Libo

周易禅解

明 · 释智旭

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

周易禅解 巻第八 北天目道人蕅益智旭著

易経易学典籍

術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。

周易禅解 序

蕅益子結冬於月臺,禪誦之餘,手持韋編而箋釋之。或問曰:「子所解者是易耶?」餘應之曰:「然。」復有視而問曰:「子所解者非易耶?」餘亦應之曰:「然。」又有視而問曰:「子所解者亦易亦非易耶?」餘亦應之曰:「然。」更有視而問曰:「子所解者非易非非易耶?」餘亦應之曰:「然。」侍者聞而笑曰:「若是乎墮在四句中也。」

蕅益子(おうえきし、智旭の自称)は月台で冬の結制安居(けっせいあんご)を過ごし、坐禅と誦経の合間に《周易》を手に取り、一句一句に箋注を施して解釈していた。ある人が彼に尋ねた。「あなたが解しているのは《周易》ですか。」彼は答えた。「そうです。」またある人が読んでから尋ねた。「あなたが解しているのは《周易》ではないのでしょう。」彼も答えた。「そうです。」さらに別の人が読んで尋ねた。「あなたが解しているのは《周易》でもあり《周易》でもないということですか。」彼はやはり答えた。「そうです。」また別の人が読んで尋ねた。「あなたが解しているのは《周易》でもなく、《周易》でないのでもないということですか。」彼はそれでも答えた。「そうです。」そばにいた侍者がこれを聞いて笑い、「この調子では、あなたは『四句』の中に落ち込んでしまいましたよ」と言った。仏家では一切の言説を「四句」に帰納する。肯定(是)、否定(非)、亦是亦非、非是非非である。四句の内に落ちるものはすべて戯論に属し、名言分別を出ることができない。侍者はまさにこの一条を取って彼をからかったのである。「結冬」とは僧が冬に結制安居して禅誦に専修すること、「韋編」は孔子が《易》を読んで韋編三絶した故事に由来し、《周易》という書を代指する。

余曰:「汝不聞四句皆不可說,有因緣故四句皆可說乎?因緣者,四悉檀也。人謂我釋子也,而亦通儒,能解易,則生歡喜焉,故謂是易者,吾然之,世界悉檀也。或謂我釋子也,奈何解易,以同俗儒,知所解之非易,則善心生焉,故謂非易者,吾然之,為人悉檀也。

智旭は答えた。「あなたは聞かなかったのか。四句は本来いずれも説くべからざるものだが、『因縁』があるがゆえに四句は皆説き得る、ということを。ここでいう因縁とは『四悉檀(ししつだん)』のことである。」「悉檀」は梵語で「遍く施す」の意で、仏陀が説法する際に機に応じて教えを施す四つの方式を指す。世間の人情に随順して人を歓喜せしめる「世界悉檀」、各人の機根に合わせて善心を起こさせる「為人悉檀」、病に応じて薬を下すように執着の病を破る「対治悉檀」、諸法の実相を直截に顕示する「第一義悉檀」である。彼は続けて一句一句に配釈した。私は出家者でありながら儒学にも通じ、《周易》を解し得ると思い、心に歓喜を生ずる人がいる。だから彼が「これは《周易》です」と言ったとき、私はうなずいて認めた——これは世情に随順して人を歓喜せしめる世界悉檀に属する。また、私は出家者なのにどうして《周易》を解いて世俗の儒者と混同できるのか、と思う人がいる。もし彼が、私の解くものは実は通常の意味での《周易》ではないと明らかに知れば、善に向かう心を起こすだろう。だから彼が「これは《周易》ではありません」と言ったときも、私はうなずいて認めた——これは人に因って善を生じさせる為人悉檀に属する。

或謂儒釋殆無分也,若知易與非易必有差別,雖異而同,雖同而異,則儱侗之病不得作焉,故謂亦易亦非易者,吾然之,對治悉檀也。或謂儒釋必有實法也,若知非易,則儒非定儒;知非非易,則釋非定釋,但有名字,而無實性,頓見不思議理焉,故謂非易非非易者,吾然之,第一義悉檀也。」

またある人は、儒と釈にはおよそ分別がないと思っていた。もし彼が「是易」と「非易」のあいだに必ず差別があることを知れば——相異なりながら相通じ、相通じながら相異なる——ならば、漠然と儒釈を一つに混ぜ合わせる「儱侗(ろうとう)」の病は発作しない。だから彼が「《周易》でもあり《周易》でもない」と言ったときも、私はうなずいて認めた——これは偏執の病を破る対治悉檀に属する。「儱侗」とは含混模糊のことで、禅門が差別を弁えず丸呑みにする見解を譏評する用語である。またある人は、儒と釈はそれぞれ実在する法体を持つと思っていた。もし彼が「《周易》ではない」を知れば、儒は固定不変の儒ではないと明らかになり、「《周易》でないのでもない」を知れば、釈も固定不変の釈ではないと明らかになる。両辺とも仮名安立にすぎず、独立不変の実性はない。こうして頓然と不可思議の理を見ることができる。だから彼が「《周易》でもなく、《周易》でないのでもない」と言ったときも、私はうなずいて認めた——これは実相を直截に顕す第一義悉檀に属する。智旭はここで仏門の四悉檀を、傍らの人々がこの書に寄せた四種の評価に一一対応させ、四句自体には是非がなく、すべてはそれがどの人にどう作用するかによることを説明している。

侍者曰:「不然。若所解是易,則人將謂易可助出世法,成增益謗;若所解非易,則人將謂師自說禪,何嘗知易,成減損謗;若所解亦易亦非易,則人將謂儒原非禪,禪亦非儒,成相違謗;若所解非易非非易,則人將謂儒不成儒,禪不成禪,成戲論謗。烏見其為四悉檀也?」

侍者は言った。「必ずしもそうではありません。もしあなたが解したものが《周易》だと言えば、人は《周易》が出世間の仏法を成就する助けになると思い、本来備わっていない功徳を無理に付け加えて『增益謗』となります。もしあなたが解したものが《周易》ではないと言えば、人は法師は自ら禅理を説いているだけで、何ら真に《周易》を知っているわけではないと思い、本来ある功徳を無理に削り減らして『減損謗』となります。もし是でもあり非でもあると言えば、人は儒はもともと禅ではなく禅も儒ではないと思い、両辺が互いに排斥し合って『相違謗』となります。もし非でもあり非でもないのでもないと言えば、人は儒は儒たりえず禅も禅たりえないと思い、言い繰ってもすべて空論の『戯論謗』となります。このように見れば、どこに四悉檀があると言えるのでしょう。」增益・減損・相違・戯論は、仏家が併せて称する「四謗」で、四句と一一に相対している。同じ一言でも、うまく用いれば四悉檀の益となり、悪く用いれば四謗の失となる。侍者の詰難はまさにここに落ちる——四句は四益を生じもすれば四謗をも招く。何をもって人が謗ではなく益を得たと断定できるのか。

余曰:「是固然。汝獨不聞人參善補人,而氣喘者服之立斃乎?抑不聞大黃最損人,而中滿者服之立瘥乎?春之生育萬物也,物固有遇春而爛壞者;夏之長養庶品也,草亦有夏枯者;秋之肅殺也,而菊有黃花;冬之閉藏也,而松柏青青,梅英馥馥。如必擇其有利無害者而後為之,天地恐亦不能無憾矣。

智旭は答えた。「その言葉には確かに道理がある。しかしあなたは聞かなかったのか。人参は最もよく人を補養するが、喘ぎのある人が服すればたちまち命を落とすことを。また聞かなかったのか。大黄は最もよく人を損なうが、腹中が脹満する人が服すればたちまち癒えることを。春は万物を生育するが、万物の中には春に遇うとたちまち腐り爛れるものがある。夏は衆品を長養するが、草木の中には夏に至れば枯れ萎れるものがある。秋は万物を粛殺するが、菊はまさにこの時に黄花を開く。冬は万物を閉蔵するが、松柏はなお青々とし、梅花はなお香りを鼻に撲たせる。もし必ず一つ利があって害のまったくない事を選んでからでなければ行わないとするならば、天地が万物を生育することさえ遺憾を免れ得ないだろう。」これは「四謗を招く恐れがある」との問いに対する第一層の答えである。薬自体に善悪はなく、時令自体に利害はない。益も謗も受け手の機根に随って転ずる。法を説く者は、誤解する人がいることを恐れて口を閉ざしてはならないのである。

且佛以慈眼視大千,知群機已熟,然後示生,猶有魔波旬擾亂之,九十五種嫉妒之,提婆達多思中害之,豈惟堯舜稱猶病哉。吾所由解易者,無他,以禪入儒,務誘儒以知禪耳。縱令不得四益而起四謗,如從地倒,還從地起;置毒乳中,轉至醍醐,厥毒仍在。遍行為外道師,薩遮為尼犍主,意在斯也。」侍者再拜而謝曰:「此非弟子所及也,請得筆而存之。」

「ましてや仏陀は慈悲の眼で大千世界を観照し、衆生の機根がすでに熟したと知ってから人間に示現して生まれたのに、なお魔王波旬が攪乱に来て、九十五種の外道が嫉妬を抱き、提婆達多が心を尽くして害を加えようとした。このようなことは、尭舜が『博施済衆』もなお力及ばずと嘆いただけの話ではない。私が《周易》を解くのは他の意図ではなく、『禅を以て儒に入る』ためだ——儒家の門径を借りて、儒書を読む人を禅に引き入れようとするのである。たとえ四悉檀の益を得られず、かえって四謗を起こす人がいても、それは人が地に倒れてなお地から起き上がるようなもの——謗はすでに《易》に由って起きたのだから、将来も必ず《易》に由って消える。また毒薬を牛乳に投じ、転々と練って酪となり酥となり醍醐となるように、毒性は終始その中に留まり、いつかは発作してその人を醒悟させる日がある。遍行外道はかつて外道の師となり、薩遮尼犍子はかつて尼犍外道の主となった。仏法はまさにこれら反面の引子を借りて、終に彼らを得度せしめたのである。私の意図もここにある。」侍者は聞き終わって再三礼拝して謝して言った。「これは弟子の思い及ぶ所ではありません。記録して保存させてください。」「置毒乳中、転至醍醐」は《大般涅槃経》に出る語で、仏性の種子が一旦植えられれば、たとえ一時謗となっても最終的にはなお作用を発揮することを喩える。これは智旭が全書に立てた宗旨である。この《周易禅解》は《周易》に注を作すためのものではなく、《周易》を借りて儒書を読む人を禅門の内に導き入れるためのものなのである。

崇禎辛巳仲冬旭道人書於溫陵之毫餘樓

崇禎辛巳年(西暦一六四一年)仲冬十一月、旭道人は温陵の毫余楼にて書いた。「旭道人」は蕅益智旭の自署で、「温陵」は福建泉州の別称である。智旭は中年以後、長らく閩浙一帯で弘法と著述に励み、この序は泉州の寓所で作られ、全書の書き定めもこの前後に行われた。

周易禅解 巻第一・上経 其一

北天目道人蕅益智旭著

本巻は北天目道人・蕅益智旭(おうえきちしゅく)の撰著である。智旭(西暦一五九九年―一六五五年)、字は蕅益。明末四大高僧の一人で、晩年は浙江天目山の北麓に多く住んだため、「北天目道人」と自署した。

六十四卦皆伏羲所畫。夏經以艮居首,名曰《連山》;商經以坤居首,名曰《歸藏》,各有繇辭以斷吉凶。文王囚羑里時,繫今彖辭,以乾坤二卦居首,名之曰《易》。周公被流言時,復繫爻辭。孔子又為之傳以輔翊之,故名《周易》。古本文王、周公彖爻二辭,自分上下兩經。孔子則有上經彖傳、下經彖傳、上經象傳、下經象傳、乾坤二卦文言、繫辭上傳、繫辭下傳、說卦傳、序卦傳、雜卦傳,共名十翼。後人以孔子前之五傳,會入上下兩經,而繫辭等五傳不可會入,附後別行,即今經也。

六十四卦はすべて伏羲が画いた。夏代の易の書は艮卦を首とし《連山》と名づけられ、商代の易の書は坤卦を首とし《帰蔵》と名づけられ、それぞれ「繇辞」(占断の辞)を備えて吉凶を判定した。周文王が羑里に幽囚されたとき、今日見られる「彖辞」(すなわち卦辞、一卦の義を総断するもの)を六十四卦に繋げ、乾・坤の二卦を最前に配して《易》と題した。周公が流言の難に遭ったとき、また三百八十四爻に「爻辞」を繋げた。孔子がさらに伝を作って傍らから闡発を助けたため、この書は《周易》と称される。古本において、文王の彖辞と周公の爻辞はもともと上・下の二経に分かれていた。孔子の作った伝には上経彖伝・下経彖伝・上経象伝・下経象伝、および乾坤両卦の文言伝、繋辞上伝・繋辞下伝・説卦伝・序卦伝・雑卦伝があり、合わせて「十翼」と称する——十枚の翼のように経文を輔翼するという意味である。後人は十翼のうち前の五種(彖伝上下・象伝上下・文言)を打ち砕き、上下経の相応する卦爻の下に会入したが、繋辞以下の五種の伝は拆入できず、書の後ろに附して単独に通行せざるを得なかった——これが今日通行する《周易》の体例である。この一段は智旭がまず《周易》の成書の源流を交代するもので、まだ仏法に渉っていない。

可上可下,可內可外,易地皆然,初無死局,故名交易;能動能靜,能柔能剛,陰陽不測,初無死法,故名變易。雖無死局,而就事論事,則上下內外仍自歷然;雖無死法,而即象言象,則動靜剛柔仍自燦然:此所謂萬古不易之常經也。若以事物言之,可以一事一物各對一卦一爻,亦可於一事一物之中,具有六十四卦三百八十四爻;若以卦爻言之,可以一卦一爻各對一事一物,亦可於一卦一爻之中,具斷萬事萬物,乃至世出世間一切事物。又一切事物即一事一物,一事一物即一切事物;一切卦爻即一卦一爻,一卦一爻即一切卦爻。故名交易變易,實即不變隨緣、隨緣不變,互具互造、互入互融之法界耳。

卦爻の位置は上にも下にもなり、内にも外にもなり、互いに地位を換えてもなお説が通る。もともと釘付けにされた定局はない。だから《易》には「交易」の義がある。動もできれば静もでき、柔もできれば剛もでき、陰陽の往来は予測し得ず、もともと僵固の定法はない。だから《易》にはまた「変易」の義がある。ここで智旭はまず易理を立てる。定局はないが、事に就いて論ずれば、上下内外の分際はなお歴々として分明である。定法はないが、卦象に就いて卦象を説けば、動静剛柔の区別はなお燦然として弁じられる——これがいわゆる「万古不易の常経」であり、すなわち《易》の第三義「不易」である。ここまで言うと、彼は話頭を仏法に転じる。事物の一辺から見れば、一事一物が各々一卦一爻に対応し得るし、一事一物の中に六十四卦三百八十四爻を具足し得る。卦爻の一辺から見れば、一卦一爻が各々一事一物に対応し得るし、一卦一爻の中に万事万物、ひいては世間と出世間の一切事物を断尽し得る。さらに一層進めば、一切事物はすなわちこの一事一物であり、この一事一物はすなわち一切事物である。一切卦爻はすなわちこの一卦一爻であり、この一卦一爻はすなわち一切卦爻である。だからいわゆる交易・変易も、実地に落とせば、まさに天台宗の言う「不変随縁・随縁不変」——真如の体は本より不変でありながら、よく因縁に随順して万法を現起させる。因縁に随順して万法を現起しつつも、その体はなお不変である——および「互具互造・互入互融」の法界である。十法界は互いに具足し互いに造作し、一一の法は互いに渉入し互いに円融する。ここに至り、《易》の交易・変易は彼によってそのまま天台円教の法界観に会通されている。

伏羲但有畫而無辭,設陰陽之象,隨人作何等解,世界悉檀也;文王彖辭,吉多而凶少,舉大綱以生善,為人悉檀也;周公爻辭,誡多而吉少,盡變態以勸懲,對治悉檀也;孔子十傳,會歸內聖外王之學,第一義悉檀也。偏說如此,克實論之,四聖各具前三悉檀,開權顯實,則各四悉。

この一段は「四悉檀」を以て《易》の四人の作者を分判する。伏羲は卦を画くのみで文辞を繋げず、ただ陰陽の符号を安立し、後人が種々に理解し各人がその好む所に随って歓喜を生ずるに任せた。これは世情に随順する「世界悉檀」に属する。文王の繋げた彖辞(卦辞)は吉を説くことが多く凶を説くことが少なく、大綱を提挈して人の善念を引き起こす。これは人に因って善を生ずる「為人悉檀」に属する。周公の繋げた爻辞は誡告することが多く吉を許すことが少なく、種々の変化の情態を説き尽くして勧善懲悪に用いる。これは対症下薬の「対治悉檀」に属する。孔子の作った十翼は、最終的に「内聖外王」の学——内に徳性を成し外に王道を行う——に帰結する。これは究竟の理を直顕する「第一義悉檀」に属する。ただしこれは一面に偏して言うだけである。切実に論ずれば、伏羲・文王・周公・孔子の四聖は各自ともに前の三種の悉檀を兼ね具え、ひとたび「開権顕実」(権巧方便を開き真実の義理を顕す)すれば、四位の聖人は各々に四種の悉檀を具足する。智旭は全書の開篇からこの判教の枠組みで《周易》を籠罩し、《易》をまるごと仏法説教の体系の中に納めたに等しい。

乾卦(乾下乾上)

(乾下 乾上)乾:元亨利貞。六畫皆陽,故名為乾。乾者,健也。在天為陽,在地為剛,在人為智為義,在性為照,在修為觀;又在器界為覆,在根身為首、為天君,在家為主,在國為王,在天下為帝。或有以天道釋,或有以王道釋者,皆偏舉一隅耳。健則所行無礙,故元亨。然須視其所健者何事,利貞之誡,聖人開示學者切要在此,所謂修道之教也。

「乾下乾上」は本卦の卦体を標明する。下卦は乾、上卦も乾、純陽の卦である。卦辞は言う。乾卦は元・亨・利・貞。智旭はまず常規の易理に依って解説する。六画すべて陽爻なので名を「乾」と取る。乾の義は「健」、剛健にして息まない。天においては陽気として表れ、地においては剛質として表れ、人の身においては智慧と義理として表れる。本性の一辺から言えば「照」(本具の照了の明)であり、修行の一辺から言えば「観」(観照する工夫)である——この「性照修観」の一対は彼が後文で繰り返し用いる綱領である。そのほか器世間では万物を覆う天であり、衆生の身では頭であり一身を主宰する「天君」(心)であり、一家では家主、一国では国君、天下では帝王である。従来の注家は、ある者は専ら天道を以て解し、ある者は専ら王道を以て解し、いずれもその中の一隅を挙げたにすぎない。剛健であれば行う所に阻碍がない。ゆえに「元亨」——大いに通達する——と言う。しかし彼が剛健にするのがいったいどの一件であるかを見清めねばならない。「利貞」(正を守るに利あり)の一句の誡めは、まさに聖人が学者に開示する最も切要の処であり、すなわち《中庸》の言う「修道之謂教」の用意である。

夫健於上品十惡者必墮地獄,健於中品十惡者必墮畜生,健於下品十惡者必墮鬼趣;健於下品十善者必成修羅,健於中品十善者必生人道,健於上品十善者必生天上;健於上品十善,兼修禪定者,必生色無色界;健於上品十善,兼修四諦十二因緣觀者,必獲二乘果證;健於上上品十善,能自利利他者,即名菩薩;健於上上品十善,了知十善即是法界、即是佛性者,必圓無上菩提。故十界皆元亨也。

この一段は智旭が仏法を以て「元亨」に会通する所である。彼は「健」——剛健に息まず一路に為し続ける——を十法界の一一層に分けて当てはめる。上品十悪の上に剛健に息まない人は必ず地獄に堕ち、中品十悪の上に剛健な者は必ず畜生道に堕ち、下品十悪の上に剛健な者は必ず餓鬼道に堕ちる。逆に、下品十善の上に剛健な者は阿修羅として生まれ、中品十善の上に剛健な者は人として生まれ、上品十善の上に剛健な者は天上に生まれる。もし上品十善のほかに禅定を兼修すれば、色界天・無色界天に生まれる。もし上品十善のほかに「四諦」(苦・集・滅・道)と「十二因縁」の観法を兼修すれば、声聞・縁覚の二乗の果位を証得し得る。もし上上品十善の上に剛健で、かつ自利するとともに利他できるならば、菩薩と呼ばれる。もし上上品十善の上に剛健で、かつ十善が当体すなわち「法界」であり「仏性」であると了知すれば、必ず無上菩提を円満して成仏する。「十界」とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十種の法界である。だから言うのだ。十法界に「元亨」でないものは一つもない——剛健に歩み続けさえすれば、条条の道は皆通じて皆大いに成すことができる。これがまさに下文の「利貞」の誡めへの伏線である。通じることは行くべきことに等しくない。

三惡為邪,三善為正;六道有漏為邪,二乘無漏為正;二乘偏真為邪,菩薩度人為正;權乘二諦為邪,佛界中道為正;分別中邊不同為邪,一切無非中道為正。此利貞之誡所以當為健行者設也。

上文を承けて、智旭は層層に何が「正」かを判定する。すなわち卦辞のうちの「貞」である。地獄・餓鬼・畜生の三悪道を邪とし、人・天・修羅の三善道を正とする。さらに一層進めれば、六道輪回はすべて「有漏」(煩悩を挟み、生死を出られない)なので邪であり、声聞縁覚二乗の「無漏」こそ正である。さらに一層進めれば、二乗は「偏真」(空理の真諦に偏り、自ら了えるのみ)を証するのみでなお邪であり、菩薩が心を発して人を度することこそ正である。さらに一層進めれば、権教の菩薩は真・俗の「二諦」のみを見るので邪であり、仏界の証する「中道」こそ正である。さらに一層進めれば、心の内になお中道と二辺とが別であると分別するならばなお邪であり、一切法に中道に非ざるなしと通達するまで至ってこそ、真の正である。層層に剥き進み、下一層の「正」は上一層に至ればまた「邪」となる。だから言うのだ。「利貞」の一句の誡めは、もともと一切の剛健に力行する人のために設けられた——剛健有余にして方向正しからざれば、健やかに進むほど深く陥る。

初九:潛龍勿用。龍之為物也,能大能小,能屈能申,故以喻乾德焉。初未嘗非龍,特以在下,則宜潛而勿用耳。此如大舜耕歷山時,亦如顏子居陋巷乎。其靜為復,其變為姤。復則后不省方以自養,姤則施命誥四方以養眾,皆潛之義也。

爻辞は言う。初九、潜れた龍、用いるなかれ。智旭は易理に依って解説する。龍というものは大きくもなれ小さくもなれ、屈もすれば伸もする。ゆえに乾卦の剛健の徳に喩える。初九も本来は龍だが、最下の位置に処するがゆえに潜蔵して用いるべからず。これは虞舜がなお歴山で田を耕していた時のようであり、また顔回が陋巷に住していた時のようである——徳性はすでに具足しているが、時位がまだ至らないだけである。続いて彼は二種の卦変を以て印证する。本爻が動かず余爻が陰を取れば全卦は《復》となり、本爻が陽から陰に変われば全卦は《姤》となる。《復》卦の大象は「后不省方」——君王が閉関して四方に出巡せず、自己を涵養する。《姤》卦の大象は「施命誥四方」——衆人を養育する。一つは自養、一つは養衆、いずれも「潜」の意を含んでいる——潜とは何もしないことではなく、力を内に収めておくことである。

九二:見龍在田,利見大人。初如淵,二如田,時位之不同耳,龍何嘗有異哉。二五曰大人,三曰君子,皆人而能龍者也。此如大舜徵庸時,亦如孔子遑遑求仕乎。其靜為臨為師,其變為同人,皆有利見之義焉。

爻辞は言う。九二、龍が田野に現れる。大人に見るに利あり。智旭は解説する。初爻は深淵に比え、二爻は田野に比する。処する時位が異なるのみで、龍自体にかつて二様があろうか。乾卦において二爻と五爻は「大人」と称し、三爻は「君子」と称し、いずれも身は人でありながら龍の如くあれる者である。これは虞舜が尭に徴召任用された時のようであり、また孔子が列国を奔走して切に仕を求めた時のようである——龍はすでに淵を出でてなお田間に在り、なお識抜する人を要する。卦変に就て言えば、本爻が動かない時は《臨》となり《師》となり、本爻が陽から陰に変われば全卦は《同人》となる。《臨》は上に居って下に臨み民に親近し、《師》は衆の帰往する所、《同人》は人と和同する。三卦いずれも「利見大人」の意を含んでいる。

九三:君子終日乾乾,夕惕若厲,無咎。在下之上則地危,純剛之德則望重,故必終日乾乾,雖至於夕而猶惕若。所謂安而不忘危,危者安其位者也。此如大舜攝政時,亦如王臣蹇蹇匪躬者乎。其靜為泰為謙,其變為履,皆有乾乾惕厲之義焉。

爻辞は言う。九三、君子は終日勤勉して懈らず、夜に至ってもなお警惕して戒懼する。危険な処に遭うといえども過咎はない。智旭は解説する。九三は下卦の上に位し、上は天に着かず下は地に着かず、地位はもともと危険である。また純陽剛健の徳で、衆望の帰する所・責任は沉重である。ゆえに必ず終日勤勉して懈らず、たとえ傍晚に至ってもなお警惕する。これはまさに《繋辞伝》の言う「安而不忘危」——「危なる者は其の位を安んずる者なり」——常に戒懼を存することを知る者は、かえって安穏に己の位を保つことができる。これは虞舜が尭に代わって政を摂した時のようであり、また《蹇》卦六二爻辞の言う「王臣蹇蹇、匪躬之故」、国事の艱難に奔走して自身を顧みない臣子のようである。卦変に就て言えば、本爻が動かない時は《泰》となり《謙》となり、陽から陰に変われば《履》となる。《泰》は泰極まって否を生ずるを防がねばならず、《謙》は謙を執り下を守らねばならず、《履》は虎の尾を履んで戒慎せざるを得ない。三卦いずれも乾乾として惕厲する意を含んでいる。

九四:或躍在淵,無咎。初之勿用必於深淵,四亦在淵,何也?初則潛,四則躍,時勢不同,而跡暫同。此如大舜避位時,亦如大臣之休休有容者乎。其靜為大壯為豫,其變為小畜,皆有將飛未飛、以退成進之義焉。

爻辞は言う。九四、あるいは躍り起き、あるいはなお深淵に留まる。いずれも災禍はない。智旭は問を設ける。初九が「勿用」と言うのは身が深淵に在るからだが、九四もまた淵中に在るのは何故か。答えて曰く。初九は「潜」であり、九四は「躍」であり、両者の遇する時勢が異なり、ただ外の行跡が一時相似するのみである。これは虞舜が尭の去世の後、南河に避居して天子の位を尭の子に譲った時のようであり、また《尚書・秦誓》の称する「休休有容」、気度が寛厚にして人を容れ得る大臣のようである。卦変に就て言えば、本爻が動かない時は《大壮》となり《豫》となり、陽から陰に変われば《小畜》となる。《大壮》は壮盛にして躁進を戒めねばならず、《豫》は時に順って後に動かねばならず、《小畜》は力量が暫く畜止される。三卦いずれも「将に飛ばんとして未だ飛ばず、退を以て進と為す」の意を含んでいる。

九五:飛龍在天,利見大人。今之飛者,即昔之或躍或惕或見或潛者也,不如此,安所稱大人哉。我為大人,則所見無非大人矣。此如大舜垂衣裳而天下治,亦如一切聖王之御極者乎。其靜為夬為比,其變為大有,皆有利見之義焉。

爻辞は言う。九五、龍飛んで天に在り。大人に見るに利あり。智旭は解説する。今高く飛ぶこの龍は、まさに当時あるいは躍り、あるいは惕れ、あるいは見え、あるいは潜めた同じ一条の龍である。かつてあの数段を経歴しなければ、何を以て「大人」と称し得ようか。しかも自分が一旦大人となれば、眼中に見る所は一つとして大人でないものはない——これは彼の「利見大人」への一層の翻転である。見る所の高下は、能く見る者自身の高下に依る。これは虞舜が衣裳を垂れて無為にして天下が大治した時のようであり、また一切の聖王が極に登り位に臨んだ時のようである。卦変に就て言えば、本爻が動かない時は《夬》となり《比》となり、陽から陰に変われば《大有》となる。《夬》は剛決にして衆の仰ぐ所となり、《比》は天下が親附し、《大有》は所有する者が広大である。三卦いずれも「利見大人」の意を含んでいる。

上九:亢龍有悔。亢者,時勢之窮;悔者,處亢之道也。此如大舜遇有苗弗格,舞乾羽於兩階乎,否則不為秦皇漢武者幾希矣。其靜為乾為剝,其動為夬,皆亢而須悔者也。王陽明曰:「乾六爻作一人看,有顯晦,無優劣;作六人看,有貴賤,無優劣。」

爻辞は言う。上九、高く飛び過ぎた龍は悔い有る。智旭は解説する。「亢」とは時勢がすでに尽頭に至ったことである。そして「悔」とは懊喪の結果ではなく、亢極の位に身を処するに応に有すべき態度——回頭することを知る——である。これは虞舜が有苗を征して三苗が服せず、兵を罷めて朝に還り、廟堂の両階の間で干戚羽旄を執って舞い、文徳を以て感化し、終に有苗を自ら帰順せしめた時のようである(事は《尚書・大禹謨》に見る)。もしこのように悔いを知って返らなければ、秦始皇・漢武帝の兵を窮め武を黷した末路から遠からずとなる。卦変に就て言えば、本爻が動かない時は《乾》となり《剥》となり、本爻が変動すれば《夬》となる——《剥》は陽気が剥げて将に尽きんとし、《夬》は決して将に窮まらんとする。いずれも亢極にして必ず悔いを知らねばならない象である。末に明儒・王陽明の言を引く。乾卦の六爻を、もし一人の人として見れば、顕達と晦隠の区別はあれど優劣高下はない。もし六人の人として見れば、貴賤の地位の不同があるのみで、やはり優劣高下はない。

統論六爻表法,通乎世出世間。若約三才,則上二爻為天,中二爻為人,下二爻為地。若約天時,則冬至後為初爻,立春後為二爻,清明後為三爻,夏為四爻,秋為五爻,九月後為上爻。又乾坤二卦合論者,十一月為乾初爻,十二月為二爻,正月為三爻,二月為四爻,三月為五爻,四月為上爻,五月為坤初爻,乃至十月為坤上爻也。若約欲天,則初爻為四王,二忉利,三夜摩,四兜率,五化樂,上他化。若約三界,則初欲界,二三四五色界,上無色界。

この一段は六爻の「表法」を総論する——六爻は何を象徵するのに用いられるか。そしてこの象徴は世間法と出世間法を通貫する。「三才」に配れば、上の二爻は天に属し、中の二爻は人に属し、下の二爻は地に属する。一年の節候に配れば、冬至以後を初爻、立春以後を二爻、清明以後を三爻、夏季を四爻、秋季を五爻、九月以後を上爻とする。乾坤両卦を合わせて十二箇月に配満すれば、十一月を乾卦の初爻、十二月を二爻、正月を三爻、二月を四爻、三月を五爻、四月を上爻とし、五月は坤卦の初爻に転入し、十月を坤卦の上爻に至るまで続く。ここから彼は仏教の世界構造に改めて配する。欲界の六層天に配れば、初爻は四天王天、二爻は忉利天、三爻は夜摩天、四爻は兜率天、五爻は化楽天、上爻は他化自在天である。三界に配れば、初爻は欲界、二・三・四・五の四爻は色界、上爻は無色界である。

若約地理,則初為淵底,二為田,三為高原,四為山谷,五為山之正基,上為山頂。若約方位,則初為東,三為南,四為西,六為北,二五為中。若約家,則初為門外,上為後園,中四爻為家庭。若約國,則初上為郊野,中四爻為城內。若約人類,則初民,二士,三官長,四宰輔,五君主,上太皇,或祖廟。若約一身,則初為足,二為腓,三為股為限,四為胸為身,五為口為脢,上為首亦為口。若約一世,則初為孩童,二少,三壯,四強,五艾,上老。

続いてさらに角度を換えて配する。地形に配れば、初爻は深淵の底、二爻は田地、三爻は高原、四爻は山谷、五爻は山の正身の根基、上爻は山頂である。方位に配れば、初爻は東、三爻は南、四爻は西、第六爻(上爻)は北、二爻と五爻は中央に居る。一家に配れば、初爻は門外、上爻は後園、中間の四爻は家庭の内である。一国に配れば、初爻と上爻は城外の郊野、中間の四爻は城中である。人の身分に配れば、初爻は百姓、二爻は士人、三爻は官長、四爻は宰輔の大臣、五爻は君主、上爻は太上皇あるいは祖廟である。人の一身に配れば、初爻は脚、二爻は脹脛、三爻は大腿・腰の際(《艮》卦のいう「限」)、四爻は胸・躯干、五爻は口・脊背の肉(「脢」)、上爻は頭、口を指すこともある。人の一生に配れば、初爻は孩童、二爻は少年、三爻は壮年、四爻は四十にして強仕の年、五爻は五十にして「艾」と曰う年、上爻は老年である。これらの配法はいずれもなお世間法の範囲内にあり、下文で仏法の配法に転入するための布石である。

若約六道,則如次可配六爻。又約十界,則初為四惡道,二為人天,三為色無色界,四為二乘,五為菩薩,上為佛。若約六即,則初理,二名字,三觀行,四相似,五分證,上究竟。以要言之,世出世法,若大若小,若依若正,若善若惡,皆可以六爻作表法。有何一爻不攝一切法?有何一法不攝一切六爻哉?

六道輪回に配れば、ちょうど順序に従って六爻に配当される。「十界」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)に配れば、初爻は地獄等の四悪道、二爻は人道と天道、三爻は色界無色界、四爻は声聞縁覚の二乗、五爻は菩薩、上爻は仏である。天台宗の「六即」に配れば——「六即」とは凡夫から成仏までの六つの階位で、「即」と「六」の両面を兼顧する。理即(本に仏性を具えながら全く自知しない)、名字即(仏法を聞いて仏性あるを知る)、観行即(教に依って観を起こし行解相応する)、相似即(煩悩を伏住し相似の解を得る)、分証即(分々に無明を断じ分々に法身を証する)、究竟即(惑を尽くし智を円かにして成仏する)——初爻は理即、二爻は名字即、三爻は観行即、四爻は相似即、五爻は分証即、上爻は究竟即である。総じて言えば、世間法と出世間法、大乗小乗を論わず、依報(身外の国土環境)正報(自身の身心)を論わず、善悪を論わず、すべて六爻を以て象徴となすことができる。既然としてこのようであれば、どの一爻か一切法を含摂しないのか。またどの一法かこの全部の六爻を含摂しないのか。この一問一答は、まさに「一即一切・一切即一」の円教義を六爻の上に安立するものである。

佛法釋乾六爻者,龍乃神通變化之物,喻佛性也。理即位中,佛性為煩惱所覆故勿用;名字位中,宜參見師友,故利見大人;觀行位中,宜精進不息,故日乾夕惕;相似位中,不著似道法愛,故或躍在淵;分證位中,八相成道,利益群品,故為人所利見;究竟位中,不入涅槃,同流九界,故云有悔。此原始要終,兼性與修而言之也。

この一段は智旭が正式に仏法を以て乾卦六爻を解釈する所で、依拠するのはまさに上文の「六即」である。龍は神通変化を起こし得る物で、以て「仏性」に喩える。「理即」の位の中において、仏性は本より具足するといえども煩悩に蓋覆されて用を起こす所がない。ゆえに「潜龍勿用」と言う。「名字即」の位の中において、ちょうど仏性の名を聞いたばかりで、明師善友を参訪すべきである。ゆえに「利見大人」と言う。「観行即」の位の中において、精進して懈らず観を起こして修行すべきである。ゆえに「終日乾乾、夕惕若厲」と言う。「相似即」の位の中において、工夫はすでに真道に近似するが、最も恐れるのはこの相似の境界に貪著して「法愛」を起こすこと——自己の得た法への愛著であり、臨門の一歩に最も破り難い障道の患である。貪著しないことができれば、ゆえに「或躍在淵」、進退自在である。「分証即」の位の中において、すでに「八相成道」(兜率を降り、胎に入り、胎に住し、胎を出で、出家し、成道し、法輪を転じ、涅槃に入る)を示現して広く衆生を利し得る。ゆえに「飛龍在天」、衆人の楽見する所となる。「究竟即」の位の中において、仏はすでに究竟円満であるが独り涅槃を取って安住することを肯んぜず、なお回り入って九法界で衆生と事を同じくする。ゆえに「亢龍有悔」——この「悔」は過失ではなく、高位に居らずに回頭して衆生を度することである。この一段は起点から終点まで説き、本具の「性徳」と修行の「修徳」を合わせて説いたものである。

若單約修德者,陽為智德,即是慧行。初心乾慧,宜以定水濟之,不宜偏用;二居陰位,定慧調適,能見佛性,故云利見大人;三以慧性遍觀諸法;四以定水善養其機;五則中道正慧證實相理;上則覓智慧相了不可得。又約通塞而言之者:初是淺慧,故不可用;上是慧過於定,故不可用;中之四爻皆是妙慧:二如開佛知見,三如示佛知見,四如悟佛知見,五如入佛知見也。

もし単に「修徳」の一辺に就て言うならば、陽爻は智慧の徳を表し、すなわち「慧行」(観慧を主とする修行)である。初九は初発心の「乾慧」——乾涸した智慧で、慧あって定なし。たとえば水なき地のごとく、応に禅定の水を以て滋潤すべく、偏って慧を用いて定を廃すべからず。ゆえに「勿用」と言う。九二は陽爻を以て二という陰位に居り、定と慧が調和して宜しきを得て、よって仏性を見ることができる。ゆえに「利見大人」と言う。九三は慧の力量を以て一切諸法を遍く観る。九四は定水を以てよく自己の機根を涵養する。九五は中道の正慧を以て実相の理を親証する。上九は智慧の相さえも了知不可得——智が極処に至ってかえって智得るものなし。さらに「通塞」(どこが通じどこが塞ぐか)から言えば、初九は浅慧にしてなお使用に堪えず、上九は慧が定を超過してこれも使用に堪えない。中間の四爻はいずれも微妙の智慧で、ちょうど《法華経》の言う仏出世の一大事因縁に配される。九二は仏知見を「開」くが如く、九三は仏知見を「示」すが如く、九四は仏知見を「悟」るが如く、九五は仏知見に「入」るが如くである。

用九:見群龍無首,吉。六十四卦,共計三百八十四爻,陰陽各半,則陽爻共有百九十二。此周公總明一切陽爻所以用九而不用七之旨也。蓋七為少陽,靜而不變;九為老陽,動而變陰。今若筮得乾卦,六爻皆九,則變為坤卦,不惟可知大始,亦且可作成物,而六龍不作六龍用,其變化妙無端倪矣。此如大舜薦禹於天,不以位傳其子,亦如堯舜之猶病、文王之望道未見、孔子之聖仁豈敢乎。

「用九」の辞は言う。一群の龍がいずれも頭角を以て自ら居らざるを見る。吉。智旭は解説する。六十四卦は共に三百八十四爻あり、陰陽は各々半分を占め、ゆえに陽爻は総じて百九十二である。この一条の「用九」は、周公が一切の陽爻が何故「九」を取って「七」を取らないかの用意を総括して説明する。もともと占筮で得る陽には二種ある。七は少陽で安静にして変わらず、九は老陽で動いて陰に変わる。今もし乾卦を占して六爻すべて九ならば、整卦は坤卦に変わる。乾の「大始を知る」の開創の能を保有するのみならず、兼ねて坤の「物を作成する」の成就の功を得て、六条の龍を六条の龍として用いない。その変化は微妙にして辺際がない。これは虞舜が禹を天に薦めて帝位を自己の子に伝えなかったようであり、また《論語》に載る尭舜がなお博施済衆を難としたこと、《孟子》に載る文王がすでに道を望見しながらなお未だ見ざるが如くであったこと、孔子の言う「若聖与仁、則吾豈敢」——いずれもその徳ありてその名に居ることを肯んじない。これがまさに「群龍无首」の様子である。

若約佛法釋者,用九,是用有變化之慧,不用七之無變化慧也。陽動即變為陰,喻妙慧必與定俱。《華嚴》云:「智慧了境同三昧。」大慧云:「一悟之後,穩貼貼地。」皆是此意。群龍者,因中三觀、果上三智也。觀之與智,離四句,絕百非,不可以相求,不可以識識,故無首而吉。

もし仏法を以て解釈するならば。いわゆる「用九」とは、あの変化を起こし得る智慧を用い、「七」のような変化不能の智慧を用いないことである。陽が一たび動けば陰に変わる。真の微妙智慧は必ず禅定と相倶であることに喩える——慧あって定なきは妙慧と算えるに足らない。《華厳経》は「智慧了境同三昧」と言う。智慧が境界を照了する当下がすなわち三昧である。大慧宗杲禅師は「一悟之後、穏貼貼地」と言う。悟後の心地が安穏して動かざる——いずれもこの意を講ずる。いわゆる「群龍」とは、因地に修する「三観」(空観・假観・中観)と果地に成ずる「三智」(一切智・道種智・一切種智)を指す。この三観と三智は「四句」を超離し「百非」(一切の名言分別と否定)を断絶し、形相を以て尋ね求むべからず、意識を以て認識すべからず。ゆえに「无首」にして吉——まさに一つの頭緒も捉えられないからこそ、その吉なのである。

彖曰:大哉乾元,萬物資始,乃統天。雲行雨施,品物流形。此孔子彖傳,所以釋文王之彖辭者也。釋彖之法,或闡明文王言中之奧,或點示文王言外之旨,或借文王言句而自出手眼,別申妙義,事非一概。今乾坤二卦,皆是自出手眼,或亦文王言外之旨。此一節是釋元亨二字,以顯性德法爾之妙,所謂「無不從此法界流」也。

彖伝は言う。大いなるかな乾の元徳よ。万物は皆これに依って始まりを得、それは天の道全体を統攝する。雲気は流行し、雨澤は施布し、各類の物品は流布して形を成す。智旭はまず体例を説明する。これは孔子の作った彖伝で、以て文王の彖辞を解釈する。彖辞を解釈する方式は一種に止まらない。あるものは文王の言葉の深意を闡発し、あるものは文王の言外の用意を点示し、あるものは文王の語句に借りて自ら手眼を出して別に一層の妙義を申明する。今の乾・坤両卦の彖伝はいずれも自ら手眼を出すもの、あるいは文王の言外の旨を発揮したものに属する。この一節は「元亨」の二字を解釈して、以て「性徳」の本然として微妙なるを顕明する。「性徳」とは衆生が本より自ら具足し修行に由らない徳性を指し、後文の「修徳」(修行に依って成ずる徳)と相対する、全書で最も切要な一対の概念である。「无不從此法界流」は《大乗法界無差別論》一系の名句で、一切法は真如法界より流れ出ざるものなし。ここにまさに「万物资始」に配当する。

蓋乾之德不可勝言,而惟元能統之;元之德不可名狀,惟於萬物資始處驗之。始者,對終而言,不始不足以致終,不終不足名資始,即始而終,故曰統天。舉凡云行雨施,品物流行,莫非元之德用,所謂始則必亨者也。

乾の徳は説いても説き尽くせないが、ただ一つの「元」の字のみがそれを統攝し得る。「元」の徳はまた形容描画することができず、ただ「万物资始」の一処においてのみそれを験す。いわゆる「始」とは「終」に対して言う。開始がなければ終結を致すに足らず、終結し得なければ資始と称することもできない。開始の中にすでに終結を含む。ゆえに彖伝はそれを「統天」——天道の全程を統攝する——と言う。およそ雲気流行・雨澤施布・万類の流布成形は、一つとして「元」の一徳の作用でないものはない。これがいわゆる「一旦始めあれば必ず亨通する」であり、まさに「元」と「亨」の連称の道理である。智旭はここで「即始而終」を以て《易》の元亨を、ひそかに仏法の「初発心時便成正覚」の路数に接続している。

大明終始,六位時成,時乘六龍以御天。此一節,是顯聖人以修合性,而自利功圓也。聖人見萬物之資始,便能即始見終,知其由終有始,始終止是一理,但約時節因緣假分六位。達此六位無非一理,則位位皆具龍德,而可以御天矣。天即性德也;修德有功,性德方顯,故名御天。

彖伝は言う。大いに終始を明徹して、六つの爻位は時序に依って成立し、時に乗って六条の龍を駕って天道を御する。智旭は解説する。この一節は聖人が修行を以て本性に契合し、自利の功行がここに円満することを顕明する。聖人は万物が乾元より始まるを見、よって始まりに就いて終結を見ることができ、また終結あるがゆえにこそ始まりを談じ得ることを知る。始と終は同一の道理に過ぎない。ただ時節因縁の異なるに就いて、仮に六つの爻位の区別を立てる。この六位が同一の理に過ぎないと通達すれば、位位に皆龍の徳性を具足し、以て天道を駕御することができる。ここで彼は「天」に一つの仏法的定義を下す。天はすなわち「性徳」——本具の徳性——である。修徳に工夫あってはじめて性徳が顕現する。ゆえに「御天」と名づく。言い換えれば、六位は六つの異なる物ではなく、同一の仏性が迷悟の時節不同なる中での六つの面目であり、これがまさに前文の「六即」と一一に対応する。

乾道變化,各正性命,保合太和,乃利貞。此一節,是釋利貞二字,以顯性德本來融遍,所謂「無不還歸此法界」也。蓋一切萬物既皆資始於乾元,則罔非乾道之變化;既皆乾道變化,則必各得乾道之全體大用,非是乾道少分功能,故能各正性命。物物具乾道全體,又能保合太和;物物具乾元資始大用,乃所謂利貞也。

彖伝は言う。乾道は変化を運行して、万物に各々その本性と天命を端正せしめ、最高の和を保ち合わせる。これが「利貞」である。智旭は解説する。この一節は「利貞」の二字を解釈して、以て性徳の本来の円融周遍、すなわちいわゆる「無不還帰此法界」——万法は法界より流れ出で、最終にはなお法界に還帰する——を顕明する。一切万物が乾元より発端する以上、乾道の変化でないものは一つもない。皆乾道の変化である以上、必ず各々乾道の全体大用を得て、乾道の一点の機能を分受けるのみではない。ゆえに「各正性命」し得る。一一物が乾道の全体を具足し、よって「保合太和」し得る。一一物が乾元資始の大用を具足し、これをいわゆる「利貞」と言う。前一節の言う「無不從此法界流」は外に向かって開き、この一節の言う「無不還帰此法界」は内に向かって収める。一開一収、まさに天台家の言う真如の「随縁不変」の両面である。

首出庶物,萬國咸寧。此一節,是顯聖人修德功圓,而利他自在也。統論一傳宗旨,乃孔子借釋彖爻之辭,而深明性修不二之學。以乾表雄猛不可沮壞之佛性,以元亨利貞表佛性本具常樂我淨之四德。佛性必常,常必備乎四德,豎窮橫遍,當體絕待,故曰大哉乾元。試觀世間萬物,何一不從真常佛性建立?設無佛性,則亦無三千性相、百界千如。故舉一常住佛性,而世間果報天、方便淨天、實報義天、寂光大涅槃天,無不統攝之矣。

彖伝は言う。聖人は万物の上に超出し、万邦は因って皆安寧を得る。智旭は解説する。この一節は聖人の修徳功行が円満して、よって利他自在なるを顕明する。続いて彼は整篇の彖伝の宗旨を総論する。これは孔子が彖辞爻辞を解釈する機会に借りて、「性修不二」の学——本具の性徳と後起の修徳は二つの事ではない——を深く闡明したものである。乾卦を以て雄健勇猛にしていかなる力量も摧壊し得ない「仏性」を表す。元・亨・利・貞の四字を以て仏性の本具する「常楽我浄」四徳(涅槃の四種の徳性、恒常不変・寂滅安楽・真実自在・清浄無染)を表す。仏性は必ず恒常であり、恒常であれば必ずこの四徳を具える。縦に三世を窮め横に十方に遍満し、当体すでに絶対にして比対すべきものなし。ゆえに彖伝は讃嘆して「大哉乾元」と言う。試みに世間の万物を想え。どれ一つとして真常仏性の上に建立されないものがあるか。仮に仏性がなければ、天台宗の言う「三千性相」「百界千如」(十法界は互具して百界を成し、毎界に十如是と三種世間を具え、共に三千諸法を成す)もまた談じるに従うところがない。だから常住の仏性を一つ挙げさえすれば、世間果報天・方便浄天・実報義天・寂光大涅槃天の四層の「天」は、その統攝の内に入らざるものなし——これがまさに彖伝の「乃統天」に対応する。

依此佛性常住法身,遂有應身之雲、八教之雨,能令三草二木各稱種性而得生長。而聖人則於諸法實相究盡明瞭。所謂實相非始非終,但約究竟徹證名之為終,眾生理本名之為始。知其始亦佛性,終亦佛性,不過因於迷悟時節因緣,假立六位之殊。位雖分六,位位皆龍。

この仏性常住の「法身」に依って、はじめて機に応じて示現する「応身」が雲のごとく興起し、天台判教の立てる「八教」(蔵・通・別・円の四化法と頓・漸・秘密・不定の四化儀)の法雨が普く降り、根性の大小異なる衆生——《法華経》が上中下の三種の草と大小二種の樹に喩えた「三草二木」——をして各々自分の種性に随って生長を得せしむる。これがまさに彖伝の「雲行雨施、品物流形」に配当する。そして聖人は諸法の実相において、徹底に窮め尽くし明白である。これがすなわち「大明終始」である。いわゆる実相は本より始にあらず終にあらず。ただ究竟徹底の親証に就て言うを「終」とし、衆生の本具する理に就て言うを「始」とする。始まりも仏性・終わりも仏性と知るが、ただ迷と悟の時節因縁の異なるがゆえに、仮に六つの位次の差別を立てる。位次は六つに分かるといえども、位位皆同じ一条の龍——これが天台の「六而常即、即而常六」の説である。分位の上では宛然として六があり、体性の上では終始として一つである。

所謂理即佛,乃至究竟即佛,乘此即而常六之修德,以顯六而常即之性德,故名乘六龍以御天也。此常住佛性之乾道,雖亙古亙今不變不壞,而具足一切變化功用,故能使三草二木各隨其位而證佛性。既證佛性,則位位皆是法界,統一切法無有不盡,而保合太和矣。所以如來成道,首出九界之表,而剎海眾生,皆得安住於佛性中也。

「理即仏」から「究竟即仏」に至るまで、この「即而常六」の修徳——当体すなわち仏でありながら行位の上にはなお六重の次第がある——に乗って、あの「六而常即」の性徳を顕発する。ゆえに「時乘六龍以御天」と言う。この常住仏性の乾道は、古より今に至るまで不変不壊でありながら、また一切変化の功用を具足する。ゆえに三草二木をして各々自己の位次に随って仏性を証得せしむ。仏性を証得した以上、位位皆法界であり、一切法を統攝して遺漏なし。これが「保合太和」である。だから如来が成道の時、九法界の上に超出し、無量刹土の中の衆生もまた皆仏性の中に安住を得る——これが「首出庶物、万国咸寧」である。ここに至り、智旭はすでに整篇の乾卦彖伝を頭から尾まで一部の仏性論に訳した。元亨利貞は常楽我浄であり、六位は六即であり、御天は修を以て性に合することであり、万国咸寧は衆生の仏性への同帰である。

象曰:天行健,君子以自強不息。六十四卦大象傳,皆是約觀心釋,所謂無有一事一物而不會歸於即心自性也。本由法性不息,所以天行常健;今法天行之健而自強不息,則以修合性矣。

大象伝は言う。天の運行は剛健にして已まず、君子はこれに取法して自ら強く息まず。智旭はここに一条の通例を立てる。六十四卦の大象伝は一律に皆「観心」の角度を以て解釈する。「観心」は天台止観の根本法門で、一切の外境を当下のこの一念の心に収帰して観照すること、いわゆる一事一物として「即心自性」——この心を離れざる本性——に会帰しないものはないとする。彼は本条を解説する。もともと法性自身が運転して息まないがゆえに、天の運行は恒常に剛健なのだ。今人が天行の剛健に効法して自強不息する、これがすなわち修徳を以て性徳に契合することである。全書はおよそ大象伝に遇えば皆この一路の自心に会帰する読法をなす。読者はこれに依って弁別せよ。卦爻を講ずるは事を説くのであり、大象を講ずるは心を説くのである。

潛龍勿用,陽在下也。見龍在田,德施普也。終日乾乾,反復道也。或躍在淵,進無咎也。飛龍在天,大人造也。亢龍有悔,盈不可久也。用九,天德不可為首也。文並可知。

小象伝は逐爻に解釈して言う。「潜龍勿用」と言うのは、陽爻がなお最下の位に在るからである。「見龍在田」と言うのは、徳澤がすでに普く施され始めたからである。「終日乾乾」と言うのは、反復して正道の上に行くからである。「或躍在淵」と言うのは、こうして前進しても過咎ないからである。「飛龍在天」と言うのは、大人ここに至りはじめて真に作為あるからである。「亢龍有悔」と言うのは、盈満の状態は長久し得ないからである。「用九」と言うのは、天の徳性は先んじて首に居るべからざるからである。智旭は言う。これら数句は文義明白にして、文面に照らせば理解し得る。別に解釈を作す必要はない。

佛法釋者:法身流轉五道,名日眾生,故為潛龍,理即法身,不可用也。具縛凡夫,能知如來秘密之藏,故德施普。十乘妙觀,念念熏修,故反復道。不住相似中道法愛,故進無咎。八相成道,廣度眾生,故是大人之事。無住大般涅槃,亦不畢竟入於滅度,盡未來時同流九界,故盈不可久。但恃性德便廢修德,全以修德而為教門,故天德不可為首。

続いて彼は仏法に改めて逐句会通する。経論は「法身が五道に流転すれば、これを衆生と名づく」と説く。法身は本より清浄だが、一旦五道の中に流転すれば衆生と称される。これが「潜龍」である。この時、当体はすでに法身でありながら、ただ「理即」の階位にすぎず、なお用を起こすことができない。ゆえに「用いるべからず」と言う。满身の煩悩に束縛された凡夫が、意外にも「如来秘密之蔵」(衆生に本具する如来蔵仏性)を聴聞し信解することができる。この一歩を跨ぎ出せば、徳澤はすでに普く施され始めている。ゆえに「徳施普」と言う。天台の「十乗観法」という精妙の観門に依って、念々に薫習修持し、反復してこの道を離れない。ゆえに「反復道」と言う。相似位に至ってあの真道に近似する「法愛」に貪著せず、はじめて敢えて前に躍進して差錯を出さない。ゆえに「進无咎」と言う。八相成道を示現して広く衆生を度する、これこそ大人の分内の事業である。ゆえに「大人造」と言う。諸仏の証するところは「无住大般涅槃」で、生死にも住せず涅槃にも住せず、真に永遠に寂滅して去るのではなく、未来際を尽くして回り入って九法界で衆生と事を同じくする。ゆえに「盈不可久」——円満の頂点に停まることを肯んじない——と言う。もし本具の性徳のみに倚仗して修行の工夫を荒廃させれば、それは誤りである。仏法は全体として修徳を以て教化の門径とする。ゆえに「天徳不可為首」——天然の性徳を持って修徳の前に抢って首に居らせてはならない——と言う。

馮文所曰:「其潛藏者,非謂有時而發用也,即發用而常潛藏也;其在下者,非謂有時而上也,其上者不離乎下也。乾卦所謂勿用之潛龍,即大衍所謂勿用之一也。」

智旭は明の人・馮文所の言を引く。いわゆる「潜蔵」とは、潜蔵して一段の時を経て後に発用するということではない。たとえまさに発用している時であっても、それは終始潜蔵している。いわゆる「在下」とも、下にあって一段の時を経て後に上るということではない。上ったあの一つは、かつて下を離れたことがない。乾卦の言うあの「勿用」の潜龍は、《繋辞伝》の大衍の数五十、その用四十有九に等しく、残りの「不用之一」——この一は揲蓍に参与しないが、四十九策の変化の根本である。この引文は「潜」を時間上の先後から、体用上の隠顕に言い換えており、まさに智旭の「即而常六、六而常即」の思路に合致する。

文言曰:元者,善之長也;亨者,嘉之會也;利者,義之和也;貞者,事之乾也。六十四卦不出陰陽二爻,陰陽之純,則為乾坤二卦;乾坤二義明,則一切卦義明矣,故特作文言一傳以申暢之。此一節先明性德也。

文言伝は言う。元は衆善の中の首長であり、亨は一切の美好の会合であり、利は義理の調和であり、貞は事を弁ずる骨干である。智旭は解説する。六十四卦は陰陽の二種の爻以外になく、陰陽が各々純粋の極に至れば、乾・坤の両卦となる。乾坤両卦の義理が明らかになれば、一切卦の義理も明らかになる。ゆえに孔子はわざわざ一篇の《文言伝》を作って申説暢発した。ここで彼は読者に分層に注意するよう提示する。文言伝のこの一節は元亨利貞の四者自体を講ずるもので、まず「性徳」——本来具足の徳——を講じ、まだ人がどう行うべきかには及んでいない。

君子體仁足以長人,嘉會足以合禮,利物足以和義,貞固足以乾事。此一節明修德也。君子行此四德者,故曰乾:元亨利貞。此一節結顯以修合性也。非君子之妙修,何能顯乾健之本性哉?

文言伝は続けて言う。君子は仁徳を体察しこれを行えば、以て人の首長となるに足る。美好の事物を会聚すれば、以て礼に合するに足る。万物に各々その利を得させれば、以て義理を調和するに足る。正道を堅く守れば、以て事業を弁成するに足る。智旭は解説する。この一節が講ずるのは「修徳」——人が元亨利貞の四者に依って行う工夫——である。文言伝は最後に言う。君子はこの四種の徳を行う。ゆえに「乾、元亨利貞」と言う。智旭は解説する。この一節は「以修合性」——後天の修行を以て先天の本性に契合する——を総結顕明する。もし君子のこの精妙なる修行の工夫がなければ、何を以て乾健の本性を顕出せられようか。三節を連ねて読めば、まさに性徳・修徳・性修不二の次第である。読者はこれに依って、どの句が本具を説きどの句が工夫を説くかを分別できる。

統論乾坤二義:約性則寂照之體,約修則明靜之德,約因則止觀之功,約果則定慧之嚴也。若性若修,若因若果,無非常樂我淨。常樂我淨之慧,名一切種智;常樂我淨之定,名首楞嚴定。所以乾坤各明元亨利貞四德也。今以儒理言之,則為仁義禮智。若一往對釋者:仁是常德,體無遷故;禮是樂德,具莊嚴故;義是我德,裁制自在故;智是淨德,無昏翳故。若互攝互含者:仁禮義智性恆故常,仁禮義智以為受用故樂,仁禮義智自在滿足故我,仁禮義智無雜無垢故淨。又四德無雜故為仁,四德周備故為禮,四德相攝故為義,四德為一切法本故為智也。

ここでは乾坤両卦の義理を総論し、一路に仏法を以て対配する。本性に就て言えば、乾は「照」、坤は「寂」で、寂照は同一心体の両面である。修行に就て言えば、乾は「明」、坤は「静」である。因地の工夫に就て言えば、乾は「観」、坤は「止」——止観双運は天台修行の総綱——である。果地の成就に就て言えば、乾は「慧」、坤は「定」で、定慧の二法は法身を荘厳する。性・修・因・果のいずれを問わず、「常楽我浄」四徳でないものはない。常楽我浄の智慧を具えるを「一切種智」(仏の独り有し、一切法の総相別相を遍知する智)と言い、常楽我浄の禅定を具えるを「首楞厳定」(「一切事究竟堅固」の意、仏の証する大定)と言う。まさにこのゆえに、乾卦坤卦は各々ともに元亨利貞の四徳を講ずる。今、儒家の道理に換えて言えば、四徳はすなわち仁・義・礼・智である。もし一層一層対応して解釈すれば、仁は「常」の徳で、仁体に遷改なきがゆえに。礼は「楽」の徳で、礼は荘厳を具足するがゆえに。義は「我」の徳で、義は裁断して宜に制し、自在無碍なるがゆえに。智は「浄」の徳で、智には昏昧の翳障なきがゆえに。もし彼此含摂の円融の講釈に換えれば、仁礼義智の体性は恒久なので常であり、仁礼義智は受用できるので楽であり、仁礼義智は自在満足なので我であり、仁礼義智には毫も夾雑垢染なきがゆえに浄である。反対にまた言える。四徳に毫も夾雑なきがゆえに仁と言い、四徳は周遍完備なので礼と言い、四徳は彼此含摂するので義と言い、四徳は一切法の根本なので智と言う。このような「一一互具」の説法は、まさに天台円教の「一即一切」の手法を儒家の四徳に用いたものである。

初九曰「潛龍勿用」,何謂也?子曰:「龍德而隱者也。不易乎世,不成乎名,遁世無悶,不見是而無悶,樂則行之,憂則違之,確乎其不可拔,潛龍也。」約聖德釋,如文可解。

文言伝は問を設ける。初九爻辞が「潜龍勿用」と言うのはどういう意味か。孔子は答えた。これは龍のような徳性を有しながら隠居して出ない人である。世俗のために己を変えず、名声を成しに行かない。世を避けて隠居しても煩悶せず、人に称許されなくても煩悶しない。意に合うことはこれを行い、意に合わざることはこれを避ける。志向は堅定にして抜くことができない——これが潜龍である。智旭は言う。もし聖人の徳という層に就て解釈すれば、文面に照らして通ずる。別に発揮を加える必要はない。これが彼の一貫した分層の方法である。まず儒家の本有の読法を認め、それから別に一層の仏法の読法を開く。

若約理即釋者:龍德而隱,即所謂隱名如來藏也;昏迷倒惑,其理常存,故不易乎世;佛性之名未彰,故不成乎名;終日行而不自覺,枉入諸趣,然畢竟在凡不減,故遁世無悶、不見是而無悶;樂則行之,而行者亦是佛性;憂則違之,而違者亦是佛性;終日隨緣,終日不變,故確乎其不可拔也。

もし六即の中の「理即」の位に就て解釈すれば。いわゆる「有龍徳而隠」とは、まさに仏典の言う、隠覆の時に「如来蔵」と称する——仏性がなお煩悩に蔵覆されているのでこの名を立つ。衆生は昏迷顛倒し惑乱して覚らないが、仏性の理は終始常に在る。ゆえに「不易乎世」、世間の遷流に一毫も改変されない。仏性の名目はまだ彰顕されていない。ゆえに「不成乎名」。衆生は終日仏性の中を行いながら自ら覚察せず、冤枉にも六道諸趣に堕ちる。しかし仏性は凡夫の分上に於て一点も減少したことがない。ゆえに「遁世无悶、不見是而无悶」——隠没して顕れず、賞識する人もいないが、苦悶があるとは言えない。「楽則行之」、その行いに往く者もまた仏性であり、「憂則違之」、その避ける者もやはり仏性である。終日因縁に随順して動き、終日体性は変わらない。ゆえに「確乎其不可抜」。この一節は儒家の一人の守志不移の隠士を、なお迷位に在りながら本より失わない仏性に読み替えたもので、全書の「以禅入儒」最も典型の手法である。

九二曰:「見龍在田,利見大人」,何謂也?子曰:「龍德而正中者也。庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,德博而化。《易》曰:『見龍在田,利見大人』,君德也。」文亦可解。

文言伝は問を設ける。九二爻辞が「見龍在田、利見大人」と言うのはどういう意味か。孔子は答えた。これは龍徳を有して正中の位に居る人である。平常の言語は信用を講じ、平常の行為は謹慎を講じ、邪念を防閑して内心の誠を保存し、善事を行って世に益しながら自誇せず、徳行が広博なのでよく人を感化する。《周易》の言う「見龍在田、利見大人」は、まさに君主の徳を講じたものである。「庸」は平常の意で、徳性が日用尋常の間に落実することを言う。智旭は言う。この一段の文義も明白で、文面に照らして通ずる。以下で彼は仏法の読法に転入する。

若約名字即佛釋者:庸言庸行,只是身口七支,以知法性無染汙故,隨順修行尸波羅密。從此閒九界之邪,而存佛性之誠。初心一念圓解善根,已超三乘權學塵劫功德,而不自滿假,故其德雖博,亦不存德博之想,以成我慢也。發心畢竟二不別,如是二心先心難,故雖名字初心,已具佛知佛見而為君德。

もし「名字即仏」の位に就て解釈すれば。いわゆる平常の言語と行為とは、「身口七支」に過ぎない——身業の不殺・不盗・不淫の三支と、口業の不妄語・不両舌・不悪口・不綺語の四支。法性に本来染汚なきを知るがゆえに、この道理に順って「尸波羅蜜」(梵語、すなわち持戒度)を修持できる。ここから九法界の邪妄を防閑し、仏性の真誠を保存する。これが「閑邪存其誠」である。初発心の時の一念の円解善根——仏性の名を聞いたばかりで円満の領解を起こす——その功徳はすでに蔵・通・別の三乗の権巧の学が無量劫を経歴して積んだ功徳を超過している。しかし彼はこれを以て自満自大せず、徳行が広博であるといえども、心中に「我が徳行広博なり」という一念を存しない。これによって我慢を生ずるを免れるためである。これが「善世而不伐、徳博而化」である。《華厳経》は言う。「発心畢竟二不別、如是二心先心難」——初発心と最終の成仏、この二つは本より差別なし。そしてこの二つの心を較べれば、初発心のあの一つの方がかえって難い。だからただ名字位の初発心であるといえども、すでに仏の知見を具足し、「君徳」と称するに足る。

九三曰:「君子終日乾乾,夕惕若厲無咎」,何謂也?子曰:「君子進德修業。忠信所以進德也,修辭立其誠,所以居業也。知至至之,可與幾也;知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。」忠信是存心之要,而正所以進德;修辭立誠,是進修之功,而正所以居業,此合外內之道也。可往則往是其幾,可止則止是其義,進退不失其道,故上下無不宜矣。

文言伝は問を設ける。九三爻辞が「君子終日乾乾、夕惕若厲无咎」と言うのはどういう意味か。孔子は答えた。君子は徳性を増進し、事業を修治せねばならない。忠と信は徳性を増進するに用いる。言辞を修飾して内心の誠を確立するのは、事業を保有するに用いる。至るべき所を知って努力してそれに至る。かかる人には事の「幾」(細微の先兆)を語ることができる。終わるべき所を知って時宜に終わる。かかる人には「義」の堅守を語ることができる。ゆえに上位に居ても驕らず、下位に処しても憂懼しない。まさに終日乾乾として時に随って警惕するがゆえに、危地に処しても過咎がない。智旭は儒理に依って解説する。忠信は存心の要領で、まさに徳性を増進するに用いる。修辞立誠は進修の工夫で、まさに事業を保有するに用いる——一つは内、一つは外。これが内外合一の道である。往くべき時には往く、これが「幾」を識ること。止まるべき時には止まる、これが「義」を守ること。進退ともにその道を失わない。ゆえに上に居り下に居ても合宜でないことがない。

若約佛法六即釋者,正觀行位中圓妙功夫也。直心正念真如,名為忠信,所以進德而為正行也;隨說法淨則智慧淨,導利前人,化功歸己,名為修辭立誠,所以居業而為助行也。知至至之是妙觀,知終終之是妙止,止觀雙行,定慧具足,則能上合諸佛慈力而不驕,下合眾生悲仰而不憂矣。

もし六即に按って解釈すれば、この一爻はまさに「観行位」の中の円満微妙の工夫である。《起信論》は「直心正念真如」と言う——心地が質直にして、念々真如を離れない。これを「忠信」と言い、徳を進めるに用いる「正行」(観慧を主とする正修)である。《維摩経》は説法が清浄なるに随って自己の智慧も随って清浄となると言う。他人を導き利益すれば、教化の功は最終に自己の身に還る。これを「修辭立其誠」と言い、業を居えるに用いる「助行」(福徳事行を以て正行を輔助する)である。「知至至之」は「妙観」——諸法を照了する観照の工夫。「知終終之」は「妙止」——妄念を止息する安住の工夫。止と観が双々に併運し、定と慧が一斉に具足すれば、上は諸仏の慈力に合して驕慢せず、下は衆生の悲仰に応じて憂懼しない。この二句は《楞厳経》の「上合十方諸仏本妙覚心、与仏如来同一慈力、下合十方一切衆生、与諸衆生同一悲仰」の意を取り、儒家の「不驕不憂」をそのまま菩薩の上求下化に換えたものである。

九四曰「或躍在淵無咎」,何謂也?子曰:「上下無常,非為邪也;進退無恆,非離群也。君子進德修業,欲及時也,故無咎。」此正闡明舜禹避位,仍即登位之心事也。若約佛法者:直觀不思議境為上,用餘九法助成為下;心心欲趨薩婆若海為進,深觀六即不起上慢為退。欲及時者,欲於此生了辦大事也。此身不向今生度,更向何生度此身?設不證入圓住正位,不名度二死海。

文言伝は問を設ける。九四爻辞が「或躍在淵无咎」と言うのはどういう意味か。孔子は答えた。忽ち上り忽ち下るのに定準はなく、これは邪悪のためではない。忽ち進み忽ち退くのに常規はなく、これは同類を離れるためではない。君子が徳性を増進し事業を修治するのは、時機に追いつこうと欲するからで、ゆえに過咎がない。智旭は儒理に依って解説する。これはまさに虞舜・大禹が先に位を避けて終に位に登ったあの一段の心事を闡明する——位を避けるは退縮ではなく、位に登るは位を貪るではなく、いずれもただ時機に追いつくためである。もし仏法に按って解釈すれば。直截に「不思議境」(天台十乗観法の第一乗、当下の一念心に三千諸法を即具すると観ずる)を観照するを「上」とし、その余の九法を運用して輔助成就するを「下」とする。これが「上下无常」。念々に「薩婆若海」(梵語薩婆若はすなわち一切智、仏智を海に喩える)に趨向せんと欲するを「進」とし、深く六即の位を観照して「上慢」(未証謂証の増上慢)を生ぜざるを「退」とする。これが「進退无恒」。いわゆる「時機に追いつこうと欲する」とは、この一生で生死の大事を了弁しようと欲することである。俗に言う。この身を今生に趁って度さねば、さらにどの一生を待ってこの身を度するか。倘し円教の「住」位の正位に証入できなければ、「二死海」——分段生死と変易生死という二重の生死の大海——を度るとは言えない。

九五曰:「飛龍在天,利見大人」,何謂也?子曰:「同聲相應,同氣相求。水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎,聖人作而萬物睹。本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。」此明聖人垂衣裳而天下治,初非有意有造作也。

文言伝は問を設ける。九五爻辞が「飛龍在天、利見大人」と言うのはどういう意味か。孔子は答えた。同じ声は互いに応和し、同じ気は互いに求め合う。水は湿潤の処に流れ、火は乾燥の物に向かって燃える。雲は龍に随い、風は虎に随う。聖人が一旦興起すれば、万物は皆来って瞻仰する。天に根源する者は上に親しみ、地に根源する者は下に親しむ——各々その類に従うのみである。智旭は儒理に依って解説する。これは聖人が衣裳を垂れて天下大治するのを説明するので、本来意を以て造作したのではなく、ただ同類相感して自然にこのようである。この一層はなお儒家の範囲内にある。以下で彼はさらに仏法に転じる。

佛法釋者:如來成正覺時,悉見一切眾生成正覺。初地離異生性,入同生性,大樂歡喜,悉是此意。乃至證法身已,入普現色身三昧,在天同天,在人同人,皆所謂利見大人,法界六道所同仰也。

仏法を以て解釈すれば。《華厳経》は如来が正覚を成就する時、普く一切衆生が同時に正覚を成就するのを見ると言う——衆生と仏は同一の体性なので、仏が一旦覚悟すれば、衆生は本来もまた覚であると照見する。これがまさに「同声相応、同気相求」である。菩薩が初地に登入する時、「異生性」(凡夫と聖者とが体性各異なる状態)を脱して「同生性」(諸仏と同一の体性)に入り、因って大安楽大歓喜を生起する。初地ゆえに「歓喜地」と名づく——講ずる所は皆同類相従のこの意である。ひいては法身を証得した後、「普現色身三昧」に入り、天道に在れば天人の身を現じ、人道に在れば人身を現じ、類に随って示現する。これらは皆いわゆる「利見大人」で、法界の中の六道衆生が共に瞻仰する所である。孔子の言うのは聖王が世に臨み万物が来観することであり、智旭が読むのは法身が遍く応じ衆生が共に睹ることである。

上九曰「亢龍有悔」,何謂也?子曰:「貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。」李衷一曰:「從來說聖人無亢,卻都從履滿招損上看。夫子乃以無位無民無輔表之,此堯舜有天下而不與之心也,非位喪民叛賢人離去之謂也。動字下得妙,無停思,無貳慮。天下極重難反之局,止在聖人一反掌間;致悔之由,止在一動;處亢之術,止在一悔。」

文言伝は問を設ける。上九爻辞が「亢龍有悔」と言うのはどういう意味か。孔子は答えた。地位は尊貴であるが実位なく、身は高処に処するが管すべき百姓なく、賢人は皆下位に在りて輔佐する人なし。ゆえに動けばすなわち悔有り。智旭は明の人・李衷一の言を引く。従来聖人は「亢」にならないと講ずる者は、皆「履満招損」——盈満を占めれば損を招く——の一路から見ていた。孔子は「无位・无民・无輔」の三句を以て表述した。これが言うのは実は尭舜が天下有りと雖も天下を以て己有と為さないあの一份の心境であって、彼が位を失い百姓が叛離し賢人が去ったと言っているのではない。「動」の字の下し方は極めて妙である。遅疑の思量なく、両可の顧慮なし。天下のあの極めて沉重にして転じ難い局面は、ただ聖人の一翻手の間に転じ得る。悔を招く因縁はただ一つの「動」に在り、亢極の位に処する弁法もただ一つの「悔」に在る。これは「有悔」を主動的に回頭するものと読み、受動的に罰を受けるものと読まない。

佛法釋者:法身不墮諸數,故貴而無位;佛果出九界表,故高而無民;寂光非等覺以下境界,故賢人在下位而無輔。是以究竟位中,必逆流而出,示同九界,還現嬰兒行及病行也。

仏法を以て解釈すれば。法身は一切の名相数量の範疇を超越し、いずれの格にも落ちない。ゆえに「貴而无位」。仏果は九法界の上に超出し、九界の衆生は皆なお下に在る。ゆえに「高而无民」。「常寂光土」は等覚菩薩以下の到達し得る境界ではなく、等覚はすでに仏に次ぐ賢位であるが、なお及ばない。ゆえに「賢人在下位而无輔」。まさに高くして再び高むべき所なきがゆえに、究竟位の中において仏は必ず「逆流而出」——解脱の流れに順って一往に返らず、倒転して回り来り、九法界に同ずる身形を示現し、重ねて《涅槃経》の言う五行の中の「嬰児行」(人天の小善の行に示同する)と「病行」(衆生の煩悩病苦の行に示同する)を示現する。これがまさに「亢龍有悔」の仏法の意義である。位を失う悔ではなく、高く踞って下らず、回頭して世に入るのである。

潛龍勿用,下也。見龍在田,時舍也。終日乾乾,行事也。或躍在淵,自試也。飛龍在天,上治也。亢龍有悔,窮之災也。乾元用九,天下治也。此以時位重釋六爻之義也。用九而曰乾元,正顯乾卦全體大用,亦顯潛見惕躍飛亢皆無首而皆吉。

文言伝はさらに時位から重ねて一遍説く。「潜龍勿用」は位置が最下に在るからである。「見龍在田」は時機がまだ任用されず暫く舎置されるからである。「終日乾乾」はまさに事を行っているからである。「或躍在淵」は自ら試みているからである。「飛龍在天」は上位に居って天下を治理するからである。「亢龍有悔」は窮極して災患を招くからである。「乾元用九」は天下大治である。智旭は解説する。これは時と位を以て再び一遍六爻の義理を解釈する。特に注意すべきは「用九」の前に「乾元」の二字を加えたことで、これがまさに乾卦の全体大用を顕し、潜・見・惕・躍・飛・亢の六種の情形を顕す——頭角を以て自ら居らなければ、皆吉である。吉凶は爻位の高低に在らず、あの「无首」の心有るや無きやに在る。

佛法釋者:理即佛為貶之極,故下;名字即佛未有功夫,故時舍;五品位正修觀行,故行事;相似位擬欲證真,故自試;分證位八相成道,故上治;究竟位不住涅槃,故窮之災;用九則以修合性,故天下治也。

仏法を以て解釈すれば、なお六即に配する。「理即仏」は貶抑の極処の説法——仏と言うといえども、実は丝毫の功夫もなし。ゆえに「下」に対応する。「名字即仏」はただ名字を聴聞するのみで、まだ実際の功夫なく、ゆえに「時舎」に対応する。時機未だ至らず暫く擱置される。「五品弟子位」(観行即の具体的階位、随喜・読誦・説法・兼行六度・正行六度)はまさに観行を修習中なので、「行事」に対応する。「相似位」は真理に証入せんと打算するも未だ真に証せず、ゆえに「自試」に対応する。「分証位」はすでに八相成道し得るので「上治」に対応する。「究竟位」の仏は涅槃に安住することを肯んぜず、偏に回り入って九界で苦しみを受ける。世間の眼光から見れば直ちに自ら災殃を求めるに等しい。ゆえに「窮之災」に対応する。「用九」に至っては、修徳を以て性徳に契合する。ゆえに「天下治」に対応する。

潛龍勿用,陽氣潛藏。見龍在田,天下文明。終日乾乾,與時偕行。或躍在淵,乾道乃革。飛龍在天,乃位乎天德。亢龍有悔,與時偕極。乾元用九,乃見天則。此兼約德之與時,再釋六爻之義也。與時偕極,對與時偕行看,皆所謂時乘御天者也。乃見天則,則潛而勿用亦天則,乃至亢而有悔亦天則也。

文言伝は第三次に六爻を解釈する。「潜龍勿用」は陽気がなお潜蔵しているからである。「見龍在田」は天下に文采光明が始まるからである。「終日乾乾」は時勢とともに前進するからである。「或躍在淵」は乾道がここに至り変革を生ずるからである。「飛龍在天」は天徳の位に居るからである。「亢龍有悔」は時勢とともに尽頭に至るからである。「乾元用九」はここに天の法則を顕現する。智旭は解説する。この一遍は「徳」と「時」の両面に兼ね就いて、再び一遍六爻の義理を解釈する。「与時偕極」は「与時偕行」と対して見るべきで、両者ともいわゆる「時乘六龍以御天」——いずれも時節に随って天道を駕御する——に属する。「乃見天則」に至っては、それは言う。潜蔵して施用しないのは固より天の法則であり、亢極して悔有るに至るまで、同じく天の法則である——順境逆境・進退窮通、一処として天則でない所はない。

佛法釋者:佛性隱在眾生身中,故潛藏;一聞佛性,則知心佛眾生三無差別,故天下文明;念念與觀慧相應無間,故與時偕行;舍凡夫性,入聖人性,故乾道乃革;由證三德,方坐道場,故位乎天德——天德者,天然之性德也;極則必返,證佛果者必當同流九界;性必具修,全性起修,乃見性修不二之則。

仏法を以て解釈すれば。仏性は衆生の身中に隠れて顕現しない。ゆえに「陽気潜蔵」。一旦仏性の義を聴聞すれば、《華厳経》の言う「心・仏・衆生、三无差別」を知り、心地が豁然として開朗する。ゆえに「天下文明」。念々皆観慧と相応して中間に間断なし。ゆえに「与時偕行」。凡夫の体性を舎去して聖者の体性に入る。ゆえに「乾道乃革」——この一転はまさに相似位から分証位に入る関口である。法身・般若・解脱の「三徳」を証得するに由り、はじめて道場に坐り得る。ゆえに「位乎天徳」。ここの「天徳」とは、天然本具の性徳である。極処に至れば必ず返り来る。ゆえにおよそ仏果を証得した者は、必ず回り入って九法界で衆生と事を同じくする。これが「与時偕極」である。本性の中に必ず修行を含具し、全体は本性に依って修行を生起する。ここに性と修と不二なる法則を顕現する。これが「乃見天則」である。

乾元者,始而亨者也。利貞者,性情也。乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉。前約仁禮義智四德,以釋元亨利貞;今更申明四德一以貫之,統惟屬乾,而非判然四物也。舉一乾字,必具元德;舉一元字,必統四德。元之大,即乾之大矣。

文言伝は言う。いわゆる乾元とは、開始あれば即ち亨通するものである。いわゆる利貞とは、乾の本性と情実を言う。乾は開始の際に於て、美好の利益を以て天下を利益し得るが、しかし自己が何を利益したかを言い出さない。これは真に偉大である。智旭は解説する。前は仁・礼・義・智の四徳を以て元・亨・利・貞を解釈した。今はさらに進んで申明する。この四徳は一以て貫くのであって、ことごとくただ一つの「乾」に属し、判然と分かれた四つの物ではない。一つの「乾」の字を挙げれば、その中に必ず「元」の徳を具足し、一つの「元」の字を挙げれば、その中に必ず四徳を統攝する。「元」の大なる所以は、まさにそれが「乾」の大なる所以なのである。これはなお円教の「一具一切」の思路である。四徳は四件ではなく、一体の四面である。

大哉乾乎!剛健中正,純粹精也。六爻發揮,旁通情也。乾具四德,而非定四,故大,故復以剛健等七字而深贊之。卦言其體,爻言其用;卦據其定,爻據其變。體大則用亦大,體剛健中正純粹精,則用亦剛健中正純粹精矣。

文言伝は讃嘆して言う。偉大なるかな乾。剛強・健行・居中・得正・純一・精粹・精微。六つの爻の発揮は、傍らに万物の情状を通達する。智旭は解説する。乾は元亨利貞の四徳を具足するが、しかしこの四様に固定しない。ゆえにそれを「大」と称す。まさに四徳がそれを説き尽くせないがゆえに、また「剛・健・中・正・純・粹・精」の七字を以て深く讃美する。卦が講ずるはその本体で、爻が講ずるはその作用である。卦が依拠するは不変の定体で、爻が依拠するは流転の変化である。本体がすでに大なれば、作用もこれに随って大となる。本体が剛健中正純粹精であれば、作用もまた剛健中正純粹精である。「卦体爻用」のこの一対は、彼が《易》文の層次を分判する常用の尺度である。

時乘六龍,以御天也。雲行雨施,天下平也。上明乾德體必具用,此明聖人因用以得體也。佛法釋者:此章申明性必具修,修全在性也。佛性常住之理名為乾元,無一法不從此法界而始,無一法不由此法界而建立生長,亦無有一法而不即以此法界為其性情。所以佛性常住之理,遍能出生成就百界千如之法,而實無能生所生、能利所利。以要言之,即不變而隨緣,即隨緣而不變,豎窮橫遍,絕待難思,但可強名之曰大耳。

文言伝は言う。時に乗って六条の龍を駕り、以て天道を御する。雲気流行し、雨澤施布して、天下太平。智旭は解説する。上文は乾徳の本体が必ず作用を含具することを講じ、ここでは聖人が作用に憑って本体を得ることを講ずる。もし仏法を以て解釈すれば。この一章が申明するのは、本性が必ず修行を含具し、而も修行はまた全く本性の中にあることである。仏性常住の理を「乾元」と名づく。一法としてこの法界より始まらないものはなく、一法としてこの法界に由って建立生長しないものはなく、一法としてこの法界を以てその本性と情実と為さないものはない——これがまさに上文の「乾元者始而亨者也、利貞者性情也」を解く。だから仏性常住の理は、普く「百界千如」の一切法を出生し成就し得る。しかして実際には一つの能生と一つの被生がなく、一つの能利益と一つの被利益もない——これがまさに「乾始能以美利利天下、不言所利」を解く。総じて言えば、当体は不変にして而も随縁し、当体は随縁にして而も不変である。縦に三世を窮め、横に十方に遍満する。絶対にして比対すべきものなく、思議の到達し得ない所であり、ただ勉強にそれに一つの名を安んじて「大」と呼ぶのみである。

其性雄猛,物莫能壞,故名剛;依此性而發菩提心,能動無邊生死大海,故名健;非有無真俗之二邊,故名中;非斷常空假之偏法,故名正;佛性更無少法相雜,故名純;是萬法之體要,故名粹;無有一微塵處而非佛性之充遍貫徹者,故名精。所以只此佛性乾體,法爾具足六爻始終修證之相,以旁通乎十界迷悟之情,此所謂性必具修也。聖人乘此即而常六之龍,以御合於六而常即之天,自既以修合性,遂能稱性起於身云,施於法雨,悉使一切眾生同成正覺而天下平,此所謂全修在性也。

続いて彼は「剛健中正純粹精」の七字を逐一に仏性に配する。仏性の体性は雄健勇猛にして、いかなる物もそれを壊り得ない。ゆえに「剛」と言う。この体性に依って菩提心を発起すれば、無辺の生死大海を攪動し得る。ゆえに「健」と言う。それは「有」と「无」、「真諦」と「俗諦」のこの両辺に落ちない。ゆえに「中」と言う。それは「断」見「常」見・偏「空」偏「假」のような偏執の法ではない。ゆえに「正」と言う。仏性の中にはさらに一丝一毫の他の物の夾雑がない。ゆえに「純」と言う。それは万法の体性の綱要である。ゆえに「粹」と言う。一粒の微塵の処として仏性が充満遍布し貫徹せざる所なし。ゆえに「精」と言う。因って、単にこの一つの仏性の乾体は、本より六爻の始より終に至る修証の種種の相状を具足し、以て傍らに十法界の迷と悟の情状を通達する——これがいわゆる「本性は必ず修行を含具する」であり、まさに「六爻発揮、旁通情也」を解く。聖人はこの「即而常六」の六条の龍に乗って、あの「六而常即」の天を駕御する。自己はすでに修徳を以て性徳に契合したので、よって本性に称合して応化の身を雲のごとく興起し、普く法雨を降らし、一切衆生をして同じく正覚を成ぜしむ。これが「天下平」である——これがいわゆる「全部の修行は皆本性の中にある」。「全性起修、全修在性」のこの八字は、智旭の乾卦を解く総結論である。

君子以成德為行,日可見之行也。潛之為言也,隱而未見,行而未成,是以君子弗用也。此下六爻,皆但約修德,兼約通塞言之。佛法釋者:成德為行,謂依本自天成之性德而起行也。既全以性德為行,則狂心頓歇,歇即菩提,故為日可見之行也。然猶云潛者,以其雖則開悟,習漏未除,故佛性猶為虛妄煩惱所隱而未現;而正助二行,尚在觀行相似,未成般若解脫二德,是以君子必以修德成之,而弗專用此虛解也。

文言伝は言う。君子は徳性を成就するを行事の根本と為し、これは毎日見え得る行為である。「潜」の字に至っては、徳がなお隠れて顕現せず、行がなお為されて成就せざるを言う。ゆえに君子は暫く施用しない。智旭は提示する。ここ以下の六爻は皆ただ「修徳」の一辺に就て講じ、併せて「通塞」(どこが通じ得るか、どこが塞がるか)に帯びて言う。仏法を以て解釈すれば。「以成徳為行」とは、本来天然に現成する性徳に依って修行を生起することを言う。全部性徳に依って行う以上、《楞厳経》の言う「狂心頓歇、歇即菩提」——狂乱奔驰の心が一旦歇まれば、歇む処がすなわち菩提——が当下现前する。ゆえに毎日見え得る行為と言う。しかしなお「潜」と称するのは、彼がすでに開悟したといえども、習気と残漏がまだ除尽されず、仏性は依仍として虚妄煩悩に隠蔽されて未だ顕現しないからである。そして「正行」(観慧)と「助行」(福徳事行)の両方面は、なお観行位・相似位に停留し、未だ「般若」と「解脱」の二徳を成就していない。因って君子は必ず実際の修徳を以てそれを成就せねばならず、ただこの一份の空頭の領解を抱えて到家と為してはならない。この一段は智旭の当時禅門の「一悟便休」の弊への正面の誡告である。

君子學以聚之,問以辯之,寬以居之,仁以行之。《易》曰:「見龍在田,利見大人」,君德也。學問是聞慧,寬居是思慧,仁行是修慧。從三慧而入圓住,開佛知見,即名為佛,故云君德。

文言伝は言う。君子は学習に靠って知識を積聚し、発問に靠って道理を辨明し、寛厚に靠ってその中に安処し、仁愛に靠って実行に付す。《周易》の言う「見龍在田、利見大人」は、まさに君主の徳を講じたものである。智旭は仏法の「三慧」を以て配する。学と問は「聞慧」(教法を聴聞して生ずる智慧)に相当し、寛厚安処は「思慧」(思惟択択して生ずる智慧)に相当し、仁愛実行は「修慧」(実際に修持して生ずる智慧)に相当する。この聞・思・修の三慧より順序に入って円教の「住」位に入り、仏の知見を開顕すれば、当下に仏と称する。ゆえにこれを「君徳」と言う。儒家の四句の進学の工夫は、彼の手に至って聞思修三慧の次第となった。

九三:重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。重剛者,自強不息,有進而無退也;不中者,不著中道而匆匆取證也;上不在天者,未登十地,入佛知見也;下不在田者,已超十住,開佛知見。因時而惕,正是不思議十行法門,遍入法界,而能行於非道,通達佛道,故雖危無咎。

文言伝は言う。九三は陽爻が陽位に居って重叠して剛健し、また中位に居らず。向上すれば天に及ばず、向下すれば田間に在らず。ゆえに終日乾乾として時に随って警惕せねばならず、こうすれば危地に処しても過咎がない。智旭は仏法を以て逐句会通する。いわゆる「重剛」とは、自強不息にして前進あるのみで後退なし。いわゆる「不中」とは、中道に執著して急ぎ取証せんと欲する——一執著すればすなわち病となる。ここの「不中」はかえって粘滞せざると読まれる。いわゆる「上不在天」とは、まだ「十地」に登って仏の知見に入らないことを言う。いわゆる「下不在田」とは、すでに「十住」を超過して仏の知見を開顕したことを言う。ここで用いるのは菩薩五十二位の中の十住・十行・十回向・十地の次第である。仏知見を開くは十住に在り、仏知見を示すは十行に在り、仏知見を悟るは十回向に在り、仏知見に入るは十地に在る。九三は上は十地に及ばず、下はすでに十住を過ぎ、まさに「十行」の位に当たる。時に随って警惕するは、まさに不可思議の「十行」法門である。一切法界に遍入して、非道の中を行きながらなお仏道に通達し得る——すなわち煩悩塵労の裡に菩薩道を行ず。ゆえに危険であるといえども過咎がない。

九四:重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故或之。或之者,疑之也,故無咎。重剛不中,亦如上說。中不在人,謂已超十行,示佛知見也。或之者,回事向理,回因向果,回自向他,和融法界而無所偏倚,有似乎疑之也。疑者,擬議以成變化之謂,故雖似有修證之事,而實無事也。

文言伝は言う。九四もまた重叠剛健にして中に居らず、向上すれば天に及ばず、向下すれば田間に在らず、中間はまた人の位に在らず。ゆえに「或」と言う。いわゆる「或」とは遅疑不定のことで、まさに遅疑不定なるがゆえに過咎がない。智旭は解説する。「重剛不中」の義は九三と同じである。「中不在人」とは、すでに「十行」の位を超過し、「示仏知見」以後の階段に入ったこと、すなわち十回向位を言う。いわゆる「或」とは、まさに回向の三種の回転である。事相を真理に回向する(回事向理)、因地を果地に回向する(回因向果)、自利を利他に回向する(回自向他)。法界全体を調和融通して偏にいずれの一辺にも在らざるは、見たところ遅疑不決の様子のようである。いわゆる「疑」は《繋辞伝》の「擬之而後言、議之而後動、擬議以成其変化」の義を取る——斟酌擬議して以て変化を成就するのであって、心中に把握なきが故ではない。ゆえに九四は看たところ修有り証有りの事のようであれど、実際には得るべき事はない。

夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶。先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?十地入佛知見,如天普覆,如地普載,如日照晝,如月照夜,如四時次序之始終萬物,如鬼神吉凶之折攝群機。根本妙智,窮法界無始之始;差別妙智,建法界無時之時。理既相契弗違,則凡人與鬼神總囿於一理者,安得不相順而利見哉?

文言伝は言う。いわゆる大人とは、その徳性は天地と合し、その光明は日月と合し、その秩序は四時と合し、その吉凶の判定は鬼神と合する。彼は天時に先んじて行いて天も彼に違わず、天時に後れて動いて天の時序に奉順する。天すらなお彼に違わないのに、何況人においてをや。何況鬼神においてをや。智旭は仏法を以て解説する。この一段が配するのは「十地」、すなわち仏知見に入る位である。天のごとく遍く覆い、地のごとく遍く載せる。太陽のごとく白昼を照らし、月亮のごとく黒夜を照らす。四時の次序のごとく万物をして始終あらしめる。鬼神の吉凶のごとく衆生の機根に折伏と摂受を施行する。「根本妙智」——真如に契証し無分別の根本智——は法界のあの无始の開始を窮尽し得る。「差別妙智」——諸法を分別し機に随い物に応ずる後得智——は法界のあの時間を超越した時節を建立し得る。理体の上に彼此契合して毫も違逆なき以上、凡人と鬼神はことごとく同一の理の中に籠罩され、どうして相順応して大人を楽見しないことがあろうか。「先天而天弗違」は儒家においては聖人と天道の相契するであるが、智旭においては仏智と法界の相冥するとなった。

亢之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。其唯聖人乎!知進退存亡而不失其正者,其唯聖人乎!凡有慧無定者,惟知佛性之可尚,而不知法身之能流轉五道也;惟知佛性之無所不在,而不知背覺合塵之不亡而亡也;惟知高談理性之為得,而不知撥無修證之為喪也。惟聖人能知進退存亡之差別,而進亦佛性,退亦佛性,存亦佛性,亡亦佛性。

文言伝は言う。いわゆる「亢」とは、進むのみを知って退くを知らず、存するのみを知って亡するを知らず、得るのみを知って失うを知らざることである。この偏失を免れ得る者は、おそらく聖人のみであろう。進退存亡の理を知ってその正を失わざる者は、おそらく聖人のみであろう。智旭は仏法を以て解説し、専ら以て慧有って定なき・空談理性のみの人を針砭する。およそ智慧あって禅定なき人は、仏性の貴く尚ぶべきのみを知って、法身が照様に五道の中に流転することを知らず——これが「知進而不知退」。仏性の在無い所なきのみを知って、覚を背き塵境に迎合する時、仏性は在れども不在に等しきを知らず——これが「知存而不知亡」。高談理性すれば得在りと算えるのみを知って、修証を抹殺することがまさに最大の喪失なるを知らず——これが「知得而不知喪」。ただ聖人のみが進退存亡の種種の差別を了知し、而も明らかに知る。進むは仏性、退くもまた仏性。存するは仏性、亡するもやはり仏性であると。

進退存亡不曾增減佛性,佛性不礙進退存亡,故全性起修,全修在性,而不失其正也。若徒恃佛性,不幾亢而非龍乎?又約究竟位中解者:示現成佛是知進,示現九界是知退,示現聖行梵行嬰兒行是知存,示現病行是知亡,而於佛果智斷無所缺減,是不失其正也。

進退存亡のこれらの起伏は、かつて仏性をして一分増やし或いは減ぜしめたことはない。反対に、仏性も進退存亡が照様に発生することを妨げない。まさにこのがゆえに、全体は本性に依って修行を生起し、全部の修行はまた本性の外に出ずるなし。これを「不失其正」と言う。もしただ一味に「我本有仏性」に倚仗して工夫せざるを肯んじなければ、それは亢にして龍と為らざるではないか。この一句は全篇の重錘で、直指して当時の本来の面目を空談して修証を廃置する流弊に及ぶ。そのほか「究竟位」に就ても解釈できる。仏の示現成仏は「知進」で、示現して九法界に回入するは「知退」である。《涅槃経》五行の中の聖行(戒定慧の行)・梵行(慈悲利他の行)・嬰児行(人天の小善の行に示同する)を示現するは「知存」、病行(衆生の煩悩病苦の行に示同する)を示現するは「知亡」である。而も仏果の「智徳」(智慧円満)と「断徳」(煩悩断尽)の上には丝毫の欠缺減損もない。これが「不失其正」である。

坤卦(坤下坤上)

(坤下 坤上)坤:元亨,利牝馬之貞。君子有攸往,先迷後得主,利西南得朋,東北喪朋,安貞吉。六畫皆陰,故名為坤。坤者,順也。在天為陰,在地為柔,在人為仁,在性為寂,在修為止;又在器界為載,在根身為腹為腑臟,在家為妻,在國為臣。順則所行無逆,故亦元亨。

「坤下坤上」は本卦の卦体を標明する。上下ともに坤で、純陰の卦である。卦辞は言う。坤卦は元・亨、母馬の如き貞正に利あり。君子は往く所有り。先んずれば迷い、後に随従すればはじめて主人を得る。西南方に往きて朋類を得るに利あり、東北方に往きて朋類を喪う。貞正に安んずれば吉。智旭はまず常規の易理に依って解説する。六画すべて陰爻なので名を「坤」と取る。坤の義は「順」、柔順にして承受する。天においては陰気として表れ、地においては柔質として表れ、人の身においては仁愛として表れる。本性の一辺から言えば「寂」(本自寂静の体)であり、修行の一辺から言えば「止」(妄念を止息する工夫)である——この一対はまさに乾卦の「性照修観」と相対し、寂照・止観を合わせてはじめて全体となる。そのほか器世間では万物を承載する地であり、衆生の身では腹部と臓腑であり、一家では妻子、一国では臣下である。柔順であれば行う所に違逆なし。ゆえに坤も同じく「元亨」と称す。

然必利牝馬之貞,隨順牡馬而不亂。其在君子之體坤德以修道也,必先用乾智以開圓解,然後用此坤行以卒成之。若未有智解,先修定行,則必成暗證之迷;惟隨智後用之,則得主而有利,如目足並運,安穩入清涼池,亦如巧力並具,能中於百步之外也。若往西南,則但得陰之朋類,如水濟水,不堪成事;若往東北,則喪其陰之朋黨,而與智慧相應,方安於定慧均平之貞而吉也。

しかし必ず「利牝馬之貞」——母馬の如く、公馬に随って乱走しない——でなければならない。この句は智旭の手において、ちょうど定と慧の先後を講ずるに用いられる。君子は坤徳を体察して道を修するに、必ず先用って乾の智慧を以て「円解」(円満の領解)を打ち開き、然る後に坤の行持を以てそれを終に完成する。もし未だ智慧の領解なきに、先んじて禅定の行を修せんとすれば、必ず「暗証之迷」——暗中に盲修瞎証する——に落成する。これがまさに卦辞の言う「先迷」である。ただ智慧の後に随ってそれを用いてこそ、「得主而有利」——主人を得て利益を得る——し得る。これは眼と脚がともに運作してはじめて安穏に清涼池に歩み入れるごとく、また技巧と力量を兼備してはじめて百歩以外の靶子に射中るごとしである。もし西南方に往かば、ただ同じ陰柔の一群の同伴を得るのみで、水を以て水を救うがごとく事を弁成し得ない——これは定有って慧無く、ただ定の上に定を加える。もし東北方に往かば、陰柔の朋党を喪うが、かえって智慧と相応し、これこそ定慧均衡の貞正に安住して吉を得る所以である。西南は坤の本方(同類)で、東北は乾の方位(異類)である。智旭は方位の説を、修行上の「寧ろ同類を失いて異類に就く」の択法眼に読んだ。

彖曰:至哉坤元,萬物資生,乃順承天。坤厚載物,德合無強,舍弘光大,品物咸亨。牝馬地類,行地無疆,柔順利貞,君子攸行。先迷失道,後順得常。西南得朋,乃與類行;東北喪朋,乃終有慶。安貞之吉,應地無強。此傳詳釋彖辭,先約地道明坤四德,次明君子體坤德而應地道也。資始所以稟氣,資生所以成形,由稟氣故方得成形,故名順承天也。德合無強,言其與天合德。西南則兌離以及於於巽,皆陰之類;東北則震艮以至坎乾,可賴之以終吉矣。

彖伝は言う。極致なるかな坤の元徳。万物はこれに依拠してはじめて生成を得、それは柔順に天道を承受する。大地は深厚にして万物を承載し、徳性は無辺無際に合する。含容宏大にして光輝広遠、各類の物品はこれに因って亨通する。母馬は地の類に属し、大地を行って疆界なし。柔順にして貞正に利するは、まさに君子の行くべき路である。先んずれば正道を迷い、後に随従してはじめて常規を得る。西南に往きて朋類を得るは同類とともに行くこと、東北に往きて朋類を喪うは最終にかえって喜慶有り。貞正に安んずる所以が吉なるは、大地に順応して無辺際なるがためである。按すに、底本ここの「徳合无強」「応地无強」の「无強」は通行本の「无疆」に当たり、「舎弘光大」の「舎」は通行本の「含」に当たる。底本の用字に属し、今は照録して改めない。智旭は解説する。この篇の彖伝は卦辞を詳細に解釈し、まず地道に就いて坤の元亨利貞四徳を説明し、つぎに君子が坤徳を体察して地道に順応することを説明する。乾は「資始」なので、万物はそれより気を禀受する。坤は「資生」なので、万物はそれに由って形体を成就する。先に気を禀受してはじめて形体の成就を談じ得る。ゆえに坤は「順承天」と言う。「徳合无疆」とは、坤が天と徳を合することを言う。西南方は兌・離に至り巽に至るまで、皆陰の一類に属する。東北方は震・艮に至り坎・乾に至るまで、まさにそれらに依憑して終に吉慶を得るべきである。

佛法釋者:以坤錶多所舍蓄而無積聚之如來藏性。約智名乾,約理名坤;約照名乾,約寂名坤;又可約性名乾,約脩名坤;又可修中慧行名乾,行行名坤。乾坤實無先後,以喻理智一如,寂照不二,性修交徹,福慧互嚴。今於無先後中說先後者,由智故顯理,由照故顯寂,由性故起修,由慧故導福;而理與智冥,寂與照一,修與性合,福與慧融,故曰「至哉坤元,萬物資生,乃順承天」也。

仏法を以て解釈すれば。坤卦を以てあの大いに蔵与し能く含容するが、しかし真に一物の積聚するあることなき「如来蔵性」を表す。続いて彼は乾坤相配の四重の意義を列出する。智慧の一辺に就て乾と言い、理体の一辺に就て坤と言う。能照の一辺に就て乾と言い、寂静の一辺に就て坤と言う。または本性に就て乾と言い、修行に就て坤と言う。さらに修行の中で観慧に偏ずる「慧行」を乾と言い、事修に偏ずる「行行」を坤と言うこともできる。乾と坤は実際には先後の分はなく、以て理と智は本より一体、寂と照は本より二つに分かれず、性と修は彼此貫通し、福と慧は互相荘厳するを喩える。今本より先後なき中に偏に先後を説く所以は、智慧に由ってはじめて理体が顕れ、能照に由ってはじめて寂静が顕れ、本性に由ってはじめて修行が生じ、智慧に由ってはじめて福徳が引導されるがためである。而も理と智は冥合し、寂と照は一如し、修と性は契合し、福と慧は円融する——まさにこのがゆえに、彖伝は「至哉坤元、万物资生、乃順承天」と言う。坤の「順承天」なる所以は、彼が見るに定は慧に順し、修は性に順し、福は智に順するである。

稱理之行,自利利他,一行一切行,故德合於無疆之智而含弘光大也。牝馬行地,雖順而健,三昧隨智慧行,所以為佛之三昧也。夫五度如盲,般若如導,若以福行為先,則佛知見未開,未免落於旁蹊曲徑而失道。惟以智導行,行順於智,則智常而行亦常。故西南得朋,不過與類俱行而已;惟東北喪朋,則於一一行中具見佛性,而行行無非法界,當體絕待,終有慶矣。所以安貞之吉,定慧均平,乃可應如來藏性之無疆也。

理体に契合する修行は、自利し兼ねて利他し得て、一行を為せば即ち一切行を為したに等しい。ゆえにその徳は無辺無際の智慧に合すると言い、因って「含弘光大」。母馬は大地を行くに、柔順ながらまた強健である。同様に、三昧(禅定)もし智慧に随って行くことを得れば、はじめて仏の三昧と称するに配する。経は言う。「五度如盲、般若如導」——布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五種の波羅蜜は譬えば盲人のごとく、ただ般若智慧のみが引路の人である。もし福徳の行を前頭に摆かば、仏の知見は打ち開かれず、難なくして旁門小路に落ちて正道を迷うを免れない。これがまさに「先迷失道」である。ただ智慧を以て修行を引導し、修行は智慧に順従するのみ。さらば智慧は恒常にして修行もこれに随って恒常となる。これが「後順得常」である。だから西南に往きて「得朋」は、ただ同類とともに行くのみで道に益なし。ただ東北に往きて「喪朋」するのみが、毎一の行門の中に於て皆仏性を見ることを得、一行一行として法界に即せざるなく、当体絶対にして比対すべきものなく、最終に自然に喜慶有り。因って「安貞」の所以吉なるは、まさに定と慧の均衡持平に在り、こうしてはじめて如来蔵性の無辺無際に配するに足る。

象曰:地勢坤,君子以厚德載物。性德本厚,所以地勢亦厚;今法地勢以厚積其德,荷載群品,正以修合性之真學也。

大象伝は言う。大地の形勢はすなわち坤。君子はこれに取法して、深厚の徳性を以て万物を承載する。智旭は彼の大象伝を解く一律に「約観心」なる通例に依って解説する。もともと性徳自身が深厚なるがゆえに、大地の形勢ははじめて深厚に顕れる。今人が地勢に効法して深厚に己の徳性を積聚し、担荷して衆生を承載する。これがまさに「修徳を以て性徳に契合する」の真実の学問である。乾卦の大象は「自強不息」を講じ、照の一面である。坤卦の大象は「厚徳載物」を講じ、寂の一面である。一動一静、皆同一の自心本性に帰する。

初六:履霜堅冰至。象曰:履霜堅冰,陰始凝也;馴致其道,至堅冰也。此爻其靜為垢,其變為復。垢則必至於坤,復則必至於乾,皆所謂馴致其道者也。問曰:乾坤之初爻等耳,乾胡誡以勿用,坤胡決其必至乎?答曰:陽性動,妄動恐其洩也,故誡之;陰性靜,安靜則有成也,故決之。積善積惡皆如履霜,餘慶餘殃皆如堅冰。陽亦有剛善剛惡,陰亦有柔善柔惡,不當偏作陰柔邪惡釋之。

爻辞は言う。初六、脚が霜に踏む。堅氷将に至らんとす。小象伝は言う。霜を踏んで堅氷の将に至るを知るは、陰気が凝結し始めたからである。この路に順って歩み続ければ、堅氷の地步に至る。智旭は解説する。この一爻は、本爻が動かない時は《姤》(底本は「垢」と作る、すなわち姤字)、陰より陽に変われば《復》となる。《姤》は一陰始生で、順って歩めば必ず純陰の坤に至る。《復》は一陽来復で、順って歩めば必ず純陽の乾に至る——両者ともいわゆる「馴致其道」、一条の路に順って緩く歩いて尽頭に至る。ある人が提問する。乾卦と坤卦の初爻は地位相等しいのに、何故乾卦は「勿用」と誡告し、坤卦は「必至」と断定するのか。答えて曰く。陽の体性は動を好み、妄動すれば泄漏耗散を恐る。ゆえにそれを誡告する。陰の体性は安静で、安静なれば成就有り。ゆえに直ちに必ず至る所有りと断定する。善行を積累するも悪行を積累するも、皆脚下に踏むあの一層の霜のごとし。日后の余慶・余殃は、皆終に結成する堅氷のごとし。彼は特に提醒する。陽の中にも剛強の善と剛強の悪あり、陰の中にも柔和の善と柔和の悪あり。偏に陰柔を一概に邪悪と解釈すべからざるなり。

《說統》云:「善乾惡坤,此晉魏大謬處。」《九家易》曰:「霜者,乾之命;堅冰者,陰功成也。」京氏曰:「陰雖柔順,氣則堅剛,為無邪氣也。陰中有陽,氣積萬象。」孫聞斯曰:「隤霜不殺菽,冬無冰,《春秋》皆為記異。然時霜而霜,時冰而冰,正令正道,以堅冰為至,而至之自初也,如是謂凝謂順。冰畢竟是陰之所結,然惟陽伏於內,故陰氣外冱而為冰。聖人於乾曰為冰,明是此處註腳。馴致二字,正表坤德之順處。腳跟無霜,不秋而凋;面孔無血,見敵輒走。」

智旭は連ねて前人の説を引き「坤を一概に悪と見るべからず」を支持する。《説統》は言う。乾を善と見て坤を悪と見るは、晋魏時期の注家の大錯である。《九家易》は言う。霜は乾の下す命令で、堅氷は陰の功用の完成したもの——可見氷を結ぶは陰の罪過にあらず、かえって陰がその職分を尽くしたのである。京房は言う。陰は柔順なれど、その気は実は堅剛にして、なんらの邪気なし。陰中に陽を含み、気が一たび積聚すれば万象を生ず。孫聞斯は言う。降霜すべき時に霜が豆菽を殺さず、結氷すべき時に冬に氷なきは、《春秋》は皆これらを反常の怪異と記す——可見霜と氷は本来自身は正常で、来らざるは反常なり。時に至れば降霜すべく降霜し、結氷すべく結氷する。これが正当の時令・正当の道理である。「堅氷」を最終の到達と見て、この到達は初爻より歩歩に来る。かくしてこそ「凝」と言い「順」と言うを得る。氷は畢竟陰の凝結したる所なり。然るにまさに陽がその中に潜伏する有りがゆえに、陰気が外に凍結してはじめて氷と成る。《説卦伝》は乾を「為氷」と言う。分明にここの最好の注脚である。「馴致」の二字は、まさに坤徳の柔順なるあの一面を表出する。脚跟の下に霜なければ、秋を待たずして凋零す。臉上に血色なければ、敵を見ればすなわち掉頭して逃跑す——霜と氷のこの層の陰気は、まさに人が立ち得撑え得る骨力の在る所である。

若約佛法釋者:乾之六爻,兼性修而言之;坤之六爻,皆約修德定行而言。初上二爻表世間味禪之始終,中間四爻表禪波羅密具四種也:二即世間淨禪而達實相,三即亦世間亦出世禪,四即出世間禪,五即非世間非出世禪。

仏法をもって解釈するならば、智旭はここで坤卦の六爻に総綱を立てている。乾卦の六爻は、性徳と修徳とを兼ねて説かれたものであり、坤卦の六爻は、一律にただ修徳のうちの「定行(じょうぎょう)」——禅定の修持——に就いてのみ説く。初爻と上爻は「世間味禅(せけんみぜん)」の始まりと終わりを示す——味禅とは、禅定の味に貪著して生死を出離できない定である。中間の四爻は「禅波羅蜜(ぜんぱらみつ)」(彼岸に到る禅定)の含む四種を示す。六二は世間浄禅にして実相に通達するもの、六三は世間でもあり出世でもある禅、六四は出世間禅、六五は世間でも出世でもない禅である。この判法は智者大師の《釋禅波羅蜜次第法門》に出て、一層ごとに高い。有漏の味禅から、世間にありながら実相に通ずるものへ、さらに両辺に跨がるもの、純然たる出世を経て、最後に世・出世の対待を超越する上々禅に至る。この綱があってこそ、以下の六爻の仏法的解釈に落ち着き所ができる。

又借乾爻對釋:初九有慧無定故勿用,欲以養成其定;初六以定含慧,故如履霜,若馴致之,則為堅冰之乾德。九二中道妙慧,故利見大人;六二中道妙定,故無不利。九三慧過於定,故惕厲而無咎;六三定有其慧,故舍章而可貞。九四慧與定俱,故或躍而可進;六四定過於慧,故括囊而無譽。九五大慧中正,故在天而利見;六五大定即慧,故黃裳而元吉。亢以慧有定而知悔,戰則定無慧而道窮也。

また彼は乾卦の六爻と坤卦の六爻とを二つずつ対照させて解釈し、全篇を定慧の偏正をもって準拠とする。初九は慧あって定なし——ゆえに「勿用」、まさにそれをもって禅定を培うべきである。初六は定をもって慧を含む——ゆえに薄霜を踏むがごとく、これに順って一路に培っていけば、堅氷のごとき乾徳を成就する。九二は中道の妙慧——ゆえに「利見大人」。六二は中道の妙定——ゆえに「无不利」。九三は慧が定に勝る——ゆえに惕厲して戒慎懼れなければ過ちを免れない。六三は定の中に慧を帯びる——ゆえに「含章可貞」(底本は「含」を「舍」と作す。照録する)できる。九四は慧と定とを并具する——ゆえに「或躍」して進むことができる。六四は定が慧に勝る——ゆえに「括囊」するしかなく称誉を得られない。九五は大慧にして中正——ゆえに「飛龍在天」して大人を見るに利あり。六五は大定にして当体すなわち慧——ゆえに「黄裳元吉」。上九「亢龍有悔」に至っては、慧の中に定あってゆえに回頭を知る。上六「龍戦于野」は、定あって慧なし——ゆえに道は尽きるに至る。この対照を一通り読み通すと、智旭が《易》を解く一把の総鑰が見えてくる。陽爻は慧を主とし、陰爻は定を主とし、吉凶はただ定慧が相済うか否かのみを看るのである。

又約乾為正行、坤為助行者,坤之六爻即表六度。佈施如履霜,馴之可致堅冰,冰者乾德之象,故云乾為冰也。持戒則直方大,攝律儀故直,攝善法故方,攝眾生故大。忍辱為含章,力中最故。精進如括囊,於法無遺失故。禪定如黃裳,中道妙定遍法界故。智慧如龍戰,破煩惱賊故。

さらに角度を換えることもできる。乾をもって「正行」(観慧の正修)とし、坤をもって「助行」(福徳の事行の補助)とすれば、坤卦の六爻はちょうど六波羅蜜を示す。初六の「履霜」は布施である。これに順って培っていけば堅氷を致し、氷は乾徳の象である——ゆえに《説卦傳》は乾を「為冰」と言う。布施を極処まで修すれば智慧を転出する。六二の「直方大」は持戒である。戒に三聚あり——摂律儀戒(一切の悪を止む)ゆえに「直」、摂善法戒(一切の善を修す)ゆえに「方」、饒益有情戒(一切衆生を度す)ゆえに「大」。六三の「含章」は忍辱である。忍辱は諸力の中に最も有力でありながら、鋒鋩を顕露しないからである。六四の「括囊」は精進である。精進なれば一切法に於いて遺漏散失せず、袋口を結び固めたるがごとし。六五の「黄裳」は禅定である。中道の妙定が法界に遍満するからである。上六の「龍戦」は智慧である。智慧はまさに煩悩の賊と斬り合い交戦せんとするからである。同一の組の爻辞を、前には四種の禅に配し、ここに六度に配す——まさに彼の言う「一卦一爻具断万事万物」の読法を見ることができる。

六二:直方大,不習無不利。象曰:六二之動,直以方也;不習無不利,地道光也。純柔中正,順之至也。順理故直,依理而動故方,既直且方,則必大矣。此地道本具之德,非關習也。佛法釋者:世間淨禪即是實相,故直方大。正念真如為直,定之體也;善法無缺為方,定之相也;功德廣博為大,定之用也。世間淨禪法爾本具實相三德,能於根本禪中通達實相,故不習而無不利也。向淨禪中覷實相理,名之為動;動則三德之理現前,於禪開秘密藏,故地道光。

爻辞は言う。六二、正直・方正・広大にして、刻意して習わずとも不利なし。小象傳は言う。六二の動は、また直くまた方なり。習わずして不利なきは、地道の光明顕発するが故なり。智旭は易理に依って解説する。六二は陰爻をもって陰位に居りまた中を得、純粋に柔順にして中正の極、順の極致である。理に順うゆえに「直」。理に依って動くゆえに「方」。直くして方なれば、必ず「大」となる。これは地道の本来具足する徳にして、後天の練習とは関わらない。仏法をもって解釈すれば、世間の浄禅は当体すなわち実相——ゆえに「直方大」と言う。正念真如は「直」、これが定の本体である。善法円満無缺は「方」、これが定の相状である。功徳広大深博は「大」、これが定の作用である——直・方・大はちょうど体・相・用の三大に配当する。世間浄禅は本来天然に実相の三徳を具足し、根本禅の中に於いて実相に通達し得る。ゆえに「不習而无不利」。浄禅の中に於いて実相の理を窺看する、これを「動」と名づく。一たび動けば三徳の理すなわち現前し、禅定の中に「秘密藏」(法身・般若・解脱の三徳の成す如来秘藏)を開く。ゆえに「地道光」と言う。

六三:含章可貞,或從王事,無成有終。象曰:含章可貞,以時發也;或從王事,知光大也。蘇眉山曰:「三有陽德,苟用其陽,則非所以為坤也,故有章而含之。有章則可以為正矣,然以其可正而遂專之,亦非所以為坤也,故從事而不造事,無成而代有終。」佛法釋者:亦世間亦出世禪,亦愛亦策,故含章而可貞。或從一乘無上王三昧事,則藉此可發出世上上妙智而有終,不復成次第禪矣。

爻辞は言う。六三、文采を含蓄して正しきを守るべし。あるいは君王の事業に従い、功を成すに居らずして、人に代わりて事を善く終えしむ。小象傳は言う。含章可貞とは、時機を待って発さんとするが故なり。或従王事とは、その智慧の光明広大なるが故なり。智旭は蘇軾(号は眉山)の言を引く。六三は陽位に居り陽徳を帯び、もし一昧にこの陽を施展すれば、坤たるを成さない。ゆえに文采あってこれを含蓄する。文采あれば本来正と称すべきである。しかるに正と称すべきがゆえに独断専行すれば、また坤たるを成さない。ゆえにただ他人に従って事をなし自ら事を創めず、成功に居らずして人に代わって事を仕遂げる。仏法をもって解釈すれば、六三が配するのは「亦世間亦出世禅」。この禅は定境への愛著をなお帯びながら、すでに出世の道心を策発し得る。両頭ともに沾るゆえに「含章而可貞」——功夫すでに観るべきものあるも、ただ顕露して独行するに宜しからず。もし「一乗無上王三昧」の事業に従うことを得れば——すなわち一仏乗の最上三昧に依って修すれば——これに藉りて出世の上々妙智を発起して善く終わることを得、次第漸修の禅に停留せざるを得ん。これ正に小象の言う「知光大」なり。

六四:括囊,無咎無譽。象曰:括囊無咎,慎不害也。得陰之正,而處於上卦之下,位高任重,故括囊以自慎焉。吳幼清曰:「坤體虛而容物,囊之象也。四變為奇,塞壓其上,猶括結囊之上口。人之謹閉其口而不言,亦猶是也。」

爻辞は言う。六四、口袋を結び固め、過なく誉れなし。小象傳は言う。括嚢无咎とは、謹慎にして害を受けざるが故なり。智旭は易理に依って解説する。六四は陰爻をもって陰位に居り、陰の正を得、また上卦の最下位に処して、地位は高く責任は重し。ゆえに口袋を結び固めて自ら謹慎する。彼は元儒呉澄(字は幼清)の言を引く。坤の卦体は中空にして物を容る。正に口袋の象なり。四爻一たび変じて奇数(陽爻)となれば、袋口の上に物を堵压するがごとく、口袋の上口を扎結するに同じ。人の謹慎に口を閉じて言わざるも、正にこの様なり。

蘇眉山曰:「咎與譽,人之所不能免也。出乎咎,必入乎譽;脫乎譽,必罹乎咎。咎所以致罪,而譽所以致疑也。甚矣,無譽之難也。」佛法釋者:出世間禪切忌取證,取證則墮聲聞辟支佛地,雖無生死之咎,亦無利他之譽矣。若能慎其誓願,不取小證,則不為大乘之害也。

蘇軾は言う。過と誉とは、人の免れ得ざる二つのものなり。過を跳出せば必ず誉に落ち、誉を摆脱すれば必ず過を招く。過は罪罰を致し、誉は猜疑を致す。ゆえに「无誉」という事は実に難し——爻辞の「无咎无誉」と言うは、无咎は易く无誉は難し。仏法をもって解釈すれば、六四が配するのは「出世間禅」。この禅を修するに最も忌むべきは、急いで証を取ることである。一たび証を取れば、声聞・辟支仏の果地に墮落する。かくなれば固然として生死輪迴の過はなくなるも、衆生を利益する誉もまたなし——正に「无咎无誉」なり。もし謹慎に自己の衆生を度する誓願を守護し、小乗の証果を貪取せざれば、大乗の禍害と成るに至らず。これ即ち小象の言う「慎不害」なり。

六五:黃裳元吉。象曰:黃裳元吉,文在中也。黃者,中色,君之德也;裳者,下飾,臣之職也。三分天下有其二,以服事殷,斯之謂乎。佛法釋者:非世間非出世禪,禪即中道實相,故黃;不起滅定,現諸威儀,同流九界,故如裳。此真無上菩提法門,故元吉。定慧莊嚴,名之曰文;全修在性,名文在中。

爻辞は言う。六五、黄色の下裳、大吉。小象傳は言う。黄裳元吉とは、文采が中に蘊含するが故なり。智旭は易理に依って解説する。黄は中に居る色にして君主の徳を表し、裳は下身の服飾にして臣下の職分を表す。周文王は天下の三分の二を拠有しながら、なお臣礼をもって殷商に服事した——言うところ正にこの「君徳ありて臣位を守る」の情形である。仏法をもって解釈すれば、六五が配するのは「非世間非出世禅」。この禅は当体すなわち中道実相にして、世間と出世間の対待を超越する。ゆえに「黄」の中色を取る。而してこの歩に証到したる人は、滅盡定より起ち出でずして、しかも同時に種種の行住坐臥の威儀を示現し、回入九法界して衆生と事を同じくすることを得る。ゆえに「裳」のごとく下位に甘居する。これぞ真の無上菩提法門。ゆえに「元吉」と言う。定と慧とが交い交い荘厳するを「文」と名づけ、全部の修行が本性の外に出ざるを「文在中」と名づく。

上六:龍戰于野,其血玄黃。象曰:龍戰于野,其道窮也。其靜為夬,其變為剝,皆有戰之義焉。善極則斷惡必盡,惡極則斷善必盡,故窮則必戰,戰則必有一傷也。陳旻昭曰:「此天地既已定位,而震龍欲出,故戰于野也。震為龍,為玄黃,氣已盛故為血。窮乎上者必反下,故為屯卦之初爻。夫乾坤立而有君,故次之以屯;有君則有師,故次之以蒙。屯明君道,蒙明師道。乾坤即天地父母,合而言之,天地君親師也。」

爻辞は言う。上六、龍郊野に戦い、流れ出る血は青黑と黄なり。小象傳は言う。龍戦于野とは、その道すでに盡きるが故なり。智旭は解説する。この一爻は、本爻動かざる時は《夬》となり、陰より陽に変ずれば《剥》となる——《夬》は衆陽が一陰を決去し、《剥》は衆陰が一陽を剥盡す。両者とも交戦の義を含む。善の積むこと極処に至れば、必ず悪を斷盡し、悪の積むこと極処に至れば、必ず善を斷盡す。ゆえに盡頭に走り至れば必ず交戦し、一たび交戦すれば必ず一方の傷つくあり。また彼は陳旻昭の言を引く。この時天地の位置すでに定まり、而して震卦の龍まさに出でんとす。ゆえに郊野に交戦す。《説卦傳》は震を「為龍」と言い、また震を「為玄黄」と言う。陽氣すでに旺盛なれば、ゆえに「血」と称す。上位に在りて盡頭に至る者は必ず下位に返回す。ゆえに坤卦の上六、次いで屯卦の初爻となる。乾坤すでに立ちて而後君主あり。ゆえに《序卦》は《屯》に接ぐ。君主ありて而後師長あり。ゆえに再び《蒙》に接ぐ。《屯》は為君の道を闡明し、《蒙》は為師の道を闡明す。乾坤は即ち天地父母——合せて言えば、正に「天地君親師」の五字なり。

佛法釋者:無想天灰凝五百劫而墮落,非非想天八萬大劫而還作飛狸牛蟲,乃至四禪無聞比丘墮阿鼻獄,皆偏用定而不知以慧濟之,故至於如此之窮。

仏法をもって上六「其道窮也」を解釈すれば。無想天に修到する者は、心識死灰のごとく凝住して五百大劫、劫滿してなお墮落す。非想非非想天に修到する者は、八萬大劫の定寿を享盡し、報盡の後なお飛狸・牛・虫の類に投生す。乃至《楞嚴經》の記するあの第四禅に修到した「無聞比丘」は、四禅を誤って四果と認め、臨終に謗を起して阿鼻地獄に墮ちた。これらは皆偏に禅定のみを用いて、智慧をもって救済することを知らざるがゆえに、かくのごとき走投無路の境地に落ちたのである。これ正に坤卦上六「有定無慧」の下場にして、前文の「東北喪朋乃終有慶」と恰も正反の両面を成す。

用六:利永貞。象曰:用六永貞,以大終也。此總明百九十二陰爻所以用六而不用八之旨也。八為少陰,靜而不變;六為老陰,動而變陽。今筮得坤卦,六爻皆六,則變為乾卦,不惟順承乎天,亦且為天行之健矣。佛法釋者:用八如不發慧之定,用六如發慧之定。發慧之定,一切皆應久修習之。禪波羅密至佛方究竟滿,故曰大終。

「用六」の辞は言う。永久に貞正を守持するに利あり。小象傳は言う。用六にして永久に正を守るは、廣大をもって終るを得るが故なり。智旭は解説する。この一条は百九十二の陰爻が何ゆえに「八」を取らずして「六」を取るかの用意を総括して説明する。八は少陰にして安静にして変ぜず、六は老陰にして動いて陽に変ぜんとす。今もし坤卦を占得して六爻皆六ならば、整卦は乾卦に変ず。但だ柔順に天道を承受し得るのみならず、自身すなわち天行の剛健と成る。仏法をもって解釈すれば、「八」を用いるは智慧を発起し得ざる禅定に譬え、「六」を用いるは智慧を発起し得る禅定に譬う。慧を発し得る定は、一切人皆長くこれを修習すべし。「禅波羅蜜」は成仏に到りて乃ち究竟円滿す。ゆえに「以大終也」——最廣大の果地をもって終点と為す——と言う。

文言曰:坤至柔而動也剛,至靜而德方,後得主而有常,含萬物而化光。坤道其順乎,承天而時行。此仍以地道申贊坤之德也。贊乾,則自元而亨而利而貞;贊坤,則自貞而利而亨而元。乾之始必徹終,而坤之終必徹始也。文並可知。

文言傳は言う。坤は最も柔順なり。しかるに一たび動けば卽ち剛強なり。最も安静なり。しかるにその徳性は方正なり。随後して従うを得て主人を得て常規あり。萬物を含容して教化光大王なり。坤道は大抵「順」ならん——天道を承受して時に依って運行す。智旭は解説する。これはなお地道を用いて坤の徳性を申説賛美するものなり。乾を賛美する時は、元より講じて亨に講じ、利に講じ、貞に講じ、順って來る。坤を賛美する時は、貞より講じて利に講じ、亨に講じ、元に講じ、倒して來る。乾の始めは必ず終点に貫徹し、坤の終点は必ず始めに貫徹回るが故なり——一順一逆、正に乾坤の首尾相銜するを見る。これら数句は文義明白にして、文面に照らせば卽ち理解し得る。

佛法釋者:即是直贊禪波羅密。以其住寂滅地,故至柔至靜;以其能起神通變化,普應群機,感而遂通,故動剛德方。由般若為導而成,故後得主而有常,所謂般若常故禪亦常也。於禪中具足萬行,一一妙行與智相應,導利含識,故含萬物而化光。非智不禪,故坤道為順;非禪不智,故承天時行也。

仏法をもって解釈すれば。この一段は即ち直に「禅波羅蜜」を賛美する。それ寂滅の地に安住するがゆえに「至柔」「至静」と言う。それ神通變化を生起し、普く各類の根機に應合し、一たび感あれば随に卽ち通ずるがゆえに「動也剛」「德方」と言う。それ般若智慧の引導によりて成就せらるるがゆえに「後得主而有常」——般若すでに恒常なれば、禅定もまた随って恒常なり。禅定の中に萬種の行門を具足し、一一の妙行皆智慧と相應して、一切の「含識」(有情衆生)を引導利益す。ゆえに「含萬物而化光」と言う。智慧なくんば禅たるを成さず。ゆえに坤道は「順」を徳と為す——順うところは慧なり。禅定なくんば真の智慧を成すこと能わず。ゆえに「承天而時行」と言う。乾坤はここに徹底して慧と定とに読みなされた。定は慧に順って起り、慧は定に藉りて成る。

積善之家,必有餘慶;積不善之家,必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辯之不早辯也。《易》曰「履霜堅冰至」,蓋言順也。順,即馴致其道之謂。洪化昭曰:「臣而順,必不弒君;子而順,必不弒父。此正所謂辯之於早者,不作慎字解。」

文言傳は言う。善行を積累する家は、必ず餘留する喜慶あり。不善を積累する家は、必ず餘留する禍殃あり。臣子の君主を弑殺し、兒子の父親を弑殺するは、皆一朝一夕に造成せらるるに非ず。その由來は逐漸に積成せらるるにして、原因は辨察すべき時に及早辨察せざるに在り。《周易》の「履霜堅冰至」と言うは、講ずるところ正に一箇の「順」字なり。智旭は解説する。この「順」は即ち小象傳「馴致其道」の義——一條の路に順って一步步に走下去るなり。彼は洪化昭の言を引く。臣子たる者もし順なること能わば、必ず君を弑せず。兒子たる者もし順なること能わば、必ず父を弑せず。これ正にいわゆる「辨察於早」にして、この「順」字をもって「謹慎」と解釈すべからず。

陳非白問曰:何故積善餘慶積惡餘殃,不發實相之美,但含而未發,以此為王三昧之助,弗宜偏修以至成也。蓋禪定隨智慧行,如地承天,如妻隨夫,如臣輔君。然智慧不得禪定,則不能終其自利利他之事,故禪定能代有終也。

此處底本に錯簡と脱文あり。今は照録して動かさず、臆補を作さず。陳非白は提問す。何ゆえに積善は餘慶あり、積惡は餘殃あるか——問句は「不」の字に至りて便ち中斷し、下半句と智旭の答語とは後文に錯置せらる(詳しくは後の「明于乾之初爻,而明于坤之初爻耶。答曰」一段を見よ)。而して緊接して「不」の字のこれら数句は、文義の上に於いて本節に屬せず。それは本來六三の「含章可貞,无成有終」を解釋する一段なり。意思是く、未だ實相の美質を發露せず、ただ含蓄して未だ發せざるを、これを「王三昧」(一切三昧中の最尊の三昧、卽ち首楞嚴定)の輔助と爲し、この一邊に偏在して修し下去りて速成を求むべからず。禅定は智慧に隨順して行ずるを要すれば、大地の上天を承受し、妻子の丈夫に隨順し、臣下の君主を輔佐するがごとし。しかるに智慧もし禅定を得ざれば、自利利他の事を做し盡くすこと能わず。ゆえに禅定は「代有終」——智慧に代わって事を善始善終に完成する——を能くすと言う。讀者此處に遇ひて文氣接續せざるは、底本の誤りにして、文義の跳躍に非ず。

天地變化,草木蕃;天地閉,賢人隱。《易》曰「括囊無咎無譽」,蓋言謹也。能謹則可以成變化,變化則草木亦蕃;不謹則天地必閉,閉則雖賢人亦隱矣,安得不括囊哉。佛法釋者:定慧變化,則三草二木各得潤澤生長;若入於出世果證,則灰身泯智,而無利生之事矣。故修此法門者,不可以不謹也。

文言傳は言う。天地交感變化すれば草木就ち繁盛し、天地閉塞不通なれば賢人就ち隱退す。《周易》の「括囊无咎无誉」と言うは、講ずるところ正に一箇の「謹」字なり。智旭は易理に依って解説する。謹慎すること能わば、天地の變化を成就すべく、一たび變化すれば草木もまた隨って繁盛す。謹慎せざれば、天地必ず閉塞し、一たび閉塞すれば賢人をもってしても隱退せざるを得ず。那れぞ口袋を結び固めざるを得んや。仏法をもって解釈すれば、定と慧とが互いに變化通融すること能わば、根性大小同じからざる「三草二木」皆滋潤生長を得る。もし一頭栽入して出世の小乗果證に入らば、落ち得るところは「灰身泯智」——形體は灰燼と化し、心智は寂滅に歸し、再び衆生を利益する事業の言うべきなし。ゆえにこの法門を修する者は、謹慎せざるべからず。本節は前面の六四「无咎无誉」の解釋と正に相呼應す。謹慎は手を縮めるに非ずして、自己を小乗の坑に掉し入れざるなり。

君子黃中通理,正位居體,美在其中,而暢於四支,發於事業,美之至也。黃是中色,即表中德;德雖在中,而通乎腠理,故雖屬正位,仍居四體,此釋黃裳義也。美在其中等,重牒上義以釋元吉之義。佛法釋者:以黃中三昧而通達實相之理,實相雖名正位,遍入一切諸法而居眾體。蓋惟深證非世間非出世上上之禪,故能暢於四支,發於事業,而三輪不思議化,普利法界,乃為美之至也。

文言傳は言う。君子は中和の徳をもって文理に通達し、正位に居りて本体に安處す。美好中に蘊含し、因って四肢に通暢し、事業に發用す——これ美の極致なり。智旭は易理に依って解説する。黄は居中の色にして、卽ち中和の徳を表す。徳は中に在ると雖も、貫通して肌膚の紋理に至る。ゆえに「正位」に屬すと雖も、なお四肢の上に落實せざるを得ず。此の一句は「黄裳」の含義を解釋す。「美在其中」以下の数句は、重ねて上面の意思を申説して、用いて「元吉」を解釋す。仏法をもって解釈すれば、「黄中三昧」をもって實相の理に通達す。實相は「正位」と名づくと雖も、能く一切諸法に遍入して一切法體の中に安居す。ただ深くあの世間と出世間とを超越する上々の禅を證得するのみ、乃ち「暢于四支,發于事業」すること能く、從って身・口・意の「三輪」不可思議の教化をもって、普く整個の法界を利益す——これぞ美の極致なり。

明於乾之初爻,而明於坤之初爻耶?答曰:乾是智巧,坤是聖力。非智巧則不能知善知惡,非聖力則不能積善積惡,故曰乾知大始,坤作成物。佛法釋者:十善為善,十惡為不善;無漏為善,有漏為不善;利他為善,自利為不善;中道為善,二邊為不善;圓中為善,但中為不善。善即君父之義,不善即臣子之義。以善統御不善,則不善即善之臣子;以不善妨礙於善,則善遂為不善所障,如君父之被弒矣。所以千里之行,始於一步,必宜辯之於早也。

此處は卽ち前文の陳非白の問語の下半と智旭の答語にして、底本に錯置せられて此處に至る。今は照録して動かさず。文氣を補足して讀めば、陳非白の問題は——何ゆえに「積善餘慶、積惡餘殃」の此の層の道理は、乾卦の初爻に講明せずして、偏に坤卦の初爻に講明するか——なり。智旭は回答して曰く。乾は「智巧」、坤は「聖力」なり。智巧なくんば善と惡とを分辨する能わず、聖力なくんば善と惡とを積累する能わず。ゆえに《繫辭傳》は「乾知大始,坤作成物」と言う——乾は開創を主として知り、坤は承成を主として作す。積善積惡の事は自然に坤の初爻に歸せざるを得ず。仏法をもって「善」と「不善」を解釈するに、彼は層層に推進す。十善は善、十惡是不善。無漏是善、有漏是不善。利他是善、自利是不善。中道是善、二邊に落つる是不善。圓融の中道是善、ただ一箇の但空但中を守る是不善。善は相當して君父の地位、不善は相當して臣子の地位なり。善を用いて不善を統御すれば、不善は卽ち善の臣子と成りて善に用いらる。反って不善をして善を妨礙せしめば、善は不善に障蔽せられて、君父の弑せらるるがごとし。ゆえに千里の行程は第一步より始まる。必ず及早辨察せざるべからず。

其正也,方其義也。君子敬以直內,義以方外,敬義立而德不孤。「直方大,不習無不利」,則不疑其所行也。惟正故直,惟義故方,直方皆本具之德,而敬之一字,乃君子修道之要術也。敬即至順,順則必直且方,而德不孤,可謂大矣。佛法釋者:正念真如,是定之內體;具一切義而無減缺,是定之外相。既具內體外相,則必大用現前而德不孤,所以於禪開秘密藏,了了見於佛性而無疑也。

文言傳は六二を解釋して言う。(直)はそれその正なり、方はそれその義なり。君子は敬をもって內心を端正し、義をもって外事を方正にす。敬と義と確立せば、徳は孤立せず。所謂「直方大,不習无不利」は、それ自己の行ずる所の事に疑惑なきを言う。按ずるに、此句底本は句首の「直」の字を脱去せり(通行本は「直其正也,方其義也」と作す)。今は照録して補さず、讀者それを底本の脱文と知れば可なり。智旭は解説する。惟れその正なるがゆえに直なり。惟れその義なるがゆえに方なり。直と方とは皆本来具足の徳にして、一箇の「敬」字こそ、君子の道を修する要緊の手段なり。敬は卽ち極致の順なり。順なれば必ずまた直くまた方なり。因って徳は孤立せず、「大」と稱すべし。仏法をもって解釈すれば、正念真如は定の內在本體(直)なり。一切義理を具足して毫も欠缺なきは、定の外在相狀(方)なり。すでに內體外相俱に具備せば、廣大の作用は必ず現前して徳は孤立せず(大)。ゆえに禅定の中に於いて秘密藏を打開し、明明白白に佛性を見て疑惑なし——これ卽ち「不疑其所行」なり。

陰雖有美含之,以從王事,弗敢成也。地道也,妻道也,臣道也。地道無成,而代有終也。文義可知。佛法釋者:亦世間亦出世禪,雖即具足,陰疑於陽必戰,為其嫌於無陽也,故稱龍焉;猶未離其類也,故稱血焉。夫玄黃者,天地之雜也,天玄而地黃。

文言傳は六三を解釋して言う。陰は美質あると雖も含蓄して、用いて君王の事業に從い敢えて功に居らず。これ地道なり、妻道なり、臣道なり。地道は成功に居らずして、人に代わって事を善終す。智旭は言う。文義明白にして解すべし。此處底本また錯簡あり。「佛法釋者:亦世間亦出世禪,雖卽具足」の一句の下、本來接ぐべきは「不發實相之美,但含而未發……」等の語なり(あの數句はすでに前面の「陳非白問曰」の一段の後に錯置せらる)。如今は直接に上六文言「陰疑于陽必戰」の經文に跳躍し、中間に一段を脱去せり。今は照録して動かさず、臆補を作さず。下面に接ぐは上六の文言なり。陰盛んにして陽と相疑えば、必ず交戰す。それを嫌むがゆえに陽なきがごとくなれば、特地それを「龍」と稱す——陽其實未だ嘗てなきを表明す。またそれ到底なお陰の同類を脫離せざるがゆえに、それを「血」と稱す。所謂「玄黄」は、天色と地色の混雜——天は青黑、地は黄色なり。

夫陰陽皆本於太極,則本於體,何至相疑而戰哉?陽者見之謂之陽,不知與陰同體,故疑陰而必戰;陰者見之謂之陰,不知與陽同體,故亦疑陽而必戰。方陰之盛而戰陽,則有似乎無陽,故稱龍,以明陽本未嘗無焉;逮陰之動而變陽,則似離乎陰類,故稱血,以明陰仍未離類焉。夫惟動而將變,故玄黃相雜耳;變定之後,天玄地黃,豈可雜哉!

智旭は解説する。陰と陽とは皆太極に根源し、卽ち同じく一箇の本體に根づく。何ぞ互いに猜疑して交戰する地步に鬧到せんや。此の話は《繫辭傳》「仁者見之謂之仁,知者見之謂之知」の句式を套用す。陽の立場に立ってそれを見ればそれを陽と叫ぶも、陽と陰と本來同一の體なるを知らず。ゆえに陰を猜疑して必ず交戰す。陰の立場に立ってそれを見ればそれを陰と叫ぶも、陰と陽と本來同一の體なるを知らず。ゆえに同じく陽を猜疑して必ず交戰す。當に陰氣正に盛んにして陽と交戰するの時、表面上は陽なきがごとし。ゆえに爻辭は特地それを「龍」と稱して、用いて陽の本來曾て消失せざるを表明す。陰が一たび動きて陽に轉變するに及んで、また陰の同類を脫離するがごとし。ゆえにそれを「血」と稱して、用いて陰のなお本類を離れざるを表明す。正に將に動き將に變せんとするの際に處するがゆえに、青黑と黄色とこそ混雜するを得れ。變化の定局の後に至りては、天は自ら青黑、地は自ら黄なり。那れぞまた混雜せんや。

子韶風草頌云:「君子何嘗去小人,小人如草去還生。但令鼓舞心歸化,不必區區務力爭。」得此旨者,可以立消朋黨之禍。不然,君子疑嫌小人,小人亦疑嫌君子,不至於兩敗俱傷者幾希矣。

智旭は子韶の《風草頌》を引いて言う。君子は何ぞ曾て真に小人を除盡し得んや。小人は野草のごとく、除き去るも還た再生す。ただ鼓舞感化して、彼らの心をして自然に歸順せしむること能わば、斤斤に計較して專ら力量に靠って爭鬪すること必須ならず。彼は評論す。此の意思を領會する者は、當下に朋黨の禍を消解すべし。然らざれば、君子は小人を猜忌嫌惡し、小人もまた君子を猜忌嫌惡す。それ兩敗俱傷に落ちざるは、極めて少なし——これ正に「龍戰于野,其血玄黄」の人事上の寫照なり。頌題「風草」は《論語》「君子之德風,小人之德草,草上之風必偃」の意を取る。徳風をもって感化するは、力をもって相爭うに勝る。

佛法釋者:始則誤認四禪為四果,及至後陰相現,則反疑四果不受後有之說為虛,而起謗佛之心,是必戰也。然世間豈無真證四果智德者耶?故稱龍,以顯四果之非虛焉。彼雖自謂四果,止是暗證味禪,實未離於生死之類,故稱血,以定其類焉。夫玄黃者,定慧俱傷之象也。以定傷慧,慧傷而定亦傷。然此俱約修德,故言傷耳。

仏法をもって解釈すれば。あの無聞比丘は初め誤って四禪を四果と當し、臨命終の時に後世の中陰身相現前するに及んで、反って「四果不再受後有」の說法是れ假なりと懷疑し、謗佛の心を生起す——これ卽ち「必戰」、佛法と交戰す。しかるに世間に豈に真に四果を證得して智德を具足する人なからんや。當然として有り。ゆえに爻辭はそれを「龍」と稱して、用いて四果の虚妄に非ざるを顯明す。あの比丘に至っては、彼は四果を自稱すと雖も、其實ただ暗中に貪味の禪を證得するのみ、實に生死の類を脫離せず。ゆえにそれを「血」と稱して、用いて彼の歸屬を斷定す。所謂「玄黄」は、定と慧との兩敗俱傷の象なり。定を用いて慧を傷れば、結果慧は傷つきて定もまた隨って傷つく。ただここに言う所は皆ただ「修德」に就いて言うのみ。ゆえにこそ一箇の「傷」の字を講じ得るなり。

若本有寂照之性,則玄自玄,黃自黃,雖闡提亦不能斷性善,雖昏迷倒惑,其理常存,豈可得而雜哉。又觀心釋者:陰陽各論善惡,今且以陰為惡,以陽為善。善惡無性,同一如來藏性,何疑何戰?惟不達性善性惡者,則有無相傾,起輪迴見而必戰。戰則埋沒無性之妙性,似乎無陽,故稱龍,以顯性善之不斷焉。

若し本來具有の寂照の性に就いて言わば、それ青黑は自ら青黑、黄は自ら黄にして、一點も相雜せず。卽使「一闡提」(善根を斷絶し因果を信ぜざる極惡の人)と雖も、彼の本具の「性善」を斷じ得ず。卽使昏迷顛倒惑亂すと雖も、あの理體は依舊として常在す——何ぞ混雜せられんや。此の一層は天台宗の「性具善惡」の教義を用う。善惡は皆本性中の本具なるがゆえに斷ずべからず。また彼は「觀心」の角度を換えて解釋す。陰陽の兩邊は各自善を論じ惡を論ずべし。今は姑らく陰を當て惡と為し、陽を當て善と為す。善と惡とは皆獨立の自性なきにして、同じく一箇の如來藏性の現ずるなり。それ何の猜疑すべき、何の交戰すべきあらん。ただ「性善性惡」の理に通達せざる人のみ、「有」と「無」の間に於いて互いに傾軋し、輪迴の見解を生起して必ず交戰す。一たび交戰すれば、あの無自性の妙性を埋沒して、陽なきがごとく見ゆ。ゆえにそれを「龍」と稱して、用いて本具の性善の從來曾て斷絶せざるを顯明す。

既以善惡相抗,則二俱有漏,故稱血,以顯未離生死類焉。夫善惡想傾奪者,由未達妙性體一,而徒見幻妄事相之相雜也。實則天玄地黃,性不可改,何嫌何疑,何法可相戰耶?善惡不同,而同是一性;如玄黃不同,而同是眼識相分;天地不同,而同一太極;又如妍媸影像不同,而同在一鏡也。若知不同而同,則決不敵對相除而成戰;若知同而不同,則決應熏習無漏善種以轉惡矣。

すでに善と惡とを對立せしめて相抗せば、兩邊は便ち「有漏」と成りて、皆生死を出る能わず。ゆえにそれを「血」と稱して、用いて未だ生死の類を脫離せざるを顯明す。善惡の念頭の互いに傾軋爭奪する所以は、妙性の本來同一の體なるに通達せずして、ただ虚幻妄現の事相の彼此夾雜するを見るのみなり。實際に天は自ら青黑、地は自ら黄にして、本性は改動するに從由なし。何の嫌惡すべき、何の猜疑すべきありて、また哪の一法をもって取って交戰すべきあらん。善と惡とは同じからずと雖も、卻って同じく一箇の本性なり。正に青黑と黄と同じからずと雖も、同じく眼識の現ずる相分なるがごとく、天と地と同じからずと雖も、同じく一箇の太極を出づるがごとく、また美醜の影像同じからずと雖も、同じく一面の鏡子の裏に在るがごとし。若し「不同而同」を知らば、決して善惡を敵對雙方として彼此消滅を要して交戰と成さず。若し「同而不同」を知らば、必ず無漏の善種を熏習して、用いて惡を轉化せん——兩句一つとして闕くべからず。ただ同を知るのみは、撥無善惡の狂解に流るることあらん。ただ不同を知るのみは、善をもって惡を攻める苦戰に陷入せん。此の一段は全卦の收結にして、また智旭の「性具」思想の《易》學上に於いて最も鋒鋩を見るの一筆なり。

周易禪解卷第二·上經之二

周易禪解卷第一。周易禪解卷第二。北天目道人蕅益智旭著。

以上は《周易禪解》卷第一にして、解する所は乾・坤の兩卦なり。以下卷第二に入り、解する所は上經の屯・蒙・需・訟・師・比・小畜・履の八卦にして、依舊として北天目道人蕅益智旭の撰著なり。乾坤は天地父母にして、屯以下は卽ち萬物すでに生じたる後の種種の世相に入る。智旭の解法もまた隨って「性修總綱」より「隨事觀心」に轉ず。

屯卦(震下坎上)

(震下 坎上)屯:元亨利貞,勿用有攸往,利建侯。乾坤始立,震一索而得男,為動,為雷;坎再索而得男,為陷,為險,為雲,為雨;乃萬物始生之時,出而未申之象也。始則必亨,始或不正,則終於不正矣,故元亨而利於正焉。此元亨利貞,即乾坤之元亨利貞也。乾坤全體太極,則屯亦全體太極也,而或謂乾坤二卦大、餘卦小,不亦惑乎。夫世既屯矣,儻務往以求功,只益其亂;唯隨地建侯,俾人人各歸其主,各安其生,則天下不難平定耳。楊慈湖曰:「理屯如理絲,固自有其緒;建侯,其理之緒也。」

「震下坎上」は卦體を標明す。卦辭は言う。屯卦、元・亨・利・貞。往く所あるに宜しからず、諸侯を分封するに利あり。智旭は易理に依って解説する。乾坤兩卦剛に建立せられ、乾坤交索して六子を生ず。震は乾の坤に向かって求索する第一次にして得る長男にして、動を象徵し、雷を象徵す。坎は第二次の求索にして得る中男にして、陷落を象徵し、險難を象徵し、雲を象徵し、雨を象徵す。これ正に萬物剛に生長を始むるの時、すでに頭を冒出せどなお伸展し開く能わざるの景象なり。凡そ開始あれば必ず亨通す。但だ開始若し端正ならざれば、結果もまた不正に歸す。ゆえに「元亨」と言いまた「利于貞正」と言う。此處の元亨利貞は、卽ち乾坤の元亨利貞なり。乾坤は太極の全體にして、屯卦も同じく太極の全體なり。人あるいは乾坤兩卦は大にして其餘各卦は小と以為す。豈に糊塗ならずや——此の一句は彼の六十四卦を高下に分つを反對するの一貫の主張なり。世道すでに艱屯たれば、倘若も一味前往して功業を求取せば、ただ混亂を增加せんのみ。唯に就地に諸侯を分封して、人人をして各おのが歸する所有り各おのが生を安んぜしめば、天下は平定するに難からず。彼は宋儒楊簡(號は慈湖)の言を引く。屯難を治理するは亂絲を整理するがごとし。本來自らその線頭あり。「建侯」は卽ち此の團の亂絲の線頭なり。

佛法釋者:有一劫初成之屯,有一世初生之屯,有一事初難之屯,有一念初動之屯。初成、初生、初難,姑置弗論;一念初動之屯,今當說之。蓋乾坤二卦表妙明明妙之性覺,性覺必明,妄為明覺,所謂真如不守自性,無明初動。動則必至因明立所而生妄能,成異立同,紛然難起,故名為屯。

佛法をもって解釋すれば。「屯」に四種あり。一劫剛に形成する時の屯、一生剛に出生する時の屯、一件事剛に開頭して受阻するの屯、還た一箇の念頭剛に動く時の屯。前三種は姑らく談ぜず、今講ずるは「一念初動」の屯なり。乾坤兩卦の表示するは《楞嚴經》の説く「妙明」「明妙」の性覺——本來清淨靈明の覺性なり。本覺の性は原本自明なり。しかるに衆生は偏にその上に更に一箇の「明」を加えてそれを照らさんと欲す。于是妄に一箇の能明所明の「明覺」を生ず。これ卽ち所謂「真如不守自性」にして、無明此に由りて初動す。一たび動けば、必然に「因明立所」——明照せんとするに因りて、便ち一箇の被照の對象を立出し、隨卽また一箇の能照の妄心を生出す。于是彼此異同を分出して、紛紛擾擾たり。難事此に就りて興起す。ゆえに「屯」と叫ぶ。智旭は《周易》の「萬物始生」の屯を、衆生の一念無明初起し能所對立初分する的那一刹那に讀みたり。

然不因妄動,何有修德?故曰:無明動而種智生,妄想興而涅槃現。此所以元亨而利貞也。但一念初生,既為流轉根本,故勿用有所往;有所往,則是順無明而背法性矣。惟利即於此處用智慧深觀察之,名為建侯。若以智慧觀察,則知念無生相,而當下得太平矣。觀心妙訣,孰過於此。

しかるに、若し此の一念の妄動なからんには、何處に還た修行の言うべきあらん。ゆえに曰く。無明一たび動けば、一切種智こそ生起の機會あり。妄想一たび興れば、涅槃こそ顯現の餘地あり——煩惱は正に菩提の下手處なり。これ屯卦の何ゆえにすでに「元亨」と説きまた「利貞」と説くやなり。ただ此の一念初生、すでに生死流轉の根本たれば、ゆえに「勿用有攸往」と言う。一たび往く所有れば、卽ち無明に順って法性に背離するなり。唯一利あるは、就中此の一念初動の處に於いて智慧を運用して深くそれを觀照するなり。これを「建侯」と叫ぶ——亂絲の線頭の上に下手す。若し智慧をもって觀照すること能わば、此の念頭は根本に真實の生相の得べきなきを知り、當下便ち太平を得る。觀心の妙訣、これより更要緊なるはなし。此の一段は全書の「約觀心」解法の典範にして、卦辭の每一句皆用功の次第に讀まれり。

彖曰:屯,剛柔始交而難生,動乎險中,大亨貞。雷雨之動滿盈,天造草昧,宜建侯而不寧。乾坤立而剛柔交,一索得震為雷,再索得坎為雨,非難生乎?由動故大亨,由在險中故宜貞。夫雷雨之動,本天地所以生成萬物,然方其盈滿交作時,則天運尚自草亂昧暝;諸侯之建,本聖王所以安撫萬民,然方其初建,又豈可遽謂寧貼哉。

彖傳は言う。屯卦、剛と柔と始めて交合して艱難產生し、險境の中に活動して、大いに亨通して正を守る。雷雨の鼓動は天地の間に充滿し、天の造作する一切はなお草創昏暗の中に在り。諸侯を分封するに適宜にして安逸すべからず。智旭は易理に依って解説する。乾坤すでに立ちて剛柔交合し、第一次の求索は震を得て雷と為し、第二次の求索は坎を得て雨と為す。これ正に「難生」ならずや。震の動あるがゆえに大いに亨通し、身を坎の險中に在るがゆえに正を守るに宜し。雷雨の鼓動は、本來天地の用いて萬物を生成するなり。然而るに正にそれ充滿交作の時に當りて、天運はなお草亂昏暗なり。諸侯を分封するは、本來聖王の用いて萬民を安撫するなり。然而るに正に剛剛分封の時に當りて、又ぞ馬上に天下すでに安帖と言うを得んや。

佛法釋者:無明初動為剛,因明立所為柔,既有能所,便為三種相續之因,是難生也。然此一念妄動,既是流轉初門,又即還滅關竅,惟視其所動何如耳。當此際也,三細方生,六粗頓具,故為雷雨滿盈天造草昧之象。宜急以妙觀察智重重推簡,不可坐在滅相無明窠臼之中。蓋凡做功夫人,若見雜念暫時不起,便妄認為得力,不知滅是生之窟宅,故不可守此境界,還須推破之也。

佛法をもって解釋すれば。無明の初動は「剛」、明照に因りて所照の境を立起するは「柔」なり。すでに能と所と有れば、《楞嚴經》の説く世界・衆生・業果の「三種相續」の起因と成る。これ卽ち「難生」なり。然而るに此の一念の妄動は、すでに生死流轉の第一道門なり、また正に還滅解脫の關鍵竅門なり。ただ看るに汝此の一動の上に如何に用心するかのみなり。此の一刹那に當り、《起信論》の説く「三細」(無明業相・能見相・境界相)方に生起し、「六粗」(智相・相續相・執取相・計名字相・起業相・業繫苦相)隨卽具足す。ゆえに正に「雷雨滿盈、天造草昧」の象なり。此の時に當りては趕緊に「妙觀察智」を用いて層層に推究簡別すべく、安坐して「滅相無明」の窠臼の中に在るべからず。凡そ功夫を做する者、一たび雜念の暫時に起らざるを見れば、便ち錯って自己得力せりと認め、殊に知らず「滅」は正に「生」の巢穴なり——念頭滅して無明未だ破らざれば、それ隨時に還た生起せん。ゆえに此の境界を守るべからず、還た須くこれを推翻破除すべし。これ彼の參禪人に下すの一句の極めて實在の告誡なり。

象曰:雲雷屯,君子以經綸。在器界,則有雲雷以生草木;在君子,則有經綸以自新新民。約新民論經綸,古人言之詳矣;約自新論經綸者,豎觀此心不在過現未來、出入無時,名為經;橫觀此心不在內外中間、莫知其鄉,名為綸也。

大象傳は言う。雲と雷と交作するは屯なり。君子は此に取法して經綸に從事す。「經綸」は本來絲縷を整理するを指す。直なるを經と叫び、横なるを綸と叫び、引申して天下を治理するを言う。智旭は解説する。器世間に於いては、雲と雷とに靠って草木を生長す。君子の身上に於いては、經綸に靠って自ら新たにし併せて百姓を革新す。「新民」の一面に就いて經綸を講ずれば、古人すでに説くこと甚だ詳盡なり。至って「自新」の一面に就いて經綸を講ずれば、それ卽ち——豎に此の心を觀照すれば、それ過去・現在・未來の三世の中に在らず、出入に定時なし。これを「經」と叫ぶ。横に此の心を觀照すれば、それ內に在らず、外に在らず、また中間に在らず、その所在を知らず。これを「綸」と叫ぶ。彼は治國の經綸を、直接に觀心の豎觀と横觀とに換えたり。

佛法釋者:迷於妙明明妙真性,一念無明動相即為雷,所現晦昧境界之相即為雲,從此便有三種相續,名之為屯。然善修圓頓止觀者,只須就路還家。當知一念動相即了因智慧性,其境界相即緣因福德性;於此緣了二因,豎論三止三觀名經,橫論十界百界千如名綸也。此是第一觀不思議境。

佛法をもって解釋すれば。あの妙明明妙の真性に迷失したる後、一念無明の動相は卽ち「雷」、それに由りて現出する晦暗昏昧の境界相は卽ち「雲」、從此便ち三種相續あり。これを「屯」と叫ぶ。しかるに圓頓止觀を善く修習する人は、ただ須く「就路還家」せよ——別に一條の路を找るを要せず、就中此の迷路の上に於いて轉身して家に還れ。當に知るべし。あの一念の動相當體卽ち「了因智慧性」(佛性を照了し得る智慧)にして、あの境界相當體卽ち「緣因福德性」(佛性を資助顯發し得る福德)なり。本具の「正因佛性」を連ねて、合して三因佛性と稱す。就中此の緣因・了因の二者の上に於いて、豎に三止三觀(體真止・方便隨緣止・息二邊分別止・空觀・假觀・中觀)を説くを「經」と叫び、横に十法界・百法界・千如是を説くを「綸」と叫ぶ。これ正に天台十乘觀法中の第一乘——「觀不思議境」なり。此處より起りて、智旭は始めて屯以下の諸卦を逐一十乘觀法に配せり。讀者は此の暗線を留意すべし。

初九:磐桓,利居貞,利建侯。有君德而無君位,故磐桓而利居貞;其德既盛,可為民牧,故利建侯以濟屯也。佛法釋者:一念初動,一動便覺,不隨動轉,名為磐桓,所謂不遠之復,乃善於修證者也。由其正慧為主,故如頓悟法門。

爻辭は言う。初九、徘徊して進まず、安居して正を守るに利あり、諸侯を分封するに利あり。智旭は易理に依って解説する。初九は君主の德あって君主の位なし。ゆえに徘徊して進まずして安居守正に利あり。その德すでに充盛にして、百姓の牧養者と為るべし。ゆえに彼を分封して諸侯と為して屯難を救濟するに利あり。佛法をもって解釋すれば、一箇の念頭剛に動き、一たび動けば便ち立時に覺察して、それに跟って轉ぜず。これを「磐桓」と叫ぶ。これ正に《復》卦初九の説く「不遠之復」——走出去ること遠からずして回頭するは、真に修證を善くする人なり。彼は正慧をもって主と爲すがゆえに、頓悟の法門に譬うるがごとし——層層の對治を待たず、一たび覺れば便ち了す。

象曰:雖磐桓,志行正也;以貴下賤,大得民也。磐桓不進,似無意於救世,然斯世決非強往求功者所能救,則居貞乃所以行正耳。世之屯也,由上下之情隔絕,今能以貴下賤,故雖不希望為侯,而大得民心,不得不建之矣。佛法釋者:不隨生死流,乃其隨順法性流而行於正者也;雖復頓悟法性之貴,又能不廢事功之賤,所謂以中道妙觀遍入因緣事境,故正助法門並得成就,而大得民。

小象傳は言う。徘徊して進まずと雖も、志向は正道を行ずるに在り。尊貴の身をもって卑下の位に屈居して、因って大いに民心を得。智旭は易理に依って解説する。徘徊して進まざるは、看るに救世に意なきに似たり。しかるに此の世道は、決して硬に前往して功業を求取する人の救う能くする所に非ず。ゆえに「安居守正」は恰恰として正に「行正」なり。世道の屯難なる所以は、上下の情の隔絶不通なるが故なり。今初九は尊貴の身をもって卑下に屈居すること能く、ゆえに諸侯と爲るを指望せざると雖も、卻って大いに民心を得、君上もまた彼を侯に封ぜざるを得ず。佛法をもって解釋すれば、生死の流に隨順せざるは、正に法性の流に隨順して正道を行ずるなり。すでに法性の尊貴を頓悟したると雖も、卻って事相功行の卑瑣を廢棄せざるを肯んぜず。これ卽ち所謂「中道妙觀をもって遍入因緣事境」なり。ゆえに「正行」(觀慧)と「助行」(事修)との兩方面倂せて成就し、因って「大得民」す。此處正に十乘觀法の第二乘「發眞正菩提心」の後の、事理倂進の用功之法に對す。

六二:屯如邅如,乘馬班如,匪寇婚媾,女子貞不字,十年乃字。柔德中正,上應九五,乃乘初九得民之侯,故邅如班如而不能進也。初本非寇,而二視之則以為寇矣,吾豈與寇為婚媾哉?寧守貞而不字,至於十年之久,乃能字於正應耳。吳幼清曰:「二三四在坤為數十,過坤十數,則逢五正應而許嫁矣。」佛法釋者:此如從次第禪門修證功夫。蓋以六居二,本是中正定法,但不能頓超,必備歷觀練熏修諸禪方見佛性,故為十年乃字。

爻辭は言う。六二、艱難徘徊・回旋して前せず、車馬盤旋して進まず。來るは强盜に非ずして婚を求める者なり。女子は貞を守りて嫁ぐを許さず、十年の後乃ち嫁ぐを許す。智旭は易理に依って解説する。六二は柔順中正の德ありて、上りて九五と相應す。しかるにそれ正に初九の此のすでに民心を得たる諸侯の頭上に騎りて、ゆえに徘徊盤旋して前進する能わず。初九は本來强盜に非ず。六二は卻って彼を强盜と看なし、心に念ずらく、我何ぞ强盜と親を結ぶを得んや。寧ろ貞を守りて嫁ぐを許さず、一直に十年の久しきを待ちて、始めて正應の九五に嫁ぐを得。彼は呉澄の言を引く。二・三・四爻は互いに坤卦を成し、坤の成數は十なり。坤の此の十年の數を越過せば、便ち九五の正應に遇い婚嫁を許すべし。佛法をもって解釋すれば、これ次第禪門に按じて一級一級に修證する功夫に譬ゆ。六二は陰爻をもって陰位に居りて中を得、本來中正の定法なり。ただ一步頓超する能わず、必ず「觀・練・熏・修」の四種禪法(觀禪は九想八背捨等の觀法を指し、練禪は九次第定を指し、熏禪は師子奮迅三昧を指し、修禪は超越三昧を指す)を遍歷して乃ち佛性を見ることを得。ゆえに「十年乃字」——定力正しと雖も、路は卻って遠く走るなり。

象曰:六二之難,乘剛也;十年乃字,反常也。乘剛故自成難,非初九難之也。數窮時極,乃反於常,明其不失女子之貞。佛法釋者:乘剛即是煩惱障重,故非次第深修諸禪,不足以斷惑而反歸法性之常。

小象傳は言う。六二の艱難は、それ剛爻の上に騎るが故なり。十年乃ち嫁ぐを許すは、終竟に常道に返回せんとするが故なり。智旭は解説する。正に剛爻の上に騎るがゆえに、こそ自ら艱難を招來せり。初九のそれを難しとするに非ず。數すでに窮盡し時すでに到頭するを待ちて、乃ち常道に返回す。これ六二の女子の貞節を失掉せざるを説明す。佛法をもって解釋すれば、「乘剛」は卽ち煩惱障の沈重なり。ゆえに次第に按じて深く諸種の禪定を修せざるべからず。然らざれば迷惑を斷除して法性の常道に返歸するに足らず。上の一爻は頓悟の一路、此の一爻は漸修の一路なり。智旭は偏廢せず、ただ各おのが因緣あるを指明するのみ。

六三:即鹿無虞,惟入于林中,君子幾,不如舍,往吝。欲取天下,須得賢才,譬如逐鹿須藉虞人。六三自既不中不正,又無應與,以此濟屯,屯不可濟,徒取羞耳。佛法釋者:欲修禪定,須假智慧,自無正智,又無明師良友,瞎煉盲修,則墮坑落塹不待言矣。君子知幾,寧舍蒲團之功,訪求知識為妙;若自信自恃,一味盲往,必為無聞比丘,反招墮落之吝。

爻辭は言う。六三、野鹿を追逐して虞人の引路なく、ただ一頭闖進して林子の裏に入るのみ。君子は此の苗頭を見て、捨てて追わざるに如かず。前往せば必ず憾惜あらん。「虞」は山林を掌管する官なり。智旭は易理に依って解説する。天下を取得せんと欲すれば、必ず賢才を得るを要す。鹿を追うに虞人を借助せざるべからざるがごとし。六三は自身すでに中に居らずまた正を得ず、上りて相應の援手もなし。かくのごとき條件を拿て屯難を救濟せんとすれば、屯難は救われず、徒らに自ら羞辱を取るのみなり。佛法をもって解釋すれば、禪定を修習せんと欲すれば、必ず智慧に借助せざるべからず。自己すでに正智なく、また明師良友なく、瞎練盲修せば、墮坑落塹は言うを用いず。君子は苗頭を看るを知りて、寧ろ蒲團の上の死功夫を捨下し、去りて善知識を參訪するをこそ上策と爲せ。若し一味に自信自恃して盲目に前行せば、必ず《楞嚴經》裏のあの「無聞比丘」と成らん——ただ修定を顧みて教理を聽かず、誤って四禪を四果と認め、反って墮落の憾惜を招來す。

象曰:即鹿無虞,以從禽也;君子舍之,往吝窮也。堯舜揖讓,固是有天下而不與;湯武徵誅,亦是萬不得已,為救斯民,非富天下。今六三不中不正,居下之上,假言濟屯,實貪富貴,故曰以從禽也。從禽已非聖賢安世之心,況無無應與,安得不吝且窮哉。佛法釋者:貪著味禪,名為從禽,本無菩提大志願故。

小象傳は言う。鹿を追って虞人の引路なきは、禽獸を貪逐せんとするがためなり。君子はそれを捨てたり、前往すれば必ず憾惜あって走投無路なればなり。智旭は易理に依って解説する。堯舜の禅讓は、本來天下ありても己が有と据えず。湯武の征伐誅除もまた萬不得已にして、百姓を拯救せんとするがため、天下を独り富めんとするに非ず。今六三は中に居らず正ならず、然るに下卦の上に居り、口上では屯難を救濟すると言い、實際に貪るは富貴なり。ゆえに「以從禽也」と言う。禽獸を貪って追逐するは、すでに聖賢の世道を安定するの用心に非ず。況んや上りて相應の援手なし(底本此處「无无應與」の「无」の字を重出す。今は照録して改めず)。何ぞ旣に憾惜しまた窮困せざるを得んや。佛法をもって解釈すれば、禪定の滋味を貪著するを「從禽」と叫ぶ。彼は本來菩提を求むるの大志願なきがゆえに——修行の目的錯誤せり。功夫深くなれば深くなるほど陷り遠く陷る。

六四:乘馬班如,求婚媾往,吉無不利。柔而得正,居坎之下,近於九五,進退不能自決,故乘馬而班如也。夫五雖君位,不能以貴下賤,方屯其膏;初九得民於下,實我正應,奈何不急往乎?故以吉無不利策之。佛法釋者:六四正而不中,以此定法而修,則其路迂遠難進,惟求初九之明師良友以往,則吉無不利矣。象曰:求而往,明也。佛法釋者:不恃禪定功夫,而求智慧師友,此真有決擇之明者也。

爻辭は言う。六四、車馬盤旋して進まず。婚配を求めて前往せば吉、不利なし。智旭は易理に依って解説する。六四は柔順にして正位を得、坎卦の下方に處して九五に近づけど、進退自ら決斷する能わず。ゆえに車馬盤旋す。九五は君位に居ると雖も、尊貴をもって卑下に屈居するを肯んぜず、正に恩澤を積屯して施し下さざるを肯んぜず。而して初九は下面に於いてすでに民心を得、實に我六四の正應なり。何ぞ趕緊に前往せざるや。ゆえに爻辭は「吉无不利」をもってそれを策勵す。佛法をもって解釈すれば、六四は正を得るも中に居らず、かくのごとき定法を拿て修するは路子迂迴遙遠にして精進し難し。唯に初九のごとき明師良友を求めて然る後に前往すれば、乃ち吉にして不利なきを得。小象傳は言う。求むる所有りて前往するは明智なり。佛法をもって解釈すれば、自己の禪定功夫を倚仗せず、反って智慧の師友を求むる、これぞ真に決擇の眼光ある明白の人なり。

九五:屯其膏,小貞吉,大貞凶。屯難之世,惟以貴下賤,乃能得民;今尊居正位,專應六二,膏澤何由普及乎?夫小者患不貞一,大者患不廣博,故在二則吉,在五則凶也。佛法釋者:中正之慧固可斷惑,由其早取正位,則墮聲聞辟支佛地,所以四弘膏澤不復能下於民;在小乘則速出生死而吉,在大乘則違遠菩提而凶。象曰:屯其膏,施未光也。非無小施,特不合於大道耳。

爻辭は言う。九五、恩澤を積屯して施し下さず。小事を正守すれば吉、大事を正守すれば凶。智旭は易理に依って解説する。屯難の世に於いては、唯に尊貴の身をもって卑下に屈居するを以て、民心を得るを得す。今九五は正位に尊居すれど、ただ專ら六二の一爻に應合するのみ。恩澤何ぞ普遍に施及せんや。小人物の怕るるは專一ならざるにして、大人物の怕るるは廣博ならざるなり。ゆえに同じく專一なるも、六二に於いては吉、九五に於いては凶と成る。佛法をもって解釈すれば、中正の智慧は固然として迷惑を斷除すべし。但だ彼は過早に正位を取證するがゆえに、聲聞・辟支佛の果地の上に墮落せり。于是「四弘誓願」(衆生無邊誓願度・煩惱無盡誓願斷・法門無量誓願學・佛道無上誓願成)のごとき廣大の恩澤、再び衆生に下施する能わず。小乗に於いて看れば、これ迅速に生死を出離するがゆえに吉。大乗に於いて看れば、これ菩提に背離して愈々遠く走るがゆえに凶。小象傳は言う。屯其膏とは、施與未だ光大王ならざるなり。智旭は一句を補す。完全に小さき施與なきに非ず、ただ大道に合せざるのみ。

上六:乘馬班如,泣血漣如。以陰居陰,處險之上,當屯之終,三非其應,五不足歸,而初九又甚相遠,進退無據,將安歸哉。佛法釋者:一味修於禪定,而無慧以濟之,雖高居三界之頂,不免窮空輪轉之殃,決不能斷惑出生死,故乘馬班如;八萬大劫,仍落空亡,故泣血漣如。象曰:泣血漣如,何可長也。佛法釋者:八萬大劫,究竟亦是無常。

爻辭は言う。上六、車馬盤旋して進まず、哭いて淚盡きて血を以て繼ぎ、漣漣として止まず。智旭は易理に依って解説する。上六は陰爻をもって陰位に居り、坎險の最上方に處して、正に屯難の終局に當る。六三はその正應に非ず、九五は歸附するに値せず、而して初九はまた相距ること太だ遠し。進退皆依據なく、將に何れの所にか往かん。佛法をもって解釈すれば、一味に禪定のみを修して、智慧の救濟するなく、縱使高く三界の頂の非想非非想天に住するとも、「窮空輪轉」の禍を免れず——空を盡頭に修しても、依然として輪迴の裏に打轉し、斷惑して生死を出離すること絕對に能わず。ゆえに「乘馬班如」。八萬大劫の定寿を享盡して、依舊として空亡に落墮す。ゆえに「泣血漣如」。小象傳は言う。泣血漣如、この狀況何ぞ長久ならんや。智旭は一句を補す。八萬大劫は再び長しと雖も、究竟は還た無常なり。屯卦の六爻は、一念初動の頓覺より講じて、一味修定の空亡に至る。正好として「有慧無定」「有定無慧」の兩條の歧路を皆點出せり。

蒙卦(坎下艮上)

(坎下 艮上)蒙:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告,利貞。再索得坎,既為險為水;三索得艮,復為止為山。遇險而止,水涵于山,皆蒙昧未開發之象也。蒙雖有蔽於物,物豈能蔽性哉,故亨。但發蒙之道,不可以我求蒙,必待童蒙求我。求者誠,則告之必達;求者瀆,則告者亦瀆矣,瀆豈發蒙之正耶。不憤不啟,不悱不發,孔子真善於訓蒙者也。

「坎下艮上」は卦體を標明す。卦辭は言う。蒙卦、亨通す。我が蒙昧の孩童を求むるに非ず、蒙昧の孩童が我を求む。初次の占問に卽ち彼に告ぐ。一再して再三問うは卽ち褻瀆なり。褻瀆すれば便ち彼に告げず。正を守るに利あり。智旭は易理に依って解説する。乾坤は第二次の求索に坎を得たり。坎は險、是水なり。第三次の求索に艮を得たり。艮は止、是山なり。險難に遇いて停止し、水は山の裏に涵蓄せらる。皆蒙昧未だ開發せられざるの景象なり。蒙昧は外物に遮蔽せらると雖も、外物何ぞ本性を遮蔽し得んや。ゆえに「亨」と言う。ただ蒙昧を啓發するの方法は、我より蒙者を求むるべからず。必ず蒙者の我を求むるを待たざるべからず。求むる人誠懇なれば、彼に告ぐれば必ず入得り。求むる人輕慢なれば、彼に告ぐる人もまた隨って輕慢せらる——輕慢は豈に蒙昧を啓發するの正途ならんや。孔子は「其の心に發悶して想通ぜざる時に到らざれば開導せず、其の言わんと欲して言い出づる能わざる時に到らざれば啓發せず」と説く。真に蒙童を教導するに善き者なり。

佛法釋者:夫心不動則已,動必有險,遇險必止,止則有反本還源之機,蒙所以有亨道也。蒙而欲亨,須賴明師良友。故凡為師友者,雖念念以教育成就為懷,然須待其求我,方成機感;又必初筮則告,方顯法之尊重;其所以告之者,又必契理契機而貞,然後可使人人為聖為佛矣。

佛法をもって解釈すれば。この心は動かざれば罷れ、一たび動けば必ず險あり(坎)。險に遇えば必ず停止し(艮)、一たび停止すれば返本還源の機會あり——これ蒙卦の亨通の道ある所以なり。蒙昧の人は亨通せんと欲すれば、必ず明師良友に依靠せざるべからず。ゆえに凡そ師友を做する者は、念念教育成就他人を懷に為すと雖も、なお須く彼の我を求むるを待ちて、乃ち「機感」を構成す——學人の根機と師長の教法と相感して然る後に相應す。鼓の人を要して敲けば響くがごとし。而且必ず初次の求問に卽ち彼に告げて、乃ち法の尊貴を顯出す。至って彼に告ぐる所の內容は、また必ず旣に眞理に契合し、また彼の根機に契合して端正無偏ならんことを要し、然る後に人人をして聖を成し佛を成さしむべし。「契理契機」の四字は智旭の說法を論ずるの定則なり。ただ理に契して機に契せざるは空談、ただ機に契して理に契せざるは媚俗なり。

彖曰:蒙,山下有險,險而止,蒙。蒙亨,以亨行時中也。匪我求童蒙,童蒙求我,志應也。初筮告,以剛中也。再三瀆,瀆則不告,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。山下有險,即是遇險而止,故名為蒙。蒙之所以可亨者,由有能亨人之師,善以時中行教故也。雖有善教,必待童蒙求我者,彼有感通之志然後可應,如水清方可印月也。初筮即告者,以剛而得中,故應不失機也。瀆則不告者,非是恐其瀆我,正恐瀆蒙而有損無益也。及其蒙時,即以正道養之,此聖人教化之功,令彼亦得成聖者也。

彖傳は言う。蒙卦、山下に險難あり、險に遇いて止まるは卽ち蒙なり。蒙の亨通する所以は、亨通の道をもって時宜に合う中道に行ずるが故なり。「我が童蒙を求むるに非ず、童蒙が我を求む」は、雙方の志向相應するなり。「初筮告」は、九二剛健にして中を得るが故なり。「再三瀆、瀆則不告」は、それ蒙昧者の自己を褻瀆するが故なり。正道をもって蒙昧を涵養するは、聖人を成就するの功業なり。智旭は解説する。山下に險あるは卽ち險に遇いて止まる。ゆえに蒙と叫ぶ。蒙の亨通すべき所以は、人をして亨通せしむる能くする師長ありて、「時中」に依って教化を施行するに善ければなり。好教法あると雖も、卻って必ず童蒙の我を求むるを待つのは、彼が先に感通の志願有りて然る後に回應を得るが故なり。水の必ず澄清して乃ち月を映出すがごとし。初次の占問に卽ち彼に告ぐるは、九二剛健にして中を得るがゆえに、回應時機を錯失せず。褻瀆すれば彼に告げざるは、彼の我を褻瀆するを怕るるに非ず。正に彼の自己の蒙昧の心を褻瀆して有損無益あるを怕るるなり。彼が還た蒙昧なるの時に趁りて、卽ち正道をもって彼を涵養する、これ卽ち聖人の教化の功業にして、彼をしても亦終に聖を成さしむる能くす。

象曰:山下出泉,蒙,君子以果行育德。溪澗不能留,故為果行之象;盈科而後進,故為育德之象。自既果行育德,便可為師作範矣。佛法釋者:此依不思議境而發真正菩提心也。菩提之心不可沮壞,如泉之必行;四弘廣被,如泉之潤物。

大象傳は言う。山下より泉水涌出するは蒙なり。君子は此に取法して果決に行動し德性を涵養す。智旭は解説する。泉水は溪澗をもってもそれを留め得ず。ゆえに「果行」の象——行動果決にして滯留せず。泉水は必ず一箇の坑洼を注滿して然る後に向前流る。ゆえに「育德」の象——德性を涵性を涵養して躐等せず。自己旣に果行育德すること能く、便ち人の師と爲り人の表率と爲るべし。佛法をもって解釈すれば、これは前面屯卦の觀ずる所の「不思議境」に依って眞正の菩提心を發起するにして、正に天台十乘觀法の第二乘なり。菩提の心は沮喪敗壞すべからず、泉水の必ず向前に奔流するがごとし。四弘誓願は廣く衆生に被る、泉水の萬物を滋潤するがごとし。

初六:發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。以九二上九二陽為師道,以餘四陰爻為弟子。初六以陰居下,厥蒙雖甚,而居陽位,又近九二,故有可發之機。夫蒙昧既甚,須用折伏法門,故利用刑人,所謂撲作教刑也。然既說桎梏之後,當羞愧懲艾而不出;若遽有所往,則吝矣。象曰:利用刑人,以正法也。以正法而撲作教刑,豈嗔打之謂哉。

爻辭は言う。初六、蒙昧を啓發し、刑罰を用いて人を約束して桎梏を解脫せしむるに利あり。かくのごとく前往すれば則ち憾惜あらん。智旭は解説する。本卦は九二・上九の兩箇の陽爻をもって師道と為し、其餘四箇の陰爻をもって弟子と為す。初六は陰爻をもって最下に居り、蒙昧深重なりと雖も、しかるにそれ陽位に居り、また九二に近づく。ゆえに啓發すべきの機緣あり。蒙昧旣に深重なれば、須く「折伏」の法門を用うべし——嚴厲にその惡を壓服するは、「攝受」(寬和に攝取す)と相對して、佛門教化の兩種の手段の一なり。ゆえに「利用刑人」と言う。卽ち《尚書》の説く「扑作教刑」——戒尺をもって教學の刑具と爲すなり。しかるに旣に桎梏を解脫したる後は、卽ち當に羞愧悔改し、痛く自ら懲戒して再び犯さざるべし。若し急いで前往する所有らば、則ち憾惜あらん。小象傳は言う。刑罰を用いて人を約束するに利あるは、法度を端正せんとするがためなり。智旭は一句を補す。正當の法度をもって戒尺の教を施行するは、豈に脾氣を發して人を打つの意思ならんや。

九二:包蒙吉,納婦吉,子克家。以九居二,知及之,仁能守之,師之德也。蘇眉山曰:「童蒙若無能為,然容之則足為助,拒之則所喪多矣。明不可以無蒙,猶子不可以無婦;子而無婦,不能家矣。」佛法釋者:定慧平等,自利已成,故可以包容覆育群蒙而吉;以此教授群蒙修行妙定,名納婦吉;定能生慧,慧能紹隆佛種,為子克家。婦是定,子是慧也。象曰:子克家,剛柔接也。明納婦而云子克家者,以定必發慧,慧必與定平等,而非偏也。

爻辭は言う。九二、蒙昧を包容すれば吉、媳婦を接納すれば吉、兒子は家業を撑くる能くす。智旭は易理に依って解説する。陽爻をもって二位に居り、智慧は了知するに足り、仁德は守住するに足る。これ師長の應有の德なり。彼は蘇軾の言を引く。童蒙は看るに作爲する所なきに似たり。しかるに彼を包容すれば卽ち助力と爲るに足り、彼を拒絕すれば反って損失更多なり。明白の人は蒙昧の人の襯托なくんばあるべからず、兒子の媳婦なくんばあるべからざるがごとし——兒子もし媳婦なからんには、家を成す能わず。佛法をもって解釈すれば、九二は定慧均等にして、自利の功夫すでに成就す。ゆえに衆蒙を包容覆育して吉を得る能くす。此をもって衆蒙に教授して妙定を修行せしむるを「納婦吉」と叫ぶ。定能く慧を生出し、慧能く佛の種性を紹繼光大す。卽ち「子克家」なり。此處明説す。媳婦は定を比喩し、兒子は慧を比喩す。小象傳は言う。子克家とは、剛と柔と相接するなり。智旭は解説する。明明納婦を講ずるに、卻って「子克家」と説くは、正に定は必ず慧を發出し、而して慧はまた必ず定と持平して、一邊に偏すべからざるが故なり。

六三:勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利。以陰居陽,不中不正,乃駁雜之質,宜從上九正應處求其擊蒙之大鉗錘,方可治病;今貪九二之包容慈攝,殆如女見金夫而失節者乎。佛法釋者:不中不正,則定慧俱劣;而居陽位,又是好弄小聰明者;且在坎體之上,機械已深。若使更修禪定,必於禪中發起利使邪見,利使一發,則善根斷盡矣。象曰:勿用取女,行不順也。行不順,故須惡辣鉗錘以煆煉之,不可使其修定。

爻辭は言う。六三、この女子を娶るなかれ。彼女は有銭の男子を見れば、自らの身を顧みず、利益する所なし。智旭は易理に依って解説する。六三は陰爻をもって陽位に居り、旣に中に居らずまた正を得ず、駁雜不純の資質なり。本來上九の此の正應の處に到りて、あの蒙昧を擊破するの大鉗鎚を求めて、始めて病を治し得べし。今は卻って九二の包容慈攝を貪圖す。大概女子の闊氣男子を見て節を失うの様に似たらん。佛法をもって解釈すれば、中に居らず正ならざるは、定と慧と皆低劣なるを説明す。而して陽位に居るは、また小聰明を耍ることを愛する人なり。加うるに坎體の上に處して、心機すでに甚だ深し。かくのごとき人に若し再び彼をして禪定を修せしめば、必ず禪定の中に「利使」の邪見を發起せん——「五利使」は身見・邊見・邪見・見取見・戒禁取見の五種の知見上の煩惱を指し、來勢快利にして、一たび發作すれば善根卽ち斷盡す。小象傳は言う。この女子を娶るなかれ、彼女の行爲柔順ならざるが故なり。智旭は解説する。行爲柔順ならざれば、ゆえに必ず狠辣の鉗鎚を用いて彼を鍛鍊せざるべからず、絕對に彼をして定を修せしむべからず。

六四:困蒙吝。陰爻皆蒙象也。初可發,三可擊,五可包,惟四絕無明師良友,則終於蒙而已,可恥孰甚焉。象曰:困蒙之吝,獨遠實也。非實德之師友遠我,我自獨遠於師友耳,師友且奈之何哉。

爻辭は言う。六四、蒙昧の中に困しみ、憾惜あらん。智旭は解説する。本卦の四箇の陰爻は皆蒙昧の象なり。初六は啓發すべく、六三は痛擊すべく、六五は包容すべし。獨り六四のみ上下皆陽爻に够不着いて、完全に明師良友なく、則ち只好として終身蒙昧に到底す。還たこれより可恥なる有らんや。小象傳は言う。困蒙の憾惜は、獨りそれ實德を遠離するに在り。智旭は解説する。眞實德行の師友の我を遠離する有るに非ず、是れ我が一箇人にして師友を遠離するなり——師友は此に對して又ぞ何の辦法かあらん。此の一爻は全卦最も沈痛の一句なり。蒙昧は怕るべからず。怕るべきは自己の明師良友を躲開するなり。

六五:童蒙吉。以六居五,雖大人而不失其赤子之心,故為童蒙而吉。蓋上親上九之嚴師,下應九二之良友故也。蘇眉山曰:「六五之位尊矣,恐其不安於童蒙之分而自強於明,故教之曰童蒙吉。」象曰:童蒙之吉,順以巽也。學道之法,順則能入;設行不順,則入道無從矣。

爻辭は言う。六五、孩童のごとく蒙昧、吉。智旭は解説する。陰爻をもって五位に居り、身は大人たりと雖も、赤子の心を失わず。ゆえに「童蒙」と稱して吉を得。これはそれ上面に於いて上九の此の嚴師に親近し、下面に於いてまた九二の此の良友と相應するが故なり。彼は蘇軾の言を引く。六五の地位はすでに甚だ尊貴なり。それをして「童蒙」の本分に安んぜんことを肯んぜず、反って强を逞しくして自ら明白と以為せんことを怕る。ゆえに特地それを教えて「童蒙吉」と曰わしむ。小象傳は言う。童蒙の吉なる所以は、柔順にして謙遜なるが故なり。智旭は解説する。道を學ぶの方法は、柔順なれば卽ち入門すること能くす。假使行爲柔順ならざれば、則ち入道は談ずるに從由なし。前の一爻は師友を遠離するの害を講じ、此の一爻は尊に居りて蒙を守るを肯んずるの福を講ず。兩つ相對照す。

上九:擊蒙,不利為寇,利禦寇。陽居陰位,剛而不過,能以定慧之力擊破蒙昧之關者也。然訓蒙之道,原無實法繫綴於人,所謂「但有去翳法,別無與明法」。若欲以我法授設,則是為寇;若應病與藥,為其解粘去縛,則是禦寇也。象曰:利用禦寇,上下順也。無實法繫綴於人,則三根普接,契理契機,故上下皆順。

爻辭は言う。上九、蒙昧を痛擊す。强盜と爲るに利あらず、强盜を抵禦するに利あり。智旭は解説する。上九は陽爻をもって陰位に居り、剛强にして分を過ぎず。定慧の力を用いて蒙昧の關卡を擊破する能くす。しかるに蒙昧を訓導するの方法は、本來一箇の實在の法ありて人の身上に拴繫すべきならず。正に禪門の説くがごとし。ただ眼中の翳障を去掉するの辦法あるのみ、別にあなたに一箇の光明を給ふの辦法なし——光明は眼睛の本有なり。若し「我の法」を硬に彼に塞げんと欲すれば、則ち是れ强盜と爲るなり。若し症に對して藥を下して、彼のがために黏著を解開し束縛を去掉すること能わば、則ち是れ强盜を抵禦するなり。小象傳は言う。强盜を抵禦するに利あるは、上下皆柔順なるが故なり。智旭は解説する。實法を拿て人に拴繫せざれば、卽ち普く上・中・下の三種根機を接引し、旣に眞理に契合しまた根機に契合す。ゆえに上下皆柔順なり。此の一段は前面九二の「包蒙」と對看すべし。一攝一折、皆「實法を人に與うるなし」の此の原則を出でず。

需卦(乾下坎上)

(乾下 坎上)需:有孚,光亨貞吉,利涉大川。養蒙之法,不可欲速,類彼助苗,故必需其時節因緣。時節若到,其理自彰,但貴因真果正,故有孚則光亨而貞吉也。始雖云需,究竟能度生死大川,登於大般涅槃彼岸矣。

「乾下坎上」は卦體を標明す。卦辭は言う。需卦、誠信有り、光明亨通して正を守りて吉を得、大河を渡るに利あり。「需」は等待なり。智旭は上の一卦に承接して解説する。蒙昧を涵養するの方法は、快を求むべからず。それ《孟子》裏の苗を揠げて長を助くるの宋人のごとくならん。ゆえに必ず時節因緣を等待せざるべからず。時節一たび到れば、道理は自然に彰顯す。貴ぶ所はただ「因眞果正」に在り——種因眞實なれば、結果自然端正なり。ゆえに誠信有れば便ち光明亨通して正を守りて吉を得。開頭は「等待」と説くと雖も、最終は卻って生死の大河を渡り、大般涅槃の彼岸に登る能くす。彼は《易》の「利涉大川」を、直接に生死海を度り涅槃岸に登るに讀みたり。

彖曰:需,須也,險在前也。剛健而不陷,其義不困窮矣。需有孚光亨貞吉,位乎天位,以正中也。利涉大川,往有功也。險在前而知須,乃是剛健之德,不妄動以自陷耳,坎何嘗拒乾哉。且坎得乾之中爻,與乾合德,今九五位乎天位,素與乾孚,則乾之利涉,往必有功,可無疑矣。

彖傳は言う。需は卽ち等待にして、險難前に在るが故なり。剛健にして陷落せざれば、その義理は困窮に至らず。「需有孚、光亨貞吉」は、九五の天位に居り而且中正なるが故なり。「利涉大川」は、前往すれば必ず功效あるなり。智旭は易理に依って解説する。險難前に在りて等待を知るは、正に剛健の德——妄動して自ら陷るを致さざるのみ。坎は又ぞ何ぞ曾て真に乾を拒絕せしや。況んや坎卦の中爻は本來乾の中爻を取りて、乾と德を同じくす。今九五は天位に居り、一向に乾と孚合す。則ち乾の河を渡らんと欲するは、前往すれば必ず功あり。これ疑問なきなり。此處彼の一貫の讀法を看るべし。所謂「險」は、外來の敵人に非ずして、坎中のあの一陽は原本卽ち乾なり。

佛法釋者:譬如五百由旬險難惡道名險在前,智慧之力不被煩惱所陷,故終能度脫而不困窮。坎中一陽本即乾體,喻煩惱險道之性本如來藏;以此不生不滅之性為本修因,則從始至終無非稱性天行之位。從正因性,中中流入薩婆若海,故利涉大川,從凡至聖而有功也。

佛法をもって解釈すれば。《法華經・化城喻品》の説くあの五百由旬の險難惡道に譬ゆるがごとし。卽ち「險在前」なり。智慧の力は煩惱に陷れられず。ゆえに終竟に度脫して困窮せざるを得。坎卦の中間のあの一根の陽爻は、本來乾の本體にして、煩惱險道の體性は本來「如來藏」なるを比喩す——煩惱と佛性と竝びに兩物に非ず。此の不生不滅の體性をもって最初の修因と爲せば、則ち頭より尾に至りて、稱合本性の「天行」の位(《涅槃經》の五行の一、卽ち天然の理に依って行ず)ならざる一處なし。「正因佛性」より出發して、一路「中中流入薩婆若海」——念念中道の中に於いて一切智の大海に流向す。ゆえに「利涉大川」と言う。凡夫より聖位に至るまで皆功效あり。《楞嚴經》の不生滅性を本修因と爲すは、彼の此處の本とする所なり。因地眞ならざれば果は紆曲を招く。因地旣に眞なれば、則ち全程皆果地なり。

象曰:雲上於天,需,君子以飲食宴樂。果行育德之後,更無餘事,但飲食宴樂,任夫雲行雨施而已。佛法釋者:助道行行為飲,正道慧行為食,以稱性所起緣了二因莊嚴一性,如雲上於天之象。全性起修,全修在性,不藉劬勞肯綮修證,故名宴樂。此是善巧安心止觀,止觀不二,如飲食調適。

大象傳は言う。雲氣天に升って未だ雨と成らざるは需なり。君子は此に取法して飮食宴樂す。智旭は解説する。蒙卦の「果行育德」の後は、別の事なし。ただ飮食宴樂するのみ、雲氣の流行し雨澤の施布するに任すのみ——功夫做り到れば、成效自ら來る。焦躁する必須なし。佛法をもって解釈すれば、道業を輔助する「行行」(事修)は「飮」に譬え、正に道業を修する「慧行」(觀慧)は「食」に譬う。本性に稱合して生起せる緣因・了因の二種佛性を用いて、あの一箇の正因の性を莊嚴するは、正に雲氣の天空に升上するの象のごとし。全體本性に依って修を起こし、全部の修行また本性の外に出でず。氣力を費盡して硬骨頭を啃むがごとき修證を用いず。ゆえに「宴樂」と叫ぶ。これ正に天台十乘觀法の第三乘「善巧安心止觀」なり。止と觀と不二にして、飮と食との調配得宜するがごとし。

初九:需于郊,利用恆,無咎。溫陵郭氏云:「此如顏子之需。」佛法釋者:理即位中,不足以言需;名字位中,且宜恆以聞熏之力資其慧性,未與煩惱魔軍相戰也。象曰:需于郊,不犯難行也;利用恆無咎,未失常也。九二:需于沙,小有言,終吉。郭氏云:「此如孔子之需。」佛法釋者:觀行位中,既已伏惑,則魔軍動矣,故小有言。象曰:需于沙,衍在中也;雖小有言,以吉終也。

初九の爻辭は言う。郊野に於いて等待す。恒常を保持するに利あり、過錯會せず。智旭は溫陵郭氏の言を引く。これ顏回の等待に譬ゆ——終身仕せず、陋巷に安處す。佛法をもって解釈すれば、還た「理卽」位に在る人は、等待を談ずるに及ばず。彼は佛性あるをすら知らざればなり。「名字卽」位に到りて、始めて當に恒常に聽聞熏習の力を用いて自己の慧性を資養すべし。此の時還た煩惱魔軍と正面交戰せず。小象傳は言う。郊野に於いて等待するは、冒險行事せざるなり。恒常を保持して過錯なきに利あるは、常規を失わざるなり。九二の爻辭は言う。沙灘に於いて等待す。稍々言語の是非あり、最終吉を得。郭氏は言う。これ孔子の等待に譬ゆ——列國を周遊して屢々譏議に遭ふ。佛法をもって解釈すれば、「觀行卽」位に到りて、旣に煩惱を伏住せば、魔軍便ち驚動せらる。ゆえに「小有言」。小象傳は言う。沙灘に於いて等待するは、寬裕に中位に居るなり。稍々言語の是非あると雖も、最終吉を以て收場す。見るべし、生死の岸に離るること愈々近ければ、境界愈々多し。これ正に用功得力の徵候なり。

九三:需于泥,致寇至。郭氏云:「此如周公之需。」佛法釋者:相似位中,將渡生死大河,故有以致魔軍之來而後降之。象曰:需于泥,災在外也;自我致寇,敬慎不敗也。災既在外,故主人不迷,客不得便;但以願力使其來戰,以顯降魔成道之力,而三觀之功,敬而且慎,決無敗也。

爻辭は言う。九三、泥濘の中に於いて等待し、强盜を招來せり。郭氏は言う。これ周公の等待に譬ゆ——居攝して流言の謗に遭ふ。佛法をもって解釋すれば、「相似卽」位に到りて、將に生死大河を渡らんとす。ゆえに魔軍の前來を招致して、然る後に一擧にそれを降伏す。小象傳は言う。泥濘の中に於いて等待するは、災患還た外に在り。是れ自己の强盜を招來するなり。ただ恭敬謹愼すれば失敗せず。智旭は解説する。災患旣に外に在れば、ゆえにただ主人自ら迷失せざれば、客人は便宜を占むるに到らず——これ禪門の常に説く「主人公不迷、客塵不得便」の意思なり。修行する人は乃ち願力を以て魔軍を促使して前來交戰せしめ、降魔成道の力量を顯出せんと好む。而して空・假・中の三觀の功夫は、ただ恭敬にして而且謹愼なれば、決して失敗せず。魔の來るは壞事に非ず。來れば始めて降すべし。怕るるは自家先に亂るるなり。

六四:需于血,出自穴。郭氏云:「此如文王之需。」佛法釋者:魔軍敗衄,超然從三界穴出而成正覺矣。象曰:需于血,順以聽也。未嘗用力降魔,止是慈心三昧之力,魔軍自退,而菩提自成耳。九五:需于酒食,貞吉。郭氏云:「此如帝堯館甥之需。」佛法釋者:魔界如即佛界如,惟以定慧力莊嚴而度眾生,故為需于酒食。象曰:酒食貞吉,以中正也。

六四の爻辭は言う。血泊の中に於いて等待し、洞穴の裏より出でり。郭氏は言う。これ文王の等待に譬ゆ——羑里に囚はれて終に脫身を得。佛法をもって解釈すれば、魔軍すでに打敗せられ、于是超然として三界の此の洞穴より出でて正覺を成就す。小象傳は言う。血泊の中に於いて等待するは、柔順に聽從するなり。智旭は解説する。其實竝びに曾て力を用いて魔を降せず、ただ慈心三昧の力量にして、魔軍は自ら退去し、菩提は自然に成就す——佛は菩提樹下に於いて慈心三昧に入りて魔衆自ら散ず。正に此の意なり。九五の爻辭は言う。酒食の中に於いて等待し、正を守りて吉を得。郭氏は言う。これ帝堯の兩箇の女兒を舜に嫁がせ、賓客の禮を以て此の女婿を待つの等待に譬ゆ。佛法をもって解釋すれば、魔界の真如は卽ち佛界の真如にして、兩者無二無別なり。ただ定慧の力を以て自身を莊嚴して衆生を度化す。ゆえに「需于酒食」——從容飮食の間に於いて便ち度生なり。小象傳は言う。酒食正を守りて吉を得るは、九五中正なるが故なり。

上六:入于穴,有不速之客三人來,敬之,終吉。郭氏曰:「此如仁傑之結交五虎。」佛法釋者:不惟入佛境界,亦可入魔境界,還來三界,廣度眾生。觀三界依正因果諸法,無不現現成成即是一心三觀,故常為三界不請之友,而三界眾生有敬之者必終吉也。象曰:不速之客來,敬之終吉,雖不當位,未大失也。既同流三界,雖不當佛祖之位,而隨類可以度生。設眾生有不知而不敬者,亦與遠作得度因緣,而未大失也。

爻辭は言う。上六、洞穴に入りて、三位的請わざるに自ら來るの客人到來す。恭敬に彼らを對待せば最終吉を得。郭氏は言う。これ狄仁傑の武氏の諸人を結交して匡復を圖るに譬ゆ。佛法をもって解釋すれば、修行此に到れば、佛の境界に入る能くするのみならず、魔の境界に入るも能くす。三界の中に回到して、廣く衆生を度す。三界之內の依報(國土)正報(身心)と因果の種種の法を觀照するに、一として現現成成の「一心三觀」——空・假・中の三觀同じく一念の中に在りて、別に求むるを須いず——ならざるなし。ゆえに菩薩は常に三界衆生の「不請之友」と爲る——人の請を待たずして卽ち來たり相助く。これ正に「不速之客」の翻轉讀法なり。三界の衆生若し彼を恭敬する能くする有らば、必ず終に吉を得。小象傳は言う。不速之客到來し、恭敬に對待して終に吉を得。位置當を得ざると雖も、大きの損失なし。智旭は解説する。旣に三界と同流せば、佛祖の尊位に居らずと雖も、卻って各類衆生の形貌に隨って彼らを度化すること能くす。假使衆生の明白せず恭敬せざる有らば、それもまた彼のがために遙かに一箇の將來度を得るの因緣を結下せり。ゆえに「未大失」なり。

訟卦(坎下乾上)

(坎下 乾上)訟:有孚窒,惕中吉,終凶。利見大人,不利涉大川。天在上而水就下,上下之情不通,所以成訟。然坎本得乾中爻以為體,則跡雖違而性未嘗非一也。惕中則復性而吉,終訟則違性而凶;利見大人,所以復性也;不利涉大川,誡其逐流而違性也。

「坎下乾上」は卦體を標明す。卦辭は言う。訟卦、誠信あれど阻塞せられ、警惕して中を持すれば吉、一直に爭訟を到底すれば凶。大人を見るに利あり、大河を渡るに利あらず。智旭は易理に依って解説する。天は上に在りて水は下に向かって流る。上下の情相通ぜず。ゆえに爭訟を形成す。しかるに坎の中爻は本來乾を取る。見るべし、形迹相違すると雖も、本性は從來兩箇に非ず。心に警惕を存して中を守れば、卽ち本性に回復す。ゆえに吉。一味に官司を打到底せば、卽ち本性に違背す。ゆえに凶。「利見大人」は、用いて本性に回復するなり。「不利涉大川」は、彼を告誡して順流して下りて愈々走りて本性に背離するなからしむるなり。

佛法釋者:夫善養蒙之道,以圓頓止觀需之而已;若煩惱習強,不能無自訟之功。訟者,懺悔克責、改過遷善之謂也。有信心而被煩惱惡業所障窒,當以慚愧自惕其中而吉。若悔之不已,無善方便,則成悔蓋而終凶。宜見大人以決擇開發、斷除疑悔,不利涉於煩惱生死大川而終致陷沒也。

佛法をもって解釈すれば。蒙昧を涵養するに善き方法は、ただ圓頓止觀を用いてそれを等待するのみ(これ上一卦の需の意なり)。しかるに若し煩惱習氣强盛ならば、便ち「自訟」の功夫なくんば能わず。此處の「訟」は、人と官司を打つに非ずして、懺悔し・自己を克責し・過を改め善に遷るの意なり——此の一轉は、全卦の關鍵なり。信心ありて煩惱惡業に阻塞障蔽せらるるは、當に慚愧の心を以て自我に警惕し中道を守住すべし。ゆえに吉。若し是れ懊悔に沒了して、また好き方便法門なからば、則ち「悔蓋」に落成す——五蓋の一の掉悔蓋にして、追悔堆積して反って善心を蓋覆す。ゆえに「終凶」。此の時當に去りて大人を見て、彼に決擇開導し疑悔を斷除せしむべし。而して煩惱生死の大河に涉入するに宜しからず、最終に陷沒を致すを以てなり。見るべし、懺悔は分寸を要す。悔いざれば卽ち罪は滅せず、悔い過ぐれば則ち心は寧ならず。

彖曰:訟,上剛下險,險而健,訟。訟有孚窒惕中吉,剛來而得中也。終凶,訟不可成也。利見大人,尚中正也。不利涉大川,入于淵也。剛而無險,則不必自訟;險而無剛,則不能自訟。今處煩惱險惡窟中,而慧性勇健,所以有自訟改過之心也。所謂有孚窒惕中吉者,以剛德來復於無過之體,僅取滅罪即止,不過悔以成蓋也。所謂終凶者,悔箭入心,則成大失。

彖傳は言う。訟卦、上に剛强、下に險陷あり、旣に險にして且つ健なり。ゆえに訟と成る。「有孚窒、惕中吉」は、剛爻の來到して中位を得るが故なり。「終凶」は、爭訟は打到底すべからざるが故なり。「利見大人」は、中正を崇尚するなり。「不利涉大川」は、深淵に陷入せんとするなり。智旭は佛法を以て解説する。剛强にして險陷なからば、卽ち自訟を用いず——本來過失なし。險陷にして剛强なからば、卽ち自訟するの能力なし——過有りても改むる能わず。今は身を煩惱險惡の窟穴の中に處して、而して慧性勇猛剛健なり。ゆえにこそ自訟改過の心を生起するを得。所謂「有孚窒惕中吉」は、剛健の德を以て無過失の本體に回復し、ただ罪を滅せんを求めて便ち此に打止み、懊悔過頭して悔蓋と成るに至らざるなり。所謂「終凶」は、《遺教經》の所謂「悔箭入心」——追悔は箭の心に扎さるがごとく、則ち大きの損失と成るを説くなり。

故不可使其成也。所謂利見大人者,中正之德有以決疑而出罪也;所謂不利涉大川者,心垢未淨而入生死海中,必至墮落而不出也。約觀心者,修慧行名見大人,修禪定名涉大川。需約無過之人,故可習定;訟約有過之人,習定則發魔事也。

ゆえに此の份の追悔をして坐大せしむべからず。所謂「利見大人」は、中正の德は能く彼のがために疑惑を決斷し罪咎を脫出せしむるを説くなり。所謂「不利涉大川」は、心中垢穢未だ洗淨ならざるに闖進して生死大海に入らば、必ず墮落して出來ざるを説くなり。若し「觀心」の一路に就いて言わば、觀慧の行を修するを「見大人」と叫び、禪定を修するを「涉大川」と叫ぶ。需卦の講ずるは過失なき人にして、ゆえに禪定を修習すべし。訟卦の講ずるは過失ある人にして、罪垢を帶びて定を修せば、反って魔事を引發せん。此の一句は學人に給ふの實際の告誡なり。懺悔未だ淨ならざる前は、急いで定に入るに宜しからず。

象曰:天與水違行,訟,君子以作事謀始。天亦太極,水亦太極,性本無違;天一生水,亦未嘗違。而今隨虛妄相,則一上一下,其行相違,所謂意欲潔而偏染者也。只因介爾一念不能慎始,致使從性所起煩惱,其習漸強而違於性,故君子必慎其獨,謹於一事一念之始,而不使其滋延難治,夫是之謂善於自訟者也。佛法釋者:是破法遍,謂四性簡責,知本無生。

大象傳は言う。天と水との運行方向相違背するは訟なり。君子は此に取法して事を做すの初めに於いて先に謀劃を清楚せよ。智旭は解説する。天もまた太極、水もまた太極にして、本性上竝びに違背なし。《河圖》は「天一生水」と説き、亦曾て相違せず。しかるに今は虚妄の相に隨って、一は上に在り、一は下に在りて、運行の方向便ち相違せり。これ正に所謂「本想潔淨、偏偏染污」なり。ただ微細の「介爾一念」(極めて微弱の一念)の能く初めに愼むを得ざるが為に、本性の上より生起せる煩惱習氣をして逐漸に强盛にして本性に違背せしむ。ゆえに君子は必ず「愼獨」せよ。每一事・每一念頭の剛に頭を起こすの時に於いて謹愼して、それをして蔓延して整治し難きに至らしめず——これをこそ自訟するに善き人と叫ぶ。佛法をもって解釈すれば、これは天台十乘觀法の第四乘「破法遍」にして、卽ち「四性簡責」の辦法を用い——一念心の究竟是れ自生・他生・共生・還は無因生を推檢し、四頭皆推出せず——從ってその本來無生なるを知るなり。念旣に無生なれば、訟は何處より起らんや。

初六:不永所事,小有言,終吉。大凡善貴剛進,惡宜柔退。初六柔退,故為惡未成,改悔亦易,不過小有言而已。此如佛法中作法懺也。象曰:不永所事,訟不可長也;雖小有言,其辯明也。

爻辭は言う。初六、此の場の爭訟を長く拖せず、稍々言語の是非あり、最終吉を得。智旭は解説する。大凡善を爲すは剛强精進を貴び、惡を爲すは則ち柔弱退縮に宜し。初六は柔弱にして退縮す。ゆえに惡は還た造成せられず、改悔も亦容易なり。不過是れ稍々言語の是非あるのみなり。これ佛門中の「作法懺」に譬ゆ——律制の作法に依って、僧衆の前に發露悔過するは、三種懺法中の最も淺き一種にして、專ら輕罪を懺す。小象傳は言う。此の場の爭訟を長く拖せざるは、爭訟は長久すべからざるが故なり。稍々言語の是非あると雖も、是非は終竟に辨明せらん。

九二:不克訟,歸而逋,其邑人三百戶,無眚。剛而不正,不能自克以至於訟;然犯過既重,何能無損?但可逋逃,處於卑約,庶免災耳。此如佛法中,比丘犯戒,退作與學沙彌者也。象曰:不克訟,歸逋竄也;自下訟上,患至掇也。佛法釋者:自既犯戒而居下流,欲以小小懺悔而復上位,罪必不滅,且亂法門矣。

爻辭は言う。九二、爭訟打ち赢たず、回來して逃避す。彼の采邑はただ三百戸人家あり、災禍なし。智旭は解説する。九二は剛强にして正を得ず、自己を克制して訟を致すに至る能わず。しかるに犯す所の過失旣に重し。何ぞ損失なからんや。ただ逃避して、卑下儉約の地に屈居して、始めて勉强災禍を免るるを得。これ佛門中比丘の重戒を犯して、降せられて「與學沙彌」に充當するに譬ゆ——重戒を犯したる後僧團の羯磨を經て、沙彌の位に退居して衆に隨って法を學び、戒を學ぶの資格を保留して比丘の名分を失ふなり。小象傳は言う。爭訟打ち赢たざるは、回來して逃竄するなり。下位を以て上位と爭訟するは、禍患は自己の招來するなり。佛法をもって解釈すれば、自己旣に戒を犯して下流に居るに、卻って一點一點點の懺悔を以て原來の位次を恢復せんと用いるは、罪は必ず滅えず、而且法門をも攪亂せり。

六三:食舊德,貞厲終吉,或從王事,無成。六三陰柔,不敢為惡,但謹守常規,小心翼翼,故得終吉;然是硜硜之士,恐不足以成大事也。象曰:食舊德,從上吉也。自立則不能,附人則仍吉,所謂「倚松之葛,上聳千尋」也。佛法釋者:雖非大乘法門,若開權顯實,則彼所行亦即是菩薩道,故必從上乘圓頓之解方吉。

爻辭は言う。六三、舊有の德業を享用し、正を守りて危懼を知り、最終吉を得。あるいは君王の事業に從い、成功に居らず。智旭は解説する。六三は陰柔にして、惡を爲すを敢えてせず、ただ常規を謹守して小心翼翼とす。ゆえに終吉を得。しかるにこれただ《論語》の説く「硜硜然小人哉」のごとき固執守小の士人にして、大事を成就するに足らざるを恐る。小象傳は言う。舊德を享用するは、上位者に從って吉を得るなり。智旭は解説する。彼に自立せよと要すれば做り到る能わず。他人に依附すれば反って依舊として吉を得。これ卽ち所謂「松樹の上に倚りたる葛藤、亦高く千尋を聳がゆ」なり。佛法をもって解釈すれば、これは大乗法門に非ずと雖も、しかるに若し「開權顯實」——權巧の教を開除して眞實の義を顯露せば——能く、則ち彼の行ずる所も卽ち菩薩道なり。ゆえに必ず上乘圓頓の見解に從って、始めて吉を得。

九四:不克訟,復即命,渝安貞,吉。九四亦是不正之剛,故不能自克以至於訟;然居乾體,則改悔力強,故能復歸無過,而悟性命淵微之體,是則反常合道,猶佛法中因取相懺而悟無生者也。象曰:復即命,渝安貞,不失也。

爻辭は言う。九四、爭訟打ち赢たず、回頭して天命に就着し、態度を改變して正を守るに安んじ、吉。智旭は解説する。九四も亦正位を得ざる剛爻なり。ゆえに自己を克制して訟を致すに至る能わず。しかるにそれ乾の卦體の中に處して、過を改め悟を悔いるの力量强し。ゆえに過失なきの地位に回復し、并且性命深微の本體を領悟する能くす。これ卽ち所謂「反常合道」——先に常軌に違うて終に正道に歸するにして、佛門中の「取相懺」に依って無生に悟入する人に譬ゆ。三種懺法の中、作法懺は最も淺し。取相懺は禮拜觀想に靠って瑞相を感得して罪を滅するを以て、最も深きは無生懺——罪性の本來空なるを觀ず。取相懺に由って無生を悟るは、正に事懺より理懺に透進するなり。小象傳は言う。回頭して天命に就着し、態度を改變して正を守るに安んずるは、正道を失わざるなり。

九五:訟元吉。剛健中正,有不善未嘗不知,知之未嘗復行,乃至小罪恆懷大懼而不敢犯,大善而吉之道也。佛法,則性業遮業,三千八萬,無不清淨者矣。象曰:訟元吉,以中正也。

爻辭は言う。九五、爭訟を處理し、大吉。智旭は解説する。九五は剛健中正にして、正に《繫辭傳》の顏回を稱許するあの一句「有不善未嘗不知、知之未嘗復行」——不善有れば未だ嘗て自覺せざるなく、一たび自覺すれば再び重犯せず。乃至極小の罪過に對しても常に極大の畏懼を懷きて冒犯するを敢えてせず。これ最善にして吉を得るの道なり。佛法を以て言わば、則ち「性業」(本身卽ち惡の行爲、殺盗淫妄のごとき)と「遮業」(本身惡に非ざるも佛の防患を爲に遮止する行爲、飮酒のごとき)の兩類の戒、および三千威儀・八萬細行、一と爲淸淨ならざるなし。小象傳は言う。爭訟を處理して大吉なるは、九五中正なるが故なり。此の一爻は全卦の正面の標準なり。真の「善訟」は、自己が自己と眞較して極細微の處に至るなり。

上九:或錫之鞶帶,終朝三褫之。過極之剛,不中不正,數數犯過,數數改悔。就改悔處,薄有慚愧之衣,猶如鞶帶;就屢犯處,更無一日清淨,猶如三褫也。象曰:以訟受服,亦不足敬也。有過而改,名為慚愧,已不若無過之足敬矣,又何必至三褫而後為恥哉?此甚誡人不可輒犯過也。

爻辭は言う。上九、あるいは彼に一條の大帶を賜與すれど、一箇の早上に於いて卽ち三次を以て剝奪せらる。智旭は解説する。上九は剛强頭を過ぐり、旣に中に居らずまた正を得ず、屢々過を犯し、また屢々悔を改む。彼の悔を改むる此の一面に就いて言わば、勉强に還た一件の薄薄たる慚愧の衣を披着するが、あの大帶に譬ゆ。彼の屢々犯す此の一面に就いて言わば、一日として淸淨なるなく、一日之內に三次剝奪せらるるに譬ゆ。小象傳は言う。爭訟に靠って得たるの服飾は、尊敬するに値せず。智旭は解説する。過失ありて改むる能くするを慚愧と叫ぶ。しかるにこれすでに根本に過失なきの來る可尊敬に及ばず。又ぞ何を須いて一日三奪を待ちて始めて羞恥を覺えんや。これ極力に人を告誡して輕易に過を犯すべからざるを以てなり——過を改むる固然として貴ぶべし。しかるに犯さざるはこそ上策なり。

師卦(坎下坤上)

(坎下 坤上)師:貞,丈人吉,無咎。夫能自訟,則不至於相訟矣。相訟而不得其平則亂,亂則必至於用師,勢之不得不然,亦撥亂之正道也。但兵凶戰危,非老成有德之丈人何以行之。佛法釋者:蒙而無過,則需以養之;蒙而有過,則訟以改之。但眾生煩惱過患無量,故對破法門亦復無量;無量對破之法,名之為師,亦必以正治邪也。然須深知藥病因緣,應病與藥,猶如老將善知方略、善知通塞,方可吉而無咎;不然,法不逗機,藥不治病,未有不反為害者也。

「坎下坤上」は卦體を標明す。卦辭は言う。師卦、正を守り、老成有德の長者に由りて統率せらるれば則ち吉、過錯なし。「師」は軍隊なり。智旭は易理に依って解説する。人若し自訟自責すること能わば、別人と相爭うに至らず。相爭いて公平を得ざれば卽ち亂れ、一たび亂れれば必ず軍隊を動用せざるべからず。これ形勢の迫るに不得已にして然りとするにして、また撥亂反正の正道なり。ただ兵を用うるは凶險にして作戰は危殆なり。老成有德の長者に非ざれば、誰か擔當せん。佛法をもって解釈すれば、蒙昧にして過失なき者は、卽ち需卦の等待を用いて彼を涵養す。蒙昧にして過失ある者は、卽ち訟卦の自訟を用いて彼を改正す。しかるに衆生の煩惱過患は無量無邊なり。ゆえに對治破除の法門も同じく無量無邊なり。此の無量の對治の法を「師」と叫ぶ——衆多の法門は千軍萬馬のごとく、同じく正法を以て邪妄を討伐す。しかるに必ず深く藥と病との間の因緣を知り、症に對して藥を下すべし。老將の方略を籌劃するに善く、何處か通じ何處か堵するを識別するに善きがごとくして、乃ち吉にして過錯なきを得。然らざれば、法門根機に對せず藥病を治せず、反って禍害と成らざる無し。

彖曰:師,眾也;貞,正也。能以眾正,可以王矣。剛中而應,行險而順,以此毒天下而民從之,吉,又何咎矣。用眾以正,謂六五專任九二為將,統御群陰,此王者之道也。兵者不得已而用之,猶藥治病,故名為毒天下。

彖傳は言う。師は衆なり。貞は正なり。衆を用いて正に歸するを以て、則ち王と稱すべし。九二は剛健にして中を得て六五と相相應し、險境の中に行走して卻って柔順なり。此の辦法を用いて天下を毒害して百姓なお彼に從う。吉、又ぞ何の過錯かあらん。智旭は易理に依って解説する。所謂「用衆以正」は、六五の專一に九二を任用して大將と爲し、群陰を統率するを指す。これ王者の道なり。兵器は不得已にして乃ち動用す、藥を用いて病を治するに譬ゆ——藥の本身毒性あり。ゆえに「毒天下」と言う。此の「毒」の字は貶義に非ず。下文智旭は正にその上に文章を做さんとす。

佛法釋者:師是眾多法門,貞是出世正印也。能以眾多法門正無量邪惑,則自利利他,可以為法王而統治法界矣。剛中則定慧莊嚴,隨感而應,雖行於生死險道,而未嘗不順涅槃。以此圓頓妙藥,如毒鼓毒乳,毒於天下,而九界之民皆悉從之吉,又何咎矣。

佛法をもって解釈すれば。「師」は衆多の法門、「貞」は出世間の正法印——卽ち三法印・一實相印にして、用いて説く所の佛法なるか否かを印定す。衆多の法門を用いて無量の邪惑を矯正すること能わば、則ち自利して兼ねて利他する能く、法王と爲って整個の法界を統治すべし。「剛中」は、卽ち定慧の交い交い莊嚴にして、衆生の感應に隨って回應す。生死の險道に行走する而も、未だ曾て涅槃に順向せざらず。此の圓頓の妙藥を以て、《涅槃經》の説く「毒鼓」——毒藥を塗したる鼓にして、敲響の後聞聲する者皆死す。佛の圓頓の法を説くは衆生の煩惱を殺盡する能くするを比喩す——のごとく、また「毒乳」——先前毒を乳に置きて、輾轉して醍醐と成る而も毒性依然として在りて終に發作する能くす——のごとし。かくのごとき毒を用いて天下を毒害する而も、九法界の衆生は反って皆彼に從うを樂しむ。ゆえに吉、又ぞ何の過錯かあらん。此處「毒」は正に最も猛なる良藥なり。煩惱を殺掉せざれば、衆生を度すること能わず。

象曰:地中有水,師,君子以容民畜眾。地中有水,水載地也。君子之德猶如水,故能容陰民而畜坤眾;容民即所以畜眾,未有(片*戈)民以養兵者也,為君將者奈何弗深思哉。佛法釋者:一切諸法中悉有安樂性,亦悉具對治法,如地中有水之象。故君子了知八萬四千塵勞門即是八萬四千法門,而不執一法,不廢一法也。此是善識通塞,如撫之則即民即兵,失之則為賊為寇。

大象傳は言う。地の中に水を含むは師なり。君子は此に取法して百姓を容納し民衆を畜養す。智旭は解説する。地中に水あるは、其實水が地を托するなり。君子の德は水のごとし。ゆえに陰に屬する百姓を容納し、坤に屬する民衆を畜養する能くす。百姓を容納するは正に軍隊を畜養するの辦法にして、從來百姓を殘害して軍隊を供養する有らず(底本此の字は「(片*戈)」と作る。「戕」の字の組字寫法なり。今は照録す)。君主を做し將領を做する人、何ぞ深く思わざるべからざるや。佛法をもって解釋すれば、一切諸法の中に皆安樂の性を含み、亦皆對治の法を具備す。正に地中に水あるの象のごとし。ゆえに君子は「八萬四千塵勞門卽ち八萬四千法門」を明了す——煩惱の多少あれば、對治の法門の多少あり。煩惱は當體卽ち法門なり。因って旣に某一法に執著せず、亦任何の一法をも廢棄せず。これ正に天台十乘觀法の第五乘「善識通塞」なり。同じく百姓にして、安撫し得れば百姓は卽ち兵。安撫失當なれば、百姓は賊寇と成る——同じく一念にして、通塞を識得すれば、塵勞は卽ち法門なり。

初六:師出以律,否臧凶。大司馬九伐之法,名之為律。師出苟不以律,縱令徼倖成功,然其利近,其禍遠,其獲小,其喪大,故凶。孟子所謂「一戰勝齊,遂有南陽,然且不可」也。佛法釋者:初機對治之法,無過大小乘律;若違律制,則身口意皆悉不善而凶矣。象曰:師出以律,失律凶也。

爻辭は言う。初六、兵を出すには軍紀法度に依るを要す。然らざれば卽使打ち善しとも凶なり。智旭は解説する。《周禮》大司馬の掌る所の「九伐の法」——九種の罪行に針對して諸侯を討伐する制度——を「律」と叫ぶ。兵を出すに若し法度に依らざれば、縱然僥倖に成功すとも、しかるに得る所の利益は眼前にして招來する禍患は長遠なり。獲る所は小にして喪う所は大。ゆえに凶。《孟子》は魯國の慎子を用いて齊を伐たんと欲するを記載す。孟子は言う。卽使一戰して齊に勝ち、于是南陽を得るとも、尚且做すべからず。佛法をもって解釋すれば、初學者の煩惱を對治するの辦法は、大乗・小乗の戒律より更要緊なるはなし。若し律制に違背せば、則ち身・口・意の三業全く不善にして、自然凶なり。小象傳は言う。兵を出すに法度に依るを要す。法度を失えば卽ち凶なり。

九二:在師中吉,無咎,王三錫命。以大將才德,膺賢主專任,故但有吉而無咎也。陳旻昭曰:「九二以一陽而五陰皆為所用,不幾為權臣乎?故曰在師中吉,以見在朝則不可也。」佛法釋者:有定之慧,遍用一切法門自治治他,故吉且無咎,而法王授記之矣。

爻辭は言う。九二、軍中に在りて中道を得れば則ち吉、過錯なし。君王は三次冊命を頒下して嘉獎す。智旭は解説する。九二は大將の才干德望を以て、賢明君主の專一の任命を承受す。ゆえにただ吉ありて過錯なし。彼は陳旻昭の言を引く。九二は一箇の陽爻を以て五箇の陰爻をして皆その用と爲さしむ。これ權臣と成らんとするに近からずや。ゆえに爻辭は特地「在師中吉」と説く——軍中に在るに於いてのみ吉なり。見るべし、かくのごとき權勢を朝廷の上に擺かば則ち不行なり。佛法をもって解釋すれば、禪定を底子と做す智慧は、普く一切法門を運用して自ら治し併せて他を治すること能くす。ゆえに旣に吉にして且つ過錯なし。而して法王もまた彼のがために「授記」す——預め彼の將來成佛する時地名號を記別す。

象曰:在師中吉,承天寵也;王三錫命,懷萬邦也。自古未有無主於內而大將能立功於外者,九二之吉,承六五之寵故也。為天下得人者謂之仁,故三錫命於賢將,即所以懷萬邦。佛法釋者:承天行而為聖行梵行等,所謂一心中五行,故為法王所寵而授記,以廣化萬邦也。

小象傳は言う。軍中に在りて中を得て吉なるは、君王の恩寵を承受せるなり。君王の三次冊命を頒下するは、萬邦を安撫せんとするがためなり。智旭は解説する。自古以來內部に主を爲す人なくして、大將の外に於いて功を建つる能くする有らず。九二の吉なる所以は、正に六五の恩寵を承受せるが故なり。《孟子》は「天下を爲に人を得る者を仁と謂ふ」と説く。ゆえに三次賢將に冊命するは、正に萬邦を安撫するの辦法なり。佛法をもって解釋すれば、「天行」(天然の理に依って行ず)を承接して「聖行」(戒定慧の行)・「梵行」(慈悲利他の行)等を成就するは、これ卽ち《涅槃經》の五行——聖行・梵行・天行・嬰兒行・病行——の同じく一心の中に具足するにして、所謂「一心中五行」なり。因此法王の寵愛せらるる所と爲って授記を得、用いて廣く萬邦を度す。

六三:師或輿尸,凶。不中不正,才弱志剛,每戰必敗,不言可知。佛法釋者:不知四悉因緣,而妄用對治,反致損傷自他慧命。象曰:師或輿尸,大無功也。六四:師左次,無咎。雖柔弱而得正,不敢行險徼倖以自取敗,故無咎也。佛法釋者:此如宣律師不敢妄號大乘。象曰:左次無咎,未失常也。

六三の爻辭は言う。軍隊あるいは車を用いて屍體を拉して回來せん、凶。智旭は解説する。六三は中に居らず正ならず、才干柔弱にして心志剛愎なり。每戰必敗、説かずとも知るなり。佛法をもって解釋すれば、四悉檀應機施教の因緣を懂得せず、胡亂に對治の法門を使用して、反って自己と別人の慧命を損傷す。小象傳は言う。軍隊車を用いて屍を拉して歸るは、全く功效なし。六四の爻辭は言う。軍隊は左方に退駐し、過錯なし。智旭は解説する。六四は柔弱なりと雖も正位を得、冒險僥倖して自ら失敗を取るを敢えてせず。ゆえに過錯なし。佛法をもって解釋すれば、これ唐代南山律宗の道宣律師に譬ゆ——一生專精戒律にして大乗を妄自標榜するを敢えてせず。力を量って處するは、正に「左次」なり。小象傳は言う。左に向かって退駐して過錯なきは、常規を失わざるなり。

六五:田有禽,利執言,無咎。長子帥師,弟子輿尸,貞凶。柔中之主,當此用師之時,仗義執言以討有罪,固無過也;但恐其多疑而不專任九二之長子,故誡以弟子輿尸,雖正亦凶。

爻辭は言う。六五、田裏に禽獸ありて害を爲す。理由を聲明して兵を出すに利あり、過錯なし。長子に由りて軍隊を統率せしめば則ち可なり。若し次子らをして一同に參與せしめば、屍を載て歸らんと要す。縱然正を守るとも凶なり。智旭は易理に依って解説する。六五は柔順にして中を得たる君主にして、正に兵を用うるの時に當り、道義を仗りて理由を聲明して罪あるを討伐するは、本來過錯なし。ただ它の疑心太重くして、專一に九二の此の「長子」を任用するを肯んぜざるを怕る。ゆえに爻辭は告誡して「弟子輿屍」と曰く——人を用うるに專ならざれば、縱然正當の動機を出ずとも凶なり。軍事は最も兩人の主を爲すを忌む。これ六五の唯一の危險なり。

佛法釋者:田中有禽,妨害良禾,喻心有煩惱,妨害道芽也。利執言者,宜看經教以照了之也。然看經之法,依義不依語,依了義不依不了義,依智不依識。若能深求經中義理,隨文入觀,則如長子帥師;若但著文字,不依實義,則如弟子輿尸,雖貞亦凶,此如今時教家。象曰:長子帥師,以中行也;弟子輿尸,使不當也。

佛法をもって解釋すれば。田裏に禽獸ありて好莊稼を妨害するは、心中に煩惱ありて道芽を妨害するを比喩す。「利執言」は、當に經教を研讀して煩惱を照破すべきを説くなり——「言」は此處經教の言に讀まれたり。しかるに經を讀むに經を讀むの法則あり。卽ち《涅槃經》の「四依」なり。依義不依語(義理に依循して文句に拘泥せず)、依了義不依不了義(究竟の説に依循して權宜の説に停まらず)、依智不依識(智慧に依循して情識に隨わず)。若し能く深く經中の義理を探求し、經文に隨って觀照に進入せば、則ち「長子帥師」に似たり。若し只だ文字に執著して眞實義理に依循せざれば、則ち「弟子輿屍」に似たり。縱然正を守るとも凶なり——これ正に當今のあの經を講じ論教する人らに似たり。智旭本人は教相を精研するの大師にして、此の一句の自我鍼砭は尤も分量あり。小象傳は言う。長子の軍隊を統率するは、中道を行ずるなり。次子らの屍を載て歸るは、任使の當を得ざるなり。

上六:大君有命,開國承家,小人勿用。方師之始,即以失律凶為誡矣;今師終定功,又誡小人勿用。夫小人必徼倖以取功者耳。蘇氏云:「聖人用師,其始不求苟勝,故其終可以正功。」

爻辭は言う。上六、大君は冊命を頒下し、諸侯を封建し卿大夫の家を承繼せしむ。小人は任用すべからず。智旭は解説する。師を出すの初めに當りて、すでに「失律則凶」を以て告誡せり。今は戰事結束して功を論じ賞を行ふに、又告誡して小人は任用すべからずと曰く。小人は必ず僥倖を以て戰功を取得するが故なり。彼は蘇氏の言を引く。聖人の兵を用ゐるは、一開始に於いて苟且の勝を求めず。ゆえに最後に到りて乃ち公正に功勞を評定すること能くす。始終の兩頭皆守住せば、中間自然亂れず。

佛法釋者:正當用對治時,或順治,或逆治,於通起塞,即塞成通,事非一概。今對治功畢,入第一義悉檀,將欲開國承家,設大小兩乘教法以化眾生,止用善法,不用惡法。儻不簡邪存正,簡愛見而示三印一印,則佛法與外道幾無辨矣。象曰:大君有命,以正功也;小人勿用,必亂邦也。

佛法をもって解釋すれば。正に對治法門を使用するの時、ある時は順って來て治し、ある時は逆って來て治す。ある時は本來通達の處に於いて反って堵塞を生出し、ある時は堵塞の處に就いて當下に轉成して通達す——手法は一概に論ずべからず。今は對治の功夫すでに完成し、「第一義悉檀」に進入して、將に「開國承家」せんとし、大乗小乗の兩套の教法を建立して衆生を化度する。此の時は卽ちただ善法を用いて、再び惡法を用ゐず。倘若も邪正を簡別し「愛見」(貪愛と邪見の兩類の煩惱)を剔除すること能わずして、三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂靜、用いて小乗を印定す)と一實相印(用いて大乗を印定す)を以て説く所を判定すれば、則ち佛法と外道とは幾ほど分辨し出す能わず——これ卽ち「小人勿用」なり。小象傳は言う。大君の冊命を頒下するは、公正に功勞を評定せんとするがためなり。小人は任用すべからず、必ず邦國を擾亂するが故なり。

比卦(坤下坎上)

(坤下 坎上)比:吉。原筮元永貞,無咎。不寧方來,後夫凶。用師既畢,踐天位而天下歸之,名比,比未有不吉者也。然聖人用師之初心,但為救民於水火,非貪天下之富貴;今功成眾服,原須細自筮審,果與元初心相合而永貞,乃無咎耳。夫如是,則萬國歸化而不寧方來;彼負固不服者,但自取其凶矣。

「坤下坎上」は卦體を標明す。卦辭は言う。比卦、吉。初心を推原し反復審度し、若し真に善の長にして能く長久に正を守らば、過錯なし。安寧ならざる邦國は紛紛として前來歸附し、來ること遲き人は則ち凶なり。「比」は親附なり。智旭は易理に依って解説する。兵を用いること完畢して、天子の位に登りて天下歸心す。これを「比」と叫ぶ。比は從來不吉ならず。しかるに聖人の當初兵を用いし本心は、ただ百姓を水火の中より救出せんと爲のみ、天下の富貴を貪圖するに非ず。今は功業すでに成り衆人歸服す。本來當に仔細に自我に筮問審察すべし。果して最初のあの份の本心と相合して能く長久に正を守らば、算して過錯なしと言ふべし。能くかくのごとくならば、則ち萬國皆來り歸化し、安寧ならざる邦國も紛紛として前來す。至ってあの險固を倚仗して歸服するを肯んぜざるは、不過是れ自ら凶禍を取るのみなり。彼は「原筮」を「推原初心」に讀み、全卦の立脚點と爲す。

佛法釋者:善用對破法門,則成佛作祖,九界歸依,名比。又觀心釋者:既知對破通塞,要須道品調適,七科三十七品相屬相連名比。仍須觀所修行,要與不生不滅本性相應,名原筮元永貞無咎,所謂圓四念處、全修在性者也。一切正勤根力等,無不次第相從,名不寧方來;一切愛見煩惱不順正法門者,則永被摧壞而凶矣。

佛法をもって解釋すれば。對治破除の法門を運用するに善ければ、卽ち成佛作祖して九法界の衆生皆來り歸依す。これを「比」と叫ぶ。若し「觀心」に就いて解釋すれば、旣に對治破除の中の通と塞とを懂得せば(これは上一卦師の功夫)、接下して須く「道品調適」——天台十乘觀法の第六乘、三十七道品を調整選配す——すべし。三十七道品は七科に分かる。四念處・四正勤・四如意足・五根・五力・七覺支・八正道にして、彼此相屬相連す。これを「比」と叫ぶ。同時に還た須く自己の修する所の行を觀照して、務めて不生不滅の本性と相應せしめよ。これを「原筮元永貞无咎」と叫び、卽ち所謂「圓四念處」(圓教の四念處觀)「全修在性」なり。一切の四正勤・五根・五力等等、次第に隨從して來らざる無し。これを「不寧方來」と叫ぶ。至って一切の貪愛邪見の煩惱・正法門に順わざるは、卽ち永遠に摧毁せられて凶なり。

彖曰:比,吉也;比,輔也,下順從也。原筮元永貞無咎,以剛中也。不寧方來,上下應也。後夫凶,其道窮也。比則必吉,故非衍文,餘皆可知。佛法釋者:約人,則九界為下,順從佛界為輔;約法,則行行為下,順從慧行為輔。剛中,故能全性起修、全修在性。上下應者:約人,則十界同稟道化;約法,則七科皆會圓慧也。其道窮者:約人,則魔外不順佛化而墮落;約法,則愛見不順正法而被簡也。

彖傳は言う。比は是れ吉なり。比は是れ輔助にして、下に在る者は上に在る者に順從す。「原筮元永貞无咎」は、九五剛健にして中を得るが故なり。「不寧方來」は、上下相應するなり。「后夫凶」は、彼の道路すでに盡頭に至れるが故なり。智旭は先に文字を辨ず。「比,吉也」の三字は衍文に非ず。比は必ず吉なるが故に、其餘各句は文面に照らせば明白なり。佛法をもって解釋すれば、「人」の一面に就いて言わば、九法界衆生は下に在り、佛界に順從するは卽ち輔助なり。「法」の一面に就いて言わば、「行行」(事修)は下に在り、「慧行」(觀慧)に順從するは卽ち輔助なり。「剛中」、ゆえに能く全體性に依って修を起こし全部の修行本性を出でず。所謂「上下應」。人に就いて言わば、十法界同じく佛道の教化を受くるなり。法に就いて言わば、七科道品皆圓融の智慧に會歸するなり。所謂「其道窮」。人に就いて言わば、天魔外道は佛の教化に順わずして墮落するなり。法に就いて言わば、貪愛邪見は正法に順わずして簡除せらるるなり。

象曰:地上有水,比,先王以建萬國親諸侯。建萬國親諸侯,即所謂開國承家者也。佛法釋者:地如境諦,水如觀慧;地如寂光,水如三土差別,皆比之象也。約化他,則建三土剎網,令諸菩薩轉相傳化;約觀心,則立陰界入等一切境以為發起觀慧之地,觀慧名諸侯也。此是道品調適,謂七科三十七品相比無間。

大象傳は言う。地上に水あるは比なり。先王は此に取法して萬國を分封し諸侯を親近す。智旭は解説する。萬國を分封し諸侯を親近するは、卽ち師卦上六の説く所の「開國承家」なり。佛法をもって解釋すれば、地は觀ずる所の「境諦」に譬え、水は能觀の「觀慧」に譬う。地はまた常寂光土に譬え、水は同居・方便・實報の三土の種種の差別に譬う——これらは皆「比」(相親し相依る)の象なり。他を化度するの一面に就いて言わば、三土の剎海の網を建立して、衆菩薩をして輾轉相傳して教化せしむるなり。觀心の一面に就いて言わば、五陰・十八界・十二入等の一切境を立起して、觀慧を發起するの所依の地と爲し、而して觀慧は便ち諸侯に譬ゆ。これ正に「道品調適」なり。七科三十七道品彼此緊密に相連して間隙なし。

初六:有孚比之,無咎;有孚盈缶,終來有他吉。柔順之民,率先歸附,有孚而無咎矣。下賤之位雖如缶器,而居陽位,有君子之德焉,故為有孚盈缶,將來必得徵庸,有他吉也。

爻辭は言う。初六、誠信を懷きて親附せば、過錯なし。誠信は瓦缶を裝滿したるがごとく充實し、最終還た意外の吉慶あらん。智旭は易理に依って解説する。柔順の百姓率先して歸附し、誠信有りて因って過錯なし。それ處する所の位置卑下にして、只だ粗陋の瓦缶に似たると雖も、しかるにそれ陽位に居りて君子の德を含有す。ゆえに「有孚盈缶」と言う——器は粗なりと雖も內容は滿ちり。將來必ず徵召任用を得ん。ゆえに意外の吉慶あり。

約佛法者:初六如人道,六二如欲天,六三如魔天,六四如禪天,九五如佛為法王,上六如無想及非非想天。今人道易趣菩提,故有他吉。約觀心者:初六如藏教法門,六二如通教法門,六三如愛見法門,六四如別教法門,九五如圓教真正法門,上六如撥無因果邪空法門。今藏教正因緣境,開之即是妙諦,故有他吉。象曰:比之初六,有他吉也。

佛法を以て六爻に配すれば。初六は人道に譬え、六二は欲界天に譬え、六三は魔天(他化自在天)に譬え、六四は色界禪天に譬え、九五は佛の法王たるに譬え、上六は無想天と非想非非想天とに譬う。人道は最も菩提に趨向し易し——苦樂參半にして、旣に厭離の心ありまた修行の力あり。ゆえに「有他吉」と言う。觀心を以て六爻に配すれば。初六は「藏教」法門(三藏教、卽ち小乗析空の教)に譬え、六二は「通教」法門(前の藏教に通じ後の別圓に通ずる體空の教)に譬え、六三は貪愛邪見を夾帶する法門に譬え、六四は「別教」法門(二乘に別して次第に修證する菩薩の教)に譬え、九五は「圓教」眞正法門(圓融頓足の教)に譬え、上六は因果を撥無する邪空法門に譬う。藏・通・別・圓は合して「化法四教」と稱し、天台判教の骨架なり。今藏教の觀ずる「正因緣境」は、一經開顯すれば便ち微妙の眞諦なり。ゆえに「有他吉」と言う——小教は小なりと雖も、これを開けば卽ち圓なり。小象傳は言う。比卦の初六は、意外の吉慶あり。

六二:比之自內,貞吉。柔順中正之臣,上應陽剛中正之君,中心比之,故正而吉也。佛法釋者:欲天有福亦復有慧,但須內修深定;又通教界內巧度,與圓教全事即理相同,但須以內通外。象曰:比之自內,不自失也。

爻辭は言う。六二、內部より親附し、正を守りて吉を得。智旭は易理に依って解説する。六二は柔順中正の臣子にして、上りて陽剛中正の九五の君と相應す。心裏の底を打ちて親附す。ゆえに正にして吉を得。佛法をもって解釋すれば、欲界天は旣に福報ありまた智慧あり、ただ還た須く內に向かって深定を修習すべし。別の一層。通教は三界之內の「巧度」——色心を析破するを須いず、直に當體卽空を觀じ、藏教の「拙度」(一點一點分析して始めて空を見る)より來たること巧妙なり。それは圓教の「全部の事相は當體卽ち理體」の説法と相似す。ただ還た須く內より外に通じて、界內の巧よりさらに界外の圓に進むべし。小象傳は言う。內部より親附するは、自己を失掉せざるなり。

六三:比之匪人。不中不正,居下之上,又無陽剛師友以諫諍之,故曰比之匪人。佛法釋者:魔波旬無一念之善,又愛見決不與佛法相應。象曰:比之匪人,不亦傷乎。六四:外比之,貞吉。柔而得正,近於聖君,吉之道也,但非其應,故名外比,誡之以貞。佛法釋者:色界具諸禪定,但須發菩提心,外修一切差別智門;又別教為界外拙度,宜以圓融正觀接之。象曰:外比於賢,以從上也。九五既有賢德,又居君位,四外比之,理所當然,亦分所當然矣。

六三の爻辭は言う。親附する所は正當の人に非ず。智旭は解説する。六三は中に居らず正ならず、下卦の上に居り、また陽剛の師友ありてそれに規諫するなく、ゆえに「比之匪人」と言う。佛法をもって解釋すれば、魔王波旬は一念の善なるなく、而して貪愛と邪見の此の兩類の煩惱もまた決して佛法と相應せず。小象傳は言う。親附する所は正當の人に非ず。豈に傷むべからざらんや。六四の爻辭は言う。外に向かって親附し、正を守りて吉を得。智旭は解説する。六四は柔順にして正位を得、九五の此の聖君に近づくは吉道なり。ただ九五はその正應に非ず。ゆえに「外比」と叫び、因って「貞」を以てそれを告誡す。佛法をもって解釋すれば、色界天は種種の禪定を具足す、ただ還た須く菩提心を發し、外に向かって一切差別智の法門を修習すべし。別の一層。別教は三界之外の「拙度」——三界を出でると雖も修證はなお次第に循う。宜しく圓融正觀を以てそれを接引すべし。小象傳は言う。外に向かって賢者を親附するは、上位に在る人に順從するなり。智旭は補説す。九五は旣に賢德あり、また君位に居り。六四の外に向かってそれを親附するは、理に於いて當然、分に於いても當然なり。

九五:顯比,王用三驅,失前禽,邑人不誡,吉。陽剛中正,為天下之共主,故名顯比,而聖人初無意於要結人心也。如成湯於四面之網解其三面,任彼禽獸驅走,雖失前禽,邑人亦知王意而不警誡,此所謂有天下而不與,吉之道也。

爻辭は言う。九五、光明正大に親附す。君王の田獵はただ三面より驅趕し、前面の禽獸の逃走するに任し、邑中の人も戒備を加えず、吉。智旭は易理に依って解説する。九五は陽剛中正にして天下共同の君主なり。ゆえに「顯比」と叫ぶ——光明顯豁の親附。而して聖人は本來人心を籠絡するの意なし。これ商湯の人の四面に網を張りて鳥を捕らふるを見て、三面を解開せしめて禽獸の逃走するに任するに似たり。迎面して來るの獵物を失掉すると雖も、邑中の人も君王の用意を明白して戒備を加えず。これ正に所謂「天下を有して己が有と據えず」にして、吉道なり。

佛法釋者:法王出世,如果日當空,名顯比。三輪施化,又初中後三語誘度,又令種熟脫三世得益,名王用三驅。於無緣人善用大舍三昧,即諸佛弟子亦不強化無緣之人,名失前禽邑人不誡。

佛法をもって解釋すれば。法王は世に出現して、烈日の當空に普照するがごとし。これを「顯比」と叫ぶ。而して「王用三驅」は三種の讀法あり。一は身・口・意の「三輪」を以て教化を施行す。二は初善・中善・後善の「三語」を以て誘導度化す。三は衆生をして「種・熟・脫」の三世の中に於いて獲益せしむ——過去世に下種し、現在世に成熟し、未來世に解脫す。至って法緣なき人に對しては、「大捨三昧」を善用す——捨して强求せず。諸佛弟子をもしても無緣の人を强行化度せず。これを「失前禽,邑人不誡」と叫ぶ。佛は無緣の人を度せず。正に成湯の網の三面を開くと同一の意思なり。

觀心釋者:實慧開發,如赫日麗天,名顯比。一心三觀,又轉接會前三教,名王用三驅。覺意三昧,隨起隨觀,不怕念起,只怕覺遲;一覺則歸於正念,不以前念之非介懷,名失前禽邑人不誡。象曰:顯比之吉,位正中也;舍逆取順,失前禽也;邑人不誡,上使中也。

若し觀心に就いて解釋すれば。眞實の智慧開發せらるるは、赤日の天空に高懸するがごとし。これを「顯比」と叫ぶ。而して「王用三驅」は、一指して「一心三觀」——空・假・中の三觀同じく一念に在り。二指して圓教を以て前面の藏・通・別の三教を轉・接・會通す。至って「覺意三昧」——心念の起る處に於いて起れば隨に觀じ、念念覺照するの三昧。正に禪門のあの常語のごとし。念の起るを怕れず、ただ覺の遲きを怕る。一たび覺れば正念に回到して、前の一念の過失を心に挂けず——これを「失前禽,邑人不誡」と叫ぶ。逃走する念頭はそれを追わず、心裏にも戒備張皇する必須なし。小象傳は言う。顯比の吉なる所以は、位に居りて正中なるが故なり。背離するを放走し歸順するを接納す。ゆえに前面の禽獸を失う。邑人の戒備を加えざるは、上に在る者の彼らをして中を守らしむるが故なり。

上六:比之無首,凶。陰柔無德,反據聖主之上,眾叛親離,不足以為人首矣。佛法釋者:窮空輪轉,不能見佛聞法,假饒八萬劫,不免落空亡。觀心釋者:豁達空,撥因果,自謂毗盧頂上行,悟得威音王那畔又那畔,實不與真實宗乘相應,業識茫茫,無本可據,生死到來,便如落湯螃蟹也。象曰:比之無首,無所終也。

爻辭は言う。上六、親附する而も頭領なし、凶。智旭は易理に依って解説する。上六は陰柔にして德なく、反って聖主の上に占據し、衆叛親離して、人の首領と爲るに配せず。佛法をもって解釋すれば、空を盡頭に修してなお輪迴に在り、佛を見ず法を聞かず、縱使八萬大劫を活すとも、空亡に落入するを免れず。若し觀心に就いて解釋すれば、これ卽ち「豁達空」——一味に空を認め因果を否定するの邪見なり。此の種の人は毘盧遮那佛の頭頂の上に行走するを自稱し、已に威音王佛以前のあの一邊またあの一邊の消息を悟得したりと自稱す。其實眞實の宗門乘教と毫も相應せず。業識茫茫たる一片にして、依據すべき根本なし。生死の到來を待てば、便ち滾水の裏に掉し入れたる螃蟹のごとく、手忙腳亂す。小象傳は言う。親附して頭領なきは、歸結の處なきなり。此の數句は智旭の當時の狂禪の弊に對する最も留情なき一擊なり。

從屯至此六卦,皆有坎焉。坎得乾之中爻,蓋中道妙慧也,其德為陷為險。夫煩惱大海與薩婆若海,豈真有二性哉。且從古及今,無不生於憂患,死於安樂,故四諦以苦居初,佛稱八苦為師。苦則悚惕而不安,悚惕不安則煩惱海動,而種智現前矣。聖人序卦之旨,不亦甚深也與。

これは智旭の屯以下六卦に對する一段の總論なり。屯卦より比卦に至る此の六卦、卦體の中に皆坎を含有す。坎の中爻は乾を取る。見るべし、それ本是中道の妙慧なり。而してそれの表現せる德性は卻って陷落・是れ險難なり——智慧は偏に險陷の裏に藏る。煩惱の大海と「薩婆若海」(一切智の海)とは、豈に眞に兩種の體性あらんや。況んや古より今に至り、人は無は憂患の中に生じ安樂の中に死する在らず。ゆえに佛は四諦を説いて「苦諦」を最前に排し、また「八苦」(生・老・病・死・愛別離・怨憎會・求不得・五陰熾盛)を自己の老師と稱す。人は一たび苦を受ければ驚惕不安となり、一たび驚惕不安となれば、煩惱の海は便ち攪動せられ、而して一切種智は反って此に因りて現前す。聖人の卦序を排列するの用意、亦深極ならずや。此の一段は全書の「煩惱卽菩提」に對する最も簡明の表述と視做すべし。

小畜卦(乾下巽上)

(乾下 巽上)小畜:亨,密雲不雨,自我西郊。畜,阻滯也;又讀如蓄,養也。遇阻滯之境,不怨不尤,惟自養以消之,故亨,然不可求速效也。約世法,則如垂衣裳而天下治,有苗弗格;約佛法,則如大集會中魔王未順;約觀心,則如道品調適之後,無始事障偏強,阻滯觀慧,不能克證。

「乾下巽上」は卦體を標明す。卦辭は言う。小畜卦、亨通す。濃雲密布して然れど雨を下さず、雲は我が西郊より飄來す。智旭は先に卦名を釋す。「畜」に兩讀兩義あり。一は阻滯、一は「蓄」のごとく讀みて卽ち畜養なり。阻滯の處境に遇いて、別人を埋怨せず命運を責怪せず、ただ自我に涵養してそれを化解す。ゆえに亨通す。しかるに速效を求むべからず。彼は接着三層に分つ。世間法に就いて言わば、聖王の衣裳を垂れて天下大治するに、偏偏三苗なお歸服するを肯んぜざるがごとし。佛法に就いて言わば、佛の大集法會の中に在りて魔王未だ歸順せざるに似たり。觀心に就いて言わば、「道品調適」(上一卦の比の功夫)の後に、無始以來の「事障」——事相上の煩惱習氣——が偏に强盛して觀慧を阻滯し、人をして剋期取證すること能わざらしむるがごとし。三層竝列す。是れ全書の卦を解くの固定格式にして、讀者は此に據りて彼の哪の一層の上に於いて説話するを分辨すべし。

然聖人御世,不忌頑民;如來化度,不嫌魔侶;觀心勝進,豈畏夙障。譬諸拳石,不礙車輪;又譬鍾擊則鳴,刀磨則利,豬揩金山,益其光彩,霜雪相加,松柏增秀,故亨也。然當此時雖不足畏,亦不可輕於取功,須如密雲不雨自我西郊,直俟陰陽之和而後雨耳。蓋凡云起於東者易雨,起於西者難雨,今不貴取功之易,而貴奏效之遲也。

しかるに聖人の世を治するは、頑劣の百姓あるを忌諱せず。如來の衆生を化度するは、魔類を伴と爲すあるを嫌棄せず。觀心を修する人は節節向上すれば、又ぞ何を須いて宿世の障礙を害怕せんや。拳頭大の石頭は車輪を擋ぐに住まざるがごとく、また鍾は敲かば響き、刀は磨かば利く、野豬は金山の上に痒を蹭れば反って金山の光彩を增添し、霜雪は一層一層壓し上がれば松柏は反って愈々秀挺するがごとし——障礙は正に成就の助緣なり。ゆえに「亨」と言う。しかるに此の時に於いては、障礙は畏るるに足らずと雖も、亦輕率に急いで成を求むべからず。須く「密雲不雨,自我西郊」のごとく、一直に陰陽調和するを待ちて然る後に降雨すべし。大凡雲の東邊より起るは雨が易く、西邊より起るは雨が難し。今は看重する所は取效の易きに非ずして、正に奏效の來ること遲きなり——慢はこそ此の一卦の功夫の所在なれ。

楊慈湖曰:「畜有包畜之義,故云『畜君何尤』。此卦六四以柔得近君之位,而上下諸陽皆應之,是以小畜大,以臣畜君,故曰小畜。」其理亦通,其六爻皆約臣畜君說亦妙。

智旭は楊簡の言を引く。「畜」は包容畜養の意思あり。ゆえに《孟子》は晏子の言を引いて「畜君何尤」——「畜君」は卽ち君主を勸阻し約束するにして、何の過錯かあらん——と曰く。本卦の六四は一箇の柔爻を以て君位に接近するの位置を得、而して上下の衆陽爻皆それと相應す。これ小を以て大を畜養し臣を以て君を畜養す。ゆえに「小畜」と叫ぶ。智旭は評論す。此の道理も亦講じ通じ、而且六爻を全く「臣畜君」に按じて講ずるも、甚だ精妙なり。彼は一説を獨尊せず。凡そ講じ通ずるは皆收め入る。これ本書の體例上の一箇の特點なり。

陳旻昭曰:「小畜者,以臣畜君,如文王之畜紂也。亨者,冀紂改過自新,望之之辭也。密雲不雨自我西郊者,言只因自我西郊故不能雨,怨己之德不能格君,乃自責之辭,猶所云『臣罪當誅,天王聖明』也。六四則是出羑里時,九五則是三分天下有二以服事殷之時,上九則是武王伐紂之時,故施已行而既雨。然以臣伐君,冒萬古不韙之名,故曰君子征凶。」

智旭はまた陳旻昭の言を引く。所謂小畜は、臣下を以て君主を畜養約束するにして、文王の紂王に於けるがごとし。「亨」と言うは、紂王の能く過を改め自新するを希望するにして、これ期望の辭なり。「密雲不雨,自我西郊」と言うの意思は、只だ雲は我が西郊(周は殷の西に在り)より起りたるがゆえに、雨を下すこと成らず——これは自己の德行の君主を感格する能わざるを埋怨するにして、自責の辭に屬す。韓愈《拘幽操》の寫す所の「臣罪當誅兮,天王聖明」に同じ。此の一讀法に按ずれば、六四は文王の羑里の囚より走出するの時、九五は天下三分に其の二を有してなお臣禮を以て殷商に服事するの時、上九は則ち武王の紂を伐つの時——恩施すでに推行せり。ゆえに「既雨」と言う。しかるに臣下を以て君主を討伐するは、萬古不韙の名聲を冒すを要す。ゆえに爻辭は「君子征凶」と言う。此の一説は整卦を一部の周の殷に代わるの史事に讀み、前面の觀心の説と竝存して廢せず。

彖曰:小畜,柔得位而上下應之,曰小畜。健而巽,剛中而志行,乃亨。密雲不雨,尚往也;自我西郊,施未行也。既畜矣而云小者,以在我之柔德既正,又有上下之剛應之,所以一切外難不足擾我鎮定剛決之德,反藉此以小自養也。健則無物慾之邪,巽則無躁動之失,剛中則慧與定俱,故其志得行而亨也。雲雖密而尚往,則修德不妨益進;自西郊而施未行,則取效不可欲速。

彖傳は言う。小畜卦、柔爻位を得て上下皆それと相應す。ゆえに小畜と叫ぶ。剛健にして而も謙順、剛爻中に居りて志向は施行するを得、因而亨通す。「密雲不雨」は、雲なお前に往きつつあるなり。「自我西郊」は、恩施未だ推行せざるなり。智旭は解説する。旣にすでに「畜」たれば、而もなおそれを「小」と稱するは、我の此の一邊の柔德旣に端正、また上下の剛爻それと相應する有るが故に、ゆえに一切の外來の困難皆我の鎮定剛決の德を擾亂するに足らず、反って此らの困難を借りて稍稍自己を涵養す。「健」、ゆえに物欲の邪染なし。「巽」、ゆえに躁動の過失なし。「剛中」、ゆえに智慧と禪定と倂具す——因此志向は施行するを得て亨通す。雲は濃密なりと雖も而もなお前に往きつつあるは、修德は繼續精進するを妨げざるを説明す。雲は西郊より來りて恩施未だ推行せざるは、取效は快を求むべからざるを説明す。

象曰:風行天上,小畜,君子以懿文德。鼓萬物者莫妙於風。懿文德,猶所謂「遠人不服,則修文德以來之」,舞千羽於兩階而有苗格,即是其驗,故曰「君子之德風」也。觀心,則遍用事六度等對治助開,名懿文德。

大象傳は言う。風の天上を行走するは小畜なり。君子は此に取法して自己の文德を修美す。智旭は解説する。萬物を鼓動するは、風より微妙なる莫し。「懿文德」は、卽ち《論語》の説く「遠方の人の歸服せざれば、文德を修明して彼らを招徠す」。舜は兩階の間に干羽を舞して有苗歸服せり。正に此の話の驗證なり。ゆえに《論語》は又「君子之德風」と言う——君子の德は風のごとく、風過ぎれば草伏す。若し觀心に就して言わば、則ち普く事相上の六度等等の法門を運用して對治し輔助して正觀を開顯す。これを「懿文德」と叫ぶ。此の一句點明す。小畜の畜する所は別のならず、正に十乘觀法第七乘「對治助開」の功夫なり。

初九:復自道,何其咎,吉。象曰:復自道,其義吉也。九二:牽復,吉。象曰:牽復在中,亦不自失也。九三:輿說輻,夫妻反目。象曰:夫妻反目,不能正室也。六四:有孚,血去惕出,無咎。象曰:有孚惕出,上合志也。九五:有孚孿如,富以其鄰。象曰:有孚孿如,不獨富也。上九:既雨既處,尚德載,婦貞厲,月幾望,君子征凶。象曰:既雨既處,德積載也;君子征凶,有所疑也。

以下は小畜六爻の爻辭と小象にして、智旭は彼らを一處に倂列し、然る後に統一して解説す。初九、自己の正道に回到す、何の過錯かあらん、吉。小象、自己の正道に回到するは、道理に就いて言えば吉なり。九二、牽引せられて一同に返回す、吉。小象、牽引して返回して中位に居るは、亦自己を失掉せず。九三、車輪の輻條脫落せり、夫妻反目す。小象、夫妻反目するは、家室を端正する能わざるなり。六四、誠信あり、血光の災消去し、憂懼解脫し、過錯なし。小象、誠信ありて憂懼解脫するは、上位者と心志相合するなり。九五、誠信ありて彼此牽連相繫し、能く自己の財富を以て鄰里に惠及す。小象、誠信ありて牽連相繫するは、獨自富を享けざるなり。上九、雨すでに下しすでに安處せり。是れ德行を崇尚して積累して滿載に至るなり。婦人は正を守りて危懼を知るべし。月は滿盈に接近す。君子若し出征せば則ち凶。小象、雨すでに下しすでに安處せるは、德行積累して滿載に至れるなり。君子出征すれば則ち凶なるは、心中疑慮ある所有るが故なり。

時當小畜,六爻皆有修文德以來遠人之任者也。初九剛而得正,克己復禮,天下歸之,故吉。九二剛中,與初同復,故亦得吉。九三過剛不中,恃力服人,人偏不服,故輿說輻而不能行,尚不可以齊家,況可服遠人乎。六四柔而得正,能用上賢以成其功,故惕出而無咎。九五陽剛中正,化被無疆,故能富以其鄰。上九剛而不過,又居小畜之終,如密雲之久而既雨。

智旭は易理に依って六爻を統解す。時小畜に值り、六爻皆修明文德を以て遠人を招徠するの責任を擔負す。初九は剛强にして正位を得、自己を克制して禮上に回復すること能く、天下歸心す。ゆえに吉。九二は剛强にして中に居り、初九と一同に返回す。ゆえに亦吉を得。九三は剛强を過ぎて中に居らず、力量を倚仗して人を屈服せしむれば、人は偏偏服せず。ゆえに車輪は輻を脫して走り動かず。自家をすら齊へる能わざれば、況んや遠人を招徠せんや。六四は柔順にして正位を得、上位の賢者を任用して功業を成就する能くす。ゆえに憂懼解脫して過錯なし。九五は陽剛中正にして、教化廣被無邊なり。ゆえに富を以て鄰里に惠及する能くす。上九は剛强にして分を過ぎず、また小畜の終局に處す。濃雲の積聚すること久しきがごとくして終に雨下る。

遠近皆得安處太平,此乃懿尚文德至於積滿故能如此。然在彼臣婦,宜守貞而時時自危,不可恃君有優容之德而失其分。世道至此,如月幾望,可謂圓滿無缺矣;其在君子,更不宜窮兵黷武以取凶也。

遠近の人皆太平に安處するを得るは、これ文德を修美崇尚して一直に圓滿に積累したるがゆえに、乃ちかくのごとくなる能くす。しかるに臣下・婦人の分位の上に立っては、當に正を守りて時時危に自警して、君主に寬容の雅量あるを倚仗して自己の本分を失掉すべからず——これ正に爻辭「婦貞厲」の告誡なり。世道此の歩に到れば、月の滿盈に接近するがごとく、圓滿無缺と言うべし。而して君子の立場の上に立っては、更に窮兵黷武して凶を招くを致すべからず——これ「君子征凶」の告誡なり。一卦終に成功して、最も要緊なるは反って此の兩句の刹車の語なり。

○佛法觀心釋者:修正道時,或有事障力強,須用對治助開;雖用助開,仍以正道觀慧為主。初九正智力強,故事障不能為害而復自道。九二定慧得中,故能化彼事障反為我助而不自失。九三恃其乾慧,故為事障所礙而定慧兩傷。六四善用正定以發巧慧,故血去而惕出。九五中正妙慧,體障即德,故能富以其鄰。上九定慧平等,故事障釋然解脫,如既雨既處而修德有功。夫事障因對助而排脫,必有一番輕安境界現前,名之為婦;而此輕安不可味著,味著則生上慢,自謂上同極聖,為月幾望;若信此以往,則反成大妄語之凶矣,可不戒乎。

佛法の觀心を以て六爻を解釋すれば。正道を修するの時、ある時事障の力量强盛にして、必ず「對治助開」の法門を動用せざるべからず。助開の法を用いたると雖も、依舊として正道の觀慧を以て主と爲すを要す。初九は正智の力量强し。ゆえに事障はそれを害するを得ず、因って「復自道」。九二は定慧中を持す。ゆえに事障を轉化して反って自己の助力と成して自己を失わざる能く、因って「牽復」。九三はただあの點の干枯たる「乾慧」(慧ありて定なし)を倚仗す。ゆえに事障に擋がれて定慧兩敗俱傷す。因って「輿説輻,夫妻反目」——夫妻は正に定慧を喻す。六四は正定を運用して巧慧を發起するに善し。ゆえに「血去而惕出」。九五は中正の妙慧にして、障礙の當體卽ち功徳なるを體認する能くす。ゆえに「富以其鄰」。上九は定慧持平す。ゆえに事障は渙然として解脫し、雨すでに下しすでに安處せるがごとく、修德成效有り。至って事障の對治輔助に因って排除せらるるの後は、必ず一番の「輕安」の境界現前す。これを「婦」と叫ぶ。しかるに此の份の輕安は滋味を貪著すべからず。一たび貪著すれば卽ち「增上慢」を生じ、自ら已に極果聖人と同等と以爲す。これ卽ち「月幾望」なり。若し此の念頭を信じて一路に走下去れば、反って「大妄語」(未證言證)の凶に落成す——これ修行人の最重の罪なり。何ぞ戒懼せざるべからんや。

履卦(兌下乾上)

(兌下 乾上)履虎尾,不咥人,亨。約世道,則頑民既格,上下定而為履,以說應乾,故不咥人。約佛法,則魔王歸順,化道行而可履,以慈攝暴,故不咥人。約觀心,則對治之後,須明識次位,而成真造實履。觀心即佛,如履虎尾;不起上慢,如不咥人亨也。

「兌下乾上」は卦體を標明す。卦辭は言う。老虎の尾を踏むも、老虎は人を咥えず、亨通す。「履」は踐履・行走なり。智旭はなお三層に分けて解説す。世道に就いて言わば、頑劣の百姓旣に歸化し、上下の名分安定し、于是「履」に進入す。下卦の兌は「説」(悅)にして、喜悅を以て上卦の乾に順應す。ゆえに老虎は人を咥えず。佛法に就いて言わば、魔王すでに歸順し、教化の道推行して踐履すべし。慈心を以て暴戾を攝伏す。ゆえに咥えず。觀心に就いて言わば、「對治助開」の後(卽ち上一卦小畜の功夫)に、必ず明明白白に自己の處する所の位次を認清して、始めて眞實の踐履を成就する能くす——これ正に十乘觀法の第八乘「知次位」なり。當下此の心を觀照して當體卽ち佛なれば、脚の虎尾を踏むに譬え、稍々一たび足を失すれば卽ち大妄語と成る。而して始終增上慢を起さざれば、便ち老虎の人を咥えずして亨通するに譬ゆ。「卽佛」と「不起上慢」の此の一對は、正に履卦全篇の眼目なり。

彖曰:履,柔履剛也。說而應乎乾,是以履虎尾不咥人亨。剛中上,履帝位而不疚,光明也。履之道莫善於柔,柔能勝剛,弱能勝強,故善履者雖履虎尾亦不咥人,不善履者雖履平地猶傷其足。此卦以說應乾,說即柔順之謂;臣有柔順之德,乃能使彼剛健之主中正光明,履帝位而不疚,否則不免於夬履貞厲矣。佛法釋者:以定發慧,以修合性,以始覺而欲上契本覺,以凡學聖,皆名為柔履剛。得法喜名說,悟理性名應乾;不起上慢,進趣正位,則能以修合性,處於法王尊位如九五也。

彖傳は言う。履は、柔が剛を踏むなり。喜悅して乾に順應す。ゆえに虎尾を踏んで老虎は人を咥えず、亨通す。九五は剛健中正にして、帝位に履居して心に愧疚なく、光明正大なり。(按す。底本「剛中上」、通行本は「剛中正」と作す。今は照録して改めず。)智旭は易理に依って解説する。踐履の道は柔より善きはなし。柔は能く剛に勝ち、弱は能く强に勝つ。ゆえに踐履に善き人は、卽使虎尾を踏むとも咥えられず。踐履に善からざる人は、卽使平地の上を走るとも脚を傷むるを要す。本卦は喜悅を以て乾に順應す。「説」は卽ち柔順の意思なり。臣下は柔順の德有りて、始めてあの剛健の君主をして中正光明、帝位に履居して愧疚なからしむる能くす。然らざれば卽ち九五「夬履貞厲」の偏失を免れず。佛法をもって解釋すれば、定を以て慧を發し、修德を以て性德に契合し、「始覺」(後天にして覺悟を開始する心)を以て上りて「本覺」(本来自ら具足する覺性)に契合し、凡夫の身份を以て聖人を學ぶ、此ら皆「柔履剛」と叫ぶ。法喜を得るを「説」と叫び、理性に悟入するを「應乾」と叫ぶ。增上慢を起さずして節節に正位に進趨すれば、能く修を以て性に合し、法王の尊位の上に處して、九五のごとし。

象曰:上天下澤,履,君子以辯上下,定民志。佛法釋者:深知即而常六,道不浪階,是為辯上下、定民志。初九:素履,往無咎。象曰:素履之往,獨行願也。此如伯夷叔齊之履。佛法釋者:以正慧力,深知無位次之位次,以此而往,則不起上慢矣。

大象傳は言う。上は天、下は澤、是れ履なり。君子は此に取法して上下の名分を分辨し百姓の心志を安定す。佛法をもって解釋すれば、深く「卽而常六」を明白す——當體は卽ち佛なりと雖も、行位上はなお宛然として六箇の次第あり——因って絕對に虚妄に階次を跨越するを肯んぜず。これ卽ち「辯上下、定民志」なり。「道不浪階」の四字極めて重し。道を修するは隨便に階位を僭越すべからず。初九の爻辭は言う。本色素朴を以て行じ、前往すれば過錯なし。小象傳は言う。素履して往くは、獨自に自己の志願を踐行するなり。智旭は解説する。これ伯夷・叔齊の踐履に譬ゆ——その本色を守り、首陽に餓死して改めず。佛法をもって解釋すれば、正慧の力量を以て、深くあの「位次なきの位次」を明白す——理體に就いて言えば本來階差なく、修相に就いて言えば宛然として階あり——かくのごとき見解に依って前往すれば、增上慢を生起せざらん。

九二:履道坦坦,幽人貞吉。象曰:幽人貞吉,中不自亂也。此如柳下惠、蘧伯玉之履。佛法釋者:中道定慧進趣佛果,而不自滿足,潛修密證,不求人知,故吉。

爻辭は言う。九二、行く所の道は平坦寬闊、幽居の人は正を守りて吉を得。小象傳は言う。幽人正を守りて吉を得るは、心中自ら擾亂せざるなり。智旭は解説する。これ柳下惠・蘧伯玉の踐履に譬ゆ——一は三たび黜せられて慍らず、一は年五十にして四十九年の非を知る。皆外境寬平にして內心自守の人なり。佛法をもって解釋すれば、中道の定慧を以て佛果に進趨して、然れど自ら滿足と以爲せず、暗暗に修し暗暗に證し、人の知るを求めず。ゆえに吉。此の一爻は初九と合せて看て、正に「知次位」の功夫は全く聲響なき處に在るを説明す。

六三:眇能視,跛能履,履虎尾,咥人凶,武人為于大君。象曰:眇能視,不足以有明也;跛能履,不足以與行也;咥人之凶,位不當也;武人為于大君,志剛也。此如項羽、董卓之履。佛法釋者:知性德而不知修德,如眇其一目;尚慧行而不尚行行,如跛其一足。自謂能視,而實不見正法身也;自謂能履,而實不能到彼岸也。高談佛性,反被佛性二字所害,本是鹵莽武人,妄稱祖師,其不至於墮地獄者鮮矣。問:六三為悅之主,彖辭贊其應乾而亨,爻胡貶之甚也?答:彖約兌之全體而言,爻約六三不與初二相合、自信自任而言。

爻辭は言う。六三、一眼を瞎にしてなお自ら見る能くすと以爲し、一腿を瘸えてなお自ら走る能くすと以爲す。虎尾を踏んで老虎は人を咥え、凶。武夫は大君に充當す。小象傳は言う。獨眼の視る能くするは、真に看清るに算するに足らず。跛足の行く能くするは、人と同行するに足らず。咥えらるるの凶險は、位置當を得ざるなり。武夫の大君に充當するは、心志剛愎なり。智旭は解説する。これ項羽・董卓の踐履に譬ゆ——力を恃んで妄爲して、終に覆亡に至る。佛法をもって解釋すれば、ただ本具の性德を知りて後天の修德を知らざれば、一眼を瞎にしたるに似たり。ただ觀慧の「慧行」を崇尚して事修の「行行」を崇尚せざれば、一腿を瘸えたるに似たり。自ら見る能くすと以爲すれど、其實竝びに真の法身を見ず。自ら走る能くすと以爲すれど、其實彼岸に到達する能わず。佛性を高談して、反って「佛性」の此の兩字に害せらる。本是箇の粗魯武夫にして、卻って妄自に祖師と稱す。かくのごとき人の地獄に墮ちざるは實に少なし。人あるいは問う。六三は兌卦(悅)の主爻にして、彖辭は正にそれの乾に順應して亨通するを讚美す。何ゆえに爻辭は卻って貶斥する此のごとく厲しきや。回答して曰く。彖辭は兌卦の全體に就して説くなり。爻辭は六三の初九・九二と相合せずして、一味に自信自任するに就いて説くなり——同一の爻にして、整體より看れば是れ悅、孤立より看れば是れ狂なり。

九四:履虎尾,愬愬終吉。象曰:愬愬終吉,志行也。此如周公吐握勤勞之履。佛法釋者:定慧相濟,雖未即證中道,然有進而無退矣。九五:夬履貞厲。象曰:夬履貞厲,位正當也。此如湯武反身之履,亦如堯舜危微允執之履。或云:此是誡辭,恐其為漢武也,須虛心以應柔悅之臣,乃不疚而光明耳。佛法釋者:剛健中正,決定證於佛性,從此增道損生,出沒化物,不取涅槃以自安穩矣。

九四の爻辭は言う。虎尾を踏んで、戒懼不安にして、最終吉を得。小象傳は言う。戒懼不安にして終に吉を得るは、心志施行するを得るが故なり。智旭は解説する。これ周公の「一沐三握髮,一飯三吐哺」のごとき勤勉戒懼の踐履に譬ゆ。佛法をもって解釋すれば、定と慧と互相に濟助して、未だ立時に中道を證得せずと雖も、卻って前進あるのみにして後退なし。九五の爻辭は言う。剛決に踐履し、正を守りて危厲を知れ。小象傳は言う。夬履貞厲なるは、位置正當なるが故なり。智旭は解説する。これ商湯・周武の反躬自省の踐履に譬え、亦堯舜の相傳える「人心惟危,道心惟微,惟精惟一,允執厥中」の踐履に譬ゆ。人あるいは言う。これ告誡の辭にして、彼をして漢武帝のごとく剛愎自用と成るを怕れ、必ず虛心に柔順喜悅の臣下を接納して、乃ち愧疚なく光明なり。佛法をもって解釋すれば、九五は剛健中正にして、決定に佛性を證得すること能くす。此より「增道損生」——一敗分の無明を破るごとに、道業一敗分を增長して變易生死は一敗分を減損す——出沒自在に衆生を化度して、涅槃を取證して自己の安穩を圖るを肯んぜず。

上九:視履考祥,其旋元吉。象曰:元吉在上,大有慶也。此如堯舜既薦舜禹於天,舜禹攝政,堯舜端拱無為之履。佛法釋者:果徹因源,萬善圓滿,復吾本有之性,稱吾發覺初心,故大吉也。

爻辭は言う。上九、自己一生の踐履を回顧し、その中の吉凶の徵兆を考察す。若し能く周旋反復して欠缺する所なければ、大吉。小象傳は言う。大吉にして上位に居るは、大いに福慶あるなり。智旭は解説する。これ堯の舜を、舜の禹を上天に推薦したる後、彼らをして政事を攝理せしめ、自己は端拱無爲の踐履に譬ゆ——功成りて居らず。佛法をもって解釋すれば、果地は徹底して因地の源頭に通達し、萬種の善行圓滿具足して、我本來具有の自性に回復し、恰好として我が當初覺を求めて發心せるあの一念に符合す。ゆえに大吉。「稱吾發覺初心」の一句は、正に前面《文言》の引く所の「發心畢竟二不別」と相呼應す。修行は盡頭に走り至りて、不過是れ起點に回到するのみなり。

周易禪解卷第三·上經之三

周易禪解卷第二。周易禪解卷第三。北天目道人蕅益智旭著。

以上は《周易禪解》卷第二にして、解する所は屯・蒙・需・訟・師・比・小畜・履の八卦なり。以下卷第三に入り、泰・否の二卦より講起し、依舊として北天目道人蕅益智旭の撰著なり。履卦は「知次位」を講じ、泰否兩卦は接着して「能安忍」と「離法愛」を講ず。正に天台十乘觀法の最後の兩乘の次第なり。

泰卦(乾下坤上)

(乾下 坤上)泰:小往大來,吉亨。夫為下者每難於上達,而為上者每難於下交;今小往而達於上,大來而交於下,此所以為泰而吉亨也。約世道,則上下分定之後,情得相通,而天下泰寧;約佛法,則化道已行,而法門通泰;約觀心,則深明六即,不起上慢,而修證可期;又是安忍強軟二魔,則魔退而道亨也。強軟二魔不能為患是小往,忍力成就是大來。

「乾下坤上」は卦體を標明す。卦辭は言う。泰卦、小さきは往外し大なるは内に來り、吉にして亨通す。智旭は易理に依って解説する。下位に在る人は每每向上に通達し得ざるに苦しみ、上位に在る人は每每向下に交接し得ざるに苦しむ。今「小往」して上に通達し、「大來」して下に交接す。これ泰の吉にして亨通する所以の道理なり。彼はなお三層に分つ。世道に就いて言わば、上下の名分安定したる後、情意相通ずるを得て天下太平寧靜す。佛法に就いて言わば、教化の道すでに推行せられ、法門通暢無阻なり。觀心に就いて言わば、「六卽」の分位を深く明白して增上慢を起さざれば、修證便ち指望あり。此の外、此の一卦は還た十乘觀法の第九乘「能安忍」に配す——「强軟二魔」に安忍す。强魔は逆境の中の恐怖逼迫、軟魔は順境の中の名利供養にして、一硬一軟皆道を壞る能くす。魔退りて道亨くは、正に泰なり。强軟二魔患と爲す能わざれば、卽ち「小往」なり。忍力成就すれば、卽ち「大來」なり。

彖曰:泰,小往大來,吉亨,則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也。內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人,君子道長,小人道消也。約四時則如春,天地之氣交而萬物咸通;約世道如初治,上下之情交而志同為善;約體質,則內陽而外陰,陽剛為主;約德性,則內健而外順,無私合理;約取舍,則內君子而外小人,見賢思齊,見惡自省。故君子道長,則六爻皆有君子之道;小人道消,則六爻皆有保泰防否之功也。

彖傳は言う。泰卦の「小往大來,吉亨」は、天と地と交合して萬物通暢し、上と下と交合して心志相同じくするなり。內卦是れ陽にして外卦是れ陰、內是れ剛健にして外是れ柔順、內是れ君子にして外是れ小人なり。君子の道は日漸に生長し、小人の道は日漸に消退す。智旭は易理に依って逐層解説す。四時に就いて言わば、泰は春天に譬え、天地の氣交合して萬物皆通暢す。世道に就いて言わば、初めて太平を見るに譬え、上下の情交合して志同じくして善と爲す。體質に就いて言わば、內陽にして外陰にして、陽剛を以て主と爲す。德性に就いて言わば、內剛健にして外柔順、私心なくして理に合す。取捨に就いて言わば、內君子にして外小人——賢者を見れば卽ち彼に向かって看齊せんと想い、惡行を見れば卽ち自己を反省す。ゆえに「君子道長」——意思は六爻皆君子の道を含有す。「小人道消」——意思は六爻皆泰運を保住し否運を防備するの功夫を含有す。彼は「內君子外小人」を小人を排擠するに讀まずして、內に賢を取り外に惡を懲るに讀む。これ一層の化解なり。

佛法釋者:若得小往大來,則性德之天與修德之地相交,而萬行俱通也;向上玄悟與向下操履相交,而解行不分作兩橛也。內具陽剛之德,而外示陰柔之忍;內具健行不息之力,而外有隨順世間方便;內合佛道之君子,而外同流於九界之小人,能化九界俱成佛界,故君子道長而小人道消也。

佛法をもって解釋すれば。若し「小往大來」を做り得れば、則ち性德の此の「天」と修德の此の「地」と便ち相交合し、萬種の修行皆通暢無阻なり。向上の一路の玄妙悟解と向下の一路の實地操持とが相交合して、見解と行持と劈して兩截と成るに至らず。內裏に陽剛の德を具足し、外面は卻って陰柔の忍辱を示現す。內裏に剛健不息の力量を具足し、外面は卻って世間に隨順するの種種の方便あり。內裏は佛道に契合して是れ「君子」、外面は卻って九法界と同流して「小人」に混同す——正に同流するを肯んずるがゆえに、始めて九法界を統統佛界に化成する能くす。ゆえに君子の道生長し小人の道消退す。此處の「小人道消」は小人を趕走するに非ずして、小人をも君子に化成するなり。前の一段の世間の讀法と互相發明す。

象曰:天地交泰,后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。佛法釋者:天地之道,即性具定慧;天地之宜,即定慧有適用之宜;財成輔相,即以修裨性也。左右民者,不被強軟二魔所壞,則能用此二魔為侍者也。

大象傳は言う。天地交合して通泰なり。君主は此に取法して、天地の道を裁成し、天地の宜を輔助して、用いて百姓を護佑す。「財」は「裁」に通じ、その過を裁制す。「輔相」はその不及を補足す。佛法をもって解釋すれば、所謂「天地之道」は、卽ち本性の中に具足する所の定と慧なり。所謂「天地之宜」は、卽ち定慧各おのが適用するの場合あるなり。所謂「裁成輔相」は、修德を以て性德を補助するなり。所謂「左右民」(百姓を護佑す)は、强軟二魔に壞られざるを説き、反って此の兩種の魔を役使して自己の侍者と爲す能くす——魔は但だ彼を害し得ざるのみならず、還た彼のがために事を辦す。此の一句最も泰卦の「安忍」の功夫を見る。魔を躲開するに非ずして、魔を收服するなり。

初九:拔茅茹,以其匯,征吉。象曰:拔茅征吉,志在外也。陽剛之德,當泰之初,豈應終其身於下位哉。連彼同類以進,志不在於身家,故可保天下之終泰矣。九二:包荒,用馮河,不遐遺,朋亡,得尚于中行。象曰:包荒,得尚于中行,以光大也。剛中而應六五,此得時行道之賢臣也,故宜休休有容:荒而無用者包之,有才能馮河者用之,遐者亦不遺之,勿但以二陽為朋,乃得尚合六五中正之道而光大耳。

初九の爻辭は言う。茅草を拔起すれば、その根須を連ねて叢を成して俱に起つ。前往すれば則ち吉。小象傳は言う。茅を拔いて往きて吉を得るは、志向在外なり。智旭は解説する。初九は陽剛の德あり、正に泰運の初めに當る。何ぞ當に終身下位に待在るべけんや。同類を帶びて一同に上進し、志向は自己一身一家に在らず。ゆえに天下の始終太平を保住する能くす。九二の爻辭は言う。荒穢を包容し、徒歩河を涉るを敢えてし、疏遠の人を遺棄せず、黨を結びて私を營まずして、始めて中道に配合して行ずる能くす。小象傳は言う。荒穢を包容して中行に配合するは、光明廣大なるが故なり。智旭は解説する。九二は剛健にして中を得て上りて六五に應ず。これ時に得逢して道を行ずる能くする賢臣なり。ゆえに當に胸懷寬厚にして人を容る能くすべし。荒廢無用の人も亦彼を包容し、才干ありて徒歩河を涉るを敢えてする人は卽ち彼を任用し、疏遠の人も亦彼を遺棄せず。別の兩箇の陽爻をただ朋黨と當るなかれ。かくして始めて六五の中正の道に配合して光大するを得。

九三:無平不陂,無往不復,艱貞無咎,勿恤其孚,于食有福。象曰:無往不復,天地際也。世固未有久泰而不否者,顧所以持之者何如耳。九三剛正,故能艱貞而有福,挽回此天地之際。

爻辭は言う。九三、一直に平坦にして傾斜せざる無く、一直に往前して回返せざる無し。艱難の中に正を守れば過錯會せず。自己の誠信を憂慮するを須いず。食祿の上に自ら福分あり。小象傳は言う。一直に往前して回返せざる無きは、此處正に天地交接の邊際なるが故なり。智旭は解説する。世上は本來長久太平にして閉塞に轉ぜざる無し。ただ看るに何の辦法を以てそれを把持するかのみなり。九三は剛强にして正を得。ゆえに能く艱難の中に正を守りて福あり、天地交接の此の關口を挽回する能くす。九三は內卦の極に居り、正に泰の將に否に轉ぜんとするの臨界點なり。全卦の重量皆此の一爻の上に壓さる。

六四:翩翩不富以其鄰,不戒以孚。象曰:翩翩不富,皆失實也;不戒以孚,中心願也。柔正之德,處泰已過中之時,雖無致治真實才力,而賴有同志以防禍亂,則不約而相信,故猶可保持此泰也。

爻辭は言う。六四、翩然として下り、富有を待たずして鄰里と相從し、告誡を須いずして彼此信任す。小象傳は言う。翩然として富まざるは、三箇の陰爻皆空虛不實なるが故なり。告誡を須いずして彼此信任するは、內心の意願に出づるが故なり。智旭は解説する。六四は柔順守正の德あり、泰運すでに中點を過ぎたるの時に處す。それは致治の眞實才干なきと雖も、しかるに幸に志同道合の伙伴ありて共同に禍亂を防備するを得。因って約定せずとも彼此信任す。ゆえに還た此の份の泰運を保住する能くす。

俞玉吾曰:「泰之時,三陰陽皆應,上下交而志同,不獨二五也。乾之初爻即拔茅連茹以上交,四為坤之初爻,亦翩然連類而下交。三交乎上,既勿恤其孚;故四交於下,亦不戒以孚。上下一心,陰陽調和,此大道為公之盛,所以為泰。」季彭己曰:「失實,言三陰從陽而不為主也。陽實則能為主,陰虛則但順承乎陽而已,不有其富之義也。中心願者,言其出於本心也。」

智旭は兪琰(號は玉吾)の言を引く。泰卦の時、三箇の陰爻と三箇の陽爻と兩兩相應し、上下交合して心志相同じく、竝びに只だ九二と六五の此の一對のみならず。乾の初爻すでに「拔茅連茹」して向上に交接し、六四は坤の初爻にして、亦翩然として同類を帶びて向下に交接す。九三の向上に交接するは、旣に「勿恤其孚」。則ち六四の向下に交接するも、卽ち「不戒以孚」。上下は一條の心、陰陽調和す。これ正に《禮運》の説く「大道之行也,天下爲公」の盛況にして、ゆえに泰と稱す。また季彭己の言を引く。所謂「失實」は、三箇の陰爻は只だ陽爻に跟從して自ら主張を作さざるを説く。陽は是れ實にして、ゆえに主を爲す能くす。陰は是れ虛にして、ゆえに只だ陽に順承するのみ——これ卽ち「不有其富」の意思なり。所謂「中心願」は、此の份の信任は本心に出づるを説き、勉强に非ざるなり。

六五:帝乙歸妹,以祉元吉。象曰:以祉元吉,中以行願也。柔中居尊,下應九二,虛心用賢,而不以君道自專,如帝乙歸妹,盡其婦道而順乎夫子。夫如是,則賢人樂為之用,而泰可永保矣。

爻辭は言う。六五、帝乙はその妹妹を嫁出せしめ、因って福を得、大吉。小象傳は言う。因って福を得て大吉なるは、中に居りて自己の心願を實行するなり。智旭は解説する。六五は柔順にして中を得て尊位に居り、向下して九二と相應し、虛心に賢臣を任用して、君主の權柄を以て自ら專斷を作さず。これ殷王帝乙の妹妹を下嫁せしむるに似たり。女子はその爲婦の道を盡して丈夫に順從す。能くかくのごとくならば、則ち賢人は彼の用と爲るを樂しみ、泰運も亦長久に保住すべし。尊に居りて人に下るを肯んずるは、泰卦の最も要緊の一着なり。

上六:城復于隍,勿用師,自邑告命,貞吝。象曰:城復于隍,其命亂也。泰極必否,時勢固然,陰柔又無撥亂之才,故誡以勿復用師。上既失權,下必擅命,故有自邑告命者;邑非出命之所,而今妄自出命,亦可羞矣。然上六只是無才,而以陰居陰,仍得其正,非是全無德也,但遇此時勢,故命亂而出自邑人耳。

爻辭は言う。上六、城牆倒塌して城壕の裏に回り、軍隊を動用する勿れ。自己の采邑より命令を發布すれば、正を守ると雖も亦憾惜あらん。小象傳は言う。城牆倒れて城壕に回るは、政令すでに亂るるなり。智旭は解説する。泰は極處に到れば必ず否に轉ず。これ時勢の然らしむるなり。上六はまた陰柔にして撥亂反正の才干なし。ゆえにそれを告誡して再び軍隊を動用する勿らしむ。上位旣に權柄を失去せば、下面就ち必ず擅自に號令を發施す。因って「自邑告命」の事あり。采邑は本來政令を發布するの地方に非ず。今は卻って擅自に令を發す。亦羞羞愧に足る。不過上六は只だ才干なきのみ。それは陰爻を以て陰位に居りて、依舊としてその正を得。竝びに全く德行なきに非ず。ただかくのごとき時勢に遇上し、ゆえに政令混亂して邑人の手より出づるのみなり。

約佛法釋六爻者:夫欲安忍強軟二魔,須藉定慧之力。初九剛正,故內魔既降,外魔亦伏,似拔茅而連匯。九二剛中,故外魔既化,內魔不起,尚中行而光大。九三過剛,故須艱貞方得無咎;以其本是正慧,必能取定,故為天地相際。六四正定孚於正慧,故雖不富而能以鄰;知魔無實,則魔反為吾侍而如鄰。六五定有其慧,故能即魔界為佛界,具足福慧二種莊嚴,如帝乙歸妹而有祉元吉。上六守其劣定,故魔發而成亂。

佛法を以て六爻を解釋すれば、全く「强軟二魔に安忍す」に就いて説を立つ。此の兩種の魔に安忍せんと要せば、必ず定慧の力を憑藉せざるべからず。初九は剛强にして正を得。ゆえに內魔旣に降伏せられ、外魔もまた跟って伏下す。茅草を拔起して根須叢を成して俱に起つに譬ゆ——一箇を降せば便ち一片を降す。九二は剛强にして中に居る。ゆえに外魔旣に化度せられ、內魔も亦再生せず。因って中道を崇尚して光明廣大なり。九三は剛强を過ぐ。ゆえに必ず艱難の中に正を守りて始めて過錯なきを得す。それ本來正慧たれば、必ず禪定を攝取する能くす。ゆえに正に天地交接の邊際に當る。六四は正定と正慧と相孚合す。ゆえに富まずと雖も鄰里と相從する能くす。一たび魔の本來實體なきを知れば、魔は反って我の侍者と成りて、鄰居のごとし。六五は定の中に慧を帶びる。ゆえに能く當下に魔界を轉じて佛界と爲し、福德智慧の二種莊嚴皆具足す。帝乙の妹を嫁して福を得て大吉たるがごとし。上六は只だ自己のあの點の低劣の禪定を守住す。ゆえに魔は一たび發作すれば便ち禍亂と成る。六爻は降魔・化魔・用魔より一路に講じて魔に亂れらるるに至る。正に「能安忍」の此の一乘の完整の教程なり。

否卦(坤下乾上)

(坤下 乾上)否之匪人,不利君子貞,大往小來。約世道,則承平日久,君民逸德,而氣運衰頹;約佛法,則化道流行,出家者多,而有漏法起;約觀心,則安忍二魔之後,得相似證,每每起於似道法愛而不前進。若起法愛,則非出世正忍正智法門,故為匪人,而不利君子貞,以其背大乘道,退墮權小境界故也。

「坤下乾上」は卦體を標明す。卦辭は言う。否卦、閉塞するは正當の人に非ず。君子の正を守るに利あらず、大なるは往外し小なるは内に來る。智旭はなお三層に分けて解説す。世道に就いて言わば、太平の日子を過すこと久しきに、君主と百姓と皆德行を放縱し、氣運因って衰頹す。佛法に就いて言わば、教化の道流行して出家の人多し、有漏の法は反って滋生す。觀心に就いて言わば、强軟二魔に安忍したる後(卽ち上一卦泰の功夫)、「相似證」を得たるに、卻って每每「似道法愛」を生起するに因って再び前に往くを肯んぜず。所謂似道法愛は、あの眞道に近似するの境界に對して愛著の心を起せるなり——功夫は相似位に做り到り、境界安隱可喜にして、人は再び破るを捨得せず。一たび法愛を生起すれば、卽ち出世間の正忍・正智の法門に非ず。ゆえにそれを「匪人」と稱し、因って「不利君子貞」。それ大乗の道に背離して、權教小乗の境界の裏に退墮すればなり。これ正に十乘觀法の最後の一乘「離法愛」の對治せんとする所の病なり。

彖曰:否之匪人,不利君子貞,大往小來,則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下無邦也。內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子,小人道長,君子道消也。佛法釋者:若起似道法愛,則修德不合性德之天,而萬行俱不通也;向上不與向下合一,而不能從寂光垂三土之邦國也。

彖傳は言う。否卦の「不利君子貞,大往小來」は、天と地と交合せずして萬物通暢せず、上と下と交合せずして天下に邦國なし。內卦是れ陰にして外卦是れ陽、內是れ柔順にして外是れ剛健、內是れ小人にして外是れ君子なり。小人の道は日漸に生長し、君子の道は日漸に消退す。佛法をもって解釋すれば、若し似道法愛を生起せば、則ち修德は能く性德の此の「天」に契合せず、萬種の修行皆通暢せず——これ卽ち「天地不交而萬物不通」なり。向上の一路の悟解は向下の一路の操持と合して一と爲らざれば、能く常寂光土より實報・方便・同居の三土の邦國を垂化出ださず——これ卽ち「上下不交而天下無邦」なり。所謂「無邦」は、彼の讀むに來れば國家滅亡に非ずして、菩薩の下垂化度するを肯んぜざるにして、法界の中便ち衆生を安立するの處なきなり。

內證陰柔順忍,而置陽剛佛性於分外;內同二乘之小人,而置佛果君子於分外。自不成佛,不能化他成佛,故小人道長,君子道消也。強軟二魔,人每畏懼,故泰傳極慶快之辭以安慰之,令無退怯;順道法愛,人每貪戀,故否傳極嗟嘆之辭以警策之,令無取著。

內裏は只だ陰柔の順忍を證得するに、卻って陽剛の佛性を自己の分外に擺きて、己事に干らずと以爲す。內裏は二乘のごとき「小人」に同じくして、卻って佛果の此の「君子」を自己の分外に擺きて、高く攀ずべからざると以爲す。かくのごとく一來すれば、自己は成佛する能わず、亦他を化度して成佛せしむる能わず。ゆえに「小人道長,君子道消」と言う。智旭は最後に泰否兩卦の文辭語氣の用意を點出す。强軟二魔は人人の畏懼する所にして、ゆえに泰卦の彖傳は極めて慶幸暢快の語氣を以て人を安慰し、人をして退縮怯懦するに至らざらしむ。而して道に順うの法愛は人人の貪戀する所にして、ゆえに否卦の彖傳は極めて嗟歎惋惜の語氣を以て人を警策し、人をして執取貪著するに至らざらしむ。一安慰一警策は、皆症に對して藥を下すなり——此の一句は《易》の文氣を讀むの通例と做して看るべし。

象曰:天地不交,否,君子以儉德辟難,不可榮以祿。佛法釋者:觀此順道法愛,猶如險坑之難,而不取其味,是謂不可榮以祿也。初六:拔茅茹,以其匯,貞吉亨。象曰:拔茅貞吉,志在君也。六爻皆有救否之任,皆論救否之方,不可以下三爻為匪人也。初六柔順而居陽位,且有同志可以相濟,故拔茅連匯而吉亨;但時當否初,尤宜思患豫防,故誡以貞也。

大象傳は言う。天地相交合せざる是否なり。君子は此に取法して儉約を以てその德を收斂して患難を避開し、爵祿を以て榮と爲すべからず。佛法をもって解釋すれば、此の份の順道法愛を觀照するに、一箇の險惡の深坑のごとく、一場の患難なり。因ってその滋味を貪取せず——これを「不可榮以祿」と叫ぶ。相似位の境界は正にあの誘人たる「祿」なり。受けざればこそ、走り過ぐるを得。初六の爻辭は言う。茅草を拔起すれば、その根須を連ねて叢を成して俱に起つ。正を守れば則ち吉にして亨通す。小象傳は言う。茅を拔いて正を守りて吉を得るは、志向君主に在るなり。智旭は特別に聲明す。否卦の六爻は皆救否の責任を擔負して、講ずる所は皆救否の方法なり。下面の三箇の陰爻を卦辭の説く所の「匪人」と看做すべからず。初六は柔順にして陽位に居り、而且志同道合の人ありて互相に濟助するを得。ゆえに「拔茅連彙」して吉亨す。ただ時否運の初めに當りて、尤も當に預め禍患を想到して防備すべし。ゆえに「貞」を以てそれを告誡す。

六二:包承,小人吉,大人否亨。象曰:大人否亨,不亂群也。柔順中正,上應九五陽剛中正之君,惟以仁慈培植人心,挽回天運,故小人得其包承而吉。然在六二大人分中,見天下之未平,心猶否塞不安;不安乃可以致亨,而非小人所能亂矣。

爻辭は言う。六二、包容して承順し、小人は吉を得、大人は否塞に處ると雖も亨通す。小象傳は言う。大人の否に處りて亨通するは、小人と同群して亂れざるが故なり。智旭は解説する。六二は柔順中正にして、上りて九五の陽剛中正の君と相應す。只だ仁慈を以て人心を培植し天運を挽回す。ゆえに小人はその包容承順を得て吉を獲。しかるに六二の此の大人の本分の上に立って、天下未だ太平ならざるを見て、心裏は依舊として閉塞不安なり。正に此の份の不安なるがゆえに、始めて亨通に導向し得て、亦小人の擾亂し得る所に非ず。「不安乃可以致亨」の六字は最も精神を見る。否運の中に於いては、心先に安んずれば、事は卽ち了れり。

六三:包羞。象曰:包羞,位不當也。以陰居陽在下之上,內剛外柔,苟可以救否者無不為之,豈顧小名小節。諺云:「包羞忍恥是男兒。」時位使然,何損於坤順之德哉。《易因》曰:「此正處否之法,所謂唾面自乾、褫裘縱博者也。」

爻辭は言う。六三、羞恥を含忍す。小象傳は言う。羞恥を含忍するは、位置當を得ざるが故なり。智旭は解説する。六三は陰爻を以て陽位に居り、下卦の上に處して、內裏剛强にして外表柔順なり。只だ能く否を救わば、何をも肯んじて爲さざるなく、豈に還た顧みて小小の名聲と細節とに及ばんや。俗諺は言う。「羞を包み恥を忍ぶは是れ男兒なり。」これ時と位の造成する所にして、坤の柔順の德に對して又ぞ何の損害かあらん。彼は《易因》を引いて言う。これ正に否運の中に身を處するの辦法にして、卽ち所謂「唾面自乾」——婁師德は弟弟を敎えて人の唾を面上に吐くを擦掉せず、それをして自ら乾かしめよ——および「褫裘縱博」——裘衣を脫して人の賭博するに任して計較せず。此の兩箇の典故は皆極めて忍辱する能くするの例子なり。彼は一箇の歷來貶辭と視做せらるるの爻を、忍辱して重負するの擔當に讀みたり。

九四:有命無咎,疇離祉。象曰:有命無咎,志行也。剛而不正,以居上位,宜有咎也;但當否極泰來之時,又得疇類共離於祉,故救否之志得行。離者,附麗也。九五:休否,大人吉,其亡其亡,繫于苞桑。象曰:大人之吉,位正當也。陽剛中正,居於君位,下應柔順中正之臣,故可以休否而吉。然患每伏於未然,亂每生於所忽,故必念念安不忘危、存不忘亡、治不忘亂,如係物于苞桑之上,使其堅不可拔。此非大人,其孰能之。

九四の爻辭は言う。天命を秉承して行事し、過錯なし。同類の人皆福祉に依附する能くす。小象傳は言う。天命を秉承して過錯なきは、志向施行するを得るが故なり。智旭は解説する。九四は剛强にして正位を得ず、然るに上位に居り、本來過錯あるべし。只だ正に否極泰來の時に當りて、又能く同類と一同に福祉に依附す。ゆえに救否の志向施行するを得。「離」は此處附麗・依附の意思なり。九五の爻辭は言う。否塞を停止せしむ、大人は吉を得。口中に「亡びんとす、亡びんとす」と念じて、國家を叢生の桑根の上に繫す。小象傳は言う。大人の吉なる所以は、位置正當なるが故なり。智旭は解説する。九五は陽剛中正にして君位に居り、向下して柔順中正の臣子と相應す。ゆえに能く否塞を終止して吉を得。しかるに禍患は每每未だ發生せざるの時に潛伏し、動亂は每每忽略せらるるの處に產生す。ゆえに必ず念念皆「安きを忘れず危を忘れず、存を忘れず亡を忘れず、治を忘れず亂を忘れず」せよ。物を叢生の桑根の上に繫して、それをして牢固にして拔動せしめざるがごとし。これ大人に非ざれば、誰か做り到る能くせん。

上九:傾否,先否後喜。象曰:否終則傾,何可長也。剛不中正,居卦之外,先有否也;但否終則傾,決無長否之理,故得後有喜耳。佛法釋者:順道法愛,非陽剛智德不能拔之。初六法愛未深,而居陽位,若能從此一拔,則一切俱拔,故勉以貞則吉亨,勸其志在於君,君即指法身實證也。六二法愛漸深,故小人則吉;大人正宜於此作否塞想,乃得進道而亨。六三法愛最深,又具小慧,妄認似道為真,故名包羞。

上九の爻辭は言う。否塞を傾覆し、先是閉塞にして後來喜悅す。小象傳は言う。否は盡頭に至れば卽ち傾覆せんとす。何ぞ能く長久ならんや。智旭は解説する。上九は剛强にして中に居らず正ならず、また全卦の外に處す。ゆえに起先は是れ否塞なり。但だ否は盡頭に至れば卽ち傾覆す。決して長久に閉塞するの道理なし。ゆえに後來喜あり。佛法を以て全卦の六爻を解釋すれば、一律に「法愛」に就いて説を立つ。道に順うの法愛は、陽剛の智德に非ざれば卽ちそれを拔掉する能わず。初六は法愛還た深からず、而して陽位に居る。若し能く此處より一たび拔けば、卽ち一切俱に拔く。ゆえにそれを勉勵して正を守れば則ち吉亨せよ。またそれを勸めて「志在于君」——此の「君」は卽ち法身の實證を指す——せよ。六二は法愛漸漸深し。ゆえに小人の分上に於いては吉と算す。而して大人は正に當に此處に於いて「否塞」の想いを作し、安隱の處を閉塞の處と看成して、始めて道に進みて亨通する能くす。六三は法愛最も深く、また一點の小聰明を帶び、錯って相似の道を以て眞實と當す。ゆえに「包羞」と叫ぶ——羞を含んで自ら知らず。

九四剛而不正,雖暫起法愛,終能自拔而志行。九五剛健中正,故直入正位而吉;然尚有四十一品無明未斷,所以位位皆不肯住,名其亡其亡;從此心心流入薩婆若海,證念不退,名繫于苞桑。上九陽居陰位,始亦未免法愛,後則智慧力強,故能傾之。

九四は剛强にして正位を得ず。一時も亦法愛を生起すと雖も、最終能く自己拔き出でて志向施行するを得。九五は剛健中正なり。ゆえに徑直に正位に進入して吉を得。しかるに此の時還た四十一品の無明未だ斷盡せざるあり——圓教は初住より等覺に至りて共に四十一位、各おのが一品の無明を斷ず——ゆえに每一箇の位次に到れば皆停住するを肯んぜず。これを「其亡其亡」と叫ぶ。時時自己を提醒して此處は還た家に非ずとせよ。此より念念「薩婆若海」(一切智の海)に流入し、「念不退」(念念中道と相應して退轉せず)を證得す。これを「係于苞桑」と叫ぶ——繫する所は國祚に非ずして、是れあの一念不退の心なり。上九は陽爻を以て陰位に居り、起初も亦法愛を免れず。後來智慧の力量强盛にして、ゆえに能くそれを傾覆掉す。此に至りて、天台十乘觀法は「觀不思議境」より「離法愛」に至る十乘、恰好として智旭に一一に配し盡くせらる。否卦の後は別に同人の一卦を起す。是れ第二組の開端なり。

同人卦

(離下 乾上)同人于野,亨。利涉大川,利君子貞。約世道,則傾否必與人同心協力;約佛法,則因犯結制之後,同法者同受持;約觀心,則既離順道法愛,初入同生性,上合諸佛慈力,下同眾生悲仰,故曰同人。蘇眉山曰:野者,無求之地。立於無求之地,則凡從我者皆誠同也。彼非誠同,而能從我於野哉?同人而不得其誠同,可謂同人乎?故天與火同人。物之能同於天者蓋寡矣。天非同於物,非求不同於物也。

(本卦は下體を離火と爲し、上體を乾天と爲す。)《同人》の卦辭は言う。人と和同するは曠野の上に走り至りて、始めて亨通すること能くす。大河を渡るに利あり、君子の正道を守持するに利あり。智旭は先に彼の慣用の三層の次序に按じて卦名を解説す。世間治道より言わば、剛に《否》卦の上下閉塞の中より翻轉して來り、必ず衆人と同心協力せざるべからず。佛門戒律より言わば、僧團は人の戒を犯す有るに因って「結制」して規約を立てたる以後、一法を同修する人は共同に此の戒法を受持す。「觀心」——卦爻を一一に收歸して自己の現前の一念心に體會するの修法——より言わば、修行する人旣に「順道法愛」(正道に順應する時に生起するあの點の法味法喜を貪着して、反ってそれに黏住せられて步を停めて前せず)を脫離し、初次に諸佛と同一體性の「同生性」に進入して、向上して諸佛の慈力に契合し、向下して衆生の悲切の仰望と相通ず。ゆえに「同人」と稱す。以下宋人蘇軾(世に蘇眉山と稱す)の解説を引く。所謂「野」は、求むる所なきの地方なり。人の求むる所なきの地方に立てば、凡そ我に跟從するを肯んずるは、皆是れ眞心の認同なり。若し眞心の認同に非ざれば、誰か我に跟って曠野の上に跑り去るを肯んぜんや。人と和同して眞心の認同を得ざれば、還た「同人」と叫ぶに配せんや。ゆえに離火下に在り乾天上に在りて、始めて《同人》と名を立つ——萬物の中に天と相同じき能くするは本來極めて少なし。天は竝びに刻意して萬物に同じからんと要せず、亦刻意して萬物と同じからざるを求めず。

立乎上,而能同者自至焉,其不能者不至也。至者非我援之,不至者非我拒之。不拒不援,是以得其誠同而可以涉川也。苟不得其誠同,與之居安則合,與之涉川則潰矣。觀心釋者:野是三界之外,又寂光無障礙境也。既出生死,宜還涉生死大川以度眾生。惟以佛知佛見示悟眾生,名為利君子貞。

(蘇軾續けて説く。)天は只だ高く上に居るのみ。それと相同じき能くするは自然に來り、相同じき能わざるは自然に來らず。來るは我の拉して來たるに非ず、不來るも亦我の推開したるに非ず。推せず拉せざれば、ゆえに得る所こそ眞心の認同なり。始めて此らの人を帶びて一同に大河を渡るべし。假如もし眞心の認同を得ざれば、一同に安穩の日子を過すは勉强合得るも、一同に險を涉り河を渡らば卽ち潰散せん。以下智旭は「觀心」の一層に轉入して解す。「野」は三界之外にして、卽ち「常寂光土」のごとき一毫の障礙もなきの境界なり(天台宗は佛土を四種に分ち、常寂光土は諸佛の證する所の最も究竟の一層なり)。修行する人旣にすでに生死を出離せば、卽ち再び回頭して生死の此の條の大河に涉入して、衆生を化度しに去るべし。始終只だ佛の知見を以て衆生に開示し、彼らをして悟入せしむ(「佛知佛見」は《法華經》に出でて、佛の親證する究竟の見地を指す)。これ卽ち卦辭の説く所の「利君子貞」——君子の正道を守持するに利あり——なり。

彖曰:同人,柔得位得中而應乎乾,曰同人。(蘇眉山曰:此專言二。)同人曰:同人于野,亨。(蘇眉山曰:此言五也,故別之。)利涉大川,乾行也。文明以健,中正而應,君子正也。唯君子為能通天下之志。觀心釋者:本在凡夫,未證法身,名之為柔;今得入正位,得證中道,遂與諸佛法身乾健之體相應,故曰同人。此直以同證佛性為同人也。既證佛體,必行佛德以度眾生,名為乾行。文明以健,中正而應,如日月麗天,清水則影自印現,乃君子之正也。惟君子已斷無明,得法身中道,應本具二十五王三昧,故能通天下之志,而下合一切眾生,與諸眾生同悲仰耳。

《彖傳》は言う。《同人》卦、柔爻旣に位に當りまた中に居りて、上體の乾と相呼應す。ゆえに「同人」と叫ぶ。(蘇軾注す。此の一句は專ら六二の一爻を指す。)卦辭は「同人于野,亨」と言う。(蘇軾注す。此の一句は九五に就いて言う。ゆえに別に一句を起して區別を加ふ。)「利涉大川」は、乾天の剛健運行の力量なり。內卦文明、外卦剛健にして、中に居り正を守りて上下相應す。これ君子の正道なり。惟れ君子のみ能く天下人の心志に通達す。——「柔得位得中」は六二の陰爻を以て第二位に居るを指し、陰爻は陰位に處して當位と爲し、下卦の正中に處して得中と爲す。「應乎乾」は六二の上卦の乾體の九五と陰陽相應するを指す。智旭は接着觀心の一層を以て解説す。本來還た凡夫にして、未だ「法身」(佛の眞實體性)を證得せず。ゆえにそれを「柔」と稱す。今は聖位に進入して中道の理を證得するを得、于是諸佛法身のあの乾健の體性と相應す。ゆえに「同人」と叫ぶ。これ直接に「共同に佛性を證得する」を以て同人と爲す。旣に佛の本體を證得せば、必ず佛の德用を施行して衆生を度せんと要す。これを「乾行」と叫ぶ。「文明以健,中正而應」は、日月の天上に懸かるに譬え、只だ水清なれば影子は自然にその中に映現す。これ正に君子の中正なり。惟れ君子のみ已に「無明」(眞性を遮蔽する根本の迷惑)を斷盡して、法身中道を證得し、本來具足の「二十五王三昧」と相應す(《大般涅槃經》は二十五种の三昧は三界の二十五种の生死境界を破る能くすを説き、ゆえに王三昧と稱す)。ゆえに能く天下人の心志に通達し、向下して一切衆生に契合して、衆生と同じく一份の悲切仰望なり。

象曰:天與火,同人。君子以類族辨物。不有其異,安顯其同?使異者不失其為異,則同乃得安於大同矣。佛法釋者:如天之與火,同而不同,不同而同。十法界各有其族,各為一物,而惟是一心。一心具足十界,十界互具,便有百界千如之異,而百界千如究竟元只一心。此同而不同、不同而同之極致也。

《大象傳》は言う。天上に在り、火は上に炎す。同じく上に趨向す。これ卽ち《同人》なり。君子は此に由りて門を分ち類を別て事物を辨明するを懂得す。智旭は解す。先に事物各おのが差異あるを承認せざれば、又ぞ何を靠って彼らの相同じきを顯出せんや。差異あるをして依舊としてその差異を保有せしめて、「同」始めて安穩にその大同と爲り成る能くす。再び佛法の一層より解す。天と火とのごとく、看るに相同じて其實同じからず、看るに同じからずして其實また相同ず。「十法界」(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六凡、加ふるに聲聞・緣覺・菩薩・佛の四聖、合して十類の生命境界と爲す)は各おのが族類あり、各おのが一箇の獨立の東西なり。然而るに全部只だ此の一念心なり。一心は圓滿に十界を具足し、十界はまた彼此互相に含具す。于是「百界千如」の種種の差別あり(十界は互具して百界と成り、每界各《法華經》の説く所の十种如是を具して、千如と成る)。しかるに百界千如は追究して盡底に至れば原本依舊として只だ此の一念心なり。これ卽ち「同而不同、不同而同」の極致なり。

初九:同人于門,無咎。象曰:出門同人,又誰咎也。同人之道,宜公而不宜私。初九剛正,上無繫應,出門則可以至於野矣,故無咎。六二:同人于宗,吝。象曰:同人于宗,吝道也。六二得位得中以應乎乾,卦之所以為同人者也。然以陰柔不能遠達,恐其近匿於初九九三之宗,則吝矣。

初九、門外に走り出でて人と和同す。過錯なし。象傳は言う。門を出でて再び人と和同すれば、又ぞ誰か怪罪せんや。智旭は解す。人と和同するの道は、當に公心に出づべく、私意に出ずべからず。初九は陽爻陽位に居り、剛健にして正を守り、上面また相應の陰爻の牽繫なし(初と四とは本來相應すべきも、九四は同じく陽爻にして應を成さず)。ゆえに能く門を走り出でて、一直に曠野に走り到るを得。因って過錯なし。六二、只だ本宗族の內に於いて人と和同すれば、憾惜あらん。象傳は言う。只だ宗族內に於いて和同するは、是れ一條の憾惜を招致するの路なり。智旭は解す。六二は陰爻を以て陰位に居りて下卦の正中に處し、旣に位に當りまた中を得、還た上りて九五の乾に應ず。本是全卦の《同人》と命名せらるる所以の關鍵の一爻なり。しかるにそれ性は陰柔に屬して、遠行通達する能わず。就怕るるはそれ就近して初九・九三の此の兩箇の陽爻の構成する「宗」の裏に躲進みて出でるを肯んぜざらん。則ち便ち憾惜に落入せん。

九三:伏戎于莽,升其高陵,三歲不興。象曰:伏戎于莽,敵剛也;三歲不興,安行也。夫二應於五,非九三所得強同也。三乃妄冀其同,故伏戎以邀之,升高陵以伺之。然九五陽剛中正,名義俱順,豈九三非理之剛所能敵哉?其,即指三;高陵指五,五遠於三,如高陵也。九四:乘其墉,弗克攻,吉。象曰:乘其墉,義弗克也;其吉,則困而反則也。離象為墉。四亦妄冀同於六二,故欲乘九三之墉以下攻之。但以義揆,知必取困,故能反則而弗攻耳。

九三、兵士を草莽の裏に埋伏し、また高岡に爬上りて張望す。三年敢えて發動せず。象傳は言う。兵を草莽に伏せるは、對手剛强なるが故なり。三年敢えて發動せざれば、何ぞ還た行動し得んや。智旭は解す。六二は本來九五と相應す。九三の强りて占有し得る所に非ず。九三は卻って妄想して六二と和同せんとし、ゆえに兵士を埋伏して半路に截擊し、高岡に登上って時機を窺伺す。しかるに九五は陽剛にして中に居り正を守り、名分と道義と皆立つべし。豈に九三のごとき不合理の强横の對抗し得る所ならんや。爻辭裏の「其」は卽ち九三自己を指し、「高陵」は九五を指す——九五は九三に離るること甚だ遠く、一箇の高岡のごとし。九四、あの牆頭に登上るも、終竟進攻せず、吉祥。象傳は言う。牆頭に登上りて攻めざるは、道義の上に就いて言えば攻むべからざるなり。その吉なる所以は、困境に陷入したる後に法則に回到するが故なり。智旭は解す。離卦の象は牆垣と爲る。九四も亦妄想して六二と和同せんとす。ゆえに九三の此の道の牆を踏んで上より下に向かって攻めんと想ふ。但だ道義を以て一衡量すれば、必ず自ら困窘を取るを知る。于是能く法則に回歸して終に進攻せず。

九五:同人先號啕而後笑,大師克相遇。象曰:同人之先,以中直也;大師相遇,言相剋也。六二陰柔中正,為離之主,應於九五,此所謂不同而同,乃其誠同者也。誠同而為三四所隔,能弗號啕而用大師相剋哉?中,故與二相契而不疑其跡;直,故號啕用師而不以為諱。鄭孩如曰:大師之克,非克三四也,克吾心之三四也。私意一起於中,君子隔九閽矣。甚矣,克己之難也!非用大師,其將能乎?楊誠齋曰:師莫大於君心,而兵革為小。

九五、人と和同して、先に痛哭號啕して後に歡笑し、大軍を動用して阻礙を戰勝して始めて相會するを得。象傳は言う。同人の先に號啕するは、九五中に居りて心直なるが故なり。大軍相遇は、雙方交戰して勝を取るを説くなり。智旭は解す。六二は陰柔にして中に居り正を守り、是れ下體離卦の主爻にして、九五と相應す。これ正に前面の説く「不同而同」にして、眞心の認同に屬す。眞心相同じくして卻って九三・九四に中間に隔てられ、何ぞ痛哭せず、大軍を動用して障礙を克服せざるを得んや。九五は中に居る。ゆえに六二と心意相契して、六二の身旁に三四あるに因ってその行迹を懷疑せず。九五は心直なり。ゆえに號啕痛哭し軍隊を出動するも皆毫も掩飾せず。以下鄭孩如の言を引く。大軍の戰勝せんと要する所は、竝びに外面の九三九四に非ずして、是れ我自己の心中の三四なり。私心雜念は一たび內に起れば、君子と眞理との間は卽ち九重の門を隔つ。自己を克制するは實に太だ難し。大軍を動用せざれば、何處か做り到る能くせん。又楊萬里(號は誠齋)の言を引く。眞正の大軍は人君の一念心より過ぐる莫し。刀兵甲冑は反って小事なり。

上九:同人于郊,無悔。象曰:同人于郊,志未得也。蘇眉山曰:無所苟同,故無悔;莫與共立,故志未得。觀心釋者:六爻皆重明欲證同人之功夫也。夫欲證入同人法性,須藉定慧之力,又復不可以有心求,不可以無心得。所謂時節若到,其理自彰。此修心者勿忘勿助之要訣也。

上九、城郊に於いて人と和同す。悔恨なし。象傳は言う。城郊に於いて和同するは、心志還た未だ實現せざるなり。蘇軾は解す。上九は隨便に別人に附和するを肯んぜず。ゆえに悔恨なし。しかるに亦彼と肩を竝べて共に立つ人なし。ゆえに心志は未だ實現すること能わず。以下智旭は觀心の一層を以て解説す。《同人》の六爻は、全是れ反復して同人境界に證入せんと欲する所須の功夫を申明す。「同人法性」(諸佛と同一體性の眞實理體)に證入せんと要せば、必ず「定」と「慧」の兩種の力量に依靠せざるべからず——定は散亂を止息し、慧は眞實を照見す。しかるに又起心して求めんとすべからず、亦無心して等せんとすべからず。所謂時節因緣一たび到れば、あの道理は自然に顯現す。これ正に心を修する人の「勿忘勿助」の要訣なり。旣に用功を忘失すべからず、亦苗を揠げて長を助くるべからず。

初九正慧現前,不勞功力,便能出生死門。六二雖有正定,慧力太微,未免被禪所牽,不出三界舊宗。九三偏用其慧,雖云得正,而居離之上,毫無定水所資,故如升於高陵,而為頂墮菩薩,三歲不興。九四定慧均調,始雖有期必之心,後乃知期必之不能合道,卒以無心契入而吉。

(智旭は定慧を以て六爻に配す。)初九は純正の智慧現前して、多少の功力を費すを須いずして、便ち生死の門を走出する能くす。ゆえに爻辭は「同人于門」と言う。六二は純正の禪定あると雖も、慧力は卻って太だ微弱にして、不免として禪定の滋味に牽住せられ、三界の此の老宗族を出でず。ゆえに「同人于宗,吝」と言う。九三は偏に智慧の一邊を用う。所處正を得ると説くと雖も、但だ離火の上に居りて、一毫の禪定の水の滋潤なし。ゆえに高岡に爬上ると雖も上り得ざるがごとく、「頂墮菩薩」(頂點に修行到るも缺定に因って退墮するの菩薩)と成りて、三年發動する能わず。九四は定と慧と調和均等なり。起初は還た一定要成功せんの執念を帶び、後來始めて此の種の期必の心は恰恰として道に合せざるを明白し、最終無心を以て自然に契入して吉を得。

九五剛健中正,而定力不足,雖見佛性,而不了了。所以先須具修眾行,積集菩提資糧,藉萬善之力,而後開發正道。蓋是直緣中道佛性,以為回出二諦之外,所以先號啕而後笑也。上九定慧雖復平等,而居乾體之上,僅取涅槃空證,不能入廛垂手,故志未得。

九五は剛健にして中に居り正を守る。但だ定力足らず。已に佛性を見たると雖も、看るに分明に足らず。ゆえに必ず先に廣く種種の行門を修し、覺悟に趣向するの資糧を積聚し、萬善の力量を憑りて、然る後に始めて正道を開顯する能くす。此の一路は直接に中道佛性を緣取して、それを眞・俗の二諦の外に超出する別の一層に當てる(「二諦」は空の眞諦と有の俗諦を指す)。ゆえに先に號啕痛哭して、然る後に歡笑に轉ずるを要す。上九の定と慧とは已に平等なりと雖も、但だそれ乾體の最上に居りて、只だ涅槃の空寂の一邊に取證して、「入廛垂手」——市井鬧市の中に回到して手を伸べて衆生を接引する(禪門《十牛圖》の末境、證悟の後世間に回入して人を度するを喻す)——する能わず。ゆえに心志は還た未だ實現せざると言う。

大有卦

(乾下 離上)大有:元亨。約世道,則同心傾否之後,富有四海;約佛法,則結戒說戒之後,化道大行;約觀心,則證入同體法性之後,功德智慧以自莊嚴:皆元亨之道也。彖曰:大有,柔得尊位大中,而上下應之,曰大有。其德剛健而文明,應乎天而時行,是以元亨。佛法釋者:從凡夫地直入佛果尊位,證於統一切法之中道,而十界皆應順之,名為大有。剛健文明,聖行梵行皆已成也。應乎天而時行,證一心中五行,以天行為體,而起嬰兒行病行之用也。

(本卦は下體を乾天と爲し、上體を離火と爲す。)《大有》の卦辭は言う。大いに亨通す。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、衆人同心して閉塞を翻轉したる後、天下は四海を富有す。佛門より言わば、戒律を制定し半月に戒を誦したる後、教化の道は大いに流行す。觀心より言わば、諸佛と同一體性の法性に證入したる後、功德と智慧を用いて自身を莊嚴す。此ら皆是れ「元亨」——根本の通達の道なり。《彖傳》は言う。《大有》卦、柔爻尊貴の位に居るを得、大いにその中を得、上下の諸爻皆來りてそれに響應す。ゆえに「大有」と叫ぶ。その德性は剛健にして文明、天道に順應して時に依って運行す。因此大いに亨通す。——「柔得尊位」は六五の陰爻を以て第五の此の君位に居るを指す。智旭は佛法の一層を以て解す。凡夫の地より直接に佛果の尊位に進入して、一切法を統攝するの中道の理を證得し、十法界の一切衆生皆來りて順應す。これを「大有」と叫ぶ。「剛健文明」は、《大般涅槃經》の説く所の「聖行」(戒定慧の三學の行)と「梵行」(慈悲利他の行)と皆已に成就するを説くなり。「應乎天而時行」は、一心の中の五种の行(聖行・梵行・天行・嬰兒行・病行)を證得して、第一義天の「天行」に合するを以て本體と爲し、而して用を起こして「嬰兒行」(淺近の人天善法を示現して初機を接引す)と「病行」(衆生と同じく病を受け苦を受くるを示現して彼らを攝化す)と爲すなり。

象曰:火在天上,大有。君子以遏惡揚善,順天休命。佛法釋者:修惡須斷盡,修善須滿足,方是隨順法性第一義天之休命也。休命者,十界皆是性具性造,但九界為咎,佛界為休;九界為逆,佛界為順。

《大象傳》は言う。火は天上に在りて普く萬物を照らす。これ卽ち《大有》なり。君子は此に由りて惡を遏止し善を表彰し、上天の美好なる賦命に順應するを懂得す。智旭は佛法の一層を以て解す。後天の造作する惡は必ず斷除して乾淨にせよ。後天に修起する善は必ず圓滿具足せよ。始めて法性に順隨するを算す——卽ち「第一義天」(最高眞理、佛法中に於いて「天」の字を借りて究竟理體を比喩す)——の賦與する所の美好の命なり。所謂「休命」は、十法界の一切境界は皆本性中の本來具足にして、又本性の變造する所に由るを説く。只不過前の九界(地獄より菩薩に至る)は過咎にして、佛界こそ美善なり。九界は本性に違逆して、佛界こそ本性に順隨す。

初九:無交害,匪咎,艱則無咎。象曰:大有初九,無交害也。夫有大者,患其多交而致害也。艱則終亦如初矣。九二:大車以載,有攸往,無咎。象曰:大車以載,積中不敗也。大車,謂六五虛而能容也。雖有能容之聖君,然非九二積中之賢臣以應之,何能無敗。九三:公用亨于天子,小人弗克。象曰:公用亨于天子,小人害也。剛正而居大臣之位,可通於聖君矣,豈小人所能哉。

初九、外物と交接せざれば禍害なし。本來過錯と算せず。艱難謹愼の心を守りて便ち災禍あらじ。象傳は言う。《大有》の初九は、外物と濫りに交わらずして害なし。智旭は解す。大量の財富權位を占有する人は、最も交接多くして因って禍を招くを怕る。始終艱難謹愼の心を存せば、最後に到りても亦當初のごとき淸白なり。九二、大車を用いて重物を裝載す。往く所有れば、災禍あらじ。象傳は言う。大車を用いて裝載するは、車中に積聚して翻敗を致さざるが故なり。智旭は解す。「大車」は六五の虛心にして能く容納するを指す。能く人を容るるの聖明君主あると雖も、若し九二のごとき內蘊充實の賢臣ありて彼と相應せざれば、又ぞ傾覆せざるを得んや。九三、公侯は所有を天子に獻上す。小人は做り得ず。象傳は言う。公侯の天子に獻享するは、小人は則ち只だ禍害と成るを會すのみ。智旭は解す。九三は陽剛にして正を守りて大臣の位に居り、能く上りて聖明の君に通達す。これ豈に小人の擔當し得る所ならんや。

九四:匪其彭,無咎。象曰:匪其彭無咎,明辯晰也。彭,盛也,壯也。九四剛而不過,又居離體,明辯晰而匪彭,可以事聖君矣。六五:厥孚交如,威如,吉。象曰:厥孚交如,信以發志也。威如之吉,易而無備也。柔中居尊,專信九二,而天下信之。不怒而民威於鈇銊,不俟安排造作以為威也。蘇眉山曰:以其無備,知其有餘也。夫備生於不足,不足之形現於外,則威削。

九四、過分に盛大を張揚せざれば、災禍あらじ。象傳は言う。張揚せずして災禍なきは、彼の事理を明辨して看ること透徹せるが故なり。智旭は解す。「彭」は盛大・壯盛の意思なり。九四は剛强なりと雖も頭を過ぎず、また上體離火の中に處して、明察辨析して自ら盛大を逞しゅうせず。かくのごとき人は聖明の君に侍奉すべし。六五、彼の誠信は上下と交相に感通して、威嚴自ずから生ず、吉祥。象傳は言う。誠信の交感するは、信實を用いて衆人の心志を激發するなり。威嚴にして吉なるは、平易近人にして防備を設けざるが故なり。智旭は解す。六五は陰柔にして中に居りて尊位に處し、專一に九二を信任す。于是天下人皆彼を信任す。怒るを必せずして百姓の敬畏は刀斧より甚だしく、刻意に安排造作せずとも自ら威嚴あり。蘇軾は解す。正に彼の一毫の防備もなきがゆえに、始めて彼の德性の綽綽として餘ありを知る。防備は不足の中より生出す。不足の形迹は一たび外に顯露せば、威嚴も亦削弱す。

上九:自天祐之,吉,無不利。象曰:大有上吉,自天祐也。蘇眉山曰:曰祐,曰吉,曰無不利,其為福也多矣,而終不言其所以致福之由,豈真無說也哉?蓋其所以致福者遠矣。孔子曰:天之所助者順也,人之所助者信也。履信思乎順,又以尚賢也,是以自天祐之吉無不利。信也,順也,尚賢也,此三者皆六五之德也。易而無備,六五之順也;厥孚交如,六五之信也;群陽歸之,六五之尚賢也。上九特履之爾。我之能履者,能順且信,又以尚賢,則天人之助將安歸哉?故曰聖人無功,神人無名。

上九、上天より來るの護佑、吉祥、利ならざる無し。象傳は言う。《大有》上爻の吉なる所以は、上天の護佑を得るが故なり。蘇軾は解す。「護佑」と言い、「吉」と言い、「无不利」と言う。福は謂わば多しと言うべしと雖も、卻って始終福の何より來るを言わず。豈に眞に理由なからんや。其實此の福を招くの緣由は甚だ遠し。孔子は《繫辭傳》の裏に言う。上天の助くる所は天道に順應する人なり。衆人の助くる所は信用を講ずる人なり。信實を履行してまた念念天道に順に順應し、還た賢者を崇尚する能くす。ゆえに上天より來るの護佑、吉祥にして不利無し。信實・順應・賢者を崇尚する、此の三樣は皆是れ六五の德性なり。平易にして防備を設けざるは、六五の順なり。誠信交相に感通するは、六五の信なり。衆陽爻皆彼に歸附するは、六五の尚賢なり。上九は不過此の三樣の德性の上に踩み在るのみ。我が履踐する所旣に順にして信、還た賢者を崇尚する能くせば、則ち上天と人との助けは還た別の處に歸せんや。ゆえに《莊子》は聖人は功に居らず、神人は名を求めずと言う。

約佛法釋六爻,又有二義:一約果後垂化,二約秉教進修。一約果後垂化者:初九垂形四惡趣中,而不染四趣煩惱,但是大悲,與民同患,故無交害而恆艱。九二垂形人道,能以大乘廣度一切,故有攸往而不敗。九三現行天道,不染諸天欲樂及與禪定,故非小人所能;設小人而入天趣,未有不被欲樂禪定所害者也。九四現二乘相,故匪其彭;不與二乘同取涅槃偏證,故明辯晰,

智旭は再び佛法を以て此の六爻を解し、又兩重の意思に分つ。一は已に佛果を成りたる後に身を回して衆生を垂化するに就いて言う。二は教法を秉承して向上に修行するに就いて言う。先ず果後垂化の此の一重を説く。初九は佛が身形を垂現して地獄・餓鬼・畜生・阿修羅の此の四種の惡道の中に在りて、然るに四道の煩惱に沾染せず、只だ大悲に出でて、衆生と同じく患難を受く。ゆえに「无交害」にして恒に艱難を守ると言う。九二は身形を垂現して人道に在り、能く大乗法を以て廣く一切衆生を度す。ゆえに往く所有りて傾敗せずと言う。九三は天道に示現するも、然るに諸天の欲樂と禪定の樂とに沾染せず。ゆえに小人の做り得る所に非ずと言う——假令もし小人天上に生ぜば、欲樂と禪定とに害せられざる無し。九四は聲聞・緣覺の二乘の形相を示現す。ゆえに盛大を張揚せずと言う。但し彼は二乘のごとく偏に涅槃の片面の證悟を取るに似ず。ゆえに明辨透徹すと言う。

言有大乘智慧辯才也。六五現菩薩相,應攝受者而攝受之,故厥孚交如;應折伏者而折伏之,故威如吉。信以發志,是接引善根眾生;易而無備,是折伏惡機眾生也。上九現如來形,故自天祐之吉無不利,所謂依第一義天,亦現為天人師也。二約秉教進修者:初九秉增上戒學,故不與煩惱相交。九二秉增上心學,故於禪中具一切法而不敗。九三秉增上慧學,故能亨于天子。然此慧學,坐斷凡聖情解,掃空蕩有,

これは彼の大乗の智慧と辯才とを具備するを説くなり。六五は菩薩の形相を示現す。慈愛を用いて攝取すべき衆生には卽ち彼を攝取す。ゆえに誠信交相に感通すと言う。嚴厲を用いて降伏すべき衆生には卽ち彼を降伏す。ゆえに威嚴にして吉と言う。「信實を用いて心志を激發す」は、善根成熟の衆生を接引するなり。「平易にして防備を設けず」は、根機惡劣の衆生を降伏するなり。上九は如來の形相を示現す。ゆえに上天より來るの護佑、吉にして不利無しと言う——所謂第一義天に依止すれば、亦卽ち天と人との導師に示現するなり。再び秉教進修の此の一重を説く。初九は「增上戒學」(三學の中に戒を以て非を防ぎ惡を止むるの一門)を秉持す。ゆえに煩惱と交接せず。九二は「增上心學」(卽ち定學)を秉持す。ゆえに能く禪定の中に一切法を具足して傾敗せず。九三は「增上慧學」を秉持す。ゆえに能く上りて天子に通達す。不過此の一門の慧學は、要として一刀に凡聖の兩邊の知見情解を截斷し、空をも掃除し有をも蕩盡す。

每為惡取空者之所藉口,所以毫釐有差,天地懸隔,小人弗克用之,用則反為大害。九四秉通教法,但是大乘初門,故匪其彭;雖與二乘同觀無生,而不與二乘同證,故明辯晰。六五秉別教法,仰信中道,故厥孚交如;別修緣了,故威如而吉。上九秉圓教法,全性起修,全修在性,故自天祐之吉無不利。

往往としてあの「惡取空」の人(空の義を錯解して因果を撥無する人)に拿去されて藉口と當てらる。ゆえに毫釐を差えば卽ち天地を相隔つと言い、小人は此の門の慧學を用ひるを得ず。一たび用ゐれば反って大害を成す。九四は「通教」の法を秉持す。あれは不過大乗の入門の一層なり。ゆえに盛大を張揚せずと言う。彼は二乘と同じく諸法無生を觀照すると雖も、然るに二乘と同じく只だあの一一歩に證到るに與らず。ゆえに明辨透徹すと言う。六五は「別教」の法を秉持して、中道の理を仰信す。ゆえに誠信交相に感通すと言う。彼は分別して「緣因」「了因」の兩種の佛性(緣因は道に助けるの善行を指し、了因は理を照らすの智慧を指す)を修習す。ゆえに威嚴にして吉と言う。上九は「圓教」の法を秉持して、全體本性の中より修を起こし、全部の修行はまた本性の外に出でず。ゆえに上天より來るの護佑、吉にして不利無しと言う。——藏・通・別・圓は天台宗の一代佛法を判攝するの四教にして、淺きより深きに入る。

謙卦

(艮下 坤上)謙:亨,君子有終。約世道,則地平天成,不自滿假;約佛化,則法道大行之後,仍等視眾生,先意問訊,不輕一切;約觀心,則圓滿菩提,歸無所得。凡此皆亨道也。君子以此而終如其始,可謂果徹因源矣。

(本卦は下體を艮山と爲し、上體を坤地と爲す。)《謙》の卦辭は言う。亨通す。君子は能く到底に保持す。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、大禹の水を治めたる後に地平天成して、然るに自己は一毫も自滿自大せず。佛門教化より言わば、佛法大行したる後に、依舊として一切衆生を平等に看待して、主動して上前して問候し、任何の一人をも輕慢せず(《法華經》の常不輕菩薩は卽ち此の意なり)。觀心より言わば、菩提圓滿に修し到りて、反って一無所得に歸結す。凡そ此の種種は皆亨通の道なり。君子は此の份の謙德を憑りて善始善終す。謂わば佛果の境界を以て一直に最初發心の根源に貫徹回到せると言うべし。

彖曰:謙,亨。天道下濟而光明,地道卑而上行。天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙尊而光,卑而不可逾,君子之終也。儒則文王視民如傷,堯舜其猶病諸;佛則十種不可盡,我願不可盡,眾生度盡方證菩提,地獄未空不取滅度。所以世出世法,從來無有盈滿之日。苟有盈滿之心,則天虧之,地變之,鬼神害之,人惡之矣。以此謙德現形十界,則示居佛位之尊固有光,縱示居地獄之卑,亦無人能逾勝之也。吳幼清曰:謙者,尊崇他人以居己上,而己亦光顯;卑抑自己以居人下,而人亦不可逾越之。此君子之所以有終也。

《彖傳》は言う。《謙》卦は亨通す。天道は下に向かって施濟して愈々光明を顯し、地道は卑下に處して氣は上に向かって行く。天道は盈滿を虧損して謙虛を增益し、地道は盈滿を改變して謙虛に流注し、鬼神は盈滿を損害して謙虛に福を降し、人道は盈滿を厭惡して謙虛を喜好す。謙虛の人は尊位に處して德は愈々光大し、卑位に處して超越し得る人無し。これ卽ち君子の能く終ある所以の道理なり。智旭は儒佛の兩家を以て印證す。儒家には周文王の百姓を看待して傷者を看待するがごとく、堯舜尚且自己の做ること足らざるを覺ゆる有り。佛家には《華嚴經》の説く所の十种の無盡・我が願力無盡あり、衆生度盡して方に成佛し地獄空からざれば誓って涅槃を取取證せざるの大願あり。ゆえに世間法と出世間法とは、從來一天も自ら圓滿と認むべからず。一たび自滿の心を起せば、天は卽ち彼を虧損し、地は卽ち彼を改變し、鬼神は卽ち彼を損害し、人は卽ち彼を厭惡す。此の份の謙德を憑りて十法界に示現せば、則ち佛位の尊に示現するは固然として光輝あり。縱使地獄の卑に墮在を示現するとも、彼に勝る能くする誰か無し。以下元人吳澄(字は幼淸)の言を引く。所謂謙は、別人を推崇して自己の上に到らしめて、然るに自己は反って愈々顯耀す。自己を壓低して別人の下に到らしめて、然るに別人は反って自己を逾越する能わず。これ卽ち君子の能く到底に保持する所以なり。

象曰:地中有山,謙。君子以裒多益寡,稱物平施。山過乎高,故多者裒之;地過乎卑,故寡者益之:趣得其平,皆所以為謙也。佛法釋者:裒佛果無邊功德之山,以益眾生之地;了知大地眾生皆具佛果功德山王,稱物機宜,而平等施以佛樂,不令一人獨得滅度。

《大象傳》は言う。地中に山を藏る是れ《謙》なり。君子は此に由りて多きを減らし少なきを增し、事物を衡量して公平に施與するを懂得す。智旭は解す。山は高きこと頭を過ぐ。ゆえに多きの一邊を削減す。地は低きこと頭を過ぐ。ゆえに少なきの一邊を補足す。それをして平衡に趨向せしむ。皆是れ謙の作用なり。再び佛法の一層を以て解す。佛果のあの無邊功德の高山を削減して、衆生の此の片の低地を增補す。同時に大地一切衆生は本來皆佛果功德の山王を具足するを明了す。于是各人の根機の宜しき所を衡量して、平等に彼らに成佛の樂を施與し、任何の一人をしても獨自涅槃を取證して衆生を撇下せしめず(此の意は《法華經》の「不令一人獨得滅度」に本づく)。

初六:謙謙君子,用涉大川,吉。象曰:謙謙君子,卑以自牧也。蘇眉山曰:此最處下,是謙之過也。是道也,無所用之,用於涉川而已。有大難,不深自屈折,則不足以致其用。牧者,養之以待用云爾。六二:鳴謙,貞吉。象曰:鳴謙貞吉,中心得也。蘇眉山曰:謙之所以為謙者,三也。其謙也以勞,故聞其風被其澤者,莫不相從於謙。六二其鄰也,上六其配也,故皆和之而鳴于謙。而六二又以陰處內卦之中,雖微九三,其有不謙乎?故曰鳴謙貞吉。鳴以言其和於三,貞以見其出於性也。

初六、謙にしてまた謙なる君子。此の份の德行を憑りて大河を渡れば、吉祥。象傳は言う。謙にしてまた謙なる君子は、卑下の道を以て自己を涵養するなり。蘇軾は解す。初六は全卦の最下に處す。これは謙するに頭を過げるなり。かくのごとき道理は、平時は用ゐるに及ばず、只だ險を渡り難を涉るの時に於いて用ゐらるるを要す。大の患難に遇上せば、深く自己を屈折せざれば、卽ちその作用を發揮するに足らず。「牧」は畜養の意思にして、それを養いて將來の一用に備ふ。六二、謙德は聲名遠播す。正を守りて吉祥。象傳は言う。鳴謙にして正を守りて吉なるは、內心真に得る所有るが故なり。蘇軾は解す。整卦の謙と爲り成る所以は、關鍵九三の此の一爻に在り。九三の謙は功勞を以て底子と爲す。ゆえに彼の風範を聽聞し彼の恩澤を受到する人は、跟って一同に謙下せざる無し。六二は九三の近鄰、上六は九三の配應なり。ゆえに皆彼に應和して謙德を傳揚出だす。況んや六二は又陰爻を以て內卦の正中に居る。卽使九三無しとも、それ豈に謙せざらんや。ゆえに鳴謙にして正を守りて吉祥と言う。「鳴」はそれ九三に應和するを説き、「貞」は此の份の謙はその本性に出づるを説く。

九三:勞謙君子,有終吉。象曰:勞謙君子,萬民服也。蘇眉山曰:勞,功也。艮之制在三,而三親以艮下坤,其謙至矣。勞而不伐,有功而不德,是得謙之全者也。故彖曰君子有終,而三亦云。六四:無不利,撝謙。象曰:無不利撝謙,不違則也。雖居九三勞謙之上,而柔順得正,故無不利而為撝謙。夫以謙撝謙,此真不違其則者也。

九三、功勞ありて而も能く謙下する君子。能く到底に保持し、吉祥。象傳は言う。功ありて謙なる君子は、萬民皆彼に歸服す。蘇軾は解す。「勞」は卽ち功勞なり。艮卦の主宰は第三爻に在りて、而して九三は卻って親自艮山を坤地の下に放す。謙する極點に到れり。辛勞ありて誇耀せず、功績ありてその德に自居せず。これは完整に謙を得たる人なり。ゆえに《彖傳》は「君子有終」と言い、九三の爻辭も亦かくのごとく言う。六四、利ならざる無し。謙德を施展して發揚す。象傳は言う。不利なくして謙德を施展するは、法則に違背せざるが故なり。智旭は解す。六四は九三の勞謙の上に居ると雖も、然るに陰柔順從して位置正を得。ゆえに利ならざる無しにして、「撝謙」(撝は施布・發揮の意)と爲り成る。自己の謙を以て別人の謙を發揚す。これ始めて真に法則に違背せざる人なり。

六五:不富以其鄰,利用侵伐,無不利。象曰:利用侵伐,征不服也。蘇眉山曰:直者,曲之矯也;謙者,驕之反也:皆非德之至也。故兩直不相容,兩謙不相使。九三以勞謙,而上下皆謙以應之,內則鳴謙,外則撝謙,其甚者則謙謙。相追於無窮,相益不已,則所謂裒多益寡稱物平施者,將使誰為之?若夫六五則不然。以為謙乎?則所據者剛也。以為驕乎?則所處者中也。惟不可得而謂之謙,不可得而謂之驕,故五謙莫不為之使也。求其所以能使此五謙者而無所有,故曰不富以其鄰。至於侵伐而不害為謙,故曰利用侵伐。莫不為之用者,故曰無不利。蕅益曰:征不服正是裒多名謙。

六五、自己富まずと雖も能く鄰近の人を帶動す。兵を出して討伐するに利あり、利ならざる無し。象傳は言う。兵を出して討伐するに利あるは、あの歸服するを肯んぜざるを征討しに去るなり。蘇軾は解す。正直は、用いて曲枉を矯正するなり。謙虛は、驕傲の反面なり。此の兩樣は皆還た德の極致に非ず。ゆえに兩箇の皆剛直なる人は彼此容れ得ず、兩箇の皆謙讓なる人も彼此使喚し動かず。九三は功勞を以て謙す。上下の各爻皆謙を以て彼に應和す。內に於いては鳴謙、外に於いては撝謙、最も頭を過ぐるは謙謙なり。かくのごとく一味に互相に退讓し互相に推崇して下去りて盡頭無ければ、則ち《大象傳》の説く所の「多きを減らし少なきを補ひ、事物を衡量して公平に施與す」の事は、還た誰をして做さしめんや。六五は卽ち同じからず。それを謙と言わば、それの依據する所の位置は剛健の君位なり。それを驕と言わば、それの處する所はまた中道なり。正にそれを謙と稱する能わず、亦それを驕と稱する能わざれば、ゆえに其餘五爻の謙德はそれの調遣を聽かざる無し。それの能く此の五種の謙を調遣するの憑藉を找出さんとすれど、卻って何物をも找い得ず。ゆえに「不富以其鄰」と言う。以至って兵を出して討伐するも亦それが依然謙たるを妨げず。ゆえに「利用侵伐」と言う。それの用と爲らざる誰か無し。ゆえに「无不利」と言う。智旭は自ら按語す。服せざるを討伐するは、正に《大象傳》の説く所の「多餘を減損す」の此の一層の意義上の謙なり。

上六:鳴謙,利用行師,征邑國。象曰:鳴謙,志未得也。可用行師,征邑國也。蘇眉山曰:鳴謙一也,六二自得於心,而上六志未得者,以其所居非安於謙者也。特以其配之勞謙而強應焉,貌謙而實不至,則所服者寡矣。故雖有邑國,而猶叛之。夫實雖不足,而名在於謙,則叛者不利;叛者不利,則徵者利矣。

上六、謙德は聲名遠播す。兵を出すに利あり、自己の封邑屬國を討伐せん。象傳は言う。鳴謙は、心志未だ實現せざるなり。兵を出すべき、自己の封邑を討伐しに去るなり。蘇軾は解す。同じく「鳴謙」にして、六二は內心真に得る所あり、上六は卻って心志未だ實現せずと言う。これは上六の處する所の位置が本來卽ち謙下に安んずるの位置に非ざればなり。それは只だ配應する九三に勞謙の德あるに因って、勉强して跟って應和するのみ。外表は謙虛にして實質は足らず。因此それに歸服する人は卽ち少なし。ゆえに封邑屬國を擁有すると雖も、屬國は依舊としてそれを背叛す。不過實質は足らずと雖も、名義上は畢竟謙の此の一邊に立てば、則ち背叛する人は理虧にして不利なり。背叛者不利なれば、討伐者も亦利あり。

佛法釋此六爻者,亦約二義:一約佛果八相,二約內外四眾。一約佛果八相者:初六即示現降神入胎及初生相,久證無生,復示更生,故為卑以自牧。六二即示現出家,久度生死,自言為生死故出家,是為鳴謙。九三即示現降魔成道,久超魔界,證大菩提,而為眾生現此勞事,使觀者心服。六四即示現三七思惟,久已鑑機,

智旭は佛法を以て此の六爻を解し、亦兩重に分つ。一は佛の示現の「八相成道」に配し、二は僧俗の「內外四衆」に配す。先ず八相を説く。初六は兜率天より神を降して胎に入る及び初生の此の兩相を示現す——佛は久しく已に無生を證得せり。今は卻って再び一度出生を示現す。ゆえに「卑下を以て自我を涵養す」と言う。六二是出家相を示現す——佛は久しく已に生死を度脫せり、然るに自稱して生死を了脫せんがための出家と爲す。これ卽ち「鳴謙」なり。九三是魔軍を降伏し正覺を成就するを示現す——佛は久しく已に魔の境界を超出して大菩提を證得せり。今は卻って衆生のがために此の一番の辛勞を示現して、傍觀者をして心服せしむ。正に「勞謙」に合す。六四是成道後の二十一天の思惟(佛初めて道を成ず、三七日の中に如何に説法するを思惟す)を示現す——佛は久しく已に衆生の根機を洞察せり。

而不違設化儀則。六五即示現轉大法輪,本無實法,皆是善巧權現,故為不富;能令十方諸佛同為證明,故為以鄰;破眾生三惑,令歸順於性具三德,故為利用侵伐。上六即示現滅度,以眾生機盡,應火雲亡,為志未得;即以滅度而作佛事,令諸眾生未種善根者得種,已種者熟,已熟者脫,為征邑國也。二約內外四眾者:

然るになお施設教化の固有儀軌に違背せず。ゆえに法則に違背せずと言う。六五は大法輪を轉動するを示現す——本來一箇の實在の法の説くべき無し。全是れ善巧方便の權且の示現なり。ゆえに「不富」と言う。能く十方の諸佛を感得して共同に彼のがために證明を作らしむ。ゆえに「以其鄰」と言う。衆生の見思・塵沙・無明の三種の迷惑を破除して、彼らをして本性中に本具する法身・般若・解脫の三德に回歸せしむ。ゆえに「利用侵伐」と言う。上六は涅槃に入るを示現す——衆生の化を受くるの機緣已に盡きれば、能感の機滅すれば則ち所應の身は隨に隱る(火盡きれば煙雲消ゆるがごとし)。ゆえに「志未得」と言う。而して佛は正に此の一場の滅度を用いて佛事と爲して、未だ善根を種下せざる衆生をして此に因りて種を植え、已に種せるをして成熟せしめ、已に熟せるをして解脫せしむ。これ卽ち「征邑國」なり。再び內外四衆の此の一重を説く。

初六是沙彌小眾,故為卑以自牧。六二是守法比丘眾,故為鳴謙貞吉。九三是弘法比丘,宰任玄綱,故為勞謙君子。六四是外護人中優婆塞等,故恆謙讓一切出家大小乘眾而為撝謙,乃不違則。六五是護法欲界諸天,故能摧邪以顯正,而征不服。上六是色無色天,雖亦護正摧邪,而禪定中無嗔恚相,不能作大折伏法門,故志未得。

初六は沙彌の此の一類の年幼受戒の小衆なり。ゆえに卑下を以て自我を涵養すと言う。六二是戒法を持守する比丘の大衆なり。ゆえに鳴謙にして正を守りて吉と言う。九三是佛法を弘揚する比丘にして、法門の綱紀を主持す。ゆえに功ありて謙なる君子と言う。六四是在家に佛法を護持するの男居士(優婆塞)等の外護の衆なり。ゆえに彼らは一切の出家の大乗小乗の僧衆に對して永遠に謙讓す。正に「撝謙」にして、卽ち法則に違背せざるなり。六五是法を護るの欲界の諸天なり。ゆえに能く邪見を摧破して正法を顯揚す。正に「服せざるを征討す」に合す。上六是色界・無色界の諸天なり。彼らは正法を護持し邪見を摧破すると雖も、但だ深禪定の中に住して已に嗔怒の相狀なし。强力降伏の大手段を作り出す能わず。ゆえに心志未だ實現せざると言う。

豫卦

(坤下 震上)豫:利建侯行師。約世道,則聖德之君以謙臨民,而上下胥悅;約佛化,則道法流行,而人天胥慶;約觀心,則證無相法,受無相之法樂也。世道既豫,不可忘於文事武備,故宜建侯以宣德化,行師以備不虞;道法既行,不可失於訓導警策,故宜建侯以主道化,行師以防弊端;自證法喜,不可不行化導,故宜建侯以攝受眾生,行師以折伏眾生也。又慧行如建侯,行行如行師;又生善如建侯,滅惡如行師。初得法喜樂者,皆應為之。

(本卦は下體を坤地と爲し、上體を震雷と爲す。)《豫》の卦辭は言う。諸侯を封建し軍隊を出動するに利あり。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、聖德の君主ありて謙德を以て百姓に臨莅し、上下皆歡悅す。佛門教化より言わば、佛法流行して人間と天上と皆同じく慶幸を感ず。觀心より言わば、一切相を離るるの眞實法を證得して、あの相に着かざるの法樂を領受す。世道旣に安樂なれば、卽ち文治と武備とを忘掉すべからず。ゆえに諸侯を封建して德化を宣揚するに宜しく、軍隊を出動して意外に防備するに宜し。佛法旣に流行せば、卽ち訓導と警策とを缺くべからず。ゆえに諸侯のごとき衆を領するの人を建立して教化を主持するに宜しく、師を興すがごとき整肅の手段を以て流弊を防止するに宜し。自己は法喜を證得すれば、卽ち他人を教化せずんば可ならず。ゆえに「建侯」——慈愛を以て衆生を攝受す——に宜しく、「行師」——嚴厲を以て衆生を折伏す——に宜し。再び言えば、智慧の觀照の一門は建侯のごとく、事修の行持の一門は行師のごとし。善根を生長するは建侯のごとく、罪惡を消滅するは行師のごとし。凡そ法喜の樂を初嘗する人は、此ら皆做し起こすべし。

彖曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎。天地以順動,故日月不過,而四時不忒;聖人以順動,則刑罰清而民服。豫之時義大矣哉。順以動,雖豫之德,實所以明保豫之道也。夫六十四卦皆時耳,時必有義,義則必大,何獨豫為然哉?豫則易於怠忽,故特言之。佛法釋者:惟順以動,故動而恆順,所謂稱性所起之修,全修還在性也。時義豈不大哉。

《彖傳》は言う。《豫》卦、一箇の陽爻は衆陰の響應を得て心志行を得、理に順って行動す。ゆえに安樂なり。安樂にして理に順って行動すれば、天地尚且かくのごとし。況んや侯を封じ兵を出すのごとき人事をや。天地は順に依って動く。ゆえに日月の運行は度を失わず、四季の交替は差錯せず。聖人は順に依って動く。則ち刑罰淸明にして百姓歸服す。《豫》卦の處する所の時機の意義は大なり。智旭は解す。「順以動」は《豫》卦の德性なりと雖も、其實是れ此の份の安樂を保住する如何を點明するなり。六十四卦の講ずる所は無非是れ「時」なり。時あれば卽ち必ずその義あり、義あれば卽ち必定重大なり。何ぞ單單《豫》卦をして特別に標出せんとするや。只だ安樂は最も人をして懈怠疏忽せしめ易きがゆえに、始めて特意に提醒するなり。再び佛法の一層を以て解す。正に理に順って動くがゆえに、ゆえに一たび動けば永遠に理に合す。これ卽ち所謂「性に稱う所起の修、全修還た性に在り」——一切の修行は皆本性に順って生發出だす所にして、而して全部の修行は又原來本性の外に出でず——なり。かくのごとき時義は豈に重大ならずや。

象曰:雷出地奮,豫。先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。佛法釋者:作樂,如經所謂梵唄詠歌自然敷奏也。崇德,以修嚴性也。殷薦上帝,即名本源自性為上帝。祖考,謂過去諸佛也。

《大象傳》は言う。雷は地下より奮起す。これ卽ち《豫》なり。先王は此に由りて音樂を制作し功德を推崇し、隆重に上帝に獻祭して、併せて祖先を以て配享す。智旭は佛法の一層を以て解す。「作樂」は、佛經裏の説く梵唄歌詠の自然に奏響するに似たり(淨土經典は寶樹羅網の微妙音を出ずるを描述す)。「崇德」は、後天の修行を以て本具の性德を莊嚴す。「殷薦上帝」は、本源自性を上帝と稱して隆重に供獻す。「祖考」は、過去の諸佛を指す。

初六:鳴豫,凶。象曰:初六鳴豫,志窮凶也。夫盛極必衰,樂極必苦,豫不可以不慎也,故六爻多設警策之辭,亦即彖中建侯行師之旨耳。初六上和九四而為豫,自無實德,志在恃人而已,能弗窮乎。六二:介于石,不終日,貞吉。象曰:不終日貞吉,以中正也。蘇眉山曰:以陰居陰,而處二陰之間,晦之極,靜之至也。以晦觀明,以靜觀動,則凡吉凶禍福之至,如長短黑白陳於吾前,是以動靜如此之果也。介于石,果於靜也;不終日,果於動也。是故孔子以為知機也。

初六、安樂を叫嚷出だす。凶險。象傳は言う。初六の鳴豫は、心志窮盡して凶を致すなり。智旭は解す。興盛は頂に到れば必ず衰敗し、快樂は頭に到れば必ず苦に轉ず。安樂の時に處して愼愼せざるべからず。ゆえに《豫》卦の六爻は多半是れ警策の辭にして、これ亦正に《彖傳》の「建侯行師」を説くの用意なり。初六は向上して九四に應和して安樂を得、自己は竝びに實在の德行なし。一心に只だ別人に依靠せんと想ふ。何ぞ窮途に走り至らざるを得んや。六二、石のごとく耿介にして、一日を過さずして看清し、正を守りて吉祥。象傳は言う。終日せずして正を守りて吉を得るは、それ中に居り正を守るが故なり。蘇軾は解す。六二は陰爻を以て陰位に居り、また兩箇の陰爻の間に夾在す。是れ隱晦の極點・安靜の極點なり。隱晦の身を以て明明處を觀照し、安靜の心を以て動處を觀照すれば、則ち一切の吉凶禍福の來臨は、長短黑白の眼前に擺けらるるがごとく淸楚なり。ゆえに動くも靜くも皆かくのごとく果決なり。「介于石」は靜に於いて果決なり、「不終日」は動に於いて果決なり。因此孔子は《繫辭傳》の裏に六二を稱贊して幾微を知る人と爲す。

六三:盱豫,悔,遲有悔。象曰:盱豫有悔,位不當也。六三亦無實德,上視四以為豫,急改悔之可也,若遲則有悔矣。夫視人者豈能久哉。九四:由豫,大有得,勿疑,朋盍簪。象曰:由豫大有得,志大行也。為豫之主,故名由豫。夫初與三與六,皆由我而為豫矣;二五各守其貞,慎勿疑之。不疑,則吾朋益固結也。

六三、目を睜いて上を巴望して安樂を求む。悔恨あり。遲遲として改めざれば、更に悔あらんと要す。象傳は言う。盱豫にして悔あるは、それの處する所の位置當を得ざるが故なり。智旭は解す。六三は同じく實在の德行なく、只だ上を望着九四に安樂を討り來る。速やかに悔改すれば還た及ぶ。若し拖延し下去れば卽ち悔恨を留下せんと要す。人の鼻息を仰いで日子を過すは、豈に長久ならんや。九四、全卦の安樂はそれに由りて來る。大いに得る所有り。猜疑する勿かれ。朋友は便ち髮簪の頭髮を聚攏するがごとく團結して來らん。象傳は言う。それに由りて安樂ありて大いに得る所有るは、心志の大いに施行するを得るが故なり。智旭は解す。九四是れ《豫》卦の主爻にして、ゆえに「由豫」と叫ぶ。初六・六三・上六の三箇の陰爻は、皆是れ我を靠って始めて安樂を得。六二と六五とは各おのが正道を守りて附和し來らず。亦千萬彼らを猜疑する勿かれ。猜疑せざれば、我が同伴は便ち團結して愈々牢固ならん。

六五:貞疾,恆不死。象曰:六五貞疾,乘剛也;恆不死,中未亡也。二五皆得中,故皆不溺於豫而為貞也。但二遠於四,又得其正,故動靜不失其宜;五乘九四之剛,又不得正,安得不成疾乎?然猶愈於中喪其守而外求豫者也。上六:冥豫,成有淪,無咎。象曰:冥豫在上,何可長也。豫至於冥,時當息矣;勢至於成,必應變矣。因其變而通之,因其冥而息之,庶可以免咎耳。

六五、長期に病を抱くも、總じて死せず。象傳は言う。六五の長期に病を抱くは、陽剛の九四の上に凌駕するが故なり。總じて死せざるは、それの中に居るの德性還た未だ喪失せざるが故なり。智旭は解す。六二と六五とは皆本卦の中に居る。ゆえに皆安樂に沉溺せずして能く正を守る。只だ六二は九四に離るること遠く、また位に居りて正を得。ゆえに一動一靜皆分寸を失わず。六五は卻って九四の此の剛爻の頭上に騎り、位置又正ならず。何ぞ病を落下せざるを得んや。不過これはなおあの內心已に失守して還た外に向かって安樂を討る人に勝る。上六、安樂の中に昏昧して、成就したる後に隨に淪替あり(底本此の字は「淪」と作る。智旭は下文に引いて「渝」と作る。義は變改なり)。災禍あらじ。象傳は言う。昏昧の安樂は最上に居る。何ぞ能く長久ならんや。智旭は解す。安樂は昏昧の地步に到れば、時機卽ち停歇すべし。勢頭は成就の地步に到れば、必然として變化を生ぜんと要す。此の變化に順ってそれを通融し、此の昏昧に順ってそれを止息して、始めて災禍を免るるの希望あり。

佛法釋者:九四為代佛揚化之人,餘皆法門弟子也。初六不中不正,恃大人福庇,而忘修證之功,故凶。六二柔順中正,能於介爾心中,徹悟事造理具兩重三千,其理決定不可變易,頓悟頓觀,不俟終日之久,此善於修心、得其真正法門者也,故吉。六三亦不中正,但以近於嚴師,故雖盱豫而稍知改悔,但無決斷勇猛之心,故誡以悔遲則必有悔。九四為卦之主,定慧和平,自利利他,法皆成就,

智旭は佛法を以て六爻を解す。九四は佛に代わって教化を弘揚するの人なり。其餘各爻は皆是れ法門中の弟子なり。初六は旣に中に居らず亦位に當らず。只だ大人の福蔭庇護を仗りて、自己修證の功夫を忘る。ゆえに凶。六二は陰柔順從にして中に居り正を守り、能く此の微小の一念心の中に於いて徹底して「事造三千」と「理具三千」の此の兩重の法界(天台宗は一念心の中に本來三千諸法を具し、また緣に隨って三千諸法を造作すを説く)を悟到り、此の道理は決定として改易すべからざるを明白し、當下に頓悟頓觀して、一整天を等すを用いず。これ是れ心を修するに善くして眞正の法門を找对たる人なり。ゆえに吉。六三も亦中に居らず位に當らず。只だ九四の此の嚴師に靠近するに因って、ゆえに安樂を巴望すと雖も、還た稍悔改を知る。但だ決斷勇猛の心を缺く。ゆえに彼を告誡して悔改一たび遲れば必ず悔恨を留めんとす。九四是れ全卦の主爻にして、定と慧と調和平正し、自利兼ねて能く利他して、一切法門已に成就せり。

故朋堅信而志大行。六五柔質不正,反居明師良友之上,可謂病入膏盲,故名貞疾;但以居中,則一點信心猶在,善根不斷,故恆不死。上六柔而得正,處豫之終,未免沈空取證;但本有願力,亦不畢竟入於涅槃,終能回小向大,而有渝無咎。死水不藏龍,故曰何可長也。若約位象人者:初六是破戒僧,六二是菩薩聖僧,六三是凡夫僧,九四是紹祖位人,六五是生年上座,上六是法性上座也。

ゆえに同伴は堅定に彼を信服して、而して彼の心志は大いに施行するを得るなり。六五は性質柔弱にして位置正ならず、然るに反って明師良友の上に居る。謂わば病の膏肓に入れるなり。ゆえに「貞疾」と叫ぶ。但だそれ中に居るに因って、あの一點の信心は還た在りて、善根は斷絶せず。ゆえに總じて死せず。上六は柔順にして位置正を得、安樂の終點に處して、不免として空寂に沉溺して只だあの一分の證悟を取る。不過それ本有の願力は還た在りて、亦最終一去りて返らずして涅槃に入るを會せず。終竟能く小乗の心を回して大乗に趣向す。ゆえに「有渝」にして災禍なしと言う。死水の裏は龍を藏るる能わず。ゆえに象傳は「何ぞ能く長久ならんや」と言う。若し爻位を按じて人に比作せば。初六是れ戒を破るの僧人、六二是已に聖位を證得せるの菩薩僧、六三是未だ果を證せざるの凡夫僧、六三の上の九四是祖位を承繼するの人、六五是只だ出家の年歲を以て上に居るの長老(生年上座)、上六是法性を證悟するを以て上に居るの長老(法性上座)なり。

隨卦

(震下 兌上)隨:元亨,利貞,無咎。約世道,則上下相悅,必相隨順;約佛化,則人天胥悅,受化者多;約觀心,則既得法喜,便能隨順諸法實相:皆元亨之道也。然必利於貞,乃得無咎;不然,將為蠱矣。

(本卦は下體を震雷と爲し、上體を兌澤と爲す。)《隨》の卦辭は言う。大いに亨通し、正を守るに利あり、過錯會せじ。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、上下彼此歡悅すれば、必然として互相に隨順す。佛門教化より言わば、人間と天上と皆歡悅して、教化を接受する人は卽ち多し。觀心より言わば、旣に法喜を得れば、便ち一切法の眞實相狀に隨順する能くす。此ら皆是れ根本通達の道なり。不過必ず正を守るを以て利と爲して、始めて過錯なきを得す。然らざれば卽ち下一卦《蠱》の敗壞の局に轉成せんと要す。

彖曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞無咎,而天下隨時。隨時之義大矣哉。震為剛,兌為柔,今震反居兌下,故名剛來下柔也。內動外悅,與時偕行,故為天下隨時。猶儒者所謂時習時中,亦佛法中所謂時節若到,其理自彰。機感相合,名為一時,故隨時之義稱大。

《彖傳》は言う。《隨》卦、剛爻下り來りて柔爻の下に居り、內動にして外悅す。ゆえに隨と叫ぶ。大いに亨通し、正を守りて過錯なし。于是天下の萬物時宜に隨順す。時に隨うの意義は大なり。智旭は解す。震是れ剛、兌是れ柔。今は震は反って兌の下に居る。ゆえに「剛來下柔」と叫ぶ。內卦の震は動に在り、外卦の兌は悅に在りて、時機と一同に前行す。ゆえに天下は時に隨うと言う。これ儒家の講ずる「學而時習」「君子而時中」に似たり、亦佛法裏の講ずる時節因緣一たび到ればあの道理は自然に顯現するに似たり。衆生の根機と佛の感應と恰好相合せば、佛經の開頭は便ち「一時」と稱す。ゆえに「隨時」の意義は重大なりと言う。

象曰:澤中有雷,隨。君子以嚮晦入宴息。觀心釋者:既合本源自性,上同往古諸佛,則必冥乎三德秘藏而入大涅槃也。初九:官有渝,貞吉,出門交有功。象曰:官有渝,從正吉也;出門交有功,不失也。官者,物之正主。九五為六二正主,則六二乃官物也。而陰柔不能遠達,乃變其節以隨初。初宜守正,不受其隨則吉。蓋交六二於門內,則得二而失五;不如交九五於門外,雖失二而有功。君子以為不失也。

《大象傳》は言う。澤中に雷ある是れ《隨》なり。君子は此に由りて天色晚に向かえば卽ち屋に入りて歇息するを懂得す。智旭は觀心の一層を以て解す。旣に本源自性に契合し、向上して往古の諸佛と同一體性なれば、必ず冥然として「三德秘藏」(法身・般若・解脫の三種の德性の攝する所の秘密寶藏)に融入して大涅槃に進入す。初九、屬する所の主人に變動あり。正を守りて吉祥、門を出でて人と交往すれば功あり。象傳は言う。主人に變動あるは、正道に跟從すれば則ち吉。門を出でて交往して功あるは、失う所有るを會せざるなり。智旭は解す。「官」是れ事物の正當の歸屬なり。九五こそ六二の正主なれば、則ち六二は卽ち九五の名下の物なり。しかるに六二は陰柔にして遠行通達する能わず。于是節操を改變して初九に隨從す。初九は當に自己の正道を守住して、その隨從を接受せざるを吉とすべし。門內に於いて六二を接納するは、六二を得て九五を失うに因るなり。門を出でて九五と結交するに如かず。六二を失うと雖も功あり。君子はかくして始めて損失なしと認む。

六二:係小子,失丈夫。象曰:係小子,弗兼與也。繫初必失五,安有兩全者哉?所以為二誡也。六三:係丈夫,失小子,隨有求得,利居貞。象曰:係丈夫,志舍下也。四為丈夫,初為小子。三近於四而遠於初,然皆非正應也。但從上則順,繫近則固,故周公誡以居貞,而孔子贊其志。

六二、小子に係戀して、丈夫を失掉す。象傳は言う。小子に係戀するは、兩邊皆要る能わざるなり。智旭は解す。初九に係戀すれば必ず九五を失掉す。豈に兩全其美あらんや。これ是れ六二に給するの告誡なり。六三、丈夫に係戀して、小子を捨棄す。隨從して求むる所有れば卽ち得。安居して正を守るに利あり。象傳は言う。丈夫に係戀するは、心志は下面の初九を捨棄するなり。智旭は解す。此處の「丈夫」は九四を指し、「小子」は初九を指す。六三は九四に靠近して初九に遠離す。しかるに此の兩者はそれと皆正相應の關係に非ず。但だ上位に跟從すれば順に合し、近處に係戀すれば來ること牢固なり。ゆえに周公は爻辭裏に於いてそれを告誡して安居して正を守れとし、孔子は象傳裏に於いて則ちその心志を稱贊す。

九四:隨有獲,貞凶。有孚在道,以明,何咎。象曰:隨有獲,其義凶也;有孚在道,明功也。六二欲往隨九五,必歷四而後至,四固可以獲之,獲則得罪於五而凶矣。惟深信隨之正道,則心跡可明而無咎,亦且同初九之有功也。

九四、隨從の中に獲取する所有り。卽使正を守るとも凶險。誠信を懷きて正道に合して、此の一點を表明出だせば、還た何の災禍かあらん。象傳は言う。隨從して獲取する所有るは、道理の上に就いて言えば凶なり。誠信を懷きて道に合するは、明察の帶來するの功效なり。智旭は解す。六二は上りて九五に隨從せんと想ふ。必ず九四を經過して始めて到達するを要す。九四は本來それを截留し得。一たび截留すれば卽ち九五に得罪す。因って凶險。唯だ隨從の正道を深信して、心迹始めて表白淸楚にして災禍なく、而且同じく初九のごとく功ある能くす。

九五:孚于嘉,吉。象曰:孚于嘉吉,位正中也。六二陰柔中正,五之嘉偶也。近於初而歷於四,跡甚可疑;九五陽剛中正,深信而不疑之,得二之心,亦得初與四之心而吉矣。上六:拘係之,乃從維之,王用亨于西山。象曰:拘係之,上窮也。陰柔得正,居隨之極,專信九五而固結不解者也,故可亨於神明。然窮極而不足以有為矣。

九五、誠信を以て美善の伴侶に對待す。吉祥。象傳は言う。嘉美に誠信して吉なるは、それ位に居りて旣に正にして中なるが故なり。智旭は解す。六二は陰柔にして中に居り正を守り、是れ九五の美好の配偶なり。しかるにそれは初九に挨着し、又要して九四を越過す。行迹甚だ可疑なり。九五は陽剛にして中に居り正を守り、深深としてそれを信任して一毫も猜疑せず。于是旣に六二の心を贏得し、亦初九と九四との心を贏得す。因って吉祥。上六、彼を捆住して繫牢と爲し、再用びて繩索を以て纏上ぐ。周王は西山に於いて祭享を舉行す。象傳は言う。捆縛して繫牢と爲すは、上位已に窮盡に到れるが故なり。智旭は解す。上六は陰柔にして位に居りて正を得、隨從の極點に處して、專一に九五を信從して牢固にして散らず。ゆえに能く神明に感通して祭享を舉行す。しかるに已に窮極の地に到れり。再び作爲するに足らず。

佛法釋者:三陽皆為物所隨,故明隨機之義;三陰皆隨順乎陽,故明隨師之道。初九剛正居下,始似不欲利生者,故必有渝乃吉,出門乃為有功。九四剛而不正,又居上位,雖膺弘法之任,有似夾帶名利之心,故有獲而貞凶;惟須篤信出世正道,則心事終可明白。九五剛健中正,自利利他,故孚于嘉而吉。六二柔順中正而無慧力,未免棄大取小。

智旭は佛法を以て全卦を解す。三箇の陽爻は皆他人の隨從する所と爲る。ゆえに衆生の根機に隨順するの道理を顯明す。三箇の陰爻は皆陽爻に隨順す。ゆえに師長に隨從するの道理を顯明す。初九は剛健にして正を守りて最下に處す。起初は衆生を利益せざらんと欲するの樣子に似たり。ゆえに必ず變動する所有らば吉、門を出でて人と交接すれば始めて功と算す。九四は剛强にして位置正ならず、また上體に居る。弘法の責任を擔起したると雖も、卻って名利の心を夾帶するに似たり。ゆえに獲取する所有りて卽使正を守るとも凶。唯だ出世の正道を篤信して、心事始めて終に表白淸楚なる能くす。九五は剛健にして中に居り正を守り、自利同時に能く利他す。ゆえに誠信を以て美善に對待して吉。六二は柔順にして中に居り正を守るも、然るに慧力なく、不免として大乗を捨棄して小乗を取る。

六三不中不正而有慧力,則能棄小從大。然雖云棄小從大,豈可藐視小簡而不居貞哉。上六陰柔得正,亦無慧力,專修禪悅以自娛,乃必窮之道也。惟以此篤信之力,迴向西方,則萬修萬人去耳。

六三は旣に中に居らず亦位に當らざれど、然るに慧力あり。ゆえに能く小乗を捨棄して大乗に趣向す。不過弃小從大と説くと雖も、又ぞ何ぞ小乗を輕視し戒律を簡慢して安居して正を守らざるべけんや。上六は陰柔にして位に居りて正を得、同じく慧力なく、只だ專に禪定の樂を修して自己を娛悅すを顧るのみ。これは必定として窮途に走るの路なり。唯だ此の份の篤信の力を回轉して來りて西方淨土に指向せば、則ち永明延壽禪師の説く所の「萬修萬人去」のごとく、個個皆往生する能くす。

蠱卦

(巽下 艮上)蠱:元亨,利涉大川。先甲三日,後甲三日。蠱者,器久不用而蟲生,人久宴溺而疾生,天下久安無為而弊生之謂也。約世道,則君臣悅隨,而無違弼吁咈之風,故成弊;約佛法,則天人胥悅,舉世隨化,必有邪因出家者,貪圖利養,混入緇林,故成弊;約觀心究竟隨者,則示現病行而為蠱。

(本卦は下體を巽風と爲し、上體を艮山と爲す。)《蠱》の卦辭は言う。大いに亨通し、大河を渡るに利あり。「甲日」の前三天に在り、「甲日」の後三天に在り(甲は十干の首にして、政令の更張の始を喻し、前の三日は未然に戒め、後の三日は已然に申す)。智旭は解す。所謂「蠱」は、器物の久しく使用せざれば卽ち蛀蟲を生じ、人の久しく安逸沉溺すれば卽ち病患を生じ、天下太平無事久しければ卽ち弊端を生ず。世間治道より言わば、君臣は一味に歡悅相隨して、直言匡正・爭議駁難の風氣無し。因此弊を成す。佛門より言わば、人天皆歡悅して擧世皆化を受けば、必定として心術不正の人ありて出家人の中に混進み、供養利益を貪圖して僧團の中に摻雜す。因此弊を成す。觀心より言わば、あの隨順已に究竟の地位に到れる人は、則ち「病行」(菩薩の故意に衆生と同病同苦を示現して彼らを化度する)を示現して蠱の象を現出す。

約觀心初得小隨順者,既未斷惑,或起順道法愛,或於禪中發起夙習而為蠱。然治既為亂階,亂亦可以致治,故有元亨之理。但非發大勇猛如涉大川,決不足以救弊而起衰也。故須先甲三日以自新,後甲三日以丁寧,方可挽回積弊,而終保其善圖耳。

至って觀心の中に剛に一點の小小の隨順を得たる人は、迷惑は還た未だ斷除せず、あるいは道に順うの法に對して貪愛を生起し、あるいは禪定の中に宿世の習氣を翻出す。此ら皆蠱と成れり。不過治世旣に亂を致すの階梯と成る可ければ、亂世も亦一樣に治世に轉出する可し。ゆえに「大いに亨通す」の道理あり。只だ若し大河を渡るがごとき大勇猛心を發起せざれば、絕對に弊を救い衰を起こすに足らず。ゆえに必ず甲日の前の三天を用いて自我を更新し、甲日の後の三天を用いて反復して叮嚀して、始めて積久の弊病を挽回して、最終此の份の好局面を守住する能くす。

彖曰:蠱,剛上而柔下,巽而止,蠱。蠱元亨,而天下治也。利涉大川,往有事也。先甲三日,後甲三日,終則有始,天行也。艮剛在上,止於上而無下濟之光;巽柔在下,安於下而無上行之德。上下互相偷安,惟以目前無事為快,曾不知遠憂之漸釀也。惟知此積弊之漸,則能設拯救之方,而天下可治。然豈當袖手無為而聽其治哉?必須往有事如涉大川,又必體天行之有終有始然後可耳。世法佛法、垂化觀心,無不皆然。

《彖傳》は言う。《蠱》卦、剛爻上に在り柔爻下に在りて、內卑順にして外靜止す。于是蠱を成す。蠱にして能く大いに亨通せば、天下は卽ち治理好了せらる。大河を渡るに利あるは、前往して事を做すなり。甲の前の三日、甲の後の三日は、終結の處便是開始の處なり。これ天道運行の規律なり。智旭は解す。艮の剛は上面に在りて、只だ上に止まるを知りて向下に施濟するの光輝なし。巽の柔は下面に在りて、只だ下に安んずるを知りて向上に進取するの德性なし。上下は互相に苟且して安を偸み、只だ眼前無事なるを圖って快活と爲し、全然長遠の憂患の正に慢慢に醞釀しつつあるを知らず。唯だ此の積弊は一點一點堆り起きたるを看清して、始めて拯救を設法し得て天下治すべし。しかるに豈に手を袖にして動かず、その自ら治好るを聽すべけんや。必ず大河を渡るがごとく出で行きて事を做し、還た必ず天道のあの終有れば卽ち始有るの運行の方式を體會して、然る後に行ずべし。世間法・佛法、衆生を垂化するも自心を返觀するも、一つとしてかくのごとくならざる無し。

象曰:山下有風,蠱。君子以振民育德。振民如風,育德如山。非育德不足以振民,非振民不足以育德。上求下化,悲智雙運之謂也。初六:乾父之蠱,有子,考無咎,厲終吉。象曰:乾父之蠱,意承考也。蠱非一日之故,必歷世而後見,故諸爻皆以父子言之。初六居蠱之始,壞猶未深,如有賢子,則考可免咎也。然必惕厲乃得終吉。而乾蠱之道,但可以意承考,不可承考之事。

《大象傳》は言う。山下に風ある是れ《蠱》なり。君子は此に由りて百姓を振作し德行を培育するを懂得す。智旭は解す。百姓を振作するは風の鼓蕩に同じく、德行を培育するは山の厚重に同じし。德行を培育せざれば卽ち百姓を振作するに足らず、百姓を振作せざれば亦德行を培育するに足らず。これ正に上りて佛道を求め下りて衆生を化する、慈悲と智慧との兩輪倂轉なり。初六、父親の遺留するの弊病を整治す。かくのごとき兒子有れば、先父は卽ち過咎を免るる可し。危厲あると雖も終に吉祥に歸す。象傳は言う。父親の弊病を整治するは、父親の本意を承接するなり。智旭は解す。弊病は一天にして形成するに非ず。必定として幾代の人を經過して始めて顯出す。ゆえに各爻皆父子の關係を用いて説く。初六は蠱を生ずるの開端に處して、敗壞は還た深からず。若し賢明の兒子有れば、先父は卽ち過咎を免るる能くす。不過必ず警惕憂懼の心を存して、始めて最終吉を得る能くす。而して弊病を整治するの道は、只だ父親の本意を承接する能くして、父親の做法を照搬する能わず。

九二:乾母之蠱,不可貞。象曰:乾母之蠱,得中道也。蘇眉山曰:陰性安無事而惡有為,故母之蠱乾之尤難。正之則傷愛,不正則傷義,非九二不能任也。二以陽居陰,有剛之實而無剛之跡,可以免矣。九三:乾父之蠱,小有悔,無大咎。象曰:乾父之蠱,終無咎也。蘇眉山曰:九三之德與二無異,特不知所以用之。二用之以陰,而三用之以陽,故小有悔而無大咎。

九二、母親の遺留するの弊病を整治す。固執して正を守るべからず。象傳は言う。母親の弊病を整治するは、中道を得たるなり。蘇軾は解す。陰柔の性情は無事に安んじて作爲あるを厭惡す。ゆえに母親の此の一邊の弊病は最も整治し難し。硬に匡正せんと要せば卽ち母子の情を傷め、匡正せざれば又道義を傷む。九二を除きては擔當し得る人無し。九二は陽爻を以て陰位に居り、剛强の實質ありて然るに剛强の痕迹を露さず。かくして則ち兩邊皆傷めざるを得。九三、父親の遺留するの弊病を整治す。稍々悔恨あり、然るに大の災禍なし。象傳は言う。父親の弊病を整治すれば、終竟過錯なし。蘇軾は解す。九三の德性は九二と竝びに差別なし。只だ如何に運用するを懂得せざるのみ。九二は陰柔の方式を以てそれを用ひ、九三は卻って陽剛の方式を以てそれを用ふ。ゆえに稍々悔恨ありて然るに大の災禍なし。

六四:裕父之蠱,往見吝。象曰:裕父之蠱,往未得也。陰柔無德,故能益父之蠱。裕,益也。六五:乾父之蠱,用譽。象曰:乾父用譽,承以德也。柔中得位,善於乾蠱,此以中興之德而承先緒者也。上九:不事王侯,高尚其事。象曰:不事王侯,志可則也。下五爻皆在事內,如同室有斗,故以父子明之;上爻獨在事外,如鄉鄰有斗,故以王侯言之。尚志即是士之實事,可則即是廉頑起懦高節,即所以挽回斯世之蠱者也。

六四、父親の遺留するの弊病を寬縱す。かくのごとく下去れば憾惜に遇上らん。象傳は言う。父親の弊病を寬縱するは、前往すれば目的に到達するを得ざるなり。智旭は解す。六四は陰柔にして德なく、ゆえに只だ父親の弊病を助長するを會すのみ。「裕」は此處增益・助長の意思なり。六五、父親の遺留するの弊病を整治して、因って美譽を得。象傳は言う。父親の弊病を整治して譽を得るは、德行を用いて承繼するが故なり。智旭は解す。六五は陰柔にして中に居りて位置當を得、弊病を整治するに善し。これは中興の德を以て先人の事業を承接するの人なり。上九、王侯に侍奉せず、自己の做す所の事を高尚す。象傳は言う。王侯に侍奉せざるは、此の份の志向は以て準則と爲すべし。智旭は解す。下面の五爻は皆身を事情の內に在りて、同一の屋裏に人の相斗するあるに譬え、勸めざるべからず。ゆえに父子の關係を用いて説明す。唯だ上爻は身を事外に置きて、鄉鄰の相斗するに譬え、手を插手るに及ばず。ゆえに王侯を用いて説く。志節を崇尚するは卽ち士人の眞正の做すべき實事なり。「可可則」は卽ち《孟子》の説く所の貪なる者をして淸廉ならしめ懦なる者をして振作せしむるがごとき高風亮節なり——これ恰恰として正に此の時代の弊病を挽回するの辦法なり。

統論六爻:約世道,則初如賢士,二如文臣,三如賢將,四如便嬖近臣,五如賢王,六如夷齊之類。約佛化,則下三爻如外護,上三爻如內護。初六柔居下位,竭檀施之力,以承順三寶者也。九二剛中,以慈心法門屏翰正法者也。九三過剛,兼威折之用,護持佛教者也。六四柔正,但能自守,不能訓導於人。六五柔中,善能化導一切。

總論六爻。世間治道より言わば、初六は在野の賢士に似たり、九二は文臣に似たり、九三は賢將に似たり、六四は君主の身邊の寵受くるの近臣に似たり、六五は賢明の君王に似たり、上九は伯夷・叔齊のあの一類の世を避くるの高人に似たり。佛門教化より言わば、下の三爻は在家の外護に似たり、上の三爻は出家の內護に似たり。初六は陰柔にして下位に居り、是れ布施の力を竭して佛法僧の三寶に承事順從するの人なり。九二は陽剛にして中に居り、是れ慈悲心の法門を以て屏障と作して正法を護衛するの人なり。九三は剛强頭を過ぎて、兼ねて威嚴折伏の手段を用いて佛教を護持す。六四は陰柔にして正を守り、只だ自己を守住する能くして、別人を敎導する能わず。六五は陰柔にして中に居り、一切の人を敎化引導するに善し。

上九行頭陀遠離行,似無意於化人,然佛法全賴此人以作榜樣,故志可則也。約觀心,則初六本是定勝,為父之蠱,但居陽位,則仍有慧子,而無咎,然必精厲一番,方使慧與定等而終吉。九二本是慧勝,為母之蠱,但居陰位,則仍有定,然所以取定者,為欲助慧而已,豈可終守此定哉。九三過剛不中,慧反成蠱,故小有悔。

上九は「頭陀」の苦行を修して人羣を遠離す(頭陀は塵勞を抖擻するの十二種の簡樸修行なり)。看るに他を度化するの心なきに似たれど、然るに佛法は全くかくのごとき人を靠って榜樣を立てらる。ゆえに彼の志向は準則と作すべしと言う。再び觀心の一層より言わば。初六は本來定の力量偏勝にして、「父之蠱」と成れり。然るにそれ陽位に居れば、卽ち還た慧の此の「兒子」在り。因って無咎。不過必ず精進磨礪の一番を爲して、始めて慧をして定と相當せしめて終に吉に歸せしむる能くす。九二は本來慧の力量偏勝にして、「母之蠱」と成れり。然るにそれ陰位に居れば、卽ち還た定在り。然るに定を取るの所以は、只だ慧を輔助するが爲のみなり。豈に一直に此の份の定を守りて放さざるを得んや。九三は剛强頭を過ぎて又中に居らず。慧は反って蠱と成る。ゆえに稍々悔恨あり。

然出世救弊之要,終藉慧力,故無大咎。六四過於柔弱,不能發慧,以此而往,未免隨味禪生上慢,所以可羞。六五柔而得中,定有其慧,必能見道。上九慧有其定,頓入無功用道,故為不事王侯而高尚其事之象,所謂佛祖位中留不住者,故志可則。

不過出世間の弊病を救治するの關鍵は、終竟慧力を靠るを要す。ゆえに大の災禍なし。六四は柔弱を過ぎて、智慧を發出す能わず。かくのごとく修し下去れば、難免として禪定の滋味を貪着して「增上慢」(未だ證せずして證せりと謂ふの傲慢)を生起せん。ゆえに羞むべし。六五は陰柔にして中に居りて、定の中に慧を帶びる。必定として道を見る能くす。上九是れ慧の中に定を帶びて、直接に「無功用道」(任運自然・假に造作せざるの境界)に進入す。ゆえに王侯に侍奉せずその事を高尚するの象と成る。これ卽ち禪門の説く所の佛位祖位をも彼を留住する能わざるの人なり。ゆえに彼の志向は準則と作すべしと言う。

臨卦

(兌下 坤上)臨:元亨,利貞,至于八月有凶。約世道,則乾蠱之後可以臨民;約佛法,則弊端既革,化道復行;約觀心,則去其禪病,進斷諸惑:故元亨也。世法、佛法、觀心之法,始終須利於貞。若乘勢而不知返,直至八月,則盛極必衰,決有凶矣。八月為遁,與臨相反,謂不宜任其至於相反,而不早為防閒也。

(本卦は下體を兌澤と爲し、上體を坤地と爲す。)《臨》の卦辭は言う。大いに亨通し、正を守るに利あり。八月に到れば凶險あらん。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、積弊を整治し完えたる後に卽ち百姓に臨莅すべし。佛門より言わば、弊端旣に革除せらるれば、教化の道は重新に推行す。觀心より言わば、禪味を貪着するの毛病を去掉して、進みて種種の迷惑を斷除す。ゆえに是れ大いに亨通す。世間法・佛法・觀心の法は、自始至終皆必ず正を守るを以て利と爲さざるべからず。若し勢頭に乘じて一味に向前して回頭するを知らず、一直に八月に走り到れば、則ち盛極必ず衰へて、一定して凶あらん。八月は《遯》卦に對應して、《臨》卦と正に相反す(《臨》は二陽が下方に長じ、《遯》は二陰が下方に長ず)。意思はそれをして相反の一面に發展するに聽任して、早めに防範を作さざるべからずと言うなり。

彖曰:臨,剛浸而長,說而順,剛中而應,大亨以正,天之道也。至于八月有凶,消不久也。剛浸而長,故名為臨。說而順,剛中而應,故為大亨。以正與乾之元亨利貞同道,此乃性德之本然也。若一任其至于八月而不早為防閒,則必有凶。以有長有消,乃自然之勢。惟以修合性者,乃能御天道,而不被天道所消長耳。

《彖傳》は言う。《臨》卦、陽剛漸漸に生長し、內悅にして外順、剛爻中に居りて上と相應ず。大いに亨通して正道に合す。これ是れ天の法則なり。八月に到れば凶險あるは、陽氣消退して久しからずして卽ち來らんとするを説くなり。智旭は解す。陽剛は一點一點生長す。ゆえに「臨」と叫ぶ。內卦は歡悅、外卦は柔順にして、九二の剛爻は下卦の中に居りて六五と相應ず。ゆえに大いに亨通す。それは「正」を以て《乾》卦の「元亨利貞」と走るは同じ一條の路にして、これ本是本性中に固有するの德なり。若しそれをして八月に發展するに聽任して早めに防範を作さざれば、卽ち必定として凶あらん。生長有れば卽ち消退あるを以てなり。これ自然の趨勢なり。唯だ能く後天の修行を以て本有の性に契合するの人のみ、始めて天道を駕馭して、天道の消長に牽きて走られざるを得。

象曰:澤上有地,臨。君子以教思無窮,容保民無疆。澤,謂四大海也。地以載物,海以載地,此無窮之容保也。佛法釋者:教思無窮猶如澤,故為三界大師;容保無疆猶如地,故為四生慈父。

《大象大象傳》は言う。澤上に地ある是れ《臨》なり。君子は此に由りて教化するの心念は窮盡無く、百姓を容納保護するに邊際無きを懂得す。智旭は解す。此處の「澤」は四大海を指す。地は萬物を承載し、海は又地を承載す。これ卽ち無窮無盡の容納と保護とするなり。佛法の一層を以て解す。教化するの心念窮盡無きは、大澤の深廣に譬ゆ。ゆえに佛は「三界大師」と稱せらる。容納保護に邊際無きは、大地の博厚に譬ゆ。ゆえに佛は「四生慈父」(四生は胎生・卵生・溼生・化生の四類の衆生を指す)と稱せらる。

初九:咸臨,貞吉。象曰:咸臨貞吉,志行正也。約世道,則乾蠱貴剛勇,臨民貴仁柔;約佛法,則除弊宜威折,化導宜慈攝;約觀心,則去惡宜用慧力,入理宜用定力。初九剛浸而長,故為咸臨;恐其任剛過進,故誡以貞則吉。九二:咸臨,吉,無不利。象曰:咸臨吉無不利,未順命也。二亦居陽剛浸長之勢,然此時尚宜靜守,不宜乘勢取進,故必吉乃無不利,若非吉便有不利矣。蓋乘勢取進,則未順於大亨以正之天命故也。

初九、感通の心を以て臨莅す。正を守りて吉祥。象傳は言う。咸臨にして正を守りて吉なるは、心志の行く所正道に合するが故なり。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、積弊を整治するは剛强勇決を貴び、百姓に臨莅するは則ち仁慈柔和を貴ぶ。佛法より言わば、弊を除くは宜しく威嚴折伏を用ひ、化導するは宜しく慈愛攝受を用ふべし。觀心より言わば、惡念を去除するは宜しく慧力を用ひ、眞理に深入するは宜しく定力を用ふべし。初九は陽剛正に一點一點生長す。ゆえに是れ「咸臨」なり。只だそれが剛强を任憑して冒進せんことを怕る。ゆえに告誡して正を守らばこそ吉と曰く。九二、感通の心を以て臨莅す。吉祥、利ならざる無し。象傳は言う。咸臨にして吉にして不利無きは、未だ天命に順從せざるが故なり。智旭は解す。九二は同じく陽剛漸長の勢頭の上に處す。しかるに此の時なお宜しく安靜に自守すべく、勢に乘じて搶進すべからず。ゆえに必ず先に吉を得て、然る後に始めて不利なし。若し吉ならざれば、便ち不利あらん。勢に乘じて搶進すれば、卽ち「大亨以正」のあの天命に合せざるを以てなり。

六三:甘臨,無攸利。既憂之,無咎。象曰:甘臨,位不當也;既憂之,咎不長也。柔而志剛,味著取進,以臨為甘,而不知其無所利也。然既有柔德,又有慧性,必能反觀憂改,則無咎矣。六四:至臨,無咎。象曰:至臨無咎,位當也。佛法釋者:以正定而應初九之正慧,故為至臨。六五:知臨,大君之宜,吉。象曰:大君之宜,行中之謂也。佛法釋者:有慧之定,而應九二有定之慧,此所謂王三昧也。中道統一切法,名為大君之宜。

六三、甜言悅色を以て臨莅す。利益あらざる無し。旣に此を憂慮せば、過錯會せじ。象傳は言う。甘臨は、位置當を得ざるなり。旣に憂慮せば、過咎は長久あらじ。智旭は解す。六三は性柔にして志剛なり。滋味を貪着して搶りて上進して、臨莅を以て一件の甜美の事と當す。然るにかくのごときは一毫の利益も無きを知らず。不過それ旣に柔順の德あり、又智慧の性あれば、必定として回頭自省して憂慮改過する能くす。則ち過錯なし。六四、最も切近の方式を以て臨莅す。過錯會せじ。象傳は言う。至臨无咎は、位置當を得るなり。智旭は佛法を以て解す。これは純正の禪定を用いて初九のあの純正の智慧と相應ず。ゆえに「至臨」と叫ぶ。六五、明智を以て臨莅す。これ大君主の相宜の道、吉祥。象傳は言う。大君之宜は、行爲の中道に合するを説くなり。智旭は佛法を以て解す。これは慧を帶びたる定にして、九二のあの定を帶びたる慧と相應ず。卽ち所謂「王三昧」(諸三昧の中の王、卽ち首楞嚴定)なり。中道の理は一切法を統攝す。ゆえに大君主の相宜の道と稱す。

上六:敦臨,吉,無咎。象曰:敦臨之吉,志在內也。柔順得正,居臨之終,如聖靈在天,默祐子孫臣民者矣。佛法釋者:妙定既深,自發真慧,了知心外無法,不於心外別求一法,故為志在內而志無咎。

上六、敦厚の德を以て臨莅す。吉祥、過錯會せじ。象傳は言う。敦臨の吉なる所以は、心志を內部に放在るが故なり。智旭は解す。上六は陰柔順從にして位置正を得、臨莅の道の終點に處す。先王の神靈の天に在りて、默默として子孫臣民を護佑するに譬ゆ。佛法の一層を以て解す。微妙の禪定旣に深厚なれば、自然に眞實の智慧を發出して、心外に別に一法無きを明了す。因って心外に到りて別に一法を求めず。ゆえに心志を內部に放ちて過錯なしと言う。

觀卦

(坤下 巽上)觀:盥而不薦,有孚顒若。約世道,則以德臨民,為民之所瞻仰;約佛法,則正化利物,舉世之所歸憑;約觀心,則進修斷惑,必假妙觀也。但使吾之精神意志常如盥而不薦之時,則世法佛法、自利利他,皆有孚而顒然可尊仰矣。

(本卦は下體を坤地と爲し、上體を巽風と爲す。)《觀》の卦辭は言う。祭祀の時已に手を洗手して、未だ祭品を獻上せず。此の時誠信充滿して、人をして肅然として仰望せしむ。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、德を以て百姓に臨莅して、百姓の瞻仰するの對象と成るなり。佛法より言わば、正法を以て衆生を教化利益して、擧世皆來りて歸投依靠す。觀心より言わば、向前して修行して迷惑を斷除するに、必定として微妙の觀照を借助せざるべからず。只だ我が精神意志をして時時「手を洗ひ完えて未だ祭を獻げざる」のあの一刻の專注莊敬を保持せしめば、則ち世間法・佛法は、自利するも利他するも、皆誠信に充滿して人をして肅然として尊仰せしむる能くす。

彖曰:大觀在上,順而巽,中正以觀天下。觀,盥而不薦,有孚顒若,下觀而化也。觀天之神道而四時不忒,聖人以神道設教,而天下服矣。陽剛在上,示天下以中正之德,順而不逆,巽而不忤,故如祭之盥手未薦物時,孚誠積於中而形於外,不言而人自喻之也。聖而不可知之之謂神。天何言哉?四時行焉,不可測知,故名神道。聖人設為綱常禮樂之教,民皆由之而莫知其所以然,獨非神道乎哉?神者,誠也;誠者,孚也;孚者,人之心也。人心本順本巽本中本正,以心印心,所以不假薦物而自服矣。

《彖傳》は言う。偉大の觀瞻は高く上に居り、柔順にして卑遜、中正の道を以て天下に觀示す。所謂「盥而不薦,有孚顒若」は、下面の人の仰觀して感化を受くるなり。上天のあの神妙の運行の道を觀察すれば、四季は從來差差錯せず。聖人は此の神妙の道に依って教化を設立すれば、天下は便ち皆歸服す。智旭は解す。陽剛は最上に居りて、中正の德性を天下に昭示し、柔順にして違逆せず、卑遜にして抵觸せず。ゆえに祭祀の時手を洗ひ完えて未だ祭品を獻上せざるのあの一刻のごとく、誠信は心裏に積んで自然に外に顯露し、一句話も説かずして衆人自ら領悟す。《孟子》は「聖にして知るべからざるのを神と謂ふ」と言う。上天は何を説きたるや。四季は照樣運行して、誰か測り透す能くせん。ゆえに「神道」と叫ぶ。聖人は綱常禮樂の教化を設立して、百姓は天天それに照って做すと雖もその所以然を知らず。これ豈に亦神道ならずや。神は卽ち誠、誠は卽ち孚、孚は卽ち人の本心なり。人心は本來卽ち順・卽ち遜・卽ち中・卽ち正なり。心を以て心に印ずれば、ゆえに祭品を獻上するを必せずして、人は自然に歸服す。

佛法釋:大觀者,絕待妙觀也;在上者,高超九界也;順者,不與性相違也;巽者,遍於九界一切諸法也;中者,不墮生死涅槃二邊也;正者,雙照二諦,無減缺也;以觀天下者,十界所朝宗也。世法則臣民為下,佛法則九界為下,觀心則一切助道法門等為下。天之神道即是性德,性德具有常樂我淨四德而不忒。以神道設教,即為稱性圓教,故十界同歸服也。

智旭は再び佛法の一層を以て《彖傳》を解す。「大觀」は、一切の相對を超越するの微妙觀照なり。「在上」は、高く前の九箇の法界を超出するなり。「順」は、本性と相違背せざるなり。「巽」は、遍く九界の一切諸法の中に入るなり。「中」は、生死と涅槃との此の兩の兩邊に墮在せざるなり。「正」は、同時に眞・俗の二諦を照見して一毫の欠缺も無きなり。「以觀天下」は、十法界皆來りて朝宗歸向するなり。若し世間法に配せば、臣民は在下の一方なり。佛法に配せば、九界の衆生は在下の一方なり。觀心に配せば、一切の修道を輔助するの法門は在下の一方なり。「天之神道」は卽ち本性中に固有するの德にして、此の性德は常・樂・我・淨の四德を具足して永不差錯す。「以神道設教」は、卽ち本性に順って立てるの圓滿の教法にして、ゆえに十法界は一同に歸服す。

象曰:風行地上,觀。先王以省方觀民設教。佛法釋者:古佛省四土之方,觀十界之民,設八教之網以羅之,如風行地上,無不周遍也。初六:童觀,小人無咎,君子吝。象曰:初六童觀,小人道也。陰柔居下,不能遠觀,故如童幼之無知也。小人如童幼,則不為惡;君子如童幼,則無以治國平天下矣。

《大象傳》は言う。風は大地の上を吹行す。これ卽ち《觀》なり。先王は此に由りて四方を巡視し民情を體察して教化を設立するを懂得す。智旭は佛法を以て解す。古佛は凡聖同居・方便有餘・實報無障礙・常寂光の此の四種の佛土を巡視して、十法界の衆生を觀察し、「八教」の網を張設して彼らを統統收羅し入る(天台宗は頓・漸・秘密・不定の四種の化儀、加ふるに藏・通・別・圓の四種の化法、合して八教と稱す)。風の地面を吹過ぐるがごとく、周遍せざる處無し。初六、兒童のごとくして物を看る。小人はかくのごとくして過錯大ならず、君子はかくのごとくせば卽ち憾惜あらん。象傳は言う。初六の童觀は、小人の路數なり。智旭は解す。初六は陰柔にして最下に處して、看ること遠き能わず。ゆえに幼童のごとく無知なり。小人は幼童に似たれば、倒して惡を爲すに至らず。君子若し幼童に似たれば、卽ち國を治め天下を平げるの法無し。

六二:窺觀,利女貞。象曰:窺觀女貞,亦可醜也。柔順中正以應九五,女之正位乎內,從內而觀者也,士則丑矣。六三:觀我生進退。象曰:觀我生進退,未失道也。進以行道,退以修道,能觀我生,則進退咸不失道。六四:觀國之光,利用賓于王。象曰:觀國之光,尚賓也。柔而得正,密邇聖君,無忝賓師之任矣。

六二、門縫より偸看す。女子の正を守るに利あり。象あり。象傳は言う。窺觀にして女子の正を守るに利あるは、男子に對して言えば亦羞むべきなり。智旭は解す。六二は陰柔順從・中に居り正を守りて上りて九五に應ず。正に女子の內室に端居するの位置にして、只だ屋內より外に向かって看る能くす。若し士人かくのごとくせば、卽ち羞むべし。六三、自己の作爲する所を觀察して進退を決定す。象傳は言う。我が生を觀て進退するは、還た未だ正道を失掉せざるなり。智旭は解す。進めば卽ち出で行きて大道を推行し、退けば卽ち家に在りて大道を修養す。能く自己の作爲する所を反觀すれば、則ち進むも退くも皆正道を失わず。六四、一國の光輝を觀瞻す。君王の賓客と爲るに利あり。象傳は言う。國之光を觀るは、賓禮を崇尚するなり。智旭は解す。六四は陰柔にして位置正を得、聖明の君に緊挨す。賓師の此の一重の身份に愧ぢず。

九五:觀我生,君子無咎。象曰:觀我生,觀民也。修己以敬,萬方有罪,罪在朕躬,此君子之道也。上九:觀其生,君子無咎。象曰:觀其生,志未平也。處師保之位,天下誰不觀之?非君子能無咎乎?既為天下人所觀,則其為觀於天下之心,亦自不能稍懈,故志未平。

九五、自己の作爲する所を觀察す。君子はかくのごとくして過錯會せじ。象傳は言う。自己の作爲する所を觀察するは、其實卽ち百姓を觀察するなり。智旭は解す。《論語》は自己を修養して恭敬を以て人に待つを説き、《尚書》は天下の萬方若し罪あらば、罪は皆我が一人の身上に在りを説く。これ卽ち君子の道なり——君主の百姓を看るは、正に自己を看るなり。上九、他人の作爲する所を觀察す。君子はかくのごとくして過錯會せじ。象傳は言う。其の生を觀るは、心志還た平静する能わざるなり。智旭は解す。上九は帝王の師保の位置に處して、天下誰か彼を盯着して看らざらん。君子に非ざれば、過錯なからんことを得んや。旣に天下人に觀看せらるれば、則ち彼の天下人に榜樣を做さんと欲するの此の份の心も亦一刻も松懈を敢えてせず。ゆえに心志は平静する能わずと言う。

約佛法釋六爻者:初是外道,為童觀,有邪慧故;二是凡夫,為窺觀,耽味禪故;三是藏教之機,進為事度,退為二乘;四是通教大乘初門,可以接入別圓,故利用賓于王;五是圓教之機,故觀我即是觀民,所謂心佛眾生三無差別;上是別教之機,以中道出二諦外,真如高居果頭,不達平等法性,故志未平。

智旭は佛法を以て六爻を解す。初六是れ外道にして、童觀に屬す。彼らは只だ邪僻の聰明あるを以てなり。六二是れ凡夫にして、窺觀に屬す。彼らは禪定の滋味を貪着するを以てなり。六三是れ「藏教」の根機の人にして、進めば事相上の六度を修する可く、退けば則ち聲聞緣覺の二乘に落入す。六四是れ「通教」の此の大乗の初門にして、此に由りて別教・圓教に接引進入する可し。ゆえに君王の賓客と爲るに利ありと言う。六五是れ「圓教」の根機の人にして、ゆえに自己を觀察すれば卽ち衆生を觀察するに等し。これ卽ち《華嚴經》の説く所の心・佛・衆生の三者に差別無きなり。上九是れ「別教」の根機の人にして、彼らは中道を眞俗二諦の外に擺きて、眞如を高く果位の一端に供え、一切法平等の法性に通達する能わず。ゆえに心志は平静する能わずと言う。

又約觀心釋六爻者:初是理即,如童無所知;二是名字即,如女無實慧;三是觀行即,但觀自心;四是相似即,鄰於真位;五是分證即,自利利他;六是究竟即,不取涅槃,遍觀法界眾生,示現病行及嬰兒行。

智旭は再び觀心を以て六爻を解して、天台宗の「六卽佛」(衆生は本來是れ佛なれど、修證に六箇の層次あるを説明す)に配す。初六是れ「理卽」にして、衆生は本來佛性を具すと雖も一毫の知る所なく、幼童のごとし。六二是れ「名字卽」にして、只だ名言の上に佛法を聽聞して、女子のごとく還た未だ眞實の智慧なし。六三是れ「觀行卽」にして、法に依って觀照を開始して、只だ自己の此の一念心を觀ず。六四是れ「相似卽」にして、得たる所の境界已に眞實の證悟に甚だ接近す。六五是れ「分證卽」にして、分分に惑を斷じ分分に眞を證して、能く自利して又能く利他す。上九是れ「究竟卽」にして、圓滿に佛を成じて然るに涅槃を取證せず、普く法界の一切衆生を觀照して、衆生と同病同苦の「病行」と淺近接引の「嬰兒行」とを示現す。

周易禪解卷第四 上經之四

噬嗑卦

(震下 離上)噬嗑:亨,利用獄。約世道,則大觀在上,萬國朝宗,有不順者噬而嗑之,舜伐有苗、禹戮防風之類是也;約佛法,則僧輪光顯之時,有犯戒者治之;約觀心,則妙觀現前,隨其所發煩惱、業、病、魔、禪、慢、見等境,即以妙觀治之:皆所謂亨而利用獄也。

(本卦は下體を震雷と爲し、上體を離火と爲す。)《噬嗑》の卦辭は言う。亨通す。刑獄を施用するに利あり。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、偉大の觀瞻は高く上に居りて萬國來朝す。若し順服するを肯んぜざるあらば卽ちそれを咬碎す。虞舜の有苗を征討し大禹の防風氏を誅殺するのごときは卽ち此の一類に屬す。佛門より言わば、僧團の法輪光顯の時に、戒を犯す人あらば卽ち律に依って懲治す。觀心より言わば、微妙の觀照現前して、修行の中に發起するの煩惱境・業境・病患境・魔事境・禪定境・增上慢境・邪見境等等(天台《摩訶止觀》の列する所の十种の止觀の觀ずる所の境)に隨って、當下に卽ち妙觀を用いてそれを對治す。此ら皆是れ所謂「亨通して獄を用うるに利あり」なり。

彖曰:頤中有物,曰噬嗑。噬嗑而亨,剛柔分,動而明,雷電合而章,柔得中而上行,雖不當位,利用獄也。王道以正法養天下,佛法以正教養僧伽,觀心以妙慧養法身,皆頤之象也;頑民梗化而須治,比丘破戒而須治,止觀境發而須觀,皆有物之象也。剛柔分,則定慧平等;動而明,則振作而智照不昏;雷電合而章,則說默互資,雷如說法,電如入定放光也。二五皆柔,故柔得中,即中道妙定也。上行者,震有奮發之象,離有麗天之象。雖不當位者,六五以陰居陽,如未入菩薩正位之象;然觀行中定慧得所,故於所發之境,善用不思議觀以治之也。

《彖傳》は言う。口腔の中に物を含むを、噬嗑と叫ぶ。咬合すれば則ち亨通す。剛柔各おのが處を分かち、震動して離明す。雷と電と結合して彰顯す。柔爻は中位に居るを得て上りて運行す。位置當を得ずと雖も、然るに刑獄を施用するに利あり。智旭は解す。王道は正法を用いて天下を養育し、佛法は正教を用いて僧團を養育し、觀心は妙慧を用いて法身を養育す。此ら皆是れ「頤」(口腔・養育)の象なり。頑劣の百姓は教化を阻撓して必ず懲治せざるべからず。比丘は戒を破りて必ず律に依って懲治せざるべからず。止觀修行の中は境界現起して必ず觀照せざるべからず。此ら皆是れ「口中有物」の象なり。「剛柔分」は、卽ち定と慧と平等なり。「動而明」は、卽ち精神を振作して智慧照察して昏昧せざるなり。「雷電合而章」は、卽ち説法と靜默と互相に輔助す——雷は説法の聲音に譬え、電は定に入りて放出するの光明に譬ゆ。六二と六五とは皆是れ柔爻にして、ゆえに柔は中を得と言う。卽ち中道に合するの微妙禪定なり。所謂「上行」は、震に奮起の象あり、離に天に附麗するの象あるを以てなり。所謂「雖不當位」は、六五の陰爻を以て陽位に居るにして、未だ菩薩の正位に進入せざるに譬ゆ。然るに觀行の階段に於いては定慧各おのが所を得。ゆえに現起する所の境界に對して、能く善巧に不可思議の觀照を運用して對治す。

象曰:雷電噬嗑,先王以明罰敕法。明罰即所以敕法,如破境即所以顯德也。初九:屨校滅趾,無咎。象曰:屨校滅趾,不行也。夫噬嗑者,不論世法佛法,自噬噬他,皆須制之於早,不可釀至於深;又須得剛克柔克之宜,不可重輕失準。今初九在卦之下,其過未深,以陽居陽,又得其正,故但如屨校滅趾,即能懲惡不行而無咎也。滅趾,謂校掩其趾。

《大象傳》は言う。雷電交作する是れ《噬嗑》なり。先王は此に由りて刑罰を明定し法令を整飭するを懂得す。智旭は解す。刑罰を明定するは正に法令を整飭するの手段にして、現する所の境界を破除するは正に本具功德を顯發するの手段に譬ゆ。初九、脚上に木枷を戴きて、脚趾を遮住せり。災禍會せじ。象傳は言う。枷を戴きて趾を遮るは、彼をして路を走り成さざらしむるなり。智旭は解す。所謂噬嗑は、世間法を論ぜず佛法を論ぜず、亦自己を咬むを論ぜず別人を咬むを論ぜず、皆必ず及早に制止して、それをして深處に釀到せしむべからず。又必ず剛柔倂用して當を得て、輕重は準頭を失う能わず。今初九は全卦の最下に處して、過錯還た深からず。それは陽爻を以て陽位に居りて又その正を得。ゆえに只だ脚上に枷を戴きて脚趾を遮住するがごとくせば、卽ち惡行を懲止して再び前に往かざらしめて災禍なき能くす。「滅趾」は、木枷の脚趾を遮蓋したるを説くなり。

六二:噬膚滅鼻,無咎。象曰:噬膚滅鼻,乘剛也。陰柔中正,其過易改,故如噬膚;下乘初九之剛,故如滅鼻。滅鼻,謂膚掩其鼻。六三:噬臘肉,遇毒,小吝,無咎。象曰:遇毒,位不當也。在下之上,過漸深矣;以陰居陽,又有邪慧,如毒,吝可知也。然當噬嗑之時,決不至於怙終,故得無咎。

六二、柔嫩の肉を咬んで、深くして鼻をすら埋め入れり。災禍會せじ。象傳は言う。噬膚滅鼻は、それの陽剛の上に凌駕するが故なり。智旭は解す。六二は陰柔にして中に居り正を守り、その過錯は改め易し。ゆえに柔嫩の肉を咬むがごとく力を費さず。それの下面は初九の此の剛爻に騎る。ゆえに鼻の埋住せらるるに似たり。「滅鼻」は、肉の鼻子を遮住したるを説くなり。六三、風乾の臘肉を咬んで、毒に碰上す。稍々憾惜あり、但だ災禍會せじ。象傳は言う。毒に遇ふは、位置當を得ざるが故なり。智旭は解す。六三は下卦の上位に處して、過錯漸漸深し。それは陰爻を以て陽位に居りて、又邪僻の聰明を帶びて、毒に似たり。憾惜は想うべくして知るなり。不過正に噬嗑にて刑を用うるの時に當りて、それは絕對に堅持して改めざるに至らず。ゆえに能く災禍なきを得。

九四:噬乾胏,得金矢,利艱貞,吉。象曰:利艱貞吉,未光也。田獵射獸,矢鋒入骨而未拔出,今噬乾胏時方乃得之,亦可畏矣,此喻積過已久也。然剛而不過,必能自克,故利於艱貞則吉。六五:噬乾肉,得黃金,貞厲,無咎。象曰:貞厲無咎,得當也。柔雖如肉,而過成已久,如肉已乾矣;賴有中德可貴,如得黃金。守此中德之貞,兢兢惕厲,庶可復於無過耳。

九四、骨帶びたる乾肉を咬んで、銅の箭頭を咬出せり。艱難の中に正を守るに利あり、吉祥。象傳は言う。利艱貞吉は、德業還た未だ光盛大ならざるを説くなり。智旭は解す。打獵して獸を射るの時、箭頭は骨の中に射進みて拔き出さざりしを、今此の骨帶びたる乾肉を咬んで始めて咬出せり。亦怕るべし。これは過錯の積累すること已に久しきを比喩す。不過九四は剛强にして頭を過ぎず、必定として自己を克制する能くす。ゆえに艱難の中に正を守るに利ありて卽ち吉。六五、乾肉を咬んで、黃金を咬出せり。正を守りて心に危懼を存せば、災禍會せじ。象傳は言う。貞厲无咎は、處置當を得るなり。智旭は解す。六五は肉のごとく柔軟なりと雖も、但だ過錯の養成すること已に久しくして、肉の已に風乾せるに似たり。好在としてそれは中に居るの德ありて珍視に値して、黃金を咬出すに同じ。此の份の中德の正道を守住して、戰戰兢兢として常に警惕を懷きて、始めて過失なきの地步に回復するの希望あらん。

上九:何校滅耳,凶。象曰:何校滅耳,聰不明也。過惡既盈,不可復救,如荷厚枷,掩滅其耳,蓋由聰聽不明,不知悔過遷善以至此也。觀心釋者:初九境界一發,即以正慧治之,如滅趾而令其不行。六二境發未深,即以正定治之,所噬雖不堅硬,未免打失巴鼻。六三境發漸甚,定慧又不純正,未免為境擾亂,但不至於墮落。

上九、肩上に大木枷を扛負して、耳朵をすら遮住せり。凶險。象傳は言う。何校滅耳は、聽覺明ならざるなり。智旭は解す。過惡已に積滿して、挽救すべき無し。厚き重き木枷を肩負して、耳朵をすら遮沒するに似たり。皆是れ耳朵の道理を聽明せず、悔過して善に向かうを懂得せざるに由りて、始めて此の歩に落至る。「何」は此處「荷」に讀みて、扛負の意思なり。「耳」是れ耳朵にして、語氣詞と當て看るべからず。以下智旭は觀心の一層を以て六爻を解す。初九是れ境界剛に一たび現起し、立刻に純正の智慧を用いてそれを對治す。枷を戴きて趾を遮りてそれをして走り動かさざらしむるに似たり。六二是れ境界現起して還た深からず、立刻に純正の禪定を用いてそれを對治す。咬む所は堅硬ならずと雖も、不免として「打失巴鼻」——禪門の説法、着落の處を抓得せずして、境界に糊塗として帶し過ぎられり——す。六三是れ境界現起して漸漸加劇し、定と慧と又皆純正ならず、不免として境界に擾亂せらる。好在として還た墮落するに至らず。

九四境發夾雜善惡,定慧亦不純正,縱得小小法利,未證深法。六五純發善境,所得法利亦大,然猶未入正位,仍須貞厲乃得無咎。上九境發極深,似有定慧,實則不中不正,反取邪事而作聖解,永墮無聞之禍也。

九四是れ現起する所の境界は善惡夾雜して、定と慧とも不純正なり。縱然一點の小小の法益を得るとも、深法に證到る無し。六五是れ純粹に善の境界を現起して、得たる所の法益も亦大なり。然るに還た未だ聖位に進入せず。仍お正を守りて常に警惕を懷きて始めて過錯なきを得す。上九是れ境界現起極めて深く、看るに定あり慧ありに似たれど、實際上は旣に中に居らず亦位に當らず。反って邪僻の境界を以て聖境と當て領會す。于是永遠に「無聞比丘」のごとき禍患に墮入す——佛典は比丘の誤って四禪を以て四果と當て、臨終に妄境を見て佛を謗りて、地獄に墮入せるを載す。正に境界を錯認するの鑑戒なり。

賁卦

(離下 艮上)賁:亨,小利有攸往。約世道,則所噬既嗑之後,偃武修文;約佛法,則治罰惡僧之後,增設規約;約觀心,則境發觀成之後,定慧莊嚴:凡此皆亨道也。然世法佛法,當此之時,皆不必大有作為,但須小加整飭而已。

(本卦は下體を離火と爲し、上體を艮山と爲す。)《賁》の卦辭は言う。亨通す。小さく往く所有れば則ち利あり。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、咬むべきは皆咬合したる後、兵戈を收起して文治を修明す。佛門より言わば、惡劣の僧人を懲治したる後、規約制度を增補す。觀心より言わば、境界現起・觀照成就したる後、定慧を用いて自身を莊嚴す。此ら皆是れ亨通の道なり。不過世間法と佛法と此の時に於いては、皆大に干戈を動かすを必せず。只だ稍加えて整頓修飾するのみ——これ正に「小利有攸往」の分寸なり。

彖曰:賁,亨,柔來而文剛,故亨;分剛上而文柔,故小利有攸往。天文也。文明以止,人文也。觀乎天文以察時變,觀乎人文以化成天下。賁則必亨,以其下卦本乾,而六二以柔來文之,則是質有其文,亦是慧有其定,故亨也;上卦本坤,而上九分剛以文之,則是文有其質,亦是定有其慧,故小利有攸往也。文質互資,定慧相濟,性德固然,非屬強設,名為天文。體其有定之慧,寂而常照,為文明;體其有慧之定,照而常寂,為止:是謂以修合性,名為人文。性德則具造十界,故觀之可察時變;修德則十界全歸一心,故觀之可化成天下。

《彖傳》は言う。《賁》卦亨通す。柔爻下り來りて剛爻を文飾す。ゆえに亨通す。剛爻を分かちて上りて柔爻を文飾す。ゆえに小さく往く所有れば則ち利あり。これ是れ天の文采なり。文明にして止まる所を知る。これ是れ人の文采なり。天文を觀察すれば以て時序の變化を體察すべし。人文を觀察すれば以て天下を教化成就すべし。智旭は解す。賁飾は必定として亨通す。下卦は本是乾にして、六二の此の柔爻は下り來りてそれを文飾す。卽ち本質の中に文采あるにして、亦卽ち慧の中に定あるなり。ゆえに亨通す。上卦は本是坤にして、上九の此の剛爻は分かち出でてそれを文飾す。卽ち文采の中に本質あるにして、亦卽ち定の中に慧あるなり。ゆえに小さく往く所有れば則ち利あり。文と質と互相に憑藉し、定と慧と互相に成就す。これ本是本性中に固有して、硬に安上するに非ず。ゆえに「天文」と叫ぶ。あの定を帶びたる慧を體會して、寂靜の中に恒常に照察するは卽ち「文明」なり。あの慧を帶びたる定を體會して、照察の中に恒常に寂靜するは卽ち「止」なり。これを後天修行を以て本有の性に契合すと叫ぶ。ゆえに「人文」と叫ぶ。性德は本身として十法界を具足し竝びに變造す。ゆえにそれを觀照すれば以て時序の變化を體察すべし。修德は則ち十法界を全部一心に收歸す。ゆえにそれを觀照すれば以て天下を教化成就すべし。

象曰:山下有火,賁。君子以明庶政,無敢折獄。賁非折獄之時也。庶政苟明,則可以使民無訟矣。佛法釋者:山下有火,外止內明,故於三千性相之庶政,一一明之,了知一切法正、一切法邪,終不妄於其中判斷一是一非,而生取舍情見,如無敢折獄也。

《大象傳》は言う。山下に火ある是れ《賁》なり。君子は此に由りて種種の政務を明察して、然るに輕率に案を斷ずるを敢えてせず。智旭は解す。賁飾の時は案を斷ずるの時に非ず。種種の政務若し能く明察せば、則ち百姓をして根本に訟事なからしむる可し。佛法の一層を以て解す。山下に火あるは、外面靜止して內裏明亮なり。ゆえに「三千性相」の一切法の種種の「政務」(天台宗は一念三千を説きて、一切法の體性と相狀とを含攝す)に對しては、一一に明察せんと要す。同時に一箇の角度より看れば一切法皆正、別の一箇の角度より看れば一切法皆邪なるを明了して、終竟その中に於いて妄りに哪れか對し哪れか錯を判斷せず、此を取り彼を捨つるの情執見解を生起せず——これ便ち「敢えて案を斷ぜず」に譬ゆ。

初九:賁其趾,舍車而徒。象曰:舍車而徒,義弗乘也。卦雖以剛柔相文得名為賁,而實非有事於矯飾也,故六爻皆取本色自賁,而終極於曰賁,正猶詩所謂素以為絢。蓋天下之真色,固莫有勝於白者。今初九抱德隱居,晚食以當肉,安步以當車,乃以義自賁者也。

初九、自己の脚趾を文飾して、車子を捨てて步行す。象傳は言う。車を捨てて步行するは、道義の上に就いて言えば乘らざるべきなり。智旭は解す。本卦は剛柔の互相に文飾するに因って《賁》と名を得ると雖も、其實竝びに矯揉修飾の事を做るに非ず。ゆえに六爻皆「本色を以て自我を文飾す」の義を取りて、最後に上九の「白賁」(底本此處は「曰賁」と作る。當に「白」の字の誤刻なるべし)に歸結す。正に《詩經》の説く所の「素以爲絢」——素淨は本身としていささか最も絢爛なり。天下の眞正の顏色は、本來白に勝る無し。今初九は德行を懷抱して隱居出でず、餓えて然る後に食へば卽ち肉を食ふに等しく、安步慢く行けば卽ち車に坐るに等し(《戰國策》の顏斶の語を用ふ)。これは道義を以て自己を文飾するの人なり。

六二:賁其須。象曰:賁其須,與上興也。柔順中正,虛心以取益乎上下之賢,乃以師友自賁者也。九三:賁如濡如,永貞吉。象曰:永貞之吉,終莫之陵也。剛正而居明體之上,足以潤及於六二六四,而使之同為聖賢,乃以師道自賁者也。

六二、自己の鬚を文飾す。象傳は言う。其の鬚を賁すは、上面に隨って一同に興動するなり。智旭は解す。六二は陰柔順從・中に居り正を守り、虛心に上下の賢者の身上より益を取る。これは師長朋友を以て自己を文飾するの人なり——鬚は自己動く能わずして、下巴に隨って動く。正にそれの九三に隨って起つがごとし。九三、文飾して光潤澤あり。長久に正を守りて吉祥。象傳は言う。永貞の吉は、終竟彼を欺凌し得る人無きなり。智旭は解す。九三は陽剛にして正を守りて離明の體の最上に居り、以て光澤を六二と六四とに潤及して、彼女らをして一同に聖賢と成らしむるに足る。これは師と爲るの道を以て自己を文飾するの人なり。

六四:賁如皤如,白馬翰如,匪寇婚媾。象曰:六四,當位疑也;匪寇婚媾,終無尤也。柔而得正,知白賁之可貴,故求賢無厭倦心:近則親乎九三,俯則應乎初九,仰則宗乎上九,無一非我明師良友;即六二六五,亦皆我同德相輔之朋。見賢思齊,見不賢而自省,安有寇哉?蓋由居上卦之下,則是上而能下,不敢自信自專,乃以虛心自賁者也。

六四、文飾して一片潔白、白馬奔馳して來る。あれは强盜に非ずして、求婚に來るなり。象傳は言う。六四の處する所の位置は本來疑を生ずべし。强盜に非ずして求婚なるを知れば、終竟過失なし。智旭は解す。六四は陰柔にして位置正を得、素白の文飾の最も貴べきを懂得す。ゆえに賢を求むること渇くがごとくして一毫も厭倦せず。近處は九三に親近し、向下は初九に應和し、向上は上九を尊奉して、我が明師良友ならざる一箇無し。卽ち六二・六五をしても、皆是れ我と同德して互相に扶助するの朋友なり。賢者を見れば卽ち看齊せんと想着し、不賢を見れば卽ち自己を反省す。何處に何の强盜かあらん。これはそれ上卦の最下に居るに因りて、上位に身を在りて能く人の下に自居して、自負自專するを敢えてせず。ゆえに虛心を以て自己を文飾するの人なり。

六五:賁于丘園,束帛戔戔,吝,終吉。象曰:六五之吉,有喜也。柔中而有陽剛之志,能知道德之樂,而不以勢位自驕,視天位之尊與丘園等,如大禹之菲飲食、惡衣服、卑宮室,為束帛戔戔吝惜之象,實則吾無間然而終吉,蓋以盛德自賁者也。

六五、山丘園圃の間に文飾して、一束の帛は少くして憐れむべし。看るに吝嗇に似たれど、最終吉祥。象傳は言う。六五の吉なる所以は、喜慶あるなり。智旭は解す。六五は陰柔にして中に居りて陽剛の志向を懷き、道德本身の快樂を懂得して、權勢地位に因って驕矜せず、天子の尊を山丘園圃と一樣に平常に看る。大禹の自己は食すこと簡薄・穿ること粗劣・住むこと低矮にして、これ卽ち「一束の薄帛・儉省吝惜」の形象なり。其實これ正に孔子の説く「吾無間然」——一點の毛病をも挑出す能わず——なり。ゆえに最終吉祥。これは盛大の德行を以て自己を文飾するの人なり。

上九:白賁,無咎。象曰:白賁無咎,上得志也。以剛居艮止之極,又在卦終而居陰位,則非過剛。年彌高,德彌邵,純淨無疵,如武公之盛德至善以自賁者也。佛法釋者:初九以施自賁,六二以戒自賁,九三以忍自賁,六四以進自賁,六五以定自賁,上九以慧自賁。又初九為理賁,不以性德濫修德故;六二為名字賁,從此發心向上故;九三為觀行賁,不可暫忘故;六四為相似賁,不住法愛故;六五為分證賁,於三諦不漏失故;上九為究竟賁,復於本性,無纖瑕故。

上九、純白を以て文飾と爲す。過錯會せじ。象傳は言う。白賁无咎は、上位に居りて心志遂ぐるを得るが故なり。智旭は解す。上九は陽剛を以て艮止の最上に居り、また全卦の終點に處して陰位に居る。ゆえに竝びに過分に剛硬ならず。年紀は大なればなるほど、德行は愈々美しく、純淨にして一點の瑕疵なし。衛武公の盛德至善を以て自己を文飾するに似たり。佛法の一層を以て解せば、六爻は「六度」に配す。初九は布施を以て自我を文飾し、六二は持戒を以て自我を文飾し、九三は忍辱を以て自我を文飾し、六四は精進を以て自我を文飾し、六五は禪定を以て自我を文飾し、上九は智慧を以て自我を文飾す。再び「六卽」に配す。初九是れ「理卽」の賁にして、本具の性德を拿って修來の功夫に冒充せざるを以てなり。六二是れ「名字卽」の賁にして、此處より發心して向上するを以てなり。九三是れ「觀行卽」の賁にして、觀照は一刻も忘失する能わざるを以てなり。六四是れ「相似卽」の賁にして、法に對する貪愛に停留せざるを以てなり。六五是れ「分證卽」の賁にして、空・假・中の三諦に對して再び漏失無きを以てなり。上九是れ「究竟卽」の賁にして、本性に回復して、一絲の細小の瑕疵をも無きを以てなり。

剝卦

(坤下 艮上)剝:不利有攸往。彖曰:剝,剝也,柔變剛也。不利有攸往,小人長也。順而止之,觀象也。君子尚消息盈虛,天行也。約世道,則偃武修文之後,人情侈樂,國家元氣必從此剝;約佛法,則規約繁興之後,真修必從此剝;約觀心有二義:一約得邊,則定慧莊嚴之後,皮膚脫盡,真實獨存,名之為剝。

(本卦は下體を坤地と爲し、上體を艮山と爲す。)《剝》の卦辭は言う。往く所有るに利あらず。《彖傳》は言う。剝は、卽ち剝落なり。柔爻は正に剛爻を改變しつつあり。往く所有るに利あらざるは、小人の勢力增長の中に在るが故なり。形勢に順ってそれを止住するは、卦象を觀察して得來の啓示なり。君子は消退・生長・盈滿・虧虛の規律を看重す。これ天道の運行なるを以てなり。智旭は解す。世間治道より言わば、兵を收め文を修めたる後、人情は奢侈享樂に趨向して、國家の元氣は必定として此より剝落す。佛門より言わば、規約の名目繁多なりし後、眞實の修行は必定として此より剝落す。觀心より言わば兩重の意思あり。一は所得の一面より講ず。定慧を以て莊嚴したる後、浮泛の皮肉は脫落して乾淨なり、只だ眞實獨り存す。これも亦「剝」と叫ぶ。

一約失邊,則世間相似定慧,能發世間辯才文彩,而於真修之要反受剝矣。約得別是一途,今且約失而論,則世出世法皆不利有攸往。所謂不利有攸往者,非謂坐聽其剝,正示挽回之妙用也。往必受剝,不往,則順而止之,所以挽回其消息盈虛之數,而合於天行也。

二は所失の一面より講ず。世間のあの是に似て是ならざる定慧は、世俗の辯才と文采とを生出する能くして、然るに眞實修行の關鍵處に對しては反って剝蝕せらる。所得の一面より言えば是れ別の一條の路なり。今は且く所失の此の一面に就いて論ずれば、則ち世間法と出世間法とは皆「往く所有るに利あらず」。所謂前往に利あらずは、竝びに人をして手を袖にして坐してその剝落を視しめんとするに非ず。恰恰として挽回の妙用を指點するなり。前往すれば必定として剝せらる。往かざれば、卽ち形勢に順ってそれを止住するなり——これ正に消長盈虛の數を挽回し天道の運行に合するの辦法なり。

象曰:山附於地,剝。上以厚下安宅。山附於地,所謂得乎丘民而為天子也。百姓足,君孰與不足?故厚下乃可安宅,此救剝之妙策也。觀心釋者:向上事須從腳跟下會取,正是此意。六爻約世道,則朝野無非陰柔小人,惟一君子高居塵外;約佛化,則在家出家皆以名利相縻,惟一聖賢遠在蘭若;約觀心,則修善斷盡,惟一性善從來不斷。

《大象傳》は言う。山は大地に附著する是れ《剝》なり。上位に居る人は此に由りて下民を厚待し自己の居所を安固するを懂得す。智旭は解す。山の立つを得る所以は地に附著するを以てなり。これ正に《孟子》の説く所の百姓の擁戴を得て始めて天子と爲る能くするなり。百姓は富たれば、君主豈に足らざらんや。ゆえに下面を厚待して始めて自己の家宅を安穩す。これ是れ剝落を挽救するの妙策なり。觀心の一層を以て解す。向上の一着の大事は、須く自己の脚跟の下より體會すべし。正に此の意思なり。再び六爻を看る。世間治道より言わば、朝廷民間は無非是れ陰柔の小人にして、只だ一箇の君子高く塵世の外に超然たるを剩すのみ。佛門教化より言わば、在家出家皆名利に纏住せられて、只だ一位の聖賢遠く蘭若(寂靜の修道處)に住在するを剩すのみ。觀心より言わば、後天に修來の善は已に剝落して殆盡き、只だ本性中に固有の善は從來曾て斷絶せざるを剩すのみ。

初六:剝床以足,蔑貞凶。象曰:剝床以足,以滅下也。床者所以棲身,剝床則身無所棲矣。初在最下,故如剝足。於世法為惡民,於佛法為惡伽藍民,於觀心為剝損戒足也。別約得者,是剝去四惡趣因;然設無四惡趣,則大悲無所緣境,故誡以蔑貞凶。

初六、床を剝蝕して、床脚より開始す。正道を滅棄すれば、凶險。象傳は言う。床を剝して足を以てすは、下部を毀滅せんと要するなり。智旭は解す。床は用いて身を安んずるなり。床は剝壞せられれば、身は卽ち安んずる處無し。初六は最下に在り。ゆえに床脚を剝するに似たり。世間法に配せば、是れ刁惡の百姓なり。佛法に配せば、是れ寺院裏の刁惡の常住人役(伽藍民は卽ち寺に依って居るの雜役)なり。觀心に配せば、是れ持戒の此の隻の「脚」を剝損掉せるなり。若し別に所得の一面より説かば、これは地獄・餓鬼・畜生・阿修羅の四惡道に墮入するの業因を剝除するなり。然るに假設四惡道無からば、菩薩の大悲心は卽ち緣とする所の對象無し。ゆえに爻辭はなお當に告誡して「正道を滅棄すれば則ち凶」と曰く。

六二:剝床以辨,蔑貞凶。象曰:剝床以辨,未有與也。於世法為惡臣,於佛法為惡檀越,於觀心為剝損禪定。無定,則散亂不能辨理,故未有與。別約得者,是剝去人天散善;然設無人天散善,則無以攝化眾生,故亦誡以蔑貞凶。

六二、床を剝蝕して、床身と床脚と交接するの處に剝到る。正道を滅棄すれば、凶險。象傳は言う。床を剝して辨を以てすは、還た未だ應有の援助を得ざるが故なり。智旭は解す。世間法に配せば、是れ奸惡の臣子なり。佛法に配せば、是れ心術不正の施主(檀越は卽ち布施の居士)なり。觀心に配せば、是れ禪定を剝損掉せるなり。定無ければ、心は卽ち散亂して、亦卽ち道理を辨淸する能わず。ゆえに「未有與」——幫手無し——と言う。若し別に所得の一面より説かば、これは人天乘のあの散亂心の中に修する所の善を剝除するなり。然るに假設人天散善無からば、卽ち衆生を攝引化度するの辦法無し。ゆえに同じく告誡して「正道を滅棄すれば則ち凶」と曰く。

六三:剝之無咎。象曰:剝之無咎,失上下也。於世法,為混跡小人之君子;於佛法,為有正見之外護;於觀心,為剝損智慧。剝慧則不著于慧,故能因敗致功,坐斷兩頭而失上下。又別約得者,是剝去色無色界味禪暗定,故得無咎。

六三、剝落の中に處して然るに過錯なし。象傳は言う。剝之无咎は、それ上下と皆關係を脫開するが故なり。智旭は解す。世間法に配せば、是れ小人の堆の裏に混在るの君子なり。佛法に配せば、是れ正知見を具有するの在家護法なり。觀心に配せば、是れ智慧を剝損掉せるなり。智慧は剝せられて、反って再び智慧に執著せず。ゆえに能く失敗に因って功業を成就し、一刀に有無の兩頭を截斷して上下の諸陰と皆相干せず。若し別に所得の一面より説かば、これは色界・無色界のあの滋味を貪着するの禪・昏昧無慧の定を剝除するなり。ゆえに能く過錯なきを得。

六四:剝床以膚,凶。象曰:剝床以膚,切近災也。下卦如床,上卦如身,今剝及身膚,不可救矣。於世法為惡宰輔,於佛法為惡比丘,於觀心為剝無一切因果。別約得者,是剝去二乘入真法門;然設無真諦,則無以出生死而不染世間過患,故誡以切近於災,所謂毫釐有差,天地懸隔也。

六四、剝蝕已に人の皮肉に剝到れり。凶險。象傳は言う。床を剝して膚を以てすは、災禍已に眉睫に迫るが故なり。智旭は解す。下卦は床に似て、上卦は人身に似たり。今は身の上の皮肉に剝到れり。救ひ回る可からず。世間法に配せば、是れ奸惡の宰相輔臣なり。佛法に配せば、是れ惡劣の比丘なり。觀心に配せば、是れ一切の因果をすら剝りて乾乾淨淨たらしむる(卽ち因果を撥無するの斷滅見)なり。若し別に所得の一面より説かば、これは聲聞緣覺の二乘の眞諦に契入するの法門を剝除するなり。然るに假設依るべき眞諦無からば、卽ち生死を出離して而も世間の過患に染せられざるに由る無し。ゆえに告誡して災禍已に切近せりと曰く——これ卽ち所謂毫釐を差えて千里を失すなり。

六五:貫魚,以宮人寵,無不利。象曰:以宮人寵,終無尤也。於世法,為柔君以在君位,又居陽而得中,能師事上九高賢,挽回天下之亂,如文王之師呂尚。於佛法,為福德比丘作叢林主,率眾僧以師事聖賢。於觀心,為即修惡以達性惡;性惡融通,任運攝得佛地性善功德,故無不利。又別約得者,從空入假,剝二邊以歸中道,故須達中道統一切法,如貫魚以宮人寵,使法法皆成摩訶衍道,則無不利。

六五、一串の魚のごとくに、宮人を率領して依次に寵幸を承受せしむ。利ならざる無し。象傳は言う。宮人を以て寵を受くるは、終竟過失なし。智旭は解す。世間法に配せば、是れ柔弱の君主の君位に居り、又陽位に處して中を得て、能く師禮を以て上九の此の高賢に事奉して、從って天下の亂を挽回す。周文王の吕尚を以て師と爲すに似たり。佛法に配せば、是れ福德あるの比丘の叢林住持と爲りて、衆僧を率領して師禮を以て聖賢に事奉するなり。觀心に配せば、是れ後天造作の惡に就いて本性中に固有の惡を通達するなり(天台の「性惡」の説。佛性は本來善惡を具し、佛は性惡を斷ぜずして能く自在に化度す)。性惡は一たび融通せば、自然而然として佛地に本具するの善の功德を攝取す。ゆえに利ならざる無し。若し別に所得の一面より説かば、これは空觀より假觀に進入して、空・有の兩邊を剝去して中道に歸ず。ゆえに必ず中道の一切法を統攝するを通達せざるべからず。一串の魚・一隊の宮人の依次に進むがごとく、每一法をして「摩訶衍」(大乗)の道と成らしめれば、則ち利ならざる無し。

上九:碩果不食,君子得輿,小人剝廬。象曰:君子得輿,民所載也;小人剝廬,終不可用也。於世法為事外高賢,如呂尚箕子之類;於佛法為出世高流,人間福田;於觀心為性善終不可剝,故如碩果不食。君子悟之以成道,小人恃之而生濫聖之慢者也。別約得者,亦指性德從來不變不壞。能悟性德,則當下滿足一切佛法,故君子得輿;執性廢修,則墮落惡趣,故小人剝廬。

上九、碩大の果實は食らはるること無かりき。君子は此に由りて車輿を得、小人は卻って自己の屋廬を剝ぎたり。象傳は言う。君子の輿を得るは、百姓に擁戴せらるるなり。小人の廬を剝ぐは、終竟任用に堪えざるなり。智旭は解す。世間法に配せば、是れ身を事外に置くの高賢にして、吕尚・箕子のあの一類に似たり。佛法に配せば、是れ出世の高僧・人間の福田なり。觀心に配せば、是れ本性中に固有の善の終竟剝り掉せられざるにして、ゆえにあの食らはれざりし碩大の果實に似たり。君子はそれを悟到れば卽ち道を成じ、小人は卻ってそれを仗りて「我は已に聖人なり」の僭越傲慢を生出す。若し別に所得の一面より説かば、これも亦本性の德の從來變壞せざるを指す。能く性德を悟到せば、當下に卽ち一切佛法を圓滿具足す。ゆえに君子は車輿を得と言う。若し「本性現成」に執著して實際の修行を廢棄せば、卽ち惡道に墮落せんと要す。ゆえに小人は自己の房子を剝ぎたりと言う。

復卦

(震下 坤上)復:亨。出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復,利有攸往。約世道,則衰剝之後必有明主中興而為復;約佛化,則淪替之後必有聖賢應現,重振作之而為復;約觀心又二義:一者承上卦約失言之,剝而必復,如平旦之氣,好惡與人相近,又如調達得無根信也;二者承上卦約得言之,剝是蕩一切情執,復是立一切法體也。若依第三觀,

(本卦は下體を震雷と爲し、上體を坤地と爲す。)《復》の卦辭は言う。亨通す。出入疾患なく、朋友來りて過錯會せじ。反復して此の路上を行じて、七天にして一回回来り、往く所有るに利あり。智旭は解す。世間治道より言わば、衰敗剝落の後は必定として明君中興あらん。これ卽ち「復」なり。佛門教化より言わば、佛法淪替の後は必定として聖賢世に應じて出現して、重新に振作起こせん。これ卽ち「復」なり。觀心より言わばまた兩重の意思あり。一は上一卦の「所失」のあの一面に承接して講ず。剝は盡頭に到れば必定として回復す。正に《孟子》の説く黎明の時のあの一一點の淸明の氣のごとく、好惡は還た常人と相近し、又像として提婆達多(調達)は地獄に墮すと雖もなお「無根信」(善根を依と爲す無しと雖も勉强に一念の信心を生起す)を生起せり。二は上一卦の「所得」のあの一面に承接して講ず。剝是れ一切の情執を蕩除し、復是れ一切法の體性を建立す。若し天台の第三重觀法を按じて配せば、

則從假入空名剝,從空入假名復。若一心三觀,則以修吻性名剝,稱性垂化名復。復則必亨,陽剛之德為主,故出入可以無疾;以善化惡,故朋來可以無咎。一復便當使之永復,故反復其道,至於七日之久,則有始有終,可以自利利他而有攸往也。

則ち假觀より空觀に進入するを剝と叫び、空觀より再び出でて假觀に進入するを復と叫ぶ。若し「一心三觀」(一念心の中に同時に空・假・中の三諦を圓觀す)を按じて配せば、則ち修行を以て本性に契合するを剝と叫び、本性に順って衆生を垂化するを復と叫ぶ。旣に回復せば、卽ち必定として亨通す。陽剛の德は主を做せり。ゆえに出づるも入るも皆疾患なし。善を以て惡を轉化す。ゆえに朋友來りて過錯會せじ。一たび回復せば、卽ちそれをして永遠に回復し下去らしむべし。ゆえに「反復して此の路上を行じ」せんと要して、七天の久しきに直到り、開始ありて亦終結あり。かくして始めて自利利他して往く所有る能くす。

彖曰:復亨,剛反,動而以順行,是以出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復,天行也。利有攸往,剛長也。復其見天地之心乎。觀心釋者:佛性名為天地之心,雖闡提終不能斷,但被惡所覆而不能自見耳。苦海無邊,回頭是岸。一念菩提心,能動無邊生死大海。復之所以得亨者,以剛德稱性而發,遂有逆反生死之勢故也。此菩提心一動,則是順修,依此行去,則出入皆無疾,朋來皆無咎矣。

《彖傳》は言う。《復》卦亨通するは、陽剛返り來れるが故なり。震動して柔順に依って運行す。ゆえに出入疾患なく、朋友來りて過錯會せじ。反復して其の道を行じて、七日來復す。これ是れ天道の運行なり。往く所有るに利あるは、陽剛生長の中に在るが故なり。回復の中に於いて大概天地の生生不息するの本心を見る可きか。智旭は觀心の一層を以て解す。佛性は卽ち天地の心と叫ぶ。卽使「一闡提」(善根を斷絶するの極惡の人)も亦終竟それを斷り掉る能わず。只だ惡に遮蓋せられて自ら見えざるのみ。苦海邊無し。頭を回れば是れ岸なり。一念の覺悟を求むる菩提心は、卽ち無邊の生死の大海を撼動する能くす。《復》卦の亨通する能くする所以は、正に此の剛健の德は本性に順って發動起こされたるが故なり。于是生死の流を逆を逆轉するの勢頭有り。此の一念の菩提心一たび動けば、便ち是れ本性に隨順するの修行なり。それに依って走下去れば、出づるも入るも皆疾患なく、朋友來るも皆過錯なし。

然必反復其道七日來復者,體天行之健而為自強不息之功當如是也。充此一念菩提之心,則便利有攸往,以剛雖至微,而增長之勢已自不可御也,故從此可以見吾本具之佛性矣。又出謂從空出假,入謂從假入空。既順中道法性,則不住生死,不住涅槃,而能遊戲於生死涅槃,故無疾也。朋謂九界性相,開九界之性相咸成佛界性相,故無咎也。

至って必ず「其の道を反復し七日來復す」せざるべからざるは、天道運行の剛健を體會して、あの自强不息の功夫を做すに、卽ちかくのごとき樣子なるべきを説くなり。此の一念の菩提心を擴充開きて、便ち往く所有るに利あり。陽剛は此刻極めて微弱なりと雖も、あの增長の勢頭は已に擋ぐ可からず。ゆえに此處より卽ち我本來具足の佛性を見る可し。再び説かば、「出」は空觀より出でて假觀に進入するを指し、「入」は假觀より空觀に進入するを指す。旣に中道の法性に隨順せば、卽ち旣に生死の裏に停留せず、亦涅槃の裏に停留せずして、能く生死と涅槃との間に於いて自在に遊戲す。ゆえに疾患なしと言う。「朋」は九法界の體性と相狀とを指す。九界の性相を一一に開顯して、全部佛界の性相と成る。ゆえに過錯なしと言う。

象曰:雷在地中,復。先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。楊慈湖曰:舜禹十有一月朔巡狩,但於冬至日則不行耳。觀心釋者:復雖有剛長之勢而利有攸往,然必靜以養其機,故觀行即佛之先王,既大悟藏性之至日,必關閉六根,脫粘內伏,暫止六度萬行商旅之事,但觀現前一念之心,而未可遍歷陰界入等諸境以省觀也。

《大象傳》は言う。雷は地中に伏す。これ卽ち《復》なり。先王は冬至の此の日に於いて關口を關閉し、商人旅客は出行せず、君主も亦四方を巡視せず。智旭は先に宋人楊簡(號は慈湖)の言を引く。虞舜・大禹は十一月初一にはなお出で行きて巡狩するを要せり。只だ冬至のあの日に到れば出行せざるのみ。再び觀心の一層を以て解す。回復は陽剛生長の勢ありて前往に利あると雖も、然るに必ず安靜を以てあの一點の生機を涵養せざるべからず。ゆえに「觀行卽佛」の此の階位に處するの「先王」は、如來藏本性を大悟するのあの「冬至日」に於いて、必定として眼耳鼻舌身意の六根を關閉して、攀緣して外境を黏著するを剝脫して內に收攝し、暫時六度萬行の此らの「商旅」の往來の事を停下して、只だ眼前の此の一念心を觀照して、還た五陰・十八界・十二入等の種種の境界を遍歴して一一に巡察觀照すべからず。

初九:不遠復,無祇悔,元吉。象曰:不遠之復,以修身也。此如顏子。約佛法者,正慧了了,頓見佛性,頓具諸行,所以元吉,如圓教初住;又約六度,即是般若正道。六二:休復,吉。象曰:休復之吉,以下仁也。此如曾子。約佛法者,正定得中,鄰真近聖,如圓教十信;又約六度,即是正定與慧相連。

初九、遠からずして走り出でて卽ち頭を回る。悔恨を產生するに至らず、大いに吉祥。象傳は言う。遠からずして復るは、用いて自身を修養するなり。智旭は解す。これは顏回に似たり。不善あれば未嘗て知らず、知れば未嘗て再び犯さず。佛法を以て言わば、是れ純正の智慧明明白白にして、當下に佛性を頓見し頓時に一切行門を具足す。ゆえに大吉。圓教の「初住」位(初めて無明を破り初めて法身を證す)に相當す。若し六度に配せば、卽ち般若の此の條の正道なり。六二、美善に回復す。吉祥。象傳は言う。休復の吉は、それの能く仁者の下に屈居するを以てなり。智旭は解す。これは曾參に似たり。日日に己が身を三省す。佛法を以て言わば、是れ純正の禪定の其の中道を得て、已に眞實と相鄰り聖位と相近し。圓教の「十信」位に相當す。若し六度に配せば、卽ち純正の禪定と智慧と連して一片と成るなり。

六三:頻復,厲,無咎。象曰:頻復之厲,義無咎也。此如子路。約佛法者,有定有慧而不中正,故須先空次假後中,名為頻復,勤勞修證而得無咎;又約六度,即是精進勤策相續。六四:中行獨復。象曰:中行獨復,以從道也。此如蘧伯玉。約佛法者,正定而與初應,如通教利根接入於圓;又約六度,即是忍辱,由與初應,則生法二忍便成第一義忍。

六三、屢屢回復す。危厲あると雖も、然るに過錯會せじ。象象傳は言う。頻復の危厲は、道理の上に就いて言えば過錯なきなり。智旭は解す。これは子路に似たり。過失を聞けば卽ち喜び、改めて又犯し犯して再び改む。佛法を以て言わば、是れ定あり亦慧あれど、然るに中に居らず位に當らず。ゆえに必ず先に空觀を修し、次に假觀を修し、最後に中觀を修して、一度一度來過して、「頻復」と叫ぶ。勤苦に修證して因って過錯なし。若し六度に配せば、卽ち精進——身心を勤策して相續斷絶せず——なり。六四、中間を走りて獨自回復す。象傳は言う。中行獨復は、正道に跟從せんと爲るが故なり。智旭は解す。これは蘧伯玉に似たり。年五十にして四十九年の非を知る。佛法を以て言わば、是れ純正の禪定にして初九と相應ず。通教中の根性銳利の人の圓教に接引進入せらるるに譬ゆ。若し六度に配せば、卽ち忍辱。初九と相應するに由りて、衆生忍と法忍との此の兩種の忍は便ち直接に「第一義忍」(中道實相に安住するの最高の忍)と成る。

六五:敦復,無悔。象曰:敦復無悔,中以自考也。此如周宣、漢文、宋仁。約佛法者,定慧調勻,亦且得中,但與陽太遠,故必斷惑證真之後,俟開顯而會入圓位,如藏通二乘;又約六度,即是持戒,雖遠於初,但自考三業無失,自然合理而得無悔。

六五、敦厚に回復す。悔恨なし。象傳は言う。敦復无悔は、中道を以て自我を省察するなり。智旭は解す。これは周宣王・漢文帝・宋仁宗の此の類の中興守成の主に似たり。佛法を以て言わば、是れ定と慧と調和均勻して、而且中に居る。只だ陽爻に離るること太だ遠し。ゆえに必ず先に惑を斷じて眞諦を證得して、再び《法華》の權を開き實を顯すの後を待って始めて圓教の位に歸せよ。藏教・通教の二乘の人に譬ゆ。若し六度に配せば、卽ち持戒。それは初九に離るること甚だ遠しと雖も、只だ自己を省察して身・口・意の三業に過失無からば、自然に理に合して悔恨なし。

上六:迷復,凶,有災眚。用行師,終有大敗,以其國君凶,至于十年不克征。象曰:迷復之凶,反君道也。此如王安石方孝孺等,生今反古,名為迷復,非昏迷不復之謂。約佛法者,不中不正,恃世間小定小慧以為極則,因復成迷,故不惟凶,且有災眚。若以此設化教人,必大敗法門,損如來之正法,至於十年而弗克征,以其似佛法而實非佛法,反於圓頓大乘之君道,如今世高談圓頓向上者是也。又約六度,即是佈施,而遠於智慧,著相,著果報,起慢,起愛,亦能起見,故雖是善因,反招惡果,良由不達佛法之君道故耳。

上六、方向を迷失したるの回復、凶險、天災人禍あり。それを用いて兵を出せば、終竟大敗し、國君を連累して亦凶に遭ひ、以至って十年も出征する能わず。象傳は言う。迷復之凶は、君主と爲るの正道に違反するが故なり。智旭は解す。これは王安石・方孝孺の此の一類の人に似たり。今世に生じて然るに硬に古制を恢復せんと要す。ゆえに「迷復」と叫ぶ。竝びに彼の昏迷して回頭するを肯んぜざるを説くに非ず。佛法を以て言わば、是れ旣に中に居らず亦位に當らず。世間のあの點の小定小慧を仗りて最高準則と當て、「回復」に因って反って迷失と成る。ゆえに不僅凶險なり、還た災禍を招來す。若し此の一套を拿って教化を設け人を度せば、必定として法門を大敗して如來の正法を損害し、以至って十年出征する能わず——それ佛法に似たれど實際は佛法に非ずして、圓頓大乗の此の條の「君道」に違反するを以てなり。當今のあの圓頓を高談し動もすれば向上一着を標榜する人らに似たり。若し六度に配せば、卽ち布施。然るにそれは智慧に遠離して、事相に執著し、果報に執著して、傲慢を生起し、貪愛を生起して、亦能く邪見を生起す。ゆえに種する所は善因なりと雖も、反って惡果を招來す。實在是れ佛法中の此の條の根本大道に通達せざるの緣故なり。

无妄卦

(震下 乾上)無妄:元亨利貞,其匪正有眚,不利有攸往。約世道,則中興之治合於天道而無妄;約佛法,則中興之化同於正法而無妄;約觀心,則復其本性,真窮惑盡而無妄:皆元亨而利於正者也。然世出世法,自利利他,皆須深自省察,不可夾一念之邪,不可有一言一行之眚。儻內匪正而外有眚,則決不可行矣。聖人持滿之戒如此。

(本卦は下體を震雷と爲し、上體を乾天と爲す。)《无妄》の卦辭は言う。大いに亨通して正を守るに利あり。若し正に合せざれば、災患あり、往く所有るに利あらず。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、中興の治は天道に合す。ゆえに眞實无妄なり。佛門より言わば、中興の教化は正法に同じ。ゆえに眞實无妄なり。觀心より言わば、本來の性を回復して、眞如窮盡に顯露して迷惑は斷盡せり。ゆえに眞實无妄なり。此ら皆是れ大いに亨通して正を守るに利あるの事なり。然るに世間法と出世間法とは、自利するも利他するも、皆必ず深く自我を省察して、一念の邪曲を夾帶すべからず、一言一行の過失あるべからず。倘若も內心正ならずして外面又過失あらば、則ち絕對に行き通る能わず。聖人の「已に滿盈の時如何に守住するか」の告誡する所に對しては、卽ちかくのごとく嚴格なり。

彖曰:無妄,剛自外來而為主於內,動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也。其匪正有眚,不利有攸往。無妄之往,何之矣?天命不祐,行矣哉!震之初爻全攬乾德為體,故曰自外來為主於內也。性德雖人人本具,然在迷情反為分外。今從性起修,了知性德是我固有,故名為主於內。夫既稱性起修,必須事事隨順法性。儻三業未純,縱有妙悟,不可自利利他。既不合於性德,則十方諸佛不護念之,安能有所行哉。

《彖傳》は言う。《无妄》卦、剛爻は外面より來りて內卦の主宰と爲る。震動して剛健、剛爻中に居りて上と相應ず。大いに亨通して正に合す。これ是れ天の賦命なり。若し正に合せざれば災患あり、往く所有るに利あらず。眞實无妄にして然るに硬に往かんと要せば、往きて何の處に到らんや。天命皆彼を護佑せざれば、還た走り動くを得んや。智旭は解す。震卦の初爻は整個として乾の剛健の德を拿って自己の本體と做す。ゆえに「外面より來りて內卦の主と爲る」と言う。本性中の德は人人本來具足すと雖も、但だ迷惑する人の看るに於いては反って分外の物に似たり。今は本性に順って修を起こして、性德は本是我が固有なるを明白す。ゆえに「爲主于內」と叫ぶ。旣に本性に順って修を起こせば、卽ち必ず事事法性に隨順せざるべからず。倘若も身・口・意の三業還た純淨ならざれば、縱然微妙の悟解あれど、亦以て自利利他に拿去すべからず。旣に性德に合せざれば、十方の諸佛は彼を護念せず。彼は還た何の作爲かあらんや。

象曰:天下雷行,物與無妄。先王以茂對時,育萬物。佛法釋者:師子奮迅,三世益物,名茂對時;番番種熟脫,使三草二木任運增長而歸一實,名育萬物。初九:無妄往吉。象曰:無妄之往,得志也。彖云無妄之往何之矣,乃指匪正有眚,出於無妄而往於妄也;此云無妄往吉,乃依此真誠無妄而往應一切事也,所以得志而吉。

《大象傳》は言う。天下に雷聲運行して、萬物皆眞實无妄の本性を賦與せらる。先王は此に由りて勉力して時序に順應し萬物を養育するを懂得す。智旭は佛法を以て解す。佛は「師子奮迅三昧」に入りて、過去・現在・未來の三世に於いて衆生を利益す。これを「勉力して時序に順應す」と叫ぶ。一番一番に衆生のがために下種し・成熟せしめ・解脫せしめて、大中小の三種の草・大小の二種の樹(《法華經》の藥草の喻、根機相同じからざるの衆生を比喩す)をして皆自然に增長して同一の眞實の道に歸入せしむ。これを「萬物を養育す」と叫ぶ。初九、眞實无妄に前往す。吉祥。象傳は言う。无妄之往は、心志實現するを得るが故なり。智旭は解す。《彖傳》の「无妄之往何之矣」と言うは、正ならずして災患あるの情形を指す——本來眞實に出でて、然るに虛妄に走向れり。此處の「无妄往吉」と言うは、則ち此の份の眞誠无妄に依って一切の事を應接するを説く。ゆえに心志遂ぐるを得て吉祥なり。

六二:不耕穫,不災畬,則利有攸往。象曰:不耕穫,未富也。田一歲曰災,三歲曰畬。世未有不耕而獲、不災而畬者。夫不耕不災,此絕無望於獲畬者也,然能獲能畬,此何以致之乎?孔子云:隱居以求其志,行義以達其道。又云:耕也,餒在其中矣;學也,祿在其中矣。六二以陰柔中正,上應九五陽剛中正之君,惟以求志達道為心,而毫不以富貴利祿為念,乃利有攸往而不變其塞耳。

六二、收穫せんと爲るがための耕種せず、熟田せんと爲るがための開荒せず。かくのごとくして反って往く所有るに利あり。象傳は言う。耕さずして穫るは、本來卽ち富を求めんと打算せざるなり。智旭は解す。田は開墾滿一年を「災」(卽ち菑、初耕の田)と叫び、滿三年を「畬」(熟田)と叫ぶ。世上に耕さずして收穫し開荒せずして熟田を得るの事無し。旣に耕さず亦墾かざれば、これ根本に收穫と熟田とを指望せざるの人なり。然るに彼は偏偏收穫する能くし熟田を得る能くす。これは何より來るや。孔子は言う。隱居して以て其の志を守り、道義を推行して以て其の義を達す。又言う。種地は、飢餓も亦その中に在らん。求學は、俸祿は卽ちその中に在り。六二は陰柔を以て中に居り正を守りて、上りて九五の陽剛中正の君主に應ず。一心に只だ志向を堅守し大道を通達するを以て念と爲して、一毫も富貴利祿を心上に放せず。ゆえに往く所有るに利ありて然るに自己の困窘の時の操守を改變せず。

六三:無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。象曰:行人得牛,邑人災也。不中不正,居震之上,此執無妄之理而成災者也。夫行人得牛,何乃執理而求償於邑人?豈非禍及無辜者乎。吳幼清曰:無妄之善有三:剛也,當位也,無應也。剛者,實也;當位者,正也;無應者,無私累也。諸爻或有其三,或有其二,或有其一。初九、三皆全,其最善也;九五九四有其二,九五剛而中正,九四剛而無應,是其次也;六二上九有其一,六二中正,上九剛實,是又其次也。

六三、飛來の橫禍——人あるいは牛を此處に拴しめ、過路の人は牽走せり、同邑の人は卻って因って殃に遭ふ。象傳は言う。過路の人は牛を得、同邑の人は災を受く。智旭は解す。六三は旣に中に居らず亦位に當らず、震動の體の最上に處す。これ是れ「眞實无妄」の道理を死執して反って禍を惹出すの人なり。過路の人は牛を牽走せり。何ぞ道理を死摳して同邑の人に向かって索賠せんと要するや。これ豈に無辜に禍を及ぼすに非ずや。以下吳澄の言を引く。《无妄》一卦の好處に三樣あり。陽剛・當位・無所應なり。陽剛は卽ち充實、當位は卽ち端正、無所應は卽ち私情の牽累無し。各爻あるいは三樣皆占め、あるいは兩樣を占め、あるいは只だ一樣を占む。初九と九三とは三樣皆全うして、最も好し。九五・九四は兩樣を占めて、九五は剛にして中に居り正を守り、九四は剛にして應ずる所無し、次の一等なり。六二・上九は各おのが一樣を占めて、六二は中に居り正を守り、上九は剛健篤實なり、又次の一等なり。

唯六三於三者咸無焉,而亦得為無妄,何也?下比中正之六二,上比剛實無私之九四。譬如有人,在己雖無一善,而上有嚴師,下有良友,親近切磨,夾持薰染,亦不至於為惡,上六三之所以亦得為無妄也。陳旻昭曰:世固有忠臣孝子,遇不得已之時勢,竟冒不忠不孝之名,而萬古不能自白者。因災而息其欲自陳白之妄心,是為無妄之災。如係牛於邑而行人得之,彼行人決不可查考,而邑人決無以自白,惟有吞聲忍氣,陪償其牛而已。忠臣孝子之蒙怨者亦復如是。

唯だ六三は此の三樣一樣も占めず、然るに卻って亦算して无妄と爲す。何を以てなりや。それ下面は中に居り正を守るの六二に挨着し、上面は剛健篤實・私應なきの九四に挨着するを以てなり。一人に譬ゆ。自己は一樣の長處なしと雖も、但だ上に嚴師あり下に良友ありて、天天親近切磋して、中間に夾まれて熏染せられて、亦惡を爲すに至らず——これ卽ち六三も亦能く无妄と算するの緣故なり(底本此の句は「上六三之所以」と作る。「上」の字は疑わく「此」と當るべし)。以下陳旻昭の言を引く。世上は本來忠臣孝子あるに、不得已の時勢に碰上して、竟に不忠不孝の名聲を背上して、千秋萬代自我を辯白するの法無し。此の場の災禍に因って、反って彼の自我を表白せんと欲するのあの點の妄心を息滅す。これ始めて「无妄之災」と叫ぶ。牛を邑中に拴しめて過路の人に牽走せらるるに似たり。あの過路の人は根本に査考に由无く、邑人も亦根本に辯白に由无し。只だ聲を吞み氣を忍んで、一頭の牛を賠して事を了するのみ。冤屈を蒙受するの忠臣孝子も亦正にかくのごとし。

九四:可貞,無咎。象曰:可貞無咎,固有之也。以陽居陰,不好剛以自任,蓋其德性然也。九五:無妄之疾,勿藥有喜。象曰:無妄之藥,不可試也。剛健中正,此無妄之至者也。夫立身於無過之地者,未免責人太過,所謂執藥反成病矣,故勿藥而有喜。蓋以己律人,則天下孰能從之。上九:無妄,行有眚,無攸利。象曰:無妄之行,窮之災也。以陽居陰,雖非過剛,而居無妄之極,則是守常而不知變通者也。既無善權方便,其何以行之哉。

九四、正を守るべし。過錯會せじ。象傳は言う。可貞无咎は、此の份の德性は本來卽ち有るが故なり。智旭は解す。九四は陽爻を以て陰位に居り、剛强を逞しゅうして自我に擔待するを喜ばず。これそれの德性は本來かくのごとし。九五、端緒無く來るの病、藥を食さずして反って喜あり。象傳は言う。无妄の病を治するの藥は、隨便に試すべからず。智旭は解す。九五は剛健にして中に居り正を守り、是れ眞實无妄極點に到れるの人なり。然るに一毫の過失無きの位置の上に立つ人は、難免として別人を責備するに苛なり。これを抓着して藥を反って病を吃出すと叫ぶ。ゆえに藥を食さずして始めて喜あり。自己の標準を拿って別人を要求せば、天下は誰か跟得上せんや。上九、眞實无妄なれど、然るにかくのごとく行事すれば災患あり、利益あらざる無し。象傳は言う。无妄之行は、窮盡の處に走り到れるの災禍なり。智旭は解す。上九は陽爻を以て陰位に居り、過分に剛硬と算せずと雖も、但だ无妄の極點に處して、卽ち常規を死守して變通を知らざるの人と成る。旣に善巧權變の方便手段無ければ、何を憑って行き通るを得んや。

佛法釋者:六爻皆悟無妄之理而為修證者也。初九正慧直進,故現生克果而得志。六二正定治習,故須於禪法不取不證,則可以借路還家。六三不中不正,雖有小小定慧能開示人,令其得道得果,如行人得牛,而自己反成減損,久滯凡地,如邑人之災。九四慧而有定,自利有餘,

智旭は佛法を以て六爻を解す。六爻は皆是れ「眞實无妄」の此の道理に悟到りて實際に修證するの人なり。初九是れ純正の智慧にして一直に向前す。ゆえに現生に卽ち果位を證得して心志遂ぐるを得る能くす。六二是れ純正の禪定を以て習氣を對治す。ゆえに必ず禪法に對して取着せず、あの一分の證悟の上に停留せざれば、かくして始めて此の路を借りて自家に回到する可し(卽ち禪定を借りて路徑と爲して實相に歸す)。六三は旣に中に居らず亦位に當らず、一點の小小の定慧ありて別人を開示して別人をして得道證果せしむる能くすと雖も——過路の人の牛を牽走するに譬ゆ——自己は反って減損する所有り、長久に凡夫の地位に停滞す。正に同邑の人の無辜に災を受くるに似たり。九四是れ慧の中に定を帶びて、自利は綽綽として餘あり。

乃是達其性具定慧,非是修而後有。九五剛健中正,自利已圓,為眾生故,示現病行,豈更須對治之藥?即初心修觀亦復如是,一切境界無非性德,體障即德,無可對治也。上九不中不正,恃性德而不事修德,躬行多眚,何利之有?蓋由一味高談向上,以至於窮,故成災也。

これは本性中に本來具足するの定と慧とに通達したるにして、竝びに修し出でたる後に始めて有るに非ず。九五は剛健にして中に居り正を守りて、自利已に圓滿せり。衆生の緣故のがために衆生と同病同苦の「病行」を示現す。何處に還た對治の藥を須要せんや。卽使初發心して觀を修する人も亦かくのごとし。一切の境界は無非是れ性德の顯現にして、障礙は當下に卽ち功德なるを體認すれば、本來何の對治すべきも無し。上九は旣に中に居らず亦位に當らず、只だ本具の性德を仗りて然るに修行の功夫を下すを肯んぜず。親身の行く所は處處過失なり。何の利益か得んや。皆是れ一味に「向上一着」を高談して、以至って窮盡の處に走り到れるを以てなり。ゆえに災禍と成れり。

大畜卦

(乾下 艮上)大畜:利貞,不家食吉,利涉大川。畜,蓄積也,蓄積其無妄之道以養育天下者也。約世道,則中興之主復於無妄之道,而厚蓄國家元氣;約佛化,則四依大士復其正法之統,而深養法門龍象;約觀心,則從迷得悟,復於無妄之性,而廣積菩提資糧:皆所謂大畜也。世出世法,弘化進修,皆必以正為利,以物我同養為公,以歷境練心為要,故不家食吉而利涉大川也。

(本卦は下體を乾天と爲し、上體を艮山と爲す。)《大畜》の卦辭は言う。正を守るに利あり。自己の家裏に在りて閒飯を食さざれば則ち吉。大河を渡るに利あり。智旭は解す。「畜」是れ蓄積にして、卽ち上一卦のあの眞實无妄の道を蓄積して、用いて天下を養育す。世間治道より言わば、中興の主は无妄の道に回歸して、從って國家の元氣を厚厚と蓄養す。佛門教化より言わば、「四依大士」(末法の中に於いて衆生の依止と爲すべき四類の聖者)は正法の統緒を重整して、從って法門の中の龍象人才を深深と培養す。觀心より言わば、迷惑より覺悟に轉じて、无妄の性に回復して、從って覺悟に趣向するの資糧を廣く積聚す。此ら皆「大畜」と叫ぶ。世間法と出世間法とは、教化を弘揚するも自己進修するも、皆必ず正を守るを以て利と爲し、人我同じく養育を受くるを以て公と爲し、境界を經歴して心志を磨煉するを以て要と爲さざるべからず。ゆえに閒飯を食さざれば則ち吉にして、大河を渡るに利ありと言う。

彖曰:大畜,剛健篤實輝光,日新其德。剛上而尚賢,能止健,大正也。不家食吉,養賢也。利涉大川,應乎天也。乾之剛健,艮之篤實,皆有輝光之義焉,以此日新其德,則蓄積深厚廣大,故名大畜。然所謂利貞、不家食吉、利涉大川者,非是性外別立修德,乃稱性所起之修,全修在性者也。試觀乾德之剛,上行居卦之終,而六五能尊尚之,且卦體外止內健,豈非本性大正之道乎?六五以柔中之德,上則養賢師以風天下,下則養賢士以儲國用,豈非不家食吉之正道乎?且以柔中之德,應九二天德之剛,剛柔相濟,何遠不通,豈非利涉大川之正道乎?

《彖傳》は言う。《大畜》卦、剛健・篤實・光輝煥發して、天天自己の德行を更新す。剛爻上行して賢者を崇尚し、能く剛健の勢を止住す。これ是れ大大的正道なり。閒飯を食さざれば則ち吉は、國家賢人を養ふなり。大河を渡るに利あるは、天道に順應するなり。智旭は解す。乾の剛健・艮の篤實は、皆光輝の義を含有す。此を用いて天天德行を更新せば、蓄積は深厚廣大なり。ゆえに「大畜」と叫ぶ。不過所謂正を守るに利あり・閒飯を食さざれば則ち吉・大河を渡るに利ありは、竝びに本性の外に於いて別に一套の修行功夫を立てるに非ずして、是れ本性に順って生發出だすの修にして、全部の修行はなお本性の外に出でず。試みに看よ。乾德の陽剛は上行して全卦の終點に居る(上九を指す)に、六五は能くそれを尊崇す。況んや卦體は外面は止・內面は健なれば、これ豈に正に本性中のあの條の大正の道ならずや。六五は陰柔居中の德を以て、向上して賢明の師長を供養して天下を教化し、向下して賢能の士人を供養して國家の用に儲備す。これ豈に正に「不家食吉」の正道ならずや。再びそれは陰柔居中の德を以て、九二のあの天德を具するの陽剛に應ず。剛柔は互相に調劑す。還た何の遠處か到らざらん。これ豈に正に「利涉大川」の正道ならずや。

象曰:天在山中,大畜。君子以多識前言往行以畜其德。一山之中具有天之全體,一念心中具攝十世古今。攬五時八教之前言,該六度萬德之往行,以成我自心之德。以此自畜,即以此畜天下矣。吳幼清曰:識,謂記之於心。德大於前言往行,猶天之大於山也。以外之所聞所見,而涵養其中至大之德,猶山在外而藏畜至大之天於中也。前言往行,象山中寶藏之多;德象天之大。

《大象傳》は言う。天は山中に含む是れ《大畜》なり。君子は此に由りて廣く前人の言論・往聖の行事を記取して、用いて自己の德行を蓄養するを懂得す。智旭は解す。一座の山の中は天の全體を含み、一念心の中は古往今來十世の時間を含攝す。「五時八教」の前人の言を收攏し(天台は釋迦の一代の説法を華嚴・鹿苑・方等・般若・法華涅槃の五時、及び化儀化法の八教に判ず)、六度萬行の往聖の行を囊括して、用いて我自が心の德を成就す。此を用いて自己を蓄養するは、亦卽ち此を用いて天下を蓄養するなり。以下吳澄の言を引く。「識」是れ心裏に記るなり。德は前言往行より更大なり。天の山より更大なるに似たり。外部の聞見する所を用いて、內部のあの至大の德を涵養す。山の外に在りて至大の天を裏面に藏るるに似たり。前言往行は、山中寶藏の多きに譬ゆ。德は、天之廣大に譬ゆ。

初九:有厲,利己。象曰:有厲利己,不犯災也。六爻皆具剛健篤實輝光之義而自新新民者也。初九陽剛在下,正宜隱居求志,故有惕厲之功,而先利自己。己利既成,任運可以利人;若己躬下事未辦,而先欲度人,則犯災矣。九二:輿說輹。象曰:輿說輹,中無尤也。剛而得中,專修定慧,似無意於得時行道者,然自利正是利他之本,故中無尤。

初九、危厲あり。先に自己を顧るに利あり。象傳は言う。有厲利己は、災禍を觸犯しに去らざるなり。智旭は解す。《大畜》の六爻は皆剛健・篤實・光輝の義を具備して、皆是れ自新して又民を新にするの人なり。初九は陽剛にして最下に處す。正に當に隱居して志向を堅守すべし。ゆえに警惕戒懼の功夫を下して、先に自己の此の一頭を做好せよ。自己の此の一頭成就せば、自然而然として能く別人を利益す。若し自己の脚跟の下の大事還た未だ辦妥せざるに、卽ち急いで別人を度せんとすれば、卽ち禍を惹かんと要す。九二、車子は車軸上の伏兔を卸下せり(輹是れ車廂と車軸とを連接するの部件、卸下せば卽ち車は行く能わず)。象ず)。象傳は言う。輿說輹は、中に居りて過失無きなり。智旭は解す。九二は陽剛にして下卦の中に居り、專心して定慧を修習して、看るに時機に趕上して大道を推行するの意無きに似たり。然るに自利は正に利他の根本なり。ゆえに中に居りて過失なし。

九三:良馬逐,利艱貞。曰閒輿衛,利有攸往。象曰:利有攸往,上合志也。剛而得正,居乾之上,不患不能度生也,患其欲速喜進,失於防閒耳。故必利於艱貞,閒其輿衛,乃利攸往。亦以上有六四之良友、六五之賢君、上九之明師,與之合志,必能互相警勵,故可往也。

九三、好馬奔馳して追逐す。艱難の中に正を守るに利あり。天天車戰守衛の事を練習して、往く所有るに利あり。象傳は言う。利有攸往は、上面の爻と志向相合するなり。智旭は解す。九三は陽剛にして位置正を得、乾體の最上に居る。衆生を化度する能わざるを愁へず。愁ふるはそれの成を急ぎて上進を貪圖して、防範約束を缺くなり。ゆえに必ず艱難の中に正を守るに利ありて、自己の車馬護衛を操練して、始めて前往に利あり。況んや上面には六四の此の良友・六五の此の賢君・上九の此の明師ありて、それと志向相合せば、必ず能く互相に警策勉勵す。ゆえに前往する可し。(底本「曰閑輿衛」の「曰」は、通行本は「日」と作す。卽ち天天演練するの意なり。)

六四:童牛之牿,元吉。象曰:六四元吉,有喜也。柔而得正,下則應初九剛正之良友,親九三剛正之畏友,上則近六五柔中之聖君,過端未形而潛消默化,如童牛未角,先施以牿,更無牴觸之患。以此自養,以此為天下式,大善而吉,悅而且樂者矣。

六四、小牛犢に先に抵触を防ぐの橫木を套上ぐ。大いに吉祥。象傳は言う。六四の大吉は、喜慶あるなり。智旭は解す。六四は陰柔にして位置正を得、向下して初九の此の剛正の良友に應じて、九三の此の剛正の畏友に親近して、向上して六五の此の柔中の聖君に靠る。過失の苗頭は還た未だ成形せざるに已に無聲の中に消解轉化せり——小牛の角は還た未だ長出せざるに、先にそれに橫木を套上げば、卽ち再び頂撞して人を傷めるの隱患無し。此を用いて自己を涵養し、此を用いて天下に樣板を做す。大善にして吉祥、旣に歡悅して又快樂なり。

六五:豶豕之牙,吉。象曰:六五之吉,有慶也。豶,犗也。犗則不暴,而牙仍堅利也。柔得中位,尊上賢而應下乾,性德既無偏頗,所養又復周足,自利成就,可以君臨天下,舉天下之善惡眾庶無不入吾陶冶,故如豶豕之牙。上九:何天之衢,亨。象曰:何天之衢,道大行也。以剛柔相濟之德,當聖君師保之任,隱居所求之志,至此大行無壅,蓋不啻行於天衢也。

六五、閹過ぎたる野る野豬の獠牙。吉祥。象傳は言う。六五の吉は、喜慶あるなり。智旭は解す。「豶」卽ち閹割なり。閹過れば卽ち再び暴烈ならず、然るに獠牙は照樣堅硬鋒利なり。六五は陰柔にして中位を得、向上して上九の賢德を尊崇し、向下して乾體と相應ず。本性の德は旣に偏頗無く、蓄養する所は又周全充足して、自利已に成就せり。以て天下に君臨すべし——天下は善人を論ぜず惡人を論ぜず各色の衆生、我が陶冶の中に進入せざる無し。ゆえにあの閹過ぎたる野豬の牙に似たり。威力ありて然るに人を傷めず。上九、何等寛闊なるか天上の通衢。亨通す。象傳は言う。何天之衢は、道の大いに施行するを得るが故なり。智旭は解す。上九は剛柔相濟の德を以て、聖君師保の重任を擔當す。當初隱居の時に堅守したるの志向は、此の時に到りて大いに施行して一毫の阻塞無し。簡直として止まらず通天の大道の上を走るのみならず。

頤卦

(震下 艮上)頤:貞吉。觀頤,自求口實。約世道,則畜德以養天下;約佛化,則畜德以利群生;約觀心,則菩提資糧既積,而長養聖胎也。自利利他,皆正則吉;皆須視從來聖賢之所為頤者何如,皆須自視其所以為口實者何如。

(本卦は下體を震雷と爲し、上體を艮山と爲す。)《頤》の卦辭は言う。正を守れば則ち吉。別人の如何に人を養ふかを觀察して、自己は口中の實物を求めに往け。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、德行を蓄積して以て天下を養育す。佛門教化より言わば、德行を蓄積して以て衆生を利益す。觀心より言わば、覺悟に趣向するの資糧已に積足して、進みて「聖胎」(心中に於いて聖果を孕育するを比喩す)を長養す。自利するも利他するも、只だ正に合せば卽ち吉。皆必ず歷來の聖賢の如何に人を養ふかを看看せざるべからず。亦皆必ず自己は何を拿って口中の食に充つるかを看看せざるべからず。

彖曰:頤,貞吉,養正則吉也。觀頤,觀其所養也。自求口實,觀其自養也。天地養萬物,聖人養賢以及萬民。頤之時大矣哉。養正則吉,明養而非正、正而不養皆非吉道也。不觀聖賢之所養,則無以取法思齊;不觀自養之口實,則無以匹休媲美。且如天地全體太極之德以自養,即能普養萬物;聖人養賢輔成己德,即可以及萬民。誰謂養正之外別有利人之方?故正自養時,即全具位育功能而稱大也。

《彖傳》は言う。《頤》卦は正を守れば則ち吉は、養ふこと正に合して始めて吉なるを説くなり。「觀頤」は、彼の養ふ所の對象を觀察するなり。「自求口實」は、彼の如何に自己を養ふかを觀察するなり。天地は萬物を養育し、聖人は賢者を供養して從って萬民に惠及す。《頤》卦の處する所の時機の意義は大なり。智旭は解す。「養正則吉」と言うは、只だ養ひて正ならず、只だ正にして養はずは、皆吉道に非ずを點明するなり。聖賢の養ふ所は何ぞやを觀察せざれば、卽ち取法看齊するに由无し。自己は何を拿って口中の食に充つるを觀察せざれば、卽ち前賢と比美するに由无し。譬えば天地は太極の德を整個拿って自己を養へば、卽ち能く普く萬物を養ふ。聖人は賢者を供養して以て自己の德を輔成せば、卽ち以て萬民に惠及す可し。誰か養正の外に於いて別に一套の人を利するの辦法あらんと言はんや。ゆえに正に端正に自己を涵養するの時に於いては、已に完全に《中庸》の説く所の「天地位、萬物育」の功能を具備す。因此大と稱す。

象曰:山下有雷,頤。君子以慎言語,節飲食。言語飲食皆動之象也,慎之節之,不失其止也,故知養正莫善於知止。初九:舍爾靈龜,觀我朵頤,凶。象曰:觀我朵頤,亦不足貴也。陽剛為自養養他之具,知止為自養養他之貞。初九陽剛足以自養,如靈龜服氣,可不求食,而居動體,上應六四,觀彼口實,反為朵頤,失其貴而凶矣。此如躁進之君子,於佛法中,則如乾慧外凡,不宜利物。

《大象傳》は言う。山下に雷ある是れ《頤》なり。君子は此に由りて言話を謹慎し飲食を節制するを懂得す。智旭は解す。言語と飲食とは皆是れ「動」の象にして、それを謹慎し・それを節制するは、卽ちあの「止」を失掉せざるなり。ゆえに養正は止まるを知るより善き無きを知る可し。初九、你自己のあの隻の神靈の烏龜を丢き棄てて、卻って我が口を張りて咀嚼するを盯着す。凶險。象傳は言う。我が朵頤を觀るは、亦卽ち看重するに値せざるなり。智旭は解す。陽剛是れ自養養人の本錢にして、知止是れ自養養人の正道なり。初九は陽剛にして、本來以て自養するに足る。靈龜の能く氣を服して食を求むるを必とせざるに譬ゆ。しかるにそれは震動の體に處して、又上りて六四に應ず。眼巴巴として人家の口の裏のものを望みて、自己は反って口を張りて涎を垂らし、自身の貴べき處を丢き掉せり。因って凶險。これは進を求むるに躁なるの君子に譬ゆ。佛法の中に於いては、則ち只だ「乾慧」(乾枯の智慧、未だ禪定の滋潤を得ず)の外凡位の人に譬ゆ。還た出で行きて衆生を利益するに適合せず。

六二:顛頤,拂經,于丘頤,征凶。象曰:六二征凶,行失類也。以上養下,乃理之常。六二陰柔,反藉初九之養,拂其經矣。又居動體,恐或不肯自安,將求頤於六五之丘。五雖與二為應,然亦陰柔,不能自養,何能養人?征則徒得凶耳。兩陰無相濟之功,故為失類。此如無用之庸臣,於佛法中,則如時證盲禪,進退失措。

六二、顛倒して來りて下りて養を求む。常理に違背す。轉じて高丘上の六五に向かって養を求めば、前往すれば則ち凶。象傳は言う。六二の征凶は、行動上に於いて同類を失掉したるが故なり。智旭は解す。上より下を養ふは、始めて常理なり。六二は陰柔にして、反って初九を借りて自己を養ふ。常理に違背せり。それは又震動の體に處して、恐らくは分に安んずるを肯んぜず、將に六五の此の座の「高丘」に向かって養を求めんとす。六五は六二と應を爲すと雖も、卻って同じく陰柔なり。自己すら養ひ活かす能わざれば、怎んぞ人を養ふを得んや。前往すれば只だ白く凶を招くのみ。兩箇の陰爻の間に於いては互相に濟助するの功能無し。ゆえに同類を失掉したりと言う。これは一毫の用處無きの庸臣に譬ゆ。佛法の中に於いては、則ち一時に點の相似の證境を得たるの「盲禪」(慧眼無きの枯禪)に譬ゆ。進退皆分寸を失せり。

六三:拂頤,貞凶,十年勿用,無攸利。象曰:十年勿用,道大悖也。陰柔不能自養,又不中正,以居動極,拂於頤矣,雖有上九正應,何能救之?終於無用而已。此如邪僻之宰官,於佛法中,則如六群亂眾,大失軌範。

六三、養道に違背す。卽使正を守るも凶。十年も用に派せらるる無し。利益あらざる無し。象傳は言う。十年勿用は、正道と大相違背するが故なり。智旭は解す。六三は陰柔にして自養する能わず、又旣に中に居らず亦位に當らず、還た震動の極點に處して、完全に養道に違背せり。上九のそれと正相應ずるありと雖も、又怎んぞそれを救ふを得んや。終竟是れ用處無きのみ。これは邪僻の官吏に譬ゆ。佛法の中に於いては、則ち「六群比丘」(律典の中に屢屢戒を犯し僧團を擾亂するの六箇の比丘)に譬ゆ。大衆を攪亂して、大大に軌範を破壞せり。

六四:顛頤,吉,虎視耽耽,其欲逐逐,無咎。象曰:顛頤之吉,上施光也。陰柔得正而居止體,雖無養具,得養之貞者也。下應初九,賴其養以自養養人,此如休休有容之大臣,吉之道也。初方觀我而朵頤,我隨其視之耽耽、欲之逐逐,以禮而優待之。在初則不足貴,在我則養賢以及萬民,可謂上施光矣。於佛法中,則如賢良營事,善為外護。

六四、顛倒して來りて下りて養を求む。吉祥。老虎のごとく目光炯炯として注視し、欲求連接斷絶せず。過錯會せじ。象傳は言う。顛頤の吉なる所以は、上位に居る者の施與するの光輝なり。智旭は解す。六四は陰柔にして位置正を得、又艮止の體に處す。自己は人を養ふの本錢無しと雖も、卻って是れ養道の正を守住したるの人なり。それは下りて初九に應じて、初九の供養を靠って自己を養ひ、亦來りて別人を養ふ。これは寬宏にして容あるの大臣に譬ゆ。是れ吉祥の道なり。初九は本是我を盯着して涎を垂らす。我は便ちそれのあの炯炯の注視・連接斷連接斷絶せざるの欲求に順って、禮を以てそれを優待す。これは初九に於いては看重するに値せざるも、我に於いては卻って賢者を供養して從って萬民に惠及す。以て上位に居る者の施與するの光輝と言う可し。佛法の中に於いては、則ち賢良の執事僧の寺務を經營して、能く護法の外護を做するに譬ゆ。

六五:拂經,居貞吉,不可涉大川。象曰:居貞之吉,順以從上也。陰柔無養人之具,空居君位,故名拂經。居止之中,順從上九,此亦養賢以及萬民,為得其正者也,但可處常,不可處變,宜守成,不宜創業耳。此如虛己之賢君,於佛法中,則如柔和同行,互相勉(最又+力)。上九:由頤,厲吉,利涉大川。象曰:由頤厲吉,大有慶也。以陽剛居止極,卦之所以為頤者此也。此如望隆之師保,可以拯濟天下者矣。於佛法中,則如證道教授,宰任玄綱。

六五、常理に違背す。安居して正を守れば則ち吉。以て大河を渡るべからず。象傳は言う。居貞の吉は、柔順に上位に跟從するが故なり。智旭は解す。六五は陰柔にして人を養ふの本錢無く、白く君位を占據す。ゆえに「拂經」と叫ぶ。それは艮止の體の中間に處して、柔順に上九に跟從す。これも亦賢者を供養して從って萬民に惠及す。算して其の正道を得たりと爲す可し。只だ能く常態に應付して、變局に應付する能わず。守成に宜しく、開創に宜しからず。これは虛心に人を待つの賢君に譬ゆ。佛法の中に於いては、則ち性情柔和の同參道友に譬ゆ。互相に勉勵す(底本此處「勉」の下の一字は罕見字にして、「最」の下に「力」を加えたるに作す。義は勖勉に同じ)。上九、全卦の養は皆それに由りて來る。心に危厲を存せば則ち吉。大河を渡るに利あり。象傳は言う。由頤厲吉は、大いに喜慶あるなり。智旭は解す。上九は陽剛を以て艮止の極點に處す。全卦の《頤》と成る所以の關鍵は卽ちそれに在り。これは衆望の歸する所の師保大臣に譬ゆ。能く天下を拯濟す。佛法の中に於いては、則ち已に道を證したるの教授師に譬ゆ。法門の綱紀を主持す。

大過卦

(巽下 兌上)大過:棟撓,利有攸往,亨。約世道,則賢君以道養天下,而治平日久;約佛化,則四依以道化群生,而佛法大行;約觀心,則功夫勝進而將破無明也。夫治平既久,則亂階必萌,所宜防微杜漸;化道既盛,則有漏易生,所宜陳規立矩;功夫既進,則無明將破,所宜善巧用心也。

(本卦は下體を巽風と爲し、上體を兌澤と爲す。)《大過》の卦辭は言う。棟梁は彎曲下垂す。往く所有るに利あり。亨通す。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、賢君は正道を以て天下を養育して、太平の日子は過ぎること久し。佛門教化より言わば、四依大士は正道を以て衆生を化度して、佛法大いに流行す。觀心より言わば、功夫は大いに進展して將に無明を破除せんとす。太平久しければ、禍亂の階梯は必然として萌生す。ゆえに當に微を防ぎ漸を杜ぐべし。教化盛んなれば、有漏の過失は生ずること易し。ゆえに當に規矩を訂立すべし。功夫進めば、無明將に破れんとす。ゆえに當に善巧に心を用ふべし。

彖曰:大過,大者過也。棟撓,本末弱也。剛過而中,巽而說行,利有攸往,乃亨。大過之時大矣哉。大者既過,所以必當思患豫防。初上皆弱,所以剛中,不宜恃勢令撓。剛雖過而得中,又以巽順而悅行之,所以猶有挽回匡濟之術,乃得亨也。永保無虞亦在此時,盛極忽衰亦在此時,其關係豈不大哉。

《彖傳》は言う。《大過》卦は、是れ大の一面の頭を過ぎたるなり。棟梁彎曲するは、首尾兩端太だ弱きが故なり。陽剛は過多なると雖も然るに中に居り、卑順にして歡悅して行事す。往く所有るに利あればこそ、始めて亨通する能くす。《大過》の處する所の時機の意義は大なり。智旭は解す。大の一面旣に頭を過ぎたれば、ゆえに必ず預め禍患を想到して防備を加へざるべからず。初爻と上爻と皆是れ陰柔にして弱し。ゆえに中間のあの幾箇の剛爻は中道を守住して、勢頭を仗りて棟梁を壓彎すべからず。陽剛は頭を過ぐると雖も卻って其の中を得、又卑順歡悅の方式を以て推行す。ゆえに還た挽回匡救の辦法あり。因って能く亨通す。永遠に无虞を保住するは卽ち此の時に在り、盛極驟衰するも亦此の時に在り。關係豈に重大ならずや。

象曰:澤滅木,大過。君子以獨立不懼,遁世無悶。澤本養木,而反滅木,大過之象也。惟以獨立不懼、遁世無悶之力持之,庶學有本而養有素,可以砥柱中流耳。初六:藉用白茅,無咎。象曰:藉用白茅,柔在下也。世法佛法,當大過時,皆以剛柔相濟為得,過剛過柔為失。今初六以柔居巽體之下而在陽位,無功名富貴以累其心,唯庸德庸言、下學上達以為其務者也。約佛法者,定有其慧,兼以戒德精嚴,故無咎。

《大象傳》は言う。大水は樹木を淹沒す。これ卽ち《大過》なり。君子は此に由りて獨自挺立して畏懼せず、隱遁して世を避くるも煩悶せざるを懂得す。智旭は解す。澤水は本來是れ樹木を滋養するのものにして、今は反って樹木を淹沒す。これ卽ち頭を過ぎたるの象なり。唯だ「獨立不懼・遁世无悶」の定力を憑って撑住せば、學問始めて根本あり涵養始めて素養あらん。以て中流砥柱と爲る可し。初六、潔白の茅草を用いて襯墊と爲す。過錯會せじ。象傳は言う。白茅を藉用すは、柔順者の下位に處するが故なり。智旭は解す。世間法佛法、大過の時に處しては、皆剛柔相濟を以て得當と爲し、剛を過ぎ柔を過ぐを以て失當と爲す。今初六は柔爻を以て巽體の最下に居りて陽位に處す。功名富貴それの心を拖累する無く、只だ平常の德行・平常の言語・低處より學起して高處に通達するを以て本分と爲す。佛法を以て言わば、是れ定の中に慧を帶びて、又戒行精嚴を加上せり。ゆえに過錯なし。

九二:枯楊生稊,老夫得其女妻,無不利。象曰:老夫女妻,過以相與也。剛而得中,又居陰位,陽得陰助,如枯楊生稊、老夫女妻之象,蓋過於下賢者也。約佛法者,慧與定俱,如先見道,後修事禪,故無不利。九三:棟撓,凶。象曰:棟撓之凶,不可以有輔也。過剛不中,任其剛愎,以此自修則德必敗,以此治世則亂必生,故棟撓而凶。約佛法者,純用邪慧,故不可有輔。

九二、枯萎の楊樹は新芽を生じ、年老の男子は年少の妻子を娶り得たり。利ならざる無し。象傳は言う。老夫少妻は、頭を過ぎて互相に結合するが故なり。智旭は解す。九二は陽剛にして下卦の中に居り、又陰位に處す。陽は陰の幫助を得。枯楊の芽を生じ老夫の少妻を得るの象に似たり。これ是れ己を屈し賢に下るの頭を過ぎたるなり。佛法を以て言わば、是れ慧と定と同時に具備す。先に道を見て、然る後に再び事相上の禪定を修するに譬ゆ。ゆえに利ならざる無し。九三、棟梁彎曲す。凶險。象傳は言う。棟撓の凶は、彼を輔助し得る人無きが故なり。智旭は解す。九三は過分に剛强にして中に居らず、一味に任性剛愎す。此を拿って自己を修めば則ち德行必ず敗れ、此を拿って世を治めば則ち禍亂必ず生ず。ゆえに棟梁彎曲して凶。佛法を以て言わば、是れ純に邪僻の聰明を用を用ふ。ゆえに輔助し得る人無し。

九四:棟隆,吉,有它吝。象曰:棟隆之吉,不撓乎下也。剛而不過,足以自立立人,但居悅體,恐其好大喜功而不安守,故誡以有它則吝。約佛法者,亦是慧與定俱,但恐夾雜名利之心,則自利利他未必究竟,故誡以有宅則吝。

九四、棟梁は高起す。吉祥。別に他念あれば則ち憾惜あらん。象傳は言う。棟隆の吉は、下に向かって彎曲せざるが故なり。智旭は解す。九四は陽剛にして頭を過ぎず、以て自立し竝びに他人を成就するに足る。只だそれは兌悅の體に處して、それの大を好み功を喜びて安分守住するを肯んぜざるを怕る。ゆえに告誡して別に他念を生ぜば卽ち憾惜あらんと曰く。佛法を以て言わば、亦是れ慧と定と同時に具備す。只だ名利の心を夾雜せんことを怕る。則ち自利利他は未だ必ずしも徹底せず。ゆえに告誡して別に圖る所有れば卽ち憾惜あらんと曰く。(智旭は爻辭を複述するの時「有它」を「有宅」と寫作す。音近くして通ず。)

九五:枯楊生華,老婦得其士夫,無咎無譽。象曰:枯楊生華,何可久也;老婦士夫,亦可醜也。雖云陽剛中正,然在大過之時,則是恃其聰明才智者也。享成平之樂,不知民事艱難,且不知下用賢臣,惟與上六陰柔無用之老臣相得,何能久哉。約佛法者,慧力太過,無禪定以持之,何能發生勝果。上六:過涉滅頂,凶,無咎。象曰:過涉之凶,不可咎也。居過極之地,惟有柔正之德而無濟難之才,故不免於凶,而實非其咎也。約佛法者,正定無慧,終為頂墮。

九五、枯萎の楊樹は花を開出せり。年老の婦人は年少の男子を嫁得せり。過錯無く亦稱譽無し。象傳は言う。枯楊開花は、怎んぞ長久なるを得んや。老婦少夫は、亦是れ羞むべきなり。智旭は解す。九五は陽剛中に居り正を守ると説くと雖も、但だ大過の時に處して、卽ち自己の聰明才智を仗恃するの人と成る。太平安樂を享受着して、民生の艱難を知らず、又不懂得して下面の賢臣を起用せず。只だ上六の此の陰柔無用の老臣と意氣相投ず。怎んぞ長久なるを得んや。佛法を以て言わば、是れ慧力太だ過ぎて、禪定無くしてそれを持守せず。怎んぞ殊勝の果證を生出するを得んや。上六、水を渉ること深を過ぎて、頭頂を淹沒せり。凶險、然るに過錯なし。象傳は言う。過涉の凶は、彼を怪罪する能わざるなり。智旭は解す。上六は頭の極點に過ぎたるの位置に處して、只だ柔順守正の德ありて然るに難を救ふの才無し。ゆえに凶を免かるる能わずと雖も、但だ實在彼の罪過に非ず。佛法を以て言わば、是れ純正の禪定ありて智慧無し。終竟「頂墮」の一箇を落得せんと要す——頂點に修到りて然るに退墮し下る。

習坎卦

(坎下 坎上)習坎:有孚,維心亨,行有尚。約世道,則太平久而放逸生,放逸生而患難洊至;約佛法,則從化多而有漏起,有漏起而魔事必作;約觀心,則慧力勝而夙習動,夙習動而境發必強:皆習坎之象也。然世出世法,不患有重沓之險難,但患無出險之良圖。誠能如此卦之中實有孚,深信一切境界皆唯心所現,則亨而行有尚矣,又何險之不可濟哉。

(本卦は上下體皆坎水なり。)《習坎》の卦辭は言う。內心に誠信あり。唯だ心是れ亨通し、行動すれば卽ち嘉尚あり。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、太平久しければ卽ち放逸を生じ、放逸生ぜれば患難卽ち連接して到來す。佛門より言わば、教化に隨順する人多ければ卽ち有漏の失を生じ、有漏一たび起これば魔事は必定として發作す。觀心より言わば、慧力强くなれば宿世の習氣卽ち翻動せんと要し、習氣一たび動けば境界現起必定として强烈ならん。此ら皆是れ重重の險陷の象なり。然るに世間法と出世間法とは、重重疊疊の險難あるを怕れず、只だ險を脫するの好辦法無きを怕る。果し眞に能く此の一卦の中間のあの陽爻のごとく內裏充實し・眞に誠信あらば、一切の境界は只だ自心の顯現する所なるを深信せば、則ち亨通して行動嘉べし。還た何の險か渡り過ぎ得ざらんや。

彖曰:習坎,重險也。水流而不盈,行險而不失其信。維心亨,乃以剛中也。行有尚,往有功也。天險不可升也,地險山川丘陵也,王公設險以守其國。險之時用大矣哉。善觀心者,每即塞以成通。夫習坎雖云重險,然流而不盈,潮不失限,何非吾人修道之要術。所貴深信維心之亨,猶如坎卦之剛中一般,則以此而往,必有功矣。且險之名雖似不美,而險之義實未嘗不美:天不可升,天非險乎?山川丘陵,地不險乎?城池之險以守其國,王公何嘗不用險乎?惟在吾人善用險而不為險所用,則以此治世,以此出世,以此觀心,無不可矣。

《彖傳》は言う。《習坎》は卽ち重重の險陷なり。水は長流して滿溢せず、險境の中を行走して然るに其の信實を失わず。「維心亨」は、剛爻の中に居るを以てなり。「行有尚」は、前往すれば卽ち功效あるなり。天の險は高くして攀る可からず。地の險は山川丘陵なり。王公は則ち險固を設置して自己の國家を守衛す。險は特定の時候の作用の大なるなり。智旭は解す。觀心に善きの人は、往々「塞」に就いて「通」を成就す。重重險陷は險と説くと雖も、然るに水は流れて盈滿せず、潮汐は漲落して時限を失わず。哪れか一樣か我らの修道の要訣に非ざらん。貴べきは「唯だ心是れ亨通す」を深信するに在り。坎卦のあの剛爻の中に居るがごとく堅實にして、則ち此に依って前往すれば必定として功あらん。況んや「險」の此の名目は看るに美ならずに似たれど、「險」の意義は其實未嘗て美ならず。天は高くして登る可からず。天は卽ち險に非ずや。山川丘陵は、地も亦險に非ずや。城池の險を憑って國家を守衛するは、王公何嘗か險を用ひざらんや。關鍵は只だ我らの險を用ふるに善くして然るに險に用ひられざるに在り。則ちそれを用いて世を治め・それを用いて世を出で・それを用いて心を觀ずるに、行けざる一樣無し。

象曰:水洊至,習坎。君子以常德行,習教事。常德行,即學而不厭也;習教事,即誨人不倦也。習坎之象,乃萬古聖賢心法,奚險之可畏哉?此正合臺宗善識通塞、即塞成通之法,亦是巧用性惡法門。初六:習坎,入于坎窞,凶。象曰:習坎入坎,失道凶也。在險之時,不論自利利他,唯貴有孚而定慧相濟。今初六以陰居下,毫無孚信之德,乃汨沒於惡習而不能自出者也。

《大象傳》は言う。水は一波一波に接して涌來す。これ卽ち《習坎》なり。君子は此に由りて德行を恒常にし教化の事を熟練せしむるを懂得す。智旭は解す。「常德行」は卽ち學びて厭かず、かず、「習教事」は卽ち人を誨へて倦まずなり。重險の象は、正に萬古聖賢の心法なり。何の險か怕るべき。これ恰好として天台宗の「善識通塞・卽塞成通」の方法(修行上の通と塞とを分辨するに善くして、障礙本身に就いて轉じて通達と成す)に合す。亦是れ巧妙に「性惡」の法門を運用するなり。初六、重重險陷、坎底の小坑に掉進せり。凶險。象傳は言う。習坎入坎は、正道を迷失して凶なるなり。智旭は解す。險の中に處しては、自利利他を論ぜず、最も要緊のは誠信ありて定慧互相に調劑するに在り。今初六は陰爻を以て最下に居り、一毫の誠信の德無し。是れ惡習の裏に沈沒して自己爬り出づる能わざるの人なり。

九二:坎有險,求小得。象曰:求小得,未出中也。剛中有孚,但居下卦,則夙習尚深,未能頓達聖境,僅可小得而已。六三:來之坎坎,險且枕,入于坎窞,勿用。象曰:來之坎坎,終無功也。不中不正,柔而志剛,自謂出險,不知前險之正來,此如邪見增上慢人,故終無功。

九二、坎中に險あり。只だ小の收穫を求め得。象傳は言う。求小得は、還た未だ重險の中より走出せざるが故なり。智旭は解す。九二は陽剛にして中に居りて誠信あり。但だ下卦に處して、宿世の習氣還た深きを説明す。能く一下子に聖境に通達する能わず。僅に小さく得る所有るのみ。六三、來り去る皆坎、險の上に險を加えて還た險に枕靠す。坎底の小坑に掉進せり。用ふるを得ず。象傳は言う。來之坎坎は、終竟功效無し。智旭は解す。六三は旣に中に居らず亦位に當らず、性柔にして志剛なり。自己以て已に險を出づと爲す。前面の險は正に面に撲り來るを知らず。これは邪見を抱きて未證謂證の增上慢の人に譬ゆ。ゆえに終竟功效無し。

六四:樽酒簋貳,用缶,納約自牖,終無咎。象曰:樽酒簋貳,剛柔際也。柔而得正,與九五之中正剛德相與,所謂因定發慧,正出險之妙道也。正觀如酒,助道如簋,誠樸如缶,方便道如牖,從此可發真而無咎矣。

六四、一樽の酒・兩簋の飯、瓦缶を用いて盛りて、窓口より此の份の簡約の禮意を送り入る。最終過錯なし。象傳は言う。樽酒簋貳は、剛と柔と此に於いて交接するが故なり。智旭は解す。六四は陰柔にして位置正を得、九五のあの中正剛健の德と相交結す。これ卽ち所謂定に因って慧を生ず。正に險を脫するの妙道なり。純正の觀照は酒に譬え、修道を輔助するの種種の行門は簋中の飯に譬え、誠懇質樸は瓦缶に譬え、方便法門は窓口に譬ゆ。此處より卽ち眞實の智慧を發起して過錯なき能くす。

九五:坎不盈,只既平,無咎。象曰:坎不盈,中未大也。陽剛中正,已得出世真慧現前,如坎之不盈而風恬浪靜也。但初破無明,餘惑未盡,故中未大,此勉其速趣極聖而已。上六:係用徽纆,置于叢棘,三歲不得,凶。象曰:上六失道,凶三歲也。陰居險極,有定無慧,如凡外痴定,極至非想,終不脫三界繫縛;而見取既深,猶如置于叢棘,永不得免離也。

九五、坎水は滿溢せず、剛に坑沿と齊平たり。過錯なし。象傳は言う。坎不盈は、居中の德還た未だ廣大ならざるなり。智旭は解す。九五は陽剛にして中に居り正を守りて、出世の眞實智慧已に現前せり。坎水の滿溢せずして風平浪靜に譬ゆ。只だ剛に無明を破除して、餘の迷惑還た未だ斷盡せず。ゆえに居中の德は未だ廣大ならずと言う——これ是れ彼を勉勵して快く究竟の聖位に趣向せしむるなり。上六、繩索を用いて捆綁して、荆棘の叢裏に丢き棄てり。三年も出來ず。凶險。象傳は言う。上六は正道を迷失して、ゆえに凶三年の久しきに到る。智旭は解す。上六は陰柔にして險陷の極點に居りて、定ありて慧無し。凡夫外道のあの癡呆の禪定に譬え、最高は非想非非想天に修到るも、終竟三界の系縛を脫出せず。而も邪見を執取すること又深し。荆棘叢中に丢棄せらるるがごとく、永遠に出來ず。

離卦

(離下 離上)離:利貞亨,畜牝牛吉。火性無我,麗附草木而後可見,故名為離。約世道,則重險之時,必麗正法以御世;約佛法,則魔擾之時,必麗正教以除邪;約觀心,則境發之時,必麗正觀以銷陰:故皆利貞則亨也。牝牛柔順而多力,又能生育犢子,喻正定能生妙慧。

(本卦は上下體皆離火なり。)《離》の卦辭は言う。正を守るに利あれば則ち亨通す。母牛を畜養すれば則ち吉。智旭は解す。火の本性は自體無く、必ず草木に附著して始めて看え得。ゆえに卦名は「離」と曰く——離は卽ち附麗なり。世間治道より言わば、重重險難の時に於いては、必ず正法に依附して以て天下を治理せざるべからず。佛法より言わば、魔事擾亂の時に於いては、必ず正教に依附して以て邪を除せざるべからず。觀心より言わば、境界現起の時に於いては、必ず純正の觀照に依附して以て五陰を消融せざるべからず。ゆえに皆是れ正を守るに利あればこそ亨通す。母牛は柔順にして力あり、又能く小牛を生育す。純正の禪定の能く微妙の智慧を生出するを比喩す。

彖曰:離,麗也。日月麗乎天,百榖草木麗乎土,重明以麗乎正,乃化成天下。柔麗乎中正,故亨,是以畜牝牛吉也。如日月必麗天,如百榖草木必麗土,吾人重明智慧亦必麗乎性德之正,則自利既成,便可以化天下矣。夫智慧光明必依禪定而發,禪定又依理性而成。今六五六二麗乎中正之位,故有亨道,如牝牛能生智慧犢子而吉也。吳幼清曰:上卦為重明,下卦三爻皆麗乎正。

《彖傳》は言う。離は卽ち附麗なり。日月は天に附麗し、百穀草木は土に附麗し、重重の光明は正道に附麗す。于是天下を教化成就す。柔爻は中正の位に附麗す。ゆえに亨通して、因此母牛を畜養すれば則ち吉と言う。智旭は解す。日月の必ず天に附麗し、百穀草木の必ず土に附麗するがごとく、我らの此の重重の光明智慧も亦必ず本性の德の中正に附麗せざるべからず。則ち自利旣に成就せば、便以て天下を教化する可し。智慧の光明は必ず禪定に依って發し、禪定は又必ず本具の理性に依って成ず。今六五・六二は中正の位に附麗す。ゆえに亨通の道あり。母牛の能く智慧の小牛を生出して吉なるに似たり。以下吳澄の言を引く。上卦是れ重明の象にして、下卦の三爻は皆正に附麗す。

象曰:明兩作離,大人以繼明照于四方。明而又明,相續不息,自既克明其德,便足以照四方矣。初九:履錯然,敬之,無咎。象曰:履錯之敬,以辟咎也。用觀之始,雖有正慧而行履未純,故常若錯然之象。惟兢兢業業,不敢自安,則德日進而習日除,可闢咎矣,豈俟咎之生而後除哉。

《大象傳》は言う。光明は兩度に升起す。これ卽ち《離》なり。大人は此に由りて接續斷絶せざるの光明を以て四方を照耀するを懂得す。智旭は解す。明て又明て、相續停まらず。自己旣に能く本有の德を彰明せば、便以て四方を照亮するに足る。初九、脚步錯雜紛亂す。恭敬にそれを對待せば、卽ち過錯なし。象傳は言う。履錯の敬は、用いて過錯を避開するなり。智旭は解す。剛に用功觀照を開始するの時に於いては、純正の智慧あると雖も、行履は還た未だ純熟ならず。ゆえに常常に錯雜の樣子を呈現す。唯だ兢兢業業として、自ら安んずるを敢えてせざれば、則ち德行は一天天に進步して習氣は一天天に消除し、卽ち能く過錯を避開す。何處に過錯の生出するを等って再びそれを去除せんことを要せんや。

六二:黃離,元吉。象曰:黃離元吉,得中道也。中正妙定,稱性所成,以此照一切法,使一切法皆成中道,乃絕待圓融之妙止也。九三:日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。象曰:日昃之離,何可久也。過用其慧而無定以濟之,有時歡喜太甚,則鼓缶而歌;有時憂慮太切,則大耋之嗟。悲歡亂其衷曲,乾慧不能自持,其退失也必矣。

六二、中央の黃色に附麗す。大いに吉祥。象傳は言う。黃離元吉は、中道を得たるが故なり。智旭は解す。これ是れ中に居り正を守るの微妙禪定にして、本性に順って成就せり。それを用いて一切法を照察して、一切法をして皆中道と成らしむ。これ是れ一切の對待を超越し圓融無礙の妙「止」なり。九三、太陽偏西の時の附麗。瓦缶を敲きて唱歌せざれば、卽ち年老の悲嘆を發出せんと要す。凶險。象傳は言う。日昃の離は、怎んぞ長久なるを得んや。智旭は解す。過分に智慧を使用して然るに禪定にて調劑する無し。あるいは時に歡喜頭を過ぎれば、卽ち缶を敲きて唱歌す。あるいは時に憂慮切を過ぎれば、卽ち衰老の哀嘆を發出す。悲喜は心曲を攪亂して、あの點の乾枯の智慧は自己を撑住する能わず。退失するは必然なり。

九四:突如其來如,焚如,死如,棄如。象曰:突如其來如,無無所容也。雖似有慧有定,而實不中不正,不能調適道品,故時或精進則失於太速,而突如其來如;時或懈怠則置諸罔覺,而焚如死如棄如也。夫進銳者退必速,其來既突,則決無所容矣,又何俟於焚死棄而後知其非善終之道哉。

九四、突然として闖來り、火燒のごとくし、死したるがごとくし、抛棄せらるるがごとくし。象傳は言う。突如其來は、身を容るる處無きが故なり。智旭は解す。九四は看るに慧あり定ありに似たれど、實際上は旣に中に居らず亦位に當らず。三十七道品を調適して當を得る能わず。ゆえにあるいは時に精進すれば卽ち太だ急に失して、「突如其來」と成り、あるいは時に懈怠すれば卽ち功夫を一邊に丢きて渾然として覺えず、「焚如・死如・棄如」と成る。前進太だ猛なる人は後退必ず速し。來勢旣にかくのごとく突兀なれば、則ち斷然として身を容るる處無し。何を焚燒・死亡・抛棄の後を等って始めて此の善終の道に非ざるを知らんや。(底本の象傳は「无无所容也」と作る。一「无」の字を衍す。)

六五:出涕沱若,戚嗟若,吉。象曰:六五之吉,離王公也。得中之定,能發實慧,進德固無疑矣。然堯舜其猶病諸,文王望道未見,伯玉寡過未能,孔子聖仁豈敢,從來聖賢之學皆如是也。上九:王用出征,有嘉折首,獲匪其醜,無咎。象曰:王用出征,以正邦也。剛而不過,又居明極,自利已成,化他有術,人自歸慕而折首,非有醜惡而須伐也。身正則邦正,邦正則六合歸心,重譯奉命矣,是之謂王用出征,豈以奮武揚威為出征哉。

六五、眼淚滂沱として流下し、憂戚悲嘆す。吉祥。象傳は言う。六五の吉なる所以は、それ王公の位に附麗するを以てなり。智旭は解す。中道の禪定を得て、能く眞實の智慧を發出す。德業の增進は本來疑問無し。然るに堯舜は尚且つ自己の做す所足らざるを覺ゆ。文王は大道を望みて未だ見えざるに似たり。蘧伯玉は過錯を少かれと欲して還た能わず。孔子は聖と仁とは我豈に敢えて當らんやと言う。歷來の聖賢の學問は皆是れ此の樣子なり。ゆえに始めて涕淚憂嘆ある。上九、君王は兵を出して征伐して、嘉美の功あり。首惡を斬獲して、俘獲する所は竝びに彼の同類に非ず。過錯なし。象傳は言う。王の出征を用ふるは、邦國を端正せんと爲るが故なり。智旭は解す。上九は陽剛にして頭を過ぎず、又光明の極點に居る。自利已に成就して、他を化度するも亦辦法あり。人々は自然に心を歸し慕傾して俯首す。竝びに何の醜惡の徒の非討伐すべからざるか有るに非ず。自身端正なれば則ち邦國端正なり。邦國端正なれば則ち天下歸心して、輾轉翻譯して始めて通話し得るの遠邦も亦來りて奉命す——これ始めて「君王出征」と叫ぶ。何處に動武揚威して征伐し行くを靠らんや。

周易禪解卷第五 下經之一

上經始乾坤而終坎離,乃天地日月之象,又寂照定慧之德也,是約性德之始終。下經始咸恆而終既濟未濟,乃感應窮通之象,又機教相叩、三世益物之象也,是約修德之始終。又上經始於乾坤之性德,終於坎離之修德,為自行因果具足;下經始於咸恆之機教,終於既濟未濟之無窮,為化他能所具足。此二篇之大旨也。

智旭は下經の開篇に於いて先に上下兩篇の結構を總論す。上經は《乾》《坤》を以て開始し《坎》《離》を以て結束す。これ是れ天地日月の象にして、亦是れ寂靜と照察・禪定と智慧との此の兩種の德性なり。説く所是れ本性の德の始と終なり。下經は《咸》《恒》を以て開始し《旣濟》《未濟》を以て結束す。これ是れ感と應・窮と通との象にして、亦是れ衆生の根機と佛の教法との互相に叩擊し・佛の過去現在未來三世に於いて衆生を利益するの象なり。説く所是れ修行の德の始と終なり。再び言わば、上經は《乾》《坤》の表す所の性德に始まりて、《坎》《離》の表す所の修德に終る。是れ自己修行の因と果と已に皆具足せり。下經は《咸》《恒》の表す所の機と教とに始まりて、《旣濟》《未濟》の表す所の無窮無盡に終る。是れ他を化度するの能化と所化と已に皆具足せり。これ卽ち上下兩篇の大意なり。

咸卦

(艮下 兌上)咸:亨,利貞,取女吉。艮得乾之上爻而為少男,如初心有定之慧,慧不失定者也;兌得坤之上爻而為少女,如初心有慧之定,定不失慧者也。互為能所,互為感應,故名為咸。約世道,則上下之相交;約佛法,則眾生諸佛之相叩;約觀心,則境智之相發。夫有感應,必有所通,但感之與應皆必以正,如世之取女必以其禮,則正而吉矣。

(本卦は下體を艮山と爲し、上體を兌澤と爲す。)《咸》の卦辭は言う。亨通す。正を守るに利あり。女子を娶れば則ち吉。智旭は解す。艮卦は坤體にして乾の上爻を得て成りて、少男と爲る。初發心の人のあの定を帶びたる慧に譬えて、慧の中に定を失わず。兌卦は乾體にして坤の上爻を得て成りて、少女と爲る。初發心の人のあの慧を帶びたる定に譬えて、定の中に慧を失わず。兩者は互に能感と所感と爲り、互に感と應と爲る。ゆえに卦名は「咸」と曰く——咸は卽ち感なり。世間治道より言わば、是れ上下彼此交通す。佛法より言わば、是れ衆生と諸佛と互相に叩擊す。觀心より言わば、是れ觀ずる所の境と觀ずる能くの智と互相に發明す。旣に感應あれば、必定として通達する所有り。只だ能感の一方と所應の一方と皆必ず端正せざるべからず。世間の妻を娶る必ず禮に依って行するに似たれば、則ち正にして吉祥なり。

彖曰:咸,感也。柔上而剛下,二氣感應以相與,止而說,男下女,是以亨利貞取女吉也。天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平。觀其所感,而天地萬物之情可見矣。咸何以為感哉?下卦坤體之柔,上於六而成兌;上卦乾體之剛,下於三而成艮:乃天地之二氣感應以相與也。又艮止而兌說,以男而下女,此感應之正,所以吉也。約佛法者,艮為生,兌為佛,眾生感佛既專,則佛說法應之;約觀心者,艮為觀,兌為境,觀智研境既專,則境諦開發而得悅矣。世出世法皆以感而成事,故可以見天地萬物之情。

《彖傳》は言う。咸は卽ち感なり。柔爻は上りて往き、剛爻は下りて來りて、陰陽二氣感應して互相に親與す。靜止して歡悅、男子は女子の下に屈居す。ゆえに亨通・正を守るに利あり・女を娶れば則ち吉。天地は相感して萬物化育生長す。聖人は人心を感動して天下和平なり。其の感ずる所の對象を觀察すれば、天地萬物の實情は卽ち見る可し。智旭は解す。《咸》は何を以て感と爲すや。下卦は本是坤體の柔にして、第六位に上昇して兌と成る。上卦は本是乾體の剛にして、第三位に下降して艮と成る。これ卽ち天地二氣感應して互相に親與するなり。再び言わば、艮是れ止・兌是れ悅、男子は女子の下に屈居するを肯んず。これ是れ感應の中の正道なり。ゆえに吉祥。佛法を以て言わば、艮は衆生を代表し、兌は佛を代表す。衆生の佛を感ずること旣に專一なれば、佛は卽ち法を説いて回應す。觀心を以て言わば、艮は能觀の智を代表し、兌は所觀の境を代表す。觀照の智慧は境界を研窮すること旣に專一なれば、境の眞諦は卽ち開顯して喜悅を生出す。世間法と出世間法とは皆「感」を靠って事を成す。ゆえに此處より天地萬物の實情を見る可し。

象曰:山上有澤,咸。君子以虛受人。慢如高山,法水不停。今山上有澤,豈非以其虛而能受哉。初六:咸其拇。象曰:咸其拇,志在外也。咸雖感而遂通,須不違其寂然不動之體,又須善識時位之宜。儻因感而搖其主宰,則反失能應之本矣。大概感應之道,互為能所,然下三爻既居止體,且在下位,故皆不宜妄應於他;上三爻既居悅體,且在上位,故皆宜善應於物。

《大象傳》は言う。山上に澤ある是れ《咸》なり。君子は此に由りて虛心を以て他人を接納するを懂得す。智旭は解す。傲慢は一座の高山に似たり。佛法の水は留止する能わず。今山上は卻って能く澤あるは、豈に正にそれの凹下して虛にして能く容るるに因らずや。初六、感應は脚の大拇指の上に在り。象傳は言う。其の拇を咸すは、心志の外面に在るが故なり。智旭は解す。感應は「一感即通」なりと雖も、然るに必ずあの寂然不動の本體に違背せざるを要し、又必ず時機と位置との合宜なるかを辨識するに善くせざるべからず。倘若も受感に因って自己の主宰を搖動せば、反って能應の物の根本を失掉す。大體の上に於いて言わば、感應の道は互に能感所感と爲るなり。不過下面の三爻は旣に艮止の體に處して、又下位に居る。ゆえに皆輕率に別人に應じに行くに宜しからず。上面の三爻は旣に兌悅の體に處して、又上位に居る。ゆえに皆當に外物に回應するに善くすべし。

今初六以陰居下,而為九四所感,未免腳指先動。夫用行舍藏原無定局,時止則止,時行則行,行得其當則吉,不得其當則凶,故未可判定是非。即所謂志在外者亦自不同:若志在天下,不顧身家,則吉;若志在利名,不顧心性,則可羞矣。六二:咸其腓,凶,居吉。象曰:雖凶居吉,順不害也。陰柔中正而為九五所感,儻躁妄欲進則凶,惟安居自守則吉。蓋安居自守,乃順乎柔中之道而不害也。

今初六は陰爻を以て最下に居り、九四に感ぜられて、不免として脚趾先に動き起これり。世を用ふるか退藏するか本來一定の規無し。當に止れば則ち止み、當に行けば則ち行け。行くこと恰當なれば則ち吉、不恰當なれば則ち凶。ゆえに此處は還た是非を判出す能わず。卽使所謂「志在外」も亦各おのが不同あり。若し志は天下に在りて自身の家室を顧みるに及ばざれば、則ち吉。若し志は名利に在りて身心性命を顧みるに及ばざれば、則ち羞むべし。六二、感應は小腿肚の上に在り。凶險。安居すれば則ち吉。象傳は言う。凶なりと雖も安居して吉を得るは、柔順なれば則ち害を受けざるが故なり。智旭は解す。六二は陰柔にして中に居り正を守りて、九五に感ぜらる。倘若も躁動妄進せば則ち凶。唯だ安居自守して始めて吉。安居自守するは、正に柔順居中の道に順って然るに損害を受けざるを以てなり。

九三:咸其股,執其隨,往吝。象曰:咸其股,亦不處也;志在隨人,所執下也。以剛正居止極而為上六所感,未免亟亟以利生為務,不知欲利他者先須自利成就。若一被順境所牽,則頓失生平所養,亦可羞也。

九三、感應は大腿の上に在り。執意に別人に跟って走る。前往すれば憾惜あらん。象傳は言う。其の股を咸すは、亦是れ安處するを肯んぜざるなり。心志は別人に隨從するに在りて、執守する所は太低下なり。智旭は解す。九三は陽剛を以て正を守りて艮止の極點に居り、上六に感ぜられて、不免として急急忙として衆生を利益するを以て務と爲す。然るに他を利益せんと欲せば、必ず先に自利を成就せざるべからざるを知らず。一たび順境に牽きて走られれば、平生の涵養は頓時に丢光せり。亦是れ羞むべし。

九四:貞吉悔亡,憧憧往來,朋從爾思。象曰:貞吉悔亡,未感害也;憧憧往來,未光大也。剛而不過,定慧齊平,得感應之正道,故吉而悔亡。見其己心他心互含互攝,有憧憧往來之象;既以心為感應之本,則凡有血氣莫不尊親,有朋從爾思之象。惟其得感應之正,雖終日感而不違其寂然不動之體,故未感害也;惟其悟一心之往來,雖知本自何思何慮,而還須精義入神以致用,利用安身以崇德,窮神知化以深造於不可知之域,故未肯遽以現前所證為光大也。

九四、正を守れば則ち吉・悔恨消失す。心思往來不定なれば、只だ同類の朋友のみ始めて你の想法に跟從す。象。象傳は言う。貞吉悔亡は、還た未だ感感應の害を受けざるなり。憧憧往來は、境界還た未だ廣大なるを得ざるなり。智旭は解す。九四は陽剛にして頭を過ぎず、定と慧と齊平にして、感應の正道を得。ゆえに吉にして无悔なり。それは自己の心と他人の心と互相に含攝するを見て、卽ち「心思往來不定」の象あらん。旣に心を以て感應の根本と爲せば、則ち凡そ血氣あるの衆生は尊敬親附せざる無し。卽ち「朋友你の想法に跟從す」の象あらん。正にそれの感應の正を得るを以て、終日感應の中に在りと雖も然るにあの寂然不動の本體に違背せず。ゆえに感應の害を受けず。亦正にそれの此の一心の中の往來を悟到るを以て、本來「何思何慮」なるを知ると雖も、仍お須く《繫辭傳》の説くがごとく義理を精研して神妙に達して以て其の用を致し・其の道を善用して身を安んじて以て其の德を崇くし・神妙を窮究して變化を洞知して以てあの測知すべからざるの境地に深入すべし。ゆえに眼前の證する所を以て已に廣大なりと當て肯んぜず。

九五:咸其脢,無悔。象曰:咸其脢,志末也。陽剛中正而居悅體,如艮其背不獲其身、行其庭不見其人之象,乃允合於寂然不動、感而遂通之妙,故得毫無過失可悔,而善始善終,證於究竟,名為志末。末,猶終也。

九五、感應は背脊肉の上に在り。悔恨なし。象傳は言う。其の脢を咸すは、心志已に末後に到れるが故なり。智旭は解す。九五は陽剛にして中に居り正を守りて兌悅の體に處す。《艮》卦の説く所の「背に止りて自身を見ず、庭に行きて其人を見ず」の象に譬えて、恰好として「寂然不動・一感而通」の妙處に合す。ゆえに一毫の悔ふべき過失無し。善始善終して究竟に證到る。因此「志末」と叫ぶ。「末」は此處終了の意思にして、淺末に非ず。

上六:咸其輔頰舌。象曰:咸其輔頰舌,滕口說也。柔而得正為兌之主,內依止德,外宣四辯,為咸其輔頰舌之象,說法無盡,誨人不倦,故曰滕口說也。然初之咸拇、上之咸舌皆不言吉凶者,以初心初步有邪有正,事非一概;說法利生亦有邪有正,轍非一途故也。觀於彖辭亨及利貞之誡,則思過半矣。

上六、感應は牙床・面頬・舌頭の上に在り。象り。象傳は言う。其の輔頰舌を咸すは、口舌喋喋として休まざるが故なり。智旭は解す。上六は陰柔にして位置正を得、是れ兌卦の主爻なり。內裏は艮止の德に依りて、外面は「四無礙辯」(法・義・辭・樂説の四種の無礙辯才)を宣揚す。卽ち感應は牙床面頬舌頭の上に在るの象と成る——法を説いて窮盡無く、人を誨へて疲倦を知らず。ゆえに「口舌滔滔」と言う。不過初六の「咸拇」と上六の「咸舌」とは皆吉凶を説かず。それ初めて心を發して第一步を邁すの時に於いては邪あり正ありて、一概に論ずる能わざるを以てなり。法を説いて生を度するも亦邪あり正ありて、路數は一條に止まらず。只だ卦辭の中の「亨」及び「利貞」の此の一層の告誡を體會せば、亦大半を明白す。

恒卦

(巽下 震上)恆:亨,無咎,利貞,利有攸往。夫感應之機,不可一息有差;而感應之理,則亙古不變者也。依常然之理而為感應,故澤山得名為咸;依逗機之妙而論常理,故雷風得名為恆。澤山名咸,則常即無常;雷風名恆,則無常即常。又咸是澤山,則無常本常;恆是雷風,則常本無常。二鳥雙遊之喻,於此亦可悟矣。理既有常,常則必亨,亦必無咎。

(本卦は下體を巽風と爲し、上體を震雷と爲す。)《恒》の卦辭は言う。亨通す。過錯會せじ。正を守るに利あり。往く所有るに利あり。智旭は解す。感應の機緣は、一息の間も差錯するを得ず。然るに感應の背後の道理は、卻って是れ萬古に變らざるなり。あの恒常不變の理に依って感感應を講ずれば、ゆえに澤山の卦は名を得て《咸》と爲る。機に應じて法を説くの妙用に依って恒常の理を講ずれば、ゆえに雷風の卦は名を得て《恒》と爲る。澤山は《咸》と叫ぶは、卽ち「常」の當下卽ち是れ「無常」なり。雷風は《恒》と叫ぶは、卽ち「無常」の當下卽ち是れ「常」なり。再び言わば、《咸》は本是澤山の象にして然るに感應を講ず。見るべし無常は本來卽ち常なり。《恒》は本是雷風の象にして然るに恒久を講ず。見るべし常は本來卽ち無常なり。《大般涅槃經》の「二鳥雙遊」の比喩(迦鄰提の鳥は雌雄相隨ひて離れず、常と無常との竝行して悖らざるを喩ふ)は、此處よりも亦領悟する可し。理旣に常あれば、常は卽ち必定として亨通し、亦必定として過錯なし。

但常非一定死執之常,須知有體有用:體則非常非無常,用則雙照常與無常。悟非常非無常之體,名為利貞;起能常能無常之用,名利有攸往也。彖曰:恆,久也。剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔相應,恆。恆亨無咎利貞,久於其道也。天地之道,恆久而不已也。利有攸往,終則有始也。日月得天而能久照,四時變化而能久成,聖人久於其道而天下化成。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣。

不過此の「常」は一口に咬定し死死に執著するの常に非ず。須くそれ體あり用あるを知るべし。體より説けば、旣に常に非ず亦無常に非ず。用より説けば、則ち同時に常と無常とを照見す。あの非常非無常の本體を悟到れば、卽ち「利貞」と叫ぶ。あの能く常し能く無常するの妙用を生起せば、卽ち「利有攸往」と叫ぶ。《彖傳》は言う。恒は卽ち長久なり。剛爻は上りて往き、柔爻は下りて來りて、雷と風と互相に激蕩し、卑順にして震動し、剛柔彼此相應ず。これ卽ち《恒》なり。恒久亨通・過錯無く・正を守るに利あるは、長久に自己の道上を行ずるが故なり。天地の法則は、卽ち恒久にして停息せざるなり。往く所有るに利あるは、終結の處に於いて便ち開始あるが故なり。日月は天道を得てゆえに能く長久に照耀し、四季は變化してゆえに能く長久に萬物を成就し、聖人は長久に自己の道上を行じて、天下は便ち教化成就す。其の恒守する所を觀察すれば、天地萬物の實情は卽ち見る可し。

恆何以名久?以其道之可久也。震體本坤,則剛上而主之;巽體本乾,則柔下而主之:此剛柔相濟之常道也。雷以動之,風以鼓之,此造物生成之常道也。巽於其內,動於其外,此人事物理之常道也。剛柔相應,此安立對待之常道也。久於其道,即名為貞,便可亨而無咎。

智旭は解す。《恒》は何を以て長久と叫ぶや。それの此の條の道は以て長久する可きを以てなり。震卦は本是坤體にして、剛爻は上りて往きて其の主宰と爲る。巽卦は本是乾體にして、柔爻は下りて來りて其の主宰と爲る。これ是れ剛柔互相に調劑するの恒常の道なり。雷は來りてそれを鼓動し、風は來りてそれを激蕩す。これ是れ造化生成萬物の恒常の道なり。內裏卑順、外面震動す。これ是れ人情事理の恒常の道なり。剛と柔と彼此相應ず。これ是れ種種の對待關係を安立するの恒常の道なり。長久に自己の道上を行ずるを、卽ち「貞」と叫ぶ。于是以て亨通して過錯なき能くす。

天地之道亦若是而已矣。始既必終,終亦必始;始終相代故非常,始終相續故非斷。非斷非常,故常與無常二義俱成。天地則有成住壞空,日月則有晝夜出沒,四時則有乘除代謝,聖道則有始終體用,皆常與無常二義雙存,而體則非常非無常,強名為恆者也。

天地の法則も亦不過かくのごとし。開始あれば則ち必ず終結あり、終結あれば亦必ず開始あり。始と終とは交替更換す。ゆえに恒常に非ず。始と終とは連綿相續す。ゆえに亦斷滅に非ず。旣に斷滅せず亦恒常ならず。ゆえに「常」と「無常」との兩層の意思は同時に成立す。天地には成・住・壞・空の四箇の階段あり、日月には晝夜出没あり、四季には此消彼長の代謝あり、聖道には始あり終あり・體あり用あり——全部是れ常と無常との兩義並存す。然るに其の本體は則ち旣に常に非ず亦無常に非ず。勉强にそれに一箇の名字を取って「恒」と曰くのみ。

象曰:雷風恆。君子以立不易方。方者,至定而至變、至變而至定者也。東看則西,南觀成北,不亦變乎;南決非北,東決非西,不亦定乎。立不易方,亦立於至變至定、至定至變之道而已。初六:浚恆,貞凶,無攸利。象曰:浚恆之凶,始求深也。夫居咸者每患無主靜之操持,而居恆者每患無變通之學問。今初六以陰居下,知死守而不知變通,求之愈深,愈失亨貞攸往之利,故凶。

《大象傳》は言う。雷と風と是れ《恒》なり。君子は此に由りて身を立てて然るに自己の方向を改變せざるを懂得す。智旭は解す。所謂「方」は、是れ極めて固定にして又極めて變動、極めて變動にして又極めて固定の東西なり。東の邊に立ってそれを看れば是れ西、南の邊に立ってそれを看れば北と成る。これは變に非ずや。然るに南は決して北ならず、東は決して西ならず。これは定に非ずや。「立不易方」は、亦卽ち此の極變にして極定・極定にして極變の道上に立つなり。初六、一上來に卽ち恒久を太だ深く挖る。卽使正を守るも凶。利益あらざる無し。象傳は言う。浚恒の凶は、一開始に卽ち求むること太だ深きが故なり。智旭は解す。《咸》卦に處するの人は、常に主靜の操守無きを患ふ。《恒》卦に處するの人は、常に變通の學問無きを患ふ。今初六は陰爻を以て最下に居り、只だ死守を知りて然るに變通を知らず。求むること愈々深ければ、愈々「亨・貞・有所往」の利益を失掉す。ゆえに凶。

九二:悔亡。象曰:九二悔亡,能久中也。以剛居柔,且在中位,不偏不倚,無適無莫,乃久於中道,非固執不通之恆,故悔亡也。九三:不恆其德,或承之羞,貞吝。象曰:不恆其德,無所容也。過剛不中,以應上六,未免宜久而不肯久,正與初六相反。然過猶不及,且陽剛而反不恆,尤可羞矣。張慎甫曰:三之不恆,藉口圓融變通而失之者也。

九二、悔恨消失す。象傳は言う。九二悔亡は、能く長久に中道を守住するを以てなり。智旭は解す。九二は陽爻を以て陰位に居り、又下卦の中に處して、偏らず倚らず、人に對し事に對して成見の親疏無し。これ是れ長久に中道の上に守住するにして、あの死板不通の恒久に非ず。ゆえに悔恨消失す。九三、能く自己の德行を恒守せず。人あるいは羞辱を拿って彼に與へん。卽使正を守るも憾惜あらん。象傳は言う。其の德を恒せざるは、身を容るる處無きが故なり。智旭は解す。九三は過分に剛强にして中に居らず、又去りて上六に應ず。不免として長久すべき時に偏偏長久するを肯んぜず。正に初六と相反す。然るに頭を過ぐると及ばざるとは一樣に好からず。況んや身は陽剛なるに反って能く恒守せざれば、卽ち更に羞むべし。以下張慎甫の言を引く。九三の不恒は、「圓融變通」を藉口に藉りて恒德を失掉するの人なり。

九四:田無禽。象曰:久非其位,安得禽也。四為震主,恆於動者也,動非可久之位,安能得禽?蓋靜方能有獲耳。六五:恆其德貞,婦人吉,夫子凶。象曰:婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。柔中而應九二之賢,似得恆之正者,然大君宰化導之權,乃絕無變通闔闢之用,不幾為婦道乎。上六:振恆,凶。象曰:振恆在上,大無功也。陰居動極,志大而才小,位尊而德薄,且下應九三不恆之友,其何以濟天下哉?王安石方孝孺似之。

九四、打獵して禽獸を打取らず。象傳は言う。長久に當に待つべからざるの位置上に待在すれば、怎んぞ獵獲あらんや。智旭は解す。九四是れ震卦の主爻にして、一味に「動」の上に恒守す。動は本來以て久居すべきの位置に非ず。怎んぞ獵獲する所有らんや。靜下來して始めて收穫する所有らんと要す。六五、自己の德行を恒守して固守す。婦人はかくのごとくせば吉、男子はかくのごとくせば凶。象傳は言う。婦人の正を守りて吉は、一に從って終るが故なり。男子は義に依って裁斷せんと要す。婦人に跟って走れば則ち凶。智旭は解す。六五は陰柔にして中に居りて九二の賢に應ず。看るに恒久の正道を得たりに似たれど、然るにそれは身に君位を居りて・天下を教化するの權柄を掌くるに、卻って全く開合變通の作用無し。豈に婦人の道に近からずや。上六、動蕩不定に恒久を講ず。凶險。象傳は言う。振恒の上位に居るは、大大に功效無し。智旭は解す。上六は陰爻にして震動の極點に處して、志向は大にして才能は小、地位は尊にして德行は薄し。又下りて九三の此の能く恒守せざるの朋友に應ず。何を憑って天下を救濟せんと去らんや。王安石・方孝孺は卽ち此と相似たり。

遯卦

(艮下 乾上)遁:亨,小利貞。夫世間之道,久則必變而後通,進則必退而後久。此卦剛而能止,是不以進為進,而正以退為進者也,故亨。然說一退字,便有似於自利之小道矣;若充此小道,不幾失立人達人之弘規乎?故誡以小利貞,言雖示同小道,而終利於大人之貞也。

(本卦は下體を艮山と爲し、上體を乾天と爲す。)《遯》の卦辭は言う。亨通す。小處は正を守るに利あり。智旭は解す。世間の道は、久しければ卽ち必ず變化して始めて通じ、進めば卽ち必ず一歩を退いて始めて久しからん。此の一卦是れ剛健にして能く止る。卽ち前進を以て前進と爲さず、恰恰として退を以て進と爲す。ゆえに亨通す。不過一たび「退」の字を説到れば、便ち只だ自利を顧るの小路數に似たり。若し此の條の小路數を擴充開きて去れば、豈に「人を立て人を達する」のあの宏大の規模を失掉せずや。ゆえに告誡して「小利貞」と曰く。意思は表面上是れ小路數と一樣なりと雖も、最終にはなお大人の守正の道に利ありと言うなり。

彖曰:遁,亨,遁而亨也。剛當位而應,與時行也。小利貞,浸而長也。遁之時義大矣哉。尺蠖尚屈而後申,龍蛇亦蟄而後震,君子之學欲自利利他者,豈不以遁而得亨哉。且九五剛當其位,以應六二之賢,乃與時偕行之道,所以亨也。所言小利貞者,慮其陰柔自守之志漸漸浸而長也。夫善遁者,則退正所以為進;不善遁者,則退竟終於不進矣。所關顧不大哉。

《彖傳》は言う。《遯》卦亨通するは、退避して始めて亨通するを得るが故なり。剛爻は位に當りて下と相應ず。是れ時勢に隨って行ずるなり。「小利貞」は、陰柔正に一點一點生長の中に在るが故なり。《遯》の處する所の時機の意義は大なり。智旭は解す。尺蠖は尚且つ先に屈して始めて伸ぶる能くし、龍蛇も亦先に蟄伏して始めて奮起する能くす。君子の學問は自利利他せんと欲せば、豈に正に退避を靠って始めて亨通するを得ずや。況んや九五は陽剛にして位置當を得、下りて六二の賢に應ず。これ是れ時と偕に行ずるの道なり。ゆえに亨通す。所謂「小利貞」は、あの陰柔自守の心志の一點一點滋長起來せんを顧慮するなり。退避に善き人は、退は正に進むが爲なり。退避に善からざる人は、一退すれば卽ち終身再び前進せず。此の中間の關係は豈に重大ならずや。

象曰:天下有山,遁,君子以遠小人不惡而嚴。外健內止,未嘗有意於遠小人,而小人自不能媚也。以小人為用,故不惡;小不能擅權,故而嚴。約聖學者,天君為主,百骸聽命,耳目口腹之慾不能為亂也。初六:遁尾厲,勿用有攸往。象曰:遁尾之厲,不往何災也。處遁之時,須隨其德位以為進退,方不失亨貞之道。今初六陰柔居下,才位俱卑,惟固守為宜,不可妄往以取災也。此如樂正裘、牧仲。

《大象傳》は言う。天下に山ある是れ《遯》なり。君子は此に由りて小人を疎遠し、疾言厲色を必とせずして自ら威嚴あるを懂得す。智旭は解す。外面剛健、內裏靜止して、本來小人を刻意に疎遠するの意無くして、然るに小人は自然に諂媚して上來ず。仍お小人を用ふるを得。ゆえに彼を厭惡するを必とせず。小人は權を擅くする能わず。ゆえに自ら威嚴あり。若し聖賢の學に配せば、卽ち心の此の「天君」の主を做して、四肢百骸は命を聽き、耳目口腹の欲望は亂を作す能わざるなり。初六、退避は最後に落す。危厲あり。往く所有るべからず。象傳は言う。遯尾の厲は、前往せざれば還た何の災禍かあらん。智旭は解す。退避の時に處しては、必ず自己の德行と位置とに依って進退を決定して、始めて亨通守正の道を失わず。今初六は陰柔にして最下に居り、才能と地位と皆低し。只だ宜しく牢牢と自守すべく、妄動して前往して自ら災禍を取るべからず。これは《孟子》の説く孟獻子の友樂正裘・牧仲のあの一類の人に譬ゆ。

六二:執之用黃牛之革,莫之勝說。象曰:執用黃牛,固志也。柔順中正,非榮名利祿之所能牽,上應九五剛健中正之君以行其志,國有道不變塞焉,故象以執用黃牛之革。此如伊尹。

六二、黃牛皮を以て做せる繩索を用いてそれを牢牢と捆縛して、誰か解き開く能くせん。象傳は言う。黃牛を執用すは、自己の心志を堅固するが故なり。智旭は解す。六二は陰柔順從にして中に居り正を守り、是れ榮名利祿の牽き動かす能くするに非ず。それは上りて九五の此の剛健中正の君主に應じて以て自己の志向を實現す。正に《中庸》の説く所の國家政治淸明の時も亦自己の困窘の時の操守を改變せずに合す。ゆえに「黃牛皮を用いて捆縛す」を取って象と爲す。これは伊尹に譬ゆ。

九三:係遁,有疾厲,畜臣妾吉。象曰:係遁之厲,有疾憊也;畜臣妾吉,不可大事也。剛而得正,可以有為,而居止極,則未免為遁之一字所繫。此絕人忘世之道,君子之疾也。然雖不能大有所為,亦須厲勉其精神以畜臣妾則吉。所謂不能治國,亦且齊家以為天下風可也。丈人現二子於子路,亦是此意,但無援天下之大手段耳。

九三、牽繫せられ住まりたるの退避、疾病危厲あり。臣僕侍妾を畜養すれば則ち吉。象傳は言う。繫遯の厲は、病ありて困頓す。臣妾を畜養すれば則ち吉は、以て大事を辦すべからざるなり。智旭は解す。九三は陽剛にして位置正を得、本來以て作爲する所有る可し。然るにそれは艮止の極點に處すれば、卽ち不免として「遯」の此の一箇の字に牽住せらる。これ是れ人と隔絶し・世事を忘掉するの路數にして、正に君子の病なり。不過能く大有作爲せずと雖も、亦還た當に精神を振作して臣僕侍妾を畜養しに行くべし。則ち吉。亦卽ち説かば、國を治する能わざれば、至少も還た能く家を治めて、天下に一種の風氣を立てん。《論語》の裏の荷蓧丈人の兩箇の兒子をして出でて子路を拜見せしめしも亦此の意思なり。只だ天下を援救するの大手段を缺くのみ。

九四:好遁,君子吉,小人否。象曰:君子好遁,小人否也。以剛居柔,上輔九五,下應初六,承天子之德,撫天下之民,休休有容,君子之吉道,非小人所能學也。此如衛武公。(否本音)九五:嘉遁,貞吉。象曰:嘉遁貞吉,以正志也。剛健中正,下應六二陰柔中正之賢,當此遁時,雖有英明神武作略,不自露其才華,遁之嘉美,貞而且吉者也。此如湯王。上九:肥遁,無不利。象曰:肥遁無不利,無所疑也。剛而不過,尊居師保之位,望隆於天下而不自伐其德,故為肥遁而無不利。此如太公。

九四、退避を喜好す。君子はかくのごとくせば吉、小人は做し得ず。象傳は言う。君子の退避を喜好するは、小人は則ち然らざるなり。智旭は解す。九四は陽爻を以て陰位に居り、上は九五を輔佐し、下は初六に應和して、天子の德澤を承接して、天下の百姓を安撫す。寬宏にして容あり。これ是れ君子の吉道にして、小人の學び來り得るに非ず。これは衛武公に譬ゆ。(底本此處に小注「否本音」あり。爻辭「小人否」の「否」は其の本音「fǒu」を讀みて、《否》卦の「pǐ」を讀まざるを指す。)九五、嘉美の退避。正を守りて吉祥。象傳は言う。嘉遯貞吉は、自己の心志を端正したるが故なり。智旭は解す。九五は剛健にして中に居り正を守りて、下りて六二の此の陰柔中正の賢者に應ず。正に退避の時に當りて、英明神武の謀略あると雖も、亦自己の才華を顯露せず。これ是れ退避の中の嘉美にして、正を守りて而且吉祥なり。これは商湯に譬ゆ。上九、寬綽無累の退避。利ならざる無し。象傳は言う。肥遯无不利は、心中疑慮無きが故なり。智旭は解す。上九は陽剛にして頭を過ぎず、帝王の師保の位に尊居して、聲望は天下に隆盛にして然るに自ら其の德を誇らず。ゆえに是れ寬綽の退避にして不利無し。これは姜太公に譬ゆ。

大壯卦

(乾下 震上)大壯:利貞。夫退養之功愈密,則精神道德益壯。然大者既壯,不患不能致用,特患恃才德而妄動耳。利貞之誡,深為持盈處滿者設也。彖曰:大壯,大者壯也。剛以動,故壯。大壯利貞,大者正也。正大,而天地之情可見矣。夫人一體之中,有大者,有小者;從其大體為大人,從其小體為小人。今言大壯,乃是大者壯也。剛則非情慾所能撓,動則非舊習所能囿,所以壯也。言利貞者,以大者本自正也,不正何以稱大?故正大而天地之情可見矣。約佛法者,天地即表理智,亦表定慧。

(本卦は下體を乾天と爲し、上體を震雷と爲す。)《大壯》の卦辭は言う。正を守るに利あり。智旭は解す。上一卦の退避涵養の功夫を下ること愈々細密なれば、精神と道德と愈々强壯なり。然るに大の一面旣に强壯なれば、卽ち作用を發揮する能わざるを愁へず。只だ才能德行を仗りて妄動せんことを愁ふ。「利貞」の此の一告誡は、正に深くあの已に滿盈の人らの爲に設立するなり。《彖傳》は言う。《大壯》は、大の一面の强壯なり。剛健にして又能く動す。ゆえに强壯。大壯は正を守るに利あるは、大の一面は本來卽ち正なるを以てなり。正にして而且大なれば、天地の實情は卽ち見る可し。智旭は解す。人の一身の中に大の部分あり小の部分あり。大の部分(心志)に順へば卽ち大人と成り、小の部分(耳目口腹)に順へば卽ち小人と成る。これ是れ《孟子》の説法なり。今は「大壯」を説く。正に大のあの一面の强壯なり。剛健なれば則ち情欲に擾亂せられず、能く動けば則ち舊習に局限せられず。ゆえに强壯。「利貞」を説くは、大の一面は本來卽ち正なるを以てなり。正ならざれば又憑何に稱して大と爲さんや。ゆえに正にして而且大なれば、天地の實情は卽ち見る可し。佛法を以て言わば、天と地とは卽ち理と智とを表示し、亦定と慧とを表示す。

象曰:雷在天上,大壯。君子以非禮弗履。非禮弗履,正佛法中所謂悲體戒雷震也。初九:壯于趾,征凶有孚。象曰:壯于趾,其孚窮也。雖云大者必正,須知正者乃大。若恃其大以為正,正便成邪;恃其壯以為大,大必不久;恃其正以為壯,壯必有衰。洪範所以有高明柔克之訓,正為此耳。今初九過剛不中,故往則必凶;以其自信自恃,乃必窮之道也。

《大象傳》は言う。雷は天上に在る是れ《大壯》なり。君子は此に由りて禮に合せざれば卽ち做さざるを懂得す。智旭は解す。「非禮不履」は、正に佛法中の《普門品》の説く所の「悲體戒雷震」——大悲を以て體と爲すの戒行は、雷震のごとくして人をして警醒せしむ——なり。初九、强壯は脚趾の上に在り。前往すれば則ち凶。これ是れ確實なり。象傳は言う。趾に壯あるは、あの份の確信は只だ窮途に走り到らんのみ。智旭は解す。大の一面は必定として正と説くと雖も、但だ須く是れ「正」にして始めて其の大と成るを知るべし。若し自己の大を仗りて自ら以て正と爲せば、正は卽ち邪と變成す。自己の壯を仗りて自ら以て大と爲せば、大は必定として久しからず。自己の正を仗りて自ら以て壯と爲せば、壯は必定として衰へんと要す。《尚書・洪範》の「高明柔克」(高明の人に對しては柔和を用いて節制せんと要す)の訓誡ある所以は、正に此の一點の爲なり。今初九は過分に剛强にして中に居らず。ゆえに前往すれば必ず凶。それ一味に自信自恃するを以てなり。これ是れ必定として窮途に走り到るの路なり。

九二:貞吉。象曰:九二貞吉,以中也。陽居陰位,剛而不過,又得其中,得中即得正矣。九三:小人用壯,君子用罔,貞厲。(羝氐+氏)羊觸藩,羸其角。象曰:小人用壯,君子罔也。雖本君子,但好剛任壯,未免同於(衽壬+任)金革、蹈白刃、暴虎馮河之小人,適足取困而已,何能決斯世之藩哉?若真是君子,則勢雖壯盛而不自恃,慊然似罔也已。

九二、正を守りて吉祥。象傳は言う。九二貞吉は、中に居るを以てなり。智旭は解す。九二は陽爻を以て陰位に居り、剛强にして頭を過ぎず、又下卦の中に居る。中を得れば卽ち亦正を得たり。九三、小人は蠻力を使用し、君子は「無」を用ふ(强を逞しせず)。正を守りて心に危懼を存す。公羊は往きて籬笆を頂いて、角を卡住せらる。象傳は言う。小人の壯を用ふるは、君子は則ち不用を以て用と爲す。智旭は解す。九三は本是君子にして、只だ剛を好み壯を任ずるに因りて、不免としてあの甲冑を披掛し・赤足に白刃を踩み・空手に虎を打ち徒步に河を渡るの小人のごときに同じ。恰好として只だ困窘の一箇を落すのみ。何處に此の世道の藩籬を衝開き得んや。若し眞に是れ君子なれば、縱然勢頭壯盛なれども亦自恃せず、謙退して何も無きがごとし。(底本は「某字加某字」の方式を以て罕見字を描述す。「羝」は「氐+氏」に寫作し、「衽」は「壬+任」に寫作す。今は照録す。)

九四:貞吉悔亡,藩決不羸,壯于大輿之輹。象曰:藩決不羸,尚往也。陽居陰位,以柔濟剛,得大壯之貞者,所以削平禍亂而不損其神;以此運載天下,無往而不得也。六五:喪羊于易,無悔。象曰:喪羊于易,位不當也。柔而得中,故絕無剛壯喜觸之態而無悔也。位不當,猶所謂有天下而不與。

九四、正を守れば則ち吉・悔恨消失す。籬笆は衝き開けて然るに角は再び卡住せられず。强壯は大車の伏兔の上に在り。象傳は言う。藩決不羸は、還た以て繼續前往する可きなり。智旭は解す。九四は陽爻を以て陰位に居り、柔を用いて剛を調劑して、大壯の正道を得。ゆえに能く禍亂を削平して然るに自己の精神を損耗せず。此を用いて天下を承載せば、走り到る所の處處皆行き通る能くす。六五、田畔に於いて羊を喪失せり。悔恨なし。象傳は言う。易に於いて羊を喪すは、位置不當なり。智旭は解す。六五は陰柔にして上卦の中に居る。ゆえに全く剛猛にして頂撞を好むの姿態無し。因って悔恨なし。「位不當」を説くは、《論語》の説く所の舜禹の天下を擁有して然るにそれを以て自己の東西と爲さざるに譬ゆ。

上六:(羝氐+氏)羊觸藩,不能退,不能遂,無攸利,艱則吉。象曰:不能退,不能遂,不詳也;難則吉,咎不長也。質位俱柔,但有壯名而無壯義,故無攸利。然善用柔者,正不必慕大壯之虛名,惟艱守其柔克之道,則柔能勝剛,反得吉矣。此勸其不能遂則須退也。

上六、公羊は籬笆を頂いて、退くも退き出づるを得ず、進むも進み入るを得ず。利益あらざる無し。艱難に處して守れば則ち吉。象傳は言う。退くを得ず進むを得ずは、行事周詳ならざるなり。艱難に處すれば則ち吉は、過咎は長久會せざるなり。智旭は解す。上六は本質と位置と皆柔にして、只だ强壯の名聲ありて然るに强壯の實質無し。ゆえに利益あらざる無し。然るに柔を用ふるに善きの人は、本來卽ち「大壯」の此の虛名を羨慕するを必とせず。只だ艱難の中に於いて柔を以て勝を取るの道を守住せば、則ち柔は能く剛に勝てり。反って吉を得。これ是れそれを勸めて旣に進み入るを得ざれば、卽ち當に退き回るべしと曰くなり。

晉卦

(坤下 離上)晉:康侯用錫馬蕃庶,晝日三接。大壯而能貞,則可進於自利利他之域矣。當此平康之世,賢侯得寵於聖君,錫馬蕃庶,錫之厚也;晝日三接,接之勤也。觀心釋者:妙觀察智為康侯,增長稱性功德為錫馬蕃庶,證見法身理體為晝日三接。

(本卦は下體を坤地と爲し、上體を離火と爲す。)《晉》の卦辭は言う。安國の侯は衆多の車馬の賜與を受けて、一日の內に三度接見を蒙受す。智旭は解す。大壯にして能く正を守れば、卽ち以て自利利他の境地に進入する可し。正に此の太平安康の世に當りて、賢侯は聖君に寵得せらる。車馬衆多を賞賜するは、賞すること厚きなり。一天に三度接見するは、待すること勤なり。觀心の一層を以て解す。佛の「妙觀察智」(第六識を轉じて成る所、諸法を觀るに善くして法を説き疑を斷ず)は卽ちあの位の安國の侯なり。本性に順應するの功德を增長するは卽ち衆多の車馬を賞賜するなり。法身の理體を證見するは卽ち一日三度接見を蒙るなり。

彖曰:晉,進也。明出地上,順而麗乎大明,柔進而上行,是以康侯用錫馬蕃庶,晝日三接也。明若未出,不名平康之晉時;不順不麗,不名晉世之賢侯;不柔不進,不得錫接之蕃數。蓋六五之柔即坤全體,坤與合德,故進而上行以麗之也。觀心釋者:根本實智光明破無明住地而出,故云明出地上;定與慧俱,止觀不二,故云順而麗乎大明;無明實性即佛性,無明轉即變為明,故柔進而上行,是以功德智慧重重增勝也。

《彖傳》は言う。晉は卽ち前進なり。光明は地面より升出す。柔順にして大光明に附麗す。柔爻は前進して上りて運行す。ゆえに安國の侯は衆多の車馬の賜與を受け一日三度接見を蒙ると言う。智旭は解す。光明若し還た未だ升出せざれば、卽ち太平安康の晉進の時と稱するに足らず。柔順ならず附麗せざれば、卽ち晉進の世の賢侯と稱するに足らず。柔和ならず前進せざれば、卽ちあのごとく多きの賞賜と接見とを得る能わず。六五の此の柔爻は本來卽ち坤の全體にして、坤はそれと德を合す。ゆえにそれは前進上行して離明に附麗しに往く。觀心の一層を以て解す。根本の眞實智慧の光は「無明住地」(一切の迷惑の根本)を破除して顯露出だす。ゆえに光明は地面より升出すと言う。定と慧と同時に具足し、止と觀と不二なり。ゆえに柔順にして大光明に附麗すと言う。無明の眞實體性は當下に卽ち佛性にして、無明は一轉すれば卽ち明と變成す。ゆえに柔爻は前進上行すと言う——因此功德と智慧とは層層に增勝す。

象曰:明出地上,晉。君子以自昭明德。本覺之性名為明德,始覺之功名之為昭,心外無法名之為自。自昭明德,則新民止至善在其中矣。初六:晉如摧如,貞吉。罔孚,裕無咎。象曰:晉如摧如,獨行正也;裕無咎,未受命也。晉之六爻皆應自昭明德以新民者也,而時位不同,所養亦異,故吉凶悔吝分焉。初六以陰居陽,定有其慧,且居順體,故可進而晉如;然在卦下,又與鼫鼠為應,非我良朋,則斷不宜欲速,故有阻而摧如。夫晉與摧皆外境耳,何與於我?但當守正則吉。縱令一時不足取信,惟寬裕以待之,終無咎矣。言獨行正者,自信自肯不求人知之意;言未受命者,猶孟子所謂命也有性焉、君子不謂命也之意。

《大象傳》は言う。光明は地面より升出する是れ《晉》なり。君子は此に由りて自ら本有の光明德性を彰明するを懂得す。智旭は解す。本來覺悟の體性を「明德」と叫び、覺悟を開始するの功夫を「昭」と叫び、心外に別の法無きを「自」と叫ぶ。自己に彰明して本有の明德を彰明せば、則ち《大學》の説く所の「新民」「止于至善」は皆その裏面に在り。初六、前進して又受挫す。正を守れば則ち吉。信任せられず。寬裕に以て待てば卽ち過錯なし。象し。象傳は言う。晉如摧如は、獨自正道の上を行ずるが故なり。裕无咎は、還た未だ任命を承受せざるが故なり。智旭は解す。《晉》卦の六爻は皆自ら其の德を明して以て百姓を更新せんと欲するの人なり。只だ時位相同じからず涵養する所も亦相同じからず。ゆえに吉凶悔吝は卽ち分かれ出づ。初六は陰爻を以て陽位に居り、定の中に慧を帶びて、又坤順の體に處す。ゆえに以前進する可し。然るにそれは全卦の最下に處して、又九四の此の隻の「鼫鼠」に相應ず。あれは我が好朋友に非ず。因此斷然として快を求むるに宜しからず。ゆえに阻まれて挫せらる。前進するも受挫するも皆是れ外境のみ。我と何の相干かあらん。只だ正を守れば則ち吉。縱然一時に別人の信任を得る能わずとも、只だ寬裕從容に待たば、終竟過錯なし。「獨行正」を説くは、自信自肯して人知を求めざるの意思なり。「未受命」を説くは、《孟子》の説く所のあの事は命運に屬すと雖も、その中には卻って本性在りて、君子はそれらを命運に推委せずに似たり。

六二:晉如愁如,貞吉。受茲介福,于其王母。象曰:受茲介福,以中正也。柔順中正,自昭明德,常切望道未見之愁,正而且吉者也。上與六五王母合德,錫以本分應得之福,故名介福,縱令貴極人臣,非分外也。六三:眾允,悔亡。象曰:眾允之,志上行也。以陰居陽,定有其慧,當晉之時而在順體之上,初六所謂罔孚者,裕養至此,眾皆允之而悔亡矣。隱居以求其志,行義以達其道,故曰志上行也。

六二、前進して心に憂愁を懷き、正を守りて吉祥。王母のあれより此の份の大福を領受す。象。象傳は言う。茲の介福を受くるは、中に居りて正を守るを以てなり。智旭は解す。六二は陰柔順從・中に居り正を守りて、自己に本有の明德を彰明して、常に「大道を望見するに然るに還た未だ見えざるに似たり」のあの份の憂切を存す。是れ正を守りて而且吉祥の人なり。それは上りて六五の此の位の「王母」と德性相合して、それに賜ふ所は本分內應得の福なり。ゆえに「介福」(大福)と叫ぶ。縱然貴くして人臣の極に到るとも、亦分外と算せず。六三、衆人皆彼を贊許す。悔恨消失す。象傳は言う。衆人の彼を贊許するは、心志向上して行ずるが故なり。智旭は解す。六三は陰爻を以て陽位に居り、定の中に慧を帶びて、正に晉進の時に當りて坤順の體の上位に處す。初六のあの「信任せられず」の人は、寬裕涵養して此の歩に到れば、衆人皆彼を贊許して、悔恨も亦卽ち消失せり。隱居の時は自己の志向を堅守し、出仕の時は道義を推行して主張を實現す。ゆえに「心志向上して行ず」と言う。

九四:晉如鼫鼠,貞厲。象曰:鼫鼠貞厲,位不當也。君子之自昭明德也,外宜晦而內宜明,故闇然而日章。以九居四,則外剛而內柔、外明而內晦者也,如鼫鼠:能飛不能過屋,能緣不能窮木,能遊不能度谷,能穴不能掩身,能走不能先人,不亦危乎。蕅益子曰:予昔初入閩中,見有鬻白兔者,人爭以百金買之。未幾,生育甚多,其價漸減至一錢許。好事者殺而烹之,臭不可食,遂無人買。博古者云:此非白兔,乃鼫鼠耳。噫!本以賤鼠,謬膺白兔之名,無德居高位元者蓋類此矣。

九四、前進すること鼫鼠のごとし。正を守るも危厲。象象傳は言う。鼫鼠貞厲は、位置不當なり。智旭は解す。君子は自ら其の德を明するは、外面は當に收斂すべく內面は當に明亮すべし。ゆえに《中庸》は君子の外表は暗淡にして德行は日益に彰顯すと言う。今は九を以て四に居れば、卽ち外剛內柔・外明內暗の人と成る。鼫鼠に譬ゆ——飛ぶ能くして然るに屋頂を飛び過ぎる能わず、攀爬する能くして然るに樹梢に爬到る能わず、游泳する能くして然るに山谷を渡り過ぐる能わず、洞を打つ能くして然るに身を藏住る能わず、走る能くして然るに人に走り過ぐる能わず。豈に危險ならずや。智旭は一段の親歷を自ら述ぶ。我當年初めて福建に到りて、人の白兔を賣るを見て、人々は爭って百金を出して買ふ。沒多久に白兔は繁殖すること極めて多くして、價錢は一路に一錢の左右に跌到す。好事の人あるいはそれを殺して煮て食へば、腥臭にして口に入る可からず。于是再び買ふ人無し。見多識廣の人の言う所あり。これは根本に白兔に非ずして、鼫鼠なり。唉。本是低賤の鼠類なるに、卻って白兔の名聲を冒領せり。德無くして高位に居るの人は、大概是れ此の一類なり。(「位元」の「元」の字は底本の衍文なり。)

六五:悔亡,失得勿恤,往吉,無不利。象曰:失得勿恤,往有慶也。以六居五,定有其慧,又為離明之主,得中道而處天位,正所謂自新新民、無所不用其極者也。雖俯乘鼫鼠之九四,仰承晉角之上九,而與坤順合德,故往接三陰,同成順麗大明之治,則吉無不利,舉世皆蒙其福慶矣,又何失得之可恤哉。

六五、悔恨消失す。得失は皆憂慮するを必とせず。前往すれば則ち吉。利ならざる無し。象傳は言う。失得勿恤は、前往すれば喜慶あらん。智旭は解す。六五は陰爻を以て第五位に居り、定の中に慧を帶びて、又是れ離明の卦の主爻にして、中道を得て天子の位に居る。正に《大學》の説く所の自新して又民を新にし・一處も全力を用盡さざる無きの人なり。それは下に向かって九四の此の隻の鼫鼠を壓え、上に向かって上九のあの隻の「晉角」を承くると雖も、然るに下體坤の柔順と德を合す。ゆえに前往して下面の三箇の陰爻を接引して、一同に柔順にして大光明に附麗するの治世を成就す。因って吉にして不利無く、擧世皆其の福慶を蒙受す——還た何の得失か憂慮するに値せんや。

上九:晉其角,維用伐邑,厲吉無咎,貞吝。象曰:維用伐邑,道未光也。上九亦外剛而內柔、外明而內晦者也,而居晉極,則如獸之角矣。以角觸人則凶,維用以自治,如伐邑然,則厲吉而無咎。然不能自治於早,至此時而方自治,雖得其正,不亦吝與?四十五十而無聞焉,斯亦不足畏也已,故曰道未光也。

上九、晉進して角の上に到れり。只だ以て自己の封邑を討伐するに用ふる可し。危厲あると雖も然るに吉・過錯なし。但だ卽使正を守るも憾惜あらん。象傳は言う。只だ以て邑を伐つるに用ふる可きは、道還た未だ光盛大ならざるなり。智旭は解す。上九も亦是れ外剛內柔・外明內暗の人にして、又晉進の極點に處す。野獸の頭上の角に似たり。角を拿って人を頂けば則ち凶。只だ以て自己を整治するに用ふる可し。自己の封邑を討伐するに譬えば、則ち危なりと雖も吉・過錯なし。然るに能く及早に自治せずして、此の時に到りて始めて手を動かして自治すれば、正に合すと雖も、豈に仍お憾惜無からんや。孔子は人の四五十歲に到りて還た名聲無からば、亦卽ち敬畏するに値せずと言う。ゆえに「道還た未だ光盛大ならず」と言う。

明夷卦

(離下 坤上)明夷:利艱貞。知進而不知退,則必有傷。夷者,傷也。明入地中,其光不耀,知艱貞之為利,乃所謂用晦而明,合於文王箕子之德矣。彖曰:明入地中,明夷。內文明而外柔順,以蒙大難,文王以之。利艱貞,晦其明也,內難而能正其志,箕子以之。

(本卦は下體を離火と爲し、上體を坤地と爲す。)《明夷》の卦辭は言う。艱難の中に正を守るに利あり。智旭は解す。只だ前進を知りて然るに退避を知らざれば、必定として傷を受けんと要す。「夷」は卽ち傷なり。光明は地の下に沉入して、其の光は再び照耀せず。艱難に正を守るを懂得して始めて有利なり。これ卽ち所謂「晦を用いて明なり」——其の明を收斂して反って愈々明なり。正に周文王と箕子との德行に合す。《彖傳》は言う。光明は地中に沉入する是れ《明夷》なり。內裏文明にして外面柔順にして、因此大難を蒙受す。周文王は正にかくのごとし。艱難に正を守るに利あるは、自己の光明を隱晦せんと要するなり。身に內部の患難に處して能く自己の心志を端正するは、箕子は正にかくのごとし。

文明柔順,雖通指一卦之德,意在六二;內難正志,專指六五;艱貞晦明,則文王箕子所同也。觀心釋者:煩惱惡業、病患魔事、上慢邪見,無非圓頓止觀所行妙境。象曰:明入地中,明夷。君子以蒞眾,用晦而明。甯武子之愚不可及,兵法之以逸待勞、以靜制動、以闇伺明,皆明夷之用也。聖學則闇然而日章。

智旭は解す。「內文明而外柔順」は一卦の德を通指すと雖も、用意は卻って六二に落す。「內難而能正其志」は則ち專ら六五を指す。至って艱難守正・光明を隱晦するは、則ち文王と箕子と共同の地方なり。觀心の一層を以て解す。煩惱と惡業・疾病と魔事・增上慢と邪見とは、圓頓止觀の觀照する所の微妙境界に非ざる無し——正に暗處に於いて明を見るなり。《大象傳》は言う。光明は地中に沉入する是れ《明夷》なり。君子は此に由りて民衆を治理するは含晦の方式を用いて然るに實は明察なるを懂得す。智旭は解す。《論語》は寧武子のあの種の「愚」は別人の學び來り能わざるを稱す。兵法上の逸を以て勞を待ち・靜を以て動を制し・暗處に於いて明處を窺伺するは、皆是れ明夷の用法なり。聖賢の學に於いては、卽ち外表は暗淡にして德行は日益に彰顯するなり。

初九:明夷于飛,垂其翼。君子于行,三日不食,有攸往,主人有言。象曰:君子于行,義不食也。此如太公伯夷之避紂也。先垂其翼,則不露其飛之形;及行之速,則三日而不遑食。蓋義當遠遁,不欲主人知之而有言耳。

初九、光明の傷つけらるるの時、空中に飛びて、翅膀を垂下せり。君子は路上を走りて、三天も飯を食ふこと無し。往く所有れば、主人は卻って閒話を説く。象傳は言う。君子于行は、道義の上に就いて言えば其の飯を食ふべからざるなり。智旭は解す。これは姜太公・伯夷の商紂王を躲避するに譬ゆ。先に翅膀を垂下せば、卽ち飛ばんと欲するの形迹を露出せず。走り起きるを等って極めて快くして、三天は飯を食ふに及ばず。これは道義の上に於いて當に遠く逃開すべく、主人をして知らしめて閒話を招來せんを願はざるを以てなり。

六二:明夷,夷于左股,用拯馬壯,吉。象曰:六二之吉,順以則也。文明中正之德,當此明夷之時,雖左股業已受傷,猶往拯救,唯馬壯故吉耳。羑里既囚之後,仍率三分天下之二以服事殷,順而不忤,誠萬古人臣之則也。

六二、光明傷つけらるるは、左腿の上に傷在り。用いて救助するの馬は健壯にして、吉祥。象傳は言う。六二の吉なる所以は、柔順にして法則に合するが故なり。智旭は解す。六二は文明中正の德ありて、正に光明傷つけらるるの時に當りて、左腿已に傷を受けたりと雖も、仍お前に往きて拯救す。只だ用ふる所の馬は健壯なるに因りて、ゆえに吉。周文王は羑里に囚禁せられし後、仍お天下の三分之二の諸侯を率領して殷商を服事す。柔順にして違逆せず。實在是れ萬古に人臣と爲る者の法則なり。

九三:明夷于南狩,得其大首,不可疾貞。象曰:南狩之志,乃大得也。以剛居剛,在離之上,夜盡將旦之時也。正與上六闇主為應,如武王伐紂,得其大惡之首。然以臣伐君,事不可疾,當持之以貞耳。象云南狩之志,猶孟子所云有伊尹之志則可、無伊尹之志則纂也,辭義懍然。

九三、光明の傷つけらるるの時、南方に向かって出獵して、あの箇の首惡を擒獲せり。操りて之を急ぐべからず、正を守らんと要す。象傳は言う。南狩の心志は、大いに得る所有るが故なり。智旭は解す。九三は陽爻を以て陽位に居り、離體の最上に處す。是れ長夜將に盡きて天快に亮せんとするの時なり。それは正に上六の此の昏暗の主と相應ず。周武王の商紂を討伐して、大惡の首領を擒住せしに似たり。然るに臣子を以て君主を討伐すれば、事情は急躁すべからずして、當に正を守るの心を以て持守すべし。象傳の「南狩之志」は、《孟子》の説く所の伊尹のあのごとき志向あればこそ可く、伊尹のあのごとき志向無ければ卽ち篡逆なりに似たり——措辭の分量は人をして凜然たらしむ。

六四:入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。象曰:入于左腹,獲心意也。已居坤體,入暗地矣;柔而得正,稍遠於上,故猶可獲明夷之心而出門庭。如微子抱祭器以行遁,但出門庭,遜於荒野,非歸周也。

六四、左邊の腹地に進入して、「明夷」の心思を摸淸して、于是門庭を走り出づ。象傳は言う。左腹に入るは、對方の心意を摸到りしが故なり。智旭は解す。六四は已に坤體に進入して、是れ暗地に踏進せり。但だそれは陰柔にして位置正を得、上六に離るること還た稍々遠し。ゆえに還た能く昏君の心思を摸淸して門庭を走り出づ。これは微子の祭器を抱きて出走去りて難を避くるに譬ゆ——只だ門庭を走り出で・荒野に退隱するのみにして、竝びに周朝に歸附しに往くに非ず。

六五:箕子之明夷,利貞。象曰:箕子之貞,明不可息也。迫近暗君,身已辱矣。外柔內剛,居得其中,用晦而明,明照萬古,洪範九疇之燈誰能息之?上六:不明晦,初登于天,後入于地。象曰:初登于天,照四國也;後入于地,失則也。以陰居陰,處夷之極,初稱天子,後成獨夫者也。蓋下五爻皆明而示晦,故能用晦而明;此則不明而晦,故失則而終入地耳。

六五、箕子のあのごときの明夷。正を守るに利あり。象傳は言う。箕子の正を守るは、彼の光明は熄滅せらるる能くするに非ざるなり。智旭は解す。六五は昏暗の君に緊挨して、自身已に辱を受けたり。然るにそれは外柔內剛にして、位に居りて中を得、含晦の方式を用いて然るに實は明察にして、光明は萬古を照耀す——《尚書・洪範》の九疇のあの盞の燈は、誰か熄し滅する能くせんや。上六、明ならずして昏暗なり。起初は天上に升り、後來は地下に墜入す。象傳は言う。起初登天するは、四方之國を照耀するが故なり。後來入地するは、法則を失掉したるが故なり。智旭は解す。上六は陰爻を以て陰位に居り、傷の極點に處す。起初は還た天子と稱して、後來は卽ち衆叛親離の獨夫と成れり。下面の五爻は皆是れ本有光明にして故意に含晦を示現す。ゆえに能く晦を用いて反って明なり。上六は卻って是れ本來不明にして昏暗なり。ゆえに法則を失掉して終に地下に墜入せり。

家人卦

(離下 巽上)家人:利女貞。欲救天下之傷,莫若反求於家庭;欲正家庭之化,莫若致嚴於女貞。牝雞之晨,維家之索,不可以不誡也。佛法釋者:觀行被魔事所擾,當念唯心。唯心為佛法之家,仍須以定資慧,以福助智,以修顯性,名利女貞。

(本卦は下體を離火と爲し、上體を巽風と爲す。)《家人》の卦辭は言う。女子の正を守るに利あり。智旭は解す。天下の創傷を救治せんと欲せば、囘って來りて家庭の上に着力するに如かず。家庭の教化を端正せんと欲せば、女子守正の此の一點の上に於いて嚴格に要求するに如かず。《尚書》は雌鷄の曉を報ずれば、家道は卽ち敗落せんと要すと言う。これは警誡を加へざる可からず。佛法の一層を以て解す。觀行の中に魔事に擾亂せらるるの時に於いては、當に念念に一切唯是自心なるを記住すべし。「唯心」は卽ち佛法の家なり。此の家の裏に於いては仍お須く定を以て慧を資助し、福德を以て智慧を輔助し、後天の修行を以て本具の性を顯發すべし——これを「利女貞」と叫ぶ。

彖曰:家人,女正位乎內,男正位乎外。男女正,天地之大義也。家人有嚴君焉,父母之謂也。父父子子,兄兄弟弟,夫夫婦婦,而家道正。正家而天下定矣。佛法釋者:禪定持心,則內冥法體;智慧了境,則外施化用。修德之定慧平正,本乎性德之寂照不二也。在因名男女,在果名父母;既證果德,十界歸仰,故名嚴君。性修不濫,名父父子子;真俗並照,名兄兄弟弟;福慧互資,名夫夫婦婦。一世界清淨故,十方世界皆悉清淨,名正家而天下定也。

《彖傳》は言う。《家人》卦、女子は內位の上に端正し、男子は外位の上に端正す。男女各おのが正を得。これ是れ天地間の大義なり。一家の中に尊嚴の主宰あるは、説く所は卽ち父母なり。父は父に似て、子は子に似て、兄は兄に似て、弟は弟に似て、夫は夫に似て、婦は婦に似たれば、家道は卽ち端正なり。家は端正なれば、天下も亦卽ち安定す。智旭は佛法の一層を以て解す。禪定を以て內心を攝持するは、卽ち內に於いて法の本體に冥合す。智慧を以て外境を照了するは、卽ち外に於いて教化の作用を施展す。修德の上の定慧平正は、根源は性德本身の寂靜と照察との不二に在り。因位の上に於いては男女と叫び、果位の上に於いては父母と叫ぶ。旣に果德を證得せば、十法界は皆來りて歸仰す。ゆえに「尊嚴の主宰」と叫ぶ。本性と修行と各おのが分際を守って混濫せずを、父父子子と叫ぶ。眞諦と俗諦と同時に照察するを、兄兄弟弟と叫ぶ。福德と智慧と互相に資助するを、夫夫婦婦と叫ぶ。一箇の世界の淸淨なるの緣故に、十方の世界も亦皆淸淨なり。これを「正家而天下定」と叫ぶ。

象曰:風自火出,家人。君子以言有物而行有恆。火因風鼓,而今風自火出,猶家以德化,而今德從家播也。有物則非無實之言,有恆則非設飾之行,所以能刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦耳。佛法亦然:律儀清淨,則可以攝善攝生矣。

《大象《大象傳》は言う。風は火の中より生出す。これ卽ち《家人》なり。君子は此に由りて言話に實在の內容あらんと要し、做事に恒常の準則あらんと要するを懂得す。智旭は解す。火は本來風に靠って鼓動せられ、今は卻って風は火の裏より生出す。家は本來德に靠って教化せられ、今は卻って德は家の裏より傳播出だすに譬ゆ。「有物」は則ち空洞無實の話に非ず、「有恒」は則ち門面を裝點するの行爲に非ず。ゆえに能く《詩經》の説くがごとく先に妻子に榜樣を做して、再び兄弟に推及して、進みて家國を治理す。佛法も亦かくのごとし。戒律威儀淸淨なれば、卽ち以て進みて一切の善法を攝取し一切の衆生を攝化する可し(卽ち三聚淨戒の中の攝善法戒と饒益有情戒と)。

初九:閒有家,悔亡。象曰:閒有家,志未變也。以剛正居有家之初,即言有物、行有恆以閒之,則可保其終不變矣。佛法釋者:即是增上戒學。六二:無攸遂,在中饋,貞吉。象曰:六二之吉,順以巽也。陰柔中正而為內卦之主,故每事不敢自專自遂,唯供其中饋之職而已。佛法釋者:即是增上定學。

初九、一開始に卽ち家の爲に防範を立下す。悔恨消失す。象傳は言う。閑有家は、心志還た未だ改變せざるなり。智旭は解す。陽剛を以て正を守りて成家の初に處して、立刻に卽ち「言有物・行有恒」を用いて防範約束せば、卽ち能くそれを保住して始終變らざらしむ。佛法を以て解す。これ卽ち三學の中の增上戒學なり。六二、自ら主張を作して成就あるをせず、只だ家の中に於いて飲食の事を主持す。正を守りて吉祥。象傳は言う。六二の吉なる所以は、柔順にして卑遜なるが故なり。智旭は解す。六二は陰柔にして中に居り正を守り、是れ內卦の主爻なり。ゆえに每件事皆敢えて自ら主張を作さず・自ら其の是を行はず。只だ飲食を操持するの此の一份の職守を盡好す。佛法を以て解す。これ卽ち增上定學なり。

九三:家人嗃嗃,悔厲吉;婦子嘻嘻,終吝。象曰:家人嗃嗃,未失也;婦子嘻嘻,失家節也。過剛不中,似失於嚴厲者,然以治家正道觀之,則未失而仍吉。儻畏其悔厲而從事於嘻嘻,始似相安,終以失家節而取吝矣。佛法釋者:即是增上慧學。

九三、家を治すること過嚴にして一片の呵責の聲あり。悔恨危厲あると雖も然るに吉。若し婦人孩子嘻嘻哈哈なれば、最終憾惜あらん。象傳は言う。家人嗃嗃は、竝びに失當せざるなり。婦子嘻嘻は、治家の法度を失掉したるが故なり。智旭は解す。九三は過分に剛强にして中に居らず。看るに嚴厲に失するに似たれど、然るに治家の正道を拿って看れば、それは竝びに失當せず。仍お是れ吉なり。倘若もそれの悔恨危厲を帶來せんを怕れて、轉じて一味に和樂嬉笑せば、開頭は看るに相安無事に似たれど、最終は治家法度を失掉するに因って憾惜を招致せん。佛法を以て解す。これ卽ち增上慧學なり。

六四:富家大吉。象曰:富家大吉,順在位也。陰柔得正,為巽之主,所謂生財有大道者也。佛法釋者:即緣因善心發,富有萬德,名為解脫。九五:王假有家,勿恤吉。象曰:王假有家,交相愛也。假,大也。書云不自滿假,詩云假以溢我,又曰假哉皇考,皆取大義。九五陽剛中正而居天位,以六合為一家者也。大道為公,何憂恤哉?樂民之樂者,民亦樂其樂,故交相愛。佛法釋者:正因理心發,性修交徹,顯法身德。

六四、家を富足せしむ。大いに吉祥。象傳は言う。富家大吉は、柔順にして居位當を得るが故なり。智旭は解す。六四は陰柔にして位置正を得、是れ巽卦の主爻にして、正に《大學》の説く所の「財を生ずるに大道あり」の人なり。佛法を以て解す。これ卽ち「緣因佛性」の善心が發動して、萬種の功德に富む。これを「解脫德」と叫ぶ。九五、君王は自己の家を光大せしめたり。憂慮するを必とせず。吉祥。象傳は言う。王假有家は、彼此相愛するが故なり。智旭は解す。「假」は大の意思なり。《尚書》は「自滿假せず」と言い、《詩經》は「假以溢我」と言い、又「假哉皇考」と言う。皆「大」の義を取る。九五は陽剛にして中に居り正を守りて天子の位に處す。是れ天下六合を以て一家と做すの人なり。大道は公と爲す。還た何の憂慮する可きかあらん。百姓の快樂を以て快樂と爲すの人は、百姓も亦其の快樂を以て快樂と爲す。ゆえに彼此相愛す。佛法を以て解す。これ卽ち「正因佛性」の理心が發動して、本性と修行とが徹底に交融して、「法身德」を顯出す。

上九:有孚威如,終吉。象曰:威如之吉,反身之謂也。剛而不過,居巽之上,卦之終,其德可信,故不猛而威如,所謂其儀不忒、正是四國者也。佛法釋者:了因慧心發,稱理尊重,名般若德。

上九、心に誠信を懷きて自ら威嚴あり。最終吉祥。象傳は言う。威如の吉は、説く所は反って自己に求めるなり。智旭は解す。上九は陽剛にして頭を過ぎず、巽體の最上・全卦の終點に居り、德行は以て人の信を取るに足りて、ゆえに竝びに兇猛ならずして自ら威嚴あり。正に《詩經》の説く所の儀容に差錯無くして、因って四方之國を端正するなり。佛法を以て解す。これ卽ち「了因佛性」の慧心が發動して、眞理に契合して人の尊重を受く。これを「般若德」と叫ぶ——前の兩爻を加へて、法身・解脫・般若の三德が齊備す。

睽卦

(兌下 離上)睽:小事吉。夫善修身以齊家者,則六合可為一家;苟齊之不得其道,則一家之中睽隔生焉。如火與澤,同在天地之間而上下情異;又如二女,同一父母所生而志不同行:是豈可以成大事乎?姑任其火作火用,澤作澤用,中女適張,小女適李可耳。觀心者亦復如是:出世禪定,世間禪定,一上一下,所趣各自不同,圓融之解未開,僅可取小證也。

(本卦は下體を兌澤と爲し、上體を離火と爲す。)《睽》の卦辭は言う。小事の上は吉祥なり。智旭は解す。身を修めて以て家庭を整齊するに善きの人は、以て天下六合を當に一家と做す可し。倘若も整齊して其の法を得ざれば、一家の中に卽ち乖離隔閡を生出す。火と澤と天地間に同在して、然るに一箇は上に向かい一箇は下に向かひ、情態各殊なるに似たり。又中女と少女と同じく是れ一父母の生ずる所なるに、志向は卻って路を同じうせずに似たり。かくのごとくして怎んぞ能く大事を成就せんや。姑且としてそれが火の用を盡し・澤の用を盡し・中女は張家に嫁し少女は李家に嫁するに隨うのみ。觀心の人も亦かくのごとし。出世間の禪定と世間の禪定とは、一箇は上に向かい一箇は下に向かひて、趣向する所は各自相同じからず。圓融の見解は還た未だ開啓せられずして、只だ小さき證悟を取得する能くするのみ。

彖曰:睽,火動而上,澤動而下,二女同居,其志不同行。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉。天地睽而其事同也,男女睽而其志通也,萬物睽而其事類也,睽之時用大矣哉。火澤因動,則上下勢睽,靜則未始上下也;二女因行,則其志不同,居則未始不同也。故曰吉凶悔吝生乎動。雖然,世豈能有靜而無動、有居而無行哉。今此卦以兌說而附麗乎離明,六五又以柔為離主,進而上行,且得中位,下應九二之剛,是以小事可獲吉也。此亦文王曲就人情,被睽所局而言之耳。

《彖傳》は言う。睽卦の卦象は、火は上に向かって燃動し・澤水は下に向かって流走し、又兩箇の女兒の一箇の家裏に同住して然るに各自の心志は一箇の方向に朝らざるに似たり。下卦兌は喜悦にして、上卦離は光明にして、喜悦して光明に依附す。六五の此の一柔爻は上行して上卦に到りて中位に居り、又下りて九二の剛爻と相應ず。ゆえに只だ小事を做すに宜しくして始めて吉利なり。天地は一上一下にして彼此乖離するも、化育萬物の事業は卻って是れ同一件なり。男女の形質は彼此乖離するも、求偶相感の心志は卻って是れ相通ず。萬物の形態は千差萬別するも、陰陽の道理を稟受するは卻って是れ同一類なり。「睽」の此の時勢の起し得る所の作用は、眞に大なり。——以下は智旭の易理の解說なり。火と澤とは「動」に因って始めて上下の勢を分かつ。若し靜にして動かざれば、本來卽ち上下と謂ふべき無し。兩箇の女兒は出嫁して「行」に因って兩家に於いて始めて心志同じからず。若し同居して家の中に在れば、本來も亦未嘗て同じからざらず。ゆえに《繫辭傳》は吉凶悔吝は皆「動」の上より生出せりと言う。話は此と雖も、人世間は豈に能く只だ靜有りて而も動無く・只だ居有りて而も行無からんや。就きて本卦を論ずれば、兌の和悦は離の光明に依附して、六五は又陰柔の爻を以て上卦離の主爻を做して、上行して「中」の位を得(一卦上下體の第二・第五位に居るを得中と叫び、不偏不倚を象徵す)、下りて九二の陽剛と相「應」す(初と四・二と五・三と上と陰陽相配するを有應と叫ぶ)。これ卽ち《彖傳》の説く所の「中を得て剛に應ず」なり。ゆえに小事は以て吉を得る可し。これも亦不過是れ文王の人情に遷就して、乖睽の局面に限らるるの立場上に立って説きたるの話のみ。

若充此睽之理性,以盡睽之時用,則天地睽而其事同,男女睽而其志通,萬物睽而其事類。有何一法不攝於睽,有何一法不從睽出哉。蓋於同起睽,則其吉小;於睽得同,則其用大也。佛法釋者:寂照一體,名天地睽而其事同;止觀雙行,名男女睽而志通;萬行不出正助二行,二行不離性具,如萬物不出陰陽二爻,二爻不離太極,名萬物睽而事類。

假若も能く「睽」の含む所の理體を充分に擴充し、「睽」の此の一時勢の作用を極處に發揮せば、則ち正に是れ《彖傳》の説く所の、天地相睽して其の事は同じく、男女相睽して其の志は通じ、萬物相睽して其の事は類す、ならん。かく看來れば、何れの一件の事物か「睽」に含攝せられざらんや。何れの一件の事物か「睽」の中より生出せざらんや。大凡「同」の上より乖睽を生出せば、得る所の吉は卽ち小。能く乖睽の中に於いて大同を見出せば、其の功用は始めて大なり。——以下智旭は改めて佛法を以て會通す。「寂」は心體の本自寂靜不動を指し、「照」は心體の本自靈明鑒照を指す。寂と照とは本是れ一體の兩面にして、一上一下は相乖違するに似たれど、其實同是れ一心なり。これを「天地睽而其事同」と叫ぶ。「止」是れ妄念を止息するの定にして、「觀」是れ實相を照了するの慧なり。「止觀雙行」は卽ち定慧兩輪の同時に並運するにして、一定一慧は看るに相乖違するに似たれど然るに志趣は完全に相通ず。これを「男女睽而其志通」と叫ぶ。修行の萬種行門は「正行」(直接實相を觀照するの正修)と「助行」(布施持戒等の輔助の行)との兩類を出でず。此の兩類は又皆「性具」を離るる能わず——一切法は本來心性の中に具足して、竝びに外面より添加するに非ず。正に萬物の陰陽二爻を出でずして、二爻も又太極を離れざるがごとし。これを「萬物睽而其事類」と叫ぶ。

象曰:上火下澤,睽。君子以同而異。離得坤之中爻,澤得坤之上爻,其性同也;火則炎上,澤則潤下,其相異也。觀相元妄,則相異而性亦似異矣;觀性元真,則性同而相亦本同矣。惟君子知其以同而異,故不以異而昧同也。知異本同,故六而常即,不生退屈;知同而異,故即而常六,不生上慢。知異本同,故冥契真源;知同而異,故云興萬行。知異本同,故上無佛道可成,下無眾生可度;知同而異,故恆莊嚴淨土,教化諸眾生。知異本同,故生死及涅槃,二俱不可得;知同而異,故或遊戲生死,或示現涅槃。

《大象傳》は言う。上面は火・下面是澤。これ卽ち睽卦なり。君子は此に取法して、大同の中に於いて差異を容許す。——智旭は先に易理に就いて講ず。離卦是れ乾體の中間の一爻を坤の中爻に換へて成り、兌澤是れ乾體の上面の一爻を坤の上爻に換へて成る。兩者は同じく一源より出づ。これ是れ彼らの「性」の相同じきの一面なり。然るに火性は上に向かって燃燒し・澤水は下に向かって浸潤す。これ是れ彼らの「相」の相異なるの一面なり。若し只だ「相」の上に於いて看れば、相は原是虚妄にして、相は旣に相異なれば、連なりて性も亦髣彿として相異に跟隨したり。若し「性」の上より看れば、性は原是眞實にして、性は旣に相同じければ、相も亦本來卽ち同なり。只だ君子の「同を以て異なり」を懂得するのみ。ゆえに差異を看見するに因ってあの大同を迷失せず。——以下彼は改めて天台教觀を以て會通す。「異」の根子は本來是れ「同」なるを知道すれば、ゆえに「六卽」(理卽・名字卽・觀行卽・相似卽・分證卽・究竟卽、是れ天台の判定する凡夫より成佛に到るの六箇の階位)の裏に於いて六位を歷經すと雖も、然るに當下の此の一念心の當體は卽ち佛なり。因此退縮自屈の心を生ぜず。「同」の上に仍お「異」有るを知道すれば、ゆえに當下卽佛なると雖も然るに六箇の階位は宛然分明なり。因此「上慢」(未だ證得せざるに卻って自ら以て證得せりと爲すの驕慢)を生ぜず。異は本是同なるを知道すれば、ゆえに能く暗に眞如本源に合す。同の中に異あるを知道すれば、ゆえに能く雲の興り雨の布くがごとく萬行を發起す。異は本是同なるを知道すれば、ゆえに上に向かって佛道の成ずべき無く・下に向かって衆生の度すべき無し。同の中に異あるを知道すれば、ゆえに又恒常に佛國淨土を莊嚴し・一切衆生を教化せんと要す。異は本是同なるを知道すれば、ゆえに生死と涅槃との兩頭は皆了不可得なり。同の中に異あるを知道すれば、ゆえに或は生死の中に遊戲して人を度し、或は衆生に向かって涅槃に入るを示現す。

初九:悔亡,喪馬勿逐,自復;見惡人,無咎。象曰:見惡人,以辟咎也。剛正無應,居睽之初,信此以往,則無過而悔亡矣。縱令喪馬,不必逐之,馬當自復,勸其勿以得失亂吾神也;縱遇惡人,不妨見之,可以無咎,勸其勿以善惡二吾心也。如孔子見季康子、見南子、見陽貨等,皆所以辟咎耳,豈真有所利之也哉。蓋凡得失之念稍重,善惡之心太明,則同者必異,異者必不可同。惟率其剛正之天德,則得失泯,善惡融,雖居睽世而悔亡矣。

初九の爻辭は言う。悔恨消失す。馬は丟れたりと雖も追ひ往くを必とせず。それは自ら回り來らん。品行好からざるの人に遇ふも亦往きて相見す。過錯會せず。《小象傳》は言う。品行好からざるの人を見に往くは、以て禍咎を避くるが爲なり。——智旭は解說す。初九は陽剛を以て陽位に居り、旣に剛にして且つ正なり。上面にそれと相應するの爻無く、又乖睽の世の開頭に處す。只だ此の條の剛正の路を信守して走り下去れば、則ち過失會せずして、悔恨は自然に消失す。縱然馬を丟失するとも亦追ふを必とせず。馬は自ら回り來らん——これ是れ人を勸めて得失の念頭をして自己の心神を攪亂せしめざらしめんとなり。縱然品行好からざるの人に碰上するとも亦彼と相見するを妨げず。かくして反って過錯なし——これ是れ人を勸めて善惡を對立の兩截に分かつことをせず、自己の心を連れて兩半に劈くなかれとなり。孔子の季康子を見・南子を見・陽貨を見せしに似たり。皆不過是れ無謂の禍咎を避けんが爲にして、正に《小象傳》の説く所の「以辟咎也」なり。豈に眞に彼らの身上より何の便宜を討せんと欲するを思はんや。大凡得失を計較するの念頭は一重くし、善惡を分辨するの心は一に分明利に過ぐれば、本來相同じきは必定として相異に鬧成し、已に相異なるは卽ち再び合わせ回る能わず。只だ自己の剛正の天賦德性に順ひて行ぜば、得失の念は泯滅し・善惡の執は消融して、卽使身に乖睽の世に處するとも、悔恨も亦卽ち無し。

九二:遇主于巷,無咎。象曰:遇主于巷,未失道也。剛而得中,上應六五柔中之主,而當此睽時,近與六三相鄰,五必疑其遇三而舍己也,故須委曲明其心事,如遇主于巷焉。夫君臣相遇,萬古常道,豈以於巷而謂之失哉。

九二の爻辭は言う。小巷の裏に於いて君主に遇見せり。過錯なし。《小象傳》は言う。小巷の裏に於いて君主に遇見すは、竝びに正道を失掉せざるなり。——智旭は解說す。九二は陽剛を以て下卦の中位に居りて、上面に六五の此の位の柔順守中の君主と正相應す。然るに正に乖睽の時に當りて、九二の近旁に又緊挨して六三あり。六五は不免として九二は已に六三と一處に合して然るに自己を舍棄したりと疑心す。ゆえに九二は必ず委婉曲折に自己の心迹を表白淸楚せざる可からず。あの情形は卽ち小巷の裏に於いて君主と不期に遇ふがごとし。君臣の相遇は本是れ萬古不變の常道にして、何處に能く相遇の地點は小巷に在るに因って、彼は正道を失掉したりと言はんや。

六三:見輿曳,其牛掣,其人天且劓,無初有終。象曰:見輿曳,位不當也;無初有終,遇剛也。本與上九為應,而當睽之時,不中不正,陷於九二九四兩陽之間,其跡有可疑者。夫二自遇主于巷,四亦自遇元夫,何嘗有意汙我。我無中正之德,而自疑焉,故妄見其輿若曳,其牛若掣,而不敢往從上九;且自謂我之為人,必當被上九之天所劓,不得通其貞潔之情。如此,則無初矣。但睽極必合,心跡終必自明,賴遇上九之剛,後說弧以待之,故有終也。

六三の爻辭は言う。只だ車子は人に往後に拖曳せられ、車を拉くの牛は橫裏に牽掣せられ、車を趕るの人は黥額割鼻の刑を受くるを見る。起頭順ならざるも、結局は卻って好し。《小象傳》は言う。車の拖曳せらるるを見るは、其の居する所の位置不當なるを以てなり。起頭順ならずして結局好きは、終に陽剛に遇上るを以てなり。——智旭は解說す。六三は本來上九と一對の正應と爲る。然るに正に乖睽の時に當りて、それは旣に中に居らず亦位に當らず(陰爻にして卻って陽位の上に居る)、前後は九二・九四の兩箇の陽爻の間に夾まる。行迹の上は確かに人をして疑を起さしむるの地方あり。其實九二は自ら往きて「巷に於いて主に遇ふ」なり、九四は自ら往きて「元夫に遇ふ」なり。何嘗か有意に六三を玷污せんと欲する有らんや。只だ六三の自己に中正の德行無きに因って、始めて憑空に自疑を生出す。于是妄見して自己の車は人に往後に拽らるるに似たりと爲し、車を拉くの牛は人に橫裏に牽掣せらるるに似たりと爲して、敢えて再び上九を追隨しに前往せず。又自ら以て我がかくのごときの爲人を憑れば、一定として上九に額を黥せられ・鼻を割かれん(爻辭の「天」は黥額の刑を指し、「劓」は割鼻の刑を指す)と爲して、自己の貞潔の心意を表白するに由無し。かくのごときにして、開頭は當然是れ順ならず。ゆえに「无初」と言う。但だ乖睽は極處に到れば必定として復た合す。心迹は終竟自ら澄淸せん。上九の陽剛に遇上るに靠って、上九は後來弓箭を放下して彼を待てり。ゆえに結局是れ好し。これ卽ち「有終」なり。亦卽ち《小象傳》の説く所の「遇剛也」なり。

九四:睽孤,遇元夫,交孚,厲,無咎。象曰:交孚無咎,志行也。睽必有應,乃可相濟,二與五應,三與上應,四獨無應者也,故名睽孤。然初九剛正在下,可以濟睽,當此之時,同德相信,互相砥礪,可以行其濟睽之志而無咎矣。蓋君子深知以同而異,故陰與陽異而相應亦可,陽與陽同而相孚亦可耳。

九四の爻辭は言う。乖睽の中に孤立無援なるに、卻って志同道合の好漢に遇上りて、彼此誠を以て相待てば、危險あると雖も然るに過錯なし。《小象傳》は言う。彼此誠を以て相待てば卽ち過錯無きは、乖睽を救濟するの志向の推行するを得るを以てなり。——智旭は解說す。乖睽の時に處しては、必ず相應するの爻有りて始めて能く彼此救濟す。本卦は九二は六五と相應し、六三は上九と相應す。唯獨九四は上下皆正應無し。ゆえに「睽孤」と叫ぶ。然るに初九は陽剛を以て正を守りて下位に居る。正に能く乖睽を救濟するの人なり。此の時に當りて、兩箇の同德の陽爻は彼此信任して互相切磋砥礪すれば、卽ち以て乖睽を救濟するの志向を推行して然るに過錯に致らざる可し。これ卽ち《小象傳》の説く所の「志行也」なり。此處に正に君子の「同を以て異なり」の道理を深明するを見るを得。陰と陽とは性質相異にして、以て相應する可し。陽と陽とは性質相同にして、同じく以て相互に取信する可し——死守して陰陽相配のあの一條の成例にするを必とせず。

六五:悔亡,厥宗噬膚,往何咎。象曰:厥宗噬膚,往有慶也。六五乃九二之主也,陰柔不正,反疑二之遇於三焉。以其居中,則猜忌未深,終與二合,故得悔亡。聖人又恐其躊躕未決也,故明目張膽而告之曰:厥宗上九,已說弧以待六三,其相合如噬膚矣,爾往從九二於巷,有何咎哉。孔子更為之鼓舞曰:不惟無咎,且君臣相合,睽終得濟而有慶也。

六五の爻辭は言う。悔恨消失す。同宗の人の軟肉を食ふがごときの順當にして、前往すれば何の過錯かあらん。《小象傳》は言う。同宗の人の軟肉を食ふがごときの順當は、前往すれば喜慶あるが故なり。——智旭は解說す。六五是れ九二の歸向せんと要する所の君主なり。それは陰柔を以て陽位に居りて正ならず、反って九二は六三と一處に合到せりと疑心す。好在それは上卦の中位に居りて、猜忌は還た深からずと算せられて、終竟能く九二と會合す。ゆえに悔恨消失す。聖人は又それの躊躇不決せんを怕れて、于是話を挑明してそれに告ぐ。爾の宗黨上九は、早已弓箭を放下してあの處に於いて六三を待てり。彼らの相合は卽ち一塊の軟肉を咬開くがごとくして毫も阻礙無し(「膚」は柔嫩にして咬み易きの肉を指し、順當を比喻す)。爾只管として小巷の裏に到りて九二と會合せよ。何の過錯かあらん。孔子の《小象傳》を作るは更に進みてそれに替りて勁を鼓して言う。竝びに過錯無きのみならず、而且君臣は一旦一處に合すれば、乖睽の局面は終に救濟を得。あれは喜慶の事あるなり。

上九:睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪寇婚媾,往遇雨則吉。象曰:遇雨之吉,群疑亡也。上九與六三相應,本非孤也,睽而未合,則有似乎孤矣。三本不與二四相染,而其跡似汙,故見豕負塗也;二四各自有遇,本無心於染三,而虛妄生疑,故載鬼一車也。先則甚疑,故張弧而欲射之;後疑稍緩,故說弧而往視之;逮見其果非與寇結為婚媾,於是釋然如雲既雨而吉矣。既不疑三,亦不疑二與四,故群疑亡。統論六爻,惟初九剛正最善濟睽,餘皆不得其正,故必相合乃有濟也。佛法釋者:惟根本正慧,能達以同而異,故即異而恆同;否則必待定慧相資,止觀雙運,乃能舍異生性入同生性耳。

上九の爻辭は言う。乖睽の中に孤立無援にして、一頭の背上に污泥を沾滿せる猪を見、又滿滿たる一車の鬼を見るに似たり。先に弓を張開して射んと欲して、後來は又弓を放下す。來る者は强寇に非ずして、是れ婚配を求めに來るなり。前往して雨に遇下れば卽ち吉利。《小象傳》は言う。雨に遇ふの吉利なる所以は、種種の疑心皆消失したるを以てなり。——智旭は解說す。上九は六三と本是れ一對の正應にして、原來孤單ならず。只だ乖睽未だ合せざるに因って、始めて孤單に似たりと顯る。六三は本來竝びに九二・九四と何の牽染も有らざるに、行迹の上は卻って污染せられたるに似たり。ゆえに上九はそれを看れば卽ち一頭の背上に污泥を沾滿せる猪に同じ。九二・九四は各おのが遇合ありて、本來六三を沾染せんとするの心無し。上九は卻って憑空に疑を生ず。ゆえに又滿滿たる一車の鬼を見るに似たり。起初は疑ふこと厲しく、ゆえに弓を張開してそれを射んと想ふ。後來は疑心稍々緩み、ゆえに弓を放下して走り過ぎて看る(「説弧」の「説」は卽ち脱去・放下なり)。對方は竝びに劫掠しに來るの强寇に非ずして、而是れ婚配を求めに來るを看淸するを等って、于是心中釋然として、積雲の終に一場の雨と化成するがごときの暢快にして吉利なり。旣に再び六三を疑はず、亦再び九二と九四とを疑はず。ゆえに《小象傳》は「群疑亡也」と言う。——睽卦の六爻を總論す。只だ初九は剛にして而且正にして、最も乖睽を救濟するに善し。其の餘の各爻は皆其の正を得ず。ゆえに必ず彼此會合して始めて救濟有り。智旭は最後に佛法を以て會通す。唯だ「根本正慧」(眞如の理と直接相應するの根本智慧)のみ能く「同を以て異なり」を通達す。ゆえに當下に卽ち差異の中に於いて恒に大同を見。否則は卽ち必ず定と慧との互相資助に靠りて、「止觀雙運」(妄念を止息するの定と實相を照了するの慧と同時に並運す)して、始めて能く凡夫の「異生性」(異生卽ち凡夫、惑業に因って種種の差別の生を受く)を舍去して聖者の「同生性」(諸聖と同じく一眞法界の性を證す)に契入す。

蹇卦

(艮下 坎上)蹇:利西南,不利東北,利見大人,貞吉。大凡乖異不合,則所行必多阻難,然正當阻難時,豈無拯難良策哉。往西南,則說也,順也,明也,拯難之要道也;往東北,則止也,險也,益其蹇而已矣。惟大人能濟蹇,惟正道能出蹇。蹇故可以動心忍性增益其所不能而吉。

(下卦艮・上卦坎)蹇卦の卦辭は言う。西南に往けば利あり、東北に往けば利ならず。德位あるの大人を見に往くに宜しく、正を守れば則ち吉。——智旭は解說す。大凡人事の乖違不合なれば、行動起來すれば必定として阻難重々なり。然るに正に阻難の時に當りて、豈に卽ち難を救ふの良策無からんや。西南に走り往けば、あの邊は兌の和悦・坤の柔順・離の光明にして、正に難を救ふの要道なり。東北に走り往けば、あの邊は艮の止・坎の險にして、只だ跛蹇の處境を更に重く加ふるのみ。只だ德位あるの大人のみ能く蹇難を救濟し、只だ正道を走って始めて能く蹇難を走出す。亦正に身に蹇難に處するに因って、始めて以て心志を震動し・性情を堅忍して、自己の原來做し得ざりしを一并に增長起來する可し。ゆえに是れ吉なり。

彖曰:蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉。蹇利西南,往得中也;不利東北,其道窮也。利見大人,往有功也;當位貞吉,以正邦也。蹇之時用大矣哉。愚者汨於情慾之私,雖有不測之險臨其前,盲無見也,況能止哉。能止,不惟不陷於險,從此必求出險之良策矣,安得非智。本以東北之坎艮,往就西南之離兌與坤,故剛柔相濟而得其中;若守此東北,則終於險,終於止而已矣。

《彖傳》は言う。蹇は卽ち難にして、險陷は前面に橫はる。險陷を看見して能く脚步を停住するは、これ是れ智慧あるなり。蹇卦は西南に往けば利あるは、前往すれば以て中道を得る可きを以てなり。東北に往けば利ならざるは、あの條の路は盡頭に走り到るを以てなり。大人を見に往くに宜しきは、前往すれば能く功業を建立するを以てなり。各爻は位に當りて正を守りて吉なるは、以て邦國を端正するに用ゐるなり。蹇の此の一時勢の功用は、眞に大なり。——智旭は解說す。愚昧の人は情欲私心の裏に沉溺して、卽使測り透す能わざるの危險の眼前に臨到する有るとも、亦瞎子のごとくして看見せず。況んや彼をして停住せしめんを叫ばんや。能く停住すれば、不但險の裏に陷り入らざるのみならず、此より還た一定として險を脱するの良策を尋求しに往かん。これ怎んぞ智慧と算せざらんや。本來是れ東北の坎・艮の地より、西南の離・兌と坤との地に走向す。ゆえに剛と柔と互相調劑して中道を得着す。若し死守して東北に動かざれば、則ち終身險の裏に困り・終身原地に停るのみ。

惟九五陽剛中正,當大人之位,以拯邦國之蹇,故往見之者,必有拯蹇之功。然爻中獨上六明利見大人,餘不言者,見大人亦待其時。時止則止,時行則行,蹇之時用,即全體大易之時用也,六十四卦皆爾,每於人所忽者一提醒之云爾。

《彖傳》の「利見大人」を説くは、本卦は只だ九五の陽剛にして又中に居り正を得、正に大人の位に當りて、能く邦國の蹇難を救濟するを以てなり。ゆえに前に往きて彼を見るの人は一定として濟蹇の功を收受する能くす。不過六爻の中に只だ上六は明説して「利見大人」とし、其の餘の各爻は皆提せず。これは大人を見るも亦當に合適の時機を等到るを要するを以てなり。時機は止すべければ則ち止み、時機は行ずべければ則ち行ず——蹇卦の講ずる所の「時」の功用は、其實卽ち整部の《易》の講ずる所の「時」の功用にして、六十四卦は一も例外無し。聖人は只だ每每に人們の忽略し易きの地方に於いて一句を點醒するのみ。

象曰:山上有水,蹇。君子以反身修德。山本毓泉,宜涵而不宜泛。今水流於上,使人不能厝足,此乃山有缺陷,非水之過也。君子知一切險難境界,惟吾心自造自現,故不敢怨天尤人,但反身以修其德。如治山者,培其缺陷,則水歸澗壑,而不復橫流矣。

《大象傳》は言う。山上に水ある是れ蹇卦なり。君子は此に取法して、反って來りて自己の身上に工夫を下し・德行を修養す。——智旭は解說す。山は本是泉水を孕育するの地方にして、泉水は當に山の中に含蓄して、漫溢出來すべからず。今は水流は山上に在りて、人をして落脚する處無からしむ。これ是れ其實山本身に缺陷有るにして、竝びに水の過錯に非ず。君子は明白に一切の險難の境界は皆只だ自己の此の一念の心の造る所・現ずる所なるを知り、ゆえに敢えて老天を埋怨せず・旁人を責怪せず、只だ回りて來りて自己の德行を修養す。山を治するの人が山上の缺陷を培補起來せば、水は自然に山澗溝壑に歸入して再び到處に橫流せざるに似たり。

初六:往蹇來譽。象曰:往蹇來譽,宜待也。蹇以見險能止為知,故諸爻皆誡其往而許其來,來即反身修德之謂也。初六見險即止,知機而不犯難,其反身修德功夫最早,故可得譽。夫豈逡巡畏縮也哉,理宜修德以待時耳。

初六の爻辭は言う。前往すれば蹇難に遇はん、回り來れば則ち美譽を得ん。《小象傳》は言う。往きて難に遇ひ・來りて譽を得るは、當に時機を等待すべきを説くなり。——智旭は解說す。蹇卦は「險を見て能く止まる」を以て智慧と爲す。ゆえに六爻は皆往かざるを告誡して而も其の回り來るを肯定す。此處に説く所の「來」は、卽ち《大象傳》の説く所の反身修德なり。初六は一たび險陷を見れば立刻に停住して、能く幾微を察知して難を冒さず。それが反身修德の工夫を下ること最早し。ゆえに能く美譽を得。これ豈に首を畏れ尾を畏れ・逡巡退縮せんや。道理の上は本來當に先に德行を修養して以て時機を等待すべきのみ。

六二:王臣蹇蹇,匪躬之故。象曰:王臣蹇蹇,終無尤也。陰柔中正,反躬無怍,而上應九五陽剛中正之君,方居險地,安得不蹇其蹇以相從事。然諸爻皆以能止為知,而此獨不然者,正所謂事君能致其身,公爾忘私,故雖似冒險,終無尤也。易讀曰:匪躬正本反身來。平日能反身以體蹇,才能臨時匪躬以濟蹇。

六二の爻辭は言う。王の臣子は國難の爲に艱險に奔走す。是れ自己の一身の緣故の爲に非ず。《小象傳》は言う。王臣の難を冒して奔走すは、終竟過失無し。——智旭は解說す。六二は陰柔を以て下卦の中位に居りて、又位に當りて正を得て、反躬自省して毫も愧怍無し。それは上面に九五の此の位の陽剛中正の君主と相應して、然るに君主は正に坎險の地に陷在せり。それ怎んぞ能く蹇難を冒して君の爲に憂を分かたずんばや。六爻は本來皆「能く止まる」を以て智慧と爲す。唯獨此の一爻は然らず。正に《論語》の説く所の「君に事ふるに能く其の身を致す」にして、一心に公の爲にして私身を忘掉す。ゆえに冒險に似たると雖も、終竟責怪すべきの地方無し。《易讀》の一書は言う。「匪躬」は正に「反身」の上より來るなり。平日に能く反身修德して・蹇難を體察せば、事に臨みて始めて能く身を舍て私を忘れて蹇難を救濟しに往く。

九三:往蹇來反。象曰:往蹇來反,內喜之也。九三為艮之主,剛而得正,見險能止者也。既知往則必蹇,故來而反身修德,則內二爻無不喜之。六四:往蹇來連。象曰:往蹇來連,當位實也。已入坎體,其蹇甚矣。然設能來而反身修德,則猶可連於艮之三爻而獲止也。陰本不實,故來連於當位而實之九三也。

九三の爻辭は言う。前往すれば蹇難に遇はん、回り來れば則ち本位に返歸せん。《小象傳》は言う。往きて難に遇ひ・來りて返歸すは、內卦の兩爻皆それを歡喜するを以てなり。——智旭は解說す。九三是れ下卦艮の主爻にして、剛健にして又正を得。正に險を見て能く止まるの人なり。それは旣に前往すれば必ず蹇難に陷るを知れば、卽ち回りて來りて反身修德す。于是內卦の初六・六二の兩爻はそれを歡喜せざる無し。六四の爻辭は言う。前往すれば蹇難に遇はん、回り來れば則ち連屬する所有らん。《小象傳》は言う。往きて難に遇ひ・來りて連屬すは、それ位に當りて能く充實の陽爻に靠着するを以てなり。——六四は已に上卦坎體に進入して、蹇難更に重し。但だ假如も能く回りて來りて反身修德せば、還た以て下卦艮の三爻に連屬して止息を得る可し。陰爻の本性は虛にして實ならず。ゆえに回り來りて旣に位に當り又充實の九三に連屬す。

九五:大蹇朋來。象曰:大蹇朋來,以中節也。居坎之中,蹇之大者也。剛健中正,六二應之,故得朋來共濟大蹇。然非朋之能來助我,實由我之中道足為拯蹇節則,故上下諸爻皆取節則於我耳。釋迦出五濁世,得無上菩提,為一切眾生說難信法,其真能為甚難希有之事者乎。

九五の爻辭は言う。大蹇難の中に處して、同道の朋友は前に來りて相助す。《小象傳》は言う。大蹇にして朋來あるは、九五の中に居りて能く法度と成るを得るを以てなり。——智旭は解說す。九五は上卦坎の中位に居る。これ是れ蹇難最も重きの地方なり。但だそれは剛健中正にして、又六二はそれと相應す。ゆえに能く同道の前に來りて大難を共濟するを得。然るに竝びに朋友に本事ありて來りて我を幫すに非ず。實在是れ我の守る所の中道は以て蹇難を救濟するの準則法度を做すに足るに因りて、ゆえに上下の各爻は皆我を拿って準則と作す。——彼は隨に佛法を以て比と作す。釋迦牟尼佛は劫濁・見濁・煩惱濁・衆生濁・命濁の此の「五濁」の惡世に出現して、「無上菩提」(究竟圓滿の覺悟)を證得して、一切衆生の爲に信受し難きの法門を宣説す。あれは始めて眞に能く極めて得難き・極めて希有の事を做すの人と做す可きならん。

上六:往蹇來碩吉,利見大人。象曰:往蹇來碩,志在內也;利見大人,以從貴也。陰柔居險極,豈可更有所往,亦惟來而反身修德則碩吉耳。碩者,實也,大也。吉之所以能實大者,以利見九五大人故也。君子求諸已,故志在內則吉;輔世長民莫如德,故利見為從貴,此指天爵為貴,非徒以人爵也。須跋陀羅最後見佛得度,其碩吉之謂乎。

上六の爻辭は言う。前往すれば蹇難に遇はん、回り來れば則ち碩大にして吉。大人を見に往くに宜し。《小象傳》は言う。往きて難に遇ひ・來りて碩大なるは、心志の內に在るを以てなり。大人を見るに宜しきは、尊貴者に隨從するを以てなり。——智旭は解說す。上六は陰柔を以て險陷の最上頭に居る。何處に還た能く再び前に往き走らんや。亦只だ回りて來りて反身修德して、始めて碩大の吉を得ん。「碩」の意思是れ充實・是れ廣大なり。此の吉の能く又實に又大なる所以は、九五の此の位の大人を見に往くに宜しきの緣故なるが爲なり。君子は凡事に自己に反求す。ゆえに心志は內に向かへば則ち吉。世道を輔助し・百姓を養育するは德行より更要緊なる無し。ゆえに「利見大人」は卽ち尊貴者に隨從すと叫ぶ——此處に説く所の尊貴是れ孟子の所謂上天の賦與するの爵位卽ち德行を指して、竝びに只だ人間の官爵に非ず。——彼は末了に佛法を以て比と作す。須跋陀羅は佛の將に入滅せんとする時に最後に佛を見て度を得。大概是れ此の種の「來碩吉」ならん。

解卦

(坎下 震上)解:利西南,無所往,其來復吉;有攸往,夙吉。世間之局,未有久蹇窒而不釋散者。方其欲解,則貴剛柔相濟,故利西南;及其既解,則大局已定,更何所往,唯來復於常道而已。設有所往,皆當審之於早,不審輒往,凶且隨之,寧得吉乎。此如良將用兵,只期歸順;良醫用藥,只期病除;觀心修證,只期復性,別無一法可取著也。

(下卦坎・上卦震)解卦の卦辭は言う。西南に往けば利あり。往かんとするの地方無ければ、原處に回れば則ち吉。若し往く所有れば、趁早に行動して始めて吉。——智旭は解說す。世間の局面は、長久に蹇塞して然るに松开解散せざる無し。正に解開せんと要するの時に當りて、最も剛柔の互相調劑を貴ぶ。ゆえに「利西南」と言う。已に解開するを等って、大局旣に定まれば、還た何の往かんとするの地方かあらん。只だ不過平常の正道上に回るのみ。假使眞に往く所有るとも、皆當に趁早に時機を審察すべし。審察せずして貿然として前往せば、凶險は跟って卽ち來らん。何處に還た能く吉を得んや。——彼は隨に三事を以て比と作す。これは良將の兵を用ふるに只だ對方の歸順を求め・良醫の藥を用ふるに只だ病症の去掉せんを求め・修行の人の「觀心」(自己の當下の一念心に返照す)の修證も亦只だ本有の心性の回復を求むるに似たり。此外は竝びに執取貪著すべきの一法無し。

彖曰:解,險以動,動而免乎險,解。解利西南,往得眾也;其來復吉,乃得中也;有攸往夙吉,往有功也。天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲拆。解之時大矣哉。險在前則宜止,險在下,則可動以免之,此皆時節因緣之道,不可得而強也。西南為坤,故往則得眾;來復東北,不過於柔,故乃得其中;早鑑事機,故往可有功。如天地之雷雨作,亦因夙得其時,故百果草木皆甲拆耳。

《彖傳》は言う。解卦是れ身に險境に處して能く行動して、一動すれば卽ち險境を脱離す。これ卽ち解なり。解卦は西南に往けば利あるは、前往すれば衆を得るを説くなり。原處に回れば則ち吉は、かくして始めて中道に合するを説くなり。往く所有りて趁早なれば則ち吉は、前往すれば能く功を建つるを説くなり。天地の氣は一たび舒解すれば、雷雨は卽ち發作す。雷雨は一たび發作すれば、各種の果樹草木の種子は皆外殼を脹破して・芽を抽きて出づ。解の此の一時勢は、眞に大なり。——智旭は解說す。險陷は前面に橫はれば卽ち當に停住すべし(あれ是れ蹇卦)。險陷は自己の脚下に在れば、卽ち以て行動して而も它を擺脱する可し(これ是れ解卦)。皆是れ時節因緣の決定する所にして、勉强は來らず。西南は坤に屬し、坤は衆と爲す。ゆえに前往すれば能く衆を得。回りて來りて東北に向かへば、卽ち至らずして柔弱に偏す。ゆえに始めて中道に合す。能く及早に事情の機兆を看淸すれば、ゆえに前往すれば以て功ある可し。天地間に雷雨發作するに似たり。亦因って早くあの節令に趕上したるを以て、ゆえに百果草木は始めて一齊に殼を脹し芽を抽く。

觀心釋者:兼修禪定,為利西南;萬行顯發,為往得眾;不舍正觀,名為來復;證於法身,為乃得中。有攸往而利生,必須夙能鑑機則吉;說法不虛,為往有功;性修融合,為天地解。悲體戒雷震,澍甘露法雨,則世出世果,三草二木,各得以時生長熟脫,非佛菩薩何能用此解之時哉。

以下智旭は改めて「觀心」(自己の當下の一念心に回觀す)の角度より會通す。兼帶して禪定を修習するは、卽ち「利西南」なり。布施持戒等の萬種行門は一齊に顯發するは、卽ち「往得衆」なり。始終實相を直照するの「正觀」を舍棄せざるは、卽ち「來復」と叫ぶ。「法身」を證得するは(諸佛は眞如實相を以て體と爲すの法性の身)、卽ち「乃得中」なり。往く所有りて而も衆生を利益せんと要すれば、必ず早早に能く衆生の根機を鑒察して始めて吉。法を説く句句は實處に落りて然るに落空せざるは、卽ち「往有功」なり。本具の心性と後天の修行と融成一片するは、卽ち「天地解」なり。大悲を以て體と爲すの戒德は雷のごとく震動して、普く甘露のごときの法雨を降す。于是世間の人天果報と出世間の三乘聖果とは、小草・中草・大草と小樹・大樹との此の「三草二木」に譬えば、各おのが時節に按って生長し・成熟し・解脫す——佛と菩薩に非ざれば、誰か能くかくのごとく「解」の時機を善用せんや。

象曰:雷雨作,解。君子以赦過宥罪。誤犯之過,則直赦之,令其自新;輕重諸罪,亦寬宥之,令得末減。佛法釋者:即作法、取相、無生三種懺法,令人決疑出罪。又觀心釋者,即是端坐念實相,銷滅眾罪也。

《大象傳》は言う。雷雨發作する是れ解卦なり。君子は此に取法して、過失を赦免し・罪罰を寬減す。——智旭は解說す。心無くして誤犯するの過失は、卽ち乾脆として赦免して、彼をして自ら改過更新せしむ。輕重同じからざるの各種の罪も、皆從寬に處置して、處罰をして最輕に減到せしむ。——接いで佛法を以て會通す。これ正に「作法懺」(戒律儀式に依って僧衆に向かって發露懺悔す)・「取相懺」(禮拜觀想して瑞相を見るに至るまで)・「無生懺」(罪性の本空・無生無滅を觀ず)の此の三種の懺法に相當して、能く人をして疑悔を斷除し・罪垢を出離せしむ。若し再び觀心の上より説かば、卽ち《普賢觀經》の講ずる所の端身正坐して・實相を觀念せば、一切罪業は自然に消滅す。

初六:無咎。象曰:剛柔之際,義無咎也。解則陰陽和矣,而以六居初,上應九四,適當其際,故義無咎。九二:田獲三狐,得黃矢,貞吉。象曰:九二貞吉,得中道也。以剛中而上應六五,本自無可狐疑。六三不中不正,意欲乘我,象如三狐,我田獵而獲除之,得與六五柔中相合,此正而吉者也。黃為中色,失喻直道,得其中直之道,故除疑而應乎貞矣。

初六の爻辭は只だ言う。過錯無し。《小象傳》は言う。剛柔交接の際に處して、理に按りて過錯無し。——智旭は解說す。局面旣に已に解開せば、陰陽は卽ち調和せり。初六は陰爻を以て初位に居り、上は九四の陽爻と相應して、恰好として剛柔交接の地方に當る。ゆえに理に按りて過錯無し。九二の爻辭は言う。田獵に三隻の狐狸を捕獲して、黃色の箭を得たり。正を守れば則ち吉。《小象傳》は言う。九二の正を守りて吉を得るは、中道を得着したるを以てなり。——九二は陽剛にして中に居り、上は六五と相應して、本來何の猜疑すべきも有らず。只だ六三は旣に中に居らず亦位に當らずして、一心に我の頭上を凌駕せんと想ふ。あの形象は卽ち狐狸に似たり。ゆえに我は當に田獵のごとくして它を捕獲除去して、始めて能く六五の柔順守中と相合す。これ卽ち正を守りて而も吉を得るなり。黃是れ五色の中に於いて中に居るの顏色にして、箭は筆直の道を比喻す。又中に又直なるの道理を得着せば、ゆえに能く疑忌を除去して正に合す。

六三:負且乘,致寇至,貞吝。象曰:負且乘,亦可醜也;自我致戎,又誰咎也。陰柔不中不正,自無應與,上思負四,下欲乘二,不知其非道也。是故二以為狐而田之,四以為拇而解之,五以為小人而退之,上以為隼而射之,不亦至可羞乎。

六三の爻辭は言う。東西を背負ひて卻って又車上に坐す。强盜を招來せり。卽ち正を守るも亦羞吝を免れ難し。《小象傳》は言う。東西を背負ひて又車に坐すは、實在は看るに堪へ難し。是れ自己に兵戎を招來して、還た誰を怪まんや。——智旭は解說す。六三は陰柔を以て旣に中に居らず亦位に當らず、本身に相應するの爻無くして、上に向かって九四に攀附せんと想ひ、下に向かって又九二を凌駕せんと想ふ。然るに此れ正道に非ざるを知らず。ゆえに九二はそれを拿って狐狸と當てて獵取し、九四はそれを拿って脚趾のごとくして甩脱し、六五はそれを拿って小人のごとくして斥退し、上六はそれを拿って鷂鷹のごとくして射下す——これ豈に羞恥の極點に到るに非ずや。

九四:解而拇,朋至斯孚。象曰:解而拇,未當位也。三在四下,欲負於四,故四以三為拇。四未當位,不如九二剛中,故二自能田獲三狐以從五;四必待二之至,始信拇之宜解也。二與四皆陽類,故名為朋。

九四の爻辭は言う。爾の大脚趾を解脱掉せば、同道來到して始めて信實あらん。《小象傳》は言う。大脚趾を解脱せんと要するは、九四の居する所の位置不當なるを以てなり。——智旭は解說す。六三は九四の下面に在りて、九四に攀附し九四を背靠せんと想ふ。ゆえに九四は六三を看做自己の身上に黏着するの大脚趾と做す。九四は陽爻を以て陰位に居りて位に當らずして、九二の陽剛得中に及ばず。ゆえに九二は自己卽ち能く田獵捕狐のごとくして六三を除去して而も六五を追隨しに往く。九四は卻って九二の來到を待つに非ざれば、始めて此の「脚趾」は確實に甩掉すべきを相信す。九二と九四とは同じく陽爻の一類に屬す。ゆえに「朋」と稱す。

六五:君子維有解,吉,有孚于小人。象曰:君子有解,小人退也。五與二為正應,而三且思乘二,則五不能無疑於二矣。賴九二之君子,剛而得中,決能解去六三,上從於我而吉。但觀六三之退,則信九二之有解矣。

六五の爻辭は言う。君子若し能く解除する所有れば、卽ち吉。これは小人の身上に於いて驗證を得る可し。《小象傳》は言う。君子の解除する所有るは、小人は自然に退去す。——智旭は解說す。六五は九二と本是れ一對の正應なり。然るに六三は又一心に九二を凌駕せんと想ふ。六五は九二に對して能く疑を起さざるを得ず。幸ひに九二是れ位の君子にして、陽剛にして中に居り、一定として能く六三の此の牽累を解除して、上に向かって六五を追隨せん。ゆえに吉。六五は只だ六三の退去したるを看れば、卽ち以て九二の確實に已に牽累を解開したるを相信する可し。

上六:公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。象曰:公用射隼,以解悖也。隼高飛而善摯,以喻負且乘之六三也。當解之時,人人樂為君子,獨六三悖理飛摯。二雖田之,四雖解之,以皆各有正應,不同上六之在局外;又陽與陰情必相得,故或以為狐,或以為拇;不如上六之絕無情繫,直以為隼。且居卦終,則公侯之位也;柔而得正,則藏器於身,待時而動者也,故獲之而無不利。

上六の爻辭は言う。王公は高牆の上に於いて鷂鷹を射て、射中せり。利あらざる所無し。《小象傳》は言う。王公の鷂鷹を射るは、以て悖亂を解除せんが爲なり。——智旭は解說す。鷂鷹は飛ぶこと高くして又搏擊に善し。以てあの「東西を背負ひて又車に坐す」の六三を比喻す。正に難を解くの時に當りて、人人は皆君子を做るを樂意とす。唯獨六三は常理に違背して凌空して搏擊す。九二はそれを拿って狐狸と當てて獵取すと雖も、九四はそれを拿って脚趾と當てて甩脱すと雖も、但だ此の兩爻は各おのが正應ありて、上六の完全に局外に站立するに似ず。況んや陽と陰と情態の上に於いて必然として多少相牽あれば、ゆえに九二は只だそれを看て狐狸と做し・九四は只だそれを看て脚趾と做す。皆上六の毫も情感牽掛無くして、徑直にそれを看て射るべきの鷂鷹と做すに如かず。加ふるに上六は一卦の終位に居りて、正に公侯の地位なり。陰爻を以て陰位に居りて正を得て、正に《繫辭傳》の説く所の才器を身上に藏して・時機を等待して而も後動するの人なり。ゆえに一射すれば卽ち中てり。利あらざる所無し。

觀心釋六爻者:六三即所治之惑,餘五爻皆能治之法也。初以有慧之定,上應九四有定之慧,惑不能累,故無咎。九二以中道慧,上應六五中道之定,而六三以世間小定小慧,乘其未證,竊思亂之,故必獵退狐疑,乃得中直正道。六三依於世禪,資於世智,起慢起見,妄擬佛祖,故為正道之所對治。九四有定之慧固能治惑,以被六三見慢所負,且未達中道,故必待九二中道之慧,始能解此體內之惑。六五以中道定,下應九二中道之慧,慧能斷惑,則定乃契理矣。上六以出世正定,對治世禪世智邪慢邪見,故無不利。

以下智旭は專ら觀心の角度より逐爻に會通す。六三卽ち對治せんと要する所の迷惑にして、其の餘の五爻皆是れ能く對治するの法門なり。初六是れ智慧を帶びたるの禪定にして、上は九四のあの禪定を帶びたるの智慧と相應す。迷惑は便ちそれを牽累する能わず。ゆえに「無咎」。九二是れ中道の智慧にして、上は六五の中道の禪定と相應す。然るに六三は只だ世間の小定小慧にして、人の未だ證悟せざるに趁って、暗に來りて攪亂せんと想ふ。ゆえに必ず打獵のごとくして此の「狐疑」を趕走して、始めて又中に又直なるの正道を得着す。六三は世間禪定に依傍し・世間聰明を憑藉して、因って我慢を生起し・邪見を生起して、胡亂に佛祖を比擬す。ゆえに正道の對治せんと要する對象と成れり。九四のあの定を帶びたるの智慧は本來能く迷惑を對治す。只だ六三の邪見我慢に攀附せられしに因りて、加ふるに自己は還た未だ中道に通達せざれば、ゆえに九二の中道の慧の來到を待つに非ざれば、始めて能く此の自身內部に生長せる迷惑を解開す。六五是れ中道の禪定にして、下は九二の中道の智慧に應ず。智慧は能く迷惑を斷じ、禪定は始めて理に契合す。上六是れ出世間の正定にして、正好として世間禪定・世間小智の生ずる所の邪慢邪見を對治す。ゆえに「无不利」。

損卦

(兌下 艮上)損:有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。難既解矣,相安於無事,必將剝民以奉君,此世道之損也;惑既治矣,從此增道損生,此觀心言損也。且以世道言之:凡為上者,必其勞而不怨、欲而不貪,真足以取信於民,則雖損之而元吉無咎;凡為下者,必以可貞之事益上,勿貢諛,勿獻異,勿開勞民傷財種種弊端,則利有攸往。

(下卦兌・上卦艮)損卦の卦辭は言う。心中に誠信あれば、大吉・過錯無く・以て正を守る可く・往く所有るに宜し。何を用いて祭享せんや。兩簋の薄物を以て卽ち祭享する可し。——智旭は先に世法と佛法との兩層に分かちて講ず。蹇難旣に已に解開し、上下相安無事なれば、卽ち必然として百姓を削減して以て君上を奉養せん。これ是れ世道上より説くの「損」なり。迷惑旣に已に對治せられ、此より道業は日に增して生死の因は日に減ず。これ是れ「觀心」の上より説くの「損」なり。先に世道に就いて言わば。凡そ上位に在るの人は、必ず自己は操勞して然るに抱怨せず・欲求する所有りて然るに貪得せずして、眞に能く百姓の信を取るに到らば、則ち卽使百姓を削減して以て上に奉ぐとも、亦是れ大吉にして過錯無し。凡そ下位に在るの人は、必ず以て正を守る可きの事を拿って君上を利益して、諂諛を進獻せず・奇技異物を進獻せず・民を勞し財を傷ふるの種種の弊端を開かずして、始めて「利有攸往」なり。

蓋下事上,猶人事天地鬼神祖宗也,享以其誠,不以其物,雖二簋便可用享,豈以多物為敬哉。觀心者,信佛界即九界,故元吉無咎;知九界即佛界,故不動九界而利往佛界,不壞二諦而享於中道也。

下位に在る者の上位に在る者に侍奉するは、人の天地鬼神祖先を祭祀するに譬ゆるを以てなり。憑る所是れあの份の誠意にして、献ずる所の物品に非ず。卽使只だ兩簋の薄物を用ふるも亦以て祭享するに足れり。何處に供物の多きを以て恭敬と爲さんや。——以下改めて觀心より會通す。觀心を修するの人は、深く「佛界」(佛の境界)は當下に卽ち「九界」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・聲聞・緣覺・菩薩の此の九種の境界)なるを信ず。ゆえに是れ大吉にして過錯無し。又九界は當下に卽ち佛界なるを了知す。ゆえに必ずしも九界の現實身心を舍離せずして、卽ち佛界に趣向するに利ありて、「二諦」(世俗諦と眞諦)を破壞せずして中道實相に祭享す。

彖曰:損,損下益上,其道上行。損而有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。二簋應有時,損剛益柔有時,損益盈虛,與時偕行。下濟為益,上行為損,此聖賢觀於天下萬世不易之道而立此名也。上必有孚,乃可損下而元吉無咎;下必可貞,乃利有攸往以益上。雖二簋亦可用享,蓋不過各論其時,但貴與時偕行而已。

《彖傳》は言う。損卦是れ下に在るを減損して以て上に在るを增益す。其の道是れ上に向かって行ず。「孚」有りて損すれば則ち大吉・過錯無く・以て正を守る可く・前往すに宜し。何を用いて祭享せんや。兩簋の薄物を以て卽ち可なり。不過兩簋を用ふるも亦時候を看るを要し、剛爻を減損して柔爻を增益するに去るも亦時候を看るを要す。總之減損と增益・盈滿と虛虧とは、皆當に時勢に隨って一同に推移すべし。——智旭は解說す。下に向かって施與するを「益」と叫び、上に向かって輸送するを「損」と叫ぶ。これ是れ聖賢の天下萬世不變の道理を觀察して始めて立下せし名目なり。上位に在るは必ず心に誠信を懷いて、始めて以て下面を減損して然るに仍お大吉無過なる可し。下位に在るは必ず以て正を守る可きの事を進獻して、始めて前往して君上を增益するを談ずるに足る。卽使只だ兩簋の薄物を用ふるも亦以て祭享する可し——これ不過各おのが當時の情形に就いて論ずるのみ。貴ぶべきは只だ能く時勢に隨って推移するに在り。

象曰:山下有澤,損。君子以懲忿窒欲。山下有澤,則山必日損。君子以為吾心之當損者莫若忿欲,故懲忿則如摧山,窒慾則如填壑,俾復於平地而後已也。初九:已事遄往,無咎,酌損之。象曰:已事遄往,尚合志也。初與四為正應,宜損我以益四者也。四方陰柔有疾,故宜已我之事,而速往益之,則得無咎。然以剛益柔,但使斟酌得中可耳,勿令過也。以剛正而應柔正,故往則合志。

《大象傳》は言う。山の下面に澤ある是れ損卦なり。君子は此に取法して、忿怒を懲戒し・嗜欲を堵塞す。——智旭は解說す。山下に澤水の浸蝕あれば、山は必定として一天一天損蝕せらる。君子は此に由りて想到す。我が心の中の最も減損すべきは忿怒と嗜欲より若くは無し。ゆえに忿怒を懲戒するは高聳の山頭を摧平するに似たり。嗜欲を堵塞するは深陷の溝壑を塡滿するに似たり。一定として心地をして重新に一片の平坦に回復せしめて始めて罷まん。初九の爻辭は言う。自己の手頭の事を停下して趕快に前往せば、過錯無し。但だ當に斟酌して自己を減損すべし。《小象傳》は言う。自己の事を停下して趕快に前往すは、上下の心志相合するを以てなり。——智旭は解說す。初九は六四と一對の正應なり。本來當に自己を減損して六四を增益すべし。六四は正に陰柔の質を以て而も病痛あり。ゆえに初九は當に自己の事を放下して、趕快に前に往きてそれを幫助して、始めて過錯無し。不過陽剛を以て陰柔を補益するは、只だ斟酌當を得・恰好の處に到れば卽ち行くべくして、補すること頭を過ぐるを可とせず。初九は陽剛にして正を得て六四の陰柔得正に應ず。ゆえに前往すれば卽ち對方と心志相合す。

九二:利貞,征凶,弗損益之。象曰:九二利貞,中以為志也。九二剛中而不過剛,六五柔中而不過柔,各守其貞可矣,又何須更往益之,以成過猶不及之凶哉。弗損而益,其益乃大,故五有或益以十朋之龜者。

九二の爻辭は言う。正を守るに宜しく、前往すれば則ち凶。自己を減損しに往かざれば、反って是れ對方を增益せり。《小象傳》は言う。九二の正を守るに宜しきは、中を守るを以て心志と爲すなり。——智旭は解說す。九二は陽剛にして中に居りて、竝びに剛に過ぎず。六五は陰柔にして中に居りて、亦柔に過ぎず。兩邊は各おのが正を守れば卽ち足れり。何を必ずしも再び前に往きて增益して、反って「過猶不及」の凶險を弄成せんや。自己を損しに往かずして然るに對方は自然に益を得。かくのごときの增益は始めて大なり——ゆえに六五の爻辭は始めて「或は十朋の龜を以て之を益す」有りて、別人の價値十朋の大寶龜を拿って來りてそれを增益するを説くなり。

六三:三人行則損一人,一人行則得其友。象曰:一人行,三則疑也。六三與下二爻,皆損下以益上者也。初二仍陽,三獨變而為陰,三人行損一人矣。今以一陰上行而益上九,在我固為國爾亡家,而上九陽剛,反能以弗損之益益我,不亦得其友乎。所以凡事宜專一也。

六三の爻辭は言う。三箇の人は同行すれば卽ち一箇の人を減ずるを要し、一箇の人は獨行すれば反って伴侶を得。《小象傳》は言う。一箇の人は獨行して始めて行く可し。三箇の人は同行すれば卽ち疑を生ぜんと要す。——智旭は解說す。六三は下面の初九・九二の兩爻と、同じく是れ自己を減損して上位を增益するなり。初九・九二は仍お陽爻にして、唯獨第三爻は陰爻と變成せり。これ正に「三人行一人を減ず」なり。今六三は一箇の陰爻を以て上行して上九を增益しに往く。六三の此の一邊に於いては固より是れ國の爲に家を忘るるなり。然るに上九は陽剛にして、反って能く「自己を損せずして然るに對方自ら益す」の方式を用いて六三を增益す。これ豈に正に「其の友を得」に非ずや。見る可し凡事は專一を貴ぶを。

六四:損其疾,使遄有喜,無咎。象曰:損其疾,亦可喜也。陰柔不中,疾也。初九已遄來益我,我但資初九以自損其疾,則初有喜而我無咎矣。遄指初九。六五:或益之十朋之龜,弗克違,元吉。象曰:六五元吉,自上祐也。柔中虛己以應九二,九二守貞,弗以有形之物益之,故能使天下歸心,罔不來益以重寶也。蓋人君能虛心用賢,則合於上天,而自上祐之矣。

六四の爻辭は言う。自己の病痛を減損して、人をして趕快に來りて幫助せしめば卽ち喜慶あり。過錯無し。《小象傳》は言う。其の病痛を減損するは、亦是れ喜ぶ可きなり。——智旭は解說す。六四は陰柔を以て中に居らず。これ本身卽ち病痛なり。初九は已に趕快に前に來りて我を增益せり。我は只だ初九を借助して自己の病痛を減損せば、初九は卽ち喜ありて、我も亦卽ち過錯無し。爻辭の裏の「遄」(趕快)の指す所は正に初九なり。六五の爻辭は言う。人あるいは價値十朋の大寶龜を拿って來りて彼を增益す。推辭して掉れず。大吉。《小象傳》は言う。六五の大吉は、上天より來るの保祐なり。——六五は陰柔を以て中に居りて能く虛心に人を待ち、下に向かって九二と相應す。九二は正道を守着して、有形の財物を拿ってそれを增益するをせず、反って能く天下の人心をして歸附せしむ。人人は皆貴重の寶物を拿って前に來りて我を增益す。君主を做るの能く虛心に賢才を任用すれば、卽ち上天の道に合して、自然に上天の保祐を得るを以てなり。

上九:弗損益之,無咎,貞吉,利有攸往,得臣無家。象曰:弗損益之,大得志也。上九受六三之益極矣,苟不有以報之,三雖無怨,人必不服,安能無咎,安能貞吉,安能利有攸往。然欲益三,正不必損我也。蓋三之為臣,固所謂國爾亡家者,但深鑑其一人獨行之誠,則大得其志,而三以為得友矣,是謂弗損益之。

上九の爻辭は言う。自己を減損せずして而も對方を增益せり。過錯無く・正を守れば則ち吉・前往すに宜し。一箇の公の爲に家を忘るるの臣子を得たり。《小象傳》は言う。自己を減損せずして能く對方を增益するは、大大に心志を實現したるなり。——智旭は解說す。上九は六三の增益を受くること已に頂點に到れり。假如も何の回報も無からば、六三は埋怨せずと雖も、旁人は一定として服せず。あれ怎んぞ過錯無く・正を守りて吉を得・前往すに宜しきを談ずるに足らんや。然るに六三を增益せんと要するは、其實自己を減損するを用ゐず。六三の此の臣子は、本是れ國の爲に家を忘るるの人なり。上九は只だ深くそれが一人獨行して前に來るの一片の誠心を體察すれば、それの心志は卽ち大大に滿足せられて、六三も亦卽ち自ら以て「其の友を得」と爲さん——これを「弗損益之」と叫ぶ。

益卦

(震下 巽上)益:利有攸往,利涉大川。損而有孚,則與時偕行,可以致益,此世間盈虛消息之理也;增道損生,則日進於自利利他之域,此觀心成益也。攸往以處常,涉川以處變,苟得其益之道,則無不利矣。

(下卦震・上卦巽)益卦の卦辭は言う。往く所有るに宜しく、大河を渡るに宜し。——智旭は解說す。減損して心に誠信を存せば、便ち能く時勢に推移して、因って增益を招來す。これ是れ世間の盈滿・虛虧・消退・生長の常理なり。至って道業は日に增して生死の因は日に減じ、因って一天一天自利にして又利他なるの境地に進入するは、これ是れ觀心の上より成就する所の增益なり。「有攸往」是れ常態に處するに就いて説き、「涉大川」是れ變局に處するに就いて説く。只だ增益の道を掌握せば、常態變局を論ぜずして皆往いて利ならざる無し。

彖曰:益,損上益下,民說無疆;自上下下,其道大光。利有攸往,中正有慶;利涉大川,木道乃行。益動而巽,日進無疆;天施地生,其益無方。凡益之道,與時偕行。中正,指九五六二言之。震巽皆屬木,故其道可涉川。天施,故坤得其初爻而為震;地生,故乾得其初爻而為巽。然不止於震巽而已,舉凡坎離艮兌等,無非天施地生之益,故其益無方,而與時偕行也。益即全體乾坤,全體太極,全體易道,其餘六十三卦無不皆然,聖人姑舉一隅,令人自得之耳。

《彖傳》は言う。益卦是れ上面を減損して以て下面を增益す。百姓は喜悦して邊際無し。高位に居るの人は肯んじて身を屈して下面に來れば、此の條の道は卽ち大いに光明を放つ。前往すに宜しきは、九五・六二の中正相應して而も喜慶あるを以てなり。大河を渡るに宜しきは、木船の道の通行するを得るを以てなり。增益の卦は下は震を動と爲し・上は巽を順と爲す。ゆえに一天一天進步して止境無し。上天は施與し・大地は生長して、其の增益は到らざるの處無し。凡そ是れ增益の道は、皆當に時勢と一同に推移すべし。——智旭は解說す。「中正」の二字是れ九五と六二とに就いて説くなり。震と巽とは五行に於いて皆木に屬す。ゆえに此の條の道は以て河を渡る可し。「天施」は、乾の自己の初爻を坤に施與して而も震と成れるなり。「地生」は、坤の自己の初爻を乾に給ふて而も巽と成れるなり。然るに止まらずして震・巽のみかくのごとし。擧凡坎・離・艮・兌等の卦は、一として天施地生の增益に非ざる無し。ゆえに其の增益は指す可きの方所無くして、而も時勢と一同に推移すと言う。益卦は卽ち整箇の乾坤・整箇の太極・整箇の易道なり。其の餘の六十三卦も亦此のごとくならざる無し。聖人は不過一角を擧出して、人をして自ら領會せしむるのみ。

佛法釋者:損佛界之上,以益九界之下,損己利人,故民說無疆;本高跡下,故自上下下,而其道大光。天行、聖行,名為中正;梵行起於嬰病二行,名為木道乃行。放光現瑞以動之,四辯說法以巽之。開圓解以顯性德,名為天施;立圓行以成修德,名為地生。種而熟,熟而脫,番番四悉,名為與時偕行。

以下智旭は改めて佛法を以て會通す。佛界のあの至高の一頭を減損して、九界の此の至下の一頭を增益するに往く。亦卽ち己を損して人を利するなり。ゆえに「民説无疆」と言う。佛の本地は至高にして垂下するの行迹は極卑なり。ゆえに「自上より下下して、其の道大いに光なり」と言う。《涅槃經》の説く所の五行の中、「天行」(第一義天の理に順って行ず)と「聖行」(戒定慧に依って修するの聖者の行)とは「中正」と叫ばれ、「梵行」(慈悲淸淨の心を以て他を利す)は「嬰兒行」(人天の小善に同じを示現す)と「病行」(煩惱病苦有るに同じを示現す)との二行より生起す。「木道乃行」と叫ぶ。佛の光を放ちて瑞相を現出して以て衆生を震動するは、卽ち震卦の「動」なり。法・義・辭・樂説の四種無礙辯才を以て法を説きて以て衆生をして順入せしむるは、卽ち巽卦の「巽」なり。圓頓の正解を開示して以て本具の「性德」を顯發するを、「天施」と叫ぶ。圓頓の修行を建立して以て後天の「修德」を成就するを、「地生」と叫ぶ。衆生の根機は下種よりして成熟し、成熟よりして解脫す。一番一番に「四悉檀」(世界・爲人・對治・第一義の四種の衆生を化導するの方式)を施す。これを「時と偕に行ず」と叫ぶ。

象曰:風雷益。君子以見善則遷,有過則改。風以鼓之,遷善之速也;雷以動之,改過之勇也。陸庸成曰:風之入也最微,故片善不遺,纖過必剔;雷之發也最迅,故遷無留留念,改無停機。初九:利用為大作,元吉無咎。象曰:元吉元咎,下不厚事也。居益之初,受上益最厚者也。以下位受此厚益,可安然無所事乎。然剛正而為震主,必能大作以致元吉,則無咎矣。蘇眉山曰:益之初九,損之上九,皆正受益者也。彼自損而專益我,將以厚責我也,我必有以塞之。故損上九利有攸往,益初九利用大作。然上之有為也其勢易,有功則其利倍,有罪則其責薄;下之有為也其勢難,有功則利歸於上,有罪則先受其責。故元吉而後無咎,以所居者非厚事之地也。

《大象傳》は言う。風と雷と相益する是れ益卦なり。君子は此に取法して、善を見れば卽ち趕緊に靠攏して過ぎ、過失有れば卽ち趕緊に改掉す。——智旭は解說す。風は來りて鼓蕩するは、善に遷るの快を象徵す。雷は來りて震動するは、過を改むるの勇を象徵す。彼は又陸庸成の言を引く。風は滲入すること最も細微なり。ゆえに再び小さきの善も亦遺漏せず、再び細かきの過も亦必定として剔除す。雷は發作すること最も迅疾なり。ゆえに善に遷るの時に半點の滞留の念頭無く、過を改むるの時に一刻の停頓の間隙無し。(按:此の句の底本「遷無留」の下に一「留」字を衍す。今は照録す。)初九の爻辭は言う。大いに作爲あるに宜しく、大吉して始めて過錯無し。《小象傳》は言う。大吉にして過錯無きは、下位に居るの人は本來厚重の事を擔當すべからざるを以てなり。(按:《小象》此處の底本は「元吉元咎」と作す。第二箇の「元」は當に是れ「无」の形訛ならん。今は原字を照録す。)——智旭は解說す。初九は益卦の開頭に處して、是れ上面の增益を承受すること最も厚きの一爻なり。在下の位を以てかくのごときの厚きの增益を承受して、還た能く安安穩穩に什麼の事も做さざらんや。好在それは陽剛にして正を得て又是れ下卦震の主爻にして、必定として能く大いに作爲して以て大吉を招致せん。これ始めて過錯無し。彼は又蘇軾(眉山)の言を引く。益卦の初九と損卦の上九とは、皆是れ正に益を受くるの一方に當る。對方は自己を減損して專意に我を增益すれば、將來は當に重重に我に責成せんと要す。我は必ず成績を拿出して以て此の份の人情を塡補せんと要す。ゆえに損卦の上九は「利有攸往」と説き、益卦の初九は「利用爲大作」と説く。不過上位に在るの人は事を做すの勢頭順にして、功あれば則ち利益加倍し、罪あれば則ち責備較輕し。下位に在るの人は事を做すの勢頭難にして、功ある時は功勞は上面に歸し、罪ある時は自己は先に責備を受く。ゆえに必ず先に大吉を得て、然る後に始めて過錯無きを談ずるに足る——只だ其の處する所は竝びに以て厚重の事を擔當すべきの地位に非ざるを以てなり。

六二:或益之十朋之龜,弗克違,永貞吉。王用享于帝吉。象曰:或益之,自外來也。陰柔中正,以受九五陽剛中正之益,惠我以心,而不惠我以物,故能使天下歸心,罔不來益我以重寶也。為臣則永貞吉,不可因天祐人助而異其心;為王則用享于帝吉,自新新民而其命維新。象曰自外來者,明其非心所期,以本無計功謀利之私故也。

六二の爻辭は言う。人あるいは價値十朋の大寶龜を拿って來りて彼を增益す。推辭して掉れず。長久に正を守れば則ち吉。君王はそれを用いて上帝を祭享するも亦吉。《小象傳》は言う。人の來りて彼を增益する有るは、外面より來るを以てなり。——智旭は解說す。六二は陰柔を以て中に居り正を得て、九五の陽剛中正の增益を承受す。九五は心意を以て惠を施して、是れ財物を以て惠を施すに非ず。ゆえに能く天下の人心をして歸附せしめて、人人皆貴重の寶物を拿って前に來りて我を增益す。臣子に就いて言えば、當に長久に正を守って始めて吉にして、天祐人助を得たるに因って本心を改るべからず。君王に就いて言えば、此の份の所得を用いて上帝を祭享すれば則ち吉にして、自己は日新にして又新たにして而且百姓をして日新ならしめば、于是天命も亦之に隨って更新す。《小象傳》の「自外來」を説くは、此の份の增益は竝びに自己の心裏の指望する所に非ざるを點明するにして、本來卽ち功勞を計較し・利益を圖謀するの私心無きを以てなり。

六三:益之用凶事,無咎,有孚中行,告公用圭。象曰:益用凶事,固有之也。不中不正,居下之上,而受上九之擊,其擊我也,正所以益我也。知凶事之真能益我,則無咎矣。位雖不中,而有孚則為中行,可以告公用圭。公指上九,圭以通信,信通則圭仍還公,不取公之物益我,但取公之擊以益我耳。恆人每以凶事為非益,故聖人特明凶事之益固有之。能信凶之為益,則不凶矣。

六三の爻辭は言う。凶險艱難の事を拿って來りて彼を增益す。過錯無し。心に誠信を存して而も中道を行じ、王公に稟告するの時に手に圭玉を執て以て信と爲す。《小象傳》は言う。凶事を用いて增益するは、これ本來是れ有るの事なり。——智旭は解說す。六三は旣に中に居らず亦位に當らずして、然るに下卦の最上頭に居る。因って上九の打擊を挨ねたり。但だ上九の我を打擊するは、恰恰として正に是れ我を增益するなり。凶險艱難の事は眞に能く自己を增益するを明白せば、亦卽ち過錯無し。其の爻位は中に居らずと雖も、但だ只だ心に誠信を存せば、行事は卽ち中道に合乎して、因って以て圭を執りて往きて王公に稟告する可し。此處の「公」は上九を指し、圭玉是れ用いて信實を通達するなり。信實は一通ぜば、圭玉は仍舊として王公に歸還す——見る可し我は竝びに王公の財物を拿って來りて自己を增益するに非ずして、只だ王公の此の一擊を拿って來りて自己を增益するのみ。常人は總て以て凶事は增益に非ずと爲す。ゆえに聖人は特意に點明す。凶事の中の含む所の增益は本來卽ち有るなり。眞に能く凶事は正に是れ增益なるを相信せば、あれは亦卽ち凶ならず。

六四:中行,告公從,利用為依遷國。象曰:告公從,以益志也。六四與上二爻,皆損上以益下者也。五上仍陽,四獨變而為陰,是直以身殉民,豈非遷國之象,豈非中行之道乎。初爻既受我益,剛而得正,有大公之心,方將利用大作以報我,我即以之為依可矣。由其志在益民,故民皆以公心從之。

六四の爻辭は言う。中道を行じて、王公に稟告して然るに聽從を得。他人に依託して以て國都を遷移するに宜し。《小象傳》は言う。王公に稟告して而も聽從を得るは、心志は下民を增益するに在るを以てなり。——智旭は解說す。六四は上面の九五・上九の兩爻と、同じく是れ上位を減損して以て下位を增益するなり。九五・上九は仍お陽爻にして、唯獨第四爻は陰爻と變成せり。これは自身を舍出去りて以て百姓の爲に效命するに等し——これ豈に正に都を遷すの形象に非ずや。豈に正に中道を行ずるの做法に非ずや。初九は旣に我の增益を受け、又陽剛得正にして心に大公を存し、正に大いに作爲して以て我に報答せんと欲す。我は卽ちそれを當てて依靠と做せば好し。正に六四の心志は百姓を增益するに在るを以て、ゆえに百姓は皆公心を以てそれに隨從す。

九五:有孚惠心,勿問元吉,有孚惠我德。象曰:有孚惠心,勿問之矣;惠我德,大得志也。陽剛中正,應於六二,真實以益下為心者也。惠之以心,則惠而不費,天下咸被其澤,其元吉何必問哉。故能感六二永貞之吉,大得其志,而還報我以好德也。

九五の爻辭は言う。心に誠信を懷きて而も心意を以て惠を施す。問はずとも亦是れ大吉。下面も亦誠信を以て我が德澤に回報す。《小象傳》は言う。心に誠信を懷きて而も心意を以て惠を施すは、再び問ふを必とせず。下面の我が德澤に回報するは、大大に心志を實現したるなり。——智旭は解說す。九五は陽剛にして中に居り正を得て、六二と相應す。是れ眞心實意に下民を增益するを以て本心と做すの人なり。心意を以て惠を施しに往くは、卽ち《論語》の説く所の「惠而不費」なり。天下は皆其の恩澤を蒙受す。かくのごときの大吉は還た何を問はんや。ゆえに能く六二を感動してあの「永貞の吉」を得しめて、九五の心志は大大に滿足せられ、六二も亦回りて來りて美好の德行を以てそれに報答す。

上九:莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。象曰:莫益之,偏辭也;或擊之,自外來也。上九本宜損已以益六三者也,因六三不中不正,故不與其益而反擊之。三固得其凶事鉗錘之益,然在上九,豈可恆以此立心哉。以此立心,則舉凡在下者,皆亦莫益於我,而或擊於我矣,故誡以立心勿恆,恆則必凶。上九不中不正,不仁而在高位元,但思益我,不料擊我。思益而不得益,故曰偏辭;不料擊而得擊,故曰自外來也。

上九の爻辭は言う。彼を增益しに來るの人無く、倒れて彼を打擊しに來るの人あり。存心は能く老しくかくのごとくする能わず。凶。《小象傳》は言う。彼を增益するの人無きは、これ是れ一邊に偏したるの話なり。彼を打擊するの人あるは、外面より來るを以てなり。——智旭は解說す。上九は本來當に自己を減損して六三を增益すべし。只だ六三は旣に中に居らず亦位に當らざるに因って、ゆえに不但それに增益を給ふことなく、反ってそれを打擊す。六三は固より此の場の凶事の鉗鎚鍛煉の中より益を得たり。然るに上九の此の一邊に於いては、豈に以て老しく此の種の存心を抱く可けんや。此の種の存心を抱かば、則ち凡そ下位に在るの人も亦皆來りて我を增益せずして、反って來りて我を打擊せんと要す。ゆえに爻辭は告誡して「立心勿恒」と曰く——老しくかくのごとく存心すれば必定として凶を招く。上九は旣に中に居らず亦位に當らず。正に孟子の説く所の不仁にして高位に居るなり(底本「高位」の下に一「元」字を多くす。當に是れ「无」の形訛にして、文義に於いて取る無し。今は照録す)。それは一心に只だ別人の來りて我を增益せんを想着して、沒料到反って打擊を被れり。增益を指望するに然るに增益を得ず。ゆえに《小象傳》はこれ是れ「偏辭」なりと言う。沒料到打を挨けるに然るに打を挨けたり。ゆえに「自外來也」と言う。

周易禪解卷第六 下經之二

周易禪解卷第五。周易禪解卷第六,北天目道人蕅益智旭著。下經之二。

《周易禪解》卷第五は此に到りて結束す。以下是れ《周易禪解》卷第六にして、仍お北天目山道人蕅益智旭の撰著に由る。本卷の解する所是れ「下經之二」にして、卽ち《周易》下經の第二段、夬卦より講起す。

夬卦

(乾下 兌上)夬:揚于王庭,孚號有厲,告自邑,不利即戎,利有攸往。約世道,則民說無疆,坐享豐樂,而所行必決;約佛法,則損己利他,化功歸己,決當進斷餘惑,證極果也。夫世間豈容有陽而無陰、有男而無女、有君子而無小人。然陰居陽上,女占男先,小人據於君子之上,則必將共決去之,必將至王庭以揚之,必將相約相信而聲明其罪以號之,凡此皆有厲之道也。吾謂宜反身修德而告自邑,不宜以力爭而即戎,但使以德往化,則無不利矣。佛法釋者:體惑法界,即惑成智,名告自邑;敵對相除,名為即戎。

(下卦乾・上卦兌)夬卦の卦辭は言う。王庭の上に於いて公らかに其の罪を宣揚して、誠心に呼號して然るに危厲あるを知れり。先に自己の城邑より告誡して起きて、兵戎を動用するに宜しからず。往く所有るに宜し。——智旭は先に兩層に分かちて解說す。世道に就いて言わば、上一卦の益卦の「民説无疆」に承接して來りて、百姓は安く豐足の樂を享けて、事を做起來すれば卽ち必ず決斷せんと要す。佛法に就いて言わば、前面に己を損して他を利し・教化の功は還て自身に歸せり。接下來は自然に當に進みて殘餘の迷惑を斷除し・究竟の極果を證得すべし。世間は何處に只だ陽有りて而も陰無く・只だ男有りて而も女無く・只だ君子有りて而も小人無きを容下得んや。然るに當に陰爻の陽爻の上頭に壓え・女子の男子の前面に搶え・小人の君子の上に盤踞するに當りては、則ち必ず力を合力して彼を決去せんと要し、必ず王庭上に到りて公らかに宣揚せんと要し、必ず彼此約定し・彼此取信して而も其の罪を聲明して呼號せんと要す——凡そ此の種種は、皆是れ危險を含むの路數なり。我は以て當に反身修德して、自己の城邑より先に告誡して起くべし。力量を憑って相爭して而も刀兵を動かすべからず。只だ德行を以て前に往きて感化すれば、卽ち往いて利ならざる無し。——彼は接いで佛法を以て會通す。煩惱迷惑の當體は卽ち「法界」(諸法實相)なるを體認して、迷惑本身に就着いて智慧と轉成す。これを「告自邑」(自家の心地の上に於いて手を下す)と叫ぶ。煩惱を當てて敵人と做して正面に剿除せば、則ちこれを「卽戎」(刀兵を動かす)と叫ぶ。

彖曰:夬,決也,剛決柔也。健而說,決而和。揚于王庭,柔乘五剛也。孚號有厲,其危乃光也。告自邑,不利即戎,所尚乃窮也。利有攸往,剛長乃終也。健而說,決而和,正明應以德化,不應以力爭也。知危則光,尚力則窮。利有攸往,則以德化小人,小人皆為君子,而剛長乃終也。

《彖傳》は言う。夬は卽ち決斷にして、是れ陽剛の陰柔を決去するなり。下卦は乾健にして上卦は兌悦にして、決斷の中に和順を帶ぶ。王庭の上に於いて公らかに宣揚するは、一箇の柔爻の五箇の剛爻の上に凌駕するを以てなり。誠心に呼號して而も危厲を知るは、惟れ其の危險を自知すれば、道は始めて光大なり。先に自己の城邑より告誡して起きて・兵を動かすに宜しからざるは、一味に武力を崇尚すれば卽ち盡頭に走り到らんと要するを以てなり。往く所有るに宜しきは、陽剛は終點に生長到るを以てなり。——智旭は解說す。「健而説・決而和」の此の兩句は、正に當に德行を用いて感化すべく・武力を用いて相爭すべからざるを説明す。危險を自知すれば、德は卽ち光大なり。一味に力を尚べば、路は卽ち走り絕えん。所謂「利有攸往」は、卽ち德行を用いて小人を感化しに往きて、小人は個個として君子と變成して、陽剛も亦卽ち一直に終點に生長到れり。

象曰:澤上於天,夬。君子以施祿及下,居德則忌。祿宜施,德宜居;祿不施則恩枯,德不居則本喪。又以此施祿,則及下而可以化人;以此居德,則自滿而為人所忌。初九:壯于前趾,往不勝為咎。象曰:不勝而往,咎也。重剛不中,不宜進,而壯於進步,徒自折耳,何能勝哉。九二:惕號,莫夜有戎,勿恤。象曰:有戎勿恤,得中道也。剛而得中,知懼知警,居德既周,則有戎可無患矣。

《大象傳》は言う。澤水は天上に升る是れ夬卦なり。君子は此に取法して、俸祿を把って下面に施與して、而も德を自身に蓄積するは則ち忌憚する所有らんと要す。——智旭は解說す。俸祿は當に散出去すべく、德行は當に蓄積起來すべし。俸祿は散せざれば、恩澤は卽ち枯竭す。德行は蓄へざれば、根本は卽ち喪失す。反って來りて言わば、此の一份の心を用いて俸祿を施與しに往けば、卽ち能く下面に惠及して而も人を感化す。若し此の一份の心を用いて其の德に自居せば、則ち自滿と成りて、反って人の忌恨を招く。初九の爻辭は言う。脚趾頭は强を逞しして前に衝らんと要す。前往して而も能く取勝せざれば卽ち過錯と成れり。《小象傳》は言う。能く取勝せざるを明知して還た前往するは、則ち是れ過錯なり。——智旭は解說す。初九は陽爻にして陽位に居りて而も重剛にして、又中に居らず。本來前進すべからざるに、卻って歩を邁むの上に於いて强を逞しす。只だ白白に自己を折斷するのみ。何處に還た能く取勝せんや。九二の爻辭は言う。警惕して呼號す。傍晚に兵戎の事あり。憂慮するを必とせず。《小象傳》は言う。兵戎ありて而も憂慮するを必とせざるは、中道を得着したるを以てなり。——九二は陽剛にして下卦の中位に居りて、旣に戒懼を知り又警覺を知り、平日に德を蓄ふること已に周備せり。則ち縱然兵戎の變あるとも亦以て患無からん。(爻辭の「莫夜」は卽ち「暮夜」にして、傍晚を指す。)

九三:壯于頄,有凶。君子夬夬,獨行遇雨,若濡有慍,無咎。象曰:君子夬夬,終無咎也。過剛不中,怒且悻悻然現於其面,太剛必折,有凶道也。君子於此,何不自夬其夬,舍上下四陽,而獨行其與上六應之正理,則以德相化,陰陽相和,庶遇雨而若濡。雖彼群陽不知我心、不諒我跡,或有慍者,然化小人之道必應如此,終無咎也。言夬夬者,群陽以決去小人為夬,今吾以決不同彼群陽為夬夬也。

九三の爻辭は言う。强を逞しすること顴骨の上に到るまで皆露出せり。凶あり。君子は決して又決して、獨自前行して雨に遇ふ。被淋濕せられて而も人の慍怒を招くに似たれど、然るに過錯無し。《小象傳》は言う。君子の決して又決するは、終竟過錯無し。——智旭は解說す。九三は過ぎたる剛强にして中に居らず、怒氣忿忿として全く顏上に寫せり。太だ剛なれば必ず折る。これ是れ凶を招くの路子なり。君子は此の位置に處して、何不ぞ自己のあの股の「小人を決去する」の勁頭を先に一層決掉せざるや。上下の四箇の陽爻の成見を撇開して、獨自往きて自己と上六との本有正應の道理を實行して、德行を用いて感化して、陰陽をして彼此調和せしめば、則ち差不多として以て「雨に遇ひて濡るるがごとし」と成る可し。あの一群の陽爻は我が心を了解せず・我が行迹を體諒せずして、或は還た我に對して發怒すと雖も、然るに小人を感化するの辦法は本來當にかくのごとくすべくして、終竟過錯無し。所謂「夬夬」は、群陽の小人を決去するを以て「夬」と做すを説く。今は我は則ち「決然としてあの群陽の做法と同じからず」を以て又一重の「夬」と做す。

九四:臀無膚,其行次且,牽羊悔亡,聞言不信。象曰:其行次且,位不當也;聞言不信,聰不明也。九四以下爻為臀,下爻純剛無柔,如有骨無膚。臀既無膚,行必次且不前。若讓彼羊在前,而隨其後,則羊仍屬我所牽,便可悔亡。但以剛不中正,聞此善言,決不相信也。羊指上六,為兌之主,四宜牽之,不宜決之,亦不宜與之爭前後也。

九四の爻辭は言う。臀部に皮肉無くして、走り起來れば趑趄として行き難し。羊を牽いて後面に走れば、悔恨は卽ち消失す。可惜として此の話を聽き了せども肯んじて相信せず。《小象傳》は言う。走ること趑趄たるは、處する所の位置不當なるを以てなり。話を聽き了せども相信せざるは、耳目の聰明ならざるを以てなり。——智旭は解說す。九四は下面の幾箇の爻を當てて臀部と做す。下面は全是剛爻にして而も柔爻無し。只だ骨頭有りて而も皮肉無きに似たり。臀部旣に皮肉無ければ、走り起來れば必定として趑趄不前す。倘若もあの隻の羊をして前面に走らしめて、自己は後面に跟へば、あの羊は仍舊是れ我の牽く所なり。悔恨は卽ち以て消失する可し。只だ九四は陽剛にして中ならず正ならずして、かくのごときの善言を聽き了せば、決計として肯んじて相信せず。此處の「羊」は上六を指して、它是れ上卦兌の主爻なり。九四はそれに對して當に牽引すべく、決去すべからず、亦それと誰が前誰が後かを爭ふべからず。

九五:莧陸夬夬,中行無咎。象曰:中行無咎,中未光也。上六柔脆如莧,而在五剛之上,如莧在陸,人人得踐踏之。嗟嗟,彼獨非坤德乎,彼獨非太極全體所成、還具太極全體者乎。是宜夬彼群陽所夬而護養之,乃為中行之道,可無咎耳。然在夬時,終不免以君子小人二其心,未肯忘於大同,故曰中未光也。聖人於復,則諄諄以保護微陽;於夬則諄諄以保護殘陰。陰陽豈可偏廢哉。上六:無號,終有凶。象曰:無號之凶,終不可長也。下之五爻,聖人所以勸誡群陽者至矣。以六居上,雖得其正,而陰柔才弱,不能惕號以自周備,故終不可長,不若反乎下以為姤耳。

九五の爻辭は言う。馬齒莧のあのごときの柔脆の東西も、亦當に決して又決すべし。中道を行ぜば卽ち過錯無し。《小象傳》は言う。中道を行じて而も過錯無きは、守る所の中道の還た未だ光盛大ならざるを以てなり。——智旭は解說す。上六は柔脆にして馬齒莧に似て、然るに五箇の剛爻の上に壓在す。馬齒莧の路面の上に生長して、人人は皆以てそれに一脚を踩む可きに似たり。可嘆なり。それ豈に亦是れ坤の柔順の德に非ずや。それ豈に亦是れ太極全體の生成する所にして、并且本身は還た完整に太極全體を具足するに非ずや。ゆえに九五の做すべき所は、あの群の陽爻の「それを決去せんと要す」の念頭を先に決掉して、轉じて來りてそれを保護養育するなり——これ始めて是れ中道を行ずるの做法にして、始めて以て過錯無からん。然るに身に夬卦の時に在れば、終竟不免として君子と小人とを兩截に分作して看待して、還た肯んじて彼此を忘懷して大同に歸せず。ゆえに《小象傳》は「中未光也」と言う。聖人は復卦の裏に於いて諄諄として囑咐してあの一線の初生の微陽を保護せんと要し、夬卦の裏に於いて又諄諄として囑咐して此の一點の殘存の孤陰を保護せんと要す——陰と陽とは何處に以て一邊を偏廢する可けんや。上六の爻辭は言う。呼號するを必とせず。終竟凶あり。《小象傳》は言う。呼號するに由無きの凶險は、それ終竟能く長久せざるを以てなり。——智旭は解說す。下面の五爻の中、聖人のあの一群の陽爻を勸誡するの話は已に説くこと很だ盡せり。上六は陰爻を以て上位に居る。當位得正と説くと雖も、然るに陰柔にして才力薄弱にして、能く九二のごとく警惕呼號して・自己を防護周全する能わず。ゆえに終竟能く長久せず。倒れて反轉過來りて下面に落去れば、則ち接著するの姤卦と成れり。

姤卦

(巽下 乾上)姤:女壯,勿用取女。約世道,則決之於意中者,必將遇之於意外;約佛法,則決斷餘惑而上同諸佛者,必巧用性惡而下遇眾生。又約究竟,則夬是無間道,姤是解脫道;約初心,則夬是乾慧,姤是理水也。以無號之一陰忽反於下而得其所安,勢必漸壯,故九二宜包而有之,不宜使賓取之。佛法釋者:在佛為性惡法門,在眾生不了,則為修惡。九二行菩薩道,自可示同修惡,不令餘人作惡。又解脫道一得永得,名女壯;無所取著,名勿用取女。理水亦爾。

(下卦巽・上卦乾)姤卦の卦辭は言う。此の女子は强壯なり。かくのごときの女子を娶る勿れ。——智旭は先に層に分かちて解說す。世道に就いて言わば、上一卦の夬の決去したるあの人は、爾心裏は以て除掉したりと爲すに、卻って必定として意料之外に於いて又遇上らん。佛法に就いて言わば、殘餘の迷惑を斷盡して而上りて諸佛と同證するの人は、必定として善巧に「性惡」(一切衆生乃至佛性の中に本具するの惡法の性)を運用して而下りて衆生と相遇せん。若し究竟位に就いて言わば、夬是れ「無間道」(正に煩惱を斷ずるあの一刹那)にして、姤是れ「解脫道」(煩惱斷盡したる後に證する所の解脫)なり。若し初發心に就いて言わば、夬是れ「乾慧」(未だ禪定の滋潤を得ざるの干枯の智慧)にして、姤は則ちそれを滋潤するの「理水」(眞如の理は水のごとく潤澤す)なり。夬卦の上六のあの「无號」の孤陰は忽然として下面に翻轉到りて而も安身の處を得着せば、勢い必ず逐漸に强壯せん。ゆえに九二は當にそれを包容占有すべくして、別の賓客をしてそれを娶り去らしむべからず。——再び佛法を以て會通す。これは佛分の上に於いて是れ「性惡法門」(佛は性中の惡を斷せざると雖も、ゆえに能く惡道に入りて生を度す)にして、衆生分の上に於いては明白せざるに因って、實實在在に造作するの「修惡」と成れり。九二は菩薩道を行じて、自然に以て衆生の修惡に同じを示現して以て彼らを接引する可くして、然るに旁人をして眞に惡を作しに往かしめず。又「解脫道」は一經證得すれば便ち永遠に失わず。ゆえに「女壯」と叫ぶ。それに對して執取貪著する所無し。ゆえに「勿用取女」と叫ぶ。あの乾慧を滋潤するの理水も亦是れ此のごとし。

彖曰:姤,遇也,柔遇剛也。勿用取女,不可與長也。天地相遇,品物咸章也。剛遇中正,天下大行也。姤之時義大矣哉。不曰剛遇柔而曰柔遇剛者,柔為政也。佛法釋者:剛是性德,柔是修德,以修顯性,名柔遇剛;剛是妙觀,柔是妙止,從止起觀,名柔遇剛;剛是智慧,柔是禪定,因定發慧,名柔遇剛。修本無加於性,止亦不可偏勝,定亦不可偏多,故曰不可與長也。

《彖傳》は言う。姤は卽ち相遇にして、是れ陰柔の來りて陽剛に遇ふなり。此の女子を娶る勿れは、それと長久に相處する可からずを説くなり。天地は互相遇合して、萬物は卽ち皆彰顯出來す。陽剛は中正の位に遇上れば、天下は卽ち大いに通行す。姤の此の一時機の含む所の意義は、眞に大なり。——智旭は解說す。《彖傳》は「剛遇柔」を説かずして而も「柔遇剛」を説くは、此の一卦の裏に於いて柔に由りて當家做主するを以てなり。——接いで佛法を以て會通す。剛是れ本具の「性德」にして、柔是れ後天の「修德」なり。修行を以て本性を顯發するを、卽ち「柔遇剛」と叫ぶ。剛是れ微妙の「觀」にして、柔是れ微妙の「止」なり。妄念を止息するの中より觀照を生起するを、亦「柔遇剛」と叫ぶ。剛是れ智慧にして、柔是れ禪定なり。禪定に因って而も智慧を發するを、同じく「柔遇剛」と叫ぶ。修行は本來竝びに心性の上に何を添加する能わず、止も亦一邊に偏して獨盛すべからず、定も亦一邊に偏して過多すべからず。ゆえに《彖傳》は「不可與長也」と言う。

天地相遇,天得地之初爻而為巽。撓萬物者莫疾乎風,齊乎巽而萬物潔齊,故曰品物咸章也。九二之剛,下遇初六,上遇九五之中正。在世法中,則為大臣得君以撫民;在佛法中,則為智慧稱性以成福。故曰天下大行也。

所謂「天地相遇」は、乾天は坤地の初爻を得て而も巽と變成するを説くなり。《説卦傳》は講ず。萬物を攪動するは風より迅疾なる莫し。萬物は巽の時節の裏に於いて整齊潔淨す。ゆえに《彖傳》は「品物咸章」と言う——各類の物種は皆彰顯出來す。九二の此の剛爻は、下に向かって初六に遇着し、上に向かって中に居りて正を得る九五に遇着す。世間法の上に説けば、これ卽ち大臣は君主の信任を得て而も百姓を安撫しに往くなり。佛法の上に説けば、これ卽ち智慧は本性に契合して因って福德を成就するなり。ゆえに《彖傳》は「天下大行」と言う。

象曰:天下有風,姤。后以施命誥四方。剝乎上者反乎下,名之曰復,性德也,觀慧也,不可即致用也,故如雷在地中而后不省方;夬乎上者反乎下,名之曰姤,修德也,止定也,即可以取效也,故如天下有風而後施誥命。復以見天地之心,姤以見時義之大;復即乾知大始,姤即坤作成物;復即金聲,姤即玉振;復即智巧,姤即聖力。而腐儒以抑陰戒小人釋之,不亦陋乎。

《大象傳》は言う。天底下に風の吹拂ある是れ姤卦なり。君王は此に取法して、命令を頒布して四方を告誡す。——智旭は解說す。上位に於いて剥落せられて而も下面に翻轉到るは、復卦と叫ばる。あれは本具の性德を代表し・觀照の智慧を代表す。還た能く馬上に拿って來りて致用する能わず。ゆえに復卦の《大象》は雷は地中に藏ると言い、先王は于是關を閉ぢて四方を巡視せずと言う。上位に於いて決去せられて而も下面に翻轉到るは、姤卦と叫ばる。あれは後天の修德を代表し・妄念を止息するの禪定を代表す。當下に卽ち以て實效を收到する可し。ゆえに姤卦の《大象》は天下に風ありと言い、君王は于是誥命を頒布すと言う。復卦は用いて天地生生の心を見るなり。姤卦は用いて時機之義の重大を見るなり。復卦は《繫辭傳》の説く所の乾の萬物の開創を主管するに相當し、姤卦は坤の萬物の完成を負責するに相當す。復卦是れ樂を奏するの開頭の金鐘の聲にして、姤卦是れ收尾の玉磬の振なり。復卦是れ《孟子》の説く所の射の巧にして、姤卦は則ち靶心を射中するの須要する所の力なり。あの迂腐の儒者は只だ此の一卦を把って壓抑陰氣・告誡小人と解做す。是れ太だ淺陋に非ずや。

初六:繫于金柅,貞吉,有攸往見凶,羸豕孚蹢躅。象曰:繫于金柅,柔道牽也。無君子莫治野人,無野人莫養君子,此世法之必應互相繫屬者也;無性不能起修,無修不能顯性,非智不禪,非禪不智,此佛法之必應互相繫屬者也。一陰始生於下,得九二金柅以繫之,此貞吉之道也;不繫則有攸往,往則見凶,如羸豕必能蹢躅,由不早為調御故耳。柔道宜與剛德相牽,則互相與有成矣。

初六の爻辭は言う。銅製の車閘の上に拴着せり。正を守れば則ち吉。若し往く所有れば卽ち凶を見ん。あの瘦弱の猪も亦必定として躁動亂踢せん。《小象傳》は言う。銅車閘の上に拴着するは、柔道は牽繫せられんと要するを説くなり。——智旭は解說す。《孟子》は講ず。君子無ければ卽ち鄕野の民を治理するの人無く、鄕野の民無ければ卽ち君子を供養するの人無し。これ是れ世間法の上の必ず互相に繫屬せんと要するの例子なり。本具の心性無ければ卽ち修を起すに由無く、修行無ければ卽ち心性を顯發するに由無く、智慧の禪定無ければ卽ち禪と成り爲る能わず、禪定の智慧無ければ卽ち智と成り爲る能わず。これ是れ佛法の上の必ず互相に繫屬せんと要するの例子なり。一箇の陰爻は剛に下面より生出し來りて、九二の此の銅車閘を得着してそれを拴住すれば、これ卽ち正を守りて吉を得るの道なり。それを拴住せざれば、それは卽ち前に向かって跑らんと要す。一跑すれば卽ち凶を見ん。瘦弱の猪も亦必定として躁動亂踢するに似たり——あれは因って未だ及早に調伏駕馭せざるの緣故なり。柔の一邊は當に剛の一德と互相牽繫して、兩邊は始めて能く互相成就せん。

九二:包有魚,無咎,不利賓。象曰:包有魚,義不及賓也。修顯性,則性有修;定發慧,則慧有定。性修交成,定慧平等,無咎之道也。但可內自證知,豈可舉似他人。世法亦爾,吾民吾子,豈可令他人分治哉。九三:臀無膚,其行次且,厲,無大咎。象曰:其行次且,行未牽也。二近於初,故包有魚;三遠於初,故臀無膚。無膚則行必次且矣。然雖厲而無大咎者,以與初六同居巽體,但行未與柔道相牽合耳。

九二の爻辭は言う。廚房の裏に魚あり。過錯無し。但だ賓客に分給するに宜しからず。《小象傳》は言う。廚中に魚あるは、理に按りて賓客に輪到らざるなり。——智旭は解說す。修行は心性を顯發すれば、心性の中には卽ち修行を含著す。禪定は智慧を發起すれば、智慧の中には卽ち禪定を含著す。性と修と交り相成就し、定と慧と平等に並運す。これ卽ち過錯無きの路子なり。不過これは只だ能く自己に心裏に於いて親證親知して、何を能く擧出來りて別人に向かって炫示せんや。世間法も亦是れ一樣なり。我が百姓是れ我が兒女に似て、怎んぞ能く別人をして來りて分管せしめんや。九三の爻辭は言う。臀部に皮肉無くして、走り起來れば趑趄として行き難し。危險あり。然るに大過錯無し。《小象傳》は言う。走ること趑趄たるは、行動の還た未だ牽繫せられざるを以てなり。——智旭は解說す。九二は初六に挨近す。ゆえに「包有魚」と言う。九三は初六に離るること較遠し。ゆえに「臀無膚」と言う。皮肉無ければ、走り起來れば必定として趑趄す。然るに危險あると雖も然るに大過錯無きは、それと初六と同じく下卦巽體の內に在るを以てなり。只だ不過行動の上に於いて還た未だあの柔道と牽合起來らざるのみ。

九四:包無魚,起凶。象曰:無魚之凶,遠民也。剛不中正,執性而廢修,恃慧而棄定,猶世宰輔,居上而遠民也。方其高談理性,正逞狂慧,不知其為凶;臨命終時,地獄相現,則悔無所及。猶包中無魚,起水而後知之。

九四の爻辭は言う。廚房の裏に魚無し。凶は卽ち發作せり。《小象傳》は言う。魚無きの凶は、百姓を疎遠したるを以てなり。——智旭は解說す。九四は陽剛にして中ならず正ならずして、本具の心性を執著して而も實際の修行を荒廢し、一點の智慧を倚仗して而も禪定を抛開するに譬ゆ。又世間の宰輔大臣に譬ゆ。上位に高居して而も百姓を疎遠す。彼の理性を高談し・あの種の定力無きの「狂慧」を逞弄する時に當りては、還たこれ是れ凶なるを知らず。臨命終の時に到るを等って、地獄の境相は現前せば、後悔は卽ち來るに及ばず。これは廚房の裏に本來魚無くして、水を一提起來るを等って始めて發覺するに似たり。

九五:以(杞己+巳)包瓜,含章,有隕自天。象曰:九五含章,中正也;有隕自天,志不舍命也。枸杞枝軟而長,以此包瓜,則其蔓交繫而不可解,此九二與初六相遇之象也。九五為姤之主,乃高居於上,遠不相及,但以剛健中正,則性德久熏成種,將欲發煥,故名含章。由其志不舍命,不肯自暴自棄,故初六雖不相遇,必有自天隕墜以遇我者矣。發得本有,名為自天;無心契合,名為有隕。又九二如大臣,能有初六之民,與民固結;九五如聖君,能用九二之賢臣,故名含章。既有九二,則並九二所遇初六之民而有之矣。民與之,即天與之,故云有隕自天。上九:姤其角,吝,無咎。象曰:姤其角,上窮吝也。居姤之終,不與柔遇,名姤其角。此如二乘偏真空慧,但免無魚之凶,不無焦芽敗種之吝也。

九五の爻辭は言う。枸杞の枝葉を用いて瓜を包住して、文采を含蓄す。東西の天上より掉下來る有り。《小象傳》は言う。九五の文采を含蓄するは、それ中に居りて正を得るを以てなり。東西の天より降る有るは、其の心志の肯んじて天命を舍棄せざるを以てなり。——智旭は解說す。枸杞の枝條は又軟に又長し。それを用いて往きて瓜を包めば、藤蔓は互相纏繫して解くも解けず。これ正に九二と初六と相遇するの形象なり。九五是れ姤卦の主爻にして、卻って高く上に在りて、初六に離るること很だ遠くして够着かず。只だそれ剛健中正にして、本具の性德は長久に熏習して已に種子と結成して、將に煥發出來らんとす。ゆえに「含章」と叫ぶ。其の心志の肯んじて天命を舍棄せず・肯んじて自暴自棄せざるに由りて、ゆえに初六はそれと遇上る能わずと雖も、亦必定として天上より掉下來りてそれと相遇するの東西有らん。顯發する所は原是れ本來有る所なり。ゆえに「自天」と叫ぶ。竝びに心あって凑合しに往くに非ずして自然に契合す。ゆえに「有隕」と叫ぶ。一層を換へて言わば。九二是れ大臣に譬ゆ。能く初六の此の批の百姓を擁有して、百姓と牢牢に結合す。九五是れ聖君に譬ゆ。能く九二の此の位の賢臣を任用す。ゆえに「含章」と叫ぶ。旣に九二を擁有せば、亦卽ち九二の遇ふ所の初六の百姓を連ねて一并に擁有せり。百姓は彼に歸附すれば、卽ち上天の彼に授與するに等し。ゆえに「有隕自天」と言う。上九の爻辭は言う。角の上に遇ふ。羞吝あり。然るに過錯無し。《小象傳》は言う。角の上に遇ふは、最上頭に處して已に盡頭に到りて而も羞吝を致すを以てなり。——智旭は解說す。上九は姤卦の終點に處して、あの箇の柔爻と遇上る能わず。ゆえに「姤其角」と叫ぶ——只だ犄角尖の上に碰到るのみ。——彼は隨に佛法を以て比と作す。これは聲聞・緣覺の二乘人の證する所の眞空の一邊に偏したるの智慧に譬ゆ。九四のあの種の「包無魚」の凶險を免掉したりと雖も、卻って免れ難くして大乘經典に「焦芽敗種」(焦げたる芽・壞れたる種子のごとく、再び發心成佛する能わず)と呵かるるのあの份の遺憾を被らん。

萃卦

(坤下 兌上)萃:亨。王假有廟,利見大人,亨,利貞。用大牲吉,利有攸往。相遇則相聚,世出世之常也,聚安有不亨者哉。幽明之情萃,故有廟可假;上下之情萃,故大人可見。用大牲以假有廟,利攸往以見大人,皆順乎時義之所當然,所謂貞也。

(下卦坤・上卦兌)萃卦の卦辭は言う。亨通す。君王は宗廟の裏に到り來りて、德位あるの大人を見るに宜しく、亨通す。正を守るに宜し。牛羊の大牲を用いて祭祀すれば則ち吉。往く所有るに宜し。——智旭は解說す。上一卦は相遇を講ず。相遇れば卽ち會聚合せん。これ是れ世間法と出世間法と共同の常理なり。旣に聚合せば、何に亨通せざる有らんや。幽冥の祖先と顯明の子孫とは、情意は一處に聚合す。ゆえに君王は以て宗廟の裏に到る可し。上に在るの君主と下に在るの臣民とは、情意は一處に聚合す。ゆえに德位あるの大人は以て相見る可し。牛羊大牲の禮を用いて往きて宗廟に祭享し、有利に趁って前往して大人を謁見するは、皆是れ當時の情勢に順って應然に行ずるなり。これ卽ち卦辭の説く所の「貞」(正を守る)なり。

彖曰:萃,聚也。順以說,剛中而應,故聚也。王假有廟,致孝享也。利見大人亨,聚以正也。用大牲吉,利有攸往,順天命也。觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。同一致孝享耳,有時雲二簋可用,有時雲樽酒簋貳,今則云用大牲吉;同一見大人耳,有時雲不利涉川,有時雲往蹇來碩,今則云利有攸往。夫豈有私意於其間哉。宜儉則儉,宜豐則豐;可往則往,可來則來,皆所以順天命而觀物情耳。

《彖傳》は言う。萃は卽ち聚合なり。下は坤の柔順・上は兌の喜悦にして、九五は陽剛にして中に居りて六二と相應す。ゆえに能く聚合す。君王は宗廟に到り來るは、孝道を盡して而も祭享するなり。大人を見るに宜しくして亨通するは、聚合は正を得るを以てなり。大牲を用ゐれば則ち吉・前往すに宜しきは、天命に順應するなり。一物の聚合する所の對象を觀察せば、天地萬物の眞情は卽ち以て見る可し。——智旭は解說す。同じく是れ孝を盡して祭享するに、損卦は兩簋の薄物は卽ち够ると言ひ、坎卦は一樽の酒兩簋の飯は卽ち够ると言ふ。此處は卻って牛羊の大牲を用ゐて始めて吉と言う。同じく是れ大人を見に往くに、訟卦は大河を渡るに利あらずと言ひ、蹇卦は回り來りて始めて碩大と言ふ。此處は卻って前往すに宜しと言う。此の中間に何の偏私の成見かあらん。當に儉省すべければ則ち儉省し、當に豐厚すべければ則ち豐厚し。以て前往すべければ則ち前往し、以て退回すべければ則ち退回す——皆不過是れ天命に順應して而も事物の情實を觀察するのみ。

象曰:澤上於地,萃。君子以除戒器戒不虞。楊慈湖曰:澤所以能瀦水而高上於地者,以有坊也;民所以得安居而聚者,不可無武備也。除治戎器,戒備不虞,皆大易之道也。蕅益子曰:約佛法,則毗尼內禁;約觀心,則密咒治習。

《大象傳》は言う。澤水は地面の上に積る是れ萃卦なり。君子は此に取法して、兵器を修整して、意外の變に戒備す。(按:底本は「戎器」を「戒器」と作す。今は照録す。)——智旭は楊慈湖の言を引く。澤の能く水を蓄住して而も地面より高出する所以は、堤防有るを以てなり。百姓の能く安居聚處する所以は、武備無くすべからざるを以てなり。兵器を修整し・意外を戒備するは、皆是れ《易》の大道理なり。——彼は自己接いで言う。佛法に就いて講ずれば、これは「毗尼」(戒律)の內心に於いて筑起するの防禁に相當す。觀心に就いて講ずれば、これは密呪を用いて以て宿世の習氣を對治するに相當す。

初六:有孚不終,乃亂乃萃。若號,一握為笑,勿恤,往無咎。象曰:乃亂乃萃,其志亂也。當萃之時,未有不志於萃者也。二陽為受萃之主,而四陰萃之。初與四為正應,本可信也,不中不正,故不能終其信,而乃亂乃萃焉。乃亂故若號,乃萃故一握為笑,言其號笑夾雜而為一握也。然既是正應,何所疑恤,不若往從為無咎耳。志亂故號笑夾雜,明相應之理未嘗亂也。

初六の爻辭は言う。本有誠信あるに然るに能く底まで堅持せず。于是又亂れ又聚まる。一忽兒は哀號し、一忽兒は又攥作一團して笑ふ。憂慮するを必とせず。前往すれば過錯無し。《小象傳》は言う。又亂れ又聚まるは、其の心志亂れたるを以てなり。——智旭は解說す。正に聚合の時に當りて、誰か聚合せんと想はざる有らん。本卦の九四・九五の兩箇の陽爻是れ人の聚附を受くるの主にして、四箇の陰爻は皆上に向かって聚附す。初六は九四と本是れ一對の正應にして、原來是れ以て信任する可し。只だそれ旣に中に居らず亦位に當らざるに因って、ゆえに能く此の份の信任を底まで堅持する能わず。于是一忽兒亂れ・一忽兒聚まる。亂るれば、ゆえに哀號するに似たり。聚まれば、ゆえに又攥作一團して笑ふ——是れ號哭と歡笑と夾雜糾結して一團と成るを説くなり。然るに旣に是れ正應なれば、何の猜疑憂慮すべき有らんや。索性として前往して追隨するに如かず。卽ち過錯無し。心志亂れたれば、ゆえに號笑夾雜す。《小象傳》の「其志亂也」を點出するは、正に相應の道理本身は竝びに亂れざるを説明す。

六二:引吉,無咎,孚乃利用禴。象曰:引吉無咎,中未變也。柔順中正,上應九五陽剛中正之君,本無可疑者也。乃初六與六三皆往萃於九四,我居二者之間,設不自引而出,何以取信於九五乎。苟引出而得其信,則不必用大牲,而用禴亦利矣。舍二陰而獨從所應,故如用禴,其物甚薄。但由二有中德,故不變所守以隨兩陰耳。

六二の爻辭は言う。牽引して上進すれば則ち吉。過錯無し。心に誠信を存せば、卽ち最も簡薄の禴祭を用ふるも亦利あり。《小象傳》は言う。牽引して上進して而も吉を得過無きは、其の中に居るの操守の改變せざるを以てなり。——智旭は解說す。六二は柔順にして中に居り正を得て、上は九五の此の位の陽剛中正の君主と相應す。本來何の疑ふ可きも無し。無奈として初六と六三とは皆跑り去りて九四に聚附す。我は此の兩箇の陰爻の中間に夾まりて、若し自己を牽引出來せざれば、怎んぞ九五の信を取らんや。只だ身を抽き出して而も九五の信任を得れば、あれは卽ち牛羊大牲を用ゐるを必とせずして、禴の此の種の最も簡薄の祭禮を用ゐるも亦一樣に利あり。兩箇の陰爻を舍開いて而も獨自自己の正應を追隨す。ゆえに卽ち禴祭を用ゐるに似たり。供物は極めて單薄なり。これ全く六二の中に居るの德行有るに靠る。ゆえに自己の操守を改變してあの兩箇の陰爻に隨順せず。

六三:萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。象曰:往無咎,上巽也。上無應與,志欲萃而無從,故嗟如而無所利。然當萃之時,往從九四,亦可無咎,但非正應故得小吝,而九四則巽以受之矣。九四:大吉無咎。象曰:大吉無咎,位不當也。當萃之時,初六應之,六三歸之,不幾以臣擬君乎,故必大吉乃得無咎,如伊尹周公之終盡臣道可也。

六三の爻辭は言う。聚合せんと想ふに然るに只だ嘆息する能くするのみ。利益あらざる無し。前往すれば過錯無し。只だ稍有羞吝あり。《小象傳》は言う。前往して過錯無きは、上面の九四の能く柔順に容納するを以てなり。——智旭は解說す。六三は上面に相應するの爻無くして、一心に聚合せんと想ふに然るに往く可きの處無し。ゆえに只だ嘆息して而も得利する所無し。然るに正に聚合の時に當りて、前往して九四を追隨せば、亦以て過錯無からん。只だ九四は竝びに其の正應に非ざるに因って、ゆえに稍有羞吝ありて、而も九四は則ち會に柔順にそれを接納せん。九四の爻辭は言う。大吉して始めて過錯無し。《小象傳》は言う。大吉にして過錯無きは、其の居する所の位置不當なるを以てなり。——正に聚合の時に當りて、初六はそれと相應し、六三も又それに歸附す。これ豈に臣子の身分を以て君主に比擬するに近からずや。ゆえに必ず大吉に到るまで做して、始めて過錯無きを談ずるに足る。伊尹の商湯を輔佐し・周公の成王を輔佐するがごとく始終臣子の本分を盡足して始めて行く可し。

九五:萃有位,無咎,匪孚,元永貞,悔亡。象曰:萃有位,志未光也。陽剛中正,以天位而受萃者也。然惟二實應之,上實附之,而初與三已萃於九四矣,僅可無咎。若能忘吾位以任九四,聽彼二陰之匪孚我,而元萃於四者永貞弗改,則九四既為吾臣,二陰何一非吾民也,故得悔亡。設但恃其位以為萃,則志未光矣。上六:齎諮涕洟,無咎。象曰:齎諮涕洟,未安上也。以陰居陰而在上位,心不自安,故齎諮涕洟,以附悅於九五,得無咎也。

九五の爻辭は言う。聚合して而も其の位有り。過錯無し。來りて誠信歸附せざるの人有り。只だ長久に大善の正を守持せば、悔恨は卽ち消失す。《小象傳》は言う。聚合して而も其の位有るは、心志の還た未だ光盛大ならざるを説くなり。——智旭は解說す。九五は陽剛中正にして、天子の位を以て衆人の聚附を承受す。然るに眞心にそれと相應するは只だ六二にして、眞心にそれに依附するは只だ上六にして、初六と六三とは早已九四のあの邊に聚到り去れり。ゆえにそれは僅僅として以て過錯無きに到るを做す能くするのみ。假如も能く自己の尊位を忘掉して而も放手に九四を任用して、あの兩箇の陰爻の來りて我に歸附せざるに聽憑して、而もあの位の大大に人の聚附を受くるの九四の長久に正を守りて改まらざれば、則ち九四は旣に是れ我が臣子なれば、あの兩箇の陰爻も又何れか我が百姓に非ざらんや。ゆえに悔恨消失す。若し只だ自己の高位を倚仗して以て人の聚附を求めば、あれは心志は卽ち光大ならず。上六の爻辭は言う。嘆息流淚涕泗交下す。過錯無し。《小象傳》は言う。嘆息涕泣するは、最上位に處して而も心裏不安なるを以てなり。——上六は陰爻を以て陰位に居りて而も又一卦の最上頭に在りて、心中自ら不安を感ず。ゆえに嘆息涕泣して、轉じて九五に依附して取悦す。因此以て過錯無きを得。

升卦

(巽下 坤上)升:元亨,用見大人勿恤,南征吉。氣聚而上升,如木之升於地,元亨可知也。巽順非果於有為者,故勸以用見大人勿恤。萬物齊乎巽,而相見乎離,故南征則吉,欲其嚮明以行志也。

(下卦巽・上卦坤)升卦の卦辭は言う。大いに亨通す。それを用いて德位あるの大人を見るに、憂慮するを必とせず。南方に向かって進發すれば則ち吉。——智旭は解說す。上一卦は聚合を講ず。氣は一聚合すれば卽ち上に向かって升る。樹木の地裏より長り上るに譬ゆ。大いに亨通するは言ふまでも無し。不過巽の性情は柔順にして、あの果決にして敢作敢爲のに非ず。ゆえに卦辭はそれを勉勵して大人を見に往きて而も顧慮するを必とせずと曰く。《説卦傳》は萬物は巽の時は巽の時節の裏に於いて整齊し、離の時節の裏に於いて相見ると言う。南方は離に屬す。ゆえに南に向かって進發すれば則ち吉——意思はそれをして光明の方向に朝って志向を實現せしめんと要するなり。

彖曰:柔以時升,巽而順,剛中而應,是以大亨。用見大人勿恤,有慶也;南征吉,志行也。巽木本柔,故必以時而升。木之升固必藉土,土亦以生木為功。今九二剛中而應六五,蓋不惟木之志,亦是土之志也。象曰:地中生木,升。君子以順德,積小以高大。道體本無大小,而君子之積德也,順而致之,必由小以高大。譬如合抱之木始於微芒,但不可(片*戈)伐,亦不可助長耳。

《彖傳》は言う。柔順者は時節に按って上に向かって生長す。下卦は巽にして上卦は順にして、九二は陽剛にして中に居りて六五と相應す。ゆえに大いに亨通す。それを用いて大人を見るに憂慮するを必とせざるは、喜慶有るを以てなり。南に向かって進發すれば則ち吉は、志向の推行するを得るを以てなり。——智旭は解說す。巽の象する所の樹木の本性は柔弱なり。ゆえに必ず時節に順って慢慢に上に長りて行かんと要す。樹木の上長は固より土壤を憑藉せんと要するも、土壤も亦以て能く樹木を生長するを其の功用と爲す。今九二は陽剛にして中に居りて六五と相應すれば、見る可し上に向かって生長するの此の事は只だ木の心志のみに非ずして、同じく亦是れ土の心志なり。《大象傳》は言う。地裏に樹木を長出する是れ升卦なり。君子は此に取法して、本性に順って德行を培養して、細小を以て一點一點積累して高大と成す。——智旭は解說す。道體本身は竝びに大小の別無し。然るに君子の德行を積累するは、總て當に次第に順って往きてそれを成就して、必定として小よりして漸漸に高大なるを要す。合抱の大樹も亦是れ一點の細芽より長起せしに似たり。只だ是れ以て刀斧を拿って往きてそれを砍伐すべからず、亦以て宋國人の苗を拔くがごとくして往きてそれが長るを幫す可からず。(「(片*戈)」是れ底本の偏旁を用いて拼合して表示するの字にして、卽ち砍伐の義なり。今は原式を照録す。)

初六:允升,大吉。象曰:允升大吉,上合志也。為巽之主,上與二陽合志,故信能升而大吉也。九二:孚乃利用禴,無咎。象曰:九二之孚,有喜也。升九二之求孚於六五,以各不得其正,非如萃六二之孚於九五也。但萃之六二,以兩鄰同質而不同志,故中雖未變,而須引吉;今升之九二,以兩鄰異質而志相合,故不惟無咎,而且有喜。

初六の爻辭は言う。確實に能く上升す。大吉。《小象傳》は言う。確實に能く升りて大吉なるは、上面と心志相合するを以てなり。——智旭は解說す。初六是れ下卦巽の主爻にして、上面は九二・九三の兩箇の陽爻と心志相合す。ゆえに確實に能く上升して大吉なり。九二の爻辭は言う。心に誠信を存せば、卽ち最も簡薄の禴祭を用ゐるも亦利あり。過錯無し。《小象傳》は言う。九二の誠信は、喜慶有るなり。——升卦の九二は六五の信を取らんと要して、兩爻は各自皆位に當らず(陽は陰位に居り・陰は陽位に居る)。情形は萃卦の六二の九五の信を取るがごときの兩邊皆中正なるに同じからず。不過萃卦の六二は、左右の兩箇の鄰爻はそれと同是れ陰爻にして・性質相同にして而も心志同じからず。ゆえにそれは中に居るの操守は變らずと雖も、還た當に自己を牽引出來して始めて吉なり。今升卦の九二は、左右の兩箇の鄰爻はそれと性質相異にして而も心志相合す。ゆえに不但過錯無きのみならず、而且喜有り。

九三:升虛邑。象曰:升虛邑,無所疑也。以堅剛之木,上升於柔順之土,何疑阻哉。六四:王用亨于岐山,吉,無咎。象曰:王用亨于岐山,順事也。巽之升也為木,坤之升也為山,而人之升也為亨於天地山川鬼神,其事不同,其所以為順一也。方木之升於地,人但以為木克土耳,不知木升即是地升,以離地四微,別無木四微故。如太王之去豳而邑於岐,人但以為王棄豳耳,不知邑岐即是邑豳,以非舍豳人而別撫岐人故。

九三の爻辭は言う。一座の空城に走り入るがごとくして毫も阻碍無くして上升す。《小象傳》は言う。空城に升入るは、疑慮する可き無きを以てなり。——智旭は解說す。堅硬剛强の木を拿って、柔軟順從の土の裏に上に長りて往けば、何の疑慮阻碍すべき有らんや。六四の爻辭は言う。君王は岐山に於いて祭享を舉行せり。吉・過錯無し。《小象傳》は言う。君王の岐山に於いて祭享するは、理に順って行ずるの事なり。——巽に就いて言えば、上升は表現して樹木と爲る。坤に就いて言えば、上升は表現して山と爲る。人に就いて言えば、上升は表現して天地山川鬼神を祭享すると爲る。三者の事相は同じからずして、而も「順」と爲る所以は則ち是れ一樣なり。樹木の地裏より長り上るの時に當りて、人人們は只だ當に是れ木の土に克つなりと爲すのみにして、然るに木の上升は卽ち地の上升なるを知らず——地の地水火風の「四微」(色法を構成するの極微成分)を離るれば、竝びに另外の一套の木に屬するの四微無きを以てなり。周太王の豳地を離れて而も岐山の下に於いて邑を建てしに似たり。人們は只だ當に是れ太王の豳を抛棄したりと爲すのみにして、然るに岐に於いて邑を建つるは卽ち豳に於いて邑を建つるに等しきを知らず——彼は竝びに豳地の人民を丢下りて、另りて岐山の人民を安撫しに往くに非ざるを以てなり。

六五:貞吉升階。象曰:貞吉升階,大得志也。朝有君子,則聖王之志得,猶地有喬木,則成園苑,故地未有不以升木為志者也。九二剛中而五應之,此明與以可升之道,猶聖王之設階以升君子。但恐其以陰居陽,不能鑑九二之孚,故特以貞誡之,欲其貞於九二也。上六:冥升,利于不息之貞。象曰:冥升在上,消不富也。升至於冥,可以息矣,而有不息之貞,則宜冥而益升,此所謂天爵也。修其天爵,則匹夫不為貧賤,而不富可消矣。

六五の爻辭は言う。正を守れば則ち吉。台階に沿って上升す。《小象傳》は言う。正を守りて吉を得・階に沿って升るは、大大に心志を實現したるなり。——智旭は解說す。朝廷の上に君子有れば、聖王の心志は卽ち滿足せられて、地上に高大の樹木を長れりて而も園林と成れるに譬ゆ。ゆえに大地は「樹をして上に長り來らしむる」を以て自己の心志と做さざる無し。九二は陽剛にして中に居りて六五はそれと相應す。これ是れ明明白白としてそれに一條の以て上升すべきの路を給へば、聖王の專ら台階を設けて君子をして級を拾ひて上らしむるに譬ゆ。只だ六五の陰爻を以て陽位に居りて、九二のあの份の誠信を看淸する能わざるを怕れて、ゆえに特意に一箇の「貞」の字を用いてそれを告誡して、それをして專一に九二を信守せしめんと要す。上六の爻辭は言う。昏冥の中に於いても還た上に向かって升る。あの永不息の正道を守住するに宜し。《小象傳》は言う。昏冥の中に於いて上升して最上位に居るは、消減の中に在りて能く富足せざるなり。——上升して昏冥不明の地步に到れば、本來當に停下來すべし。然るに若し一種の永不息の正道有れば、則ち當に愈々昏冥なるに愈々上に向かって升るべし。これ卽ち孟子の説く所の「天爵」(上天の賦與するの爵位、卽ち仁義忠信)なり。一箇の人は其の天爵を修養せば、則ち卽使是れ匹夫なるとも亦貧賤と算せずして、「不富」の缺憾は自然に消解す。

困卦

(坎下 兌上)困:亨,貞,大人吉,無咎,有言不信。升而不已必困,此盈虛消息之常也。困心衡慮,實所以致亨。然不以正道持之,不以大人處之,何能吉無咎哉。設無躬行實德,而但有空言,決不足以取信矣。

(下卦坎・上卦兌)困卦の卦辞には、亨る、貞なり。徳位ある大人は吉であって咎なし。空言を発しても人に信ぜられない、とある。——智旭の解説:前の卦は上昇を説いた。ひたすら昇って止まらなければ、必ず困窮に行き着く。これは盈・虚・消・息の常の理である。《孟子》に「心に困し、慮に衡う」とあるが、心が困せられ思慮が塞がれることこそ、まさに亨通を招く道である。しかし正道をもってこれを守らず、大人の度量をもってこれに処らなければ、どうして吉で咎なしを得られようか。もし躬行の実徳がなく、ただ空言だけならば、決して人の信を取るに足りない。

彖曰:困,剛掩也。險以說,困而不失其所亨,其惟君子乎。貞大人吉,以剛中也。有言不信,尚口乃窮也。坎剛在下,而為兌柔所掩,剛既被掩,水漏澤枯,困之象也。處險而說,素患難行乎患難,遁世無悶,不改其樂,非君子其孰能之。九二九五,皆以剛而得中,此大人之貞,吉之道也。苟不守此貞,而徒尚口,適足以取窮而已矣。

《彖伝》にいう。困卦は陽剛が陰柔に掩われた卦である。険難の中に身を置きながらなお悦ぶことができ、困窮の中で亨通を失わないのは、おそらく君子だけができることであろう。貞にして大人が吉なのは、九二・九五の陽剛が中に居るからである。空言が信ぜられないのは、ひたすら口を逞しゅうすれば行き詰まるからである。——智旭の解説:下卦坎の陽剛は下にあって、上卦兌の陰柔に掩われている。陽剛が掩われれば水は漏れ尽し沢は涸れる。これがまさに困の形象である。険難の中に身を置きながら心なお悦ぶのは、まさに《中庸》のいう「患難に素し患難を行う」であり、《繋辞伝》のいう「世を遯れて悶えず」であり、孔子が顔回を称した「其の楽を改めず」である——君子でなければ誰ができよう。九二と九五はいずれも陽剛をもって上下卦の中位に居る。これが大人の守る貞であり、吉を得る道である。もしこの貞を守らず、ただ口舌の能を逞しゅうするだけならば、ちょうど自分を絶路に追い込むだけである。

象曰:澤無水,困。君子以致命遂志。水在澤下,澤中無水,枯槁窮困,此已定之命也,君子致之而已,豈容作意而不順受。剛中故處險能說,此在我之志也,君子則心遂之,豈因顛沛而或稍違。

《大象伝》にいう。沢の中に水がないのが困卦である。君子はこれに法って、命を捨てて志を遂げる。——智旭の解説:水は沢の下に漏れ去り、沢中に水なく、枯れ果て窮乏している。これは定まった命であり、君子はただこれに付し、坦然と受け承けるだけである。どうして念を起こして抗い順受しないことができようか。そして陽剛が中に居るがゆえに、身は険中にあってなお悦ぶことができる。これは己にある志であり、君子は一心にこれを貫き通すのであって、どうして顚沛流離によって少しでもこれに背こうか。

初六:臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。象曰:入于幽谷,幽不明也。六爻皆處困者也,惟剛中大人能不失其所亨。初六居下,臀之象也,上應九四之株木,正當困時,不能相庇;而陰居險初,則如入于幽谷,三歲不能相見矣。

初六の爻辞にいう。臀が株木に当たって耐え難く、幽谷に入り、三年人と見えない。《小象伝》にいう。幽谷に入るのは、幽暗で明らかでないからである。——智旭の解説:六爻みな困の中に身を置くが、陽剛が中に居る大人のみが亨通を失わない。初六は全卦の最下に居り、臀の形象である。その上に応ずる九四があの株木であり、困窮に当たって九四は自ら救う暇もなく、これを庇護できない。加えて陰爻をもって坎険の初めの位に居るがゆえに、幽谷に入るがごとく、三年の久しきにわたり人に見えないのである。

九二:困于酒食,朱紱方來,利用亨祀,征凶,無咎。象曰:困于酒食,中有慶也。當困之時,能以剛中自養,故名困于酒食。九五陽剛中正之君,必將以朱紱錫我,使我同濟時困;我但當默然以誠應之,如亨祀然,若遽往則必有凶,而志在救時,仍無咎也。中有慶,即是貞大人吉。此如伊尹就湯。紱,蔽膝也。

九二の爻辞にいう。酒食に困し、朱紱方に来る。祭祀を用いるに宜しく、征行は凶、咎なし。《小象伝》にいう。酒食に困むのは、中に居て慶あるからである。——智旭の解説:困窮に当たり、九二は陽剛居中の徳をもって自ら涵養できるがゆえに、「酒食に困む」という——酒食の類の供養に囲まれて困むのである。九五という陽剛中正の君は、必ず朱紱を賜り、我とともに時局の困厄を救済させようとする。私はただ黙々と誠意をもってこれに応え、祭祀を行うように恭敬すべきで、慌てて駆けつければ必ず凶となる。ただ私の志は時局を救うことにあるがゆえに、なお咎はない。《小象伝》のいう「中に慶あり」とは、卦辞のいう「貞にして大人吉」である。これは伊尹が招聘に応じて湯に帰ったようなものである。「紱」とは礼服の前に垂れる蔽膝のことである。

六三:困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。象曰:據于蒺藜,乘剛也;入于其宮,不見其妻,不祥也。陰柔不中不正,居於二陽之間,四如石,二如蒺藜。上六不與相應,故入其宮而不見其妻。由無禎祥之德,所以自取其凶。

六三の爻辞にいう。大石に行き塞がれ、蒺藜の上に坐り、家に帰って妻に見えない。凶。《小象伝》にいう。蒺藜に坐るのは、陽剛の上に乘るからである。家に帰って妻に見えないのは、不祥の兆である。——智旭の解説:六三は陰柔をもって中にも位にも当たらず、九二・九四の二つの陽爻の間に挟まっている。九四は行く手を塞ぐ大石のごとく、九二は刺す蒺藜のごとし。上六はこれと同じく陰爻で応じることができないがゆえに、己の家に帰っても妻に見えない。これは全て吉祥を招くべき徳がないために、自ら凶を招いたのである。

九四:來徐徐,困于金車,吝,有終。象曰:來徐徐,志在下也;雖不當位,有與也。夫處困而亨,非剛中者不能也。九四正在困時,猶不能忘情於初六,而來徐徐。既志在初六,豈惟不與九二合德,反困於九二之金車而吝矣。然九二剛中,必能與我同濟時困,不因我不當位而遂棄我,故可有終。

九四の爻辞にいう。ゆっくりと来るが、金車に困せられ、吝があるが終に結果あり。《小象伝》にいう。ゆっくり来るのは、志が下にあるからである。位に当たらないが、与(たすけ)がある。——智旭の解説:困窮の中に身を置きながら亨通を失わないのは、陽剛居中の人でなければできない。九四は困窮に当たって、なお下の初六に恋々として忘れないがゆえに、行く足が遅い。心を初六に置く以上、九二と同心同徳になることができないばかりか、かえって九二の金車に遮られて吝を生ずる。しかし九二は陽剛居中であり、必ず我とともに時局の困厄を救済してくれ、私が位に当たらないからといって見捨てはしない。だから終に良い結果があるのである。

九五:劓刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。象曰:劓刖,志未得也;乃徐有說,以中直也;利用祭祀,受福也。九五陽剛中正,居於尊位,視天下如一身者也。上六困于葛藟,如劓我之鼻;初六困于株木,如刖我之足。我方賴九二同行濟困,猶如赤紱,而彼方困于酒食,則是我困于赤紱也。然九二中直,必徐應我而有悅,我當竭誠以感之,如祭祀然,庶可以受福矣。

九五の爻辞にいう。鼻を割き足を刖かれたごとく、朱紱に困せられる。徐々に説(よろこ)びあり、祭祀を用いるに宜しい。《小象伝》にいう。劓刖を受けるのは、志いまだ得ざればである。徐々に説びあるのは、中に居て正しきがゆえである。祭祀を用いるに宜しいのは、福を受けるがゆえである。——智旭の解説:九五は陽剛中正で尊位に居り、天下を我が一身のごとく見る人である。上六が葛藟に困せられているのは、我が鼻を割かれるがごとく、初六が株木に困せられているのは、我が足を刖がれるがごとし。私は九二とともに行って困厄を救済することを期しており、あの朱紱こそ彼に賜る信物である。ところが彼はあちらで「酒食に困」んで遽かに来ない。それはすなわち私がこの赤紱に困せられているに等しい。しかし九二は中に居て正しいがゆえに、必ず徐々に我に応えて歓悦を生ずる。私は誠意を尽くして彼を感動させ、祭祀を行うように恭敬すべきであり、こうして初めて福を受けることが望めるのである。

上六:困于葛藟,于臲卼,曰動悔有悔,征吉。象曰:困于葛藟,未當也;動悔有悔,吉行也。處困之極,可以動而行矣。陰柔才弱,疑慮未當,猶牽纏而不自安,懼其動而有悔,而每自退悔也,故聖人直以征吉決之。

上六の爻辞にいう。葛藟に困せられ、揺れ動いて安からぬ地に処る。心の中で「動けば悔いる」といい、実はすでに悔いている。征行すれば吉。《小象伝》にいう。葛藟に困せられるのは、処するところ当たらざればである。動けば悔いるといって果たして悔いを生じたが、往き行けばかえって吉の行である。——智旭の解説:上六は困窮の極点に処り、本来なら動いて往くべき時である。ところが陰柔で才力が弱く、疑慮がその宜しきを得ず、なお葛藟のような纏綿に心を安んじられず、一動すれば悔いることを恐れ、そこでしばしば自ら先に退縮して悔いる。だから聖人はあえて「征行すれば吉」の二字をもって彼のために決断を下したのである。

井卦

(巽下 坎上)井:改邑不改井,無喪無得,往來井井。汔至,亦未繘井,羸其瓶,凶。夫井者,居其所而遷者也。知井之居所而遷,則知困之窮而通矣,故次困而明井。邑可改,井不可改;可改則有喪有得,既不可改,何喪何得。食水者往,未食者來,人有往來,井何往來。下瓶將及於水曰汔至,得水收繩未盡曰未繘井;繘井則有功,未繘羸其瓶則凶。此皆人之得喪,非井之得喪也。知井無得喪,則知性德六而常即;知人有得喪,則知修德即而常六。故曰井德之地也,又曰井以辯義。

(下卦巽・上卦坎)井卦の卦辞にいう。邑は改めるべし、井は改めるべからず。井水は減りもせず増えもしない。往き来たる人はみな井に水を汲む。水がまさに打ち上げられようとして綯(なわ)がまだ巻き終わらず、瓶を破る。凶。——智旭の解説:井というものは、《繋辞伝》のいう「其の所に居りて遷る」ものである——自らは原地に止まって動かず、功用は四方に輸送される。井が原所を守りながら功用が遷ることを知れば、困卦がなぜ窮極してかえって通達するかも分かる。だから井卦は困卦の直後に続くのである。邑は改められるが井は改められない。改められるからこそ失・得が論じられるのであって、改められない以上、何の失があり何の得があろうか。水を飲んだ人は去り、飲んだことのない人が来る。往き来たるのは人であって、井にどんな往来があろうか。瓶を下ろしてほぼ水面に届くのを「汔至」といい、水は汲み上げられたが綯がまだ巻き終わらないのを「未繘井」という。綯を巻き終わって初めて功があり、終わらないうちに瓶を破れば凶である。これらはみな人の得失であって、井の得失ではない。——彼は続いて仏法をもって点出する。井それ自体に得も失もないことを知れば、本具の「性徳」は「六即」(理即・名字即・観行即・相似即・分証即・究竟即という六つの階位)を歴ても当下そのものであることを知る。人に得失があることを知れば、後天の「修徳」は当下そのものでありながら六つの階位が宛然としてあることを知る。だから《繋辞伝》に「井は徳の地なり」とあり、また「井は義を弁ずるを以てす」とある。

彖曰:巽乎水而上水,井。井養而不窮也。改邑不改井,乃以剛中也;汔至亦未繘井,未有功也;羸其瓶,是以凶也。水輪含地,故鑿地者無不得水,喻如來藏性具一切陰界入等,故觀陰界入者無不得悟藏性,但貴以妙止觀力深入而顯發之。藏性一顯,自養養他更無窮盡也。困之貞大人吉,曰以剛中;今改邑不改井,亦曰乃以剛中。困似專指修德,其實發明全修在性;今似專指性德,其實要人全性起修。故隨明未有功而羸瓶則凶,其重修德甚矣。

《彖伝》にいう。木桶を順に水に入れて水を汲み上げるのが井である。井は衆人を養って窮まらない。邑は改められて井は改められないのは、九二・九五の陽剛が中に居るからである。水がほぼ上がるに及んで綯が巻き終わらないのは、まだ功を成していないからである。瓶を破る、だから凶である。——智旭の解説:仏教では大地の下に水輪が托しているというがゆえに、地を鑿って水の出ないことはない。これは「如来蔵」(衆生が本来具える仏性の宝蔵)の本性に一切の五陰・十八界・十二入などの世間法が具足していることの譬喩であり、だから五陰・十八界・十二入を観察する人で蔵性に悟入できない者はない。貴ぶべきはただ微妙な止観の力をもって深く入りこれを顕発することだけである。蔵性がひとたび顕発されれば、自ら受け用い、また他人を養い、さらに窮尽しない。困卦に「貞にして大人吉」といい、《彖伝》は「剛中を以てす」と解した。ここでは「邑は改め井は改めず」といい、《彖伝》も「乃ち剛中を以てす」と解する。困卦は見たところ修徳ばかりを説くようだが、実は全部の修行が心性に本づくことを発明しようとするのであり、井卦は見たところ性徳ばかりを説くようだが、実は人に全部の心性によって修めを起こさせようとするのである。だから《彖伝》は続けて、綯が巻き終わらなければ功なく、瓶を破れば凶という——それが修徳をどれほど重く見ているかが分かる。

象曰:木上有水,井。君子以勞民勸相。夫擔水惠人,則所及者寡;鑿井任伋,則所潤者多。擔水者有作善,鑿井者無作善也。君子之慰勞於民也,則勸其交相為養焉,故養而不窮矣。初六:井泥不食,舊井無禽。象曰:井泥不食,下也;舊井無禽,時舍也。井之六爻,三陰為井,三陽為泉。初居最下,故象如泥,不惟人不食之,禽亦不顧之矣,理即佛也。九二:井谷射鮒,甕敝漏。象曰:井谷射鮒,無與也。在下之中,故為井谷;有泉可以射鮒,而上無應與,如甕既敝漏,不能相伋也。魚之至小者名鮒,蓋指初六。此是名字即佛,薄有聞熏,未成法器。

《大象伝》にいう。木桶の上に水があるのが井卦である。君子はこれに法って、百姓を慰労し互いに助け合うことを勧める。——智旭の解説:水を担いで人を周済するのでは、恵みの及ぶ範囲が限られる。井を一つ鑿って人に汲ませれば、潤すことのできる量は多い。水を担いで人に送るのは有造作の善であり、井を鑿って人に自ら取らせるのは無造作の善である。君子が百姓を慰労するのは、互いに供養し支え合うことを勧めるためであり、だからこそ養う功が窮尽しないのである。(底本の「任伋」の「伋」は「汲」に相当するのであろう、今そのまま写す。)初六の爻辞にいう。井の底は泥ばかりで飲めず、捨てられた旧井には禽も来ない。《小象伝》にいう。井泥が飲めないのは、最下にあるからである。旧井に禽がないのは、時の人に捨てられたからである。——智旭の解説:井卦の六爻では、三つの陰爻が井体を表し、三つの陽爻が泉水を表す。初六は最下に居るがゆえに淤泥を取象とし、人が飲まないばかりか禽も顧みない。——彼は続いて天台「六即」の第一位に配する。これは「理即仏」に相当し、衆生は佛性を本具し理の上では仏であるが、いまだ全く修行の言うべきものがない。九二の爻辞にいう。井の谷の小さな穴には小魚を射るだけで、汲水の瓮は破れて漏れている。《小象伝》にいう。井谷に鮒を射るのは、上に応ずる爻がないからである。——九二は下卦の中位に処るがゆえに「井谷」という。泉水があって小魚を射ることはできるが、上に応ずる爻がなく、瓮がすでに破漏しているがごとく、水を汲み上げられない。最も小さい魚を「鮒」といい、ここでは初六を指す。これは「名字即仏」に相当し、ただいささか仏法の名相を聞きいささかの薫習があるだけで、まだ法を盛る器皿になっていない。

九三:井渫不食,為我心惻,可用汲;王明,並受其福。象曰:井渫不食,行惻也;求王明,受福也。以陽居陽,其泉潔矣,猶居下卦,不為人食,是可惻也。上六應之,故可用汲。蓋王既明而用賢,則賢者之福非止獨受而已。此是觀行即佛,圓伏五住故井渫,未證理水故不食,宜求諸佛加被,則可自利利他也。

九三の爻辞にいう。井はすでに淘げて清いのに飲む人がなく、我心に恻たる思いを為す。汲み用いるべき井である。王が明であれば、並びに其の福を受ける。《小象伝》にいう。井は淘げて飲まれないのは、行く人みなこれがために恻まるからである。王明を求めるは、福を受けんがためである。——智旭の解説:九三は陽爻をもって陽位に居り、泉水はすでに清潔である。ところがまだ下卦にあって人に取り用いられない。これは実に人をして恻ましめる。幸い上六がこれに応ずるがゆえに「汲み用いるべし」。王が明らかで賢才を任用すれば、賢者の福はただ彼一人の独占ではなくなる。——彼は続いて天台の第三の階位に配する。これは「観行即仏」に相当し、すでに「五住の煩悩」(見惑一住と思惑三住、さらに無明住地を加える)を円満に伏せることができるがゆえに井は淘げたという。しかしまだ中道理体の一泓の真水を親証していないがゆえに「食せず」という。この時まさに諸仏の加被護念を祈るべきで、こうして初めて自利し兼ねて他人を利することができる。

六四:井甃,無咎。象曰:井甃無咎,修井也。甃者,以瓦石包砌其傍,所以御汙而潔泉者也,故曰修井。此是相似即佛,從思慧入修慧,御二邊之汙,而潔中道之泉。九五:井冽寒泉食。象曰:寒泉之食,中正也。陽剛中正,泉之至潔而泠然者也,功及於物,故得食之。此是分證即佛,中道理水,自利利也。上六:井收勿幕,有孚元吉。象曰:元吉在上,大成也。以陰居上,如井之收。收,即井欄。常露之而勿幕,眾皆汲之,而所養無窮矣。此是究竟即佛,功德滿足,盡未來際恆潤眾生。

六四の爻辞にいう。井を甃(く)める、咎なし。《小象伝》にいう。井を甃めて咎なきは、井を修めればである。——智旭の解説:「甃」とは、瓦石をもって井の四壁を包み砌り、汚穢を遮って泉水の清潔を保つことであり、だから《小象伝》は「井を修む」という。これは天台の「相似即仏」に相当し、思所成慧から修所成慧に入り、「空」「有」の両辺の汚染を遮り、中道の一泓の清泉を保つ。九五の爻辞にいう。井水は清洌で、飲むべき寒泉である。《小象伝》にいう。寒泉飲むべしとは、九五が中に居て正を得ればである。——九五は陽剛にして中正であり、泉水の中で最も清潔・最も清冽であり、功用はすでに外物に及んでいるがゆえに人はこれを飲むことができる。これは「分証即仏」に相当し、すでに分々に中道理体の一泓の真水を証し、自利し他人を利することができる。(底本の「自利利也」の下に「他」の一字が脱した疑いあり、今そのまま写して補わない。)上六の爻辞にいう。井口の欄圈は蓋をするな。孚(まこと)を存せば元吉。《小象伝》にいう。元吉にして上に在るは、大成なればなり。——智旭の解説:上六は陰爻をもって全卦の最上に居り、井口の収まる所のようである。「收」とは井欄のことである。常に開かせて蓋を加えなければ、衆人みな来て汲み、養うことは窮尽しない。——最後の階位に配する。これは「究竟即仏」に相当し、功徳が円満に具足し、未来際を尽くして恒に衆生を潤す。

革卦

(離下 兌上)革:已日乃孚,元亨利貞,悔亡。夫邑改而井不改者,言其處也。井舊則無禽而泥,可弗革乎。學者以變化氣質為先,猶火之鍛金也。方其煆也,金必苦之;既煆成器,而後信火之功也。此革之道,即乾坤之道,大亨以正者也。未信故有悔,已孚則悔亡矣。

(下卦離・上卦兌)革卦の卦辞にいう。革めて日を経て乃ち孚(信)あり。元いに亨り、貞に利しく、悔い亡ぶ。——智旭の解説:前の卦は邑は改められて井は改められないといったが、あれは井の処する位置について言ったのである。しかし井が一旦陳旧になれば泥に淤り禽も来ない。どうして变革を加えないでいられようか。学問をする者は己の気質を変化させることを第一の急務とする。それはまさに火で金属を鍛えるようなもので、鍛えられている最中は金属は必ず難儀に感じる。器皿に鍛え上がって初めて火の功を信服する。この变革の道はすなわち乾坤の大道であり、《彖伝》のいう「大亨にして正しきを以てす」である。人がまだ信服していなければ悔いがあり、一旦信従すれば悔恨は消える。

彖曰:革,水火相息,二女同居,其志不相得,曰革。已日乃孚,革而信之。文明以說,大亨以正,革而當,其悔乃亡。天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人。革之時大矣哉。革而信之,明未革則人不信也;革而當,乃使人信,其悔乃亡,明不當則悔不亡也。須如天地之革時,湯武之革命,方可取信於人耳。革何容易。

《彖伝》にいう。革卦は水と火が互いに熄し合い、また二女が同居して其の志が得られないようなもので、これを革という。日を経て乃ち孚あるは、革めて人これを信ずればなり。下に離の文明があり上に兌の悦びあり、大いに亨りてまた貞である。革めて当たるとき、其の悔い乃ち亡ぶ。天地革まりて四時成る。湯・武が旧き命を革めたのは、上は天に順い下は人に応じたからである。革の時というものは実に大いなるものである。——智旭の解説:「革めてこれを信ず」は、まだ革めない時には人が信じていないことを点出する。「革めて当たれば其の悔い乃ち亡ぶ」は、革め方が当たってこそ人を信服させ悔恨を消せるのであり、革め方が当たらなければ悔恨は消えないことを点出する。必ず天地が四時を革め出すように、湯・武が革命したようにして初めて、人の信を取ることが論じられる。变革はどうして容易なことだろうか。

象曰:澤中有火,革。君子以治曆明時。時無實法,依於色心分位假立。心無形像,依色表見。色有共相及不共相,共相之在上者為日月星(宿百+西@人),因日月星(宿百+西@人)周行於天,據其所歷之度,以明春夏秋冬之時。春則萬物皆春,乃至冬則萬物皆冬,故知時惟心現,無在而無所不在。猶如火性無我,亦無在而無所不在,雖澤中亦自有之。彼大海中火光常起,即其驗也。

《大象伝》にいう。沢の中に火があるのが革卦である。君子はこれに法って、暦を治めて時を明らかにする。——智旭はここでは全く仏法の名相で説く。「時間」には独立して自存する実体がなく、ただ色法と心法の変遷の分位に依って仮に立てられた名目である。心には形象がなく、色法によって初めて顕現する。色法はまた「共相」(衆生が共同で感知するもの)と「不共相」(各人に独自のもの)に分かれ、共相の中で上方にあるのが日月星宿である。日月星宿が天の上を循環して運行するので、人はその経過する度数に依って春夏秋冬の時節を標定する。春が来れば万物みな春の意であり、冬が来れば万物みな冬の象である。これによって「時間」はただ心の顕現したものであり、どこかの一処に在らないというも可、あまねく在るというも可であることが分かる。これは火の体性に本来自我の実体がなく、また一処に在らずあまねく在るのと同じで、沢水の中にあっても自ら火性がある——大海に常に火光が湧き上がるのがその証験である。(底本は偏旁を拼合して「宿」の字を表す。今そのまま原式を写す。)

初九:鞏用黃牛之革。象曰:革用黃牛,不可以有為也。離為能革,兌為所革,而初九居下,上無應與,此不可以有為者也,但用黃牛之革以自鞏固可耳。六二:已日乃革之,征吉無咎。象曰:已日革之,行有嘉也。陰柔中正,為離之主,得革物之全能者也。革必已日乃孚,而上應九五,是其嘉配,故征吉而無咎。

初九の爻辞にいう。黄牛の革で固く鞏(かた)める。《小象伝》にいう。黄牛で鞏めるは、以て有為すべからざればなり。——智旭の解説:下卦離は变革する側、上卦兌は变革される側である。そして初九は最下に居り、上に応ずる爻もない。これはまさに有為すべからざる処境であり、ただ黄牛の革で自らを固く縛り陣脚を穏めるだけである。六二の爻辞にいう。日を経て乃ちこれを革む。征行は吉、咎なし。《小象伝》にいう。日を経てこれを革むるは、行けば嘉あり。——六二は陰柔をもって中に居て正を得、また下卦離の主爻である。完全に变革の能力を具えた一爻である。变革は必ず日を経て初めて信ぜられるが、それは上で九五と応じ合い、それはまさにその佳偶良配である。だから往けば吉で咎なしである。

九三:征凶貞厲,革言三就,有孚。象曰:革言三就,又何之矣。過剛不中,而應上六。上六陰柔得正,乃君子而如文豹者也,何容更以剛燥革之。征則必凶,雖得其貞,亦仍危厲;但可自革以相順從,其言至於三就,庶亦可以取信也。

九三の爻辞にいう。征行は凶、貞にするも厲(あや)うし。革言三すれば孚あり。《小象伝》にいう。革言三就す、又何の之くかあらん。——智旭の解説:九三は剛に過ぎて中に居らず、上六と応ずる。上六は陰柔をもって位に当たり正を得ており、まさに文豹のような斑文の彩ある君子である。どうして九三がさらに剛躁の手段でこれを革めることが容されようか。往けば必ず凶を招き、正道を守ってもなお危ない。それは先ず己を革め、転じて相手に順うしかなく、言を繰り返し推求して三度目で妥当になって初めて、ほぼ人の信を取ることができるのである。

九四:悔亡,有孚改命吉。象曰:改命之吉,信志也。兌金之質,本待煆以成器,而九四無應於下,則無肯成我者,悔可知也。但剛而不過,又附近於離體之上,其志可信,故悔亡而有孚,可以改其所秉之定命,而日進於自利利他之域矣。

九四の爻辞にいう。悔い亡ぶ。孚を有して命を改むれば吉。《小象伝》にいう。命を改めて吉は、志を信ずればなり。——智旭の解説:上卦兌は金に属し、本来火に鍛えられて初めて器となる。ところが九四は下に応ずる爻がなく、すなわち私を成就してくれる人がいない。悔いがあるのは察するに足りる。幸いそれは陽爻をもって陰位に居り、剛であって過ぎず、また下卦離火のすぐ上に迫っている。その志は信ずるに足る。だから悔いが亡びて孚があり、本来禀受した定命を自ら変えて、日々に自利し兼ねて利他の境地に入ることができるのである。

九五:大人虎變,未占有孚。象曰:大人虎變,其文炳也。以陽剛中正之大人,又得六二陰柔中正之應以輔助之,故如虎之神變,炳乎有文,不待占而足以取信於天下也。上六:君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。象曰:君子豹變,其文蔚也;小人革面,順以從君也。豹亦生而有文者也,但待時而變現耳。九三剛燥小人,既見其變,亦革言三就以相順從,然僅革面,未始革心,君子正不必深求也。若欲令心革而往征之,未免得凶,惟居貞以默化之則吉。

九五の爻辞にいう。大人は虎変して、未だ占せずして孚あり。《小象伝》にいう。大人の虎変は、其の文炳(あきら)かなり。——智旭の解説:九五は陽剛中正の大人であり、また六二の陰柔中正の爻がこれに応じて輔佐となるがゆえに、虎が換毛するように神妙に変化し、斑文が燦然として、占うまでもなく天下の信を取るに足る。上六の爻辞にいう。君子は豹変し、小人は面を革める。征行は凶、居て貞にするは吉。《小象伝》にいう。君子の豹変は、其の文蔚(おう)なり。小人の革面は、順に以て君上に従えばなり。——豹も生まれながらにして花紋を持ち、ただ時節が来て顕現するのを待つだけである。九三という剛躁の小人は、上六が変じたのを見て、革めの言を三度繰り返して順従を表す。しかし彼は面を改めただけで心を改めてはいない。君子は本来それを深く責める必要はない。もし必ず彼に心を改めさせようとして師を興して往けば、凶を招くことを免れない。ただ安んじて正を守り、黙々と感化してこそ吉である。

鼎卦

(巽下 離上)鼎:元吉亨。革物者莫若鼎,此陶賢鑄聖、烹佛煉祖之器也,安得不元吉而亨哉。彖曰:鼎,象也。以木巽火,亨飪也。聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。初陰為足,二三四陽為腹,五陰為耳,上陽為鉉,非鼎象乎;以木巽火而亨飪,非鼎用乎。勿謂鼎之道小,聖人亨以享上帝,亦此鼎耳;即大亨以養天下聖賢,亦此鼎耳。何必離事別求理哉。且以卦德言之,內則巽順,外則離而耳目聰明;六五以柔為離之主,進而上行,得中位而應九二之剛。此豈非聖賢佛祖自陶自鑄、自烹自煉之道,其元亨也宜矣。

(下卦巽・上卦離)鼎卦の卦辞にいう。元吉、亨る。——智旭の解説:万物を变革するのに鼎ほど徹底したものはない。これは賢人・聖人を陶鋳し、仏祖を烹錬する一器である。どうして元吉で亨通しないことがあろうか。《彖伝》にいう。鼎は器物を象ったものである。木を火に入れれば烹飪となる。聖人は烹飪して上帝を享祀し、また大いに烹飪して聖賢を養う。下卦は巽順、上卦は離明で耳聡く目明らかである。柔爻が上に行き中に居て剛爻に応ずる。だから大いに亨る。——彼は続いて卦象を解説する。初爻は陰で鼎足のようであり、二・三・四爻は陽で鼎腹のようであり、第五爻は陰で鼎耳のようであり、上爻は陽で耳を貫く鼎鉉のようである——これはまさに鼎の形象ではないか。木を火に入れて烹飪する、これはまさに鼎の用途ではないか。鼎道が小さいと思うなかれ。聖人が烹飪して上帝を享祀するのに用いるのもこの鼎であり、大いに烹飪して天下の聖賢を養うのに用いるのもこの鼎である。どうして具体の事相を離れて別に理を求めようか。さらに卦徳について言えば、内は巽の柔順であり、外は離の光明で耳聡目明である。六五は柔爻をもって上卦離の主爻となり、上に行き中位に居て、また九二の陽剛に応ずる。これはまさに聖賢・仏祖が自ら陶鋳し自ら烹錬する道ではないか。その「元亨」は当然の理である。

象曰:木上有火,鼎。君子以正位凝命。鼎者,國之重寶,君位之所寄也。得其道以正其位,則命可凝;德不稱位,則命去而鼎隨去矣。約象明之:德如木,命如火,有木則有火,木盡則火亡;有德以正其位則命凝,德亡則命亡,故曰惟命不於常也。

《大象伝》にいう。木の上に火があるのが鼎卦である。君子はこれに法って、己の位を正して凝命する。——智旭の解説:鼎は一国の重宝であり、君位はその上に託されている。正道を得て己の位を正しゅうすれば、天命は凝りて留まる。徳が位に見合わなければ天命は去り、鼎もまたそれとともに去る。卦象をもって説明すれば、徳は木柴のごとく、命は火焔のごとし。木柴があって初めて火があり、木柴が燃え尽きれば火も滅びる。徳行をもって位を正しゅうすれば天命は凝る。徳行がなくなれば天命もまたなくなる。だから《尚書》に「命は常に於かず」——天命は固定して変わらずある一家に帰するものではない、という。

初六:鼎顛趾,利出否,得妾以其子,無咎。象曰:鼎顛趾,未悖也;利出否,以從貴也。初為鼎趾,應四故顛。然及其未烹物而顛之,舊積否惡從此可出矣。顛趾如得妾,出否如得子,母以子貴。因其子而知得妾之未悖,因出否而知顛趾之有功也。

初六の爻辞にいう。鼎が趾を顚す。否を出すに利し。妾を得て子を以てすれば咎なし。《小象伝》にいう。鼎の顚趾は、未だ悖らざるなり。否を出すに利しきは、貴に從わんとすればなり。——智旭の解説:初六は鼎足であり、九四と応ずるがゆえに牽かれて転倒する。しかしまだ物を烹飪しないうちにこれを顚せば、旧来積んだ穢悪がちょうどここから出ていく。鼎足を顚すのは妾を娶るに譬え、穢物を出すのは子を生むに譬える。母は子によって貴くなる。生んだ子によって、妾を娶ったことが礼に悖らないことが分かる。穢物を出したことによって、鼎足を顚したことがもともと功あることが分かる。

九二:鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。象曰:鼎有實,慎所之也;我仇有疾,終無尤也。二當鼎腹之下分,陽剛故為有實,上應黃耳金鉉之六五,能護守之。初雖顛趾而有疾,終不害及我也。然在二,則宜慎所之矣。

九二の爻辞にいう。鼎に実あり。我が讐(かたき)は疾あり、我に即(つ)く能わず。吉。《小象伝》にいう。鼎に実あるは、所往を愼め。我が讐に疾ありは、終に尤(とが)なし。——智旭の解説:九二は鼎腹の下段に当たり、陽爻をもって剛実であるがゆえに「実あり」という。上で六五の黄耳金鉉と応じ、六五はこれを護持し守衛できる。初六は鼎足を顚し疾を帯びているが、終に我を傷つけることはできない。ただ九二の位置に立つ以上、自らどこへ往くかはなお愼むべきである。

九三:鼎耳革,其行塞,雉膏不食,方雨虧悔,終吉。象曰:鼎耳革,失其義也。三當鼎腹之中分,其實腴美,有雉膏可食矣,上無應與,如鼎方革耳而不可行者焉。賴六五柔中之黃耳,貫上九剛而不過之玉鉉,方將舉二以及三,如陰陽之和而得雨,則可以虧悔而終吉矣。懷道而不思致用,故失其義,猶所云不仕無義,激之使及時行道也。

九三の爻辞にいう。鼎の耳が革まり、其の挙げられず、雉膏食われず。雨が降れば悔いを虧(か)く、終に吉。《小象伝》にいう。鼎耳革まるは、其の義を失えばなり。——智旭の解説:九三は鼎腹の中段に当たり、中に盛る物は最も肥美で、本来雉膏が食べられたはずである。ところが上に応ずる爻がなく、鼎耳がまさに革まり扛げないがごとし。幸い六五の柔順居中の黄耳があり、上九の剛で過ぎない玉鉉を貫き、まさに九二に連なって九三をも一斉に擡挙しようとしており、陰陽が調和して雨が降るがごとく、そこで悔いが減り終に吉となる。道を懐に抱きながら取り出して用いることを思わないがゆえに「其の義を失う」という。まさに《論語》のいう「仕えざれば義なし」である——これは九三を励まして時に応じて道を行わせるのである。

九四:鼎折足,覆公(攸-文+束),其形渥,凶。象曰:覆公餗,信如何也。四當鼎腹之上分,其實既滿,而下應初六,則不勝其重,足云折矣,形貌能無赧汗乎。始也不自知其德薄,知小力小,妄據尊位,而謀大任重;今一旦不勝其任,此其所自信者為如何也。

九四の爻辞にいう。鼎が足を折り、公の餗を覆し、其の形渥(あつ)し。凶。《小象伝》にいう。公の餗を覆す、其の信いかんせん。——智旭の解説:九四は鼎腹の上段に当たり、中はすでに満ちているのに、下に柔弱の初六と応じてこの重さに堪えられず、鼎足は自ずから折れる。顔面に汗を羞じ流さずにいられようか。初めに自らの徳が薄く見識が小さく力が小さいことを知らず、むやみに尊位を占めて大事を謀り重任を担った。今一旦担いきれなくなれば、彼の先の自信はまた何となったのか。(爻辞の「餗」の字は、底本では偏旁を拼合する方式で「(攸-文+束)」と書き、鼎中の食物を指す。今そのまま原式を写す。)

六五:鼎黃耳金鉉,利貞。象曰:鼎黃耳,中以為實也。五為鼎耳,而有中德,故其色黃;以虛受實,故為金鉉,鉉即指上九也。以鉉貫耳,以耳舉鼎,盡天下聖賢而養之,豈非聖人大亨之正道乎。然六五自本無實,特下應九二之剛中以之為實,即以此而養天下,所謂為天下得人者耳。

六五の爻辞にいう。鼎に黄耳・金鉉あり。貞に利し。《小象伝》にいう。鼎の黄耳は、中以て実と為せばなり。——智旭の解説:第五爻は鼎耳であり、また居中の徳を具えるがゆえに黄色を取る(五色の中で中に居る色)。虚空の耳孔をもって堅実の鉉を承けるがゆえに「金鉉」といい、「鉉」は上九を指す。鉉をもって耳孔に貫き、耳孔をもって全鼎を挙げ、天下の聖賢をことごとく供養する——これはまさに聖人の「大亨に以て聖賢を養う」の正道ではないか。ただ六五自体は陰爻で本来実質がなく、ただ下で九二の陽剛居中と応じて、九二を己の実質とする。この一点をもって天下を養うのであり、《孟子》のいう「天下の為に人を得」である。

上九:鼎玉鉉,大吉無不利。象曰:玉鉉在上,剛柔接也。上為鼎鉉,自六五觀之,則如金之剛;自其剛而不過之德言之,則如玉之潤矣。金遇猛火則鎔,玉非火所能壞,以此舉鼎,故大吉無不利也。

上九の爻辞にいう。鼎に玉鉉あり。大吉、利あらざるなし。《小象伝》にいう。玉鉉上に在りは、剛柔節なればなり。——智旭の解説:上爻は鼎鉉である。六五の方から見れば金のように剛硬だが、その剛で過ぎない徳性について言えば玉のように温潤である。金は猛火に遭えば鎔けるが、玉は火の損じるところではない。このような玉鉉をもって鼎を擡ぐがゆえに、大吉で利あらざるなしである。

震卦

(震下 震上)震:亨。震來虩虩,笑言啞啞。震驚百里,不喪匕鬯。主重器者莫若長子,長子未有不奮動以出者也,故震則必亨。然其亨也,必有道以致之。方其初動而來,虩虩乎如蠅虎之周環顧慮,仍不失其和,而笑言啞啞。夫惟存於己者既嚴且和,以此守重器而為祭主,縱遇震驚百里之大變,能不喪其匕鬯矣。佛法釋者:一念初動,即以四性四運而推簡之,名為虩虩;知其無性無生,名為笑言啞啞;煩惱業境種種魔事橫發,名為震驚百里;不失定慧方便,名為不喪匕鬯也。

(下卦震・上卦震)震卦の卦辞にいう。亨る。震の来たるや虩虩(けきけき)と驚き懼れ、笑い言うこと啞啞(あくあく)たり。雷の声は百里を驚かすが、手中の匕と鬯の酒は失われない。——智旭の解説:宗廟の重器を主る者は長子ほど適した者はいない。長子で奮発して出て大任を担わない者はいないがゆえに、震卦は必ず亨通する。ただしその亨通には、必ずこれを達成する一筋の路がある。雷震がまさに発動して来るとき、彼は驚懼して四方を顧み、蠅虎(蠅を捕える小さな蜘蛛)のように周身を環視してあらゆる所を顧慮するが、心はなお和楽を失わない。だから談笑自ら如たりでいられる。惟れ内心の存養が厳粛にして和平であるがゆえに、これをもって宗廟の重器を守り主祭の人に当たれば、たとえ百里を驚動させる大変故に遭っても、手の中の匕と鬯の酒を落とさずにいられる。以下智旭は仏法に転じて会通する。心の中に一念が初めて動いたとき、「四性推検」(この念が自生か他生か共生か無因生かを推求する)と「四運推検」(未念・欲念・正念・念已の四つの段階を推求する)をもって仔細に簡別する。これを「虩虩」という——驚懼四顧するように反覆審察する。推検の下にこの一念が本来自性なく本不生であることを明白に知り、心地坦然となる。これを「笑言啞啞」という。修行の中で煩悩が現前し、宿業の境界が現前し、種々の魔事が横に生ずる。これを「百里を驚かす」という。そして終始禅定・智慧・善巧方便を失わない。これを「匕鬯を喪わず」という。

彖曰:震,亨。震來虩虩,恐致福也;笑言啞啞,後有則也。震驚百里,驚遠而懼邇也。出可以守宗廟社稷,以為祭主也。恐懼乃能致福,福不可以幸邀,所謂生於憂患也;啞啞亦非放逸,仍不失其法則也。惟其養之有素如此,故雖當驚遠懼邇之變,人皆退避,而偏能出此凝定之神以當之,可以守宗廟社稷而為祭主也。為祭主,即是不喪匕鬯註腳。

《彖伝》にいう。震は亨る。震の来たるや虩虩たるは、恐を致して福を致せばなり。笑い言うこと啞啞たるは、後に則あるなり。百里を驚かすは、遠を驚かし近を懼れしむればなり。かくのごとき者が出て、以て宗廟社稷を守り、祭主と為るべし。——智旭の解説:恐れを知って初めて福を招くことができ、福は僥倖に求められるものではない。まさに孟子のいう「憂患に生まる」である。「啞啞」の談笑も放縦・鬆懈ではなく、なお自らの法度を失わない。惟れ平日に涵養がかくも素あるがゆえに、たとえ遠驚近懼の大変故に遭い、人がみな退避しても、彼は偏にこの凝定の精神を取り出して承当でき、よって宗廟社稷を守り主祭の人となることができる。「為祭主」の三字は、まさに卦辞「匕鬯を喪わず」の注脚である。

象曰:洊雷震。君子以恐懼修省。君子不憂不懼,豈俟雷洊震而後恐懼修省哉。恐懼修省,正指平日不睹不聞慎獨功夫。平日功夫能使善長惡消,猶如洊雷能使陽舒陰散也。惟其恐懼修省慣於平日,故雖遇洊雷,亦復不憂不懼矣。問曰:孔子迅雷風烈必變,復云何通?答曰:此是與天地合德,變則同變,亦非憂懼。

《大象伝》にいう。雷が洊(くみかさ)なり至るのが震卦である。君子はこれに法って、恐懼を以て脩省する。——智旭の解説:君子は本来憂えず懼れないのに、どうして雷が連震するのを待ってから恐懼脩省する必要があろうか。ここにいう「恐懼脩省」とは、まさに《中庸》のいう、人の見ず聞かざる処に愼独する平日の工夫を指す。平日の工夫は善念を増長させ悪念を消退させ、連綿の雷が陽気を舒展させ陰気を消散させるがごとし。惟れ恐懼脩省がすでに平日の習慣となっているがゆえに、たとえ連震の雷に遭っても、なお従来どおり憂えず懼れない。ある人が問う。《論語》に孔子は迅雷烈風に遭えば必ず色を改めたと記すが、これはどう解すべきか。答えていう。あれは天地と徳を合わせるもので、天地が一変すれば彼もまたそれに随って変わるのであり、やはり憂懼ではない。

初九:震來虩虩,後笑言啞啞,吉。象曰:震來虩虩,恐致福也;笑言啞啞,後有則也。六爻皆明恐懼修省之道,而德有優劣,位有當否,故吉凶分焉。初九剛正,為震之主,主器莫若長子,吉可知矣。

初九の爻辞にいう。震の来たるや虩虩、後に笑い言うこと啞啞。吉。《小象伝》にいう。震の来たるや虩虩たるは、恐を致して福を致せばなり。笑い言うこと啞啞たるは、後に則あるなり。——智旭の解説:六爻はみな恐懼脩省の道理を闡明しているが、各爻の徳行に高下があり爻位に当否があるがゆえに、吉凶が分かれる。初九は陽剛にして位に当たり正を得、また震卦の主爻である。《序卦伝》に宗廟の重器を主るのに長子ほど適した者はないという。その吉は察するに足りる。

六二:震來厲,億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。象曰:震來厲,乘剛也。六二乘初九之剛,蓋嚴憚切磋之畏友也。藉此深自惕厲,以振刷我陰柔懦弱之習,舉吾平日所謂中正純善多種寶貝盡喪不顧,直躋於乾健高明之九陵,勿更留意求逐。然至於七日,復其故位,則中正純善之德仍在矣。

六二の爻辞にいう。震の来たるや厲し。貝を喪い、九陵に躋(のぼ)る。逐うなかれ、七日にして得ん。《小象伝》にいう。震の来たるや厲しきは、剛に乘ればなり。——智旭の解説:六二は初九の陽剛の上に乘り、初九はそれに対して敬畏せられ切磋琢磨し得る畏友のようである。それはこの圧力を借りて深く自ら警醒振発し、陰柔懦弱の習気を一遍に刷洗し、平日自ら中正純善と思う種々の「宝貝」もいっさい捨てて顧みず、まっすぐ乾徳の剛健高明なる九重の高丘に登り、それらの失ったものを追い求めようとも留意しない。しかし第七日に至って、それは元の位置に回復し、あの中正純善の徳行は依然としてある。

六三:震蘇蘇,震行無眚。象曰:震蘇蘇,位不當也。三遠於初,初之所以驚發我者,蘇蘇而不切矣。三當自以震行,勿因遠於畏友,而緩其恐懼修省之功,則無眚也。九四:震遂泥。象曰:震遂泥,未光也。九四亦震主也,以陽居陰,復陷四陰之間,雖似洊至,遂失其威而入泥,豈能如虩虩啞啞之有光哉。

六三の爻辞にいう。震は蘇蘇(そそ)と弱々しく、震行せば眚(わざわい)なし。《小象伝》にいう。震蘇蘇たるは、位当たらざればなり。——智旭の解説:六三は初九から遠く離れ、初九が私を警醒振発するのに用いる力は、ここに至ってすでに鬆緩で身に切実でない。六三は自ら震動の勁さを取り出して前に往くべきであり、畏友から離れたからといって恐懼脩省の工夫を緩めてはならない。こうして初めて災患がない。九四の爻辞にいう。震は泥に遂(お)ちる。《小象伝》にいう。震の泥に遂ちるは、未だ光ならざればなり。——九四も震卦の一つの主爻であるが、陽爻をもって陰位に居り、また四つの陰爻の中間に陥ちて、雷が洊なり至るがごとく見えても、すぐに威勢を失って泥淖に陥る。どうして初九の「虩虩」「啞啞」のような光明に及ぼうか。

六五:震往來厲,億無喪有事。象曰:震往來厲,危行也;其事在中,大無喪也。震六二者惟初九,故但云來厲;震六五者,則初九與九四也,初震既往,四震復來,五得藉此以自惕厲,令所行日進於高明,故曰危行,猶所云邦有道危言危行也。以六居五,不過於柔,又得中道,故其德甚多,而毫無所喪,但有恐懼修省之事耳。

六五の爻辞にいう。震の往き来たるや厲し。億(おも)えば喪うことなく、事あり。《小象伝》にいう。震の往き来たるや厲しきは、危行なればなり。其の事中に在り、大な喪いなきなり。——智旭の解説:六二を震動させるのは初九一つだけなので、爻辞はただ「来厲」という。六五を震動させるのは初九と九四の二つで、初九の震がちょうど過ぎれば九四の震がまた来る。六五はこの一往一来によって自ら警醒し、自らの行事を日々に高明に向かわせるがゆえに、《小象伝》は「危行」という。まさに《論語》のいう「邦に道あれば言を危(ただ)しく行を危しくす」——邦国が清明な時は言論・行事ともに高峻で苟合しない。それは陰爻をもって第五位に居り、柔弱に過ぎず、また中道を得ているがゆえに、徳行は盛んで毫も喪うことなく、ただ恐懼脩省という一事が加わるだけである。

上六:震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎。婚媾有言。象曰:震索索,中未得也;雖凶無咎,畏鄰戒也。初九之剛,固不足以及我;九四震亦遂泥,聲已索索無餘威矣。而陰柔弱極,方且視矍矍而惶惑無措,以此徵往,則中心無主,神已先亂,凶可知也。然震既不及其身,止及其鄰,即因震鄰而恐懼修省,亦可無咎。但禍未至而先防,乃明哲保身之道,儻與婚媾商之,必反以為迂而有言矣。君子可弗自勉乎。

上六の爻辞にいう。震は索索(さくさく)として零落し、視は矍矍(かくかく)として惶れ顧みる。征行は凶。震は其の躬に及ばず、其の鄰に及ぶ。咎なし。ただ婚媾に言(いひ)あり。《小象伝》にいう。震索索たるは、未だ中を得ざればなり。凶と雖も咎なきは、鄰に畏れればなり。——智旭の解説:初九の陽剛は本来上六に届かない。九四の震はまた泥に陥ちて、雷の声はここに至り零落して余威がない。しかし上六は陰柔が極弱の地に至り、なお両眼を惶れ顧みて手足の措き所を知らない。この様子を帯びて前に往けば、心に主なく精神が先に乱れ、凶は察するに足りる。ただ雷震が自身に及ばず鄰人に及んだ以上、彼が鄰人の震に遭ったのに因って恐懼脩省すれば、また咎なくありうる。ただ禍患がまだ臨まない先に備えるのは、明哲保身の法である。もしこれを婚媾と商量すれば、人は必ずその迂闊を嫌って閑言をいう。君子はどうして自ら勉励しなくてよかろうか。

艮卦

(艮下 艮上)艮其背,不獲其身;行其庭,不見其人,無咎。夫動與止,雖是相對待法,亦是相連屬法,又是無實性法,究竟是無二體法也。不動曰止,不止曰動,此約相對待言也;因動有止,因止有動,此約相連屬言也;止其動則為靜,止其靜則為動,動其止則為動,動其動則為止,此約無實性言也;止即是動,故即寂恆感,動即是止,故即感恆寂,此約無二體言也。知動止無二體者,始可與言止矣。

(下卦艮・上卦艮)艮卦の卦辞にいう。其の背に止り、其の身を獲ず。其の庭を行きて其の人を見ず。咎なし。——智旭は開巻すぐに仏法の四層の見方で「動」と「止」を説く。動と止は一対の相待して立つ法であると同時に、また彼此相連相属の法であり、また実在の自性のない法であり、帰結するところはさらに二つの体のない法である。動かないのを止といい、止まらないのを動という。これは相待して立つについて言う。動あるがゆえに止があり、止あるがゆえに動がある。これは相連相属について言う。動を止めれば静となり、静を止めれば動となり、止をもう一度動かせば動となり、動をもう一度動かせばかえって止となる。これは実在の自性がないについて言う。止は当下そのまま動であり、だから寂静でありながら恒常に感応する。動は当下そのまま止であり、だから感応しながら恒常に寂静である。これは二つの体がないについて言う。動と止が二つの体でないことを知る人に対して、初めて「止」を語る資格がある。

夫人之一身,五官備於面,而五臟司之;五臟居於腹,而一背繫之。然玄黃朱紫陳於前,則紛然情起;若陳於背,則渾然罔知,故世人皆以背為止也。然背之止也,縱令五官競騖於情慾,而仍自寂然;逮情之動也,縱復一背原無所分別,而畢竟隨往。故以面從背,則背止而面亦隨止;以背從面,則面行而背亦隨行。究竟面之與背,元非二體,不可兩判。

——彼は続いて人身から説き起こす。人の一身は、眼・耳・鼻・舌などの五官はいずれも顔に生え、五臓がこれを主管する。五臓は腹中に安んじ、全く一条の脊背が連繋する。ところが黒・黄・紅・紫を面前に陳べれば、人は紛々と情念を起こす。同じものを背後に陳べれば、人は渾然として覚えない。だから世人はみな背を「止」の象徴とする。しかし背というこの「止」は、五官が争って情欲に奔逐しても、なお寂然として動かない。情念が一動すれば、背は本来分別を起こさないが、最後にはやはりそれに随って行ってしまう。だから顔を背に随順させれば、背が止まれば顔もまた随って止まる。背を顔に随順させれば、顔が走り動けば背もまた随って動く。帰結するに、顔と背は本来二つの体ではなく、二つに切り分けることはできない。

今此卦上下皆艮,止而又止,是艮其背者也。艮背何以能無咎哉?是必不獲其身,行其庭不見其人,斯無咎耳。身本非實,特以情慾錮之,妄見有身。今向靜時觀察:其中堅者屬地,潤者屬水,暖者屬火,動者屬風;眼耳鼻舌異其用,四支頭足異其名;三百六十骨節,八萬四千毫竅,畢竟以何為身。身既了不可得,即使歷涉萬變,又豈有人相可得哉,故行其庭而亦不見其人。此則止不礙行,即行恆止,故無咎也。

今この卦は上下ともに艮で、止めてまた止める。まさに「其の背に艮る」である。しかし単に背に止まるだけで、何をもって咎なしとできようか。必ず「其の身を獲ず」「其の庭を行きて其の人を見ず」を成し遂げて初めて、無咎が論じられる。身体は本来実有ではなく、ただ情欲に錮められて、妄りに一つの身があると見るのである。今静まった時に乗じて仔細にこれを観察する。内の堅硬の部分は「地大」に属し、潤湿は「水大」に属し、温暖は「火大」に属し、動転は「風大」に属する(地水火風は仏法のいう色身を構成する四つの基本元素)。眼・耳・鼻・舌は各々その功用を有し、四肢と頭足は各々その名目を有する。三百六十の骨節、八万四千の毛孔——究竟どれを取ってあの「身」とするのか。身はすでに遍く求めても得られず、了として得られない以上、たとえ千变万化を経ても、どこにまだ一つの「人」の相が得られようか。だから庭を行きても人を見ることがない。このようにすれば、止は行を妨げず、当下行の中に在りて恒常に止であるがゆえに、咎がない。

彖曰:艮,止也。時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。艮其止,止其所也。上下敵應,不相與也,是以不獲其身,行其庭不見其人,無咎也。止其行而為靜,止其止而為動,動靜以時,無非妙止,故其道光明也。止非面牆之止,所非處所之所,特以法法本不相知,法法本不相到,猶此卦之上下敵應而不相與,是以覓身了不可得;雖行其庭,而亦了無人相可見,合於光明之道而無過也。

《彖伝》にいう。艮とは止である。止まるべき時に止まり、行くべき時に行けば、動静ともに其の時を失わず、其の道光明なり。「艮其止」とは、其の止まるべき所に止まることである。上下卦の対応する各爻はみな同性で敵し合い、彼此相親与せず。だから其の身を獲ず、其の庭を行きて其の人を見ず、咎なしという。——智旭の解説:「行」を止めれば静となり、「止」をもう一度止めれば動となる。動静ともに時に合し、一つとして微妙の「止」でないものはないがゆえに、この道は光明である。ここにいう「止」は、面壁して枯坐するような死止ではない。いう「所」も、ある具体的な処所ではない。ただ一切法が本来彼此相知らず、一切法が本来彼此相至らないがゆえに、この一卦が上下敵応して相親与しないがごとく、あの「身」を求めても了として得られない。たとえ庭を行きても、全然一つの「人」の相を見ることがない——これが光明の道に合して過失がない所以である。

象曰:兼山艮。君子以思不出其位。兩山並峙,各安其位者也,是故草木生之,禽獸居之,寶藏興焉,位位無非法界故也。君子於此非不思也,知離此現前之位,別無一法可得,故思不出其位。不出位而恆思,則非枯槁寂滅;思而不出其位,則非馳逐紛紜。恆思則能盡其位之用,故一切旋乾轉坤事業,無不從此法界流;不出則能稱其位之量,故一切位天育物功能,無不還歸此法界。

《大象伝》にいう。二つの山が重なるのが艮卦である。君子はこれに法って、思いが其の位に出ない。——智旭の解説:二つの山が並び聳え立ち、各々己の位置に安んずるがゆえに、草木はその上に生長し、禽獣はその上に棲息し、宝蔵はその中に蕰育する——これは一つ一つの「位」が一つとして「法界」(諸法実相の全体)でないものがないからである。君子はここで思慮しないのではなく、眼前のこの当下の本位を離れれば、別に得べき一法もないことを知るがゆえに、思いが本位を出ないのである。本位を出ずして恒常に思慮するから、枯槁寂滅の死禅ではない。思慮しながら本位を出ないから、外境に馳逐する紛擾ではない。恒常に思慮して初めてこの位の功用を発揮し尽くせるがゆえに、一切の乾坤を扭転する事業でこの法界から流出しないものはない。本位を出ないからこそこの位の分量に相称し、だから一切の天地を参賛し万物を化育する功能で、この法界に復帰しないものはないのである。

初六:艮其趾,無咎,利永貞。象曰:艮其趾,未失正也。居艮之下,其位為趾,止之於初,不令汨於所欲往,斯固未失正而無咎矣。然必利於永貞,時止則止,時行則行,乃獲敦艮之吉耳。六二:艮其腓,不拯其隨,其心不快。象曰:不拯其隨,未退聽也。趾也,腓也,股也,皆隨心而為行止者也。然趾無力,不能自專,又正行時趾元自止。今六二其位為腓,而以陰居陰,當艮之時,力能專止而不隨心動,故曰不拯其隨。此非動靜不失其時之道,蓋由未肯謙退而聽命於天君,故令其心不快。

初六の爻辞にいう。其の趾に艮る。咎なし。永貞に利し。《小象伝》にいう。其の趾に艮るは、未だ正を失わざればなり。——智旭の解説:初六は艮卦の最下に居り、位置は脚趾に相当する。まさに歩を踏み出そうとする時にこれを止め、往きたい所に沉溺させない。これは自ずから正を失わず咎がない。しかしなお永く貞を守って初めて利がある。止まるべきときに止まり行くべきときに行き、最後に上九の「敦艮」のような吉を得ることができる。六二の爻辞にいう。其の腓(こむら)に艮り、其の随を拯(たす)けず、其の心快からず。《小象伝》にいう。其の随を拯けざるは、未だ退聴せざればなり。——智旭の解説:脚趾・小腿肚・大腿は、みな心の指揮に随って行または止する。ただ脚趾は力がなく自ら主張することができない。まして人がまさに歩いている時、脚趾は本来一歩ごとに一停する。今六二の位置は小腿肚に相当し、また陰爻をもって陰位に居り、まさに艮止の時に当たり、力があって自ら一味に止まり心の動きに随わないがゆえに「其の随を拯けず」という。これは「動静時を失わず」の正道ではなく、謙退して心という「天君」の命令に聴き従わないがゆえに、心を快からざらしめるのである。(底本「趾元自止」の「元」は「原」に相当するのであろう、今そのまま写す。)

九三:艮其限,列其夤,厲薰心。象曰:艮其限,危薰心也。三位在限,而以剛居剛,為艮之主,則腰臗硬直,不可屈申者也。夫上下本自相聯,猶如夤然,今分列而不相繫屬,其危厲不亦薰心矣乎。

九三の爻辞にいう。其の限(腰)に艮り、其の夤(背筋)を列(さ)く。厲して心を薰す。《小象伝》にいう。其の限に艮るは、危して心を薰せばなり。——智旭の解説:第三爻の位置はまさに腰の間に当たり、それは陽爻をもって陽位に居り、また下卦艮の主爻である。そこで腰胯が硬直して屈伸することができない。人の上身と下身は本来相連なり、あの夾脊の筋肉が上下を貫串するがごとし。今生々しく二つに裂き彼此相連属しないとなれば、あの危厲は心に薰灼して来ないことがあろうか。

六四:艮其身,無咎。象曰:艮其身,止諸躬也。四位在於胸腹,彖云艮其背,而此直云艮其身,身止則背不待言矣。夫千愆萬繆皆由身起,今陰柔得正,能止諸躬,何咎之有。楊龜山曰:爻言身,象言躬者,伸為身,屈為躬。屈伸在我不在物,兼爻與象,是屈伸兼用矣。

六四の爻辞にいう。其の身に艮る。咎なし。《小象伝》にいう。其の身に艮るは、諸躬に止ればなり。——智旭の解説:第四爻の位置は胸腹にあり、卦辞は「其の背に艮る」というのに、ここではあえて「其の身に艮る」という。身がすでに止まれば、背はいわずもがなである。千百種の過失・差錯はみなこの身から生じ起こる。今六四は陰爻をもって陰位に居り正を得て、諸躬に止ることができる以上、まだどんな咎があろうか。彼はまた楊亀山の言を引く。爻辞は「身」といい《小象》は「躬」というのは、伸び広げれば身といい、屈まり下がれば躬というからである。屈・伸の主動権は外物に在らず我に在り、爻辞と《小象》を合わせて見れば、まさに屈・伸の両面を兼用するのである。

六五:艮其輔,言有序,悔亡。象曰:艮其輔,以中正也。五位在心,心之聲由輔以宣,而以陰居陽,又復得中,能於言未出口前豫定其衡,故言無妄發,發必有序,而口過終可免矣。上九:敦艮,吉。象曰:敦艮之吉,以厚終也。為艮之主,居卦之終,可謂止於至善、無所不用其極者矣。性德本厚,而修德能稱性復之,故曰以厚終也。震為長男,故舉乾之全體大用而虩於其初;艮為少男,故舉乾之全體大用而敦於其上。一始一終,知及仁守之功備,非動非靜之體復矣。

六五の爻辞にいう。其の輔(ほほ)に艮り、言に序あり。悔い亡ぶ。《小象伝》にいう。其の輔に艮るは、中正を以てすればなり。——智旭の解説:第五爻の位置は心に相当し、心の中の声音は頬・口舌を頼って言い出される。六五は陰爻をもって陽位に居り、また上卦の中位に居て、言が口を出ない先に一本の秤を定めることができるがゆえに、言を乱れて発せず、ひとたび言い出せば必ず条理がある。口舌の過失は終に免れることができる。上九の爻辞にいう。敦く艮る。吉。《小象伝》にいう。敦艮の吉は、厚を以て終ればなり。——智旭の解説:上九は艮卦の主爻で、また一卦の終位に居り、《大学》のいう「至善に止まる」、事事みな極処に到達したというべきである。本具の性徳はもともと敦厚であり、後天の修徳が本性に契合してこれを回復することができるがゆえに「厚を以て終る」という。——彼は最後に二卦を合わせて論ずる。震は長男であるがゆえに、乾の全体大用を提起して一卦の冒頭に安んじ、「虩虩」の警剔として表れる。艮は少男であるがゆえに、乾の全体大用を提起して一卦の末尾に安んじ、「敦艮」の厚重として表れる。一始一終、《論語》のいう「知は之に及び、仁は之を守る」の工夫が完備し、あの動にも非ず静にも非ざる本体もまた回復するのである。

漸卦

(艮下 巽上)漸:女歸吉,利貞。夫敦艮既非面牆,則止而不失其行之時矣。行之以巽,故名曰漸。君子將致身以有為,必如女之歸夫,始終以禮而非苟合,乃得吉耳。苟不利貞,則躁進固足取辱,雖漸進亦豈能正人哉。佛法釋者:理則頓悟,乘悟並銷,如震虩而艮敦;事非頓除,因次第盡,如女歸而漸進。又次第禪門名之為女,即事禪而達實相名之為歸,以圓解遍修事禪名之為貞。

(下卦艮・上卦巽)漸卦の卦辞にいう。女帰(とつ)ぐは吉、貞に利し。——智旭の解説:前の卦艮の「敦艮」は面壁して死守するものではない以上、それは止まりながら行くべき時機を失わないことである。行動するには巽の柔順をもって漸く入る。だから「漸」という。君子がまさに身を献じて出て有為になろうとする時、必ず女が嫁ぐように始めから終わりまで礼によってし、苟且に結合しないでこそ吉を得られる。もし貞を守ることができなければ、急躁冒進はもちろん自ら辱を取るが、たとえゆっくり進んでも、どうして人を正すことができようか。——彼は続いて仏法をもって会通する。「理」の上では一悟すれば全体が頓悟し、一切の妄念は悟に随って銷える。震卦の初爻の警剔・艮卦の上爻の敦厚のごとし。しかし「事」の上では一度に除尽することができず、次第に依って一分一分に断尽する。女が嫁いで循序漸進するがごとし。さらに、一层ずつ修める「次第禅門」を女に譬え、事相上の禅定に就いて実相に通達するのを「帰」(嫁いで帰る所あり)に譬え、円頓の正解をもって遍く種々の事禅を修めるのを「貞」(正を守る)に譬える。

彖曰:漸之進也,女歸吉也。進得位,往有功也;進以正,可以正邦也。其位,剛得中也。止而巽,動不窮也。進有頓漸,今明以漸而進,故如女歸則吉也。得位則往有功,儻進不得位,則不可往明矣;以正則可正邦,儻進不以正,則不能正邦明矣。然此卦何以為進得位?則由九五剛得中耳。何以為往有功?則由止而巽,故動不窮耳。止者動之源,設無止體,則一動即窮,如溝澮因雨暫盈,可立待其涸也。象曰:山上有木,漸。君子以居賢德善俗。木在山上,以漸而長,觀者不覺;君子居德亦復如是。山有喬木,則山益高;俗有居賢德之君子,則俗益善。

《彖伝》にいう。漸卦は序に循って進むことを説く。だから女の帰ぐのごとき吉である。進んで位を得れば、往けば功あり。進んで正に当たれば、以て邦国を正すことができる。其の位とは、九五が陽剛にして中に居ることを指す。下卦は艮止で上卦は巽順、だから動きて窮まらない。——智旭の解説:前進には頓進と漸進の二種があり、ここで説くのは循序漸進で、だから女の帰ぐのごとき吉である。位を得て往けば功がある。逆に言えば、進んで位を得なければ往くべからず。これは明らかである。正道に依って初めて邦国を正せる。逆に言えば、進んで正道に依らなければ邦国を正せない。これも明らかである。ではこの卦は何をもって「位を得て進む」と数えるのか。九五が陽剛にして中に居ることによる。何をもって「往けば功あり」と数えるのか。止まって能く順なれば動きて窮まらないことによる。「止」は「動」の源頭であり、もし止の本体がなければ、一動すれば窮まる。田間の小溝が雨によって暫く漲満し、立ってその涸れるのを待てるがごとし。《大象伝》にいう。山の上に木があるのが漸卦である。君子はこれに法って、賢徳に居りて俗を善くする。——樹は山に生え、少しずつ長じ、見る人はそれを覚えない。君子が徳行を蓄養するのもまた然り。山に高大な樹木があれば山はなお高く見え、風俗の中に賢徳を蓄養する君子がいれば風俗はいよいよ淳善となる。

初六:鴻漸于于,小子厲,有言,無咎。象曰:小子之厲,義無咎也。洪覺山曰:漸何以象鴻也?鴻,水鳥,木落南翔,冰泮北徂,出則有時,居則有序。蘇眉山曰:鴻,陽鳥而水居,在水則以得陸為安,在陸則以得水為樂者也。初六陰爻,如鴻在水,上無應與,故為漸於水涯。於人則為小子,正宜乾乾惕厲,且宜有言以求人之切磋琢磨,如鴻在乾而哀鳴覓伴,乃無咎也。無應本宜有咎,以當漸初而能自厲,則其義可無咎矣。

初六の爻辞にいう。鴻は漸く干(みずべ)に至る。小子は厲しく、言あり、咎なし。《小象伝》にいう。小子の厲しきは、義において咎なきなり。(按:爻辞「鴻漸于干」の「干」は、底本は「于」と作る。今そのまま写す。)——智旭はまず洪覚山の言を引く。漸卦はなぜ鴻雁に取象するのか。鴻は水鳥で、木の葉が落ちる時に南へ飛び、氷が溶ける時に北へ帰る。出行に定まった時節があり、棲止に定まった次序がある。また蘇軾の言を引く。鴻は陽に属する鳥でありながら水辺に棲し、水に在れば岸に上がることを安とし、岸に在ればまた水を得ることを楽とする。——彼は自ら続けて言う。初六は陰爻で、鴻雁がまだ水の中にいるがごとし。上に応ずる爻がないがゆえに、漸く水涯に飛ぶという。人事について言えば、それは一人の子供に相当し、まさに終日勤勉戒懼すべきであり、また言を出して他人の切磋琢磨を求めるべきである。鴻雁が水辺の高地に立って哀鳴して伴を求めるがごとく、こうして初めて咎がない。本来応爻がなければ咎あるべきだが、ただ漸卦の冒頭に処って自ら警醒し得るがゆえに、義において咎なしとできるのである。

六二:鴻漸于磐,飲食衎衎,吉。象曰:飲食衎衎,不素飽也。二亦在水,而應九五,則如漸於磐石,飲啄皆和樂矣。養道以待時,豈無事而食哉。九三:鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶,利禦寇。象曰:夫征不復,離群醜也;婦孕不育,失其道也;利用禦寇,順相保也。九三陽爻,如鴻在陸,上無應與,則無水矣。鴻不亂配,而六四亦無應與,與三相鄰。設三征而從四,則為離鴻群而可丑;設四俯而就三,則為失其道而雖孕亦不敢育,凶可知已。夫非配而私相為配,以理言之則寇也。三若守正而御之,則在我既無離群之丑,在四亦無失道之凶,乃可順相保耳。

六二の爻辞にいう。鴻は漸く磐に至る。飲食衎衎(かんかん)。吉。《小象伝》にいう。飲食衎衎たるは、素飽せざるなり。——智旭の解説:六二もまだ水の中にあるが、九五と応ずるがゆえに、漸く磐石に落ち着いたがごとく、飲み啄むことみな和楽である。それは己の道業を涵養して時機を待つのであり、どうして無事で徒に飯を食うものであろうか。九三の爻辞にいう。鴻は漸く陸に至る。夫征して復らず、婦孕みて育せず。凶。寇を御ぐに利し。《小象伝》にいう。夫の征して復らざるは、群を離れ醜(はづかし)し。婦孕みて育せざるは、道を失えばなり。寇を御ぐに利しきは、順に以て相保せばなり。——九三は陽爻で、鴻雁が陸地に止まるがごとし。上に応ずる爻がなければ水がない。鴻雁は配偶を乱さないが、六四もまた応爻がなく、ちょうど九三に緊隣する。もし九三が出征して六四を追えば、それは雁群を離れて醜い。もし六四が俯して九三に就けば、それは正道を失い、たとえ孕んでも育てることを敢えてせず、凶は察するに足りる。およそ正配でなく私に結合するのは、理からいえば「寇」である。九三が正道を守ってこの私情を御げば、我においては群を離れた恥なく、六四においても道を失う凶なく、こうして初めて順に以て相保つことができる。

六四:鴻漸于木,或得其桷,無咎。象曰:或得其桷,順以巽也。四亦在水,而乘九三之剛,不足安身,如漸於木,非鴻之所能棲,以鴻之趾連,不能握木故也。或得其橫而且大有如桷者,庶幾可以無咎。意指上附九五言之。蓋以陰居陰則順,為巽之主則巽,故可冀其無咎耳。

六四の爻辞にいう。鴻は漸く木に至る。或いは其の桷(たるき)を得ん。咎なし。《小象伝》にいう。或いは桷を得んは、順に以て巽ればなり。——智旭の解説:六四も水の一方にあるが、九三の陽剛の上に乘って身を安んじられず、鴻雁が木に飛び上がるがごとし——木は本来鴻雁の棲むべき所ではない。鴻雁の脚趾は蹼で連なって樹枝を掴めないからである。もし僥倖に一本の横にして太く屋桷のような枝を得れば、ほぼ咎なしとできる。この言の意は、それが上に九五を依附することを指す。陰爻をもって陰位に居れば順にし、また上卦巽の主爻であれば巽入し得るがゆえに、咎なしと期することができるのである。

九五:鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。象曰:終莫之勝吉,得所願也。五本在陸,而居尊位,則如高陵矣。下應六二之婦,方飲食衎衎以自養,非九三之所能汙,故三歲不孕,終莫之勝而吉也。聖王得名世之臣,滿其夢卜求賢本願,不亦快乎。

九五の爻辞にいう。鴻は漸く陵に至る。婦は三年孕まず。終に之を勝(あ)ぐもの莫し。吉。《小象伝》にいう。終に之を勝ぐもの莫くして吉は、願いを得ればなり。——智旭の解説:第五爻も本来陸地にあるが、尊位に居るがゆえに高陵となる。それは下で六二の「婦」と応ずるが、六二はまさに磐石上で「飲食衎衎」と自ら涵養しており、九三の玷汚し得るところではない。だから三年孕まずといい、終にこれらを隔て得るものなく、よって吉となる。これは聖明の君王が世に名聞する賢臣を得て、梦寐・卜筮に求めた本願を満足させたがごとく、どうして痛快でないことがあろうか。

上九:鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。象曰:其羽可用為儀吉,不可亂也。上亦在陸者也,但九三為木落南翔之陸,入於人中,故凶;上九為冰泮北歸之陸,超於天外,故吉。所謂鴻飛冥冥,弋者何慕,但可遠望其羽,用為高人達士之儀則耳。又凡鴻飛之時,成配者以次在後,孤而無侶者獨在於前。今上九超然物外,下無應與,如世間義夫,志不可亂,故吉也。以羽為儀,則其為用也大矣,故曰聖人百世之師。

上九の爻辞にいう。鴻は漸く陸に至る。其の羽は以て儀と為すべし。吉。《小象伝》にいう。其の羽以て儀と為すべき吉は、乱すべからざればなり。——智旭の解説:上九も陸地に落ちるが、ただ九三のあの「陸」は葉落ちて南飛する時に落ちる所で、人世の中に落ち込むがゆえに凶。上九のこの「陸」は氷溶けて北帰する時に落ちる所で、天外に超出するがゆえに吉。まさに揚雄のいう「鴻は冥々として飛び、弋人は何をか篡せん」——鴻雁が渺茫たる天際に高く飛べば、射獵の人は空しく羨むだけで、人はただ遠くその羽毛を望み、高人達士の儀範とするだけである。さらに、鴻雁が飛ぶとき、配偶を成したものは順に後ろに列し、孤独で伴侶のないものは独り最前を飛ぶ。今上九は超然として物外にあり、下に応ずる爻がなく、世間の義を守って再娶しない男子のようであり、心志は乱すべからざるがゆえに吉。その羽毛を用いて礼儀の装飾とすれば、その作用は大きい。だから《孟子》は聖人を百世の師表という。

帰妹卦

(兌下 震上)歸妹:征凶,無攸利。夫漸而進者,未有不歸其所者也。以少女而歸長男,過以相與,亦既得其所歸。然一歸則當終身守之,若更他往則凶;又設以少女用事擅權,則無所利。佛法釋者:修次第禪,蓋攝世間事定而歸佛法正慧者也。儻直用此事定而設化儀,則必墮於愛見之網而凶;若耽著此定,則紆偏權曲徑而無所利也。

(下卦兌・上卦震)帰妹卦の卦辞にいう。往き行けば凶、利する所なし。——智旭の解説:循序漸進する人で、帰るべき所に帰らない者はいない。少女をもって長男に嫁ぐのは、双方が親しみ過ぎて結合するもので、ようやく帰宿があるとはいえる。しかしひとたび嫁いだ以上、終身これを守るべきで、さらに他所へ往けば凶である。さらにもしこの少女に掌権させて家を司らせれば、何の利もない。——彼は続いて仏法をもって会通する。「次第禅」(浅深の次第に依って一层ずつ修める禅定)を修めるのは、もともと世間の事相禅定を収摂し、仏法の正慧に帰投させることである。もしあえてこの種の事相禅定をもって衆生を教化する儀則を立てれば、必ず「愛見」(貪愛と我見)の網羅に堕ちて凶となる。この禅定に貪著して出ようとしなければ、それは偏僻な権巧の小路に入り込んだのであり、何の利もない。

彖曰:歸妹,天地之大義也。天地不交,而萬物不興。歸妹,人之終始也。說以動,所歸妹也。征凶,位不當也;無攸利,柔乘剛也。如人有正配而不育,則必取少女以育子,此亦天地之大義。以例國君用名世為宰輔,不妨用小才小德為百官;觀心用妙定合妙慧,不妨用次第諸禪助神通。設使天地不交,則萬物不興,故歸妹者,乃人道之以終而成始者也。夫如是,則歸妹何過?獨恨其以說而動,則名為繼嗣,實在情慾。

《彖伝》にいう。帰妹は天地の大義である。天地が交わらなければ万物は興らない。帰妹は人道の終わりであり、また人道の始まりである。悦びをもって動くから、嫁ぐのは少女である。往き行けば凶なのは、爻位が当たらないからである。利する所なきは、陰柔が陽剛の上に乘るからである。——智旭の解説:例えば一人の人に正妻があって生育がなければ、必ず若い妾を娶って子を産ませる。これも天地の大義である。これに比べれば、国君が世に聞こえた賢才を宰輔に任ずるにも、才徳の小さい者を任じて百官に充てるを妨げず、観心を修める者が微妙な禅定をもって微妙な智慧に配合するにも、次第の諸禅を用いて神通を助成するを妨げない。もし天地が交わらなければ万物は興らないがゆえに、「帰妹」はまさに人道が終わりより再び始まる関節である。このようである以上、帰妹にどんな過失があろうか。惜しいのはただその「説以動」——悦びに貪って動くことで、名目上は後嗣を伝えるためだが、実際は情欲に落ちるのである。

如國君名為群寮,實在便嬖;觀心名為助道,實在味禪。故所歸者名為妹也。女舍夫而他適,臣舍君而他往,定舍慧而獨行,則必得凶,以卦中陰爻之位皆不當故;女恃愛而司晨,臣恃寵而竊柄,定久習而耽著,則無攸利,以卦中六三之柔乘九二初九之剛、六五上六之柔乘九四之剛故。

同様に、国君は名目上群僚を任用するが実際に寵幸するのは側近の侍であり、観心を修める者は名目上それで道を助けるが実際に貪戀するのは禅定の滋味である。だから嫁ぐ者を「妹」(少女・側室)というのである。女子が夫を捨てて他人に嫁ぎ、臣子が君主を捨てて他所に投じ、禅定が智慧を捨てて独りで行くならば、必ず凶を得る——卦中の幾つかの陰爻の位置がいずれも当たらないからである。女子が寵愛に恃んで牝鶏晨を司り位を越えて家を当たり、臣子が恩寵に恃んで権柄を窃み、禅定を修めて久しくなりその中に貪著すれば、何の利もない——卦中の六三の柔が九二・初九の剛の上に乘り、六五・上六の柔がまた九四の剛の上に乘るからである。

象曰:澤上有雷,歸妹。君子以永終知敝。方雷之動,必感於澤,而雷則易息,澤恆如故。此豈可為夫婦恆久之道?亦豈君臣相遇之道?亦豈定慧均平之道乎?君子之於事也,未暇問其所始,先慮永其所終;苟以永終為慮,則知歸妹之敝矣。

《大象伝》にいう。沢の上に雷があるのが帰妹卦である。君子はこれに法って、永く終わることを知って其の敝を知る。——智旭の解説:雷が一動すれば必ず沢水に感応する。しかし雷は容易に停息するが沢はなおそこに在る。これはどうして夫婦が長久に相守る道と言えようか。どうして君臣相遇の道と言えようか。またどうして定慧が均平に並び運ぶ道と言えようか。君子は一事に対して、その始まりを問うに及ばず、まずどうすれば結末を長久に保てるかを考慮すべきである。一旦「永終」を念頭に置けば、帰妹という事の弊もまた明らかに見えるのである。

昔有賢達,年高無子,誓不取妾。其妻以為防己之妒也,宛轉勸曰:君勿忌我,以致無後。賢達曰:吾豈不知卿有賢德哉,吾年老矣,設取幼妾,未必得子,吾沒之後,彼當如何?是以誓弗為耳。其妻猶未深信,乃密訪一少艾,厚價買之,置酒於房,誘其夫與之同飲,抽身出房,反鎖其門。賢達毅然從窗越出,喻其妻曰:吾豈以衰頹之身汙彼童女,令彼後半世進退失措也。幸速還彼父母,勿追其價。

智旭は続いて一つの故事を講ずる。昔、ある賢達がいて、年老いても子がなく、妾を娶らないと誓っていた。彼の妻は夫が自分の嫉妬を防いでいるのだと思い、婉曲に諫めていう。私を忌憚して後嗣を断つことのないように、と。賢達はいう。私はどうしてあなたに賢徳があることを知らないだろうか。ただ私の年齢はすでに老い、たとえ若い妾を娶っても必ずしも子は生まれない。私が死んだ後、彼女はどうするのか。だからこの事をしないと誓ったのだ、と。妻はなおあまり信じず、密かに一人の若い女子を訪ね得て、高値で買い求め、房の中に酒席を設け、夫を誘って彼女と同飲させ、自らは房を出て、手を返して門に錠を掛けた。賢達は毅然として窓から乗り越えて出て、妻に説明した。私はどうしてこの衰老した身をもってあの小娘を玷汚し、彼女の後半生を進退維谷に陥らせることができようか。急いで彼女を父母に送り返し、買った金も追い返すな、と。

於是妻及親友無不歎服。未幾,妻忽受胎,連育三子,後皆顯達。噫,此所謂永終知敝、以德動天者乎。聖人於彖傳中隨順恆情,則以天地大義許之;於大象中勸修陰德,則以永終知敝醒之。知此義者,亦可治國,亦可觀心矣。

そこで妻と親友で嘆服しない者はなかった。まもなく妻は忽然と身ごもり、相次いで三人の男子を産み、後にみな顕達した。ああ、これはおそらくいわゆる「永く終わることを知って其の敝を知る」、徳行をもって天を感動させた人であろう。——智旭はここから聖人の二重の用意を点明する。《彖伝》では人の常情に順い、「天地の大義」をもってこれを許し、《大象伝》では人に陰徳を修積することを勧め、「永終知敝」の四字をもって人を覚醒させる。この層の意を知る者は、これをもって国を治めるも可であり、これをもって心を観ずるも可である。

初九:歸妹以娣,跛能履,征吉。象曰:歸妹以娣,以恆也;跛能履吉,相承也。此卦以下兌為妹,以震為所歸者也。兌三爻中,六三為妹,而初九九二從嫁者為娣;震三爻中,九四為所歸主,而六五如帝乙之主婚,上六如宗廟之受祭。今初九以剛正之德,上從六三之妹,歸於九四而為其娣。六三如跛,待初能履,故得征吉。娣之為德,貴在能恆,相承於三,則三吉而初亦吉矣。

初九の爻辞にいう。妹を嫁がせるに娣(てい、陪嫁の媵妾)を以てす。跛(び)も能く履(ふ)む。往き行けば吉。《小象伝》にいう。妹を嫁がせるに娣を以てするは、恒を以てするなり。跛も能く履めば吉は、相承ければなり。——智旭の解説:この卦は下卦兌を嫁ぐ少女とし、上卦震を嫁ぐ相手とする。兌の三爻のうち、六三はあの少女であり、初九・九二は随嫁の媵妾である。震の三爻のうち、九四は嫁ぐ主人であり、六五は帝乙のように婚事を主り、上六は宗廟のように祭祀を承ける。今初九は陽剛守正の徳行をもって、上へ六三という少女を追い、九四に嫁いで彼女の媵妾となる。六三は跛者のごとく、初九によって初めて行くことができる。だから往けば吉を得る。媵妾の徳行は、長久に常を守れることを貴ぶ。彼女は六三を承け輔き、六三が吉ならば、初九もまた随って吉となる。

九二:眇能視,利幽人之貞。象曰:利幽人之貞,未變常也。以剛中之德,亦從六三而為娣。六三如眇,待二能視。夫不自有其明,而使人獲其視,非幽人之貞其孰能之。然亦止是娣德之常耳。六三:歸妹以須,反歸以娣。象曰:歸妹以須,未當也。為兌之主,恐其說之易動也,故誡之曰:須待六五之命,勿令人輕我而反重我之娣以歸也。由位未當,故誡之。九四:歸妹愆期,遲歸有時。象曰:愆期之志,有待而行也。三既須五命而後歸我,則我之歸妹不愆期乎?然雖遲歸,會須有時,如大舜不得父命,則待帝堯之命而行也。

九二の爻辞にいう。眇(めぐす)りも能く視る。幽人の貞に利し。《小象伝》にいう。幽人の貞に利しきは、未だ常を変ぜざればなり。——智旭の解説:九二は陽剛居中の徳行をもって、また六三に從って媵妾となる。六三は独眼の人のごとく、九二によって初めて視ることができる。自らあの明るさを占有せず、却って他人に視力を得させる——幽居守静の人の貞正でなければ、誰ができようか。ただこれもただ媵妾の徳の常分にすぎない。六三の爻辞にいう。妹を嫁がせるに須(ま)つを以てし、反って娣を以てす。《小象伝》にいう。妹を嫁がせるに須つを以てするは、未だ当たらざればなり。——智旭の解説:六三は下卦兌の主爻である。聖人はそれが悦びに貪って軽々しく妄動することを恐れ、故にこれに告誡していう。必ず六五の命令を待て、人に我を軽んじさせるな、反って我が媵妾を擡げて嫁がせるな、と。まさにその位置が当たらないがゆえに、このように告誡するのである。九四の爻辞にいう。妹を嫁がせるに愆期(けんき)し、遲嫁に時あり。《小象伝》にいう。愆期の志は、待つことあるにして行けばなり。——六三がすでに六五の命令を待って然る後に我に嫁ぐという以上、こちら側の婚事はどうして期を誤らないことがあろうか。しかし遲々として嫁ぐけれども、帰するところ時の至る日がある。大舜が父の許可を得ず、帝尭の命令を待って然る後に行ったがごとし。

六五:帝乙歸妹,其君之袂,不如其娣之袂良,月幾望,吉。象曰:帝乙歸妹,不如其娣之袂良也;其位在中,以貴行也。五為帝乙,六三為妹,亦稱女君,初九九二為娣。以袂而論,則三不如初之與二;以女而論,則如月幾望而圓滿矣。夫以帝女之貴,而能行嫁於下,不驕不亢,豈非吉之道乎。

六五の爻辞にいう。帝乙が妹を嫁がせる。其の君の袂(たもと)は其の娣の袂の良きに如かず。月は幾(も)や望(みち)なんとす。吉。《小象伝》にいう。帝乙の妹を嫁がせる、其の君の袂は其の娣の袂の良きに如かざるなり。其の位中に在り、貴を以て行けばなり。——智旭の解説:第五爻は帝乙であり、六三は嫁ぐ少女であり「女君」とも称し、初九・九二は媵妾である。ただ衣袖の華美をもって論ずれば、六三は初九と九二に及ばない。しかし女子そのものをもって論ずれば、六三は月がまさに満ちようとするように円満である。帝王の女の尊貴をもって、臣下の家に下嫁することを肯んじ、驕矜もせず倨傲もしない。これはまさに吉を得る道ではないか。

上六:女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。象曰:上六無實,承虛筐也。震為兌所承之筐,兌為震所刲之羊。三承於六,筐則無實;六刲於三,羊則無血,故無攸利。蓋生不積德,死後無靈,不能使子孫繁衍,至於不獲已而歸妹,此非女士之過,皆上六無實之過也。君子永終知敝,早見及於此矣。

上六の爻辞にいう。女が筐を承けるも実なし。士が羊を刲(い)くも血なし。利する所なし。《小象伝》にいう。上六に実なきは、空筐を承ければなり。——智旭の解説:上卦震は兌が捧奉せんとするあの筐であり、下卦兌は震が宰殺せんとするあの羊である。六三が上六に向かって捧奉するが、筐の中は空しく一物もない。上六が六三に向かって宰殺するが、羊は血を流すことができない。だから利する所なし。これは祖先が生前に徳を積まなければ、死後に霊応がなく、子孫を繁衍させることができず、ここに至ってやむを得ず少女を嫁がせて継嗣を求めるに至る。これはあの新婚の男女の過失ではなく、全て上六の空虚無実の過失である。君子が「永終知敝」するのは、とっくにこの一層を見通していたのである。

周易禅解 巻第七 下経之三

周易禪解卷第六。周易禪解卷第七,北天目道人蕅益智旭著。下經之三。

《周易禅解》巻第六はここで終わる。以下は《周易禅解》巻第七で、なお北天目山道人蕅益智旭の撰著である。本巻が解するのは「下経之三」、すなわち《周易》下経の第三段で、豊卦から説き起こす。

豊卦

(離下 震上)豐:亨,王假之,勿憂,宜日中。家有妻妾則豐,國有多土則豐,觀心有事禪助道則豐。豐則必亨,然非王不足以致豐。豐則可憂,而勿徒憂,但宜如日之明照萬匯可也。彖曰:豐,大也。明以動,故豐。王假之,尚大也;勿憂宜日中,宜照天下也。日中則昃,月盈則食,天地盈虛,與時消息,而況於人乎,況於鬼神乎。明而不動,動不以明,皆非王者之道,皆不可以致豐,故惟王乃能尚大耳。所謂勿憂宜日中者,亦非止之令其不昃,正宜用其明以照天下,則不為豐所蔽也。至於昃食盈虛,雖天地不能違時,徒憂何益。

(下卦離・上卦震)豊卦の卦辞にいう。亨る。王これに假(いた)る。憂うるなかれ、日中に宜し。——智旭の解説:一つの家に妻妾があれば豊かであり、一つの国に賢士が多ければ豊かである(「多土」すなわち《尚書・多士》のいう衆多の賢士。底本は「土」と作る、今そのまま写す)。観心を修める者に事相禅定があって道業を助ければ、また豊かである。豊かなれば必ず亨通する。しかし君王の気象でなければ豊かを招くに足りない。豊かはもともと憂うべき事だが、ただそこで愁えていてはならず、ただ太陽のように光明をもって万物を照徹すべきだけである。《彖伝》にいう。豊は大である。下卦は離明で上卦は震動、光明に行動を加えるがゆえに豊大である。王がこれに至るは、大を尚ぶなり。憂うるなかれ日中に宜しきは、宜しく天下を照すべきなり。しかし太陽は正午に至れば偏り、月は満ちれば蝕す。天地の盈満と虚亏でさえ時序に随って消長する。いわんや人をや、いわんや鬼神をや。——智旭の解説:光明であって行動しないか、行動しても光明によらないか、いずれも王者の道ではなく、豊大を招くに足りない。だから王者のみが大を尚ぶことができる。「憂うるなかれ日中に宜し」も、太陽を押さえて西斜させないということではなく、まさにこの光明に乗じて天下を照徹すべきであり、そうすれば「豊」そのものに遮蔽されることがない。日斜・月蝕・天地盈虚に至っては、天地でさえ時序に背くことができないのに、いたずらに愁えて何の用があろうか。

象曰:雷電皆至,豐。君子以折獄致刑。折獄如電之照,致刑如雷之威。天之雷電,偶一至焉,常至則物必壞;君子之用刑獄,不得已爾,輕用則民必傷。天之雷電必在盛夏,君子之用刑獄,必於豐樂康阜之時。

《大象伝》にいう。雷と電が皆至るのが豊卦である。君子はこれに法って、獄を折り刑を致す。——智旭の解説:獄訟を判決するには電光のように照らし明るくすべきであり、刑罰を施行するには雷霆のように威勢あるべきである。天上の雷電は偶に一回至る。もし常に雷を打ち電を走らせれば、万物は必ず毀壊される。君子が刑獄を動用するのもやむを得ぬ事である。もし軽々しく動用すれば、百姓は必ず傷害を受ける。天上の雷電は必ず盛夏に在る。君子が刑獄を動用するのも、必ず豊足安楽で百姓が康泰富庶の時にある。

初九:遇其配主,雖旬無咎,往有尚。象曰:雖旬無咎,過旬災也。他卦六爻,每以陰陽相應為得,所謂沉潛剛克、高明柔克也;惟禮六爻,則陽與陽相得,陰與陰相得,所謂強弗友剛克、燮友柔克也。初九剛正,遇九四為其配主,互相砥礪,故雖旬無咎,而往有尚。若不速往,至於過旬,不免日中則昃而有災矣。

初九の爻辞にいう。其の配主に遇う。均しきと雖も咎なし。往けば尚(たっと)ぶこと有らん。《小象伝》にいう。均しきと雖も咎なきは、旬(み)ぎ過ぐれば災あり。——智旭の解説:他の卦の六爻は、往々にして陰陽相応ずるをもって得とする。《尚書・洪範》のいう、沈潜する者には剛をもって治め、高明な者には柔をもって治める、である。ただ豊卦の六爻のみ、陽と陽が相得、陰と陰が相得である。《洪範》のいう、強硬で親附しない者には剛をもって治め、和順で親附する者には柔をもって治める、である。(底本の「豊」の字はここで「礼」と譌る。今そのまま写す。)初九は陽剛で正を得て、九四に遇ってその配主となり、双方互いに砥礪するがゆえに、勢力が均等であっても咎なく、往けば人に嘉尚される。もし速やかに往かず、この限度を引き延ばし過ぎれば、日中すれば昃(かたむ)くのを免れず災を生ずる。

六二:豐其蔀,日中見斗,往得疑疾,有孚發若,吉。象曰:有孚發若,信以發志也。六二為離之主,至明者也,上與六五柔中合德,可以互相資益,而六五為九四所隔,如禮其蔀而日中見斗者焉。夫六五燮友,可以誠感,而不可以急應,故往則反得疑疾,惟有孚發若則吉。蓋信以除疑,發以撤蔀也。蔀本無實,因疑故有,志發則疑除,疑除則蔀撤而見九二之日矣。五本賢君,故其志可發。

六二の爻辞にいう。其の蔀(おお)いを豊(ひろ)くし、日中に斗を見る。往けば疑疾を得る。孚を有して発若(よろ)せば吉。《小象伝》にいう。孚有して発若すは、信を以て志を発せばなり。——智旭の解説:六二は下卦離の主爻で、最も明るい一爻である。上で六五の柔順守中の徳行と相合し、本来互いに資益し得たはずだが、六五は九四に隔てられ、そこで遮幔が極大に張られ、正午にかえって北斗を見るがごとくなった。(底本の「豊」の字はここでもなお「礼」と譌る。今そのまま写す。)六五はあの和順親しみやすい人で、誠意をもって感動させることはできるが、急速な回応を望むことはできない。だから軽々に往けばかえって猜疑の患を招く。ただ誠信をもってこれを啓発して初めて吉となる。信実は疑心を除くことができ、啓発は遮幔を撤くことができるからである。遮幔はもともと実有のものではなく、疑心があるがゆえにある。心志がひとたび開かれれば疑心は消除し、疑心が消除すれば遮幔は撤かれ、そこで六二というこの一輪の太陽を見る。六五はもともと賢明の君主であるがゆえに、その心志は開かれ得るのである。(底本「六二之日」を「九二之日」と作る。今そのまま写す。)

九三:豐其沛,日中見沫,折其右肱,無咎。象曰:豐其沛,不可大事也;折其右肱,終不可用也。以剛正而居離體,可以照天下者也,應於上六,陰陽交而霈然大雨,故於日中但見水沫紛飛,失王假尚大之事,終不可以有為矣。明莫若左,動莫若右,上六居震之極,妄動自傷,故在九三如折右肱。此上之咎,非三咎也。

九三の爻辞にいう。其の沛(はい)を豊くし、日中に沬(ばい)を見る。其の右肱を折る。咎なし。《小象伝》にいう。其の沛を豊くするは、大事を為すべからざればなり。其の右肱を折るは、終に用うべからざればなり。——智旭の解説:九三は陽剛で正を得て下卦離体の中に処り、本来天下を照徹し得た。しかし上六と応じ、陰陽が交感して滂沱の大雨が降るがゆえに、正午には水沫が紛れ飛ぶのを見るだけで、「王これに假る、大を尚ぶ」の大事を失い、終に有為とすることができない。光明の功用は左に過ぎず、行動の功用は右に過ぎない。上六は上卦震の極位に処り、妄動して自ら傷つくがゆえに、九三の方から見れば右肱を折ったがごとし。これは上六の過失であって、九三の過失ではない。

九四:豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。象曰:豐其蔀,位不當也;日中見斗,幽不明也;遇其夷主,吉行也。以陽剛為震之主,興雲蔽曰,故為豐蔀見斗。幸遇初九剛正,如日方升而往有尚,力能等我而為夷主,相與摧散陰霾,行照天下,不失豐亨之義,故吉也。六二之豐蔀見斗,乃指六五被九四所蔽;今九四則自豐其蔀,致使日中見斗,故以位不當、幽不明責之。

九四の爻辞にいう。其の蔀を豊くし、日中に斗を見る。其の夷主に遇う。吉。《小象伝》にいう。其の蔀を豊くするは、位当たらざればなり。日中に斗を見るは、幽にして明ならざればなり。其の夷主に遇うは吉行なり。——智旭の解説:九四は陽剛をもって上卦震の主爻となり、雲霧を興して太陽を遮るがゆえに「豊蔀見斗」の象がある。(底本の「蔽日」の「日」は「曰」と譌る。今そのまま写す。)幸い初九の陽剛得正に遇い、旭日初昇して往けば人に嘉尚されるがごとく、その力は我と相並ぶことができ、まさに我が「夷主」である。双方力を合わせて陰霾を摧散し、光明を天下に照徹させ、豊亨の本義を失わないがゆえに吉。六二のいう「豊蔀見斗」は、六五が九四に遮蔽されたのを指す。今の九四は自ら遮幔を張り起こして、正午に北斗を見せしめたがゆえに、《小象伝》は「位当たらず」「幽にして明らかならず」をもってこれを責める。

六五:來章,有慶譽,吉。象曰:六五之吉,有慶也。柔中居尊,而六二以信發之,雖全賴彼離明之德,亦實由我能來之也。君臣合德,天下胥蒙其慶矣。上六:豐其屋,蔀其家,窺其戶,[門@貝]其無人,三歲不覿,凶。象曰:豐其屋,天際翔也;窺其戶,[門@貝]其無人,自藏也。以陰居陰,處震之極、禮之上,拒絕離明,惟恐容光之或照及我也。故豐其屋,則堂高數仞,飛簷斜桷,若欲翔於天際者;蔀其家,則多設覆蔽,深自藏隱,縱窺戶而[門@貝]若無人者。此乃從闇至闇,雖至三歲猶不相覿,凶何如哉。三歲言其甚久,亦以隔於九三,共三爻故。

六五の爻辞にいう。章(あや)ある賢者を来たらしむ。慶誉あり、吉。《小象伝》にいう。六五の吉は、慶あるなり。——智旭の解説:六五は陰柔をもって中に居て尊位に処り、六二が誠信をもってこれを啓発するのを頼む。これは全く六二のあの離火のような光明の徳に依るものだが、実はまた私自身がこれを招来するを肯んじたことによる。君臣の徳行が相合すれば、天下は皆この喜慶を蒙る。上六の爻辞にいう。其の屋を豊かにし、其の家を蔀(おお)う。其の戸を闚(うかが)えば、閴(けき)として其の人なし。三歳覿(み)ず。凶。《小象伝》にいう。其の屋を豊かにするは、天際に翔ばんとす。其の戸を闚うて閴として人なきは、自ら蔵すればなり。——上六は陰爻をもって陰位に居り、上卦震の極位、豊卦の最上に処り、ひたすら下卦離の光明を拒絶して、一糸の光線も身に照ることを恐れる。だから「其の屋を豊かにす」とは、庁堂が数仞の高さで飛簷斜椽、まさに天辺に飛翔せんとするがごとく、「其の家を蔀う」とは、層々に遮蔽を設けて自らを深く蔵し、たとえ人が戸隙から闚っても、人なきがごとく寂静である。これは黑暗からさらに黑暗に向かうもので、三年を過ぎても顔を見ることができない。これより凶なるものがあろうか。「三歳」というのは極久を形容し、またそれと九三の間に三つの爻を隔てることによる。(底本の「豊」の字はここでもなお「礼」と譌る。「[門@貝]」は底本が偏旁を拼合して表した「閴」の字で、寂静で人のない意。今みなそのまま原式を写す。)

旅卦

(艮下 離上)旅:小亨,旅貞吉。日中則昃,月盈則食,故次豐之後明旅也。豐以尚大,旅以小亨,貞豈有大小哉。在大則大,在小則小,耍不失其貞而已;不失其貞,則無往而不吉矣。彖曰:旅,小亨,柔得中乎外而順乎剛,止而麗乎明,是以小亨旅貞吉也。旅之時義大矣哉。在外故名為旅。處旅莫尚於柔,用柔莫貴於得中,得中則能順剛,而天下無難處之境矣。止故能隨寓而安,麗明故能見機而作。此旅之貞,即乾之貞,即坤之貞,即大易之貞也。從來大聖大賢,自天子至於庶人,無不全以乾坤大易之貞而處旅,無不即於旅時而具見乾坤大易之貞者,詎可以造次而忽其時義之大哉。佛法釋者:下三土無非旅泊,千三土中作大佛事,故時義大;若以寂光法身視之,仍名小亨。

(下卦艮・上卦離)旅卦の卦辞にいう。旅は小亨。旅貞吉。——智旭の解説:太陽は正午を過ぎれば西斜し、月は円満すれば亏蝕するがゆえに、豊卦の後に旅卦が続く。豊卦は大を尚び、旅卦はただ小さく亨るだけである。しかし「貞」という事にどうして大小があろうか。大きい境地に処れば大きく、小さい境地に処れば小さい。肝要なのはただあの正を失わないことだけである。この正を失わなければ、どこへ行っても吉である。(底本の「要」の字は「耍」と作る。今そのまま写す。)《彖伝》にいう。旅小亨は、柔が外に中を得て剛に順い、止まりて明に麗(つ)けばなり。旅貞吉は、旅の時義大なればなり。——智旭の解説:身が外にあれば「旅」という。旅途に処するに、最も肝要なのは柔である。柔を用いるにまた最も貴ぶべきは中を得ることである。中を得れば陽剛に順うことができ、天下に難処の境地もなくなる。止むを能くするがゆえに随所に身を安んじ、光明に依附するがゆえに機を見て動くことができる。この旅居の正は、すなわち乾の正・坤の正であり、すなわち全部の《易》の正である。古来の大聖大賢は、上は天子より下は平民に至るまで、完全に乾坤大易の正をもって旅に処らない者はなく、またまさに羈旅の時にあって充分に乾坤大易の正を顕出しない者もない——どうして倉卒・軽率にこの時義の重大を軽んじることができようか。——彼は続いて仏法をもって会通する。天台が判ずる四土のうち、下の三土(凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土)は一つとして旅居暫寄の処でないものはない。能くこの三土の中で大いに仏事を作すがゆえに「時義大」という。しかし最上の常寂光土・法身の境界をもって見れば、それはなお「小亨」に算えるのみである。(底本「于三土」の「于」は「千」と譌る。今そのまま写す。)

象曰:山上有火,旅。君子以明慎用刑而不留獄。山如亭舍,火如過客。君子之省方巡狩也,法離之明,法艮之慎,故刑可用而獄不可留。蓋設使留獄不決,則不惟失離之明,亦且失艮之慎矣。觀心釋者:念起即覺,覺即推破,不墮掉悔也。

《大象伝》にいう。山の上に火があるのが旅卦である。君子はこれに法って、明にして愼にして刑を用い、獄を留めず。——智旭の解説:山は旅途中の亭舎のごとく、火は過路の旅客のごとし。君子は四方を巡視し時に応じて巡狩し、離の明を傚法し艮の愼を傚法するがゆえに、刑罰は用うべきだが案件は積滞すべきでない。もし案件を圧して判決しなければ、離の明を失うばかりでなく艮の愼も失う。——さらに観心から会通する。念頭がひとたび起こればすぐに覚察し、ひとたび覚察すればすぐに推尋して破除すれば、「掉挙」(心が浮動散乱する)と「悔」(追悔して安からぬ)という二種の障道の煩悩に落ちない。

初六:旅瑣瑣,斯其所取災。象曰:旅瑣瑣,志窮災也。陰柔在下,不中不正,旅而瑣瑣者也。瑣瑣猶云屑屑,由無高明遠大之志,所以自取其災。六二:旅即次,懷其資,得童僕貞。象曰:得童僕貞,終無尤也。當旅之時,各以在上相近之爻為次、為處、為巢,而陰宜依陽,陽宜附陰。今六二陰柔中正,順乎九三之剛,故為即次;以陰居陰而在艮體,為懷其資;下有瑣瑣之初六,而無二心於我,為得童僕貞。夫即次懷資猶屬外緣,得童僕貞則由內德。有德如是,可謂旅貞吉矣,終無尤。

初六の爻辞にいう。旅は瑣瑣(ささ)として、斯れ其の取る所の災なり。《小象伝》にいう。旅瑣瑣たるは、志窮まりて災なればなり。——智旭の解説:初六は陰柔をもって最下に居り、中にも位にも当たらず、旅途中の瑣瑣猥屑の人である。「瑣瑣」とは「屑屑」というようなもので、細枝末節に計較する。高明遠大の志向がないがゆえに、自ら災禍を招く。六二の爻辞にいう。旅は即(つ)き次(やど)り、其の資を懐(ふところ)にし、童仆の貞を得る。《小象伝》にいう。童仆の貞を得るは、終に尤なきなり。——まさに羈旅の時に当たり、各爻はみな上で自分に近く挨るあの一爻を旅舎・住処・巢穴とし、陰爻は陽爻に依附すべく陽爻は陰爻に依附すべきである。今六二は陰柔にして中に居て正を得て、九三の陽剛に順うがゆえに「即次」——旅舎に入ったという。それは陰爻をもって陰位に居りまた艮体の中にあるがゆえに「其の資を懐にす」——盤纏を帯びるという。下にあの瑣瑣の初六があって、我に対して二心がないがゆえに「童仆の貞を得る」という。旅舎に入り身に盤纏を懐くのはなお外在の機縁に属し、忠貞の童仆を得るのは内在の徳行に出る。このような徳行があれば、「旅貞吉」というべきで、だから終に過失がない。

九三:旅焚其次,喪其童僕,貞厲。象曰:旅焚其次,亦以傷矣;以旅與下,其義喪也。三以四為其次,而以陽遇陽,又屬離體,故焚其次而亦可傷矣。又復過剛不中,處此旅時,猶不知所以善與其下,致使童僕離心遠去,此豈人之罪也哉。

九三の爻辞にいう。旅は其の次を焚き、其の童仆を喪う。貞厲(あやう)し。《小象伝》にいう。旅其の次を焚くは、亦た以て傷(いた)めるなり。旅を以て下に与(あた)うれば、其の義喪なればなり。——智旭の解説:九三は九四を己の旅舎とするが、陽爻が陽爻に遇い、両方相容れず、加えて九四はまた上卦離火に属するがゆえに、旅舎は焼かれ己も傷つくに足る。またそれは剛に過ぎて中に居らず、羈旅の時に身を置きながら、なお下の人を善く善待することを知らず、童仆をして心を離れ遠走せしめる——これはどうして人を咎めることができようか。

九四:旅于處,得其資斧,我心不快。象曰:旅于處,未得位也;得其資斧,心未快也。君子行役,志元不在資斧。九四近附六五,聊可處矣。以陽居陰,陰為資斧,猶云資糧,可以致用,故名資斧。然五方在旅,不能即大用我以行其志,故雖獲於處,而猶未得位也;既未得位,故雖得其資斧,而於行道之心仍未快也。

九四の爻辞にいう。旅は処(どころ)に於いて、其の資斧を得る。我心快からず。《小象伝》にいう。旅処に於くは、未だ位を得ざればなり。其の資斧を得るも、心未だ快からざるなり。——智旭の解説:君子が外に出て奔走し服役するのは、志向は本来盤纏に在らない。(底本「志本」の「本」は「元」と作る。今そのまま写す。)九四は六五に近く挨りこれに依附し、辛うじて安身の処があると算えられる。それは陽爻をもって陰位に居り、陰はすなわち「資斧」であり、いわば盤纏資糧のごとく取りて応用できるがゆえに「資斧」という。しかし六五自身もまた羈旅の中にあって、すぐに私を重用して我が志向を実現させることができないがゆえに、安身の処はあっても、まだ応有の位置を得ていない。位を得ていない以上、たとえ盤纏利斧があっても、道を行うこの心願に対してなお快からない。

六五:射雉一矢亡,終以譽命。象曰:終以譽命,上逮也。此正所謂柔得中乎外而順乎剛者也。虛心以招天下之賢以濟吾旅,如射雉者,雖或亡其一矢,終必得雉,故人譽之,天命之矣。蓋以人合天,天必祐之,名為上逮。

六五の爻辞にいう。雉を射るに一矢亡く、終に誉命を以てす。《小象伝》にいう。終に誉命を以てするは、上逮(た)すればなり。——智旭の解説:これはまさに《彖伝》のいう「柔中を外に得て剛に順う」の一爻である。それは虚心をもって天下の賢才を招納して己の羈旅を救済する。雉を射る人のごとく、たとえ一矢を失っても、最後には結局雉を射ることができるがゆえに、人はこれに美誉を与え、天はこれに爵命を与える。人事をもって天心に合わせれば、天は必ずこれを保祐する。これを「上逮」という——上に向かって通達する。

上九:鳥焚其巢,旅人先笑後號啕,喪牛于易,凶。象曰:以旅在上,其義焚也;喪牛于易,終莫之聞也。處旅莫尚於柔,今以剛不中正而在離極,更無覆護之者,如鳥焚其巢矣。先則以處高為樂故笑,後則以焚巢無歸故號啕。離本有牝牛之德,乃以任剛傲慢,不覺喪之,凶何如哉。然巢之焚,由其以旅在上,乃是高亢加人,故義能招之,豈可歸咎於命數;牛之喪,由其不知內省,驕矜自是,故禍生於所忽,而終莫之聞,豈可怨尤於他人。

上九の爻辞にいう。鳥が其の巢を焚く。旅人は先ず笑い、後に号咷(ごうとう)す。牛を易(あぜ)に喪う。凶。《小象伝》にいう。旅を以て上に在るは、其の義焚かるるなり。牛を易に喪うは、終に聞く莫きなり。——智旭の解説:羈旅の中に処るに最も肝要なのは柔である。今上九は陽剛をもって中にも正にも当たらず、また離火の極位に処り、上にもはやこれを庇護し得る者がないがゆえに、鳥が其の巢を焚かれるがごとし。初めは高位に身を置くことをもって意を得たがゆえに笑い、後には巢が焼かれ帰る家がないがゆえに号咷する。離卦は本来牝牛のような柔順の徳性を含むが、それはひたすら任性剛強・傲慢に人を接して、知らず知らずこの柔徳を失った。これより凶なるものがあろうか。しかし巢が焼かれたのは、羈旅の身をもって最上に居り、高亢して人を凌ぐがゆえに、理において自ずからこの結果を招いたのであり、どうして命運に咎を帰せようか。牛が失われたのは、反省を知らず驕矜自是であるがゆえに、禍患はまさに彼が忽略した所から生じ出るのであり、だから終にこれを告げる人がいないのだ。どうして傍人を怨み得ようか。

巽卦

(巽下 巽上)巽:小亨,利有攸往,利見大人。善處旅者,無入而不自得,不巽則無以自容矣。巽以一陰入於二陽之下,陰有能而順乎陽以致用,故小亨而利有攸往、利見大人也。觀心釋者:增上定學,宜順於實慧以見理。

(下卦巽・上卦巽)巽卦の卦辞にいう。小亨。往く所有るに利し。大人を見るに利し。——智旭の解説:善く旅に処する者は、どこへ行っても自ら其の楽を得る。しかし柔順巽入することができなければ、身を安んずる処がない。巽卦は一つの陰爻が二つの陽爻の下に鑽(も)ぐり込むもので、陰は才能ありながら陽に順って作用を発揮するがゆえに「小亨」で「利有攸往」「利見大人」である。——さらに観心から会通する。これは三学の中の増上の「定学」に相当し、真実の智慧に順従してこそ理体を見ることができる。

彖曰:重巽以申命,剛巽乎中正而志行,柔皆順乎剛,是以小亨,利有攸往,利見大人。君子之在旅也,得乎丘民而為天子,民有能而順乎君,君則殷勤鄭重,申吾命以撫綏之。蓋由剛巽乎中正之德,故其志得行,故柔皆順之也。剛不中正,則不足以服柔;柔不順剛,則亦不得小亨矣。利有攸往,利見大人,正所以成其小亨;不往不見,何以得亨也哉。象曰:隨風巽。君子以申命行事。風必相隨繼至,乃可以鼓萬物;君子必申明其命,篤行其事,乃可以感萬民,故曰君子之德風。

《彖伝》にいう。巽を重ねるは、以て命を申(の)べ行うなり。剛巽乎中正にして志行く。柔皆剛に順う。以て小亨、往く所有り、大人を見るに利し。——智旭の解説:君子がまだ羈旅の中に在る時は、まさに《孟子》のいうごとく、百姓の擁戴を得れば天子と為ることができる。百姓に才能があって君主に順えば、君主は殷勤鄭重に我が政令を反覆申明して彼らを安撫する。これは全く陽剛が中正の徳に順入し得ることによるがゆえに、心志が推行され、陰柔もまた皆これに順う。陽剛が中正でなければ陰柔を心服させるに足らず、陰柔が陽剛に順わなければこの小亨を得ることもできない。「利有攸往」「利見大人」は、まさにこの小亨を成就するために用いられるのであり、往かず見ざれば、何をもって亨通を得ようか。《大象伝》にいう。風が随(したが)い至るのが巽卦である。君子はこれに法って、命を申べ行事を行う。——風は必ず一陣一陣と相次いで吹き来たって初めて万物を鼓動し得る。君子は必ず政令を反覆申明し政事を篤実に推行して初めて万民を感動し得る。だから《論語》に「君子之徳風」——君子の徳行は風のごとし、という。

初六:進退,利武人之貞。象曰:進退,志疑也;利武人之貞,志治也。初六,巽之主也。巽主於入,而陰柔每患多疑,故或進而且退。夫天下事本無可疑,特其志自疑耳;決之以武人之貞,則志治而天下事不難治矣。此所云武人之貞,即彖所云有攸往而見大人者也。

初六の爻辞にいう。進退する。武人の貞に利し。《小象伝》にいう。進退するは、志疑なればなり。武人の貞に利しきは、志治まればなり。——智旭の解説:初六は巽卦の主爻である。巽の性情は「入」に主り、陰柔の毛病はいつも多疑にあるがゆえに、まさに進もうとしてまた退く。天下の事は本来疑うべき何物もなく、ただそれ自身の心志が疑っているだけである。武人のあの果決の貞正をもってこれを決断すれば、心志がひとたび治まれば、天下の事もまた治め難くない。ここにいう「武人之貞」とは、《彖伝》のいう「有攸往」し「大人を見る」の意である。

九二:巽在床下,用史巫紛若,吉,無咎。象曰:紛若之吉,得中也。九五陽剛中正,為巽之主,如坐床上,則九二巽德之臣,固宜在床下矣。然以剛中得初六之順,未免有僭竊之嫌,故必用史以紀吾所行,用巫以達吾誠悃,紛若不敢稍疏,乃得中而吉無咎也。

九二の爻辞にいう。床下に巽(ひ)れる。史巫を用いて紛若(ふんじゃく)とす。吉、咎なし。《小象伝》にいう。紛若の吉は、中を得ればなり。——智旭の解説:九五は陽剛中正で巽卦の主爻、床上に坐るがごとし。では九二という巽順の徳を具えた臣子は、自ずから床下にあるべきである。ただそれは陽剛居中をもって初六の順従を得ており、僭越窃権の嫌疑を免れないがゆえに、必ず史官を用いて我が所作所為を記録させ、巫祝を用いて我が一片の誠意を上達させ、紛紛として一点の疏忽をも敢えてしないでこそ、中道に合して吉利で過なしとなるのである。

九三:頻巽,吝。象曰:頻巽之吝,志窮也。以剛居剛,非能巽者,勉強學巽,時或失之。蓋志窮則不止於志疑,疑可治而窮則吝矣。六四:悔亡,田獲三品。象曰:田獲三品,有功也。陰柔得正,為巽之主,順乎九五陽剛中正之君,此休休有容之大臣,天下賢才皆樂為用者也,故如田獲三品而有功。三品者,除九五君位,餘三陽皆受其羅網矣。

九三の爻辞にいう。頻(しき)りに巽る。吝(りん)あり。《小象伝》にいう。頻巽の吝は、志窮まればなり。——智旭の解説:九三は陽爻をもって陽位に居り、本来能く柔順する人ではない。勉強して柔順を学ぶがゆえに、しばしば手を失する。心志の「窮」は初六の心志の「疑」より一層進んでいる。疑はなお整治することができるが、窮はただ羞吝のみである。六四の爻辞にいう。悔い亡ぶ。田(か)りて三品を獲る。《小象伝》にいう。田りて三品を獲るは、功あるなり。——六四は陰柔をもって位に当たり正を得て、巽卦の主爻であり、九五という陽剛中正の君主に順う。まさに《尚書・秦誓》のいうあの寛宏で容量ある大臣で、天下の賢才が皆楽んで彼に用いられるがゆえに、田りて三品を獲るがごとき功がある。いわゆる「三品」とは、九五という君位を除いて、残りの三つの陽爻がみな彼の羅網に落ちたのをいう。

九五:貞吉悔亡,無不利,無初有終,先庚三日,後庚三日,吉。象曰:九五之吉,位正中也。雖有其德,苟無其位,則不敢變更;雖有其位,苟無其德,則不能變更。九五蓋德位相稱者也,故得其巽之貞,而亦吉,亦悔亡,亦無不利。然事既變更,則是無初;變更得正,所以有終。又必丁寧於未更三日之先,且豫揆度於既更三日之後,則吉也。盤庚以之。

九五の爻辞にいう。貞吉、悔い亡ぶ、利あらざるなし。初なく有終。先庚三日、後庚三日、吉。《小象伝》にいう。九五の吉は、位正中なればなり。——智旭の解説:一人の人はたとえあの徳行があっても、あの位がなければ敢えて変更を作さない。たとえあの位があっても、あの徳行がなければ変更を作すことができない。九五はまさに徳と位が相称する人で、だから巽卦の正を得て、よって吉、よって悔亡、よって利あらざるなし。しかし事がすでに変更された以上、旧き一套はなくなる。これが「無初」である。変更が端正だからこそ「有終」である。このほかまた必ず変更の前三日に反覆丁寧に告誡し、また予め変更の後三日に効果を審度しなければならない。こうして初めて吉となる。商代の盤庚の遷都は、この法を用いたのである。

上九:巽在床下,喪其資斧,貞凶。象曰:巽在床下,上窮也;喪其資斧,正乎凶也。以陽剛居卦上,舉凡九五九二之能巽者,皆在我床下矣,而我方上窮而不知。故初六六四之資斧,皆為二五所用,而不為我用。其凶也,是其正也,何所逃乎。佛法釋六爻者:初是世間事禪,有進有退;二是空慧,宜史巫以通實相;三是乾慧,不能固守;四是出世間禪,多諸功德;五是中道正慧,接別入圓,故無初有終;上是邪慧,滅絕功德。

上九の爻辞にいう。床下に巽り、其の資斧を喪う。貞凶。《小象伝》にいう。床下に巽るは、上窮まればなり。其の資斧を喪うは、正(まさ)に乎凶なればなり。——智旭の解説:上九は陽剛をもって一卦の最上に居り、およそ九五・九二らの能く柔順する爻は、それから見れば皆自分の床下に在り、それはまさに窮尽の地に処りながら自ら知らない。だから初六・六四というこの二つの「資斧」は、みな九二・九五に取り用いられ、それの番には回らない。その凶は、まさにそれ自身が招いたのであり、どこへ逃れようか。——以下彼は仏法をもって爻ごとに会通する。初爻は世間の事相禅定で、進退ある。二爻は空を照らす慧で、史官巫祝の力を借りて実相に通達すべきである。三爻は「乾慧」(定水の滋潤を得ていない乾枯の智慧)で、守ること固くない。四爻は出世間の禅定で、種種の功徳を具足する。五爻は中道正慧で、「別教」の人を「円教」(天台化法の四教は蔵・通・別・円で、円教が最も円満究竟)に接引し得るがゆえに「無初有終」という。上爻は則ち邪慧で、功徳をすべて断滅する。

兌卦

(兌下 兌上)兌:亨,利貞。入則自得,自得則說;自得則人亦得之,人得之則人亦說之矣,說安得不亨哉。然說之不以正,君子不說,故利貞焉。書云:無拂民以從己之慾,罔違道以千百姓之譽。彖曰:兌,說也。剛中而柔外,說以利貞,是以順乎天而應乎人。說以先民,民忘其勞;說以犯難,民忘其死。說之大,民勸矣哉。剛中則無情慾偏倚之私,柔外則無暴戾粗浮之氣,此說之至正,天地同此一德者也。以此德而先民,民自忘勞;以此德而犯難,民自忘死。即此是說之大,民自勸而胥化於善,非以我勸民也。

(下卦兌・上卦兌)兌卦の卦辞にいう。亨る、貞に利し。——智旭の解説:前の卦は「入」を説いた。能く巽入すれば自ら其の楽を得、自ら其の楽を得れば歓悦する。自ら得る所有れば、人もまた之を得、人が之を得ればまた歓悦する。歓悦はどうして亨通しないことがあろうか。しかし悦ぶ所が正に合しなければ、君子は歓悦しないがゆえに、卦辞は一句「利貞」を加える。《尚書・大禹謨》にいう。百姓の心に違って己の欲に從うなかれ、正道に違って百姓の赞誉を求むるなかれ。(底本のこの二句は今本《尚書》と文字が略わ異なり、「干」の字を「千」と作る。今そのまま写す。)《彖伝》にいう。兌は説(よろこ)ぶなり。剛中にして柔外、説にて貞に利す。以て天に順にて人に応ず。説びて先民を先とすれば、民は其の労を忘る。説びて難を犯せば、民は其の死を忘る。説の大なるかな、民は勧め励まさるる哉。——智旭の解説:陽剛が中に居れば情欲偏私の毛病なく、陰柔が外に在れば暴戾粗浮の気習なし。これは最も純正の喜悅であり、天地が共に有するこの一つの徳である。この徳をもって百姓の先頭に行けば、百姓は自ずから労苦を忘れ、この徳をもって艱難を冒せば、百姓は自ずから生死を忘れる。これが喜悅の偉大なる所以である——百姓が自ら互いに勧め励まして一斉に善に向かうのであって、私がそこで彼らを勧めているのではない。

象曰:麗澤兌。君子以朋友講習。澤相麗則不枯竭,學有朋則不孤陋。以文會友,講也;以友輔仁,習也。講而不習則罔,習而不講則殆。講則有言不背於無言,習則無言證契於有言;又講則即無言為有言,習則即有言成無言矣。

《大象伝》にいう。沢を麗(つらな)らすが兌卦である。君子はこれに法って、朋友と講習す。——智旭の解説:二つの水沢が彼此相連なれば涸竭せず、学問に朋友があれば孤陋寡聞しない。曾子は「文を以て友を会す」といい、あれは「講」であり、「友を以て仁を輔く」といい、あれは「習」である。孔子は「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」といい、ここではちょうどこれを借りていう。ただ講じて習わなければ迷惘して得なく、ただ習いて講ぜざれば疑殆して安からず。講とは、言い出された言が言い出せない本体に背かないようにすることであり、習とは、言い出せない証悟を言い出された言に契合させることである。さらに一層進めていえば、講とは「無言」を「有言」として施設することであり、習とは「有言」を「無言」に化して体証することである。

初九:和兌,吉。象曰:和兌之吉,行未疑也。剛正無應,和而不同,得兌之貞者也,無私故未有疑。九二:孚兌,吉,悔亡。象曰:孚兌之吉,信志也。剛中則誠內形外,自信其志,亦足以取信於天下矣。六三:來兌,凶。象曰:來兌之凶,位不當也。六三為兌之主,何以凶哉?乾得坤之上爻而為兌,以陽為體,以陰為用者也。若內無其體,徒欲外襲其用以來取悅於人,則亂義必矣,君子所以惡夫侒者。

初九の爻辞にいう。和兌(わだ)。吉。《小象伝》にいう。和兌の吉は、行い未だ疑われざればなり。——智旭の解説:初九は陽剛得正で上に応ずる爻がなく、まさに《論語》のいう「和して同ぜず」、兌卦の正を得た者である。心に私なきがゆえに、行いに疑われる所がない。九二の爻辞にいう。孚兌。吉、悔い亡ぶ。《小象伝》にいう。孚兌の吉は、志を信ずればなり。——九二は陽剛居中で、内心が誠実であれば自ずから外に顕現し、自ら己の心志を信じ得れば、また天下の信を取るに足る。六三の爻辞にいう。兌に来たる。凶。《小象伝》にいう。兌に来たるの凶は、位当たらざればなり。——智旭の解説:六三は下卦兌の主爻である。なぜかえって凶なのか。兌は乾体の上一爻を坤の上爻に換えて成ったもので、陽剛を本体とし陰柔を作用とするからである。もし内にあの陽剛の本体がなく、ただ外であの陰柔の作用を襲い取ろうとして、駆けつけて人の歓心を買おうとすれば、必ず道義を敗壊する——これはまさに君子が諂佞の人を憎悪する所以である。(底本の「佞」の字は「侒」と作る。今そのまま写す。)

九四:商兌未寧,介疾有喜。象曰:九四之喜,有慶也。兌不可以不利貞也。三之來兌,何足戀惜,乃不忍絕而商之,心必未寧。惟介然自斷,速疾勿遲,則有喜矣。大臣不為諂媚所惑,天下且受其慶,不止一身有喜而已。

九四の爻辞にいう。商兌して未だ寧(やす)からず。疾を介(さかい)にすれば喜あり。《小象伝》にいう。九四の喜は、慶あるなり。——智旭の解説:喜悅は正に合しないことがあってはならない。六三が駆けつけて媚びるのに、何の留戀する値打ちがあろうか。九四は断絶するに忍びず、なおそこで反覆して称量し、心中は当然安からない。ただ耿介に自ら決断を下し、快刀で乱麻を断ちて再び延引しないでこそ喜びがある。大臣が諂媚に迷惑されなければ、天下は皆この喜慶を受けるのであり、ただ彼自身一身に喜びがあるだけではない。

九五:孚于剝,有厲。象曰:孚于剝,位正當也。陽剛中正,誠內形外之至者也,故不惟可孚於君子,亦可孚于剝正之小人,使彼改惡從善,反邪歸正,而有厲焉。蓋既有其德,又有其位,故化道如此之盛耳。上六:引兌。象曰:上六引兌,未光也。上六亦為兌主,然既無其體,惟思以悅引人,則心事亦曖昧矣。三欲來四,上欲引五,其情態同,而三不當位故凶,上猶得正故不言凶。

九五の爻辞にいう。剥(はく)に孚あり。厲あり。《小象伝》にいう。剥に孚あるは、位正当なればなり。——智旭の解説:九五は陽剛中正で、内心誠実・外形が畢現する極点に至る人である。だから君子に取信するのみならず、あの正道を剥蝕する小人にも取信し、彼らをして悪を改め善に從い、邪を棄てて正に帰らしめる——ただこの中に自ずから危険があって警惕を要する。彼にはあの徳がありまたあの位があるがゆえに、感化の道がかくも隆盛するのである。上六の爻辞にいう。兌を引(ひ)く。《小象伝》にいう。上六兌を引くは、未だ光ならざればなり。——上六もまた兌卦の主爻だが、それはあの陽剛の本体がない以上、ただ取悦をもって人を牽引しようと思うだけで、心事は曖昧不明である。六三は駆けつけて九四に媚びようとし、上六は九五を牽引しようとする。両者の情態は一様である。ただ六三は位置が当たらないがゆえに凶であり、上六は陰爻をもって陰位に居りなお正を得ていると算えられるがゆえに、爻辞は凶と言わない。

渙卦

(坎下 巽上)渙:亨,王假有廟,利涉大川,利貞。悅而後散之,謂公其悅於天下,而不獨樂其樂,故亨也。既能與民同樂,則上可以悅祖考,故王假有廟;遠可以悅四夷,故利涉大川。而悅不可以不正也,故誡之以利貞。

(下卦坎・上卦巽)渙卦の卦辞にいう。亨る。王假りて廟に在る。大川を渉るに利し、貞に利し。——智旭の解説:前の卦は喜悅を説いた。喜悅した後はこれを散らすのである。己の喜悅を公にして天下に布き、独りこの快楽を享受しないがゆえに亨通する。すでに百姓と楽を同じくすれば、上に向かっては祖先を歓悦させることができるがゆえに「王假有廟」といい、遠くに向かっては四方の異族を歓悦させることができるがゆえに「利渉大川」という。そして喜悅は正に合しないことがあってはならないがゆえに、卦辞は「利貞」をもって告誡する。

彖曰:渙,亨,剛來而不窮,柔得位乎外而上同。王假有廟,王乃在中也;利涉大川,乘木有功也。九二剛來而不窮,六四柔得位乎外而上順於九五,此能擴充兌卦剛中柔外之德,而渙其悅於天下者也,安得不亨。又九五居上卦之中,此王假有廟以悅祖考之象;乘巽木而涉坎水,此遠悅四夷決定有功之象,而貞在其中矣。

《彖伝》にいう。渙は亨る。剛来りて窮まらざればなり。柔位を外に得て上同すればなり。王假りて廟に在るは、王乃ち中に在ればなり。大川を渉るに利しきは、木を乘りて功あるなり。——智旭の解説:九二という陽剛が来りて下卦の中位に居て窮まらず、六四という陰柔が外卦に位を得て上に九五に順い同心する——これはまさに兌卦の「剛中柔外」の徳行を擴充し、あの喜悅を天下に散布するもので、どうして亨通しないことがあろうか。さらに九五は上卦の中位に居り、これは「王假有廟」して祖先を歓悦させる象であり、上卦巽の木船に乘って下卦坎の水を渡るのは、遠方の異族を歓悦させて必ず功ある象である——そして「貞」もまたその中に含まれている。

象曰:風行水上,渙。先王以享于帝立廟。風行水上,不勞力而波濤普遍。先王享帝以事天,立廟以事先,盡其一念誠孝,即足以感通天下,恩波亦無不遍矣。故曰明乎郊社之禮、禘嘗之義,治國其如視諸掌乎。

《大象伝》にいう。風が水の上を行くのが渙卦である。先王はこれに法って、帝を享け廟を立つ。——智旭の解説:風が水上に吹けば、何の力も費やさずに波濤が普遍に推蕩して開ける。先王は帝を享けて上天に奉仕し、宗廟を立てて祖先に奉仕する。ただこの一念の誠敬孝心を尽くせば、天下に感通するに足り、恩沢の波瀾もまた周遍しないことはない。だから《中庸》にいう。郊社の礼・禘嘗の義を明らかにすれば、国を治めることは大概、己の掌を視るがごとき易しさであろう、と。

初六:用拯,馬壯吉。象曰:初六之吉,順也。初居坎下,受四之風而用拯,拯則出水而登陸矣。坎於馬為美脊,今初六順於九二,故為馬壯而吉。九二:渙奔其杌,悔亡。象曰:渙奔其杌,得願也。此正彖傳所謂剛來而不窮者也。當渙時而來奔據於杌,卓然安處中流,得其自悅悅他之願,故悔亡。

初六の爻辞にいう。拯(たす)けるに用いて馬壮なれば吉。《小象伝》にいう。初六の吉は、順なればなり。——智旭の解説:初六は下卦坎の最下に居り、六四のあの一陣の風の鼓蕩を受けて拯拔され出で、ひとたび拯拔されれば水を出て陸地に登る。《説卦伝》に坎は馬象では脊背の健美な馬という。今初六は九二に順うがゆえに、壮馬を取象として吉となる。九二の爻辞にいう。渙の時に其の杌(ぎく、木の台)に奔る。悔い亡ぶ。《小象伝》にいう。其の杌に奔るは、願いを得ればなり。——これはまさに《彖伝》のいう「剛来りて窮まらず」の一爻である。渙散の時に当たりそれは奔り来て木の台に拠って守り、卓然として安穩に水流の中に立ち、己を歓悦せしめまた他人を歓悦せしめる心願を実現したがゆえに、悔恨は消える。

六三:渙其躬,無悔。象曰:渙其躬,志在外也。陰居坎體之上,六四上同上九之風而渙之,舉體散作波濤以潤於物,志在外而不在躬,故無悔也。六四:渙其群,元吉,渙有丘,匪夷所思。象曰:渙其群無吉,光大也。此正彖所謂柔得位乎外而上同者也。陰柔得正,為巽之主,上同九五,下無應與,盡渙其群以合於大公。此則天下一家,萬物一體,名雖為渙,而實乃有丘矣。聖人無己,無所不己,光明正大之道,豈平常思慮所能及哉。

六三の爻辞にいう。其の躬を渙す。悔いなし。《小象伝》にいう。其の躬を渙すは、志外に在ればなり。——智旭の解説:六三は陰爻をもって坎体の最上に居り、六四が上に上九のあの風と同心してこれを吹き散らすがゆえに、それは全身を波濤と化して万物を滋潤しに行き、心志は天下に在って自身に在らないがゆえに、悔恨がない。六四の爻辞にいう。其の群を渙す。元吉。渙は其の丘有り、夷(ただ)しき所思(おも)う所にあらざるなり。《小象伝》にいう。其の群を渙す元吉は、光大なればなり。(底本の「元吉」はここでは「无吉」と作る。今そのまま写す。)——これはまさに《彖伝》のいう「柔位を外に得て上同す」の一爻である。それは陰柔をもって位に当たり正を得て、上卦巽の主爻であり、上に九五と同心し、下に応ずる私党がなく、己の小群を完全に散じて大公に帰する。このようにすれば、天下は一家となり万物は一体となる。名を「渙」(散)というが、実際は却って丘山に聚まったのである。聖人には一つの私我もなく、だから一処として彼自身でない所がない。このような光明正大の道は、どうして平常の思慮の思い及ぶ所であろうか。

九五:渙汗其大號,渙王居,無咎。象曰:王居無咎,正位也。發大號以與民同悅,如汗之發於中而浹於四體。蓋四之渙群,由五為王而居於正位,四乃得上同之。是故大號如汗渙於外,王居正位常在中,故無咎也。

九五の爻辞にいう。其の大号を渙す。王居(お)る。咎なし。《小象伝》にいう。王居りて咎なきは、正位なればなり。——智旭の解説:重大の号令を発布して百姓と悦びを同じくするのは、汗が体内から発して四肢に遍布するがごとし。六四が己の党群を散じ得たのは、九五が君王として端正の位に居るがゆえに、六四が始めて上に彼と同心し得たからである。だから重大の号令は汗のように外に散布し、君王は端正に正位に居り常に中に守るがゆえに、咎がない。

上九:渙其血去逖出,無咎。象曰:渙其血,遠害也。血者,坎之象;逖者,遠也。人有大患,為其有身,常情執之,保為己躬;正理觀之,乃膿血聚,毒害本耳。上九用六四之風,以渙六三之躬,六三可謂忘身為國,故志在外而無悔。然非上九為其遠害,則六三何能興利乎。

上九の爻辞にいう。其の血を渙して逖(とお)く出る。咎なし。《小象伝》にいう。其の血を渙すは、害を遠ざければなり。——智旭の解説:「血」は坎卦の象であり、「逖」はすなわち遠である。《老子》に人に大患ある所以はこの身があるがためだという。常人の情執はこれを牢牢と守って、己の身軀として保養する。しかし正理から観察すれば、それはただ一塊の膿血の聚合・一切の毒害の根本にすぎない。上九は六四のあの風を借りて、六三の身軀を吹き散らす。六三は自身を忘れて国のために力を効めたというべきで、だから心志は外に在りて悔恨がない。しかしもし上九がこれに代わって禍害を遠ざけなければ、六三はどうして利益を興すことができたであろうか。

合六爻言之:九二如賢良民牧,承流宣化;六四如名世大臣,至公無私;九五如治世聖王,與民同樂;上九如保傅司徒,教民除害。初因此而出險,既拔苦必得樂,故吉;三因此而忘我,既遠害必興利,故無悔也。

六爻を合わせていえば、九二は賢良の地方長官のごとく、朝廷の政令を承接し教化を宣揚する。六四は世に聞こえた大臣のごとく、極めて公正で毫も私心がない。九五は治世の聖王のごとく、百姓と楽を同じくする。上九は太保・太傅・司徒の類の師保の官のごとく、百姓を教導して禍害を除かせる。初六はこれによって険境を脱出し、苦しみを拔除した以上、必ず楽を得るがゆえに吉。六三はこれによって自我を忘れ、禍害を遠ざけた以上、必ず利益を興すがゆえに悔恨がない。

節卦

(兌下 坎上)節:亨,苦節不可貞。水以風而渙,以澤而節。節則不潰不涸,而可以常潤,故亨。夫過於渙必竭,故受之以節;然過於節則苦,又豈可常守乎。彖曰:節,亨,剛柔分而剛得中。苦節不可貞,其道窮也。說以行險,當位以節,中正以通。天地節而四時成,節以制度,不傷財,不害民。得中則不苦,苦則窮,窮則不可以處常;不苦則說,說則並可以行險。惟節而當位,斯為中正;惟中正故通而不窮。天有四時,王有制度,皆所謂中正以通者也。

(下卦兌・上卦坎)節卦の卦辞にいう。亨る。苦節は貞にすべからず。——智旭の解説:水は風に遇えば渙散し、沢に遇えば節制を受ける。節制があって初めて潰決せずまた乾涸せず、長久に滋潤し得るがゆえに亨通する。渙散が度を過ぎれば必ず枯竭するがゆえに、渙卦の後に節卦が続く。しかし節制が度を過ぎれば苦しく、どうして長久に守ることができようか。《彖伝》にいう。節は亨る。剛柔分かれて剛中を得ればなり。苦節貞にすべからざるは、其の道窮まればなり。説びて以て険を行き、位に当たりて以て節し、中正にて以て通ず。天地節して四時成る。制を節して以て財を傷つけず民を害せず。——智旭の解説:中道を得れば苦しまず、苦しければ行き尽くし、行き尽くせば常道とすることができない。苦しまなければ歓悦し、歓悦すれば険路もまた行くことができる。ただ節制してまた位に当たってこそ中正と算え、ただ中正であってこそ通達して窮尽しない。天に四時あり、王に制度あり。いずれも《彖伝》のいう「中正以通」の例である。

象曰:澤上有水,節。君子以制數度議德行。若冕旒,若宗廟,若樂舞,若階陛,若蓍龜,若爵祿等,皆有其數以為度,制使各得其節,則無過與不及,而不奢不儉;若見君,若事親,若接賓,若居喪等,皆根乎德以成行,議使各當其節,則無過與不及,而可繼可傳。如澤節水,稱其大小淺深,要使不潰不涸而已。

《大象伝》にいう。沢の上に水があるのが節卦である。君子はこれに法って、数度を制し徳行を議す。——智旭の解説:冕冠の垂旒、宗廟の規模、楽舞の行列、階梯の層級、蓍草亀甲の用法、爵位俸禄の等差などのごときは、いずれも一定の数目をもって法度とし、制定して各々節度に合わせれば、過ぎることも及ばないこともなく、よって奢侈もせず吝嗇もしない。また君主に朝見し、双親に奉仕し、賓客を接待し、居喪して制を守るなどのごときは、いずれも内心の徳に根づいて行為を成すのであって、議評して各々その節度に当たらせれば、過ぎることも及ばないこともなく、よって持続し得、流伝し得る。これは沢が水に節度を立てるに譬えて、水の大小深浅を称量し、要するにそれを潰決も乾涸もさせないだけである。

初九:不出戶庭,無咎。象曰:不出戶庭,知通塞也。節之義亦多矣:或時節,或裁節,或品節,或名節,或撙節,或符節,或節制,或節文,或節限,或節操。今且以時節言之:剛正而居下位,九二塞於其前,故順時而止,不出戶庭;既知裁節,則品節名節皆善矣。復以節制言之:上應六四,水積尚淺,故宜塞使不流也。

初九の爻辞にいう。戸庭を出ず。咎なし。《小象伝》にいう。戸庭を出ざるは、通塞を知ればなり。——智旭の解説:「節」という字の含義は多い。時令節候の節、裁断の節、品第等級の節、名誉気節の節、撙抑倹省の節、符信憑証の節、節制約束の節、礼儀文飾の節、限量の節、操守の節がある。ここではしばらく時令節候をもって言う。初九は陽剛得正で下位に居り、九二がその前に塞がっているがゆえに、それは時勢に順って止まり、内室の庭院を出ない。すでに裁断を知るならば、品第の節・名誉の節もまた皆能く守り得る。さらに水流の節制をもっていえば、初九は上で六四に応じ、水はまだ浅く積まれているがゆえに、それを塞いで流れ出させないべきである。

九二:不出門庭,凶。象曰:不出門庭凶,失時極也。若以時節言之:既在可為之位,又有剛中之德,六三已闢其門,而乃上無應與,固守小節,豈非大失。復以節制言之:上對九五,水積漸深,便宜通之使流,鬍鬚阻塞以致洪泛,豈非失時之極。

九二の爻辞にいう。門庭を出ず。凶。《小象伝》にいう。門庭を出ざる凶は、時を失うこと極まればなり。——智旭の解説:まず時令節候をもっていえば、九二はすでに有為し得る位置に処り、また陽剛居中の徳行があり、六三がすでにそのために門を開けたのに、上に偏偏として応ずる爻がない。そこで小節を死守して動かない。これはどうして大きな失着でないことがあろうか。さらに水流の節制をもっていえば、九二は上で九五に対し、水は漸く深く積まれ、まさにそれを疏通して流れ去らせるべきなのに、どうして塞き止めて洪水氾濫を釀成する必要があろうか。これはどうして時機を失すること極まったでないことがあろうか。

六三:不節若,則嗟若,無咎。象曰:不節之嗟,又誰咎也。若以時節言之:陰不中正,居下之上,又為悅主,故始則恣情適意而不知節若,後則憂患洊至而徒有嗟若,自取其咎,無可以咎誰也。復以節制言之:上對上六,水已氾濫,而澤口不能節之,徒有嗟若而已,將誰咎乎。

六三の爻辞にいう。節せざれば則ち嗟(さ)す。咎なし。《小象伝》にいう。節せざるの嗟は、又た誰を咎めん。——智旭の解説:まず時令節候をもっていえば、六三は陰爻をもって中にも正にも当たらず、下卦の最上に居り、また兌悦の主爻であるがゆえに、初めは情欲を放縦し随意に快活して節制を知らず、後には憂患が相次いで至り、ただ嗟嘆あるのみ。禍は自ら招いたのであり、誰を咎め得ようか。さらに水流の節制をもっていえば、六三は上で上六に対し、水はすでに氾濫し、沢口はこれを節制し得ない。ただ嗟嘆するのみで、また誰を咎め得ようか。

六四:安節,亨。象曰:安節之亨,承上道也。若以時節言之:柔而得正,居大臣位以承聖君,故為安節,所謂太平宰相也。復以節制言之:下應初九,塞而不流,任九五上六之波及於物,而我獨享其安,故亨。

六四の爻辞にいう。安節。亨る。《小象伝》にいう。安節の亨は、上道を承ければなり。——智旭の解説:まず時令節候をもっていえば、六四は陰柔をもって位に当たり正を得て、大臣の位に居て聖明の君主を承奉するがゆえに「安節」という。すなわち人のいう太平宰相である。さらに水流の節制をもっていえば、六四は下で初九に応じ、塞いで水を流れ出させず、九五・上六の波瀾が万物を潤沢するに任せ、我は独り清静を安享するがゆえに亨通する。

九五:甘節吉,往有尚。象曰:甘節之吉,居位中也。陽剛中正,居於尊位,所謂當位以節者也。無過不及,故甘而吉;行之無敝,故往有尚。自居位中,故非失時極之九二所能阻礙。上六:苦節貞凶,悔亡。象曰:苦節貞凶,其道窮也。若以時節言之:純陰而居節之極,固守不通,故其道既窮,雖正亦凶。彼執為正,實非正也,惟悔而改之則不窮,不窮則凶可亡矣。復以節制言之:水以流下為其節操,六三兌口上缺,不能節制,故上六盡其流下之節而不稍留,遂至枯竭而為苦節,故曰其道窮也。

九五の爻辞にいう。甘節。吉。往けば尚ぶこと有らん。《小象伝》にいう。甘節の吉は、位中に居ればなり。——智旭の解説:九五は陽剛にして中に居て正を得て、尊位に処り、まさに《彖伝》のいう「位に当たりて以て節す」の一爻である。過ぎることも及ばないこともないがゆえに、節制するのが甘美で吉を得る。推行して流弊がないがゆえに、往けば人に嘉尚される。それは自ら中位に居るがゆえに、あの「時を失うこと極まる」の九二の阻碍し得る所ではない。上六の爻辞にいう。苦節。貞凶、悔い亡ぶ。《小象伝》にいう。苦節貞凶は、其の道窮まればなり。——智旭の解説:まず時令節候をもっていえば、上六は純粋に陰爻で節卦の最上に居り、死守して通変を知らないがゆえに、路はすでに行き絶え、「正」というもなお凶である。それは自ら守るのが正だと思っているが、実は正ではない。ただ悔い改めて之を変じてこそ行き絶えるに至らず、行き絶えなければ凶もまた消すことができる。さらに水流の節制をもっていえば、水は下に流れることをその操守とするが、六三の在る兌口の上端に缺口があり、これを節制し得ないがゆえに、上六は下に流れる節度を用い尽くして一点も留めず、終に枯竭して苦しき節制となった。だから《小象伝》は「其の道窮まる」という。

中孚卦

(兌下 巽上)中孚:豚魚吉,利涉大川,利貞。四時有節,故萬物信之而各獲生成;數度德行有節,故天下信之而成其感應。孚者,感應契合之謂;中者,感應契合之源也。由中而感,故由中而應,如豚魚之拜風,彼豈有安排佈置、思議測度也哉。中孚而能若豚魚拜風,則吉矣。然欲致此道,則利涉大川,而又利貞。蓋不涉川,不足以盡天下之至變;不利貞,不足以操天下之至恆。不涉川,則不能以境煉心而致用;不利貞,則不能以理融事而立本也。

(下卦兌・上卦巽)中孚卦の卦辞にいう。誠信が豚や魚のような無知の物類に及べば吉。大川を渉るに利し、貞に利し。——智旭の解説:前の卦は節を説いた。四時に節度があるがゆえに、万物はそれを信任して各々生長成熟を得る。礼数法度と徳行に節度があるがゆえに、天下はそれを信任して彼此の感応を成就する。「孚」とは感応契合の意であり、「中」とは感応契合の源頭である。中から感ずるがゆえに、また中から応ずる。豚や魚が風に迎って跳躍して風信を報知するがごとく、彼らにどんな安排布置・思量揣度があろうか。中心の誠信が豚魚の風に迎うがごとき自然にできれば、吉である。しかしこの歩に至るには、なお「利渉大川」であり、また「利貞」である。大川を渉らなければ、天下の最も極端な変故を経歴するに足らず、貞を守らなければ、天下の最も恒常の道理を把握するに足らないからである。大川を渉らなければ、境界をもって心を鍛錬して作用を発揮することができず、貞を守らなければ、理をもって事を融通して根本を樹立することができない。

彖曰:中孚,柔在內而剛得中,說而巽,孚乃化邦也。豚魚吉,信及豚魚也;利涉大川,乘木舟虛也;中孚以利貞,乃應乎天也。合全卦而觀之,二柔在內,則虛心善順,毫無暴戾之私;分上下而觀之,兩剛得中,則篤實真誠,毫無情慾之雜。兌悅則感人以和,巽順則入人必洽,故邦不祈化而自化也。信及豚魚,猶言信若豚魚。蓋人心巧智多而機械熟,失無心之感應,不及豚魚之拜風者多矣,故必信若豚魚,而後可稱中孚也。巽為木,為舟,浮於澤上,內虛而木堅,故能無物不載,無遠不達。

《彖伝》にいう。中孚卦は柔が内にあり剛が中を得て、下は悦び上は順う。この誠信はよって邦国を化すことができる。豚魚に及べば吉は、信が豚魚に及べばなり。大川を渉るに利しきは、木舟に乘りて舟虚なればなり。中孚にて貞に利しきは、天に応ずればなり。——智旭の解説:全卦を合わせて見れば、三・四の二つの柔爻が中間にあって、すなわち心を虚しくして善く順い、一点の暴戾の私心もない。上下の二卦を分けて見れば、二・五の二つの剛爻が各々中位を得て、すなわち篤実真誠で、一点の情欲の雑質もない。兌の歓悦は和順をもって人を感動し得、巽の柔順は人の心に深く入りて必ず相洽するがゆえに、邦国はその感化を求めなくても自ら感化される。「豚魚に信及ぶ」とは、いわば信実が豚魚のようであるということである。人の心机巧智は多く、算計は熟練して、とうにあの無心の感応を失い、豚魚の風に迎う所に及ばないことが甚だ多い。だから必ず信実が豚魚のようであって、然る後に「中孚」と称するに足る。巽は《説卦》において木でありまた舟であり、沢水の上に浮かび、内は空虚で木質は堅実であるがゆえに、何でも載せられ、どんなに遠くでも到れるのである。

人之柔在內如虛舟,剛得中如堅木,斯可歷萬變而無敗也。夫中孚即天下之至貞,惟利貞乃成中孚,此豈勉強造作所成,乃應乎天然之性德耳。試觀颶風將作,豚魚躍波,魚何心於感風,風何心於應魚,蓋其機則至虛,其理則至實矣。吾人現在一念心性亦復如是:不在內,不在外,不在中間,不在過去,不在現在,不在未來,覓之了不可得,可謂至虛。

人の陰柔が内にあるのは、船腹が中空であるがごとく、陽剛が中を得るのは、木質が堅実であるがごとし。こうしてこそ万变を経歴して敗れない。中孚は天下の最も純正の「貞」であり、またただ貞を守ってこそ中孚を成就できる。これはどうして勉強造作して出せるものではなく、ただ天然本具の性徳に順応するだけである。試しに颶風がまさに起こらんとする時を見よ。豚や魚は紛々として水波を躍り出る。魚にどんな心思があって風を感応しようか。風にまたどんな心思があって魚に回応しようか。これによって彼らの感応の機関は極めて虚霊でありながら、その中の道理は極めて真実であることが分かる。——彼は即座にこの層の道理を観心に転ずる。我らが現前のこの一念の心性もまさにかくのごとし。《楞厳経》が心の所在を推徴するに、それは内に在らず外に在らず中間にも在らずといい、三世について推求すれば、過去に在らず現在に在らず未来にも在らない。このようにそれを求めても、終に了として得られない——これは「至虚」というべきである。

天非此無以為覆,地非此無以為載,日月非此無以為明,鬼神非此無以為靈,萬物非此無以生育,聖賢非此無以為道,體物而不可遺,可謂至實。夫十方三世之情執本虛,而心體真實,決不可謂之虛;天地萬物之理體本實,而相同幻夢,決不可謂之實。是故柔與剛非二物,內與中非二處也。知乎此者,方可名貞,方可涉川,方信及豚魚而吉矣。

しかし天はそれがなければ覆うべき由がなく、地はそれがなければ載すべき由がなく、日月はそれがなければ光明たる由がなく、鬼神はそれがなければ霊験ある由がなく、万物はそれがなければ生育ある由がなく、聖賢はそれがなければ成道する由がない。それは万物の本体として一物も遺漏することがない——これはまた「至実」というべきである。十方三世一切の情執は本来空虚であるが、心体は真実であり、決して一味にそれを虚ということができない。天地万物の理体は本来真実であるが、それらの形相はまた幻夢と同じく、また決して一味にそれを実ということができない。だから柔と剛は二つの物ではなく、「内」と「中」もまた二つの処所ではない。この一層を知る人であってこそ、「貞」を言うに足り、「大川を渉る」ことができ、「豚魚に信及ぶ」が吉を得ると談ずるに及ぶのである。

象曰:澤上有風,中孚。君子以議獄緩死。澤感而風應,風施而澤受,隨感隨應,隨施隨受,此中孚之至也。君子知民之為惡也,蓋有出於不得已者焉,如得其情,則哀矜而勿喜,故於獄則議之,功疑惟重,罪疑惟輕也;於死則緩之,與其殺不辜,寧失不經也。如此,則殺一人而天下服,雖死不怨殺者矣。

《大象伝》にいう。沢の上に風があるのが中孚卦である。君子はこれに法って、獄を議り死を緩む。——智旭の解説:沢がひとたび感動すれば風は回応し、風がひとたび施加すれば沢は承受する。感に随いて応、施に随いて受。これが中孚の極致である。君子は百姓が悪を為すのに、往々にしてやむを得ぬ苦衷から出ることを知っている。まさに曾子のいうごとく、実情を查明したならば、哀矜憐憫して自喜すべきでない。だから案件には反覆審議し、《尚書・大禹謨》の原則に依り、功を賞するに疑あれば重くし、罪を定めるに疑あれば軽くする。死刑には寛緩に執行し、無辜を錯って殺すよりは、むしろ常法を守らない名を担う。こうすれば、一人を殺して天下は心服し、殺された人も死すとも殺した者を怨まない。

初九:虞吉,有他不燕。象曰:初九虞吉,志未變也。君子戒慎乎其所不睹,恐懼乎其所不聞,皆是向一念未生前下手,即本體即功夫,即功夫即本體,故能遁世不見知而不悔,而天地位焉,萬物育焉,所謂闇然而日章者也。才起一念,則名為他,則志變而不燕矣。小人而無忌憚,行險徼(行亍+幸),皆從此一念構出,可不虞之於初也哉。中孚以天地萬物為公,若專應六四,便名有他。

初九の爻辞にいう。虞(おもんぱか)れば吉、他あれば燕(やす)からず。《小象伝》にいう。初九の虞吉は、志未だ変ぜざればなり。——智旭の解説:《中庸》に君子は人の見ざる所に戒愼し、人の聞かざる所に恐懼するというが、これはみな一つの念頭がまだ生起しない以前に下手するのである。本体はすなわち工夫、工夫はすなわち本体であるがゆえに、世を避けて隠居し人に知られずして悔いないことができ、よって天地は各々其の位に安んじ万物は各々其の生を遂げる。すなわち《中庸》のいう「闇然として日に章まる」——外は暗淡で内の光彩は日々に顕れ出る。わずかに一つの念頭を起こせば、それを「他」という。心志が一変すれば安からなくなる。小人が忌憚なく鋌而走険して僥倖に利を求めるのは、全てこの一念から構造されるのである。どうして最初に先んじてこれを審度しなくてよかろうか。中孚は天地万物をもって公とする。もしただ専らあの六四に応じようとすれば、それを「有他」という。(底本は偏旁を拼合して「幸」の字を表す。今そのまま原式を写す。)

九二:鳴鶴在陰,其子和之;吾有好爵,吾與爾靡之。象曰:其子和之,中心願也。剛得中而居二陰之下,此正闇然日章者也。鶴鳴子和,感應並出於天然,豈有安排勉強,故曰中心願也。子無專指,但取同德相孚之人。

九二の爻辞にいう。鳴鶴は陰に在り、其の子は之に和す。我に好爵あり、吾が爾と之を靡(わ)かん。《小象伝》にいう。其の子之に和すは、中心の願いなり。——智旭の解説:九二は陽剛得中をもって二つの陰爻の下に処り、まさにあの外は暗淡で光彩が日に顕れる人である。鶴がひとたび鳴けば同類が応和する。この一感一応は全て天然より出て、どんな安排勉強があろうか。だから《小象伝》は「中心の願いなり」という。爻辞の「子」は決してある一人を専指するのではなく、ただあの徳行が相同じく彼此相孚する人を取るだけである。

六三:得敵,或鼓或罷,或泣或歌。象曰:或鼓或罷,位不當也。若以卦體合觀,則三與四皆所謂柔在內者也;今以諸爻各論,則六三陰不中正,為兌之主,本應上九,而彼方登天獨鳴,不來相顧,近得六四,敵體同類。故有時欣其所得,則或鼓;有時怨其所應,則或罷;有時遙憶上九,則或泣;有時且娛六四,則或歌。皆由無德,不能當位故也。

六三の爻辞にいう。敵に得たり。或いは鼓し或いは罷み、或いは泣き或いは歌う。《小象伝》にいう。或いは鼓し或いは罷むは、位当たらざればなり。——智旭の解説:もし全卦を合わせて見れば、三・四の二爻はともに《彖伝》のいう「柔在内」に属する。今各爻を分けて論ずれば、六三は陰爻で中にも正にも当たらず、また下卦兌の主爻である。それは本来上九と応ずるが、上九はまさに一味に天に登って独り鳴き、顧みてそれを照顧しようとしない。近く傍らに六四に遇い、同じく陰爻で勢均力敵の同類である。だからそれは時に己の得る所有ることを喜んで鼓を打ち、時にあの正応が理睬しないことを怨んで罷み、時に遠く上九を思い起こして泣き、時にまた六四と相娯楽して歌う。これはすべてそれが徳行なく、己の位置に立てないからである。

六四:月幾望,馬匹亡,無咎。象曰:馬匹亡,絕類上也。柔而得正,陰德之盛者也,故如月幾望焉。六三妄欲得我為匹,我必亡其匹,絕其類,乃上合於天地萬物為公之中孚而無咎也。九五:有孚攣如,無咎。象曰:有孚攣如,位正當也。陽剛中正,居於尊位,德位相稱,天下信之,攣如而不可移奪者也。然亦止盡中孚之道而已,豈有加哉,故但曰無咎。亦猶圓滿菩提歸無所得之旨歟。

六四の爻辞にいう。月は幾望(きぼう)なり。馬匹亡く、咎なし。《小象伝》にいう。馬匹亡くは、類を絶ちて上すればなり。——智旭の解説:六四は陰柔をもって位に当たり正を得て、陰徳最も盛んな一爻であるがゆえに、月がまさに満ちようとするがごとし。六三が乱に我を拉してその配匹となさんとするのを、我は必ずこの配匹を甩いで絶ち、この類の牽扯を絶ってこそ、上に「天地万物を以て公とす」の中孚に合して咎なくあり得る。九五の爻辞にいう。孚有して攣如(れんじょ)たり。咎なし。《小象伝》にいう。孚有して攣如たるは、位正当なればなり。——智旭の解説:九五は陽剛にして中に居て正を得て、尊位に処り、徳と位が相称し、天下は皆それを信服し、人心は緊く維係して動揺奪取すべからず。しかしそれもただ中孚の道を尽くすのみで、どうしてその上に何かを添えることができようか。だから爻辞はただ「无咎」という。——彼は即座に仏法をもって比す。これもまた《楞厳経》のいう「円満菩提、帰無所得」——覚悟が円満する時、一物も多く得たという意味はないであろう、に似る。

上九:翰音登于天,貞凶。象曰:翰音登于天,何可長也。剛不中正,居巽之上、卦之終,自信其好名好高情見,而不知柔內得中之道者也。如雄雞舍其牝而登鳴於屋,已為不祥,況欲登天。天不可登,人必以為怪而殺之矣,何可長也。

上九の爻辞にいう。翰音(かんいん)天に登る。貞凶。《小象伝》にいう。翰音天に登る、何ぞ長からんや。——智旭の解説:上九は陽剛にして中にも正にも当たらず、上卦巽の最上・全卦の終点に居り、ただ己のあの名を好み高きを好む情見を信じ、「柔在内而剛得中」の道理を知らない。これは雄鶏が雌鶏を撇てて屋上に登って啼くがごとく、もともと不祥の兆である。いわんやまた天上にまで叫ぼうとするをや。天は登り得ないもので、人は必ずそれを怪異として殺す。どうして長久し得ようか。

小過卦

(艮下 震上)小過:亨,利貞,可小事,不可大事。飛鳥遺之音,不宜上宜下,大吉。君子之制數度、議德行也,使其節如天地四時,則豚魚亦信之矣,夫豈有過也哉。自其不能應乎天者,以有他而不燕,故過或生焉。然過從求信而生,過則小矣。過生而聖賢為之補偏救弊,如行過乎恭、喪過乎哀、用過乎儉之類,未免矯枉過正,此亦所謂小過也。夫求信而成小過,其過可改也,故亨;矯枉而為小過,其過可取也,故亨。

(下卦艮・上卦震)小過卦の卦辞にいう。亨る、貞に利し。小事は可なり、大事は可ならず。飛鳥の遺す之音、上には宜しからず下に宜し。大吉。——智旭の解説:君子が礼数法度を制定し徳行の分寸を議評するに、もしこれらの節度を天地四時のように恰当にできれば、豚魚でさえ信服する。どこにまだ過失があろうか。ただ或る人々が天道に順応できないがために——中孚卦初九のいう「有他而不燕」——別に一念を起こして心が安らかでない——過失がここから生じ出るのである。ただしこの種の過失は信実を求取する過程の中から生じたものだから、過ぎることは大きくない。過失がすでに生じれば、聖賢は彼のために偏を補い弊を救う。例えば《小象》の下文のいう、行が恭に過ぎ、居喪が哀に過ぎ、用度が儉に過ぎる類は、未だ免れずやや矯枉過正があるが、これもまた「小過」という。信実を求めて成した小過は、その過失は改められるがゆえに亨通する。偏差を矯正するための小過は、その過失は取るべきがゆえに、また亨通する。

然必要於得正而已矣。貞則小過便成無過,不貞則小過將成大過。是故當小過時,但可為小事以祈復於無過之地,不可更為大事以致釀成不測之虞。譬如飛鳥已過,遺我以音,不宜上而宜下:上則音啞而我不得聞,下則音揚而我得聞之。得聞鳥音,以喻得聞我過而速改焉,則復於無過之地,過小而吉乃大矣。

しかし帰根到底、やはり「得正」に落ち着かなければならない。正を守れば、小過は過がなくなる。正を守らなければ、小過は大過に変わる。だから小過の時に当たっては、ただ小事を為すことができるのであり、過失なき地に回帰することを期して、さらに大事を為してはならない。思い及ばぬ禍患を釀成することを致さぬためである。譬えば飛鳥がすでに頭上を飛び過ぎ、我に一声の鳴き声を遺した。上に飛ぶに宜しからず下に飛ぶに宜しい。上に飛べば声は風に圧されて喑哑し、我は聞き取れない。下に飛べば声は揚がり、我は聞き取れる。鳥の鳴き声を聞き得ることを、人が我の過失を指摘するのを聞き得て速やかに改正することに譬える。こうすれば過失なき地に回帰する——過失は小さく、得る吉は大きい。

彖曰:小過,小者過而亨也。過以利貞,與時行也。柔得中,是以小事吉也。剛失位而不中,是以不可大事也。有飛鳥之象焉。飛鳥遺之音,不宜上宜下大吉,上逆而下順也。

《彖伝》にいう。小過とは、小に過ぐる、乃ち小過なり。過にて貞に利しきは、時と倶に行けばなり。柔中を得る、以て小事吉なり。剛位を失いて中せず、以て大事可ならざるなり。飛鳥の象有り。飛鳥の遺す之音、上には宜しからず下に宜しき大吉は、上逆にて下順なればなり。

小者即小事。小事有過,故仍不失其亨。設大者過,則必「利有攸往」乃亨矣。惟與時行,故雖過不失其貞。彖但言貞,傳特點出「時行」二字,正顯時當有過,則過乃所以為貞。倘不與時行,雖強欲藏身於無過之地,亦不名為貞也。且人有剛柔二德:任大事則宜用剛,處小事則宜用柔。今此卦柔得其中,得中則能與時行,故小事吉;剛失位而不中,不中則不能與時行,故不可以大事。

智旭の解説:「小」とは小事を指す。小事の上に過越あれば、なおその亨通を失わない。もし大事の上に過越あれば、必ず《大過》卦のいう「利有攸往」のようでなければ亨通を論じ得ない。ただそれが時勢に順って過越するがゆえに、過越しながらも其の正を失わない。卦辞はただ一つの「貞」の字を言ったが、《彖伝》はわざわざ「与時行」を点出する。まさに顕明せんとするのは、時勢が本来過越すべき時には、この過越がちょうど守正であるということである。もし時勢と相応じなければ、たとえ勉めて自らを毫も過錯のない所に蔵しても、守正と算えることはできない。さらに、人には剛と柔の二種の徳性がある。大事を承当するには剛を用いるに宜しく、小事を処理するには柔を用いるに宜しい。この卦は柔爻が中位を得て、中を得れば時勢と同行し得るがゆえに小事は吉利である。剛爻は位置が当たらずまた中を得ず、中を得なければ時勢と同行する法がないがゆえに、大事を為すことができない。

且卦體中二陽爻如鳥之背,外各二陰如舒二翼,有似飛鳥之象。鳥若上飛,則風逆而音啞;鳥若下飛,則風順而音揚也。錢啟新曰:大過,大者過也,曰剛過而中;小過,小者過也,曰柔得中。其所謂過,皆有餘之謂。大成其大,如獨立遁世等事;小成其小,如過恭過哀過儉等事。初不是過剛過柔,更不是過中。故大過之後,受之以坎離之中;小過之後,受之以既濟未濟之中。君子以天下與世論,須是大過;以家與身論,須是小過。大過以剛大有餘為用,剛中之能事;小過以柔小有餘為用,柔中之能事。剛中又巽兌二柔之用,柔中又震艮二剛之用,都不是過中之過。又匪專以坎為剛中,離為柔中,故隨小大而皆亨。

さらに卦体の上から見れば、中間の二つの陽爻は鳥の脊背に譬え、上下各二つの陰爻は舒展した双翅に譬えるがゆえに、飛鳥の象がある。鳥がもし上に飛べば風は逆で、鳴き声は圧されて喑哑する。鳥がもし下に飛べば風は順で、鳴き声は響き伝わる。明儒の銭啓新(名は一本)がいう。《大過》は大きい者の過越ありで、《彖伝》はそれを「剛過而中」と称す。《小過》は小さい者の過越ありで、《彖伝》はそれを「柔得中」と称す。両処のいう「過」は、いずれも「有余」の意である。大きい者はその大を成就し、特立独行・避世隠遁の類のごとき事である。小さい者はその小を成就し、恭に過ぎ・哀に過ぎ・儉に過ぎる類のごとき事である。それらは本来剛の得が過ぎたのでも柔の得が過ぎたのでもなく、さらに中道を超過したのでもない。だから《大過》の後に接ぐのは《坎》《離》両卦の「中」であり、《小過》の後に接ぐのは《既済》《未済》両卦の「中」である。天下と時世について論ずれば、君子は大過でなければならない。家庭と自身について論ずれば、君子は小過でなければならない。《大過》は剛大有余を用とし、あれは剛中の能事である。《小過》は柔小有余を用とし、あれは柔中の能事である。そして剛中の内にまた巽・兌の二つの柔卦の作用があり、柔中の内にまた震・艮の二つの剛卦の作用がある。いずれも中道を超過するあの種の「過」ではない。またただ坎を剛中と見、離を柔中と見ることもできない。まさにこのため、過ぐる所が小であれ大であれ、皆能く亨通するのである。

象曰:山上有雷,小過。君子以行過乎恭,喪過乎哀,用過乎儉。吳草廬曰:恭以救傲,哀以救易,儉以救奢,救其過以補其不足,趣於平而已,所謂時中也。項氏曰:曰行、曰喪、曰用,皆見於動,以象震也;曰恭、曰哀、曰儉,皆當止之節,以象艮也。

《大象伝》にいう。山の上に雷があるのが《小過》卦である。君子はこの象に法って、行は恭に過ぎ、喪は哀に過ぎ、用は儉に過ぐ。元儒の呉草廬(名は澄)がいう。恭は傲慢を救治するためのもので、哀は軽慢草率を救治するためのもので、儉は奢侈を救治するためのものである。この一方の「過」をもって彼方の「不足」を補うのは、ただ人をして平正に回帰せしめるだけである。これがいわゆる「時中」——時勢に随って中道を取るである。宋儒の項安世がいう。「行」「喪」「用」の三字はみな行動に表れるもので、上卦震に取象する。震の卦徳は動だからである。「恭」「哀」「儉」の三字はみな収斂節制すべき処で、下卦艮に取象する。艮の卦徳は止だからである。

初六:飛鳥以凶。象曰:飛鳥以凶,不可如何也。陰不中正,上應九四,宜下而反上者也,凶決不可救矣。六二:過其祖,遇其妣,不及其君,遇其臣,無咎。象曰:不及其君,臣不可過也。設欲上進,則必過九四之祖,遇六五之妣。然兩陰不相應,而六二陰柔中正,居於止體,故不復上及六五之君,但遇其九四之臣,以知九四雖臣,而實有德,決不可過故也。二與四同功而異位,故有相遇之理。太公避紂而遇文王,此爻似之。九三:弗過防之,從或戕之,凶。象曰:從或戕之,凶如何也。重剛不中,而應上六,如鳥身不能為主,反隨翼而高飛。既弗肯過防閒之,必有從而戕之者矣,其凶何如。

初六。飛鳥が以って凶を致す。《小象伝》にいう。飛鳥以って凶を致す、如何ともすべからざるなり。智旭の解説:初六は陰爻で、中に居らず位にも当たらないのに、上で九四に応ずる。まさに本なら下に向かうべきがかえって上に向かう人で、凶険は絶対に挽回できない。六二。其の祖を過ぎて其の妣に遇う。其の君に及ばず、其の臣に遇う。咎なし。《小象伝》にいう。「其の君に及ばず」は、臣過ぐべからざればなり。彼は解説していう。六二がもし上に向かって進取しようとすれば、必ず九四という「祖」を越えて六五という「妣」に遇わなければならない。しかし六五と六二は同じく陰爻で、両陰は相応じない。六二自身は陰柔にして中正で、下卦艮という「止」を主とする卦体の中に処るがゆえに、さらに六五の君を上求せず、ただ九四という臣子と相遇う——九四は臣位に居るが実に徳行があり、断じて越えてはならないことを知るからである。二爻と四爻は卦の中で職分が同じく位置が異なるがゆえに、互いに遇合する理がある。姜太公が紂王を避けて周文王に遇ったのは、この一爻とまさに相似る。九三。過ぎて之を防がず、從えば或いは之を戕(そこな)わん。凶。《小象伝》にいう。從えば或いは之を戕わん、凶如何(いか)せん。彼は解説していう。九三は陽爻をもって陽位に居り、剛に剛を加えてまた中位に居らず、しかも上六と応ずる。鳥身が自ら主を為すことができず、かえって翅膀に從って高く飛ぶがごとし。それはすでに一層の防範を多く設けることを肯んじないがゆえに、必ず追い從ってこれを傷害する者がある。その凶険はどんなものか。

九四:無咎,弗過遇之,往厲必戒,勿用永貞。象曰:弗過遇之,位不當也;往厲必戒,終不可長也。九三信其剛正,自以為無咎者也,乃弗防而致戕;九四居位不當,自知其有咎者也,乃周公許其無咎,何哉?蓋人惟自見有不足處,方能過於省察。堯舜其猶病諸,文王望道未見,孔子五十學易,伯玉寡過未能,皆此意耳。四與初應,故弗過而遇之。但使初來聽命於四,則四為主而無咎;設使四往聽命於初,則初反為主,喜上而不喜下,初得凶,而四亦甚厲矣,故必戒而勿用,須是永守其不宜上宜下之貞,乃可長也。

九四。咎なし、過ぎずして之に遇う。往けば厲しく必ず戒めよ。用うるなかれ、永く貞にせよ。《小象伝》にいう。「過ぎずして之に遇う」は、位当たらざればなり。「往けば厲しく必ず戒めよ」は、終に長からざればなり。蕅益の解説:九三は自ら剛強中正を信じ、過錯がないと思い、果たして防範を加えずに戕害を招いた。九四は位置が当たらず、自ら咎あることを知る。周公が爻辞を作るに当たりかえってそれに「无咎」を許したのは、なぜか。人は己の足らざる処を見て初めて、格段に己を省察することを肯んずるからである。尭・舜でさえできないことを病とし、文王は「道を望みて未だ之を見ず」といい、孔子は五十歳にしてなお《易》を学び、蘧伯玉は過ちを少なくせんと欲して自ら未だ能わざるを覚えた。いずれもこの意を言う。九四は初六と応ずるがゆえに、過ぎて防がずして自ら遇合する。ただ初六をして上って九四に聴命せしめれば、九四が主となり咎がない。もし九四がかえって初六に聴命すれば、初六が主となり、初六はひたすら上を好み下を好まないがゆえに、初六が凶を得れば九四もまた非常に危厲である。だから必ず警戒して施用せず、永くあの「上に宜しからず下に宜し」の正道を守らなければ、長久を保つことができない。

六五:密雲不雨,自我西郊,公弋取彼在穴。象曰:密雲不雨,已上也。陰柔不正,下無應與,雖為天下共主,膏澤不下於民,如雲自西郊,雖密不雨者焉。乃使九四之公,坐收下位群賢,如弋彼在穴而不費力。蓋由六五之已上,違於不宜上宜下之貞故也。此如紂不能用太公,反使文王取之。

六五。密雲雨ならず、我が西郊より来たる。公弋(よく)して彼の穴に在るを取る。《小象伝》にいう。密雲雨ならずは、已に上なればなり。蕅益の解説:六五は陰柔にしてまた位に当たらず、下に相応する援助がない。身は天下の共主であるのに、恩沢は百姓の身上に下らない。雲気が西郊より湧き来るがごとく、濃密ながら雨を成さない。果たしてかえって九四という「公」に、下位の衆賢才を軽々しく己に収帰せしめるに至った。穴中の物を射取るがごとく気力を費やさない。これはみな六五がすでに高位に居て一味に上に向かい、「上に宜しからず下に宜し」の正道に背いたからである。これは商の紂王が姜太公を任用できず、かえって周文王に彼を請い去られたがごとし。

上六:弗遇過之,飛鳥離之,凶,是謂災眚。象曰:弗遇過之,巳亢也。下應九三,而陰居動體卦極,方與初六鼓翰奮飛,故弗遇九三,而竟過之,一切飛鳥皆悉離之,遺群獨上,身死羽落而後已。其凶也,蓋天擊之,故曰災眚;其災也,實自取之,故曰已亢。桀紂亡國,亦僅失其不宜上宜下之貞所致而已,豈有他哉?設肯行過乎恭,喪過乎哀,用過乎儉,何以至此。

上六。遇わずして之を過ぐ。飛鳥之を離る。凶。是れを災眚(さいせい)と謂う。《小象伝》にいう。遇わずして之を過ぐるは、已に亢(こう)なればなり。蕅益の解説:上六は下で九三と応ずるが、陰爻をもって上卦震という「動」を主とする卦体に居り、また全卦の最高処に処るがゆえに、まさに初六とともに翅を鼓して高く飛び、九三と遇合することを肯んぜず、ついに自ら之を越えて過ぎた。ここにおいて一切の飛鳥がそれに離れ去り、それは同群を撇てて独り上に向かい、身死して羽落つるまで罷めない。この凶険はまるで上天がそれを撃つがごとく、だから「災眚」という。しかしこの災禍は実は自ら招いたのだから、《小象伝》はそれを「已に亢なり」という。夏桀・商紂が亡国した所以は、ただ「上に宜しからず下に宜し」のこの一点の正道を失ったにすぎない。どこに別の縁故があろうか。もし彼らが行を恭に過ぎ・喪を哀に過ぎ・用を儉に過ぐることを肯んじたならば、どうしてこの田地に落ちたであろうか。

既済卦

(離下 坎上)既濟:亨小,利貞,初吉終亂。君子之於事也,恭以濟傲,哀以濟易,儉以濟奢,凡事適得其中,則無不濟者矣。無不濟故亨,不惟在大,而亦及小,蓋無所不亨者也。然安不忘危,存不忘亡,治不忘亂,乃萬古之正理。試觀舟不覆於龍門,而覆於溝渠;馬不蹶於羊腸,而蹶於平地。豈謂溝渠平地反險於龍門羊腸哉?禍每生於不測,患莫甚於無備故也。故必利貞以持之。不然,方其初得既濟,皆以為吉,終必以此致亂,不可救矣。如水得火濟而可飲可用,然設不為之防閒,則火炎而水枯,水決而火滅,不反至於兩傷乎?

(下卦は離、上卦は坎)《既済》。亨る、小も亨る。貞に利し。初め吉、終に乱る。蕅益の解説:君子が事を処するに、恭をもって傲慢を済い、哀をもって軽慢を済い、儉をもって奢侈を済い、凡事ちょうど中道を取れば、成らざることなし。成らざるなきがゆえに亨通する。この亨通はただ大に見えるのみならず、小にも併せて通達する。すべて亨らざるなしというべきである。しかし平安の時に危険を忘れず、生存の時に覆亡を忘れず、太平の時に禍乱を忘れないのは、万古不変の正理である。試しに見よ、船は険峻な竜門では翻らず、小さな溝渠で翻り、馬は羊腸の険道では蹄を失わず、平地で蹄を失う。どうして溝渠・平地がかえって竜門・羊腸より険しいのか。ただ禍患は常に意料の外に生じ、最大の隠患は全く防備がないことに過ぎないからである。だから必ず「利貞」——正道を守持すること——をもってそれを維係しなければならない。さもなければ、人が初めて既済を得た時、皆吉利と思い、終に必ずこれによって禍乱を招き、救いようがない。水が火の調済を得て初めて飲用し取用できるが、もし防範を加えなければ、火が盛ん過ぎれば水を焼き乾し、水が氾濫すれば火を潑き滅す。どうしてかえって両敗倶傷でないことがあろうか。

彖曰:既濟亨,小者亨也。利貞,剛柔正而位當也。初吉,柔得中也。終止則亂,其道窮也。小者尚亨,則大者不待言矣。六十四卦,惟此卦剛柔皆當其位,故貞。六二柔得其中,為離之主,以此濟水,水方成用,故初吉。然設以為既無不濟,便可終止,則必致水決火滅、火炎水枯之亂,或任其火燼水竭,故曰其道窮也。

《彖伝》にいう。既済亨るは、小者亨るなり。貞に利しきは、剛柔正にして位当たればなり。初め吉は、柔中を得ればなり。終止すれば則ち乱るるは、其の道窮まればなり。蕅益の解説:小でさえ亨通するならば、大は言うまでもない。六十四卦の中で、この一卦のみが剛爻柔爻のすべてが各々その位に当たる——陽爻が奇数位に居り陰爻が偶数位に居る。だから「貞」と称し、すなわち正である。六二の柔爻が中を得るのは下卦離の卦主で、それをもって上卦の坎水を調済すれば、水は初めて功用を発揮する。だから「初吉」という。しかしもし既に済らざるなしと思って、これをもって打ち止めにすれば、必ず水泛・火滅・火旺・水枯の禍乱を招き、あるいは火を灰に焼き尽くさせ、水を干に耗らせるに任せる。だから「其の道窮まる」という。

象曰:水在火上,既濟。君子以思患而豫防之。方其既濟,似未有患,患必隨至,故君子深思而豫防,即彖所謂利貞者也。說統云:體火上之水以制火而防其溢,體水下之火以濟水而防其烈。初九:曳其輪,濡其尾,無咎。象曰:曳其輪,義無咎也。六爻皆思患豫防之旨也。既濟則初已濟矣,輪猶曳而若欲行,尾猶濡而若欲渡,無事不忘有事,防之於初,則不至於終亂,故義無咎。

《大象伝》にいう。水が火の上にあるのが《既済》卦である。君子はこの象に法って、患を思いて豫(あらかじ)め防ぐ。蕅益の解説:まさに事が成し遂げられた時、まだ禍患がないように見えて、禍患は必ずこれに随って至る。だから君子は深く思い遠く慮り豫め防範する。これもすなわち卦辞のいう「利貞」である。《易経説統》にいう。火の上の水を体して、以て火を制し水の溢出を防ぎ、水の下の火を体して、以て水を済し火の過烈を防ぐ。初九。其の輪を曳(ひ)き、其の尾を濡らす。咎なし。《小象伝》にいう。其の輪を曳くは、義に咎なきなり。彼は続けていう。《既済》の六爻はみな患を思い豫防する宗旨を説く。既済の時、初九はすでに渡り越えたが、なお車輪を曳くがごとく行こうとしてまた止まり、なお尾を濡らすがごとく渡ろうとしてまた愼む。これは無事の時に有事を忘れず、事の初めにおいて防範を加えるもので、終に乱を生ずるに至らない。だから義において咎なしという。

六二:婦喪其茀,勿逐,七日得。象曰:七日得,以中道也。九五陽剛中正而居君位,二以陰柔中正應之,必有小人慾為離間而竊其茀者。二得中道,故安然不尋逐之。惟勿逐乃七日自得,逐則失中道而弗得矣。勿逐二字,即思患豫防之妙。九三:高宗伐鬼方,三年克之,小人勿用。象曰:三年克之,憊也。以重剛居明極,高宗伐鬼方之象也。然且三年克之,困憊甚矣,況剛明未必如高宗者乎?況可用小人以窮兵黷武、殃民賊國乎?奈何不思患而豫防之也。

六二。婦が其の茀(ふつ、車の帷飾)を喪う。逐うなかれ、七日にして得ん。《小象伝》にいう。七日にして得るは、中道を以てすればなり。蕅益の解説:九五は陽剛中正で君位に居り、六二は陰柔中正をもってこれに応ずる。中間に必ず小人があって二・五を離間せんと欲し、よって六二の車帷を偷んだ。六二は中道を守り得るがゆえに、安然として追い求めない。惟れ追わないがゆえに、七日の後自ら得回る。ひとたび追えば、かえって中道を失って得て帰らない。「勿逐」の二字は、まさに患を思い豫防する妙処である。九三。高宗が鬼方を伐つ、三年克(か)ちて之に克つ。小人用うるなかれ。《小象伝》にいう。三年克ちて之に克つは、憊(つか)れたればなり。彼は解説していう。九三は陽爻をもって陽位に居り、剛に剛を加え、また下卦離という一片の光明の頂端に処る。殷の高宗が鬼方を征伐する象である。しかしなお三年にして克つ。困頓疲憊の極である。いわんや剛健明察が必ずしも高宗に及ばない人をや、いわんやまた小人を任用して窮兵黷武・百姓を禍害し・国家を残賊するをや。どうして患を思い豫め防ぐことを肯んぜざるか。

六四:繻有衣袽,終日戒。象曰:終日戒,有所疑也。美帛曰繻,敝絮曰袽,繻必轉而為袽,可無戒乎?潘雪松云:四居三之後,離明盡而坎月方升時也。在三已稱日昃之離,在四何可忘終日之戒。蕅益曰:疑即是思患豫防之思。

六四。繻(しゅ)あり衣袽(じょ)す。終日戒す。《小象伝》にいう。終日戒するは、疑う所有ればなり。蕅益の解説:細密の美帛を「繻」といい、破舊の敗絮を「袽」という。美帛は必ず一日破絮と変わる日がある。戒めないでいられようか。明人の潘雪松がいう。六四は九三の後に処り、まさに下卦離の光明が尽きようとし、上卦坎の月がまさに昇らんとする時である。九三ですでに「日昃之離」、すなわち太陽が西に偏る時の光明と称した。六四に至って、どうして終日戒備することを忘れ得ようか。蕅益は自ら按語を加えていう。ここの「疑」は、すなわち「思患豫防」のあの「思」である。

九五:東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭,實受其福。象曰:東鄰殺牛,不如西鄰之時也;實受其福,吉大來也。離東坎西,下卦盡離明之用以致濟,猶如殺牛;九五以坎中剛正之實德而享受之,曾不費力,猶如禴祭。蓋雖有其德,苟無其時,不能致此;雖有其時,苟無實德,亦不能致此也。而思患豫防之旨,則在以誠不以物中見之。上六:濡其首,厲。象曰:濡其首厲,何可久也。以陰柔居險之極,在濟之終,所謂終止則亂,不能思患豫防者也。如渡水而濡其首,不亦危乎?

九五。東隣が牛を殺すは、西隣の禴祭(やくさい)に如かず、実に其の福を受く。《小象伝》にいう。東隣の牛を殺すは、西隣の時に如かざるなり。実に其の福を受くは、吉大いに来たればなり。蕅益の解説:八卦方位で離は東、坎は西であり、本卦は下離上坎である。下卦は離明の功用を使い尽くして既済の功を成就した。牛を殺して盛祭するがごとし。九五は坎中の一陽剛正の真実の徳行をもって坐して其の成を享け、全く気力を費やさない。禴祭の薄くして誠なるがごとし。これによって見れば、あの徳行があってもあの時機がなければこの歩に達せず、あの時機があっても真実の徳行がなければ同様にこの歩に達しない。そして患を思い豫防する宗旨は、「誠意を重んじ供物を重んぜず」のこの一点に體現される。上六。其の首を濡らす。厲。《小象伝》にいう。其の首を濡らす厲しきは、何ぞ久しからんや。彼は解説していう。上六は陰柔をもって上卦坎険の最上端に居り、また既済の終点に処り、まさに《彖伝》のいう「終止則乱」であり、患を思い豫防すること能わざる人である。水を渡って頭まで濡れたでは、甚だ危険ではないか。

未済卦

(坎下 離上)未濟:亨,小狐汔濟,濡其尾,無攸利。既有既濟,必有未濟,以物本不可窮盡故也。既有未濟,必當既濟,以先之既濟,原從未濟而濟故也,是以有亨道焉。然未濟而欲求濟,須老成,須決斷,須首尾一致。倘如小狐之汔濟而濡其尾,則無所利矣。

(下卦は坎、上卦は離)《未済》。亨る。小狐汔(ほ)ぼ済りて其の尾を濡らす。利する所なし。蕅益の解説:《既済》があれば必ず《未済》がある。事物は本来窮尽し得ないからである。《未済》があれば、また必ず既済に向かって行く。前のあの既済はもともと未済から渡り来たものだからである。だから《未済》の中に自ら亨通の道がある。しかし未済の中に処りて渡済を求めようとすれば、老成持重を要し、果断決行を要し、自始至終一貫して到底を要する。もし小狐のようにまさに渡り終えようとして尾を濡らすならば、利する所のあるべきことがない。

彖曰:未濟亨,柔得中也。小狐汔濟,未出中也。濡其尾無攸利,不續終也。雖不當位,剛柔應也。六五之柔得中,所謂老成決斷,而能首尾一致者也。未出中,言尚未出險中,此時正賴老成決斷之才識、首尾一致之精神,而可不續終如小狐乎?然雖不當位,而剛柔相應,則是未濟所可以可亨之由。

《彖伝》にいう。未済亨るは、柔中を得ればなり。小狐汔済は、未だ中を出ざればなり。其の尾を濡らして利する所なしは、終を続かざればなり。位に当たらずと雖も、剛柔応ず。蕅益の解説:六五という柔爻が中を得るのは、いわゆる老成果断でまた首尾一貫し得る人である。「未だ中を出ず」とは、まだ坎険の中を脱していないことである。まさにこの時、全く老成果断の才識・首尾一貫の精神に頼るのであり、どうして小狐のように事を終まで続けられないことがあろうか。「位に当たらずと雖も剛柔応ず」に至っては——本卦の六爻は陰陽がすべて位に当たらないが、上下が両両に相応ずる。これはまさに未済が亨通し得る所以の縁である。

象曰:火在水上,未濟。君子以慎辨物居方。物之性不可不辨,方之宜不可不居,故君子必慎之也。如火性炎上,水性潤下,此物之不可不辨者也。炎上而又居於上,不已亢乎?是宜居下以濟水。潤下而又居於下,將安底乎?是宜居上以濟火。此方之不可不居者也。如水能制火,亦能滅火;火能濟水,亦能竭水。又水火皆能養人,亦皆能殺人。以例一切諸物,無不皆然。辨之可弗詳明,居之可弗斟酌耶?

《大象伝》にいう。火が水の上にあるのが《未済》卦である。君子はこの象に法って、愼にして物を辨じ方所に居らしむ。蕅益の解説:事物の性質は辨明せざるべからず、方位処所の適宜は安頓せざるべからず。だから君子は必ず愼重に対待する。譬えば火の性質は上に向かって燃え、水の性質は下に向かって潤す。これは事物の性の辨明せざるべからざる処である。火性が炎上する以上、またそれを上位に居らせれば、あまりに亢ではないか。それを下に居らせて水を温済すべきである。水性が潤下する以上、またそれを下位に居らせれば、どこへ沈んで行くのか。それを上に居らせて火を調済すべきである。これは方位処所の安頓せざるべからざる処である。さらに水は火を制し得、また火を滅し得る。火は水を済し得、また水を焼き乾し得る。水火はともに人を養い得、ともに人を殺し得る。これに類して推せば、一切の事物はすべてこのごとし。それを辨別するに、どうして詳明ならなくてよかろうか。それを安頓するに、どうして斟酌ならなくてよかろうか。

初六:濡其尾,吝。象曰:濡其尾,亦不知極也。陰柔居下,無濟世才,將終於不濟而可羞矣,豈知時勢已極,固易為力者哉?九二:曳其輪,貞吉。象曰:九二貞吉,中以行正也。剛而不過,以此曳輪而行,得濟時之正道者也。由其在中,故能行正,可見中與正不是二理。六三:未濟征凶,利涉大川。象曰:未濟征凶,位不當也。陰不中正,才德俱劣,故往必得凶。然時則將出險矣,若能乘舟以涉大川,不徒自恃其力,則險可濟也。

初六。其の尾を濡らす。吝。《小象伝》にいう。其の尾を濡らすは、亦た極を知らざればなり。蕅益の解説:初六は陰柔にして最下位に居り、世を済う才干がなく、まさにずっと不済の中に陥って可羞を得ようとしている。それはどうして知ろうか、時勢はすでに極点に至り、まさに最も力を借りて成し易い時であることを。九二。其の輪を曳く。貞吉。《小象伝》にいう。九二の貞吉は、中以て行正を得ればなり。彼は解説していう。九二は剛健にして過ぎず、この態度をもって車輪を曳いて慢慢と前行する。まさに済時の正道を得たものである。それが下卦の中に居るがゆえに、行を正しくし得る。これによって「中」と「正」は二つの道理ではないことが見える。六三。未済は征凶。大川を渉るに利し。《小象伝》にいう。未済征凶は、位当たらざればなり。彼は解説していう。六三は陰爻で、中に居らず位にも当たらず、才も徳も差があるがゆえに、軽率に往けば必ず凶を得る。しかし時勢はすでにまさに坎険を脱しようとしている。もし舟船を借りて大川を渡り、ただ一味に己の気力を依恃しないならば、険難はなお渡り得るのである。

九四:貞吉悔亡,震用伐鬼方,三年有賞于大國。象曰:貞吉悔亡,志行也。剛而不過,如日方升,得濟時之德之才之位者也,故貞吉而悔亡。於以震其大明之用,伐彼幽闇鬼方,三年功成,必有賞于大國矣。濟時本隱居所求之志,今得行之。六五:貞吉無悔,君子之光,有孚吉。象曰:君子之光,其暉吉也。柔中離主以居天位,本得其正,本無有悔,此君子之光也。又虛己以孚九二,而其暉交映,天下仰之,吉可知矣。

九四。貞吉、悔い亡ぶ。震にて鬼方を伐つ、三年賞ありて大国に於す。《小象伝》にいう。貞吉悔亡は、志行われればなり。蕅益の解説:九四は剛健にして過ぎず、旭日のまさに昇るがごとく、済時の徳・済時の才・済時の位を兼ね得た人であるがゆえに、貞吉にして悔い亡ぶ。それはここから上卦離の象徴する大光明の用を振起して、あの幽暗の鬼方を討伐し、三年功を成して、必ず大国の封賞を受ける。世を済い時を救うは、もともと隠居の時に抱いた志向であり、今施行を得たのである。六五。貞吉、悔いなし。君子之光、孚あり、吉。《小象伝》にいう。君子之光は、其の暉吉なればなり。彼は解説していう。六五は柔をもって中に居り、上卦離の卦主であり、また天子の位に処り、本来その正を得、本来悔恨がない。これが君子之光である。それはまた虚心をもって下に待し、九二と互いに誠信する。ここにおいて上下の光暉が交々輝き映え、天下人が皆それを仰望する。吉慶は自ずから知るべきである。

上九:有孚于飲酒,無咎;濡其首,有孚失是。象曰:飲酒濡首,亦不知節也。六五之有孚吉,天下已既濟矣,故上九守其成,而有孚于飲酒,乃與民同樂,無咎之道也。然君子之於天下也,安不忘危,存不忘亡,治不忘亂,苟一任享太平樂,而無競業惕厲之心,如飲酒而濡其首,吾信其必失今日此樂,以彼不知節故。節者,如天地之四時必不可過,亦謂之極。初六柔疑太過,故云亦不知極;上九剛信太過,故云亦不知節。知極知節,則未濟者得濟,已濟者可長保矣。

上九。孚有して飲酒す。咎なし。其の首を濡らせば、孚ありて是(こ)に失う。《小象伝》にいう。飲酒して首を濡らすは、亦た節を知らざればなり。蕅益の解説:六五がすでに孚ありて吉ならば、天下はすでに難関を渡り越えた。だから上九は成を守り、孚を有して飲酒する。これは民と楽を同じくするのであり、本来無咎の道である。しかし君子が天下に対するには、平安の時に危険を忘れず、生存の時に覆亡を忘れず、太平の時に禍乱を忘れない。もしひたすら太平の楽を貪り享いて、業業として警惕戒懼の心がなければ、飲酒して頭まで濡らすがごとく、私は彼が必ず今日のこの楽を失うと断ずる。節を知らないからである。いわゆる「節」とは、天地四時が各々分限を有し、決して越えてはならないがごとく、また「極」ともいうべきである。初六は柔弱遅疑が過ぎたがゆえに《小象伝》はそれを「亦た極を知らず」といい、上九は剛強自信が過ぎたがゆえに《小象伝》はそれを「亦た節を知らず」という。「極」を知りまた「節」を知れば、未済のものは済を得られ、已済のものは長久に保全し得るのである。

周易禅解 巻第八 北天目道人蕅益智旭著

繫辞上伝

伏羲設六十四卦,令人觀其象而已矣。夏商各於卦爻之下,繫辭焉以斷吉凶,如所謂連山、歸藏者是也。周之文王,則繫辭於每卦之下,名之曰彖;逮乎周公,復繫辭於每爻之下,名之曰象。孔子既為彖傳、象傳以釋之,今又統論伏羲所以設卦、文周所以繫辭,其旨趣、綱領、體度、凡例,徹乎性修之源,通乎天人之會,極乎鉅細之事,貫乎日用之微,故名為繫辭之傳,而自分上下焉。

伏羲が六十四卦を画いたのは、ただ人に卦象を観させるだけで、文字はなかった。夏・商の二代は各々卦爻の下に文辞を繫いで吉凶を判断し、古書のいう《連山》《帰蔵》の二部の易である。周文王に至って、一卦ごとの下に文辞を繫いで、これを「彖」と称し、すなわち卦辞である。さらに周公に至って、また一爻ごとの下に文辞を繫いで、これを「象」と称し、すなわち爻辞である。孔子はすでに《彖伝》《象伝》を作ってこれらを解釈した。今また総括して討論する。伏羲が当初なぜ卦を設けたのか、文王・周公がなぜ辞を繫いだのか。この篇の通論の講ずる旨趣・綱領・体制と凡例は、上は「性」と「修」の本源に通じ——「性」は人が本来具足する心性を指し、「修」は後天の修持功夫を指す——中は天と人の交会する処を貫通し、大は最も巨なる事相より小は日用の間の最も細微なる処に至るまで、窮尽しないものはない。だから《繫辞伝》という。篇幅がすでに長いがゆえに、自ら上下の二篇に分かれる。

隨緣不變、不變隨緣之易理,天地萬物所從建立也;卦爻陰陽之易書,法天地萬物而為之者也;易知簡能之易學,玩卦爻陰陽而成之者也。由易理方有天地萬物,此義在下文明之。今先明由天地萬物而為易書,由易書而成易學,由易學而契易理。

智旭はここでまず一つの総綱を立て、「易」を三層に分けて見る。第一層は「易理」で、すなわち仏法のいう「随縁不変・不変随縁」である。真如心性が衆縁に随順して万象を現起するのを「随縁」といい、万象を現起しながらもそれ自身の体性が毫も改まらないのを「不変」という。天地万物はみなこの理体の上に建立される。第二層は「易書」で、すなわち卦爻陰陽から組成された《周易》であり、天地万物を傚法して制作されたものである。第三層は「易学」で、すなわち下文の「乾は易を以て知り、坤は簡を以て能とす」のあの学問であり、人が卦爻陰陽を玩味して成就するものである。「易理によって天地万物が有る」というこの一層の意に至っては、下文に至って初めて講明する。ここではまず天地万物によって易書を制成し、易書によって易学を成就し、易学によって易理に契入することを講明する。

天尊地卑,乾坤定矣。卑高以陳,貴賤位矣。動靜有常,剛柔斷矣。方以類聚,物以群分,吉凶生矣。在天成象,在地成形,變化見矣。是故剛柔相摩,八卦相蕩,鼓之以雷霆,潤之以風雨,日月運行,一寒一暑。

天は上にあって尊く、地は下にあって卑し。乾坤両卦の位次はここに確定する。卑下と高上が順次に排列し、卦爻の貴賤の位はここに分明する。天地間の動と静は各々常規があり、剛爻と柔爻の分別はここに判定される。人は志趣が相同じきを以て一方に聚まり、物は種類が相近きを以て群落に分かれ、ここにおいて吉凶がその中より生ずる。天において日月星辰の「象」を成し、地において山川動植の「形」を成す。ここにおいて変化が顕現する。だから剛と柔は互いに摩蕩し、八卦は互いに推激する。雷霆を以てこれを鼓動し、風雨を以てこれを潤し、日月は運行して息まず、一寒一暑は交替して往来する。

此先明由天地萬物而為易書也。易之乾坤,即象天地;易之貴賤,即法高卑;易之剛柔,即法動靜;易之吉凶,即法方物;易之變化,即法形象。是故易之有剛柔相摩、八卦相蕩,而變化無窮,猶天地之有雷霆風雨、日月寒暑,而萬物皆備。蓋無有一文一字是聖人所杜撰也。

智旭の解説:この一段はまず易書がどのように天地万物から来たかを講明する。易中の乾坤は、すなわち天地に取象したものである。易中の貴賤は、すなわち上下高卑を傚法したものである。易中の剛柔は、すなわち動静を傚法したものである。易中の吉凶は、すなわち「方は類を以て聚まり、物は群を以て分かる」を傚法したものである。易中の変化は、すなわち在天の象と在地の形を傚法したものである。だから易書の中に剛柔が互いに摩蕩し八卦が互いに推激して変化無窮なるは、まさに天地間に雷霆風雨・日月寒暑があって万物が斉備するがごとし。これによって《周易》の中に一字一句も聖人が空に杜撰して出したものでないことが見える。

乾道成男,坤道成女。乾知大始,坤作成物。乾以易知,坤以簡能。易則易知,簡則易從。易知則有親,易從則有功。有親則可久,有功則可大。可久則賢人之德,可大則賢人之業。易簡而天下之理得矣,天下之理得,而成位乎其中矣。

乾道は男を成し、坤道は女を成す。乾は大いに始めるを知り、坤は物を作して能す。乾は易を以て知り、坤は簡を以て能とす。易は則ち知り易く、簡は則ち從い易し。知り易ければ則ち親しむあり、從い易ければ則ち功あり。親しむあれば則ち久しき可し、功あれば則ち大なる可し。久しき可きは賢人の徳、大なる可きは賢人の業なり。易簡にして天下の理得たり。天下の理を得て、成位其の中に於す。

此明由易書而成易學,由易學而契易理也。萬物雖多,不外天地;易卦雖多,不出乾坤。聖人體乾道而為智慧,智慧如男;體坤道而為禪定,禪定如女。智如金聲始條理,定如玉振終條理。智則直心正念真如,故易知而無委曲之相;定則持心常在一緣,故簡能而無作輟之歧。

智旭はここで仏法会通に転入する。彼はいう。この一段が講ずるのは、易書によって易学を成就し、易学によって易理に契入することである。万物は多いと雖も天地を出ず、易卦は多いと雖も乾坤を出ない。聖人は乾道を体会して「智慧」を成就する。智慧は陽に属し、男子のごとし。坤道を体会して「禅定」を成就する。すなわち心を摂して一境に専注する定力で、禅定は陰に属し、女子のごとし。智慧は奏楽の起頭における金鐘の声のごとく、「始条理」を司り、禅定は收尾における玉磬の声のごとく、「終条理」を司る——これは《孟子》が孔子を称して「金声して玉振す」という言を借りて、定と慧の首尾を講ずるのである。智慧があれば、「直心正念真如」——心が迂曲せずあの不生不滅の真実の本体を憶念する——ことができ、だから「易知」で曲折の相がない。禅定があれば、心を長久に同一の所縁境に繫げることができ、だから「簡能」で時に作し時に輟める岔路がない。

正念真如,故吾無隱乎爾而易知;持心一緣,故無入不自得而易從。易知,故了知生佛體同而有親;易從,故決能原始要終而有功。有親,不惟可大而又可久,即慧之定也;有功,不惟可久而又可大,即定之慧也。德業俱備,以修顯性,故得理而成位矣。易理本在天地之先,亦貫徹於天地萬物之始終。今言天下之理者,以既依理而有天地,則此理即渾然在天下也;亦以孔子既示為世間聖人,故且就六合內言之。

正念真如するがゆえに、孔子のいう「吾隠すること爾に無し」のごとく、毫も遮掩がなく、よって「易知」である。心を一境に繫げるがゆえに、「入る無くして自ら得ざるなし」、随処安穩であり、よって「易從」である。惟れ易知なるがゆえに、衆生と仏の本体がもともと一つであることを了知して親附し得る。惟れ易從なるがゆえに、決して事物の開端を推究しその帰結を把握して功あり得る。親附あれば、ただ大なるのみならずまた久しき可し。これは慧の中に含まれる定である。事功あれば、ただ久しきのみならずまた大なる可し。これは定の中に含まれる慧である。徳と業がともに斉備したならば、すなわち後天の修持を以て本具の心性を顕発したのであり、だから「理を得て位を成す」という。易理は本来天地より先にあり、また天地万物の始終の中に貫穿する。ここでなぜ「天下の理」というのか。すでにこの理に依って天地が有る以上、この理は渾然として天下に充満するからであり、また孔子が世間の聖人に示現したがゆえに、姑且天地四方の内についてこれを言うのである。

聖人設卦觀象,繫辭焉而明吉凶,剛柔相推而生變化。是故吉凶者,失得之象也;悔吝者,憂虞之象也;變化者,進退之象也;剛柔得,晝夜之象也。六爻之動,三極之道也。是故君子所居而安者,易之序也;所樂而玩者,爻之辭也。是故君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占,是以自天祐之,吉無不利。

聖人は卦象を設けて象を観、文辞を繫いで以て吉凶を明らかにし、剛爻柔爻は互いに推移して変化を生ず。だから吉凶とは、失と得の象徴である。悔吝とは、憂愁と顧慮の象徴である。変化とは、前進と後退の象徴である。剛柔とは、白昼と黑夜の象徴である(この句、底本は「剛柔得」と作り、通行本は「剛柔者」と作る。今底本をそのまま写す)。六爻の変動は、天・地・人の三極の道を體現する。だから君子が平居にして安処し得るのは、易卦の排列の次序である。愛して反覆玩味するのは、各爻の辞である。よって君子は平居すれば則ち其の象を観て其の辞を玩び、動けば則ち其の変を観て其の占を玩ぶ。だから天より祐けられて、吉にして利あらざるなし。

惟其易理全現乎天地之間,而人莫能知也,故伏羲設卦以詮顯之,文周又觀其象,繫辭焉而明吉凶,以昭告之。順理者吉,逆理者凶也。夫易理本具剛柔之用,而剛柔各有善惡之能:剛能倡始,而過剛則折;柔能承順,而過柔則靡。然剛柔又本互具剛柔之理,故悟理者能達其相推而生變化。是故吉凶者,即失理得理之象也;悔吝者,乃憂於未然、慮於事先之象也。

智旭の解説:ただ易理が完完全全に天地の間に顕現しているのに、人は察知することができないがゆえに、伏羲は卦象を設立してそれを詮釋顕発し、文王・周公はまた卦象を観察し文辞を繫いで吉凶を闡明し、人に昭示したのである。この理に順って為せば吉、逆らって為せば凶である。易理は本来剛と柔の二種の作用を具足し、剛柔はまた各々善に向かい悪に向かう可能がある。剛は開創起始し得るが、剛が過ぎれば折れる。柔は承順随和し得るが、柔が過ぎれば委靡する。しかし剛の中に本来柔理が含まれ、柔の中に本来剛理が含まれるがゆえに、この理を悟り得る人は、剛柔が互いに推移して変化を生ずることを通達し得る。故にいわゆる「吉凶」とは、この理を失いこの理を得るの象徴であり、いわゆる「悔吝」とは、事がまだ発生しない時に憂慮し、手を動かす前に考量するの象徴である。

知吉凶之象,則必為之進退,而勿守其窮,故變化者,明示人以進退之象也。知悔吝之方,則必通乎晝夜而善達其用,故剛柔者明示人以晝夜之象也。然則六爻之動,一唯詮顯三極之道而已。三極之道,即先天易理,非進非退而能進能退,非晝非夜而能晝能夜。天得之以立極於上,地得之以立極於下,人得之以立極於中,故名三極之道,乃即一而三、即三而一之極理也。

吉凶の象を知れば、必ず相応じて或いは進み或いは退き、行き通らない所に死守しないがゆえに、「変化」は明白に人に進退の象を指示する。悔吝を対治する門径を知れば、必ず昼夜を貫通して其の道を善用し得るがゆえに、「剛柔」は明白に人に昼夜の象を指示する。このように見れば、六爻の変動は、ただ「三極之道」を詮顕するに過ぎない。三極之道とは先天の易理である。それ自身は進でもなく退でもないが、能く進み能く退く。昼でもなく夜でもないが、能く昼となり能く夜となる。天はそれを得て上に法則を確立し、地はそれを得て下に法則を確立し、人はそれを得て中間に法則を確立する。だから三極之道という。それは「即一而三・即三而一」の究極の理——三極はただ一理、一理は即ち三極を具える。これはまさに天台宗が「一心三観」を講ずる時の慣用の思路であり、智旭はこれを移して三才を解説するのである。

夫易理既在天而天,在地而地,在人而人,是故隨所居處無非易之次序。祗須隨位而安,只此所安之位,雖僅六十四卦中之一位,便是全體三極,全體易理,不須更向外求。而就此一位中,具足無量無邊變化,統攝三百八十四種爻辭,無有不盡,是可樂而玩也。平日善能樂玩,故隨動皆與理合,縱遇變故,神恆不亂,自能就吉遠凶。此乃自心合於天理,故為理之所祐,豈徼(行亍+幸)於術數哉。

易理は天においては天、地においては地、人においては人であるがゆえに、人はどこに身を処しても、一処として易の次序の所在でないことはない。ただ自らの処する位子に随って安住すればよい——この一つの安身の位について、それはただ六十四卦の中の一位に過ぎないが、すでに三極の全体・易理の全体であり、さらに外に向かって求めるに及ばない。しかもまさにこの一位の中に、無量無辺の変化を具足し、三百八十四条の爻辞を統摂して、一条も遺漏するものがない。これはまさに愛して玩味すべき所である。平日に善く玩味するがゆえに、一挙一動がみな理と相合し、たとえ変故に遭うても、精神も恒常に乱れず、自ずから吉に趨り凶を避けることができる。これは自己の心と天理が相合し、よって理の護祐を受けるのであり、どうして占卜術数に頼って僥倖に求めたものであろうか。(末句は底本が「行亍+幸」で一つの罕見の字形を記述する。全句はすなわち「豈術数に僥倖せんや」である。)

彖者,言乎象者也;爻者,言乎變者也;吉凶者,言乎其失得也;悔吝者,言乎其小疵也;無咎者,善補過也。是故列貴賤者存乎位,齊小大者存乎卦,辯吉凶者存乎辭,憂悔吝者存乎介,震無咎者存乎悔。是故卦有小大,辭有險易;辭也者,各指其所之。

彖辞は一卦の象について言い、爻辞は爻の変動について言う。「吉凶」は得と失について言い、「悔吝」は小疵について言い、「无咎」は善く過を補うことを言う——本来過なしではなく、過あって能く補うがゆえに、初めて災咎なしというのである。だから、貴賤を列するは位に存り、大小を斉うるは卦に存り、吉凶を辨ずるは辞に存り、悔吝に於いて憂えるは介(かい)に存り——「介」とは善悪両辺の中間のあの極細の界線で、念頭が初めて動きいまだ形を成さない一刹那を指す——无咎に震動するは悔に存る。だから卦に小大あり、辞に険易あり。いわゆる辞とは、各々其の趨く所を指し示すのである。

承上居則觀其象,而言象者莫若彖也;動則觀其變,而言變者莫若爻也。彼彖爻所言吉凶者,乃示人以失得之致,使人趣得而避失也;所言悔吝者,乃示人以小疵,使勿成大失也;所言無咎者,乃示人以善補其過,使還歸於得也。是故位以列其貴賤,使人居上不驕,為下不倍也。

智旭の解説:上文の「居れば則ち其の象を観る」に承接していえば、卦象を講ずるに最も完備なるは彖辞に過ぎない。「動けば則ち其の変を観る」に承接していえば、変化を講ずるに最も詳尽なるは爻辞に過ぎない。彖辞爻辞のいう吉凶は、失と得の結果を人に指示して、人をして得に趨り失を避けさせる。いう悔吝は、小疵を人に指示して、大なる過失を釀成するに至らせない。いう无咎は、善く過を補う方法を人に指示して、人をして再び「得」に回帰せしめる。だから爻位を以て貴賤を列すれば、人をして上位に居て驕慢せず、下位に処りて背棄せしめない。

卦以齊其小大,使人善能用陰用陽,不被陰陽所用也;辭以辯其吉凶,使人知吉之可趣、凶之可避也。此其辯別之端甚微,非觀象玩占者不能憂之;此其挽回之力須猛,非觀變玩占者不能震之。是故卦有小大,辭有險易,蓋明明指人以所趨之理矣。所趨之理即吉道也,自非全體合理,決不能有吉無凶。

卦を以て卦徳の大小を斉えば、人をして陰を善用し陽を善用せしめ、陰陽に擺布されない。辞を以て吉凶を辨ずれば、人に吉は趨くべく凶は避くべきを知らしめる。ここに辨別の頭緒は極めて細微で、平日象を観占を玩ぶ人でなければ、この上に憂懼の心を生ずることはない。ここに挽回の力は必ず迅猛を要し、平日変を観占を玩ぶ人でなければ、あの震動自省の力気はない。だから卦に小大あり辞に険易あるというのは、分明に人の趨向すべき理を指し点出したのである。趨向すべき理はすなわち吉道である。もし整个の身心が理と相合でなければ、決して吉のみあって凶なしは不可能である。

易與天地準,故能彌綸天地之道。仰以觀於天文,俯以察於地理,是故知幽明之故。原始反終,故知死生之說。精氣為物,游魂為變,是故知鬼神之情狀。與天地相似,故不違。知周乎萬物而道濟天下,故不過。旁行而不流,樂天知命故不憂。安土敦乎仁故能愛。範圍天地之化而不過,曲成萬物而不遺,通乎晝夜之道而知,故神無方而易無體。

《易》は天地と準ず。だから能く天地の道を弥綸する。仰いで天文を観、俯して地理を察す。故に幽明の故を知る。原始反終、故に死生の説を知る。精気は物と為り、遊魂は変と為る。故に鬼神の情状を知る。天地と相似りて故に違わず。知は万物に周く道は天下を済う、故に過たず。旁行して流れず、天を楽しみ命を知る、故に憂えず。土に安んじ仁に敦う、故に能く愛す。天地の化を範囲して過たず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道に通じて知る、故に神は方なし、易は体なし、という。

夫觀象玩辭、觀變玩占者,正以辭能指示究竟所趨之理故也。易辭所以能指示極理者,以聖人作易,本自與天地準,故能彌合經綸天地之道也。聖人之作易也,仰觀天文,俯察地理,知天文地理之可見者,皆是形下之器,其事甚明;而天文地理所以然之故,皆不出於自心一念之妄動妄靜,動靜無性,即是形上之道,其理甚幽。此幽明事理,不二而二、二而不二,惟深觀細察乃知之也。

智旭の解説:象を観辞を玩び変を観占を玩ぶ所以は、まさに卦爻の辞が人の最終に趨向すべき理を指示し得るがためである。而易辞がこの究極の理を指示し得る所以は、聖人が易を作るに本来天地と準ずるがゆえに、能く天地の道を弥合し經綸し得るからである。聖人が易を作るに、仰いで天文を観、俯して地理を察して、彼は知る。天文地理の中で見るべき部分は、みな「形而下」の器に属し、この一層の事相は甚だ明らかである。しかし天文地理がかくのごとくなる所以の緣故は、すべて自己の心中の一念の妄動と妄静を出ない——動静は本来自性がない。これが「形而上」の道で、この一層の理は甚だ幽隠である。この幽と明・事と理は、二つでなくしてまた二つに分かれ、二つに分かれてまた二つではない。ただ深入観照し細心体察して初めて知り得る。

原其所自始,則六十四始於八,八始於四,四始於二,二始於一,一何始乎?一既無始,則二乃至六十四皆無始也。無始之始,假名為生。反其所以終,則六十四終只是八,八終是四,四終是二,二終是一,一終是無,無何終乎?無既無終,則一乃至六十四亦無終也。無終之終,假名為死。由迷此終始死生無性之理,故妄於天地間攬精氣以為物,游魂靈以輪迴六道而為變,是故知鬼神之情狀也。

万物の開端を推究する。六十四卦は八卦に始まり、八卦は四象に始まり、四象は両儀に始まり、両儀は太極という「一」に始まる。では「一」はまたどこから始まるのか。「一」にすでに開端がなければ、二乃至六十四にもすべて開端がない。この種の「无始之始」は、姑且名を取って「生」という。反対にその終結を推究する。六十四卦は帰終してただ八卦であり、八卦は帰終して四象、四象は帰終して両儀、両儀は帰終して一、一は帰終して無である。では「無」はまたどこで終結するのか。「無」にすでに終結がなければ、一乃至六十四にもすべて終結がない。この種の「无終之終」は、名を取って「死」という。まさにこの終始死生が本来自性なしの道理に迷って、天地の間において虚妄に精気を攫取して形体を結び、遊蕩する魂霊をして六道の中に輪廻して不断に変異せしめる。この一層を明らかにすれば、すなわち鬼神の情状を知るのである。

聖人既如此仰觀俯察,乃至鬼神之情狀皆備知已,然後作易,所以易則與天地相似,故不違也。依易起知,知乃周乎萬物,而道濟天下,故不過也;依易起行,行乃旁行而不流,樂天知命,故不憂也。知行具足,則安土敦仁,廣度含識,故能愛也。是以橫則範圍天地之化而不過,曲成萬物而不遺;豎則通乎晝夜之道而知。橫遍豎窮,安有方所?既無方所,寧有體相哉?神指聖人,易指理性。

聖人はすでにこのように仰観俯察して、鬼神の情状まで完全に知暁し、然る後に《易》を作った。だから《易》は天地と相似りて相違わない。《易》に依って知見を生ずれば、この知見は万物に周遍し其道は天下を済うに足るがゆえに、偏差がない。《易》に依って行持を生ずれば、この行持は四方に旁通して流蕩失守せず、天を楽しみ命を知るがゆえに、憂愁しない。知と行がともに具足すれば、処る所に安んじ仁に篤く、広く一切の有情を度化し得るがゆえに、能く愛す。したがって横の一面は、天地の造化を籠罩して差錯なく、曲折周到に万物を成就して遺漏せず、竪の一面は、昼夜の道を貫通して知らざるなし。すでに横に十方に遍く竪に三際に窮むれば、どこに固定の方所があろうか。方所がなければ、どこに固定の体相があろうか。ここでの「神」は聖人を指し、「易」は理体心性を指す。

非無體之易理,不足以發無方之神知;非無方之神知,不足以證無體之易理。旁行者,普現色身三昧,現形六道也;不流者,不隨六道惑業所牽也。樂天者,恆觀第一義天也;知命者,善達十界緣起也。安土者,三塗八難皆常寂光也;敦仁者,於一切處修大慈大悲三昧也。晝者涅槃,夜者生死,了知涅槃生死無二致故,三世一照,名為通乎晝夜之道而知。

あの形体なき易理がなければ、方所なき神妙の知見を発起するに足らず。あの方所なき神妙の知見がなければ、また形体なき易理を証得するに足らない。以下彼は逐句に仏法をもって会通する。いわゆる「旁行」とは、「普現色身三昧」、すなわち類に随って六道の中に身を現して衆生を度するである。いわゆる「不流」とは、六道の迷惑と業力に牽かれて行かないことである。いわゆる「楽天」とは、恒常に「第一義天」、すなわち最も究竟の真理を観照することである。いわゆる「知命」とは、「十界縁起」を通達することである——十界とは地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏のこの十類の法界で、それらはみな因縁に随って生起する。いわゆる「安土」とは、三悪道と八種の難処までも当下「常寂光」の浄土であることである。いわゆる「敦仁」とは、一切処に大慈大悲三昧を修することである。「昼」は涅槃を指し、「夜」は生死を指す。涅槃と生死が本来二様でないことを了知し、過去・現在・未来の三世が一時に照徹する。これを「昼夜の道に通じて知る」という。

一陰一陽之謂道,繼之者善也,成之者性也。仁者見之謂之仁,知者見之謂之知,百姓日用而不知,故君子之道鮮矣。顯諸仁,藏諸用,鼓萬物而不與聖人同憂,盛德大業至矣哉。富有之謂大業,日新之謂盛德,生生之謂易,成象之謂乾,效法之謂坤,極數知來之謂占,通變之謂事,陰陽不測之謂神。

一陰一陽が交替して運行するのを「道」という。この道を承継し得るのが「善」であり、この道を成就し得るのが「性」である。仁厚の人はこれを見て、これを仁という。智巧の人はこれを見て、これを知という。百姓は日々これを用いて自覚しない。だから君子の道を全面的に体会し得る人は鮮ない。それは仁徳を顕現し、功用を隠蔵し、万物を鼓動して生長せしめて、聖人のように憂患を懐くことを同じくしない。その盛徳大業はまさに至極に達した。包容富足を「大業」といい、日々に更新するを「盛徳」といい、生々して已まざるを「易」といい、形象を成就するを「乾」といい、傚法して形を成すを「坤」といい、蓍数を窮めて未来を預知するを「占」といい、変化に通達して事に措くを「事」といい、陰陽変化して測度すべからざるを「神」という。

夫易雖無體,無所不體,非離陰陽形體而別有道也。一陰一陽,則便是全體大道矣。然非善稱理以起修者,不能繼陰陽以立極;而即彼成位於中者,全是本性功能。乃世之重力行者,往往昧其本性,是仁者見之謂之仁也;世之重慧解者,往往不尚修持,是知者見之謂之知也。百姓又日用而不自知,故君子全性起修、全修顯性之道鮮矣。

智旭の解説:《易》は固定の形体がないが、しかしまた体現せざるなしではなく、陰陽のこれら有形の物を離れて別にまた一つの道があるのではない。一陰一陽は、当下そのまま道の全体である。しかし理体に依って修を起こすを善とする人でなければ、陰陽を承継して人極を確立することはできない。そしてあの「其の中に位を成す」の人の成就したものは、全て本性の中に原有する功能である。世に実践力行を偏重する人は、往々にして自己の本性を明白にしない。これが「仁者之を見て之を仁と謂う」である。世に智慧知解を偏重する人は、往々にして修持の功夫を下すことを肯んじない。これが「知者之を見て之を知と謂う」である。百姓はさらに日々これを用いて自ら知らない。だから「全性を以て修を起こし、全修を以て性を顕す」——完全に本具の心性に依って修し、また修した功夫を完全に用いて本性を顕発する——ことができる君子の道は、甚だ少なく見られるのである。

然仁者雖但見仁,而仁何嘗不從知以顯;知者雖但見知,而用何嘗不隨仁以藏。仁體至微而恆顯,知用至露而恆藏,此即一陰一陽之道,法爾鼓舞萬物而不與聖人同憂者也。不與聖人同憂,且指易之理體而言,其實聖人之憂亦不在理體外也;且聖人全體易理,則憂亦非憂矣。包含天地萬物事理,故為富有;變化不可窮盡,故為日新;業業之中具盛德,德德之中具大業,故為生生。

しかし仁を重んずる人は仁のみを見るが、仁はどうして智慧によって顕発されるものでなかろうか。智を重んずる人は智のみを見るが、智の作用はどうして仁に随って収蔵されるものでなかろうか。仁の本体は極めて幽微でありながら恒常に顕現し、智の作用は極めて顕露でありながら恒常に収蔵される。これが「一陰一陽を道と謂う」で、それは自然に万物を鼓舞して、聖人のように憂患を懐くことを同じくしない。いわゆる「聖人と憂を同じくせず」とは、易の理体について言うのである。実は聖人の憂患もまた理体の外に在らず、いわんや聖人の全身はすなわち易理なれば、その憂もまた憂と成すことがない。易理は天地万物一切の事と理を包含するがゆえに「富有」といい、変化に窮尽なきがゆえに「日新」といい、一つ一つの事業の中に盛徳が含まれ、一分の徳の中に大業が含まれるがゆえに「生生」という。

凡德業之成乎法象者皆名為乾,不止六陽一卦為乾;凡效法而成其德業者皆名為坤,不止六陰一卦為坤。極陰陽之數,而知數本無數,從無數中建立諸數,便能知來,即謂之占,非俟揲蓍而後為占。既知來者,數必有窮,窮則必變,變則通,通則久,即是學易之事,非俟已亂而後治、已危而求安之謂事。終日在陰陽數中,而能製造陰陽,不被陰陽所測,故謂之神。自富有至謂神五句,贊易理之無體;極數三句,贊聖神之無方也。

およそ徳と業が成就して見るべき法象を成すものは、みな「乾」と称し得るのであり、あの六画皆陽の一卦のみが乾と言うのではない。およそ傚法してその徳業を成就するものは、みな「坤」と称し得るのであり、あの六画皆陰の一卦のみが坤と言うのではない。陰陽の数を窮尽すると同時に、数は本から无数であり、无数の中から種々の数を建立し得ることを知れば、こうすれば未来を預知でき、これを初めて「占」と言うのであって、揲蓍の後を待って初めて占というのではない。すでに未来を預知した以上、数には必ず窮尽の時あることを知り、窮尽すれば必ず変じ、変じて初めて通じ、通じて初めて長久し得る。これが学易の「事」であり、すでに乱れてから治め、すでに危うくなってから安を求めることを「事」と言うのではない。終日陰陽の数の中に身を処りながら、かえって陰陽を製造し、陰陽に測度されないがゆえに、「神」と言う。「富有之謂大業」から「陰陽不測之謂神」までのこの五句は、易理の無体を讃嘆したものであり、「極数知来」以下の三句は、聖人の神妙無方を讃嘆したものである。

夫易,廣矣大矣!以言乎遠則不御,以言乎邇則靜而正,以言乎天地之間則備矣。夫乾,其靜也專,其動也直,是以大生焉;夫坤,其靜也翕,其動也闢,是以廣生焉。廣大配天地,變通配四時,陰陽之義配日月,易簡之善配至德。

《易》はまことに広大である。それを遠に言えば禦(とど)められず、近に言えば静にして正しく、天地の間に言えば備わらないものがない。乾は静の時は専一にして二なく、動の時は直遂にして曲なし。だから「大」がこれより生ずる。坤は静の時は収斂閉合し、動の時は張開舒展する。だから「広」がこれより生ずる。その広大は天地に配し、その変通は四時に配し、それ陰陽の意義は日月に配し、それ平易簡約の善さは至徳に配す。

上雲生生之謂易,指本性易理言也。依易理作易書,故易書則同理性之廣大矣。言遠不御,雖六合之外,可以一理而通知也;邇靜而正,曾不離我現前一念心性也;天地之間則備,所謂徹乎遠邇、該乎事理、統乎凡聖者也。易書不出乾坤,乾坤各有動靜,動靜無非法界,故得大生廣生而配於天地。既有動靜,便有變通以配四時;隨其動靜,便為陰陽以配日月;乾易坤簡以配至德。是知天人性修、境觀因果,無不具在易書中矣。

智旭の解説:上文に「生生之謂易」というのは、本性中の易理を指す。易理に依って易書を制作したがゆえに、易書もまた理性のごとく広大である。「遠は則ち禦られず」というのは、たとえ六合の外の事でも、この一つの理に凭って貫通して知り得るということである。「邇は静にして正し」というのは、それはかつて我が当下現前の一念の心性を離れたことがないということである。「天地の間は則ち備わる」というのは、いわゆる遠近を通徹し、事理を賅括し、凡聖を統摂するということである。易書は乾坤両卦を出ず、乾坤は各々動あり静あり、この動静はすなわち法界の全体にほかならないがゆえに、能く「大生」「広生」して天地に配する。すでに動静あれば、変通あって四時に配す。動静の不同に随って、陰陽となって日月に配す。乾の平易・坤の簡約は、則ちあの至高の徳に配す。これによって知るべし、天と人・性と修・境と観・因と果は、備わらないものなく易書の中に具わるのである。

子曰:易其至矣乎!夫易,聖人所以崇德而廣業也。知崇禮卑,崇效天,卑法地。天地設位,而易行乎其中矣。成性存存,道義之門。聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象。聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。言天下之至賾而不可惡也,言天下之至動而不可亂也。擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化。

孔子がいう。《易》はおよそ最も完備したものであろう。《易》は聖人が用いて徳を崇め業を広げるものである。知は崇く、礼は卑し。崇は天に法り、卑は地に法る。天地はすでに上下の位を設定し、易道はその中に行わる。性を成して存存するは、道義の門なり。聖人は天下の賾(さく、繁多なるもの)を見て、則ち其の形容を擬し、其の物宜を象す。故に之を象と謂う。聖人は天下の動を見て、則ち其の会通を観て、以て典礼を行い、辞を繫いで以て吉凶を断ず。故に之を爻と謂う。天下の至賾を言えども悪ませず、天下の至動を言えども乱れさせず。擬して後に言い、議して後に動く。擬議を以て其の変化を成す。

夫聖人依易理而作易書,易書之配天道人事也如此,故孔子作傳至此,不覺深為之嘆賞曰:易其至矣乎!夫易,乃聖人所以崇德而廣業也。知則高高山頂立,故崇;禮則深深海底行,故卑。崇即效天,卑即法地。蓋自天地設位以來,而易理已行於其中矣。但隨順其本成之性,而不使一念之或亡,則道義皆從此出,更非性外有少法可得也。是故易象也者,不過是聖人見天下之賾,而擬其形容、象其物宜者耳。

智旭の解説:聖人は易理に依って易書を制作し、易書と天道人事の相配するがここに至ったがゆえに、孔子は《繫辞伝》を作ってここに写り及び、思わず深く讃嘆していう。「易は其れ至れるか」と。《易》はまさに聖人が用いて徳を崇め業を広げるものである。「知」は禅門のいう「高高山顶立」のようであれ。だから「崇」と称す。「礼」は禅門のいう「深深海底行」のようであれ。だから「卑」と称す。崇はすなわち天を傚法し、卑はすなわち地を取法する。天地が上下の位を設定して以来、易理はすでにその中に運行している。人はただ自己本来現成の心性に随順して、一念を放失せしめなければ、道と義はみなここから流出し、心性の外に別に一点の法も得るべきものはない。だから易の「象」とは、ただ聖人が天下の賾を見て、その形状を比拟し、その物性を象徴するだけである。

易爻也者,不過是聖人見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶者耳。夫天下之物雖至賾,總不過陰陽所成,則今雖言天下之至賾,而安可惡?若惡其賾,則是惡陰陽;惡陰陽,則是惡太極;惡太極,則是惡吾自心本具之易理矣。易理不可惡,太極不可惡,陰陽不可惡,則天下之至賾亦安可惡乎?夫天下之事雖至動,總不出陰陽之動靜所為,則今雖言天下之至動,而何嘗亂?若謂其亂,則是陰陽有亂,太極有亂,吾心之易理有亂矣。易理不亂,太極不亂,陰陽不亂,則天下之至動亦何可亂乎?

易の「爻」とは、ただ聖人が天下の変動を見て、それが会合貫通する処を観察し、これに据って典章礼制を推行し、また文辞を繫いで吉凶を判断するだけである。天下の事物は極めて賾多であるが、総じて陰陽の構成する所に過ぎない。然れば今「天下之至賾」と言うが、どうしてそれを悪むことができようか。もしこの賾多を悪むならば、すなわち陰陽を悪むのであり、陰陽を悪むならば、すなわち太極を悪むのであり、太極を悪むならば、すなわち我が自心に本来具足する易理を悪むのである。易理は悪むべからず、太極は悪むべからず、陰陽は悪むべからず。然れば天下の最も賾多の事物もまたどうして悪むことができようか。天下の事情は極めて紛動であるが、総じて陰陽動静の作為を出ない。然れば今「天下之至動」と言うが、それはかつて錯乱したことがあろうか。もしそれが錯乱したと言うならば、それは陰陽に乱れあり、太極に乱れあり、我が心中の易理に乱れあるということである。易理は乱れず、太極は乱れず、陰陽は乱れず。然れば天下の最も紛動の現象もまたどうして乱れようか。

是以君子當至賾至動中,能善用其擬議,擬議以成變化,遂能操至賾至動之權。蓋必先有中孚之德存於已,而後可以同人。孚德既深,雖先或號啕,後必歡笑,況本無睽隔者乎?然欲成孚德,貴在錯地之一著,譬如藉用白茅,則始無不善;又貴在究竟之不變,譬如勞謙君子,則終無不吉。倘勞而不謙,未免為亢龍之悔;倘藉非白茅,未免有不密之失。而所謂不出戶庭者,乃真實慎獨功夫,非陽為君子陰為小人者所能竊取也。

だから君子は最も賾多・最も紛動の境地の中に身を処りて、能く「擬議」の功夫を善用する——まず比拟し、次に商量して、比拟商量を以て変化を成就し、ここにおいて賾多と紛動の主導権を掌握し得る。ここで必ずまず自己の心中に《中孚》のような誠信の徳を存して、然る後に《同人》の人と心を同じくするを談じ得る。誠信の徳がすでに深ければ、たとえ初めは号啕痛哭しても、後には必ず歓笑する。いわんや本来隔閡のない人をや。しかしこの誠信の徳を成就するには、関鍵はまず下手落脚の第一著にあり、《大過》初六の「藉用白茅」のように謹愼して、起頭に不善がないようにする。関鍵はまた究竟処の始終不変にあり、《謙》九三の「労謙君子」のようにして、結局に不吉がないようにする。もし労を操っても謙退しなければ、《乾》上九の「亢龍有悔」に落ちることを免れない。もし下に墊えるのが潔浄の白茅でなければ、機事不密の失を免れない。いわゆる「不出戸庭」に至っては、まさに真実の愼独の功夫であって、あの表面は君子を装い暗に小人を為す人の盗用し得るものではない。この数句は下文の引く所の几条の爻辞を預め点出したものである。

鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡之。子曰:君子居其室,出其言善,則千里之外應之,況其邇者乎?居其室,出其言不善,則千里之外違之,況其邇者乎?言出乎身,加乎民;行發乎邇,見乎遠。言行,君子之樞機,樞機之發,榮辱之主也。言行,君子之所以動天地也,可不慎乎!同人先號啕而後笑。子曰:君子之道,或出或處,或默或語,二人同心,其利斷金;同心之言,其臭如蘭。金雖至堅,同心者尚能斷之,此所謂金剛心也。

《中孚》九二の爻辞にいう。鳴鶴在陰、其子和之。我有好爵、吾與爾靡之。孔子がいう。君子は其の室に居て其の言を出すに、善ければ則ち千里之外之に応ず、況んや其の邇き者をや。其の室に居て其の言を出すに、善からざれば則ち千里之外之に違う、況んや其の邇き者をや。言は身より出で、民に加わる。行は邇より発して、遠に見る。言行は君子の枢機。枢機の発、栄辱の主なり。言行は君子の以て天地を動かす所以なり。愼まざる可けんや。《同人》九五の爻辞にいう。先に号咷して後に笑う。孔子がいう。君子の道は、或いは出で或いは処り、或いは黙し或いは語る。二人心を同じくすれば、其の利は金を断つ。同心の言は、其の臭い蘭の如し。蕅益はここでただ一転語を下す。金属は極めて堅硬であるが、心を同じくする人はなおそれを断つことができる。これが仏法のいう「金剛心」——堅固不壊で一切の煩悩を断じ得る道心である。

初六:藉用白茅,無咎。子曰:苟錯諸地而可矣,藉之用茅,何咎之有?慎之至也。夫茅之為物薄,而用可重也。慎斯術也以往,其無所失矣。苟,誠也。誠能從地穩放,即禪門所謂腳跟穩當者也。白茅潔淨而柔軟,正是第一寂滅之忍。

《大過》初六の爻辞にいう。藉に白茅を用う。咎なし。孔子がいう。苟も錯して地に諸(お)けば可なり。而して茅に藉せば、何の咎かあらん。愼之至りなり。茅の物として薄きと雖も、而も用は重き可し。愼の斯の術を以て往けば、其れ失うる所なきなり。蕅益の解説:「苟」は「誠」と講じ、「確かに」の意である。確かに地上から穏当に安放し得るならば、すなわち禅門のいう「脚根穏当」——身を立てるにまず立つべき所があれ。白茅は潔浄にして柔軟で、まさに仏法のいう「第一寂滅忍」に対応する。すなわち寂滅法性に安住して心が動揺しないあの忍力である。

勞謙君子有終吉。子曰:勞而不伐,有功而不德,厚之至也。語以其功下人者也。德言盛,禮言恭。謙也者,致恭以存其位者也。慎斯術也以往,即始而見終也,亦因該果海義;致恭以存其位,令終以全始也,亦果徹因源義。

《謙》九三の爻辞にいう。労謙、君子終り有り。吉。孔子がいう。労して伐(ほこ)らず、功有りて徳とせず。厚之至りなり。其の功あるを以て人に下るを語るなり。徳は盛んを言い、礼は恭を言う。謙とは、恭を致して以て其の位を存するなり。蕅益の解説:上一節の「愼斯術也以往」というのは、開頭から結局を見通すことで、これは華厳宗のいう「因該果海」に相当する——因位の中にすでに果地の全部の功徳を賅含する。ここの一節の「致恭以存其位」は、結局を円満にして開頭を成全するので、これは「果徹因源」に相当する——果地の功徳が因位の源頭にまで貫徹する。因と果は互いに徹透する。まさにこの両節の深意である。

亢龍有悔。子曰:貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。不出戶庭無咎。子曰:亂之所生也,則言語以為階。君不密則失臣,臣不密則失身,幾事不密則害成,是以君子慎密而不出也。子曰:作易者,其知盜乎!易曰:負且乘,致寇至。負也者,小人之事也;乘也者,君子之器也。小人而乘君子之器,盜思奪之矣。上慢下暴,盜思伐之矣。慢藏誨盜,冶容誨淫。易曰負且乘致寇至,盜之招也。事者心事,器者象貌,佛法所謂懷抱於結使、不應著袈裟者也。招字妙甚,可見致魔之由皆由主人。

《乾》上九の爻辞にいう。亢龍悔あり。孔子がいう。貴にして位なく、高にして民なく、賢人は下位に在りて輔なし。是を以て動けば則ち悔あり。《節》初九の爻辞にいう。戸庭を出ず。咎なし。孔子がいう。乱の生ずる所以の者は、則ち言語を以て階と為すなり。君は密かにせざれば則ち臣を失い、臣は密かにせざれば則ち身を失い、幾事は密かにせざれば則ち害を成す。是を以て君子は愼密にして出でざるなり。孔子がまたいう。《易》を作れる者は、其れ盗を知れるか。《解》六三の爻辞にいう。負いて且つ乘る。寇至るを致す。負うは小人の事、乘るは君子の器なり。小人にして君子の器に乘れば、盗は之を奪わんことを思う。上慢にして下暴なれば、盗は之を伐たんことを思う。蔵を慢れば誨盗し、冶容すれば誨淫す。是の故に「負且乘、致寇至」と言う。蕅益は仏法を以て解説する。ここの「事」は心裏の事を指し、「器」は外在の形貌相状を指す。仏法のいう「結使を懐抱せば、袈裟を著すべからず」——心裏にまだ煩悩結使を懐いている人は、袈裟を披くべきでない——まさに同じ意である。一つの「致(招)」の字は極めて妙に用いられた。これによって魔障を招来する縁由が、全て自己というこの主人の上にあることが見える。

天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。

天数は一、地数は二。天数は三、地数は四。天数は五、地数は六。天数は七、地数は八。天数は九、地数は十。天数は五、地数は五。五位相得して各々合あり。天数は二十五、地数は三十。凡そ天地の数は五十有五。此れ以て変化を成し、鬼神を行う。

此明河圖之數,即天地之數,即所以成變化而行鬼神者也。太極無極,只因無始不覺妄動,強名為一。一即屬天,對動名靜,靜即是二,二即屬地。二與一為三,三仍屬天;二與二為四,四仍屬地;四與一為五,五仍屬天;四與二為六,六仍屬地;六與一為七,七仍屬天;六與二為八,八仍屬地;八與一為九,九仍屬天;八與二為十,十仍屬地。十則數終,而不可復加。

智旭の解説:この一段は《河図》の数がすなわち天地の数であり、すなわち変化の成る所以・鬼神の行わる所以のものであることを講明する。太極は本来無極である。ただ无始以来の一念不覚に妄りに一動するがゆえに、勉めてそれに名を取って「一」という——この一層は智旭が《河図》の起数を、直接仏法の講ずる一念無明の妄動に接続したものである。「一」は天に属す。動に対して静と言えば、静はすなわち「二」で、「二」は地に属す。二に一を加えて三となり、三はなお天に属す。二に二を加えて四となり、四はなお地に属す。四に一を加えて五となり、五はなお天に属す。四に二を加えて六となり、六はなお地に属す。六に一を加えて七となり、七はなお天に属す。六に二を加えて八となり、八はなお地に属す。八に一を加えて九となり、九はなお天に属す。八に二を加えて十となり、十はなお地に属す。十に至って数は終結し、再び上に加えることができない。

故河圖止有十數。然此十數總不出於天地,除天地外別無有數,除數之外亦別無天地可見矣。總而計之,天數凡五,所謂一三五七九也;地數亦五,所謂二四六八十也。一得五而成六,六遂與一合而居下;二得五而成七,七遂與二合而居上;三得五而成八,八遂與三合而居左;四得五而成九,九遂與四合而居右。既言六七八九,必各得五而成,則五便在其中;既言一二三四,則便積而成十,

だから《河図》にはただ十の数しかない。しかしこの十の数は総じて天と地を出ない。天地の外に別に有数なし、数の外にも別に見るべき天地なし。総括して算えば、天に属する奇数は合わせて五つ、すなわち一・三・五・七・九であり、地に属する偶数もまた五つ、すなわち二・四・六・八・十である。一に中央の五を加えて六となり、六は便ち一と相合して同居して下方に居る。二に五を加えて七となり、七は便ち二と相合して同居して上方に居る。三に五を加えて八となり、八は便ち三と相合して同居して左方に居る。四に五を加えて九となり、九は便ち四と相合して同居して右方に居る——これが《河図》において一六は北に居り、二七は南に居り、三八は東に居り、四九は西に居る由来である。一二三四は「生数」で、六七八九は「成数」で、每一対は皆一つの五を相違する。すでに六七八九は必ず各々一つの五を加えて初めて成ると言う以上、「五」はすでにその中に含まれている。すでに一二三四と言う以上、それらを累加すればまた十となるのである。

十遂與五合而居中。積而數之,天數一三五七九,共成二十有五;地數二四六八十,共成三十;凡天地之數五十有五,而變化皆以此成,鬼神皆以此行矣。有陰陽乃有變化,有變化乃有鬼神。變化者,水火木金土,生成萬物也;鬼神者,能生所生、能成所成,各有精靈以為之主宰也。變化即依正幻相,鬼神即器世間主及眾生世間主耳。

ここにおいて十は便ち五と相合して中央に居る。累加して計算すれば、天数の一三五七九は合して二十五となり、地数の二四六八十は合して三十となり、天地の数は総じて五十有五である。一切の変化は皆これより成り、一切の鬼神は皆これより行わる。陰陽あって初めて変化あり、変化あって初めて鬼神あり。いわゆる変化とは、水火木金土の五行が万物を生成することであり、いわゆる鬼神とは、能生する者と所生する者・能成する者と所成する者に、各々一種の精霊があってその主宰を為すのである。仏法の言で言えば、変化はすなわち「依報」と「正報」の二種の幻相——依報は山河国土等の依る所の環境を指し、正報は衆生自身を指す。鬼神とは器世間の主宰と衆生世間の主宰だけである。

大衍之數五十,其用四十有九。分而為二以象兩,卦一以象三,揲之以四以象四時,歸奇於扐以象閏,五歲再閏,故再扐而後掛。

大衍の数は五十、実際に動用するのは四十九根の蓍草である。それらを手に任せて二つに分け、天地両儀を象する。その中より一根を取り出して掛け、天地人の三才を象する。毎に四根を一組として数えてゆき、一年四季を象する。数え残した零頭を指の間に挟み、暦法上の閏余を象する。五年の中に二つの閏月があるがゆえに、二度挟むのを要し、然る後に再び一根を掛く。

衍,乘也。大衍,謂乘此天五地五之數,而演至於萬有一千五百二十也。河圖中天地之數,共計五十有五。今以天五地五,原非兩五,是其定數;以對於十,亦是中數。一得之以為六,二得之以為七,三得之以為八,四得之為九,復合一二三四以成於十。故除中宮五數,以表數即非數,而惟取餘五十以為大衍之數,以表從體起用。及揲蓍時,又於五十數中,存其一而不用,以表用中之體,亦表無用之用。

智旭の解説:「衍」は相乗・推演の意である。「大衍」とは、天五・地五という数を取って乗じ、一路に一万一千五百二十まで推演する——それはまさに下文のいう《周易》上下両篇の策数の総和で、以て万物の数に当てる。《河図》の中の天地の数は共計五十五である。ここで言う天五・地五は、本来二つの五ではなく、それの固定の中数である。それを取って十に対しても、なお依然として居中の数である。一にそれを加えて六となり、二にそれを加えて七となり、三にそれを加えて八となり、四にそれを加えて九となり、再把一二三四を合して十となる。だから中宮の五を扣除するのを要する。以て「数は当下にして数ではない」を表示するためである。ただ残りの五十を取って大衍の数と為す。以て本体より妙用を生起することを表示するためである。実際の揲蓍の時に至っては、またこの五十の中に一根を留めて用いない。以て用中の体を表示し、また「無用の用」を表示するためである。

與本體太極實非有二。夫從體起用,即不變隨緣義也;用中之體,即隨緣不變義也。將此四十九策,隨手分而為二,安於左右,象吾心之動靜,即成天地兩儀。次以左手取左策執之,而以右手取右策之一,掛於左手之大指間,象人得天地合一之道而為三才。次四四以揲之,象天地間四時新新不息。次歸其所奇之策,扐於左手無名指間,以象每年必有閏日。又以右手取右策執之,而以左手四四揲之,歸其所奇之策,扐於左手中指之間,是名再扐,以象五歲必有兩個閏月,是為再閏。

あの留めて用いない一根は、太極本体と実に二つの物ではない。「従体起用」とは、すなわち仏法のいう「不変随縁」であり、「用中之体」とは、すなわち「随縁不変」である。以下は具体的な操作手順である。第一步「分二」:この四十九根の蓍策を手に任せて二分に分け、左右両辺に置き、我が心の動と静を象し、すなわち天地両儀を成す。第二步「掛一」:まず左手を以て左辺の一堆を取り起こし、再用右手を以て右辺の一堆の中から一根を取出して、左手の大拇指の間に挟み、人が天地合一の道を得て三才を成すを象する。第三步「揲四」:手中の蓍策を四根四根に数えてゆき、天地間の四時の更新して息まざるを象する。第四步「帰奇」:数えて最後に残った零頭、すなわち一乃至四根を、左手の无名指の間に挟み、毎年必ず閏余の日あるを象する。続いて再用右手を以て右辺のあの一堆を取り起こし、左手を以て四根四根に数え、同じく残った零頭を左手の中指の間に挟む。これを「再扐」と言い、五年の中に必ず二つの閏月あるを象し、すなわち「再閏」である。

已上分二、掛一、揲四、歸奇共四營而為一變。取其所掛所扐之策置之,然後再取左右揲過之策而重合之,重複分二、掛一、揲四、歸奇,故云再扐而後掛也,是為二變。又取所掛所扐之策置之,然後更取左右揲過之策而重合之,重複分二、掛一、揲四、歸奇,是為三變。

以上の「分二・掛一・揲四・帰奇」の四つの手順を合わせて「四営」と称し、一遍做り終えるを「一変」という。この一変の中に掛けたと指の間に挟んだ蓍策を取出して一辺に置き、然る後に左右両堆の数えた蓍策を重新合して、再做一遍の分二・掛一・揲四・帰奇——経文のいう「再扐而后掛」が指すのはこの重新掛一の動作である——これを「二変」という。再把二変の中の掛起と挟起した蓍策を取出して一辺に置き、又把左右の数えた蓍策を重新合して、再做一遍の分二・掛一・揲四・帰奇。これを「三変」という。

置彼三變所掛所扐之策,但取所揲之策數之。四九三十六則為○。四八三十二則為。四七二十八則為一。四六二十四則為X。於是成爻。○為陽動,動則變陰。為陰靜。一為陽靜,靜皆不變。X為陰動,動則變陽。故下文云:四營成易,三變成爻,十八變成六爻,則為卦也。此蓍草之數及揲蓍之法,乃全事表理、全數表法,示百姓以與知與能之事,正所謂神道設教、化度無疆者矣,謂之大乘,不亦宜乎?若不以惟心識觀融之,屈我羲文周孔四大聖人多矣。

三変の中の掛起・挟起した蓍策を皆一辺に放ち、ただ三度数えた蓍策を合して計算する。三十六根を得れば、すなわち四九三十六で、「○」と画す。三十二根を得れば、すなわち四八三十二で、別の一つの記号を画す(底本はここの符号脱落。筮法により少陰の記であるべき)。二十八根を得れば、すなわち四七二十八で、「一」と画す。二十四根を得れば、すなわち四六二十四で、「X」と画す。一爻はここにおいて成立する。「○」は老陽で、陽に属して動き、動けば陰に変ずる。あの脱落した記号は少陰で、陰に属して静かである。「一」は少陽で、陽に属して静かである——およそ静のものは皆変わらない。「X」は老陰で、陰に属して動き、動けば陽に変ずる。だから下文に「四営而成易、十有八変而成卦」という。四営は一変を成し、三変は一爻を成し、十八変は六爻を成し、一卦は画き出される。智旭は続けて会通していう。この蓍草の数と揲蓍の法は、整个の事相を取って理体を表顕し、整套の数目を取って仏法を表顕し、「人人可知・人人能行」の事を百姓に指示する。まさにいわゆる「神道設教」にして化度無窮である。それを大乗と称するは、また甚だ恰当ではないか。もし「唯心識観」——一切法を観じて唯だ自心の現ずる所なり——を用いてそれを融會しないならば、あまりにも伏羲・文王・周公・孔子のこの四位の大聖人を委屈するものである。

乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四,凡三百有六十,當期之日。二篇之策,萬有一千五百二十,當萬物之數也。

乾卦六爻の蓍策は共に二百十六根、坤卦六爻の蓍策は共に百四十四根、両者を合計すれば三百六十根で、ちょうど一年の天数に相当する。《周易》上下両篇六十四卦の蓍策の総数は一万一千五百二十根で、ちょうど天下の万物の数に相当する——これが上文のいう「大衍」が一路に一万一千五百二十まで推演する出処である。

九七皆乾,而爻言其變,故占時用九不用七。一爻三十六策,則乾卦六爻,共計二百一十六策也。八六皆坤,而占時用六不用八。一爻二十四策,則坤卦六爻,共計一百四十四策也。合成三百六十策,可當期歲之日。然一歲約立春,至第二年春,則三百六十五日有奇;約十二月,則三百五十四日。而今雲三百六十,適取其中,亦取大概言之,不必拘拘也。

智旭の解説:九と七はともに乾(陽)に属するが、爻辞の講ずるは変であるがゆえに、占筮に九を用いて七を用いない。老陽の一爻は三十六策で、乾卦六爻を合計すれば二百十六策。八と六はともに坤(陰)に属し、占筮に六を用いて八を用いない。老陰の一爻は二十四策で、坤卦六爻を合計すれば百四十四策。両者を合して三百六十策を成し、ちょうど一年の日数に相当し得る。ただ一年をもし立春から第二年の立春まで算すれば、三百六十五日余であり、もし十二箇の朔望月によって算すれば、三百五十四日である。ここで三百六十と言うのは、ちょうど両者の中を取るのであり、ただその大概を挙げて言うだけで、死に至るまで拘るに及ばない。

又合上下二篇六十四卦之策而總計之,陽爻百九十二,共六千九百一十二策;陰爻百九十二,共四千六百八策,故可當萬物之數。夫期歲之日、萬物之數,總惟大衍之數所表;大衍不離河圖,河圖不離吾人一念妄動,則時劫萬物,又豈離吾人一念妄動所幻現哉?

再把上下両篇六十四卦の策数を総計すれば、陽爻は共に百九十二爻で、每爻三十六策で、合わせて六千九百十二策。陰爻もまた百九十二爻で、每爻二十四策で、合わせて四千六百八策。両項を相加すればちょうど一万一千五百二十で、だから万物の数に相当し得る。一年の日数・万物の数目は、総じてただ大衍の数の表示する所である。しかも大衍の数は《河図》を離れず、《河図》はまた我らのこの一念の妄動を離れない。すでにこのようである以上、時間上の劫数・空間中の万物もまた、どうして我らの一念の妄動の幻現し出す所を離れ得ようか。

是故四營而成易,十有八變而成卦。一變必從四營而成,以表一念一法之中,必有生住異滅四相;三變成爻,以表爻爻各具三才之道;六爻以表三才各有陰陽;十八變以表三才各各互具而無差別。

だから四道の程序を経て一次の変易を完成し、十八次の変化を経て一卦を成就する。蕅益の解説:一「変」は必ず「四営」より組成される。以て一つの念頭・一件の法の中に必ず生・住・異・滅の四種の相状を含むことを表示する。三変は一爻を成す。以て每一爻に天地人三才の道を備えることを表示する。六爻は、以て三才に各々陰陽の両面あることを表示する。十八変は、則ち以て三才が各々互いに具足して差別なきことを表示する。彼はここで揲蓍の程序を、一々仏法の「四相」と天台宗「互具」の義理に配合したのである。

八卦而小成。三爻已可表三才,九變已可表互具,故名小成。引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。八可為六十四,不過引而伸之也;三百八十四爻以定天下之吉凶,是在觸類而長之也。至於觸類而長,則一一卦、一一爻,皆可斷天下事,而裁成輔相之能事無不盡矣。

「八卦而小成」。蕅益の解説:三画ですでに三才を表示し得、九変ですでに互具を表示し得るがゆえに、「小成」と言う。「引而伸之、触類而長之、天下の能事畢れり」。彼は解説していう。八卦は六十四卦に拡がり得る。ただそれを牽引伸展するに過ぎない。三百八十四爻を以て天下の吉凶を判定するは、則ち類に依って推広するに在り。類に依って推広し得る歩に至れば、每一卦・每一爻も皆天下の事を断じ得て、人が天地を輔助し万物を裁成する本事もまた遺漏なしとなる。

顯道神德行,是故可與酬酢,可與祐神矣。子曰:知變化之道者,其知神之所為乎。有一必有二,有二必有四,有四必有八,有八必有六十四,有六十四必有三百八十四。然三百八十四爻,秖是六十四卦;六十四卦,秖是八卦;八卦秖是四象;四象秖是兩儀;兩儀秖是太極。太極本不可得,太極不可得,則三百八十四皆不可得,故即數可以顯道也。

《繫辞》にいう。《易》は道体を顕明し神妙なる徳行を、故に以て万事に酬酢し、以て神明を佑助すべし。孔子がいう。変化の道を知る者は、其れ神の為す所を知れるか。蕅益の解説:一あれば必ず二あり、二あれば必ず四あり、四あれば必ず八あり、八あれば必ず六十四あり、六十四あれば必ず三百八十四あり。しかし三百八十四爻はただ六十四卦であり、六十四卦はただ八卦であり、八卦はただ四象であり、四象はただ両儀であり、両儀はただ太極である。しかも太極自体は了として得られない。太極がすでに得られなければ、三百八十四爻も皆得られない。まさにこのため、すなわち「数」の上においてすなわち「道」を顕出し得るのである。

陰可變陽,陽可變陰,一可為多,多可為一,故體此即數之道者,可以神其德行也。既即數而悟道,悟道而神明其德,則世間至賾至動,皆可酬酢;而鬼神所不能為之事,聖人亦能祐之矣,先天而天弗違,此之謂也。人但知揲蓍為變化之數耳,若知變化之道,則無方之神、無體之易,皆現於靈知寂照中矣。故述傳至此,特自加子曰二字,以顯諮嗟詠歎之思,而史記自稱太史公曰乃本於此。

陰は陽に変じ得、陽は陰に変じ得、一は多に化し得、多は一に帰し得。だからこの種の「すなわち数の上に於てすなわち道」を体認する人は、自己の徳行を神妙に運用し得る。すでに数に就いて道を悟り、また道を悟るに因って徳行を神明ならしめれば、世間の最も賾多・最も紛動の事も皆酬応し得る。鬼神の能くしない事まで、聖人はこれに佑助を加え得る——いわゆる「先天而天弗違」とは、まさにこれを言う。人々はただ揲蓍が変化の「数」であることを知るのみである。もし真に変化の「道」を知れば、方所なき神・形体なき易は、皆自己の霊明の知と寂静の照の中に顕現する。だから孔子はここに叙述するに至って、わざわざ自ら「子曰」の二字を加え、以て反覆嗟嘆咏味の意を顕出したのである。《史記》の自ら「太史公曰」と称するは、まさにここより学んだのである。

易有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。前文雲君子觀象玩辭、觀變玩占,今言此四即易所有聖人之道也。夫玩辭則能言,觀變則能動,觀象則可以制器,玩占則可以卜筮決疑。言也,動也,制器也,卜筮也,聖人修身治人之事,豈有外於此四者哉?

《易》の中に聖人の道四条を含む。発言立論せんとする者は其の辞を尚び、行動有らんとする者は其の変を尚び、器物を制作せんとする者は其の象を尚び、卜筮して疑を問わんとする者は其の占を尚ぶ。蕅益の解説:前文に「君子居れば則ち象を観て辞を玩び、動けば則ち変を観て占を玩ぶ」と言ったが、今講ずるこの四条はすなわち《易》の中に含まれる聖人の道である。卦爻の辞を玩味すれば、発言立論し得る。爻の変化を観察すれば、行動有所り得る。卦象を観察すれば、器物を制作し得る。占断を玩味すれば、卜筮して疑を決し得る。発言・行動・制器・卜筮は、まさに聖人が自身を修養し他人を治理する全部の事業であり、どうしてこの四条の外に出るものがあろうか。

是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如向,無有遠近幽深,遂知來物,非天下之至精,其孰能與於此。君子,學聖人者也;學聖人者必學易,善學易者,舉凡有為有行,必玩辭而玩占。果能玩辭玩占,則易之至精,遂為我之至精矣。

だから君子は将に為す所有り将に行う所有らんとする時、《易》に向かって発問して其の言を請う。それは問を受けて応を出すに、響きのごとく速い。遠き無く邇き無く、幽深の无く深奧の无く、皆これによって未来の事を預知し得る。若し天下の至精のものに非ざれば、孰れか能く此に与らん。蕅益の解説:いわゆる「君子」とは、聖人を学ぶ人である。聖人を学ぶ人は必ず《易》を学ぶ。《易》を善く学ぶ人は、およそ為す所有り行う所有れば、必ず卦爻の辞を玩味して占断を玩味する。果たして辞を玩び占を玩ぶことができれば、《易》の至精もまた我自身の至精となったのである。

參伍以變,錯綜其數,通其變,遂成天地之文;極其數,遂定天下之象。非天下之至變,其孰能與於此。參者,彼此參合之謂;伍者,行伍定列之謂也。雖彼此參合,而不壞行伍之定列;雖行伍定列,而不壞彼此之參合,故名參伍以變。由彼此參合,則其數相錯;由行伍定列,則其數可綜,故云錯綜其數。舉凡河圖洛書之成象,揲蓍求卦之法式,無不皆然,非僅偏指一種也。陰陽各有動靜,故成天地之文;六十四卦各具六十四卦,故定天下之象。誠能觀象以通變,觀變以極數,則易之至變,遂為我之至變矣。

参伍して以て変を為し、錯綜其の数。其の変を通ずれば、遂に天地の文を成す。其の数を極めれば、遂に天下の象を定む。若し天下の至変のものに非ざれば、孰れか能く此に与らん。蕅益の解説:「参」は彼此交錯参合の意で、「伍」は行列に排し固定して移さざる意である。彼此参合すると雖も、行列の固定を破壊せず。行列固定すると雖も、彼此の参合を妨げず。だから「参伍以変」と言う。彼此参合するに因り、其の数は互いに交錯する。行列固定するに因り、其の数は綜合帰併し得る。だから「錯綜其数」と言う。およそ《河図》《洛書》の成象・揲蓍求卦の法式は、すべてこのごとしであって、偏に某一种を指すのではない。陰陽に各々動静あるがゆえに、天地の文彩を成就する。六十四卦の中の每一卦がまた各々六十四卦を具足するがゆえに、天下の物象を判定する。真に象を観て以て変化に通達し、変を観て以て其数を窮尽し得れば、《易》の至変もまた我自身の至変となったのである。

易,無思也,無為也,寂然不動,感而遂通天下之故。非天下之至神,其孰能與於此。夫易雖至精至變,豈有思慮作為於其間哉?惟其寂然不動,所以感而遂通。誠能於觀象玩辭、觀變玩占之中,而契合其無思無為之妙,則易之至神,遂為我之至神矣。

《易》は思慮する所なく、造作する所なし。寂然として動かず、感じれば遂に天下の故に通ず。若し天下の至神のものに非ざれば、孰れか能く此に与らん。蕅益の解説:《易》は極めて精微・極めて善変であるが、それの中にどうして思慮造作があろうか。まさにそれが寂然不動なるがゆえに、一感すれば能く通ず。真に観象玩辞・観変玩占の中において、それの無思無為の妙処に契合し得れば、《易》の至神もまた我自身の至神となったのである。

夫易,聖人之所以極深而研幾也。唯深也,故能通天下之志;唯幾也,故能成天下之務;唯神也,故不疾而速,不行而至。子曰易有聖人之道四焉者,此之謂也。由此觀之,則易之為書,乃聖人所以極深而研幾者也。苟極其深,則至精者在我,而能通天下之志;苟研其幾,則至變者在我,而能成天下之務;苟從極深研幾處悟其無思無為寂然不二之體,則至神者在我,故能不疾而速、不行而至矣。謂聖人之道不全寄詮於易書中可乎?今有讀易而不知聖人之道者,何異舍醇醲而味糟粕也。

《易》は聖人の以て幽深を極め幾微を研する所以なり。惟れ深なれば、故に能く天下の志に通ず。惟れ幾なれば、故に能く天下の務を成す。惟れ神なれば、故に疾からずして速く、行かずして至る。孔子のいう「易有聖人之道四焉」とは、すなわちこれを謂うのである。蕅益の解説:これによって見れば、《易》この書はまさに聖人が用いて幽深を窮究し幾微を研核するものである。もし其の深を窮尽すれば、「至精」は我が身にあって、能く天下人の心志に溝通し得る。もし其の幾を研核すれば、「至変」は我が身にあって、能く天下の事務を成就し得る。もし「極深研幾」の処よりそれの無思無為・寂然不二の本体を悟り得れば、「至神」は我が身にあって、故に疾からずして速く、行かずして至る。聖人の道が完整地に易書の中に寄託詮釋されていないと言えば、どうして説得られようか。今の人《易》を読んで聖人の道を知らざるは、醇厚の美酒を捨てて酒糟を品嘗するのと何の異なるか。

子曰:夫易何為者也?夫易開物成務,冒天下之道,如斯而已者也。是故聖人以通天下之志,以定天下之業,以斷天下之疑。是故蓍之德圓而神,卦之德方以知,六爻之義易以貢。聖人以此洗心,退藏於密,吉凶與民同患,神以知來,知以藏往,其孰能與於此哉!古之聰明睿知、神武而不殺者夫。

孔子がいう。《易》は何を為すものか。《易》は物を開き務を成し、天下の道を冒めんとする、如斯已矣。故に聖人は以て天下の志に通じ、以て天下の業を定め、以て天下の疑を断ず。是の故に蓍の徳は圓にして神、卦の徳は方にして知、六爻の義は易にして貢す。聖人は以此れ心を洗い、密に退蔵す。吉凶は民と患を同じくす。神を以て来を知り、知を以て往を蔵す。其れ孰れか能く此に与らん。古の聡明叡知にして、神武にして殺さざる者か。

此欲明易書之妙,而先示易理之大也。夫所謂易,果何義哉?蓋是開一切物,成一切務,包盡天下之道者也。是故聖人依易理而成易書,以通天下之志,使人即物而悟理;以定天下之業,使人素位而務本;以斷天下之疑,使人不泣歧而徼(行亍+幸)。是故蓍之德,極其變化而不可測也;卦之德,有其定理而不可昧也;爻之義,盡其變通而未嘗隱也。

智旭の解説:この一段は易書の妙用を講明せんとするがゆえに、まず易理の広大を揭示する。いわゆる「易」とは究竟なんの意であるか。一切の物を開発し、一切の務を成就し、天下の道を包罗して遺さないことである。故に聖人は易理に依って易書を制成する。以て天下人の心志に溝通し、人をして事物に就いて義理に悟入せしめる。以て天下の事業を奠定し、人をして本分に安んじ其の根本を務めしめる。以て天下の疑難を裁断し、人をして楊朱のように岔路に対して痛哭し、僥倖を碰するに至らせない。故に蓍草の徳性は、変化の極に至って測度すべからざるものであり、卦の徳性は、其の固定の道理有りて蒙昧すべからざるものであり、爻の意義は、変通を講尽して従来隠瞞しないものである。(「徼」の下一字は底本が「行亍+幸」で字形を記述する。すなわち「幸」の異体で、この句は「人をして泣岐して徼幸せしめず」である。)

夫蓍圓而神,卦方以知,爻易以貢,皆所謂寂然不動、感而遂通者也。聖人即以此洗心退藏於密,所謂自明誠謂之教,能盡其性,則能盡人之性,故吉凶與民同患,神以知來,知以藏往,不俟問於蓍龜而後知吉凶也。此惟古之聰明睿知、斷惑而無惑可斷者,刀能與於此耳。

蓍草は圓通にして神妙、卦は方正にして明智、爻は変易にして随時に告げる。これらは皆「寂然不動、感而遂通」の境界に属する。聖人はこれらを用いて心を洗い、隐密の処に退蔵する。すなわち《中庸》のいう「自明誠謂之教」である。能く自己の本性を窮尽すれば、能く他人の本性を窮尽し得るがゆえに、能く百姓と吉凶憂患を同じくし、神妙を以て未来を預知し、明智を以て往事を含蔵し、蓍草亀甲を問うを待たずして吉凶を知る。これは惟れ古の聡明叡知にして、迷惑を断尽してまた断ずべき迷惑なき聖人のみが、能く到達し得るのである。(末句「刀能与于此」の「刀」は、まさに「乃」の字の訛であるべし。底本このごとし。今そのまま写す。)

是以明於天之道,而察於民之故,是興神物,以前民用。聖人以此齋戒以神明其德夫。夫神以知來,知以藏往,則又何俟蓍龜之神物,而後斷民之吉凶哉?但聖人能之,眾人不能,不藉蓍龜以示,則民不信也。是以明於借物顯理,乃天之道;因占決疑,乃民之習。故藉此蓍龜以開民用之前,而聖人亦示現齋戒然後卜筮者,正欲以此倍神明其德也。

だから聖人は天の道理を明白にし、また百姓の実情を体察して、ここにおいて蓍亀のこれらの神物を興起して、以て百姓の日用を開導する。聖人はまた斎戒を用いて以て自己の徳行を倍に神明ならしめる。蕅益の解説:すでに神妙を以て未来を預知し、明智を以て往事を含蔵し得る以上、何ぞ必ず蓍亀のこれらの神物を待って初めて百姓の吉凶を判断せんや。ただ聖人は能くこのごとくあれど、衆人は能くしない。蓍亀を借りて顕示せずれば、百姓は肯えて信じない。故に言う。「外物を借りて義理を顕明する」を明白にするは、天の道理である。「占卜を凭って疑難を解决する」は、百姓の習慣である。したがって蓍亀を借助して、百姓の日用の先に走って彼らを開導する。しかも聖人はさらに先に斎戒して然る後に卜筮する様子を示現する。まさにこれを借りて倍に自己の徳行を神明ならしめんとするのである。

是故闔戶謂之坤,闢戶謂之乾,一闔一闢謂之變,往來不窮謂之通,見乃謂之象,形乃謂之器,制而用之謂之法,利用出入、民咸用之謂之神。是故易有太極,是生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦,八卦定吉凶,吉凶生大業。

だから門を闔めるを坤と謂い、門を闢くを乾と謂う。一闔一闢を変と謂い、往来窮まらざるを通と謂う。見るべきを象と謂い、形を成すを器と謂う。制して之を用うるを法と謂う。出入に利用し、民咸之を用いて之を知らざるを神と謂う。故に《易》に太極有り。是れ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず。

是故法象莫大乎天地,變通莫大乎四時,縣象著明莫大乎日月,崇高莫大乎富貴,備物致用、立成器以為天下利莫大乎聖人,探賾索隱、鉤深致遠,以定天下之吉凶、成天下之亹亹者,莫大乎蓍龜。

だから法を取り象を成すは、天地より大なるは莫し。変通するは、四時より大なるは莫し。象を縣げて明を著かすは、日月より大なるは莫し。崇高なるは、富貴より大なるは莫し。物を備えて用に致し、器を立てて以て天下の利と為すは、聖人より大なるは莫し。賾を探り隠を索め、深を鉤して遠を致し、以て天下の吉凶を定め、天下の亹亹なるを成すは、蓍亀より大なるは莫し。

是故天生神物,聖人則之;天地變化,聖人效之;天垂象,見吉凶,聖人象之;河出圖,洛出書,聖人則之。易有四象,所以示也;繫辭焉,所以告也;定之以吉凶,所以斷也。易曰:自天祐之,吉無不利。子曰:祐者,助也。天之所助者順也,人之所助者信也。履信思乎順,又以尚賢也,是以自天祐之,吉無不利也。

だから天は神物を生ず。聖人は則ち之に則る。天地は変化あり。聖人は則ち之に傚う。天は象を垂れ吉凶を見す。聖人は則ち之を象す。河は図を出し、洛は書を出す。聖人は則ち之に則る。《易》に四象有り、以て示す所以なり。辞を繫ぐる焉、以て告ぐる所以なり。吉凶を定むるは、以て断ずる所以なり。《大有》上九の爻辞にいう。「自天祐之、吉无不利」。孔子がいう。「祐」とは助なり。天の助くる所の者は順なり、人の助くる所の者は信なり。信に履いて順を思いを尚び、又以て賢を尚ぶるを以て、是を以て「自天祐之、吉无不利」なり。

是故德既神明,方知易理無所不在。且如闔戶即謂之坤,闢戶即謂之乾,一闔一闢即是變,往來不窮即是通,見即是象,形即是器,隨所制用即是法,隨其民用出入即是神,則乾坤乃至神明,何嘗不即在日用動靜間哉?凡此皆易理之固然,而易書所因作也。是故易者,無住之理也。從無住本,立一切法,所以易即為一切事理本源,有太極之義焉。既云太極,則決非凝然(一)法,

智旭の解説:だから徳行がすでに神明なれば、初めて易理の在らざる所なきことを知る。譬えば門を闔めるを坤と言い、門を闢くを乾と言う。一闔一闢はすなわち変、往来不窮はすなわち通。顕現はすなわち象、成形はすなわち器。随所に制作して使用するはすなわち法。随百姓の日常出入に用いるはすなわち神。然らば乾・坤乃至神明は、何ぞ嘗て日用動静の間に在らざることがあらんや。これら一切は易理の本来かくのごときであり、またまさに易書の制作される所以の依拠である。だから「易」とはすなわち「無住」の理——停留せず、固着せずして任何の一処にも在らず。無住の根本より一切法を建立するは、《維摩経》の名句である。だから易は一切の事と理の本源となり、その中に「太極」の意義を含む。すでに太極と言う以上、決して凝固不動の死板一法ではなく、

必有動靜相對之機,而兩儀生焉。既曰兩儀,則動非偏動,德兼動靜;靜非偏靜,亦兼動靜,而四象生焉。既曰四象,則象象各有兩儀之全體全用,而八卦生焉。既曰八卦,則備有動靜陰陽剛柔善惡之致,而吉凶定焉。既有吉凶,則裁成輔相之道方為有用,而大業生焉。易理本自如此,易書所以亦然也。是故世間事事物物,皆法象也,皆變通也,乃至皆深皆遠、皆賾皆隱也。

それは必ず動と静の相対する機微を含有する。ここにおいて両儀がこれより生ず。すでに両儀と言う以上、動は単純の動ではなく、その徳性は動静を兼含し、静もまた単純の静ではなく、同様に動静を兼含する。ここにおいて四象がこれより生ず。すでに四象と言う以上、每一象は皆各々両儀の全体と全用を具備する。ここにおいて八卦がこれより生ず。すでに八卦と言う以上、動静・陰陽・剛柔・善悪の種種の極致は皆具備する。ここにおいて吉凶がこれより判定される。すでに吉凶あれば、天地を裁成し万物を輔相する道が初めて用武の地あり。ここにおいて大業がこれより生ず。易理は本来かくのごとく、易書がかくのごとき所以もまたかくのごとし。だから世間の事事物物は、皆法象であり、皆変通であり、乃至皆深であり、皆遠であり、皆賾多であり、皆隐微である。

而法象之大者莫若天地,變通之大者莫若四時,縣象著明之大者莫若日月,崇高之大者莫若天位之富貴,備物致用利天下者莫若天德之聖人,探賾索隱、鉤深致遠、定吉凶令人知趨避、成亹亹使人進德業者,莫若蓍龜之神物。是故天生神物,聖人即從而則之;天地變化,聖人即從而效之;天垂象、現吉凶,聖人即從而擬象之;河出圖、洛出書,聖人即法而為八卦九疇。然則易之有四象,

そして法象の中の最大は天地に過ぎず、変通の中の最大は四時に過ぎず、高縣して光明なるは日月に過ぎず、崇高の中の最大は天子の位の富貴に過ぎず、器物を備えて人の用に供し天下を利益するは、天徳を具備した聖人に過ぎない。賾を探り隠を索め、深を鉤し遠を致し、吉凶を判定して人に趨避を知らしめ、人の勤勉不倦の志を成就して人をして徳業を増進せしめるは、蓍亀のこれらの神物に過ぎない。だから天は神物を生ずれば、聖人は跟んでそれに取法する。天地に変化あれば、聖人は跟んでそれに仿傚する。天が象を垂れ吉凶を顕現すれば、聖人は跟んでそれを摹拟して卦象を成す。河が図を出し洛が書を出せば、聖人は取法して八卦を画き、《洪範》九疇を制定する。このように見れば、《易》の四象有る所以は、

所以示人動靜進退之道也;易有繫辭,所以昭告以人合天之學也;易有吉凶定判,所以明斷合理之當為,而悖理之不可為也。故大有上九之辭曰:自天祐之,吉無不利。吾深知其故也。夫天無私情,所助者不過順理而已;人亦無私好,所助者不過信自心本具之易理而已。誠能真操實履,信自心本具之易理,思順乎上天所助,則便真能崇尚聖賢之書矣,安得不為天所祐,而吉無不利哉?

まさに人に動静進退の道を指示するに用いるのである。《易》に繫辞あるは、以て人に「以人合天」のこの学問を昭告するのである。《易》に吉凶の判定あるは、以て明白に裁断する。理に合するは為すべく、理に背くは為すべからず。だから《大有》上九の爻辞に「自天祐之、吉无不利」という。我は深くその中の縁故を知る。上天には偏私の情がなく、それが助ける所はただ理に順う人のみである。人にもまた偏私の好がなく、彼が助ける所はただ自心本来具足の易理を信ずる人のみである。真に実実在在に践履し、自心本具の易理を信じ、一心に上天の助ける所の方向に順従を思量すれば、真に聖賢の書を崇尚し得る——このようであればどうして上天の保佑を受けず、吉利にして宜ならざるなしとならざることがあろうか。

子曰:書不盡言,言不盡意。然則聖人之意其不可見乎?子曰:聖人立象以盡意,設卦以盡情偽,繫辭焉以盡其言,變而通之以盡利,鼓之舞之以盡神。乾坤其易之蘊耶!乾坤成列,而易立乎其中矣;乾坤毀,則無以見易,易不可見,則乾坤或幾乎息矣。

孔子がいう。書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然らば則ち聖人の意は、其れ見る可からざるか。孔子がいう。聖人は象を立てて以て意を尽くし、卦を設けて以て情偽を尽くし、辞を繫いで焉以て其の言を尽くし、変じて之を通じて以て利を尽くし、之を鼓之舞して以て神を尽くす。乾坤は其れ《易》の縕なるか。乾坤は列を成し、而《易》は其の中に立つ。乾坤を毀らば、則ち以て《易》を見ること無かれ。《易》見る可からざれば、則ち乾坤は或いは幾んど息せんとす。

是故形而上者謂之道,形而下者謂之器,化而裁之謂之變,推而行之謂之通,舉而措之天下之民謂之事業。是故夫象,聖人有以見天地之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象;聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。極天下之賾者存乎卦,鼓天下之動者存乎辭,化而裁之存乎變,推而行之存乎通,神而明之存乎其人,默而成之、不言而信,存乎德行。

故に形而上の者を道と謂い、形而下の者を器と謂う。化して之を裁するを変と謂い、推して之を行うを通と謂う。挙げて之を天下の民に措くを、之を事業と謂う。故に夫の象、聖人に以て天下の賾を見、而諸形容を擬し、其の物宜を象す有り。是の故に之を象と謂う。聖人に以て天下の動を見、而觀其の会通、以て其の典礼を行い、辞を繫いで焉以て其の吉凶を断ず有り。是の故に之を爻と謂う。天下の賾を極むるは卦に存り、天下の動を鼓するは辞に存り、化して之を裁するは変に存り、推して之を行うは通に存り、神而明之は其の人に存り、黙して之を成し言わずして信ずるは、徳行に存る。

上文發明易理易書,及聖人作易吾人學易之旨,亦既詳矣。然苟非其人,苟無其德,則隨語生解,亦何以深知易理易書之妙致乎?故更設為問答,而結歸其人其德行也。夫書何能盡言?言亦何能盡意?然則聖人之意豈終不可見乎?詎知聖意不盡於言,而亦未嘗不寓於言;聖言不盡於書,而亦未嘗不備於書。且如易書之中,亦既立象以盡意。聖意雖多,而動靜二機足以該之,

智旭の解説:上文が易理・易書、および聖人の作易・我らの学易の宗旨を闡発したのは、すでに甚だ詳尽である。しかしあの合適の人でなく、あの徳行がなければ、ただ字句に随って一套の解釈を生じ出すのみで、どうして易理易書の妙処を深知し得ようか。だから孔子はまた一問一答を設けて、最後に「其人」と「徳行」の上に帰結する。文字はどうして言を尽くし得ようか。言はどうして心意を表達し尽くし得ようか。然らば聖人の心意は、どうして終に見るべからざるか。须知聖人の心意は言語に尽きないと雖も、また嘗て言語の中に寄寓しないこともない。聖人の言語は書冊に尽きないと雖も、また嘗て書冊の中に完備に存在しないこともない。易書を取って言えば、それはすでに「立象以尽意」したのである。聖人の心意は繁多と雖も、動・静の二種の機微を以て足りて概括し得る。

故乾坤二象即可以盡聖人之意也。又復設卦以盡情偽,動靜雖只有二,而其中變態,或情或偽,不一而足,故六十四卦乃能盡萬物之情偽也。又復繫辭焉以盡其言,蓋舉天下事物一一言之,則勞而難遍;今借六十四卦而繫以辭,則簡而可周也。雖六十四卦已足收天下事物之大全,而不知事事物物中又各互具一切事物也,故變而通之,每卦皆可為六十四,而天下之利斯盡矣。

だから乾・坤の両象を以て足りて聖人の心意を表達し尽くし得る。孔子は続けて「設卦以尽情偽」という。動静はただ二種のみであるが、その中の種種の変態は、或いは真情・或いは虚偽で、数え尽くし得ないほど多い。だから六十四卦を用いて初めて万物の情偽を窮尽し得る。又「繫辞焉以尽其言」という。もし天下の事物を一件一件皆説到すれば、費力にして周遍し難い。今六十四卦を借りて文辞を繫げば、簡約にして能く周全する。六十四卦ですでに足りて天下事物の大概を収摂するが、人々は每一事每一物の中にまた各々互相に一切の事物を具足することを知らないがゆえに、「変而通之」を要して、每一卦をして皆再び六十四卦を変出し得せしめ、こうすれば天下の利益を発揮し尽くす。

雖有三百八十四爻動靜陳設,若不於中善用鼓舞,使吾人隨處得見易理,則亦不足以盡神,而聖人又觸處指點以盡神矣。雖復觸處指點,然收彼三百八十四爻大綱,總不出乾坤二法,故乾坤即易之蘊藏也。夫本因易理而有乾坤,既有乾坤,易即立乎其中。設毀此乾坤二法,則易理亦不可見;設不見易理本體,則乾坤依何而有,不幾至於息滅哉?此甚言易外無乾坤,乾坤之外亦無易也。

三百八十四爻の動静がそこに鋪陳されていると雖も、もしその中に善く鼓舞して、我らに随処に易理を見せしめなければ、なお足りて「神」を発揮し尽くすことなし。だから聖人はまた処処に点撥し、以て神妙を極処にまで発揮する。処処に点撥すると雖も、あの三百八十四爻の大綱を収攏すれば、総じて乾・坤の両法を出ないがゆえに、乾坤はすなわち《易》の縕蔵であるという。本来は易理あるがゆえに乾坤あり。すでに乾坤有れば、《易》は其の中に立つ。もし乾坤の両法を毀れば、易理もまた見る由なし。もし易理というこの本体を見ることなくんば、乾坤はまた何に依って存在せんや。豈に幾んど息滅せんと欲するにあらずや。これは極力に説明する。易の外に乾坤なく、乾坤の外にもまた易なし。

蓋易即吾人不思議之心體,乾即照,坤即寂;乾即慧,坤即定;乾即觀,坤即止。若非止觀定慧,不見心體;若不見心體,安有止觀定慧?是故即形而非形者,向上一著即謂之道;無形而成形者,向下施設即謂之器。道可成器,器可表道,即謂之變;從道垂器,從器入道,即謂之通。自既悟道與器之一如,以此化天下之民,即謂之事業矣。是故夫象也者,不過是聖人見天下之賾,

ここで智旭は正面からその会通を点出する。いわゆる「易」とは、すなわち我らの不可思議の心体である。乾はすなわち「照」であり、坤はすなわち「寂」である。乾はすなわち慧であり、坤はすなわち定である。乾はすなわち「観」であり、坤はすなわち「止」である——「止」は散乱の心を停住せしめること、「観」は定中に実相を照見することで、天台宗は合わせて「止観」と称す。もし止観定慧なくんば、心体を見ること能わず。もし心体を見ることなくんば、またどうして止観定慧があらんや。だから、すなわち形相の上にありてまた形相に非ざるは、向上の一著を「道」と謂い。本來形相なくして能く形相を成就するは、向下に施設するを「器」と謂う。道は能く器と為り、器は能く道を表顕すれば、「変」と謂う。道より垂れて器を現じ、器より契入して道に於るを、「通」と謂う。自己すでに道と器が本来一如なるを悟り得、再びそれを取って天下の百姓を教化するを、「事業」と謂う。だからいわゆる「象」とは、ただ聖人が天下の賾を見て、

而擬諸其形容象其物宜者也。夫爻也者,不過是聖人見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶者也。是以卦可極天下之賾,辭可鼓天下之動,變可盡化裁之功,通可極推行之妙。此終非書之所能盡言,亦非言之所能盡意也。神而明之,必存乎其人;而默而成之、不言而信,又必存乎德行耳。德行者,體乾坤之道而修定慧,由定慧而徹見自心之易理者也。

その形状容貌を比拟し、その物性を象徴するだけである。いわゆる「爻」とは、ただ聖人が天下の変動を見て、それが会合貫通する処を観察し、これに据って典章礼制を推行し、また文辞を繫いで吉凶を判断するだけである。したがって、卦は天下の賾を窮尽し得、辞は天下の変動を鼓動し得、「変」は変化裁制の功を尽くし得、「通」は推広施行の妙を極め得る。これらは終に文字の説き尽くし得る所でもなく、言語の表達し尽くし得る所でもない。それを神妙明白ならしめるには、必ずそれを用いる人に在る。黙然として成就し、言わずして人自ら信ずるには、また必ず徳行に在る。いわゆる徳行とは、すなわち乾坤の道を体会して禅定と智慧を修習し、再び定慧より徹底して自己心中の易理を照見することである。

周易禅解 巻第九 北天目道人蕅益智旭著

繫辞下伝

八卦成列,象在其中矣;因而重之,爻在其中矣;剛柔相推,變在其中矣;繫辭焉而命之,動在其中矣。吉凶悔吝者,生乎動者也;剛柔者,立本者也;變通者,趨時者也。吉凶者,貞勝者也;天地之道,貞觀者也;日月之道,貞明者也;天下之動,貞夫一者也。夫乾,確然示人易矣;夫坤,隤然示人簡矣。爻也者,效此者也;象也者,像此者也。爻象動乎內,吉凶見乎外,功業見乎變,聖人之情見乎辭。天地之大德曰生,聖人之大寶曰位。何以守位曰仁,何以聚人曰財。理財正辭、禁民為非曰義。

八卦が列を成せば、象は其の中に在り。之を重ねれば、爻は其の中に在り。剛柔相推せば、変は其の中に在り。辞を繫いで焉命を告げれば、動は其の中に在り。吉凶悔吝は、動より生ずる者也。剛柔は、本を立てる者也。変通は、時に趣く者也。吉凶は、貞に勝てる者也。天地の道は、貞にして観られる者也。日月の道は、貞にして明を得る者也。天下の動は、貞夫一に者也。乾は確然として人に易を示し、坤は隤然として人に簡を示す。爻也者、此を傚う者也。象也者、此を象る者也。爻象は内に動きて、吉凶は外に見る。功業は変に見え、聖人の情は辞に見る。天地の大徳を生と曰い、聖人の大宝を位と曰う。何以位を守らんや。曰く仁。何以人を聚めんや。曰く財。財を理して辭を正し、民の非を為すを禁ずるを、義と曰う。

此直明聖人作易,包天地萬物之理,而為內聖外王之學也。蓋自八卦成列,而天地萬物之象已皆在其中矣;因而重之,而天地萬物之交亦皆在其中矣;剛柔必互具剛柔,而天地事物之變又皆在其中矣;繫辭焉而命之,而吾人慧迪從逆之動又皆在其中矣。夫吉凶悔吝,皆由一念之動而生者也。一念之動,必有剛柔以立其本;一剛一柔,必有變通以趨於時。得其變通之正者則勝,不得變通之正者則負,故吉之與凶,唯以貞勝者也。此易中示人以聖賢學問,

智旭の解説:この一段は直に聖人が《易》を作るに、天地万物の理を包罗して、「内聖外王」の学問と成ることを説明する。八卦が列を成して以来、天地万物の象は皆其の中に在り。それを両両に重畳すれば、天地万物の交感も皆其の中に在り。剛中に必ず柔を含み、柔中に必ず剛を含めば、天地事物の変化もまた皆其の中に在り。文辞を繫いで人に告げれば、我らの「慧迪從逆」の種種の挙動も皆其の中に在る——「慧迪從逆」は《尚書・大禹謨》の「惠迪吉、從逆凶」より出て、善に順って行けば吉、悪に随って動けば凶を指す。吉凶悔吝は、皆一念の動より生ずる。一念すでに動けば、必ず剛有り柔有りて其の根本を確立する。一剛一柔は、また必ず変通有りて時勢に順応するを要す。変通の正を得る者は勝ち、変通の正を得ざる者は敗る。だから吉と凶は、ただ「守正」を以て取り勝つ。これは《易》の中の人に指示する聖賢の学問で、

全體皆法天地事理,非有一毫勉強。是故天地之道,一健一順,各有盈虛消長之不同,皆以變通之正示人者也;日月之道,一晝一夜,亦有中昃盈缺之不定,皆以變通之正為明者也;天下之動,萬別千差,尤為至賾,實不可亂,乃歸極於變通之一正者也。夫乾之變現於六十四卦,雖有一百九十二爻,無不確然示人以易矣;夫坤之變現於六十四卦,雖亦一百九十二爻,無不隤然示人以簡矣。此易簡之理,正所謂千變萬化而貞夫一者也。爻即效此易簡,

この学問は整个が天地事理に取法して、一絲一毫の勉強もない。だから天地の道は、一つは剛健、一つは柔順で、各々盈満と虧虛・消退と生長の不同あるが、皆「変通之正」を取って人に指示する。日月の道は、一つは白昼を司り一つは黑夜を司り、また正中と偏西・円満と残闕の不定あるが、皆「変通之正」を以て其の光明と為す。天下の変動は千差万別で、尤其に繁多であるが、実は乱るること能わず、終に皆「変通之正」のこの一条に帰結する。乾の変化が六十四卦の中に顕現するに、百九十二の陽爻あると雖も、確確実実に「平易」を人に指示せざるなし。坤の変化が六十四卦の中に顕現するに、亦た百九十二の陰爻あると雖も、柔順低垂にして「簡約」を人に指示せざるなし。この易簡の理は、まさにいわゆる千変万化して純一に帰るあの「貞夫一」である。爻はすなわちこの易簡を傚法し、

象即像此易簡。苟吾心之爻象一動乎內,則事物之吉凶即現乎外。吉可變凶,凶可變吉,得此善變之方,乃見裁成輔相功業;而聖人所以教人之真情,則全見乎卦爻之辭,所應深玩細觀者也。是故生生之謂易,而天地之大德,不過此無盡之生理耳。聖人體天立極,其所以濟民無強者則在位耳。何以守位,則必全體天地之德,純一不已之仁耳。仁則物我一體矣。庶必加之以富,故曰財;富必加之以教,故曰義。此內聖外王之學,一取法於天地事物者也。

象はすなわちこの易簡を模擬する。ただ我が心中の爻象が内に於て一動すれば、事物の吉凶は立刻に外に顕現する。吉は凶に変じ得、凶もまた吉に変じ得。此の善く轉変する方法を掌握して、初めて天地を裁成し万物を輔相する功業を見出し得る。而して聖人の人を教える真実の心意は、則ち完全に卦爻の辞の裏に體現し、まさに深く玩味し細かく観察すべき所である。故に「生生之謂易」と言う。天地の最大の徳は、不過この無窮無尽の生生の理のみである。聖人は天道を体察して人間の為に準則を立下するに、彼が能く百姓を救済して窮尽なき所以は、即ちあの「位」在るに在る。何を以てか此の位を守るや。必ず完整地に天地の徳を體現する、即ち純一不已の仁を要す。仁有れば、物と我とは便ち一体なり。百姓多ければ必ず彼らを富ませるを要す。故に「財」と曰う。富めば必ず之に教化を加えるを要す。故に「義」と曰う。この内聖外王の学問は、全て天地事物に取法す。(「濟民無強」の「強」の字は底本かくのごとし。まさに「彊」と読むべく、即ち窮尽なし。)

古者包犧氏之王天下也,仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文與地之宜,近取諸身,遠取諸物,於是始作八卦,以通神明之德,以類萬物之情。本法天地身物以作八卦,既作八卦,遂能通神明之德於一念,類萬物之情於一身。

古の伏羲氏の天下を王とする時、仰いで則ち天の象を観、俯して則ち地の法を観、鳥獣の文と地の宜とを観、近くは諸身に取り、遠くは諸物に取る。於是に始めて八卦を作し、以て神明の徳に通じ、以て万物の情を類す。蕅益の解説:彼は本來天・地・自身・万物に取法して八卦を画出した。八卦すでに成れば、神明の徳を一念の間に貫通し、万物の情を一身の内に帰類し得る。

作結繩而為網(ㄇ@人/古),以佃以漁,蓋取諸離。驅鳥獸魚蛇于山澤,使民得稼穡者,乃深明物各宜麗其所者也,故取諸離。包犧氏沒,神農氏作,斫木為耜,揉木為耒,耒耨之利,以教天下,蓋取諸益。魚鳥之害既除,田疇之利方起。日中為市,致天下之民,聚天下之貨,交易而退,各得其所,蓋取諸噬嗑。農事既備,商賈隨興。

結繩して罔罟(もうこ)と為し、以て佃以て漁す。蓋し諸離を取る。(「罔」の下一字は底本が「ㄇ@人/古」で字形を記述する。即ち「罟」、網の意。)蕅益の解説:鳥獣魚蛇を山林川沢の中に駆逐して、百姓をして安心して耕種し得せしめるは、深く「万物は各々それの待つべき所に附麗すべし」の道理を明かにする——《離》の卦徳はまさに「麗」、即ち附着であるがゆえに、《離》に取象する。伏羲氏が没し、神農氏が興る。木を斲して耜と為し、木を揉して耒と為し、耒耨の利を以て天下を教える。蓋し諸益を取る。彼は解説していう。魚鳥の害すでに除かれ、田地の利益は初めて興起する。日中に市と為し、天下の民を致し、天下の貨を聚め、交易して退き、各々其の所を得る。蓋し諸噬嗑を取る。彼は解説していう。農事すでに備われば、商賈はこれに随って起こる。

神農氏沒,黃帝堯舜氏作,通其變,使民不倦;神而化之,使民宜之。易窮則變,變則通,通則久,是以自天祐之吉無不利。黃帝堯舜垂衣裳而天下治,蓋取諸乾坤。通變神化,全體乾坤之德,所謂自強不息、厚德載物者也。刳木為舟,剡木為楫,舟楫之利,以濟不通,致遠以利天下,蓋取諸渙。服牛乘馬,引重致遠,以利天下,蓋取諸隨。重門擊柝,以待暴客,蓋取諸豫。坤如重門,震如擊柝。暴客,溫陵郭氏以為初至之客,甚通,蓋使動者得隨地而安也。

神農氏が没し、黄帝・尭・舜氏が作る。其の変を通じて、民をして倦まざらしむ。神にして之を化して、民をして宜に適わしむ。易は窮すれば則ち変じ、変すれば則ち通じ、通ずれば則ち久し。是を以て「自天祐之、吉无不利」。黄帝・尭・舜は衣裳を垂れて天下治まる。蓋し諸乾坤を取る。蕅益の解説:変化を貫通し神妙に化導するは、完整地に乾坤の徳を體現するのであり、即ち《大象伝》のいう「自強不息」と「厚徳載物」である。木を刳して舟と為し、木を剡して楫と為し、舟楫の利は以て不通を濟り、遠に致して以て天下を利す。蓋し諸渙を取る。牛に服き馬に乘り、重を引き遠に致して、以て天下を利す。蓋し諸随を取る。重門を設けて柝を撃ち、以て暴客を待つ。蓋し諸豫を取る。彼は解説していう。《豫》卦は下坤上震で、坤は重門の層層を象し、震は柝を撃つの声を象す。「暴客」に至っては、温陵の郭氏は剛到の客人を指すと認め、甚だ通に講ず——重門を設け木柝を撃つは、まさに走動する人をして随処に安頓し得せしめんとする。

斷木為杵,掘木為臼,臼杵之利,萬民以濟,蓋取諸小過。弦木為弧,剡木為矢,弧矢之利,以威天下,蓋取諸睽。由上明故下悅,所謂若大旱之望雨者是也。上古穴居而野處,後世聖人易之以宮室,上棟下宇,以待風雨,蓋取諸大壯。震木之下,別有天焉,宮室之象也。古之葬者,厚衣之以薪,葬之中野,不封不樹,喪期無數,後世聖人易之以棺槨,蓋取諸大過。以巽木入於澤穴之中。上古結繩而治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸夬。以書契代語言,遂令之與天同久。

木を断じて杵と為し、地を掘りて臼と為し。臼杵の利は、万民以て濟う。蓋し諸小過を取る。木に弦して弧と為し、木を剡して矢と為し。弧矢の利は、以て天下に威す。蓋し諸睽を取る。蕅益の解説:《睽》卦は下兌上離。上面に光明あるがゆえに、下面は喜悅する。久旱に雨を盼む人が雨雲を見るがごとし。上古は穴居して野処す。後世の聖人は之を易えて宮室と為し、上棟下宇、以て風雨を待つ。蓋し諸大壯を取る。彼は解説していう。《大壯》は下乾上震。震の代表する木材の下に別に一片の天あり。これが宮室の象である。古の葬る者は、衣に薪を厚くして、之を野の中に蔵す。封をせず樹をせず、喪期は无数。後世の聖人は之を易えて棺椁と為す。蓋し諸大過を取る。彼は解説していう。《大過》は下巽上兌。巽木が兌沢の坑穴の中に入るである。上古は結繩して以て治す。後世の聖人は之を易えて書契と為し、百官は以て治め、万民は以て察す。蓋し諸夬を取る。彼は解説していう。文字契約を以て口頭言語に代われば、それをして天と同じく長久ならしむる。

是故易者,象也;象也者,像也。彖者,材也;爻也者,效天下之動者也。是故吉凶生而悔吝著也。由此觀之,所謂易者,不過示人以象耳;而象也者,則是事物之克肖者也。所謂彖者,則是事物之材質也;所謂爻者,則是效天下之動者也。是故得有吉凶悔吝之生著也。夫動則必有吉凶悔吝之生著,君子可不思所以慎其動乎?

だから《易》の講ずる所はすなわち「象」である。いわゆる象とは、すなわち模擬である。彖辞の講ずるは一卦の材質であり、爻は則ち天下の変動を傚法する。したがって吉凶はこれより生じ、悔吝はこれより著われる。蕅益の解説:これによって見れば、いわゆる《易》とは、不過「象」を人に指示するだけである。而していわゆる象とは、事物への酷肖の摹写である。いわゆる彖とは、事物の材質である。いわゆる爻とは、天下の変動を傚法することである。したがって初めて吉凶悔吝の生じて著われることがある。すでに一動すれば必ず吉凶悔吝が随って生じ著われる以上、君子はどうして己の行動を謹愼する道を思わなくてよかろうか。

陽卦多陰,陰卦多陽,其故何也?陽卦奇,陰卦耦。其德行何也?陽一君而二民,君子之道也;陰二君而一民,小人之道也。欲慎其動,當辨君民之分於身心,孟子所謂從其大體為大人、從其小體為小人也。觀於陽卦多陰、陰卦多陽,可以悟矣。奇者,天君獨秉乾綱之謂;耦者,意念夾帶情慾之謂。陽一為君,而兩陰之二為民以從之,所謂志壹則動氣,故是君子之道;陰二為君,而兩陽之一反為民以從之,所謂氣壹則動志,故是小人之道。

陽卦の中に陰爻が多く、陰卦の中に陽爻が多い。これは何の緣故か。陽卦の画数は奇数であり、陰卦の画数は偶数だからである。それらの徳行はどう講ずるか。陽卦は一つの君主が二つの百姓を帯びる。これは君子の道である。陰卦は二つの君主が一つの百姓を帯びる。これは小人の道である。蕅益の解説:己の行動を謹愼せんとすれば、まさに身心の中において君と民の名分を辨明すべきである。すなわち孟子のいう「大体に從えば大人と為り、小体に從えば小人と為る」である。陽卦に陰が多く陰卦に陽が多いを見れば、この道理を悟り出ることができる。いわゆる「奇」とは、心中の天君が独自に綱紀を執掌することである。いわゆる「耦」とは、意念の中に情欲を夾帯することである。陽卦は一つの陽爻を以て君とし、二つの陰爻共二画を以て百姓としてそれに跟從する。まさに《孟子》のいう「志専一すれば則ち気を動かす」であり、だから君子の道である。陰卦は二つの陰爻共二画を以て君とし、一つの陽爻はかえって百姓を作してそれに跟從する。まさに「気専一すれば則ち志を動かす」であり、だから小人の道である。

易曰:憧憧往來,朋從爾思。子曰:天下何思何慮?天下同歸而殊塗,一致而百慮,天下何思何慮?日往則月來,月往則日來,日月相推而明生焉;寒往則暑來,暑往則寒來,寒暑推而歲成焉。往者屈也,來者信也,屈信相感而利生焉。尺蠖之屈,以求信也;龍蛇之蟄,以存身也。精義入神,以致用也;利用安身,以崇德也。過此以往,未之或知也。窮神知化,德之盛也。

《咸》九四の爻辞にいう。憧憧往来、朋従爾思。孔子がいう。天下に何の思か何の慮かあらん。天下は同歸して殊途し、一致して百慮す。天下に何の思か何の慮かあらん。日往けば則ち月来たり、月往けば則ち日来たり。日月相推して明生ず。寒往けば則ち暑来たり、暑往けば則ち寒来たり。寒暑相推して歳成る。往く者は屈なり、来る者は信(の)なり。屈信相感して利生ず。尺蠖の屈するは、以て信を求めんが為なり。龍蛇の蟄するは、以て身を存せんが為なり。義理に精んじて以て神に入るは、以て用を致さんが為なり。利用以て身を安んずるは、以て徳を崇めんが為なり。此を過ぎて以往は、則ち未だ或いは知る能わざるなり。神を窮め化を知るは、徳の盛りなり。

夫心之官則思,而不知思本無可思也。能思無思之妙,則無思無慮而殊塗同歸;能達無思之思,則雖一致而具足百慮。思而無思,所謂退藏於密,屈之至也;無思而思,所謂感而遂通,信之至也。屈乃所以為信,信乃所以為屈。觀師所謂往復無際、動靜一源,肇公所謂其入離、其出微,皆此理耳。法界離微之道,豈思議之可及,故曰未之或知。苟證此思即無思、無思而思之妙,則可以窮神知化矣。殊途同歸、一致百慮,皆所謂一君二民之道也。

智旭の解説:心という器官の職能は思である。しかし人々は「思」が本來思うべきものがないことを知らない。能く「無思」の妙処に思い至れば、無思無慮にして万途同帰する。能く「無思之思」に通達すれば、雖も一致して一処に帰しながら百慮具足する。思いて無思とは、すなわち《繫辞上伝》のいう「退蔵於密」であり、これは収縮して極処に至ったものである。無思して思とは、すなわち「感而遂通」であり、これは伸展して極処に至ったものである。収縮はまさに伸展の為であり、伸展はまさに収縮の為である。華厳宗の清涼澄観大師のいう「往復無際、動静一源」、僧肇法師のいう「其の入るや離、其の出るや微」は、いずれもこの道理を講ずる。法界のあの離微の道は、どうして思量議論の及ぶ所であろうか。だから「未之或知」という。もし真に「思即無思、無思而亦能思」の妙処に証到すれば、神を窮め化を知り得る。「殊途同帰・一致百慮」は、皆上文のいう「一君二民」の君子の道に属する。

易曰:困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。子曰:非所困而困焉,名必辱;非所據而據焉,身必危。既辱且危,死期將至,妻其可得見耶?妄計心外有法,而欲求其故,所謂困于石也;不知萬法唯心,而執有差別,所謂據于蒺藜也。無慧故名辱,無定故身危,喪法身慧命,故死期將至;永無法喜,故不見其妻。此二君一民之道也。

《困》六三の爻辞にいう。石に困まり、蒺藜に据る。其の室に入りて其の妻を見ず。凶。孔子がいう。困むべからざる所に困めば、名必ず辱められる。据るべからざる所に据れば、身必ず危うし。すでに辱められかつ危うければ、死期将に至らんとす。妻其れ見るを得べけんや。蕅益は仏法を以て解説する。虚妄に心外に別に実法あると計執して、なおその所以然を追究せんと欲する。これが「困于石」である。万法が皆自心の現ずる所であることを知らず、種種の差別相に執著する。これが「据于蒺藜」である。智慧がないがゆえに名声は辱められ、禅定がないがゆえに身体は危うく、法身と慧命を喪失したがゆえに死期は至らんとし、永遠に法喜を得られないがゆえに「不見其妻」である。この一爻はまさに上文のいう「二君一民」の小人の道である。

易曰:公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。子曰:隼者,禽也;弓矢者,器也;射之者,人也。君子藏器於身,待時而動,何不利之有?動而不括,是以出而有獲,語成器而動者也。禽喻惑,器喻戒定,人喻智慧。解之上六,獨得其正,而居震體,如人有慧,故能以戒定斷惑也。宗門云:一兔橫身當古道,蒼鷹才見便生擒。亦是此意。

《解》上六の爻辞にいう。公は隼を高墉の上に射る。之を獲たり。不利无し。孔子がいう。隼は禽なり、弓矢は器なり、之を射る者は人なり。君子は器を身に蔵し、時を待ちて動く。何の不利あらん。動けば括れなし。是を以て出でて獲り有り。語るに器を成して動けばなり。蕅益は仏法を以て解説する。禽鳥は煩悩迷惑に譬え、器具は戒律と禅定に譬え、射る人は智慧に譬える。《解》卦上六は全卦の中に独り其の正位を得て、また震体の中に処る。人が智慧を有するがごとき。だから能く戒定を用いて迷惑を断除する。禅門の言にいう。「一兔横身当古道、蒼鷹纔見便生擒」。またこの意である。

子曰:小人不恥不仁,不畏不義,不見利不勸,不威不懲。小懲而大誡,此小人之福也。易曰屨校滅趾無咎,此之謂也。善不積,不足以成名;惡不積,不足以滅身。小人以小善為無益而弗為也,以小惡為無傷而弗去也,故惡積而不可掩,罪大而不可解。易曰何校滅耳凶。夫戒定之器必欲其成,障戒障定之惡必宜急去。勿輕小罪以為無殃,懲之於小則無咎,釀之於終則必凶,修心者所宜時時自省自改也。

孔子がいう。小人は不仁を以て恥と為さず、不義を以て畏れと為さず、利を見ざれば則ち勧めず、威なければ則ち懲りず。小懲りて大いに誡むるは、此れ小人の福なり。《噬嗑》初九の爻辞に「屨校して趾を滅す。咎なし」と言うは、此を謂うなり。善積まざれば、以て名を成すに足らず。悪積まざれば、以て身を滅すに足らず。小人は小善を以て益なきと為して弗為にして、小悪を以て傷なきと為して弗去す。故に悪積みて掩う可からず、罪大にして解く可からず。《噬嗑》上九の爻辞に「何校して耳を滅す。凶」と言う。蕅益の解説:戒と定のこの「器具」は必ず修成しなければならず、持戒を障碍し入定を障碍する悪は必ず急いで除かなければならない。小罪を軽視して、報応なしと為してはならない。小に於て懲戒すれば、過なし。一路に醞釀して最後に至れば、必ず凶を得る。心を修める人は、まさに時時に自己を省察し自己を改正すべきである。

子曰:危者,安其位者也;亡者,保其存者也;亂者,有其治者也。是故君子安而不忘危,存而不忘亡,治而不忘亂,是以身安而家國可保也。易曰:其亡其亡,繫于苞桑。自有因過而憬悟以進德者,自有無過而託大以退道者,故君子雖未必有過,尤宜乾乾惕厲,如否之九五可也。安其位是德,保其存是知,有其治是力。

孔子がいう。危うき者は其の位を安しと為す者也。亡ぶる者は其の存を保つと為す者也。乱るる者は其の治を有すと為す者也。是を以て君子は安きにして危うきを忘れず、存にして亡ぶるを忘れず、治にして乱るるを忘れず。是を以て身安くして国家は保つ可きなり。《否》九五の爻辞にいう。「其れ亡なんとす、其れ亡なんとす」。係りて苞桑に於す。蕅益の解説:或る人は過を犯したに因って猛然として醒悟し、これによって徳行を長進する。或る人は過を犯していないのに、自ら高明を恃んでかえって道業を退失する。だから君子はたとえ未必過なくとも、尤もまさに《乾》卦のいう終日乾乾・警惕戒懼のごとくすべきで、《否》卦九五のあのようになれば可である。「安其位」に恃むは徳であり、「保其存」に恃むは智であり、「有其治」に恃むは力である。

子曰:德薄而位尊,知小而謀大,力小而任重,鮮不及矣。易曰:鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。言不勝其任也。欲居尊位,莫若培德;欲作大謀,莫若拓知;欲任重事,莫若充力。德是法身,知是般若,力是解脫,三者缺一,決不可以自利利他。

孔子がいう。徳薄にして位尊く、知小にして謀大、力少にして任重きは、鮮しく及ばざるなり。《鼎》九四の爻辞にいう。「鼎は足を折り、公の餗を覆し、其の形は渥(あく)なり。凶」。言うに其れ任に勝えざればなり。蕅益は仏法を以て解説する。尊位に居らんと欲すれば、先ず徳行を培養するに如かず。大いなる謀を為さんと欲すれば、先ず智慧を開拓するに如かず。重任を担当せんと欲すれば、先ず力量を充実するに如かず。徳は仏法の「法身」に対応し、智は「般若」に対応し、力は「解脱」に対応する。これが涅槃の三徳である。三者の中の任何か一つが欠けても、決して自己を利益し他人を利益すること能わず。

子曰:知幾其神乎!君子上交不諂,下交不瀆,其知幾乎!幾者動之微,吉之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。易曰:介于石,不終日,貞吉。介如石焉,寧用終日,斷可識矣。君子知微知彰,知柔知剛,萬夫之望。此所謂德厚而位自尊者也。十法界不出一心,名之為幾。知此妙幾,則上合十方諸佛本妙覺心,與佛如來同一慈力,故上交不諂;下合十方六道一切眾生,與諸眾生同一悲仰,故下交不瀆。稱性所起始覺,必能合乎本覺,故為吉之先見。

孔子がいう。幾を知れば、其れ神か。君子は上に交わりて諂わず、下に交わりて瀆らず。其れ幾を知れるか。夫の幾とは、動の微なり、吉の先見なる者也。君子は幾を見て則ち作す。終日を俟たず。《豫》六二の爻辞にいう。「石に介たり。終日ならず。貞吉」。既に石の如く介たれば、寧に終日を用いんや。断じて識る可し。君子は微を知り彰を知り、柔を知り剛を知る。万夫の望なり。蕅益は仏法を以て解説する。これはすなわち上文のいう「徳行深厚にして位自ずから尊貴」の人である。十法界は一心を出ず。この一心を名づけて「幾」という。この微妙の「幾」を知れば、上に向かっては十方諸仏の本有の妙覚の心に契合し、仏如来と同じく一份の慈力を同じくす。だから「上交不諂」。下に向かっては十方六道の一切衆生に契合し、衆生と同じく一份の悲仰の情を同じくす。だから「下交不瀆」。本性に称合して発起する「始覚」は、必ず本來有る「本覚」と相合し得るがゆえに、それを「吉之先見」と称する。

子曰:顏氏之子,其殆庶幾乎!有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。易曰:不遠復,無祇悔,元吉。此所謂知大而謀自遠者也。欲證知幾之神,須修不遠之復。天地絪縕,萬物化醇;男女構精,萬物化生。易曰:三人行,則損一人;一人行,則得其友。言致一也。此所謂力大而任可重者也。既有不遠之復,須有致一之功。男慧女定,不使偏枯,乃可以成萬德矣。

孔子がいう。顔氏の子は、其れ殆んど庶幾か。不善有れば嘗て知らざるなく、知りて嘗て復た行わず。《復》初九の爻辞にいう。「遠からずして復す。祗悔なし。元吉」。蕅益の解説:これはすなわち上文のいう「智慧広大にして謀画自ずから深遠」の人である。知幾の神妙に証到せんと欲すれば、必ず先ず「不遠而復」の功夫を修しなければならない。天地は絪縕し、万物は化醇す。男女は精を搆え、万物は化生す。《損》六三の爻辞にいう。「三人行けば則ち一人を損し、一人行けば則ち其の友を得る」。言うに一に致せばなり。彼は解説していう。これはすなわち上文のいう「力量強大にして担子加重し得」の人である。すでに「不遠而復」有れば、なお「致一」の功夫を有さなければならない。男は智慧に配し、女は禅定に配し、どちらか一方を偏枯せしめずして、初めて万種の功徳を成就し得る。

子曰:君子安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求。君子修此三者故全也。危以動,則民不與也;懼以語,則民不應也;無交而求,則民不與也。莫之與,則傷之者至矣。易曰:莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。惟仁可以安身,惟知可以易語,惟力可以定交。仁是斷德,知是智德,力是利他恩德。有此三者,不求益而自益。今危以動則德薄,懼以語則知小,無交而求則力小,不亦傷乎?

孔子がいう。君子は其の身を安んじて後に動き、其の心を易えて後に語り、其の交を定めて後に求む。君子は此の三者を修むるが故に、故に能く全きなり。危きにして動けば、則ち民は与せず。懼れて語れば、則ち民は応ぜず。交なくして求めれば、則ち民は与えず。与える者莫ければ、則ち之を傷うる者至らん。《益》上九の爻辞にいう。「之を益する莫し、或いは之を撃つ。心を立てて恒ならず。凶」。蕅益は仏法を以て解説する。惟れ仁のみ能く身を安んじ、惟れ智のみ能く言語を平和ならしめ、惟れ力のみ能く交情を確定す。仁は仏の「断徳」、即ち煩悩を断尽する徳に対応し、智は「智徳」に対応し、力は他人を利益する「恩徳」に対応する。此の三者有れば、増益を求めずして自ずから益を得る。今危殆なるにして動くは、徳行浅薄なり。懼れを懐いて語るは、智慧短小なり。交情なくして求むるは、力量微弱なり——傷害を受けずして怪しむべからざるや。

子曰:乾坤其易之門耶!乾,陽物也;坤,陰物也。陰陽合德,而剛柔有體,以體天地之撰,以通神明之德。其稱名也,雜而不越;於稽其類,其衰世之意耶!夫易,彰往而察來,而微顯闡幽,開而當名辯物,正言斷辭,則備矣。其稱名也小,其取類也大;其旨遠,其辭文;其言曲而中,其事肆而隱。因貳以濟民行,以明失得之報。

孔子がいう。乾坤は其れ《易》の門なるか。乾は陽物なり、坤は陰物なり。陰陽は徳を合して、剛柔体有り。以て天地之撰を體し、以て神明の徳に通ず。其の名を称するや、雑にして越えず。其の類を稽うるに、其れ衰世の意か。《易》は往を彰かにして来を察し、微を顕し幽を闡く。開いて名を当て、物を辨じ、言を正し、辞を断ずれば、則ち備われり。其の称名するや小なれども、其の取類するや大なり。其の旨は遠く、其の辞は文なり。其の言は曲にして中り、其の事は肆にして隱る。吉凶を因りて民の行を済い、以て失得の報を明かにす。

有易理即有乾坤,由乾坤即通易理,如城必有門,門必通城。蓋乾是陽物,在天曰陽,在地曰剛,在人曰知;坤是陰物,在天曰陰,在地曰柔,在人曰仁。而陰不徒陰,陰必具陽;陽不徒陽,陽必具陰。故陰陽合德,而剛柔有體,即天道而為地道,即地道而為人道,即人道而體天地之撰、通神明之德。易理既然,易書亦爾。

智旭の解説:易理有れば乾坤有り、乾坤よりすなわち易理に通ず。譬えば城有れば必ず門有り、門有れば必ず城裏に通ずるがごとし。乾は陽性の物である。天に於ては陽と言い、地に於ては剛と言い、人に於ては智と言う。坤は陰性の物である。天に於ては陰と言い、地に於ては柔と言い、人に於ては仁と言う。而して陰は単純の陰ではなく、陰中に必ず陽を含む。陽もまた単純の陽ではなく、陽中に必ず陰を含む。だから陰陽の徳性が合わされば、剛柔に形体有る。就て天道に於ては便ち地道を成し、就て地道に於ては便ち人道を成し、就て人道に於ては便ち天地の造作を體現し、神明の徳性に貫通し得る。易理すでにかくのごとし、易書もまたかくのごとし。

所以六十四卦之名雜而不越。雜,謂大小善惡邪正吉凶之不同;不越,謂總不外於陰陽二物之德。然使上古之世,有善無惡,有正無邪,則此書亦可無作。今惟以衰世既有善惡邪正之殊,欲即此善惡邪正,仍歸於非善非惡之至善、非邪非正之至正,所以方作易耳。是以易之為書,能彰往因,能察來果,能以顯事會歸微理,能使幽機闡成明象。

だから六十四卦の名目は「雑而不越」である。いわゆる「雑」とは、大と小・善と悪・邪と正・吉と凶が各々相同じからざるを言う。いわゆる「不越」とは、総じて陰陽両物の徳性を出ないを言う。もし上古の世に善のみ有りて悪なく、正のみ有りて邪なければ、この書は本來作らざる可きであった。今まさに衰乱の世にすでに善悪邪正の分別有るがゆえに、聖人はこれらの善悪邪正に就いて、依然として人をして「非善非悪」の至善・「非邪非正」の至正に引帰せんと欲す。だからこそ《易》を作したのである。したがって《易》この書は、能く過去の因を彰明し、能く未来の果を察知し、能く顕明の事相を細微の理に会帰せしめ、能く幽隱の機微を明白の卦象に闡発する。

故以此開示天下萬世,名無不當,物無不辨,言無不正,辭無不斷也。一卦止有一名故小,一名具含眾義故大;包盡內聖外王之學故旨遠,辭不煩而意已達故文;言偏而意無不圓,故曲而中;事定而凡情難測,故肆而隱。因決疑以明失得之報,遂令民之蚩蚩亦可避失而趨得也。

だからそれを取って天下万世に開示する。名称に当たらざるなく、事物に辨えざるなく、言語に正しからざるなく、判語に決断せざるなし。一卦はただ一つの名を有するがゆえに、「其の称名するや小なり」という。一つの名の中に衆多の義理を含むがゆえに、「其の取類するや大なり」という。それは内聖外王の全部の学問を包罗するがゆえに、「其の旨遠し」。文辞は煩瑣ならずして意思はすでに伝達し届くがゆえに、「其の辞文なり」。話は一端に偏して言うが意思は圓満せざるなきがゆえに、「曲にして中る」。事情はすでに断定したが凡夫の心思は測度し難きがゆえに、「肆にして隱る」。それは人の為に疑を決することを凭って失得の報応を闡明し、ここにおいて渾渾噩噩の百姓をしても避ける所を避け趨く所に趨かしめ得る。

易之興也,其於中古乎?作易者,其有憂患乎?言其有與民同患之深心也。是故履,德之基也;謙,德之枘也;復,德之本也;恆,德之固也;損,德之修也;益,德之裕也;困,德之辯也;井,德之地也;巽,德之制也。

《易》の興るや、其れ中古に於けるか。《易》を作れる者は、其れ憂患有りしか。蕅益の解説:これは《易》を作れる者が一片の百姓と憂患を同じくする深心を有することを言う。故に《履》は徳の基なり、《謙》は徳の柄なり、《復》は徳の本なり、《恒》は徳の固なり、《損》は徳の修なり、《益》は徳の裕なり、《困》は徳の辨なり、《井》は徳の地なり、《巽》は徳の制なり。(「徳之枘」の「枘」は、通行本は「柄」と作る。底本かくのごとし。今そのまま写す。)

心慈而力健,故為德基;內止而外順,故為德柄;天君為主,故是德本;動而深入,故德可固;譬如為山,故為德修;鼓舞振作,故為德裕;積而能流,故為德辯;入而能出,故為德地;遍入一切,故為德制。○素位而行之謂履,蘊高於卑之謂謙,為仁由已之謂復,動而有常之謂恆,去惡淨盡之謂損,積善圓滿之謂益,歷境煉心之謂困,有源不窮之謂井,無入不得之謂巽。其實六十四卦,無非與民同患、內聖外王之學,且就九卦指點者,以其尤為明顯故也。

智旭は逐卦に解説する。《履》は下兌上乾で、兌は悦にして心地慈和、乾は健にして力量剛強。だから徳の基である。《謙》は下艮上坤で、内は能く止まり外は柔順。だから徳の柄である。《復》は一陽来復し、心中の天君が重新して主を作す。だから徳の本である。《恒》は能く動き能く深入する。だから徳は穏固し得る。《損》は土を堆して山を為すがごとく、一筐一筐に減省積累する。だから徳の修である。《益》は能く鼓舞振作する。だから徳の裕である。《困》は水の積もり久しくして能く流出するがごとし。だから徳の辨である。《井》は能く入り能く出づ。だから徳の地である。《巽》は能く一切に遍入する。だから徳の制である。彼は別に一層を起こしていう。本分に安んじて行うを履と言い、高きを卑下の中に蔵するを謙と言い、仁を行うは全く自己に在るを復と言い、行動して常軌有るを恒と言い、悪を去って乾淨に至るを損と言い、善を積んで圓満に至るを益と言い、境界を歴練して心地を磨鍊するを困と言い、源頭有りて枯竭せざるを井と言い、進入する所無論どこに至るも自在無碍を巽と言う。其の実、六十四卦に一つとして「与民同患」の内聖外王の学でないものはなく、ここでただ九卦に就いて指占するは、この九卦が格外明顕なるに因るのみである。

履和而至,謙尊而光,復小而辯於物,恆雜而不厭,損先難而後易,益長裕而不設,困窮而通,井居其所而遷,巽稱而隱。和即兌慈,至即乾健;尊即山高,光即坤順;小即一陽而為眾陰之主;入於群動,故雜而不厭;譬如為山,方覆一簣,故先難而後易;鼓舞振作,則自然長裕;窮即澤之止水,通即坎之流水,由積故流,猶所謂隱居求志而行義達道也;井不動而澤及於物;巽能遍入一切事理深奧之域,故稱而隱。

《履》は和にして至る。《謙》は尊くして光なり。《復》は小にして物に辨らる。《恒》は雑にして厭かず。《損》は先難にして後易し。《益》は長裕にして設けず。《困》は窮して通ず。《井》は其の所に居て遷す。《巽》は称して隱る。蕅益の解説:「和」は下卦兌の和悦慈柔を指し、「至」は上卦乾の剛健を指す。「尊」は艮山の高峻を指し、「光」は坤地の柔順を指す。「小」は《復》卦の一陽初生して衆陰の主と為るを指す。《恒》は衆多の変動の中に深入するがゆえに「雑而不厭」。《損》は土を堆して山を為すに譬え、纔かに一筐の土を倒したがゆえに、先難にして後易し。《益》は能く鼓舞振作するがゆえに、自ずから日漸に富裕する。《困》の「窮」は兌沢中の停住する水で、「通」は坎水の流動である。積蓄足れるがゆえに能く流出する。まさに《論語》のいう「隠居して以て其の志を求め、義を行いて以て其の道を達す」のごとし。《井》は自己動かずして恩沢を万物に及ぼす。《巽》は能く一切事理の最深奥の処に遍入するがゆえに「称而隱」という。

履以和行,謙以制禮,復以自知,恆以一德,損以遠害,益以興利,困以寡怨,井以辯義,巽以行權。此正明九卦之用如此,以此而為內聖外王之學,所以能歸非善非惡之至善、非邪非正之至正,而聖人與民同患之線索亦盡露於此矣。○按此九卦,亦即是以餘九法助成不思議觀之旨,蓋易即不思議境之與觀也。作易者有與民同患之心,更設九法以接三根。履是真正發菩提心,上求下化。

《履》は以て行を和にす。《謙》は以て礼を制す。《復》は以て己を知る。《恒》は以て徳を一にす。《損》は以て害を遠ざく。《益》は以て利を興す。《困》は以て怨を寡くす。《井》は以て義を辨ず。《巽》は以て権を行う。蕅益の解説:この一節はまさに九卦の作用がかくのごときを講明する。それを取って内聖外王の学問と為せば、だから能く「非善非悪」の至善・「非邪非正」の至正に帰ることができ、而して聖人の百姓と憂患を同じくする線索もここに於て全部顕露出るのである。彼はまた別に一層の按語を作していう。この九卦もまた正に天台宗《摩訶止観》の裏の「其の余の九法を用いて不思議観を助成す」の宗旨に相当する——「易」はすでに不思議の境であり、また此の境を観照する観法でもあるがゆえに。《易》を作る人は与民同患の心を懐いて、特意に九法を設立して上・中・下の三種の根器の人を接引する。《履》は「真正に菩提心を発する」に配する。即ち上は仏道を求め、下は衆生を化するである。

謙是善巧安心止觀,地中有山,止中有觀也;復是破法遍,一陽動於五陰之下也;恆是識通塞,能動能入也;損是道品調適,能除惑也;益是對治助開,成事理二善也;困是知次位,如水有流止,不可執性廢修也;井是能安忍,謂不動而潤物也;巽是離法愛,謂深入於正性也。

《謙》は「善巧に心を安んじ止観す」に配する。《謙》卦は地中に山を蔵し、まさに止の中に観を含む。《復》は「破法遍」に配する。一つの陽爻が五つの陰爻の下に発動し、以て観慧を遍く一切の執著を破るを象徴する。《恒》は「通塞を識る」に配する。能く動き能く入るがゆえに、能く修行路上の通と塞を辨識する。《損》は「道品調適」に配する。能く迷惑を去除する。《益》は「対治助開」に配する。事・理の両方面の善を成就する。《困》は「次位を知る」に配する。水の流れ有り止り有るがごとく、「本性本自具足」を借口して実修を廃棄すべからず。《井》は「能く安忍す」に配する。自己動かずして万物を滋潤する。《巽》は「法愛を離る」に配する。正性に深入して法味を貪著せず。この九条はまさに《摩訶止観》の「十乘観法」の中の後の九法であり、智旭は九卦を一々其上に配合したのである。

易之為書也不可遠,為道也屢遷,變動不居,周流六虛,上下無常,剛柔相易,不可為典要,唯變所適。其出入以度,外內使知懼,又明於憂患與故,無有師保,如臨父母。初率其辭,而揆其方,既有典常。苟非其人,道不虛行。

《易》この書は遠ざくべからざるなり。其の道として屡遷す。変動して居らず、周流して六虚す。上下常なく、剛柔相易す。可ならざるを典要と為さず、唯変の適する所なり。其の出入は度を以てし、外内をして懼れを知らしむ。又憂患と其の故を明かにす。師保無しと雖も、父母の如く在るが如し。初めに其の辞を率いて、其の方を揆すれば、既に典常あり。苟も其の人に非ざれば、道は虚行せず。

易書雖具陳天地事物之理,而其實切近於日用之間,故不為遠。雖近在日用之間,而初無死法,故為道屢遷。隨吾人一位一事中,具有十法界之變化,故變動不拘,周流六虛;界界互具,法法互融,故上下無常,剛柔相易,所以法法不容執著而唯變所適。唯其一界出生十界,十界趣入一界,雖至變而各有其度,

智旭の解説:易書は天地事物の理を鋪陳すると雖も、其の実は句句に日常生活に切近するがゆえに、「不可遠」という。日用の間に近いと雖も、又根本に一個の死板の定法なきがゆえに、「為道也屡遷」という。即ち我らの処する毎一の位子・遇する毎一の事中に於て、皆「十法界」の変化を具足するがゆえに、「変動不居、周流六虚」という。界と界は互いに具足し、法と法は互いに圓融するがゆえに、「上下無常、剛柔相易」という。正に此のため、如何なる一法も執著を容許せず、只能く変化に随いて適応するのみ。惟れ一界能く十界を出生し、十界又皆一界に帰入するがゆえに、極処に変ると雖も、各々其の法度有り、

故深明外內之機,使知競業於一念之微;又明示憂患之道,及所以當憂當患之故,能令讀是書者,雖無師保,而如臨父母,可謂愛之深教之至矣。是以善讀易者,初但循其卦爻之辭,而深度其所示之法,雖云不可為典要,實有一定不易之典常也。然苟非其人,安能讀易即悟易理,全以易理而為躬行實踐自利利他之妙行哉?

だから《易》は深く内外の機微を闡明して、人をして一念の細微の処に於て兢兢業業たらしめ、又明白に憂患の道、および憂うべき患うべきの縁由を指示して、此の書を読む人をして雖も身辺に師傅保姆なくとも、父母に面するが如く、愛之深く教之到家と言うべきなり。だから《易》を善く読む人は、初めに於てただ卦爻の辞に循い、深く其の指示する法門を推度する。雖も「不可為典要」と言うと雖も、其の実は自ずから一定不易の常道有るを。然るに若しあの合適の人に非ざれば、豈に一読《易》して即ち易理に悟入し、整个の易理を化して親身踐履・自利利他の妙行と為さんことを能くせんや。

易之為書也,原始要終以為質也。六爻相雜,唯其時物也。其初難知,其上易知,本末也。初辭擬之,卒成之終。若夫雜物撰德,辯是與非,則非其中爻不備。噫!亦要存亡吉凶,則居可知矣。知者觀其彖辭,則思過半矣。

《易》この書は、原初を推し終局を要して以て質と為す者なり。六爻は相雑わり、唯其の時物の謂のみ。其の初めは知り難く、其の上は知り易し。本末なり。初めの辞は之を擬し、卒は之を終り成す。若し夫の雑物撰徳して、是と非とを辨ずるは、則ち其の中爻に非ざれば備わらず。噫。亦要して存亡吉凶を知らんと欲すれば、則ち居て知る可きなり。知者は其の彖辞を観れば、則ち思過半す。

二與四同功而異位,其善不同:二多譽,四多懼,近也。柔之為道,不利遠者,其要無咎,其用柔中也。三與五同功而異位,三多凶,五多功,貴賤之等也。其柔危,其剛勝邪。

二と四は功を同じくして位を異にす。其の善も同じからず。二は誉多く、四は懼多し。近きなり。柔の道は、遠きに利あらず。其の要は咎无き、其の用は柔の中なり。三と五は功を同じくして位を異にす。三は凶多く、五は功多し。貴賤の等なり。其の柔は危く、其の剛は勝るか。

夫離卻始終之質,則無時物;離卻時物,亦無始終。故學易者,須得其大體,盡其曲折,乃可謂居觀象動觀變也。然雖發心畢竟二不別,而初則難知,上則易知,以二心中先心難故。既發心已,終當克果,一本一未法如是故。是以初辭擬之,卒以此而成終。顧為學者又不可徒恃初心已也。若夫遍涉於萬事萬物之雜途,而撰成其德行,

智旭の解説:「原始要終」のこの実質を離れれば、各爻の時機と事物なく、時機と事物を離れれば、また始と終なし。だから《易》を学ぶ者は必ず其の大体を把握し其の曲折を窮尽して、初めて「平居観象、行動観変」を談じ得る。《華厳経》は「発心と究竟成仏、二者は本无差別」と言うと雖も、初爻は知り難く上爻は知り易し。発心と成仏のこの両重の心中に於て、在先のあの一念が最も難きが故なり。すでに発心すれば、最終にまさに果地を克成すべし。これは一本一末、法爾如是の緣故である。だから初爻の辞は比擬推想であり、上爻の辞は則ち此に据って終局を成就する。不過学問を為す人もまた只一個の初心を凭って了とすべからず。至って普く万事万物の複雑な途徑を渉歴し、其の中より自己の徳行を撰成せんと欲するは、(「一本一未」の「未」は、底本かくのごとし。まさに「末」の字なり。)

及深辯修行之是非,則非其中之四爻不備。夫事物雖有萬殊,是非雖似紛糅,豈真難辯也哉?噫!亦要歸於操存舍亡、迪吉逆凶之理,則所以自居者斷可知矣。知者觀於彖辭,提綱挈領以定大局,則雖時物相雜,而是非可辯,思過半矣。何謂是之與非?且如二與四同是陰也,而譽懼不同,則遠近之分也;

および修行上の是と非を深入して辨別せんと欲すれば、則ち中間の四個の爻に非ざれば齊備する能わず。事物は雖も万種の差別有り、是非は雖も紛雑にして分かれ難きに似たりと雖も、豈に真に辨え難けんや。噫。亦不過帰結して孟子のいう「操れば則ち存り、舍てれば則ち亡ぶ」、および《尚書》のいう「順善すれば則ち吉、逆理すれば則ち凶」の此の一層の道理のみ。此のようになれば、自己まさに如何に安身立命すべきか、断然として明白に知る可し。知の有る者は一卦の彖辞を観て、提綱挈領して大局を定下すれば、則ち雖も時機と事物が錯雑交陳すると雖も、是非は依然として辨じ得て、思慮は大半を過ぎる。何をか「是」と「非」と謂うや。譬えば二爻と四爻とは同じく陰なりと雖も、而して一は誉多く一は懼多し。此れ遠近の分別なり。

三與五同是陽也,而凶功不同,則貴賤之分也。柔宜近不宜遠,四之位近君,故雖多懼,而其要無咎;二之位遠君,但用柔中,故多譽也。剛宜貴不宜賤,五之位貴,上位必須剛德乃克勝也。此約時位如此。若約修證者,知慧宜高遠,行履宜切實穩當。故知內聖外王之學,皆於一卦六爻中備之。

三爻と五爻とは同じく陽なりと雖も、而して一は凶多く一は功多し。此れ貴賤の分別なり。柔は本來近きに宜しく遠きに宜しからず。四爻の位子は君位に近し。故に雖も懼多しと雖も、其の要帰は却て過なきなり。二爻の位子は君位に遠し。只其の用が「柔而得中」なるに因りて、故に誉多し。剛は本來貴きに宜しく賤きに宜しからず。五爻の位子は尊貴にして、上位に居れば必ず剛健の徳有りて乃ち勝任す。此れ時と位に就いて言うなり。若し修行証道に就いて言えば、智慧は高明深遠に宜しく、行履は切実穏当に宜し。此に由りて知るべし。内聖外王の学問は、全て一卦六爻の中に具備するを。

易之為書也,廣大悉備,有天道焉,有人道焉,有地道焉。兼三才而兩之,故六。六者非他也,三才之道也。道有變動,故曰爻;爻有等,故曰物;物相雜,故曰文;文不當,故吉凶生焉。

《易》この書は、広くして大にして備わらざるなし。天道有り、人道有り、地道有り。三才を兼ねて之を両にす。故に六。六者は他なし、三才の道なり。道に変動有り。故に爻と曰う。爻に等有り。故に物と曰う。物は相雑わる。故に文と曰う。文は当たらず。故に吉凶生ず。

上明質與時物,且約人道言之,而實三才之道無不備焉。且如三畫便是三才,而三才決非偏枯單獨之理,當知一一才中還具兩才事理,故象之以六畫。而六者非他,乃表一一畫中又各還具三才之道,不但初二為地、三四為人、五上為天而已矣。是故三才各有變動之道,名之曰爻;爻有初終中間之等,故名曰物;物又互相夾雜不一,故名曰文;文有當與不當,故吉凶從此而生。而所以趨吉避凶、裁成輔相於天地者,則其權獨歸於學易之君子矣。

智旭の解説:上文の講ずる「原始要終以為質」と「時物」は、姑且人道に就いて言うのであるが、其の実は三才の道に具備せざるなし。譬えば三画は則ち三才なりと雖も、而も三才は決して各々孤立偏枯の道理ではない。まさに知るべし、毎一才の中に還って另外両才の事と理を具足するを。故に六画を用いて之を象徴する。此の「六」は他なし、正に毎一画の中に又各々三才の道を具足することを表示するのであり、併せて只初・二の両爻を地とし、三・四の両爻を人とし、五・上の両爻を天とするのみではない。だから三才に各々変動の道有れば、則ち之を「爻」と曰い。爻に起初・終了・中間の等級有れば、則ち之を「物」と曰い。物又互相夾雑して齊一ならざれば、則ち之を「文」と曰い。文に当位と不当位有れば、吉凶は則ち此れより生ず。而して能く吉に趨り凶を避け、天地を輔助して万物を裁成する者は、あの主動権は独り《易》を学ぶ君子に帰すのみ。

易之興也,其當殷之末世、周之盛德邪?當文王與紂之事邪?是故其辭危。危者使平,易者使傾,其道甚大,百物不廢。懼以終始,其要無咎,此之謂易之道也。此正明學易之君子,於末世中而成盛德,自既挽凶為吉,又能中興易道以昭示於天下萬世也。

《易》の興るや、其れ殷の末世・周の徳盛なる時に当たるか。其れ文王と紂王の事に当たるか。是の故に其の辞は危なし。危き者は平を使い、易き者は傾かしむ。其の道は甚だ大にして、百物は廃さざるなし。懼れを以て終始す。其の要は咎无きなり。此れを《易》の道と謂うなり。蕅益の解説:此れ正に《易》を学ぶ君子が、衰乱の末世の中に於て盛徳を成就することを説明する。自己すでに能く凶を挽回して吉と為し、又能く易道を中興して、天下万世に昭示す。

夫乾,天下之至健也,德行恆易以知險;夫坤,天下之至順也,德行恆簡以知阻。能說諸心,能研諸侯之慮,定天下之吉凶,成天下之亹亹者。是故變化云為,吉事有祥,象事知器,占事知來。天地設位,聖人成能,神謀鬼謀,百姓與能。

乾は天下の至健にして、徳行恒に易なり。以て険を知る。坤は天下の至順にして、徳行恒に簡なり。以て阻を知る。能く諸心を説ばせ、能く諸侯の慮を研し、天下の吉凶を定め、天下の亹亹たるを成す者なり。是の故に変化云為の中に、吉事は祥有り。象事は器を知り、占事は来を知る。天地は位を設け、聖人は能を成す。人謀鬼謀、百姓は与に能す。(「能研諸侯之慮」の「侯」の字は、通行本は無し。底本かくのごとし。今そのまま写す。)

八卦以象告,爻彖以情言,剛柔雜居,而吉凶可見矣。變動以利言,吉凶以情遷。是故愛惡相攻而吉凶生,遠近相取而悔吝生,情偽相感而利害生。凡易之情,近而不相得則凶,或害之,悔且吝。將叛者其辭慚,中心疑者其辭枝,吉人之辭寡,躁人之辭多,誣善之人其辭游,失其守者其辭屈。

八卦は象を以て告げ、爻彖は情を以て言う。剛柔は雑居して、吉凶は見る可きなり。変動は利を以て言い、吉凶は情を以て遷す。是の故に愛悪は相攻して、吉凶生ず。遠近は相取して、悔吝生ず。情偽は相感して、利害生ず。凡そ《易》の情は、近くして相得せざれば則ち凶。或いは之を害すれば、悔且つ吝す。将に叛なんとする者は其の辞は慙れ、中心疑う者は其の辞は枝。吉人の辞は寡く、躁人の辞は多く、善を誣うる人は其の辞は游び、其の守を失う者は其の辞は屈す。

夫易道雖甚大,而乾坤足以盡之。乾易而知險,坤簡而知阻。惟其知險,故險亦成易,否則易便成險矣;惟其知阻,故阻亦成簡,否則簡亦成阻矣。悟此簡易險阻之理於心,故悅;知此挽回險阻以成簡易之不可草率,故其慮研。既悅其理,又研其慮,則知行合一,全體乾坤之德,遂可以定吉凶、成亹亹也。是故世間之變化云為,舉凡吉事無不有祥,聖人於此,即象事而可以知器,

智旭の解説:易道は雖も極大なれども、乾坤両卦を以て足りて之を説尽し得る。乾は平易にして険を知り、坤は簡約にして阻を知る。正に険を知るがゆえに、険もまた平易に変る。否くんば平易はかえって険と変る。正に阻を知るがゆえに、阻もまた簡約に変る。否くんば簡約はかえって阻と変る。心裏に於て此の簡易と険阻の道理に悟れば、故に「能説諸心」。険阻を挽回して簡易と為すには決して草率に従事すべからざるを知れば、故に「能研諸慮」。既に此の理に欣悦し、又自己の思慮を精研すれば、則ち知行合一にして、完整地に乾坤の徳を體現する。ここにおいて能く吉凶を判定し、天下人の勤勉不倦の志を成就し得る。故に世間の種種の変化言行の中に、凡そ吉事は无くて先に祥兆有り。聖人は此の上に於て、物象に就いて便ち何の器具を造るべきかを知り、

即占事而可以知來矣。由此觀之,天地一設其位,易理即已昭著於中,聖人不過即此以成能耳。然其易理甚深奧,亦甚平常。以言其深奧,則神謀鬼謀,終不能測;以言其平常,則百姓何嘗不與能哉?夫百姓何以與能?即彼八卦未嘗不以象告,即彼爻彖未嘗不以情言,即彼剛柔雜居,而吉凶未嘗不可見也。是故易卦之變動,不過以百姓之利言也;易辭之吉凶,不過以百姓之情令其遷善也。

占問に就いて便ち未来を預知し得る。此に由りて見れば、天地は一旦上下の位を設定すれば、易理はすでに昭然顕著として其の中に在り。聖人は不過之に就いて自己の功能を成就するのみ。然るに此の易理は既に極めて深奥にして、又極めて平常なり。深奥の一面に就いて言えば、雖も神明謀画・幽冥謀画するも、終に之を測透し得ず。平常の一面に就いて言えば、百姓は豈に嘗て其の中に参与して各々其の能を尽くす能わざらんや。百姓は何を凭って参与し得るや。只あの八卦は嘗て卦象を以て人に告げずならず、あの爻辞彖辞は嘗て情実を以て説明せずならず、あの剛柔雑居して吉凶は嘗て見る可からずならざるに凭るのみ。だから易卦の変動は、不過百姓の利害に就いて言う。易辞の吉凶は、不過百姓の情実を借りて彼らをして善処に遷往せしめる。

是故百姓之愛惡相攻而吉凶生,遠近相取而悔吝生,情偽相感而利害生。此百姓之情,即易中卦爻之情也。凡易之情,近而相得則吉,不相得則凶,或害之,悔且吝矣。而此相得不相得之情,能致吉凶悔吝者,豈他人強與之哉?試觀將叛者其辭慚,乃至失其守者其辭屈,可見一切吉凶禍福無不出於自心,心外更無別法。此易理所以雖至幽深,實不出於百姓日用事物之間,故亦可與能也。

だから百姓の愛と悪は互相攻撃して、吉凶生ず。遠近は互相取用して、悔吝生ず。真情と虚偽は互相感応して、利害生ず。此の百姓の人情は、則ち《易》中の卦爻の情なり。凡そ《易》の顕示する情は、近くして彼此投合すれば則ち吉、投合せざれば則ち凶。或いは人の之を害する有れば、悔有り吝有り。而して此の投合と不投合の情の、能く吉凶悔吝を招来する所以は、豈に別人の硬塞りて彼に与うる者ならんや。試しに「将に叛なんとする者は其の辞は慙れ」より、一直到「其の守を失う者は其の辞は屈す」まで見れば、一切の吉凶禍福は皆自己の心より出でて、心外に更に別の法なきを見る。此れ即ち易理は雖も極めて幽深なれども、実際は百姓の日用事物の間を出ざれば、故に百姓も亦能く其の中に参与して各々其の能を尽くすなり。

説卦伝

昔者聖人之作易也,幽贊於神明而生蓍,參天兩地而倚數,觀變於陰陽而立卦,發揮於剛柔而生爻,和順於道德而理於義,窮理盡性以至於命。夫因蓍有數,因數立卦,因卦有爻,此人所共知也;藉此以和順道德,窮理盡性,此人所未必知也。且蓍之生也,實由聖人幽贊於神明而生之;數之倚也,實參兩於天地;卦之立也,實觀變於陰陽;爻之生也,實發揮於剛柔:此尤人所不知也。惟其蓍從聖人幽贊生,乃至爻從發揮剛柔生,故即此可以和順道德,使進修之義條理有章。既得進修之義,則理可窮,性可盡,而天命自我立矣。作易之旨顧不深與?

昔者聖人の《易》を作れるや、幽に神明を賛して蓍を生じ、参兩して以て数を倚え、変を観て以て卦を立て、揮を発して以て爻を生じ、和順して道徳に於て、理義に於て条り、理を窮め性を尽くして、以て命に至らしむ。蕅益の解説:蓍草有るに因って初めて数有り、数有るに因って初めて卦を立て、卦有るに因って初めて爻有る。此れ人人の知る所なり。而して此の一套を借りて道徳に和順し、理を窮め性を尽くすは、則ち未必人人の知る所ならず。至って蓍草の生長は、実は聖人の暗中に神明を賛助して初めて生出したる者なり。数の確立は、実は天地を参合したる者なり。卦の設立は、実は陰陽の変化を観察して来たる者なり。爻の産生は、実は剛柔を発揮して来たる者なり——此れ則ち更に人の知らざる所なり。正に蓍草は聖人の幽賛神明より生じ、乃至爻は剛柔を発揮するより生ずるがゆえに、之に就いて便ち道徳に和順し、進徳修業の義理をして条理有らしめ得る。すでに進徳修業の義理を得れば、則ち理は窮究し得、性は窮尽し得、而して天命は則ち我自己より確立する。《易》を作るの宗旨は、豈に還って深遠ならざらんや。

昔者聖人之作易也,將以順性命之理,是以立天之道曰陰與陽,立地之道曰柔與剛,立人之道曰仁與義。兼三才而兩之,故易六畫而成卦;分陰分陽,迭用柔剛,故易六位而成章。天地定位,山澤通氣,雷風相薄,水火不相射,八卦相錯。數往者順,知來者逆,是故易,逆數也。

昔者聖人の《易》を作れるや、将に以て性命の理に順わんとす。是を以て立て天の道を陰と陽と曰い、立て地の道を柔と剛と曰い、立て人の道を仁と義と曰う。三才を兼ねて之を両にす。故に《易》は六画にして卦を成す。陰陽を分ち、迭かに柔剛を用い。故に《易》は六位にして章を成す。天地は位を定め、山沢は気を通じ、雷風は相薄し、水火は射たざる相えず。八卦は相錯す。往を数る者は順、来を知る者は逆。是の故に《易》は逆数なり。

吾人自無始以來,迷性命而順生死,所以從一生二,從二生四,乃至萬有之不同。今聖人作易,將以逆生死流,而順性命之理,是以即彼自心妄現之天,立其道曰陰與陽,可見天不偏於陽,還具易之全理,所謂隨緣不變也;即彼自心妄現之地,立其道曰柔與剛,可見地不偏於柔,亦具易之全理,亦隨緣不變也;即彼自心妄計之人,立其道曰仁與義,仁則同地,義則同天,

智旭はここで仏法会通に転入する。彼はいう。我らは无始以来性と命に迷失して、生死の流に順って下に走る。だから一より二を生じ、二より四を生じ、一直到万有の種種の差別に至る。今聖人は《易》を作るに、まさに生死の流に逆らいて性命の理に順わんと欲す。だから、我らの自心より虚妄に顕現し出でた「天」に就いて、それの為に一個の道を確立して「陰と陽」と曰う——これによって天は偏って陽のみにあらず、それは依然として易の全部の道理を具足することを見る。此れ則ち「随縁不変」なり。自心より虚妄に顕現し出でた「地」に就いて、それの為に一個の道を確立して「柔と剛」と曰う——これによって地は偏って柔のみにあらず、亦た易の全部の道理を具足して、同様に随縁不変なり。自心より虚妄に計執し出でた「人」に就いて、それの為に一個の道を確立して「仁と義」と曰う——仁は地に同じく、義は天に同じく、

可見人非天地所生,亦具易之全理,而隨緣常不變也。天具地人之兩,地具天人之兩,人具天地之兩,故易書中以六畫成卦而表示之。於陰陽中又分陰陽,於柔剛中互用柔剛,故易書中以六位成章而昭顯之也。何謂六位成章?謂天地以定其位,則凡陽皆屬天,凡陰皆屬地矣。然山澤未始不通氣,雷風未始不相薄,水火相反,而又未始相射也。是以八卦相錯,

これによって人は併せて天地の生じ出す所にあらざるを見、人もまた易の全部の道理を具足して、随縁して恒常不変なり。天の中に地と人の此の両者を具備し、地の中に天と人の此の両者を具備し、人の中に天と地の此の両者を具備するがゆえに、易書は六画成卦を以て之を表示す。陰陽の中に於て又陰陽を分出し、柔剛の中に於て交替して柔剛を用うるがゆえに、易書は六位成章を以て之を昭示す。何をか「六位成章」と謂うや。則ち天地一旦上下の位を確定すれば、則ち凡そ陽に属する者は皆天に帰し、凡そ陰に属する者は皆地に帰すと言うなり。然るに山と沢は嘗て気息相通せずならず、雷と風は嘗て互相激蕩せずならず、水火は性質相反して又嘗て互相厭棄せず——此れ正に「随縁不変、不変随縁」の卦位の上に落實したる様子なり。此に因りて八卦は交錯並列し、

而世間文章成矣。即此八卦相錯之文章,若從其從一生二、從二生四、從四生八之往事者,則是順生死流;若知其八止是四,四止是二,二止是一,一本無一之來事者,則是逆生死流。逆生死流,則是順性命理,是故作易之本意,其妙在逆數也。謂起震至乾,乾惟一陽,即表反本還源之象耳。

世間の文彩は則ち成就す。則ち此の八卦交錯の文彩の上に於て。若し「一より二を生じ、二より四を生じ、四より八を生ず」の此れら已往の事に順って之を看れば、則ち生死の流に順うなり。若し八は不過四、四は不過二、二は不過一、而して「一」は本來一個の実在の「一」なきを知る——此のように未来の事を看れば、則ち生死の流に逆らうなり。生死の流に逆らうは、亦すなわち性命の理に順うなり。故に《易》を作るの本意は、妙処は正に「逆数」の二字に在り。いわゆる逆数とは、震卦より数え起こして一直到乾卦に数るを指し、而して乾は只純一の陽のみ、正に返本還源の象を表示す。

雷以動之,風以散之,雨以潤之,日以晅之,艮以止之,兌以說之,乾以君之,坤以藏之。先以定動,猶如雷;後以慧拔,猶如風;法性之水如雨,智慧之照如日;妙三昧為艮止,妙總持為兌悅;果上智德為乾君,果上斷德為坤藏。

雷を以て之を動かし、風を以て之を散じ、雨を以て之を潤し、日以て之を晅し、艮を以て之を止め、兌を以て之を説ばせ、乾を以て之を君とし、坤を以て之を蔵す。蕅益は仏法を以て一々対応する。先ず禅定を以て煩悩を撼動するは、雷の鼓動に譬え、随後に智慧を以て之を抜除するは、風の吹散に譬う。法性の水は雨の滋潤に譬え、智慧の照耀は日の晒暖に譬う。微妙の「三昧」、即ち心が一境に専注する定境は、即ち艮の止なり。微妙の「總持」、即ち能く一切の善法を持して失わざるは、即ち兌の悦なり。果地の上の智徳は即ち乾の統領なり、果地の上の断徳は即ち坤の収蔵なり。

帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。帝者,吾人一念之天君也。不憤不啟,不悱不發,故出乎震;既發出生死心,須入法門以齊其三業;三業既齊,須以智慧之明見一切法;既有智慧,須加躬行;智行兩備,則得法喜樂,又可說法度人;說法則降魔為戰;戰勝,則賞賜田宅,乃至解髻珠以勞之;既得授記,則成道而登涅槃山矣。

帝は震より出で、巽に於て斉く、離に於て相見え、坤に於て役を致し、兌に於て説言し、乾に於て戦い、坎に於て労し、艮に於て言を成す。蕅益は仏法を以て解説する。此の「帝」は、即ち我ら心中の一念の天君なり。孔子は「不憤不啓、不悱不発」と言い、人は先ず発憤するを要す。故に「出乎震」という。すでに生死を出離するの心を発起すれば、則ち法門に進入して身・口・意の三業を斉整するを要す。三業すでに斉整せば、則ち智慧の光明を用いて一切法を照見するを要す。すでに智慧有れば、還って親身踐行を加えるを要す。智と行の両様ともに具備すれば、則ち法喜の楽を得て、又可以て法を説いて人を度す。法を説けば則ち魔軍を降伏するを要す。此れ即ち「戦」なり。戦勝の後、仏は便ち田宅を賞賜し、乃至髻中の宝珠を解き發して以て彼を慰労す。此れ《法華経》の譬喻なり。すでに仏の授記を蒙れば、則ち道を成じて涅槃の山に登るなり。

萬物出乎震,震,東方也。齊乎巽,巽,東南也,齊也者,言萬物之潔齊也。離也者,明也,萬物皆相見,南方之卦也,聖人南面而聽天下,饗明而治,蓋取諸此也。坤也者,地也,萬物皆致養焉,故曰致役乎坤。兌,正秋也,萬物之所說也,故曰說言乎兌。戰乎乾,乾,西北之卦也,言陰陽相薄也。坎者,水也,正北方之卦也,勞卦也,萬物之所歸也,故曰勞乎坎。艮,東北之卦也,萬物之所成終而所成始也,故曰成言乎艮。

万物は震より出づ。震は東方なり。巽に於て斉く。巽は東南なり。斉とは、言うに彼の斉潔なり。離也者は明なり。万物は皆相見え、南方の卦なり。聖人は南面して天下を聴し、明に向かって治む。蓋し諸此を取る。坤也者は地なり。万物は皆養を致す。故に「致役乎坤」と曰う。兌は正秋なり。万物の説する所なり。故に「説言乎兌」と曰う。「戦乎乾」。乾は西北の卦なり。言うに陰陽相薄するなり。坎也者は水なり。正北方の卦なり。労卦なり。万物の帰する所なり。故に「労乎坎」と曰う。艮は東北の卦なり。万物の成終りて成始める所なり。故に「成言乎艮」と曰う。(「饗明而治」は通行本は「向明而治」と作る。底本かくのごとし。今そのまま写す。)

萬物皆出乎震,況為聖為賢、成佛作祖,獨不出乎震邪?萬物皆齊乎巽,而三業可弗齊邪?萬物皆相見乎離,而智慧可弗明邪?萬物皆養於坤,而躬行可弗履踐實地邪?萬物皆說乎兌,而可無法喜以自娛、可無法音以令他喜悅邪?陰陽相薄,即表魔佛攸分;萬物所歸,正是勞賞有功之意。自既成終,則能成物之始,自覺覺他之謂也。約觀心者,一念發心為帝,一切諸心心所隨之,乃至三千性相、百界千如,無不隨現前一念之心而出入也。

万物は皆震方より生出す。況んや聖を成し賢を成し、仏を成じ祖を作すは、豈に単に震方より出でざらんや。万物は皆巽方に於て斉潔斉整す。然らば身口意の三業は斉整せざる可けんや。万物は皆離方に於て互相見る。然らば智慧は明亮せざる可けんや。万物は皆坤地に於て養育を得る。然らば親身踐行は脚踏实地せざる可けんや。万物は皆兌方に於て欣悦す。然らば法喜有りて以て自娯し、法音有りて以て他人をして歡喜せしむるなかる可けんや。「陰陽相薄」は、正に魔と仏とが此に於て道を分かつを表示す。「万物所帰」は、正に功有る者に慰労賞賜するの意なり。自己すでに終結を成就せば、則ち他物の開始を成就し得る。此れ即ち自覚して又他を覚るなり。若し「観心」の此の一層に就いて言えば、一念の発心は則ち「帝」なり。一切の心王心所は皆之に随って転じ、乃至天台宗の講ずる三千性相・百界千如は、當下現前の一念の心に随って出入せざるなし。

神也者,妙萬物而為言者也。動萬物者莫疾乎雷,撓萬物者莫疾乎風,燥萬物者莫熯乎火,說萬物者莫說乎澤,潤萬物者莫潤乎水,終萬物始萬物者莫盛乎艮。故水火相逮,雷風不相悖,山澤通氣,然後能變化,既成萬物也。夫神不即萬物,亦不離萬物,故曰妙萬物也。一念菩提心,能動無邊生死大海,震之象也;三觀破惑無不遍,巽之象也;慧火乾枯惑業苦水,離之象也;法喜辨才自利利他,兌之象也;法性理水潤澤一切,坎之象也;首楞嚴三昧究竟堅固,艮之象也。凡此皆乾坤之妙用也,即八卦而非八卦,故曰神也。

いわゆる「神」とは、其の万物を妙化する此の一点に就いて言うなり。万物を動かすは雷より疾きは莫く、万物を撓するは風より疾きは莫く、万物を燥かすは火より熯(か)れるは莫く、万物を説ばするは沢より説ぶは莫く、万物を潤するは水より潤すは莫く、万物を終始するは艮より盛なるは莫し。故に水火は相逮し、雷風は相悖らず、山沢は気を通じて、然る後に能く変化して、すでに万物を成す。蕅益は仏法を以て解説する。神は既に則ち万物にあらず、亦た万物を離れず。故に之を「妙万物」と言う。一念の菩提心は能く無辺の生死大海を撼動す。此れ震の象なり。「三観」、即ち空観・假観・中観は、迷惑を破るに遍からざるなし。此れ巽の象なり。智慧の火は惑・業・苦の三重の苦水を烘乾す。此れ離の象なり。法喜と弁才は自利利他す。此れ兌の象なり。法性の理水は一切を滋潤す。此れ坎の象なり。「首楞厳三昧」の究竟堅固は、此れ艮の象なり。凡そ此の種種は皆乾坤の妙用なり。則ち八卦の上に於て而又八卦に非ず。故に之を「神」と謂う。

乾,健也;坤,順也;震,動也;巽,入也;坎,陷也;離,麗也;艮,止也;兌,說也。健則可以體道,順則可以致道,動則可以趨道,入則可以造道,陷則可以養道,麗則可以不違乎道,止則可以安道,說則可以行道,此八卦之德也。乾為馬,坤為牛,震為龍,巽為雞,坎為豕,離為雉,艮為狗,兌為羊。讀此方知蠢動含靈皆有佛性。雖一物各象一卦,而卦卦各有太極全德,則馬牛等亦各有太極全德矣。

乾は健なり、坤は順なり、震は動なり、巽は入なり、坎は陥なり、離は麗なり、艮は止なり、兌は説なり。蕅益の解説:剛健なれば則ち道を体認し得、柔順なれば則ち道を求得し得、奮動なれば則ち道に趨向し得、深入なれば則ち道に造到し得、能く其の中に陥入すれば則ち道を涵養し得、能く附麗すれば則ち道に違背せずし得、能く止まれば則ち道に安住し得、能く喜悦すれば則ち道を推行し得。此れ則ち八卦の卦徳なり。乾は馬と為り、坤は牛と為り、震は龍と為り、巽は鶏と為り、坎は豕と為り、離は雉と為り、艮は狗と為り、兌は羊と為り。彼は解説していう。此に読み至って初めて一切の蠢動含霊に皆仏性有るを知る。雖も毎一種の動物各々一卦を象徴すると雖も、可なり卦卦皆各々太極の全徳を具有せば、則ち馬・牛の此れらの動物も亦各々太極の全徳を具有するなり。

乾為首,坤為腹,震為足,巽為股,坎為耳,離為目,艮為手,兌為口。若約我一身言之,則八體各象一卦。然卦卦有太極全德,則體體亦各有太極全德矣。又體體各有太極全德,則亦各有八卦全能也。又馬牛等各有首腹及與口等,則馬牛等各具八卦全能尤可知也。

乾は首と為り、坤は腹と為り、震は足と為り、巽は股と為り、坎は耳と為り、離は目と為り、艮は手と為り、兌は口と為り。蕅益の解説:若し我が此の一個の身体に就いて言えば、八個の部位は各々一卦を象徴す。然るに卦卦皆太極全徳有れば、則ち毎一個の部位も亦各々太極全徳有り。既に毎個の部位皆各々太極全徳有れば、則ち亦各々八卦の全部の功能有り。再び言えば、馬・牛の此れらの動物も亦各々首有り、腹有り以至口有れば、則ち馬牛も亦各々八卦の全部の功能を具足するは、更に推知すべきなり。此れ正に彼の一貫して主張する所の「法法互具」なり。

乾,天也,故稱乎父;坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男;巽一索而得女,故謂之長女;坎再索而得男,故謂之中男;離再索而得女,故謂之中女;艮三索而得男,故謂之少男;兌三索而得女,故謂之少女。只此眾物各體之八卦,即是天地男女之八卦,可見小中現大,大中現小,法法平等,法法互具,真華嚴事事無礙法界也。佛法釋者:方便為父,智度為母;三觀皆能破一切法為長男,三止皆能息一切法為長女;三觀皆能統一切法為中男,三止皆能統一切法為中女;三觀皆能達一切法為少男,三止皆能停一切法為少女。

乾は天なり。故に之を父と称す。坤は地なり。故に之を母と称す。震は一索して男を得る。故に之を長男と謂う。巽は一索して女を得る。故に之を長女と謂う。坎は再索して男を得る。故に之を中男と謂う。離は再索して女を得る。故に之を中女と謂う。艮は三索して男を得る。故に之を少男と謂う。兌は三索して女を得る。故に之を少女と謂う。蕅益の解説:則ち此れらの動物・身体の各々配する所の八卦は、同時に則ち天地父母男女の八卦なり。これによって小中に能く大を現じ、大中に能く小を現じ、法法平等・法法互具して、真に《華厳経》のいう所の「事事無碍法界」なるを見る。若し仏法を以て解釈すれば、善巧方便は父なり、般若智度は母なり。空・假・中の三観は皆能く一切法を破除す。長男に配す。空・假・中の三止は皆能く一切法を息滅す。長女に配す。三観は皆能く一切法を統攝す。中男に配す。三止は皆能く一切法を統攝す。中女に配す。三観は皆能く一切法を通達す。少男に配す。三止は皆能く一切法を停息す。少女に配す。

乾為天,為圜,為君,為父,為玉,為金,為寒,為冰,為大赤,為良馬,為老馬,為瘠馬,為駁馬,為木果。坤為地,為母,為布,為釜,為吝嗇,為均,為子母牛,為大輿,為文,為眾,為柄,其於地也為黑。震為雷,為龍,為玄黃,為(敷-文),為大塗,為長子,為決躁,為蒼筤竹,為萑葦,其於馬也為善鳴,為馵足,為作足,為的顙,其於稼也為反生,其究為健,為蕃鮮。

乾は天と為り、圜と為り、君と為り、父と為り、玉と為り、金と為り、寒と為り、氷と為り、大赤と為り、良馬と為り、老馬と為り、瘠馬と為り、駮馬と為り、木果と為る。坤は地と為り、母と為り、布と為り、釜と為り、吝嗇と為り、均と為り、子母牛と為り、大輿と為り、文と為り、衆と為り、柄と為り。其の地に於ては黒と為る。震は雷と為り、龍と為り、玄黄と為り、旉と為り(底本は「敷-文」で此の字を記述す。即ち「旉」、花開の意)、大塗と為り、長子と為り、決躁と為り、蒼筤竹と為り、萑葦と為り。其の馬に於ては、善鳴と為り、馵足と為り、作足と為り、的顙と為る。其の稼に於ては、反生と為る。其の究は健と為り、蕃鮮と為る。

巽為木,為風,為長女,為繩直,為工,為白,為長,為高,為進退,為不果,為臭,其於人也為寡髮,為廣顙,為多白眼,為近利市三倍,其究為躁卦。坎為水,為溝瀆,為隱伏,為矯輮,為弓輪,其於人也為加憂,為心病,為耳痛,為血卦,為赤,其於馬也為美脊,為亟心,為下首,為薄蹄,為曳,其於輿也為多眚,為通,為月,為盜,其於木也為堅多心。

巽は木と為り、風と為り、長女と為り、繩直と為り、工と為り、白と為り、長と為り、高と為り、進退と為り、不果と為り、臭と為る。其の人に於ては、寡髮と為り、広顙と為り、白眼多きと為り、近利市三倍と為る。其の究は躁卦と為る。坎は水と為り、溝瀆と為り、隱伏と為り、矯輮と為り、弓輪と為る。其の人に於ては、加憂と為り、心病と為り、耳痛と為り、血卦と為り、赤と為る。其の馬に於ては、美脊と為り、亟心と為り、下首と為り、薄蹄と為り、曳と為る。其の輿に於ては、多眚と為り、通と為り、月と為り、盗と為る。其の木に於ては、堅多心と為る。

離為火,為日,為電,為中女,為甲胃,為戈兵,其於人也為大腹,為乾卦,為鱉,為蟹,為(嬴女+蟲),為蚌,為龜,其於木也為科上槁。艮為山,為徑路,為小石,為門闕,為果蓏,為閽寺,為指,為狗,為鼠,為黔喙之屬,其於木也為堅多節。兌為澤,為少女,為巫,為口舌,為毀折,為附決,其於地也為剛滷,為妾,為羊。

離は火と為り、日と為り、電と為り、中女と為り、甲胃と為り(底本は「甲胃」と作る。通行本は「甲冑」)、戈兵と為る。其の人に於ては、大腹と為り、乾卦と為り、鼈と為り、蟹と為り、蠃と為り、蚌と為り、龜と為る。其の木に於ては、科上槁と為る。(「蠃」の字は底本が「嬴女+虫」で字形を記述す。)艮は山と為り、径路と為り、小石と為り、門闕と為り、果蓏と為り、閽寺と為り、指と為り、狗と為り、鼠と為り、黔喙の属と為る。其の木に於ては、堅多節と為る。兌は沢と為り、少女と為り、巫と為り、口舌と為り、毁折と為り、附決と為る。其の地に於ては、剛鹵と為り、妾と為り、羊と為る。

此廣八卦一章,尤見易理之鋪天匝地,不間精粗,不分貴賤,不論有情無情。禪門所謂青青翠竹,總是真如;鬱鬱黃花,無非般若。又云牆壁瓦礫皆是如來清淨法身。又云:成佛作祖,猶帶汙名;戴角披毛,推居上位。皆是此意。前云乾健也,坤順也,乃至兌說也,而此健等八德則能具造十界。且如健之善者,則為天為君;其不善者,則為瘠為駁。順之善者,則為地為母;其不善者,則為吝為黑。

智旭の解説:此の一章は広く八卦の象徴する事物を列して、尤も易理の铺天盖地を見出す。精粗を隔てず、貴賤を分かたず、有情無情を論ぜず。禅門のいう「青青の翠竹は総て真如、鬱鬱の黄花は般若に非ざるなし」、又「墙壁瓦礫は皆是れ如来清浄法身」、又「仏を成じ祖を作すも猶汚名を帯び、角を戴き毛を披くも上位に推居す」は、皆此の意を講ずるなり。前面に既に乾は健・坤は順、乃至兌は悦と言ったが、而して此の健等の八種の卦徳は能く具足して十法界を造出し得る。譬えば「健」の善の一面は、則ち天と為り君と為る。其の不善の一面は、則ち瘠馬と為り駮馬と為る。「順」の善の一面は、則ち地と為り母と為る。其の不善の一面は、則ち吝嗇と為り黒色と為る。

下之六卦無不皆然。可見不變之理常自隨緣,習相遠也;然瘠駁等仍是健德,吝黑等乃是順德,可見隨緣之習理元不變,性相近也。若以不變之體,隨隨緣之用,則世間但有天圜乃至木果等可指陳耳,安得別有所謂乾?故大佛頂經云無是見者。若以隨緣之用,歸不變之體,則惟是一乾健之德耳,豈更有天圜乃至木果之差別哉?

底下の六卦も亦た此のごとくならざるなし。これによって「不変」の理は常に自ら随縁するを見る。此れ則ち孔子のいう「習相遠」なり。然るに瘠馬・駮馬の類は依然として「健」の徳なり、吝嗇・黒色の類は依然として「順」の徳なり。これによって随縁して成じたる習気は、其の理は元來不変なるを見る。此れ則ち「性相近」なり。若し不変の本体を取って随縁の作用に順随せば、則ち世間には只天・圓乃至木果の此れらの具体的事物の指し点出し得るのみ。どこに別に一個のいわゆる「乾」有らんや。故に《大仏頂首楞厳経》は「無是見者」と言う——一個の指認し得べき「見」を見出だし得ず。反対に、若し随縁の作用を取って不変の本体に帰還せば、則ち只一個の乾健の徳のみ。どこに還って天・圓乃至木果の種種の差別有らんや。

故大佛頂經云無非見者。於此會得,方知孔子道脈,除顏子一人之外,斷斷無有能會悟者,故再嘆曰今也則亡。○此中具有依正因果、善惡無記、煩惱業苦等一切諸法,而文章錯綜變化,使後世儒者無處可討線索,真大聖人手筆,非子夏所能措一字也。歐陽腐儒乃疑非聖人所作,陋矣陋矣。

故に《大仏頂首楞厳経》は又「無非見者」と言う——万象は一としてあの「見」に非ざるなし。此に於て領會し得れば、初めて孔子の道脈は、顔回一人を除いて、断じて別人の會悟し得る無しを知る。故に孔子は顔回死後再三に感嘆して「今也則亡」という。彼は別に一層の按語を加えていう。此の一章の中に、依報正報・因と果・善と悪と無記・煩悩と業と苦等々の一切諸法を含有し、而して文章は錯綜変化して、後世の儒者をして線索の尋ね可きを得せしめず。真に大聖人の手筆で、子夏の流の添える一字も能わざるなり。欧陽修のあの迂腐の儒生は竟に《説卦》が聖人の作に非ずと疑う。浅陋なるかな、浅陋なるかな。

序卦伝

有天地,然後萬物生焉。盈天地之間者唯萬物,故受之以屯。屯者,盈也;屯者,物之始生也。物生必蒙,故受之以蒙。蒙者,蒙也,物之(禾*犀)也。物(禾*犀)不可不養也,故受之以需。需者,飲食之道也。飲食必有訟,故受之以訟。訟必有眾起,故受之以師。師者,眾也。眾必有所比,故受之以比。比者,比也。比必有所畜,故受之以小畜。物畜然後有禮,故受之以履。履而泰然後安,故受之以泰。泰者,通也。

天地有りて然る後に万物生ず。天地の間に盈てる者は唯万物のみ。故に之に受くるに屯を以てす。屯者は盈なり、屯者は物の始めて生ずるなり。物生すれば必ず蒙なり。故に之に受くるに蒙を以てす。蒙者は蒙なり、物の稚なるなり(「稚」の字は底本が「禾*犀」で字形を記述す)。物の稚なるは養わざる可からず。故に之に受くるに需を以てす。需者は飲食の道なり。飲食あれば必ず訟有り。故に之に受くるに訟を以てす。訟あれば必ず衆起こる。故に之に受くるに師を以てす。師者は衆なり。衆あれば必ず比する所有り。故に之に受くるに比を以てす。比者は比なり。比すれば必ず畜する所有り。故に之に受くるに小畜を以てす。物畜して然る後に礼有り。故に之に受くるに履を以てす。履して泰せば然る後に安んず。故に之に受くるに泰を以てす。泰者は通なり。

物不可以終通,故受之以否。物不可以終否,故受之以同人。與人同者,物必歸焉,故受之以大有。有大者不可以盈,故受之以謙。有大而能謙必豫,故受之以豫。豫必有隨,故受之以隨。以喜隨人者必有事,故受之以蠱。蠱者,事也。有事而後可大,故受之以臨。臨者,大也。物大然後可觀,故受之以觀。可觀而後有所合,故受之以噬嗑。嗑者,合也。物不可以苟合而已,故受之以賁。賁者,飾也。致飾然後亨,則盡矣,故受之以剝。剝者,剝也。

物は終に通ずる可からず。故に之に受くるに否を以てす。否者は塞なり。物は終に否(ふさ)ぐ可からず。故に之に受くるに同人を以てす。人と同じくする者は、物必ず帰す。故に之に受くるに大有を以てす。大有する者は盈る可からず。故に之に受くるに謙を以てす。大有して能く謙なるは、必ず豫す。故に之に受くるに豫を以てす。豫あれば必ず随う者有り。故に之に受くるに随を以てす。喜を以て人に随う者は、必ず事有り。故に之に受くるに蠱を以てす。蠱者は事なり。事有りて然る後に大なる可し。故に之に受くるに臨を以てす。臨者は大なり。物大にして然る後に観る可し。故に之に受くるに観を以てす。観る可きにして然る後に合する所有り。故に之に受くるに噬嗑を以てす。嗑者は合なり。物は苟且して合する可からず。故に之に受くるに賁を以てす。賁者は飾なり。飾を致して然る後に亨る。則ち尽す。故に之に受くるに剥を以てす。剥者は剥なり。

物不可以終盡,剝窮上反下,故受之以復。復則不妄矣,故受之以無妄。有無妄然後可畜,故受之以大畜。物畜然後可養,故受之以頤。頤者,養也。不養則不可動,故受之以大過。物不可以終過,故受之以坎。坎者,陷也。陷必有所麗,故受之以離。離者,麗也。

物は終に尽きる可からず。剥は上爻の尽きる所に至れば則ち下爻に返る。故に之に受くるに復を以てす。復すれば則ち妄ならず。故に之に受くるに无妄を以てす。妄なからずんば然る後に畜する可し。故に之に受くるに大畜を以てす。物畜して然る後に養う可し。故に之に受くるに頤を以てす。頤者は養なり。養わざれば則ち動する可からず。故に之に受くるに大過を以てす。物は終に過ぐる可からず。故に之に受くるに坎を以てす。坎者は陥なり。陥れば必ず麗する所有り。故に之に受くるに離を以てす。離者は麗なり。上経三十卦の次序は此に至って止まる。

有天地,然後有萬物;有萬物,然後有男女;有男女,然後有夫婦;有夫婦,然後有父子;有父子,然後有君臣;有君臣,然後有上下;有上下,然後禮義有所錯。夫婦之道,不可以不久也,故受之以恆。恆者,久也。物不可以久居其所,故受之以遁。遁者,退也。物不可以終遁,故受之以大壯。物不可以終壯,故受之以晉。晉者,進也。進必有所傷,故受之以明夷。夷者,傷也。

以下は下経の次序を講ずる。天地有りて然る後に万物有り、万物有りて然る後に男女有り、男女有りて然る後に夫婦有り、夫婦有りて然る後に父子有り、父子有りて然る後に君臣有り、君臣有りて然る後に上下有り、上下有りて然る後に礼義錯る所有り——「錯」は「措」に通じ、安放の意。夫婦の道は久しからざる可からず。故に《咸》の後に之に受くるに恒を以てす。恒者は久なり。物は久しく其の所に居る可からず。故に之に受くるに遯を以てす。遯者は退なり。物は終に退く可からず。故に之に受くるに大壮を以てす。物は終に壮なる可からず。故に之に受くるに晋を以てす。晋者は進なり。進めば必ず傷うる所有り。故に之に受くるに明夷を以てす。夷者は傷なり。

傷於外者必反其家,故受之以家人。家道窮必乖,故受之以睽。睽者,乖也。乖必有難,故受之以蹇。蹇者,難也。物不可以終難,故受之以解。解者,緩也。緩必有所失,故受之以損。損而不已必益,故受之以益。益而不已必決,故受之以夬。夬者,決也。決必有所遇,故受之以姤。姤者,遇也。物相遇而後聚,故受之以萃。萃者,聚也。

外に於て傷うる者は必ず其の家に反る。故に之に受くるに家人を以てす。家道窮すれば必ず乖る。故に之に受くるに睽を以てす。睽者は乖なり。乖れば必ず難有り。故に之に受くるに蹇を以てす。蹇者は難なり。物は終に難に居る可からず。故に之に受くるに解を以てす。解者は緩なり。緩れば必ず失う所有り。故に之に受くるに損を以てす。損して已まざれば必ず益す。故に之に受くるに益を以てす。益して已まざれば必ず決す。故に之に受くるに夬を以てす。夬者は決なり。決すれば必ず遇う所有り。故に之に受くるに姤を以てす。姤者は遇なり。物は相遇うて然る後に聚まる。故に之に受くるに萃を以てす。萃者は聚なり。

聚而上者謂之升,故受之以升。升而不已必困,故受之以困。困乎上者必反下,故受之以井。井道不可不革,故受之以革。革物者莫若鼎,故受之以鼎。主器者莫若長子,故受之以震。震者,動也。物不可以終動,止之,故受之以艮。艮者,止也。物不可以終止,故受之以漸。漸者,進也。進必有所歸,故受之以歸妹。得其所歸者必大,故受之以禮。禮者,大也。

聚まりて上る者を升と謂う。故に之に受くるに升を以てす。升して已まざれば必ず困む。故に之に受くるに困を以てす。上に困む者は必ず下に反る。故に之に受くるに井を以てす。井道は久しくして革めざる可からず。故に之に受くるに革を以てす。物を革むるは鼎より善きは莫し。故に之に受くるに鼎を以てす。器を主るは長子より善きは莫し。故に之に受くるに震を以てす。震者は動なり。物は終に動く可からず。之を止む。故に之に受くるに艮を以てす。艮者は止なり。物は終に止まる可からず。故に之に受くるに漸を以てす。漸者は進なり。進めば必ず帰する所有り。故に之に受くるに帰妹を以てす。其の帰を得る者は必ず大なり。故に之に受くるに豊を以てす。豊者は大なり。(「故受之以礼、礼者大也」の二つの「礼」の字は底本かくのごとし。まさに「豊」と作るべし。)

窮大者必失其居,故受之以旅。旅而無所容,故受之以巽。巽者,入也。入而後說之,故受之以兌。兌者,說也。說而後散之,故受之以渙。渙者,離也。物不可以終離,故受之以節。節而信之,故受之以中孚。有其信者必行之,故受之以小過。有過物者必濟,故受之以既濟。物不可窮也,故受之以未濟終焉。

大を窮める者は必ず其の居を失う。故に之に受くるに旅を以てす。旅にして容るる所なし。故に之に受くるに巽を以てす。巽者は入なり。入りて然る後に之を説ばしむ。故に之に受くるに兌を以てす。兌者は説なり。説びて然る後に散ず。故に之に受くるに涣を以てす。涣者は離なり。物は終に離る可からず。故に之に受くるに節を以てす。節して之を信ず。故に之に受くるに中孚を以てす。其の信有る者は必ず之を行う。故に之に受くるに小過を以てす。物の過有る者は必ず済す。故に之に受くるに既済を以てす。物は窮まる可からず。故に之に受くるに未済を以て終るなり。

序卦一傳,亦可作世間流轉門說,亦可作功夫還滅門說,亦可作法界緣起門說,亦可作設化利生門說。在儒則內聖外王之學,在釋則自利利他之訣也。

智旭の解説:《序卦伝》この一篇は、世間の生死流転の門径として読むべくもあれば、修行功夫の生死を還滅する門径として読むべくもあり、また法界縁起の門径として読むべくもあり、また聖人の教化を設立し衆生を利益する門径として読むべくもある。儒家より見れば、それは内聖外王の学問である。仏家より見れば、それは自利利他の訣要である。

雑卦伝

剛柔合德,憂樂相關,與求互換,見雜相循,起止盛衰之變態,乃至窮通消長之遞乘,世法佛法無不皆然,自治治人其道咸爾。而錯雜說之,以盡上文九翼中未盡之旨,令人學此易者,磕著砰著,無不在易理中也。筆端真有化工之妙,非大聖不能有此。

智旭は《雑卦伝》の為に総説を作す。剛と柔の徳性は相合し、憂と楽は彼此相関し、「与」と「求」は互換し得、「見」と「雑」は循環相続き、興起と止息・盛大と衰敗の種種の変態、乃至窮困と通達・消退と生長の交替相乗——世間法と仏法は此のごとくならざるなく、己を管くると他を治むるは、道理も亦た皆同じ。孔子がこれらを錯雑に講出するは、前の九篇《易伝》の中に説き尽くさざる意を補足せんと欲し、学《易》の人をしてどこに碰到しどこに撞着するも、皆易理の中に在らしめんが為である。この筆は真に造化の功の妙用有り。大聖人に非ざれば写し出す能わず。

乾剛坤柔,比樂師憂。臨觀之義,或與或求。屯見而不失其居,蒙雜而著。臨有能臨所臨:以卦言之,陽臨陰也;以爻言之,上臨下也。觀有觀示觀瞻:二陽觀示四陰,則陽為能示,陰為所示也;四陰觀瞻二陽,則陰為能瞻,陽為所瞻也。建侯而利居貞,故見而不失其居;包蒙而子克家,故雜而著。

乾は剛、坤は柔。《比》は楽、《師》は憂。《臨》《観》の義は、或いは与、或いは求。《屯》は見えて其の居を失わず。《蒙》は雑にして著る。蕅益の解説:「臨」に能く臨む一方と臨まれる一方有り。卦体に就いて言えば、陽が陰に臨むなり。爻位に就いて言えば、上が下に臨むなり。「観」に「観示」と「観瞻」の両面有り。《観》卦の上面の二陽が下面の四陰に向かって顕示すれば、則ち陽は能く示す所・陰は示される所である。反対に四陰が二陽を仰観すれば、則ち陰は能く瞻る所・陽は瞻られる所である。《屯》卦辞に「利建侯」と言い初九爻辞に「利居貞」と言うがゆえに、「見而不失其居」である。《蒙》卦九二は「包蒙」にして「子克家」なるがゆえに、「雑而著」である。

震,起也;艮,止也。損益,盛衰之始也。大畜,時也;無妄,災也。損下益上為衰之始,損上益下為盛之始。時無實法,而包容萬事萬物,故大畜須約時言,所謂多識前言往行以畜其德,三大阿僧祇劫修行者是也。自恃無妄,則便成災,所謂唯聖罔唸作狂,又復道個如如,早已變了。

震は起なり、艮は止なり。《損》《益》は盛衰の始なり。《大畜》は時なり。《无妄》は災なり。蕅益の解説:《損》は下を減損して上を増益す。此れ衰の始なり。《益》は上を減損して下を増益す。此れ盛の始なり。「時」は本身に一個の実在のものなく、然るに能く万事万物を包容す。故に《大畜》は必ず「時」に就いて講ずる。即ち其の《大象伝》のいう「多識前言往行以畜其徳」、仏法に於ては三大阿僧祇劫の漫长な修行を経歴するなり。至って《无妄》は、自らすでに妄なしと恃めば、則ちかえって災と成る——まさに《尚書》のいう「唯聖罔念作狂」、聖人も一念に隄防を加えざれば狂人に変じ、禅門も亦た言う、纔かに一個の「如如」を道えば、早已変了せりと。

萃聚而升不來也,謙輕而豫怠也。勞謙反得輕安,豫悅反成懈怠,修德者所應知。噬嗑,食也;賁無色也。有間隔而可食,無采色為真賁,故違境不足懼,文采不足眩也。兌見而巽伏也。欲說法者,還須入定;欲達道者,先須求志。

《萃》は聚なり、《升》は上りて来らざるなり。《謙》は軽なり、《豫》は怠なり。蕅益の解説:勤労にして謙退すれば、かえって軽安を得る。安楽にして喜悦すれば、かえって懈怠と変ず——徳を修める者はまさに此の一点を知るべし。《噬嗑》は食なり、《賁》は色無きなり。彼は解説していう。正に中間に間隔の物有るがゆえに、咬み食うべき有り。彩色を施さざるは乃ち真の文飾なり。だから違逆の境遇は畏るるに足らず、外表の文彩も亦た炫目するに足らず。《兌》は見るなり、《巽》は伏するなり。彼は解説していう。法を説かんと欲する者は、還って先ず定に入るを要す。大道に通達せんと欲する者は、先ず志向を立定するを要す。

隨,無故也;蠱,則飭也。隨不宜無事生事,蠱不妨隨壞隨修。剝,爛也;復,反也;晉,(書/一)也;明夷,誅也。爛則必反,(書/一)則必誅,禍兮福所乘,福兮禍所乘,學易者所應觀象玩辭觀變玩占者也。井通而困相遇也。井不動而常通,困雖窮而相遇,此示人以自守之要道也。

《随》は故無きなり、《蠱》は則ち飭ぐるなり。蕅益の解説:《随》は人をして無事の時に別に事端を生ぜしめず。《蠱》は則ち一辺敗壊し一辺修整するを妨げず。《剥》は爛るるなり、《復》は反るなり。《晋》は昼なり、《明夷》は誅なり。(「昼」の字は底本が「書/一」で字形を記述す。)彼は解説していう。爛れて頭に至れば必ず返り、明きて白昼の極処に至れば必ず誅傷を遭う。禍の中に福を乗載し、福の中に禍を乗載す。此れ正に学《易》の人がまさに「観象玩辞、観変玩占」すべき所なり。《井》は通なり、《困》は遇なり。彼は解説していう。井は自己動かずして恒常に通達し、困は窮窘すると雖も終に能く相遇う。此れ人をして自己の要道を守らしめんが為の指示なり。

咸,速也;恆,久也。速即感而遂通,久即寂然不動,斯為定慧之道。渙,離也;節,止也;解,緩也;蹇,難也;睽,外也;家人,內也;否泰,反其類也。有離必有止,有緩必有難,有外必有內,有泰必有否,有否必有泰,類相反而必相乘,學易者不可不知。大壯則止,遁則退也。壯即宜止,遁即宜退,皆思患豫防之學。

《咸》は速なり、《恒》は久なり。蕅益の解説:迅速とは即ち「感而遂通」、長久とは即ち「寂然不動」。二句合わさりて正に定と慧の道なり。《涣》は離なり、《節》は止なり。《解》は緩なり、《蹇》は難なり。《睽》は外なり、《家人》は内なり。《否》《泰》は反して其の類なり。彼は解説していう。離散有れば必ず止住有り、緩舒有れば必ず艱難有り、外有れば必ず内有り、泰有れば必ず否有り、否有れば亦た必ず泰有り。両類は互相反対して而又必ず互相乗接す。学《易》の人は知らざる可からず。《大壮》は則ち止め、《遯》は則ち退くなり。彼は解説していう。強壮なる時は正に止むべく、遯避すべき時は正に退くべし。此れ皆「思患豫防」の学問に属す。

大有,眾也;同人,親也;革,去故也;鼎,取新也。眾必相親,相親必革弊而日新其德。小過,過也;中孚,信也。有過不妨相規,相規乃可相信。豐多故也,親寡旅也。豐必多故,旅必寡親,素位而行,存乎其人。離上而坎下也。智火高照萬法,定水深澄性海。小畜,寡也;履,不處也。但懿文德,則其道寡;雖辨定分,與時變通,而無定局。

《大有》は衆なり、《同人》は親なり。《革》は故を去るなり、《鼎》は新を取るなり。蕅益の解説:人多ければ必ず互相親近し、互相親近すれば必ず弊害を革除して自己の徳行を日々新たにす。《小過》は過なり、《中孚》は信なり。彼は解説していう。過失有れば互相規勧するを妨げず、能く互相規勧すれば乃ち互相信任を談じ得る。《豊》は故多きなり、親寡きは旅なり。彼は解説していう。豊盛なるは必ず変故多く、羇旅なるは必ず親人少なし。自己の本分に安んじて行うは、全く此の人の自己に看る。《離》は上りて《坎》は下るなり。彼は解説していう。智慧の火は高く万法を照徹し、禅定の水は深く性海を澄清す。《小畜》は寡なり、《履》は処らざるなり。彼は解説していう。只文徳を修養すれば、あの道路は窄まり、名分を辨明したと雖も、時に随って変通して一定の格局なし。

需,不進也;訟,不親也;大過,顛也;姤,遇也,柔遇剛也;漸,女歸待男行也;頤,養正也;既濟,定也;歸妹,女之終也;未濟,男之窮也。不進乃可進,不親乃可親,大不可過,所以誡盈;柔能勝剛,所以成遇;定必須慧,故女待男;養正則吉,故須觀頤;已定者不必言,但當謀其未定者耳;終則有始,窮則思通。凡此,皆言外之旨、象中之意也。

《需》は進まざるなり、《訟》は親しまざるなり。《大過》は顛なり、《姤》は遇なり、柔の剛に遇うなり。《漸》は女の帰りて男を待つなり。《頤》は正を養うなり。《既済》は定まるなり。《帰妹》は女の終りなり、《未済》は男の窮まるなり。蕅益の解説:進まざるは正に能く進まんが為なり、親しまざるは正に能く親しまんが為なり。「大」は太過すべからざるは、以て自満を誡めるなり。柔は能く剛に勝つがゆえに、能く遇合を成就す。定は必ず慧の配を以てせねばならざるがゆえに、女子は男子を待つと言う。正を養うは乃ち吉なりがゆえに、《頤》卦を観察するを要す。すでに定まれるは多く言うに及ばず、只まさにあの未だ定まらざる者の為に謀画すべし。終結の後にまた開始有り、窮極の時に則ち通達を想う。凡そ此の種種は、皆言外の旨趣・象中の意思なり。

夬,決也,剛決柔也,君子道長,小人道憂也。上雲乾剛坤柔,則剛柔乃二卦之德,豈可以剛決柔,使天下有乾無坤,其可乎哉?且立天之道曰陰與陽,則天亦未嘗無陰也;立地之道曰柔與剛,則地亦未嘗無剛也。今所謂剛決柔者,但令以君子之剛,而決小人之柔,則小人可化為君子,而君子道長;設使以小人之剛,而決君子之柔,則君子被害,而小人亦無以自立,必終至於憂矣。

《夬》は決なり、剛の柔を決するなり。君子の道は長し、小人の道は憂なり。蕅益の解説:上文に「乾剛坤柔」と言えり。これによって剛と柔とは本來乾坤両卦の各々の徳なるを見る。どうして剛を以て柔を決去して、天下に乾有りて坤なからしめんや。況んや《説卦》に「立天之道曰陰与陽」と講ずれば、これによって天も亦た嘗て陰なきに非ざるを見、「立地之道曰柔与剛」に、これによって地も亦た嘗て剛なきに非ざるを見る。今のいう所の「剛決柔」は、只人をして君子の剛を以て小人の柔を決除せしめんと欲するのみ。此のようになれば小人は君子に転化し得て、君子の道は生長す。仮使反対に、小人の剛を以て君子の柔を決除せば、則ち君子は害を被り、小人も亦た自ら立足する処なし。最終に必ず憂懼の地步に落到せん。

所以性善性惡俱不可斷,而修善須滿,修惡須盡也。問:何謂君子之剛?答:智慧是也。何謂君子之柔?答:慈悲是也。何謂小人之剛?答:嗔慢邪見是也。何謂小人之柔?答:貪慾痴疑是也。噫!讀此一章,尤知宣聖實承靈山密囑,先來此處度生者矣。不然,何其微言奧旨,深合於一乘若此也。思之佩之。

だから本性に就いて言えば、性中の善と性中の悪は皆断じ得ない。能く断ずるは只後天の所修のみ。修の善は円満するを要し、修の悪は除尽するを要す——此れ天台宗「性具善悪」の宗旨なり。或る人問う。何をか君子の剛と謂う。答えていう。是れ智慧なり。何をか君子の柔と謂う。答えていう。是れ慈悲なり。何をか小人の剛と謂う。答えていう。是れ瞋恨・傲慢・邪見なり。何をか小人の柔と謂う。答えていう。是れ貪欲・愚痴・疑惑なり。噫。此の一章を読みて、益々知る、孔聖人は実に霊山会上の仏の密嘱を承受して、先に一歩此処に来りて衆生を度化したる者なるを。然らざれば、何ぞ其の微言奥旨は此の如く深深に一乘仏法に契合するや。好く思量し好く佩服すべきなり。

易解跋

憶曩歲幻遊溫陵,結冬月臺,有郭氏子來問易義,遂舉筆屬稿。先成繫辭等五傳,次成上經,而下經解未及半,偶應紫雲法華之請,旋置高閣,屈指忽越三載半矣。今春應留都請,兵阻石城,聊就濟生庵度夏。日長無事,為二三子商究大乘止觀法門,復以餘力拈示易學,始竟前稿。嗟嗟!從閩至吳,地不過三千餘里;從辛巳冬至今夏,時不過一千二百餘日,乃世事幻夢,蓋不啻萬別千差。交易耶?變易耶?

当年を回憶すれば、我は幻影のごとく温陵に遊歴し、月台に於て冬の安居を結び、郭家の年軽人の《易》の義理を問い来る有りて、我はここにおいて筆を提して起草したり。先ず《繫辞》等の五伝の解説を写し成り、続いて上経を写し成り、而して下経の解説は未だ半ばに到らざるに、偶然紫雲寺の《法華》を講ずるの邀請に応じて、即ち稿子を高閣に束ね、指を屈して算すれば忽然として三年半過ぎ去りぬ。今年春、留都南京の請に応じて前往し、兵事に因って石頭城に阻まれて、姑且済生庵に於て夏を過ごす。白日長くして事なく、両三位の同参と共に大乗止観法門を商討研究し、又以て余力を拈じ出して易学を以て彼らに指示して、此に至って従前の稿子を做し終えたり。噫。福建より呉地に至る、路程は不過三千余里。辛巳年冬より今年夏天に至る、時間は不過一千二百余日。然るに世間の事は幻のごとく夢のごとくして、其の間の差別は千種万種に止まらず。此れ究竟「交易」か、亦た「変易」か——「交易」は陰陽が彼此に位置を交換し、「変易」は時に随って形態を改換す。此れ本來易学が「易」の字を解釈する両個の旧義で、彼は借りて来て自己此の数年の遭遇に問うたのである。

至於歷盡萬別千差世事,時地俱易,而不易者依然如故。吾是以知日月稽天而不歷,江河競注而不流,肇公非欺我也。得其不易者,以應其至易;觀其至易者,以驗其不易。常與無常,二鳥雙遊。吾安知文王之於羑里,周公之被流言,孔子之息機於周流,而韋編三為之絕,不同感於斯旨耶?予愧無三聖之德之學,而竊類三聖與民同患之時,故閣筆而復為之跋。時乙酉閏六月二十九日也。北天目道人古吳蕅益智旭書

千差万別の世事を歴遍するに及び、時間と地点は全部変りて、而してあの「不易」なるは依然として故のごとし。我は此に因りて明白す。僧肇法師《物不遷論》の裏の言う「日月は天をめぐって行くも未だ嘗て歴らず」「江河は奔流して息まざるも未だ嘗て流れず」は、彼は我を騙さざりしなり。あの不変なるを掌握して、以てあの千変万化に応付し、あの千変万化を観察して、以てあの不変に印証す。「常」と「無常」は、仏経の裏のあの両隻の鳥の翅を並べて同遊するがごとし。我はどうして知らん、文王は羑里に囚われ、周公は流言を遭い、孔子は列国を周游した後に息心して退帰して《易》の竹簡を翻して牛皮紐を三度断たしめたるは、彼らは我と此の一層の意思に同じ感受有りしに非ざることを。我は慙愧す此の三位の聖人の徳行と学問に無きを、然るに私下裏に三位の聖人と相類する「与民同患」の時に遇上せり。故に筆を擱きて又之が為に此の跋を写す。時に乙酉年閏六月二十九日。北天目道人・古呉蕅益智旭書。

周易禅解 巻第十 北天目道人蕅益智旭 著

河図説

繫辭傳曰:天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。(此河圖之。數也。解現繫辭上傳中。)

《繫辞上伝》にいう。天は一、地は二。天は三、地は四。天は五、地は六。天は七、地は八。天は九、地は十。天に属する奇数は五個、地に属する偶数は五個。此の五組の数は両両配合して、各々皆相合する処有り。天数は合計二十五、地数は合計三十。天地之数は総じて五十五。変化は此れより成り、鬼神の運行は此れより通ず。原書の夾注にいう。此れ《河図》の数なり。解釈は《繫辞上伝》の中に見えり。(夾注「此河図之。数也」の中間のあの句点は、底本かくのごとし。)

此先天之數。除中五天地生數以為太極本位,用餘五十為揲蓍之策也。五位相得者:一得五而為六,二得五而為七,三得五而為八,四得五而為九,中得一二三四而為十也。各有合者:一合六,二合七,三合八,四合九,五合十也。一與九為十,二與八為十,三與七為十,四與六為十,一二三四為十,共成五十。而中之五點,每點含十,故以中五為本數也。然雖先天之數,亦含後天八卦之用。且如一六生水,故坎居正北;二七生火,故離居正南;

此れ先天の数なり。中央の五此の天地生数を扣除して太極の本位と為し、残りの五十を用いて揲蓍の蓍策と為す。いわゆる「五位相得」とは、一に五を加えて六を得、二に五を加えて七を得、三に五を加えて八を得、四に五を加えて九を得、中央の五に一二三四を加えて十を成すを言う。いわゆる「各有合」とは、一と六と相合し、二と七と相合し、三と八と相合し、四と九と相合し、五と十と相合すを言う。此の外、一と九と合成して十と為り、二と八と合成して十と為り、三と七と合成して十と為り、四と六と合成して十と為り、一二三四は加え起こせば亦た十なり。総じて合成して五十。而して中央のあの五個の点は、毎一点に十を含むがゆえに、中央の五を取って根本の数と為す。《河図》の方位は一六は下に居り、二七は上に居り、三八は左に居り、四九は右に居り、五十は中に居る。此れ雖も先天の数なれども、亦た後天八卦の用法を含む。譬えば一と六とは水を生ず。故に坎卦は正北に居り、二と七とは火を生ず。故に離卦は正南に居り。

三八生木,故震居正東;四九生金,故兌居正西;五十生土,故土仍居中。乾寄位於西北者,陽位陽數之間也;坤寄位於西南者,陰數陰位之盡也。陰陽互結而為山,故艮居東北;陰陽互鼓而為風,故巽居東南。○約出世法者:一是地獄之惡,六是天道之善,為善惡一對;二是畜生之惑,七是聲聞之解,為解惑一對;三是餓鬼之罪苦,八是支佛之福田,為罪福一對;四是修羅之嗔恚,九是菩薩之慈悲,為嗔慈一對;五是人道之雜,十是佛界之純,

三と八とは木を生ず。故に震卦は正東に居り、四と九とは金を生ず。故に兌卦は正西に居り、五と十とは土を生ず。故に土は依然として中央に居る。乾の寄位して西北に在る所以は、あそこは正に陽位と陽数の間に在るに因り、坤の寄位して西南に在る所以は、あそこは陰数と陰位の尽頭に因る。陰陽は互相凝結して山と成る。故に艮卦は東北に居り、陰陽は互相鼓蕩して風と成る。故に巽卦は東南に居る。彼は別に一層を起こし、出世間法に就いて配する。《河図》の十個の数を十法界の上に配す——一は地獄の悪、六は天道の善。善悪の一対を構成す。二は畜生の迷惑、七は声聞の悟解。解惑の一対を構成す。三は餓鬼の罪苦、八は辟支仏の福田。罪福の一対を構成す。四は阿修羅の瞋恚、九は菩薩の慈悲。瞋慈の一対を構成す。五は人道の駁雑、十は仏界の純一。

為純雜一對。又約十度修德者:一是佈施,六是般若,此二為福慧之主,如地生成萬物,故居下;二是持戒,七是方便,此二為教化之首,如天普覆萬物,故居上;三是忍辱,八是大願,此能出生一切善法,故居左;四是精進,九是十力,此能成就一切善法,故居右;五是禪定,十是種智,此能統御一切諸法,故居中。實則界界互具,度度互攝。蓋世間之數,以一為始,以十為終,華嚴以十表無盡,當知始終不出一心一塵一剎那也。

純雑の一対を構成す。彼は又「十度」——菩薩の修する十種の波羅蜜——に就いて修徳に配す。一は布施、六は般若。此の両様は福と慧の主体で、大地の万物を生成するがごとし。故に下方に居る。二は持戒、七は方便。此の両様は教化の首要で、天の普遍に万物を覆するがごとし。故に上方に居る。三は忍辱、八は大願。此の両様は能く一切の善法を出生す。故に左方に居る。四は精進、九は十力。此の両様は能く一切の善法を成就す。故に右方に居る。五は禅定、十は一切種智。此の両様は能く一切の諸法を統御す。故に中央に居る。其の実、法界と法界は互相具足し、波羅蜜と波羅蜜は互相含摂す。世間の数は一を以て開始とし十を以て終結とし、《華厳経》は「十」を用いて無窮無尽を表示す。まさに知るべし。此の始より終に至るまで皆一心・一微塵・一刹那を出でざるを。

洛書説

大禹因洛書而作九疇。今以一三五七九居四方及中央正位,以二四六八居四維偏位,又隱其十,正表陽德為政,而陰德輔之。在人,則為知及仁守之學,智巧聖力之象也。左右前後縱橫斜直視之,皆得十五之數,以表位位法法之中,皆具天地之全體滿數,非分天地以為諸數也。物物一太極,於此可見。

大禹は《洛書》に依拠して《洪範》九疇を制定せり。今《洛書》は一・三・五・七・九を四方と中央の正位に放ち、二・四・六・八を四隅の偏位に放ち、又十を隠去して用いず。正に以て陽徳が主政して陰徳が旁らより輔佐するを表示す。人の身に於ては、此れ即ち《論語》のいう「知及之、仁守之」のあの門学問であり、亦た《孟子》のいう智・巧・聖・力の象徴なり。左右・前後・縦横・斜直の如何なる一個の方向より之を看るも、三個の数を加えて皆十五を得る。以て毎一個の位・毎一種の法の中に、皆天地の全部の本体と円満の数を具足し、併せて天地を拆き開きて許数に分かつに非ざるを表示す。「物物各具一太極」は、此処に於て看り出るを得る。

約出世法,則九界皆即佛界,故不別立佛界之十;又九波羅密皆即種智,故不別立種智之十。蓋凡數法若至於十,便是大一數故;數於此終,即於此始故。

出世間法に就いて言えば、九個の法界は当下に即ち仏界なり。故に別に一個の仏界を代表する「十」を立てず。九種の波羅蜜は当下に即ち一切種智なり。故に亦た別に一個の種智を代表する「十」を立てず。凡是の数目は十に到れば、則ち一個の更に大きな「一」に回到するに等しきがゆえに。数は此処に於て終結し、亦た此処に於て重新して開始す。《洛書》の「十」を隠去するは、正に此の道理なり。

伏羲八卦次序説

繫辭傳曰:易有太極,是生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦。(太極非動非靜,雙照動靜,故必具乎陰陽。陽亦太極,陰亦太極,故皆非動非靜,雙照動靜,還具陰陽而成四象。四象亦皆即是太極,所以皆亦非動非靜,雙照動靜,還具陰陽而成八卦。然則八卦只是四象,四象只是陰陽,陰陽只是太極,太極本無實法,故能立一切法耳。)

《繫辞上伝》にいう。《易》に太極有り。太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。原書の夾注にいう。太極は既に動に非ず亦た静に非ざるも、同時に動と静を照見す。故に必ず陰陽を具足す。陽も亦た太極なり、陰も亦た太極なり。故にそれらは同様に既に動に非ず亦た静に非ざるにして動静を双照し、又各々陰陽を具足して四象と成る。四象も亦た皆全く太極なり。故に同様に既に動に非ず亦た静に非ざるにして動静を双照し、又各々陰陽を具足して八卦と成る。此のように見れば、八卦は只四象のみ、四象は只陰陽のみ、陰陽は只太極のみ。而して太極は本來一個の実在の法有らざれば、正に其の一法も得る可き無きに因りて、乃ち一切の法を建立し得るなり。

若從一生二,從二生四,從四生八,從八生六十四等,是為順數;若從六十四溯至八,八溯至四,四溯至二,二溯至一,一亦本無實法,是為逆數。順數則是流轉門,逆數則是還滅門。流轉從陰陽二畫出,還滅從陰陽二畫入,故曰乾坤其易之門。聖人作易,要人即流轉而悟還滅,超脫生死轉回,故曰易逆數也。

智旭の解説:若し一より二を生じ、二より四を生じ、四より八を生じ、八より生成して六十四と為る此のように下に推せば、此れを「順数」と謂う。若し六十四より上溯して八、八より上溯して四、四より上溯して二、二より上溯して一、而して此の「一」は本來亦た実在の法の得る可き無し。此れを「逆数」と謂う。順数は即ち生死流転の門、逆数は即ち生死を還滅する門。流転は陰陽両画より走り出で、還滅は陰陽両画より走り帰る。故に《繫辞》に「乾坤其易之門」と言う。聖人は《易》を作るに、人をして則ち流転の中に於て還滅に悟到し、生死輪回を超脱せしめんと欲す。故に「易、逆数也」と言う。(「生死転回」の「転」は底本かくのごとし。まさに「輪」と作るべし。)

伏羲八卦方位説

先天八卦,約體言之:乾南表天,坤北表地,離東表日,坎西表月。震居東北,動之初也;兌居東南,海之象也;巽居西南,入之初也;艮居西北,山之象也。須彌在此方視之,則居西北。日月星辰至西北,皆為須彌腰所掩,故妄計天缺西北也。

「先天八卦」とは伏羲の定めたる卦位を指し、宇宙の本体格局を講ずるは、下文の「後天八卦」(文王卦位、四時流行の功用を講ずる)と相対す。「約体言之」は単に本体に就き、功用に就かずして言うなり。四正の位。乾は三画純陽にして天を象る。正南に居る。坤は三画純陰にして地を象る。正北に居る。離は外陽中虚にして日を象る。正東に居る。坎は外陰中実にして月を象る。正西に居る。四隅の位。震は一陽初めて二陰の下に生ずるは、「動」の起頭なり。東北に居る。兌は上爻開口して沢のごときは、大海の象を取る。東南に居る。巽は一陰潜みて二陽の下に伏するは、「入」の起頭なり。西南に居る。艮は一陽静止して二陰の上に在るは、高山の象を取る。西北に居る。八卦は此に依って環列一周して、先天方位図は則ち成る。以下は智旭が仏法を以て易理に会通する処。艮は既に山を表し、仏家のいう世界中心の「須弥山」(意訳して妙高山)、我らの住する此の一洲より望み過ぐれば恰も西北に在り。日月星辰は西北に行き至れば、皆須弥山腰に遮蔽されて隠没す。世人は其の故を明らめずして、便ち虚妄に「天は西北に闕く」と断定す(《淮南子》の載する所の共工が怒りて不周山に触れ、天柱折れて西北に傾きし伝説のごとし)。底本の此の節は原に方位図を附し、正文は即ち図の解説なり。

伏羲六十四卦次序説

隨拈一陰一陽,必還具一陰一陽,故六重之而成六十四卦。其實卦卦無非太極全體,故得為四千九十六卦也。

手に随いて一画を拈じ出せば、それが陰なりと陽なりとを論ぜず、此の一画の中に必ず又は一陰一陽を具足す。此の如く層層に相因じ、両儀を六度重畳せば(二は四を生じ、四は八を生じ、八は十六を生じ、十六は三十二を生じ、三十二は六十四を生ず)、便ち六十四卦と成る。其の実、毎一卦は皆太極の一部分に非ずして、太極の全体なり。卦卦は既に各々全体を具すれば、則ち六十四卦の中の毎一卦は又各々六十四卦を含み、六十四は自乘して便ち四千九十六卦を得る(漢代の焦延寿《焦氏易林》に四千九十六卦を立つは、用いる所は正に此の数なり)。

伏羲六十四卦方位説

約一天下,亦以此卦圖而分佈之;約一省一府一縣,亦各以此卦圖而分佈之;近約一宅,亦以此卦圖而分佈之;即單約一房一坐具地,亦以此卦圖而分佈之。大不礙小,小不礙大;大亦只是六十四卦,小亦全具六十四卦。一時一刻亦有此六十四卦,亙古亙今亦只此六十四卦。若向此處悟得,便入華嚴事事無礙法界,故李長者藉此以明華藏世界。不然,豈令福建在南,則有乾無坤;燕都在北,則有坤無乾;天竺在西,但為坎地;支那在東,惟是離方也耶?

整个の天下に就いて言えば、此の一幅の六十四卦方位図を鋪き開きて方位を分配すべく、一省・一府・一県に縮小するも、亦た各々同一幅の卦図を以て分配し得る。再び近しきは、一所の宅院に就いて言うに、同様に此の卦図を以て分配す。哪怕只一間の房・一方の展開する坐具(僧人の坐臥礼拝に用いる方形の墊具、展開して不過方丈の地)程の大きさの地方に就いて言うも、亦た照様に一整幅の六十四卦なり。大の範囲は小の範囲を妨げず、小の範囲も亦た大の範囲を妨げず。大は天下に至るも只此の六十四卦、小は一席の地に至るも全く此の六十四卦を具す。空間此の如し、時間も亦た然り。一時一刻の中に此の六十四卦有り、遠古より今后に至るも只此の六十四卦。以下は仏法会通。能く此処に於て悟入すれば、則ち《華厳経》のいう所の「事事無碍法界」に進入す——一一の事相は彼此に周遍含容し互いに妨げず、小は拡大するを要せず大は縮小するを要せずして自然に相即す。唐代の華厳学者李通玄(世に「李長者」と称す、《新華厳経論》を著す)は正に此の卦図を借りて「華蔵世界」(毘盧遮那仏の居す所、重重無尽の荘厳世界)を講明する。若し此のようの理解を作さざれば、豈に変じて、福建は南方に在り、あそこは只乾卦有りて坤卦なく、北京(燕都)は北方に在り、あそこは只坤卦有りて乾卦なく、印度(天竺)は西辺に在りて、則ち整个は坎卦の地、中国(支那)は東辺に在りて、只離卦の一方と為らんや。

文王八卦次序説

男即父,女即母。又父只是男,母只是女。坤體得乾為三男,有慧之定,即止而觀也:震為觀穿義,艮為觀達義,坎為不觀觀義。乾體得坤為三女,有定之慧,即觀而止也:巽為止息義,兌為停止義,離為不止止義。震動艮靜,坎能動能靜,乾非偏於動也;巽動兌靜,離能動能靜,坤非偏於靜也。又震動而出,巽動而入,艮靜而高,兌靜而深。坎兼動靜,而從上之下,上終不窮;離兼動靜,而從下之上,下終不盡。信知一一皆法界也。

父と三男、母と三女とは併せて両回事に非ず。三男は即ち父、三女は即ち母。反対に言えば、父も亦不過即ち男、母も亦不過即ち女。坤卦の体は三画皆陰にして、乾卦の一陽を得れば、便ち三個の男卦を生出す——陽は初爻に入りて震を成し、中爻に入りて坎を成し、上爻に入りて艮を成す。此れ即ち《説卦伝》「一索而得男」の次序なり。仏法の上に於ては「有慧之定」に相当し、即ち止より起こりて観と為る。三男は分別して天台宗《摩訶止観》のいう所の「観」の三義に配す。震は「観穿」の義を取る。観照は能く迷惑を穿破す。艮は「観達」の義を取る。観照は能く実相に通達す。坎は「不観観」の義を取る。能観所観の相を起こさずして自然に照了す。乾卦の体は三画皆陽にして、坤卦の一陰を得れば、便ち三個の女卦を生出す——陰は初爻に入りて巽を成し、中爻に入りて離を成し、上爻に入りて兌を成す。此れは「有定之慧」に相当し、即ち観より帰りて止と為る。分別して「止」の三義に配す。巽は「止息」の義を取る。妄念を息滅す。兌は「停止」の義を取る。安住して動かず。離は「不止止」の義を取る。止まる所なくして自然に止まる。再び動静を看れば、震は動きて艮は静なり、坎は則ち能く動き能く静まる。これによって三男の父乾は併せて動の一辺に偏せざるを見る。巽は動きて兌は静なり、離は則ち能く動き能く静まる。これによって三女の母坤も亦た静の一辺に偏せざるを見る。更に細分すれば、震は動きて外に向かって発出し、巽は動きて内に向かって潜入し、艮は静にして高山のごとく聳え、兌は静にして沢のごとく深下す。坎は動静を兼ねて、水は上より下に流れて、上の源頭は終に窮まらず。離は動静を兼ねて、火は下より上に炎して、下の根本は終に尽きず。此に由りて確知す。一卦一象は皆各々円満の「法界」全体に非ざるなし。

文王八卦方位説

《說卦傳》曰:帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。又曰:震,東方也。乃至艮,東北之卦也。此須約觀心工夫解釋,具在《說卦傳》解中。後天八卦,約用而言:離表火騰,故旺於南;坎表水降,故旺於北。交發立堅,溼為巨海,乾為洲潬。故坎雖居北,而水輪含十方界;坤艮之土亦遍四維。火勢劣水,抽為草木,故有震巽。木旺於春,故震居東方。巽亦屬木,又能生火,其象為風,故居東南。地性堅者名之為金,金旺於秋,故居西方。乾亦屬金,又表須彌是四寶所成,在此地之西北也。

《説卦伝》にいう。万物の主宰は震卦より発生し、巽卦に到りて斉整し、離卦に於て相見え、坤卦に到りて養を致し、兌卦に於て欣悦し、乾卦に於て交戦し、坎卦に於て労倦し、艮卦に到りて終を成し始を成す。又いう。震は東方の卦、一路数え下りて艮は東北の卦に至る。此の一串の次第は本身に即ち後天八卦の方位を排定せり——震は東、巽は東南、離は南、坤は西南、兌は西、乾は西北、坎は北、艮は東北。順時針に繞行して一周し、正に春生・夏長・秋收・冬蔵の四時流行に合す。此れ正に後天卦位と先天卦位の分別なり。先天の講ずるは乾南坤北の彼此対待する本体、後天の講ずるは万物の依時運行する功用。此の一節は還って「観心」(自心に返照する)の工夫に就いて解釈するを要するも、已に詳しく本書《説卦伝》の注解に載せたり。此処に於て再び重出せず。後天八卦は功用流行に就いて講ずる。離は火を表し、火性は上騰す。故に南方に旺たり。坎は水を表し、水性は下降す。故に北方に旺たり。以下は《楞厳経》のいう所の世界成立の相を引いて会通す。火の上騰と水の下降とが交相発動して、凝結して堅固の相と成る。潮湿の処は大海と為り、乾燥の処は洲渚沙洲と為る。だから坎は虽も定位して北に在れども、水輪は却て十方世界を含裹す。坤・艮は同じく土に属し、土も亦た四維(四隅)に遍布す。火勢は水に敵せずして、逼抽して発出せられれば則ち草木と成る。ここにおいて震卦・巽卦有り。木は春に旺たり。故に震は正東に居る。巽も亦た木に属し、又能く火を生ず。其の象は風なり。故に東南に居る。土性の中の堅硬の部分を金と謂う。金は秋に旺たり。故に兌金は正西に居る。乾も亦た金に属し、又須弥山は金・銀・瑠璃・水晶の四宝の成す所を表徴す。則ち我らの此の大塊の土地の西北に在り。故に乾は西北に居る。至って坤の西南に居ると艮の東北に居るは、本文は只「土遍四維」の一句を以て帯び過ぎて、逐一点明せず。

右圖說有八,或與舊同,或與舊異,只貴遙通儒釋心要而已。觀者恕之。蕅益敬識。

以上八篇の図説(《河図説》《洛書説》、伏羲八卦と六十四卦の次序・方位共四説、文王八卦の次序・方位二説、合わせて八篇と為す)は、或いは旧来の解説と同じく、或いは旧説と同じからず。我の看重する所は、只在儒家と仏家の心法要旨をして遥かに相貫通せしめんが為のみ。敢えて自ら定論に居らず。読者若し出入を見れば、還って原諒を望む。蕅益(智旭の自号)敬記。

校刻易禅紀事

(瑞)叨侍大師五年,每見久精易學之士,一聞大師拈義,無不傾服。遂發心募梓全集,輒以《易禪》居首。大師解易既畢,方出圖說,故並附於末卷。或有問曰:紫陽《本義》,圖說在前,謂聖人作易精微之旨,全在語言文字之先,今胡得倒置耶?

我通瑞は蕅益大師に侍奉して已に五年、常にあの易学を钻研して多年なる人々を見れば、一たび大師の《周易》義理を拈提するを聴けば、心から悦服せざるなきに非ず。ここにおいて我は心を発して資財を募化し、大師の全集を刊刻して、併せて此の《周易禅解》を全集の首に列せり。大師は先ず《周易》の経伝を講解し完えて、然る後に乃ち此の幾篇の図説を拿出したるがゆえに、刻本も亦た講説の先後に依って、図説を末巻に附す。或る人此に因りて疑問を提出す。朱熹(号を紫陽)の《周易本義》は、河図洛書等の図説を全書の前に排して、意は聖人の《易》を作れる精微旨趣は、全て言語文字の産生する之先に在りとす。今您は怎ぞ反対に図説を後面に放ち、次序を倒置せんや。

大師答曰:聖人悟無言而示有言,學者因有言而悟無言,所以古有左圖右書之說,何倒之有?且文字與圖皆標月指耳,不肯觀月而爭指之前後,不亦惑乎?問者默然。茲因校刻,並識此語。願我同志閱斯編者,了知文字與圖無非吾人心性註腳,不作有言會,不作無言會,庶不負法恩矣。門弟子通瑞百拜敬書。

大師は回答していう。聖人は先ずあの言う可き無き境界に証悟して、然る後に乃ち有言の文字を以て開示す。学者は則ち有言の文字を憑って、回頭してあの言う可き無き本源を体悟す。だから古人に「左図右書」の説有り。図と書は本來並列して並用するもの。どこに倒置を談ずるや。況んや文字なりとも図象なりとも、皆不過「標月指」(月を指す手指、《楞厳経》より出ず。手指は只月を指示する為のみ、若し手指を認めて月と作さば則ち錯り)なり。肯んじて月を回頭看るを為さずして、却て手指の先後の上に争論す。亦た太も糊涂ならずや。発問の人は之を聴きて黙然として語無し。今校勘刊刻の機会に借りて、此の一段の話を併せて記下す。但し願わくは我と同志の読者は此の書を翻き開く時、能く明白す。文字と図は無非我ら自己心性の注脚なり。既に「有言」の上に執著して會取せず、亦た「無言」の上に執著して會取せず。此のようになれば乃ち大師の説法の法恩に辜負せず。大師門下の弟子通瑞百拝敬書。

周易禅解 巻第十

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