周易本义
《周易》という書は、「卦」「爻」「彖」「象」四者の義理をすべて備えており、天地万物の実情もまたこれによって顕現する。聖人が天下の人々と後世の…
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
周易本義(南宋 朱熹 注)
序
《易》之為書,卦、爻、彖、象之義備,而天地萬物之情見。聖人之憂天下來世,其至矣!先天下而開其物,後天下而成其務,是故極其數以定天下之象,著其象以定天下之吉凶。六十四卦,三百八十四爻,皆所以順性命之理,盡變化之道也。散之在理,則有萬殊;統之在道,則無二致。所以,「《易》有太極,是生兩儀」。太極者,道也;兩儀者,陰陽也。
《周易》という書は、「卦」「爻」「彖」「象」四者の義理をすべて備えており、天地万物の実情もまたこれによって顕現する。聖人が天下の人々と後世のために憂慮したことは、まことに深く極まったものであった。天下人に先んじて万物の理を開き、天下人に後れて万物の事を成し遂げた。だから蓍策(ぜいさく)の数を窮めて天下の物象を定め、その物象を明らかにして天下の吉凶を判定したのである。六十四卦・三百八十四爻は、いずれも性命(せいめい)の理に順い、変化の法則を尽くすためのものである。分散の面から見れば、事事物物にそれぞれの理があり千差万別となるが、統合の面から見れば、万理は一道に帰して二つとない。だから《繋辞伝(けいじでん)》に「《易》に太極(たいきょく)あり、これ両儀(りょうぎ)を生ず」とある。「太極」とは道のことであり、「両儀」とは陰と陽のことである。
陰陽,一道也。太極,無極也。萬物之生,負陰而抱陽,莫不有太極,莫不有兩儀。糹因縕交感,變化不窮。形一受其生,神一發其智,情偽出焉,萬緒起焉。《易》所以定吉凶而生大業,故《易》者,陰陽之道也;卦者,陰陽之物也;爻者,陰陽之動也。卦雖不同,所同者奇、耦;爻雖不同,所同者九、六。是以六十四卦為其體,三百八十四爻互為其用,遠在六合之外,近在一身之中。暫於瞬息,微於動靜,莫不有卦之象焉,莫不有爻之義焉。至哉《易》乎!其道至大而無不包,其用至神而無不存。
陰と陽はもともと同一の道であり、太極そのものは形なく象なき「無極(むきょく)」である。万物の化生は、みな陰を負い陽を抱き、太極を含まない物はなく、両儀を含まない物もない。陰陽二気が絪縕(いんうん)として交感し、変化は窮まりがない。形体がひとたび生命を受け、精神がひとたび智識を発動すれば、真情と虚偽が現れ、万端の頭緒が興る。《周易》はまさに吉凶を定めて大業を成就するためのものだから、《易》とは陰陽変化の道理であり、卦とは陰陽が構成した物象であり、爻とは陰陽の運動である。六十四卦は形態こそ異なるが、同じなのはそれらを構成する奇画(きがく)と偶画(ぐうがく)であり、三百八十四爻は処遇こそ異なるが、同じなのは老陽を「九」、老陰を「六」と称することである。ゆえに六十四卦は《易》の本体であり、三百八十四爻は交わりあって《易》の功用となる。遠くは天地四方の外を包み、近くは自身の中に出ない。一瞬の短さ、一動一静の細さに至るまで、卦の象がそこにないことはなく、爻の義がそこにないことはない。偉大なことか、《周易》!その道理は大きく包まないものなく、その功用は神妙に及ばないところがない。
時固未始有一,而卦未始有定象;事固未始有窮,而爻亦未始有定位。以一時而索卦,則拘於無變,非《易》也;以一事而明爻,則窒而不通,非《易》也。知所謂卦、爻、彖、象之義,而不知有卦、爻、彖、象之用,亦非《易》也。故得之於精神之運,心術之動,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶,然後可以謂之知《易》也。雖然,《易》之有卦,《易》之已形者也;卦之有爻,卦之已見者也。已形已見者,可以言知;未形未見者,不可以名求,則所謂《易》者,果何如哉?此學者所當知也。
時勢はもともと一種だけではないから、卦にも一成不変の象はない。事はもともと窮尽がないから、爻にも一成不変の位はない。ある一時をもって一卦に当てはめれば、拘限されて変通を知らず、それは《易》ではない。ある一事をもって一爻に座実させれば、滞塞して通ぜず、それも《易》ではない。卦・爻・彖・象それぞれの義理を知るだけで、卦・爻・彖・象の生きた用を知らなければ、同じく《易》ではない。だから必ず精神の運用、心思の発動において領会し、德行が天地と合い、光明が日月と合い、次序が四時と合い、吉凶の判断が鬼神と合うようにしてこそ、はじめて《易》を知ると呼ぶことができる。とはいえ、《易》に卦があるのは、《易》がすでに成形した部分であり、卦に爻があるのは、卦がすでに顕現した部分である。すでに成形し顕現したものは言葉をもって認知できるが、いまだ成形せず顕現しないものは名相によって求めることができない。では《易》の本体とは一体何か。これはまさに《易》を学ぶ者が自ら体認すべきことである。
第一巻・上経
周,代名也。易,書名也。其卦本伏羲所畫,有交易、變易之義,故謂之易。其辭則文王、周公所繫,故繫之周。以其簡袠重大,故分為上下兩篇。《經》則伏羲之畫,文王、周公之辭也。並孔子所作之《傳》十篇,凡十二篇。中間頗為諸儒所亂。近世晁氏始正其失,而未能盡合古文。呂氏又更定著為《經》二卷、《傳》十卷,乃復孔氏之舊雲。
「周」は朝代の名称であり、「易」は書の名称である。書中の卦はもと伏羲(ふくぎ)が画いたもので、陰陽の交換・爻位の変動の意を含むから「易」と呼ぶ。卦爻辞は周文王と周公が系したものだから、「易」の字に「周」を冠した。竹簡の巻帙が重大な分量だったので上下二篇に分けた。いわゆる《経》とは、伏羲が画いた卦に、文王・周公が系した辞を加えたものである。さらに孔子の作った《伝》十篇を合わせ、全部で十二篇となる。この十二篇は流伝の間に歴代の儒者によってかなり混乱して編まれた。近世の晁説之(ちょうせつし)がはじめてその誤りを正したが、なお古本に完全に合わせることはできず、後に呂祖謙(りょそけん)が改めて厘定して《経》二巻・《伝》十巻とし、これで孔氏旧本の面貌を回復したという。
乾卦
乾下,乾上。乾:元亨利貞。乾,渠焉反。六畫者,伏羲所畫之卦也。「—」者,奇也,陽之數也。乾者,健也,陽之性也。本注乾字,三畫卦之名也。下者,內卦也;上者,外卦也。經文乾字,六畫卦之名也。伏羲仰觀俯察,見陰陽有奇耦之數,故畫一奇以象陽,畫一耦以象陰。見一陰一陽有各生一陰一陽之象,故自下而上,再倍而三,以成八卦。見陽之性健,而其成形之大者為天,故三奇之卦,名之曰乾,而擬之於天也。
《乾(けん)》卦は下体が乾、上体も乾である。卦辞に「乾:元亨利貞(げんこうりてい)」とある。「乾」の字は渠焉反と読む。この六画が伏羲の画いた卦である。「—」のような切れない一画を「奇(き)」と呼び、陽の数である。「乾」の意は剛健(ごうけん)であり、陽の本性である。注文に書く「乾」は三画の経卦の名を指し、「下」は内卦、「上」は外卦を指す。経文に書く「乾」は六画の別卦の名である。伏羲は上に天象を観、下に地法を察し、陰陽に奇数と偶数の別があるのを見て、奇画一条を画いて陽を象し、偶画一条を画いて陰を象した。また一陰一陽がそれぞれさらに一陰一陽を生じうるのを見て、下から上へ順に倍加し、三層に至って八卦となった。陽の性質が剛健であり、陽気が形を成す中で天より大きいものはないのを見て、三条の奇画から成る卦を「乾」と名づけ、「天」をもってこれに擬したのである。
三畫已具,八卦已成,則又三倍其畫,以成六畫,而於八卦之上,各加八卦,以成六十四卦也。此卦六畫皆奇,上下皆乾,則陽之純而健之至也。故乾之名,天之象,皆不易焉。元亨利貞,文王所繫之辭,以斷一卦之吉凶,所謂《彖辭》者也。元,大也。亨,通也。利,宜也。貞,正而固也。文王以為乾道大通而至正,故於筮得此卦,而六爻皆不變者,言其占當得大通,而必利在正固,然後可以保其終也。此聖人所以作《易》,教人卜筮,而可以開物成務之精意。餘卦放此。
三画の経卦が備わり八卦が成立すると、さらに画数を倍加して六画とし、八卦の上にそれぞれ八卦を重ねて六十四卦となった。《乾》卦は六画すべて奇画で、上下両体とも乾である。それは純粋の陽、極致の健だから、「乾」という卦名と「天」という卦象は六画卦になっても変わらない。「元亨利貞」は文王の系した辞で、一卦の吉凶を断定するもの、いわゆる《彖辞(たんじ)》である。「元」は大、「亨」は通、「利」は適宜、「貞」は純正にして固守である。文王は乾道が大いに通達し極めて純正であると考えた。だからおよそ占筮(せんぜい)でこの卦を得て六爻とも変わらない人は、その占の結果が大いに亨通し、利あるところは必ず正を守り固く持することにある、ということであり、こうしてはじめて終局を保てる。これはまさに聖人が《易》を作って人に卜筮を教え、それによって民智を開き事業を成就する精微な用意である。ほかの各卦の体例もすべてこれに倣う。
初九,潛龍勿用。潛,捷言反。初九者,卦下陽爻之名。凡畫卦者,自下而上,故以下爻為初。陽數九為老,七為少,老變而少不變,故謂陽爻為九。潛龍勿用,周公所繫之辭,以斷一爻之吉凶,所謂《爻辭》者也。潛,藏也。龍,陽物也。初陽在下,未可施用,故其象為潛龍。其占日勿用。凡遇乾而此爻變者,當觀此象,而玩其占也。餘爻放此。
《乾》卦初九の爻辞に「潜竜勿用(せんりゅうもちうるなかれ)」とある。「潜」の字は捷言反と読む。「初九」はこの卦の最下にある陽爻の名称である。およそ卦を画くは下から上へ画き起こすので、最下の一爻を「初」と呼ぶ。陽の数は九を老陽、七を少陽とし、老陽は変わり少陽は変わらない。占筮は変わるものを取るから、陽爻を「九」と称する。「潜竜勿用」は周公の系した辞で、一爻の吉凶を断定するもの、いわゆる《爻辞(こうじ)》である。「潜」は隠藏、「竜」は陽に属する神物である。初九の陽爻は最下に位し、まだ施展の時ではない。だからその象は潜伏する竜であり、その占断は「勿用」すなわち有所作为してはならない、である。およそ占筮で《乾》卦に遇いこの一爻が変動する人は、この象を観察しこの占辞を玩味すべきである。ほかの各爻の読み方もこれに倣う。
九二,見龍在田,利見大人。「見龍」之見,賢遍反。卦內「見龍」並同。二,謂自下而上,第二爻也。後放此。九二,剛健中正,出潛離隱,澤及於物,物所利見,故其象為見龍在田,其占為利見大人。九二雖未得位,而大人之德已著,常人不足以當之,故值此爻之變者,但為利見此人而已。蓋亦謂在下之大人也。此以爻與占者相為主賓,自為一例。若有見龍之德,則為利見九五在上之大人矣。
《乾》卦九二の爻辞に「見竜在田、利見大人(けんりゅうでんにあり、たいじんを見るに利あり)」とある。「見竜」の「見」は賢遍反と読み、すなわち「現」である。全卦中の「見竜」はすべてこの読みである。「二」は下から上へ数えて第二の爻を指し、以後各卦もこれに準じて呼ぶ。九二は剛健にして下卦の中に居り、「中正」の徳を得て、すでに潜伏を出て隠藏を脱し、恩沢は万物に及び、万物が喜んで見るところとなる。だからその象は竜が田野に現れることであり、その占断は大人を見るに利あり、である。九二はまだ君位を得ていないが、大人の徳はすでに顕著であり、尋常の人はこの称呼に堪えない。だから占筮でちょうどこの一爻の変動に当たる人は、ただ「この大人を見るに利あり」というだけのことである。ここで言うのもまた下位に居る大人である。これは爻と占う人を賓主二辺に分けて論じるもので、自ら一体例をなす。もし占う者自身が「見竜」のような徳を備えていれば、この言葉は九五の上位に居る大人を見るに利あり、となる。
九三,君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎。九,陽爻。三,陽位。重剛不中,居下之上,乃危地也。然性體剛健,有能乾乾惕厲之象,故其占如此。君子,指占者而言。言能憂懼如是,則雖處危地而無咎也。九四,或躍在淵,無咎。躍,羊灼反。或者,疑而未定之辭。躍者,無所緣而絕於地,特未飛爾。淵者,上空下洞,深昧不測之所。龍之在是,若下於田,或躍而起,則向乎天矣。九陽四陰,居上之下,改革之際,進退未定之時也。故其象如此,其占能隨時進退,則無咎也。
《乾》卦九三の爻辞に「君子終日乾乾、夕惕若、厲无咎(くんし 終日乾乾として、夕べに惕(つつし)むこと若(ごと)し。厲(あやう)しといえども咎(とが)なし)」とある。「九」は陽爻、「三」は陽位であり、陽爻が陽位に居るのは剛に剛を加えたもので、しかも上下卦の中位にあらず、内卦の最上層に正しく当たる。これは危険の地である。しかしその性質は本体剛健で、終日奮勉して怠らず、夜に入ってもなお警惕戒惧する象がある。だからその占断がこのようになるのである。辞中の「君子」は占う人について言う。このように憂惧の心を存するならば、身は危地にあっても災禍はない。《乾》卦九四の爻辞に「或躍在淵、无咎(あるいは躍(おど)りて淵(ふち)にあり。咎なし)」とある。「躍」の字は羊灼反と読む。「或」は遅疑未定の語気の詞である。「躍」は凭るものなく身を騰げて地を離れることで、ただまだ飛び立たないだけである。「淵」は上が空闊で下が深洞の、幽深にして測りがたい所である。竜が淵に処れば、下は田野に近く、ひとたび躍り起きれば天に向かう。九は陽爻、四は陰位で、上卦の最下層に居り、下体から上体に転じ局面が改革される关口に正しく当たり、進退がまだ定まらない時である。だからその象がこのようになる。その占断は、時勢に随って進むべきときは進み退くべきときは退けば、過ちはない、である。
九五,飛龍在天,利見大人。剛健中正以居尊位,如以聖人之德,居聖人之位。故其象如此,而占法與九二同,特所利見者在上之大人爾。若有其位,則為利見九二在下之大人也。上九,亢龍有悔。亢,苦浪反。上者,最上一爻之名。亢者,過於上而不能下之意也。陽極於上,動必有悔,故其象占如此。用九,見群龍無首,吉。用九,言凡筮得陽爻者,皆用九而不用七。蓋諸卦百九十二陽爻之通例也。
《乾》卦九五の爻辞に「飛竜在天、利見大人(ひりゅうてんにあり、たいじんを見るに利あり)」とある。九五は剛健中正の徳をもって至尊の位に居る。たとえば聖人の徳行をもって聖人の坐るべき位に坐ったようなものだから、その象は竜が天に飛ぶことである。その占法は九二と同じで、ただここで利あって見るべきと言うのは上位に居る大人である。もし占う者自身がすでに九五のような君位に居れば、この言葉は九二の下位に居る大人を見るに利あり、となる。《乾》卦上九の爻辞に「亢竜有悔(こうりゅう悔いあり)」とある。「亢」の字は苦浪反と読む。「上」は最上の一爻の名称である。「亢」は昇りすぎて再び下ることができない意である。陽気が最上層に至ってすでに極点に達し、一動すれば必ず悔恨を招く。だからその象と占断がともにこのようになる。続く「用九」の辞に「見群竜无首、吉(群竜の首なきを見る。吉)」とある。「用九」とは、およそ占筮で陽爻を得たときは老陽の数「九」を取り少陽の数「七」を取らないということで、これは六十四卦百九十二条の陽爻に通用する体例である。
以此卦純陽而居首,故於此發之,而聖人因繫之辭,使遇此卦而六爻皆變者,即此占之。蓋六陽皆變,剛而能柔,吉之道也,故為「群龍無首」之象,而其占為如是,則吉也。《春秋傳》曰:「《乾》之《坤》,曰:‘見群龍無首,吉。’」蓋即純《坤》卦辭「牝馬之貞,先迷後得,東北喪朋」之意。
《乾》は純陽の卦であって六十四卦の首に並ぶから、ここで「用九」の通例を明らかにしたのである。聖人はまたこれに一句の辞を系して、占筮でこの卦に遇い六爻すべて変わる人が、この辞によって吉凶を断ずるようにした。六条の陽爻がすべて変わるのは、剛強にして能く柔順に転じることで、これは吉に趨る道である。だから「群竜にあえて先んじて首となるものなし」の象を取り、その占断は、能くこのようであれば吉利である、となる。《春秋左伝》に記す筮例に「《乾》卦が《坤》卦に変ずるとき、その辞は『群竜の首なきを見る。吉』」とある。これは実は純《坤》卦辞の「牝馬之貞、先迷後得、東北喪朋」という、柔順にして先んじて争わない意である。
《彖》曰:大哉乾元,萬物資始,乃統天。彖,吐亂反。彖,即文王所繫之辭。傳者,孔子所以釋經之辭也。後凡言傳者,放此。此專以天道明乾義,又析「元亨利貞」為四德以發明之。而此一節,首釋元義也。大哉,嘆辭。元,大也,始也。乾元,天德之大始。故萬物之生,皆資之以為始也。又為四德之首,而貫乎天德之始終,故曰統天。
《乾卦・彖伝(たんでん)》に「大なるかな乾元(けんげん)、万物これに資(と)りて始まる、乃ち天を統(す)ぶ」とある。「彖」の字は吐乱反と読む。いわゆる「彖」とは文王の系した卦辞のことであり、いわゆる「伝」とは孔子が経文を解釈した言葉である。以後「伝」と言うときはすべてこの意で見る。この篇はもっぱら天道をもって乾の意義を闡明(せんめい)し、また「元亨利貞」を四種の徳性に分けて発揮するが、この節ではまず「元」の意を解釈する。「大哉」は讃嘆の辞である。「元」は大であり、また始めである。「乾元」とは天徳の偉大なる開端であり、だから万物の化生はすべてこれを凭りて起点とする。「元」はまた四徳の首で、天徳の始と終を貫通するから、それを「統天」と言い、天道全体を統攝するのである。
雲行雨施,品物流形。施,始豉反。卦內同。此釋《乾》之「亨」也。大明終始,六位時成,時乘六龍以御天。始,即元也。終,謂貞也。不終則無始,不貞則無以為元也。此言聖人大明乾道之終始,則見卦之六位各以時成,而乘此六陽以行天道,是乃聖人之元亨也。
《彖伝》は続けて「雲行雨施(うんこううし)、品物流形(ひんぶつりゅうけい)」という。「施」の字は始豉反と読み、本卦中はすべてこの読みである。この句は《乾》卦辞の「亨」を解釈する。また「大明終始、六位時成、時乗六龍以御天(だいみょうしゅうし、ろくいときに成り、ときに六龍に乗じて以て天を御(ぎょ)す)」とある。ここでいう「始」はすなわち「元」、「終」はすなわち「貞」である。終結なければ開端なく、正を守り固く持することができなければ、再び新しい始めを得る由もない。これは聖人が乾道の終わりて復た始まる理を徹底的に明らかにし、それによって一卦六爻の位が各々その時に按(お)って成就するのを見極め、こうしてこの六条の陽爻を駕御して天道を推行することを言う。これがすなわち聖人の身における「元」と「亨」である。
乾道變化,各正性命,保合太和,乃利貞。變者,化之漸。化者,變之成。物所受為性,天所賦為命。太和,陰陽會合沖和之氣也。各正者,得於有生之初。保合者,全於已生之後。此言乾道變化,無所不利,而萬物各得其性命以自全,以釋利貞之義也。
《彖伝》はまた「乾道変化、各正性命、保合太和、乃利貞(けんどうへんか、おのおのそのせいめいを正しくし、たいわを保合して、乃ちりてい)」という。「変」は漸々に化すること、「化」は変じて成るに至ることである。物が禀受するものを「性」といい、天が賦与するものを「命」という。「太和」は陰陽が会合し冲虚にして和順する一団の気である。いわゆる「各正」は、生命の初起の時に各々すでに端正していることであり、いわゆる「保合」は、すでに生成した後もなお保全して失わないことである。これは乾道が運行変化して往かずして適宜でないことがなく、万物が各々その性命を得て自身を保全することを言う。朱熹はこの句をもって卦辞中の「利」と「貞」の義を解釈する。
首出庶物,萬國咸寧。聖人在上,高出於物,猶乾道之變化也。萬國各得其所而咸寧,猶萬物之各正性命而保合、太和也。此言聖人之利貞也,蓋嘗統而論之。元者,物之始生,亨者,物之暢茂,利則向於實也,貞則實之成也。實之既成,則其根蒂脫落,可複種而生矣,此四德之所以循環而無端也。然而四者之間,生氣流行,初無間斷,此元之所以包四德而統天也。其以聖人而言,則孔子之意,蓋以此卦為聖人得天位,行天道,而致太平之占也。雖其文義有非文王之舊者,然讀者各以其意求之,則並行而不悖也。《坤》卦放此。
《彖伝》は最後に「首出庶物、万国咸寧(しゅしゅつしょぶつ、ばんこくなんねい)」という。聖人が上位に居り、万物の上に高く出ることは、乾道の運行変化のようであり、万国が各々その所を得て皆安寧であることは、万物が各々性命を正しくし太和を保合するようである。これは聖人の身における「利」と「貞」を言う。もし合わせてこの四徳を通論すれば、「元」は物の初生、「亨」は物の暢茂、「利」は結実に向かうこと、「貞」は果実の成熟である。果実がすでに成熟すれば、根蒂は脱け落ちて再び下種して生ずることができる。これが四徳の循環して起止なき所以である。しかし四者の間、生生の気はつねに流行して断絶したことがない。これが「元」が四徳を包含して天道を統攝する所以である。もし単に聖人の一面について言えば、孔子の意はおそらくこの卦を、聖人が天子の位を得て天道を施行し天下太平を致す占と見たのであろう。《彖伝》の文義には文王卦辞の原意でないところもあるが、読者は各々自ら求める面に按って理解すればよく、二説並行しても矛盾はない。《坤》卦の読み方もこれに倣う。
《象》曰:天行健,君子以自強不息。象者,卦之上下兩象,及兩象之六爻,周公所繫之辭也。天,《乾》卦之象也。凡重卦皆取重義,此獨不然者,天一而已。但言天行,則見其一日一周,而明日又一周。若重複之象,非至健不能也。君子法之,不以人慾害其天德之剛,則自強而不息矣。
《乾卦・象伝(しょうでん)》に「天行健、君子以自彊不息(てんこうけん、くんしもってじきょうふそく)」とある。いわゆる「象」とは、一卦の上下両体の象および両体が含む六爻の象について言うもので、周公の系した辞である。「天」は《乾》卦の物象である。およそ上下に重畳した卦は一般に「重畳」の意を取るが、ただ《乾》だけはそうでない。天は一つしかないからである。しかし「天行」と言えば、それが一日に一週運転し、明日また一週運転することが見て取れる。この一週に一週が接する、あたかも重複するような象は、極めて剛健でなければできることではない。君子はこれに取法して、人の私欲が自ら禀ける天徳の剛を損なわせなければ、能く自彊して永く息まない。
「潛龍勿用」,陽在下也。陽,謂九。下,謂潛。「見龍在田」,德施普也。「終日乾乾」,反復道也。復,芳服反。本亦作「覆」。反覆,重複踐行之意。「或躍在淵」,進無咎也。可以進而不必進也。「飛龍在天」,大人造也。造,徂早反。造,猶作也。「亢龍有悔」,盈不可久也。「用九」,天德不可為首也。言陽剛不可為物先,故六陽皆變而吉。「天行」以下,先儒謂之《大象》。「潛龍」以下,先儒謂之《小象》。後放此。
《乾卦・小象伝(しょうしょうでん)》が爻ごとに解釈して言う。「『潜竜勿用』は、陽下に在ればなり」――「陽」は九の陽爻を指し、「下」は潜伏の位を指す。「『見竜在田』は、徳施普し(とくしあまねし)なり」。「『終日乾乾』は、反復道(はんぷくどう)なり」――「復」は芳服反と読み、ある本は「覆」と作る。「反復」は反復して絶えず践行する意である。「『或躍在淵』は、進みて咎なきなり」――進むべきではあるが、必ず進まなければならないわけではないということ。「『飛竜在天』は、大人造(たいじんつく)るなり」――「造」は徂早反と読み、「造」は興起して有所作为すること。「『亢竜有悔』は、盈(みつ)れば久しからざるなり」。「『用九』は、天徳首となるべからざるなり」――陽剛は万物に先んじるべからず、だから六条の陽爻がすべて変わると却って吉を得る。「天行」の条以下を先儒は《大象(たいしょう)》と称し、「潜竜」の条以下を先儒は《小象(しょうしょう)》と称した。以後各卦ともこれに倣う。
《文言》曰:元者,善之長也,亨者,嘉之會也,利者,義之和也,貞者,事之幹也。長,丁丈反。下「長人」同。乾,古旦反。此篇申《彖傳》、《象傳》之意,以盡《乾》、《坤》二卦之蘊,而餘卦之說,因可以例推雲。元者,生物之始,天地之德,莫先於此,故於時為春,於人則為仁,而眾善之長也。亨者,生物之通,物至於此,莫不嘉美,故於時為夏,於人則為禮,而眾美之會也。
《乾卦・文言伝(ぶんげんでん)》に「元は善の長なり、亨は嘉の会なり、利は義の和なり、貞は事の幹なり」とある。「長」は丁丈反と読み、下文「長人」の「長」も同じくこの読みである。「幹」は古旦反と読む。この篇は《彖伝》《象伝》の意を引申して、《乾》《坤》両卦の底蘊(ていうん)を説き尽くし、ほかの各卦の講法もまたこの例に照らして類推できる。「元」は生物の開端であり、天地之徳でこれより先にあるものはない。四時に配すれば春、人事に配すれば「仁」であるから、衆善の首である。「亨」は生物の通暢であり、万物がこの段階に至れば美しくないものはない。四時に配すれば夏、人事に配すれば「礼」であるから、衆美の会聚である。
利者,生物之遂,物各得宜,不相妨害,故於時為秋,於人則為義,而得其分之和。貞者,生物之成。實理具備,隨在各足,故於時為冬,於人則為智,而為眾事之幹。乾,木之身而枝葉所依以立者也。君子體仁足以長人,嘉會足以合禮,利物足以和義,貞固足以幹事。以仁為體,則無一物不在所愛之中,故足以長人。嘉其所會,則無不合禮。使物各得其所利,則義無不和。貞固者,知正之所在而固守之,所謂知而弗去者也,故足以為事之幹。
「利」は生物が各々その性を遂げ、万物が各々その宜しきを得て彼此相害しないことである。四時に配すれば秋、人事に配すれば「義」であるから、各々その分に安んずる和諧を得る。「貞」は生物の成就であり、実在の理が完全に備わり、随処に自足して欠けない。四時に配すれば冬、人事に配すれば「智」であるから、衆事の骨幹である。いわゆる「幹」とは樹木の主幹で、枝も葉もみなそれに依拠してはじめて立つ。《文言伝》は続けて「君子は仁を体すれば以て人を長するに足り、嘉会は以て礼に合するに足り、利物は以て義を和するに足り、貞固は以て事を幹するに足る」という。仁を以て自己の本体とすれば、一物として彼の愛する範囲に入らないものはなく、だから衆人の長たるに足る。自ら会聚する事物をことごとく美善に帰せしめれば、礼に合しないものはない。万物に各々その応得の利益を得させれば、義は和せざるなし。いわゆる「貞固」とは、正道の在るところを知ってこれを固く守ること、すなわち正道を認清すれば決して背離しないことであるから、一切の事の骨幹たるに足る。
君子行此四德者,故曰「乾:元、亨、利、貞」。非君子之至健,無以行此,故曰「乾:元、亨、利、貞」。此第一節,申《彖傳》之意,與《春秋傳》所載穆姜之言不異,疑古者已有此語。穆姜稱之,而夫子亦有取焉,故下文別以「子曰」表孔子之辭。蓋傳者欲以明此章之為古語也。
《文言伝》は総括して「君子此の四徳を行う者なり、故に曰く『乾:元・亨・利・貞』と」という。朱熹の解釈では、君子のように極致の剛健でなければ、この四徳を一一行い尽くすことはできない。だから「乾:元・亨・利・貞」と言うのである。これは《文言伝》の第一節で、《彖伝》の意を引申するためのものである。それは《春秋左伝》に記す魯国の穆姜(ぼくしょう)の言葉と全く同じであるから、この数句は古くからすでにあったと疑うことができる。穆姜がかつてこれを引述し、孔子もまたこれを採用した。だから下文では別に「子曰」をもって、どれが孔子自身の言葉かを標明している。おそらく伝を作った者はまさにこれを借りて、この章が本来古語であったことを表明しようとしたのであろう。
初九曰「潛龍勿用」,何謂也?子曰:「龍德而隱者也。不易乎世,不成乎名,遁世無悶,不見是而無悶,樂則行之,憂則違之,確乎其不可拔,潛龍也。」樂,音洛。確,苦學反。龍德,聖人之德也,在下故隱。易,謂變其所守。大抵《乾》卦六爻,《文言》皆以聖人明之,有隱顯而無淺深也。
《文言伝》は問うて曰く、初九の爻辞に「潜竜勿用」とあるのは、何を謂うか。孔子答えて曰く、「これは竜のような徳を具えて隠居して出ない人である。彼は世俗の風気によって自己の操守を変えず、また世上に名声を成すことを求めない。世を避けて隠居しても煩悶せず、人に称許されなくても煩悶しない。心に快い事であれば行い、憂うべき事であれば避けて為さない。堅定にして動揺する由なし。これが潜竜である」と。「楽」は洛と読み、「確」は苦学反と読む。いわゆる「竜徳」とは聖人の徳行である。下位に身を居するから、隠れて顕れない。「易」は自ら守るところを改変する意である。おおよそ《乾》卦の六爻は、《文言伝》はみな聖人をもって説明し、その間には隠と顕の区別があるだけで、徳行の深浅の差等はない。
九二曰「見龍在田,利見大人」,何謂也?子曰:「龍德而正中者也。庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,德博而化。《易》曰‘見龍在田,利見大人’,君德也。」行,下孟反。邪,似嗟反。正中,不潛而未躍之時也。常言亦信,常行亦謹,盛德之至也。閒邪存其誠,無斁亦保之意。言君德也者,釋大人之為九二也。
《文言伝》は問うて曰く、九二の爻辞に「見竜在田、利見大人」とあるのは、何を謂うか。孔子答えて曰く、「これは竜のような徳を具えて居位が正にして中なる人である。平常言うことは信用を講じ、平常為すことは謹慎であり、邪念を防閑して内心の誠を保ち、善が一世に及んでも自ら誇らず、徳行が広博にして人を感化することができる。《易》に『見竜在田、利見大人』とあるのは、人君の徳あるなり」と。「行」は下孟反と読み、「邪」は似嗟反と読む。いわゆる「正中」とは、もはや潜蔵せず、しかしまだ騰躍しない時である。平常の言も信を守り、平常の事も謹慎する、これは盛徳が極処に至ったのである。「閑邪存其誠」とは、《詩経・大雅・思斉》のいう「无射亦保(うやくなきもまた保つ)」――たとえ監臨する人なくとも照らして持守する――の意である。伝文に「君徳也」とあるのは、爻辞の大人が九二を指すと解釈したのである。
九三曰「君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎」,何謂也?子曰:「君子進德修業。忠信,所以進德也。修辭立其誠,所以居業也。知至至之,可與幾也。知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂。故乾乾因其時而惕,雖危,無咎矣。」幾,音機。忠信,主於心者,無一念之不誠也。修辭見於事者,無一言之不實也。雖有忠信之心,然非修辭立誠,則無以居之。知至至之,進德之事,知終終之,居業之事,所以終日乾乾而夕猶惕若者,以此故也。可上可下,不驕不憂,所謂無咎也。
《文言伝》は問うて曰く、九三の爻辞に「君子終日乾乾、夕惕若、厲无咎」とあるのは、何を謂うか。孔子答えて曰く、「君子は徳行を増進し、功業を修治しようとする。忠と信は徳行を増進するためのものであり、言辞を修飭して自らの誠実を樹立するのは、功業を守り持つためのものである。あらかじめ至るべき地步を知って力を尽くしてそれに至る者は、これとともに幾微(きび)の理を談ずることができる。あらかじめ終わるべき地步を知って期するごとく終わる者は、これとともに義理を持守することができる。だから上位に居ても驕矜せず、下位に処っても憂惧しない。ゆえに終日奮勉して怠らず、また随時に警惕し、身境は危険でも災禍はない」と。「幾」は机と読む。いわゆる忠信は内心に主して、一つの念頭として誠ならざるはなく、いわゆる修辞は事に表れて、一つの言葉として実ならざるはない。たとえ忠信の心があっても、言辞を修飭して誠実を樹立しなければ、功業を守り持つ由がない。「知至至之」は進徳の事に属し、「知終終之」は居業の事に属する。九三が終日乾乾として怠らず夜に入ってもなお惕惧するのは、まさにこのためである。上に居るべく下に処るべく、驕らず憂えず、これがいわゆる「過ちなし」である。
九四曰「或躍在淵,無咎」,何謂也?子曰:「上下無常,非為邪也;進退無恆,非離群也。君子進德修業,欲及時也,故無咎。」離,去聲。內卦以德學言,外卦以時位言。進德修業,九三備矣。此則欲其及時而進也。九五曰「飛龍在天,利見大人」,何謂也?子曰:「同聲相應,同氣相求。水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎,聖人作而萬物睹。本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。」應,去聲。作,起也。物,猶人也。睹,釋利見之意也。本乎天者,謂動物,本乎地者,謂植物。物各從其類。聖人,人類之首也。故興起於上,則人皆見之。
《文言伝》は問うて曰く、九四の爻辞に「或躍在淵、无咎」とあるのは、何を謂うか。孔子答えて曰く、「時に上り時に下りて定準なく、これは邪僻の事を為さんとするにあらず。忽ち進み忽ち退いて常規なく、これは同類に背離せんとするにあらず。君子が徳行を増進し功業を修治するのは、時機に追いつこうと欲するからで、だから過ちはない」と。「離」は去声に読む。《乾》卦の内卦三爻は徳行学問の上に就いて言い、外卦三爻は時勢地位の上に就いて言う。徳行を増進し功業を修治することは九三ですでに言い尽くされており、ここでは九四が時機を掴んで向上進取することを望むのである。《文言伝》はまた問うて曰く、九五の爻辞に「飛竜在天、利見大人」とあるのは、何を謂うか。孔子答えて曰く、「同類の声は互いに応和し、同類の気は互いに求め合う。水は低湿の所へ流れ、火は乾燥の所に焼きつく。雲は竜に随って生じ、風は虎に随って起こる。聖人がひとたび興起すれば、万物は皆来たりて瞻仰する。根源が天にある者は上に親附し、根源が地にある者は下に親附し、各々その同類に従う」と。「応」は去声に読む。「作」は興起の意である。ここでいう「物」は実は人を指す。「睹」の字は爻辞の「利見」の意を解釈するために用いられた。「本乎天者」は動物を指し、「本乎地者」は植物を指し、各物とも自らの同類に従う。聖人は人類中の首出者だから、彼が上位にひとたび興起すれば、人々は皆仰ぎ見て彼に遇うのである。
上九曰「亢龍有悔」,何謂也?子曰:「貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。」賢人在下位,謂九五以下。無輔,以上九過高志滿,不來輔助之也。此第二節,申《象傳》之意。「潛龍勿用」,下也。「見龍在田」,時舍也。舍,音扌舍。言未為時用也。「終日乾乾」,行事也。「或躍在淵」,自試也。未遽有為,姑試其可。「飛龍在天」,上治也。治,平聲。居上以治下。「亢龍有悔」,窮之災也。乾元「用九」,天下治也。治,去聲。言乾元用九,見與他卦不同。君道剛而能柔,天下無不治矣。此第三節,再申前意。
《文言伝》は問うて曰く、上九の爻辞に「亢竜有悔」とあるのは、何を謂うか。孔子答えて曰く、「身分は尊貴でありながら実位なく、地位は高絶でありながら百姓なく、賢人は下位にありながら来たりて輔佐せず。したがって一挙動あるごとに悔恨を招く」と。いわゆる「賢人在下位」とは九五以下の各爻を指す。いわゆる「无輔」とは、上九があまりに高亢にして心志自満するため、賢人が来たりて輔助しようとしないからである。以上は《文言伝》の第二節で、《象伝》の意を引申するものである。以下第三節で再び爻ごとに申説する。「『潜竜勿用』は、下なり」――最下の位に処ること。「『見竜在田』は、時舎(じしゃ)なり」――「舎」は「舎」と音同じく、まだ時勢に任用されていないということ。「『終日乾乾』は、行事(こうじ)なり」。「『或躍在淵』は、自試(じし)なり」――急いで有所作为せず、しばらく自ら能否を試みること。「『飛竜在天』は、上治(じょうち)なり」――「治」は平声に読み、上位に居って下民を治理すること。「『亢竜有悔』は、窮之災(きゅうしのわざわい)なり」。「乾元『用九』は、天下治なり」――この「治」は去声に読む。これは乾元の用九を言い、《乾》卦がほかの卦と異なることが見える。為君の道は剛強にして能く柔順ならば、天下に治まらざるはない。以上は第三節で、再び前の意を申説したものである。
「潛龍勿用」,陽氣潛藏。「見龍在田」,天下文明。雖不在上位,然天下已被其化。「終日乾乾」,與時偕行。時,當然也。「或躍在淵」,乾道乃革。離下而上,變革之時。「飛龍在天」,乃位乎天德。天德,即天位也。蓋唯有是德,乃宜居是位,故以名之。「亢龍有悔」,與時偕極。乾元「用九」,乃見天則。剛而能柔,天之法也。此第四節,又申前意。
《文言伝》はまた爻ごとに申説する。「『潜竜勿用』は、陽気潜蔵(ようきせんぞう)なり」。「『見竜在田』は、天下文明(てんかぶんめい)なり」――九二は上位にあらざるも、天下はすでに彼の教化を蒙っている。「『終日乾乾』は、時と偕に行(ともにゆ)くなり」――ここでいう「時」とは、理に当然の時勢を指す。「『或躍在淵』は、乾道乃ち革(あらた)まるなり」――下卦を離れて上卦に入る、まさに変革の关口である。「『飛竜在天』は、乃ち位するや天徳にあり」――いわゆる「天徳」とは天子の位のこと。ただこのような徳を具えてこそ、このような位に居るに配する。だから「天徳」をもってこれを称する。「『亢竜有悔』は、時と偕に極(きわ)まるなり」。「乾元『用九』は、乃ち天則を見るなり」――剛強にして能く柔順は、まさに上天の法則である。以上は第四節で、また前の意を申説したものである。
《乾》「元」者,始而亨者也。始則必亨,理勢然也。「利貞」者,性情也。收斂歸藏,乃見性情之實。乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉。始者,元而亨也。利天下者,利也。不言所利者,貞也。或曰:《坤》利牝馬,則言所利矣。大哉乾乎,剛健中正,純粹精也。剛以體言,健兼用言中者,其行無過不及。正者,其立不偏。四者,乾之德也。純者,不雜於陰柔。粹者,不雜於邪惡。蓋剛健中正之至極而精者,又純粹之至極也。或疑乾剛無柔,不得言中正者,不然也。天地之間,本一氣之流行,而有動靜爾。以其流行之統體而言,則但謂之乾而無所不包矣;以其動靜分之,然後有陰陽剛柔之別也。
《文言伝》に曰く、「《乾》の『元』とは、始めて亨る者なり」――万物がすでに始まれば、必ず通達する。これは理と勢いの必然である。「『利貞』とは、性情(せいじょう)なり」――陽気が収斂して蔵に帰してこそ、乾の性情の実処が見出せる。伝文はまた曰く、「乾は始めて能く美利をもって天下を利し、利するところを言わず、大いなるかな」と。ここでいう「始」とは元にして亨ること、「利天下」とは利、「利するところを言わない」とは貞である。ある人が疑問を提出する。《坤》卦辞に「利牝馬之貞」とあるのは、利するところを言い出したではないか、と。伝文は続けて讃嘆して曰く、「大なるかな乾かな、剛健中正、純粋にして精なり」と。「剛」は本体に就いて言い、「健」は功用を併せて言う。「中」は行いに過ぎもなく及ばざるもなく、「正」は立身偏倚なきを指す。この四様が乾の徳である。「純」は陰柔を夾雑せざること、「粹」は邪悪を夾雑せざることである。剛健中正が極点に至りしかも精微は、すなわち純粋が極点に至ることである。ある人が疑う。乾には剛のみあって柔なく、どうして「中正」と言えようか、と。実はそうではない。天地の間はもともと一気の流行のみで、ただ動あり静あるのみである。この一気流行の統体に就いて言えば、ただ「乾」と呼ぶのみで包まざるなく、その動と静を分けて言って後、はじめて陰陽剛柔の区別があるのである。
六爻發揮,旁通情也。旁通,猶言曲盡。時乘六龍,以御天也。雲行雨施,天下平也。言聖人時乘六龍以御天,則如天之雲行雨施而天下平也。此第五節,復申首章之意。君子以成德為行,日可見之行也。「潛」之為言也,隱而未見,行而未成,是以君子弗用也。行,並去聲。「未見」之見,音現。成德,已成之德也。初九固成德,但其行未可見爾。君子學以聚之,問以辨之,寬以居之,仁以行之。《易》曰「見龍在田,利見大人」,君德也。蓋由四者以成大人之德。再言君德,以深明九二之為大人也。
《文言伝》は続けて曰く、「六爻発揮、旁通情(ぼうつうじょう)なり」――「旁通」とは曲折詳尽に表現することである。また曰く、「時に六龍に乗じて、以て天を御するなり。雲行雨施して、天下平なり」と。これは聖人が時に按じて六条の陽爻を駕御して天道を推行することを言い、あたかも天上に雲行し雨降して天下が太平であるようである。以上は第五節で、再度首章の意を申説したものである。伝文はまた曰く、「君子は成徳を以て行と為す、日に見るべきの行なり。『潜』という言も、隠れて未だ見えず、行いて未だ成らず、これを以て君子は用いざるなり」と。二つの「行」の字はともに去声に読み、「未見」の「見」は現と読む。いわゆる「成徳」とはすでに成就した徳である。初九はもともとすでに成徳あるも、ただ彼の行事がまだ顕現しえないだけである。伝文はさらに曰く、「君子は学んで以てこれを聚め、問うて以てこれを辨じ、寛にして以てこれに居り、仁にして以てこれを行う。《易》に曰く『見竜在田、利見大人』は、君徳なり」と。まさに学・問・寛・仁の四様を凭りて大人の徳を成就するのである。ここで二度「君徳」と言うのは、より深く九二が爻辞の指す大人であることを表明するためである。
九三,重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危,無咎矣。重,平聲。下同。重剛,謂陽爻陽位。九四,重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故或之。或之者,疑之也。故無咎。九四非重剛,重字疑衍。在人,謂三。或者,隨時而未定也。
《文言伝》に曰く、「九三は、重剛にして中ならず。上は天に在らず、下は田に在らず。故に乾乾としてその時に因りて惕み、危うしといえども咎なし」と。「重」は平声に読み、下文同じ。いわゆる「重剛」とは、陽爻がまた陽位に居ることを指す。伝文は続けて曰く、「九四は、重剛にして中ならず。上は天に在らず、下は田に在らず、中は人に在らず。故にこれを或るす。或るするとは、これを疑うなり。故に咎なし」と。按するに九四は陽爻が陰位に居り、重剛には属さない。「重」の字はおそらく写本で多出した衍文(えんぶん)であろう。いわゆる「在人」とは第三爻の人位を指し、いわゆる「或」とは時勢の推移に随ってまだ定まらないことである。
夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶;先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?夫,音扶。先、後,並去聲。大人,即釋爻辭所利見之大人也。有是德而當其位,乃可以當之。人與天地鬼神,本無二理,特蔽於有我之私,是以梏於形體而不能相通。大人無私,以道為體,曾何彼此先後之可言哉?先天不違,謂意之所為,默與道契。後天、奉天,謂知理如是,奉而行之。回紇謂郭子儀曰:「卜者言,此行當見一大人而還。」其占蓋與此合。若子儀者,雖未及乎夫子之所論,然其至公無我,亦可謂當時之大人矣。
《文言伝》に曰く、「夫れ大人とは、天地とその徳を合し、日月とその明を合し、四時とその序を合し、鬼神とその吉凶を合す。天に先んじても天違(たが)わず、天に後れても天時を奉ず」と。――大人の徳行は天地と合い、光明は日月と合い、行事の次第は四時と合い、吉凶の断定は鬼神と合う。彼は天時に先んじて動いても天も彼に背かず、天時に後れて行えば天の時序を奉順する。上天なお彼に背かないのだから、まして人においてをや、まして鬼神においてをや。「夫」は扶と読み、「先」「後」はともに去声に読む。ここでいう「大人」は、まさに爻辞中の「利見」のあの大人を解釈する。このような徳あり、また正しくこのような位に当たってこそ、この称呼に当たりうる。人と天地鬼神とはもともと両様の道理なく、ただ「有我」の私意に遮蔽されて、形体に拘限されて彼此相通じえないだけである。大人は私心なく、道を以て自己の本体とする。どこに彼此先後の分かれがあろうか。いわゆる「先天而天弗違」とは、彼の心意の為さんと欲することが、暗黙のうちに自然と天道に契合することを言う。いわゆる「後天而奉天時」とは、彼が天理の本来このようであるを知って、奉行して違わないことを言う。昔、回紇(かいこつ)の人が郭子儀(かくしぎ)に言った。「占卜する者の言うに、このたびは一人の大人を見て帰るべし」と。その占筮の得たところは、おそらく《文言伝》のこの段に正しく合致したのであろう。郭子儀のような人は、孔子がここで論ずる大人にはなお及ばないが、しかし彼は極めて公正にして私己の心を絲毫も持たず、当時の大人と算することができる。
「亢」之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。喪,去聲。所以動而有悔也。其唯聖人乎。知進退存亡,而不失其正者,其唯聖人乎。知其理勢如是,而處之以道,則不至於有悔矣,固非計私以避害者也。再言其唯聖人乎,始若設問,而卒自應之也。此第六節,復申第二、第三、第四節之意。
《文言伝》は最後に曰く、「『亢』という言も、進むを知りて退くを知らず、存を知りて亡を知らず、得を知りて喪を知らず」と。「喪」は去声に読む。ただ前進を知って後退を知らず、ただ保存を知って喪亡を知らず、ただ獲得を知って失去を知らない。だから一挙動あるごとに悔恨を招く。伝文は続けて曰く、「それ唯れ聖人か。進退存亡を知りて、その正を失わざる者は、それ唯れ聖人か」と。――進退存亡の理を能く解して終始その正を失わない者は、おそらく聖人だけであろう。事理と情勢の本来このようであるを明白にし、また道に依って自処すれば、悔恨に至らない。もちろんこれは私算を弄してただ禍害を躲避せんとするやり方ではない。二度「其唯聖人乎」と言うのは、初めは問いを発するようで、末に至って自ら答えを作る。以上は第六節で、再度第二・第三・第四節の意を申説したものである。
坤卦
坤下,坤上。坤:元亨,利牝馬之貞。君子有攸往,先迷後得,主利。西南得朋,東北喪朋。安貞吉。牝,頻忍反。喪,去聲。一者,偶也,陰之數也。坤者,順也,陰之性也。注中者,三畫卦之名也;經中者,六畫卦之名也。陰之成形,莫大於地。此卦三畫皆偶,故名坤而象地。重之又得坤焉,則是陰之純,順之至,故其名與象皆不易也。
《坤(こん)》卦は下体が坤、上体も坤である。卦辞に「坤:元亨、利牝馬之貞。君子有攸往、先迷後得、主利。西南得朋、東北喪朋。安貞吉」とある。「牝」は頻忍反と読み、「喪」は去声に読む。中断した一画を「偶(ぐう)」と呼び、陰の数である。「坤」の意は柔順であり、陰の本性である。注文にいう「坤」は三画経卦の名称であり、経文にいう「坤」は六画別卦の名称である。陰気が凝聚して形を成すのに、大地より大きいものはない。この卦は三画すべて偶画であるから、「坤」と名を取り地を以て象とする。それを一重ね重畳してもなお坤を得る。それは純粋の陰、極致の順だから、その卦名と卦象は六画卦になっても変わらない。
牝馬,順而健行者,陽先陰後,陽主義,陰主利。西南,陰方,東北,陽方。安,順之為也。貞,健之守也。遇此卦者,其占為大亨,而利以順健為正。如有所往,則先迷後得而主於利。往西南則得朋,往東北則喪朋,大抵能安於正則吉也。
「牝馬」は母馬で、性情は柔順にして能く遠行する。だから坤の順にしてかつ健なるを象するのに用いる。陽は先にあり陰は後にあり、陽は義を主とし陰は利を主とする。西南は陰の方、東北は陽の方である。「安」は柔順の表れ、「貞」は剛健の持守である。占筮でこの卦に遇う人の得る占断は、大いに亨通であり、その利あるところは柔順にして能く健行するを以て正道とすることにある。もし往くところあれば、まず方向を迷い、後になってはじめて得るところあり、獲利を主とする。西南方へ往けば同類の朋助を得、東北方へ往けば朋助を喪う。要するに、正道に安んじて処れば吉利である。
《彖》曰:至哉坤元,萬物資生,乃順承天。此以地道明坤之義,而首言元也。至,極也,比大義差緩。始者,氣之始;生者,形之始。順承天施,地之道也。坤厚載物,德合無疆,含弘光大,品物咸亨。疆,居良反。下同。言亨也。德合無疆,謂配乾也。
《坤卦・彖伝》に「至れるかな坤元、万物これに資りて生ず、乃ち順にして天を承く」とある。これは地道をもって坤の意義を闡明し、まず「元」の字を解釈する。「至」は極の意で、《乾卦・彖伝》の「大哉」の「大」に比べて語気がやや和緩である。《乾》にいう「資始」は気の開端を指し、《坤》にいう「資生」は形の開端を指す。柔順にして上天の施与を承けることは、まさに地の職分である。《彖伝》は続けて「坤厚く物を載せ、徳合无彊、含弘光大、品物咸亨」という。「彊」は居良反と読み、下文同じ。この数句は卦辞の「亨」を解釈する。いわゆる「徳合无彊」とは、坤の徳が乾と匹配するに足ることを言う。
牝馬地類,行地無疆,柔順利貞,君子攸行。言利貞也。馬,乾之象,而以為地類者。牝,陰物,而馬又行地之物也。行地無疆,則順而健矣。柔順利貞,坤之德也。「君子攸行」,人之所行如坤之德也。所行如是,則其占如下文所云也。
《彖伝》に曰く、「牝馬は地の類、地を行くこと无彊、柔順にして利貞なり、君子の攸(ゆ)くところの行なり」と。この数句は卦辞の「利貞」を解釈する。馬はもともと《乾》卦の物象であるが、ここでそれを地の類に帰するのは、「牝」が陰に属し、また馬が地上を行走するものだからである。地の上を遠く届かざるなく行走できるのは、柔順にしてまた剛健であることである。柔順にして正を守るに利ありは、まさに坤の徳である。いわゆる「君子攸行」とは、人が践行するのが坤の徳に正しく合することを言う。行事が能くこのようであれば、彼の得る占断は下文の講ずるところのようになる。
先迷失道,後順得常,西南得朋,乃與類行,東北喪朋,乃終有慶。陽大陰小,陽得兼陰,陰不得兼陽。故坤之德,常減於乾之半也。東北雖喪朋,然反之西南,則終有慶矣。安貞之吉,應地無疆。安而且貞,地之德也。《象》曰:地勢坤,君子以厚德載物。地,坤之象。亦一而已,故不言重,而言其勢之順,則見其高下相因之無窮,至順極厚而無所不載也。
《彖伝》に曰く、「先には迷い道を失い、後には順いて常を得る。西南に朋を得て、乃ち類とともに行く。東北に朋を喪いて、乃ち終わりに慶(よろこ)びあり」と。陽は大きく陰は小さく、陽は陰を兼ね有することができるが、陰は陽を兼ね有することができない。だから坤の徳は常に乾の半分にしか及ばない。東北に往けば朋類を喪うけれども、西南に戻れば、終にはやはり喜慶がある。《彖伝》は最後に「安貞の吉は、地の无彊に応ず」と――安順にしてまた正を守るは、まさに地の徳である。《坤卦・象伝》に「地勢坤、君子は厚徳をもって物を載す」とある。「地」は坤の物象である。地もまた一つしかないから、重畳とは言わず、その形勢の柔順を言う。形勢に就いて見れば、高低は相因じ連綿として窮まりなく、最も柔順にして最も深厚、載せないものがない。君子はこれに取法して、深厚の徳性をもって万物を載せる。
初六,履霜,堅冰至。六,陰爻之名。陰數六老而八少,故謂陰爻為六也。霜,陰氣所結,盛則水凍而為冰。此爻陰始生於下,其端甚微,而其勢必盛,故其象如履霜,則知堅冰之將至也。夫陰陽者,造化之本,不能相無,而消長有常,亦非人所能損益也。然陽主生,陰主殺,則其類有淑慝之分焉。故聖人作《易》,於其不能相無者,既以健順仁義之屬明之,而無所偏主。至其消長之際,淑慝之分,則未嘗不致其扶陽抑陰之意焉。蓋所以贊化育而參天地者,其旨深矣。不言其占者,謹微之意,已可見於象中矣。
《坤》卦初六の爻辞に「霜を履(ふ)めば、堅氷至る」とある。「六」は陰爻の名称である。陰の数は六を老陰、八を少陰とし、占筮は変わる老陰のみを取るから、陰爻を「六」と称する。霜は陰気の凝結して成るもので、陰気がひとたび盛んになれば、水は凍って堅氷となる。この爻は陰気がいま下から生じたばかりで、苗头は極めて微弱であるが、その趨勢は必ず盛んに転ずる。だからその象は、足下に霜を踏めば堅氷がまもなく至ると知るがごときである。陰と陽は造化の根本で、どちらか一方なくしてはありえず、その消長には自ら常度があって、人力の増減できるところではない。しかし陽は生長を主とし、陰は粛殺を主とするから、性類に就いて言えば善と悪の区別がある。だから聖人が《易》を作すにあたり、陰陽どちらも欠くべからざるところでは、健と順、仁と義の類をもって説明し、どちらか一方に偏袒しなかったが、消長の関頭、善悪の分界に講ずるに及んで、陽を扶け陰を抑える用意を表さないことはなかった。これはまさに聖人が天地の化育を賛助し、天地と並んで三と為る深意である。この爻が占断を言わないのは、幾微に慎む用意が、すでに爻象の中から見出せるからである。
《象》曰:履霜堅冰,陰始凝也。馴致其道,至堅冰也。凝,魚陵反。馴,似遵反。按,《魏志》作「初六,履霜」,今當從之。馴,順習也。六二,直方大,不習無不利。柔順正固,坤之直也。賦形有定,坤之方也。德合無疆,坤之大也。六二柔順而中正,又得坤道之純者。故其德內直外方而又盛大,不待學習而無不利。占者有其德,則其占如是也。《象》曰:六二之動,直以方也。「不習無不利」,地道光也。
初六《小象伝》に曰く、「霜を履めば堅氷、陰始めて凝るなり。馴致してその道、堅氷に至るなり」と。「凝」は魚陵反と読み、「馴」は似遵反と読む。按ずるに《三国志・魏志》がこの句を引くにただ「初六、霜を履む」と作り、今はそれに従うべきである。「馴」は習染に順って漸々に深まる意である。《坤》卦六二の爻辞に「直方大、習わずとも利あらざるなし」とある。柔順にして正を守り固く持するは坤の「直」であり、万物に形体を賦与して各々定則あらしめるは坤の「方」であり、徳行が無辺無際に合するは坤の「大」である。六二は柔順にしてまた中に居り正を得て、最もよく坤道の純粋を体現する一爻である。だからその徳は内には正直、外には方正にしてしかも盛大で、あえて習学しなくても往くところ利あらざるなし。占者がもしこのような徳を具えれば、得る占断はこのようである。六二《小象伝》に曰く、「六二の動は、直にして方なり。『習わずとも利あらざるなし』は、地道光なり」と。
六三,含章可貞,或從王事,無成有終。六陰三陽,內含章美,可貞以守。然居下之上,不終含藏,故或時出而從上之事,則始雖無成,而後必有終。爻有此象,故戒占者有此德,則如此占也。《象》曰:「含章可貞」,以時發也。「或從王事」,知光大也。知,音智。
《坤》卦六三の爻辞に「章を含んで貞なるべし、或いは王事に従わん。成すことなく終わりあり」とある。「六」は陰爻、「三」は陽位で、陰爻が陽位に居り、内に文章の美を含蓄して、正を守り自ら持すことができる。しかしそれは下卦の最上層に処り、終始含蔵して露わさぬことができない。だから時に出て君上の事に従うこともある。そうなれば、初めは自ら成功に居ることはできないが、最後には必ず好い結末がある。この爻にこのような象があるから、占者に誡める。かような徳を具えてこそ、かような占断を得る。六三《小象伝》に曰く、「『章を含んで貞なるべし』とは、時をもって発すればなり。『或いは王事に従わん』とは、知光大なり」と。「知」は智と読み、すなわち智慧の智である。
六四,括囊,無咎,無譽。括,古活反。譽,音餘,又音預。括囊,言結囊口而不出也。譽者,過實之名。謹密如是,則無咎而亦無譽矣。六四重陰不中,故其象占如此。蓋或事當謹密,或時當隱遁也。《象》曰:「括囊,無咎」,慎不害也。
《坤》卦六四の爻辞に「嚢を括(くく)る。咎なく誉(ほま)れなし」とある。「括」は古活反と読み、「誉」は余と読み、また預と読む。いわゆる「括嚢」とは、袋の口を固く結んで物を漏らさないことで、緘黙して露わさないことの譬えである。「誉」は実情を超える名声である。謹慎して緻密なことこの地步に至れば、過ちもなく称誉もない。六四は陰爻にしてまた陰位に居り、陰に陰を加えて中を得ず。だからその象と占断がともにこのようである。あるいは事がもともと謹慎して秘すべきで、あるいは時勢がもともと隠退して身を蔵すべきであるからである。六四《小象伝》に曰く、「『嚢を括る。咎なし』とは、慎しみて害なきなり」と――ただその謹慎ゆえに、害を受けるに至らない。
六五,黃裳,元吉。黃,中色。裳,下飾。六五,以陰居尊,中順之德,充諸內而見於外,故其象如此。而其占為大善之吉也。占者德必如是,則其占亦如是矣。《春秋傳》:南蒯將叛,筮得此爻,以為大吉。子服惠伯曰:「忠信之事則可,不然必敗。外疆內溫,忠也,和以率貞,信也。故曰:黃裳,元吉。黃,中之色也。裳,下之飾也。元,善之長也。中不忠,不得其色,下不共,不得其飾,事不善,不得其極。且夫《易》不可以占險,三者有闕,筮雖當,未也。」後蒯果敗。此可以見占法矣。
《坤》卦六五の爻辞に「黄裳(こうしょう)、元吉」とある。黄は中に居る正色であり、裳は下身に着ける服飾である。六五は陰爻をもって尊位に居り、中に居りて柔順の徳を具え、内に充実して外に顕現する。だからこのような象を取り、その占断は大善の吉である。占者の徳が必ずこのようであってこそ、得る占断もこのようになる。《春秋左伝》に記す。魯国の大夫南蒯(なんかい)がまさに叛乱せんとして、占筮でこの爻を得、自ら大吉とした。子服恵伯(しふくけいはく)が言った。「もし忠信の事ならば可なり。さもなくば必ず敗れん。外は剛強にして内は温和は忠であり、和順をもって貞正を率いるは信である。だから『黄裳、元吉』と言う。黄は居中の色、裳は在下の飾、元は衆善の首である。心中忠ならざれば、この『黄』の色に配せず。下に居りて恭ならざれば、この『裳』の飾に配せず。為す事善ならざれば、この『元』を得られず。況んや《易》は以て邪険の事を占問すること可ならず。この三様、一つを欠いても、占筮たとえ応験すとも、なお成らず」と。後に南蒯は果たして敗れた。この事から《易》の占法を見ることができる。
《象》曰:「黃裳,元吉」,文在中也。文在中而見於外也。上六,龍戰于野,其血玄黃。陰盛之極,至與陽爭,兩敗俱傷。其象如此,占者如是,其凶可知。《象》曰:「龍戰于野」,其道窮也。用六,利永貞。用六,言凡筮得陰爻者,皆用六而不用八。亦通例也。以此卦純陰而居首,故發之。遇此卦而六爻俱變者,其占如此辭。蓋陰柔而不能固守,變而為陽,則能永貞矣。故戒占者以利永貞,即《乾》之利貞也。自《坤》而變,故不足於元亨雲。《象》曰:用六永貞,以大終也。初陰後陽,故曰大終。
六五《小象伝》に曰く、「『黄裳、元吉』とは、文在中(ぶんざいちゅう)なり」と――文采が内に蕴含されて、自然に外に顕現する。《坤》卦上六の爻辞に「竜戦(たたか)い野にて、その血玄黄(けんこう)」とある。陰気が極点に盛んになって、遂に陽と争闘するに至り、結果は両敗倶傷である。爻象がすでにこのようであれば、占者がこの爻に遇い処境もまたこのようであれば、凶険なること推して知るべし。上六《小象伝》に曰く、「『竜戦い野にて』とは、その道窮まるなり」と。《坤》卦「用六」の辞に「永貞に利し」とある。いわゆる「用六」とは、およそ占筮で陰爻を得たときは老陰の数「六」を取り少陰の数「八」を取らないということで、これも通用する体例である。《坤》は純陰の卦にして陰卦の首に居るから、ここでこれを点明した。この卦に遇い六爻すべて変わる者は、この句の辞によって吉凶を断ずる。陰性は柔弱にして牢牢として固守することができないが、一変して陽となれば、能く長久に正を守る。だから占者に「永貞に利し」と誡める。これはすなわち《乾》卦のいう「利貞」である。ただそれが《坤》から変じて来たものだから、《乾》に比べて「元亨」の二項を欠く。「用六」《小象伝》に曰く、「用六永貞は、大をもって終わるなり」と――初めは陰であって後に陽に変じるから、「大終」と呼ぶ。
《文言》曰:坤,至柔而動也剛,至靜而德方,剛、方,釋牝馬之貞也。方,謂生物有常。後得主而有常,《程傳》曰:「‘主’下當有‘利’字。」含萬物而化光。復明亨義。坤道其順乎,承天而時行。復明順承天之義。此以上,申《彖傳》之意。積善之家,必有餘慶,積不善之家,必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣。由辯之不早辯也。《易》曰:「履霜,堅冰至」,蓋言順也。古字「順」、「慎」通用,按此當作慎,言當辯之於微也。
《坤卦・文言伝》に曰く、「坤は、至柔にして動くや剛、至静にして徳方なり」と。ここでいう「剛」と「方」は、卦辞「牝馬之貞」を解釈したものである。いわゆる「方」とは、坤が万物を生養するに自ら常則あることを言う。伝文はまた「後に主を得て常あり」といい、程頤(ていい)の《易程伝(えきていでん)》は「主」の字の下にさらに一つの「利」の字があるべきと考える。伝文に「万物を含みて化光(かこう)す」とあるのは、重ねて卦辞「亨」の意を闡明するものであり、「坤道はそれ順かな、天を承けて時に行く」とあるのは、重ねて「順承天」の意を闡明するものである。以上のこの数段は、みな《彖伝》の意旨を引申したものである。伝文は続けて初六の爻辞を解釈して曰く、「善行を積累する家には、必ず余りある福慶が遺され、悪行を積累する家には、必ず余りある災殃が遺される。臣のその君を弑(しい)するも、子のその父を弑するも、一朝一夕の故にあらず。その由来は一点ずつ積んで成ったもので、ただ辨明すべきときに及んで早く辨明しなかったためである。《易》に『霜を履めば、堅氷至る』とあるは、まさにこの理を講ずるものである」と。朱熹が指摘する。古字は「順」と「慎」が通用する。文義に按ってここは「慎」と作るべきで、幾微の処において辨察を加えるべき意である。
直其正也,方其義也。君子敬以直內,義以方外。敬義立而德不孤,「直方大,不習無不利」,則不疑其所行也。此以學而言之也。正,謂本體。義,謂裁制。敬,則本體之守也。直內、方外,《程傳》備矣。不孤,言大也。疑故習而後利,不疑則何假於習。傳曰:「直,言其正也,方,言其義也。君子主敬以直其內,守義以方其外。敬立而內直,義形而外方。義形於外,非在外也。敬義既立,其德盛矣。不期大而大矣,德不孤也。無所用而不周,無所施而不利,孰為疑乎?」
《文言伝》は六二の爻辞を解釈して曰く、「直はその正なり、方はその義なり。君子は敬をもって内を直(なお)し、義をもって外を方(ただ)す。敬義立って徳孤(こ)ならず。『直方大、習わずとも利あらざるなし』とは、則ちその行いを疑わざるなり」と。この一段は為学工夫の上に就いて講ずるものである。「正」は心の本体を指し、「義」は裁断して宜を制することを指し、「敬」はこの本体を守る工夫である。「直内」「方外」の道理に至っては、程頤の《易程伝》にすでに講じて甚だ備わっている。「不孤」とはすなわち爻辞のいう「大」である。心に疑いを存すれば、だから練習して熟してはじめて手に順うと覚える。心に疑いなければ、何ぞ練習を假借せんや。《易程伝》に曰く、「『直』はその正を言い、『方』はその義を言う。君子は持敬をもって自己の内心を正直にし、守義をもって自己の外行を方正にする。敬が一たび確立すれば内心はすぐ正直になり、義が一たび顕発すれば外行はすぐ方正になる。義は外に顕現するが、外から得たものではない。敬と義がともに確立すれば、その徳は盛大となる。盛大を望まずして自然に盛大、これが『徳不孤』である。用いるところには周遍し、施行するところには順利する。何か迟疑すべきことがあろうか」と。
陰雖有美,含之以從王事,弗敢成也。地道也,妻道也,臣道也,地道無成,而代有終也。天地變化,草木蕃。天地閉,賢人隱。《易》曰:「括囊,無咎,無譽。」蓋言謹也。君子黃中通理,黃中,言中德在內。釋「黃」字之義也。正位居體,雖在尊位,而居下體。釋「裳」字之義也。美在其中,而暢於四支,發於事業,美之至也。美在其中,復釋黃中。暢於四支,復釋居體。
《文言伝》は六三の爻辞を解釈して曰く、「陰は美ありと雖も、これを含んで以て王事に従い、敢えて成さざるなり。地道なり、妻道なり、臣道なり。地道は成すことなくして、代わって終わりあり」と。陰はたとえ美質あっても、これを含蔵して君上の事を担いに往き、敢えてその功に居らない。これは地の道理、妻の道理、臣の道理である。地は自ら成功に居らず、ただ天に代わって終局を完成する。伝文は六四の爻辞を解釈して曰く、「天地変化すれば草木蕃(しげ)る。天地閉すれば賢人隠る。《易》に曰く『嚢を括る。咎なく誉なし』と。蓋(けだ)し謹を言うなり」と。講ずるところはまさに謹慎緘黙である。伝文はさらに六五の爻辞を解釈して曰く、「君子は黄中にして理を通ず」――いわゆる「黄中」とは居中の徳が内に蘊蓄することを言い、これは爻辞「黄」の字の意を解釈する。「正位にして体に居る」――六五は身は尊位にありながら、なお安んじて在下の体に処る。これは爻辞「裳」の字の意を解釈する。「美其の中にありて、四肢に暢(の)び、事業に発すは、美の至りなり」――「美在其中」は重ねて「黄中」を解釈し、「暢于四支」は重ねて「居体」を解釈する。
陰疑於陽必戰,為其嫌於無陽也,故稱龍焉,猶未離其類也,故稱血焉。夫玄黃者,天地之雜也。天玄而地黃。為,於偽反。離,力智反。夫,音扶。疑,謂鈞敵而無小大之差也。坤雖無陽,然陽未嘗無也。血,陰屬,蓋氣陽而血陰也。玄黃,天地之正色,言陰陽皆傷也。此以上,申《象傳》之意。
《文言伝》は最後に上六の爻辞を解釈して曰く、「陰は陽に疑(つら)なれば必ず戦う。その無陽に嫌(けん)すればなり。故に竜と称し、猶おその類を離れざればなり。故に血と称す。夫れ玄黄とは、天地の雑なり。天は玄にして地は黄なり」と。「為」は于偽反と読み、「離」は力智反と読み、「夫」は扶と読む。いわゆる「疑」とは、陰がすでに陽と勢均力敵となり、再び大小の差等なきことを言う。《坤》卦の六爻は陽爻が全くないけれども、しかし陽は実はかつて真になかったわけではない。だから爻辞はなお「竜」と称する。血は陰類に属し、気は陽に属し血は陰に属するから、また「血」と称する。玄と黄は天と地の正色で、「其血玄黄」と言うのは、陰陽双方とも傷を受けたことを表す。以上のこの数段は、みな《象伝》の意旨を引申したものである。
屯卦
震下,坎上。屯:元亨,利貞。勿用有攸往,利建侯。屯,張倫反。震坎,皆三畫卦之名。震,一陽動於二陰之下,故其德為動,其象為雷。坎,一陽陷於二陰之間,故其德為陷、為險,其象為雲、為雨、為水。屯,六畫卦之名也,難也,物始生而未通之意。故其為字,象屮穿地始出而未申也。
《屯(ちゅん)》卦は下体が震(しん)、上体が坎(かん)である。卦辞に「屯:元亨、利貞。用て攸往あるなかれ。侯を建てるに利し」とある。「屯」は張倫反と読む。震と坎はともに三画経卦の名称である。震は一条の陽爻が二条の陰爻の下に発動するから、その卦徳は「動」であり、その物象は雷である。坎は一条の陽爻が二条の陰爻の間に陥るから、その卦徳は「陥」であり「険」であり、その物象は雲であり雨であり水である。「屯」は六画別卦の名称で、意は艱難であり、万物がいま萌生してまだ通達しえないことを指す。だからこの字の書き方は、草芽が地面を穿ち破っていま頭を露わしてまだ舒展しないがごときである。
其卦以震遇坎,乾、坤始交而遇險陷,故其名為屯。震動在下,坎險在上,是能動乎險中。能動雖可以亨,而在險,則宜守正,而未可遽進。故筮得之者,其占為大亨而利於正,但未可遽有所往耳。又,初九,陽居陰下,而為成卦之主,是能以賢下人,得民而可君之象。故筮立君者,遇之則吉也。
この卦は下体の震が上体の坎に遇い、乾坤が初めて交合してすぐ険陥に遭遇することを象徴する。だから「屯」と名を取る。震の動は下にあり、坎の険は上にある。これは能く険難の中にあって行動あることを言う。能く動くは固より亨通すべきだが、身はすでに険中に処るから、正を守るべく、贸然として前進すべからず。だから占筮でこの卦を得る人の得る占断は、大いに亨通して正を守るに利し、ただし急いで往くところあるべからず、である。さらに初九は陽爻をもって衆陰の下に居り、またこの卦を促成する主爻である。これは能く尊貴の身をもって人の下に屈居し、それによって民心を得て君長たるに堪える象である。だから君を立てる事を占問する人がこの卦に遇えば、吉利である。
《彖》曰:「屯」,剛柔始交而難生。難,去聲。六二《象》同。以二體釋卦名義。始交,謂震。難生,謂坎。動乎險中,大亨貞。以二體之德釋卦辭。動,震之為也。險,坎之地也。自此以下,釋「元亨利貞」,乃用文王本意。雷雨之動滿盈,天造草昧,宜建侯而不寧。以二體之象釋卦辭。雷,震象。雨,坎象。天造,猶言天運。草,雜亂。昧,晦冥也。陰陽交而雷雨作,雜亂晦冥,塞乎兩間。天下未定,名分未明,宜立君以統治,而未可遽謂安寧之是也。不取初九爻義者,取義多端,姑舉其一也。
《屯卦・彖伝》に曰く、「『屯』とは、剛柔始めて交わりて難生ず」と。「難」は去声に読み、六二《小象伝》の「難」の字も同じ読みである。これは上下両体をもって卦名の意義を解釈する。「始交」は下体の震を指し、「難生」は上体の坎を指す。《彖伝》は続けて曰く、「険中に動く、大亨貞なり」と。これは上下両体の卦徳をもって卦辞を解釈する。「動」は震の作為であり、「険」は坎の処する境地である。ここから以下「元亨利貞」を解釈するにあたり、採用するのはまさに文王卦辞の本意である。《彖伝》はまた曰く、「雷雨の動は満盈し、天造草昧なり。宜しく侯を建てて寧(やすん)ぜざるべし」と。これは上下両体の物象をもって卦辞を解釈する。雷は震の象、雨は坎の象である。「天造」は天運を言うがごとく、「草」は雑乱、「昧」は昏暗不明である。陰陽交合して雷雨興作し、雑乱昏暗の気が天地の間に充塞する。天下はまだ安定せず、名位分際もまだ明確でない。君を立てて統領治理すべきだが、すぐさま安寧すでに至ったと認めてはならない。《彖伝》が「利建侯」を解釈するに初九一爻の爻義を採らないのは、取るべき義理の頭緒が甚だ多く、ここではしばらくその一種を挙げるに過ぎないからである。
《象》曰:雲雷,屯,君子以經綸。坎不言水而言云者,未通之意。經綸,治絲之事。經引之,綸理之也。屯難之世,君子有為之時也。初九,盤桓,利居貞,利建侯。盤,步乾反。盤桓,難進之貌。屯難之初,以陽在下,又居動體,而上應陰柔險陷之爻,故有盤桓之象。然居得其正,故其占利於居貞。又本成卦之主,以陽下陰,為民所歸,侯之象也。故其象又如此,而占者如是,則利建以為侯也。《象》曰:雖盤桓,志行正也。以貴下賤,大得民也。下,遐嫁反。
《屯卦・象伝》に曰く、「雲雷、屯。君子は以て経綸(けいりん)す」と。坎は「水」と言わず「雲」と言う。まだ通達しない意を取ったのである。「経綸」はもと糸縷を整治する工夫である。「経」は糸を理して直く牽き出すこと、「綸」は糸を分けて条理順にすることである。屯難の時世は、まさに君子が大いに作為する時である。《屯》卦初九の爻辞に「盤桓(ばんかん)、居貞に利し、侯を建てるに利し」とある。「盤」は歩干反と読む。「盤桓」は前進しがたく徘徊して定まらない貌である。屯難の初め、初九は陽爻をもって最下に居り、また震という動体の中に処り、しかも上に応ずる六四は陰柔険陥の爻である。だから徘徊して進まない象がある。しかしそれは居位正を得るから、その占断は安居して正を守るに利し、である。それはまたもともとこの卦を促成する主爻で、陽爻をもって陰爻の下に屈居し、民衆に帰附される。これはまさに諸侯の象であるから、またこのような象がある。占者が能くこのようであれば、諸侯に立てられるに宜しい。初九《小象伝》に曰く、「盤桓すと雖も、志行正なり。貴をもって賤に下る、大いに民を得るなり」と。「下」は遐嫁反と読む。
六二,屯如邅如,乘馬班如,匪寇婚媾,女子貞不字,十年乃字。邅,張連反。乘,繩澄反,又音繩。班,分佈不進之貌。字,許嫁也。《禮》曰:「女子許嫁,笄而字。」六二,陰柔中正,有應於上,而乘初剛,故為所難而邅回不進。然初非為寇也,乃求與己為婚媾耳。但己守正,故不之許,至於十年,數窮理極,則妄求者去,正應者合,而可許矣。爻有此象,故因以戒占者。《象》曰:六二之難,乘剛也。「十年乃字」,反常也。
《屯》卦六二の爻辞に「屯如(ちゅんじょ)邅如(てんじょ)、馬に乗りて班如(はんじょ)。寇にあらず婚媾(こんこう)なり。女子は貞にして字(じ)せず、十年にして乃ち字す」とある。「邅」は張連反と読み、「乗」は縄澄反と読み、また音縄である。「班」は散布徘徊して前進できない貌である。「字」は許配して嫁ぐことである。《礼記》に曰く、「女子は嫁を許せば、笄(けい)して字す」と――女子は婚を許し、笄礼を行えば表字を取る。六二は陰柔にして中に居り正を得、上は九五と正しく相应じ、しかも初九の剛爻の上に乗凌する。だからそれに困られて回旋して進まない。しかし初九は来たりて劫掠する強寇ではなく、ただ己と婚姻を結ぼうと求めるだけである。ただ己が正を守るから、彼に応諾せず、十年の久しきに至って、気数窮まり事理尽き、妄求する者は退き正応する者は相合し、これをもってはじめて嫁を許す。この爻にこのような象があるから、これを借りて占者に誡める。六二《小象伝》に曰く、「六二の難は、剛に乗ればなり。『十年にして乃ち字す』は、常に反ればなり」と。
六三,即鹿無虞,惟入于林中,君子幾,不如舍,往吝。幾,音機。舍,音扌舍。《象》同。陰柔居下,不中不正,上無正應,妄行取困,為逐鹿無虞陷入林中之象。君子見幾,不如舍去。若往逐而不舍,必致羞吝。戒占者宜如是也。《象》曰:「即鹿無虞」,以從禽也。君子舍之,往吝,窮也。六四,乘馬班如,求婚媾,往吉,無不利。陰柔居屯,不能上進,故為乘馬班如之象。然初九守正居下,以應於己,故其占為下求婚媾則吉也。《象》曰:求而往,明也。
《屯》卦六三の爻辞に「鹿に即くも虞(ぐ)なく、惟れ林中に入らん。君子は幾(き)なり。舍(す)てるに如かず。往けば吝(りん)」とある。「幾」は机と読み、「舍」は「舍」と音同じく、《小象伝》中の「舍」の字も同じ読みである。六三は陰柔にして下卦の上に居り、中に居らず位にも当たらず、上に正応もない。妄然として行動すれば自ら困窘を取るのみ。だから野鹿を追逐するに虞人の向導なく、あえて山林の深處に陥る象である。君子はこの幾微の苗头を見て、舍てて追わぬに如かず。もし一味に追趕して罷めなければ、必ず羞辱悔恨を招く。これは占者にかくあるべきを誡める。六三《小象伝》に曰く、「『鹿に即くも虞なし』とは、以て禽に従えばなり。君子はこれを舍て、往けば吝は、窮なり」と。《屯》卦六四の爻辞に「馬に乗りて班如。婚媾を求め、往けば吉、利あらざるなし」とある。六四は陰柔にして屯難の世に処り、自ら上に進取する力なく、だから馬に騎って徘徊して前に進まない象である。しかし初九は正を守りて下位に居り、正しく己と相应ずる。だからその占断は、下に向かって婚姻を求め結べば、往いて吉利である。六四《小象伝》に曰く、「求めて往くは、明なり」と――まず応援を得て然る後に往く、まさにその明智を見出す。
九五,屯其膏,小,貞吉,大,貞凶。九五雖以陽剛中正居尊位,然當屯之時,陷於險中,雖有六二正應,而陰柔才弱,不足以濟。初九得民於下,眾皆歸之。九五坎體,有膏潤而不得施,為屯其膏之象。占者以處小事,則守正猶可獲吉,以處大事,則雖正而不免於凶。《象》曰:「屯其膏」,施未光也。施,始豉反。上六,乘馬班如,泣血漣如。陰柔無應,處屯之終。進無所之,憂懼而已。故其象如此。《象》曰:「泣血漣如」,何可長也。長,直良反。
《屯》卦九五の爻辞に「その膏(こう)を屯(たぷ)る。小は貞に吉、大は貞に凶」とある。九五は陽剛中正の徳をもって尊位に居るが、ちょうど屯難の時に当たり身は険中に陥っている。六二がそれと正しく相应じてはいるが、六二は陰柔にして才力薄弱、難を済すに足らない。初九は下においてすでに民心を得、衆人は皆彼に帰附する。九五は坎体に属し、膏沢はあるが施行して下ることができない。だから「屯其膏」――恩沢が壅滞して通ぜない象である。占者がこれをもって小事を処すれば、正を守ってなお吉を獲ることができるが、これをもって大事を処せば、たとえ正を守るとも凶を免れがたい。九五《小象伝》に曰く、「『その膏を屯る』とは、施未だ光ならざるなり」と。「施」は始豉反と読む。《屯》卦上六の爻辞に「馬に乗りて班如、血を泣きて漣如(れんじょ)」とある。上六は陰柔にして相应ずる爻なく、また屯難の末端に処り、前進すれば往くべき処なく、憂愁恐懼のみ残る。だからその象はこのようである。上六《小象伝》に曰く、「『血を泣きて漣如』とは、何ぞ長からんや」と。「長」は直良反と読む。
蒙卦
坎下,艮上。蒙:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告。利貞。告,音谷。三,息暫反。瀆,音獨。艮,亦三畫卦之名。一陽止於二陰之上,故其德為止,其象為山。蒙,昧也,物生之初,蒙昧未明也。其卦以坎遇艮,山下有險,蒙之地也,內險外止,蒙之意也。故其名為蒙。
《蒙(もう)》卦は下体が坎、上体が艮(ごん)である。卦辞に「蒙:亨。我童蒙を求むるにあらず、童蒙我を求む。初筮は告ぐ、再三は瀆(けが)す、瀆すれば則ち告げず。貞に利し」とある。「告」は谷と読み、「三」は息暫反と読み、「瀆」は独と読む。艮も三画経卦の名称である。一条の陽爻が二条の陰爻の上に止まるから、その卦徳は「止」であり、その物象は山である。「蒙」は蒙昧で、万物が初生の時、懵懂(もうとう)にして明らかならざるを指す。この卦は下体の坎が上体の艮に遇う。山下に険ありは、まさに蒙昧の処する所であり、内険陥にして外は止まって前に進まぬは、まさに蒙昧の意態である。だから「蒙」と名を取る。
「亨」以下,占辭也。九二,內卦之主,以剛居中,能發人之蒙者,而與六五陰陽相應。故遇此卦者,有亨道也。我,二也。童蒙,幼稚而蒙昧,謂五也。筮者明,則人當求我而其亨在人。筮者暗,則我當求人而亨在我。人求我者,當視其可否而應之。我求人者,當致其精一而扣之。而明者之養蒙,與蒙者之自養,又皆利於以正也。
卦辞は「亨」の字以下、すべて占断の辞である。九二は内卦の主爻で、陽剛をもって中位に居り、能く人の蒙昧を啓発し、また六五と陰陽相应ずる。だからこの卦に遇う人に亨通の道がある。辞中の「我」は九二を指し、「童蒙」は幼稚蒙昧の六五を指す。占筮する人が自ら明白ならば、他人が来たりて我を求めるべきで、亨通の関鍵は他人の側にある。占筮する人が自ら昏昧ならば、我が往きて他人を求めるべきで、亨通の関鍵は我の側にある。他人が来たりて我を求むれば、我は彼が教うべきか否かを見てから回応する。我が往きて他人を求むれば、精誠を竭くして専一に叩問すべきである。そして明白な者が蒙昧者を教養するも、蒙昧者が自ら教養するも、またみな正を守るを以て利とする。
《彖》曰:「蒙」,山下有險,險而止,蒙。以卦象,卦德釋卦名,有兩義。「蒙,亨」,以亨行時中也。「匪我求童蒙,童蒙求我」,志應也。「初筮告」,以剛中也。「再三瀆,瀆則不告」,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。以卦體釋卦辭也。九二以可亨之道,發人之蒙,而又得其時之中,謂如下文所指之事,皆以亨行而當其可也。志應者,二剛明,五柔暗,故二不求五,而五求二,其志自相應也。以剛中者,以剛而中,故能告而有節也。瀆,筮者二三,則問者固瀆,而告者亦瀆矣。蒙以養正,乃作聖之功,所以釋「利貞」之義也。
《蒙卦・彖伝》に曰く、「『蒙』とは、山下に険あり、険にして止まる、蒙なり」と。これは同時に卦象と卦徳をもって卦名を解釈し、兼ねて二層の意義を含む。山下に険あるは象に就いて言い、険に遇いて止まるは徳に就いて言う。《彖伝》は続けて曰く、「『蒙、亨』とは、亨をもって時中に行けばなり。『我童蒙を求むるにあらず、童蒙我を求む』とは、志応なり。『初筮は告ぐ』とは、剛中をもってすればなり。『再三は瀆す、瀆すれば則ち告げず』とは、蒙を瀆せばなり。蒙をもって正を養うは、聖の功なり」と。これは卦体をもって卦辞を解釈する。九二は亨通を致しうる方法をもって人の蒙昧を啓発し、またちょうど当時の中道に合する。すなわち下文の指すそれらの事は、みな亨通の道をもって為して各々その可に当たる。いわゆる「志応」とは、九二は剛にして明、六五は柔にして暗だから、二が往きて五を求めるのでなく、五が来たりて二を求め、両者の心志は自然に相応ずる。いわゆる「以剛中」とは、九二が剛をもって中に居るから、告誡して指導するに節度あるを得る。いわゆる「瀆」とは、占筮する人が繰り返して重ねて問うことで、そうなれば問う人は固より瀆褻であり、答える人もこれに従って瀆褻となる。「蒙以養正」はまさに聖人を成就する工夫で、朱熹はこれをもって卦辞「利貞」の義を解釈する。
《象》曰:山下出泉,蒙,君子以果行育德。行,下孟反。六三《象》同。泉,水之始出者,必行而有漸也。初六,發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。說,吐活反。桎,音質。梏,古毒反。以陰居下,蒙之甚也。占者遇此,當發其蒙。然發之之道,當痛懲而暫舍之,以觀其後。若遂往而不舍,則致羞吝矣。戒占者當如是也。《象》曰:「利用刑人」,以正法也。發蒙之初,法不可不正。懲戒所以正法也。
《蒙卦・象伝》に曰く、「山下より泉出づ、蒙。君子は以て行を果(はた)し徳を育む」と。「行」は下孟反と読み、六三《小象伝》の「行」の字も同じ読みである。泉は水がいま流出する所で、それは必ず前に向かって流れかつ循序漸進する。君子はこれに取法して、果決をもって践行し、涵養をもって育徳する。《蒙》卦初六の爻辞に「蒙を発す。用いて人を刑(けい)するに利し、用いて桎梏(しっこく)を説(の)く。以て往けば吝」とある。「説」は吐活反と読み、すなわち脱去の脱である。「桎」は質と読み、「梏」は古毒反と読む。初六は陰爻をもって最下に居り、蒙昧の最も深い者である。占者がこの爻に遇えば、この蒙昧を啓発すべきである。しかし啓発の方法は、まず痛く懲戒を加えてから、暫く彼を放っておき、彼が往後どうなるかを見る。もし一味に逼迫し続けて手を放さなければ、羞辱悔恨を招く。これは占者にかくあるべきを誡める。初六《小象伝》に曰く、「『用いて人を刑するに利し』とは、以て法を正しくすればなり」と――蒙昧を啓発する初めに、法度は端正ならざるべからず。懲戒はまさに法度を端正にするためである。
九二,包蒙,吉,納婦,吉,子克家。九二以陽剛為內卦之主,統治群陰,當發蒙之任者。然所治既廣,物性不齊,不可一概取必。而爻之德剛而不過,為能有所包容之象。又,以陽受陰,為納婦之象。又,居下位而能任上事,為子克家之象。故占者有其德而當其事,則如是而吉也。《象》曰:「子克家」,剛柔接也。指二五之應。
《蒙》卦九二の爻辞に「蒙を包む、吉。婦を納る、吉。子家を克(た)くす」とある。九二は陽剛の質をもって内卦の主爻となり、衆陰を統轄治理し、啓蒙の重任を担当する者である。しかし彼の教治すべき面はすでに広く、各人の資質も参差斉しくない。一つの標準をもって強いて一律を求めることはできない。そしてこの爻の徳は剛強にして過分ならず、まさに能く包容する象である。さらにそれは陽爻をもって陰爻を承受し、妻室を娶納する象であり、また下位に居りて能く上面の事を担う、児子が家業を撑持しうる象である。だから占者がこのような徳を具えかつこのような事に正しく当たれば、かくのごとくして吉を得る。九二《小象伝》に曰く、「『子家を克くす』とは、剛柔接すればなり」と――九二と六五が剛柔相応じ相接することを指す。
六三,勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利。取,七具反。六三陰柔,不中不正,女之見金夫而不能有其身之象也。占者遇之,則其取女必得如是之人,無所利矣。金夫,蓋以金賂己而挑之,若魯秋胡之為者。《象》曰:「勿用取女」,行不順也。順,當作「慎」。蓋「順」、「慎」古字通用。《荀子》「順墨」作「慎墨」,且「行不慎」,於經意尤親切,今當從之。
《蒙》卦六三の爻辞に「用いて女を取るなかれ。金夫を見て躬(み)を有せず。利するところなし」とある。「取」は七具反と読み、すなわち「娶」である。六三は陰柔にして中に居らず位にも当たらず、まさに女子が金ある男子を見て自らの身を保つ能わざる象である。占者がこの爻に遇えば、彼の娶る女子は必ずこのような人で、何の益もない。いわゆる「金夫」とは、おそらく銭財をもって賄賂し挑逗する人で、魯国の秋胡(しゅうこ)が金をもってその妻を戯調した類の事のようである。六三《小象伝》に曰く、「『用いて女を取るなかれ』とは、行順ならざればなり」と。朱熹は「順」は「慎」と作るべきと考える。「順」「慎」の二字は古に通用し、《荀子》中の「順墨」は「慎墨」と作るからである。しかも「行為が謹慎ならず」と言うのは経文の意に格別贴切する。今はこの読みに依るべきである。
六四,困蒙,吝。既遠於陽,又無正應,為困於蒙之象。占者如是,可羞吝也。能求剛明之德而親近之,則可免矣。《象》曰:困蒙之吝,獨遠實也。遠,於萬反。實,叶韻去聲。六五,童蒙,吉。柔中居尊,下應九二,純一未發,以聽於人,故其象為童蒙,而其占為如是,則吉也。《象》曰:童蒙之吉,順以巽也。
《蒙》卦六四の爻辞に「蒙に困(く)す、吝」とある。六四は二条の陽爻からともに遠く、また正応の爻もない。だから蒙昧に困住された象である。占者がこのような処境にあれば、羞辱し可惜なり。もし剛健明達の人を訪求して彼に親近することができれば、この困を免れることができる。六四《小象伝》に曰く、「蒙に困すの吝は、独り実に遠ざかればなり」と。「遠」は于万反と読み、「実」は協韻のため去声に読む。それ独り陽剛という実体から遠ざかるのみである。《蒙》卦六五の爻辞に「童蒙、吉」とある。六五は柔順にして中に居り尊位に処り、下は九二と相応じ、心地は純一にして自ら聡明を作さず、人に聴従することを肯んず。だからその象は孩童のような蒙昧であり、その占断は能くこのようであれば吉利である。六五《小象伝》に曰く、「童蒙の吉は、順にして巽(そん)なればなり」と――柔順にしてまた謙遜である。
上九,擊蒙,不利為寇,利禦寇。以剛居上,治蒙過剛,故為擊蒙之象。然取必太過,攻治太深,則必反為之害。惟捍其外,誘以全其真純,則雖過於嚴密,乃為得宜。故戒占者如此。凡事皆然,不止為誨人也。《象》曰:利用禦寇,上下順也。禦寇以剛,上下皆得其道。
《蒙》卦上九の爻辞に「蒙を撃つ。寇を為すは利あらず、寇を禦(ふせ)ぐは利し」とある。上九は陽剛をもって全卦の最上に居り、蒙昧を管治するに剛に過ぎる失がある。だから蒙昧を痛撃する象である。しかし強求し過ぎ攻治し深すぎれば、却って必ず相手の禍害となる。ただ彼のために外來の侵擾を抵当し、善く誘導して彼の天真純朴を保全すれば、たとえ厳密に失するとも処置は宜しきを得る。だからこのように占者に誡める。およそ事は皆この理で、ただ人を教誨するに限らない。上九《小象伝》に曰く、「用いて寇を禦ぐに利しとは、上下順なればなり」と――剛強をもって外寇を抵御すれば、上下双方とも正道に合する。
需卦
乾下,坎上。需:有孚,光亨,貞吉,利涉大川。需,待也。以乾遇坎,乾健坎險,以剛遇險,而不遽進以陷於險,待之義也。孚,信之在中者也。其卦九五以坎體中實,陽剛中正而居尊位,為有孚得正之象。坎水在前,乾健臨之,將涉水而不輕進之象。故占者為有所待,而能有信,則光亨矣。若又得正,則吉,而利涉大川。正固無所不利,而涉川尤貴於能待,則不欲速而犯難也。
《需(じゅ)》卦は下体が乾、上体が坎である。卦辞に「需:孚(まこと)あり、光亨(こうこう)、貞吉、大川を渉るに利し」とある。「需」は等待の意である。この卦は乾が坎に遇う。乾は剛健、坎は険陥。剛健の徳をもって険境に遇うも、急いで前進して陥落せず、これはまさに「等待」の義である。「孚」は心中に存する誠信である。この卦の九五は坎体の中爻に処りて充実し、また陽剛中正にして尊位に居る。まさに心に誠信を懐き居位正を得た象である。坎水が前に横たわり、乾の剛健がそれに逼臨する。まさに渉水せんとして軽率に前進を肯んぜざる象である。だから占者がもし待つところありて能く信を守れば、光大亨通することができる。もしさらに居位正を得れば吉利、かつ大河を渡渉するに宜しい。正を守るは固より往くところ利あらざるなしだが、大河の渡渉は特に能く待つを貴び、すなわち速きを図って冒険犯難しないことである。
《彖》曰:「需」,須也,險在前也。剛健而不陷,其義不困窮矣。此以卦德釋卦名義。「需,有孚,光亨,貞吉」,位乎天位,以正中也。「利涉大川」,往有功也。以卦體及兩象釋卦辭。《象》曰:雲上於天,需,君子以飲食宴樂。上,上聲。樂,音洛。雲上於天,無所復為,待其陰陽之和而自雨爾。事之當需者,亦不容更有所為,但飲食宴樂,俟其自至而已。一有所為,則非需也。
《需卦・彖伝》に曰く、「『需』とは、須(ま)つなり、険前に在ればなり。剛健にして陥らず、その義困窮せざるなり」と。これは卦徳をもって卦名の意義を解釈する。「需」はすなわち等候で、険が前に横たわる。下体の乾は剛健だから、険に臨んでも陥落せず、義理に按って困窮の地步に至らない。《彖伝》は続けて曰く、「『需、孚あり、光亨、貞吉』とは、天位に位して、正中以てすればなり。『大川を渉るに利し』とは、往けば功あればなり」と。これは卦体と上下両象をもって卦辞を解釈する。九五は天子の位に居りてまた中に居り正を得る。だから心に誠信を懐き、光大亨通して正を守り吉を得る。往けば功を建つる能うから、大河を渡渉するに宜しい。《需卦・象伝》に曰く、「雲天に上る、需。君子は以て飲食宴楽す」と。「上」は上声に読み、「楽」は洛と読む。雲気が天上に昇れば、なすべき別の事なく、ただ陰陽の調和して自然に降雨するを待つのみ。事が等待すべき時に至れば、更に作為を容れず、ただ飲食宴楽して其の自ら至るを待てばよい。ひとたび作為あれば、「需」ではない。
初九,需于郊,利用恆,無咎。郊,曠遠之地,未近於險之象也,而初九陽剛,又有能恆於其所之象,故戒占者能如是,則無咎也。《象》曰:「需于郊」,不犯難行也。「利用恆,無咎」,未失常也。難,去聲。九二,需于沙,小有言,終吉。沙,則近於險矣。言語之傷,亦災害之小者。漸進,近坎,故有此象。剛中能需,故得終吉。戒占者當如是也。《象》曰:「需于沙」,衍在中也,雖「小有言」,以吉終也。衍,以善反。衍,寬意。以寬居中,不急進也。
《需》卦初九の爻辞に「郊に需つ。恒を用うるに利し、咎なし」とある。「郊」は空曠遼遠の地で、まだ険境に近づかざるを象徴する。そして初九は陽剛の爻で、また能く長久に本位に安守する象がある。だから占者に誡める。能くこのように待てば、過ちはない。初九《小象伝》に曰く、「『郊に需つ』とは、難を犯して行かざればなり。『恒を用うるに利し、咎なし』とは、未だ常を失わざればなり」と。「難」は去声に読む。危難を冒して前行せず、また常道を失わない。《需》卦九二の爻辞に「沙に需つ。小さく言(ことば)あり、終わりに吉」とある。沙灘はすでに険境に近づいた。口舌言語の中傷も、災害中の小なる方に算す。九二は漸々に前進して上体の坎に接近する。だからこのような象がある。しかしそれは剛健にして中に居り、能く等待する。だから最終的に吉を得る。これは占者にかくあるべきを誡める。九二《小象伝》に曰く、「『沙に需つ』とは、衍(えん)中に在ればなり。『小さく言あり』と雖も、吉を以て終わるなり」と。「衍」是以善反と読み、寛綽の意である。寛舒の心をもって中位に居り、急いで前進しない。
九三,需于泥,致寇至。泥,將陷於險矣。寇,則害之大者。九三去險愈近,而過剛不中,故其象如此。《象》曰:「需于泥」,災在外也,自我致寇,敬慎不敗也。外,謂外卦。敬慎不敗,發明占外之占。聖人示人之意切矣。六四,需于血,出自穴。血者,殺傷之地。穴者,險陷之所。四交坎體,入乎險矣,故為需于血之象。然柔得其正,需而不進,故又為出自穴之象。占者如是,則雖在傷地,而終得出也。《象》曰:「需于血」,順以聽也。九五,需于酒食,貞吉。酒食,宴樂之具,言安以待之。九五陽剛中正,需於尊位,故有此象。占者如是而貞固,則得吉也。《象》曰:酒食,「貞吉」,以中正也。
《需》卦九三の爻辞に「泥に需つ。寇を致(いた)し至らしむ」とある。泥沼は険中に陥らんとする間際である。強寇は禍害中の大なる者である。九三は険により近く、また剛強に過ぎて中位に居らず。だからその象はこのようである。九三《小象伝》に曰く、「『泥に需つ』とは、災外に在ればなり。我より寇を致す。敬慎すれば敗れざるなり」と。「外」は外卦の坎を指す。「敬慎不敗」のこの一句は、爻辞本有の占断の外にまた一層の占断を発明したものである。ただ恭敬謹慎すれば、失敗に至らない。聖人が世人に指導する用心、懇切というべし。《需》卦六四の爻辞に「血に需つ。穴より出づ」とある。「血」は殺傷の地、「穴」は険陥の所である。六四はすでに上体の坎に入り、険中に踏み入れた。だから「需于血」の象がある。しかしそれは柔爻をもって陰位に居りて正を得、ただ待ちて冒進せず。だからまた「出自穴」――能く険穴の中から脱身する象がある。占者の処境がもしこのようであれば、身は受傷の地にあっても、最終には出ることができる。六四《小象伝》に曰く、「『血に需つ』とは、順にして聴なり」と――柔順に時勢の安排に聴任する。《需》卦九五の爻辞に「酒食に需つ。貞吉」とある。酒食は宴楽の用具で、安然自適して待つ意である。九五は陽剛中正で、尊位の上に従容として等候する。だからこのような象がある。占者が能くこのようであってかつ正固を堅守すれば、吉を得る能う。九五《小象伝》に曰く、「酒食、『貞吉』とは、中正を以てすればなり」と。
上六,入于穴,有不速之客三人來,敬之,終吉。陰居險極,無復有需,有陷而入穴之象。下應九三。九三與下二陽需極並進,為不速客三人之象。柔不能御而能順之,有敬之之象。占者當陷險中,然於非意之來,敬以待之,則得終吉也。《象》曰:不速之客來,「敬之終吉」,雖不當位,未大失也。當,都浪反。後凡言「當位」、「不當位」者,仿此。以陰居上,是為當位。言不當位,未詳。
《需》卦上六の爻辞に「穴に入る。不速の客三人来たる。これを敬せば、終わりに吉」とある。上六は陰爻をもって険の頂端に処り、再び待つべきものなく、だから陥落して険穴に入る象がある。その下は九三と相应ずる。九三は下体のほかの二条の陽爻を連れ、極処に至って一斉に上進する。まさに請わざるに自ら来たる三位の客人の象である。上六は柔弱にして抵御する能わざるも、能く彼らに順从する。だから恭敬して相待する象がある。占者は身は険中に陥ると雖も、意外に到来する人事に対して恭敬に対待すれば、最終に吉を得る能う。上六《小象伝》に曰く、「不速の客来たる、『これを敬せば終わりに吉』とは、位に当たらずと雖も、未だ大いに失せざるなり」と。「当」は都浪反と読む。以後およそ「当位」「不当位」と言うときは、この読みに倣う。按ずるに上六は陰爻をもって上位に居り、本応当位と算すべきなのに、《小象伝》は「不当位」と言う。その縁由は詳らかならず。
訟卦
坎下,乾上。訟:有孚窒,惕中吉,終凶,利見大人,不利涉大川。窒,張栗反。訟,爭辯也。上乾下坎,乾剛坎險,上剛以制其下,下險以伺其上,又為內險而外健,又為己險而彼健,皆訟之道也。九二中實,上無應與,又為加憂。且於卦變自遁而來,為剛來居二,而當下卦之中,有有孚而見窒,能懼而得中之象。上九過剛,居訟之極,有終極其訟之象。九五剛健中正,以居尊位,有大人之象。以剛乘險,以實履陷,有不利涉大川之象。故戒占者必有爭辯之事,而隨其所處為吉凶也。
《訟(しょう)》卦は下体が坎、上体が乾である。卦辞に「訟:孚ありて窒(ふさ)がる、惕(つつし)みて中吉、終わり凶。大人を見るに利し、大川を渉るに利あらず」とある。「窒」は張栗反と読む。「訟」はすなわち争弁、打官司である。上体は乾、下体は坎で、乾は剛強、坎は険陥。上に在る者は剛強をもって下を壓制し、下に在る者は険詐をもって上を窺伺する。また内は険詐にして外は剛健、また己は険詐にして相手は剛健。これら数層はみな争訟を招致する路数である。九二は下卦の中に居りて中爻充実し、上に相応ずる爻なく、また一層の憂患を添える。しかも卦変の上から言えば、《訟》卦は《遁(とん)》卦から変じて来たもので、剛爻が来たりて第二位に居りて正しく下卦の中に当たる。だから「心に誠信ありて窒塞せられ、能く戒懼して中道を得る」の象がある。上九は剛強に過ぎ、争訟の極端に居り、官司を打ち尽くす象がある。九五は剛健中正にして尊位に居り、大人の象がある。剛強をもって険陥を凌駕し、充実の身をもって坑陥に踏入る、大河を渡渉すべからざる象がある。だから占者に誡める。必ず争弁の事に碰上し、吉凶はその自身の処する地位に随って定まる。
《彖》曰:「訟」,上剛下險,險而健,訟。以卦德釋卦名義。「訟,有孚窒,惕中吉」,剛來而得中也。「終凶」,訟不可成也。「利見大人」,尚中正也。「不利涉大川」,入于淵也。以卦變、卦體、卦象釋卦辭。《象》曰:天與水違行,訟,君子以作事謀始。天上水下,其行相違。作事謀始,訟端絕矣。初六,不永所事,小有言,終吉。陰柔居下,不能終訟,故其象占如此。《象》曰:「不永所事」,訟不可長也。雖「小有言」,其辯明也。
《訟卦・彖伝》に曰く、「『訟』とは、上剛にして下険、険にして健なれば、訟なり」と。これは卦徳をもって卦名の意義を解釈する。上は剛強、下は険詐、険詐にしてまた剛健、だから訟と成る。《彖伝》は続けて曰く、「『訟、孚ありて窒がる、惕みて中吉』とは、剛来たりて中を得ればなり。『終わり凶』とは、訟成すべからざればなり。『大人を見るに利し』とは、中正を尚(たっと)べばなり。『大川を渉るに利あらず』とは、淵に入ればなり」と。これは分かれて卦変・卦体・卦象をもって卦辞を解釈する。「剛来而得中」は卦変に就いて言い、「尚中正」は九五の爻位に就いて言い、「入于淵」は坎水の物象に就いて言う。《訟卦・象伝》に曰く、「天と水と違行(いこう)す、訟。君子は以て事を作すに始を謀(はか)る」と。天は上に在り水は下に在り、二者の運行の方向は彼此背離する。だから訟と成る。君子はこれに取法して、事を弁ずるの初めにまず源頭を謀劃清楚にすれば、争訟の苗头もまた断絶する。《訟》卦初六の爻辞に「その事を永(なが)くせず、小さく言あり、終わりに吉」とある。初六は陰柔にして最下に居り、官司を打ち尽くす力量なく、だからその象と占断はともにこのようである。初六《小象伝》に曰く、「『その事を永くせず』とは、訟長くすべからざればなり。『小さく言あり』と雖も、その弁明ならんなり」と――争訟は久しく拖すべからず、やや口舌の争ありと雖も、是非は終に弁え明らかなる。
九二,不克訟,歸而逋,其邑人三百戶,無眚。逋,補吳反。眚,生領反。九二陽剛,為險之主,本欲訟者也。然以剛居柔,得下之中,而上應九五,陽剛居尊,勢不可敵,故其象占如此。邑人三百戶,邑之小者。言自處卑約,以免災患。占者如是,則無眚矣。《象》曰:不克訟,歸逋竄也,自下訟上,患至掇也。竄,七亂反。掇,都活反。掇,自取也。
《訟》卦九二の爻辞に「訟に克(か)たず。帰りて逋(のが)れ、その邑人三百戸。眚(せい)なし」とある。「逋」は補呉反と読み、「眚」は生領反と読む。九二は陽剛で坎険の主爻、もともと打官司せんと欲した。しかしそれは剛爻をもって柔位に居り、下卦の中を得、上に対する九五は陽剛にして尊位に居り、勢力は抗衡しえない。だからその象と占断はともにこのようである。「邑人三百戸」は小邑で、自ら卑下儉約に居り、以て災禍を避けんとする意である。占者が能くこのようであれば、災患はない。九二《小象伝》に曰く、「訟に克たず、帰りて逋れ竄(ざん)す。下より上を訟う、患至るは掇(てつ)なり」と。「竄」は七乱反と読み、「掇」は都活反と読む。「掇」は自ら拾取する意である。下をもって上を訟うは、禍患は自ら招くものである。
六三,食舊德,貞,厲終吉。或從王事,無成。食,猶食邑之食,言所享也。六三陰柔,非能訟者。故守舊居正,則雖危而終吉。然或出而從上之事,則亦必無成功。占者守常而不出,則善也。《象》曰:「食舊德」,從上吉也。從上吉,謂隨人則吉;明自主事,則無成功也。
《訟》卦六三の爻辞に「旧徳を食(は)む。貞なり、厲(あやう)し、終わり吉。或いは王事に従わん。成すことなし」とある。ここでいう「食」は「食邑」の「食」のごとく、享有する俸禄を指す。六三は陰柔で、打官司しうる人ではない。だから旧有の分位を守り正道に居処すれば、処境は危険でも最終にはなお吉利である。しかし假若出て君上の事に追従すれば、必ず成就はない。占者が常分に安守して出頭せざるは、すなわち善処である。六三《小象伝》に曰く、「『旧徳を食む』とは、上に従えば吉なり」と。いわゆる「従上吉」とは、他人に跟隨すれば吉利ということで、これはすなわちもし自ら出面して主事すれば成功はないことを表明する。
九四,不克訟,復即命,渝,安貞,吉。渝,以朱反。即,就也。命,正理也。渝,變也。九四剛而不中,故有訟象。以其居柔,故又為不克,而復就正理,渝變其心,安處於正之象。占者如是,則吉也。《象》曰:「復即命,渝,安貞」,不失也。九五,訟,元吉。陽剛中正,以居尊位,聽訟而得其平者也。占者遇之,訟而有理,必獲伸矣。《象》曰:「訟,元吉」,以中正也。中則聽不偏,正則斷合理。
《訟》卦九四の爻辞に「訟に克たず。復(かえ)りて命に即(つ)き、渝(か)わる。安貞、吉」とある。「渝」是以朱反と読む。「即」は就くこと、「命」は正理、「渝」は改変である。九四は剛強にして中位に居らず、だから争訟の象がある。しかしそれは陽爻をもって柔位に居るから、また打ち勝つ能わざるを知り、ここに頭を回らして正理に依就し、自己の心念を改変して正道に安処する象がある。占者が能くこのようであれば吉利。九四《小象伝》に曰く、「『復りて命に即き、渝わる、安貞』とは、失わざればなり」と。《訟》卦九五の爻辞に「訟、元吉」とある。九五は陽剛中正にして尊位に居り、訟案を審断してその公平を得うる人である。占者がこの爻に遇えば、争訟する一方が理を占めさえすれば、必ず申雪を得る能う。九五《小象伝》に曰く、「『訟、元吉』とは、中正を以てすればなり」と――中に居るから聴訟に偏袒せず、正を得るから裁断が事理に合する。
上九,或錫之般革帶,終朝三褫之。褫,敕紙反。般革帶,命服之飾。褫,奪也。以剛居訟極,終訟而能勝之,故有錫命受服之象。然以訟得之,豈能安久,故又有終朝三褫之象。其占為終訟無理,而或取勝,然其所得,終必失之。聖人為戒之意深矣。《象》曰:以訟受服,亦不足敬也。
《訟》卦上九の爻辞に「或いは鞶帶(はんたい)を錫(たま)わるも、終朝(しゅうちょう)三たびこれを褫(うば)う」とある。「褫」は敕紙反と読む。「鞶帶」は天子賜命の服の飾帯である。「褫」は剥奪である。上九は陽剛をもって争訟の頂端に居り、官司を打ち尽くしてしかも打ち勝つことができる。だから賜命を蒙り命服を領する象がある。しかしそれは打官司によって得たもので、どうして安穏長久でありえようか。だからまた一朝に三度剥奪される象がある。その占断は、官司を争い尽くすはもともと道理なく、たとえ僥倖に勝利しても、得たところは最終には必ず失う、である。聖人がここで世人に誡める用意は、深切というべし。上九《小象伝》に曰く、「訟を以て服を受くるも、亦た敬うに足らざるなり」と――打官司によって換えた服飾は、人の尊敬に値しない。
師卦
坎下,坤上。師:貞,丈人吉,無咎。師,兵眾也。下坎上坤,坎險坤順,坎水坤地。古者寓兵於農,伏至險於大順,藏不測於至靜之中。又卦唯九二陽居下卦之中,為將之象,上下五陰順而從之,為眾之象。九二以剛居下而用事,六五以柔居上而任之,為人君命將出師之象,故其卦之名曰師。丈人,長老之稱。用師之道,利於得正,而任老成之人,乃得吉而無咎。戒占者亦必如是也。
《師(し)》卦は下体が坎、上体が坤である。卦辞に「師:貞なり。丈人(じょうじん)なれば吉、咎なし」とある。「師」は軍隊、士衆である。下坎上坤で、坎は険、坤は順、坎は水、坤は地である。古は兵を農に寓した。まさに至険のものを大順の中に潜伏させ、測度しがたき力量を至静の内に収蔵したのである。さらに、この卦は九二一条の陽爻のみが下卦の中に居り、主将の象である。上下五条の陰爻は柔順にこれに跟従し、士衆の象である。九二は剛爻をもって下位に居りて実際に事を掌り、六五は柔爻をもって上位に居りて彼を委任する。まさに人君が大将を任命し兵を出して征伐する象である。だからこの卦は「師」と名を取る。「丈人」は年高德劭なる者への称呼である。用兵の道は、名義端正に利あり、かつ老成持重の人を任用しうることにあって、これをもってはじめて吉を得て過ちに至らない。これもまた占者に必ずかくあるべきを誡める。
《彖》曰:「師」,眾也,「貞」,正也,能以眾正,可以王矣。王,往況反。此以卦體釋師、貞之義。以,謂能左右之也。一陽在下之中,而五陰皆為所以也。能以眾正,則王者之師矣。剛中而應,行險而順,以此毒天下而民從之,吉又何咎矣。又以卦體、卦德釋「丈人吉,無咎」之義。剛中,謂九二。應,謂六五應之。行險,謂行危道。順,謂順人心。此非有老成之德者不能也。毒,害也。師旅之興,不無害於天下,然以其有是才德,是以民悅而從之也。
《師卦・彖伝》に曰く、「『師』とは衆なり、『貞』とは正なり。能く衆を以て正ならば、以て王たるべし」と。「王」は往況反と読み、天下に王と称することである。これは卦体をもって「師」「貞」の二字の意義を解釈する。「以」は能く左右指揮する意である。一条の陽爻が下卦の中に居り、五条の陰爻はみなその統率を受ける。能く衆人を率いて正道上を行けば、それはすなわち王者の師である。《彖伝》は続けて曰く、「剛中にして応あり、険を行いて順なり。此を以て天下を毒すとも民これに従う。吉なるまた何の咎かあらん」と。これはさらに卦体と卦徳をもって卦辞「丈人吉、无咎」の意義を解釈する。「剛中」は九二を指し、「応」は六五がそれと相应ずるを指し、「行険」は行くところが危険の道であるを言い、「順」は人心に順応するを言う。これらは老成の徳ある人でなければできないことである。「毒」は傷害である。兵を興して戦うは、天下に対して傷害なき能わざるも、しかし主将がかような才と徳を具えるゆえに、百姓はなお心より悦服して彼に従う。
《象》曰:地中有水,師,君子以容民畜眾。畜,許六反。水不外於地,兵不外於民,故能養民,則可以得眾矣。初六,師出以律,否臧凶。律,法也。否臧,謂不善也。晁氏曰,「否」字,先儒多作「不」,是也。在卦之初,為師之始。出師之道,當謹其始,以律則吉,不臧則凶。戒占者當謹始而守法也。《象》曰:「師出以律」,失律凶也。
《師卦・象伝》に曰く、「地中に水あり、師。君子は以て民を容れ衆を畜(やしな)う」と。「畜」は許六反と読む。水は地の外におらず、兵もまた民の外におらない。だからただ百姓を養育しえれば、士衆を得ることができる。《師》卦初六の爻辞に「師出づるに律を以てす、否臧(ひぞう)なれば凶」とある。「律」は法度、「否臧」は不善である。晁説之が言う。「否」の字は先儒多く「不」と作る、これは正しい。初六は一卦の初に処り、出師の開頭である。用兵の道は開頭において謹むべきである。法度に依って行えば吉、不善なれば凶。これは占者に開端に謹み法度を恪守すべきを誡める。初六《小象伝》に曰く、「『師出づるに律を以てす』とは、律を失えば凶なり」と――ひとたび法度を失えば凶である。
九二,在師中,吉,無咎,王三錫命。九二在下,為眾陰所歸,而有剛中之德。上應於五,而為所寵任,故其象占如此。《象》曰:「在師中,吉」,承天寵也。「王三錫命」,懷萬邦也。六三,師或輿尸,凶。輿尸,謂師徒撓敗,輿尸而歸也。以陰居陽,才弱志剛,不中不正,而犯非其分,故其象占如此。《象》曰:「師或輿尸」,大無功也。六四,師左次,無咎。左次,謂退舍也。陰柔不中,而居陰得正,故其象如此。全師以退,賢於六三遠矣,故其占如此。《象》曰:左次無咎,未失常也。知難而退,師之常也。
《師》卦九二の爻辞に「師中に在り、吉、咎なし。王三たび命を錫(たま)う」とある。九二は下卦に居り、衆陰の帰附する対象であり、また剛健居中の徳を具える。上は六五と相応じ、君王の寵信重任を受ける。だからその象と占断はこのようである。兵を統べて能く中道を守れば吉利、過ちなく、かつ屡々王命の賞賜を得る。九二《小象伝》に曰く、「『師中に在り、吉』とは、天寵を承ければなり。『王三たび命を錫う』とは、万邦を懐(なつ)ければなり」と――彼が吉を得る所以は、天子の恩寵を承受したからであり、天子が屡々錫命を加えるは、万邦を安撫するためである。《師》卦六三の爻辞に「師あるいは屍を輿(よ)す、凶」とある。「輿屍」とは軍隊が潰敗し、車に屍体を載せて帰ることを言う。六三は陰爻をもって陽位に居り、才力弱くして心志剛く、中に居らず位にも当たらず、しかも本分を超える事を為す。だからその象と占断はこのようである。六三《小象伝》に曰く、「『師あるいは屍を輿す』とは、大いに功なければなり」と。《師》卦六四の爻辞に「師左次(させ)す、咎なし」とある。「左次」は兵を退いて駐扎することである。六四は陰柔にして中位に居らざるも、陰爻をもって陰位に居りて正を得る。だからその象はこのようである。能く全軍を保全して退くは、六三より高明なること甚だしい。だからその占断もこのようである。六四《小象伝》に曰く、「左次して咎なしは、未だ常を失わざればなり」と――勝ちがたきを知って兵を退くは、もともと用兵の常法である。
六五,田有禽,利執言,無咎,長子帥師,弟子輿尸,貞凶。長,之丈反。六五用師之主,柔順而中,不為兵端者也。敵加於己,不得已而應之,故為田有禽之象。而其占,利以搏執而無咎也。言,語辭也。長子,九二也。弟子,三四也。又戒占者專於委任,若使君子任事,而又使小人參之,則是使之輿尸而歸,故雖貞而亦不免於凶也。《象》曰:「長子帥師」,以中行也,「弟子輿尸」,使不當也。當,去聲。
《師》卦六五の爻辞に「田に禽あり。言を執るに利し、咎なし。長子師を帥(ひき)い、弟子屍を輿す。貞なるも凶」とある。「長」は之丈反と読む。六五は用兵を主持する君主で、柔順にして中に居り、戦端を挑発することを肯んぜず、敵人が自己の頭上に加害するに及んでやむをえず起って応戦する。だから「田裡に禽獣が闖入する」の象があり、その占断はそれを捕捉するに利して過ちなし、である。ここでいう「言」は語助詞である。「長子」は九二を指し、「弟子」は六三・六四を指す。爻辞はまた占者に専一に委任すべきを誡める。もし君子に軍務を担当させながら、また小人を遣わして傍らに搀雑して干預させれば、それは彼をして屍を載せて帰らしめるに等しい。だからたとえ正を守るとも凶を免れない。六五《小象伝》に曰く、「『長子師を帥いる』とは、中を以て行けばなり。『弟子屍を輩す』とは、使い当たらざればなり」と。「当」は去声に読む。人を用いて当たらざるは、まさに敗因である。
上六,大君有命,開國承家,小人勿用。師之終,順之極,論功行賞之時也。坤為土,故有開國承家之象。然小人則雖有功,亦不可使之得有爵士,但優以金帛可也。戒行賞之人,於小人則不可用此占,而小人遇之,亦不得用此爻也。《象》曰:「大君有命」,以正功也。「小人勿用」,必亂邦也。聖人之戒深矣。
《師》卦上六の爻辞に「大君命あり。国を開き家を承ぐ。小人用るなかれ」とある。上六は《師》卦の終点、柔順の極処に処り、まさに功を論じ賞を行う時である。坤は土だから、国土を分封し家邑を承受する象がある。しかし小人はたとえ功あっても、爵位封地を得させるべからず、ただ金帛をもって優渥に賞賜すればよい。これは行賞を主持する人に誡める。小人に対してこの占辞を套用すべからず。そして小人自らこの爻に遇うも、これをもって自ら居ることを得ない。上六《小象伝》に曰く、「『大君命あり』とは、以て功を正しくすればなり。『小人用るなかれ』とは、必ず邦を乱ればなり」と――聖人がここで誡める用意は深遠である。
比卦
坤下,坎上。比:吉。原筮,元永貞,無咎。不寧方來,後夫凶。比,毗意反。比,親輔也。九五以陽剛居上之中,而得其正,上下五陰,比而從之,以一人而撫萬邦,以四海而仰一人之象。故筮者得之,則當為人所親輔。然必再筮以自審,有元善長永正固之德,然後可以當眾之歸而無咎。其未比而有所不安者,亦將皆來歸之。若又遲而後至,則此交已固,彼來已晚,而得凶矣。若欲比人,則亦以是而反觀之耳。
《比(ひ)》卦は下体が坤、上体が坎である。卦辞に「比:吉。原筮(げんぜい)に、元永貞、咎なし。寧(やすん)ぜざる方(まさ)に来たる。後るる夫(かれ)は凶」とある。「比」は毗意反と読み、意は親近輔助である。九五は陽剛をもって上卦の中に居りてまた正を得、上下五条の陰爻はみな来たりて親附し順从する。これは一人が万邦を安撫し、四海が一人を仰望する象である。だから占筮でこの卦を得る人は、理の上で他人の親附輔助を受けるべきである。しかし必ず再び筮して自ら審察し、確かに至善・長久・正固の徳を具えて然る後、衆人の帰附に当たって過ちに至らない。それらまだ帰附せず心に安からぬ人も、また陸続として来たりて帰附する。もし更に迟疑して到ること遅ければ、その時人の交情はすでに穏固、彼の来は遅すぎて、凶を遭う。もし自分が往きて他人に親附せんと欲すれば、ただこの道理を反転して見るのみである。
《彖》曰:「比」,吉也。此三字疑衍文。「比」,輔也,下順從也。此以卦體釋卦名義。「原筮,元永貞,無咎」,以剛中也。「不寧方來」,上下應也。「後夫凶」,其道窮也。亦以卦體釋卦辭。剛中,謂五。上下,謂五陰。《象》曰:地上有水,比,先王以建萬國,親諸侯。地上有水,水比於地,不容有間。建國親侯,亦先王所以比於天下而無間者也。《彖》意,人來比我,此取我往比人。初六,有孚比之,無咎。有孚盈缶,終來有他,吉。缶,俯九反。他,湯何反。比之初,貴乎有信,則可以無咎矣。若其充實,則又有他吉也。《象》曰:比之初六,有他吉也。
《比卦・彖伝》に曰く、「『比』は吉なり」と。朱熹はこの三字は疑わしく写本多出の衍文と考える。伝文は続けて曰く、「『比』とは輔なり、下順従なり」と。これは卦体をもって卦名の意義を解釈する。「比」はすなわち輔助で、下の衆爻はみな九五に順従する。伝文はまた曰く、「『原筮、元永貞、咎なし』とは、剛中を以てすればなり。『寧ぜざる方に来たる』とは、上下応ずればなり。『後るる夫は凶』とは、その道窮まればなり」と。これもまた卦体をもって卦辞を解釈する。いわゆる「剛中」は九五を指し、いわゆる「上下」はその余の五条の陰爻を指す。《比卦・象伝》に曰く、「地上に水あり、比。先王は以て万国を建て諸侯を親(ちか)くす」と。地上に水あり、水は地に緊貼して中間に一点の縫隙も容れない。万国を建立し諸侯を親近するも、まさに先王が以て天下に親附して毫も隔閡なからしめた办法である。《彖伝》の意は他人が来たりて我に親附するに偏重し、ここで《象伝》は我が往きて他人に親附するを取る。《比》卦初六の爻辞に「孚ありてこれに比す、咎なし。孚ありて缶(ふ)に盈(み)つ、終わりに来たりて他(た)あり、吉」とある。「缶」は俯九反と読み、「他」は湯何反と読む。親附の初めに最も要緊なのは誠信あることで、信あれば過ちなきを得る。もし誠信充実して一つの瓦缶に満つるがごとくならば、更に別の意外の吉慶がある。初六《小象伝》に曰く、「比の初六は、他の吉あればなり」と。
六二,比之自內,貞吉。柔順中正,上應九五。自內比外,而得其貞,吉之道也。占者如是,則正而吉矣。《象》曰:「比之自內」,不自失也。得正,則不自失矣。六三,比之匪人。陰柔不中正,承、乘、應皆陰,所比皆非其人之象。其占大凶,不言可知。《象》曰:「比之匪人」,不亦傷乎。六四,外比之,貞吉。以柔居柔,外比九五,為得其正,吉之道也。占者如是,則正而吉矣。《象》曰:外比於賢,以從上也。
《比》卦六二の爻辞に「内よりこれに比す、貞吉」とある。六二は柔順にして中に居り正を得、上は九五と相応じ、内卦より外卦の君位に親附して、また正道を守りうる。これは吉に趨る道である。占者が能くこのようであれば、正にしてかつ吉である。六二《小象伝》に曰く、「『内よりこれに比す』とは、自ら失わざればなり」と――能く正を得れば、自らを失わない。《比》卦六三の爻辞に「これに比する人にあらず」とある。六三は陰柔にして中ならず正ならず、その承ける所、乗る所、応ずる所はすべて陰爻である。まさに親附する所がすべて合適な人でない象である。その占断は大凶で、明言せずとも知るべし。六三《小象伝》に曰く、「『これに比する人にあらず』とは、亦た傷まざるか」と――これは甚だ悲しむべきではないか。《比》卦六四の爻辞に「外これに比す、貞吉」とある。六四は柔爻をもって柔位に居り、外に向かって九五に親附する。これはその正道を得たもので、また吉に趨る道である。占者が能くこのようであれば、正にしてかつ吉である。六四《小象伝》に曰く、「外賢に比すとは、以て上に従えばなり」と。
九五,顯比,王用三驅,失前禽,邑人不誡,吉。一陽居尊,剛健中正,卦之群陰皆來比己,顯其比而無私,如天子不合圍,開一面之網,來者不拒,去者不追。故為用三驅失前禽,而邑人不誡之象。蓋雖私屬,亦喻上意,不相警備以求必得也。凡此皆吉之道,占者如是,則吉也。《象》曰:顯比之吉,位正中也。舍逆取順,「失前禽」也。「邑人不誡」,上使中也。舍,音舍。由上之德使不偏也。上六,比之無首,凶。陰柔居上,無以比下,凶之道也,故為無首之象,而其占則凶也。《象》曰:「比之無首」,無所終也。以上下之象言之,則為無首,以終始之象言之,則為無終,無首則無終矣。
《比》卦九五の爻辞に「比を顕(あら)わす。王三駆を用いて前禽を失い、邑人誡(いまし)めず、吉」とある。九五は一条の陽爻をもって尊位に居り、剛健中正で、全卦の衆陰はみな来たりて自らに親附する。彼はこの親附を公に開出して毫も偏私なく、あたかも天子の田猟が四面合囲せず、網を一面開くがごとし。来るは拒まず、去るは追わない。だから「三面驅趕して迎面して逃走する禽獣を放ち、自らの封邑の人をも戒備しない」の象がある。たとえ君王の私属であっても、上の用意を体会しうるから、彼此警備して必ず獲あらんことを求めなくてよい。およそこれらは皆吉に趨る道で、占者が能くこのようであれば吉利である。九五《小象伝》に曰く、「顕比の吉は、位正中なればなり。逆を舍て順を取るは『前禽を失う』なり。『邑人誡めず』とは、上中を使わしめばなり」と。「舍」は舍弃の舍と音同じ。これはみな在上者の徳が人をして偏私を生ぜしめざるによる。《比》卦上六の爻辞に「これに比するに首なし、凶」とある。上六は陰柔にして全卦の上に居り、下を親附するに用いうるものなし。これは凶に趨る道である。だから「頭なし」の象があり、その占断はすなわち凶である。上六《小象伝》に曰く、「『これに比するに首なし』とは、終わる所なければなり」と。もし上下の位象に就いて言えば、上に居りて統領する所なきはすなわち「无首」であり、もし終始の時象に就いて言えば、末に処りて善終を得ざるはすなわち「无終」である。開頭すでになければ、結局も自ら然りとしてない。
小畜卦
乾下,巽上。小畜:亨。密雲不雨,自我西郊。畜,敕六反。《大畜》卦同。巽,亦三畫卦之名。一陰伏於二陽之下,故其德為巽、為入,其象為風、為木。小,陰也。畜,止之之義也。上巽下乾,以陰畜陽,又卦唯六四一陰,上下五陽皆為所畜,故為小畜。又以陰畜陽,能繫而不能固,亦為所畜者小之象。
《小畜(しょうちく)》卦は下体が乾、上体が巽(そん)である。卦辞に「小畜:亨。密雲雨ならず、我が西郊より」とある。「畜」は敕六反と読み、《大畜》卦の「畜」の字も同じ読みである。巽も三画経卦の名称である。一条の陰爻が二条の陽爻の下に潜伏するから、その卦徳は「巽」であり「入」であり、その物象は風であり木である。「小」は陰を指し、「畜」は止め蓄聚する意である。上巽下乾は、陰をもって陽を畜止する。またこの卦は六四一条の陰爻のみで、上下五条の陽爻は皆それに畜止される。だから「小畜」と呼ぶ。さらに陰をもって陽を畜止するは、ただ牽系しうるのみで牢牢として固止することはできない。これも畜する力の甚だ小なる象である。
內健外巽,二五皆陽,各居一卦之中而用事,有剛而能中,其志得行之象,故其占當得亨通。然畜未極而施未行,故有密雲不雨,自我西郊之象。蓋密雲,陰物;西郊,陰方。我者,文王自我也。文王演《易》於羑里,視岐周為西方,正小畜之時也。筮者得之,則占亦如其象云。
この卦は内に剛健にして外に巽順である。九二と九五はともに陽爻で、各々上下卦の中位に居りて事に当たる。剛強にして能く中を守り、心志が施行を得る象がある。だからその占断は亨通であるべき。しかし畜聚はまだ極処に至らず、施沢もまだ推行し開かず。だから「濃雲密布するも雨降らず、我が西郊の彼方より飄来する」の象がある。濃雲は陰に属する物、西郊は陰に属する方である。「我」は文王の自称である。文王が羑里(ゆうり)に在って《周易》を推演するに、岐周(きしゅう)が正に西方に在るを見、あれは正に小畜の時であった。占筮でこの卦を得る人の得る占断も、この卦象の示すところのごとくである。
小畜卦
《彖》曰:「小畜」,柔得位而上下應之,曰小畜。以卦體釋卦名義。柔得位,指六居四。上下,謂五陽。健而巽,剛中而志行,乃亭。以卦德、卦體而言,陽猶可亨也。「密雲不雨」,尚往也。「自我西郊」,施未行也。施,始豉反。尚往,言畜之未極,其氣猶上進也。
《小畜》卦の《彖伝》に曰く、「小畜」と称する所以は、柔爻が当位の処に居りて、上下五つの陽爻がみな来たりてそれに応和するからである。朱熹が指摘する。これは「卦体」をもって卦名の義を解釈したもので、「柔得位」は六四が陰爻をもって第四位に居るを指し、「上下」はその余の五つの陽爻を指す。《彖伝》はまた内卦剛健、外卦巽順、陽剛は中を得て心志が推行を得るから、能く亨通するといい、朱熹はこれは「卦徳」と「卦体」を合わせて立論したもので、陽気は畜止されるもなお通達しうるという。《彖伝》は卦辞「密雲不雨」を解釈して、畜陽の気がなお上行していると言い、「自我西郊」を解釈して、雨沢がまだ施降しないと言う。「施」は始豉反と読む。いわゆる「尚往」とは、畜止がまだ極点に至らず陽気がなお上に向かって進発するを言い、だから雲は密でも雨は終に成らない。
《象》曰:風行天上,小畜,君子以懿文德。風有氣而無質,能畜而不能久,故為小畜之象。懿文德,言未能厚積而遠施也。初九,復自道,何其咎,吉。復,芳六反。二爻同。下卦乾體,本皆在上之物,志欲上進,而為陰所畜。然初九體乾,居下得正,前遠於陰,雖與四為正應,而能自守以正,不為所畜,故有進復自道之象。占者如是,則無咎而吉也。《象》曰:「復自道」,其義吉也。
《小畜》卦の《大象伝》に曰く、風が天上に行く、これがすなわち《小畜》で、君子はこれに由って取法して己が文徳を修美する、と。朱熹が言う。風は気あって形質なく、一時は攔畜しうるも長久ならず。だから「小畜」の象である。「懿文徳」とはこの時まだ深厚に積蓄し広遠に施行することができず、ただ文徳の上に用功すべきことを言う。初九の爻辞に、自ら本有の道路に帰れば、何の過ちかあらん、吉、と。「復」は芳六反と読み、下第二爻の「復」の字もこの音に同じ。朱熹が言う。下卦乾体の三つの陽爻はもともと上位に居るべき物で、皆上進したがるが、六四一陰に畜止される。初九は身は乾体に属し、最下に居りて正位を得、陰爻より最も遠く、六四と正応ではあるが、能く自守して正をもってし畜止を受けず。だから前進して本道に返帰する象がある。占者が能くこのようであれば、過ちなくしかも吉利。初九《小象伝》に曰く、「自ら道に復(かえ)る」とは、その義理にもともと吉なり、と。
九二,牽復,吉。三陽志同,而九二漸近於陰,以其剛中,故能與初九牽連而復,亦吉道也。占者如是,則吉矣。《象》曰:牽復在中,亦不自失也。亦者,承上爻義。九三,輿說輻,夫妻反目。說,吐活反。九三,亦欲上進,然剛而不中,迫近於陰,而又非正應,但以陰陽相說而為所繫畜,不能自進,故有輿說輻之象。然以志剛,故又不能平而與之爭,故又為夫妻反目之象。戒占者如是,則不得進而有所爭也。
九二の爻辞に、牽引されてともに返る、吉、と。朱熹が言う。下卦三つの陽爻は心志相同じく、九二はまた漸々に六四の陰に逼近するが、それは陽剛にして中位に居るから、能く初九と牽連して一体となって退け帰る。これもまた吉利の路数で、占者がこのようであれば、すなわち吉を得る。九二《小象伝》に曰く、牽引して返り中位に居守すれば、すなわち自らを失わざるなり、と。朱熹は「亦」の字は上一爻の初九の意を承接して言うと指摘する。九三の爻辞に、車その輻(ふく)を脱(だつ)す、夫妻目を反(そむ)かしあう、と。「説」は吐活反と読み、すなわち脱落の脱である。朱熹が言う。九三もまた上進したがるが、陽剛にして中位に居らず、六四の陰に緊貼し、両者はまた正応ではない。ただ陰陽相悦するがゆえに牽系畜止されて、自ら進んで上ることができない。だから車がその輻を脱する象がある。またそれは心志が剛強で、心平かに和ぐことができず、却って陰と相争わんとする。だからまた夫妻反目の象がある。これは占者に誡める。このような情形に処れば、前進するも得られず、かつ争執を生ずることとなる。
《象》曰:「夫妻反目」,不能正室也。程子曰:「『說輻』、『反目』,三自為也。」六四,有孚,血去惕出,無咎。去,上聲。以一陰畜眾陽,本有傷害憂懼。以其柔順得正,虛中巽體,二陽助之,是有孚而血去惕出之象也。無咎宜矣。故戒占者亦有其德,則無咎也。《象》曰:有孚惕出,上合志也。
九三《小象伝》に曰く、夫妻の反目する所以は、九三が自ら家室を端正しえざればなり、と。朱熹は程頤の言を引いて曰く、「車脱輻」と「夫妻反目」は、みな九三が自ら招いたものである、と。六四の爻辞に、心に誠信を存し、血傷去り、憂懼解脱し、過ちなし、と。「去」は上声に読む。朱熹が言う。一つの陰爻をもって衆多の陽爻を畜止するは、もともと傷害と憂懼を招くを免れがたい。しかし六四は柔順にして正位を得、中爻虚にして巽体に属し、上下二つの陽爻がまた肯んで相助ける。これはすなわち心に誠信を懐き、血傷離去し、憂懼解脱する象で、過ちなきは当然の理である。だから占者に誡める。必ずこのような柔順守正の徳行を具えてこそ、過ちを免れることができる。六四《小象伝》に曰く、誠信ありて憂懼解除するは、六四が上の九五と心志相合するによる、と。
九五,有孚攣如,富以其鄰。攣,力專反。巽體三爻,同力畜乾,鄰之象也。而九五居中處尊,勢能有為,以兼乎上下,故為有孚攣固,用富厚之力而以其鄰之象。以,猶《春秋》「以某師」之「以」,言能左右之也。占者有孚,則能如是也。《象》曰:「有孚攣如」,不獨富也。
九五の爻辞に、心に誠信を懐きて緊緊と相連なり、自らの富厚を凭りて隣近の人を帯動す、と。「攣」は力専反と読む。朱熹が言う。上卦巽体の三つの爻は力を合わせて下卦の乾を畜止し、彼此隣となる。これがすなわち「隣」の取象である。九五は中に居りて尊位に処り、形勢の上で有為に足り、上下を兼領することができる。だから誠信牢固に相系し、富厚の力を用いて隣衆を帯動する象がある。ここでいう「以」の字は、《春秋》中の「以某師」の「以」と同じく、能く左右を指揮する意である。占者はただ心に誠信を存せば、このような境地に達しうる。九五《小象伝》に曰く、「孚ありて攣如(れんじょ)」とは、九五が富厚を一身に独占せざるを言う、と。
上九,既雨既處,尚德載,婦貞厲,月幾望,君子征凶。幾,音機。《歸妹》卦同。畜極而成,陰陽和矣,故為既雨既處之象。蓋尊尚陰德,至於積滿而然也。陰加於陽,故雖正亦厲。然陰既盛而抗陽,則君子亦不可以有行矣。其占如此,為戒深矣。《象》曰:「既雨既處」,德積載也。「君子征凶」,有所疑也。
上九の爻辞に、雨すでに降り、すでに安処する。これは陰徳を崇めて積みて満載に至った所致である。婦人これを守るは固より危厲を防ぐべし。月近づきて満ちんとす。君子この時出て行けば凶、と。「幾」は机と読み、《帰妹(きまい)》卦中もこの音に同じ。朱熹が言う。畜止が極点に至って告成し、陰陽はここに調和する。だから雨すでに降り事すでに定まる象がある。これは陰柔の徳を尊崇し、つねに積累して盈満に至ってこのようになった。陰は陽の上に凌駕するから、たとえ正を守るともなお危険がある。陰すでに強盛にして陽と相抗するから、君子は再び行動あるべからず。この爻の占断はこのようで、誡めの意極めて深し。上九《小象伝》に曰く、「既雨既処」とは、陰徳が積累して満載に至ったこと。「君子征凶」とは、この時前行すれば猜疑を招くを言う、と。
履卦
兌下,乾上。履虎尾,不咥人,亨。咥,直結反。兌,亦三畫卦之名。一陰見於二陽之上,故其德為說,其象為澤。履,有所躡而進之義也。以兌遇乾,和說以躡剛強之後,有履虎尾而不見傷之象,故其卦為履,而占如是也。人能如是,則處危而不傷矣。
《履(り)》卦は下体が兌(だ)、上体が乾である。卦辞に曰く、虎の尾を履(ふ)んで行くも、虎人を咥(くら)わず、亨、と。「咥」は直結反と読む。朱熹が言う。兌も三画経卦の名称で、一つの陰爻が二つの陽爻の上に顕現するから、その卦徳は和悦で、取象は沼沢である。「履」は踏着して前に往く意である。兌の和悦をもって乾の剛健に遇えば、和顔悦色をもって剛強者の身後に跟って行走するに等しい。だから虎尾を履んで咬傷されざる象があり、卦名はここに《履》と呼ばれ、占断もこのようである。人が能くこのように柔順随和すれば、たとえ危境に身を処すとも傷を受けない。
《彖》曰:履,柔履剛也。以二體釋卦名義。說而應乎乾,是以「履虎尾,不咥人,亨」。說,音悅。以卦德釋《彖辭》。剛中正,履帝位而不疚,光明也。又以卦體明之,指九五也。《象》曰:上天下澤,履,君子以辯上下,定民志。《程傳》備矣。
《履》卦の《彖伝》に曰く、履とは、柔順者が剛強者の後に履むこと、と。朱熹はこれは上下二体をもって卦名の義を解釈したものという。《彖伝》はまた曰く、和悦の態をもって乾の剛健に応合するから、「履虎尾、不咥人、亨」なり、と。「説」は悦と読む。朱熹はこれは「卦徳」をもって卦辞を解釈したものという。《彖伝》はさらに曰く、陽剛は中に居りて正を得、身は君位を履んでも心に愧(は)じなし、だから能く光明正大たる、と。朱熹はこれはまた「卦体」に就いて立論し、九五一爻を指すという。《履》卦の《大象伝》に曰く、上は天、下は沢、これがすなわち《履》で、君子はこれに拠って上下の名分を分辨し、百姓の心志を安定する、と。朱熹が言う。この一条は程頤の《易伝》にすでに講じて甚だ備わっている。
《傳》曰:「天在上,澤居下,上下之正理也。人之所履當如是,故取其象而為履。君子觀履之象,以辯別上下之分,以定其民志。夫上下之分明,然後民志有定。民志定,然後可以言治。民志不定,天下不可得而治也。古之時,公卿大夫而下,位各稱其德,終身居之,得其分也。位未稱德,則君舉而進之。士修其學,學至而君求之。皆非有預於己也。農工商賈勤其事,而所享有限。故皆有定志,而天下之心可一。後世自庶士至於公卿,日志於尊榮;農工商賈,日志於富侈;億兆之心,交騖於利,天下紛然,如之何其可一也。欲其不亂,難矣。此由上下無定志也。君子觀履之象,而分辯上下,使各當其分,以定民之心志也。」
程頤の《易伝》に曰く、天は上に在り、沢は下に在り、これは上下の有るべき正理である。人の践行するもまさにこのようであるべく、だからこの象を取って《履》卦と立てた。君子は《履》卦の象を観察して、以て上下の名分を分辨し、百姓の心志を安定する。上下の名分が明確なれば、百姓の心志に定処あり。心志が安定して、はじめて治理を談ずべし。心志が定まらざれば、天下は治めること能わず。古は公卿大夫以下、各人の位次はみなその徳行と相称し、終身その位に居りて各々その分を得た。位次がなお徳行に配せざれば、君主は彼を挙拔して昇らせた。士人はただ学問を修習すればよく、学問が家に到れば、君主は自ら来たりて彼を求めた。これらはみな自ら経営干求して得たものではない。農夫・工匠・商販は各々本業に勤め、享用する所にも一定の限度あり。だから人々の心志は安定し、天下の心を一に帰せしめうる。後世は普通の士人から公卿に至るまで、日々尊貴栄顕を想い、農工商賈は日々発財奢靡を想い、億万人の心思はみな利益に向かって奔競し、天下は紛紛擾擾として、どうして一致に帰しえようか。それを乱れざらしめんとすも、また難し。これ全て上下に安定の心志なきによる。だから君子は《履》卦の象を観て、上下を分辨し、各人をして本分に安んぜしめ、以て百姓の心志を安定する。
初九,素履,往無咎。以陽在下,居履之初,未為物遷,率其素履者也。占者如是,則往而無咎也。《象》曰:素履之往,獨行願也。九二,履道坦坦,幽人貞吉。剛中在下,無應於上,故為履道平坦,幽獨守貞之象。幽人履道而遇其占,則貞而吉矣。《象》曰:「幽人貞吉」,中不自亂也。
初九の爻辞に、本分そのままに行く、往けば過ちなし、と。朱熹が言う。初九は陽爻をもって最下に居り、正に「履」の開端に当たり、まだ外物に心志を改変されず、ただ自己の素来的本分に循って行くのみ。占者がこのようであれば、往いても過ちはない。初九《小象伝》に曰く、本分に行くとは、独り自らの心願を践行するなり、と。九二の爻辞に、行く所の道は平坦寛闊、幽居の人正を守れば吉、と。朱熹が言う。九二は陽剛にして中に居り位は下卦に在り、上に相応ずる爻なし。だから道路平坦、幽独に正を守る象がある。幽静に自守する人が正道を践行してこの爻を占得すれば、正を守って吉を獲る能う。九二《小象伝》に曰く、「幽人貞吉」とは、九二が中に居り内心自ら乱れざるによる、と。
六三,眇能視,跛能履,履虎尾,咥人,凶,武人為于大君。跛,波我反。六三不中不正,柔而志剛,以此履乾,必見傷害,故其象如此,而占者凶。又為剛武之人,得志而肆暴之象,如秦政、項籍,豈能久也。《象》曰:「眇能視」,不足以有明也。「跛能履」,不足以與行也。咥人之凶,位不當也。「武人為于大君」,志剛也。九四,履虎尾,朔心朔心,終吉。朔心,山革反,音色。九四亦以不中不正,履九五之剛。然以剛居柔,故能戒懼而得終吉。《象》曰:「朔心朔心,終吉」,志行也。
六三の爻辞に、一目を眇(すが)めて自ら能く見ると為し、一足を跛(あ)して自ら能く行くと為し、虎尾を履みに往けば、虎人を咥う、凶。武夫大君を為さんとす、と。「跛」は波我反と読む。朱熹が言う。六三は中に居らず位にも当たらず、本質は柔弱にして心志は剛強。これを凭りて乾の剛健を履踏すれば、必ず傷害を招く。だから取象このようで、占者これを得れば凶である。それはまた剛猛の武夫が一朝志を得て肆意に暴を施す象で、秦始皇嬴政、西楚覇王項籍のごとき、どうして長久ならんや。六三《小象伝》に曰く、「眇して能く視(み)る」とは、視力は真に見明らぐるに足らず。「跛して能く履む」とは、脚力は人と並行するに足らず。虎に咬まるの凶険は、六三の処する爻位が当たらざるによる。「武人大君を為さんとす」とは、心志が剛暴に過ぐればなり、と。九四の爻辞に、虎尾を履み、戒懼再三、終に吉を得、と。「愬愬(せきせき)」は山革反と読み、音は「色」に同じく、すなわち恐懼警惕の義である。朱熹が言う。九四もまた不中不正ながら、九五の剛強の後に履まんとする。幸いそれは陽剛の質をもって陰柔の位に居るから、能く警惕畏懼して、終に吉を獲る。九四《小象伝》に曰く、戒懼して終に吉を得るは、その心志が施行を得るによる、と。
九五,夬履,貞厲。夬,古快反。九五以剛中正履帝位,而下以兌說應之,凡事必行,無所疑礙。故其象為夬決其履,雖使得正,亦危道也。故其占為雖正而危,為戒深矣。《象》曰:「夬履,貞厲」,位正當也。傷於所恃。上九,視履考祥,其旋元吉。視履之終,以考其祥,周旋無虧,則得元吉。占者禍福,視其所履而未定也。《象》曰:元吉在上,大有慶也。若得元吉,則大有福慶也。
九五の爻辞に、剛決果断をもって事を行う、正を守るもなお危厲あり、と。「夬(かい)」は古快反と読む。朱熹が言う。九五は陽剛中正の徳をもって身に君位を履み、下にまた兌の和悦が来たりて応承す。およそ事は言えば即ち為し、毫も疑慮阻碍なし。だから取象はその行う所を決断するとなり、たとえ行う所が正道に合すとも、これは一条の危険の路である。ゆえに占断は正なりと雖も危うしで、誡めの意甚だ深し。九五《小象伝》に曰く、剛決に行いて正を守るもなお危うしは、正にその処する爻位が正当に過ぐればなり、と。朱熹は一句補す。壊れるはそれが自恃する所有るによる。上九の爻辞に、一路行い来たるを回視し、その吉凶の兆を考察して、もし周旋して円満にして虧欠なければ、大いに吉利なり、と。朱熹が言う。「履」の終点に立って全程を回視し、その祥兆を考核して、もし処処周全にして欠けなければ、すなわち元吉を得る。占者の禍福は全てその平素の行い如何を看るのみで、あらかじめ注定されるものではない。上九《小象伝》に曰く、元吉は最上の一爻に現る、大いに福慶あり、と。朱熹が言う。果して元吉を得れば、それは福慶盛大なり。
泰卦
乾下,坤上。泰:小往大來,吉亨。泰,通也。為卦天地交而二氣通,故為泰。正月之卦也。小,謂陰。大,謂陽。言坤往居外,乾來居內。又自《歸妹》來,則六往居四,九來居三也。占者有陽剛之德,則吉而享矣。
《泰(たい)》卦は下体が乾、上体が坤である。卦辞に曰く、小なるは往きて大なるは来たる、吉祥亨通、と。朱熹が言う。泰はすなわち通暢である。この卦は天地交合して陰陽二気相通ずるから、《泰》と呼び、十二消息卦中では正月に配す。「小」は陰を指し、「大」は陽を指す。坤が往きて外卦に居り、乾が来たりて内卦に居るを言う。もし「卦変」の上から見れば、《泰》はまた《帰妹》卦より変じて来て、《帰妹》の六三は上に往きて第四位に居り、九四は下に来て第三位に居る。占者がもし陽剛の徳を具えれば、吉祥にして亨通しうる。
《彖》曰:「泰,小往大來,吉亨」,則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也。內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人,君子道長,小人道消也。長,丁丈反。《否》卦同。《象》曰:天地交,泰,后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。財、裁同。相,息亮反。左,音佐。右,音佑。財成以制其過,輔相以補其不及。
《泰》卦の《彖伝》に曰く、「泰、小往大来、吉亨」とは、これは天地交合して万物通暢し、君上臣下交通して心志一致するなり。内卦は陽、外卦は陰、内は剛健、外は柔順、君子は内に在りて事を主り、小人は外に退居す。君子の道は日に生長し、小人の道は日に消退す。「長」は丁丈反と読み、《否(ひ)》卦中もこの音に同じ。《大象伝》に曰く、天地交合す、これがすなわち《泰》。君主はこれに由って天地生化の道を裁成し、天地の宜しき所の事を輔助し、以て百姓を扶助す、と。「財」は「裁」と相通じ、「相」は息亮反と読み、「左」は音佐、「右」は音佑である。朱熹が言う。裁成とは、天地の道の太过を節制するなり。輔相とは、その不及を補足するなり。
初九,拔茅茹以其匯,征吉。茹,人餘反。匯,於位反,音胃。《否》卦同。三陽在下,相連而進,拔茅連茹之象,征行之吉也。占者陽剛,則其征吉矣。郭璞《洞林》讀至「匯」字絕句,下卦放此。《象》曰:拔茅征吉,志在外也。九二,包荒,用馮河,不遐遺,朋亡,得尚于中行。馮,音憑。九二以剛居柔,在下之中,上有六五之應,主乎泰而得中道者也。占者能包容荒穢,而果斷剛決,不遺遐遠,而不暱朋比,則合乎此爻中行之道矣。《象》曰:「包荒」、「得尚于中行」,以光大也。
初九の爻辞に、茅草を拔き起こすに、根鬚相連れて帯出し、同類とともに並進す。出て行けば吉、と。「茹(じょ)」は人余反と読み、「彙(い)」は于位反と読み、音は「胃」に同じく、《否》卦中もこれに同じ。朱熹が言う。下卦三つの陽爻は相連れて並進し、まさに茅を拔く時根鬚相牽する象で、出て行けば自然に吉利。占者がもし陽剛の徳あれば、この行は吉なり。郭璞(かくはく)の《洞林》は「彙」の字に読み断ち、下の《否》卦初六もこの読みに照らす。初九《小象伝》に曰く、茅を拔いて行いて吉を得るは、心志が外に向かって進取するに在ればなり、と。九二の爻辞に、能く荒穢を包容し、敢て徒歩して河を渉り、疎遠の人を遺棄せず、党を結び私を営まず、かくて中道に行くに合す、と。「馮(ひょう)」は音凭(ひょう)、すなわち徒歩して河を渡ること。朱熹が言う。九二は陽剛の質をもって陰柔の位に居り、下卦の中に処り、上に六五がそれと相应ずる。《泰》を主持して能く中道を守る一爻である。占者が能く汚穢を包容し、行事果断剛決し、疎遠の人を遺漏せず、また朋党を親昵せざれば、この爻の中行の道に合する。九二《小象伝》に曰く、「荒を包む」にして「中行に尚(あ)ぐを得る」とは、九二の徳行が光明博大なればなり、と。
九三,無平不陂,無往不復,艱貞無咎,勿恤其孚,于食有福。將過於中,泰將極而否欲來之時也。恤,憂也。孚,所期之信也。戒占者艱難守貞,則無咎而有福。《象》曰:「無往不復」,天地際也。六四,翩翩,不富以其鄰,不戒以孚。已過乎中,泰已極矣,故三陰翩然而下復,不待富而其類從之,不待戒令而信也。其占為有小人合交以害正道,君子所當戒也。陰虛陽實,故凡言不富者,皆陰爻也。《象》曰:翩翩不富,皆失實也。「不戒以孚」,中心願也。陰本居下,在上為失實。
九三の爻辞に、ずっと平坦にして傾かざるなく、またずっと前往して返らざるなし。艱難の中に正を守れば過ちなく、期する応験を憂うこと勿れ。飲食の間に自ら福あり、と。朱熹が言う。九三はまさに下卦の中を越えんとし、正に《泰》が尽きんとして《否》が将に来たらんとする時である。「恤(じゅつ)」は憂慮、「孚」は期待する応験である。これは占者に誡める。艱難の中に正道を堅守すれば、過ちを免れて福あるを得る。九三《小象伝》に曰く、「往きて復(かえ)らざるなし」と講ずるは、天地交会の界限の在所なり、と。六四の爻辞に、軽捷に飛落して来て、富厚に依らずとも隣衆自ら随い、告誡せずとも彼此相信す、と。朱熹が言う。六四はすでに卦中を過ぎ、《泰》は極点に至った。だから上卦三つの陰爻は翩然として下降回返する。富厚を用いずとも同類は自ら跟従し、号令を用いずとも彼此自然に相信す。この爻の占断は、小人が党を結んで往来して正道を危害することあり、まさに君子の当に警戒すべき所。陰は虚にして陽は実だから、《易》中およそ「不富」と言うときは、みな陰爻を指す。六四《小象伝》に曰く、翩然として下る、富まずとは、その実を皆失えばなり。「戒めずして孚あり」とは、内心の自願に出ればなり、と。朱熹が言う。陰はもともと下位に居るべきなのに、今は上に居る。だから実を失うと言う。
六五,帝乙歸妹,以祉元吉。以陰居尊,為泰之主。柔中虛己,下應九二,吉之道也。而帝乙歸妹之時,亦嘗占得此爻。占者如是,則有祉而元吉矣。凡經以古人為言,如高宗、箕子之類者,皆放此。《象》曰:「以祉元吉」,中以行願也。上六,城復于隍。勿用師,自邑告命,貞吝。復,房六反。下同。泰極而否,城復于隍之象。戒占者不可力爭,但可自守,雖得其貞,亦不免於羞吝。《象》曰:「城復于隍」,其命亂也。命亂故復否,告命,所以治之也。治,平聲。
六五の爻辞に、殷王帝乙(ていいつ)少女を嫁がせ、これによって福を受く、大いに吉利なり、と。朱熹が言う。六五は陰爻をもって尊位に居り、《泰》卦の主である。柔順居中にして能く己を虚しくして人を待ち、下は九二と相应ず。これは吉を致す道である。当年帝乙が妹を嫁がせし時、かつてこの爻を占得した。占者が能くこのようであれば、福を受けて大吉なるを得る。およそ《易経》中古人を挙げて説とするは、《既済(きせい)》の高宗を講ず、《明夷(めいい)》の箕子(きし)を講ずる類のごとく、みなこの例に照らして見るべし。六五《小象伝》に曰く、これによって福を受けて大吉とは、六五が中に居りて能く自らの心願を実行すればなり、と。上六の爻辞に、城墻倒塌して城下の乾壕(かんごう)に回填す。軍隊を動用するなかれ。ただ自らの封邑の内に政令を発布すべし。正を守るも羞吝(しゅうりん)を免れず、と。「復」は房六反と読み、下文もこの音に同じ。朱熹が言う。《泰》は極処に至れば転じて《否》となる。だから城墻が傾覆して隍(ほり)に入る象がある。これは占者に誡める。この時強いて力争すべからず、ただ自守するのみ。たとえ正道を守るとも、羞吝を免れない。上六《小象伝》に曰く、「城隍に復る」とは、政令すでに乱れたればなり、と。朱熹が言う。政令乱るるゆえに転じて閉塞となる。「告命」はまさにこれを整治する手段である。「治」は平声に読む。
否卦
坤下,乾上。否之匪人,不利君子貞,大往小來。否,備鄙反。否,閉塞也,七月之卦也。正與《泰》反,故曰匪人,謂非人道也。其占不利於君子之正道。蓋乾往居外,坤來居內,又自《漸》卦而來,則九往居四,六來居三也。或疑「之匪人」三字衍文,由《比》六三而誤也。《傳》不特解,其義亦可見。
《否(ひ)》卦は下体が坤、上体が乾である。卦辞に曰く、閉塞の世は人道を成さず、君子の正を守るに利あらず、大なるは往きて小なるは来たる、と。「否」は備鄙反と読む。朱熹が言う。否はすなわち閉塞で、十二消息卦中では七月に配し、ちょうど《泰》卦と相反する。だから「匪人(ひじん)」と言い、意はこれは人の人たるの道理に合せざるなり。その占断は君子の正道に利あらず、である。乾が往きて外卦に居り、坤が来たりて内卦に居るからである。「卦変」の上から見れば、それはまた《漸(ぜん)》卦より変じて来て、《漸》の九三は上に往きて第四位に居り、六四は下に来て第三位に居る。ある人はまた「之匪人」の三字は多出の衍文で、《比》卦六三の爻辞「比之匪人」が竄入して誤ったと疑う。《彖伝》は専らこの三字を解釈せず、その中の意もまた想見すべし。
《彖》曰:「否之匪人,不利君子貞,大往小來」,則是天地不交,而萬物不通也;上下不交,而天下無邦也。內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子,小人道長,君子道消也。《象》曰:天地不交,否,君子以儉德辟難,不可榮以祿。闢,音避。難,去聲。收斂其德,不形於外,以避小人之難。人不得以祿位榮之。
《否》卦の《彖伝》に曰く、「否之匪人、不利君子貞、大往小来」とは、これは天地相交わらずして万物通ぜず、君上臣下相交わらずして天下は国なきに形じたるなり。内卦は陰、外卦は陽、内は柔弱、外は剛硬、小人は内に在りて権を当て、君子は外に排せらる。小人の道は日に生長し、君子の道は日に消退す、と。《大象伝》に曰く、天地交わらず、これがすなわち《否》。君子はこれに由って徳行を収斂して以て禍難を避け、禄位を用いて自らを顕栄せしむべからず、と。「辟」は音避、「難」は去声に読む。朱熹が言う。徳行を収斂して外に顕露せず、以て小人の加え来る禍難を避く。かくすれば人もまた俸禄爵位をもって彼を栄耀し籠絡すること能わず。
初六,拔茅茹以其匯,貞吉亨。三陰在下,當否之時,小人連類而進之象,而初之惡則未形也,故戒其貞則吉而亨。蓋能如是,則變而為君子矣。《象》曰:拔茅貞吉,志在君也。小人而變為君子,則能以愛君為念,而不計其私矣。六二,包承,小人吉,大人否,亨。陰柔而中正,小人而能包容承順乎君子之象,小人之吉道也。故占者小人如是則吉,大人則當安守其否而後道亨。蓋不可以彼包承於我,而自失其守也。《象》曰:「大人否,亨」,不亂群也。言不亂於小人之群。
初六の爻辞に、茅草を拔き起こすに根鬚相連れて、同類とともに帯出す。正を守れば吉にして亨通、と。朱熹が言う。三つの陰爻は下卦に居り、正に閉塞の時に当たる。これは小人が群を成し党を結んで進む象である。ただし初六は最下に居り、その悪はまだ顕露せず。だからこれに誡めて、ただ正を守れば吉にして亨なり、という。能くこのようであれば、小人もまた転変して君子となる。初六《小象伝》に曰く、茅を拔いて正を守り吉を得るは、心志を君主の身に放ればなり、と。朱熹が言う。小人ひとたび君子と変われば、能く君を愛するを念として、更に私利を計較せず。六二の爻辞に、包容承順す、小人は吉を得、大人は閉塞に安んず、その道却って亨通す、と。朱熹が言う。六二は陰柔にして中正で、小人にして能く包容承順する君子の象で、これは小人の吉を求める路数である。だから占者がもし小人ならば、このようであればすなわち吉。もし大人ならば、まさにこの閉塞の時に安守して然る後その道通ず。関鍵は、相手が我に対して曲意をもって包容承順するに因って、自ら操守を失うべからざるに在り、と。六二《小象伝》に曰く、「大人否にして亨」とは、大人が小人と混じて一群と為さざればなり、と。朱熹の解釈に曰く、すなわち小人のあの一群に攪乱されざるなり、と。
六三,包羞。以陰居陽而不中正,小人志於傷善而未能也,故為包羞之象。然以其未發,故無凶咎之戒。《象》曰:「包羞」,位不當也。九四,有命,無咎,疇離祉。否過中矣,將濟之時也。九四,以陽居陰,不極其剛,故其占為有命無咎,而疇類三陽,皆獲其福也。命,謂天命。《象》曰:「有命,無咎」,志行也。
六三の爻辞:心に恥ずべき事を蔵している。朱熹が言います。六三は陰爻で陽位にあり、中にも当たらず位にも当たらず、小人が心に善類を害そうとしながらまだ手を下す力がない者です。だから羞恥を懐蔵する象があります。まだ発作していないので爻辞にも凶咎の戒めがありません。六三《小象伝》に言います。「羞を包む」とは、その処する爻位が当たらないからです。九四の爻辞:天命を承奉して事を行えば過ちなく、同類はみな福に浴する。朱熹が言います。《否》はすでに卦中を過ぎ、まさに通じに転じようとする時です。九四は陽爻で陰位にあり、剛を極めて用いないので、占断は天命を奉じて過ちなく、それと同類の三つの陽爻も皆福を得ます。ここでの「命」は天命を指します。九四《小象伝》に言います。「命ありて咎なし」とは、その心志が施行を得たからです。
九五,休否,大人吉。其亡其亡,繫于苞桑。苞,與包同。古《易》作「包」。陽剛中正以居尊位,能休時之否,大人之事也。故此爻之占,大人遇之則吉。然又當戒懼如《繫辭傳》所云也。《象》曰:大人之吉,位正當也。上九,傾否。先否後喜。以陽剛居否極,能傾時之否者也。其占為先否後喜。《象》曰:否終則傾,何可長也。
九五の爻辞:この閉塞の世を休止すれば、大人は吉を得る。心に常に「亡びんとす、亡びんとす」と念じてこそ、叢生する桑の根に繋ぐように牢固となれます。「苞」は「包」と同じで、古本《周易》はそのまま「包」と作ります。朱熹が言います。九五は陽剛中正で尊位にあり、当時の閉塞を終止させることができます。これは大人だけができる事です。だからこの爻の占断は大人がこれに遇えば吉となります。ただし同時に《繋辞伝》の説くところのように、常に危亡の惧れを懐かねばなりません。九五《小象伝》に言います。大人が吉を得るのは、その処する爻位が正当だからです。上九の爻辞:この閉塞の世を傾覆すれば、先に閉塞して後に喜慶に転じます。朱熹が言います。上九は陽剛で《否》の極処にあり、当時の閉塞の局面を転覆できる者です。だから占断は先に否あって後に喜びありです。上九《小象伝》に言います。閉塞が尽きれば傾覆します。どうして長く続けられましょう。
同人卦(どうじん)
離下,乾上。同人于野,亨。利涉大川,利君子貞。離,亦三畫卦之名。一陰麗於二陽之間,故其德為麗、為文明;其象為火、為日、為電。同人,與人同也。以離遇乾,火上同於天,六二得位得中,而上應九五,又卦唯一陰而五陽同與之,故為同人。於野,謂曠遠而無私也,有亨道矣。以健而行,故能涉川。為卦內文明而外剛健,六二中正而有應,則君子之道也。占者能如是,則亨,而又可涉險。然必其所同合於君子之道,乃為利也。
《同人》卦は下体が離、上体が乾です。卦辞に言います。曠野で人と同じくすれば亨通し、大河を渡るに利あり、君子が正道を守るに利あり。朱熹が言います。離もまた三画の経卦の名称で、一つの陰爻が二つの陽爻の間に附麗します。だからその卦徳は附麗・文明であり、取象は火・日・電です。「同人」とは人と同じくすることです。離をもって乾に遇えば、火の性は炎上して天と同じです。六二は位に当たり中に居り、上は九五に応じ、また全卦に陰爻一つのみで五つの陽爻が皆これに同じくするので、《同人》と呼びます。「于野」とは曠遠開豁で私心がないことを言い、元来亨通の道を含みます。剛健の徳をもって行うので大川を渡れます。卦体についていえば、内は文明で外は剛健、六二は中正で正応があります。これはまさに君子の道です。占者が能くこのようであれば亨通し、また険を渉ることができます。ただし結び同じくする対象は君子の道に合しなければ利とはなりません。
《彖》曰:「同人」,柔得位得中而應乎乾,曰同人。以卦體釋卦名義。柔,謂六二。乾,謂九五。同人曰。衍文。「同人于野,亨,利涉大川」,乾行也。文明以健,中正而應,君子正也。唯君子為能通天下之志。以卦德、卦體釋卦辭。通天下之志,乃為大同;不然,則是私情之合而已,何以致亨而利涉哉?《象》曰:天與火,同人,君子以類族辨物。天在上而火炎上,其性同也。類族辨物,所以審異而致同也。
《同人》卦《彖伝》に言います。いわゆる「同人」とは、柔爻が位に当たり中に居りて上より乾陽に応ずるので同人と言います。朱熹はこれを「卦体」で卦名の義を釈したものとします。「柔」は六二を指し、「乾」は九五を指します。伝文中の「同人曰」三字は、朱熹は多出来の衍文と判じます。《彖伝》がまた言います。「同人于野、亨、利渉大川」とは、乾健の徳が行われているのです。文明にして剛健、中に居り正を得て彼此相応するのは君子の正道です。君子のみが天下の人の心志を会通できます。朱熹はこれを「卦徳」と「卦体」を合わせて卦辞を釈したものとします。能く天下の人の心志を会通してこそ大同と言い、さもなくば私情上の結合に過ぎず、何をもって亨通を致し、険を渉るに利となりましょうか。《大象伝》に言います。天と火、これがすなわち《同人》であり、君子はこれにより族類により帰納し事物により弁別します。朱熹が言います。天は上にあり火性は炎上し、両者の性は同じです。族類を分け事物を弁ずるのは、まさに差異を審察して真の会同に達するためです。
初九,同人于門,無咎。同人之初,未有私主。以剛在下,上無繫應,可以無咎。故其象占如此。《象》曰:出門同人,又誰咎也?六二,同人于宗,吝。宗,黨也。六二雖中且正,然有應於上,不能大同而繫於私,吝之道也。故其象占如此。《象》曰:「同人于宗」,吝道也。
初九の爻辞:門を出れば人と同じくして、過ちなし。朱熹が言います。初九は「同人」の開端にあり、まだ偏私の対象がありません。陽剛をもって最下に居り、上に牽係する正応もないので、過ちなくできます。取象も占断もこのようです。初九《小象伝》に言います。門を出て人と同じくすれば、また誰が咎められましょう。六二の爻辞:自己の宗族党羽の内のみで人と同じくすれば、羞吝。朱熹が言います。「宗」とはすなわち党です。六二は中に居り位に当たるけれど、上に九五が正応としてあるため、広く天下に同じくできず私に牽係します。これは羞吝を致す道です。取象も占断もこのようです。六二《小象伝》に言います。「同人于宗」とは、一つの羞吝の道です。
九三,伏戎于莽,升其高陵,三歲不興。莽,莫蕩反。剛而不中,上無正應,欲同於二而非其正,懼九五之見攻,故有此象。《象》曰:「伏戎于莽」,敵剛也。「三歲不興」,安行也?言不能行。九四,乘其墉,弗克攻,吉。墉,音庸。剛不中正,又無應與,亦欲同於六二,而為三所隔,故為乘墉以攻之象。然以剛居柔,故有自反而不克攻之象。占者如是,則是能改過而得吉也。《象》曰:「乘其墉」,義弗克也。其吉,則困而反則也。乘其墉矣,則非其力之足也,特以義之弗克而不攻耳。能以義斷,困而反於法則,故吉也。
九三の爻辞:兵を草莽の中に伏せ、また高い山陵に登って望んでも、三年は興起できません。「莽」は「莫蕩反」と読みます。朱熹が言います。九三は陽剛で中位に居らず、上に正応がなく、六二と同じくしようとして正に合わず、また九五が攻め来るのを畏れます。だからこのような象があります。九三《小象伝》に言います。「戎を莽に伏する」とは、相手の九五が剛強すぎるからです。「三歳興らず」とは、またどこへ行って動けましょう。朱熹はこれが根本に行い得ないことを言うと解釈します。九四の爻辞:相手の城墻に登ったが、ついに進攻を発動せず、吉。「墉」は音 庸。朱熹が言います。九四は陽剛で中にも正にも当たらず、相応する爻もなく、六二と同じくしようとしましたが九三に隔絶されました。だから城墻に登り進攻する象があります。しかし陽剛をもって陰柔の位に居るので、また躬を反って自省し終に攻めない象があります。占者がこのようであれば、能く過ちを改めて吉を獲ます。九四《小象伝》に言います。「其の墉に乗る」とは、道義の上では攻められないということです。それが吉である所以は、困窘の中で法則に帰ったからです。朱熹が言います。すでに城墻に登った以上、力の足りないのではなく、自ら義において不可を知って攻めないのです。能く道義をもって裁断し、困窘の中で法度に帰るので吉を得ます。
九五,同人先號咷而後笑,大師克相遇。號,戶羔反。咷,道刀反。《旅》卦同。五剛中正,二以柔中正,相應於下,同心者也,而為三四所隔,不得其同。然義理所同,物不得而間之,故有此象。然六二柔弱而三四剛強,故必用大師以勝之,然後得相遇也。《象》曰:同人之先,以中直也。大師相遇,言相剋也。直,謂理直。上九,同人于郊,無悔。居外無應,物莫與同,然亦可以無悔,故其象占如此。郊,在野之內,未至於曠遠,但荒僻無與同耳。《象》曰:「同人于郊」,志未得也。
九五の爻辞:人と同じくして、先に声を放って痛哭し後に歓笑し、大軍を出動して阻隔に打ち勝ち、ついに相遇います。「号」は「戸羔反」、「咷」は「道刀反」と読み、《旅》卦でもこの音と同じです。朱熹が言います。九五は陽剛中正、六二は陰柔中正で、下に正応をもち、本来同心の一対ですが、九三・九四に中を隔てられてしばらく会合を得ません。しかし義理上同じくする者は、外物は終に隔てることができません。だからこのような象があります。ただ六二は柔弱で九三・九四は剛強なので、必ず大軍を動員してこれらを打ち破ってこそ相遇えます。九五《小象伝》に言います。同人の初めに先に哭する所以は、九五が中に居り理が直いからです。大師が相遇うとは、双方が交戦して勝ったことを言います。朱熹は「直」は道理が正直だと解釈します。上九の爻辞:城郊で人と同じくして、悔恨なし。朱熹が言います。上九は卦外にあり正応がなく、誰とも同じくする者がなく、ただ曠遠の境地に独处する象です。悔いはないけれど、亨通を得るには足りません。上九《小象伝》に言います。「同人于郊」とは、心志がまだ得られていないことです。
大有卦(たいゆう)
乾下,離上。大有:元亨。大有,所有之大也。離居乾上,火在天上,無所不照。又,六五一陰居尊得中,而五陽應之,故為大有。乾健離明,居尊應天,有亨之道。占者有其德,則大善而亨也。
《大有》卦は下体が乾、上体が離です。卦辞に言います。大有とは、大いに亨通する。朱熹が言います。いわゆる大有とは、所有することが広大であることです。離が乾の上に居るのは、火が天の上にあるに等しく、照らさない所がありません。さらに六五は一つの陰爻で尊位に居り中を得て、五つの陽爻が皆これに応じます。だから《大有》と言います。乾の剛健、離の光明に加え、六五が尊位に居りて上より天道に応じるのは、元来亨通の道を含みます。占者がもしこのような徳行を具備すれば、大善にして亨通できます。
《彖》曰:「大有」,柔得尊位大中,而上下應之,曰大有。以卦體釋卦名義。柔,謂六五。上下,謂五陽。其德剛健而文明,應乎天而時行,是以元亨。以卦德、卦體釋卦辭。應天,指六五也。《象》曰:火在天上,大有,君子以遏惡揚善,順天休命。火在天上,所照者廣,為大有之象。所有既大,無以治之,則釁櫱萌於其間矣。天命有善而無惡,故遏惡揚善,所以順天。反之於身,亦若是而已矣。
《大有》卦《彖伝》に言います。いわゆる「大有」とは、柔爻が尊位を得て大中に居り、上下の衆陽が皆これに応ずるので大有と言います。朱熹はこれを「卦体」で卦名の義を釈したものとします。「柔」は六五を指し、「上下」は残りの五つの陽爻を指します。《彖伝》がまた言います。その徳性は剛健にして文明、上より天道に応じて時に依りて行くので、大いに亨通します。朱熹はこれを「卦徳」と「卦体」を合わせて卦辞を釈したものとし、「応天」とは六五を指すとします。《大象伝》に言います。火が天の上にある、これがすなわち《大有》であり、君子はこれにより悪行を遏止し善行を表彰し、上天の美善の命令に順応します。朱熹が言います。火が天の上にあり、照らす範囲が広いのは、まさに大有の象です。所有するものが広大な以上、もし整治を加えなければ、禍端はその中に萌生します。天命は善のみで悪がないので、悪を遏め善を揚げるのがまさに天に順うことです。これを自身に逆に用いても、道理はこのように過ぎません。
初九,無交害,匪咎,艱則無咎。雖當大有之時,然以陽居下,上無繫應,而在事初,未涉乎害者也,何咎之有?然亦必艱以處之,則無咎。戒占者宜如是也。《象》曰:《大有》初九,無交害也。九二,大車以載,有攸往,無咎。剛中在下,得應乎上,為大車以載之象。有所往而如是,可以無咎矣。占者必有此德,乃應其占也。《象》曰:「大車以載」,積中不敗也。
初九の爻辞:まだ禍害に交渉しておらず、過ちとはならないが、艱難の心をもって自処してこそ過ちなくできます。朱熹が言います。大有の時に当たるけれど、初九は陽爻で最下に居り、上に牽係する正応がなく、また事の始めにあってまだ禍害に沾染していません。何の過ちがありましょう。ただし必ず艱難謹慎の態度で自処してこそ無咎となれます。これは占者がこのようであるべきことを戒めます。初九《小象伝》に言います。《大有》卦の初九は、まだ禍害に交渉していません。九二の爻辞:大車で載せ、往く所があり、過ちなし。朱熹が言います。九二は陽剛で中に居り位は下卦にあり、また上に六五の応を得るので、大車が重載に堪える象があります。往く所があってこのようであれば、過ちなくできます。占者は必ずこのような徳行を具備してこそ、この占断にふさわしいです。九二《小象伝》に言います。「大車以載」とは、積聚する所が皆車中にあり、傾敗に至らないことです。
九三,公用亨于天子,小人弗克。亨,《春秋傳》作「享」,謂朝獻也。古者,亨通之亨,享獻之享,烹飪之烹,皆作「亨」字。九三居下之上,公侯之象。剛而得正,上有六五之君,虛中下賢,故為亨于天子之象。占者有其德,則其占如是。小人無剛正之德,則雖得此爻,不能當也。《象》曰:「公用亨于天子」,小人害也。
九三の爻辞:公侯が天子に朝覲の礼を進献します。小人はこれに堪えられません。朱熹が言います。「亨」の字は《春秋左伝》で「享」と引かれ、諸侯が天子に朝見する時の進献を指します。古くは亨通の「亨」、享献の「享」、烹飪の「烹」は皆「亨」の一字に作りました。九三は下卦の最上位に居り、公侯の象です。陽剛で正位を得、上には六五の君が虚懐して中に居り賢を礼して士に下るので、天子に進献する象があります。占者がもしこのような徳行を具備すれば、占断はこのようになります。小人は剛強中正の徳がなく、たといこの爻を占め得ても堪えられません。九三《小象伝》に言います。「公用亨于天子」、小人がこれを得れば却って禍害となります。
九四,匪其彭,無咎。彭,蒲光反,音旁。「彭」字,音義未詳。《程傳》曰「盛貌」,理或當然。六五柔中之君,九四以剛近之,有僭逼之嫌。然以其處柔也,故有不極其盛之象,而得無咎。戒占者宜如是也。《象》曰:「匪其彭,無咎」,明辨晰也。晰,明貌。
九四の爻辞:自己の盛勢を極処に用いなければ、過ちなし。「彭」は「蒲光反」と読み、音は「旁」と同じです。朱熹が言います。「彭」の字の音も義も確解がなく、程頤《易伝》は「盛大の貌」と解します。道理の上ではあるいはこのようでしょう。六五は柔順で中に居る君で、九四は陽剛の質でそれに緊接し、僭越して上を逼る嫌いを免れません。幸いそれは陰柔の位に居るので、盛勢を用い尽くさない象があり、よって無咎を得ます。これは占者がこのように収斂すべきことを戒めます。九四《小象伝》に言います。「其の彭に匪ず、咎なし」とは、九四が明らかに弁別するからです。朱熹が注します。「晰」とは明白の貌です。
六五,厥孚交如,威如,吉。大有之世,柔順而中,以處尊位。虛己以應九二之賢,而上下歸之,是其孚信之交也。然君道貴剛,太柔則廢,當以威濟之,則吉。如其象占如此,亦戒辭也。《象》曰:「厥孚交如」,信以發志也。一人之信,足以發上下之志也。威如之吉,易而無備也。易,以豉反。太柔,則人將易之,而無畏備之心。上九,自天佑之,吉,無不利。大有之世,以剛居上,而能下從六五,是能履信思順而尚賢也。滿而不溢,故其占如此。《象》曰:《大有》上吉,自天佑也。
六五の爻辞:その誠信が交相感通し、また威厳を保てば、吉。朱熹が言います。大有の世に処し、六五は柔順で中に居り、尊位を占め、己を虚しくして九二の賢を接纳し、上下が皆帰附します。これが誠信の互相交通です。ただし君たるの道は剛断を貴び、一味柔弱では事を敗ります。威厳をもって補救してこそ吉利を得ます。取象と占断はこのようであり、同時に一句の告戒でもあります。六五《小象伝》に言います。「厥孚交如」とは、誠信をもって衆人の心志を激発することです。朱熹が言います。一人の誠信は、上下の心志を激発するに足ります。《小象伝》がまた言います。威厳があるので吉であるのは、一味平易であれば人に戒備するところがなくなるからです。「易」は「以豉反」と読みます。朱熹が言います。柔弱に過ぎれば、人は彼を軽慢し、もはや畏敬防備の心がありません。上九の爻辞:上天より保佑が降り、吉、利あらざるなし。朱熹が言います。大有の世に処し、上九は陽剛で最上に居りながら、能く俯して六五に従います。これは誠信を踐行し、心に柔順を存し、また賢者を崇尚するものです。盈満して外に溢れないので、占断はこのようです。上九《小象伝》に言います。《大有》の上九が吉である所以は、上天の保佑に得るからです。
謙卦(けん)
艮下,坤上。謙:亨,君子有終。謙者,有而不居之義。止乎內而順乎外,謙之意也。山至高而地至卑,乃屈而止於其下,謙之象也。占者如是,則亨通而有終矣。有終,謂先屈而後伸也。
《謙》卦は下体が艮、上体が坤です。卦辞に言います。謙は亨通し、君子は好い結末を得る。朱熹が言います。いわゆる謙とは、その実があって自居しないことです。内卦の艮は止、外卦の坤は順で、内には己を止められ、外には他人に順応できます。これが謙の含意です。山は本来最高で、地は本来最低ですが、今山は却って屈居して地下に止まります。これが謙の取象です。占者が能くこのようであれば、亨通して好い結末を得られます。いわゆる「有終」とは、先に屈して後に伸び得ることを言います。
《彖》曰:「謙,亨」,天道下濟而光明,地道卑而上行。上,時掌反。言謙之必亨。天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙尊而光,卑而不可逾,君子之終也。惡,烏路反。好,呼報反。變,謂傾壞。流,謂聚而歸之。人能謙,則其居尊者,其德愈光,其居卑者,人亦莫能過。此君子所以有終也。《象》曰:地中有山,謙,君子以裒多益寡。稱物平施。裒,蒲侯反。稱,尺證反。施,始豉反。以卑蘊高,謙之象也。裒多益寡,所以稱物之宜而平其施,損高增卑以趣於平,亦謙之意也。
《謙》卦《彖伝》に言います。「謙、亨」とは、天道は下りて万物を済助して愈々光明を見せ、地道は卑下してその気は上行するからです。「上」は「時掌反」と読みます。朱熹が言います。これは謙が必ず亨通し得ることを講じます。《彖伝》がまた言います。天道は盈満を虧損し謙退を增益し、地道は盈満を傾壊し謙下に流注し、鬼神は盈満を加害し謙虚に降福し、人情は盈満を悪み謙遜を好みます。謙者は尊位に居れば徳は愈々光大し、卑位に居れば人は彼を越えられません。これが君子に好い結末がある所以です。「悪」は「烏路反」、「好」は「呼報反」と読みます。朱熹が解釈します。「変」とは傾壊、「流」とは聚まりてそれに帰向することです。人が謙遜できれば、尊位に居る徳は愈々光顕し、卑位に居るのも無人が超越できません。これがまさに君子が有終の縁由です。《大象伝》に言います。地中に山を蔵する、これがすなわち《謙》であり、君子はこれにより多きを減損し少なきを增益し、事物を衡量して施与を均平にします。「裒」は「蒲侯反」、「称」は「尺証反」、「施」は「始豉反」と読みます。朱熹が言います。卑下の地をもって高山を蘊蔵するのは、まさに謙の取象です。多を減り寡を益すのは、事物の合宜を衡量して施与を均平にするためで、高を削り低を補い平衡に趨くのも、まさに謙の意です。
初六,謙謙君子,用涉大川,吉。以柔處下,謙之至也。君子之行也,以此涉難,何往不濟?故占者如是,則利以涉川也。《象》曰:「謙謙君子」,卑以自牧也。六二,鳴謙,貞吉。柔順中正,以謙有聞,正而且吉者也。故其占如此。《象》曰:「鳴謙,貞吉」,中心得也。
初六の爻辞:謙にまた謙なる君子は、この徳行をもって大河を渡れば吉。朱熹が言います。初六は陰柔で最下に居り、謙が極処に至っています。これはまさに君子の行事の道です。これをもって難関を渡れば、どうして渡り得ないことがありましょう。だから占者がもしこのようであれば、険を渉るに利ありです。初六《小象伝》に言います。「謙謙君子」とは、卑下の態度をもって自己を涵養することです。六二の爻辞:謙徳に声名が伝わり出て、正道を守れば吉。朱熹が言います。六二は柔順で中正で、謙遜により名声が外に在るのは、正にして吉なる一爻です。だから占断はこのようです。六二《小象伝》に言います。「鳴謙、貞吉」とは、この謙徳が内心より発して自然に得るところがあるからです。
九三,勞謙君子,有終吉。卦唯一陽,居下之上,剛而得正,上下所歸,有功勞而能謙,尤人所難,故有終而吉。占者如是,則如其應矣。《象》曰:「勞謙君子」,萬民服也。六四,無不利,扌為謙。扌為,呼回反,與揮同。柔而得正,上而能下,其占無不利矣。然居九三之上,故戒以更當發揮其謙,以示不敢自安之意也。《象》曰:「無不利,扌為謙」,不違則也。言不為過。
九三の爻辞:功労があってなお謙遜なる君子は、好い結末を得て吉。朱熹が言います。全卦に九三の一陽爻のみで、それは下卦の最上位に居り、陽剛で正位を得、上下の衆陰が皆それに帰向します。功労があってなお謙退できるのは、最も難い事です。だから好い結末を得て吉となります。占者が能くこのようであれば、得る応験もこれと相合します。九三《小象伝》に言います。「労謙君子」、万民は皆彼に服従します。六四の爻辞:利あらざるなく、謙徳を発揚せねばなりません。「撝」は「呼回反」と読み、「揮」の字と同じです。朱熹が言います。六四は陰柔で正位を得、身は上卦に居りながら能く下に俯就します。占断は自然に不利なしです。ただしそれは九三の上に処するので、更に自己の謙徳を発揮して、敢えて自安しない意を表すべきことを戒めます。六四《小象伝》に言います。「不利なし、撝謙」とは、法則に違背しないことです。朱熹が解釈します。意は過分とは算えないということです。
六五,不富以其鄰。利用侵伐,無不利。以柔居尊,在上而能謙者也,故為不富而能以其鄰之象。蓋從之者眾矣,猶有未服者,則利以征之,而於他事亦無不利。人有是德,則如其占也。《象》曰:「利用侵伐」,征不服也。上六,鳴謙,利用行師,征邑國。謙極有聞,人之所與,故可用行師。然以其質柔而無位,故可以徵己之邑國而已。《象》曰:「鳴謙」,志未得也。「可用行師」,征邑國也。陰柔無位,才力不足,故其志未得。而至於行師,然亦適足以治其私邑而已。
六五の爻辞:富厚に依らずして隣衆が自ら随います。兵を興して討伐するに利あり、不利なし。朱熹が言います。六五は陰柔で尊位に居り、身は上に在りて能く謙下します。だから富厚に憑らずして隣衆を帯動できる象があります。随う者はすでに多く、もしなお帰服せぬ者があれば、兵を出して征討するに利あり、他の事を弁ずるにも不利はありません。ただし必ず謙徳を失わないことが前提です。六五《小象伝》に言います。「侵伐を利用す」とは、服せぬ者を征するためです。上六の爻辞:謙の声名が遠く聞こえるも、自分の私邑に行師するにのみ利あり。朱熹が言います。上六は柔順で《謙》の極処に居り、謙の声名はあるけれど位と力が足りず、大きな事を為すに足りません。ただ自己の私邑に対してのみ、なお行師して治めることができます。だから占断はこのようです。上六《小象伝》に言います。「鳴謙」とは、心志がまだ得られていないことです。「邑国を征むる可し」とは、自己の近い処の小人を治めるにのみ適するということです。
豫卦(よ)
坤下,震上。豫:利建侯行師。豫,和樂也。人心和樂以應其上也。九四一陽,上下應之,其志得行,又以坤遇震,為順以動,故其卦為豫,而其占利以立君用師也。《彖》曰:「豫」,剛應而志行,順以動,豫。以卦體、卦德釋卦名義。豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎?以卦德釋卦辭。天地以順動,故日月不過而四時不忒,聖人以順動,則刑罰清而民服。豫之時義大矣哉。極言之而贊其大也。
《豫》卦は下体が坤、上体が震です。卦辞に言います。豫は、諸侯を分封し軍隊を出動するに利あり。朱熹が言います。豫とは和楽で、人の心が和楽して上に在る者に順応することを指します。全卦に九四の一陽爻のみで、上下の五つの陰爻が皆これに応じ、その心志は推行を得ます。さらに坤をもって震に遇うのは、柔順にして後に発動するので、卦名を《豫》とし、占断は立君・用兵に利ありです。《彖伝》に言います。いわゆる「豫」とは、陽剛が衆陰の応を得て心志が行を得、柔順にして動く、これが豫です。朱熹はこれを「卦体」と「卦徳」を合わせて卦名の義を釈したものとします。《彖伝》がまた言います。豫は理に順って動くので、天地ですらこのようです。いわんや諸侯を分封し軍隊を出動するをや。朱熹はこれを「卦徳」で卦辞を釈したものとします。《彖伝》がさらに言います。天地は理に順って動くので、日月の運行に差錯なく四時の更替に失序がありません。聖人は理に順って動くので、刑罰は清簡で百姓は服従します。《豫》が当たる時勢の意義は真に大きいです。朱熹が言います。これは道理を尽処まで説き、その宏大を讃嘆したものです。
《象》曰:雷出地奮,豫,先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。雷出地奮,和之至也。先王作樂,既象其聲,又取其義。殷,盛也。初六,鳴豫,凶。陰柔小人,上有強援,得時主事,故不勝其豫而以自鳴,凶之道也。故其占如此。卦之得名,本為和樂,然卦辭為眾樂之義,爻辭除九四與卦同外,皆為自樂,所以有吉凶之異。《象》曰:初六「鳴豫」,志窮凶也。窮,謂滿極。
《豫》卦《大象伝》に言います。雷が地中より発して万物が振奮する、これがすなわち《豫》であり、先王はこれにより音楽を制作し徳行を崇尚し、隆重に上帝に献祭し、祖先をもって配享しました。朱熹が言います。雷が地より出でて万物が振奮するのは、和気が極処に至ったものです。先王が音楽を制作するのは、雷の声の象を取ると同時に振奮の義を取ります。「殷」とは盛大です。初六の爻辞:得意満面に歓楽を叫び出せば、凶。朱熹が言います。初六は陰柔の小人で、上に九四という強援があり、一時勢を得て事を主り、楽しさに耐え切れず自鳴得意します。これは凶を致す道です。だから占断はこのようです。朱熹がまた提示します。この卦の得名は本来和楽の義を取りますが、卦辞は衆と共に楽しむことを講じ、爻辞は九四と全卦と義を同じくする外、残りの各爻は皆自己の耽楽を講じるので、吉凶は各々同じではありません。初六《小象伝》に言います。初六の「鳴豫」とは、心志が尽処に至って凶を致すことです。朱熹が解釈します。「窮」とは満ちて極処に至ることです。
六二,介于石,不終日,貞吉。豫雖主樂,然易以溺人,溺則反而憂矣。卦獨此爻中而得正,是上下皆溺於豫,而獨能以中正自守,其介如石也。其德安靜而堅確,故其思慮明審,不俟終日,而見凡事之幾微也。《大學》曰:「安而後能慮,慮而後能得。」意正如此。占者如是,則正而吉矣。《象》曰:「不終日,貞吉」,以中正也。
六二の爻辞:耿介なること石の如く、一日の終わるを待たずに見抜き、正道を守れば吉。朱熹が言います。《豫》は和楽を主とするけれど、歓楽は最も人を淹没しやすく、一旦沉溺すれば却って憂患に転じます。全卦に六二の一爻のみが中に居り位に当たり、上下の衆爻は皆歓楽に沉溺する中、独りそれは中正の徳をもって自守し、耿介にして石の如しです。その徳性は安静で堅定なので、思慮は清明で審慎、一日の終わるを待たずに事の最初の細微な兆候を見抜けます。《大学》に言います。「安くして後に能く慮り、慮りて後に能く得る」――講ずる所はまさにこの意です。占者が能くこのようであれば、正を守りて吉を得ます。六二《小象伝》に言います。「終日せず、貞吉」とは、六二が中に居りて正を得るからです。
六三,盱豫悔,遲有悔。盱,況於反。盱,上視也。陰不中正而近於四,四為卦主,故六三上視於四,而下溺於豫,宜有悔者也。故其象如此,而其占為事當速悔。若悔之遲,則必有悔也。《象》曰:盱豫有悔,位不當也。九四,由豫,大有得。勿疑,朋盍簪。簪,側林反。九四,卦之所由以為豫者也。故其象如此,而其占為大有得。然又當至誠不疑,則朋類合而從之矣。故又因而戒之。簪,聚也,又速也。《象》曰:「由豫,大有得」,志大行也。
六三の爻辞:頭を仰いで人を巴望して歓楽を求むれば、悔あるべし。悔いるのが遅ければ、真に悔恨を留めます。「盱」は「況于反」と読みます。朱熹が言います。盱とは頭を挙げて上を見ることです。六三は陰爻で陽位にあり中にも正にも当たらず、また九四に緊挨しています。九四は全卦の主なので、六三は上より九四を仰望し、下には逸楽に沉溺し、本来悔いを生ずべきです。取象はこのようで、占断は:事に遇うては速やかに悔改すべく、悔いが遅すぎれば必ず悔恨を留めます。六三《小象伝》に言います。仰望して楽を求め悔あるは、爻位が当たらないからです。九四の爻辞:全卦の歓楽はこれより来り、大いに得る所有り。猜疑せずば、同類の朋友は髪簪で髪を束ねるように迅速に聚まります。「簪」は「側林反」と読みます。朱熹が言います。九四はまさに全卦の《豫》となる所以の一爻です。だから取象はこのようで、占断は大いに得る所有りです。ただし必ず至誠にして猜疑なければ同類が合攏してそれに従います。故に続いてこの句の告戒を下します。「簪」は聚合の意で、また迅速の義を含みます。九四《小象伝》に言います。「由豫、大有得」とは、その心志が大いに施行されることです。
六五,貞疾,恆不死。當豫之時,以柔居尊,沈溺於豫,又乘九四之剛,眾不附而處勢危,故為貞疾之象。然以其得中,故又為恆不死之象。即象而觀,占在其中矣。《象》曰:六五「貞疾」,乘剛也。「恆不死」,中未亡也。上六,冥豫。成有渝,無咎。渝,以朱反。以陰柔居豫極,為昏冥於豫之象。以其動體,故又為其事雖成,而能有渝之象。戒占者如是,則能補過而無咎,所以廣遷善之門也。《象》曰:冥豫在上,何可長也?
六五の爻辞:久病が癒えず、しかし終に死なず。朱熹が言います。耽楽の時に当たり、六五は陰柔で尊位に居り、自ら歓楽に沉溺し、また九四の陽剛の上に騎り、衆人は帰附せず処境は危険です。だから久病が身に纏う象があります。ただしそれは畢竟中に居るので、また終に死なない象があります。この象に就いて見れば、占断もその中に在ります。六五《小象伝》に言います。六五の「貞疾」は、陽剛の上に乘凌するからです。「恒に死なず」は、居中の徳がまだ失われていないからです。上六の爻辞:昏昏として歓楽に沈迷す。事はすでに成れど、なお改変でき、過ちなし。「渝」は「以朱反」と読みます。朱熹が言います。上六は陰柔で《豫》の極処に居り、逸楽に昏迷する象です。それは震の動体に属するので、また事はすでに鋳成されたもなお改変できる象があります。これは占者に戒めます。能くこのように時を得て改変すれば、過を補い咎なしとできます。まさに聖人が善に遷るために門路を広く開くものです。上六《小象伝》に言います。歓楽に昏迷してまた最上に居れば、どうして長くあり得ましょう。
随卦(ずい)
震下,兌上。隨:元亨,利貞,無咎。隨,從也。以卦變言之,本自《困》卦九來居初,又自《噬嗑》九來居五,而自《未濟》來者,兼此二變,皆剛來隨柔之義,以二體言之,為此動而彼說,亦隨之義,故為隨。己能隨物,物來隨己,彼此相從,其通易矣,故其占為元亨。然必利於貞,乃得無咎。若所隨不貞,則雖大亨而不免於有咎矣。《春秋傳》:「穆姜曰:『有是四德,隨而無咎;我皆無之,豈隨也哉?』」今按四德雖非本義,然其下云云,深得占法之意。
《随》卦は下体が震、上体が兌です。卦辞に言います。随は、大いに亨通し、正道を守るに利あり、過ちなし。朱熹が言います。随とは跟従です。「卦変」についていえば、それは本来《困》卦の陽爻が下りて初位に居り、また《噬嗑》の陽爻が下りて第五位に居ったものです。もし《未濟》より変来と言えば、この二種の変化を兼ね含み、皆陽剛が下りて陰柔に随従する意です。上下二体についていえば、こちらが震動すればあちらが兌悦するのも随の意です。だから卦名を《随》とします。自ら外物に随顺できれば、外物も来たりて自らに随顺し、彼此相従して通達は容易です。だから占断は大いに亨通です。ただし必ず正道を守るに利あってこそ、過ちなくできます。もし随う所の対象が正しくなければ、たとい大いに亨通しても過ちを免れません。《春秋左伝》に記します。「穆姜曰く:『元亨利貞の四徳を具備して、人に随従してこそ咎なし。我は一つもなく、どうして随と言えよう』」朱熹の按語に言います。元亨利貞を四徳と講ずるのは《周易》本義に合わないけれど、穆姜の下のあの言葉は、占筮の法の要領を深く得ています。
《彖》曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。下,遐嫁反。說,音悅。以卦變、卦德釋卦名義。大亨,貞無咎,而天下隨時。王肅本「時」作「之」,今當從之。釋卦辭,言能如是,則天下之所從也。隨時之義大矣哉。王肅本「時」字在「之」字下,今當從之。《象》曰:澤中有雷,隨,君子以嚮晦入宴息。雷藏澤中,隨時休息。
《随》卦《彖伝》に言います。随とは、陽剛が下りて陰柔の下に居り、震動して兌悦する、これが随です。「下」は「遐嫁反」、「説」は「悦」と読みます。朱熹はこれを「卦変」と「卦徳」を合わせて卦名の義を釈したものとします。《彖伝》がまた言います。大いに亨通し、正を守りて過ちなく、ここにおいて天下が随従します。朱熹は王粛本で「時」の字を「之」と作ると指摘し、今は王粛本に依るべきとします。この一句は卦辞を釈し、能くこのようであれば天下人の随う所となると言います。《彖伝》の末句に言います。随时の意義は真に大きいです。朱熹がまた指摘します。王粛本ではここの「時」の字は「之」の字の下にあり、今もまた王粛本に依るべきです。《大象伝》に言います。沢中に雷あり、これがすなわち《随》であり、君子はこれにより天色が晩に向かう時、内に入りて安息します。朱熹が言います。雷が沢中に蔵れるは、まさに時令に順随して休止するものです。
初九,官有渝,貞吉。出門交有功。卦以物隨為義,爻以隨物為義。初九,以陽居下,為震之主,卦之所以為隨者也。既有所隨,則有所偏主而變其常矣,惟得其正則吉。又當出門以交,不私其隨,則有功也。故其象占如此,亦因以戒之。《象》曰:「官有渝」,從正吉也。「出門交有功」,不失也。六二,係小子,失丈夫。初陽在下而近,五陽正應而遠,二陰柔不能自守以須正應,故其象如此,凶吝可知,不假言矣。《象》曰:「係小子」,弗兼與也。
初九の爻辞:主とする事に変動があり、正道を守れば吉。門を出て人と交往すれば、成效あり。朱熹が言います。全卦は「衆物が我に随う」を義と取り、各爻は「我が外物に随う」を義と取ります。初九は陽爻で最下に居り、震卦の主であり、全卦の《随》となる所以の一爻です。随従する所有る以上、一方に偏主して常態を改めることになり、正を守り得てこそ吉です。また門を出て人と交接し、随従を私昵の間に局限せずしてこそ、成效があります。だから取象と占断はこのようであり、同時に一句の告戒でもあります。初九《小象伝》に言います。「官有渝」とは、正道に従ってこそ吉です。「出門交有功」とは、失う所に至らないことです。六二の爻辞:年少の者を牽係して、却って成年の男子を失います。朱熹が言います。初九のこの陽爻は下に在りて距離は近く、九五のこの正応は上に在りて距離は遠いです。六二は陰柔で、自守して正応を待つことができません。だからこのような象があり、凶険羞吝は明言せずとも知れます。六二《小象伝》に言います。「小子に係る」とは、両辺を兼ね顧ることができないことです。
六三,係丈夫,失小子,隨有求得,利居貞。丈夫,謂九四。小子,亦謂初也。三近繫四而失於初,其象與六二正相反。四陽當任而己隨之,有求必得,然非正應,故有不正而為邪媚之嫌。故其占如此,而又戒以居貞也。《象》曰:「係丈夫」,志舍下也。舍,音扌舍。
六三の爻辞:成年の男子を牽係して、年少の者を失い、随従して求むる所有れば得られ、安処して正を守るに利あり。朱熹が言います。「丈夫」は九四を指し、「小子」もまた初九を指します。六三は近くに就きて九四を牽係して初九を舎棄し、取象は六二と恰好相反します。九四は陽爻で、任事の位に当たり、六三はそれに随従して求めれば必ず得ます。ただし両者は正応ではないので、正しくなく諂媚に流れる嫌いを免れません。故に占断はこのようであり、また安処して正を守るよう戒めます。六三《小象伝》に言います。「丈夫に係る」とは、心志が下の初九を舎棄したことです。「舎」は舎棄の「舎」と読みます。
九四,隨有獲,貞凶,有孚在道,以明,何咎?九四以剛居上之下,與五同德,故其占隨而有獲。然勢陵於五,故雖正而凶。惟有孚在道而明,則上安而下從之,可以無咎也。占者當時之任,宜審此戒。《象》曰:「隨有獲」,其義凶也。「有孚在道」,明功也。九五,孚于嘉,吉。陽剛中正,下應中正,是信於善也。占者如是,其吉宜矣。《象》曰:「孚于嘉,吉」,位正中也。
九四の爻辞:随従して収穫あり、正を守ってもなお凶あり。ただ心に誠信を懐き行事が正道に合し、また明察できれば、なんの過ちがありましょう。朱熹が言います。九四は陽剛で上卦の最下位に居り、九五と徳性が同じなので、占断は随従して獲る所有りです。しかしその勢力は九五の頭上に凌逼するので、たとい正を守っても凶です。ただ心に誠信を存し挙動が道に合しまた明白通達であれば、君上は安心し下は随い、このようにして過ちなくできます。占者がもし重任を担任する時に当たれば、この条の告戒を細審すべきです。九四《小象伝》に言います。「随有獲」は、道義の上では凶です。「有孚在道」は、明察が生ずる功效です。九五の爻辞:誠信をもって美善に随従すれば、吉。朱熹が言います。九五は陽剛中正で、下に応ずる六二もまた中正です。これが善に篤信することです。占者が能くこのようであれば、吉を得るのは理所当然です。九五《小象伝》に言います。「孚于嘉、吉」とは、九五が居る位が正にして中だからです。
上六,拘係之,乃從維之。王用亨于西山。居隨之極,隨之固結而不可解者也。誠意之極,可通神明,故其占為王用亨于西山。亨,亦當作祭享之享。自周而言,岐山在西,凡筮祭山川者得之。其誠意如是,則吉也。《象》曰:「拘係之」,上窮也。窮,極也。
上六の爻辞:それを捆縛し、また繩索をもって牢固に纏います。君王は西山で祭祀を行います。朱熹が言います。上六は《随》の極処に居り、随従が牢固に糾結してもう解けない一爻です。誠意が極処に至れば神明を感通できます。だから占断は君王が西山で祭享します。ここの「亨」の字もまた祭享の「享」と読むべきです。周人の方位から言えば、岐山は西辺にあり、およそ山川を祭祀することを占問する人はこの爻を占め得ます。誠意が能くこのようであれば、吉を得ます。上六《小象伝》に言います。「之を拘係す」とは、随道が最上に至りて窮することです。朱熹が解釈します。「窮」とは極処に至ることです。
蠱卦(こ)
巽下,艮上。蠱:元亨,利涉大川。先甲三日,後甲三日。先,息薦反。後,胡豆反。蠱,壞極而有事也。其卦艮剛居上,巽柔居下,上下不交。下卑巽而上苟止,故其卦為蠱。或曰,剛上柔下,謂卦變自《賁》來者,初上二下,自《井》來者,五上上下,自《既濟》來者兼之,亦剛上而柔下,皆所以為蠱也。蠱壞之極,亂當復治,故其占為元亨,而利涉大川。甲,日之始,事之端也。先甲三日,辛也,後甲三日,丁也。前事過中而將壞,則可自新以為後事之端,而不使至於大壞,後事方始而尚新。然更當致其丁寧之意,以監其前事之失,而不使至於速壞。聖人之戒深也。
《蠱》卦は下体が巽、上体が艮です。卦辞に言います。蠱は、大いに亨通し、大河を渡るに利あり。甲の日の前の三天に、甲の日の後の三天に。「先」は「息薦反」、「後」は「胡豆反」と読みます。朱熹が言います。蠱とは敗壊が極処に至りて事あるべきことです。この一卦は艮の剛が上に居り巽の柔が下に居り、上下は相交通せず、下は卑弱順従し上は苟且停滞します。だから卦名を《蠱》とします。ある人はまた「剛上柔下」は卦変を指すと言います。《賁》卦より来れば初爻が上昇し二爻が下降し、《井》卦より来れば五爻が上昇し上爻が下降し、《既濟》より来れば両者を兼ね含み、同じく剛が上にあり柔が下にあり、これらは皆《蠱》を構成するに足ります。敗壊が極処に至り、乱れ久しければ重新治理すべきです。だから占断は大いに亨通し、また険を渉るに利ありです。「甲」は十日の始で、事を為す開端を象徴します。甲前の三日は辛の日、甲後の三日は丁の日です。前の一事が中途を過ぎて将に敗壊せんとすれば、「辛」を借りて自新し、後事の開端とし、それを収拾不可に壊させません。後の一事は始めたばかりでまだ新しいけれど、更に「丁」寧反復の告戒を致すべきで、前事の失敗を鑑戒として、それを速やかにまた壊させません。聖人の告戒は真に深切です。
《彖》曰:「蠱」,剛上而柔下,巽而止,蠱。以卦體、卦變、卦德釋卦名義,蓋如此,則積弊而至於蠱矣。「蠱,元亨」,而天下治也。「利涉大川」,往有事也。「先甲三日,後甲三日」,終則有始,天行也。釋卦辭。治蠱至於元亨,則亂而復治之象也。亂之終,治之始,天運然也。《象》曰:山下有風,蠱。君子以振民育德。山下有風,物壞而有事矣。而事莫大於二者,乃治己治人之道也。
《蠱》卦《彖伝》に言います。いわゆる「蠱」とは、陽剛が上に居り陰柔が下に居り、下は卑順で上は停止して動かず、ここにおいて蠱となります。朱熹はこれを「卦体」「卦変」「卦徳」を合わせて卦名の義を釈したものとします。このようになれば、積弊は日久して蠱壊となります。《彖伝》がまた言います。「蠱、元亨」とは、天下がこれにより治理を得ることです。「利渉大川」とは、往けば必ず為すべき事があることです。「先甲三日、後甲三日」とは、一段が終えばまた一段が始まる、これが天道運行の規律です。朱熹はこれを卦辞を釈したものとします。蠱壊を整治して大亨に至るのは、まさに乱より治に復帰する象です。一段の乱の終結は一段の治の開始であり、天運は本来このようです。《大象伝》に言います。山下に風あり、これがすなわち《蠱》であり、君子はこれにより百姓を振作し徳行を培育します。朱熹が言います。山下に風が起これば、万物は損害を受けて為すべき事があります。事の大なるはこの二件に過ぎず、まさに己を治め人を治める根本の道です。
初六,幹父之蠱,有子,考無咎,厲終吉。乾,如木之幹,枝葉之所附而立者也。蠱者,前人已壞之緒,故諸爻皆有父母之象。子能幹之,則飭治而振起矣。初六,蠱未深而事易濟,故其占為有子則能治蠱,而考得無咎,然亦危矣。戒占者宜如是,又知危而能戒,則終吉也。《象》曰:「幹父之蠱」,意承考也。
初六の爻辞:父の遺留した敗壊の事を整治すれば、このような子があれば先父は過ちなく、危険あるも終に吉を得ます。朱熹が言います。「干」は樹干の如く、枝葉が依附して挺立する部分です。いわゆる蠱とは、前人がすでに敗壊した事業です。だから各爻は皆父母の象を取り、子が担当できれば整饬振作できます。初六は卦初に居り、蠱壊はまだ深くなく事は成し易いです。だから占断は:このような子があれば蠱壊を整治でき、先父はよって無咎を得られますが、畢竟なお危険があります。これは占者がこのように担当すべきこと、また危険を知りながら能く警惕すれば最終に吉となることを戒めます。初六《小象伝》に言います。「干父之蠱」とは、その心意は先父を承継するに在ります。
九二,幹母之蠱,不可貞。九二剛中,上應六五,子幹母蠱而得中之象,以剛承柔而治其壞,故又戒以不可堅貞。言當巽以入之也。《象》曰:「幹母之蠱」,得中道也。九三,幹父之蠱,小有悔,無大咎。過剛不中,故小有悔,巽體得正,故無大咎。《象》曰:「幹父之蠱」,終無咎也。
九二の爻辞:母の遺留した敗壊の事を整治するに、剛正に固執してはいけません。朱熹が言います。九二は陽剛で中に居り、上は六五に応じ、子が母蠱を整治して能く中を守る象です。それは陽剛をもって陰柔に承事しその敗壊を整治するので、また一味堅執剛正してはいけないと戒めます。意は柔順の方式で徐々に勧め入れるべきです。九二《小象伝》に言います。「干母之蠱」とは、それが中道を得たからです。九三の爻辞:父の遺留した敗壊の事を整治すれば、やや悔恨あり、しかし大きな過ちなし。朱熹が言います。九三は剛強に過ぎて中位に居らないので、やや悔ありです。しかしそれは巽体に身を置きまた正位を得るので、大きな過ちはありません。九三《小象伝》に言います。「干父之蠱」、終に過ちなし。
六四,裕父之蠱,往見吝。以陰居陰,不能有為,寬裕以治蠱之象也。如是,則蠱將日深,故往則見吝。戒占者不可如是也。《象》曰:「裕父之蠱」,往未得也。六五,幹父之蠱,用譽。柔中居尊,而九二承之以德,以此幹蠱,可致聞譽,故其象占如此。《象》曰:幹父用譽,承以德也。上九,不事王侯,高尚其事。剛陽居上,在事之外,故為此象,而占與戒,皆在其中矣。《象》曰:「不事王侯」,志可則也。
六四の爻辞:父の遺留した敗壊を姑息寛縦すれば、このまま往けば必ず羞吝を見ます。朱熹が言います。六四は陰爻で陰位にあり、力なく作為できず、寛縦して蠱を治める象です。このようであれば、蠱壊は日一日と深まるのみです。だから往けば必ず羞吝を見ます。これは占者がこのように因循してはいけないことを戒めます。六四《小象伝》に言います。「裕父之蠱」とは、往いても目的に達しないことです。六五の爻辞:父の遺留した敗壊の事を整治して、これにより称誉を得ます。朱熹が言います。六五は柔順で中に居り尊位に処し、下にはまた九二が徳行をもって承輔します。これをもって蠱を治めれば、声誉を招来できます。だから取象と占断はこのようです。六五《小象伝》に言います。父蠱を整治して称誉を獲るは、下に徳をもって承輔する人がいるからです。上九の爻辞:王侯に侍奉せず、自己の操守を更に高くします。朱熹が言います。上九は陽剛で全卦の上に居り、身は世事の外に在ります。だからこのような象があり、占断と告戒も皆その中に含まれます。上九《小象伝》に言います。「王侯に事えず」、この志節は法則とすることができます。
臨卦(りん)
兌下,坤上。臨:元亨,利貞。至于八月有凶。臨,進而凌逼於物也。二陽浸長以逼於陰,故為臨。十二月之卦也。又,其為卦,下兌說,上坤順。九二以剛居中,上應六五,故占者大亨而利於正。然至于八月,當有凶也。八月,謂自《復》卦一陽之月,至於《遁》卦二陰之月,陰長陽遁之時也。或曰,八月,謂夏正八月,於卦為觀,亦臨之反對也。又因占而戒之。
《臨》卦は下体が兌、上体が坤です。卦辞に言います。臨は、大いに亨通し、正道を守るに利あり。八月に至れば凶あり。朱熹が言います。臨とは物に逼近して凌迫することです。二つの陽爻が徐々に生長して衆陰に逼るので、《臨》と言い、十二消息卦中で十二月に配します。さらに卦体を見れば、下卦の兌は悦、上卦の坤は順で、九二は陽剛をもって中位に居り上より六五に応じます。だから占者は大いに亨通して正道を守るに利ありです。しかし八月に至れば凶があります。いわゆる八月とは、《復》卦の一陽が初めて生ずる月から算して、《遯》卦の二陰の月に数え至るので、まさに陰が長じ陽が退く時です。ある人はまた八月を夏暦の八月と言い、卦では《観》に当たり、《観》もまたまさに《臨》を倒転した覆卦です。この一句は占断に就いてさらに一層の告戒を加えたものです。
《彖》曰:「臨」,剛浸而長,長,丁丈反。以卦體釋卦名。說而順,剛中而應。說,音悅。又以卦德、卦體言卦之善。大亨以正,天之道也。當剛長之時,又有此善,故其占如此也。「至于八月有凶」,消不久也。言雖天運之當然,然君子宜知所戒。《象》曰:澤上有地,臨,君子以教思無窮,容保民無疆。思,去聲。地臨於澤,上臨下也,二者皆臨下之事。教之無窮者,兌也,容之無疆者,坤也。
《臨》卦《彖伝》に言います。いわゆる「臨」とは、陽剛が徐々に生長することです。「長」は「丁丈反」と読みます。朱熹はこれを「卦体」で卦名を釈したものとします。《彖伝》がまた言います。和悦して柔順し、陽剛が中に居りて相応する爻あり。「説」は「悦」と読みます。朱熹はこれをまた「卦徳」と「卦体」でこの一卦の美善を講じたものとします。《彖伝》がさらに言います。大いに亨通してまた正道に合するは、これが天の法則です。朱熹が言います。まさに陽剛の生長の時に当たり、またこのような美徳があるので、占断はこのようです。《彖伝》の末句に言います。「八月に至りて凶あり」とは、陽気の消退が久しからずして到来することです。朱熹が言います。これは天運が本来このようであっても、君子は戒警すべき所を知るべきです。《大象伝》に言います。沢上に地あり、これがすなわち《臨》であり、君子はこれにより百姓を教誨する心は尽きることなく、容納保養するには辺際がありません。「思」は去声に読みます。朱熹が言います。地が沢の上に居るのは、まさに上に在る者が下に在る者を臨撫し、教と容の二件は皆下に臨む事に属します。教誨無窮は兌の和悦に取象し、容保無疆は坤の広厚に取象します。
初九,咸臨,貞吉。卦唯二陽,遍臨四陰,故二爻皆有咸臨之象。初九剛而得正,故其占為貞吉。《象》曰:「咸臨,貞吉」,志行正也。九二,咸臨,吉,無不利。剛得中而勢上進,故其占吉而無不利也。《象》曰:「咸臨,吉,無不利」,未順命也。未詳。六三,甘臨,無攸利,既憂之,無咎。陰柔不中正,而居下之上,為以甘說臨人之象。其占固無所利,然能憂而改之,則無咎也。勉人遷善,為教深矣。《象》曰:「甘臨」,位不當也。「既憂之」,咎不長也。
初九の爻辞:遍く衆陰を臨撫し、正道を守れば吉。朱熹が言います。全卦に陽爻二つのみで、しかも上の四つの陰爻を遍く臨むので、初九・九二の両爻には皆「咸臨」の象があります。初九は陽剛で正位に居るので、占断は正を守りて吉を得ます。初九《小象伝》に言います。「咸臨、貞吉」とは、その心志が端正に行われることです。九二の爻辞:遍く衆陰を臨撫し、吉、不利なし。朱熹が言います。九二は陽剛で中位を得、気勢はまさに上進中なので、占断は吉にして不利なしです。九二《小象伝》に言います。「咸臨、吉、不利なし」とは、まだ天命に順っていないことです。朱熹は率直にこの一句の意味は分からないと言います。六三の爻辞:甘言をもって人に臨めば、益するところなし。すでにこれを憂えて改めれば、過ちなし。朱熹が言います。六三は陰柔で中にも正にも当たらず、しかも下卦の最上位に居り、甘美に取悦る方式で人に臨む象です。占断は本来少しの益もありませんが、能く憂懼して改正すれば、無咎とできます。これは人が善に遷り過ちを改めることを勉励するもので、教誨の意が深いです。六三《小象伝》に言います。「甘臨」とは、爻位が当たらないことです。「既に之を憂う」とは、過ちが長からないことです。
六四,至臨,無咎。處得其位,下應初九,相臨之至,宜無咎者也。《象》曰:「至臨,無咎」,位當也。六五,知臨,大君之宜,吉。知,音智。以柔居中,下應九二,不自用而任人,乃知之事,而大君之宜,吉之道也。《象》曰:「大君之宜」,行中之謂也。上六,敦臨,吉,無咎。居卦之上,處臨之終,敦厚於臨,吉而無咎之道也,故其象占如此。《象》曰:敦臨之吉,志在內也。
六四の爻辞:親切に周至に在下の者を臨撫すれば、過ちなし。朱熹が言います。六四は処する爻位が得當で、下はまた初九に相応し、臨撫が最も周至な一爻です。理として過ちがあるべきではありません。六四《小象伝》に言います。「至臨、咎なし」とは、爻位が正当だからです。六五の爻辞:明智をもって天下を臨撫するは、まさに大君の宜しき所、吉。「知」は「智」と読みます。朱熹が言います。六五は陰柔をもって中位に居り、下は九二に相応し、自らの才能を逞しせず賢人を任用するに肯じます。これはまさに明智の挙であり、身が大君として最も合宜な做法です。だから吉を致す道です。六五《小象伝》に言います。いわゆる「大君之宜」とは、行事が中道に合することです。上六の爻辞:敦厚に在下の者を臨撫すれば、吉、過ちなし。朱熹が言います。上六は全卦の上に居り、臨道の終点に処し、能く敦厚をもって下に接します。これは吉にして無咎の道です。だから取象と占断はこのようです。上六《小象伝》に言います。敦厚に下に臨んで吉である所以は、その心志が内卦の二つの陽爻に係るからです。
観卦(かん)
坤下,巽上。觀:盥而不薦,有孚顒若。觀,官奐反。下「大觀」、「以觀」之「觀」,《大象》「觀」字,並同。觀者,有以示人而為人所仰也。九五居上,四陰仰之,又內順外巽,而九五以中正示天下,所以為觀。盥,將祭而潔手也。薦,奉酒食以祭也。顒然,尊敬之貌。言致其潔清而不輕自用,則其孚信在中,而顒然可仰。戒占者當如是也。或曰:「有孚顒若」,謂在下之人,信而仰之也。此卦四陰長而二陽消,正為八月之卦,而名卦繫辭,更取他義,亦扶陽抑陰之意。
《観》卦は下体が坤、上体が巽です。卦辞に言います。観とは、祭祀前に手を浄めるように恭敬し、まだ祭品を進献せずとも、誠信はすでに心の中に存在し、人に粛然として仰望させます。「観」は「官奐反」と読み、下文の「大観」「以観」の「観」の字および《大象伝》中の「観」の字は皆この音と同じです。朱熹が言います。いわゆる観とは、人に示す所有りて人に瞻仰されることです。九五は上位に居り、四つの陰爻がそれを仰望します。内卦は柔順、外卦は遜入で、九五は中正の徳をもって天下に示范します。だから《観》と言います。「盥」とは将に祭祀せんとする時に手を浄めること、「薦」とは酒食を奉じて祭ること、「顒然」とは恭敬の貌です。これは人が能くその潔浄精誠を致して軽々しく施為せず、誠信が内心に存して荘厳仰ぐべきことを言い、占者がこのようであるべきことを戒めます。ある人はまた「有孚顒若」は下の人が彼を信服して仰望することを指すと言います。朱熹がまた指摘します。この卦は四陰が生長し二陽が消退するので、本来八月の卦と算すべきですが、命名と繋辞の際に別の意義を取るのも、陽剛を扶助し陰柔を抑制する用心です。
《彖》曰:大觀在上,順而巽,中正以觀天下。以卦體、卦德釋卦名義。「觀,盥而不薦,有孚顒若」,下觀而化也。觀,如字。下「觀天」、《大象》「觀民」之「觀」、六爻「觀」字,並同。釋卦辭。觀天之神道,而四時不忒,聖人以神道設教,而天下服矣。極言觀之道也。四時不忒,天之所以為觀也。神道設教,聖人之所以為觀也。《象》曰:風行地上,觀,先王以省方觀民設教。省,悉井反。省方以觀民,設教以為觀。
《観》卦《彖伝》に言います。偉大なる観瞻の対象が上位に居り、柔順して遜入し、中正の徳をもって天下の人に示す。朱熹はこれを「卦体」と「卦徳」を合わせて卦名の義を釈したものとします。《彖伝》がまた言います。「観、盥而て薦せず、孚ありて顒若たり」とは、下の人が彼を瞻仰して感化を受けることです。ここの「観」は本字のまま読み、下文の「観天」、《大象伝》の「観民」の「観」および六爻中の「観」の字は皆この読みと同じです。朱熹はこれを卦辞を釈したものとします。《彖伝》がさ���に言います。上天の神妙なる運行の道を観察すれば、四時の更替は毫も差錯なし。聖人はこの神妙の道に依りて教化を設立すれば、天下は服帰します。朱熹が言います。これは「観」の道理を極処まで講じたものです。四時に差錯なきは天の観瞻の対象となる所以であり、神道をもって教を設けるは聖人の観瞻の対象となる所以です。《大象伝》に言います。風が地上を行く、これがすなわち《観》であり、先王はこれにより四方を巡視し民情を体察し教化を設立しました。「省」は「悉井反」と読みます。朱熹が言います。四方を巡視するのは百姓を観察するためであり、教化を設立するのは百姓に観せるためです。
初六,童觀,小人無咎,君子吝。卦以觀示為義,據九五為主也,爻以觀瞻為義,皆觀乎九五也。初六,陰柔在下,不能遠見,童觀之象。小人之道,君子之羞也。故其占在小人則無咎,君子得之,則可羞矣。《象》曰:初六「童觀」,小人道也。六二,窺觀,利女貞。陰柔居內而觀乎外,窺觀之象,女子之正也。故其占如此。丈夫得之,則非所利矣。《象》曰:窺觀女貞,亦可醜也。在丈夫則為丑也。
初六の爻辞:児童のように浅陋に観れば、小人は過ちなく、君子は羞吝。朱熹が言います。全卦は「人に示して観せる」を義と取り、九五を主とします。各爻は「瞻仰」を義と取り、皆九五を仰観します。初六は陰柔で最下に居り、遠くを見ることができません。まさに童蒙の見の象で、これは小人の道です。君子はこれを恥とします。だから占断は:小人がこのようであれば過ちはなく、君子がこの爻を占め得れば、羞愧すべきです。初六《小象伝》に言います。初六の「童観」は小人の道です。六二の爻辞:門の隙間から窺い見れば、女子が正を守るに利あり。朱熹が言います。六二は陰柔で内卦に居りながら、外面を観ようとするのは窺視の象です。これは女子にとっては正当と算えられます。だから占断はこのようです。男子がもしこの爻を占め得れば、宜しき所ではありません。六二《小象伝》に言います。窺い見て女子の正に合しても、やはり羞ずべきです。朱熹が言います。男子に換えれば、それは醜事です。
六三,觀我生,進退。我生,我之所行也。六三,居下之上,可進可退,故不觀九五,而獨觀己所行之通塞以為進退。占者宜自審也。《象》曰:「觀我生,進退」,未失道也。六四,觀國之光,利用賓于王。六四,最近於五,故有此象。其占為利於朝覲仕進也。《象》曰:「觀國之光」,尚賓也。
六三の爻辞:自己の行う所を観察し、これに拠りて進むか退くかを決めます。朱熹が言います。「我生」とはすなわち自己の行事です。六三は下卦の最上位に居り、進めば進み退けば退き得るので、それは九五を観ず、ただ自己の行う所が通か塞かを観て、進退を決定します。占者は自ら審察すべきです。六三《小象伝》に言います。「観我生、進退」とは、このようにして正道を失わないことです。六四の爻辞:一国の光輝気象を観瞻すれば、賓客として君王に朝見するに利あり。朱熹が言います。六四は九五に最も近いので、このような象があります。その占断は君主に朝見し出仕して進を求むるに利ありです。六四《小象伝》に言います。「観国之光」とは、賓礼を崇尚し、人に賓客の礼をもって遇せられることです。
九五,觀我生,君子無咎。九五,陽剛中正,以居尊位,其下四陰,仰而觀之,君子之象也。故戒居此位、得此占者,當觀己所行,必其陽剛中正亦如是焉,則得無咎也。《象》曰:「觀我生」,觀民也。此夫子以義言之,明人君觀己所行,不但一身之得失,又當觀民德之善否,以自省察也。
九五の爻辞:自己の行う所を観察し、君子は過ちなし。朱熹が言います。九五は陽剛中正で尊位に居り、下の四つの陰爻は皆頭を仰げてそれを見ます。これは君子の象です。だからこの位に身を居しこの爻を占め得る人に戒めます。自らの一切の作為を省視し、必ずそれを九五のように陽剛中正たらしめてこそ、過ちなくできます。九五《小象伝》に言います。「観我生」とは、実は百姓を観察することです。朱熹が言います。これは孔子が義理に就いて講じたもので、人君が自らの行事を省視するのは、一己の得失を見るのみならず、また百姓の徳行の好悪を観て、以て躬を反って自省するのです。
上九,觀其生,君子無咎。上九,陽剛居尊位之上,雖不當事任,而亦為下所觀,故其戒辭略與五同。但以「我」為「其」,小有主賓之異耳。《象》曰:「觀其生」,志未平也。志未平,言雖不得位,未可忘戒懼也。
上九の爻辞:彼の行う所を観察し、君子は過ちなし。朱熹が言います。上九は陽剛をもって尊位の上に居り、実際の職任は担当しないけれど、同じく下の人に瞻仰されます。だからその告戒の辞は大体九五と同じです。ただ「我」を「其」に換えて、主と賓の間にやや分別があるのみです。上九《小象伝》に言います。「観其生」とは、心志がまだ平静でないことです。朱熹が解釈します。いわゆる心志未平とは、上九は実位がなくとも、戒惧を忘れてはならないということです。
噬嗑卦(ぜいこう)
震下,離上。噬嗑:亨,利用獄。噬,市利反。嗑,胡臘反。噬,齧也。嗑,合也。物有間者,齧而合之也。為卦上下兩陽而中虛,頤口之象,九四一陽,間於其中,必齧之而後合,故為噬嗑。其占當得亨通者,有間故不通,齧之而合,則亨通矣。又三陰三陽,剛柔中半,下動上明,下雷上電,本自《益》卦六四之柔,上行以至於五而得其中,是以陰居陽,雖不當位而利用獄。蓋治獄之道,唯威與明,而得其中之為貴。故筮得之者,有其德,則應其占也。
《噬嗑》卦は下体が震、上体が離です。卦辞に言います。噬嗑は亨通し、断案して刑を用いるに利あり。「噬」は「市利反」、「嗑」は「胡臘反」と読みます。朱熹が言います。噬とは咬むこと、嗑とは合わせることです。物の中間に阻隔があれば、咬み断いてこそ合攏できます。卦形に就いて見れば、上下に各々一陽爻ありて中間は空虚で、口腮の象です。九四の一つの陽爻がその中に横梗し、必ずそれを咬み断いてこそ合います。だから《噬嗑》と言います。その占断は亨通すべきです。阻隔があるので通じず、咬み開いて合わせれば亨通します。さらに全卦は三陰三陽で剛柔は各半、下卦は震動、上卦は離明、下は雷、上は電です。卦変から言えば、それは本来《益》卦の六四の柔が上行して第五位に至り中を得たもので、陰爻をもって陽位に居り、位には当たらないけれど断獄に利ありです。獄を治める道は威厳と明察の二条に在るのみで、中を得るをもって最も貴びます。だから占筮してこの卦を得る人は、もしこのような徳行を具備すれば、占断は彼の身に応験します。
《彖》曰:頤中有物,曰噬嗑。以卦體釋卦名義。噬嗑而亨,剛柔分,動而明,雷電合而章。柔得中而上行,雖不當位,利用獄也。上,時掌反。又以卦名、卦體、卦德、二象卦變釋卦辭。《象》曰:雷電,噬嗑;先王以明罰敕法。雷電,當作「電雷」。
《噬嗑》卦《彖伝》に言います。口腮の中に物が横たわるを、噬嗑と言います。朱熹はこれを「卦体」で卦名の義を釈したものとします。《彖伝》がまた言います。咬み開いて後に亨通し、剛柔は各半にして分明、震動して離明、雷と電が相合して彰顕し、柔爻は中位を得て上に行く。居る位は当たらないけれど、断獄して刑を用いるに利あり。「上」は「時掌反」と読みます。朱熹が言います。この一段は卦名・卦体・卦徳・上下二象および卦変を兼用して卦辞を釈したものです。《大象伝》に言います。雷と電、これがすなわち《噬嗑》であり、先王はこれにより刑罰を昭明し法令を整饬しました。朱熹が指摘します。「雷電」二字は「電雷」と作るべきです。
初九,屨校滅趾,無咎。校,音教。初、上無位,為受刑之象。中四爻為用刑之象。初在卦始,罪薄過小,又在卦下,故為履校滅趾之象。止惡於初,故得無咎。占者小傷而無咎也。《象》曰:「屨校滅趾」,不行也。滅趾,又有不進於惡之象。
初九の爻辞:足に刑具を戴き、足趾を遮没して、過ちなし。「校」は音 教で、木製の刑具を指します。朱熹が言います。初爻と上爻は皆職位に在らず、刑罰を承受する象です。中間の四爻は刑罰を施行する象です。初九は全卦の起頭にあり、罪は軽く過は小さく、また最下に居るので、足に刑具を戴きて足趾を掩う象があります。悪行が萌芽の剛に制止されるので、無咎を得られます。占者は小傷を受けるに過ぎず過ちはありません。初九《小象伝》に言います。「屨校滅趾」とは、彼をして路を行かせないことです。朱熹が言います。足趾を遮没するには、また悪処に向かって進まない象を含みます。
六二,噬膚滅鼻,無咎。祭有膚鼎,蓋肉之柔脆,噬而易嗑者。六二中正,故其所治如噬膚之易。然以柔乘剛,故雖甚易,亦不免於傷滅其鼻。占者雖傷而終無咎也。《象》曰:「噬膚滅鼻」,乘剛也。六三,噬臘肉,遇毒,小吝,無咎。臘,音昔。臘肉,謂獸臘,全體骨而為之者,堅韌之物也。陰柔不中正,治人而人不服,為噬臘遇毒之象。占雖小吝,然時當噬嗑,於義為無咎也。《象》曰:「遇毒」,位不當也。
六二の爻辞:柔肉を咬んで鼻が没するまで咬み込んで、過ちなし。朱熹が言います。古代の祭祀に柔肉を盛る「膚鼎」があり、あれは肉の中で最も柔嫩松脆で一咬で断れる部分です。六二は中にして正なので、その人を治めることは柔肉を咬むが如く容易です。しかしそれは陰柔をもって初九の陽剛の上に凌駕するので、たとい極めて容易でも、自己の鼻を傷つけることを免れません。占者は傷を受けるも終に過ちなしです。六二《小象伝》に言います。「噬膚滅鼻」とは、陽剛の上に乘凌するからです。六三の爻辞:風乾した獣肉を咬んで毒に遇い、やや羞吝あり、しかし過ちなし。「腊」は音 昔。朱熹が言います。腊肉とは全体に骨を帯びて風乾した獣肉で、堅韌にして咬み難い物です。六三は陰柔で中にも正にも当たらず、人を治めても人を服せしめません。だから腊肉を咬んで毒に中る象があります。占断はやや羞吝を帯びるけれど、まさに噬嗑の時に当たり、道義の上ではなお無咎です。六三《小象伝》に言います。「毒に遇う」とは、爻位が当たらないからです。
九四,噬乾胏,得金矢,利艱貞,吉。乾,音乾。胏,緇美反。胏,肉之帶骨者,與「胾」通。《周禮》:獄訟,入鈞金束矢而後聽之。九四,以剛居柔,得用刑之道,故有此象。言所噬愈堅,而得聽訟之宜也。然必利於艱難正固,則吉。戒占者,宜如是也。《象》曰:「利艱貞,吉」,未光也。
九四の爻辞:風乾した帯骨の肉を咬んで、銅と矢を得た。艱難の中で正を守るに利あり、吉。「乾」は音 干、「胏」は「緇美反」と読みます。朱熹が言います。胏は骨を帯びた肉で、「胾」の字と相通じます。《周礼》の規定:訴訟する者は先に一鈞の銅と一束の矢を納めてこそ官府は受理します。九四は陽剛をもって陰柔の位に居り、用刑の道を深く得ています。だからこのような象があります。意は咬む物が愈々堅硬であれば、聴訟は愈々その宜しきに合します。ただし必ず艱難の中で正固を堅守するに利あってこそ吉を得ます。これは占者がこのようであるべきことを戒めます。九四《小象伝》に言います。「利艱貞、吉」とは、その徳がまだ光大していないことを言います。
六五,噬乾肉,得黃金,貞厲,無咎。噬乾肉,難於膚而易於臘胏者也。黃,中色。金,亦謂鈞金。六五,柔順而中,以居尊位,用刑于人,人無不服,故有此象。然必貞厲,乃得無咎。亦戒占者之辭也。《象》曰:「貞厲,無咎」,得當也。上九,何校滅耳,凶。何,何可反。何,負也。過極之陽,在卦之上,惡極罪大,凶之道也。故其象占如此。《象》曰:「何校滅耳」,聰不明也。滅耳,蓋罪其聽之不聰也。若能審聽而早圖之,則無此凶矣。
六五の爻辞:風乾した肉を咬んで黄金を得た。正を守りて常に危惧を懐けば、過ちなし。朱熹が言います。乾肉を咬むのは柔肉を咬むより難しく、しかし腊肉や帯骨の肉を咬むより易しいです。「黄」は五色中の中央の色で、「金」もまた訴訟の時に納める銅を指します。六五は柔順で中に居り、また尊位に処し、人に刑を用いれば人に服さないものはありません。だからこのような象があります。ただし必ず正を守り危を知ってこそ、過ちなくできます。これもまた占者を戒める言です。六五《小象伝》に言います。「貞厲、咎なし」とは、処置が当を得たからです。上九の爻辞:肩に刑具を扛ぎ、耳を遮没して、凶。「何」は「何可反」と読み、負荷の意です。朱熹が言います。上九は極処を過ぎた陽爻で、全卦の最上に居り、悪が極処に至り罪過が重大です。これは凶を致す道です。だから取象と占断はこのようです。上九《小象伝》に言います。「何校滅耳」とは、聴覚が明らかでないことです。朱熹が言います。耳を遮没するは、まさに罪が彼の聴いて聡くないに在りです。もし能く審慎に聴取し早めに図謀すれば、この凶に至らなかったでしょう。
第二巻・下経
咸卦(かん)
艮下,兌上。咸:亨,利貞,取女吉。取,七具反。咸,交感也。兌柔在上,艮剛在下,而交相感應,又艮止則感之專,兌說則應之至,又艮以少男下於兌之少女,男先於女,得男女之正,婚姻之時,故其卦為咸。其占亨而利貞,取女則吉。蓋感有必通之理,然不以貞,則失其亨,而所為皆凶矣。
《咸》卦は下体が艮、上体が兌です。卦辞に言います。咸は亨通し、正道を守るに利あり、妻を娶れば吉。「取」は「七具反」と読み、すなわち妻を娶るの「娶」です。朱熹が言います。咸とは交相感応することです。兌の柔が上にあり艮の剛が下にあり、両者は交相感応します。さらに艮は止なので感じることが専一であり、兌は悦なので応じることが誠至です。また艮は少男で兌の少女の下に屈居し、男が先に女に求めて男女の正に合し、まさに婚配の時節です。だから卦名を《咸》とします。その占断は亨通して正道を守るに利あり、妻を娶れば吉です。感応は本来必然に相通ずる理があるけれど、もし正道をもって感じなければ、その亨通を失い、行う所は皆凶に転じます。
《彖》曰:「咸」,感也。釋卦名義。柔上而剛下,二氣感應以相與。止而說,男下女,是以「亨,利貞,取女吉」也。說,音悅。「男下」之下,遐嫁反。以卦體、卦德、卦象釋卦辭。或以卦變言柔上剛下之義,曰:《咸》自《旅》來,柔上居六,剛下居五也。亦通。天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平,觀其所感,而天地萬物之情可見矣。極言感通之理。《象》曰:山上有澤,咸,君子以虛受人。山上有澤,以虛而通也。
《咸》卦《彖伝》に言います。いわゆる「咸」とは、すなわち感です。朱熹はこれを卦名の義を釈したものとします。《彖伝》がまた言います。柔が上にあり剛が下にあり、陰陽二気が交感して互相親与し、艮止して兌悦し、男が女に屈就するので「亨、利貞、取女吉」。「説」は「悦」と読み、「男下女」の「下」は「遐嫁反」と読みます。朱熹はこれを「卦体」「卦徳」「卦象」を合わせて卦辞を釈したものとします。ある人はまた「卦変」から柔上剛下の義を講じ、《咸》は《旅》卦より変来し、柔爻が上昇して第六位に居り剛爻が下降して第五位に居ると言い、このように講じても通じます。《彖伝》の末段に言います。天地が交感して万物が化育生長し、聖人が人心を感動して天下が和平します。それらが感ずる所の道理を観察すれば、天地万物の実情が見えます。朱熹が言います。これは感通の理を極処まで説いたものです。《大象伝》に言います。山上に沢あり、これがすなわち《咸》であり、君子はこれにより虚懐をもって他人を接纳します。朱熹が言います。山上に沢あるは、まさに山頂が凹虚だからこそ水を容れ相通できます。
初六,咸其拇。拇,茂後反。拇,足大指也。《咸》以人身取象,感於最下,咸拇之象也。感之尚淺,欲進未能,故不言吉凶。此卦雖主於感,然六爻皆宜靜而不宜動也。《象》曰:「咸其拇」,志在外也。六二,咸其腓,凶,居吉。腓,房非反。腓,足肚也。欲行則先自動,躁妄而不能固守者也。二當其處,又以陰柔不能固守,故取其象。然有中正之德,能居其所,故其占動凶而靜吉也。《象》曰:雖「凶,居吉」,順不害也。
初六の爻辞:足の大拇指に感応しました。「拇」は「茂后反」と読みます。朱熹が言います。拇とはすなわち足の大趾です。《咸》卦は人身の部位をもって取象し、感応が最下に発生するので、足趾に感ずる象です。この時感応はまだ浅く、動こうとしても動けません。よって爻辞は吉凶を講じません。この卦は感応を主とするけれど、六爻は皆安静に宜しく妄動に宜しくありません。初六《小象伝》に言います。「咸其拇」とは、心志がすでに外の九四に向かっていることです。六二の爻辞:小腿肚に感応して、凶。安居して動かなければ吉。「腓」は「房非反」と読みます。朱熹が言います。腓は小腿肚で、人が歩こうとすればそれが先ず自ら動き出す、躁動して軽妄で固守できない部位です。六二はまさにこの位置に当たり、また陰柔の質をもって固守できません。だからこの象を取ります。ただしそれは中正の徳があって本位に安居できるので、占断は妄動すれば凶、安静ならば吉です。六二《小象伝》に言います。「凶」と言うけれど、居れば吉であるのは、柔順に自守すれば害を受けないからです。
九三,咸其股,執其隨,往吝。股,隨足而動,不能自專者也。執者,主當持守之意。下二爻皆欲動者,三亦不能自守而隨之,往則吝矣。故其象占如此。《象》曰:「咸其股」,亦不處也。志在隨人,所執下也。言亦者,因前二爻皆欲動而云也。二爻陰躁,其動也宜。九三陽剛,居止之極,宜靜而動,可吝之甚也。
九三の爻辞:大腿に感応して、執守する所はただ人に随って動くのみ。往けば必ず羞吝を致します。朱熹が言います。大腿は足に随って動くので、自ら主とすることができません。「執」とは持守すべきの意です。下の初六・六二の両爻は皆動こうとし、九三もまた自守できず随って走り、このように往けば羞吝となります。だから取象と占断はこのようです。九三《小象伝》に言います。「咸其股」とは、それもまた安処しようとしないことが見えます。心志はただ他人に跟随するに在り、執守する所は卑下に過ぎます。朱熹が言います。伝文は「亦」の一字を用いて、前の二爻が皆動こうとしたことを承接して言います。あの二爻は本来陰柔躁動の質で、動くのはまだ合宜と算えられます。九三はしかし陽剛で、また艮止の極処に居り、本来安静であるべきに却って妄動するので、羞吝がひどいのです。
九四,貞吉,悔亡,憧憧往來,朋從爾思。憧,昌容反,又音同。九四,居股之上,脢之下,又當三陽之中,心之象,咸之主也。心之感物,當正而固,乃得其理。今九四乃以陽居陰,為失其正而不能固,故因占設戒,以為能正而固,則吉而悔亡。若憧憧往來,不能正固而累於私感,則但其朋類從之,不復能及遠矣。《象》曰:「貞吉,悔亡」,未感害也。「憧憧往來」,未光大也。感害,言不正而感,則有害也。
九四の爻辞:正道を守れば吉で悔恨は消えます。もし心思が往来して揺れ定まらなければ、同類の朋友のみがあなたの念頭に随います。「憧」は「昌容反」と読み、また音も同じ。朱熹が言います。九四は大腿の上、背脊の下にあり、また上下三陽の中間に当たり、心の象であり、《咸》卦の主です。心が外物に感応するのは、端正で堅固であるべきで、道理に合します。今九四は陽爻をもって陰位に居り、その正を失いて堅固にできません。だから占断に就いて告戒を立てます。能く端正堅固であれば、吉にして悔亡。もし心思が揺れ往来して定まらず、正固できずに私情の感に牽累されれば、同類の朋友だけが彼に随い、もはや遠くの人に感じることができません。九四《小象伝》に言います。「貞吉、悔亡」とは、まだ不正の感に傷害されていないことです。「憧憧往来」とは、心量がまだ光明博大に足りないことです。朱熹が解釈します。いわゆる「感害」とは、不正の心をもって人を感じれば、害があるということです。
九五,咸其脢,無悔。脢,武杯反,又音每。脢,背肉,在心上而相背,不能感物而無私繫。九五,適當其處,故取其象,而戒占者以能如是,則雖不能感物,而亦可以無悔也。《象》曰:「咸其脢」,志末也。志末,謂不能感物。上六,咸其輔頰舌。頰,古協反。輔頰舌,皆所以言者,而在身之上。上六,以陰居說之終,處咸之極,感人以言而無其實。又兌為口舌,故其象如此,凶咎可知。《象》曰:「咸其輔頰舌」,滕口說也。滕、騰通用。
九五の爻辞:背脊の肉に感応して、悔恨なし。「脢」は「武杯反」と読み、また音 毎。朱熹が言います。脢は背の上の肉で、位置は心の上にありて心と相背するので、外物に感ずることができず、私心の牽係もありません。九五は恰好この位置に当たるので、この象を取り、占者に告戒します。能くこのように私係がなければ、たとい人を感動できなくても、悔恨なくできます。九五《小象伝》に言います。「咸其脢」とは、心志が末微であることです。朱熹が解釈します。いわゆる志末とは、外物を感動できないことです。上六の爻辞:感応はただ牙床・面頬と舌の上にのみあります。「頬」は「古協反」と読みます。朱熹が言います。輔・頬・舌は皆話をする器官で、また皆身体の上部に長じています。上六は陰爻をもって兌悦の終点、《咸》卦の極処に居り、言語をもって人を打動するのみで実在の内容がありません。加えて兌は本来口舌に取象するので、象はこのようであり、凶険と過ちは推して知れます。上六《小象伝》に言います。「咸其輔頬舌」とは、ただ誇誇と談ずるのみです。朱熹が言います。「滕」は「騰」と通用します。
恒卦(こう)
巽下,震上。恆:亨,無咎,利貞,利有攸往。恆,常久也。為卦震剛在上,巽柔在下,震雷巽風,二物相與,巽順震動,為巽而動。二體六爻,陰陽相應。四者皆理之常,故為恆。其占為能久於其道,則亨而無咎。然又必利於守貞,則乃為得所常久之道,而利有所往也。
《恒》卦は下体が巽、上体が震です。卦辞に言います。恒は亨通し、過ちなく、正道を守るに利あり、往く所有るに利あり。朱熹が言います。恒とは長久です。卦体に就いて見れば、震の剛が上にあり巽の柔が下にあり、震は雷で巽は風で、両者は相与に并作します。巽は順で震は動で、合わせて柔順して後に発動します。上下二体の六つの爻はまた一々陰陽が相応します。この四層は皆常理です。だから卦名を《恒》とします。その占断は:能く自らの正道を長久に守れば、亨通して過ちなくできます。ただし必ず貞正を堅守するに利あってこそ、真に長久の道を得たと算え、よって往く所有るに利ありです。
《彖》曰:「恆」,久也。剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔皆應,恆。以卦體、卦象、卦德釋卦名義。或以卦變言剛上柔下之義,曰:《恆》自《豐》來,剛上居二,柔下居初也。亦通。「恆,亨,無咎,利貞」,久於其道也。天地之道,恆久而不已也。恆固能亨,且無咎矣。然必利於正,乃為久於其道,不正則久非其道矣。天地之道,所以長久,亦以正而已矣。「利有攸往」,終則有始也。久於其道,終也,利有攸往,始也。動靜相生,循環之理,然必靜為主也。日月得天而能久照,四時變化而能久成。聖人久於其道,而天下化成。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣。極言恆久之道。
《恒》卦《彖伝》に言います。いわゆる「恒」とは、すなわち長久。陽剛が上にありて陰柔が下にあり、雷と風が互相助成し、柔順して後に発動し、剛柔六爻が両々相応する、これが恒です。朱熹はこれを「卦体」「卦象」「卦徳」を合わせて卦名の義を釈したものとします。ある人はまた「卦変」から剛上柔下の意を講じ、《恒》は《豊》卦より変来し、剛爻が上昇して第二位に居り柔爻が下降して初位に居ると言い、このように講じても通じます。《彖伝》がまた言います。「恒、亨、咎なし、利貞」とは、能く自らの正道を長久に守ることです。天地運行の道もまた恒久にして止まずです。朱熹が解釈します。恒は本来亨通でき、また無咎にもできます。ただし必ず正を守るに利あってこそ、長久に正道を守ったと算え、正しくなければ長久なるは正道ではありません。天地の道が能く長久なる所以も、ただ「正」の一字に過ぎません。《彖伝》がさらに言います。「利有攸往」とは、一段が終われば一段が始まることです。朱熹が言います。長久に道を守るは「終」で、往く所有るに利あるは「始」です。動と静は互いに生発し、循環往復の道理ですが、ただ総じて静を主とすべきです。《彖伝》の末段に言います。日月は天道の常を得て能く長久に照曜し、四時は不断に変化して能く長久に万物を成就し、聖人は長久にその道を守りて天下の教化が成就します。それらが恒守する所を観察すれば、天地万物の実情が見えます。朱熹が言います。これは恒久の道を極処まで講じたものです。
《象》曰:雷風,恆,君子以立不易方。初六,浚恆,貞凶,無攸利。初與四為正應,理之常也,然初居下而在初,未可以深有所求。四震體而陽性,上而不下,又為二三所隔,應初之意,異乎常矣。初之柔暗,不能度勢,又以陰居巽下,為巽之主,其性務入,故深以常理求之,浚恆之象也。占者如此,則雖貞亦凶,而無所利矣。《象》曰:浚恆之凶,始求深也。
《恒》卦《大象伝》に言います。雷と風、これがすなわち《恒》であり、君子はこれにより自らの操守を確立して方向を変えません。初六の爻辞:開頭より深く恒久を求めれば、正を守っても凶、益するところなし。朱熹が言います。初六と九四は本来正応で、これは常理です。しかし初六は最下に居りまた開端に処し、まだ深く求むべき所ではありません。九四は震体に属し陽性を秉り、ただ上に走りて下りて来ず、中間はまた九二・九三に隔絶され、それが初六に応和する心意はすでに常態と異なります。初六は陰柔暗昧で形勢を審度できず、また陰爻をもって巽体の下に居り巽卦の主で、本性はただ深入を求むのみです。だから硬に常理に拠りて深求するのは、これがすなわち「浚恒」の象です。占者がもしこのようであれば、たとい正を守っても凶で、一も利するところがありません。初六《小象伝》に言います。深く恒久を求めて凶なる所以は、開頭より求めることが深すぎるからです。
九二,悔亡。以陽居陰,本當有悔,以其久中,故得亡也。《象》曰:九二「悔亡」,能久中也。九三,不恆其德,或承之羞,貞吝。位雖得正,然過剛不中,志從於上,不能久於其所,故為不恆其德,或承之羞之象。或者,不知其何人之辭。承,奉也,言人皆得奉而進之,不知其所自來也。貞吝者,正而不恆,為可羞吝。申戒占者之辭。《象》曰:「不恆其德」,無所容也。
九二の爻辞:悔恨は消えます。朱熹が言います。九二は陽爻をもって陰位に居り、本来悔あるべきです。それが能く中道を長久に守るので、悔恨は消えます。九二《小象伝》に言います。九二の「悔亡」は、それが能く中を長久に守るからです。九三の爻辞:自らの徳行を恒久に保持できなければ、人が羞辱を奉送してくるかもしれず、正を守っても羞吝です。朱熹が言います。九三は位次は正を得るけれど、剛強に過ぎて中位に居らず、心志はまた一味上方に追随して、本位に長久に安処できません。だから徳行が恒ならず時に羞辱を蒙る象があります。「或」とは誰かを知らないという言い方です。「承」とは奉上し、意は誰でも羞辱を彼の面前に奉送でき、その来る所さえ分からないことです。いわゆる「貞吝」とは、正なれど持久できず、よって羞ずべく吝なるべきで、これは再び占者を戒める言です。九三《小象伝》に言います。「其の徳を恒にせず」とは、どこへ行っても彼を容れません。
九四,田無禽。以陽居陰,久非其位,故為此象。占者田無所獲,而凡事亦不得其所求也。《象》曰:久非其位,安得禽也?六五,恆其德,貞,婦人吉,夫子凶。以柔中而應剛中,常久不易,正而固矣。然乃婦人之道,非夫子之宜也。故其象占如此。《象》曰:婦人貞吉,從一而終也。夫子制義,從婦凶也。
九四の爻辞:狩りをして禽獣を得られません。朱熹が言います。九四は陽爻をもって陰位に居り、自己に属しない位次に長久に留まるので、この象があります。占者が出猟すれば一も獲る所なく、他の事を弁じても欲する所を求め得ません。九四《小象伝》に言います。処るべきでない位次に長久に居れば、どうして禽獣を猟り得ましょう。六五の爻辞:自らの徳行を恒久に保持して正を守る。婦人がこれを得れば吉、男子がこれを得れば凶。朱熹が言います。六五は柔順をもって中に居り下より九二の剛中に応じ、長久に改めません。正にして固いと言えます。しかしこれはただ婦人の道理で、男子の宜しき所ではありません。だから取象と占断はこのようです。六五《小象伝》に言います。婦人が正を守りて吉なるは、終身一に従って改めないからです。男子は道義に拠りて事を裁断すべく、一味婦人に順従すれば凶です。
上六,振恆,凶。振者,動之速也。上六,居恆之極,處震之終,恆極則不常,震終則過動,又陰柔不能固守,居上非其所安,故有振恆之象,而其占則凶也。《象》曰:振恆在上,大無功也。
上六の爻辞:動揺して恒常を失えば、凶。朱熹が言います。「振」とは動くことが急速なことです。上六は《恒》卦の極処に居り、また震卦の終点に処します。恒が極処に至れば却って常を持することができず、震が終点に至れば動が過度になります。加えてそれは陰柔で固守できず、身は最上に居りまたそれの安身の所ではありません。だから揺動して恒を失う象があり、占断はすなわち凶です。上六《小象伝》に言います。動揺して恒を失いまた最上に居れば、終に一点の功効もありません。
遯卦(とん)
艮下,乾上。遁:亨,小利貞。遁,徒困反。遁,退避也。為卦二陰浸長,陽當退避,故為遁,六月之卦也。陽雖當遁,然九五當位,而下有六二之應,若猶可以有為。但二陰浸長於下,則其勢不可以不遁,故其占為君子能遁則身雖退而道亨;小人則利於守正,不可以浸長之故,而遂侵迫於陽也。小,謂陰柔小人也。此卦之占,與《否》之初二兩爻相類。
《遯》卦は下体が艮、上体が乾です。卦辞に言います。遯は亨通し、陰柔の小人は正道を守るに利あり。「遯」は「徒困反」と読みます。朱熹が言います。遯とは退避です。卦体に就いて見れば、二つの陰爻が徐々に生長し、陽剛は退避すべきです。だから《遯》と言い、十二消息卦中で六月に配します。陽は退くべきけれど、九五は位に当たり、下にはまた六二がそれと相応し、見たところなお作為し得るかのようです。ただ二陰が下で不断に滋長し、形勢上退かざるを得ません。だから占断は:君子が時に及んで退避すれば、身は引退してその道は却って亨通します。小人は正を守るに利あり、陰気が漸長するに依りて陽剛を侵逼してはいけません。ここの「小」とは、陰柔の小人を指します。朱熹がまた言います。この一卦の占断は、《否》卦の初六・六二の両爻の意に近いです。
《彖》曰:「遁,亨」,遁而亨也。剛當位而應,與時行也。以九五一爻釋亨義。「小利貞」,浸而長也。長,丁丈反。以下二陰釋小利貞。遁之時義大矣哉。陰方浸長,處之為難,故其時義為尤大也。《象》曰:天下有山,遁,君子以遠小人,不惡而嚴。遠,袁萬反。天體無窮,山高有限,遁之象也。嚴者,君子自守之常,而小人自不能近。
《遯》卦《彖伝》に言います。「遯、亨」とは、能く退避してこそ亨通を得る。陽剛が当位に居りて相応する爻あり、行動が時宜に合す。朱熹はこれを九五一爻に就いて「亨」の含意を釈したものとします。《彖伝》がまた言います。「小利貞」とは、陰気がまさに徐々に生長しています。「長」は「丁丈反」と読みます。朱熹はこれを下の二つの陰爻に就いて「小利貞」を釈したものとします。《彖伝》の末句に言います。《遯》が当たる時勢の意義は真に大きいです。朱熹が言います。陰気が方に滋長し、この時いかに自処するかが最も難しいので、その時義は格別重大です。《大象伝》に言います。天下に山あり、これがすなわち《遯》であり、君子はこれにより小人に遠ざかり、疾言厲色を用いずして自ら威厳があります。「遠」は「袁万反」と読みます。朱熹が言います。天体は無窮無尽で、山は高いけれど有限で、終にそれに追い及びません。これがまさに遯の象です。いわゆる「厳」とは、ただ君子が平素自守する常態で、小人は自然と挨近を敢えてしません。
初六,遁尾,厲,勿用有攸往。遁而在後,尾之象,危之道也。占者不可以有所往,但晦處靜俟,可免災耳。《象》曰:遁尾之厲,不往,何災也?六二,執之用黃牛之革,莫之勝說。勝,音升。說,吐活反。以中順自守,人莫能解,必遁之志也。占者固守,亦當如是。《象》曰:執用黃牛,固志也。
初六の爻辞:退避して最後に落ちれば、危険、往く所有るに宜しからず。朱熹が言います。退避すべきに人の後に落ちるは、まさに「尾」の象で、危険の道です。占者は行動する所有るべからず、ただ韜晦して自処し安静に等待してこそ、災禍を免れられます。初六《小象伝》に言います。最後に落ちて危険でも、前に往かなければ、何の災禍がありましょう。六二の爻辞:黄牛の皮で作った繩索をもってそれを捆えば、誰も解くことができません。「勝」は音 升、「説」は「吐活反」と読み、すなわち解脱の「脱」です。朱熹が言います。六二は柔順をもって中に居りて自守し、他人はそれを解くことができません。これは必定に退避する心志です。占者がもし堅守しようとすれば、またこのようであるべきです。六二《小象伝》に言います。黄牛の皮をもって捆えるは、自己の心志を堅定することです。
九三,係遁,有疾厲,畜臣妾,吉。畜,許六反。下比二陰,當遁而有所繫之象,有疾而危之道也。然以畜臣妾則吉,蓋君子之於小人,惟臣妾,則不必其賢而可畜耳。故其占如此。《象》曰:係遁之厲,有疾憊也。「畜臣妾,吉」,不可大事也。憊,音敗。
九三の爻辞:退避しようとして牽係され、病あるが如く危険。それをもって奴僕侍妾を畜養すれば、吉。「畜」は「許六反」と読みます。朱熹が言います。九三は下に二つの陰爻に緊挨し、まさに退避の時に当たるに牽係する所有り、病を帯びて危に処する象です。ただしもしそれをもって臣妾を畜養するに用いれば、却って吉利です。君子が小人を待つには、臣妾のこの類のみが、彼の賢不肖を問わずに收留使用できます。だから占断はこのようです。九三《小象伝》に言います。牽係して退避できない危険は、病あるが如く困頓です。「畜臣妾、吉」とは、このような者は大事を担当できないことを言います。「憊」は音 敗。
九四,好遁,君子吉,小人否。好,呼報反。否,方有反。下應初六,而乾體剛健,有所好而能絕之以遁之象也。唯自克之君子能之,而小人不能。故占者君子則吉,而小人否也。《象》曰:君子好遁,小人否也。
九四の爻辞:心に愛恋する所有りながらなお退避すれば、君子は吉を得、小人はできません。「好」は「呼報反」、「否」は「方有反」と読みます。朱熹が言います。九四は下より初六に応じ、本来一分の牽恋がありますが、それは乾体に身を在りて剛健なので、愛する所有りながら能く断然割舍して引退する象があります。これは能く自らを克制する君子のみができ、小人はできません。だから占断は君子ならば吉、小人は然らずです。九四《小象伝》に言います。君子は愛恋する所有りてなお退避でき、小人はしかとできません。
九五,嘉遁,貞吉。剛陽中正,下應六二,亦柔順而中正,遁之嘉美者也。占者如是,而正則吉矣。《象》曰:「嘉遁,貞吉」,以正志也。上九,肥遁,無不利。以剛陽居卦外,下無繫應,遁之遠而處之裕者也。故其象占如此。肥者,寬裕自得之意。《象》曰:「肥遁,無不利」,無所疑也。
九五の爻辞:退避が尽善尽美であれば、正道を守りて吉。朱熹が言います。九五は陽剛中正で、下に応ずる六二も柔順中正で、退避が最も完璧な一爻です。占者が能くこのようでまた正を守れば、吉です。九五《小象伝》に言います。「嘉遯、貞吉」とは、その心志を端正にしたからです。上九の爻辞:従容余裕に退避すれば、不利なし。朱熹が言います。上九は陽剛をもって全卦の外に居り、下に牽係する正応がなく、退くことが最も遠く処することが最も従容な一爻です。だから取象と占断はこのようです。「肥」とは余裕自得の意です。上九《小象伝》に言います。「肥遯、不利なし」とは、心に半分の疑いもないことです。
大壮卦(だいそう)
乾下,震上。大壯:利貞。大,謂陽也。四陽盛長,故為大壯,二月之卦也。陽壯,則占者吉亨,不假言,但利在正固而已。《彖》曰:「大壯」,大者壯也。剛以動,故壯。釋卦名義。以卦體言,則陽長過中,大者壯也。以卦德言,則乾剛震動,所以壯也。「大壯,利貞」,大者正也,正大而天地之情可見矣。釋利貞之義,而極言之。《象》曰:雷在天上,大壯君子以非禮弗履。自勝者強。
《大壮》卦は下体が乾、上体が震です。卦辞に言います。大壮は、正道を守るに利あり。朱熹が言います。「大」とは陽を指します。四つの陽爻が盛んに生長するので《大壮》と言い、十二消息卦中で二月に配します。陽はすでに強盛なので、占者は自然に吉にして亨通し、この一層は明言する必要なく、ただ利点が正を守り固く持することにあると注意を促すのみです。《彖伝》に言います。いわゆる「大壮」とは、大きい者が強盛であること。剛強にして能く動くので、強盛です。朱熹はこれを卦名の義を釈したものとします。「卦体」についていえば、陽爻の生長はすでに卦中を過ぎ、まさに大きい者が壮盛です。「卦徳」についていえば、乾の剛に震の動を加えるので、強盛です。《彖伝》がまた言います。「大壮、利貞」とは、大きい者が正に帰るべきこと。能く正にして且つ大なれば、天地の実情が見えます。朱熹はこれを「利貞」の含意を釈し、道理を極処まで講じたものとします。《大象伝》に言います。雷が天の上にある、これがすなわち《大壮》であり、君子はこれにより礼に合わない事は一概に為しません。朱熹が言います。自らに勝ち得る人だけが強いと算えられます。
初九,壯于趾,征凶,有孚。趾在下而進,動之物也。剛陽處下而當壯時,壯於進者也,故有此象。居下而壯於進,其凶必矣。故其占又如此。《象》曰:「壯于趾」,其孚窮也。言必困窮。九二,貞吉。以陽居陰,已不得其正矣。然所處得中,則猶可因以不失其正,故戒占者使因中以求正,然後可以得吉也。《象》曰:九二「貞吉」,以中也。
初九の爻辞:強壮が足趾に表れて、出征すれば凶。この点は確かに信ずべきです。朱熹が言います。足趾は人身の最下に在りて前進を主る、動を好む部位です。初九は陽剛をもって最下に居り、またまさに壮盛の時に当たり、一味強を逞して前に衝こうとする者です。だからこの象があります。下位に居りて進取を急ぐのは、凶に遭うのが必然です。だから占断もこのようです。初九《小象伝》に言います。「壮于趾」とは、その応験は行き場がなくなることです。朱熹が解釈します。意は必ず困窮します。九二の爻辞:正道を守れば吉。朱熹が言います。九二は陽爻をもって陰位に居り、本来すでにその正を失っています。ただしそれが処するのは中位で、「中」を借りてその正を失わずにいられます。だから占者に戒めます。中を守るに凭って正を求めてこそ、吉を獲られます。九二《小象伝》に言います。九二の「貞吉」は、それが中に居るからです。
九三,小人用壯,君子用罔,貞厲,羝羊觸藩,羸其角。羝,音低。羸,力追反。過剛不中,當壯之時,是小人用壯,而君子則用罔也。罔,無也;視有如無,君子之過於勇者也。如此,則雖正亦危矣。羝羊,剛壯喜觸之物。藩,籬也。羸,困也。貞厲之占,其象如此。《象》曰:「小人用壯」,君子罔也。小人以壯敗,君子以罔困。
九三の爻辞:小人はただ強を逞することを知り、君子は眼中に物無し。正を守っても危険。雄羊が籬笆を頂きに行き、却って角を卡住されました。「羝」は音 低、「羸」は「力追反」と読みます。朱熹が言います。九三は剛強に過ぎて中位に居らず、またまさに壮盛の時に当たるので、これが小人の逞強で、君子に換えれば「用罔」です。「罔」とはすなわち無で、有を無しと見るのは君子の勇猛に過ぎる毛病です。このまま往けば、たとい行う所が正に合しても危険です。羝羊は剛壮で抵触を好む畜類で、「藩」は籬笆、「羸」は困り留めることです。「貞厲」のこの占断は、まさにこの象を取ります。九三《小象伝》に言います。「小人用壮」、君子はならば眼中に物無し。朱熹が言います。小人は逞強により事を敗り、君子は一切を軽視して困を受けます。
九四,貞吉,悔亡,藩決不羸,壯于大輿之車復。車復,音福。貞吉,悔亡,與《咸》九四同占。藩決不羸,承上文而言也。決,開也。三前有四,猶有藩焉。四前二陰,則藩決矣。壯于大輿之車復,亦可進之象也。以陽居陰,不極其剛,故其象如此。《象》曰:「藩決不羸」,尚往也。尚、上通。
九四の爻辞:正道を守れば吉で悔恨は消え、籬笆はすでに頂き開かれて角はもはや卡住されず、力量が壮であることは大車の車軸伏兎の上にあります。「輹」は音 福で、車軸上の伏兎を指します。朱熹が言います。「貞吉、悔亡」のこの句は、《咸》卦九四の占断と同じです。「藩決不羸」は上の一爻の話を承接して下します。「決」とは開くことです。九三の前にはまだ九四が遮っており、籬笆がまだあるに等しく、九四の前はすでに二つの陰爻で、籬笆は頂き開かれました。「壮于大輿之輹」とは、また前進できる象です。九四は陽爻をもって陰位に居り、剛強を極処に用いないので、取象はこのようです。九四《小象伝》に言います。「藩決不羸」とは、まだ前に往けます。朱熹が言います。「尚」は「上」と相通じます。
六五,喪羊于易,無悔。喪,息浪反。《象》同。易,以豉反,一音亦。《旅》卦同。卦體似《兌》,有羊象焉,外柔而內剛者也。獨六五以柔居中,不能牴觸,雖失其壯,然亦無所悔矣。故其象如此,而占亦與《咸》九五同。易,容易之易。言忽然不覺其亡也。或作疆埸之「埸」,亦通《漢□食貨志》「埸」作「易」。
六五の爻辞:知らず知らずのうちに羊を失っても、悔恨なし。「喪」は「息浪反」と読み、《小象伝》中も同じです。「易」は「以豉反」と読み、また一音「亦」と読み、《旅》卦中も同じです。朱熹が言います。《大壮》の卦体は《兌》に形似し、兌は羊に取象し、外は柔で内は剛の物です。独り六五のみが陰柔をもって中位に居り、他人に抵触できず、あの壮盛を失うけれど、悔いるべきこともありません。だから取象はこのようです。その占断も《咸》卦九五と同じです。ここの「易」は容易の易で、意は羊がすでに失われて自己はまだ渾然覚えていないことです。ある人は疆埸の「埸」と作り、同じく講じ通じ、《漢書·食貨志》の「埸」の字は「易」と作ります。
大壮卦(続)
《象》曰:「喪羊于易」,位不當也。上六,羝羊觸藩,不能退,不能遂,無攸利,艱則吉。壯終動極,故觸藩而不能退。然其質本柔,故又不能遂其進也。其象如此,其占可知。然猶幸其不剛,故能艱以處,則尚可以得吉也。《象》曰:「不能退,不能遂」,不詳也。「艱則吉」,咎不長也。
《大壮》六五《小象伝》に言います。爻辞が「田畔の和易の処で羊を失った」と講ずるのは、六五が柔弱の質をもって陽剛の尊位に居り、処する位置がその徳性と相称しないからです。上六の爻辞に言います。雄羊が角で籬笆を頂きに行き、角が卡住され、退いても退けず、進んでも上がれず、益するところなし。能く自ら処境の艱難を知りて慎守すれば、却って吉を得られます。朱熹が解釈します。上六は《大壮》の最上の一爻に居り、剛壮の勢が尽処に行き躁動が極点に至る位置です。だから「触藩」して後退できない象があります。しかしそれ自身は陰爻で質地は柔弱なので、前進の事を成す力もありません。爻象がすでにこのようであれば、占断もまた推知できます。幸いそれは剛爻ではなく、まだ収斂を知るので、ただ能く艱難困苦の態度で自処すれば、依然として吉を得られます。上六《小象伝》に言います。いわゆる「退く能わず、遂ぐ能わず」とは、上六が行事を詳審しなかったからです。いわゆる「艱なれば吉」とは、このような過失は長く曳かないことを言います。
晋卦(しん)
坤下,離上。晉:康侯用錫馬蕃庶,晝日三接。晉,進也。康侯,安國之侯也。錫馬蕃庶,晝日三接,言多受大賜,而顯被親禮也。蓋其為卦上離下坤,有日出地上之象,順而麗乎大明之德,又其變自《觀》而來,為六四之柔進而上行以至於五。占者有是三者,則亦當有是寵也。
《晋》卦は下体が坤、上体が離です。卦辞に言います。「晋卦、邦国を安定する諸侯が天子より賞賜の車馬を多く獲て、一日の内に三度接見を受ける。」朱熹が解釈します。「晋」とはすなわち前進・上昇の意です。「康侯」とは一方を安定できる諸侯を指します。「錫馬蕃庶、昼日三接」とは、この諸侯が屡々豊厚の賞賜を得て、また公に天子の親近礼遇を受けることを言います。卦象に就いて言えば、上卦は離、下卦は坤で、太陽が地面より昇り出る象があります。卦徳に就いて言えば、坤は順で離は明で、柔順にして光明の主に依附します。卦変に就いて言えば、この卦は《観》卦より変来し、《観》の六四の柔が上行して第五位に至り尊に居ります。占う人がもし日出地上の象、大明に順附する徳、柔進して上行する勢の三様を兼ね備えれば、ならばまたこのような恩寵を得るべきです。
《彖》曰:「晉」,進也。釋卦名義。明出地上,順而麗乎大明,柔進而上行,是以「康侯用錫馬蕃庶,晝日三接」也。「上行」之上,時掌反。以卦象、卦德、卦變釋卦辭。《象》曰:明出地上,晉,君子以自昭明德。昭,明之也。
《晋》卦《彖伝》に言います。「晋」とは、すなわち前進です。朱熹はこの一句が卦名の含意を釈したものと注します。《彖伝》が続いて言います。光明が地面より昇り出て、柔順にして大明の主に依附し、柔爻が上行して尊位に居るので、卦辞は「康侯用錫馬蕃庶、昼日三接」と言います。朱熹は「上行」の「上」を「時掌反」と注音して上声に読み、またこの数句がそれぞれ卦象(明出地上)、卦徳(順而麗乎大明)、卦変(柔進而上行)を用いて卦辞を釈したものと指摘します。《大象伝》に言います。光明が地面より昇り出る、これがすなわち《晋》卦であり、君子はこの象に法り、自ら本有の美徳を彰明します。朱熹は「昭」の字を之を光明たらしめる意と解釈します。
初六,晉如摧如,貞吉,罔孚,裕無咎。以陰居下,應不中正,有欲進見摧之象。占者如是,而能守正則吉。設不為人所信,亦當處以寬裕,則無咎也。《象》曰:「晉如摧如」,獨行正也。「裕無咎」,未受命也。初居下位,未有官守之命。
《晋》卦初六の爻辞に言います。上進しようとして挫抑に遭うも、正固を守持すれば吉祥を獲られます。たとい人に信任されなくとも、余裕従容に処してこそ、過ちにも至りません。朱熹が解釈します。初六は陰爻をもって全卦の最下の位に居り、それに相応する九四はまた中に居らず正を得ません。だから上進しようとして圧制される象があります。占う人がもしこのような処境に遇えば、能く正道を堅守すれば吉利です。仮に一時人に信任されなくとも、寛和舒緩の態度をもって自処すべく、このようであれば災禍を招きません。初六《小象伝》に言います。「晋如摧如」とは、初六が独り正道を踐行することを言います。「裕無咎」とは、まだ任命を受けていないからです。朱熹が補充します。初六は最下の位に居り、まだ官だ官職と職守の任命を得ていないので、信任されなくとも妨げありません。
六二,晉如愁如,貞吉,受茲介福于其王母。六二,中正,上無應援,故欲進而愁。占者如是,而能守正則吉,而受福於王母也。王母,指六五,蓋享先妣之吉占。而凡以陰居尊者,皆其類也。《象》曰:「受茲介福」,以中正也。
《晋》卦六二の爻辞に言います。上進しようとして憂愁に満ちるも、正固を守持すれば吉祥を獲られ、王母よりこの大福を承受します。朱熹が解釈します。六二は中に居りて正を得るけれど、上の六五はそれと同じく陰爻で、相応して援助することができません。だから上進しようとして憂愁する象があります。占う人がこのような情形下に処して、ただ能く正を守れば吉で、また「王母」より福佑を得ます。「王母」とは六五を指し、これは本来先祖母を祭祀する吉占です。推して広めれば、およそ陰柔の質をもって尊位に居る人は、皆「王母」のこの類に属します。六二《小象伝》に言います。能く「兹の介福を受く」とは、六二が中に居りて正を守るからです。
六三,眾允,悔亡。三不中正,宜有悔者,以其與下二陰皆欲上進,是以為眾所信而悔亡也。《象》曰:眾允之志,上行也。九四,晉如鼫鼠,貞厲。鼫,音石。不中不正,以竊高位,貪而畏人,蓋危道也。故為鼫鼠之象。占者如是,雖正亦危。《象》曰:鼫鼠貞厲,位不當也。
《晋》卦六三の爻辞に言います。衆人が皆信従し、悔恨は消えます。朱熹が解釈します。六三は中に居らず正も得ず、本来悔あるべきです。しかしそれが下の初六・六二の二つの陰爻と同じく上進を欲し、志が同じ道に合うので、衆人に信任されて悔恨は消亡します。六三《小象伝》に言います。衆人が信従する心志は、皆上に向かって行進します。九四の爻辞に言います。上進する時に鼫鼠のようで、たとい正を守っても危険があります。朱熹は「鼫」を「石」と同じ音と注し、解釈します。九四は中に居らず正を得ず、しかも君位に接近する高位を窃拠し、貪求して他人を畏れます。これは本来危険の道です。だから「鼫鼠」のこの貪婪多能で一長のない動物を象に取ります。占う人がもしこのような境地に処すれば、たとい行事が正を守っても、依然として危険です。九四《小象伝》に言います。鼫鼠のように正なれど危なきは、九四が処する位置が当たらないからです。
六五,悔亡,失得勿恤,往吉,無不利。以陰居陽,宜有悔矣。以大明在上,而下皆順從,故占者得之,則其悔亡。又一切去其計功謀利之心,則往吉而無不利也。然亦必有其德,乃應其占耳。《象》曰:「失得勿恤」,往有慶也。
《晋》卦六五の爻辞に言います。悔恨は消え、得失は皆憂えるに足らず、往けば吉利で不利なし。朱熹が解釈します。六五は陰爻をもって陽位に居り、本来悔あるべきです。しかしそれは上卦の離明の主で、尊位に居りて下の坤体の三陰は一概に順従します。だから占う人がこの一爻を得れば、悔恨は消亡します。もし更に一歩進めて一切の功効を計較し利益を謀求する心思を悉く除き去れば、ならば往けば吉利で利ならざるなしです。ただし必ず占者自身が確かにこのような徳行を有してこそ、占辞は応験します。六五《小象伝》に言います。「失得勿恤」とは、このように往けば福慶があることを言います。
上九,晉其角,維用伐邑,厲吉無咎,貞吝。角剛而居上。上九剛進之極,有其象矣。占者得之,而以伐其私邑,則雖危而吉且無咎。然以極剛治小邑,雖得其正,亦可吝矣。《象》曰:「維用伐邑」,道未光也。
《晋》卦上九の爻辞に言います。上進が獣の角の位置に至り、ただ自己の封邑を討伐するに用いるに宜しく、危険あるも吉利で過ちなく、たとい正を守っても憾惜を免れません。朱熹が解釈します。角は剛硬の物で頭頂の最上端に生じ、上九は剛健にして上進が極点に達した一爻で、まさにこの象に合します。占う人がこの爻を得て、この剛勁をもって自己の采邑封地を整治するに用いれば、危厲あるも吉を得て過ちなくできます。ただし極端剛猛の手段をもって小小な邑を治理するのは、たとい做法自体が正道に合しても、依然として惋惜に値します。上九《小象伝》に言います。ただ「私邑を伐むるに用いるに宜し」とは、上九の行う道がまだ光大に足りないからです。
明夷卦(めいい)
離下,坤上。明夷:利艱貞。夷,傷也。為卦下離上坤,日入地中,明而見傷之象,故為明夷。又其上六為暗之主,六五近之,故占者利於艱難以守正,而自晦其明也。
《明夷》卦は下体が離、上体が坤です。卦辞に言います。「明夷卦、艱難の中で正固を守持するに利あり。」朱熹が解釈します。「夷」とは損傷の意です。卦体に就いて言えば、下卦の離は日、上卦の坤は地で、太陽が地下に沈むのは光明が損傷を受ける象です。だから卦名を《明夷》とします。さらに爻位を見れば、上六は黒暗の主宰で、六五はそれに緊挨し、処境が最も険です。だから占う人は艱難困苦の中で正道を堅守し、かつ自ら収斂し自らの光明を隠蔵するに利ありです。
《彖》曰:明入地中,明夷,以卦象釋卦名。內文明而外柔順,以蒙大難,文王以之。難,去聲。下同。以卦德釋卦義。蒙大難,謂遭紂之亂而見囚也。「利艱貞」,晦其明也,內難而能正其志,箕子以之。以六五一爻之義釋卦辭。內難,謂為紂近親,在其國內,如六五之近於上六也。《象》曰:明入地中,明夷,君子以蒞眾,用晦而明。
《明夷》卦《彖伝》に言います。光明が地中に沈む、これがすなわち《明夷》です。朱熹はこの一句が卦象で卦名を釈したものと注します。《彖伝》が続いて言います。内は文采光明で外は柔和順従し、よって大いなる患難を承受でき、周文王はこのように為しました。朱熹は「難」の字を注音して去声に読み、下文も同じとし、この二句が卦徳で卦義を釈したものと指摘します。いわゆる「大難を蒙る」とは、文王が商紂の乱政に遭遇して羑里に囚禁されたことを指します。《彖伝》がまた言います。卦辞の「利艱貞」と講ずるは、人に自らの光明を隠晦せしめることです。内部の患難に身を処しながらなお心志を端正にでき、箕子はこのように為しました。朱熹はこの一句が六五一爻の意義に就いて卦辞を釈したものと指摘します。いわゆる「内難」とは、箕子が紂王の近親として王室の内に処したことで、まさに六五が上六に緊隣する如しです。《大象伝》に言います。光明が地中に沈む、これがすなわち《明夷》であり、君子はこの象に法り、衆人を治理するに含蓄して露わにしない方式を用い、却ってより明察できます。
初九,明夷于飛,垂其翼,君子于行,三日不食。有攸往,主人有言。飛而垂翼,見傷之象,占者行而不食。所如不合,時義當然,不得而避也。《象》曰:「君子于行」,義不食也。唯義所在,不食可也。六二,明夷,夷于左股,用拯馬壯,吉。拯,之陵反。《渙》初爻同。傷而未切,救之速則免矣。故其象占如此。《象》曰:六二之吉,順以則也。
《明夷》卦初九の爻辞に言います。光明が傷つけられた時に鳥のように高く飛ぶも、翼を垂れ下げました。君子は行途の中で、三日は飯を得て食えません。往く所有れば、主人はなお責難の言があります。朱熹が解釈します。飛行して翼が下垂するは、傷を受けた象です。占う人は行途の中で飢えに遭います。至る所で人と相投合せず、これは時勢と義理の然らしむ所で、躲避できません。初九《小象伝》に言います。「君子于行」とは、義理に就いて言えば人の食を受けるべきではないことです。朱熹が補充します。ただ義の在る所に合すれば、この一口の飯を食べなくてもよいです。六二の爻辞に言います。光明が傷つけられ、傷は左の大腿に在り、健壮の馬をもって救助すれば吉利。朱熹は「拯」に「之陵反」と注音し、《渙》卦初爻の「拯」の字の読法も同じと言います。彼が解釈します。六二の受けた傷はまだ切身の要害に及んでいないので、救援が速やかなれば禍を免れられます。だから爻象と占辞はこのようです。六二《小象伝》に言います。六二が吉なる所以は、それが柔順で法則に合するからです。
九三,明夷于南狩,得其大首,不可疾貞。以剛居剛,又在明體之上,而屈於至暗之下,正與上六暗主為應,故有嚮明除害,得其首惡之象。然不可以亟也,故有不可疾貞之戒。成湯起於夏臺,文王興於羑里,正合此爻之義,而小事亦有然者。《象》曰:南狩之志,乃大得也。
《明夷》卦九三の爻辞に言います。光明が傷つけられた時に南方に向かって出猟し、元凶の首領を擒獲した。ただし急いで正を求めてはいけません。朱熹が解釈します。九三は陽爻をもって陽位に居り、また下卦の離明の体の最上の爻に処しながら、極度に黒暗な坤体の下に屈居し、しかも恰好上六のこの黒暗の主と相応しています。だから光明に面して禍害を剷除し、首悪を擒え得る象があります。しかしこの種の事は急躁できません。だから爻辞に「疾貞すべからず」の告戒があります。商湯はかつて夏台に囚えられて後に興起し、周文王はかつて羑里に囚えられて後に崛起しました。まさにこの一爻の意旨に合します。たとい日常の小事でも、同じ道理があります。九三《小象伝》に言います。南に向かって猟する心志は、終に大いに得る所有りです。
六四,入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。此爻之義未詳。竊疑左腹者,幽隱之處。獲明夷之心,于出門庭者,得意於遠去之義。言筮而得此者,其自處當如是也。蓋離體為至明之德,坤體為至暗之地,下三爻明在暗外,故隨其遠近高下而處之不同。六四,以柔正居暗地而尚淺,故猶可以得意於遠去。五以柔中居暗地而已迫,故為內難正志以晦其明之象。上則極乎暗矣,故為自傷其明以至於暗,而又足以傷人之明。蓋下五爻皆為君子,獨上一爻為暗君也。《象》曰:「入于左腹」,獲心意也。意,叶音臆。
《明夷》卦六四の爻辞に言います。左腹の中に入り、明夷の主の心意を摸得して、門庭より出で行きました。朱熹は率直にこの一爻の意味はまだ明らかでなく、ただ自己の推測を提出するのみと言います。いわゆる「左腹」とは、大概幽深隠蔽の処所です。いわゆる「明夷之心を獲て門庭を出づ」とは、遠く離れ去るこの事の上で意に称することを言います。すなわち、占筮してこの爻を得る人は、自らを安頓する方式がこのようであるべきです。朱熹がまた各爻を統論します。離体は極めて光明の徳で、坤体は極めて黒暗の地です。下の三爻の光明はなお黒暗の外に在るので、距離の遠近・位置の高下の不同に随い、自処の道もまた同じではありません。六四は柔爻をもって陰位に居りて正を得、黒暗の地に入ってまだ深くないので、なお意に称して遠く高く飛ぶことができます。六五は柔をもって中に居りて黒暗の地に処し、すでに近前に逼られたので、身が内難に処し心志を端正にし光明を隠晦する象です。上六はならば黒暗が極点に至ったので、自らその明を傷つけて昏暗に陥ると同時に、また他人の光明を損傷するに足ります。総じて言えば、下の五爻は皆君子で、最上の一爻のみが昏暗の君です。六四《小象伝》に言います。「左腹に入る」とは、相手の心意を摸得したことを言います。朱熹は「意」の字がここで叶韻し「臆」と読むと注明します。
六五,箕子之明夷,利貞。居至暗之地,近至暗之君,而能正其志,箕子之象也,貞之至也。利貞,以戒占者。《象》曰:箕子之貞,明不可息也。上六,不明晦,初登于天,後入于地。以陰居坤之極,不明其德以至於晦。始則處高位,以傷人之明。終必至於自傷,而墜厥命。故其象如此,而占亦在其中矣。《象》曰:「初登于天」,照四國也。「後入于地」,失則也。照四國,以位言。
《明夷》卦六五の爻辞に言います。これは箕子が処した明夷の境で、正固を守持するに利あり。朱熹が解釈します。六五は極度に黒暗の地に処し、また極度に昏暗な君主に緊挨しながら、なお自らの心志を端正にできます。これはまさに箕子の象で、正を守ること極処に至りました。爻辞が「利貞」と言うのは、占う人をもこのようにせしめるためです。六五《小象伝》に言います。箕子の正を守るは、内心の光明は熄滅できないことを説明します。上六の爻辞に言います。光明を発せず昏暗に陥り、初めは天に昇り後に地に墜入しました。朱熹が解釈します。上六は陰爻をもって坤体の最上位に居り、自らの徳行を彰明できず、完全に昏暗に至りました。それは初め高位を占拠し、もって他人の光明を損傷し、最終は必ず反って自己を傷つけ、天命を喪失します。爻象がすでにこのようであれば、占断もまたその中に含まれます。上六《小象伝》に言います。「初め天に登る」とは、それが本来四方の国を照臨できたことを言います。「後に地に入る」とは、それが法則を失ったことを言います。朱熹が補充します。「四國を照らす」は、それが居る高位に就いて言うのです。
家人卦(かじん)
離下,巽上。家人:利女貞。家人者,一家之人。卦之九五、六二,外內各得其正,故為家人。利女貞者,欲先正乎內也。內正則外無不正矣。
《家人》卦は下体が離、上体が巽です。卦辞に言います。「家人卦、女子が正固を守持するに利あり。」朱熹が解釈します。「家人」とはすなわち一家の内の人です。この卦は九五が陽爻をもって外卦の中位に居り、六二が陰爻をもって内卦の中位に居り、外と内が各々その正位を得るので、卦名を《家人》と言います。卦辞が「利女貞」と言うのは、家を治めるには先ず内部を端正にせねばならず、内部が一たび正しければ、外部に正しくないものはないからです。
《彖》曰:「家人」,女正位乎內,男正位乎外;男女正,天地之大義也。以卦體九五、六二,釋利女貞之義。家人有嚴君焉,父母之謂也。亦謂二五。父父、子子、兄兄、弟弟、夫夫、婦婦,而家道正,正家而天下定矣。上父初子,五三夫,四二婦,五兄三弟,以卦畫推之,又有此象。
《家人》卦《彖伝》に言います。女子は内にあってその正位を守り、男子は外にあってその正位を守り、男女が各々その正を得るは、これが天地間の大義です。朱熹はこれが卦体中の九五・六二の両爻を用いて卦辞「利女貞」の意を釈したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。一家の中に威厳ある尊長があれば、それはすなわち父母です。朱熹はここの父母もまた六二・九五の両爻を指すと言います。《彖伝》がまた言います。父は父道を尽くし子は子道を尽くし兄は兄道を尽くし弟は弟道を尽くし夫は夫道を尽くし婦は婦道を尽くせば、家道は端正となり、家道が端正となれば天下もまた安定します。朱熹は卦画に拠りて推求します。上九を父とし初九を子とし、九五と九三を夫とし六四と六二を婦とし、九五を兄とし九三を弟とし、六爻の中はまたこのような象を含みます。
《象》曰:風自火出,家人,君子以言有物,而行有恆。行,下孟反。身修則家治矣。初九,閒有家,悔亡。初九以剛陽處有家之始,能防閒之,其悔亡矣。戒占者當如是也。《象》曰:「閒有家」,志未變也。志未變而預防之。
《家人》卦《大象伝》に言います。風が火中より生ずる、これがすなわち《家人》であり、君子はこの象を取法し、話には必ず実在の内容があり、行事には必ず常久の準則があるようにします。朱熹は「行」の字を「下孟反」と注音して去声に読み、かつ言います。自身の修養がよければ、家もまた治理されます。初九の爻辞に言います。家室を有する初めに防範を設ければ、悔恨は消えます。朱熹が解釈します。初九は剛健の陽爻をもって家を治める起始段階に処し、能く早めに防閑すれば、悔恨は自然に消亡します。これは占う人をもこのようにすべきことを告戒します。初九《小象伝》に言います。「閑有家」とは、家人の心志がまだ変壊していない時に趁って手を下すことです。朱熹が補充します。まさに心志がまだ変壊していないからこそ、予め防範せねばなりません。
六二,無攸遂,在中饋,貞吉。六二柔順中正,女之正位乎內者也,故其象占如此。《象》曰:六二之吉,順以巽也。九三,家人嗃嗃,悔厲吉,婦子嘻嘻,終吝。嗃,呼落反。嘻,喜悲反。《象》同。以剛居剛而不中,過乎剛者也,故有嗃嗃嚴厲之象。如是,則雖有悔厲而吉也。嘻嘻者,嗃嗃之反,吝之道也。占者各以其德為應,故兩言之。《象》曰:「家人嗃嗃」,未失也。「婦子嘻嘻」,失家節也。
《家人》卦六二の爻辞に言います。自作主張して成就すべきことはなく、ただ家中で飲食の事を操持し、正固を守持すれば吉祥を獲られます。朱熹が解釈します。六二は柔順にしてまた中に居りて正を得、まさに女子が内にあって正位を守る様子です。だから爻象と占辞はこのようです。六二《小象伝》に言います。六二が吉なる所以は、それが柔順にしてまた謙遜だからです。九三の爻辞に言います。家を治めること厳し過ぎて家人が愁苦して叫喚すれば、悔恨・危厲あるもなお吉を得、もし婦人・孩子が嬉笑して度なくば、最終に却って憾惜あり。「嗃」は「呼落反」、「嘻」は「喜悲反」と読み、《小象伝》中もこの読法と同じです。彼が解釈します。九三は陽爻をもって陽位に居りて中に居らず、剛猛に過ぎる一爻です。だから厳厲に呵責する象があります。このようであれば悔恨と危険はあるけれど、結果は吉です。「嘻嘻」は「嗃嗃」の反面で、憾惜に向かう道です。占う人は各々自身の徳性をもって対応するので、爻辞は両種の情形を併挙します。九三《小象伝》に言います。「家人嗃嗃」は、まだ治家の道を失っていません。「婦子嘻嘻」は、家中の規矩を喪失しました。
六四,富家,大吉。陽主義,陰主利,以陰居陰而在上位,能富其家者也。《象》曰:「富家,大吉」,順在位也。九五,王假有家,勿恤,吉。假,更白反。假,至也,如「假於太廟」之「假」。有家,猶言有國也。九五,剛健中正,下應六二之柔順中正,王者以是至於其家,則勿用憂恤而吉可必矣。蓋聘納后妃之吉占,而凡有是德者遇之,皆吉也。《象》曰:「王假有家」,交相愛也。程子曰:「夫愛其內助,婦愛其刑家。」
《家人》卦六四の爻辞に言います。家庭を富足せしめれば、大いに吉利。朱熹が解釈します。陽爻は義に主り、陰爻は利に主ります。六四は陰爻をもって陰位に居りまた上卦に処し、家庭を富足にできる人です。六四《小象伝》に言います。「富家、大吉」とは、それが柔順にしてまた恰当の位に居るからです。九五の爻辞に言います。君王が自己の家室に来れば、憂える必要なく吉利。「假」は「更白反」と読み、朱熹は「假」を到達の意と解釈し、《礼記》の「太廟に假る」の「假」の如しとします。「有家」は「有国」と言うが如しです。彼が続いて言います。九五は剛健にして中に居りて正を得、下は柔順中正の六二に相応します。君王がこのような徳行をもって自己の家室に来れば、憂慮の必要なく、吉祥は必然です。これは本来后妃を聘娶する吉占です。およそこの種の徳行を具備する人がこの爻に遇えば、皆吉利です。九五《小象伝》に言います。「王假有家」とは、夫婦が彼此相愛することです。朱熹は程頤の話を引きます。「丈夫は妻子の内なる輔助を珍愛し、妻子は丈夫が家のために立てた法度を珍愛する」。
上九,有孚威如,終吉。上九以剛居上,在卦之終,故言正家久遠之道。占者必有誠信嚴威,則終吉也。《象》曰:威如之吉,反身之謂也。謂非作威也,反身自治,則人畏服之矣。
《家人》卦上九の爻辞に言います。心に誠信を懐きまた威厳を失わなければ、最終に吉利。朱熹が解釈します。上九は陽剛の爻をもって全卦の最上に居り、一卦の終結の処に処します。だから家道を端正にして長久たらしめる道理を講じます。占う人は必ず誠信と威厳を兼ね備えてこそ、最終の吉祥を得られます。上九《小象伝》に言います。威厳があって吉を得るとは、己に反求することを言います。朱熹が補充します。これは人に威を作り福を作すことを要するのではなく、身を反って自らを修治すれば、他人は自然と敬畏して順服するのです。
睽卦(けい)
兌下,離上。睽:小事吉。睽,苦圭反。睽,乖異也。為卦上火下澤,性相違異;中女、少女,志不同歸,故為睽。然以卦德言之,內說而外明。以卦變言之,則自《離》來者,柔進居三,自《中孚》來者,柔進居五,自《家人》來者兼之。以卦體言之,則六五得中,而下應九二之剛。是以其占不可大事,而小事尚有吉之道也。
《睽》卦は下体が兌、上体が離です。卦辞に言います。「睽卦、小事を為せば吉利。」「睽」は「苦圭反」と読み、朱熹は「睽」を乖違背離の意と解釈します。卦象に就いて言えば、上卦の離は火、下卦の兌は沢で、火性は炎上し水性は潤下し、性質は相背きます。離は中女、兌は少女で、二つの女子の心志は一処に帰しません。だから卦名を《睽》とします。ただし卦徳に就いて言えば、内卦の兌は和悦、外卦の離は明察です。卦変に就いて言えば、この卦は《離》卦より変来するは柔爻が上進して第三位に居り、《中孚》より変来するは柔爻が上進して第五位に居り、《家人》より変来するは両者を兼備します。卦体に就いて言えば、六五は上卦の中に居り、下は九二の陽剛に相応します。だからその占断は:大事を為すことはできず、小事を為せばなお吉を得る道があります。
《彖》曰:「睽」,火動而上,澤動而下,二女同居,其志不同行。上、下俱上聲。下同。以卦象釋卦名義。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉。說,音悅。以卦德、卦變、卦體釋卦辭。天地睽而其事同也,男女睽而其志通也,萬物睽而其事類也。睽之時用大矣哉。極言其理而贊之。
《睽》卦《彖伝》に言います。火は燃動して上に向かい、沢は流動して下に向かい、二つの女子が同じ処に住むも、心志は一つの方向に向かわない。朱熹はここの「上」「下」を皆上声に読み、下文も同じと注し、この数句が卦象で卦名の含意を釈したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。和悦して光明に依附し、柔爻が上進して尊に居り、中位を得てまた陽剛に相応するので、小事を為せば吉利。朱熹は「説」を「悦」と読むと注し、これがそれぞれ卦徳・卦変・卦体を用いて卦辞を釈したものと指摘します。《彖伝》がまた言います。天は上にあり地は下にあり、両者は相乖異すれど、万物を化育する事は相同じです。男女の形質は乖異すれど、合を求める心志は相通じます。万物の形態は各々不同なれど、天地の気を禀受する道理は同類です。《睽》卦が処する時・起こす用は真に大きいです。朱熹が言います。これは睽違の中に自ら相通ずる道理を極処まで講じて讃嘆したものです。
《象》曰:上火下澤,睽,君子以同而異。二卦合體而性不同。初九,悔亡,喪馬勿逐,自復,見惡人,無咎。喪,去聲。上無正應,有悔也。而居睽之時,同德相應,其悔亡矣。故有喪馬勿逐而自復之象。然亦必見惡人,然後可以辟咎,如孔子之於陽貨也。《象》曰:「見惡人」,以辟咎也。闢,音避。
《睽》卦《大象伝》に言います。上は火、下は沢、これがすなわち《睽》であり、君子はこの象を取法し、大処で人と同じくし小処で自己の異を保ちます。朱熹が解釈します。離・兌の二卦は一体を合成しながら性質が各々異なるので、「同にして異あり」の義があります。初九の爻辞に言います。悔恨は消え、馬を失っても追い求めるに足らず、それは自ら帰り来ます。自己と合わない悪人に会見に行っても、過ちはありません。朱熹は「喪」を去声に読むと注します。彼が解釈します。初九は上に正応の爻がなく、本来悔あるべきです。しかし睽違の時に処し、それは同じく陽剛・徳性相同の九四と彼此相照応するので、悔恨は消えます。だから「馬を失って追わずして馬が自ら帰る」の象があります。ただし必ず自らと乖違する人に会見に行ってこそ、咎害を避けられます。孔子がかつて陽貨に返訪したが如しです。初九《小象伝》に言います。「悪人に見ゆ」とは、咎害を避けるためです。朱熹は「辟」を「避」と読むと注します。
九二,遇主于巷,無咎。二、五陰陽正應,居睽之時,乖戾不合,必委曲相求而得會遇,乃為無咎,故其象占如此。《象》曰:「遇主于巷」,未失道也。本其正應,非有邪也。
《睽》卦九二の爻辞に言います。小巷の中で主人に遇い、過ちはありません。朱熹が解釈します。九二と六五は一陽一陰で、本来正に相応する一対ですが、睽違の時に処し、彼此は乖戾して合わず、必ず委曲婉転に互相尋求してこそ、会合を得られます。このようであれば過ちがありません。だから爻象と占辞はこのようです。九二《小象伝》に言います。「巷に主に遇う」とは、正道に背いていないことです。朱熹が補充します。これは本来正応の一対で、巷の中で相遇ったのはただ形勢が曲折したのであって、何か邪僻の事があるのではありません。
六三,見輿曳,其牛掣,其人天且劓。無初有終。曳,以制反。掣,昌逝反。劓,魚器反。六三、上九正應,而三居二陽之間,後為二所曳,前為四所掣,而當睽之時,上九猜很方深,故又有髡劓之傷。然邪不勝正,終必得合,故其象占如此。《象》曰:「見輿曳」,位不當也。「無初有終」,遇剛也。
《睽》卦六三の爻辞に言います。車が後ろに牽曳されるのを見、車を牽く牛が牽制され、車を御する人が剃髪と割鼻の刑罰を受けました。初めは順ならず、最終にはしかし好い結果を得られます。「曳」は「以制反」、「掣」は「昌逝反」、「劓」は「魚器反」と読みます。彼が解釈します。六三と上九は本来正応ですが、六三は九二・九四の二つの陽爻の間に挟まれ、後ろは九二に牽曳され、前は九四に牽制されます。またまさに睽違の時に当たり、上九の猜疑狠戾はまさに深いので、剃髪割鼻のような傷害もあります。しかし邪は正に勝てず、終究必ず会合できます。だから爻象と占辞はこのようです。六三《小象伝》に言います。「輿の曳まるるを見る」とは、六三が居る位置が恰当でないからです。「初なく終あり」とは、それが終に上九のこの陽剛に遇ったからです。
九四,睽孤,遇元夫,交孚,厲無咎。夫,如字。睽孤,謂無應。遇元夫,謂得初九。交孚,謂同德相信。然當睽時,故必危厲,乃得無咎。占者亦如是也。《象》曰:交孚無咎,志行也。
《睽》卦九四の爻辞に言います。睽違の中で孤立無援、あの善士に遇い、彼此が誠信をもって相交わり、危厲あるも過ちには至りません。朱熹は「夫」の字を本音に依りて読むと注します。彼が解釈します。「睽孤」とは九四に相応する爻がないことを言います。「元夫に遇う」とは、それが同じく陽剛の初九を得たことを言います。「交孚」とは、両者の徳性が相同で彼此信任することを言います。ただしまさに睽違の時に当たるので、必ず危厲を経歴してこそ、咎害を免れられます。占う人の処する情形もまたこのようです。九四《小象伝》に言います。誠信をもって相交わりて過ちなきは、心志が施行を得たからです。
六五,悔亡,厥宗噬膚,往何咎?噬,市制反。以陰居陽,悔也。居中得應,故能亡之。厥宗,指九二。噬膚,言易合。六五,有柔中之德,故其象占如是。《象》曰:「厥宗噬膚」,往有慶也。
《睽》卦六五の爻辞に言います。悔恨は消え、同宗の人が柔嫩の肌を咬み開くように容易に自己と一処に合すれば、往けばまた何の過ちがありましょう。「噬」は「市制反」と読みます。彼が解釈します。六五は陰爻をもって陽位に居り、本来悔あるべきです。しかしそれは上卦の中に居りてまた九二に相応するので、悔恨を消亡せしめられます。「厥宗」とは九二を指し、「噬膚」とは両者が容易に契合するのを形容します。六五は柔順守中の徳行を具備するので、爻象と占辞はこのようです。六五《小象伝》に言います。「厥宗噬膚」とは、往けば福慶があることを言います。
上九,睽孤;見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪寇婚媾。往遇雨則吉。弧,音胡。說,吐活反。媾,古豆反。睽孤,謂六三為二陽所制,而己以剛處明極睽極之地,又自猜很而乖離也。見豕負塗,見其汙也。載鬼一車,以無為有也。張弧,欲射之也。說弧,疑稍釋也。匪寇婚媾,知其非寇而實親也。往遇雨則吉,疑盡釋而睽合也。上九之與六三,先睽後合,故其象占如此。《象》曰:遇雨之吉,群疑亡也。
《睽》卦上九の爻辞に言います。睽違の中で孤立無援。一頭の豚が背中に泥汚を満たしているのを見、また一車に鬼怪を載せたのを見、先に弓を張って射ようとし、随いでまた弓を放下しました。来たのは強盗ではなく、求婚の人でした。往く時に雨に遇えば吉利。「弧」は「胡」と同じ音、「説」は「吐活反」、「媾」は「古豆反」と読みます。彼が解釈します。いわゆる「睽孤」とは、六三が九二・九四の二つの陽爻に牽制され、上九は自己が陽剛をもって離明の極・睽違の極の位置に処し、また自ら猜疑狠戾を生じて人と乖離したことを言います。「豕の涂を負うを見る」とは、相手が汚穢不堪なのを見ることです。「鬼一車を載す」とは、本来無い事を有と見ることです。「弧を張る」とは、相手を射殺しようとすることです。「弧を説く」とは、疑心がやや解けたことです。「寇に匪ず婚媾」とは、相手が強盗でなく実は親近の人であると明白になったことです。「往きて雨に遇えば則ち吉」とは、疑心が完全に消釈して睽違が会合に転じることです。上九と六三は本来先に乖違して後に会合するので、爻象と占辞はこのようです。上九《小象伝》に言います。雨に遇いて吉を得るは、種種の疑慮が皆消えたからです。
蹇卦(けん)
艮下,坎上。蹇:利西南,不利東北,利見大人,貞吉。蹇,紀免反。蹇,難也;足不能進,行之難也。為卦艮下坎上,見險而止,故為蹇。西南平易,東北險阻。又,艮,方也,方在蹇中,不宜走險。又卦自《小過》而來,陽進則往居五而得中,退則入於艮而不進。故其占曰利西南,不利東北。當蹇之時,必見大人,然後可以濟難。又,必守正,然後得吉。而卦之九五,剛健中正,有大人之象。自二以上,五爻皆得正位,則又貞之義也。故其占又曰利見大人,貞吉。蓋見險者貴於能止,而又不可終於止。處險者利於進,而不可失其正也。
《蹇》卦は下体が艮、上体が坎です。卦辞に言います。「蹇卦、西南に往くに利あり、東北に往くに利あらず、大人に見るに利あり、正固を守持すれば吉祥を獲る。」「蹇」は「紀免反」と読み、朱熹は「蹇」を艱難と解釈し、足が前進できないのがすなわち行走の艱難です。卦体に就いて言えば、下が艮で上が坎で、険阻を見て停止して前に進まないので、卦名を《蹇》と言います。西南は地勢が平坦で、東北は地勢が険峻です。しかも艮は堅止の一方で、人はまさに蹇難の中に陥り、更に険処に往くに宜しくありません。さらに卦変を見れば、この卦は《小過》より変来し、陽爻が前進すれば往きて第五位に居りて中を得、後退すれば艮体に落ち入りて停止して前に進みません。だから占辞は「西南に利あり、東北に利あらず」と言います。蹇難の時に処しては、必ず大人に見てこそ、艱難を済渡できます。また必ず正道を堅守してこそ、吉を得られます。この卦の九五は剛健にして中に居りて正を得、まさに大人の象があります。六二より上に数えて、五つの爻は皆その正位を得、これもまた「貞」の意に合します。だから占辞はまた「大人に見るに利あり、貞吉」と言います。総じて言えば、危険を見る人は止まることができるを貴び、しかしずっと止まって動かないこともできません。険中に身を処する人は前進に利あり、しかし正道を失ってはなりません。
《彖》曰:「蹇」,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉!難,乃旦反。知,音智。以卦德釋卦名義,而贊其美。「蹇,利西南」,往得中也。「不利東北」,其道窮也。「利見大人」,往有功也。當位貞吉,以正邦也。蹇之時用大矣哉。以卦變、卦體釋卦辭,而贊其時用之大也。
《蹇》卦《彖伝》に言います。「蹇」とはすなわち艱難、険阻が前に横たわることです。険阻を見て能く止まる、これは真に明智です。「難」は「乃旦反」と読み去声、「知」は「智」と読みます。朱熹はこの数句が卦徳で卦名の含意を釈し、かつその中の明智を讃美したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。卦辞が「蹇、西南に利あり」と講ずるは、そこに往けば中を得られるからです。「東北に利あらず」と講ずるは、その路は窮尽に行き着くからです。「大人に見るに利あり」と講ずるは、往けば功を建てられるからです。各爻が位に居りて正を得、正を守りて吉なるは、以て邦国を端正にできます。《蹇》卦が処する時・起こす用は真に大きいです。朱熹はこの数句が卦変と卦体で卦辞を釈し、かつその時に因りて用を制する重大さを讃嘆したものと指摘します。
《象》曰:山上有水,蹇,君子以反身修德。初六,往蹇,來譽。往遇險,來得譽。《象》曰:「往蹇,來譽」,宜待也。六二,王臣蹇蹇,匪躬之故。柔順中正,正應在上,而在險中,故蹇而又蹇,以求濟之,非以其身之故也。不言吉凶者,占者但當鞠躬盡力而已,至於成敗利鈍,則非所論也。《象》曰:「王臣蹇蹇」,終無尤也。事雖不濟,亦無可尤。
《蹇》卦《大象伝》に言います。山上に水を積める、これがすなわち《蹇》であり、君子はこの象を取法し、躬を反って自省し徳行を修養します。初六の爻辞に言います。往けば蹇難に遇い、来れば讃誉を得ます。朱熹が解釈します。前に往けば険阻に撞き、退きて来れば却って美名を獲ます。初六《小象伝》に言います。「往蹇、来誉」とは、この時は時機を等待すべきことを言います。六二の爻辞に言います。王の臣子は蹇難の中で重ねて蹇難し、それは彼自身の故のためではありません。朱熹が解釈します。六二は柔順にして中に居りて正を得、それに正応する九五は上に在りながら坎険の中に陥っています。だからそれは蹇難が重々しても、なお法を設けて救助に往き、これは自身のために打算するのではありません。爻辞が吉凶を講じないのは、占う人がこの時はただ躬を鞠めて力を尽くすのみだからです。最後に成か敗か・順か挫かに至っては、考慮の列にありません。六二《小象伝》に言います。「王臣蹇蹇」とは、終に責むべきことはありません。朱熹が補充します。事がたとい成し遂げられなくとも、怪罪すべきことはありません。
九三,往蹇,來反。反就二陰,得其所安。《象》曰:「往蹇,來反」,內喜之也。六四,往蹇,來連。連於九三,合力以濟。《象》曰:「往蹇,來連」,當位實也。當,去聲。九五,大蹇,朋來。大蹇者,非常之蹇也。九五居尊,而有剛健中正之德,必有朋來而助之者。占者有是德,則有是助矣。《象》曰:「大蹇,朋來」,以中節也。
《蹇》卦九三の爻辞に言います。往けば蹇難に遇い、来れば本位に返帰します。朱熹が解釈します。九三が退きて来て初六・六二の二つの陰爻に近づくは、安身の処を得たことです。九三《小象伝》に言います。「往蹇、来反」とは、内卦の二つの陰爻が皆その帰来を歓喜することを言います。六四の爻辞に言います。往けば蹇難に遇い、来れば人と連合します。朱熹が解釈します。六四が退きて来て九三と連結し、力を合わせて蹇難を済渡しに往きます。六四《小象伝》に言います。「往蹇、来連」とは、六四が位に居りて得当で、連結する所の九三がまた陽剛充実の頼りだからです。朱熹は「当」を去声に読むと注します。九五の爻辞に言います。極大の蹇難の中に処し、朋友が前来して相助けます。朱熹が解釈します。「大蹇」とは尋常でない蹇難です。九五は尊位に身を居し、剛健中正の徳行を具備し、必ず朋友が前来して彼を助けます。占う人がもしこのような徳行を有すれば、このような助力を得ます。九五《小象伝》に言います。「大蹇、朋来」とは、九五が中に居りて節度に合するからです。
上六,往蹇,來碩,吉,利見大人。已在卦極,往無所之,益以蹇耳。來就九五,與之濟蹇,則有碩大之功。大人,指九五。曉占者宜如是也。《象》曰:「往蹇,來碩」,志在內也。「利見大人」,以從貴也。
《蹇》卦上六の爻辞に言います。往けば蹇難に遇い、来れば大きな収穫あり、吉利、大人に見るに利あり。朱熹が解釈します。上六はすでに全卦の最上の爻に居り、更に前に往いても往く所なく、ただいっそう艱難になるのみです。退きて来て九五に親附し、彼と一同に蹇難を済渡すれば、碩大の功業があります。「大人」とは九五を指します。これは占う人にこのように行事すべきことを暁諭します。上六《小象伝》に言います。「往蹇、来碩」とは、その心志が内に向かって親附するに在るからです。「大人に見るに利あり」とは、それが九五のこの尊貴の人に順従したからです。
解卦(かい)
坎下,震上。解:利西南,無所往,其來復吉,有攸往,夙吉。解,音蟹。《彖傳》、《大象》同。解,難之散也。居險能動,則出於險之外矣,解之象也。難之既解,利於平易安靜,不欲久為煩擾。且其卦自《升》來,三往居四,入於坤體,二居其所,而又得中,故利於西南平易之地。若無所往,則宜來復其所而安靜。若尚有所往,則宜早往早復,不可久煩擾也。
《解》卦は下体が坎、上体が震です。卦辞に言います。「解卦、西南に往くに利あり。もし往く所がなければ、原の処に帰れば吉利。もしなお往く所有れば、早く往き早く帰れば吉利。」朱熹は「解」を「蟹」と読むと注し、《彖伝》と《大象伝》中もこの読法と同じとします。彼が解釈します。「解」とは患難が消散することです。険中に身を処しながら能く奮動すれば、険境の外に脱出できます。これが「解」の象です。患難がすでに解除された以上、平易安静に利あり、長く折騰して扰攘するに宜しくありません。さらに卦変を見れば、この卦は《升》卦より変来し、九三が往きて第四位に居り、上体の坤中に入り、九二は依然原の処に居りてまた中位を得ます。だから西南のような平易の地に利ありです。もし為すべきことがなければ、元の位置に帰って安静にすべきです。もしなお弁ずべき事があれば、早く往き早く帰るべく、長く煩扰して休まないことはいけません。
《彖》曰:「解」,險以動,動而免乎險,解。以卦德釋卦名義。「解,利西南」,往得眾也。「其來復吉」,乃得中也。「有攸往,夙吉」,往有功也。以卦變釋卦辭。《坤》為眾,得眾,謂九四入坤體得中有功,皆指九二。天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲坼。解之時大矣哉。極言而贊其大也。
《解》卦《彖伝》に言います。《解》とは、険境に身を処して能く奮動し、動いて険境を脱したので、「解」と言います。朱熹はこの一句が卦徳で卦名の含意を釈したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。卦辞が「解、西南に利あり」と講ずるは、そこに往けば衆人の擁戴を得られるからです。「其の来復は吉」と講ずるは、帰れば中道を守れるからです。「往く所有り、夙く吉」と講ずるは、往けば功業を建立できるからです。朱熹はこの数句が卦変で卦辞を釈したものと指摘します。坤卦は衆庶を象徴し、いわゆる「得衆」とは、九四が坤体に入ったことを言います。「得中」と「有功」に至っては、皆九二を指します。《彖伝》がまた言います。天地の気が舒解すれば、雷雨は興作し、雷雨が興作すれば、百果草木の種子の外殻は皆裂けて萌芽します。《解》卦が処する時は真に大きいです。朱熹が言います。これは道理を極処まで講じてその宏大を讃嘆したものです。
《象》曰:雷雨作,解,君子以赦過宥罪。初六,無咎。難既解矣,以柔在下,上有正應,何咎之有?故其占如此。《象》曰:剛柔之際,義無咎也。九二,田獲三狐,得黃矢,貞吉。此爻取象之意未詳。或曰:卦凡四陰,除六五君位,餘三陰,即三狐之象也。大抵此爻為卜田之吉占,亦為去邪媚而得中直之象。能守其正,則無不吉矣。《象》曰:九二「貞吉」,得中道也。
《解》卦《大象伝》に言います。雷雨が興作する、これがすなわち《解》であり、君子はこの象を取法し、過失を赦免し罪愆を寛宥します。初六の爻辞に言います。過ちはありません。朱熹が解釈します。患難がすでに解除され、初六は柔爻をもって最下に居り、上にはまた九四がそれと正に相応します。なんの咎害がありましょう。だから占辞はこのようです。初六《小象伝》に言います。剛爻と柔爻が交接して相応すれば、道理に就いて過ちはありません。九二の爻辞に言います。田猟中に三匹の狐狸を捕獲し、また黄色の箭鏃を得た。正固を守持すれば吉祥を獲る。朱熹は率直にこの一爻の取象の用意はまだ明らかでないと言います。ある人は言います。全卦に四つの陰爻があり、六五のこの君位を除き、残りの三つの陰爻がすなわち三匹の狐狸の象です。大体において、この一爻は田猟を占問する吉占であり、また邪佞諂媚の人を除去して中正剛直の道を得る象です。能く正道を守れば、吉利でないことはありません。九二《小象伝》に言います。九二が「貞吉」なる所以は、それが居中の道を得たからです。
六三,負且乘,致寇至,貞吝。乘,如字;又石證反。《繫辭》備矣。貞吝,言雖以正得之,亦可羞也,唯避而去之為可免耳。《象》曰:「負且乘」,亦可醜也。自我致戎,又誰咎也?戎,古本作「寇」。
《解》卦六三の爻辞に言います。物を背負いながらまた車に乗り、強盗を招来した。たとい正を守っても憾惜あり。朱熹は「乘」を本音に依りて読み、また「石証反」とも読むと注し、この一爻の義理は《繋辞伝》中ですでに詳尽に講じられたと言います。彼が解釈します。「貞吝」とは、たといこの位置が正当の途経に凭って得られても、依然として羞ずべきで、ただ自ら避け辞してこそ禍を免れられます。六三《小象伝》に言います。「負かつ乘」とは、実に醜いことです。自ら兵戎を招来して、また誰を怪めましょう。朱熹は「戎」の字が古本で「寇」と作ると注します。
九四,解而拇,朋至斯孚。解,佳買反。《象》同。拇,茂後反。拇,指初。初與四,皆不得其位而相應,應之不以正者也。然四陽初陰,其類不同,若能解而去之,則君子之朋至而相信也。《象》曰:「解而拇」,未當位也。
《解》卦九四の爻辞に言います。あなたの足の拇指を解脱せよ。朋友が至れば誠をもって相信します。「解」は「佳買反」と読み、《小象伝》中も同じです。「拇」は「茂后反」と読みます。彼が解釈します。「拇」とは初六を指します。初六と九四は皆当位の処に居らずながら彼此相応し、正道をもって相応しない一対です。しかし九四は陽、初六は陰で、両者は同類ではありません。もし能く解脱してこの種の牽連を捨棄すれば、ならば君子の類の朋友が前来して彼此信任します。九四《小象伝》に言います。「拇を解く」べきは、九四が居る位置が本来恰当でないからです。
六五,君子維有解,吉,有孚于小人。解,音蟹。《象》同。卦凡四陰,而六五當君位,與三陰同類者,必解而去之則吉也。孚,驗也。君子有解,以小人之退為驗也。《象》曰:君子有解,小人退也。上六,公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。射,食亦反。隼,荀尹反。《繫辭》備矣。《象》曰:公用射隼,以解悖也。解,佳買反。
《解》卦六五の爻辞に言います。君子はただ能く解脱して去れば、吉利で、しかも小人の身に験を得ます。「解」は「蟹」と読み、《小象伝》中も同じです。彼が解釈します。全卦に四つの陰爻があり、六五は君位に居り、残りの三つの陰爻と本来同類です。必ず解脱してこの種の牽連を除去してこそ吉利です。「孚」はここで応験の意です。君子が解除する所有れば、小人の退避をもって験とします。六五《小象伝》に言います。君子が解除する所有れば、小人は自然に退避します。上六の爻辞に言います。王公が高墻の上で鷙鳥を射猟し、一挙に射獲し、不利なし。「射」は「食亦反」、「隼」は「荀尹反」と読み、この一爻の義理は《繋辞伝》中ですでに詳尽に講じられたと言います。上六《小象伝》に言います。王公が鷙鳥を射猟するは、悖乱を解除するためです。朱熹はここの「解」を「佳買反」と読むと注します。
損卦(そん)
兌下,艮上。損:有孚,元吉、無咎、可貞、利有攸往。損,減省也。為卦損下卦上畫之陽,益上卦上畫之陰,損兌澤之深,益艮山之高,損下益上,損內益外,剝民奉君之象,所以為損也。損所當損,而有孚信,則其占當有此下四者之應矣。曷之用?二簋可用享。簋,音軌。言當損時,則至薄無害。
《損》卦は下体が兌、上体が艮です。卦辞に言います。「損卦、心に誠信を懐き、大いに吉利で過ちなく、正を守るべく、往く所有るに利あり。」朱熹が解釈します。「損」とは減少省約の意です。卦体に就いて言えば、下卦の最上の一画の陽爻を減じて、上卦の最上の一画の陰位に増益し、兌沢の深度を損減し、艮山の高度を増高するは、下を損減して上を増益し、内を損減して外を増益するので、百姓を剥取して君上を奉養する象があります。だから卦名を《損》とします。およそ損減すべきを損減し、また誠信を懐くことができれば、ならば占断は以上の四項の応験があります。卦辞が続いて言います。何をもって祭祀するか。二簋の薄食をもって献享するに足ります。朱熹は「簋」を「軌」と同じ音と注し、かつ言います。これはまさに損減すべき時に当たり、礼の物が極めて菲薄でも妨害がないことを講じます。
《彖》曰:「損」,損下益上,其道上行。上行之上,時掌反。以卦體釋卦名義。損而有孚,元吉、無咎、可貞、利有攸往。曷之用?二簋可用享。二簋應有時,損剛益柔有時,損益盈虛,與時偕行。此釋卦辭。時,謂當損之時。
《損》卦《彖伝》に言います。《損》とは、下を損減し上を増益し、その道理は上に向かって行進します。「上行」の「上」は「時掌反」と読み上声、朱熹はこの一句が卦体で卦名の含意を釈したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。損減する所有りて心に誠信を懐けば、大いに吉利で過ちなく、正を守るべく、往く所有るに利あり。何をもって祭祀するか。二簋の薄食をもって献享するに足ります。二簋の薄食を用いるはその時に応じるべく、剛強を損減し柔弱を増益するもまたその時に応ずべし。損と益・盈と虚は、皆時勢に随って一同に推移します。朱熹はこの数句が卦辞を釈したものと指摘します。いわゆる「時」とは、まさに損減すべき時を指します。
《象》曰:山下有澤,損,君子以懲忿窒欲。懲,直升反。君子修身,所當損者,莫切於此。初九,已事遄往,無咎,酌損之。已,音以。遄,市專反。四爻同。初九,當損下益上之時,上應六四之陰,輟所為之事,而速往以益之,無咎之道也。故其象占如此。然居下而益上,亦當斟酌其淺深也。《象》曰:「已事遄往」,尚合志也。尚、上通。
《損》卦《大象伝》に言います。山の下に沢あり、これがすなわち《損》であり、君子はこの象を取法し、自らの忿怒を懲戒し、自らの欲望を堵塞します。「懲」は「直升反」と読み、朱熹が言います。君子が身を修養するに、最も損減すべきは忿と欲の二様に過ぎません。初九の爻辞に言います。自らの手元の事を停下して快速に前往すれば、過ちなく、ただ斟酌して自らを損減すべし。「已」は「以」と読み、「遄」は「市専反」と読み、六四の爻中の「遄」の字の読法も同じです。彼が解釈します。初九は下を損し上を益す時に処し、上は六四の陰に相応し、ここにおいて自らの正在の事を停下して、急ぎ前往して六四を増益するは、咎害を免れる做法です。だから爻象と占辞はこのようです。ただし下位に身を居して上を増益しに往くにも、また損する所の深浅軽重を斟酌すべきです。初九《小象伝》に言います。「已事遄往」とは、それが上と心志が合するからです。朱熹は「尚」と「上」の二字が相通ずると注します。
九二,利貞,征凶,弗損益之。九二剛中,志在自守,不肯妄進,故占者利貞,而征則凶也。弗損益之,言不變其所守,乃所以益上也。《象》曰:九二「利貞」,中以為志也。
《損》卦九二の爻辞に言います。正固を守持するに利あり、出行して前往すれば凶険あり。自らを損減せずとも、まさに相手を増益しました。朱熹が解釈します。九二は陽爻をもって下卦の中に居り、剛にして中を得、心志は自守に在り、軽率に妄進するに肯じません。だから占う人は正を守るに利あり、もし冒然と前往すれば凶です。「弗損益之」とは、自己が堅守する原則を改変しないことが、それ自身すなわち上に対する最良の増益であることを言います。九二《小象伝》に言います。九二が「利貞」なる所以は、それが中を守るを自己の心志としたからです。
六三,三人行,則損一人,一人行,則得其友。下卦本乾,而損上爻以益坤,三人行而損一人也。一陽上而一陰下,一人行而得其友也。兩相與則專,三則雜而亂,卦有此象,故戒占者當致一也。《象》曰:一人行,三則疑也。
《損》卦六三の爻辞に言います。三人が同行すれば、一人を減じます。一人が独行すれば、却ってその友を得ます。朱熹が解釈します。《損》卦の下体は本来乾で、その最上の一爻を損減して上体の坤を増益するは、これがすなわち「三人行にて一人を損す」です。一つの陽爻が上がり一つの陰爻が下るは、これがすなわち「一人行にて其の友を得る」です。二人が相交往すれば専一で、三人が一緒にいれば駁雑紛乱します。卦中にこのような象を含むので、占う人に事を弁じ人と交わるに皆専一に帰すべきことを戒めます。六三《小象伝》に言います。一人が独行してこそ相い得られ、三人が一緒にいれば互相猜疑します。
六四,損其疾,使遄有喜,無咎。以初九之陽剛益己,而損其陰柔之疾,唯速則善。戒占者如是,則無咎矣。《象》曰:「損其疾」,亦可喜也。六五,或益之十朋之龜,弗克違,元吉。柔順虛中,以居尊位,當損之時,受天下之益者也。兩龜為朋,十朋之龜,大寶也。或以此益之而不能辭,其吉可知。占者有是德,則獲其應也。《象》曰:六五「元吉」,自上佑也。
《損》卦六四の爻辞に言います。自らの毛病を損減し、それを速やかに好転せしめれば喜慶あり、過ちなし。朱熹が解釈します。六四は初九の陽剛を借りて自己を増益し、以て自身の陰柔の病痛を損去し、愈々速いほどよいです。これは占う人にこれに照らして為すべきことを告戒し、咎害に至りません。六四《小象伝》に言います。「其の疾を損す」とも、また喜ぶに値する事です。六五の爻辞に言います。人が価値十朋の大亀を贈って彼を増益すれば、推辞できず、大いに吉利。朱熹が解釈します。六五は柔順にして中は虚で、尊位に居り、損減の時に処し、まさに天下人の増益を承受する一位です。二亀を一朋とし、十朋の亀は極めて貴重の宝物です。人がこのような重宝を持って彼を増益し、彼は推辞し切れません。その吉は推して知れます。占う人がもしこのような徳行を有すれば、相応の報答を得ます。六五《小象伝》に言います。六五が「元吉」なる所以は、上天の保佑によるです。
上九,弗損益之,無咎,貞吉,利有攸往,得臣無家。上九,當損下益上之時,居卦之上,受益之極,而欲自損以益人也。然居上而益下,有所謂惠而不費者,不待損己,然後可以益人也。能如是,則無咎,然亦必以正則吉,而利有所往。惠而不費,其惠廣矣,故又曰,得臣無家。《象》曰:「弗損益之」,大得志也。
《損》卦上九の爻辞に言います。他人を損減せずして能く他人を増益すれば、過ちなく、正を守れば吉、往く所有るに利あり、臣民の帰附を得て一家一室に限りません。朱熹が解釈します。上九は下を損し上を益す時に処し、また全卦の最上に居り、受益はすでに極点に至り、ここにおいて反って自らを損減して他人を増益しようと思います。ただし上位に身を居して下を増益するには、「人に恩惠を給して自らは破費しない」の做法があり、必ず先ず自らを損減して後に他人を増益せねばならぬに及びません。能くこのようであれば、過ちはありません。ただし必ず行事が正を守ってこそ吉で、往く所有るに利ありです。恩惠を遍く施して自ら費えないは、この恩惠は広大です。だから爻辞はまた「臣を得て家なし」と言います。上九《小象伝》に言います。「弗損益之」とは、大いに自己の心志を実現したことを言います。
益卦(えき)
震下,巽上。益:利有攸往,利涉大川。益,增益也。為卦損上卦初畫之陽,益下卦初畫之陰,自上卦而下於下卦之下,故為益。卦之九五、六二,皆得中正。下震上巽,皆木之象,故其占利有所往,而利涉大川也。
《益》卦は下体が震、上体が巽です。卦辞に言います。「益卦、往く所有るに利あり、大河を渡るに利あり。」朱熹が解釈します。「益」とは増益の意です。卦体に就いて言えば、上卦の最下の一画の陽爻を減じて、下卦の最下の一画の陰位に増益し、陽爻が上卦より下降して下卦の最下に至るので、卦名を《益》と言います。この卦は九五・六二が皆中に居りて正を得、下卦の震と上卦の巽は《説卦伝》中で皆木の象を取り、木は水上に浮行できるので、占断は往く所有るに利あり、また大河を渡るに利ありです。
《彖》曰:「益」,損上益下,民說無疆;自上下下,其道大光。「上下」之下,去聲。以卦體釋卦名義。「利有攸往」,中正有慶。「利涉大川」,木道乃行。以卦體、卦象釋卦辭。益動而巽,日進無疆。天施地生,其益無方。凡益之道,與時偕行。施,始豉反。動、巽二卦之德,乾下施,坤上生,亦上文卦體之義。又以此極言贊益之大。
《益》卦《彖伝》に言います。《益》とは、上を損減して下を増益し、百姓の喜悦は辺際なし。上位に居る人が下まで屈尊して来れば、この道は極めて光大です。朱熹は「自上下下」中の後の「下」を去声に読むと注し、この数句が卦体で卦名の含意を釈したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。卦辞が「往く所有るに利あり」と講ずるは、九五・六二が中に居りて正を得て福慶があるからです。「大川を渉るに利あり」と講ずるは、木が水上に浮行するの道が施行を得たからです。朱熹はこれが卦体と卦象で卦辞を釈したものと指摘します。《彖伝》がまた言います。増益の道は奮動してまた謙遜し、日々精進して止境なし。上天は施与し大地は化生し、その増益は所に在らざるなし。およそ増益の道は、皆時勢に随って一同に推行します。朱熹は「施」を「始豉反」と注音し、かつ言います。「動」は震の徳、「巽」は巽の徳で、乾は上にありて下に向かって施与し、坤は下にありて上に向かって化生するは、これもまた上文の講ずる卦体の義です。《彖伝》がまたこれを借りて《益》道の大を極処まで講じて讃嘆しました。
《象》曰:風雷,益,君子以見善則遷,有過則改。風雷之勢,交相幫助。遷善改過,益之大者,而其相益亦猶是也。初九,利用為大作,元吉,無咎。初雖居下,然當益下之時,受上之益者也,不可徒然無所報效。故利用為大作,必元吉,然後得無咎。《象》曰:「元吉,無咎」,下不厚事也。下本不當任厚事,故不如是,不足以塞咎也。
《益》卦《大象伝》に言います。風と雷が相激する、これがすなわち《益》であり、君子はこの象を取法し、善行を見れば遷りて之に従い、過失有れば即ち改正します。朱熹が解釈します。風と雷の気勢は彼此が助長し合います。善に遷ることと過を改めることは自我増益中の最大の二件で、二者が互相促成するもまさに風雷が相助するが如しです。初九の爻辞に言います。以て大きな事業を興弁するに利あり、大いに吉利でこそ、過ちに至りません。朱熹が解釈します。初九は下位に居るけれど、まさに下を増益する時に当たり、上の恩益を承受する一爻です。白白に受益して報効がないことはできません。だから以て大事を興弁するに利あり、必ず大吉を成してこそ、咎害を免れられます。初九《小象伝》に言います。「元吉」してこそ「無咎」なる所以は、下位に居る人が本来重大な事務を承当すべきでないからです。朱熹が補充します。下位に在る者は本来厚重の事を担任すべきでないので、もし大吉を成さなければ、咎責を堵せしめるに足りません。
六二,或益之十朋之龜,弗克違,永貞吉,王用享于帝,吉。六二,當益下之時,虛中處下,故其象占與《損》六五同。然爻位皆陰,故以永貞為戒。以其居下而受上之益,故又為卜郊之吉占。《象》曰:或益之,自外來也。或者,眾無定主之辭。
《益》卦六二の爻辞に言います。人が価値十朋の大亀を贈って彼を増益すれば、推辞できず、長久に正を守れば吉。君王がこれをもって上帝を祭享すれば、吉利。朱熹が解釈します。六二はまさに下位を増益する時に当たり、中心が虚静で下卦に処するので、その爻象と占辞は《損》卦の六五と同じです。ただし六二は陰爻でまた陰位に居り、柔弱にして自立し難いので、特に「永貞」をもって告戒します。それが下位に居りて上の増益を承受するので、また郊祀の礼を占問する吉占となります。六二《小象伝》に言います。人が来たりて彼を増益するは、外より来たことです。朱熹が解釈します。「或」の字は衆人を表して確定した主名のない言い方です。
六三,益之用凶事,無咎。有孚中行,告公用圭。六三陰柔,不中不正,不當得益者也。然當益下之時,居下之上,故有益之以凶事者。蓋警戒震動,乃所以益之也。占者如此,然後可以無咎。又戒以有孚中行,而告公用圭也。用圭,所以通信。《象》曰:益用凶事,固有之也。益用凶事,欲其困心衡慮而固有之也。
《益》卦六三の爻辞に言います。凶険艱難の事をもって彼を増益すれば、過ちなく、心に誠信を懐き行事が中道に合し、王公に禀告するに圭を執って信とします。朱熹が解釈します。六三は陰柔で、中に居らず正も得ず、本来増益を得べき一爻ではありません。ただしまさに下を増益する時に当たり、また下卦の上に居るので、凶険の事をもってそれを増益する情形が現れました。警戒と震動をもってそれを磨錬するは、まさにそれへの増益です。占う人がもしこのように受用できれば、後に過ちなくできます。爻辞がまた「有孚中行」と「告公用圭」をもって彼を告戒します。いわゆる「用圭」とは、玉圭をもって誠信を通達する憑証とします。六三《小象伝》に言います。凶事をもって増益するは、彼をして牢固にこの長進を拠有せしめんとするものです。朱熹が解釈します。凶事をもって増益するは、彼の内心を困苦にし思慮を横塞せしめ、以てこの長進を堅固に保有せしめんと望みます。
六四,中行告公從,利用為依遷國。三、四皆不得中,故皆以中行為戒。此言以益下為心,而合於中行,則告公而見從矣。《傳》曰:「周之東遷,晉、鄭焉依。」蓋古者遷國以益下,必有所依,然後能立。此爻又為遷國之吉占也。《象》曰:告公從,以益志也。
《益》卦六四の爻辞に言います。行事が中道に合し、王公に禀告すれば聴従を得、依托に凭って国都を遷移するに利あり。朱熹が解釈します。六三・六四は皆中位に居らないので、両爻の爻辞は皆「中行」をもって告戒します。ここで言うのは、ただ下民を増益するを存心とし、また中道に合すれば、ならば王公に進言すれば採納されます。《左伝》に記します。「周王室が洛邑に東遷するは、全く晋国と鄭国の依托に頼った。」古の国都を遷移するは百姓を増益するためでしたが、必ず依托する所有ってこそ、国を立てられます。だからこの一爻はまた遷都を占問する吉占です。六四《小象伝》に言います。王公に禀告して聴従されるは、それが存するは下民を増益する心志だからです。
九五,有孚惠心,勿問元吉,有孚惠我德。上有信以惠於下,則下亦有信以惠於上矣。不問而元吉可知。《象》曰:「有孚惠心」,勿問之矣。惠我德,大得志也。
《益》卦九五の爻辞に言います。誠信を懐きて人に恵を施す心有れば、占問せずとも大吉を知り、下の人もまた誠信を懐きて我が恩徳を感念します。朱熹が解釈します。上位に在る人が誠信ありて下に恵を施せば、ならば下位に在る人もまた誠信をもって上に在る者に回報します。このようであれば問いを発せずとも、大吉は断定できます。九五《小象伝》に言います。「有孚恵心」ならば、もはや問うことありません。下民が我が恩徳を感念するは、大いに心志を実現したことを説明します。
上九,莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。以陽居益之極,求益不已,故莫益而或擊之。立心勿恆,戒之也。《象》曰:「莫益之」,偏辭也。「或擊之」,自外來也。莫益之者,猶從其求益之偏辭而言也。若究而言之,則又有擊之者矣。
《益》卦上九の爻辞に言います。人の彼を増益する者なく、却って彼を攻撃する者あり。心を立てて常を守れなければ、凶険。朱熹が解釈します。上九は陽爻をもって《益》卦の最上の一爻に居り、増益を求取して休止なく、だから人が彼を増益するのみならず、反って彼を攻撃する者があります。「立心勿恒」とは彼への告戒です。上九《小象伝》に言います。「莫の益する」とは、ただ一偏に就いて言う言です。「或の撃つ」とは、それは外より来たことです。朱熹が解釈します。「人の彼を増益する者なし」と言うのは、なお彼が一味益を求めるこの一面に順って言った偏辞です。もし徹底に追究して下れば、ならばなお前来して彼を攻撃する人があります。
夬卦(かい)
乾下,兌上。□:揚于王庭,孚號有厲。告自邑,不利即戎,利有攸往。夬,古快反。號,戶羔反。卦內並同。夬,決也,陽決陰也,三月之卦也。以五陽去一陰,決之而已。然其決之也,必正名其罪,而盡誠以呼號其眾,相與合力,然亦尚有危厲,不可安肆。又,當先治其私,而不可專尚威武,則利有所往也。皆戒之之辭。
《夬》卦は下体が乾、上体が兌です(卦名の「夬」の字は源本に脱漏し、ここで□をもって標出します)。卦辞に言います。「王庭の上で公に小人の罪状を宣揚し、誠信をもって衆人に呼号し、なお危険あり。先ず自己の封邑より整治して起こし、武力を動用するに利あらず、往く所有るに利あり。」朱熹は「夬」を「古快反」、「号」を「戸羔反」と注音し、全卦の内のこの二字は皆これに照らして読むと言います。彼が解釈します。「夬」とは決断・決去の意で、陽爻が陰爻を決去することを指し、十二消息卦中では三月の卦です。五つの陽爻をもって一つの陰爻を駆除し、それを決去するのみです。ただしそれを決去する時、必ず公にその罪名を指明し、かつ誠意を竭くして衆人を号召し、大家が力を合わせて行わねばなりません。このようであっても、なお危厲があり、安逸放縱してはいけません。また先ず自己の私事を整治すべく、一味武力を崇尚してはいけません。このようであればこそ往く所有るに利ありです。これらは皆告戒の辞です。
《彖》曰:「夬」,決也,剛決柔也。健而說,決而和。說,音悅。釋卦名義,而贊其德。「揚于王庭」,柔乘五剛也。「孚號有厲」,其危乃光也。「告自邑,不利即戎」,所尚乃窮也。「利有攸往」,剛長乃終也。長,丁丈反。此釋卦辭。柔乘五剛,以卦體言,謂以一小人加於眾君子之上,是其罪也。剛長乃終,謂一變則為純乾也。
《夬》卦《彖伝》に言います。「夬」とはすなわち決去、陽剛が陰柔を決去することです。乾健にして兌悦し、決断の中にまた和順あり。朱熹は「説」を「悦」と読むと注し、これが卦名の含意を釈しまたその徳性を讃美したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。卦辞が「王庭に揚ぐ」と講ずるは、一つの柔爻が五つの剛爻の上に凌駕するからです。「孚号厲あり」と講ずるは、危険を知ればこそ、その道は光大するのです。「邑より告ぐ、戎に即くに利あらず」と講ずるは、一味武力を崇尚すれば窮途に行き着くからです。「往く所有るに利あり」と講ずるは、陽剛の増長が底に至ってこそ完成と算えます。朱熹は「長」を「丁丈反」と注音し、この数句が卦辞を釈したものと指摘します。いわゆる「柔乗五剛」とは、卦体に就いて言うもので、一つの小人が衆多の君子の上に凌駕することを指し、これがまさにその罪状です。いわゆる「剛長乃終」とは、《夬》が更に一変すれば純乾の卦となることを言います。
《象》曰:澤上於天,夬,君子以施祿及下,居德則忌。上,時掌反。施,始豉反。澤上於天,潰決之勢也。施祿及下,潰決之意也。居德則忌,未詳。初九,壯于前趾,往不勝為咎。前,猶進也。當決之時,居下任壯,不勝宜矣。故其象占如此。《象》曰:不勝而往,咎也。
《夬》卦《大象伝》に言います。沢水が天上に昇る、これがすなわち《夬》であり、君子はこの象を取法し、俸禄を下の人に施及し、もし徳恵を囤積して施さなければ忌む所となります。「上」は「時掌反」、「施」は「始豉反」と読みます。彼が解釈します。沢水が天上に昇るは、まさに潰決して傾瀉せんとする勢です。俸禄を下に施及するは、まさにこの潰決して下る意に合します。「居徳則忌」の一句に至っては、朱熹は率直にその義はまだ明らかでないと言います。初九の爻辞に言います。足趾を前に向けて壮を用い、往いて勝つ能わなければ、過ちとなります。朱熹が解釈します。「前」とは前進と言うが如しです。まさに小人を決去する時に当たり、初九は最下の位に身を居しながらその剛壮を逞し、勝てないのは理所当然です。だから爻象と占辞はこのようです。初九《小象伝》に言います。勝てないと知りながらなお往くは、これが過ちです。
九二,惕號,莫夜有戎,勿恤。莫,音暮。九二,當決之時,剛而居柔,又得中道,故能憂惕號呼,以自戒備,而莫夜有戎,亦可無患也。《象》曰:有戎勿恤,得中道也。
《夬》卦九二の爻辞に言います。警惕して呼号して戒備すれば、たとい傍晚に兵戎が襲来しても、憂慮に足りません。「莫」は「暮」と読みます。彼が解釈します。九二は小人を決去する時に処し、陽剛の質をもって陰柔の位に居り、また下卦の中に居りて中道を得ます。だから能く心に憂惕を存し衆人に呼号して自ら戒備を作れます。このようであれば、たとい傍晚に至り敵兵が来犯しても、禍患なくできます。九二《小象伝》に言います。兵戎が襲来しても憂えるに足らぬは、九二が中道を得たからです。
九三,壯于九頁,有凶,君子夬夬,獨行遇雨,若濡有慍,無咎。九頁,求龜反。九頁,顴也。九三,當決之時,以剛而過乎中,是欲決小人,而剛壯見於面目也,如是則有凶道矣。然在眾陽之中,獨與上六為應,若能果決其決,不繫私愛,則雖合於上六,如獨行遇雨。至於若濡而為君子所慍,然終必能決去小人而無所咎也。溫嶠之於王敦,其事類此。《象》曰:「君子夬夬」,終無咎也。
《夬》卦九三の爻辞に言います。剛壮の気が顴骨に顕露して、凶険あり。君子は決断してまた決断し、独行して歩く時に雨に遇い、衣衫が沾湿したが如く同伴の愠怒を招くも、終に過ちはありません。「九頁」(すなわち「頄」の字、源本は二字に拆す)は「求亀反」と読み、朱熹は「九頁」をすなわち顴骨と解釈します。彼が言います。九三は小人を決去する時に処し、陽剛の質で中道を超過しました。これは小人を決去しようとして剛猛の気を悉く顔に書いたもので、このようであれば凶を取る道があります。しかし衆陽の中で、九三のみが上六に相応します。もし能く果断に決すべきを決去し、私人の情愛に牽係しなければ、ならばたとい上六と交渉する所有っても、ただ独行して路を行く時に雨に碰上して、衣衫が沾湿して同道の君子に責怪されるが如きのみで、最終は必ず小人を決去して災禍に至りません。晋代の温嶠が王敦の左右に周旋して終にその乱を討平したのは、事がまさにこれと類似します。九三《小象伝》に言います。「君子夬夬」、終に過ちはありません。
九四,臀無膚,其行次且;牽羊悔亡,聞言不信。臀,徒敦反。次,七私反。且,七餘反。《姤》卦同。以陽居陰,不中不正,居則不安,行則不進。若不與眾陽競進,而安出其後,則可以亡其悔。然當決之時,志在上進,必不能也。占者聞言而信,則轉凶而吉矣。牽羊者,當其前則不進,縱之使前而隨其後,則可以行矣。《象》曰:「其行次且」,位不當也。「聞言不信」,聰不明也。
《夬》卦九四の爻辞に言います。臀部に皮肉なく、行走して趑趄して前に進まず。羊を牽くが如く後ろに跟いて往けば、悔恨は消えます。可惜この言を聞いても信ずるに肯じません。「臀」は「徒敦反」、「次」は「七私反」、「且」は「七余反」と読み、《姤》卦中の同様の字句の読法も同じです。彼が解釈します。九四は陽爻をもって陰位に居り、中に居らず正も得ず、停まれば安穏を得ず、前に往けば歩を進められません。もしそれが他の陽爻と先を争って前進せず、安心して後ろに跟いて往けば、悔恨を消除できます。ただしまさに小人を決去する時に当たり、衆陽の志は上進に在り、それは必定にできません。占う人がもしこの言を聞いて信ずるに肯んじれば、凶を転じて吉とできます。いわゆる「羊を牽く」とは、羊の前に遮れば却って行かず、それを放して先に行かせて人が後ろに跟けば、羊は行けます。九四《小象伝》に言います。「其の行次且」とは、九四が居る位置が恰当でないからです。「言を聞きて信ぜず」とは、それが聴覚が聡くなく心が明らかでないからです。
九五,莧陸夬夬,中行無咎。莧,閒辨反。莧陸,今馬齒莧,感陰氣之多者。九五,當決之時,為決之主,而切近上六之陰,如莧陸然。若決而決之,而又不為過暴,合於中行,則無咎矣。戒占者當如是也。
《夬》卦九五の爻辞に言います。馬歯莧を剷除するが如く決断してまた決断し、行事が中道に合すれば過ちなし。「莧」は「閑弁反」と読み、朱熹は「莧陸」をすなわち今日言う所の馬歯莧で、陰気を感受する最も多い一種の草と解釈します。彼が言います。九五は小人を決去する時に処し、決断を主持する一爻で、またそれは上六の陰に緊挨し、その陰柔は身に貼りて生ずる馬歯莧の如しです。もし決すべきは決して、同時に過分に暴烈に至らず、行事が中道に合すれば、ならば過ちはありません。これは占う人がこのようであるべきことを告戒します。
《象》曰:「中行無咎」,中未光也。《程傳》備矣。《傳》曰:「卦辭言‘夬夬’,則於中行為無咎矣。《象》復盡其義,雲中未光也。夫人心正意誠,乃能極中正之道,而充實光輝。五,心有所比,以義之不可而決之,雖行於外,不失中正之義,可以無咎,然於中道未得為光大也。蓋人心一有所欲,則離道矣。」夫子於此,示人之意深矣。上六,無號,終有凶。陰柔小人,居窮極之時,黨類已盡,無所號呼,終必有凶也。占者有君子之德,則其敵當之,不然反是。《象》曰:無號之凶,終不可長也。
《夬》卦九五《小象伝》に言います。「中行無咎」とは、九五の中道がまだ光大に足りないことを言います。朱熹はこの一句は程頤《易伝》がすでに詳しく講じたと言い、ここにおいて程頤の話を引きます。「爻辞が『夬夬』と講ずれば、ならば行事が中道に合して過ちはありません。《象伝》が更に一歩その義を申明して『中未光也』と言います。人はただ心が正しく意が誠であってこそ、中正の道を極処に推し、徳性が充実し光輝が発越できます。九五の心は上六に対してなお親比する所有り、ただ道義上容れないからこそそれを決断します。このようであれば行事上に表れて中正の義を失わず、過ちなくできますが、内心の中道に就いて言えばなお光大とは言えません。人心が一旦私欲する所有れば、すでに正道を離れているからです。」朱熹が言います。孔子がここで世人に点示する用意は深いです。上六の爻辞に言います。呼号して救を求むる処なく、終に凶険あり。朱熹が解釈します。上六は陰柔の小人で、窮途末路の時に処し、同党はすでに消尽し、呼号して援を求むる処なく、最終は必ず凶ありです。占う人がもし君子の徳行を具備すれば、ならばこの一の凶は彼の敵の身に落ちます。反って、もし自らがあの小人であれば、結果は相反します。上六《小象伝》に言います。呼号する処なきの凶険は、この種の局面が終に長く能わないことを説明します。
姤卦(こう)
巽下,乾上。女後:女壯,勿用取女。姤,古後反。取,七喻反。姤,遇也。決盡則為純乾,四月之卦。至姤然後一陰可見,而為五月之卦。以其本非所望,而卒然值之,如不期而遇者,故為遇。遇已非正,又一陰而遇五陽,則女德不貞而壯之甚也。取以自配,必害乎陽,故其象占如此。
《姤》卦は下体が巽、上体が乾です(卦名の「姤」の字は源本は「女后」の二字に拆します)。卦辞に言います。「姤卦、女子が過度に強壮で、このような女子を娶るなかれ。」朱熹は「姤」を「古后反」、「取」(すなわち「娶」)を「七喩反」と注音します。彼が解釈します。「姤」とは相遇の意です。陰爻が決尽されて後は純乾となり、それは四月の卦です。《姤》に至りてこそまた一つの陰爻が生じ出るを見て、五月の卦となります。この一陰の出現は本来人が指し望んだものではないのに、突然碰上し、約せずして遇うが如きなので、「遇」を義に取ります。このような相遇は本来すでに正しくなく、いわんや一つの陰爻が同時に五つの陽爻に遇うは、すなわち女子の徳が貞でなく強壮の極点に至ったものです。このような女子を娶って配偶とするは、必ず陽剛を危害します。だから爻象と占辞はこのようです。
《彖》曰:「姤」,遇也,柔遇剛也。釋卦名。「勿用取女」,不可與長也。釋卦辭。天地相遇,品物咸章也。以卦體言。剛遇中正,天下大行也。指九五。姤之時義大矣哉。幾微之際,聖人所謹。《象》曰:天下有風,姤,后以施命誥四方。
《姤》卦《彖伝》に言います。「姤」とはすなわち相遇、陰柔が陽剛に遇うことです。朱熹はこの一句が卦名を釈したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。卦辞が「勿用取女」と講ずるは、このような人と長久に相处できないからです。朱熹はこれが卦辞を釈したものと指摘します。《彖伝》がまた言います。天と地が彼此相遇すれば、万物は皆顕明昭著します。朱熹はこれは卦体に就いて講じたものと言います。《彖伝》が更に言います。陽剛が中正の位に遇えば、天下の道は大行できます。朱熹はこれは九五を指すと言います。《彖伝》が最後に讃嘆します。《姤》卦が処する時・含む義は真に大きいです。朱熹が言います。一陰が初生するこの極めて細微の関頭は、まさに聖人が最も謹慎に対待する処です。《大象伝》に言います。天の下に風が吹拂する、これがすなわち《姤》であり、君王はこの象を取法し、政令を頒布して四方に告喩します。
初六,繫于金柅,貞吉,有攸往,見凶,羸豕孚蹢躅。柅,乃李反,又女紀反。柅,所以止車,以金為之,其剛可知。一陰始生,靜正則吉,往進則凶。故以二義戒小人,使不害於君子,則有吉而無凶。然其勢不可止也,故以羸豕蹢躅曉君子,使深為之備雲。《象》曰:「繫于金柅」,柔道牽也。牽,進也,以其進,故止之。
《姤》卦初六の爻辞に言います。金属の止車器に拴繋して、正を守れば吉。もし往く所有れば、凶険を見ます。あの瘦弱の母豚は実は躁動安んぜず、往来して蹢躅します。「柅」は「乃李反」、また音「女紀反」と読み、朱熹は「柅」を車輪を止めるに用いる器具で、ここでは金属をもって制成されたと言い、その堅剛が見えます。彼が言います。《姤》卦は一陰が剛だ生じて、この時に安静に正を守れば吉、一往して前進すれば凶です。だから爻辞はこの二層の意をもって小人を告戒し、彼をして君子を危害せしめず、ならば吉ありて凶なしです。しかし陰長の趨勢は畢竟強止できないので、また瘦豚が躁動して踢跳する比喻をもって君子に暁喩し、彼をして早く深く防備せしめます。初六《小象伝》に言います。「金柅に繋ぐ」は、陰柔の道がまさに牽引して上行するからです。朱熹が解釈します。「牽」はここで前進の意で、まさにそれが前進せんとするからこそ、これを止める要があるのです。
九二,包有魚,無咎,不利賓。魚,陰物。二與初遇,為包有魚之象。然制之在己,故猶可以無咎。若不制而使遇於眾,則其為害廣矣。故其象占如此。《象》曰:「包有魚」,義不及賓也。
《姤》卦九二の爻辞に言います。厨中に魚を包裹して、過ちはありませんが、それをもって客を待するに利あらず。朱熹が解釈します。魚は陰類の物に属します。九二が初六と相遇すれば、「包中有魚」の象があります。この魚は自己が管束するので、なお過ちなくできます。もし管束を加えずにそれをして衆人と相遇せしめれば、ならば禍害は蔓延して広がります。だから爻象と占辞はこのようです。九二《小象伝》に言います。「包有魚」は、道理に就いてそれをもって賓客を待すべきでないからです。
九三,臀無膚,其行次且,厲,無大咎。九三過剛不中,下不遇於初,上無應於上,居則不安,行則不進,故其象占如此。然既無所遇,則無陰邪之傷。故雖危厲,而無大咎也。《象》曰:「其行次且」,行未牽也。
《姤》卦九三の爻辞に言います。臀部に皮肉なく、行走して趑趄して前に進まず、危険あり、ただし大きな過ちなし。朱熹が解釈します。九三は剛猛に過ぎて中に居らず、下に遇うて初六を得ず、上にまた上九と相応することなく、停まれば安穏を得ず、前に往けば歩を進められません。だから爻象と占辞はこのようです。ただしすでにそれが何にも遇わない以上、陰邪の損傷を受けません。だから危厲ありといえども、大きな咎害はありません。九三《小象伝》に言います。「其の行次且」とは、その行動が牽引されて拖累されなかったからです。
九四,包無魚,起凶。初六正應,已遇於二而不及於己,故其象占如此。《象》曰:無魚之凶,遠民也。遠,袁萬反。民之去己,猶己遠之。
《姤》卦九四の爻辞に言います。厨中に魚さえなく、凶険を招致します。朱熹が解釈します。初六は本来九四の正応ですが、すでに先に九二と相遇し、自己の番に及びません。だから爻象と占辞はこのようです。九四《小象伝》に言います。魚なきの凶険は、百姓を疎遠にしたからです。朱熹は「遠」を「袁萬反」と注音し去声に読み、かつ言います。百姓が自己を離れるは、すなわち自己が先に彼らを疎遠にしたに等しいです。
九五,以杞包瓜,含章,有隕自天。瓜,陰物之在下者,甘美而善潰。杞,高大堅實之木也。五以陽剛中正,主卦於上,而下防始生必潰之陰,其象如此。然陰陽迭勝,時運之常,若能含晦章美,靜以制之,則可以回造化矣。有隕自天,本無而倏有之象也。《象》曰:九五「含章」,中正也。「有隕自天」,志不舍命也。舍,音扌舍。上九,姤其角,吝,無咎。角,剛乎上者也。上九,以剛居上而無位,不得其遇,故其象占與九三類。《象》曰:「姤其角」,上窮吝也。
《姤》卦九五の爻辞に言います。杞樹の枝葉をもって甜瓜を包裹し、自己の美質を含蔵すれば、天上より陨落する物あり。朱熹が解釈します。瓜は地上に長ずる陰類の物で、味は甘美にして潰爛し易し。杞は高大堅実の樹木です。九五は陽剛中正の徳をもって上に在りて全卦を主持し、向下してあの剛だ生じて終に潰敗する陰気を防範するので、このような象があります。しかし陰と陽が互相に勝負するは本来時運の常理です。もし能く含蓄隠蔵して自己の美徳を以て静をもって動に制すれば、ならば造化の勢を挽回できます。「有隕自天」とは、本来なくして忽然に出現する象です。九五《小象伝》に言います。九五が能く「含章」するは、それが中に居りて正を得るからです。「有隕自天」とは、その心志が天命を捨棄するに肯じないことを言います。朱熹は「舍」を「捨」と読むと注します(源本は「扌舍」の二字に拆す)。上九の爻辞に言います。獣角のような極処に相遇し、憾惜する所有るも、過ちはありません。朱熹が解釈します。角は剛硬にして最上に居る物です。上九は陽剛をもって全卦の上に居りて実際の爵位なく、相遇すべき対象を得られません。だからその爻象と占辞は九三と相類します。上九《小象伝》に言います。「其の角に姤う」は、上に居りて窮極するから、憾惜します。
萃卦(すい)
坤下,兌上。萃:亨,王假有廟,利見大人,亨。利貞,用大牲吉,利有攸往。假,更白反。萃,聚也。坤順兌說,九五剛中,而二應之,又為澤上於地,萬物萃聚之象,故為萃。「亨」字衍文。王假有廟,言王者可以至於宗廟之中,王者卜祭之吉占也。《祭義》曰「公假於太廟」是也。廟所以聚祖考之精神,又人必能聚己之精神,則可以至於廟而承祖考也。物既聚,則必見大人,而後可以得亨。然又必利於正,所聚不正,則亦不能亨也。大牲必聚而後有,聚則可以有所往,皆占吉而有戒之辭。
《萃》卦は下体が坤、上体が兌です。卦辞に言います。「萃卦、亨通。君王が宗廟の中に至りて、大人に見るに利あり、亨通。正を守るに利あり、大牲を用いて祭祀すれば吉、往く所有るに利あり。」朱熹は「假」を「更白反」と注音します。彼が解釈します。「萃」とは聚集の意です。坤は柔順、兌は和悦で、九五は陽剛が中に居りて六二がそれに相応し、また沢水が地上に聚る象があり、万物はここに於て萃聚します。だから卦名を《萃》と言います。卦辞の前の一つの「亨」の字は余った衍文です。「王假有廟」とは、君王が能く宗廟の中に至るを言い、これは君王が祭祀を占問する吉占で、《礼記・祭義》の言う所の「公假于太廟」がこの意です。宗廟は祖先の精神を聚集する処です。人もまた必ず先ず能く自己の精神を聚斂して、後にこそ宗廟に入りて祖先を承奉できます。万物がすでに聚集すれば、必ず大人に見て後に亨通できます。ただし必ず正を守るに利ありて、聚集する所がもし正当でなければ、同様に亨通できません。大きな犠牲は必ず物力が聚集して後に備弁できます。聚集して後に往く所あることができます。これらは皆すでに断を吉として、また告戒を帯びた話です。
《彖》曰:「萃」,聚也。順以說,剛中而應,故聚也。說,音悅。以卦德、卦體釋卦名義。「王假有廟」,致孝享也。「利見大人,亨」,聚以正也。「用大牲吉,利有攸往」,順天命也。釋卦辭。觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。極言其理而贊之。《象》曰:澤上於地,萃,君子以除戎器,戒不虞。上,時掌反。除者,修而聚之之謂。
《萃》卦《彖伝》に言います。「萃」とはすなわち聚集。柔順にして和悦し、陽剛が中に居りて下に相応する所有れば、能く聚集します。朱熹は「説」を「悦」と読むと注し、この数句が卦徳と卦体で卦名の含意を釈したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。「王假有廟」とは、孝道を尽くして祖先を祭享するためです。「大人に見るに利あり、亨」とは、聚集が正道に依循するからです。「大牲を用いて吉、往く所有るに利あり」とは、このようにするが天命に順応するからです。朱熹はこの数句が卦辞を釈したものと指摘します。《彖伝》がまた言います。万物の聚集する所以の道理を観察すれば、天地万物の実情が見えます。朱熹が言います。これは道理を極処まで講じて讃嘆したものです。《大象伝》に言います。沢水が地上に聚る、これがすなわち《萃》であり、君子はこの象を取法し、兵器を修治し、意外の変に戒備します。朱熹は「上」を「時掌反」と注音し、かつ解釈します。「除」とは修治して聚集する意です。
初六,有孚不終,乃亂乃萃,若號,一握為笑,勿恤,往無咎。號,平聲。初六,上應九四,而隔於二陰,當萃之時,不能自守,是有孚而不終,志亂而妄聚也。若呼號正應,則眾以為笑;但勿恤而往從正應,則無咎矣。戒占者當如是也。《象》曰:「乃亂乃萃」,其志亂也。
《萃》卦初六の爻辞に言います。誠信ありて終わりまで保持できず、ここにおいて心志が紛乱して胡乱に聚合します。もし呼号して応を求めれば、却って衆人に一把に攥まれて笑話とされます。ただし憂慮に足らず、前往すれば過ちありません。朱熹は「号」を平声に読むと注します。彼が解釈します。初六は上は九四と正に相応し、中は六二・六三の二つの陰爻に隔てられます。まさに萃聚の時に当たり、それは自守できません。これがすなわち誠信ありて終ある能わず、心志が紛乱して胡乱に聚合するものです。もしそれが自己の正応に呼号すれば、衆人はそれを笑柄とします。ただし理会せずに徑直に前往して正応に追随すれば、過ちはありません。これは占う人がこのようであるべきことを告戒します。初六《小象伝》に言います。「乃乱乃萃」は、その心志がすでに紛乱したからです。
六二,引吉,無咎,孚乃利用禴。禴,羊略反。二應五而雜於二陰之間,必牽引以萃,乃吉而無咎。又二中正柔順,虛中以上應,九五剛健中正,誠實而下交。故卜祭者有其孚誠,則雖薄物,亦可以祭矣。《象》曰:「引吉,無咎」,中未變也。
《萃》卦六二の爻辞に言います。同類を牽引して聚れば吉、過ちなし。心に誠信を懐けば、簡朴な禴祭を挙行するに宜し。「禴」は「羊略反」と読みます。彼が解釈します。六二は九五と相応しながら、初六・六三の二つの陰爻の間に夾雑し、必ず同類を牽引して一緒に往って聚合してこそ、吉にして咎なしです。さらに、六二は中に居りて正を得て柔順で、中心が虚静にして上に応合します。九五は剛健中正で、誠実に下に交接します。だから祭祀を占問する人はただこのような誠信を具備すれば、たとい祭品が菲薄でも、以て致祭できます。六二《小象伝》に言います。「引吉、無咎」は、それが中を守る操守が終始改変しなかったからです。
六三,萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。六三陰柔,不中不正,上無應與,欲求萃於近而不得,故嗟如而無所利,唯往從於上,可以無咎,然不得其萃。困然後往,復得陰極無位之爻,亦可小羞矣。戒占者當近舍不正之強援,而遠結正應之窮交,則無咎也。《象》曰:「往無咎」,上巽也。
《萃》卦六三の爻辞に言います。聚合しようとして嗟嘆するのみで、利益する所なく、前往すれば過ちなく、ただ稍稍憾惜するのみ。朱熹が解釈します。六三は陰柔で、中に居らず正も得ず、上には正応に依るべきなく、就近に九四と聚合しようとしても聚まらず、だから嗟嘆するのみで利益する所なし。ただ前往して上六に追随してこそ、過ちなくできますが、あれも真の萃聚と算えません。困窘して後に前往して、得た所がまた一つの陰柔の極・爵位なきの爻なので、なお稍稍羞ずべし。これは占う人に告戒します。近処のあの正当でない強援を捨棄して、遠処の正応の窮と交結し、これであれば過ちはありません。六三《小象伝》に言います。「往無咎」は、上六が柔順にして能くそれを容納するからです。
九四,大吉,無咎。上比九五,下比眾陰,得其萃矣。然以陽居陰不正,故戒占者必大吉,然後得無咎也。《象》曰:「大吉,無咎」,位不當也。九五,萃有位,無咎,匪孚,元永貞,悔亡。九五剛陽中正,當萃之時而居尊,固無咎矣。若有未信,則亦修其元永貞之德,而悔亡矣。戒占者當如是也。《象》曰:「萃有位」,志未光也。未光,謂匪孚。上六,齎諮涕洟,無咎。齎,音諮,又,將啼反。洟,音夷。《象》同。處萃之終,陰柔無位,求萃不得,故戒占者必如是,而後可以無咎也。《象》曰:「齎諮涕洟」,未安上也。
《萃》卦九四の爻辞に言います。大いに吉利でこそ、過ちなし。朱熹が解釈します。九四は上は九五に親近し、下は衆多の陰爻に親近し、人心を聚めたと算えます。ただしそれは陽爻をもって陰位に居りて正を得ないので、占う人に必ず大吉を成して後に咎害を免れるべきことを告戒します。九四《小象伝》に言います。「大吉」してこそ「無咎」なるは、九四が居る位置が恰当でないからです。九五の爻辞に言います。天下を聚合してまた尊位に居れば、過ちなし。もしなお信服せぬ人あれば、元善・長久・貞正の徳を修養すれば、悔恨は自ら消えます。朱熹が解釈します。九五は陽剛中正で、まさに萃聚の時に当たりて尊位に身を居し、本来過ちはありません。倘もしなお信服せぬ人あれば、ならば自己の「元永貞」の徳行を修治すれば、悔恨も消亡します。これは占う人がこのようであるべきことを告戒します。九五《小象伝》に言います。「萃有位」とは、その心志がまだ光大に足りないことを言います。朱熹が補充します。いわゆる「未光」とは、すなわちなお信服せぬ人があるを指します。上六の爻辞に言います。嗟嘆悲傷して涕涙が交流し、このようであれば過ちなし。「齎」は「咨」と同じ音、また音「将啼反」。「洟」は「夷」と同じ音、《小象伝》中の読法も同じです。彼が解釈します。上六は萃聚の最後に処し、陰柔にして爵位なく、聚合しようとしても求めて得られません。だから占う人に必ずこのように憂懼涕泣して後に過ちなくできることを告戒します。上六《小象伝》に言います。「齎咨涕洟」は、それが上位に居りて安穏を得ないからです。
升卦(しょう)
巽下,坤上。升:元亨,用見大人,勿恤;南征,吉。升,進而上也。卦自《解》來,柔上居四,內巽外順,九二剛中而五應之,是以其占如此。南征,前進也。
《升》卦は下体が巽、上体が坤です。卦辞に言います。「升卦、大いに亨通し、大人に見に往くに宜しく、憂慮に足らず。南方に向かって進発すれば、吉利。」朱熹が解釈します。「升」とは前進して上に向かうことです。卦変に就いて言えば、この卦は《解》卦より変来し、柔爻が上行して第四位に居ります。卦徳に就いて言えば、内卦の巽は遜順、外卦の坤は柔順です。卦体に就いて言えば、九二は陽剛が中に居りて六五がそれに相応します。だから占断はこのようです。いわゆる「南征」とは、すなわち前に向かって進取することです。
《彖》曰:柔以時升,以卦變釋卦名。巽而順,剛中而應,是以大亨。以卦德、卦體釋卦辭。「用見大人,勿恤」,有慶也。「南征,吉」,志行也。《象》曰:地中生木,升,君子以順德,積小以高大。王肅本「順」作「慎」。今按他書引此,亦多作「慎」,意尤明白,蓋古字通用也。說見上篇《蒙》卦。
《升》卦《彖伝》に言います。柔爻が時勢に順応して上昇します。朱熹はこの一句が卦変で卦名を釈したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。遜順にしてまた柔順し、陽剛が中に居りて上に相応する所有れば、大いに亨通します。朱熹はこれが卦徳と卦体で卦辞を釈したものと指摘します。《彖伝》がまた言います。「用見大人、勿恤」とは、福慶あることを言います。「南征、吉」とは、心志が施行を得たことを言います。《大象伝》に言います。地中に樹木を生ずる、これがすなわち《升》であり、君子はこの象を取法し、自己の徳性を順養し、細小を積累して高大を成就します。朱熹が指摘します。王粛の本子は「順」の字を「慎」と作り、今その他の書籍がこの句を引用するを考察するに、多くも「慎」と作り、意思はいっそう明白で、大概は古字が通用する故です。関連の説明は上篇の《蒙》卦に見えます。
初六,允升,大吉。初以柔順居下,巽之主也。當升之時,巽於二陽,占者如之,則信能升而大吉矣。《象》曰:「允升,大吉」,上合志也。九二,孚乃利用禴,無咎。義見《萃》卦。《象》曰:九二之孚,有喜也。
《升》卦初六の爻辞に言います。確実に上昇でき、大いに吉利。朱熹が解釈します。初六は柔順の質をもって全卦の最下に居り、巽体の主爻です。まさに上昇の時に当たり、それは遜順に上の九二・九三の二つの陽爻に依従します。占う人がもしそれに像ることができれば、確実に上昇して大吉です。初六《小象伝》に言います。「允升、大吉」は、それが上と心志が合するからです。九二の爻辞に言います。心に誠信を懐けば、簡朴な禴祭を挙行するに宜しく、過ちなし。朱熹が言います。この一句の義理は《萃》卦の六二爻に見えます。九二《小象伝》に言います。九二の誠信は、喜慶をもたらします。
九三,升虛邑。陽實陰虛,而坤有國邑之象。九三,以陽剛當升時,而進臨於坤,故其象占如此。《象》曰:「升虛邑」,無所疑也。六四,王用亨于岐山,吉,無咎。義見《隨》卦。《象》曰:「王用亨于岐山」,順事也。以順而升,登祭于山之象。
《升》卦九三の爻辞に言います。空虚無人の城邑に升入します。朱熹が解釈します。陽は実、陰は虚で、坤はまた国邑の象があります。九三は陽剛の質をもってまさに上昇の時に当たり、前に向かって上体の坤に逼臨するので、爻象と占辞はこのようです。九三《小象伝》に言います。「升虚邑」とは、前進に遅疑すべきことがないことを言います。六四の爻辞に言います。君王が岐山で祭享を挙行し、吉利、過ちなし。朱熹が言います。この一句の義理は《随》卦の上六爻に見えます。六四《小象伝》に言います。「王用亨于岐山」とは、これは柔順をもって上に事うる事です。朱熹が解釈します。柔順の道をもって上昇するは、まさに山に登りて致祭する象です。
六五,貞吉,升階。以陰居陽,當升而居尊位,必能正固,則可以得吉而升階矣。階,升之易者。《象》曰:「貞吉,升階」,大得志也。上六,冥升,利于不息之貞。以陰居升極,昏冥不已者也。占者遇此,無適而利,但可反其不已於外之心,施之於不息之正而已。《象》曰:冥升在上,消不富也。
《升》卦六五の爻辞に言います。正固を守持すれば吉祥を獲、階梯を踏んで上昇するが如し。朱熹が解釈します。六五は陰爻をもって陽位に居り、まさに上昇の時に当たりて尊位に身を居し、必ず能く端正堅固にしてこそ、吉を得て登階のように順利に上昇できます。「階」は上昇中の最も容易な路です。六五《小象伝》に言います。「貞吉、升階」とは、大いに心志を実現したことを言います。上六の爻辞に言います。昏昧不明に一味に上昇し、利ありてこの勁頭を永く止息せざる守正の上に転用すべし。朱熹が解釈します。上六は陰爻をもって上昇の極処に居り、昏昧糊涂にして攀升して止まぬ人です。占う人がこの一爻に遇えば、何処に往いても利はなく、ただあの外に向かって進を求めて已まぬ心を収め返し、正道を持守し自彊息まずに転用するのみです。上六《小象伝》に言います。昏昧に上昇して最上に居るは、ただ消損して富実できません。
困卦(こん)
坎下,兌上。困:亨,貞,大人吉,無咎,有言不信。困者,窮而不能自振之義。坎剛,為兌柔所掩,九二,為二陰所掩,四五,為上六所掩,所以為困。坎險、兌說,處險而說,是身雖困而道則亨也。二五剛中,又有大人之象,占者處困能亨,則得其正矣。非大人其孰能之?故曰貞。又曰大人者,明不正之小人不能當也。有言不信,又戒以當務晦默,不可尚口,益取困窮。
《困》卦は下体が坎、上体が兌です。卦辞に言います。「困卦、亨通、守正、大人は吉利、過ちなし。この時に言を発しても人に信じられません。」朱熹が解釈します。「困」とは窮窘にして自振できない意です。坎の陽剛は兌の陰柔に掩蔽され、九二は初六・六三の二つの陰爻に掩まれ、九四・九五は上六に掩まれます。だから卦名を《困》と言います。坎は険、兌は悦で、険境に身を処して心がなお和悦できるは、これがすなわち人は困頓すれども道は亨通するものです。九二・九五は皆陽剛が中に居り、また大人の象があります。占う人が困境に処して能く亨通するは、すなわちその正を得たものです。もし大人でなければ、誰がこの点を成せましょう。だから卦辞は「貞」と言い、また「大人」と言うは、行事が正しくない小人はこの一占に担当し切れないことを表明せんとするものです。「有言不信」に至っては、更に一歩の告戒です。この時は隠晦沈黙を力求すべく、口舌の能を逞しうしてはいけません。さもなくばただいっそう深い困窮を招来するのみです。
《彖》曰:「困」,剛掩也。以卦體釋卦名。險以說,困而不失其所亨,其唯君子乎。「貞,大人吉」,以剛中也。「有言不信」,尚口乃窮也。說,音悅。以卦德、卦體釋卦辭。《象》曰:澤無水,困;君子以致命遂志。水下漏,則澤上枯,故曰澤無水。致命,猶言授命,言持以與人而不之有也。能如是,則雖困而亨矣。
《困》卦《彖伝》に言います。「困」とは、陽剛が陰柔に掩蔽されることです。朱熹はこの一句が卦体で卦名を釈したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。険境に身を処して心が和悦でき、困頓すれどもその亨通の道を失わないは、大概は君子のみが能くこのようです。卦辞が「貞、大人吉」と講ずるは、九二・九五が陽剛にして中に居るからです。「有言不信」と講ずるは、一味に口舌の弁を逞しすれば窮途に行き着くからです。朱熹は「説」を「悦」と読むと注し、この数句が卦徳と卦体で卦辞を釈したものと指摘します。《大象伝》に言います。沢中に水なし、これがすなわち《困》であり、君子はこの象を取法し、生命を献出して自己の志向を成全するに肯んじます。朱熹が解釈します。水が下より漏れ走れば、上の沢は乾枯します。だから「沢無水」と言います。「致命」とは「授命」と言うが如く、自己の性命を交付し出してもはや己が有としません。能くこのようであれば、ならば困境に処すれども道は自ら亨通します。
初六,臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。臀,物之底也。困于株木,傷而不能安也。初六以陰柔處困之底,居暗之甚,故其象占如此。《象》曰:「入于幽谷」,幽不明也。
《困》卦初六の爻辞に言います。臀部が樹の株に困され、幽暗の深谷に退入して、三年も人と相見ることができません。朱熹が解釈します。臀は物体の底部で、まさに初六が全卦の底に居るが如し。「困于株木」とは、硌傷されて坐に安んぜざることです。初六は陰柔の質をもって困境の最底層に処し、処する所がまた極めて昏暗なので、爻象と占辞はこのようです。初六《小象伝》に言います。「幽谷に入る」とは、幽深にして光明を見ないことを言います。
九二,困于酒食,朱紱方來,利用亨祀,征凶,無咎。紱,音弗。亨,讀作享。困于酒食,厭飫苦惱之意。酒食,人之所欲,然醉飽過宜,則是反為所困矣。朱紱方來,上應之也。九二有剛中之德,以處困時,雖無凶害,而反困於得其所欲之多,故其象如此。而其占利以享祀,若征行則非其時,故凶,而於義為無咎也。《象》曰:「困于酒食」,中有慶也。
《困》卦九二の爻辞に言います。酒食に困され、朱紅色の祭服がまさに送られて来んとし、以て祭祀を挙行するに宜し。出行すれば凶、ただし過ちなし。「紱」は「弗」と同じ音、「亨」は「享」と読みます。彼が解釈します。「困于酒食」とは、飽食が度を過過ぎて厭煩苦悩を生ずる意です。酒食は本来人が欲する所ですが、酔飽が限度を超えれば、却ってそれに困されます。「朱紱方来」とは、上の九五が来たりて彼に応ずるを言います。九二は陽剛が中に居る徳行を具備し、それをもって困境に処すれば、本来凶害はなく、却って欲する物が多すぎるこの一事に困まれます。だから爻象はこのようです。占断に就いて言えば、以て祭祀するに宜し。もしこの時に出行すれば、時宜に合わないので凶と言い、ただし道義に就いて言えば過ちはありません。九二《小象伝》に言います。「困于酒食」は、それが中に居りて自ら福慶有るからです。
六三,困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。陰柔而不中正,故有此象,而其占則凶。石,指四,蒺藜,指二,宮,謂三,而妻,則六也。其義則《繫辭》備矣。《象》曰:「據于蒺藜」,乘剛也。「入于其宮,不見其妻」,不祥也。
《困》卦六三の爻辞に言います。石頭に遮られて困され、蒺藜に坐靠し、自己の居室に帰るに、妻子を見ず、凶険。朱熹が解釈します。六三は陰柔にしてまた中に居らず正も得ないので、このような象があり、占断は凶です。「石」は九四を指し、「蒺藜」は九二を指し、「宮」は六三自身が処する所を指し、「妻」は同じく陰爻の上六です。この一爻の義理は《繋辞伝》中ですでに詳尽に講じられました。六三《小象伝》に言います。「蒺藜に拠る」は、それが陽剛の上に凌駕するからです。「其の宮に入りて、其の妻を見ず」は、これは不吉利の徴候です。
九四,來徐徐,困于金車,吝,有終。初六、九四之正應。九四,處位不當,不能濟物,而初六方困於下,又為九二所隔,故其象如此。然邪不勝正,故其占雖為可吝,而必有終也。金車為九二象,未詳。疑坎有輪象也。《象》曰:「來徐徐」,志在下也。雖不當位,有與也。
《困》卦九四の爻辞に言います。遅遅緩緩に前来して、金車に阻隔されて困し、憾惜する所有るも、終に結果あり。朱熹が解釈します。初六は九四の正応です。九四が処する位置は恰当でなく、他人を救済する能力なく、初六は正に下に困され、中間はまた九二に隔断されます。だから爻象はこのようです。しかし邪は終に正に勝てないので、占断は可惜と言えども、必ず好い結局があります。「金車」がなぜ九二の象かに至っては、朱熹は自己も明らかでなく、大概は坎卦に車輪の象があるためだろうと猜想します。九四《小象伝》に言います。「来徐徐」は、その心志が下の初六に在るからです。位に居りて当たらずといえども、畢竟なおそれと相応する仲あり。
九五,劓刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。劓,音見《睽》。刖,音月。說,音悅。劓刖者,傷於上下。上下既傷,則赤紱無所用,而反為困矣。九五當困之時,上為陰掩,下則乘剛,故有此象。然剛中而說體,故能遲久而有說也。占具象中,又利用祭祀,久當獲福。《象》曰:「劓刖」,志未得也。「乃徐有說」,以中直也。「利用祭祀」,受福也。
《困》卦九五の爻辞に言います。上は鼻を割かれ下は足を断たれる傷を受け、赤色の祭服に困され、徐々にしてこそ脱開を得、祭祀を挙行するに宜し。「劓」の字の読音は《睽》卦に見、「刖」は「月」と同じ読み、「説」は「悦」と読みます。彼が解釈します。「劓刖」とは上下が皆傷を受けたことです。上下がすでに傷を受ければ、ならば尊位を象徴する赤紱も施用する処なく、却って困累となります。九五は困頓の時に処し、上は上六の陰に掩蔽され、下はまた九四の陽剛の上に凌駕するので、このような象があります。ただしそれは陽剛が中に居り、また兌悦の体に処するので、拖延して久しきに及んで終に解脱する所有ることができます。占断はすなわち爻象の中に包含されます。この外なお祭祀を挙行するに宜しく、久しきの後に自ら福佑を獲得すべし。九五《小象伝》に言います。「劓刖」とは、心志がまだ実現していないことを言います。「乃徐有説」は、それが中に居りて正直だからです。「利用祭祀」とは、能く福佑を承受することを言います。
上六,困于葛藟,于臬危兀危,曰動悔有悔,征吉。藟,力軌反。臬危,五結反。兀危,五骨反。以陰柔處困極,故有困于葛藟,于臬危兀危,曰動悔之象。然物窮則變,故其占曰,若能有悔,則可以征而吉矣。《象》曰:「困于葛藟」,未當也。「動悔有悔」,吉行也。
《困》卦上六の爻辞に言います。葛藤に纏繞されて困し、動揺不安の境地に処し、自ら「一動すれば即ち悔いる」と言います。もし真に悔悟の心を生ずることができれば、出行すれば却って吉利。「藟」は「力軌反」、「臬危」(すなわち「臲」の字、源本は二字に拆す)は「五結反」、「兀危」(すなわち「卼」の字、源本は二字に拆す)は「五骨反」と読みます。彼が解釈します。上六は陰柔の質をもって困頓の極点に処するので、葛藤に纏まれ、動揺不安で、口に「一動すれば即ち悔いる」と称するこのような象があります。しかし事物は窮極すれば転変するので、占辞は言います。もし真に悔悟できれば、前行して吉を得ることができます。上六《小象伝》に言います。「葛藟に困む」は、それが処する位置が本当に恰当でないからです。「動悔有悔」は、あのように前行すればすなわち吉利です。
井卦(せい)
巽下,坎上。井:改邑不改井,無喪無得,往來井井。汔至亦未□井,羸其瓶,凶。喪,息浪反。汔,許訖反。□,音橘。羸,律裴反。井者,穴地出水之處。以巽木入乎坎水之下,而上出其水,故為井。改邑不改井,故無喪無得,而往者來者,皆井其井也。汔,幾也。□,綆也。羸,敗也。汲井幾至,未盡綆而敗其瓶,則凶也。其占為事仍舊無得喪,而又當敬勉,不可幾成而敗也。
《井》卦は下体が巽、上体が坎です。卦辞に言います。「井卦、城邑は遷改でき、水井は遷改できません。井水は減少することなく、また増多することなく、来来往往の人は皆この井戸に水を汲みます。眼に見てまさに汲み上げんとして、汲縄がまだ井口を出ず、水瓶を打破し、凶険。」(爻辞と注文中の「繘」の字は源本に脱漏し、ここで□をもって標出します。)朱熹は「喪」を「息浪反」、「汔」を「許訖反」、「繘」を「橘」と同じ音、「羸」を「律裴反」と注音します。彼が解釈します。井は地を掘って水を出す処です。この卦は巽木をもって坎水の下に深入し、更に水を提げて上がるので、卦名を《井》と言います。城邑は改換して井は改換しないので、井水は減損する所なく増益する所もなく、来る人往く人は皆この同一の井戸の上で水を取ります。「汔」とはほぼ・将にの意、「繘」は汲水の繩子、「羸」は敗壊です。水を汲みてまさに打上げんとして、繩索がまだ完全に井戸を出ずに水瓶を打砕すれば、ならば凶です。その占断は、弁ずる事が一もって旧貫に因り、得る所なく失う所もなく、同時にまた敬慎勉力すべく、まさに成功せんとする時に功が一簣を欠くことなくすべきです。
《彖》曰:巽乎水而上水,井,井養而不窮也。上,時掌反。以卦象釋卦名義。「改邑不改井」,乃以剛中也。「汔至亦未□井」,未有功也。「羸其瓶」,是以凶也。以卦體釋卦辭。「無喪無得,往來井井」兩句,意與不改井同,故不復出。剛中,以二五而言。未有功而敗其瓶,所以凶也。《象》曰:木上有水,井,君子以勞民勸相。上,如宇,又時掌反。勞,力報反。相,息亮反。木上有水,津潤上行,井之象也。勞民者,以君養民;勸相者,使民相養,皆取井養之義。
《井》卦《彖伝》に言います。水中に深入して水を提げて上がる、これがすなわち《井》であり、井は水をもって人を養いて永く窮尽せず。朱熹は「上」を「時掌反」と注音し、この一句が卦象で卦名の含意を釈したものと指摘します。《彖伝》が続いて言います。「邑を改めても井を改めず」は、九二・九五が陽剛にして中に居るからです。「汔至も亦未だ井を繘せず」とは、まだ功效を成就していないことを言います。「其の瓶を羸う」は、だから凶です。朱熹はこの数句が卦体で卦辞を釈したものと指摘し、かつ言います。「喪なく得なく、往来井井」のこの二句は、意思は「井を改めず」と同じなので、《彖伝》は更に別に釈しません。「剛中」は九二・九五の両爻に就いて言うものです。功效が未成にして先に瓶を打破するは、これが凶の故です。《大象伝》に言います。木の上に水あり、これがすなわち《井》であり、君子はこの象を取法し、百姓を慰労し、彼らが互相帮助するを勉励します。朱熹は「上」を「宇」の如く音し、また音「時掌反」。「労」を「力報反」、「相」を「息亮反」と注音します。彼が解釈します。木上に水あるは、津液が滋潤して上に向かって運行し、まさに井の象です。「労民」とは君上が百姓を養育し、「勧相」とは百姓をして互相に養助せしめることで、皆井水が人を養うの意義より取りました。
初六:井泥不食,舊井無禽。泥,乃計反。井以陽剛為泉,上出為功。初六,以陰居下,故為此象。蓋井不泉而泥,則人所不食,而禽鳥亦莫之顧也。《象》曰:「井泥不食」,下也。「舊井無禽」,時舍也。舍,音扌舍。言為時所棄。
《井》卦初六の爻辞に言います。井底に汚泥が淤積して、水は飲めません。これは一口の廃棄の旧井で、禽鳥さえ来ません。「泥」は「乃計反」と読みます。彼が解釈します。井は陽剛をもって泉源とし、水を上に提げるをもって功效とします。初六は陰爻をもって最下に居るので、このような象があります。井里に泉水なく汚泥のみあれば、人は飲用するに肯じず、禽鳥さえ顧看に来ません。初六《小象伝》に言います。「井泥不食」は、それが最下に処するからです。「旧井無禽」は、時勢に捨棄されたことです。朱熹は「舍」を「捨」と読むと注し(源本は「扌舍」の二字に拆す)、時代に拋棄されたことを言います。
九二,井谷射鮒,甕敝漏。谷,餘六反,音育。射,石亦反。鮒,音附。九二剛中,有泉之象。然上無正應,下比初六,功不上行,故其象如此。《象》曰:「井谷射鮒」,無與也。
《井》卦九二の爻辞に言います。井中の水は山谷小流の如くただ小魚に漏注するのみで、汲水の甕はまた破漏します。「谷」は「余六反」と読み「育」と同じ、「射」は「石亦反」、「鮒」は「附」と同じ音です。彼が解釈します。九二は陽剛にして中に居り、泉源の象があります。ただし上に正応なく、下はまた初六に親比し、泉水の功用は上に向かって輸送できないので、爻象はこのようです。九二《小象伝》に言います。「井谷射鮒」は、それが上に相与配合する人がないからです。
九三,井渫不食,為我心惻。可用汲,王明並受其福。渫,息列反。渫,不停汙也。井渫不食,而使人心惻,可用汲矣。王明,則汲井以及物,而施者、受者,並受其福也。九三,以陽居陽,在下之上,而未為時用,故其象占如此。《象》曰:「井渫不食」,行惻也。求王明,受福也。行惻者,行道之人,皆以為惻也。
《井》卦九三の爻辞に言います。井はすでに淘洗して干浄なるも飲む人なく、我が心中に惻然とせしめます。この井水は汲用でき、君王がもし明察すれば、大家は一同にその福沢を承受します。「渫」は「息列反」と読み、朱熹は「渫」を汚濁を淘去して汚泥を停積せしめぬことと解釈します。彼が言います。井はすでに淘浄なるも飲用する人なく、人心に惻隠を生ぜしむるは、実は汲取できます。君王がもし明察すれば、この井水を汲んで以て万物に恵及し、施与する人と承受する人が一同に福を得ます。九三は陽爻をもって陽位に居り、下卦の最上に処するも、まだ時世に用いられないので、爻象と占辞はこのようです。九三《小象伝》に言います。「井渫不食」は、路過する人が皆それがために惻然とします。君王の明察を祈求するは、大家が共に福沢を受けんがためです。朱熹が解釈します。いわゆる「行惻」とは、路を過ぐる行路人が皆それがために難過するを言います。
六四,井甃,無咎。甃,側救反。以六居四,雖得其正,然陰柔不泉,則但能修治而無及物之功,故其象為井甃,而占則無咎。占者能自修治,則雖無及物之功,而亦可以無咎矣。《象》曰:「井甃,無咎」,修井也。
《井》卦六四の爻辞に言います。磚石をもって井壁を修砌して、過ちなし。「甃」は「側救反」と読みます。彼が解釈します。六をもって四に居るは、陰爻が陰位に居りてその正を得といえども、陰柔は泉源となること能わず、だからただ井身を修治して他人に恵及する功用なく、ここにおいて爻象は「井甃」、占断はすなわち過ちなし。占う人がもし自ら修治できれば、ならばたとい暫時他人に恵及する功效なくとも、同様に咎害を免れられます。六四《小象伝》に言います。「井甃、無咎」は、それがこの井戸を修治することを言います。
九五,井洌,寒泉食。洌,音列。洌,潔也。陽剛中正,功及於物,故為此象。占者有其德,則契其象也。《象》曰:寒泉之食,中正也。上六,井收勿幕,有孚元吉。收,詩救反,又如字。幕,音莫。收,汲取也。晁氏云:「收,鹿盧收者也。」亦通。幕,蔽覆也。有孚,謂其出有源而不窮也。井以上出為功,而坎口不掩,故上六雖非陽剛,而其象如此。然占者應之,必有孚乃元吉也。《象》曰:元吉在上,大成也。
《井》卦九五の爻辞に言います。井水は清潔にして、甘寒の泉水は飲用に供し得ます。「洌」は「列」と同じ音、朱熹は「洌」を潔浄と解釈します。彼が言います。九五は陽剛にして中に居りて正を得、功用は能く万物に恵及するので、このような象があります。占う人がもしこのような徳行を具備すれば、この象と相契合します。九五《小象伝》に言います。甘寒の泉水が飲用に供し得るは、九五が中に居りて正を得るからです。上六の爻辞に言います。井水が汲み上げられて蓋覆を加えず、心に誠信を懐きて、大いに吉利。「収」は「詩救反」と読み、また本音に依りて読む可し。「幕」は「莫」と同じ音です。彼が解釈します。「収」とは汲取です。晁説之は「収」が井上の繩を収める轆轤を指すと言い、この講法も講じ通えます。「幕」とは遮蓋です。「有孚」とは、井水が源頭より出て永く窮竭しないことを言います。井は水を上に提げるをもって功とし、坎の上口は敞開して遮掩を加えないので、上六は陽剛の爻ではないけれど、爻象はこのようです。ただし占う人がこの象と相応せんと欲すれば、必ず確実に誠信あってこそ大吉です。上六《小象伝》に言います。大吉にして最上に居るは、井道がここに至りて大功が告成したからです。
革卦(かく)
離下,兌上。革:已日乃孚,元亨,利貞,悔亡。革,變革也。兌澤在上,離火在下,火然則水乾,水決則火滅,中、少二女,合為一卦,而少上、中下,志不相得,故其卦為革也。變革之初,人未之信,故必已日而後信。又,以其內有文明之德,而外有和說之氣,故其占為有所更革,皆大亨而得其正,所革皆當,而所革之悔亡也。一有不正,則所革不信不通,而反有悔矣。
《革》卦は下体が離、上体が兌です。卦辞に言います。「革卦、その日に至りて人々はやっと信服し、大いに亨通し、正を守るに利あり、悔恨消失。」朱熹が解釈します。「革」とは変革です。兌沢が上、離火が下に在り、火が一たび燃焼すれば水は烤乾され、水が一たび決瀉すれば火は澆滅されます。離は中女、兌は少女で、二女が合して一卦を成し、しかも少女が上・中女が下に在り、心志が彼此相投合しないので、卦名を《革》と言います。変革の初、人々はなお信ずるに肯じません。だから必ず日が過ぎて後にこそ人に信を取れます。さらに、この卦は内に文采光明の徳があり、外に和悦の気があるので、その占断は、およそ変革する所有れば、皆大いに亨通して正道に合すことができます。変革した事が皆恰当ならば、変革がもたらす悔恨も消えます。一旦正道に合せざる処あれば、ならば行う所の変革は信を取ること能わず、また通行すること能わず、却って悔恨を招来します。
《彖》曰:「革」,水火相息,二女同居,其志不相得,曰革。以卦象釋卦名義,大略與《睽》相似,然以相違而為睽,相息而為革也。息,滅息也,又為生息之義。滅息而後生息也。「已日乃孚」,革而信之。文明以說,大亨以正,革而當,其悔乃亡。說,音悅,當去聲。以卦德釋卦辭。天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人。革之時大矣哉。極言而贊其大也。《象》曰:澤中有火,革,君子以治曆明時。治,平聲。四時之變,革之大者。
《革》卦《彖伝》に言います。《革》とは、水と火が互相に消滅し、二つの女子が一処に同じく住みて心志が相投合せず、これを「革」と名づけます。朱熹はこれが卦象で卦名の含意を釈したものと指摘します。大体《睽》卦と相似るも、《睽》は二者の性質が相違背する義を取り、《革》は二者が互相に熄滅する義を取ります。「息」とは熄滅で、また生長の義あり、先ず旧の熄滅有りて、後にこそ新の生長有り。《彖伝》が続いて言います。「已日乃孚」とは、変革して後に人々がそれを信従することです。文采光明にしてまた和悦し、大いに亨通にしてまた正道に合し、変革が恰当を得れば、悔恨は自然に消亡します。朱熹は「説」を「悦」と読み、「当」を去声に読むと注し、この数句が卦徳で卦辞を釈したものと指摘します。《彖伝》がまた言います。天地が変革して四季が生成し、商湯・周武が天命を変革し、上は天意に順い下は人心に応じます。《革》卦が処する時は真に大きいです。朱熹が言います。これは道理を極処まで講じてその宏大を讃嘆したものです。《大象伝》に言います。沢水の中に火あり、これがすなわち《革》であり、君子はこの象を取法し、暦法を修治し時令を明確にします。朱熹は「治」を平声に読むと注し、かつ言います。四季の推移変化は、まさに変革中の最大の一件です。
初九,鞏用黃牛之革。鞏,九勇反。雖當革時,居初無應,未可有為,故為此象。鞏,固也。黃,中色。牛,順物。革,所以固物,亦取卦名而義不同也。其占為當堅確固守,而不可以有為。聖人之於變革,其謹如此。《象》曰:鞏用黃牛,不可以有為也。
《革》卦初九の爻辞に言います。黄牛の皮革をもって緊く捆縛して固定します。「鞏」は「九勇反」と読みます。彼が解釈します。初九は変革の時に処するけれど、全卦の初に居りてまた相応する爻なく、まだ作為する所有ることができません。だからこのような象があります。「鞏」は堅固、「黄」は居中の色、「牛」は柔順の物、「革」は物を捆縛して固定するに用いる皮革です。ここでも卦名の「革」の字を用いたけれど、義を取るは変革とは同じくありません。その占断は、堅定牢固に守るべく、挙動する所有るべからず。聖人の変革の事に対待するは、謹慎がこの地步に至ります。初九《小象伝》に言います。黄牛の革をもって捆縛して固定するとは、この時に作為すべからざることを言います。
六二,已日乃革之,征吉,無咎。六二,柔順中正,而為文明之主,有應於上,於是可以革矣。然必已日然後革之,則征吉而無咎。戒占者猶未可遽變也。《象》曰:已日革之,行有嘉也。
《革》卦六二の爻辞に言います。その日に至りてこそそれを変革し、出行すれば吉利、過ちなし。朱熹が解釈します。六二は柔順にして中に居りて正を得、離体の文明の主爻で、上にはまた九五がそれに相応し、この時に至りて変革できます。ただし必ず日が至りて後に動手して変革してこそ、出行して吉を得て過ちなくできます。これは占う人にまだ急遽に変を求めてはならぬことを告戒します。六二《小象伝》に言います。日が至るを待って変革するは、このように行動すれば嘉美の結果あり。
九三,征凶,貞厲,革言三就,有孚。過剛不中,居離之極,躁動於革者也,故其佔有征凶貞厲之戒。然其時則當革,故至於革言三就,則亦有孚而可革也。《象》曰:「革言三就」,又何之矣?言已審。
《革》卦九三の爻辞に言います。出行すれば凶険あり、正を守っても危厲あり。変革の議論が三番の審議を経て成れば、誠信あり。朱熹が解釈します。九三は剛猛に過ぎて中に居らず、また離体の極処に処し、変革の事の上で躁動冒進する一爻です。だから占辞に「征凶」「貞厲」の告戒あり。しかし時勢に就いて言えば確実に変革すべきなので、変革の議論が反復商議して三次して告成するを待って、ならば誠信あり、着手して変革できます。九三《小象伝》に言います。変革の議論がすでに三次商定したるに、なお何処に往かんとするか。朱熹が解釈します。これは事がすでに審議して明白なことを言います。
九四,悔亡,有孚,改命,吉。以陽居陰,故有悔。然卦已過中,水火之際,乃革之時,而剛柔不偏,又革之用也,是以悔亡。然又必有孚,然後革,乃可獲吉。明占者有其德而當其時,又必有信,乃悔亡而得吉也。《象》曰:改命之吉,信志也。
《革》卦九四の爻辞に言います。悔恨消失、心に誠信を懐き、旧命を改易し、吉利。朱熹が解釈します。九四は陽爻をもって陰位に居り、本当に悔あるべし。ただし全卦はすでに中位を過ぎ、まさに水火が交接する処に処し、これは変革すべき時で、またそれは剛柔が偏せず、また正に変革の所需の用なので、悔恨は消亡します。ただしなお必ず誠信有りて、後に変革してこそ、吉祥を獲得できます。これは表明します。占う人はすでに相応の徳行あり、また変に応ずる時に逢い、なお必ず誠信有りてこそ、悔亡して吉を得られます。九四《小象伝》に言います。旧命を改易して吉を得るは、人々がその心志を信従するからです。
九五,大人虎變,未占有孚。虎,大人之象。變,謂希革而毛毨也。在大人則自新新民之極,順天應人之時也。九五,以陽剛中正為革之主,故有此象。占而得此,則有此應。然亦必自其未占之時,人已信其如此,乃足以當之耳。《象》曰:「大人虎變」,其文炳也。
《革》卦九五の爻辞に言います。大人の変革は猛虎が毛を換えるが如く、占問せずともすでに人に信を取りました。朱熹が解釈します。虎は大人の象です。「変」とは虎類が旧毛を脱去し、新毛が整斉に生じて焕然と新たなるを指します。大人の身においては、これがすなわち自らその徳を新たにし、また民衆をして極処まで更新せしめ、天道に順応し人心に契合する時です。九五は陽剛中正の徳をもって変革の主爻を為すので、このような象があります。占卜してこの一爻を得れば、このような応験あり。ただしまた必ずまだ占問せざる前に、人々がすでに彼が確実にこのようであることを信じてこそ、この一爻に配上します。九五《小象伝》に言います。「大人虎変」とは、その文采が煥発光明することを言います。
上六,君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。革道已成,君子如豹之變,小人亦革面以聽從矣。不可以徵,而居正則吉。變革之事,非得已者,不可以過,而上六之才,亦不可以有行也。故占者如之。《象》曰:「君子豹變」,其文蔚也。「小人革面」,順以從君也。蔚,紆胃反。
《革》卦上六の爻辞に言います。君子の変革は豹子が毛を換えるが如く、小人も顔色を変えて順従します。この時に出行すれば凶険あり、安居して正を守れば吉。朱熹が解釈します。変革の道はここに至りてすでに完成し、君子は豹子が毛を換えるが如く文采が日新し、小人も面目を改換して聴従するに至ります。この時は更に征伐する所有るべからず、安処して正を守れば吉です。変革は本来已むことを得ずして為す事で、過頭に為すべからず。いわんや上六の才質は柔弱で、また行動する所有るべからず。だから占う人はこれに照らして自処すべきです。上六《小象伝》に言います。「君子豹変」とは、その文采が潤沢茂美することを言います。「小人革面」とは、彼らが順従して君上の命に聴くことを言います。朱熹は「蔚」を「紆胃反」と注音します。
鼎卦(てい)
巽下,離上。鼎:元吉亨。鼎,烹飪之器。為卦下陰為足,二三四陽為腹,五陰為耳,上陽為鉉,有鼎之象。又以巽木入離火,而致烹飪,鼎之用也。故其卦為鼎。下巽,巽也,上離為目,而五為耳,又內巽順而外聰明之象。卦自《巽》來,陰進居五,而下應九二之陽,故其占曰元亨。吉,衍文也。
《鼎》卦は下体が巽、上体が離です。卦辞に言います。「鼎卦、大いに亨通。」朱熹が解釈します。鼎は食物を烹煮する器具です。卦画に就いて言えば、最下の一爻は陰で、鼎足に像え、二・三・四爻は陽で鼎腹に像え、第五爻は陰で鼎耳に像え、最上の一爻は陽で耳を貫きて鼎を挙げる鉉に像え、整体に鼎の形象あり。また巽木をもって離火に送入して烹煮を成す、これがまさに鼎の用なので、卦名を《鼎》と言います。下卦の巽は遜順、上卦の離は目と為し、六五はまた耳位に居るので、なお内に遜順・外に耳聡目明の象あり。卦変に就いて言えば、この卦は《巽》卦より変来し、陰爻が上進して第五位に居り、下に向かって九二の陽に相応するので、占辞は「元亨」と言います。卦辞中の「吉」の字に至っては、余った衍文です。
《彖》曰:「鼎」,象也。以木巽火,亨飪也。聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。亨,普庚反。飪,入甚反。以卦體二象釋卦名義,因極其大而言之。享帝貴誠,用犢而已。養賢則饔飧牢禮,當極其盛,故曰大亨。巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。上,時掌反。以卦象、卦變、卦體釋卦辭。《象》曰:木上有火,鼎,君子以正位凝命。鼎,重器也,故有正位凝命之意。凝,猶至道不凝之凝,《傳》所謂「協於上下,以承天休」者也。
《鼎》卦《彖伝》に言います。《鼎》とは、器物の象を取ります。木をもって火中に順入するは、これがすなわち烹煮です。聖人は牲物を烹煮して上帝を祭享し、また大規模に烹煮して聖賢を供養します。朱熹は「亨」(すなわち「烹」)を「普庚反」、「飪」を「入甚反」と注音し、この数句が卦体と上下の二象で卦名の含意を釈し、進んでその最大の者に就いて言を立てたものと指摘します。上帝を祭享するは誠敬を貴び、一頭の牛犢を用いれば足ります。賢人を供人を供養するは飲食牢牲の礼を備弁して、極めて豊盛たるべし。だから「大亨」と言います。《彖伝》が続いて言います。遜順にして耳目が聡明し、柔爻が上進して尊に居り、中位を得てまた陽剛に相応するので、大いに亨通します。朱熹は「上」を「時掌反」と注音し、この数句が卦象・卦変・卦体で卦辞を釈したものと指摘します。《大象伝》に言います。木の上に火あり、これがすなわち《鼎》であり、君子はこの象を取法し、自己の位分を端正し、受くる所の使命を凝定します。朱熹が解釈します。鼎は国家の重器なので、位分を端正し天命を凝定する意があります。「凝」は《中庸》の「苟も至徳に至らざれば、至道凝まらず」の「凝」の如く、すなわち《左伝》の言う所の「上下和協し、以て上天の美善の命を承受す」の意です。
初六,鼎顛趾,利出否,得妾以其子,無咎。出,尺遂反,又如字。否,音鄙。居鼎之下,鼎趾之象也,上應九四則顛矣。然當卦初,鼎未有實,而舊有否惡之積焉,因其顛而出之,則為利矣。得妾而因得其子,亦猶是也。此爻之象如此。而其占無咎,蓋因敗以為功,因賤以致貴也。《象》曰:「鼎顛趾」,未悖也。「利出否」,以從貴也。鼎而顛趾,悖道也。而因可出否以從貴,則未為悖也。從貴,謂應四,亦為取新之意。
《鼎》卦初六の爻辞に言います。鼎足が翻倒して、ちょうど中の汚穢を倒出するに便す。妾を娶りて彼女が子を生んだが因るが如く、過ちなし。「出」は「尺遂反」と読み、また本音に依りて読む可し。「否」は「鄙」と同じ音です。彼が解釈します。初六は鼎の最下に居り、鼎足の象です。それが上は九四と相応し、牽引されて上がり、鼎は翻倒します。ただしまさに一卦の初に当たり、鼎中はまだ食物を装せず、旧日の汚穢を積存し、翻倒に乗じて汚穢を倒出すれば、却って好事となります。妾を娶りまたこれに因りて子を得るは、道理も同じです。この一爻の象はこのようで、占断は過ちなし。それが能く失敗を借りて功用を成就し、卑賤を借りて尊貴に達するからです。初六《小象伝》に言います。「鼎顚趾」は、なお悖理と算えません。「利出否」は、尊貴に順従するためです。朱熹が解釈します。鼎にして足を翻倒するは、本来悖理の事です。ただしこれに乗じて汚穢を倒出して尊貴に順従できるならば、悖理と算えません。いわゆる「従貴」とは、それが上に九四に応ずるを指し、同時にまた旧を除き新を取るの意を含みます。
九二,鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。仇,音求。以剛居中,鼎有實之象也。我仇,謂初。陰陽相求而非正,則相陷於惡而為仇矣。二能以剛中自守,則初雖近,不能以就之,是以其象如此。而其占為如是,則吉也。《象》曰:「鼎有實」,慎所之也。「我仇有疾」,終無尤也。有實而不慎其所往,則為仇所即而陷於惡矣。
《鼎》卦九二の爻辞に言います。鼎中に食物を装満し、我と偶を為すあの一位は毛病あり、来たりて我に靠近すること能わず、吉利。「仇」は「求」と同じ音です。彼が解釈します。九二は陽剛をもって下卦の中に居り、まさに鼎中に実有るの象です。「我仇」とは初六を指します。陰と陽が互相に求合して正道に合せざれば、一同に悪行に陥入して怨偶となります。九二は能く陽剛をもって中を守りて自持すれば、ならば初六は貼近すれども、靠攏して上がること能わず。だから爻象はこのようです。占断はすなわち、このようであれば吉利。九二《小象伝》に言います。「鼎有実」は、自己の去向に謹慎すべし。「我仇有疾」は、終に過失ありません。朱熹が補充します。鼎中に実物有りて自己の去向に謹慎せざれば、あの怨偶に靠上されて一同に悪行に陥入します。
九三,鼎耳革,其行塞,雉膏不食,方雨虧悔,終吉。行,下孟反。塞,悉則反。以陽居鼎腹之中,本有美實者也。然以過剛失中,越五應上,又居下之極,為變革之時,故為鼎耳方革,而不可舉移。雖承上卦文明之腴,有雉膏之美,而不得以為人之食。然以陽居陽,為得其正,苟能自守,則陰陽將和,而失其悔矣。占者如是,則初雖不利,而終得吉也。《象》曰:「鼎耳革」,失其義也。
《鼎》卦九三の爻辞に言います。鼎耳に変故が発生し、鼎は搬動できず、肥美の野鶏肉は食べられません。陰陽が和洽して雨が降るを待って、悔恨は減損し、最終は吉利。「行」は「下孟反」、「塞」は「悉則反」と読みます。彼が解釈します。九三は陽爻をもって鼎腹の中に居り、本来美好の実物有る一爻です。ただしそれは剛強に過ぎて中道を失い、六五を越えて上九に応じ、また下卦の頂点に処し、まさに変革の時に当たるので、鼎耳が剛だ変故し鼎が抬移できぬの象があります。それは上卦の文明の豊腴を承接すれども、野鶏肉のような美味有るも、持ちて人に食用せしむること能わず。ただしそれは陽爻をもって陽位に居りてその正を得、ただ能く自守すれば、陰陽は終に調和し、悔恨も消失します。占う人がもしこのようであれば、ならば起初は不利なれども、最終はなお吉を得られます。九三《小象伝》に言います。「鼎耳革」は、それが応有の義理を失ったことを言います。
九四,鼎折足,覆公飠束,其形渥,凶。折,之舌反。覆,方服反。飠束,送六反。渥,乙角反。晁氏曰「形渥」,諸本作「刑屋刂」,謂重刑也。今從之。九四居上,任重者也,而下應初六之陰,則不勝其任矣。故其象如此,而其占凶也。《象》曰:「覆公飠束」,信如何也!言失信也。
《鼎》卦九四の爻辞に言います。鼎が脚を折断し、王公の美食を打翻し、鼎身は汚濁に満ち、凶険。「折」は「之舌反」、「覆」は「方服反」、「飠束」(すなわち「餗」の字、源本は二字に拆す)は「送六反」、「渥」は「乙角反」と読み、また晁説之の説を引きます。「形渥」は諸本子中で「刑屋刂」(すなわち「刑剭」)と作り、重刑を指し、今この講法に依従します。彼が解釈します。九四は上卦に居り、重任を担当する一爻ですが、下に向かって初六の陰に応合すれば、ならばこの重任に承当し切れません。だから爻象はこのようで、占断はすなわち凶。九四《小象伝》に言います。「覆公餗」、このような信用はまた何たるか。朱熹が解釈します。これは彼が信用を失ったことを言います。
六五,鼎黃耳、金鉉,利貞。鉉,玄典反。五於象為耳,而有中德,故云黃耳。金,堅剛之物。鉉,貫耳以舉鼎者也。五虛中以應九二之堅剛,故其象如此,而其占則利在貞固而已。或曰,金鉉以上九而言,更詳之。《象》曰:「鼎黃耳」,中以為實也。
《鼎》卦六五の爻辞に言います。鼎に黄色の鼎耳と金属の挙鼎の横杠を配して、正固を守持するに利あり。「鉉」は「玄典反」と読みます。彼が解釈します。第五爻は鼎象中で鼎耳の位置で、六五はまた居中の徳を具備するので、「黄耳」と言います。「金」は堅剛の物、「鉉」は鼎耳を穿りて鼎を挙げる横杠です。六五は中心が虚静にして九二の堅剛に相応するので、爻象はこのようで、占断はただ正固を堅守するに在るのみ。ある人はまた「金鉉」は上九に就いて言うと言い、この点はなお詳考を要します。六五《小象伝》に言います。「鼎黄耳」とは、それが居中の徳をもって内在の充実とすることを言います。
上九,鼎玉鉉,大吉,無不利。上於象為鉉,而以陽居陰,剛而能溫。故有玉鉉之象,而其占為大吉,無不利。蓋有是德,則如其占也。《象》曰:玉鉉在上,剛柔節也。
《鼎》卦上九の爻辞に言います。鼎に玉制の挙鼎の横杠を配して、大いに吉利、不利なきことなし。朱熹が解釈します。最上の一爻は鼎象中で鉉の位置で、上九は陽爻をもって陰位に居り、剛強の中にまた温潤の能あり。だから玉鉉の象あり、占断はすなわち大吉にして利なからざるなし。ただこのような剛柔相済の徳行を具備すれば、応験は占辞の言う所のようになります。上九《小象伝》に言います。玉鉉が高く上に居るは、剛と柔が相互に調節して宜しきを得るからです。
震卦(しん)
震下,震上。震:亨。震來□□,笑言啞啞,震驚百里,不喪匕鬯。□,許逆反。啞,烏客反。喪,息浪反。匕,必以反。鬯,敕亮反。震,動也。一陽始生於二陰之下,震而動也。其象為雷,其屬為長子。震有亨道。震來,當震之來時也。□□,恐懼驚顧之貌。震驚百里,以雷言。匕,所以舉鼎實。鬯,以禾鉅黍酒和鬱金,所以灌地降神者也。不喪匕鬯,以長子言也。此卦之占,為能恐懼則致福,而不失其所主之重。
《震》卦は下体が震、上体もまた震です。卦辞に言います。「震卦、亨通。驚雷が来る時、人々は皆恐懼して四顧し、隨後また談笑自若とし、雷声は百里の遠を震驚するも、主祭の人は匕と鬯をも失手して掉落せず。」(爻辞と注文中の「虩虩」の二字は源本に脱漏し、ここで□をもって標出します。)朱熹は「虩」を「許逆反」、「啞」を「烏客反」、「喪」を「息浪反」、「匕」を「必以反」、「鬯」を「敕亮反」と注音します。彼が解釈します。「震」とは震動です。一つの陽爻が二つの陰爻の下より始めて生じ、奮発して動くので、震と言います。その象は雷で、家人中では長子に属します。震はそれ自体が亨通の道を含みます。「震来」とは、まさに雷震が到来する時を言います。「虩虩」とは恐懼驚顧の様です。「震驚百里」とは、雷声に就いて言います。「匕」は鼎中より祭肉を取出す匙、「鬯」は黒黍の酒を鬱金草を調和して制成し、以て地を灌ぎ神を降すに用いる香酒です。「不喪匕鬯」とは、長子が主祭するに就いて言います。この一卦の占断は、能く心に恐懼を存すれば福佑を招来して、自己が主持する重任を失掉に至りません。
《彖》曰:「震」,亨。震有亨道,不待言也。「震來□□」,恐致福也。「笑言啞啞」,後有則也。恐致福,恐懼以致福也。則,法也。「震驚百里」,驚遠而懼邇也。出,可以守宗廟社稷,以為祭主也。程子以為,「邇也」下脫「不喪匕鬯」四字,今從之。出,謂繼世而主祭也。或云「出」即「鬯」字之誤。《象》曰:洊雷,震,君子以恐懼修省。洊,在薦反。省,悉井反。
《震》卦《彖伝》に言います。「震、亨。」朱熹が解釈します。震はそれ自体に亨通の道有り、これは多く言うを待たず。《彖伝》が続いて言います。「震来虩虩」は、恐懼に因りて福佑を招来します。「笑言啞啞」とは、隨後行事に法度有りてこそ。朱熹が解釈します。いわゆる「恐致福」とは、心に恐懼を存することに因りて福を得ることです。「則」とはすなわち法度です。《彖伝》がまた言います。「震驚百里」は、遠方を震驚して近処の人を戒懼せしめます。長子が出でて承継すれば、宗廟社稷を守護し、祭祀の主を為すことができます。朱熹が言います。程頤は「懼邇也」の下に「不喪匕鬯」の四字が脱落したと考え、今この説法に依従します。「出」とは先世を承継して祭祀を主持することを指し、ある人は「出」はすなわち「鬯」の字の誤と言います。《大象伝》に言います。雷声が接続して至る、これがすなわち《震》であり、君子はこの象を取法し、心に恐懼を懐いて自己を修養省察します。朱熹は「洊」を「在荐反」、「省」を「悉井反」と注音します。
初九,震來□□,後笑言啞啞,吉。成震之主,處震之初,故其占如此。《象》曰:「震來□□」,恐致福也。「笑言啞啞」,後有則也。六二,震來,厲,億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。躋,子西反。六二乘初九之剛,故當震之來而危厲也。「億」字未詳。又當喪其貨貝,而升於九陵之上。然柔順中正,足以自守,故不求而自獲也。此爻占具象中,但九陵、七日之象,則未詳耳。
《震》卦初九の爻辞に言います。驚雷が来る時、恐懼して四顧し、その後また談笑自若として、吉利。朱熹が解釈します。初九は震卦を構成する主爻で、また震動の開端に処するので、占断はこのようです。初九《小象伝》に言います。「震来虩虩」は、恐懼に因りて福佑を招来します。「笑言啞啞」とは、隨後行事に法度有ることを言います。六二の爻辞に言います。驚雷が襲来して、危険あり。銭財を喪失せんとするを估量して、ただ高き山陵に登るのみ。追尋するに及ばず、七天の後に自ら失い復た得ます。「躋」は「子西反」と読みます。彼が解釈します。六二は初九の陽剛の上に凌駕するので、雷震が来臨する時に危厲の象あり。「億」の字の意思はまだ明らかでなく。この時それはまた自己の貨財貝幣を喪失して、九重の山陵の上に登りて避難します。ただし六二は柔順にして中に居りて正を得、以て自守するに足るので、求めに往かずとも自然に失い復た得ます。この一爻の占断はすなわち爻象の中に包含され、ただ「九陵」「七日」のこの二つの象は、朱熹は自己まだ弄清楚していないと言います。
《象》曰:「震來,厲」,乘剛也。六三,震蘇蘇,震行無眚。蘇蘇,緩散自失之狀。以陰居陽,當震時而居不正,是以如此。占者若因懼而能行,以去其不正,則可以無眚矣。《象》曰:「震蘇蘇」,位不當也。
《象伝》が六二を釈して言います。爻辞が「震来、厲」と講ずるは、六二が陰柔の質をもって初九の陽剛の上に騎り、柔が剛に乗るので、危険です。六三の爻辞に言います。雷震が伝来して、人は涣散恍惚と現れ、もし能く震懼の中に動き起これば、災眚を招致しません。「蘇蘇」とは緩慢涣散、所有るを失うが如き様です。六三は陰爻をもって陽位に居り、まさに雷震の時に当たりて処する所が正でないので、この失措の状を呈します。占う人がもしこの一份の恐懼を借りて振作行動し、自己身上の不正の処を除き去れば、災眚を免れられます。《象伝》に言います。「震蘇蘇」の情状が出現する所以は、六三の爻位が不当だからです。
九四,震遂泥。泥,乃計反。以剛處柔,不中不正,陷於二陰之間,不能自震也。遂者,無反之意。泥,滯溺也。《象》曰:「震遂泥」,未光也。六五,震往來,厲,億無喪,有事。喪,息浪反。以六居五,而處震時,無時而不危也。以其得中,故無所喪而能有事也。占者不失其中,則雖危無喪矣。《象》曰:「震往來,厲」,危行也。其事在中,大無喪也。
九四の爻辞に言います。雷震は一往して泥淖の中に陥落します。「泥」はここで去声(乃計反)に読みます。九四は陽剛の爻をもって陰柔の位に処し、中に居らず正も得ず、六三・六五の二つの陰爻の間に陥り、自己はもはや震動し起これません。「遂」とは一去返らぬ意、「泥」は滞留沉溺です。《象伝》に言います。「震遂泥」とは、九四の陽徳がまだ光輝を発することができないことを言います。六五の爻辞に言います。雷震は一来一往して、皆危険あり。ただ度量が得当であれば喪失する所有なく、なお照常に祭祀の事を主持できます。「喪」は去声(息浪反)に読みます。六のこの陰爻をもって五のこの陽位に居り、またまさに雷震の時に当たり、一刻も危険中に処せざるなし。幸いにそれは上卦の中に居るので、何かを失わずになお作為する所有ることができます。占う人はただ中道を守りて偏せざれば、処境は危険なれども、喪失する所有りません。《象伝》に言います。「震往来、厲」とは、行動の中に危険を帯びることを言います。六五の主ずる事は皆中道に帰するので、大体において喪失はありません。
上六,震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎。婚媾有言。索,桑落反。矍,俱縛反。以陰柔處震極,故為索索、矍矍之象,以是而行,其凶必矣。然能及其震未及其身之時,恐懼修省,則可以無咎,而亦不能免於婚媾之有言。戒占者當如是也。《象》曰:「震索索」,中未得也。雖凶無咎,畏鄰戒也。中,謂中心。
上六の爻辞に言います。雷震の下に歩が瑟縮し、眼神が驚惶して四顧し、この時に出行すれば必ず凶。雷震はまだ自己身上に打至らず、ただ隣居の処に打ったのみで、これに因りて警惕できれば過ちなくできますが、婚姻の家には些かの閑話を免れません。「索」は桑落反、「矍」は倶縛反に読みます。上六は陰柔の質をもって雷震の極点に処するので、歩が瑟縮し目光が驚顧する象あり。この様を帯びて行動すれば、凶険は必然です。しかしもし震動がまだ自己身上に落至せぬ時に乗じて、戒懼の心を懐いて検点修省すれば、過ちなくできますが、ただなお姻親の間の一些の議論を免れません。これは占う人がこのように自処すべきことを告戒します。《象伝》に言います。「震索索」が出現するは、上六の内心がまだ真に主宰を得ていないからです。本来は凶なれども過ちを免れ得るは、それが隣人が震を受くるを見て戒懼する所を知ったからです。ここの「中」とは、心中を指します。
艮卦(ごん)
艮下,艮上。艮其背,不獲其身,行其庭,不見其人,無咎。艮,止也。一陽止於二陰之上,陽自下升,極上而止也。其象為山,取坤地而隆其上之狀,亦止於極而不進之意也。其占則必能止於背而不有其身,行其庭而不見其人,乃無咎也。蓋身,動物也,唯背為止。艮其背,則止於所當止也。止於所當止,則不隨身而動矣,是不有其身也。如是,則雖行於庭除有人之地,而亦不見其人矣。蓋艮其背而不獲其身者,止而止也,行其庭而不見其人者,行而止也。動靜各止其所,而皆主夫靜焉,所以得無咎也。
この卦は内卦が艮、外卦も艮です。卦辞に言います。自己の背に止息すれば、この身軀を覚察せず。自己の家庭院を走り過ぐるも、庭中の人を見ず。このようであれば過ちなし。「艮」の意思は止です。一つの陽爻が二つの陰爻の上に止まり、陽気は下より上に向かって升り、最高処に升りて即ち停住するので、「止」の義を取ります。その卦象は山で、坤卦の大地が上面に隆起して高聳の形を成すを取り、同様に極点に至りて即ちもはや前進せぬ意を含みます。その占断は、必ず能く背に止まりて自身に執着せず、庭院を走り過ぐって庭中の人を見ざってこそ、過ちなくできます。人の身体は動く物で、ただ背のみが静にして動かざるものです。「其の背を艮ず」とは、すなわち止まるべき処に止まることです。止まるべき処に止まれば、身体と一同に妄動に随うことなく、これがすなわち「其身を獲ず」です。この一歩を做到すれば、たとい庭院台階のような人往来の場所を行くも、照様に人を見ません。「其の背を艮じて其身を獲ず」とは、静止の時に静止を守ることです。「其の庭を行きて其の人を見ず」とは、行動の時に依然として静止を守ることです。動と静が各自それが止まるべき位置に止まり、而して皆静を以て主宰とするので、能く過ちなくできます。
《彖》曰:「艮」,止也。時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。此釋卦名。艮之義則止也。然行止各有其時,故時止而止,止也;時行而行,亦止也。艮體篤實,故又有光明之義。大畜於艮,亦以輝光言之。
《彖伝》に言います。「艮」の意思は止です。停まるべき時に即ち停まり、走るべき時に即ち走り、一動一静が皆その時機を錯過しない、このような道路は自然に光明です。この一段は卦名を釈します。艮の字義は固然として「止」ですが、行と止は各自その時機あり。だから時機が止すべきにして止まるは、固然として止であり、時機が行すべきにして行動するも、同様に止です。それが止まるべき分位の上に止まることです。艮卦の卦体は篤厚堅実なので、「止」の外にまた光明の義を含みます。《大畜》卦の上体もまた艮で、《彖伝》は同様に「輝光」をもってそれを形容します。
「艮其止」,止其所也。上下敵應,不相與也,是以「不獲其身,行其庭,不見其人,無咎」也。此釋卦辭。易「背」為「止」,以明背即止也。背者,止之所也。以卦體言,內外之卦,陰陽敵應而不相與也。不相與,則內不見己,外不見人,而無咎矣。晁氏云:「‘艮其止’,當依卦辭作‘背’。」
《彖伝》が続いて言います。「艮其止」とは、それが止まるべき処に止まることです。この卦は上下両体の爻位が相同で相応すること能わず、彼此交わらないので、卦辞はこそ「不獲其身、行其庭、不見其人、無咎」と講じます。この一段は卦辞を釈します。《彖伝》は卦辞の「背」の字を「止」の字に換え、まさに背はすなわち止なりと点明せんとするものです。背は、身上のあの止息して動かざる部位です。卦体より見れば、内卦と外卦の初と四、二と五、三と上の各爻の陰陽属性は相同で、「敵応」に属し「正応」ではないので、互いに交与しません。互いに交与しなければ、内に向かって自己を見ず、外に向かって他人を見ず、ここにおいて過ちなし。宋人の晁説之は考えます。《彖伝》中の「艮其止」は、卦辞に依って「艮其背」と作るべきです。
《象》曰:兼山,艮,君子以思不出其位。初六,艮其趾,無咎,利永貞。以陰柔居艮初,為艮趾之象。占者如之,則無咎。而又以其陰柔,故又戒其利永貞也。《象》曰:「艮其趾」,未失正也。
《象伝》に言います。二つの山が重畳して相並ぶ、これがすなわち《艮》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、思慮は自己が処する職位を越出すべからず。初六の爻辞に言います。足趾を止めて妄動せず、過ちなく、長久に正固を守持するに宜し。初六は陰柔の爻をもって艮卦の最下位に居るので、足趾を止める象あり。占う人がもしそれに像って挙歩の初めに止まることができれば、過ちなくできます。ただしそれは質地が陰柔で動揺し易いので、また長久に正を守るに宜しきを告戒します。《象伝》に言います。「其の趾を艮ず」とは、初六がまだ正道を失っていないことを言います。
六二,艮其腓,不拯其隨,其心不快。拯,之凌反。六二居中得正,既止其腓矣。三為限,則腓所隨也,而過剛不中以止乎上。二雖中正,而體柔弱,不能往而拯之,是以其心不快也。此爻占在象中,下爻放此。《象》曰:「不拯其隨」,未退聽也。三止乎上,亦不肯退而聽乎二也。
六二の爻辞に言います。小腿部を止め、上挙して自己が跟随するあの一部を救助する能わず、心が痛快せず。「拯」は之凌反に読みます。六二は下卦の中に居りてまた当位して正を得、すでに小腿を止めました。九三は腰際に居り、小腿が跟随する部位ですが、それは剛強に過ぎてまた中に居らず、硬に上頭に止まろうとします。六二は中正なれども、体質が柔弱で、力なくして上がりて九三を救助する能わず。だから心中快からず。この一爻の占断はすでに爻象の中に包含され、以下の各爻もこの例に照らして見ます。《象伝》に言います。「其の随を拯わず」は、九三が退譲して命に聴くに肯じないからです。九三は上に止まり、また退き下りて六二に聴従するに肯じません。
九三,艮其限,列其夤,厲熏心。夤,引真反。限,身上下之際,即腰胯也。夤,膂也。止於腓,則不進而已。九三,以過剛不中,當限之處,而艮其限,則不得屈伸,而上下判隔,如列其夤矣。危厲熏心,不安之甚也。《象》曰:「艮其限」,危熏心也。六四,艮其身,無咎。以陰居陰,時止而止,故為艮其身之象,而占得無咎矣。《象》曰:「艮其身」,止諸躬也。
九三の爻辞に言います。腰際を強行に止めて、以て脊背の筋肉が撕裂され開くが如く、危厲の感は烈火が心を熏るが如し。「夤」は引真反に読みます。「限」とは身体の上下が交界する処、すなわち腰胯です。「夤」は脊を夾する膂肉です。小腿に止まるは、ただもはや前進せざるのみ。九三は過剛にして中に居らざる質をもって、まさに腰際のこの部位に当たり、硬に腰を止死せしめれば、人は屈伸できず、上身下身が彼此隔絶して、脊筋が撕裂するが如し。危厲の情が心に熏灼するは、極度に不安の様です。《象伝》に言います。「其の限を艮ず」、だから危厲が心を熏ります。六四の爻辞に言います。整个の身軀を止めて、過ちなし。六四は陰爻をもって陰位に居り、止まるべき時に即ち止まるので、身軀を止める象あり、占断はここにおいて過ちなし。《象伝》に言います。「其の身を艮ず」は、自己のこの一身を皆止めたことです。
六五,艮其輔,言有序,悔亡。六五當輔之處,故其象如此,而其占悔亡也。悔,謂以陰居陽。《象》曰:「艮其輔」,以中正也。「正」字羨文,叶韻可見。上九,敦艮,吉。以陽剛居止之極,敦厚於止者也。《象》曰:敦艮之吉,以厚終也。
六五の爻辞に言います。自己の口頬を管住し、言を発するに条理有次序あり、悔恨消失。六五はまさに口頬の部位に当たるので、このような爻象を取り、占断は悔恨消失。いわゆる「悔」とは、それが陰爻をもって陽位に居りて本当に悔あるべきを指します。《象伝》に言います。能く「其の輔を艮ず」は、六五が上卦の中に居るからです。その中の「正」の字は余った衍文で、叶韻の上より即ち見えます。上九の爻辞に言います。敦厚篤実に止道を守って、吉。上九は陽剛の質をもって止の極処に居り、「止」の上で最も敦厚に為した一爻です。《象伝》に言います。「敦艮」が吉なる所以は、それが能く敦厚をもってその事を終わるからです。
漸卦(ぜん)
艮下,巽上。漸:女歸吉,利貞。漸,漸進也。為卦止於下,而巽於上,為不遽進之義,有女歸之象焉。又自二至五,位皆得正,故其占為女歸吉,而又戒以利貞也。《彖》曰:漸之進也,女歸吉也。「之」字疑衍,或是「漸」字。進得位,往有功也,進以正,可以正邦也。以卦變釋利貞之意。蓋此卦之變,自《渙》而來,九進居三,自《旅》而來,九進居五,皆為得位之正。其位,剛得中也。以卦體言,謂九五。止而巽,動不窮也。以卦德言,漸進之義。
この卦は内卦が艮、外卦が巽です。卦辞に言います。《漸》卦は女子の出嫁を主として吉、正固を守持するに宜し。「漸」とは循序漸進です。卦体に就いて言えば、下体は艮止で上体は巽順で、急で冒進せぬ意を含むので、女子が礼に按って出嫁する象あり。さらに九二より九五に至るまで、各爻は皆当位して正を得るので、占断は女子の出嫁は吉利、同時にまた正を守ってこそ利ありと告戒します。《彖伝》に言います。漸卦の前進は、女子の出嫁の如く吉です。その中の「之」の字は衍文と疑われ、或いは本来「漸」の字たるべし。《彖伝》が続いて言います。前進して応有の位置を得、前に往けば功業を成就できます。正道に依って進めば、邦国を匡正できます。これは卦変をもって卦辞「利貞」の用意を釈します。この卦の卦変は、《渙》卦より見れば、《渙》の九二が上進して第三位に居り。《旅》卦より見れば、《旅》の九四が上進して第五位に居り、両者とも当位の正を得ます。《彖伝》がまた「其位、剛得中也」と言うは、これは卦体に就いて講じ、九五の陽剛が中に居りて位を得るを指します。更に言う「止而巽、動不窮也」は、これは卦徳に就いて講じ、下止上順・循序漸進の義を説明します。
《象》曰:山上有木,漸,君子以居賢德善俗。二者皆當以漸而進。疑「賢」字衍,或「善」下有脫字。初六,鴻漸于干,小子厲,有言,無咎。鴻之行有序而進有漸。乾,水涯也。始進於下,未得所安,而上覆無應,故其象如此。而其占則為小子厲,雖有言,而於義則無咎也。《象》曰:小子之厲,義無咎也。
《象伝》に言います。山上に樹木が長ずる、これがすなわち《漸》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、自身の徳行を蓄養し、一方の風俗を改善します。この二件は皆必ず循序漸進してこそ成就できます。「賢」の字は衍文と疑われ、或いは「善」の字の下に字が脱漏したか。初六の爻辞に言います。鴻雁が漸次に水辺に飛至り、年幼の者は危険あり、一些の言語を招来するも、過ちなし。鴻雁の飛行には次序あり、前進に節度あり。「干」は水辺です。初六は剛だ下より進身して、まだ安頓の処を見得ず、上にはまた正応に依るべきなし。だからこのような爻象を取ります。その占断は、小子の如く処境が危殆で、議論を招来すれども、道義に就いて言えば過ちなし。《象伝》に言います。小子の危殆は、道義の上に過ちなし。
六二,鴻漸于盤,飲食衎衎,吉。衎,苦旦反。盤,大石也。漸遠於水,進於盤而益安矣。衎衎,和樂意。六二柔順中正,進以其漸,而上有九五之應,故其象如此,而占則吉也。《象》曰:「飲食衎衎」,不素飽也。素飽,如《詩》言「素餐」。得之以道,則不為徒飽,而處之安矣。
六二の爻辞に言います。鴻雁が漸次に大磐石に飛上り、飲食は安和快楽、吉。「衎」は苦旦反に読みます。「盤」は大石頭です。鴻雁は水を離れて漸く遠く、磐石の上に進めばいっそう安穏です。「衎衎」とは和悦快楽の様です。六二は柔順にしてまた中に居りて正を得、前進が漸進の節に合し、上にはまた九五がそれに正応するので、このような爻象を取り、占断は吉。《象伝》に言います。「飲食衎衎」は、それが白白に享受するのでないからです。「素飽」の説法は、《詩経・魏風・伐檀》の講ずる「素餐」の如く、功なくして禄を受くるを指します。得る所が正道より来れば、白喰白飲と算えず、この位置に処して自然に安穏です。
九三,鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶,利禦寇。復,房六反。鴻,水鳥,陸非所安也。九三過剛不中而無應,故其象如此。而其占夫征則不復,婦孕則不育,凶莫甚焉。然以其過剛也,故利禦寇。《象》曰:「夫征不復」,雖群丑也。「婦孕不育」,失其道也。利用禦寇,順相保也。離,力智反。
九三の爻辞に言います。鴻雁が漸次に高平の陸地に飛至り、丈夫は遠征して一去帰らず、妻子は懐孕して生養する能わず、凶。ただ外寇を抵御するに宜し。「復」は房六反に読みます。鴻は水鳥で、陸地はそれが安身する所ではありません。九三は剛強に過ぎて中位に居らず、上にはまた正応なし。だからこのような爻象を取ります。その占断は、丈夫が出征すれば即ち返回せず、妻子が受孕すれば即ち育つ能わず、凶険はこれより甚だしきなし。ただしまさにそれが過剛なので、以て寇難を抵御するに却って利あり。《象伝》に言います。「夫征不復」とは、それが身は衆類の中に在るも群を離れて偶を失うを言います。「婦孕不育」とは、それが夫婦の正道を失ったを言います。以て寇を御るに宜しとは、上下が順従して彼此保全することを言います。「離」はここで力智反に読みます。
六四,鴻漸于木,或得其桷,無咎。桷,音角。鴻不木棲。桷,平柯也。或得平柯,則可以安矣。六四乘剛而順巽,故其象如此。占者如之,則無咎也。《象》曰:「或得其桷」,順以巽也。九五,鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。陵,高阜也。九五居尊,六二正應在下,而為三四所隔,然終不能奪其正也。故其象如此,而占者如是,則吉也。《象》曰:「終莫之勝,吉」,得所願也。
六四の爻辞に言います。鴻雁が漸次に樹木に飛上り、或いは一根の平展の枝幹を得て落脚すれば、過ちなし。「桷」は音「角」と同じ。鴻雁は本来樹上に棲まず、「桷」は平直の横枝です。偶然に一枝の平枝を得れば、また以て安身できます。六四は九三の陽剛の上に凌駕するも、本身は柔順にして巽徳に合するので、このような爻象を取ります。占う人がもしそれに像って柔順をもって自処すれば、過ちなくできます。《象伝》に言います。「或いは其の桷を得る」は、それが柔順にしてまた卑巽たる能くするからです。九五の爻辞に言います。鴻雁が漸次に高丘に飛上り、妻子は三年懐孕する能わざるも、終にそれに勝る者なく、吉。「陵」は高き土山です。九五は尊位に居り、六二はそれの下の正応で、中間は九三・六四に隔断されるも、終にこの一対の正応の情を奪い去る能わず。だからこのような爻象を取り、占う人が処境このようであれば吉。《象伝》に言います。「終莫之勝、吉」とは、最終に願う所を得遂することを言います。
上九,鴻漸于陸;其羽可用為儀,吉。胡氏、程氏皆云:「‘陸’當作‘逵’,謂雲路也。」今以韻讀之,良是。儀,羽旄旌纛之飾也。上九至高,出乎人位之外,而其羽毛可用以為儀飾。位雖極高,而不為無用之象,故其占為如是則吉也。《象》曰:「其羽可用為儀,吉」,不可亂也。漸進愈高,而不為無用。其志卓然,豈可得而亂哉。
上九の爻辞に言います。鴻雁が漸次に高処に飛上り、その羽毛は以て儀仗の装飾に用うる可し、吉。宋儒の胡瑗と程頤は皆ここの「陸」は「逵」と作るべきと考え、雲中の通路を指し、今韻脚に按って読むに、この説法は確実に誤らず。「儀」とは羽旄・旌旗・大纛の類の儀仗装飾です。上九は位が最高処に在り、すでに六爻中の人が居る位置の外に超出し、しかもその羽毛はなお持ちて儀飾を為すことができます。地位は極高なれども、用いる所なきの境地に落入せず。だから占断は処境このようであれば吉。《象伝》に言います。「其の羽は用いて儀と為す可し、吉」は、それが擾乱される可からざるからです。漸進する愈々高ければ、愈々無用の物と変じず。このように卓然として自立する志向は、誰が擾乱し得よう。
帰妹卦(きまい)
兌下,震上。歸妹:征凶,無攸利。婦人謂嫁曰歸。妹,少女也。兌以少女而從震之長男,而其情又為以說而動,皆非正也,故卦為歸妹。而卦之諸爻,自二至五,皆不得正,三五又皆以柔乘剛,故其占征凶,而無所利也。
この卦は内卦が兌、外卦が震です。卦辞に言います。《帰妹》は少女を嫁出することを主とし、前往すれば凶、利益する所なし。婦人が出嫁するを「帰」と称し、「妹」は少女です。兌は少女と為して震の代表する長男に追随し、両情はまた喜悦に因りて躁動する、これは皆正礼に合せず。だからこの卦の名を《帰妹》と言います。さらに卦中の六二より六五の四爻を見れば、全く当位して正を得ず、六三と六五はまた皆陰柔をもって陽剛の上に騎る。だから占断は前往すれば凶、獲利すべき所なし。
《彖》曰:「歸妹」,天地之大義也。天地不交,而萬物不興。歸妹,人之終始也。釋卦名義也。歸者,女之終,生育者,人之始。說以動,所歸妹也。說,音悅。又以卦德言之。「征凶」,位不當也。「無攸利」,柔乘剛也。又以卦體釋卦辭。男女之交,本皆正理,唯若此卦,則不得其正也。
《彖伝》に言います。少女が出嫁するは、天地間の大義です。天地の陰陽が相交合せざれば、万物は興起する由なく。女子が出嫁するは、まさに人倫の終結点と起始点です。これは卦名の義理を釈します。出嫁は女子が娘家の一段の生命の終結で、児女を生養するは人類の新たな一代の開始です。《彖伝》がまた「説以動、所帰妹也」と言うは、「説」は「悦」と読み、これは卦徳の上より講じます。下体の兌は喜悦、上体の震は動で、喜悦に因りて躁動するので、嫁ぐは少女です。更に言う「征凶」は爻位が不当、「无攸利」は陰柔が陽剛に凌駕する、これもまた卦体をもって卦辞を釈します。男女の相配は本来皆正理で、ただこの卦の如くであれば、その正当性を得られません。
《象》曰:澤上有雷,歸妹,君子以永終知敝。雷動澤隨,歸妹之象。君子觀其合之不正,知其終之有敝也。推之事物,莫不皆然。初九,歸妹以娣,跛能履,征吉。娣,音弟。跛,波我反。初九,居下而無正應,故為娣象。然陽剛在女子為賢正之德,但為娣之賤,僅能承助其君而已,故又為跛能履之象,而其占則征吉也。《象》曰:「歸妹以娣」,以恆也。「跛能履」,吉相承也。恆,謂有常久之德。
《象伝》に言います。沢上に雷が響く、これがすなわち《帰妹》卦の卦象であり、君子はこれより結局を遠く見て、その中の弊敗を予知します。雷が一たび動けば沢水が随って蕩漾するは、まさに少女が長男に随って嫁ぐの象です。君子はこの結合が端正でないを見て、それが到頭に必ず敗壊あることを知ります。天下の事物に推し広めて、この如しでないことなし。初九の爻辞に言います。少女を嫁出して陪嫁の媵妾の身份をもって随行し、跛脚の人がなお行走できるが如く、前往すれば吉。「娣」は音「弟」と同じ、「跛」は波我反に読みます。初九は全卦の最下位に居りて正応なく、だから媵妾の象を取ります。ただし陽剛の質は女子にとっては賢良守正の徳行で、ただ身份が低下して媵と為り、僅かに正妻を承事輔助するのみなので、また跛脚してなお路を行けるの象を取り、占断はすなわち前往は吉利。《象伝》に言います。「帰妹以娣」は、彼女に恒常の徳あるからです。「跛能履」にして吉なるは、彼女が能く承奉輔助するからです。いわゆる「恒」とは、長久に変わらぬ徳行を具備することです。
九二,眇能視,利幽人之貞。眇能視,承上爻而言。九二陽剛得中,女之賢也。上有正應,而反陰柔不正,乃女賢而配不良,不能大成內助之功,故為眇能視之象,而其占則利幽人之貞也。幽人,亦抱道守正而不偶者也。《象》曰:「利幽人之貞」,未變常也。
九二の爻辞に言います。眼が偏盲してなお見える、幽居の人の如く正固を守持するに宜し。「眇能視」は初九の「跛能履」の比喻を承接して言い下したものです。九二は陽剛にして下卦の中に居り、女子中の賢者を比喩します。上には六五がそれに正応有るけれど、六五は陰柔にして当位せず、これがすなわち女が賢にして配偶が不良、内助の功を充分に成就する由なし。だから一眼が偏盲してなお物を視られるの象を取り、占断はすなわち幽居の士の如く正を守るに宜し。いわゆる「幽人」とは、すなわち道義を懐抱し正道を守持して佳偶を得ぬ人です。《象伝》に言います。「利幽人之貞」は、彼女が自己の一貫の常德を改変していないからです。
六三,歸妹以須,反歸以娣。六三,陰柔而不中正,又為說之主。女之不正,人莫之取者也,故為未得所適,而反歸為娣之象。或曰:須,女之賤者。《象》曰:「歸妹以須」,未當也。九四,歸妹愆期,遲歸有時。九四,以陽居上體而無正應,賢女不輕從人,而愆期以待所歸之象,正與六三相反。《象》曰:愆期之志,有待而行也。
六三の爻辞に言います。少女を嫁出してただ等待するのみ、反ってまた媵妾の身份をもって出嫁します。六三は陰柔にして中に居らず正も得ず、なお下体の兌卦の喜悦の主爻です。女子の行為が端正でなければ、彼女を娶るに願う人なし。だから一時に帰宿を見得ず、反って退回して陪嫁の媵を為すの象を取ります。また一説あり。「須」は身份が卑賤の女子を指す。《象伝》に言います。「帰妹以須」は、彼女が処する所が恰当でないからです。九四の爻辞に言います。少女を嫁出して婚期を錯過し、遅く出嫁して自らそれの時有り。九四は陽爻をもって上体に居りて正応なく、まさに賢徳の女子が軽易に人に許すを肯じず、寧ろ婚期を延誤して合適の帰宿を等待する象で、恰好として六三と相反します。《象伝》に言います。婚期を延誤する心志は、等待する所有りて後に行動せんとします。
六五,帝乙歸妹,其君之袂,不如其娣之袂良。月幾望,吉。袂,彌計反。六五,柔中居尊,下應九二,尚德而不貴飾,故為帝女下嫁而服不盛之象。然女德之盛,無以加此,故又為月幾望之象。而占者如之,則吉也。《象》曰:「帝乙歸妹」,「不如其娣之袂良」也,其位在中,以貴行也。以其有中德之貴而行,故不尚飾。上六,女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。刲,苦圭反。上六以陰柔居歸妹之終而無應,約婚而不終者也。故其象如此,而於占為無所利也。《象》曰:上六「無實」,承虛筐也。
六五の爻辞に言います。商王の帝乙が少女を嫁出し、この嫡出の君女の衣袖は、却って陪嫁の媵妾の衣袖の華美に如かず。月は将に円かならんとして未だ円かならず、吉。「袂」は弥計反に読みます。六五は柔順にして中に居りて尊位に処し、下は九二に相応し、徳行を崇尚して装飾を看重せず。だから帝王の女が下嫁して服飾が盛美でないの象を取ります。しかし女徳の盛は、能くこの一爻に超える者なし。だからまた月が将に満ちんとして未だ満ちぬの象を取ります。占う人が処境このようであれば吉。《象伝》に言います。「帝乙帰妹」にして「其の娣之袂良に如かず」は、六五が上卦の中に位居し、尊貴の身份を凭って出嫁するからです。まさに彼女が居中の徳のこの真の尊貴を帯びて行するからこそ、外表の装飾を講究せず。上六の爻辞に言います。女子が捧ぐる竹筐の中は空しく一物なく、男子は羊を宰して血を放つこと能わず、利益する所なし。「刲」は苦圭反に読みます。上六は陰柔の質をもって《帰妹》卦の終点に処して正応なく、婚約を訂したれども終に成す能わざる一類に属します。だからこのような爻象を取り、占断の上ではすなわち利する所なし。《象伝》に言います。上六のいわゆる「無実」は、一只の空筐を捧ぐることです。
豊卦(ほう)
離下,震上。豐:亨,王假之,勿憂,宜日中。假,更白反。豐,大也。以明而動,盛大之勢也,故其佔有亨道焉。然王者至此,盛極當衰,則又有憂道焉。聖人以為徒憂無益,但能守常,不至於過盛則可矣,故戒以勿憂,宜日中也。
この卦は内卦が離、外卦が震です。卦辞に言います。《豊》卦は亨通し、王者はこの境地に達することができ、憂慮に足らず、正午の太陽の如くあるべし。「假」はここで更白反に読み、「至」の意です。「豊」は盛大です。光明の徳をもって動くは、まさに盛大の気勢なので、その占断の中に亨通の道を含みます。しかし王者が一旦この一歩に至れば、盛極すれば即ち衰に転ずべく、ここにおいてまた憂うべき処を生じます。聖人は白白に憂愁しても用なしと考え、ただ能く常度を守りて、それをして盛が頭を過ぎせしめなければよい。だから憂うに足らずと告戒し、日中の盛を守るべしと言います。
《彖》曰:「豐」,大也。明以動,故豐。以卦德釋卦名義。「王假之」,尚大也。「勿憂,宜日中」,宜照天下也。釋卦辭。日中則昃,月盈則食。天地盈虛,與時消息,而況於人乎,況於鬼神乎?此又發明卦辭外意,言不可過中也。
《彖伝》に言います。「豊」とはすなわち盛大。光明に因りて後に行動するので、盛大を致す能くします。これは卦徳をもって卦名の義理を釈します。下体の離は明、上体の震は動です。《彖伝》がまた「王假之」と言うは盛大を崇尚し、「勿憂、宜日中」とは、光明をもって天下を普照すべきで、これは卦辞を釈します。続いて言います。太陽は正午に至れば即ち西に斜し、月は円満すれば即ち亏蝕します。天地間の盈満と虚欠はなお時節に随って消長するに、いわんや人に於て、いわんや鬼神に於てをや。この一層はまた卦辞の言外の意を発揮し、凡事皆中道を超過すべからざるを説明します。
《象》曰:雷電皆至,豐,君子以折獄致刑。折,之舌反。取其威照並行之象。初九,遇其配主,雖旬無咎,往有尚。配主,謂四,旬,均也,謂皆陽也。當豐之時,明動相資,故初九之遇九四,雖皆陽剛,而其占如此也。《象》曰:「雖旬無咎」,過旬災也。戒占者不可求勝其配,亦爻辭外意。
《象伝》に言います。雷と電が一斉に至る、これがすなわち《豊》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、獄訟を断決し刑罰を施行すべし。「折」は之舌反に読み、断決の義です。ここで取るは威勢と明照が並行する象です。震雷は威、離電は明です。初九の爻辞に言います。自己と相配するあの一位に遇い、両者は均等なれども過ちなく、前往すれば褒揚を受けます。「配主」とは九四を指し、「旬」は均等で、両爻が同じく陽剛なことを言います。まさに豊盛の時に当たり、明と動が互相に憑借するので、初九が九四に遇い、同じく陽爻にして正応を成さざるも、占断は依然このようです。《象伝》に言います。「雖旬無咎」、この均等の分を超過すれば災あり。これは占う人に己れの仲伴に勝るを求めてはならぬことを告戒し、同様に爻辞の言外の意です。
六二,豐其蔀,日中見斗,往得疑疾,有孚發若,吉。蔀,音部。六二居豐之時,為離之主,至明者也。而上應六五之柔暗,故為豐蔀見斗之象。蔀,障蔽也。大其障蔽,故日中而昏也。往而從之,則昏暗之主,必反見疑,唯在積其誠意以感發之,則吉。戒占者宜如是也。虛中,有孚之象。《象》曰:「有孚發若」,信以發志也。
六二の爻辞に言います。遮蔽の物が甚だ大きく、正午の時分に竟に北斗星を見る。前往すれば猜疑の患を招来し、ただ誠信をもって相手を感発してこそ吉。「蔀」は音「部」と同じ。六二はまさに豊盛の時に当たり、また下体の離卦の主爻で、最も光明の一爻です。しかしそれが上に応ずる六五は陰柔昏暗なので、遮蔽が厚重にして白昼に星を見るの象あり。「蔀」とは障蔽の物で、障蔽が拡大したので、正午が反って昏黒です。前往して六五に追随すれば、この昏暗の主は必ず反って自己を猜疑します。ただ不断に誠意を積累して彼を感動啓発してこそ、吉です。これは占う人がこのように行事すべきことを告戒します。六二の爻画の中は虚で、まさに「有孚」の象です。《象伝》に言います。「有孚発若」とは、誠信をもって相手の心志を啓発することです。
九三,豐其沛,日中見沬,折其右肱,無咎。沬、昧同,莫佩反。折,食列反。沛,一作「旆」,謂幡幔也,其蔽甚於蔀矣。沬,小星也。三處明極,而應上六,雖不可用,而非咎也。故其象占如此。《象》曰:「豐其沛」,不可大事也。「折其右肱」,終不可用也。九四,豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。《象》與六二同。夷,等夷也,謂初九也。其占為當豐而遇暗主,下就同德則吉也。《象》曰:「豐其蔀」,位不當也。「日中見斗」,幽不明也。「遇其夷主」,吉行也。
九三の爻辞に言います。天を遮る幔帳が甚だ大きく張り、正午の時分に細かい星子さえ見え、また右臂を折断するも、過ちなし。「沬」は「昧」と同じく、莫佩反に読み、「折」は食列反に読みます。「沛」は一本では「旆」と作り、旗幡帷幔を指し、その遮蔽の程度は「蔀」よりもっと甚だし。「沬」は微小の星です。九三は離卦の光明の極点に処し、応ずる所の上六は却って陰柔の極で、任用に堪えざるも、その罪過と算えません。だからこのような象と占を取ります。《象伝》に言います。「豊其沛」とは、大事を為すべからざるを言います。「折其右肱」とは、終に用に派れないを言います。九四の爻辞に言います。遮蔽の物が甚だ大きく、正午の時分に北斗を見、自己と対等のあの一位に遇い、吉。その爻象は六二と相同。「夷」は同輩・匹敵で、初九を指します。その占断は、豊盛の時に処して昏暗の君に遇い、転じて下に向かって自己と同徳の人に親就すれば吉。《象伝》に言います。「豊其蔀」は、九四の爻位が不当だからです。「日中見斗」は、幽暗にして明らかでないからです。「遇其夷主」は、すなわち吉利の行動です。
六五,來章,有慶譽,吉。質雖柔暗,若能來致天下之明,則有慶譽而吉矣。蓋因其柔暗而設此以開之。占者能如是,則如其占矣。《象》曰:六五之吉,有慶也。上六,豐其屋,蔀其家,窺其戶,闃其無人,三歲不覿,凶。闃,苦具鳥反。以陰柔居豐極,處動終,明極而反暗者也。故為豐大其屋而反以自蔽之象。無人、不覿,亦言障蔽之深,其凶甚矣。《象》曰:「豐其屋」,天際翔也。「窺其戶,闃其無人」,自藏也。藏,謂障蔽。
六五の爻辞に言います。文采有る賢才を招来すれば、福慶と美誉有りて、吉。六五の資質は柔弱昏暗なれども、もし能く天下の光明の士を招引して来れば、福慶美誉を得て吉です。これはそれが柔暗の毛病に対して、特にこの一説を立ててそれを開導するものです。占う人がもしこのようにできれば、この占断に応験できます。《象伝》に言います。六五が吉なる所以は、福慶有るからです。上六の爻辞に言います。房屋を極めて高大に蓋して、却って自己の家を遮蔽し、門縫より窺看すれば、寂静として一人もなく、三年も人を見ず、凶。「闃」は苦具反に読みます。上六は陰柔の質をもって豊盛の極点に処し、また震動の終点に居り、光明が尽頭に至りて反転して昏暗となる一爻です。だから屋宇を造りて高大にして、却って自己を遮蔽するの象を取ります。いわゆる無人・不見も、また障蔽が深すぎ、凶険が極点に至ったことを言います。《象伝》に言います。「豊其屋」は、高きこと天辺に翱翔するが如し。「窺其戸、闃其無人」は、自己が自己を蔵したことです。ここの「蔵」とは、すなわち障蔽の意です。
旅卦(りょ)
艮下,離上。旅:小亨,旅貞吉。旅,羇旅也。山止於下,火炎於上,為去其所止而不處之象,故為旅。以六五得中於外,而順乎上下之二陽,艮止而離麗於明,故其占可以小亨,而能守其旅之貞,則吉。旅非常居,若可苟者。然道無不在,故自有其正,不可須臾離也。
この卦は内卦が艮、外卦が離です。卦辞に言います。《旅》卦は小有亨通し、客旅の人が能く正を守れば吉。「旅」とは覊旅して外に在ることです。山が静止して下に在り、火が昇騰して上に在り、火は原の処に留まるに肯じず、まさに止まる所の地を離れて安居するに肯じぬ象なので、《旅》と名づけます。六五は外卦の中に居り、柔順に上下の二つの陽爻を承接し、艮の卦徳は止、離の卦徳は光明に附麗するを加えるので、占断は小有亨通でき、而して覊旅中の応有の正道を守る能くすれば、吉です。覊旅は長久の居処ではなく、随分に対付してよいが如く見えます。しかし道は処に在らざるなく、だから覊旅の中にも自らそれの正道あり、一刻も離るべからず。
《彖》曰:「旅,小亨」,柔得中乎外而順乎剛,止而麗乎明,是以「小亨,旅貞吉」也。以卦體、卦德釋卦辭。旅之時義大矣哉。旅之時為難處。《象》曰:山上有火,旅,君子以明慎用刑,而不留獄。慎刑如山,不留如火。
《彖伝》に言います。「旅、小亨」とは、柔爻が外卦に於て中を得て陽剛に順従し、内は止にして外は光明に附麗するので、「小亨、旅貞吉」と言います。これは同時に卦体と卦徳をもって卦辞を釈します。卦体の上では六五が柔にして中を得て九四・上九に順承することを指し、卦徳の上では艮止・離明を指します。《彖伝》がまた讃嘆して言います。覊旅の時の意義は大きいです。これは覊旅の際は最も自処し難いためです。《象伝》に言います。山上に火が燃ゆる、これがすなわち《旅》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、明察慎重に刑罰を動用し、案件を積圧滞留せしめぬべし。刑罰を慎むは山の如く穏重にして遷らず、案件を滞留せぬは火の如く迅速にして停まらず。
初六,旅瑣瑣,斯其所取災。當旅之時,以陰柔居下位,故其象占如此。《象》曰:「旅瑣瑣」,志窮災也。六二,旅即次,懷其資,得童僕貞。即次則安,懷資則裕,得其童僕之貞信,則無欺而有賴,旅之最吉者也。二有柔順中正之德,故其象占如此。《象》曰:「得童僕貞」,終無尤也。
初六の爻辞に言います。客旅の人が猥瑣卑屑なるは、これがまさに彼が自ら災禍を取る処です。まさに覊旅の時に当たり、それは陰柔の質をもって最下の位置に処するので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。「旅瑣瑣」は、心志が窮困してここにおいて災を招くことです。六二の爻辞に言います。客旅の人が旅舎に住み入れ、懐裡に盤纏を帯び、なお童僕の忠貞可靠を得ます。旅舎に住み入れれば安頓し、盤纏を帯びれば寛裕し、童僕の忠信を得れば、欺瞞されずして依頼する所有り、これは覊旅の中の最も吉利の処境です。六二は柔順中正の徳を具備するので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。「得童僕貞」は、終に怨尤の有ることなし。
九三,旅焚其次,喪其童僕,貞厲。喪,息浪反。《象》同。過剛不中,居下之上,故其象占如此。喪其童僕,則不止於失其心矣。故貞字連下句為義。《象》曰:「旅焚其次」,亦以傷矣。以旅與下,其義喪也。以旅之時,而與下之道如此,義當喪也。
九三の爻辞に言います。客旅の人が自己の旅舎を焼掉し、童僕を失い、この一套を守りて下れば危険あり。「喪」は去声(息浪反)に読み、《象伝》中の「喪」の字もこの読に同じ。九三は剛強に過ぎて中に居らず、また下卦の頂端に高踞するので、このような象と占を取ります。すでに童僕さえ失掉した以上、ならば人心を失うのみならず。ここにおいて爻辞中の「貞」の字は下の「厲」の字に連ねて解すべく、此の道を固守すれば危を言います。《象伝》に言います。「旅焚其次」は、本身がすでに損傷です。覊旅の中に於てこの態度をもって下人に対待すれば、情理に按れば即ち彼らを失うべし。身は覊旅の時に当たりて、下人と相处する方式が竟にこのようであれば、道義に按れば本来彼らを丢掉すべし。
九四,旅于處,得其資斧,我心不快。以陽居陰,處上之下,用柔能下,故其象占如此。然非其正位,又上無剛陽之與,下唯陰柔之應,故其心有所不快也。《象》曰:「旅于處」,未得位也。「得其資斧」,心未快也。
九四の爻辞に言います。客旅の人が暫く安身の処有り、また盤纏と利斧を備下するも、我が心は痛快せず。九四は陽爻をもって陰位に居り、また上卦の最下に処し、能く柔道を用い人の下に屈居するに肯んずるので、このような象と占を取ります。しかしこれは畢竟それが当に得るべき正位ではなく、上にはまた陽剛の友があって結交すべきなく、下に応ずる初六はただ陰柔の質のみ。だから心中は総じて快からざる有り。《象伝》に言います。「旅于処」は、まだ応有の位置を得ていないことです。「得其資斧」、心は依然として痛快せず。
六五,射雉,一矢亡,終以譽命。射,石亦反。雉,文明之物,離之象也。六五柔順文明,又得中道,為離之主,故得此爻者,為射雉之象。雖不無亡矢之費,而所喪不多,終有譽命也。《象》曰:「終以譽命」,上逮也。上逮,言其譽命聞於上也。上九,鳥焚其巢,旅人先笑後號咷,喪牛于易,凶。喪、易,並去聲。上九過剛,處旅之上,離之極,驕而不順,凶之道也。故其象占如此。《象》曰:以旅在上,其義焚也。「喪牛于易」,終莫之聞也。
六五の爻辞に言います。野鶏を射て、一支の箭を損失し、最終は却ってこれに因りて美誉と爵命を獲得す。「射」は石亦反に読みます。野鶏は文采有る禽鳥で、まさに離卦の象徴です。六五は柔順にして文明の徳を具え、また上卦の中に居りて中道を得、離卦の主爻なので、この爻を占得した人は雉を射るの象あり。一支の箭の費耗を失うを免れざるも、損失は大きくなく、最終はなお声譽と任命を得られます。《象伝》に言います。「終以誉命」は、名声が上は君に達することです。いわゆる「上逮」とは、その声譽と爵命が上位に在る者の耳に伝わったを言います。上九の爻辞に言います。鳥児の巣が焼掉し、覊旅の人は先ず歓笑し後に号啕に大哭し、辺邑で軽易に牛を喪失し、凶。「喪」と「易」は皆去声に読みます。上九は剛強に過ぎ、《旅》卦の最上位・離卦の極点に処し、驕縦にして柔順ならず、まさに凶険に走向する路子なので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。覊旅に身を処して人の上に高踞するは、情理に按ればその巣は焚毀さるべし。「喪牛于易」とは、到頭には消息さえ聞き得られないを言います。
巽卦(そん)
巽下,巽上。巽:小亨,利有攸往,利見大人。巽,入也。一陰伏於二陽之下,其性能巽以入也,其象為風,亦取入義。陰為主,故其占為小亨;以陰從陽,故又利有所往。然必知所從,乃得其正,故又曰利見大人也。
この卦は内外両体とも巽です。卦辞に言います。《巽》卦は小有亨通し、往く所有るに宜しく、大人に会見するに宜し。「巽」は進入です。一つの陰爻が二つの陽爻の下に潜伏し、その性は能く卑順にして深入し、その卦象は風で、風は孔に入らざるなく、同様に「入」の意を取ります。この卦は陰爻を以て主とするので、占断はただ小有亨通。陰柔をもって陽剛に追随するので、また往く所有るに宜しと言います。ただし必ず誰に追随すべきかを知ってこそ、その正道を得られます。だからまた大人に会見するに宜しと言います。
《彖》曰:重巽以申命,釋卦義也。巽順而入,必究乎下,命令之象。重巽,故為申命也。剛巽乎中正而志行,柔皆順乎剛,是以「小亨,利有攸往,利見大人」。以卦體釋卦辭。剛巽乎中正而志行,指九五。柔,謂初四。《象》曰:隨風,巽,君子以申命行事。隨,相繼之義。
《彖伝》に言います。上下二つの巽が相重なる、だから反復して政令を申明します。これは卦義を釈します。巽の徳性は柔順にして深入し、必ず下層に貫徹する能くし、まさに命令を発布する象です。二つの巽が相畳なる、だから一再して申明します。《彖伝》がまた言います。陽剛が中正の位に順処して心志が行を得、各個の陰柔は皆陽剛に順従するので、卦辞は「小亨、利有攸往、利見大人」と講じます。これは卦体をもって卦辞を釈します。「剛巽乎中正而志行」とは九五を指し、「柔」とは初六と六四を指します。《象伝》に言います。一陣の風にまた一陣の風が接ぐ、これがすなわち《巽》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、反復して政令を申明して後に政事を推行すべし。「随」とは前後が相継ぐ意です。
初六,進退,利武人之貞。初以陰居下,為巽之主,卑巽之過,故為進退不果之象。若以武人之貞處之,則有以濟其所不及,而得所宜矣。《象》曰:「進退」,志疑也。「利武人之貞」,志治也。九二,巽在床下,用史、巫紛若,吉,無咎。二以陽處陰而居下,有不安之意。然當巽之時,不厭其卑,而二又居中,不至已甚,故其占為能過於巽,而丁寧煩悉其辭,以自道達,則可以吉而無咎,亦竭誠意以祭祀之吉占也。《象》曰:紛若之吉,得中也。
初六の爻辞に言います。一時は進み一時は退き、主意を決めず、武人の如き剛正を取るに宜し。初六は陰爻をもって全卦の最下位に居り、下体の巽卦の主爻で、卑順が頭を過ぎたので、進退が決せぬの象あり。もし能く武人の剛毅守正をもって自処すれば、それが欠缺する果断を補足して、以て宜しきに合することができます。《象伝》に言います。「進退」とは、心志が疑慮して定まらぬことです。「利武人之貞」とは、心志がこれに因りて整治を得たことです。九二の爻辞に言います。床の下に卑伏し、祝史・巫覡を任用して反復して禱告し、吉、過ちなし。九二は陽爻をもって陰位に処してまた下体に居り、不安の意を含みます。ただしまさに巽順の時に当たり、その卑下を嫌わず、また九二は下卦の中に居りて、なおあまりに過分に至らず。だから占断は、たとい卑順が頭を過ぎても、ただ反復して叮嚀し、話を周詳詳尽に言い、自己の心意を上に通達せしめれば、吉にして過ちなくできます。これは同時にまた誠意を竭くして祭祀を挙行する吉占です。《象伝》に言います。反復して禱告して吉を得るは、九二が中に居るからです。
九三,頻巽,吝。過剛不中,居下之上,非能巽者,勉為屢失,吝之道也,故其象占如此。《象》曰:頻巽之吝,志窮也。六四,悔亡,田獲三品。陰柔無應,承乘皆剛,宜有悔也。而以陰居陰,處上之下,故得悔亡,而又為卜田之吉占也。三品者,一為乾豆,一為賓客,一以充庖。《象》曰:「田獲三品」,有功也。
九三の爻辞に言います。一再して勉強に卑順の様を做出し、憾惜あり。九三は剛強に過ぎて中に居らず、また下卦の頂に高踞し、本来能く卑順する人ではなく、勉強して為しても屢々失当するは、憾惜に走向する路子なので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。「頻巽」にして憾惜を致すは、心志がすでに窮尽したからです。六四の爻辞に言います。悔恨消失、田猟に三類の獲物を獲得す。六四は陰柔にして正応なく、上は九五を承け下は九三に乗じ、皆陽剛なので、本当に悔あるべし。しかしそれは陰爻をもって陰位に居り、また上卦の最下に処するので、悔恨を消失せしめ、しかも田猟を占問する吉兆と為る能くします。いわゆる「三品」とは、一份は干肉を制成して祭祀に供し、一份は以て賓客を款侍し、一份は廚房を充実します。《象伝》に言います。「田獲三品」は、功效有り。
九五,貞吉,悔亡,無不利。無初有終。先庚三日,後庚三日,吉。先,西薦反。後,胡豆反。九五,剛健中正,而居巽體,故有悔,以有貞而吉也,故得亡其悔而無不利。有悔,是無初也,亡之,是有終也。庚,更也,事之變也。先庚三日,丁也,後庚三日,癸也。丁,所以丁寧於其變之前,癸,所以揆度於其變之後。有所變更而得此占者,如是則吉也。《象》曰:九五之吉,位正中也。
九五の爻辞に言います。正を守れば吉、悔恨消失、不利なし。起頭は順ならず、結局は円満。庚の日の前の三天・庚の日の後の三天に行事すれば、吉。「先」は西荐反、「后」は胡豆反に読み、皆動詞に用います。九五は剛健中正なるも、巽順の体に身を処するので、本に悔あり。能く正を守るに因りて吉を得、ここにおいて悔恨は消解し、利なからざるなし。悔有るはすなわち「無初」、悔が消解したはすなわち「有終」です。「庚」は変更の義有り、事情の更改を代表します。庚日の前の三天は丁日、庚日の後の三天は癸日です。「丁」は叮嚀の義を取り、変更の前に反復して申告します。「癸」は揆度の義を取り、変更の後に仔細に審察します。およそ改革変更有る而してこの爻を占得する人は、このように弁ずれば吉。《象伝》に言います。九五が吉なる所以は、その位置が端正にして中に居るからです。
上九,巽在床下,喪其資斧,貞凶。喪,息浪反。下同。巽在床下,過於巽者也。喪其資斧,失所以斷也。如是,則雖貞亦凶矣。居巽之極,失其陽剛之德,故其象占如此。《象》曰:「巽在床下」,上窮也。「喪其資斧」,正乎凶也。正乎凶,言必凶。
上九の爻辞に言います。床の下に卑伏し、盤纏と利斧を喪失し、この道を固守すれば凶。「喪」は去声(息浪反)に読み、下文もこれに同じ。床の下に卑伏するは、卑順があまりに頭を過ぎたものです。利斧を丢掉したは、以て決断する憑借を失ったことです。この地步に至っては、たとい正道を固守しても依然として凶です。上九は巽順の極点に処し、自己の陽剛の徳性を皆丢掉したので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。「巽在床下」は、上位に居りてすでに窮尽に至ったことです。「喪其資斧」は、まさに凶。いわゆる「正乎凶」とは、必ず凶なるを言います。
兌卦(だ)
兌下,兌上。兌:亨,利貞。兌,說也。一陰進乎二陽之上,喜之見乎外也。其象為澤,取其說萬物,又取坎水而塞其下流之象。卦體剛中而柔外,剛中故說而亨,柔外故利於貞。蓋說有亨道,而其妄說不可以不戒,故其占如此。又,柔外,故為說亨,剛中,故利於貞,亦一義也。
この卦は内外両体とも兌です。卦辞に言います。《兌》卦は亨通し、正固を守持するに宜し。「兌」は喜悦です。一つの陰爻が二つの陽爻の上に進出するは、喜悦の情が外に顕露したものです。その卦象は沢で、沢水が万物を滋潤し万物を欣悦せしめる義を取り、また坎水が下流を堵塞して水沢を積成した象を取ります。卦体に就いて言えば、陽剛が中に居りて陰柔が外に在り。剛が中に居る、だから能く喜悦して亨通します。柔が外に在る、だから正を守るに宜し。喜悦は本来亨通の道を含むも、あの軽浮妄悦の毛病は防範を加えざるべからず。だから占断はこのようです。また一説あり。柔が外に在る、だから喜悦して亨通し、剛が中に居る、だから正を守るに宜し。これもまた一つの講法です。
《彖》曰:「兌」,說也。說,音悅。下同。釋卦名義。剛中而柔外,說以利貞,是以順乎天而應乎人。說以先民,民忘其勞;說以犯難,民忘其死。說之大,民勸矣哉。先,西薦反,又如字。難,乃旦反。以卦體釋卦辭,而極言之。《象》曰:麗澤,兌,君子以朋友講習。兩澤相麗,互相滋益。朋友講習,其象如此。
《彖伝》に言います。「兌」とはすなわち喜悦。「説」はここで「悦」と読み、下文もこれに同じ。これは卦名の義理を釈します。《彖伝》が続いて言います。陽剛が中に居りて陰柔が外に在り、喜悦の道をもって正固を守持し、ここにおいて上は天理に順い下は人心に応じます。喜悦の道をもって百姓を領きて前に往かせれば、百姓は労苦を忘掉します。喜悦の道をもって彼らを帯いて難に赴かせれば、百姓は生死を忘掉します。喜悦の力は真に大きく、百姓はこれに因りて自ら相い勧勉します。「先」は西荐反に読み、また本音に依りて読む可し。「難」は乃旦反に読みます。この一段は卦体をもって卦辞を釈し、かつその意義を極処に推しました。《象伝》に言います。二つの沢が相連なる、これがすなわち《兌》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、朋友と一同に講論研習すべし。二片の水沢が彼此相接し、水気は互相に滋潤増益し、朋友の間の講論研習は、まさにこのような景象です。
初九,和兌,吉。以陽爻居說體,而處最下,又無繫應,故其象占如此。《象》曰:和兌之吉,行未疑也。居卦之初,其說也正,未有所疑也。九二,孚兌,吉,悔亡。剛中為孚,居陰為悔。占者以孚而說,則吉而悔亡矣。《象》曰:孚兌之吉,信志也。
初九の爻辞に言います。和順の心をもって人と相悦ばせば、吉。初九は陽爻をもって喜悦の卦体中に処し、また全卦の最下位に居り、上にも牽係相応の爻なし。だからこのような象と占を取り、一種の偏私せず刻意せざる和悦です。《象伝》に言います。「和兌」が吉なる所以は、その行為がまだ疑うべき処なきからです。それは一卦の初に処し、悦ぶ所が正しく、まだ疑惑を掺入せず。九二の爻辞に言います。誠信をもって人と相悦ばせば、吉、悔恨消失。陽剛が中に居るはすなわち「孚」で、陽爻をもって陰位に居れば本当に悔あるべし。占う人がもし誠信を凭って人と相悦ぶ能くすれば、吉にしてまた悔恨は消解します。《象伝》に言います。「孚兌」が吉なる所以は、心志が真誠にして信じ得るからです。
六三,來兌,凶。陰柔不中正,為兌之主,上無所應,而反來就二陽以求說,凶之道也。《象》曰:來兌之凶,位不當也。九四,商兌未寧,介疾有喜。四上承九五之中正,而下比六三之柔邪,故不能決,而商度所說,未能有定。然質本陽剛,故能介然守正,而疾惡柔邪也。如此則有喜矣。象占如此,為戒深矣。《象》曰:九四之喜,有慶也。
六三の爻辞に言います。反って下に向かって歓悦を求取すれば、凶。六三は陰柔にして中に居らず正も得ざるも、却って下体の兌卦の主爻です。上に応ずべき爻なく、反って頭を回らして初九・九二の二つの陽爻に親就して歓心を求取するは、凶険に走向する路子です。《象伝》に言います。「来兌」が凶なる所以は、その爻位が不当だからです。九四の爻辞に言います。反復して誰と相悦ぶべきかを掂量して心神寧らざるも、能く耿介に邪佞を厭悪すれば喜慶あり。九四は上は中正の九五を承接し、下はまた柔媚不正の六三に緊挨するので、ここにおいて決断し難く、誰に悦ぶべきかを掂量して定まらず。ただしそれの本質は陽剛なので、能く耿介に正を守りて柔邪を痛恨します。このようであれば喜慶あり。爻象と占断はこのようで、その中の告戒の意は深し。《象伝》に言います。九四の喜は、福慶有り。
九五,孚于剝,有厲。剝,謂陰能剝陽者也。九五,陽剛中正,然當說之時,而居尊位,密近上六。上六陰柔,為說之主,處說之極,能妄說以剝陽者也。故其占但戒以信於上六,則有危也。《象》曰:「孚于剝」,位正當也。與《履》九五同。上六,引兌。上六成說之主,以陰居說之極,引下二陽相與為說,而不能必其從也。故九五當戒,而此爻不言其吉凶。《象》曰:上六「引兌」,未光也。
九五の爻辞に言います。あの陽剛を剥蝕し得る一方を軽信すれば、危険あり。「剥」とは陰が能く陽を侵蝕剥落することを指します。九五は陽剛中正なるも、まさに喜悦の時に当たりて尊位に居り、上六に緊挨します。上六は陰柔で、喜悦を成就する主爻、喜悦の極点に処し、まさにあの能く諂媚妄悦をもって陽剛を剥蝕する角色です。だからその占断はただ告戒です。もし上六を信任しに往かば、危険あり。《象伝》に言います。「孚于剥」を警戒する所以は、九五が処する位置がまさに尊位・責任の所在だからです。これは《履》卦九五の説法と相同です。上六の爻辞に言います。他人を牽引して来て自己と相悦ばしめます。上六は喜悦を成就する主爻で、陰柔の質をもって喜悦の極点に居り、下の二つの陽爻を牽引して来て自己と共に悦ぶも、彼らをして一定に跟従せしめる把握なし。だから九五のあそこでは警戒を立て、この一爻の本身は却ってその吉凶を言いません。《象伝》に言います。上六の「引兌」は、なお光大と談ずるに足りず。
渙卦(かん)
坎下,巽上。渙:亨,王假有廟,利涉大川,利貞。渙,呼亂反。假,庚白反。渙,散也。為卦下坎上巽,風行水上,離披解散之象,故為渙。其變則本自《漸》卦,九來居二而得中,六往居三得九之位,而上同於四,故其占可亨。又以祖考之精神既散,故王者當至於廟以聚之。又以巽木坎水,舟楫之象,故利涉大川。其曰「利貞」,則占者之深戒也。
この卦は内卦が坎、外卦が巽です。卦辞に言います。《渙》卦は亨通し、王者が宗廟に親至して致祭し、大河を渡渉するに宜しく、正固を守持するに宜し。「渙」は呼乱反に読み、「假」は庚白反に読み、至の意です。「渙」は離散です。卦体に就いて言えば、下が坎で上が巽、風が水面上を吹行して、水波が披離して四散するので、《渙》と名づけます。卦変に就いて言えば、この卦は本《漸》卦より変来し、《漸》の九三が来たりて第二位に居りて中を得、六二が往きて第三位に居りて元の九の位置を占め、また六四と同じく陰柔にして上下相同なので、占断は亨通できます。また祖先の精神がすでに渙散したので、王者は宗廟に親到してそれを聚合すべきです。さらに巽は木、坎は水で、木が水上に行くはまさに舟楫の象なので、大河を渡渉するに宜し。卦辞の末に「利貞」と言うは、すなわち占う人への深き告戒です。
《彖》曰:「渙,亨」,剛來而不窮,柔得位乎外而上同。上,如字,又,時掌反。以卦變釋卦辭。「王假有廟」,王乃在中也。中,謂廟中。「利涉大川」,乘木有功也。《象》曰:風行水上,渙,先王以享于帝立廟。皆所以合其散。
《彖伝》に言います。「渙、亨」は、陽剛が来たりて下卦の中に居りて窮困に至らず、陰柔が外卦に於て相応の位置を得て上位の者と同心するからです。「上」は本音に依りて読み、また時掌反に読む有り。この一段は卦変をもって卦辞を釈します。《彖伝》がまた「王假有廟」と言うは、王者が宗廟の中に身在することです。ここの「中」とは廟中を指します。「利渉大川」と言うは、木船に乗りて水を渡れば成功する能くするを言います。《象伝》に言います。風が水面上を吹行する、これがすなわち《渙》卦の卦象であり、先王はこれより上帝を祭享し宗廟を建立しました。この二件は皆渙散した人心と神霊を重新に聚合するに用います。
初六,用拯,馬壯,吉。居卦之初,渙之始也。始渙而拯之,為力既易,又有壯馬,其吉可知。初六非有濟渙之才,但能順乎九二,故其象占如此。《象》曰:初六之吉,順也。九二,渙奔其機,悔亡。機,音幾。九而居二,宜有悔也,然當渙之時,來而不窮,能亡其悔者也,故其象占如此。蓋九奔而二機也。《象》曰:「渙奔其機」,得願也。
初六の爻辞に言います。以て拯救し、馬がまた強壮なれば、吉。初六は一卦の初に処し、まさに渙散が剛だ始まったばかりの時です。渙散が剛だ起こるに就いて拯救すれば、用力は本来容易、いわんやまた強壮の馬が用いる可き有れば、その吉利は推して知れます。初六は自己に済渙の才干なく、ただ能く九二に順従するのみ。だからこのような象と占を取ります。《象伝》に言います。初六が吉なる所以は、柔順だからです。九二の爻辞に言います。渙散の時に憑倚すべき几案に向かって奔り、悔恨消失。「机」は音「几」と同じ。陽爻をもって第二のこの陰位に居れば、本当に悔あるべし。しかしまさに渙散の時に当たり、それは来たりて下卦の中に居りて窮困に至らず、能く悔恨を消解する一爻なので、このような象と占を取ります。ここは九を以て奔走する者とし、二を以て倚る可き几とします。《象伝》に言います。「渙奔其机」は、心願が遂を得たことです。
六三,渙其躬,無悔。陰柔而不中正,有私於己之象也。然居得陽位,志在濟時,能散其私以得無悔,故其占如此。大率此上四爻,皆因渙以濟渙者也。《象》曰:「渙其躬」,志在外也。六四,渙其群,元吉,渙有丘,匪夷所思。居陰得正,上承九五,當濟渙之任者也。下無應與,為能散其朋黨之象。占者如是,則大善而吉。又言能散其小群以成大群,使所散者聚而若丘,則非常人思慮之所及也。《象》曰:「渙其群,元吉」,光大也。
六三の爻辞に言います。自身の私念を散去し、悔恨なし。六三は陰柔にして中に居らず正も得ず、自己に偏私する象あり。しかしそれが居る所は陽位で、心志はなお時の艱を救済するに在り、能く一己の私を散じて、ここにおいて悔なく得られます。だから占断はこのようです。大体に言えば、この一爻より上の四爻は、皆渙散の勢を借りて渙散を救治するものです。《象伝》に言います。「渙其躬」は、心志が身外の天下に在ることです。六四の爻辞に言います。自己の朋党を散じて、大吉。渙散の中に却って丘の如き大群を聚起すは、常人の能く想到する所にあらず。六四は陰爻をもって陰位に居りて正を得、上は九五を承接し、まさに済渙の重任を担当する人です。それが下に相応する党与なく、だから能く自己の朋党を解散する象あり。占う人がもしこのようにできれば、大いに善にして吉。爻辞がまた言います。能く小の朋党を散じてこそ大の団結を成就して、散じられた人を重新に聚合し堆積して丘の如くせしめるは、これは尋常の人の思慮の能く到達する所にあらず。《象伝》に言います。「渙其群、元吉」は、それが光明博大だからです。
九五,渙汗其大號,渙王居,無咎。陽剛中正,以居尊位。當渙之時,能散其號令,與其居積,則可以濟渙而無咎矣,故其象占如此。九五巽體,有號令之象。汗,謂如汗之出而不反也。渙王居,如陸贄所謂「散小儲而成大儲」之意。《象》曰:王居無咎,正位也。上九,渙其血去,逖出,無咎。去,起呂反。上九以陽居渙極,能出乎渙,故其象占如此。血,謂傷害。逖,當作「惕」,與《小畜》六四同。言渙其血則去,渙其惕則出也。《象》曰:「渙其血」,遠害也。遠,袁萬反。
九五の爻辞に言います。汗を発するが如く重大の号令を散布し、王者の積聚を散去し、過ちなし。九五は陽剛中正にして尊位に居ります。まさに渙散の時に当たり、能く号令を散布し下し、また能く宮中の储積を散発し出せば、渙散を救済して過ちに至らず。だからこのような象と占を取ります。九五は上体の巽卦に身を処し、巽は命令と為すので、号令を発施する象あり。いわゆる「汗」とは、号令が汗の如く発し出れば即ち收回すべからざるを言います。「渙王居」とは、唐代の陸贄の講ずる所の「小储を散じて大储を成す」の意の如し。《象伝》に言います。王者の積聚を散去して過ちなきは、九五が正位に居るからです。上九の爻辞に言います。傷害を散去して、遠く脱し出でて、過ちなし。「去」は起呂反に読みます。上九は陽爻をもって渙散の極点に居り、能く渙散の外に脱し出ずるので、このような象と占を取ります。「血」は傷害を指し、「逖」は「惕」と作るべく、《小畜》卦六四の用法と同じ。意思はあの傷害を散ずれば、傷害は離れ去り、あの憂懼を散ずれば、人は脱し出づる。《象伝》に言います。「渙其血」は、禍害を遠く避けることです。「遠」は袁萬反に読み、動詞に用います。
節卦(せつ)
兌下,坎上。節:亨,苦節,不可貞。節,有限而止也。為卦下兌上坎,澤上有水,其容有限,故為節。節固自有亨道矣。又其體陰陽各半而二五皆陽,故其占得亨。然至於太甚,則苦矣,故又戒以不可守以為貞也。
この卦は内卦が兌、外卦が坎です。卦辞に言います。《節》卦は亨通し、節制が苦しく言えぬ地步に至れば、固守して下るべからず。「節」とは限度有りて适可に止まることです。卦体に就いて言えば、下が兌で上が坎、水沢の上になお水を蓄え、而して沢の容量は限有るので、《節》と名づけます。節制は本来亨通の道を含みます。さらに卦体を見れば、陰爻陽爻は各々半を占め、九二・九五は皆陽爻が中に居るので、占断は亨通。しかし節制が一旦頭を過ぎれば、苦楚と変ずるので、卦辞はまたそれを以て正道と為して死守すべからざるを告戒します。
《彖》曰:「節,亨」,剛柔分而剛得中。以卦體釋卦辭。「苦節,不可貞」,其道窮也。又以理言。說以行險,當位以節,中正以通。說,音悅。又以卦德、卦體言之。當位、中正,指五。又坎為通。天地節而四時成,節以制度,不傷財,不害民。極言節道。《象》曰:澤上有水,節,君子以制數度,議德行。行,下孟反。
《彖伝》に言います。「節、亨」は、剛爻柔爻が各々半を占めて分布均匀で、陽剛がまた中に居りて位を得るからです。これは卦体をもって卦辞を釈します。また「苦節、不可貞」と言うは、あの路がすでに尽頭に走到したからで、これは義理の上より講じます。更に言う「説以行険、当位以節、中正以通」は、「説」は「悦」と読み、これは兼ねて卦徳と卦体をもって講じます。下の兌は悦、上の坎は険で、喜悦の心をもって険難に応付します。いわゆる「当位」「中正」は皆九五を指し、坎はここでまた通達の義を取ります。《彖伝》が最後に言います。天地は節度有りてこそ四時の運行を成就し、制度をもって節制すれば、財貨を損傷せず百姓を残虐せず。これは節制の道を極処まで推説したものです。《象伝》に言います。沢上に水を蓄う、これがすなわち《節》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、数量法度を制定し、徳行の標準を評議すべし。「行」は下孟反に読みます。
初九,不出戶庭,無咎。戶庭,戶外之庭也。陽剛得正,居節之初,未可以行,能節而止者也。故其象占如此。《象》曰:「不出戶庭」,知通塞也。塞,悉則反。九二,不出門庭,凶。門庭,門內之庭也。九二當可行之時,而失剛不正,上無應與,知節而不知通,故其象占如此。《象》曰:「不出門庭,凶」,失時極也。
初九の爻辞に言います。門外の庭院を出ず、過ちなし。「戸庭」とは屋門の外の庭院です。初九は陽剛にして当位して正を得、節制の卦の開端に処し、まだ行動できる時に及ばず、能く自我を節制して止まる一爻なので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。「不出戸庭」は、彼がいつ通すべきか・いつ塞ぐべきかを懂得するからです。「塞」は悉則反に読みます。九二の爻辞に言います。門内の庭院さえ出ず、凶。「門庭」とは大門の内の庭院です。九二はまさに行動できる時機に当たるも、陽爻をもって陰位に居りて剛正を失い、上にはまた相応する党与なく、ただ節制を知りて通変を知らず。だからこのような象と占を取ります。《象伝》に言います。「不出門庭、凶」は、時機を錯失して極点に錯ったことです。
六三,不節若,則嗟若,無咎。陰柔而不中正,以當節時,非能節者,故其象占如此。《象》曰:不節之嗟,又誰咎也?此「無咎」與諸爻異,言無所歸咎也。六四,安節,亨。柔順得正,上承九五,自然有節者也。故其象占如此。《象》曰:安節之亨,承上道也。九五,甘節,吉。往有尚。所謂當位以節,中正以通者也。故其象占如此。《象》曰:甘節之吉,居位中也。上六,苦節,貞凶,悔亡。居節之極,故為苦節。既處過極,故雖得正,而不免於凶。然禮奢寧儉,故雖有悔,而終得亡之也。《象》曰:「苦節,貞凶」,其道窮也。
六三の爻辞に言います。自己が節制するに肯じなければ、ならば悲嘆するのみで、これは怪罪すべき誰もなし。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、身は節制の時に当たりて能く節制する人ではないので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。節制を知らずして生ずる悲嘆は、なお誰を怪めましょう。ここの「無咎」はその他の各爻の用法と異なり、他人の身に怨むに及ばないことを言います。六四の爻辞に言います。安然として節制の中に処し、亨通。六四は柔順にして当位して正を得、上は九五を承接し、自然として節度に合する一爻なので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。「安節」が亨通する所以は、それが上に在る者の正道を承奉するからです。九五の爻辞に言います。甘美適中の節制は、吉。前に往けば褒揚を受けます。これがまさに《彖伝》の言う所の「当位以節、中正以通」なので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。「甘節」が吉なる所以は、九五が居る位が中を得るからです。上六の爻辞に言います。苦しく言えぬ節制は、固守すれば凶、ただし悔恨は終に消失できる。上六は節制の極点に処するので、「苦節」です。すでに頭を過ぎた以上、たとい当位して正を得ても、なお凶を免れません。ただし礼制の上では寧ろ倹朴に失すとも奢侈に失せず。だから悔恨有るも、終になおそれを消解し得られます。《象伝》に言います。「苦節、貞凶」は、この路がすでに窮尽したからです。
中孚卦(ちゅうふ)
兌下,巽上。中孚:豚魚吉,利涉大川,利貞。孚,信也。為卦二陰在內,四陽在外,而二五之陽,皆得其中。以一卦言之為中虛,以二體言之為中實,皆孚信之象也。又,下說以應上,上巽以順下,亦為孚義。豚魚,無知之物。又,木在澤上,外實內虛,皆舟楫之象。至信可感豚魚,涉險難,而不可以失其貞。故占者能致豚魚之應,則吉而利涉大川,又必利於貞也。
この卦は内卦が兌、外卦が巽です。卦辞に言います。《中孚》卦は誠信が小豕と魚に及べば吉、大河を渡渉するに宜しく、正固を守持するに宜し。「孚」とはすなわち誠信です。卦体に就いて言えば、二つの陰爻が内に在り、四つの陽爻が外に在り、而して九二・九五の二つの陽爻はまた皆上下卦の中に居ります。六爻を一個の整体と為して見れば、中間は空虚です。上下両体を分かちて見れば、各自の中爻はまた実です。中虚と中実は、皆誠信の象です。この外、下体の兌は喜悦をもって上に応じ、上体の巽は卑順をもって下に順い、同様に「孚」の意義に合します。「豚魚」は無知の物です。さらに木は沢水の上に浮かび、外実にして内虚で、皆舟船の象です。至誠は豚魚のような無知の物をも感動することができ、それを凭って険難を渡ることができますが、これに因りて正固を失掉してはいけません。だから占う人がもし豚魚さえ感応する誠信に達すれば、吉利にしてまた大河を渡渉するに宜しく、同時にまた必ず正を守ってこそ利ありです。
《彖》曰:「中孚」,柔在內而剛得中,說而巽,孚乃化邦也。說,音悅。以卦體、卦德釋卦名義。「豚魚吉」,信及豚魚也。「利涉大川」,乘木舟虛也。以卦象言。中孚以利貞。乃應乎天也。信而正,則應乎天矣。《象》曰:澤上有風,中孚,君子以議獄緩死。風感水受,中孚之象。議獄緩死,中孚之意。
《彖伝》に言います。《中孚》とは、陰柔が内に居り、陽剛が中に居りて位を得、下は悦にして上は順い、誠信はこれに因りて能く邦国を化育します。「説」は「悦」と読みます。これは兼ねて卦体と卦徳をもって卦名の義理を釈します。また「豚魚吉」と言うは、誠信が豚魚さえ感通したことです。「利渉大川」と言うは、中間が空虚の木船に乗りて水を渡ることで、これは卦象に就いて講じます。更に言う「中孚以利貞、乃応乎天也」とは、意思は誠信にしてまた端正なれば、天道と相応する能くします。《象伝》に言います。沢上に風が吹く、これがすなわち《中孚》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、獄案を審慎に評議し死刑を寛緩すべし。風が来たりて感動し、水が承受するは、まさに中孚が彼此感通する象です。獄案を評議し死刑を寛緩するは、まさに中孚が誠を推して人を待する意です。
初九,虞吉,有他,不燕。他,湯何反。當中孚之初,上應六四,能度其可信而信之,則吉。復有他焉,則失其所以度之之正,而不得其所安矣。戒占者之辭也。《象》曰:初九「虞吉」,志未變也。九二,鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡之。和,胡臥反。靡,亡池反。九二,中孚之實,而九五亦以中孚之實應之,故有鶴鳴子和、我爵爾靡之象。鶴在陰,謂九居二。好爵,謂得中。靡與縻同。言懿德人之所好,故好爵雖我之所獨有,而彼亦繫戀之也。《象》曰:「其子和之」,中心願也。
初九の爻辞に言います。事先に揣度審察すれば吉、もし別に他属有れば、安寧を得ず。「他」は湯何反に読みます。初九は《中孚》卦の開端に処し、上は六四と相応し、能く先ず相手が信じ可きかを掂量して後に彼を信任すれば、吉。もし心裡に別に別念を存すれば、当初の審度のあの端正を失掉して、安頓を得られません。これは占う人への告戒の話です。《象伝》に言います。初九の「虞吉」は、その心志がまだ改変していないからです。九二の爻辞に言います。鶴が樹蔭の下で鳴叫し、その幼雛は声に応えて相和す。我に一杯の美酒あり、願わくはあなたと共同に分かち享けん。「和」は胡卧反、「靡」は亡池反に読みます。九二は中孚の実徳の所在で、九五もまた中孚の実徳をもってそれに相応するので、鶴が鳴いて子が和す・美爵をもって相係戀するの象あり。「鶴在陰」とは、九のこの陽爻をもって第二のこの陰位に居るを指し、「好爵」とは、それが中に居りて位を得るを指します。「靡」は「縻」と同じく、牽係の義です。これは美好の徳行は人人の喜愛する所なので、この好爵は我一人の獨有といえども、相手も照様に戀戀として捨て難いを言います。《象伝》に言います。「其子和之」は、幼雛が内心より発する応和の願いです。
六三,得敵,或鼓或罷,或泣或歌。敵,謂上九,信之窮者。六三,陰柔不中正,以居說極,而與之為應,故不能自主。而其象如此。《象》曰:「或鼓或罷」,位不當也。六四,月幾望,馬匹亡,無咎。幾,音機。望,無方反。六四,居陰得正,位近於君,為月幾望之象。馬匹,謂初與己為匹,四乃絕之,而上以信於五,故為馬匹亡之象。占者如是,則無咎也。《象》曰:「馬匹亡」,絕類上也。上,上聲。
六三の爻辞に言います。匹敵の人に遇上して、ここにおいて一時は鼓を撃ちて進攻し、一時はまた停止し、一時は哭泣し、一時は歌唱します。「敵」とは上九を指し、あれは誠信が窮尽に走到した一爻です。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、下体の兌卦の喜悦の頂点に処し、また上九と結んで正応を成すので、自己は主を為す能わず、ここにおいてこのような反覆無常の象を呈します。《象伝》に言います。「或鼓或罷」は、六三の爻位が不当だからです。六四の爻辞に言います。月は将に円かならんとして未だ円かならず、自己と対を成す馬が失われるも、過ちなし。「幾」は音「机」と同じ、「望」は無方反に読みます。六四は陰爻をもって陰位に居りて正を得、位置は君主に緊靠着し、だから月が将に満ちんとして未だ満ちぬの象あり。いわゆる「馬匹」とは、初九が本来自己と配して一対を成したのに、六四はこの層の関係を断絶して、一心に上に向かって九五に信を取るので、馬匹が失去する象あり。占う人がもしこのようにすれば、過ちはありません。《象伝》に言います。「馬匹亡」は、同類を断絶して専心して上に向かうことです。「上」は上声に読み、動詞に用います。
九五,有孚攣如,無咎。攣,力圓反。九五,剛健中正,中孚之實,而居尊位,為孚之主者也。下應九二,與之同德,故其象占如此。《象》曰:「有孚攣如」,位正當也。上九,翰音登于天,貞凶。居信之極,而不知變,雖得其貞,亦凶道也。故其象占如此。雞曰翰音,乃巽之象。居巽之極,為登於天。雞非登天之物,而欲登天,信非所信,而不知變,亦猶是也。《象》曰:「翰音登于天」,何可長也!
九五の爻辞に言います。誠信を懐いて衆心を牽係して、過ちなし。「攣」は力円反に読み、牽連維繋の義です。九五は剛健中正で、中孚の実徳の所在であり、また尊位に居り、まさに誠信の主人です。それが下は九二と相応し、両爻が同じく中実の徳を具えるので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。「有孚攣如」は、九五が居る位置が端正得当だからです。上九の爻辞に言います。鶏の叫声が高く天に飛上る、固守すれば凶。上九は誠信の極点に処して変通を懂得せず、たといいわゆる正固を守住しても、依然として凶険に走向する路子なので、このような象と占を取ります。鶏は祭祀中で「翰音」と称し、まさに巽卦の象です。上九は巽の極に居るので、「天に登る」と言います。鶏は本来能く天に飛上る物ではないのに、天に飛上らんと欲し、本来信ずべからざる人事を信じてまた時に随って変通を知らぬは、道理はまさに同じです。《象伝》に言います。「翰音登于天」、このような情形はなんで長久できよう。
小過卦(しょうか)
艮下,震上。小過:亨,利貞。可小事,不可大事。飛鳥遺之音,不宜上,宜下,大吉。小,謂陰也。為卦四陰在外,二陽在內,陰多於陽,小者過也。既過於陽,可以亨矣。然必利於守貞,則又不可以不戒也。卦之二五,皆以柔而得中,故可小事。三四皆以剛失位而不中,故不可大事。卦體內實外虛,如鳥之飛,其聲下而不上,故能致飛鳥遺音之應,則宜下而大吉,亦不可大事之類也。
この卦は内卦が艮、外卦が震です。卦辞に言います。《小過》卦は亨通し、正固を守持するに宜し。小事を為す可く、大事を為す可からず。飛鳥が叫声を留下し、上に向かうに宜しからず、下に向かうに宜しく、大吉。「小」とは陰を指します。卦体に就いて言えば、四つの陰爻が外に在り、二つの陽爻が内に在り、陰が陽に多すぎるは、まさに「小者の過越」です。すでに陰がすでに陽を超過した以上、自ずから亨通できます。しかし必ず正を守ってこそ利ありなので、また告戒を加えざるを得ません。卦中の六二・六五は皆陰柔をもって上下卦の中に居るので、小事を為す可くします。九三・九四は皆陽剛にして位を失いまた中に居らないので、大事を為す可からず。卦体の中間の二爻は実、外面の四爻は虚で、鳥が飛ぶに好像し、その叫声は下に伝って上に飄まないので、能く飛鳥遺音の感応を招致します。下に向かうに宜しくして即ち大吉、これは同様に大事を為す可からざるの一類に属します。
《彖》曰:「小過」,小者過而亨也。以卦體釋卦名義與其辭。過以利貞,與時行也。柔得中,是以小事吉也。以二五言。剛失位而不中,是以不可大事也。以三四言。有飛鳥之象焉,「飛鳥遺之音,不宜上,宜下,大吉」,上逆而下順也。以卦體言。《象》曰:山上有雷,小過。君子以行過乎恭,喪過乎哀,用過乎儉。山上有雷,其聲小過。三者之過,皆小者之過。可過於小,而不可過於大,可以小過,而不可甚過。《彖》所謂可小事而宜下者也。
《彖伝》に言います。いわゆる《小過》とは、陰柔小者が過越する所有りてここにおいて亨通します。これは卦体をもって卦名の義理と卦辞を釈します。《彖伝》がまた言います。過越してなお正を守るに宜しきは、時勢に随いて行くことです。陰柔が中を得る、だから小事を為せば吉、これは六二・六五に就いて言います。陽剛が位を失いて中に居らず、だから大事を為す可からず、これは九三・九四に就いて言います。卦中に飛鳥の象を含み、いわゆる「飛鳥遺之音、不宜上、宜下、大吉」は、上に向かえば違逆し下に向かえば順遂するからで、これは卦体に就いて講じます。《象伝》に言います。山上に雷が響く、これがすなわち《小過》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、行為の上で稍稍恭敬に過ぎ、居喪の時に稍稍哀戚に過ぎ、用度の上で稍稍倹省に過ぎるべし。山上に雷が打つは、声はただ略々常度を超過するのみ。恭・哀・倹のこの三様の過は、皆小処の過に属します。小処で少し過ぎる可く、大処で過ぎる可からず。略々超過する可く、あまりに甚だしく過ぎる可からず。これがまさに《彖伝》の言う所の小事を為す可くして下に向かうに宜しきです。
初六,飛鳥以凶。初六陰柔,上應九四,又居過時,上而不下者也。「飛鳥遺音,不宜上,宜下」,故其象占如此。郭璞《洞林》:「占得此者,或致羽蟲之孽。」《象》曰:「飛鳥以凶」,不可如何也。六二,過其祖,遇其妣,不及其君,遇其臣,無咎。六二柔順中正,進則過三四而遇六五,是過陽而反遇陰也。如此,則不及六五而自得其分,是不及君而適遇其臣也。皆過而不過,守正得中之意,無咎之道也。故其象占如此。《象》曰:「不及其君」,臣不可過也。所以不及君而還遇臣者,以臣不可過故也。
初六の爻辞に言います。飛鳥の如く一味に上に飛び、ここにおいて凶を致します。初六は陰柔で、上は九四に相応し、またまさに過越の時に処し、ただ上に向かうを知りて下に居るに肯じぬ一爻です。卦辞は「飛鳥遺音、不宜上、宜下」と講ずるので、このような象と占を取ります。晋人の郭璞《洞林》に記します。この爻を占得した人は、時に禽鳥の類の怪異の事を招来します。《象伝》に言います。「飛鳥以凶」、事がすでにここに至れば、如何とも奈何し難し。六二の爻辞に言います。祖父を越過して、祖母に遇上る。君主に僭及せず、ただ臣子に遇上るのみ、過ちなし。六二は柔順にして中正で、前に向かって進めば九三・九四を越過して六五に遇い、これは陽爻を越過して却って陰爻に遇うことです。このようにすれば、それは六五の尊に企及せずして本分に自安し、まさに君主に及ばずして恰好に臣子に遇うものです。これは皆過ぎるといえども過に失せず・正を守りて中を得るの意で、過ちに至らざる路子なので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。「不及其君」は、臣たる者は分を越すべからざるからです。君主に及ばずしてただ臣子と相遇る所以は、まさに臣は僭越すべからざるの故です。
九三,弗過防之,從或戕之,凶。戕,在良反。小過之時,事每當過,然後得中。九三以剛居正,眾陰所欲害者也。而自恃其剛,不肯過為之備,故其象占如此。若占者能過防之,則可以免矣。《象》曰:「從或戕之」,凶如何也!九四,無咎,弗過遇之,往厲必戒,勿用永貞。當過之時,以剛處柔,過乎恭矣,無咎之道也。弗過遇之,言弗過於剛而適合其宜也。往則過矣,故有厲而當戒;陽性堅剛,故又戒以勿用永貞。言當隨時之宜,不可固守也。或曰:弗過遇之,若以六二爻例,則當如此說,若依九三爻例,則過遇當如過防之義。未詳孰是,當闕以俟知者。《象》曰:「弗過遇之」,位不當也。「往厲必戒」,終不可長也。爻義未明,此亦當闕。
九三の爻辞に言います。一分の防備を多く加えるに肯じず、そのまま跟随して下れば人の彼を傷害する者有りて、凶。「戕」是在良反に読みます。小過の時には、事を弁ずるに往々稍稍常度を超過して後にこそ恰好に中道に合します。九三は陽剛をもって陽位に居りて正を得、まさに衆陰の加害せんと欲する対象です。それは却って剛強を自恃して、多く一層の防備を為すに肯じず。だからこのような象と占を取ります。占う人がもし防範の上に多く一分の工夫を下せば、幸免できます。《象伝》に言います。「従或戕之」、この凶険はなおどうすることができましょう。九四の爻辞に言います。過ちなし。剛に過ぎずして恰好に相合し、前往すれば危険あり必ず警戒すべく、長久に固守するなかれ。まさに過越の時に当たり、九四は陽剛をもって陰柔の位に処し、すでに稍稍恭順に過ぎて、これは過ちに至らざる路子です。「弗過遇之」とは、剛強に過分せずして恰好に宜しき所に合することを言います。もし更に前に往かば頭を過ぎるので、危険有りて戒惧すべし。陽の本性は堅硬剛強なので、またそれに長久に固守するなかれと告戒します。これは時勢の宜しき所に随って行事すべく、執着して変わる可からざるを言います。また一説あり。「弗過遇之」をもし六二の爻例に按って見れば、即ち上面の如く講ずべし。もし九三の爻例に依れば、ならば「過遇」は即ち「過防」の意思に按って解すべし。究竟どの説が対かはまだ弄清楚せず、存疑して明白の人を等待すべし。《象伝》に言います。「弗過遇之」は、爻位が不当です。「往厲必戒」は、終に長久する可からず。この一爻の義理はなお明朗せず、《象伝》のここもまた併せて存疑すべし。
六五,密雲不雨,自我西郊,公弋取彼在穴。弋,餘職反。以陰居尊,又當陰過之時,不能有為,而弋取六二以為助,故有此象。在穴,陰物也。兩陰相得,其不能濟大事可知。《象》曰:「密雲不雨」,已上也。已上,太高也。上六,弗遇過之,飛鳥離之,凶,是謂災眚。眚,生領反。六以陰居動體之上,處陰過之極,過之已高而甚遠者也,故其象占如此。或曰:遇過,恐亦只當作「過遇」,義同九四。未知是否。《象》曰:「弗遇過之」,已亢也。
六五の爻辞に言います。濃雲が密佈するも雨が下らず、雲気は我が西辺の郊野より飄来し、王公は繩帯びの箭をもってあの穴中の物を射取ります。「弋」は余職反に読みます。六五は陰柔をもって尊位に居り、またまさに陰の過越の時に当たり、自己は力なく作為する所有なく、ただ六二を射取って帮手と為すのみなので、このような象あり。「在穴」のは陰類の物です。二つの陰爻が彼此投合して、彼らが大事を成さぬはまた推して知れます。《象伝》に言います。「密雲不雨」は、雲がすでにあまりに上に升ったからです。いわゆる「已上」とは、すなわちあまりに高し。上六の爻辞に言います。相遇するに肯じずして一味に越過し、飛鳥が羅網に遭うが如く、凶、これを災禍と名づけます。「眚」は生領反に読みます。上六は陰爻をもって震動の体の最上に居り、陰の過越の極点に処し、過ぎることすでにあまりに高く遠いので、このような象と占を取ります。また一説あり。「遇過」は恐らくまた「過遇」と作るべく、意思は九四と相同。是か否かはなお確定できません。《象伝》に言います。「弗遇過之」は、すでに亢極です。
既済卦(きせい)
離下,坎上。既濟:亨小,利貞。初吉,終亂。既濟,事之既成也。為卦水火相交,各得其用,六爻之位,各得其正,故為既濟。亨小,當為小亨,大抵此卦及六爻占辭,皆有警戒之意,時當然也。《彖》曰:「既濟,亨」,小者亨也。「濟」下疑脫「小」字。「利貞」,剛柔正而位當也。以卦體言。「初吉」,柔得中也。指六二。終止則亂,其道窮也。《象》曰:水在火上,既濟,君子以思患而預防之。
この卦は内卦が離、外卦が坎です。卦辞に言います。《既済》卦は小有亨通し、正固を守持するに宜し。起初は吉利、末了は却って禍乱を生じます。「既済」とは事がすでに弁成したことです。卦体に就いて言えば、水が上、火が下に在り、両者は交感して各々その用を尽くし、六爻の位置はまた皆陰陽が当位なので、《既済》と言います。卦辞の「亨小」は「小亨」と作るべし。大体においてこの卦及び六爻の占辞は、皆警戒の意を帯び、これは時勢が然らしめるものです。《彖伝》に言います。「既済、亨」は、小者が亨通します。「済」の字の下は一つの「小」の字が脱漏したと疑われます。また「利貞」と言うは、剛柔が各々その正を得て位置が恰当で、これは卦体に就いて講じます。「初吉」と言うは、柔爻が中に居りて位を得、六二を指します。最後に停滞して下れば即ち乱を生ずると言うに至っては、あの路がすでに尽頭に走到したからです。《象伝》に言います。水が火上に在る、これがすなわち《既済》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、預め禍患を想到して事先に防備を加うべし。
初九,曳其輪,濡其尾,無咎。曳,以制反。濡,音如。輪在下,尾在後,初之象也。曳輪則車不前,濡尾則狐不濟。既濟之初,謹戒如是,無咎之道。占者如是,則無咎矣。《象》曰:「曳其輪」,義無咎也。六二,婦喪其茀,勿逐,七日得。喪,息浪反。茀,力佛反。二以文明中正之德,上應九五剛陽中正之君,宜得行其志。而九五居既濟之時,不能下賢以行其道,故二有婦喪其茀之象。茀,婦車之蔽,言失其所以行也。然中正之道,不可終廢,時過則行矣。故又有勿逐而自得之戒。《象》曰:「七日得」,以中道也。
初九の爻辞に言います。車輪を拖住して前進せしめず、尾巴を沾湿してもはや渉水せず、過ちなし。「曳」是以制反、「濡」は音「如」と同じ。車輪は車の下部に在り、尾巴は身体の後端に在り、まさに初爻の象です。輪を拖住すれば、車は走ること能わず。尾巴を沾湿すれば、狐狸はもはや河を渡らず。《既済》の剛だ始まる時に、謹慎戒懼がこの地步に至るは、まさに過ちを免れる路子です。占う人がもしこのようであれば、過ちはありません。《象伝》に言います。「曳其輪」は、道義の上に過ちなし。六二の爻辞に言います。婦人が車上の帷飾を失掉し、追尋するに及ばず、七天の後に自ら失い復た得ます。「喪」は去声(息浪反)、「茀」は力佛反に読みます。六二は文明中正の徳を具備し、上は九五のこの剛健中正の君主に相応し、本当に能く自己の志向を施行すべし。しかし九五は《既済》の時に身を処し、己を屈して賢に下りて大道を推行するに肯じないので、六二に婦人が車帷を失去する象あり。「茀」は婦人の車上の遮蔽物で、それを失掉すれば出行の憑借を失うことです。ただし中正の道は長久に廃棄する能わず、時機が一たび過ぎれば自然にまた通行できるので、爻辞はまた追尋に及ばず・自然に得べしの告戒を立てます。《象伝》に言います。「七日得」は、六二が中道を守るからです。
九三,高宗伐鬼方,三年克之,小人勿用。既濟之時,以剛居剛,高宗伐鬼方之象也。三年克之,言其久而後克,戒占者不可輕動之意。小人勿用,占法與《師》上六同。《象》曰:「三年克之」,憊也。憊,蒲拜反。六四,糹需有衣袽,終日戒。糹需,而朱反。袽,女居反。既濟之時,以柔居柔,能預備而戒懼者也,故其象如此。程子曰:「糹需,當作濡。衣袽,所以塞舟之罅漏。」《象》曰:「終日戒」,有所疑也。
九三の爻辞に言います。殷の高宗武丁が鬼方を征伐し、三年してこそそれを攻克し、小人は任用すべからず。《既済》の時に身を処し、九三は陽剛をもって陽位に居り、まさに高宗が鬼方を伐つの象です。いわゆる三年してこそ攻克するとは、日を曠して久しきに持ちて後に勝を取るを言い、用意は占う人に軽挙妄動すべからざるを告戒するに在ります。「小人勿用」のこの一条の占法は、《師》卦の上六と相同です。《象伝》に言います。「三年克之」とは、すでに疲憊して堪えぬことを言います。「憊」は蒲拝反に読みます。六四の爻辞に言います。船身が滲水して破旧の衣物を備えて以て堵塞し、終日戒備します。「糸需」は而朱反、「袽」は女居反に読みます。《既済》の時に身を処し、六四は陰柔をもって陰位に居り、能く預め準備して心に戒懼を存する一爻なので、このような象を取ります。程頤が言います。「糸需」は「濡」と作るべく、沾湿して滲水します。「衣袽」とは、以て船身の縫隙漏洞を塞ぐ旧絮破衣です。《象伝》に言います。「終日戒」は、心中に疑虑不安あることです。
九五,東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭,實受其福。東陽西陰,言九五居尊,而時已過,不如六二之在下,而始得時也。又當文王與紂之事,故其象占如此。《彖辭》初吉終亂,亦此意也。《象》曰:「東鄰殺牛」,不如西鄰之時也。「實受其福」,吉大來也。上六,濡其首,厲。既濟之極,險體之上,而以陰柔處之,為狐涉水而濡其首之象。占者不戒,危之道也。《象》曰:「濡其首,厲」,何可久也!
九五の爻辞に言います。東辺の隣が牛を宰して盛祭するも、西辺の隣の薄祭の「禴」の能く実実在在に神の福佑を承受するに如かず。東方は陽に属し、西方は陰に属す。これは九五が尊位に居るも、時勢はすでに過去し、反って下に居る六二のまさに時を得るに当たるに及ばぬを言います。この爻はまた周文王と商紂の史事に切合するので、このような象と占を取ります。《彖伝》の講ずる「初吉終乱」も、まさにこの意です。《象伝》に言います。「東隣殺牛」は、西隣のまさにその時に当たるに如かず。「実受其福」は、吉慶が大いに到来することです。上六の爻辞に言います。頭さえ浸湿して、危険。上六は《既済》の極点・坎険の体の最上に処し、また陰柔の質をもってこの位に居るは、まさに狐狸が河を渡りて頭さえ浸湿したの象です。占う人がもし戒懼を知らなければ、即ち自ら危険を取ることです。《象伝》に言います。「濡其首、厲」、このような情形はなんで長久できよう。
未済卦(びせい)
坎下,離上。未濟:亨。小狐汔濟,濡其尾,無攸利。汔,許訖反。未濟,事未成之時也。水火不交,不相為用,卦之六爻,皆失其位,故為未濟。汔,幾也。幾濟而濡尾,猶未濟也。占者如此,何所利哉?《彖》曰:「未濟,亨」,柔得中也。指六五言。「小狐汔濟」,未出中也。「濡其尾,無攸利」,不續終也。雖不當位,剛柔應也。《象》曰:火在水上,未濟,君子以慎辨物居方。水火異物,各居其所,故君子觀象而審辨之。
この卦は内卦が坎、外卦が離です。卦辞に言います。《未済》卦は亨通。小狐狸がまさに河を渡らんとして、尾巴を沾湿し、利益する所なし。「汔」は許訖反に読みます。「未済」とは事がまだ弁成していない時です。水が下、火が上に在り、両者は相互に交感せず相互に用を為す能わず、卦中の六爻はまた全く当位せず。だから《未済》と言います。「汔」は将に近し。将に渡らんとして尾巴を沾湿したは、なお渡っていません。占う人がこのような情形に処して、なんの獲利する可き有らん。《彖伝》に言います。「未済、亨」は、柔爻が中に居りて位を得るからで、これは六五を指して言います。「小狐汔済」は、まだ坎険の中より走出していないことです。「濡其尾、无攸利」は、事を接続して底に至る能わざることです。六爻は皆当位せざるも、剛柔の上下は各自に相応します。《象伝》に言います。火が水上に在る、これがすなわち《未済》卦の卦象であり、君子はこれより体会到し、謹慎に事物を辨别し、彼らをして各々その位に安んぜしむべし。水と火は性質が同じからず、各々その所在有るので、君子はこの象を観察して細かく分辨を加えます。
初六,濡其尾,吝。以陰居下,當未濟之初,未能自進,故其象占如此。《象》曰:「濡其尾」,亦不知極也。「極」字未詳,考上下韻亦不葉,或恐是「敬」字,今且闕之。九二,曳其輪,貞吉。以九二應六五,而居柔得中,為能自止而不進,得為下之正也。故其象占如此。《象》曰:九二「貞吉」,中以行正也。九居二,本非正,以中故得正也。
初六の爻辞に言います。尾巴を沾湿して、憾惜あり。初六は陰柔の質をもって最下位に居り、まさに《未済》の開端に当たり、まだ自己で前進する能わず。だからこのような象と占を取ります。《象伝》に言います。「濡其尾」は、また「極」を知らざるが故です。「極」の字の意思はまだ弄清楚せず、上下文の韻脚を考察するも協調せず、恐らく本来「敬」の字か、今は姑く疑を存します。九二の爻辞に言います。車輪を拖住して急いで前行せず、正を守れば吉。九二は上は六五に応じ、それは陽爻をもって陰位に居りてまた下卦の中に処し、能く自我を節制して冒進せず、まさに人の臣下たるの正道に合するので、このような象と占を取ります。《象伝》に言います。九二の「貞吉」は、それが中に居るに因りて行為が端正だからです。九のこの陽爻をもって第二のこの陰位に居るは、本来「正」と算えざるも、ただそれが中に居るが故に、反って正を得ました。
六三,未濟,征凶,利涉大川。陰柔不中正,居未濟之時,以征則凶,然以柔乘剛,將出乎坎,有利涉之象,故其占如此。蓋行者可以水浮,而不可以陸走也。或疑「利」字上當有「不」字。《象》曰:「未濟,征凶」,位不當也。九四,貞吉,悔亡。震用伐鬼方,三年有賞于大國。以九居四,不正而有悔也。能勉而貞,則悔亡矣。然以不貞之資,欲勉而貞,非極其陽剛用力之久不能也。故為伐鬼方,三年而受賞之象。《象》曰:「貞吉,悔亡」,志行也。
六三の爻辞に言います。事がまだ弁成せず、前往すれば凶、大河を渡渉するに宜し。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、身は未済の時に処し、冒然として前行すれば即ち凶。しかしそれは陰柔をもって陽剛の上に凌駕し、また将に下体の坎険を脱出せんとするので、河を渡るに宜しきの象あり、占断はここにおいてこのようです。これは出行の人が船に坐って水に浮かぶ可く徒歩で陸路を走るに宜しからざるに譬えるが如し。ある人はまた「利」の字の上に一つの「不」の字有るべきと疑います。《象伝》に言います。「未済、征凶」は、爻位が不当だからです。九四の爻辞に言います。正を守れば吉、悔恨消失。奮起して鬼方を征伐し、三年の後に大国の封賞を受けます。九のこの陽爻をもって第四のこの陰位に居るは、当位せずここにおいて悔有り。能く勉力して正を守れば、悔恨は消解します。ただし本来正ならざる資質をもって勉力して正に趨らんと欲すれば、陽剛の力を極処に用到し、かつ久しく持続せざるを得ません。だから鬼方を征伐し三年してこそ賞を受くるの象を取ります。《象伝》に言います。「貞吉、悔亡」は、心志が施行を得たことです。
六五,貞吉,無悔。君子之光,有孚,吉。以六居五,亦非正也。然文明之主,居中應剛,虛心以求下之助,故得貞而吉,且無悔。又有光輝之盛,信實而不妄,吉而又吉也。《象》曰:「君子之光」,其暉吉也。暉者,光之散也。上九,有孚于飲酒,無咎。濡其首,有孚失是。以剛明居未濟之極,時將可以有為,而自信自養以俟命,無咎之道也。若縱而不反,如狐之涉水而濡其首,則過於自信,而失其義矣。《象》曰:飲酒濡首,亦不知節也。
六五の爻辞に言います。正を守れば吉、悔恨なし。君子の光輝は、誠信を懐いて、吉。六のこの陰爻をもって第五のこの陽位に居るは、同様に当位と算えず。しかし六五は文明の主で、上卦の中に居りて下は九二の剛に応じ、能く虚心に下の助力を求取するので、能く正を守りて吉にして、また悔恨なし。光輝が盛美で誠実にして虚妄ならざるを加えて、ここにおいて吉に吉を加えます。《象伝》に言います。「君子之光」は、その光暉が吉祥をもたらすことです。いわゆる「暉」とは、光が四外に向かって発散し開けることです。上九の爻辞に言います。誠信を懐いて飲酒して自適し、過ちなし。もし頭さえ浸湿せしむれば、ならば原有の誠信さえ正当を失掉します。上九は剛健明達の質をもって《未済》の極点に処し、時勢は将に作為する所有る可きとし、それは信念を自守し自我を涵養して天命を等待するは、過ちを免れる路子です。もし一味に放縦して回头を知らなければ、狐狸が河を渡りて頭さえ浸湿したが如く、それは即ち過分に自信して、却って応有の分寸を失掉したことです。《象伝》に言います。飲酒して頭を浸湿するに至るも、また節制を知らざることです。
第三巻・繋辞上伝
第一章
傳,去聲。後同。《繫辭》,本謂文王、周公所作之辭,繫於卦爻之下者,即今經文。此篇乃孔子所述《繫辭》之「傳」也,以其通論一經之大體凡例,故無經可附,而自分上下雲。
篇題中の「伝」は去声に読み、以下の各処もこれに同じ。いわゆる《繋辞》とは、本来は文王・周公の写した、卦爻の下に繋挂したあの言葉を指し、すなわち今日見る所の《周易》の経文です。この一篇は則ち孔子が《繋辞》に対して為した「伝」で、それは通篇に全経の大綱と通例を討論するため、どの一段の経文にも逐句に附着すべきがなく、だから自ら一篇を成し、また上下の二部分を分出しました。
天尊地卑,乾坤定矣,卑高以陳,貴賤位矣,動靜有常,剛柔斷矣,方以類聚,物以群分,吉凶生矣,在天成象,在地成形,變化見矣。斷,丁亂反。見,賢遍反。天地者,陰陽形氣之實體。乾坤者,《易》中純陰、純陽之卦名也。卑高者,天地萬物上下之位。貴賤者,《易》中卦爻上下之位也。動者,陽之常。靜者,陰之常。剛柔者,《易》中卦爻陰陽之稱也。
《繋辞上伝》の開篇に言います。天は上に在りて尊く、地は下に在りて卑く、《乾》《坤》の両卦の名義はここに就いて確定しました。低と高が依次に陳列して、卦爻の貴賤の位はここに就いて排定しました。動と静は各々常軌有りて、剛爻柔爻の分別はここに就いて判定しました。心志は各々その類に随って聚合し、事物は各々その群に依って区分され、吉と凶はここに就いて産生しました。天上に凝成して日月星辰の象と為り、地上に凝成して山川動植の形と為り、変と化はここに就いて顕現しました。「断」は丁乱反、「見」は賢遍反に読みます。ここで言う所の天地とは、陰陽の形気の実体です。《乾》《坤》は、則ち《周易》中の純陰純陽の両卦の名称です。「卑高」とは、天地万物の上下の実際の位置を指し、「貴賤」とは、《周易》中の卦爻の上下の位次を指します。動は陽の常態、静は陰の常態です。「剛柔」は、則ち《周易》中で卦爻の陰陽両類に対する称呼です。
方,謂事情所向,言事物善惡,各以類分。而吉凶者,《易》中卦爻占決之辭也。象者,日月星辰之屬。形者,山川動植之屬。變化者,《易》中蓍策卦爻,陰變為陽,陽化為陰者也。此言聖人作《易》,因陰陽之實體,為卦爻之法象。莊周所謂「《易》以道陰陽」,此之謂也。
いわゆる「方」とは、人事心志の趨向を指し、事物の善と悪が各々類別に按って区分されることを言います。而して「吉凶」は、則ち《周易》中の卦爻が占断して疑を決する用語です。「象」とは日月星辰の一類を指し、「形」とは山川草木鳥獣の一類を指します。「変化」は、則ち《周易》中の蓍草の策と卦爻の推移です。陰は変じて陽と為り、陽は化して陰と為ります。この一段は聖人が《周易》を創作したるは、陰陽のこの実存の本体に依拠し、卦爻の法則と象徴を制成したことを言います。《荘子・天下》の言う所の《易》は以て陰陽を講ずるものは、講ずるはまさにこの意です。
是故剛柔相摩,八卦相蕩。蕩,徒浪反。此言《易》卦之變化也。六十四卦之初,剛柔兩畫而已。兩相摩而為四,四相摩而為八,八相蕩而為六十四。鼓之以雷霆,潤之以風雨。日月運行,一寒一暑。此變化之成象者。乾道成男,坤道成女。此變化之成形者。此兩節,又明《易》之見於實體者,與上文相發明也。
《繋辞》が続いて言います。ここにおいて剛柔の両画は互相に摩蕩し、八個の経卦は互相に推蕩します。「蕩」は徒浪反に読みます。この一句が講ずるは《周易》の卦画の生成変化です。六十四卦は最初ただ剛・柔の両画のみあり。両画が相摩して四象を成し、四象が相摩して八卦を成し、八卦が相推蕩して六十四卦を成します。《繋辞》がまた言います。雷霆をもってそれを鼓動し、風雨をもってそれを滋潤します。日月は往来運行し、一寒一暑が交替します。これは変化が天上に凝成して物象と為る一面です。更に言う《乾》道は男性を成就し、《坤》道は女性を成就するは、これは変化が地上に凝成して形体と為る一面です。この両節はまた《周易》の講ずる道理が実存事物中での呈現を説明し、上文と互相に発明します。
乾知大始,坤作成物。知,猶主也。乾主始物,而坤作成之,承上文男女而言乾坤之理。蓋凡物之屬乎陰陽者,莫不如此。大抵陽先陰後,陽施陰受。陽之輕清未形,而陰之重濁有跡也。乾以易知,坤以簡能。易,以豉反。乾健而動,即其所知,便能始物而無所難,故為以易而知大始。坤順而靜,凡其所能,皆從乎陽而不自作,故為以簡而能成物。
《繋辞》に言います。乾は万物の開端を主管し、坤は則ち万物を為し成すことを承担します。ここの「知」は主管と言うに等しい。乾は万物の発端を主管し、坤はそれを為し成すは、これは上文の乾道が男を成し坤道が女を成すの話を承接して、乾坤両者の道理を講じます。およそ陰陽に属する事物は、この如しでないことなし。大体において陽が先に在り陰が後に在り、陽は施与し陰は承受します。陽は軽清にしてまだ成形せず、陰は重濁にしてすでに蹤跡有り。《繋辞》がまた言います。乾は平易をもって開端を主宰し、坤は簡約をもって万物を成就します。「易」はここで以豉反に読み、平易の意です。乾は剛健にして動を主とし、およそそれが主管する所は、皆能く万物を開創して毫も力を費やさず。だからそれが平易をもって大始を主宰すると言います。坤は柔順にして静を主とし、およそそれが能く為す所は、皆陽に順従して自ら主張を為さず。だからそれが簡約をもって万物を成就すると言います。
易則易知,簡則易從。易知則有親,易從則有功。有親則可久,有功則可大。可久則賢人之德,可大則賢人之業。人之所為,如乾之易,則其心明白而人易知,如坤之簡,則其事要約而人易從。易知則與之同心者多,故有親。易從則與之協力者眾,故有功。有親則一於內,故可久。有功則兼於外,故可大。德,謂得於己者。業,謂成於事者。上言乾、坤之德不同,此言人法乾、坤之道。至此則可以為賢矣。
《繋辞》に言います。平易であれば容易く人に了解され、簡約であれば容易く人に遵従されます。容易く了解されれば人の親附有り、容易く遵従されれば能く功效を建立します。人の親附有れば能く長久し、功效有れば能く広大します。能く長久すれば即ち賢人の徳行、能く広大すれば即ち賢人の事業です。人の為す所為する所が、もし乾の如く平易で心地が明白なれば、別人は容易く彼を了解します。もし坤の如く簡約で事を弁ずるに扼要なれば、別人は容易く彼に跟従します。容易く了解されれば、彼と同心せんと願う人が多く、だから人の親附有り。容易く跟従されれば、彼と協力するに肯んずる人が衆く、だから能く功を建てます。人の親附有れば、内部は即ち専一にして、だから能く長久します。功效有れば、外面は即ち兼容并包して、だから能く広大します。「徳」とは自己の内心の得る所を指し、「業」とは事の上に成した所を指します。上文は乾と坤の徳性が各々相同ならざるを講じ、この一段は則ち人が乾坤の道を效法するを講じます。この地步を做到すれば、以て賢人と称する可きです。
易簡,而天下之理得矣,天下之理得,而成位乎其中矣。成位,謂成人之位。其中,謂天地之中。至此則體道之極功,聖人之能事,可以與天地參矣。上第一章。此章以造化之實,明作經之理。又言乾、坤之理,分見於天、地,而人兼體之也。
《繋辞》に言います。平易簡約を把握すれば、天下の道理は掌握しました。天下の道理を掌握すれば、人は能く天地の間に於て自己の位置を成就します。いわゆる「成位」とは、人が人たる所以の位分を成就することです。「其中」とは、天地の間を指します。この地步を做到すれば、即ち大道を体認する最高の功夫・聖人の能く成就する極致で、天地と並列して三と為る可きです。以上は第一章です。この一章は造化の実情を借りて聖人が経を作る道理を闡明し、また乾と坤の理が分かれて天と地の上に体現され、而して人は則ち兼ねてこの両者を有し体現することを説明します。
第二章
聖人設卦,觀象繫辭焉,而明吉凶,象者,物之似也。此言聖人作《易》,觀卦爻之象而繫以辭也。剛柔相推,而生變化。言卦爻陰、陽迭相推蕩,而陰或變陽,陽或化陰,聖人所以觀象而繫辭,眾人所以因蓍而求卦者也。
《繋辞》に言います。聖人は卦画を排布し、卦象を観察して文辞を繋ぎ、以て吉凶を昭示します。いわゆる「象」とは、事物と相似る摹擬です。この一句は聖人が《周易》を創作し、卦爻の形象を観察してその下に文辞を繋挂したことを言います。《繋辞》がまた言います。剛柔は互相に推移し、ここにおいて変化を産生します。これは卦爻の陰陽が彼此推蕩し、陰は時に変じて陽と為り、陽は時に化して陰と為るを言います。聖人はまさにこれに拠って象を観て辞を繋ぎ、衆人もまさにこれに拠って蓍草を用いて卦を起こして問を求めます。
是故吉凶者,失得之象也,悔吝者,憂虞之象也,吉凶、悔吝者,《易》之辭也。得失、憂虞者,事之變也。得則吉,失則凶。憂虞雖未至凶,然已足以致悔而取羞矣。蓋吉凶相對,而悔吝居其中間。悔自凶而趨吉,吝自吉而向凶也。故聖人觀卦爻之中,或有此象,則繫之以此辭也。
《繋辞》に言います。だから「吉凶」は失と得の象徴で、「悔吝」は憂と慮の象徴です。吉凶・悔吝は《周易》裡の断語で、而して得失・憂慮は則ち人事本身の変化です。得る所有れば即ち吉、失う所有れば即ち凶。憂慮はまだ凶の地步に至らざるも、すでに悔恨を引来し羞慚を招致するに足ります。大体において吉と凶の両端は相対し、悔と吝は両者の中間に居ります。悔は凶のあの一端より吉の方向に向かって走り、吝は吉のあの一端より凶の方向に向かって滑ります。だから聖人は卦爻の中を観察し、もしこのような象有れば、このような断語を繋ぎます。
變化者,進退之象也,剛柔者,晝夜之象也。六爻之動,三極之道也。柔變而趨於剛者,退極而進也。剛化而趨於柔者,進極而退也。既變而剛,則晝而陽矣。既化而柔,則夜而陰矣。六爻:初二為地,三四為人,五上為天。動,即變化也。極,至也。三極,天地人之至理。三才,各一太極也。此明剛柔相推以生變化,而變化之極,復為剛柔。流行於一卦六爻之間,而占者得因所值,以斷吉凶也。
《繋辞》に言います。「変化」は進と退の象徴で、「剛柔」は昼と夜の象徴です。六爻の変動は、天地人の三極の道を体現します。柔が変じて剛に趨向するは、退が極処に到ってまた転じて進。剛が化して柔に趨向するは、進が極処に到ってまた転じて退。すでに変じて剛と為れば、白昼に属して陽と為します。すでに化して柔と為れば、黒夜に属して陰と為します。六爻の中、初爻と二爻は地を代表し、三爻と四爻は人を代表し、五爻と上爻は天を代表します。「動」とはすなわち変化、「極」は至極、「三極」は即ち天・地・人の各自の至理、すなわち三才の中に各々一つの太極有り。この一段は剛柔が互相に推移して変化を生出し、変化が尽頭に到ってまた復た剛柔に帰帰することを説明します。それは一卦の六爻の間に流行し、占う人は便ち自己の遇った爻位と変爻に依照して、以て吉凶を判断できます。
是故君子所居而安者,《易》之序也,所樂而玩者,爻之辭也。樂,音洛。《易》之序,謂卦爻所著事理當然之次第。玩者,觀之詳。是故君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占,是以「自天佑之,吉無不利」。《象辭》變已見上。凡單言變者,化在其中。占,謂其所值吉凶之決也。上第二章。此章言聖人作《易》,君子學《易》之事。
《繋辞》に言います。だから君子が平居して能く安処する所は、《周易》の昭示する次序です。欣然として玩味する所は、各爻の文辞です。「楽」は音「洛」と同じ、喜好の意です。いわゆる《易》の序とは、卦爻の顕示する事理が本来この如くあるべきの先后次第を指し、「玩」とは反復して細看することです。《繋辞》がまた言います。だから君子は平居して事なき時は即ち卦象を観察して卦爻辞を玩味し、一行動有れば即ち爻変を観察して占断を玩味するので、《大有》上九の言う所の「自天佑之、吉无不利」を得る能くします。ここの象・辞・変の三項は前文ですでに講じました。およそ単に「変」と言う処は、「化」は即ちその中に包含されます。「占」とは、遇ったあの一爻の吉凶に関する判決を指します。以上は第二章です。この一章は聖人が《周易》を創作し君子が《周易》を学習するこの二件を講じます。
第三章
彖者,言乎象者也,爻者,言乎變者也,彖,謂卦辭,文王所作者。爻,謂爻辭,周公所作者。象,指全體而言。變,指一節而言。吉凶者,言乎其失得也,悔吝者,言乎其小疵也。無咎者,善補過也。此卦爻辭之通例。
《繋辞》に言います。「彖」とは一卦の整体の象を講ずるもの、「爻」とは一爻の変を講ずるものです。ここの「彖」は卦辞を指し、文王の作です。「爻」は爻辞を指し、周公の作です。「象」は全卦の整体に就いて言い、「変」はその中の一節一爻に就いて言います。《繋辞》がまた言います。「吉凶」とは事情の失と得を講じ、「悔吝」とは小小の瑕疵を講じ、「無咎」とは善く過失を弥補するを講じます。この数条は卦辞爻辞が通用する体例です。
是故列貴賤者存乎位,齊小大者存乎卦,辯吉凶者存乎辭,位,謂六爻之位。齊,猶定也。小,謂陰。大,謂陽。憂悔吝者存乎介,震無咎者存乎悔。上「悔」,乎罪反。下「悔」,呼對反。介,謂辯別之端,蓋善惡已動而未形之時也。於此憂之,則不至於悔吝矣。震,動也。知悔則有以動其補過之心,而可以無咎矣。是故卦有小大,辭有險易。辭也者,各指其所之。易,以豉反。小險大易,各隨所向。上第三章。此章釋卦爻辭之通例。
《繋辞》に言います。だから貴賤を排列するは爻位に在り、小大を判定するは卦体に在り、吉凶を辨别するは文辞に在ります。「位」とは六爻の位次を指し、「斉」は判定と言うに等しく、「小」は陰を指し「大」は陽を指します。《繋辞》がまた言います。悔吝を免れるにはあの一点の幾微の処に在り、過ちなしを得るには悔を知りて奮発するに在ります。上の「悔」は乎罪反、下の「悔」は呼対反に読みます。いわゆる「介」とは、善悪を辨别するあの開端で、すなわち善念悪念がすでに萌動してまだ成形していない時です。この一刻に先ず憂懼を加えれば、悔吝の地步に走到せず。「震」は振動です。悔改を懂得すれば、補過の心を振起して、ここにおいて過ちなくできます。《繋辞》がまた言います。だから卦に小有り大有り、辞に険有り平有り。文辞は各々それが趨向する地方を指点します。「易」是以豉反に読み、平易の意です。小者はその辞が険、大者はその辞が平で、各々それが趨向する方向に随いて定まります。以上は第三章です。この一章は卦辞と爻辞の通用の体例を釈します。
第四章
《易》與天地準,故能彌綸天地之道。《易》書卦爻,具有天地之道,與之齊準。彌,如彌縫之彌,有終竟聯合之意。綸,有選擇條理之意。仰以觀於天文,俯以察於地理,是故知幽明之故。原始反終,故知死生之說。精氣為物,游魂為變,是故知鬼神之情狀。此窮理之事。以者,聖人以《易》之書也。易者,陰陽而已。幽明、死生、鬼神,皆陰陽之變,天地之道也。天文,則有晝夜上下。地理,則有南北高深。原者,推之於前。反者,要之於後。陰精陽氣,聚而成物,神之伸也。魂遊魄降,散而為變,鬼之歸也。
《繋辞》に言います。《周易》は天地と斉等なので、能く天地の道を包羅貫通します。《周易》一書の卦と爻は、本より天地の道を具備し、天地と斉平相當します。「弥」は弥縫の弥の如く、全部合攏して縫合して遺なしの意を含み、「綸」は則ち揀擇整理して条分縷析するの意有り。《繋辞》がまた言います。頭を抬げて天上の文象を観察し、頭を低れて地上の形理を審視し、ここにおいて幽と明の緣故を懂得します。事物の開端を推究し反ってその終結を求め、ここにおいて死と生の説法を懂得します。精と気が聚合して物と為り、魂気が游散して変異を形成し、ここにおいて鬼神の情状を懂得します。この一層が講ずるは義理を窮究する工夫です。いわゆる「以」とは、聖人が《周易》のこの書を憑借することです。《易》の講ずるはただ陰陽のみ。幽明・死生・鬼神は、皆陰陽の変化で、すなわち天地の道です。天文には昼夜有り上下有り、地理には南北有り高深有り。「原」は前に向かってその起点を推究し、「反」は後に向かってその終点に帰結します。陰の精と陽の気が聚合して物を成すは、これは神の伸展です。魂気が飄游し魄気が下降して、離散して変異を成すは、これは鬼の帰返です。
與天地相似,故不違。知周乎萬物,而道濟天下,故不過。旁行而不流,樂天知命,故不憂。安土敦乎仁,故能愛。知,音智。樂,音洛。「知命」之知,如字。此聖人盡性之事也。天地之道,知仁而已。知周萬物者,天也,道濟天下者,地也。知且仁,則知而不過矣。旁行者,行權之知也。不流者,守正之仁也。既樂天理,而又知天命,故能無憂,而其知益深。隨處皆安,而無一息之不仁,故能不忘其濟物之心,而仁益篤。蓋仁者,愛之理,愛者,仁之用。故其相為表裡如此。
《繋辞》に言います。聖人は天地と相似るので、天地と相违背せず。智慧は万物に周遍してその道をもって天下を救済するので、過差に至らず。変通は旁行して流蕩失守に至らず、天理を楽しみまた天命を懂得するので、憂慮なし。自己の境地に安処して仁に篤厚なので、能く博愛します。「知」は「智」と読み、「楽」は音「洛」と同じ。「知命」の「知」は本音に依りて読みます。この一段が講ずるは聖人がその本性を尽くす工夫です。天地の道は、帰結するにただ智と仁の両様のみ。智慧が万物に周遍するは、天に属する一面。道をもって天下を救済するは、地に属する一面。すでに智有りまた仁有れば、あの智慧は過差有ることなし。「旁行」とは、権に通じ変に達する智。「不流」とは、正を守りて移らざる仁。すでに天理を以て楽と為し、また天命の所在を知るので、能く憂なしと為り、而して智慧は愈々深厚します。処に随って皆安頓でき、一刻も仁を離れず。だから万物を救済する心を忘掉せず、而して仁は愈々篤実します。大抵仁は愛の道理、愛は仁の功用なので、両者はこのように互いに表裏と為ります。
範圍天地之化而不過,曲成萬物而不遺,通乎晝夜之道而知,故神無方而《易》無體。此聖人至命之事也。範,如鑄金之有模範。圍,匡郭也。天地之化無窮,而聖人為之範圍,不使過於中道,所謂裁成者也。通,猶兼也。晝夜,即幽明、生死、鬼神之謂。如此,然後可見至神之妙,無有方所;《易》之變化,無有形體也。上第四章。此章言《易》道之大,聖人用之如此。
《繋辞》に言います。天地の造化のために範囲を立ててそれを偏過せしめず、事理を曲尽して万物を成就して遺漏なく、昼と夜の道を兼通してここにおいて明澈するので、神妙には固定の方所なく、《周易》にも固定の形体なし。この一段が講ずるは聖人が天命に至る工夫です。「範」は金屬を鋳造するに模範有るに譬え、「囲」は外面の框廓です。天地の造化は無窮無尽にして、聖人はそれのために範囲を划定し、それをして中道に偏離せしめず。これがすなわちいわゆる「裁成」です。「通」は兼具と言うに等しく、「昼夜」とはすなわち前面に講じた幽明・生死・鬼神です。この地步に到って、後にこそ至神の妙に固定の処所なく、《周易》の変化に固定の形体なきを見得ます。以上は第四章です。この一章は《周易》の道の博大、及び聖人が如何にそれを運用するかを講じます。
第五章
一陰一陽之謂道。陰陽迭運者,氣也;其理則所謂道。繼之者善也,成之者性也。道具於陰而行乎陽。繼,言其發也。善,謂化育之功,陽之事也。成,言其具也。性,謂物之所受,言物生則有性,而各具是道也,陰之事也。周子、程之子書,言之備矣。
《繋辞》に言います。一陰一陽が交替して運行する、これを「道」と言います。陰陽が轮流に運転するは「気」で、それが背後の条理はすなわちいわゆる「道」です。《繋辞》がまた言います。この道を承接するは「善」、この道を成就するは「性」。道は陰の中に蘊含して陽の上に運行します。「継」はそれの発動に就いて言い、「善」は万物を化育する功效を指し、陽に属する一面です。「成」はそれの具足に就いて言い、「性」は万物が各自に禀受するものを指し、物が一たび生ずれば即ち性有りて、而して各自にこの道を具備することを言い、陰に属する一面です。周敦頤と程頤の著述の中で、この一層に対してすでに甚だ完備に講じました。
仁者見之謂之仁,知者見之謂之知,百姓日用而不知,故君子之道鮮矣。知,音智。「不知」之知,如字。鮮,息淺反。仁陽知陰,各得是道之一隅,故隨其所見而目為全體也。日用不知,則莫不飲食,鮮能知味者,又其每下者也,然亦莫不有是道焉。或曰:上章以知屬乎天,仁屬乎地,與此不同,何也?曰:彼以清濁言,此以動靜言。
《繋辞》に言います。仁者はそれを見て即ちそれを仁と称し、智者はそれを見て即ちそれを智と称し、百姓は日日にそれを用いて自覚せず。だから真に君子の道を懂得する人は少なし。「知」は「智」と読み、「不知」の「知」は本音に依りて読み、「鮮」は息浅反に読み、稀少の意です。仁は陽に属し智は陰に属し、両者は各々ただこの道の一個の角落を得るのみで、ここにおいて各々自己の見る所に随ってそれを以て全体と為しました。至りて日日に用いて自覚せざるは、《中庸》の言う所の人人皆飲食するも真に滋味を辨出する人は少なきが如く、これは更に等を下る一層です。しかし彼らの身上にも同様にこの道を含まざるなく。ある人が問います。上一章は「智」を天に归属し「仁」を地に归属したのに、ここで言う所と不同なのは何故か。回答に曰く。あそこは清濁の上より講じ、ここは動静の上より講じます。
顯諸仁,藏諸用,鼓萬物而不與聖人同憂。盛德大業,至矣哉。顯,自內而外也。仁,謂造化之功,德之發也。藏,自外而內也。用,謂機緘之妙,業之本也。程子曰:「天地無心而成化,聖人有心而無為。」富有之謂大業,日新之謂盛德。張子曰:「富有者,大而無外;日新者,久而無窮。」
《繋辞》に言います。仁徳を顕現し、功用を收藏し、万物を鼓動して生長せしめて聖人の如くそれに随って憂慮せず。このような盛徳大業は、真に極処に至りました。「顕」は内より外に向かって発出し、「仁」は造化生成の功を指し、徳の発用です。「蔵」は外より内に向かって収斂し、「用」はあの万物を推動して機括の開合の如き奥妙を指し、業の根本です。程頤が言います。天地は心なくして化育を成就し、聖人は心有れども刻意に造作せず。《繋辞》がまた言います。備わらざるなきを大業と言い、日日に更新するを盛徳と言います。張載が釈します。いわゆる富有とは、広大にして辺際の外なし。いわゆる日新とは、長久にして窮尽の時なし。
生生之謂易,陰生陽,陽生陰,其變無窮,理與書皆然也。成象之謂乾,效法之謂坤,效,呈也。法,謂造化之詳密而可見者。極數知來之謂占,通變之謂事,占,筮也,事之未定者,屬乎陽也。事,行事也,占之已決者,屬乎陰也。極數知來,所以通事之變。張忠定公言公事有陰陽,意蓋如此。陰陽不測之謂神。張子曰:兩在,故不測。上第五章。此章言道之體用,不外乎陰陽。而其所以然者,則未嘗倚於陰陽也。
《繋辞》に言います。生生して已まざるを「易」と言います。陰は陽を生出し、陽は陰を生出し、その変化に窮尽なく、天地の理であれ《周易》のこの書であれ皆このようです。また言います。物象を凝成するを「乾」と言い、形法を呈現するを「坤」と言います。「效」は呈現、「法」は造化中の細密にして見る可きあの一層を指します。また言います。蓍数を窮尽して以て未来を預知するを「占」と言い、変化を通達して行事に付すを「事」と言います。「占」とはすなわち筮で、事情がまだ決定せざる階段に属し、陽に帰します。「事」とはすなわち事を為すことで、占問がすでに決断した後に属し、陰に帰します。蓍数を窮尽して未来を預知するは、まさに事情の変化を通達するためです。宋人の張詠は公事にも陰陽の分有りと言い、意思は大概ここに在ります。《繋辞》が最後に言います。陰陽の変化が測度すべからざるを「神」と言います。張載が釈します。それは同時に陰陽の両辺に存在するので、測度する法なし。以上は第五章です。この一章は道の本体と作用は皆陰陽を離れず、而してそれがこのようである所以の根源は、却って陰陽のいずれの一辺にも偏倚せざるを講じます。
第六章
夫《易》,廣矣,大矣。以言乎遠則不御,以言乎邇則靜而正,以言乎天地之間則備矣。夫,音扶。下同。不御,言無盡。靜而正,言即物而理存。備,言無所不有。夫乾,其靜也專,其動也直,是以大生焉。夫坤,其靜也翕,其動也闢,是以廣生焉。翕,虛級反。闢,婢亦反。乾坤各有動靜,於其四德見之。靜體而動用,靜別而動交也。乾一而實,故以質言而曰大;坤二而虛,故以量言而曰廣。蓋天之形雖包於地之外,而其氣常行乎地之中也。《易》之所以廣大者以此。廣大配天地,變通配四時,陰陽之義配日月,易簡之善配至德。易,以豉反。《易》之廣大變通,與其所言陰陽之說,易簡之德,配之天道人事,則如此。上第六章。
《繋辞》に言います。《周易》は真に広い、大きい。遠処に就いて言えばそれに止極なく、近処に就いて言えば安静にして端正、天地の間に就いて言えば備わらざるなし。「夫」は音「扶」と同じ、下文もこれに同じ。「不御」とは尽頭なきを言い、「静而正」とは眼前の事物に就いて道理は自ずからその中に在るを言い、「備」とは有らざるなきを言います。《繋辞》がまた言います。乾は静の時に専一、動の時に直遂し、ここにおいて「大」を生出します。坤は静の時に閉合、動の時に開闢し、ここにおいて「広」を生出します。「翕」は虚級反、「闢」は婢亦反に読みます。乾と坤は各々動有り静有り、専・直・翕・闢のこの四種の徳性の上に見出せます。静は本体、動は作用で、静の時に各自分別し、動の時に彼此交合します。乾は一にして充実するので、質地の上よりそれを「大」と言い。坤は二にして虚空するので、容量の上よりそれを「広」と言います。大抵天の形体は地の外に包裹するも、天の気は却って常に地の中間に運行し、《周易》の広大なる所以の根源はここに在ります。《繋辞》がまた言います。広大は天地と相配し、変通は四時と相配し、陰陽の意義は日月と相配し、平易簡約の善は最高の徳行と相配します。「易」是以豉反に読みます。《周易》の広大と変通、及びそれが講ずる陰陽の説・易簡の徳は、以て天道人事に対応するに、すなわちこのような関係です。以上は第六章です。
第七章
子曰:《易》,其至矣乎。夫《易》,聖人所以崇德而廣業也。知崇禮卑,崇效天,卑法地。知,音智。十翼皆夫子所作,不應自著「子曰」字,疑皆後人所加也。窮理則知崇如天而德崇,循理則禮卑如地而業廣。此其取類,又以清濁言也。天地設位,而《易》行乎其中矣。成性存存,道義之門。天地設位而變化行,猶知禮存性而道義出也。成性,本成之性也。存存,謂存而又存,不已之意也。上第七章。
《繋辞》に言います。孔子が講じます。《周易》は真に極処に至った。《周易》は聖人が以て徳性を尊崇し事業を拡大するものです。智慧は高崇を要し、礼節は卑下を要す。高崇は天を效法し、卑下は地を取法します。「知」は「智」と読みます。按ずるに、《十翼》は皆孔子の作で、自ら「子曰」の二字を写上すべからず。これらの字は疑心して皆後人の添加です。義理を窮究すれば、智慧は天の如く高崇にして徳性は尊崇し、義理に遵循すれば、礼節は地の如く卑下にして事業は広大します。ここの類を取るは、また清と濁の角度より言うものです。《繋辞》がまた言います。天地は各々その位に安んじて、《周易》の道は即ちその中に運行します。本然の性を成就しかつ持守して已まざるは、これがすなわち道義に通ずる門戸です。天地は上下の位を設定して変化が流行するは、正に人が能く智と礼を持守し本性を涵養すれば、道義は便ちこれに由りて生出するが如し。「成性」とは、本来我に於て成就する天性です。「存存」とは、存してまた存し永く間断せざるの意です。以上は第七章です。
第八章
聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象。賾,雜亂也。象,卦之象,如《說卦》所列者。聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。斷,丁玩反。會,謂理之所聚而不可遺處。通,謂理之可行而無所礙處。如庖丁解牛,會則其族,而通則其虛也。
《繋辞》に言います。聖人は能く天下万象の紛繁幽深を見て、ここにおいてそれらの形貌を摹擬し、各類の事物の相宜の処に象を取るので、ここにおいて「象」と言います。「賾」とは紛雑幽隠。ここの「象」は卦の象徴を指し、《説卦伝》の羅列する所のあれらの如し。《繋辞》がまた言います。聖人は能く天下万事の変動を見て、ここにおいてその中の会聚と通達の処を観察し、拠って典章礼制を推行し、かつ文辞を繋ぎて以て吉凶を判断するので、ここにおいて「爻」と言います。「断」は丁玩反に読みます。「会」とは、義理が聚集して忽略を容れざる地方を指し、「通」とは、義理が順行して毫も阻碍なき地方を指します。譬えるに《荘子・養生主》裡の庖丁が牛を解くが如し。「会」は筋骨の盤結する処に相當し、「通」は骨節の間の空隙に相當します。
言天下之至賾而不可惡也,言天下之至動而不可亂也。惡,烏路反。惡,猶厭也。擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化。觀象玩辭,觀變玩占,而法行之,此下七爻則其例也。
《繋辞》に言います。講ずるは天下の最も幽深紛雑の事理、しかも人をして厭を生ぜしめず。講ずるは天下の最も紛紜の変動、しかも人をして迷乱せしめず。「悪」は烏路反に読み、厭棄と言うに等しい。《繋辞》がまた言います。先ず摹擬して後に口を開き、先ず商議して後に行動し、摹擬商議を凭って自己の変化を成就します。すなわち平居に象を観て卦爻辞を玩味し、事有れば変を観て占断を玩味し、然る後に照らして行います。下面の引く所の七条の爻辞は、即ちこのように為す実例です。
「鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡子」。子曰:「君子居其室,出其言善,則千里之外應之,況其邇者乎?居其室,出其言不善,則千里之外違之,況其邇者乎?言出乎身,加乎民;行發乎邇,見乎遠。言行,君子之樞機。樞機之發,榮辱之主也。言行,君子之所以動天地也,可不慎乎。」和,胡臥反。靡,音縻。行,下孟反。見,賢遍反。釋《中孚》九二爻義。
《繋辞》は《中孚》九二の爻辞を引きます。鶴が樹蔭の下で鳴叫し、その幼雛は声に応えて相和す。我に一杯の美酒あり、願わくはあなたと共同に分かち享けん。孔子が釈します。君子が自己の屋裡に安居して、説き出す話がもし善なれば、千里の外の人も皆応し、いわんや近処の人に於てをや。自己の屋裡に安居して、説き出す話がもし善ならざれば、千里の外の人も皆背離し、いわんや近処の人に於てをや。話は自身より説き出れば、便ち百姓に影響し、行為は近処より発端すれば、便ち遠方に顕現します。言と行は君子の門軸と弩牙で、この門軸弩牙が一たび動けば、栄と辱は即ちこれに随って定まります。言行は君子が以て天地を感動するもので、なんで謹慎ならざるを得んや。「和」は胡卧反、「靡」は音「縻」と同じ、「行」は下孟反、「見」は賢遍反に読みます。この一節は《中孚》卦九二爻の義理を釈します。
「同人,先號咷而後笑」。子曰:「君子之道,或出或處,或默或語。二人同心,其利斷金,同心之言,其臭如蘭。」斷,丁管反。臭,昌又反。釋《同人》九五爻義。言君子之道,初若不同,而後實無間。
《繋辞》は《同人》九五の爻辞を引きます。人と同心して、先ずは号啕大哭して後来は歓笑。孔子が釈します。君子の立身の道は、時に出でて事を為し、時に退居して家に在り。時に沈黙して言わず、時に口を開きて論を発す。両人が同心同徳なれば、あの锋利は金属を斬断するに足り。同心の人の説く所の話は、気味が芬芳として蘭草の如し。「断」は丁管反、「臭」は昌又反に読み、気味を指します。この一節は《同人》卦九五爻の義理を釈し、君子の道は起初は彼此不同の如く見えて、後来に到っては実は毫も隔閡なきを説明します。
斷金、如蘭,言物莫能間,而其言有味也。「初六,藉用白茅,無咎」。子曰:「苟錯諸地而可矣。藉之用茅,何咎之有?慎之至也。夫茅之為物薄,而用可重也。慎斯術也以往,其無所失矣。」藉,在夜反。錯,音措。夫,音扶。釋《大過》初六爻義。
「其利断金」「其臭如蘭」の両句は、同心の力には隔絶し得る東西なく、同心の人の説く所の話も別に一種の滋味有るを言います。《大過》初六の爻辞に言います。「初六、藉用白茅、无咎。」孔子が釈します。「器物を直接に地上に放てば本来また可なり。今さらに白茅をもって下面に墊せるを要するは、どこにまた過ち有らん。これは謹慎が極処に到ったもの。白茅のこの東西は本身は極めて軽賤なれども、用い起こす分量は却って極めて重し。凡事皆この種の謹慎の弁法に照らして推行して行けば、閃失有ることなし。」(「藉」是在夜反、墊襯。「錯」は「措」と同じ、安放。「夫」は扶に読む。)以上は《大過》初六爻の爻義を釈します。
「勞謙,君子有終,吉」。子曰:「勞而不伐,有功而不德,厚之至也。語以其功下人者也。德言盛,禮言恭。謙也者,致恭以存其位者也。」釋《謙》九三爻義。德言盛,禮言恭,言德欲其盛,禮欲其恭也。「亢龍有悔」。子曰:「貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。」釋《乾》上九爻義。當屬《文言》,此蓋重出。
《謙》卦九三の爻辞に言います。「勞謙、君子有終、吉。」孔子が釈します。「功労有りて自ら誇らず、功績有りてその徳に自居せず、これは敦厚が極点に到ったもの。言う所は一個の人が肯んじて自己の功労を拿げて他人に謙譲する。徳に就いては充盛を要し、礼に就いては恭敬を要す。いわゆる『謙』とは、すなわち恭敬を極尽して以て自己の位分を保住する。」以上は《謙》卦九三爻の爻義を釈します。いわゆる「徳言盛、礼言恭」とは、徳はそれに充盛を要求し、礼はそれに恭敬を要求するを言います。《乾》卦上九の爻辞に言います。「亢龍有悔。」孔子が釈します。「身分は尊貴なれども実位なく、地位は崇高なれども百姓なく、賢人は皆下位に居りて輔助する人なく、だから一たび挙動有れば即ち悔恨を招来す。」以上は《乾》卦上九爻の爻義を釈します。この一条は本来《文言伝》に属すべく、此処は大概重複して出現したものです。
「不出戶庭,無咎」。子曰:「亂之所生也,則言語以為階。君不密則失臣,臣不密則失身,幾事不密則害成。是以君子慎密而不出也。」幾,音機。釋《節》初九爻義。子曰:「作《易》者,其知盜乎?《易》曰:『負且乘,致寇至。』負也者,小人之事也,乘也者,君子之器也。小人而乘君子之器,盜思奪之矣。上慢下暴,盜思伐之矣。慢藏誨盜,冶容誨淫。《易》曰『負且乘,致寇至』,盜之招也。」藏,才浪反。釋《解》六三爻義。上第八章。此章言卦、爻之用。
《節》卦初九の爻辞に言います。「不出戸庭、无咎。」孔子が釈します。「禍乱の産生は、往々に言語を以て階梯と為す。国君は言語が慎密ならざれば即ち臣子を失い、臣子は言語が慎密ならざれば即ち自身を喪い、機密の事が慎密ならざれば即ち禍害を醸成す。だから君子は機密を謹守して軽易に出口せず。」(「幾」は机に読み、機密を指す。)以上は《節》卦初九爻の爻義を釈します。孔子がまた言います。「《易》を作った人は大概甚だ盗賊が如何に招来されるかを懂得するならん。《易》に曰く、『負且乘、致寇至。』東西を背負するは小人の為す事で、車乘は却って君子の使用する器具。小人が君子の車乘に坐上すれば、盗賊は彼を搶奪せんと想来す。上に対して傲慢、下に対して暴虐なれば、盗賊は彼を討伐せんと想来す。財物を收藏するに馬虎なれば、人に来たりて偷せを教えるに等しく、打扮するに過分に妖冶なれば、人に来たりて淫せを教えるに等し。《易》の『負且乘、致寇至』と言うは、まさに自己が盗賊を招来したもの。」(「蔵」は才浪反、去声、收藏。)以上は《解》卦六三爻の爻義を釈します。以上は第八章、この一章が講ずるは卦と爻の功用です。
繋辞上伝・第九章
天一、地二;天三、地四;天五、地六;天七、地八;天九、地十。此簡本在第十章之首,程子曰宜在此,今從之。此言天地之數,陽奇陰偶,即所謂《河圖》者也。其位一、六居下,二、七居上,三、八居左,四、九居右,五、十居中。就此章而言之,則中五為衍母,次十為衍子,次一、二、三、四為四象之位,次六、七、八、九為四象之數。二老位於西北,二少位於東南,其數則各以其類交錯於外也。
《繋辞》に言います。「天一、地二。天三、地四。天五、地六。天七、地八。天九、地十。」この一段の竹簡は元本は第十章の開頭に排在し、程頤はここに移すべしと認め、今は彼の説法に依従します。ここで講ずるは天地の数です。奇数は陽に属し、偶数は陰に属し、すなわちいわゆる《河図》です。それらの方位は、一と六は下方に在り、二と七は上方に在り、三と八は左方に在り、四と九は右方に在り、五と十は中央に居ります。本章に就いて言えば、中に居る五は大衍の数の「母」で、その次の十は大衍の数の「子」で、さらに次の一・二・三・四は「四象」の居る方位で、さらに次の六・七・八・九は「四象」の成す数です。老陽・老陰のこの二つの「老」の位は西北に在り、少陽・少陰のこの二つの「少」の位は東南に在り、それらの数は則ち各々同類に按って外圏に交錯分布します。
天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五。此所以成變化而行鬼神也。此簡本在「大衍」之後,今按宜在此。天數五者,一、三、五、七、九皆奇也,地數五者,二、四、六、八、十皆偶也。相得,謂一與二,三與四,五與六,七與八,九與十,各以奇偶為類而自相得。有合,謂一與六,二與七,三與八,四與九,五與十,皆兩相合。二十有五者,五奇之積也。三十者,五偶之積也。變化,謂一變生水,而六化成之;二化生火,而七變成之;三變生木,而八化成之;四化生金,而九變成之;五變生土,而十化成之。鬼神,謂凡奇偶生成之屈伸往來者。
《繋辞》に言います。「天数は五個有り、地数は五個有り、五組の数位は彼此相配して各々会合有り。天数は合計二十五、地数は合計三十、天地の数は総計五十五。変化はこれに由りて成り、鬼神はこれに由りて行く。」この一段の竹簡は元本は「大衍の数」の後に排在し、今は文義に按ってここに移すべし。いわゆる天数五個とは、一・三・五・七・九の皆奇数を指し、地数五個とは、二・四・六・八・十の皆偶数を指します。「相得」とは、一と二・三と四・五と六・七と八・九と十が、各々奇偶に按って分類して自相に配対することを言います。「有合」とは、一と六・二と七・三と八・四と九・五と十が、両両相合することを言います。二十五は五個の奇数の和、三十は五個の偶数の和です。いわゆる「変化」とは、一は変じて水を生じ六は化してそれを成し、二は化して火を生じ七は変じてそれを成し、三は変じて木を生じ八は化してそれを成し、四は化して金を生じ九は変じてそれを成し、五は変じて土を生じ十は化してそれを成すを言います。これがすなわち後世の言う所の「五行生成之数」です。一六は水に属し、二七は火に属し、三八は木に属し、四九は金に属し、五十は土に属します。いわゆる「鬼神」とは、一切の奇偶の数が生成の過程中で屈伸往来する作用を指します。
大衍之數五十,其用四十有九,分而為二,以象兩,掛一以象三,揲之以四以象四時,歸奇於扐以象閏,五歲再閏,故再扐而後掛。揲,時設反。奇,紀宜反。扐,郎得反。大衍之數五十,蓋以《河圖》中宮天五乘地十而得之,至用以筮,則又止用四十有九。蓋皆出於理勢之自然,而非人之知力所能損益也。
《繋辞》に言います。「大衍の数は五十、実際に使用するは四十九根。それらを随意に二份に分かつは、天地両儀を象徴し。その中より一根を取出して左手の指間に夾るは、天地人の三才を象徴し。再び四根ずつの組にして蓍草を分数するは、一年の四時を象徴し。数え余った零頭を指縫間に夾るは、閏月を象徴し。五年の中に二個の閏月有るので、だから両次に零を夾り、然る後に再び重新に挂一します。」(「揲」是時設反に読み、蓍草を分数するを指す。「奇」は紀宜反に読み、余数を指す。「扐」は郎得反に読み、指間に夾るを指す。)大衍の数五十は、大概《河図》中宮の天五に地十を乗じて得來したもの。実際に占筮に用いるに及んで、またただ四十九根を用いるのみ。これは皆事理の自然より出で、人の智力の増減し得る所にあらず。
兩,謂天地也。掛,懸其一於左手小指之間也。三,三才也。揲,間而數之也。奇,所揲四數之餘也。扐,勒於左手中三指之兩間也。閏,積月之餘日而成月者也。五歲之間,再積日而再成月,故五歲之中,凡有再閏,然後別起積分。如一掛之後,左右各一揲而一扐,故五者之中,凡有再扐,然後別起一掛也。
「両」とは、分かれた天地の二份の蓍草を指します。「挂」とは、その中より一根を取出して、左手の小指の指縫間に夾懸します。「三」とは、天・地・人の三才を指します。「揲」とは、四根四根に間隔して点数します。「奇」とは、毎四根を一数して後に余る零数です。「扐」とは、これらの零数を左手の中間の三指の両道の指縫裡に夾勒します。「閏」とは、毎月の積余の日子を湊えて一個の月と成します。五年の中に両次の積余が月を成すので、五年裡に共有二個の閏月有りて、然る後にこそ別に新たな積算を起こします。筮を行う手続も同様です。一次の挂一の後、左手の一份・右手の一份が各々揲を一次し各々扐を一次するので、「分二・挂一・揲四・帰奇」のこの一組の歩驟裡に共有両次の「扐」有りて、然る後にこそ別に下一次の「挂一」を起こします。
《乾》之策,二百一十有六。《坤》之策,百四十有四,凡三百有六十。當期之日。期,音基。凡此策數生於四象,蓋《河圖》四面,太陽居一而連九,少陰居二而連八,少陽居三而連七,太陰居四而連六。揲蓍之法,則通計三變之餘,去其初掛之一。凡四為奇,凡八為偶,奇圓圍三,偶方圍四。三用其全,四用其半。
《繋辞》に言います。「《乾》卦六爻の蓍策数は二百一十六、《坤》卦六爻の蓍策数は一百四十四、両者は合計三百六十で、正に一周年の日数に相當します。」(「期」は基に読み、周年を指す。)これらの策数は皆「四象」より生出します。《河図》の四面は、太陽は一位に居りて九に連なり、少陰は二位に居りて八に連なり、少陽は三位に居りて七に連なり、太陰は四位に居りて六に連なります。揲蓍の算法は、三変の余る蓍草を合わせて計算し、最初に挂起したあの一根を除去します。およそ四根余るを「奇」と算え、およそ八根余るを「偶」と算えます。奇は円に属し、円の周長は三を為し、偶は方に属し、方の周長は四を為します。円はその全数の三を取り、方はその一半の二を取ります。
積而數之,則為六、七、八、九,而第三變揲數策數,亦皆符會。蓋餘三奇則九,而其揲亦九,策亦四九三十六,是為居一之太陽。餘二奇一偶則八,而其揲亦八,策亦四八三十二,是為居二之少陰。二偶一奇則七,而其揲亦七,策亦四七二十八,是為居三之少陽。三偶則六,而其揲亦六,策亦四六二十四,是為居四之老陰。
三変の得た円方の数を累加して計算すれば、即ち六・七・八・九を得出し、而して第三変の時に揲した組数と得た策数も皆これと相符します。三変が皆「奇」を余すは、その数は九で、揲する所もまた九組で、策数は四に九を乗じて三十六を得、これがすなわち一位に居る太陽です。両「奇」一「偶」を余すは、その数は八で、揲する所もまた八組で、策数は四に八を乗じて三十二を得、これがすなわち二位に居る少陰です。両「偶」一「奇」を余すは、その数は七で、揲する所もまた七組で、策数は四に七を乗じて二十八を得、これがすなわち三位に居る少陽です。三変が皆「偶」を余すは、その数は六で、揲する所もまた六組で、策数は四に六を乗じて二十四を得、これがすなわち四位に居る老陰です。
是其變化往來、進退離合之妙,皆出自然,非人之所能為也。少陰退而未極乎虛,少陽進而未極乎盈,故此獨以老陽、老陰計《乾》《坤》六爻之策數,餘可推而知也。期,周一歲也,凡三百六十五日四分日之一,此特舉成數而概言之耳。二篇之策,萬有一千五百二十,當萬物之數也。二篇,謂上、下經。凡陽爻百九十二,得六千九百一十二策;陰爻百九十二,得四千六百八策,合之得此數。
この種の変化往来・進退離合の精妙は、全く自然より出で、人力の安排し得る所にあらず。少陰は退きてまだ極虚に退まず、少陽は進みてまだ極満に進まないので、ここはただ老陽・老陰を用いて《乾》《坤》両卦の六爻の策数を計算し、その余はこれに由りて推知すべきです。「期」とはすなわち一周年で、共に三百六十五又四分之一日、ここはただその整数を挙げて概略に言うのみ。《繋辞》がまた言います。「上下二篇の策数は共に一萬一千五百二十で、正に万物の数に相當します。」「二篇」とは《易経》の上経と下経を指します。全経の陽爻は共に一百九十二で、六千九百一十二策を得、陰爻は共に一百九十二で、四千六百八策を得、両者を相加えて正にこの数です。
是故四營而成易,十有八變而成卦。四營,謂分二掛一揲四歸奇也。易,變易也。謂一變也。三變成爻,十八變則成六爻也。八卦而小成。謂九變而成三畫,得內卦也。引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。長,丁丈反。謂已成六爻,而視其爻之變與不變以為動靜,則一卦可變而為六十四卦以定吉凶,凡四千九十六卦也。
《繋辞》に言います。「だから四道の経営を経て一変を完成し、十八変して一卦を成します。」「四営」とは分二・挂一・揲四・帰奇のこの四道の手続を指し、「易」とはすなわち変易で一変を指します。三変して一爻を成し、十八変すれば便ち六爻を成します。《繋辞》に言います。「八卦して小成。」九変して三画を成し内卦を得るを指します。《繋辞》に言います。「それを引申し類に触れて推廣すれば、天下の為し得る事は皆斉備します。」(「長」は丁丈反に読み、増長。)これは六爻がすでに成った後、更に各爻の変と不変を見て以て動静を定めれば、ならば一卦は変じて六十四卦と為りて以て吉凶を判定し、六十四卦が互変して共有四千九十六種を言います。三変して一爻を得、十八変して一卦を得、これがすなわち揲蓍して卦を成す全部の次第です。
顯道神德行,是故可與酬酢,可與佑神矣。行,下孟反。道因辭顯,行以數神。酬酢,謂應對。佑神,謂助神化之功。子曰:「知變化之道者,其知神之所為乎?」變化之道,即上文數法是也,皆非人之所能為,故夫子嘆之。而門人加「子曰」以別上文也。上第九章。此章言天地大衍之數,揲蓍求卦之法,然亦略矣。意其詳具於大卜筮人之官,而今不可考耳。其可推者,《啟蒙》備言之。
《繋辞》に言います。「《易》は能く天道を彰顯し、人の徳行を神妙ならしめ、だから人と酬答応対し、神明の化育を輔助する可きです。」(「行」は下孟反に読み、即ち徳行の行。)天道は卦爻の辞に因りて彰顯し、徳行は蓍数の推衍に因りて神妙なり。「酬酢」とはすなわち応対往来、「佑神」とはすなわち神明の化育の功を助成します。孔子が言います。「変化の道を懂得する人は、大概また神明の作為を懂得するならん。」いわゆる変化の道とは、すなわち上文の講ずる蓍数の法で、皆人力の造作し得る所にあらず。だから孔子はそれのために讃嘆します。門人はここに「子曰」の二字を加上して、以て上文と区別します。以上は第九章です。この一章は天地の数・大衍の数と揲蓍して卦を求める方法を講じ、ただし講ずるもまた甚だ簡略です。想うにその詳細の内容は元本は太卜・筮人のこれらの職官の典籍裡に具備していたが、今日はすでに考証する由なし。その中の推求すべき部分は、《易学啓蒙》がすでに甚だ詳備に講じました。
繋辞上伝・第十章
《易》有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。四者皆變化之道,神之所為者也。是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如向,無有遠近幽深,遂知來物。非天下之至精,其孰能與於此!向,許兩反,古文響字。與,音預,下同。此尚辭、尚占之事,言人以蓍問《易》,求其卦爻之辭,而以之發言處事,則易受人之命而有以告之。如向之應聲,以決其未來之吉凶也。以言,與「以言者尚其辭」之「以言」義同。命,則將筮而告蓍之語。《冠禮》「筮日宰自右贊命」是也。
《繋辞》に言います。「《易》裡に聖人の道の四項を包含す。以て話を説く人はその卦爻辞を取法し、以て行動する人はその変化を取法し、以て器物を制作する人はその卦象を取法し、以て卜筮する人はその占断を取法す。」この四項は皆変化の道に属し、神明の作為です。《繋辞》がまた言います。「だから君子が将に作為有らんとし将に行動有らんとする時、《易》に向かって発問して言辞をもって相告すれば、それは問命を接受して回声の如く応答し、遠近幽深を問わず、皆これに由りて未来の事を知る能くす。もし天下の最も精微の物にあらざれば、誰かこの一歩を做到せん。」(「向」は許両反に読み、古文の「响」の字。「与」は預に読み、参与、下同。)この一段が講ずるは卦爻辞を取法する事と占断を取法する事です。人は蓍草をもって《易》に発問し、卦爻の辞を求得して、拠って発言し事を処すれば、《易》は便ち人の問命を接受して告示を給出し、回声が声音に応和するが如く、以て未来の吉凶を判定するに用います。ここの「以言」は、「以言者尚其辞」の「以言」と意思相同です。「命」とは、すなわち将に占筮せんとする時に蓍草に向かって陳告する話で、《儀礼・士冠礼》の言う所の「筮日の時に宰が右辺に在りて宣命を賛助する」は即ちこの種の做法です。
參伍以變,錯綜其數。通其變,遂成天地之文,極其數,遂定天下之象,非天下之至變,其孰能與於此?參,七南反。錯,七各反。綜,作弄反。此尚象之事,變則象之未定者也。參者,三數之也。伍者,五數之也。既參以變,又伍以變,一先一後,更相考核,以審其多寡之實也。錯者,交而互之,一左一右之謂也。綜者,總而挈之,一低一昂之謂也。此亦皆謂揲蓍求卦之事。蓋通三揲兩手之策,以成陰、陽、老、少之畫,究七、八、九、六之數,以定卦爻動靜之象也。
《繋辞》に言います。「三と五を以て交互にその変化を推求し、その数目を交錯綜合す。その変化を会通すれば、ここにおいて天地の文采を成就し、その数目を窮尽すれば、ここにおいて天下の物象を判定す。もし天下の最も善く変化する物にあらざれば、誰かこの一歩を做到せん。」(「参」は七南反、「錯」は七各反、「綜」は作弄反に読む。)この一段が講ずるは卦象を取法する事で、「変」は物象がまだ確定せざる時を指します。「参」は三個三個に数え、「伍」は五個五個に数えます。先ず三に按って変を求め、また五に按って変を求め、一先一後に彼此参験して、以て数目の多少の実情を審定します。「錯」は交叉互換して一左一右、「綜」は総めて提挈して一低一昂。これらの言う所もまた皆揲蓍して卦を求める事です。三次の揲蓍の両手の得た策数を合わせて計算して、以て陰・陽・老・少の爻画を定出し、七・八・九・六の数を推究して、従って卦爻の動静の象を確定します。
參伍、錯綜,皆古語,而參伍尤難曉。按《荀子》云:「窺敵制變,欲伍以參。」《韓非》曰:「省同異之言,以知朋黨之分;偶參伍之驗,以責陳言之實。」又曰:「參之以比物,伍之以合參。」《史記》曰:「必參而伍之。」又曰:「參伍不失。」《漢書》曰:「參伍其賈,以類相準。」此足以相發明矣。
「参伍」「錯綜」は皆古語で、その中の「参伍」は尤其に懂り難し。《荀子》を考えるに曰く、「敵情を窺察してその変化を制するに、伍を要して相参験せよ。」《韓非子》に曰く、「相同と相異の言論を省察して、以て朋党の分別を判明せよ。参伍の法をもって験核を加えて、以て陳述の言が属実するかを責求せよ。」また曰く、「類比の事物をもってそれを参験し、会合参験をもってそれを伍合せよ。」《史記》に曰く、「必ずこれを参じこれを伍せよ。」また曰く、「参伍して験核して失誤せず。」《漢書》に曰く、「参伍して物価を比較し、類別に按って互相に准を取れ。」これらの例は以て互相に印証して、「参伍」の用法を説明するに足ります。
《易》,無思也,無為也,寂然不動,感而遂通天下之故。非天下之至神,其孰能與於此?此四者,易之體所以立,而用所以行者也。易,指蓍卦。無思、無為,言其無心也。寂然者,感之體。感通者,寂之用。人心之妙,其動靜亦如此。
《繋辞》に言います。「《易》は思慮なく造作なく、寂然として動かず、一旦感応すれば即ち天下の事理を貫通す。もし天下の最も神妙の物にあらざれば、誰かこの一歩を做到せん。」以上の講ずる尚辞・尚変・尚象・尚占のこの四項は、まさに《易》の「体」が確立を得て「用」が施行を得る縁由です。ここの「易」は蓍草と卦画を指し、「無思」「無為」はそれが本来成心なきを言います。「寂然」は感応の本体、「感通」は寂然の作用です。人心の精妙、その動と静もまた正にこのようです。
夫《易》,聖人之所以極深而研幾也。幾,音機。下同。研,猶審也。幾,微也。所以極深者,至精也。所以研幾者,至變也。唯深也,故能通天下之志;唯幾也,故能成天下之務;唯神也,故不疾而速,不行而至。所以通志而成務者,神之所為也。子曰「《易》有聖人之道四焉」者,此之謂也。上第十章。此章承上章之意,言《易》之用,有此四者。
《繋辞》に言います。「《易》とは、聖人が以て幽深を窮極し幾微を研審するもの。」(「幾」は机に読み、下同。)「研」とはすなわち審察、「幾」とはすなわち細微の端倪。能く幽深を窮極するは、至精に靠り。能く幾微を研審するは、至変に靠ります。《繋辞》に言います。「ただその幽深なるが故に、能く天下人の心志を貫通す。ただその幾微なるが故に、能く天下の事務を成就す。ただその神妙なるが故に、急促せずして自然に迅速、行走せずして自然に到達す。」能く心志を貫通し事務を成就するは、まさに神明の作為です。孔子の言う所の「《易》裡に聖人の道の四項を包含す」は、講ずるは即ちこれらです。以上は第十章です。この一章は上一章の意を承接して、《易》の功用にこの四つの方面有るを説明します。
繋辞上伝・第十一章
子曰:「夫《易》,何為者也?夫《易》,開物成務,冒天下之道,如斯而已者也。」是故聖人以通天下之志,以定天下之業,以斷天下之疑。夫,音扶。冒,莫報反。斷,丁亂反。開物成務,謂使人卜筮以知吉凶,而成事業。冒天下之道,謂卦爻既設,而天下之道皆在其中。
孔子が言います。「《易》のこの書は何を為すものか。《易》は万物の理を開通し天下の事を成就し、天下の一切の道理を涵蓋して、如此のみ。」だから聖人はそれを用いて天下人の心志を貫通し、それを用いて天下の事業を確定し、それを用いて天下の疑難を裁断します。(「夫」は扶に読み、「冒」は莫報反、「断」は丁乱反に読む。)「開物成務」とは、人をして卜筮を通じて吉凶を預知せしめ、従って事業を成就することを言い。「冒天下之道」とは、卦爻が一たび設立すれば、天下の道理は便ち皆その中に涵蓋されるを言います。
是故蓍之德圓而神,卦之德方以知,六爻之義易以貢。聖人以此洗心,退藏於密,吉凶與民同患。神以知來,知以藏往,其孰能與於此哉?古之聰明睿知,神武而不殺者夫。「方以知」之知,音智。下「知以」、「睿知」,並同。易,音亦。與,音預。夫,音扶。圓神,謂變化無方。方知,謂事有定理。易以貢,謂變易以告人。聖人體具三者之德,而無一塵之累。無事,則其心寂然,人莫能窺;有事,則神知之用,隨感而應,所謂無卜筮而知吉凶也。神武不殺,得其理而不假其物之謂。
《繋辞》に言います。「だから蓍草の徳は円通にして神妙、卦体の徳は方正にして智有り、六爻の義理は則ち変易をもって人に告げます。聖人はこれらを凭って自己の心を洗滌し、隠密の処に退蔵して、百姓と共に吉凶憂患を担います。神妙をもって未来を預知し、智慧をもって既往を含蔵し、誰かこの一歩を做到せん。大概ただ古時のあの聡明叡智・神武にして必ずしも殺伐せざる人のみか。」(「方以知」の「知」は智に読み、下文の「知以」「叡知」の「知」は相同。「易」是亦に読み、「与」は預に読み、「夫」は扶に読む。)「円而神」とは変化に一定の方所なきを言い、「方以知」とは事理に確定の準則有るを言い、「易以貢」とは変易をもって人に告示するを言います。聖人の身上は兼ねてこの三種の徳を具えて、一糸の塵垢の牽累もなし。事なき時はその心は寂然として、別人は窺測する由なく、事有る時は神明と智慧の用は感に随いて応じ、これがすなわちいわゆる卜筮せずして吉凶を預知し得る。「神武不殺」とは、すでにその理を得て外物に借助するに及ばざるを言います。
是以明於天之道,而察於民之故,是興神物以前民用。聖人以此齋戒,以神明其德夫。夫,音扶。神物,謂蓍龜。湛然純一之謂齋,肅然警惕之謂戒。明天道,故知神物之可興;察民故,故知其用之不可不有以開其先。是以作為卜筮以教人,而於此焉齋戒以考其占,使其心神明不測,如鬼神之能知來也。
《繋辞》に言います。「だから聖人は天の道理を明白にし、また百姓の実情を洞察して、ここにおいて蓍亀のこの類の神物を兴起し、以て百姓の日用を開導します。聖人はこれらを凭って斎戒して自持し、自己の徳性を神明ならしめます。」(「夫」は扶に読む。)「神物」とは蓍草と亀甲を指します。心地が澄澈純一なるを「斎」と言い、神情が肅然として警惕するを「戒」と言います。天道を明白にするが故に、神物が興用すべきを知り、民情を洞察するが故に、百姓の日用は預め彼らのために開導せざるべからざるを知ります。ここにおいて聖人は卜筮を制作して人を教え、かつ占筮の時に斎戒して以て占う所の結果を考験し、人心をして神明にして測度すべからざらしめ、鬼神の如く能く未来を預知せしめます。
是故闔戶謂之坤,闢戶謂之乾,一闔一闢謂之變,往來不窮謂之通,見乃謂之象,形乃謂之器,制而用之謂之法,利用出入,民咸用之謂之神。見,賢遍反。闔闢,動靜之機也。先言坤者,由靜而動也。乾、坤、變、通者,化育之功也。見象、形器者,生物之序也。法者,聖人修道之所為。而神者,百姓自然之日用也。
《繋辞》に言います。「だから門を関するを『坤』と言い、門を開くを『乾』と言い、一関一開を『変』と言い、往来して窮まらざるを『通』と言い、顕現し出るを『象』と言い、形体を成すを『器』と言い、制作して以て使用を加うるを『法』と言い、出入に利し、百姓が天天に皆用いて自知せざるを『神』と言います。」(「見」は賢遍反に読み、「現」と同じ。)関と開は動静の枢機です。先ず「坤」を言うは、静より動に由るが故です。乾・坤・変・通は天地の化育の功で、顕象・成形・成器は万物の生成の次第です。「法」は聖人が大道を修明して建立した所で、「神」は則ち百姓の自自然然の日常の運用です。
是故《易》有大極,是生兩儀。兩儀生四象,四象生八卦。大,音泰。一每生二,自然之理也。《易》者,陰陽之變。大極者,其理也。兩儀者,始為一畫以分陰陽。四象者,次為二畫以分大少。八卦者,次為三畫而三才之象始備。此數言者,實聖人作《易》自然之次第,有不假絲毫智力而成者。畫卦揲蓍,其序皆然。詳見序例、《啟蒙》。八卦定吉凶,吉凶生大業。有吉有凶,是生大業。
《繋辞》に言います。「だから《易》に太極有り、太極は両儀を生出し、両儀は四象を生出し、四象は八卦を生出す。」(「大」は泰に読み、即ち太極の太。)一が毎に二を生ずるは、これは自然の理です。《易》の講ずるはすなわち陰陽の変化です。「太極」はその理、「両儀」は最先に一画を画出して以て陰陽を分かち、「四象」は続いて二画を画成して以て太・少を分かち、「八卦」は再び三画を画成して天地人の三才の象がこそ斉備しました。この数句の話は、実際上は聖人が《易》を作る時の自然の次第を言い、毫も人の智力の安排を仮らず。卦を画くと蓍を揲くの次序は皆このようで、詳しくは巻首の序例と《易学啓蒙》を見よ。《繋辞》がまた言います。「八卦は吉凶を判定し、吉凶は偉大の事業を生出す。」吉有り凶有りて、人に趨避する所有りて、ここにおいて偉大の事業を生出します。
是故法象,莫大乎天地,變通,莫大乎四時,縣象著明,莫大乎日月,崇高,莫大乎富貴,備物致用,立成器以為天下利,莫大乎聖人,探賾索隱,鉤深致遠,以定天下之吉凶,成天下之亹亹者,莫大乎蓍龜。縣,音玄。探,吐南反。索,色白反。亹,亡偉反。富貴,謂有天下、履帝位。「立」下疑有闕文。亹亹,猶勉勉也。疑則怠,決故勉。
《繋辞》に言います。「だから取法すべき形象は、天地より大きいはなし。変化通達は、四時より大きいはなし。天上に高懸して光明显著は、日月より大きいはなし。崇高は、富貴より大きいはなし。器物を備弁してその功用を尽くし、器具を制成して以て天下を利するは、聖人より大きいはなし。繁雑を探索し隠微を搜求し、深奥を鈎取し遠大を招致して、以て天下の吉凶を判定し天下人の勉力して懈らざるを促成するは、蓍草と亀甲より大きいはなし。」(「縣」は玄に読み、「懸」と同じ。「探」は吐南反、「索」は色白反、「亹」は亡偉反に読む。)「富貴」とは天下を擁有し帝位に身居するを指し、「立」の字の下は脱文有ると疑われます。「亹亹」は猶お「勉勉」の如く、勤勉して倦まず。心に疑惑存すれば即ち怠惰し、疑難が決断を得れば、人はこそ勤勉します。
是故天生神物,聖人則之,天地變化,聖人效之,天垂象,見吉凶,聖人象之,河出《圖》,洛出《書》,聖人則之。見,賢遍反。此四者,聖人作《易》之所由也。《河圖》、《洛書》,詳見《啟蒙》。《易》有四象,所以示也;《繫辭》焉,所以告也;定之以吉凶,所以斷也。斷,丁亂反。四象,謂陰、陽、老、少。示,謂示人以所值之卦爻。上第十一章。此章專言卜筮。
《繋辞》に言います。「だから上天は蓍亀のこのような神物を生出し、聖人は取って以て法と為す。天地に変化有り、聖人は取って以て效と為す。上天は物象を垂示して吉凶を顕現し、聖人は取って以て象と為す。黄河は《河図》を出現し、洛水は《洛書》を出現し、聖人は取って以て法と為す。」(「見」は賢遍反に読み、「現」と同じ。)この四件の事はすなわち聖人が《易》を作る依拠です。《河図》《洛書》の詳情は《易学啓蒙》を見よ。《繋辞》がまた言います。「《易》に四象有るは、以て顕示するに用いる。文辞を繋ぐるは、以て告知するに用いる。吉凶をもって判定を加うるは、以て裁断するに用いる。」(「断」は丁乱反に読む。)「四象」とは陰・陽・老・少を指し、「示」とは占う人の遇った卦爻を彼に顕示して見せることです。以上は第十一章、この一章は専ら卜ら卜筮を講じます。
繋辞上伝・第十二章
《易》曰:「自天佑之,吉,無不利。」子曰:「佑者,助也。天之所助者,順也;人之所助者,信也。履信思乎順,又以尚賢也。是以『自天佑之,吉,無不利』也。」釋《大有》上九爻義。然在此無所屬,或恐是錯簡,宜在第八章之末。
《易》に言います。「自天佑之、吉、无不利。」孔子が釈します。「『佑』とはすなわち幇助。上天の幇助する所は天道に順応する人、衆人の幇助する所は誠信を篤守する人。誠信を履行して天道に順うを念念不忘し、また賢人を崇尚する能くすれば、だから『自天佑之、吉、无不利』と言います。」以上は《大有》卦上九爻の爻義を釈します。ただしこの一条をここに置くは上下文と並に関聯なく、恐らく竹簡の錯乱で、第八章の末尾に置くべし。
子曰:「書不盡言,言不盡意。」然則聖人之意,其不可見乎!子曰:「聖人立象以盡意,設卦以盡情偽,繫辭焉以盡其言,變而通之以盡利,鼓之舞之以盡神。」言之所傳者淺,象之所示者深,觀奇偶二畫,包含變化,無有窮盡,則可見矣。變通、鼓舞,以事而言。兩「子曰」字,疑衍其一。蓋「子曰」字,皆後人所加,故有此誤。如近世《通書》,乃周子所自作,亦為後人每章加以「周子曰」字,其設問答處,正如此也。
孔子が言います。「文字は言語を窮尽する能わず、言語は心意を窮尽する能わず。」すでにこのようであれば、聖人の心意はなんで見る法なきや。孔子が言います。「聖人は卦象を確立して以て心意を窮尽し、卦体を設置して以て事情の真偽を窮尽し、文辞を繋ぎて以て説かんと欲する話を窮尽し、それをして変通せしめて以てその利を窮尽し、鼓動振作して以てその神を窮尽す。」言語の伝達する所は比較的浅く、卦象の顕示する所は却って深し。あの奇画と偶画の両種の符号を看れば、その中の包含する変化に窮尽なきは、即ちこの一点を明白にすべきです。「変通」「鼓舞」は人事に就いて言います。文中の両個の「子曰」は、一個多く出たと疑う。「子曰」の二字は皆後人の添加なので、この種の重複を出現しました。近世の周敦頤が自己の作った《通書》に、後人もまた毎一章の前面に「周子曰」を加上して、およそ問答を設る処は、情形は正にこれと相同です。
乾坤,其《易》之縕邪?乾坤成列,而《易》立乎其中矣,乾坤毀,則無以見《易》。《易》不可見,則乾坤或幾乎息矣!縕,與蘊同。邪,於遮反。幾,音機。縕,所包蓄者,猶衣之著也。《易》之所有,陰陽而已。凡陽皆乾,凡陰皆坤,畫卦定位,則二者成列,而《易》之體立矣。乾坤毀,謂卦畫不立;乾坤息,謂變化不行。
《繋辞》に言います。「乾坤は大概《易》の蘊蔵する根本なるか。乾坤が行列を排成すれば、《易》は即ちその中に立つ。乾坤が一旦毀壊すれば、即ち《易》を見る由なし。《易》がもし見る可からざれば、ならば乾坤もまたほぼ止息せんとす。」(「縕」は「蘊」と同じ。「邪」是于遮反、「耶」と同じ。「幾」は机に読む。)「縕」とは内裡の包蓄する所の東西を指し、衣服裡の絮る棉絮に譬えるが如し。《易》の所有する内容はただ陰陽の二者のみ。およそ陽に属するは皆乾、およそ陰に属するは皆坤。卦を画き位を定めれば、二者は便ち行列を排成し、《易》の本体もまた確立します。「乾坤毀」とは卦画がもはや成立せざるを言い、「乾坤息」とは変化がもはや運行せざるを言います。
是故形而上者謂之道,形而下者謂之器,化而裁之謂之變,推而行之謂之通,舉而措之天下之民,謂之事業。卦爻陰陽,皆形而下者,其理則道也。因其自然之化而裁制之,變之義也。「變通」二字,上章以天言,此章以人言。
《繋辞》に言います。「だから形体の上に在るを『道』と言い、形体の下に在るを『器』と言い、化裁を加うるを『変』と言い、推廣して施行するを『通』と言い、拿げて以て天下の百姓に施すを『事業』と言います。」卦爻と陰陽は皆形而下の層面に属し、その中の理がこそ道。自然の造化に順って裁制を加うるは、これがすなわち「変」の含義です。「変通」のこの二字は、上一章は天道に就いて言い、この一章は人事に就いて言います。
是故夫象,聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象。聖人有以見天下之動,而觀其會通以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。重出,以起下文。極天下之賾者存乎卦,鼓天下之動者存乎辭,卦,即象也;辭,即爻也。化而裁之存乎變,推而行之存乎通,神而明之存乎其人,默而成之,不言而信,存乎德行。行,下孟反。卦爻所以變通者在人,人之所以能神而明之者在德。上第十二章。
《繋辞》に言います。「だから『象』と言うは、聖人が天下事物の繁雑を見て、具体の形容をもってそれを比擬し、それが適宜する物類を象徴するので、ここにおいて『象』と言います。聖人が天下事物の変動を見て、それの会合貫通の処を観察して以て典章礼制を推行し、文辞を繋ぎて以て吉凶を判断するので、ここにおいて『爻』と言います。」この両句は重複して出現し、以て下文を引起します。《繋辞》がまた言います。「天下の繁雑の事物を窮極するは卦に在り、天下の変動を鼓動するは辞に在り。」卦とはすなわち象、辞とはすなわち爻です。《繋辞》に言います。「化裁は変に在り、推行は通に在り、神妙にしてそれを明暁するは人に在り。黙然として成就し言わずして信を取るは、徳行に在り。」(「行」は下孟反に読む。)卦爻の能く変通する所以の関鍵は人に在り、人の能く神明にそれを運用する所以の関鍵は徳に在ります。以上は第十二章です。
繋辞下伝
八卦成列,象在其中矣,因而重之,爻在其中矣,重,直龍反。成列,謂《乾》一,《兌》二,《離》三,《震》四,《巽》五,《坎》六,《艮》七,《坤》八之類。象,謂卦之形體也。因而重之,謂各因一卦而以八卦次第加之,為六十四也。爻,六爻也。既重而後卦有六爻也。剛柔相推,變在其中矣,繫辭焉而命之,動在其中矣。剛柔相推,而卦爻之變,往來交錯,無不可見,聖人因其如此,而皆繫之辭以命其吉凶,則占者所值當動之爻象,亦不出乎此矣。
《繋辞下》に言います。「八卦は行列を排成して、物象は即ちその中に在り。これに拠って再び重畳を加うれば、爻は即ちその中に在り。」(「重」是直龍反、重畳。)「成列」とは《乾》一・《兌》二・《離》三・《震》四・《巽》五・《坎》六・《艮》七・《坤》八のこのような次序を指し、「象」とは卦の形体を指し、「因而重之」とは毎一卦を以て下体と為し、再び依次に八卦をその上に加えて、六十四卦と為るを言い、「爻」とは六爻を指し、重卦の後に毎卦こそ六爻有り。《繋辞》がまた言います。「剛柔は互相に推移して、変化は即ちその中に在り。文辞を繋ぎて以て人に告命すれば、動向は即ちその中に在り。」剛と柔は互相に推移して、卦爻の変化は往来交錯して、見る可からざるなし。聖人はこの種の情形に依照して、皆文辞を繋ぎて以て吉凶を指明すれば、ならば占う人の遇った当に動くべき爻象も、またこの外に出ず。八個の経卦が相重じて、こそ六十四卦・三百八十四爻有り、占筮の依拠する卦辞爻辞もまたこれに由りて確立しました。
吉凶悔吝者,生乎動者也,吉、凶、悔、吝,皆辭之所命也。然必因卦爻之動而後見。剛柔者,立本者也,變通者,趣時者也。趣,七樹反。一剛一柔,各有定位,自此而彼,變以從時。吉凶者,貞勝者也,貞,正也,常也,物以其所正為常者也。天下之事,非吉則凶,非凶則吉,常相勝而不已也。天地之道,貞觀者也,日月之道,貞明者也,天下之動,貞夫一者也。觀,官換反。夫,音扶。觀,示也。天下之動,其變無窮,然順理則吉,逆理則凶,則其所正而常者,亦一理而已矣。
《繋辞》に言います。「吉・凶・悔・吝は、皆変動に産生します。」吉・凶・悔・吝は皆卦爻辞の指明する所、しかし必ず卦爻の変動に因ってこそ顕現します。《繋辞》に言います。「剛柔は根本を確立する、変通は時宜に趨合する。」(「趣」是七七樹反、「趨」と同じ。)一剛一柔は各々固定の爻位有り、此の位より彼の位に変ずるは、則ち時に随って変ず。《繋辞》に言います。「吉凶は、それが守る所の正を以て相勝します。」「貞」とはすなわち正、すなわち常で、事物はそれが守る所の正を以て常道と為します。天下の事は吉ならざれば即ち凶、凶ならざれば即ち吉で、常に互相に勝過して休止なし。《繋辞》に言います。「天地の道は、正を以て顕示します。日月の道は、正を以て光明します。天下の一切の変動は、皆一個の正理を以て帰と為します。」(「観」是官換反、「夫」は扶に読む。)「観」とはすなわち顕示。天下の変動は変化して窮なれども、しかし理に順えば即ち吉、理に逆えば即ち凶で、ならばその中のいわゆる正にして恒常なるは、またただ同一の道理のみ。
夫乾,確然示人易矣,夫坤,阝貴然示人簡矣。確,苦角反。易,音異。阝貴,音頹。確然,健貌。阝貴然,順貌,所謂「貞觀」者也。爻也者,效此者也,象也者,像此者也。此謂上文乾、坤所示之理,爻之奇偶,卦之消息,所以效而象之。爻象動乎內,吉凶見乎外,功業見乎變,聖人之情見乎辭。內,謂蓍卦之中。外,謂蓍卦之外。變,即動乎內之變。辭,即見乎外之辭。
《繋辞》に言います。「乾は剛健確然として、平易を以て人に示す。坤は柔順隤然として、簡約を以て人に示す。」(「確」是苦角反。「易」是異に読み、平易。「阝貴」即ち「隤」の字、頽に読む。)「確然」は剛健の様子、「隤然」は柔順の様子で、すなわち上文の言う所の「貞観」の意思です。《繋辞》に言います。「爻とは、これを效法するもの。象とは、これに取象するもの。」これは上文の乾坤の顕示した道理、爻画の奇偶・卦体の消長は、皆以てそれを效法しそれを象徴するを言います。《繋辞》に言います。「爻象は内裡に於て変動し、吉凶は外面に於て顕現し、功業は変化の中に於て顕現し、聖人の心意は文辞の中に於て顕現す。」「内」とは蓍草と卦体の中を指し、「外」とは蓍卦の外を指し、「変」とはすなわち内裡に於て変動するあの変、「辞」とはすなわち外に於て顕現するあれらの文辞です。
天地之大德曰生,聖人之大寶曰位。何以守位?曰仁。何以聚人?曰財。理財正辭,禁民為非,曰義。「曰人」之人,今本作「仁」。呂氏從古,蓋所謂「非眾罔與守邦」。上第一章。此章言卦爻吉凶,造化功業。
《繋辞》に言います。「天地の最大の徳を『生』と言い、聖人の最大の宝を『位』と言います。何を凭ってこの位を守住するか。人に靠る。何を凭って人衆を聚集するか。財物に靠る。財物を管理し号令を端正し、百姓の非作歹を禁止するは、これを『義』と言います。」「曰人」の「人」の字は、通行本は「仁」と作り、呂大防は古本に依従して「人」と作り、大概《尚書》の言う所の「衆人なければ誰と君王と邦国を共に守らん」の意を取ります。以上は第一章、この一章は卦爻の吉凶と天地の造化・人事の功業を講じます。
古者包犧氏之王天下也,仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文,與地之宜,近取諸身,遠取諸物,於是始作八卦,以通神明之德,以類萬物之情。包,蒲交反。王,於況反。王昭素曰:「『與地』之間,諸本多有『天』字。」俯仰遠近,所取不一,然不過以驗陰陽消息兩端而已。神明之德,如健順動止之性,萬物之情,如雷風山澤之象。作結繩而為罔罟,以佃以漁,蓋取諸《離》。罔,與網同。罟,音古。佃,音田。兩目相承,而物麗焉。
《繋辞》に言います。「古時の包犠氏は天下を統治し、頭を抬げて天上の物象を観察し、頭を低れて地上の法則を観察し、鳥獣の紋理と土地の宜忌を観察し、近くは自身より象を取り、遠くは万物より象を取りて、ここにおいて始めて八卦を画出し、以て神明の徳性を会通し、以て万物の情状を分類しました。」(「包」是蒲交反、「王」是于况反に読み、動詞に作る。)王昭素が言います。「『与地』の間に、各种の本子は多く一個の『天』の字有り。」俯仰遠近の取る所の対象は一ならざるも、しかし陰陽消長のこの両端を験するに外ならず。「神明之徳」とは、剛健・柔順・震動・静止のこれらの性質の如し。「万物之情」とは、雷・風・山・沢のこれらの形象の如し。《繋辞》に言います。「繩索を編結して網罟を做成し、以て猟を打ち魚を捕らえ、大概《離》卦に取象しました。」(「罔」は「網」と同じ、「罟」は古に読み、「佃」は田に読む。)《離》卦の上下の二個の「目」の形は相承して、万物は即ち網目の中に附麗します。
包犧氏沒,神農氏作。斫木為耜,揉木為耒,耒耨之利,以教天下,蓋取諸《益》。斫,涉角反。耜,音似。耒,力對反。耨,奴豆反。二體皆木,上入下動,天下之益,莫大於此。日中為市,致天下之民,聚天下之貨,交易而退,各得其所,蓋取諸《噬嗑》。日中為市,上明而下動,又借噬為市,嗑為合也。
《繋辞》に言います。「包犠氏が去世した後、神農氏が兴起しました。木を砍削して犂頭を做成し、木を揉弯して犂柄を做成し、耕耘の便利を以て天下人を教え、大概《益》卦に取象しました。」(「斫」是渉角反、「耜」是似に読み、「耒」是力対反、「耨」是奴豆反に読む。)《益》卦の上下両体は皆木に属し、上体の巽は入、下体の震は動で、正に耕作の象に合して、而して天下の利益はこれより大きいはなし。《繋辞》に言います。「正午の時に集市を開設し、天下の百姓を招来し、天下の貨物を聚集し、交易が完畢して各自散去し、人人は各々その所を得、大概《噬嗑》卦に取象しました。」正午に市を開くは、上体の離が明、下体の震が動の象を取り、また「噬」の音を借りて「市」と為し、「嗑」の義を借りて「合」と為します。
神農氏沒,黃帝、堯、舜氏作。通其變,使民不倦,神而化之,使民宜之。《易》:窮則變,變則通,通則久。是以「自天佑之,吉無不利」。黃帝、堯、舜垂衣裳而天下治,蓋取諸《乾》、《坤》。《乾》、《坤》變化而無為。刳木為舟,剡木為楫,舟楫之利,以濟不通,致遠以利天下,蓋取諸《渙》。刳,口姑反。剡,以冉反。木在水上也。「致遠以利天下」,疑衍。服牛乘馬,引重致遠,以利天下,蓋取諸《隨》。下動,上說。重門擊柝,以待暴客,蓋取諸《豫》。重,直龍反。柝,他各反。預備之意。
《繋辞》に言います。「神農氏が去世した後、黄帝・尭・舜が相继して兴起しました。彼らは事物の変化を会通して、百姓をして倦怠せしめず。神妙に化導を加えて、百姓をして各々その宜を得せしめます。《易》の理は窮尽すれば即ち変じ、変ずれば即ち通じ、通ずれば即ち長久する能くして、だから『自天佑之、吉无不利』と言います。黄帝・尭・舜は衣を垂れて拱手して天下が大治し、大概《乾》《坤》両卦に取象しました。」乾坤は万物を化育して并びに有意に造作せず。《繋辞》に言います。「木を挖空して船を做成し、木を削尖して桨を做成し、舟楫の便利を以て阻隔を渡り、遠方に到達して以て天下を利し、大概《渙》卦に取象しました。」(「刳」是口姑反、「剡」是以冉反に読む。)《渙》は木が水上に在る象です。「致遠以利天下」の一句は衍文と疑われます。《繋辞》に言います。「牛を駕り馬に乗り、重物を牽引して遠方に到達して以て天下を利し、大概《随》卦に取象しました。」《随》は下体が震動・上体が兌悦の象です。《繋辞》に言います。「層層の門戸を設置し、木梆を敲打して夜を巡り、以て凶暴の来客を防備し、大概《豫》卦に取象しました。」(「重」是直龍反、「柝」是他各反に読む。)《豫》は預め防備する意有り。
斷木為杵,掘地為臼,臼杵之利,萬民以濟,蓋取諸《小過》。斷,丁緩反。杵,昌呂反。掘,其月反。下止,上動。弦木為弧,剡木為矢,弧矢之利,以威天下,蓋取諸《睽》。睽,乖然後威以服之。上古穴居而野處,後世聖人易之以宮室,上棟下宇,以待風雨,蓋取諸《大壯》。處,上聲。壯固之意。古之葬者,厚衣之以薪,葬之中野,不封不樹,喪期無數,後世聖人易之以棺槨,蓋取諸《大過》。衣,去聲。送死大事,而過於厚。上古結繩而治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸《夬》。明決之意。上第二章。此章言聖人制器尚象之事。
《繋辞》に言います。「木を截断して杵を做成し、地を掘って臼を做成し、杵臼の便利は万民をして済助を得せしめ、大概《小過》卦に取象しました。」(「断」是丁緩反、「杵」是昌呂反、「掘」是其月反に読む。)《小過》は下体が艮止・上体が震動の象で、正に米を舂く時の臼が静にして杵が動くが如し。《繋辞》に言います。「弦を木に繃んで弓を做成し、木を削って箭を做成し、弓箭の便利は以て天下を威服し、大概《睽》卦に取象しました。」《睽》は乖背の義です。人心が乖離して、然る後にこそ威力を以てそれを服従せしめます。《繋辞》に言います。「上古の人は洞穴裡に住み野外に露宿し、後世の聖人は宮室に改用し、上は棟梁有り下は屋檐有りて、以て風雨を抵御し、大概《大壮》卦に取象しました。」(「処」は上声に読む。)《大壮》はその壮盛堅固の意を取ります。《繋辞》に言います。「古時は下葬するに、柴草を以て厚く死者を裹住し、荒野の中に葬り、墳頭を堆らず樹木を種えず、服喪も固定の期限なし。後世の聖人は棺槨に改用し、大概《大過》卦に取象しました。」(「衣」是去声に読み、動詞に作る。)葬を送るは大事なので、「大過」を以てあまりに厚重なるを表示します。《繋辞》に言います。「上古は結繩の弁法を以て治理し、後世の聖人は文字契拠に改用し、百官はそれを凭って事を治め、万民はそれを凭って稽察し、大概《夬》卦に取象しました。」《夬》は明白決断の意を取ります。以上は第二章、この一章は聖人が器物を制作して卦象を取法した事を講じます。
是故《易》者,象也。象也者,像也。《易》卦之形,理之似也。彖者,材也。彖言一卦之材。爻也者,效天下之動者也。效,放也。是故吉凶生而悔吝著也。悔吝本微,因此而著。上第三章。
《繋辞》に言います。「だから《易》の講ずるはすなわち象。いわゆる象とは、すなわち相似ること。」《易》卦の形体は、まさに天下の理の近似の写照です。《繋辞》に言います。「彖とは、すなわち材質。」彖辞の講ずるは一卦の整体の材質です。《繋辞》に言います。「爻とは、天下の変動を效法するもの。」「效」とはすなわち仿效。《繋辞》に言います。「だから吉凶はこれに由りて産生し、悔吝はこれに由りて顕著す。」悔と吝は本来甚だ細微なれども、爻の変動に因りてこそ顕露し出ます。以上は第三章です。
陽卦多陰,陰卦多陽。《震》、《坎》、《艮》為陽卦,皆一陽二陰;《巽》、《離》、《兌》為陰卦,皆一陰二陽。其故何也?陽卦奇,陰卦偶。奇,紀宜反。凡陽卦皆五畫,凡陰卦皆四畫。其德行何也?陽一君而二民,君子之道也。陰二君而一民,小人之道也。行,下孟反。君,謂陽。民,謂陰。上第四章。
《繋辞》に言います。「陽卦は陰爻が多し、陰卦は陽爻が多し。」《震》《坎》《艮》は陽卦で、皆一個の陽爻・二個の陰爻です。《巽》《離》《兌》は陰卦で、皆一個の陰爻・二個の陽爻です。《繋辞》が問います。「これは何の緣故か。」答えに曰く。「陽卦の画数は奇数、陰卦の画数は偶数。」(「奇」是紀宜反に読む。)陽爻を一画と算え陰爻を両画と算えるので、およそ陽卦は皆五画、およそ陰卦は皆四画です。《繋辞》がまた問います。「それらの徳行は如何なるか。」答えに曰く。「陽卦は一個の君主が二個の百姓を統領し、君子の道なり。陰卦は二個の君主が一個の百姓を争う、小人の道なり。」(「行」は下孟反に読む。)「君」は陽爻を指し、「民」は陰爻を指します。以上は第四章です。
《易》曰:「憧憧往來,朋從爾思。」子曰:「天下何思何慮?天下同歸而殊塗,一致而百慮。天下何思何慮?此引《咸》九四爻辭而釋之。言理本無二,而殊塗百慮,莫非自然,何以思慮為哉?必思而從,則所從者亦狹矣。
《易》に言います。「憧憧往来、朋従爾思。」孔子が釈します。「天下に何の思慮すべき有らん。天下の万事は殊途にして同帰し、百慮にして終に一致に帰す。天下に何の思慮すべき有らん。」これは《咸》卦九四の爻辞を引きて以て解説を加えます。意思は曰く。道理は本来ただ一個のみ有るも、而して途経は不同・思慮は百端で、一として自然より出でざるなし。なんで刻意に思慮するを要せん。もし必ず思慮を経てこそ相従するに肯んぜば、ならば能く相従する所もまた甚だ狭窄です。
日往則月來,月往則日來,日月相推而明生焉。寒往則暑來,暑往則寒來,寒暑相推而歲成焉。往者屈也,來者信也,屈信相感而利生焉。信,音申。言往來屈信,皆感應自然之常理,加憧憧焉,則入於私矣,所以必思而後有從也。
孔子が続いて言います。「太陽が落ちれば月亮が昇り、月亮が落ちれば太陽が昇り、日月は互相に推移して光明が産生しました。寒冬が過去すれば暑夏が来たり、暑夏が過去すれば寒冬が来たり、寒暑は互相に推移して一年が形成しました。過去するは屈、到来するは伸で、屈と伸は互相に感応して利益が産生しました。」(「信」是申に読み、「伸」と同じ。)これは往来屈伸は皆感応の自然の常理なりを言い、もし更に一片の憧憧不定の私念を加えれば、即ち私心に落入するので、こそ思慮を経ずして相従する所有る能わず。
尺蠖之屈,以求信也。龍蛇之蟄,以存身也。精義之神,以致用也。利用安身,以崇德也。蠖,紆縛反。蟄,真立反。因言屈信往來之理,而又推以言學,亦有自然之機也。精研其義,至於入神,屈之至也。然乃所以為出而致用之本,利其施用,無適不安,信之極也。然乃所以為入而崇德之資,內外交相養,互相發也。
孔子がまた言います。「尺蠖は身体を弯曲して、以て伸展を求めます。龍蛇は冬眠して蟄伏し、以て自身を保存します。義理を精研して神妙の地步に到るは、以て実際に致用するため。施用に利して自身を安頓するは、以て徳性を増崇するため。」(「蠖」是紆縛反、「蟄」是真立反に読む。)これは屈伸往来の理に就いて更に為学に推及して、その中にも自然の機括有るを説明します。義理を精研して直ちに神妙に入るは、「屈」が極処に到ったなれども、しかしこれがまさに後日に出でて用を致す根本です。施用が便利にして、どこに走るも安然として自得するは、「伸」が極処に到ったなれども、しかしこれがまさに収め帰りて徳性を増崇する資本です。内と外は交相に涵養し、互相に激発します。
過此以往,未之或知也。窮神知化,德之盛也。」下學之事,盡力於精義利用,而交養互發之機,自不能已。自是以上,則亦無所用其力矣。至於窮神知化,乃德盛仁熟而自致耳。然不知者,往而屈也;自致者,來而信也,是亦感應自然之理而已。張子曰:「氣有陰陽。推行有漸為化,合一不測為神。」此上四節,皆以釋《咸》九四爻義。
孔子が最後に言います。「この一層を超過して上に往けば、即ち人の知る能くする所にあらず。神妙を窮究し造化を通暁するは、あれは徳行が極盛の境界です。」下学の工夫は、ただ義理を精研し・利用して身を安んずる上に力を尽くすに在りて、而して内外交養・彼此激発する機括は自然に停止せず。ここより再び上に往けば、即ち用力する可き地方なし。至りて神を窮め化を知るは、あれは徳が盛にして仁が熟した後に自然に到達するものです。しかし人の知る能わざるは、「往」にして「屈」に属し、自然に到達するは、「来」にして「伸」に属して、これもまたただ感応自然の理のみ。張載が言います。「気に陰陽の両端有り、推行する時に逐漸にして進むを『化』と言い、合して一と為りて測度すべからざるを『神』と言います。」以上の四節は皆《咸》卦九四爻の爻義を釈します。
《易》曰:「困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。」子曰:「非所困而困焉,名必辱,非所據而據焉,身必危。既辱且危,死期將至,妻其可得見邪?」釋《困》六三爻義。《易》曰:「公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。」子曰:「隼者,禽也。弓矢者,器也。射之者,人也。君子藏器於身,待時而動,何不利之有?動而不括,是以出而有獲,語成器而動者也。」射,石亦反。隼,恤允反。括,古活反。括,結礙也。此釋《解》上六爻義。
《易》に言います。「困于石、据于蒺藜、入于其宮、不見其妻、凶。」孔子が釈します。「困せらるべからざる地方に却ってそこに困せられれば、名声は必ず辱を受け、憑据すべからざる東西に却って憑据に往けば、自身は必ず危険なり。すでに辱を受けまた危険なれば、死期は将に到らんとし、妻子はどこでなお見着せん。」以上は《困》卦六三爻の爻義を釈します。《易》がまた言います。「公用射隼于高墉之上、獲之、无不利。」孔子が釈します。「隼は猛禽、弓箭は器具、発射するは人。君子は器具を身に蔵して、時機を等待して後に行動すれば、どこに不利有らん。行動し起こせば毫も窒碍なく、だから一たび出手すれば即ち収獲有り、言う所はまさに器具がすでに備えて然る後に行動する人。」(「射」是石亦反、「隼」是恤允反、「括」是古活反に読む。)「括」は結滞窒碍の意です。この一節は《解》卦上六爻の爻義を釈します。
子曰:「小人不恥不仁,不畏不義,不見利不勸,不威不懲。小懲而大誡,此小人之福也。《易》曰:『屨校滅趾,無咎。』此之謂也。」校,音教。此釋《噬嗑》初九爻義。「善不積不足以成名,惡不積不足以滅身。小人以小善為無益而弗為也,以小惡為無傷而弗去也,故惡積而不可掩,罪大而不可解。《易》曰:『何校滅耳,凶。』」何,河可反。去,羌呂反。此釋《噬嗑》上九爻義。
孔子が言います。「小人は不仁を以て羞恥と為さず、不義を以て可怕と為さず、利益を見ざれば勉力するに肯んぜず、威慴を加えざれば懲戒を知らず。一点の小懲罰を受けて大警誡を得るは、これがまさに小人の福気です。《易》に曰く、『屨校滅趾、无咎。』講ずるはすなわちこれ。」(「校」是教に読み、刑具を指す。)この一節は《噬嗑》初九爻の爻義を釈します。孔子がまた言います。「善は積累せざれば名声を成就するに足らず、悪は積累せざれば自身を毀滅するに足らず。小人は小善を以て好処なしと看做して為すに肯んぜず、小悪を以て妨害なしと看做して除くに肯んぜず。だから悪は積みて掩盖し難く罪は大にして解脱する法なし。《易》に曰く、『何校滅耳、凶。』」(「何」是河可反、「荷」と同じ、負荷。「去」是羌呂反、除去。)この一節は《噬嗑》上九爻の爻義を釈します。
子曰:「危者,安其位者也。亡者,保其存者也。亂者,有其治者也。是故君子安而不忘危,存而不忘亡,治而不忘亂。是以身安而國家可保也。《易》曰:『其亡其亡,繫于苞桑。』」此釋《否》九五爻義。子曰:「德薄而位尊,知小而謀大,力小而任重,鮮不及矣。《易》曰:『鼎折足,覆公飠束,其形渥,凶。』言不勝其任也。」知,音智。鮮,仙善反。折,之設反。飠束,音速。渥,烏角反。勝,音升。此釋《鼎》九四爻義。
孔子が言います。「危亡を招致するは、自ら以て地位が安穏なりと為す人。滅亡を招致するは、自ら以て長保すべきなりと為す人。禍乱を招致するは、自ら以てすでに治好したりと為す人。だから君子は安定の時に危険を忘れず、生存の時に覆亡を忘れず、治平の時に禍乱を忘れず。このようにしてこそ自身は安穏にして国家は保全すべきです。《易》に曰く、『其亡其亡、繋于苞桑。』」この一節は《否》卦九五爻の爻義を釈します。孔子がまた言います。「徳行は浅薄にして地位は尊貴、智慧は短小にして図謀は遠大、力量は微弱にして担子は沈重で、事を出さざること少なし。《易》に曰く、『鼎折足、覆公餗、其形渥、凶。』言う所はすなわち自己の職任を担い得ざる。」(「知」は智に読み。「鮮」是仙善反。「折」是之設反。「餗」即ち「餗」の字、速に読み、鼎中の食物を指す。「渥」是烏角反。「勝」是升に読む。)この一節は《鼎》卦九四爻の爻義を釈します。
子曰:「知幾其神乎?君子上交不諂,下交不瀆,其知幾乎?幾者,動之微,吉之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。《易》曰:『介于石,不終日,貞吉。』介如石焉,寧用終日?斷可識矣。君子知微知彰,知柔知剛,萬夫之望。」幾,音機。「先見」之見,音現。斷,丁玩反。望,無方反。此釋《豫》六二爻義。《漢書》「吉之」之間,有「凶」字。
孔子が言います。「能く幾微を知るは、大概即ち神妙と算えん。君子は上位の者と交往して諂媚せず、下位の者と交往して軽慢せず、これがすなわち幾を知るか。いわゆる『幾』とは、変動の細微の征兆で、吉凶の最先に顕露する苗头です。君子は一たび幾微を見れば即ち身を動かし、一日の過ぐるを待たず。《易》に曰く、『介于石、不終日、貞吉。』操守は石の如く堅定して、どこに一整天を等つを用いん。決断の明はこれに由りて知るべし。君子はすでに細微を知りまた顕著を知り、すでに柔を知りまた剛を知るので、万人の仰望する所と為ります。」(「幾」は机に読み。「先見」の「見」は現に読み。「断」是丁玩反。「望」是無方反に読む。)この一節は《豫》卦六二爻の爻義を釈します。《漢書》の引く所は「吉之」の二字の間にまた一個の「凶」の字有りて、「吉凶之先見者也」と作ります。
子曰:「顏氏之子,其殆庶幾乎?有不善,未嘗不知,知之,未嘗復行也。《易》曰:『不遠復,無只悔,元吉。』」幾,音機。「復行」之復,芳服反。只,音其。殆,危也。庶幾,近意,言近道也。此釋《復》初九爻義。「天地絪縕,萬物化醇。男女構精,萬物化生。《易》曰:『三人行,則損一人。一人行,則得其友。』言致一也。」絪,音因。縕,紆雲反。絪縕,交密之狀。醇,謂厚而凝也,言氣化者也。化生,形化者也。此釋《損》六三爻義。
孔子が言います。「顔回のこの人は、大概幾を知るに接近せん。彼は一たび不善有れば、自ら覚察せざるなく。一旦覚察すれば、即ちもはや重犯せず。《易》に曰く、『不遠復、无只悔、元吉。』」(「幾」は机に読み。「復行」の「復」是芳服反に読み、重犯を指す。「只」是其に読む。)「殆」はほぼ、「庶幾」は接近で、彼が道に接近するを言います。この一節は《復》卦初九爻の爻義を釈します。《繋辞》に言います。「天地の二気は交密に相感じて、万物は化育して醇厚す。男女は精気を交合して、万物はこれに由りて化生す。《易》に曰く、『三人行、則損一人。一人行、則得其友。』講ずるは専一に帰すこと。」(「絪」是因に読み、「縕」是紆雲反に読む。)「絪縕」は二気の交密する様子、「醇」は渾厚にして凝聚するを指し、気化を言い、「化生」は言う所は則ち形化です。この一節は《損》卦六三爻の爻義を釈します。
子曰:「君子安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求。君子修此三者,故全也。危以動,則民不與也。懼以語,則民不應也。無交而求,則民不與也。莫之與,則傷之者至矣。《易》曰:『莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。』」「易其」之易,去聲。此釋《益》上九爻義。上第五章。
孔子が言います。「君子は先ず自身を安穏にして後に行動し、先ず内心を平易にして後に口を開き、先ず交情を確定して後に請求する所有り。君子はこの三件の事を修養するので、能く自己を保全します。処境が危殆なれば即ち冒然として行動し、百姓は親附せず。心に恐懼を懐けば即ち急いで話し、百姓は応じず。交情なくして口を開き人に求めれば、百姓は給与せず。親附するに肯んずる人なければ、ならば加害する人は将に来らんとします。《易》に曰く、『莫益之、或撃之、立心勿恒、凶。』」(「易其」の「易」は去声に読み、平易。)この一節は《益》卦上九爻の爻義を釈します。以上は第五章です。
子曰:「乾坤,其《易》之門邪?」乾,陽物也,坤,陰物也。陰陽合德,而剛柔有體,以體天地之撰,以通神明之德。邪,於遮反。撰,仕免反。諸卦剛柔之體,皆以乾、坤合德而成,故曰「乾坤,《易》之門」。撰,猶事也。其稱名也,雜而不越,於稽其類,其衰世之意邪?萬物雖多,無不出於陰陽之變。故卦爻之義,雖雜出而不差繆,然非上古淳質之時思慮所及也。故以為衰世之意,蓋指文王與紂之時也。
孔子が言います。「乾坤は大概《易》の門戸なるか。」乾は陽に属する東西、坤は陰に属する東西です。陰陽はその徳を合し、剛柔は各々形体有りて、以て天地の事功を体現し、以て神明の徳性を会通します。(「邪」是于遮反、「耶」と同じ。「撰」是仕免反に読む。)各卦の剛柔の形体は、皆乾坤の合徳より成るので、だから「乾坤は《易》の門戸」と言います。「撰」は猶お事功を言うが如し。《繋辞》がまた言います。「それが事物の名目を称説するは繁雑なれども常理を逾越せず、それが取象する類別を考察するに、大概衰乱の世の心意なるか。」万物は多しといえども、一として陰陽の変化より出でざるなし。だから卦爻の義理は紛雑して出現するも錯乱せず。しかしこれはすでに上古の淳樸質実の時の思慮の顧及し得る所にあらず。ここにおいてそれを衰世の心意と言い、大概指すは文王と商紂のあの時代です。
夫《易》,彰往而察來,而微顯闡幽,開而當名辨物,正言斷辭則備矣。夫,音扶。當,去聲。斷,丁玩反。而微顯,恐當作「微顯而」。「開而」之而,亦疑有誤。其稱名也小,其取類也大。其旨遠,其辭文,其言曲而中,其事肆而隱。因貳以濟民行,以明失得之報。中,丁仲反。行,下孟反。肆,陳也。貳,疑也。上第六章。此章多闕文疑字,不可盡通。後皆放此。
《繋辞》に言います。「《易》は既往を彰明して未来を察知し、顕著なるをして細密ならしめ、幽隠なるをして闡発を得せしめます。開示して出せば則ち名义相當にして物類分明、措辞は端正にして断語は明確にして、ここにおいて《易》の道は即ち完備す。」(「夫」は扶に読み、「当」是去声に読み、「断」是丁玩反に読む。)「而微顕」の一句は恐らく「微顕而」と作るべく、「開而」の「而」の字もまた訛誤有ると疑われます。《繋辞》がまた言います。「それが称説する名目は細小、取る所の類別は却って宏大。その意旨は深遠、その文辞は文采に富み、その話は曲折にして事理に切中し、その言う所の事は鋪陳にして含蓄有り。それは人心の疑惑を凭って百姓の行事を幇助し、以て得失の報応を顕明します。」(「中」是丁仲反、切中。「行」は下孟反に読む。)「肆」は鋪陳、「貳」は疑惑です。以上は第六章です。この一章は多く脱文と可疑の字有りて、能く全てを講通せず、後に類似の情形に遇えば皆これに照らして処理します。
《易》之興也,其於中古乎?作《易》者,其有憂患乎?夏、商之末,《易》道中微;文王拘於羑里而繫《彖辭》,《易》道復興。是故《履》,德之基也。《謙》,德之柄也。《復》,德之本也。《恆》,德之固也。《損》,德之修也。《益》,德之裕也。《困》,德之辨也。《井》,德之地也。《巽》,德之制也。
《繋辞》に言います。「《易》の兴起は、大概中古の時代なるか。《易》を作った人は、大概憂患を懐抱するか。」夏・商の末年に《易》の道は一度衰微し、文王は羑里に囚禁されて《彖辞》を繋ぎて、《易》の道はこそ重新に兴盛しました。《繋辞》が続いて言います。「だから《履》は徳の根基、《謙》は徳の把柄、《復》は徳の本原、《恒》は徳の堅固、《損》は徳の修治、《益》は徳の寛裕、《困》は徳の辨别、《井》は徳の処所、《巽》は徳の裁制。」
履,禮也。上天下澤,定分不易,必謹乎此,然後其德有以為基而立也。謙者,自卑而尊人,又為禮者之所當執持而不可失者也。九卦皆反身修德以處憂患之事也,而有序焉。基,所以立。柄,所以持。復者,必不外而善端存。恆者,守不變而常且久。懲忿窒欲以修身,遷善改過以長善,困以自驗其力,井以不變其所,然後能巽順於理,以制事變也。
「履」とはすなわち礼。《履》卦は上体が天・下体が沢で、尊卑の名分は固定して移らず、人は必ずこの上に於て謹守して、然る後に徳はこそ立つべき根基有り。「謙」は自ら卑下に居りて他人を尊崇し、また礼を行う人の執守すべくして失う可からざる所です。この九卦の講ずるは皆身に反って徳を修めて以て憂患に応対する事で、しかも排列に次序有り。根基は以て身を立てるに用い、把柄は以て執持するに用います。「復」は必ず外に馳せずして善端は常に存し、「恒」は守りて変わらず恒常に持久します。《損》は人に忿怒を懲戒し私欲を窒塞して以て身を修めを教え、《益》は人に善に遷り過を改めて以て善端を長養を教え、《困》は以て自己の力量を自験するに用い、《井》は以て移らざる本位を守住するに用い、然る後にこそ能く理に柔順して、以て事情の変化を裁制します。
《履》,和而至。《謙》,尊而光。《復》,小而辨於物。《恆》,雜而不厭。《損》,先難而後易。《益》,長裕而不設。《困》,窮而通。《井》,居其所而遷。《巽》,稱而隱。易,以豉反。長,丁丈反。稱,尺證反。此如書之九德,禮非強世,然事皆至極。《謙》以自卑而尊且光,《復》陽微而不亂於群陰,《恆》處雜而常德不厭,《損》欲先難,習熟則易,《益》但充長而不造作,《困》身困而道亨,《井》不動而及物,《巽》稱物之宜,而潛隱不露。
《繋辞》は第二次にこの九卦を陳説します。「《履》は和順にして能く極に至り、《謙》は卑下にして更に尊栄光大を顕し、《復》は陽気は微小なれども能く衆物に於て辨别し、《恒》は処境は駁雑にして厭倦を生ぜず、《損》は先ず難にして後は易、《益》は充長寛裕にして虚設造作せず、《困》は身は窮困に処して道理は通達し、《井》は本位に安居して恩沢は人に及ぶ能くし、《巽》は事宜に称合して潜隠して露せず。」(「易」是以豉反、「長」是丁丈反、「称」是尺証反に読む。)これは《尚書》の言う所の「九徳」の如し。礼は世人を強迫せざるも、しかし為し起こせば件件皆極処に做到するを要します。《謙》は自ら卑下に居るに因りて反って尊貴光大し、《復》は一陽は微なれども、衆陰に撹乱されず。《恒》は駁雑に身を処して常德は厭倦を生ぜず。《損》は起初に克制するを要し、習慣が純熟すれば容易くなり。《益》はただ充実増長して刻意に造作せず。《困》は身は困頓なれども道は却って亨通し、《井》は自身は動かずして恩沢は物に及び、《巽》は事物の宜に称合して潜蔵して露せず。
《履》以和行,《謙》以制禮,《復》以自知,《恆》以一德,《損》以遠害,《益》以興利,《困》以寡怨,《井》以辨義,《巽》以行權。「和行」之行,下孟反。遠,袁萬反。寡怨,謂少所怨尤。辨義,謂安而能慮。上第七章。此章三陳九卦,以明處憂患之道。
《繋辞》は第三次にこの九卦を陳説します。「《履》は以て行為を調和し、《謙》は以て礼節を裁制し、《復》は以て反省して自知し、《恒》は以てその徳を専一にし、《損》は以て禍害を遠離し、《益》は以て利益を兴起し、《困》は以て怨尤を減少し、《井》は以て義理を辨明し、《巽》は以て権に通じ変に達するに用いる。」(「和行」の「行」は下孟反に読み。「遠」是袁萬反に読み、動詞に作る。)「寡怨」とは怨人を天に恨むこと少なきを言い、「辨義」とは本位に安処して能く思慮するを言います。以上は第七章、この一章は三次にこの九卦を陳説し、以て憂患に身を処する道理を説明します。
《易》之為書也,不可遠,為道也,屢遷。變動不居,周流六虛,上下無常,剛柔相易。不可為典要,唯變所適。遠,袁萬反。上,上聲。下,去聲。遠,猶忘也。周流六虛,謂陰陽流行於卦之六位。其出入以度,外內使知懼。此句未詳,疑有脫誤。又明於憂患與故,無有師保,如臨父母。雖無師保,而常若父母臨之,戒懼之至。初率其辭,而揆其方,既有典常。苟非其人,道不虛行。揆,葵癸反。方,道也。始由辭以度其理,則見其有典常矣。然神而明之,則存乎其人也。上第八章。
《繋辞》に言います。「《易》のこの書は疎遠遺忘すべからざるもの。それが講ずる道は、屢々に遷移す。変動は一処に停留せず、六爻の虚位に周流し、上下に一定なく、剛柔は互相に更替して、以て固定不変の準則と為す可からず、ただ変化に随って各々その宜を得る。」(「遠」是袁萬反に読み、動詞に作る。「上」は上声、「下」是去声に読む。)「遠」は猶お遺忘を言うが如し。「周流六虚」とは陰陽が一卦の六個の爻位に流行するを言います。《繋辞》に言います。「その出入に法度有り、内外は皆人をして戒惧を知らしむ。」この一句は意思が明ならず、脱漏訛誤有ると疑われます。《繋辞》に言います。「また憂患の産生する緣故を明白にし、師保が旁に在らざるといえども、父母に面対するが如し。」師保の管教なしといえども、常に父母が親臨するが如く、これは戒惧が極点に到ったものです。《繋辞》に言います。「起初に卦爻の辞に依循してその義理を揣度すれば、即ちその中に自ずから常法有るを発見す。しかしもしあのような人にあらざれば、この道理は憑空には施行せざるなり。」(「揆」是葵癸反に読む。)「方」とはすなわち道理。起初に文辞に由りてその中の理を揣度すれば、即ちそれに常法有るを見出す能くす。しかしそれを神妙に明用せんと要すれば、即ち全く人の自己に在り。以上は第八章です。
《易》之為書也,原始要終,以為質也。六爻相雜,唯其時物也。要,一遙反。下同。質,謂卦體。卦必舉其始終而後成體,爻則唯其時物而已。其初難知,其上易知,本末也,初辭擬之,卒成之終。易,去聲。此言初、上二爻。若夫雜物撰德,辨是與非,則非其中爻不備。夫,音扶。此謂卦中四爻。噫,亦要存亡吉凶,則居可知矣。知者觀其《彖辭》,則思過半矣。「知者」之知,音智。
《繋辞》に言います。「《易》のこの書は、事情の開始を推原し事情の終了を帰結して、以て卦体を構成す。六爻は互相に錯雑するも、ただ各々その時に随い各々その物に象るのみ。」(「要」是一遥反に読み、帰結、下同。)「質」とは卦体を指します。一卦は必ずその始終を挙げて然る後に完整の卦体と為り、而して爻は則ちただ時と物に随うのみ。《繋辞》に言います。「初爻は知り難く、上爻は知り易し。これは本と末の関係です。初爻の辞はその始を擬議し、上爻は則ち終にその終を成します。」(「易」是去声に読む。)ここで講ずるは初爻と上爻です。《繋辞》に言います。「至りて物象を雑列し徳性を撰述し是非を辨别するに、ならば中間の数爻に靠らざれば完備せず。」(「夫」は扶に読む。)ここで言うは卦中の二・三・四・五のこの四爻です。《繋辞》に言います。「ああ、もし存亡吉凶を帰結せんとすれば、ならば平居にもまた以て知る可き。明智の人はただ《彖辞》を看れば、思慮はすでに半ばを過ぎた。」(「知者」の「知」は智に読む。)
《彖》,統論一卦六爻之體。二與四,同功而異位,其善不同。二多譽,四多俱,近也。柔之為道,不利遠者。其要無咎,其用柔中也。要,如字,又一遙反。下章同。此以下論中爻。同功,謂皆陰位。異位,謂遠近不同。四近君,故多懼。柔不利遠,而二多譽者,以其柔中也。三與五,同功而異位。三多凶,五多功,貴賤之等也。其柔危,其剛勝邪。勝,音升。三五同陽位,而貴賤不同。然以柔居之則危,唯剛則能勝之。上第九章。
《彖辞》は総じて一卦の六爻の整体を論ずるものです。《繋辞》に言います。「二と四は功用が相同にして爻位が不同、それらの善もまた一ならず。二は称誉を多く受け、四は戒惧を多くす、四が君位に靠近するが故です。柔の性質は君位より遠離するに利せず。而して二爻に大体に過ちなきは、それが柔を用いて中を得るが故です。」(「要」は本音に読み、また一遥反に読む可し、下一章も相同。)ここより以下に討論するは中間の各爻です。「同功」とは二・四が皆陰位に属するを言い、「異位」とは君位よりの遠近が同じからざるを言います。四爻は君位に接近するので戒惧を多くし、柔は本来遠処に利せずして二爻は称誉を多く得るは、それが柔にして中に居るが故です。《繋辞》に言います。「三と五は功用が相同にして爻位が不同。三は凶険を多くし、五は功業を多くす。これは貴賤の差等です。柔を以てこれに居れば即ち危険、剛を以てこれに居ればこそ勝任するならん。」(「勝」是升に読む。)三と五は同じく陽位に属して貴賤が同じからず、しかし柔爻を以てこの両位に居れば即ち危険で、ただ剛爻のみがこそ勝任します。以上は第九章です。
《易》之為書也,廣大悉備。有天道焉,有人道焉,有地道焉。兼三才而兩之,故六。六者,非它也,三才之道也。三畫已具三才,重之故六,而以上二爻為天,中二爻為人,下二爻為地。道有變動,故曰爻。爻有等,故曰物。物相雜,故曰文。文不當,故吉凶生焉。當,去聲。道有變動,謂卦之一體。等,謂遠近貴賤之差。相雜,謂剛柔之位相同。不當,謂爻不當位。上第十章。
《繋辞》に言います。「《易》のこの書は広大にして備わらざるなし。その中に天道有り、人道有り、地道有り。兼ねて三才を取って各々両爻を以て表示するので、だから六爻有り。六爻は別のものにあらず、すなわち三才の道です。」三画卦はすでに三才を具備し、重畳して六画卦と成れば、即ち上の両爻を以て天と為し、中の両爻を以て人と為し、下の両爻を以て地と為します。《繋辞》に言います。「道に変動有るので、だから『爻』と言います。爻に等次有るので、だから『物』と言います。物類が互相に錯雑するので、だから『文』と言います。文に不当の処有るので、だから吉凶はこれに由りて産生します。」(「当」是去声に読む。)「道有変動」とは一卦の整体を指し、「等」とは遠近貴賤の差別を指し、「相雑」とは剛柔の位が彼此相参るを指し、「不当」とは爻がその位に当たらざるを指します。以上は第十章です。
《易》之興也,其當殷之末世,周之盛德邪?當文王與紂之事邪?是故其辭危。危者使平,易者使傾。其道甚大,百物不廢。懼以終始,其要無咎。此之謂《易》之道也。邪,於遮反。「易者」之易,去聲。要,平聲。危懼故得平安,慢易則必傾覆,《易》之道也。上第十一章。
《繋辞》に言います。「《易》の兴起は、大概まさに殷商の末世・周朝の徳業が方に盛んの時なるか。まさに文王と紂王のあの件の時なるか。だからその文辞は危惧の意に充満す。心に危惧を存するは彼をして平安ならしめ、軽慢簡忽のは彼をして傾覆せしめます。その道理は極めて宏大にして、万事万物は遺漏する所なし。始より終に至るまで皆心に戒惧を懐き、その帰結は過ちを出さざるに在り、これを《易》の道理と言います。」(「邪」是于遮反、「耶」と同じ。「易者」の「易」是去声に読み、軽慢。「要」是平声に読む。)心に危惧を存するが故に平安を得、怠慢軽忽は必ず傾覆するは、これがすなわち《易》の道理です。以上は第十一章です。
夫乾,天下之至健也,德行恆易以知險。夫坤,天下之至順也,德行恆簡以知阻。夫,音扶。行、易,並去聲。阻,莊呂反。至健則所行無難,故易。至順則所行不煩,故簡,然其於事,皆有以知其難,而不敢易以處之也。是以其有憂患,則健者如自高臨下而知其險,順者如自下趨上而知其阻。蓋雖易而能知險,則不陷於險矣。既簡而又知阻,則不困於阻矣。所以能危能懼,而無易者之傾也。
《繋辞》に言います。「乾は天下の最も剛健で、その徳行は恒常に平易にして能く険難を知る。坤は天下の最も柔順で、その徳行は恒常に簡約にして能く阻碍を知る。」(「夫」は扶に読み。「行」「易」は皆去声に読み。「阻」是荘呂反に読む。)至りて剛健なれば、行う所に難処なし。だから平易。至りて柔順なれば、行う所に煩擾なし。だから簡約。しかし彼らは事情に対して皆能くその中の難処を知りて、敢えて軽易に対待せず。だから一旦憂患有れば、剛健は高に居りて下に臨むが如くして険処を看清し、柔順は下より上に向かって行くが如くして阻碍を察覚します。平易なれども能く険を知れば、険中に陷入せず。すでに簡約にしてまた能く阻を知れば、阻碍に困住せられず。ここにおいて能く危を知り能く戒惧して、軽慢の者の如き傾覆有ることなし。
能說諸心,能研諸侯之慮,定天下之吉凶,成天下之亹亹者。說,音悅。「侯之」二字衍。說諸心者,心與理會,乾之事也。研諸慮者,理因慮審,坤之事也。說諸心,故有以定吉凶。研諸慮,故有以成亹亹。是故變化云為,吉事有祥,象事知器,占事知來。變化云為,故象事可以知器。吉事有祥,故占事可以知來。
《繋辞》に言います。「能く人をして心中に悦服せしめ、能く人をして思慮を精審せしめ、天下の吉凶を判定し、天下人の勤勉して懈らざるを促成す。」(「説」は悦に読み。「侯之」の二字は衍文。)「説諸心」とは心と理が相契合するで、乾に属する事です。「研諸慮」とは理が思慮に因りて審明するで、坤に属する事です。心と理が契合するので、能く吉凶を判定し、理が思慮に因りて審明するので、能く人の勤勉を促成します。《繋辞》に言います。「だから天地の変化・人事の言行は、吉事には皆先兆有り。象を事に於て観れば能く制する所の器物を知り、占を事に於て問えば能く未来を知る。」まさに変化と言行有るが故に、象を事に於て観れば以て器物を知る可く、まさに吉事に先ず征兆有るが故に、占を事に於て問えば以て未来を預知すべき。
天地設位,聖人成能,人謀鬼謀,百姓與能。與,音預。天地設位,而聖人作《易》以成其功。於是人謀鬼謀,雖百姓之愚,皆得以與其能。八卦以象告,爻彖以情言,剛柔雜居而吉凶可見矣。象,謂卦畫。爻彖,謂卦爻辭。
《繋辞》に言います。「天地は尊卑の位置を設立し、聖人はその功能を成就しました。人が来たりて謀劃し、鬼神も来たりて謀劃し、百姓も皆その中に参与する能くす。」(「与」は預に読み、参与。)天地が位置を設立し、聖人は《易》を作って以てその功を成就しました。ここにおいて人謀と鬼謀は并用して、たとい愚昧の百姓も皆この份の功能の裡に参与する能くします。《繋辞》に言います。「八卦は卦象を以て告示し、爻辞彖辞は情実を以て陳説し、剛柔は錯雑して居りて、吉凶は即ち見る可きです。」「象」は卦画を指し、「爻彖」は爻辞と彖辞を指します。
變動以利言,吉凶以情遷。是故愛惡相攻而吉凶生,遠近相取而悔吝生,情偽相感而利害生。凡《易》之情,近而不相得,則凶,或害之,悔且吝。惡,烏路反。不相得,謂相惡也。凶害悔吝,皆由此生。將叛者其辭慚,中心疑者其辭枝,吉人之辭寡,躁人之辭多,誣善之人其辭游,失其守者其辭屈。卦爻之辭,亦猶是也。上第十二章。
《繋辞》に言います。「卦爻の変動は利害に就いて言い、吉凶は人情の向背に随って転移します。だから愛と悪は互相に攻取して吉凶が産生し、遠と近は互相に取舍して悔吝が産生し、真情と虚偽は互相に感応して利害が産生します。大凡《易》の顕示する情実は、両爻が相近するも彼此相合せざれば、即ち凶、或いは損害を受け、悔と吝を招来します。」(「悪」是烏路反に読み、憎悪。)「不相得」とはすなわち互相に憎悪することで、凶・害・悔・吝は皆これに由りて産生します。《繋辞》に言います。「将に背叛せんとする人は、言辞の裡に慚愧を帯び、心中に疑惑有る人は、言辞が支離し、吉善の人は言辞が簡少し、浮躁の人は言辞が繁多し、好人を誣陥する人は言辞が游移して定まらず、操守を喪失した人は言辞が屈曲します。」卦爻の辞もまたこのようで、辞の中より情実を見出すべきです。以上は第十二章です。
第四巻・卦伝
説卦伝
昔者,聖人之作《易》也,幽贊於神明而生蓍,幽贊神明,猶言贊化育。《龜傳》曰:「天下和平,王道得,而蓍莖長丈,其叢生滿百莖。」參天兩地而倚數,參,七南反。天圓地方,圓者一而圍三,三各一奇,故參天而為三。方者一而圍四,四合二偶,故兩地而為二。數皆倚此而起,故揲蓍三變之末,其餘三奇則三三而九,三耦則三二而六,兩二一三則為七,兩三一二則為八。
《説卦伝》に言います。「従前の聖人が《易》を作るに、暗中に神明の化育を賛助して蓍草を生出しました。」「幽賛神明」とは猶お天地の化育を賛助すると言うが如し。《史記・亀策列伝》に言います。「天下が太平にして王道が行を得る時は、蓍草の茎は能く一丈に長じ、一叢生に満百茎。」《説卦》に言います。「天を参じ地を両じて以て数を確立す。」(「参」是七南反に読み、即ち三。)天は円にして地は方。円形は直径が一にして周長は三で、三裡は各々一個の奇数を含むので、天に取法して三と成ります。方形は辺長が一にして周長は四で、四は両個の偶数に合成可なるので、地に取法して二と成ります。一切の数は皆このに依託して起こるので、揲蓍の三変が結束する時に、三変が皆奇を余すは、すなわち三個の三が合して九と為り、三変が皆偶を余すは、すなわち三個の二が合して六と為り、両個の二に一個の三を加えれば即ち七、両個の三に一個の二を加えれば即ち八です。
觀變於陰陽而立卦,發揮於剛柔而生爻,和順於道德而理於義,窮理盡性以至於命。和順,從容無所乖逆,統言之也。理,謂隨事得其條理,析言之也。窮天下之理,盡人物之性,而合於天道,此聖人作《易》之極功也。上第一章。
《説卦》が続いて言います。「陰陽の変化を観察して卦体を確立し、剛柔の間に於て発揮して爻画を生出し、道徳に和順して義に条理し、事理を窮究し人物の性を尽くして、以て天命を安立するに至る。」「和順」とは従容にして乖違なきを言い、これは総めて言います。「理」とは毎一件に随って皆その条理を得るを言い、これは分かちて言います。天下の理を窮尽し人と物の本性を尽くして、従って天道に契合するは、これは聖人が《易》を作る最高の功效です。以上は第一章です。
昔者,聖人之作《易》也,將以順性命之理。是以立天之道,曰陰與陽,立地之道,曰柔與剛,立人之道,曰仁與義。兼三才而兩之,故《易》六畫而成卦,分陰分陽,迭用柔剛,故《易》六位而成章。兼三才而兩之,總言六畫。又細分之,則陰陽之位,間雜而成文章也。上第二章。
《説卦》に言います。「従前の聖人が《易》を作るは、性命の道理に順応せんと欲す。だから天の道を確立して、陰と陽と言います。地の道を確立して、柔と剛と言います。人の道を確立して、仁と義と言います。兼ねて三才を取って各々両爻を以て表示するので、だから《易》は六画を以て一卦を成します。陰位陽位を分出し、交替に柔爻剛爻を使用するので、だから《易》は六位を以て文采を成します。」「兼三才而両之」とは総じて六画を言います。更に細分して下れば、陰位陽位が相間錯雑して、即ち文采を構成します。六画卦に就いて言えば、初爻と二爻は地に属し、三爻と四爻は人に属し、五爻と上爻は天に属して、天地人の三才は各々両爻を占めます。以上は第二章です。
天地定位,山澤通氣,雷風相薄,水火不相射,八卦相錯。薄,音博。邵子曰:「此伏羲八卦之位。《乾》南,《坤》北,《離》東,《坎》西,《兌》居東南,《震》居東北,《巽》居西南,《艮》居西北。於是八卦相交而成六十四卦,所謂先天之學也。」數往者順,知來者逆,是故《易》逆數也。數,並上聲。起《震》而歷《離》、《兌》,以至於《乾》,數已生之卦也;自《巽》而歷《坎》、《艮》,以至於《坤》,推未生之卦也。《易》之生卦,則以《乾》、《兌》、《離》、《震》、《巽》、《坎》、《艮》、《坤》為次,故皆逆數也。上第三章。雷以動之,風以散之。雨以潤之,日以烜之。艮以止之,兌以說之。乾以君之,坤以藏之。烜,與晅同。說,音悅。此卦位相對,與上章同。上第四章。
《説卦》に言います。「天地は上下の位を確定し、山と沢は気息が相通じ、雷と風は互相に激蕩し、水と火は相厭棄せず、八卦は彼此に交錯す。」(「薄」是博に読み、迫近激蕩。)邵雍が言います。「これは伏羲の八卦の方位です。《乾》は南に在り、《坤》は北に在り、《離》は東に在り、《坎》は西に在り、《兌》は東南に在り、《震》は東北に在り、《巽》は西南に在り、《艮》は西北に在り。ここにおいて八卦は互相に交重して六十四卦を成すは、これがすなわちいわゆる『先天之学』。」《説卦》が続いて言います。「すでに過去したを数えるは順推、将に到来せんとするを預知するは逆推なので、だから《易》は数に逆ってします。」(両個の「数」の字は皆上声に読む。)《震》より起こり、《離》《兌》を経て《乾》に到るは、すでに生成した卦を数えます。《巽》より起こり、《坎》《艮》を経て《坤》に到るは、まだ生成せざる卦を推します。《易》の卦を生ずる次序は、則ち《乾》《兌》《離》《震》《巽》《坎》《艮》《坤》を以て序と為すので、だから皆逆数に属します。以上は第三章です。《説卦》がまた言います。「雷は以て万物を鼓動し、風は以て万物を吹散し、雨は以て万物を滋潤し、日は以て万物を晒暖し、《艮》は以て万物を止息し、《兌》は以て万物を悦懌し、《乾》は以て万物を君臨し、《坤》は以て万物を收藏します。」(「烜」は「晅」と同じ、晒干。「説」は悦に読む。)ここの卦位は両両相対して、上一章と相同です。以上は第四章です。
帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。說,音悅。下同。帝者,天之主宰。邵子曰:「此卦位乃文王所定,所謂後天之學也。」萬物出乎震,震,東方也。齊乎巽,巽,東南也。齊也者,言萬物之潔齊也。離也者,明也,萬物皆相見,南方之卦也。聖人南面而聽天下,嚮明而治,蓋取諸此也。坤也者,地也,萬物皆致養焉,故曰致役乎坤。兌,正秋也,萬物之所說也,故曰說言乎兌。
《説卦》に言います。「上帝は《震》より出発し、《巽》に於て斉整し、《離》に於て相見え、《坤》に於て役養し、《兌》に於て欣悦し、《乾》に於て交戦し、《坎》に於て労倦し、《艮》に於て成終す。」(「説」は悦に読み、下同。)「帝」とは上天の主宰を指します。邵雍が言います。「この卦位は文王の定めた所で、すなわちいわゆる『後天之学』。」この一段は八卦を東・東南・南・西南・西・西北・北・東北の八個の方位に分配して、四時の推移に随って万物の生長收藏を講じます。《説卦》が続いて自ら釈を作して曰く。「万物は《震》より生出す、《震》は東方に居り。《巽》に於て斉整す、《巽》は東南に居り。いわゆる『斉』とは、万物が潔斉するを言います。《離》とはすなわち明、万物はここに於て皆相見え、南方の卦です。聖人は南方に面向して天下を聴治し、光明に朝着して政を施すは、大概ここに取象したもの。《坤》とはすなわち地、万物は皆ここに於て養育を得るので、だから『致役乎坤』と言います。《兌》はまさに秋季に当たり、万物が欣悦する時なので、だから『説言乎兌』と言います。」
戰乎乾,乾,西北之卦也,言陰陽相薄也。坎者,水也,正北方之卦也,勞卦也,萬物之所歸也,故曰勞乎坎。艮,東北之卦也,萬物之所成終而所成始也,故曰成言乎艮。向,讀作向。說,音悅。下同。薄,音博。上言帝,此言萬物之隨帝以出入也。上第五章。此章所推卦位之說,多未詳者。
《説卦》が続いて言います。「いわゆる『戦乎乾』、《乾》は西北方の卦で、陰陽がここに於て相迫し相激するを言います。《坎》とはすなわち水、正北方の卦で、労倦の卦で、万物はここに於て帰蔵するので、だから『労乎坎』と言います。《艮》は東北方の卦で、万物はここに於て終結を完成してまた新たな一輪を開始するので、だから『成言乎艮』と言います。」(「向」は「向」と作るに読み、即ち面向。「説」は悦に読み、下同。「薄」は博に読む。)上文の講ずるは「帝」で、ここの講ずるは万物が帝に随って出入運行することです。以上は第五章です。この一章の推演した卦位の説は、多く講明白せざる処有り。
神也者,妙萬物而為言者也。動萬物者,莫疾乎雷;橈萬物者,莫疾乎風;燥萬物者,莫熯乎火;說萬物者,莫說乎澤;潤萬物者,莫潤乎水;終萬物、始萬物者,莫盛乎艮。故水火相逮,雷風不相悖,山澤通氣,然後能變化,既成萬物也。橈,乃飽反。熯,呼但反。悖,必內反。此去《乾》《坤》而專言六子,以見神之所為,然其位序亦用上章之說,未詳其義。上第六章。
《説卦》に言います。「いわゆる『神』とは、それが万物を神妙ならしめるこの一点に就いて言います。万物を鼓動するは雷より迅疾なるはなし。万物を吹撓するは風より迅疾なるはなし。万物を烘干するは火より熾熱なるはなし。万物を悦懌するは沢より能く取悦するはなし。万物を滋潤するは水より能く潤沢するはなし。万物を終結してまた万物を開啓するは《艮》より盛大なるはなし。だから水火は互相に逮及し、雷風は互いに相悖せず、山沢は気息が相通じて、然る後にこそ能く変化して、能く万物を成就します。」(「撓」是乃飽反、「熯」是呼但反、「悖」是必内反に読む。)この一章は《乾》《坤》を撇開して専ら震・巽・坎・離・艮・兌の六個の子卦を講じて、以て「神」の作為を顕示します。ただしその方位の次序は依然として上一章の説法を沿用し、その中の義理はなお明白ならず。以上は第六章です。
乾,健也。坤,順也。震,動也。巽,入也。坎,陷也。離,麗也。艮,止也。兌,說也。說,音悅。此言八卦之性情。上第七章。乾為馬,坤為牛,震為龍,巽為雞,坎為豕,離為雉,艮為狗,兌為羊。遠取諸物如此。上第八章。
《説卦》に言います。「《乾》は剛健、《坤》は柔順、《震》は奮動、《巽》は潜入、《坎》は陥険、《離》は附麗、《艮》は静止、《兌》は喜悦。」(「説」は悦に読む。)ここで講ずるは八卦の各自の性情です。以上は第七章です。《説卦》に言います。「《乾》は馬を象徴し、《坤》は牛を象徴し、《震》は龍を象徴し、《巽》は鶏を象徴し、《坎》は猪を象徴し、《離》は野鶏を象徴し、《艮》は狗を象徴し、《兌》は羊を象徴す。」遠く外物に取象するは、すなわちこの様子です。以上は第八章です。
乾為首,坤為腹,震為足,巽為股,坎為耳,離為目,艮為手,兌為口。近取諸身如此。上第九章。乾,天也,故稱乎父。坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男。巽一索而得女,故謂之長女。坎再索而得男,故謂之中男。離再索而得女,故謂之中女。艮三索而得男,故謂之少男。兌三索而得女,故謂之少女。索,色白反。長,之丈反。少,詩照反。下章同。索,求也,謂揲蓍以求爻也。男女,指卦中一陰一陽之爻而言。上第十章。
《説卦》に言います。「《乾》は頭を象徴し、《坤》は腹を象徴し、《震》は足を象徴し、《巽》は大腿を象徴し、《坎》は耳を象徴し、《離》は眼を象徴し、《艮》は手を象徴し、《兌》は口を象徴す。」近く自身に取象するは、すなわちこの様子です。以上は第九章です。《説卦》に言います。「《乾》は天なので、父と称します。《坤》は地なので、母と称します。《震》は第一次に求索して男爻を得たので、長男と言います。《巽》は第一次に求索して女爻を得たので、長女と言います。《坎》は第二次に求索して男爻を得たので、中男と言います。《離》は第二次に求索して女爻を得たので、中女と言います。《艮》は第三次に求索して男爻を得たので、少男と言います。《兌》は第三次に求索して女爻を得たので、少女と言います。」(「索」是色白反。「長」是之丈反。「少」是詩照反に読み、下一章も相同。)「索」とはすなわち求で、揲蓍の弁法を用いて爻を求得するを指し、ここで言う男女は、卦中のあの獨一の陰爻或いは陽爻に就いて言います。以上は第十章です。
乾為天,為圜,為君,為父,為玉,為金,為寒,為冰,為大赤,為良馬,為老馬,為瘠馬,為駁馬,為木果。圜,音圓。駁,邦角反。《荀九家》此下有「為龍,為直,為衣,為言」。坤為地,為母,為布,為釜,為吝嗇,為均,為子母牛,為大輿,為文,為眾,為柄。其於地也為黑。釜,房甫反。嗇,音色。《荀九家》有「為牝,為迷,為方,為囊,為裳,為黃,為帛,為漿」。
《説卦》は広く八卦の取る所の物象を列して言います。「《乾》は天を象徴し、円形を象徴し、君主を象徴し、父親を象徴し、玉を象徴し、金を象徴し、寒を象徴し、氷を象徴し、大紅色を象徴し、良馬・老馬・瘦馬・雑色馬を象徴し、樹上の果実を象徴す。」(「圜」は円に読み、「駁」是邦角反に読む。)《荀爽九家易》はこれ以下になお「龍を象徴し・直を象徴し・衣を象徴し・言を象徴す」の四項有り。《説卦》に言います。「《坤》は地を象徴し、母親を象徴し、布帛を象徴し、鍋釜を象徴し、吝嗇を象徴し、均平を象徴し、母子相随の牛を象徴し、大車を象徴し、文采を象徴し、衆多を象徴し、器物の柄を象徴す。土地に就いて言えば、黒色を象徴す。」(「釜」是房甫反、「嗇」是色に読む。)《荀爽九家易》はなお「母獣を象徴し・迷を象徴し・方を象徴し・口袋を象徴し・下裳を象徴し・黄色を象徴し・帛を象徴し・漿を象徴す」のこれら有り。
震為雷,為龍,為玄黃,為□,為大塗,為長子,為決躁,為蒼筤竹,為萑葦。其於馬也,為善鳴,為□足,為作足,為的顙;其於稼也,為反生;其究為健,為蕃鮮。□,音孚。筤,音郎。萑,音丸。□,主樹反。蕃,音煩。《荀九家》有「為玉,為鵠,為鼓」。巽為木,為風,為長女,為繩直,為工,為白,為長,為高,為進退,為不果,為臭,其於人也,為寡髮,為廣顙,為多白眼,為近利市三倍,其究為躁卦。下「為長」之長,如字。《荀九家》有「為楊,為鸛」。
《説卦》に言います。「《震》は雷を象徴し、龍を象徴し、青黄相雑の色を象徴し、□(原書はこの字が脱漏、通行本は『旉』と作り、花が開き敷布するを指す)を象徴し、大路を象徴し、長子を象徴し、果決躁動を象徴し、青嫩の竹子を象徴し、芦荻を象徴す。馬に就いて言えば、能く嘶鳴する馬・□足の馬(脱字は通行本は『馵』と作り、後左足が白色の馬を指す)・足を挙げて高蹈する馬・額上に白点有る馬を象徴す。庄稼に就いて言えば、種子が倒生して土を破るを象徴す。推究して最後に至れば、剛健を象徴し、繁茂鮮明を象徴す。」(前一の脱字は孚に読み。「筤」是郎に読み。「萑」是丸に読み。後一の脱字は主樹反に読み。「蕃」是煩に読む。)《荀爽九家易》はこれ以下になお「玉を象徴し・天鵝を象徴し・鼓を象徴す」有り。《説卦》がまた言います。「《巽》は木を象徴し、風を象徴し、長女を象徴し、繩墨の取直を象徴し、工匠を象徴し、白色を象徴し、長を象徴し、高を象徴し、進退不定を象徴し、猶豫不果を象徴し、気味を象徴す。人に就いて言えば、頭髪稀少・額頭寛広・眼白偏多を象徴し、貪求近利して三倍の利を獲るを象徴す。推究して最後に至れば、躁動の卦です。」(下文の「為長」の「長」は本音に読む。)《荀爽九家易》はなお「楊樹を象徴し・鸛鳥を象徴す」有り。
坎為水,為溝瀆,為隱伏,為矯車柔,為弓輪。其於人也,為加憂,為心病,為耳痛,為血卦,為赤;其於馬也,為美脊,為亟心,為下首,為薄蹄,為曳;其於輿也,為多眚,為通,為月,為盜;其於木也,為堅多心。車柔,如九反。亟,紀力反。曳,以制反。《荀九家》有「為宮,為律,為可,為棟,為叢棘,為狐,為蒺藜,為桎梏」。離為火,為日,為電,為中女,為甲冑,為戈兵。其於人也,為大腹,為乾卦,為鱉,為蟹,為蠃,為蚌,為龜;其於木也,為科上槁。乾,音乾。蟹,戶買反。蠃,力禾反。蚌,步項反。《荀九家》,有「為牝牛」。
《説卦》に言います。「《坎》は水を象徴し、溝渠を象徴し、隠蔵潜伏を象徴し、矯直と揉曲を象徴し、弓と車輪を象徴す。人に就いて言えば、憂愁が身に加わる・心病・耳痛を象徴し、血卦を象徴し、紅色を象徴す。馬に就いて言えば、脊背が健美の馬・性子が急の馬・頭を低くする馬・蹄子が薄の馬・拖曳して行き難い馬を象徴す。車に就いて言えば、災禍多しを象徴し、通行を象徴し、月を象徴し、盗賊を象徴す。樹木に就いて言えば、堅硬にして心材多き樹を象徴す。」(「車柔」即ち「輮」の字、如九反に読み。「亟」是紀力反。「曳」是以制反に読む。)《荀爽九家易》はなお「宮室を象徴し・律呂を象徴し・可を象徴し・棟梁を象徴し・叢生の荊棘を象徴し・狐狸を象徴し・蒺藜を象徴し・脚鐐手銬を象徴す」有り。《説卦》に言います。「《離》は火を象徴し、日を象徴し、電を象徴し、中女を象徴し、鎧甲頭盔を象徴し、戈矛兵器を象徴す。人に就いて言えば、大肚子を象徴す。また乾燥の卦を象徴し、鼈・蟹・螺・蚌・亀を象徴す。樹木に就いて言えば、中間が空虚にして上端が枯槁の樹を象徴す。」(「乾」是干に読み、乾燥。「蟹」是戸買反。「蠃」是力禾反。「蚌」是歩項反に読む。)《荀爽九家易》はなお「母牛を象徴す」有り。
艮為山,為徑路,為小石,為門闕,為果蓏,為閽寺,為指,為狗,為鼠,為黔喙之屬。其於木也,為堅多節。蓏,力果反。黔,其堅反。喙,況廢反;又音咒。《荀九家》有「為鼻,為虎,為狐」。兌為澤,為少女,為巫,為口舌,為毀折,為附決。其於地也,為剛滷,為妾,為羊。折,之列反。滷,力杜反。《荀九家》有「為常,為輔頰」。上第十一章。此章廣八卦之象,其間多不可曉者,求之於經,亦不盡合也。
《説卦》に言います。「《艮》は山を象徴し、小路を象徴し、小石頭を象徴し、門闕を象徴し、樹上の果と地上の瓜を象徴し、門を守る閽人と内侍を象徴し、手指を象徴し、狗を象徴し、鼠を象徴し、鳥喙が黒色の猛禽の一類を象徴す。樹木に就いて言えば、堅硬にして節多き樹を象徴す。」(「蓏」是力果反。「黔」是其堅反。「喙」是况廃反に読み、また咒と作るに読む。)《荀爽九家易》はなお「鼻を象徴し・虎を象徴し・狐を象徴す」有り。《説卦》に言います。「《兌》は沢を象徴し、少女を象徴し、巫祝を象徴し、口舌を象徴し、毀壊折断を象徴し、附着と決裂を象徴す。土地に就いて言えば、堅硬の鹽鹼地を象徴す。また妾を象徴し、羊を象徴す。」(「折」是之列反。「鹵」是力杜反に読む。)《荀爽九家易》はなお「常を象徴し・面頬を象徴す」有り。以上は第十一章です。この一章は八卦の取る所の物象を推廣し、その中に多く理解すべからざる処有りて、それを拿げて経文の中に行きて印証するも、並びに完全には相合せず。
序卦伝・上篇
有天地,然後萬物生焉。盈天地之間者,唯萬物,故受之以《屯》。屯者,盈也,屯者,物之始生也。物生必蒙,故受之以《蒙》。蒙者,蒙也,物之稚也。物稚不可不養也,故受之以《需》。需者,飲食之道也。飲食必有訟,故受之以《訟》。訟必有眾起,故受之以《師》。師者,眾也。眾必有所比,故受之以《比》。比者,比也。比必有所畜,故受之以《小畜》。物畜然後有禮,故受之以《履》。履而泰,然後安,故受之以《泰》。晁氏曰:「鄭本無『而泰』二字。」泰者,通也。物不可以終通,故受之以《否》。物不可以終否,故受之以《同人》。與人同者,物必歸焉,故受之以《大有》。
《序卦伝》は六十四卦の相承する次第を講じて曰く。先ず天地有りて然る後に万物がその中に生成す。天地の間に充満するはただ万物のみなので、《乾》《坤》の後に接ぐは《屯》なり。「屯」は充盈で、また万物の初生です。物が一たび出生すれば必然に蒙昧なので、接ぐは《蒙》なり。「蒙」は蒙昧で、万物が幼稚を指します。幼稚なれば育養を加えざるを得ないので、接ぐは《需》なり。「需」は飲食の道です。飲食有れば必然に争訟有るので、接ぐは《訟》なり。争訟は必然に衆人を引起して兴起するので、接ぐは《師》なり。「師」は衆人です。衆人は必然に親附する所有るので、接ぐは《比》なり。「比」は親附です。親附の後に必然に畜聚する所有るので、接ぐは《小畜》なり。物に畜聚有りて然る後にこそ礼有るので、接ぐは《履》なり。礼に循って通泰して、然る後に安定するので、接ぐは《泰》なり(晁説之が言う。鄭玄本には「而泰」の二字なし)。「泰」は通達です。事物は永遠に通達する能わざるので、接ぐは《否》なり。また永遠に閉塞する能わざるので、接ぐは《同人》なり。能く人と和同するは、万物は必然に彼に帰附するので、接ぐは《大有》なり。
有大者不可以盈,故受之以《謙》。有大而能謙,必豫,故受之以《豫》。豫必有隨,故受之以《隨》。以喜隨人者,必有事,故受之以《蠱》。蠱者,事也。有事而後可大,故受之以《臨》。臨者,大也。物大然後可觀,故受之以《觀》。可觀而後有所合,故受之以《噬嗑》。嗑者,合也。物不可以苟合而已,故受之以《賁》。賁者,飾也。
盛大を擁有するは自満すべからざるので、接ぐは《謙》なり。すでに盛大にしてまた能く謙退すれば、必然に安楽なので、接ぐは《豫》なり。安楽すれば必然に相随する人有るので、接ぐは《随》なり。歓喜の心を以て別人に随従するは、必然に事端を生出するので、接ぐは《蠱》なり。「蠱」とはすなわち事。事有りて然る後に大を為す可きなので、接ぐは《臨》なり。「臨」とはすなわち大。事物が盛大して然る後にこそ観瞻すべきなので、接ぐは《観》なり。観る可き然る後に会合する所有るので、接ぐは《噬嗑》なり。「嗑」とはすなわち合。事物は苟且に合在一起して了すべからざるので、接ぐは《賁》なり。「賁」とはすなわち文飾。
致飾然後亨則盡矣,故受之以《剝》。剝者,剝也。物不可以終盡,剝窮上反下,故受之以《復》。復則不妄矣,故受之以《無妄》。有無妄然後可畜,故受之以《大畜》。物畜然後可養,故受之以《頤》。頤者,養也。不養則不可動,故受之以《大過》。物不可以終過,故受之以《坎》。坎者,陷也。陷必有所麗,故受之以《離》。離者,麗也。
文飾が極処に到れば、亨通もまた窮尽するので、接ぐは《剥》なり。「剥」は剥落です。事物は終に剥尽する能わざるので、剥落して上位が窮尽すれば即ち下位に返回するので、接ぐは《復》なり。本善に回復すれば虚妄ならざるので、接ぐは《無妄》なり。《無妄》有りて然る後に畜積すべきなので、接ぐは《大畜》なり。畜積する所有りて然る後に養育すべきなので、接ぐは《頤》なり。「頤」は養。養育を得ざれば行動する能わざるので、接ぐは《大過》なり。事物は永遠に過甚する能わざるので、接ぐは《坎》なり。「坎」は陥。陥落すれば必ず附麗する所有るので、接ぐは《離》なり。「離」は附麗。以上は《序卦伝》の上篇で、言う所は上経の三十卦の次第です。
序卦伝・下篇
有天地,然後有萬物;有萬物,然後有男女;有男女,然後有夫婦;有夫婦,然後有父子;有父子,然後有君臣;有君臣,然後有上下;有上下,然後禮義有所錯。夫婦之道,不可以不久也,故受之以《恆》。恆者,久也。物不可以久居其所,故受之以《遁》。遁者,退也。物不可以終遁,故受之以《大壯》。物不可以終壯,故受之以《晉》。晉者,進也。進必有所傷,故受之以《明夷》。夷者,傷也。傷於外者,必反其家,故受之以《家人》。家道窮必乖,故受之以《睽》。睽者,乖也。
《序卦伝》の下篇は人倫より講じ起こし、正に下経が《咸》《恒》の夫婦の義を以て開端と為すに相応します。それは言います。天地有りて然る後に万物有り、万物有りて然る後に男女有り、男女有りて然る後に夫婦有り、夫婦有りて然る後に父子有り、父子有りて然る後に君臣有り、君臣有りて然る後に上下の別有り、上下の別有りて然る後に礼義はこそ安放する処有り。夫婦の道は長久せざるべからざるので、下経は《咸》の後に接ぐは《恒》なり。「恒」は長久です。事物は長久に一個の位置に停留する能わざるので、接ぐは《遁》なり。「遁」は退避です。また一味に退避する能わざるので、接ぐは《大壮》なり。永遠に壮盛する能わざるので、接ぐは《晋》なり。「晋」は前進です。前進すれば必ず損傷する所有るので、接ぐは《明夷》なり。「夷」は傷。外に於て傷を受けた人は必定に自己の家に返回するので、接ぐは《家人》なり。家道が窮困すれば必然に乖離するので、接ぐは《睽》なり。「睽」は乖背。
乖必有難,故受之以《蹇》。蹇者,難也。物不可以終難,故受之以《解》。解者,緩也。緩必有所失,故受之以《損》。損而不已必益,故受之以《益》。益而不已必決,故受之以《夬》。夬者,決也。決必有所遇,故受之以《姤》。姤者,遇也。物相遇而後聚,故受之以《萃》。萃者,聚也。聚而上者謂之升,故受之以《升》。升而不已必困,故受之以《困》。困乎上者必反下,故受之以《井》。井道不可不革,故受之以《革》。革物者莫若鼎,故受之以《鼎》。
乖離すれば必然に艱難を招致するので、接ぐは《蹇》なり。「蹇」は難。事物は終に艱難たる能わざるので、接ぐは《解》なり。「解」は緩解です。緩解の後に必ず失う所有るので、接ぐは《損》なり。減損して止まざれば必然に増益に転ずるので、接ぐは《益》なり。増益して止まざれば必然に潰決するので、接ぐは《夬》なり。「夬」は決。潰決の後に必ず遭遇する所有るので、接ぐは《姤》なり。「姤」は相遇。事物が相遇して後に聚集するので、接ぐは《萃》なり。「萃」は聚。聚集して上に向かうを上昇と言い、だから接ぐは《升》なり。上昇して止まざれば必然に困頓するので、接ぐは《困》なり。上に於て困を受くるは必定に下に返回するので、接ぐは《井》なり。井道は日久にして変革を加えざるべからざるので、接ぐは《革》なり。事物を変革するは鼎より合適なるはなし。だから接ぐは《鼎》なり。
主器者莫若長子,故受之以《震》。震者,動也。物不可以終動,止之,故受之以《艮》。艮者,止也。物不可以終止,故受之以《漸》。漸者,進也。進必有所歸,故受之以《歸妹》。得其所歸者必大,故受之以《豐》。豐者,大也。窮大者必失其居,故受之以《旅》。旅而無所容,故受之以《巽》。巽者,入也。入而後說之,故受之以《兌》。兌者,說也。說而後散之,故受之以《渙》。渙者,離也。物不可以終離,故受之以《節》。節而信之,故受之以《中孚》。有其信者必行之,故受之以《小過》。有過物者必濟,故受之以《既濟》。物不可窮也,故受之以《未濟》終焉。
鼎器の祭祀を主持するは長子より合適なるはなし。だから接ぐは《震》なり。「震」は動。事物は一直に動きて下る能わざる、それをして停止せしめる要す。だから接ぐは《艮》なり。「艮」は止。また永遠に静止する能わざるので、接ぐは《漸》なり。「漸」は漸進。前進すれば必ず帰宿する所有るので、接ぐは《帰妹》なり。帰宿を得たは必然に盛大なので、接ぐは《豊》なり。「豊」は大。盛大が極処に到れば必然に安居の所を失うので、接ぐは《旅》なり。覊旅して外に在りて容身する処なきなので、接ぐは《巽》なり。「巽」は入。進入の後に即ち人をして喜悦せしめるので、接ぐは《兌》なり。「兌」は悦。喜悦の後に即ち疏散せんとするので、接ぐは《渙》なり。「渙」は離散。事物は終に離散たる能わざるので、接ぐは《節》なり。節制して人をして信従せしめるので、接ぐは《中孚》なり。誠信有る人は必定に実行しに往くので、接ぐは《小過》なり。事を行うに常物を超過する処有るは必ず事を成す能くす。だから接ぐは《既済》なり。而して事物は窮尽する会せざるなので、最後に《未済》を以て全経を収結します。
雑卦伝
《乾》剛《坤》柔,《比》樂《師》憂,樂,音洛。《臨》、《觀》之義,或與或求。以我臨物曰與,物來觀我曰求。或曰:二卦互有與求之義。《屯》見而不失其居,《蒙》雜而著。見,賢遍反。著,陟慮反。屯,震遇坎;震動故見,坎險不行也。蒙,坎遇艮;坎幽昧,艮光明也。或曰:《屯》以初言,《蒙》以二言。《震》,起也,《艮》,止也。《損》、《益》,盛衰之始也。
《雑卦伝》は両両対挙して各卦を解説します。「《乾》は剛にして《坤》は柔、《比》は楽にして《師》は憂。」(「楽」は洛に読む。)「《臨》《観》の二卦の意義は、或いは給与、或いは求取。」我を以て外物を臨照するを「給与」と言い、外物が来たりて我を観仰するを「求取」と言います。また人の言うに、この両卦は各々給与と求取の両重の意思を兼備す。「《屯》は顕現する所有りてその居守を失わず、《蒙》は駁雑にして終に顕著に帰す。」(「見」是賢遍反に読み、「現」と同じ。「着」是陟慮反に読む。)《屯》は下の震が上の坎に遇う。震は動を主とするので、顕現す。坎は険と為すので、前行する能わず。《蒙》は下の坎が上の艮に遇う。坎は幽暗、艮は光明。ある人はまた言い、《屯》は初爻に就いて言い、《蒙》は二爻に就いて言う。「《震》は奮起、《艮》は静止。《損》《益》は盛と衰の開端。」
《大畜》,時也,《無妄》,災也。止健者時有適然,無妄而災自外至。《萃》聚而《升》不來也,《謙》輕而《豫》怠也。《噬嗑》,食也,《賁》,無色也。白受采。《兌》見而《巽》伏也。見,賢遍反。《兌》陰外見,《巽》陰內伏。《隨》,無故也,《蠱》,則飭也。飭,與敕同。隨前無故,蠱後當飭。《剝》,爛也,《復》,反也。
「《大畜》の講ずるは時、《無妄》の講ずるは災。」能く剛健を止住するは、時機が恰好にこのようであるが故。本来虚妄念らざるも災禍は却って外面より到来す。「《萃》は聚合にして《升》は上行して返らず、《謙》は自ら軽微に居りて《豫》は怠惰に流る。」「《噬嗑》は進食を講じ、《賁》は無色を講ず。」素白してこそ彩飾を受納し得ます。「《兌》は顕現にして《巽》は潜伏。」(「見」是賢遍反に読み、「現」と同じ。)《兌》の陰爻は外に顕現し、《巽》の陰爻は内に潜伏す。「《随》は無事、《蠱》は則ち整飭を要す。」(「飭」は「敕」と同じ。)《随》は事情の前に在るので、無事。《蠱》は事情の後に在るので、整飭すべし。「《剥》は剥爛、《復》は返回。」
《晉》,晝也,《明夷》,誅也。誅,傷也。《井》通而《困》相遇也。剛柔相遇,而剛見掩也。《咸》,速也,《恆》,久也。《咸》,速。《恆》,久。《渙》,離也,《節》,止也。《解》,緩也,《蹇》,難也。《睽》,外也,《家人》,內也。《否》、《泰》,反其類也。難,乃旦反。《大壯》則止,《遁》則退也。止,謂不進。
「《晋》は白昼、《明夷》は誅傷。」「誅」とはすなわち傷。「《井》は通達にして《困》は相遇。」剛と柔が相遇して、剛は柔に掩蔽されます。「《咸》は迅速、《恒》は長久。」《咸》はその速を取り、《恒》はその久を取ります。「《渙》は離散、《節》は節止。《解》は緩解、《蹇》は艱難。《睽》は外に向かい、《家人》は内に向かう。《否》と《泰》は各自その相反の一類に返帰す。」(「難」是乃旦反に読む。)「《大壮》は止、《遁》は退。」ここの「止」とは、もはや前進せざるを言います。
《大有》,眾也,《同人》,親也。《革》,去故也,《鼎》,取新也。《小過》,過也,《中孚》,信也。《豐》,多故也,親寡,《旅》也。去,起呂反。既明且動,其故多矣。《離》上而《坎》下也。上,時掌反。下,遐嫁反。火炎上,水潤下。《小畜》,寡也,《履》,不處也。處,上聲。不處,行進之義。《需》,不進也,《訟》,不親也。《大過》,顛也,《姤》,遇也,柔遇剛也。
「《大有》は衆多、《同人》は親和。《革》は旧きを革除し、《鼎》は新しきを取用す。《小過》は超過する所有り、《中孚》は誠信。《豊》は事故が繁多、親近する者が稀少なるは則ち《旅》。」(「去」是起呂反に読む。)《豊》卦はすでに光明有りまた震動有るので、事故は自然に多し。「《離》は上に向かい《坎》は下に向かう。」(「上」是時掌反、「下」是遐嫁反に読む。)火の性は炎上、水の性は潤下。「《小畜》は寡少、《履》は安処せず。」(「処」は上声に読む。)「不処」とはすなわち行進の意。「《需》は前進せず、《訟》は相親せず。《大過》は顛覆、《姤》は相遇、柔が来たりて剛に遇うを指す。」
《漸》,女歸待男行也,《頤》,養正也。《既濟》,定也,《歸妹》,女之終也。《未濟》,男之窮也,《夬》,決也,剛決柔也。君子道長,小人道憂也。長,丁丈反。自《大過》以下,卦不反對,或疑其錯簡。今以韻協之,又似非誤,未詳何義。
「《漸》は女子が出嫁して男方が来迎するを待ちてこそ起行するを言い、《頤》は正道を以て人を養う。《既済》は安定、《帰妹》は女子の終身の帰宿。《未済》は男子の窮途、《夬》は決断、陽剛が陰柔を決去するを指す。君子の道は日漸に増長し、小人の道は人をして憂懼せしむ。」(「長」是丁丈反に読み、増長。)《大過》以下より、各卦はもはや「反対」(覆卦・変卦)の規律に按って両両対を成さず、ある人は竹簡の錯乱と疑うも、今は韻脚を以て協調するに、また訛誤にあらざるが如く、究竟何の用意なるかはなお講明白せず。
