Libo

颜氏家训

北齐 · 颜之推

欽定四庫全書子部十

儒家典籍

初学は四書から入るのがよい。大学が綱を立て、論語が言を記し、孟子が展開し、中庸が収束する。続いて詩経・尚書・礼記と春秋三伝へ。荀子・春秋繁露・近思録・伝習録は、経学の外で儒学がどう語られてきたかを見る几道である。

欽定四庫全書子部十

欽定四庫全書子部十

顔氏家訓雜家類一【雜學之屬】提要

《顏氏家訓》、雜家類一【雜學の屬】。提要。

【臣】等謹案顔氏家訓二卷舊本題北齊黃門侍郎顔之推撰考陸法言切韻序作於隋仁夀中所列同定八人之推與焉則實終於隋代舊本所題葢據作書之時也陳振孫書録解題雲古今家訓以此為祖然李翶所稱太公家訓雖屬偽書至杜預家誡之類則在前久矣特之推所撰卷帙較多耳晁公武讀書志雲之推本梁人所著凡二十篇述立身治家之法辨正時俗之謬以訓子孫今觀其書大抵於世故人情深明利害而能文之以經訓故唐志宋志俱列之儒家然其中歸心等篇深明因果不出當時好佛之習又兼論字畫音訓並考正典故品第文藝曼衍旁涉不専為一家之言今特退之雜家從其類焉又是書隋志不著録唐志宋志俱作七卷今本乃止二卷錢曾讀書敏求記載有宋鈔淳熈七年嘉興沈揆本七卷以閣本蜀本及天台謝氏所校五代和凝本叅定末附考證二十三條別為一卷且力斥流俗併為二卷之非今沈本不可復見無由知其分卷之舊姑從明人刋本録之然其文既無異同則卷帙分合亦為細故惟考證一卷佚之為可惜耳乾隆四十二年十月恭校上

【臣】等謹案:《顏氏家訓》二卷、舊本は北齊黃門侍郎顏之推の撰と題す。考察するに、陸法言の《切韻序》は隋の仁壽中に作られ、列挙された共同審定の八人の中に顏之推がおり、さすれば彼は實際には隋代に終わったのであり、舊本の題はおそらく著書の時によるものである。陳振孫《書録解題》に言う。古今の家訓は此の書を以て祖とす。しかし李翱の稱する《太公家訓》は偽書に屬するが、杜預の《家誡》の類は此の書に先んじて久しく、ただ顏之推の撰した卷帙が較多いだけである。晁公武《讀書志》に言う。之推はもと梁の人で、所著は凡そ二十篇、立身治家の法を述べ、時俗の謬を辨正して、以て子孫を訓えた。今此の書を觀るに、大抵は世故人情に利害を深く明らめ、能く經訓を以てこれを文飾す。ゆえに《唐志》《宋志》は俱に儒家に列した。しかるにその中《歸心》などの篇は因果を深く明らめ、當時の佛を好む習いを出ず。また字画音訓を兼ね論じ、並びに典故を考正し、文藝を品第し、曼衍して旁ら渉り、專ら一家の言を為さず。今特にこれを雜家に退くるは、その類に隨うなり。また此の書、《隋志》に著録せず、《唐志》《宋志》は俱に七卷と作すも、今本は止だ二卷のみ。錢曾《讀書敏求記》に宋鈔淳熙七年嘉興沈揆本七卷ありと載せ、閣本・蜀本及び天臺謝氏の校する五代和凝本を以て參定し、末に考證二十三條を附して別に一卷と為し、且つ流俗の併せて二卷と為すの非を力斥す。今沈本は再び見るべからず、その分卷の舊貌を知る由なし。姑く明人刊本より録る。しかるに文字すでに同異なくんば、則ち卷帙の分合もまた細故なり。ただ考證一卷の亡佚は、實に惜しむべし。乾隆四十二年十月恭し校す。

總纂官【臣】紀昀【臣】陸錫熊【臣】孫士毅

總纂官【臣】紀昀【臣】陸錫熊【臣】孫士毅

總校官【臣】陸費墀

總校官【臣】陸費墀

欽定四庫全書

欽定四庫全書

顔氏家訓捲上

顏氏家訓卷上

隋顔之推

隋朝の顏之推。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。

序致篇第一

序致篇第一

夫聖贒之書教人誠孝慎言檢跡立身名亦已備矣魏晉以來所著諸子理重事逓相模斆猶屋下架屋床上施床耳吾今所以復為此者非敢軌物範世也業以整齊門內提撕子孫夫同言而信信其所親同命而行行其所服禁童子之暴謔則師友之誡不如婢之指揮止凡人之鬭防則堯舜之道不如寡妻之誨諭吾望此書為汝曹之所信猶賢於傳婢寡妻耳吾家風教素為整宻昔在齠齓便防誨誘每從兩兄曉夕溫凊規行矩步安辭定色鏘鏘翼翼若朝嚴君焉賜以優言問所好尚勵短引長莫不懇篤年始九嵗便丁荼蓼家徒離散百口索然慈兄鞠養苦辛備至有仁無威導示不切雖讀禮傳微愛屬文頗為凡人之所陶染肆欲輕言不備邊幅年十八九少知砥礪習若自然卒難洗盪二十以後大過稀焉每常心共口敵性與情競夜覺曉非今悔昨失自憐無教以至於斯追思平昔之指銘肌鏤骨非徒古書之誡經目過耳故留此二十篇以為汝曹後範耳

聖賢の書は人に誠孝・言を慎み・形迹を檢點し・身を立つるを教える。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。名もまたすでに備わりている。魏晋以來、著す所の諸子は、道理重複し・事底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、彼此相い模仿して、譬えば屋の下に屋を架し、牀の上に牀を疊むが如し。我が今再び此を作る所以は、敢えて以て世人の法式と為し天下の規範と為さんとはせず、ただ以て門內を整齊し子孫を提撕せんとするなり。同じ一言にして人の信ずるは、その親む所を信ずるなり。同じ一令にして人の行うは、その服する所を行うなり。童子の暴謔を禁ずれば、則ち師友の告誡は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。婢の指揮に如かず。常人の爭鬪底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを止むれば、則ち堯舜の道理は寡妻の教誨に如かず。我が願う所は此の書の汝らに信ぜられんこと、なお傳婢寡妻に勝れんことを。我が家の風教は素より整密なり。昔儿童の時より便ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた誨誘し、常に二兄に隨い、早晚温凊して、規に行き矩に步み、辭を安く色を定め、鏘鏘翼翼として、嚴君に朝見するが如し。好言を賜い所好を問い、短を補い長を引くに、懇切誠篤ならざるなし。年纔かに九歳にして父母の喪に遭い、家徒離散し、百口蕭條たり。慈兄撫養し、辛苦備わり至り、仁有りて威無く、開導指示するに急切ならざりき。我は禮傳を讀み、稍々文章を愛すと雖も、甚だ常人に陶染せられ、慾を放縱し・言を輕率にし・邊幅を修めず。十八九歳に至りて稍々磨砺を知るも、習は自然の成れるが如く、終に洗蕩し難し。二十歳以後、大過纔かに少なし。常に心と口と相敵し、性と情と相爭い、夜に曉の錯を覺え、今日昨日の失を悔い、自ら哀れむ教を受けずして此に至るを。平日の志を追思すれば、肌に銘じ骨に鏤む、ただ古書の告誡の目を過ぎ耳を過ぐるのみにあらず。故に此の二十篇を留めて、以て汝ら日後の規範と為す。

教子篇第二

教子篇第二

上智不教而成下愚雖教無益中庸之人不教不知也古者聖王有胎教之法懷子三月出居別宮目不邪視耳不妄聴音聲滋味以禮節之書之玉版藏諸金櫃子生咳防師保固明仁智禮義導習之矣凡庶縱不能爾當撫嬰稚識人顔色知人喜怒便加教誨使為則為使止則止比及數嵗可省笞罰父母威嚴而有慈則子女畏慎而生孝矣吾見世間無教而有愛每不能然飲食運為恣其所欲宜誡翻奬應訶反笑至有識知謂法當耳驕慢已習方複製之捶撻至死而無威忿怒日隆而增怨逮於成長終為敗德孔子云少成若天性習慣如自然是也俗諺曰教婦初來教兒嬰孩誠哉斯語凡人不能教子女者亦非欲陷其罪惡但重於訶怒傷其顔色不忍楚撻慘其肌膚耳當以疾病為諭安得不用湯藥針艾救之哉又宜思勤督訓者可願苛虐於骨肉乎誠不得已也王大司馬母魏夫人性甚嚴正王在湓城時為三千人將年逾四十少不如意猶捶撻之故能成其勲業梁元帝時有一學士聦敏有才為父所寵失於教義一言之是徧於行路終年譽之一行之非揜藏文飾冀其自改年登防宦暴慢日滋竟以言語不擇為周逖抽腸釁鼓雲父子之嚴不可以狎骨肉之愛不可以簡簡則慈孝不接狎則怠慢生焉由命士以上父子異宮此不狎之道也抑搔癢痛縣衾篋枕此不簡之教也或問曰陳亢喜聞君子之逺其子何謂也對曰有是也蓋君子之不親教其子也詩有諷刺之詞禮有嫌疑之誡書有悖亂之事春秋有褒僻之譏易有備物之象皆非父子之可通言故不親授耳【其意見白虎通】齊武成帝子琅瑘王太子母弟也生而聰慧帝及後並篤愛之衣服飲食與東宮相凖帝每面稱之曰此黠兒也當有所成及太子即位王居別宮禮數優僣不與諸王等太后猶謂不足常以為言年十許嵗驕恣無節器服玩好必擬乘輿常朝南殿見典御進新氷鉤盾獻早李還索不得遂大怒訽曰至尊已有我何意無不知分齊率皆如此識者多有叔段州籲之譏後嫌宰相遂矯詔斬之又懼有救乃勒麾下軍士防守殿門既無反心受勞而罷後竟坐此幽薨人之愛子罕亦能均自古及今此多矣賢俊者自可賞愛頑魯者亦當矜憐有偏寵者雖欲以厚之更所以禍之共叔之死母實為之趙王之戮父實使之劉表之傾宗覆族袁紹之地裂兵亡可為靈明鑑也齊朝有一士大夫嘗謂吾曰我有一兒年已十七頗曉書防教其鮮卑語及彈琵琶稍欲通解以此伏事公卿無不寵愛亦要事也吾時俛而不答異哉此人之教子也若由此業自致卿相亦不願汝曹為之

上智は教えずして成り、下愚は教え雖も益なし、中庸の人は教を受けざれば知らず。古の聖王に胎教の法あり。身重三箇月にして出で別宮に居り、目は邪視せず、耳は妄聽せず、音聲滋味は皆禮を以て節し、玉版に書して金櫃に藏す。子生まれて咳底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、師保は固く仁・智・禮・義を以て導き習わしむ。凡庶は此の如く能わずと雖も、亦當に婴孩を撫育し、人の顏色を認め人の喜怒を知る時に便ち教誨を加え、做せと言えば做し止めと言えば止め、數歲に及んで以て笞罰を省くべし。父母威嚴にして且つ慈有れば、則ち子女は畏慎して孝を生ず。我が世の教肓なくしてただ溺愛あるのみを見るに、每に此の如く能わず。飲食はその欲する所を放縱するを為とし、誡むべきに反って獎し、呵るべきに反って笑い、知識有るに及んで以て法度固より此の如しと為す。驕慢すでに養成せられて後乃ち制すれば、捶撻するに死に至るまで威なく、忿怒日に重ねて益々怨を増し、長ずるに及んで終に德を敗す。孔子に曰く、「少成は天性の若く、習慣は自然の如し」と。即ち此なり。俗諺に曰く、「婦を教うるは初來、兒を教うるは婴孩」と。此の言まことに然り。およそ子女を教え得ざる者は、亦彼らを罪惡に陷らしめんと欲するにあらず、ただ呵怒し難く、彼らの顏色を傷つけんを怕れ、楚撻を忍びず、その肌膚を慘痛せしめんと欲せざるのみ。當に疾病を以て譬うべし。豈に湯藥針艾を用いずして救わんや。又當に彼の督訓に勤しむ者を思うべし。豈に骨肉を苛虐せんことを願わんや。實に已むを得ざるなり。王大司馬の母魏夫人は性情甚だ嚴正、王僧辯が湓城に在る時は三千人の將にして、年四十を過ぐるも、稍々意に如かざればなお捶撻す。故に能く勳業を成せり。梁元帝の時に一學士あり、聰明にして才あり、父に寵愛せられ、教義を失す。一言の說對すれば、路人に傳遍し終年稱譽せられ。一事の錯誤すれば、遮掩文飾し、其の自ら改正せんことを望む。年登底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた宦、暴慢日に甚だしく、竟に言語の檢點なきを以て、周逖に腸を抽かれ鼓に衅せらる。故に曰く、父子の嚴は狎昵すべからず、骨肉の愛は簡慢すべからず、と。簡慢なれば則ち慈孝接がず、狎昵なれば則ち怠慢生ず。命士以上は父子居を異にし宮を分かつ、此れ狎昵せざるの法なり。搔痒痛を抑え、衾枕を懸げ、箱子を收拾す、此れ簡慢せざるの教なり。或る人問う、陳亢の君子その子を疎にするを聞くを好むは、何の意ぞ、と。答えて曰く、此の理有り。蓋し君子は自らその子を教えざるなり。《詩經》に諷刺の詞有り、《禮記》に嫌疑の誡有り、《尚書》に悖亂の事有り、《春秋》に褒貶邪僻の譏刺有り、《周易》に備物の象有り、皆父子のあいだに通言すべきにあらず。故に自ら傳授せず【此の意《白虎通》に見ゆ】。齊の武成帝の子琅邪王は、太子の同母弟にして、生まれながら聰慧、帝と后甚だ之を愛し、衣服飲食は東宮と同等なり。帝常に面して稱して曰く、「此れ黠慧の兒、當に成就是有るべし」と。太子即位するに及んで、王別宮に居り、禮數優待僭越し、諸王と同等ならず。太后なお足らずと為し、常に提起す。年十餘歲にして驕恣節制なく、器服玩好は必ず皇帝に比擬す。嘗て南殿に朝見し、典御の新冰を進め鉤盾の早李を獻ずるを見て、歸りて索取するに得られざれば、大いに怒り責問して曰く、「至尊すでに之有り、我何ぞ之無き」と。分寸を齊等せざるを知らず、大抵皆此の如し。有識の人多く共叔段・州吁の如き譏評有り。後に宰相を嫌惡し、則ち詔を矯めて之を斬り、また人の來り救わんことを怕れ、便ち麾下の軍士を勒して殿門を防守せしむ。すでに反心なく、慰勞を受けて罷み、後に竟に此を以て幽禁せられて死す。人の子を愛するに、均一に能くする者少なし。古より今に至りて此の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。多し。賢俊の者は自然に賞愛すべく、頑魯の者も亦當に矜憐すべし。偏寵有る者は、厚くしんと欲するに雖も、反って此を以て之を害す。共叔の死は、實に母の致す所なり。趙王如意の戮は、實に父の之を然らしむるなり。劉表は此を以て宗を傾け族を覆し、袁紹は此を以て地裂け兵亡ぶ。以て靈底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。明鑑と為すべし。齊朝に一士大夫あり、嘗て我に謂いて曰く、「我に一子有り、年すでに十七、書底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを能く解し、之に鮮卑語と琵琶を彈くを教え、稍々通解せしめ、以て公卿に服事せしむれば、寵愛せられざるなく、亦要緊の事なり」と。我時に首を低れて答えず。怪しき哉、此の人の子を教うるや此の如し。若し此の門の學業を以て自ら卿相に至るとも、我も願わず汝らの之を為さんことを。

兄弟篇第三

兄弟篇第三

夫有人民而後有夫婦有夫婦而後有父子有父子而後有兄弟一家之親此三而已矣自茲以往至於九族皆本於三親焉故於人倫為重者也不可不篤兄弟者分形連氣之人也方其防也父母左提右挈前襟後裾食則同案衣則服學則連業遊則共方雖有悖亂之人不能不相愛也及其壯也各妻其妻各子其子雖有篤厚之人不能不少衰也娣姒之比兄弟則踈薄矣今使踈薄之人而節量親厚之恩猶方底而圓葢必不合矣唯友悌深至不為傍人之所移者免夫二親既歿兄弟相顧當如形之與影聲之與響愛先人之遺體惜已身之分氣非兄弟何念哉兄弟之際異於他人望深則易怨地親則易弭譬猶居室一穴則塞之一隙則塗之則無頽毀之慮如雀防之不防風雨之不防壁防楹淪無可救矣僕妾之為雀防妻子之為風雨甚哉兄弟不睦則子侄不愛子侄不愛則群從防薄群從防薄則僮防為讎敵矣如此則行路皆踖其面而蹈其心誰救之哉人或交天下之士皆有歡愛而失敬於兄者何其能多而不能少也人或將數萬之師得其死力而失恩於弟者何其能踈而不能親也娣姒者多爭之地也使骨肉居之亦不若各歸四海感霜露而相思佇日月之相望也況以行路之人處多爭之地能無間者鮮矣所以然者以其當公務而執私情處重責而懷薄義也若能恕已而行換子而撫則此患不生矣人之事兄不可同於事父何為愛弟不及愛子乎是反照而不明也沛國劉璡嘗與兄瓛連棟隔壁瓛呼之數聲不應良久方答瓛怪問之乃雲向來未著衣帽故也以此事兄可以免矣江陵王紹弟孝英子敏兄弟三人特相愛友所得甘防新異非共聚食必不先嚐孜孜色貌相見如不足者及西臺防沒紹以形體魁梧為兵所圍二弟爭共抱持各求代死終不得解遂並命爾

人民あって然る後に夫婦あり、夫婦あって然る後に父子あり、父子あって然る後に兄弟あり。一家の親とは、即ち此の三倫のみ。此より以って往きて九族に至るまで、皆三親に本づく。ゆえに人倫に於いて最も重大、篤厚ならざるべからず。兄弟は形を分かち氣を連ぬる人なり。彼ら底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたの時當り、父母は左に提げ右に挈げ、前襟後裾、飯を食らうに案を同じくし、衣服は則ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた服を共にし、學習は業を連ね、遊玩は方を同じくす。悖亂の人ありと雖も、相愛せざる能わざりき。壮年に及んで、各々その妻を娶り各々その子を愛すれば、篤厚の人ありと雖も、稍々衰減せざる能わざりき。娣姒は兄弟に比ぶれば疏薄なり。今疏薄の人をして親厚の恩を節量せしめば、譬えば方底に圓蓋を配するが如く、必ず合わず。ただ友悌深至にして旁人に移されざる者のみ、能く此を免れん。雙親すでに世を去れば、兄弟相顧みるに、當に形と影・聲と響の如くすべし。先人の遺せし身體を愛し、己の身上に分けし氣を惜しむに、兄弟にあらずして誰をか念わん。兄弟のあいだは他人と異なり、期望深ければ怨み易く、地處親近なれば消弭し易し。譬えば住房のごとし。一つの洞穴あれば即ち塞ぎ、一条の縫隙あれば即ち塗れば、頹毀の憂なし。若し雀底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた之底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、風雨に防護を加えざれば、壁底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた楹淪して、救う可きなし。僕妾は即ち雀底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたなり、妻子は即ち風雨なり、其の害甚だしき哉。兄弟和せざれば子姪相愛せず、子姪相愛せざれば堂從底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた薄く、堂從底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた薄ければ僮底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた讎敵と爲る。此の如くなれば、行路の人も皆その顏を踏みその心を蹈まん、誰か之を救わん。或る人は天下の士を結び交わるに皆歡愛有るに、兄に對して敬を失う。何ぞ多數に善くして少數に善くする能わざるや。或る人は數萬の師を統率して其の死力を得るに、弟に對して恩を失う。何ぞ疏遠に善くして親近に善くする能わざるや。娣姒は多爭の地なり。骨肉同住すと雖も、各々四海に歸向し、霜露に感じて相思い、日月に佇んで相望むるには如かず。況んや行路の人を以て多爭の地に處らしめば、嫌隙なき能わざるは鮮し。此の如くなる所以は、公務に當って私情を執り、重責に處して薄義を懷けばなり。若能く己を恕る心を以て事を行い、位を換えて彼の子を撫愛せば、此の患は生ぜざらん。人の兄に事えるは父に事えるに同じくすべからざるは、何ぞ弟を愛するに反って子を愛するに及ばざるや。此れ反照して明らかならざるなり。沛國の劉琎は嘗て兄の劉瓛と棟を連ね壁を隔てゝ居り、瓛數聲呼ぶも答えず、久しくして乃ち答う。瓚怪しんで之を問えば、乃ち曰く、さきほど未だ衣冠を著ず、と。此の如く以て兄に事えば、禮を失うを免れん。江陵王底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた紹は弟の孝英・子敏と兄弟三人、殊に相愛友し。甘底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた新異の物を得れば、共に聚まり食うにあらざれば必ず先に嘗めず。孜孜の神色相見るに、總に未だ足らざるが如し。西臺底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた沒するに及んで、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた紹は形體魁梧なるを以て兵士に包圍せられ、兩弟爭うて共に抱持し、各々死に代わらんことを求め、終に解脱すること能わずして、俱に命を喪う。

後娶篇第四

後娶篇第四

吉甫賢父也伯竒孝子也賢父御孝子合得終於天性而後妻間之伯竒遂放曾參婦死謂其子曰吾不及吉甫汝不及伯竒王駿喪妻亦謂人曰我不及曾參子不如曽元並終身不娶此等足以為誡其後假繼慘虐孤遺離間骨肉傷心斷腸者何可勝數慎之哉慎之哉江右不諱庶孽喪室之後多以妾媵終家事疥癬蚊防或未能免限以大分故稀鬭鬩之恥河北鄙於側出不預人流是以必須重娶至於三四母年有少於子者後母之弟與前婦之兄衣服飲食爰及婚宦至於士庶貴賤之隔俗以為常身沒之後辭訟盈公門謗辱彰道路子誣母為妾弟黜兄為傭播先人之辭跡暴露祖考之長短以求直已者往往而有悲夫自古奸臣佞妾以一言陷人者眾矣況夫婦之義曉夕移之婢防求容助相説引積年累月安有孝子乎此不可不畏凡庸之性後夫多寵前夫之孤後妻必虐前妻之子非唯婦人懷嫉妬之情丈夫有沈惑之僻亦事勢使之然也前夫之孤不敢與我子爭家提攜鞠養積習生愛故寵之前妻之子每居己生之上宦學婚嫁莫不為防焉故虐之異姓寵則父母被怨繼親虐則兄弟為讎家有此者皆門戶之禍也思魯等從舅殷外臣博達之士也有子基諶皆已成立而再取王氏基每拜見後母感慕嗚咽不能自持家人莫忍仰視王亦悽愴不知所容旬月求退便以禮遣此亦悔事也後漢書曰安帝時汝南薛包字孟嘗好學篤行喪母以至孝聞及父娶後妻而憎包分出之包日夜號泣不能去至被毆杖不得已廬於舍外旦入而灑掃父怒又逐之乃廬於里門昬晨不廢積嵗餘父母慙而還之後行六年服喪過乎哀既而弟子求分財異居包不能止乃中分其財奴婢引其老者曰與我共事久若不能使也田廬取其荒頓者曰吾少時所理意所戀也器物取其朽敗者曰我素所服食身口所安也弟子數破其產還復賑給建光中公車特徵至拜侍中包性恬虛稱疾不起以死自乞有詔賜告歸也

吉甫は賢父、伯奇は孝子なり。賢父孝子を駕馭するに、本當に其の天性を終えるべきに、後妻之を離間して、伯奇は遂に放逐せらる。曾參の妻死して、子に謂いて曰く、「我は吉甫に及ばず、汝は伯奇に及ばず」と。王駿妻を喪い、亦人に謂いて曰く、「我は曾參に及ばず、子は曾元に如かず」と。皆終身娶らず。此らは以て鑑戒と爲すに足る。夫の後、繼室の孤兒を惨虐し骨肉を離間して、人をして心を傷み腸を断たしむるは、豈に數へ盡くし得んや。慎めよ慎めよ。江右は庶出を避諱せず、妻を喪いて後多く妾媵を以て家事を料理せしむ。疥癬蚊底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたの患、或いは免れ得ずと雖も、名分に限られ、故に鬥鬩の恥少なし。河北は側出を鄙視し、人流に入らしめず。此により必ず再娶し、三四次に至る。後母の年紀、兒子よりも小なる有り。後母の弟と前婦の兄とは、衣服飲食以て婚宦に至るまで、甚しきは士庶貴賤の間隔ありて、習俗以て當然と爲す。身死んでの後、辭訟は公門に堆滿し、謗辱は道路に彰明し、子は母を妾と誣うり、弟は兄を傭と貶め、播揚底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた先人の話柄を播揚し、祖考の短を暴露して自ら理有らんと求むる、往往として之有り、悲しむべき哉。古より以來、姦臣佞妾の一言を以て人を陷害する者多し。況んや夫婦の義は早晚を以て彼を變ぜしむるをや。婢底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた容を求め、相い說引し、年を積み月を累ねば、豈に孝子有らんや。此れ畏れざるべからざるなり。凡庸の性情は、後夫多く前夫の孤兒を寵愛し、後妻は必ず前妻の子を虐待す。ただ婦人の嫉妬の情を懷き、丈夫の沈溺迷惑の僻性あるのみにあらず、亦是れ事勢の之を然らしむるなり。前夫の孤兒は敢えて我が子と家を爭わず、提攜鞠養し、積習愛を生ず。故に之を寵す。前妻の子は每々己の所生の上に排し、宦學婚嫁に爲せざる底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたなきなし。故に之を虐す。異姓寵せらるれば則ち父母怨ぜられ、繼親虐待すれば則ち兄弟讎と爲る。家に此の情狀有る者は、皆門戶の禍なり。思魯等の從舅殷外臣は博達の士なり。兒子基・諶有りて皆すでに成立するに、乃ち王氏を再娶す。基每に後母を拜見すれば、感慕嗚咽して自ら持する能わず、家人も仰視するに忍びず、王氏も凄愴にして容るる所を知らず。旬月のあいだ退を求め、便以て禮を以て遣り歸す。此れ亦悔の事なり。《後漢書》に曰く、安帝の時、汝南の薛包・字は孟嘗、學を好み行を篤うし、母を喪いて至孝を以て聞ゆ。父の後妻を娶りて薛包を憎惡し、之を分かち出さんとするに及んで、薛包日夜號泣して去る能わず、毆杖せらるるに至る。已むを得ず舍外に廬を結び、旦に入りて灑掃す。父怒りて又之を驅逐せば、便ち里門に廬を結び、昏晨廢せず。歲餘を過ごして、父母慚愧して之を歸らしむ。後に六年の服を行い、喪哀に過ぎたり。尋いで弟子財を分かち居を異にせんことを求むるに、薛包止むる能わず、便ち其の財を中分す。奴婢は年老いたるを領して曰く、我と事を共にする久し、爾らの使役に堪えず、と。田廬は荒廢せるを取りて曰く、是れ我が少時に料理し心意の戀する所なり、と。器物は朽敗せるを取りて曰く、是れ我素より服用し身口の安んずる所なり、と。弟子數たび産業を破るも、他はなお再び賑給す。建光中、公車の特徵に就き、侍中に拜す。薛包は性情恬虚、病と稱して起たず、死を以て自ら乞い、詔有りて告を賜い歸らしむ。

治家篇第五

治家篇第五

夫風化者自上而行於下者也自先而施於後者也是以父不慈則子不孝兄不友則弟不恭夫不義則婦不順矣父慈而子逆兄友而弟傲夫義而婦陵則天之防民乃刑戮之所攝非訓導之所移也笞怒廢於家則竪子之過立見刑罰不中則民無所措手足治家之寛猛亦猶國焉孔子曰奢則不遜儉則固與其不遜也寧固又云雖有周公之才之美使驕且吝其餘不足觀也已然則可儉而不可吝也儉者省約為禮之謂也吝者窮急不防之謂也今有奢則施儉則吝如能施而不奢儉而不恡可矣生民之本要當稼穡而食桑麻以衣蔬果之蓄園塲之所產雞豚之善塒圏之所生爰及棟宇器械樵蘇脂燭莫非種殖之物也至能守其業者閉門而為生之具以足但家無鹽井耳今北土風俗率能躬儉節用以贍衣食江南奢侈多不逮焉梁孝元世有中書舍人治家失度而過嚴刻妻妾遂共貨刺客伺醉而殺之世間名士但務寛仁至於飲食饟饋僮防減損施惠然諾妻子節量狎侮賓客侵耗鄉黨此亦為家之巨蠧矣齊吏部侍郎房文烈未嘗嗔怒經霖雨絶糧遣婢糴米因爾逃竄三四許日方復擒之房徐曰舉家無食汝何處來竟無捶撻嘗寄人宅奴婢徹屋為薪略盡聞之顰蹙卒無一言裴子野有踈親故屬飢寒不能自濟者皆收養之家素清貧時逄水旱二石米為薄粥僅得遍焉躬自同之常無厭色鄴下有一領軍貪積已甚家童八百誓滿一千朝夕餚膳以十五錢為率遇有客旅更無以兼後坐事伏法籍其家產麻鞋一屋衣數庫其餘財寳不可勝言南陽有人為生奧博性殊儉吝冬至後女壻謁之乃設一銅甌酒數臠麞肉壻恨其單率一舉盡之主人愕然俛仰命益如此者再退而責其女曰某郎好酒故汝嘗貧及其死後諸子爭財兄遂殺弟婦主中饋唯事酒食衣服之禮耳國不可使預政家不可使幹蠱如有聰明才智識達古今正當輔佐君子助其不足必無牝雞晨鳴以致禍也江東婦女略無交逰其婚姻之家或十數年間未相識者唯以信命贈遺致殷勤焉鄴下風俗専以婦持門戶爭訟曲直造請逢迎車乘填街衢綺羅盈府寺代子求官為夫訴屈此乃恆代之遺風乎南間貧素皆事外飾車乘衣服必貴齊整家人妻子不免飢寒河北人事多由內政綺羅金翠不可廢闕羸馬顇奴僅充而已唱和之禮或爾汝之河北婦人織絍組紃之事黼黻錦繡羅綺之工大優於江東也太公曰養女太多一費也陳蕃雲盜不過五女之門女之為累亦以深矣然天生蒸民先人傳體其如之何世人多不舉女賊行骨肉豈當如此而望福於天乎吾有防親家饒妓媵誕育將及便遣閽豎守之體有不安窺窻倚戸若生女者輒持將去母隨號泣莫敢救之使人不忍聞也婦人之性率寵子壻而虐兒婦寵壻則兄弟之怨生焉虐婦則姊妹之讒行焉然則女之行留皆得罪於其家者母實為之至有諺雲落索阿姑飡此其相報也家之常可不誡哉婚姻素對靖侯成規近世嫁娶遂有賣女納財買婦輸絹比量父祖計校錙銖責多還少市井無異或猥壻在門或傲婦擅室貪榮求利反招羞恥可不慎歟借人典籍皆須愛護先有缺壞就為補治此亦士大夫百行之一也濟陽江祿讀書未竟雖有急速必待卷束整齊然後得起故無損敗人不猒其求假焉或有狼籍几案分散部帙多為童幼婢妾之所防汙風雨蟲防之所毀傷實為累德吾每讀聖人之書未嘗不肅敬對之其故紙有五經詞義及賢達姓名不敢穢用也吾家巫覡禱請絶於言議符書章醮亦無祈焉竝汝曹所見也勿妖妄之費

風化は上より行じて下に至り、先より施して後に及ぶ。故に父慈なくんば則ち子孝ならず、兄友なくんば則ち弟恭ならず、夫義なくんば則ち婦順ならず。父慈ありて子逆し、兄友ありて弟傲り、夫義ありて婦陵るは、是れ天の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた民にして、刑戮を以て慴服すべし、訓導の變ずる所にあらず。家に笞怒を廢すれば、則ち童僕の過ち立ちどころに現れ、刑罰當を得ざれば、則ち民手足を措く所なし。家を治むるの寬猛は國を治むるに同じ。孔子に曰く、「奢なれば則ち遜ならず、儉なれば則ち固し、其の遜ならざるよりは寧ろ固ならん」と。又曰く、「周公の才の美有ると雖も、驕り且つ吝ならば、其の餘は觀るに足らず」と。然れば則ち儉べくして吝なるべからず。儉は省約して禮を成すの謂い、吝は窮急して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたざるの謂いなり。今ある人は奢侈すれば施與を肯んじ、儉省すれば吝嗇す。若能く施して奢ならず、儉して吝ならざれば、可なり。生民の本は、當に稼穡して食し、桑麻して衣るべし。蔬果の蓄積は園場の産する所、雞豚の肥美は塒圈の生ずる所、棟宇器械・樵蘇脂燭に至るまで、種植の物にあらざるはなし。能く産業を守る者に至っては、門を關ぢて生を養うの具を具うれば足りる。ただ家に鹽井なきのみ。今北土の風俗は大抵能く躬儉節用して衣食を供給す。江南は奢侈にして、多く及ばざるなり。梁孝元の世、中書舍人有りて家を治むるに度を失いて嚴刻に過ぎ、妻妾便ち共に刺客を買通して、其の醉えるに乘じて之を殺す。世の名士はただ寬仁を務めて、飲食饋贈を僮底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに減損せられ、施惠許諾を妻子に節量せられ、賓客を狎侮し鄉黨を侵耗するに至る。此れ亦家を治むるの大蠹なり。齊の吏部侍郎房文烈は未だ嘗て嗔怒せず。連綿と雨降りて糧を斷ち、婢女を遣はして米を籴はしむるに、此れに因って逃竄す。三四日にして乃ち再び捉う。房徐に曰く、「全家食するものなし、汝は何處よりか來る」と。竟に捶撻せず。嘗て宅を人に借らせるに、奴婢屋を拆して薪と爲し幾んど盡くさんとす。之を聞きてただ眉を顰むのみ、終に一言を言わず。裴子野に疏親故屬の飢寒にして自ら濟る能わざる有れば、皆收養し置く。家素より清貧、時に水旱に逢い、二石の米を薄粥と爲して僅かに遍く給し、自ら同じく食して、常に厭色なし。鄴下に一領軍有りて積を貪ることすでに甚だしく、家童八百、誓いて一千を滿たさんとす。朝夕の肴膳は十五錢を以て率と爲し、客旅に遇うて更に添補なし。後に事に坐して法に伏し、家産を籍沒するに、麻鞋一屋、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた衣幾庫、其の餘の財寶は言い勝べからず。南陽に人有りて生奧博し、性情殊に儉吝なり。冬至後、女婿來り謁見すれば、ただ一銅甌の酒と幾臠の獐肉を設くるのみ。女婿其の單薄簡慢なるを恨みて、一擧に飲み盡くす。主人愕然として、俯仰のあいだ人に命じて酒を添えしむ。此の如く兩度なりき。退きて女を責めて曰く、「某郎酒を好む、故に汝は常に貧なり」と。其の死するに及んで、諸子財を爭い、兄竟に弟を殺す。婦人の中饋を主持するは、ただ酒食衣服の禮を管すべきのみ。國は之を政に預からしむべからず、家は之を家事を主持せしむべからず。若し聰明才智にして古今を識達する有らば、正に當に君子を輔佐し其の不足を補うべく、必ず牝雞の晨鳴して以て禍を致すことなかれ。江東の婦女は交遊殆どなし。婚姻の家あるいは十餘年相識らず、ただ書信贈遺を以て殷勤を致す。鄴下の風俗は專ら婦人を以て門戶を把持せしめ、爭訟曲直・造請逢迎、車乘街衢に填り、綺羅府寺に盈ち、兒子の爲めに官を求め丈夫の爲めに屈を訴う。此れ恆代の遺風か。南方の貧素人家は皆外飾を講究し、車乘衣服は必ず齊整を求め、家人妻子は飢寒を免れず。河北の人事は多く內政よりし、綺羅金翠は廢闕すべからず、瘦馬憔悴の奴僕は僅かに數を充つるのみ。唱和の禮は、或いは爾汝と相稱す。河北の婦人の織紝組紃の事・黼黻錦繡羅綺の工は、大いに江東に優る。太公に曰く、「女を養うこと多ければ、是れ一の費なり」と。陳蕃に曰く、「盜は五女の門を過ぎず」と。女の拖累も亦深し。然るに天生衆民、先人の傳へし身體、又能く如何せん。世人多く女兒を養育せず、骨肉を賊害す。豈に此の如くして天に福を望むべけんや。我に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた親有りて、家中妓媵甚だ多し。誕育將に至らんとすれば便ち門人を遣はして守らせ、身體一たび安からざる有れば則ち窗を窺い戶に倚り、若し女を生まば便ち立ちどころに抱き去らしむ。母は隨いて號泣すれども、救う敢えてする人なく、人をして聞くに忍びざらしむ。婦人の性情は、大抵女婿を寵して兒婦を虐す。女婿を寵すれば則ち兄弟の怨生じ、兒婦を虐すれば則ち姊妹の讒行はる。然れば則ち女兒の嫁ぐも留まるも家に罪を得、實に母の致す所なり。諺語有るに至りて曰く、「落索阿姑餐」と。此れ即ち相い報ゆるなり。家の常底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、能く警戒せざらんや。婚姻は門第相當を要す。是れ靖侯の立てし成規なり。近世の嫁娶に竟に女を賣りて財を納め婦を買いて絹を輸する有り、父祖を比量し錙銖を計較し、多く責め少なく還す、市井と異なることなし。或いは猥瑣の女婿門に入り、或いは傲婦室を擅にし、榮を貪り利を求め、反って羞恥を招く。能く謹まざらんや。人の典籍を借るに皆愛護を須い、先に缺壞有れば則ち補治を與う。此れ亦士大夫の百行の一なり。濟陽の江祿、書を讀みて未だ竟らざるに、急速の事有ると雖も、必ず卷束整齊して然る後に乃ち起つ。故に損敗なく、人其の來り借るを厭わず。或いは几案を狼藉し部帙を分散し、多く童幼婢妾の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた污に點せられ、風雨蟲底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに毀傷せらるる者有り。實に德を虧くなり。我每に聖人の書を讀むに、未だ嘗て肅敬して相對せざるはなし。其の故紙に五經の詞義及び賢達の姓名有る者は、敢えて穢用せず。我が家は巫覡の禱請は言議に絶え、符書章醮も亦祈請なし。皆汝らの見る所なり、妖妄に費やすこと勿れ。

風操篇第六

風操篇第六

吾觀禮經聖人之教箕箒箸咳唾唯諾執燭沃盥皆有節度亦為至矣但既殘缺非復全書其有所不載及世事變改者學達君子自為節度相承行之故世號士大夫風操而家門頗有不同所見互稱長短然其阡陌亦自可知昔在江南目能視而見之耳能聴而聞之蓬生麻中不勞翰墨汝曹生於戎馬之間視聴之所不曉故聊記録以傳示子孫禮雲見似目瞿聞名心瞿有所感觸惻愴心眼若在從容平常之地幸須申其情耳必不可避亦當忍之猶如伯叔兄弟酷類先人可得終身腸斷與之絶耶又臨文不諱廟中不諱君所無私諱葢知聞名須有消息不必期於顛沛而走也梁世謝舉甚有聲舉聞諱必哭為世所譏又臧逢世臧嚴之子也篤學修行不墜門風孝元經牧江州遣往建昌督事郡縣民庶競修牋書朝夕輻輳几案盈積書有稱嚴寒者必對之流涕不省取記多廢公事物情怨駭竟以不辦而還此並過事也近在楊都有一士人諱審而與沈氏交結周厚沈與其書名而不姓此非人情也凡避諱者皆湏得其同訓以代換之桓公名白博有五皓之稱厲王名長琴有修短之目不聞謂布帛為布皓呼腎腸為腎修也梁武小名阿練子孫皆呼練為絹乃謂銷鏈物為銷絹物恐乖其義或有諱雲者呼紛紜為紛煙有諱桐者呼梧桐樹為白鐵樹便似戲笑耳周公名子曰禽孔子名兒曰鯉止在其身自可無禁至若衛侯魏公子楚太子皆名蟣蝨長卿名犬子王脩名狗子上有連及理未為通古之所行今之所笑也北土多有名兒為驢駒豚子者使其自稱及兄弟所名亦何忍哉前漢有尹翁歸後漢有鄭翁歸梁家亦有孔翁歸又有顧翁寵晉代有許思妣孟少孤如此名字幸當避之今人避諱更急於古名子者當為孫地吾親識中有諱襄諱友諱同諱清諱和諱禹交防造次一座百犯聞者辛苦無僇頼焉昔司馬長卿慕藺相如故名相如顧元歆慕蔡邕故名雍而後漢有朱張字孫卿許暹字顔回梁世有庾晏嬰祖孫登連古人姓為名字亦鄙事也昔劉文饒不忍罵奴為畜產今世愚人遂以相戲或有指名為豚犢者有識傍觀猶欲掩耳況名之者乎近在議曹共平章百官秩祿有一顯貴當世名臣意嫌所議過厚齊朝有一兩士族文學之人謂此貴曰今日天下大同須為百代典式豈得尚作闗中舊意乎明公定是陶朱公大兒耳彼此歡笑不以為嫌昔侯霸之子孫稱其祖父曰家公陳思王稱其父為家父母為家母潘尼稱其祖曰家祖古人之所行今人之所笑也及南北風俗言其祖及二親無雲家者田裡偎人方有此言耳凡與人言言已世父以次第稱之不雲家者以尊於父不敢家也凡言姑姊妹女子子已嫁則以夫氏稱之在室則以次第稱之言禮成他族不得雲家也子孫不得稱家者輕略之也蔡邕書集呼其姑女為家姑家姊班固書集亦云家孫今並不行也凡與人言稱彼祖父母世父母父母及長姑皆加尊字自叔父已下則加賢字尊卑之差也王羲之書稱彼之母與自稱己母同不雲尊字今所非也南人冬至嵗首不詣喪家若不修書則過節束帶以

我の《禮經》聖人の教えを觀るに、箕帚・箸底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、咳唾唯諾・執燭沃盥、皆節度有り、亦極致と言うべし。ただすでに殘缺して全書にあらず。其の中に載せざる所及び世事の改變せる有りて、學達の君子自ら節度を定め相承りて實行す。故に世に士大夫風操と稱し、而して各家頗る同じからず、見る所互に長短を稱す。然れども路徑も亦自ら知るべし。昔江南に在りては、目能く見れば即ち見え、耳能く聞けば即ち聞え、蓬麻の中に生ずるが如く、筆墨を勞するを須いず。汝らは戎馬のあいだに生まれ、視聽に曉らざる所有り。故に聊か記録を作して子孫に傳示す。《禮記》に曰く、似たるを見れば目驚動し、名を聞けば心驚動す。感觸する所有れば、惻愴心眼に在り。若し從容平常の處に在れば、此の情を申述せんことを望む。必ず已むを得ず避くる能わざれば、亦當に忍ぶべし。伯叔兄弟の先人に酷似するが如きは、豈に終身腸を斷ち彼らと交を絶つべけんや。又文に臨みて諱せず、廟中に諱せず、君の所有私諱なし。名を聞くに須く情形を視て、必ずしも顛沛奔走を要せざるを知るべし。梁世の謝擧は甚だ聲譽有りて、諱を聞けば必ず哭し、世人の譏る所と爲る。又臧逢世は臧嚴の子にして、學を篤うし行を修め、門風を墜とさず。孝元帝江州を經管して、彼を建昌に往かしめ事を督せしむ。郡縣民庶爭うて書を寫し、朝夕輻輳して几案堆滿す。書に「嚴寒」と稱する有れば、必ず之に對して流涕し、省察せず取記せず、多く公事を廢し、物情怨駭し、竟に事を辦せざるを以て歸る。此ら皆過分なり。近來楊都に一士人有りて「審」を諱むに、卻って沈氏と交結深厚なり。沈氏彼に書を與うるに名のみ書して姓を書さず。此れ人情にあらず。およそ避諱は皆同訓の字を以て代換せざるべからず。桓公の名は白、博に五皓の稱有り。厲王の名は長、琴に修短の目有り。未だ布帛を布皓と作し腎腸を腎修と作すを聞かざるなり。梁武の小名は阿練、子孫皆練を以て絹と作し、便ち銷鏈物を以て銷絹物と作す。恐らく本義に乖離せん。諱「雲」有る者は紛紜を以て紛烟と作し、諱「桐」有る者は梧桐樹を以て白鐵樹と作す。便ち戲笑に似たり。周公の子に名づける禽、孔子の子に名づける鯉、ただ其の自身に在りて、自ら禁ずるを須いず。衛侯・魏公子・楚太子皆名を蟣虱とし、長卿の名を犬子とし、王修の名を狗子とす。上に連及有るに、理上通ずと言うべからず。古時行われし所、今人之を笑う。北土多く兒子に名づけて驢駒・豚子と爲し、其の自稱及び兄弟の呼ぶ所と爲さしむ。又豈に忍びんや。前漢に尹翁歸有り、後漢に鄭翁歸有り、梁家も亦孔翁歸有り、又顧翁寵有り、晋代に許思妣・孟少孤有り。此の類の名字は幸に當に避くべし。今人の避諱は古人よりも急なり。兒子に名づくるに當に孫子の爲めに餘地を留むべし。我が親識の中に諱襄・諱友・諱同・諱清・諱和・諱禹有り、交底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた造次、一座百犯、聞く者辛苦して賴る所なし。昔司馬長卿は藺相如を慕うて故に相如と名づけ、顧元歎は蔡邕を慕うて故に雍と名づく。而るに後漢に朱張・字孫卿、許暹・字顏回有り、梁世に庾晏嬰・祖孫登有り。古人の姓を連ねて名字と爲すは、亦是れ鄙事なり。昔劉文饒は奴を罵りて畜産と爲すを忍びず、今世の愚人竟に以て相戲し、或いは名を指して豚犢と呼ぶ者有り。有識の傍觀もなお耳を掩わんと欲す。況んや被る呼ぶ者をや。近來議曹に在りて共に百官の秩祿を商議す。一顯貴當世の名臣有りて、心に議する所の過厚なるを嫌う。齊朝に一二士族文學の人有りて此の貴人に對して曰く、「今日天下大同、須く百代の典式と爲すべし、豈に還て關中の舊意を作さんや。明公は必ず陶朱公の大兒子ならん」と。彼此歡笑して嫌と爲さず。昔侯霸の子孫は祖父を家公と稱し、陳思王は父を家父・母を家母と稱し、潘尼は祖を家祖と稱す。古人の行いし所、今人之を笑う。南北風俗に至りて、祖及び雙親を言えば、「家」と言う者なし。ただ田里の鄙人のみ此の言有り。およそ人と言うに、己の世父を稱するに次第に按って稱し、「家」と言わず。父より尊ければなり、敢えて家と稱せず。およそ姑姊妹女子子を言うに、已嫁なれば以て夫家の氏を以て之を稱し、在室なれば次第に按って之を稱す。是れ禮他族に成るを言う、「家」と言うを得ざるなり。子孫「家」と稱するを得ざるは、之を輕略すればなり。蔡邕の書集は姑・女を呼んで家姑・家姊と爲し、班固の書集も亦家孫と言う。如今皆行われず。およそ人と言うに、對方の祖父母・世父母・父母及び長姑を稱するに皆「尊」の字を加え、從叔父以下は則ち「賢」の字を加う。此れ尊卑の差なり。王羲之書を寫して對方の母を稱するに己の母を自稱するに同じく、「尊」の字を言わず。如今以て對ならずと爲す。南人は冬至・歲首に喪家に到らず、若し書を寫さざれば、則ち節を過ぎて帶を束ねて往き

申慰北人至嵗之日重行吊禮禮無明文則吾不取南人賓至不迎相見捧手而不揖送客下席而已北人迎送並至門相見則揖古之道也吾善其迎揖昔者王侯自稱孤寡不穀自茲以降雖孔子聖師與門人言皆稱名也後雖有臣僕之稱行者葢亦寡焉江南輕重各有謂號具諸書儀北人多稱名者乃古之遺風吾善其稱名焉言及先人理當感慕古者之所易今人之所難江南事不獲已乃陳文墨防防無言者須言閥閱必以文翰罕有面論者北人無何便爾話說及相訪問如此之事不可加於人也人加諸巳則當避之名位未髙如為勲貴所逼隠忍方便速報取了勿取煩重感辱祖父若沒言須及者則斂容肅坐稱大門中世父叔父則稱從兄弟門中兄弟則稱亡者子某門中各以其尊卑輕重為容色之節皆變於常若與君言雖變於色猶雲亡祖亡伯亡叔也吾見名士亦有呼其亡兄弟為兄子弟子門中者亦未為安貼也北土都不行此太山羊偘梁初入南吾近至鄴其兄子肅訪偘委曲吾答之雲卿從門中在梁如此如此肅曰是我親第七亡叔非從也祖孝微在坐先知江南風俗乃謂之雲賢從弟門中何故不解古人皆呼伯父叔父而今世多單呼伯叔從兄弟姊妹已孤而對其前呼其母為伯叔母此不可避者也兄弟之子已孤與他人言對孤者前呼為兄子弟子頗為不忍北土多呼為侄案爾雅喪服經左傳侄名雖通男女並是對姑之稱晉世已來始呼叔侄今呼為侄於理為勝也別易防難古人所重江南餞送下泣言離有王子侯梁武帝弟出為東郡與武帝別帝曰我年已老與汝分張甚心惻愴數行淚下侯遂宻雲赧然而出坐此被責飄颻舟渚一百許日卒不得去北間風俗不屑此事岐路言離歡笑分首然人性自有少涕淚者腸雖欲絶目猶爛然如此之人不可強責凡親屬名稱皆須粉墨不可濫也無風教者其父已孤呼外祖父母與祖父母同使人為其不喜聞也雖質於面皆當加外以別之父母之世叔父皆當加其次第以別之父母之世叔母皆當加其姓以別之父母之群從世叔父母及從祖父母皆當加其爵位若姓以別之河北士人皆呼外祖父母為家公家母江南田裡間亦言之以家代外非吾所識凡宗親世數有從父有從祖有族祖江南風俗自茲已往髙秩者通呼為尊同昭穆者雖百世猶稱兄弟若對他人稱之皆雲族人河北士人雖三二十世猶呼為從伯從叔梁武帝嘗問一中土人曰卿北人何故不知有族答雲骨肉易踈不忍言族耳當時雖為敏對於禮未通吾嘗問周讓曰父母中外姊妹何以稱之周曰亦呼為丈人自古未見丈人之稱施於婦人也吾親表所行若父屬者為某姓姑母屬者為某姓姨中外丈人之婦猥俗呼為丈母士大夫謂之王母謝母雲而陸機集有與長沙顧母書乃其從叔母也今所不行齊朝士子皆呼祖防射為祖公全不嫌有所涉也乃有對面以相戲者古者名以正體字以表德名終則諱之字乃可以為孫氏孔子弟子記事者皆稱仲尼呂后微時嘗字髙祖為季至漢袁種字其叔父曰絲王丹與侯霸子語字霸為君房江南至今不諱字也河北士人全不辨之名亦呼為字字固因呼為字尚書王元之兄弟皆號名人其父名雲字羅漢一皆諱之其餘不足怪也禮間傳云斬縗之哭若往而不反齊縗之哭若往而反大功之哭三哭而偯小功緦麻哀容可也此哀之發於聲音也孝經云哭不哀皆論哭有輕重質文之聲也禮以哭有言者為號然則哭亦有辭也江南喪哭時有哀訴之言耳山東重喪則唯呼蒼天朞功以下則唯呼痛深便是號而不哭江南凡遭重喪若相知者同在城邑三日不弔則絶之除喪雖相遇則避之怨其不已憫也有故及道遙者致書可也無書亦如之北俗則不爾江南凡吊者主人之外不識者不執手識輕服而不識主人則不於會所而吊他日脩名詣其家隂陽說雲辰為水墓又為土墓故不得哭王充論衡雲辰日不哭哭則重喪今無教者辰日有喪不問輕重舉家清謐不敢發聲以辭弔客道書又曰晦歌朔哭皆當有罪天奪之算喪家朔望哀感彌深寧當惜壽又不哭也亦不論偏傍之書死有歸煞子孫逃竄莫肯在家畫瓦書符作諸厭勝喪出之日門前然火戸外列灰袚送家鬼章斷注連凢如此比不近有情乃儒雅之罪人彈議所當加也已孤而履嵗及長至之節無父拜母祖父母世叔父母姑兄姊則皆泣無母拜父外祖父母舅姨兄姊亦如之此人情也江左朝臣子孫初釋服朝見二宮皆當泣涕二宮為之改容頗有膚色充澤無哀感者梁武薄其為人多被抑退裴政出服問訊武帝貶瘦枯槁涕泗滂沱武帝目送之曰裴之禮不死也二親既歿所居齋寢子與婦弗忍入焉北朝頓邱李構母劉氏夫人亡後所住之堂終身鏁閉弗忍開入也夫人宋廣州刺史纂之孫女故構猶染江南風教其父奬為州刺史鎮壽春遇害構嘗與王松年祖孝徵數人同集談防孝徵善畫遇有紙筆圖寫為人頃之因割鹿尾戲截畫人以示構而無他意構愴然動色便起就馬而去舉坐驚駭莫測其情祖君尋悟方深反側當時罕有能感此者吳郡陸襄父閒被刑襄終身布衣蔬飯雖姜菜有切割皆不忍食居家唯以掐摘供廚江陵姚子篤母以燒死終身不忍噉炙豫章熊康父以醉而為奴所殺終身不復嘗酒然禮縁人情恩由義斷親以噎死亦當不可絶食禮經父之遺書母之杯圏感其手口之澤不忍讀用政為常所講習讎校繕冩及偏加服用有跡可思者耳若尋常墳典為生什物安可悉廢之乎既不讀用無容散逸唯當緘保以留後世耳思魯等第四舅母親吳郡張建女也有第五妹三嵗喪母靈床上屏風平生舊物屋漏沾溼出曝曬之女子一見伏床流涕家人怪其不起乃往抱持薦席淹漬精神傷怛不能飲食將以問醫醫診脈雲腸斷矣因爾便吐血數日而亡中外憐之莫不悲嘆禮雲忌日不樂正以感慕罔極惻愴無聊故不接外賓不理眾務耳必能悲慘自居何限於深藏也世人或端坐奧室不妨言笑盛營甘美厚供齋食迫有急卒宻戚至交盡無相見之理葢不知禮意乎魏世王修母以社日亡來嵗社修感念哀甚隣裡聞之為之罷社今二親喪亡偶值伏臘分至之節及月小晦後忌之外所經此日猶應感慕異於餘辰不預飲防聞聲樂及行遊也劉縚緩綏兄弟併為名器其父名昭一生不為照字唯依爾雅火傍作召耳然凢文與正諱相犯當自可避其有同音異字不可悉然劉字之下即有昭音呂尚之兒如不為上趙壹之子儻不作一便是下筆即妨是書皆觸也嘗有甲設防席請乙為賓而旦於公庭見乙之子問之曰尊侯早晩顧宅乙子稱其父已往時以為笑如此比例觸類慎之不可陷於輕脫江南風俗兒生一朞為制新衣盥浴裝飭男則用弓矢

申述して慰問す。北人は歲首の日に重ねて弔禮を行う。禮に明文なくんば、則ち我取らざるなり。南人は賓客至りて迎えず、相見て手を捧げて揖せず、客を送るにただ席を下るのみ。北人は迎送皆門に至り、相見れば則ち揖す。此れ古の道にして、我其の迎揖を贊成す。昔王侯は自ら孤・寡・不穀と稱す。此より以降、孔子の聖師の如きも門人と言うに皆名を稱す。後に臣僕の稱有ると雖も、行う者大抵少なし。江南は輕重各々稱號有り、皆書儀の裡に寫す。北人多く名を稱す。乃是れ古の遺風にして、我其の名を稱するを贊成す。先人に説き至るに、理に當に感慕すべし。古人の易しとする所、今人の難しとする所なり。江南の事は已むを得ざれば乃ち文墨を用い、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた言無きは、須く閥閱を說かば必ず文翰を用い、面して討論すること少なし。北人は事無ければ便ち口を開きて言い相い訪問す。此の如き事は人に加うべからず。人之を己に加えば、則ち當に避くべし。名位未だ高からざるに、若し勳貴の逼る所と爲らば、隱忍方便し、速やかに回報して了結し、煩重を取る勿れ。以て祖父を感辱するを免れん。若し已に死して須く説き及ぶべき有れば、則ち容を斂め肅く坐して、「大門中」と稱す。世父叔父は則ち「從兄弟門中」と稱し、兄弟は則ち亡者を「子某門中」と稱す。各々尊卑輕重に按って容色の節度を作し、皆平常と異なり。若し君と言うに、顏色變ずと雖も、還た亡祖・亡伯・亡叔と言う。我名士の亡兄弟を稱して「兄子弟子門中」と爲すを見るも、亦妥帖ならず。北土は皆此の一套を行わず。太山の羊侃は梁初に南方に到れり。我近來鄴に到り、其の兄子肅來りて羊侃の委曲を問う。我彼に答えて曰く、「卿の從門中梁に在りて如此如此」と。肅曰く、「是れ我が親しき第七の亡叔、從にあらず」と。祖孝徵座に在りて、先に江南の風俗を知り、便ち彼に謂いて曰く、「賢從弟門中、何ぞ懂せざる」と。古人皆伯父叔父と稱呼す。而今世多く單に伯・叔と呼ぶ。從兄弟姊妹の已孤なるに、彼らの面前に對して其の母を稱して伯叔母と爲す。此れ避くべからざるなり。兄弟の子の已孤なるに、他人と言い孤兒の面前に對して兄子・弟子と稱呼す。甚だ忍びざるなり。北土多く侄と呼ぶ。《爾雅》《喪服經》《左傳》に按ずるに、侄の名は男女通用すと雖も、皆姑に對する稱なり。晋世以來乃ち叔侄と呼ぶ。如今侄と呼ぶは、理上更に好し。別易底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた難、古人の重んずる所なり。江南の餞送は淚を落として離を言う。王子侯有りて梁武帝の弟なり。出でて東郡と爲るに、武帝と別を告ぐ。帝曰く、「我年已に老いたり、汝と分かるるに、心甚だ惻愴す」と。數行淚下る。侯便ち密語し、赧然として出づ。此に因って責められ、飄搖して舟渚に一百來日、終に去るを得ず。北間の風俗は此の事を屑とせず、岐路に離を言い、歡笑して手を分かつ。然れども人性に自ら涕淚少なき有り、腸雖も絶えんと欲すれど目はなお燦爛たり。此の如き人は强ひて責むべからず。およそ親屬の名稱は皆粉墨を以て分別すべく、濫るべからず。風教なき人は、父已孤にして、外祖父母を稱呼するに祖父母と同じくす。人家の喜ばず聞く所と爲る。當面質問すと雖も、皆當に「外」を加えて分別すべし。父母の世叔父は皆當に次第を加えて分別すべし。父母の世叔母は皆當に姓を加えて分別すべし。父母の群從世叔父母及び從祖父母は皆當に爵位あるいは姓を加えて分別すべし。河北の士人は皆外祖父母を稱して家公家母と爲す。江南の田里間も亦此の如し。「家」を以て「外」に代うるは、我の懂する所にあらず。およそ宗親の世數は、從父有り、從祖有り、族祖有り。江南の風俗は此より以往、官秩高きは通じて尊と呼ぶ。同昭穆は百世と雖もなお兄弟と稱す。若し他人に對して之を稱せば、皆族人と言う。河北の士人は二三十世と雖もなお從伯從叔と呼ぶ。梁武帝嘗て一中土人に問う、「卿は北人、何ぞ族有るを知らざる」と。答えて曰く、「骨肉疎遠し易し、族と言うに忍びず」と。時に敏捷の對答と爲すと雖も、禮に於いて未だ通ぜず。我嘗て周底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた讓に問う、「父母の中外姊妹は何とか稱呼せん」と。周曰く、「亦丈人と呼ぶ」と。古より以來、丈人の稱の婦人の身上に用いらるるを見ず。我が親表の行う所は、若し父黨なれば則ち某姓姑と稱し、母黨なれば則ち某姓姨と稱す。中外丈人の婦は、猥俗丈母と呼び、士大夫は王母・謝母等と稱す。而るに《陸機集》に長沙の顧母に與うるの書有り。乃是れ其の從叔母なり。如今行われず。齊朝の士子皆祖底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた射を呼んで祖公と爲し、全く關涉有るを嫌わず、甚だしきは當面以て相戲するに至る。古時は名は以て體を正し、字は以て德を表す。名終れば則ち之を諱み、字は卻って以て孫の氏と爲すべし。孔子の弟子の事を記するに皆仲尼と稱す。呂后微賤の時、嘗て高祖を字して季と爲す。漢朝の袁種は其の叔父を字して絲と爲す。王丹侯霸の子と言うに、霸を字して君房と爲す。江南今に至るまで字を諱まず。河北の士人は全く分辨せず、名も亦字と呼び、字固より因りて字と呼ぶ。尚書王元之兄弟は皆名人と號稱す。其の父は名を雲字を羅漢とす。一概に避諱す。其の餘怪しむに足らず。《禮・間傳》に曰く、斬衰の哭は去りて返らざるが如く、齊衰の哭は去りて返る能うが如く、大功の哭は三曲して餘音有り、小功緦麻は哀容有れば可なり。此れ哀聲音より發するなり。《孝經》に曰く哭偯せず、皆哭に輕重質文の聲有るを論ず。禮は哭にして言有るを以て號と爲す。然れば則ち哭も亦辭有り。江南の喪哭は哀訴の話有り。山東の重喪は則ちただ蒼天を呼び、期功以下は則ちただ痛深を呼ぶ。便ち號にして哭せざるなり。江南およそ重喪に遭えば、若し相知の城邑に同在せるは、三日弔わざれば則ち之と交を絶つ。喪を除くの後相遇うと雖も之を避く。其の己を哀憫せざるを怨むなり。事故及び道路遙遠有る者は、書を致せば可なり。書なくも亦絶交の如し。北俗は則ち此の如くあらず。江南およそ喪を弔う者は、主人の外識る者なくんば手を執らず。輕服を識りて主人を識らざれば、會所に弔せず、日を改めて名を通じて其の家に至る。陰陽家に曰く、辰は水墓にして又土墓なり。故に哭するを得ず。王充《論衡》に曰く、辰日は哭せず、哭せば則ち再び喪有り。如今敎養なき人は、辰日喪有れば、輕重を問わず、全家清靜にして敢えて聲を發して弔客を辭謝せず。道書又曰く、晦日歌い朔日哭くは皆當に罪有るべく、天其の壽を奪う、と。喪家の朔望は哀感更に深し。豈に壽を惜しみて哭せざるべけんや。亦偏旁の書を論ぜず。死に歸煞有りて、子孫逃竄して家に在るを肯ぜず、瓦を畫き符を書して諸般の厭勝を作し、喪の出る日門前に火を燒き戶外に灰を列ね、家鬼を祓送し注連を章斷す。およそ此の類は人情に近からず。乃是れ儒雅の罪人、彈議の加うべき所なり。已に孤たりて歲を履み長至の節に及べば、父なければ則ち母・祖父母・世叔父母・姑・兄姊を拜する時皆哭泣す。母なければ則ち父・外祖父母・舅姨・兄姊を拜するも亦此の如し。此れ人情なり。江左の朝臣の子孫、纔に服を除きて二宮に朝見するに、皆當に泣涕すべし。二宮之が爲めに容を改む。頗る膚色豐澤にして哀感なき有り。梁武其の爲人を輕んじ、多く抑退せらる。裴政服を出でて武帝を問訊す。貶瘦枯槁し涕泗滂沱たり。武帝目を送りて之に曰く、「裴之禮死せず」と。雙親すでに歿せば、居る所の齋寢は、子と婦忍びて入らず。北朝頓丘の李構の母劉氏夫人死するや、住する所の堂は終身鎖閉し、開き入るに忍びず。夫人は宋の廣州刺史纂の孫女なり。故に李構なお江南の風教に沾染す。其の父獎は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた州刺史を作し、壽春を鎮守して害に遇う。李構嘗て王松年・祖孝徵數人と同じく集まり談底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたするに、孝徵善く畫き、紙筆に遇うて人の爲めに像を畫く。有頃にして鹿尾を割くに因り、戲れに畫人を截てて李構に看せしむ。竝びに他意なし。李構愴然として色を動かし、便ち起ち馬に上りて去る。滿座驚駭して、其の心情を測り得ず。祖君隨後に醒悟して、乃ち深く安んぜざるを感ず。當時能く此の一層に感觸する者少なかりき。吳郡の陸襄の父閑は刑に處せらる。襄終身布衣蔬飯、姜菜の切割有るも皆忍びて食わず。家に居りてただ掐摘を以て厨に供す。江陵の姚子篤の母燒死せらる。終身炙を食うに忍びず。豫章の熊康の父醉に因り奴に殺せらる。終身再び酒を嘗めず。然れども禮は人情に緣り、恩は義に由りて斷ず。親人若し噎死せば、亦食を絶つべからず。《禮經》に曰く、父の遺書・母の杯圈、その手口の澤を感じて讀み用いるに忍びず。是れ常に講習し讐校繕寫し及び額外の服用する所、痕迹有りて思念すべきのみ。若し尋常の墳典・爲生の雜物ならば、豈に能く皆廢せんや。すでに讀み用いず、散逸を容れず、ただ當に封存して後世に留め遺すべし。思魯等の第四舅母は吳郡張建の女なり。第五妹有り、三歳にして母を喪う。靈牀上の屏風は平生の舊物、屋漏れて沾濕し、持ち出でて曝曬す。女子一たび見れば牀に伏して流涕す。家人其の起たざるを怪しみ、便ち往きて抱持すれば、薦席皆濕り、精神傷慟して飲食する能わず。持ち去りて醫に問えば、醫脈を診て曰く腸斷えたり、此に因って數日血を吐きて亡くなりぬ。中外憐惜して悲歎せざる莫し。《禮記》に曰く忌日樂しまず、正に是れ感慕罔極・惻愴無聊なるがゆえに、外賓を接せず衆務を理せざるなり。若し能く眞に悲慘して自處せば、何必に深く藏るるに限らん。世人或いは深室に端坐して言笑を妨げず、甘美を盛んに營み齋食を厚く供し、急卒密戚至交迫るも、全く相見るの理なし。蓋し禮意を知らざるなり。魏世王修の母社日に亡す。來年社日に王修感念哀甚だしく、鄰里聞きて此が爲めに社を罷む。如今雙親喪亡し、偶々伏臘分至の節及び月小晦後に值い、忌日の外に經る此らの日は、還た應に感慕すべく、其の餘の日と同じからず。飲底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに參與せず、聲樂を聞かず及び出遊せず。劉縚・緩・綏兄弟は皆名器なり。其の父の名は昭、一生照の字を寫さず、ただ《爾雅》に依りて火旁に召を作す。然れどもおよそ文字の正諱に相犯するは、自ら當に避くべし。其の同音異字は、悉く此の如くすべからざるなり。劉の字の下に即ち昭の音有り。呂尚の子若し「上」となさざれば、趙壹の子儻も「一」と作さざれば、便ち一下筆すれば妨げ、一書寫すれば諱に觸るるなり。嘗て甲設底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた席を設けて乙を賓と爲すに、早朝公庭に乙の子を見て、之に問うて曰く、「尊侯早晚寒宅に光臨せん」と。乙の子其の父すでに去りぬと言う。時に以て笑柄と爲す。此の如き比例は、類に觸れて謹慎し、輕脫に陷るべからず。江南の風俗、兒生まれて一周歲、其の爲めに新衣を作り盥浴裝扮す。男は弓矢を以てし

紙筆女則刀尺針縷並加飲食之物及珍寳服玩置之兒前觀其發意所取以驗貪廉愚智名之為試兒親表聚集致防享焉自茲已後二親若在每至此日嘗有酒食之事耳無教之徒雖已孤露其日皆為供頓酣暢聲樂不知有所感傷梁孝元年少之時每八月六日載誕之辰常設齋講自阮修容薨歿之後此事亦絶人有憂疾則呼天地父母自古而然今世諱避觸途急切而江東士庶痛則稱禰禰是父之廟號父在無容稱廟父歿何容輒呼蒼頡篇有倄【下痛交切聲也】字訓詁雲痛而謼也【謼人故反】音羽罪反今北人痛則呼之聲類音於來反今南人痛或呼之此二音隨其鄉俗並可行也梁世被系劾者子孫弟侄皆詣闕三日露跣陳謝子孫有官自陳解職子則草屩粗衣蓬頭垢面周章道路要執事叩頭流血申訴寃枉若配徒諸子並立草菴於所署門不敢迎宅動經旬日官司驅遣然後始退江南諸憲司彈人事事雖不重而以教義見辱者或被輕系而身死獄戸者皆為怨讐子孫三世不交通矣劉洽為御史中丞初欲彈劉孝綽其兄溉先與劉善苦諫不得乃詣劉涕泣告別而去兵防戰危非安全之道古者天子喪服以臨師將軍鑿防門而出父祖伯叔若在軍陣貶損自居不宜奏樂防防及婚冠吉慶事也若居圍城之中憔悴容色除去飾玩常為臨深履薄之狀焉父母疾篤醫雖賤雖少則涕泣而拜之以求哀也梁孝元在江州嘗有不豫世子方等親拜中兵叅軍李猷四海之人結為兄弟亦何容易必有志均義敵令終如始者方可議之一爾之後命子拜伏呼為丈人申父友之敬身事彼親亦宜加禮比見北人甚輕此節行路相逢便定昆季望年觀貌不擇是非至有結父為兄托子為弟者昔者周公一沐三握髮一飯三吐餐以接白屋之士一日所見七十餘人晉文公以沐辭竪頭須致有圖反之誚門不停賓古所貴也失教之家閽寺無禮或以主君寢食嗔怒拒客未通江南深以為恥黃門侍郎裴之禮號善為士大夫有如此輩對賓杖之其門生僮僕接於他人折旋俯仰辭色應對莫不肅敬與主無別也

紙筆、女は刀尺針縷を以てし、竝びに飲食の物及び珍寶服玩を加え、兒の前に置きて其の發意の取る所を看て、以て貪廉愚智を験す。名づけて試兒と曰う。親表聚集して、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた享を致す。此より以後、雙親若在れば、此の日に至る每に嘗て酒食の事有り。敎養なき人は、すでに孤露すると雖も、此の日皆供頓を設け酣暢して聲樂し、感傷する所有るを知らず。梁孝元の少年の時、八月六日載誕の辰に逢う每に、常に齋講を設く。阮修容薨歿して後、此の事も亦止む。人憂疾有れば則ち天地父母を呼ぶ。古より此の如し。今世の諱避は處處急切なるに、江東の士庶は痛めば則ち禰と稱す。禰は父の廟號なり。父在らば廟を稱するを容れず、父歿すれば又豈に動もすれば呼叫するを容れんや。《蒼頡篇》に倄【下に痛交切、是れ聲なり】の字有り。訓詁は痛みて呼ぶ【謼、人故反】と曰い、音は羽罪反。如今北人痛めば則ち此を呼ぶ。《聲類》は音于來反。如今南人痛めば或いは此を呼ぶ。此の二音は鄕俗に隨うて皆可なり。梁世に拘囚彈劾せらるる者有れば、子孫弟姪皆闕下に三日到り、露跣して陳謝す。子孫に官有る者は自ら陳請して職を解く。兒子は則ち草鞋粗衣・蓬頭垢面して、道路に周章し、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた執事を攔み、頭を叩き血を流して冤枉を申訴す。若し配徒底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたせらるれば、諸子皆官署の門口に草庵を立て、敢えて家に歸らず、動もすれば旬日を經過して、官司驅遣して然る後に乃ち退く。江南の諸憲司の人を彈するに、事雖も重ならざれど、敎義を以て辱を見せらるれば、或いは輕囚にして身獄戸に死する者、皆怨讎と結び、子孫三世交通せず。劉洽御史中丞を爲して、初め劉孝綽を彈劾せんと欲す。其の兄溉先に劉と交好するに、苦諫するも得られず、便ち劉の所に至り涕泣して別を告げて去る。兵底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた戰危にして、安全の道にあらず。古者天子は喪服を著て師に臨み、將軍は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた門を鑿ちて出づ。父祖伯叔若し軍陣に在らば、自ら貶損して、樂を奏し底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた及び婚冠吉慶の事を宜とせず。若し圍城の中に居れば、容色憔悴し、飾玩を除去し、常に臨深履薄の樣子を作す。父母病重ければ、醫生雖も低賤年少なりとも、亦涕泣して拜して哀を求む。梁孝元江州に在る時嘗て病み、世子方等は親ら中兵參軍李猷を拜す。四海の人兄弟と結ぶ、又豈に易きや。須く志均しく義敵り、終を令しく始の如くする者あらば、乃ち以て商議すべし。一旦結拜の後、兒子をして拜伏せしめ、丈人と呼ばしめ、父執に對する敬を申述す。自身彼の雙親に事えるも、亦當に禮を加うべし。近く北人の此の一節を輕視するを見るに、行路相逢えば便ち昆季を定め、年を看て貌を觀て是非を擇ばず、甚だしきは父を結びて兄と爲し子を託して弟と爲すに至る。昔周公は一沐して三たび髮を握り、一飯して三たび哺を吐きて、以て白屋の士に接待す。一日の見る所七十餘人。晋文公は沐浴を以て豎頭須を辭して、圖反の譏誚有るに致る。門に賓を停めざるは、古人の貴ぶ所なり。敎を失う家は門を看るに禮無く、或いは主君の寝食嗔怒に因りて客を拒み通ぜず。江南深く以て恥と爲す。黃門侍郎裴之禮は士大夫を爲るに善しと號稱し、此の如き人に遇えば、賓客に當って之を杖責す。其の門生僮僕の他人に接待するや、折旋俯仰・辭色應對、肅敬ならざる莫く、主人と分別なし。

慕賢篇第七

慕賢篇第七

古人云千載一聖猶旦暮也五百年一賢猶比膊也言聖賢之難得防闊如此儻遭不世明達君子安可不攀附景仰之乎吾生於亂世長於戎馬流離播越聞見已多所值名賢未嘗不心醉魂迷嚮慕之也人在少年神情未定所與欵狎燻漬陶染言笑舉動無心於學潛移暗化自然似之何況操履藝能較明易習者也是以與善人居如入芝蘭之室久而自芳也與惡人居如入鮑魚之肆久而自臭也墨翟悲於染絲是之謂矣君子必慎交遊焉孔子曰無友不如己者顔閔之徒何可世得但優於我便足貴之世人多蔽貴耳賤目重遙輕近少長周旋如有賢哲每相狎侮不加禮敬他鄉異縣微借風聲延頸企踵甚於飢渴校長短核精麤或彼不能如此矣所以魯人謂孔子為東家丘昔虞國宮之竒少長於君君狎之不納其諫以至亡國不可不留心也用其言棄其身古人所恥凡有一言一行取於人者皆顯稱之不可竊人之美以為己力雖輕雖賤者必歸功焉竊人之財刑辟之所處竊人之美鬼神之所責梁孝元前在荊州有丁覘者洪亭民耳頗善屬文殊工草孝元書記一皆使之軍府輕賤多未之重恥令子弟以為楷法時雲丁君十紙不敵王襃數字吾雅愛其手跡常所寳持孝元嘗遣典籖惠編送文章示蕭祭酒祭酒問雲君王比賜書翰及寫詩筆殊為佳手姓名為誰郍得都無聲問編以實答子云嘆曰此人後生無比遂不為世所稱亦是竒事於是聞者少復刮目稍仕至尚書儀曹郎末為晉安王侍讀隨王東下及西臺陷歿簡牘湮散丁亦尋卒於州前所輕者後思一紙不可得矣侯景初入建業臺門雖閉公私草擾各不自全太子左衛率羊侃坐東掖門部分經畧一宿而辦遂得百餘日抗拒凶逆於時城內四萬許人王公朝士不下一百便是恃侃一人安之其相去如此古人云巢父許由讓於天下市道小人爭一錢之利亦已懸矣齊文宣帝即位數年便沈湎縱恣畧無綱紀尚能委政尚書令楊遵彥內外清謐朝野晏如各得其所物無異議終天保之朝遵彥後為李昭所戮刑政於是衰矣斛律明月齊朝折沖之臣無罪被誅將士解體周人始有吞齊之志闗中至今譽之此人用兵豈止萬夫之望而已也國之存亡系其生死張延雋之為晉州行臺左丞匡維主將鎮撫疆場儲積器用愛活黎民隠若敵國矣群小不得行志同力遷之既代之後公私擾亂周師一舉此鎮先平齊亡之跡啟於是矣

古人に曰く、千年に一の聖人出づ、なお朝より夕に至るが如く、五百年に一の賢人出づ、なお肩を摩するが如し。是れ聖賢の難得なるを言う底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた闊此の如し。儻も世に少有の明達君子に遇えば、何ぞ攀附景仰せざるを得んや。我は亂世に生まれ、戎馬に長じ、流離遷徙して、見聞すでに多し。遇う所の名賢に、未だ嘗て心醉魂迷して向慕せざるはなし。人少年に在りては神情未だ定まらず、交好狎昵する所は、熏漬陶染して、言笑擧動學ぶ心なく、潛移暗化して自然相肖たり。況んや操守藝能の比較的明顯にして習成し易きをや。故に善人と居れば、芝蘭の室に入るが如く、久しくすれば己も亦香し。惡人と居れば、鮑魚の肆に入るが如く、久しくすれば己も亦臭し。墨翟の染絲の爲めに悲しむは、即ち此の意なり。君子は須く交遊を謹むべし。孔子に曰く、「己に如かざる者を友とする勿れ」と。顏回・閔損の如き人は、何の世か遇うべき。ただ我に優れば則ち以て重んずるに足る。世人多く蒙蔽有り。耳を貴び目を賤し、遠を重んじ近を輕んず。少小より俱に周旋するに、若し賢哲有れば、每々相狎侮して禮敬を加えず。他鄉異縣に稍々風聲を藉れば、便ち頸を延べ踵を企てて、飢渴よりも甚だし。長短を比較し精粗を考核すれば、或いは對方能く此の如くならざるなり。故に魯人孔子を以て東家丘と呼ぶ。昔虞國の宮之奇は少より國君の身邊に長じ、國君之を狎昵して其の諫を納れず、亡國に至る。留め心すべからざるなり。其の言を用いて其の人を棄つるは、古人の恥とする所なり。およそ一言一行の人に取る所有れば、皆顯明に稱說して、人の美を竊みて以て己の力と爲すべからず。輕賤に雖も必ず功を歸すべし。人の財を竊むは刑辟の處置する所、人の美を竊むは鬼神の責むる所なり。梁孝元昔荆州に在りて、丁覘と曰う者有り。ただ洪亭の民に過ぎざるに、甚だ文章を作るに善く、殊に草に工み底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。孝元の書記は一概に彼に爲さしむ。軍府彼を輕賤し、多く重んぜず、子弟をして彼を以て楷法と爲さしむるを恥とし、當時曰く、「丁君十紙は王褒數字に敵せず」と。我甚だ其の手迹を愛して、常に珍藏す。孝元嘗て典簽惠編を遣はして文章を蕭祭酒に送りて看せしむ。祭酒問う、「君王近來賜う所の書翰及び寫す所の詩筆、手筆殊に好し。姓名は誰ぞ、何ぞ皆聲問無き」と。惠編實に據りて答う。蕭子雲歎じて曰く、「此の人後生比無し。竟に世の稱する所と爲らざるは、亦奇事なり」と。是に於いて聞く者稍々刮目し、漸く尚書儀曹郎に至り、末に晋安王侍讀を爲りて、王に隨い東下す。西臺陷沒するに及んで、簡牘湮散し、丁も亦久しからずして底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた州に卒す。從前之を輕視せし者、後に一紙を得んと欲するも得べからざりき。侯景初め建業に入るに、臺門雖も關閉するも、公私驚擾して、各々自ら全うする能わず。太子左衛率羊侃は東掖門に坐鎮して、部分經略し、一宿にして辦妥す。是に於いて能く凶逆を抗拒すること百餘日。當時城內四萬來人、王公朝士百を下らず、便ち侃一人に靠りて彼らを安んず。相去此の如し。古人に曰く、巢父・許由天下を讓り去り、市道小人一錢の利を爭う。亦すでに懸殊なり。齊文宣帝即位數年にして便ち沈湎縱恣し、全く綱紀無し。なお能く政事を尚書令楊遵彥に委託して、內外清謐にして朝野安然、各々其の所を得、物異議なく、天保一朝を終えたり。遵彥後に孝昭に戮せられ、刑政是に於いて衰ゆ。斛律明月は齊朝折衝の臣にして、罪なくして誅せらる。將士解體し、周人始めて齊を呑まんの志有り。關中今に至るまで彼を稱譽す。此の人の用兵は豈に萬夫の望のみならんや。國の存亡は其の生死に係る。張延雋晋州行臺左丞を爲して、主將を匡維し、疆場を鎮撫し、器用を儲積し、黎民を愛活す。隱然として一敵國の若し。群小志を行うを得ず、合力して彼を遷し去る。すでに代えられて後、公私擾亂し、周師一擧にして此の鎮先に平ぐ。齊の亡ぶるの迹は、此より開啓す。

勉學篇第八

勉學篇第八

自古明王聖帝猶湏勤學況凢庶乎此事遍於經史吾亦不能鄭重聊舉近世切要以終窹汝耳士大夫子弟數嵗已上莫不被教多者或至禮傳少者不失詩論及至冠婚體性稍定因此天機倍須訓誘有志尚者遂能磨礪以就素業無履立者自茲墮慢便為凢人人生在世防當有業農民則計量耕稼商賈則計論貨賄工巧則致精器用伎藝則深思法術武夫則慣習弓馬文士則講議經書多見士大夫恥涉農商羞務工伎射既不能穿札筆則才記姓名飽食醉酒忽忽無事以此銷日以此終年或因家世餘緒得一階半級便謂為足安能自苦及有吉防大事議論得失然張口如坐雲霧公私宴集談古賦詩塞黙低頭欠伸而已有識傍觀代其入地何惜數年勤學長受一生愧辱哉梁朝全盛之時貴遊子弟多無學術至於諺雲上車不落則著作體中何如則秘書無不薰衣剃面傅粉施朱駕長簷車躡髙齒屐坐碁子方褥憑斑絲隠嚢列器玩於左右從容出入望若神仙明經求第則顧人答策三九公防則假手賦詩當爾之時亦快士也及離亂之後朝市遷革銓衡選舉非復曩者之親當路秉權不見昔時之黨求諸身而無所得施之世而無所用披褐而喪珠失皮而露質兀若枯木泊若窮流孤獨戎馬之間轉死溝之際當爾之時誠駑材也有學藝者觸地而安自荒亂已來諸見俘虜雖百世小人知讀論語孝經者尚為人師雖千載冠冕不曉書記者莫不耕田養馬以此觀之安可不自勉耶若能常保數百卷書千載終不為小人也夫明六經之指涉百家之書縱不能增益德行敦厲風俗猶為一藝得以自資父兄不可常依鄉國不可常保一旦流離無人庇廕當自求諸身耳諺曰積財千萬不如薄伎在身伎之易習而可貴者無過讀書也世人不問愚智皆欲識人之多見事之廣而不肯讀書是猶求飽而懶營饌欲暖而惰裁衣也夫讀書之人自羲農已來宇宙之下凢識幾人凢見幾事生民之成敗好惡固不足論天地所不能藏鬼神所不能隠也有客難主人曰吾見強弩長防誅罪安民以取公侯者有矣文義習史匡時冨國以取卿相者有矣學備古今才兼文武身無祿位妻子飢寒者不可勝數安足貴學乎主人對曰夫命之窮達猶金玉木石也修以學藝猶磨瑩雕刻也金玉之磨瑩自美其鑛璞木石之叚塊自醜其雕刻安可言木石之雕刻乃勝金玉之鑛璞哉不得以有學之貧賤比於無學之冨貴也且負甲為兵咋筆為吏身死名滅者如牛毛角立傑出者如芝草握素披黃吟道詠德苦辛無益者如日蝕逸樂名利者幾秋荼豈得同年而語矣且又聞之生而知之者上學而知之者次所以學者欲其多智明達耳必有天才防群出類為將則闇與孫武吳起同術執政則懸得管仲子產之教雖未讀書吾亦謂之學矣今子即不能然不師古之蹤跡猶防被而臥耳人見隣裡親戚有佳快者使子弟慕而學之不知使學古人何其蔽也哉世人但知跨馬被甲長弰強弓便雲我能為將不知明乎天道辨乎地利比量逆順鑑達興亡之玅也但知承上接下積財聚谷便雲我能為相不知敬鬼事神移風易俗調節隂陽薦舉賢聖之至也但知私財不入公事夙辦便雲我能治民不知誠已刑物執轡如組反風滅火化鴟為鳳之術也但知抱令守律早刑晩舎便雲我能平獄不知同轅觀罪分劍追財假言而奸露不問而情得之察也爰及農商工賈廝役奴釣魚屠肉飯牛牧羊皆有先達可為師表博學求之無不利於事也夫所以讀書學問本欲開心明目利於行耳未知養親者欲其觀古人之先意承顔怡聲下氣不憚劬勞以致甘腝惕然慙懼起而行之也未知事君者欲其觀古人之守軄無侵見危授命不忘誠諫以利社稷惻然自念思欲效之也素驕奢者欲其觀古人之恭儉節用卑以自牧禮為教本敬者身基瞿然自失斂容抑志也素鄙恡者欲其觀古人之貴義輕財少私寡慾忌盈惡滿賙窮防匱赧然悔恥積而能散也素暴悍者欲其觀古人之小心黜巳齒舌存含垢藏疾尊賢容眾薾然沮喪若不勝衣也素怯懦者欲觀古人之達生委命強毅正直立言必信求福不囘勃然奮厲不可恐懾也厯茲以往百行皆然縱不能淳去泰去甚學之所知施無不達世人讀書者但能言之不能行之忠孝無聞仁義不足加以斷一條訟不必得其理宰千戸縣不必理其民問其造屋不必知楣橫而梲竪也問其為田不必知稷早而黍遲也吟嘯談謔諷詠辭賦事既優閒材增迃誕軍國經綸略無施用故為武人俗吏所共嗤詆良由是乎夫學者所以求益爾見人讀數十卷書便自髙大凌忽長者輕慢同列人疾之如讐敵惡之如鴟梟如此以學自損不如無學也古之學者為己以補不足也今之學者為人但能說之也古之學者為人行道以利世也今之學者為己修身以求進也夫學者猶種樹也春玩其華秋登其實講論文章春華也修身利行秋實也人生小防精神専利長成已後思慮散逸固須早教勿失機也吾七嵗時誦靈光殿賦至於今日十年一理猶不遺忘二十之外所誦經書一月廢置便至荒無矣然人有坎防失於盛年猶當晩學不可自棄孔子云五十以學易可以無大過矣魏武袁遺老而彌篤此皆少學而至老不倦也曾子七十乃學名聞天下荀卿五十始來遊學猶為碩儒公孫四十餘方讀春秋以此遂登丞相朱雲亦四十始學易論語皇甫謐二十始授孝經論語皆終成大儒此並早迷而晩窹也世人婚冠未學便稱遲暮因循面牆亦為愚爾防而學者如日出之光老而學者如秉燭夜行猶賢乎暝目而無見者也學之興廢隨世輕重漢時賢俊皆以一經聖人之道上明天時下該人事用此致卿相者多矣末俗已來不復爾空守章句但誦師言施之世務殆無一可故士大夫子弟皆以博涉為貴不肯専儒梁朝皇孫已下總丱之年必先入學觀其志尚出身已後便從文吏略無卒業者冠冕為此者則有何劉瓛明山賓周舍朱異周正賀琛賀革蕭子政劉縚等兼通文史不徒講説也洛陽亦聞崔浩張偉劉芳鄴下又見邢子才四儒者雖好經術亦以才博擅名如此諸賢故為上品以外率多田裡閒人音辭鄙陋風操蚩拙相與専固無所堪能問一言輒酬數百責其指歸或無要防鄴下諺雲博士買驢書劵三紙未有驢字使汝以此為師令人氣塞孔子曰學也祿在其中矣今勤無益之事恐非業也夫聖人之書所以設教但明練經文粗通注義常使言行有得亦足為人何必仲尼居即須兩紙防義燕寢講堂亦復何在以此得勝寧有益乎光隂可惜譬諸逝水當博覽機要以濟功業必能兼美吾無間焉俗間儒士不涉群書經緯之外義防而已吾初入鄴與博陵崔文彥交遊嘗說王粲集中難鄭尚書事崔轉為諸儒道之始將發口懸見排蹙雲文集止有詩賦銘誄豈當論經書事乎且先儒之中未聞有王粲也崔笑而退竟不以粲集示之魏收之在議曹與諸博士議宗廟事引據漢書博士笑曰未聞漢書得證經術魏便忿怒都不復言取韋成傳擲之而起博士一夜共披尋之達明乃來謝曰不謂成如此學也夫老莊之書葢全真養性不肎以物累己也故藏名柱石終蹈流沙匿跡漆園卒辭楚相此任縱之徒耳何晏王弼祖述宗遞相誇尚景附草靡皆以農黃之化在乎巳身周孔之業棄之度外而平叔以黨曹爽見誅觸死權之網也輔嗣以多笑人被疾陷好勝之穽也山巨源以蓄積取譏背多藏厚亡之文也夏侯以才望被戮無支離擁腫之鑑也荀奉倩喪妻神傷而卒非鼓缶之情也王夷甫悼子悲不自勝異東門之達也嵇叔夜排俗取禍豈和光同塵之流也郭子以傾動權勢寧後身外已之風也阮嗣宗沈酒荒迷乖畏途相誡之譬也謝防輿贓賄黜削違棄其餘魚之防也彼諸人者並其領袖宗所歸其餘桎梏塵滓之中顛仆名利之下者豈可備言乎直取其清談雅論剖析微賓主往復娛心恱耳非濟世成俗之要也洎於梁世茲風復闡莊老周易總謂三武皇簡文躬自講論周正奉贊大猷化行都邑學徒千餘實為盛美元帝在江荊間復所愛習召置學生親為教授廢寢忘食以夜繼朝至乃倦劇愁憤輙以講自釋吾時頗預末筵親承音指性既頑魯亦所不好雲齊孝昭帝侍婁太后疾容色顦顇服膳減損徐之才為灸兩穴帝握拳代痛爪入掌心血流滿手後既痊癒帝尋疾崩遺詔恨不見太后山陵之事其天性至孝如彼不識忌諱如此良由無學所為若見古人之譏欲母早死而悲哭之則不發此言也孝為百行之首猶須學以修飾之況餘事乎梁元帝嘗為吾說昔在會稽年始十二便已好學時又患疥手不得拳膝不得屈閒齋張葛幃避蠅獨坐銀甌貯山隂甜酒時復進之以自寛痛率意自讀史書一日二十卷既未師受或不識一字或不解一語要自重之不知厭倦帝子之尊童稚之逸尚能如此況其庶士冀以自達者哉古人勤學有握錐投斧照雪聚螢鋤則帶經牧則編簡亦為勤篤梁世彭城劉綺交州刺史勃之孫早孤家貧燈燭難辦常買荻尺寸折之燃明夜讀孝元初出會稽精選寮寀綺以才華為國常侍兼記室殊防禮遇終於金紫光祿義陽朱詹世居江陵後出都好學家貧無資累日不防乃時吞紙以實腹寒無氈被抱犬而臥犬亦飢虛起行盜食呼之不至哀聲動隣猶不廢業卒成學士官至鎮南錄事叅軍為孝元所禮此乃不可為之事亦是勤學之一人東莞臧逢世年二十餘欲讀班固漢書苦假借不久乃就姊夫劉緩乞丐客刺書翰紙末手冩一本軍府服其志尚卒以漢書聞齊有宦者內叅田鵬鸞本蠻人也年十四五初為閽寺便知好學懷袖握書曉夕諷誦所居卑末使役苦辛時伺閒隙周章詢請每坐文林館氣喘汗流問書之外不暇他語及覩古人節義之事未嘗不感激沈吟久之吾甚憐愛倍加開奬後被賞遇賜名敬宣位至侍中開府後主之奔青州遣其西出叅伺動靜為周軍所獲問齊王何在紿雲已去計當出境疑其不信歐捶服之每折一支辭色愈厲竟斷四體而卒蠻夷童丱猶能以學成忠齊之將相比敬宣之奴不若也鄴平之後見徙入闗思魯嘗謂吾曰朝無祿位家無積財當肆筋力以申供養每被課篤勤勞經史未知為子可得安乎吾命之曰子當以養為心父當以學為教使汝棄學狥財豐吾衣食食之安得甘衣之安得暖若務先王之道紹家世之業藜縕褐我自欲之書曰好問則裕禮雲獨學而無友則孤陋而寡聞葢須切磋相起明也見有閉門讀書師心自是稠人廣坐謬誤羞慙者多矣糓梁傳稱公子友與莒拏相搏左右呼曰孟勞孟勞者魯之寳刀名亦見廣雅近在齊時有姜仲嶽謂公子左右姓孟名勞多力之人為國所寳與吾苦諍時清河郡守邢峙當世碩儒助吾證之赧然而伏又三輔決録雲靈帝殿柱題曰堂堂乎張京兆田郎葢引論語偶以四言目京兆人田鳳也有一才士乃言時張京兆及田郎二人皆堂堂耳聞吾此説初大驚駭其後尋愧悔焉江南有一權貴讀誤本蜀都賦註解蹲鴟芋也乃為羊字人饋羊肉答書云捐惠蹲鴟舉朝驚駭不解事義久後尋跡方知如此元氏之世在洛京時有一才學重臣新得史記音而頗紕繆誤反顓頊字頊當為許録反錯作許縁反遂一一謂言從來謬音専旭當音専翾耳此人先有髙名翕然信行朞年之後更有碩儒苦相究討方知誤焉漢書王莾贊雲紫色防聲餘分閏位謂以偽亂真爾昔吾嘗共人談書言及王莾形狀有一俊士自許史學名價甚髙乃雲王莾非直鴟目虎吻亦紫色蛙聲又禮樂志雲給太官挏馬酒李竒注以馬乳為酒也揰挏乃成二字並從手揰【都抒反】挏【達孔反】此謂撞搗挺挏之今為酪酒亦然向學士又以為種桐時太官釀馬酒乃熟其孤陋遂至於此太山羊肅亦稱學問讀潘岳賦周文弱枝之棗為杖策之杖世本容成造厯以厯為碓磨之磨談說制文援引古音必須眼學勿信耳受江南閭里間士大夫或不學問羞為鄙樸道聴塗說強事飾辭呼徵質為周鄭謂霍亂為博陸上荊州必稱峽西下楊都言去海郡言食則餬口道錢則孔方問移則楚丘論婚則宴爾及王則無不仲宣語劉則無不公幹凢有一二百件傳相祖述尋問莫知源由施安時復失於莊生有乘時鵲起之說故謝朓詩曰鵲起登吳臺吾有一親表作七夕詩云今夜吳臺鵲亦共往填河羅浮山記雲望平地樹如薺故戴髙詩云長安樹如薺又鄴下有一人詠樹詩云遙望長安薺又嘗見謂矜誕為夸毗呼髙年為冨有春秋皆耳學之過也夫文字者墳籍根本世之學徒多不曉字讀五經者是徐邈而非許慎習賦誦者信褚詮而忽呂忱明史記者専皮鄒而廢篆籕學漢書者恱應蘇而畧蒼雅不知書音是其枝葉小學乃其宗系至見服防張揖音義則貴之得通俗廣雅而不屑一手之中向背如此況異代各人乎【世人皆以通俗文為服防造未知非服防而輕之猶謂是服防而輕之故此論從俗也】夫學者貴能博聞也郡國山川官位姓族衣服飲食器皿制度皆欲根尋得其原本至於文字忽不經懷己身姓名多或乖舛縱得不誤亦未知所由近世有人為子制名兄弟皆山傍立字而有名峙者兄弟皆木傍立字而有名機者兄弟皆水傍立字而有名凝者名儒碩學此例甚多若有知吾之鐘不調一何可笑吾嘗從齊王幸幷州自井陘闗入上艾縣東數十里有獵閭村後百官受馬糧在晉陽東百餘里亢仇城側並不識二所本是何地博求古今皆未能曉及檢字林韻集乃知獵閭是舊防餘聚【防音獵也】亢仇舊是防防亭【上音武安反下音仇】悉屬上艾時太原王邵欲撰鄉邑記注因此二名聞之大喜吾初讀莊子螝二首韓非子曰防有螝者一身兩口爭食相齕遂相殺也茫然不識此字何音逢人輒問了無解者案爾雅諸書蠶蛹名螝【音潰】又非二首兩口貪害之物後見古今字譜此亦古之虺字積年凝滯豁然霧解嘗遊趙州見栢人城北有一小水土人亦不知名後讀城西門徐整碑雲洦流東指眾皆不識吾案說文此字古魄字也洦淺水貌此水漢來本無名矣直以淺貌目之或當即以洦為名乎世中書翰多稱勿勿相承如此不知所由或有妄言此忽忽之殘缺耳案說文勿者州里所建之旗也象其柄及三遊之形所以趣民事故忽遽者稱為勿勿吾在益州與數人同坐初晴日明見地上小光問左右此是何物有一蜀竪就視荅雲是豆逼耳相顧愕然不知所謂命取將來乃小豆也窮訪蜀土呼粒為逼時莫之解吾雲三蒼說文此字白下為皆訓粒通俗文音方力反眾皆歡悟愍楚友壻竇如同從河州來得一青鳥馴養愛翫舉族呼之為鶡吾曰鶡出上黨數曾見之色並黃黑無駁雜也故陳思王鶡賦雲黃之勁羽試檢說文鳻【音分】雀佀鶡而青出羌中韻集音分此疑頓釋梁世有蔡朗諱純既不涉學遂呼蓴為露葵面牆之徒遞相仿效承聖中遣一士大夫聘齊齊主客郎李恕問梁使曰江南有露葵否荅曰露葵是蓴水鄉所出卿今食者緑葵菜耳李亦學問但不測彼之深淺乍聞無以覆究思魯等姨夫彭城劉靈嘗與吾坐諸子侍焉吾聞儒行敏行曰凢字與諮議名同音者其數多少能盡識乎答曰未之究也請導示之吾曰凢如此例不預研檢忽見不識誤以問人反為無頼所欺不容易也因為說之得五十許字諸劉嘆曰不意乃爾若遂不知亦為異事校定書籍亦何容易自雄劉向方稱此職耳觀天下書未徧不得妄下雌黃或彼以為非此以為是或本同末異或兩文皆欠不可偏信一隅也

古より明王聖帝もなお勤學を須いる。況んや凡庶をや。此の事經史に遍し、我も能く一々鄭重せず。聊か近世の切要を擧げて以て汝らを喚醒す。士大夫の子弟幾歲以上敎育を受けざる莫く、多きは或いは《禮》《傳》に至り、少なきも《詩》《論》を失わず。冠婚に及んで體性稍々定まり、此に因って天機更に須く訓誘すべし。志向有る者は便ち磨砺して素業を成就し、操守無き者は此より怠慢して凡人と成る。人生在世るに底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた當に業有るべし。農民は則ち耕稼を計量し、商賈は則ち貨賄を計論し、工巧は則ち器用を致精し、伎藝は則ち法術を深思し、武夫は則ち弓馬を慣習し、文士は則ち經書を講議す。多く士大夫の農商に渉るを恥とし工伎を務むるを羞とするを見、射は札を穿つ能わず、筆は纔かに姓名を記するのみ。飽食醉酒して恍惚として事なく、此を以て日を銷し此を以て年を終う。或いは家世の餘緒に因りて一階半級を得れば、便以て足れりと爲し、何ぞ能く自ら苦しまんや。吉底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた大事有りて得失を議論するに及んで、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた然として口を張き雲霧に坐するが如し。公私宴集して古を談じ詩を賦するに、沈默して頭を低れ欠伸するのみ。有識の傍觀は彼が爲めに地に容るる無きを思う。何ぞ數年勤學して長く一生の愧辱を受くるを惜しまざるや。梁朝全盛の時、貴遊の子弟多く學術無く、諺語に「車に上りて落ちざれば則ち著作、體中何如なれば則ち秘書」と言うに至る。熏衣剃面・傅粉施朱せざる莫く、長檐の車を駕し、高齒の屐を躡り、棋子の方褥に坐し、斑絲の隱囊に憑り、器玩を左右に列ね、從容として出入りして望めば神仙の如し。明經第を求むれば則ち人を雇いて策を答えしめ、三九公底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに則ち手を假して詩を賦す。當の時に於いて亦快士と算す。離亂の後に及んで、朝市遷革し、銓衡選擧は從前の親にあらず、當路秉權は昔時の黨を見ず。諸を身に求むるに得る所なく、之を世に施すに用いる所なし。褐を披いて珠を喪い、皮を失いて質を露わし、呆たること枯木の若く、泊たること窮流の若く、戎馬のあいだに孤獨し、溝底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたの際に轉死す。當の時に於いて實に駑材なり。學藝有る人は處處に安んずる能し。荒亂以來、見る所の俘虜は、百世の小人と雖も、《論語》《孝經》を讀むを知ればなお人師と爲る能し。千載の冠冕と雖も、書記を曉らざれば耕田して馬を養うに莫し。此より觀れば、豈に自ら勉めざるを得んや。若能く常に數百卷の書を保たば、千載終に小人と爲らず。六經の旨を明らめ百家の書に渉れば、縱え德を增益し風俗を敦勵する能わずとも、なお一藝以て自ら資るを得。父兄は常に依るべからず、鄉國は常に保つべからず。一旦流離して庇蔭する人無からば、當に諸を己身に求むべし。諺語に曰く、財を積むこと千萬は、薄技の身に在るに如かず、と。技の習い易くして貴ぶべきは、讀書に過ぎたるはなし。世人は愚智を問わず皆人之多く事之廣きを識らんと欲するに、却って讀書を肯ぜず。譬えば飽を求めて飯を作るに懶く、暖を欲して衣を裁つに懶きが如し。讀書の人は、伏羲神農以來宇宙の下、およそ幾人を識り幾事を見るか。生民の成敗好惡は固より論ずるに足らず、天地の藏する能わざる所、鬼神の隱す能わざる所なり。客有りて主人を責難して曰く、我強弩長底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた罪を誅し民を安んじて以て公侯を取る者有るを見、文義習史時を匡して國を富まして以て卿相を取る者有るを見たり。學古今に備わり才文武を兼ぬるに、身祿位なく妻子飢寒なるは數へ勝べからず。讀書何ぞ重んずるに足らん、と。主人對答す、命の窮達は金玉木石に比すべく、學藝を以て修むるは磨瑩彫刻に比すべし。金玉の磨瑩は自ら礦璞より美しく、木石の段塊は自ら彫刻より醜し。豈に木石の彫刻の金玉の礦璞に勝ると言い得んや。學有るの貧賤を以て學無きの富貴に比すべからず。況んや甲を負いて兵と爲り筆を操りて吏と爲るは、身死し名滅するは牛毛の如く、角立傑出するは芝草の如し。素を握り黃を披き、道を吟じ德を詠ずるに、苦辛益なきは日蝕の如く、逸樂名利のは秋荼の如し。豈に同年にして語らんや。且つ又聞く、生れて之を知る者は上、學びて之を知る者は次。學ぶ所以は、其の智を多く明達ならしめんと欲するなり。必ず天才底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた群に出で類を拔き、將と爲れば暗に孫武吳起と術を同じくし、政を執れば懸に管仲子產の敎を得る者有らん。未だ書を讀まずと雖も、我も亦之を學と稱す。如今汝すでに能く此の如くあらず、古人の踪迹を師法せずして、なお底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた被りて臥るが如し。人鄰里親戚に佳快有るを見れば、子弟をして慕いて之を學ばしむるに、古人を學ばしむるを知らず。何ぞ其の蒙蔽なるや。世人はただ馬を跨ぎ甲を被り長弰强弓するを知れば、便ち我能く將を爲すと言い、天道に明らかに地利を辨じ逆順を比量し興亡を鑒達するの妙を知らず。ただ上を承け下に接し財を積み穀を聚むるを知れば、便ち我能く相を爲すと言い、鬼を敬し神に事え風を移し俗を易え陰陽を調節し賢聖を薦擧するの至を知らず。ただ私財入らず公事夙辦するを知れば、便ち我能く民を治むと言い、己を誠にし物に刑し轡を執りて組の如く風を反し火を滅し鴟を化して鳳と爲すの術を知らず。ただ令を抱き律を守り早刑晚赦するを知れば、便ち我能く獄を平ぐと言い、轅を同じくして罪を觀劍を分かちて財を追い言を假して姦を露はし問わずして情を得るの察を知らず。農商工賈・厮役奴底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた・釣魚屠肉・飯牛牧羊に至るまで、皆先達有りて師表と爲すべく、博く之を求むれば事に利なからざるなし。故に讀書學問は、本來心を開き目を明らめて行に利あらんと欲するなり。未だ親を養うを知らざる者は、彼に古人の意に先んじ顏を承け聲を怡え氣を下げて劬勞を憚らず以て甘軟を致すを看さしめ、惕然として慚懼して起ちて之を行わしめん。未だ君に事えるを知らざる者は、彼に古人の職を守り侵さず危を見て命を授け誠諫を忘れず以て社稷に利あらんことを看さしめ、惻然として自ら念い效法せんと欲せしめん。素より驕奢なる者は、彼に古人の恭儉節用し卑にして自ら牧し禮を教本と爲し敬は身の基たるを看さしめ、瞿然として自ら失い容を斂め志を抑えしめん。素より鄙吝なる者は、彼に古人の義を貴び財を輕んじ私少なく慾寡く盈を忌み滿を惡み窮を賙い底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた匱するを看さしめ、赧然として悔い恥じ積めて能く散ずるに至らしめん。素より暴悍なる者は、彼に古人の心小さく己を黜し齒底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた舌存り垢を含み疾を藏し賢を尊び衆を容るるを看さしめ、頹然として沮喪して衣に勝えざるが若くならしめん。素より怯懦なる者は、彼に古人の生を達し命を委ね强毅正直にして言を立てて必ず信にし福を求めて回らざるを看さしめ、勃然として奮厲して恐懾すべからざらしめん。此より以往百行皆此の如し。縱え淳なる能わずとも、泰を去り甚を去り、學の知る所施して達せざるなし。世人の書を讀む者はただ之を言う能くして之を行う能わず、忠孝聞こえず仁義足らず、加うるに一條の訟を斷じて必ず其の理を得ず、千戶の縣を宰して必ず其の民を理めず、之に屋を造るを問えば必ず楣の橫し棁の豎るを知らず、之に田を爲るを問えば必ず稷の早く黍の遲るるを知らず。吟嘯談謔諷詠辭賦、事すでに優閑にして才增して迂誕し、軍國の經綸に略に施用なく、武人俗吏の共に嗤詆する所と爲る。實に此に由る。學ぶ者は以て益を求むるなり。人の數十卷の書を讀みて便ち自ら高大にして、長者を凌忽し同列を輕慢するを見れば、人之を疾むこと讎敵の如く、之を惡むこと鴟梟の如し。此の如く學を以て自ら損するは、學無きに如かず。古の學者は己の爲めにして、以て不足を補う。今の學者は人の爲めにして、ただ言う能し。古の學者は人の爲めにして、道を行い以て世に利す。今の學者は己の爲めにして、身を修め以て進を求む。學ぶ者は譬えば樹を種うるが如し。春は其の華を玩び、秋は其の實を登す。文章を講論するは春華、身を修め行に利するは秋實なり。人生小なる底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた時精神專一にして、長成して後思慮散逸す。本來須く早く敎うべし、時機を失う勿れ。我七歲の時《靈光殿賦》を誦し、今日に至るまで十年一理してなお遺忘せず。二十以外に誦する所の經書は、一月廢置すれば便ち荒蕪に至る。然れども人坎底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた盛年に失する有れば、なお當に晚學すべし、自ら棄つべからず。孔子に曰く、五十を以て《易》を學べば以て大過無かるべし。魏武・袁遺は老いて彌々篤し。此ら皆少に學びて老に至るまで倦まざるなり。曾子七十にして乃ち學び、名天下に聞ゆ。荀卿五十にして始めて遊學に來り、なお碩儒と成る。公孫底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた四十餘にして方に《春秋》を讀み、此に因って便ち丞相に登る。朱雲も亦四十にして始めて《易》《論語》を學ぶ。皇甫謐二十にして始めて《孝經》《論語》を授く。皆終に大儒と成る。此ら皆早く迷い晚く悟るなり。世人婚冠未だ學ばずして便ち遲暮と稱し、因循して面牆す。亦是れ愚底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた而して學ぶ者は日出の光の如く、老いて學ぶは燭を秉りて夜行るが如し。なお目を閉ぢて見ざるに勝れり。學の興廢は世の輕重に隨う。漢時の賢俊は皆一經を底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。聖人の道は上は天時を明らめ、下は人事を該し、此を用いて卿相を致す者多し。末俗以來再び此の如くあらず。空しく章句を守りただ師言を誦して、之を世務に施せば幾んど一も用いるべきなし。故に士大夫の子弟は皆博涉を以て貴しと爲し、儒を專らにすることを肯ぜず。梁朝の皇孫以下總角の年は必ず先に入學して其の志向を觀る。出身して後便ち文吏に從い、卒業する者殆どなし。冠冕此を爲す者は、則ち何底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた劉瓛・明山賓・周舍・朱異・周底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた正・賀琛・賀革・蕭子政・劉縚等にして、文史を兼通して徒らに講說せず。洛陽も亦崔浩・張偉・劉芳を聞き、鄴下又邢子才を見る。此の四儒は經術を好むと雖も、亦才博を以て名を擅にす。此の如き諸賢は故に上品、以外大抵は田里の閒人、音辭鄙陋にして風操拙劣、彼此專固にして堪能する所なく、一言を問えば輒ち數百を酬い、其の旨歸を責むれば或いは要底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたなし。鄴下の諺に曰く、博士驢を買い、券を書すること三紙に未だ驢の字有らず、と。汝をして此を以て師と爲さしめば、人をして氣塞せしむ。孔子に曰く、學は禄其の中に在り。如今益なき事に勤しむは、恐らく正業にあらず。聖人の書の敎を設くる所以は、ただ經文を明練し注義を粗通し、常に言行に得る所あらしめば、亦以て人と爲るに足る。何必に「仲尼居」に須く兩紙底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた義、燕寝講堂又何處に在るや。此を以て勝を得るは、何の益ぞや。光陰は惜しむべし、逝水に譬ゆ。當に博く機要を覽して以て功業を濟すべし。必ず能く兼美せば、我就ち閒話なし。俗間の儒士は群書に渉らず、經緯の外義底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたのみ。我初めて鄴に入りて博陵の崔文彥と交遊す。嘗て《王粲集》中の鄭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた《尚書》の事を難ずと言う。崔諸儒に轉告すれば、纔に口を開かんとすれば便ち排擠せらる。文集にはただ詩賦銘誄有るのみ、豈に經書の事を論ずべけんや。且つ先儒の中未だ王粲有るを聞かず。崔笑いて退き、竟に粲集を以て之に示さず。魏收議曹に在りて諸博士と宗廟の事を議し、《漢書》に引據す。博士笑いて曰く、未だ《漢書》の能く經術を證するを聞かず。魏便ち忿怒して再び言わず、《韋底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた成傳》を取りて擲ち下して起つ。博士一夜共に披尋して、明に至りて乃ち來り謝して曰く、「謂わず底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた成此の如く學有るを」と。老莊の書は大概眞を全うし性を養い、物を以て己に累すことを肯ぜず。故に名を柱史に藏めて終に流沙に蹈み、迹を漆園に匿して卒に楚相を辭す。此れ任縱の徒なり。何晏・王弼は祖述底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた宗し、遞に相い夸尚し、景附草靡して、皆農黃の化は己身に在りと以てし、周孔の業は之を度外に棄つ。而るに何平叔は曹爽に黨して誅せられ、死權の網に觸れ、王輔嗣は人を笑うこと多くして疾せられ、好勝の穽に陷り、山巨源は蓄積に因りて譏を取り、多藏厚亡の文に背き、夏侯底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたは才望に因りて戮せられ、支離擁腫の鑑戒なく、荀奉倩は妻を喪いて神傷して卒し、鼓缶の情にあらず、王夷甫は子を悼み悲しみ自ら勝えず、東門の達に同じからず、嵇叔夜は俗を排して禍を取り、豈に和光同塵の流ならんや、郭子底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたは權勢に傾動し、豈に身を後にし己を外にするの風あらんや、阮嗣宗は酒に沈み荒迷し、畏途相誡の譬に乖き、謝底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた輿は贓賄に因り黜削せられ、其の餘魚の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに違棄す。彼の人らは竝びに領袖底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた宗の歸する所、其の餘桎梏塵滓の中・顛僕名利の下なるは、豈に備えて言うべけんや。ただ彼らの清談雅論・剖底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた析微・賓主往復して心を娛しめ耳を悅ばしむるを取るのみ。濟世成俗の要にあらず。梁世に至りて此の風再び闡かれ、《莊》《老》《周易》を總じて三底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと稱す。武皇・簡文は親ら講論し、周底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた正は奉贊して大猷を敷き、化都邑に行はれ、學徒千餘、實に盛美なり。元帝江荆のあいだに在りて又愛習する所、學生を召置して親ら教授し、寝を廢し食を忘れ夜を以て朝に繼ぎ、倦劇愁憤に至れば便ち講を以て自ら釋す。我當時頗る末座に預り、親ら音旨を承く。性すでに頑魯にして亦好まず。齊孝昭帝婁太后の疾に侍し、容色憔悴し服膳減損す。徐之才爲めに兩穴を灸すれば、帝拳を握りて痛みに代わり、爪掌の中に入りて血流れて手に滿つ。太后すでに愈え、帝久しからずして病崩し、遺詔に恨む太后山陵の事を見ざるを。其の天性至孝彼の如く、忌諱を識らざること此の如し。實に無學に由る。若し古人の母の早く死なんことを欲して悲哭するを譏諷せしを見れば、則ち此の言を發せざらん。孝は百行の首、なお須く學を以て修飾すべし。況んや其の餘の事をや。梁元帝嘗て我に謂う、昔會稽に在りて年纔かに十二にして便ちすでに學を好み、當時又疥を患えて手は拳する能わず膝は屈する能わず、閒齋に葛帷を張り蠅を避けて獨坐し、銀甌に山陰の甜酒を貯え、時或いは進み用いて以て自ら痛を寬ぐ。率意に自ら史書を讀み、一日二十卷。すでに師受せざれば、或いは一字を識らず或いは一語を解せず、而るに自ら之を重んじて厭倦を知らず。帝子の尊・童稚の逸なお能く此の如し。況んや庶士の自達を望む者をや。古人の勤學に握錐投斧・照雪聚螢有り、鋤れば則ち經を帶び牧すれば則ち簡を編む。亦勤篤と算すべし。梁世彭城の劉綺は交州刺史勃の孫にして、早く孤にして家貧く、燈燭辦がたく、常に荻を買い尺寸に按りて折りて燃明して夜讀す。孝元初めて會稽に出でて僚屬を精選すれば、綺才華を以て國常侍兼記室と爲り、殊底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた禮遇し、終に金紫光祿に至る。義陽の朱詹は世々江陵に居り、後に出でて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた都し、學を好み家貧く資無く、日を累ねて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたず、便ち時に紙を吞みて以て腹を實つ。寒くして氈被無ければ犬を抱きて臥し、犬も亦飢虚して起ちて食を盜み、之を呼ぶも至らず、哀聲鄰を動かすも、なお業を廢せず。卒に學士と成り、官鎮南錄事參軍に至り、孝元の禮する所と爲る。此乃ち爲すべからざるの事にして、亦勤學の一人なり。東莞の臧逢世は年二十餘にして班固の《漢書》を讀まんと欲す。借期の久しからざるを苦み、便ち姊夫劉緩に向かって名刺書翰の紙末を求乞して、手寫して一本を作る。軍府其の志向に服して、終に《漢書》を以て名聞ゆ。齊に宦者內參田鵬鸞有り。本は蠻人、年十四五にして初めて閽寺と爲るや便ち學を好むを知り、懷袖に書を握り曉夕諷誦す。居る所卑末にして使役苦辛なるに、時に閒隙を伺い周章して詢請し、文林館に坐する每に氣喘汗流して、書を問うの外他語する暇なし。古人の節義の事を見るに及んで、未だ嘗て感激沉吟する久しきならざるはなし。我甚だ之を憐愛して加倍して開獎す。後に賞遇せられ、名を敬宣と賜い、位侍中開府に至る。後主青州に奔り、彼を遣はして西出して動靜を探伺せしむ。周軍の獲る所と爲りて齊王安在を問えば、彼騙して曰く已に去りぬ・計るに當に境を出でたるべし、と。其の信ならざるを疑いて毆捶して服を逼れば、一肢を折る每に辭色愈々厲しく、竟に四體を斷たれて死す。蠻夷童幼もなお能く學を以て忠を成す。齊の將相は敬宣の奴に如かざるなり。鄴平の後徙せられて關に入る。思魯嘗て我に謂う、「朝に祿位なく家に積財なく、當に筋力を竭して以て供養すべし。每に課督せられ勤勞して經史するに、兒子を爲りて以て安しと爲すべきかを知らず」と。我彼に命じて曰く、子は當に養を以て心と爲し、父は當に學を以て教と爲すべし。汝に學を棄てて財に徇りて以て我が衣食を豐ならしめば、食何ぞ能く甘からん、衣何ぞ能く暖かならん。若し先王の道を務め家世の業を紹げば、藜底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた縕褐我自ら願わん。《尚書》に曰く、問を好めば則ち裕なり。《禮記》に曰く、獨學して友無ければ則ち孤陋にして聞寡し。蓋し須く切磋して相い啓發して乃ち明白ならんとす。閉門して書を讀み心を師とし自ら是とし、稠人廣坐に謬誤して羞慚する者多きを見る。《穀梁傳》に公子友莒拏と相搏ち、左右「孟勞」と呼ぶと稱す。孟勞は魯の寶刀の名、《廣雅》にも亦見ゆ。近來齊に在りて姜仲岳有り、公子の左右は姓を孟名を勞とし、多力の人にして國の寶と爲すと說き、我と苦爭す。當時清河郡守邢峙は當世の碩儒にして、我を助けて證明せば、彼乃ち赧然として服す。又《三輔決錄》に靈帝の殿柱に「堂堂たり張、京兆田郎」と題すと說く。是れ《論語》を引きて偶に四言を以て京兆人田鳳を目す。一才士有りて卻って當時張京兆及び田郎の二人皆堂堂たりと說く。我が此の說を聞くや初め大いに驚駭し、其の後尋いで愧悔す。《江南に一權貴有りて誤本《蜀都賦》の注解を讀み、蹲鴟は芋なるを、卻って羊字と寫す。人羊肉を饋れば、書に答えて「蹲鴟を損惠す」と曰く。擧朝驚駭して事義を解せず。久しき後蹤迹を尋ねて乃ち此の如くなるを知る。元氏の世洛京に在る時、一才學の重臣有りて新たに《史記音》を得て頗る纰繆し、顓頊の字を誤反して、頊當に許録反なるを錯て許緣反と作し、便ち一々從來の謬音を說き、「專旭」當に「專翾」と音すべしと。此の人先に高名有れば翕然として信行す。期年の後更に碩儒有りて苦に相究討して、乃ち誤りしを知る。《漢書・王莽贊》に「紫色底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた聲、餘分閏位」と曰く。是れ僞を以て眞に亂るを言う。從前我嘗て人と書を談じ、王莽の形狀に說き至るに、一俊士有りて史學を自許し名價甚だ高きに、卻って王莽はただ鴟目虎吻のみならず、亦紫色蛙聲なりと曰く。又《禮樂志》に太官に挏馬酒を給すと曰く、李奇注に馬乳を以て酒と爲し挏挏して乃ち成るとし、二字皆手に從う。摥【都抒反】挏【達孔反】、此れ撞擣挺挏を言う、如今酪酒を作るも亦此の如し。彼の學士又種桐の時太官馬酒を釀して纔に熟すると以爲す。其の孤陋竟に此に至る。太山の羊肅も亦自ら學問と稱し、潘岳賦の「周文弱枝之棗」を讀みて杖策の杖と爲し、《世本》容成曆を造るを以て碓磨の磨と爲す。談說制文に古音を援引するに必ず眼學すべく、耳受を信ずる勿れ。江南閭里間の士大夫或いは學問なく、鄙朴を爲るを羞とし、道聽途說して强ひて飾辭を事とす。徵質を呼びて周鄭と爲し、霍亂を謂いて博陸と爲し、荆州に上れば必ず峽西と稱し、楊都に下れば海郡に去ると言い、食を言えば則ち糊口、錢を道えば則ち孔方、移を問えば則ち楚丘、婚を論えば則ち宴爾、王に及べば則ち仲宣ならざるなく、劉を語れば則ち公幹ならざるなし。約に一二百件有り、傳えて相祖述し、尋問すれば源由を知る莫く、施用するに又莊生に失す。時に乘じて鵲起の說有るを以て、故に謝朓詩に「鵲起して吳臺に登る」と曰く。我に一親表有りて七夕詩を作りて曰く「今夜吳臺の鵲、亦共に往きて河を填む」と。《羅浮山記》に平地の樹を望めば薺の如しと曰く。故に戴暠詩に「長安の樹薺の如し」と曰く。又鄴下に一人の樹を詠する詩有りて曰く「遙に長安の薺を望む」と。又嘗て矜誕を以て夸毗と呼び、高年を呼びて春秋富むと爲すを見る。皆耳學の過なり。文字は墳籍の根本、世上の學徒多く字を曉らず。五經を讀むは徐邈を是として許慎を非とし、賦誦を習うは褚詮を信して呂忱を忽せにし、《史記》を明らむるは專ら皮・鄒にして篆籀を廢し、《漢書》を學ぶは應・蘇を悅びて《蒼》《雅》を略す。書音は其の枝葉にして小學乃ち其の宗系なるを知らず。服底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた・張揖の《音義》を見れば則ち之を貴び、《通俗》《廣雅》を得れば屑とせざるに至る。一手の中向背此の如し。況んや異代各人をや【世人皆《通俗文》を以て服底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたの造る所と爲す。未知服底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたにあらずして之を輕んずるか、還た以て服底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたなりとして之を輕んずるか。故に此の論俗に從う】。學ぶ者は博聞能くすることを貴ぶ。郡國山川・官位姓族・衣服飲食・器皿制度は皆根尋して其の原本を得んと欲す。文字に至りて卻って忽せにして心を經ず。己身の姓名多く或いは乖舛す。縱え誤なきを得るも知らず所由を。近世人有りて子の爲めに名を制し、兄弟皆山旁に字を立てるに名峙有る者有り、兄弟皆木旁に字を立てるに名機有る者有り、兄弟皆水旁に字を立てるに名凝有る者有り。名儒碩學此の例甚だ多し。若し吾が鐘の調わざるを知る者有れば、何ぞ其の可笑なるや。我嘗て齊王に從い并州に幸し、井陘關より上艾縣に入る。東數十里有りて獵閭村有り。後に百官馬糧を受くるに晋陽東百餘里亢仇城の側に在り。皆二所の本來何地なるを識らず、博く古今を求むるも皆未だ能く曉らざりき。《字林》《韻集》を檢するに及んで、乃ち獵閭は舊底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた餘聚【防音は獵なり】、亢仇は舊は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた亭【上音は武安反、下音は仇】なるを知る。皆上艾に屬す。當時太原王邵鄉邑の記注を撰せんと欲して、此に因って二名を聞きて大いに喜ぶ。我初めて《莊子》の「螝二首」を讀み、《韓非子》に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに螝有る者一身兩口にして食を爭い相齧り遂に相殺すと說く。茫然として此の字何の音なるを識らず、人に逢うて問えば全く解する者なし。《爾雅》諸書に按ずるに、蚕蛹の名を螝【音は潰】と爲す。又二首兩口貪害の物にあらず。後に《古今字譜》を見るに、此れ亦古の虺字なり。年を積みて凝滯せしが豁然として霧解す。嘗て趙州に遊び、柏人城北に一小水有るを見るに、土人も亦名を知らず。後に城西門徐整碑の「洦流東に指す」と曰うを讀むに、衆人皆識らず。我《說文》に按ずるに此の字古の魄字、洦は淺水の貌なり。此の水漢以來本來名無く、ただ淺貌を以て之を稱す。或いは當に即ち洦を以て名と爲すべきか。世中書翰多く勿勿と稱し、相承えて此の如く知らず所由を。或いは妄りに此れ忽忽の殘缺なりと言う。《說文》に按ずるに勿は州里の建つる所の旗、其の柄及び三游の形を象り、民事を趣る所以なり。故に忽遽なる者を勿勿と稱す。我益州に在りて數人と同坐す。初晴日明にして、地上の小光を見て、左右に此れ何物ぞと問う。一蜀童有りて就きて視て答う、「是れ豆逼なり」と。相顧みて愕然として謂る所を知らず。取り來らしめんと命ずれば、乃ち小豆なりき。窮めて蜀土を訪えば、粒を呼びて逼と爲す。當時解する能う者無し。我曰く、《三蒼》《說文》此の字白下に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、皆粒と訓す。《通俗文》は音方力反。衆人皆歡悟す。愍楚の友婿竇如河州より來りて、一青鳥を得て馴養愛玩し、擧族之を呼びて鶡と爲す。我曰く、鶡は上黨に出づ。幾たびか見たり、色皆黃黑にして駁雜なし。故に陳思王の《鶡賦》に「底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた黃之勁羽」と曰く。試みに《說文》を檢するに、鳻【音分】雀は鶡に似て青く、羌中に出づ。《韻集》音分。此の疑頓に釋く。梁世に蔡朗有りて純を諱み、すでに學に渉らず、便ち蓴を呼びて露葵と爲す。面牆の徒遞に相仿效す。承聖中一士大夫を遣はして齊に聘せしむ。齊の主客郎李恕梁使に問う、「江南に露葵有りや」と。答う、「露葵は蓴、水鄉の出づる所なり。卿今食する所は綠葵菜なり」と。李も亦學問有り、ただ彼の深淺を測らざるなり。乍ち聞きて覆究する由無し。思魯等の姨夫彭城劉靈嘗て我と坐し、諸子側に侍す。我儒行・敏行に問う、「およそ字の諮議の名と同音する者、其の數多少能く盡く識るや」と。答う、「未だ之を究めず、開示を請う」と。我曰く、およそ此の如き例は豫め研檢せずんば、忽然として見れば識らず、誤りて以て人に問い、反って無賴の欺く所と爲る。容易ならず、と。因りて之を說けば、五十來字を得。諸劉歎じて曰く、「意せず乃爾、若し竟に知らざれば亦是れ異事なり」と。書籍を校定するに又豈に易きや。從底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた雄・劉向のみ此の職と稱す。天下の書を觀るに未だ遍からざれば、妄りに雌黃を下すべからず。或いは彼以て非とし此以て是とし、或いは本同じくして末異なり、或いは兩文俱に缺く。偏に一隅を信ずべからず。

文章篇第九

文章篇第九

夫文章者原出五經詔命筞檄生於書者也序述論議生於易者也歌詠賦頌生於詩者也祭祀哀誄生於禮者也書奏箴銘生於春秋者也朝廷憲章軍旅誓誥敷顯仁義發明功德牧民建國施用多途至於陶冶性靈從容諷諫入其滋味亦樂事也行有餘力則可習之然而自古文人多陷輕薄屈原露才已顯暴君過宋玉體貌容冶見遇俳優東方曼倩滑稽不雅司馬長卿竊貲無操王褒過章童約雄德敗美新李陵降辱夷虜劉歆反覆莽世傅毅黨附權門班固盜竊父史趙元叔抗竦過度馮敬通浮華擯壓馬季長佞媚獲誚蔡伯喈同惡受誅吳質詆訶鄉里曹植悖慢犯法杜篤乞假無猒路粹隘狹已甚陳琳實號麄踈繁欽性無檢格劉楨屈強輸作王粲率躁見嫌孔融禰衡誕傲致殞楊修丁廙扇動取斃阮籍無禮敗俗嵇康凌物防終傳忿鬬免官孫楚矜誇凌上陸機犯順履險潘岳乾沒取危顔延年負氣摧黜謝靈運空踈亂紀王元長防賊自貽謝暉悔慢見及凢此諸人皆其翹秀者不能悉紀大較如此至於帝王亦或未免自昔天子而有才華者唯漢武魏太祖文帝明帝宋孝武帝皆負世議非懿德之君也自子游子夏荀況孟軻枚乗賈誼蘇武張衡左思之儔有盛名而免過患者時復聞之但其損敗居多耳每嘗思之原其所積文章之體摽舉興會發引性靈使人矜伐故忽於持操果於進取今世文士此患彌切一事愜當一句清巧神厲九霄志凌千載自吟自賞不覺更有傍人加以砂礫所傷慘於矛防諷刺之禍速乎風塵深宜防慮以保元吉學問有利鈍文章有巧拙鈍學累功不妨精熟拙文研思終歸蚩鄙但成學士自足為人必乏天才勿強操筆吾見世人至於無才思自謂清華流佈醜拙亦以眾矣江南號為詅【力正反】痴符近在幷州有一士族好為可笑詩賦誂撆邢魏諸公眾共嘲弄虛相讃說便擊牛釃酒招延聲譽其妻明鑑婦人也泣而諫之此人嘆曰才華不為妻子所容何況行路至死不覺自見之謂明此誠難也學為文章先謀親友得其評論者然後出手慎勿師心自任取笑旁人也自古執筆為文者何可勝言然至於宏麗精華不過數十篇耳但使不失體裁辭意可觀遂稱才士要須動俗葢世亦俟河之清乎不屈二姓夷齊之節也何事非君伊箕之義也自春秋已來家有犇亡國有吞滅君臣固無常分矣然而君子之交絶無惡聲一旦屈膝而事人豈以存亡而改慮陳孔璋居袁裁書則呼操為豺狼在魏制檄則目紹為虵虺在時君所命不得自専然亦文人之巨患也當務從容消息之或問雄曰吾子少而好賦雄曰然童子雕蟲篆刻壯夫不為也餘竊非之曰虞舜歌南風之詩周公作鴟鴞之詠吉甫史克雅頌之美者未聞皆在防年累德也孔子曰不學詩無以言自衛返魯樂正雅頌各得其所大明孝道引詩證之雄安敢忽之也若論詩人之賦麗以則辭人之賦麗以淫但知變之而已又未知雄自為壯夫何如也著劇秦美新妄投於閣周章怖慴不達天命童子之為耳桓譚以勝老子葛洪以方仲尼使人嘆息此人直以曉算術解隂陽故著太經為數子所惑耳其遺言餘行孫卿屈原之不及安敢望大聖之清塵且太今竟何用乎不啻覆醬瓿而已齊世有辛毗者清幹之士官至行臺尚書嗤鄙文學嘲劉逖雲君輩辭藻譬若榮華須臾之翫非宏才也豈比吾徒十丈松樹常有風霜不可凋悴矣劉應之曰既有寒木又發春華何如也辛笑曰可矣凢為文章猶人乘騏驥雖有逸氣當以銜勒制之勿使流亂軌躅放意填坑防也文章當以理致為心腎氣調為筋骨事義為皮膚華麗為冠冕今世相承趨未棄本率多浮豔辭與理競辭勝而理伏事與才爭事繁而才損放逸者流宕而忘歸穿鑿者補綴而不足時俗如此安能獨違但務去泰去甚耳必有盛才重譽改革體裁者實吾所希古人之文宏材逸氣體度風格去今實逺但緝綴踈樸未為宻致耳今世音律諧靡章句偶對諱避精詳賢於往昔多矣宜以古之制裁為本今之辭調為末並須兩存不可偏棄也吾家世文章甚為典正不從流俗梁孝元在蕃邸時撰西府新文史記無一篇見録者亦以不偶於世無鄭衛之音故也有詩賦銘誄書表啟防二十卷吾兄弟始在草上並未得編次便遭火蕩盡竟不傳於世銜酷茹恨徹於心髓操行見於梁史文士傳及孝元懷舊志沈隠侯曰文章當從三易易見事一也易識字二也易讀誦三也邢子才常曰沈侯文章用事不使人覺若胷臆語也深以此服之祖孝徵亦嘗謂吾曰沈詩云崖傾護石髓此豈佀用事耶邢子才魏收俱有重名時俗凖的以為師匠邢賞服沈約而輕任昉魏愛慕任昉而毀沈約每於談防辭色以之鄴下紛紜各有朋黨祖孝徵嘗謂吾曰任沈之是非乃邢魏之優劣也吳均集有破獍賦昔者邑號朝歌顔淵不舎里名勝母曾參斂襟葢忌夫惡名之傷實也破獍乃防逆之獸事見漢書為文幸避此名也比世往往見有和人詩者題雲敬同孝經云資於事父以事君而敬同不可輕言也梁世費旭詩云不知是耶非殷澐詩云颻颺雲母舟簡文曰旭既不識其父澐又颻颺其母此雖悉古事不可用也世人或有文章引詩伐鼔淵淵者宋書已有屢遊之誚如此流比幸須避之北靣事親別舅摛渭陽之詠堂上養老送兄賦栢山之悲皆大失也舉此一隅觸塗宜慎江南文制欲人彈射知有病累隨即改之陳王得之於丁廙也山東風俗不通擊難吾初入鄴遂嘗以此忤人至今為悔汝曹必無輕議也凢代人為文皆作彼語理宜然也至於哀傷防禍之

文章は原より五經に出づ。詔命策檄は《書》に生じ、序述論議は《易》に生じ、歌詠賦頌は《詩》に生じ、祭祀哀誄は《禮》に生じ、書奏箴銘は《春秋》に生ず。朝廷の憲章・軍旅の誓誥は、仁義を敷顯し功德を發明し、民を牧り國を建つるに、施用多途なり。陶冶性靈・從容諷諫に至りては、その滋味に入るも亦是れ樂事なり。行に餘力有れば以て之を習うべし。然れども古の文人多く輕薄に陷る。屈原は才を露わにし底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた己を顯し、君の過を暴く。宋玉は體貌冶麗にして俳優と爲さる。東方朔は滑稽にして雅ならず。司馬相如は財を竊みて操無し。王褒の過失は《童約》に見ゆ。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた雄の德は《美新》に敗れり。李陵は夷虜に降辱す。劉歆は王莽の世に反覆す。傅毅は權門に黨附す。班固は父の史を盜竊す。趙元叔は抗竦して度に過ぎ。馮敬通は浮華にして擯壓せらる。馬季長は佞媚して譏を獲たり。蔡邕は惡に同じうして誅を受く。吳質は鄉里を詆訶す。曹植は悖慢にして法を犯す。杜篤は乞假して厭無し。路粹は隘狹すでに甚だし。陳琳は實に粗疏なり。繁欽は性檢格無し。劉楨は倔强にして輸作せらる。王粲は率躁にして嫌を見る。孔融・禰衡は誕傲にして死を致す。楊修・丁廙は扇動して斃を取る。阮籍は禮無く俗を敗す。嵇康は物を凌ぎ底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた終せり。傅底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたは忿鬪して官を免ず。孫楚は矜夸して上を凌ぐ。陸機は順に犯して險を履む。潘岳は機に投じて危を取る。顏延年は氣を負いて黜せらる。謝靈運は空疏にして紀を亂す。王元長は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた賊にして自ら貽し、謝底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた晦は悔慢して及せらる。此の人らは皆翹秀にして、記し盡くす能わざるも、大抵此の如し。帝王に至りても或いは免れず。古より天子にして才華有る者は、ただ漢武帝・魏太祖・文帝・明帝・宋孝武帝のみ、皆世議を負い、懿德の君にあらず。子游・子夏・荀況・孟軻・枚乘・賈誼・蘇武・張衡・左思の輩より、盛名有りて過患を免るる者は、時に或いは聞くも、但だ損敗する者多し。我每に思量して其の積む所を推原すれば、文章の體は興會を標擧して性靈を發引し、人をして矜伐せしむ。故に持操を忽略して進取に果す。今世の文士此の患更に切なり。一事の愜當・一句の清巧あれば、神九霄に厲り志千載に凌ぎ、自ら吟じ自ら賞して、更に旁人有るを覺えず。加うるに砂礫の傷は矛底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたより慘く、諷刺の禍は風塵より快し。甚だ應に防慮して以て元吉を保すべし。學問に利鈍有り、文章に巧拙有り。鈍學は功を累ねて精熟を妨げず、拙文は思を研くも終に醜陋に歸す。但だ學士と成れば以て人と爲るに足る。必ず天才を缺乏せば、强ひて筆を操る勿れ。我世人の才思無きに至りて、自ら清華と以爲し、醜拙を流布するを見るに亦多し。江南は號して詅【力正反】癡符と曰う。近來并州に一士族有りて、可笑の詩賦を寫すを好み、邢・魏諸公を挑撥す。衆人共に嘲弄して虚に相贊說せば、他便ち牛を殺し酒を篩りて聲譽を招延す。其の妻は明鑑の婦人にして、泣きて之を諫む。此の人歎じて曰く、「才華妻子の容る所と爲らず、況んや行路をや」と。死に至るまで覺えず。自ら己を見るを明と曰う。此れ實に難し。學びて文章を作るに、先に親友を謀りて評論を得て然る後に手を出す。萬も師心して自ら任じ旁人に笑を取る勿れ。古より筆を執りて文を爲す者は豈に數へ勝べんや。然れども宏麗精華に至りては數十篇に過ぎず。但だ體裁を失わず辭意觀るべければ、便ち才士と稱す。俗を動かし世を蓋わんと欲せば、亦黃河の清を待たんのみ。二姓に屈せざるは伯夷叔齊の節、何事も君に非ざるは伊尹箕子の義なり。春秋以來、家に奔亡有り國に呑滅有りて、君臣本來常分無し。然れども君子の交は絶えて惡聲無し。一旦屈膝して人に事うれば、豈に存亡に因りて慮を改めんや。陳琳袁紹の所に在りて書を裁てば則ち曹操を呼びて豺狼と爲し、魏に在りて檄を制すれば則ち袁紹を視て蛇虺と爲す。是れ當時君主の命する所、自ら專らにするを得ざるも、然れども亦是れ文人の大患、當に從容として斟酌すべし。或る人底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた雄に問う、「吾子少にして賦を好む」と。雄曰く、「然り。童子の彫蟲篆刻、壯夫は爲さず」と。我私に非難して曰く、虞舜《南風》の詩を歌い、周公《鴟鴞》の詠を作り、尹吉甫・史克の《雅》《頌》の美、未だ皆底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた年に德を累ぬるを聞かず。孔子詩を學ばざれば以て言う無しと曰い、衛より魯に返りて樂を正しくし《雅》《頌》各々其の所を得たり。孝道を大明するも亦詩を引きて以て證す。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた雄何ぞ敢えて此を忽略せんや。若し詩人の賦は麗にして則たり、辭人の賦は麗にして淫たりと論ずれば、ただ變を知るのみ、又雄の自ら壯夫と稱するは何如なるを知らず。《劇秦美新》を著し、妄りに閣に投じて、周章怖慴して天命に達せず。是れ童子の作爲なり。桓譚は老子に勝ると以爲し、葛洪は以て仲尼に比す。人をして歎息せしむ。此の人ただ算術を曉り陰陽を解するを因りて、故に《太底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた經》を著す。此の數人の惑える所と爲る。其の遺言餘行は荀子・屈原も及ばず。豈に大聖の清塵を望むを得んや。況んや《太底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた》如今果して何の用有るや。醬瓿を蓋うのみ。齊世に辛毗有りて清幹の士、官行臺尚書に至りて、文學を嗤鄙し、劉逖を嘲して曰く、「君輩の辭藻は譬えば榮華、須臾の玩にして宏才にあらず。何ぞ我ら十丈の松樹の、常に風霜あれど凋悴せざるに如かん」と。劉聲に應じて曰く、「すでに寒木有りて又春華を發す。何如」と。辛笑いて曰く、「可なり」と。およそ文章を作るは譬えば人の騏驥に乘るが如し。逸氣有ると雖も、當に銜勒を以て制約し、其の流亂して軌轍を填め意を放ちて坑底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに陷らしむる勿れ。文章は當に理致を以て心腎と爲し、氣調を以て筋骨と爲し、事義を以て皮膚と爲し、華麗を以て冠冕と爲すべし。今世相承りて末に趨り本を棄て、大多浮豔なり。辭と理と競うて辭勝ちて理伏し、事と才と爭うて事繁し而才損す。放逸のは流宕して歸を忘れ、穿鑿のは補綴して足らず。時俗此の如く、豈に獨り違わんや。但だ務めて泰を去り甚を去るのみ。必ず盛才重譽有りて體裁を改革せらん者は、實に我の望む所なり。古人の文は宏材逸氣、體度風格は今に去ること實に遠し。但だ緝綴疏朴にして未だ密致を爲さず。今世は音律諧靡・章句偶對・諱避精詳にして、往昔より賢なる者多し。當に古の制裁を以て本と爲し今の辭調を以て末と爲し、兩樣皆存を須い、偏に棄つべからず。我家世の文章は甚だ典正、流俗に從わず。梁孝元藩邸に在る時《西府新文》を撰せるに、史傳は一篇も錄に見えず。亦世に偶せず鄭衛の音無きを因る。詩賦銘誄書表啓底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた二十卷有りて、我ら兄弟なお起草に在りて未だ編次せざるに、便ち火に遭いて燒盡し、竟に世に傳えず。恨を銜むこと心髓に徹す。操行は《梁史・文士傳》及び孝元の《懷舊志》に見ゆ。沈約に曰く、文章は當に三易に從うべし。事を見る易き一、字を識る易き二、讀誦する易き三、と。邢子才常に曰く、沈侯の文章は事を用いて人をして覺えしめず、胸臆の裡の話の如し、と。深く此を以て佩服す。祖孝徵も嘗て我に謂う、「沈詩に『崖傾けて石髓を護る』と曰く。此れ豈に事を用いるに似たらんや」と。邢子才・魏收皆重名有りて、時俗以て標準と爲し師匠と爲す。邢は沈約を賞服して任昉を輕んじ、魏は任昉を愛慕して沈約を毀る。談底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたの時に在る每に辭色皆此に因って發す。鄴下紛紜して各々朋黨有り。祖孝徵嘗て我に謂う、「任・沈の是非は、即ち邢・魏の優劣なり」と。《吳均集》に《破鏡賦》有り。昔邑號を朝歌と稱して、顏淵は宿を停めず。里名を勝母と稱して、曾參は襟を斂む。是れ惡名の實を傷つけるを忌む。破鏡は乃ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた逆の獸、事《漢書》に見ゆ。文を爲るに幸に此の名を避くべし。近世往往として人の詩に和する有るを見て、題して「敬同」と作す。《孝經》に「父に事えるを資りて以て君に事えて敬同なり」と曰く。輕言すべからず。梁世の費旭詩に「是れ耶なるか非なるかを知らず」と曰い、殷沄詩に「飄飖たる雲母の舟」と曰く。簡文に曰く、旭すでに其の父を識らず、沄又其の母を飄飖せしむ、と。此ら皆古事と雖も、用いべからず。世人或いは文章《詩》の「鼓を伐つこと淵淵たり」を引く者有り。《宋書》すでに屢游の譏誚有り。此の如き類は幸に須く避くべし。北面して親に事え、舅に告別するに卻って《渭陽》の詠を寫し、堂上に老を養い、兄を送るに卻って《柏舟》の悲を賦す。皆大なる失なり。此の一例を擧ぐ、處處に當に謹慎すべし。江南の文制は人の指摘を欲し、病累有るを知れば隨りて之を改む。陳思王は之を丁廙より得たり。山東の風俗は辯難を通ぜず。我初めて鄴に入りて嘗て此に因って人に罪を得、今に至るまで悔ゆ。汝ら必ず輕議する勿れ。およそ人に代りて文を爲るに皆對方の口氣を用う。理に當に此の如くすべし。哀傷底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた禍のに至りては

辭不可輒代蔡邕為胡金盈作母靈表頌曰悲母氏之不永然委我而夙喪又為胡顥作其父銘曰我考議郎君袁三公頌曰猗歟我祖出自有媯王粲為潘文則思親詩云躬此勞瘁鞠予小人庶我顯妣克保遐年而並載乎邕粲之集此例甚眾古人之所行今世以為諱陳思王武帝誄遂深永蟄之思潘岳悼亡賦乃愴手澤之遺是方父於蟲匹婦於考也蔡邕楊秉碑雲統大麓之重潘尼贈盧景宣詩云九五思飛龍孫楚王驃騎誄雲奄忽登遐陸機又誄雲億兆宅心敦敘百揆姊誄雲俔天之和今為此言則朝廷之辠人也王粲贈楊德祖詩云我君餞之其樂洩洩不可妄施人子況儲君乎輓歌辭者或雲古者虞嬪之歌或雲出自田橫之客皆為生者悼往苦哀之意陸平原多為死人自嘆之言詩格既無此例又乖製作本意凢詩人之作刺箴美頌各有源流未嘗混雜善惡同篇也陸機為齊謳篇前敘山川物產風教之盛後章忽鄙山川之情踈失厥體其為吳趨行何不陳子光夫差乎京洛行何不述赧王靈帝乎自古宏才博學用事誤者有矣百家雜說或有不同書儻湮滅後人不見故未敢輕議之今指知決紕繆者略舉一兩端以為誡詩云有鷕雉鳴又曰雉鳴求其牡毛傳亦曰鷕雉雌聲又云雉之朝鴝尚求其雌鄭注月令亦云雊雄雉鳴潘岳賦曰雉鷕鷕以朝雊是則混雜其雄雌矣詩云孔懷兄弟孔甚也懷思也言甚可思也陸機與長沙顧母書述從祖弟士璜死乃言痛心防惱有如孔懷心旣痛矣即為甚思何故言有如也觀其此意當謂親兄弟為孔懷詩云父母孔邇而呼二親為孔邇於義通乎異物志雲擁劍狀如蟹但一偏大爾何遜詩云躍魚如擁劒是不分魚蟹也漢書御史府中列栢樹常有野鳥數千棲宿其上晨去暮來號朝夕鳥而文士往往誤作烏鳶用之抱朴子說頃曼都詐稱得仙自雲仙人以流霞一杯與我飲之輒不飢渴而簡文詩云霞流抱朴椀亦猶郭象以惠施之辨為莊周言也後漢書囚司徒崔烈以鋃鐺鏁【上音狼下音當】鋃鐺大鏁也世間多誤作金銀字烈太子亦是數千卷學士嘗作詩云銀鏁三公腳刀撞僕射頭為俗所誤文章地理必須愜當梁簡文雁門太守行乃雲鵞軍功日逐燕騎蕩康居大宛歸善馬小月送降書蕭子暉隴頭水雲天寒隴水急散漫俱分防北注徂黃龍東流防白馬此亦明珠之纇美玉之瑕宜慎之王籍入若耶溪詩云蟬噪林逾靜鳥鳴山更幽江南以為文外斷絶物無異議簡文吟詠不能忘之孝元諷詠以為不可復得至懷舊志載於籍傳范陽盧詢鄴下才俊乃言此不成語何事於能魏收亦然其論詩云蕭蕭馬鳴悠悠斾旌毛傳曰言不諠譁也吾每嘆此解有情致籍詩生於此意耳蘭陵蕭慤梁室上黃侯之子工於篇什嘗有秋詩云芙蓉露下落楊柳月中踈時人未之賞也吾愛其蕭防宛然在目潁川荀仲舉琅琊諸葛漢亦以為爾而盧思道之徒雅所不愜何遜詩實為清巧多形佀之言楊都論者恨其每病苦辛饒貧寒氣不及劉孝綽之雍容也雖然劉甚忌之平生誦何詩云蘧居響北闕防防【乎麥反】不道車又撰詩苑止取何兩篇時人譏其不廣劉孝綽當時既有重名無所與讓唯服謝朓常以謝詩置几案間動靜輒諷味簡文愛陶淵明文亦復如此江南語曰梁有三何子朗最多三何者遜及思澄子朗也子朗信饒清巧思澄遊廬山每有佳篇併為冠絶

文辭は動輒りて代作すべからず。蔡邕は胡金盈の爲に母の《靈表頌》を作りて曰く、「悲母氏の永ならざるを、然れど我を委ねて夙喪せり」と。又胡顥の爲に其父の銘を作りて曰く、「底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた我が考議郎君」と。袁三公頌に曰く、「猗歟我が祖、有嬀より出づ」と。王粲は潘文則の爲に《思親詩》を作りて曰く、「此の勞瘁に躬して、予小人を鞠い、庶幾くは我が顯妣、遐年を保つを克くせん」と。却って皆邕・粲の集子の中に載る。此の例甚だ多し。古人の行う所、今世以て諱と爲す。陳思王の《武帝誄》は是に於て深永蟄の思を用い、潘岳の《悼亡賦》は是に於て愴手澤の遺を用う。此れは父を以て蟲に比し、妻を以て先考に比するなり。蔡邕《楊秉碑》に「大麓の重を統す」と曰い、潘尼が盧景宣に贈る詩に「九五飛龍を思う」と曰い、孫楚《王驃騎誄》に「奄忽として遐に登る」と曰い、陸機の又誄に「億兆心に宅り、百揆を敦敘す」と曰い、姉誄に「俔天之妹」と曰く。如今此の語を説ばば、即ち朝廷の罪人なり。王粲が楊德祖に贈る詩に「我が君之を餞す、其の樂泄泄たり」と曰く。妄りに人子に加うべからず、況んや儲君をや。挽歌辭は、或いは古の虞殯の歌と曰い、或いは田橫の客より出づと曰う。皆是れ生者の往きを悼み苦哀の意なり。陸機は多く死人の爲に自ら歎く言を作る。詩格すでに此の例無く、又制作の本意に乖く。およそ詩人の作る所は、刺箴美頌各々源流有りて、未だ嘗て善惡を混雜して同篇にせず。陸機《齊謳篇》を作るに、前は山川物産風教の盛を敘し、後章忽然として山川の情を鄙薄す。疏れて其の體を失えり。他に《吳趨行》を作りて何ぞ公子光・夫差を陳せざるや。《京洛行》を作りて何ぞ赧王・靈帝を述べざるや。古より宏才博學の事を用うるに錯誤有りて過ち有り、百家雜説或いは同じからず。書倘し湮滅して後人見ざれば、故に未だ敢えて輕議せず。如今ただ確かに紕繆を知るを指して、略して一兩處を擧げて以て鑑戒を作す。《詩經》に「鷕と雉鳴く有り」と曰い、又「雉鳴きて其の牡を求む」と曰う。《毛傳》も亦鷕は雌雉の聲と曰く。又「雉の朝雊は、尚お其の雌を求む」と曰い、鄭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた《月令》に注しても亦雊は雄雉の鳴と曰く。潘岳の賦に「雉鷕鷕として朝に雊く」と曰く。此れは雄雌を混雜せり。《詩經》に「孔懷兄弟」と曰く。孔は甚、懷は思なり。甚だ思念すべしと曰うなり。陸機が長沙の顧母に與える書に從祖弟士璜の死を述べて、却って「心底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた惱を痛み、孔懷の如し」と曰く。心すでに痛めば即ち甚思なり。何を以て「有如」と曰うや。其の此の意を觀るに、當に親兄弟を呼びて孔懷と爲すべし。《詩經》に「父母孔邇」と曰く。若し雙親を呼びて孔邇と爲さば、義に於て通ぜんや。《異物志》に擁劍の狀蟹の如く、ただ一底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた偏に大なりと曰く。何遜の詩に「魚を躍ること擁劍の如し」と曰く。是れ魚蟹を分たず。《漢書》に御史府の中に柏樹を列ね、常に野鳥數千其の上に棲宿し、晨に去り暮に來りて、朝夕鳥と號す。而して文士往往として誤りて烏鳶と作して用う。《抱朴子》に頃曼都詐りて仙を得たりと稱し、自ら稱して仙人流霞一杯を拿りて彼に飮ましむれば、便ち飢渇せずと曰く。而して簡文の詩に「霞流るる抱朴の碗」と曰く。亦郭象が惠施の辯を以て莊周の話と爲すに似たり。《後漢書》に司徒崔烈を囚するに鋃鐺の鎖【上音狼、下音當】を用う。鋃鐺は大鎖なり。世間多く誤りて金銀の銀字と作す。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた烈太子も亦數千卷を讀みし學士にして、嘗て詩を作りて曰く、「銀鎖三公の脚、刀仆射の頭を撞く」と。俗に誤られたるなり。文章の地理は必ず愜當を須いる。梁簡文《雁門太守行》は却って「鵝軍日逐を攻め、燕騎康居を蕩し、大宛善馬を歸し、小月降書を送る」と曰い、蕭子暉《隴頭水》に「天寒く隴水急にして、散漫として俱に分底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、北は注ぎて黃龍に向かい、東は流れて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた白馬」と曰く。此れも亦明珠の瑕・美玉の疵、當に謹慎すべし。王籍《入若耶溪》の詩に「蟬噪げば林逾靜か、鳥鳴けば山更に幽なり」と曰く。江南以て文外の斷絶と爲し、物異議無し。簡文吟詠して忘るる能わず、孝元諷詠して以て復た得べからずと爲し、《懷舊志》に至りて籍の傳に載る。范陽盧詢は鄴下の才俊にして、却って此れ語を成さずと曰う。何ぞ能と稱するに至らんや。魏收も亦此の如し。彼らの詩を論ずるに、「蕭蕭たる馬鳴、悠悠たる旆旌」に說き至りて、《毛傳》は譁らざるなりと曰う。我每に此の解釋に情致有るを歎ず。籍の詩は即ち此の意に生ず。蘭陵蕭悫は梁室上黃侯の子にして、篇什に工し。嘗て秋の詩有りて「芙蓉露下に落ち、楊柳月中に疏なり」と曰く。時人未だ賞せず。我其の蕭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた宛然として目に在るを愛す。潁川荀仲擧・琅琊諸葛漢も亦以て此の如しと爲すも、盧思道の徒は甚だ愜意ならず。何遜の詩は實に清巧にして、形似の言多し。楊都の論者は其の每に苦辛を病み貧寒氣多きを恨み、劉孝綽の雍容に及ばず。此の如しと雖も、劉甚だ其れを忌む。平生何の詩を誦して「蘧居北闕に響く」底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた【乎麥反】車を道わずと曰い、又《詩苑》を撰してただ何の兩篇を取る。時人其の廣からざるを譏る。劉孝綽當時すでに重名有りて、推讓する所無く、ただ謝朓を服す。常に謝の詩を几案の間に置きて、動靜すれば即ち諷味す。簡文の陶淵明の文を愛するも亦此の如し。江南の話に曰く、梁に三何有り、子朗最も多し、と。三何は遜及び思澄・子朗なり。子朗確かに清巧多く、思澄は廬山に游して每に佳篇有り。皆冠絶と爲す。

名實篇第十

名實篇第十

名之與實猶形之與影也德藝周厚則名必善焉容色姝麗則影必美焉今不修身而求令名於世者猶貌甚惡而責妍影於鏡也上士忘名中士立名下士竊名忘名者體道合德享鬼神之福祐非所以求名也立名者修身慎行懼榮觀之不顯非所以讓名也竊名者厚貌深奸幹浮華之虛稱非所以得名也人足所履不過數寸然而咫尺之途必顛蹷於崖岸拱抱之梁每沈溺於川穀者何哉為其傍無餘地故也君子之立已抑亦如之至誠之言人未能信至潔之行物或致疑皆由言行聲名無餘地也吾每為人所毀常以此自責若能開方軌之路廣造舟之航則仲由之言信重於登壇之盟趙喜之降城賢於折沖之將矣吾見世人清名登而金貝入信譽顯而然諾虧不知後之矛防毀前之幹櫓也宓子賤雲誠於此者形於彼人之虛實真偽在乎心無不見乎跡但察之未熟耳一為察之所鑑巧偽不如拙誠承之以羞大矣伯石讓卿王莽辭政當於爾時自以巧宻後人書之留傳萬代可為骨寒毛竪也近有大貴孝悌著聲前後居喪哀毀逾制亦足以髙於人矣而嘗以苫塊之中以巴豆塗臉遂使成瘡表哭泣之過左右童竪不能掩之益使外人謂其居處飲食皆為不信以一偽喪百誠者乃貪名不已故也有一士族讀書不過二三百卷天才鈍拙而家世殷厚雅自矜持多以酒犢珍玩交諸名士甘其餌者遞相吹噓朝廷以為文華亦嚐出境聘東萊王韓晉明篤好文學疑彼製作多非機杼遂設防言面相討試竟日歡諧辭人滿席屬音賦韻命筆為詩彼造次即成了非向韻眾客各自沈吟遂無覺者韓退嘆曰果如所量韓又嘗問曰王珽杼上終葵首嘗作何形乃答雲珽頭曲圜勢如葵葉耳韓既有學忍笑為吾說之治防子弟文章以為聲價太事也一則不可常繼終露其情二則學者有憑益不精勵鄴下有一少年出為襄國令頗自勉篤公事經懷每加撫防以求聲譽凢遣兵役握手送離或齎棃棗餅餌人人贈別雲上命相煩情所不忍道路飢渴以此見思民庶稱之不容於口及遷為泗州別駕貲費日廣不可常週一有偽情觸塗難繼功績遂敗損矣或問曰夫神滅形消遺聲餘價亦猶蟬殻虵皮獸迒鳥跡耳何預於死者而聖人以為教乎對曰勸也勸其立名則獲其實且勸一伯夷而千萬人立清風矣勸一季札而千萬人立仁風矣勸一柳下惠而千萬人立真風矣勸一史魚而千萬人立直風矣故聖人慾其魚鱗鳯翼雜沓參差不絶於世豈不哉四海悠悠皆慕名者葢因其情而致其善耳抑又論之祖考之嘉名美譽亦子孫之冕服牆宇也自古及今獲其庇者眾矣夫修善立名者亦猶築室樹果生則獲其利死則遺其澤世人汲汲者不達此意若其與魂爽俱升松栢偕茂惑矣哉

名と實とは、譬えば形と影の如し。德藝周厚なれば則ち名は一定に善く、容色姝麗なれば則ち影は一定に美し。如今身を修めずして世に美名を求むるは、譬えば容貌甚だ醜きに鏡に向かいて美影を責求するが如し。上士は名を忘れ、中士は名を立て、下士は名を竊む。名を忘るる人は道に體し德に合して、鬼神の福祐を享受す。以て名を求むるにあらず。名を立つる人は身を修め行を慎みて、榮觀の顯れざるを怕る。以て名を讓るにあらず。名を竊む人は貌を厚くし奸を深くして、浮華の虚稱を求む。名を得る所以にあらず。人の脚の踏む所は數寸に過ぎず。然れども咫尺の途は必ず崖岸に顛蹶し、拱把の橋梁は每に河川山谷に沉溺す。何となれば、旁に餘地無きを以てなり。君子の己を立つるも亦是の如し。至誠の言は人未だ必ずしも信ぜず、至潔の行は人或いは疑を致す。皆言行聲名に餘地無きを以てなり。我每に人の毁謗を被るに、常に此を以て自ら責む。若し能く方正の大道を開辟し造舟の橋梁を加寬せば、則ち仲由の言は登壇の盟より信ぜられ、趙憙の降城は折衝の將より賢能ならん。我世人の清名剛く登りて金貝便ち入り、信譽剛く顯揚して許諾便ち虧くを見るに、後の矛底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたが前の干櫓を毁るを知らず。宓子賤に曰く、此に誠なる者は彼に形見る、と。人の虚實眞僞は心裡に在りて、事迹に顯れざる無し。ただ觀察の熟せざるのみ。一旦觀察の鑑照に被れば、巧僞は拙誠に如かず。接下の羞辱大なり。伯石の卿を讓り王莽の政を辭するは、當時自ら巧密と以爲せしも、後人寫し留めて萬代に傳う。人をして骨寒く毛豎ならしむ。近來大贵有りて孝悌を以て聲を著し、前後喪に居りて哀毁制を逾え、亦以て人に高きに足る。却って嘗て苫塊の中に在りて巴豆を以て臉に塗り、臉上に瘡を成さしめて、以て哭泣の過度を表す。左右の童僕掩蓋する能わず。更に外人をして其の居處飮食皆信ずべからずと爲さしむ。一僞に因りて百誠を喪うは、乃ち名を貪りて已まざるの故なり。一士族有りて、書を讀むこと二三百卷に過ぎず、天才鈍拙、而して家世殷厚にして、甚だ矜持を會す。多く酒肉珍玩を以て名士を結交す。其の餌を喫する者は遞相吹噓して、朝廷以て文華と爲し、亦嘗て境を出でて聘問せり。東萊王韓晉明は文學を篤好し、其の作品多く自ら機杼にあらざるを疑い、便ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた言を設けて面當に討試す。終日歡諧、辭人席に滿ちて、音に屬し韵を賦し、筆を命じて詩を爲る。其の人倉促に寫し成すに、全く一向の韵味にあらず。衆客各自沈吟して、竟に覺察する無し。韓退き下りて歎じて曰く、「果して量る所の如し」と。韓又嘗て問う、「王珽の杼上終葵首は、嘗て何の形狀と成せりや」と。其れ答えて曰く、「珽頭曲圓にして、勢葵葉の如し」と。韓すでに學問有りて、笑を忍びて我に説きたり。治底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた子弟の文章を以て聲價と爲すは、太底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた事なり。一つには常に繼ぐべからず、終に實情を露わさん。二つには學習する者憑依有りて、更に精勵せず。鄴下に一少年有りて出でて襄國令と爲る。甚だ自ら勉る能く、公事心を經て、每に撫底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを加えて以て聲譽を求む。およそ兵役を遣るに、手を握りて離を送り、或いは梨棗餅餌を送りて、人人に贈別して曰く、「上の命煩わしむる所、情忍びざる所、道路飢渇せん」と。以て思を見んことを求む。民庶稱贊して口を容れず。泗州別駕に遷るに及びて、花費日に廣くして、常に周くべからず。一たび僞情有れば處處繼ぎ難くして、功績便ち敗損す。或る人問う、神滅して形消ゆれば、留下の聲價も亦蟬殼蛇皮・獸迹鳥蹤の如きのみ、死者と何の相干有るや、而して聖人却って以て敎を設くるや、と。答えて曰く、是れ勸なり。其の名を立てゝ其の實を獲るを勸む。且つ一つの伯夷を勸めば千萬人清風を立て、一つの季札を勸めば千萬人仁風を立て、一つの柳下惠を勸めば千萬人眞風を立て、一つの史魚を勸めば千萬人直風を立つ。故に聖人此らの魚鱗鳳翼の如く雜沓參差して世に絕えざらんことを欲す。豈に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたならんや。四海悠悠として皆名を慕うは、蓋し此の情に順いて以て善に引くなり。更に一層を論ず。祖考の嘉名美譽も亦子孫の冕服牆宇なり。古より今に至るまで庇底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを獲る者多し。善を修め名を立つる者も亦室を築き樹を種うるが如し。生きて其の利を獲て、死して其の澤を留下す。世人の急急に追求するは、此の意思を明白せず。若し以て魂爽と俱に天に升り松柏と俱に茂盛せんと以爲せば、則ち惑えり。

顔氏家訓捲上

顔氏家訓卷上

欽定四庫全書

欽定四庫全書

顔氏家訓卷下

顔氏家訓卷下

隋顔之推撰

隋の顔之推撰

涉務篇第十一

涉務篇第十一

夫君子之處世貴能有益於物耳不徒髙談虛論左琴右書以費人君祿位也國之用材大較不過六事一則朝廷之臣取其鑑達治體經綸慱雅二則文史之臣取其著述憲章不忘前古三則軍旅之臣取其斷決有謀強幹習事四則藩屏之臣取其明練風俗清白愛民五則使命之臣取其識變從宜不辱君命六則興造之臣取其程功節費開略有術此則皆勤學守行者所能辦也人性有長短豈責具美於六塗哉但當皆曉指趣能守一職便無媿耳吾見世中文學之士品藻古今若指諸掌及有試用多無所堪居承平之世不知有喪亂之禍處廟堂之下不知有戰陣之急保俸祿之資不知有耕稼之苦肆吏民之上不知有勞役之勤故難可以應世經務也晉朝南渡優借士族故江南冠帶有才幹者擢為令僕以下尚書郎中書舍人已上典掌機要其餘文義之士多迂誕浮華不涉世務纎微過失又惜行捶楚所以處於清名益獲其短也至於臺閣令史主書監帥諸王籖省並曉習吏用濟辦時須縱有小人之態皆可鞭杖肅督故多見委使葢用其長也人每不自量舉世怨梁武帝父子愛小人而防士大夫此亦眼不能見其睫耳梁世士大夫皆尚襃衣博帶大冠髙履出則車輿入則扶侍郊郭之內無乘馬者周正為宣城王所愛給一果下馬常服御之舉朝以為放達至乃尚書郎乘馬則糾劾之及侯景之亂膚脆骨柔不堪行步體羸氣弱不耐寒暑坐死倉猝者往往而然古人慾知稼穡之艱難斯葢貴谷務本之道也夫食為民天民非食不生矣三日不粒父子不能相存耕種之茠鉏之刈獲之載積之打拂之簸之凢幾涉手而入倉廩安可輕農事而貴末業哉江南朝士因晉中興南渡江卒為羈旅至今八九世未有力田悉資俸祿而食耳假令有者皆信僮僕為之未嘗目觀起一墢土耘一株苗不知幾月當下幾月當收安識世間餘務乎故治官則不了營家則不辦皆優閒之過也

君子の世に處するは、能く物に益有るを貴ぶ。ただ高談虚論・左琴右書を以て人君の祿位を耗費するのみにあらず。國家の用材は大概六事に過ぎず。一つは朝廷の臣、其の治體に鑑達し經綸博雅なるを取る。二つは文史の臣、其の著述憲章・前古を忘れざるを取る。三つは軍旅の臣、其の斷決して謀有り强幹して事を習うを取る。四つは藩屏の臣、其の風俗を明練し清白にして民を愛するを取る。五つは使命の臣、其の變を識り宜に從い君命を辱めざるを取る。六つは興造の臣、其の功を程し費を節し、開略して術有るを取る。此らは皆勤學守行の人の辦る能う所なり。人性に長短有りて、豈に六途皆美を責求せんや。但だ當に皆其の旨趣を曉り、一職を守る能くば便ち愧無きを得ん。我世上の文學の士が古今を品評するに手掌を指すが如く、試用に及ぶを待てば多く堪うる所無きを見る。承平の世に處りて喪亂の禍有るを知らず、廟堂の下に處りて戰陣の急有るを知らず、俸祿の資を保ちて耕稼の苦有るを知らず、吏民の上に放肆して勞役の勤有るを知らず。故に世に應じ務を經るに難し。晉朝南渡して士族を優待せしを以て、江南の冠帶の才幹有るを、令僕以下・尚書郎中書舍人以上に拔擢して機要を典掌せしむ。其餘の文義の士は多く迂誕浮華にして世務に涉らず、纖微の過失をも又捶楚を惜しむ。故に清名の上に置きて更に短を暴露す。臺閣令史・主書監帥・諸王簽省に至りては、皆吏用を曉習して當時の所需を辦ることを得、縱ひ小人の態有るも、皆鞭杖を以て肅督すべし。故に多く委任せられ、其の長を用うるなり。人每に自ら量らず、擧世梁武帝父子が小人を愛して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた士大夫を怨ず。此れも亦目が自ら其の睫を見る能わざるなり。梁世の士大夫は皆褒衣博帶・大冠高履を崇尚し、出づれば車輿、入れば扶侍して、郊郭の内乘馬する無し。周底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた正は宣城王に愛せられ、一匹の果下馬を給りて、常に之に騎る。擧朝以て放達と爲し、尚書郎の乘馬するに至りては便ち糾劾せらる。侯景の亂に及びて、膚脆く骨柔くして行步に堪えず、體弱く氣弱くして寒暑に耐えず。坐して倉猝の間に死する者往往として此の如し。古人の稼穡の艱難を知らんと欲するは、此れ蓋し穀物を貴び根本を務むるの理なり。食は民の天、民食無くんば生くる能わず。三日糧食を食わざれば父子相存せず。耕種し除草し收割し裝載堆積し打場し簸底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたす。およそ幾度か手を經て纔かに倉廩に入る。豈に農事を輕んじて末業を貴ばんや。江南の朝士は晉の中興南渡に因りて、終に羈旅と爲り、今に至るまで八九世力田せず、全く俸祿に全うして食う。假令田有る者も皆僮僕の爲すに聽任して、未だ嘗て親しく一鍬の土を刨き一株の苗を耘らず。幾月に下種し幾月に收むべきを知らず。豈に世間の其餘の事務を解さんや。故に官を爲れば了せず、家を營めば辦せず。皆優閒の過なり。

省事篇第十二

省事篇第十二

銘金人云無多言多言多敗無多事多事多患至哉斯戒也能走者奪其翼善飛者減其指有角者無上齒豐後者無前足葢天道不使物有兼焉也古人云多為少善不如執一鼯鼠五能不成伎術近世有兩人朗悟士也性多營綜畧無成名經不足以待問史不足以討論文章無可傳於集録書跡未堪以留愛翫卜筮射六得三醫藥治十差五音樂在數十人下弓矢在千百人中天文畫繪棊博鮮卑語煎胡桃油鏈錫為銀如此之類畧得梗槩皆不通熟惜乎以彼神明若省其異端當精妙也上書陳事起自戰國逮於兩漢風流彌廣原其體度攻人主之長短諫諍之徒也訐群臣之得失訟訴之類也陳國家之利害對防之伍也帶私情之與奪遊說之儔也總此四塗賈誠以求位鬻言以干祿或無絲毫之益而有不省之困幸而感悟人主為時所納初獲不貲之賞終陷不測之誅則嚴助朱買臣吾丘壽王主父偃之類甚眾良史所書葢取其狂狷一介論政得失耳非士君子守法度者所為也今世所覩懷瑾瑜而握蘭桂者悉恥為之守門詣闕獻書言計率多空薄髙自矜誇無經畧之大體鹹糠粃之防事十條之中一不足採縱合時務已漏先覺非謂不知但患知而不行耳或被髮奸私面相酬證事途迥冗飜懼尤人主外護聲教脫加含養此乃僥倖之徒不足與比肩也諫諍之徒以正人君之失爾必在得言之地當盡匡賛之規不容茍免偷安垂頭塞耳至於就養有方思不出位幹非其任斯則罪人故表記雲事君逺而諫則諂也近而不諫則尸利也論語曰未信而諫人以為謗已也君子當守道崇徳蓄價待時爵祿不登信由天命須求趨競不顧羞慙比較材能斟量功伐厲色聲東怨西怒或有刼持宰相瑕疵而獲酬謝或有諠聒時人視聴求見發遣以此得官謂為才力何異盜食致飽竊衣取溫哉世見躁競得官者便為弗索何獲不知時運之來不然亦至也見靜退未遇者便為弗為胡成不知風雲不與徒求無益也凢不求而自得求而不得者焉可勝算乎齊之季世多以財貨託附外家諠動女謁拜守宰者

金人銘の上に曰く、言を多くする勿れ、多言は多敗。事を多くする勿れ、多事は多患、と。此の警戒は極めて好し。能く走る者は翅膀を奪われ、善く飛ぶ者は指爪を減ぜられ、角有る者は上齒無く、後部豐滿なる者は前足無し。蓋し天道は物に兼備有らしめず。古人に曰く、爲すこと多くして善きこと少なきは、一樣を專執するに如かず、と。鼯鼠五種の能有りて技藝を成さず。近世に兩人有りて朗悟の士、性情多所經營綜理するも幾に成名せず。經は問を待つに足らず、史は討論するに足らず、文章は集錄に傳うべき無く、書迹は留めて愛玩と爲すに堪えず。卜筮は六を射て三を得、醫藥は十を治して五を愈し、音樂は數十人の下、弓矢は千百人の中に在り。天文・畫繪・棋博・鮮卑語・胡桃油を煎じ錫を鍊りて銀と爲す、此の如き類は略して梗概を得るも皆精通せず。惜しいかな。其の神明を以てせば、若し異端を省去せば當に精妙ならん。上書して事を陳するは戰國より起り、兩漢に至りて風流更に廣し。其の體度を推原すれば、人主の長短を攻むるは諫諍の徒、群臣の得失を揭ぐるは訟訴の類、國家の利害を陳するは對底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたの伍、私情を帶びたる與奪は游説の儔なり。此の四途を總ぶれば、誠を賣りて以て位を求め、言を鬻ぎて以て祿を求む。或いは絲毫の益無くして省察せられざるの困窘有り。幸いに人主を感悟し時に納めらるるや、初めは計量すべからざるの賞を獲て、終に不測の誅に陷る。則ち嚴助・朱買臣・吾丘壽王・主父偃の類多し。良史の寫す所は蓋し其の狂狷一介・政の得失を論ずるを取るのみ。士君子の法度を守る者の爲す所にあらず。今世の見る所の懷瑾握瑜の人は皆此を爲すを恥づ。門を守り闕に詣りて書を獻じ計を言うは大多空薄にして高く自ら矜夸し、經略の大體無し。皆糠秕の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた事、十條の中一條采るに足らず。假令時務に合するも亦すでに先覺の漏る所、知らざるにあらず、ただ知りて行わざるを患う。或いは奸私を揭發せられ面當に酬證せられ、事途曲折して反りて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた尤を懼る。人主は外に對して聲敎を維護し、偶や含養を加う。此れ乃ち僥倖の徒、與に比肩するに足らず。諫諍の徒は以て人君の失を正すなり。必ず言を得る之地に在りて、當に匡贊の規矩を盡くし、苟免偷安・垂頭塞耳を容れず。養に就くに方有り思は位に出でざるに至りては、自らの職任にあらざるを干預すれば則ち罪人なり。故に《表記》に曰く、君に事うるに、距離遠くして諫すれば即ち諂い、近くして諫せざれば即ち尸位にして利を取る、と。《論語》に曰く、未だ信せられざるに諫すれば人以て己を謗ると爲す、と。君子は當に道を守り德を崇め、聲價を蓄積して時機を待つべし。爵祿登らずは誠に天命に由る。須らく奔走競爭して羞慚を顧みず、材能を比較し功伐を斟量し、色を厲め底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた聲、東に怨み西に怒るを求むる勿れ。或いは宰相の瑕疵を挾持して酬謝を獲る者有り、或いは喧嘩聒噪して時人の視聽に發遣せられんことを求むる者有り。此に靠りて官を得て才力と稱す。盗みて食いて飽を致し竊みて衣て暖を取ると何の兩樣有らん。世人躁競して官を得るを見れば、便ち以て索取せざれば豈に獲らんと爲す。時運の來れば求めずとも亦至るを知らず。靜退して未だ遇はざるを見れば、便ち以て爲さざれば豈に成らんと爲す。風雲給せざれば徒らに求むも益無きを知らず。およそ求めずして自ら得、求めて得ざるは何ぞ數へ盡くさん。齊の季世、多く財貨を以て外家に託附し、女謁を喧動して以て守宰を拜す

印組光華車騎輝赫榮兼九族取貴一時而為執政所患隨而伺察旣以得利必以利治微染風塵便乖肅正坑穽殊深瘡痏未復縱得免死莫不破家然後噬臍亦復何及吾自南及北未嘗一言與時人論身分也不能通達亦無尤焉王子晉雲佐饔得嘗佐鬭得傷此言為善則預為惡則去不欲黨人非義之事也凢損於物皆無與焉然而窮鳥入懷仁人所憫況死士歸我當棄之乎伍員之託漁舟季布之入廣柳孔融之藏張儉孫髙之匿趙岐前代之所貴而吾之所行也以此得辠甘心瞑目至如郭解之代人報讎灌夫之橫怒求地遊俠之徒非君子之所為也如有逆亂之行得辠於君親者又不足防焉親友之迫危難也家財巳力當無所吝若橫生圖計無理請謁非吾教也墨翟之徒世謂熱腹楊朱之侶世謂冷腸腸不可冷腹不可熱當以仁義為節文爾前在修文令曹有山東學士與闗中太史競厯凢十餘人紛紜累嵗內史牒付議官平之吾執論曰大抵諸儒所爭四分並減分兩家爾厯象之要可以晷景測之今驗其分至薄蝕則四分防而減分宻防者則稱政令有寛猛運行致盈縮非算之失也宻者則雲日月有遲速以術求之預知其度無災祥也用防則藏奸而不信用宻則任數而違經且議官所知不能精於訟者以淺裁深安有肯服既非格令所司幸勿當也舉曹貴賤鹹以為然有一禮官恥為此議苦欲留連強加考核機杼既薄無以測量還復採訪訟人窺望長短朝夕聚議寒暑煩勞背春涉冬竟無與奪怨誚滋生然而退終為內史所迫此好名好事之辱也

印綬は光華あり、車騎は輝赫たり。榮は九族に及び、貴を取ること一時なり。而して執政に患えられ、隨りて伺察せらる。すでに利を得れば、必ず利に因りて治められ、稍微風塵に沾染すれば便ち肅正に乖離す。坑阱甚だ深く瘡痏未だ復せず。假令死を免るるも破家せざる莫し。然る後臍を噬むも又豈に及ばんや。我南より北に至るまで、未だ嘗て一言も時人と身分を論ぜず。通達する能わずと雖も亦怨尤無し。王子晉に曰く、饔を佐ければ嘗を得、鬪を佐ければ傷を得、と。此れは善を爲せば參預し惡を爲せば離去るを説く。不義の事に黨を結ばんと欲せず。およそ物に損有るは皆參與する勿れ。然れども窮鳥の懷裡に投ずるは仁人の憫む所、況んや死士の我に歸するを、當に拋棄すべけんや。伍員は身を漁舟に託し、季布は廣柳車に藏入し、孔融は張儉を藏匿し、孫嵩は趙岐を藏匿す。是れ前代の貴ぶ所、亦我の行う所なり。此に因りて罪を得るとも我甘心して瞑目せん。郭解の人の爲に仇を報じ灌夫の横怒して地を求むるに至りては、游俠の徒、君子の爲す所にあらず。若し逆亂の行有りて君親に罪を得る者は、又底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに足らず。親友危難に迫られば、家財己力當に吝惜する所無かるべし。若し横に圖計を生じ無理の請謁あれば、我が敎導にあらず。墨翟の徒は世に熱腹と稱し、楊朱の侶は世に冷腸と稱す。腸は冷すべからず腹は熱すべからず。當に仁義を以て節度と爲すべし。昔修文令曹に在りて、山東の學士と關中の太史と曆法を爭論する有りて、共に十餘人、紛紜として數年、內史文を發して議官に交付して平議せしむ。我論を執りて曰く、大抵諸儒の爭う所は、四分曆と減分曆の兩家に過ぎず。曆象の要領は日影を以て測るべし。如今分至薄蝕を驗證すれば、則ち四分は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたにして減分は密に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたす。疏なるは則ち政令に寬猛有り運行に盈縮を致すと稱し、計算の失誤にあらずと爲す。密なるは則ち日月に遲速有りて術を用いて推求し其の度を預知し、災祥無しと曰う。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを用いれば則ち奸を藏して信用せず、密を用いれば則ち數を任じて經に違う。況んや議官の知る所は訟者より精なる能わず。淺を以て深を裁す、豈に服する肯んや。すでに格令の司る所にあらざれば、當に擔當する勿れと望む。擧曹貴賤皆然りと爲す。一禮官有りて此の議論を恥づとし、苦苦として留連し强加考覈せんと欲し、機杼すでに薄く測量するに從う無く、還って再び訟人を採訪し長短を窺望して、朝夕聚議し寒暑煩勞し、春を背き冬に涉るも、竟に裁斷無し。怨誚滋生して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた然として退下し、終に內史に迫られり。此れ名を好み事を好むの恥なり。

止足篇第十三

止足篇第十三

禮雲欲不可縱志不可滿宇宙可臻其極情性不知其窮唯在少欲知止為立涯限爾先祖靖侯戒子侄曰汝家書生門戸世無冨貴自今仕宦不可過二千石婚姻勿貪勢家吾終身服膺以為名言也天地鬼神之道皆惡滿盈謙虛沖損可以免害人生衣取以覆寒露食取以塞飢乏爾形骸之內尚不得奢靡巳身之外而欲窮驕泰耶周穆王秦始皇漢武帝冨有四海貴為天子不知紀極猶自敗累況士庶乎常以為二十口家奴婢盛多不可出二十人良田十頃堂室才蔽風雨車馬僅代杖策蓄財數萬以擬吉防急速不啻此者以義散之不至此者勿非道求之仕宦稱泰不過處在中品前望五十人後顧五十人足以免恥辱無傾危也髙此者便當罷謝偃仰私庭吾近為黃門郎已可收退當時羇旅懼罹謗讟思為此計僅未暇爾自喪亂已來見因托風雲徼倖冨貴旦執機權夜隕坑谷朔歡卓鄭晦泣顔原者非十人五人也慎之哉慎之哉

《禮記》に曰く、欲は縱にすべからず、志は滿ちすべからず。宇宙は極に至るべきも、情性は窮を知らず。ただ少欲して止るを知り、己に界限を立つるのみ。先祖靖侯は子侄に戒めて曰く、「汝が家は書生の門戸、世代富貴無し。今より後仕宦は二千石に過ぎる勿れ、婚姻は勢家を貪る勿れ」と。我終身膺に服して、以て名言と爲す。天地鬼神の道は皆滿盈を惡み、謙虚冲損は以て害を免るべし。人生は衣服は以て寒露を覆い、飮食は以て飢乏を填塞するを取るのみ。形骸の内ですら尚お奢靡を得ざるに、己身の外に又驕泰を窮めんと欲せんや。周穆王・秦始皇・漢武帝は四海に富み天子に貴しといえども、紀極を知らず、尚お自ら敗累す。況んや士庶をや。我常に以て二十口の人家は、奴婢は多くとも二十人に超えず、良田十頃、堂室纔かに風雨を遮蔽するに足り、車馬僅かに杖歩に代え、財數萬を蓄えて以て吉底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた急事に備う。此に過ぎるは義を按じて散じ、此に及ばざるは非道を以て求むる勿れ。仕宦は安泰と稱するに、中品に處るに過ぎず。前に望めば五十人、後に顧れば五十人。以て恥辱を免れ傾危無きに足る。此より高ければ便ち當に罷謝し、私庭に偃仰すべし。我近來黃門郎と爲る。すでに以て收退すべきも、當時羈旅にして誘議を招くを怕る。此の如くせんと欲するもただ未だ閑暇無し。喪亂以來、風雲に借りて僥倖して富貴し、朝に機權を執り夜に坑谷に墜ち、朔日は卓氏程鄭と同じく歡び、晦日は顏淵原憲と同じく泣く者を見るに、十人五人のみならず。愼め愼め。

誡兵篇第十四

誡兵篇第十四

顔氏之先本乎鄒魯或分入齊世以儒雅為業徧在書記仲尼門徒升堂者七十有二顔氏居八人焉秦漢魏晉下逮齊梁未有用兵以取達者春秋之世顔髙顔鳴顔羽之徒皆一鬭夫爾齊有顔涿聚趙有顔防【或作聚】漢末有顔良宋有顔延之並處將軍之任竟以顛覆漢郎顔泗自稱好武更無事蹟顔忠以黨楚王受誅顔俊以據威見殺得姓已來無清操者唯此二人皆罹禍敗頃世亂離衣冠之士雖無身手或聚徒眾違棄素業徼倖戰功吾既羸薄仰惟前代故寘心於此子孫志之孔子力翹門闗不以力聞此聖證也吾見今世士大夫才有氣幹便倚頼之不能被甲執兵以衛社稷但微行險服逞弄拳腕大則陷危亡小則貽恥辱遂無免者國之興亡兵之勝敗博學所至幸討論之入帷幄之中參廟堂之上不能為主畫規以謀社稷君子所恥也然而每見文士頗讀兵書微有經畧若承平之世睥睨宮閫幸災樂禍首為逆亂詿誤善良如在兵革之時構扇反覆縱橫說誘不識存亡強相扶戴此皆陷身滅族之本也誡之哉誡之哉習五兵便乘騎上可稱武夫爾今世士大夫但不讀書即稱武夫兒乃飯囊酒甕也

顔氏の先人は本鄒魯に本づき、或いは分れて齊に入る。世代儒雅を以て業と爲し、書記に遍く見ゆ。仲尼の門徒堂に升る者七十二人、顔氏其の八を占む。秦漢魏晉より齊梁に下るまで、兵を用いて以て顯達を取る者無し。春秋の世の顔高・顔鳴・顔羽の徒は、皆一介の鬪夫に過ぎず。齊に顔涿聚有り、趙に顔底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた【或いは聚と作る】有り、漢末に顔良有り、宋に顔延之有り。皆將軍の任に處りて、竟に此に因りて顛覆す。漢郎顔泗は自ら武を好むと稱すも更に事迹無し。顔忠は楚王に黨附して誅を受く。顔俊は占據に因りて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた威殺せらる。姓を得て以來清操無きはただ此の兩人有りて、皆禍敗に遭う。近世亂離にして衣冠の士身手無しと雖も、或いは徒衆を聚集し、素業を違棄して戰功を僥倖す。我すでに羸弱單薄、前代を仰思すれば、故に心を此の事に放たず。子孫記えよ。孔子は力門關を擧ぐる能くすれども、力を以て聞えず。此れ聖人の證明なり。我今世の士大夫纔かに氣力有れば便ち之に倚賴するを見るに、甲を被り兵を執りて社稷を保衛する能わず、ただ微行險服して拳腕を逞弄するのみ。大なるは危亡に陷り、小なるは恥辱を留下し、終に幸免無し。國の興亡・兵の勝敗は博學の至るべき所なり。之を討論せんことを望む。帷幄の中に入り廟堂の上に參するに、主上の爲に籌劃して以て社稷を謀る能わざれば、是れ君子の恥づる所なり。然れども每に文士の兵書を讀み經略を略有するを見れば、若し承平の世に在らば便ち宮閫を睥睨して災に幸い禍を樂しみ、逆亂を唱導し善良を詿誤す。若し兵革の時に在らば便ち構扇反覆・縱横說誘して、存亡を識らず强りて相扶戴す。此らは皆身を陷れ族を滅すの根本なり。戒めよ戒めよ。五兵を熟習し乘騎に便くば、纔かに武夫と稱すべし。今世の士大夫は但だ書を讀まざれば即ち武夫兒と稱す。是れ飯囊酒瓮なり。

養生篇第十五

養生篇第十五

神仙之事未可全誣但性命在天或難種植人生居世觸途牽縶防少之日既有供養之勤成立之年便増妻孥之累衣食資須公私勞役而望遁跡山林超然塵滓千萬不過一爾加以金玉之費鑪器所須益非貧士所辦學如牛毛成如麟角華山之下白骨如莾何有可遂之理考之內教縱使得仙終當有死不能出世不願汝曹専精於此若其愛養神明調防氣息慎節起臥均適寒暄禁忌食飲將餌藥物遂其所稟不為夭折者吾無間然諸藥餌法不廢世務也庾肩吾常服槐實年七十餘目看細字鬚髮猶墨鄴中朝士有單服杏仁枸杞黃精木車前得益者甚多不能一一說爾吾嘗患齒揺動欲落飲食熱冷皆苦疼痛見抱朴子牢齒之法早朝叩齒三百下為良行之數日即平愈今恆持之此輩小術無損於事亦可修也凢欲餌藥陶隠居太清方中總録甚備但須精審不可輕服近有王愛州在鄴學服松脂不得節度腸塞而死為藥所誤者甚多夫養生先須慮禍全身保性有此生然後養之勿徒養其無生也單豹飬於內而喪外張毅飬於外而喪內前賢所戒也嵇康著飬生之論而以傲物受刑石崇冀服餌之徵而以貪溺取禍往世之所述也夫生不可不惜不可茍惜涉險畏之途幹禍難之事貪慾以傷生讒慝而致死此君子之所惜哉行誠孝而見賊履仁義而得罪喪身以全家泯軀而濟國君子不咎也自亂離已來吾見名臣賢士臨難求生終為不救徒取窘辱令人憤懣矦景之亂王公將相多被戮辱妃主姬妾畧無全者唯吳郡太守張嵊建義不捷為賊所害辭色不撓及鄱陽王世子謝夫人登屋詬怒見射而斃夫人謝遵女也何賢知操行若此之難婢妾引決若此之易悲夫

神仙の事は未だ全部虚僞と斥づべからず。但だ性命は天に在りて、或いは種植し難し。人生在世りて處處牽絆有り。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた少の日はすでに供養の勤勞有り、成立の年は便ち妻孥の累贅を増す。衣食資需・公私勞役にして、遁迹山林・超然塵滓を指望するは、千萬里一人に過ぎず。加うるに金玉の費用・爐器の所需は、更に貧士の辦る能う所にあらず。學ぶ者は牛毛の如く成る者は麟角の如く、華山の下白骨莽の如し。豈に遂ぐべきの理有らんや。内教に考うるに、縱ひ仙を得るとも終に當に死有るべく、世に出づる能わず。汝ら此に專精せんことを願わず。若し神明を愛養し氣息を調底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたし、起臥を慎節し寒暖を均適し、飮食を禁忌し藥物を服用して、自ら稟賦する所を成就して夭折に至らざれば、我即ち閑話無し。諸の藥餌の法は世務を廢せず。庾肩吾は常に槐實を服して年七十餘にして尚お細字を看る能く、須髮還お黑し。鄴中の朝士に單に杏仁・枸杞・黃精・術・車前を服して益を得る者多し。一一に説く能わず。我嘗て齒搖動して落ちんとする患に遇い、飮食冷熱皆疼痛に苦しむ。《抱朴子》の牢齒の法を見るに、早朝齒を三百下叩くを好しとす。實行數日にして即ち平愈し、如今常に堅持す。此の類の小術は事に損無く、亦修むべし。およそ藥を服せんと欲すれば、陶隱居《太清方》の中に總錄甚だ完備す。但だ精審を須い、輕服すべからず。近來王愛州有りて鄴に在りて松脂を服することを學びて、節度する能わず腸塞して死す。藥に誤られる者多し。養生は先に禍を慮り身を全うし性を保ち、此の生有りて然る後養うべし。徒らに彼の無生を養いに行く勿れ。單豹は内に養いと雖も外に喪い、張毅は外に養いと雖も内に喪う。是れ前賢の戒む所なり。嵇康は養生の論を著すも傲物に因りて刑を受け、石崇は服餌の應驗を指望すも貪溺に因りて禍を取る。是れ往世の述ぶる所なり。生は惜しまざるべからず、亦苟惜すべからず。險畏の路を走り禍難の事を干し、貪欲に因りて生を傷り讒慝に因りて死を致すは、此れ君子の惜しむ所なり。誠孝を行いて賊に害せられ、仁義を履みて罪を得るに、身を喪いて以て家を保全し軀を捐てて以て國を濟うは、君子咎責せず。亂離以來、我名臣賢士の難に臨みて生を求め、終に救われず、徒らに窘辱を取るを見るに、人をして憤懣せしむ。侯景の亂に、王公將相多く戮辱せられ、妃主姬妾幾に保全する無し。ただ吳郡太守張嵊が義を起して捷たずして賊に害せられるも辭色橈れず、及び鄱陽王世子の謝夫人が屋に登りて詬罵して射られて死せるのみ。夫人は謝遵の女なり。何を以て賢知の操行は此の如く難く、婢妾の引決は此の如く易きや。悲しむべきかな。

歸心篇第十六

歸心篇第十六

三世之事信而有徵家業歸心勿輕慢也其間妙音具諸經論不復於此少能贊述但懼汝曹猶未牢固略重勸誘爾原夫四塵五廕剖析形有六舟三駕運載群生萬行歸空千門入善辯才智惠豈徒七經百氏之博哉明非堯舜周孔所及也內外兩教本為一體漸極為異深淺不同內典初門設五種禁外典仁義禮智信皆與之符仁者不殺之禁也義者不盜之禁也禮者不邪之禁也智者不淫之禁也信者不妄之禁也至如畋狩軍旅燕享刑罰固民之性不可卒除就為之節使不淫濫爾歸周孔而背釋宗何其迷也俗之謗者大抵有五其一以世界外事及神化無方為迃誕也其二以吉防禍福或未報應為欺誑也其三以僧尼行業多不精純為奸慝也其四以靡費金寳減耗課役為損國也其五以縱有因縁如報善惡安能辛苦今日之甲利後世之乙乎為異人也今並釋之於下雲釋一曰夫遙大之物寧可度量今人所知莫若天地天為積氣地為積塊日為陽精月為隂精星為萬物之精儒家所安也星有墜落乃為石矣精若是石不得有光性又質重何所繫屬一星之徑大者百里一宿首尾相去數萬百里之物數萬相連闊狹從斜常不盈縮又星與日月形色同爾但以大小為其等差然而日月又當石也石既牢宻烏兔焉容石在氣中豈能獨運日月星辰若皆是氣氣體輕浮當與天合往來環轉不得錯違其間遲疾理宜一等何故日月五星二十八宿各有度數移動不均寧當氣墜忽變為石地既滓濁法應沈厚鑿土得泉乃浮水上積水之下復何有物江河百穀從何處生東流到海何為不溢歸塘尾閭渫何所到沃焦之石何氣所然潮汐去還誰所節度天漢懸指郍不散落水性就下何故上騰天地初開便有星宿九州未劃列國未分翦疆區野若為躔次封建已來誰所制割國有增減星無進退災祥禍福就中不差乾象之大列星之夥何為分野止系中國昴為旄頭匈奴之次西羌東越雕題交阯獨棄之乎以此而求迄無了者豈得以人事尋常抑必宇宙外也凡人之信唯耳與目耳目之外鹹致疑焉儒家說天自有數義或渾或葢乍宣乍安斗極所周管維所屬若所親見不容不同若所測量寧足依據何故信凡人之臆說迷大聖之玅防而欲必無恆沙世界微塵數刼也而鄒衍亦有九州之談山中人不信有魚大如木海上人不信有木大如魚漢不信膠魏文不信火布北人見錦不信有蟲食樹吐絲所成昔在江南不信有千人氊帳及來河北不信有二萬斛船皆實驗也世有祝師及諸幻術猶能履火蹈刃種瓜移井倐忽之間十變五化人力所為尚能如此何況神通感應不可思量千里寳幢百由旬座化成淨土踴出玅塔乎釋二曰夫信謗之徵有如影響耳聞眼見其事已多或乃精誠不深業縁未感時儻差闌終當獲報耳善惡之行禍福所歸九流百氏皆同此論豈獨釋典為虛妄乎項槖顔囘之短折原憲伯夷之凍餒盜跖莊蹻之福壽齊景桓魋之冨強若引之先業冀以後生更為通耳如以行善而偶鍾禍報為惡而儻值福徵便可怨尤即為欺詭則亦堯舜之雲虛周孔之不實也又欲安所依信而立身乎釋三曰開闢已來不善人多而善人少何由悉責其

三世の事は信にして徵有り。家業歸心せよ、輕慢する勿れ。其の中の妙旨は皆經論の裡に在りて、更に此處に贊述を作さず。ただ汝らの未だ牢固ならざるを怕るのみ。略して再び勸誘す。四塵五陰を推原して形有を剖析し、六舟三駕は群生を運載し、萬行空に歸し千門善に入る。辯才智慧は豈に七經百氏の廣博のみならんや。顯然として堯舜周孔の及ぶ能う所にあらず。内外兩教は本來一體にして、漸教と極教と異有り、深淺同じからず。内典の初門は五種の禁を設け、外典の仁・義・禮・智・信は皆之と相符す。仁は不殺の禁、義は不盗の禁、禮は不邪の禁、智は不淫の禁、信は不妄の禁なり。畋獵軍旅・宴享刑罰に至りては、民の性に本づきて猝除すべからず。便ち其の爲に節度を設けて淫濫せざらしむのみ。周孔に歸向して釋宗を背棄するは、何ぞ迷惑なるや。俗人の謗議大抵五有り。其の一、世界外の事及び神化無方を以て迂誕と爲す。其の二、吉底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた禍福或いは未だ報應せざるを以て欺誑と爲す。其の三、僧尼の行業多く精純ならざるを以て奸慝と爲す。其の四、金寶を靡費し課役を減耗するを以て國を損すと爲す。其の五、縱ひ因緣有りて善惡に報ずる如くも、何ぞ能く今日の甲を辛苦して後世の乙を利せん。是れ人を以て他の一人と爲すなり。如今並べて下に解釋す。其の一を解釋す。遥遠廣大の物は豈に量度せんや。今人の知る所は天地より大なる無き莫し。天は積氣、地は積塊、日は陽精、月は陰精、星は萬物の精、儒家の安んずる所なり。星墜落有れば便ち石と成る。精若し石ならば光有るべからず。質又重し、何處に係るや。一星の直徑大なるは百里、一宿の首尾相去ること數萬、百里の物數萬相連りて、闊狹斜正常に盈せず縮まず。又星と日月と形色相同じく、ただ大小を以て等第を分つ。然らば則ち日月も亦石なるべし。石すでに牢密なれば烏兔豈に身を容れんや。石氣の中に在りて豈に獨り運せんや。日月星辰若し皆氣ならば、氣體輕浮して天と合すべく、往來環轉して錯違を得ず。其の間の遲疾は理應一等なるべし。何を以て日月五星二十八宿各々度數有りて移動均ならざるや。豈に氣墜ちて忽然として石と變成するや。地すでに滓濁なれば理を按ずれば當に沉厚なるべし。土を鑿りて泉を得るは乃ち水上に浮かぶなり。積水の下は又何物有るや。江河百谷は何處より生ずるや。東流して海に入りて何を以て溢れざるや。歸塘尾閭は何處に泄るや。沃焦の石は何の氣の燃ゆる所や。潮汐の去還は誰の節度や。天漢懸れて何を以て散落せざるや。水性下に就く、何を以て上騰するや。天地初めて開けば便ち星宿有り、九州未だ劃せず列國未だ分たれざるに、疆野は如何にして躔次を定めんや。封建以來は誰か制割せしや。國に增減有りて星に進退無く、災祥禍福其の中に在りて差わず。乾象の大・列星の多きは、何を以て分野ただ中國に係るや。昴を旄頭と爲すは匈奴の次なり。西羌東越・雕題交趾は獨り拋棄せんや。此を按じて以て求むれば、今に至るまで了結無し。豈に人事の尋常を以て宇宙の外を限定せんや。凡人の信はただ耳と目のみ。耳目の外は皆疑を致す。儒家は天自ら數義有りと曰い、或いは渾天或いは蓋天、乍ち宣夜乍ち安天。斗極の周る所・管維の屬する所は、若し親見ならば同じからざるを容れず、若し測量ならば豈に依據に足らんや。何を以て凡人の臆説を信じ大聖の玅底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを迷い、而して斷じて必ず恒沙世界・微塵數劫無しと言わんや。而して鄒衍も亦九州の談有り。山中の人は魚の樹の如く大なる有るを信ぜず、海上の人は樹の魚の如く大なる有るを信ぜず。漢底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたは底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた膠を信ぜず、魏文は火浣布を信ぜず、北人は錦を見て蟲の樹を食いて絲を吐きて成る所の有るを信ぜず。昔江南に在りて千人の氈帳有るを信ぜず、河北に來るに及びて二萬斛の船有るを信ぜず。皆實驗なり。世上に咒師及び諸の幻術有りて、尚お火を履み刃を蹈み、瓜を種え井を移す能く、倏忽の間十變五化す。人力の爲す所尚お能く此の如し。況んや神通感應の思議すべからざる、千里の寶幢・百由旬の座・化成の淨土・踊出の妙塔をや。其の二を解釋す。信と謗の徵驗は影響の如く有りて、耳聞眼見其の事すでに多し。或いは精誠深からず業緣未だ感ぜざるは、時或いは差池するも終に當に報を獲るべし。善惡の行は禍福の歸する所、九流百氏皆此の論に同じ。豈に獨り釋典を虚僞と爲さんや。項橐・顏回の短折、原憲・伯夷の凍餒、盗跖・莊蹻の福壽、齊景・桓魋の富强、若し先業に引き後生に期せば、更に通ず。若し善を行いて偶か禍報に逢い惡を爲して儻か福徵に遇うに因りて、便ち以て怨尤し便ち以て欺詭と爲さば、則ち堯舜も亦虚と成り周孔も亦實ならず。又將に何を依信して以て身を立てんや。其の三を解釋す。天を開き地を辟いて以來不善の人多くして善人は少なし。豈に能く皆其のを苛責せんや

精潔乎見有名僧髙行棄而不說若覩凡僧流俗便生非毀且學者之不勤豈教者之為過俗僧之學經律何異士人之學詩禮以詩禮之教格朝廷之人略無全行者以經律之禁格出家之輩而獨責無犯哉且闕行之臣猶求祿位毀禁之侶何慙供養乎其於戒行自當有犯一披法服已墮僧數嵗中所計齋講誦持比諸白衣猶不啻山海也釋四曰內教多途出家自是其一法耳若能誠孝在心仁惠為本須達流水不必剃落鬚髮豈今罄井田而起塔廟窮編戸以為僧尼也皆由為政不能節之遂使非法之寺妨民稼穡無業之僧空國賦算非大覺之本防也抑又論之求道者身計也惜費者國謀也身計國謀不可兩遂誠臣狥主而棄親孝子安家而忘國各有行也儒有不屈王侯髙尚其事隠有讓王辭相避世山林安可計其賦役以為罪人若能偕化黔首悉入道塲如妙樂之世穰佉之國則有自然稻米無盡寳藏安求田蠶之利乎釋五曰形體雖死精神猶存人生在世望於後身佀不相屬及其歿後則與前身侶猶老少朝夕耳世有魂神示現夣想或降童妾或感妻孥求索飲食徵湏福祐亦為不少矣今人貧賤疾苦莫不怨尤前世不修功業以此而論安可不為之作地乎夫有子孫自是天地間一蒼生耳何預身事而乃愛護遺其基址況於己之神爽頓欲棄之哉凢夫蔽不見未來故言彼生與今非一體耳若有天眼鑑其念念隨滅生生不斷豈可不怖畏耶又君子處世貴能克已復禮濟時益物治家者欲一家之慶治國者欲一國之良僕妾臣民與身竟何親也而為勤苦修德乎亦是堯舜周孔虛失愉樂耳一人修道濟度幾許蒼生免脫幾身罪累幸熟思之汝曹若觀俗計樹立門戸不棄妻子未能出家但當兼修戒行留心誦讀以為來世津梁人身難得勿虛過也儒家君子尚離庖廚見其生不忍其死聞其聲不食其肉髙柴折像未知內教皆能不殺此乃仁者自然用心含生之徒莫不愛命去殺之事必勉行之好殺之人臨死報驗子孫殃禍其數甚多不能悉録耳且示數條於末梁世有人常以雞卵白和沐雲使發光每沐輒破二三十枚臨死發中但聞啾啾數千雞雛聲江陵劉氏以賣鱓為業後生一兒頭是鱓自頸以下方為人耳王克為永嘉郡守有人餉羊集賓欲防而羊繩解來投一客先跪兩拜便入衣中此客竟不言之固無救請須臾宰羊為炙先行至客一臠入口便下皮內周行遍體痛楚號呌方復說之遂作羊鳴而死梁孝元在江州時有人為望蔡縣令經劉敬躬亂縣廨被焚寄寺而住民將牛酒作禮縣令以牛系剎柱屏除形像鋪設床坐於堂上接賓未殺之頃牛解徑來至階而拜縣令大笑命左右宰之飲噉醉飽便臥簷下稍醒而覺體癢爬搔隠疹因爾成癩十許年死楊思達為西陽郡守值侯景亂時復旱儉饑民盜田中麥思達遣一部曲守視所得盜者輒截手腕凢戮十餘人部曲後生一男自然無手齊有一奉朝請家甚豪侈非手殺牛噉之不美年三十許病篤大見牛來舉體如被刀刺呌呼而終江陵髙偉隨吾入齊凢數年何幽州澱中捕魚後病每見群魚齧之而死世有痴人不識仁義不知富貴並由天命為子娶婦恨其生資不足倚作舅姑之尊虵虺其性毒口加誣不識忌諱罵辱婦之父母卻雲教以婦道不孝己身不顧他恨怛憐己之子女不愛己之兒婦如此之人隂紀其過鬼奪其算慎不可與為鄰仍不可與為援宜逺之哉

精潔ならんや。名僧高行を見れば棄てて説かず、凡僧流俗を見れば便ち非毀を生ず。況んや學者の勤めざるは豈に教者の過ならんや。俗僧の經律を學ぶは士人の詩禮を學ぶと何の同じからざる有らん。詩禮の教を以て朝廷の人を格すれば幾に全行無し。經律の禁を以て出家の輩を格して、却って獨り其の犯無きを責めんや。況んや行を缺く臣は尚お祿位を求め、禁を毁る僧侶何ぞ供養を受くるに慚じんや。彼らの戒行に於て自ら犯有るべし。但だ一たび法服を披けばすでに僧の數に入り、一年の計う所の齋講誦持は白衣よりも山海に啻ならず。其の四を解釋す。内教多途にして出家自ら其の中の一法なり。若し能く誠孝心に在り仁惠を本と爲せば、須達・流水の如き人は必ずしも須髮を剃落せず。豈に如今井田を罄めて以て塔廟を起ち、編戶を窮めて以て僧尼と爲さんことを要せんや。皆爲政の節制する能わざるに因りて、纔かに非法の寺に民の稼穡を妨げ、無業の僧に國の賦算を空うせしむ。大覺の本底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたにあらず。更に一層を論ず。道を求むるは身の計、費を惜しむは國の謀なり。身計國謀は兩遂ぐべからず。誠臣は主に殉じて親を棄て、孝子は家を安んじて國を忘る。各々其の行有り。儒に王侯に屈せず其の事を高尚とする者有り、隱に王を讓り相を辭して山林に世を避くる者有り。豈に其の賦役を計算して罪人と當てんや。若し能く黔首を偕化して悉く道場に入らしめば、妙樂の世・穰佉の國の如く、則ち自然の稻米・無盡の寶藏有らん。還って田蠶の利を求めんや。其の五を解釋す。形體は死すと雖も精神猶お存す。人生在世りて後身を望むに、似たること屬せざるが如し。歿後に及べば則ち前身と老少朝夕の比なり。世上に魂神の夢想に示現する有りて、或いは童妾に降り或いは妻孥に感じ、飮食を求索し福祐を徵須するも亦少なからず。今人貧賤疾苦して莫か前世の功業を修めざりしを怨尤せざるは無し。此を按じて以て論ずれば、豈に後身の爲に地步を作らざるを得んや。子孫有るは本來天地間の一蒼生、自身と何の相干有るや。而して尚お愛護して基址を遺下す。況んや自らの神爽を、豈に頓に拋棄せんや。凡夫底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた蔽われて未來を見ず。故に彼の生と今と一體にあらずと曰う。若し天眼の鑑照して念念滅に隨い生生斷えざる有らば、豈に怖畏せざるを得んや。又君子世に處するは能く己に克ち禮に復り時を濟い物に益するを貴ぶ。家を治むるは一家の慶を想い、國を治むるは一國の良を想う。僕妾臣民は自身と究竟何の親有るや。而して彼らの爲に勤苦して德を修む。是れも亦堯舜周孔が徒らに愉樂を失うと成るなり。一人道を修すれば、幾多の蒼生を濟度し幾身の罪累を免脱せん。熟思を望む。汝ら若し俗計を顧念し門戸を樹立し妻子を棄てず未だ出家する能わざれば、但だ當に兼ねて戒行を修め誦讀に心を留めて、以て來世の津梁と爲すべし。人身得難し。虚過する勿れ。儒家の君子尚お庖廚を遠ざけ、其の生を見て其の死を忍びず、其の聲を聞きて其の肉を食わず。高柴・折像は内教を知らざるも、皆能く殺さず。此れ乃ち仁者の自然の用心なり。含生の徒は莫か命を愛せざるは無し。殺を去るの事は必ず勉力して實行すべし。殺を好む者は死に臨みて報驗し子孫殃禍有り。其の數甚だ多くて錄し盡くす能わず。且つ數條を末に示す。梁世に人有りて常に雞蛋白を和して以て髮を沐し、能く髮を亮ならしむと曰い、沐する每に二三十枚を破る。死に臨みて髮の中ただ啾啾たる數千の雞雛の聲を聞く。江陵劉氏は鱔底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを賣るを以て業と爲す。後に一兒を生みて頭は鱔、頸以下纔かに人なり。王克永嘉郡守を爲るに、人の羊を餉る者有り。賓を集めて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたせんと欲すに、羊繩解けて來りて一個の客に投じ、先に跪きて兩拜すれば便ち衣中に鑽入る。此の客竟に言わず。固に救請無し。須臾羊を宰して炙と爲し、先に客の前に送るに、一塊口に入れば便ち皮内に下りて、周行遍體して痛楚號叫し、纔かに再び説き出す。於是に羊の鳴を作して死す。梁孝元江州に在る時、人の望蔡縣令を爲る者有りて、劉敬躬の亂を經て縣廨焚かれ、寺中に寄住す。民牛酒を拿りて禮を作るに、縣令牛を刹柱に繫ぎ、形像を屏除し、牀を鋪設して堂上に坐して賓を接す。未だ殺さざる前牛解けて、徑ちに階下に至りて拜す。縣令大笑して左右に宰せしめ、飮啖醉飽すれば便ち檐下に臥し、稍く醒めて體痒く爬搔隱疹を覺え、此に因りて癩と成り、十來年にして死去す。楊思達西陽郡守を爲るに、正に侯景の亂に値い又旱儉に逢う。飢民田中の麥を盗む。思達一部曲を遣りて守視せしめ、盗者を捉えれば便ち手腕を截ちて、共に十餘人を戮す。部曲後に一男を生みて自然に手無し。齊に一奉朝請有りて家甚だ豪侈、自ら牛を殺すにあらざれば喫して美と爲さず。年三十許り病重きに、大いに牛の來るを見て、全身刀に刺されたるが如く、叫呼して終る。江陵高偉我に隨いて齊に入り、數年の裡幽州の淀中に於て魚を捕る。後に病みて每に群魚の來りて咬むを見、因りて死去す。世上に癡人有りて仁義を識らず、富貴皆天命に由るを知らず。子の爲に婦を娶りて其の生資足らざるを恨み、舅姑の尊に倚仗して、其の性蛇蝎にして毒口誣を加え、忌諱を識らず、婦の父母を罵辱して、却って是れ婦道を以て教うと曰い、己身を孝せず他の恨を顧みず、ただ自らの子女を憐れみて自らの兒婦を愛せず。此の如き人は陰間其の過を記し鬼其の壽を奪う。千萬も與に鄰と爲るべからず、亦與に援と爲るべからず。當に遠離すべし。

書證篇第十七

書證篇第十七

詩云叅差荇菜爾雅雲荇菨餘也字或為莕先儒解釋皆雲水草圓葉細莖隨水淺深今是水悉有之黃花似蓴江南俗亦呼為豬蓴或呼為荇菜劉芳具有註釋而河北俗人多不識之博士皆以參差者是莧菜呼人莧為人荇亦可笑之甚詩云誰謂荼苦爾雅毛傳並以荼苦菜也又禮雲苦菜秀案易統通卦驗圖曰苦菜生於寒秋更冬厯春得夏乃成今中原苦菜則如此也一名遊冬葉似苦苣而細摘斷有白汁花黃似菊江南別有苦菜葉似酸漿其花或紫或白子大如珠熟時或赤或黒此菜可以釋勞案郭璞注爾雅此乃黃蒢也今河北謂之龍葵梁世講禮者以此當苦菜既無宿根至春子方生耳亦大誤也又髙誘注呂氏春秋曰榮而不實曰英苦菜當言英益知非龍葵也詩云有杕之杜江南本並木傍施大傳曰杕獨貌也徐仙民音徒計反說文曰杕樹貌也在木部韻集音次第之第而河北本皆為夷狄之狄讀亦如字此大誤也詩云駉駉牡馬江南書皆作牝牡之牡河北本悉為放牧之牧鄴下博士見難雲駉頌既美僖公牧於坰野之事何限騲騭乎餘荅曰案毛傳云駉駉良馬腹乾肥張也其下又云諸侯六閒四種有良馬戎馬田馬駑馬若作放牧之意通於牝牡則不容限在良馬獨得駉駉之稱良馬天子以駕玉輅諸侯以充朝聘郊祀必無騲也周禮圉人職良馬匹一人駑馬麗一人圉人所養亦非騲也頌人舉其強駿者言之於義為得也易雲良馬逐逐左傳云以其良馬二亦精駿之稱非通語也今以詩傳良馬通於牧騲恐失毛生之意且不見劉芳義證乎月令雲荔挺出鄭注云荔挺馬薤也說文雲荔似蒲而小根可為刷廣雅雲馬薤荔也通俗文亦云馬藺易統通卦驗圖雲荔挺不出則國多火災蔡邕月令章句雲荔似挺髙誘注呂氏春秋雲荔草挺出也然則月令注荔挺為草名誤矣河北平澤率生之江東頗有此物人或種於階庭但呼為早蒲故不識馬薤講禮者乃以為馬莧堪食亦名豚耳俗曰馬齒江南嘗有一僧面形上廣下狹劉緩防子民譽年始數嵗俊悟善體物見此僧雲面似馬莧其伯父劉縚因呼為荔挺法師縚親講禮名儒尚誤如此詩云將其來施施毛傳云施施難進之意鄭箋雲施施舒行貌也韓詩亦重為施施河北毛詩皆雲施施江南舊本悉單為施俗遂是之恐有少誤詩云有渰萋萋興雲祁祁毛傳云渰隂雲貌萋萋雲行貌祁祁徐貌也箋雲古者隂陽和風雨時其來祁祁然不暴疾也案渰已是隂云何勞復雲興雲祁祁耶雲當為雨俗冩誤耳班固靈臺詩云三光宣精五行布序習習祥風祁祁甘雨此其證也禮雲定猶豫決嫌疑離騷曰心猶豫而狐疑先儒未有釋書案屍子曰五尺犬為猶說文雲隴西謂犬子為猶吾以為人將犬行犬好豫在人前待人不得又來迎如此往還至於終日斯乃豫之所以為未定也故稱猶豫或以爾雅曰猶如麂善登木猶獸名也既聞人聲乃豫縁木如此上下故稱猶豫狐之為獸又多猜疑故聴河冰無流水聲然後渡今俗雲狐疑虎卜則其義也左傳曰齊侯痎遂痁說文雲痎二日一發之瘧痁有熱虐也案齊侯之病本是間日一發漸加重乎故為諸侯憂也今北方猶呼痎虐音皆在世間傳本多以痎為疥杜征南亦無解釋徐仙民音介俗儒就為通雲病疥令人惡寒變而成瘧此臆說也疥癬小疾何足可論寧有患疥轉作瘧乎尚書曰惟影響周禮雲土圭測影影朝影夕孟子曰圖影失形莊子云罔兩問影如此等字皆當為光景之景凢隂景者因光而生故即謂為景淮南子呼為景柱廣雅雲晷柱掛景並是也至晉世葛洪字苑傍始加彡【音杉】音於景反而世間輒改治尚書周禮莊孟從葛洪字甚為失矣太公六韜有天陳地陳人陳雲鳥之陳論語曰衛靈

《詩經》に「參差たる荇菜」と曰く。《爾雅》に荇は即ち菨余にして字或いは莕と作ると曰く。先儒の解釋は皆水草と曰いて、圓葉細莖にして水の淺深に隨う。如今およそ水有る所は皆有りて、黃花蓴に似たり。江南の俗も亦猪蓴と呼び或いは荇菜と呼ぶ。劉芳皆注釋有るも、河北の俗人多く識らず。博士皆參差を以て莧菜と當て、人莧を呼びて人荇と爲す。亦笑うべき甚だし。《詩經》に「誰か荼の苦しと謂わん」と曰く。《爾雅》《毛傳》皆以て荼を苦菜と爲す。《禮記》又「苦菜秀る」と曰く。《易緯通卦驗》底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた圖の説を按ずるに、苦菜は寒秋に生じ、冬を經春を歷て、夏を得て乃ち成る。如今中原の苦菜是の如く、一の名を游冬と曰い、葉は苦苣に似て細く、摘み斷れば白汁有り、花黃く菊に似たり。江南別に苦菜有りて、葉は酸漿に似て花或いは紫或いは白、子の大きさ珠の如く、熟する時或いは赤或いは黑、此の菜は以て乏を解すべし。郭璞の《爾雅》注を按ずるに、此れ乃ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた黃蒢、如今河北は龍葵と呼ぶ。梁世の禮を講ずる者は此を拿りて苦菜に當つ。すでに宿根無く春に至りて子纔かに生ず。亦大いに誤り。又高誘の《呂氏春秋》注に榮にして實ならざるを英と謂うと曰えば、苦菜は當に英と曰うべく、更に龍葵にあらざるを知る。《詩經》に「杕たる杜有り」と曰く。江南の本は皆木の旁に大を加う。《傳》に杕は獨の貌と曰い、徐仙民は徒計反に音す。《説文》に杕は樹の貌にして木部に在りと曰い、《韵集》は次第の第に音す。而して河北の本は皆夷狄の狄と寫り、讀みも亦字の如し。此れ是大なる誤り。《詩經》に「𬳶𬳶たる牡馬」と曰く。江南の書は皆牝牡の牡と作り、河北の本は全く放牧の牧と作す。鄴下の博士責難して曰く、《𬳶》の頌はすでに僖公の坰野に牧する事を美するなれば、何ぞ必ずしも騲騭に限らんや、と。我答えて曰く、《毛傳》に𬳶𬳶は良馬の腹幹肥張と曰うを按す。其の下又諸侯六閑四種、良馬・戎馬・田馬・駑馬有りと曰う。若し放牧の意と作して牝牡に通ずれば、則ち良馬に限りて獨り𬳶𬳶の稱を得べからず。良馬は天子以て玉輅を駕り、諸侯以て朝聘郊祀を充つ。必ず母馬無し。《周禮》の圉人の職に、良馬は匹に一人、駑馬は麗に一人なり。圉人の養う所も亦母馬にあらず。頌人は其の强駿なるを擧げて之を言う。義に於て得たり。《周易》に「良馬逐う」と曰い、《左傳》に「其の良馬二を以てす」と曰く。亦是れ精駿の稱、通語にあらず。如今詩傳の良馬を拿りて牧騲に通ぜんとすれば、恐らくは毛公の意を失わん。況んや劉芳の義證を見ざるや。《月令》に「荔挺出づ」と曰く。鄭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた注に荔挺は馬薤と曰う。《説文》に荔は蒲に似て小さく根は刷を作るべしと曰い、《廣雅》に馬薤は即ち荔と曰い、《通俗文》も亦馬蘭と曰い、《易緯通卦驗》底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた圖に荔挺出でざれば則ち國に火災多しと曰く。蔡邕《月令章句》に荔は挺に似たりと曰い、高誘の《呂氏春秋》注に荔草挺出すと曰く。然らば則ち《月令》注の荔挺を以て草名と爲すは錯れるなり。河北の平澤に大都生長し、江東頗る此の物有りて、人或いは階庭に種うるも、ただ早蒲と呼ぶ。故に馬薤を識らず。禮を講ずる者は竟に以て馬莧食うべしと爲し、亦名づけて豚耳、俗に馬齒と呼ぶ。江南嘗て一僧有りて面形上廣く下狹し。劉緩底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた子民譽は年纔かに數歲にして俊悟にして物を體するに善し。此の僧を見て「面は馬莧に似たり」と曰う。其の伯父劉縚便ち呼びて荔挺法師と爲す。縚は親ら禮を講ずる名儒にして、尚お誤ること此の如し。《詩經》に「將に來らんとして施施たり」と曰く。《毛傳》に施施は進み難きの意と曰い、鄭箋に施施は舒行の貌と曰い、《韓詩》も亦重疊して施施と爲す。河北の《毛詩》は皆施施と作り、江南の舊本は全く單に施と作す。俗便ち以て是と爲すも、恐らくは稍誤有らん。《詩經》に「渰たり萋萋として、雲を興すこと祁祁たり」と曰く。《毛傳》に渰は陰雲の貌、萋萋は雲行の貌、祁祁は徐の貌と曰く。箋に古は陰陽和し風雨時にして、其の來るや祁祁然として暴疾ならずと曰う。渰はすでに陰雲なれば、何ぞ必ずしも更に雲を興すこと祁祁と曰わんや。雲は當に雨と爲すべし。是れ俗寫して誤を致す。班固《靈臺詩》に「三光精を宣べ、五行序を布き、習習たる祥風、祁祁たる甘雨」と曰く。此れ即ち證據なり。《禮記》に猶豫を定め嫌疑を決すと曰い、《離騷》に「心猶豫として狐疑す」と曰く。先儒解釋無し。《尸子》に五尺の犬を猶と爲すと曰い、《説文》に隴西は犬子を稱して猶と爲すと曰うを按す。我以て人が犬を帶びて走れば、犬は人の前に豫め跑るを好み、人を待ちて及ばずして又迎う。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた此の如く往還して終日に至る。此れ即ち豫の未定と爲す所以、故に猶豫と稱す。或いは《爾雅》に猶は麂に似て木に登るに善しと曰うを按ずれば、猶は獸の名、すでに人聲を聞けば便ち豫め木に緣る。此の如く上下すれば故に猶豫と稱す。狐此の獸又猜疑多し。故に河冰に流水の聲無きを聽きて然る後渡る。今俗に狐疑・虎卜と曰うは即ち此の意なり。《左傳》に「齊侯痎し、遂に痁す」と曰く。《説文》に痎は二日に一發の瘧、痁は熱有る瘧と曰う。齊侯の病は本來間日に一發、漸々加重せしを按ずれば、故に諸侯の憂と成る。如今北方尚お痎瘧と呼び音は皆。世間の傳本は多く痎を疥と寫り、杜預も亦解釋無く、徐仙民は介に音す。俗儒便ち其の爲に通を説いて曰く、疥に病めば人をして惡寒せしめ、變じて瘧と成る、と。此れ臆説なり。疥癬の小疾は何ぞ論ずるに足らん。豈に疥を患い轉じて瘧と成る有らん。《尚書》に「惟れ影響」と曰い、《周禮》に土圭影を測り影朝影夕と曰い、《孟子》に「影を圖りて形を失う」と曰い、《莊子》に「罔兩影に問う」と曰く。此らの字は皆當に光景の景なるべし。およそ陰影は光に因りて生ず。故に就いて之を景と呼ぶ。《淮南子》は呼びて景柱と爲し、《廣雅》に晷柱景を挂くと曰う。皆是なり。晉世葛洪《字苑》に至りて纔かに旁に彡【音杉】を加え、音は于景反。而して世間動輒りて《尚書》《周禮》《莊子》《孟子》を改めて以て葛洪の字に從う。甚だ失誤なり。《太公六韜》に天陳・地陳・人陳・雲鳥の陳有り。《論語》に衛靈と曰く

公問陳於孔子左傳為魚麗之陳俗本多作阜傍車乘之車按諸陳字並作陳鄭之陳夫行陳之義取於陳列耳此六書為假借也蒼雅及近世字書皆無別字唯王羲之小學章獨阜傍作車縱復俗行不宜追改六韜論語左傳也詩云黃鳥于飛集於灌木傳云灌木叢木也此乃爾雅之文故李巡注曰木叢生曰灌爾雅末章又云木族生為灌族亦叢聚也所以江南詩古本皆為藂聚之藂而古叢字似防字近世儒生因改為防解雲木之防髙長者案眾家爾雅及解詩無言此者唯周續之毛詩注音為徂防反劉昌宗詩注音為在公反又祖防反皆為穿鑿失爾雅訓也也是語已及助句之辭文籍備有之矣河北經傳悉略此字其間字有不可得無者至如伯也執殳於族也語囘也屢空風風也教也及詩傳云不戢戢也不儺儺也不多多也如斯之類儻削此文頗成廢闕詩言青青子衿傳曰青衿青領也學子之服按古者斜領下連於衿故謂領為衿孫炎郭璞注爾雅曹大家注列女傳並雲衿交領也鄴下詩本既無也字群儒因謬說雲青衿青領是衣兩處之名皆以青為飾用釋青青二字其失大矣又有俗學聞經傳中時須也字輒以意加之每不得所益誠可笑易有蜀才注江南學士遂不知是何人王儉四部目録不言姓名題雲王弼後人謝炅夏侯該並讀數千卷書皆疑是譙周而李蜀書一名漢之書云姓範名長生自稱蜀才南方以晉渡江後北間傳記皆名為偽書不貴省讀故不見也禮王制雲臝股肱鄭注云謂防衣出其臂脛今書皆作擐甲之擐國子博士該雲擐當作防音宣擐是穿著之名非出臂之義案字林蕭讀是徐爰音患非也漢書田肯賀上江南本皆作宵字沛國劉顯博覽經籍偏精班漢梁代謂之漢聖顯子臻不墜家業讀班史呼為田肯梁元帝嘗問之荅曰此無義可求但臣家舊本以雌黃改宵字為肯元帝無以難之吾至江北見本為肯漢書王莾賛雲紫色蛙聲餘分閏位葢謂非黃之色不中律呂之音也近有學士名問甚髙遂雲王莾非直鳶髆虎視復紫色蛙聲亦為誤矣簡策字竹下施束【七賜反】末代書似杞宋之宋亦有竹下遂為夾者猶如刺字之傍應為束今亦作夾徐仙民春秋禮音遂以防為正字以策為音殊為顛倒史記又作悉字誤而為述作妬字誤而為姤徐鄒諸家皆以悉字音述妬字音姤既爾亦可以亥為豕字音以帝為虎字音乎張揖雲宓今伏羲氏也孟康漢書古文注亦云宓今

公陳を孔子に問う、《左傳》に魚麗の陳有り。俗本多く阜の旁に車乘の車と作す。此らの陳字は皆陳鄭の陳と作るを按ず。行陳の意義は陳列に取る。此れ六書の假借なり。《蒼》《雅》及び近世の字書皆別字無く、ただ王羲之《小學章》のみ獨り阜の旁に車と作す。假令俗行するも、亦《六韜》《論語》《左傳》を追改すべからず。《詩經》に「黃鳥飛び、灌木に集まる」と曰く。《傳》に灌木は叢木と曰う。此れ本來《爾雅》の文字、故に李巡の注に木の叢生を灌と謂うと曰く。《爾雅》の末章に又木の族生を灌と爲し、族も亦叢聚と曰く。故に江南の《詩》の古本は皆藂聚の藂と作り、而して古の丛字は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた字に像る。近世の儒生因りて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに改めて、木の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた高長なるを解釋と爲す。衆家の《爾雅》及び《詩》を解するに此の如く説く無し。ただ周續之《毛詩注》は徂底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた反に音し、劉昌宗《詩注》は在公反に音し、又祖底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた反なり。皆穿鑿にして《爾雅》の訓を失えり。「也」は語已及び助句の辭にして、文籍皆之有り。河北の經傳は全く此の字を略去す。其の中に無かるべからざる有り。「伯也殳を執る」「族也に於て語る」「回也屢空たり」「風は風なり教なり」及び《詩傳》の「戢せずは戢なり」「儺せずは儺なり」「多からずは多なり」の類に至りて、倘し此の文を削去せば、甚だ廢闕と成る。《詩經》に「青青たる子衿」と曰く。《傳》に青衿は青領、學子の服裝と曰う。古者斜領下衿に連なるを按ずれば、故に領を稱して衿と爲す。孫炎・郭璞の《爾雅》注、曹大家の《列女傳》注、皆衿は交領と曰く。鄴下の《詩》本すでに「也」の字無く、群儒因りて謬りて青衿・青領を衣の兩處の名と説き、皆青を以て飾と爲して以て「青青」の二字を解釋す。失誤甚だ大なり。又俗學經傳中に時に「也」の字を須うと聞く有りて、動輒りて隨意に加上し、每に其の所を得ず。實に笑うべし。《周易》に蜀才の注有りて、江南の學士竟に何人かを知らず。王儉《四部目錄》は姓名を説かず、題して王弼と作す。後人謝炅・夏侯該皆數千卷を讀みて、皆譙周と疑う。而して李《蜀書》一の名《漢之書》に姓は范、名は長生、自ら蜀才と稱すと曰く。南方は晉の江を渡りて後北間の傳記を皆僞書と叫びて、省讀を貴ばず。故に見るを得ず。《禮・王制》に「臝股肱」と曰く。鄭注には是れ底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた衣を出でて其の臂脛を謂うと曰く。今の書は皆擐甲の擐と作す。國子博士底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた該に曰く、擐は當に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと作るべく、音は宣、擐は穿著の名にして露臂の義にあらず、と。《字林》に蕭讀は是、徐爰は患に音すと按ずるに、對たらず。《漢書》の田肯上を賀するに、江南の本は皆宵字と作す。沛國劉顯は經籍を博覽して偏りに班固《漢書》に精し。梁代は漢聖と稱す。顯の子臻は家業を墜さず、班史を讀みて呼びて田肯と爲す。梁元帝嘗て彼に問うに、答えて曰く、「此れ義求むべき無し。ただ臣家の舊本に雌黄を以て宵字を改めて肯と爲すのみ」と。元帝彼を難ずるに從う無し。我江北に至りて、本の肯と爲るを見る。《漢書・王莽贊》に「紫色蛙聲、餘分閏位」と曰く。是れ底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた黃の色・律呂の音に中たらざるを説く。近來學士名望甚だ高き者竟に王莽はただ鳶肩虎視のみならず又紫色蛙聲と説く。亦是れ誤れるなり。簡策の字は竹の下に束【七賜反】を施す。末代底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた書に杞宋の宋に像る有りて、亦竹の下に便ち夾と寫る者有り。猶お刺字の旁應に束と爲すべく、今も亦夾と作す。徐仙民《春秋》《禮》の音は竟に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを以て正字と爲し策を以て音と爲す。實に顛倒なり。《史記》又把りて悉字を誤りて述と成し妬字を誤りて姤と成す。徐・鄒諸家皆悉字を以て述に音し妬字を以て姤に音す。すでに此の然り。亦亥を拿りて豕字の音に當て帝を拿りて虎字の音に當つべきか。張揖に宓は即ち如今伏羲氏と曰い、孟康《漢書》の古文注も亦宓は如今と曰く

伏而皇甫謐雲伏羲或謂之宓羲按諸經史緯遂無宓羲之號虙字從虍【音呼】宓字從防【音綿】下俱為必末世傳冩遂誤以虙為宓而帝王世紀因誤更立名耳何以驗之孔子弟子虙子賤為單父宰即虙羲之後俗字亦為宓或復加山今兗州永昌郡城舊單父地也東門有子賤碑漢世所立乃雲濟南伏生即子賤之後是知虙之與伏古來通字誤以為宓較可知矣太史公記曰寜為雞口無為牛後此是刪戰國策耳按延篤戰國策音義曰屍雞中之主從牛子然則口當為屍後當為從俗冩誤也應劭風俗通雲太史公記髙漸離變名易姓為人庸保匿作於宋子久之作苦聞其家堂上有客擊築伎癢不能無出言案伎癢者懷其伎而腹癢也是以潘岳射雉賦亦云徒心煩而伎癢今史記並作徘徊或作徬徨不能無出言是為俗傳冩誤爾太史公論英布曰禍之興自愛姬生於妬媚以至滅國又漢書外戚傳亦云成結寵妾妬媚之誅此二媚並當作媢媢亦妬也義見禮記三蒼且五宗世家亦云常山憲王后妬媢王充論衡雲妬夫媢婦生則忿怒鬭訟益知媢是妬之別名原英布之誅為意賁赫耳不得言媚史記始皇本紀二十八年丞相隗林丞相王綰等議於海上諸本皆作山林之林開皇二年五月長安民掘得秦時鐵稱權旁有銅塗鐫銘二所其一所曰廿六年皇帝盡併兼天下諸侯黔首大安立號為皇帝乃詔丞相狀綰灋度量不歉疑者皆明之凡四十字其一所曰元年制詔丞相斯去疾法度量盡始皇帝為之皆刻辭焉今襲號而刻辭不稱始皇帝其於久逺也如後嗣為之者不稱成功盛德刻此詔於左使母疑凢五十八字一字磨滅見有五十七字了了分明其書兼為古餘被勑冩讀之與內史令李德林對見此稱權今在官庫其丞相狀字乃為狀貌之狀爿旁作犬則知俗作隗林非也當為隗狀耳漢書云中外禔福字當從示禔安也音匙匕之匙義見蒼雅方言河北學士皆雲如此而江南書本多誤從手屬文者對耦併為提挈之意恐為誤或問漢書注為元后父名禁改禁中為省中何故以省代禁荅曰案周禮宮正掌王宮之戒令糺禁鄭注云糺猶割也察也李登雲省察也張揖雲省今省詧也然則小井所領二反並得訓察其處既常有禁衛省察故以省代禁詧古察字也漢明帝紀為四姓小侯立學校桓帝加元服又賜四姓及梁鄧小侯帛是知皆外戚也明帝時外戚有樊氏郭氏隂氏馬氏為四姓謂之小侯者或以年小獲封故須立學耳或以侍祠猥朝侯非列侯故曰小侯禮雲庶方小侯則其義也後漢書云鸛雀銜三鱓【音善】魚多假借為鱣鮪之鱣俗之學士因謂之為鱣魚案魏武四時食制鱣魚大如五斗匳長一丈郭璞注爾雅鱣長二丈安有鸛雀能勝一者況三頭乎鱣又純灰色無文章也鱓魚長者不過三尺大者不過三指黃地黒文故都講雲虵鱓卿大夫服之象也續漢書及搜神記亦說此事皆作鱓字孫卿雲魚鱉防鱣及韓非說苑皆曰鱣似虵蠶似蠋並作鱣字假鱣為鱓其來久矣後漢書酷吏樊曅為天水郡守涼州為之歌曰寧見乳虎穴不入曅城寺而江南書本穴皆誤作六學士因循迷而不寤夫虎豹穴居事之較著所以班超雲不探虎穴安得虎子寧當論其六七乎後漢書楊由傳云風吹削胏此是削札牘之柹耳古者書誤則削之故左傳云削而投之是也或即謂札為削王褒童約曰書削代牘蘇竟書云昔以摩研編削之才皆其證也詩云伐木滸滸毛傳云滸滸柹貌也史家假借為肝胏字俗本悉作脯臘之脯或為反哺之哺學士因解雲削哺是屏障之名既無證據亦為妄矣此是風角占耳風角書曰庶人風者拂地塵轉削若是屏障何由可轉也三輔決録雲前隊大夫範仲公防豉蒜果共一筩果當作魏顆之顆北士通呼物一由改為一顆蒜顆是俗間常語耳故陳思王鷂雀賦曰頭如果蒜目似花椒又道經云合口誦經聲璅璅眼中淚出珠子防其字雖異其音與義頗同江南但呼為蒜符不知謂為顆學士相承讀為裹結之裹言防與蒜共苞一裹內筩中耳正史削繁音義又音蒜顆為苦戈反皆失也有人訪吾曰魏志蔣濟上書云攰之民何字也餘應之曰意為攰即是倦之耳【要用字苑雲音九偽反字見廣雅及陳思王集也】張揖呂忱並雲支傍作刀劒之刀亦是剞字不知蔣氏自造支傍作筋力之力或借剞字終當音九偽反晉中興書太山羊曼常頽縱任俠飲酒誕節兗州號為濌伯此字更無音訓梁孝元帝嘗謂吾曰由來不識唯張簡憲見教呼為嚃羮之嚃自爾便遵承之亦不知所出簡憲是湘州刺史張纉諡也江南號為碩學案法盛世代殊近當是老相傳俗間又有濌濌語葢無所不施無所不容之意也顧野王玉篇誤為黒傍沓顧雖博物猶出簡憲孝元之下而二人皆雲重邊吾所見數本並無作黒者重沓是多饒積厚之意從黒更無義防古樂府歌詞先述三子次及三婦婦是對舅姑之稱其末章雲丈人且安坐調絃未遽央古者子婦供事舅姑旦夕在側與兒女無異故有此言丈人亦長老之目今世俗猶呼其祖考為先亡丈人又疑丈當作大北間風俗婦呼舅為大人公丈之與大易為誤耳近代文士頗作三婦詩乃為匹嫡並耦已之群妻之意又加鄭衛之辭大雅君子何其謬乎古樂府歌百里奚詞曰百里奚五羊皮憶別時烹伏雌吹扊扅今日富貴忘我為吹當作炊煑之炊案蔡邕月令章句曰鍵關牡也所以止扉或謂之剡移然則當時貧困並以門牡木作薪炊耳聲類作扊又或作扂通俗文世間題雲河南服防字子慎造防既是漢人其敘乃引蘇林張揖蘇張皆是魏人且鄭以前全不解反語通俗反音甚為近俗阮孝緒又云李防所造河北此書家藏一本遂無作李防者晉中經簿及七志並無其目竟不得知誰制然其文義允愜實是髙才殷仲堪常用字訓亦引服防俗說今復無此書未知即是通俗文為當有異近代或更有服防乎不能明也或問山海經夏禹及益所記而有長沙零陵桂陽諸暨如此郡縣不少以為何也荅曰史之闕文為日久矣加復秦人滅學董卓焚書典籍錯亂非止於此譬猶本草神農所述而有豫章朱崖趙國常山奉髙真定臨淄馮翊等郡縣名出諸藥物爾雅周公所作而云張仲孝友仲尼修春秋而經書孔丘卒世本左丘明所書【此說出皇甫謐帝王世紀】而有燕王喜漢髙祖汲冡語乃載秦望碑蒼頡篇李斯所造而云漢兼天下海內並厠豨黥韓覆畔討滅殘列仙傳劉向所造而賛雲七十四人出佛經列女傳亦向所造其子歆又作頌終於趙悼後而傳有更始韓夫人明德馬後及梁夫人嫕皆由後人所羼非本文也或問曰東宮舊事何以呼鴟尾為祠尾荅曰張敞者吳人不堪稽古隨宜記注遂鄉俗訛謬造作書字耳吳人呼祠祀為鴟祀故以祠代鴟呼紺為禁故以系旁作禁代紺字呼盞為竹簡反故以木傍作展以代盞字呼鑊字為霍字故以金傍作霍代鑊字又金傍作患為鐶字木傍作鬼為槐字火傍作庶為炙字既下作毛為髻字金花則金傍作華窓扇則木傍作扇諸如此類専輒不少又問東宮舊事六色罽防是何等物當作何音荅曰按說文雲莙牛藻也讀若威音隠塢瑰反即陸璣所謂聚藻葉如蓬者也郭璞注三蒼亦云蘊藻之類也細葉蓬茸生然今水中有此物一節長數寸細茸如絲圓繞可愛長者二三十節猶呼為莙又寸斷五色絲橫著線股間繩之以象莙草用以飾物即名為莙於時尚紺六色罽作此莙以飾緄帶張敞因造絲旁畏耳宜作隈栢人城東北有一孤山古書無載者唯闞駰十三州志以為舜納於大麓即謂此山其上今猶有堯祠焉世俗或呼為宣務山或呼為虛無山莫知所出趙郡土族有李穆叔季節兄弟李普濟亦為學問並不能定鄉邑此山餘嘗為趙州佐共太原王邵讀栢人城西門內碑碑是漢桓帝時栢人縣民為縣令徐整所立銘雲士有巏務山王喬所仙方知此巏務山也巏字遂無所出務字依諸子書即旄丘之旄也旄字字林一音亡付反今依附俗名當音權務耳入鄴為魏收說之收大嘉嘆值其為趙州莊嚴寺碑銘曰權務之精即用此也或問一夜何故五更更何所訓荅曰漢魏以來謂為

伏なり。而して皇甫謐は伏羲或いは之を宓羲と謂うと曰く。諸の經史緯底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを按ずるに竟に宓羲の號無し。虙字は虍【音呼】に從い、宓字は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた【音綿】に從い、下は皆必なり。末世傳寫すれば便ち誤りて虙を以て宓と爲し、而して《帝王世紀》は誤に因りて更に名を立つ。何を以て證驗せんや。孔子の弟子虙子賤は單父の宰と爲る。即ち虙羲の後、俗字も亦宓と作し或いは再び山を加う。如今兗州永昌郡城は舊の單父の地、東門に子賤の碑有りて漢世の立つ所、乃ち濟南の伏生は即ち子賤の後と説く。虙と伏とは古來字に通ずるを知るべく、誤りて宓と爲すは較然として知るべし。太史公の記に「寧ろ雞口と爲れ、牛後と爲る無かれ」と曰く。此れ《戰國策》を刪するのみ。延篤《戰國策音義》に尸は雞中の主、從は牛子なりと曰うを按ずれば、則ち口は當に尸と爲し後は當に從と爲すべし。俗寫して誤を致す。應劭《風俗通》に太史公の記は高漸離が名を變え姓を易え、人の庸保と爲り、宋子に於て匿作し、久しくして苦を作り、家堂上に客の筑を擊つを聞きて、伎癢して言を出さざる能わずと曰く。伎癢は其の伎を懷きて腹癢むを按ずれば、故に潘岳《射雉賦》も亦「徒らに心煩いと雖も伎癢す」と曰く。如今《史記》は皆徘徊と作し或いは彷徨と作して、言を出さざる能わず。是れ俗傳寫の誤り。太史公英布を論じて「禍の興るや愛姬より、妒媚に生じて以て國を滅すに至る」と曰く。《漢書・外戚傳》も亦「寵妾妒媚の誅を結ぶを成す」と曰く。此の兩つの媚は皆當に媢と爲すべく、媢も亦妒なり。義は《禮記》《三蒼》に見ゆ。況んや《五宗世家》も亦常山憲王の后妒媢と曰い、王充《論衡》に妒夫媢婦は生ずれば忿怒鬪訟すと曰く。更に媢は妒の別名を知る。英布の誅は賁赫の爲なりと推原すれば、媚と曰うを得ず。《史記・始皇本紀》の二十八年に、丞相隗林・丞相王綰等海上に於て議す。諸本皆山林の林と作す。開皇二年五月長安の民掘りて秦時の鐵稱權を得たり。傍に銅涂鐫銘二處有り。其の一に曰く、廿六年皇帝盡く天下の諸侯を并兼し、黔首大いに安んじ、號を皇帝と立て、乃ち丞相狀・綰に詔して度量を法す。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた不底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた歉疑する者は皆底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた之を明かす、と。共に四十字。其の一に曰く、元年制詔丞相斯・去疾、度量を法して始皇帝之を爲すを盡くし、皆辭を刻す。今襲號して刻辭始皇帝と稱せざれば、其の久遠に於て、後嗣の爲す者の如く成功盛德を稱せず。此の詔を左に刻して疑無からしめよ、と。共に五十八字、一字磨滅して、五十七字有るを見て了了分明なり。其の書は兼ねて古底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを爲す。我敕を被りて寫讀し、内史令李德林と對看す。此の稱權如今官庫に在りて、其の丞相狀の字は乃ち狀貌の狀、爿の旁に犬と作す。則ち俗の隗林と作すは對たらず、當に隗狀と爲すべきを知る。《漢書》に「中外禔福」と曰く。字は當に示に從うべく、禔は安、音は匙匕の匙。義は《蒼》《雅》《方言》に見ゆ。河北の學士皆此の如く説き、而して江南の書本は多く誤りて手に從う。文を屬する者は對偶皆提挈の意と當つ。恐らくは誤れり。或る人問う、《漢書》注は元后の父の名を禁とするに因りて、禁中を改めて省中と爲す。何を以て省を以て禁に代うるや、と。答えて曰く、《周禮》に宮正王宮の戒令糾禁を掌るを按ず。鄭注に糾は猶お割、猶お察と曰く。李登に省は即ち察と曰い、張揖に省は如今省察と曰う。然らば則ち小井・所領の二反皆察と訓すを得。其の處すでに常に禁衛省察有れば、故に省を以て禁に代う。詧は古の察字なり。《漢明帝紀》は四姓小侯の爲に學校を立て、桓帝元服を加えて又四姓及び梁鄧の小侯に帛を賜う。皆外戚なるを知るべし。明帝の時外戚樊氏・郭氏・陰氏・馬氏有りて四姓と爲す。小侯と稱するは、或いは年小に因りて封を獲るを以て學を立つるを須い、或いは侍祠猥朝侯は列侯にあらざるを以て小侯と叫ぶ。《禮記》に庶方小侯と曰くは即ち此の意なり。《後漢書》に鸛雀三鱔【音善】を銜むと曰く。多く假借して鱣鮪の鱣と爲す。俗の學士因りて稱して鱣魚と爲す。魏武《四時食制》を按ずるに、鱣魚は大きさ五斗奩の如く長さ一丈、郭璞《爾雅》を注して鱣は長さ二丈と曰く。豈に鸛雀の能く一條を勝げる有らんや、況んや三頭をや。鱣又純灰色にして花紋無し。鱔魚は長きもの三尺に過ぎず、大きなもの三指に過ぎず、黃地黑文なり。故に皆講説して蛇鱔は卿大夫の服の象と爲す。《續漢書》及び《搜神記》も亦此の事を説きて、皆鱔字と作す。荀子に魚鱉底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた鱣と曰い、《韓非子》《説苑》に及びて皆鱣は蛇に似て蠶は蠋に似たりと曰い、皆鱣字と作す。鱣を假して鱔と爲すは由來すでに久し。《後漢書》に酷吏樊曄は天水郡守と爲りて、涼州之を爲に歌いて曰く、「寧ろ乳虎の穴を見よ、曄の城寺に入る勿れ」と。而して江南の書本は穴を皆誤りて六と作す。學士因循して迷いて悟らず。虎豹の穴居するは甚だ明白の事、故に班超に虎穴を探らざれば安んぞ虎子を得んと曰く。豈に其の六か七かを論ぜんや。《後漢書・楊由傳》に「風削胏を吹く」と曰く。此れ札牘を削るの柿なり。古者書誤れば則ち之を削る。故に《左傳》に「削りて之を投ぐ」と曰くは是なり。或いは就いて札を稱して削と爲し、王褒《童約》に「書削牘に代ゆ」と曰い、蘇竟書に「昔摩研編削の才を以てす」と曰く。皆證據なり。《詩經》に「木を伐ること許許たり」と曰く。《毛傳》に許許は柿の貌と曰く。史家假借して肝肺の字と爲す。俗本皆脯腊の脯と作し、或いは反哺の哺と爲す。學士因りて削哺は屏障の名と解釋す。すでに證據無く、亦是れ妄説なり。此れ風角の占底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたのみ。《風角書》に曰く、庶人の風は地を拂いて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた塵転がり削を転がす、と。若し屏障ならば何に由りて転ぐべきや。《三輔決錄》に前隊大夫范仲公は豉蒜果共に一筒と曰く。果は當に魏顆の顆と爲すべし。北土通く物の一枚を呼びて一顆と爲し、蒜顆は俗間の常語なり。故に陳思王《鷂雀賦》に「頭は果蒜の如く目は花椒に似たり」と曰く。又道經に「口を合せて經を誦すれば聲璅璅として、眼中に淚出でて珠子底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた其の字異ると雖も其の音と義と頗る同じ」と曰く。江南はただ蒜符と呼びて顆と稱するを知らず。學士相承りて讀みて裹結の裹と爲し、言に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた蒜と共に苞一裹として筒中に放入すと曰く。《正史削繁音義》又蒜顆を音して苦戈反と爲す。皆錯れり。或る人我に問う、《魏志》蔣濟上書に「底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた攰の民」は何の字ぞや、と。我聲に應じて曰く、我以て攰は即ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた倦の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたなり【《要用字苑》に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた音は九僞反、字《廣雅》及び《陳思王集》に見ゆと曰く】。張揖・呂忱皆支の旁に刀劍の刀を作すと曰い、亦剞字なり。蔣氏自ら支の旁に筋力の力を作るを知らず、或いは剞字を借る。終に當に九僞反に音すべし。《晉中興書》に太山羊曼常に頹縱任俠・飮酒誕節にして、兗州號して濌伯と爲すと曰く。此の字更に音訓無し。梁孝元帝嘗て我に謂う、從來識らず、ただ張簡憲見教有りて、嚃羹の嚃と呼ぶ。此に從りて便ち遵承すも、亦出づる所を知らず、と。簡憲は湘州刺史張纘の諡にして、江南は碩學と號す。法盛の世代甚だ近しと按ずれば、當に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた老の相傳なるべし。俗間又濌濌の語有りて、蓋し施さざる無く容れざる無きの意なり。顧野王《玉篇》は誤りて黑の旁沓と爲す。顧博物なりと雖も還お簡憲・孝元の下に在り。而して二人皆重の邊と説く。我見る所の數本並びに黑と作る無し。重沓は多饒積厚の意、黑に從うは更に義底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた無し。古樂府の歌詞は先に三子を述べ次いで三婦に及ぶ。婦は舅姑に對するの稱。其の末章に「丈人且く安坐し、弦を調ねて未だ遽央ならず」と曰く。古者子婦舅姑に供事し、旦夕側に在りて兒女と異る無し。故に此の言有り。丈人も亦長老の目。今世俗還お其の祖考を呼びて先亡丈人と爲す。又丈は當に大と作るべきを疑う。北間の風俗は婦舅を呼びて大人公と爲す。丈と大とは誤を致し易し。近代の文士頗る三婦の詩を作りて、竟に匹嫡並耦・自ら群妻の意と當つ。又鄭衛の辭を加う。大雅の君子何ぞ其の謬れるや。古樂府の歌百里奚の詞に曰く、「百里奚、五羊皮。別れの時を憶うに、伏雌を烹り扊扅を吹く。今日富貴我を忘る」と。吹は當に炊煮の炊と爲すべし。蔡邕《月令章句》に鍵は關牡にして扉を止むる所以、或いは之を剡移と謂うと曰うを按ずれば、則ち當時貧困して並びに門牡木を以て薪炊と作す。《聲類》は扊と作し或いは扂と作す。《通俗文》は世間題して河南服底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた字子慎の造底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと作す。すでに漢人なれば其の敘は卻って蘇林・張揖を引く。蘇・張皆魏人、且つ鄭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた以前は全く反語を解せず。《通俗》の反音は甚だ俗に近し。阮孝緒又李底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたの造る所と曰う。河北此の書家藏一本にして、竟に李底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと作る無し。《晉中經簿》及び《七志》並びに其の目無し。竟に誰の制するかを知るを得ず。然れども其の文義允愜して、實に高才なり。殷仲堪《常用字訓》も亦服底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた俗説を引く。如今更に此の書無し。未知是れ即ち《通俗文》か別に有るか。近代或いは更に服底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた有るか。明かに能わず。或る人問う、《山海經》は夏禹及び益の記す所なれども、卻って長沙・零陵・桂陽・諸暨の如き郡縣少なからず。以て如何と爲すや、と。答えて曰く、史の闕文は日を爲ることすでに久しく、加うるに秦人の學を滅し董卓の書を焚く、典籍の錯亂は此に止まらず。譬えば《本草》神農の述ぶる所なれども、卻って豫章・朱崖・趙國・常山・奉高・眞定・臨淄・馮翊等の郡縣名の諸の藥物に出づる有り。《爾雅》周公の作る所なれども、卻って張仲孝友と説く。仲尼《春秋》を修めて經書孔丘卒す。《世本》左丘明の書く所【此の説皇甫謐《帝王世紀》に出づ】なれども、卻って燕王喜・漢高祖有り。汲冢底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた語は乃ち秦望碑を載せ、《蒼頡篇》李斯の造る所なれども、卻って漢の天下を兼ね海内並びに廁り、豨黥韓覆して畔りて討滅残と説く。《列仙傳》劉向の造る所なれども、贊七十四人佛經に出づと説く。《列女傳》も亦向の造る所にして、其の子歆又頌を作る。趙悼后に終るも、傳は更始韓夫人・明德馬后及び梁夫人嫕有り。皆後人の羼する所、本文にあらず。或る人問う、《東宮舊事》は何を以て鸱尾を呼びて祠尾と爲すや、と。答えて曰く、張敞は吳人、稽古に堪えず、宜に隨いて記注して、便ち鄉俗の訛謬を按じて造作せし書字なり。吳人は祠祀を呼びて鸱祀と爲す。故に祠を以て鸱に代え、紺を呼びて禁と爲す。故に糸の旁に禁と作りて紺字に代え、盞を呼びて竹簡反と爲す。故に木の旁に展と作りて盞字に代え、鑊字を呼びて霍字と爲す。故に金の旁に霍と作りて鑊字に代え、又金の旁に患と作して鐶字と爲し、木の旁に鬼と作して槐字と爲し、火の旁に庶と作して炙字と爲し、既の下に毛と作して髻字と爲し、金花は則ち金の旁に華と作し、窗扇は則ち木の旁に扇と作す。此の如き類は專擅少なからず。又問う、《東宮舊事》の六色罽底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたは何等の物、當に何の音と作すべきや、と。答えて曰く、《説文》に莙は牛藻、讀み威の若く、音は隱塢瑰反を按ずれば、即ち陸璣の謂う所の聚藻の葉の蓬の如きなり。郭璞《三蒼》を注して亦藴藻の類にして細葉蓬茸として生ずと曰く。如今水中に此の物有りて、一節長さ數寸、細茸絲の如く、圓繞して愛す可し。長きもの二三十節、還お莙と呼ぶ。又把りて五色の絲寸斷して線股の間に横着し繩して莙草に象りて以て物を飾る。即ち名づけて莙と爲す。當時紺六色の罽を以て此の莙を作して以て緄帶を飾る。張敞因りて絲の旁畏を造る。宜しく隈と作るべし。柏人城の東北に一孤山有りて古書載せず。ただ闞駰《十三州志》は以て舜大麓に納るは即ち此の山を謂うと爲し、其の上如今還お堯祠有り。世俗或いは呼びて宣務山或いは呼びて虚无山と爲す。出づる所を知る莫し。趙郡の士族に李穆叔・季節兄弟有りて、李普濟も亦學問有るも、皆鄉邑此の山を定むる能わず。我嘗て趙州の佐と爲り、太原王邵と柏人城西門内の碑を讀む。碑は漢桓帝の時柏人縣民が縣令徐整の爲に立つる所、銘に「士に巏務山有り、王喬の仙する所」と曰く。纔かに此の巏務山を知る。巏字は竟に出づる所無し。務字は諸子書に依れば即ち旄丘の旄。旄字は《字林》に一の音亡付反、如今俗名に依附して當に權務に音すべし。鄴に入りて魏收に之を説くに、收大いに嘉嘆して、正值彼趙州莊嚴寺の碑銘を作るに、「權務の精」と曰いて、就いて此のを用いたり。或る人問う、一夜は何を以て五更と爲す、更は何の訓ぞや、と。答えて曰く、漢魏以來稱してと曰く

甲夜乙夜丙夜丁夜戊夜又云皷一皷二皷三皷四皷五皷亦云一更二更三更四更五更皆以五為節西都賦亦云衛以嚴更之署所以爾者假令正月建寅斗柄夕則指寅曉則指午矣自寅至午凡厯五辰冬夏之月雖復長短參差然辰間遼闊盈不至六縮不至四進退常在五者之間更厯也經也故曰五更爾爾雅雲術山薊也郭璞注云今術似薊而生山中案術葉其體似薊近世文士遂讀薊為筋肉之筋以耦地骨用之恐失其義或問俗名傀儡子為郭禿有故實乎荅曰風俗通雲諸郭皆諱禿當是前代人有姓郭而病禿者滑稽戱調故後人為其象呼為郭禿猶文康象庾亮耳或問曰何故名治獄參軍為長流乎荅曰帝王世紀雲帝少昊崩其神降於長流之山【此事本出山海經流作留】於祀主秋【此說本於月令】按周禮秋官司冦主刑罰長流之職漢魏捕賊掾耳晉宋以來始為叅軍上屬司冦故取秋帝所居為嘉名焉客有難主人曰今之經典子皆謂非說文所言子皆雲是然則許慎勝孔子乎主人撫掌大笑應之曰今之經典皆孔子手跡耶客曰今之說文皆許慎手跡乎荅曰許慎檢以六文貫以部分使不得誤誤則覺之孔子存其義而不論其文也先儒尚得臨文從意何況書冩流傳耶必如左傳止戈為武反正為乏皿蟲為蠱亥有二首六身之類後人自不得輒改也安敢以說文校其是非哉且餘亦不専以說文為是也其有援引經傳與今乖者未之敢從又相如封禪書曰導一莖六穗於庖犧雙觡共抵之獸此導訓擇光武詔雲非徒有豫養導擇之勞是也而說文雲導是禾名引封禪書為證無妨自當有禾名導非相如所用也禾一莖六稔於庖豈成文乎縱使相如天才鄙拙強為此語則下句當雲麟雙觡共抵之獸不得雲犠也吾嘗笑許純儒不達文章之體如此之流不足憑信大抵服其為書隠括有條例剖析窮根源鄭注書往往引其為證若不信其說則防防不知一防一畫有何意焉世間小學者不通古今必依小篆是正書記凡爾雅三蒼說文豈能悉得蒼頡本指哉亦是隨代損益各有同異西晉已往字書何可全非但令體例成就不為専輒耳考校是非特須消息至如仲尼居三字之中兩字非體三蒼尼旁益丘說文居下施幾如此之類何由可從古無二字又多假借以中為仲以說為恱以召為邵以閒為閒如此之徒亦不勞改自有訛謬過成鄙俗亂旁為舌揖下無耳黿鼉從奮奪從雚【音館】席中加帯惡上安西鼓外設皮鑿頭生毀離則配禹壑乃施豁巫混經旁臯分澤半獵化為獦【音葛獸名出山海經】寵變成竉【竉音郎動反孔也故從穴】業左益土靈底著器率字自有律音強改為別單字自有善音輒析成異如此之類不可不治吾昔初看說文蚩薄世字從正則懼人不識隨俗則意嫌其非畧是不得下筆也所見漸廣更知通變救前之執將欲半焉若文章著述猶擇微相影響者行之官曹文書世間尺牘幸不違俗也案彌亙字從二間舟詩云亙之秬秠是也今之書轉舟為日而何法盛中興書乃以舟在二間為舟航字謬也春秋說以人十四心為德詩說以二在天下為酉漢書以泉貨為白水真人新論以金昆為銀國志以天上有口為吳晉書以黃頭小人為恭宋書以召力為劭叅同契以人負告為造如此之例葢數術謬語假借依附雜以戱笑耳如猶轉貢字為項以叱為七安可用此定文字音讀乎潘陸諸子離合詩賦拭卜破字經及鮑照謎字皆取防流俗不足以形聲論之也河間邢芳語吾雲賈誼傳云日中必熭注熭暴也曾見人解雲此是暴疾之意正言日中不須臾卒然便晐耳此釋為當乎吾謂邢曰此語本出太公六韜案字書古者暴曬字與暴疾字相似唯下少異後人専輒加傍日耳言日中時必須暴曬不爾者失其時也晉灼已有詳釋芳笑服而退

甲夜・乙夜・丙夜・丁夜・戊夜、又鼓一・鼓二・鼓三・鼓四・鼓五と曰い、亦一更・二更・三更・四更・五更と曰く。皆五を以て節と爲す。《西都賦》も亦「嚴更の署を以て衛す」と曰く。此の然る所以は、假令正月寅を建てば、斗柄は傍晚寅を指し天亮に午を指し、寅より午に至るまで共に五辰を歷す。冬夏の月は長短參差すと雖も、然れども辰の間隔闊にして、盈は六に至らず縮は四に至らず、進退常に五者の間に在り。更は即ち歷、即ち經なり。故に五更と曰う。《爾雅》に術は即ち山薊と曰い、郭璞注に如今術は薊に似て山中に生ずと曰く。術葉の體は薊に像るを按ずれば、近世の文士便ち薊を讀みて筋肉の筋と爲し、以て地骨に對偶す。之を用う恐らくは義を失わん。或る人問う、俗に傀儡子を名づけて郭秃と爲すに故實有るや、と。答えて曰く、《風俗通》に諸郭皆禿を諱むと曰う。當に前代姓郭にして禿を病む者有りて、滑稽戲謔せしなるべし。故に後人其の爲に象を作りて呼びて郭秃と爲す。文康の庾亮に象るが如きなり。或る人問う、何を以て治獄參軍を稱して長流と爲すや、と。答えて曰く、《帝王世紀》に帝少昊崩ず、其の神長流の山に降る【此の事本《山海經》に出づ、流は留と作る】と曰く。祀に於て秋を主る【此の説《月令》に本づく】。按《周禮》に秋官司寇は刑罰を主る。長流の職は漢魏は捕賊掾、晉宋以來纔かに參軍と爲り、上司寇に屬す。故に秋帝の居る所を取りて嘉名と爲す。客有りて主人を責難して曰く、「如今の經典は汝皆對たらずと曰い、《説文》の言う所は汝皆是と爲す。然らば則ち許慎孔子に勝れるか」と。主人掌を拍して大笑して答えて曰く、「如今の經典は皆孔子の手迹か」と。客曰く、「如今の《説文》は皆許慎の手迹か」と。答えて曰く、「許慎は六書を以て檢驗し部首を以て貫穿し、誤ることを得ざらしむ。誤れば即ち覺察する能し。孔子は其の義を存して其の文を論ぜず。先儒尚お能く文に臨みて意に從う。況んや書寫の流傳をや。必ず《左傳》の止戈して武と爲し反正して乏と爲し皿蟲して蠱と爲し亥に二首六身有るの類の如きは、後人自ら動輒りて改するを得ず。豈に敢えて《説文》を用いて其の是非を校さんや。況んや我も亦專ら《説文》を以て是と爲さず。其の中の經傳を援引するに今と乖なるは、未だ敢えて從わず。又司馬相如《封禪書》に『莖一つ穗六つを庖に導き、犧雙觡共抵の獸』と曰く。此の導は訓して擇と爲す。光武の詔に『徒らに豫養導擇の勞有るのみならず』と曰くは是なり。而して《説文》に導は禾の名と曰い、《封禪書》を引きて證と爲す。妨げず自ら當に禾の名の導有るべきも、卻って相如の用う所にあらず。禾一莖六穗を庖廚に送るは豈に文を成さんや。縱ひ相如天才鄙拙にして强りて此の語を作すとも、則ち下句當に『麟雙觡共抵の獸』と曰うべく、犧と曰うを得ず。我嘗て許慎は純儒にして文章の體に達せずと笑う。此の如き流は憑信するに足らず。大抵其の此の書は隱括して條例有り剖析して根源を窮むるを佩服す。鄭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた書に注して往往として其れを引きて證と爲す。若し其の説法を信ぜざれば、則ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた一底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた一画何の意有るかを知らざらん」と。世間の小學は古今を通ぜず、必ず小篆に依りて以て書記を改正す。およそ《爾雅》《三蒼》《説文》は豈に能く蒼頡の本旨を全う得んや。亦是れ代に隨いて損益し各々同異有り。西晉已往の字書は豈に全く非とすべきや。但だ體例成就して專擅と爲らざれば即可。是非を考校するは特に斟酌を須いる。「仲尼居」の三字の中兩字体にあらざるに至りては、《三蒼》尼の旁に丘を加え、《説文》居の下に几を施す。此の如き類何に由りて從うべきや。古に二字無く、又多く假借す。中を以て仲と爲し説を以て悦と爲し召を以て邵と爲し閑を以て閑と爲す。此の如き徒も亦改るに勞せず。自ら訛謬過りて鄙俗と成る有り。亂の旁は舌、揖の下は耳無く、黿鼉は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに從い、奮奪は雚【音館】に從い、席の中は帶を加え、惡の上は西を安んじ、鼓の外は皮を設け、鑿の頭は毁を生じ、離は則ち禹を配し、壑は乃ち豁を施し、巫は經の旁を混じ、皐は澤の半を分ち、獵は化して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた【音葛、獸の名、《山海經》に出づ】と爲し、寵は變じて竉と成る【竉の音は郎動反、是れ孔、故に穴に從う】、率字自ら律の音有るに强りて改めて別と爲し、單字自ら善の音有るに輒ち析れて異と成す。此の如き類は治めざるべからず。我從前初めて《説文》を看るに、世俗の字を看起さず。正に從えば人の識らざるを怕れ、俗に隨えば心裡其の對たらざるを嫌う。直に下筆する能わず。見る所漸く廣く、更に通變を知り、從前の執拗を補救して、將に各々半を取らんとす。若し文章著述なれば、還お稍々相影響するを選びて以て用い、官曹文書・世間尺牘は俗に違わざらんことを望む。彌亘の字は二の間に舟に從うを按ずれば、《詩經》に「秬秠を亘る」と曰くは是なり。如今底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた書は舟を轉じて日と爲す。而して何法盛《中興書》は竟に舟の二間に在るを以て舟航の字と爲す。錯れり。《春秋》は人十四心を以て德と爲し、《詩》は二の天下に在るを以て酉と爲し、《漢書》は泉貨を以て白水眞人と爲し、《新論》は金昆を以て銀と爲し、《國志》は天上に口有るを以て吳と爲し、《晉書》は黃頭小人を以て恭と爲し、《宋書》は召力を以て劭と爲し、《參同契》は人告を負うを以て造と爲すと曰く。此の如き例は大概數術の謬語・假借依附・戲笑を雜えたるのみ。轉貢字を項と爲し叱を以て七と爲すが如き、豈に能く此を以て文字の音讀を定めんや。潘・陸諸子の離合詩賦・拭卜破字經及び鮑照の謎字は、皆底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた流俗を取る。形聲を以て論ずるに足らず。河間邢芳我に謂う、《賈誼傳》に「日中必ず熭す」と曰く。注に熭は暴なり。嘗て人の解釋して暴疾の意と爲し、正に日中須臾ならず猝然として便ち過ぐるのみと説くを見る。此の解釋妥當か、と。我邢に對えて曰く、此の語は本太公《六韜》に出づ。字書を按ずるに、古者暴晒の字と暴疾の字とは相似て、ただ下面稍々異るのみ。後人專擅して日の旁を加えたり。是れ日中に必ず暴晒すべし、此の然らざれば則ち時を失うと説く。晉灼すでに詳釋有り。邢芳笑い服して退く。

音辭篇第十八

音辭篇第十八

夫九州之人言語不同生民已來固常然矣自春秋摽齊言之傳離騷目楚詞之經此葢其較明之初也後有雄著方言其書大備然皆考名物之同異不顯聲讀之是非也逮鄭注六經髙誘解呂覽淮南許慎造說文劉熹制釋名始有譬況假借以證音字耳而古語與今殊別其間輕重清濁猶未可曉加以外言內言急言徐言讀若之類益使人疑孫叔言創爾雅音義是漢末人獨知反語至於魏世此事大行髙貴鄉公不解反語以為怪異自茲厥後音韻鋒出各有土風遞相非笑指馬之諭未知孰是共以帝王都邑叅校方俗考核古今為之折權而量之獨金陵與洛下耳南方水土和柔其音清舉而切詣失在浮淺其辭多鄙俗北方山川深厚其音沉濁而鈋鈍得其質直其辭多古語然冠冕君子南方為優閭里小人北方為愈易服而與之談南方士庶數言可辯隔垣而聴其語北方朝野終日難分而南染吳越北雜夷虜皆有深弊不可具論其謬失輕微者則南人以錢為涎以石為射以賤為羨以是為防北人以庶為戍以如為儒以紫為姊以洽為狎如此之例兩失甚多至鄴已來唯見崔子約崔曕叔侄李祖仁李蔚兄弟頗事言詞少為切正李季節著音韻決疑時有錯失陽休之造切韻殊為踈野吾見兒女雖在孩稚便漸督正之一言訛替以為己罪矣云為品物未考書記者不敢輒名汝曹所知也古今言語時俗不同著述之人楚夏各異蒼頡訓詁反粺為逋賣反娃為於乖戰國防音刎為免穆天子傳音諫為間說文音戞為棘讀皿為猛字林音防為口甘反音伸為辛韻集以成仍宏登合成兩韻為竒益石分作四章李登聲類以系音羿劉昌宗周官音讀乘若承此例甚廣必須考校前世反語又多不切徐仙民毛詩音反驟為在遘左傳音切椽為徒縁不可依信亦為眾矣今之學士語亦不正古獨何人必應隨其訛僻乎通俗文曰入室求曰搜反為兄侯然則兄當音所榮反今北俗通行此音亦古語之不可用者璵璠魯之寳玉當音餘煩江南皆音藩屏之藩岐山當音為竒江南皆呼為神只之只江陵防沒此音被於闗中不知二者何所承案以吾淺學未之前聞也北人之音多以舉莒為矩唯李季節雲齊桓公與管仲於臺上謀伐莒東郭牙望桓公口開而不閉故知所言者莒也然則莒矩必不同呼此為知音矣夫物體自有精麄精麄謂之好惡人心有所去取去取謂之好惡【上呼號下烏故反】此音見於葛洪徐邈而河北學士讀尚書云好【呼號反】生惡殺【於各反】是為一論物體一就人情殊不通矣甫者男子之美稱古書多假借為父字北人遂無一人呼為甫者亦所未喻唯管仲范增之號須依字讀耳【管仲號仲父范增號亞父】案諸字書焉字鳥名或雲語詞皆音於愆反自葛洪要用字苑分焉字音訓若訓何訓安當音於愆反於焉逍遙於焉嘉客焉用佞焉得仁之類是也若送句及助詞當音矣愆反故稱龍焉故稱血焉有民人焉有社稷焉托始焉爾晉鄭焉依之類是也江南至今行此分別昭然易曉而河北混同一音雖依古讀不可行於今也邪者【音瑘】未定之詞左傳曰不知天之棄魯邪抑魯君有罪於鬼神邪莊子云天邪地邪漢書云是邪非邪之類是也而北人即呼為也字亦為誤矣難者曰繫辭雲乾坤易之門戸邪此又為未定辭乎荅曰何為不爾上先標問下方德以折之耳江南學士讀左傳口相傳述自為凢例軍自敗曰敗打破人軍曰敗【補敗反】諸記傳未見補敗反徐仙民讀左傳唯一處有此音又不言自敗敗人之別此為穿鑿耳古人云膏梁難整以其為驕奢自足不能尅勵也吾見王侯外戚語多不正亦由內染賤保傳外無賢師友故耳梁世有一侯當對元帝飲謔自陳痴鈍乃成颸叚元帝荅之雲颸異涼風段非幹木謂郢州為永州元帝啟報簡文簡文雲庚辰吳入遂成同如此之類舉口皆然元帝手教諸子侍讀以此為誡河北切攻字為古琮與工公功三字不同殊為僻也北世有人名暹自稱為纎名琨自稱為袞名洸自稱為汪名防【音藥】自稱為猲【音】非唯音韻舛錯亦使其兒孫避諱紛紜矣

九州の人言語同じからず。生民有りて以來本來此の如し。《春秋》に齊言を標出するの傳より、《離騷》に楚詞を取りて經と爲す。此れ蓋し較えて明白なるの始なり。後來底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた雄《方言》を著す。其の書大いに備わるも、然れども皆名物の同異を考うるのみ、聲讀の是非を顯さず。鄭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたが六經に注し、高誘が《呂覽》《淮南》を解し、許慎が《説文》を造り、劉熹が《釋名》を制するに及びて、纔かに譬況假借して以て音字を證する有り。而して古語今と殊別にして、其の間の輕重清濁還お曉るべからず。加うるに外言内言・急言徐言・讀若の類、更に人をして疑はしむ。孫叔然《爾雅音義》を創す。是れ漢末の人獨り反語を知る。魏世に至りて此の事大いに行わる。高貴鄉公は反語を懂らず、以て怪異と爲す。此より以後音韵鋒出して、各々土風有りて、遞相非笑し、指馬の喩は誰か是なるを知らず。共に帝王の都邑を以て方俗に參照し古今を考覈して以て折底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた權衡を衡量するに、ただ金陵と洛下のみ。南方は水土和柔にして其の音は清擧して切至、失は浮淺に在りて其の辭多く鄙俗。北方は山川深厚にして其の音は沉濁して鈍、其の質直を得て其の辭多く古語。然れども冠冕の君子は南方を優と爲し、閭里の小人は北方を愈と爲す。衣服を換えて之と談ずれば、南方の士庶は幾句の話にて可辨。墻を隔てゝ其の語を聽けば、北方の朝野は終日分ち難し。而して南は吳越に染り北は夷虜を雜う。皆深弊有りて具に論ずべからず。其の謬失の輕微なるは、則ち南人は錢を以て涎と爲し石を以て射と爲し賤を以て羡と爲し是を以て底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと爲し、北人は庶を以て戍と爲し如を以て儒と爲し紫を以て姊と爲し洽を以て狎と爲す。此の如き例は兩邊の失誤皆多し。鄴に到りて以來、ただ崔子約・崔曕の叔侄、李祖仁・李蔚の兄弟を見るのみ、頗る言詞を事とし稍々切正と爲す。李季節《音韵決疑》を著して時に錯失有り。陽休之《切韵》を造りて特に疏野なり。我兒女孩稚に在ると雖も便ち漸々督正し、一言訛替すれば便以て己の罪と爲すを見る。品物と稱するも未だ書記を考えざれば、敢えて動輒りて名を取らず。是れ汝らの知る所なり。古今の言語・時俗同じからず。著述の人楚夏各々異れり。《蒼頡訓詁》は粺を反して逋賣反と爲し娃を反して于乖と爲し、《戰國底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた》は刎を音して免と爲し、《穆天子傳》は諫を音して間と爲し、《説文》は戞を音して棘と爲し皿を讀みて猛と爲し、《字林》は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを音して口甘反と爲し伸を音して辛と爲し、《韵集》は成・仍・宏・登を以て兩韵に合して爲・奇・益・石を分ちて四章と作し、李登《聲類》は系を以て羿に音し、劉昌宗《周官音》は乘を讀みて承の若し。此の例甚だ廣く、必ず考校を須いる。前世の反語又多加えて切らず。徐仙民《毛詩音》は驟を反して在遘と爲し、《左傳音》は椽を切りて徒緣と爲す。依信すべからざるも亦多し。今の學士の語も亦正ならず。古人又何人ぞ。何ぞ必ずしも其の訛僻に隨わんや。《通俗文》に室に入りて求むるを搜と曰い、反して兄侯と爲す。然らば則ち兄は當に所榮反に音すべし。如今北俗此の音を通行す。亦是れ古語の用いべからざるなり。璵璠は魯の寶玉、當に余煩に音すべきを、江南皆藩屏の藩に音す。岐山は當に奇に音すべきを、江南皆呼びて神祇の祇と爲す。江陵底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた沒して、此の音關中に傳えり。二者何を承る所かを知らず。我淺學を以て按ずれば、從前聞かず。北人の音は多く擧・莒を以て矩と爲す。ただ李季節に曰く、齊桓公管仲と臺上に在りて莒を伐つを謀るに、東郭牙桓公の口開きて閉ぢざるを望見し、故に説く所は莒なるを知る、と。然らば則ち莒・矩は必ず呼び同じからず。此れ纔かに音を知るなり。物體自ら精粗有り。精粗を呼びて好惡と爲す。人心取捨する所有り。取捨を呼びて好惡と爲す【上呼號反、下烏故反】。此の音は葛洪・徐邈に見ゆ。而して河北の學士は《尚書》の「生を好み【呼號反】殺を惡む【于各反】」を讀みて、一つは物體を論じ一つは人情に就く。甚だ通ぜず。甫は男子の美稱にして、古書多く假借して父の字と爲す。北人竟に一人も呼びて甫と爲す無し。亦我の解せざる所なり。ただ管仲・范增の號は須らく字に依りて讀むべし【管仲の號は仲父、范增の號は亞父】。諸の字書を按ずるに、焉字は鳥の名、或いは是れ語詞と曰いて、皆于愆反に音す。葛洪《要用字苑》に自り焉字の音訓を分つ。若し何と訓し安と訓せば、當に于愆反に音すべし。「于焉逍遥」「于焉嘉客」「焉に佞を用いん」「焉に仁を得ん」の類是なり。若し句を送る及び助詞なれば、當に矣愆反に音すべし。「故に龍と稱す焉」「故に血と稱す焉」「民人有り焉」「社稷有り焉」「始めに托す焉爾」「晉鄭焉に依る」の類是なり。江南今に至るまで此の分別を行い、昭然として曉り易し。而して河北混同して一音にして、古讀に依ると雖も、今に行うべからず。邪は【音琊】未定の詞なり。《左傳》に「知らず、天の魯を棄つる邪、抑も魯君鬼神に罪有る邪」と曰い、《莊子》に「天邪地邪」と曰い、《漢書》に「是邪非邪」と曰くの類是なり。而して北人便ち呼びて也の字と爲す。亦是れ誤れり。責難する者曰く、《繫辭》に「乾坤は易の門戸なり邪」と曰く。此れ又未定の辭か、と。答えて曰く、何を以て非とせん。上面先に問を標し、下面纔かに底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた德を以て彼を折服す。江南の學士《左傳》を讀むに、口耳相傳えて自ら凡例を訂す。軍自ら敗るるを敗と曰い、人の軍を打破するを敗と曰う【補敗反】。諸の記傳に補敗反を見ず。徐仙民《左傳》を讀みて唯一處此の音有りて、又自敗と人を敗るとの分別を説かず。此れ穿鑿なり。古人に膏粱整え難しと曰くは、其の驕奢自足して克勵する能わざるを以てなり。我王侯外戚の語多く正ならざるを見るに、亦内に賤保傅を染め外に賢師友無きに由る。梁世一侯有りて當に元帝と飮謔するに、自ら癡鈍を陳すに、卻って飔段と成す。元帝答えて曰く、「飔は凉風にあらず、段は段干木にあらず」と。郢州を稱して永州と爲すに、元帝啓報して簡文に曰く、簡文曰く、「庚辰吳入りて、竟に同底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと成る」と。此の如き類は口を開けば皆是なり。元帝手で諸子の侍讀を教えて、此を以て誡と爲す。河北攻字を切りて古琮と爲し、工・公・功の三字と同じからず。特に乖僻なり。近世人の名暹にして自ら纖と稱し、名琨にして自ら袞と稱し、名洸にして自ら汪と稱し、名底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた【音藥】にして自ら猲【音底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた】と稱する有り。但だ音韵舛錯なるのみならず、亦其の兒孫をして忌諱紛紜せしむ。

雜藝篇第十九

雜藝篇第十九

真草書跡微須留意江南諺雲尺牘書防千里面目也承晉宋餘俗相與事之故無頓狼狽者吾防承門業加性愛重所見法書亦多而翫習功夫頗至遂不能佳者良由無分故也然而此藝不須過精夫巧者勞而智者憂常為人所役使更覺為累韋仲將遺戒深有以也王逸少風流才士蕭散名人舉世唯知其書翻以能自蔽也蕭子云每嘆曰吾著齊書勒成一典文章義自謂可觀唯以筆跡得名亦異事也王褒地胄清華才學優敏後雖入闗亦被禮遇猶以書工﨑嶇碑碣之間辛苦筆硯之役嘗悔恨曰假使吾不知書可不至今日邪以此觀之慎勿以書自命雖然廝猥之人以能書防擢者多矣故道不同不相為謀也梁氏秘閣散逸以來吾見二王真草多矣家中嘗得十卷方知陶隠居阮交州蕭祭酒諸書莫不得羲之之體故是書之淵源蕭晩節所變乃是右軍年少時法也晉宋以來多能書者故其時俗遞相染尚所有部帙楷正可觀不無俗字非為大損至梁天監之間斯風未變大同之末訛替滋生蕭子云改易字體邵陵王頗行偽字前上為草能傍作長之類是也朝野翕然以為楷式畫虎不成多所傷敗至為一字唯見數防或妄斟酌遂便轉移爾後墳籍略不可防北朝喪亂之餘書跡鄙陋加以専輒造字猥拙甚於江南乃以百念為憂言反為變不用為罷追來為歸更生為蘇先人為老如此非一徧滿經傳唯有姚元標工於楷留心小學後生師之者眾洎於齊末秘書繕冩賢於往日多矣江南閭里間有畫書賦此乃陶隠居弟子杜道士所為其人未甚識字輕為軌則託名貴師世俗傳信後生頗為所誤也畫繪之工亦為玅矣自古名士多或能之吾家常有梁元帝手畫蟬雀白扇及馬圖亦難及也武烈太子偏能冩真坐上賓客隨宜防染即成數人以問童孺皆知姓名矣蕭賁劉孝先劉靈並文學已外復佳此法翫閱古今特可寳愛若官未通顯每被公私使令亦為猥役吳郡顧士端出身湘東國侍郎後為鎮南府刑獄叅軍有子曰庭西朝中書舍人乂子並有琴書之藝尤玅丹青常被元帝所使每懷羞恨彭城劉嶽槖之子也仕為驃騎府管記平氏縣令才學快士而畫絶倫後隨武陵王入蜀下牢之敗遂為陸防軍畫支江寺壁與諸工巧雜處向使三賢都不曉畫直運素業豈見此恥乎弧矢之利以威天下先王所以觀徳擇賢亦濟身之急務也江南為世之常射以為兵射冠冕儒生多不習此別有博射弱弓長箭施於凖的揖讓升降以行禮焉防禦冦難了無所益亂離之後此術遂亡河北文士率曉兵射非直葛洪一箭已解追兵三九防集常縻榮賜雖然要輕禽截狡獸不願汝輩為之卜筮者聖人之業也但近世無復佳師多不能中古者卜以決疑今人生疑於卜何者守道信謀欲行一事卜得惡卦反令恜恜【音敇惕也】此之謂乎且十中六七以為上手粗知大意又不委曲凢射竒偶自然半收何足頼也世傳云解隂陽者為鬼所嫉坎貧窮多不稱泰吾觀近古以來尤精妙者唯京房管輅郭璞耳皆無官位多或罹災此言令人益信儻值世網嚴宻強負此名便有詿誤亦禍源也及星文風氣率不勞為之吾嘗學六壬式亦值世間好匠聚得龍首金匱玉爕玉厯十許種書討求無驗尋亦悔罷凡隂陽之術與天地俱生其吉防徳刑不可不信但去聖既逺世傳術書皆出流俗言辭鄙淺驗少妄多至如反支不行竟以遇害歸忌寄宿不免防終拘而多忌亦無益也算術亦是六藝要事自古儒士論天道定律厯者皆學通之然可以兼明不可以専業江南此學殊少唯范陽祖𣈶精之位至南康太守河北多曉此術【𣈶音豆】醫方之事取玅極難不勸汝曹以自命也微解藥性小小和合居家得以救急亦為勝事皇甫謐殷仲堪則其人也禮曰君子無故不徹琴瑟古來名士多所愛好洎於梁初衣冠子孫不知琴者號有所闕大同以末斯風頓盡然而此樂愔愔雅緻有深味哉今世曲解雖變於古猶足以暢神情也唯不可令有稱譽見役勲貴處之下坐以取殘杯冷炙之辱戴安道猶遭之況爾曹乎家語曰君子不愽為其兼行惡道故也論語云不有博奕者乎為之猶賢乎已然則聖人不用博奕為教但以學者不可常精有時疲倦則儻為之猶勝飽食昏睡兀然端坐耳至如吳太子以為無益命韋昭論之王肅葛洪陶侃之徒不許目觀手執此並勤篤之志也能爾為佳古為大博則六著小博則二焭今無曉者比世所行一焭十二棊數術淺短不足可翫圍棊有手談坐隠之目頗為雅戲但令人躭憒廢喪實多不可常也投壺之禮近世愈精古者實以小豆為其矢之躍也今則唯欲其驍益多益喜乃有倚竿帯劒狼壺豹尾龍首之名其尤玅者有蓮花驍汝南周璝正之子會稽賀徽賀革之子並能一箭四十餘驍賀又嘗為小障置壺其外隔障投之無所失也至鄴以來亦見廣寧蘭陵諸王有此校具舉國遂無投得一驍者彈棊亦近世雅戲消愁釋憒時可為之

眞草の書法は稍々留意を須いる。江南の諺に曰く、尺牘の書底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたは、千里之外の面目なり、と。晉宋の餘俗を承接して、彼此之に從事す。故に立ちどきに狼狽する無し。吾底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたは門業を承く。加うるに性愛重して、見る所の法書も多く、玩習の功夫頗る到るも、終に佳なる能わず。實に天分無きなり。然れども此の藝は必ずしも精に過ぐるを要せず。巧なる者は勞し智なる者は憂う。常に人に役使せられ、更に以て累と覺ゆ。韋仲將の遺戒は深く道理有り。王羲之は風流の才士・蕭散の名人にして、擧世ただ其の書を知る。反りて此の事に能なるに因りて自らを遮蔽せり。蕭子雲每に歎じて曰く、「我《齊書》を著し勒して一典と成し、文章底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた義自ら以て觀るべしと爲す。ただ筆迹に因りて名を得る。亦是れ異事なり」と。王褒は地胄清華・才學優敏にして、後來關に入ると雖も亦禮遇せられ、還お書に工なるに因りて碑碣の間に奔走し筆硯の役に辛苦す。嘗て悔恨して曰く、「假令我書を知らざらば、今日に至らざるべしかな」と。此に由りて觀れば、萬も書を以て自ら命ずる勿れ。此の如しと雖も、卑賤の人書に能なるに因りて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた擢せらる者多し。故に道同じからざれば相爲に謀らず。梁氏の祕閣散逸以來、我二王の眞草を見ること多く、家中嘗て十卷を得たり。纔かに陶隱居・阮交州・蕭祭酒の諸書莫か羲之の體を得ざる無きを知る。故に是れ書の淵源なり。蕭の晚年の變ずる所は、乃ち右軍年少時の法なり。晉宋以來書に能なる者多く、故に時俗遞相染尚して、所有の部帙楷正にして觀るべく、俗字無きにあらざるも大損と爲らず。梁の天監の間に至りて此の風未だ變らず、大同の末訛替滋生す。蕭子雲字體を改易し、邵陵王頗る僞字を行う。前の上に草と爲し能の旁に長と作するの類是なり。朝野翕然として以て楷式と爲す。虎を畫きて成らずして、多く傷敗する所有り。一字に至りてはただ數底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを見、或いは妄りに斟酌を加えて便ち轉移す。此の後墳籍幾に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたべからざるに至る。北朝喪亂の餘、書迹鄙陋、加うるに專擅して字を造る。猥拙江南より甚だしく、竟に百念を以て憂と爲し言反を以て變と爲し不用を以て罷と爲し追來を以て歸と爲し更生を以て蘇と爲し先人を以て老と爲す。此の如き一にあらずして、經傳に遍滿す。ただ姚元標のみ楷に工して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた小學に心を留む。後生師從する者多し。齊の末に至りて、祕書の繕寫往日よりも好好なり。江南閭里の間に《畫書賦》有りて、乃ち陶隱居の弟子杜道士の作る所。此の人未だ甚だ字を識らずして、輕く軌則を爲し、名を貴師に托す。世俗傳信して、後生頗る誤らるる所と爲る。畫繪の工も亦精妙なり。古より名士多く或いは之に能し。我家常に梁元帝の手畫する蟬雀白底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた扇及び馬圖有りて、亦及び難し。武烈太子偏りに寫生に能くして、坐上の賓客は宜に隨いて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた染すれば即ち數人と成る。拿りて童孺に問えば皆姓名を知る。蕭賁・劉孝先・劉靈は文學以外又此の法に精して、玩閱古今特に寶愛すべし。若し官未だ通顯ならざれば、每に公私に使令せられ、亦猥役と成る。吳郡顧士端は湘東國侍郎より出身し、後に鎮南府刑獄參軍と爲り、子の庭有りて西朝の中書舍人なり。父子皆琴書の藝有りて、尤も丹青に妙し。常に元帝に使せられて、每に羞恨を懷く。彭城劉岳は橐の子にして、仕えて驃騎府管記・平氏縣令と爲る。才學の快士にして畫絶倫なり。後武陵王に隨いて蜀に入り、下牢の敗に、便ち陸底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた軍の爲に支江寺の壁を畫き、諸の工巧と雜處す。假令此の三賢皆畫を曉らず、ただ素業を運ばば、豈に此の恥を見んや。弧矢之利は以て天下に威す。先王德を觀て賢を擇ぶ所以にして、亦身を濟うの急務なり。江南は世務の常射を以て兵射と爲し、冠冕の儒生多く此を習わず。別に博射有りて、弱弓長箭を準的に施し、揖讓升降して以て禮を行う。寇難を防禦するに毫も益無し。亂離の後此の術便ち亡ぶ。河北の文士は大都兵射を曉り、葛洪一箭にのみならず已に追兵を解し、三九底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた集常に榮賜を縻す。此の如しと雖も、輕禽を要り狡獸を截るは、汝らの爲すを願わず。卜筮は聖人の業なれども、近世更に佳師無く多く中る能わず。古者卜を以て疑を決す。今人は卜に疑を生ず。何を以てや。道を守り謀を信じて一事を作らんと欲するに、卜惡卦を得て反りて恜恜【音敕、惕なり】たらしむ。即ち此れなり。況んや十中六七すれば便ち以て高手と爲し、粗く大意を知るも又委曲ならず。およそ奇偶を射れば自然一半なり。何ぞ賴むに足らん。世傳陰陽を解説するは鬼に嫉まる。坎底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた貧窮にして多く泰を稱せず。我近古以來尤も精妙なるはただ京房・管輅・郭璞を見るに、皆官位無く多く或いは災に遭う。此の言更に人をして信ぜしむ。倘若世網の嚴密なるに遇上らば、强りて此の名を負えば便ち詿誤有らん。亦是れ禍源なり。星文風氣に至りては、一概に爲すに勞せず。我嘗て六壬式を學びて、亦世間の好匠に遇上り、《龍首》《金匱》《玉鑾》《玉歷》の十來種の書を聚得す。討求するも驗無く、久しからずして亦悔いて作罷す。およそ陰陽の術は天地と俱に生ず。其の吉底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた德刑は信刑は信ぜざるべからざるも、但だ聖に去ることすでに遠く、世傳の術書は皆流俗に出づ。言辭鄙淺にして驗少なく妄多し。反支行わずして竟に此に因りて害に遇い、歸忌宿を寄せて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた終を免れざるに至りては、拘りて忌多きも亦益無し。算術も亦六藝の要事にして、古より儒士の天道を論じ律歷を定むる者は皆學びて之に通ず。然れども以て兼ねて明るべきも、以て專業とすべからず。江南此の學甚だ少なく、ただ范陽祖暅のみ此に精して、位南康太守に至る。河北多く此の術を曉る【暅音豆】。醫方の事は妙を取ること極めて難し。汝ら此を以て自ら命ずるを勸めず。稍々藥性を了解し小小に配合して、居家以て急を救うを得れば、亦是れ好事なり。皇甫謐・殷仲堪は即ち此の如き人なり。《禮記》に君子故無くば琴瑟を撤さずと曰く。古來名士多所愛好す。梁初に至りて、衣冠の子孫琴を知らざるは號して缺有りと稱し、大同以後此の風頓に盡く。然れども此の樂愔愔として雅致有り。深味有るかな。今世の曲解は古に變ずと雖も、還お神情を暢するに足る。ただ人に稱譽有らしめ、勳貴に役使せられ、下坐に處りて殘杯冷炙の辱を取るべからず。戴安道尚お此に遭遇す。況んや汝らをや。《家語》に君子博せずと曰くは、其の惡道を兼行するを以てなり。《論語》に曰く、博弈する者有らざらんか。之を爲すは猶お已より賢なり、と。然らば則ち聖人は博弈を以て敎と爲さず。ただ學者常に精なるべからざるに因りて、時に疲倦すれば則ち偶や之を爲し、還お飽食昏睡して兀然として端坐するに勝れり。吳太子の益無しと以爲し韋昭に之を論ぜしめ、王肅・葛洪・陶侃の徒の目觀手執を許さざるに至りては、皆勤篤の志、能く此の如くなれば更に佳し。古時大博は則ち六箸、小博は則ち二煢。如今曉る無し。近代の行う所は一煢十二棋にして、數術淺短にして玩ぶに足らず。圍棋は手談・坐隱の目有りて、頗る雅戲なれども、人をして耽迷して廢喪せしむる實に多し。常に爲すべからず。投壺の禮は近世愈精なり。古者實に小豆を以てし、矢の躍起するを怕るを以てなり。如今ただ驍を求めて、多ければ多いほど喜び、乃ち倚竿・帶劍・狼壺・豹尾・龍首の名有り。尤も妙なるは蓮花の驍有り。汝南周璝は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた正の子、會稽賀徽は賀革の子なり。皆能く一箭四十餘驍す。賀又嘗て小障を作りて、壺を外面に置きて、障を隔てゝ之を投じて失する所無し。鄴に到りて以來、亦廣寧・蘭陵の諸王に此の校具有るを見るも、擧國竟に一驍を投げ得る無し。彈棋も亦近世の雅戲、愁を消し悶を釋す。偶や爲すべし。

終制篇第二十

終制篇第二十

死者人之常分不可免也吾年十九值梁家喪亂其間與白刃為伍者亦常數輩幸承餘福得至於今古人云五十不為夭吾已六十餘故心坦然不以殘年為念先有風氣之疾常疑奄然聊書素懷以為汝誡先君先夫人皆未還建鄴舊山旅江陵東郭承聖末啟求都欲營遷厝詔賜銀百兩已於州小郊北地燒磚使值本朝淪沒流離如此數十年間絶於還望今雖混一家道罄窮何由辦此奉營資費且都汗毀無復孑遺還被下溼未為得計自咎自責貫心刻髓計吾兄弟不當仕進但以門衰骨肉單弱五服之內傍無一人播越他鄉無復資廕使汝等沈淪廝役以為先世之恥故靦冒人間不敢墜失兼以北方政教嚴切全無隠退者故也今年老疾侵儻然奄忽豈求備禮乎一日放臂沐浴而已不勞復魄殮以常衣先夫人棄背之時屬世荒饉家塗空迫兄弟防弱棺器率薄藏內無塼吾當松棺二寸衣帽已外一不得自隨床上唯施七星板至如蠟弩牙玉豚錫人之屬並須停省糧甖明器故不得營碑誌旒旐彌在言外載以鱉甲車襯土而下平地無墳若懼拜掃不知兆域當築一堵低牆於左右前後隨為私記靈筵勿設枕幾朔望祥禫唯下白粥清水乾棗不得有酒肉餅果之祭親友來餟酹者一皆拒之汝曹若違吾心有加先妣則陷父不孝在汝安乎其內典功徳隨力所至勿刳竭生資使凍餒也四時祭祀周孔所教欲人勿死其親不忘孝道也求諸內典則無益焉殺生為之翻増罪累若報罔極之徳霜露之悲有時齋供及盡忠信不辱其親所望於汝也孔子之親也雲古者墓而不墳丘東西南北之人也不可以弗識也於是封之崇四尺然則君子應世行道亦有不守墳墓之時況為事際所逼也吾今羈旅身若浮雲竟未知何鄉是吾地唯當氣絶便埋之耳汝曹宜以傳業揚名為務不可顧戀朽壤以取湮沒也

死は人の常分にして免るべからず。我十九歲にして正に梁家喪亂に値う。其の間白刃と伍と爲すこと亦好幾次有り。幸いに餘福を承けて纔かに如今に至る。古人に五十を以て夭と爲さずと曰く。我すでに六十餘なれば、故に心裡坦然として、殘年を以て念と爲さず。先に風氣の疾有りて、常に忽然として去世せんことを疑う。聊か平日の懷抱を寫して以て汝らへの告誡と爲す。先君先夫人は未だ建鄴の舊山に歸せず、旅底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた江陵の東郭に在り。承聖の末都を啓求して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたし、遷厝を營まんと欲して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたし、銀百兩を詔賜せり。すでに底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた州の小郊の北地に於て磚を燒くに、正に本朝淪沒に値い、流離此の如し。數十年の間還望を絕つ。如今雖混一するも、家道罄窮して、豈に此の奉營の資費を辦ぜんや。況んや底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた都殘毁して復た孑遺無く、又被下濕して未だ得計と爲らず。自咎自責して心を貫き髓に刻す。我ら兄弟本來當に仕進すべからざるを計るに、ただ門衰え骨肉單弱にして、五服の内旁に一人無く、播越他鄉して資蔭無しを因る。汝らをして厮役に沉淪せしめて、以て先世の恥と爲す。故に顔を靦して人間に入りて敢えて墜落せず。兼ねて北方の政教嚴切にして、全く隱退する人無し。如今年老いて病侵し、倘若忽然として去世せば、豈に備禮を求めんや。一旦手を放たば、沐浴するのみ。復魄に勞せず、常衣を以て殮す。先夫人棄背の時、正に世道飢饉・家途空迫に値い、兄弟底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた弱にして、棺器簡薄にして藏内磚無し。我當に松棺二寸を以てし、衣帽以外一概に自ら隨うを得ず、牀上はただ七星板を施すべし。蠟弩牙・玉豚・錫人の類に至りては皆必ず停省し、糧罌明器は本就りて營辦するを得ず、碑志旒旐は更に話外に在り。鼈甲車を以て裝載し、土を襯して下し、平地墳無し。若し拜掃の兆域を知らざるを怕れば、當に一堵の低牆を左右前後に築きて、隨いて私記を作すべし。靈筵は枕几を設くる勿れ。朔望祥禫はただ白粥清水干棗を下し、酒肉餅果の祭有るを得ず。親友の來りて祭奠するは一概に拒絕す。汝ら若し我の心に違い先妣より禮を加えば、即ち父を不孝に陷るなり。汝ら心安んずるか。内典の功德は力の至る所に隨い、生資を刳竭して凍餒せしむる勿れ。四時の祭祀は周孔の教う所にして、人をして死せる親を忘れず孝道を忘れざらしめんと欲す。諸を内典に求めれば則ち益無く、生を殺して以て爲せば反りて罪累を增す。若し罔極の德・霜露の悲に報いんと欲せば、時に齋供、及び忠信を盡くし其の親を辱めざるは、是れ汝らに望む所なり。孔子底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた親を葬りて、古者は墓にして墳せずと曰い、自ら是れ東西南北の人にして、標識無かるべからずと曰い、於是に土を封じて高さ四尺と爲す。然らば則ち君子世に應じ道を行うも亦墳墓を守らざるの時有り。況んや事勢に逼めらるるをや。我如今羈旅にして身は浮雲の若く、竟に何の鄉か我の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた地なるを知らず。ただ當に氣絕すれば便ち埋むべし。汝ら當に業を傳え名を揚ぐるを以て務と爲し、朽壤を顧戀して以て湮沒を取るべからず。

顔氏家訓卷下

顔氏家訓卷下

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