦於楚,必是故也。君其備之!”乃警戎備。九月丁卯,晉荀吳帥師涉自棘津,使祭史先用牲於洛。陸渾人弗知,師從之。庚午,遂滅陸渾,數之以其貳於楚也。陸渾子奔楚,其眾奔甘鹿。周大獲。宣子夢文公攜荀吳而授之陸渾,故使穆子帥師,獻俘於文宮。

晋侯が屠蒯を遣わして周に行き、雒と三涂で祭祀することを請わせた。萇弘が劉子に曰わく、「客の容貌は凶猛で、祭祀にあらず、おそらく戎を攻めるのでしょうか。陸渾氏と楚は甚だ和睦す。必ずこの故です。君はなお防備せよ」。ここに戎の守備を警戒した。九月丁卯、晋荀呉が軍を率いて棘津より渡り、祭史を遣わして先に洛で犠牲を用いさせた。陸渾人が知らず、軍隊が従った。庚午、ここに陸渾を滅ぼし、彼の楚に二心あるを数説した。陸渾子が楚に出奔し、部衆が甘鹿に出奔した。周が大いに俘獲した。宣子が文公が荀呉を引いて陸渾を彼に授ける夢を見たので、穆子を遣わして軍を率いさせ、文宮で俘虜を献じた。

冬,有星孛於大辰,西及漢。申須曰:“彗所以除舊佈新也。天事恆象,今除於火,火出必布焉。諸侯其有火災乎?”梓慎曰:“往年吾見之,是其徵也,火出而見。今茲火出而章,必火入而伏。其居火也久矣,其與不然乎?火出,於夏為三月,於商為四月,於周為五月。夏數得天。若火作,其四國當之,在宋、衛、陳、鄭乎?宋,大辰之虛也;陳,大皞之虛也;鄭,祝融之虛也,皆火房也。

冬、星孛が大辰に現れ、西に向かって漢に至った。申須が曰わく、「彗は以て旧を除き新を布く所以です。天事は常に象あり。今火の上で掃除すれば、火が現れれば必ず布散します。諸侯におそらく火災があるでしょうか」。梓慎が曰わく、「往年に我が見たは征象で、火が現れてやっと見えました。今年火が現れて顕著なれば、必ず火が入りて潜伏します。それが火に留まることすでに久し。然らざらんや。火が現れるは夏は三月、商は四月、周は五月。夏の数は天を得ます。もし火が發作すれば、四国が承当するは宋・衛・陳・鄭でしょうか。宋は大辰の虚。陳は大皞の虚。鄭は祝融の虚。皆火の房です。

星孛天漢,漢,水祥也。衛,顓頊之虛也,故為帝丘,其星為大水,水,火之牡也。其以丙子若壬午作乎?水火所以合也。若火入而伏,必以壬午,不過其見之月。”鄭裨灶言於子產曰:“宋、衛、陳、鄭將同日火,若我用瓘斝玉瓚,鄭必不火。”子產弗與。

星孛が天漢にあり、漢は水の祥です。衛は顓頊の虚で、ゆえに帝丘。それの星は大水で、水は火の牡です。おそらく丙子か壬午に發作するでしょうか。水火の会合する所以です。もし火が入りて潜伏すれば、必ず壬午で、見えたその月を超えず」。鄭裨竈が子産に曰わく、「宋・衛・陳・鄭は同日に火災あるでしょう。もし我が瓘斝玉瓚を用いれば、鄭は必ず火災しません」。子産が与えなかった。

吳伐楚。陽匄為令尹,卜戰,不吉。司馬子魚曰:“我得上流,何故不吉。

呉国が楚を攻めた。陽匄が令尹を為し、交戦のため卜に問うたが不吉。司馬子魚が曰わく、「我らは上游を占めるに、なぜ不吉か。

且楚故,司馬令龜,我請改卜。”令曰:“魴也,以其屬死之,楚師繼之,尚大克之”。吉。戰於長岸,子魚先死,楚師繼之,大敗吳師,獲其乘舟餘皇。使隨人與後至者守之,環而塹之,及泉,盈其隧炭,陳以待命。吳公子光請於其眾,曰:“喪先王之乘舟,豈唯光之罪,眾亦有焉。請藉取之,以救死。”眾許之。

況んや楚の旧例は司馬が亀を命ず。我は改卜を請います」。命じて曰わく、「魴が部屬を帯びて死し、楚軍が接続し、大勝を望む」。吉。長岸で交戦し、子魚が先に死に、楚軍が接続し、呉軍を大いに敗り、彼らの乗舟余皇を繳獲した。随人と後到の者を遣わして看守させ、環りて堑を掘り、泉水に至り、隧道に炭を填め、陣を列ねて命を待った。呉公子光が部衆に請うて曰わく、「先王の乗舟を喪失したは、あえて光の罪のみか、衆人もまたあり。これに借りて取り帰し、死を救うことを請います」。衆人が許した。

使長鬛者三人,潛伏於舟側,曰:“我呼餘皇,則對,師夜從之。”三呼,皆迭對。楚人從而殺之,楚師亂,吳人大敗之,取餘皇以歸。

長鬚の三人を遣わして船側に潜伏させ、曰わく、「我が余皇を呼喊すれば、応答せよ。軍隊は夜に従う」。三度呼喊し、皆交替に応答した。楚人がついて彼らを殺し、楚軍が乱れ、呉人が彼らを大いに敗り、余皇を取って帰った。

◇昭公十八年

◇昭公十八年

【經】十有八年春王三月,曹伯須卒。夏五月壬午,宋、衛、陳、鄭災。六月,邾人入鄅。秋,葬曹平公。冬,許遷於白羽。

【経】十八年春、周天子の暦の三月、曹伯須が薨じた。夏五月壬午、宋・衛・陳・鄭に火災。六月、邾人が鄅に入った。秋、曹平公を葬った。冬、許国が白羽に遷った。

【傳】十八年春,王二月乙卯,周毛得殺毛伯過而代之。萇弘曰:“毛得必亡,是昆吾稔之日也,侈故之以。而毛得以濟侈於王都,不亡何待!”三月,曹平公卒。

【伝】十八年春、周天子の暦の二月乙卯、周毛得が毛伯過を殺し彼に代わった。萇弘が曰わく、「毛得は必ず亡びる。これは昆吾の惡貫滿盈の日で、奢侈の故です。毛得が王都で奢侈を成せば、亡びずして何を待たん!」。三月、曹平公が薨じた。

夏五月,火始昏見。丙子,風。梓慎曰:“是謂融風,火之始也。七日,其火作乎!”戊寅,風甚。壬午,大甚。宋、衛、陳、鄭皆火。梓慎登大庭氏之庫以望之,曰:“宋、衛、陳、鄭也。”數日,皆來告火。裨灶曰:“不用吾言,鄭又將火。”鄭人請用之,子產不可。子大叔曰:“寶,以保民也。若有火,國幾亡。可以救亡,子何愛焉?”子產曰:“天道遠,人道邇,非所及也,何以知之?灶焉知天道?是亦多言矣,豈不或信?”遂不與,亦不復火。

夏五月、大火星が始めて黄昏に現れた。丙子、風が吹いた。梓慎が曰わく、「これを融風と曰う、火の始まりです。七日後、火はおそらく發作するでしょう!」。戊寅、風は更に甚だしく。壬午、大いに甚だしく。宋・衛・陳・鄭が皆火災した。梓慎が大庭氏の庫に登り眺望して曰わく、「これは宋・衛・陳・鄭です」。数日後、皆来て火災を告知した。裨竈が曰わく、「我が言を用いざれば、鄭はまた火災するでしょう」。鄭人が用いることを請うたが、子産が同意しなかった。子大叔が曰わく、「寶は百姓を保つに用います。もし火災あれば、国家はほとんど亡びます。亡を救うべきに、あなたは何を愛惜しますか」。子産が曰わく、「天道は遠く、人道は近し。及ぶ所にあらず。何を以て知らん。竈はどこで天道を知らん。これも話が多すぎ、あえて偶に言中せざらんや」。ここに与えず、また火災せず。

鄭之未災也,裡析告子產曰:“將有大祥,民震動,國幾亡。吾身泯焉,弗良及也。國遷其可乎?”子產曰:“雖可,吾不足以定遷矣。”及火,裡析死矣,未葬,子產使輿三十人,遷其柩。火作,子產辭晉公子、公孫於東門。使司寇出新客,禁舊客勿出於宮。使子寬、子上巡群屏攝,至於大宮。使公孫登徙大龜。

鄭がまだ火災しない時、里析が子産に告知して曰わく、「将に大なる変異あらん。百姓が震動し、国家はほとんど亡びます。我が身は泯滅し、追いつけません。遷都は可ですか」。子産が曰わく、「たとえ可でも、我は遷を決定するに足らず」。火災に及び、里析はすでに死し、まだ葬られず、子産が車子三十人を遣わし、彼の柩を遷した。火が起き、子産が東門で晋国の公子・公孫を辞谢した。司寇を遣わして新来の客を送出させ、旧客が宮を出ぬよう禁止した。子寛・子上を遣わして各所を屏攝巡視させ、大宮に至らせた。公孫登を遣わして大亀を遷させた。

使祝史徙主祏於周廟,告於先君。使府人、庫人各儆其事。商成公儆司宮,出舊宮人,置諸火所不及。司馬、司寇列居火道,行火所焮。城下之人,伍列登城。

祝史を遣わして主祏を周廟に遷し、先君に告知させた。府人・庫人を遣わして各々職事を警戒させた。商成公が司宮を警戒し、旧宮人を放出し、火の及ばぬ所に安置した。司馬・司寇が火道に列し、火の焼く所を巡行した。城下の人は伍に按じて城に登った。

明日,使野司寇各保其徵。郊人助祝史除於國北,禳火於玄冥、回祿,祈於四鄘。

翌日、野司寇を遣わして各々征役を保せしめた。郊人が祝史を助けて国都の北辺で清除し、玄冥・回禄に火を禳い、四鄘に祈祷した。

書焚室而寬其徵,與之材。三日哭,國不市。使行人告於諸侯。宋、衛皆如是。

焼けた屋を登記して征役を放寛し、彼らに木材を与えた。三日哭して、国中で市を開かず。行人を遣わして諸侯に告知した。宋・衛も皆この如くした。

陳不救火,許不弔災,君子是以知陳、許之先亡也。

陳は火を救わず、許は災を弔わず。君子はこれにより陳・許が先に亡ぶと知った。

六月,鄅人藉稻。邾人襲鄅,鄅人將閉門。邾人羊羅攝其首焉,遂入之,盡俘以歸。鄅子曰:“餘無歸矣。”從帑於邾,邾莊公反鄅夫人,而舍其女。秋,葬曹平公。往者見周原伯魯焉,與之語,不說學。歸以語閔子馬。閔子馬曰:“周其亂乎?夫必多有是說,而後及其大人。大人患失而惑,又曰:‘可以無學,無學不害。’不害而不學,則苟而可。於是乎下陵上替,能無亂乎?夫學,殖也,不學將落,原氏其亡乎?”七月,鄭子產為火故,大為社,祓禳於四方,振除火災,禮也。乃簡兵大蒐,將為蒐除。子大叔之廟在道南,其寢在道北,其庭小。過期三日,使除徒陳於道南廟北,曰:“子產過女而命速除,乃毀於而鄉。”子產朝,過而怒之,除者南毀。子產及沖,使從者止之曰:“毀於北方。”

六月、鄅人が稲を収めるに借りた。邾人が鄅を襲撃し、鄅人が将に城門を關えんとした。邾人羊羅が門を守る者の頭を割り落とし、ここに入り、全部を俘虜として帰った。鄅子が曰わく、「我に帰処なし」。妻児に従って邾に至り、邾荘公が鄅夫人を返還し、その女を留めた。秋、曹平公を葬った。往く者が周原伯魯に見え、彼と話して学を好まぬを見た。帰りて閔子馬に告げた。閔子馬が曰わく、「周はおそらく乱れるでしょうか?必ず先にこのような説法が多く、然る後に大人に至ります。大人が失うを怕れて迷惑し、また曰わく、『学ばずとも可、学ばずして害なし』。害なければ学ばず、苟且も可とします。ここに下が陵して上が替わるに、乱れざらんや。学は殖です。学ばずんば将に凋落せん。原氏はおそらく滅亡するでしょうか」。七月、鄭子産が火災の故により、大挙して社を為し、四方に祓禳し、火災を振除したのは礼に合う。ここに軍隊を簡選して大蒐を行い、蒐のため道路を清除せんとした。子大叔の廟は道南に、寝は道北に、庭が小さかった。期限を過ぎること三日、除道徒衆を道南廟北に陳列させて曰わく、「子産があなたを経て速く除せと命ずれば、あなたがたの方に向かって毀れ」。子産が上朝し、経て怒り、除道の人が南に毀った。子産が路口に至り、従う人を遣わして阻止して曰わく、「北の方で毀れ」。

火之作也,子產授兵登陴。子大叔曰:“晉無乃討乎?”子產曰:“吾聞之,小國忘守則危,況有災乎?國之不可小,有備故也。”既,晉之邊吏讓鄭曰:“鄭國有災,晉君、大夫不敢寧居,卜筮走望,不愛牲玉。鄭之有災,寡君之憂也。今執事扌間然授兵登陴,將以誰罪?邊人恐懼,不敢不告。子產對曰:“若吾子之言,敝邑之災,君之憂也。敝邑失政,天降之災,又懼讒慝之間謀之,以啟貪人,薦為弊邑不利,以重君之憂。幸而不亡,猶可說也。不幸而亡,君雖憂之,亦無及也。鄭有他竟,望走在晉。既事晉矣,其敢有二心?”楚左尹王子勝言於楚子曰:“許於鄭,仇敵也,而居楚地,以不禮於鄭。晉、鄭方睦,鄭若伐許,而晉助之,楚喪地矣。君盍遷許?許不專於楚。鄭方有令政。

火が起きた時、子産が兵器を發して女墻に登った。子大叔が曰わく、「晋国がおそらく討伐するでしょうか」。子産が曰わく、「我は聞くに、小国が守を忘れれば危うし。況んや災あるをや。国家が小看せられざるは防備あるを以てです」。随いて、晋の辺吏が鄭を責めて曰わく、「鄭国に災あり、晋君・大夫は安居せず、卜筮して群望に奔走し、牲玉を愛惜せず。鄭に災あるは寡君の憂です。今執事が勁健に兵器を發して女墻に登る(底本「扌间」は撊)は、誰を怪罪せんとするか。辺人が恐懼し、敢えて告げざらざるなし」。子産が対えて曰わく、「吾子の曰う如く、敝邑の災は君の憂です。敝邑が政を失い、天が災を降し、また讒惡の人が間隙に乗じて謀り、貪人を啓開し、再び弊邑の不利とならんことを畏れ、君の憂を加重します。幸いに亡びずんば、なお解釈すべし。不幸にして亡びんば、君はたとえ憂うるも、及びません。鄭に別の辺境あれば、奔走して晋を指望します。すでに晋に事奉し、敢えて二心せんや」。楚左尹王子勝が楚子に曰わく、「許は鄭に対して仇敵で、楚地に住み、鄭に礼を以てせず。晋・鄭が正に和睦するに、鄭がもし許を攻め、晋が助ければ、楚は地を喪失します。君は何で許を遷さざるか。許は楚に専属しません。鄭は正に好政あり。

許曰:‘餘舊國也。’鄭曰:‘餘俘邑也。’葉在楚國,方城外之蔽也。土不可易,國不可小,許不可俘,仇不可啟,君其圖之。”楚子說。冬,楚子使王子勝遷許於析,實白羽。

許が曰く、『我は旧国なり』。鄭が曰く、『我は俘獲の邑なり』。葉は楚国にあって方城外の屏蔽です。土地は交換すべからず、国家は小看すべからず、許国は俘虜すべからず、仇は啓開すべからず。君はなお謀れ」。楚子が喜んだ。冬、楚子が王子勝を遣わして許を析に遷し、実は白羽である。

◇昭公十九年

◇昭公十九年

【經】十有九年春,宋公伐邾。夏五月戊辰,許世子止弒其君買。己卯,地震。秋,齊高發帥師伐莒。冬,葬許悼公。

【経】十九年春、宋公が邾国を攻めた。夏五月戊辰、許太子止がその国君買を弑した。己卯、地震。秋、斉高發が軍を率いて莒国を攻めた。冬、許悼公を葬った。

【傳】十九年春,楚工尹赤遷陰於下陰,令尹子瑕城郟。叔孫昭子曰:“楚不在諸侯矣!其僅自完也,以持其世而已。”

【伝】十九年春、楚工尹赤が陰を下陰に遷し、令尹子瑕が郟に城を築いた。叔孫昭子が曰わく、「楚は諸侯の中に在らず!ただ自ら保全して世代を維持するのみ」。

楚子之在蔡也,郹陽封人之女奔之,生大子建。及即位,使伍奢為之師。

楚子が蔡にいるとき、郹陽封人の女が彼に奔り、太子建を生んだ。即位に及び、伍奢を遣わして彼の師とした。

費無極為少師,無寵焉,欲譖諸王,曰:“建可室矣。”王為之聘於秦,無極與逆,勸王取之,正月,楚夫人嬴氏至自秦。

費無極が少師を為し、寵を得ず、王に誣陷せんと欲して曰わく、「建は家を成すべきです」。王が彼のために秦に聘問し、無極が迎えに参与し、王に彼女を娶るを勸めた。正月、楚夫人嬴氏が秦より至った。

鄅夫人,宋向戌之女也,故向寧請師。二月,宋公伐邾,圍蟲。三月,取之。乃盡歸鄅俘。

鄅夫人は宋向戌の女で、ゆえに向寧が兵を出すことを請うた。二月、宋公が邾国を攻め、虫を包囲した。三月、取った。ここに鄅の俘虜を全部帰還した。

夏,許悼公瘧。五月戊辰,飲大子止之藥卒。大子奔晉。書曰:“弒其君。”

夏、許悼公が瘧疾した。五月戊辰、太子止の藥を飲んで薨じた。太子が晋に出奔した。《春秋》に「その君を弑す」と記載した。

君子曰:“盡心力以事君,舍藥物可也。”

君子が曰わく、「心力を盡くして国君に事奉し、藥物を放棄すれば可です」。

邾人、郳人、徐人會宋公。乙亥,同盟於蟲。

邾人・郳人・徐人が宋公と会見した。乙亥、虫で共に盟約を結んだ。

楚子為舟師以伐濮。費無極言於楚子曰:“晉之伯也,邇於諸夏,而楚闢陋,故弗能與爭。若大城城父而置大子焉,以通北方,王收南方,是得天下也。”王說,從之。故太子建居於城父。

楚子が舟師を組建して濮を攻めた。費無極が楚子に曰わく、「晋が稱覇し、諸夏に接近し、楚は偏僻簡陋で、ゆえに争えません。もし大挙して城父の城を修築して太子を安置し、北方を溝通し、王が南方を収めれば、これは天下を得ることです」。王が喜び、聴き従った。ゆえに太子建が城父に住んだ。

令尹子瑕聘於秦,拜夫人也。

令尹子瑕が秦に聘問したのは夫人を拜謝するためである。

秋,齊高發帥師伐莒。莒子奔紀鄣。使孫書伐之。初,莒有婦人,莒子殺其夫,已為嫠婦。及老,托於紀鄣,紡焉以度而去之。及師至,則投諸外。或獻諸子占,子占使師夜縋而登。登者六十人。縋絕。師鼓譟,城上之人亦噪。莒共公懼,啟西門而出。七月丙子,齊師入紀。

秋、斉高發が軍を率いて莒国を攻めた。莒子が紀鄣に出奔した。孫書を遣わして攻めさせた。初め、莒に婦人あり、莒子がその夫を殺し、自ら寡婦となった。老いて、紀鄣に托身し、紡線で城を量り去った。軍が至ると、城外に投げた。ある人が子占に献じ、子占が軍に夜に繩で縋り登らせた。登った者六十人。繩が断れた。軍が鼓を撃ち喧噪し、城上の人も喧噪した。莒共公が懼れ、西門を開いて出た。七月丙子、斉軍が紀に入った。

是歲也,鄭駟偃卒。子游娶於晉大夫,生絲,弱。其父兄立子瑕。子產憎其為人也,且以為不順,弗許,亦弗止。駟氏聳。他日,絲以告其舅。冬,晉人使以幣如鄭,問駟乞之立故。駟氏懼,駟乞欲逃。子產弗遣。請龜以卜,亦弗予。

この年、鄭駟偃が薨じた。子游が晋国の大夫家より妻を娶り、絲を生み、幼弱。彼の父兄が子瑕を立てた。子産がその人となりを憎悪し、かつ順ならずと以為し、許さず、また阻止しなかった。駟氏が驚懼した。後に、絲がその舅に告げた。冬、晋人が币を帯びて鄭に来させ、駟乞の立ち得た故を問うた。駟氏が懼れ、駟乞が逃れんと欲した。子産が打發せず。亀で占卜することを請うも、与えなかった。

大夫謀對,子產不待而對客曰:“鄭國不天,寡君之二三臣,札瘥夭昏,今又喪我先大夫偃。其子幼弱,其一二父兄懼隊宗主,私族於謀而立長親。寡君與其二三老曰:‘抑天實剝亂是,吾何知焉?’諺曰:‘無過亂門。’民有兵亂,猶憚過之,而況敢知天之所亂?今大夫將問其故,抑寡君實不敢知,其誰實知之?平丘之會,君尋舊盟曰:‘無或失職。’若寡君之二三臣,其即世者,晉大夫而專制其位,是晉之縣鄙也,何國之為?”辭客幣而報其使。晉人舍之。

大夫が應對を謀り、子産が待たずに客に対して曰わく、「鄭国は天に保佑されず、寡君の几位の臣が疫病夭死し、今また我らの先大夫偃を喪失しました。その子が幼弱で、一两位の父兄が宗主の墜落を畏れ、私に族里で年長の親を立てるを謀りました。寡君がその几位の老臣と曰わく、『おそらく天が実にこれを剥乱するか。我らは何を知らん』。諺に曰く、『乱門を経るな』。百姓に兵乱あれば、なお経るを畏れ、況んや敢えて天の乱る所を知らんや。今大夫が将に故を問わんとすれば、寡君は実に敢えて知らず、誰が実に知らん。平丘之会に、君が旧盟を重温して曰わく、『人の職を失わしむるな』。もし寡君の几位の臣に去世する者あれば、晋大夫がその位を専断するは、これは晋の県鄙で、何を以て国とせん」。客の币を辞谢し、使者に回報した。晋人がこの事を放下した。

楚人城州來。沈尹戌曰:“楚人必敗。昔吳滅州來,子旗請伐之。王曰:‘吾未撫吾民。’今亦如之,而城州來以挑吳,能無敗乎?”侍者曰:“王施捨不倦,息民五年,可謂撫之矣。”戌曰:“吾聞撫民者,節用於內,而樹德於外,民樂其性,而無寇仇。今宮室無量,民人日駭,勞罷死轉,忘寢與食,非撫之也。”

楚人が州来に城を築いた。沈尹戌が曰わく、「楚人は必ず敗れます。昔呉が州来を滅ぼしたとき、子旗が攻めるを請いました。王が曰わく、『我はまだ我が百姓を安撫せず』。今もこの如くなのに、州来に城を築いて呉を挑動するは、敗れざらんや」。侍者が曰わく、「王が施舍に倦まず、百姓を五年休息させたは安撫と言えます」。戌が曰わく、「我は聞くに、百姓を安撫する者は内に用度を節約し、外に徳を樹立し、百姓が性命を楽しみ、寇仇なし。今宮室に限量なく、民人が日日に驚駭し、労苦疲弊して死転し、寝食を忘るるは安撫にあらず」。

鄭大水,龍鬥於時門之外洧淵。國人請為禜焉,子產弗許,曰:“我鬥,龍不我覿也。龍鬥,我獨何覿焉?禳之,則彼其室也。吾無求於龍,龍亦無求於我。”

鄭国に大水あり、龍が時門の外の洧淵で争闘した。国人が禜祭を行うことを請うたが、子産が許さず曰わく、「我らが争闘するに、龍は我らを見ず。龍が争闘するに、我はあえて独り見に行かん。それを禳うに、そこはその屋です。我が龍に求むるなく、龍が我に求むるなし」。

乃止也。

ここに止めた。

令尹子瑕言蹶由於楚子曰:“彼何罪?諺所謂‘室於怒,市於色’者,楚之謂矣。舍前之忿可也。”乃歸蹶由。

令尹子瑕が楚子に蹶由を説いて曰わく、「彼に何の罪があるか。諺の曰う『家で怒を發し、市で色を作す』は楚を説くものです。从前の忿恨を放下すれば可です」。ここに蹶由を帰還した。

◇昭公二十年

◇昭公二十年

【經】二十年春王正月。夏,曹公孫會自鄸出奔宋。秋,盜殺衛侯之兄縶。

【経】二十年春、周天子の暦の正月。夏、曹公孫会が鄸より宋に出奔した。秋、盗が衛侯の兄絷を殺した。

冬十月,宋華亥、向寧、華定出奔陳。十有一月辛卯,蔡侯盧卒。

冬十月、宋華亥・向寧・華定が陳に出奔した。十一月辛卯、蔡侯盧が薨じた。

【傳】二十年春,王二月己丑,日南至。梓慎望氛曰:“今茲宋有亂,國幾亡,三年而後弭。蔡有大喪。”叔孫昭子曰:“然則戴、桓也!汏侈無禮已甚,亂所在也。”

【伝】二十年春、周天子の暦の二月己丑、日南至。梓慎が氛を望んで曰わく、「今年宋に乱あり、国家はほとんど亡び、三年して後に平息す。蔡に大喪あり」。叔孫昭子が曰わく、「然らば戴・桓です!驕汰奢侈して礼なく、すでに過分なれば、乱はそこに在り」。

費無極言於楚子曰:“建與伍奢將以方城之外叛。自以為猶宋、鄭也,齊、晉又交輔之,將以害楚。其事集矣。”王信之,問伍奢。伍奢對曰:“君一過多矣,何信於讒?”王執伍奢。使城父司馬奮揚殺大子,未至,而使遣之。三月,大子建奔宋。王召奮揚,奮揚使城父人執己以至。王曰:“言出於餘口,入於爾耳,誰告建也?”對曰:“臣告之。君王命臣曰:‘事建如事餘。’臣不佞,不能苟貳。奉初以還,不忍後命,故遣之。既而悔之,亦無及已。”王曰:“而敢來,何也?”對曰:“使而失命,召而不來,是再奸也。逃無所入。”王曰:“歸。”從政如他日。

費無極が楚子に曰わく、「建と伍奢が将に方城の外を帯びて叛変せんとします。自ら以為うらくなお宋・鄭の如く、斉・晋がまた交差して輔助し、将に楚を害せんとします。事はすでに凑斉しました」。王が信じ、伍奢に問うた。伍奢が対えて曰わく、「君王の一次の過はすでに多し。なぜ讒言を聴信しますか」。王が伍奢を執えた。城父司馬奮揚を遣わして太子を殺させたが、まだ至らず、先に人を遣わして彼を打發し去らせた。三月、太子建が宋に出奔した。王が奮揚を召し、奮揚が城父人に自らを執えさせて至った。王が曰わく、「話が我の口より出て、あなたの耳に入る。誰が建に告げたか」。対えて曰わく、「臣が告げました。君王が臣に命じて曰わく、『建に事奉するは我に事奉るが如く』。臣は不才で、苟且に二心できません。最初の命令を奉じて帰り、後命に按るに忍びず、ゆえに彼を打發しました。随いて悔いるも、及びません」。王が曰わく、「あなたは敢えて来る。何の故か」。対えて曰わく、「出使して命令を失い、召されて来ざるは、再び触犯です。逃げて入る所なし」。王が曰わく、「帰れ」。往日の如く政に従った。

無極曰:“奢之子材,若在吳,必憂楚國,盍以免其父召之。彼仁,必來。

無極が曰わく、「奢の子は才能あり。もし呉に在れば、必ず楚国を憂えます。何で彼の父を免ずるを以て召さざるか。彼は仁で、必ず来ます。

不然,將為患。”王使召之,曰:“來,吾免而父。”棠君尚謂其弟員曰:“爾適吳,我將歸死。吾知不逮,我能死,爾能報。聞免父之命,不可以莫之奔也;親戚為戮,不可以莫之報也。奔死免父,孝也;度功而行,仁也;擇任而往,知也;知死不闢,勇也。父不可棄,名不可廢,爾其勉之,相從為愈。”伍尚歸。

然らずんば、将に禍患となります」。王が人を遣わして彼らを召して曰わく、「来い。我はあなたがたの父を免じん」。棠君尚が弟員に曰わく、「あなたは呉に行け。我は将に帰りて死せん。我が智慮は及ばず、我は死し得、あなたは報い得。父を免ずる命を聞いて、奔赴する人なくすべからず。親戚が殺されて、報復する人なくすべからず。死に奔赴して父を免ずるは孝。功労を度量して行動するは仁。任務を選択して往くは智。死を知りて避けざるは勇。父は棄つべからず、名は廃すべからず。あなたは努力せよ。互いに成全するがよし」。伍尚が帰った。

奢聞員不來,曰:“楚君、大夫其旰食乎!”楚人皆殺之。

奢が員の来ざるを聞き、曰わく、「楚君・大夫はおそらく晩く飯を食うでしょう!」。楚人が皆彼らを殺した。

員如吳,言伐楚之利於州於。公子光曰:“是宗為戮而欲反其仇,不可從也。”

員が呉国に到り、州于に楚を攻める利を陳説した。公子光が曰わく、「これは宗族が殺されて仇を報復せんとするもの。聴くべからず」。

員曰:“彼將有他志。餘姑為之求士,而鄙以待之。”乃見鱄設諸焉,而耕於鄙。

員が曰わく、「彼は将に別の心志あらん。我は姑く彼のために士を求め、辺境で待とう」。ここに鱄設諸を引見し、辺境で耕種した。

宋元公無信多私,而惡華、向。華定、華亥與向寧謀曰:“亡愈於死,先諸?”華亥偽有疾,以誘群公子。公子問之,則執之。夏六月丙申,殺公子寅、公子御戎、公子朱、公子固、公孫援、公孫丁,拘向勝、向行於其廩。公如華氏請焉,弗許,遂劫之。癸卯,取大子欒與母弟辰、公子地以為質。公亦取華亥之子無戚、向寧之子羅、華定之子啟,與華氏盟,以為質。

宋元公は信用なく私心多く、華・向を悪んだ。華定・華亥と向寧が謀って曰わく、「逃亡は死に勝る。先に手を動かそうか」。華亥が病を偽り、諸公子を誘引した。公子が問えば執えた。夏六月丙申、公子寅・公子御戎・公子朱・公子固・公孫援・公孫丁を殺し、向勝・向行を糧倉に拘した。公が華氏に請うたが許されず、ここに劫持した。癸卯、太子欒と同母弟辰・公子地を取って人質とした。公もまた華亥の子無戚・向寧の子羅・華定の子啓を取り、華氏と盟約を結び、人質とした。

衛公孟縶狎齊豹,奪之司寇與鄄,有役則反之,無則取之。公孟惡北宮喜、褚師圃,欲去之。公子朝通於襄夫人宣姜,懼,而欲以作亂。故齊豹、北宮喜、褚師圃、公子朝作亂。

衛公孟縶が斉豹を軽慢し、彼の司寇と鄄を奪い、役事あれば還し、なければ取った。公孟が北宮喜・褚師圃を悪み、彼らを去らせんと欲した。公子朝が襄夫人宣姜と私通し、懼れ、乱を作さんと欲した。ゆえに斉豹・北宮喜・褚師圃・公子朝が乱を作した。

初,齊豹見宗魯於公孟,為驂乘焉。將作亂,而謂之曰:“公孟之不善,子所知也。勿與乘,吾將殺之。”對曰:“吾由子事公孟,子假吾名焉,故不吾遠也。雖其不善,吾亦知之。抑以利故,不能去,是吾過也。今聞難而逃,是僣子也。子行事乎,吾將死之,以周事子,而歸死於公孟,其可也。”

初め、斉豹が公孟に宗魯を引見し、驂乗とした。将に乱を作さんとして、彼に曰わく、「公孟は不善、あなたはこれを知る。共に乘るな。我は将に彼を殺さん」。対えて曰わく、「我はあなたを経て公孟に事奉し、あなたが我に名を借すので、我を疏遠せず。たとえ彼が不善でも、我は知る。ただ利の故により去る能わずは我の過です。今難を聞いて逃げるはあなたを冒犯する。あなたは事を行え。我は将にこれがため死せんとし、以てあなたに事奉るを周全し、帰りて公孟に死せん。おそらく可ならん」。

丙辰,衛侯在平壽,公孟有事於蓋獲之門外,齊子氏帷於門外而伏甲焉。使祝蛙置戈於車薪以當門,使一乘從公孟以出。使華齊御公孟,宗魯驂乘。及閎中,齊氏用戈擊公孟,宗魯以背蔽之,斷肱,以中公孟之肩,皆殺之。

丙辰、衛侯が平寿にいて、公孟が蓋獲の門外で事あり、斉子氏が門外に帷を設けて甲士を埋伏した。祝蛙を遣わして戈を車薪上に置き門を擋がせ、一乘を遣わして公孟に従い出させた。華斉を遣わして公孟のために駕車させ、宗魯が驂乗となった。閎中に至り、斉氏が戈を以て公孟を撃ち、宗魯が背を以て遮蔽し、肱が断れ、公孟の肩に中り、皆殺された。

公聞亂,乘,驅自閱門入,慶比御公,公南楚驂乘,使華寅乘貳車。及公宮,鴻魋駟乘於公,公載寶以出。褚師子申遇公於馬路之衢,遂從。過齊氏,使華寅肉袒,執蓋以當其闕。齊氏射公,中南楚之背,公遂出。寅閉郭門,逾而從公。公如死鳥,析朱鉏宵從竇出,徒行從公。

公が乱を聞き、車に乘り、閲門より馳入し、慶比が公のために駕車し、公南楚が驂乗となり、華寅を遣わして副車に乘らせた。公宮に至り、鴻魋が公車上で駟乗となり、公は寶を載せて出た。褚師子申が馬路の衢で公に遇い、ここに従った。斉氏を経るに、華寅を遣わして肉袒し、蓋を持って缺口を擋がせた。斉氏が公を射、南楚の背に中り、公はここに出た。寅が郭門を關じ、翻って公に従った。公が死鳥に至り、析朱鉏が夜に竇より出て、歩行して公に従った。

齊侯使公孫青聘於衛。既出,聞衛亂,使請所聘。公曰:“猶在竟內,則衛君也。”乃將事焉。遂從諸死鳥,請將事。辭曰:“亡人不佞,失守社稷,越在草莽,吾子無所辱君命。”賓曰:“寡君命下臣於朝,曰:‘阿下執事。’臣不敢貳。”主人曰:“君若惠顧先君之好,昭臨敝邑,鎮撫其社稷,則有宗祧在。”

斉侯が公孫青を遣わして衛に聘問させた。すでに出發し、衛乱を聞き、人を遣わして聘する所を請示した。公が曰わく、「まだ境内に在れば、衛君である」。ここに将に聘事を行わんとした。死鳥に従い至り、聘事を行うことを請うた。推辞して曰わく、「逃亡の人は不才で、社稷を失守し、草莽に越す。吾子に屈尊すべき君命なし」。賓客が曰わく、「寡君が朝廷で下臣に命じて曰く、『下執事に親附せよ』。臣は敢えて二心せず」。主人が曰わく、「君がもし惠を加え先君の友好を顧念し、敝邑を照臨し、社稷を鎮撫せば、すなわち宗廟あり」。

乃止。衛侯固請見之,不獲命,以其良馬見,為未致使故也。衛侯以為乘馬。賓將掫,主人辭曰:“亡人之憂,不可以及吾子。草莽之中,不足以辱從者。敢辭。”賓曰:“寡君之下臣,君之牧圉也。若不獲扞外役,是不有寡君也。臣懼不免於戾,請以除死。”親執鐸,終夕與於燎。

ここに止まった。衛侯が堅持して見ることを請うも許されず、その良馬を以て見たのはまだ出使が完成せざる故である。衛侯が乘馬とした。賓客が将に夜を巡らんとし、主人が推辞して曰わく、「逃亡人の憂は吾子に及ぶべからず。草莽の中、従を屈尊するに足らず。敢えて辞谢します」。賓客が曰わく、「寡君の下臣は君の牧圉です。もし捍衛外役を獲得せずば、心中に寡君なし。臣は罪を免れぬを畏れ、これを以て死を免れるを請います」。自ら鐸を持ち、整夜燎火に参与した。

齊氏之宰渠子召北宮子。北宮氏之宰不與聞謀,殺渠子,遂伐齊氏,滅之。

斉氏の家宰渠子が北宮子を召した。北宮氏の家宰が謀に参与せず、渠子を殺し、ここに斉氏を攻めて滅ぼした。

丁巳晦,公入,與北宮喜盟於彭水之上。秋七月戊午朔,遂盟國人。八月辛亥,公子朝、褚師圃、子玉霄、子高魴出奔晉。閏月戊辰,殺宣姜。衛侯賜北宮喜諡曰貞子,賜析朱鉏諡曰成子,而以齊氏之墓予之。

丁巳月末、公が入り、北宮喜と彭水上で盟約を結んだ。秋七月戊午朔、ここに国人と盟約を結んだ。八月辛亥、公子朝・褚師圃・子玉霄・子高魴が晋に出奔した。閏月戊辰、宣姜を殺した。衛侯が北宮喜に諡号貞子を賜い、析朱鉏に諡号成子を賜い、かつ斉氏の墓地を彼らに与えた。

衛侯告寧於齊,且言子石。齊侯將飲酒,遍賜大夫曰:“二三子之教也。”

衛侯が斉に安寧を報告し、かつ子石を説いた。斉侯が将に酒を飲まんとして、遍く大夫に賜して曰わく、「これは几位の教導です」。

苑何忌辭,曰:“與於青之賞,必及於其罰。在《康誥》曰:‘父子兄弟,罪不相及。’況在群臣?臣敢貪君賜以幹先王?”琴張聞宗魯死,將往吊之。仲尼曰:“齊豹之盜,而孟縶之賊,女何吊焉?君子不食奸,不受亂,不為利疚於回,不以回待人,不蓋不義,不犯非禮。”

苑何忌が推辞して曰わく、「青の賞に参与すれば、必ず彼の罰に及ぶ。《康誥》に曰く、『父子兄弟は罪は互いに及ぼさず』。況んや群臣に在るをや。臣は敢えて君の賜を貪りて先王を冒犯せんや」。琴張が宗魯の死を聞き、将に往きて弔唁せんとした。仲尼が曰わく、「斉豹の盗、孟縶の賊、あなたは何を弔唁するか。君子は奸を食せず、乱を受けず、利のため邪僻の中に内疚せず、邪僻を以て人に對せず、不義を掩蓋せず、非礼を触犯せず」。

宋華、向之亂,公子城、公孫忌、樂舍、司馬強、向宜、向鄭、楚建、郳甲出奔鄭。其徒與華氏戰於鬼閻,敗子城。子城適晉。華亥與其妻必盥而食所質公子者而後食。公與夫人每日必適華氏,食公子而後歸。華亥患之,欲歸公子。

宋華・向の乱に、公子城・公孫忌・楽舍・司馬強・向宜・向鄭・楚建・郳甲が鄭に出奔した。彼らの徒衆が華氏と鬼閻で交戦し、子城を敗った。子城が晋に行った。華亥がその妻と必ず盥洗して後に人質たる公子に飯を給し、然る後に自ら食した。公と夫人が毎日必ず華氏に至り、公子に飯を給して後に帰った。華亥が憂え、公子を歸還せんと欲した。

向寧曰:“唯不信,故質其子。若又歸之,死無日矣。”公請於華費遂,將攻華氏。對曰:“臣不敢愛死,無乃求去憂而滋長乎!臣是以懼,敢不聽命?”公曰:“子死亡有命,餘不忍其訽。”冬十月,公殺華、向之質而攻之。戊辰,華、向奔陳,華登奔吳。向寧欲殺大子,華亥曰:“幹君而出,又殺其子,其誰納我?且歸之有庸。”使少司寇牼以歸,曰:“子之齒長矣,不能事人,以三公子為質,必免。”公子既入,華牼將自門行。公遽見之,執其手曰:“餘知而無罪也,入,復而所。”

向寧が曰わく、「ただ信用なきが故に、彼の子を以て人質としました。もしまた歸還せば、死は数日なきです」。公が華費遂に請い、将に華氏を攻めんとした。対えて曰わく、「臣は敢えて死を愛惜せず。憂を去らんと求めて滋長せんことを恐れます!臣はこれにより懼れ、敢えて命を聴かざらん」。公が曰わく、「子の死生は命あり。我はあの辱罵に忍びず」。冬十月、公が華・向の人質を殺しかつ攻めた。戊辰、華・向が陳に出奔し、華登が呉に出奔した。向寧が太子を殺さんと欲し、華亥が曰わく、「国君を冒犯して出て、またその子を殺せば、誰が我らを接納するか。況んや彼を歸還するは功労あり」。少司寇牼を遣わして送還し、曰わく、「あなたの年齒は長し。他人に事奉する能わず。三位の公子を以て人質とすれば、必ず禍を免れん」。公子がすでに入り、華牼が将に門より行かんとした。公が急いで彼に見え、彼の手を握り曰わく、「我はあなたに罪なきを知る。入れ、あなたの処所を回復せよ」。

齊侯疥,遂痁,期而不瘳,諸侯之賓問疾者多在。梁丘據與裔款言於公曰:“吾事鬼神豐,於先君有加矣。今君疾病,為諸侯憂,是祝史之罪也。諸侯不知,其謂我不敬。君盍誅於祝固、史囂以辭賓?”公說,告晏子。晏子曰:“日宋之盟,屈建問範會之德於趙武。趙武曰:‘夫子之家事治,言於晉國,竭情無私。

斉侯が疥瘡を長引かせ、ここに瘧疾し、一年愈えず、諸侯の賓客の疾を問う者多く在り。梁丘據と裔款が公に曰わく、「我らが鬼神に事奉するは豊盛で、先君より増加あり。今君王が疾病し、諸侯の憂となるは祝史の罪です。諸侯が知らず、おそらく我らを不敬と曰うでしょう。君は何で祝固・史囂を誅殺して賓客に辞谢せざるか」。公が喜び、晏子に告げた。晏子が曰わく、「往日宋の盟に、屈建が趙武に范会の徳を問いました。趙武が曰わく、『夫子の家事は治理し、晋国で話すは竭情にして私なし。

其祝史祭祀,陳信不愧。其家事無猜,其祝史不祈。’建以語康王,康王曰:‘神人無怨,宜夫子之光輔五君,以為諸侯主也。’”公曰:“據與款謂寡人能事鬼神,故欲誅於祝史。子稱是語,何故?”對曰:“若有德之君,外內不廢,上下無怨,動無違事,其祝史薦信,無愧心矣。是以鬼神用饗,國受其福,祝史與焉。其所以蕃祉老壽者,為信君使也,其言忠信於鬼神。其適遇淫君,外內頗邪,上下怨疾,動作辟違,從欲厭私。高臺深池,撞鐘舞女,斬刈民力,輸掠其聚,以成其違,不恤後人。暴虐淫從,肆行非度,無所還忌,不思謗讟,不憚鬼神,神怒民痛,無悛於心。其祝史薦信,是言罪也。其蓋失數美,是矯誣也。進退無辭,則虛以求媚。是以鬼神不饗其國以禍之,祝史與焉。所以夭昏孤疾者,為暴君使也。其言僣嫚於鬼神。”公曰:“然則若之何?”對曰:“不可為也:山林之木,衡鹿守之;澤之萑蒲,舟鮫守之;藪之薪蒸,虞候守之。海之鹽蜃,祈望守之。縣鄙之人,入從其政。逼介之關,暴徵其私。承嗣大夫,強易其賄。

その祝史の祭祀は誠信を陳列して慚愧せず。その家事に猜疑なく、祝史は祈祷せず』。建が康王に告げ、康王が曰わく、『神人に怨なく、怪しむに足らず夫子が五位の国君を光輔して諸侯の主となる』」。公が曰わく、「據と款が寡人は鬼神に事奉し得ると曰い、ゆえに祝史を誅殺せんと欲す。あなたがこれらの話を称説するは何の故か」。対えて曰わく、「もし徳ある国君ならば、外内に廢棄なく、上下に怨なく、行動が事に違背せず、祝史が誠信を進献し、愧心なし。ゆえに鬼神が享用し、国家が福を受け、祝史もまた参与します。ゆえに蕃祉長寿し得るは、誠信の国君のため出使し、その話が鬼神に忠信なればです。もし恰好淫君に遇えば、外内は偏邪し、上下は怨恨し、動作は邪僻して違背し、欲望を放縦して私を滿足します。高台深池に撞鐘舞女、民力を斬割し、輸送掠奪して積聚し、以て違背を成就し、後人を体恤せず。暴虐淫從し、肆行に法度なく、顧忌なく、怨謗を思わず、鬼神を怕れず、神怒り民痛めど、心中に改過せず。祝史が誠信を進献すれば、すなわち罪を説く。過失を掩蓋し美を數説するは矯誣です。進退に辞なく、空虚を以て媚を求む。ゆえに鬼神がその国を享用せず禍を降し、祝史もまた参与します。ゆえに夭死孤疾するは暴君のため出使です。その話は鬼神に僭越輕慢です」。公が曰わく、「然らばどうするか」。対えて曰わく、「為すべからず。山林の木は衡鹿が看守し、澤の萑蒲は舟鮫が看守し、藪の薪蒸は虞候が看守し、海の鹽蜃は祈望が看守します。縣鄙の人が入りて政事に従い、逼近の關はその私を暴征し、承嗣大夫はその賄を強換します。

布常無藝,征斂無度;宮室日更,淫樂不違。內寵之妾,肆奪於市;外寵之臣,僣令於鄙。私慾養求,不給則應。民人苦病,夫婦皆詛。祝有益也,詛亦有損。

常規を颁布して限度なく、征斂に節度なし。宮室は日日に更換し、淫楽は離れず。内寵の妾は市上で放肆に奪取し、外寵の臣は辺鄙で僭越して令を發し、私欲を供養し求取し、給せざれば承應して罪を治します。民人が苦病し、夫婦は皆詛咒します。祝に益処あれば、詛咒にも損害あり。

聊、攝以東,姑、尤以西,其為人也多矣。雖其善祝,豈能勝億兆人之詛?君若欲誅於祝史,修德而後可。”公說,使有司寬政,毀關,去禁,薄斂,已責。

聊・攝以東、姑・尤以西、そこの人は多し。たとえ祝に善くとも、どうして億兆人の詛咒に勝たん。君がもし祝史を誅殺せんと欲せば、徳を修めて然る後に可です」。公が喜び、有司に政を放寛させ、關を毀り、禁を去り、斂を減輕し、債を免除した。

十二月,齊侯田於沛,招虞人以弓,不進。公使執之,辭曰:“昔我先君之田也,旃以招大夫,弓以招士,皮冠以招虞人。臣不見皮冠,故不敢進。”乃舍之。仲尼曰:“守道不如守官,君子韙之。”

十二月、斉侯が沛で打獵し、弓を以て虞人を召したが進まなかった。公が人を遣わして執えさせ、推辞して曰わく、「昔我らの先君が打獵するに、旃を以て大夫を召し、弓を以て士を召し、皮冠を以て虞人を召しました。臣は皮冠を見ず、ゆえに敢えて進まず」。ここに釋放した。仲尼が曰わく、「道を守るは官を守るに如かず。君子は対と以為す」。

齊侯至自田,晏子侍於遄臺,子猶馳而造焉。公曰:“唯據與我和夫!”晏子對曰:“據亦同也,焉得為和?”公曰:“和與同異乎?”對曰:“異。和如羹焉,水火醯醢鹽梅以烹魚肉,燀之以薪。宰夫和之,齊之以味,濟其不及,以洩其過。君子食之,以平其心。君臣亦然。君所謂可而有否焉,臣獻其否以成其可。君所謂否而有可焉,臣獻其可以去其否。是以政平而不幹,民無爭心。故《詩》曰:‘亦有和羹,既戒既平。鬷嘏無言,時靡有爭。’先王之濟五味,和五聲也,以平其心,成其政也。聲亦如味,一氣,二體,三類,四物,五聲,六律,七音,八風,九歌,以相成也。清濁,小大,短長,疾徐,哀樂,剛柔,遲速,高下,出入,周疏,以相濟也。君子聽之,以平其心。心平,德和。故《詩》曰:‘德音不瑕。’今據不然。君所謂可,據亦曰可;君所謂否,據亦曰否。若以水濟水,誰能食之?若琴瑟之專一,誰能聽之?同之不可也如是。”

斉侯が打獵より帰り、晏子が遄台で陪侍し、子猶が馬を馳せて來至した。公が曰わく、「ただ據が我と和谐する哉!」。晏子が対えて曰わく、「據もまた同なり。どこを以て和と称せん」。公が曰わく、「和と同に異ありや」。対えて曰わく、「異あり。和は羹の如く、水火醯醢鹽梅を以て魚肉を烹し、薪を以て燒く。宰夫が調和し、味を以て齊え、不足を補い、過を泄る。君子が食して心を平らかにす。君臣もまたこの如し。君の謂う可に否あれば、臣が否を献上して可を成就す。君の謂う否に可あれば、臣が可を献上して否を去る。ゆえに政事は平らかで冒犯せず、百姓に爭心なし。ゆえに《詩》に曰く、『また和羹あり、既に戒備しまた平らかなり。總祭に言なく、時時に爭いなし』。先王は五味を濟し、五聲を和して心を平らかにし、政を成就しました。聲もまた味の如く、一氣・二體・三類・四物・五聲・六律・七音・八風・九歌を以て相成す。清濁・小大・短長・疾徐・哀樂・剛柔・遲速・高下・出入・周疏を以て相濟す。君子が聽いて心を平らかにす。心平らかなれば徳和す。ゆえに《詩》に曰く、『徳音に瑕なし』。今據は然らず。君の謂う可に據もまた可と曰い、君の謂う否に據もまた否と曰う。もし水を以て水を濟さば、誰が食せん。もし琴瑟が専一なれば、誰が聽かん。同の不可はこの如し」。

飲酒樂。公曰:“古而無死,其樂若何?”晏子對曰:“古而無死,則古之樂也,君何得焉?昔爽鳩氏始居此地,季萴因之,有逢伯陵因之,蒲姑氏因之,而後大公因之。古者無死,爽鳩氏之樂,非君所願也。”

飲酒して樂し。公が曰わく、「古代にもし死なければ、その快樂は如何」。晏子が対えて曰わく、「古代にもし死なければ、それは古代の快樂で、君は何を得ん。昔爽鳩氏が始めてこの地に住み、季荝が因襲し、有逢伯陵が因襲し、蒲姑氏が因襲し、然る後に太公が因襲しました。古代に死なければ、これは爽鳩氏の快樂で、君の願う所にあらず」。

鄭子產有疾,謂子大叔曰:“我死,子必為政。唯有德者能以寬服民,其次莫如猛。夫火烈,民望而畏之,故鮮死焉。水懦弱,民狎而玩之,則多死焉。故寬難。”疾數月而卒。大叔為政,不忍猛而寬。鄭國多盜,取人於萑苻之澤。大叔悔之,曰:“吾早從夫子,不及此。”興徒兵以攻萑苻之盜,盡殺之,盜少止。

鄭子産が病あり、子大叔に曰わく、「我が死せば、あなたは必ず執政せん。ただ徳ある者のみ能く寬を以て百姓を服せしむ。其の次は猛に如かず。火は猛烈で、百姓は望見して怕れ、ゆえに死する者少なし。水は懦弱で、百姓は輕慢し玩弄し、死する者多し。ゆえに寬は難し」。病むこと數月にして薨じた。大叔が執政し、猛を忍ばずして寬を用いた。鄭国に盗多く、萑苻之澤で人を抓んだ。大叔が悔い、曰わく、「我が早く夫子に聽き従えば、この歩に至らざりしを」。徒兵を出動して萑苻の盗を攻め、全部殺し、盗は少々止んだ。

仲尼曰:“善哉!政寬則民慢,慢則糾之以猛。猛則民殘,殘則施之以寬。

仲尼が曰わく、「善い哉!政が寛なれば百姓は怠慢し、怠慢すれば猛を以て糾正す。猛なれば百姓は殘傷し、殘傷すれば寬を以て施す。

寬以濟猛,猛以濟寬,政是以和。《詩》曰:‘民亦勞止,汔可小康。惠此中國,以綏四方。’施之以寬也。‘毋從詭隨,以謹無良。式遏寇虐,慘不畏明。’糾之以猛也。‘柔遠能邇,以定我王。’平之以和也。又曰:‘不競不絿,不剛不柔。佈政優優,百祿是遒。’和之至也。”

寬を以て猛を濟し、猛を以て寬を濟す。政はこれにより和す。《詩》に曰く、『百姓もまた労苦せり。希望して小康せん。惠をこの中國に加え、以て四方を安定せん』。これは寬を以て施す。『詭隨を放縱するな、以て不良を謹防せよ。寇虐を遏止し、慘毒は明を畏れず』。これは猛を以て糾正す。『遠きを安撫し近きを親しみ、以て我が王を安定せん』。これは和を以て平らかにす。また曰わく、『爭わず急がず、剛ならず柔ならず。政を布くこと優優として、百禄が聚集す』。これは和の極致です」。

及子產卒,仲尼聞之,出涕曰:“古之遺愛也。”

子産の薨ずるに及び、仲尼が聞き、涙を流して曰わく、「これは古代の遺愛です」。

◇昭公二十一年

◇昭公二十一年

【經】二十有一年春王三月,葬蔡平公。夏,晉侯使士鞅來聘。宋華亥、向寧、華定自陳入於宋南里以叛。秋七月壬午朔,日有食之。八月乙亥,叔輒卒。

【経】二十一年春、周天子の暦の三月、蔡平公を葬った。夏、晋侯が士鞅を遣わして聘問に來た。宋華亥・向寧・華定が陳より宋南里に入り叛変した。秋七月壬午朔、日食。八月乙亥、叔輒が薨じた。

冬,蔡侯朱出奔楚。公如晉,至河乃復。

冬、蔡侯朱が楚に出奔した。昭公が晋に行き、黄河に至って帰った。

【傳】二十一年春,天王將鑄無射。泠州鳩曰:“王其以心疾死乎?夫樂,天子之職也。夫音,樂之輿也。而鍾,音之器也。天子省風以作樂,器以鍾之,輿以行之。小者不窕,大者不槬,則和於物,物和則嘉成。故和聲入於耳而藏於心,心億則樂。窕則不鹹,槬則不容,心是以感,感實生疾。今鍾槬矣,王心弗堪,其能久乎?”三月,葬蔡平公。蔡大子朱失位,位在卑。大夫送葬者歸,見昭子。昭子問蔡故,以告。昭子嘆曰:“蔡其亡乎!若不亡,是君也必不終。《詩》曰:‘不解於位,民之攸塈。’今蔡侯始即位,而適卑,身將從之。”

【伝】二十一年春、天王が将に無射を鑄造せんとした。泠州鳩が曰わく、「王はおそらく心病により死せんか。樂は天子の職。音は樂の車。鐘は音の器。天子は風氣を省察して樂を作し、器は以て匯聚し、車は以て實行す。小なれば細弱せず、大なれば粗大せず、則ち物と和谐し、物和谐すれば嘉成す。ゆえに和聲が耳に入り心に藏まり、心安んずれば樂す。細弱すれば遍せず、粗大すれば容れず、心はこれにより感じ、感じて實に疾病を生ず。今鐘が粗大なれば、王心は堪えられず。長久せんや」。三月、蔡平公を葬った。蔡太子朱が位子を失い、位が卑下に在り。大夫の葬を送る者が帰り、昭子に見えた。昭子が蔡の故を問い、告げた。昭子が嘆息して曰わく、「蔡はおそらく亡びん!もし亡びずば、この国君は必ず善終し得ざらん。《詩》に曰く、『位子に在りて懈怠せず、百姓はこれにより安息す』。今蔡侯が剛に即位するに卑下に至り、身は将に従わん」。

夏,晉士鞅來聘,叔孫為政。季孫欲惡諸晉,使有司以齊鮑國歸費之禮為士鞅。士鞅怒,曰:“鮑國之位下,其國小,而使鞅從其牢禮,是卑敝邑也。將復諸寡君。”魯人恐,加四牢焉,為十一牢。

夏、晋士鞅が聘問に來て、叔孫が執政した。季孫が彼を晋に惡ませんと欲し、有司に斉鮑國が費を歸還した禮を以て士鞅に對待させた。士鞅が怒り、曰わく、「鮑國の位は低下し、その国は小さいのに、鞅にあの牢禮に從わしむるは敝邑を看輕するなり。将に寡君に回復せん」。魯人が恐懼し、四牢を加え、十一牢とした。

宋華費遂生華貙、華多僚、華登。貙為少司馬,多僚為御士,與貙相惡,乃譖諸公曰:“貙將納亡人。”亟言之。公曰:“司馬以吾故,亡其良子。死亡有命,吾不可以再亡之。”對曰:“君若愛司馬,則如亡。死如可逃,何遠之有?”公懼,使侍人召司馬之侍人宜僚,飲之酒而使告司馬。司馬嘆曰:“必多僚也。

宋華費遂が華䝙・華多僚・華登を生んだ。䝙が少司馬を為し、多僚が御士を為し、䝙と互いに惡み、ここに公に誣陷して曰わく、「䝙は将に逃亡の人を接納せん」。屢々曰う。公が曰わく、「司馬が我らの故により、その好子を逃亡せしめた。死生は命あり。我は再び彼を逃亡せしむべからず」。對えて曰わく、「君がもし司馬を愛すれば、逃亡に如かず。死がもし逃るべきなら、何の遠きかあらん」。公が懼れ、侍人を遣わして司馬の侍人宜僚を召し、彼に酒を與えて司馬に告知させた。司馬が嘆息して曰わく、「必ず多僚だ。

吾有讒子而弗能殺,吾又不死,抑君有命,可若何?”乃與公謀逐華貙,將使田孟諸而遣之。公飲之酒,厚酬之,賜及從者。司馬亦如之。張匄尤之,曰:“必有故。”使子皮承宜僚以劍而訊之。宜僚盡以告。張匄欲殺多僚,子皮曰:“司馬老矣,登之謂甚,吾又重之,不如亡也。”五月丙申,子皮將見司馬而行,則遇多僚御司馬而朝。張匄不勝其怒,遂與子皮、臼任、鄭翩殺多僚,劫司馬以叛,而召亡人。壬寅,華、向入。樂大心、豐愆、華牼御諸橫。華氏居盧門,以南里叛。六月庚午,宋城舊鄘及桑林之門而守之。

我に讒子ありて殺す能わず、我また死せず、しかるに君に命令あり。能くどうせん」。ここに公と謀って華䝙を驅逐し、将に彼を孟諸で打獵させて打發せんとした。公が彼に酒を與え、厚く酬を加え、賞賜が從に及んだ。司馬もまたこの如くした。張匄が責怪して曰わく、「必ず緣故あり」。子皮に劍を以て宜僚に對し訊問させた。宜僚が全部告知した。張匄が多僚を殺さんと欲し、子皮が曰わく、「司馬は老いたり。登はすでに甚だし。我らはまた加重せば、逃亡に如かず」。五月丙申、子皮が将に司馬に見えて然る後に行かんとし、卻って多僚が司馬のため駕車して朝に上るに遇うた。張匄が怒りに忍びず、ここに子皮・臼任・鄭翩と多僚を殺し、司馬を劫持して叛變し、逃亡の人を召回した。壬寅、華・向が入った。樂大心・豐愆・華牼が橫で抵禦した。華氏が盧門に住み、南里を帶びて叛變した。六月庚午、宋が舊鄘及び桑林之門を修築して守った。

秋七月壬午朔,日有食之。公問於梓慎曰:“是何物也,禍福何為?”對曰:“二至、二分,日有食之,不為災。日月之行也,分,同道也;至,相過也。其他月則為災,陽不克也,故常為水。”

秋七月壬午朔、日食。昭公が梓慎に問うて曰わく、「これは何の物か。禍福は何を作すか」。對えて曰わく、「二至・二分に日食するは災を成さず。日月の運行は、分の時は同道し、至の時は相過ぐ。其の他の月は則ち災で、陽が勝つ能わず、ゆえに常に水なり」。

於是叔輒哭日食。昭子曰:“子叔將死,非所哭也。”八月,叔輒卒。

この時叔輒が日食のため哭した。昭子が曰わく、「子叔は将に死せん。哭すべきにあらず」。八月、叔輒が薨じた。

冬十月,華登以吳師救華氏。齊烏枝鳴戍宋。廚人濮曰:“《軍志》有之:‘先人有奪人之心,後人有待其衰。’盍及其勞且未定也伐諸?若入而固,則華氏眾矣,悔無及也。”從之。丙寅,齊師、宋師敗吳師於鴻口,獲其二帥公子苦雂、偃州員。華登帥其餘以敗宋師。公欲出,廚人濮曰:“吾小人,可藉死而不能送亡,君請待之。”乃徇曰:“楊徽者,公徒也。”眾從之。公自楊門見之,下而巡之,曰:“國亡君死,二三子之恥也,豈專孤之罪也?”齊烏枝鳴曰:“用少莫如齊致死,齊致死莫如去備。彼多兵矣,請皆用劍。”從之。華氏北,復即之。廚人濮以裳裹首而荷以走,曰:“得華登矣!”遂敗華氏於新裡。翟僂新居於新裡,既戰,說甲於公而歸。華妵居於公里,亦如之。

冬十月、華登が呉軍を率いて華氏を救援した。齊烏枝鳴が宋を戍守した。厨人濮が曰わく、「《軍志》にこの話あり。『先發する人は人心を奪取し、後到する人は彼の衰を待つ』。何で彼らの勞苦してまだ安定せざるに趁って攻めざるか。もし入りて穩固せば、華氏は人多くなり、悔うるに及ばず」。聽き從った。丙寅、齊軍・宋軍が鴻口で呉軍を敗り、兩位の軍帥公子苦雂・偃州員を俘獲した。華登が其の余を率いて宋軍を敗った。公が出でんと欲し、厨人濮が曰わく、「我は小人で、死を借る可きも逃亡を送る能わず。君の待つを請います」。ここに巡行して曰わく、「徽識を揚げるは公の徒衆なり」。衆人が從った。公が楊門より見え、車を下りて巡視し、曰わく、「國亡び君死するは几位の恥で、あえて孤の罪のみならんや」。齊烏枝鳴が曰わく、「少量の人を用いるは一齊に拼死するに如かず、一齊に拼死するは防備を去るに如かず。彼らは兵器多し。皆劍を用いるを請います」。聽き從った。華氏が敗逃し、再び追い上げた。厨人濮が裳を以て頭を裹み扛着して跑り、曰わく、「華登を得たり!」。ここに新里で華氏を敗った。翟僂新が新里に住み、すでに交戰し、公に向かい甲を脫ぎて帰った。華妵が公里に住み、またこの如くした。

十一月癸未,公子城以晉師至。曹翰胡會晉荀吳、齊苑何忌、衛公子朝救宋。

十一月癸未、公子城が晋軍を率いて至った。曹翰胡が晋荀吳・齊苑何忌・衛公子朝と會合して宋を救援した。

丙戌,與華氏戰於赭丘。鄭翩願為鸛,其御願為鵝。子祿御公子城,莊堇為右。

丙戌、華氏と赭丘で交戰した。鄭翩が鸛陣を為さんと願い、その御者が鵝陣を為さんと願った。子禄が公子城のため駕車し、莊堇が車右となった。

幹犨御呂封人華豹,張匄為右。相遇,城還。華豹曰:“城也!”城怒而反之,將注,豹則關矣。曰:“平公之靈,尚輔相餘。”豹射,出其間。將注,則又關矣。曰:“不狎,鄙!”押矢。城射之,殪。張丐抽殳而下,射之,折股。扶伏而擊之,折軫。又射之,死。幹丐請一矢,城曰:“餘言汝於君。”對曰:“不死伍乘,軍之大刑也。幹刑而從子,君焉用之?子速諸。”乃射之,殪。大敗華氏,圍諸南里。華亥搏膺而呼,見華貙,曰:“吾為欒氏矣。”貙曰:“子無我。不幸而後亡。”使華登如楚乞師。華貙以車十五乘,徒七十人,犯師而出,食於睢上,哭而送之,乃復入。楚薳越帥師將逆華氏。大宰犯諫曰:“諸侯唯宋事其君,今又爭國,釋君而臣是助,無乃不可乎?”王曰:“而告我也後,既許之矣。”

干犨が呂封人華豹のため駕車し、張匄が車右となった。相遇い、城が返った。華豹が曰わく、「城や!」。城が怒りて返り、將に箭を搭さんとするに、豹はすでに弓を拉開した。曰わく、「平公の神靈、なお我を輔佐せんことを」。豹が射て中間より穿過した。將に箭を搭さんとするに、またすでに拉開した。曰わく、「輪流せざるは鄙陋なり!」。矢を壓下した。城が彼を射て死せり。張丐が殳を抽き車を下り、彼を射て股を折った。爬りて撃ち、軫を折った。また射て死せり。干丐が一支の矢を請い、城が曰わく、「我は國君にあなたを説く」。對えて曰わく、「伍乘と共に死せざるは軍の大刑。刑を触犯してあなたに從うは、君はあなたを何に用いん。あなたは速やかに」。ここに彼を射て死せり。華氏を大いに敗り、南里に包圍した。華亥が胸を捶いて呼喊し、華䝙に見えて曰わく、「我は欒氏となる」。䝙が曰わく、「あなたはこの如くするな。不幸なれば然る後に亡ぶ」。華登を遣わして楚に軍を乞わせた。華䝙が車十五乘・步卒七十人を以て軍を衝出し、睢上で飯を食い、哭して送り、再び入った。楚䓕越が軍を率い將に華氏を迎接せんとした。太宰犯が進諫して曰わく、「諸侯の中に宋のみが國君に事奉するに、今また國を爭い、國君を放下して臣を助くるは、おそらく不可でしょうか」。王が曰わく、「あなたが我に告げるは已に晚し。已に許しました」。

蔡侯朱出奔楚。費無極取貨於東國,而謂蔡人曰:“朱不用命於楚,君王將立東國。若不先從王欲,楚必圍蔡。”蔡人懼,出朱而立東國。朱愬於楚,楚子將討蔡。無極曰:“平侯與楚有盟,故封。其子有二心,故廢之。靈王殺隱大子,其子與君同惡,德君必甚。又使立之,不亦可乎?且廢置在君,蔡無他矣。”公如晉,及河,鼓叛晉。晉將伐鮮虞,故辭公。

蔡侯朱が楚に出奔した。費無極が東國より貨を取り、蔡人に對して曰わく、「朱が楚に命を用いず、君王は將に東國を立てん。もし先に王の欲望に順從せずば、楚は必ず蔡を包圍せん」。蔡人が懼れ、朱を趕き東國を立てた。朱が楚に控訴し、楚子が將に蔡を討伐せんとした。無極が曰わく、「平侯と楚に盟あり、ゆえに封ぜり。その子に二心あり、ゆえに廢す。靈王が隱太子を殺し、その子は君と同惡し、君を感激すること必ず甚だ深し。また彼を立て得しめば、亦可ではないか。況んや廢置は君に在り、蔡に別なし」。昭公が晋に行き、黄河に至り、鼓が晋を背叛した。晋が將に鮮虞を攻めんとし、ゆえに昭公を辭謝した。

◇昭公二十二年

◇昭公二十二年

【經】二十有二年春,齊侯伐莒。宋華亥、向寧、華定自宋南里出奔楚。大蒐於昌間。夏四月乙丑,天王崩。六月,叔鞅如京師,葬景王,王室亂。劉子、單子以王猛居於皇。秋,劉子、單子以王猛入於王城。冬十月,王子猛卒。十有二月癸酉朔,日有食之。

【経】二十二年春、斉侯が莒国を攻めた。宋華亥・向寧・華定が宋南里より楚に出奔した。昌間で大蒐を行った。夏四月乙丑、天王が崩じた。六月、叔鞅が京師に行き、景王を葬り、王室が乱れた。劉子・単子が王猛を帯びて皇に住んだ。秋、劉子・単子が王猛を帯びて王城に入った。冬十月、王子猛が薨じた。十二月癸酉朔、日食。

【傳】二十二年春,王二月甲子,齊北郭啟帥師伐莒。莒子將戰,苑羊牧之諫曰:“齊帥賤,其求不多,不如下之。大國不可怒也。”弗聽,敗齊師於壽餘。

【伝】二十二年春、周天子の暦の二月甲子、斉北郭啓が軍を率いて莒国を攻めた。莒子が将に交戦せんとし、苑羊牧之が進諫して曰わく、「斉の軍帥は低賤で、求むる所は多からず。彼に低頭するに如かず。大国は激怒すべからず」。聴かず、寿余で斉軍を敗った。

齊侯伐莒,莒子行成。司馬灶如莒蒞盟,莒子如齊蒞盟,盟子稷門之外。莒於是乎大惡其君。

斉侯が莒国を攻め、莒子が和を求めた。司馬灶が莒に至り盟会に参加し、莒子が斉に至り盟会に参加し、稷門外で盟約を結んだ。莒はここに甚だその国君を悪んだ。

楚薳越使告於宋曰:“寡君聞君有不令之臣為君憂,無寧以為宗羞?寡君請受而戮之。”對曰:“孤不佞,不能媚於父兄,以為君憂,拜命之辱。抑君臣日戰,君曰‘餘必臣是助’,亦唯命。人有言曰:‘唯亂門之無過’。君若惠保敝邑,無亢不衷,以獎亂人,孤之望也。唯君圖之!”楚人患之。諸侯之戍謀曰:“若華氏知困而致死,楚恥無功而疾戰,非吾利也。不如出之,以為楚功,其亦能無為也已。救宋而除其害,又何求?”乃固請出之。宋人從之。己巳,宋華亥、向寧、華定、華貙、華登、皇奄傷、省臧,士平出奔楚。宋公使公孫忌為大司馬,邊卬為大司徒,樂祁為司馬,仲幾為左師,樂大心為右師,樂輓為大司寇,以靖國人。

楚䓕越が人を遣わして宋に告知して曰わく、「寡君は君に不善の臣ありて君の憂となるを聞く。あえて宗廟の羞となさんや。寡君は受けて殺すを請います」。對えて曰わく、「孤は不才で、父兄に媚を取る能わず、君の憂となり、命令の屈辱を拜謝す。ただ君臣は日日に交戰し、君が曰く『我は必ず臣を助けん』も、また命を聴くのみ。人に話あり、『ただ乱門を経るな』。君がもし惠を加え敝邑を保護し、不衷を庇護せず、以て乱人を奨励するは孤の指望なり。ただ君の謀るを請う!」。楚人が憂えた。諸侯の戍守が謀って曰わく、「もし華氏が困を知りて拼死し、楚が無功を恥として急戰せば、我らの利にあらず。彼らを放出し、楚の功勞として、彼らもまた能く為すなし。宋を救いかつ害を除く。何を求めん」。ここに堅持して放出を請うた。宋人が聽き從った。己巳、宋華亥・向寧・華定・華䝙・華登・皇奄傷・省臧・士平が楚に出奔した。宋公が公孫忌を遣わして大司馬とし、邊卬を大司徒とし、樂祁を司馬とし、仲幾を左師とし、樂大心を右師とし、樂挽を大司寇として、国人を安定させた。

王子朝、賓起有寵於景王,王與賓孟說之,欲立之。劉獻公之庶子伯蚡事單穆公,惡賓孟之為人也,願殺之。又惡王子朝之言,以為亂,願去之。賓孟適郊,見雄雞自斷其尾。問之,侍者曰:“自憚其犠也。”遽歸告王,且曰:“雞其憚為人用乎?人異於是。犠者,實用人,人犠實難,己犠何害?”王弗應。

王子朝・賓起が景王に寵を得、王と賓孟が喜び、彼を立てんと欲した。劉献公の庶子伯蚡が單穆公に事奉し、賓孟の人となりを惡み、彼を殺さんを望み。また王子朝の話を惡み、亂と以為し、去らんを望んだ。賓孟が郊に至り、雄雞が自ら尾を弄断するを見た。問うと、侍者が曰わく、「自ら犧牲となるを怕れます」。急ぎ帰りて王に告げ、かつ曰わく、「雞はおそらく人に用いられるを怕れるか?人はこれと異なり。犧牲は實に人を用いる。人が犧牲となるは實に難く、自ら犧牲となるは何の害かあらん」。王が應えなかった。

夏四月,王田北山,使公卿皆從,將殺單子、劉子。王有心疾,乙丑,崩於榮錡氏。戊辰,劉子摯卒,無子,單子立劉蚠。五月庚辰,見王,遂攻賓起,殺之,盟群王子於單氏。

夏四月、王が北山で打獵し、公卿に皆從わせ、將に單子・劉子を殺さんとした。王に心病あり、乙丑、榮錡氏で崩じた。戊辰、劉子摯が薨じ、子なし。單子が劉蚠を立てた。五月庚辰、王を朝見し、ここに賓起を攻めて殺し、單氏で諸王子と盟約を結んだ。

晉之取鼓也,既獻,而反鼓子焉,又叛於鮮虞。

晋が鼓を取り、すでに俘を献じたが、鼓子を送還し、また鮮虞に叛変した。

六月,荀吳略東陽,使師偽糴者,負甲以息於昔陽之門外,遂襲鼓,滅之。

六月、荀吳が東陽を巡視し、軍隊に糧を買う人を偽らせ、甲を負い昔陽門外で休息させ、ここに鼓を襲撃して滅ぼした。

以鼓子鳶鞮歸,使涉佗守之。

鼓子鳶鞮を連れて帰り、涉佗を遣わして看守させた。

丁巳,葬景王。王子朝因舊官、百工之喪職秩者,與靈、景之族以作亂。帥郊、要、餞之甲,以逐劉子。壬戌、劉子奔揚。單子逆悼王於莊宮以歸。王子還夜取王以如莊宮。癸亥,單子出。王子還與召莊公謀,曰:“不殺單旗,不捷。

丁巳、景王を葬った。王子朝が旧官・百工の職秩を喪失した者に憑り、靈・景の族と亂を作した。郊・要・餞の甲士を率い、劉子を驅逐せんとした。壬戌、劉子が揚に出奔した。單子が莊宮より悼王を迎えて帰した。王子還が夜に王を取りて莊宮に至した。癸亥、單子が出た。王子還が召莊公と謀って曰わく、「單旗を殺さずんば、成功し得ず。

與之重盟,必來。背盟而克者多矣。”從之。樊頃子曰:“非言也,必不克。”

彼と重ねて盟約を結べば、必ず來る。盟約を背棄して成功する者多し」。聽き從った。樊頃子が曰わく、「話にあらず。必ず成し得ず」。

遂奉王以追單子。及領,大盟而復,殺摯荒以說。劉子如劉,單子亡。乙丑,奔於平畤,群王子追之。單子殺還、姑、發、弱、鬷延、定、稠,子朝奔京。丙寅,伐之,京人奔山。劉子入於王城。辛未,鞏簡公敗績於京。乙亥,甘平公亦敗焉。

ここに王を奉じて單子を追った。領に至り、大盟して然る後に返り、摯荒を殺して解釋とした。劉子が劉に至り、單子が逃亡した。乙丑、平畤に出奔し、諸王子が追趕した。單子が還・姑・發・弱・鬷延・定・稠を殺し、子朝が京に出奔した。丙寅、攻め、京人が山に逃げた。劉子が王城に入った。辛未、鞏簡公が京で敗戰した。乙亥、甘平公もまた敗戰した。

叔鞅至自京師,言王室之亂也。閔馬父曰:“子朝必不克,其所與者,天所廢也。”

叔鞅が京師より帰り、王室の亂を説いた。閔馬父が曰わく、「子朝は必ず成し得ず。彼の親附する所は天の廢棄する所なり」。

單子欲告急於晉,秋七月戊寅,以王如平畤,遂如圃車,次於皇。劉子如劉。單子使王子處守於王城,盟百工於平宮。辛卯,尋阝肸伐皇,大敗,獲尋阝肸。壬辰,焚諸王城之市。八月辛酉,司徒醜以王師敗績於前城,百工叛。己巳,伐單氏之宮,敗焉。庚午,反伐之。辛未,伐東圉。冬十月丁巳,晉籍談、荀躒帥九州之戎及焦、瑕、溫、原之師,以納王於王城。庚申,單子、劉蚡以王師敗績於郊,前城人敗陸渾於社。十一月乙酉,王子猛卒,不成喪也。已醜,敬王即位,館於子旅氏。

單子が晋に急を告げんと欲し、秋七月戊寅、王を帯びて平畤に至り、ここに圃車に至り、皇に駐屯した。劉子が劉に至った。單子が王子處を遣わして王城を守衞せしめ、平宮で百工と盟約を結んだ。辛卯、𬩽肸が皇を攻め、大いに敗れ、𬩽肸を俘獲した。壬辰、王城の市上で焚燒した。八月辛酉、司徒醜が王師を率いて前城で敗戰し、百工が叛変した。己巳、單氏の宮を攻め、敗戰した。庚午、反りて攻めた。辛未、東圉を攻めた。冬十月丁巳、晋籍談・荀躒が九州の戎及び焦・瑕・溫・原の軍を率い、王を王城に送り入れた。庚申、單子・劉蚡が王師を率いて郊で敗戰し、前城人が社で陸渾を敗った。十一月乙酉、王子猛が薨じ、喪禮を成さず。己丑、敬王が即位し、子旅氏に住んだ。

十二月庚戌,晉籍談、荀躒、賈辛、司馬督帥師軍於陰,於侯氏,於溪泉,次於社。王師軍於氾,於解,次於任人。閏月,晉箕遺、樂徵,右行詭濟師,取前城,軍其東南。王師軍於京楚。辛丑,伐京,毀其西南。

十二月庚戌、晋籍談・荀躒・賈辛・司馬督が軍を率いて陰に駐屯し、侯氏に在り、溪泉に在り、社に駐屯した。王師が泛に駐屯し、解に在り、任人に駐屯した。閏月、晋箕遺・樂征・右行詭が軍を渡し、前城を取り、その東南に駐屯した。王師が京楚に駐屯した。辛丑、京を攻め、その西南を毀壞した。

◇昭公二十三年

◇昭公二十三年

【經】二十有三年春王正月,叔孫婼如晉。癸丑,叔鞅卒。晉人執我行人叔孫婼。晉人圍郊。夏六月,蔡侯東國卒於楚。秋七月,莒子庚輿來奔。戊辰,吳敗頓、胡、沈、蔡、陳、許之師於雞父,鬍子髡、沈子逞滅,獲陳夏齧。天王居於狄泉。尹氏立王子朝。八月乙未,地震。冬,公如晉,至河,有疾,乃復。

【経】二十三年春、周天子の暦の正月、叔孫婼が晋に行った。癸丑、叔鞅が薨じた。晋人が我が国の行人叔孫婼を執えた。晋人が郊を包圍した。夏六月、蔡侯東國が楚で薨じた。秋七月、莒子庚輿が投奔に來た。戊辰、呉が雞父で頓・胡・沈・蔡・陳・許の軍を敗り、胡子髠・沈子逞が滅亡し、陳夏囓を俘獲した。天王が狄泉に住んだ。尹氏が王子朝を立てた。八月乙未、地震。冬、昭公が晋に行き、黄河に至り、病あれば即ち帰った。

【傳】二十三年春,王正月壬寅朔,二師圍郊。癸卯,郊、尋阝潰。丁未,晉師在平陰,王師在澤邑。王使告間,庚戌,還。

【伝】二十三年春、周天子の暦の正月壬寅朔、両軍が郊を包圍した。癸卯、郊・𬩽が潰散した。丁未、晋軍が平陰に在り、王師が澤邑に在り。王が人を遣わして空隙あるを告知し、庚戌、返回した。

邾人城翼,還,將自離姑。公孫鉏曰:“魯將御我。”欲自武城還,循山而南。徐鉏、丘弱、茅地曰:“道下,遇雨,將不出,是不歸也。”遂自離姑。武城人塞其前,斷其後之木而弗殊。邾師過之,乃推而蹶之。遂取邾師,獲鉏、弱、地。

邾人が翼に城を築き、帰り、將に離姑より行かんとした。公孫鉏が曰わく、「魯が將に我らを抵禦せん」。武城より帰らんと欲し、山に沿いて南に向かった。徐鉏・丘弱・茅地が曰わく、「路が低下し、雨に遇えば、將に出で得ず。これは歸らざるなり」。ここに離姑より行った。武城人が前を堵住し、後の樹を砍すも斷せず。邾軍が經過すれば、推倒した。ここに邾軍を取り、鉏・弱・地を俘獲した。

邾人訴於晉,晉人來討。叔孫婼如晉,晉人執之。書曰:“晉人執我行人叔孫婼。”言使人也。晉人使與邾大夫坐。叔孫曰:“列國之卿,當小國之君,固周制也。邾又夷也。寡君之命介子服回在,請使當之,不敢廢周制故也。”乃不果坐。

邾人が晋に控訴し、晋人が來りて討伐した。叔孫婼が晋に行き、晋人が執えた。《春秋》に「晋人が我が行人叔孫婼を執う」と記載したは使者を説く。晋人が彼を邾大夫と對坐して爭訟させようとした。叔孫が曰わく、「列國の卿は小國の国君に相當するはもとより周の制度です。邾はまた夷なり。寡君の任命する副手子服回が在り。彼に承當せしむるを請います。敢えて周制を廢棄せざる故です」。ここに終に對坐せず。

韓宣子使邾人取其眾,將以叔孫與之。叔孫聞之,去眾與兵而朝。士彌牟謂韓宣子曰:“子弗良圖,而以叔孫與其仇,叔孫必死之。魯亡叔孫,必亡邾。邾君亡國,將焉歸?子雖悔之,何及?所謂盟主,討違命也。若皆相執,焉用盟主?”乃弗與,使各居一館。士伯聽其辭而訴諸宣子,乃皆執之。士伯御叔孫,從者四人,過邾館以如吏。先歸邾子。士伯曰:“以芻蕘之難,從者之病,將館子于都。”

韓宣子が邾人に彼の部衆を帶びさせ、將に叔孫を彼らに與えんとした。叔孫が聞き、部衆と兵器を去りて朝に上った。士彌牟が韓宣子に曰わく、「あなたが好く謀らず、叔孫を彼の仇人に與えるは、叔孫は必ずこれがため死せん。魯が叔孫を失えば、必ず邾を滅ぼさん。邾君が國を亡ぼせば、將に何處に歸向せん。あなたはたとえ悔いるも、どこに及ばん。所謂盟主は違命を討伐するなり。もし皆互いに執えるならば、どこに盟主を用いん」。ここに與えず、各々一館に住まわせた。士伯がその辭を聽き宣子に控訴し、ここに皆執えた。士伯が叔孫のため駕車し、隨從四人、邾の館を經て吏に至った。先に邾子を歸らせた。士伯が曰わく、「割草打柴の難と隨從の病により、將に都であなたに館舍を安排せん」。

叔孫旦而立,期焉。乃館諸箕。舍子服昭伯於他邑。

叔孫が朝に立ち、時を約定した。ここに箕で安排した。子服昭伯を別の邑に安置した。

範獻子求貨於叔孫,使請冠焉。取其冠法,而與之兩冠,曰:“盡矣。”為叔孫故,申豐以貨如晉。叔孫曰:“見我,吾告女所行貨。”見,而不出。吏人之與叔孫居於箕者,請其吠狗,弗與。及將歸,殺而與之食之。叔孫所館者,雖一日必葺其牆屋,去之如始至。

范献子が叔孫に貨を求め、人を遣わして帽子を請うた。彼の帽子の法式を取り、彼に兩頂の帽子を與えて曰わく、「盡きたり」。叔孫の故により、申豐が貨を帶びて晋に至った。叔孫が曰わく、「來りて我に見えよ。我はあなたに貨を送る辦法を告げん」。見えたが出でさせなかった。叔孫と箕に住む吏人が彼の吠狗を請うたが、與えず。將に歸らんとするに及び、殺して彼らに食わせた。叔孫の住む館は、たとえ一日でも必ず牆屋を修繕し、離るる時は剛に到りしが如し。

夏四月乙酉,單子取訾,劉子取牆人、直人。六月壬午,王子朝入於尹。癸未,尹圉誘劉佗殺之。丙戌,單子從阪道,劉子從尹道伐尹。單子先至而敗,劉子還。己丑,召伯奐、南宮極以成周人戍尹。庚寅,單子、劉子、樊齊以王如劉。

夏四月乙酉、單子が訾を取り、劉子が牆人・直人を取った。六月壬午、王子朝が尹に入った。癸未、尹圉が劉佗を誘騙して彼を殺した。丙戌、單子が阪道より、劉子が尹道より尹を攻めた。單子が先に至りて敗戰し、劉子が返回した。己丑、召伯奐・南宮極が成周人を率いて尹を戍守した。庚寅、單子・劉子・樊齊が王を帶びて劉に至った。

甲午,王子朝入於王城,次於左巷。秋七月戊申,尋阝羅納諸莊宮。尹辛敗劉師於唐。丙辰,又敗諸尋阝。甲子,尹辛取西闈。丙寅,攻蒯,蒯潰。

甲午、王子朝が王城に入り、左巷に駐屯した。秋七月戊申、𬩽羅が莊宮に送り入れた。尹辛が唐で劉軍を敗った。丙辰、また𬩽で敗った。甲子、尹辛が西闈を取った。丙寅、蒯を攻め、蒯が潰散した。

莒子庚輿虐而好劍,苟鑄劍,必試諸人。國人患之。又將叛齊。烏存帥國人以逐之。庚輿將出,聞烏存執殳而立於道左,懼將止死。苑羊牧之曰:“君過之!烏存以力聞可矣,何必以弒君成名?”遂來奔。齊人納郊公。

莒子庚輿が暴虐で劍を好み、もし劍を鑄れば、必ず人身で試した。國人が憂えた。又將に齊を背叛せんとした。烏存が國人を率いて彼を驅逐した。庚輿が將に出でんとし、烏存が殳を持ちて道左に立つを聞き、留められて死せんを怕れた。苑羊牧之が曰わく、「君王は經過せよ!烏存は力を以て聞名すれば可。何ぞ必ずしも君を弑して名を成さん」。ここに投奔に來た。齊人が郊公を送り入れた。

吳人伐州來,楚薳越帥師及諸侯之師奔命救州來。吳人御諸鍾離。子瑕卒,楚師熸。吳公子光曰:“諸侯從於楚者眾,而皆小國也。畏楚而不獲已,是以來。吾聞之曰:‘作事威克其愛,雖小必濟’。胡、沈之君幼而狂,陳大夫齧壯而頑,頓與許、蔡疾楚政。楚令尹死,其師熸。帥賤、多寵,政令不壹。而七國同役不同心,帥賤而不能整,無大威命,楚可敗也,若分師先以犯胡、沈與陳,必先奔。三國敗,諸侯之師乃搖心矣。諸侯乖亂,楚必大奔。請先者去備薄威,後者敦陳整旅。”吳子從之。戊辰晦,戰於雞父。吳子以罪人三千,先犯胡、沈與陳,三國爭之。吳為三軍以擊於後,中軍從王,光帥右,掩餘帥左。吳之罪人或奔或止,三國亂。吳師擊之,三國敗,獲胡、沈之君及陳大夫。舍胡、沈之囚,使奔許與蔡、頓,曰:“吾君死矣!”師噪而從之,三國奔,楚師大奔。書曰:“鬍子髡、沈子逞滅,獲陳夏齧。”君臣之辭也。不言戰,楚未陳也。

呉人が州來を攻め、楚䓕越が軍及び諸侯の軍を率いて奔命して州來を救援した。呉人が鐘離で抵禦した。子瑕が薨じ、楚軍の士氣が盡きた。呉公子光が曰わく、「諸侯の楚に從う者は多いも、皆小國なり。楚を怕れ已むを得ず、ゆえに來る。我は聞くに、『事を作すに威が愛に勝れば、たとえ小でも必ず成す』。胡・沈の國君は幼にして狂し、陳大夫囓は壯にして頑なり。頓と許・蔡は楚政を痛恨す。楚令尹が死し、軍隊の士氣が盡き、軍帥は低賤で多寵あり、政令が專一せず。七國が一齊に役使して同心せず、軍帥が低賤で整齊する能わず、大なる威命なし。楚は敗る可し。もし軍隊を分けて先に胡・沈と陳を進犯せば、必ず先に逃げん。三國が敗れれば、諸侯の軍は動搖す。諸侯が乖亂すれば、楚は必ず大いに逃げん。請う、先發の者は防備を去り威を減薄し、後到する者は厚陣して旅を整えよ」。呉子が聽き從った。戊辰月末、雞父で交戰した。呉子が罪人三千を用い、先に胡・沈と陳を進犯し、三國が爭い抓んだ。呉が三軍を分けて後に攻撃し、中軍は王に從い、光が右を率い、掩余が左を率いた。呉の罪人は或いは跑り或いは停まり、三國が亂れた。呉軍が攻撃し、三國が敗れ、胡・沈の國君及び陳大夫を俘獲した。胡・沈の囚徒を釋放し、彼らを許と蔡・頓に向かい跑らせて曰わく、「我らの國君が死せり!」。軍隊が喧噪して從い、三國が逃げ、楚軍が大いに逃げた。《春秋》に「胡子髠・沈子逞が滅び、陳夏囓を獲たり」と記載したは君臣の文辭。交戰と曰わざるは楚がまだ列陣せざるなり。

八月丁酉,南宮極震。萇弘謂劉文公曰:“君其勉之!先君之力可濟也。周之亡也,其三川震。今西王之大臣亦震,天棄之矣!東王必大克。”

八月丁酉、南宮極が地震により死んだ。萇弘が劉文公に曰わく、「君はなお努力せよ!先君の力は成す可し。周が滅亡するに三川が地震す。今西王の大臣もまた震う。天は彼を棄てたり!東王は必ず大勝せん」。

楚大子建之母在郹,召吳人而啟之。冬十月甲申,吳大子諸樊入郹,取楚夫人與其寶器以歸。楚司馬薳越追之,不及。將死,眾曰:“請遂伐吳以徼之。”

楚太子建の母が郹にいて、呉人を召して門を開かせた。冬十月甲申、呉太子諸樊が郹に入り、楚夫人と寶器を取りて歸った。楚司馬䓕越が追趕したが及ばず。將に死せんとして、衆人が曰わく、「これに就きて呉を攻めて功を求めんことを請います」。

薳越曰:“再敗君師,死且有罪。亡君夫人,不可以莫之死也。”乃縊於薳澨。

䓕越が曰わく、「再び國君の軍を敗壞するは死してなお罪あり。君夫人を喪失するはこれがため死する人なくすべからず」。ここに䓕澨で縊れた。

公為叔孫故如晉,及河,有疾而復。

昭公が叔孫の故により晋に行き、黄河に至り、病あれば即ち歸った。

楚囊瓦為令尹,城郢。沈尹戌曰:“子常必亡郢!苟不能衛,城無益也。古者,天子守在四夷;天子卑,守在諸侯。諸侯守在四鄰;諸侯卑,守在四竟。慎其四竟,結其四援,民狎其野,三務成功,民無內憂,而又無外懼,國焉用城?今吳是懼而城於郢,守已小矣。卑之不獲,能無亡乎?昔梁伯溝其公宮而民潰。

楚囊瓦が令尹を為し、郢の城を修築した。沈尹戌が曰わく、「子常は必ず郢を喪失せん!もし保衛し得ざれば、城を築くに益處なし。古代は天子の守は四夷に在り。天子が卑微なれば、守は諸侯に在り。諸侯の守は四鄰に在り。諸侯が卑微なれば、守は四境に在り。四境を謹慎し、四援を結交し、百姓を郊野に安んじ、三務を成功し、百姓に内憂なく、また外懼なく、國家はどこに城を用いん。今呉を怕れて郢に城を築くは守は已に小さし。卑微をも得ずして、亡びざらんや。昔梁伯が公宮に溝を挖りて百姓が潰散した。

民棄其上,不亡何待?夫正其疆場,修其土田,險其走集,親其民人,明其伍候,信其鄰國,慎其官守,守其交禮,不僣不貪,不懦不耆,完其守備,以待不虞,又何畏矣?《詩》曰:‘無念爾祖,聿修厥德。’無亦監乎若敖、蚡冒至於武、文?土不過同,慎其四竟,猶不城郢。今土數圻,而郢是城,不亦難乎?”

百姓が上の人を拋棄すれば、滅亡せずして何を待たん。疆場を端正し、土田を修治し、走集を加固し、民人を親近し、伍候を顯明し、鄰國に信を取り、官守を謹慎し、邦交の禮を守り、僭越せず貪らず、懦弱せず貪求せず、守備を完善し、以て意外に待つ。何を怕れん。《詩》に曰く、『あなたの祖先を忘るるな、その德を修めよ』。また若敖・蚡冒より武・文に鑑みざらんや。土は一同を超えず、四境を謹慎し、なお郢城を築かず。今土は幾圻なるに、卻って郢城を築くは、また難くないか」。

◇昭公二十四年

◇昭公二十四年

【經】二十四年春王三月丙戌,仲孫玃卒。婼至自晉。夏五月乙未朔,日有食之。秋八月,大雩。丁酉,杞伯鬱釐卒。冬,吳滅巢。葬杞平公。

【経】二十四年春、周天子の暦の三月丙戌、仲孫玃が薨じた。婼が晋より歸った。夏五月乙未朔、日食。秋八月、大雩祭を行った。丁酉、杞伯郁厘が薨じた。冬、呉國が巢を滅ぼした。杞平公を葬った。

【傳】二十四年春,王正月辛丑,召簡公、南宮嚚以甘桓公見王子朝。劉子謂萇弘曰:“甘氏又往矣。”對曰:“何害?同德度義。《大誓》曰:‘紂有億兆夷人,亦有離德。餘有亂臣十人,同心同德。’此周所以興也。君其務德,無患無人。”戊午,王子朝入於鄔。

【伝】二十四年春、周天子の暦の正月辛丑、召簡公・南宮嚚が甘桓公を帶びて王子朝に見えた。劉子が萇弘に曰わく、「甘氏がまた去った」。對えて曰わく、「何の害かあらん。德を同じくし義を度量す。《大誓》に曰く、『紂に億兆の夷人あり、また離德あり。我に治亂の臣十人あり、同心同德す』。これは周の興る所以なり。君はなお德に致力し、人なきを憂慮するな」。戊午、王子朝が鄔に入った。

晉士彌牟逆叔孫於箕。叔孫使梁其踁待於門內,曰:“餘左顧而欬,乃殺之。右顧而笑,乃止。”叔孫見士伯,士伯曰:“寡君以為盟主之故,是以久子。

晋士彌牟が箕より叔孫を迎接した。叔孫が梁其踁を門内に待たせて曰わく、「我が左を視て咳嗽すれば、彼を殺せ。右を視て笑えば、止めよ」。叔孫が士伯に見え、士伯が曰わく、「寡君は盟主を為す故により、ゆえに久しくあなたを留めた。

不腆敝邑之禮,將致諸從者。使彌牟逆吾子。”叔孫受禮而歸。二月,婼至自晉,尊晉也。

豐厚ならざる敝邑の禮を將に隨從に送らんとす。彌牟を遣わして吾子を迎接せしめたり」。叔孫が禮を受けて歸った。二月、婼が晋より歸ったは晋を尊敬すればなり。

三月庚戌,晉侯使士景伯蒞問周故,士伯立於乾祭而問於介眾。晉人乃辭王子朝,不納其使。

三月庚戌、晋侯が士景伯を遣わして來りて周の故を詢問せしめ、士伯が乾祭に立ちて大衆に詢問した。晋人はここに王子朝を辭謝し、その使者を接納せず。

夏五月乙未朔,日有食之。梓慎曰:“將水。”昭子曰:“旱也。日過分而陽猶不克,克必甚,能無旱乎?陽不克莫,將積聚也。”

夏五月乙未朔、日食。梓慎が曰わく、「將に水あらん」。昭子が曰わく、「これは旱です。日が春分を過ぎて陽がなお勝つ能わず。勝てば必ず過分で、旱ならざらんや。陽が勝つ能わずして暮すれば、將に積聚せん」。

六月壬申,王子朝之師攻瑕及杏,皆潰。

六月壬申、王子朝の軍が瑕及び杏を攻め、皆潰散した。

鄭伯如晉,子大叔相,見範獻子。獻子曰:“若王室何?”對曰:“老夫其國家不能恤,敢及王室。抑人亦有言曰:‘嫠不恤其緯,而憂宗周之隕,為將及焉。’今王室實蠢蠢焉,吾小國懼矣。然大國之憂也,吾儕何知焉?吾子其早圖之!《詩》曰:瓶之罄矣,惟罍之恥。’王室之不寧,晉之恥也。”獻子懼,而與宣子圖之。乃徵會於諸侯,期以明年。

鄭伯が晋に行き、子大叔が輔佐し、范献子に見えた。献子が曰わく、「王室に對してどうするか」。對えて曰わく、「老夫は自分の國家も体恤できず、敢えて王室に及ぼさん。ただ人にも話あり、『寡婦はその緯を恤めず、宗周の隕落を憂うは將に自らに及ぶを以てなり』。今王室が實に蠢動し、我ら小國は懼れました。しかしあれは大國の憂で、我らこれらの人が何を知らん。吾子はなお早く謀れ!《詩》に曰く、『瓶が空なるは罍の恥なり』。王室が安寧せざるは晋の恥です」。献子が懼れ、宣子と謀った。ここに諸侯に征召會合し、明年を約定した。

秋八月,大雩,旱也。

秋八月、大雩祭を行ったは旱の故である。

冬十月癸酉,王子朝用成周之寶珪於河。甲戌,津人得諸河上。陰不佞以溫人南侵,拘得玉者,取其玉,將賣之,則為石。王定而獻之,與之東訾。

冬十月癸酉、王子朝が成周の寶珪を黄河に沈めた。甲戌、津人が河上で得た。陰不佞が溫人を率いて南に侵襲し、玉を得た人を拘拿し、その玉を取り、將に賣らんとするも、卻って石であった。王が安定して後に献上し、彼に東訾を與えた。

楚子為舟師以略吳疆。沈尹戌曰:“此行也,楚必亡邑。不撫民而勞之,吳不動而速之,吳踵楚,而疆埸無備,邑能無亡乎?”越大夫胥犴勞王於豫章之汭。越公子倉歸王乘舟,倉及壽夢帥師從王,王及圉陽而還。吳人踵楚,而邊人不備,遂滅巢及鍾離而還。沈尹戌曰:“亡郢之始,於此在矣。王一動而亡二姓之帥,幾如是而不及郢?《詩》曰:‘誰生厲階,至今為梗?’其王之謂乎?”

楚子が舟師を組建して呉の疆界を巡視した。沈尹戌が曰わく、「この出行で、楚は必ず城邑を喪失せん。百姓を安撫せずして勞苦し、呉が動かざるに彼らを催促し、呉が楚を跟蹤し、疆場に防備なく、城邑は喪失せざらんや」。越國大夫胥犴が豫章之汭で王を慰勞した。越公子倉が王に乘舟を送り、倉及び壽夢が軍を率いて王に從い、王が圉陽に至れば即ち歸った。呉人が楚を跟蹤し、邊人が防備せず、ここに巢及び鐘離を滅ぼして歸った。沈尹戌が曰わく、「郢を喪失する始めはここに在り。王が一動すれば兩姓の軍帥を喪失す。幾次この如くして郢に至らざらん。《詩》に曰く、『誰が禍階を生み、今に至りて病となれるか』。おそらく王を説くのでしょうか」。

◇昭公二十五年

◇昭公二十五年

【經】二十五年春,叔孫婼如宋。夏,叔詣會晉趙鞅、宋樂大心,衛北宮喜、鄭遊吉、曹人、邾人、滕人、薛人、小邾人於黃父。有鴝鵒來巢。秋七月上辛,大雩;季辛,又雩。九月己亥,公孫於齊,次於陽州。齊侯唁公於野井。冬十月戊辰,叔孫婼卒。十有一月己亥,宋公佐卒於曲棘。十有二月,齊侯取鄆。

【経】二十五年春、叔孫婼が宋に行った。夏、叔詣が黃父で晋趙鞅・宋樂大心、衛北宮喜・鄭游吉・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と會見した。鸜鵒が來て巢を作った。秋七月上辛、大雩祭を行い。季辛、また雩祭を行った。九月己亥、昭公が齊に出奔し、陽州に駐屯した。齊侯が野井で昭公を弔唁した。冬十月戊辰、叔孫婼が薨じた。十一月己亥、宋公佐が曲棘で薨じた。十二月、齊侯が鄆を取った。

【傳】二十五年春,叔孫婼聘於宋,桐門右師見之。語,卑宋大夫,而賤司城氏。昭子告其人曰:“右師其亡乎!君子貴其身而後能及人,是以有禮。今夫子卑其大夫而賤其宗,是賤其身也,能有禮乎?無禮必亡。”

【伝】二十五年春、叔孫婼が宋に聘問し、桐門右師が彼に見えた。話して、宋大夫を看輕し、司城氏を賤視した。昭子が彼に告げる人に曰わく、「右師はおそらく亡びん!君子は自身を貴重して然る後に能く他人に至る。これにより禮あり。今夫子が大夫を看輕して宗を賤視するは自身を賤視するなり。能く禮あらんや。禮なければ必ず滅亡せん」。

宋公享昭子,賦《新宮》。昭子賦《車轄》。明日宴,飲酒,樂,宋公使昭子右坐,語相泣也。樂祁佐,退而告人曰:“今茲君與叔孫,其皆死乎?吾聞之:‘哀樂而樂哀,皆喪心也。’心之精爽,是謂魂魄。魂魄去之,何以能久?”季公若之姊為小邾夫人,生宋元夫人,生子以妻季平子。昭子如宋聘,且逆之。公若從,謂曹氏勿與,魯將逐之。曹氏告公,公告樂祁。樂祁曰:“與之。

宋公が昭子のため享禮を設け、《新宮》を賦した。昭子が《車轄》を賦した。翌日宴し、酒を飲み、快樂し、宋公が昭子を右に坐らせ、話して互いに哭泣した。樂祁が佐を為し、退きて人に告げて曰わく、「今年國君と叔孫はおそらく皆死せんか?我は聞くに、『哀すべきに樂し、樂すべきに哀するは皆心を喪失す』。心の精爽を魂魄と曰う。魂魄が離るれば、何を憑って能く長久せん」。季公若の姊が小邾夫人となり、宋元夫人を生み、子を生み季平子に嫁いだ。昭子が宋に聘問し、かつ迎えた。公若が從い、曹氏に對して與えぬよう曰い、魯が將に彼を驅逐せんと。曹氏が公に告げ、公が樂祁に告げた。樂祁が曰わく、「與えよ。

如是,魯君必出。政在季氏三世矣,魯君喪政四公矣。無民而能逞其志者,未之有也。國君是以鎮撫其民。《詩》曰:‘人之雲亡,心之憂矣。’魯君失民矣,焉得逞其志?靖以待命猶可,動必憂。”

この如くなれば、魯君は必ず出でん。政は季氏に三代、魯君が政を喪失して四位の公なり。百姓なくして能く志を逞しくするは、かつてなし。國君はこれにより百姓を鎮撫す。《詩》に曰く、『人亡なば、心憂うるなり』。魯君は百姓を失い、どこに能く志を逞しくせん。安靜に命令を待つはなお可。動けば必ず憂あらん」。

夏,會於黃父,謀王室也。趙簡子令諸侯之大夫輸王粟,具戍人,曰:“明年將納王。”子大叔見趙簡子,簡子問揖讓周旋之禮焉。對曰:“是儀也,非禮也。”簡子曰:“敢問何謂禮?”對曰:“吉也聞諸先大夫子產曰:‘夫禮,天之經也。地之義也,民之行也。’天地之經,而民實則之。則天之明,因地之性,生其六氣,用其五行。氣為五味,發為五色,章為五聲,淫則昏亂,民失其性。

夏、黃父で會合したは王室を謀るなり。趙簡子が諸侯の大夫に王の粟を輸送し、戍守の人を準備せよと命じて曰わく、「明年に將に王を送り入れん」。子大叔が趙簡子に見え、簡子が揖讓周旋の禮を問うた。對えて曰わく、「これは儀で禮にあらず」。簡子が曰わく、「敢えて問う、何を禮と曰うか」。對えて曰わく、「吉は先大夫子産より聞くに、『禮は天の經、地の義、民の行なり』。天地の經は百姓が實に效法す。天の明を效法し、地の性に依據し、六氣を生じ、五行を使用す。氣は五味となり、發して五色となり、顯れて五聲となる。過度すれば昏亂し、百姓が本性を失う。

是故為禮以奉之:為六畜、五牲、三犠,以奉五味;為九文、六採、五章,以奉五色;為九歌、八風、七音、六律,以奉五聲;為君臣、上下,以則地義;為夫婦、外內,以經二物;為父子、兄弟、姑姊、甥舅、昏媾、姻亞,以象天明,為政事、庸力、行務,以從四時;為刑罰、威獄,使民畏忌,以類其震曜殺戮;為溫慈、惠和,以效天之生殖長育。民有好、惡、喜、怒、哀、樂,生於六氣。是故審則宜類,以制六志。哀有哭泣,樂有歌舞,喜有施捨,怒有戰鬥;喜生於好,怒生於惡。是故審行信令,禍福賞罰,以制死生。生,好物也;死,惡物也;好物,樂也;惡物,哀也。哀樂不失,乃能協於天地之性,是以長久。”簡子曰:“甚哉,禮之大也!”對曰:“禮,上下之紀,天地之經緯也,民之所以生也,是以先王尚之。故人之能自曲直以赴禮者,謂之成人。大,不亦宜乎?”簡子曰:“鞅也請終身守此言也。”宋樂大心曰:“我不輸粟。我於周為客?”若之何使客?”晉士伯曰:“自踐土以來,宋何役之不會,而何盟之不同?曰‘同恤王室’,子焉得闢之?子奉君命,以會大事,而宋背盟,無乃不可乎?”右師不敢對,受牒而退。士伯告簡子曰:“宋右師必亡。奉君命以使,而欲背盟以幹盟主,無不祥大焉。”

ゆえに禮を制定して奉守す。六畜・五牲・三犧を制定して以て五味を奉じ、九文・六采・五章を制定して以て五色を奉じ、九歌・八風・七音・六律を制定して以て五聲を奉じ、君臣・上下を制定して以て地義を效法し、夫婦・外內を制定して以て二物を經營し、父子・兄弟・姑姊・甥舅・昏媾・姻亞を制定して以て天明を象徵し、政事・庸力・行務を制定して以て四時に順從し、刑罰・威獄を制定して百姓を畏忌せしめ以て震曜殺戮に類し、溫慈・惠和を制定して以て天の生殖長育を效法す。百姓に好・惡・喜・怒・哀・樂ありて六氣より生ず。ゆえに法則を審察し適宜類比して以て六志を制約す。哀に哭泣あり、樂に歌舞あり、喜に施舍あり、怒に戰鬥あり。喜は好より生じ、怒は惡より生ず。ゆえに審慎に行事し誠信に令を發し、禍福賞罰して以て死生を制約す。生は好の物、死は惡の物。好物は樂、惡物は哀。哀樂が失誤せざれば、乃ち能く天地の性を協和し、ゆえに長久す」。簡子が曰わく、「禮の大なるは太過分なり!」。對えて曰わく、「禮は上下の紀、天地の經緯、百姓の生存する所以にして、ゆえに先王が崇尚す。ゆえに人の能く自ら曲直して禮に奔赴するを成人と曰う。大なるはまた當ならずや」。簡子が曰わく、「鞅は終身この話を守らんことを請う」。宋樂大心が曰わく、「我は粟を輸送せず。我は周に對して客なり。何で客を役使せん」。晋士伯が曰わく、「踐土より以來、宋はどの役も參加せず、どの盟も相同せざりしか。『一同に王室を体恤せよ』と曰うに、あなたはどこに避けん。あなたは君命を奉じて大事に會するに、宋が卻って盟を背くは、おそらく不可でしょうか」。右師が敢えて對えず、簡札を受けて退いた。士伯が簡子に告げて曰わく、「宋右師は必ず滅亡せん。君命を奉じて出使するに、卻って盟を背きて盟主を冒犯せんと欲するは、不祥はこれより大きいものなし」。

‘有鴝鵒來巢’,書所無也。師己曰:“異哉!吾聞文、武之世,童謠有之,曰:‘鴝之鵒之,公出辱之。鴝鵒之羽,公在外野,往饋之馬。鴝鵒跦跦,公在乾侯,徵褰與襦。鴝鵒之巢,遠哉遙遙。稠父喪勞,宋父以驕。鴝鵒鴝鵒,往歌來哭。’童謠有是,今鴝鵒來巢,其將及乎?”秋,書再雩,旱甚也。

『鸜鵒來て巢す』、《春秋》に記載するはかつて有らざるなり。師己が曰わく、「怪異なり!我は聞くに文・武の世代に童謠にこれありて曰く、『鸲や鹆や、公出でて辱を受く。鸜鵒の羽毛、公は外野に在り、往きて馬を饋贈す。鸜鵒跳跳、公は乾侯に在り、褲子と短衣を求む。鸜鵒の巢、遠きかな遥遥。稠父は勞に死し、宋父はこれにより驕れり。鸜鵒鸜鵒、去る時は唱い帰る時は哭く』。童謠にこれあり、今鸜鵒が來て巢を作るは、おそらく將に至らんか」。秋、《春秋》に兩次の雩祭を記載したは旱の甚だしきなり。

初,季公鳥娶妻於齊鮑文子,生甲。公鳥死,季公亥與公思展與公鳥之臣申夜姑相其室。及季姒與饔人檀通,而懼,乃使其妾抶己,以示秦遄之妻,曰:“公若欲使餘,餘不可而抶餘。”又訴於公甫,曰:“展與夜姑將要餘。”秦姬以告公之,公之與公甫告平子。平子拘展於卞而執夜姑,將殺之。公若泣而哀之,曰:“殺是,是殺餘也。”將為之請。平子使豎勿內,日中不得請。有司逆命,公之使速殺之。故公若怨平子。

初め、季公鳥が齊鮑文子の家より妻を娶り、甲を生んだ。公鳥が死し、季公亥と公思展と公鳥の臣申夜姑がその家を治理した。季姒が饔人檀と私通するに及び、懼れ、ここにその妾に自らを打たせ、秦遄の妻に見せて曰わく、「公若が我を欲すれば、我が同意せずして我を打つ」。また公甫に控訴して曰わく、「展と夜姑が將に我を要挾せん」。秦姬が公之に告げ、公之と公甫が平子に告げた。平子が展を卞に拘し夜姑を執え、將に彼を殺さんとした。公若が哭泣哀傷して曰わく、「これを殺すは即ち我を殺すなり」。將に彼のため請わんとした。平子が竪に放ち入れぬよう命じ、日中に至るも請う能わず。有司が命令を迎受し、公之が速く殺させた。ゆえに公若が平子を怨んだ。

季、郈之雞鬥。季氏介其雞,郈氏為之金距。平子怒,益宮於郈氏,且讓之。故郈昭伯亦怨平子。臧昭伯之從弟會,為讒於臧氏,而逃於季氏,臧氏執旃。平子怒,拘臧氏老。將禘於襄公,萬者二人,其眾萬於季氏。臧孫曰:“此之謂不能庸先君之廟。”大夫遂怨平子。公若獻弓於公為,且與之出射於外,而謀去季氏。公為告公果、公賁。公果、公賁使侍人僚柤告公。公寢,將以戈擊之,乃走。公曰:“執之。”亦無命也。懼而不出,數月不見,公不怒。又使言,公執戈懼之,乃走。又使言,公曰:“非小人之所及也。”公果自言,公以告臧孫,臧孫以難。告郈孫,郈孫以可,勸。告子家懿伯,懿伯曰:“讒人以君僥倖,事若不克,君受其名,不可為也。舍民數世,以求克事,不可必也。

季・郈の雞鬥した。季氏が雞に甲を穿かせ、郈氏がそれに金距を作した。平子が怒り、郈氏に向かい宮室を擴展し、かつ責めた。ゆえに郈昭伯もまた平子を怨んだ。臧昭伯の從弟會が臧氏に讒を進め、季氏に逃げ、臧氏が彼を執えた。平子が怒り、臧氏の家老を拘拿した。將に襄公で禘祭を行わんとし、萬舞を跳ぶ兩人、衆人が季氏で萬舞を跳んだ。臧孫が曰わく、「これを不能して先君の廟に酬勞すと曰う」。大夫がここに平子を怨んだ。公若が公のため弓を献じ、かつ彼と外で射し、季氏を去らんを謀った。公為が公果・公賁に告げた。公果・公賁が侍人僚柤を遣わして公に告げさせた。公が寢て、將に戈を以て彼を撃たんとし、ここに跑った。公が曰わく、「執えよ」。も命令なし。懼れて出でず、數月見えず、公は怒らず。又説かせ、公が戈を持ちて彼を怕らせ、ここに跑った。又説かせ、公が曰わく、「小人の及ぶ所能にあらず」。公果が自ら説き、公が臧孫に告げ、臧孫が難と以為す。郈孫に告げ、郈孫が可と以為し、勸めた。子家懿伯に告げ、懿伯が曰わく、「讒人が國君を以て僥倖するは、事がもし成らずば、國君がその名を承受す。為すべからず。百姓を舍棄する幾世、以て事の成功を求むるは必ずすべからず。

且政在焉,其難圖也。”公退之。辭曰:“臣與聞命矣,言若洩,臣不獲死。”

況んや政はそこに在り、難く謀らん」。公が彼を退かせた。推辭して曰わく、「臣はすでに參與して命令を聞き、話がもし泄漏せば、臣は死を獲得する能わず」。

乃館於公。

ここに公の所に住んだ。

叔孫昭子如闞,公居於長府。九月戊戌,伐季氏,殺公之於門,遂入之。平子登臺而請曰:“君不察臣之罪,使有司討臣以干戈,臣請待於沂上以察罪。”

叔孫昭子が闞に行き、公が長府に住んだ。九月戊戌、季氏を攻め、門口で公之を殺し、ここに入った。平子が臺に登り請うて曰わく、「君が臣の罪を考察せず、有司を遣わして干戈を以て臣を討伐す。臣は沂上で待って罪を考察するを請います」。

弗許。請囚於費,弗許。請以五乘亡,弗許。子家子曰:“君其許之!政自之出久矣,隱民多取食焉。為之徒者眾矣,日入慝作,弗可知也。眾怒不可蓄也,蓄而弗治,將薀。薀畜,民將生心。生心,同求將合。君必悔之。”弗聽。郈孫曰:“必殺之。”公使郈孫逆孟懿子。叔孫氏之司馬鬷戾言於其眾曰:“若之何?”莫對。又曰:“我,家臣也,不敢知國。凡有季氏與無,於我孰利?”皆曰:“無季氏,是無叔孫氏也。”鬷戾曰:“然則救諸!”帥徒以往,陷西北隅以入。公徒釋甲,執冰而踞。遂逐之。孟氏使登西北隅,以望季氏。見叔孫氏之旌,以告。孟氏執郈昭伯,殺之於南門之西,遂伐公徒。子家子曰:“諸臣偽劫君者,而負罪以出,君止。意如之事君也,不敢不改。”公曰:“餘不忍也。”

許されず。費で囚禁することを請うも許されず。五乘を以て逃亡することを請うも許されず。子家子が曰わく、「君はなお許せ!政は彼より出ること久しく、隱民は多くそこより食を取ります。彼の徒衆となる者多し。日入後に奸惡が發作すれば知るべからず。衆怒は蓄積すべからず。蓄積して治せざれば、將に積聚せん。積聚蓄藏すれば、百姓は將に異心を生ぜん。異心生じれば、同じく求むる者は將に會合せん。君は必ず悔いん」。聽かず。郈孫が曰わく、「必ず彼を殺せ」。公が郈孫を遣わして孟懿子を迎えさせた。叔孫氏の司馬鬷戾が部衆に曰わく、「どうするか」。答える人なし。又曰わく、「我は家臣で、敢えて國事を知らず。季氏あるとないと、我らにどちらが利か」。皆曰わく、「季氏なければ、即ち叔孫氏なし」。鬷戾が曰わく、「然らば救援せよ!」。徒衆を率いて往き、西北角を攻陷して入った。公の徒衆が甲を脫ぎ、箭筒を持ちて蹲いた。ここに彼らを驅逐した。孟氏が人を遣わして西北角に登らせ、季氏を眺望した。叔孫氏の旌を見て告げた。孟氏が郈昭伯を執え、南門西で彼を殺し、ここに公の徒衆を攻めた。子家子が曰わく、「諸臣は劫持國君を偽り、罪を背負い出でよ。君は留まれ。意如が國君に事奉するは、敢えて改めざらん」。公が曰わく、「我は忍びず」。

與臧孫如墓謀,遂行。

臧孫と墓地に至りて謀り、ここに去った。

己亥,公孫於齊,次於陽州。齊侯將唁公於平陰,公先至於野井。齊侯曰:“寡人之罪也。”使有司待於平陰,為近故也。書曰:“公孫於齊,次於陽州,齊侯唁公於野井。”禮也。將求於人,則先下之,禮之善物也。齊侯曰:“自莒疆以西,請致千社,以待君命。寡人將帥敝賦以從執事,唯命是聽,君之憂,寡人之憂也。”公喜。子家子曰:“天祿不再,天若胙君,不過周公,以魯足矣。

己亥、昭公が齊に出奔し、陽州に駐屯した。齊侯が將に平陰で公を弔唁せんとし、公が先に野井に至った。齊侯が曰わく、「これは寡人の罪なり」。有司を遣わして平陰で待たせたは近きの故なり。《春秋》に「公が齊に孫し、陽州に次し、齊侯が公を野井で唁す」と記載したは禮に合う。將に人に求めんとして、先に下に處るは禮の善物なり。齊侯が曰わく、「莒疆より以西、千社を致送して君命を待たんことを請う。寡人は將に敝賦を率いて執事に從い、ただ命に聽かん。君の憂は寡人の憂なり」。公が喜んだ。子家子が曰わく、「天禄は再び來らず。天がもし君に福を賜えば、周公を超えず、魯を以て足れり。

失魯,而以千社為臣,誰與之立?且齊君無信,不如早之晉。”弗從。臧昭伯率從者將盟,載書曰:“戮力壹心,好惡同之。信罪之有無,繾綣從公,無通外內。”

魯を失いて、卻って千社を以て臣と為すは、誰が彼と立たん。況んや齊君は信用なし。早く晋に至るに如かず」。聽き從わず。臧昭伯が從う人を率いて將に盟約を結ばんとし、載書に曰わく、「合力一心、好惡相同す。罪の有無を信じ、纏綿して公に從い、外內を溝通せず」。

以公命示子家子。子家子曰:“如此,吾不可以盟,羈也不佞,不能與二三子同心,而以為皆有罪。或欲通外內,且欲去君。二三子好亡而惡定,焉可同也?陷君於難,罪孰大焉?通外內而去君,君將速入,弗通何為?而何守焉?”乃不與盟。

公命を以て子家子に見せた。子家子が曰わく、「この如くなれば、我は盟約を結ぶべからず。羈は不才で、几位と同心する能わず、卻って皆罪ありと以為す。或る者は外內を溝通せんと欲し、かつ國君を離れんと欲す。几位は逃亡を好み安定を惡み、どこに相同すべからん。國君を難に陷れるは、罪はどれか大きい。外內を溝通して國君を離れれば、國君は將に速く入らん。溝通せずして何を為す。何を守らん」。ここに盟に參加せず。

昭子自闞歸,見平子。平子稽顙,曰:“子若我何?”昭子曰:“人誰不死?子以逐君成名,子孫不忘,不亦傷乎!將若子何?”平子曰:“苟使意如得改事君,所謂生死而肉骨也。”昭子從公於齊,與公言。子家子命適公館者執之。公與昭子言於幄內,曰將安眾而納公。公徒將殺昭子,伏諸道。左師展告公,公使昭子自鑄歸。平子有異志。冬十月辛酉,昭子齊於其寢,使祝宗祈死。戊辰,卒。

昭子が闞より歸り、平子に見えた。平子が叩頭して曰わく、「あなたは我をどうするか」。昭子が曰わく、「人は誰が死せざらん。あなたは國君を驅逐して名を成すに、子孫は忘れず。また傷心せざらんや!將にあなたをどうせん」。平子が曰わく、「もし意如をして過を改め國君に事奉し得せしめば、即ち所謂死人を復活せしめ白骨に肉を長ぜしむるなり」。昭子が齊に至り公に從い、公と話した。子家子が公館に至る人に執えるよう命じた。公と昭子が帳內で話し、將に衆人を安定し公を送り入れんと曰うた。公の徒衆が將に昭子を殺さんとし、路上に埋伏した。左師展が公に告げ、公が昭子に鑄より歸らせた。平子に異志あり。冬十月辛酉、昭子が寢で齋戒し、祝宗を遣わして死を求めた。戊辰、薨じた。

左師展將以公乘馬而歸,公徒執之。

左師展が將に公の乘馬を帶びて歸らんとし、公の徒衆が彼を執えた。

壬申,尹文公涉於鞏,焚東訾,弗克。

壬申、尹文公が鞏で河を渡り、東訾を焚燒したが克てず。

十一月,宋元公將為公故如晉。夢大子欒即位於廟,己與平公服而相之。旦,召六卿。公曰:“寡人不佞,不能事父兄,以為二三子憂,寡人之罪也。若以群子之靈,獲保首領以沒,唯是楄柎所以藉幹者,請無及先君。”仲幾對曰:“君若以社稷之故,私降暱宴,群臣弗敢知。若夫宋國之法,死生之度,先君有命矣。群臣以死守之,弗敢失隊。臣之失職,常刑不赦。臣不忍其死,君命只辱。”

十一月、宋元公が將に公の故により晋に行かんとした。太子欒が廟で即位し、自らと平公が禮服を著て輔佐する夢を見た。朝、六卿を召した。公が曰わく、「寡人は不才で、父兄に事奉する能わず、几位の憂となるは寡人の罪なり。もし諸位の靈に憑りて腦袋を保住して死するを獲れば、ただ楄柎が棺を墊するに用いるを、先君の如く至らぬを請う」。仲幾が對えて曰わく、「君がもし社稷の故により私に親昵宴飲を降低せば、群臣は敢えて知らず。宋國の法・死生の法度に至りては、先君に命令あり。群臣は死を以て守り、敢えて失落せず。臣が職を失えば、常刑は赦さず。臣はあのように死するに忍びず。君命はただ辱を受くるのみ」。

宋公遂行。己亥,卒於曲棘。

宋公がここに出行した。己亥、曲棘で薨じた。

十二月庚辰,齊侯圍鄆。

十二月庚辰、齊侯が鄆を包圍した。

初,臧昭伯如晉,臧會竊其寶龜僂句,以卜為信與僣,僣吉。臧氏老將如晉問,會請往。昭伯問家故,盡對。及內子與母弟叔孫,則不對。再三問,不對。

初め、臧昭伯が晋に行き、臧會がその寶龜僂句を偷み、誠信と僭越を占卜し、僭越が吉利であった。臧氏の家老が將に晋に至り問候せんとし、會が往くを請うた。昭伯が家の故を問うに、全部對えた。內子と同母弟叔孫に及ぶと、對えず。再三問うも、對えず。

歸,及郊,會逆,問,又如初。至,次於外而察之,皆無之。執而戮之,逸,奔郈。郈魴假使為賈正焉。計於季氏。臧氏使五人以戈盾伏諸桐汝之閭。會出,逐之,反奔,執諸季氏中門之外。平子怒,曰:“何故以兵入吾門?”拘臧氏老。

歸り、郊に至り、會が迎接し、問うに、また当初の如し。至り、外に住み考察するに、皆無し。執えて將に殺さんとすれば、逃走し、郈に出奔した。郈魴假が彼を賈正とさせた。季氏に賬を報した。臧氏が五人を遣わして戈盾を持ち桐汝の里門に埋伏せしめた。會が出れば、追趕し、反りて跑り、季氏の中門外で執えた。平子が怒り、曰わく、「何で兵器を帶びて我が門に入るか」。臧氏の家老を拘拿した。

季、臧有惡。及昭伯從公,平子立臧會。會曰:“僂句不餘欺也。”

季・臧に惡あり。昭伯が公に從うに及び、平子が臧會を立てた。會が曰わく、「僂句は我を欺かず」。

楚子使薳射城州屈,復茄人焉。城丘皇,遷訾人焉。使熊相衤某郭巢,季然郭卷。子大叔聞之,曰:“楚王將死矣。使民不安其土,民必憂,憂將及王,弗能久矣。”

楚子が䓕射を遣わして州屈に城を築き、茄人を歸らせた。丘皇に城を築き、訾人を遷した。熊相禖を遣わして巢に郭を築き(底本「衤某」は禖)、季然が卷に郭を築いた。子大叔が聞き、曰わく、「楚王は將に死せん。百姓を土地に安んぜしめず、百姓は必ず憂え、憂は將に王に及ばん。長久ならじ」。

◇昭公二十六年

◇昭公二十六年

【經】二十有六年春王正月,葬宋元公。三月,公至自齊,居於鄆。夏,公圍成。秋,公會齊侯、莒子、邾子、杞伯,盟於鄟陵。公至自會,居於鄆。九月庚申,楚子居卒。冬十月,天王入於成周。尹氏、召伯、毛伯以王子朝奔楚。

【経】二十六年春、周天子の暦の正月、宋元公を葬った。三月、昭公が齊より歸り、鄆に住んだ。夏、昭公が成を包圍した。秋、昭公が齊侯・莒子・邾子・杞伯と會見し、鄟陵で盟約を結んだ。昭公が盟會より歸り、鄆に住んだ。九月庚申、楚子居が薨じた。冬十月、天王が成周に入った。尹氏・召伯・毛伯が王子朝を帶びて楚に出奔した。

【傳】二十六年春,王正月庚申,齊侯取鄆。

【伝】二十六年春、周天子の暦の正月庚申、齊侯が鄆を取った。

葬宋元公,如先君,禮也。

宋元公を葬ること先君の如くしたは禮に合う。

三月,公至自齊,處於鄆,言魯地也。

三月、昭公が齊より歸り、鄆に住んだは魯地を説くなり。

夏,齊侯將納公,命無受魯貨。申豐從女賈,以幣錦二兩,縛一如瑱,適齊師。謂子猶之人高齮:“能貨子猶,為高氏後,粟五千庾。”高齮以錦示子猶,子猶欲之。齮曰:“魯人買之,百兩一布,以道之不通,先入幣財。”子猶受之,言於齊侯曰:“群臣不盡力於魯君者,非不能事君也。然據有異焉。宋元公為魯君如晉,卒於曲棘。叔孫昭子求納其君,無疾而死。不知天之棄魯耶,抑魯君有罪於鬼神,故及此也?君若待於曲棘,使群臣從魯君以卜焉。若可,師有濟也。

夏、齊侯が將に昭公を送り入れんとし、魯の貨を接受せぬよう命じた。申豐が女賈に從い、幣錦二兩を帶び、瑱の如く捆し、齊軍に至った。子猶の人高𬺈に對して曰わく、「能く貨を子猶に與えば、高氏の後嗣を為し、粟五千庾を與えん」。高𬺈が錦を子猶に見せ、子猶が欲した。𬺈が曰わく、「魯人がこれを買い、百兩を一堆とし、道路が通ぜざるを以て、先に幣財を送入れり」。子猶が接受し、齊侯に對して曰わく、「群臣が魯君に盡力せざるは、能く君に事奉せざるにあらず。しかし據に怪異あり。宋元公が魯君のため晋に行き、曲棘で薨じた。叔孫昭子がその國君を送り入れんを求め、病なくして死せり。知らず、天が魯を拋棄するか、それとも魯君が鬼神に罪ありて、ゆえにこの歩に至るか。君がもし曲棘で待ち、群臣をして魯君に從わせ來りて占卜せしめば、もし可なれば、軍隊は成する功あり。…」

君而繼之,茲無敵矣。若其無成,君無辱焉。”齊侯從之,使公子鉏帥師從公。

君は再接續し、こうすれば敵手なし。もし成功せずとも、君は辱を受けず」。齊侯が聽き從い、公子鉏を遣わして軍を率い公に從わせた。

成大夫公孫朝謂平子曰:“有都以衛國也,請我受師。”許之。請納質,弗許,曰:“信女,足矣。”告於齊師曰:“孟氏,魯之敝室也。用成已甚,弗能忍也,請息肩於齊。”齊師圍成。成人伐齊師之飲馬於淄者,曰:“將以厭眾。”魯成備而後告曰:“不勝眾。”師及齊師戰於炊鼻。齊子淵捷從洩聲子,射之,中楯瓦。繇朐汰輈,匕入者三寸。聲子射其馬,斬鞅,殪。改駕,人以為鬷戾也而助之。子車曰:“齊人也。”將擊子車,子車射之,殪。其御曰:“又之。”子車曰:“眾可懼也,而不可怒也。”子囊帶從野洩,叱之。洩曰:“軍無私怒,報乃私也,將亢子。”又叱之,亦叱之。冉豎射陳武子,中手,失弓而罵。以告平子,曰:“有君子白皙,鬒鬚眉,甚口。”平子曰:“必子強也,無乃亢諸?”對曰:“謂之君子,何敢亢之?”林雍羞為顏鳴右,下。苑何忌取其耳,顏鳴去之。苑子之御曰:“視下顧。”苑子刜林雍,斷其足。{輕金}而乘於他車以歸,顏鳴三入齊師,呼曰:“林雍乘!”四月,單子如晉告急。五月戊午,劉人敗王城之師於屍氏。戊辰,王城人、劉人戰於施谷,劉師敗績。

成大夫公孫朝が平子に曰わく、「有都は國を保衛するためです。私に軍隊を受けさせてください」。許した。人質を納めるを請うたが許さず、曰わく、「あなたを信任すれば足れり」。齊軍に告げて曰わく、「孟氏は魯の破落家族です。成を用いるは已に過分で、忍び難く、齊で歇肩するを請います」。齊軍が成を包圍した。成人が淄で馬を飲ませる齊軍を攻めて曰わく、「將に衆人を壓制するに用いん」。魯が成で防備して然る後に告知して曰わく、「衆人に勝てず」。軍隊が齊軍と炊鼻で交戰した。齊子淵捷が泄聲子を追い、彼を射て盾瓦に中った。軛より轅を穿り、箭頭が三寸入った。聲子が彼の馬を射て鞅を斬斷し、馬が死んだ。別の車に改乘し、他人は鬷戾と以為して助けた。子車が曰わく、「これは齊人です」。將に子車を撃たんとし、子車が彼を射て死んだ。その御者が曰わく、「また來い」。子車が曰わく、「衆人は怕らせる可し、激怒すべからず」。子囊帶が野泄を追い、叱罵した。泄が曰わく、「軍に私怒なし。報復は即ち私で、將にあなたに抗衡せん」。又叱罵し、亦叱罵した。冉豎が陳武子を射て手に中り、弓を丟棄して罵った。平子に告げて曰わく、「君子ありて皮膚白く、須眉黑密で、甚だ能く罵ります」。平子が曰わく、「必ず子强で、おそらく抗衡したのでしょうか」。對えて曰わく、「君子と叫做すれば、どこに敢えて抗衡せん」。林雍が顏鳴の車右を為すを羞とし、下車した。苑何忌が彼の耳を取り、顏鳴が離れた。苑子の御者が曰わく、「下を看よ」。苑子が林雍を砍って脚を斬斷した。獨輪の類の車を以て別の車に乘りて歸り、顏鳴が三たび齊軍に入り、呼喊して曰わく、「林雍が車に上れ!」。四月、單子が晋に至り急を告げた。五月戊午、劉人が尸氏で王城の軍を敗った。戊辰、王城人・劉人が施谷で交戰し、劉軍が敗戰した。

秋,盟於鄟陵,謀納公也。

秋、鄟陵で盟約を結んだは昭公を送り入れるを謀るなり。

七月己巳,劉子以王出。庚午,次於渠。王城人焚劉。丙子,王宿於褚氏。

七月己巳、劉子が王を帶びて出た。庚午、渠に駐屯した。王城人が劉を焚燒した。丙子、王が褚氏に住んだ。

丁丑,王次於萑谷。庚辰,王入於胥靡。辛巳,王次於滑。晉知躒、趙鞅帥師納王,使汝寬守關塞。

丁丑、王が萑谷に駐屯した。庚辰、王が胥靡に入った。辛巳、王が滑に駐屯した。晋知躒・趙鞅が軍を率いて王を送り入れ、汝寬を遣わして關塞を守らせた。

九月,楚平王卒。令尹子常欲立子西,曰:“大子壬弱,其母非適也,王子建實聘之。子西長而好善。立長則順,建善則治。王順國治,可不務乎?”子西怒曰:“是亂國而惡君王也。國有外援,不可瀆也。王有適嗣,不可亂也。敗親、速仇、亂嗣,不祥,我受其名。賂吾以天下,吾滋不從也。楚國何為?必殺令尹!”令尹懼,乃立昭王。

九月、楚平王が薨じた。令尹子常が子西を立てんと欲して曰わく、「太子壬は幼弱で、その母は嫡にあらず、實は王子建が聘した者です。子西は年長で善を好む。長を立てれば順し、善を建てれば治す。王順して國家治まるは、致力せざる可けんや」。子西が怒りて曰わく、「これは國を亂し君王を惡むなり。國に外援ありて輕慢すべからず。王に嫡嗣ありて亂すべからず。親を敗壞し、仇を加速し、嗣を擾亂するは不祥で、我はその名を承受す。天下を以て我に賄賂すとも、我はなお聽從せず。楚國は何を為す。必ず令尹を殺せ!」。令尹が懼れ、ここに昭王を立てた。

冬十月丙申,王起師於滑。辛丑,在郊,遂次於屍。十一月辛酉,晉師克鞏。

冬十月丙申、王が滑で起兵した。辛丑、郊に在り、ここに尸に駐屯した。十一月辛酉、晋軍が鞏を攻克した。

召伯盈逐王子朝,王子朝及召氏之族、毛伯得、尹氏固、南宮嚚奉周之典籍以奔楚。陰忌奔莒以叛。召伯逆王於屍,及劉子、單子盟。遂軍圉澤,次於堤上。癸酉,王入於成周。甲戌,盟於襄宮。晉師使成公般戍周而還。十二月癸未,王入於莊宮。

召伯盈が王子朝を驅逐し、王子朝及び召氏の族・毛伯得・尹氏固・南宮嚚が周の典籍を捧げて楚に出奔した。陰忌が莒に出奔して叛変した。召伯が尸で王を迎接し、劉子・單子と盟約を結んだ。ここに軍を駐め圉澤に在り、堤上に駐屯した。癸酉、王が成周に入った。甲戌、襄宮で盟約を結んだ。晋軍が成公般を遣わして周を戍守せしめて然る後に歸った。十二月癸未、王が莊宮に入った。

王子朝使告於諸侯曰:“昔武王克殷,成王靖四方,康王息民,並建母弟,以蕃屏周。亦曰:‘吾無專享文、武之功,且為後人之迷敗傾覆,而溺入於難,則振救之。’至於夷王,王愆於厥身,諸侯莫不併走其望,以祈王身。至於厲王,王心戾虐,萬民弗忍,居王於彘。諸侯釋位,以間王政。宣王有志,而後效官。

王子朝が人を遣わして諸侯に告げて曰わく、「昔武王が殷を克し、成王が四方を安んじ、康王が百姓を休息し、一幷に同母弟を建立して以て周を藩屏せしめた。亦曰く、『我は文・武の功を專享せず、かつ後人の迷亂敗壞傾覆し、沉溺して難に入るを以て、則ち振救す』。夷王に至り、王自身に病あり、諸侯は皆一起に奔走して群望に、王身のため祈禱した。厲王に至り、王心が暴戾虐にして萬民が忍び能わず、王を彘に安置した。諸侯が位を放下して來りて王政を塡補した。宣王に志ありて、然る後に官職を交還した。

至於幽王,天不弔周,王昏不若,用愆厥位。攜王奸命,諸侯替之,而建王嗣,用遷郟鄏。則是兄弟之能用力於王室也。至於惠王,天不靖周,生頹禍心,施於叔帶,惠、襄闢難,越去王都。則有晉、鄭,鹹黜不端,以綏定王家。則是兄弟之能率先王之命也。在定王六年,秦人降妖,曰:‘周其有頿王,亦克能修其職。諸侯服享,二世共職。王室其有間王位,諸侯不圖,而受其亂災。’至於靈王,生而有頿。王甚神聖,無惡於諸侯。靈王、景王,克終其世。今王室亂,單旗、劉狄,剝亂天下,壹行不若。謂:‘先王何常之有?唯餘心所命,其誰敢請之?’帥群不弔之人,以行亂於王室。侵欲無厭,規求無度,貫瀆鬼神,慢棄刑法,倍奸齊盟,傲很威儀,矯誣先王。晉為不道,是攝是贊,思肆其罔極。茲不穀震盪播越,竄在荊蠻,未有攸厎。若我一二兄弟甥舅,獎順天法,無助狡猾,以從先王之命,毋速天罰,赦圖不穀,則所願也。敢盡布其腹心,及先王之經,實深圖之。昔先王之命曰:‘王后無適,則擇立長。年鈞以德,德鈞以卜。’王不立愛,公卿無私,古之制也。穆後及大子壽早夭即世,單、劉贊私立少,以間先王,亦唯伯仲叔季圖之!”閔馬父聞子朝之辭,曰:“文辭以行禮也。子朝幹景之命,遠晉之大,以專其志,無禮甚矣,文辭何為?”齊有彗星,齊侯使禳之。晏子曰:“無益也,只取誣焉。天道不諂,不貳其命,若之何禳之?且天之有彗也,以除穢也。君無穢德,又何禳焉?若德之穢,禳之何損?《詩》曰:‘惟此文王,小心翼翼,昭事上帝,聿懷多福。厥德不回,以受方國。’君無違德,方國將至,何患於彗?《詩》曰:‘我無所監,夏後及商。用亂之故,民卒流亡。’若德回亂,民將流亡,祝史之為,無能補也。”公說,乃止。

幽王に至り、天が周を憐れまず、王が昏亂順せず、これにより位を失った。攜王が命令を觸犯し、諸侯が廢し、王の嗣を建立し、これにより郟鄏に遷った。これは即ち兄弟が能く王室に力を用いたなり。惠王に至り、天が周を安寧せず、頹の禍心を生じ、叔帶に延及し、惠・襄が難を避け、王都を離れた。ここに晋・鄭ありて、皆不端を廢黜して以て王家を安定せしめた。これは即ち兄弟が能く先王の命令に率いるなり。定王六年に秦人が妖を降して曰く、『周に大概長き鬍子の王ありて、亦能くその職を修めん。諸侯が服享し、兩世が職事を恭敬せん。王室に大概人ありて空隙を鑽り王位を奪い、諸侯が謀らざれば、亂災を受けん』。靈王に至り、生まれて即ち鬍子あり。王は甚だ神聖で、諸侯に惡なし。靈王・景王は能くその世代を終えたり。今王室が亂れ、單旗・劉狄が天下を剥亂し、專行して順せず。曰く、『先王に何の常規かあらん。ただ我が心の命令する所に按って、誰が敢えて請示せん』。一群の不善の人を率いて王室で亂を作す。侵欲は滿足なく、規求は限度なく、鬼神を輕慢するに慣れ、刑法を怠慢拋棄し、盟約を背棄奸犯し、威儀を傲慢し、先王を矯誣す。晋が無道を為し、攝持贊助して放肆して極限なからんと欲す。今不穀は震盪流亡し、荆蠻に逃竄して止息なし。もし我ら一二位の兄弟甥舅が、贊助して天法に順從し、狡猾を助けず、以て先王の命令に從い、天罰を加速せず、不穀を赦免謀劃せば、即ち願う所なり。敢えて腹心を全部陳述し、先王の經に及び、實に深謀劃す。昔先王の命令に曰く、『王后に嫡なければ、則ち長を擇び立てる。年歲が同じければ德に按り、德が同じければ占卜す』。王は愛する所を立てず、公卿に私なきは古代の制度なり。穆后及び太子壽が早く死して去世し、單・劉が贊助して私に年少を立て、以て先王の空隙を鑽るは、亦ただ伯仲叔季の謀劃を請うのみ!」。閔馬父が子朝の辭を聞き、曰わく、「文辭は以て禮を實行するなり。子朝は景の命令を冒犯し、遠大の晋を疏遠し、以てその心志を專にす。無禮は太過分で、文辭は何を為さん」。齊に彗星あり、齊侯が人を遣わして禳せしめた。晏子が曰わく、「益處なく、ただ誣を取るのみ。天道は諂媚せず、その命を改變せず。何で禳せん。況んや天に彗あるは以て穢を除去するなり。君に穢德なく、また何を禳せん。もし德穢れば、禳して何を減損せん。《詩》に曰く、『この文王、小心翼翼、昭明して上帝に事奉し、多福を懐く。その德は邪せず、以て方國を受く』。君に違德なくば、方國は將に至らん。彗を憂うるは何を為さん。《詩》に曰く、『我に鑑なく、夏后及び商。亂の故を以て、百姓は終に流亡す』。もし德邪亂なれば、百姓は將に流亡せん。祝史の作為は補う能わず」。公が喜び、ここに停止した。

齊侯與晏子坐於路寢,公嘆曰:“美哉室!其誰有此乎?”晏子曰:“敢問何謂也?”公曰:“吾以為在德。”對曰:“如君之言,其陳氏乎!陳氏雖無大德,而有施於民。豆區釜鍾之數,其取之公也簿,其施之民也厚。公厚斂焉,陳氏厚施焉,民歸之矣。《詩》曰:‘雖無德與女,式歌且舞。’陳氏之施,民歌舞之矣。後世若少惰,陳氏而不亡,則國其國也已。”公曰:“善哉!是可若何?”對曰:“唯禮可以已之。在禮,家施不及國,民不遷,農不移,工賈不變,士不濫,官不滔,大夫不收公利。”公曰:“善哉!我不能矣。吾今而後知禮之可以為國也。”對曰:“禮之可以為國也久矣。與天地並。君令臣共,父慈子孝,兄愛弟敬,夫和妻柔,姑慈婦聽,禮也。君令而不違,臣共而不貳,父慈而教,子孝而箴;兄愛而友,弟敬而順;夫和而義,妻柔而正;姑慈而從,婦聽而婉:禮之善物也。”公曰:“善哉!寡人今而後聞此禮之上也。”對曰:“先王所稟於天地,以為其民也,是以先王上之。”

齊侯と晏子が路寢に坐し、公が歎息して曰わく、「屋は美しいな!誰がこれを有さん」。晏子が曰わく、「敢えて問う、何を説くか」。公が曰わく、「我は德に在りと以為す」。對えて曰わく、「君の説く如くは、おそらく陳氏でしょうか!陳氏は大德なき雖も、百姓に施あり。豆區釜鐘の數は公より取るは薄く、百姓に施すは厚し。公は厚斂し、陳氏は厚施し、百姓が歸附しました。《詩》に曰く、『雖か德なく汝に、亦歌唱して舞踊す』。陳氏の施は百姓已に歌舞せり。後世がもし稍怠惰し、陳氏が如し滅亡せざれば、國家は彼の國とならん」。公が曰わく、「善し!これをどうするか」。對えて曰わく、「ただ禮を以て止住する可し。禮に於ては、家の施は國に及ばず、百姓は遷らず、農は移らず、工賈は改變せず、士は濫れず、官は放縱せず、大夫は公利を收めず」。公が曰わく、「善し!我は能わず。我は今より以後、禮が以て國を治むるを知る」。對えて曰わく、「禮が以て國を治むるは已に久し。天地と並列す。君が令を發し臣が恭敬し、父が慈し子が孝し、兄が愛し弟が敬し、夫が和し妻が柔し、姑が慈し婦が聽くは禮なり。君が令を發して違背せず、臣が恭敬して二心なく、父が慈して教え、子が孝して規勸し、兄が愛して友し、弟が敬して順し、夫が和して義し、妻が柔して正し、姑が慈して聽從し、婦が聽きて婉なり。是れ禮の善物なり」。公が曰わく、「善し!寡人は今より以後、これ禮の崇尚を聞かん」。對えて曰わく、「先王が天地より禀受し、以てその百姓を為す。ゆえに先王が崇尚せり」。

◇昭公二十七年

◇昭公二十七年

【經】二十有七年春,公如齊。公至自齊,居於鄆。夏四月,吳弒其君僚。

【経】二十七年春、昭公が齊に行った。昭公が齊より歸り、鄆に住んだ。夏四月、呉がその國君僚を弑した。

楚殺其大夫郤宛。秋,晉士鞅、宋樂祁犁、衛北宮喜、曹人、邾人、滕人會於扈。

楚がその大夫郤宛を殺した。秋、晋士鞅・宋樂祁犁・衛北宮喜・曹人・邾人・滕人が扈で會合した。

冬十月,曹伯午卒。邾快來奔。公如齊。公至自齊,居於鄆。

冬十月、曹伯午が薨じた。邾快が投奔に來た。昭公が齊に行った。昭公が齊より歸り、鄆に住んだ。

【傳】二十七年春,公如齊。公至自齊,處於鄆,言在外也。

【伝】二十七年春、昭公が齊に行った。昭公が齊より歸り、鄆に住んだは外に在るを説くなり。

吳子欲因楚喪而伐之,使公子掩餘、公子燭庸帥師圍潛。使延州來季子聘於上國,遂聘於晉,以觀諸侯。楚莠尹然,工尹麇帥師救潛。左司馬沈尹戌帥都君子與王馬之屬以濟師,與吳師遇於窮。令尹子常以舟師及沙汭而還。左尹郤宛、工尹壽帥師至於潛,吳師不能退。

呉子が楚の喪事に借りて攻めんと欲し、公子掩余・公子燭庸を遣わして軍を率い潛を包圍せしめた。延州來季子を遣わして上國に聘問せしめ、ここに晋に聘問し、以て諸侯を觀察せしめた。楚莠尹然・工尹麇が軍を率いて潛を救援した。左司馬沈尹戌が都君子と王馬の部屬を率いて增援に來り、呉軍と窮で相遇った。令尹子常が舟師を率いて沙汭に至れば即ち歸った。左尹郤宛・工尹壽が軍を率いて潛に至り、呉軍は退く能わず。

吳公子光曰:“此時也,弗可失也。”告鱄設諸曰:“上國有言曰:‘不索何獲?’我,王嗣也,吾欲求之。事若克,季子雖至,不吾廢也。”鱄設諸曰:“王可弒也。母老子弱,是無若我何。”光曰:“我,爾身也。”

呉公子光が曰わく、「これは時機で、失う可からず」。鱄設諸に告げて曰わく、「上國に話ありて曰く、『求取せざれば、何を獲得せん』。我は王の嗣で、我は求めんと欲す。事がもし成功すれば、季子はたとえ至るも、我を廢する能わず」。鱄設諸が曰わく、「王は弑する可し。母は老い子は弱し。我をどうせん」。光が曰わく、「我は即ちあなたの身なり」。

夏四月,光伏甲於堀室而享王。王使甲坐於道,及其門。門階戶席,皆王親也,夾之以鈹。羞者獻體改服於門外,執羞者坐行而入,執鈹者夾承之,及體以相授也。光偽足疾,入於堀室。鱄設諸置劍於魚中以進,抽劍刺王,鈹交於胸,遂弒王。闔廬以其子為卿。

夏四月、光が地下室に甲士を埋伏し、王のため享禮を設けた。王が甲士を遣わして路上に坐らせ、門に至るまで。門階戶席は皆王の親信で、鈹を以て夾んだ。進獻する者は門外で體を露にして衣服を改換し、羞を持つ者は跪いて入り、鈹を持つ者は兩旁より承接し、身體に至りて乃ち互相授した。光が脚に病あるを偽り、地下室に入った。鱄設諸が劍を魚に置きて進獻し、劍を抽出して王を刺し、鈹が胸に交叉し、ここに王を弑した。闔廬が彼の兒子を卿とした。

季子至,曰:“苟先君無廢祀,民人無廢主,社稷有奉,國家無傾,乃吾君也。吾誰敢怨?哀死事生,以待天命。非我生亂,立者從之,先人之道也。”覆命哭墓,復位而待。吳公子掩餘奔徐,公子燭庸奔鍾吾。楚師聞吳亂而還。

季子が至り、曰わく、「もし先君が祭祀を廢せず、民人が主を廢せず、社稷に供奉あり、國家が傾覆せざれば、即ち我が國君なり。我は誰を敢えて怨まん。死を哀しみ生に事奉し、以て天命を待つ。我が亂を生ずるにあらず。立つ者は即ち從うは先人の道理なり」。命令に回復して墓上で哭き、位に歸りて待った。呉公子掩余が徐に出奔し、公子燭庸が鍾吾に出奔した。楚軍が呉の亂を聞きて即ち歸った。

郤宛直而和,國人說之。鄢將師為右領,與費無極比而惡之。令尹子常賄而信讒,無極譖郤宛焉,謂子常曰:“子惡欲飲子酒。”又謂子惡:“令尹欲飲酒於子氏。”子惡曰:“我,賤人也,不足以辱令尹。令尹將必來辱,為惠已甚。

郤宛は正直にして和して、國人が好んだ。鄢將師が右領を為し、費無極と勾結して彼を惡んだ。令尹子常は賄を貪り讒言を聽信し、無極が子常に向かい郤宛を誣陷して、子常に對して曰わく、「子惡があなたに酒を請わんと欲す」。又子惡に對して曰わく、「令尹があなたの家で酒を飲まんと欲す」。子惡が曰わく、「我は賤人で、令尹を屈尊せしむるに足らず。令尹が將に必ず來り屈尊せんとすれば、恩惠は已に過分なり。

吾無以酬之,若何?”無極曰:“令尹好甲兵,子出之,吾擇焉。”取五甲五兵,曰:“置諸門,令尹至,必觀之,而從以酬之。”及饗日,帷諸門左。無極謂令尹曰:“吾幾禍子。子惡將為子不利,甲在門矣,子必無往。且此役也,吳可以得志,子惡取賂焉而還,又誤群帥,使退其師,曰:‘乘亂不祥。’吳乘我喪,我乘其亂,不亦可乎?”令尹使視郤氏,則有甲焉。不往,召鄢將師而告之。將師退,遂令攻郤氏,且爇之。子惡聞之,遂自殺也。國人弗爇,令曰:“不爇郤氏,與之同罪。”或取一編菅焉,或取一秉稈焉,國人投之,遂弗爇也。令尹炮之,盡滅郤氏之族黨,殺陽令終與其弟完及佗與晉陳及其子弟。晉陳之族呼於國曰:“鄢氏、費氏自以為王,專禍楚國,弱寡王室,蒙王與令尹以自利也。令尹盡信之矣,國將如何?”令尹病之。

我に以て酬謝する無し。どうせん」。無極が曰わく、「令尹は甲兵を好む。あなたは出せ、我が選擇せん」。五甲五兵を取り、曰わく、「門口に置け。令尹が至れば、必ず觀看し、則ち從い酬謝せよ」。饗日に至り、門左に帷を設けた。無極が令尹に對して曰わく、「我はあなたを禍害せんとす。子惡は將にあなたに不利せんとし、甲は門口に在り。あなたは必ず往く勿れ。況んやこの役は、呉が志を得る可きに、子惡が賂を取りて歸り、また各位の軍帥を誤らせ、彼らに軍を退かせて曰く、『亂に乘ずるは不祥』。呉が我らの喪に乘ずれば、我らは彼の亂に乘ずるは、また可ならずや」。令尹が人を遣わして郤氏を看せしめ、甲あり。往かず、鄢將師を召して告知した。將師が退き、ここに令を下して郤氏を攻め、かつ火を放って燒いた。子惡が聞き、ここに自殺した。國人が燒かず、令を下して曰わく、「郤氏を燒かざれば、彼と同罪」。或る者は一編の菅を取り、或る者は一把の稈を取り、國人が扔掉し、ここに燒かず。令尹が炮烙し、全部郤氏の族黨を滅亡し、陽令終とその弟完及び佗と晋陳及び彼らの子弟を殺した。晋陳の族が國中で呼喊して曰わく、「鄢氏・費氏は自ら王を為し、專擅して楚國を禍害し、寡弱な王室を削弱し、王と令尹を蒙蔽して自利を來す。令尹が全部相信した。國家は將にどうせん」。令尹がこれを以て病とした。

秋,會於扈,令戍周,且謀納公也。宋、衛皆利納公,固請之。範獻子取貨於季孫,謂司城子梁與北宮貞子曰:“季孫未知其罪,而君伐之,請囚,請亡,於是乎不獲。君又弗克,而自出也。夫豈無備而能出君乎?季氏之復,天救之也。

秋、扈で會合し、周を戍守するを命令し、かつ昭公を送り入れるを謀った。宋・衛が皆昭公を送り入るを利と以為し、堅持して請うた。范献子が季孫より貨を取り、司城子梁と北宮貞子に對して曰わく、「季孫はなお罪を知らず。國君が彼を攻め、囚禁を請い、逃亡を請い、ここに獲得する能わず。國君もまた克つ能わず、自ら出でた。あえて防備なくして能く國君を放出せんや。季氏の恢復は天が彼を救うなり。

休公徒之怒,而啟叔孫氏之心。不然,豈其伐人而說甲執冰以遊?叔孫氏懼禍之濫,而自同於季氏,天之道也。魯君守齊,三年而無成。季氏甚得其民,淮夷與之,有十年之備,有齊、楚之援,有天之贊,有民之助,有堅守之心,有列國之權,而弗敢宣也,事君如在國。故鞅以為難。二子皆圖國者也,而欲納魯君,鞅之願也,請從二子以圍魯。無成,死之。”二子懼,皆辭。乃辭小國,而以難復。

公の徒衆の怒を止息し、叔孫氏の心を開啟す。然らざれば、どこに人を攻めて卻って甲を脫ぎ箭筒を持ちて游逛せん。叔孫氏が禍の氾濫を怕れ、自ら季氏と同じなるは天の道理なり。魯君は齊に守り、三年成せず。季氏は甚だ百姓を得、淮夷が親附し、十年の防備あり、齊・楚の援助あり、天の贊助あり、百姓の幫助あり、堅守の心あり、列國の權あるに、卻って宣揚する敢えず、國中に在るが如く國君に事奉す。ゆえに鞅は難と以為す。兩位は皆國を謀る人なるに、卻って魯君を送り入れんと欲するは鞅の願望です。兩位に從い魯を包圍するを請います。成せざれば、これがため死せん」。兩位が懼れ、皆推辭した。ここに小國を辭謝し、難を以て回復した。

孟懿子、陽虎伐鄆。鄆人將戰,子家子曰:“天命不慆久矣。使君亡者,必此眾也。天既禍之,而自福也,不亦難乎?猶有鬼神,此必敗也。烏呼!為無望也夫,其死於此乎!”公使子家子如晉,公徒敗於且知。

孟懿子・陽虎が鄆を攻めた。鄆人が將に交戰せんとし、子家子が曰わく、「天命は懷疑なきこと已に久し。君を逃亡せしむるは必ずこれらの部衆なり。天は已に禍を降し、自ら福を求むるは、また難くないか。もし鬼神あらば、今次は必ず敗れん。嗚呼!これは指望なし、おそらくここに死せんか」。公が子家子を遣わして晋に行かせた。公の徒衆が且知で敗戰した。

楚郤宛之難,國言未已,進胙者莫不謗令尹。沈尹戌言於子常曰:“夫左尹與中廄尹莫知其罪,而子殺之,以興謗讟,至於今不已。戌也惑之。仁者殺人以掩謗,猶弗為也。今吾子殺人以興謗,而弗圖,不亦異乎?夫無極,楚之讒人也,民莫不知。去朝吳,出蔡侯朱,喪太子建,殺連尹奢,屏王之耳目,使不聰明。

楚郤宛の難は國中の話がまだ停止せず、胙を進める者は令尹を謗らざるなし。沈尹戌が子常に對して曰わく、「左尹と中廐尹は彼らの罪を知る人なく、あなたが彼らを殺し、怨謗を興起し、今に至りて停止せず。戌は迷惑す。仁者は人を殺して以て謗を掩蓋するも、なお為さず。今吾子が人を殺して以て謗を興起し、卻って謀らず。また怪異ならずや。無極は楚の讒人で、百姓の知らざるなし。朝吳を去り、蔡侯朱を趕い、太子建を喪失し、連尹奢を殺し、王の耳目を屏蔽し、聰明ならざらしむ。

不然,平王之溫惠共儉,有過成、莊,無不及焉。所以不獲諸侯,邇無極也。今又殺三不辜,以興大謗,幾及子矣。子而不圖,將焉用之?夫鄢將師矯子之命,以滅三族,國之良也,而不愆位。吳新有君,疆埸日駭,楚國若有大事,子其危哉!知者除讒以自安也,今子愛讒以自危也,甚矣其惑也!”子常曰:“是瓦之罪,敢不良圖。”九月己未,子常殺費無極與鄢將師,盡滅其族,以說於國。謗言乃止。

然らざれば、平王の溫惠恭儉は成・莊に超過ありて、及ばざるなし。諸侯を獲得する能わざる所以は無極に接近せればなり。今また三個の無辜を殺し、大謗を興起し、幾なんとしてあなたに至らんとす。あなたが卻って謀らずば、將にあなたを以て何を為さん。鄢將師があなたの命令を假託し、三族を滅亡したは國の賢良なるに、卻って位に在りて錯を犯さず。呉が新たに國君を有し、疆場が日日驚駭す。楚國がもし大事あれば、あなたはおそらく危険ならん!智者は讒を除去して自ら安んじ、今あなたは讒を愛して自ら危ぶむは、迷惑の太過分なり!」。子常が曰わく、「これは瓦の罪で、敢えて好く謀らざらん」。九月己未、子常が費無極と鄢將師を殺し、全部その族を滅亡し、以て國人を取悅せしめた。謗言が乃ち停止した。

冬,公如齊,齊侯請饗之。子家子曰:“朝夕立於其朝,又何饗焉?其飲酒也。”乃飲酒,使宰獻,而請安。子仲之子曰重,為齊侯夫人,曰:“請使重見。”

冬、昭公が齊に行き、齊侯が饗禮を設けるを請うた。子家子が曰わく、「朝夕にその朝廷に立つに、また何を饗せん。なお酒を飲め」。ここに酒を飲み、宰を遣わして進獻し、安を請うた。子仲の兒子を重と曰い、齊侯夫人を為し、曰わく、「重をして來りて見えしむるを請う」。

子家子乃以君出。

子家子がここに國君を帶びて出た。

十二月,晉籍秦致諸侯之戍於周,魯人辭以難。

十二月、晋籍秦が諸侯の戍守を周に送った。魯人が難を以て推辭した。

◇昭公二十八年

◇昭公二十八年

【經】二十有八年春王三月,葬曹悼公。公如晉,次於乾侯。夏四月丙戌,鄭伯寧卒。六月,葬鄭定公。秋七月癸巳,滕子寧卒。冬,葬滕悼公。

【経】二十八年春、周天子の暦の三月、曹悼公を葬った。昭公が晋に行き、乾侯に駐屯した。夏四月丙戌、鄭伯寧が薨じた。六月、鄭定公を葬った。秋七月癸巳、滕子寧が薨じた。冬、滕悼公を葬った。

【傳】二十八年春,公如晉,將如乾侯。子家子曰:“有求於人,而即其安,人孰矜之?其造於竟。”弗聽。使請逆於晉。晉人曰:“天禍魯國,君淹恤在外。

【伝】二十八年春、昭公が晋に行き、將に乾侯に至らんとした。子家子が曰わく、「人に求むる有りて、卻ってその安に就くは、人は誰が憐れまん。なお邊境に至れ」。聽かず。人を遣わして晋に迎接を請うた。晋人が曰わく、「天が魯國を禍害し、君が淹留して外に憂恤す。

君亦不使一個辱在寡人,而即安於甥舅,其亦使逆君?”使公復於竟而後逆之。

君もまた一人を遣わして寡人に屈尊せず、卻って甥舅の所に就安するは、おそらくまた君を迎接せしめんや」。公をして邊境に歸らせて然る後に迎接せんとした。

晉祁勝與鄔臧通室,祁盈將執之,訪於司馬叔遊。叔遊曰:“《鄭書》有之:‘惡直醜正,實蕃有徒。’無道立矣,子懼不免。《詩》曰:‘民之多闢,無自立闢。’姑已,若何?”盈曰:“祁氏私有討,國何有焉?”遂執之。祁勝賂荀躒,荀躒為之言於晉侯,晉侯執祁盈。祁盈之臣曰:“鈞將皆死,憖使吾君聞勝與臧之死以為快。”乃殺之。夏六月,晉殺祁盈及楊食我。食我,祁盈之黨也,而助亂,故殺之。遂滅祁氏、羊舌氏。

晋祁勝と鄔臧が妻室を互換し、祁盈が將に執えんとし、司馬叔游に咨詢した。叔游が曰わく、「《鄭書》にこの話あり、『正直を惡み正を醜化す。この徒衆は實に多し』。無道は已に立ち、あなたは怕れて免れざらん。《詩》に曰く、『百姓は多く邪僻、自ら邪僻を立てる勿れ』。姑く停止せんはどうか」。盈が曰わく、「祁氏が私に討伐するは國に何の相干あらん」。ここに執えた。祁勝が荀躒に賄賂し、荀躒が彼のため晋侯に説き、晋侯が祁盈を執えた。祁盈の臣が曰わく、「同じく皆將に死せん。寧ろ我らの國君に勝と臧の死を聞かせて快意を為さん」。ここに彼らを殺した。夏六月、晋が祁盈及び楊食我を殺した。食我は祁盈の黨で、亂を幫助し、ゆえに殺した。ここに祁氏・羊舌氏を滅亡した。

初,叔向欲娶於申公巫臣氏,其母欲娶其黨。叔向曰:“吾母多而庶鮮,吾懲舅氏矣。”其母曰:“子靈之妻殺三夫,一君,一子,而亡一國、兩卿矣。可無懲乎?吾聞之:‘甚美必有甚惡,’是鄭穆少妃姚子之子,子貉之妹也。子貉早死,無後,而天鍾美於是,將必以是大有敗也。昔有仍氏生女,鬒黑而甚美,光可以鑑,名曰玄妻。樂正後夔取之,生伯封,實有豕心,貪婪無饜,忿類無期,謂之封豕。有窮后羿滅之,夔是以不祀。且三代之亡,共子之廢,皆是物也。女何以為哉?夫有尤物,足以移人,苟非德義,則必有禍。”叔向懼,不敢取。平公強使取之,生伯石。伯石始生,子容之母走謁諸姑,曰:“長叔姒生男。”姑視之,及堂,聞其聲而還,曰:“是豺狼之聲也。狼子野心,非是,莫喪羊舌氏矣。”遂弗視。

初め、叔向が申公巫臣氏より娶らんと欲し、その母が彼女の黨を娶らんと欲した。叔向が曰わく、「我が母は多くて庶出は少し。我は已に舅氏より懲戒を得たり」。その母が曰わく、「子靈の妻は三人の丈夫・一位の國君・一人の兒子を殺し、一國・兩位の卿を滅亡せり。懲戒せざる可けんや。我は聞くに、『甚だ美しければ必ず甚だ惡し』。これは鄭穆少妃姚子の兒子・子貉の妹なり。子貉が早く死して後嗣なく、天が美をここに聚集せり。將に必ずこれにより大有敗せん。昔有仍氏が女兒を生み、頭髮が黑くて甚だ美しく、光は人を照らす可し。名を玄妻と曰う。樂正后夔が彼女を娶り、伯封を生み、實に豬心ありて、貪婪して滿足なく、忿怒に期限なし。封豕と叫做す。有窮后羿が彼を滅亡し、夔はこれにより祭祀せず。況んや三代の滅亡・共子の廢は皆この物なり。あなたは何を為さん。尤物ありて、足りて人を改變す。もし德義にあらざれば、必ず禍あらん」。叔向が懼れ、敢えて娶らず。平公が彼を强迫して娶らせ、伯石を生んだ。伯石が剛に生まるや、子容の母が走りて姑姑に告げて曰わく、「長叔姒が男兒を生んだり」。姑姑が往きて看るに、堂に至り、聲音を聞きて即ち返回し、曰わく、「これは豺狼の聲なり。狼子野心、これの人にあらざれば、羊舌氏を喪亡する人なし」。ここに看ず。

秋,晉韓宣子卒,魏獻子為政。分祁氏之田以為七縣,分羊舌氏之田以為三縣。司馬彌牟為鄔大夫,賈辛為祁大夫,司馬烏為平陵大夫,魏戊為梗陽大夫,知徐吾為塗水大夫,韓固為馬首大夫,孟丙為盂大夫,樂霄為銅鞮大夫,趙朝為平陽大夫,僚安為楊氏大夫。謂賈辛、司馬烏為有力於王室,故舉之。謂知徐吾、趙朝、韓固、魏戊,餘子之不失職,能守業者也。其四人者,皆受縣而後見於魏子,以賢舉也。

秋、晋韓宣子が薨じ、魏献子が執政した。祁氏の田を分けて七縣とし、羊舌氏の田を分けて三縣とした。司馬彌牟を鄔大夫とし、賈辛を祁大夫とし、司馬烏を平陵大夫とし、魏戊を梗陽大夫とし、知徐吾を塗水大夫とし、韓固を馬首大夫とし、孟丙を盂大夫とし、樂霄を銅鞮大夫とし、趙朝を平陽大夫とし、僚安を楊氏大夫とした。賈辛・司馬烏が王室に力あるを以て、ゆえに舉用した。知徐吾・趙朝・韓固・魏戊は余子の中で職を失わず能く業を守るを以てす。その四人は皆縣を受けて然る後に魏子に見えたは賢に按りて舉用せればなり。

魏子謂成鱄:“吾與戊也縣,人其以我為黨乎?”對曰:“何也?戊之為人也,遠不忘君,近不逼同,居利思義,在約思純,有守心而無淫行。雖與之縣,不亦可乎?昔武王克商,光有天下。”其兄弟之國者十有五人,姬姓之國者四十人,皆舉親也。夫舉無他,唯善所在,親疏一也。《詩》曰:‘唯此文王,帝度其心。莫其德音,其德克明。克明克類,克長克君。王此大國,克順克比。比於文王,其德靡悔。既受帝祉,施於孫子。’心能制義曰度,德正應和曰莫,照臨四方曰明,勤施無私曰類,教誨不倦曰長,賞慶刑威曰君,慈和遍服曰順,擇善而從之曰比,經緯天地曰文。九德不愆,作事無悔,故襲天祿,子孫賴之。主之舉也,近文德矣,所及其遠哉!”賈辛將適其縣,見於魏子。魏子曰:“辛來!昔叔向適鄭,鬷蔑惡,欲觀叔向,從使之收器者而往,立於堂下。一言而善。叔向將飲酒,聞之,曰:‘必鬷明也。’下,執其手以上,曰‘昔賈大夫惡,娶妻而美,三年不言不笑,御以如皋,射雉,獲之。其妻始笑而言。賈大夫曰:“才之不可以已,我不能射,女遂不言不笑夫!”今子少不揚,子若無言,吾幾失子矣。言不可以已也如是。’遂如故知。今女有力於王室,吾是以舉女。行乎!敬之哉!毋墮乃力!”仲尼聞魏子之舉也,以為義,曰:“近不失親,遠不失舉,可謂義矣。”又聞其命賈辛也,以為忠:“《詩》曰:‘永言配命,自求多福’,忠也。魏子之舉也義,其命也忠,其長有後於晉國乎!”冬,梗陽人有獄,魏戊不能斷,以獄上。其大宗賂以女樂,魏子將受之。魏戊謂閻沒、女寬曰:“主以不賄聞於諸侯,若受梗陽人,賄莫甚焉。吾子必諫。”

魏子が成鱄に對して曰わく、「我が戊に縣を與えれば、人はおそらく我を偏袒と以為せんか」。對えて曰わく、「何ぞ。戊の人となりは遠は國君を忘れず、近は同僚を逼迫せず、利に處りて義を想い、窮約に處りて純を想い、守心ありて淫行なし。たとえ彼に縣を與えても、また可ならずや。昔武王が商を克し、天下を光有し、兄弟の國は十五人、姬姓の國は四十人、皆親を舉用せり。舉用に別なく、ただ善の在所に在り、親疏は一樣なり。《詩》に曰く、『この文王、帝がその心を度量す。靜かにその德音、その德は能く明らかなり。能く明らかに能く類し、能く長に能く君たり。この大國に王を稱し、能く順し能く比す。文王に比するに、その德は悔なし。已に帝祉を受け、孫子に延及す』。心が能く義を制約するを度と曰い、德正しく應和するを莫と曰い、四方を照臨するを明と曰い、勤施して私なきを類と曰い、教誨して倦まざるを長と曰い、賞慶刑威するを君と曰い、慈和して普遍に服すを順と曰い、善を擇びて從うを比と曰い、天地を經緯するを文と曰う。九德が錯を犯さず、事を作して悔なし。ゆえに天禄を承襲し、子孫が依賴す。主の舉用は文德に接近して、及ぶ所の遠きかな!」。賈辛が將にその縣に至らんとして、魏子に見えた。魏子が曰わく、「辛來れ!昔叔向が鄭に至り、鬷蔑は貌が醜く、叔向を看せんと欲し、派して器具を收める人に從い往きて、堂下に立った。一言して即ち善し。叔向が將に飲酒せんとして、聞き、曰わく、『必ず鬷明なり』。下りて、彼の手を握り上りて曰く、『昔賈大夫は貌が醜く、妻を娶れば美しく、三年話さず笑わず。車を駕して皋に至り、雉を射て獲得せり。その妻が乃ち笑い乃ち話せり。賈大夫が曰く、「才能は停止すべからず。我が射する能わざれば、あなたは話さず笑わざらん!」今あなたは稍揚せず。あなたがもし話なくば、我は幾なんとしてあなたを失わんとせり。話は停止すべからざることこの如し』。ここに舊交の如し。今あなたは王室に力あり。我はこれによりあなたを舉用す。行け!敬慎せよ!あなたの力を堕落する勿れ!」仲尼が魏子の舉用を聞き、義と以為して曰わく、「近は親を失わず、遠は舉を失わず、義と曰う可し」。又その賈辛に命ずるを聞き、忠と以為し、「《詩》に曰く、『永遠に天命に配合し、自ら多福を求む』は忠なり。魏子の舉用は義、その命令は忠。おそらく將に長久に晋國で後嗣を有せんか!」。冬、梗陽人に獄訟あり、魏戊が裁斷する能わず、獄を上に送った。その大宗が女樂を以て賄賂し、魏子が將に接受せんとした。魏戊が閻沒・女寬に對して曰わく、「主は受賄せざるを以て諸侯中に聞名す。もし梗陽人を接受せば、賄はこれより甚しきなし。吾子は必ず進諫せよ」。

皆許諾。退朝,待於庭。饋入,召之。比置,三嘆。既食,使坐。魏子曰:“吾聞諸伯叔,諺曰:‘唯食忘憂。’吾子置食之間三嘆,何也?”同辭而對曰:“或賜二小人酒,不夕食。饋之始至,恐其不足,是以嘆。中置,自咎曰:‘豈將軍食之,而有不足?’是以再嘆。及饋之畢,願以小人之腹為君子之心,屬厭而已。”獻子辭梗陽人。

皆應諾した。退朝し、庭で待った。饋食が送り進められ、彼らを召した。擺設するに及び、三たび歎息した。已に食し、坐を讓った。魏子が曰わく、「我が伯叔より聞くに、諺語に曰く、『ただ飯を食うは憂を忘る』。吾子が食物を擺設する間に三たび歎息したは何ぞ」。一同に對えて曰わく、「ある人が我ら兩個の小人に酒を賜い、晚飯を食せず。饋食が剛に至り、足らざるを怕れ、ゆえに歎息せり。中間に擺到し、自ら責備して曰わく、『あえて將軍が飯を請うに、また足らざらんや』。ゆえに再び歎息せり。饋食の完畢するに及び、小人の肚子を以て君子の心を為さんを希望し、剛好滿足すれば即ち可と」。献子が梗陽人を辭謝した。

◇昭公二十九年

◇昭公二十九年

【經】二十有九年春,公至自乾侯,居於鄆,齊侯使高張來唁公。公如晉,次於乾侯。夏四月庚子,叔詣卒。秋七月。冬十月,鄆潰。

【経】二十九年春、昭公が乾侯より歸り、鄆に住み、齊侯が高張を遣わして來りて昭公を弔唁せしめた。昭公が晋に行き、乾侯に駐屯した。夏四月庚子、叔詣が薨じた。秋七月。冬十月、鄆が潰散した。

【傳】二十九年春,公至自乾侯,處於鄆。齊侯使高張來唁公,稱主君。子家子曰:“齊卑君矣,君只辱焉。”公如乾侯。

【伝】二十九年春、昭公が乾侯より歸り、鄆に住んだ。齊侯が高張を遣わして來りて昭公を弔唁し、主君と稱した。子家子が曰わく、「齊は君を看輕しました。君はただ辱を受くるのみ」。昭公が乾侯に行った。

三月己卯,京師殺召伯盈、尹氏固及原伯魯之子。尹固之復也,有婦人遇之周郊,尤之,曰:“處則勸人為禍,行則數日而反,是夫也,其過三歲乎?”夏五月庚寅,王子趙車入於鄻以叛,陰不佞敗之。

三月己卯、京師が召伯盈・尹氏固及び原伯魯の兒子を殺した。尹固が歸るとき、婦人ありて周郊に遇い、責めて曰わく、「住めば即ち人を勸めて禍を為し、去れば數日にして返回す。この人は、三年を超過する能わんや」。夏五月庚寅、王子趙車が鄻に入りて叛変し、陰不佞が彼を敗った。

平子每歲賈馬,具從者之衣屨,而歸之於乾侯。公執歸馬者,賣之,乃不歸馬。衛侯來獻其乘馬曰啟服,塹而死,公將為之櫝。子家子曰:“從者病矣,請以食之。”乃以幃裹之。

平子が每年馬を買い、隨從の衣屨を準備し、乾侯に送った。公が馬を送る人を執え、賣掉し、ここに馬を送らず。衛侯が來りてその乘馬を献じ、名を啓服と曰う。塹に墜ちて死し、公が將にそれがため棺を作らんとした。子家子が曰わく、「隨從が病しております。彼らに食わせるを以てすを請います」。ここに幃を以て裹んだ。

公賜公衍羔裘,使獻龍輔於齊侯,遂入羔裘。齊侯喜,與之陽穀。公衍、公為之生也,其母偕出。公衍先生,公為之母曰:“相與偕出,請相與偕告。”三日,公為生,其母先以告,公為為兄。公私喜於陽穀而思於魯,曰:“務人為此禍也。且後生而為兄,其誣也久矣。”乃黜之,而以公衍為大子。

公が公衍に羔裘を賜い、彼を遣わして齊侯に龍輔を献ぜしめ、ここに羔裘を送入れた。齊侯が喜び、彼に陽谷を與えた。公衍・公為が出生し、彼らの母が一起に出た。公衍が先に生まれ、公為の母が曰わく、「互相に一起に出で、互相に一起に告知せんを請う」。三日、公為が生まれ、その母が先に告知し、公為が兄を為した。公が私に陽谷を喜び魯を思念して曰わく、「務人がこの禍を造成せり。況んや後に生まれた者が卻って兄を為すは、誣は已に久し」。ここに廢黜し、公衍を太子とさせた。

秋,龍見於絳郊。魏獻子問於蔡墨曰:“吾聞之,蟲莫知於龍,以其不生得也。謂之知,信乎?”對曰:“人實不知,非龍實知。古者畜龍,故國有豢龍氏,有御龍氏。”獻子曰:“是二氏者,吾亦聞之,而知其故,是何謂也?”對曰:“昔有飂叔安,有裔子曰董父,實甚好龍,能求其耆欲以飲食之,龍多歸之。

秋、龍が絳郊に出現した。魏献子が蔡墨に問うて曰わく、「我は聞くに、蟲に龍より智なるはなく、活捉する能わざるを以てなり。智と曰うは信じる可きか」。對えて曰わく、「人が實に不智なり、龍が實に智なるにあらず。古代に龍を畜養し、ゆえに國に豢龍氏あり、御龍氏あり」。献子が曰わく、「この二氏は、我もまた聞けり。故を知るは何を意謂するか」。對えて曰わく、「昔飂叔安ありて、裔子ありて董父と曰い、實に甚だ龍を喜好し、能くその嗜欲を求得して以て飲食せしめ、龍が多く歸附せり。

乃擾畜龍,以服事帝舜。帝賜之姓曰董,氏曰豢龍。封諸鬷川,鬷夷氏其後也。

ここに龍を馴養し、以て帝舜に服事した。帝が姓を賜い董と曰い、氏を豢龍と曰う。鬷川に封じ、鬷夷氏はその後代なり。

故帝舜氏世有畜龍。及有夏孔甲,擾於有帝,帝賜之乘龍,河、漢各二,各有雌雄,孔甲不能食,而未獲豢龍氏。有陶唐氏既衰,其後有劉累,學擾龍於豢龍氏,以事孔甲,能飲食之。夏後嘉之,賜氏曰御龍,以更豕韋之後。龍一雌死,潛醢以食夏後。夏後饗之,既而使求之。懼而遷於魯縣,范氏其後也。”獻子曰:“今何故無之?”對曰:“夫物,物有其官,官修其方,朝夕思之。一日失職,則死及之。失官不食。官宿其業,其物乃至。若泯棄之,物乃坻伏,鬱湮不育。

ゆえに帝舜氏が世代畜養の龍あり。有夏孔甲に及び、天帝に順從し、帝が彼に乘龍を賜い、河・漢に各二あり、各々雌雄あり。孔甲が餵養する能わず、まだ豢龍氏を獲得せず。陶唐氏ありて已に衰え、後代に劉累ありて、豢龍氏に向かい馴龍を學び、以て孔甲に事奉し、能く飲食せしめた。夏后が嘉許し、氏を賜いて御龍と曰い、以て豕韋の後代を替代せしめた。龍に一條の雌ありて死し、偷偷に醢を為して夏后に食わせた。夏后が享用し、隨後に人を遣わして求めた。懼れて魯縣に遷り、范氏はその後代なり」。献子が曰わく、「今は何でないか」。對えて曰わく、「物は物にその官あり、官が方法を修治し、朝夕に想う。一日職を失えば、死が至る。官を失えば即ち食さず。官が持久してその業を為せば、その物が乃ち至る。もし泯滅拋棄すれば、物は則ち潛伏し、郁湮して生育せず。

故有五行之官,是謂五官。實列受氏姓,封為上公,祀為貴神。社稷五祀,是尊是奉。木正曰句芒,火正曰祝融,金正曰蓐收,水正曰玄冥,土正曰后土。龍,水物也。水官棄矣,故龍不生得。不然,《周易》有之,在《乾》ⅰⅰ之《姤》ⅰⅳ,曰:‘潛龍勿用。’其《同人》ⅰⅵ曰:‘見龍在田。’其《大有》ⅵⅰ曰:‘飛龍在天。’其《夬》ⅷⅰ曰:‘亢龍有悔。’其《坤》ⅱⅱ曰:‘見群龍無首,吉。’《坤》之《剝》ⅶⅱ曰:‘龍戰於野。’若不朝夕見,誰能物之?”獻子曰:“社稷五祀,誰氏之五官也?”對曰:“少皞氏有四叔,曰重、曰該、曰修、曰熙,實能金、木及水。使重為句芒,該為蓐收,修及熙為玄冥,世不失職,遂濟窮桑,此其三祀也。顓頊氏有子曰犁,為祝融;共工氏有子曰句龍,為后土,此其二祀也。后土為社;稷,田正也。有烈山氏之子曰柱為稷,自夏以上祀之。周棄亦為稷,自商以來祀之。”

ゆえに五行の官ありて、五官と曰う。實に序列して氏姓を受け、上公に封じ、祭祀して貴神と為す。社稷五祀はこれらを尊奉す。木正を句芒と曰い、火正を祝融と曰い、金正を蓐收と曰い、水正を玄冥と曰い、土正を后土と曰う。龍は水物なり。水官が拋棄したれば、ゆえに龍は活捉する能わず。然らざれば、《周易》にあり、《乾》の《姤》に變ずるに曰く、『潛龍勿用』。その《同人》に曰く、『見龍在田』。その《大有》に曰く、『飛龍在天』。その《夬》に曰く、『亢龍有悔』。その《坤》に曰く、『見群龍無首、吉』。《坤》の《剥》に變ずるに曰く、『龍戰于野』。もし朝夕に見るにあらざれば、誰が能く描述せん」。献子が曰わく、「社稷五祀は誰が氏の五官か」。對えて曰わく、「少皞氏に四個の叔父ありて、重と曰い、該と曰い、修と曰い、熙と曰う。實に能く金・木及び水。重をして句芒と為し、該を蓐收と為し、修及び熙を玄冥と為し、世代職を失わず、ここに窮桑を成就し、これは其中の三祀なり。顓頊氏に兒子ありて犁と曰い、祝融を為し。共工氏に兒子ありて句龍と曰い、后土を為す。これは其中の二祀なり。后土は社、稷は田正なり。烈山氏の兒子ありて柱と曰い、稷を為し、夏より以來祭祀せり。周棄もまた稷を為し、商より以來祭祀せり」。

冬,晉趙鞅、荀寅帥師城汝濱,遂賦晉國一鼓鐵,以鑄刑鼎,著範宣子所為刑書焉。仲尼曰:“晉其亡乎!失其度矣。夫晉國將守唐叔之所受法度,以經緯其民,卿大夫以序守之。民是以能尊其貴,貴是以能守其業。貴賤不愆,所謂度也。文公是以作執秩之官,為被廬之法,以為盟主。今棄是度也,而為刑鼎,民在鼎矣,何以尊貴?貴何業之守?貴賤無序,何以為國?且夫宣子之刑,夷之蒐也,晉國之亂制也,若之何以為法?蔡史墨曰:“范氏、中行氏其亡乎!中行寅為下卿,而幹上令,擅作刑器,以為國法,是法奸也。又加范氏焉,易之,亡也。

冬、晋趙鞅・荀寅が軍を率いて汝濱に城を築き、ここに晋國に向かい一鼓鐵を賦し、刑鼎を鑄造し、范宣子の作りし刑書を著錄した。仲尼が曰わく、「晋はおそらく亡びんか!法度を失えり。晋國は將に唐叔の受けし法度を守り、以て百姓を經緯し、卿大夫は次序に按って守るべし。百姓はこれにより能く貴を尊敬し、貴はこれにより能く業を守る。貴賤が錯を犯さざるは、即ち所謂度なり。文公はこれにより執秩の官を設置し、被廬之法を制定し、盟主を為したり。今この度を拋棄し、刑鼎を作るは、百姓は鼎上に在り。何を憑って貴を尊敬せん。貴は何の業を守らん。貴賤に次序なく、何を憑って國を為さん。況んや宣子の刑は夷の大蒐にして、晋國の亂制なり。何で法と為さん」。蔡史墨が曰わく、「范氏・中行氏はおそらく亡びんか!中行寅は下卿なるに、卻って上令を冒犯し、擅自に刑器を作り、以て國法と為すは、これ法奸なり。又范氏を加え、改換するは亡なり。

其及趙氏,趙孟與焉。然不得已,若德,可以免。”

將に趙氏に至らん、趙孟もまた參與せり。しかし已むを得ず。もし德あれば、免る可し」。

◇昭公三十年

◇昭公三十年

【經】三十年春王正月,公在乾侯。夏六月庚辰,晉侯去疾卒。秋八月,葬晉頃公。冬十有二月,吳滅徐,徐子章羽奔楚。

【経】三十年春、周天子の暦の正月、昭公が乾侯に在り。夏六月庚辰、晋侯去疾が薨じた。秋八月、晋頃公を葬った。冬十二月、呉國が徐を滅ぼし、徐子章羽が楚に出奔した。

【傳】三十年春,王正月,公在乾侯。不先書鄆與乾侯,非公,且徵過也。

【伝】三十年春、周天子の暦の正月、昭公が乾侯に在り。《春秋》が先に鄆と乾侯を記載せざるは公を責備し、かつ過錯を表明すればなり。

夏六月,晉頃公卒。秋八月,葬。鄭遊吉吊,且送葬,魏獻子使士景伯詰之,曰:“悼公之喪,子西吊,子蟜送葬。今吾子無貳,何故?”對曰:“諸侯所以歸晉君,禮也。禮也者,小事大,大字小之謂。事大在共其時命,字小在恤其所無。以敝邑居大國之間,共其職貢,與其備禦不虞之患,豈忘共命?先王之制:諸侯之喪,士吊,大夫送葬;唯嘉好、聘享、三軍之事,於是乎使卿。晉之喪事,敝邑之間,先君有所助執紼矣。若其不間,雖士大夫有所不獲數矣。大國之惠,亦慶其加,而不討其乏,明厎其情,取備而已,以為禮也。靈王之喪,我先君簡公在楚,我先大夫印段實往,敝邑之少卿也。王吏不討,恤所無也。今大夫曰:‘女盍從舊?’舊有豐有省,不知所從。從其豐,則寡君幼弱,是以不共。從其省,則吉在此矣。唯大夫圖之。”晉人不能詰。

夏六月、晋頃公が卒した。秋八月に下葬した。鄭游吉が弔いに往き、かつ葬を送り、魏献子が士景伯を遣わして彼を責問して曰わく、「悼公の喪に、子西が弔い、子蟜が送葬せり。今吾子に第二の人なきは何の故ぞ」。對えて曰わく、「諸侯の晋君に歸向する所以は禮なり。禮は即ち小が大に事奉し、大が小を撫愛するなり。大に事奉するは供給按時の命令に在り、小を撫愛するはその有らざる所を体恤するに在り。敝邑を以て大國の間に處り、職貢を供給し、又意外の禍患を防禦するを預備す。何で敢えて喪事を供給する命令を忘れん。先王の制度は、諸侯の喪は士が弔い、大夫が葬を送る。ただ嘉好・聘享・三軍の事のみ、これ乃ち卿を遣派す。晋の喪事に、敝邑に閑暇あれば、先君もまた紼を執るを幫助せしことあり。もし閑暇なくば、たとえ士大夫でも禮數に按る能わざるあり。大國の恩惠はまたその加禮を嘉許し、その不足を責備せず、その情實を表明し送達し、能く禮を備うるを取るのみ。これを以て禮と為す。靈王の喪に、我先君簡公が楚に在り、我先大夫印段が實に前往し、是れ敝邑の少卿なり。王吏が責備せざるは有らざる所を体恤せればなり。今大夫が曰く、『あなたは何で舊例に依從せざるか』。舊例に豐あり省あり。どれに依從するかを知らず。その豐に依從せば、寡君は幼弱にして、これにより供給する能わず。その省に依從せば、然らば吉は已にここに在り。大夫の考慮を請う」。晋人は再び責問する能わず。

吳子使徐人執掩餘,使鍾吾人執燭庸,二公子奔楚,楚子大封,而定其徙。

呉子が徐人に掩余を捉えさせ、鍾吾人に燭庸を捉えさせ、兩位の公子が楚に逃奔し、楚子が大いに封賜し、かつ彼らの遷徙を安定せしめた。

使監馬尹大心逆吳公子,使居養。莠尹然、左司馬沈尹戌城之,取於城父與胡田以與之。將以害吳也。子西諫曰:“吳光新得國,而親其民,視民如子,辛苦同之,將用之也。若好吳邊疆,使柔服焉,猶懼其至。吾又強其仇以重怒之,無乃不可乎!吳,周之胄裔也,而棄在海濱,不與姬通。今而始大,比於諸華。光又甚文,將自同於先王。不知天將以為虐乎,使翦喪吳國而封大異姓乎?其抑亦將卒以祚吳乎?其終不遠矣。我盍姑億吾鬼神,而寧吾族姓,以待其歸。將焉用自播揚焉?”王弗聽。吳子怒。冬十二月,吳子執鍾吳子,遂伐徐,防山以水之。

監馬尹大心を遣わして呉公子を迎接し、彼らを養に住まわせた。莠尹然・左司馬沈尹戌がそこに城を築き、城父と胡の田を取出して彼らに與えた。將に彼らを以て呉を害さんとした。子西が進諫して曰わく、「呉光が新たに國を得、彼の民に親しみ、民を兒子の如く看待し、辛苦を共同に擔當し、將に彼らを使用せん。もし呉の邊疆と交好し、彼らを柔服せしめば、なお彼らの到來を怕れん。我らがまた彼の仇人を增強して以てその怒を加重するは、ただ怕れて不可かもしれぬ!呉は周の後裔で、海濱に丟棄され、姬姓と往來せず。今や始めて强大し、諸華に比す。光もまた甚だ文德ありて、將に自ら先王に比同せんとす。知らず、天は將に彼を虐と為して呉國を翦滅せしめ異姓を封大せんとするか、それとも終に將に呉を福佑せんとするか。その結果は遠からず。我らは何で姑く我らの鬼神を安定し、我らの族姓を寧靜せしめ、以てその歸宿を待たざらん。どこに自ら往きて播揚するを用いん」。王が聽かず。呉子が發怒した。冬十二月、呉子が鍾吾子を捉え(底本は「鍾吳子」、即ち上文の鍾吾の君)、ここに徐を伐ち、山谷を堵住して水を以て灌いだ。

己卯,滅徐。徐子章禹斷其發,攜其夫人,以逆吳子。吳子唁而送之,使其邇臣從之,遂奔楚。楚沈尹戌帥師救徐,弗及,遂城夷,使徐子處之。

己卯、徐を滅ぼした。徐子章禹が頭髮を割斷し、夫人を帶び、來りて呉子を迎接した。呉子が弔慰して彼を送り、その近臣に從わせ、ここに楚に逃奔した。楚沈尹戌が師を率いて徐を救ったが趕上せず、ここに夷に城を築き、徐子をそこに住まわせた。

吳子問於伍員曰:“初而言伐楚,餘知其可也,而恐其使餘往也,又惡人之有餘之功也。今餘將自有之矣,伐楚何如?”對曰:“楚執政眾而乖,莫適任患。

呉子が伍員に問うて曰わく、「当初あなたが楚を伐つと説き、我は可と知るも、彼が我を遣わすを怕れ、又他人が我が功勞を占有するを惡めり。今我は自らそれを占有せん。楚を伐つはどうか」。對えて曰わく、「楚の執政する者は多くて乖離し、專一に禍患を承擔するなし。

若為三師以肄焉,一師至,彼必皆出。彼出則歸,彼歸則出,楚必道敝。亟肄以罷之,多方以誤之。既罷而後以三軍繼之,必大克之。”闔廬從之,楚於是乎始病。

もし三軍に分けて突撃騷擾せば、一軍が到れば、彼らは必ず全部出撃せん。彼らが出撃すれば我らは歸り、彼らが歸れば我らは出撃し、楚は必ず道路上で疲憊せん。屢々突撃騷擾して以て彼らを疲困せしめ、多方面を以て彼らを迷惑せん。已に疲困して然る後に三軍を以て接上すれば、必ず大いに彼らに勝たん」。闔廬が聽き從い、楚はこれより困病し始めたり。

◇昭公三十一年

◇昭公三十一年

【經】三十有一年春王正月,公在乾侯。季孫意如會晉荀躒於適歷。夏四月丁巳,薛伯谷卒。晉侯使荀躒唁公於乾侯。秋,葬薛獻公。冬,黑肱以濫來奔。

【経】三十一年春、周天子の暦の正月、公が乾侯に在り。季孫意如が適歷で晋荀躒と會見した。夏四月丁巳、薛伯穀が卒した。晋侯が荀躒を遣わして乾侯に至り公を弔慰せしめた。秋、薛献公を葬った。冬、黑肱が濫を帶びて奔に來た。

十有二月辛亥朔,日有食之。

十二月辛亥朔、日食發生す。

【傳】三十一年春,王正月,公在乾侯,言不能外內也。

【伝】三十一年春、周天子の暦の正月、公が乾侯に在りは國外國內の援助を得る能わざるを説くなり。

晉侯將以師納公。範獻子曰:“若召季孫而不來,則信不臣矣。然後伐之,若何?”晉人召季孫,獻子使私焉,曰:“子必來,我受其無咎。”季孫意如會晉荀躒於適歷。荀躒曰:“寡君使躒謂吾子:‘何故出君?有君不事,周有常刑,子其圖之!’”季孫練冠麻衣跣行,伏而對曰:“事君,臣之所不得也,敢逃刑命?君若以臣為有罪,請囚於費,以待君之察也,亦唯君。若以先臣之故,不絕季氏,而賜之死。若弗殺弗亡,君之惠也,死且不朽。若得從君而歸,則固臣之願也。敢有異心?”夏四月,季孫從知伯如乾侯。子家子曰:“君與之歸。一慚之不忍,而終身慚乎?”公曰:“諾。”眾曰:“在一言矣,君必逐之。”荀躒以晉侯之命唁公,且曰:“寡君使躒以君命討於意如,意如不敢逃死,君其入也!”公曰:“君惠顧先君之好,施及亡人,將使歸糞除宗祧以事君,則不能夫人。己所能見夫人者,有如河!”荀躒掩耳而走,曰:“寡君其罪之恐,敢與知魯國之難?臣請復於寡君。”退而謂季孫:“君怒未怠,子姑歸祭。”子家子曰:“君以一乘入於魯師,季孫必與君歸。”公欲從之,眾從者脅公,不得歸。

晋侯が將に軍隊を以て公を國に送らんとした。范献子が曰わく、「もし季孫を召して彼が來らざれば、則ち確實に臣道を守らず。然る後に彼を伐つはどうか」。晋人が季孫を召し、献子が人を遣わして私に彼に對して曰わく、「あなたは必ず來れ。我はあなたに禍なきを擔保す」。季孫意如が適歷で晋荀躒と會見した。荀躒が曰わく、「寡君は躒を遣わして吾子に對して曰わしむ、『何の故で國君を趕走したか。君ありて事奉せざれば、周に固定の刑罰あり。あなたは考慮せよ!』」。季孫が練冠を戴き麻衣を著て赤脚に走り、趴下して對えて曰わく、「君に事奉するは臣の求めて得ざる所。敢えて刑罰の命令を逃避せんや。君がもし臣に罪ありと以為せば、臣を費に囚禁し、君の考察を待つを請います。もただ君に憑るのみ。もし先臣の故を以て季氏を滅絕せず、臣に一死を賜えば。もし殺さず放逐せざれば、是れ君の恩惠で、死しても朽滅せざらん。もし能く君に從い歸れば、あれは本より臣の願望なり。敢えて二心あらんや」。夏四月、季孫が知伯に從い乾侯に至った。子家子が曰わく、「君は彼と一起に歸れ。一次の慚愧を忍ぶ能わざるに、卻って終身慚愧せんか」。公が曰わく、「善し」。衆人が曰わく、「ただ一言に在り。君は必ず彼を趕走せよ」。荀躒が晋侯の命令を以て公を弔慰し、かつ曰わく、「寡君は躒を遣わして君の命令を以て意如を討伐せしむ。意如は敢えて死を逃避せず。君はなお入れよ!」。公が曰わく、「君が惠を施し先君の交好を顧念し、流亡の人に延及し、將に我をして歸りて宗廟を掃除して君に事奉せしめんとすれば、則ちその人に見る能わず。我のその人に見る能く情形は、河神を證と為すが如有り!」。荀躒が耳を捂い跑開し、曰わく、「寡君は自分の罪過も怕れるに、敢えて魯國の禍難を參與知らんや。臣は寡君に回報するを請います」。退きて季孫に對して曰わく、「君の怒はまだ鬆懈せず。あなたは姑く歸りて祭祀を主持せよ」。子家子が曰わく、「君が一輛車を以て魯師に入れば、季孫は必ず君と歸らん」。公が聽從せんと欲すも、衆隨從が公を脅迫し、歸る能わず。

薛伯谷卒,同盟,故書。

薛伯穀が卒したは同盟なれば、ゆえに記載す。

秋,吳人侵楚,伐夷,侵潛、六。楚沈尹戌帥師救潛,吳師還。楚師遷潛於南岡而還。吳師圍弦。左司馬戌、右司馬稽帥師救弦,及豫章。吳師還。始用子胥之謀也。

秋、呉人が楚を侵襲し、夷を伐ち、潛・六を侵襲した。楚沈尹戌が師を率いて潛を救い、呉師が退回した。楚師が潛を南岡に遷して然る後に歸った。呉師が弦を包圍した。左司馬戌・右司馬稽が師を率いて弦を救い、豫章に至った。呉師が退回した。始めて子胥の計謀を用いたり。

冬,邾黑肱以濫來奔,賤而書名,重地故也。君子曰:“名之不可不慎也如是。夫有所名,而不如其已。以地叛,雖賤,必書地,以名其人。終為不義,弗可滅已。是故君子動則思禮,行則思義,不為利回,不為義疚。或求名而不得,或欲蓋而名章,懲不義也。齊豹為衛司寇,守嗣大夫,作而不義,其書為‘盜’。

冬、邾黑肱が濫を帶びて奔に來るは地位低賤なるに卻って名字を記載したは土地を看重する故なり。君子が曰わく、「名字の謹慎すべからざるはこの如し。記載する名字あるは有るに如かず。土地を帶びて叛變するはたとえ低賤でも必ず土地を記載し、以てその人の名字を指出す。終に不義となるは消滅すべからず。ゆえに君子は一動すれば禮を想い、一行為すれば義を想い、利のため邪曲せず、義のため內疚せず。或る者は名を求めて得ず、或る者は名字を掩蓋せんと欲して卻って顯明す。是れ不義を懲戒す。齊豹が衛の司寇を為すは守嗣の大夫なるに、事を作して不義なるを、彼を記載して『盜』と為す。

邾庶其、莒牟夷、邾黑肱以土地出,求食而已,不求其名,賤而必書。此二物者,所以懲肆而去貪也。若艱難其身,以險危大人,而有名章徹,攻難之士將奔走之。

邾庶其・莒牟夷・邾黑肱が土地を帶びて出走するはただ食を求めるのみ、その名字を求めず、低賤なるに卻って必ず記載す。この兩件事は以て放肆を懲戒し貪婪を除去するなり。もし自身が艱難を經歷し、以て上に在る大人を危害するに、卻って名聲顯揚あれば、危難の人を攻打する者は將にこれがため奔走せん。

若竊邑叛君,以徼大利而無名,貪冒之民將置力焉。是以《春秋》書齊豹曰‘盜’,三叛人名,以懲不義,數惡無禮,其善志也。故曰:《春秋》之稱微而顯,婉而辨。上之人能使昭明,善人勸焉,淫人懼焉,是以君子貴之。”

もし城邑を盜竊し國君を背叛して、以て大利を求取するも惡名なくば、貪冒の民は將にこれがため用力せん。ゆえに《春秋》は齊豹を記載して『盜』と曰い、三個の叛變する人に名字を寫出し、以て不義を懲戒し、醜惡・無禮を責備す。これは善く記述するなり。ゆえに曰く、《春秋》の稱謂は微にして顯明、婉轉にして能く辨別す。上に在る人が能くそれを昭明せしめ、善人が勸勉を受け、淫人が畏懼を感ず。ゆえに君子がそれを看重す」。

十二月辛亥朔,日有食之。是夜也,趙簡子夢童子羸而轉以歌。旦占諸史墨,曰:“吾夢如是,今而日食,何也?”對曰:“六年及此月也,吳其入郢乎!終亦弗克。入郢,必以庚辰,日月在辰尾。庚午之日,日始有謫。火勝金,故弗克。”

十二月辛亥朔、日食發生す。この夜、趙簡子が童子が赤身に轉動して唱歌する夢を見た。朝、史墨に向かい占問して曰わく、「我が夢はこの如く、今また日食あり。何ぞ」。對えて曰わく、「六年この月に至り、呉はおそらく郢に入らんか!終にも戰勝する能わず。郢に入るは必ず庚辰に在り、日月は辰尾に在り。庚午の日、日が始めて譴責あり。火が金に勝つ。ゆえに戰勝する能わず」。

◇昭公三十二年

◇昭公三十二年

【經】三十有二年春王正月,公在乾侯。取闞。夏,吳伐越。秋七月。冬,仲孫何忌會晉韓不信、齊高張、宋仲幾、衛世叔申、鄭國參、曹人、莒人、薛人、杞人、小邾人城成周。十有二月己未,公薨於乾侯。

【経】三十二年春、周天子の暦の正月、公が乾侯に在り。闞を取った。夏、呉が越を伐った。秋七月。冬、仲孫何忌が晋韓不信・齊高張・宋仲幾・衛世叔申・鄭國參・曹人・莒人・薛人・杞人・小邾人と會合して成周の城を修築した。十二月己未、公が乾侯で薨じた。

【傳】三十二年春,王正月,公在乾侯。言不能外內,又不能用其人也。

【伝】三十二年春、周天子の暦の正月、公が乾侯に在り。是れ國外國內の援助を得る能わず、又その人を任用する能わざるを説くなり。

夏,吳伐越,始用師于越也。史墨曰:“不及四十年,越其有吳乎!越得歲而吳伐之,必受其兇。”

夏、呉が越を伐ち、始めて越に兵を用いたり。史墨が曰わく、「四十年に至らず、越はおそらく呉を占有せんか!越が歲星を得て呉がそれを伐てば、必ずその凶を承受せん」。

秋八月,王使富辛與石張如晉,請城成周。天子曰:“天降禍於周,俾我兄弟並有亂心,以為伯父憂。我一二親暱甥舅,不遑啟處,於今十年,勤戍五年。

秋八月、周天子が富辛と石張を遣わして晋に至り、成周の城を修築するを請わせた。天子が曰わく、「天が禍を周に降し、我ら兄弟をして皆亂心有らしめ、伯父の憂慮となせり。我が幾個の親昵甥舅は閑暇なく安處せず、今に至り十年、勤勞戍守五年なり。

餘一人無日忘之,閔閔焉如農夫之望歲,懼以待時。伯父若肆大惠,復二文之業,馳周室之憂,徼文、武之福,以固盟主,宣昭令名,則餘一人有大願矣。昔成王合諸侯,城成周,以為東都,崇文德焉。今我欲徼福假靈於成王,修成周之城,俾戍人無勤,諸侯用寧,蝥賊遠屏,晉之力也。其委諸伯父,使伯父實重圖之。

我一人は一日も忘れず、憂悶は農夫の收成を盼望するが如く、戒懼して時節を待つ。伯父がもし大惠を展放し、文侯・文公の事業を恢復し、周室の憂慮を弛緩し、文王・武王の福を求取し、以て盟主を鞏固し、昭明美名を宣揚せば、則ち是れ我一人の大願望なり。昔成王が諸侯を會合し、成周の城を修築し、以て東都を為し、文德を推崇せり。今我は福を求め靈を成王に借り、成周の城を修治し、戍守する人をして勤勞せざらしめ、諸侯をしてこれにより安寧せしめ、蟊賊を遠く屏退せん。是れ晋の力量なり。これを伯父に委託し、伯父に切實に重新考慮せしむ。

俾我一人無徵怨於百姓,而伯父有榮施,先王庸之。”範獻子謂魏獻子曰:“與其戍周,不如城之。天子實云,雖有後事,晉勿與知可也。從王命以紓諸侯,晉國無憂。是之不務,而又焉從事?”魏獻子曰:“善!”使伯音對曰:“天子有命,敢不奉承,以奔告於諸侯。遲速衰序,於是焉在。”

我一人をして百姓に怨恨を征取せざらしめ、伯父に光榮の施與あらしめば、先王は酬勞せん」。范献子が魏献子に對して曰わく、「周を戍守するよりは城を築くに如かず。天子は確實にこの如く曰えり。たとえ以後事あっても、晋は參與知る可からず。王命に聽從して以て諸侯を緩解せば、晋國に憂なし。これを為さずして、又何を為さん」。魏献子が曰わく、「善し!」。伯音を遣わして對えて曰わく、「天子に命令あり。敢えて奉承せざらんや。奔走して諸侯に告げん。快慢と等級次序はこの一件事上で決定せん」。

冬十一月,晉魏舒、韓不信如京師,合諸侯之大夫於狄泉,尋盟,且令城成周。魏子南面。衛彪徯曰:“魏子必有大咎。幹位以令大事,非其任也。《詩》曰:‘敬天之怒,不敢戲豫。敬天之渝,不敢馳驅。’況敢幹位以作大事乎?”己丑,士彌牟營成周,計丈數,揣高卑,度厚薄,仞溝恤,物土方,議遠邇,量事期,計徒庸,慮材用,書餱糧,以令役於諸侯,屬役賦丈,書以授帥,而效諸劉子。韓簡子臨之,以為成命。

冬十一月、晋魏舒・韓不信が京師に至り、狄泉で諸侯の大夫と會合し、盟約を重溫し、かつ成周の城を修築するを命令した。魏子が南に面した。衛彪徯が曰わく、「魏子は必ず大禍あらん。位を僭越して大事の命令を發布するは彼の擔當する所能にあらず。《詩經》に曰く、『天の發怒を敬畏し、敢えて嬉戲安逸せず。天の變易を敬畏し、敢えて放縱馳驅せず』。況んや敢えて位を僭越して以て大事を為さんや」。己丑、士彌牟が成周を營建し、丈尺の數目を計算し、高低を估量し、厚薄を度量し、溝洫を測量し(底本は「溝恤」)、土方を考察し、遠近を商議し、工期を計量し、人力を計算し、材用を考慮し、乾糧を登記し、諸侯に服役を下令し、勞役を分派し丈尺を分配し、寫して帥領に交給し、再び劉子に呈交した。韓簡子が監臨し、それを既定の命令と為した。

十二月,公疾,遍賜大夫,大夫不受。賜子家子雙琥,一環,一璧,輕服,受之。大夫皆受其賜。己未,公薨。子家子反賜於府人,曰:“吾不敢逆君命也。”

十二月、公が病を患い、遍く大夫を賜したが、大夫は接受せず。子家子に一對の琥・一環・一璧・輕煖の衣服を賜うに、彼は接受した。大夫が皆賞賜を接受した。己未、公が薨じた。子家子が賞賜を府人に還して曰わく、「我は敢えて君命に違背せず」。

大夫皆反其賜。書曰:“公薨於乾侯。”言失其所也。

大夫が皆彼らの賞賜を退還した。記載して曰わく、『公が乾侯で薨す』。是れ彼の應當に在る所を失うを説くなり。

趙簡子問於史墨曰:“季氏出其君,而民服焉,諸侯與之,君死於外,而莫之或罪也。”對曰:“物生有兩,有三,有五,有陪貳。故天有三辰,地有五行,體有左右,各有妃耦。王有公,諸侯有卿,皆有貳也。天生季氏,以貳魯侯,為日久矣。民之服焉,不亦宜乎?魯君世從其失,季氏世修其勤,民忘君矣。雖死於外,其誰矜之?社稷無常奉,君臣無常位,自古以然。故《詩》曰:‘高岸為谷,深谷為陵。’三後之姓,於今為庶,王所知也。在《易》卦,雷乘《乾》曰《大壯》ⅲⅰ,天之道也。昔成季友,桓之季也,文姜之愛子也,始震而卜。卜人謁之,曰:‘生有嘉聞,其名曰友,為公室輔。’及生,如卜人之言,有文在其手曰‘友’,遂以名之。既而有大功於魯,受費以為上卿。至於文子、武子,世增其業,不廢舊績。魯文公薨,而東門遂殺適立庶,魯君於是乎失國,政在季氏,於此君也,四公矣。民不知君,何以得國?是以為君,慎器與名,不可以假人。”

趙簡子が史墨に問うて曰わく、「季氏がその君を趕走し、民は卻って彼に服從し、諸侯は彼に親附し、君が外で死すに、卻って彼を怪罪する人なし」。對えて曰わく、「物の生まるるに成雙あり、成三あり、成五あり、陪貳あり。ゆえに天に三辰あり、地に五行あり、身體に左右あり、各々配偶あり。王に公あり、諸侯に卿あり、皆貳あり。天が季氏を生み、以て魯侯の貳を為すは時已に久し。民が彼に服從するはまた應ならずや。魯君は世代に彼の過失に從い、季氏は世代にその勤勞を修治し、民は君を忘れたり。たとえ外で死すとも、誰が彼を憐れまん。社稷に固定の奉祀者なく、君臣に固定の位なきは古よりこの如し。ゆえに《詩經》に曰く、『高岸は谷と變じ、深谷は陵と變ず』。三后の子孫は如今庶人となれり。是れ王の知る所なり。《周易》の卦に於ては、雷が《乾》上に乘るを《大壯》と曰う(底本に卦畫符號あり)是れ天の道理なり。昔成季友は桓公の少子、文姜の心愛する兒子なり。剛に懐孕すれば即ち占卜す。卜人が禀告して曰わく、『生まれて好名聲あり。その名を友と曰い、公室の輔佐を為さん』。生まるるに及び、卜人の言う如く、手上に『友』字の如き紋ありて、ここにそれを以て命名す。隨後に魯に大功ありて、費を受けて上卿を為す。文子・武子に至りて、世代に家業を增加し、舊日の功績を廢棄せず。魯文公が薨ずるに、東門遂が嫡子を殺して庶子を改立し、魯君はこれより國政を失い、政は季氏に在り、この一位の君に至りて已に四公なり。民は君を知らず。何を憑って國を得ん。ゆえに君を為す者は器物と名號に謹慎し、他人に借與すべからず」。

定公(元年~十五年)

◇定公元年

◇定公元年

【經】元年春王三月。晉人執宋仲幾於京師。夏六月癸亥,公之喪至自乾侯。

【経】元年春、周天子の暦の三月。晋人が京師で宋仲幾を捉えた。夏六月癸亥、公の喪が乾侯より到達した。

戊辰,公即位。秋七月癸巳,葬我君昭公。九月,大雩。立煬宮。冬十月,隕霜殺菽。

戊辰、公が即位した。秋七月癸巳、我が君昭公を葬った。九月、大雩を行った。煬宮を立てた。冬十月、霜を降し豆類を凍死せしめた。

【傳】元年春,王正月辛巳,晉魏舒合諸侯之大夫於狄泉,將以城成周。魏子蒞政。衛彪傒曰:“將建天子,而易位以令,非義也。大事奸義,必有大咎。

【伝】元年春、周天子の暦の正月辛巳、晋魏舒が狄泉で諸侯の大夫と會合し、將に成周の城を修築せんとした。魏子が政事を主持した。衛彪傒が曰わく、「將に天子のため城を築かんとするに、卻って位を改換して令を發するは不義なり。大事に義を冒犯すれば、必ず大禍あらん。

晉不失諸侯,魏子其不免乎!”是行也,魏獻子屬役於韓簡子及原壽過,而田於大陸,焚焉,還,卒於寧。範獻子去其柏槨,以其未覆命而田也。

晋がもし諸侯を失わざれば、魏子はおそらく免れざらんか!」。この一次の出行に、魏献子が工役を韓簡子と原壽過に交付し、自ら大陸に至り田獵し、火を放ち荒を燒き、歸り、寧で死んだ。范献子が彼の柏木外棺を去ったは彼がまだ復命せずして田獵に往きしを以てなり。

孟懿子會城成周,庚寅,栽。宋仲幾不受功,曰:“滕、薛、郳,吾役也。”

孟懿子が成周を修築するに參加し、庚寅、始めて板を夾み牆を築いた。宋仲幾が工役を接受せず、曰わく、「滕・薛・郳は我らのため服役する者なり」。

薛宰曰:“宋為無道,絕我小國於周,以我適楚,故我常從宋。晉文公為踐土之盟,曰:‘凡我同盟,各復舊職。’若從踐土,若從宋,亦唯命。”仲幾曰:“踐土固然。”薛宰曰:“薛之皇祖奚仲,居薛以為夏車正。奚仲遷於邳,仲虺居薛,以為湯左相。若復舊職,將承王官,何故以役諸侯?”仲幾曰:“三代各異物,薛焉得有舊?為宋役,亦其職也。”士彌牟曰:“晉之從政者新,子姑受功。歸,吾視諸故府。”仲幾曰:“縱子忘之,山川鬼神其忘諸乎?”士伯怒,謂韓簡子曰:“薛徵於人,宋徵於鬼,宋罪大矣。且己無辭而抑我以神,誣我也。

薛の宰が曰わく、「宋が行事無道にして、我ら小國と周の關係を斷絕し、我らを帶びて楚に至る。ゆえに我らは常常に宋に從えり。晋文公が踐土の盟約を為し、曰く、『凡そ我ら同盟は各々舊職を恢復せよ』。是れ踐土に依從するか、それとも宋に依從するか、亦ただ命令に聽かん」。仲幾が曰わく、「踐土は本よりこの如し」。薛宰が曰わく、「薛の皇祖奚仲は薛に住みて夏の車正を為しき。奚仲が邳に遷り、仲虺が薛に住みて湯の左相を為しき。もし舊職を恢復せば、將に王官を承接せん。何で諸侯に服役せん」。仲幾が曰わく、「三代は各々相同せず。薛はどこになお舊職あらん。宋のため服役するもまたその職分なり」。士彌牟が曰わく、「晋の政事を主持する者は新し。あなたは姑く工役を接受せよ。歸りて後、我が舊府の檔案を査せん」。仲幾が曰わく、「たとえあなたが忘るとも、山川鬼神もまた忘れんや」。士伯が發怒し、韓簡子に對して曰わく、「薛は人に證を取り、宋は鬼に證を取る。宋の罪は大なり。況んや自ら言辭なくして神を以て我らを壓制するは我らを誣罔するなり。

啟寵納侮,其此之謂矣。必以仲幾為戮。”乃執仲幾以歸。三月,歸諸京師。

寵幸を開啟して卻って侮慢を招来す。説くは即ちこれなり。必ず仲幾を以て懲罰と為さん」。ここに仲に仲幾を捉えて帶って歸った。三月、彼を京師に送った。

城三旬而畢,乃歸諸侯之戍。

城を築くこと三十日にして完畢し、ここに諸侯の戍守を遣返した。

齊高張後,不從諸侯。晉女叔寬曰:“周萇弘、齊高張皆將不免。萇叔違天,高子違人。天之所壞,不可支也。眾之所為,不可奸也。”

齊高張が來ること晚く、諸侯に從わず。晋女叔寬が曰わく、「周萇弘・齊高張は皆將に免る能わざらん。萇叔は天に違背し、高子は人に違背す。天の毀壞せんと欲する所は支撐すべからず。衆人の為す所は冒犯すべからず」。

夏,叔孫成子逆公之喪於乾侯。季孫曰:“子家子亟言於我,未嘗不中吾志也。吾欲與之從政,子必止之,且聽命焉。”子家子不見叔孫,易幾而哭。叔孫請見子家子,子家子辭,曰:“羈未得見,而從君以出。君不命而薨,羈不敢見。”

夏、叔孫成子が乾侯に至りて公の喪を迎接した。季孫が曰わく、「子家子が屢々我に話して、かつて我が心意に合わざるなし。我は彼と一起に執政せんと欲す。あなたは必ず彼を留住し、かつ彼に命を聽かしめよ」。子家子が叔孫に見えず、哭喪の時を改めて哭した。叔孫が子家子に見るを請うも、子家子が推辭して曰わく、「羈はまだあなたに見るを得ずして、即ち君に從い國を出でり。君が命令なくして薨じ、羈は敢えて見面せず」。

叔孫使告之曰:“公衍、公為實使群臣不得事君。若公子宋主社稷,則群臣之願也。凡從君出而可以入者,將唯子是聽。子家氏未有後,季孫願與子從政,此皆季孫之願也,使不敢以告。”對曰:“若立君,則有卿士、大夫與守龜在,羈弗敢知。若從君者,則貌而出者,入可也;寇而出者,行可也。若羈也,則君知其出也,而未知其入也,羈將逃也。”

叔孫が人を遣わして彼に告げて曰わく、「公衍・公為は實に群臣をして君に事奉する能わざらしめたり。もし公子宋が社稷を主持せば、是れ群臣の願望なり。凡そ君に從い國を出でて入る可き者は將にただあなたに聽かん。子家氏はまだ後嗣なく、季孫はあなたと一起に執政するを願う。これらは皆季孫の願望で、我を遣わして敢えて告げざらざらしめず」。對えて曰わく、「もし君を立てば、卿士・大夫と守龜の在るに、羈は敢えて參與知らず。君に從う人に至りては、然らば表面上君に從い國を出でし者は入る可し、寇仇の如く國を出でし者は走開する可し。羈に至りては、君は彼の國を出でるを知れども、まだ彼の入るを知らず。羈は將に逃走せん」。

喪及壞隤,公子宋先入,從公者皆自壞隤反。

喪が壞隤に至り、公子宋が先に入り、公に從う人は皆壞隤より返回した。

六月癸亥,公之喪至自乾侯。戊辰,公即位。季孫使役如闞,公氏將溝焉。

六月癸亥、公の喪が乾侯より到達した。戊辰、公が即位した。季孫が役徒を遣わして闞に至り、將に公氏のそこに溝を挖て隔てんとした。

榮駕鵝曰:“生不能事,死又離之,以自旌也。縱子忍之,後必或恥之。”乃止。

榮駕鵝が曰わく、「生きて事奉する能わず、死して又彼を隔離するは自ら過失を表彰するなり。たとえあなたが忍心でも、後代は必ずこれを以て恥と為す人あらん」。ここに停止した。

季孫問於榮駕鵝曰:“吾欲為君諡,使子孫知之。”對曰:“生弗能事,死又惡之,以自信也。將焉用之?”乃止。

季孫が榮駕鵝に問うて曰わく、「我は君に謚を定め、子孫に知らしめんと欲す」。對えて曰わく、「生きて事奉する能わず、死して又彼を惡み、以て自ら表白するは將にどこに用いん」。ここに停止した。

秋七月癸巳,葬昭公於墓道南。孔子之為司寇也,溝而合諸墓。

秋七月癸巳、昭公を墓道南に葬った。孔子が司寇を為す時、溝を挖りて墓を一起に合わせた。

昭公出,故季平子禱於煬公。九月,立煬宮。

昭公が國を出たれば、ゆえに季平子が煬公に禱告した。九月、煬宮を立てた。

周鞏簡公棄其子弟,而好用遠人。

周の鞏簡公がその子弟を拋棄し、遠人を任用するを好んだ。

◇定公二年

◇定公二年

【經】二年春王正月。夏五月壬辰,雉門及兩觀滅。秋,楚人伐吳。冬十月,新作雉門及兩觀。

【経】二年春、周天子の暦の正月。夏五月壬辰、雉門と兩觀が失火した。秋、楚人が呉を伐った。冬十月、新たに雉門と兩觀を建てた。

【傳】二年夏四月辛酉,鞏氏之群子弟賊簡公。

【伝】二年夏四月辛酉、鞏氏の一群の子弟が簡公を殺害した。

桐叛楚。吳子使舒鳩氏誘楚人,曰:“以師臨我,我伐桐,為我使之無忌。”

桐が楚を背叛した。呉子が舒鳩氏を遣わして楚人を誘引して曰わく、「軍隊を以て我らに逼近し、我らが桐を伐ち、我らのため彼らに猜忌なからしめよ」。

秋,楚囊瓦伐吳,師於豫章。吳人見舟於豫章,而潛師於巢。冬十月,吳軍楚師於豫章,敗之。遂圍巢,克之,獲楚公子繁。

秋、楚囊瓦が呉を伐ち、軍隊が豫章に駐した。呉人が豫章で船を顯示するも、卻って軍隊を巢に潛伏せしめた。冬十月、呉が豫章で楚師を攻撃し、彼らを敗った。ここに巢を包圍し、攻克し、楚公子繁を俘獲した。

邾莊公與夷射姑飲酒,私出。閽乞肉焉。奪之杖以敲之。

邾莊公と夷射姑が酒を飲み、私に出た。門を看る人が彼に肉を討った。莊公が彼の杖を奪過して以て彼を打った。

◇定公三年

◇定公三年

【經】三年春王正月,公如晉,至河,乃復。二月辛卯,邾子穿卒。夏四月。

【経】三年春、周天子の暦の正月、公が晋に至り、河に至れば即ち返回した。二月辛卯、邾子穿が卒した。夏四月。

秋,葬邾莊公。冬,仲孫何忌及邾子盟於拔。

秋、邾莊公を葬った。冬、仲孫何忌と邾子が拔で結盟した。

【傳】三年春二月辛卯,邾子在門臺,臨廷。閽以瓶水沃廷。邾子望見之,怒。閽曰:“夷射姑旋焉。”命執之,弗得,滋怒。自投於床,廢於爐炭,爛,遂卒。先葬以車五乘,殉五人。莊公卞急而好潔,故及是。

【伝】三年春二月辛卯、邾子が門臺上に在り、庭に俯臨した。門を看る人が瓶水を以て庭に澆いた。邾子が望見し、發怒した。門を看る人が曰わく、「夷射姑がここで小便せり」。令を下して彼を捉えよとしたが捉え得ず、なお發怒した。自ら床に投向し、爐炭上に跌し、潰爛し、ここに卒した。先に五輛車を以て殉葬し、五人を殉じた。莊公が急躁にして清潔を愛好し、ゆえにこの歩に至れり。

秋九月,鮮虞人敗晉師於平中,獲晉觀虎,恃其勇也。

秋九月、鮮虞人が平中で晋師を敗り、晋の觀虎を俘獲したは彼が勇敢を仗恃せしを以てなり。

冬,盟於郯,修邾好也。

冬、郯で結盟したは邾との友好を重修せばなり。

蔡昭侯為兩佩與兩裘,以如楚,獻一佩一裘於昭王。昭王服之,以享蔡侯。

蔡昭侯が兩件の佩玉と兩件の裘を作り、楚に至り、一件の佩・一件の裘を昭王に献じた。昭王がそれを穿上し、以て蔡侯を宴享した。

蔡侯亦服其一。子常欲之,弗與,三年止之。唐成公如楚,有兩肅爽馬,子常欲之,弗與,亦三年止之。唐人或相與謀,請代先從者,許之。飲先從者酒,醉之,竊馬而獻之子常。子常歸唐侯。自拘於司敗,曰:“君以弄馬之故,隱君身,棄國家,群臣請相夫人以償馬,必如之。”唐侯曰:“寡人之過也,二三子無辱。”

蔡侯もまた其中一件を穿上した。子常が欲したが與えず、三年を扣留した。唐成公が楚に至り、兩匹の肅爽馬あり。子常が欲したが與えず、も三年を扣留した。唐人の或る者が一起に謀劃し、先來隨從の人を替代するを請い、許した。先來隨從の人に酒を飲ませ、彼らを灌醉し、馬を偷んで子常に献じた。子常が唐侯を放ちて歸らせた。彼らは自ら拘して司敗に送りて曰わく、「君は玩好の馬の故を以て、自身を隱藏し、國家を拋棄せり。群臣はその人を幫助して馬を賠償するを請う。必ずあの如くせん」。唐侯が曰わく、「是れ寡人の過錯なり。あなたら几位は辱を受くる勿れ」。

皆賞之。蔡人聞之,固請而獻佩於子常。子常朝,見蔡侯之徒,命有司曰:“蔡君之久也,官不共也。明日,禮不畢,將死。”蔡侯歸,及漢,執玉而沈,曰“餘所有濟漢而南者,有若大川。”蔡侯如晉,以其子元與其大夫之子為質焉,而請伐楚。

皆彼らを獎賞した。蔡人が聞き、堅決に佩を子常に献ずるを請うた。子常が朝に上り、蔡侯の隨從を見、有司に命令して曰わく、「蔡君の久留する所以は官が供給せざればなり。明日禮がなお完畢せざれば、將に處死せん」。蔡侯が歸り、漢水に至り、玉を持ちて沈めて曰わく、「我が所有し再び漢水を渡りて南する情形は、この大川を證と為すが如し」。蔡侯が晋に至り、その兒子元と大夫の兒子を人質と為し、楚を伐つを請うた。

◇定公四年

◇定公四年

【經】四年春王二月癸巳,陳侯吳卒。三月,公會劉子、晉侯、宋公、蔡侯、衛侯、陳子、鄭伯、許男、曹伯、莒子、邾子、頓子、鬍子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子、齊國夏於召陵,侵楚。夏四月庚辰,蔡公孫姓帥師滅沈,以沈子嘉歸,殺之。五月,公及諸侯盟於皋鼬。杞伯成卒於會。六月,葬陳惠公。許遷於容城。

【経】四年春、周天子の暦の二月癸巳、陳侯呉が卒した。三月、公が召陵で劉子・晋侯・宋公・蔡侯・衛侯・陳子・鄭伯・許男・曹伯・莒子・邾子・頓子・胡子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・齊國夏と會合し、楚を侵襲した。夏四月庚辰、蔡公孫姓が師を率いて沈を滅ぼし、沈子嘉を帶びて歸り、彼を殺した。五月、公と諸侯が皋鼬で結盟した。杞伯成が會上で卒した。六月、陳惠公を葬った。許が容城に遷った。

秋七月,至自會。劉卷卒。葬杞悼公。楚人圍蔡。晉士鞅、衛孔圍帥師伐鮮虞。

秋七月、會上より歸った。劉卷が卒した。杞悼公を葬った。楚人が蔡を包圍した。晋士鞅・衛孔圍が師を率いて鮮虞を伐った。

葬劉文公。冬十有一月庚午,蔡侯以吳子及楚人戰於柏舉,楚師敗績。楚囊瓦出奔鄭。庚辰,吳入郢。

劉文公を葬った。冬十一月庚午、蔡侯が呉子を率い楚人と柏擧で作戰し、楚師が大いに敗れた。楚囊瓦が鄭に出奔した。庚辰、呉が郢に入った。

【傳】四年春三月,劉文公合諸侯於召陵,謀伐楚也。

【伝】四年春三月、劉文公が召陵で諸侯と會合したは楚を伐つを謀るなり。

晉荀寅求貨於蔡侯,弗得。言於範獻子曰:“國家方危,諸侯方貳,將以襲敵,不亦難乎!水潦方降,疾瘧方起,中山不服,棄盟取怨,無損於楚,而失中山,不如辭蔡侯。吾自方城以來,楚未可以得志,只取勤焉。”乃辭蔡侯。

晋荀寅が蔡侯に財貨を求取したが得ず。范献子に對して曰わく、「國家は正に危急にして、諸侯は正に二心あり。將に敵を襲撃せんとするは、また難くないか!雨水が正に降り、疾瘧が正に起り、中山が歸服せず、盟約を拋棄して怨恨を招来し、楚に減損なく、卻って中山を失うは、蔡侯を辭謝するに如かず。我らは方城より以來、まだ楚に志を得る能わず、ただ勤勞を取得するのみ」。ここに蔡侯を辭謝した。

晉人假羽旄於鄭,鄭人與之。明日,或旆以會。晉於是乎失諸侯。將會,衛子行敬子言於靈公曰:“會同難,嘖有煩言,莫之治也。其使祝佗從!”公曰:“善。”乃使子魚。子魚辭,曰:“臣展四體,以率舊職,猶懼不給而煩刑書,若又共二,徼大罪也。且夫祝,社稷之常隸也。社稷不動,祝不出竟,官之制也。

晋人が鄭に羽旄を借り、鄭人が與えた。翌日、或る人が羽旄を以て旆を作りて會見に參加した。晋はこれより諸侯を失った。將に會見せんとして、衛子行敬子が靈公に對して曰わく、「會同は困難で、爭論に煩雜の話あり、治める人能なし。なお祝佗をして從わしめよ!」。公が曰わく、「善し」。ここに子魚を遣わした。子魚が推辭して曰わく、「臣は四肢を展開して以て舊職を繼承するも、なお供給する能わずして刑書を觸犯するを怕れ、もし又同時に兩樣を擔任せば、是れ大罪を求取するなり。況んや祝は社稷の固定の隸役なり。社稷が動かざれば、祝は國境を出でず。是れ官の制度なり。

君以軍行,祓社釁鼓,祝奉以從,於是乎出竟。若嘉好之事,君行師從,卿行旅從,臣無事焉。”公曰:“行也。”及皋鼬,將長蔡於衛。衛侯使祝佗私於萇弘曰:“聞諸道路,不知信否。若聞蔡將先衛,信乎?”萇弘曰:“信。蔡叔,康叔之兄也,先衛,不亦可乎?”子魚曰:“以先王觀之,則尚德也。昔武王克商,成王定之,選建明德,以蕃屏周。故周公相王室,以尹天下,於周為睦。分魯公以大路,大旂,夏后氏之璜,封父之繁弱,殷民六族,條氏、徐氏、蕭氏、索氏、長勺氏、尾勺氏。使帥其宗氏,輯其分族,將其類醜,以法則周公,用即命於周。

君が軍隊を帶びて出行し、祓祭して社し血を以て鼓を塗れば、祝が奉じて從い、これ乃ち境を出ず。もし嘉好の事なれば、君が行けば師が從い、卿が行けば旅が從う。臣に事なし」。公が曰わく、「去れ」。皋鼬に至り、將に蔡を衛の前に排さんとした。衛侯が祝佗を遣わして私に萇弘に對して曰わく、「道路上で聞くに、確實かどうか知らず。もし蔡が將に衛の前に排せんと聞けば、確實か」。萇弘が曰わく、「確實なり。蔡叔は康叔の兄なり。衛の前に排するは、また可ならずや」。子魚が曰わく、「先王を以て看れば、是れ德を崇尚す。昔武王が商に戰勝し、成王がそれを安定し、明德ある人を選拔建立して以て周を藩屏せしめた。ゆえに周公が王室を輔相し、天下を治理し、周に於て親睦せり。魯公に大路・大旗・夏后氏の璜・封父の繁弱を分給し、殷民六族、條氏・徐氏・蕭氏・索氏・長勺氏・尾勺氏。彼らに宗氏を率いさせ、分族を集合し、同類の族衆を帶領し、來りて周公を取法し、ここに周で命令を受けしめた。

是使之職事於魯,以昭周公之明德。分之土田陪敦,祝、宗、卜、史,備物、典策,官司、彝器。因商奄之民,命以伯禽,而封於少皞之虛。分康叔以大路、少帛、綪茷、旃旌、大呂,殷民七族,陶氏、施氏、繁氏、錡氏、樊氏、飢氏、終葵氏;封畛土略,自武父以南,及圃田之北竟,取於有閻之土,以共王職。

これは彼をして魯で職事を擔任せしめ、以て周公の明德を昭明せしめんとするなり。彼に土田附庸・祝・宗・卜・史、備用の器物・典策・官司・彝器を分給す。商奄の民に依靠し、伯禽を以て命名し、少皞の虚に封ず。康叔に大路・少帛・綪茷・旃旌・大呂を分給し、殷民七族、陶氏・施氏・繁氏・錡氏・樊氏・飢氏・終葵氏。封疆土界は武父より以南、圃田の北境に至り、有閻の土地を取りて以て王職に供給す。

取於相土之東都,以會王之東蒐。聃季授土,陶叔授民,命以《康誥》,而封於殷虛。皆啟以商政,疆以周索。分唐叔以大路,密須之鼓,闕鞏,沽洗,懷姓九宗,職官五正。命以《唐誥》,而封於夏虛,啟以夏政,疆以戎索。三者皆叔也,而有令德,故昭之以分物。不然,文、武、成、康之伯猶多,而不獲是分也,唯不尚年也。管蔡啟商,惎間王室。王於是乎殺管叔而蔡蔡叔,以車七乘,徒七十人。其子蔡仲,改行帥德,周公舉之,以為己卿士。見諸王而命之以蔡,其命書云:‘王曰:胡!無若爾考之違王命也。’若之何其使蔡先衛也?武王之母弟八人,周公為大宰,康叔為司寇,聃季為司空,五叔無官,豈尚年哉!曹,文之昭也;晉,武之穆也。曹為伯甸,非尚年也。今將尚之,是反先王也。晉文公為踐土之盟,衛成公不在,夷叔,其母弟也,猶先蔡。其載書云:‘王若曰,晉重、魯申、衛武、蔡甲午、鄭捷、齊潘、宋王臣、莒期。’藏在周府,可覆視也。吾子欲覆文、武之略,而不正其德,將如之何?”萇弘說,告劉子,與範獻子謀之,乃長衛侯於盟。

相土の東都を取り、以て王の東搜に會同す。聃季が土を授け、陶叔が民を授け、《康誥》を以て命名し、殷虚に封ず。皆商の政を以て開啟し、周の法を以て疆を劃す。唐叔に大路・密須の鼓・闕鞏・沽洗、懷姓九宗・職官五正を分給す。《唐誥》を以て命名し、夏虚に封じ、夏の政を以て開啟し、戎の法を以て疆を劃す。この三人は皆叔なるに、卻って美德あり。ゆえに分賜の物を以て昭明す。然らざれば、文・武・成・康の伯はなお多いも、卻ってこの如き分賜を得ず。ただ年齒を崇尚せざればなり。管・蔡が商を開啟し、王室を離間せんを圖謀した。王はここに管叔を殺して蔡叔を流放し、車七乘・徒七十人を與えた。その兒子蔡仲が行為を改變し德に遵循し、周公が彼を舉用し、自らの卿士と為した。彼を引きて王に見え蔡を以て任命す。その命書に曰く、『王曰く、胡!あなたの父の如く王命に違背する勿れ』。どうして蔡を衛の前に排せん。武王の同母弟八人に、周公が大宰を為し、康叔が司寇を為し、聃季が司空を為し、五個の叔に官職なし。どこに年齒を崇尚せん。曹は文の昭、晋は武の穆なり。曹が伯甸を為すは年齒を崇尚せざるなり。今將にそれを崇尚せんとするは先王に違反す。晋文公が踐土の盟約を為すに、衛成公は在らず、夷叔はその同母弟にして、なお蔡の前に排せり。その載書に曰く、『王この如く曰く、晋重・魯申・衛武・蔡甲午・鄭捷・齊潘・宋王臣・莒期』。周の府庫に藏めて覆看す可し。吾子が文・武の經略を恢復せんと欲して、卻ってその德を端正せざれば、將にどうせん」。萇弘が喜悅し、劉子に告げ、范献子と謀劃し、ここに盟會で衛侯を前に排した。

反自召陵,鄭子大叔未至而卒。晉趙簡子為之臨,甚哀,曰:“黃父之會,夫子語我九言,曰:‘無始亂,無怙富,無恃寵,無違同,無敖禮,無驕能,無復怒,無謀非德,無犯非義。’”沈人不會於召陵,晉人使蔡伐之。夏,蔡滅沈。

召陵より返回し、鄭子大叔はまだ至らずして卒した。晋趙簡子が彼のため臨哭し、甚だ哀痛して曰わく、「黃父の會見に、夫子が我に九句の話を告げて曰く、『亂を發起する勿れ、富を仗恃する勿れ、寵を仗恃する勿れ、同心に違背する勿れ、禮を傲視する勿れ、才能により驕傲する勿れ、怒を重複に加上する勿れ、德に合わざる事を謀劃する勿れ、義に合わざる事を冒犯する勿れ』」。沈人が召陵の會見に參加せず、晋人が蔡に伐たせた。夏、蔡が沈を滅ぼした。

秋,楚為沈故,圍蔡。伍員為吳行人以謀楚。楚之殺郤宛也,伯氏之族出。

秋、楚が沈の故を以て蔡を包圍した。伍員が呉の行人を為して以て楚に對付するを謀った。楚が郤宛を殺すとき、伯氏の族人が逃出した。

伯州犁之孫嚭為吳大宰以謀楚。楚自昭王即位,無歲不有吳師。蔡侯因之,以其子乾與其大夫之子為質於吳。

伯州犁の孫子嚭が呉の大宰を為して以て楚に對付するを謀った。楚は昭王が即位してより以來、一年として呉師なきことなし。蔡侯がこれに憑藉し、その兒子乾と大夫の兒子を人質と為して呉に送った。

冬,蔡侯、吳子、唐侯伐楚。舍舟於淮汭,自豫章與楚夾漢。左司馬戌謂子常曰:“子沿漢而與之上下,我悉方城外以毀其舟,還塞大隧、直轅、冥厄,子濟漢而伐之,我自後擊之,必大敗之。”既謀而行。武城黑謂子常曰:“吳用木也,我用革也,不可久也。不如速戰。”史皇謂子常:“楚人惡子而好司馬,若司馬毀吳舟於淮,塞城口而入,是獨克吳也。子必速戰,不然不免。”乃濟漢而陳,自小別至於大別。三戰,子常知不可,欲奔。史皇曰:“安求其事,難而逃之,將何所入?子必死之,初罪必盡說。”

冬、蔡侯・呉子・唐侯が楚を伐った。淮汭で船を放下し、豫章より楚と漢水を隔てた。左司馬戌が子常に對して曰わく、「あなたは漢水に沿いて彼らと上下周旋し、我は方城外の軍隊を盡起して往きて彼らの船を毀掉し、歸りて大隧・直轅・冥阨を堵住し、あなたが漢水を渡りて往きて伐ち、我が後面より攻撃せば、必ず大いに彼らを敗らん」。已に謀れば即ち出發した。武城黑が子常に對して曰わく、「呉は木を用い、我らは革を用う。持久すべからず。快戰に如かず」。史皇が子常に對して曰わく、「楚人はあなたを惡み司馬を喜好す。もし司馬が淮水で呉の船を毀掉し、城口を堵住して進入せば、是れ彼が獨自に呉に戰勝す。あなたは必ず快戰せよ。然らざれば免れざらん」。ここに漢水を渡りて列陣し、小別より直に大別に至った。三戰を打ち、子常が不可を知り、逃走せんと欲した。史皇が曰わく、「安定時はその政事を求取し、危難には卻って逃避す。將にどこに入らん。あなたは必ずこれがため死戰せよ。当初の罪は必ず全部解脫する能くせん」。

十一月庚午,二師陳於柏舉。闔廬之弟夫概王,晨請於闔廬曰:“楚瓦不仁,其臣莫有死志,先伐之,其卒必奔。而後大師繼之,必克。”弗許。夫概王曰:“所謂‘臣義而行,不待命’者,其此之謂也。今日我死,楚可入也。”以其屬五千,先擊子常之卒。子常之卒奔,楚師亂,吳師大敗之。子常奔鄭。史皇以其乘廣死。吳從楚師,及清發,將擊之。夫王曰:“困獸猶鬥,況人乎?若知不免而致死,必敗我。若使先濟者知免,後者慕之,蔑有鬥心矣。半濟而後可擊也。”

十一月庚午、兩軍が柏擧で列陣した。闔廬の弟夫概王が、朝に闔廬に向かい請求して曰わく、「楚の囊瓦は不仁で、その臣に死戰の心なし。先に往きて伐てば、その士卒は必ず奔逃せん。然る後に大軍を接上せば、必ず能く勝たん」。許さず。夫概王が曰わく、「所謂『臣は義に按って行事し、命令を待たず』、説くは即ちこれなり。今日我が往きて死すれば、楚は即ち入る可し」。その部屬五千人を率い、先に子常の士卒を攻撃した。子常の士卒が奔逃し、楚師が混亂し、呉師が大いに彼らを敗った。子常が鄭に逃奔した。史皇がその乘廣上で戰死した。呉が楚師を追趕し、清發に至り、將に攻撃せんとした。夫概王が(底本此字殘缺、上文の「夫概王」に按ず)曰わく、「困された野獸もなお搏鬥す。況んや人をや。もし免れざるを知りて拼死せば、必ず我らを敗らん。もし先に河を渡る者に免る可きを知らしめば、後の者が彼らを羨慕して、即ち鬥心なし。半渡して然る後に攻撃す可し」。

從之。又敗之。楚人為食,吳人及之,奔。食而從之,敗諸雍澨,五戰及郢。

聽き從った。又彼らを敗った。楚人が正に飯を做るに、呉人が趕到し、楚人が奔逃した。呉人が飯を食して再び追い、雍澨で彼らを敗り、五戰して郢に至った。

己卯,楚子取其妹季羋畀我以出,涉睢。針尹固與王同舟,王使執燧象以奔吳師。

己卯、楚子がその妹季芈畀我を帶びて出で、睢水を渡った。鍼尹固が王と同一條の船に在り、王が火炬を象尾に係けて以て呉師を衝奔せしめた。

庚辰,吳入郢,以班處宮。子山處令尹之宮,夫王欲攻之,懼而去之,夫王入之。

庚辰、呉が郢に入り、班次に按りて宮室に住んだ。子山が令尹の宮に住み、夫概王(底本此字殘缺、上文の「夫概王」に按ず)が彼を攻打せんと欲し、子山が害怕して離れ、夫概王が住み入った。

左司馬戌及息而還,敗吳師於雍澨,傷。初,司馬臣闔廬,故恥為禽焉。謂其臣曰:“誰能免吾首?”吳句卑曰:“臣賤,可乎?”司馬曰:“我實失子,可哉!”三戰皆傷,曰:“吾不用也已。”句卑布裳,剄而裹之,藏其身而以其首免。楚子涉雎,濟江,入於雲中。王寢,盜攻之,以戈擊王。王孫由於以背受之。中肩。王奔鄖,鍾建負季羋以從,由於徐蘇而從。鄖公辛之弟懷將弒王,曰:“平王殺吾父,我殺其子,不亦可乎?”辛曰:“君討臣,誰敢仇之?君命,天也,若死天命,將誰仇?《詩》曰:‘柔亦不茹,剛亦不吐,不侮矜寡,不畏強禦。’唯仁者能之。違強陵弱,非勇也。乘人之約,非仁也。滅宗廢祀,非孝也。

左司馬戌が息に至れば即ち返回し、雍澨で呉師を敗ったが傷を受けた。当初、司馬は闔廬の臣を為し、ゆえに擒に被るを恥とした。その臣に對して曰わく、「誰が能く我が頭を保全せん」。呉句卑が曰わく、「臣は低賤です。可や」。司馬が曰わく、「我は實にあなたに對不起せり。可なり!」。三戰して皆傷を受け、曰わく、「我は行けず」。句卑が衣裳を鋪開し、頭を割下して包裹し、身を藏して頭を帶びて逃脫した。楚子が雎水を渡り、再び江を渡り、雲中に入った。王が睡覺し、盜賊が彼を攻撃し、戈を以て王を撃った。王孫由于が背を以て擋ぎ、肩膀に中った。王が鄖に逃奔し、鍾建が季芈を背負い從い、由于が慢慢に蘇醒して再び跟上した。鄖公辛の弟懷が將に王を弑さんとして曰わく、「平王が我が父を殺し、我がその兒子を殺すは、また可ならずや」。辛が曰わく、「君が臣を討伐するに、誰が敢えて仇視せん。君命は即ち天なり。もし天命に死せば、將に誰を仇視せん。《詩經》に曰く、『柔なるも吞まず、剛なるも吐かず、鰥寡を欺侮せず、强禦を畏懼せず』。ただ仁者のみ能くこの如し。强を避け弱を欺凌するは勇にあらず。人の困約に趁むは仁にあらず。宗族を滅絕し祭祀を廢棄するは孝にあらず。

動無令名,非知也。必犯是,餘將殺女。”鬥辛與其弟巢以王奔隨。吳人從之,謂隨人曰:“周之子孫在漢川者,楚實盡之。天誘其衷,致罰於楚,而君又竄之。

行動に美名なくば智にあらず。必ずこれらを冒犯せんとすれば、我は將にあなたを殺さん」。斗辛がその弟巢と王を帶びて隨に逃奔した。呉人が跟上し、隨人に對して曰わく、「周の子孫の漢川に在る者は、楚が實に彼らを滅盡せり。天がその心意を誘導し、懲罰を楚に加えるに、君は卻って彼を藏匿す。

周室何罪?君若顧報周室,施及寡人,以獎天衷,君之惠也。漢陽之田,君實有之。”楚子在公宮之北,吳人在其南。子期似王,逃王,而己為王,曰:“以我與之,王必免。”隨人卜與之,不吉。乃辭吳曰:“以隨之闢小而密邇於楚,楚實存之,世有盟誓,至於今未改。若難而棄之,何以事君?執事之患,不唯一人。

周室に何の罪かあらん。君がもし周室に顧念報答し、寡人に延及し、以て天意を助成せんとせば、是れ君の恩惠なり。漢陽の田は君が實に占有せん」。楚子が公宮の北面に在り、呉人はその南面に在り。子期が王に長得像して、王を逃させ、自ら王を装作して曰わく、「我を彼らに交せ。王は必ず能く免れん」。隨人が彼を交出するを占卜し、吉利ならず。ここに呉を辭謝して曰わく、「隨の偏僻弱小を以て楚に緊挨着す。楚は實にそれを保存し、世代に盟誓ありて、今に至りて改變せず。もし危難あれば即ち拋棄するは、何を憑って君に事奉せん。執事の憂患はただこの一人のみにあらず。

若鳩楚竟,敢不聽命。”吳人乃退。鑢金初宦於子期氏,實與隨人要言。王使見,辭,曰:“不敢以約為利。”王割子期之心,以與隨人盟。

もし楚の國境を安定せば、敢えて命を聽かざらん」。呉人がここに退走した。鑢金は当初子期氏のそこで宦を為し、實に隨人と話を約定せり。王が彼を進見せしめんとするに、推辭して曰わく、「敢えて困約に趁みて以て利を取らず」。王が子期の胸口の血を割取し、以て隨人と結盟した。

初,伍員與申包胥友。其亡也,謂申包胥曰:“我必復楚國。”申包胥曰:“勉之!子能復之,我必能興之。”及昭王在隨,申包胥如秦乞師,曰:“吳為封豕、長蛇,以薦食上國,虐始於楚。寡君失守社稷,越在草莽。使下臣告急,曰:‘夷德無厭,若鄰於君,疆埸之患也。逮吳之未定,君其取分焉。若楚之遂亡,君之土也。若以君靈撫之,世以事君。’”秦伯使辭焉,曰:“寡人聞命矣。

当初、伍員と申包胥が友好せり。彼が逃亡するとき、申包胥に對して曰わく、「我は必ず楚國を覆滅せん」。申包胥が曰わく、「努力せよ!あなたが能くそれを覆滅せば、我は必ず能くそれを興起せん」。昭王が隨に在るに及び、申包胥が秦に至り師を求めて曰わく、「呉は封豕・長蛇にして、來りて上國を接連吞食す。暴虐は楚より始まる。寡君は社稷を失守し、草莽に流落す。下臣を遣わして急を告げて曰わく、『夷の德は滿足なく、もし君と鄰居を為せば、是れ疆埸の禍患なり。呉がまだ安定せざるに趁み、君はなお往きて一份を取れ。もし楚が終に滅亡せば、即ち君の土地なり。もし君の威靈を以てそれを安撫せば、將に世代に君に事奉せん』」。秦伯が人を遣わして辭謝して曰わく、「寡人は命令を聞けり。

子姑就館,將圖而告。”對曰:“寡君越在草莽,未獲所伏。下臣何敢即安?”立,依於庭牆而哭,日夜不絕聲,勺飲不入口七日。秦哀公為之賦《無衣》,九頓首而坐,秦師乃出。

あなたは姑く館舍に至れ。將に謀劃して然る後に告げん」。對えて曰わく、「寡君は草莽に流落し、まだ栖身の地を得ず。下臣は何で敢えて安に就かん」。立ちて、庭牆に靠りて哭き、日夜聲音斷えず、七日湯水が口に入らず。秦哀公が彼のため《無衣》を賦し、彼が九次叩頭して然る後に坐し、秦師はここに出發した。

◇定公五年

◇定公五年

【經】五年春王三月辛亥朔,日有食之。夏,歸粟於蔡。于越入吳。六月丙申,季孫意如卒。秋七月壬子,叔孫不敢卒。冬,晉士鞅帥師圍鮮虞。

【経】五年春、周天子の暦の三月辛亥朔、日食發生す。夏、粟を蔡に送った。于越が呉に入った。六月丙申、季孫意如が卒した。秋七月壬子、叔孫不敢が卒した。冬、晋士鞅が師を率いて鮮虞を包圍した。

【傳】五年春,王人殺子朝於楚。

【伝】五年春、周人が楚で子朝を殺した。

夏,歸粟於蔡,以周亟,矜無資。

夏、粟を蔡に送ったは以て急困を救濟し、資財なきを憐れめばなり。

越入吳,吳在楚也。

越が呉に入ったは呉が楚に在るを以てなり。

六月,季平子行東野,還,未至,丙申,卒於房。陽虎將以與璠斂,仲梁懷弗與,曰:“改步改玉。”陽虎欲逐之,告公山不狃。不狃曰:“彼為君也,子何怨焉?”既葬,桓子行東野,及費。子洩為費宰,逆勞於郊,桓子敬之。勞仲梁懷,仲梁懷弗敬。子洩怒,謂陽虎:“子行之乎?”申包胥以秦師至,秦子蒲、子虎帥車五百乘以救楚。子蒲曰:“吾未知吳道。”

六月、季平子が東野を巡行し、歸り、まだ至らず、丙申、房で死んだ。陽虎が將に璵璠を以て斂に入れんとし(底本は「与璠」)、仲梁懷が與えず、曰わく、「步履が改變すれば、玉もまた改變すべし」。陽虎が彼を趕走せんと欲し、公山不狃に告げた。不狃が曰わく、「彼は君のためなり。あなたは何を怨まん」。已に下葬し、桓子が東野を巡行し、費に至った。子泄が費宰を為し、郊外に至りて迎接慰勞し、桓子が彼を敬重した。仲梁懷を慰勞するに、仲梁懷は敬せず。子泄が發怒し、陽虎に對して曰わく、「あなたは行動せよか」。申包胥が秦師を帶びて到達し、秦子蒲・子虎が車五百乘を率いて來りて楚を救った。子蒲が曰わく、「我はまだ呉の戰法を知らず」。

使楚人先與吳人戰,而自稷會之,大敗夫王於沂。吳人獲薳射於柏舉,其子帥奔徒以從子西,敗吳師于軍祥。秋七月,子期、子蒲滅唐。

楚人をして先に呉人と作戰せしめ、自ら稷より來りて會合し、沂で夫概王(底本此字殘缺、上文の「夫概王」に按ず)を大いに敗った。呉人が柏擧で䓕射を俘獲し、その兒子が逃奔の徒衆を率いて子西に從い、軍祥で呉師を敗った。秋七月、子期・子蒲が唐を滅ぼした。

九月,夫王歸,自立也。以與王戰而敗,奔楚,為堂溪氏。吳師敗楚師於雍澨,秦師又敗吳師。吳師居麇,子期將焚之,子西曰:“父兄親暴骨焉,不能收,又焚之,不可。”子期曰:“國亡矣!死者若有知也,可以歆舊祀,豈憚焚之?”焚之,而又戰,吳師敗。又戰於公婿之溪,吳師大敗,吳子乃歸。囚闉輿罷,闉輿罷請先,遂逃歸。葉公諸梁之弟後臧從其母於吳,不待而歸。葉公終不正視。

九月、夫概王(底本此字殘缺、上文の「夫概王」に按ず)が歸り、自ら王を立てた。王と作戰して失敗したるを以て、楚に逃奔し、堂溪氏と為った。呉師が雍澨で楚師を敗り、秦師が又呉師を敗った。呉師が麇に住み、子期が將に火を放ちて燒かんとし、子西が曰わく、「父兄親人の骨がそこに暴露し、收斂する能わず、又燒掉するは不可なり」。子期が曰わく、「國は已に亡べり!死者がもし知あらば、舊日の祭祀を享用す可し。何で燒掉を怕れん」。火を放ちて燒き、再び作戰し、呉師が敗れた。又公婿之溪で作戰し、呉師が大いに敗れ、呉子はここに歸った。闉輿罷を囚禁し、闉輿罷が先に走るを請い、ここに逃歸した。葉公諸梁の弟后臧が母に從い呉に在り、彼女を待たずして歸った。葉公が終始正眼に彼を看ず。

乙亥,陽虎囚季桓子及公父文伯,而逐仲梁懷。冬十月丁亥,殺公何藐。己丑,盟桓子於稷門之內。庚寅,大詛,逐公父歜及秦遄,皆奔齊。

乙亥、陽虎が季桓子と公父文伯を囚禁し、仲梁懷を趕走した。冬十月丁亥、公何藐を殺した。己丑、稷門之內で桓子と結盟した。庚寅、大詛咒を行い、公父歜と秦遄を趕走し、皆齊に逃奔した。

楚子入於郢。初,鬥辛聞吳人之爭宮也,曰:“吾聞之:‘不讓則不和,不和不可以遠征。’吳爭於楚,必有亂。有亂則必歸,焉能定楚?”王之奔隨也,將涉於成臼,藍尹亹涉其帑,不與王舟。及寧,王欲殺之。子西曰:“子常唯思舊怨以敗,君何效焉?”王曰:“善。使復其所,吾以志前惡。”王賞鬥辛、王孫由於、王孫圉、鍾建、鬥巢、申包胥、王孫賈、宋木、鬥懷。子西曰:“請舍懷也。”王曰:“大德滅小怨,道也。”申包胥曰:“吾為君也,非為身也。君既定矣,又何求?且吾尤子旗,其又為諸?”遂逃賞。王將嫁季羋,季羋辭曰:“所以為女子,遠丈夫也。鍾建負我矣。”以妻鍾建,以為樂尹。

楚子が郢に入った。当初、斗辛が呉人の宮室を爭奪するを聞き、曰わく、「我は聞くに、『謙讓せざれば即ち和せず、和せざれば遠征すべからず』。呉が楚で爭奪するは必ず亂あらん。亂あれば必ず歸らん。どこに能く楚を安定せん」。王が隨に逃奔する時、將に成臼で河を渡らんとし、藍尹亹がその家屬を先に渡らせ、王に船を與えず。安寧に及び、王が彼を殺さんと欲した。子西が曰わく、「子常がただ舊怨を想いてこれにより失敗したに、君は何で效倣せん」。王が曰わく、「善し。彼を原職に恢復せしめ、我は以て先前の惡を記住せん」。王が斗辛・王孫由于・王孫圉・鍾建・斗巢・申包胥・王孫賈・宋木・斗懷を獎賞した。子西が曰わく、「懷を去るを請います」。王が曰わく、「大德が小怨を消滅するは道なり」。申包胥が曰わく、「我は君のためで、自身のためにあらず。君は已に安定せり。又何を求めん。況んや我は子旗を責備したに、あえてまたあの如き事を為さんや」。ここに賞賜を逃避した。王が將に季芈を嫁出せんとし、季芈が推辭して曰わく、「女子を為す所以は男子を遠離するなり。鍾建は已に我を背負えり」。彼女を鍾建に嫁し、彼を樂尹とした。

王之在隨也,子西為王輿服以保路,國於脾洩。聞王所在,而後從王。王使由於城麇,覆命,子西問高厚焉,弗知。子西曰:“不能,如辭。城不知高厚,小大何知?”對曰:“固辭不能,子使餘也。人各有能有不能。王遇盜於雲中,餘受其戈,其所猶在。”袒而示之背,曰:“此餘所能也。脾洩之事,餘亦弗能也。”

王が隨に在る時、子西が王の車服を準備して以て道路を保衛し、脾泄で國を立てた。王の所在の地を聞き、然る後に王に從った。王が由于を遣わして麇に城を築かせ、歸りて復命するに、子西が城の高厚を問うも知らず。子西が曰わく、「為す能わざれば、推辭するに如かず。城の高厚を知らざれば、大小を何で知らん」。對えて曰わく、「本より推辭して不能と曰うたに、是れあなたが我を遣わして往かせしなり。人は各々能あり不能あり。王が雲中で盜賊に遇い、我がその戈を擋ぎ、あの傷口はまだ在り」。衣服を解きて彼に背を看せて曰わく、「これは我の能くする所。脾泄の事は、我もまた不能なり」。

晉士鞅圍鮮虞,報觀虎之役也。

晋士鞅が鮮虞を包圍したは觀虎のあの一戰を報復するなり。

◇定公六年

◇定公六年

【經】六年春王正月癸亥,鄭遊速帥師滅許,以許男斯歸。二月,公侵鄭。

【経】六年春、周天子の暦の正月癸亥、鄭游速が師を率いて許を滅ぼし、許男斯を帶びて歸った。二月、公が鄭を侵襲した。

公至自侵鄭。夏,季孫斯、仲孫何忌如晉。秋,晉人執宋行人樂祁犁。冬,城中城。季孫斯、仲孫忌帥師圍鄆。

公が鄭を侵襲してより歸った。夏、季孫斯・仲孫何忌が晋に至った。秋、晋人が宋行人樂祁犁を捉えた。冬、中城を修築した。季孫斯・仲孫忌が師を率いて鄆を包圍した。

【傳】六年春,鄭滅許,因楚敗也。

【伝】六年春、鄭が許を滅ぼしたは楚が戰敗したるに趁めばなり。

二月,公侵鄭,取匡,為晉討鄭之伐胥靡也。往不假道於衛;及還,陽虎使季、孟自南門入,出自東門,舍於豚澤。衛侯怒,使彌子瑕追之。公叔文子老矣,輦而如公,曰:“尤人而效之,非禮也。昭公之難,君將以文之舒鼎,成之昭兆,定之鞶鑑,苟可以納之,擇用一焉。公子與二三臣之子,諸侯苟憂之,將以為之質。此群臣之所聞也。今將以小忿蒙舊德,無乃不可乎!大姒之子,唯周公、康叔為相睦也。而效小人以棄之,不亦誣乎!天將多陽虎之罪以斃之,君姑待之,若何?”乃止。

二月、公が鄭を侵襲し、匡を取ったは晋のため鄭の胥靡攻打を討伐するなり。去る時に衛に道を借らず。歸るに及び、陽虎が季孫・孟孫をして南門より進入し、東門より出で、豚澤に住ましめた。衛侯が發怒し、彌子瑕を遣わして追趕せしめた。公叔文子は已に老い、輦車に坐して公の所に至り、曰わく、「他人を責怪して卻って彼を仿效するは禮に合わず。昭公の禍難に、君は將に文公の舒鼎・成公の昭兆・定公の鞶鑑を以てし、假如に彼を國に送歸する可ければ、一件を選擇用いよ。公子と几位の臣の兒子は、諸侯がもしこれがため憂慮せば、將に彼らを人質と為さん。これは群臣の聽聞する所なり。今將に小忿を以て舊德を掩蓋せんとす。ただ怕れて不可かもしれぬ!大姒の兒子はただ周公・康叔のみ互相親睦す。卻って小人を仿效して以てそれを拋棄するは、また欺騙ならずや!天は將に陽虎の罪を加多して彼を斃命せしめん。君は姑く待て。どうか」。ここに停止した。

夏,季桓子如晉,獻鄭俘也。陽虎強使孟懿子往報夫人之幣。晉人兼享之。

夏、季桓子が晋に至ったは鄭の俘虜を奉獻すればなり。陽虎が强いて孟懿子に往かせて夫人の聘幣に回報せしめた。晋人が一幷に彼らを宴享した。

孟孫立於房外,謂範獻子曰:“陽虎若不能居魯,而息肩於晉,所不以為中軍司馬者,有如先君!”獻子曰:“寡君有官,將使其人。鞅何知焉?”獻子謂簡子曰:“魯人患陽虎矣,孟孫知其釁,以為必適晉,故強為之請,以取入焉。”

孟孫が房外に立ち、范献子に對して曰わく、「陽虎がもし魯に居住する能わざれば、晋に來りて肩を卸さん。彼を中軍司馬と為さざれば、先君を證と為すあり!」。献子が曰わく、「寡君に官職あり。將に合適の人を使用せん。鞅はどこに知らん」。献子が簡子に對して曰わく、「魯人は陽虎を憂患せり。孟孫はその裂痕を知り、彼が必ず晋に至ると以為し、ゆえに强いて彼のため請い、以て進身を取得せんとす」。

四月己丑,吳大子終累敗楚舟師,獲潘子臣、小惟子及大夫七人。楚國大惕,懼亡。子期又以陵師敗於繁揚。令尹子西喜曰:“乃今可為矣。”於是乎遷郢於鄀,而改紀其政,以定楚國。

四月己丑、呉太子終累が楚の水軍を敗り、潘子臣・小惟子と大夫七人を俘獲した。楚國が大いに戒懼し、滅亡を怕れた。子期がまた陵師を帶びて繁揚で敗戰した。令尹子西が高興して曰わく、「今に至りて作為する可し」。ここに郢を鄀に遷し、紀綱と政を改正して以て楚國を安定せしめた。

周儋翩率王子朝之徒,因鄭人將以作亂於周。鄭於是乎伐馮、滑、胥靡、負黍、狐人、闕外。六月,晉閻沒戍周,且城胥靡。

周儋翩が王子朝の黨徒を率い、鄭人に憑藉して將に周で亂を作さんとした。鄭がここに馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外を伐った。六月、晋閻沒が周を戍守し、かつ胥靡を修築した。

秋八月,宋樂祁言於景公曰:“諸侯唯我事晉,今使不往,晉其憾矣。”樂祁告其宰陳寅。陳寅曰:“必使子往。”他日,公謂樂祁曰:“唯寡人說子之言,子必往。”陳寅曰:“子立後而行,吾室亦不亡,唯君亦以我為知難而行也。”

秋八月、宋樂祁が景公に對して曰わく、「諸侯には我らのみが晋に事奉す。今使者が往かざれば、晋はおそらく憾恨せんか」。樂祁がその宰陳寅に告げた。陳寅が曰わく、「必ずあなたを遣わして往かせん」。些日を過ぎ、公が樂祁に對して曰わく、「ただ寡人があなたの話を喜ぶ。あなたは必ず往け」。陳寅が曰わく、「あなたが後嗣を立てて然る後に走れ。我らの家もまた亡びず、即ち君もまた我らを以て難を知りて行くと以為せん」。

見溷而行。趙簡子逆,而飲之酒於綿上,獻楊楯六十於簡子。陳寅曰:“昔吾主范氏,今子主趙氏,又有納焉。以楊楯賈禍,弗可為也已。然子死晉國,子孫必得志於宋。”範獻子言於晉侯曰:“以君命越疆而使,未致使而私飲酒,不敬二君,不可不討也。”乃執樂祁。

溷に見えて然る後に出發した。趙簡子が迎接し、綿上で彼に酒を飲ませ、楊木盾六十面を簡子に献じた。陳寅が曰わく、「昔我らは范氏に主とし、今あなたは趙氏に主とし、又納献あり。楊木盾を以て禍を買えば、救う能わず。しかしあなたがもし晋國で死せば、子孫は必ず宋で志を得ん」。范献子が晋侯に對して曰わく、「君命に憑りて疆界を越えて出使し、まだ致命せずして私に酒を飲むは兩國の君に敬せず。討せざる可からず」。ここに樂祁を捉えた。

陽虎又盟公及三桓於周社,盟國人於亳社,詛於五父之衢。

陽虎がまた周社で公及び三桓と結盟し、亳社で國人と結盟し、五父之衢で詛咒した。

冬,十二月,天王處於姑蕕,闢儋翩之亂也。

冬十二月、天王が姑蕕に住んだは儋翩の亂を躲避せばなり。

◇定公七年

◇定公七年

【經】七年春王正月。夏四月。秋,齊侯、鄭伯盟於鹹。齊人執衛行人北宮結以侵衛。齊侯、衛侯盟於沙。大雩。齊國夏帥師伐我西鄙。九月,大雩。冬十月。

【経】七年春、周天子の暦の正月。夏四月。秋、齊侯・鄭伯が咸で結盟した。齊人が衛行人北宮結を捉えて以て衛を侵襲した。齊侯・衛侯が沙で結盟した。大雩を行った。齊國夏が師を率いて我が國の西部邊境を攻打した。九月、大雩を行った。冬十月。

【傳】七年春二月,周儋翩入於儀栗以叛。

【伝】七年春二月、周儋翩が儀栗に入りて叛變した。

齊人歸鄆、陽關,陽虎居之以為政。

齊人が鄆・陽關を歸還し、陽虎がそこに住みて執政した。

夏四月,單武公、劉桓公敗尹氏於窮谷。

夏四月、單武公・劉桓公が窮谷で尹氏を敗った。

秋,齊侯、鄭伯盟於鹹,徵會於衛。衛侯欲叛晉,諸大夫不可。使北宮結如齊,而私於齊侯曰:“執結以侵我。”齊侯從之,乃盟於瑣。

秋、齊侯・鄭伯が咸で結盟し、衛に向かい會盟を征召した。衛侯が晋を背叛せんと欲したが、諸大夫が不可とした。北宮結を遣わして齊に至らせたが、卻って私に齊侯に對して曰わく、「結を捉えて以て我らを侵襲せよ」。齊侯が聽き從い、ここに瑣で結盟した。

齊國夏伐我。陽虎御季桓子,公斂處父御孟懿子,將宵軍齊師。齊師聞之,墮,伏而待之。處父曰:“虎不圖禍,而必死。”苫夷曰:“虎陷二子於難,不待有司,餘必殺女。”虎懼,乃還,不敗。

齊國夏が我が國を攻打した。陽虎が季桓子のため駕車し、公斂處父が孟懿子のため駕車し、將に夜襲齊師せんとした。齊師が聞き、營壘を拆毀し、埋伏して待った。處父が曰わく、「虎は禍を考慮せず。必ず死を得ん」。苫夷が曰わく、「虎が兩位の君子を禍難に陷れるは有司を待たず、我は必ずあなたを殺さん」。虎が害怕し、ここに返回して戰敗せず。

冬十一月戊午,單子、劉子逆王於慶氏。晉籍秦送王。己巳,王入於王城,館於公族黨氏,而後朝於莊宮。

冬十一月戊午、單子・劉子が慶氏の所に至りて王を迎接した。晋籍秦が王を送った。己巳、王が王城に入り、公族黨氏に住み、然る後に莊宮に至りて朝見した。

◇定公八年

◇定公八年

【經】八年春王正月,公侵齊。公至自侵齊。二月,公侵齊。三月,公至自侵齊。曹伯露卒。夏,齊國夏帥師伐我西鄙。公會晉師於瓦。公至自瓦。秋七月戊辰,陳侯柳卒。晉士鞅帥師侵鄭,遂侵衛。葬曹靖公。九月,葬陳懷公。季孫斯、仲孫何忌帥師侵衛。冬,衛侯、鄭伯盟於曲濮。從祀先公。盜竊寶玉、大弓。

【経】八年春、周天子の暦の正月、公が齊を侵襲した。公が齊を侵襲してより歸った。二月、公が齊を侵襲した。三月、公が齊を侵襲してより歸った。曹伯露が卒した。夏、齊國夏が師を率いて我が國の西部邊境を攻打した。公が瓦で晋師と會合した。公が瓦より歸った。秋七月戊辰、陳侯柳が卒した。晋士鞅が師を率いて鄭を侵襲し、続いて衛を侵襲した。曹靖公を葬った。九月、陳懷公を葬った。季孫斯・仲孫何忌が師を率いて衛を侵襲した。冬、衛侯・鄭伯が曲濮で結盟した。位次に按りて先公を祭祀した。盜賊が寶玉・大弓を偷走した。

【傳】八年春,王正月,公侵齊,門於陽州。士皆坐列,曰:“顏高之弓六鈞。”皆取而傳觀之。陽州人出,顏高奪人弱弓,籍丘子鉏擊之,與一人俱斃。

【伝】八年春、周天子の暦の正月、公が齊を侵襲し、陽州の城門を攻打した。士が皆行列を坐成して曰わく、「顏高の弓は六鈞あり」。皆持ち來りて傳看した。陽州人が出戰し、顏高が他人の弱弓を搶い、籍丘子鉏が彼を撃打し、彼と一起に一人ありて皆倒地した。

偃,且射子鉏,中頰,殪。顏息射人中眉,退曰:“我無勇,吾志其目也。”師退,冉猛偽傷足而先。其兄會乃呼曰:“猛也殿!”二月己丑,單子伐穀城,劉子伐儀栗。辛卯,單子伐簡城,劉子伐盂,以定王室。

顏高が倒下し、なお子鉏を射て面頰に中り、子鉏が死んだ。顏息が人を射て眉毛に中り、退きて曰わく、「我は勇なく、我は本より彼の眼睛を射んと欲せり」。軍隊が撤退し、冉猛が脚を傷したを偽りて前に走った。その兄會がここに喊して曰わく、「猛來りて殿後せよ!」。二月己丑、單子が穀城を伐ち、劉子が儀栗を伐った。辛卯、單子が簡城を伐ち、劉子が盂を伐ち、以て王室を安定せしめた。

趙鞅言於晉侯曰:“諸侯唯宋事晉,好逆其使,猶懼不至。今又執之,是絕諸侯也。”將歸樂祁。士鞅曰:“三年止之,無故而歸之,宋必叛晉。“獻子私謂子梁曰:“寡君懼不得事宋君,是以止子。子姑使溷代子。”子梁以告陳寅,陳寅曰:“宋將叛晉,是棄溷也,不如侍之。”樂祁歸,卒於大行。士鞅曰:“宋必叛,不如止其屍以求成焉。”乃止諸州。

趙鞅が晋侯に對して曰わく、「諸侯にはただ宋のみが晋に事奉す。好くその使者を迎接すれば、なお來らざるを怕れん。今また彼を捉えるは諸侯を斷絕するなり」。將に樂祁を放回せんとした。士鞅が曰わく、「三年を扣留し、故なく放回せば、宋は必ず晋を背叛せん」。献子が私に子梁に對して曰わく、「寡君は能く宋君に事奉せざるを怕れ、ゆえにあなたを扣留せり。あなたは姑く溷をしてあなたに替代せしめよ」。子梁が陳寅に告げ、陳寅が曰わく、「宋は將に晋を背叛せん。これは溷を拋棄するなり。待つに如かず」。樂祁が歸り、大行で死んだ。士鞅が曰わく、「宋は必ず背叛せん。彼の尸身を扣留して以て和を求むるに如かず」。ここに州で扣留した。

公侵齊,攻廩丘之郛。主人焚沖,或濡馬褐以救之,遂毀之。主人出,師奔。

公が齊を侵襲し、廩丘の外城を攻打した。城を守る人が火を放ちて衝車を燒き、或る人が馬衣を沾濕して往きて救火し、ここに外城を毀した。城を守る人が出戰し、魯師が奔逃した。

陽虎偽不見冉猛者,曰:“猛在此,必敗。”猛逐之,顧而無繼,偽顛。虎曰:“盡客氣也。”苫越生子,將待事而名之。陽州之役獲焉,名之曰陽州。

陽虎が冉猛を見ざるを偽って曰わく、「猛がここに在れば、必ず能く彼らを打敗せん」。猛が追い出るも、回頭すれば後繼なく、跌倒を偽った。虎が曰わく、「全是表面上の客氣なり」。苫越が兒子を生み、將に事あれば再び命名せんと待った。陽州のこの一戰に俘獲ありて、彼に起きて陽州と名づけた。

夏,齊國夏、高張伐我西鄙。晉士鞅、趙鞅、荀寅救我。公會晉師於瓦。範獻子執羔,趙簡子、中行文子皆執雁。魯於是始尚羔。

夏、齊國夏・高張が我が國の西部邊境を攻打した。晋士鞅・趙鞅・荀寅が來りて我が國を救った。公が瓦で晋師と會合した。范献子が羔を持ち、趙簡子・中行文子が皆雁を持った。魯はこれより羔を以て尊と為し始めたり。

晉師將盟衛侯於鄟澤。趙簡子曰:“群臣誰敢盟衛君者?”涉佗、成何曰:“我能盟之。”衛人請執牛耳。成何曰:“衛,吾溫、原也,焉得視諸侯?”將歃,涉佗捘衛侯之手,及捥。衛侯怒,王孫賈趨進,曰:“盟以信禮也。有如衛君,其敢不唯禮是事,而受此盟也。”

晋師が將に鄟澤で衛侯と結盟せんとした。趙簡子が曰わく、「群臣は誰が敢えて衛君と結盟せん」。涉佗・成何が曰わく、「我らは能く彼と結盟せん」。衛人が牛耳を執るを請うた。成何が曰わく、「衛は不過我らの溫・原なり。どこに諸侯と看成せん」。將に歃血せんとし、涉佗が衛侯の手を擰りて手腕に至った。衛侯が發怒し、王孫賈が快步進前して曰わく、「盟は以て信守禮を申明するなり。衛君がここに在るが如く、あえて禮を事奉するに專一せざらんや。卻ってこの盟を接受せん」。

衛侯欲叛晉,而患諸大夫。王孫賈使次於郊,大夫問故。公以晉詬語之,且曰:“寡人辱社稷,其改卜嗣,寡人從焉。”大夫曰:“是衛之禍,豈君之過也?”公曰:“又有患焉。謂寡人‘必以而子與大夫之子為質。’”大夫曰:“苟有益也,公子則往。群臣之子,敢不皆負羈紲以從?”將行。王孫賈曰:“苟衛國有難,工商未嘗不為患,使皆行而後可。”公以告大夫,乃皆將行之。行有日,公朝國人,使賈問焉,曰:“若衛叛晉,晉五伐我,病何如矣?”皆曰:“五伐我,猶可以能戰。”賈曰:“然則如叛之,病而後質焉,何遲之有?”乃叛晉。晉人請改盟,弗許。

衛侯が晋を背叛せんと欲するも、諸大夫を擔心した。王孫賈が郊外に住まわせ、大夫が故を問うた。公が晋の詬辱を以て彼らに告げ、かつ曰わく、「寡人が社稷を辱沒せり。なお後嗣を改卜せよ。寡人は聽從せん」。大夫が曰わく、「これは衛の禍で、どこに君の過錯かあらん」。公が曰わく、「また憂患あり。彼らが我に對して曰く、『必ずあなたの兒子と大夫の兒子を人質と為せ』」。大夫が曰わく、「假如に益處あらば、公子は即ち往け。群臣の兒子は敢えて皆馬韁馬繩を背負い從わざらんや」。將に出發せんとす。王孫賈が曰わく、「假如に衛國に危難あらば、工商も何嘗禍患ならざらん。彼らを皆走らせて然る後に乃ち可」。公が大夫に告げ、ここに皆將に彼らを走らせんとした。出發に日あり、公が國人を朝見し、賈をして彼らに問わしめて曰わく、「もし衛が晋を背叛せば、晋が五次我らを伐てば、困病は如何」。皆曰わく、「五次我らを伐つも、なお作戰す可し」。賈が曰わく、「然らば即ち背叛せよ。困病して再び人質を送るに、何の晚かあらん」。ここに晋を背叛した。晋人が改盟を請うたが許さず。

秋,晉士鞅會成桓公,侵鄭,圍蟲牢,報伊闕也。遂侵衛。

秋、晋士鞅が成桓公と會合し、鄭を侵襲し、蟲牢を包圍したは伊闕を報復するなり。続いて衛を侵襲した。

九月,師侵衛,晉故也。

九月、軍隊が衛を侵襲したは晋の故を以てなり。

季寤、公鉏極、公山不狃皆不得志於季氏,叔孫輒無寵於叔孫氏,叔仲志不得志於魯。故五人因陽虎。陽虎欲去三桓,以季寤更季氏,以叔孫輒更叔孫氏,己更孟氏。冬十月,順祀先公而祈焉。辛卯,禘於僖公。壬辰,將享季氏於蒲圃而殺之,戒都車曰:“癸巳至。”成宰公斂處父告孟孫,曰:“季氏戒都車,何故?”孟孫曰:“吾弗聞。”處父曰:“然則亂也,必及於子,先備諸?”與孟孫以壬辰為期。

季寤・公鉏極・公山不狃が皆季氏の所で志を得る能わず、叔孫輒は叔孫氏の所で寵なく、叔仲志は魯で志を得る能わず。ゆえに五人が陽虎に依附した。陽虎が三桓を除掉せんと欲し、季寤を以て季氏を替換し、叔孫輒を以て叔孫氏を替換し、自ら孟氏を替換せんとした。冬十月、位次に按りて先公を祭祀し彼らに祈禱した。辛卯、僖公廟で禘祭を行った。壬辰、將に蒲圃で季氏を宴享して彼を殺さんとし、都邑の戰車に告誡して曰わく、「癸巳に到達せよ」。成の宰公斂處父が孟孫に告げて曰わく、「季氏が都邑の戰車に告誡す。何の故ぞ」。孟孫が曰わく、「我は聞かず」。處父が曰わく、「然らば是れ亂を作すなり。必ずあなたに延及せん。先に防備せよか」。孟孫と壬辰を期とするを約定した。

陽虎前驅,林楚御桓子,虞人以鈹盾夾之,陽越殿,將如蒲圃。桓子咋謂林楚曰:“而先皆季氏之良也,爾以是繼之。”對曰:“臣聞命後。陽虎為政,魯國服焉。違之,徵死。死無益於主。”桓子曰:“何後之有?而能以我適孟氏乎?”對曰:“不敢愛死,懼不免主。”桓子曰:“往也。”孟氏選圉人之壯者三百人,以為公期築室於門外。林楚怒馬及衢而騁,陽越射之,不中,築者闔門。有自門間射陽越,殺之。陽虎劫公與武叔,以伐孟氏。公斂處父帥成人,自上東門入,與陽氏戰於南門之內,弗勝。又戰於棘下,陽氏敗。陽虎說甲如公宮,取寶玉、大弓以出,舍於五父之衢,寢而為食。其徒曰:“追其將至。”虎曰:“魯人聞餘出,喜於徵死,何暇追餘?”從者曰:“嘻!速駕!公斂陽在。”公斂陽請追之,孟孫弗許。陽欲殺桓子,孟孫懼而歸之。子言辨舍爵於季氏之廟而出。陽虎入於讙、陽關以叛。

陽虎が前面に路を開き、林楚が桓子のため駕車し、虞人が鈹盾を以て夾護し、陽越が殿後し、將に蒲圃に至らんとした。桓子が突然林楚に對して曰わく、「あなたの先人は皆季氏の賢良なり。あなたはこれを以て繼承せよ」。對えて曰わく、「臣は命令を聞くこと已に晚し。陽虎が執政し、魯國が服從す。彼に違背するは死を找うなり。死しても主上に益處なし」。桓子が曰わく、「何の晚かあらん。あなたは能く我を孟氏の所に帶するか」。對えて曰わく、「敢えて死を愛惜せず。能く主上を保全せざるを怕れるのみ」。桓子が曰わく、「去れ」。孟氏が養馬人中の强壯三百人を挑選し、公期のため門外に室を築くを偽った。林楚が馬を鞭して大路に至れば即ち奔馳し、陽越が彼を射たが中らず、室を築く人が門を關上した。或る人が門縫より陽越を射て彼を殺した。陽虎が公と武叔を劫持し、來りて孟氏を攻打した。公斂處父が成人を率い、上東門より入り、陽氏と南門之內で作戰し、勝たず。又棘下で作戰し、陽氏が戰敗した。陽虎が甲を脫ぎて公宮に至り、寶玉・大弓を取出して出で、五父之衢に住み、躺下して飯を做った。その徒衆が曰わく、「追兵はおそらく將に至らん」。虎が曰わく、「魯人は我が出ずるを聞き、死を免るるが如く喜ぶ。どこに閑暇ありて我を追わん」。隨從が曰わく、「嘿!速く車を駕せよ!公斂陽がそこに在り」。公斂陽が追趕を請うたが、孟孫が許さず。陽が桓子を殺さんと欲するも、孟孫が害怕して彼を送り歸らせた。子言が季氏の廟で一一に酒を斟り祭告して然る後に出た。陽虎が讙・陽關に入りて叛變した。

鄭駟歂嗣子大叔為政。

鄭駟歂が子大叔を接替して執政した。

◇定公九年

◇定公九年

【經】九年春王正月。夏四月戊申,鄭伯蠆卒。得寶玉、大弓。六月,葬鄭獻公。秋,齊侯、衛侯次於五氏。秦伯卒。冬,葬秦哀公。

【経】九年春、周天子の暦の正月。夏四月戊申、鄭伯蠆が卒した。寶玉・大弓を得た。六月、鄭献公を葬った。秋、齊侯・衛侯が五氏に駐した。秦伯が卒した。冬、秦哀公を葬った。

【傳】九年春,宋公使樂大心盟於晉,且逆樂祁之屍。辭,偽有疾。乃使向巢如晉盟,且逆子梁之屍。子明謂桐門右師出,曰:“吾猶衰絰,而子擊鐘,何也?”右師曰:“喪不在此故也。”既而告人曰:“己衰絰而生子,餘何故舍鍾?”子明聞之,怒,言於公曰:“右師將不利戴氏,不肯適晉,將作亂也。不然無疾。”

【伝】九年春、宋公が樂大心を遣わして晋に至り結盟し、かつ樂祁の尸を迎接せしめた。推辭し、病あるを偽った。ここに向巢を遣わして晋に至り結盟し、かつ子梁の尸を迎接せしめた。子明が桐門右師に對して該國出ずるを説き、曰わく、「我はなお衰絰を著るに、あなたは卻って鐘を撃つ。何ぞ」。右師が曰わく、「喪がここに在らざる故なり」。隨後に他人に告げて曰わく、「自ら衰絰を著て卻って子を生む。我は何で鐘を放下せん」。子明が聞き、發怒し、公に對して曰わく、「右師は將に戴氏に不利せん。肯んじて晋に至らず、將に亂を作さん。然らざれば病なきことならじ」。

乃逐桐門右師。

ここに桐門右師を趕走した。

鄭駟歂殺鄧析,而用其《竹刑》。君子謂子然:“於是不忠。苟有可以加於國家者,棄其邪可也。《靜女》之三章,取彤管焉。《竿旄》‘何以告之’,取其忠也。故用其道,不棄其人。《詩》云:‘蔽芾甘棠,勿翦勿伐、召伯所茇。’思其人猶愛其樹,況用其道而不恤其人乎?子然無以勸能矣。”

鄭駟歂が鄧析を殺掉するも、卻ってその《竹刑》を用いた。君子が子然を評論す、「この事上に忠ならず。假如に國家に加益す可きあらば、その邪惡を拋棄すれば即ち可なり。《靜女》の三章は彤管を取るなり。《竿旄》の『何を以て彼に告げん』は忠を取るなり。ゆえにその道を用いてその人を拋棄せず。《詩經》に曰く、『茂盛の甘棠、剪る勿れ伐つ勿れ、是れ召伯の歇息せし所』。その人を思念してなおその樹を愛す。況んやその道を用いて卻ってその人を体恤せざるをや。子然は以て有才能の人を勸勉する無し」。

夏,陽虎歸寶玉、大弓。書曰“得”,器用也。凡獲器用曰得,得用焉曰獲。

夏、陽虎が寶玉・大弓を歸還した。記載して「得」と曰うは器用なればなり。凡そ器用を獲得するを得と曰い、生物を獲得するを獲と曰う。

六月,伐陽關。陽虎使焚萊門。師驚,犯之而出,奔齊,請師以伐魯,曰:“三加必取之。”齊侯將許之。鮑文子諫曰:“臣嘗為隸於施氏矣,魯未可取也。

六月、陽關を攻打した。陽虎が人を遣わして萊門を焚燒せしめた。軍隊が驚亂し、彼が衝出し、齊に逃奔し、師を出して魯を伐つを請い、曰わく、「三次兵を加えれば必ず取得せん」。齊侯が將に許可せんとした。鮑文子が進諫して曰わく、「臣はかつて施氏の所で隸役を為せり。魯はなお奪取すべからず。

上下猶和,眾庶猶睦,能事大國,而無天災,若之何取之?陽虎欲勤齊師也,齊師罷,大臣必多死亡,己於是乎奮其詐謀。夫陽虎有寵於季氏,而將殺季孫,以不利魯國,而求容焉。親富不親仁,君焉用之?君富於季氏,而大於魯國,茲陽虎所欲傾覆也。魯免其疾,而君又收之,無乃害乎!”齊侯執陽虎,將東之。陽虎願東,乃囚諸西鄙。盡借邑人之車,鍥其軸,麻約而歸之。載蔥靈,寢於其中而逃。追而得之,囚於齊。又以蔥靈逃,奔晉,適趙氏。仲尼曰:“趙氏其世有亂乎!”秋,齊侯伐晉夷儀。敝無存之父將室之,辭,以與其弟,曰:“此役也不死,反,必娶於高、國。”先登,求自門出,死於溜下。東郭書讓登,犁彌從之,曰:“子讓而左,我讓而右,使登者絕而後下。”書左,彌先下。書與王猛息。猛曰:“我先登。”書斂甲,曰:“曩者之難,今又難焉!”猛笑曰:“吾從子如驂之靳。”

上下がなお和し、衆庶がなお睦み、能く大國に事奉し、又天災なく、どうしてそれを奪取せん。陽虎は齊師を勤勞せしめんと欲するなり。齊師が疲困すれば、大臣は必ず多く死亡し、彼は自らこの時に詐謀を施展せん。陽虎は季氏の所で寵ありしに、卻って將に季孫を殺して以て魯國に不利せんとし、卻って來りて容納を求む。富に親近して仁に親近せず。君はどこに彼を用いん。君は季氏より富み、魯國より大なり。これは正に陽虎の傾覆せんと想う所なり。魯がその病害を免除したに、君が又彼を收容するは、ただ怕れて害あらんか!」。齊侯が陽虎を捉え、將に彼を東邊に安置せんとした。陽虎が東邊に往くを願うを表示し、ここに西部邊境に囚禁した。邑人の車を皆借り來り、車軸を刻傷し、麻を以て纏い還し歸還した。蔥靈車に裝し、その中で睡りて逃走した。追い捉えて齊に囚禁した。又蔥靈車を以て逃走し、晋に逃奔し、趙氏に投靠した。仲尼が曰わく、「趙氏はおそらく世世代代亂あらんか!」。秋、齊侯が晋の夷儀を伐った。敝無存の父が將に彼に妻を娶らんとし、彼が推辭し、弟に讓りて曰わく、「この一戰にもし死せざれば、歸りて、必ず高氏・國氏の女兒を娶らん」。率先して城に登り、又城門より出でんを求め、檐溜の下で死んだ。東郭書が謙讓して城に登り、犁彌が跟著して曰わく、「あなたは左に讓れ、我は右に讓れ。城に登る人が完して然る後に下去せん」。書が左に在り、彌が先に下去した。書が王猛と休息した。猛が曰わく、「我が先に城に登れり」。書が甲を收拾して曰わく、「さきほど難し、今また難し!」。猛が笑いて曰わく、「我があなたに從うは驂馬が當胸の皮帶に跟著するが如し」。

晉車千乘在中牟。衛侯將如五氏,卜過之,龜焦。衛侯曰:“可也。衛車當其半,寡人當其半,敵矣。”乃過中牟。中牟人慾伐之,衛褚師圃亡在中牟,曰:“衛雖小,其君在焉,未可勝也。齊師克城而驕,其帥又賤,遇,必敗之。不如從齊。”乃伐齊師,敗之。齊侯致禚、媚、杏於衛。齊侯賞犁彌,犁彌辭,曰:“有先登者,臣從之,皙幘而衣狸制。”公使視東郭書,曰:“乃夫子也,吾貺子。”公賞東郭書,辭,曰:“彼,賓旅也。”乃賞犁彌。

晋車一千乘が中牟に在り。衛侯が將に五氏に至らんとし、そこを經過するを占卜したが龜甲が焦燒した。衛侯が曰わく、「可なり。衛の車が彼の半に抵し、寡人が彼の半に抵すれば即ち對等なり」。ここに中牟を經過した。中牟人が彼を攻打せんと欲し、衛褚師圃が中牟に逃亡して曰わく、「衛は小なる雖も、その君がそこに在り。なお勝つ可からず。齊師が城邑を攻克して驕傲し、その帥は又低賤なり。遇えば、必ず彼らを打敗せん。齊に從うに如かず」。ここに齊師を攻打し、彼らを敗った。齊侯が禚・媚・杏を衛に送った。齊侯が犁彌を賞するに、犁彌が推辭して曰わく、「先に城に登る人ありて、臣は彼に跟著せり。白色頭巾・狸皮製の衣服を著けり」。公が人を遣わして東郭書を看せしめ、曰わく、「即ちあの夫子なり。我はあなたを賞せん」。公が東郭書を賞するに、推辭して曰わく、「彼は賓旅なり」。ここに犁彌を賞した。

齊師之在夷儀也,齊侯謂夷儀人曰:“得敝無存者,以五家免。”乃得其屍。

齊師が夷儀に在る時、齊侯が夷儀人に對して曰わく、「敝無存を得る者には五家に賦役を免除せん」。ここにその尸を得た。

公三襚之。與之犀軒與直蓋,而先歸之。坐引者,以師哭之,親推之三。

公が三次彼に衣を穿せ、彼に犀軒と直蓋を與え、先に送り歸らせた。車を拉く人をして跪かせ、軍隊を帶びて彼を哭し、自ら車を推して三次した。

◇定公十年

◇定公十年

【經】十年春王三月,乃齊平。夏,公會齊侯於夾谷。公至自夾谷。晉趙鞅帥師圍衛。齊人來歸鄆、讙、龜陰田。叔孫州仇、仲孫何忌帥師圍郈。秋,叔孫州仇、仲孫何忌帥師圍郈。宋樂大心出奔曹。宋公子地出奔陳。冬,齊侯、衛侯、鄭遊速會於安甫。叔孫州仇如齊。宋公之弟辰暨仲佗、石彄出奔陳。

【経】十年春、周天子の暦の三月、齊と講和した。夏、公が夾谷で齊侯と會見した。公が夾谷より歸った。晋趙鞅が師を率いて衛を包圍した。齊人が來りて鄆・讙・龜陰の田を歸還した。叔孫州仇・仲孫何忌が師を率いて郈を包圍した。秋、叔孫州仇・仲孫何忌が師を率いて郈を包圍した。宋樂大心が曹に出奔した。宋公子地が陳に出奔した。冬、齊侯・衛侯・鄭游速が安甫で會見した。叔孫州仇が齊に至った。宋公の弟辰と仲佗・石彄が陳に出奔した。

【傳】十年春,及齊平。

【伝】十年春、齊と講和した。

夏,公會齊侯於祝其,實夾谷。孔丘相。犁彌言於齊侯曰:“孔丘知禮而無勇,若使萊人以兵劫魯侯,必得志焉。”齊侯從之。孔丘以公退,曰:“士,兵之!兩君合好,而裔夷之俘以兵亂之,非齊君所以命諸侯也。裔不謀夏,夷不亂華,俘不幹盟,兵不逼好。於神為不祥,於德為愆義,於人為失禮,君必不然。”

夏、公が祝其で齊侯と會見したは實に即ち夾谷なり。孔丘が相禮を任じた。犁彌が齊侯に對して曰わく、「孔丘は禮を知れども勇なし。もし萊人を遣わして兵器を以て魯侯を劫持せば、必ず志を得ん」。齊侯が聽き從った。孔丘が公を帶びて後退して曰わく、「士、兵器を挙げよ!兩國の君が合好するに、裔夷の俘虜が兵器を以て擾亂するは齊君の諸侯に命令する做法にあらず。裔は夏を圖謀せず、夷は華を擾亂せず、俘虜は盟を冒犯せず、兵器は和好を逼迫せず。神に對しては不祥、德に對しては義に違背、人に對しては禮を失す。君は必ずこの如くあらじ」。

齊侯聞之,遽闢之。

齊侯が聞き、立刻に彼らを避けさせた。

將盟,齊人加於載書曰:“齊師出竟,而不以甲車三百乘從我者,有如此盟。”

將に結盟せんとし、齊人が載書に加寫して曰わく、「齊師が境を出でるに、卻って甲車三百乘を以て我に從わざれば、この盟の如くあらん」。

孔丘使茲無還揖對曰:“而不反我汶陽之田,吾以共命者,亦如之。”齊侯將享公,孔丘謂梁丘據曰:“齊、魯之故,吾子何不聞焉?事既成矣,而又享之,是勤執事也。且犠象不出門,嘉樂不野合。饗而既具,是棄禮也。若其不具,用秕稗也。用秕稗,君辱,棄禮,名惡,子盍圖之?夫享,所以昭德也。不昭,不如其已也。”乃不果享。

孔丘が兹無還をして揖して對えて曰わく、「卻って我らの汶汶陽の田を歸還せざれば、我らの以て命令に供給するも、またこの如し」。齊侯が將に公を宴享せんとし、孔丘が梁丘據に對して曰わく、「齊・魯の舊例は、吾子は何で聞かざるか。事は已に完成し、又宴享するは執事を勤勞せしむるなり。況んや犧象は門を出でず、嘉樂は野地で合奏せず。饗禮して器物が已に齊備せば、是れ禮を拋棄す。もし齊備せざれば、是れ秕稗を用うるなり。秕稗を用いれば君は辱を受け、禮を拋棄すれば名聲は惡し。あなたは何で考慮せざるか。宴享は以て德を昭明するなり。昭明する能わざれば、停止するに如かず」。ここに終に宴享せず。

齊人來歸鄆、歡、龜陰之田。

齊人が來りて鄆・歡・龜陰の田を歸還した。

晉趙鞅圍衛,報夷儀也。

晋趙鞅が衛を包圍したは夷儀を報復するなり。

初,衛侯伐邯鄲午於寒氏,城其西北而守之,宵熸。及晉圍衛,午以徒七十人門於衛西門,殺人於門中,曰:“請報寒氏之役。”涉佗曰:“夫子則勇矣,然我往,必不敢啟門。”亦以徒七十人,旦門焉,步左右,皆至而立,如植。日中不啟門,乃退。反役,晉人討衛之叛故,曰:“由涉佗、成何。”於是執涉佗以求成於衛。衛人不許,晉人遂殺涉佗。成何奔燕。君子曰:“此之謂棄禮,必不鈞。《詩》曰:‘人而無禮,胡不遄死。’涉佗亦遄矣哉!”初,叔孫成子欲立武叔,公若藐固諫曰:“不可。”成子立之而卒。公南使賊射之,不能殺。公南為馬正,使公若為郈宰。武叔既定,使郈馬正侯犯殺公若,不能。其圉人曰:“吾以劍過朝,公若必曰:‘誰也劍也?’吾稱子以告,必觀之。吾偽固,而授之末,則可殺也。”使如之,公若曰:“爾欲吳王我乎?”遂殺公若。侯犯以郈叛,武叔懿子圍郈,弗克。

当初、衛侯が寒氏で邯鄲午を攻打し、彼の西北の城を築きて以て防守するに、夜に即ち潰散した。晋が衛を包圍するに及び、午が徒衆七十人を率いて衛の西門を攻打し、門中で人を殺して曰わく、「寒氏のあの一戰を報復せんを請う」。涉佗が曰わく、「あの夫子は勇敢と算す可し。しかし我が往けば、彼らは必ず敢えて門を開けざらん」。も徒衆七十人を率い、朝に門を攻め、左右兩邊に走り至り、皆到達して立ち、栽種の樹木の如し。中午に至るも門を開けず、ここに退回した。役より歸り、晋人が衛の背叛する故を追究して曰わく、「涉佗・成何により」。ここに涉佗を捉えて衛に和を求めた。衛人が許さず、晋人が即ち涉佗を殺した。成何が燕に逃奔した。君子が曰わく、「これを禮を拋棄すと曰う。必ず能く均等ならじ。《詩經》に曰く、『人を為して禮なくば、何で速く死せざらん』。涉佗もまた快きかな!」。当初、叔孫成子が武叔を立てんと欲し、公若藐が堅決に進諫して曰わく、「不可なり」。成子が彼を立てて然る後に卒した。公南が賊を遣わして彼を射たが殺す能わず。公南が馬正を為し、公若を郈宰とせしめた。武叔が已に安定し、郈の馬正侯犯を遣わして公若を殺さんとするも能わず。その圉人が曰わく、「我が劍を帶びて朝廷を經過せば、公若は必ず曰わん、『誰の劍ぞ』。我があなたの名字を稱して彼に告げれば、彼は必ず觀看せん。我が笨拙を偽りて劍尖を彼に遞せば、即ち殺す可し」。彼にこの如く為させるに、公若が曰わく、「あなたは我を以て呉王と為さんと欲するか」。ここに公若を殺した。侯犯が郈を帶びて叛變し、武叔懿子が郈を包圍したが克たず。

秋,二子及齊師復圍郈,弗克。叔孫謂郈工師駟赤曰:“郈非唯叔孫氏之憂,社稷之患也。將若之何?”對曰:“臣之業,在《揚水》卒章之四言矣。”

秋、兩人が又齊師と再び郈を包圍したが克たず。叔孫が郈の工師駟赤に對して曰わく、「郈は叔孫氏の憂慮のみにあらず、社稷の禍患なり。將にどうせん」。對えて曰わく、「臣の職事は《揚水》末章の四個字の中に在り」。

叔孫稽首。駟赤謂侯犯曰:“居齊、魯之際,而無事,必不可矣。子盍求事於齊以臨民?不然,將叛。”侯犯從之。齊使至,駟赤與郈人為之宣言於郈中曰:“侯犯將以郈易於齊,齊人將遷郈民。”眾兇懼。駟赤謂侯犯曰:“眾言異矣。子不如易於齊,與其死也。猶是郈也,而得紓焉,何必此?齊人慾以此逼魯,必倍與子地。且盍多舍甲於子之門,以備不虞?”侯犯曰:“諾。”乃多舍甲焉。侯犯請易於齊,齊有司觀郈,將至。駟赤使周走呼曰:“齊師至矣!”郈人大駭,介侯犯之門甲,以圍侯犯。駟赤將射之。侯犯止之,曰:“謀免我。”

叔孫が叩頭した。駟赤が侯犯に對して曰わく、「齊・魯の間に處るに、卻って事奉なければ、必ず行けず。あなたは何で事奉齊を求めて以て民を臨治せざるか。然らざれば、將に叛變せん」。侯犯が聽き從った。齊の使者が到達し、駟赤と郈人が郈中で放話して曰わく、「侯犯は將に郈を以て齊と交換し、齊人は將に郈民を遷走せんとす」。衆人が喧鬧恐懼した。駟赤が侯犯に對して曰わく、「衆人の話は已に相同せず。あなたは齊と交換するに如かず。死に比べて强し。依然この塊の郷なるに、卻って能く紓緩せん。何で必ずしもここを守らん。齊人はこれを以て魯を逼せんと欲し、必ず加倍にあなたに土地を給せん。況んや何であなたの門裏に多くの甲を放さざらん。以て意外を防備せん」。侯犯が曰わく、「善し」。ここに多く甲を放った。侯犯が齊と交換するを請い、齊の有司が郈を看に來り、將に到達せんとす。駟赤が人をして到處に跑りて喊せしめて曰わく、「齊師到れり!」。郈人が大驚し、侯犯の門裏の甲を穿著し、來りて侯犯を包圍した。駟赤が將に彼らを射んとした。侯犯が彼を攔住して曰わく、「我を脫身せしむるを謀れ」。

侯犯請行,許之。駟赤先如宿,侯犯殿。每出一門,郈人閉之。及郭門,止之,曰:“子以叔孫氏之甲出,有司若誅之,群臣懼死。”駟赤曰:“叔孫氏之甲有物,吾未敢以出。”犯謂駟赤曰:“子止而與之數。”駟赤止,而納魯人。侯犯奔齊,齊人乃致郈。

侯犯が出走を請い、許した。駟赤が先に宿に至り、侯犯が殿後した。門を一出するごとに、郈人が關上した。郭門に至り、彼を攔住して曰わく、「あなたが叔孫氏の甲を帶びて出ずれば、有司がもし責問せば、群臣は死を怕れん」。駟赤が曰わく、「叔孫氏の甲には標識あり。我は敢えて帶出せず」。犯が駟赤に對して曰わく、「あなたは留下して彼らと點算せよ」。駟赤が留下し、魯人を放進した。侯犯が齊に逃奔し、齊人はここに郈を送還した。

宋公子地嬖蘧富獵,十一分其室,而以其五與之。公子地有白馬四。公嬖向魋,魋欲之,公取而朱其尾鬛以與之。地怒,使其徒抶魋而奪之。魋懼,將走。

宋公子地が蘧富獵を寵愛し、家産を十一份に分成し、五份を取りて彼に與えた。公子地に四匹の白馬あり。公が向魋を寵愛し、魋が欲し、公が取りて馬尾と馬鬣を紅に染めて彼に與えた。地が發怒し、徒衆を遣わして魋を鞭打して再び奪回した。魋が害怕し、將に逃走せんとした。

公閉門而泣之,目盡腫。母弟辰曰:“子分室以與獵也,而獨卑魋,亦有頗焉。

公が門を關上して彼のため哭泣し、眼睛が皆腫れた。同母弟辰が曰わく、「あなたは家産を獵に分給し、卻って單單に魋を看不起するは、亦偏頗あり。

子為君禮,不過出竟,君必止子。”公子地奔陳,公弗止。辰為之請,弗聽。辰曰:“是我吾兄也。吾以國人出,君誰與處?”冬,母弟辰暨仲佗、石彄出奔陳。

あなたは君に禮を守るに、出境を過えず。君は必ずあなたを攔住せん」。公子地が陳に逃奔し、公が攔らず。辰が彼のため請うも、聽かず。辰が曰わく、「これは我が兄を害せり。我が國人を帶びて出ずれば、君は誰と相處せん」。冬、同母弟辰と仲佗・石彄が陳に出奔した。

武叔聘於齊,齊侯享之,曰:“子叔孫!若使郈在君之他竟,寡人何知焉?屬與敝邑際,故敢助君憂之。”對曰:“非寡君之望也。所以事君,封疆社稷是以。敢以家隸勤君之執事?夫不令之臣,天下之所惡也。君豈以為寡君賜?”

武叔が齊に聘問し、齊侯が彼を宴享して曰わく、「子叔孫!假如に郈をして君のもう一一處の邊境に在らしめば、寡人はどこに知らん。ただ敝邑と交界するを因りて、ゆえに敢えて君の分憂を幫助せり」。對えて曰わく、「これは寡君の希望する所にあらず。君に事奉する所以は封疆社稷のためなり。敢えて家臣を以て君の執事を勤勞せしめんや。不好の臣は天下の惡む所なり。君はどこにそれを以て寡君への恩賜と為せん」。

◇定公十一年

◇定公十一年

【經】十有一年春,宋公之弟辰及仲佗、石彄、公子地自陳入於蕭以叛。

【経】十一年春、宋公の弟辰と仲佗・石彄・公子地が陳より蕭に入りて叛變した。

夏四月。秋,宋樂大心自曹入於蕭。冬,及鄭平。叔還如鄭蒞盟。

夏四月。秋、宋樂大心が曹より蕭に入った。冬、鄭と講和した。叔還が鄭に至り結盟に參加した。

【傳】十一年春,宋公母弟辰暨仲佗、石彄、公子地入於蕭以叛。秋,樂大心從之,大為宋患,寵向魋故也。

【伝】十一年春、宋公の同母弟辰と仲佗・石彄・公子地が蕭に入りて叛變した。秋、樂大心が彼らに跟從し、大いに宋の禍患と為ったは向魋を寵愛する故なり。

冬,及鄭平,始叛晉也。

冬、鄭と講和し、始めて晋を背叛した。

◇定公十二年

◇定公十二年

【經】十有二年春,薛伯定卒。夏,葬薛襄公。叔孫州仇帥師墮郈。衛公孟彄帥師伐曹。季孫斯、仲孫何忌帥師墮費。秋,大雩。冬十月癸亥,公會齊侯盟於黃。十有一月丙寅朔,日有食之。公至自黃。十有二月,公圍成。公至自圍成。

【経】十二年春、薛伯定が卒した。夏、薛襄公を葬った。叔孫州仇が師を率いて郈を拆毀した。衛公孟彄が師を率いて曹を伐った。季孫斯・仲孫何忌が師を率いて費を拆毀した。秋、大雩を行った。冬十月癸亥、公が黃で齊侯と會見し結盟した。十一月丙寅朔、日食發生す。公が黃より歸った。十二月、公が成を包圍した。公が成を包圍してより歸った。

【傳】十二年夏,衛公孟彄伐曹,克郊。還,滑羅殿。未出,不退於列。

【伝】十二年夏、衛公孟彄が曹を伐ち、郊を攻克した。歸り、滑羅が殿後した。まだ國境を出でず、行列の中より後に退かず。

其御曰:“殿而在列,其為無勇乎?”羅曰:“與其素厲,寧為無勇。”

その御者が曰わく、「殿後するに卻って行列の中に在るは、おそらく勇なきか」。羅が曰わく、「空しく猛厲あるよりは、寧ろ勇なしと看成されん」。

仲由為季氏宰,將墮三都,於是叔孫氏墮郈。季氏將墮費,公山不狃、叔孫輒帥費人以襲魯。公與三子入於季氏之宮,登武子之臺。費人攻之,弗克。入及公側。仲尼命申句須、樂頎下,伐之,費人北。國人追之,敗諸姑蔑。二子奔齊,遂墮費。將墮成,公斂處父謂孟孫:“墮成,齊人必至於北門。且成,孟氏之保障也,無成,是無孟氏也。子偽不知,我將不墮。”

仲由が季氏の宰を為し、將に三都を拆毀せんとし、ここに叔孫氏が郈を拆毀した。季氏が將に費を拆毀せんとし、公山不狃・叔孫輒が費人を率いて魯を襲撃した。公と三子が季氏の宮に入り、武子の臺に登った。費人が攻打するも克たず。公の身邊に進入した。仲尼が申句須・樂頎に下りて彼らを攻打するを命令し、費人が敗逃した。國人が追趕し、姑蔑で彼らを敗った。兩人が齊に逃奔し、ここに費を拆毀した。將に成を拆毀せんとし、公斂處父が孟孫に對して曰わく、「成を拆毀せば、齊人は必ず北門に至らん。況んや成は孟氏の保障なり。成なくば、即ち孟氏なし。あなたは知らざるを偽れ。我は將に拆毀せじ」。

冬十二月,公圍成,弗克。

冬十二月、公が成を包圍したが克たず。

◇定公十三年

◇定公十三年

【經】十有三年春,齊侯、衛侯次於垂葭。夏,築蛇淵囿。大蒐於比蒲。衛公孟彄帥師伐曹。晉趙鞅入於晉陽以叛。冬,晉荀寅、士吉射入於朝歌以叛。

【経】十三年春、齊侯・衛侯が垂葭に駐した。夏、蛇淵囿を修築した。比蒲で大搜を行った。衛公孟彄が師を率いて曹を伐った。晋趙鞅が晋陽に入りて叛變した。冬、晋荀寅・士吉射が朝歌に入りて叛變した。

晉趙鞅歸於晉。薛弒其君比。

晋趙鞅が晋に歸った。薛がその君比を弑した。

【傳】十三年春,齊侯、衛侯次於垂葭,實郹氏。使師伐晉,將濟河。諸大夫皆曰:“不可。”邴意茲曰:“可。銳師伐河內,傳必數日而後及絳。絳不三月,不能出河,則我既濟水矣。”乃伐河內。齊侯皆斂諸大夫之軒,唯邴意茲乘軒。齊侯欲與衛侯乘,與之宴,而駕乘廣,載甲焉。使告曰:“晉師至矣!”齊侯曰:“比君之駕也,寡人請攝。”乃介而與之乘,驅之。或告曰:“無晉師。”

【伝】十三年春、齊侯・衛侯が垂葭に駐したは實は郹氏なり。軍隊を遣わして晋を伐ち、將に河を渡らんとした。諸大夫が皆曰わく、「不可なり」。邴意兹が曰わく、「可なり。精銳を以て河內を伐てば、傳車は必ず數日して乃ち絳に至らん。絳は三個月なくして河を出でず。その時我らは已に水を渡れり」。ここに河內を伐った。齊侯が諸大夫の軒車を皆收起し、ただ邴意兹のみが軒車に乘坐した。齊侯が衛侯と同乘せんと欲し、彼と宴飲し、卻って乘廣を駕し、甲を裝上した。人を遣わして報告して曰わく、「晋師到れり!」。齊侯が曰わく、「君の車を駕するに及び、寡人をして代りて辔を執らしむるを請う」。ここに甲を披いて彼と同乘し、驅馳した。或る人が報告して曰わく、「晋師なし」。

乃止。

ここに停止した。

晉趙鞅謂邯鄲午曰:“歸我衛貢五百家,吾舍諸晉陽。”午許諾。歸,告其父兄,父兄皆曰:“不可。衛是以為邯鄲,而置諸晉陽,絕衛之道也。不如侵齊而謀之。”乃如之,而歸之於晉陽。趙孟怒,召午,而囚諸晉陽。使其從者說劍而入,涉賓不可。乃使告邯鄲人曰:“吾私有討於午也,二三子唯所欲立。”遂殺午。趙稷、涉賓以邯鄲叛。夏六月,上軍司馬籍秦圍邯鄲。邯鄲午,荀寅之甥也;荀寅,範吉射之姻也,而相與睦。故不與圍邯鄲,將作亂。董安於聞之,告趙孟,曰:“先備諸?”趙孟曰:“晉國有命,始禍者死,為後可也。”安於曰:“與其害於民,寧我獨死,請以我說。”趙孟不可。秋七月,范氏、中行氏伐趙氏之宮,趙鞅奔晉陽。晉人圍之。範皋夷無寵於範吉射,而欲為亂於范氏。梁嬰父嬖於知文子,文子欲以為卿。韓簡子與中行文子相惡,魏襄子亦與範昭子相惡。

晋趙鞅が邯鄲午に對して曰わく、「衛の進貢の五百家を我に還せ。我は晋陽に安置せん」。午が答應した。歸りて父兄に告ぐるに、父兄が皆曰わく、「不可なり。衛はこれにより邯鄲を看重するに、卻って晋陽に安置するは衛の路を斷絕するなり。齊を侵襲して再び謀劃するに如かず」。ここに照做して人を晋陽に送った。趙孟が發怒し、午を召して晋陽に囚禁した。その隨從に劍を脫ぎて入れよとするに、涉賓が答應せず。ここに人を遣わして邯鄲人に告げて曰わく、「我が私に午を討伐す。あなたら几位はただ自ら想う立つ所に按って立てよ」。ここに午を殺した。趙稷・涉賓が邯鄲を帶びて叛變した。夏六月、上軍司馬籍秦が邯鄲を包圍した。邯鄲午は荀寅の外甥、荀寅は范吉射の姻親にして互相親睦す。ゆえに邯鄲包圍に參加せず、將に亂を作さんとした。董安于が聞き、趙孟に告げて曰わく、「先に防備せよか」。趙孟が曰わく、「晋國に命令ありて、先に禍亂を發動するは處死せよ。後發を為れば即ち可」。安于が曰わく、「民を害するよりは、寧ろ我が獨自に死せん。我を以て解釋せしむるを請います」。趙孟が答應せず。秋七月、范氏・中行氏が趙氏の宮を攻打し、趙鞅が晋陽に逃奔した。晋人が彼を包圍した。范皋夷が范吉射の所で寵なく、范氏で亂を作さんと欲した。梁嬰父が知文子に寵愛され、文子が彼を卿と為さんと欲した。韓簡子と中行文子が互相憎惡し、魏襄子もまた范昭子と互相憎惡した。

故五子謀,將逐荀寅而以梁嬰父代之,逐範吉射而以範皋夷代之。荀躒言於晉侯曰:“君命大臣,始禍者死,載書在河。今三臣始禍,而獨逐鞅,刑已不鈞矣。

ゆえに五人が謀劃し、將に荀寅を趕走して梁嬰父を以て代替し、范吉射を趕走して范皋夷を以て代替せんとした。荀躒が晋侯に對して曰わく、「君が大臣に命令して、先に禍亂を發動するは處死せよと、載書を河に沈めたり。今三個の臣が先に禍亂を發動するに、卻ってただ鞅を趕走するは刑罰已に均等ならず。

請皆逐之。”

皆彼らを趕走するを請います」。

冬十一月,荀躒、韓不信、魏曼多奉公以伐范氏、中行氏,弗克。二子將伐公,齊高強曰:“三折肱知為良醫。唯伐君為不可,民弗與也。我以伐君在此矣。

冬十一月、荀躒・韓不信・魏曼多が公に事奉して往きて范氏・中行氏を攻打したが克たず。兩人が將に公を攻打せんとし、齊高强が曰わく、「三たび胳膊を折斷して乃ち誰が良醫かを知る。ただ君を伐つのみは不可なり。民は親附せず。我らは君を伐てばこそここに在るなり。

三家未睦,可盡克也。克之,君將誰與?若先伐君,是使睦也。”弗聽,遂伐公。

三家はまだ親睦せず。全部戰勝す可し。戰勝せば、君は將に誰に親附せん。もし先に君を伐てば、是れ彼らを親睦せしむるなり」。聽かず、ここに公を伐った。

國人助公,二子敗,從而伐之。丁未,荀寅、士吉射奔朝歌。

國人が公を幫助し、兩人が戰敗し、跟著して往きて彼らを攻打した。丁未、荀寅・士吉射が朝歌に逃奔した。

韓、魏以趙氏為請。十二月辛未,趙鞅入於絳,盟於公宮。

韓・魏が趙氏のため請い、十二月辛未、趙鞅が絳に入り、公宮で結盟した。

初,衛公叔文子朝而請享靈公。退,見史鰍而告之。史鰍曰:“子必禍矣。

当初、衛公叔文子が朝見し、かつ靈公に宴享を請うた。退き、史鰌に見えて彼に告げた。史鰌が曰わく、「あなたは必ず禍あらん。

子富而君貪,其及子乎!”文子曰:“然。吾不先告子,是吾罪也。君既許我矣,其若之何?”史鰍曰:“無害。子臣,可以免。富而能臣,必免於難,上下同之。

あなたは富みて君は貪なり。おそらくあなたに延及せんか!」。文子が曰わく、「是なり。我が先にあなたに告げざるは我が罪なり。君は已に我を許可せり。將にどうせん」。史鰌が曰わく、「妨害なし。あなたが臣道を守れば、免る可し。富みて能く臣道を守れば、必ず禍難を免れん。上下皆同じなり。

戌也驕,其亡乎。富而不驕者鮮,吾唯子之見。驕而不亡者,未之有也。戌必與焉。”及文子卒,衛侯始惡於公叔戌,以其富也。公叔戌又將去夫人之黨,夫人訴之曰:“戌將為亂。”

戌が驕傲す。おそらく逃亡せんか。富みて驕らざる人は少し。我はただあなたを見るのみ。驕りて逃亡せざるはかつてあらず。戌は必ず參與せん」。文子が卒するに及び、衛侯が始めて公叔戌を惡みたるは彼が富めるを以てなり。公叔戌がまた將に夫人の黨を除掉せんとし、夫人が訴說して曰わく、「戌は將に亂を作さん」。

◇定公十四年

◇定公十四年

【經】十有四年春,衛公叔戌來奔。衛趙陽出奔宋。二月辛巳,楚公子結、陳公孫佗人帥師滅頓,以頓子牂歸。夏,衛北宮結來奔。五月,于越敗吳於槜李。

【経】十四年春、衛公叔戌が來奔した。衛趙陽が宋に出奔した。二月辛巳、楚公子結・陳公孫佗人が師を率いて頓を滅ぼし、頓子牂を帶びて歸った。夏、衛北宮結が來奔した。五月、于越が槜李で呉を敗った。

吳子光卒。公會齊侯、衛侯於牽。公至自會。秋,齊侯、宋公會於洮。天王使石尚來歸脤。衛世子蒯聵出奔宋。衛公孟彄出奔鄭。宋公之弟辰自蕭來奔。大蒐於比蒲。邾子來會公。城莒父及霄。

呉子光が卒した。公が牽で齊侯・衛侯と會見した。公が會上より歸った。秋、齊侯・宋公が洮で會見した。天王が石尚を遣わして來りて祭肉を歸送せしめた。衛世子蒯聵が宋に出奔した。衛公孟彄が鄭に出奔した。宋公の弟辰が蕭より來奔した。比蒲で大搜を行った。邾子が來りて公と會見した。莒父と霄を修築した。

【傳】十四年春,衛侯逐公叔戌與其黨,故趙陽奔宋,戌來奔。

【伝】十四年春、衛侯が公叔戌とその黨を趕走した。ゆえに趙陽が宋に逃奔し、戌が來奔した。

梁嬰父惡董安於,謂知文子曰:“不殺安於,使終為政於趙氏,趙氏必得晉國。盍以其先發難也,討於趙氏?”文子使告於趙孟曰:“範、中行氏雖信為亂,安於則發之,是安於與謀亂也。晉國有命,始禍者死。二子既伏其罪矣,敢以告。”

梁嬰父が董安于を惡み、知文子に對して曰わく、「安于を殺さずして、彼をして始終趙氏で執政せしめば、趙氏は必ず晋國を得ん。何で彼の先に難を發するを因りて、趙氏に向かい討伐せざるか」。文子が人を遣わして趙孟に告げて曰わく、「范氏・中行氏は雖も確かに亂を作せども、安于が卻って先に發動せり。これは安于が亂を謀るに參與せしなり。晋國に命令ありて、先に禍亂を發動するは處死せよ。兩人は已に罪を伏せり。敢えて以て告知す」。

趙孟患之。安於曰:“我死而晉國寧,趙氏定,將焉用生?人誰不死,吾死莫矣。”

趙孟がこれがため憂慮した。安于が曰わく、「我が死して晋國が安寧し、趙氏が安定すれば、なおどこに活くるを用いん。人は誰が死せざらん。我が死は晚きを算す」。

乃縊而死。趙孟屍諸市,而告於知氏曰:“主命戮罪人,安於既伏其罪矣,敢以告。”知伯從趙孟盟,而後趙氏定,祀安於於廟。

ここに上吊して死んだ。趙孟がその尸を市上に放き、知氏に告げて曰わく、「主上が罪人を殺戮するを命令せり。安于は已に罪を伏せり。敢えて以て告知す」。知伯が趙孟と結盟し、然る後に趙氏が安定し、廟で安于を祭祀した。

頓子牂欲事晉,背楚而絕陳好。二月,楚滅頓。

頓子牂が晋に事奉せんと欲し、楚を背叛して陳との友好を斷絕した。二月、楚が頓を滅ぼした。

夏,衛北宮結來奔,公叔戌之故也。

夏、衛北宮結が來奔したは公叔戌の故なり。

吳伐越。越子句踐御之,陳於槜李。句踐患吳之整也,使死士再禽焉,不動。

呉が越を伐った。越子句踐が抵御し、槜李で列陣した。句踐が呉の整齊を擔心し、死士を遣わして兩次擒捉挑戰するも、呉軍が動かず。

使罪人三行,屬劍於頸,而辭曰:“二君有治,臣奸旗鼓,不敏於君之行前,不敢逃刑,敢歸死。”遂自剄也。師屬之目,越子因而伐之,大敗之。靈姑浮以戈擊闔廬,闔廬傷將指,取其一屨。還,卒於陘,去槜李七里。夫差使人立於庭,苟出入,必謂己曰:“夫差!而忘越王之殺而父乎?”則對曰:“唯,不敢忘!”三年,乃報越。

罪人を遣わして三行に排せしめ、劍を頸上に放き、辭を致して曰わく、「兩國の君に戰事あり。臣が旗鼓を冒犯し、君の行陣前に不敏にして、敢えて刑罰を逃避せず。敢えて來りて死に歸せん」。ここに自殺した。呉師の目が皆彼らを看るに、越子が機に趁りて攻打し、大いに呉師を敗った。靈姑浮が戈を以て闔廬を撃ち、闔廬が大脚指を傷し、靈姑浮が彼の一隻の鞋を取去した。歸り、陘で死んだ。槜李を離るること七里なり。夫差が人を遣わして庭裏に立たせ、進出するごとに必ず自らに對して曰わしめ、「夫差!あなたは越王があなたの父を殺したを忘れたか」。即ち回答して曰わく、「是、敢えて忘れず!」。三年、乃ち越を報復した。

晉人圍朝歌,公會齊侯、衛侯於脾、上梁之間,謀救範、中行氏。析成鮒、小王桃甲率狄師以襲晉,戰於絳中,不克而還。士鮒奔周,小王桃甲入於朝歌。

晋人が朝歌を包圍し、公が脾・上梁の間で齊侯・衛侯と會見し、范氏・中行氏を救援するを謀った。析成鮒・小王桃甲が狄師を率いて晋を襲撃し、絳中で作戰し、勝たずして歸った。士鮒が周に逃奔し、小王桃甲が朝歌に入った。

秋,齊侯、宋公會於洮,范氏故也。

秋、齊侯・宋公が洮で會見したは范氏の故を以てなり。

衛侯為夫人南子召宋朝,會於洮。大子蒯聵獻盂於齊,過宋野。野人歌之曰:“既定爾婁豬,盍歸吾艾豭。”大子羞之,謂戲陽速曰:“從我而朝少君,少君見我,我顧,乃殺之。”速曰:“諾。”乃朝夫人。夫人見大子,大子三顧,速不進。夫人見其色,啼而走,曰:“蒯聵將殺餘。”公執其手以登臺。大子奔宋,盡逐其黨。故公孟彄出奔鄭,自鄭奔齊。

衛侯が夫人南子のため宋朝を召來し、洮で會見した。太子蒯聵が盂を齊に献じ、宋の郊野を經過した。野人が歌を唱して曰わく、「已にあなたの子を求める母豬を安定せり。何で我らの公豬を歸還せざるか」。太子が羞恥を感じ、戲陽速に對して曰わく、「我に跟著して少君を朝見せよ。少君が我を見れば、我が頭を回顧し、あなたは即ち彼女を殺せ」。速が曰わく、「好し」。ここに夫人を朝見した。夫人が太子を見るに、太子が三次頭を回顧すれども、速は進前せず。夫人がその臉色を見、哭きて跑走して曰わく、「蒯聵は將に我を殺さん」。公がその手を拉着して臺に上った。太子が宋に逃奔し、その黨を全部趕走した。ゆえに公孟彄が鄭に出奔し、鄭より齊に逃奔した。

大子告人曰:“戲陽速禍餘。”戲陽速告人曰:“大子則禍餘。大子無道,使餘殺其母。餘不許,將戕於餘;若殺夫人,將以餘說。餘是故許而弗為,以紓餘死。諺曰:‘民保於信。’吾以信義也。”

太子が他人に告げて曰わく、「戲陽速が我を害せり」。戲陽速が他人に告げて曰わく、「太子がこそ我を害せり。太子は無道にして、我をしてその母を殺さしめんとす。我が答應せざれば、將に我を殺害せんとし、もし夫人を殺さば、將に我を以て開脫せん。我はこれにより答應して卻って為さず、以て我が死を緩解せん。諺語に曰く、『民は信用に靠りて保全す』。我が用うるは信義なり」。

冬十二月,晉人敗範、中行氏之師於潞,獲籍秦、高強。又敗鄭師及范氏之師於百泉。

冬十二月、晋人が潞で范氏・中行氏の軍隊を敗り、籍秦・高强を俘獲した。又百泉で鄭師と范氏の軍隊を敗った。

◇定公十五年

◇定公十五年

【經】十有五年春王正月,邾子來朝。鼷鼠食郊牛,牛死,改卜牛。二月辛丑,楚子滅胡,以鬍子豹歸。夏五辛亥,郊。壬申,公薨於高寢。鄭罕達帥師伐宋。齊侯、衛侯次於渠蒢。邾子來奔喪。秋七月壬申,姒氏卒。八月庚辰朔,日有食之。九月,滕子來會葬。丁巳,葬我君定公,雨,不克葬。戊午,日下昊,乃克葬。辛巳,葬定姒。冬,城漆。

【経】十五年春、周天子の暦の正月、邾子が來朝した。鼷鼠が郊牛を咬食し、牛が死に、別に郊牛を卜した。二月辛丑、楚子が胡を滅ぼし、胡子豹を帶びて歸った。夏五月辛亥、郊祭を行った。壬申、公が高寢で薨した。鄭罕達が師を率いて宋を伐った。齊侯・衛侯が渠蒢に駐した。邾子が來りて奔喪した。秋七月壬申、姒氏が卒した。八月庚辰朔、日食發生す。九月、滕子が來りて會葬した。丁巳、我が君定公を葬るに、雨が降り、葬事を完成する能わず。戊午、太陽が西に偏り、乃ち葬を完成した。辛巳、定姒を葬った。冬、漆を修築した。

【傳】十五年春,邾隱公來朝。子貢觀焉。邾子執玉高,其容仰。公受玉卑,其容俯。子貢曰:“以禮觀之,二君者,皆有死亡焉。夫禮,死生存亡之體也。

【伝】十五年春、邾隱公が來朝した。子貢が旁で觀看した。邾子が玉を高く擧げ、面容が上仰せり。公が玉を受くる時位置が低く、面容が下俯せり。子貢が曰わく、「禮を以て看れば、兩位の君に皆死亡あり。禮は死生存亡の體なり。

將左右周旋,進退俯仰,於是乎取之;朝祀喪戎,於是乎觀之。今正月相朝,而皆不度,心已亡矣。嘉事不體,何以能久?高仰,驕也,卑俯,替也。驕近亂,替近疾。君為主,其先亡乎!”吳之入楚也,鬍子盡俘楚邑之近胡者。楚既定,鬍子豹又不事楚,曰:“存亡有命,事楚何為?多取費焉。”二月,楚滅胡。

將に左右周旋・進退俯仰するに、これより法を取り、朝見祭祀喪事兵戎はこれより觀察す。今正月に互相朝見するに、卻って皆度數に合わず。心は已に亡べり。嘉事がその體を得ざれば、何を憑って能く長久せん。高くして仰ぐは驕、低くして俯するは廢弛なり。驕は亂に接近し、廢弛は疾病に接近す。君は主人なり。おそらく先に亡ぶか!」。呉が楚に入るとき、胡子が胡に靠近の楚邑を全部俘虜した。楚が已に安定し、胡子豹が又再び楚に事奉せず、曰わく、「存亡に命あり。楚に事奉して何を為さん。ただ費用を多取するのみ」。二月、楚が胡を滅ぼした。

夏五月壬申,公薨。仲尼曰:“賜不幸言而中,是使賜多言者也。”

夏五月壬申、公が薨した。仲尼が曰わく、「賜が不幸にして説中せり。これは賜をして多話の人と為さしむるなり」。

鄭罕達敗宋師於老丘。

鄭罕達が老丘で宋師を敗った。

齊侯、衛侯次於蘧挐,謀救宋也。

齊侯・衛侯が蘧挐に駐したは宋を救援するを謀ればなり。

秋七月壬申,姒氏卒。不稱夫人,不赴,且不祔也。

秋七月壬申、姒氏が卒した。夫人と稱せざるは赴告せず、かつ祔祭せざればなり。

葬定公。雨,不克襄事,禮也。

定公を葬った。雨が降り、葬事を完成する能わざるは禮に合うなり。

葬定姒。不稱小君,不成喪也。

定姒を葬った。小君と稱せざるは喪禮が完成せざればなり。

冬,城漆。書,不時告也。

冬、漆を修築した。記載するは時に按りて報告せざればなり。

哀公(元年~二十七年)

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◇哀公元年

◇哀公元年

【經】元年春王正月,公即位。楚子、陳侯、隨侯、許男圍蔡。鼷鼠食郊牛,改卜牛。夏四月辛巳,郊。秋,齊侯,衛侯伐晉。冬,仲孫何忌帥師伐邾。

【経】元年春、周天子の暦の正月、公が即位した。楚子・陳侯・隨侯・許男が蔡を包圍した。鼷鼠が郊牛を咬食し、別に郊牛を卜した。夏四月辛巳、郊祭を行った。秋、齊侯・衛侯が晋を伐った。冬、仲孫何忌が師を率いて邾を伐った。

【傳】元年春,楚子圍蔡,報柏舉也。裡而栽,廣丈,高倍。夫屯晝夜九日,如子西之素。蔡人男女以辨,使疆於江、汝之間而還。蔡於是乎請遷於吳。

【伝】元年春、楚子が蔡を包圍したは柏擧を報復するなり。城を離るる一里に壘を築き、寬一丈・高は加倍せり。士兵が晝夜に屯駐し九日、子西の豫先の計劃の如し。蔡人が男女を分開して出でて投降し、彼らを江・汝の間に疆を劃せしめて然る後に歸らせた。蔡はここに呉に遷るを請うた。

吳王夫差敗越於夫椒,報槜李也。遂入越。越子以甲楯五千,保於會稽。使大夫種因吳大宰嚭以行成,吳子將許之。伍員曰:“不可。臣聞之:樹德莫如滋,去疾莫如盡。昔有過澆殺斟灌以伐斟尋阝,滅夏後相。後緍方娠,逃出自竇,歸於有仍,生少康焉,為仍牧正。惎澆,能戒之。澆使椒求之,逃奔有虞,為之庖正,以除其害。虞思於是妻之以二姚,而邑諸綸。有田一成,有眾一旅,能布其德,而兆其謀,以收夏眾,撫其官職。使女艾諜澆,使季杼誘豷,遂滅過、戈,復禹之績。祀夏配天,不失舊物。今吳不如過,而越大於少康,或將豐之,不亦難乎?句踐能親而務施,施不失人,親不棄勞。與我同壤而世為仇讎,於是乎克而弗取,將又存之,違天而長寇仇,後雖悔之,不可食已。姬之衰也,日可俟也。

呉王夫差が夫椒で越を敗ったは槜李を報復するなり。ここに越に入った。越子が甲盾五千を帶びて會稽に守した。大夫種を遣わして呉大宰嚭を通じて往きて和を求め、呉子が將に許可せんとした。伍員が曰わく、「不可なり。臣は聞くに、德を樹立するは滋長するに如かず、病害を去るは除盡するに如かず。昔過の澆が斟灌を殺掉して以て斟鄩を伐ち、夏后相を滅亡せしめた。后緡が正に懷孕し、牆洞より逃出し、有仍に歸り、少康を生下し、仍の牧正を為しき。能く澆を戒備し、澆が椒を遣わして尋求するに、彼が有虞に逃奔し、庖正を為して以て禍害を除掉せしめた。虞思がここに兩個の姚姓女兒を彼に嫁し、邑を綸に封じた。田十里見方あり、衆五百人ありて、能くその德を布施し、その謀劃を開始し、夏の衆人を收聚し、官職を安撫した。女艾を遣わして澆を刺探し、季杼を遣わして豷を引誘し、ここに過・戈を滅亡し、禹の功績を恢復した。夏を祭祀し天に配享し、舊物を失去せず。今呉は過に如かず、而して越は少康より大なり。或いは將にそれを豐大にせんとせば、また難くないか。句踐は能く親近して施與に致力し、施與して人を漏掉せず、親近して勞あるを拋棄せず。我らと同一塊の土地に處して世代に仇と為るに、この時に戰勝して卻って奪取せず、又將にそれを保存せんとす。天に違背して寇仇を助長す。以後たとえ後悔すとも、消解すべからず。姬の衰微は日を以て待つ可し。

介在蠻夷,而長寇仇,以是求伯,必不行矣。”弗聽。退而告人曰:“越十年生聚,而十年教訓,二十年之外,吳其為沼乎!”三月,越及吳平。吳入越,不書,吳不告慶,越不告敗也。

蠻夷の間に處して、卻って寇仇を助長し、これを以て霸業を求取するは必ず行かざらん」。聽かず。退きて他人に告げて曰わく、「越が十年を以て生聚し、再び十年を以て敎訓せば、二十年之外、呉はおそらく池沼と變じんか!」。三月、越が呉と講和した。呉が越に入るを記載せざるは呉が喜慶を報告せず、越が戰敗を報告せざればなり。

夏四月,齊侯、衛侯救邯鄲,圍五鹿。

夏四月、齊侯・衛侯が邯鄲を救援し、五鹿を包圍した。

吳之入楚也,使召陳懷公。懷公朝國人而問焉,曰:“欲與楚者右,欲與吳者左。陳人從田,無田從黨。”逢滑當公而進,曰:“臣聞國之興也以福,其亡也以禍。今吳未有福,楚未有禍。楚未可棄,吳未可從。而晉,盟主也,若以晉辭吳,若何?”公曰:“國勝君亡,非禍而何?”對曰:“國之有是多矣,何必不復。小國猶復,況大國乎?臣聞國之興也,視民如傷,是其福也。其亡也,以民為土芥,是其禍也。楚雖無德,亦不艾殺其民。吳日敝於兵,暴骨如莽,而未見德焉。天其或者正訓楚也!禍之適吳,其何日之有?”陳侯從之。及夫差克越,乃修先君之怨。秋八月,吳侵陳,修舊怨也。

呉が楚に入るとき、人を遣わして陳懷公を召した。懷公が國人を朝見して詢問して曰わく、「楚に親附せんと欲する者は右に立て、呉に親附せんと欲する者は左に立て。陳人に田ある者は田の所在に按り、田なき者は族黨に按れ」。逢滑が公に對着して進前して曰わく、「臣は聞くに、國の興起は福により、その滅亡は禍により。今呉に福なく、楚に禍なし。楚は拋棄すべからず、呉は跟從すべからず。而して晋は盟主なり。もし晋を以て呉を辭謝せば、如何」。公が曰わく、「國が戰勝せられ、君が逃亡するは、禍にあらずして何ぞ」。對えて曰わく、「國にこの如き情形あるは多し。何で必ずしも恢復する能わざらん。小國もなお能く恢復す。況んや大國をや。臣は聞くに、國の興起は民を看待するに傷ある人の如く、これはその福なり。その滅亡は民を以て泥土草芥と為す、これはその禍なり。楚は德なき雖も、またその民を刈殺せず。呉は日日に戰中に疲憊し、暴露の骨は草莽の如く、卻ってまだ德を見ず。天は或いは正に楚を訓誡せん!禍が呉に降れば、また幾日かあらん」。陳侯が聽き從った。夫差が越に戰勝するに及び、乃ち先君の怨を重修した。秋八月、呉が陳を侵襲したは舊怨を重修せばなり。

齊侯、衛侯會於乾侯,救范氏也,師及齊師、衛孔圉、鮮虞人伐晉,取棘蒲。

齊侯・衛侯が乾侯で會見したは范氏を救援するなり。軍隊が齊師・衛孔圉・鮮虞人と晋を伐ち、棘蒲を取った。

吳師在陳,楚大夫皆懼,曰:“闔廬惟能用其民,以敗我於柏舉。今聞其嗣又甚焉,將若之何?”子西曰:“二三子恤不相睦,無患吳矣。昔闔廬食不二味,居不重席,室不崇壇,器不彤鏤,宮室不觀,舟車不飾,衣服財用,擇不取費。

呉師が陳に在り、楚の大夫が皆恐懼して曰わく、「闔廬はただ能くその民を用うるを因りて、柏擧で我らを打敗せり。今その後嗣が又更に厲害と聞く。將にどうせん」。子西が曰わく、「あなたら几位はただ自ら和睦せざるを怕れよ。呉を憂患するに足らず。昔闔廬は飯を食するに兩樣の菜なく、坐席に重叠せず、房屋に高壇を建てず、器物に紅を涂り雕鏤せず、宮室に臺觀を建てず、舟車に裝飾せず、衣服財用は費財するを取らざるを選擇せり。

在國,天有災癘,親巡孤寡,而共其乏困。在軍,熟食者分,而後敢食。其所嘗者,卒乘與焉。勤恤其民而與之勞逸,是以民不罷勞,死知不曠。吾先大夫子常易之,所以敗我也。今聞夫差次有臺榭陂池焉,宿有妃嬙嬪御焉。一日之行,所欲必成,玩好必從。珍異是聚,觀樂是務,視民如仇,而用之日新。夫先自敗也已。安能敗我?”冬十一月,晉趙鞅伐朝歌。

國裏に在りては、天に災疫あれば親しく孤寡を巡視し、彼らの困乏に供給した。軍中に在りては、熟食を士兵に分給し、然る後に自ら敢えて食した。彼の嘗する所は士卒車乘に皆份あり。勤勞してその民を体恤し、彼らと勞逸を同じくす。ゆえに民は疲困せず、死しても白死ならざるを知る。我らの先大夫子常はこれと相反し、ゆえに我らを打敗せり。今夫差は出行に臺榭陂池あり、住宿に妃嬙嬪御ありと聞く。一日の出行に、欲する所は必ず辦成し、玩好は必ず跟著す。珍異を聚斂し、觀樂を專務とし、民を看待するに仇人の如く、彼らを使用するに日新月異なり。是れ自ら先に敗るるなり。どこに能く我らを打敗せん」。冬十一月、晋趙鞅が朝歌を伐った。

◇哀公二年

◇哀公二年

【經】二年春王二月,季孫斯、叔孫州仇、仲孫何忌帥師伐邾,取漷東田及沂西田。癸巳,叔孫州仇、仲孫何忌及邾子盟於句繹。夏四月丙子,衛侯元卒。

【経】二年春、周天子の暦の二月、季孫斯・叔孫州仇・仲孫何忌が師を率いて邾を伐ち、漷東の田と沂西の田を取得した。癸巳、叔孫州仇・仲孫何忌と邾子が句繹で結盟した。夏四月丙子、衛侯元が卒した。

滕子來朝。晉趙鞅帥師納衛世子蒯聵於戚。秋八月甲戌,晉趙鞅帥師及鄭罕達帥師戰於鐵,鄭師敗績。冬十月,葬衛靈公。十有一月,蔡遷於州來。蔡殺其大夫公子駟。

滕子が來朝した。晋趙鞅が師を率いて衛世子蒯聵を戚に送入した。秋八月甲戌、晋趙鞅が師を率い鄭罕達の率いる師と鐵で作戰し、鄭師が大いに敗れた。冬十月、衛靈公を葬った。十一月、蔡が州來に遷った。蔡がその大夫公子駟を殺した。

【傳】二年春,伐邾,將伐絞。邾人愛其土,故賂以淳阝、沂之田而受盟。

【伝】二年春、邾を伐ち、將に絞を伐たんとした。邾人が土地を愛惜し、ゆえに漷・沂の田を以て賄賂して盟約を接受した。

初,衛侯遊於郊,子南僕。公曰:“餘無子,將立女。”不對。他日,又謂之。對曰:“郢不足以辱社稷,君其改圖。君夫人在堂,三揖在下。君命只辱。”

当初、衛侯が郊に游び、子南が駕車した。公が曰わく、「我に合適の兒子なし。將にあなたを立てん」。回答せず。些日を過ぎ、又彼に對して曰うた。對えて曰わく、「郢は社稷を辱沒するに足らず。君はなお別に打算を作れ。君夫人が堂上に在り、三揖が下に在り。君の命令はただ辱を受くるのみ」。

夏,衛靈公卒。夫人曰:“命公子郢為大子,君命也。”對曰:“郢異於他子。且君沒於吾手,若有之,郢必聞之。且亡人之子輒在。”乃立輒。

夏、衛靈公が卒した。夫人が曰わく、「公子郢を任命して太子と為すは君の命令なり」。對えて曰わく、「郢は別の兒子と同じからず。況んや君は我が手裏で去世せり。もしこの話あらば、郢は必ず聞かん。況んや逃亡人の兒子輒がなお在るをや」。ここに輒を立てた。

六月乙酉,晉趙鞅納衛大子於戚。宵迷,陽虎曰:“右河而南,必至焉。”

六月乙酉、晋趙鞅が衛太子を戚に送入した。夜に路を迷い、陽虎が曰わく、「右に河に靠りて南せば、必ず到達せん」。

使大子絻,八人衰絰,偽自衛逆者。告於門,哭而入,遂居之。

太子に免麻を戴かせ、八個人に衰絰を穿せしめ、衛より來りて迎接する人を偽った。門に報告し、哭いて入り、ここにそこに住んだ。

秋八月,齊人輸范氏粟,鄭子姚、子般送之。士吉射逆之,趙鞅御之,遇於戚。陽虎曰:“吾車少,以兵車之旆,與罕、駟兵車先陳。罕、駟自後隨而從之,彼見吾貌,必有懼心。於是乎會之,必大敗之。”從之。卜戰,龜焦。樂丁曰:“《詩》曰:‘爰始爰謀,爰契我龜。’謀協以故,兆詢可也。”簡子誓曰:“范氏、中行氏,反易天明,斬艾百姓,欲擅晉國而滅其君。寡君恃鄭而保焉。

秋八月、齊人が糧食を范氏に輸送し、鄭子姚・子般が護送した。士吉射が迎接し、趙鞅が抵御して戚で相遇した。陽虎が曰わく、「我らの車は少し。兵車の旆を、罕氏・駟氏の兵車と先に列陣せよ。罕氏・駟氏が後面より跟著すれば、彼らは我らの樣子を見て必ず懼心あらん。この時に交戰せば、必ず大いに彼らを敗らん」。聽き從った。作戰を占卜するに、龜甲が焦燒した。樂丁が曰わく、「《詩經》に曰く、『ここに始めここに謀り、ここに我らの龜を灼く』。謀劃が協和して又舊例あれば、兆象は聽從す可し」。簡子が發誓して曰わく、「范氏・中行氏は上天の明命に反易し、百姓を斬刈し、晋國を專擅してその君を滅亡せんと欲せり。寡君は鄭に仗恃して以て保全せり。

今鄭為不道,棄君助臣,二三子順天明,從君命,經德義,除詬恥,在此行也。

今鄭が行事無道にして、君を拋棄し臣を幫助す。あなたら几位は天の明命に順從し、君命に跟從し、德義を經營し、恥辱を除去するは、即ちこの一行に在り。

克敵者,上大夫受縣,下大夫受郡,士田十萬,庶人工商遂,人臣隸圉免。志父無罪,君實圖之。若其有罪,絞縊以戮,桐棺三寸,不設屬闢,素車樸馬,無入於兆,下卿之罰也。”甲戌,將戰,郵無恤御簡子,衛太子為右。登鐵上,望見鄭師眾,大子懼,自投於車下。子良授大子綏而乘之,曰:“婦人也。”簡子巡列,曰:“畢萬,匹夫也。七戰皆獲,有馬百乘,死於牖下。群子勉之,死不在寇。”繁羽御趙羅,宋勇為右。羅無勇,麇之。吏詰之,御對曰:“痁作而伏。”

敵人に戰勝する者は、上大夫は縣を受け、下大夫は郡を受け、士は田十萬畝を給し、庶人・工商は進仕を得、人臣隸圉は奴籍を免除せん。志父に罪なくば、君に由りて考慮せよ。もし罪あらば、絞縊を以て殺戮し、桐棺三寸、屬棺・椑棺を設けず、素車朴馬、兆域に進入せず。是れ下卿の懲罰なり」。甲戌、將に作戰せんとし、郵無恤が簡子のため駕車し、衛太子が車右を為した。鐵丘に登り、鄭師の衆多を望見し、太子が害怕して自ら車を跳下した。子良が綏帶を太子に遞して彼を車に上らせて曰わく、「婦人の如し」。簡子が行列を巡視して曰わく、「畢萬は匹夫なりき。七戰して皆俘獲あり、馬百乘あり、牖下に死せり。各位努力せよ。死は敵寇に在らず」。繁羽が趙羅のため駕車し、宋勇が車右を為した。羅に勇なく、綁住せられたり。軍吏が責問するに、御者が回答して曰わく、「瘧疾が發作して伏するなり」。

衛大子禱曰:“曾孫蒯聵敢昭告皇祖文王、烈祖康叔、文祖襄公:鄭勝亂從,晉午在難,不能治亂,使鞅討之。蒯聵不敢自佚,備持矛焉。敢告無絕筋,無折骨,無面傷,以集大事,無作三祖羞。大命不敢請,佩玉不敢愛。”

衛太子が禱告して曰わく、「曾孫蒯聵が敢えて明白に皇祖文王・烈祖康叔・文祖襄公に祭告す。鄭勝が順從を擾亂し、晋午が禍難の中に在りて亂を治理する能わず、鞅を遣わして往きて討伐せしむ。蒯聵は敢えて自ら安逸せず、持矛の人を充任す。敢えて筋を斷たれず、骨を折られず、臉を傷せられざらんを求め、以て大事を成就し、三位の祖先に羞を蒙らしめざらん。大命は敢えて請求せず、佩玉は敢えて愛惜せず」。

鄭人擊簡子中肩,斃於車中,獲其蜂旗。大子救之以戈,鄭師北,獲溫大夫趙羅。大子復伐之,鄭師大敗,獲齊粟千車。趙孟喜曰:“可矣。”傅傁曰:“雖克鄭,猶有知在,憂未艾也。”

鄭人が簡子の肩膀に擊中し、車裏に倒れ、彼の蜂旗を繳獲した。太子が戈を以て往きて救い、鄭師が敗逃し、溫大夫趙羅を俘獲した。太子が再び往きて攻打し、鄭師が大いに敗れ、齊の糧食一千車を繳獲した。趙孟が高興して曰わく、「可なり」。傅傁が曰わく、「たとえ鄭に戰勝すとも、なお知氏の在るあり。憂患は止息せざるなり」。

初,周人與范氏田,公孫尨稅焉。趙氏得而獻之,吏請殺之。趙孟曰:“為其主也,何罪?”止而與之田。及鐵之戰,以徒五百人宵攻鄭師,取蜂旗於子姚之幕下,獻曰:“請報主德。”

当初、周人が范氏に田を給し、公孫尨がそこで稅を收めた。趙氏が捉えて献上し、吏が殺掉を請うた。趙孟が曰わく、「彼はその主のためなり。何の罪かあらん」。攔って彼に田を給えた。鐵のこの一戰に及び、彼が徒衆五百人を率いて夜に鄭師を攻打し、子姚の帳下で蜂旗を取到して献上して曰わく、「主上の德を報答せんを請う」。

追鄭師。姚、般、公孫林殿而射,前列多死。趙孟曰:“國無小。”既戰,簡子曰:“吾伏弢嘔血,鼓音不衰,今日我上也。”大子曰:“吾救主於車,退敵於下,我,右之上也。”郵良曰:“我兩靷將絕,吾能止之,我,御之上也。”

鄭師を追趕した。姚・般・公孫林が殿後して射擊し、前列の死する者多し。趙孟が曰わく、「國に小なるを以て輕視す可きはなし」。已に交戰し、簡子が曰わく、「我が弓袋上に伏して血を吐くも、鼓音は衰えず。今日我は上等なり」。太子が曰わく、「我が車上で主を救い、車下で敵人を打退せり。我は車右の上等なり」。郵良が曰わく、「我が兩邊の靷は將に斷たんとすれども、我は能く控制せり。我は御者の上等なり」。

駕而乘材,兩靷皆絕。

車を駕して一根の木材を碾過するに、兩根の靷が皆斷れた。

吳洩庸如蔡納聘,而稍納師。師畢入,眾知之。蔡侯告大夫,殺公子駟以說,哭而遷墓。冬,蔡遷於州來。

呉泄庸が蔡に至り聘禮を送り、逐漸に軍隊を帶入した。軍隊が全部進入して、衆人が乃ち知った。蔡侯が大夫に告げ、公子駟を殺掉して以て解釋し、哭いて墳墓を遷走した。冬、蔡が州來に遷った。

◇哀公三年

◇哀公三年

【經】三年春,齊國夏、衛石曼姑帥師圍戚。夏四月甲午,地震。五月辛卯,桓宮、僖宮災。季孫斯、叔孫州仇帥師城啟陽。宋樂髡帥師伐曹。秋七月丙子,季孫斯卒。蔡人放其大夫公孫獵於吳。冬十月癸卯,秦伯卒。叔孫州仇、仲孫何忌帥師圍邾。

【経】三年春、齊國夏・衛石曼姑が師を率いて戚を包圍した。夏四月甲午、地震す。五月辛卯、桓宮・僖宮が失火した。季孫斯・叔孫州仇が師を率いて啟陽を修築した。宋樂髡が師を率いて曹を伐った。秋七月丙子、季孫斯が卒した。蔡人がその大夫公孫獵を呉に放逐した。冬十月癸卯、秦伯が卒した。叔孫州仇・仲孫何忌が師を率いて邾を包圍した。

【傳】三年春,齊、衛圍戚,求援於中山。

【伝】三年春、齊・衛が戚を包圍し、中山に向かい援を求めた。

夏五月辛卯,司鐸火。火逾公宮,桓、僖災。救火者皆曰:“顧府。”南宮敬叔至,命周人出御書,俟於宮,曰:“庀女而不在,死。”子服景伯至,命宰人出禮書,以待命:“命不共,有常刑。”校人乘馬,巾車脂轄。百官官備,府庫慎守,官人肅給。濟濡帷幕,鬱攸從之,蒙葺公屋。自大廟始,外內以悛,助所不給。有不用命,則有常刑,無赦。公父文伯至,命校人駕乘車。季桓子至,御公立於象魏之外,命救火者傷人則止,財可為也。命藏《象魏》,曰:“舊章不可亡也。”富父槐至,曰:“無備而官辦者,猶拾瀋也。”於是乎去表之藁,道還公宮。

夏五月辛卯、司鐸が失火した。火が公宮を越え、桓宮・僖宮が災に遭った。救火の人が皆曰わく、「府庫を顧念せよ」。南宮敬叔が到達し、周人に御書を取出するを命令し、宮裏で等待して曰わく、「あなたに托付するに在らざれば、處死せん」。子服景伯が到達し、宰人に禮書を取出するを命令し、命令を等待す。「命令が供給せざれば、固定の刑罰あり」。校人が馬を套し、巾車が車軸に油を上げた。百官が各々職を備え、府庫を謹慎看守し、官人が嚴肅に供給した。帷幕を澆濕し、火氣に跟著して覆蓋し、蒙葺して公屋とした。太廟より開始し、外より內へ次序に按り、足らざる所を補助した。命を聽かざるあれば、即ち固定の刑罰ありて赦免せず。公父文伯が到達し、校人に乘車を駕せしめた。季桓子が到達し、公のため車を駕して象魏の外に立ち、救火の人に人を傷れば停止せよと命令した。財物はなお再び有る可し。《象魏》を收藏するを命令して曰わく、「舊の章程は亡失すべからず」。富父槐が到達して曰わく、「準備なくして官吏を猝辦せしむるは、汁水を撿起するが如し」。ここに表露の乾草を撤去し、公宮を環繞して火道を開闢した。

孔子在陳,聞火,曰:“其桓、僖乎!”劉氏、范氏世為婚姻,萇弘事劉文公,故周與范氏。趙鞅以為討。六月癸卯,周人殺萇弘。

孔子が陳に在り、火災を聞き、曰わく、「おそらく桓宮・僖宮か!」。劉氏・范氏が世代に通婚し、萇弘が劉文公に事奉し、ゆえに周が范氏に親附した。趙鞅がこれにより討問した。六月癸卯、周人が萇弘を殺した。

秋,季孫有疾,命正常曰:“無死。南孺子之子,男也,則以告而立之。女也,則肥也可。”季孫卒,康子即位。既葬,康子在朝。南氏生男,正常載以如朝,告曰:“夫子有遺言,命其圉臣曰:‘南氏生男,則以告於君與大夫而立之。’今生矣,男也,敢告。”遂奔衛。康子請退。公使共劉視之,則或殺之矣,乃討之。召正常,正常不反。

秋、季孫に病ありて、正常に命令して曰わく、「殉死する勿れ。南孺子の兒子は、男ならば、即ち報告して彼を立てよ。女ならば、然らば肥が即ち可」。季孫が卒し、康子が即位した。已に下葬し、康子が朝に在り。南氏が男孩を生み、正常が車を以て載せて朝上に至り、報告して曰わく、「夫子に遺言ありて、その圉臣に命令して曰く、『南氏が男孩を生めば、即ち君と大夫に報告して彼を立てよ』。今生めり。男なり。敢えて報告す」。ここに衛に逃奔した。康子が退位を請うた。公が共劉を遣わして看るに、兒子は已に殺されており、ここに追究した。正常を召すに、正常が歸らず。

冬十月,晉趙鞅圍朝歌,師於其南。荀寅伐其郛,使其徒自北門入,己犯師而出。癸丑,奔邯鄲。十一月,趙鞅殺士皋夷,惡范氏也。

冬十月、晋趙鞅が朝歌を包圍し、軍隊がその南面に在り。荀寅が外城を攻打し、その徒衆に北門より進入せしめ、自ら晋師を衝破して出た。癸丑、邯鄲に逃奔した。十一月、趙鞅が士皋夷を殺掉したは范氏を憎惡せばなり。

◇哀公四年

◇哀公四年

【經】四年春王二月庚戌,盜殺蔡侯申。蔡公孫辰出奔吳。葬秦惠公。宋人執小邾子。夏,蔡殺其大夫公孫姓、公孫霍。晉人執戎蠻子赤歸於楚。城西郛。

【経】四年春、周天子の暦の二月庚戌、盜賊が蔡侯申を殺掉した。蔡公孫辰が呉に出奔した。秦惠公を葬った。宋人が小邾子を捉えた。夏、蔡がその大夫公孫姓・公孫霍を殺した。晋人が戎蠻子赤を捉えて楚に送った。西邊外城を修築した。

六月辛丑,亳社災。秋八月甲寅,滕子結卒。冬十有二月,葬蔡昭公。葬滕頃公。

六月辛丑、亳社が失火した。秋八月甲寅、滕子結が卒した。冬十二月、蔡昭公を葬った。滕頃公を葬った。

【傳】四年春,蔡昭侯將如吳,諸大夫恐其又遷也,承,公孫翩逐而射之,入於家人而卒。以兩矢門之。眾莫敢進。文之鍇後至,曰:“如牆而進,多而殺二人。”鍇執弓而先,翩射之,中肘。鍇遂殺之。故逐公孫辰,而殺公孫姓、公孫盱。

【伝】四年春、蔡昭侯が將に呉に至らんとし、諸大夫が彼の又遷徙せんを怕れ、機に趁り、公孫翩が追著して彼を射、彼が民家に進入して然る後に卒した。兩支の箭を以て門を守った。衆人が敢えて進まず。文之鍇が後に至りて曰わく、「牆の如く進め。最多兩個人を殺掉せん」。鍇が弓を持ちて前に在り、翩が彼を射て肘に中った。鍇はここに翩を殺した。ゆえに公孫辰を趕走し、公孫姓・公孫盱を殺掉した。

夏,楚人既克夷虎,乃謀北方。左司馬眅、申公壽餘、葉公諸梁致蔡於負函,致方城之外於繒關,曰:“吳將溯江入郢,將奔命焉。”為一昔之期,襲梁及霍。單浮餘圍蠻氏,蠻氏潰。蠻子赤奔晉陰地。司馬起豐、析與狄戎,以臨上雒。左師軍於菟和,右師軍於倉野,使謂陰地之命大夫士蔑曰:“晉、楚有盟,好惡同之。若將不廢,寡君之願也。不然,將通於少習以聽命。”士蔑請諸趙孟。

夏、楚人が已に夷虎に戰勝し、ここに北方を謀劃した。左司馬眅・申公壽余・葉公諸梁が負函で蔡人を集合し、繒關で方城之外の人を集合して曰わく、「呉は將に江を逆して郢に入らん。將に奔走して命を聽かん」。一個夜裏の期限を約定し、梁と霍を襲擊した。單浮余が蠻氏を包圍し、蠻氏が潰散した。蠻子赤が晋の陰地に逃奔した。司馬が豐・析と狄戎を發動し、上雒に逼近した。左師が菟和に駐し、右師が倉野に駐し、人を遣わして陰地の命大夫士蔑に對して曰わく、「晋・楚に盟約ありて、好惡相同す。もし廢棄せざれば、是れ寡君の願望なり。然らざれば、將に少習を打通して以て命を聽かん」。士蔑が趙孟に請示した。

趙孟曰:“晉國未寧,安能惡於楚,必速與之。”士蔑乃致九州之戎。將裂田以與蠻子而城之,且將為之卜。蠻子聽卜,遂執之,與其五大夫,以畀楚師於三戶。

趙孟が曰わく、「晋國はまだ安寧せず。どこに能く楚と怨を結ばん。必ず速く彼に給え」。士蔑がここに九州の戎を召集した。將に田を劃して蠻子に給し城を築き、かつ將に彼のため占卜せんとした。蠻子が來りて卜を聽くに、ここに彼とその五位の大夫を捉え、三戶で楚師に交した。

司馬致邑,立宗焉,以誘其遺民,而盡俘以歸。

司馬が城邑を設置し、宗廟を建立し、以てその遺民を引誘し、全部俘虜して帶ち歸った。

秋七月,齊陳乞、弦施、衛寧跪救范氏。庚午,圍五鹿。九月,趙鞅圍邯鄲。

秋七月、齊陳乞・弦施・衛寧跪が范氏を救援した。庚午、五鹿を包圍した。九月、趙鞅が邯鄲を包圍した。

冬十一月,邯鄲降。荀寅奔鮮虞,趙稷奔臨。十二月,弦施逆之,遂墮臨。國夏伐晉,取邢、任、欒、鄗、逆畤、陰人、盂、壺口。會鮮虞,納荀寅於柏人。

冬十一月、邯鄲が投降した。荀寅が鮮虞に逃奔し、趙稷が臨に逃奔した。十二月、弦施が彼を迎接し、ここに臨を拆毀した。國夏が晋を伐ち、邢・任・欒・鄗・逆畤・陰人・盂・壺口を取得した。鮮虞と會合し、荀寅を柏人に送入した。

◇哀公五年

◇哀公五年

【經】五年春,城毗。夏,齊侯伐宋。晉趙鞅帥師伐衛。秋九月癸酉,齊侯杵臼卒。冬,叔還如齊。閏月,葬齊景公。

【経】五年春、毗を修築した。夏、齊侯が宋を伐った。晋趙鞅が師を率いて衛を伐った。秋九月癸酉、齊侯杵臼が卒した。冬、叔還が齊に至った。閏月、齊景公を葬った。

【傳】五年春,晉圍柏人,荀寅、士吉射奔齊。初,范氏之臣王生惡張柳朔,言諸昭子,使為柏人。昭子曰:“夫非而仇乎?”對曰:“私仇不及公,好不廢過,惡不去善,義之經也。臣敢違之?”及范氏出,張柳朔謂其子:“爾從主,勉之!我將止死,王生授我矣。吾不可以僣之。”遂死於柏人。

【伝】五年春、晋が柏人を包圍し、荀寅・士吉射が齊に逃奔した。当初、范氏の臣王生が張柳朔を惡み、昭子に告げて彼を柏人の宰と為さしめた。昭子が曰わく、「彼はあなたの仇人にあらずや」。對えて曰わく、「私仇は公事に涉及せず、喜好は過失を廢棄せず、厭惡は善を除去せず。是れ義の經常なり。臣は敢えて違背せんや」。范氏が國を出でるに及び、張柳朔がその兒子に對して曰わく、「あなたは主上に從い、努力せよ!我は將に留下して死せん。王生がこれを我に交せり。我は辜負すべからず」。ここに柏人で死んだ。

夏,趙鞅伐衛,范氏之故也,遂圍中牟。

夏、趙鞅が衛を伐ったは范氏の故を以てなり。ここに中牟を包圍した。

齊燕姬生子,不成而死,諸子鬻姒之子荼嬖。諸大夫恐其為大子也,言於公曰:“君之齒長矣,未有大子,若之何?”公曰:“二三子間於憂虞,則有疾疢。

齊燕姬が兒子を生むも、成年せずして死し、諸子の中に鬻姒の兒子荼が寵を受けた。諸大夫が彼の太子と立てられんを怕れ、公に對して曰わく、「君の年齒は長れども、まだ太子なし。どうせん」。公が曰わく、「あなたら几位が憂慮の裏に夾まれば、即ち疾病あらん。

亦姑謀樂,何憂於無君?”公疾,使國惠子、高昭子立荼,置群公子於萊。秋,齊景公卒。冬十月,公子嘉、公子駒、公子黔奔衛,公子鉏、公子陽生來奔。萊人歌之曰:“景公死乎不與埋,三軍之事乎不與謀。師乎師乎,何黨之乎?”鄭駟秦富而侈,嬖大夫也,而常陳卿之車服於其庭。鄭人惡而殺之。子思曰:“《詩》曰:‘不解於位,民之攸塈。’不守其位,而能久者鮮矣。《商頌》曰:‘不僣不濫,不敢怠皇,命以多福。’”

も姑く歡樂を謀求せよ。何で必ずしも君なきを憂慮せん」。公が病を患い、國惠子・高昭子に荼を立てしめ、群公子を萊に安置した。秋、齊景公が卒した。冬十月、公子嘉・公子駒・公子黔が衛に逃奔し、公子鉏・公子陽生が來奔した。萊人が歌を唱して曰わく、「景公が死してや埋に參與せず、三軍の事や謀に參與せず。衆人や衆人、將にどの邊に投向せん」。鄭駟秦が富有にして侈靡し、嬖大夫なれども、卻って常常に庭裏に卿の車服を陳列した。鄭人が厭惡して彼を殺した。子思が曰わく、「《詩經》に曰く、『位子上に懈殆せざれば、民はこれにより安息す』。その位を守らずして、能く長久するは少し。《商頌》に曰く、『僭越せず濫施せず、敢えて怠惰遑暇せず、これを以て多福を承受す』」。

◇哀公六年

◇哀公六年

【經】六年春,城邾瑕。晉趙鞅帥師伐鮮虞。吳伐陳。夏,齊國夏及高張來奔。叔還公吳於柤。秋七月庚寅,楚子軫卒。齊陽生入齊。齊陳乞弒其君荼。

【経】六年春、邾瑕を修築した。晋趙鞅が師を率いて鮮虞を伐った。呉が陳を伐った。夏、齊國夏と高張が來奔した。叔還が柤で呉と會合した。秋七月庚寅、楚子軫が卒した。齊陽生が齊に入った。齊陳乞がその君荼を弑した。

冬,仲孫何忌帥師伐邾。宋向巢帥師伐曹。

冬、仲孫何忌が師を率いて邾を伐った。宋向巢が師を率いて曹を伐った。

【傳】六年春,晉伐鮮虞,治范氏之亂也。

【伝】六年春、晋が鮮虞を伐ったは范氏の亂を懲治するなり。

吳伐陳,復修舊怨也。楚子曰:“吾先君與陳有盟,不可以不救。”乃救陳,師於城父。

呉が陳を伐ち、再び舊怨を重修した。楚子が曰わく、「我が先君は陳と盟あり。救わざる可からず」。ここに陳を救い、軍隊が城父に駐した。

齊陳乞偽事高、國者,每朝必驂乘焉。所從必言諸大夫,曰:“彼皆偃蹇,將棄子之命。皆曰:‘高、國得君,必逼我,盍去諸?’固將謀子,子早圖之。

齊陳乞が高氏・國氏に事奉するを假裝し、上朝するごとに必ず驂乘を為した。跟從する所は必ず諸大夫の壞話を説いて曰わく、「彼らは皆傲慢にして、將にあなたの命令を拋棄せんとす。皆曰く、『高氏・國氏が君を得れば、必ず我らを逼迫せん。何で彼らを除掉せざるか』。彼らは本より將にあなたに對付するを謀劃せん。あなたは早く考慮せよ。

圖之,莫如盡滅之。需,事之下也。”及朝,則曰:“彼虎狼也,見我在子之側,殺我無日矣。請就之位。”又謂諸大夫曰:“二子者禍矣!恃得君而欲謀二三子,曰:‘國之多難,貴寵之由,盡去之而後君定。’既成謀矣,盍及其未作也,先諸?作而後悔,亦無及也。”大夫從之。

考慮すれば、彼らを全部消滅するに如かず。遲疑は事の下策なり」。上朝するに及べば、即ち曰わく、「彼らは虎狼なり。我があなたの身邊に在るを見れば、我を殺すに幾日ならじ。我をして彼らの位子上に至らしむるを請う」。又諸大夫に對して曰わく、「この兩位に禍あり!君を得るを仗恃してあなたら几位に對付するを想うて曰く、『國家の多難は貴寵により。全部除掉して然る後に君が乃ち安定せん』。已に謀劃完成せり。何で彼らのまだ手を動かさざるに趁みて、先に動かざるか。手を動かして後に再び後悔するも、及ばざるなり」。大夫が聽き從った。

夏六月戊辰,陳乞、鮑牧及諸大夫,以甲入於公宮。昭子聞之,與惠子乘如公,戰於莊,敗。國人追之,國夏奔莒,遂及高張、晏圉、弦施來奔。

夏六月戊辰、陳乞・鮑牧と諸大夫が甲を帶びて公宮に入った。昭子が聞き、惠子と車を乘りて公の所に至り、莊で作戰し、戰敗した。國人が追趕し、國夏が莒に逃奔し、隨後に高張・晏圉・弦施と來奔した。

秋七月,楚子在城父,將救陳。卜戰,不吉;卜退,不吉。王曰:“然則死也!再敗楚師,不如死。棄盟逃仇,亦不如死。死一也,其死仇乎!”命公子申為王,不可;則命公子結,亦不可;則命公子啟,五辭而後許。將戰,王有疾。

秋七月、楚子が城父に在り、將に陳を救わんとした。作戰を占卜すれば吉利ならず、撤退を占卜すれば吉利ならず。王が曰わく、「然らば即ち死なり!再び楚師を戰敗せしむるは死に如かず。盟約を拋棄し仇敵を逃避するも、また死に如かず。死は一樣なり。なお仇敵の所で死せん」。公子申を任命して王と為すに答應せず、即ち公子結を任命するも、また答應せず、即ち公子啟を任命するに、五次推辭して然る後に答應した。將に作戰せんとして、王に病あり。

庚寅,昭王攻大冥,卒於城父。子閭退,曰:“君王舍其子而讓,群臣敢忘君乎?從君之命,順也。立君之子,亦順也。二順不可失也。”與子西、子期謀,潛師閉塗,逆越女之子章,立之而後還。

庚寅、昭王が大冥を攻打し、城父で死んだ。子閭が退きて曰わく、「君王がその兒子を舍棄して禪讓せり。群臣は敢えて君を忘れんや。君の命令に跟從するは順なり。君の兒子を立つるも、また順なり。兩樣の順は失う可からず」。子西・子期と謀劃し、軍隊を隱蔽し道路を封閉し、越女の兒子章を迎接し、彼を立てて然る後に歸った。

是歲也,有云如眾赤鳥,夾日以飛,三日。楚子使問諸周大史。周大史曰:“其當王身乎!若禜之,可移於令尹、司馬。”王曰:“除腹心之疾,而置諸股肱,何益?不穀不有大過,天其夭諸?有罪受罰,又焉移之?”遂弗禜。

この年、雲ありて許多の赤鳥の如く、日を夾みて飛び、三日なり。楚子が人を遣わして周太史に詢問せしめた。周太史が曰わく、「おそらく王の身上に應せんか!もし禜祭を行えば、令尹・司馬に轉移す可し」。王が曰わく、「腹心の病害を除去して、卻って股肱上に放つは、何の益處かあらん。不穀がもし大過なくば、天はあえて我を夭折せんや。罪あれば懲罰を接受し、又どこに轉移せん」。ここに禜祭を行わず。

初,昭王有疾。卜曰:“河為祟。”王弗祭。大夫請祭諸郊,王曰:“三代命祀,祭不越望。江、漢、雎、漳,楚之望也。禍福之至,不是過也。不穀雖不德,河非所獲罪也。”遂弗祭。孔子曰:“楚昭王知大道矣!其不失國也,宜哉!《夏書》曰:‘惟彼陶唐,帥彼天常,有此冀方。今失其行,亂其紀綱,乃滅而亡。’又曰:‘允出茲在茲。’由己率常可矣。”

当初、昭王に病あり。占卜して曰わく、「河神が作祟す」。王が祭祀せず。大夫が郊で祭祀するを請うに、王が曰わく、「三代の規定する祭祀は、祭は望を越えず。江・漢・雎・漳は楚の望なり。禍福の到來はこれらを超過せず。不穀は德なき雖も、河は我の獲罪する所にあらず」。ここに祭祀せず。孔子が曰わく、「楚昭王は大道を知れり!彼が國を失去せざるは應なり!《夏書》に曰く、『あの陶唐は、あの天の常道に遵循し、この冀方を據有せり。今その行為を失去し、紀綱を擾亂し、ここに滅亡せり』。又曰く、『誠信はこれより出でれば即ちこれに在り』。自ら常道に遵循すれば即ち可なり」。

八月,齊邴意茲來奔。

八月、齊邴意兹が來奔した。

陳僖子使召公子陽生。陽生駕而見南郭且於,曰:“嘗獻馬於季孫,不入於上乘,故又獻此,請與子乘之。”出萊門而告之故。闞止知之,先待諸外。公子曰:“事未可知,反,與壬也處。”戒之,遂行。逮夜,至於齊,國人知之。僖子使子士之母養之,與饋者皆入。

陳僖子が人を遣わして公子陽生を召した。陽生が車を駕して南郭且于に見えに往きて曰わく、「かつて季孫に馬を献ずるも、上乘に進入する能わず。ゆえに又この匹を献ず。あなたと一起に乘るを請う」。萊門を出でて乃ち故を告げた。闞止が知り、先に外で等待した。公子が曰わく、「事はなお知る可からず。歸りて壬と相處せよ」。彼に告誡し、ここに出發した。夜に趕到し、齊に到達し、國人が知った。僖子が子士の母に彼を養わせ、食物を送る人と一起に進入した。

冬十月丁卯,立之。將盟,鮑子醉而往。其臣差車鮑點曰:“此誰之命也?”陳子曰:“受命於鮑子。”遂誣鮑子曰:“子之命也。”鮑子曰:“女忘君之為孺子牛而折其齒乎?而背之也!”悼公稽首,曰:“吾子奉義而行者也。若我可,不必亡一大夫。若我不可,不必亡一公子。義則進,否則退,敢不唯子是從?廢興無以亂,則所願也。”鮑子曰:“誰非君之子?”乃受盟。使胡姬以安孺子如賴。去鬻姒,殺王甲,拘江說,囚王豹於句竇之丘。

冬十月丁卯、彼を立てた。將に結盟せんとし、鮑子が醉って前往した。その臣差車鮑點が曰わく、「これは誰の命令ぞ」。陳子が曰わく、「鮑子より命令を接受せり」。ここに鮑子を誣稱して曰わく、「是れあなたの命令なり」。鮑子が曰わく、「あなたは君が孺子のため牛を當りて卻って牙齒を折れたを忘れたか。卻って彼を背叛す!」。悼公が叩頭して曰わく、「吾子は義を奉じて行事する人なり。もし我が可ならば、必ず一位の大夫を死掉する要なし。もし我が可ならざれば、必ず一位の公子を死掉する要なし。義に合えば即ち進み、否なれば即ち退く。敢えてあなたのみに聽從せざらんや。廢立がこれにより亂を作さざれば、即ち願う所なり」。鮑子が曰わく、「誰が君の兒子にあらざらん」。ここに盟約を接受した。胡姬をして安孺子を帶びて賴に至らしめた。鬻姒を去掉し、王甲を殺掉し、江說を拘囚し、王豹を句竇之丘に囚禁した。

公使朱毛告於陳子,曰:“微子則不及此。然君異於器,不可以二。器二不匱,君二多難,敢布諸大夫。”僖子不對而泣,曰:“君舉不信群臣乎?以齊國之困,困又有憂。少君不可以訪,是以求長君,庶亦能容群臣乎!不然,夫孺子何罪?”毛覆命,公悔之。毛曰:“君大訪於陳子,而圖其小可也。”使毛遷孺子於駘,不至,殺諸野幕之下,葬諸殳冒淳。

公が朱毛を遣わして陳子に告げて曰わく、「あなたなくばこの歩に到らざりき。しかし君と器物は同じからず。二個ある可からず。器物が二個は匱乏せず、君が二個は即ち多難なり。敢えて大夫に陳說す」。僖子が回答せずして哭泣して曰わく、「君は全く群臣を信任せざるか。齊國の困頓に因りて、困頓裏に又憂あり。年少の君は諮詢すべからず。ゆえに長君を求む。或いはも能く群臣を容納せんか!然らざれば、あの孺子に何の罪かあらん」。毛が回報し、公が後悔した。毛が曰わく、「君は陳子に大事を諮詢し、あの小事を謀劃すれば即ち可」。毛を遣わして孺子を駘に遷さんとするに、まだ至らず、野地の帳幕の下で殺掉し、殳冒淳に葬った。

◇哀公七年

◇哀公七年

【經】七年春,宋皇瑗帥師侵鄭。晉魏曼多帥師侵衛。夏,公會吳於鄫。

【経】七年春、宋皇瑗が師を率いて鄭を侵襲した。晋魏曼多が師を率いて衛を侵襲した。夏、公が鄫で呉と會見した。

秋,公伐邾。八月己酉,入邾,以邾子益來。宋人圍曹。冬,鄭駟弘帥師救曹。

秋、公が邾を伐った。八月己酉、邾に入り、邾子益を帶びて歸った。宋人が曹を包圍した。冬、鄭駟弘が師を率いて曹を救った。

【傳】七年春,宋師侵鄭,鄭叛晉故也。

【伝】七年春、宋師が鄭を侵襲したは鄭が晋を背叛せばなり。

晉師侵衛,衛不服也。

晋師が衛を侵襲したは衛が歸服せざればなり。

夏,公會吳於鄫。吳來徵百牢,子服景伯對曰:“先王未之有也。”吳人曰:“宋百牢我,魯不可以後宋。且魯牢晉大夫過十,吳王百牢,不亦可乎?”景伯曰:“晉範鞅貪而棄禮,以大國懼敝邑,故敝邑十一牢之。君若以禮命於諸侯,則有數矣。若亦棄禮,則有淫者矣。周之王也,制禮,上物不過十二,以為天之大數也。今棄周禮,而曰必百牢,亦唯執事。”吳人弗聽。景伯曰:“吳將亡矣!棄天而背本。不與,必棄疾於我。”乃與之。

夏、公が鄫で呉と會見した。呉が來りて一百太牢を征取し、子服景伯が回答して曰わく、「先王に過あらず」。呉人が曰わく、「宋は一百太牢を以て我を待てり。魯は宋の後に落つる可からず。況んや魯は十以上の太牢を以て晋大夫を待てり。呉王は一百太牢を用いるは、また可ならずや」。景伯が曰わく、「晋范鞅が貪婪にして禮を拋棄し、大國を以て敝邑を恐嚇せり。ゆえに敝邑は十一太牢を用いき。君がもし禮を以て諸侯に命令せば、即ち定數あらん。もしも禮を拋棄せば、則ち過度のあらん。周が王と稱し、禮を制定し、上等の物は十二を超過せず、それを以て天の大數と為せり。今周禮を拋棄して、卻って必ず一百太牢と曰うは、亦ただ執事に聽くのみ」。呉人が聽かず。景伯が曰わく、「呉は將に滅亡せん!天を拋棄して根本に背離す。與えざれば、必ず病害を我らに丢せん」。ここに與えた。

大宰嚭召季康子,康子使子貢辭。大宰嚭曰:“國君道長,而大夫不出門,此何禮也?”對曰:“豈以為禮?畏大國也。大國不以禮命於諸侯,苟不以禮,豈可量也?寡君既共命焉,其老豈敢棄其國?大伯端委以治周禮,仲雍嗣之,斷髮文身,臝以為飾,豈禮也哉?有由然也。”反自鄫,以吳為無能為也。

大宰嚭が季康子を召し、康子が子貢を遣わして推辭せしめた。大宰嚭が曰わく、「國君は道路上に久し。大夫は卻って門を出でず。これは何の禮ぞ」。對えて曰わく、「どこにそれを以て禮と為さん。是れ大國を害怕すればなり。大國が禮を以て諸侯に命令せず、假如に禮を用いざれば、どこに估量す可きかあらん。寡君は已に命令に供給せり。その老臣は何で敢えてその國を拋棄せん。大伯は端委を穿著して以て周禮を治理し、仲雍が繼承し、髮を剪り文身し、裸を以て裝飾と為せり。どこに禮かあらん。是れ來由有るなり」。鄫より返回し、以て呉は作為ある能わざるとす。

季康子欲伐邾,乃饗大夫以謀之。子服景伯曰:“小所以事大,信也。大所以保小,仁也。背大國,不信。伐小國,不仁。民保於城,城保於德,失二德者,危,將焉保?”孟孫曰:“二三子以為何如?惡賢而逆之?”對曰:“禹合諸侯於塗山,執玉帛者萬國。今其存者,無數十焉。唯大不字小,小不事大也。知必危,何故不言?魯德如邾,而以眾加之,可乎?”不樂而出。

季康子が邾を伐たんと欲し、ここに大夫を宴饗して以て謀劃した。子服景伯が曰わく、「小國の大國に事奉する所以は信なり。大國の小國を保護する所以は仁なり。大國を背棄するは不信、小國を攻打するは不仁なり。民は城に靠りて保全し、城は德に靠りて保全す。この兩樣の德を失掉するは危險にして、將に何を靠って保全せん」。孟孫が曰わく、「あなたら几位は如何と以為す。賢者を憎惡して卻って彼に迎合するか」。對えて曰わく、「禹が塗山で諸侯を會合するに、玉帛を執る者萬國あり。今なお存在するは幾十に至らず。ただ大なるが小なるを撫愛せず、小なるが大なるに事奉せざるを以てなり。必ず危險を知れば、何で説かざるか。魯の德は邾の如きに、卻って衆を以てそれを壓するは可や」。高興せずして出た。

秋,伐邾,及範門,猶聞鐘聲。大夫諫,不聽,茅成子請告於吳,不許,曰:“魯擊柝聞於邾,吳二千里,不三月不至,何及於我?且國內豈不足?”成子以茅叛,師遂入邾,處其公宮,眾師晝掠,邾眾保於繹。師宵掠,以邾子益來,獻於亳社,囚諸負瑕。負瑕故有繹。邾茅夷鴻以束帛乘韋,自請救於吳,曰:“魯弱晉而遠吳,馮恃其眾,而背君之盟,闢君之執事,以陵我小國。邾非敢自愛也,懼君威之不立。君威之不立,小國之憂也。若夏盟於鄫衍,秋而背之,成求而不違,四方諸侯,其何以事君?且魯賦八百乘,君之貳也。邾賦六百乘,君之私也。以私奉貳,唯君圖之。”吳子從之。

秋、邾を伐ち、范門に至り、なお鐘聲を聞き得た。大夫が進諫するも聽かず。茅成子が呉に告げるを請うたが許さず、曰わく、「魯が柝を敲く聲は邾が聞き得るに、呉は二千里ありて、三個月なくして到らず。どこに我らに趕上せん。況んや國內にあえて足らざらんや」。成子が茅を帶びて叛變し、軍隊はここに邾に入り、公宮に住み、衆軍が白天に掠奪し、邾の衆人が繹に守した。軍隊が夜裏に掠奪し、邾子益を帶びて歸り、亳社に献じ、負瑕に囚禁した。負瑕はこれにより繹人あり。邾茅夷鴻が束帛と四張の熟韋を用い、自ら呉に向かい救を求めて曰わく、「魯は晋を弱し呉を遠しと以為し、その衆を仗恃し、君の盟約を背棄し、君の執事を鄙視し、來りて我ら小國を侵陵せり。邾は敢えて自愛せず、君の威の樹立する能わざるを怕れん。君の威が樹立する能わざれば、是れ小國の憂なり。もし夏に鄫衍で結盟し、秋に即ち背棄せば、求取すれば即ち得て違背せざれば、四方諸侯は將に何を憑って君に事奉せん。況んや魯の軍賦は八百乘にして、是れ君の副貳なり。邾の軍賦は六百乘にして、是れ君の私屬なり。私屬を以て副貳を奉養するは、君に考慮を請う」。呉子が聽き從った。

宋人圍曹。鄭桓子思曰:“宋人有曹,鄭之患也。不可以不救。”冬,鄭師救曹,侵宋。

宋人が曹を包圍した。鄭桓子思が曰わく、「宋人が曹を占有するは鄭の禍患なり。救わざる可からず」。冬、鄭師が曹を救い、宋を侵襲した。

初,曹人或夢眾君子立於社宮,而謀亡曹,曹叔振鐸請待公孫強,許之。旦而求之曹,無之。戒其子曰:“我死,爾聞公孫強為政,必去之。”及曹伯陽即位,好田弋。曹鄙人公孫強好弋,獲白雁,獻之,且言田弋之說,說之。因訪政事,大說之。有寵,使為司城以聽政。夢者之子乃行。強言霸說於曹伯,曹伯從之,乃背晉而奸宋。宋人伐之,晉人不救。築五邑於其郊,曰黍丘、揖丘、大城、鍾、邗。

当初、曹人の或る者が夢に許多の君子が社宮に立ちて曹を滅亡するを謀劃し、曹叔振鐸が公孫强を等待するを請い、許したるを見た。朝に曹で尋求するに、この人なし。その兒子に告誡して曰わく、「我が死せば、あなたは公孫强が執政するを聞かば、必ず離去せよ」。曹伯陽が即位するに及び、田獵射鳥を喜好した。曹邊境の人公孫强が射鳥を喜好し、白雁を獲得し、献上し、かつ田獵射鳥の説を講じ、曹伯が喜歡した。因りて政事を詢問するに、甚だ喜歡した。寵ありて、彼を司城と為して以て政を聽かしめた。夢を做った人の兒子はここに離去した。强が曹伯に向かい霸業の説を講じ、曹伯が聽き從い、ここに晋を背叛して宋を冒犯した。宋人が彼を伐ち、晋人が救わず。郊區に五個の城邑を修築し、黍丘・揖丘・大城・鍾・邗と叫做した。

◇哀公八年

◇哀公八年

【經】八年春王正月,宋公入曹,以曹伯陽歸。吳伐我。夏,齊人取讙及闡。

【経】八年春、周天子の暦の正月、宋公が曹に入り、曹伯陽を帶びて歸った。呉が我が國を攻打した。夏、齊人が讙和闡を取得した。

歸邾子益於邾。秋七月。冬十有二月癸亥,杞伯過卒。齊人歸讙及闡。

邾子益を邾に送回した。秋七月。冬十二月癸亥、杞伯過が卒した。齊人が讙和闡を歸還した。

【傳】八年春,宋公伐曹,將還,褚師子肥殿。曹人詬之,不行,師待之。

【伝】八年春、宋公が曹を伐ち、將に返回せんとし、褚師子肥が殿後した。曹人が彼を罵るに、軍隊が走らず、全師が等待した。

公聞之,怒,命反之,遂滅曹。執曹伯及司城強以歸,殺之。

公が聞き、發怒し、返回を命令し、ここに曹を滅亡した。曹伯と司城强を捉えて帶ち歸り、彼らを殺掉した。

吳為邾故,將伐魯,問於叔孫輒。叔孫輒對曰:“魯有名而無情,伐之,必得志焉。”退而告公山不狃。公山不狃曰:“非禮也。君子違,不適仇國。未臣而有伐之,奔命焉,死之可也。所託也則隱。且夫人之行也,不以所惡廢鄉。今子以小惡而欲覆宗國,不亦難乎?若使子率,子必辭,王將使我。”子張疾之。

呉が邾の故を以て將に魯を伐たんとし、叔孫輒に向かい詢問した。叔孫輒が回答して曰わく、「魯は名聲あれども實情なし。それを伐てば、必ず能く志を得ん」。退きて公山不狃に告げた。公山不狃が曰わく、「禮に合わず。君子は本國を離るるに、仇國に至らず。まだ臣を為さずして本國を攻打の事ありて、彼らのため奔走聽命するは、これがため死すれば即ち可。托付する所有れば即ち隱瞞せよ。況んや人の出行は厭惡する所に因りて鄉里を廢棄せず。今あなたは小惡に因りて宗國を傾覆せんと欲す。また難くないか。もしあなたをして率領せしめば、あなたは必ず推辭せん。王は將に我を遣わさん」。子張がこれがため痛苦した。

王問於子洩,對曰:“魯雖無與立,必有與斃;諸侯將救之,未可以得志焉。晉與齊、楚輔之,是四仇也。夫魯,齊、晉之唇,唇亡齒寒,君所知也。不救何為?”三月,吳伐我,子洩率,故道險,從武城。初,武城人或有因於吳竟田焉,拘鄫人之漚菅者,曰:“何故使吾水滋?”及吳師至,拘者道之,以伐武城,克之。王犯嘗為之宰,澹臺子羽之父好焉。國人懼,懿子謂景伯:“若之何?”對曰:“吳師來,斯與之戰,何患焉?且召之而至,又何求焉?”吳師克東陽而進,舍於五梧,明日,舍於蠶室。公賓庚、公甲叔子與戰於夷,獲叔子與析朱鉏。

王が子泄に問うに、回答して曰わく、「魯は一起生存の助力なき雖も、必ず一起死する者あらん。諸侯は將に救援せん。なお志を得る可からず。晋と齊・楚がそれを輔助せば、これは四個の仇敵なり。魯は齊・晋の嘴唇なり。唇亡びて齒寒し。是れ君の知る所なり。救わずして何を為さん」。三月、呉が我が國を攻打し、子泄が率領し、ゆえに險路を走り、武城よりした。当初、武城人の或る者が呉境で田を種るを因りて、鄫人の菅草を浸すを捉えて曰わく、「何で我らの水を渾濁せしむるか」。呉師が到達するに及び、捉えられた人が路を帶び、來りて武城を伐ち、攻克した。王犯がかつてそこの宰を為し、澹臺子羽の父が彼と友好せり。國人が恐懼し、懿子が景伯に對して曰わく、「どうせん」。對えて曰わく、「呉師が來れば、即ち彼らと作戰せよ。何を憂患せん。況んや是れ彼らを召來したるに、又何を求めん」。呉師が東陽を攻克して前進し、五梧に住み、翌日、蠶室に住んだ。公賓庚・公甲叔子が夷で交戰し、呉が叔子と析朱鉏を俘獲した。

獻於王,王曰:“此同車,必使能,國未可望也。”明日,舍於庚宗,遂次於泗上。微虎欲宵攻王舍,私屬徒七百人,三踴於幕庭,卒三百人,有若與焉,及稷門之內。或謂季孫曰:“不足以害吳,而多殺國士,不如已也。”乃止之。吳子聞之,一夕三遷。吳人行成,將盟。景伯曰:“楚人圍宋,易子而食,析骸而爨,猶無城下之盟。我未及虧,而有城下之盟,是棄國也。吳輕而遠,不能久,將歸矣請少待之。”弗從。景伯負載,造於萊門,乃請釋子服何於吳,吳人許之。以王子姑曹當之,而後止。吳人盟而還。

王に献じ、王が曰わく、「これは同一輛車の人なり。必ず有才能を使用せば、國家はなお指望すべからず」。翌日、庚宗に住み、ここに泗上に駐した。微虎が夜に王の住處を襲撃せんと欲し、私に徒衆七百人を集合し、帳幕の庭裏で三次跳躍し、三百人を選定す。有若もその中に在り。稷門之內に到達した。或る人が季孫に對して曰わく、「呉を害するに足らず、卻って國士を多殺す。停止するに如かず」。ここに停止した。呉子が聞き、一夜に三次遷徙した。呉人が和を求め、將に結盟せんとした。景伯が曰わく、「楚人が宋を包圍し、兒子を交換して以て食し、骸骨を劈開して以て飯を燒くも、なお城下之盟なし。我らはまだ虧損せざるに、卻って城下之盟あるは國を拋棄するなり。呉は輕率にして又路遠く、持久する能わず。將に歸らん。稍く待つを請います」。聽從せず。景伯が盟書を背負い、萊門に至り、ここに子服何を呉に留むるを請い、呉人が允許した。王子姑曹を以て對等交換し、然る後に停止した。呉人が結盟して然る後に歸った。

齊悼公之來也,季康子以其妹妻之,即位而逆之。季魴侯通焉,女言其情,弗敢與也。齊侯怒,夏五月,齊鮑牧帥師伐我,取讙及闡。

齊悼公が來るとき、季康子がその妹を彼に嫁せしめ、即位して後に來りて迎娶した。季魴侯が彼女と私通し、女子が實情を説出し、敢えて給せず。齊侯が發怒し、夏五月、齊鮑牧が師を率いて我が國を攻打し、讙和闡を取得した。

或譖胡姬於齊侯,曰:“安孺子之黨也。”六月,齊侯殺胡姬。

或る人が齊侯に向かい胡姬を誣陷して曰わく、「是れ安孺子の黨なり」。六月、齊侯が胡姬を殺掉した。

齊侯使如吳請師,將以伐我,乃歸邾子。邾子又無道,吳子使大宰子餘討之,囚諸樓臺,栫之以棘。使諸大夫奉大子革以為政。

齊侯が人を遣わして呉に至り師を出すを請い、將に我が國を攻打せんとし、ここに邾子を送回した。邾子が又無道にして、呉子が大宰子余を遣わして彼を討伐し、樓臺上に囚禁し、荆棘を以て圍った。諸大夫をして太子革に事奉して以て執政せしめた。

秋,及齊平。九月,臧賓如如齊蒞盟,齊閭丘明來蒞盟,且逆季姬以歸,嬖。

秋、齊と講和した。九月、臧賓如が齊國に至りて盟約を蒞臨し、齊國閭丘明が前來して盟約を蒞臨し、かつ季姬を迎接して歸らせ、寵を得た。

鮑牧又謂群公子曰:“使女有馬千乘乎?”公子愬之。公謂鮑子:“或譖子,子姑居於潞以察之。若有之,則分室以行。若無之,則反子之所。”出門,使以三分之一行。半道,使以二乘。及潞,麇之以入,遂殺之。

鮑牧が又群公子に對して曰わく、「あなたらに馬千乘を有せしめんか」。公子が往きて告發した。齊侯が鮑子に對して曰わく、「或る人があなたを讒害せり。あなたは姑く潞に住みて以て察看せよ。もし有れば、即ち家室を分け出して離去せよ。もし無ければ、即ちあなたの住所に歸れ」。門を出で、彼に三分之一を帶びて走らしめた。半路、ただ兩輛車を帶びしめた。潞に到達し、捆りて帶びて城に進入し、ここに彼を殺した。

冬十二月,齊人歸讙及闡,季姬嬖故也。

冬十二月、齊人が讙和闡を歸還したは季姬が寵を得た故なり。

◇哀公九年

◇哀公九年

【經】九年春王二月,葬杞僖公。宋皇瑗帥師取鄭師於雍丘。夏,楚人伐陳。

【経】九年春、周天子の暦の二月、杞僖公を安葬した。宋國皇瑗が軍を率い雍丘で鄭軍を殲滅した。夏、楚人が陳を伐った。

秋,宋公伐鄭。冬十月。

秋、宋公が鄭を伐った。冬十月。

【傳】九年春,齊侯使公孟綽辭師於吳。吳子曰:“昔歲寡人聞命。今又革之,不知所從,將進受命於君。”

【伝】九年春、齊侯が公孟綽を遣わして呉に向かい出兵を推辭せしめた。呉子が曰わく、「往年寡人は命令を聞けり。今また改變す。どの一句に聽從するを知らず。將に前に往きて君に向かい命令を接受せん」。

鄭武子剩之嬖許瑕求邑,無以與之。請外取,許之。故圍宋雍丘。宋皇瑗圍鄭師,每日遷舍,壘合,鄭師哭。子姚救之,大敗。二月甲戌,宋取鄭師於雍丘,使有能者無死,以郟張與鄭羅歸。

鄭國武子剩の寵臣許瑕が城邑を求取するに、彼に給う可きなく。外より奪取するを請い、答應した。ゆえに宋國雍丘を包圍した。宋國皇瑗が鄭軍を包圍し、每日營壘を遷移し、堡壘が合圍し、鄭軍が哭泣した。子姚が救援するも大いに敗れた。二月甲戌、宋が雍丘で鄭軍を殲滅し、有才能を死なせず、郟張と鄭羅を帶びて歸った。

夏,楚人伐陳,陳即吳故也。

夏、楚人が陳を伐ったは陳が呉に親近する故なり。

宋公伐鄭。

宋公が鄭を伐った。

秋,吳城邗,溝通江、淮。

秋、呉が邗で城を築き、江・淮を溝通した。

晉趙鞅卜救鄭,遇水適火,占諸史趙、史墨、史龜。史龜曰:“是謂瀋陽,可以興兵。利以伐姜,不利子商。伐齊則可,敵宋不吉。”史墨曰:“盈,水名也。子,水位也。名位敵,不可幹也。炎帝為火師,姜姓其後也。水勝火,伐姜則可。”史趙曰:“是謂如川之滿,不可遊也。鄭方有罪,不可救也。救鄭則不吉,不知其他。”陽虎以《周易》筮之,遇《泰》ⅱⅰ之《需》ⅴⅰ,曰:“宋方吉,不可與也。微子啟,帝乙之元子也。宋、鄭,甥舅也。祉,祿也。若帝乙之元子歸妹,而有吉祿,我安得吉焉?”乃止。

晋國趙鞅が鄭を救うを占卜し、水適火に遇い、史趙・史墨・史龜に向かい占問した。史龜が曰わく、「これを沈陽と曰い、兵を起す可し。姜を伐つに利し、子商に利あらず。齊を伐てば可なり。宋と敵と為るは吉利ならず」。史墨が曰わく、「盈は水名なり。子は水位なり。名と位と相當す。干犯すべからず。炎帝が火師を為し、姜姓はその後代なり。水が火に勝つ。姜を伐てば即ち可」。史趙が曰わく、「これを河水の滿溢の如くと曰い、游すべからず。鄭は正に罪あり。救う可からず。鄭を救えば即ち吉利ならず。その他は知らず」。陽虎が《周易》を以て占筮し、《泰》之《需》に遇いて曰わく、「宋は正に吉利にして、それと對作すべからず。微子啟は帝乙の長子なり。宋・鄭は甥舅なり。祉は祿なり。もし帝乙の長子が妹を嫁して吉祿有れば、我らはどこに吉を得ん」。ここに停下した。

冬,吳子使來亻敬師伐齊。

冬、呉子が人を遣わして來りて師を儆して齊を伐たせた。

◇哀公十年

◇哀公十年

【經】十年春王二月,邾子益來奔。公會吳伐齊。三月戊戌,齊侯陽生卒。

【経】十年春、周天子の暦の二月、邾子益が前來して投奔した。哀公が呉と會合して齊を伐った。三月戊戌、齊侯陽生が去世した。

夏,宋人伐鄭。晉趙鞅帥師侵齊。五月,公至自伐齊。葬齊悼公。衛公孟彄自齊歸於衛。薛伯夷卒。秋,葬薛惠公。冬,楚公子結帥師伐陳。吳救陳。

夏、宋人が鄭を伐った。晋國趙鞅が軍を率いて齊を侵した。五月、哀公が齊を伐ってより歸った。齊悼公を安葬した。衛國公孟彄が齊より衛に歸った。薛伯夷が去世した。秋、薛惠公を安葬した。冬、楚國公子結が軍を率いて陳を伐った。呉が陳を救援した。

【傳】十年春,邾隱公來奔。齊甥也,故遂奔齊。

【伝】十年春、邾隱公が前來して投奔した。是れ齊國の外甥なり。ゆえに続いて齊國に逃奔した。

公會吳子、邾子、郯子伐齊南鄙,師於鄎。齊人弒悼公,赴於師。吳子三日哭于軍門之外。徐承帥舟師,將自海入齊,齊人敗之,吳師乃還。

哀公が呉子・邾子・郯子と會合して齊國南部邊境を伐ち、軍隊が鄎に駐した。齊人が悼公を弑し、軍に向かい訃告を發した。呉子が軍門外で三日を哭いた。徐承が舟師を率領し、將に海路より齊に入らんとしたが、齊人が彼らを打敗し、呉軍はここに返回した。

夏,趙鞅帥師伐齊,大夫請卜之。趙孟曰:“吾卜於此起兵,事不再令,卜不襲吉,行也。”於是乎取犁及轅,毀高唐之郭,侵及賴而還。

夏、趙鞅が軍を率いて齊を伐ち、大夫が占卜を請うた。趙孟が曰わく、「我はこの事のため兵を起すに已に占卜せり。事は命令を重複せず、占卜は吉を重叠に求めず。出發せよ」。ここに犁と轅を取得し、高唐の外城を毀壞し、賴に侵して然る後に返回した。

秋,吳子使來復亻敬師。

秋、呉子が人を遣わして再び來りて師を儆せしめた。

冬,楚子期伐陳。吳延州來季子救陳,謂子期曰:“二君不務德,而力爭諸侯,民何罪焉?我請退,以為子名,務德而安民。”乃還。

冬、楚國子期が陳を伐った。呉國延州來季子が陳を救い、子期に對して曰わく、「兩位の國君が德に致力せずして、卻って力を用いて諸侯を爭奪す。百姓に何の罪かあらん。我は退下するを請い、あなたの名聲を成全し、德に致力して百姓を安定せしめん」。ここに歸った。

◇哀公十一年

◇哀公十一年

【經】十有一年春,齊國書帥師伐我。夏,陳轅頗出奔鄭。五月,公會吳伐齊。甲戌,齊國書帥師及吳戰於艾陵,齊師敗績,獲齊國書。秋七月辛酉,滕子虞母卒。冬十有一月,葬滕隱公。衛世叔齊出奔宋。

【経】十一年春、齊國國書が軍を率いて我を伐った。夏、陳國轅頗が鄭國に出奔した。五月、哀公が呉と會合して齊を伐った。甲戌、齊國國書が軍を率い呉と艾陵で交戰し、齊軍が大いに敗れ、齊國國書を擒獲した。秋七月辛酉、滕子虞母が去世した。冬十一月、滕隱公を安葬した。衛國世叔齊が宋國に出奔した。

【傳】十一年春,齊為鄎故,國書、高無丕帥師伐我,及清。季孫謂其宰冉求曰:“齊師在清,必魯故也。若之何?”求曰:“一子守,二子從公御諸竟。”

【伝】十一年春、齊國が鄎の故を以て、國書・高無丕が軍を率いて我を伐ち、淸に到達した。季孫がその家宰冉求に對して曰わく、「齊軍が淸に在り。必ず魯國のためなり。どうせん」。求が曰わく、「一位が留守し、兩位が公に跟從して邊境で抵御せよ」。

季孫曰:“不能。”求曰:“居封疆之間。”季孫告二子,二子不可。求曰:“若不可,則君無出。一子帥師,背城而戰。不屬者,非魯人也。魯之群室,眾於齊之兵車。一室敵車,優矣。子何患焉?二子之不欲戰也宜,政在季氏。當子之身,齊人伐魯而不能戰,子之恥也。大不列於諸侯矣。”季孫使從於朝,俟於黨氏之溝。武叔呼而問戰焉,對曰:“君子有遠慮,小人何知?”懿子強問之,對曰:“小人慮材而言,量力而共者也。”武叔曰:“是謂我不成丈夫也。”退而蒐乘,孟孺子洩帥右師,顏羽御,邴洩為右。冉求帥左師,管周父御,樊遲為右。季孫曰:“須也弱。”有子曰:“就用命焉。”季氏之甲七千,冉有以武城人三百為己徒卒。老幼守宮,次於雩門之外。五日,右師從之。公叔務人見保者而泣,曰:“事充政重,上不能謀,士不能死,何以治民?吾既言之矣,敢不勉乎!”師及齊師戰於郊,齊師自稷曲,師不逾溝。樊遲曰:“非不能也,不信子也。

季孫が曰わく、「不能」。求が曰わく、「即ち封疆の間に在れ」。季孫が二人に告ぐるに、二人が答應せず。求が曰わく、「もし行かざれば、然らば國君は出でる勿れ。一位が軍を率い、城を背負いて戰え。隸屬せざるは即ち魯人にあらず。魯國の群室は齊國の兵車より多し。一家が一輛車に對付すれば、即ち餘あり。あなたは何を擔心せん。二人が打ちたがらざるは應當なり。政事は季氏に在り。あなたのこの一身に在りて、齊人が魯を伐てども能く打たざるは、あなたの恥辱なり。大大に諸侯に列する能わざらん」。季孫が彼をして上朝に跟從せしめ、黨氏之溝で等候した。武叔が呼喚して戰事を問うに、回答して曰わく、「君子は長遠の考慮あり。小人は何を知らん」。懿子が硬に問うに、回答して曰わく、「小人は才干を估量して乃ち說話し、力量を衡量して乃ち役に供する人なり」。武叔が曰わく、「これは我を丈夫と成らざるを説くなり」。退きて兵車を檢閱した。孟孺子泄が右師を率領し、顏羽が駕車し、邴泄が車右を為した。冉求が左師を率領し、管周父が駕車し、樊遲が車右を為した。季孫が曰わく、「須はなお弱し」。有子が曰わく、「即ち能く命を聽くを用いよ」。季氏の甲士七千に、冉有が武城人三百を以て自らの徒卒と為した。老幼が宮室を守衛し、雩門之外に駐紮した。五日後、右師が跟上した。公叔務人が城を守る人を見て哭泣して曰わく、「徭役多く賦稅重く、上に在る者は能く謀劃せず、士は能く死せず。何を憑って百姓を治理せん。我は已に説けり。敢えて勉力せざらんや!」。軍隊が齊軍と郊で交戰した。齊軍が稷曲より來るに、我が軍は溝を越えず。樊遲が曰わく、「能ならざるにあらず。あなたを相信せざるなり。

請三刻而逾之。”如之,眾從之。師入齊軍,右師奔,齊人從之,陳瓘、陳莊涉泗。孟之側後入以為殿,抽矢策其馬,曰:“馬不進也。”林不狃之伍曰:“走乎?”不狃曰:“誰不如?”曰:“然則止乎?”不狃曰:“惡賢?”徐步而死。

(樊遲が続いて説く:)三次鼓を撃って然る後に越えるを約定せんを請います」。この如く為すに、衆人が跟著した。軍隊が齊軍に攻入し、右師が奔逃し、齊人が追趕し、陳瓘・陳莊が泗水を渡った。孟之側が最後に入りて殿後を為し、箭を抽出して馬を打ちて曰わく、「馬が前進を肯んぜず」。林不狃のあの伍の人が曰わく、「跑るか」。不狃が曰わく、「誰が人に比べ及ばざらん」。曰わく、「然らば停下するか」。不狃が曰わく、「どこに賢と算せん」。慢慢に走りて死んだ。

師獲甲首八十,齊人不能師。宵,諜曰:“齊人遁。”冉有請從之三,季孫弗許。

軍隊が甲首八十を獲得し、齊人は軍を成す能わず。夜に、探子が曰わく、「齊人は逃げり」。冉有が三次追撃を請うたが、季孫が許さず。

孟孺子語人曰:“我不如顏羽,而賢於邴洩。子羽銳敏,我不欲戰而能默。洩曰:‘驅之。’”公為與其嬖僮汪錡乘,皆死,皆殯。孔子曰:“能執干戈以衛社稷,可無殤也。”冉有用矛於齊師,故能入其軍。孔子曰:“義也。”

孟孺子が人に對して曰わく、「我は顏羽に如かず、卻って邴泄より賢なり。子羽は鋭敏にして、我は打ちたがらざれども能く說話せざらず。泄が曰く、『馬を驅りて衝せ』」。公為がその寵愛の童子汪錡と同乘し、皆死し、皆殯に入れた。孔子が曰わく、「能く干戈を執りて社稷を保衛すれば、殤と為さずして可」。冉有が矛を以て齊軍に對付し、ゆえに能く齊軍に攻入せり。孔子が曰わく、「これは義なり」。

夏,陳轅頗出奔鄭。初,轅頗為司徒,賦封田以嫁公女。有餘,以為己大器。

夏、陳國轅頗が鄭國に出奔した。当初、轅頗が司徒を為し、封地田畝に向かい賦を征して以て公女を嫁せしめた。剩餘ありて、自ら大器を做った。

國人逐之,故出。道渴,其族轅咺進稻醴、梁糗、腶脯焉。喜曰:“何其給也?”對曰:“器成而具。”曰:“何不吾諫?”對曰:“懼先行。”

國人が彼を驅逐し、ゆえに出奔した。路上で口渴し、その族人轅咺が稻醴・梁糗・腶脯を送上した。高興して曰わく、「何でこの如く豐足か」。對えて曰わく、「器具を做成する時に即ち準備せり」。曰わく、「何で我を勸諫せざるか」。對えて曰わく、「先に趕走せられんを怕れき」。

為郊戰故,公會吳子伐齊。五月,克博,壬申,至於嬴。中軍從王,胥門巢將上軍,王子姑曹將下軍,展如將右軍。齊國書將中軍,高無丕將上軍,宗樓將下軍。陳僖子謂其弟書:“爾死,我必得志。”宗子陽與閭丘明相厲也。桑掩胥御國子,公孫夏曰:“二子必死。”將戰,公孫夏命其徒歌《虞殯》。陳子行命其徒具含玉。公孫揮命其徒曰:“人尋約,吳發短。”東郭書曰:“三戰必死,於此三矣。”使問弦多以琴,曰:“吾不復見子矣。”陳書曰:“此行也,吾聞鼓而已,不聞金矣。”

郊戰の故を以て、哀公が呉子と會合して齊を伐った。五月、博を攻克し、壬申、嬴に到達した。中軍が呉王に跟從し、胥門巢が上軍を率領し、王子姑曹が下軍を率領し、展如が右軍を率領した。齊國國書が中軍を率領し、高無丕が上軍を率領し、宗樓が下軍を率領した。陳僖子がその弟書に對して曰わく、「あなたが死せば、我は必ず志を得ん」。宗子陽と閭丘明が互相勉勵した。桑掩胥が國子のため駕車し、公孫夏が曰わく、「この兩位は必ず死せん」。將に交戰せんとし、公孫夏が部下に《虞殯》を唱せしめた。陳子行が部下に含玉を準備せしめた。公孫揮が部下に命令して曰わく、「每人八尺繩子。呉人は頭髮短し」。東郭書が曰わく、「三戰は必ず死せん。ここに在るは第三次なり」。人を遣わして琴を弦多に送りて曰わく、「我は再びあなたを見ず」。陳書が曰わく、「この一次の出行は、我はただ鼓を聽き、再び金を聽かざらん」。

甲戌,戰於艾陵,展如敗高子,國子敗胥門巢。王卒助之,大敗齊師。獲國書、公孫夏、閭丘明、陳書、東郭書,革車八百乘,甲首三千,以獻於公。將戰,吳子呼叔孫,曰:“而事何也?”對曰:“從司馬。”王賜之甲、劍、鈹,曰:“奉爾君事,敬無廢命。”叔孫未能對,衛賜進,曰:“州仇奉甲從君。”而拜。

甲戌、艾陵で交戰した。展如が高子を敗り、國子が胥門巢を敗った。呉王の直屬部隊が幫助し、大いに齊軍を敗った。國書・公孫夏・閭丘明・陳書・東郭書を擒獲し、革車八百乘・甲首三千を哀公に献じた。將に交戰せんとし、呉子が叔孫を呼喚して曰わく、「あなたは何の職を司るか」。回答して曰わく、「司馬に跟從す」。呉王が彼に甲・劍・鈹を賜して曰わく、「あなたの國君の事を奉行し、敬慎して命令を廢棄する勿れ」。叔孫がまだ回答する能わざるに、衛賜が上前して曰わく、「州仇が甲を奉じて君に跟從す」。ここに下拜した。

公使大史固歸國子之元,置之新篋,褽之以玄纁,加組帶焉。置書於其上,曰:“天若不識不衷,何以使下國?”吳將伐齊,越子率其眾以朝焉,王及列士,皆有饋賂。吳人皆喜,惟子胥懼,曰:“是豢吳也夫!”諫曰:“越在我,心腹之疾也。壤地同,而有欲於我。夫其柔服,求濟其欲也,不如早從事焉。得志於齊,猶獲石田也,無所用之。越不為沼,吳其泯矣,使醫除疾,而曰:‘必遺類焉’者,未之有也。《盤庚之誥》曰:‘其有顛越不共,則劓殄無遺育,無俾易種於茲邑。’是商所以興也。今君易之,將以求大,不亦難乎?”弗聽,使於齊,屬其子於鮑氏,為王孫氏。反役,王聞之,使賜之屬鏤以死,將死,曰:“樹吾墓檟,檟可材也。吳其亡乎!三年,其始弱矣。盈必毀,天之道也。”

哀公が太史固を遣わして國子の頭顱を送回せしめ、新匣裏に放き、玄纁を以て襯墊し、組帶を加上した。書信をその上に放きて曰わく、「上天がもし不正を辨識せざれば、何以て下國をしてこの如くあらしめん」。呉が將に齊を伐たんとし、越子が部衆を率いて來朝し、呉王と列士に皆饋贈あり。呉人が皆高興するに、ただ子胥のみが恐懼して曰わく、「これは呉國を豢養するなり!」。勸諫して曰わく、「越國は我らに對して心腹之疾なり。土地が相連し、又我らに欲望あり。彼らの柔順服從は欲望を實現せんを求むるなり。早く對付するに如かず。齊で志を得るは石田を獲得するが如く、用處なし。越國が池沼と成らざれば、呉國はおそらく將に滅せん。醫生に病を除かしめて、卻って『必ず種類を留下せよ』と曰うは、かつてあらず。《盤庚之誥》に曰く、『もし顛越不恭あらば、即ち割盡滅絕して餘種を留めず、彼らをしてこの邑裏で種を換えしむる勿れ』。これは商の興起する所以の故なり。今君は反って為し、强大を求取せんと欲するは、また難くないか」。聽かず、彼を齊國に遣わし、兒子を鮑氏に托付し、王孫氏と為った。歸りて復命するに、呉王が聞き、彼に屬鏤を賜して彼を死なしめた。將に死せんとして曰わく、「我が墓上に檟を種れ。檟は成材す可し。呉國はおそらく將に亡ぶか!三年、即ち衰弱を開始せん。盈滿は必ず毀壞す。是れ天の道理なり」。

秋,季孫命修守備,曰:“小勝大,禍也。齊至無日矣。”

秋、季孫が令を下して守備を修繕せしめて曰わく、「小國が大國に戰勝するは禍なり。齊軍の到來は幾日ならじ」。

冬,衛大叔疾出奔宋。初,疾娶於宋子朝,其娣嬖。子朝出。孔文子使疾出其妻而妻之。疾使侍人誘其初妻之娣,置於犁,而為之一宮,如二妻。文子怒,欲攻之。仲尼止之。遂奪其妻。或淫於外州,外州人奪之軒以獻。恥是二者,故出。衛人立遺,使室孔姞。疾臣向魋納美珠焉,與之城鉏。宋公求珠,魋不與,由是得罪。及桓氏出,城鉏人攻大叔疾,衛莊公復之。使處巢,死焉。殯於鄖,葬於少禘。

冬、衛國太叔疾が宋國に出奔した。当初、疾が宋子朝の女兒を娶り、その娣が寵を得た。子朝が出奔した。孔文子が疾に妻子を休せしめ、女兒を彼に嫁せしめた。疾が侍人を遣わして原先の妻子の娣を誘出し、犁に安置し、彼女に一座の宮室を給し、兩個の妻子の如くせり。文子が發怒し、彼を攻打せんと欲した。仲尼が勸止した。ここに女兒を奪回した。又或る人が外州で淫亂し、外州人がその車子を奪走して献上した。この兩件の事を以て恥とし、ゆえに出奔した。衛人が遺を立て、彼をして孔姞を娶らしめた。疾が向魋の家臣を為し、美珠を進献し、彼に城鉏を給えた。宋公が珠を求むるに、魋が與えず、これにより罪を得た。桓氏が出奔するに及び、城鉏人が太叔疾を攻打し、衛莊公が彼を歸らしめた。彼をして巢に住まわせ、そこで死んだ。靈柩が鄖に停し、少禘に葬った。

初,晉悼公子憖亡在衛,使其女僕而田。大叔懿子止而飲之酒,遂聘之,生悼子。悼子即位,故夏戊為大夫。悼子亡,衛人翦夏戊。孔文子之將攻大叔也,訪於仲尼。仲尼曰:“胡簋之事,則嘗學之矣。甲兵之事,未之聞也。”退,命駕而行,曰:“鳥則擇木,木豈能擇鳥?”文子遽止之,曰:“圉豈敢度其私,訪衛國之難也。”將止。魯人以幣召之,乃歸。

当初、晋悼公の兒子慭が衛に逃亡し、その女兒をして駕車して打獵せしめた。太叔懿子が攔住して彼女を酒に請い、ここに聘娶し、悼子を生下した。悼子が即位し、ゆえに夏戊が大夫を為した。悼子が逃亡し、衛人が夏戊を翦滅した。孔文子が將に太叔を攻打せんとし、仲尼に向かい詢問した。仲尼が曰わく、「胡簋祭祀の事は、かつて學びき。甲兵の事は、かつて聞かず」。退きて、人に車を駕せて走らんを命じて曰わく、「鳥は樹木を選擇す。樹木はどこに能く鳥を選擇せん」。文子が急忙に攔住して曰わく、「圉はどこに敢えて自らの私利を謀らん。是れ衛國の禍難を詢問するなり」。將に留下せんとす。魯人が幣を以て彼を召し、ここに國に歸った。

季孫欲以田賦,使冉有訪諸仲尼。仲尼曰:“丘不識也。”三發,卒曰:“子為國老,待子而行,若之何子之不言也?”仲尼不對。而私於冉有曰:“君子之行也,度於禮,施取其厚,事舉其中,斂從其薄。如是則以丘亦足矣。若不度於禮,而貪冒無厭,則雖以田賦,將又不足。且子季孫若欲行而法,則周公之典在。若欲苟而行,又何訪焉?”弗聽。

季孫が田賦を用いんと欲し、冉有を遣わして仲尼に向かい詢問せしめた。仲尼が曰わく、「丘は懂得せず」。三次問うて、終に曰わく、「あなたは國老なり。あなたの話を待ちて然る後に實行するに、あなたは何で說話せざるか」。仲尼が回答せず。私に冉有に對して曰わく、「君子の行事は禮を以て衡量す。施與はその厚を取り、做事はその適中を取り、征收はその薄に從う。この如くすれば、丘賦を以てすれば即ち足らん。もし禮を以て衡量せず、貪得無厭なれば、則ちたとえ田賦を用いるとも、還將に足らざらん。況んや季孫がもし法に依りて行事せんと欲せば、周公の典章がなお在り。もし苟且に行事せんと欲せば、又必ずしも何で詢問せん」。聽かず。

◇哀公十二年

◇哀公十二年

【經】十有二年春,用田賦。夏五月甲辰,孟子卒。公會吳於皋阜。秋,公會衛侯、宋皇瑗於鄖。宋向巢帥師伐鄭。冬十有二月,螽。

【経】十二年春、田賦を用いた。夏五月甲辰、孟子が去世した。哀公が皋阜で呉と會見した。秋、哀公が鄖で衛侯・宋國皇瑗と會見した。宋國向巢が軍を率いて鄭を伐った。冬十二月、蝗蟲あり。

【傳】十二年春,王正月,用田賦。

【伝】十二年春、周天子の暦の正月、田賦を用いた。

夏五月,昭夫人孟子卒。昭公娶於吳,故不書姓。死不赴,故不稱夫人。不反哭,故言不葬小君。孔子與吊,適季氏。季氏不絻,放絰而拜。

夏五月、昭夫人孟子が去世した。昭公が呉に娶れば、ゆえに姓を記載せず。死して訃告を發せず、ゆえに夫人と稱せず。哭吊に返回せず、ゆえに小君を安葬と曰わず。孔子が吊唁に參與し、季氏の所に至った。季氏が絻を穿さず、孔子が絰を放下して拜した。

公會吳於橐皋。吳子使大宰嚭請尋盟。公不欲,使子貢對曰:“盟所以周信也,故心以制之,玉帛以奉之,言以結之,明神以要之。寡君以為苟有盟焉,弗可改也已。若猶可改,日盟何益?今吾子曰:‘必尋盟。’若可尋也,亦可寒也。”

哀公が橐皋で呉と會見した。呉子が太宰嚭を遣わして盟約を重温するを請いしめた。哀公が願わず、子貢を遣わして回答して曰わしめ、「盟約は以て信用を鞏固するなり。ゆえに心を以て制約し、玉帛を以て奉持し、言語を以て締結し、明神に請いりて約束す。寡君はただ盟約あれば、即ち再び改む可からずと以為す。もしなお改む可ければ、日日に結盟して何の益處かあらん。今あなたが曰く、『必ず盟約を重温せよ』。もし重温す可ければ、またそれを寒冷せしむるも可なり」。

乃不尋盟。

ここに再び盟約を重温せず。

吳徵會於衛。初,衛人殺吳行人且姚而懼,謀於行人子羽。子羽曰:“吳方無道,無乃辱吾君,不如止也。”子木曰:“吳方無道,國無道,必棄疾於人。

呉が衛に向かい會盟を征召した。当初、衛人が呉國の行人且姚を殺して害怕し、行人子羽と謀劃した。子羽が曰わく、「呉は正に無道にして、ただ怕れて我らの國君を羞辱せん。往かざるに如かず」。子木が曰わく、「呉は正に無道なり。國家が無道なれば、必ず災禍を他人に加えん。

吳雖無道,猶足以患衛。往也。長木之斃,無不摽也。國狗之瘈,無不噬也。而況大國乎?”秋,衛侯會吳於鄖。公及衛侯、宋皇瑗盟,而卒辭吳盟。吳人藩衛侯之舍。

(子木が続いて説く:)呉國は無道なる雖も、なお足りて衛を禍害す。往け。大樹が倒下すれば、打たれざるなし。瘋狗が發狂すれば、咬まざるなし。況んや大國をや」。秋、衛侯が鄖で呉と會見した。哀公が衛侯・宋國皇瑗と盟約を訂立し、終に呉との結盟を推辭した。呉人が衛侯の館舍を圍った。

子服景伯謂子貢曰:“夫諸侯之會,事既畢矣,侯伯致禮,地主歸餼,以相辭也。

子服景伯が子貢に對して曰わく、「諸侯の會盟は事が已に完畢せば、侯伯が禮を致し、地主が餼を送回して以て互相辭別す。

今吳不行禮於衛,而藩其君舍以難之,子盍見大宰?”乃請束錦以行。語及衛故,大宰嚭曰:“寡君願事衛君,衛君之來也緩,寡君懼,故將止之。”子貢曰:“衛君之來,必謀於其眾。其眾或欲或否,是以緩來。其欲來者,子之黨也。其不欲來者,子之仇也。若執衛君,是墮黨而崇仇也。夫墮子者得其志矣!且合諸侯而執衛君,誰敢不懼?墮黨崇仇,而懼諸侯,或者難以霸乎!”大宰嚭說,乃舍衛侯。衛侯歸,效夷言。子之尚幼,曰:“君必不免,其死於夷乎!執焉,而又說其言,從之固矣。”

(景伯が続いて説く:)今呉國が衛に禮を行わずして、卻ってその館舍を圍みて以て彼を難ず。あなたは何で往きて太宰に見えざるか」。ここに束錦を帶びて前往するを請うた。衛國の事に談じて、太宰嚭が曰わく、「寡君は衛君に事奉せんを願うに、衛君の來ること慢く、寡君は害怕し、ゆえに將に彼を留下せんとす」。子貢が曰わく、「衛君の前來は必ず衆人と謀劃せり。衆人に或は往かんと欲し或は欲せず。ゆえに來ること慢し。前に來るを欲するはあなたの黨羽なり。前に來るを欲せざるはあなたの仇人なり。もし衛君を捉えれば、是れ黨羽を毀壞して仇人を抬高す。あなたを毀壞する人が志を得ん!況んや諸侯を會合して卻って衛君を捉えるは、誰が敢えて懼れざらん。黨を毀し仇を抬き、又諸侯を懼れしむるは、ただ怕れて稱霸し難からんか!」。太宰嚭が高興し、ここに衛侯を放した。衛侯が歸り、學びて夷人の話を説いた。子之がなお小さく、曰わく、「君は必ず禍を免れざらん。おそらく夷人の所で死せんか!捉えられて、卻って彼らの話を喜ぶ。彼らに跟隨するは一定なり」。

冬十二月,螽。季孫問諸仲尼,仲尼曰:“丘聞之,火伏而後蜇者畢。今火猶西流,司歷過也。”

冬十二月、蝗蟲あり。季孫が仲尼に向かい詢問し、仲尼が曰わく、「丘は聞くに、大火星が隱沒して後に蟄蟲が乃ち完畢す。今大火星がなお西流す。是れ司曆の過錯なり」。

宋鄭之間有隙地焉,曰彌作、頃丘、玉暢、巖、戈、鍚。子產與宋人為成,曰:“勿有是。”及宋平、元之族自蕭奔鄭,鄭人為之城巖、戈、鍚。九月,宋向巢伐鄭,取鍚,殺元公之孫,遂圍巖。十二月,鄭罕達救巖。丙申,圍宋師。

宋・鄭の間に空隙の地ありて、彌作・頃丘・玉暢・巖・戈・鍚と叫做す。子産が宋人と講和して曰わく、「これらを據有する勿れ」。宋平公・元公の族人が蕭より鄭國に逃奔するに及び、鄭人が彼らのため巖・戈・鍚に城を築いた。九月、宋國向巢が鄭を伐ち、鍚を取得し、元公の孫子を殺し、ここに巖を包圍した。十二月、鄭國罕達が巖を救った。丙申、宋軍を包圍した。

◇哀公十三年

◇哀公十三年

【經】十有三年春,鄭罕達帥師取宋師於巖。夏,許男成卒。公會晉侯及吳子於黃池。楚公子申帥師伐陳。于越入吳。秋,公至自會。晉魏曼多帥師侵衛。

【経】十三年春、鄭國罕達が軍を率い巖で宋軍を殲滅した。夏、許男成が去世した。哀公が黃池で晋侯と呉子に會見した。楚國公子申が軍を率いて陳を伐った。于越が呉に攻入した。秋、哀公が會盟より歸った。晋國魏曼多が軍を率いて衛を侵した。

葬許元公。九月,螽。冬十有一月,有星孛於東方。盜殺陳夏區夫。十有二月,螽。

許元公を安葬した。九月、蝗蟲あり。冬十一月、星孛が東方に出現した。盜賊が陳國夏區夫を殺した。十二月、蝗蟲あり。

【傳】十三年春,宋向魋救其師。鄭子剩使徇曰:“得桓魋者有賞。”魋也逃歸,遂取宋師於巖,獲成讙、郜延。以六邑為虛。

【伝】十三年春、宋國向魋がその軍隊を救援した。鄭國子剩が人を遣わして巡行して曰わしめ、「桓魋を得る者に賞あらん」。魋が逃げ歸り、ここに巖で宋軍を殲滅し、成讙・郜延を擒獲した。六邑を以て廢墟と為した。

夏,公會單平公、晉定公、吳夫差於黃池。

夏、哀公が黃池で單平公・晋定公・呉夫差に會見した。

六月丙子,越子伐吳,為二隧。疇無餘、謳陽自南方,先及郊。吳大子友、王子地、王孫彌庸、壽於姚自泓上觀之。彌庸見姑蔑之旗,曰:“吾父之旗也。

六月丙子、越子が呉を伐ち、兩路に分けた。疇無余・謳陽が南方より來り、先に郊外に至った。呉太子友・王子地・王孫彌庸・壽于姚が泓上より觀望した。彌庸が姑蔑の旗幟を見て曰わく、「是れ我が父の旗なり。

不可以見仇而弗殺也。”大子曰:“戰而不克,將亡國。請待之。”彌庸不可,屬徒五千,王子地助之。乙酉,戰,彌庸獲疇無餘,地獲謳陽。越子至,王子地守。丙戌,復戰,大敗吳師。獲大子友、王孫彌庸、壽於姚。丁亥,入吳。吳人告敗於王,王惡其聞也,自剄七人於幕下。

(彌庸が続いて説く:)仇人を見て卻って殺さざる可からず」。太子が曰わく、「打ちて勝たざれば、將に國を亡ぼさん。等待するを請います」。彌庸が聽かず、徒衆五千を集合し、王子地が彼を幫助した。乙酉に交戰し、彌庸が疇無余を擒獲し、地が謳陽を擒獲した。越子が到達し、王子地が留守した。丙戌に再び戰い、大いに呉軍を敗った。太子友・王孫彌庸・壽于姚を擒獲した。丁亥、呉都に入った。呉人が呉王に戰敗を報告するに、呉王が他人に聞かせるを討厭し、帳下で自ら七個人を殺した。

秋七月辛丑,盟,吳、晉爭先。吳人曰:“於周室,我為長。”晉人曰:“於姬姓,我為伯。”趙鞅呼司馬寅曰:“日旰矣,大事未成,二臣之罪也。建鼓整列,二臣死之,長幼必可知也。”對曰:“請姑視之。”反,曰:“肉食者無墨。今吳王有墨,國勝乎?大子死乎?且夷德輕,不忍久,請少待之。”乃先晉人。吳人將以公見晉侯,子服景伯對使者曰:“王合諸侯,則伯帥侯牧以見於王。伯合諸侯,則侯帥子男以見於伯。自王以下,朝聘玉帛不同。故敝邑之職貢於吳,有豐於晉,無不及焉,以為伯也。今諸侯會,而君將以寡君見晉君,則晉成為伯矣,敝邑將改職貢。魯賦於吳八百乘,若為子男,則將半邾以屬於吳,而如邾以事晉。且執事以伯召諸侯,而以侯終之,何利之有焉?”吳人乃止。既而悔之,將囚景伯,景伯曰:“何也立後於魯矣。將以二乘與六人從,遲速唯命。”

秋七月辛丑、盟約を訂立し、呉・晋が爭い先を為した。呉人が曰わく、「周室に於ては、我らは長なり」。晋人が曰わく、「姬姓の中に於ては、我らは伯なり」。趙鞅が司馬寅を呼喚して曰わく、「天は晚し。大事はまだ成らず。是れ我ら兩個の臣の罪なり。鼓を立て行列を整え、兩個の臣がこれがため死せば、長幼は必ず知る可し」。回答して曰わく、「姑く往きて看るを請います」。歸りて曰わく、「肉を食する人に氣色の發黑するなし。今呉王に墨色あり。是れ國家が戰勝せられたか。太子が死したか。況んや夷人の德行は輕浮にして持久する能わず。稍く待つを請います」。ここに晋人をして先に歃せしめた。呉人が將に哀公を帶びて晋侯に見えんとし、子服景伯が使者に對して曰わく、「王が諸侯を會合すれば、則ち伯が侯牧を率いて往きて王に見ゆ。伯が諸侯を會合すれば、則ち侯が子男を率いて往きて伯に見ゆ。王より以下、朝聘の玉帛は相同せず。ゆえに敝邑の呉に交納する職貢は晋に比べて更に豐厚なるあり、比べ及ばざるなし。是れ呉を以て伯と為すなり。今諸侯が會合するに、君は卻って將に寡君を帶びて晋君に見えんとす。然らば晋は即ち伯と成り、敝邑は將に職貢を改變せん。魯が呉に八百乘の賦を出すに、もし子男を為せば、將に邾の半に按って呉に屬し、邾の如く晋に事奉せん。況んや執事が伯を以て諸侯を召集して、卻って侯を以て結束するは、何の利かあらん」。呉人はここに停下した。隨後に後悔し、將に景伯を囚禁せんとした。景伯が曰わく、「何は已に魯國で後嗣を立てり。將に兩輛車と六個人を以て跟隨し、快慢はただ命令に聽かん」。

遂囚以還。及戶牖,謂大宰曰:“魯將以十月上辛,有事於上帝先王,季辛而畢。

ここに囚禁して帶ち歸った。戶牖に到達し、太宰に對して曰わく、「魯國は將に十月上辛に上帝先王を祭祀し、季辛に至りて完畢せん。

何世有職焉,自襄以來,未之改也。若不會,祝宗將曰:‘吳實然。’且謂魯不共,而執其賤者七人,何損焉?”大宰嚭言於王曰:“無損於魯,而只為名,不如歸之。”乃歸景伯。

(景伯が続いて説く:)どの一代か職事なからん。襄公より以來、改過するあらず。もし會に赴かざれば、祝宗は將に曰わん、『是れ呉國の成す如くなり』。況んや魯國を不恭敬と曰いて、卻ってただ七個の低賤の人を捉えるは、何の損害かあらん」。太宰嚭が呉王に對して曰わく、「魯に損害なく、ただ不好の名聲を成すのみ。彼を放ち歸らせるに如かず」。ここに景伯を放回した。

吳申叔儀乞糧於公孫有山氏,曰:“佩玉繠兮,餘無所繫之。旨酒一盛兮,餘與褐之父睨之。”對曰:“梁則無矣,粗則有之。若登首山以呼曰:‘庚癸乎!’則諾。”

呉國申叔儀が公孫有山氏に向かい糧を求めて曰わく、「佩玉が下垂するや、我にそれを係る地なし。美酒一杯や、我と褐を穿る老人と斜眼に看る」。對えて曰わく、「細糧は無し。粗糧はなおあり。もし首山に登りて呼喊して曰わば、『庚癸乎!』即ち答應せん」。

王欲伐宋,殺其丈夫而囚其婦人。大宰嚭曰:“可勝也,而弗能居也。”乃歸。

呉王が宋を伐たんと欲し、そこの男人を殺掉して婦女を囚禁せんとした。太宰嚭が曰わく、「戰勝す可きも、居守する能わず」。ここに歸った。

冬,吳及越平。

冬、呉が越と講和した。

◇哀公十四年

◇哀公十四年

【經】十有四年春,西狩獲麟。小邾射以句繹來奔。夏四月,齊陳忄互執其君,置於舒州。庚戌,叔還卒。五月庚申朔,日有食之。陳宗豎出奔楚。宋向魋入於曹以叛。莒子狂卒。六月,宋向魋自曹出奔衛。宋向巢來奔。齊人弒其君壬於舒州。秋,晉趙鞅帥師伐衛。八月辛丑,仲孫何忌卒。冬,陳宗豎自楚復入於陳,陳人殺之。陳轅買出奔楚。有星孛。飢。

【経】十四年春、西邊で打獵して麒麟を獲得した。小邾射が句繹を帶びて前來して投奔した。夏四月、齊國陳恒がその國君を捉え、舒州に安置した。庚戌、叔還が去世した。五月庚申初一、日食あり。陳宗豎が楚國に出奔した。宋國向魋が曹に入りて叛變した。莒子狂が去世した。六月、宋國向魋が曹より衛國に出奔した。宋國向巢が前來して投奔した。齊人が舒州でその國君壬を弑した。秋、晋國趙鞅が軍を率いて衛を伐った。八月辛丑、仲孫何忌が去世した。冬、陳宗豎が楚國より再び陳に入り、陳人が彼を殺した。陳轅買が楚國に出奔した。星孛あり。饑荒あり。

【傳】十四年春,西狩於大野,叔孫氏之車子鉏商獲麟,以為不祥,以賜虞人。仲尼觀之,曰:“麟也。”然後取之。

【伝】十四年春、大野の西で打獵し、叔孫氏の車士鉏商が麒麟を獲得し、不祥と以為して虞人に賜えた。仲尼が看て曰わく、「是れ麟なり」。これ乃ち取り來た。

小邾射以句繹來奔,曰:“使季路要我,吾無盟矣。”使子路,子路辭。季康子使冉有謂之曰:“千乘之國,不信其盟,而信子之言,子何辱焉?”對曰:“魯有事於小邾,不敢問故,死其城下可也。彼不臣而濟其言,是義之也。由弗能。”

小邾射が句繹を帶びて前來して投奔して曰わく、「季路をして我と約定せしめよ。我は即ち盟約を用いざらん」。子路を遣わすに、子路が推辭した。季康子が冉有を遣わして彼に對して曰わしめ、「千乘の國がその盟約を相信せずして、卻ってあなたの話を相信す。あなたに何の屈辱かあらん」。對えて曰わく、「魯國が小邾と戰事あれば、敢えて故を問わず、城下に死するも皆可なり。彼が臣道を守らずしてその話を兌現せしむるは、彼の行為を以て義と成すなり。由は能くこの如く為さず」。

齊簡公之在魯也,闞止有寵焉。及即位,使為政。陳成子憚之,驟顧諸朝。

齊簡公が魯國に在る時、闞止が寵を得た。即位するに及び、彼を執政せしめた。陳成子が彼を忌憚し、朝廷上で屢々頭を回顧した。

諸御鞅言於公曰:“陳、闞不可並也,君其擇焉。”弗聽。子我夕,陳逆殺人,逢之,遂執以入。陳氏方睦,使疾,而遺之潘沐,備酒肉焉,饗守囚者,醉而殺之,而逃。子我盟諸陳於陳宗。

諸御鞅が齊侯に對して曰わく、「陳・闞は並列すべからず。君はなお選擇せよ」。聽かず。子我が傍晚に朝見するに、陳逆が人を殺し、彼に遇い、ここに捉えて帶入した。陳氏が正に和睦し、彼をして病を裝わせ、淘米水を送りて頭を洗わせ、酒肉を備え、看守の人を請いて飲食せしめ、灌醉して後に彼らを殺し、逃走した。子我が陳氏と陳宗で結盟した。

初,陳豹欲為子我臣,使公孫言己,已有喪而止。既,而言之,曰:“有陳豹者,長而上僂,望視,事君子必得志,欲為子臣。吾憚其為人也,故緩以告。”

当初、陳豹が子我の家臣を為さんと欲し、公孫に自己を介紹せしめたが、喪事あるを以て停下した。後に又説いて曰わく、「陳豹ありて、高くして駝背にして仰視す。君子に事奉すれば必ず志を得ん。あなたの臣を為さんと欲す。我はその為人を怕れ、ゆえに晚く告げた」。

子我曰:“何害?是其在我也。”使為臣。他日,與之言政,說,遂有寵,謂之曰:“我盡逐陳氏,而立女,若何?”對曰:“我遠於陳氏矣。且其違者,不過數人,何盡逐焉?”遂告陳氏。子行曰:“彼得君,弗先,必禍子。”子行舍於公宮。

子我が曰わく、「何の妨害かあらん。これは我に在り」。彼をして臣を為さしめた。後に彼と政事を談じ、喜歡し、ここに寵を得、彼に對して曰わく、「我が陳氏を全部趕走し、あなたを立つるは如何」。對えて曰わく、「我は陳氏を離るること已に遠し。況んや違抗するは不過幾個人のみ。何で必ずしも全部趕走せん」。ここに陳氏に告げた。子行が曰わく、「彼が國君を得て、先に動かざれば、必ずあなたを禍害せん」。子行が公宮に住んだ。

夏五月壬申,成子兄弟四乘如公。子我在幄,出,逆之。遂入,閉門。侍人御之,子行殺侍人。公與婦人飲酒於檀臺,成子遷諸寢。公執戈,將擊之。大史子餘曰:“非不利也,將除害也。”成子出舍於庫,聞公猶怒,將出,曰:“何所無君?”子行抽劍,曰:“需,事之賊也。誰非陳宗?所不殺子者,有如陳宗!”乃止。子我歸,屬徒,攻闈與大門,皆不勝,乃出。陳氏追之,失道於弇中,適豐丘。豐丘人執之,以告,殺諸郭關。成子將殺大陸子方,陳逆請而免之。以公命取車於道,及耏,眾知而東之。出雍門,陳豹與之車,弗受,曰:“逆為餘請,豹與余車,餘有私焉。事子我而有私於其仇,何以見魯、衛之士?”東郭賈奔衛。

夏五月壬申、成子兄弟四人が車を乘りて齊侯の所に至った。子我が帳中に在り、出でて迎接した。ここに進入し、門を關上した。侍人が抵御し、子行が侍人を殺した。齊侯が婦人と檀臺で酒を飲むに、成子が彼を寢宮に遷した。齊侯が戈を持ちて將に撃打せんとした。太史子余が曰わく、「不利せんと欲するにあらず。禍害を除去せんと欲するなり」。成子が出でて庫裏に住み、齊侯がなお發怒するを聞き、將に出走せんとして曰わく、「どこに國君なからん」。子行が劍を抽出して曰わく、「遲疑は事の賊害なり。誰が陳氏宗族にあらざらん。もしあなたを殺さざれば、陳宗を證と為すあり!」。ここに停下した。子我が歸り、徒衆を集合し、宮牆の小門と大門を攻打するも、皆能く取勝せず、ここに逃出した。陳氏が追趕し、弇中で路を迷い、豐丘に到った。豐丘人が彼を捉え、來りて報告し、郭關で彼を殺した。成子が將に大陸子方を殺さんとし、陳逆が彼を免れんを請いした。公命を以て路上で車を取り、耏に到達し、衆人が知りて彼を東行せしめた。雍門を出で、陳豹が彼に車を給うも接受せず、曰わく、「逆が我のため情を求め、豹が我に車を給う。我は彼らと私交あり。子我に事奉して卻ってその仇人と私交するは、何を以て魯・衛の士人に見ゆるか」。東郭賈が衛國に逃奔した。

庚辰,陳恆執公於舒州。公曰:“吾早從鞅之言,不及此。”

庚辰、陳恒が舒州で齊侯を捉えた。齊侯が曰わく、「我が早く鞅の話を聽從せば、この歩に到らざらん」。

宋桓魋之寵害於公,公使夫人驟請享焉,而將討之。未及,魋先謀公,請以鞍易薄,公曰:“不可。薄,宗邑也。”乃益鞍七邑,而請享公焉。以日中為期,家備盡往。公知之,告皇野曰:“餘長魋也,今將禍餘,請即救。”司馬子仲曰:“有臣不順,神之所惡也,而況人乎?敢不承命。不得左師不可,請以君命召之。”

宋國桓魋が寵を得て、宋公に妨害するに至り、宋公が夫人をして屢々宴享を請求せしめ、將に彼を討伐せんとした。まだ及ばざるに、魋が先に宋公に對付するを謀劃し、鞍を以て薄と交換するを請うた。宋公が曰わく、「不可なり。薄は宗邑なり」。ここに鞍に七邑を增加し、宋公を宴享するを請うた。日中を期と為し、家裏の武裝が全部前往した。宋公が知り、皇野に告げて曰わく、「我が魋を撫養して長大せしめたに、今將に我を禍害せんとす。即ち來りて救うを請います」。司馬子仲が曰わく、「臣の順從せざる有るは神の厭惡する所なり。況んや人をや。敢えて命令を接受せざらん。左師を得ざれば行かず。君命を以て彼を召すを請います」。

左師每食擊鐘。聞鐘聲,公曰:“夫子將食。”既食,又奏。公曰:“可矣。”

左師は飯を食するごとに皆鐘を撃つ。鐘聲を聞けば、宋公が曰わく、「夫子は將に飯を食せん」。食畢して又樂を奏す。宋公が曰わく、「可なり」。

以乘車往,曰:“跡人來告曰:‘逢澤有介麇焉。’公曰:‘雖魋未來,得左師,吾與之田,若何?’君憚告子。野曰:‘嘗私焉。’君欲速,故以乘車逆子。”

車を乘りて前往して曰わく、「迹人が來りて報告して曰く、『逢澤に一隻の單獨の麇あり』。公が曰く、『たとえ魋がまだ來らずとも、左師を得れば、我は彼と打獵せん。如何』。君は直截にあなたに告げるを怕れ。野が曰く、『我が往きて私に説かん』。君は快くせんを想う。ゆえに乘車を以てあなたを迎えに來れり」。

與之乘,至,公告之故,拜,不能起。司馬曰:“君與之言。”公曰:“所難子者,上有天,下有先君。”對曰:“魋之不共,宋之禍也,敢不唯命是聽。”司馬請瑞焉,以命其徒攻桓氏。其父兄故臣曰:“不可。”其新臣曰:“從吾君之命。”遂攻之。子頎騁而告桓司馬。司馬欲入,子車止之,曰:“不能事君,而又伐國,民不與也,只取死焉。”向魋遂入於曹以叛。六月,使左師巢伐之。欲質大夫以入焉,不能。亦入於曹,取質。魋曰:“不可。既不能事君,又得罪於民,將若之何?”乃舍之。民遂叛之。向魋奔衛。向巢來奔,宋公使止之,曰:“寡人與子有言矣,不可以絕向氏之祀。”辭曰:“臣之罪大,盡滅桓氏可也。

彼と同一車に乘り、到れば、宋公が故を告げ、彼が拜して起き上がらず。司馬が曰わく、「君が彼と說話せよ」。宋公が曰わく、「あなたを難ずるは、上に天あり、下に先君あり」。對えて曰わく、「魋の不恭は宋國の禍なり。敢えて命に唯聽せざらん」。司馬が符節を請求し、その部下に桓氏を攻打するを命令した。その父兄と舊臣が曰わく、「不可なり」。新臣が曰わく、「我ら國君の命令に聽從せよ」。ここに攻打した。子頎が馬を馳せて往きて桓司馬に告げた。司馬が城に入らんと欲し、子車が彼を攔住して曰わく、「國君に事奉する能わず、又國都を攻打するは百姓が親附せず。ただ死を找うのみ」。向魋はここに曹に入りて叛變した。六月、左師巢を遣わして往きて彼を伐たせた。大夫を以て人質と為して再び城に進入せんと欲するも能わず。も曹に入り、人質を取った。魋が曰わく、「不可なり。已に能く國君に事奉せず、又百姓に罪を得るは將にどうせん」。ここに彼らを放した。百姓はここに彼を背叛した。向魋が衛國に逃奔した。向巢が前來して投奔し、宋公が人を遣わして彼を攔住して曰わしめ、「寡人はあなたと話有りき。向氏の祭祀を斷絕すべからず」。推辭して曰わく、「臣の罪は大なり。全部桓氏を滅掉するも可なり。

若以先臣之故,而使有後,君之惠也。若臣,則不可以入矣。”

(向巢が続いて説く:)もし先臣の故に因りて、而して彼に後嗣あらしめば、是れ君の恩惠なり。臣に至りては、即ち再び進入すべからず」。

司馬牛致其邑與珪焉,而適齊。向魋出於衛地,公文氏攻之,求夏后氏之璜焉。與之他玉,而奔齊,陳成子使為次卿。司馬牛又致其邑焉,而適吳。吳人惡之,而反。趙簡子召之,陳成子亦召之。卒於魯郭門之外,阬氏葬諸丘輿。

司馬牛がその城邑と珪を交出し、齊國に到った。向魋が衛地に出現し、公文氏が彼を攻打し、彼に向かい夏后氏之璜を索取した。別の玉を給えて、齊國に逃奔し、陳成子が彼を次卿とせしめた。司馬牛が又城邑を交出し、呉國に到った。呉人が彼を厭惡し、又返回した。趙簡子が彼を召し、陳成子もまた彼を召した。魯國郭門之外で死に、阬氏が彼を丘輿に葬った。

甲午,齊陳恆弒其君壬於舒州。孔丘三日齊,而請伐齊三。公曰:“魯為齊弱久矣,子之伐之,將若之何?”對曰:“陳恆弒其君,民之不與者半。以魯之眾,加齊之半,可克也。”公曰:“子告季孫。”孔子辭。退而告人曰:“吾以從大夫之後也,故不敢不言。”

甲午、齊國陳恒が舒州でその國君壬を弑した。孔丘が齋戒三日し、三次齊を伐つを請求した。哀公が曰わく、「魯は齊に削弱せられて已に久し。あなたが往きて齊を伐てば、將にどうせん」。對えて曰わく、「陳恒がその國君を弑するに、百姓の親附せざるは半あり。魯國の衆人を以て、齊國の半を加上せば、戰勝す可し」。哀公が曰わく、「あなたは往きて季孫に告げよ」。孔子が推辭した。退きて人に告げて曰わく、「我は大夫の後に忝隨せば、ゆえに敢えて説かざるを得ず」。

初,孟孺子洩將圉馬於成。成宰公孫宿不受,曰:“孟孫為成之病,不圉馬焉。”孺子怒,襲成。從者不得入,乃反。成有司使,孺子鞭之。秋八月辛丑,孟懿子卒。成人奔喪,弗內。袒免哭於衢,聽共,弗許。懼,不歸。

当初、孟孺子泄が將に成で馬を養わんとした。成宰公孫宿が接受せず、曰わく、「孟孫は成の已に困病するを以て、ここで馬を養わず」。孺子が發怒し、成を襲擊した。跟從の人が進入する能わず、ここに返回した。成の有司が出使するに、孺子が彼を鞭打した。秋八月辛丑、孟懿子が去世した。成人が奔喪するに、進入せしめず。袒免して衢上で哭し、命を聽き役に供することを表示するも、許さず。害怕して歸らず。

◇哀公十五年

◇哀公十五年

【經】十有五年春王正月,成叛。夏五月,齊高無出奔北燕。鄭伯伐宋。

【経】十五年春、周天子の暦の正月、成が背叛した。夏五月、齊國高無が北燕に出奔した。鄭伯が宋を伐った。

秋八月,大雩。晉趙鞅帥師伐衛。冬,晉侯伐鄭。及齊平。衛公孟彄出奔齊。

秋八月、大雩を行った。晋國趙鞅が軍を率いて衛を伐った。冬、晋侯が鄭を伐った。齊國と講和した。衛國公孟彄が齊國に出奔した。

【傳】十五年春,成叛於齊。武伯伐成,不克,遂城輸。

【伝】十五年春、成が背叛して齊國に歸附した。武伯が成を伐つも攻克する能わず、ここに輸で城を築いた。

夏,楚子西、子期伐吳,乃桐汭。陳侯使公孫貞子吊焉,及良而卒,將以屍入。吳子使大宰嚭勞,且辭曰:“以水潦之不時,無乃廩然隕大夫之屍,以重寡君之憂。寡君敢辭。”上介芋尹蓋對曰:“寡君聞楚為不道,薦伐吳國,滅厥民人。寡君使蓋備使,吊君之下吏。無祿,使人逢天之戚,大命隕隊,絕世於良,廢日共積,一日遷次。今君命逆使人曰:‘無以屍造於門。’是我寡君之命委於草莽也。且臣聞之曰:‘事死如事生,禮也。’於是乎有朝聘而終,以屍將事之禮。又有朝聘而遭喪之禮。若不以屍將命,是遭喪而還也,無乃不可乎!以禮防民,猶或逾之。今大夫曰:‘死而棄之’,是棄禮也。其何以為諸侯主?先民有言曰:‘無穢虐士。’備使奉屍將命,苟我寡君之命達於君所,雖隕於深淵,則天命也,非君與涉人之過也。”吳人內之。

夏、楚國子西・子期が呉を伐ち、桐汭に到達した。陳侯が公孫貞子を遣わして弔唁せしめ、良に至れば即ち死し、將に尸体を城に運入せんとした。呉子が太宰嚭を遣わして慰勞し、かつ推辭して曰わしめ、「雨水が時ならざるを以て、ただ怕れて突然に大夫の尸体を毀壞し、寡君の憂慮を加重せん。寡君は謹んでここに推辭す」。上介芋尹蓋が對えて曰わく、「寡君は楚國が行事無道にして、一再に呉を伐ち、そこの人民を滅絕せりと聞く。寡君が蓋を遣わして使臣を充任せしめ、君の下吏を弔問せしむ。不幸にして、使人が上天の悲痛に遇い、大命が墜落し、良地で世を棄れり。時日を廢棄して以て斂具を積聚し、一天に一次遷徙す。今君が命令して使人を迎接して曰く、『尸体を門前に帶る勿れ』。これは我が寡君の命令を草莽裏に丢るなり。況んや臣は聞くに、『死者に事奉するに生者に事奉するが如く、これは禮なり』。ここに朝聘して死し、尸体を以て使命を完成する禮あり。又朝聘して喪事に遇う禮あり。もし尸体を以て致命せざれば、即ち喪事に遇いて返回するに等し。ただ怕れて不可かもしれぬ!禮を以て百姓を防範するに、なお越過する人あり。今大夫が曰く、『死せば即ち拋棄せよ』。これは禮を拋棄するなり。なお何を憑って諸侯の主を為さん。先民に話ありて、『死者を污穢する勿れ』。使臣を充任して尸体を奉じて致命するに、もし我ら寡君の命令が君の所に到達せば、たとえ深淵に墜落するも、是れ天命にして、君と擺渡人の過錯にあらず」。呉人が彼らを接納した。

秋,齊陳瓘如楚。過衛,仲由見之,曰:“天或者以陳氏為斧斤,既斫喪公室,而他人有之,不可知也。其使終饗之,亦不可知也。若善魯以待時,不亦可乎?何必惡焉?”子玉曰:“然,吾受命矣,子使告我弟。”

秋、齊國陳瓘が楚國に至った。衛を經過し、仲由が往きて彼に見えて曰わく、「上天は或いは陳氏を以て斧斤と為し、已に公室を砍喪せしめて、卻って他人に占有せられ、知る可からず。彼をして終に享有せしむるも、また知る可からず。もし魯國を善待して以て時機を等待せば、また可ならずや。何で必ずしも交惡せん」。子玉が曰わく、「是れ然り。我は命令を接受せり。あなたは人を遣わして我が弟弟に告げよ」。

冬,及齊平。子服景伯如齊,子贛為介,見公孫成,曰:“人皆臣人,而有揹人之心。況齊人雖為子役,其有不貳乎?子,周公之孫也,多饗大利,猶思不義。利不可得,而喪宗國,將焉用之?”成曰:“善哉!吾不早聞命。”

冬、齊國と講和した。子服景伯が齊國に至り、子贛が副使を為し、公孫成に會見して曰わく、「人は皆他人の臣なるに、卻って他人を背叛する心あり。況んや齊人は雖もあなたのため役使するも、あえて二心なからんや。あなたは周公の子孫にして、多くの大利を享受するに、還想不義の事を為さんと欲す。利は得る可からずして、卻って宗國を喪失するは將にどこに用いん」。成が曰わく、「善きかな!我は早くこの話を聞かざりき」。

陳成子館客,曰:“寡君使恆告曰:‘寡君願事君如事衛君。’”景伯揖子贛而進之。對曰:“寡君之願也。昔晉人伐衛,齊為衛故,伐晉冠氏,喪車五百,因與衛地,自濟以西,禚、媚、杏以南,書社五百。吳人加敝邑以亂,齊因其病,取讙與闡。寡君是以寒心。若得視衛君之事君也,則固所願也。”成子病之,乃歸成。公孫宿以其兵甲入於嬴。

陳成子が客人を安置して曰わく、「寡君が恒を遣わして告げて曰く、『寡君は君に事奉するを衛君に事奉するが如くせんを願う』」。景伯が子贛に向かい揖して彼を上前せしめた。對えて曰わく、「これは寡君の願望なり。昔晋人が衛を伐つに、齊國は衛の故のため、晋國冠氏を攻打し、兵車五百輛を喪失し、これにより衛國に土地を給し、濟より以西、禚・媚・杏より以南、書社五百。呉人が禍亂を敝邑に加え、齊國が我らの困病に乘り、讙と闡を奪取せり。寡君はこれにより寒心せり。もし衛君に比照して君に事奉する能くば、本より願望なり」。成子がこれに對して愧疚を感じ、ここに成を歸還した。公孫宿が兵甲を帶びて嬴に入った。

衛孔圉取大子蒯聵之姊,生悝。孔氏之豎渾良夫長而美,孔文子卒,通於內。

衛國孔圉が太子蒯聵の姉を娶り、悝を生下した。孔氏の豎渾良夫が高大美麗にして、孔文子が死した後、孔姬と私通した。

大子在戚,孔姬使之焉。大子與之言曰:“苟使我入獲國,服冕乘軒,三死無與。”

太子が戚に在り、孔姬が彼をそこに遣わした。太子が彼に對して曰わく、「もし我を國に歸りて國家を獲得せしめば、冕を服し軒に乘り、三次の死罪をあなたに加えざらん」。

與之盟,為請於伯姬。

彼と盟約を訂立し、彼のため伯姬に向かい請求した。

閏月,良夫與大子入,舍於孔氏之外圃。昏,二人蒙衣而乘,寺人羅御,如孔氏。孔氏之老欒寧問之,稱姻妾以告。遂入,適伯姬氏。既食,孔伯姬杖戈而先,大子與五人介,輿豭從之。迫孔悝於廁,強盟之,遂劫以登臺。欒寧將飲酒,炙未熟,聞亂,使告季子。召獲駕乘車,行爵食炙,奉衛侯輒來奔。季子將入,遇子羔將出,曰:“門已閉矣。”季子曰:“吾姑至焉。”子羔曰:“弗及,不踐其難。”季子曰:“食焉,不闢其難。”子羔遂出。子路入,及門,公孫敢門焉,曰:“無入為也。”季子曰:“是公孫,求利焉而逃其難。由不然,利其祿,必救其患。”有使者出,乃入。曰:“大子焉用孔悝?雖殺之,必或繼之。”且曰:“大子無勇,若燔臺,半,必舍孔叔。”大子聞之,懼,下石乞、盂黶敵子路。以戈擊之,斷纓。子路曰:“君子死,冠不免。”結纓而死。孔子聞衛亂,曰:“柴也其來,由也死矣。”孔悝立莊公。莊公害故政,欲盡去之,先謂司徒瞞成曰:“寡人離病於外久矣,子請亦嘗之。”歸告褚師比,欲與之伐公,不果。

閏月、良夫と太子が進入し、孔氏の外圃に住んだ。黃昏、二人が衣を蒙りて車に乘り、寺人羅が駕車し、孔氏に到った。孔氏の家老欒寧が詢問するに、姻親の妾の來りて禀告するを托稱した。ここに進入し、伯姬の所に至った。飯を食畢して、孔伯姬が戈を持ちて前に在り、太子と五人が甲を穿著し、車を以て公豬を載せて跟著した。廁上で孔悝を逼迫し、結盟を强迫し、ここに彼を劫持して臺に登らせた。欒寧が將に酒を飲まんとし、烤肉がまだ熟せず、變亂を聞き、人を遣わして季子に報告せしめた。召獲が乘車を駕し、走りながら酒を飲み烤肉を食し、衛侯輒を奉じて前來投奔した。季子が將に城に進入せんとし、子羔が將に出でんとするに遇い、曰わく、「門は已に關上せり」。季子が曰わく、「我は姑くそこに至らん」。子羔が曰わく、「及ばず。往きて禍難を踐踏する勿れ」。季子が曰わく、「その俸祿を食みて、その禍難を躲避せず」。子羔はここに出た。子路が進入し、門前に至り、公孫敢が門を守りて曰わく、「進入して何を為さんとする勿れ」。季子が曰わく、「これは公孫なり。利を求めて卻って禍難を逃避す。由はこの如くあらず。その俸祿を以て利と為し、必ずその患難を救わん」。使者の出るあり、ここに進入した。曰わく、「太子はどこに孔悝を用いん。たとえ彼を殺すとも、必ず接替する人あらん」。かつ曰わく、「太子に勇氣なし。もし臺を燒けば、半に燒き至れば、必ず孔叔を釋放せん」。太子が聞き、害怕し、石乞・盂黶を遣わして臺を下りて子路を抵擋せしめた。戈を以て撃打し、帽纓を斷った。子路が曰わく、「君子は死するも、帽子は免れざる可からず」。纓を結好して死んだ。孔子が衛國の變亂を聞きて曰わく、「柴はおそらく來らん。由は已に死せり」。孔悝が莊公を立てた。莊公が舊政を忌恨し、全部去らんと欲し、先に司徒瞞成に對して曰わく、「寡人は外で禍難を遭受すること久し。あなたにも嘗せしめんを請う」。歸りて褚師比に告げ、彼と一起に莊公を攻打せんと欲するも、成功せず。

◇哀公十六年

◇哀公十六年

【經】十有六年春王正月己卯,衛世子蒯聵自戚入於衛,衛侯輒來奔。二月,衛子還成出奔宋。夏四月己丑,孔丘卒。

【経】十六年春、周天子の暦の正月己卯、衛世子蒯聵が戚より衛國に入り、衛侯輒が前來投奔した。二月、衛子還成が宋國に出奔した。夏四月己丑、孔丘が去世した。

【傳】十六年春,瞞成、褚師比出奔宋。

【伝】十六年春、瞞成・褚師比が宋國に出奔した。

衛侯使鄢武子告於周曰:“蒯聵得罪於君父君母,逋竄於晉。晉以王室之故,不棄兄弟,置諸河上。天誘其衷,獲嗣守封焉。使下臣肸敢告執事。”王使單平公對曰:“肸以嘉命來告餘一人。往謂叔父,餘嘉乃成世,復爾祿次。敬之哉!方天之休,弗敬弗休,悔其可追?”夏四月己丑,孔丘卒。公誄之曰:“旻天不弔,不憖遺一老。俾屏餘一人以在位,煢煢餘在疚。嗚呼哀哉!尼父。無自律。”子贛曰:“君其不沒於魯乎!夫子之言曰:‘禮失則昏,名失則愆。’失志為昏,失所為愆。生不能用,死而誄之,非禮也。稱一人,非名也。君兩失之。”

衛侯が鄢武子を遣わして周王に報告して曰わしめ、「蒯聵が君父君母に罪を得て、晋國に逃竄せり。晋國は王室の故を以て、兄弟を拋棄せず、彼を河上に安置せり。上天がその心意を誘導し、承繼して封地を守住するを得たり。下臣肸を遣わして謹んでここに執事に報告せしむ」。周王が單平公を遣わして回答して曰わしめ、「肸が好消息を帶びて來りて余一人に告げり。往きて叔父に告げよ。我はあなたの世代を完成するを嘉許し、あなたの祿位を恢復す。敬慎せよ!正に上天の賜福を承受す。敬せざれば賜福なく、後悔はどこに及ばん」。夏四月己丑、孔丘が去世した。哀公が誄して曰わく、「旻天が吊恤せず、肯んじて一位の老人を留下せず。彼をして余一人を位に屏蔽せしむ。煢煢余は病痛の中に在り。嗚呼哀哉!尼父。以て自律する可きなし」。子贛が曰わく、「君はおそらく魯國で善終する能わざらんか!夫子がかつて曰く、『禮を喪失すれば即ち昏亂し、名を喪失すれば即ち過錯す』。心志を失去するは昏、身份を失去するは愆なり。生きて用いず、死して卻って彼を誄するは禮に合わず。自ら一人と稱するは名に合わず。君は兩樣を皆失せり」。

六月,衛侯飲孔悝酒於平陽,重酬之,大夫皆有納焉。醉而送之,夜半而遣之。載伯姬於平陽而行,及西門,使貳車反祏於西圃。子伯季子初為孔氏臣,新登於公,請追之,遇載祏者,殺而乘其車。許公為反祏,遇之,曰:“與不仁人爭,明無不勝。”必使先射,射三發,皆遠許為。許為射之,殪。或以其車從,得祏於囊中。孔悝出奔宋。

六月、衛侯が平陽で孔悝に酒を請い、重重に彼を酬謝し、大夫に皆賞賜あり。醉らせて彼を走らせ、半夜に彼を打發して去らせた。平陽で伯姬を裝上して出發し、西門に到達し、副車を遣わして西圃に回り祏を取らしめた。子伯季子は当初孔氏の家臣にして、新近に衛侯に進用され、追趕を請い、祏を載せる人に遇い、彼を殺し、その車に乘坐した。許公為が返回して祏を取るに、彼に遇い、曰わく、「不仁の人と爭うに、勝たざるの道理なし」。必ず相手をして先に射せしめ、三發を射るも、皆許為を遠離した。許為が彼を射て、射死せしめた。或る人があの車を駕して跟上し、囊中で祏を得た。孔悝が宋國に出奔した。

楚大子建之遇讒也,自城父奔宋。又闢華氏之亂於鄭,鄭人甚善之。又適晉,與晉人謀襲鄭,乃求復焉。鄭人復之如初。晉人使諜於子木,請行而期焉。子木暴虐於其私邑,邑人訴之。鄭人省之,得晉諜焉。遂殺子木。其子曰勝,在吳。

楚太子建が讒言を遭受し、城父より宋國に逃奔した。又華氏之亂を躲避して鄭國に至り、鄭人が彼を待ること甚だ善し。又晋國に至り、晋人と鄭を襲撃するを謀劃し、ここに鄭に歸るを請うた。鄭人が当初の如く彼を安置した。晋人が間諜を遣わして子木の所に至り、動身と日期を約定するを請いた。子木が自らの私邑で暴虐し、邑人が控告した。鄭人が考察し、晋國間諜を得て、ここに子木を殺した。その兒子を勝と曰い、呉國に在り。

子西欲召之,葉公曰:“吾聞勝也詐而亂,無乃害乎?”子西曰:“吾聞勝也信而勇,不為不利,舍諸邊竟,使衛藩焉。”葉公曰:“周仁之謂信,率義之謂勇。

子西が彼を召して歸らせんと欲し、葉公が曰わく、「我は聞くに、勝は狡詐にして又亂を作す。ただ怕れて害あらんか」。子西が曰わく、「我は聞くに、勝は誠信にして又勇敢にして、不利の事を為さず。邊境に安置して、彼をして藩籬を保衛せしめん」。葉公が曰わく、「仁に親近するを信と曰い、義に遵循するを勇と曰う。

吾聞勝也好復言,而求死士,殆有私乎?復言,非信也。期死,非勇也。子必悔之。”弗從。召之使處吳竟,為白公。請伐鄭,子西曰:“楚未節也。不然,吾不忘也。”他日,又請,許之。未起師,晉人伐鄭,楚救之,與之盟。勝怒,曰:“鄭人在此,仇不遠矣。”

(葉公が続いて説く:)我は聞くに、勝は諾言を實踐するを好み、又死士を尋求す。おそらく私心あらんか。諾言を實踐するは信にあらず。期死するは勇にあらず。あなたは必ず後悔せん」。聽從せず。彼を召して來りて呉國邊境に住まわせ、白公と稱した。鄭を伐つを請うに、子西が曰わく、「楚國はまだ節制あらず。然らざれば、我は忘れざらん」。後に又請い、答應した。まだ兵を出ださざるに、晋人が鄭を伐ち、楚國が救援し、鄭と結盟した。勝が發怒して曰わく、「鄭人は即ちここに在り。仇人は遠からず」。

勝自厲劍,子期之子平見之,曰:“王孫何自厲也?”曰:“勝以直聞,不告女,庸為直乎?將以殺爾父。”平以告子西。子西曰:“勝如卵,餘翼而長之。

勝が自ら劍を磨き、子期の兒子平が見て曰わく、「王孫は何で自ら劍を磨くか」。曰わく、「勝は直を以て聞こゆ。あなたに告げざれば、どこに直を算せん。將にそれを以てあなたの父を殺さん」。平が子西に告げた。子西が曰わく、「勝は蛋の如く、我は翅膀を以て彼を覆い長大せしめたり。

楚國第,我死,令尹、司馬,非勝而誰?”勝聞之,曰:“令尹之狂也!得死,乃非我。”子西不悛。勝謂石乞曰:“王與二卿士,皆五百人當之,則可矣。”

(子西が続いて説く:)楚國の班次に、我が死せば、令尹・司馬は勝ならずして還將に誰ぞ」。勝が聞きて曰わく、「令尹は太に狂せり!能く好死を得れば、即ち我にあらず」。子西が改めず。勝が石乞に對して曰わく、「楚王と兩位の卿士は皆五百人を以て抵擋すれば、即ち可なり」。

乞曰:“不可得也。”曰:“市南有熊宜僚者,若得之,可以當五百人矣。”乃從白公而見之,與之言,說。告之故,辭。承之以劍,不動。勝曰:“不為利諂,不為威惕,不洩人言以求媚者,去之。”

乞が曰わく、「得る能わず」。曰わく、「市南に熊宜僚あり。もし彼を得れば、五百人に抵上す可し」。ここに白公に跟著して往きて彼に見え、彼と說話す。甚だ悅服せり。故を告ぐるに、推辭した。劍を以て彼に對るも、動かず。勝が曰わく、「利のため諂媚せず、威のため懼懼せず、他人の話を泄漏して以て媚を求めざる人は、彼を離れよ」。

吳人伐慎,白公敗之。請以戰備獻,許之。遂作亂。秋七月,殺子西、子期於朝,而劫惠王。子西以袂掩面而死。子期曰:“昔者吾以力事君,不可以弗終。”

呉人が慎を伐ち、白公が彼らを打敗した。戰備を献上するを請い、答應した。ここに亂を作した。秋七月、朝廷で子西・子期を殺し、惠王を劫持した。子西が衣袖を以て臉を遮住して死去した。子期が曰わく、「昔我が力を以て國君に事奉せり。到底に至るまで為さざる可からず」。

抉豫章以殺人而後死。石乞曰:“焚庫弒王,不然不濟。”白公曰:“不可。弒王,不祥,焚庫,無聚,將何以守矣?”乞曰:“有楚國而治其民,以敬事神,可以得祥,且有聚矣,何患?”弗從。葉公在蔡,方城之外皆曰:“可以入矣。”

豫章樹を拔起して以て人を殺し、然る後に自らも死んだ。石乞が曰わく、「府庫を燒掉し、楚王を殺掉せよ。然らざれば成功する能わず」。白公が曰わく、「不可なり。王を殺すは不祥、府庫を燒けば即ち積聚なし。將に何を憑って守らん」。乞が曰わく、「楚國を有して百姓を治理し、恭敬して神明に事奉すれば、吉祥を得る可き、かつ積聚あらん。何を擔心せん」。聽從せず。葉公が蔡に在り、方城以外の人が皆曰わく、「城に進入す可し」。

子高曰:“吾聞之,以險僥倖者,其求無饜,偏重必離。”聞其殺齊管修也而後入。

子高が曰わく、「我は聞くに、冒險に憑りて僥倖を求める人は、欲望に滿足なく、偏重すれば必ず離心せん」。彼が齊國管修を殺して後に乃ち城に進入したを聞いた。

白公欲以子閭為王,子閭不可,遂劫以兵。子閭曰:“王孫若安靖楚國,匡正王室,而後庇焉,啟之願也,敢不聽從。若將專利以傾王室,不顧楚國,有死不能。”遂殺之,而以王如高府,石乞尹門,圉公陽穴宮,負王以如昭夫人之宮。

白公が子閭を立てて王と為さんと欲し、子閭が答應せず、ここに兵器を以て脅迫した。子閭が曰わく、「王孫がもし楚國を安定し、王室を匡正し、然る後に我を庇護せば、是れ啟の願望にして、敢えて聽從せざらん。もしその利を專有して以て王室を傾覆し、楚國を顧ざらば、死あるも能く從わず」。ここに彼を殺し、楚王を帶びて高府に至った。石乞が門を守り、圉公陽が宮牆を挖開し、楚王を背負いて昭夫人の宮裏に至った。

葉公亦至,及北門,或遇之,曰:“君胡不胄?國人望君如望慈父母焉。盜賊之矢若傷君,是絕民望也。若之何不胄?”乃胄而進。又遇一人曰:“君胡胄?國人望君如望歲焉,日日以幾。若見君面,是得艾也。民知不死,其亦夫有奮心,猶將旌君以徇於國,而反掩面以絕民望,不亦甚乎?”乃免冑而進。遇箴尹固,帥其屬,將與白公。子高曰:“微二子者,楚不國矣。棄德從賊,其可保乎?”乃從葉公。使與國人以攻白公。白公奔山而縊,其徒微之。生拘石乞而問白公之死焉,對曰:“餘知其死所,而長者使餘勿言。”曰:“不言將烹。”乞曰:“此事克則為卿,不克則烹,固其所也,何害?”乃烹石乞。王孫燕奔頯黃氏。諸梁兼二事,國寧,乃使寧為令尹,使寬為司馬,而老於葉。

葉公もまた到り、北門に至るに、或る人が彼に遇いて曰わく、「君は何で胄を戴かざるか。國人は君を盼望するに慈愛の父母を盼望するが如し。盜賊の箭がもし君を傷せば、即ち百姓の希望を斷絕す。何で胄を戴かざるか」。ここに胄を戴きて前進した。又一人に遇いて曰わく、「君は何で胄を戴くか。國人は君を盼望するに收成を盼望するが如く、日日に期待す。もし君の面を見れば、即ち安寧を得ん。百姓は死せざるを知りて、亦皆奮起の心あり。還將に君を表彰して國中を巡行せしめんとするに、卻って反って臉を遮住して民望を斷絶するは、太に過分ならずや」。ここに胄を免れて前進した。箴尹固に遇い、部屬を率いて將に白公に跟從せんとす。子高が曰わく、「この兩位なくば、楚國は國と成らず。德行を拋棄して賊人に跟隨すれば、あえて能く身を保たんや」。ここに葉公に跟從した。彼をして國人と一起に白公を攻打せしめた。白公が山裏に逃げて自縊し、その黨羽が尸体を藏起した。石乞を活捉し、白公の死處を問う。對えて曰わく、「我は彼が死する所を知るも、長者が我に説かざれとせり」。曰わく、「説かざれば即ちあなたを烹せん」。乞が曰わく、「この事は成功すれば即ち卿を為し、成功せざれば即ち烹さる。本よりこの如し。何の妨害かあらん」。ここに石乞を烹った。王孫燕が頯黃氏に逃奔した。諸梁が二職を兼任し、國家が安定し、乃ち寧をして令尹を為らせ、寬をして司馬を為らせ、自ら葉地で養老した。

衛侯占夢,嬖人求酒於大叔僖子,不得,與卜人比而告公曰:“君有大臣在西南隅,弗去,懼害。”乃逐大叔遺。遺奔晉。衛侯謂渾良夫曰:“吾繼先君而不得其器,若之何?”良夫代執火者而言,曰:“疾與亡君,皆君之子也。召之而擇材焉可也,若不材,器可得也。”豎告大子。大子使五人輿豭從己,劫公而強盟之,且請殺良夫。公曰:“其盟免三死。”曰:“請三之後,有罪殺之。”

衛侯が夢を占し、寵臣が太叔僖子に向かい酒を要するに、得ず、卜人と勾結して衛侯に告げて曰わく、「君に大臣ありて西南角に在り。除去せざれば、怕れて害あらん」。ここに太叔遺を驅逐した。遺が晋國に逃奔した。衛侯が渾良夫に對して曰わく、「我が先君を繼承するに卻ってその器物を得ず。どうせん」。良夫が執火の人に代りて進言して曰わく、「疾と逃亡の國君は皆君の兒子なり。召して有才を選擇すれば即ち可。もし才なくば、器物は得る可し」。豎人が太子に告げた。太子が五人を遣わして公豬を抬がせて自らに跟著せしめ、衛侯を劫持して結盟を强迫し、かつ良夫を殺掉するを請求した。衛侯が曰わく、「あの盟約は三次の死罪を免去す」。曰わく、「三次の後に、罪あれば再び彼を殺さんを請います」。

公曰:“諾哉!”

衛侯が曰わく、「善きかな!」。

◇哀公十七年

◇哀公十七年

【傳】十七年春,衛侯為虎幄於藉圃,成,求令名者,而與之始食焉。大子請使良夫。良夫乘衷甸兩牡,紫衣狐裘,至,袒襲,不釋劍而食。大子使牽以退,數之以三罪而殺之。

【伝】十七年春、衛侯が藉圃で虎幄を做り、做成して後、好名聲ある人を尋求し、彼と一起に用餐を開始した。太子が良夫を遣わすを請求した。良夫が衷甸兩牡に乘り、紫衣狐裘を穿著して到來し、外衣を敞開し、劍を解かずして食した。太子が人を遣わして彼を拉き退下せしめ、三樁の罪を數說して然る後に彼を殺した。

三月,越子伐吳。吳子御之笠澤,夾水而陳。越子為左右句卒,使夜或左或右,鼓譟而進。吳師分以御之。越子以三軍潛涉,當吳中軍而鼓之,吳師大亂,遂敗之。

三月、越子が呉を伐った。呉子が笠澤で抵御し、水を隔てて列陣した。越子が左右句卒を設け、彼らに夜に忽ち左忽ち右にして鼓噪して前進せしめた。呉軍が分開して抵御した。越子が三軍を率いて祕密に水を渡り、呉國中軍に對著して鼓を撃ち、呉軍が大いに亂れ、ここに彼らを敗った。

晉趙鞅使告於衛曰:“君之在晉也,志父為主。請君若大子來,以免志父。

晋國趙鞅が人を遣わして衛國に告げて曰わしめ、「君が晋國に在る時、志父が主人を為せり。君あるいは太子の前來するを請い、以て志父の罪過を免除せん。

不然,寡君其曰,志父之為也。”衛侯辭以難。大子又使椓之。

(趙鞅が続いて説く:)然らざれば、寡君はおそらく説かん、これは志父の為したなり」。衛侯が禍難を以て推辭した。太子が又人を遣わして彼を構陷せしめた。

夏六月,趙鞅圍衛。齊國觀、陳瓘救衛,得晉人之致師者。子玉使服而見之,曰:“國子實執齊柄,而命瓘曰:‘無闢晉師。’豈敢廢命?子又何辱?”簡子曰:“我卜伐衛,未卜與齊戰。”乃還。

夏六月、趙鞅が衛國を包圍した。齊國國觀・陳瓘が衛を救い、前來挑戰の晋人を俘獲した。子玉が彼に本服を換えさせて來りて見えて曰わく、「國子は實に齊國の權柄を掌握し、瓘に命令して曰く、『晋軍を躲避する勿れ』。怎で敢えて命令を廢棄せん。あなたは又必ずしも何で屈尊して挑戰せん」。簡子が曰わく、「我が占卜せしは衛を伐つなり。齊と交戰するを占卜せず」。ここに退還した。

楚白公之亂,陳人恃其聚而侵楚。楚既寧,將取陳麥。楚子問帥於大師子谷與葉公諸梁,子谷曰:“右領差車與左史老,皆相令尹、司馬以伐陳,其可使也。”

楚國白公が亂を作す時、陳人が積聚に仗恃して楚國を侵犯した。楚國が安定して後、將に陳國の麥を奪取せんとした。楚子が太師子穀と葉公諸梁に向かい主將を詢問した。子穀が曰わく、「右領差車と左史老は、皆かつて令尹・司馬を輔佐して陳を伐てり。おそらく任用す可し」。

子高曰:“率賤,民慢之,懼不用命焉。”子谷曰:“觀丁父,鄀俘也,武王以為軍率,是以克州、蓼,服隨、唐,大啟群蠻。彭仲爽,申俘也,文王以為令尹,實縣申、息,朝陳、蔡,封畛於汝。唯其任也,何賤之有?”子高曰:“天命不謟。令尹有憾於陳,天若亡之,其必令尹之子是與,君盍舍焉?臣懼右領與左史有二俘之賤,而無其令德也。”王卜之,武城尹吉。使帥師取陳麥。陳人御之,敗,遂圍陳。秋七月己卯,楚公孫朝帥師滅陳。

子高が曰わく、「將帥は出身が低賤にして、百姓が彼を輕慢す。怕れて命令を聽かざらん」。子穀が曰わく、「觀丁父は鄀國の俘虜にして、武王が彼を用いて軍帥と為し、これにより州・蓼に戰勝し、隨・唐を歸服せしめ、群蠻の地を大開せり。彭仲爽は申國の俘虜にして、文王が彼を用いて令尹と為し、申・息を縣と設け、陳・蔡を朝見せしめ、封疆が汝水に到達せり。ただ彼が能く勝任するや否やを看るのみ。何の低賤かあらん」。子高が曰わく、「天命は疑わず。令尹は陳國に遺憾あり。上天がもし陳を滅亡せんと欲せば、必ず陳を令尹の兒子に給せん。君は何で舍棄して用いざるか。臣は怕れて右領と左史にただ兩個の俘虜の低賤あるのみにして、卻って彼らの令德なからん」。楚王が占卜し、武城尹が吉利せり。彼をして軍を率いて陳國の麥を奪取せしめた。陳人が抵御し、戰敗し、ここに陳を包圍した。秋七月己卯、楚國公孫朝が軍を率いて陳國を滅亡した。

王與葉公枚卜子良以為令尹。沈尹朱曰:“吉,過於其志。”葉公曰:“王子而相國,過將何為?”他日,改卜子國而使為令尹。

楚王が葉公と逐一に占卜し、子良を以て令尹と為さんと欲した。沈尹朱が曰わく、「吉利せり。その志向を超過せり」。葉公が曰わく、「王子にして國家を輔相するは、超過して還將に何を為さん」。後に、改めて子國を卜し、彼をして令尹を為らせた。

衛侯夢於北宮,見人登昆吾之觀,被髮北面而噪曰:“登此昆吾之虛,綿綿生之瓜。餘為渾良夫,叫天無辜。”公親筮之,胥彌赦占之,曰:“不害。”與之邑,置之,而逃奔宋。衛侯貞卜,其繇曰:“如魚赬尾,衡流而方羊。裔焉大國,滅之將亡。闔門塞竇,乃自後逾。”

衛侯が北宮で夢を做り、或る人が昆吾之觀に登上し、披頭散髮して北に向かい喊叫して曰くを見たり、「この昆吾之虚に登上せば、綿綿生長の瓜。我は渾良夫にして、天に向かい冤を喊す」。衛侯が親しく占筮し、胥彌赦が占斷して曰わく、「妨害せず」。彼に城邑を給うに、彼が安置下るも、卻って宋國に逃奔した。衛侯が又卜筮を貞問するに、繇辭に曰わく、「魚の尾を紅くするが如く、水流の中に横たわり彷徨す。大國に靠近すれば、それを滅ぼさば即ち將に滅亡せん。門を關め洞を塞げば、卻って後面より翻越せん」。

冬十月,晉復伐衛,入其郛。將入城,簡子曰:“止。叔向有言曰:‘怙亂滅國者無後。’”衛人出莊公而晉平,晉立襄公之孫般師而還。十一月,衛侯自鄄入,般師出。

冬十月、晋國が再び衛を伐ち、外城に攻入した。將に城に入らんとし、簡子が曰わく、「停下せよ。叔向に話ありて曰く、『亂に乘じて國を滅ぼす人は後嗣なし』」。衛人が莊公を趕走して晋と講和し、晋國が襄公の孫子般師を立てて然る後に歸った。十一月、衛侯が鄄より城に入り、般師が出た。

初,公登城以望,見戎州。問之,以告。公曰:“我姬姓也,何戎之有焉?”翦之。公使匠久。公欲逐石圃,未及而難作。辛已,石圃因匠氏攻公,公闔門而請,弗許。逾於北方而隊,折股。戎州人攻之,大子疾、公子青逾從公,戎州人殺之。公入於戎州己氏。初,公自城上見己氏之妻發美,使髡之,以為呂姜髢。

当初、衛侯が城に登りて眺望し、戎州を見た。是れ何處ぞと問うに、或る人が彼に告げた。衛侯が曰わく、「我は姬姓なり。どこに戎かあらん」。それを翦滅した。衛侯が工匠を役使すること久し。衛侯が石圃を驅逐せんと欲するに、まだ及ばずして禍難が發生した。辛巳、石圃が工匠を借りて衛侯を攻打し、衛侯が門を關めて請うも許さず。北邊より牆を翻して墜落し、大腿を折れた。戎州人が彼を攻打し、太子疾・公子青が牆を翻して跟隨し、戎州人が彼らを殺した。衛侯が戎州己氏の家裏に進入した。当初、衛侯が城上より己氏の妻子の頭髮の美なるを見て、人をして剃下せしめ、呂姜のため假髮を做らせたり。

既入焉,而示之璧,曰:“活我,吾與女璧。”己氏曰:“殺女,璧其焉往?”遂殺之而取其璧。衛人復公孫般師而立之。十二月,齊人伐衛,衛人請平。立公子起,執般師以歸,舍諸潞。

已に屋子に進み、彼に璧を看せて曰わく、「我を救活せよ。我は璧をあなたに給えん」。己氏が曰わく、「あなたを殺せば、璧はなおどこに往かん」。ここに彼を殺し、その璧を取走した。衛人が又公孫般師をして歸りて君に立てらせた。十二月、齊人が衛を伐ち、衛人が講和を請うた。公子起を立て、般師を捉えて帶ち歸り、潞に安置した。

公會齊侯,盟於蒙,孟武伯相。齊侯稽首,公拜。齊人怒,武伯曰:“非天子,寡君無所稽首。”武伯問於高柴曰:“諸侯盟,誰執牛耳?”季羔曰:“鄫衍之役,吳公子姑曹。發陽之役,衛石魋。”武伯曰:“然則彘也。”

哀公が齊侯に會見し、蒙で盟約を訂立し、孟武伯が相禮を為した。齊侯が叩頭し、哀公はただ拜すのみ。齊人が發怒した。武伯が曰わく、「天子にあらざれば、寡君に叩頭する由なし」。武伯が高柴に問うて曰わく、「諸侯が結盟するに、誰が牛耳を執るか」。季羔が曰わく、「鄫衍のあの一戰は呉公子姑曹なりき。發陽のあの一戰は衛國石魋なりき」。武伯が曰わく、「然らば即ち彘なり」。

宋皇瑗之子麇,有友曰田丙,而奪其兄阝般邑以與之。酁般慍而行,告桓司馬之臣子儀克。子儀克適宋,告夫人曰:“麇將納桓氏。”公問諸子仲。初,仲將以杞姒之子非我為子。曰:“必立伯也,是良材。”子仲怒,弗從,故對曰:“右師則老矣,不識麇也。”公執之。皇瑗奔晉,召之。

宋國皇瑗の兒子麇に、田丙と曰う朋友あり。彼の兄酁般の城邑を奪走して田丙に給えた。酁般が怒を含みて離去し、桓司馬の家臣子儀克に告げた。子儀克が宋に至り、夫人に告げて曰わく、「麇は將に桓氏を接納せん」。哀公が子仲に向かい詢問した。当初、仲が杞姒の兒子非我を以て後嗣と為さんと欲して曰わく、「必ず伯を立てよ。これは良材なり」。子仲が發怒し、聽從せず。ゆえに回答して曰わく、「右師は已に老いたり。麇を了解せず」。哀公が彼を捉えた。皇瑗が晋國に逃奔し、又彼を召して歸らせた。

◇哀公十八年

◇哀公十八年

【傳】十八年春,宋殺皇瑗。公聞其情,復皇氏之族,使皇緩為右師。

【伝】十八年春、宋國が皇瑗を殺した。哀公が實情を聞き、皇氏の族人を恢復し、皇緩をして右師を為らせた。

巴人伐楚,圍鄾。初,右司馬子國之卜也,觀瞻曰:“如志。”故命之。及巴師至,將卜帥。王曰:“寧如志,何卜焉?”使帥師而行。請承,王曰:“寢尹、工尹,勤先君者也。”三月,楚公孫寧、吳由於、薳固敗巴師於鄾,故封子國於析。君子曰:“惠王知志。《夏書》曰‘官占,唯能蔽志,昆命於元龜。’其是之謂乎!《志》曰:‘聖人不煩卜筮。’惠王其有焉!”夏,衛石圃逐其君起,起奔齊。衛侯輒自齊復歸,逐石圃,而復石魋與大叔遺。

巴人が楚を伐ち、鄾を包圍した。当初、右司馬子國が占卜し、觀瞻が曰わく、「願の如くあらん」。ゆえに彼を任命した。巴軍が到るに及び、將に主將を占卜せんとす。楚王が曰わく、「已に願の如し。何で必ずしも再び卜せん」。彼をして軍を率いて出發せしめた。副手を請うに、楚王が曰わく、「寢尹・工尹は皆先君のため勤勞の人なり」。三月、楚國公孫寧・吳由于・䓕固が鄾で巴軍を敗り、ゆえに析を子國に封給した。君子が曰わく、「惠王は志向を知れり。《夏書》に曰く、『官占はただ能く志向を斷定して、然る後に乃ち元龜に命ず』。説くは即ちこれか!《志》に曰く、『聖人は卜筮を煩勞せず』。惠王はおそらくこの如き德行あらん!」。夏、衛國石圃がその國君起を驅逐し、起が齊國に逃奔した。衛侯輒が齊國より再び歸り、石圃を驅逐し、石魋と太叔遺を恢復した。

◇哀公十九年

◇哀公十九年

【傳】十九年春,越人侵楚,以誤吳也。夏,楚公子慶、公孫寬追越師,至冥,不及,乃還。

【伝】十九年春、越人が楚國を侵犯し、以て呉國を迷惑せしめた。夏、楚國公子慶・公孫寬が越軍を追趕し、冥に至るも趕上せず、ここに返回した。

秋,楚沈諸梁伐東夷,三夷男女及楚師盟於敖。

秋、楚國沈諸梁が東夷を伐ち、三夷の男女が楚軍と敖で盟約を訂立した。

冬,叔青如京師,敬王崩故也。

冬、叔青が京師に至ったは敬王が崩逝せばなり。

◇哀公二十年

◇哀公二十年

【傳】二十年春,齊人來徵會。夏,會於廩丘。為鄭故,謀伐晉。鄭人辭諸侯,秋,師還。

【伝】二十年春、齊人が前來して會盟を征召した。夏、廩丘で會見した。鄭國の故を以て、晋を伐つを謀劃した。鄭人が諸侯に向かい推辭し、秋、軍隊が歸った。

吳公子慶忌驟諫吳子,曰:“不改,必亡。”弗聽。出居於艾,遂適楚。聞越將伐吳,冬,請歸平越,遂歸。欲除不忠者以說于越,吳人殺之。

呉公子慶忌が屢々呉子に勸諫して曰わく、「改めざれば、必ず滅亡せん」。聽かず。艾に出居し、ここに楚國に至った。越國が將に呉を伐たんと聞き、冬、歸りて越と講和するを請い、ここに國に歸った。不忠の人を除掉して以て越國を取悅せんと欲し、呉人が彼を殺した。

十一月,越圍吳。趙孟降於喪食。楚隆曰:“三年之喪,親暱之極也。主又降之,無乃有故乎!”趙孟曰:“黃池之役,先主與吳王有質,曰:‘好惡同之。’今越圍吳,嗣子不廢舊業而敵之,非晉之所能及也,吾是以為降。”楚隆曰:“若使吳王知之,若何?”趙孟曰:“可乎?”隆曰:“請嘗之。”乃往。先造于越軍,曰:“吳犯間上國多矣,聞君親討焉,諸夏之人莫不欣喜,唯恐君志之不從。請入視之。”許之。告於吳王曰:“寡君之老無恤,使陪臣隆敢展謝其不共。黃池之役,君之先臣志父得承齊盟,曰:‘好惡同之。’今君在難,無恤不敢憚勞。非晉國之所能及也,使陪臣敢展布之。”王拜稽首曰:“寡人不佞,不能事越,以為大夫憂,拜命之辱。”與之一簞珠,使問趙孟,曰:“句踐將生憂寡人,寡人死之不得矣。”王曰:“溺人必笑,吾將有問也,史黯何以得為君子?”對曰:“黯也進不見惡,退無謗言。”王曰:“宜哉。”

十一月、越國が吳國を包圍した。趙孟が喪食を更に低く降した。楚隆が曰わく、「三年之喪は親昵の極致なり。主が又降等す。ただ怕れて故あらんか!」。趙孟が曰わく、「黃池のあの一戰に、先主が呉王と誓約ありて曰く、『好惡相同す』。今越國が吳國を包圍す。嗣子は舊業を廢棄せずして往きて敵に抗するは晋國の能くする所にあらず。我はこれにより降等す」。楚隆が曰わく、「もし呉王に知らしめば、如何」。趙孟が曰わく、「可や」。隆が曰わく、「試みるを請います」。ここに前往した。先に越軍に至りて曰わく、「吳國が上國を侵犯離間すること已に多次なり。君が親しく討伐するを聞き、諸夏の人に高興せざるなし。ただ怕れて君の志向が實現する能わざらん。我をして入りて看るを許すを請います」。答應した。呉王に告げて曰わく、「寡君の老臣無恤が陪臣隆を遣わして謹んでここに不共を致歉せしむ。黃池のあの一戰に、君の先臣志父が齊盟に參與するを得て曰く、『好惡相同す』。今君は危難の中に在り。無恤は敢えて勞苦を怕れず。晋國の能くする所にあらざれば、陪臣を遣わして謹んでここに陳告せしむ」。呉王が拜して叩頭して曰わく、「寡人は不才にして、越國に事奉する能わず。大夫の憂慮と成れり。命令の屈辱に拜謝す」。彼に一簞の珠を給し、彼をして趙孟に問候せしめて曰わく、「句踐は將に寡人を活きて折磨せん。寡人は死を求めても能わず」。呉王が曰わく、「快く淹死せんとする人は必ずなお笑う。我に話ありて問わん。史黯は何を憑って能く君子を為さん」。對えて曰わく、「黯は進用せられて厭惡を見ず、退居するに謗言なし」。呉王が曰わく、「應當この如し」。

◇哀公二十一年

◇哀公二十一年

【傳】二十一年夏五月,越人始來。

【伝】二十一年夏五月、越人が始めて前來した。

秋八月,公及齊侯、邾子盟於顧。齊有責稽首,因歌之曰:“魯人之皋,數年不覺,使我高蹈。唯其儒書。以為二國憂。”

秋八月、哀公が齊侯・邾子と顧で盟約を訂立した。齊國の或る人が叩頭の事を責備し、ここに歌を唱して曰わく、「魯人の過錯、幾年も覺悟せず。逼りて我らを遠來せしむ。ただ彼らの儒書に因りて、兩國の憂慮と成れり」。

是行也,公先至於陽穀。齊閭丘息曰:“君辱舉玉趾,以在寡君之軍。群臣將傳遽以告寡君,比其復也,君無乃勤。為僕人之未次,請除館於舟道。”辭曰:“敢勤僕人?”

この一次の出行に、哀公が先に陽穀に到った。齊國閭丘息が曰わく、「君の玉趾を勞するを蒙り、來りて寡君の軍隊を慰問す。群臣は將に驛傳を以て寡君に報告せん。回報に及ぶまで、君はただ怕れて已に勞頓せん。僕人がまだ館舍を安排せざるを以て、舟道で館舍を清除するを請います」。推辭して曰わく、「怎で敢えて僕人を勞せむや」。

◇哀公二十二年

◇哀公二十二年

【傳】二十二年夏四月,邾隱公自齊奔越,曰:“吳為無道,執父立子。”

【伝】二十二年夏四月、邾隱公が齊國より越國に逃奔して曰わく、「呉國は無道にして、父を捉えて兒子を立てり」。

越人歸之,大子革奔越。

越人が彼を送り歸らせ、太子革が越國に逃奔した。

冬十一月丁卯,越滅吳。請使吳王居甬東,辭曰:“孤老矣,焉能事君?”乃縊。越人以歸。

冬十一月丁卯、越國が吳國を滅亡した。呉王をして甬東に住まわせんを請うに、推辭して曰わく、「孤は已に老いたり。どこに還能く君に事奉せん」。ここに自縊した。越人がその尸体を帶ち歸った。

◇哀公二十三年

◇哀公二十三年

【傳】二十三年春,宋景曹卒。季康子使冉有吊,且送葬,曰:“敝邑有社稷之事,使肥與有職競焉,是以不得助執紼,使求從輿人。曰:‘以肥之得備彌甥也,有不腆先人之產馬,使求薦諸夫人之宰,其可以稱旌繁乎?’”夏六月,晉荀瑤伐齊。高無丕帥師御之。知伯視齊師,馬駭,遂驅之,曰:“齊人知餘旗,其謂餘畏而反也。”乃壘而還。將戰,長武子請卜。知伯曰:“君告於天子,而卜之以守龜於宗祧,吉矣,吾又何卜焉?且齊人取我英丘,君命瑤,非敢耀武也,治英丘也。以辭伐罪足矣,何必卜?”壬辰,戰於犁丘。齊師敗績,知伯親禽顏庚。

【伝】二十三年春、宋景曹が去世した。季康子が冉有を遣わして弔唁し、かつ葬を送らせて曰わく、「敝邑に社稷の事ありて、肥をしても職務ありて競りて奔走せしめ、ゆえに紼を助くる能わず。求を遣わして輿人に跟隨せしむ。曰く、『肥が遠房の外甥に忝るを得るを以て、豐厚ならざる先人の産馬あり。求を遣わして夫人の家宰に進献せしむ。おそらく旌繁と相稱す可きか』」。夏六月、晋國荀瑤が齊を伐った。高無丕が軍を率いて抵御した。知伯が齊軍を察看するに、馬が驚を受け、即ち馬を驅りて上前して曰わく、「齊人は我が旗幟を認識す。怕れて我が畏懼して返回するを説かん」。ここに壘營して還った。將に交戰せんとし、長武子が占卜を請求した。知伯が曰わく、「國君は已に天子に報告し、又宗廟で守龜を以て占卜し、已に吉利せり。我は又何で必ずしも再び卜せん。況んや齊人が我らの英丘を奪取せり。國君が瑤に命令し、敢えて武力を炫耀せざるは英丘を治理するためなり。文辭を以て有罪を討伐すれば即ち足れり。何で必ずしも占卜せん」。壬辰、犁丘で交戰した。齊軍が大いに敗れ、知伯が親しく顏庚を擒獲した。

秋八月,叔青如越,始使越也。越諸鞅來聘,報叔青也。

秋八月、叔青が越國に至ったは始めて越國に出使すればなり。越國諸鞅が前來して聘問し、叔青に回報した。

◇哀公二十四年

◇哀公二十四年

【傳】二十四年夏四月,晉侯將伐齊,使來乞師,曰:“昔臧文仲以楚師伐齊,取谷。宣叔以晉師伐齊,取汶陽。寡君欲徼福於周公,願乞靈於臧氏。”臧石帥師會之,取廩丘。軍吏令繕,將進。萊章曰:“君卑政暴,往歲克敵,今又勝都。天奉多矣,又焉能進?是躗言也。役將班矣!”晉師乃還。餼臧石牛,大史謝之,曰:“以寡君之在行,牢禮不度,敢展謝之。”

【伝】二十四年夏四月、晋侯が將に齊を伐たんとし、人を遣わして來りて出兵を請い、曰わく、「昔臧文仲が楚軍を以て齊を伐ち、穀を取得せり。宣叔が晋軍を以て齊を伐ち、汶陽を取得せり。寡君は周公に向かい福を求め、臧氏に向かい靈を借らんを希う」。臧石が軍を率いて會合し、廩丘を取得した。軍吏が令を下して兵器を修繕し、將に前進せんとした。萊章が曰わく、「國君は地位低くして政事は暴虐なり。往年に敵人に戰勝し、今又都邑に勝過す。上天の給うは已に多し。又どこに能く再び前進せん。これは躗言なり。戰事は將に結束せん!」。晋軍はここに退還した。活牛を以て臧石を犒勞し、太史が致歉して曰わく、「寡君が行軍中に在るを以て、牢禮が規格に足らず。謹んでここに致歉す」。

邾子又無道,越人執之以歸,而立公子何。何亦無道。

邾子が又無道にして、越人が彼を捉えて帶ち歸り、公子何を立てた。何もまた無道なり。

公子荊之母嬖,將以為夫人,使宗人釁夏獻其禮。對曰:“無之。”公怒曰:“女為宗司,立夫人,國之大禮也,何故無之?”對曰:“周公及武公娶於薛,孝、惠娶於商,自桓以下娶於齊,此禮也則有。若以妾為夫人,則固無其禮也。”

公子荆の母が寵を得て、將に夫人に立てられんとし、宗人釁夏をして禮儀を呈上せしめた。對えて曰わく、「この如き禮なし」。哀公が發怒して曰わく、「あなたは宗司を為るに、夫人を立つるは國家の大禮なり。何で無しと説くか」。對えて曰わく、「周公と武公は薛に娶り、孝公・惠公は商に娶り、桓公より以下は齊に娶りき。この如き禮は有るなり。もし妾を以て夫人に立てば、本よりあの如き禮なし」。

公卒立之,而以荊為大子。國人始惡之。

哀公が終に彼女を立て、又荆を太子に立てた。國人が始めて彼を厭惡した。

閏月,公如越,得大子適郢,將妻公,而多與之地。公孫有山使告於季孫,季孫懼,使因大宰嚭而納賂焉,乃止。

閏月、哀公が越國に至り、太子適郢の歡心を得、越王が女兒を哀公に嫁せんと欲し、幷に多く土地を給えんとした。公孫有山が人を遣わして季孫に告げ、季孫が害怕し、人を遣わして太宰嚭を通じて賄賂を送上し、ここに作罷した。

◇哀公二十五年

◇哀公二十五年

【傳】二十五年夏五月庚辰,衛侯出奔宋。衛侯為靈臺於藉圃,與諸大夫飲酒焉。褚師聲子襪而登席,公怒,辭曰:“臣有疾,異於人。若見之,君將之,是以不敢。”公愈怒,大夫辭之,不可。褚師出,公戟其手,曰:“必斷而足。”聞之,褚師與司寇亥乘,曰:“今日幸而後亡。”公之入也,奪南氏邑,而奪司寇亥政。公使侍人納公文懿子之車於池。

【伝】二十五年夏五月庚辰、衛侯が宋に出奔した。衛侯が藉圃で靈臺を建て、諸大夫とそこで酒を飲んだ。褚師聲子が襪子を穿著して席に登り、衛侯が發怒した。彼が解釋して曰わく、「臣に病ありて、他人と一樣ならず。もし見れば、君は將に嘔吐せん。ゆえに敢えて脫がず」。衛侯が更加に發怒した。大夫が彼のため解釋するも許さず。褚師が出で、衛侯が手を戟形に撑えて曰わく、「必ずあなたの脚を砍斷せん」。褚師が聞き、司寇亥と一起に車に乘りて曰わく、「今日僥倖に能く逃走せん」。衛侯が國に歸る時、南氏の城邑を奪い、又司寇亥の政事を奪った。衛侯が侍人をして公文懿子の車子を池裏に推進せしめた。

初,衛人翦夏丁氏,以其帑賜彭封彌子。彌子飲公酒,納夏戊之女,嬖,以為夫人。其弟期,大叔疾之從孫甥也,少畜於公,以為司徒。夫人寵衰,期得罪。

当初、衛人が夏丁氏を翦滅し、その妻子財物を彭封彌子に賜えた。彌子が哀公に酒を請い、夏戊の女兒を進献し、寵を得、夫人に立てられた。その弟期は太叔疾の從孫甥にして、小時に哀公の所で養われ、彼を用いて司徒と為した。夫人の寵愛が衰減し、期が罪を得た。

公使三匠久。公使優狡盟拳彌,而甚近信之。故褚師比、公孫彌牟、公文要、司寇亥、司徒期因三匠與拳彌以作亂,皆執利兵,無者執斤。使拳彌入於公宮,而自大子疾之宮噪以攻公。鄄子士請御之。彌援其手,曰:“子則勇矣,將若君何?不見先君乎?君何所不逞欲?且君嘗在外矣,豈必不反?當今不可,眾怒難犯,休而易間也。”乃出。將適蒲,彌曰:“晉無信,不可。”將適鄄,彌曰:“齊、晉爭我,不可。”將適泠,彌曰:“魯不足與,請適城鉏以鉤越,越有君。”乃適城鋤。彌曰:“衛盜不可知也,請速,自我始。”乃載寶以歸。

哀公が三種の工匠を役使すること久し。哀公が優狡をして拳彌と結盟せしめ、又甚だ親近信任した。ゆえに褚師比・公孫彌牟・公文要・司寇亥・司徒期が三種の工匠と拳彌を借りて亂を作し、皆利兵器を持ち、なきは斧斤を拿った。拳彌をして公宮に進入せしめ、而して太子疾の宮裏より鼓噪して哀公を攻打した。鄄子士が抵御を請求した。彌がその手を拉住して曰わく、「あなたは倒是勇敢なり。將に國君をどうせん。先君を見ざるか。國君は何處か欲望を滿足する能わざらん。況んや國君はかつて外に在りき。あえて必ず歸來せざらんや。今は行かず。衆怒は犯し難く、事が平息して乃ち離間し易し」。ここに出奔した。將に蒲に往かんとし、彌が曰わく、「晋國に信用なし。不可なり」。將に鄄に往かんとし、彌が曰わく、「齊・晋が我らを爭奪す。不可なり」。將に泠に往かんとし、彌が曰わく、「魯國は結交するに足らず。城鉏に往きて以て越國を聯絡せんを請います。越國に賢君あり」。ここに城鋤に往った。彌が曰わく、「衛國の盜賊は測る可からず。快くせんを請います。我より開始せん」。ここに寶物を裝上して歸った。

公為支離之卒,因祝史揮以侵衛。衛人病之。懿子知之,見子之,請逐揮。

哀公が支離之卒を編み、祝史揮を借りて衛國を侵伐した。衛人がこれを以て患とした。懿子が知り、往きて子之に見え、揮を驅逐するを請求した。

文子曰:“無罪。”懿子曰:“彼好專利而妄。夫見君之入也,將先道焉。若逐之,必出於南門而適君所。夫越新得諸侯,將必請師焉。”揮在朝,使吏遣諸其室。揮出,信,弗內。五日,乃館諸外裡,遂有寵,使如越請師。

文子が曰わく、「罪なし」。懿子が曰わく、「彼は專權奪利を喜好し又狂妄なり。國君が將に進入せんとするを見れば、必ず先に往きて路を帶びん。もし彼を驅逐せば、彼は必ず南門より出でて國君の所に至らん。越國は新近に諸侯を得て、必ず出兵を請求せん」。揮が朝廷に在り、官吏を遣わして彼を家裏より打發して去らせた。揮が出で、兩夜を過ぎ、再び進入せしめず。五日の後、即ち彼を外里に住まわせ、ここに寵を得、彼を越國に遣わして出兵を請求せしめた。

六月,公至自越。季康子、孟武伯逆於五梧。郭重僕,見二子,曰:“惡言多矣,君請盡之。”公宴於五梧,武伯為祝,惡郭重,曰:“何肥也!”季孫曰:“請飲彘也。以魯國之密邇仇讎,臣是以不獲從君,克免於大行,又謂重也肥。”

六月、哀公が越國より歸った。季康子・孟武伯が五梧で迎接した。郭重が駕車し、二人に見えて曰わく、「壞話は已に多し。國君に盡く説出するを請います」。哀公が五梧で宴を設け、武伯が祝辭を致し、郭重を厭惡して曰わく、「何でこの如く肥か」。季孫が曰わく、「彘に酒を罰するを請います。魯國が仇敵に緊挨着するを以て、臣はこれにより國君に跟隨する能わず、遠行を免るるを得たに、卻って又重の肥を説く」。

公曰:“是食言多矣,能無肥乎?”飲酒不樂,公與大夫始有惡。

哀公が曰わく、「この人は食言すること太に多し。能く肥せざらんや」。酒を飲みて樂しまず、哀公と大夫が始めて惡感を有した。

◇哀公二十六年

◇哀公二十六年

【傳】二十六年夏五月,叔孫舒帥師會越皋如、後庸、宋樂茷,納衛侯。

【伝】二十六年夏五月、叔孫舒が軍を率いて越國皋如・后庸・宋國樂茷と會合し、衛侯を接納した。

文子欲納之,懿子曰:“君愎而虐,少待之,必毒於民,乃睦於子矣。”師侵外州,大獲。出御之,大敗。掘褚師定子之墓,焚之於平莊之上。文子使王孫齊私於皋如,曰:“子將大滅衛乎,抑納君而已乎?”皋如曰:“寡君之命無他,納衛君而已。”文子致眾而問焉,曰:“君以蠻夷伐國,國幾亡矣。請納之。”眾曰:“勿納。”曰:“彌牟亡而有益,請自北門出。”眾曰:“勿出。”重賂越人,申開守陴而納公,公不敢入。師還,立悼公,南氏相之,以城鉏與越人。公曰:“期則為此。”令苟有怨於夫人者,報之。司徒期聘于越。公攻而奪之幣。

文子が彼を接納せんと欲し、懿子が曰わく、「國君は剛愎にして又暴虐なり。稍く待てば、必ず百姓を毒害し、百姓は即ちあなたと親睦せん」。越軍が外州に侵入し、大有俘獲した。衛軍が城を出でて抵御し、大いに敗れた。褚師定子の墓を掘開し、平莊上で焚燒した。文子が王孫齊を遣わして私に皋如に問わせて曰わく、「あなたは衛國を大滅せんと欲するか、それともただ國君を接納する而已か」。皋如が曰わく、「寡君の命令に別なく、ただ衛君を接納する而已」。文子が衆人を召集して詢問して曰わく、「國君が蠻夷を帶びて本國を攻打し、國家は幾ほどく滅亡せり。彼を接納するを請います」。衆人が曰わく、「接納する勿れ」。曰わく、「もし彌牟が逃亡して益あれば、我をして北門より出でしめんを請います」。衆人が曰わく、「出でる勿れ」。重重に越人に賄賂し、大開城門・女牆を守住して哀公を接納するに、哀公は敢えて進入せず。軍隊が歸り、悼公を立て、南氏が彼を輔相し、城鉏を越人に給えた。哀公が曰わく、「是れ期がこの事を做れり」。令を下し、凡そ夫人に怨あるは皆可に報復せよと。司徒期が越國に聘問した。哀公が彼を攻打し、幣帛を奪走した。

期告王,王命取之。期以眾取之。公怒,殺期之甥之為大子者。遂卒于越。

期が越王に報告し、越王がそれを奪取するを命令した。期が衆人を帶びて奪取した。哀公が發怒し、期の外甥の中で太子を做るその人を殺した。ここに越國で死んだ。

宋景公無子,取公孫周之子得與啟,畜諸公宮,未有立焉。於是皇緩為右師,皇非我為大司馬,皇懷為司徒,靈不緩為左師,樂茷為司城,樂朱鉏為大司寇。六卿三族降聽政,因大尹以達。大尹常不告,而以其欲稱君命以令。國人惡之。司城欲去大尹,左師曰:“縱之,使盈其罪。重而無基,能無敝乎?”冬十月,公遊於空澤。辛巳,卒於連中。大尹興空澤之士千甲,奉公自空桐入,如沃宮。使召六子,曰:“聞下有師,君請六子畫。”六子至,以甲劫之,曰:“君有疾病,請二三子盟。”乃盟於少寢之庭,曰:“無為公室不利。”大尹立啟,奉喪殯於大宮。三日,而後國人知之。司城茷使宣言於國曰:“大尹惑蠱其君而專其利,今君無疾而死,死又匿之,是無他矣,大尹之罪也。”得夢啟北首而寢於盧門之外,己為鳥而集於其上,咮加於南門,尾加於桐門。曰:“餘夢美,必立。”大尹謀曰:“我不在盟,無乃逐我,復盟之乎?”使祝為載書,六子在唐盂。將盟之。祝襄以載書告皇非我,皇非我因子潞、門尹得、左師謀曰:“民與我,逐之乎?”皆歸授甲,使徇於國曰:“大尹惑蠱其君,以陵虐公室。與我者,救君者也。”眾曰:“與之。”大尹徇曰:“戴氏、皇氏將不利公室,與我者,無憂不富。”眾曰:“無別。”戴氏、皇氏欲伐公,樂得曰:“不可。彼以陵公有罪,我伐公,則甚焉。”使國人施於大尹,大尹奉啟以奔楚,乃立得。司城為上卿,盟曰:“三族共政,無相害也。”

宋景公に兒子なく、公孫周の兒子得と啟を公宮で養い、まだ誰を立てず。當時皇緩が右師を為し、皇非我が大司馬を為し、皇懷が司徒を為し、靈不緩が左師を為し、樂茷が司城を為し、樂朱鉏が大司寇を為した。六卿三族が共同に政を聽き、大尹を通じて國君に上達した。大尹は常に禀告せずして、卻って自らの欲望に按って君命を假稱して以て令を發した。國人が彼を厭惡した。司城が大尹を去掉せんと欲し、左師が曰わく、「彼を放任して、その罪惡を滿盈せしめよ。權勢重くして根基なければ、能く敗壞せざらんや」。冬十月、景公が空澤で游玩した。辛巳、連中で死んだ。大尹が空澤の甲士一千人を發動し、景公を奉じて空桐より城に入り、沃宮に到った。人を遣わして六卿を召して曰わしめ、「都城の下に軍隊ありと聞く。國君が六位に謀劃するを請う」。六卿が到れば、甲士を以て彼らを脅迫して曰わく、「國君に病あり。幾位に盟約を訂立するを請う」。ここに少寢の庭中で結盟して曰わく、「公室に不利の事を為す勿れ」。大尹が啟を立て、靈柩を大宮に停放した。三日の後に國人が乃ち知った。司城茷が人を遣わして國中に宣揚して曰わしめ、「大尹がその國君を蠱惑して其利を專有し、今國君は疾病なくして死し、死して又隱瞞す。別の故なく、是れ大尹の罪なり」。得が啟が頭を北に向けて盧門之外に睡り、自己が鳥と變成して彼の身上に停り、喙が南門に夠り、尾が桐門に夠るを夢見た。曰わく、「我が夢は好し。必ず立つる能し」。大尹が謀劃して曰わく、「我は盟約の中に在らず。ただ怕れて我を驅逐せん。再び彼らと結盟せんか」。祝をして載書を作らせ、六卿が唐盂に在り。將に結盟せんとす。祝襄が載書を皇非我に告げた。皇非我が子潞・門尹得・左師に因りて謀劃して曰わく、「百姓は我らに向く。彼を驅逐せんか」。皆歸りて甲胄を發放し、人を遣わして國中に巡行して曰わしめ、「大尹がその國君を蠱惑し、欺陵虐害して公室を害す。我らに跟うは國君を救う人なり」。衆人が曰わく、「彼に跟え」。大尹が巡行して曰わく、「戴氏・皇氏は將に公室に不利せん。我に跟うは富まざるを擔心する勿れ」。衆人が曰わく、「分別なし」。戴氏・皇氏が啟を攻打せんと欲し、樂得が曰わく、「不可なり。彼は公を欺陵するを以て罪あり。我らが公を攻打せば、更に過分なり」。國人をして大尹に罪を問わしめ、大尹が啟を奉じて楚國に逃奔し、ここに得を立てた。司城が上卿を為し、盟約に曰わく、「三族が共同に執政し、互相傷害する勿れ」。

衛出公自城鉏使以弓問子贛,且曰:“吾其入乎?”子贛稽首受弓,對曰:“臣不識也。”私於使者曰:“昔成公孫於陳,甯武子、孫莊子為宛濮之盟而君入。獻公孫於衛齊,子鮮、子展為夷儀之盟而君入。今君再在孫矣,內不聞獻之親,外不聞成之卿,則賜不識所由入也。《詩》曰:‘無競惟人,四方其順之。’若得其人,四方以為主,而國於何有?”

衛出公が城鉏より人を遣わして弓を帶びて子贛を問候し、かつ曰わしめ、「我はおそらく國に歸る能わんか」。子贛が叩頭して弓を接受し、對えて曰わく、「臣は知らず」。私に使者に對して曰わく、「昔成公が陳に出奔し、寧武子・孫莊子が宛濮之盟を為して國君が國に歸るを得たり。獻公が衛齊に出奔し、子鮮・子展が夷儀之盟を為して國君が國に歸るを得たり。今國君が再び出奔するに、內に獻公の如き親人あらんを聞かず、外に成公の時の如き卿あらんを聞かず。然らば賜は何を憑って國に歸るを知らん。《詩》に曰く、『强盛はただ人を得るに在り。四方は皆順從せん』。もしあの如き人を得れば、四方が彼を主と奉じ、國を得るに又何の難かあらん」。

◇哀公二十七年

◇哀公二十七年

【傳】二十七年春,越子使後庸來聘,且言邾田,封於駘上。

【伝】二十七年春、越子が后庸を遣わして前來聘問し、かつ邾國の田地に談及し、駘上を以て邊界と為した。

二月,盟於平陽,三子皆從。康子病之,言及子贛,曰:“若在此,吾不及此夫!”武伯曰:“然。何不召?”曰:“固將召之。”文子曰:“他日請念。”

二月、平陽で盟約を訂立し、三子が皆跟從した。康子がこれに對して羞恥を感じ、子贛に談及して曰わく、「もし彼がここに在らば、我はこの歩に落らざらん!」。武伯が曰わく、「是れ然り。何で彼を召さざるか」。曰わく、「本より彼を召さんとす」。文子が曰わく、「以後この話を記住するを請います」。

夏四月己亥,季康子卒。公吊焉,降禮。

夏四月己亥、季康子が去世した。哀公が往きて吊唁し、禮數を降低した。

晉荀瑤帥師伐鄭,次於桐丘。鄭駟弘請救於齊。齊師將興,陳成子屬孤子,三日朝。設乘車兩馬,系五色焉。召顏涿聚之子晉,曰:“隰之役,而父死焉。

晋國荀瑤が軍を率いて鄭を伐ち、桐丘に駐紮した。鄭國駟弘が齊國に向かい救を求めた。齊軍が將に出發せんとし、陳成子が死難者の孤兒を集合し、接連三日に朝見した。一輛の乘車兩匹馬を設置し、五色の絲帶を繫上した。顏涿聚の兒子晋を召來し、曰わく、「隰のあの一戰に、あなたの父はそこで死せり。

以國之多難,未女恤也。今君命女以是邑也,服車而朝,毋廢前勞。”乃救鄭。

(陳成子が続いて説く:)國家に難多きを以て、あなたを撫恤せざりき。今國君がこの座の城邑をあなたに任命す。車に乘りて朝見し、先前の功勞を廢棄する勿れ」。ここに兵を出して鄭を救った。

及留舒,違谷七里,穀人不知。及濮,雨,不涉。子思曰:“大國在敝邑之宇下,是以告急。今師不行,恐無及也。”成子衣制,杖戈,立於阪上,馬不出者,助之鞭之。知伯聞之,乃還,曰:“我卜伐鄭,不卜敵齊。”使謂成子曰:“大夫陳子,陳之自出。陳之不祀,鄭之罪也。故寡君使瑤察陳衷焉。謂大夫其恤陳乎?若利本之顛,瑤何有焉?”成子怒曰:“多陵人者皆不在,知伯其能久乎?”中行文子告成子曰:“有自晉師告寅者,將為輕車千乘,以厭齊師之門,則可盡也。”

留舒に到達し、穀に距離七里にして、穀人がまだ知らず。濮に到達し、雨が降り、河を渡らず。子思が曰わく、「大國は即ち敝邑の屋檐下に在り。ゆえに急を告げり。今軍隊が前進せざれば、恐らく及ばざらん」。成子が雨衣を穿著し、戈を拄きて坡上に立ち、馬の肯んじて出でざるあれば、即ち幫けて鞭打した。知伯が聞き、ここに退還して曰わく、「我が占卜せしは鄭を伐つなり。齊と敵と為るを占卜せざりき」。人を遣わして成子に對して曰わしめ、「大夫陳子は陳國より分出せしなり。陳國が祀を絶つのは鄭國の罪過なり。ゆえに寡君が瑤を遣わして陳國の衷曲を察看せしむ。大夫が陳國を體恤するや否やを請問す。もし本根の顛覆を以て利と為せば、瑤に又何かあらん」。成子が發怒して曰わく、「常に他人を欺凌するは皆善終を得ず。知伯はあえて能く長久せんや」。中行文子が成子に告げて曰わく、「或る人が晋軍より來りて寅に告ぐるに、晋軍は將に輕車千乘を以て往きて齊軍の營門を壓迫し、即ち齊軍を消滅し盡くす可し」。

成子曰:“寡君命恆曰:‘無及寡,無畏眾。’雖過千乘,敢闢之乎?將以子之命告寡君。”文子曰:“吾乃今知所以亡。君子之謀也,始衷終皆舉之,而後入焉。今我三不知而入之,不亦難乎?”公患三桓之侈也,欲以諸侯去之。三桓亦患公之妄也,故君臣多間。公遊於陵阪,遇孟武伯於孟氏之衢,曰:“請有問於子,餘及死乎?”對曰:“臣無由知之。”三問,卒辭不對。公欲以越伐魯,而去三桓。秋八月甲戌,公如公孫有陘氏,因孫於邾,乃遂如越。國人施公孫有山氏。

成子が曰わく、「寡君が恒に命令して曰く、『人少なきを欺凌する勿れ、人多きを畏懼する勿れ』。たとえ相手が千乘を超過するも、敢えて躲避せんや。將にあなたの命令を以て寡君に報告せん」。文子が曰わく、「我は今日に至りて乃ち自己の滅亡する所以の故を知れり。君子の謀劃は始・中・終を皆考慮して、然る後に乃ち行動す。今我は三樣を皆知らずして行動するは、また難くないか」。哀公が三桓の奢侈を憂慮し、諸侯を借りて彼らを去掉せんと欲した。三桓もまた哀公の狂妄を憂慮し、ゆえに君臣の間に嫌隙が多し。哀公が陵阪で游玩し、孟氏之衢で孟武伯に遇い、曰わく、「あなたに向かい一件を問うを請う。我は死するまで還將に及ぶか」。對えて曰わく、「臣は知る由なし」。三次問うて、終に推辭して答えず。哀公が越國を借りて魯國を討伐し、三桓を去掉せんと欲した。秋八月甲戌、哀公が公孫有陘氏の所に至り、続いて邾に出奔し、ここに越國に就き往いた。國人が公孫有山氏に罪を問うた。

悼之四年,晉荀瑤帥師圍鄭。未至,鄭駟弘曰:“知伯愎而好勝,早下之,則可行也。”乃先保南里以待之。知伯入南里,門於桔柣之門。鄭人俘酅魁壘,賂之以知政,閉其口而死。將門,知伯謂趙孟:“入之。”對曰:“主在此。”

悼公四年、晋國荀瑤が軍を率いて鄭國を包圍した。まだ到達せざるに、鄭國駟弘が曰わく、「知伯は剛愎にして又勝を好む。早く彼に屈服すれば、即ち彼を退走せしむる可し」。ここに先に南里を守住して等待した。知伯が南里に入り、桔柣之門を攻打した。鄭人が酅魁壘を俘虜し、彼をして國政に參與せしむるを以て誘降するに、彼は口を閉じて死んだ。將に門を攻めんとし、知伯が趙孟に對して曰わく、「進入せよ」。對えて曰わく、「主はここに在り」。

知伯曰:“惡而無勇,何以為子?”對曰:“以能忍恥,庶無害趙宗乎!”知怕不悛,趙襄子由是惎知伯,遂喪之。知伯貪而愎,故韓、魏反而喪之。

知伯が曰わく、「相貌が醜くして又勇氣なし。何を憑って後嗣に立てられしや」。對えて曰わく、「能く恥辱を忍受するを以て、おそらく趙氏の宗族を危害せざる可きか!」。知伯が改めず。趙襄子はこれにより知伯を惎り、終に彼をして滅亡せしめた。知伯は貪婪にして又剛愎なり。ゆえに韓・魏が反って彼を滅亡せしめた。

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