周易阐真
秦始皇が典籍を焼き払って以来、《易》だけが卜筮の書と見なされたおかげで、幸いにも焼失を免れた。漢の代に私蔵書の禁令が解かれると、《易経》には…
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
周易闡真
周易闡真序
自秦焚典策,惟易以卜筮之書,僅得不毀。漢除挾書之律,易經始置博士,而焦京田孟之屬,大多以灼揲占驗為能,遂使聖神授受三古奧奇,或與風角烏情視為小說家言,而易流為卜筮之書。
秦始皇が典籍を焼き払って以来、《易》だけが卜筮の書と見なされたおかげで、幸いにも焼失を免れた。漢の代に私蔵書の禁令が解かれると、《易経》にはじめて博士官が置かれた。しかし焦延寿・京房・田何・孟喜といった人々は、おおむね亀を灼き蓍を筮うことと占断の的中だけを腕前としたため、伏羲・文王・孔子という三代の聖人が代々受け継いだ奥深い義理は、「風角」(風向きで吉凶を占う術)や「烏情」(鳥の鳴き声で吉凶を占う術)と同じく小説家の言葉のように見なされ、《易》はこうして一部の卜筮の書に成り下がってしまった。
逮後伯陽魏氏,始合三易,作《參同契》一書,抉羲、農、姬、孔之義蘊,衍河、洛圖象之精深,人勰以天察之道而愈明,物性其情,驗之身而益著。然其稱物罕譬,寄寓窅深,後賢不察。又或以私意相揣,遂致異說蜂起,爭以黃白吐納為事,而易又流為鍊度之書。
後の東漢の魏伯阳になって、はじめて《連山》《帰蔵》《周易》という三易の理が一つに合わされ、《参同契》という書が著された。そこで伏羲・神農・姫昌(周文王)・孔子の義理の精華を抉り出し、河図・洛書の図象の精深なところを推演した。天道をもって人事を察すれば道理はいよいよ明らかになり、万物の性情に照らし合わせれば、自らの身に検証していよいよ顕著になる。しかし彼は物を言うのに率直な譬喩をめったに用いず、託した意旨は幽玄で測りがたかったため、後世の賢者は明察することができず、またある者は私意で推し量った。そこで異説が続々と起こり、競って「黄白」(金銀を点化する外丹術)を練り、吐納・導引を行うことを正業としたため、《易》はまた一部の煉丹度世の書に成り下がってしまった。
悟元道人者,金城棲雲山之肥遁士也。其生平著述《三易注略》若干卷,餘既序而傳之矣。茲復出其《周易闡真》一編,索餘為識其著書之由。蓋道人以蚤年始學隱跡黃冠,神解超超,道心夙契。後遇龕谷老人,彌分邪正之源。又值仙留丈,盡抉元真之秘,以為丹道即易道也,聖道即仙道也。
悟元道人は、金城(現在の甘粛省蘭州)の栖雲山に隠棲する世外の高士である。彼が平生著した《三易注略》若干巻には、すでに私が序をつけて世に流布させた。今また彼が《周易闡真》一編を持ち出して、著書の由来を記してほしいと請うてきた。もともと道人は早年から道を学び、形跡を隠して道士となり、悟性は群を抜き、「道心」(先天の純真無妄の本心)とは早くから宿縁があった。後に龕谷老人に遇って、はじめて邪法と正法の源をはっきり分け、また仙留丈人に遇って「元真」(先天の真一の気)の秘旨をことごとく抉り出した。こうして丹道こそ易道であり、聖人の道こそ神仙の道であると認め定めたのである。
易非卜筮鍊度之書,實皆窮理、盡性、至命之學也。於是述伯陽之遺義,參神聖之蘊奇,取其龍蛇鉛汞之法,驗以爻繫圖象之說,別其劣歧,歸於宗主,其辭約、其義繁、其文淺、其指深,取類極邇,而見道甚遠,其身心性命之功,殆不謬乎。吾儒之為之者,嗚呼!若道人者,庶可與言易哉!
《易》は卜筮や煉丹度世の書ではなく、実は全編が「理を窮め、性を尽くし、命に至る」学問である。そこで彼は魏伯阳の残した義旨を述べ、歴代の聖真の深奥な心徳を参合し、丹家の「龍蛇鉛汞」(龍虎・鉛汞を借りて性情と陰陽の薬物を喩える)の法門を取り上げ、爻辞・繫辞と河洛の図象の説をもって印証し、その間の傍門・岐路を弁別して、一つの根本的な主脳に帰結させた。文辞は簡約でありながら義理は繁富で、文句は浅近でありながら指すところは深遠である。取る譬えは目の前に極めて近く、見る道は極めて高遠である。彼の身心性命を修養する一連の工夫は、おそらく誤りがなく、我ら儒者の行う工夫と同じ道筋である。ああ、悟元道人のような人物であればこそ、ほぼ《易》を語るに足るのだ。
《易》曰:成性存存,道義之門。又曰:一陰一陽之謂道。繼之者,善也;成之者,性也。仁者見之謂之仁,智者見之謂之智,百姓日用而不知,故君子之道鮮矣。
《易・繫辞伝》にいう。本性を成就して時々刻々に存養すること、これが道義の出入りする門戸である。またいう。一陰一陽が交代して運行することを「道」と呼び、この道を承け継ぐものを「善」と呼び、この道を成就するものを「性」と呼ぶ。仁厚な人がそこに見るものを仁と呼び、明智な人がそこに見るものを智と呼ぶ。庶民は毎日それを用いながら少しも自覚しない。だから真に君子の道を知る人は少ないのである。
今以道人之書觀之,元微香邈,與道大適,不必標奇領異而已。得易之簡能之妙,所謂苟非其人,道不虛行。彼執金堤水防之言,務熊經鳥伸之術,其於伯陽氏之書,猶未升其堂而嚌其胔也,何足以盡易之蘊乎!
今、悟元道人のこの書を見るに、義理は幽微で深遠、大道によく契合し、新奇を標榜して勝るのではなく、真に《易》の持つ簡易にして物を成す妙を得ている。まさに《易・繫辞伝》のいう通り、あの真人でなければ、道は空しく自ら行われることはない。あの「金堤水防」(ただ精气を固守して漏らさないことの喩)の類の説に固執し、もっぱら「熊経鳥伸」(熊が木を攀じ鳥が頸を伸ばすのを真似る導引の術)に従事する人々は、魏伯阳の書に対して、まだ堂に登らぬうちに肉を味わおうとする門外漢にすぎず、どうして《易》の藴奥を窮め尽くすに足りようか。
昔唐道士王遠知,著有《易總》,忽一日,雷電晦冥,似有神物取去。今道人此書,當敏慎護持,勿盡洩造化之秘藏,致煩丁甲也。嘉慶庚申夏,梁溪楊芳燦序。
昔、唐代の道士王遠知が《易総》という書を著したところ、ある日突然雷電が激しくなり天が昏れ地が暗くなって、その書は神物に取り去られたかのようであった。今、道人のこの書も、同じく機警に慎んで護持し、造化の秘密をことごとく漏らして、六丁六甲の類の神将を驚かせて取りに来させることがないようにすべきである。嘉慶庚申年(一八〇〇年)の夏、梁渓(現在の江蘇省無錫)の人・楊芳燦が序を作る。
易理闡真序
丹經之由,始於後漢魏伯陽真人。真人成道後,憐世之學人惑於旁門邪說,不知聖賢大道,每多空空一世,到老無成,遂準易道而作《參同契》,以明性命源流、陰陽真假、修持法則、功夫次序。
丹経の源流は、東漢の魏伯阳真人に始まる。真人は道を得た後、世の道を学ぶ人々が傍門の邪説に惑わされ、聖賢の大道を知らず、往々にして一生を空しく過ごし、老いて何一つ成すことのないのを憐れみ、易道に依って《参同契》を作り、もって「性命」(本性と生命の根本)の源流、陰陽の真と偽、修持の法則、および用功の先後の次第を闡明した。
托物取象,譬語多端,以性命、陰陽、剛柔謂之藥物;以修持功夫次序謂之火候;以修持功夫不缺謂之鍛鍊;以勇猛精進謂之武火;以從容漸入謂之文火;以陰陽、剛柔、中正謂之結丹;以陰陽混成、剛柔悉化謂之丹熟;以無聲無臭、神化不測謂之脫丹。其寓意亦如周易,擬諸其形容,象其物宜,始有金丹之名、丹法之說、修特性命之理。
彼は外物に寄せて象を取り、譬喩の言い方は多種多様であった。性命・陰陽・剛柔を「薬物」(修錬が拠り所とする本元)と呼び、用功の先後の次第を「火候」と呼び、工夫が少しも間断しないことを「鍛錬」と呼び、勇猛精進して用功することを「武火」と呼び、従容和緩に順序よく進むことを「文火」と呼び、陰陽・剛柔がそれぞれ中正を得ることを「結丹」と呼び、陰陽が渾然と合一し剛柔の偏りがすべて化し尽くされることを「丹熟」と呼び、声もなく臭いもなく神妙にして測りがたいことを「脱丹」と呼んだ。意旨を託する方式もまた《周易》と同じく、事物の形状・情態に比喩し、事物の相宜なるところに象を取った。ここからはじめて「金丹」という名目、丹法という説、および性命を修持する道理が生まれたのである。
《參同》一出,詳明其備,大露天機矣。後之了道群真,皆祖《參同》譬象,各作丹經,發《參同》所末發,詳而又詳,明而又明,性命之理無餘蘊矣。
《参同契》が世に出ると、詳しく明らかに、周到に備わって語られており、いわば天机を大いに漏らしたと言える。後世、道を了えた数々の真人は、皆《参同契》の譬喩取象を祖本として、それぞれ丹経を撰述し、《参同契》の言い尽くせなかったところを発揮して、語れば語るほど詳しくなり、説けば説くほど明らかになり、性命の理にもはや隠されたものは残らなかった。
其如書愈多,而人愈感,後學之人不得真傳,直以譬象為真實,或以坎離為心腎,或以震兌為肺肝,或以屯蒙為子午抽添,或以復姤為心腎氣生,或以既濟為心腎交合,甚至以陰陽為男女,以彼我為採戰,以煆煉為爐火,以金丹為服食,以有為為搬運,以無為為空寂,皆認後天有形、有象之物,不知先天無形、無象之真,以一盲而引眾盲,埋沒古人度世之婆心矣。
奈何せん、書が多くなればなるほど、人はかえって惑うようになった。後に道を学ぶ者は真伝を得られず、譬喩取象をそのまま実事と見なしてしまった。ある者は《坎》《離》の二卦を心と腎に坐実し、ある者は《震》《兌》の二卦を肺と肝に坐実し、ある者は《屯》《蒙》の二卦を子時・午時の「抽添」(陰気を抽き減らし陽気を添え補う)の工夫と見なし、ある者は《復》《姤》の二卦を心腎の気の発動と見なし、ある者は《既済》卦を心腎の気の交合と見なした。さらには「陰陽」を男女とし、「彼我」を男女采補の房中術とし、「煆錬」を炉中で火を焚き薬を練ることとし、「金丹」を嚥服できる丹薬とし、「有為」を気血を搬運することとし、「無為」を枯坐して空寂に沈むこととした。これらの人々が認めたのは皆、後天の形ある象あるものであり、先天の形なき象なき真物を知らなかった。盲人が盲人の群れを率いて歩くようなもので、古人の世人を普く度そうとする一片の婆心を、ことごとく埋没させてしまった。
予自童子時,即知有此一大事因緣,留心參學,所遇緇黃,皆不出上行議論,彼時亦以為然,不敢非之,後遇龕谷老人,即分邪正,復遇仙留丈人,群疑盡失,始知丹道即易道,聖道即仙道。易非卜筮之書,乃窮理、盡性、至命之學也。
私は童幼の時から、人生に性命という一大事の因縁があることを知り、心を留めて参訪・学習してきた。出遇った僧・道士の議論は皆、上記の錯解を出ることがなく、その時私も彼らの言うことが正しいと思い、あえて非議しようとはしなかった。後に龕谷老人に遇って、はじめて邪法と正法を分かち、さらに仙留丈人に遇って、種々の疑惑が一掃されて空しくなり、ここではじめて丹道こそ易道であり、聖人の道こそ神仙の道であり、《易》は卜筮の書ではなく、「理を窮め、性を尽くし、命に至る」学問であると悟ったのである。
予不敢自私,爰於《三易注略》之後,體二師之旨,述伯陽之意,盡將丹法寓於周易圖卦繫辭之中,略譬象而就實義,去奧語而取常言,直指何者為藥物,何者為火候,何者為進陽,何者為退陰,何者為下手,何者為止足,何者為煅煉,何者為溫養,何者為結丹,何者為脫丹,何者為先天,何者為後天,何者為有為,何者為無為,何者為逆運,何者為順行。
私はこれらを私のものとする勇気がなく、そこで《三易注略》の後に、両師の宗旨を体して魏伯阳の本意を闡述し、丹法をことごとく《周易》の図・卦・繫辞の中に寄寓させた。譬喩取象を略して直ちに実義を取り、玄奥の隠語を捨てて平常の言葉を用い、直截に「薬物」とは何か、「火候」とは何か、「進陽」(陽火を進め真陽を増長する)とは何か、「退陰」(陰符を退め仮陰を消去する)とは何か、「下手」(起修の入門処)とは何か、「止足」(工夫が量に達して停まるべき処)とは何か、「煅錬」とは何か、「温養」とは何か、「結丹」とは何か、「脱丹」とは何か、「先天」(身を生ずる以前の本真)とは何か、「後天」(身を生じた後の形気)とは何か、「有為」とは何か、「無為」とは何か、「逆運」(逆らって本に返る)とは何か、「順行」(順って人を生ずる)とは何かを指し示した。
其圖象、卦象、爻象,細為分析,通部分作二股,一進陽,一運陰,承上起下,一氣貫串,使學者易於閱看。至於十翼,乃宣聖直言其理,學者自能推求,故餘不及注,惟取大象傳、雜卦傳,略釋數語,以備參考。其中重複語,亦如周易重複象,雖有重複語,並無重複意,書成之後,名曰《易理闡真》,乃闡其修持性命之真耳。
書中の図象・卦象・爻象は、皆一つ一つ細かく分析した。全書を二大股に分け、一股は陽気を増進することを講じ、一股は陰気を運化することを講じ、上文を承け下文を起こし、一気に貫串して、学者が読みやすいようにした。《十翼》に至っては、孔子が直接易理を明らかにした文字であり、学者が自ら推求できるので、私は別に注解を作らず、ただ《大象伝》《雑卦伝》を取って略々数句の解釈を加え、参考に備えただけである。書中に重複する言葉があるのも、《周易》に重複する卦爻の象があるのと同じで、言葉は重複していても意味は重複していない。書が成った後、《易理闡真》と名づけたのは、それが性命を修持する真義を闡発するからにほかならない。
夫易,廣矣,大矣。以言其遠,則不御;以言其邇,則靜而正;以言其天地之間,則備矣。所以,開物成務,通天下之志,定天下之業,斷天下之疑,無所不包,無所不該,詎可就一事而論哉!然其歸根處,總以窮理、盡性、至命為學。
《易》という書は、広博である、宏大である。その遠きに就いて言えば、辺際なく限量しがたく、その近きに就いて言えば、静かにして中正であり、天地の間の一切に就いて言えば、備わらぬものがない。だから万物を開通し事務を成就し、天下人の心志を通達し、天下人の事業を奠定し、天下人の疑難を決断することができ、包まぬものなく賅まぬものがない。どうしてただ某一事に就いてのみこれを論定することができようか。しかしその根柢に遡れば、常に「理を窮める」(事物の理を窮究する)、「性を尽くす」(本然の性を尽くし顕す)、「命に至る」(性命の根を了徹する)を学問としている。
闡真者,即闡其窮理之真,盡性之真、至命之真。先窮性命之理,後了性命之功,性命俱了,渾熱天理,復見本來面目。在儒,則謂之明善復初;在道,則謂之還原返本。再加向上功夫,陰陽混化,無聲無臭。在儒,則謂義精仁熟,至誠如神;在道,則為九還七返,形神俱妙。金丹之道盡,性命之功畢。
いわゆる「闡真」とは、理を窮める真、性を尽くす真、命に至る真を闡発することである。まず性命の理を窮究し、それから性命の工夫を完成する。性命が双々に了徹し、渾然として一片の天理となり、再び自己の「本来の面目」(後天の沾染を受けない本真)を見る。これは儒家において「明善復初」(本善を明らかにし本初に復する)と呼ばれ、道家において「還元返本」と呼ばれる。この後さらに一層向上の工夫を加え、陰陽を渾合して化し尽くし、声もなく臭いもない境地に達する。儒家においては「義精り仁熟り、至誠神の如し」と呼ばれ、道家においては「九還七返、形神倶に妙なり」と呼ばれる。この歩みに至って、金丹の道は窮まり、性命の工夫は完成されるのである。
予之意如是,古來群真之意亦如是,即伯陽參同之意亦無不如是也。時大清嘉慶三年歲次戊午春王正月元宵節,素樸散人梧元子劉一明自序於自在窩中。
私の意はかくの如くであり、古来の数々の真人の意もまたかくの如くであり、魏伯阳《参同契》の意もまた一つとしてこの如くでないものはない。時に大清嘉慶三年、干支の紀年で戊午(一七九八年)の春正月元宵節、素朴散人梧元子劉一明が自在窩の中にて自ら序を作る。
周易闡真巻首
棲雲山素樸散人悟元子劉一明體述,門人沖和張陽全校閱,後學劉卜雲重刊。
本書は栖雲山の素朴散人悟元子劉一明が体察して撰述し、門人の冲和子張陽全が校訂・審閲し、後学の劉卜雲が重ねて刊行したものである。
河図
古河圖,先天陽五行,後天陰五行,生初陰陽五行混合。
巻首に列ねた古河図は全部で三幅ある。一幅は「先天陽五行」(一三五七九が配する元精・元性・元気・元神・元情)と標し、一幅は「後天陰五行」(二四六八十が配する識神・鬼魄・濁精・游魂・妄意)と標し、一幅は「生初陰陽五行混合」と標して、人が生まれたばかりの時に先天と後天の二套の五行が渾然として合一している状態を画いている。
河圖者,五行順行,自然無為之道也。伏羲時,有龍馬出孟河,其背有點,二七在前,一六在後,三八在左,四九在右,五十在中。其位五象五行,一六在後,象北方壬癸水;二七在前,象南方丙丁火;三八在左,象東方甲乙木;四九在右,象西方庚辛金;五十在中,象中央戊己土。
河図が講ずるのは、五行が次序に順って運行する、自然無為の道である。伏羲の時代、龍馬が孟河の中から出てきて、その背には組となって並んだ円点があった。二と七は前にあり、一と六は後にあり、三と八は左にあり、四と九は右にあり、五と十は中央にあった。この五つの方位は五行に対応している――一六が後にあるのは北方の壬水・癸水を象り、二七が前にあるのは南方の丙火・丁火を象り、三八が左にあるのは東方の甲木・乙木を象り、四九が右にあるのは西方の庚金・辛金を象り、五と十が中にあるのは中央の戊土・己土を象る。
中五點,又象太極含四象;中一點,又象太極含一氣。雖五十五點,其實二五,二五其實一五,一五總是中一。因其有五行,故分五點,因其五行有陰陽,故又積為十點,因其五行各有陰陽,故又積為五十五點。
中央の五つの点は、また「太極」が四象を包蔵することを象り、中央の一つの点は、また太極が一気を包蔵することを象る。図上には五十五個の点があるが、実は陰陽二套の五行にすぎない。二套の五行は実は一套の五行にすぎず、一套の五行を総括すれば、所詮は中央のあの一点にすぎない。五行があるから五つの点に分かれ、五行がそれぞれ陰陽に分かれるからまた十の点に累積し、五行の各行がそれぞれさらに陰陽を持つから、また五十五の点に累積するのである。
孔傳曰:天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。蓋天地造化之道,不過一個陽五行,一個陰五行,一生一成而已。雖分五行,而實一陰一陽運用之,雖陰陽運用,而實一氣來往運用之。
伝えるところによれば孔子は《易・繫辞伝》で言った。天の数は一、地の数は二、天の数は三、地の数は四、天の数は五、地の数は六、天の数は七、地の数は八、天の数は九、地の数は十、と。もともと天地造化の道理は、一套の陽五行、一套の陰五行、一つは生を主り、一つは成を主るにすぎない。五行に分かれると言っても、実際には一陰一陽がそれを運用しているのであり、陰陽が運用していると言っても、実際には一股の気が一往一来してそれを運用しているのである。
故其象:土生金,金生水,水生木,木生火,火生土,土又生金。從中而始,從中而終。始之終之,無非一氣,無非一中。中也者,天下之大本也,即土宮中和合四象也。和也者,天下之達道也,即四象在外一氣流行也。中者,和也、一氣也,總是太極也。
だから河図の象は、土生金、金生水、水生木、木生火、火生土、土がまた生ずる金となる。中央から始まり、また中央で終わる。起頭であれ收尾であれ、皆一股の気を出ず、一つの「中」を出ない。いわゆる「中」とは、《中庸》のいう天下の大本であり、すなわち中央の土宮に和合している四象である。いわゆる「和」とは、《中庸》のいう天下の達道であり、すなわち四象が外圍において一気によって貫通流行することである。「中」であれ「和」であれ一気であれ、総括すれば皆「太極」である。
惟人也,秉天地陰陽五行之氣而生身,身中即具此陰陽五行之氣。但此五行有先天有後天,先天五行屬陽,後天五行屬陰,一三五七九,陽五行,先天也;二四六八十,陰五行,後天也。
ただ人のみが、天地陰陽五行の気を禀受して身体を生成したのだから、身の中にこの一套の陰陽五行の気を具備している。しかしこの五行には「先天」と「後天」の区別がある。先天五行は陽に属し、後天五行は陰に属する。一・三・五・七・九は陽五行で先天に属し、二・四・六・八・十は陰五行で後天に属する。
以先天而論,一為元精,屬水,為壬水;三為元性,屬木,為甲木;五為元氣,屬士,為戊土;七為元神,屬火,為丙火;九為元情,屬金,為庚金,此五元也。五元既具,五德即於此而寓之。
先天の方面から言えば。一は「元精」で、水に属し壬水とする。三は「元性」で、木に属し甲木とする。五は「元気」で、土に属し戊土とする。七は「元神」で、火に属し丙火とする。九は「元情」で、金に属し庚金とする――これが「五元」、五種の先天の本元である。五元がすでに具備すれば、「五徳」もまたその中に寄寓している。
五德者,仁、義、禮、智、信也。元精者,不精之精,其體純粹,發而為智。無神者,不神之神,其體圓通,發而為禮。元性者,無性之性,其體柔慈,發而為仁。元情者,無情之情,其體剛烈,發而為義。元氣者,無氣之氣,其體純一,發而為信。
いわゆる「五徳」とは、仁・義・礼・智・信である。「元精」は精濁な形質に落ちない精であり、本体は純粋無雑で、発用すれば「智」となる。「元神」は神識の作用に落ちない神であり、本体は円融通達で、発用すれば「礼」となる。「元性」は気質の性に落ちない性であり、本体は柔和慈愛で、発用すれば「仁」となる。「元情」は情欲に落ちない情であり、本体は剛強猛烈で、発用すれば「義」となる。「元気」は呼吸の気に落ちない気であり、本体は純一不二で、発用すれば「信」となる。
五元者,五行之氣。五德者,五行之性。五元、五德生於先天,藏於後天,當人在胞胎之中,混混飩飩,一氣混淪,形跡未見,其理已具,所謂未生出者,如圖中五五點攢於一處。
「五元」は五行の気であり、「五徳」は五行の性である。五元・五徳は先天に生まれながら、後天の形体の中に蔵されている。人がまだ母の胞胎の中にいる時、混混沌沌として、ただ一団の気が渾然として未だ分かれず、形跡はまだ見えないが、この道理はすでに完全に具備している――これがいわゆる「未だ生まれざる境界」であり、河図の中央のあの五つの五点が一処に攒り集まっているようなものである。
太極之象,古人教人窮取父母未生以前面目者,即此也。以其事在未生身以前,故謂先天。以後天而論,二為識神,屬火,為丁火;四為鬼魄,屬金,為辛金;六為濁精,屬水,為癸水;八為游魂,屬木,為乙木;十為妄意,屬土,為己土,此五物也。五物既具,五賊即於此而寓之。
これが太極の象である。古人が人に「父母がまだ我を生まぬ以前の本来の面目」を参究させたのは、まさにこれを指す。この事はまだ身体を生じる以前にあるから、「先天」と呼ばれる。後天の方面から言えば。二は「識神」(分別し計較する心識)で、火に属し丁火とする。四は「鬼魄」で、金に属し辛金とする。六は「濁精」(形ある精)で、水に属し癸水とする。八は「游魂」で、木に属し乙木とする。十は「妄意」(妄動する念慮)で、土に属し己土とする――これが「五物」である。五物がすでに具備すれば、「五賊」もまたその中に寄寓している。
五賊者,喜、怒、哀、樂、欲也;游魂主生,其性善,感則生喜;鬼魂主死,其性惡,感則生怒;識神至靈,其性貪,感則生樂;濁精至浮,其性痴,感則生哀;妄意至動,其性亂,感則生欲。但後天五物、五賊,雖是五行所化,其中猶有分別,五物之中,精、神、意皆後起,雖魂、魄最先,魂更先於魄也。
いわゆる「五賊」とは、喜・怒・哀・楽・欲という五つの本真を劫奪するものである。游魂は生を主管し、その性は善に向かい、外物の感触を受ければ喜を生ずる。鬼魄は死を主管し、その性は悪に向かい、感触を受ければ怒を生ずる。識神は最も霊巧で、その性は貪求し、感触を受ければ楽を生ずる。濁精は最も軽浮で、その性は愚痴であり、感触を受ければ哀を生ずる。妄意は最も躁動を好み、その性は散乱で、感触を受ければ欲を生ずる。ただし後天の五物・五賊は同じく五行の化するところではあるが、その中にさらに先後の別がある。五物の中では、精・神・意は皆後から起こるもので、魂と魄は最も早く生じ、魂はさらに魄よりも早い。
魂者,歷劫輪迴之種子,為人為鬼是他,為聖為賢是他,為善為惡也是他,被毛戴角也是他,身未生時他先來,氣未絕時他先去。當人破胞出頭之時,哇的一聲,即魂入竅之時,魂一入竅,受後天木氣與先天元性相合,假依真存,故嬰兒落地時無聲者,不成。以其游魂未入,雖有元性,不能獨存,假借真存,真亦借假而留也。
「魂」は無数の劫数の輪廻を経歴する種子である。人となり鬼となるのもこれであり、聖となり賢となるのもこれであり、善をなし悪をなすのもこれであり、堕ちて毛を披き角を戴く畜生となるのもやはりこれである。身体がまだ生まれぬ時に先ず来たり、気息がまだ断えぬ時に先ず去る。嬰児が胞衣を破って頭を露わにし、哇と一声泣き出す時、まさに魂が竅穴に入る時刻である。魂が一たび竅に入れば、後天の木気を承受し、先天の「元性」と相合し、偽が真に依附して存留する。だから嬰児が地に落ちて声を出さない者は養い育てられない。游魂がまだ入って来ていないので、たとえ元性があっても、元性は独りで存住することができないからである。偽が真を假借してはじめて存を得、真もまた偽を借りてはじめて留を得るのである。
至於魄者,借血氣之靈,受金氣而凝結,生後七七四十九日而始全,死後七七四十九日而始滅,世俗亡人,七七四十九日之期,正為此耳。魂之為物,遷移不定,離此去彼,離彼來此,輪迴不息,歷劫不壞,魄則隨身而有無之。識神雖受火氣而生,亦魂之所出;濁精雖受水氣而生,亦魄之所攝。
「魄」に至っては、血気の霊明に憑り、金気を承受して凝結して成るもので、出生後七七四十九日を経てはじめて長全し、死後七七四十九日を経てはじめて消滅する。民間が亡人のために満七七四十九日の斎期を作るのは、まさにこの縁故のためである。魂というものは遷移して定まらず、ここを離れてあそこへ行き、あそこを離れてまたここへ帰り、輪廻は停まることがなく、劫数を経歴しても壊れない。魄はしかし肉身に随って有となり、肉身に随って無となる。識神は火気を承受して生ずるが、実は魂の中から出たものであり、濁精は水気を承受して生ずるが、実は魄に統摂されるものに帰する。
意者,思慮動作,所以役使精神魂魄四物者也。五物、五賊,皆是生身以後所有,所謂已生出者也。以其事在生身以後,故謂後天。至於心、肝、脾、肺、腎,濁而有形,又不在此例矣。有生之初,後天五行與先天五行,兩而合一,五物為五元所統攝,五賊為五德所制伏,一舉一動,皆先天主宰,後天不過為役從耳。
「意」は思慮と動念であり、精・神・魂・魄という四つのものを駆使するために用いられる。五物・五賊は皆、身体を生下して後にはじめて有するもので、いわゆる「すでに生じた境界」である。これらの事が生身の後にあるから、「後天」と呼ばれる。心・肝・脾・肺・腎の五臓に至っては、渾濁して形質があり、またこの範囲の内には入らない。人が剛かに生まれた時、後天五行と先天五行の両者は合して一となり、五物は五元に統摂され、五賊は五徳に制伏され、一挙一動は皆先天が主を為し、後天はただ聴差して供役するにすぎない。
故嬰兒無識無知之時,至善無惡,仁之至矣。仁即元性之見端也,人我兩忘,義之至也;義即元情之見端也,聲色不迷,智之至矣;智即元精之見端也,心氣和平,禮之至矣;禮即元神之見端也,誠一不二,信之至矣;信即元氣之見端也。
だから嬰児が識も知もない時、純然として至善にして悪がなく、これは仁が極に至ったものである――仁はすなわち「元性」が顕露した端倪である。他と我を倶に忘る、これは義が極に至ったものである――義はすなわち「元情」が顕露した端倪である。声色に迷わされない、これは智が極に至ったものである――智はすなわち「元精」が顕露した端倪である。心気が和平である、これは礼が極に至ったものである――礼はすなわち「元神」が顕露した端倪である。誠一にして二なし、これは信が極に至ったものである――信はすなわち「元気」が顕露した端倪である。
靜之則為五元,動之則為五德,動靜皆是先天用事,間有喜、怒、哀、樂之跡,俱出無心,喜而不留,怒而不遷,哀而不傷,樂而不淫。喜、怒、哀、樂之未發,謂之中,發而皆中節,謂之和。中也、和也,是謂無慾。無慾則精、神、魂、魄、意,各安其位,聽其先天主宰。
静まればすなわち五元、動けばすなわち五徳、一動一静は皆先天が家を掌る。その間に偶々喜怒哀楽の痕跡があっても、皆無心から出る。喜び過ぎても留戀せず、怒り過ぎても他人に移さず、哀しんでも本性を損傷せず、楽しんでも放縦に流れない。喜怒哀楽がまだ発動せぬを「中」と呼び、発動して皆恰も節度に合うを「和」と呼ぶ。「中」と「和」を、これを「無欲」と呼ぶ。無欲であれば、精・神・魂・魄・意は各自本位に安守し、先天に任せて主を為させる。
先天、後天,陰陽相交,二五之精,妙合而凝,或先天動而後天成,或後天動而先天成,真不離假,假不離真,真賴假以全,假賴真而存,渾然一氣,無傷無損,圓成具足,如圖之五行。陰陽同居,一氣流行之象。古人教人窮取娘生面者,即在此也。
先天と後天は、陰陽が互いに交合し、二気五行の精華が奇妙に一処に凝結する。ある時は先天が先に動いて後天が随って成就し、ある時は後天が先に動いて先天が随って成就する。真は偽を離れることができず、偽は真を離れることができない。真は偽に拠ってはじめて保全を得、偽は真に拠ってはじめて存留を得る。渾然として一団の気、損傷なく、円満具足して、まさに河図上の五行の如く、陰陽が一処に同居し、一気が流行する。古人が人に「娘生面」(母が我を生んだ時の本来の面目)を参究させるのは、この境界を言うのである。
即其二八之年,先天氣足,陽極而陰潛生,交於後天,於是魂魄不定,識神起而精竅開,意亂心迷,五物並興,五賊相戕,五元五德,漸次剝消,日復一日,年復一年,陰氣純而陽氣盡,不死豈能乎?此順則生人之道也。惟聖人有先天之學,能於先天未極之時而保陽,於後天將生之時而退陰,借後天養先天,以先天化後天,行無為之道,直入聖基。
十六歳の上下になると、先天の気が充満し、陽が極点に至って陰が暗々裡に生じ、後天と相交する。ここにおいて魂魄は安定せず、識神が発動して精竅が開啓し、意念は散乱し心神は迷惑し、五物が一斉に興起し、五賊が互いに残害し、五元五徳は層層に剥蝕消磨される。一日また一日、一年また一年、陰気が純になり陽気が尽きれば、どうして死なずにいられようか。これが順って行けば凡人を生ずる道である。ただ聖人のみ「先天の学」を具備し、先天の陽がまだ極点に走らぬ時に陽を保つことができ、後天の陰がまさに生ぜんとする時に陰を退去させることができ、後天を借りて先天を培養し、先天を用いて後天を化し、「無為の道」を施行して、直ちに成聖の根基に踏み入るのである。
無為之道,乃不外此河圖妙理,河圖自中而生陰陽五行,即生人順生之道也。河圖五行,陰陽相合,一氣渾然,即生聖逆運之道也。逆運非返還之謂,乃逆藏五行,歸於中黃太極,復見父母未生以前面目耳。
この「無為の道」は、河図の妙理を出ない。河図が中央から陰陽五行を生ずるは、すなわち順って凡人を生ずる道である。河図の五行が陰陽相合して渾然として一気となるは、すなわち逆らって聖人を修成する道である。いわゆる「逆運」とは、頭を掉して後退するという意味ではなく、五行を逆に収蔵して中央土位のあの一点の太極に帰し、再び父母未生以前の本来の面目を見るにすぎない。
孟子曰:仁義理智根於心,其生色也。睟然現於面,盎於背,施於四體。四體不言而喻,蓋心為一身之主,具有仁義理智之德,以一心而運仁義禮智,純是天真,五物五賊,皆順聽其命,五行攢簇,四象和合,性即是命,命即是性,性命一家,陰陽渾化,形神俱妙,與道合真,根心生色,不言而喻,自然而然也。
《孟子・尽心上》にいう。仁・義・礼・智は心に根ざし、その顕発する気色は、温潤にして面容に表れ、背脊に充盈し、四肢に貫注する。四肢は口を開いて吩咐せずとも、自然にどのように動作すべきかを知る。もともと心は一身の主人であり、仁義礼智という徳性を具備している。この一つの心を用いて仁義礼智を運転すれば、全てが天然の真機であり、五物五賊は皆順従して聴命し、五行は一処に攒聚し、四象は和合して間がない。この地步に至れば、性はすなわち命、命はすなわち性、性命は一家となり、陰陽は渾然として化し尽くし、形体と精神は併せて神妙に入り、道と合して真となる。いわゆる心に根ざして気色を生じ、言わずして自然に通暁するというのは、まさにこの自然而然の境界である。
但此心,非肉團之頑心,乃天地之心,五行不到,四大不著,所謂元牝之門者是也。無方所、無定位,擬之則失,議之則非,不可以言傳,不可以筆肖。開闔有時,動靜自如,不偏不倚,至虛至靈,強而名之,太極是也,強而圖之,這個○是也,即河圖中之一點。因其此心為天地之根,為性命之源,後之高明者,強圖以連環樣(圖),使人自醒自悟,以神契之耳。
しかしこの「心」は、胸中のあの一団の血肉の頑鈍な心ではなく、「天地の心」である。五行はそれに至ることができず、地水火風の四大も粘着することができない。すなわち《老子》のいう「元牝の門」である。それには方所がなく、定位がなく、一たび比擬すれば失われ、一たび議論を加えれば誤る。言語をもって伝授することができず、筆墨をもって描摹することもできない。開合に時があり、動静は自らの如く、偏らず倚らず、極虚にして極霊である。強いて名を取れば「太極」と呼ばれ、強いて図を画けばこの円圈○であり、すなわち河図の正中のあの一点である。この心が天地の根柢・性命の源頭であるがゆえに、後世の高明の士は強いてこれを連環相套の様子に画いて、人に自ら警醒し自ら領悟させ、心神を用いて暗にこれに合わせるにすぎない。
是心也,其大無外,其小無內,三千大千容不得他,釋氏五千四十八卷藏經,說不像他;儒家六經四書,論不及他;道家丹經子書,千帙萬卷,形容不盡他。以言其無,則又活活潑潑;以言其有,則又杳杳冥冥。有無不立,動靜不拘。有此心,則出死入生;失此心,則出生入死。生之死之,只在此心得失之間耳。
この心は、大と言えば大きくして外がなく、小と言えば小さくして内がない。三千大千世界もそれを容れることができない。仏家の五千四十八巻の《大蔵経》も、それに似ると言うことができず、儒家の六経四書も、それに及ぶと論ずることができず、道家の丹経と諸子の書の千帙万巻も、それを形容し尽くすことができない。それを「無」と言おうとすれば、それは活々潑々としており、それを「有」と言おうとすれば、それは杳杳冥冥としている。有と無のいずれも安立することができず、動と静もそれを拘束することができない。この心があれば死を出て生に入り、この心を失えば生を出て死に入る。生か死かは、ただこの心の得と失の間にあるのみである。
仁義禮智根於心,根於此心也。此心內有五行之氣,而無五行之質,藏於五行之中,而不落於五行,本於父母未生之前,現於父母既生以後,寂然不動,感而遂通,所以主宰乎仁義禮智之德。仁義禮智,皆此心之變化也。因其能變化仁義禮智,又有信之名。信非外而言語之信,乃陰陽合一,真實無妄之信。真實者,妙有也。無妄者,真空也。空而不空,不空而空,仁義禮智,皆在其中。
仁義礼智が心に根ざすというのは、すなわちこの心に根ざすことである。この心の中には五行の気があるが、五行の形質はない。それは五行の中に蔵れながら、五行の拘限に堕ちない。それは父母未生我之前に本原し、父母生我之後に顕現する。平常は寂然として動かず、一たび感触があれば通達して碍げがない。だから仁義礼智という四つの徳を主宰することができる。仁義礼智は皆この心の変化である。それが仁義礼智を変化させることができるがゆえに、また「信」という名目がある。この信は、外面の言語上の約束を守る信ではなく、陰陽合一・真実無妄の信である。「真実」はすなわち「妙有」であり、「無妄」はすなわち「真空」である。空にして空ならず、不空にして空であり、仁義礼智は皆その中に含まれている。
無為之事者,以道全形之事。以道全形,即以信而統仁義禮智也。即以仁義禮智,而歸於一信也。即以仁義禮智而歸於一信也。即以仁義禮智而歸於一心也。亦即仁義禮智而歸於一中也。信也,心也,中也,總一氣也。一氣流行,五元五德,凝結不散,渾然太極,不滲不漏,後天五物五賊,亦皆化而為陽。先天氣,後天氣,兩而合一,了性即可了命,上德無為之道,河圖之理畢露矣。
いわゆる「無為の事」とは、道を用いて形体を保全する事である。道を用いて形体を保全するとは、すなわち「信」を用いて仁義礼智を統摂し、すなわち仁義礼智を一つの信に帰し、一つの心に帰し、一つの中に帰することである。信であれ、心であれ、中であれ、総括すれば皆一股の気である。この一股の気が流行して息まず、五元五徳が一処に凝結して渙散せず、渾然として一つの太極となり、滲まず漏れず、後天の五物五賊も皆陽に転化する。先天の気と後天の気の両下が合一し、性が了徹すれば命もまた随って了徹する――これが上徳の人が修するところの「無為の道」であり、河図の道理はここに至って完全に顕露したのである。
洛書
古洛書,陰陽五行錯亂,陰陽五行蹤整。
巻首に列ねた古洛書は全部で二幅ある。一幅は「陰陽五行錯乱」と標して、人が後天に落ちて後に五行が互いに克害する乱象を画き、一幅は「陰陽五行踪整」(踪はすなわち綜、収攬して帰整する意)と標して、錯乱した五行を重ねて収攬し帰整し、陰の中に陽を返出させる景象を画いている。
洛書者,陰陽錯綜,五行逆運,有為變化之道也。大禹治水時,有神龜出洛河,其背有文,九文近頭,一文近尾,三文近左肋,七文近右肋,四文近左肩,二文近右肩,六文近右足,八文近左足,五文在背中,其位九,象九宮,中五又象太極,中一文又象一氣;其形方,方象地。
洛書が講ずるのは、陰陽が交錯綜合し、五行が逆って運行し、作為があって変化を生ずる道である。大禹が水を治めた時、神亀が洛水の中から出て、背に紋路があった。九は頭に寄る処にあり、一は尾に寄る処にあり、三は左肋にあり、七は右肋にあり、四は左肩にあり、二は右肩にあり、六は右足にあり、八は左足にあり、五は背の正中にあった。それには九つの方位があり、「九宮」を象り、中央の五はまた太極を象り、中央のあの一道の紋はまた一気を象る。その形状は方であり、方は大地を象る。
洛書,蓋取逆克之理。逆克者,以陰克陽,右行也。故中士克北方水,北方水克西方火,西方火克南方金,南方金克東方木,東方木克中央土。陰前陽後,陰靜陽動,靜以制動,以克為主,收斂成就之功也。收斂成就,乃金火之功,火以煉之,金以刑之,故金居火位,火居金位,金火同宮,而萬物無不借賴,陶熔成就矣。
洛書が取るのは「逆克」の理である。いわゆる逆克とは、陰をもって陽を克し、右方へ運行することである。だから中央の土は北方の水を克し、北方の水は西方の火を克し、西方の火は南方の金を克し、南方の金は東方の木を克し、東方の木は中央の土を克する。陰が前にあり陽が後にあり、陰は静を主り陽は動を主り、静をもって動を制服し、克制を主とし、これが収斂成就の工夫である。収斂成就は金と火の作用に拠る。火を用いて熔錬し、金を用いて裁制する。だから洛書上では金は火の位に安んじ、火は金の位に安んじ、金火は同じ一宮に処り、万物はこの一番の陶鋳熔錬に依拠してはじめて成就を得ないものはないのである。
金火陰陽具錯,水木陽不動而陰錯者,金火克而水木生氣收斂也。克之正所以全生,逆之正所以成順,故外錯克而中綜生。錯者,錯亂也。陰陽錯亂於外而相剋也。綜者,總整也。陰陽總整於中而相生也。錯中有綜,借陰復陽,後天中返先天之道,不在是乎?
金と火の陰陽は全て交錯し、水と木は陽位は動かずにただ陰位のみ交錯する。これは金火が一たび克制を施せば、水木の生気が収斂して帰ってくるからである。それを克制するのは、まさにその生機を成全するためであり、逆って来るのは、まさに順の効果を成就するためである。だから外層は交錯相克でありながら、中間は綜整相生である。「錯」とはすなわち錯乱で、陰陽が外層において錯乱して互いに克制することを指す。「綜」とはすなわち総整で、陰陽が中央において収攬帰整されて互いに資生することを指す。錯乱の中に綜整を含み、陰を借りて陽を回復する――後天の中に先天に返る道は、ここに在るではないか。
人自有生以後,陽極陰生,五行錯亂,陰陽不交,彼此戕害,真者埋沒,假者張狂,七情六慾,般般倶有,五蘊八識,件件皆全,百憂感其心,萬事勞其形,以苦為樂,以假作真,本來面目全失,如書,陰水克陽火,陰火克陽金,陰金克陽木,陰木克陽土,陰土克陽水之象。書有五無十者,陰土錯外去克水也。
人は出生して以来、陽が極処に至れば陰が生じ、五行は錯乱し、陰陽は相交り合わず、互いに残害する。真は埋没され、偽は張狂し立つ。七情六欲は様様皆具わり、五蘊八識は件件倶に全し、百種の憂愁がその心を擾動し、万の事がその身を労苦させる。苦を楽と為し、偽を真と作し、本来の面目は全て失われた。これはまさに洛書上の陰水が陽火を克し、陰火が陽金を克し、陰金が陽木を克し、陰木が陽土を克し、陰土が陽水を克する景象である。洛書に五があって十がないのは、陰土が外層に錯って水を克しに行ったからである。
天有好生之德,借神龜洩露返還之道。使人人歸家認祖,在性命根本上著腳耳。根本在於何處?即中五之中一文,所謂元牝之門者是也。這個門,生之在此,死之在此,順之在此,逆之在此,五行錯亂分散亦在此,五行總整攢簇亦在此。
上天には好生の徳があり、神亀を借りて「返還」(後天から先天に返る)の門路を漏洩させ、人々をして皆家に帰って祖を認め、性命の根本上に立脚せしめんとする。根本はどこにあるか。中央の五数の当たりにあるあの一道の紋、すなわちいわゆる「元牝の門」にある。この門は、生はここにあり、死もここにある。順行はここにあり、逆修もここにある。五行の錯乱分散はここにあり、五行の総整攅聚もここにある。
蓋此處有天地之根,有仁義禮智之信也。因其有仁義禮智之信,錯之能以綜,散之能以合。失此信,則五元皆傷、五物皆發,仁義禮智之性,變而為喜怒哀樂之性;守此信,則五元皆生、五物皆化,喜怒哀樂之性,變而為仁義禮智之性。
この所に天地の根柢があり、仁義礼智を統摂するあの「信」があるからである。まさにこの信があるがゆえに、錯乱しても重ねて綜整でき、散らかっても重ねて合攏できる。この信を失えば、五元は皆損傷を受け、五物は皆発作し、仁義礼智の本性は喜怒哀楽の情性に変じてしまう。この信を守れば、五元は皆生長し、五物は皆化し除かれ、喜怒哀楽の情性は転じて仁義礼智の本性に返る。
書中五者,仁義禮智,皆本於信也。外四十者,以信而運仁義禮智也。信於仁,則能仁;信於義,則能義;信於禮,則能禮;信於智,則能智。一信而仁義禮智,無不隨心變化矣。
洛書の中央の五は、仁義礼智が皆「信」を本とすることを表示する。外圍の合計四十の数は、信を用いて仁義礼智を運転することを表示する。仁において真実にして欺かなければ、仁を為し遂げることができる。義において真実にして欺かなければ、義を為し遂げることができる。礼において真実にして欺かなければ、礼を為し遂げることができる。智において真実にして欺かなければ、智を為し遂げることができる。ただこの一つの信があれば、仁義礼智は心に随って変化しないものはない。
變化之道,即後天中返先天之道,即書錯中有綜。三五合一之象,五行有陰有陽,只有二五,並無三五。所謂三五者,就中五三家之數論之也。中五共五文,北第一文為水。西第二文為火,東第三文為木,南第四文為金,中第五文為土。木生火為一家,積數二三為一五;金生水為一家,積數一四為一五;土居中央為一家,積數自為一五。三家相見,是謂三五合一。
この変化の道は、すなわち後天の中に先天に返る道であり、洛書の「錯の中に綜あり」・三五合一の景象である。五行には陰があり陽があるが、もともと陰陽二つの五があるのみで、三つの五があるのではない。いわゆる「三五」とは、中央の五数に就いて三家に分けて論ずるのである。中央には共に五道の紋がある。北面の第一道は水とし、西面の第二道は火とし、東面の第三道は木とし、南面の第四道は金とし、中間の第五道は土とする。木が火を生ずるは一家と算え、二に三を加えて積みて一つの五となる。金が水を生ずるは一家と算え、一に四を加えて積みて一つの五となる。土は中央に居りて自ら一家を成し、本身すなわち一つの五である。三家が会い面すれば、これを「三五合一」と呼ぶ。
三五合一,總是一陰一陽,二五之精,妙合而一之,二五合一,總是陰中返陽,一五攢簇而一之,一五攢簇,渾渾淪淪,循環無端,無聲無臭,何有一五,何有二五,更何有三五乎?
三五合一とは、総括すれば一陰一陽に過ぎず、陰陽二つの五の精華を奇妙に合して一つとすることである。二つの五が合一するは、総括すれば陰の中に陽を返出させ、一つの五を攅聚して一個の整体とするに過ぎない。この一つの五が攅聚するに及んで、渾渾淪淪として、循環して頭緒がなく、声もなく臭いもない。その時、どこにまだ一つの五・二つの五があろうか、さらにどこにまだ三つの五があろうか。
後天中返先天之道,即於陰五行中返還陽五行,復歸於一氣耳。返之之道,莫先返乎信。老子云:恍兮惚兮,其中有物;窈兮冥兮,其中有精,其精甚真,其中有信。此信即先天來復之信。
後天の中に先天に返る道とは、すなわち陰五行の中に陽五行を返出させ、重ねて一股の気に帰するにすぎない。返らんとするに、先ずあの「信」を返すより切要なものはない。《老子》第二十一章にいう。恍恍惚惚として、その中にしかし実物あり。深遠幽暗として、その中にしかし精気あり。その精気は極めて真実にして、その中に験すべき信を含む。この信とは、すなわち先天真陽が失われて復り来る消息である。
此信一復,戊土發現,內有主宰,萬緣皆空,諸慮俱息,則不哀而生智,信中生智,是戊土克癸水,而水返陽矣。水返陽而智本於信,智不妄用,無貪無求,心平氣和,而樂真而有禮,智中出禮,是壬水克丁火,而火返陽矣。火返陽而禮本於智,和而不同,非禮不履,燥氣悉化,則不怒而成義。
この信が一たび帰れば、「戊土」(先天の真意)が顕現し、中に主宰を有し、万般の攀縁は皆空しくなり、種種の思慮は皆止息する。ここにおいて哀を生ぜずして智慧を生ず――信の中に智を生ず、これは戊土が癸水を克して、水が陽位に返るのである。水が陽に返れば、智は信を本とし、智慧は乱用されず、貪なく求めなく、心平らかに気和らぎ、ここにおいて虚偽の楽を真楽に化して礼に合せる――智の中に礼を生ず、これは壬水が丁火を克して、火が陽位に返るのである。火が陽に返れば、礼は智を本とし、和順にして苟同せず、礼に合わぬ事は一歩も為さず、燥急の気は全て化し尽くし、ここにおいて怒を動かさずして義を成就する。
禮中出義,是丙火克辛金,而金返陽矣。金返陽而義本於禮,義不過偏,通權達變,循規蹈矩,則喜善而藏仁。義中生仁,是庚金克乙木,而木返陽矣。木返陽而仁本於義,仁不過懦,至善無惡,誠一不二,則無慾而有信,仁中行信,是甲木克己土,而土返陽矣。土返陽而信本於仁,止於其所,而不動不搖,真土現象,假土自靜,戊己相合,喜、怒、哀、樂皆歸無慾,仁、義、禮、智皆歸一信。
礼の中から義を生ずる、これは丙火が辛金を克して、金が陽位に返るのである。金が陽に返れば、義は礼を本とし、義を行っても偏激に至らず、権を通じ変に達しつつまた規を循り矩を蹈み、ここにおいて善事を好んで内に仁厚を蔵する――義の中に仁を生ず、これは庚金が乙木を克して、木が陽位に返るのである。木が陽に返れば、仁は義を本とし、仁を行っても懦弱に至らず、純善にして悪なく、誠一不二で、ここにおいて無欲にして信ある――仁の中に信を行い出す、これは甲木が己土を克して、土が陽位に返るのである。土が陽に返れば、信は仁を本とし、それが在るべき位置に安止して動かず揺るがない。真土(先天の真意)が形象を顕せば、仮土(後天の妄意)は自然に安静し、戊己二土が相合して、喜怒哀楽は皆無欲に帰し、仁義礼智は皆一つの信に帰する。
五氣朝元,後天五物,皆聽命於五元,四象和合,五行一氣,三五合一,結成聖胎,渾然天理,人慾不生,還原返本,歸根復命,依然是生初本來面目。
この歩みに至ればすなわち「五気朝元」である。後天の五物が皆先天の五元に聴命し、四象は和合し、五行は一気に帰し、三五合一して、「聖胎」(道を成す胚胎)を結ぶ。渾然として一片の天理、人欲はもはや萌生せず、還元して本に返り、根に帰して命に復し、依然として剛か生まれた時の本来の面目である。
如書,陽五行居於正位,陰五行居於偏位,錯中有綜也。錯中有綜,陰中返陽,金丹有象。在儒,則謂明善復初;在釋,則謂摩河般若波羅密。摩河者,華言大也。般若者,華言智慧也。波羅密者,華言登彼岸也。以大智慧登彼岸,亦明善復初,還原返本之義。三教聖人,皆不外此。
まさに洛書上で陽五行が四正の位に居り、陰五行が四隅の偏位に居る如く、これが「錯の中に綜あり」である。錯の中に綜あり、陰の裡に陽を返出させて、金丹に形象がある。これは儒家において「明善復初」と呼ばれ、仏家において「摩訶般若波羅蜜」と呼ばれる。摩訶とは、漢語では「大」の意である。般若とは、漢語では「智慧」の意である。波羅蜜とは、漢語では「彼岸に登る」の意である。大智慧をもって彼岸に登るは、すなわち明善復初・還元返本の意である。儒・釈・道三教の聖人が講ずるところは、皆この範囲を出ない。
逆運妙理,金丹有為之道,全以逆運,故曰七返九還、金液大還丹。七為陽火之數,火居金位,火運金而入庫返真;九為陽金之數,金居火位,金遇火而生明還元。火返真而後天之氣悉化,金還元而先天之氣逆回,生生不息。仁義禮智,本於一信,金木水火,歸於中土。五行攢簇,洛書已返成河圖矣。
逆運の妙理とは、すなわち金丹の「有為」一路の工夫であり、全く逆って運行することに拠るから、「七返九還・金液大還丹」と呼ばれる。七は陽火の数であり、洛書上で火は金の位に安んじ、火が金を運化して庫に入らせ真に返らせる。九は陽金の数であり、洛書上で金は火の位に安んじ、金が火に遇って光明を生じ、本元に返還する。火が真に返れば、後天の気は全て化し尽くし、金が元に還れば、先天の気は逆って帰って来て、生々として息まない。仁義礼智は皆一つの「信」を本とし、金木水火は皆中央の土に帰する。五行が一処に攅聚すれば、洛書はすでに河図に返っているのである。
有為事畢,無為事彰,再加向上工夫,修河圖妙理,了先天為無自然之功,可以神化不測矣。修道者能於洛書錯綜變化處,鑽破個孔竅,於中心一文處立定腳根,逆而修之,何患五行不能攢簇,陰陽不能和合,金丹不能凝結,性命不能俱了乎?
「有為」のこの一段の事が弁み終われば、「無為」のこの一段の事が顕れ出る。さらに一層向上の工夫を加え、河図の妙理を修習して、自然無為の功をもって先天の一着を了えれば、神妙に変化して測度すべからざるものとなることができる。道を修する人が、もし洛書の錯綜変化する所に一つの孔竅を鑽り破り、中央のあの一道の紋の上に脚跟を立定し、逆って来て修すれば、五行が攅聚せぬこと、陰陽が和合せぬこと、金丹が凝結せぬこと、性命が一斉に了徹せぬことを、なお愁うことがあろうか。
図書合一
河圖形圓,陰陽合一,五行一氣,無為順生自然之道。洛書形方,陰陽錯綜,五行剋制,有為逆運變化之道。圓以象天,一氣流行,渾然天理,無修無證,從太極中安身,所以了性。方以象地,兩儀變化,天人合發,有增有減,在陰陽中造作,所以了命。
河図の形状は円で、陰陽は合して一となり、五行はただ一気であり、無為・順生・自然の道に属する。洛書の形状は方で、陰陽は交錯綜合し、五行は互いに克制し、有為・逆運・変化の道に属する。円はもって天に象る。一気が流行し、渾然として一片の天理、修というべきものなく証というべきものなく、ただ太極の中に身を安んじ命を立つ。だから「了性」の工夫である。方はもって地に象る。両儀が往復変化し、天時と人力が相合して発し、増があり減があり、陰陽の中に造作を加える。だから「了命」の工夫である。
無為者,純陽未破,上德之人修之;有為者,後天已交,中下之人修之。特以上德之人,五行合一,先天祖氣未傷,性命一家,無待返還之功,只用天然真火以溫養之,不為後天所傷,神全氣足,誠則能明,由中達外,露出法身,永久不壞,歷劫長存,道家謂之身外有身,釋家謂之跳出輪迴,儒家謂之聖而不可知之之謂神。
「無為」の一路は、純陽がまだ破損していない人の修するところで、上徳の人に属する。「有為」の一路は、後天がすでに用事している人の修するところで、中下の資質の人に属する。これは上徳の人が五行合一して、先天の祖気がまだ傷を受けず、性命が本より一家であり、「返還」の工夫を為す用がなく、ただ天然の真火をもって温養し、後天に損傷させず、神完して気足り、至誠より明覚を生じ、内裡から外面に通達して「法身」を顕露し、永久に壊れず、劫を歴て長く存するからである。この境界を、道家は「身外に身あり」と呼び、仏家は「輪廻を跳出す」と呼び、儒家は「聖にして測知すべからざるを神と謂う」と呼ぶ。
至於中下之人,或為氣質所拘,或為積習所累,先天破而後天用事,性命分為兩處,若無有為之道,則已失者而難返,已去者而難還。雖有志士,不能成功,故河出圖,洛出書,聖人圖之以留世,使人深玩其義,各了性命也。
中下の人に至っては、ある者は気質に拘限され、ある者は積久の習気に拖累され、先天はすでに破れて後天が家を掌り、性命は二処に分かれた。もし「有為」一路の工夫がなければ、すでに失ったものは返しがたく、すでに去ったものは還元しがたく、たとえ有志の士でも成功することはできない。だから黄河は図を出し、洛水は書を出し、聖人はそれを画き写して後世に留伝させ、人にその義理を深く玩味させ、各自その性命を了えさせるのである。
坤卦傳曰:敬以直內,義以方外。敬者,謹固牢藏也。直者,至中至正、不偏不倚也。以敬直內,率性之謂道也。即河圖無為自然之道。義者,變化裁制也。方者,不動不搖、循規蹈矩也。以義方外,修道之謂教也。即洛書有為變化之道。
《易・坤卦・文言伝》にいう。敬をもって内を直くし、義をもって外を方くす。「敬」とは、謹慎して固く収蔵すること。「直」とは、極中極正・不偏不倚である。敬をもって内を直くするとは、《中庸》のいう「性に率うを道と謂う」であり、すなわち河図のあの無為自然の路である。「義」とは、時に随って変化し、裁断節制すること。「方」とは、動かず揺るがず、規を循り矩を蹈むこと。義をもって外を方くするとは、《中庸》のいう「道を修するを教と謂う」であり、すなわち洛書のあの有為変化の路である。
無為以修內,有為以修外,修內者性也,修外者命也。上德者,修性而命即立,自誠而明也;下德者,須先修命而後修性,自明而誠也。自誠明謂之性,為上德者而說;自明誠謂之教,為下德者而言。
無為はもって内を修し、有為はもって外を修する。内を修するは「性」を修し、外を修するは「命」を修する。上徳の人はただ性を修すれば、命は自然に立つ。これは《中庸》のいう「誠より明となる」である。下徳の人は必ず先ず命を修し、後に性を修す。これは《中庸》のいう「明より誠となる」である。「誠により明となるを性と謂う」は、上徳の人に対して言うのである。「明により誠となるを教と謂う」は、下徳の人に対して言うのである。
今立內圓外方之圖,以明上德者修內以制外,先圓而後方;下德者修外而安內,先方而後圓。雖是如此說,下德者必以內圓為本,但不過著重處在外方耳。但方圓二字,大有妙用,圓非空寂無為,其中有防危慮險之功。方非斷絕人事,其中有依世法而修道法之功。
今、内円外方の一図を立てて、もって説明する。上徳の人は内を修して外を制し、先ず円にして後に方とする。下徳の人は外を修して内を安んじ、先ず方にして後に円とする。しかしそう言っても、下徳の人も必ず内円をもって根本とし、ただ着重する処を外方に置くにすぎない。そして「方」「円」というこの二字には大いに妙用がある。円は決して枯坐して空寂に沈み何事も為さぬことではなく、その中に危険を防ぎ差失を憂うる工夫を含む。方もまた人間の事務を断絶することではなく、その中に世間法に依託して道法を修する工夫を含む。
知得河圖五行一氣,中黃一點,則圓之所以為圓,不落於寂滅著空之學矣。悟得洛書五行錯綜,克中有生,縱橫逆順,到頭總歸中黃,則方之所以為方,不落於勉強執相之學矣。方之圓之,總在中黃一點,方亦從此而方,圓亦從此而圓,識不得中黃,方亦不是,圓亦不是。噫!月到天心處,風來水面時,一股清意味,料得少人知。
河図の五行が一気に帰し、総攝して「中黄」(中央の土位)のあの一点に在ることを得れば、円の所以に円なるを明白し、寂滅に落ち空を執する学問に堕ちることがない。洛書の五行錯綜、克制の中に生機を含み、縦横逆順の到頭総じて中黄に帰することを悟れば、方の所以に方なるを明白し、強いて形相に執着する学問に堕ちることがない。方であれ円であれ、総じて中黄のあの一点に在る。方はここよりして方となり、円はここよりして円となる。中黄を認め得ずんば、方も是ならず、円も是ならず。ああ、まさに邵雍の詩にいう如く、月が天心に昇る時、清風が水面を吹き渡る時、あの清淡の意味は、想うにこれを体得する人の少なかろう。
先天横図
羲皇畫卦次序橫圖,無中生有圖。
この節は先ず二幅の図を列ねる。一幅は「羲皇画卦次序横図」で、太極が両儀を生じ、両儀が四象を生じ、四象が八卦を生ずる次第に従って横に並べて画いたもの。一幅は「無中生有図」で、虚無の中から一点の生機が生じ出る過程を画いたものである。
先天橫圖,乃伏羲畫卦之序也。當其無卦而生卦,本圖之中五,太極也。先畫一奇,以象陽儀,次畫一偶,以象陰儀。太極生兩儀,本圖之奇偶也。復於兩儀之上,各畫一奇一偶,以象太陽、太陰、少陽、少陰,兩儀生四象。本圖之奇偶,分金、木、水、火四象也。復於四象之上,各畫一奇一偶,以成八卦,四象生八卦。本圖之四象,各有陰陽也。
先天横図とは、すなわち伏羲が卦を画いた次序である。まだ卦がなくて卦を生ぜんとする時、本図の中央のあの「五」が太極である。先ず一本の整画(奇)を画いて、もって陽儀に象る。再び一本の断画(偶)を画いて、もって陰儀に象る。これが「太極両儀を生ず」であり、すなわち本図上の奇と偶である。さらに両儀の上に各々一奇一偶を画いて、もって太陽・太陰・少陽・少陰に象る。これが「両儀四象を生ず」であり、すなわち本図の奇偶が金・木・水・火の四象に分かれることである。さらに四象の上に各々一奇一偶を画いて、八卦を湊成する。これが「四象八卦を生ず」であり、すなわち本図の四象が各自陰陽を帯びていることである。
畫四象不及於土者,太極即土也。陰陽對配相交生卦者,亦土也。因其生生不息,謂之土,因其一氣運用,謂之太極。太,極也,土也,一而已,故不及土,僅畫四象。四象既有陰陽,則八卦相交,彼此相蕩。蓋一卦蕩於八卦之上,八卦相蕩,重而為六十四卦矣。
四象を画くのに土を言及しないのは、太極本身がすなわち土だからである。陰陽が対を配して相交り卦を生ずるあの媒介もまた土である。それが生々して息まないから土と呼ばれ、それが一気の運用だから太極と呼ばれる。太極であれ土であれ、実は一つのものにすぎない。だから別に土を立てず、ただ四象を画く。四象はすでに各々陰陽があるから、八卦は互いに交合し、彼此推盪する。一つの卦が八卦の上に推盪し、八卦が互いに推盪して、重なり合って六十四卦となる。
一卦六畫,下三畫按天地人三才也;上三畫相蕩因重之畫,按天地人各有陰陽也。八卦者,即四象之陰陽。六十四卦者,即四象陰陽配合之生氣。八卦成列,因而重之,則陰陽相交,生生不息,豈只六十四卦哉。
一卦に六画あり。下の三画は天・地・人の三才を按ずる。上の三画は互いに推盪し重畳して出た画で、天・地・人が各々陰陽に分かれることを按ずる。八卦はすなわち四象の陰陽であり、六十四卦はすなわち四象の陰陽が配合して生じた生気である。八卦が行列に排して、さらに重畳を加え、陰陽が相交り、生々して息まなければ、なんと六十四卦に止まるだけであろうか。
畫卦僅以六十四卦終者,特以造化之道,不過四象之陰陽變化耳。四象陰陽,是謂八卦,一卦行於八卦之位,八卦行於六十四卦之位,千卦萬卦,總不外乎六十四卦。然所以行氣者,六十四卦。六十四卦,總是八卦,八卦總是四象,四象總是兩儀,兩儀總是太極,一氣流行也。
卦を画くのが六十四卦で止まるのは、造化の道理が四象の陰陽変化に過ぎないからである。四象が各々陰陽に分かれればすなわち八卦と呼ばれる。一つの卦が八卦の位を行遍し、八卦が六十四卦の位を行遍すれば、たとえ千卦万卦あっても、総じて六十四卦を跳出すことはできない。しかし真にその中で気を行うのはこの六十四卦である。六十四卦を総すれば八卦、八卦を総すれば四象、四象を総すれば両儀、両儀を総すれば太極、言い尽くせばただ一股の気が流行しているにすぎない。
然則太極者,萬化之根本,生物之祖氣,有此太極,方有陰陽,方有四象,方有八卦,方有六十四卦。若無太極,陰陽於何而出,四象於何而生,八卦於何而列,六十四卦於何而行?
こう見れば、太極とは万般の変化の根本、万物を生育する祖気である。この太極があって、はじめて陰陽があり、はじめて四象があり、はじめて八卦があり、はじめて六十四卦がある。もし太極がなければ、陰陽はどこから出るか。四象はどこから生ずるか。八卦は何に憑って排列するか。六十四卦はまた何に拠って運行するか。
羲皇畫卦生卦,其即河圖生數之妙乎?紫陽讀《參同契》有文云:一自虛無兆質,兩儀因一開根。四象不離二體,八卦互為子孫。萬象生乎變動,吉凶悔吝茲分。百姓日用不知,聖人能究本源。先天生卦,奧義於此畢露矣。
伏羲が卦を画き卦を生じたことは、ほぼ河図生数の妙用であろうか。紫陽真人張伯端は《参同契》を読んだ後に数句の韻語を写し、大意は次の通りである。「一」は虚無の中から初めて形質を現し、両儀はこの一に因って根柢を開く。四象は陰陽両体を離れることなく、八卦は互いに遞生して子孫の如し。万象は変動より生じ、吉・凶・悔・吝もまたここより分かれ出る。百姓は日々これを用いて知らず、ただ聖人のみその本源を窮究し得る、と。先天が卦を生ずる奥義は、ここに至って完全に顕露している。
人之本來真心,空空洞洞,不掛一絲毫,至虛至無,即太極○也。所謂無名天地之始,但此虛無太極,不是死的,乃是活的,其中有一點生機藏焉。此機名曰先天真一之氣,為人性命之根、造化之源、生死之本,虛無中含此一氣,不有不無,非色非空,活活潑潑的,又曰真空。
人の本来の真心は、空空洞洞として、一糸一毫も挂せず、極虚極無で、すなわち太極のあの円圈○である。これが《老子》のいう「無名、天地の始」である。しかしこの虚無の太極は死んだものではなく、活きたもので、その中に一点の生機を蔵している。この一点の生機は名づけて「先天真一の気」とし、人の性命の根・造化の源・生死の本である。虚無の中にこの一股の気を含んで、有と言えば是ならず、無と言えば是ならず、色でもなく空でもなく、活々潑々として、また「真空」と呼ばれる。
真空者,不空而空,空而不空,所謂有名萬物之母。虛無中既有一點生機在內,是太極含一氣,一自虛無兆質矣。一氣既兆質,不能無動靜,動為陽,靜為陰,是動靜生於一氣,兩儀因此一氣開根也。既有動靜,動極而靜,靜極而動,性情精神,即於此而寓之,是兩儀生四象,四象不離二體也。既有性情精神之四象,四象各有動靜,是四象生八卦矣。八卦互相生克,遞為子孫,六十四卦於此而生,萬象變動於此而出矣。
いわゆる「真空」とは、不空にして空、空にして不空であり、すなわち《老子》のいう「有名、万物の母」である。虚無の中にすでに一点の生機が在れば、これが太極の一気を含むことであり、いわゆる「一、虚無の中より初めて形質を現す」である。この一気がすでに形質を現出した以上、動静なきを得ない。動くは陽、静まるは陰――これが動静が一気の中から生じ、両儀がこの一気に因って根柢を開くことである。すでに動静があれば、動は極処に至って静に転じ、静は極処に至って動に転じ、性・情・精・神がこの裡辺に寄寓する――これが両儀が四象を生じ、四象が陰陽両体を離れないことである。すでに性情精神という四象があれば、四象はまた各々動静があり、これが四象が八卦を生ずることである。八卦は互いに生じ互いに克し、一層一層遞生して子孫の如く、六十四卦はここより生じ、万象の変動もまたここより顕現する。
然萬本於八,八本於四,四本於兩,兩本於一,一本於虛。虛者,氣之始。一者,氣之母。虛無為體,一氣為用,體用如一,兩也,四也,八也,萬也,皆在虛無一氣中運用。何有吉凶悔吝乎?
しかし万象は八卦に本づき、八卦は四象に本づき、四象は両儀に本づき、両儀は「一」に本づき、「一」はまた「虚」に本づく。虚は気の開端であり、一は気の母親である。虚無をもって本体とし、一気をもって作用とし、体と用はもともと一つである。両儀であれ、四象であれ、八卦であれ、万象であれ、全て虚無一気の中に運転している。こうであれば、どこにまだ吉・凶・悔・吝があろうか。
若失虛無一氣,則動靜不時,四時不和,八卦錯亂,萬象變動,而吉凶悔吝,於茲分矣。這個秘密,迷之者,順其陰陽,有生有死,萬劫沉淪,故曰百姓日用而不知;悟之者,逆其陰陽,出死入生,立躋聖位,故曰聖人能究本源。日用不知者,不知虛無一氣也。能究本源者,能保虛無一氣也。
もし虚無一気を失えば、動静は時序を失い、四時は調和せず、八卦は錯乱し、万象は随って変動し、吉・凶・悔・吝はここから分かれ出る。この秘密を、迷える人は陰陽に順って走り、生あれば死あり、万劫に沈淪する。だから「百姓は日々これを用いて知らず」と言う。悟れる人は陰陽に逆って修し、死を出で生に入り、当下に聖人の地位に登る。だから「聖人はその本源を窮究し得る」と言う。日々用いて知らざるは、虚無一気を知らざるなり。本源を窮究し得るは、虚無一気を保ち得るなり。
夫天地能役有形,不能役無形,能役有情,不能役無情,能役有心,不能役無心。能究本源,安心於虛無,養心於一氣,雖兩儀、四象、八卦、六十四卦,皆在虛無根本之處運用。未曾生出,萬象皆空,惟有這個○。試問這個虛無一氣的物事,吉凶何能加得,悔吝何能近得?
天地は有形のものを役使することができるが、無形を役使することはできない。有情を役使することができるが、無情を役使することはできない。有心を役使することができるが、無心を役使することはできない。本源を窮究し得る人は、心を虚無の裡に安んじ、心を一気の中に涵養すれば、両儀・四象・八卦・六十四卦は全て虚無というこの根本の処に運転する。万象がまだ生ぜざる以前には、一切皆空で、ただこの円圈○があるのみ。試みに問う。この虚無一気のものに、吉凶はどうやって加えられよう。悔吝はどうやって近づけられよう。
羲皇生卦列卦,妙矣哉。妙者,妙其八卦成列,乾陽健於始,坤陰順於終。陰陽初生,皆在中央。乾始者,乾易知,坤終者,坤簡能。在天地為易知、簡能者,在人道為良知、良能。渾然天理,一動一靜,皆在當中一點子虛白處立根基。人能於無卦生卦處究其本源,忽然見其本來面目,則知這個虛無一氣的物事,至無而含至有,至虛而含至實,無形而能變化,是變化無窮,吾心自有一羲皇,吾身自具生生不息之道也。
伏羲が卦を生じ卦を列ねたことは、まことに奇妙である。妙なるは八卦が行列に排する時、《乾》は陽剛強健をもって開端に居り、《坤》は陰柔順承をもって終末に居り、そして陰陽が最初に生出する所は皆中央にあることである。《乾》が開端に居るのは、乾が「易」をもって人の易く知るところとなるからである。《坤》が終末に居るのは、坤が「簡」をもって事を成す能となるからである。これは天地において「易知・簡能」と呼ばれ、人道においては「良知・良能」と呼ばれる。渾然として一片の天理、一動一静、皆正中のあの一点の虚明空白の処に根基を立つ。人がもし「まだ卦なくして卦を生ずる」所にその本源を窮究し、忽然として自己の本来の面目を見れば、明白するであろう。この虚無一気のものは、至無の中に至有を含み、至虚の中に至実を含み、形体なしにして能く変化し、変化して窮尽することがない。その時に至って知る、我が心の中に自ら一人の伏羲あり、我が身の中に自ら生々息まぬ大道を具える、と。
先天方円図
羲皇八卦方位古圖,羲皇先天六十四卦圓圖,羲皇先天六十四卦方圖,邵堯夫方圓內外合一圖,先天陰陽混成圖,逆運先天結丹圖,煉神還虛圖。
この節は全部で七幅の図を列ねる。「羲皇八卦方位古図」は伏羲先天八卦の方位を画く。「羲皇先天六十四卦円図」は六十四卦を円周に排する。「羲皇先天六十四卦方図」は六十四卦を方陣に排する。「邵尭夫方円内外合一図」は邵雍(字は尭夫)が方図を円図の中に移し入れ、内方外円の一幅に合したもの。「先天陰陽混成図」は先天陰陽が渾然と合一した景象を画く。「逆運先天結丹図」は先天の気を逆運して金丹を結ぶ次第を画く。「錬神還虚図」は最後の一層、神を錬して虚に還し虚空を打破する工夫を画く。
羲皇八卦圓圖、卦位,天地列上下之位,日月行天地之中。雷動於地下,風吹於天上,澤上仰天,山下附地,天地反覆,有陰有陽,山澤通氣,有生有成,風雷相薄,有升有降,水火相射,有寒有暑,此八卦之象也。
伏羲八卦円図の卦位は次のように安排される。《乾》天と《坤》地は上下の位に分列し、《離》日と《坎》月は天地の中を運行する。《震》雷は地下に震動し、《巽》風は天上に吹拂し、《兌》沢は上に在りて天に仰ぎ向かい、《艮》山は下に在りて地に附着する。天地が上下に反覆するから陰あり陽あり、山沢の気が相通ずるから生あり成あり、風雷が互いに迫近するから升あり降あり、水火が互いに激射するから寒あり暑あり――これが八卦の取る物象である。
天地為包羅,日月行造化,日自左旋而陽氣升,故震一陽,兌二陽,亁三陽,在左;月自右退而陰氣生,故巽一陰,艮二陰,坤三陰,在右,此八卦之氣也。氣行而六十四卦即生矣。六十四卦,即八卦相蕩,變化而生者,氣行於內者也,象見於外者也。但八卦氣行之序,亦逆道也。有逆方有生,不逆不能生。順生即在逆退之中。
天地は万象を包羅する大きな框架であり、日月はその中に造化を推行する。太陽は左辺より旋回上昇して陽気が升るから、《震》一陽・《兌》二陽・《乾》三陽は皆左辺に排される。月亮は右辺より退行して陰気が生ずるから、《巽》一陰・《艮》二陰・《坤》三陰は皆右辺に排される――これが八卦の行う気である。気が一たび運行すれば、六十四卦が生出する。六十四卦はすなわち八卦が互いに推盪し変化して生ずるもので、気は裡面に運行し、象は外面に顕現する。しかし八卦が気を行う次序もまた「逆」の路数である。逆あってはじめて生あり、逆らわずんば生ずる能わず。順う生機は、恰恰逆退の中に蔵されている。
圖圓者,圓以象天,天之為運,一氣上下,周而復始,循環無端,太極之象,未生出者也。未生之道不可見,可見者,生出之卦。已生逆回,則未生者,即在其中,故卦位震一陽,在左至下;離二陽一陰在左中,兌二陽,在右近上;乾三陽,在左至上。其序則乾一、兌二、離三、震四,卦位自下而上,卦序自上而下,以示逆中有順,順中有逆。其乾一、兌二、離三、震四之逆來者,即巽五、坎六、艮七、坤八也。
図を円形に画くのは、円をもって天に象るからである。天の運行は、一股の気が上下往来し、周して始に復し、循環して起止がない。これが太極の象であり、「まだ生生ぜざる」の境界に属する。まだ生ぜざる道理は見えず、見えるのはすでに生じた卦である。すでに生じた卦より逆って遡求すれば、まだ生ぜざるものがその中に在る。だから卦位上、《震》一陽は左辺の最下に在り、《離》二陽一陰を挟むは左辺の中間に在り、《兌》二陽は右辺の上に寄り、《乾》三陽は左辺の最上に在る。しかしそれらの序数は乾一・兌二・離三・震四である――卦位は下より上に排し、卦序は上より下に数えて、もって逆中に順あり、順中に逆あるを顕示する。乾一・兌二・離三・震四と逆向に対して来るは、すなわち巽五・坎六・艮七・坤八である。
一氣順上,則為震、兌、離、乾之陽;一氣逆下,則為巽、坎、艮、坤之陰。陽退即陰生,陽進即陰退,陰陽總是一氣變化。非一氣之外,別有陰陽。但一氣生機,總在一逆之妙,惟逆故來,逆來則陽氣收斂歸根,而仍得生,故《繫辭傳》曰:數往者順,知來者逆。是故易逆數也。可知先天太易,全在逆上也。
一股の気が順って上昇すれば、《震》《兌》《離》《乾》一路の陽となる。一股の気が逆って下降すれば、《巽》《坎》《艮》《坤》一路の陰となる。陽が一たび退けば陰が生じ、陽が一たび進めば陰が退く。陰陽は総じてこの一股の気の変化であり、決して一気の外に別に陰陽があるのではない。そしてこの一股の気の生機は、全て「逆」の一字の妙に在る。唯逆なるがゆえに、陽気は帰り来ることを得、逆って帰れば、陽気は収斂して根に帰し、因って依然として生ずる能う。だから《易・繫辞伝》にいう。已往の事を数るるは順推し、未来の事を知るは逆推す。故に《易》は逆に数る、と。これより知るべし、先天太易の学問は全て「逆」の一字に落ちる、と。
卦位順生,卦序逆序,其意深哉。不特八卦如是,即六十四卦方圓圖,亦無不如是。圓圖即八卦相蕩之道。相蕩者,一卦蕩而行八卦之氣,八卦相蕩,而行六十四卦之氣,非八卦之外,別有六十四卦。六十四卦,無非八卦運用,八卦總是一陰一陽運用,一陰一陽運用,總是一氣逆順運用耳。
卦位は順って生ずるのに、卦序は逆って排する。ここの用意は深い。八卦のみならず、六十四卦の方図・円図も皆この如し。円図が講ずるはまさに八卦が互いに推盪する道理である。いわゆる相盪とは、一つの卦が推盪して八卦の気を行遍し、八卦が互いに推盪して六十四卦の気を行遍することであり、決して八卦の外に別に六十四卦があるのではない。六十四卦は八卦の運用に過ぎず、八卦は総じて一陰一陽の運用であり、一陰一陽の運用は、総じてもただ一股の気が逆行し順行する運用にすぎない。
圓圖方圖,仍是八卦之氣,惟方圖乾西北,坤東南,以乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八斜行。二圖似不相同,但圓以象天,方以象地,上者為陽,下者為陰。地,西北高而東南低,高即陽,低即陰也。方亦以亁一、兌二序之者,易道之逆道也。千變萬化,總是一逆,無有二理,妙哉!
円図と方図が用いるのは依然として八卦の気である。ただ方図は《乾》を西北に置き、《坤》を東南に置き、乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八と斜めに排し下る。二つの図は見た目は同じではないが、円は天に象り、方は地に象る。上に在るを陽とし、下に在るを陰とする。大地は西北が高く東南が低く、高きはすなわち陽、低きはすなわち陰である。方図もまた照样乾一・兌二の次序を用いて排する。これがまさに易道のあの「逆」の路である。千変万化、総じてただ一つの「逆」の字であり、第二の道理はない。まことに奇妙である。
邵子移方圖於圓圖之中,大得羲皇心傳矣。蓋羲皇圓圖,仰觀於天而畫,方圖俯法於地而畫,地本無為,因受天之氣而有為。天之氣五運也,地之氣六氣也,天運入於地氣之中,則甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸,行於子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥之位;金、木、水、火、土五行之氣,化而為風、寒、暑、溼、燥、火矣。
邵雍が方図を円図の当中に移したのは、大いに伏羲の心伝を領会したと言える。伏羲の円図は仰いで天象を観て画いたものであり、方図は俯して地理を察して画いたものであるからである。地は本来無為であるが、天の気を承受したがゆえに作為がある。天の気は「五運」、地の気は「六気」である。天の運数が地の気の中に入ると、ここにおいて甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸という十天干が、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥という十二地支の位次の上を行き走る。金・木・水・火・土の五行の気も、また化して風・寒・暑・湿・燥・火という六気となる。
圓以外運之,方以內生之,天氣動而地氣靜,一氣往來,以乾坤為包羅,以六爻為變化。陽逆則陰生,陽順則陰退,四時成而百物生,先天造化之道,於此了了。但這個內方外圓、天動地靜之道,還有秘密難言處,羲皇不能明示於人,只以六十四卦列為方圓二圖而已。邵子亦不能筆書於人,只以方圓二圖,合為內方外圓一圖而已。
円は外に在って運転し、方は内に在って生発する。天気は動いて地気は静、一股の気がその間を往来し、《乾》《坤》両卦をもって包羅の框架とし、六爻をもって変化の機関とする。陽が逆行すれば則ち陰が生じ、陽が順行すれば則ち陰が退き、四時はここに因って成り、百物はここに因って生ず――先天造化の道理はここに至って一目瞭然である。しかしこの内方外円・天動地静の道理には、なお言い難い秘密の処がある。伏羲は明らかに人に指示することができず、ただ六十四卦を方円両図に排するよりほかなく、邵雍も筆を落して人に写すことができず、ただ方円両図を合して内方外円の一図とするよりほかなかった。
羲皇非不欲示也,示之不過以卦為圖,其於不可卦、不可圖者,不能示也。邵子非不欲書也,書之不過以內方外圓圖之,其於不能方圓、不拘方圓之所以然者,不能書也。
伏羲は指示を肯んじなかったのではなく、ただ彼の指示し得るところが卦を用いて図を画くに過ぎなかった。卦を用いて表せず図を用いて画出せぬ部分に至っては、彼は指示することができなかったのである。邵雍もまた写すことを肯んじなかったのではなく、ただ彼の写し得るところが内方外円の図に画くに過ぎなかった。方円を用いて表せず、また方円の拘限を受けぬ所以然の処に至っては、彼は写し出すことができなかったのである。
然有卦有圖,其不能示、不能書者,可於卦圖推之。方圓八卦,交錯十六卦,十字正中處X,即是太極,為陰陽出入之門戶,陰亦在此生,陽亦在此生,四象和合在此,五行攢簇在此,故震、巽一陰一陽,卦居中。如圖書中五之義,惟其有此太極,故陰陽有生有成,有分有合,有動有靜。
ただしすでに卦あり図あれば、あの指示し得ず書写し得ぬものも、卦図から推求し出すことができる。方図と円図の八卦は交錯して十六卦を成し、十字に交叉する正中のあの一処が、すなわち太極であり、陰陽出入の門戸である。陰はここに生じ、陽もここに生ず。四象はここに和合し、五行はここに攅聚する。だから《震》一陽・《巽》一陰というこの一対の卦が正しく中央に居り、河図洛書中央のあの「五」の意と同じである。まさにこの太極があるがゆえに、陰陽は生あり成あり、分あり合あり、動あり静あるのである。
陽自西北而逆退於中央,生氣在中也;陽自中央而順往於東南,陰氣在外也。陰為賓而陽為主,以陽統陰,以陰順陽,陰隨乎陽之進退以為進退,此方之義也。
陽は西北方より逆って中央に退返する。これは生気が中間に収まることである。陽は中央より順って東南に走向する。これは陰気が外面に散ずることである。陰は客、陽は主。陽を用いて陰を統攝し、陰をして陽に順従せしめ、陰が陽の進退に随って進退する――これが方図の用意である。
圓圖左陽升、右陰降,陰來交陽,一陰生於天上;陽來交陰,一陰生於地下。陽生、陰生,皆在圖之正中。圖象天之一氣上下,上而陽,下而陰,象一氣運陰陽。其中陰陽相交處,即太極一氣也。太極即一氣,一氣即太極。以體言,則為太極,以用言,則為一氣。
円図上で左辺は陽の升、右辺は陰の降である。陰が来たりて陽に交合すれば、一陰はすなわち天上に生ずる。これは《乾》の下に《巽》を生ずることである。陽が来たりて陰に交合すれば、一陽はすなわち地下に生ずる(原書はここを「一陰」と作す。伝写の誤りであろう)。これは《坤》の下に《震》を生ずることである。陽の生・陰の生は、皆図の正中に発生する。図の取る象は、天の一股の気が上下往来するもので、上昇するを陽とし、下降するを陰とし、一気が陰陽を運転することを表示する。その中の陰陽交会する所が、すなわち太極一気である。太極はすなわち一気、一気はすなわち太極。本体より言えば太極と呼び、作用より言えば一気と呼ぶ。
時陽則陽,時陰則陰,時上則上,時下則下,陽而陰,陰而陽,一氣活活潑潑,有無不立,開闔自然,皆在當中一點子運用。這一點子,即是造化爐、陰陽窟。羲皇不能明示者,即此。邵子不能明書者,即此。
陽たるべき時は則ち陽、陰たるべき時は則ち陰。上昇すべきは則ち上昇、下降すべきは則ち下降。陽より陰に転じ、陰より陽に転じ、一股の気は活々潑々として、有と無のいずれも安立し得ず、開合は全て自然より出、全て正中のあの一点の上に運用される。この一点が、すなわち「造化炉」(造化が生成する丹炉)、「陰陽窟」(陰陽が出入する窟穴)である。伏羲が明らかに指示し得なかったのはこのものであり、邵雍が明らかに写し出せなかったのもまたこのものである。
學者能於方圖十字當頭上知其根由,圓圖乾坤交代處,悟得實跡,即於十字當頭立定腳根,於當中一點子修持性命。方以治內,圓以應外,以太極一氣為體,以四象八卦為用。圓中有方,方外有圓,方圓不拘,吾身自有羲皇六十四卦。
学者がもし方図の十字交叉の正当中にその根由を看出し、円図の《乾》《坤》交接更替する所に実在の下手処を悟出し、すなわちこの十字の正中に脚跟を立定し、正中のあの一点の上に性命を修持すれば。方を用いて内心を治理し、円を用いて外事を応接し、太極一気をもって本体とし、四象八卦をもって作用とする。円の中に方あり、方の外に円あり、方と円と何れも拘泥しなければ、我がこの身子の裡に自ら一部の伏羲の六十四卦がある。
方圓二圖,不必泥文執象,可以得意忘言,活活潑潑的矣。但方圓著重處,總在能逆,逆則生,順則死,順中之生有限,逆中之生無窮,有生則不生,無生則長生,一逆一順,天地懸遠。羲皇序出逆數之象,宣聖釋出逆數之理,邵子注出未生之卦,其易為逆道也無疑。
方図・円図という二幅の図に対しては、必ずしも文字を死に拘泥し物象を執着せずとも、ただ意思を領会して言語を忘るれば、活々潑々となる。そして方円両図の着重する処は、総じて一つの「能く逆らう」に在る。逆って走れば生、順って走れば死。順中の生は有限、逆中の生は無窮。生ずべき形迹あるは反って長生する能わず、無生に帰するは反って能く長生する。一逆一順、相差は天地の如く懸遠である。伏羲は逆数の卦象を排出し、孔子は逆数の道理を解釈し、邵雍はまだ生ぜざる卦を注出した。《易》は一条の「逆」の路である。これは疑いの余地がない。
古經云:五行順生,法界火坑,五行顛倒,大地七寶。世之盡性至命者,舍此先天逆道,別無他術矣。逆者何?逆即逆回於父母未生以前本真耳。
古経にいう。五行が順って相生すれば、法界全体がすなわち一つの火坑となる。五行を顛倒すれば、大地は皆七宝となる。世に「性を尽くし命に至らん」とする人は、この一条の先天逆修の路を舎てて、更に別の法門なし。何をか「逆」と謂うや。逆とは、すなわち逆って父母未生我以前のあの本真に回帰するにすぎない。
人秉天地陰陽五行之氣而生,天之陽氣至健,結而為命,地之陰氣至順,凝而為性。有生之初,健順相合,性命一家,性不離命,命不離性,性即命,命即性,所謂天命之謂性。
人は天地陰陽五行の気を禀受して生ずる。天の陽気は至って剛健、凝結して「命」となる。地の陰気は至って柔順、凝聚して「性」となる。剛か生まれた時、健と順は相合し、性命は一家である。性は命を離れず、命は性を離れず、性はすなわち命、命はすなわち性――これが《中庸》のいう「天命之謂性」である。
當此之時,渾然天理,流行不息,先天主事,後天未發,萬有皆空,諸塵不染,一動一靜,皆在太極中運用,故其性動而不至於暴燥,動而巽緩,巽而不過於懦弱,巽而果行,類動合一,亦如雷風相薄也。
この時、渾然として一片の天理、流行して停まず、先天が家を当り、後天はまだ発動せず、万般の現象は皆空で、種種の塵垢も染めず、一動一静皆太極の中に運用される。だからその性情は、動いても暴躁に至らず、動の中に《巽》の和緩を帯びる。和緩であっても懦弱に流れず、和緩の中にまた果決して事を行う能ある――《震》の動と《巽》の入とが一体に合し、まさに先天八卦の裡で雷と風が互いに迫近する如し。
明而不至於自用,明而似陷,陷而不至於昧真,陷而能明,明陷合一,亦如水火不相射也。和而不流於偽妄,和而止所,止而不落於空寂,止而能和,和止合一,亦如山澤通氣也。
明察であっても聡明を自恃せず、明の中に《坎》の沉潜含蔵を帯びる。沉潜であっても真性を埋没せず、沉潜の中にまた光明を生ずる能ある――《離》の明と《坎》の陥とが一体に合し、まさに水と火とが互いに傷害せざるが如し。和悦であっても虚偽妄誕に流れず、和悦の中に《艮》の知止を帯びる。知止であっても枯寂に落ちず、知止の中にまた和悦を保持する能ある――《兌》の和と《艮》の止とが一体に合し、まさに山と沢とが気息相通ずるが如し。
陽也,而有陰藏,陰也,而有陽藏,陽健陰順,陰陽渾成,空空洞洞,中懸黍米寶珠,圓陀陀,光灼灼,淨倮倮,赤灑灑,不識不知,順帝之則所謂率性之謂道也。
陽でありながら、裡面に陰を蔵す。陰でありながら、裡面に陽を蔵す。陽は剛健を主り、陰は柔順を主り、陰陽は渾然として合成し、空空洞洞として、当中に黍米ほどの大きさの宝珠一顆を懸ぐ。円滾滾として、光燦燦として、乾乾浄浄として、赤条々として挂碍なし。識を用いず知を用いず、自然に天帝の法則に合す――これが《中庸》のいう「性に率うを道と謂う」である。
道者何?即太乙含真氣,不假作為,從容中道,真空妙有,至善無惡之謂。至善無惡,則是善之極,無滲漏,無內外,無人我,無修證,無配對,一靈真性,炯炯不昧,非色非空,即色即空,非有非無,即有即無,色空如一,有無不立,純是天機,絕無人機,生氣常存,雖有仁義禮智之性,而無仁義禮智之形,不仁而至仁,不義而至義,不禮而至禮,不智而至智,即仁、即義、即禮、即智,一善可以該四德,一氣可以該萬法,更何有五物、五賊之滓質?
何をか「道」と謂うや。すなわち「太乙真気を含む」――先天真一の気が中に含蔵し、人為造作を假借せず、従容自在にして自ら中道に合し、真空の中に妙有を含み、純善にして悪なし。純善無悪とは、すなわち善が極処に至ったことである。渗漏なく、内外なく、人我なく、修というべきものなく証というべきものなく、また対待配偶もなし。一点の霊明真性は炯炯として昧れず、色でもなく空でもなく、また即色即空、有でもなく無でもなく、また即有即無。色と空とは渾然一体、有と無とは倶に安立し得ず、純に天然の機括、人為の機心を絶し、生気は常に存して失われない。仁義礼智の本性を具備するも、仁義礼智の形迹を見ず。刻意に仁を為さずして仁極まり、刻意に義を為さずして義極まり、刻意に礼を為さずして礼極まり、刻意に智を為さずして智極まる。当下に則ち仁、則ち義、則ち礼、則ち智である。一つの「善」の字をもって四徳を全て包み、一股の気をもって万法を全て包み得、どこにまだ五物・五賊あの渣滓雑質があろうか。
此所謂未生出者也。未生出者,天真在內,未散於外,即本來面目,即聖賢種子,即仙佛懷胎。這個面目、種子、懷胎,人人具是,個個圓成,處聖不增,處凡不減,聖凡同途,及其先天氣足,後天潛生,陰氣用亊,精、神、魂、魄、意俱起,聖凡即分矣。於此,而能保守此本來面目者,惟天縱之聖人能之,一切常人未有不棄真入假,自傷其性命者。
これがいわゆる「まだ生ぜざる」の境界である。まだ生ぜざる時、天然の真機は裡面に収められ、外面に散じ去らず、これが「本来の面目」であり、成聖成賢の種子であり、成仙成仏の胚胎である。この面目・この種子・この胚胎は、人人が具備し、个个が円満している。聖人の身上に多くする一分なく、凡夫の身上に少なくする一分なく、聖と凡とは本来同じ一条の路を歩む。先天の気が充足し後天が暗々裡に生出し、陰気が家を掌り始め、精・神・魂・魄・意が一斉に興起するに及んで、聖と凡とはここに分道する。この関口の上でなお本来の面目を保守し得る者は、天生の聖人のみ為し得、一切の普通人は、真を丢棄し偽に投入せず、自らその性命を損傷せざる者はない。
古來聖師,大慈大悲,以抱一無為之道,留於後世,蓋欲人人成道,個個了真耳。一者,先天真一之氣,即陰陽混合不二之氣,即性命凝結不散之氣。此氣在人身中,四大不著,五行不到,無形無象,至虛至靈,活活潑潑的,號日谷神。此神主宰萬象,掌握陰陽,所云谷神不死,是謂元牝。元牝之門,是謂天地根心。
古来の聖師の大慈大悲が「抱一無為」の道理を後世に留めたは、無非は人人皆成道し、个个皆その真性を了えしめんと欲するのみ。いわゆる「一」とは、すなわち先天真一の気、すなわち陰陽が混合して一となり二に分作せぬ気、すなわち性命が凝結して一処に在りて渙散せぬ気である。この股の気は人身の中に在り、地水火風の四大は粘着し得ず、五行はその処に至らず、無形無象、極虚極霊、活々潑々として、名づけて「谷神」と曰う。この神は万象を主宰し陰陽を掌握する。すなわち《老子》のいう「谷神は死せず、是を元牝と謂う。元牝の門、是を天地の根と謂う」というあの天地根本の心である。
抱者,持守也。抱一者,即持守此一氣,綿綿常存而不失,所云守黃庭、養谷神也。但抱一非空空無為之說,乃逆退先天真陽,不為後天假陰所傷也。逆退真陽,自有真陰溫養,真陰真陽相會,健順合,元牝交,動不離靜,靜不離動,自有天然真火,爐中赫赫長紅,先天漸凝,後天漸化,谷神堅固,即成無漏真人。
「抱」とはすなわち持守である。いわゆる「抱一」とは、すなわちこの一股の気を持守し、綿綿として断えず常に存して失わぬこと、すなわち丹家のいう「黄庭を守り、谷神を養う」である。しかし抱一は空しく坐って何事も幹さぬことではなく、「先天真陽」(污染を受けぬ本元の陽気)を逆って収め退けて帰し、「後天仮陰」(生身以後の陰濁の気)にそれを損傷させぬことである。真陽が逆退して帰れば、自然に「真陰」(先天純静の陰)が来たりてこれを温養する。真陰真陽が会合し、剛健と柔順とが相合し、元牝が相交り、動中に静を離れず、静中に動を離れず、自然に天然の真火が丹炉の中に赫赫として長く紅し。先天の気は漸漸に凝結し、後天の気は漸漸に化し尽くし、谷神は堅固にして揺らがず、すなわち渗漏なき真人となる。
所謂要得谷神長不死,須憑元牝立根基。真精既返黃金屋,一顆靈光永不離也。真精、靈光,皆谷神之別名。靈光不離,即谷神不死,谷神不死,則得長生矣。
丹経のいうところ。谷神をして長く死せざらんと欲せば、必ず元牝というこの門戸に憑って根基を立つべし。真精すでに黄金屋(丹田本位)に返れば、あの一顆の霊光は永く復た離散せず――講ずるはまさにこの事である。「真精」「霊光」は皆谷神の別名である。霊光が離散せざれば、すなわち谷神死せず。谷神死せざれば、すなわち長生を得る。
是谷也,在圓圖,則乾坤中虛處是;在方圖,則十字中分處是;在人身,則四象和合處是。是神也,在圓圖,則乾坤交代處是;在方圖,則十字交接處是;在人身,則四象動靜處是。有谷則神存,失谷則神亡,生之在此,死之在此,陰生在此,陽長在此,古人號曰生門、死戶,又曰造化爐、陰陽戶。儒曰道義之門,釋曰不二法門,道曰眾妙之門。總而言之曰這個而已。
この「谷」とは、円図上では《乾》《坤》の当中のあの一段の空虚処であり、方図上では十字正中の分界処であり、人の身上では四象の和合する処である。この「神」とは、円図上では《乾》《坤》の交接更替する処、方図上では十字の交叉する処、人の身上では四象動静の機の在る処である。谷あれば則ち神存し、谷失えば則ち神亡す。生はここにあり、死はここにあり、陰はここに生じ、陽はここに長ず。古人はこれを「生門」「死戸」と呼び、また「造化炉」「陰陽戸」と呼ぶ。儒家はこれを「道義の門」と呼び、仏家は「不二法門」と呼び、道家は「衆妙の門」と呼ぶ。総じて言えば、ただ「これ」と呼ぶのみである。
若有上智者得遇明師,指示這個端的,逆而修之,聖胎現成,不使陽極生陰,直登彼岸,再加向上工夫,煉神還虛,逆於父母未生以前面目,打破虛空,跳出陰陽之外,聖而不可知之之謂神矣。噫!順去死,逆去活,往往教君尋不著,不遇真師,逆之一宇,豈易知哉!
もし上等の智慧ある人が明師に遇い、「これ」の真実の下落を指点されて、彼が逆って修して行けば、聖胎は自然に現成し、陽をして極処に至ってまた陰を生ぜしめず、直ちに彼岸に登る。さらに一層向上の工夫を加え、「神を錬して虚に還し」、逆って父母未生我以前の本来の面目に回帰し、虚空を打破し、陰陽の外に跳出すれば、すなわち「聖にして測知すべからざるを神と謂う」である。ああ、順って走るは死、逆って走るは活、この句は往々にして汝をして門路を尋ね得ざらしむ。真師に遇わずんば、単に一つの「逆」の字、どこが容易に解せるや。
文王後天八卦
文王索生八卦圖,文王後天八卦方位,後天順行造化圖,後天逆運變化圖,金木交併圖,坎離顛倒圖,乾坤顛倒圖,解脫本面。
この節は全部で八幅の図を列ねる。「文王索生八卦図」は《乾》《坤》の父母が互いに求索して六つの子女卦を生ずるを画く。「文王後天八卦方位」は後天八卦の方位排列を画く。「後天順行造化図」は後天が順って走り、陽消陰長して生老病死に至る過程を画く。「後天逆運変化図」は逆って修め帰り、後天の中に先天を返す次第を画く。「金木交并図」は《兌》金と《震》木とが相合し、性情合一の工夫を画く。「坎離顛倒図」は《坎》中の陽を抽き《離》中の陰を填むる工夫を画く。「乾坤顛倒図」は《乾》《坤》が位に復し、健順が元に帰する景象を画く。「解脱本面」は最後に一切の束縛を解脱し、本来の面目を露出する境地を画く。
文王後天八卦,仍是羲皇所畫之卦,不過於已成卦中,看出有此一番道理,故變其卦之義,卦之氣,發羲皇未發,非強作也。如乾為老陽,乃諸陽之宗,為父。坤為老陰,乃群陰之主,為母。
文王の後天八卦が用いるのは、依然として伏羲の画いたあの卦々であり、ただすでに画成した卦の裡に、なおこの一層の道理あるを看出したがゆえに、卦の意義と卦の気脈とを変換し、伏羲の発揮せざる所を発揮したのであって、強いて造作したのではない。例えば《乾》は老陽であり、衆陽の宗主であるから父とする。《坤》は老陰であり、群陰の主宰であるから母とする。
父母相配,陰陽相交,必生男女,故乾一索坤,得坤之初爻而生巽,為長女;坤一索乾,得乾之初爻而生震,為長男。乾再索坤,得坤之中爻而生離,為中女;坤再索乾,得乾之中爻而生坎,為中男。乾三索坤,得坤之上爻生兌,為少女;坤三索乾,得乾之上爻而生艮,為少男。
父母相配し、陰陽相交れば、必ず児女を生ず。だから《乾》が第一次《坤》に向かって求索し、《坤》の初爻(陰爻)を取得して《巽》を生ずれば、長女となる。《坤》が第一次《乾》に向かって求索し、《乾》の初爻(陽爻)を取得して《震》を生ずれば、長男となる。《乾》が第二次《坤》に向かって求索し、《坤》の中爻を取得して《離》を生ずれば、中女となる。《坤》が第二次《乾》に向かって求索し、《乾》の中爻を取得して《坎》を生ずれば、中男となる。《乾》が第三次《坤》に向かって求索し、《坤》の上爻を取得して《兌》を生ずれば、少女となる。《坤》が第三次《乾》に向かって求索し、《乾》の上爻を取得して《艮》を生ずれば、少男となる。
乾索坤之三陰,陽變為陰而生三女;坤索乾之三陽,陰變為陽而生三男。男女既生,於是男從父而女從母,乾統三男,居於東北;坤統三女,居於西南。乾老父三陽真氣,為三男所得,健德收斂,故得藏於西北寒盛之方;坤老母三陰真氣,為三女所得,順性失常,故遷於西南殺機之鄉。
《乾》が《坤》に向かって求めて三つの陰爻を得、陽位が陰に変じて三人の娘を生じ、《坤》が《乾》に向かって求めて三つの陽爻を得、陰位が陽に変じて三人の息子を生じた。児女がすでに生じると、ここにおいて息子は父に従い、娘は母に従う。《乾》は三つの男卦を統領して東北の一帯に居り、《坤》は三つの女卦を統領して西南の一帯に居る。老父《乾》の三陽の真気は三人の息子に分け取られ、剛健の徳は収斂して顕れず、だから西北の寒気最も盛んな方位に蔵れるほかない。老母《坤》の三陰の真気は三人の娘に分け取られ、柔順の性は常度を失い、だから西南の粛殺の機を主る所に遷った。
離得坤之中陰,陰麗陽中,陰借陽而生明,故居正南火旺之方。坎得乾之中陽,陽陷陰中,陽入陰而生潮,故居正北水旺之方。
《離》は《坤》の中間の一陰爻を得て、陰が両陽の中に附麗し、陰が陽を借りて光明を生ずるから、正南の火気最も旺な方位に居る。《坎》は《乾》の中間の一陽爻を得て、陽が両陰の中に陥落し、陽が陰に入って潮汐の漲落を生ずるから、正北の水気最も旺な方位に居る。
震得乾之初陽,初陽主生長,故居正東木旺之方。兌得坤之末陰,末陰主消化,故居正西金旺之方。艮得亁之末陽,末陽主靜養,故居東北陽弱之方。巽得坤之初陰,初陰主潛進,故居東南陽盛之方。
《震》は《乾》の初爻の陽を得て、初陽は生発長養を主管するから、正東の木気最も旺な方位に居る。《兌》は《坤》の上爻の陰を得て、末陰は消損化尽を主管するから、正西の金気最も旺な方位に居る。《艮》は《乾》の上爻の陽を得て、末陽は安静休養を主管するから、東北の陽気微弱な方位に居る。《巽》は《坤》の初爻の陰を得て、初陰は潜蔵漸進を主管するから、東南の陽気正に盛んな方位に居る。
乾、坎、艮、震屬陽,造生萬物;巽、離、坤、兌屬陰,化成萬物。父母男女,自相配合,以行卦氣,後天六十四卦亦於此而生。六十四卦生,造之化之,生之成之,造而又化,化而又造,生而又成,成而又生,消息盈虛,無有停息,此已生出者,故謂後天。後天者,順生之道也。而逆運之道亦在內。
《乾》《坎》《艮》《震》は陽に属し、万物を創造生発する責めを負う。《巽》《離》《坤》《兌》は陰に属し、万物を化育成就する責めを負う。父母と児女が各々配合して卦気を運行し、後天の六十四卦もまたここから生ずる。六十四卦が一たび生産すれば、造あり化あり、生あり成あり。造りてまた化し、化してまた造り、生じてまた成り、成りてまた生ず。消長盈虚、停歇の時なし。これらは皆「すでに生出した」一面に属するから、「後天」と呼ばれる。後天とは、順って万物を生出する路であり、そして逆って修め返る路もまたこの中に蔵されている。
離本陽而反為女者,外陽而內陰,陰居中位,真陰也。坎本陰而反為男者,外陰而內陽,陽居中位,真陽也。外陽者,後天之陽;內陰者,先天之陰;外陰者,後天之陰,內陽者,先天之陽。先天是主,後天是賓,坎離輻輳,水火相濟,寒暑有時,故足以代乾坤而行造化。
《離》は本来陽卦であるのに、反って女と算えられるのは、その外の二爻が陽で裏の一爻が陰だからであり、この中位に居る陰こそまさに「真陰」である。《坎》は本来陰卦であるのに、反って男と算えられるのは、その外の二爻が陰で裏の一爻が陽だからであり、この中位に居る陽こそまさに「真陽」である。外の陽は後天の陽、裏の陰は先天の陰、外の陰は後天の陰、裏の陽は先天の陽である。先天は主人、後天は客人である。《坎》《離》が輻湊して相聚まり、水火が互いに調済し、寒暑が往来して節があるから、《乾》《坤》に代わって造化を推行するに足る。
震,陰多陽少,而為男者,震乃陽氣方升。陽氣升而足以破陰氣。兌,陽多陰少,而為女者,兌為陰氣外現。陰氣現而足以滅陽氣。震為生機,兌為殺機,金木相併,生殺分明,故足以代乾坤而成造化。
《震》卦は陰爻多く陽爻少ないのに、男と算えられるのは、《震》が初陽の剛かに上昇するもので、陽気が一たび升ればすなわち陰気を冲破するに足るからである。《兌》卦は陽爻多く陰爻少ないのに、女と算えられるのは、《兌》が陰気を外に顕露するもので、陰気が一たび現れればすなわち陽気を消滅するに足るからである。《震》は生機を代表し、《兌》は殺機を代表する。《兌》金と《震》木とが両下相合すれば、生と殺とが分明に分かれるから、《乾》《坤》に代わって造化を成就するに足る。
乾與巽交不合,坤與艮交不正。乾老陽,坤老陰,不能生育,艮僅交接巽陽,巽只順生其陰,故八卦方位,乾坤艮巽居於四隅,坎離震兌居於四正也。此後天逆順之道。聖賢盡性至命之學,亦不外此。
《乾》と《巽》とは相交っても契合せず、《坤》と《艮》とは相交っても端正でない。《乾》は老陽、《坤》は老陰で、すでに生育することができない。《艮》はただ《巽》の余した陽に接続し得るのみで、《巽》もまたただそれを生ずる陰に順うのみである。だから後天八卦の方位は、《乾》《坤》《艮》《巽》を四隅(西北・西南・東北・東南)に排し、《坎》《離》《震》《兌》を四正(正北・正南・正東・正西)に排する。これが後天に逆あり順ある道理であり、聖賢の「性を尽くし命に至る」学問もまたこの範囲を出ない。
人之本來,陰陽混成,性命一家,健順相合,純是先天,一交後天,真中有假,假陷其真,健體有虧,順體有傷,性命分為兩處,於是健德不彰,靈明而誤用,元神昧而識神出矣。順德不真,昏暗而有險,元精藏而濁精生矣。如圖坎離居中正位,乾移西北,坤遷西南也。
人の本来の様子は、陰と陽とが渾然として一片に合成し、「性」(心性)と「命」(精気)とが一家に同居し、乾の「健」と坤の「順」とが彼此契合して、純に「先天」の境界である。一旦「後天」に交じり入れば、真の裡に偽が攙じ込み、偽がまた真を陥没する。剛健の本体に虧欠が生じ、柔順の本体が損傷を受け、性と命とが二処に分かれて安放される。ここにおいて「健徳」はもはや彰顕せず――本有の霊明が反って誤用され、「元神」(先天の思索を仮らぬ自然の覚照)は昏昧し、「識神」(後天の分別計較する心思)が便乗して出る。「順徳」もまたもはや真純でなく――一片昏暗にして暗に凶険を蔵し、「元精」(先天真精)は深蔵して露われず、濁精が便乗して滋生する。後天八卦図に落とせば、すなわち坎・離の二卦が南北正中の位を占め、乾卦は西北の一隅に押しやられ、坤卦は西南の一隅に遷されたのである。
後天精神用事,動而暴燥,氣性發矣。和而同流,妄情起矣。如圖震居於正東卯地,陽變為陰,兌居於正西酉地,和變為殺也。精神性情變幻,陰氣潛入而進,陽氣衰弱而止,如圖巽居東南陽旺之地,艮居東北陽暗之鄉也。
後天の精と神とが一旦家を当って主を為せば、一動すれば急躁暴烈となり、「気性」(禀受の血気脾性)が発作する。一味随和して流俗と汚を同じくすれば、「妄情」(虚妄の情識)が生起する。図に落とせば、すなわち震卦が正東の卯位に坐り、本来純陽の震が反って陰に変じ、兌卦が正西の酉位に坐り、本来和悦の兌が反って粛殺に変ずる。精・神・性・情がこのように変幻して定まらなければ、陰気は悄悄と侵入して歩歩進逼し、陽気は日々衰弱して停滞する。図に落とせば、すなわち巽卦が東南のこの陽気正に旺な地方を占め、艮卦が東北のこの陽気暗晦の角落を占める。
噫!後天一發,陰漸長,陽漸消,不至消盡其陽而不止。圖之乾遇巽而垢,坤逢艮而剝,離上坎下,火水不濟。震東兌西,雷澤歸妹之所由來也。是道也,天地自然順行之道,陽極必陰,陰極必死,亦人之無可如何者。但聖人又有逆運之道,善能竊陰陽、奪造化、轉乾坤、扭氣機於後天中返先天,死裡逃生,其道何在?仍不外乎後天八卦之理。
ああ、後天が一旦発動すれば、陰は日々生長し、陽は日々消減し、陽気を耗尽せずんば決して罷まない。図上で乾卦が巽卦に碰上れば、すなわち《姤》卦となる――一陰が悄然として五陽の下に生ず。坤卦が艮卦に碰上れば、すなわち《剥》卦となる――一陽が孤懸して五陰の上に在る。離が上に在り坎が下に在れば、火性は炎上し水性は潤下し、両なりに交わらず、まさに《未済》の象である。震が東に在り兌が西に在れば、長男少女がその次序を失い、これが《帰妹》卦の由来である。この一套は、天地自然の「順行」の路数である。陽は極点に至れば必ず陰に転じ、陰は極点に至れば必ず死に趨く。これもまた人力の奈何すべからざる事である。しかし聖人には別に一套の「逆運」の工夫があり、善く陰陽を窃取し、造化を奪回し、乾坤を扭転し、気機を撥動して、後天の裡に先天を返し、死路の中から生路を逃出す。この路はどこに在るか。依然として後天八卦の道理を跳出さない。
圖之坎、離、震、兌居於四正,乾、坤、艮、巽居於四隅,此中天機,非師難知。離中一陰,人心是也;坎中一陽,道心是也。道心本是乾家中陽,因交後天,入於坤宮,陽陷陰內,健者不健矣。人心本是坤家中陰,因失先天,入於乾宮,陰竊陽位,順者不順矣。若能虛其心,則人心化。人心化,則陰順而仍還於坤火,返其真矣。若能實其腹,則道心生。道心生,陽則健而仍還於乾,水歸於源矣。
図上、坎・離・震・兌の四卦が東南西北の四つの正位を占め、乾・坤・艮・巽の四卦が四つの角落に退居する。この裡頭の天机は、明師の指点なくば看透了がたい。離卦の中間のあの一画の陰爻は、すなわち「人心」――後天の知見情欲の心である。坎卦の中間のあの一画の陽爻は、すなわち「道心」――先天の良知天理の心である。道心はもともと乾卦の家の裡のあの一画中陽であり、後天に交じり入ったがゆえに、坤宮の中に落ち込み、陽が陰の裡辺に陥れられて、剛健なるものはもはや剛健でなくなった。人心はもともと坤卦の家の裡のあの一画中陰であり、先天を失ったがゆえに、乾宮の中に闖入り、陰が陽の位を窃取して占めて、柔順なるものはもはや柔順でなくなった。もし「その心を虚にする」――胸中の私欲成見を掏空する――ことができれば、人心は自然に化去する。人心が一たび化すれば、陰は分を安んじ順を守り、依然として坤位に退還し、その本真に返回する。もし「その腹を実にする」――腹中の真気を充養する――ことができれば、道心は自然に生発する。道心が一たび生じれば、陽は剛健有力となり、依然として乾位に帰還し、水は便ち源头に流れ返る。
兌為金,他家客氣也。震為木,我家主氣也。震本陽,其中有陰;兌本陰,其中有陽。主氣為客氣所盜,東虛而西實,若於殺中求生,殺氣變而為和氣,金情戀木慈仁,金還其元矣。木性愛金順義,木返其本矣。
兌卦は金に属し、他家の「客気」――外来の侵扰の気である。震卦は木に属し、我が自家の「主気」――本有の主宰の気である。震は本より陽卦であるのに、中に一画の陰を挟み、兌は本より陰卦であるのに、中に一画の陽を含む。自家の主気が外来の客気に盗まれて、ここにおいて東辺は空虚、西辺は充実となる。もし粛殺の中に生機を求める能くば、粛殺の気は転じて和悦の気となる。金の「情」は木の慈仁を愛慕して、金は便ちその本元に回帰する。木の「性」は金の道義に親近して、木は便ちその根本に返回する。
取坎填離,健復本命,借離煉坎,順還本性,以震求兌,健動而能和順;以兌求震,和順而能健動,健順如一,乾坤相合,四象相和,五行攢簇,後天精、神、魂、魄、意歸真,五德五元,渾然圓成,還原返本,金丹有象,所謂「乾坤交媾罷,一點落黃庭」。
「坎を取りて離を填む」とは、坎卦の中間のあの一画の真陽を取り返して、離卦の当中の空缺を填補し、剛健が一たび復すれば、本来の「命」は帰って来る。「離を借りて坎を錬る」とは、離卦の虚明を借りて坎中の沉滞を鍛錬し、柔順が一たび復すれば、本来の「性」は還元する。震を用いて兌を求むるは、剛健に発動してまた和悦柔順し得るがゆえん。兌を用いて震を求むるは、和悦柔順してまた剛健発動し得るがゆえん。健と順とが一体に合し、乾と坤とが重ねて交合し、四象は彼此調和し、五行は攅り聚まりて中に帰し、後天の精・神・魂・魄・意の五者は各々その真に帰り、五徳と五元とは渾然として円満する。還元して本に返り、「金丹」が形象を現出す。これがすなわち丹経のいう「乾坤交媾罷み、一点黄庭に落つ」である。
一點者,丹元也。黃庭者,中央也。丹落中央,陰陽一氣,還我娘生本來面目,基址堅固,所謂「一粒金丹吞入腹,始知我命不由天」。噫!健順一失,性命分離,五行錯亂。健順一復,性命凝結,五行攢簇。一失無不失,一復無不復,後天變化有為之道大矣哉!
いわゆる「一点」とは、「丹元」を指す――金丹が最初に凝成したあの一顆の種子である。いわゆる「黄庭」とは、身中の正当中の処を指す。丹が正中に落ちれば、陰と陽とが一気に合成し、我に娘胎より生下した時の本来の面目を還し、根基はここから穏固となる。これがすなわち丹経のいう「一粒の金丹腹に呑み入れ、はじめて我が命は天に由らざるを知る」である。ああ、健と順とが一旦失守すれば、性と命とは便ち分離し、五行は便ち錯乱する。健と順とが一旦恢復すれば、性と命とは便ち凝結し、五行は便ち攅聚する。一処失守すれば処として失せざるなく、一処恢復すれば処として復せざるなし――後天の裡に変化を作すこの「有為」の道は、実に了不起である。
但還原返本,乾坤相合,只完得前半工夫,還有後半工夫,猶未完的。蓋道至乾坤相合,是將後天已返成先天矣。既返成先天,從此再立鼎爐,別置鉗錘,用無為逆運之道,顛倒乾坤,乾逆退而坤順生,借陰以全陽,溫之養之,用天然真火烹煉,消盡一身後天陰濁之氣,煅成一個金剛不壞之物,從虛無中透出,入於無聲無臭之境,還我未生身以前面目,方是大解大脫,逍遙自在,無拘無束之天矣。
ただし、還元返本・乾坤相合は、ただ前半段の功夫を做し終えたと算えるのみで、後半段はまだ了えていない。乾坤相合のこの歩みに修め至るは、すでに後天を先天に返し成したがゆえんである。すでに先天に返し成した以上、ここより別に鼎炉を立て、別に鉗錘を換え、改めて「無為」の逆運の法を用いる。乾坤を顛倒して、乾をして逆って退蔵させ、坤をして順って生発せしめ、陰気を借りて陽気を保全し、慢慢地に温め養い、「真火」――意念の催迫を仮らぬ自然の火候――を用いて烹錬し、一身の後天の陰濁の気を消磨し尽くして、一個の金剛不壊のものに煅し上げ、虚無の裡より透脱して出で、無声無臭の境界に入り、我に未曾だ出生せざる以前の本来の面目を還す。この歩みに至って、はじめて大解大脱と算え、一片の逍遥自在・無拘無束の天地である。
先後八卦合一図
先天八卦,一氣循環,渾然天理,從太極中流出,乃真體未破之事;後天八卦,分陰分陽,有善有惡,在造化中變動,乃真體已虧之事。
先天八卦は一気の循環・渾然一片の天理で、直ちに太極の裡より流出したものであり、「真体」――人の本来完整無欠の性命本体――がまだ破損せぬ時の事を説く。後天八卦はすなわち陰陽分家し善あり悪あり、造化の流転の中に変動して止まず、真体すでに虧損した後の事を説く。
真體未破,是謂生出者,須當無為。無為之妙,在乎逆中行順,逆藏先天之陽,順化後天之陰,歸於父母未生以前面目,不使陰氣有傷真體也。真體有傷,是已生出者,當須有為,有為之竅,在乎順中用逆,順退後天之陰,逆返先天之陽,歸於娘生本來之面目,務使陽氣還成真體也。
真体のかつて破損せざるは、先天真機のまだ発露せざる類に属し、まさに「無為」の功夫を用いるべきである。無為の妙処は「逆中に順を行う」に在り。逆って先天の陽気を収蔵し、順って後天の陰気を化解し、父母未曾だ我を生ぜざる以前の本来の面目に帰回し、陰気をして真体を傷つけしめぬ。真体のすでに受傷せるは、後天気機のすでに発動せる類に属し、必ず「有為」の功夫を用いなければならない。有為の竅門は「順中に逆を用う」に在り。順って後天の陰気を退去し、逆って先天の陽気を返還し、娘胎が我を生じた時の本来の面目に帰回し、務めて陽気をして重ねて凝聚して真体と成さしむる。
但先天未生出者,猶有分別;後天已生出者,亦有分別。當在胞胎之時,先天陰陽,五行一氣,包含無形無跡不可見。未生出者,及其生身以後,未交後天,不識不知,順帝之則,至善無惡,雖有陰陽五行之性,而無陰陽五行之質,一氣渾然,亦未生出者也。
ただし、先天の「未だ生ぜざる者」の中にもなお分別があり、後天の「已に生じた者」の中にもまた分別がある。まだ母胎の裡に在る時、先天の陰陽五行は合して一気を為し、内に包裹して、無形無迹・視るべからず摸るべからず――これが一種の未だ生ぜざる者である。出生以後、まだ後天に交じり入らず、渾渾噩噩として、識らず知らず、自然に天則に合す――《詩経・大雅・皇矣》のいう「識らず知らず、帝の則に順う」――純に至善にして悪なく、すでに陰陽五行の「性」を具備するも、まだ陰陽五行の「質」を結成せず、一気渾然――これもまた一種の未だ生ぜざる者である。
先天逆中順行者,即逆藏先天陰陽五行,而歸於胞胎一氣之中,順化後天之陰,而保此一氣也。當生身之初,後天陰陽五行,入於軀殼之中,與先天陰陽五行相合,先天之內,即雜後天之氣。雖後天之氣未發,而形跡已露,如嬰兒善惡剛柔,本於性成,但後天為先天所統攝,性相近耳。此已生出者也。
先天一路のいう「逆中に順を行う」とは、すなわち逆って先天の陰陽五行を収蔵して、胞胎のあの一団の渾然の気の裡に帰回し、同時に順って後天の陰気を化し去り、もってこの一団の気を保するに好し。人が剛か生まれた時、後天の陰陽五行はこの躯殻の中に入り、先天の陰陽五行と攙和して一処に在り、先天の裡面に便ち後天の気を攙じ込んだ。この時後天の気は未だ発作せざるも、形迹はすでに露出した――譬えば嬰児の身上の善悪剛柔は、本より生と倶に来る禀性である。ただ後天がなお先天に統攝されるがゆえに、孔子はただ「性相近なり」と言うのみである。これがすなわち一種の已に生じた者である。
及其先天陽極,交於後天,知識開而靈竅閉,其機已發,大肆張狂,亦已生出者也。後天順中用逆者,即順退已發之陰,歸於初生未發之處,返出先天之陽,以還此初生也。
先天の陽が長じて極処に至り、転じて後天に交じり入るに及んで、知見識慮が一たび開けば、霊明の竅門は便ち閉ざされる。後天の機関すでに発動すれば、便ち大肆に張狂する――これまた一種の已に生じた者である。後天一路のいう「順中に逆を用う」とは、すなわち順ってすでに発作した陰気を退け去り、初生の時の未だ発動せざるあの地步に帰回し、再び先天の陽気を返還して、もってこの初生の本来を還元するに好し。
陽健陰順,復見本來面目,仍是先天後天兩而合一之原物,從此別立乾坤,再造鼎爐,行先天逆中用順之道,即為九還七返大還丹矣。今以先天圖,移於後天圖內者,使知真體未破者,行無為自然之道,以道全形,逆中行順,以化後天之陰;真體已虧者,行有為受化之道,以術退命,順中用逆,以復先天之陽,先後合一,有無兼用,九還七返,歸於大覺,金丹之事了了。
陽は能く剛健し、陰は能く柔順して、重ねて本来の面目を見れば、あれは依然として先天と後天とが合して一を為す原物である。ここより別に乾坤を立て、再造鼎炉して、改めて先天の「逆中に順を用う」の功夫を行えば、すなわちいわゆる「九還七返」の大還丹を成就する。今、先天卦図を後天卦図の裡面に移し入れるは、人をして明白せしめんがためである。真体未だ破損せざるは、「無為自然」この路を走り、大道に憑って形体を保全し、逆中に順を行い、もって後天の陰を化去する。真体すでに虧損せるは、「有為受化」この路を走り、方術に憑って性命を接続し、順中に逆を用い、もって先天の陽を恢復する。先天後天合して一片を成し、「有」と「無」の両法併用して、九還七返、大覚に帰し、金丹この桩の事は便ち了結する。
河図洛書先天後天合一図
何圖形圓,陰陽合一,無為自然之道也。洛書形方,陰陽分位,有為變化之道也。先天形圓,陰陽一氣,用逆全順,亦無為自然之道也。後天形方,陰陽分判,順中用逆,亦有為變化之道也。
河図の形状は円で、陰と陽とが合して一を為す、「無為自然」の路数を講ずる。洛書の形状は方で、陰と陽とが各々方位を占む、「有為変化」の路数を講ずる。先天八卦図の形状は円で、陰陽は共に一気を為し、逆の手段を用いて順の本然を成全するも、また無為自然の路数に属する。後天八卦図の形状は方で、陰陽は判然として分かれ、順行の中に逆を用いるも、また有為変化の路数に属する。
河圖先天,皆以道全形之事;洛書後天,皆以術延命之事。先天後天者,即河圖洛書之註釋。河圖洛書,是先天後天之數,先天後天是河圖洛書之理,數得理而始明,理得數而有本。
河図と先天八卦とは、皆「道をもって形を全うす」――大道に憑ってこの形体を保全する事を講ずる。洛書と後天八卦とは、皆「術をもって命を延ばす」――方術に憑ってこの性命を接続する事を講ずる。先天と後天の両幅の卦図は、実は河図洛書の注解である。河図洛書は先天後天の「数」、先天後天は河図洛書の「理」。数は理を得てはじめて明らかに説き得、理は数を得てはじめて落脚の根基がある。
河圖洛書,相為表裡,先天後天,相為表裡。無洛書,則河圖無變化,無後天,則先天不成全。河圖為洛書之體,洛書為河圖之用。先天為後天之體,後天為先天之用。體用俱備,理數兼該,性命雙修之道,無餘蘊矣。
河図と洛書とは互いに表裏を為し、先天と後天ともまた互いに表裏を為す。洛書なくんば、河図は便ち変化を生出し得ず。後天なくんば、先天もまた円満に修め至ること能わず。河図は洛書の「体」、洛書は河図の「用」。先天は後天の体、後天は先天の用。体と用と倶に備わり、理と数と皆其の内に包含せり。「性命双修」の道理は便ち更に遺漏なし。
今仿邵子內方外圓之圖,移河圖於洛書之中,移先天於後天之中,河圖洛書為一圖,先天後天為一圖,成內圓外方二圖,以變化內圓外方之義。又以四圖合為一圖,以示圖為活圖,理為活理,不得以圖說圖,以卦說卦也。
今、宋代邵雍の内方外円の画法を彷彿して、河図を洛書の中に移し入れ、先天卦位を後天卦位の中に移し入れ、河図洛書を合して一幅と為し、先天後天を合して一幅と為し、内円外方の二幅の図を做出して、もって内円外方彼此変化の意を顕示する。再びこの四幅を併せて一幅と為すは、表明せんと欲するにある。図は活図、理は活理、死に図を摳って図を解すべからず、死に卦を摳って卦を解すべからず、と。
以道全形者,圓成無虧,防危慮險之功,誠之者性也。以術延命者,陰陽錯綜,返本還原之道,明之者教也。內方外圓者,自誠而明,無為而抵有為也;外方內圓者,自明而誠,有為而歸無為也。無為了性,有為了命。了性所以成後天之功,了命所以復先天之氣,先天全,後天化,有無不立,性命俱了,現出父母未生以前面目,露出無始五行不到的本橡。圖書,先後八卦,一以貫之,渾然太極,萬象歸空,陰陽混化,無聲無臭至矣。
「道をもって形を全うす」る人は、本体円満にして虧なく、下す所は防危慮険・保任不失の功夫であり、《中庸》のいわゆる「之を誠にする者」、由りて性より入手する路を走る。「術をもって命を延ばす」人は、陰陽錯綜の中に返本還元の功夫を做し、《中庸》のいわゆる「之を明らかにする者」、由りて教より入手する路を走る。内方外円は「誠より明となる」、無為より出発して有為に抵達す。外方内円は「明より誠となる」、有為より出発して無為に帰す。無為は「了性」、有為は「了命」。了性は後天のこの一段の功夫を成就する所以、了命は先天のあの一点の真気を恢復する所以。先天保全せられ、後天化し尽くせば、「有」と「無」の両辺はもはや執着せず、性と命とは一斉に了結し、父母未生以前の面目は便ち顕現し、无始以来五行も及ばざるあの本象は便ち露出する。河図洛書と先後天八卦とは、一条の道理をもって貫穿して底に至り、渾然として則ち一個の太極。万象は空寂に帰し、陰陽は混化して一を為し、無声無臭、ここに至って便ち到頭である。
中図
儒曰,執中;道曰,守中,釋曰,虛中。中之一字,乃三教聖人之心法,所以修性命而成大道。千經萬典,說來說去,只說的這一字,篆文中字從○、從|,在人即秉□之良,為至善無惡,圓明不昧之物,所謂先天真一之氣者是也。
儒家は「中を執る」と言い、道家は「中を守る」と言い、仏家は「中を虚にす」と言う。「中」この一字は、三教聖人の共同の心法であり、これに憑って性命を修し大道を成す。千経万典、繰り返して説く所は、ただこの一字にすぎない。篆書の「中」の字は一つの円圈「○」と一竪「|」とより構成される。人の身上に落とせば、すなわち天生禀受のあの一点の良知良能、至善にして悪なく、円明にして昏昧ならざるもの、すなわちいわゆる「先天真一之気」である。(原書ここに一字を欠き、方框と作す。臆して補うべからず。)
○中有|,渾然天理,一氣上下,流行不息之義,且|在○之當心,左為陽,右為陰,即河圖左陽右陰。一氣上下之象,薛道光曰:「有物先天地,無名本寂寥,能為萬象主,不逐四時調。」寂寥者,即○。萬象主,即|。至無而含至有,至虛而含至實,故謂中。
円圈の当中に一竪を立つるは、渾然一片の天理・一気上下流行して息まざるの意である。しかもこの一竪は正しく円圈の当心に立ち、竪の左辺は陽に属し右辺は陰に属し、正しく河図の左陽右陰の格局に合し、一気上下往来の象である。宋代の丹家薛道光に四句の詩あり、一様の物ありて天地より先に在り、無名無相・本より寂寥にして、然而万象の主宰を為し、四時の消長に随って更改せず、と。詩中の「寂寥」とは、あの円圈を指す。「万象主」とは、あの一竪を指す。至無の中に至有を含み、至虚の中に至実を含む。だから「中」と呼ばれる。
是中也,不偏不倚,無前無後,無背無面,無頭無尾,非有非無,非色非空,虛圓不測,無象而能主宰萬象,無形而能造化有形,生天生地生人物。在人,非四大一身之中,非中外之中,無方所、無定位,視之不見,聽之不聞,摶之不得。古人推其理而肖其形,強名之曰「十字街」,曰「四會田」,曰「通衢路」,曰「戊己門」,曰「元牝門」,曰「元關竅」,曰「生殺舍」,曰「刑德門」,曰「生死關」,曰「陰陽戶」,曰「性命竅」,曰「天地根」,曰「人獸關」,曰「懸胎鼎」,曰「造化爐」,名號多端,總而言之,曰「中」。
この「中」は、いずれの一辺にも偏せず、いずれの一頭にも倚らず。前後なく、背面なく、頭尾なし。有にも非ず、無にも非ず。色にも非ず、空にも非ず。それは虚霊円融にして測度する由なく、本身無象にして万象を主宰し得、本身無形にして有形を造化し出し、天・地・人・物は皆それより生出す。人の身上に落とせば、それは地・水・火・風四大の結ぶこの肉身裡の某一処に非ず、また「裏辺」が「外辺」に対するあの当中にも非ず。方所なく、定位なく、視るも視るべからず、聴くも聴くべからず、抓むも抓むべからず。古人はその道理を推究しその形状を比擬して、強いてこれに許多の名字を取った。「十字街」と呼び、「四会田」と呼び、「通衢路」と呼び、「戊己門」と呼び、「元牝門」と呼び、「元関竅」と呼び、「生殺舍」と呼び、「刑徳門」と呼び、「生死関」と呼び、「陰陽戸」と呼び、「性命竅」と呼び、「天地根」と呼び、「人獣関」と呼び、「懸胎鼎」と呼び、「造化炉」と呼ぶ。名目は多しと雖も、総じてただ一句の話、「中」と呼ぶのみ。
中也者,天下之大本也,亙古聖賢仙佛,皆從此中生出。其大無外,其小無內,放之則彌六合,卷之則退藏於密,悟之者立躋聖位,迷之者萬劫沉淪。蓋此「中」,乃性命之根,在先天,性命如一,而為中(圖);在後天,中分而為性命(圖),其實後天中返出先夭,性了命凝,性命歸根,仍是一中。
「中」は天下万事万物の大根本であり、古より今に至る聖賢仙仏は、皆この中の裡より生出した。それは大きくして外なく、小さくして内なし。放てば上下四方に弥満し得、収めれば極隠微の処に退蔵し得。それを悟透する者は当下に聖位に登り、それに迷失する者は万劫に沈淪す。元来この中は正に性と命の総根。先天において、性と命とは本より一体、合すればただ一個の中(原書ここに図を附す)。後天に至って、この中は分裂開けて、はじめて性と命の両頭有り(原書ここに図を附す)。実はただ後天の裡に先天を返出さば、性は了結し命は凝聚し、性と命とは一斉に根に帰し、依然として還たあの一個の中である。
老子云:「谷神不死,是謂元牝。元牝之門,是謂天地根。」紫陽云:「要得谷神長不死,須從元牝立根基。」谷神,即中也。元牝為陰陽,即性命也。谷神不死,中含性命,元牝之基,性命成中。守此中者,聖人也;失此中者,凡人也。聖凡之分,只在得失之間耳。
《老子》第六章にいう。「谷神は死せず、是を元牝と謂う。元牝の門、是を天地根と謂う」。宋代の張伯端(号は紫陽)もまた言う。「谷神を得て長く死せざらんと要せば、須く元牝より根基を立つべし」。ここの「谷神」とは、「中」を指す。「元牝」は本より「玄牝」と作す。清人は聖祖の名諱を避けて「玄」を「元」に改作した。一玄一牝は正しく一陽一陰を代表し、人の身上に落とせばすなわち性と命である。谷神死せずとは、この中の裡に性命を含蔵することを説く。元牝基を立つとは、性命合攏してはじめて中と為り成ることを説く。この中を守り得るは便ち聖人、この中を丢くるは便ち凡人。聖と凡の分界は、ただ得と失のこの一線の間に在るのみ。
一切常人,為氣質所拘,為積習所染,性命分居兩處,中有虧損,日虧日損,性亂命搖,神昏氣濁,將中之原物全然失卻。中一有失,性命無本,形雖動而神已喪,焉能長久乎?三教聖人,以中為本者;欲人執守此中,保全性命耳。
一切の尋常人は、皆禀受の気質に拘えられ、日積月累の習気に染汚され、性と命とは二処に分居し、中間のあの「中」は便ち虧損有り。一天天に虧き、一天天に損じ、性情は紊乱し命根は動揺し、精神は昏昧し気息は渾濁し、終に「中」この一件の原物を完全に丢失した。中が一たび失去すれば、性命は便ち根本を没し、形体は猶動き在るも、神は已に喪尽し、どうして長久なるを得んや。三教聖人は皆中をもって根本と為す。正に人をして牢牢としてこの中を守り、もって自己の性命を保全せしめんと欲するに他ならない。
中之一字,為修道者始終之要著,築基在此,採藥在此,烹煉在此,溫養在此,進陽在此,退陰在此,結丹在此,脫丹在此,七返九還,無一不在此。但這個「中」,人不易見,亦不易知,不可以有心求,不可以無心守。有心求之,則落於色相;無心守之,則入於空寂,均非中道。真正中道,非有非無,即有即無,非色非空,即色即空,不落偏,於恍惚中求,於杳冥內尋,庶乎近焉?
「中」この一字は、道を修する人の頭より尾に至る緊要の着落である。根基を打つはここに在り、薬を采るはここに在り、烹錬するはここに在り、温養するはここに在り、「陽火を進める」はここに在り、「陰符を退める」はここに在り、丹を結ぶはここに在り、丹を脱するもここに在り。いわゆる「七返九還」、一歩としてここに在らざるなし。ただこの中は、人が容易に看見し得ず、また容易に知覚し得ず。有心をもって求むべからず、また無心をもって守るべからず。有心をもって求めば、便ち色相に落ち込む。無心をもって守れば、また空寂に堕入る――両頭は倶に中道に非ず。真の中道は、有にも非ず無にも非ず、而してまた即有即無。色にも非ず空にも非ず、而してまた即色即空、一辺にも偏落せず。恍惚惚恍の中に於いてこれを求め、杳杳冥冥の内に於いてこれを尋ぬべし。ここに至ってほぼこれに近づくを得んか。
天下學人,不知此中是個什麼物事,或謂黃庭穴,或謂天谷穴,或謂百會穴,或謂絳宮,或謂明堂,或謂咽喉,或謂兩腎中間,執守幻身穴竅,便謂守中抱一,妄冀長生,不但不能長生,反而促死,哀哉!
天下の道を学ぶ人は、この中が究竟なんのものかを明白せず。ある人は黄庭穴と言い、ある人は天谷穴と言い、ある人は百会穴と言い、ある人は絳宮と言い、ある人は明堂と言い、ある人は咽喉と言い、ある人は両腎の当中と言う――一味にこの幻化肉身の上のある穴竅を死守して、便ち自ら「中を守り一を抱く」と称し、妄にこれに憑って長生せんと想う。結果は但だ長生する能わざるのみならず、反って死期を催近し、悲しむべきかな。
儒曰:「喜、怒、哀、樂之未發,謂之中。」又曰:「不偏不倚之謂中。」道曰:「前弦之後後弦前,藥味平平氣象全。」又曰:「陰陽得類歸交感,二八相當自合親。」釋曰:「吾有一物,上柱天、下柱地,無頭無尾,無背無面。」又曰:「舍利子,色不異空,空不異色,色即是空,空即是色。」此皆言中之實落處也。
儒家は言う。喜・怒・哀・楽の未だ発動せざる時、これを「中」と名づく――《中庸》に語出す。また言う。偏らず倚らざるをはじめて中と呼ぶ――これは朱熹《中庸章句》の訓解である。道家は言う。上弦過ぎ後・下弦以前、薬味は平和均匀にして、気象はじめて周全と算う。また言う。陰と陽と各々その類を得て相交り相感じ、二と八とは分量相当して自然親合す――皆張伯端《悟真篇》より出で、火候の老ならず嫩ならず、陰陽各半なるあの中点を講ず。仏家は言う。我に一件の物あり、上は天を撑え下は地を撑え、頭尾なく、背面なし――これは禅門の機語。また言う。舎利子よ、色と空とは並びて両様なく、空と色ともまた分別なく、色は則ちこれ空、空は則ちこれ色――《般若心経》より出づ。これらの話は、皆「中」の実実在在の落脚処を説く。
若人能於此等處留心,極深研幾,就正於真師,認得真正之中。將柱扙子穿在中鼻孔內,主登彼岸,絕不費力,從此直進大路,緩步而行,終有到家之日,經云:「得其一,萬事畢。」豈虛語哉!
もし人有りてこれらの処に心を留め、その中の幾微の処を深く鑽研し透り、再び持ちて真の明師に向かって印証し、あの真の「中」を認得せば、譬えば拄杖を牛の鼻孔に穿ち入れ、牽きてこれを行くが如く、彼岸に登らんと要すれば絶えて力を費さず。ここより一直に大路に走上り、慢慢として行き去り、終に家に到るの一日あり。道経にいう。「その一を得れば、万事畢わる」と。これ豈に空話ならんや。
金丹図
悟真曰:「道自虛無生一氣,便從一氣產陰陽,陰陽再合成三體,三體重生萬物張。」
張伯端《悟真篇》にいう。大道は虚無の中より一気を生じ、再びこの一気より陰と陽とを分け出し、陰陽交合して天・地・人三才の体を成し、三体重々相生して、万物は便ち鋪張開く。
所謂虛無一氣者,乃天地之根,陰陽之宗,萬物之祖,即金丹是也。世人不知金丹是何物事,皆於一身有形有象處猜量,或以為金石煅煉而成,或以為男女氣血而結,或以為心腎相交而凝,或以為精神相聚而有,或以為在丹田氣海,或以為在黃庭泥丸,或以為在明堂玉枕,或以為在兩腎中間,如此等類不可枚舉,皆是拋磚弄瓦,認假作真。故學道者如牛毛,成道者如麟角。殊不知金者,堅久不壞之義,丹者,圓明無虧之義。丹即本來先天真一之氣,此氣經火煅煉,歷劫不壞,故謂金丹。
いわゆる「虚無一気」は、天地の根・陰陽の宗・万物の祖、すなわち「金丹」である。世人は金丹がなんのものかを知らず、一味にこの肉身の有形有象の処に乱猜する。ある者は金石に焼錬して出でたると為し、ある者は男女の気血が結成したると為し、ある者は心火腎水が相交り凝住したると為し、ある者は精と神とが攅聚してはじめて有ると為す。ある者は丹田気海に在りと言い、ある者は黄庭泥丸に在りと言い、ある者は明堂玉枕に在りと言い、ある者は両腎の中間に在りと言う。この類の説法は挙げても挙げ尽くせず、全て是れ磚を抛ち瓦を弄し、偽を真と認作する。だから道を学ぶ人は牛毛の如く多く、道を成す人は麟角の如く少し。彼らはなんぞ暁けんや。「金」は堅固久遠・敗壊せざるの意を取り、「丹」は円満光明・虧欠なきの意を取る。丹はすなわち人の本有の先天真一の気であり、この股の気は火の煅錬を経て、劫数を歴尽しても敗壊せず。だから「金丹」と呼ばれる。
是丹也,至無而含至有,至虛而含至實,無形無象,先天而立其體,後天而發其用,不可以知知,不可以識識。擬之則失,證之則非,古人強圖之以○,強名之曰道,曰虛無、曰先天一氣、曰無極、曰太極。
この顆の丹は、至無の中に至有を含み、至虚の中に至実を含み、形なく象なし。先天に於いてその本体を立て、後天に於いてその功用を発す。それは知見を憑って認知し得べからず、また識心を憑って分弁し得べからず。一たび擬議すれば則ち様を走り、一たび指証すれば則ち空に落つ。古人は已むを得ず、強いて一個の円圈「○」を画きてもってそれを標示し、強いてそれに取名して「道」と呼び、「虚無」と呼び、「先天一気」と呼び、「無極」と呼び、「太極」と呼ぶ。
曰道者,無名之名也。曰虛無、無極者,自未生物時言之。曰太極一氣者,自方生物時言之。其實虛無一氣,無極太極,總是道之一個物事,非有二件。這個物事,即是金丹。在河圖洛書,即中五之中一點;在先天後天,即陰陽相交之中一竅,人人具足,個個圓成,處聖不增,處凡不減,只緣秉氣所拘,積習所染,順其後天之陰,迷失本宗,流蕩忘返,莫知底止矣。
それを「道」と呼ぶは、ただ無名のものに強いて一個の名を安んずるのみ。「虚無」「無極」と呼ぶは、万物未だ生出せざるあの一頭より言う。「太極」「一気」と呼ぶは、万物まさに生出せんとするあの一頭より言う。実は虚無と一気、無極と太極、総じて「道」この一件のものに帰し、決して二件に非ず。そしてこの一件のものこそ、すなわち金丹である。河図洛書上に於いては、それは中央五数の当中のあの一点。先天後天卦図上に於いては、それは陰陽相交の処のあの一竅。人人本来具足し、个个本来円成し、聖人の身上に於いて曾て多く出る一分なく、凡夫の身上に於いても曾て少なく掉る一分なし。ただ禀受の気質に拘えられ、日積月累の習気に染汚され、一味に後天の陰に順って走り、本来の宗根を迷失し、流蕩して外に在りて回頭を知らざるがゆえに、便ち底止する個所なし。
古來聖賢,慈悲度世,設金丹有為之道以覺人,蓋欲人人歸根復命,還其當初一個原物而已。其法有二:一有為,一無為。無為者,即河圖陰陽相合,先天圖陰陽對交,一氣渾然之理;有為者,即洛書陰陽錯綜,後天圖陰陽生克,兩儀變化之理。上智之人,行無為之道,以溫養這個○;中下之人,行有為之道,從無守有,以復還這個○。其實這個到復還來時,仍歸無為,無為到盡頭時,圓陀陀、光灼灼、淨倮倮、赤灑灑,堅固穩定,長久不壞,跳出五行,脫出陰陽,我命由我不由天矣。
古来の聖賢は慈悲救世し、金丹この一套の「有為」の法門を立てて世人を点醒するは、無非は人をして人人根に帰り命に復し、当初のあの一件の原物を還来せしめんと欲するのみ。方法は二種あり。一種は有為、一種は無為。無為の一路は、すなわち河図の陰陽相合・先天卦図の陰陽対交・一気渾然の道理。有為の一路は、すなわち洛書の陰陽錯綜・後天卦図の陰陽生克・両儀変化の道理。上等根器の人は無為の路を走り、直ちにこの円圈の標示する本体を温養する。中下根器の人は有為の路を走り、「無」の処より下手して「有」を守り、一歩一歩この本体を復還して来る。実は復還して来るに及んで、依然として無為に帰す。無為を做し尽くせば、あの本体は便ち円滾滾・光燦燦・浄潔潔・赤条々として、堅固安穏にして長久不壊、五行の外に跳出し、陰陽の表に脱出す――我がこの条の命は我が自己より主を作し、老天に擺布せられず。
但聖賢大道,窮理盡性至命之學,有工程,有次序,有文烹,有武煉,有急緩,有先後,有止足,毫髮之差,千里之失,欲要行得,先須知得,知得一分事,行得一分事,知得十分事,行得十分事,世間迷人在皮囊上強扭捏,自以為修持性命,非修性命,乃是傷性命也。
但し聖賢の大道は、《説卦伝》の講ずる「理を窮め、性を尽くし、以至て命に至る」の学問である。工程あり、次序あり、文火の温烹あり、武火の猛錬あり、該緩該急の分寸あり、該先該後の順序あり、該停該止の界限あり。毫髪を差せば、便ち千里を失う。行い得んと要せば、先ず知るを須す。一分知ってはじめて一分做し得、十分知ってはじめて十分做し得。世上のあの迷人はただこの張皮囊の上に硬扭硬捏して、自ら性命を修持すると為す。実はどこが性命を修するや、分明是れ性命を傷するなり。
性命且不知,妄想長生,豈不愚哉?夫命者,先天正氣。性者,先天元神,命屬陽,性屬陰,性命相合,陰陽混一,是謂金丹。金丹者,性命之別名,乃虛無中結就,非後天一身所產之物。不知性命,焉能修持性命?不識金丹,焉能凝結金丹?故窮理工夫,最為先著。果是窮透河圖洛書奧妙,先天後天機密,則宇宙在乎手,萬化生乎身,大地裡黃芽長遍,滿乾坤金花開綻,一步一趨,皆是大道,攢簇五行,和合陰陽,還我生初本來面目。
性命がなんのものかをも尚知らざるに、妄に長生を想うは、豈に糊塗ならずや。いわゆる「命」は先天の正気、いわゆる「性」は先天の元神。命は陽に属し、性は陰に属す。性と命と相合し、陰と陽と混成して一片を為し、これをはじめて金丹と呼ぶ。金丹は不过性命の另一個の名字にすぎず、虚無の中に結成せるもので、決して後天のこの身子の裡に生産せられたるものに非ず。性命をも尚知らざれば、どうして性命を修持するを談じ得んや。金丹をも尚認得せざれば、どうして金丹を凝結するを談じ得んや。だから「理を窮む」この一歩の功夫は、最先に下すを要するものなり。果真に河図洛書の奥妙・先天後天の機密を皆窮究し透徹せば、あれは便ち宇宙手中に握り、万般の造化自身より生出す。大地上到る処黄芽を冒出し、天地間処々に金花を開遍し、一挙一動として大道に合せざるなく、五行攅聚して中に帰し、陰陽調和して一を為し、我に出生の初の本来の面目を還す。
金丹凝結,洛書後天有為之功畢,再行溫養之功了河圖先天之道,以復其父母未生以前面目。打破虛空,至於無聲無臭,大丈夫之能市畢矣。盡性由自悟命,祖師傳不得口訣,徒自猜量耳。
金丹一旦凝結すれば、洛書後天のこの一段の「有為」の功夫は便ち做し完ると算う。続けて再び温養の功夫を下して、河図先天のあの一段の道業を了結し、もって父母未生以前の面目を恢復せんがため。直に虚空を打破し、無声無臭の境に入るに至って、大丈夫の能事は便ち了畢す。「性を尽くす」この一歩に至っては、全く自己より悟るに憑る。「命を了ずる」この一歩は、祖師の親授する口決なくば、ただ徒にあそこに在りて瞎猜するのみ。
炉鼎薬物火候六十四卦全図
金丹有為之道,後天變易之道也。變易之道,以乾坤為體,以坎離為用,以屯蒙六十四卦為氣候,周而復始,一氣流行也。金丹之道,以乾坤為鼎爐,以坎離為藥物,以屯蒙六十四卦為火候,陰而陽,陽而陰,陰陽迭運,亦一氣流行也。
金丹の「有為」の道は、すなわち後天の変易の道。変易の道は乾・坤両卦をもって本体と為し、坎・離両卦をもって功用と為し、《屯》《蒙》以下の六十四卦をもって気候と為し、周して始に復し、一気流転して停まず。金丹の道は則ち乾・坤両卦をもって鼎炉と作し、坎・離両卦をもって薬物と作し、《屯》《蒙》以下の六十四卦をもって火候と作す。陰より陽に転じ、陽より陰に転じ、陰陽交替運行して、同じく是一気流転して停まざるなり。
徐從事《參同箋註》云:「乾坤者,易之門戶,眾卦之父母。坎離,匡廓運轂正軸牝牡牡,四卦以為橐籥,復冒陰陽之道。」
徐従事の《参同契箋注》にいう。乾・坤両卦は《易》の門戸、衆卦の父母。坎・離両卦は譬えば車輪の外框と転動する車轂の正軸の如く、一牝一牡彼此配対す。この四卦は風箱の皮橐と吹管を充当し、陰陽の道全体をその裡頭に籠罩す。
又云:「月節有五六,經緯奉日使,兼併為六十,剛柔有表裡,朔旦屯值事,至暮蒙當受,晝夜合一卦,用之依次序,既未至晦爽,終則復更始,日月為期度,動靜有早晚,春夏據動體,促子到辰巳,秋冬當外用,自午訖戌亥,賞罰應春秋,昏明順寒暑,爻辭有仁義,隨時發喜怒,如是應四時,五行得其理。」此言金丹之道,不外乎變易之道。變易之道,不外乎天地、日月、陰陽造化之道。
また言う。一月の節候は五個の六共三十日、経と緯との両班は皆日頭の調遣を聴き、合せて正に六十卦、剛爻柔爻は各々表裏あり。初一の清晨は《屯》卦に値り当直し、傍晚に至っては《蒙》卦を換え接手し、一昼一夜は合して一卦を用い、次序に依って挨排して下る。《既済》《未済》に排し至れば、正に月晦と天明と交接する際に当たり、一輪走り完れば重ねて起頭す。日月の運行をもって期限尺度と為し、動と静と各々早晚あり。春夏は発動の一面に属し、子時より辰巳に催し至る。秋冬は収斂在外の一面に属し、午時より戌亥に至るまで。賞と罰と春生秋殺に合し、昏と明と寒来暑往に順い、爻辞の裡に仁義を含み、時機に随って喜と怒とを発す。こく如く四時と相応すれば、五行もまた各々その理を得。此の段の話が説くは、金丹の道は変易の道を跳出さず、而して変易の道は、また天地・日月・陰陽造化の道理を跳出さざるなり。
人能以剛健為鼎,柔順為爐,則乾坤鼎爐立矣。人能虛人心,靈性不昧,振道心;正氣常存,則坎離藥物得矣。鼎爐立,藥物得,法天地,效日月。當剛健而即剛健,剛健必歸於中正;當柔順而即柔順,柔順必歸於中正,仁義並行,動靜如一,日乾夕惕,其功不缺,與時偕行,隨機應變,即是乾坤坎離四卦,以為橐籥始於屯蒙,終於既未,即是賞罰應春秋,昏明順寒暑,爻辭有仁義,隨時發喜怒,一部易理,在吾方寸之中,又何患乎大道不成,性命不了耶?
人がもし剛健の徳を拿して鼎に当て、柔順の徳を作して炉と為さば、乾坤この副の鼎炉は便ち立ち起る。もし「人心」を放空し、霊性をして昏昧せざらしめ、同時に「道心」を振作して、正気をして常に身中に在らしめば、坎離この味の薬物は便ち手に到る。鼎炉立定し薬物手に到れば、再び天地に取法し日月に效仿す。剛健すべき時は則ち剛健し、剛健は必ず不偏不倚の中正に帰す。柔順すべき時は則ち柔順し、柔順もまた必ず中正に帰す。仁と義と并行して悖らず、動と静と始終如一、白天勤勉して懈らず、夜晚警惕して自省し、功夫は一天も缺えず。時機に随って同行し、変に遇えば便ち変に応ず――これがすなわち乾・坤・坎・離四卦をもって風箱と為して用うるなり。《屯》《蒙》より起手し、《既済》《未済》に至って收尾す――これがすなわち賞罰春秋に合し、昏明寒暑に順い、爻辞仁義を含み、時に随って喜怒を発するなり。《易経》整部の道理は、皆我がこの方寸の心に装い込められ、なお何をか大道成らざる・性命了せざるを愁えんや。
紫陽翁云:「先把乾坤為鼎器,次搏烏兔藥來烹,既驅二物歸黃道,爭得金丹不解生。」此詩洩盡丹法天機,而無餘蘊矣。今立鼎爐、藥物、火候全圖,以乾在上為鼎,坤在下為爐,坎離居中為藥物。四卦列之於外,以象陰陽之橐籥。其餘六十卦,屯蒙為始,既未為終,列之於內,以象朝暮之火候。
張伯端に一首の詩ありて言う。先ず乾坤両卦を立てて鼎器と作し、再び日中の金烏・月中の玉兔この両味の薬を捉え来たりて烹錬す。すでにこの両様のものを皆趕りて黄道上に会合せしめたれば、金丹なんぞ生出せざるの道理あらん。この詩は丹法の天机を全て泄尽し、更に何の余地をも留下せず。今この幅の鼎炉・薬物・火候全図を画く。乾は上頭に在りて鼎を作し、坤は下頭に在りて炉を作し、坎・離は中に居りて薬物を作す。この四卦は外圈に排して、陰陽この具の風箱を象徴す。其の余の六十卦は《屯》《蒙》をもって開頭とし、《既済》《未済》をもって收尾とし、内圈に排して、早晚両班の火候を象徴す。
屯者,陽氣動於陰中也。蒙者,陽氣陷於陰中也。既濟者,陰陽已合也。未濟者,陰陽不交也。陽氣初動即扶陽,所以進陽火,朝之功也;陽氣有陷即養陽,所以運陰符,暮之功也。
《屯》卦は、陽気が陰中に剛かに萌動する。《蒙》卦は、陽気が陰裡に陥せられて出る能わざる。《既済》は、陰と陽とすでに交合せる。《未済》は、陰と陽と彼此交らざる。陽気剛かに一たび萌動すれば則ちそれを扶助せんと要す。だから「陽火を進む」――意を加え提振し、歩歩陽を進む、これは早晨のあの一班の功夫。陽気一たび陥落有らば則ちそれを涵養せんと要す。だから「陰符を運ぶ」――収斂静守して、柔をもって陽を護る、これは傍晚のあの一班の功夫。
既濟,陰陽已合,須當隨時而保濟,保濟者,借陰全陽也;未濟,陰陽不交,須當待時而求濟,求濟者借陽益陰也。借陽益陰,進陽火,自屯至既濟三十卦,所以致其濟也;借陰全陽,運陰符,自蒙至未濟三十卦,所以防不濟也。始於屯蒙,終於既未,其餘五十六卦,俱皆陰符陽火之事,可以類推而知。然其妙用處,總在坎離、陰陽、健順,歸於中正耳。健順中正,則始而屯蒙,終而既未,皆自然而然,豈容勉強也。
《既済》は陰陽すでに交合せれば、則ち時機に随ってこの一分の「済」を守護すべし――いわゆる守護とは、陰気を借りて陽気を保全するなり。《未済》は陰陽彼此交らざれば、則ち時機を等待してこの一分の「済」を求めんとすべし――いわゆる求済とは、陽気を借りて陰気を補益するなり。陽を借りて陰を益するは「陽火を進む」に属し、《屯》卦より《既済》に排し至るまで共三十卦、あの「済」を促成せんと要するなり。陰を借りて陽を全うすは「陰符を運ぶ」に属し、《蒙》卦より《未済》に排し至るまで共三十卦、あの「不済」を防住せんと要するなり。《屯》《蒙》をもって起頭とし、《既済》《未済》をもって收尾とし、中間其の余の五十六卦は、講ずる皆陰符と陽火の事、この例に照らして一推すれば明白なり。ただその妙用の在る所、総帰是要坎と離・陰と陽・健と順と皆中正に帰せんことを。健と順と中正に帰すれば、則ち《屯》《蒙》より開頭し《既済》《未済》に收尾するまで、処々皆自然而然、どこに半点半点の勉強を容れんや。
陽火陰符六陰六陽全図
金丹大道,始終兩段功夫,一進陽火,一運陰符。進陽火者,陰中返陽,進其剛健之德,所以復先天也。運陰符者,陽中用陰,運其順柔之德,所以養先天也。進陽火,必進至於六陽純全、剛健之至,方是陽火之功盡;運陰符,必運至於六陰純全,柔順之至,方是陰符之功畢。
金丹大道は頭より尾に至るまでただ両段の功夫あり。一段は「陽火を進め」、一段は「陰符を運ぶ」。陽火を進めるとは、陰裡に陽を返還して来て、あの份の剛健の徳を増進し、先天を恢復せんが為なり。陰符を運ぶとは、陽中に陰を用い、あの份の柔順の徳を運化し、先天を涵養せんが為なり。陽火を進めるに、必ず六爻純陽・剛健至極に進み至って、はじめて陽火この一段の功夫を做し尽くしたと算う。陰符を運ぶに、必ず六爻純陰・柔順至極に運び至って、はじめて陰符この一段の功夫を做し完えたと算う。
陽火陰符,功力俱到,剛柔相當,健順兼全,陽中有陰,陰中有陽,陰陽一氣,渾然天理,圓陀陀、光灼灼、淨倮倮、赤灑灑,聖胎完成,一粒黍米寶珠,懸於太極空中,寂然不動,感而遂通,感而遂通,寂然不動,常應常靜,常靜常應,本來良知良能,面目全現,所謂「一粒金丹吞入腹,始知我命不由天」也。
陽火と陰符の両段の功力倶に家に下到れば、剛と柔と分量相当し、健と順と両面俱全し、陽裡に陰を含み、陰裡に陽を含み、陰陽合成して一気を為し、渾然一片の天理、円滾滾・光燦燦・浄潔潔・赤条々として、「聖胎」ここに就て結成す。それは一粒の黍米大の宝珠の如く、太極の虚空の当中に懸る。寂然として動かずして一感すれば便ち通じ、一感すれば便ち通じて仍ほ寂然として動かず。常に物に応ずるも常に自ら安静、常に自ら安静なるも常に物に応ずる能う。本有の良知良能・本来の面目全部顕現す。これがすなわち丹経のいう「一粒の金丹腹に呑み入れ、はじめて我が命は天に由らざるを知る」なり。
再加上向上工夫,煉神還虛,打破虛空,脫出真身,永久不壞,所謂「聖而不可知之之謂神」,進於形神俱妙,與道合真之境矣。
この上に更に一層の更高き功夫を添う。神を錬して虚に還し、虚空を打破し、真身を脱出して、永久に壊れず。《孟子・尽心下》のいう「聖にして知るべからざるを神と謂う」は、正にこの地步を指す。ここより形と神と倶に微妙に臻り、大道と合して真と為る境界に入る。
今立六陽六陰,陽火陰符全圖,以復臨、泰、大壯、夬、乾、姤、遯、否、觀、剝、坤十二卦。列之於外,其餘五十二卦,列之於內。雖是六十四卦,總是十二卦統之。復之一陽進,而凡一陽之卦,皆在其中。臨之二陽進,而凡二陽之卦,皆在其中,至於三陽、四陽、五陽,俱皆如此。運陰亦然,左陽卦者,先進陽火以復先天也。右陰卦者,後運陰符以養先天也。
今、この六陽六陰・陽火陰符全図を画き、《復》《臨》《泰》《大壮》《夬》《乾》《姤》《遯》《否》《観》《剥》《坤》という十二消息卦を外圈に排し、其の余の五十二卦を内圈に排する。六十四卦と言うても、実は悉くこの十二卦に管轄される。《復》は一陽の来り進むであって、凡そ一陽に属する卦は皆その中に包まれる。《臨》は二陽の来り進むであって、凡そ二陽に属する卦は皆その中に包まれる。三陽・四陽・五陽に至っても、皆この様子に照らして類推される。陰を運ぶ一辺もまた同じくこの如し。左半辺の陽卦は、先ず「陽火を進め」て以て先天を恢復する。右半辺の陰卦は、後に「陰符を運び」て以て先天を涵養する。
先復後養,先天凝結,性命堅固,金丹有為無為之事了了。此圖與前圖相為表裡,前圖是火候之功力,此圖是火候之次序,用功力而依次序,依次序而用功力,步步腳踏實地行去,自有進益,庶不至毫髮之差,千里之失也。
先に恢復し、後に涵養すれば、先天の気は便ち凝結して形を成し、性と命とは倶に穏固となり、金丹上の「有為」「無為」この两桩の事は就都結する。この幅の図は前面のあの幅と互いに表裏を為す。前の一幅は火候の功力を講じ、この一幅は火候の次序を講ずる。功力を使う時は次序に依り、次序に依る時はまた真に功力を下す。一歩一歩地に脚を踏みしめて做し去れば、自然に日に長進あり、はじめて毫髪を差して千里を失うに至らず。
巻一
素樸散人悟元子劉一明述注,門人沖和張陽全校閱,後學黃燮榳重刊。
本巻は自ら素朴散人と号し、道号を悟元子とする劉一明が撰述し併せて注を作し、門人の冲和道人張陽全が校閲を負い、後学の黄燮榳が重ねて刊印したものである。
乾上乾下(乾卦第一)
乾:元、亨、利、貞。初九,潛龍勿用。九二,見龍在田,利見大人。九三,君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎。九四,或躍在淵,無咎。九五,飛龍在天,利見大人。上九,亢龍有悔。用九,見群龍無首,吉。
《乾》卦の卦辞。元・亨・利・貞――創始・亨通・和宜・貞固。初九爻。潜伏する龍、しばらく施展すべからず。九二爻。龍すでに田野に現る、徳ある位ある大人に見ゆるに宜し。九三爻。君子は終日勤勉して懈らず、夜に至ってもなお警惕戒懼す、危難あるも過たず。九四爻。或いは騰躍して上り、或いは深淵に退処す、倶に過たず。九五爻。龍天上に飛ぶ、徳ある位ある大人に見ゆるに宜し。上九爻。龍昇ること過度高し、必ず悔恨あり。用九。群龍の首領を以て自ら居らざるを見る、吉。
乾者,健也。剛強不屈之義。卦體六爻皆奇,純陽之象,故謂乾。此進陽火之卦,造命之學,所以行健而用剛道也。健莫健於天,天之為道,一氣流行,循環無端,經久不已,無物不復,無物能傷,健之至矣。
「乾」とはすなわち「健」、剛強不屈の意を取る。この一卦の卦体は六爻皆陽爻、純陽の象であるから乾と呼ばれる。それは「陽火を進む」ことを講ずる一卦で、「命を造る」の学問に属する――後天の裡に自家の性命の主権を奪回する功夫である。だから剛健の徳を行い剛強の道を用いるを要す。天下に天より剛健なるはなし。天の行う道は、一気流転して停まず、循環して起訖なく、経久にして間断せず。一様としてそれに周流復せられざるなく、一様としてそれを傷つけ得るなく――剛健極処に至れり。
故當春而生物者,健之元也。元者,初也。陽氣之初生,而萬物俱皆萌甲,元何其健乎?夏而長物者,健之亨也。亨者,通也,陽氣之通暢。陽氣通暢,而萬物俱皆發旺,亨何其健乎?秋而成物者,健之利也。利者,宜也,陽氣之便宜。陽氣便宜,而萬物俱皆成實,利何其健乎?冬而藏物者,健之貞也。貞者,靜也,陽氣之寧靜。陽氣寧靜,而萬物俱皆歸根,貞何其健乎?
だから春は万物を生発す、剛健の「元」なり。元とはすなわち初始。陽気初生して、万物斉しく土を破り芽を抽く。この元、なんぞの剛健ぞ。夏は万物を長養す、剛健の「亨」なり。亨とはすなわち通暢。陽気一たび通暢すれば、万物斉しく発旺茂盛す。この亨、なんぞの剛健ぞ。秋は万物を成就す、剛健の「利」なり。利とはすなわち适宜。陽気恰好の処に至りて、万物斉しく果実を結ぶ。この利、なんぞの剛健ぞ。冬は万物を収蔵す、剛健の「貞」なり。貞とはすなわち寧静。陽気安寧沉静して、万物斉しく本根に帰帰す。この貞、なんぞの剛健ぞ。
元、亨、利、貞,四時迭運,總是一健行之,一為體而四為用。體以施用,用以全體,體用如一,故天道健行而不息也。惟人也,資天之氣而始形,即具此天之健德,即有此元亨利貞之健用。人之健德,即本來之良知、先天之正氣,名曰真陽,又曰真一之精,又曰真一之氣;儒曰精一;道曰抱一;釋曰歸一。無非教人修此一點剛健正氣耳。
元・亨・利・貞は四季に随って番番に運転し、言い尽くせばただ一個の「健」が推行するにすぎぬ。一は体、四は用。体を拿出して発して用と為し、用は回頭して体を保全し、体と用と合して一片を成す。だから天道剛健運行して永く停息せず。唯だ人のみ、天の気を禀受してはじめて形体を成したがゆえに、すなわち同時に天のこの份の剛健の徳を具備し、元・亨・利・貞この四様の剛健の功用を具備せり。人の健徳とは、すなわち本有の良知・先天の正気。丹家はこれに取名して「真陽」と呼び、また「真一之精」と呼び、また「真一之気」と呼ぶ。儒家は「惟精惟一」と講じ、道家は「一を抱く」と講じ、仏家は「一に帰す」と講ず――無非は皆人をしてこの一点の剛健の正気を修養せしめんと欲するのみ。
是氣也,本於先天,藏於後天,處聖不增,處凡不減,有生之初,不垢亦不淨,不生亦不滅,不色亦不空,寂然不動,感而遂通,處於萬物之中,不為萬物所屈,本自元,本自亨,本自利,本自貞,皆在無心中運用,不待勉強,出於自然,不健而健,健而不健,健之無形跡可窺,所謂天人者是也。
この股の気は、根子を先天に在り、身を蔵めて後天に在り。聖人の身上に於いて曾て多く出る一分なく、凡夫の身上に於いても曾て少なく掉る一分なし。人初生の時、それは垢ならず浄ならず、生ぜず滅せず、色に属せず空に属せず。寂然として動かず、一感すれば便ち通ず。万物の当中に処るも、万物に圧屈せられず。それは本来元、本来亨、本来利、本来貞、全て無心の中に自然運作し、勉強を用いず、純に天然より出づ。見れば健ならざるに似るも実は極健、極健なるもその健たるを見えず、あの剛健には形迹として窺探すべきなし――これがいわゆる「天人」なり。
一交後天,氣質發而外物誘,性相近而習相遠,棄真認假,良知有昧,於是元者不元,亨者不亨,利者不利,貞者不貞,健之德已虧,健之用已非,神昏氣濁,性亂命搖,身雖動而陽氣消,不死豈能之乎?
一旦後天に交じり入れば、禀受の気質発作し起き、外面の事物また来たりて引誘す。ここにおいて孔子のいう「性相近し、習相遠し」の分化有り。真を丢き、偽を認取し、良知は一層の昏昧を蒙る。ここより元なるべき元ならず、亨なるべき亨ならず、利なるべき利ならず、貞なるべき貞ならず。剛健の徳すでに虧損し、剛健の用すでに変質し、精神昏昧、気息渾濁、性情紊乱、命根動揺し、身子は猶活動すれども、陽気は一天天に消磨す――こく如くにしてなお死なざるを得んや。
故聖人有造命之學,於後天中返先天,能以修持本來乾健之德,永久不壞耳。修持之道,仍不外此元、亨、利、貞之用。人能看破一切,猛醒回頭,志於性命,恍惚杳冥之中,便有一點生機潛發,此健之元也。人能一心修養,真履實踐,經久不殆,行以達其所欲,即健之亨也。人能振發精神,勇力前進,剛氣凝聚,諸緣不礙,生死如一,即健之利也。人能格物致知,辨別是非耶正,止於其所而不遷,即健之貞也。
だから聖人は別に一套の「命を造る」の学問有り、後天の裡に先天を返し、本来の乾健の徳を修持して帰り、それを永久に壊れざらしむる能う。修持の門路は、依然として元・亨・利・貞この四様の功用を跳出さず。人がもし世間の一切を看破し、猛然として醒悟して回頭し、心志を性命の上に立定せば、則ち恍恍惚惚・杳杳冥冥の中に、一点の生機悄然として発動有り――これが剛健の「元」。人がもし一心に修養し、実実在在に履行して下り、長久懈らず、一路做して所求の達成に至れば――これが剛健の「亨」。人がもし精神を振作し、奮勇前進し、剛気凝結して団を成し、種種の外縁皆彼を碍ぐる能わず、生と死とを一事と看做せば――これが剛健の「利」。人がもし事物を推究し真知を増長し、是と非・邪と正とを弁明し、該処の位置上に安住して遷移せざれば――これが剛健の「貞」。
元以生其健,亨以通其健,利以成其健,貞以固其健。元、亨、利、貞一氣運用,由勉強而歸自然,渾然天理,仍是良知本來面目,可以與天同功用,與天同長久矣。但是道也,有藥物,有火候,有功力,有急緩,有止足。修之合法,養之隨時,方能進於佳境。倘差之毫髮,失之千里。元亨利貞,四者缺一,則健德不成,命非我有。此進陽之火候,不可不知也。
「元」はもってこの份の剛健を生起し、「亨」はもってこの份の剛健を通暢し、「利」はもってこの份の剛健を成就し、「貞」はもってこの份の剛健を固守す。元・亨・利・貞の四者合して一気を成して運用し、起初の勉強より後来の自然に做し至り、渾然としてただ一片の天理、依然として良知の本来の面目。こく如くすれば便ち天とその功用を同じくし、天とその長久を同じくす可し。ただしこの条の路上には薬物あり、火候あり、功力あり、該急該緩の分寸あり、該停該止の界限あり。修めて法に合し、養いて時に応じて、はじめて佳境に渐入す。もし一糸一毫を差せば、則ち千里を失わんとす。元・亨・利・貞の四様、一様を缺けば剛健の徳は便ち成就し得ず、性命もまた自己の所有に帰せず。これは「陽火を進む」の火候、知らざるべからざるなり。
初九,在健之初,健德方振,如潛藏之龍,正當培養正氣之時,未可自恃其健,故曰「勿用」。九二,健而得中,不偏不倚,剛柔相當,如見龍在田,生氣常存,天良不昧,聖胎有象。所謂大人者,不失其赤子之心者也,故曰「利見」。
「初九」この一爻は剛健の起頭に処り、健徳剛かに振作し、譬如一條の尚潜蔵する龍、正に正気を培養する時、未だ自ら恃みて剛健に妄動すべからず。だから爻辞に「用うる勿れ」と曰う――この一歩の工夫は筑基蓄気、蓄えて発せざるなり。「九二」この一爻は剛健にしてまた下卦の中に居り、不偏不倚、剛と柔と分量相当し、譬如龍すでに田野に現る。生機常に在り、天賦の良知復た昏昧せず、「聖胎」すでに形象を初具す。爻辞のいう「大人」は、正に《孟子・離婁下》の講ずる「その赤子の心を失わざる者」なり。だから「見ゆるに利し」と曰う――この一歩の工夫は中和すでに立ち、本来の良知現前す。
九三,浩氣充塞,剛而得正,日則勉於行,夕則察其過,日乾夕惕,健行不息,雖有危厲,故能無咎。九四,健德已成,聖胎完全,待時脫化,如龍或躍而起,或在於淵,審查氣候,防危慮險,故可無咎。
「九三」この一爻は、浩然の気胸中に充塞し、剛強にしてまた居位正を得、白天勉力して做し、夜に至って過失を省察し、白天勤勉・夜晚戒懼して、剛健運行して歇まんことを肯んぜず。縦い処境危険なるも、終に過あることなし――この一歩の工夫は昼夜断えず保任し、火力は一刻も間断を許さざるなり。「九四」この一爻は、健徳すでに修成し、「聖胎」すでに完足し、ただ時機の到來を待って胎を脱し変化せんとするに似り、龍の或いは騰躍して起き或いは深淵に退処するが如し。この時要に仔細に火候気機を審察し、危を防ぎ険を慮るを要す。だからまた過あることなし――この一歩の工夫は丹すでに結びて未だ脱せず、進退全て時候を視るなり。
九五,剛健中正,陰陽混化,身外有身,形神俱妙,與道合真,不但成己,而且成物,如飛龍在天,隱顯不測,隨時濟物。所謂大人者,正己而正物者也。放曰「利見」。上九,進健太過,獨剛不柔,知進而不知退,如亢旱之龍,龍至於亢,不能生物。健至太過,必敗其事。陽極必陰,天寶得而復失,理有可決,故曰「有悔」。
「九五」この一爻は、剛健にしてまた中正、陰と陽と混化して一を為し、肉身の外に別に一個の法身あり、形と神と倶に微妙に臻り、大道と合して真と為る。但だ自己を成就するのみならず、また万物を成就する能う。譬如飛龍天に在り、或いは隠れ或いは顕れ、変化測りがたく、時と処とに随って他人を済助す。爻辞のいう「大人」は、正に《孟子》の講ずる「己を正して物正しき者」なり。だから「見ゆるに利し」と曰う――この一歩の工夫は丹成り胎を脱し、自度より度人に転ず。「上九」この一爻は、陽を進め進めて頭を過ぎ、一味に剛強にして柔を肯んぜず、前進のみを知りて退守を知らず、譬如一條の亢旱の龍。龍一たび亢の地步に至れば、則ち復た万物を生養すること能わず。剛健頭を過ぐれば、必ず事を敗壊す。陽極点に至れば必ず陰に転じ、好不容易得たる天賜の至宝を重ねて失掉す。この道理は断定し得べきなり。だから「悔有り」と曰う――この一歩は火候頭を過ぎ功敗れて成り垂んとするの告誡なり。
大抵行健用剛之道,貴乎隨時,隨時之健,能剛能柔,元、亨、利、貞,無往而不可健,無往而有傷健矣。聖人恐人不知用健之道,大書特書曰:「用九,見群龍無首,吉。」此言太煞分明。九為河圖一三五,陽生之數。用九者,即用健也。龍之為靈昭昭也,變化不測,能上能下,能大能小,能隱能顯,迎之不見其首,隨之不見其後。
大凡剛健を行い剛強を用うる路数は、最も緊要なるは時機に随って定まるなり。時に随って健なれば、則ち剛すべきは則ち剛、柔すべきは則ち柔。元・亨・利・貞、いずれの歩みに走り至るも健を用い得、いずれの歩みに走り至るもまた健を傷せざるなり。聖人は人の健を用うる分寸を解せざらんを怕れ、特に鄭重に一句を写下す。「九を用う、群龍首無きを見る、吉」と。此の話は再び明白ならざるなし。「九」は河図中の一・三・五相加して成る陽生の数なり。いわゆる「九を用う」とは、すなわち健を用うるなり。龍此の霊物は、霊異分明にして変化測りがたし。上る能く下る能く、大なる能く小なる能く、隠る能く顕る能く。それに迎えてその首を見ず、それに随いてその尾を見ず。
修健之道,如御龍也。用健而能隨時,如群龍之變化也。當潛而潛,當見而見,當乾而乾,當躍而躍,當飛而飛,健而不至過,高而不至亢,緩急止足,各隨其時,此無首之健,用之而未有不取吉者。
剛健の道を修持するは、猶龍を駕馭するが如し。健を用いて能く時に随り変に応ずるは、猶あの一群の龍の千変万化するが如し。潜蔵すべき時は便ち潜蔵し、現身すべき時は便ち現身し、乾乾勤勉すべき時は便ち乾乾勤勉し、騰躍すべき時は便ち騰躍し、高飛すべき時は便ち高飛す――剛健にして頭を過ぐるに至らず、升高にして亢極に至らず。或いは緩やかに或いは急ぎ、いずれの時に停まりいずれの時に止むべきか、皆各々当下の時機に依る。これがすなわち「首無き」の剛健、某一種の姿態を頭裏に擺して主を為さず。用うれば吉を得ざるなし。
但無首變化之道,須要真知灼見,若不見而猜想做作,雖天寶在望,未許我得。用之必先見之,見而後用,則有用,用中無用,無功,功裡施功,有無不立,順逆不拘,大地裡黃芽長遍,滿世界金花開綻,信步走去,頭頭是道,取之左右逢其原,用九而不為九所用,方且進於剛健中正純粹之精,我命由我不由天,與天為徒矣。
ただこの一套の「首無き」変化の道理は、真知灼見有るに非ずんば不可なり。もし並びて真に切りて看見せず、ただ猜想に憑って做作せんとするならば、天賜の至宝は眼前に近在するも、未だ必ずしも我が手に到るを得ざらん。それを用いんと欲せば、先ずそれを看清せんを須す。看清して用いて、はじめて真に用うる所有りと算う。用有るの中に於いて並びて用に着意せず、見れば功無きの処に似たるも却って功の上に功を加う。「有」と「無」の両辺は倶に安立せず、順行と逆運とも倶に拘執せず。あの時に至れば、大地上処々に黄芽を生出し、満世界処々に金花を開遍し、信歩として走去り、頭頭皆是れ道、正に《孟子・離婁下》のいう「これを取るに左右にその原に逢う」が如し。これがはじめて「九」を用いて「九」に用いられざる、方に剛健・中正・純粋の精気に進み得、我がこの条の命は我が自己より主を作し、老天に擺布せられず、天と同伴を做し得べきなり。
上坤下坤(坤卦第二)
坤:元亨,利牝馬之貞。君子有攸往,先迷後得主,利西南得朋,東北喪朋。安貞吉。初六,履霜,堅冰至。六二,直方大,不習無不利。六三,含章可貞,或從王事,無成有終。六四,括囊,無咎無譽。六五,黃裳元吉。上六,龍戰于野,其血玄黃。用六,利永貞。
《坤》卦の卦辞。元・亨。母馬の如く貞固を守持するに宜し。君子往く所有り、起先は方向を迷失し、後来はじめて主人を尋得す。西南方に往けば朋友を得、東北方に往けば則ち朋友を喪う。正道に安んずる、吉。初六爻。脚下霜を踩めば、則ち堅氷のまさに来たらんとするを知る。六二爻。正直・方正・宏大、刻意の造作を須とせずして利あらざるなし。六三爻。内に含む文采を蔵して正固を守持する能く、倘若出でて君王の事業を輔佐せんか、自らその功に居らず、然而好结局有り。六四爻。口袋の口を扎緊するが如く自己を収斂す、既に過なく、また称誉を得ず。六五爻。黄色の下裳を穿くが如く、大吉。上六爻。龍郊野の上に戦い、流出の血は又黒く又黄なり。用六。永久に正固を守持するに宜し。
坤者,順也。柔順卑下之義,卦體六爻皆偶,純陰之象,故謂坤。此運陰符之卦,修性之學,所以行順而用柔道也。順莫順乎地,地本至陰,無陽不能生成萬物。其所以生成萬物者,順乎天之陽氣,進退而生成之,是地本不元亨,而元亨之利,在於能貞耳。地之順天不可見,觀於牝馬之順,而地之順可知矣。
「坤」とはすなわち「順」、柔順謙下の意を取る。この一卦の卦体は六爻皆陰爻、純陰の象であるから坤と呼ばれる。それは「陰符を運ぶ」ことを講ずる一卦で、「性を修する」の学問に属する。だから柔順の徳を行い柔和の道を用いるを要す。天下に地より柔順なるはなし。地は本より至陰の物、陽なくんば万物を生養し出す能わず。それが万物を生養し得る所以は、全く天の陽気に順い、陽気の進退に随って生養するに憑る。見るべし、地本身は並びて元と亨とを自具せず、その元亨の好処は、ただ能く「貞」――守得住・承得起――に在るのみ。地が天に順う模様は見えず、母馬が公馬に順う模様を視れば、地の順もまた推知し得べし。
牝者,陰柔之總名。凡物之陰者,皆屬北。馬為健行之物,牝馬順牝(疑為牡)馬而行,則牝馬所到之處,即是牝(疑為牡)馬能到之處,雖柔亦剛,地順之利貞,亦如牝馬之利貞耳。
「牝」は一切陰柔の物の総名、凡そ陰に属するものは皆この類に帰す。馬は善く健行する牲口、母馬が公馬に随いて走れば(原書この両処の「牝」の字、校者は文義に拠りて「牡」と作すべきと注明す)、則ち母馬の到り得る所は、すなわち公馬の到り得る所なり――柔なるも、亦た剛の效能を具備せり。地あの份の「順」の利有り貞有る所以は、正に母馬の利と貞との如きなり。
人受地之陰氣以成形,即具此柔順之德。柔順之德,即人生之初,秉彝之良能,此能交於後天,為氣質所拘,積習所染。順非所順,順其所欲,良能變為假能矣。聖人教人行順道者,由假順而變為真順,還其當日不識不知,順帝之則之本面耳。故曰「君子有攸往,先迷後得主。」
人は地の陰気を承受してはじめて形体を凝成したがゆえに、天生よりこの份の柔順の徳を具備す。いわゆる柔順の徳とは、すなわち人の初生の時に秉受したあの一点の天然良能。この份の良能は一たび後天に交じり入れば、禀受の気質に拘えられ、日積月累の習気に染汚され、ここにおいて順う対象を錯まる――一味に自己の私欲に順いて走り、良能は便ち仮能と変ず。聖人が人に「順の道」を行わしむるは、正に人をして仮順より真順に転回せしめ、彼に当初の「識らず知らず、帝の則に順う」の本来の面目を還さんと欲するなり。だから卦辞に曰う。「君子往く所有り、先に迷い後に主を得」。
夫剛為柔之主,剛能統柔,柔不能統剛,亦只順承其剛而已。以柔順剛,不但無能者順有能,凡返邪歸正,改惡遷善,存誠去妄,以人心順道心之事,皆係以柔順剛之義。先迷者,人心用事,道心埋藏,順其人慾,以假傷真,由迷而失主也。後得主者,道心用事,人心安靜,順其天理,以真滅假,得主而不迷也。
剛は柔の主人。剛は能く柔を統率す、柔は剛を統率すること能わず、ただ順って剛を承接するのみ。柔をもって剛に順うは、単に本事なきが本事有るに順従するを指すに非ず。凡そ邪を棄てて正に帰り、悪を改めて善に従い、誠意を存養して妄念を除去し、および「人心」をして「道心」に順従せしむるこの類の事は、皆柔をもって剛に順う道理に属す。いわゆる「先に迷う」とは、人心家を当り道心埋没し、一味に人の私欲に順いて走り、偽を以て真を傷つけ、迷失に因って主人を丢くるなり。いわゆる「後に主を得」とは、道心家を当り人心安伏し、一味に天理に順いて走り、真を以て偽を滅し、主人を尋回して復た迷失せざるなり。
人能由迷生悟,以陰順陽,借人心復道心,以道心制人心。先失主而後得主,雖愚必明,雖柔必強,何病於柔乎?順之道,莫大於地。順之象,莫著於月。月本純陰無陽,與日會於虛危之處,行至西南坤位,初三吐蛾眉之光,魄中生魂,是謂得朋。至於十五,光輝盈輪。十六日景自此漸錯,月光至此漸退;魂中生魄,行至東北艮地,二十八餘光於此全消,所謂喪朋。
人がもし迷惑の裡より覚悟を生じ、陰をもって陽に順い、「人心」を借りて「道心」を找回して来て、再び道心を用いて人心を管住せば、あれはすなわち先に主人を丢いて後にまた主人を尋回するなり。《中庸》に「愚なりと雖も必ず明、柔なりと雖も必ず強」と曰う。こく如くなれば、柔はまた何の憂うべきか有らん。「順」の道理を講ずるに、地より大なるはなし。「順」の物象を講ずるに、月より顕明なるはなし。月は本より純陰無陽の体、先に太陽と虚・危二宿の処に会し、行きて西南坤位に至り、初三に便ち一鉤の蛾眉の如き光を吐出す――魄中に魂を生出す、これを「朋を得」と呼ぶ。十五に至りて光輝整輪に盈満し、十六以後日影漸漸偏移し、月光ここより一天天退減す――魂中に魄を生出す、行きて東北艮位に至り、二十八日あの余光全部消尽す、これがいわゆる「朋を喪う」なり。
西南月光方生,陰順其陽之進也。東北月光全消,陰順其陽之退也。陽進則月明,陽退則月昏。月之昏明,亦順其日之進退耳。修道君子,用順而行柔道,能如月之順日,則知得知喪,進之退之,無有不利者也。利者何利?利其順之得正,尤利其安居於正。方是全始全終之吉道。
西南方向月光剛かに生起するは、陰が陽に順うて前進するなり。東北方向月光完全に消尽するは、陰が陽に順うて退蔵するなり。陽進めば則ち月明、陽退けば則ち月昏。月の明と昏とは、亦た不过太陽の進退に順うのみ。道を修する君子は「順」を用いて柔和の道を行う。もし月亮の太陽に順従するが如く能わば、便ちいずれの時に「得」べき、いずれの時に「喪」べきかを暁け、進むべきは便ち進み、退くべきは便ち退き、利ならざるなし。いわゆる「利」、利はどこに在るか。利はこの份の順がその正に順い得るに在り、尤も利は能く安穩としてこの正を守り得るに在る。これがはじめて始有り終有りの吉道なり。
曰安貞者,安正也。以正而安,止於其所,不順而必期其順,不正而必至於正。煉己持心,拔去一切輪迴種子,不使有一點滓質留於方寸之中。虛極靜篤,人心不起,道心即生,貞下起元,柔即是剛,順即能健,元而未有不亨,亨而未有不利,利而未有不吉者。安貞之順,豈小焉哉!
いわゆる「安貞」とは、すなわち正道に安んずる。正に憑って安を得、自己の在るべき地方に安住す。本来順ならざるは、必ずそれに順に帰せんことを求め、本来正ならざるは、必ずそれに正に帰せしむ。ここにおいて「己を錬り心を持す」――自己を磨錬し此の心を把持し、一切の輪廻を招致する種子を根を連ねて拔き去り、一星半点の渣滓をも方寸の間に留下せざらしめぬ。虚は極処に至り静は篤処に至り、人心復た興起せず、道心自然生発し、「貞」の尽頭にまた「元」を生出す。柔は便ち剛、順は便ち健なる能う。元なれば亨ならざるなく、亨なれば利ならざるなく、利なれば吉ならざるなし。「安貞」この一份の順、意義豈に小さからんや。
初六,在順之初,繫可真可假之際,稍有不正,客氣潛入,必至一陰生而群陰畢集,即有履霜堅冰至之象,故順之須謹於始也。六二,柔順中正,中則其心直而能謹慎。正則其行方而有裁制,內直外方,循規蹈矩,自能大其德業,故不習無不利也。
「初六」この一爻は柔順の起頭に処り、正しく真なるべき偽なるべきの関口に当たる。稍く一點の正ならざる有れば、外来の「客気」便ち悄悄侵入し、必ず一陰はじめて生じ群陰斉集す。ここにおいて「霜を履み堅氷至る」の象有り。だから順の道を行うは最も開頭の処に於いて謹慎を要す。この一歩の工夫は微を防ぎ漸を杜ぐなり。「六二」この一爻は、柔順にしてまた中正。「中」を得れば心地正直にして謹慎し得、「正」を得れば行事方正にして裁断節制有り。内裡正直・外表方正、一挙一動皆規矩に合し、自然に徳業を做大する能う。だから刻意の造作を須とせずして利あらざるなしと曰う。この一歩の工夫は内直外方、柔順にして中正を得るなり。
六三,性柔志剛,含藏章美,順守其正,不以外假而傷內真。即有事而不得不外順者,其必或從王事,欲順於人,不失於己,故無成而能有終也。六四,以柔居柔,內念不出,外念不入,順時順命,不致禍而不求福,如括結囊口,內外一空,故無咎而亦無譽也。
「六三」この一爻は、性情柔和にして志向剛強、内に含む文采美質を蔵して、自己の正道を順守し、外面の仮象に因りて裏面の真を傷せず。縦い事に遇いて外面に於いて随順せざるを得ずとも、あれは亦た「或いは王事に従う」――出でて一份の差事を担うのみ。人には順い得て、また自己を失せず。だから自らその成に居らずして好结局有り得るなり。この一歩の工夫は含蔵して露われず、世に応ずる中に真を守るなり。「六四」この一爻は、柔爻をもって柔位に居り、裏面の念頭は外に放出さず、外面の念頭は内に放い入れず、時に順い命に順い、禍を招くことなく福を求むることなく、譬如口袋の口子を扎緊するが如く、内外倶に一片の空なり。だから既に過なく、また称誉を得ず。この一歩の工夫は内外双く泯し、一意に封固す。
六五,柔順虛中,德足服人,不言而信,不教而化,如黃裳著體,喑然日章,美德在內,自著於外,故為順道之元吉也。上六,自尊自大,以柔為剛,不能順人,欲人順己,如龍戰于野,乖和失中,陰差陽錯,未得於人,早傷其已,故其血玄黃也。
「六五」この一爻は、柔順にして中間虚空にして容るる能く、徳行は人をして心服せしむるに足る。口を開くを須とせずして人自ら相信じ、教導を須とせずして人自ら感化す。譬如身上黄色の下裳を穿くが如く、正に《中庸》のいう「暗然として日に章む」――炫耀せずして光彩一天天透出す。美徳は裏面に蔵り、自然に外面に顕露す。だからこれは順の道を行うの大吉なり。この一歩の工夫は中を虚にして徳を養い、言わずして人を化すなり。「上六」この一爻は、自尊自大にして、柔を硬に剛と装い、人に順従することを肯んぜず、反って人に己に順従せんことを要す。譬如「龍野に戦う」、和気に乖違し中道を失掉し、陰陽彼此錯位し、未だ人の便宜を占めざるに、先に已に自らを傷つけたり。だから流出の血は又黒く又黄なり。この一歩は柔にして強を逞ぶし、陰陽両傷の敗象なり。
觀於六爻之順,是非不等,邪正各別,求其順之而得利於己者,其惟六二;順之而能感化人者,其惟六五乎。噫!順道豈易能哉?毫髮之差,千里之失,不謹於始,必敗於終。聖人大書特書曰:「用六,利永貞。」為後人開一大道,使行順道者永於貞,方能順之得真,方能順之得利。
通観六爻の講ずる「順」、是非は一様ならず、邪正も各々分別あり。順い得て自己を受益せしむるを尋ぬれば、ただ「六二」有り。順い得て他人を感化し得るを尋ぬれば、ただ「六五」有り。ああ、順の道はどこが容易に做し得べきや。毫髪を差せば則ち千里を失う。開頭謹慎ならざれば、收尾は必ず失敗す。だから聖人は鄭重に一句を写下す。「六を用う、永貞に利し」と。これは後人の為に一条の大路を開出し、順の道を行う人をして「貞」の字の上に守り底せしめ、はじめて真に順い得、はじめて利に順い得べし。
夫用六之道,用順道也。六為河圖二四陰生之數,陰主順用。六者用順也,用順所以以虛求實,以無求有耳。古今學人,自恃聰明,依一己之見,妄猜私議,不肯低心下氣,求人請益,以故皓首窮年,一無所得;或亦有尋師訪友,不能辨別邪正,入於旁門曲徑,至死不悟者;或有能辨別其邪正,究明性命之理,遵道而行,又半途而廢,不永於貞者。凡此皆非用六之道,俱不能成道。
いわゆる「六を用う」の道とは、すなわち順を用うの道。「六」は河図中の二と四と相加して成る陰生の数、陰は柔順を主る。だから六を用うとはすなわち順を用うなり。順を用うとは、虚に憑って実を求め、無に憑って有を求めんとするに要するなり。古往今来の道を学ぶ人。ある者は聡明を自恃し、ただ一己の見に憑って胡乱に猜测し私下に議論し、心気を低くして人に請教せんことを肯んぜず。ここにおいて頭を白くし一生を耗尽し、何も得ず。また人ありて師を尋ね友を訪うを肯んずれども、邪と正とを分弁し清さず、一頭に傍門小路に鑽り込み、死に至るも醒悟せず。また人ありて既に邪正を分弁し得、また性命の道理を弄明白して、道に依って行うも、半途にして廃し、「貞」の上に守り底すること能わず。これら皆六を用うの道に非ず。だから皆道を成す能わず。
若欲成道,須要知順,又須要順其正,更需要永順其正。能永順其正,柔中即有剛,不隱不瞞,至死不變,脫去後天氣質之性,露出先天不識不知、順帝之則之本面,性了而命亦可了,一永貞而柔順之道至矣,盡矣。
もし道を成さんと欲せば、先ず何をか順と謂うを暁けんを要し、またその正に順い得んを要し、更に永くこの正の上に順うを要す。能く永く正の上に順えば、柔の裏面に自然剛を含む。隠瞞せず、遮掩せず、死に至るも改変せず。後天気質の帯来した習性を脱去し、先天の「識らず知らず、帝の則に順う」の本来の面目を露出す。性は了結を得、命もまた了結し得べし。一個の「永貞」、柔順の道は便ち頂に算し至り、尽頭に説き至れり。
上坎下震(屯卦第三)
屯:元亨,利貞。勿用有攸往,利建侯。初九,磐桓,利居貞,利建侯。六二,屯如邅如,乘馬班如。匪寇,婚媾,女子貞不字,十年乃字。六三,即鹿無虞,惟入于林中;君子幾,不如舍。往吝。六四,乘馬班如。求婚媾,往吉,無不利。九五,屯其膏。小,貞吉;大,貞凶。上六,乘馬班如,泣血漣如。
《屯》卦の卦辞。元・亨・利・貞。往く所有るに宜からず、諸侯を分封するに宜し。初九爻。徘徊して進まず、安処して正を守るに宜し、諸侯を分封するに宜し。六二爻。艱難迟疑して進退回旋し、馬に騎りて盤桓して前せず。来たる者は強盗に非ず、婚を求むる者なり。女子貞を守りて嫁ぐを肯んぜず、十年を過ぎてはじめて許配す。六三爻。鹿を逐うも虞人の引路なく、ただ一頭に林子の裏に闖入る。君子苗头を看出し、如かず此れに就きて舎去す。一意に前往せば必ず困厄有り。六四爻。馬に騎りて盤桓して前せず。婚を求めて前せば、吉、利あらざるなし。九五爻。膏沢内に積聚して施し出す能わず。小処正を守れば吉利、大処正を守れば則ち凶。上六爻。馬に騎りて盤桓して前せず、涙尽きて泣血漣漣と泣く。
屯者,前進有難之義,卦德上坎陷、下震動,動於險中,險中之動,不易出險,故謂屯。此進陽下手之卦,承上乾卦而來,乾為健德。進陽者即進其健,因其不健而進於健耳。健德為先天真陽本來正氣。這個氣交於後天,隱而不現,雖然不現,未嘗全泯,間有發現之時,特人為世事所迷,妄念所蔽,當面錯過,不宜認真耳。
「屯」は前進して艱難に遇うの意。この一卦の卦徳は、上卦坎は陥落を主り下卦震は発動を主り、険陥の中に於いて発動す。険中の動は険境を脱出するに容易ならず。だから屯と呼ばれる。それは「陽を進む」下手の第一卦で、上の《乾》卦を承接して来る。乾は健徳を講ず、陽を進むとはすなわちこの份の剛健を増進するなり――本来健ならざるがゆえに、一歩一歩健に進むを要す。健徳とはすなわち先天真陽・人の本有するあの股の正気。この股の気は後天に交じり入って以後、隠蔵して復た顕現せず。顕現せずと言うも、亦た曾て完全に泯滅せず、中間常に頭を露わす時有り、ただ人は世事に迷い、妄念に遮蔽せられ、当面錯過して曾てそれを真と為さざるのみ。
當其發現之時,即吾身中活子時也。這個時,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶,乃陰陽之門,生死之戶,性命之源,健順之根,造命之鼎,偃月之爐。先天真陽元氣在此,知之者,勤而修之,於後天中返先天,自微而著,由一陽而漸生漸長,必至六陽純全,是屯中又有元亨之道也。
それが頭を露わすあの一刻は、すなわち我が身中の「活子时」――鐘点更漏を拘らず、真陽自ら動くあの一瞬。この時刻は、天地とその徳を合し、日月とその明を合し、四時とその序を合し、鬼神とその吉凶を合す。陰陽出入の門・生死分判の戸・性命の源頭・健順の根柢、亦是れ「命を造る」の鼎・「偃月」の炉。先天真陽元気はすなわちここに在り。懂れる人はそれを抓住して勤めて修錬し、後天の裡に先天を返し、隠微より顕著に至り、一陽初動より漸生漸長して、必ず六陽純全の地步に到り得――これがすなわち《屯》卦の中にまた「元亨」の道理を含むなり。
但人為氣質所拘、積習所染,先天真陽,埋沒已深,雖有回復之時,然正氣弱而邪氣盛,正不勝邪,未能遽然增升,是在乎謹封牢藏,守此一點生機,不為客氣所傷,以為返還之本,故曰利貞,又曰勿用,有攸往,貞。非空空無為,勿往,非絕無一事,特以人心用事已久,道心不彰,陰中返陽,乃險中之動,若冒然下手,速欲成功,愈滋其險。欲返其陽,莫若先正其心。
ただし人は禀受の気質に拘えられ、積久の習気に染汚され、先天真陽は埋没すること極深し。偶々回复の時有るも、正気弱く邪気盛んにして、正は邪に圧し勝る能わず、尚一下子に壮大上昇する能わず。ここに於いて厳密に封固し牢牢として収蔵するに頼り、此の一点の生機を守住し、外来の客気をしてそれを傷つけしめず、もって先天に返還する本銭と為す。だから卦辞に「貞に利し」と曰い、また「往く所有るを用る勿れ」と曰う。ここの「貞」は、並びて空しく手を拱いて何事も為さざるに非ず。ここの「往く勿れ」も、亦た一件の事も弁ぜざるに非ず。ただ人心家を当ることすでに太久し、道心彰顕する能わざるがゆえん。陰中に陽を返還して来んと要するは、本より険境中の挙動なり。もし冒冒失失に下手し、急ぎて成功せんと要せば、ただ険境を弄して更に険し。陽を返還して来んと欲せば、最も好し先ず心を摆正せしめん。
曰利建侯者,即是正心之象。侯為一國之主,心為一身之主。建侯則一國之難漸可治,正心則一身之險漸可消。心著一正,根本堅固,元氣不散,於是隨時進火,漸採漸煉,則已失者可以得,已去者可以還。利於貞而動,動不妄動,動必以時,元而未有不亨,亨而未有不利者也。
卦辞に「侯を建るに利し」と曰うは、正に「心を正にす」の象なり。諸侯は一国の主、心は一身の主。諸侯を封立すれば、一国の禍難は慢慢として平治し得べし。此の心を端正すれば、一身の凶険は慢慢として消解し得べし。心の上に一着の「正」の字あれば、根本便ち牢固とし、元気便ち散失せず。ここにおいて時機に随って火を進め、一點一點に采り、一點一點に錬り、已に失去せるは重新に獲得し得、已に離去せるは重新に帰還し得。利は正を守って後に動くに在り。動は妄動に非ず、動は必ず時候に合乎るを要す。こく如くなれば、元なれば亨ならざるなく、亨なれば利ならざるなし。
初九,剛居屯初,陽氣下伏,如大廈之盤桓,利於居貞,而堅固根本,如一國之君侯,利於建侯,而培植元氣,此遇屯而須當守正於始也。六二,正在屯中,故屯如邅如,柔順中正,煉己待時,故乘馬班如。其乘馬班如,欲動而不動者,非以其初生之陽,有所寇傷於人,特欲待其陰陽相當,方求婚媾配合耳。其待時婚媾之象,如女子貞不字,十年乃字矣。此在屯而不遽求其濟也。
「初九」この一爻は、剛爻をもって屯難の開頭に処り、陽気は尚底に伏す。譬如大厦初立の時の徘徊して進まざる、安処して正を守り以て根本を堅固にするに宜し。又如一国の君の諸侯を封立する、「侯を建る」以て元気を培植するに宜し。この一歩の工夫は屯に遇うの初に於いて先ず正を守住するなり。「六二」この一爻は、正しく屯難の当中に落つ。だから「屯如邅如」と曰う。但しそれは柔順にして中正、己を錬りて以て時機を待つ能う。だから「馬に乗り班如」と曰う。馬に騎りて盤桓し、動かんと欲して動かざるは、並びてあの初生の一点の陽が来たりて劫奪傷人せんが為に非ず、ただ陰陽の分量相当なるを待って、はじめて婚を求め配合せんとするなり。この種の時を待ち配を求むる様子は、猶女子の貞を守りて嫁ぐを肯んぜず、十年の後に乃ち許配するが如し。この一歩の工夫は身屯中に在りて急ぎて「済」を求めざるなり。
六三,無知小人,愚而自用,妄貪天寶,本險而又行險,如即鹿無虞,惟入于林中,亦無足怪。至於明道君子,須當知幾,不如告之以待時。若不待時,急欲成功,往而前進,必有招險之吝。此在屯而急欲求其濟也。六四,柔而得正,煉己待時,真陽在望,正當調和丹頭之時,不可當面錯過者,是以求婚媾往吉,無不利。此在屯而隨時求其濟也。
「六三」この一爻は無知の小人、愚昧にしてまた自ら以て是と為し、妄に天賜の至宝を貪得せんと想い、本来険中に在るも尚行険せんとす。譬如鹿を追うも虞人の帯路なく、一頭に林子の裏に闖入る――この下場に落到するも亦た怪しむに足らず。明の道の君子に至っては、則ち苗头を看出すべく、如かず彼を勧めて時機を待たしめん。もし時機を待つを肯んぜず、急ぎて成功せんと要し、一味に前に往き趕せば、必ず険難と困厄とを招来す。この一歩は身屯中に在りて却って急に済を求むる毛病なり。「六四」この一爻は、柔順にして居位正を得、己を錬りて以て時機を待つ能う。この時真陽すでに眼前に在り、正に「丹頭」――薬を采る之初のあの一点の薬苗――を調和する時、絶対に当面錯過すべからず。だから婚を求めて前往する吉、利あらざるなしと曰う。この一歩の工夫は身屯中に在りて時機に随って済を求むるなり。
九五,陽剛中正,聖胎有象,已實其腹,如有膏矣。然聖胎雖結,陰氣未退,尚在險中,如屯其膏矣。當此之時,有為事畢,無為事彰,是以小貞吉,大貞凶。此大而知小,待時而能出屯也。上六,在屯之終,正是出屯之時,柔而無能,乘馬班如,措手無策,雖真陽在望,未許我得,泣血漣如,何益於事?此小而不能大,無屯而亦有屯也。
「九五」この一爻は、陽剛にしてまた中正、「聖胎」すでに形象有り、腹中すでに充実し、好比すでに膏沢を積み起きたり。但し聖胎結ぶと雖も、陰気は未だ退浄せず、人は仍ほ険中に処る。だから「その膏を屯す」と曰う――膏沢積めども施し出す能わず。この時到りて、「有為」の一段の事すでに做し完り、「無為」の一段の事まさに顕出せんとす。だから小処正を守れば吉利、大処正を守れば反って凶と曰う。この一歩の工夫は身大に処りて小を守るを知り、時を待ちて屯難を走出する能うなり。「上六」この一爻は、屯難の末尾に処り、正に屯を出ずべき時、偏偏として柔弱無能、馬に騎りて盤桓して前せず、手にも策を束わず。縦い真陽眼前に在ると雖も、亦た我が份なし、ただ泣血漣漣を落得しのみ、事に於いて何の補か有らん。この一歩は小を守る能くして大を成す能わず、本より屯難無きに自らまた屯難を造出せるなり。
大抵進陽運火之道,須要知時,知時採藥,借後天返先天,可以出屯,可以濟屯。若不知時,過與不及,真陽終為陰氣所陷,而不得出,故卦辭曰「元亨、利貞。」貞而方能利,利則元而未有不亨,利貞之元亨,其即待時出屯之義歟?
大凡「陽を進め火を運ぶ」の路数は、最も緊要なるは時を知るなり。時を知ってはじめて薬を采る能く、後天を借りて先天に返回し、こく如くしてはじめて屯難を走出し得、屯難を救い得。もし時を知らずんば、頭を過ぐるか位に至らざるかに非ずんば、真陽は終に陰気に陥せられて、出る能わず。だから卦辞に「元亨・利貞」と曰う。先ず能く貞守して、はじめて利を得るを談じ得。利を得れば、元なれば便ち亨ならざるなし。利貞よりして元亨に致すは、説く正に時を待ちて屯を出づの意に非ずや。
上艮下坎(蒙卦第四)
蒙:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告。利貞。初六,發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。九二,包蒙,吉;納婦,吉;子克家。六三,勿用取女,見金夫,不有躬。無攸利。六四,困蒙,吝。六五,童蒙,吉。上九,擊蒙,不利為寇,利禦寇。
《蒙》卦の卦辞。亨通。我の蒙昧の童子を求むるに非ず、蒙昧の童子の我を求むるなり。初次の占筮に則ち彼に告ぐ。一再・再三に糾纏すれば、便ち是れ涜瀆、涜瀆すれば則ち復た彼に告げず。正を守るに宜し。初六爻。蒙昧を啓発す、刑罰を用いて威を立つるに宜し。もし但だ彼の脚鐐手銬を解き去りて之を放任せんか、此の様子に照らして下去れば必ず困厄有り。九二爻。蒙昧を包容す、吉。媳婦を娶納す、吉。児子は此の家を撑起する能し。六三爻。此の女子を娶る勿れ、彼女は銭有る男子を見れば則ち自身を失う、何の好処もなし。六四爻。蒙昧の裏に困死す、困厄有り。六五爻。童子の如き天真の蒙昧、吉。上九爻。猛力をもって蒙昧を撃破す。自ら強盗を為すに宜からず、強盗を抵御するに宜し。
蒙者,昏昧無知之義。卦體上艮,二陰進於一陽之下;下坎,一陽陷於二陰之中,皆有陰傷其陽之象,故謂蒙。又卦德險在止中,有險而能止,兼有止蒙之義。此運陰符下手之卦,承上坤卦而來。坤者,行順道也。運陰符者,運其不順之陰,而歸於順也。
「蒙」は昏昧無知の意。この一卦の卦体は、上卦艮は两画の陰が一画の陽の下面に進み、下卦坎は一画の陽が两画の陰の当中に陥せらる。倶に陰が陽を傷害する象なり。だから蒙と呼ばれる。再び卦徳を視れば、険陥は静止の中に含まれ、険有りて能く止まるを得。因ってまた兼ねて「蒙昧を止住する」の意有り。それは「陰符を運ぶ」下手の第一卦で、上の《坤》卦を承接して来る。坤は順の道を行うを講ず。陰符を運ぶとはすなわちあの順ならざる陰を運化して来て、それを順に帰せしむるなり。
人自先天陽極,後天陰生,元神昧而識神用事,陷真認假,誤用聰明,巧智百出,外雖明而內實暗,此蒙之所由來也。一入於蒙,性亂命搖,一日千生萬死,莫知底止,險之極矣。若知有險而能止之,黜聰毀智,如愚如訥,外雖無知,內實有知,由假蒙而歸真蒙,是蒙中反有亨道矣。
人は先天の陽が極処に長じ後天の陰が随って生じて以来、「元神」は便ち昏昧して下去り、「識神」が家を当て来る。真を陥住し、偽を真と認作し、聡明を錯った処に用い、機巧百出して、外表は精明を看るも、裏頭は実は一団の漆黑――これがすなわち「蒙」の由来なり。一たび蒙の裏に落ち込めば、性情紊乱、命根動揺し、一天の内に千生万死して、何処が底かを知らず、凶険極点に至れり。倘若険有るを知りて能くそれを止住せば、聡明を摒棄し機巧を毀去して、看れば一個の愚人・一個の笨嘴拙舌の人の如く、外面は無知を顕るも裏面は実は明明白白、而して「仮蒙」より「真蒙」に回到す――こく如く一たび来れば、蒙裏に反って一条の亨通の路を蔵したり。
蒙之亨者,莫過於童,蒙童之蒙,不識不知,順帝之則。寂然不動,感而遂通,一舉一動,皆從本性中流出,儼然聖賢身分,天人面目。行蒙道者,必歸於童之蒙,方是返本還元之蒙。然此返本還元之蒙,匪我求重蒙,童蒙求我也。
蒙裏最も亨通なるは、童子より好きはなし。童子あの一種の蒙は、識らず知らず、自然に天則に合す。寂然として動かずして一感すれば便ち通じ、一挙一動皆本性の裏より流出す。儼然として是れ聖賢の身分・天人の面目。蒙の道を修行する人は、必ず童子あの一種の蒙に帰して、はじめて本に返り元に還るの蒙と算う。しかるに此の種の本に返り元に還るの蒙は、正に卦辞のいう「我童蒙を求むるに匪ず、童蒙我を求む」――我去りてそれを攀求するに非ず、而もそれ自ら来たりて我に就くなり。
匪我求童蒙者,非由勉強,不著於色也。童蒙求我者,出於自然,不落於空也。不著於色,不落於空,非色非空,既非求真,又不除假,常靜常應,常應常靜,不蒙而似蒙,蒙而實不蒙。外物不得而入,內念不得而生,不求真而真即在是,但此非色非空之道,有養蒙發蒙二法,不可不知。
「我童蒙を求むるに匪ず」とは、此れは勉強攀求して来るに非ずと説く。だから「色」に執着せず――有形有相の上に落ちず。「童蒙我を求む」とは、それは自然より出づと説く。だからまた「空」に落ち込まず――断滅頑空の裏に堕せず。色に着せず、空に落ちず、非色非空。既に刻意にあの真を求めず、亦た刻意にあの偽を除かず。常常安靜にして常に物に応じ得、常常物に応じて常に自ら安靜なり。看れば蒙ならずして蒙に似り、看れば蒙なれども実は蒙ならず。外面の事物は入り来る能わず、裏面の念頭は生じ起きず。真を求め去らずして真は自然にここに在り。ただ此の条の非色非空の路に、「蒙を養う」と「蒙を発す」の両種の法門あり、知らざるべからざるなり。
當其陰陽混成,天真未傷,客氣未入,蒙屬於真,如初筮著策未分之時,必先告命,須當虛靜誠敬,以行無為之道。及其陰陽已判,天真有虧,客氣潛入,蒙歸於假,如筮策再三瀆亂之時,不待告命,可以變化裁制,以行有為之道。
当に陰陽尚渾然として一片に合成し、天真曾て傷を受けず、外来の客気未だ侵入せざる時、この蒙は真蒙に属す。猶初次の占筮・蓍策未だ分かれざる時、先ず神明に向かって告命せんとするが如し。此の時まさに虚静誠敬にして、「無為」の路を走るべし。陰陽すでに判分し、天真虧損有り、客気悄悄侵入するに及んで、この蒙は便ち仮蒙と成る。猶蓍策の一再に翻弄せられて涜乱清さざる時、あれは則ち必ずしも告命せず、尽く随宜に変化して裁断制服を加え、「有為」の路を走るべし。
無為之道,養真蒙也。有為之道,化假蒙也。養真化假,有為無為,隨時而用,不失其正,或自有為而歸無為,或自無為而成有為,總以至善無惡,渾然天理,還元返本,歸於童蒙為極功。行蒙道者,可不以正哉!
「無為」此の一路は、もって真蒙を涵養する。「有為」此の一路は、もって仮蒙を化去する。真を養い偽を化し、有為無為、皆時機に随って取用し、その正を失わず。或いは有為より做り起きて無為に帰し、或いは無為より入手して有為を成就す。総帰として至善無悪・渾然一片の天理を以て、元に還り本に返り、童子の如き蒙に帰せんことを、最高の功夫と為す。蒙の道を修行する人は、なんぞ一個の「正」の字を守らざるを得んや。
初六,在蒙之初,人心方起,急須嚴加剋制,如利用刑人也。若姑息養奸,縱性為惡,如用說桎梏以往,漸入於下愚不移之地,而莫可救止,取吝必矣。此貴防陰於蒙之初也。九二,剛而能柔,借陰養陽,是包蒙也,蒙在包中,外暗內明,不但陽氣不傷,而且陽氣增長,如納婦之吉。而子自克家,此能養陽於蒙之時也。
「初六」この一爻は蒙の開頭に処り、「人心」剛かに萌動す、必ず急いで厳加に克制せんを要す。これがすなわち「刑人を用うるに利し」。もし一味に姑息して奸を養い、性子を放縦して悪を為さしめば、猶脚鐐手銬を解き開けて彼に由らしむが如く、慢慢として孔子のいう「下愚移らざる」の地步に陥進し、再び救い帰る能わず、困厄を招致するは一定なり。この一歩は蒙の起頭に於いて則ち陰を防住するに貴し。「九二」この一爻は、剛強にしてまた柔和する能く、陰気を借りて陽気を涵養す。これがすなわち「蒙を包む」――蒙を包裹して起くなり。蒙は裏頭に裹められて、外面昏暗にして裏面明白、但だ陽気損傷を受けざるのみならず、反って一天天増長す。如同「婦を納る」の吉、児子は自然に此の家を撑起し得べし。この一歩は蒙の時節の裏に於いて陽を養う能うなり。
六三,陰柔不中不正,恣情縱欲,故勿用取女。勿用者,以其人心用事,貪財好色,如淫奔之女,見金夫不有躬,未得於人,早失其己,其無所利,可知此蒙,而又滋其蒙也。六四,性質本愚,又與小人為伍,不知親近高明之士,以擴充其識見,終困於蒙而不得出,豈只取吝而已乎?此蒙而不知其蒙也。
「六三」この一爻は、陰柔にして既に中に居らずまた正を得ず、情欲を放縦す。だから「女を取るを用る勿れ」と曰う――此の女子を娶る勿れ。取るべからざるの所以は、彼女は「人心」家を当り、財を貪り色を好み、猶一個の私奔の女子、銭有る男子を見れば則ち自身を失う。未だ人より何を得るに及ばずして、先に已に自己を丢去し、一點の好処もなし。見るべし、これは身蒙中に在りて反って自己の蒙を加深するなり。「六四」この一爻は、資質本より愚鈍にして、また小人と混じり一処に在り、高明の人に親近して自己の見識を拡充するを懂れず、終に蒙の裏に困死して出る能わず。豈に止まりて困厄を招致するのみならんや。これは身蒙中に在りて却って自己の蒙を知らざるなり。
六五,於止知其所止,以無能而順有能,借剛濟柔,雖蒙不蒙,正童蒙不識不知,順帝之則之吉道。此蒙而自知其蒙也。上九,剛而居於蒙之極,是能懲忿窒欲,猛力以退客氣,如擊蒙也。
「六五」この一爻は、止まるべき時に於いて自己の止まるべき所を知り、自己の無能を以て能有る人に順従し、剛を借りて自己の柔を救助す。蒙中に在るも実は蒙ならず。正に童子あの「識らず知らず、帝の則に順う」の吉道なり。これは身蒙中に在りて自ら自己の蒙を知るなり。「上九」この一爻は、剛爻をもって蒙の極処に居り、能く忿怒を懲戒し嗜欲を堵塞し、猛力を用いて外来の客気を逼退す。これがすなわち「蒙を撃つ」。
退陰之道,不利於人心而為寇,利於道心而禦寇,去人心,振道心,陰氣退盡,陽氣純全,復見本來面目,此蒙而終不能蒙也。觀於六爻之蒙,真假大別,真者用而假者去,養之退之,皆能不失其正,陰符之道盡矣。
陰を退ける門路は、「人心」をして家を当てしめて反って強盗を去做さしむるに宜からず、「道心」をして主を為さしめて強盗を抵御し去るに宜し。人心を除去し道心を振起せば、陰気は退けて乾乾浄浄、陽気は純粋完足して、重ねて本来の面目を見る――これは身蒙中に在りて終に蒙に住まらざるなり。通観六爻の講ずる蒙、真と仮とは分かれて清清楚楚。真は留めて用い、仮は除き去る。養うべきは養い、退くべきは退け、倶に能くその正を失わず。「陰符を運ぶ」の道理は、ここに至って講じ尽くせり。
上坎下乾(需卦第五)
需:有孚,光亨,貞吉,利涉大川。初九,需于郊,利用恆,無咎。九二,需于沙,小有言,終吉。九三,需于泥,致寇至。六四,需于血,出自穴。九五,需于酒食,貞吉。上六,入于穴,有不速之客三人來,敬之終吉。
《需》卦の卦辞。心中に誠信を懐き、光明亨通、正を守れば吉、大河を渡るに宜し。初九爻。郊野の上に於いて等待す、恒を以て持之以るに宜し、過あることなし。九二爻。沙灘の上に於いて等待す、稍く些かの閑話を招来す、最終吉。九三爻。泥濘の裏に於いて等待す、盗寇の上門を招来す。六四爻。血泊の中に於いて等待す、終に坑穴の裏より脱出する能し。九五爻。酒食の間に於いて従容として等待す、正を守れば吉。上六爻。坑穴の裏に落ち込み、請わずして自ら来たる三位の客人の到訪あり、恭敬して彼らを対待す、最終吉。
需者,有待之義。卦德上坎陷,下乾健,健而能處於險中,故謂需。此養健待時之卦,承上屯卦而來。屯者,動於險中,在後天中返先天,所以行健道而取坎陷之真陽也,但陽在坎中,所陷已久,不能遽然出險,必須漸次導引,待時而採,非可自恃其健,冒然下手,反招其險者。
「需」は等待の意。この一卦の卦徳は、上卦坎は険陥と為し下卦乾は剛健と為し、剛健にして能く険中に安処す。だから需と呼ばれる。それは「健を養いて時を待つ」を講ずる一卦で、上の《屯》卦を承接して来る。屯は険中に於いて発動し、後天の裡に先天を返す在り。だから剛健の道を行いて、坎中に陥れるあの一画の真陽を取り返し去るを要す。ただこの一画の陽は坎裡に陥ることすでに久しく、一下子に険を脱する能わず。必ず一歩一歩導引して、時機到りて再び采らんを須す。自ら恃みて剛健に、冒冒失失に則ち下手す可からず。あの様子は反って凶険を招来す。
夫人自陽極生陰,乾中之陽,走於坤宮,坤實成坎;坤中之陰,入於乾官,乾虛成離,於是假陰假陽用事,健者不健,順者不順,意不誠而心不正,健不知險,順不知阻,行險僥倖,無所不至。今欲出險,須要知險,能知其險,是能信險,一信其險,內有主宰,戒慎恐懼,煉己待時,一舉一動,止於其所,不為客氣所傷,是以需之道,有孚光亨,貞而得吉也。
人は陽が極点に長じて陰を生出して以来、乾卦の中間のあの一画の陽は坤宮に走り去り、坤は填実せられて便ち坎と成る。坤卦の中間のあの一画の陰は乾宮に鑽り込み、乾は掏空せられて便ち離と成る。ここにおいて仮陰仮陽が家を当て来る。剛健なるは復た剛健ならず、柔順なるは復た柔順ならず。意念は誠ならず心地は正ならず、剛健にして険有るを知らず、柔順にして阻有るを知らず、一味に険を行いて僥倖し、何事も為し出す能う。今険を出でんと欲せば、先ず険を認得せんを須す。能く険を認得するは、すなわち能くこの険を信頼するなり。一旦真に険有るを信ぜば、心裡に便ち主宰有り、ここより戒慎恐懼して、己を錬りて以て時機を待ち、一挙一動皆自己の在るべき位置上に安処し、外来の客気に傷せられず。だから《需》卦の道は「孚有りて光亨」――誠信を懐きて光明通達し、正を守りて吉を得るなり。
有孚光亨者,信險而能處險也。貞吉者,守正而能無險也。既信險,又守正,以健御險,借險養健,待時進步,人於穴而探虎子,不特不為陰氣所傷,且能取坎中所陷之真陽,歸於乾宮,此利涉大川之所由來也。大川至險,即坎之象,坎為陷陽之物,其險最大,信險而正涉之,時未至而養健,時已至而進健,進之養之,不失其時,能以處險,能以出險,其健無往而不利矣。
いわゆる「孚有りて光亨」とは、険有るを信頼するに足り、因って能く険中に安処す。いわゆる「貞吉」とは、正を守得住すに足り、因って能く険を化して無険と為す。既に険有るを信じ、また正を守り得れば、則ち剛健を用いて険を駕馭し、険を借りて剛健を涵養し、時機成熟を待って再び前に一歩を進める――譬如虎穴に進み入りて虎子を取るが如く、但だ陰気に傷せられざるのみならず、また能く坎中に陥れるあの一画の真陽を取り返して、乾宮に帰還せしむ。これがすなわち「大川を渉るに利し」の由来なり。大川は至険の地、正に坎の象なり。坎は陽を陥住する物、凶険最大なり。険有るを信じて正道をもってそれを渡る。時候未だ到らざれば剛健を涵養し、時候到れば剛健を推進す。進むべきは則ち進み、養うべきは則ち養い、時機を錯過せず。能く険中に安処し、亦能く険外に脱出せば、この份の剛健は便ちいずこに走り至るも往きて利あらざるなし。
初九,剛而自下,有健不用,在塵而能出塵,不為名利所染,如需于郊也。然剛者,多才多能,每不樂居於人下,恐有需而不固之咎,惟利用恆,方能有始有終,而無半途更變之咎矣。此剛而堅固之需也。九二,稍恃其健,即便有險,如需于沙也。需沙之險,雖非大凶,其行阻滯,難免小言自悔。既能自悔,勝心即化,剛即能柔,不入險而險不來,終得以吉全之,此剛而知險之需也。
「初九」この一爻は、剛強にして下位に居るを甘んじ、剛健有るも急ぎて使い出さず、身塵世に在りて能く塵世を超出し、名利に沾染せられず、猶郊野の上に於いて等待するが如し。ただ剛強の人は往々多才多能にして、常常として人の下に屈居することを楽しまず、ただ「待ち住まず」の過失を犯さんことを怕るるのみ。だから唯だ「恒を用うるに利し」――恒を以て持して、はじめて始有り終有り、半途に於いて変卦するに至らず。この一歩は剛強にしてまた堅定なる等待なり。「九二」この一爻は、稍く自己の剛健を一點仗恃し、険は則ち跟って上がる。猶沙灘の上に於いて等待するが如し。沙の上に待つ険は大凶と算するに足らざるも、行動は阻滞を受け、难免して几句の閑話を招来し自ら懊悔を感ず。既に自悔を懂れば、好勝の心は便ち化去し、剛もまた能く柔なり。険境を踏み入れ去らざれば、険は自然に門に找來せず、最終に吉を得て保全し得。この一歩は剛強にして険有るを知るの等待なり。
九三,剛強躁進,不能待時,急欲成功,本要向前,反落於後,如需于泥也。需泥之健,無險而自招險,致寇之至,理有可決,此剛而不知險之需也。六四,柔弱無能,本自有險,如需于血也。又柔居柔位,在昏暗之地,而不能自出,如在穴也。幸其柔而守正,以無德而順有德,借人濟己,亦能出自穴,而終不為陰氣所傷,此柔而順剛之需也。
「九三」この一爻は、剛強にして躁進し、時機を待ち得ず、急ぎて成功せんと要し、本より前頭を搶せんと欲するも、反って後面に落つ。猶泥濘の裏に陥りて等待するが如し。泥中に待つ剛健は、本来険無きに自ら険を招き出し、盗寇の上門を引き致す。この道理は断定し得べきなり。この一歩は剛強にして険有るを知らざるの等待なり。「六四」この一爻は、柔弱無能にして、本身は便ち険を帯び、猶血泊の中に於いて等待するが如し。また柔爻をもって柔位に居り、昏暗の地に処り、自己出る能わず、猶坑穴の裏に掉れるが如し。幸いにそれは柔なりと雖も能く正を守り、自己の無徳に憑って徳有る人に順従し、他人の力を借りて自らを救い、亦能く坑穴の裏より出て、終に陰気に傷せられず。この一歩は柔弱にして能く剛強に順従するの等待なり。
九五,陽剛中正,內有主宰,借假修真,雖有險而若無險,如需于酒食也。酒食為慰心實腹之物,慰心實腹,樂道忘年,時有險而道不險,外有險而內不險,貞而未有不吉者。此剛而守正之需也。
「九五」この一爻は、陽剛にして中正、心裡自ら主宰有り、能く偽を借りてあの真を修む。身険中に処ると雖も猶険無きが如く、好比酒食の間に於いて従容として等待す。酒食は心神を慰藉し肚腹を充実する物なり。心安を得腹充を得れば、大道に楽しみて年歳を忘掉す。時勢は険有ると雖も、道上は却って険なし。外面は険有ると雖も、裏頭は却って険なし。正を守れば吉ならざるなし。この一歩は剛強にして能く正を守るの等待なり。
上六,在需之終,宜出險而反行險,如入于穴矣。然入穴由於不能煉己,若能煉己,煉到無己時,則虛室生白,神明自來,始而入于穴,終而出於穴,是以有不速之客三人來,敬之終吉也。
「上六」この一爻は、等待の末尾に処り、本より険を出ずべきに、却って険裡に往きて走る。猶坑穴に掉進するが如し。しかるに坑穴に掉進するは、曾て「己を錬ら」ざるが為なり――曾て自己此の私我を磨錬し乾浄せざるが為なり。もし能く己を錬り、錬りて「己」も無き時に至らば、《荘子・人間世》のいう「虚室白を生ず」の境界は則ち現前す。神明自然到來す。起初は坑穴に落ち込むと雖も、最終は仍ほ坑穴の裏より出る能う。だから三位の請わずして自ら来たる客人の到訪有り、恭敬して彼らを対待すれば最終吉なりと曰う。
不速之客,乾之三陽也,即本來不死之人,有生以來走失他家,而為客矣。待其時而復之,自一陽而漸至三陽純全,仍是我家之物,饒他為主我為賓,所當敬之,而弗敢有違者。敬之弗違,陰陽混合,金丹凝結,保命全形,其吉多矣。此煉己結丹之需也。然則進火之道,或養健,或用健,或處健,或濟健,各有其時,待時而用,不失其正,健以知險,雖涉大川,亦無不利矣。
あの三位の「速ならざるの客」とは、すなわち乾卦の三画の陽爻、亦たすなわち我本來あの不死の自己なり。ただ生有って以来他家に走失して去り、はじめて客と為る。時機到りて再び彼らを迎え返せば、一陽初復より漸々として三陽純全に至り、依然として我が自家の物なり。この時妨げずそれをして主を為さしめ、我は賓客を為す。理当たりて恭恭敬敬、半点の違逆有るを敢えてせず。敬して違わざれば、陰と陽と混合して一を為し、金丹凝結して形を成し、性命は保全を得て形体は周全を得、吉利は可なりに多し。この一歩は己を錬り丹を結ぶの等待なり。こく如く視れば、「火を進む」の路数は、或いは健を養い、或いは健を用い、或いは健に処り、或いは健を済し、各々その時有り。時を待ちて用い、その正を失わず、剛健にしてまた険有るを知らば、則ち縦い大河を渡り去るも、利あらざるなし。
訟卦第六(上乾下坎)
訟:有孚、窒、惕、中吉,終凶。利見大人,不利涉大川。初六,不永所事,小有言,終吉。九二,不克訟,歸而逋,其邑人三百戶,無眚。六三,食舊德,貞厲,終吉。或從王事,無成。九四,不克訟,復即命渝,安貞吉。九五,訟,元吉。上九,或錫之鞶帶,終朝三褫之。
《訟》卦の卦辞に曰く。心中確かに誠信有るも、却って冤屈に堵塞せられて通ぜず、能く時時警惕して中道を守れば則ち吉利、官司を打ちて底に至らば則ち凶険。此の時徳位有る大人を求見するに適宜、冒険して大河を渡越するに適宜ならず。初六爻。争訟の事を拖延して下去らず、稍く几句の口舌有ると雖も、最終吉利。九二爻。此の場の官司に打ち勝たず、便ち退回りて躲避す。彼の所属する采邑はただ三百戸の人家有り、因って災禍なし。六三爻。祖上の留下した旧有の俸禄を安享し、正を守りて心存に危懼し、最終吉利。縦い君王に輔佐して事を弁ずるも、功に居らず。九四爻。官司に打ち勝たず、則ち回心転意して争訟の念頭を改変し、正を守るに安んずれば便ち吉利。九五爻。こく如き人に由りて争訟を聴断せしめば、大いに吉利。上九爻。縦い争訟に因って獲勝して官服大帯を賞賜せらるるも、一個の早上に便ち三次に剥奪せられん。
訟者,爭辯是非之義。卦德內坎險,外乾健,因險恃強,因強致險。二者俱有乖和之義,故謂訟。此陷真爭勝之卦,承上蒙卦而來。蒙者有險而能止,所以退其後天氣質之陰也。
「訟」とはすなわち是非曲直を争弁す。この一卦の卦徳は、内卦坎は険陥と為り外卦乾は剛健と為る。内裡に険陥有るが為に剛強を仗恃し、また剛強を仗恃するが為に険陥を招来す。两者倶に乖違失和の意を含む。だから「訟」と呼ばれる。これは一個の真性を陥没し強を争い勝を好む卦で、上一卦《蒙》を承接して来る。《蒙》の講ずるは険に遇うて能く歩を止むるに在り、用意は「後天気質の陰」――人の出生以后に禀受した駁雑の気の結成した陰暗偏性――を退去せんとするに在る。
人受後天陰陽五行之氣而成身。受陰氣之多者,性陰險;受陽氣之多者,性暴躁。陰陽之氣雜亂者,陰險暴躁兼有之。此氣質則然,惟大聖人能化其氣質,其次中下之人,為氣質所拘,偶有觸犯,陰毒發而躁性起,爭勝好強,詭計百出,損人利己,鬥口鬥智,辨是論非等等乖和失中之事,皆名曰訟。
人は「後天」陰陽五行の気を禀受して形体を結成す。陰気を禀受すること多きは、秉性陰険。陽気を禀受すること多きは、秉性暴躁。陰陽の気駁雑錯乱なるは、陰険と暴躁との両様を兼備す。これは気質の使然なり。唯だ大聖人のみ能く自己の気質を変化し、其の余の中等以下の人は、皆気質に拘えられ、偶然冒犯を受ければ、陰毒の心一発し、急躁の性則ち起き、ここにおいて強を争い勝を好み、詭計百出して、人を損い己を利し、口舌を斗い心機を斗い、是非を弁じ長短を論ず。凡そ此の種種の乖違失和・中道に偏離する事は、皆「訟」と呼ばる。
修道者,須要知得氣質之性,為害最大,依世法而修道法,先將陰險暴躁之氣一筆勾消,健於內而不健於外,境有險而心絕無險,可以漸化氣質,不在是非場中鬧矣。然身未離塵世,猶有患難相侵,我雖不陰險,而人以陰險來傷,我雖不暴躁,而人以暴躁來欺。此無故陷害,自信處心無愧,其中受屈,窒塞不通,事在不得不辯明者。但欲辯之於外,不若自訟於內,故曰訟有孚窒,惕中吉。
道を修する人は必ず懂れんを須す。「気質之性」は為害最大なりと。世間の人たるの法則を依托して大道の法則を修行せんとするには、先ず陰険・暴躁この两股の習気を一筆に勾銷し、剛健はただ自己の身内に用いて外に向かって強を逞ぶさず、境遇縦い険有るも、心中絶対に険を生ぜざらしむ。こく如くすれば則ち漸漸に気質を変化し、復た是非場中に於いて吵闹せず。しかるに身子未だ塵世を脱離せず、仍ほ患難の相侵有り。我は陰険ならざると雖も、別人は却って陰険を用いて我を傷つけ、我は暴躁ならざると雖も、別人は却って暴躁を用いて我を欺く。此の種の无故の陥害は、自問して心に愧なきに居るも、其中に冤を含み屈を受け、堵塞して通ぜず、事情は已に弁明せざるを得ざる地步に至る。但しそれに向かって外に弁ずるより、如かず内に向かって自訟せん。だから卦辞に「孚有り・窒・惕・中吉」と曰う――心に誠信を存みて堵塞せられ、唯だ内心警惕して中道を守住してはじめて吉利なり。
能惕於中,邪念止而正念生,窒塞可通,陰險可化,勝心可無矣。否則不能惕中,因小忿而失大事,躁性外發,陰謀內生,未得於人,早傷其己,始不謹而終必凶。然亦有事惕於中,自訟不明,而必告訟於人,借人分辨是非邪正者。但分辨其是非邪正,惟利於見大人,若不見大人,則非所利。
能く内心に於いて警惕を保持せば、邪念は便ち止息し正念は便ち生起し、堵塞の処は疏通を得、陰険の習は化除を得、好勝の心は消尽を得。これに反し、もし内心に警惕する能わず、一點の小忿の為に修行の大事を誤れば、急躁の性は外に向かって発作し、陰謀詭計は内に於いて滋生し、未だ別人に勝たざるに、先に已に自己を傷つけ、開頭謹慎ならざれば、結局必ず凶険なり。ただ亦た内心確かに已に警惕すれども自訟して辨え明さず、人に訴え旁の人を借りて是非邪正を分辨せざるを得ざる情形有り。但し是非邪正を分辨せんと要せば、ただ「大人」に見ゆるのみ利有り。大人に見えざれば、則ち何の利有るを談ずるを得ざるなり。
蓋大人者,正己而正物者也。能規人之過,能勸人之善,能破人之疑,能開人之慧,見之最利。否則既不能惕中,而自化氣質,又不能見大人,而擴充識見,恃一己之陰險,爭勝好強,陷其真而從其假,訟非所訟,自招其禍,是以不利涉大川。惕中可以見大人,不惕中便是涉大川,惕中吉,不惕中凶。修道者,可不自訟於早乎?
いわゆる「大人」とは、先に自己を端正し進んで他人を端正する人なり。彼は能く汝の過失を指出し、能く汝を勧勉して善に向かわしめ、能く汝の疑惑を破除し、能く汝の智慧を開啓す。こく如き人に見ゆるは最も利有り。否れば、既に内心警惕して自ら気質を変化する能わず、また大人を求見して見識を拡充する能わず、ただ自己の一副の陰険心腸に憑って強を争い勝を好み、「真」を陥没して「偽」に依従し、本より争うべからざるあの訟を争い去り、自ら禍患を招く。だから卦辞に「大川を渉るに利あらず」と曰う。能く内心に警惕するは、則ち大人に見えたるに等し。内心に警惕する能わざるは、則ちあの条の大河を渉り去るに等し。中に於いて警惕すれば則ち吉、中に於いて警惕せざれば則ち凶。道を修する人は、なんぞ及早に自己の心上に於いて此の場の官司を打たざるを得んや。
初六,柔而自下,有訟之事,無訟之心,是以不永所事。然既在訟中,亦必辨明其事,雖小有言,終不成訟,究得以吉全之。此柔而不訟者也。九二,所應相敵,不克訟而即不訟,歸而逋其邑人三百戶,以避其鋒,雖有災眚,不能及之。此剛而不訟者也。
初六一爻。性柔にして自ら卑下に居り、争訟の事を摊上げると雖も、心裡は却って争訟の念無し。だから「その事を永くせず」、此の事を拖延して下去らず。しかるに既に身訟中に在れば、亦た必ず事情を辨明せんを須す。因って「小に言有り」、稍く几句の口舌有り、終究として争訟と為すを成さず、最後に保全吉利を得。此一爻に配するは柔順にして人と相争わざるの一歩の工夫なり。九二一爻。相応する一方は自己と勢均力敵、打ち勝たざれば則ち乾脆として打たず、退回りてあのただ三百戸の小邑に躲進し、対方の鋒芒を避け、災禍有ると雖も波及して自己に及ばず。此一爻に配するは剛強にして肯んじて手を罷め争わざるの一歩の工夫なり。
六三,柔弱本不敢訟,是以食舊德也。食舊德而危厲自處,小心謹慎,不致訟而自無訟,終得以吉全之。然既在訟中,我不訟而人必訟,須當借高明者,分辨其是非,事明即止,是以或從王事無成,此柔能順則,不成其訟者也。
六三一爻。本性柔弱にして、原より争訟を敢えてせず。だから「旧徳を食む」、旧有の家業徳沢を安享す。旧有を安享してまた危懼の心をもって自処し、小心謹慎にして、争訟を招惹し去らず。自然に亦た争訟なし、最終に保全吉利を得。しかるに既に身訟中に在れば、我争わざれども対方は必ず争う。則ち見識高明の人を借助して是非を分辨すべく、事情一たび辨明すれば立刻に手を收む。だから爻辞に「或いは王事に従う、成無し」と曰う――縦い君王の事に参与し去るも、その功に居らず。此一爻に配するは柔順にして能く法則に依循し、争訟を成形せしめざるの一歩の工夫なり。
九四,以剛遇剛,必有爭端,而能以柔處之,不克訟而即不訟,化其氣質之性,復於天命之性,以不安貞,渝變為安貞,不求吉而吉即隨之,此剛而自反,不果於訟者也。九五,剛健中正,以德服人,能化一切陰險、好強之輩,皆歸於不訟,是以為訟之元吉。此正己正人,能使無訟者也。
九四一爻。剛強をもって剛強に遇上すれば、必ず争端を生出す。然れども能く柔和の態度を用いて以て対待し、打ち勝たざれば便ち索性として打たず、「気質之性」――後天禀気の結成した偏性――を変化し掉り、「天命之性」――本来天賦の至善本性――に回復し、原先の正に安んぜざる心を、正を守るに安んずるに転変し、吉を求めに行かずして吉自然跟って来る。此一爻に配するは剛強にして肯んじて自我反省し、争訟を做し底せざるの一歩の工夫なり。九五一爻。剛健にして中に居り正を得、徳行を用いて人をして心服せしめ、能く一切の陰険好強の輩を感化し、皆争わざるに帰せしむ。だから是れ争訟一事の裏の最大の吉利なり。此一爻に配するは自己を端正し進んで他人を端正し、人間をして根本に訟無からしむるの一歩の工夫なり。
上九,爭勝好強,不知自反,到得訟終,外雖得勝,內實敗德,如或錫之鞶帶,終朝三褫之。一錫而三奪,其所得於人者少,而其所自失者多,此有己無人,終敗其訟者也。然則不訟即吉,有訟即凶,不惕於始,必敗於終。訟之不可有也如是夫。
上九一爻。強を争い勝を好み、回頭反省するを懂れず、争訟尽頭に走り至るを待って、外面は雖も贏つも、裏面は実は已に徳性を敗壊せり。正に爻辞のいうが如く、縦い官服大帯を賞賜せらるるも、一個の早晨に便ち三次に剥去せられん。賞すること一次にして奪うこと三次、別人より得る所は少なく、自己失去するは却って多し。此一爻に配するはただ己有るを知り人有るを知らず、終に此の場の官司を打ち輸したるの下場なり。此に由りて見るべし。争訟せざれば則ち吉利、争訟有れば則ち凶険、開頭に警惕を知らざれば、結局必ず失敗す。争訟の有るべからざるは、即ち此の道理なりや。
師卦第七(上坤下坎)
師:貞,丈人吉,無咎。初六,師出以律,否臧凶。九二,在師中,吉,無咎,王三錫命。六三,師或輿尸,凶。六四,師左次,無咎。六五,田有禽,利執言,無咎。長子帥師,弟子輿尸,貞凶。上六,大君有命,開國承家,小人勿用。
《師》卦の卦辞に曰く。兵を興し衆を用うるは正を守るを要し、老成持重の長者に由りて統領してはじめて吉利、過有ることなし。初六爻。軍隊出動するは必ず紀律に依照せんを須す、紀律善ならざれば便ち凶険。九二爻。身軍中に在りて能く中道を持守す、吉利、過なし、君王三次に嘉命を頒下す。六三爻。軍隊或いは車をもって尸首を載せて帰らんと要す、凶険。六四爻。軍隊退守して左辺に扎営す、過なし。六五爻。田裡に禽獣の為害有り、声討捕捉するに適宜、過なし。長子に由りて軍隊を統率せしめば則ち可、年幼無能の人をして統率せしめて尸を載せて帰るを致さば、縦い正を守るも凶険。上六爻。天子詔命を頒下し、諸侯を分封し家業を伝承す、小人は一概に任用すべからず。
師者,眾也。以一人而統眾人之義。卦德上坤順、下坎險,順而行險,故謂師。此借陽退陰之卦,承上需卦而來。需者,順時進陽也,進陽所以為退陰計耳。退陰之法,以正除邪,以真滅假,猶如師貞,師者刑殺之道,須要有剛有柔,有仁有義,通權達變,方能濟事。否則,能剛而不能柔,能柔而不能剛,或獨仁而不知用義,或獨義而不知行仁,皆不得正,不得正,即不得吉,反致其咎。
「師」とはすなわち衆多、一人をもって衆人を統率するの意を含む。この一卦の卦徳は、上卦坤は柔順と為り、下卦坎は険陥と為り、形勢に順って険を行く。だから「師」と呼ばれる。これは一個の陽気を借りて陰気を退ける卦で、上一卦《需》を承接して来る。《需》の講ずるは時機に順応して「陽」を進むるなり、而して陽を進むは正に陰を退けんが為に打算を作すなり。陰を退ける方法は、正気を用いて邪気を除去し、真を用いて偽を滅掉す。卦辞のいうが如き「師は貞」、兵を用うるは必ず正を守るを須す。兵を用うるは刑罰誅殺の道、必ず剛中に柔有り・柔中に剛有り、仁有り義有り、権変に通達して、はじめて事を済さん。否れば、ただ剛能くして柔能わず、或いはただ柔能くして剛能わず。或いは一味に仁を講じて義を用うるを知らず、或いは一味に義を講じて仁を行うを知らず。皆「正」と算するに足らず。その正を得ざれば、則ち吉を得る能わず、反って過を招来す。
惟老成練達之丈人,明善惡,分邪正,知吉凶,識急緩,剛柔不拘,仁義並行,行險能順,順以濟險,借後天,返先天,依先天,化後天,不但陰氣不能陷陽,而且群陰皆順其陽,此吉而無咎之道。若非丈人,見理不明,邪正罔分,入於旁門曲徑,冒然下手,不特不能退陰,而且有以助陰,取咎必矣。何能致吉成道乎?
唯だ老成練達の「丈人」のみ、能く善悪を明辨し・邪正を分清し・吉凶を預知し・緩急を識得し、剛柔は一端に拘らず、仁義並行して悖らず、険処に行きて能く柔順し、また柔順を用いて険難を済度す。彼は「後天」――已に形気に落入した此の副の身心――を借助して、「先天」――本来污染を受けざる真元――に返回し、再び先天の気に依って、後天の渣滓を化去す。こく如く一たび来れば、但だ陰気の陽気を陥害する能わざるのみならず、而且衆陰倶に陽に順従す。これが正に吉利にして過無きの路数なり。倘若此の如き丈人に非ざれば、理を見るに明ならず、邪正分かれず、誤って傍門小道に入り、冒冒失失に下手し、但だ陰を退くる能わざるのみならず、反って陰気の為に忙を幇ぬ。過を招来するは必然、どこが尚吉を得て道を成すを談じ得んや。
夫人當先天未失之時,純是天真,如國家太平,雖有智士良將,無所用之。及交後天,六賊作禍,七情猖狂,如國家有事,群寇作亂,若無刑殺剿除之道,不能反危為安,故金丹有為之道,煅去後天一切滓質,不使有纖微之疵,留於方寸之中,期必復見當年完完全全一個事物而後已。此師之道,所由貴也。
人は「先天」未だ失去せざる時、純然として是れ一団の天真、猶国家の太平無事、縦い智謀の士・精良の将有るも、用うべき処無し。落入して「後天」に及ぶを待って、眼・耳・鼻・舌・身・意此の「六賊」作祟し、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲此の「七情」猖狂す。猶国家の乱子を出して群寇造反するが如し。もし一套の刑殺剿除の手段無くんば、便ち危を転じて安と為す能わず。だから金丹修錬中の「有為」の此の一段の工夫は、正に後天の一切の渣滓雑質を煅錬し掉り、絲毫の瑕疵をも方寸の心に留下するを容許せず、非ずんば重新に当年あの完完整整の本来の物事を見ざれば已まざるなり。兵を用うる道の可貴たる所以は、縁由すなわちここに在り。
初六,在師之初,先要知其火候、層次、進退、規矩,循序而進,依法而行,能謹慎於始,自然決勝於終,如師出以律也。倘不明火候,冒然作為,如師無律否臧自招其凶耳。此退陰貴明火候也。
初六一爻。兵を用うるの起頭に処り、先ず「火候」――功を用うの時機と軽重緩急、および層次・進退・規矩――を弄清せんを須し、次序に循って前進し、法度に依って施行す。開頭能く謹慎なれば、自然に結局能く取勝す。正に爻辞のいうが如き「師出でて律を以てす」。倘若火候を明さず、冒冒失失に動手せんか、則ち軍隊の紀律無く・処置善ならざると成り、自ら凶険を招く。此一爻に配する工夫は、陰を退くる一事、貴ぶは先ず火候を弄明白するに在り。
九二,剛中有柔,有進有退,隨時變通,不但不當為陰氣所傷,且能點化群陰,皆歸於正,如在師中得吉,而又能無咎。然此師中之吉,繫外爐加減之功,亦必內而心君誠一不二,內外相濟,方能全吉而無咎。亦如王三錫命,君信臣而臣報君,未有不成其功者。此退陰必須內外相濟也。
九二一爻。剛中に柔有り、能く進み能く退き、時に随って変通し、但だ陰気に傷せられざるのみならず、また能く衆陰を点化して、彼らをして統統正道に帰せしむ。正に爻辞のいうが如き身軍中に在りて吉を得、又能く過無きなり。しかるに此の種の「師中に在る」の吉利は、外炉上の加減進退の功夫に属す。還た必ず内裡の「心君」――主を作すあの一念――の誠一不二、内外互相配合して、はじめて吉利周全にして過無かるべし。此も亦た正に君王の三次に嘉命を頒下するが如く、君主は臣子を信任し臣子は君主に報効し、成功せざるなし。此一爻に配する工夫は、陰を退くるは必ず内外相済せんを須す。
六三,不知火候進退之法,愚而自用,行險僥倖,欲求長生,反而促死,輿尸之凶,或者必有。此不知退陰而冒險者也。六四,柔而居柔,自知無造命之學,不敢妄作妄為,自守本分,如師左次,雖不能致吉,亦可以無咎。此不能退陰而能守正者也。
六三一爻。火候進退の法度を懂れず、愚昧にして剛愎自用、険路を走りて運に碰えんとし、本より長生を求めんと欲するも、反って死期を催促す。爻辞「尸を輿す」の如き尸を載せて帰るの凶険は、只怕難を免るる在り。此一爻に配するは陰を退くるを懂れずして妄に自ら冒険するの一等人なり。六四一爻。本性柔弱にしてまた柔位に居り、自ら「命を造る」――自身の命数を改易するの学問――無きを知り、胡作妄為を敢えてせず、本分を安守す。猶軍隊の退守して左辺に扎営するが如く、雖も吉を得るを談ずるに及ばざるも、却って過無かるべし。此一爻に配するは陰を退くる能わざるも、却って尚能く正道を守住するの一等人なり。
六五,柔順得中,虛心自處,物來順應,使其客氣自消自化,如田有禽,利執言也。然理服君子,法制小人,須要有剛有柔,方能濟事。若獨柔無剛,反能敗事。長子帥師,柔以剛濟能成事。弟子輿尸,獨柔不剛能敗事,此退陰必須剛柔相濟也。
六五一爻。柔順にして中に居り当を得、虚心をもって自処し、事物来たれば便ち其の自然に順って応付し、あの外来の「客気」――本真に属せざる浮雑の気――をして自行に消散化去せしむ。猶田裡に禽獣の為害有り、声討捕捉するに適宜なるが如し。ただ道理を講ずれば君子をして服気せしむ可し、小人に対しては却って法度を用いて約束せんを須す。必ず剛有り柔有ってはじめて事を済さん。もし一味に柔にして剛無くんば、反って事を壊さん。爻辞に「長子師を帥る」と曰うは、柔中に剛有り、能く事を成すなり。「弟子尸を輿す」と曰うは、一味に柔にして剛無し、ただ事を敗るのみ。此一爻に配する工夫は、陰を退くるは必ず剛柔相済せんを須す。
上六,在師之終,客氣悉化,本固邦寧,心君安泰,無復用刑殺之道矣。然外邪既除,主人會穩坐中央,可以知其幾希之微。一念善則存之,一念惡則去之,有功者賞,無功者罰,亦如大君有命,開國承家,小人勿用,必須拔去歷劫輪迴種子而後已。此退陰必須內外清靜也。六爻俱有退陰之道,吉凶不等,惟九二有剛有柔,通機達變,能以點化群陰,而不為群陰所傷,有為之功大矣哉。
上六一爻。兵を用うるの終了に処り、客気已に化尽し、根本牢固にして邦国安寧し、主を作す「心君」安泰無事、必ずしも復た刑殺の手段を動用せず。しかるに外来の邪気既に除去せられ、主人中央に穏坐すれば、則ちあの一点の極細微なる几微の処を体察すべし。一個の善念を起こせば便ちそれを存住し、一個の悪念を起こせば便ちそれを除去す。功有るは賞し、功無きは罰す。此も亦た正に天子の詔命を頒下し、諸侯を分封し家業を伝承するが如く、而も小人は一概に用いず――必ず歴劫以来の輪廻生死の種子を根を連ねて拔去してはじめて了結とせらるるを須す。此一爻に配する工夫は、陰を退くるは必ず内外清浄に做し至るを須す。通観六爻、皆各々陰を退くるの道有り、ただ吉凶等しからず。唯だ九二の剛中に柔有り、時機に通達し変に応ずるに善く、能く衆陰を点化して衆陰に傷せられず、「有為」此の一段の工夫の作用は、実在に大なりと太るのみ。
比卦第八(上坎下坤)
比:吉。原筮,元永貞,無咎。不寧方來,後夫凶。初六,有孚,比之,無咎。有孚盈缶,終來有他吉。六二,比之自內,貞吉。六三,比之匪人。六四,外比之,貞吉。九五,顯比,王用三驅,失前禽,邑人不誡,吉。上六,比之無首,凶。
《比》卦の卦辞に曰く。親附し相辅すれば則ち吉利。最初起筮のあの一刻に推原して、あの元始・長久・純正の根本を守住して、はじめて過なし。心中安佚を敢えてせざれば、対方はじめて前來して相親す。人の後に落ちてはじめて親附せんと去る人は則ち凶険。初六爻。誠信を懐きて親附に行けば、過なし。誠信充盈して瓦缶の満つるが如し、終究として別に意外の吉慶の到來有り。六二爻。内部より先行に親附す、正を守れば吉利。六三爻。親附する所は親附すべき人に非ず。六四爻。外に向かって賢者に親附し去れば、正を守りて吉利。九五爻。光明正大に親附す、猶君王の田猟のただ三面より駆逐して向かって逃走する禽獣を放走するが如く、采邑中の人をも必ずしも特意に告誡せず、吉利。上六爻。親附するも帯頭の開端無し、凶険。
比者,彼此親比相效之義。卦體一陽居於尊位,上下五陰,皆順從之。又卦德順以通險,故謂比。此以陰順陽之卦,承上訟卦而來。訟者,陰不順陽,而陷陽,陰陽乖戾,五行相戕,賊害其真,故終凶。若知其凶,逆而修之,陰不陷陽而順陽,陰陽相和,五行一氣,性定命凝,此以邪比正,以假比真之道。比之吉者也。
「比」は彼此親附し・互相に效法するの意。卦体に就きて視れば、一個の陽爻尊貴の九五の位に居り、上下五個の陰爻皆それに順従す。卦徳に就きて視れば、柔順を以て険陥を打通するを以てす。だから「比」と呼ばれる。これは一個の陰を以て陽に順う卦で、上一卦《訟》を承接して来る。《訟》の講ずるは陰が陽に順従せず、反って陽を陥害し、陰陽乖戻して、五行互相に残害し、人身中の「真」を賊害せしめたるなり。だから結局凶険。もしその凶を知らば、便ち倒過に修す。陰をして陽を陥せずして順陽に転じ、陰陽彼此調和し、五行は一気に帰し、心性安定し・命基凝固す――これがすなわち邪を以て正に親しみ・偽を以て真に親しむの路数、亦たすなわち《比》卦のいう所の吉利なり。
比正比真之吉,莫貴乎比其原本。原本者,即坎宮所陷先天一點陽氣,此氣乃天一所生,名曰真一之精,又曰真一之水,又曰真一之氣,乃生物之元氣,在卦為原筮,在人為元仁。原筮者,蓍策未分之時。元仁者,陰陽混成之真。但此元氣,陷於陰中,為後天所蔽,易失難尋,非虛極靜篤、心堅志遠,而不能復還,故原筮元永貞,方能無咎也。
正に親しみ真に親しむの吉を得る所以は、最も緊要なるはあの「原本」に親附し去るに在り。いわゆる原本とは、すなわち坎卦宮位の裏に陥落したあの一点の「先天」陽気なり。この股の気は天一に由りて生じ、「真一之精」と称し、亦た「真一之水」と称し、又称して「真一之気」といい、万物を化生する元気なり。卦象の上に於いては「原筮」と呼び、人身の上に於いては「元仁」と呼ぶ。「原筮」とは蓍草未だ分かれず・一念未だ起らざるあの当口を指し、「元仁」とは陰陽混然として合成し・曾て分裂せざるあの一点の真機を指す。ただこの股の元気は陰気の中に陥り、後天習染に遮蔽せられ、失去し易くして尋回し難し。非ずんば虚は極処に至り・静は篤処に至り・心志堅定長遠にして、はじめてそれを招き回る能う。だから卦辞に「原筮・元永貞」と曰う、こく如くしてはじめて過無かるべし。
永貞則貞下起元,元氣一復,陰氣即順,仍是當年無傷無損,渾然天理,一無所咎,囫囫圇圇之原本也。《道德經》云:“致虛極,守靜篤,萬物並作,吾以觀其復。”《沁園春》云:“七返還丹,在人先須煉己待時。”永貞之道,即致虛守靜,煉己之功也。
能く長久に正を守れば、便ち是れ「貞下に元を起こす」――正を守るの尽頭に於いて重新に元始の生機を生出す。元気一旦回复せば、陰気随順して、依然として是れ当年あの傷無く損無く・渾然一片の天理・毫も過無く・囫圇たる原本なり。《道徳経》は虚を致すは極処に致し・静を守るは篤実に守るを講じ、万物一斉に生長する時、正に其の中より彼らの回帰を観照す。《沁園春》の詞も亦た講じ、「七返還丹」の工夫を做さんと要せば、人先ず己を錬り・時機を等待せんを須すと。見るべし「永貞」此の一路は、即ち虚を致し静を守り・己を錬り心を持するの一段の工夫なり。
蓋煉己不熟,即我家真陰不現,致守不專,則他家真陽不來,欲伏西鄰之情,先降東家之性。不寧方來,正所以煉己待時,以求其復耳。不寧二字,其中有隨時加減、防危慮險等等工程,正解永貞之義。我不寧而彼方來,所謂將欲取之,必先與之也。先與者,順其所欲,以我而比他,所以取彼之歡心。後取者,誠能動物,他來而比我,所以盜彼之生氣,先後分明,人我共濟,還丹可結。否則,我不能先與,妄想彼來,宜先者反後,宜後者反先,顛倒其比,是名後天,所謂“凡俗欲求天上事,尋時須要世間財,若他少行多慳吝,千萬神仙不肯來”,取凶必矣。焉能致吉成道乎?
己を錬るの工夫純熟せざれば、我が此の辺の「真陰」――本性中の清浄無染の一面――は顕現し出ず。虚を致し静を守ること専一ならざれば、彼があの辺の「真陽」――外に走失せる先天元気――は肯んじて回來せず。西隣あの一份の「情」を降伏せんと想えば、先ず東家此の一份の「性」を降伏せんを須す。卦辞に「寧ならずして方に来たる」と曰うは、正に人をして己を錬り時を待ち、以て元気の回帰を求めんと欲するなり。「寧ならず」两個の字の裏面には、随時に火候を加減し・危を防ぎ険を慮るなどの工程を含み、恰好として「永貞」の含義を解釈す。我が此の辺安佚を敢えてせざれば、対方はじめて肯んじて前來す。これがいわゆる拿取せんと要すれば、必先ず給与せんなり。いわゆる先に給与するとは、対方の意願に順い、我に由りて彼に親附し去り、好くして彼の歓心を換取せんが為なり。いわゆる後に拿取するとは、誠意能く外物を感動し、彼反って我に親附し、我便ち彼があの一股の生気を盗取するを得るなり。先後次第分明にして、人我彼此相済して、はじめて還丹は結成り得。これに反し、我肯んじて先に給与せず、却って対方の自來を妄想し、先に在るべきを却って後に放し、後に在るべきを却って先に放して、親附の次序を颠倒せば、これを落入「後天」と呼ぶ。正に丹書のいうが如く、凡俗の人天上の事を求めんと欲せば、尋訪の時還た須く先ず世間の資財を舍得せんを須す。もし自己の善事を行うこと少なく・一味に慳吝ならば、千万個の神仙も肯んじて前來せず。こく如くはただ自ら凶険を取るのみ、どこが尚吉を得て道を成すを談じ得んや。
初六,自卑自下,以柔比剛,是信於比而比之,即能無咎者。蓋信於比,即能虛心,虛心即能實腹,不但有孚無咎,方且有孚盈缶,終來有他吉,必將比於至善之地矣。此信比而終吉者也。六二,柔順得中,未比於外,先比於內,是比之自內也。自內之比,煉己持心,隨時採藥,欲取於被,不失於我,此內比之得正者也。
初六一爻。自ら卑下に居り、柔順を以て剛陽に親附す。これは先ず親附此の一路を信頼して而る後に親附し去るなり。だから能く過無し。親附を信頼するが為に、心は則ち能く虚なり。心一たび虚なれば、腹は則ち能く実なり。但だ「孚有りて咎無し」のみならず、而且「孚有りて缶に盈つ」、誠信充盈して満缶の如し、終究として別に吉慶の到來有り、必ず至善の地位の上に親附し去る。此一爻に配するは篤く親附を信じて終に吉利を獲るの一歩の工夫なり。六二一爻。柔順にして中に居り当を得、先ず外に向かって親附せず、而して先ず内に向かって親附す。これがすなわち「これに比するは内よりす」。内に向かうの親附は、己を錬り心を持し、随時に薬物を采取し、対方の処より取得せんと想えば、先ず自己を失わざるなり。此一爻に配するは内に比して正道に合乎るの一歩の工夫なり。
六三,性質本愚,又與小人為伍,以陰比陰,是比之匪人也。匪人之比,無益有損,何貴於比,此外比之不正者也。六四,以柔比剛,見賢思齊焉,雖愚必明,雖柔必強,此外比之得正者也。九五,剛健中正,陽氣足而陰氣自化,是顯然之比也。顯然之比,非有勉強,出於自然,猶如王者驅禽,四面而開一面,用三驅失前禽也。
六三一爻。資質本来愚昧にして、また小人と結伴し、陰を以て陰に附す。これがすなわち「これに比するは人に匪ず」、親附すべからざる人に親附せしなり。匪人に親附すれば、益有ること無くして損有るのみ、親附して尚何の貴か有らん。此一爻に配するは外に向かって親附して附する所正ならざるの一等人なり。六四一爻。柔順を以て剛陽に親附し、賢者を見れば則ち彼に向かって斉かんと想う。縦い愚昧なりと雖も必ず明白に転じ、縦い柔弱なりと雖も必ず剛強に転ず。此一爻に配するは外に向かって親附して附する所正を得るの一歩の工夫なり。九五一爻。剛健にして中に居り正を得、陽気充足して、陰気自然消化す。これがすなわち光明显豁の親附なり。显豁の親附は一絲の勉強無く、全て自然より出づ。正に君王の田猟の四面に網を張りて一面を放開するが如し。だから爻辞に「王は三駆を用い、前禽を失う」と曰う。
用三驅者,取真收順也。失前禽者,舍假放逆也。取真舍假,真者來而假者自化。收順放逆,順者得而逆者自無。修道至於真假俱化,逆順皆無,方寸之中,湛然常寂,至善無惡,雜念不生,如邑人不誠而自化,此內外一氣之比者也。
いわゆる「三駆を用う」とは、あの真を取り・あの順を收めるを取るなり。いわゆる「前禽を失う」とは、あの偽を舎て・あの逆を放つを舎るなり。真を取り偽を舎てば、真の一來すれば、偽は自然消化す。順を收め逆を放てば、順の一得れば、逆は自然消亡す。道を修めて真偽皆已に化尽し・逆順皆已に泯除せるに修り至れば、方寸の心澄澈常寂として、純に是れ至善にして一毫の悪無く、雑念生ぜず。猶采邑中の人の必ずしも特意に告誡せずして自然に帰化するが如し。此一爻に配するは内外打して一気を成すの親附なり。
上六,愚而自用,既不能內比,又不能外比,依一己之陰,隨心造作,終無出頭之日,是比之無首也。無首之比,空空一世,到老無成,自取其凶,此始終不知比人者也。夫修真之事,以無道而比有道,以無德而比有德,總要真心實意,步步著力,期必道德歸於中正而後已。道德中正,金丹入口,點化群陰,如貓捕鼠。
上六一爻。愚昧にして剛愎自用、内に向かっては既に能く親附せず、外に向かっても亦た能く親附せず。ただ自己の一身の陰気に憑って心に随って妄作す。終究として出頭の一天無し。これがすなわち「これに比するに首無し」――親附して帯頭の開端無し。此の如き親附は、空しく一世を過ぎ、老に至って一成無く、自ら凶険を取る。此一爻に配するは自始至終他人に親附するを懂れざるの一等人なり。真を修る此の件事は、自己の道無きを拿って道有る人に親附し、自己の徳無きを拿って徳有る人に親附す。総じて真心実意、歩歩に力を著し、非ずんば道徳を中正の地步に修め至らざれば罷休を肯んぜず。道徳一たび中正に帰せば、金丹は便ち口に入り、一身の陰気を点化す。猶猫の老鼠を捉えるが如き乾浄利落なり。
噫!採藥時須用橐龠,煉己時還要真鉛。若行此道,不知原筮之物,不識永貞之元,任性作為,不落於比之匪人,即歸於比之無首,致咎取凶,勢所必有,學者可不親近真師乎?
ああ。薬を采るの時は須く「橐龠」――あの真気を往来に鼓動する風箱の如き機関――を用い、己を錬るの時は還た「真鉛」――他家より招き回ったあの一点の真陽を作して依托と為す――を有せんを須す。もし此の路を走るも、却って「原筮」の指す所が何の物事かを知らず、「永貞」の守る所のあの元始を認識せず、ただ性子に憑って胡乱に行事せば、落ち込んで「これに比するは人に匪ず」に非ずんば、則ち「これに比するに首無し」に帰し、過を招来し凶険を取るは、勢いの必至する所なり。道を学ぶ人は、なんぞ真正の明師に親近し去らざるを得んや。
小畜卦第九(上巽下乾)
小畜:亨。密雲不雨,自我西郊。初九,復自道,何其咎?吉。九二,牽復,吉。九三,輿說輻,夫妻反目。六四,有孚,血去惕出,無咎。九五,有孚攣如,富以其鄰。上九,既雨既處,尚德載。婦貞厲,月幾望,君子征凶。
《小畜》卦の卦辞に曰く。亨通。濃雲密布するも雨を下すを成さず、雲気は我が西辺の郊野より升起せるなり。初九爻。自家本有の道路上に回復す、どこが過有らんや、吉利。九二爻。牽引せられて一同に回復す、吉利。九三爻。車輪の輻条を脱落し、夫妻反目して和を失う。六四爻。心に誠信を懐き、血光の災去除し、憂懼の心解脱し、過なし。九五爻。心に誠信を懐きて彼此牽係して散ぜず、自己の富足を以て鄰里を帯動す。上九爻。雨已に下り、気已に安定し、徳行を崇尚して積載深厚なり。婦人は縦い正を守るも危厲有り、月将に圓ならんとして未だ圓ならず、君子此の時出行すれば則ち凶険。
小畜者,小其養也。卦德上巽伏下乾健,健而巽行,巽伏其健,健不自用,故謂小畜。此以小養大之卦,承上師卦而來。師之道,借陽而退陰也。借陽退陰,貴乎先養其陽,能養其陽,則以小自居,滿而不盈,剛而不躁,有若無,實若虛,其心日下,其德日高,可以漸造於聖賢之域,此小畜所以有亨道也。但小畜雖亨,若大過於小,是柔道用事,剛道退位,志氣不振,懦弱無能,畜之小而亨之小,其行不遠,大道難成。猶如密雲不雨,自我西郊也。
「小畜」とはすなわち自己の畜養を放小し・放低するなり。この一卦の卦徳は、上卦巽は潜伏順入と為り、下卦乾は剛健と為る。剛健にして謙遜の道を以て施行し、巽の柔順潜伏を用いて乾の剛健を収斂し、剛健をして自らその能を逞ぶさざらしむ。だから「小畜」と呼ばれる。これは一個の小を以て大を養う卦で、上一卦《師》を承接して来る。《師》の路数は陽気を借りて陰気を退くるなり。陽を借りて陰を退くるは、最も緊要なるは先ず陽気を養い起すに在り。能く陽気を養い住めば、則ち「小」を以て自処す。満ちて自ら盈と為さず、剛にして躁に流れず、本事有るも無きが如く、充実するも空虚の如く、心地一天天に謙下し、徳行一天天に高厚と為り、漸漸に聖賢の境地に走進し得――これが正に《小畜》の亨通の道有るの縁故なり。但し小畜雖も亨通すれども、もし「小」に得ること頭を過ぐれば、便ち柔道当権・剛道退位と成り、志気振るわず、懦弱無能にして、畜養を小に得・亨通も亦た小に得、走りて遠く行く能わず、大道成り難し。正に濃雲密布するも雨を下すを成さず、雲気はただ我が西辺の郊野より升起するが如し。
陰氣結而為雲,陽氣通而為雨,只雲不雨,陰氣盛而陽氣弱,生機將息,我家之近者,尚無濟,他家之遠者,更何求?空空一小,入於寂滅之學,豈能還我乾元面目乎?此小畜之火候,不可不知也。
陰気凝結すれば則ち雲と成り、陽気暢通してはじめて雨を降り得。ただ雲有りて雨を成さざるは、陰気盛んにして陽気弱く、生機将に熄滅せんとするを説明す。我が自家近処のをも救済する能わざるに連れて、他家遠処のは還た何を指望し得んや。一味に空空として一個の「小」の字を守住し、寂滅一路の学問に落入せば、なんぞ能く我が「乾元」――あの本来純陽円満の本来の面目――を還さんや。《小畜》此の一段の火候は、弄清楚せざるべからざるなり。
初九,剛而居卑,韜明養晦,抱道而處,不以外假而傷內真,是能復於自道也。能復自道,雖畜之小而得其養,剛氣日增,不但無咎,而且致吉,此大而自小之畜也。九二,剛以柔用,敏而好學,不恥下問,結交有道君子,彼此資益,明善復初,是為牽復也。牽復之畜,外愈虛而內愈實,小而反得其吉,此大而知小之畜也。
初九一爻。剛健にして卑下の位に居り、鋒芒を収斂し晦蔵を涵養し、大道を抱守して自処し、外面の偽物に因りて裏面の真機を傷せず。これがすなわち「自ら道に復る」、自家本有の路上に回到するなり。能く自家の道に回復すれば、畜養を小に得ると雖も、却って真に養い住めり、剛陽の気一天天増長し、但だ過無きのみならず、而且吉を得。此一爻に配するは本大にして自ら小に居るの畜養なり。九二一爻。剛健にして柔和の方式を以て運用し、聡敏好學にして、己に如かざる者に向かって請教するを以て恥と為さず、道有るの君子を結交し、彼此資助增益し、善道を明白して本初に回復す。これがすなわち「牽復」。牽復の畜養は、外面は越えて虚を顕るも、裏面は越えて実を見る。小に処りて反って吉を得。此一爻に配するは本大にして小を取るを懂れるの畜養なり。
九三,剛而自用,有己無人,乖和失中,終必敗剛,如輿說輻,而車不能行,又如夫妻反目,而家不能興,此大而不知小之畜也。六四,以無能而處於有能之中,必有血傷之咎。然柔而得正,自信一己純陰,為害最大,而能借他家之陽,警惕勉力,煉己持心,本有害者,可以脫去其害,本有咎者,可以歸於無咎。此小而知大之畜也。
九三一爻。剛強にして剛愎自用、ただ己有るを知り人有るを知らず、乖違失和・中道に偏離し、終究として此の股の剛気を敗壊し掉らんとす。猶車輪の輻条を脱し、車子走り動く能わざるが如し。又像夫妻の反目して和を失い、家道の興旺して起らざるが如し。此一爻に配するは本大なるも小を取るを懂れざるの畜養なり。六四一爻。無能の身を以て衆多能有の者の中に処り、本来血光受傷の過有るべし。しかるにそれは柔順にして居位正を得、深く自己の一身の純陰は為害最大なるを知り、因って能く他家の陽気を借取し、警惕自励して、己を錬り心を持し、本来害有るはその害を脱去し得、本来咎有るは無咎に帰し得。此一爻に配するは本小にして大を求むるを懂れるの畜養なり。
九五,陽剛巽進於中正,真信在中,陰陽混合,金丹凝結,是有孚攣如矣。攣如之信,本固邦寧,命基堅牢,急須化其氣質之性,以歸真知之性,如富以鄰矣。此小而藏大之畜也。
九五一爻。陽剛の気は謙遜の勢いを以て中正の地に進み、真実の信念を心中に守り、陰陽交融混合して、金丹凝結して形を成す。これがすなわち「孚有りて攣如」――誠信牽係して散ぜざるなり。此の種の牽係して散ぜざるの誠信は、根本をして牢固とし・邦国をして安寧ならしめ、命基堅牢なり。此の時急に須く「気質之性」を化掉し、「真知之性」――後天習気に遮蔽せられざる本然の明覚――に回帰せんを須す。正に爻辞のいうが如き「その鄰を以て富ましむ」、自己の富足を用いて鄰里を帯動す。此一爻に配するは外表小にして内裏大を蔵するの畜養なり。
上九,剛居柔位,在小畜之終,如既雨既處矣。雨所以濟亢旱,既雨則陽氣處而不亢,既處則陽氣和而雨無用。修道所以用陰者,特以制暴躁之假陽耳。假陽既息,真陽須進,小畜之終,正當大畜之時。若終於小而不能大,陰反傷陽,如尚德載婦,女子掌權,又如月幾於望,光明漸虧。修道君子,只知小而不知大,以之孤寂守靜,無作無為則可,以之盡性至命,行道致遠,適以招凶而已。此終於小而不知大之畜也。觀於六爻之言,小畜原有亨道,是在人小之如何耳。小之當,則以小畜大而致吉,小之不當,則以小害大而招凶。學者可不先究其小中之火候乎?
上九一爻。剛爻柔位に居り、小畜の最後に処り、猶雨已に下り・気已に安定せるが如し。雨は亢旱を解救するを用いる、雨既に下れば、陽気は便ち安処して復た亢烈せず。気既に安処せば、陽気調和して、雨も亦た用いられず。道を修るの陰を用うる所以は、不過あの躁動の「偽陽」――虚火妄動の浮陽――を制伏せんが為のみ。偽陽既に止息せば、「真陽」は則ち進み上がるべし。小畜尽頭に走り至れば、正に大畜に転入するの時なり。もし始終小の上に停留して大に転ずる能わざれば、陰は反って陽を傷つけんとす。猶爻辞のいうが如き徳行を崇尚して反って婦人の物を載せ・女子の権を掌ると成るが如し。又像月の将に圓ならんとして未だ圓ならず、光明已に虧損を開始せるが如し。道を修るの君子もしただ小を知りて大を知らずんば、それを用いて孤寂守静・無作無為は還た可なり、それを用いて性を尽し命に至り・道を行いて遠に致さんとすれば、ただ凶を招くのみ能う。此一爻に配するは終に小にして大に転ずるを知らざるの畜養なり。通観六爻のいう所、《小畜》本来便ち亨通の道有り、ただ人の怎様に「小」を做するを視るのみ。小を得ること恰当なれば、則ち小を以て大を畜養して吉を得。小を得ること恰当ならざれば、則ち小を以て大を妨害して凶を招く。道を学ぶ人は、なんぞ先ず此の個の「小」の字の裏の火候を研究し清楚せざるを得んや。
履卦第十(上乾下兌)
履:履虎尾,不咥人,亨。初九,素履,往,無咎。九二,履道坦坦,幽人貞吉。六三,眇能視,跛能履,履虎尾,咥人凶,武人為于大君。九四,履虎尾,愬愬終吉。九五,夬履,貞厲。上九,視履考祥,其旋元吉。
《履》卦の卦辞に曰く。老虎の尾巴の上に踩むも、老虎は却って人を咬まず、亨通。初九爻。本色素朴の心を以て践行に行けば、前に往きて過なし。九二爻。行う所の路平坦寛闊、幽居自守の人は正を守りて吉利。六三爻。眼睛半瞎なるも自ら以て看る能しと為し、脚跛なるも自ら以て走る能しと為し、こく如くにして虎尾を踩みに行けば、虎に咬傷せられ、凶険。猶勇を逞ぶの武夫の硬として大君を做さんと欲するが如し。九四爻。虎尾を踩みて戒懼警惕す、最終吉利。九五爻。剛決果断に践行し、正を守りて危厲を知る。上九爻。回視して自己一路践行の歴程・其中の吉凶の征兆を考察し、能く周旋円満す、大いに吉利。
履者,前進也。卦德上乾健下兌悅,陰悅於陽,有一陰進而變為純陽之象,故謂履。此進陽防危之卦,承上比卦而來。比者,陰順其陽也。然欲陰順,須先進陽,進陽至於中正,而陰自順之,此進陽之道所宜先也。
「履」とはすなわち前に向かって践行す。この一卦の卦徳は、上卦乾は剛健と為り、下卦兌は和悦と為る。陰爻欣悦として陽爻に依従し、一個の陰爻前進して純陽に転成するの象有り。だから「履」と呼ばれる。これは一個の「陽を進め」てまた危を防ぐ卦で、上一卦《比》を承接して来る。《比》の講ずるは陰が陽に順従するなり。然而陰をして順従せしめんと要せば、必先ず陽を進め上がらんを須す。陽進みて中正の地位に至れば、陰は自然に就きて順従す。だから「陽を進む」此の一歩の工夫は、理の当然として前頭に放つべきなり。
人之真陽,本來自有,不待他求,交於後天,真情昧而妄情生,於是真陽走失於外,如虎奔而寓於西,屬於他家矣。雖在他家,原是我家之物,但人不肯招攝復還耳。招攝之道,不求於乾,不求於坤,不求於離,不求於坎,專求於兌。兌為少女,代坤母而行順道,能以陰極復陽,其性和悅,和則能緩,悅則能信,緩則能漸行,信則能耐久。能緩能信,力行不怠,可以進于堅剛不壞之地,復見乾元面目,而不為假陰假陽所傷。如履虎尾不咥人,而有亨道也。
人身上の「真陽」は本来自己家に有り、必ずしも外に向かって求めず。落入して「後天」に及ぶを待って、真情昏昧にして妄情滋生し、ここにおいて真陽外面に走失す。猶老虎の奔逃して出でて西方に寄居し、他家の物と成りたるが如し。他家に在ると雖も、原本仍ほ我が家の物事なり、ただ人肯んじてそれを招摂して回らざるのみ。招摂の門路は、乾の上より求めず、坤の上より求めず、離の上より求めず、亦た坎の上より求めず、専ら兌の上より求む。兌は少女、坤母に代りて柔順の道を行い来たり、能く陰極の時に於いて陽気を回復す。其の性情和悦なり。和なれば則ち能く従容不迫、悦なれば則ち能く篤実守信。従容なれば則ち能く循序漸進、守信なれば則ち能く持久不懈。能く従容・能く守信、力を尽して践行して懈怠せざれば、則ち堅剛不壞の境地に進み得、重ねて「乾元」の本来の面目を見、而も「偽陰偽陽」――後天妄動の情識浮気――に傷せられず。正に虎尾を踩みて老虎人を咬まざるが如く、因って亨通の道有り。
虎為咥人之物,履之最險,若能和悅履之,而不過猛,如履虎尾也。履虎尾而瞻前顧後,不即不離,循序漸進,防危慮險,火候不差,陰者可以化而為陽,陽者可以還而為純,不但不為虎咥,而且能盜彼殺中之生氣,保命全形,此進陽無阻無滯亨通之道。和悅履健,豈小補雲哉!
老虎は人を咬まんと要する物、それを踩みに行くは最も危険。もし能く和悦の態度を以て践行に行き、勇猛に過度せざれば、則ち正に虎尾を踩むに像す。虎尾を踩みて能く前を瞻み後を顧み、貼りて近くに過度せず亦た離れて遠くに過度せず、循序漸進にして、危を防ぎ険を慮り、火候絲毫差えず。則ち陰のは化して陽と為り得、陽のは還して純に帰し得。但だ老虎に咬まれざるのみならず、反って能くあの殺機の中より一点の生気を盗取し、性命を保住し形体を保全す。これがすなわち陽を進めて阻無く滞無きの亨通の道なり。和悦の徳を以て剛健を践行に行けば、豈に止まりて小小の補益のみならんや。
初九,心強氣壯,素信於履道者,信於履而即能履,以是往而下手修為,必將進於無咎之地矣。此志念堅固之履也。九二,樂在其中,自有真悅,不戀假悅,一切外物,不得而移之,是以履道坦坦也。坦坦之履,無貪無求,心安神靜,非始終如一守貞之幽人,不能為樂道忘年之履也。
初九一爻。心志強く・気魄壮んにして、向来便ち践行の道を篤信し、信頼し得れば便ち真に行に去る能く、就きて此の一点に憑って前に往きて動手修為す。必定して過無きの地位に進む。此一爻に配するは志念堅固の践行なり。九二一爻。楽趣は就きて此の条の道上に在り、自ら真実の喜悅有り、復た虚偽の喜悅を貪恋せず、一切の外物皆彼を動揺する能わず。だから「道を履むこと坦坦」と曰う。平坦の践行は、貪無く求無く、心安かに神静なり。もしあの種の自始至終如一・正を守りて移らざるの幽居の士に非ざれば、此の種の大道に楽しみて年歳を忘却するの践行を做し出す能わず。
六三,愚而自用,藥物不知,火候不曉,以不明為明,以不能為能,冒然行道,如眇能視、跛能履,履虎尾,咥人,自取其凶。又如武人為于大君,自招其禍。此愚而自用之履也。九四,剛而不躁,以誠而入,以柔而用,防危慮險,如履虎尾,愬愬,戒慎恐懼,不但虎不能咥,終必履於純陽之地,而得吉。此剛而能柔之履也。
六三一爻。愚昧にして剛愎自用、薬物を認識せず、火候を通暁せず、明白せざるを把って明白と為し、能わざるを把って能しと為し、冒冒失失にして道を行い去る。猶眼睛半瞎にして自ら以て看る能しと為し、脚跛にして自ら以て走る能しと為すが如く、こく如くにして虎尾を踩みに行けば、虎に咬傷せられ、自ら凶険を取る。又像勇を逞ぶの武夫の硬として大君を做さんと欲するが如く、自ら禍患を招く。此一爻に配するは愚昧にして自用するの践行なり。九四一爻。剛健にして躁進せず、誠意を以て深入し、柔和を以て運用し、危を防ぎ険を慮る。正に虎尾を踩みて「愬愬」たるが如く、戒慎恐懼して、但だ老虎の彼を咬むに着かざるのみならず、最終に必ず純陽の地界に踏進して吉を得。此一爻に配するは剛健にして能く柔順するの践行なり。
九五,剛健中正,從心所欲,不逾矩。履道果決而不犯難心,然履道至於中正,金丹已有象,須當貞一不二,以危厲自處,方無得而復失之患。此自有入無之履也。上九,剛居柔位,視其所履之火候,考其藥物之老嫩,循序而進,旋始旋終,終以全始,期以至於陰陽混合、圓成無虧而後已。此全始全終之履也。然則進陽之道,必須剛中有柔,柔中有剛,剛柔相濟,不急不緩,和悅從容為貴乎。
九五一爻。剛健にして中に居り正を得、心に随って欲するも規矩を越出せず、践行果断剛決して、畏難の心生ぜず。然而践行中正の地步に至っては、金丹已に形象を現出し、則ち必ず正を守り専一にして毫も二念無く、危懼警厲の心を以て自処して、はじめて既得にして復失の隠患有ることなし。此一爻に配するは「有為」より転じて「無為」に入るの践行なり。上九一爻。剛爻柔位に居り、回視して自己の行う所の火候、采る所の薬物の老嫩を考察し、循序漸進にして、従頭至尾に周旋照応し、終了を用いて以て開端を成全し、非ずんば陰陽混融して合一し・円満無虧に做し至らざれば罷休を肯んぜず。此一爻に配するは始有り終有り・首尾完具の践行なり。此に由りて視れば、陽を進む此の一路は、必ず剛中に柔有り・柔中に剛有り、剛柔互相に調剤して、急ならず緩ならず、和悦従容を以て可貴と為すなりや。
泰卦第十一(上坤下乾)
泰:小往大來,吉,亨。初九,拔茅茹,以其,征吉。九二,包荒,用馮河;不遐遺,朋亡。得尚于中行。九三,無平不陂,無往不復,艱貞無咎;勿恤其孚,于食有福。六四,翩翩,不富以其鄰,不戒以孚。六五,帝乙歸妹,以祉元吉。上六,城復于隍,勿用師,自邑告命,貞吝。
《泰》卦の卦辞に曰く。小なるは外に往き、大なるは内に来る、吉利、亨通。初九爻。茅草を拔起すれば、其の同類の一叢を連ねて併せて起き、前往して征行すれば吉利。九二爻。胸襟能く荒穢を包容し、徒歩河を渉るの果決有り。疎遠の人を遺棄せず、亦た党を結びて私を営まず、こく如くしてはじめて中正の道の施行に配得上す。九三爻。一直に平坦にして傾斜せざる無く、一直に前往して返回せざる無し。艱難の中に正を守れば過なし、自己の誠信を憂慮するを須とせず、禄食を享用する上に於いて自ら福分有り。六四爻。軽捷翩然として下落し、富有を待たずして鄰里と相従い、告誡せざるも已に彼此契合せり。六五爻。帝乙妹妹を嫁出す、因って福を得、大いに吉利。上六爻。城墻倒塌して城下の干壕の裏に回填す、復た軍隊を動用する勿れ、ただ自己の采邑より命令を発布す、縦い正を守るも困吝を免れ難し。
泰者,通和之義。卦德上坤順、下乾健,陽健於內,陰順於外,健順如一,陰陽相應,故謂泰。此陰陽相交之卦,承上小畜而來,小畜一陰,而畜五陽,陰氣主事,陽氣不振,小於畜而不能大於畜,其行不通。通行之道,必須大小無傷,陰陽相當,陰順陽而陽統陰,陰陽和合,方能濟事,故泰之為道,小往大來,吉而得亨也。
「泰」は通達和洽の意。この一卦の卦徳は、上卦坤は柔順と為り、下卦乾は剛健と為る。陽は剛健にして内に行い、陰は柔順にして外に承け、健と順と一片に打成し、陰陽彼此感応す。だから「泰」と呼ばれる。これは一個の陰陽相交の卦で、上一卦《小畜》を承接して来る。《小畜》は一個の陰爻が五個の陽爻を畜養し、陰気当権にして陽気振るわず、畜養を小に得て大に起らず、路は便ち走り通らず。走り通らんと要せば、必ず大小両相に傷せず、陰陽分量相当にして、陰は陽に順従し陽は陰を統摂し、陰陽和合して、はじめて事を弁成り得。だから《泰》此の条の路は、小なるは外に往き大なるは内に来る、因って吉利にして亨通す。
小者陰也,大者陽也。小往則陰順,大來則陽健。陽健於內,陰順於外,先天漸復,後天漸化,可以造於純陽無陰之地。於理得吉,於行行亨,但致泰之道有火候、有工程,進之退之,各有其時。不失其時,健而順行,以順養健,未泰者而能致,已泰者而能保,由了命而了性,自有為而無為,完成大道,理有可決也。
「小」は陰を指し、「大」は陽を指す。小なるの外に往くは、すなわち陰の順従するなり。大なるの内に来るは、すなわち陽の剛健するなり。陽は剛健して内に於り、陰は柔順して外に於り、「先天」漸漸回復し、「後天」漸漸消化して、純陽無陰の地位に造就し得べし。道理に就きて言えば是れ吉、践行に就きて言えば是れ亨。但し泰通を招致するの路数に、火候有り・工程有り、いずれの時に進み・いずれの時に退くか、各々その時機有り。時機を錯過せず、剛健にして次第に順って行い、柔順を用いて剛健を涵養せば、未だ泰通せざるは能く泰通を招致し、已に泰通せるは能く泰通を守住し、「命を了する」――先ず命基を筑牢す――より進みて「性を了する」――再び心性を了徹す――に至り、「有為」より転じて「無為」に入り、最終に大道を完成す。これは断定し得べきの道理なり。
初九,一陽潛生,諸陽皆有動機,如拔茅之茹根以及匯葉也。致泰者,乘此一陽發現,而即下手修為,漸採漸煉,由微而著,未有陽不健而陰不順者,故曰征吉。剛而乘時以致泰也。
初九一爻。一点の陽気暗暗として生出し、其の余の諸陽皆跟って動の機兆有り。猶茅草を拔起すれば、其の根鬚と同類の葉片とを連ねて併せて帯起するが如し。泰通を招致せんと要する人は、正に此の一陽初現の際に応に立刻に動手修為すべく、一点点に采取し・一点点に烹錬し、細微より顕著に至り、陽の剛健ならざる無く・陰の順従せざる無し。だから爻辞に「征すれば吉」と曰う。此一爻に配するは剛健にして能く時機に趁って泰通を招致するの一歩の工夫なり。
九二,剛健中正,通權達變,是以包荒用馮河,不遐遺朋亡也。包荒者,度量寬宏,用柔也。馮河者,志氣勇敢,用剛也。不遐遺者,靜觀密察,柔之至。朋亡者,閒邪存誠,剛之至,剛中有柔,柔中有剛,文烹武煉,左之右之,無不宜之,得尚于中行矣。此剛柔相濟以致泰也。
九二一爻。剛健にして中に居り正を得、権変に通達す。だから爻辞に「荒を包み、河を馮るを用い、遐きを遺せず、朋亡く」と曰う。「荒を包む」は度量寛宏、柔を用うるに属す。「河を馮る」は志気勇敢、剛を用うるに属す。「遐きを遺せず」は静静と観照し細密に体察し、柔極処に至れり。「朋亡く」は邪念を防閑し誠意を存養し、剛極処に至れり。剛中に柔有り、柔中に剛有り、文火烹り・武火錬り、或いは左に或いは右に、合宜せざる無し。これがすなわち中正の道の施行に配得上す。此一爻に配するは剛柔相済して以て泰通を招致するの一歩の工夫なり。
九三,三陽已足,陽極必陰,泰極必否,如無平不破,無往不復。當此之時,須要知進知退,艱難守貞,防危慮險,方無得而復失之咎。既無其咎,功成人間,名標天上,且食天福,享壽無窮,何憂恤之有。此剛極守正以保泰也。
九三一爻。三個の陽爻已に満足し、陽極処に至れば必ず陰に転じ、泰極処に至れば必ず否に転ず。正に一直に平坦にして傾斜せざる無く、一直に前往して返回せざる無きが如し。この時到りて、必ず進を知り退を知り、艱難の中に正道を守住し、危を防ぎ険を慮って、はじめて既得にして復失の過無からん。既に過無くんば、便ち功業人間に成り・姓名天上に標し、而且上天の福分を享受し、寿命無窮にして、還た何の憂慮すべきか有らん。此一爻に配するは剛極処に至りて仍ほ正を守り以て泰通を保住するの一歩の工夫なり。
六四,當陽極交陰之際,不能防危慮險,一陰潛生,群陰皆動,如翩翩不富以其鄰,無待相戒而孚合,金丹已得而復失。此以柔傷剛而失泰也。六五,當正泰之時,以陰養陽,陽氣凝結,如帝乙歸妹,以祉及於臣下,陰戀陽而陽戀陰,陰陽同氣,自有天然真火,爐中赫赫長紅。雖在已泰而不失初泰之吉,此以柔養剛而全泰也。
六四一爻。正しく陽極が陰に転交するの関口に当たるも、却って能く危を防ぎ険を慮らず、一点の陰気暗暗として生出し、衆陰跟って皆動き出す。猶爻辞のいうが如き翩然として下落し・富有を待たずして鄰里と相従い、互いに告誡するを用いずして已に彼此契合せり、金丹已に手に到るも又重ねて失掉したるが如し。此一爻に配するは柔を以て剛を傷つけて泰通を丢掉するの一等の情形なり。六五一爻。正しく泰通の時に当たり、陰を用いて陽を涵養し、陽気凝結を得る。猶帝乙の妹妹を嫁出し、福沢を臣下に施及するが如し。陰は陽を眷戀し陽は陰を眷戀し、陰陽同じく一気に帰し、自然に一団の天然真火有り、炉中赫赫として長く紅なり。已に身泰中に在ると雖も、却って最初泰を得る時の吉利を失わず。此一爻に配するは柔を以て剛を養いて泰通を保全するの一歩の工夫なり。
上六,在泰之終,順之極,只知泰之順,不知泰之逆,不防於早,必敗於終,如城傾而復于隍矣。當此之時,好事已去,難以為力,故曰勿用行師。凶事已臨,後悔不及,故曰自邑告命貞吝。此柔而不知早於保泰也。然則致泰保泰,各有其時,有為無為,各有其法;隨時而行,依法而作,健所當健,順所當順,健以致泰,順以保泰,未泰者能泰,已泰者長泰,何患不吉不亨,大道不成乎。
上六一爻。泰通の終了に処り、柔順極処に至り、ただ泰通に順って走去るを知りて、逆って修せんと要するを知らず、及早に防備せざれば、結局必ず失敗す。猶城墻の傾塌して城下の干壕の裏に回填するが如し。この時到りて、好局已に過去し、天に回る力無し。だから爻辞に「師を用うる勿れ」と曰う。凶事已に頭に臨み、後悔するも及ばず。だから「邑より命を告ぐ、貞なれど吝」と曰う。此一爻に配するは柔弱にして及早に泰通を保住するを知らざるの一等の情形なり。此に由りて見るべし。泰通を招致するも泰通を保住するも、各々その時機有り。有為と無為とも、各々その法度有り。時機に随って行い、法度に依って作し、剛健すべき処は則ち剛健し、柔順すべき処は則ち柔順し、剛健を用いて泰通を招致し、柔順を用いて泰通を保住すれば、泰通無きは能く泰通を得、已に泰通せるは能く長く泰通を保ち、何を愁えんや吉ならず亨ならず、大道成らざるを。
否卦第十二(上乾下坤)
否:否之匪人,不利君子貞,大往小來。初六,拔茅茹,以其彙,貞吉,亨。六二,包承,小人吉,大人否亨。六三,包羞。九四,有命無咎,疇離祉。九五,休否,大人吉;其亡其亡,繫于苞桑。上九,傾否,先否後喜。
《否》卦の卦辞に曰く。閉塞して通ぜざるは、処る所が人に非ざるが為なり。君子の正を守るに利あらず。大なるは外に往き、小なるは内に来る。初六爻。茅草を拔起すれば、其の同類の一叢を連ねて併せて起き、正を守れば吉利、亨通。六二爻。包容し承順す、小人に於いては是れ吉利、大人に於いては則ち雖も閉塞せられて仍ほ能く亨通す。六三爻。包蔵する所は是れ羞愧の事。九四爻。天命を秉承して事を行えば過なし、同類の人皆依附して福を得。九五爻。閉塞を停止せしむ、大人吉利。心裡常に「将に敗亡せん・将に敗亡せん」の警惕を存して、はじめて叢生の桑根に繫げるが如き牢固を得。上九爻。此の閉塞の局面を傾覆す、先是れ閉塞、後は転じて喜悦。
否者,窒塞之義,卦德內坤順、外乾健,順其所欲,剛強用外,陰氣主事,陽氣退避,健順各別,故謂否。此陰陽不合之卦,承上履卦而來。履者,和悅以進健,使其陰陽相合,健順如一耳。
「否」は窒礙閉塞の意。この一卦の卦徳は、内卦坤は柔順と為り、外卦乾は剛健と為る。自己の欲望に順って走り、剛強はただ外面に使い、陰気当権し、陽気退避し、健と順と各自分離す。だから「否」と呼ばれる。これは一個の陰陽相合せざる卦で、上一卦《履》を承接して来る。《履》の講ずるは和悦の道を以て剛健を推進し、陰陽をして相合し健順をして一片に打成せしむるなり。
蓋陰陽不交,真陰變為假陰,真陽變為假陽,先天失而邪氣入,邪氣入而正氣退,是以否之匪人,不利君子貞也。匪人為邪氣,君子為正氣,當先天未傷,真陽在內,一團正氣,即是君子,及先天已失,真陽散外,一身所有,僅是邪氣,順其後天之陰,恣情縱欲,無所不至,即是匪人。匪人不利於君子,即是邪氣不利於正氣。當此之時,修道者正宜黜聰毀智,斂藏神氣,以保真陽,特以此不利之時,正大往小來,陰氣用事之時,若不知防危慮險,愈致其否,不利甚矣。
陰陽一旦相交せざれば、「真陰」は便ち「偽陰」と変じ、「真陽」は便ち「偽陽」と変じ、先天失去して邪気侵入し、邪気侵入して正気退走す。だから卦辞に「否は人に匪ず、君子の貞に利あらず」と曰う。「匪人」は邪気を指し、「君子」は正気を指す。当に先天未だ傷を受けず、真陽尚内裡に在り、一団の正気、あれは則ち君子なり。先天已に失せ、真陽身外に散じ、一身の所有するは僅かに邪気を剩り、後天の陰気に順って情を縦し欲を恣にし、為さざる無きに及ぶを待つ。あれは則ち匪人なり。匪人は君子に利あらず、亦たすなわち邪気は正気に利あらざるなり。この時到りて、道を修する人は正に応に聡明を摒去し・機巧を毀棄し、神と気とを収斂蔵納して、好くして真陽を保住せん。此の段の不利の時は、正に大なるは外に往き・小なるは内に来る・陰気当権の時を知るを須す。もし危を防ぎ険を慮るを懂れざれば、ただ閉塞を弄して更に深し、則ち大大に不利なり。
初六,一陰潛生,否之根已立,否之機必發,如拔茅布,以其匯矣。當斯時也,陰氣方生,陽氣未傷,若能早為致濟,猶可轉否為泰。蓋以正御否,否即不來,於理得吉,於行得亨,此防陰於未否之先也。
初六一爻。一点の陰気暗暗として生出し、閉塞の根已に立住し、閉塞の機兆必ず発作す。猶茅草を拔起して其の同類の一叢に連及するが如し。此の時に於いて、陰気剛かに生起し、陽気還た傷を受けず。もし能く及早に施救せば、還た否を転じて泰と為し得べし。正気を用いて閉塞を抵御すれば、閉塞は則ち到來せず。道理に就きて言えば吉を得、践行に就きて言えば亨を得。此一爻に配する工夫は、未だ閉塞せざるの先に於いて就先ず陰気を防住するなり。
六二,陰氣漸進,殺氣將發,外君子而內小人,是謂包承。包承之陰,雖未至於傷陽,已有傷陽之勢,在小人邪氣順行則吉,在大人正氣不通則否。修道者,儉德辟難,不為陰氣所惑,亦否中得亨之一道,此防陰於方否之時也。六三,陰氣結聚,順其所欲,認假為真,以為得計,實包羞而不知其羞者,此順陰而不知有否也。
六二一爻。陰気漸漸進逼し、肅殺の気将に発作せんとす。外表は君子に像れども内裡是れ小人。これを「包承」と呼ぶ。此の種の包承の陰気は、雖も未だ陽気を傷害するの地步に到らざるも、却って已に陽を傷るの勢頭有り。小人あの辺に於いては、邪気順行すれば便ち是れ吉。大人此の辺に於いては、正気通ぜざれば便ち是れ否。道を修する人此の時応に徳行を儉約して以て患難を避け、陰気に迷惑せられざるべし。此も亦た身否中に処りて仍ほ能く亨を得るの一条の路なり。此一爻に配する工夫は、正しく閉塞する時に於いて陰気を防住するなり。六三一爻。陰気凝結聚攏し、一味に自己の欲望に順い、偽を認めて真と作し、還た自ら以て計を得たりと為す。実際は羞愧を包蔵して其の羞たるを知らざるなり。此一爻に配するは陰気に順って走り、根本に於いて自己已に閉塞の裏に陥れるを知らざるの一等人なり。
九四,在陰極交陽之際,否中藏泰,生機又現,無命者而又有命矣。人之健德,天命之良心也。此心人人具足,個個圓成,處聖不增,處凡不減,但為氣質所拘,人慾所蔽,以苦為樂,不肯回頭耳。若肯回頭,天良發現,一善可以解百惡,立登道岸,有咎者即可至於無咎。是道也,雖凡夫俗子,知而行之,災變為福,刑化為德,疇離祉乎。此陽生而即能不否也。
九四一爻。正しく陰極が陽に転交するの関口に当たり、否中に泰を蔵し、生機重新顕現し、本来命無きは重新に命有りと為る。人身上あの份の剛健の徳は、すなわち上天の賦与する所の良心なり。此の個の心は人人具足・個個円満にして、聖人の身上に於いて曾て一分を増加せず、凡夫の身上に於いても曾て一分を減少せず。ただ気質に拘えられ・人欲に遮蔽せられ、苦を把って楽と為し、肯んじて回頭せざるのみ。もし肯んじて回頭せば、天良一たび発見すれば、一個の善念便ち能く百様の悪業を化解し、当下に道岸に登上し、過有るは立刻に無過に帰し得べし。此の条の路は、縦い是れ凡夫俗子も、知りて之を為せば、災も亦た福と変じ、刑も亦た徳と化成し、同類の人誰か依附して福を得ざらん。此一爻に配するは陽気一たび生ぜば便ち能く立刻に復た閉塞せざるの一歩の工夫なり。
九五,剛健中正,守道心而去人心,不求否休而自休。其休者,以其能防否於正泰之時,居三陽之內,正泰之時也。其亡其亡,繫于苞桑,未亡而防亡,方泰慮不泰,陰氣焉得而入之?此防陰於正泰之時也。
九五一爻。剛健にして中に居り正を得、「道心」――天理発用の処のあの点の真知――を守住し、「人心」――情欲に随って流転するあの点の妄識――を去掉す。閉塞の停止を求めずして閉塞自然停止す。其の停止し得る所以は、能く正しく泰通に当たるの時に於いて就先ず閉塞を防ぐに在る。此の爻三陽の内に居り、正に泰通の時候なり。爻辞に「それ亡びんそれ亡びん、苞桑に繫ぐ」と曰う。未だ敗亡せざれば則ち敗亡を防ぎ、正しく泰通すれば則ち泰ならざるを憂慮す。陰気どこが尚進み入るを得んや。此一爻に配する工夫は、正しく泰通の時に於いて陰気を防住するなり。
上九,在否之終,陰氣當退,陽氣當進,正當傾否之時。修道者,乘此機會,天人合發,抑陰扶陽,先否後喜,易如反掌,此進陽於否終之時也。然則不能使泰而不否者,後天循還之道。而能於否中致泰者,先天逆運之功,但須要認得藥物,知的火侯,不先不後,隨時進退耳。
上九一爻。閉塞の終了に処り、陰気は該に退き、陽気は該に進み、正に閉塞を傾覆するの時なり。道を修する人此の機会に趁り、天時と人力と一斉に発動し、陰を抑え住め・陽を扶け起し、先に閉塞し而る後に喜悦す。容易なるは手掌を翻すが如し。此一爻に配する工夫は、閉塞将に尽きんとするの時に於いて陽を進め上がるなり。此に由りて見るべし。能く泰通をして永く否に転ぜざらしむる能わざるは、「後天」循環往复の常道なり。而して能く否中に於いて泰通を招致するは、「先天」逆って施行するの工夫なり。ただ必ず薬物を認得し・火候を知り、前を搶えず亦た後に落ちず、時機に随って進退するのみ。
同人卦第十三(上乾下離)
同人:同人于野,亨。利涉大川,利君子貞。初九,同人于門,無咎。六二,同人于宗,吝。九三,伏戎于莽,升其高陵,三歲不興。九四,乘其墉,弗克攻,吉。九五,同人,先號咷而後笑,大師克相遇。上九,同人于郊,無悔。
《同人》卦の卦辞に曰く。曠遠の郊野に於いて人と和同す、亨通。大河を渡越するに適宜、君子の正を守るに適宜。初九爻。一たび門を出でれば則ち人と和同す、過なし。六二爻。ただ自己の宗族之内に於いて和同す、困吝を免れ難し。九三爻。兵甲を草莽の中に埋伏し、また高き山陵に登上して張望す、三年も発動し起る能わず。九四爻。対方の城墻に登上するも、却って終に攻撃を発起せず、吉利。九五爻。人と和同す、先は声を放ちて痛哭し、後来歓笑す、大軍戦勝の後に彼此相遇う。上九爻。城外の近郊に於いて人と和同す、悔恨無し。
同人者,人我如一之義。卦德上乾健、下離明,明而行健,健而通明,誠中達外,成己成物,故謂同人。此混俗和光,善與人同之卦,承上泰卦而來。泰者,陰陽相當,健順如一也。
「同人」は人と我と一片に打成するの意。この一卦の卦徳は、上卦乾は剛健と為り、下卦離は光明と為る。明白に因って能く剛健を行い得、剛健に因って能く光明を通じ得、誠意内に存みて外に通達し、既に自己を成就し又た他人を成就す。だから「同人」と呼ばれる。これは一個の流俗に混同し・光芒を涵斂し・善く人と和同するの卦で、上一卦《泰》を承接して来る。《泰》の講ずるは陰陽分量相当・健順一片に打成するなり。
修道者,至陰陽相當,健順如一,聖胎已結,可以混俗和光,以修向上事矣。但混俗和光,須要大公無私,在於無我。無我則無人,無我無人,則人我之心去。人我之心去,則人即是我,我即是人,如天之無物不覆,如日之無處不照,可以物我歸空,如同人于野,同而未有不亨者也。
道を修する人は陰陽分量相当・健順一片に打成するに修り至れば、「聖胎」已に結成し、則ち流俗に混同し・光芒を涵斂して、更に上一層の工夫を做し去る可し。但し俗に混じ光を和せんと要せば、必ず大公無私ならんを須し、関鍵は「無我」に在り。我無くんば、亦た人無し。無我無人なれば、人我彼此対立の心は便ち去掉せらる。人我の心一たび去れば、別人は則ち是我、我は則ち是れ別人、猶天の一物も覆わざる無く、猶日の一処も照らさざる無きが如し。物と我と一斉に空に帰するを做し得べし。これ即ち曠野の中に於いて人と和同するに同じく、和同して亨通せざるなし。
野為曠遠無人之處,同人如在野,則無我相,無人相,無眾生相,是能實心同人矣。但能同之於順,不能同之於逆,能同之於平易,不能同之於危險,則同之不是實心,而終不得亨。曰利涉大川者,以其大險大難之境。若能同去,則其無險無難之處,無往不利矣。
「野」は曠遠にして人無きの地なり。人と和同する能く曠野の如くならば、則ち我相無く・人相無く・衆生相無くして、これがはじめて真心実意に人と和同するを算う。もしただ順境の中に於いて和同する能くして、逆境の中に於いて和同する能わず、ただ平易の処に於いて和同する能くして、危険の処に於いて和同する能わざらば、則ち此の份の和同は是れ真心に非ず、終究として亨通を得ず。卦辞に「大川を渉るに利し」と曰うは、指す正に大険大難の境地なり。もしあの如き境地をも皆和同して過ぎ得べくんば、則ち険難無きの地方に於いては、自然に往きて利あらざるなし。
世之凡夫俗子,未嘗無有同人者,但多出於私而不得其正,可同者同之,不可同者亦同之,非同人于野之旨,故涉川之利,其必利於君子之貞乎。君子者,同之以正,而不同之以心。正者,同理而已。心有變遷,理無變遷,以理而同,則無心,無心則人我之見俱化,推理是守,內可以成己,外可以成物,明以照遠,健以直行,健明兩用,剛柔相濟,內不失已,外不傷人,圓陀陀,光灼灼,淨倮倮,赤灑灑,立於萬物之中,而不為萬物所屈,處於陰陽之內,而不為陽陰所拘矣。
世上の凡夫俗子は、未だ嘗て人と和同する無きに非ざるも、ただ多半は私心より出でてその正を得ず。和同すべきは和同し、和同すべからざるも亦た和同す。これがすなわち「野に於いて人と同じくする」の本旨に非ず。だから大河を渡越するの利益は、必ず君子の正を守るの上に落つ。君子の人と和同するは、正道を以て和同に去り、私心を以て和同せず。いわゆる正とは、不過「理」と相同するのみ。心は変遷する能く、理は変遷せず。理に依って和同に行けば、則ち私心無し。私心無くんば、人我の成見皆化掉せらる。一味に道理を推求してそれを守定せば、内に向かっては能く自己を成就し、外に向かっては能く他人を成就す。光明を以て遠処を照見し、剛健を以て徑直に前行し、健と明と両様併用し、剛と柔と互相調剤して、内に向かっては自己を失わず、外に向かっては別人を傷害せず。あの時に至れば、円陀陀・光灼灼・浄倮倮・赤洒洒として、万物の中に立ちて万物に屈服せられず、陰陽の内に処りて陰陽に拘限せられず。
初九,在同人之時,剛而能明,將欲出門同人,不遽出門,先辨其是非可否,而後同。同之能以無咎者,此剛而謹始之同也。六二,居於內體,與二陽同處,是同人于宗,僅能同之於親,不能同之於疏,乃同人羞吝之道,此柔而不遠之同也。
初九一爻。和同の時に処り、剛健にしてまた能く明察す。将に門を出でて人と和同せんとするも、却って急ぎて出門せず、先ず其中の是非可否を辨清して、而る後に再び和同に去る。だから此の如き和同は能く過無し。此一爻に配するは剛健にして開頭に於いて就きて謹慎なるの和同なり。六二一爻。内卦の中に居り、两個の陽爻と同処す。これがすなわち「宗に於いて人と同じくす」。ただ親近の人に於いて和同する能くして、疎遠の人に於いて和同する能わず。是れ和同一事の中の難を免れざる羞吝の路数なり。此一爻に配するは柔弱にして同ずる所遠からざるの和同なり。
九三,剛明太過,自尊自大,問或同人出於勉強,不由自然,如伏戎于莽,升其高陵也。高陵之同,順我者能同,逆我者不能同。如此之人,雖三歲之久,終不能興同人之事,此剛而勉強之同也。九四,以剛乘剛,彼強我勝,彼我不能同心,如乘其墉而弗克攻矣。然剛而能柔,不能同而不強攻,亦同人之吉道,此剛而能柔之同也。
九三一爻。剛健明察倶に太も頭を過ぎ、自尊自大にして、偶々人と和同するも亦た勉強より出で、自然而然に非ず。猶兵甲を草莽の裏に埋伏し、また高陵に登上して張望するが如し。高陵の上に立つるの和同は、我に順うは則ち能く同じくし、我に違逆するは則ち能く同じくせず。此の如き人は、縦い三年の久しきを経過すれども、終究として和同の事業を興起す能わず。此一爻に配するは剛強にして勉強より出づるの和同なり。九四一爻。剛強を以て剛強に凌駕し、対方強くして我は彼に勝たんと要す。彼此同心する能わず。猶対方の城墻に登上するも終に進攻する能わざるが如し。しかるに剛強にして能く柔に転じ、和同する能わざれば則ち強攻し去らず。此も亦た和同中の吉利の路数なり。此一爻に配するは剛強にして能く柔に転ずるの和同なり。
九五,剛健中正,道全德備,先無人同,而終必有同者,是同人先號咷而後笑也。夫道高者毀來,德修者謗興,知音之少,亦無足怪。然成己之後,而欲成物,大公無私,以正而同,如大師克之,久則誠能動物,方且人人尊服,而皆同之,何患知音之不遇哉!此大公無私,利涉大川之同也。
九五一爻。剛健にして中に居り正を得、道行完全にして徳性完備す。起初は人の彼と和同せんを肯んずる無し、最終には必ず人来たりて和同する有り。これがすなわち爻辞のいう先ず声を放ちて痛哭して而る後に歓笑するなり。道行高きは詆毀を招来し、徳性修めて好きは謗議を引起す。知音稀少なるは、本来怪しむに足らず。しかるに自己を成就しての後に還た他人を成就せんと想い、大公無私にして、正道を以て和同に去る。猶大軍の終に戦勝するが如く、日子久しければ、誠意能く外物を感動し、人人皆尊敬佩服して彼と和同せん。何を愁えんや知音に遇わざるを。此一爻に配するは大公無私にして能く大川の険を渉るの和同なり。
上九,剛以柔用,在塵而能出塵,處世而能出世,外雖同而內不同,如同人于郊。於郊之同,大智若愚,大巧若拙,境遇不得而移,不致悔而自無悔,此和而不流之同也。然則同人之道,須要通權達變,量時度務,同之得正為貴,以正而同,既健且明,無往而不可同,無往而有苟同,同人于野之旨得矣。
上九一爻。剛健にして柔和の方式を以て運用し、身塵中に在りて能く塵外を超出し、世間に処りて能く世間を超出す。外表は雖も人と相同なれども内裡は並びて随同せず。猶近郊に於いて人と和同するが如し。郊野に在るの和同は、大智慧は見れば愚拙に似たり、大霊巧は見れば笨拙に似たり。境遇は彼を動揺する能わず、必ずしも特意に悔を防ぐに行かずして自然に悔恨無し。此一爻に配するは和順にして波に随い流に逐わざるの和同なり。此に由りて見るべし。人と和同するの路数は、必ず権変に通達し、時勢を衡量し・事務を審度して、和同してその正を得るを以て可貴と為す。正道を以て和同に行けば、既に剛健にして又た光明なれば、則ち一処として和同すべからざる無く、亦た一処として苟且附和に流るる有らず。「野に於いて人と同じくする」の本旨は就きて得たりと算う。
大有卦第十四(上離下乾)
大有:元亨。初九,無交害。匪咎,艱則無咎。九二,大車以載,有攸往,無咎。九三,公用亨于天子,小人弗克。九四,匪其彭,無咎。六五,厥孚交如,威如吉。上九,自天佑之,吉無不利。
《大有》卦の卦辞に曰く。大いに亨通。初九爻。外物と交接せざれば、則ち禍害無し。本来は過と算せず、能く艱難を以て自処せば便ち更に過なし。九二爻。大車を用いて以て装載し、往く所有り、過なし。九三爻。公侯物産を天子に進献す、小人は此の如き事を担当する能わず。九四爻。自己の盛大を炫耀し去らず、過なし。六五爻。其の誠信は人と交相感応し、又た威厳を失わず、吉利。上九爻。上天の処より佑助を得、吉利にして順利ならざる無し。
大有者,有之大也。卦德上離明、下乾健,明以行健,健中出明,愈健愈明,愈明愈健,故謂大有。此富有日新,嚴以治內之卦,承上否卦而來。否者陰氣用事,陽氣退讓,認假失真,蔽塞靈竅,日晦日暗,本來天德全無矣。若欲復還天德,無中生有,非健明之道不能。
「大有」とはすなわち所有するの広大なり。この一卦の卦徳は、上卦離は光明と為り、下卦乾は剛健と為る。光明に憑って剛健を施行し、また剛健の中より光明を生出し、越えて剛健なれば則ち越えて光明、越えて光明なれば則ち越えて剛健なり。だから「大有」と呼ばれる。これは一個の富有にして日日更新し・内心を厳格に治理するの卦で、上一卦《否》を承接して来る。《否》の講ずるは陰気当権・陽気退譲して、偽を認め真を失い、霊明の竅竇を遮蔽堵塞し、一天天に昏晦黒暗して、本来の天徳全然喪失せるなり。もし天徳を重新に回復し、無有の中に於いて有を生出さんと想えば、非ずんば剛健と光明と此の路を用いざれば可ならず。
何謂健?一念純真,剛強不屈者是也。何謂明?燭照萬事,虛靈不昧者是也。能健則心堅志遠,無道不修,無德不立,而富有;能明則辨理透徹,真知確見,有善即遷,有過即改,而日新。既健且明,內有主宰,萬物難移,於是真履實踐,如天上有日,光照一切,無物不覆,無物能瞞。大地裡黃芽長遍,滿世界金花開綻,信步走去,頭頭是道,有之大而行之遠,元而未有不亨者也。
何をか「健」と謂う。一念純真・剛強不屈、即ち是れ健なり。何をか「明」と謂う。万事を燭照して虚霊昧ならず、即ち是れ明なり。能く健なれば、心は則ち堅く・志は則ち遠く、一様として修むるを肯んぜざる道無く、一様として立てるを肯んぜざる徳無し、因って富有す。能く明なれば、理を辨ずるは則ち透徹し、真知確見有り、善を見れば立刻に遷就し、過有れば立刻に改正す、因って日新す。既に剛健にして又た光明なれば、内裡主宰有りて、万般の外物皆動揺する能わず。ここにおいて真真実実に践履して起き、猶天上に太陽有りて、光は一切を照らし、一物として覆われざる無く、亦た一物として瞞し過ぐる能わざる無きが如し。あの時に至れば、大地の裡に「黄芽」長じ遍し、満世界に「金花」開绽す――此の両様は倶に内丹功成・真気萌生の景象なり――信歩として走去れば、処々皆は是れ道なり。所有する既に広大にして、践行するまた深遠なり。元始にして亨通せざる無し。
初九,在大有之始,所有不大,正當潛修密煉,不可因外物而傷內真者,是以無交害匪咎也。然不交於外物,倘有妄念內生,亦即是物,仍是有害有咎,惟艱以處之,煉已持心,假者去而真者來,不有者能有,方能始終一無所咎矣。此初有須當靜養於內也。九二,剛健得中,已富有於內,如大車以載,能以任重,可以不為外物所傷矣。然德克於內,須驗於外,唯有攸往,事上境上,輕輕過去,不動不搖,方是大有,而內外一無所咎矣。此已有須當驗之於外也。
初九一爻。大有の開頭に処り、所有するは尚広大ならず、正に応に潜心して密錬し、外物に因りて内裡の真機を傷つけ可からず。だから爻辞に「交害無し、咎に匪ず」と曰う。然而雖も外物と交接せずとも、倘若内裡妄念を生出せば、あの妄念も亦た即ち是れ物、仍ほ害有り咎有り。唯だ艱難の心を以て自処し、己を錬り心を持し、偽の去掉し真の到來し、本来無きはじめて有と変じ得、はじめて自始至終毫も過無からん。此一爻に配する工夫は、剛かに有を開始する時、須く内裡に於いて静養せんを須す。九二一爻。剛健にして中位に居るを得、内裡已に富有す。猶大車を用いて装載するが如く、能く重物を担負し、外物に傷せられざるを得べし。然而徳性内裡に於いて成就せりと雖も、還た須く外面に到りて験証せんを須す。唯だ往く所有りて、事情の上・境遇の上に於いて軽軽として過ぎ、動揺せず亦た牽扯せざれば、はじめて真に正しい大有と算し、内外倶に毫も過無し。此一爻に配する工夫は、已に有有れば、須く外面に到りて験証せんを須す。
九三,剛居剛位,有之大而行之大,能以完全天德,如公用享于天子也。公用之享於天子者,剛正有為之才;修道之享於天者,剛正有為之德。以德享天,自命不凡,方且與天為配,何礙於大。若夫剛而不正之小人,無而為有,予聖自雄,適以違天,焉能享天?此大有,須貴剛之得正也。
九三一爻。剛爻剛位に居り、所有する広大にして、践行するも亦た広大なり。能く天賦の徳を成全す。猶公侯の物産を天子に進献するが如し。公侯の能く天子に進献する所以は、剛正にして作為有るの才干に憑る。道を修る人の能く天に上献する所以は、剛正にして作為有るの徳行に憑る。徳行を用いて天に上献すれば、自然に志向凡ならず、正に天と相配する可し。此の如き「大」に何の妨げか有らん。あの些かの剛強にして正ならざるの小人に至っては、本来無きに装作して有りと為し、自ら聖に封じ・自ら英雄を逞ぶし、恰恰として天意に違背す。どこが尚能く天に上献し得んや。此一爻は説明す。大有一事は、可貴なるは剛にして能くその正を得るに在り。
九四,剛明兼備,有健不恃,有明不用,是匪其彭也。匪彭之剛明,外示不足,內常有餘,有者愈有,大者愈大,自無得而復失之咎。此大有,尤貴剛而能柔也。六五,柔順虛心,自信一己之無,而知他人之有,以柔求剛,借剛濟柔,是以厥孚交如,威如吉也。五本無威,以其能交於剛,雖愚必明,雖柔必強,無即能有,小即能大。此未有須當求人之有也。
九四一爻。剛健と光明と両様兼備し、剛健有るも倚仗せず、光明有るも炫用せず。これがすなわち「其の彭に匪ず」、自己の盛大を顕擺せざるなり。顕擺せざるの剛明は、外面は不足を顕れども、裏面常に富余有り、有るは越發に有り、大なるは越發に大なり。自然に既得にして復失の過無し。此一爻は説明す。大有一事は、尤も可貴なるは剛にして能く柔なるに在り。六五一爻。柔順にして虚心、自己の所有無きを明白し、亦た別人の確かに所有有るを知り、因って柔を以て剛を求め、剛を借りて柔を補済す。だから爻辞に「其の孚交如、威如吉」と曰う。六五本来威厳無きも、能く剛陽と交接するが為に、縦い愚昧なりと雖も必ず明白に転じ、縦い柔弱なりと雖も必ず剛強に転じ、本来無の則ち能有と変じ、本来小の則ち能大と変ずべし。此一爻に配する工夫は、還た無きの時は、須く別人の所有を求取し去らんを須す。
上九,在大有之終,剛柔相當,健明如一,渾然天理,金丹凝結,我命由我不由天,是以自天佑之,吉無不利也。天之所以命於人者,健德。人之所以順乎天者,明德。以明保健,天命常在,天命在而天即佑之。此大有,須當全天之有也。然則大有實學,非健以治內,明以應外者不能行。既健且明,未有者而能有,已有者而能大,健明兩用,實腹虛心,富有日新之道盡矣。
上九一爻。大有の終了に処り、剛と柔と分量相当し、健と明と一片に打成し、渾然一片の天理、金丹凝結成就し、我の性命は我自己に由りて主を作して天に擺布せられず。だから爻辞に「天よりこれを佑す、吉にして利あらざる無し」と曰う。上天の人に賦与するは、是れ剛健の徳。人の用いて上天に順応するは、是れ光明の徳。光明を以て剛健を護持せば、天命は則ち常在す。天命常在なれば、上天自然に彼を佑助す。此一爻に配する工夫は、大有此に至れば、須く上天の賦与する所のあの一份を完完全全に保住せんを須す。此に由りて見るべし。大有此の門の真実の学問は、是れ「剛健を以て内心を治理し・光明を以て外物を應接する」の人に非ざれば便ち行い来る能わず。既に剛健にして又た光明なれば、本来無きは能く有と変じ、已に有るは能く大と変じ、健明両様併用して、腹中充実にして心中虚空なり。富有日新の道理は、此に至って説き尽くせり。
巻二
謙卦第十五(上坤下艮)
謙:亨,君子有終。初六,謙謙君子,用涉大川,吉。六二,鳴謙,貞吉。九三,勞謙,君子有終,吉。六四,無不利,撝謙。六五,不富以其鄰,利用侵伐,無不利。上六,鳴謙,利用行師,征邑國。
《謙》卦の卦辞に曰く。亨通。君子は能く始を善くし終を善くす。初六爻。謙にして又た謙なるの君子、此の份の謙徳に憑って大河を渡越す、吉利。六二爻。謙徳発して声有り、正を守れば吉利。九三爻。功労有りて仍ほ能く謙譲す、君子始を善くし終を善くす、吉利。六四爻。利あらざる無し、処々に謙徳を施行す。六五爻。自己の富有を待たずして便ち鄰里を帯動する能く、兵を出して征討するに適宜、利あらざる無し。上六爻。謙名外に伝揚し、軍隊を出動して、自己の采邑の国を征討し去るに適宜。
謙者,有而不居之義。卦德上坤順、下艮止,剛止於內,柔順於外,內剛而外柔,故謂謙。此以陰保陽之卦,承上同人而來。同人者,混俗和光,以明用健也。以明用健,健不妄用,非涵養深厚者,不能行。涵養之功,即以陰保陽之功。以陰保陽,所以虛極靜篤,止於其所也。
「謙」は有りて自ら居らざるの意。この一卦の卦徳は、上卦坤は柔順と為り、下卦艮は静止と為る。剛陽内に止息し、柔順外に顕現し、内裡剛にして外表柔なり。だから「謙」と呼ばれる。これは一個の陰を以て陽を保護するの卦で、上一卦《同人》を承接して来る。《同人》の講ずるは流俗に混同し・光芒を涵斂し、光明を用いて剛健を運使するなり。光明を用いて剛健を運使すれば、剛健は則ち妄用せざるなり。もし涵養深厚の人に非ざれば、此の一歩を行い来る能わず。涵養の工夫は、即ち陰を以て陽を保するの工夫なり。陰を以て陽を保するがゆえに、虚は極処に至り・静は篤処に至り、自己の止まるべき地方に安止するを要す。
艮為死我之處,坤為生我之處,未死先學死,陽之止也。不生即長生,陰之順也。陽止者,止假陽、養真陽也;陰順者,運真陰、退假陰也。假陽上而真陽存,是謂養;假陰退而真陰現,是謂順。能養能順,嚴以治己,虛以應物,心愈低而道愈高,外不足而內有餘,順理順人,止於至善之地而不遷,此謙道之所以亨也。
艮は我をして死せしむるの地方、坤は我をして生出せしむるの地方なり。未だ死せざるに就先ず死を学ぶは、是れ陽の「止」なり。妄に生ぜずして便ち長生を得るは、是れ陰の「順」なり。いわゆる陽止とは、「偽陽」を止住して「真陽」を涵養するなり。いわゆる陰順とは、「真陰」を運化して「偽陰」を退去せしむるなり。偽陽止息して真陽保存せらるるは、此を養と呼ぶ。偽陰退去して真陰顕現するは、此を順と呼ぶ。能く養い能く順えば、則ち厳格に自己を治理し、虚心に外物を應接し、心地越えて謙下にして道行越えて高く、外表は不足を顕れども内裡綽々として余裕有り、天理に順い・亦た人情に順い、至善の地位の上に安止して復た遷移せず。これがすなわち謙道の亨通する所以の縁故なり。
然能謙之於始,不能謙之於終,是有始無終。止之不固,順之不當,謙之假而不真,亦不得亨。惟修道君子,於止知其所止,虛其所有,示其所無,一念純真,有始有終,尊道而行,愈久愈力,故得先天之氣,自虛無中來,凝結而成丹。若非君子無而為有,虛而為盈,自滿自足,雖外恭而內不敬,始勤終怠,必至止真陽而用假陽,順人慾而背天理,不但不吉,而且不亨,何足以為謙哉?
然而もしただ能く開頭に於いて謙にして、末了に於いて謙する能わざれば、あれは便ち始有りて終無し。止ること牢固ならず、順うこと恰当ならず、謙は是れ偽にして真に非ず、亦た亨通を得ず。唯だ道を修するの君子のみ、該止の地方に於いて自己の当に止まるべき所を知り、自己の所有するを一概に虚掉し、ただ自己の有さざるを顕示し出し、一念純真にして始有り終有り、大道を尊崇して行い、越久しければ越えて力を用いる。だから能く「先天之気」――あの虚無の中より自ら来るの元気――を得て、凝結して丹を成す。もし此の如き君子に非ざれば、本来無きに装作して有りと為し、本来空虚に装作して充盈と為し、自満自足して、外表恭敬なれども内心は並びて真敬ならず、開頭勤勉にして後来懈怠す。必定して真陽を止住して偽陽を使用し、人欲に順從して天理に違背するに弄り至らん。但だ吉ならざるのみならず、而且亨ならず。どこが謙と称呼するに配せんや。
初六,其性柔順,固自能謙,又居卑下,不敢先人,是謂謙而又謙之君子。如此之謙,順固能謙,逆亦能謙,用涉大川之險,無有不致吉者。此柔而自下之謙也。六二,柔順中正,以無能而順有能,是謂鳴其謙也。謙而至鳴,示己之無;尊人之有,虛心即能實腹,謙而即得其吉者,此柔而順剛之謙也。
初六一爻。本性柔順にして、原本便ち能く謙す、また卑下の位に居り、別人の前頭を搶えるを敢えてせず。これを謙にして又た謙なるの君子と呼ぶ。此の如き謙は、順境の中に於いては固然として能く謙し、逆境の中に於いても同様に能く謙す。それを用いて大河の如き険境を渡越せば、吉を得ざる無し。此一爻に配するは柔順にして自ら卑下に居るの謙なり。六二一爻。柔順にして中に居り正を得、自己の無能を以て能有の人に順従す。これを「鳴謙」と呼ぶ。謙して能く鳴くに至るは、自己の無きを顕示し・別人の所有を尊重するなり。心一たび虚なれば、腹は則ち能く実なり。一たび謙すれば便ち吉を得る。此一爻に配するは柔順にして剛陽に順従するの謙なり。
九三,以一陽而居於群陰之中,能以謙道點化群陰,是謂勞謙也。謙而至勞,其德日大,其心日小,我謙而人自謙,非真心實意之君子不能。此剛而有終之謙也。六四,柔而守正,既能謙於有德,又能謙於無德,既能謙於尊上,又能謙於卑下,是謂撝謙也。謙而至撝,左之右之,隨在皆然,此柔而無不利之謙也。
九三一爻。一個の陽爻を以て衆陰の中に処り、能く謙道を用いて衆陰を点化す。これを「勞謙」と呼ぶ、功労有りて仍ほ謙譲す。謙して能く勞するに至れば、徳行一天天に広大にして、心地一天天に卑小と為り、我一たび謙すれば別人も自然に謙す。是れ真心実意の君子に非ざれば做り到る能わず。此一爻に配するは剛健にして能く終有るの謙なり。六四一爻。柔順にして正を守り、既に能く徳有る人に対して謙し、亦能く徳無き人に対して謙す。既に能く尊長に対して謙し、亦能く卑下の者に対して謙す。これを「撝謙」と呼ぶ、処々に謙徳を施行す。謙して能く撝するに至れば、或いは左に或いは右に、いずれの位置上に処るを論ぜず倶に是れ此の如し。此一爻に配するは柔順にして往きて利あらざる無きの謙なり。
六五,柔而得中,不但自謙,亦能化人于謙,是以不富以其鄰。鄰為相近之人,又在順體,能化於近,不能化遠,非是真謙。能化於順,不能化逆,亦非真謙,利用侵伐,利用於遠逆矣。謙至逆順不拘,遠近皆通,其行無往而不利矣。此尊而能以虛心之謙也。
六五一爻。柔順にして中に居り当を得、但だ自己の能く謙するのみならず、還た能く別人を感化して亦た謙に帰せしむ。だから爻辞に「富まずして其の鄰を以てす」と曰う。「鄰」は相近の人を指す。此の爻又た坤此の個の柔順の体中に処る。ただ能く近処を感化して遠処を感化する能わざれば、真の謙と算するに足らず。ただ能く我に順うを感化して我に逆うを感化する能わざれば、亦た真の謙と算するに足らず。だから「侵伐を用うるに利し」と曰う。意思は此の份の謙徳は還た応に遠処と逆境の上に用い去るべしとなり。謙して逆順倶に拘らず・遠近倶に通ずるに至れば、行う所の処は則ち往きて利あらざる無し。此一爻に配するは身尊位に居りて仍ほ能く虚心たるの謙なり。
上六,自尊自大,有己無人,是謂鳴謙。謙鳴於上,自不能謙,焉能化人于謙?是以利用行師,征邑國也。邑國,近我順我者也。近我順我者,且用行師征之,而後得利,何況遠我逆我者乎?此尊而不能自卑之謙也。
上六一爻。自尊自大にして、ただ己有るを知り人有るを知らず。此も亦た「鳴謙」と呼ぶも、却って是れ謙名を外に伝揚するなり。謙名ただ上頭に鳴き、自己実際上は並びて能く謙せず、又た怎様にして別人を感化して謙に帰せしめ得べきや。だから爻辞に「師を行るを用うるに利し、邑国を征す」と曰う。「邑国」は我に靠近し・我に順従するあの些かの人なり。我に靠近し・我に順従するをも連れて還た兵を動かして征討し去りて、然る後に乃ち利を得。何を況んやあの些かの我に遠離し・我に違逆するをや。此一爻に配するは身尊位に居りて能く自ら卑下に居らざるの偽謙なり。
謙之為道居多,或剛而能謙,或柔而能謙,或謙子柔,或謙於剛,總以謙虛自卑為貴。虛心則能實腹,自卑則能登高,借陰濟陽,不在是乎。噫!謙受益,滿招愆。謙之一字,其事雖微,其功最大,學者能于謙之一字作實落功夫,有始有終行去,則內而陰陽和,外而人我通,氣質化而天真獨露,生氣常存,何患金丹不結、大道不成哉。
謙此の一条の路は、情形很に多し。或いは剛強にして能く謙し、或いは柔弱にして能く謙す。或いは柔弱の者に向かって謙し、或いは剛強の者に向かって謙す。総之として謙虚自卑を以て可貴と為す。心虚なればはじめて腹実なり、自ら卑下に居ればはじめて高く登り得。陰気を借りて来て陽気を補済するは、則ちここに在らずや。ああ。謙虚は益を得、自満は罪愆を招来す。「謙」此の一個の字は、事情雖も細微なれども、功效は却って最大なり。道を学ぶ人もし此の一個の「謙」の字の上に於いて扎扎実実の工夫を做し出し、始有り終有りに行い下去らば、則ち内に於いて陰陽調和し、外に於いて人我相通し、気質変化して天真独自顕露し、生機常に存して息まず。何を愁えんや金丹結ばざる・大道成らざるを。
豫卦第十六(上震下坤)
豫:利建侯行師。初六,鳴豫,凶。六二,介于石,不終日,貞吉。六三,盱豫悔,遲有悔。九四,由豫,大有得。勿疑,朋盍簪。六五,貞疾,恆不死。上六,冥豫,成有渝,無咎。
《豫》卦の卦辞に曰く。諸侯を分封し・軍隊を出動するに適宜。初六爻。安楽を張揚して声を出す、凶険。六二爻。耿介なるは磐石の一般、一日の過ぐるを待つを用いずして去就を辨明す、正を守れば吉利。六三爻。眼睛を大きく睜いて別人の安楽を仰望して悔を生じ、拖延して下去れば更に悔恨有り。九四爻。衆人の安楽は彼に由りて来る、大に所得有り。疑慮する勿れ、朋友們は散乱の頭髪の一支の髮簪に聚攏するが如く帰附して来らん。六五爻。此の個の病を守着す、長久なるも亦た死に至らず。上六爻。安楽の中に於いて昏昧す、事情雖も已に做し成るも必ず変を生ず、能く改めれば則ち過なし。
豫者,樂也。卦德上震動、下坤順,順時而動,動而通順,故謂豫。此以陰招陽之卦,承上大有而來,大有健明兩用,富有日新之道也。富有日新,須要順時而動,方能成功。若能順時,則進健得正,用明得當,火候不差,多銖有準,急援得法,進退合節,由有為而至無為,自無得而復失之患。其順動之樂為何如?順動之象,莫如建侯行師,侯為一國之主,將為眾軍之主,建侯順天時,則一國治,行師順人心,則眾軍全。心為一身之主,如侯如將也。順動利於建侯行師,即利於正心修身。順時而動,則利;不順時而動,則不利。利則得樂,不利則不樂。致樂之道,順而動之盡矣。
「豫」とはすなわち快楽。この一卦の卦徳は、上卦震は動と為り、下卦坤は順と為る。時機に順って動き、一動すれば則ち通達順暢す。だから「豫」と呼ばれる。これは一個の陰を以て陽を招引するの卦で、上一卦《大有》を承接して来る。《大有》の講ずるは剛健と光明と両様併用し・富有にして日新の道理なり。富有日新せんと要せば、必ず時機に順って動いて、はじめて成功し得べし。能く時機に順応せば、則ち剛健を推進するはその正を得、光明を運用するはその当を得、火候絲毫差えず、分量軽重准有り、急を救うに法度有り、進退は節拍に合乎り、「有為」より進みて「無為」に至り、自然に既得にして復失の隠患無し。此の種の時に順って動くの快楽は何等の境界ぞ。順動の象は、諸侯を分封し・軍隊を出動するより貼切なる無し。諸侯は一国の主、将帥は全軍の主なり。諸侯を封ずるは天時に順応すれば、一国は則ち治理して好し。軍隊を出ずるは人心に順応すれば、全軍は則ち保全を得。人の「心」は一身の主、猶あの諸侯・あの将帥の如し。順動は侯を建て師を行るに利有り、亦たすなわち心地を端正し・己身を修治するに利有り。時機に順って動けば則ち利、時機に順わずして動けば則ち利ならず。利なれば則ち楽を得、利ならざれば則ち楽ならず。快楽を招致するの門路は、一個の「時に順って動く」に就きて説き尽くせり。
初六,居豫之初,又在三陰之下,性質本愚,且與小人為伍,自暴自棄,以苦為樂,是謂鳴豫。豫而至鳴,無樂而自為樂,終必入於下愚不移之地,而不得樂。此匪正取凶之樂也。六二,無貪無求,樂天知命,如介于石,確然有守,不以外假而傷內真,至於非分之樂,不俟終日,則即去之。此守貞得吉之樂也。
初六一爻。豫卦の開頭に処り、また三個の陰爻の最下面に居り、資質本来愚昧にして、還た小人と結伴し、自暴自棄して、苦を把って楽と成す。これを「鳴豫」と呼ぶ、安楽を張揚して声を出すなり。楽して張揚して声を出すに至れば、本来楽むべき無きに硬としてそれを把って楽と為し、終究として下愚に落ち込みて轉移すべからざるの地步に至り、反って楽を得ず。此一爻に配するは正ならずして自ら凶険を取るの楽なり。六二一爻。貪無く求無く、天道に楽しみ命分に安んず。猶耿介なる磐石の如く、確確実実に守る所有り、外面の偽物に因りて裏面の真機を傷せず。属すべからざる自己の快楽に遇わば、一日の過ぐるを待つを用いず、当下に則ちそれを去掉す。此一爻に配するは正を守りて吉を得るの楽なり。
六三,舍己之樂,仰望他人之樂,是謂盱豫。豫至於盱,未得於人,先失其己,致悔之道。既知盱人無益而速悔,則可無悔。否則,不能悔速,而悔遲,終必有悔,而不得樂。此失正致悔之樂也。九四,以一陽而居於群陰之中,不為群陰所惑,且能點化群陰,皆來順之,是謂由豫大有得也。大得之象,如亂髮朋盍而歸於一管簪,以一御紛,以定止亂,陽氣常振,陰氣自化,樂何如之,此用剛有得之樂也。
六三一爻。自家本有の楽を丢開し、眼睛を抬起して別人の楽を仰望し去る。これを「盱豫」と呼ぶ。楽して眼を睜いて別人を仰望するの地步に至れば、未だ別人の処より何を得るに及ばずして、先に已に自己を失掉せり。これは悔を招くの路数なり。既に別人を仰望するは益無きを知りて赶紧に悔改せば、還た悔恨無きを得べし。否れば能く快快悔改せず、一味に拖延して、終究として悔恨有るを要し、快楽も亦た得る能わず。此一爻に配するは正を失いて悔を招くの楽なり。九四一爻。一個の陽爻を以て衆陰の中に処り、衆陰に迷惑せられず、反って能く衆陰を点化して、彼らをして皆来たりて順従せしむ。これを「豫に由る、大に得る有り」と呼ぶ。大に得る有りの象は、猶散乱の頭髪の一支の髮簪の上に聚攏するが如く、一を用いて紛雑を統御し、定を用いて動乱を止住す。陽気常常振作し、陰気自然消化す。此の快楽何等の自在ぞ。此一爻に配するは善く剛陽を用いて所得有るの楽なり。
六五,柔而不剛,孤寂守靜,空而不實,如有疾而不能樂矣。然柔而得中,即不能致樂,亦不至招凶,雖有疾而恆不死,不死不活,獨守一貞,安於小乘,縱真陽在望,未許我有,此著於頑空無樂也。上六,在豫之終,只知順行其樂,不知逆運其樂,是謂冥豫。豫至於冥,執固不通,順其所欲之樂,雖樂事已成,必有渝變,樂極生悲,終必自敗,與人無咎,此隨心所好失樂也。
六五一爻。柔弱にして剛強ならず、孤寂として静を守着し、空洞にして充実せず。猶身上病有りて快楽して起らざるが如し。ただそれは柔順にして中に居り、雖も快楽を招き来る能わざるも、亦た凶を招くに至らず。だから雖も病有りて長久にして死なずと曰う――却って是れ不死不活、孤零零として一個の「貞」の字を守着し、小乗一路に安んず。縦い「真陽」已に望に在るも、亦た我に真正に擁有するを許さず。此一爻に配するは頑空に執着して毫も真楽無きの一等人なり。上六一爻。豫卦の終了に処り、ただ順って走りて此の份の楽を享するを知りて、逆って此の份の楽を運化せんと要するを知らず。これを「冥豫」と呼ぶ、安楽の中に於いて昏昧す。楽して昏昧に至れば、執固にして通達せず、一味に自己の欲望に順って楽を取る。縦い楽事已に做し成るも、亦た必ず変故を生出し、楽極まりて悲を生じ、終究として自ら敗亡を取る。別人の身上に怪むに到らず。此一爻に配するは心裡の好む所に随って真楽を丢失するの一等人なり。
然則樂之為道,總在能順。致樂之道,總在能順時而動。順時而動,陽氣舒暢,如雷出地外,奮發登天,震驚百里,一切邪魔魍魎,盡皆遁跡,生機不息,大地裡黃芽長遍,滿世界金花開綻,信步走去,頭頭是道,樂莫樂於此也。
此に由りて見るべし。快楽此の条の路は、総じて一個の「順」の字の上に在り。快楽を招致するの門路は、総じて能く時機に順って動くに在り。時に順って動けば、陽気舒展暢達し、猶春雷の地裏より発出し、奮然として天空に升上し、声威百里を震惊すれば、一切の邪魔魍魎尽く皆逃遁して跡を隱すが如し。生機綿綿として息まず、大地の裡に「黄芽」長じ遍し、満世界に「金花」開绽し、信歩として走去れば、処々皆は是れ道なり――快楽は復た此より快楽なる無し。
随卦第十七(上兌下震)
隨:元亨,利貞,無咎。初九,官有渝,貞吉,出門交有功。六二,係小子,失丈夫。六三,係丈夫,失小子。隨有求得,利居貞。九四,隨有獲,貞凶,有孚在道以明,何咎?九五,孚于嘉,吉。上六,拘係之,乃從維之,王用亨于西山。
《随》卦の卦辞に曰く。大いに亨通、正を守るに適宜、過なし。初九爻。主とする所の職守変動有り、正を守れば吉利、門を出でて人と交接すれば便ち功效有り。六二爻。年幼の小子に牽係し、成年の丈夫を失掉す。六三爻。成年の丈夫に牽係し、年幼の小子を失掉す。此の如き随従は、求むる有れば則ち得る所有り、安居して正を守るに適宜。九四爻。随從して獲取有る所、縦い正を守るも凶険。ただ心に誠信を懐き・正道に合乎りて又た明察せば、何の過か有らん。九五爻。美善に誠信す、吉利。上六爻。彼を拘執捆縛して起き、還た更に繩索を加えて維係す。周王西山に於いて祭を設けて亨通を得。
隨者,相從之義。卦德上兌悅、下震動,我動而人悅,人悅而我動,有彼此相應之義,故謂隨。此以性求情之卦,承上謙卦而來。謙者虛其所有,示其所無,所以借陰以全陽,乃陽復以後之事。當陽未復之時,若非有招攝之法,而真陽不來。招攝之法即隨道也。
「随」は彼此相従うの意。この一卦の卦徳は、上卦兌は和悦と為り、下卦震は動と為る。我一たび動けば対方欣悦し、対方欣悦して我又た動く。彼此感応相従うの意を含む。だから「随」と呼ばれる。これは一個の「性」を以て「情」を求むるの卦で、上一卦《謙》を承接して来る。《謙》の講ずるは自己の所有するを虚掉し・自己の有さざるを顕示し出し、用意は陰気を借りて陽気を保全するに在る。あれは陽気已に回復して以后の事なり。当に陽気還た回復せざるの時、もし一套の招摂の弁法無くんば、真陽は則ち肯んじて回來せず。此の套の招摂の弁法は、即ち《随》の講ずる所の路数なり。
本卦震兌相合,震屬東家,為性,為我;兌屬西家,為情,為彼。有生之初,性情如一,先天真陽,原是我家之物,交於後天,走失於外,不為我有,屬於他家矣。若欲還原返本,仍要在他家盜來,隨之為道,順其所欲,漸次導之也。
此一卦は震・兌两卦相合して成る。震は「東家」に属し、「性」を代表し、我を代表す。兌は「西家」に属し、「情」を代表し、対方を代表す。人剛かに出生するの時、性と情とは本来一体なり。落入して「後天」に及ぶを待って、先天真陽原是れ我家の物、却って外面に走失し、復た我の所有に帰せず、他家のと成り了せり。もし本に還り原に帰せんと想えば、仍ほ他家あの処より盗取して回らんを須す。《随》此の条の路は、即ち対方の意願に順って、一歩一歩それを引導して回るなり。
順欲者,以我而隨彼,取彼之歡心,使彼來隨我也。彼我相隨,以性求情,以情歸性,失去故物,仍還我家,是以隨道而得以元亨也。但隨道雖能元亨,而藥物有真假,火候有次序,動靜有時節,進退有早晚,毫髮之差,千里之失,是以隨之元亨,尤利於貞耳。
いわゆる対方の意願に順うとは、我に由りて先ず対方に随從し去り、彼の歓心を博取して、好くして彼をして反って我に随從せしめんが為なり。彼此相随い、「性」を以て「情」を求め、再び「情」を収めて「性」に帰し、従前失去せる旧物、仍ほ我家に還回す。だから《随》此の条の路は能く大いに亨通す。但し随道雖も能く大亨すれども、薬物は却って真有り偽有り、火候は先後次序有り、動静は一定の時節有り、進退は早有り晚有り。毫髪を差せば便ち千里を失う。だから《随》の大亨は、尤も一個の「貞」の字の上に落ちてはじめて利有りと算う。
貞者,正也。以正而隨,我以正感,彼以正應,彼我皆正,假情亦化為真情,假性亦化為真性。金木交併,木性愛金順義,金情戀木慈仁,剛柔一氣,性情相合,返樸歸醇,渾然天理,金丹凝結,寂然不動,感而遂通。感而遂通,寂然不動,始而有咎者,終而一無所咎矣。試明隨之是非吉凶。
「貞」とはすなわち正。正道を以て随從に去れば、我は正を以て感じ、対方は正を以て応じ、彼此倶に正なれば、偽の情も亦た真情と化成し、偽の性も亦た真性と化成す。金と木と交合併攏す――木性は金を愛して義に順従し、金情は木を戀して仁を懐抱す――剛と柔と一気に帰し、性と情と彼此相合し、質朴淳厚に返帰し、渾然一片の天理、金丹凝結成就して、寂然として動かずして一感すれば便ち通じ、一感すれば便ち通じて依舊として寂然動かず。開頭本来過有るも、末了に至れば便ち一点の過も亦た無し。下面に就きて来りて随從一事の是非吉凶を辨明せん。
初九,在隨之初,隨是隨非。隨之官者,既為其官,必有渝變,須當辨別可否,以正而隨,方能得吉。既知其正,於是出門交物,借世法而修道法,未有不成其功者。此謹慎於始之隨也。六二,柔而無知,隨其後起之陰,失其元初之陽,是繫於小子,失其丈夫矣。此柔而失真之隨也。
初九一爻。随從の開頭に処り、随い对えば是れ是、随い錯えば是れ非。爻辞に主とする所の職守変動有りと曰う。既に此の個の職守を担えば、則ち必定して変動有らん。因って必ず随うべき随うべからざるを辨別し、正道を以て随いて、はじめて吉を得べし。既に何者が正たるを辨明せれば、ここにおいて門を出でて外物と交接し、世間の人たるの法を借りて大道の法を修行すれば、成功せざる無し。此一爻に配するは開頭に於いて就きて謹慎なるの随從なり。六二一爻。柔弱にして無知、あの後来生じ起るの陰気に随從し、元初本有の陽気を失掉す。これがすなわち「小子に繫がり、丈夫を失う」。此一爻に配するは柔弱にして真機を失掉するの随從なり。
六三,性柔志剛,能隨他家之陽,不隨我家之陰,是繫於丈夫,失其小子,隨之有求必得矣。然柔者,多信道不篤,易於失守,尤必居於正,而不遷移,愈久愈力,方能得他家之陽,歸於我家。此柔而居正之隨也。
六三一爻。秉性柔和にして志向剛強、能く他家の陽に随從し、我家の陰に随從せず。これがすなわち「丈夫に繫がり、小子を失う」。此の如くして随從に去れば、求むる有れば則ち必ず得る所有り。ただ柔弱の人は多半道を信ずること篤実ならず、失守し易し。因って尤も必ず正に安居して遷移を肯んぜず、越久しければ越えて力を用いて、はじめて他家の陽を招回し・我家に帰し来る能う。此一爻に配するは柔順にして能く正に居るの随從なり。
九四,剛而能隨,隨之必有所獲,但以剛隨剛,剛之大過,雖正亦凶,幸其剛以柔用,有孚在道,明於是非邪正,知進知退,不致咎而自無咎。此剛而信道之隨也。九五,樂在其中,隱惡揚善,隨剛隨柔,執兩用中,無一行之不正,無一事之不當,從心所欲、不逾矩。此信其嘉德之隨也。
九四一爻。剛健にして能く随從す、一たび随從すれば必定して獲取有らん。但し剛を以て剛に随えば、剛得ること太過す、縦い正を守るも凶険。幸いにそれは剛にして能く柔和の方式を以て運用し、心に誠信を懐き・正道に合乎り、是非邪正を明辨し、進を知り退を知り、咎を招きに行かずして自然に咎無し。此一爻に配するは剛健にして大道を篤信するの随從なり。九五一爻。楽趣は就きて此の条の道上に在り、別人の悪を隱去し・別人の善を表揚し、剛に随うべきは則ち剛に随い、柔に随うべきは則ち柔に随い、两端を把握して其中を取用し、一様として行為正ならざる無く、一件として事情当ならざる無く、心に随って欲するも規矩を越出せず。此一爻に配するは美善の徳に誠信するの随從なり。
上六,愚而無知,使心用心,我不能先去隨他,即欲他來隨我,如拘係之,乃從維之,強求強合,妄想太過,猶如王用亨于西山,縱天寶在望,終在西而不歸東,究是落空事業,此懸虛不實之隨也。然則隨道之所以元亨者,利在於貞耳。以正而隨,將欲取之,必先與之,我能隨他,他即隨我,真陰真陽,兩而相合,恍惚中有象,杳冥內有精,先天之氣,自虛無中來,凝而為一黍之珠,從微而著,元而未有不亨,亨而未有不利,利貞之隨,咎於何有?既無其咎,大道可成矣。
上六一爻。愚昧にして無知、尽く心思の上に於いて做作し、自己肯んじて先ず対方に随從し去らず、却って対方の来たりて自己に随從せんを想う。猶人を把って拘執捆縛して起き・再び繩索を加えて維係するが如く、硬に求め硬に合し、妄想頭を過ぐる。又像周王の西山に於いて祭を設けるが如く、縦い天賜の宝物已に望に在るも、終究として西辺に留まりて東家に回る能わず、頭に到りて是れ一場の落空の事業なり。此一爻に配するは懸空にして実ならざるの随從なり。此に由りて見るべし。随道の能く大亨する所以は、好処正に一個の「貞」の字の上に落つ。正道を以て随從に行けば、拿取せんと要せば、必先ず給与せんを須す。我能く彼に随えば、彼は則ち我に随う。「真陰」と「真陽」と两下相合して、恍恍惚惚の中に象を現出し、杳杳冥冥の内に精を含蔵し、「先天之気」虚無の中より自ら来たりて、凝聚して一粒の黍米大の宝珠を成し、細微より顕著に至る。元始にして亨通せざる無く、亨通にして利あらざる無し。既に利にして且つ貞なるの随從は、どこが尚過有らんや。既に過無くんば、大道は成り得べし。
蠱卦第十八(上艮下巽)
蠱:元亨,利涉大川。先甲三日,後甲三日。初六,幹父之蠱,有子,考無咎。厲終吉。九二,幹母之蠱,不可貞。九三,幹父之蠱,小有悔,無大咎。六四,裕父之蠱,往見吝。
《蠱》卦の卦辞に曰く。大いに亨通、大河を渡越するに適宜。甲の日の前の三天に於り、甲の日の後の三天に於り。初六爻。父輩の遺留した弊壊の事を整治す、此の如き児子有れば、去世せる父は便ち過なし。雖も危厲有るも、最終吉利。九二爻。母輩の遺留した弊壊の事を整治す、一端に固執すべからず。九三爻。父輩の遺留した弊壊の事を整治す、稍く悔恨有るも、却って大きな過なし。六四爻。父輩の遺留した弊壊の事に対して一味に寛縦す、此の様子に下去れば便ち困吝に遇わん。
六五,幹父之蠱,用譽。上九,不事王侯,高尚其事。
六五爻辞に曰く。父輩の遺留した敗壞の事を整治し去るは、他人の美名と声譽を借重するに憑る。上九爻辞に曰く。王侯に侍奉せず・功名利禄を求図せず、而して自己の従事する所の道徳修養一事を一切より高しと看做す。
蠱者,敗壞之義。卦德上艮止、下巽入,有一陰入而陽止之象,故曰蠱。又巽在止中,止其陰而不上進,兼有飭蠱之義。此棄假歸真之卦,承上豫卦而來。
「蠱」の字の意思は敗壞・腐壞なり。卦徳に就きて言えば、《蠱》卦の上体は艮、艮の性情は「止」、下体は巽、巽の性情は「入」。合せて便ち一股の陰気侵入して来りて、而も陽気それを止住するの象有り。だから《蠱》と呼ばれる。再び言えば、巽は艮止の籠罩の中に処り、あの股の陰気を止住して更に上に侵蝕せしめず。因ってまた兼ねて「蠱を飭す」(敗壞を整治する)の含義有り。これは一卦の後天の偽物を丢開し・先天の真体に回帰するを講ずる卦で、上一卦《豫》を承接して来る。
豫者,順而動之,順動則順時、順理,非禮不動,防其動之有蠱也。人之生初,至善無惡,渾然天理,本無可修,亦無可證,既無所傷,亦無所飭,及至二八之年,陽極生陰,性相近而習相遠,如巽之一陰,生於二陽之下,陰氣進步,由是本來面目有蠱矣。
《豫》卦の講ずるは理に順って発動するなり。順って発動するは、すなわち時機に順応し・事理に順応し、礼に合せざる事は一概に為さず、一動すれば則ち敗壞を動き出さんとするを防備するが為なり。人剛かに出生するの時、純善にして悪無く、渾然として是れ一団の天理、本来修むべき何も無く、亦た証すべき何も無し。既に損傷を受けざれば、亦た整治を須要する何も無し。十六歳上下(「二八之年」)に及ぶを待って、陽気極処に盛んなれば便ち陰気を生出し、人の本性は原本相近いるも、習染は却って人をして越えて離れて越えて遠からしむ。正に巽卦あの一根の陰爻の、两根の陽爻の底下より生出して来るが如し。陰気一歩一歩進逼し、ここにおいて人の「本来の面目」(先天本真の性)は便ち敗壞有らん。
然天道未有陰而不能陽,人事未有壞而不能修者,此飭蠱之道,所由貴也。飭蠱之道,如艮之一陽,止於二陰之上。不為陰氣所傷,藉此一陽,歸根復命,此務本之學。君子務本,本立而道生,一念回機,如同本得此蠱中,而反得元亨者也。
然而天道の中に於いて、一段として重新に陽に転ずる能わざる陰気無く、人事の中に於いても、一件として敗壞せりと雖も修整する能わざる無し。「蠱を飭す」の道の可貴は正にここに在り。敗壞を整治するの弁法は、猶艮卦あの一根の陽爻の、穏々として两根の陰爻の上に停在りて、陰気に侵傷せられざるが如し。此の一点の残存する陽気に憑藉して「根に帰り命に復す」(生命の根本に回到し・本有の天命の性を復還す)するは、これがすなわち根本を抓むの学問なり。君子は専ら根本の上に工夫を下し、根本一たび立てば、大道自然に其の中より生出す。一個の念頭回転すれば、機関は便ち扭転して来る。就好比敗壞の中に於いて反って「元亨」(大いに通達す)を得たるが如し。
元亨不在於蠱,而在於飭蠱。飭蠱之道,不在於空寂無為,須要在大險大難中修持,龍潭虎穴裡作為,方能復我本來真體,煉成金剛不壞之物,是以蠱之元亨,又利涉大川也。大川至險而難涉,大川涉利而不傷,則其小險無險之處,不得而傷,又可知矣。但涉川之利,有作用、有火候,毫髮不容有差。
「元亨」は敗壞本身に在らずして、敗壞を整治する此の件事の上に在り。敗壞を整治するの道は、枯坐空寂・一味無為に在らずして、必ず極険極難の境地の裏に於いて修持し、龍潭虎穴の一般なる処境の中に於いて工夫を做して、はじめて我本有の真体を恢復し、金剛の一様に壞れざる物を錬成する能う。だから《蠱》卦は既に元亨と称し、また「大川を渉るに利し」(大河を渡るに宜し)と曰う。大河は最も険にして最も渡り難し。大河をも渡り過ぐる能くして傷害を受けざれば、則ちあの些かの小険乃至根本に険無きの地方は彼を傷つけ得ざるは、亦た推知し得べし。ただ河を渡るの利有る所以は、其中有りて具体の作用方法有り、「火候」(功を用うの時節と分寸)有り、一絲一毫を差すも行く可からず。
先甲三日,後甲三日,正作用火候之秘訣,人之陰陽,如月之盈虧,月白初三傍晚,陽光發現於西南庚地,在卦為震,所謂震納庚也。至於十五傍晚,現於東方甲地,在卦為乾,所謂乾納甲也。十三、十四、十五,此三日光輝方圓,即先甲三日;十六、十七、十八,此三日光輝已虧。即後甲三日。人之陽氣方純,亦先甲三日,陰氣已生,亦後甲三日,甲前是陽,甲後是陰,此先天後天陰陽之界。
卦辞裏の「甲に先だつ三日、甲に後るる三日」は、正に作用と火候との秘訣を講ずるなり。人身の陰陽消長は、月亮の圓缺の同じ。月亮は初三の傍晚より起りて、陽光は西南方庚の方位に出現し、卦に於いては震と為す。これがすなわち納甲法のいう所の「震は庚を納る」。十五の傍晚に至りて、月光は東方甲の方位に満現し、卦に於いては乾と為す。これがすなわち「乾は甲を納る」。十三・十四・十五此の三天は月光正しく圓、便ち是れ「甲に先だつ三日」。十六・十七・十八此の三天は月光已に虧缺を開始せり、便ち是れ「甲に後るる三日」。人身の陽気剛かに純全の時は、先甲三日に相当す。陰気已に萌生して之後は、後甲三日に相当す。甲の前は陽に属し、甲の後は陰に属す。これがすなわち「先天」(未だ後天の污染を受けざる本元)と「後天」(形質既に成り・陰気已に雑る)との两段陰陽の分界なり。
修道者,須知的事之蠱與不蠱,皆在此先甲後甲之際。當陽氣將純之時,防陰以保陽,及陰氣已生之後,退陰以復陽,防陰氣於未生之時,退陰氣於已生之後,則陽氣未益者可以保,已蠱者可以還,此去假歸真,務本之實學,貞而未有不元亨,元亨而未有不利者也。
道を修する人は必ず明白せんを須す。事情の敗壞するか敗壞せざるかは、皆先甲・後甲此の個の交界の処に在る。当に陽気将に純全ならんとする時、則ち陰気を防住して以て陽気を保住せんを須す。陰気已に生出して之後に及ぶを待っては、則ち「陰符を退け」(陰柔の功を用いて後天の陰気を退去す)て以て陽気を恢復せんを須す。陰気未だ生ぜざるの時に於いて先ずそれを防住し、陰気已に生ぜるの後に於いて再びそれを退去すれば、こく如くして陽気は還た虧損せざるは保全し得、已に敗壞せるは追回し得。これがすなわち後天の偽を去掉し・先天の真に回帰するの務本の実学なり。正を守る(「貞」)に大通せざる無く、大通すれば亦た吉利ならざる無し。
初六,在蠱之始,根本圓成,若防陰於未蠱之先。如干父之蠱,有子隨之,考宜有咎者,即可無咎。但飭蠱之道,非是空空無為,必須危厲戒懼,庶乎客氣不生,根本不傷,能謹於始,自吉於終。此防陰於未蠱之先者也。
初六此の一爻は敗壞剛かに起頭するの時候に処り、根本は還た圓満完具す。もし能く未だ敗壞せざるの先に於いて則ち陰気を防住せば、就如同父輩の留下した敗壞の事を整治し去りて一個の好兒子有りて接續して做すが如く、本来責咎を受くべき父輩は反って責咎を受けざるを得べし。但し敗壞を整治するの道は、並びて空空洞洞として為す所無きに非ず。必ず心に危懼を存み・時時戒備して、こく如くしてはじめて「客気」(後天外来の雑擾の気)は生起せず、根本はじめて損傷を受けず。開頭能く謹慎なれば、結局自然吉利。此一爻の講ずるは未だ敗壞せざるの先に於いて先ず陰気を防住するの工夫なり。
九二,剛以柔用,柔為本而剛為乾,不過於剛,不傷其柔,剛柔如一,通權達變,如干母之蠱不可貞。此飭蠱不過於剛者也。九三,以剛乾剛,剛之太過,如父剛子剛。幹父之蠱,未免小有所悔。然在飭蠱得正,雖有小悔,可無大咎耳。此傷蠱太過於剛者也。
九二此の一爻は剛強の力量を柔順の方式の上に用いるを把る。柔を以て根本と為し・剛を以て弁事の手段と為し、剛は頭を過ぐらず、亦た柔を傷せず、剛と柔と合して一体を成し、能く権に通じ変に達す。猶母輩あの辺の敗壞の事を整治し去るも一端に固執すべからざるが如し(爻辞のいう所の「貞すべからず」)。此一爻の講ずるは敗壞を整治して剛に過ぐるを失わざるなり。九三此の一爻は剛を用いて剛事を干るを用い、剛得ること太も頭を過ぎ、好比父は剛強・兒子も亦た剛強、此の如くして父輩の留下した敗壞を整治し去れば、難を免れずして些かの小さな懊悔有り。ただ彼の整治するは還た端正を算し、雖も小悔有るも、大きな災禍無きを得べし。此一爻の講ずるは敗壞を整治する時に於いて太も剛なるを失するなり。
六四,獨柔無剛,有蠱而不即飭,姑息養奸,如父有蠱而子裕之,以是往而修道,邊以自取羞吝耳。此飭蠱太過於柔者也。六五,柔順虛心,示己之無,稱人之有,如干父蠱而用譽也。以譽而用,借他家之剛明,以破我家之昏暗,有蠱即可歸於無蠱。此飭蠱善用其柔者也。
六四此の一爻はただ柔有りて剛無し、已に敗壞有るも却って即上に整治せず、一味に姑息して、反って禍患を養い大ならしむ。猶父輩に敗壞の事有るも兒子はただそれを寛縦するを知るが如し。此の如き態度を拿って道を修めば、ただ自ら羞辱悔恨を取る能うのみ。此一爻の講ずるは敗壞を整治する時に於いて太も柔なるを失するなり。六五此の一爻は柔順にして虚心、肯んじて自己の所有無きを承認し、肯んじて別人の確かに所長有るを称許す。猶父輩の敗壞を整治して美譽を借重するが如し。美譽を借重するの作用は、「他家」(彼方、真陽の所在する一辺を指す)の剛強明白を借りて、来たりて「我家」(此方、自己の一辺を指す)の昏昧黒暗を破らんが為なり。敗壞有るも亦た便ち敗壞無きと変じ得べし。此一爻の講ずるは敗壞を整治する時に於いて善く柔道を運用するなり。
上九,剛居於柔,無貪無求,根本不傷,無蠱而亦不飭,是以不事王侯,高尚其事也。不事王侯者,不圖名利之事也。高尚其事者,尚其道德之事也。尚道德而不圖名利,其居高、其事大,止於至善之地而不遷,俯視一切,萬物皆空,根本堅固,不待修為,而自無蠱。此無蠱而亦不飭者也。
上九此の一爻は剛爻を以て柔位に居り、貪むる無く・求むる無く、根本に於いて傷を受けず。既に敗壞無ければ、亦た整治を用いず。だから「王侯に事えず、其の事を高尚にす」と曰う。いわゆる王侯に事えずとは、すなわち功名利禄を求図し去らざるなり。いわゆる其の事を高尚にすとは、すなわち道徳修養此の件事を把って最高と看做すなり。道徳を崇尚して名利を図らざれば、其の居る所の位分は則ち高く、做す所の事情は則ち大なり。至善の境地の上に停在りて復た遷移せず、世間の一切を俯視し、万物は彼の眼裡に於いて皆是れ空なり。根本既に堅固なれば、刻意の修為を用いず、自然に便ち敗壞無し。此一爻の講ずるは本来敗壞無く、因って亦た整治を須とせざるの境界なり。
然則飭蠱務本之道,總以陰陽混合,止於至善為歸著。若未到至善之地,雖無大蠱,難免小蠱,故蠱之元亨,利於涉大川。大川涉而利,自有為而入無為,性命皆了,形神俱妙,與道合真,永為堅久不壞之物,飭蠱之道盡矣。
こく如く視れば、敗壞を整治し・返って根本を求むるの道理は、総帰して陰陽混合して一を為し・至善の地に停在る此の一点に落つんを要す。もし還た至善の地步に到らざれば、縦い大きな敗壞無くとも、亦た難を免れずして小さな敗壞有り。だから《蠱》卦は元亨を講じ、また大河を渡るに宜しと曰う。大河渡り過ぎてその利を得れば、則ち「有為」(意を著けて工夫を做すの段階)より転じて「無為」(自然に運化するの段階)に入り、性と命と倶に了結完畢し、形体と精神と一斉に神妙に帰し、大道と合して真と為り、永遠に堅固長久壞れざるの物と為る――敗壞を整治するの道は、此に至って則ち講じ尽くせり。
上坤下兌(臨卦第十九)
臨:元亨,利貞。至于八月有凶。初九,咸臨,貞吉。九二,咸臨,吉無不利。六三,甘臨,無攸利;既憂之,無咎。六四,至臨,無咎。六五,知臨,大君之宜,吉。上六,敦臨,吉,無咎。
《臨》卦の卦辞。大いに亨通、正を守るに宜し。八月に至って凶険有らん。初九爻辞。真情を以て感通して下に臨み、正を守れば則ち吉利。九二爻辞。真情を以て感通して下に臨み、吉利、一様として利あらざる無し。六三爻辞。甜言蜜语を用いて下に臨みに行けば、一様として利有るは無し。もし能く此の為に憂懼警醒せば、則ち過有ることなし。六四爻辞。親身に切近に下に臨み、過なし。六五爻辞。明智を以て下に臨みに行けば、此れ正に大君の応有の做法、吉利。上六爻辞。敦厚篤実を以て下に臨み、吉利、過なし。
臨者,監察也。卦德上坤順、下兌悅,悅而順理,順行其悅,故謂臨。此臨爐採藥之卦,承上隨卦而來。隨者,以震家而求兌家,以兌家而歸震家,所謂金來歸性初,乃得稱還丹。陽氣已復,從微而著,漸次增長,於是臨爐下功,扶陽抑陰,陽氣未有不長,陰氣未有不消者。此臨所以有元亨之道也。
「臨」は高く居りて下に臨み・監視察看するの意。卦徳に就きて言えば、上体は坤、坤の性情は順、下体は兌、兌の性情は悦。喜悦にしてまた理に合し、理に順って其の喜悦を施行す。だから《臨》と呼ばれる。これは「炉に臨み薬を采る」(丹炉に臨近し・先天真陽の気を采取する)を講ずる一卦で、上一卦《随》を承接して来る。《随》卦の講ずるは震此の一家を以て兌此の一家を求取し、再び兌此の一家を以て震此の一家に帰還し去るなり。亦たすなわち丹経のいう所の「金来りて性初に帰し、乃ち還丹と称するを得」――真金の気本性の初に回帰して、はじめて還丹と称呼するに配す。陽気既に回復せり、微弱より顕著に転じ、一層一層増長し、ここにおいて炉に臨みて動手して工夫を做し、陽気を扶助し・陰気を抑制すれば、陽気増長せざる無く、陰気消退せざる無し。これがすなわち《臨》卦の元亨の道有る所以の縁故なり。
元者,一陽初回。亨者,二陽增升。臨爐下手即採此二陽也。但二陽浸長,陰氣猶盛,陽氣猶弱,必須防危慮險,勿忘勿助,以和為體,以順為用,隨時而行,欲取於彼,不失於我,惟利於貞耳。
いわゆる「元」は、一陽剛かに返回し、即ち《復》卦の一陽来復のあの一歩なり。いわゆる「亨」は、二陽継続して升長し、即ち《臨》卦の二陽浸長の此の一歩なり。炉に臨みて動手するは、采る正に此の二陽の気なり。但し二陽雖も漸長に在るも、陰気還た盛んにして陽気還た弱し。必ず危を防ぎ険を慮り、忘るることなく亦た助長せず(「忘れず助けず」)、中和を以て本体と為し、柔順を以て運用と為し、時機に随って行事し、彼処より取り来たらんと欲して、又た自己此の辺の根本を失掉せざらんとす――だから唯だ正を守るのみ利有り。
貞者,正也。以正而臨,時未至而不強求,時已至而不錯過,火候爻銖不差,元氣不洩,生機不息,其行亨通,而無所阻矣。否則,不知藥物老嫩,不明功夫急緩,冒然下手,速欲成功,藥物不真,火候有差,其進銳者其退速,必至二陽順長者,未幾而二陽又消,臨反為觀。至于八月有凶,不貞即不利,不利則元而不亨,得而復失,大事去矣。故臨爐之道,必以和緩順時,不失火候為貴歟。
「貞」とはすなわち正。正道を以て臨み去れば、時機未だ到らざれば強求せず、時機到れば錯過せず、火候の分毫斤両皆差えず、元気は外に洩れず、生機は停息せず。此の様に行き去れば自然に亨通して、阻礙無し。否れば、「薬物」(采る所の先天真陽の気)の是れ老是れ嫩を懂れず、工夫の該急該緩を明白せず、冒冒失失に則ち動手し、一心に快を求め、薬物真ならず、火候誤有り、進むること越えて猛ければ退くること越えて速く、必定して本来順利に増長する二陽を、多久しからずして又た消退して回去するに弄り至らん、《臨》卦倒転して《観》卦と成る。いわゆる「八月に至って凶有り」とは、即ち正を守らざれば便ち利なく、利なければ則ち雖も「元」有るも「亨」する能わず、手に到りて了又た失掉し、大事は則ち了えり。だから炉に臨むの工夫は、必ず和緩・時機に順応し・火候を錯えざるを以て貴しと為さんを須す。
初九,在臨爐之始,陽氣方生,而能剛以處之,一念純真,有感即臨,以正而感,不正不感,正而未有不吉者。此謹慎於初之臨也。九二,陽氣浸長,剛柔如一,寂然不動,感而遂通,陽戀陰而陰戀陽,大小無傷,生機不息,自微而著,終必至於陽氣純全之地。此剛氣吉利之臨也。
初九此の一爻は炉に臨むの開頭に処り、陽気剛かに生出し、而して能く剛健の徳を以て自処し、一個の念頭純真雑無く、一たび感応有れば則ち臨み上がる。正道を以て感じ、正ならざれば則ち感じ去らず。端正なれば則ち吉利ならざる無し。此一爻の講ずるは開頭に於いて就きて謹慎なるの臨なり。九二此の一爻は、陽気漸漸増長し、剛と柔と渾然として一体を成し、寂然として動かずして一感すれば便ち通ず。陽は陰を戀し・陰は陽を戀し、大なる小なる倶に損傷を受けず、生機停まらず、微弱より顕著に由りて、最終に必ず陽気純全の地步に到達す。此一爻の講ずるは剛気当を得て・吉にして利有るの臨なり。
六三,柔而無知,口是心非,務外失內,是謂甘臨。臨至於甘,能言不能行,一無所利可知,既無所利,甘變為苦,憂所必有。然既悅之,自卑自下,虛己求人,則回頭是岸,有咎者亦可以無咎。此棄假就真之臨也。
六三此の一爻は柔弱にして見識無く、口裡の説くと心裡の想うと一致せず、ただ外面に於いて功を用いて裏面を丢了す。これを「甘臨」と呼ぶ、即ち甜き話を用いて臨みに行くなり。臨みて只剩甜言蜜語の地步に到れば、説き出す能くして做り到る能わず、一様の好処も有らず。これは明らかに擺れたるなり。既に一の利も無き所に在れば、甜きも亦た苦に変じ、憂愁は免るべからざるなり。しかるに彼既に能く此に対して心から悦服し、肯んじて自ら卑く自ら下にして、自己を放空して人に求教せば、則ち回頭は是れ岸、本来過有るも亦た過無きと変じ得べし。此一爻の講ずるは虚偽を丢開し・真実に帰就するの臨なり。
六四,柔而守正,煉己持心,以待初生之陽,是為至要之臨。臨於至要,大藥發現,自無當面錯過之咎。此乘時採藥之臨也。六五,柔順得中,以無求有,以虛求實,是謂能知其臨。能知其臨,則心君清泰,神明內照,彼到而我待之,陽來則陰受之,急緩止足,無不合宜,先天之氣,自虛無中結就矣。此混合陰陽之臨也。
六四此の一爻は柔順にして能く正を守り、先ず「己を錬り心を持す」(心性を鍛煉して把持し得住せしむ)の工夫を做して、以てあの初生の一点の陽気を等候す。これは最も緊要なる一歩の臨なり。此の個の緊要の処に臨み住めば、「大薬」(先天一気の凝成した丹母)一たび発見すれば、自然に当面錯過の過失を犯さず。此一爻の講ずるは時に乗じて薬を采るの臨なり。六五此の一爻は柔順にして中道を得、自己の「無」を以て彼処の「有」を求め、自己の「虚」を以て彼処の「実」を求む。これを能く怎様に臨むを知ると呼ぶ。能く怎様に臨むを知れば、則ち心君清寧安泰にして、神明内に向かって照察し、彼方到來して我が此の辺静静としてそれを等待す。陽気一たび来れば、陰は則ちそれを接納して来る。該急該緩・該停該足に恰当ならざる無く、「先天之気」(未だ形質に落ちざる本元の真気)自然に虚無の中より凝結成就す。此一爻の講ずるは陰陽を混合するの臨なり。
上六,在臨之終,自有為而入無為,返樸歸醇,至善無惡,不識不知,順帝之則,是謂敦臨。臨至於敦,則如如穩穩,有無不立,物我皆空,本來面目全現。此全始全終,有吉無咎之臨也。
上六此の一爻は《臨》卦の末尾に処り、有為の段階より無為の段階に進入し、質朴に返回し醇厚に帰し、純善にして悪無く、刻意に認識し去らず・刻意に知解し去らず、ただ天然の法則に順って行うのみ。正に《詩経・大雅・皇矣》のいう所の「識らず知らず、帝の則に順う」なり。これを「敦臨」と呼ぶ。臨みて敦厚の地步に至れば、則ち如如として穏々、「有」と「無」の両辺倶に立てず、外物と自我と一斉に空に帰し、「本来の面目」全部顕現す。此一爻の講ずるは始有り終有り・吉有り咎無きの臨なり。
觀於六爻,各有臨道,惟三爻甘臨不利,其餘五爻,皆隨時而行,進退急緩,俱有妙用,實為臨爐火候之指南。學者能於臨卦中鑽研出個消息,則金丹火候,可得其大半矣。
通観六爻、毎一爻皆各々其の臨の道理有り、ただ第三爻の甜言蜜語の臨のみ是れ利ならず。其の余の五爻は皆能く時機に随って行動し、進むも好し退くも好し・急ぐも好し緩めるも好し、皆妙用有り。実在に是れ炉に臨む火候の一份の指南なり。道を学ぶ人もし能く《臨》卦の裏より一点の消息を钻研し出せば、則ち金丹の火候は、就きて一大半を掌握し得べし。
上巽下坤(観卦第二十)
觀:盥而不薦,有孚顒若。初六,童觀,小人無咎,君子吝。六二,窺觀,利女貞。六三,觀我生,進退。六四,觀國之光,利用賓于王。九五,觀我生,君子無咎。上九,觀其生,君子無咎。
《観》卦の卦辞。猶祭祀の時に剛かに手を洗い過ぎて・未だ祭品を献上せざるのあの一刻、心中誠信にして外貌荘敬なるが如し。初六爻辞。児童の如き浅陋に観看す、小民の身上に於いては過と算せず、君子の身上に於いては則ち羞吝と成る。六二爻辞。門縫の裏より偸看す、此れは女子の正を守るに利有り。六三爻辞。自己の所為所作を省察し、拠って以て進むか還た退くかを決定す。六四爻辞。一国の光輝気象を観看す、君王の賓客を為すに宜し。九五爻辞。自己の所為所作を省察す、君子此の如くせば過なし。上九爻辞。他人の所為所作を観察す、君子此の如くせば過なし。
觀者,覺察戒慎之義。卦德上巽入、下坤順,順時而漸進,進之而不猛,有覺察之義,故謂觀。此神明覺察之卦,承上蠱卦而來。蠱者,巽在止中,止其陰氣不能入,所以飭蠱也。飭蠱之道,非神明覺察之功不能。覺察之功全在於後天中返先天,順道中行逆道。人當陰盛陽弱之時,如本卦四陰順生,二陽漸消,陽氣勢必為陰氣所消盡。
「観」は覚察・戒懼謹慎の意。卦徳に就きて言えば、上体は巽、巽の性情は入、下体は坤、坤の性情は順。時機に順って一層一層漸進し、進みて猛からず、覚察の義を含む。だから《観》と呼ばれる。これは「神明覚察」(精神明澈にして時時内省照察す)を講ずる一卦で、上一卦《蠱》を承接して来る。《蠱》卦は巽が艮止の籠罩の中に処りて、陰気を止住してそれを侵し入る能わざらしめたるなり。だから能く敗壞を整治す。而して敗壞を整治するの道は、非ずんば神明覚察の工夫有らざれば可ならず。覚察の工夫は、全て「後天中より先天に返る」――形質已に成れる後天の身心の裏より未だ污染を受けざる先天の本元に返回し、順行の造化の中に於いて逆修の路を走る――に在り。人は陰盛陽弱の時候に処れば、猶此の一卦の四根の陰爻が勢いに順って生長し・两根の陽爻が漸漸消退するが如く、陽気は勢い必ず陰気に消磨して乾浄せられん。
神明覺察者,逆此弱陽,而不為陰氣所傷也。但人氣質有拘,積習已深,陰氣不能遽然而順,是必用漸修之功,順其欲而徐緩導之,使其自消自化,自順自退耳。何則?真者來而假者自化,內能誠而客氣自無。陽漸進於上,陰順退於下,陽統陰而陰順陽,陰陽相應,內外如一,猶如祭神盥而不薦,有孚顒若也。
いわゆる神明覚察とは、則ち此の一点の微弱の陽気を逆って運び回し、それをして陰気に傷せられざらしむるなり。但し人は気質の拘限を受け、積習已に很く深し。陰気は一下子に順服する能わざるを肯んぜず。だから必ず漸修の工夫を用い、其の欲望に順って慢慢と引導して、それをして自ら消し・自ら化し、自ら順服し・自ら退去せしむ。何を為にや。真の一來すれば、偽は自然化去し、内心能く誠なれば、「客気」(後天外来の雑擾の気)自然消失す。陽は一層一層上に向かって進み、陰は順服して下に向かって退き、陽は陰を統摂して陰は陽に順從し、陰陽互いに呼応し、内外渾然として一体を成す。猶神を祭る時に手を洗い浄め了れども未だ祭品を献上せざるのあの一刻、心中に誠信有りて外貌粛穆恭敬なるが如し。
盥者,以水淨手也。薦者,以物供祭也。有孚者,誠信於中也。顒若者,溫恭於外也。凡祭神先淨手,誠信於中;後供物,溫恭於外。取其用誠漸感,以神交而不以形交,神觀之義。
「盥」は水を用いて双手を洗い浄むるなり、「薦」は祭品を拿って供奉するなり、「有孚」は内心誠実守信するなり、「顒若」は外表温和恭敬するなり。凡そ神を祭るは、先ず手を洗い、取る所は内心の誠信なり。後に物を供え、取る所は外表の温恭なり。看重する所は誠意を用いて慢慢と感通し、精神を以て交接して形迹を以て交接せざるを用いるに在り。これがすなわち「神観」(神を以て照察し、而も眼睛を用いて去看せず)の意思なり。
修真之道,如祭神也,先誠信於心,而後行持於身,神明默運,不疾而速,以誠而入,以柔而用,陰陽隔礙潛通,虛室生白,由神觀而至大觀,一粒黍珠懸於太虛之中,光輝朗耀,山河大地,如在掌上,一步一趨,皆合妙道,更何有陰不順,而陽不還哉?
真を修るの道は猶神を祭るが一般。先ず心裡に於いて誠信を立定し、然る後に身上に於いて切実に行持す。神明は暗中に於いて運転し、急促を見ずして自然迅速なり。誠意を以て進入し、柔道を以て運用すれば、陰陽の間の原本隔閡する地方暗暗として貫通し、空虚の心室の裡に自然に光明を生出す。亦たすなわち《荘子・人間世》のいう所の「虚室白を生ず」なり。「神観」より進みて「大観」に至れば、一粒の黍米大小の丹珠太虚の中に懸り、光輝朗照して、山河大地皆手掌の上に擺れるが如し。一挙一動妙道に合せざる無し。どこが尚陰気の順服せざる・陽気の返還せざるの事有らんや。
噫!神而明之,存乎其人,須要知的本卦順而巽進,進本於順之妙義,知之則神觀大觀,保真除假而長生;不知則小觀近觀,認假棄真而傷生,只在觀之真假上分別耳。
ああ。《周易・繫辞上》に曰く「神にしてこれを明らかにするは、其の人に存す」。能く神妙に領会して施行するや否やは、全て此の個の人の自己を視る。必ず此の一卦の「順にして巽進し」・進歩は順服の上に建立せらるるの妙義を懂れんを須す。懂れば、則ち是れ神観・大観、真を保住し・偽を除掉して長生を得。懂れざれば、則ち小観・近観と成り、偽を認めて真と作し・真を丢きて生機を戕害す。分別はただ観る所の是れ真是れ偽に在るのみ。
初六,昏暗至極,自暴自棄,甘居於下愚不移之地,此頑童無知之見。在衣食小人,亦無足咎,至於修道君子,所當觀大不觀小,而亦甘居於人下,適以羞吝而已。此至下之觀也。
初六此の一爻は昏昧極点に至り、自暴自棄して、甘んじて下愚移らざるの地位の上に待在るを心とす。これは頑劣児童の一般なる無知の見識なり。ただ衣食の為に奔忙する小民の身上に於いては、還た責怪するに値せず。道を修するの君子に至っては、本来応に其の大を観て其の小を観ざるべし。もし亦た甘んじて別人の下に落ちんか、則ちただ自ら羞辱を取るのみ。此一爻の講ずるは最も下等の観なり。
六二,柔而中正,處於小人之中,而不為小人所誘矣。然雖不為所誘,獨修一己之陰,不求他家之陽,所見不遠,如門內窺觀,不敢出門,在女子守貞則利。至於丈夫修德立業,則非所利矣。此不遠之觀也。
六二此の一爻は柔順にして中に居り正を得、雖も小人の中間に処るも小人に引誘せられず。然而雖も引誘を受けざるも、却ってただ自己の一身の陰を修めて、去りて「他家」(彼方)の陽を求めず、見る所遠からず。好比門の裏に於いて門縫より外に向かって偸看し、門を跨ぎ出で去るを敢えてせざるが如し。此れは女子の貞を守るに於いては利有る。大丈夫の徳を修め業を立つるに至っては、則ち利有るを談ずるに及ばず。此一爻の講ずるは見識遠からざるの観なり。
六三,在觀上下之際,是觀其我生之善否,而進退之也。觀我生者,果善則進,而再觀人之善,以增我之善不到處;觀我生者,不善則退,而不遽觀人之善,先去我之所不善。此知進退之觀也。
六三此の一爻は上下两体の交界の地方に処り、是れ自己の所為所作の好きか否かを省察し、拠って以て進むべきか還た退くべきかを決定す。自己を省察して、もし確実に是れ善なれば、則ち前に往きて進み、再び別人の善処を看て、以て我自己の善きて尚足らざるの地方を補足せん。自己を省察して、もし是れ善ならざれば、則ち退回り来て、別人の善を看るを急がず、先ず自己の身上の善ならざるの地方を去掉す。此一爻の講ずるは進退を懂れるの観なり。
六四,柔而得正,親近有道之士,是謂觀國之光。能觀國光,借彼之大觀,以濟我之小觀,小即能大,饒他為主我為賓,如用賓于王之利。此以小借大之觀也。
六四此の一爻は柔順にして正を得、能く道有るの士に親近す。これを「国の光を観る」と呼ぶ。能く一国の光輝気象を見れば、則ち人家の大観を借りて来て我が小観を補救し得、小なるも亦た能く大と変ず。妨げず彼をして主人を為さしめ・我は賓客を為せば、正に爻辞のいう所の君王の賓客を為すに宜しきが如し。此一爻の講ずるは小を以て大を借るの観なり。
九五,巽進於中正之位,剛柔相當,正大藥發生凝結命寶之候。觀我生者,正觀其我生之大藥,歸於中正耳。藥歸中正,藥即是火,火即是藥,一時辰內管丹成。但此一時之功,難得易失,必須深明火候大觀之君子,方無當面錯過之咎。此有為之大觀也。
九五此の一爻は巽順の徳を以て中正の位置上に進み、剛と柔と恰好相当す。正に「大薬」発生し・凝結して「命宝」(性命の根本の至宝)を成すの時候なり。いわゆる「我が生を観る」とは、正に我がここに生出したる大薬を省察し、それをして中正の上に帰せしむるなり。薬中正に帰せば、薬は則ち是れ火、火は則ち是れ薬、一個の時辰の内に於いて則ち能く丹を保して結成せしむ。但し此の一個の時辰の工夫は得難くして失い易し。必ず是れ火候を深明するの大観の君子にして、はじめて当面錯過の過失を犯さざるを得。此一爻の講ずるは有為段階の大観なり。
上九,在觀之終,是聖胎已結,可以剛居於柔,由大觀而又神觀,棄有為而入無為矣。觀其生者,正觀其陰氣潛生以退之耳。陰氣退盡,陽氣純全,真人出現,不為造化所拘,方是修道君子,成始成終,一無所咎之觀矣。此無為之神觀也。
上九此の一爻は《観》卦の末尾に処り、「聖胎」(内丹凝結の象)已に結成し、剛を以て柔に居り、大観より再び進みて神観に至り、有為を丢開して無為に進入する能う。いわゆる「其の生を観る」とは、正にあの陰気の暗処に於いて萌生するを察看し、以て及び時にそれを退掉せんとするなり。陰気退け尽くし、陽気純全なれば、「真人」(修成せる本真の体)顕現して、復た造化の拘束を受けず。これがはじめて道を修る君子の始有り終有り・一も過咎無きの観なり。此一爻の講ずるは無為段階の神観なり。
然則神觀大觀,覺察之道,修道者始終不可離者也。始而有為以大觀,終而無為以神觀,神觀大觀,兩而合一;藥物得真,火候有準,金丹焉得不成。觀之為用大矣哉。
こく如く説き来れば、神観と大観と此の一套の覚察工夫は、道を修る人の頭より尾まで離れ去る能わざるなり。開頭は有為段階に於いて大観を用い、末了は無為段階に於いて神観を用い、神観と大観との两者合して一個を成す。薬物采り得て真に、火候拿り得て准なれば、金丹成らざるの道理有らんや。観の作用は真に太も大なり。
上離下震(噬嗑卦第二十一)
噬嗑:亨,利用獄。初九,屨校滅趾,無咎。六二,噬膚,滅鼻,無咎。六三,噬臘肉,遇毒,小吝,無咎。九四,噬乾胏,得金矢,利艱貞,吉。六五,噬乾肉,得黃金,貞厲,無咎。上九,何校滅耳,凶。
《噬嗑》卦の卦辞。亨通、刑を用いて獄を断ずるに宜し。初九爻辞。脚上に木枷を戴き、脚趾を遮没す、過なし。六二爻辞。皮肉を咬み、深くして鼻子をも陥没す、過なし。六三爻辞。風干したる腊肉を咬み、毒物を吃到す、小さな悔吝有るも、過無し。九四爻辞。骨帯びたる干肉を咬み、金属の箭鏃を咬み出す、艱難の中に正を守るに宜し、吉利。六五爻辞。風干したる瘦肉を咬み、黄金を得、正を守りて心存に戒懼し、過なし。上九爻辞。肩上に木枷を扛ぎ、耳朵を遮没す、凶険。
噬者,食也。嗑者,合也。食物口合之義。卦體上下二陽象唇,三陰象齒,中一陽象口中有物。又卦德上離明、下震動,動而必明,明而後動,有不空於動之義,故謂噬嗑。此格物致知窮理之學,承上臨卦而來。臨者,二陽而臨四陰,所以進陽採藥也。但藥物有老嫩,火候有時刻,毫髮之差,千里之失,此窮理功夫不可缺也。
「噬」は即ち是れ喫す、「嗑」は即ち是れ合す。合せて是れ口中に物を含み・上下咬合するの意。卦体に就きて言えば、上下两头の陽爻は嘴唇に像り、当中の三根の陰爻は牙歯に像り、中間あの一根の陽爻は口裡に物を含むに像る。卦徳に就きて言えば、上体離は明と為り、下体震は動と為る。一動すれば則ち必定して明を帯び、明白して之後に動く。空動せず・妄動せざるの意を含む。だから《噬嗑》と呼ばれる。これは格物致知・事理を窮究するを講ずる一卦で、上一卦《臨》を承接して来る。《臨》卦は二陽四陰に臨み、講ずるは陽を進め薬を采るなり。但し薬物は老有り嫩有り、火候は厳格の時刻有り、毫髪を差せば便ち千里を失う。だから理を窮むる此の一層の工夫は決して缺くべからざるなり。
蓋了性了命之學,全在窮理上定優劣,明得一分,行得一分,明得十分,行得十分,或知性而不知命,或知命而不知性,或知有為而不知無為,或知無為而不知有為,或知藥物而不知火候,或知下手而不知結果,凡此皆是窮理不徹,而行持必不通,惟欲動之,須先明之,先明後動,動而無不如意,是以噬嗑用明中之動,有亨道也。明中之動,動必本明,其亨其利,有象治獄。天下難治之事,莫如獄,獄之真情不明,是者為非,非者為是,冒然用刑,殃及無辜,誤傷性命。
大凡性を了し命を了するの学問は、優劣全て理を窮むるの上に於いて高下を分つ。一分明白せば則ち一分做し得、十分明白せば則ち十分做し得。人ありて性を知りて命を知らず、人ありて命を知りて性を知らず。人ありて有為を知りて無為を知らず、人ありて無為を知りて有為を知らず。人ありて薬物を知りて火候を知らず、人ありて怎様に下手するを知りて怎様に收成するを知らず。凡そ此の種種は、皆是れ理を窮めて窮め透らざるなり。行持して起き来れば必定して処々通ぜず。動かんと要せば、則ち先ず明白せんを須す。先ず明白して而る後に動けば、一動して称心如意せざる無し。だから《噬嗑》卦の用いる所は「明中の動」(明白の基礎の上に於いて発動す)なり。因って亨通の道有り。明中の動は、動は必ず明を以て本と為す。其の亨・其の利は、獄を断ずるに取象す。天下最も弁み難きの事は獄訟に過ぐる莫し。案情の真相明ならずんば、对なるを錯りと成し、錯れるを对と成し、冒冒失失に則ち刑を用いて、無辜に殃及し、白白と人の性命を傷つく。
修道如治獄也。辨別真假是非,如治獄之審斷善惡,去假存真,而保性命,如治獄之賞善、罰惡,而伸冤屈。人能以治獄之道窮究其實理,則明於心而見於行,盡性至命,未有不亨不利者也。
道を修るは猶獄を断ずるが一様。真偽是非を辨別するは、好比獄を断ずる時に善悪を審断するなり。偽を去掉し・真を留住して以て性命を保全するは、好比獄を断ずる時に善を賞し悪を罰して以て冤屈を伸雪するなり。人もし能く獄を断ずるが如き態度を用いて其中の実理を窮究し去れば、則ち能く心裡に於いて明白し・行事の上に於いて体現し出し、性を尽し命に至りて、亨通せず・順利せざる無し。
初九,剛而不明,冒然前進,進必至咎,是以屢校滅趾,以戒其足,勿妄動。不變動於初,自不致咎於終。此行道先貴窮理也。
初九此の一爻は剛強にして事理を明白せず、冒冒失失に則ち前に往きて闖る。一進すれば必定して過失を招来す。だから爻辞は脚上に枷を戴き・脚趾を遮没するの象を用いて彼の脚を警戒し、彼をして妄動せざらしめんと叫ぶ。開頭乱動せざれば、末了自然に過失有るに至らず。此一爻の講ずるは道を行うは先ず理を窮むるを以て貴しと為すなり。
六二,柔而不剛,見理未真,僅得其膚廓,未得其肯綮,若急欲行之,不但無補於內,而且有傷於外,如噬膚滅鼻矣。鼻所以辨香臭,口食物而鼻先臭之。口不知味,雖鼻能辨,亦屬於無用。幸其柔而中正,見理未真,不敢行持,得以無咎。此窮理未入者也。
六二此の一爻は柔弱にして剛ならず、理を見ること還た真切ならず、ただ一層の表皮を摸り到るも、筋骨要害の処(「肯綮」)を摸り到らず。もし急ぎて実際に行かんと要せば、但だ内に向かって補益無きのみならず、反って外に向かって損傷有らん。猶皮肉を咬みて鼻子をも陥没するが如し。鼻子は香臭を辨別するを用いる、口物を喫せんと要せば、鼻先ずそれを聞く。口既に味道を嘗め出す能わざれば、縦い鼻子能く辨ずるも、亦た用無きに等し。幸いに彼は柔順にして中に居り正を得、理を見るに真ならざれば則ち敢えて贸然として行持せず。因って過無きを得るを以てす。此一爻の講ずるは理を窮むる還た門に入らざるなり。
六三,居二之上,識見稍高於二,較二更進一層,如噬臘肉也。肉在膚內,肉至於臘,須剛烈深入而後知味。三雖進益,猶未得真,似是而非,若有妄動,必反招凶,如噬臘肉遇毒矣。然志剛而性柔,不能成事,亦不敗事,雖有小吝,終得無咎。此窮理漸入者也。
六三此の一爻は六二の上に居り、識見は六二に比して略かに高く、六二に比して更に一層進めり。好比風干したる腊肉を咬むが如し。肉は皮の裏面に長じ、肉は又た干りて腊と成り、須く剛烈に深く咬み入りてはじめて味道を嘗め出し得べし。六三雖も長進有るも、還た真を得着せず、是に似て而も非なり。もし此の時に於いて妄動せんか、反って必定して凶を招かん。正に腊肉を咬みて却って毒を吃到するが如し。ただ彼心志剛にして性情柔、事を成す能わず、亦た事を敗る能わず。雖も小さな羞吝有るも、終究として過無きを得。此一爻の講ずるは理を窮むる漸漸門に入るなり。
九四,居於明體,在三之上,窮理較三更進一層,如噬乾胏矣。胏為貼骨之肉,絲膜相雜,骨肉相連,又至於乾,不易剝去,若不刻入深進,而不能見真。以象取之,得金矢;以理取之,利艱貞。艱貞之利,不能辨而強辨,深造自得,如用金矢,而無微不入,似是而非之假,可以一概剝去,而得其真。明明朗朗,明於動而動之,無有不吉者。此窮理見真者也。
九四此の一爻は離明の体中に居り、又た六三の上に在り、理を窮むるは六三に比して更に一層進めり。好比骨帯びたる干肉を咬むが如し。「胏」は骨頭に貼り着ける肉、絲絲の筋膜其の間に夾雑し、骨肉相連なり、又た干硬し、剥き下ろすに容易ならず。もし刻苦して深入せざれば、則ち真を見る能わず。象の上より取れば、是れ金属の箭鏃を咬み出すなり。理の上より取れば、是れ艱難の中に正を守るに宜しきなり。艱難に正を守るの利有る所以は、辨え清め難きの地方に於いて硬として辨え清めんと要し、深深と造就して自ら所得有るに在る。猶金箭鏃を用うるが一様、再び細微なるの地方も亦た鑽り入り得、あの些かの是に似て而も非なるの偽物は一概に剥掉し得、従って真を得着す。心裡明明朗朗として、明白して再び動けば、吉利ならざる無し。此一爻の講ずるは理を窮むる已に真処を見たるなり。
六五,居於四上,柔而虛中,窮理較四更進一層,如噬乾肉矣。窮理至四之金矢,是非邪正,判然分明,如干肉而噬之無味,無容再嚼矣。然雖無味,猶當溫故知新,於已明之理,更下一層功夫,已明而益求其明,必無一毫疑惑,而後篤行之。以象取之得黃金,以理取之為貞厲。黃金者,明而歸中。貞厲者,正而驚懼,虛中驚懼,實見得有些一番道理。明於內而驗於外,無行不合道,無事不得吉。此窮理絕無一疑者也。
六五此の一爻は九四の上に居り、柔順にして中間空虚、理を窮むるは九四に比して又た一層進めり。好比風干したる瘦肉を咬むが如し。理を窮めて九四金箭鏃あの一歩に至れば、是非邪正已に判然として分明、猶干肉咬み起きて已に味道無く、再び嚼むを用いざるが如し。然而雖も已に味無しと雖も、還た応に故を温めて新を知り、已に明白せる道理の上に再び一層の工夫を下し、明白して還た更に明白を求め、必ず一絲一毫の疑惑無くして、然る後に乃ち篤実に做し去るべし。象の上より取れば是れ黄金を得るなり、理の上より取れば是れ正を守りて戒懼すなり。いわゆる黄金とは、是れ明白にして中道に帰すなり。いわゆる貞厲とは、是れ端正にして心に驚懼を存すなり。中間空虚・心に驚懼を存して、はじめて真に其中の一番の道理を見出す能う。裏面明白して再び外面に到りて験証せば、行は道に合せざる無く、事は其の吉を得ざる無し。此一爻の講ずるは理を窮むる一点の疑惑も無きの地步に到るなり。
上九,剛而不明,不知辨別實理,誤用聰明,入於旁門,空空一世,終歸泯滅,是以何校滅耳也。目明而耳聰,不能明理,應滅其目,何至來耳。蓋以迷人不明大道者,皆由亂學亂問,聽信盲師,不辨真假,著空執相,每多招凶受害,其禍根在耳。出乎爾旨反乎爾,不明於始,受傷於終,理有可決。此絕不知窮理者也。
上九此の一爻は剛強にして明白せず、真実の道理を辨別するを懂れず、聡明を錯った地方に用い、傍門左道に走進し、空しく一生を過ぎ、最終に泯滅に帰す。だから爻辞に肩上に枷を扛ぎ・耳朵を遮没すと曰う。説くに依れば眼睛は明を主り・耳朵は聡を主る。既に理を明らかにする能わざれば、遮没すべきは応に眼睛なるべし、怎様にして反って耳朵の上に説き到るや。これは迷途の人の大道を明白せざる所以は、皆乱学乱問に由り、瞎眼の師父を聴信し、真偽を辨えず、或いは空に執着し・或いは相に執着し、往往として凶を招き害を受くるに因る。禍根は則ち耳朵の上に在り。《孟子・梁惠王下》の曽子の話を引く所に曰く「爾より出づる者は、爾に反る者なり」。開頭明白せざれば、末了則ち傷害を受くべし。これは道理の上に於いて断定し得べきなり。此一爻の講ずるは完全に理を窮むるを懂れざるなり。
然則窮理功夫,須要剝去一層又一層,直剝到道之骨髓處,無些子疑惑,方是真知灼見。若未到道之骨髓處,猶有隔礙,未云得真,不可妄動自招其禍。噫!縱識硃砂與黑鉛,不知火候也如閒,大都全借修持力,毫髮差殊不結丹。窮理工夫,豈小焉哉!
こく如く説き来れば、理を窮むるの工夫は必ず一層一層に剥き、一直に剥きて大道の骨髓の処に到り、一点の疑惑も無くして、はじめて真知灼見と算うべし。もし還た大道の骨髓の処に剥き到らざれば、中間還た障礙を隔て、則ち已に真を得着せりと説く能わず、妄動して自ら禍患を招くべからず。ああ。丹経の上に几句の話有り。縦い朱砂と黒鉛と此の両様の薬物を認得すれども、火候を懂れざれば還た是れ白搭。大抵全て修持の功力に憑り、一絲一毫を差せば則ち丹を結ぶ能わず。理を窮むる此の一層の工夫は、難ぞ還た小事と算さんや。
上艮下離(賁卦第二十二)
賁:亨。小利有攸往。初九,賁其趾,舍車而徒。六二,賁其須。九三,賁如濡如,永貞吉。六四,賁如皤如,白馬翰如;匪寇,婚媾。六五,賁于丘園,束帛戔戔,吝,終吉。上九,白賁無咎。
《賁》卦の卦辞。亨通、小さく往く所有れば則ち利有り。初九爻辞。其の脚趾を修飾し、車子を舎てて歩行す。六二爻辞。其の鬚鬢を修飾す。九三爻辞。文飾して潤沢光有り、長久に正を守れば則ち吉利。六四爻辞。文飾して一片の素白、白馬奔馳して来る。来るは強盗に非ず、婚配を求め来るなり。六五爻辞。山丘園圃の間に於いて文飾を受く、成束の帛少なくして可憐なり。雖も羞吝を顕るも、最終は還た吉利。上九爻辞。純白無色を以て文飾と為す、過なし。
賁者,文飭之義。卦德上艮止、下高明,明乎其所止,止於其所明,自明明德,而止於至善,故謂賁。此潛修密煉之卦,承上觀卦而來。觀者,隨時漸進,神明覺察之道,能覺能察,迴光返照,大智若愚,大巧若拙,止其明而明有養,明於止而止其所,明止相賁,明而不至於誤用,止而不落於空寂。止以明為體,明以止為用,明不傷而止得正,明之止之,未有不亨者也。
「賁」は文飾・修飭の意。卦徳に就きて言えば、上体は艮、艮の性情は止、下体は離、離の性情は明。自己の停まるべき何処かを明白し、又た自己の明白する所に停まり、自己の本有の明徳を彰明して至善の地に停まる。だから《賁》と呼ばれる。これは潜修密錬を講ずる一卦で、上一卦《観》を承接して来る。《観》卦の講ずるは時機に随って漸漸前進するの神明覚察の道なり。能く覚え能く察すれば、光を回して返照し、大智慧は看去れば愚鈍に像り、大霊巧は看去れば笨拙に像る。あの点の明を止住すれば、明は則ち涵養を得。明の処に於いて停住すれば、則ち停まりて其の所を得。明と止と互相に文飾して、明は便ち誤用するに至らず、止も亦た空寂に落ち込むに至らず。止は明を以て本体と為し、明は止を以て運用と為し、明は損傷を受けずして止は又た其の正を得。此の如く又た明にして又た止なれば、亨通せざる無し。
然雖明止相賁,尤必以止明為貴。止明,非空空無為,全不用明之謂,特明於內而不明於外,止於明而不止於不明,明在止中,不輕用明,自小之義也。自小,則戒慎恐懼,黜聰毀智,神明內守,虛靈不昧,一切外物不得而移之,其利居多。但太過於小,是止而不明,非本卦明止相合之象,如何得亨、得利乎?
然而雖も明と止と互相に文飾すると説くも、尤も還た「明を止む」(明を収め住めて外に露わさず)を以て貴しと為すを須す。いわゆる明を止むとは、並びて空空洞洞として為す所無く・完全に明を用いざるに非ず、而も是れ明は裏面に在りて外面に顕れず、明の処に停まりて明ならざるの処に停まらず。明は止の中に蔵れ、軽易に動用せず。これがすなわち自ら小に居るの意思なり。自ら小に居れば、則ち能く戒慎恐懼し、聡明を屏去し・機巧を毀棄し、神明内に向かって固守し、虚霊にして昏昧せず、一切の外物皆彼を動揺する能わず。好処は大半を占めたり。但しもし小に得ること太も頭を過ぐれば、則ちただ止みて明ならざると成り、本卦の明と止と相配するの象に合せず。あれは則ち又た怎様にして亨を得・怎様にして利を得べきや。
夫所謂止者,止於至善,寂然不動也。所謂明者,明其明德,感而遂通也。靜則無為,動則有作,明於止而止行明,得於心而驗於事,方謂真止,方謂真明。辭曰“利有攸往”者,所以驗此止、驗此明耳。
いわゆる「止」とは、是れ至善の地に停まり、寂然として動かず。いわゆる「明」とは、是れ自己の本有の明徳を彰明し、一感すれば便ち通ず。静の時は是れ無為、動の時は是れ有作。明の処に於いて停住して停住の中に於いて仍ほ其の明を行い、心裡得着して又た事の上に於いて験証し出す。これがはじめて真止と呼ばれ、はじめて真明と呼ばる。卦辞に「往く所有れば利し」と曰うは、正に実事を拿って来て此の個の止を検験し・此の個の明を検験せんと欲するなり。
凡人當無事之時,每心地明亮,知其所止,及至有事,即便昏迷,不知其所止矣。若能由明而止以養明,由止而明以通明,明止不拘,隨時而用,大火裡栽蓮,泥水中拖船,一靈妙有,法界圓通,明於止而止其所當止矣。
一般人は事無きの時、往往として心地明亮にして、自己の停まるべき何処かを知る。一たび事有らば、立刻に則ち昏迷して、停まるべき何処かを知らず。もし能く明に由りて止みて以て此の点の明を涵養し、止に由りて明にして以て此の点の明を貫通し、明と止と倶に一辺に拘り死せず、時機に随って運用し去れば、あれは便ち是れ烈火の裏に於いて蓮花を栽え・泥水の中に於いて船を拖く――最も行き難きの処も亦た行き過ぎ得、一点の霊性妙然として常に在り、整個の法界円融貫通す。これがはじめて明の処に於いて停住し、而且其の停まるべき所に停まり着きたると算う。
初九,剛而能明,自卑自下,抱道而居,如賁其趾也。賁趾之剛,不以外假而傷內真,是以舍其車,而甘於徒行。此剛而守正之賁也。六二,居於二陽之中,虛己求人,知其一己之明有限,眾人之明無窮,必有所須,而識見始能擴充,此柔而借剛之賁也。
初九此の一爻は剛強にして能く明白、自ら卑下に居り、大道を抱守して処る。猶其の脚趾を文飾するが如し。脚趾を文飾する此の種の剛は、肯んじて外面の偽物を拿って裏面の真物を傷害せず。だから寧ろ車子を舎掉して、甘んじて歩行す。此一爻の講ずるは剛強にして正を守るの賁なり。六二此の一爻は两根の陽爻の間に処り、肯んじて自己を放空して人に求教し、一人の明は有限・衆人の明は無窮なるを知り、必ず依傍する所有らんを須す(爻辞のいう所の「須」)、識見はじめて拡充し得べし。此一爻の講ずるは柔弱にして剛強を借重するの賁なり。
九三,剛明太過,只知用明,不知虛明,明必不能達遠,是以賁如濡如也。幸其剛而得正,永久不變其所守,雖不能賁於外,而能賁於內,亦致吉之道。此剛而用明之賁也。
九三此の一爻は剛と明と倶に太も頭を過ぎ、ただ明を使い出すを知りて、明を虚し下げるを知らず。此の如き明は必定して照らす遠からず。だから文飾して潤沢光有りて表面に止まると曰う。幸いに彼は剛にして正を得、長久にして自己の守る所を改変せず。雖も外に於いて文飾する能わざるも、却って能く内に於いて文飾す。亦た是れ吉利を招致するの路子なり。此一爻の講ずるは剛強にして一味に明を用うるの賁なり。
六四,居於上體,柔而不明,有應初陽,不恥下問,是以賁如皤如,白馬翰如,以不明而急求其明也。但以上求下,有挾貴自尊之嫌,多不誠信。幸其柔而得正,真心實意,出於自然,不是勉強,匪有寇傷,乃欲求其婚媾耳。此柔而求明之賁也。
六四此の一爻は上体に居り、柔弱にして明白せず、下面の初九陽爻と相応じ、肯んじて下に問うを恥とせず。だから文飾して一片の素白・白馬奔馳して来ると曰う。これは明白せざるに因って急に明白を求むるなり。但し上位を以て下位を求め去れば、難を免れずして尊貴の身份を挟みて発問し・心誠懇ならざるの嫌疑有り。幸いに彼は柔順にして正を得、真心実意は自然より出で、是れ勉強して做し出すに非ず、並びて強盗の来たりて加害する有らず、ただ婚配を求め得たらんと欲するのみ。此一爻の講ずるは柔弱にして明を求むるの賁なり。
六五,柔而不剛,執中無權,孤寂守靜,是以賁于丘園,束帛戔戔也。丘園者,曠遠無人之處,絕無人事可知,戔戔之帛,而又束之,絕無威儀可知。無人事、無威儀,過於澹泊,不近人情,乃修道者羞吝之事。然柔而得中,雖不明乎大道,亦不失為養靜之人,終得以吉全之。此柔而自得之賁也。
六五此の一爻は柔弱にして剛ならず、雖も中道を守着するも却って権変の本事無し、孤零零として清静を守着す。だから山丘園圃の間に於いて文飾を受け・成束の帛少なくして可憐なりと曰う。いわゆる丘園とは、是れ空曠偏遠にして人煙無きの地方、見るべし彼は絶対に人事往来無し。あの点の少なくして可憐なる帛は還た捆束して散用するを肯んぜず、見るべし彼は絶対に威儀排場無し。既に人事無く又た威儀無ければ、淡泊のこと太も頭を過ぎ、人情に近からず。此れは道を修る人に於いて是件の羞吝の事なり。然而彼は柔順にして中道を得、雖も大道を通暁する能わざるも、亦た一個の善く静を養うの人を失わず。最終に能く吉利を以て保全す。此一爻の講ずるは柔弱にして自ら其の楽を得るの賁なり。
上九,剛柔相當,自明明德,而止於至善,不賁而賁,賁至於無色,是謂白賁也。賁而至白,明止如一,氣質俱化,渾然天理,而無一毫人慾之咎矣。此剛柔混合之賁也。然則,賁之為道,必以明止相需為貴,明於止而止其所,止其明而明不昧,明之止之,隨時而用,潛修密煉之功是矣。
上九此の一爻は剛と柔と恰好相当し、自己の本有の明徳を彰明して至善の地に停まり、文飾し去らざるに反って真の文飾と成り、文飾して一点の顔色をも着けざるの地步に至る。これを「白賁」と呼ぶ。文飾して純白に至れば、明と止と合して一個を成し、気質完全に化尽し、渾然としてただ一団の天理、再び一絲一毫の人欲の過咎無し。此一爻の講ずるは剛柔混合の賁なり。こく如く説き来れば、賁の道理は必ず明と止と互相に為すを用うるを以て貴しと為す。明の処に於いて停住して停まりて其の所を得、あの点の明を止住して明は又た昏昧せず、又た明にして又た止、時機に随って運用す――潜修密錬の工夫は即ち是れ此れなり。
上艮下坤(剥卦第二十三)
剝:不利有攸往。初六,剝床以足,蔑。貞凶。六二,剝床以辨,蔑。貞凶。六三,剝之,無咎。六四,剝床以膚,凶。六五,貫魚以宮人寵,無不利。上九,碩果不食。君子得輿,小人剝廬。
《剥》卦の卦辞。往く所有るに宜からず。初六爻辞。牀榻を剥落し、先ず牀脚より剥き起す、正道は滅棄せられ、正を守るも凶険。六二爻辞。牀榻を剥落し、牀身と牀脚と相接するの処に剥き到る、正道は滅棄せられ、正を守るも凶険。六三爻辞。身剥落の中に処りて能く自守す、過なし。六四爻辞。牀榻を剥落し、牀上の人の肌膚に剥き到る、凶険。六五爻辞。一串の魚の如き領いて衆宮女を君王の寵幸を承受せしめに行く、一様として利あらざる無し。上九爻辞。一顆の大きな果子残りて喫い尽くされず。君子は此に因って車輿の承載を得、小人は却って房屋をも剥がれん。
剝者,消化也。卦德上艮止、下坤順,陰順生而陽止息,且卦體五陰而消一陽,陽氣將盡,陰氣將純。故謂剝。此後天陰消其陽之卦,承上噬嗑而來。噬嗑者,動而必明,所以先窮理也。窮理者,窮其陰陽消長之理耳。
「剥」は消蝕・化去の意。卦徳に就きて言えば、上体は艮、艮の性情は止、下体は坤、坤の性情は順。陰気は勢いに順って滋生して陽気は停息して前進せず。再び卦体に就きて言えば、五根の陰爻は一根の陽爻を消蝕し、陽気将に耗尽せんとし、陰気将に純全ならんとす。だから《剥》と呼ばれる。これは後天の陰気が陽気を消蝕するを講ずる一卦で、上一卦《噬嗑》を承接して来る。《噬嗑》の講ずるは一動すれば則ち明を帯びるなり。だから先ず理を窮めんを要す。いわゆる理を窮むるは、窮むる正に陰陽消長の道理なり。
人秉天地陰陽五行之氣而生身,有命而即有性,性命寓於一身之中矣。當人生之初,性命一家,先天後天混而為一,陰陽未分,邪正未判,圓成之象。及其成人氣足,先天陽極,交於後天,一陰潛生,日復一日,年復一年,陰氣漸盛,陽氣漸弱,不至消盡其陽而不止。如卦體五陰而剝一陽,當此之時,陽不勝陰,其所餘者,幾希之陽耳。
人は天地陰陽五行の気を禀受して此の個の身体を生成し、「命」有れば則ち同時に「性」有り、性と命と皆此の一身の中に寄托す。人剛かに出生するの時、性と命と還た是れ一家、先天と後天と混融して一を為し、陰陽未だ分れず、邪正未だ判別せず、是れ一派の圓満完具の気象なり。長じて人と成り・気血充足するに及ぶを待って、先天の陽極点に至れば便ち後天に交入し、一点の陰気暗暗として生出し、一天に一天を接し、一年に一年を接して、陰気漸漸強盛に、陽気漸漸衰弱に、陽を消耗して乾浄せざれば決して止まず。猶此の一卦の五根の陰爻が一根の陽爻を剥蝕するが如し。此の時に至りて、陽は陰に敵せず、剩る所は不過是れあの一星半点の陽のみ。
人若不知,而猶認假為真,有攸往而自恃其強,必至陽氣消盡,不利甚矣。至人於此,有抑陰扶陽之道,不使陰氣消陽於盡,即於此一點陽氣未盡處,順而止之,黜聰毀智,緊閉靈竅,以為返本還元之基。
人もし此の個の道理を明白せずして、還た偽を認めて真と作し、一味に往く所有りて自ら強壮を恃めば、必定して陽気消耗して殆ど尽きるに弄り至らん。あれは則ち太も利ならず。修養有るの至人はここに於いて別に一套の陰を抑え陽を扶くの弁法有り、陰気をして陽を消し尽くせしめず。則ち此の一点の陽気未だ耗え尽くさざるの地方に於いて、それに順ってそれを止住し、聡明を屏去し・機巧を毀棄し、霊竅を緊緊として閉鎖して、此を以て本に返り元に還るの根基と為す。
蓋不能使陽而不陰者,天地循環之氣機;而能於陰中保陽者,聖人逆運之功力。特以聖人有先天而天弗違之道,能以奪造化、轉生殺也。至於一切常人,順行造化,以陰剝陽,陽氣消盡化為純陰,不死豈能之乎?聖人於剝之一卦,直彖曰:“不利有攸往。”凡惜性命者,可以早悟矣。
大抵説き来れば、能く陽をして永遠に陰に転ぜざらしむる能わざるは、あれは天地循環の気機の然らしむる所なり。而して能く陰気の中に於いて陽気を保住するは、則ち是れ聖人の逆って運転するの功力なり。正に聖人に《周易・乾・文言》のいう所の「先天にして天も違わざる」の本事――天時の先に行いて天も彼に違背せず――有るに因る。だから能く造化を奪取し・生殺の権を扭転す。一般の常人に至っては、造化に順って走り、陰を以て陽を剥き、陽気消尽して純陰と化成す。死せざれば又た怎様にして可能ならんや。聖人は《剥》此の一卦に対して、直截に彖辞の裡に於いて「往く所有るに利あらず」と説く。凡そ性命を愛惜する人は、此処を読みて応に早く醒悟すべし。
初六,一陰潛生,自下消陽,如剝床以足也。床足之剝,其氣雖微,其害最大,蔑貞之凶,即於此始。此陰氣方進之剝也。六二,陰氣浸長,自下而上,如剝床以辨也。辨不是足,辨上是床,陰氣漸升,將上於床,與陽爭權,蔑貞之凶,不旋踵而至矣。此陰氣漸盛之剝也。
初六此の一爻は一点の陰気暗暗として生出し、最も下面より開始して陽気を消蝕す。猶牀を剥くは先ず牀脚より剥き起すが如し。牀脚剥がるれども、あの股の陰気雖も還た很く微弱なれども、害を為すは却って最大なり。正道を滅棄するの凶険は則ちここより頭を開く。此一爻の講ずるは陰気剛かに進逼するの剥なり。六二此の一爻は陰気漸漸増長し、下より上に向かって走る。猶牀を剥きて牀身と牀脚と相接するの地方に剥き到るが如し。「辨」は是れ牀脚に非ず、辨の上面は則ち是れ牀身。陰気一層一層上升して、将に牀に爬上して陽と権柄を争奪せんとす。正道を滅棄するの凶険は転眼に則ち到らん。此一爻の講ずるは陰気漸漸強盛の剥なり。
六三,在順體之上,不順陰而順陽,與陽相應,乃安靜之陰,雖在剝時可以無咎。此陰氣順止之剝也。六四,陰氣結聚,順升而上,六陽已剝去四陽,陰盛陽弱,上床用事,乃切近之災,如剝床以膚,凶之至矣。此陰氣用事之剝也。
六三此の一爻は坤順の体の最も上面に居り、陰に順從せずして陽に順從し、上九の陽爻と相呼応し、是れ一种の安静の陰、雖も身剥落の時に処るも、仍ほ過無きを得べし。此一爻の講ずるは陰気順服して止住するの剥なり。六四此の一爻は陰気聚結して団を成し、勢いに順って上に往きて升る。六爻の中已に四爻の陽を剥掉せり、陰盛陽弱にして、陰気牀に爬上して当権して主を為す。眉睫に迫るの災禍と成り、猶牀を剥きて人の肌膚に剥き到るが如し。凶極点に到れり。此一爻の講ずるは陰気当権して主を為すの剥なり。
六五,在止體之中,與陽相親,乃客氣中發現之真陰。真陰現象,不但不傷於陽,而且能統群陰,皆順其陽。以物取之,如一魚前領,而群魚貫後;以人取之,如後以眾宮人進寵於君王。知之者,借真陰以保真陽,則一真百真。剝者不剝,吉無不利,信有然者,此陰氣順陽無剝也。
六五此の一爻は艮止の体の中間に居り、上九の陽爻と相親近し、是れ「客気」(後天雑擾の気)の中に顕露出したる一点の「真陰」(先天本有にして能く真陽に順承するあの一分の陰)。真陰一たび顕現すれば、但だ陽を傷害せざるのみならず、反って能く衆陰を統領して一斉に陽に順從せしむ。物を拿って象を取れば、猶一条の魚前面に於いて領頭し・一群の魚貫串して後面に跟って随くが如し。人を拿って象を取れば、猶王后が衆宮女を帯いて君王の寵幸を承受せしめに往くが如し。此の一層を懂れる人は、「真陰」を借りて来て「真陽」(先天本元のあの一分の陽)を保住す。一処真なれば便ち処々皆は真、本来剥落せらるべきは反って剥落せられず。吉利にして一様として利あらざる無し――此の話確実に偽らず。此一爻の講ずるは陰気陽に順從して剥と為るを成さざるなり。
上九,在剝之終,諸陽剝去,尚留一陽,猶未剝盡,知之者順而止之,不為群陰所傷,如碩果不食也。果中有仁,存此一仁則生,失此一仁則死,生之死之,只在此一仁得失之間。但此一仁,庶民去之,君子存之。蓋君子知此一仁為生生化化之本,保之守之,不但陰氣不能傷,而且借陰以全陽,如得其輿,安而行之。至於一切小人,順其所欲,知進而不知退,消陽至盡,終歸大化,如剝其廬,自失所庇矣。此聖功能止其剝也。
上九此の一爻は《剥》卦の最後に処り、衆陽皆已に剥掉せられ、還た一根の陽爻を留着し、畢竟として未だ剥き尽くさず。此の一層を懂れる人はそれに順ってそれを止住し、衆陰に傷せられず。猶一顆の大きな果子残りて喫い尽くされざるが如し。果核の裏面に仁有り、此の一点の仁を保住すれば則ち活き、此の一点の仁を丢きれば則ち死す。是れ生是れ死は、ただ此の一点の仁の得失の間に在るのみ。しかるに此の一点の仁は、普通百姓はそれを丢き掉り、君子はそれを保存して下来る。君子此の一点の仁の是れ生生化化の根本なるを知るに因る。それを保ち守住すれば、但だ陰気傷害し得ざるのみならず、而且還た能く陰を借りて来て陽を成全す。猶車輿に載せられて、安々穏々として走り下去るが如し。あの些かの小人に至っては、自己の欲望に順って走り、ただ進を知りて退を知らず、陽を消耗して一点をも剩さざるに至り、最終に大化消散に帰す。猶房屋をも剥がれて、自己は遮蔽を失去するが如し。此一爻の講ずるは聖人の功夫能く剥落を止住するなり。
六交之剝,陰傷陽者凶,陰順陽者吉。修道者可不順而止之,以保其陽乎?順而止之,顛倒之間,剝即變復,人能知剝中藏復,於此一陽未盡處下手,則後天中返先天之道得矣。噫!此天機也,知之者能有幾人哉!
六爻の講ずる所の剥は、凡そ陽を傷害する陰は則ち凶、陽に順從する陰は則ち吉。道を修する人怎様にしてそれに順ってそれを止住し、以て自己の陽を保住せざるを得んや。それに順ってそれを止住すれば、一個の顛倒の間に於いて、《剥》は則ち《復》と変ず。人もし能く剥卦の中に復卦を蔵するを懂れば、此の一点の陽気未だ剥き尽くさざるの地方に於いて下手せば、則ち「後天中より先天に返る」の道は手に到り了せり。ああ。これは是れ天機なり。能く懂れるは又た幾人か有らん。
上坤下震(復卦第二十四)
復:亨。出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復。利有攸往。初九,不遠復,無祗悔,元吉。六二,休復,吉。六三,頻復,厲,無咎。六四,中行獨復。六五,敦復,無悔。上六,迷復,凶;有災眚。用行師,終有大敗;以其國君凶,至于十年不克征。
《復》卦の卦辞。亨通。出去し進入するも病害無く、同類の朋友前来するも過なし。往返循環して其の本来の路を走り、七天に就きて一次返回す。往く所有るに宜し。初九爻辞。走ること遠からずして則ち返回り来る、大きな悔恨有るに至らず、大いに吉利。六二爻辞。美好に返回り来る、吉利。六三爻辞。屢々返回して又た屢々失去す、雖も危厲有るも、過無し。六四爻辞。衆陰の中間を走りて独自返回り来る。六五爻辞。敦厚篤実に返回り来る、悔恨無し。上六爻辞。迷失して返回るを知らず、凶険、災禍有らん。此の如き人を用いて兵を帯びて打仗せしむれば、終究に大いに敗れ、其の国君をも連れて凶に遭い、以至十年の久しきに至るも倶に出征する能わず。
復者,還返之義。卦德上坤順、下震動,動作順心,天運轉,人事通,又卦體一陽動於群陰之下,陽氣始回,二者均有復道,故謂復。此先天陰中復陽之卦,承上賁卦而來。賁者,明而止所以養明運火,採取先天真陽耳。採取真陽,乃陰中返陽,重整家事,別立鼎爐之道,能以奪造化、了生死,復而未有不亨者也。
「復」は回還・返帰の意。卦徳に就きて言えば、上体は坤、坤の性情は順、下体は震、震の性情は動。動き起きて処々心に順い、天時運転し、人事通達す。再び卦体に就きて言えば、一根の陽爻衆陰の下に於いて震動を開始し、陽気回還を開始す。此の両方に倶に「復」の道理を含む。だから《復》と呼ばれる。これは先天真陽陰中に於いて回復するを講ずる一卦で、上一卦《賁》を承接して来る。《賁》卦は明にして能く止まり、用いて此の点の明を涵養し・火候を運行して、以て先天真陽を采取す。真陽を采取するは、即ち陰中に於いて陽を返り来らしめ、重新に家業を整頓し・別に鼎炉を立つるの弁法なり。能く造化を奪取し・生死を了却し、一復して亨通せざる無し。
復道雖亨,但人認假棄真,多不知其復耳。若知其復,則回頭是岸,道心發現,人心自退,可以出入乎陰陽之中,而不為陰陽所疾傷矣。然雖無疾傷,須要復之知時,時未至而不可強求,時已至而不可錯過,方能得真。
復の道路雖も亨通すれども、但し人は偽を認め真を棄て、多半復せんと要するを知らず。もし復せんと要するを懂れば、あれは則ち回頭は是れ岸。「道心」(先天本元にして天理に合するあの一点の真心)顕現して、「人心」(後天情識欲念の心)自然退去し、ここにおいて陰陽の中に於いて出出入入して陰陽に病傷せられざるを得べし。然而雖も病傷を受けずと説くも、還た須く復の時機を懂れんを須す。時機未だ到らざれば強求すべからず、時機到れば錯過すべからず。こく如くしてはじめて真を得着する能う。
夫人當初生之時,至善無惡,及交後天,陰傷其陽,本來天真有失矣。雖是失去,未嘗全無,猶有一息生機在內,間或發現為私慾所瞞,為世事所混,當面不識耳。復之,必乘此生機發現之時,下手急採,方能為我所有。若生機未現,空寂守靜,將何而復乎?是以朋來而復,方能無咎。朋者,二月相合,其一為陽,其一為陰,陰極陽生,陰中有陽,是謂朋來。陰不極,陽不生,而朋不來。若朋不來,陰陽不交,生氣自何而有?故必朋來而生機方發,生機發而不先不後,收入造化爐中,片刻之間,災變為福,刑化為德,先因真陽失而有咎者,今則真陽還而可以無咎矣。
人は剛かに出生するの時に於いて、純善にして悪無し。後天に交入するに及ぶを待って、陰気は陽気を傷つけ、本有の天真は便ち虧失有らん。雖も虧失せりと説くも、却って未だ嘗て全然無きに非ず、還た一息の生機裏面に留在り、偶々顕露出すること有るも、ただ私欲に蒙蔽せられ・世事に攪混せられ、当面碰上するも認め出だす能わざるのみ。それを復せんと要せば、必ず此の生機顕露するの当口に趁りて赶紧に下手して采取して、はじめて真に我が所有に帰すことを得。もし生機還た顕露せざれば、只管枯坐して静を守り、何を以て復せんとするか。だから卦辞に「朋來」せんを須してはじめて過なしと曰う。いわゆる「朋」とは、是れ两個の月字相合し、一個は陽に属し・一個は陰に属す。陰極処に至れば陽は則ち生出し、陰中に陽を含着す。これを朋來と呼ぶ。陰極処に至らざれば、陽は則ち生ぜず、朋も亦た則ち來らず。朋もし來らざれば、陰陽交わらず、生気は何処より來るか。だから必ず朋來を得て、生機はじめて発動す。生機一たび発動すれば、早き一步せず亦た晚き一步せず、それを収めて造化炉の中に入れ、片刻の間に於いて災は則ち福と変じ、刑は則ち徳と化成す。先前真陽失去に因って過咎有るも、如今真陽返還せれば、亦た就きて過咎無きを得べし。
但復之雖能無咎,其道有功力,有次序,漸以復之,不能速復,即復之也不能堅固,必先煉己持心,待時而動,是以反復其道,七日來復也。反覆者,顛倒道運之義。七日者,陽火之數。人之性情和氣,陽火也,為真;人之客氣躁性,陰火也,為假。真者全生,假者傷生。反復其道者。先返此假火復歸於真火,七日而陽火生,陰火滅,虛極靜篤,黑中有白,先天之氣,自虛無中現象,漸採漸煉,還丹可結。但是道也,非知之艱,行之維艱,知之尤貴於行之。若知而不行,猶如無知。有攸往而下手速修,必自一陽而漸復,至於六陽純全,其復之亨利,為何如耶。
但し復雖も能く過咎無きを得べしと雖も、此の条の路は却って功力の深淺有り・次序の先後有り。ただ一層一層に復する能くして、一下子就に復する能わず。就かり一下子に復するも、亦た能く堅固ならず。必ず先ず「己を錬り心を持す」の工夫を做して、時機到るを待って再び動かんを須す。だから卦辞に「其の道に反復す、七日にして來復す」と曰う。「反復」は順行の造化を把って顛倒して運転するの意。「七日」は陽火の数目なり。人の性情平和の気は陽火に属し、是れ真。人の客気躁性は陰火に属し、是れ偽。真は能く生命を保全し、偽は生命を戕害せん。いわゆる其の道に反復すとは、則ち先ず此の偽火を返り来らしめ・真火の上に帰せしむるなり。七天之後陽火生じ・陰火滅し、虚は極処に至り・静は篤処に至り、黒暗の中に一線の白光を透出し、「先天之気」虚無の裏より形象を現出し、慢慢として采り・慢慢として錬れば、還丹は就きて結成し得べし。ただ是れ此の条の路は、難きは知るに在らずして、難きは做し去るに在り。知りて尤も実際に行うを貴ぶ。もしただ知るのみにして做し去らざれば、知らざると一様なり。往く所有りて動手して快く修めば、必定して一陽より漸々として復し、一直に復して六陽純全に至り、あの時に復の亨通と利益とは、該に何等の光景ぞ。
初九,在復之初,真陽未失,稍有客氣潛入而即退之;至容且易,是不遠之復。不遠復,而人心不生,道心常存,自無祗悔,能謹於始,自吉於終,此元陽不失之復也。
初九此の一爻は《復》卦の開頭に処り、真陽還た失去せず、稍々一点の客気偷偷侵入する有れば則ち马上にそれを退掉す。做し起きて極めて従容にして極めて容易なり。これがすなわち走ること遠からずして則ち返回す。走ること遠からずして則ち返回れば、則ち「人心」(後天情識欲念の心)生ぜず、「道心」(先天天理に合するあの点の真心)常に在り。自然に大きな悔恨有らざらん。開頭能く謹慎なれば、結局自然吉利。此一爻の講ずるは元陽曾て失去せざるの復なり。
六二,知識有限,本不能明善復初者,然柔順得正,見賢思齊,與有道之君子同處,借彼之明智,以破己之昏暗,不知復者亦知復,不能復者亦能復,是謂休善之復。此柔而借剛之復也。
六二此の一爻は見識有限にして、本来は能く善を明かにし初に復する能わざるなり。然而彼は柔順にして正を得、賢人を見れば則ち彼に向かって斉しくならんと想い、道有るの君子と相処し、人家の明智を借りて来て自己の昏暗を破る。ここにおいて本来復を懂れざるも亦た復を懂れ、本来復する能わざるも亦た復する能うに至る。これを美善の復と呼ぶ。此一爻の講ずるは柔弱にして剛強を借重するの復なり。
六三,復善不固,旋復而旋失,是謂頻復。然性柔志剛,一心於復,危厲自處。人一能之,己百之,人十能之,已千之,雖愚必明,雖柔必強,始而有咎者,終而可以無咎。此困而學,勉強而行之復也。
六三此の一爻は善を復すること牢固ならず、剛かに復り来るも又た马上に失掉す。これを屢復屢失と呼ぶ。然而彼は性情雖も柔なれども心志剛強にして、一心ただ復の上に在り、時時危厲を以て自処す。《中庸》に曰く。別人一遍能く行うは、自己は一百遍の工夫を下し、別人十遍能く行うは、自己は一千遍の工夫を下す。こく如くすれば再び愚鈍なるも必ず明白に変じ、再び柔弱なるも必ず剛強に変ず。開頭過咎有るも、末了に於いて過咎無きを得べし。此一爻の講ずるは困に遇いて学び・勉強して行うの復なり。
六四,柔而得正,居於群小之中,而不為群小所惑,借世法而修道法,獨能明善復初者,此學而知,利而行之復也。六五,柔順得中,循規蹈矩,素位而行,不願乎外,是謂敦厚。其復者,復於敦厚,不思而得,不勉而中,出於性成,既無所失,亦無可復,不致悔而自無悔,此生而知,安而行之復也。
六四此の一爻は柔順にして正を得、身一群の小人の中に処りて彼らに迷惑せられず、世間法を借りて道法を修め、独り能く善を明かにし初に復す。此一爻の講ずるは学びて而る後に知り・其の利有るを見て行うの復なり。六五此の一爻は柔順にして中道を得、規に循い矩に蹈み、自己の処する所の位分に安んじて做し、分外の妄想を生ぜず。これを敦厚と呼ぶ。其の復は、是れ敦厚の上に復るなり。思索を用いずして得、勉強を用いずして中に合し、本性より出でて自然に成る。既に失去する何も無ければ、亦た復すべき何も無く、悔恨を招來するを用いずして自然に悔無し。此一爻の講ずるは生まれて之を知り・安んじて行うの復なり。
上六,在復之終,順其後天之陰,不知先天之陽,人心用事,道心全味,是迷於復,而終不知回頭者,招凶致災,勢所必有,如此之人,途而不悟,外而爭勝好強,內而心神大傷,如用行師,終有大敗,禍及國君。雖十年之久,必有克徵,終亦必亡而已。此始終不知有復也。
上六此の一爻は《復》卦の末尾に処り、後天の陰に順って走り、先天の陽有るを知らず、「人心」当権して主を為し、「道心」完全に昏昧せり。これは迷失して返回るを知らず・始終として肯んじて回頭せざるの人なり。凶を招き災を致すは、是れ勢いの必ず至る所なり。此の如き人は、一路迷い下去りて覚悟せず、外に於いて強を争い勝を好み、内心に於いて神大いに傷つく。猶兵を帯びて打仗して終究に大いに敗れ、禍患は還た国君に牽連するが如し。縦い十年の久しきを過ぐるも、亦た仍ほ出征して勝を取る能わず、最後に亦不過滅亡に帰するのみ。此一爻の講ずるは自始至終復此の回事有るを知らざるなり。
復有天時之復,有人事之復。天時之復,真陽發現,出於自然;人事之復,真陽堅固,出於功力。天時人事,兩而合一,方能有濟。六爻除上爻迷復,其餘五爻,皆有復道,或安而行,或利而行,或勉強而行。總以復於元初本來面目為極功。
復は天時の復有り、亦た人事の復有り。天時の復は、是れ真陽自己顕現し、自然より出ず。人事の復は、是れ真陽を守り得て堅固、功力より出ず。天時と人事の两者合して一個を成して、はじめて真に事を成し得べし。六爻の中上爻を除きて是れ迷失して復せざる、其の余の五爻は皆各々其の復の門路有り。或いは安んじて行い、或いは其の利有るを見て行い、或いは勉強して行う。総帰して最初の「本来の面目」に復るを以て最高の功夫と為す。
上乾下震(无妄卦第二十五)
無妄:元亨,利貞。其匪正,有眚。不利有攸往。初九,無妄,往,吉。六二,不耕獲,不菑畬,則利有攸往。六三,無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。九四,可貞,無咎。九五,無妄之疾,勿藥有喜。上九,無妄,行有眚,無攸利。
《无妄》卦の卦辞。大いに亨通、正を守るに宜し。もし行う所正ならざれば、則ち災殃有り、往く所有るに宜からず。初九爻辞。虚妄を存せず、前往すれば則ち吉利。六二爻辞。収穫を求めんが為に耕さず、熟田を求めんが為に荒を開かず、此の如くすれば便ち往く所有るに宜し。六三爻辞。虚妄を存せずして仍ほ災禍に遭う――人の牛を彼処に拴ぎ着け置き、過路の人は牛を牽き去りて、同邑の人は反って牽連の災を受く。九四爻辞。正を守る可し、過なし。九五爻辞。虚妄を存せずして却って病を生ず、薬を喫せずとも亦た自ら愈えて喜有らん。上九爻辞。虚妄を存せざるも、但し此の時再び行動すれば則ち災殃有り、一様として利有る無し。
無妄者,誠一不二之義。卦德上乾健、下震動,動而剛健,志之所在,外即行之,故謂無妄。此勇猛進陽之卦,承上剝卦而來。剝者,順其所欲,陰剝其陽也。剝陽皆由不知進陽,而為陰所剝。若知進陽,一念純真,十二時中,無有間斷,以性命為一大事,外物不得而屈,漸可至於真實無妄,渾然天理地位,是無妄而即有元亨之道也。
「无妄」は誠一不二・半点の虚妄無きの意。卦徳に就きて言えば、上体は乾、乾の性情は健、下体は震、震の性情は動。一動すれば則ち剛健にして、心志何れの処かを指向すれば、外面立刻に做し出さる。だから《无妄》と呼ばれる。これは勇猛に陽を進むるを講ずる一卦で、上一卦《剥》を承接して来る。《剥》卦は自己の欲望に順って走り、陰気をして陽気を剥蝕せしむるなり。陽の剥がるる所以は、皆「陽火を進め」(剛陽の功を用いて陽気を増進す)を懂れざるに因りて陰に剥がるるなり。もし陽を進むるを懂れば、一個の念頭純真雑無く、一天十二個の時辰間断無く、性命を把って頭等の大事と為し、外物彼を動揺する能わざれば、則ち漸々として真実無妄・渾然一団の天理の地位に到達し得べし。これがすなわち无妄本身便ち元亨の道を含有するなり。
卦之動在內,志於道也,志於道而生機已振,元氣即復。健在外,篤於行也,篤於行而天德可修,元氣能通,能復能通,所以元而亨。然無妄之道,雖能元亨,尤必利於動之正、健之正。動之正,則元氣不傷。健之正,則元氣增長。以正無妄,道心常存,人心永滅,復見本來面目,如如穩穩,不為萬物所移矣。若無妄匪正,則動而失時,健而不當,本欲無妄,反致有妄,是謂災眚,不利有攸往矣。
此一卦の「動」は内卦に在り、是れ道に志を立つるなり。道に志を立てれば、生機已に振作し、元気之に随って回復す。「健」は外卦に在り、是れ篤実に行い去るなり。篤実に行い去れば、天徳は便ち修成し得、元気は便ち貫通し得。能く回復し又た能く貫通すれば、だから既に「元」にして又た「亨」なり。然而无妄の道雖も能く元亨すれども、尤も還た動くこと正に・健なること正ならんを須してはじめて利有り。動くこと正なれば、元気は則ち損傷を受けず。健なること正なれば、元気は則ち不断に増長す。正道を以て无妄に去れば、則ち「道心」常に在り、「人心」永く滅し、重新に「本来の面目」を見るに至り、如如として穏々、万物に動揺せられず。もし无妄にして行う所正ならざれば、則ち動くこと時に合せず・健なること恰当ならず、本想虚妄無からんとするも反って虚妄を生出す。これを災殃と呼び、亦た則ち往く所有るに宜からず。
夫進陽者,以其有妄而期必於無妄。匪正之無妄,人心用事,順其所欲而行。藥物不真,火候失度,何能完成大道乎!故無妄本有元亨之道。尤利於正,方是真實無妄矣。
いわゆる陽を進むるは、是れ原本還た虚妄有るに因りて、はじめて必ず无妄に到達せんと期望す。あの種の正ならざるの无妄は、是れ「人心」当権して主を為し、自己の欲望に順って行い去るなり。薬物真ならず、火候度を失えば、怎様にして大道を完成する能わんや。だから无妄本来便ち元亨の道を含有すれども、尤も正を守るを以て利と為すを須す。あれがはじめて真実の无妄なり。
初九,在無妄之始,剛而得正,是動而無敢有妄者。人事吉凶,全在起念之初,起念正則行正,起念邪則行邪,能無妄於內,自無妄於外,以是往而修道,未有不得其吉者。此能謹於初之無妄也。
初九此の一爻は《无妄》卦の開頭に処り、剛強にして正を得、是れ一動すれば則ち敢えて半点の虚妄有らざるの人なり。人事の吉凶は全て念を起こすあの一刻に在り。念頭起きて正なれば、行事は則ち正。念頭起きて邪なれば、行事は則ち邪。能く裏面に於いて虚妄無ければ、外面自然虚妄無し。此の如き態度を拿って道を修めば、吉利を得ざる無し。此一爻の講ずるは開頭に於いて就きて能く謹慎なるの无妄なり。
六二,柔而不剛,宜靜不宜動,如不耕穫,不菑畬也。耕穫菑畬,須有力有種者為之,柔而不剛,無力無種,何敢妄為?然柔而中正,虛心自處,能借他家之陽,以濟我家之陰。虛心即能實腹,以是用柔,則利有攸往,有妄者可以無妄。此以柔順剛之無妄也。
六二此の一爻は柔弱にして剛ならず、静に宜しくして動に宜からず。だから収穫の為に耕さず・熟田の為に墾かずと曰う。耕種開荒は、気力有り・種子有るの人を得てはじめて做り来る能う。柔弱にして剛ならざれば、既に気力無く又た種子無し。どこが敢えて乱動せんや。然而彼は柔順にして中に居り正を得、心を虚にして自処し、能く「他家」(彼方)の陽を借りて来て「我家」(此方)の陰を補済す。心一たび虚なれば、腹は則ち能く実なり――「虚心実腹」正に丹道虚心を以て体と為し・実腹を以て用と為すの常語なり。此の如くして柔を用いれば、便ち往く所有るに宜し。本来虚妄有るは能く无妄と変じ得べし。此一爻の講ずるは柔順を以て剛に承くるの无妄なり。
六三,智小而謀大,妄冀天寶,非徒無益,而又害之,是無妄之災也。無妄而致災,隨心造作,固執不通,如或繫之牛,行人之得,邑人之災,未取於彼,先失其己,縱真陽在望,未為我有。此順其所欲之無妄也。
六三此の一爻は智慧小にして図謀大、痴心妄想して天賜の至宝を望む。但だ益処無きのみならず、反って其の害を受く。これがすなわち虚妄を存せずして仍ほ災禍に遭うなり。无妄にして災禍を招来するは、是れ心意に任せて胡乱に造作し・固執して通達せざるに由る。正に爻辞のいう所の人の牛を彼処に拴ぎ着け置き・過路の人は牛を牽き去りて同邑の人は災を受くるが如し。未だ彼処より何を取得するに及ばずして、先ず自己此の辺を丢き了り。縦い真陽眼に見て望に在るも、亦た終究として曾て我が所有に帰せず。此一爻の講ずるは自己の欲望に順って做し去るの无妄なり。
九四,由動進健,正當調和丹頭之時,稍有不謹,藥火飛揚,無妄而即有妄。然剛以柔用,可貞而即守貞,防危慮險,以靜待動,借陰養陽,自無得而復失之咎。此剛而能柔之無妄也。
九四此の一爻は内卦の動より外卦の健に進み、正に「丹頭」(丹を結ぶに憑るの起始の薬物)を調和するの時候に当たる。稍々一点の不謹慎有れば、薬と火と則ち飛散上揚して、本来无妄立刻に有妄と変ぜん。然而彼は剛強の力量を柔順の方式の上に用い、正を守る可ければ則ち立刻に正を守り、危を防ぎ険を慮り、静を以て動を待ち、陰を借りて来て陽を養えば、自然に手に到りて又た失掉するの過咎無し。此一爻の講ずるは剛強にして能く柔を用うるの无妄なり。
九五,剛健中正,從心所欲,不渝矩。聖胎已結,有為事畢,無為事彰,如無妄之疾,勿藥有喜也。夫聖胎凝結,先天已復,本自無疾,其疾不過後天未化之餘陰。然本固邦寧,至誠自歸無妄,此剛柔混合之無妄也。
九五此の一爻は剛健にして中に居り正を得、心に随って欲するも皆規矩を越出せず。「聖胎」已に結成し、有為の事情は弁み了り、無為の事情は顕れ出したり。正に爻辞のいう所の无妄にして病を生じ・薬を喫せずして自然に喜有るが如し。聖胎既に凝結し、先天之気已に回復せれば、本来病と言うべき無し。あの点のいわゆる病とは、不過是れ後天還た化け尽くさざるの残余の陰気のみ。然而根本既に固ければ、一国自ら安んじ、至誠の極は自然に无妄に帰す。此一爻の講ずるは剛柔混合の无妄なり。
上九,在無妄之終,已健而猶用健,知進而不知退,持盈未已,直以一位之無妄,而欲了性了命,必致火候有差,得而復失,是以無妄行有眚,無攸利,此不知止足之無妄也。然則無妄之道,總以得其中正為利,若不中正,動之健之,皆失其則,不能致福,反招其災。
上九此の一爻は《无妄》卦の末尾に処り、已に健たりと雖も却って還た健を用い、ただ進を知りて退を知らず、満を持して止まらず、硬として此の一個の位次の上の无妄を憑って則ち性を了し命を了せんと想う。必定して火候差錯を出だし、手に到りて又た失掉するに弄り至らん。だから无妄の時再び行動すれば則ち災殃有りて一様として利有る無しと曰う。此一爻の講ずるは適可に止まるを懂れざるの无妄なり。こく如く説き来れば、无妄の道は総じて中正を得るを以て利と為す。もし中正ならざれば、動くも好し健なるも好しと雖も、皆其の準則を失い、非但福を招き来る能わざるのみならず、反って災禍を招來す。
噫!月至圓,存乎口訣;時至子,妙在心傳。不得師指,枉自猜量。震之一陽,生於陰下,即時至子也。乾之三陽,復於純全,即月至圓也。子時而進陽,月圓而運陰,進陽有時,運陰有日,知陽而不知陰,知進而不知退,縱金丹到手,必至得而復失,無妄之災,理有可決。修道者,可不急求明師口訣乎。
ああ。月亮何れの時か圓に到るかは、全て口訣に憑る。時辰何れの時か子に到るかは、妙処は心伝に在り。明師の指點を得ざれば、白白と自己で瞎猜す。震卦あの一根の陽爻陰爻の底下より生出して来るは、則ちいわゆる「時子に至る」――一陽初動の時節なり。乾卦三根の陽爻恢復して純全に至るは、則ちいわゆる「月圓に至る」――陽気圓満の時節なり。子の時は該に「陽火を進め」、月圓は該に「陰符を運ぜ」(陰柔の功を用いて運化して陰を退く)しむべし。陽を進むるに其の時辰有り、陰を運ぶに其の日子有り。ただ陽を知りて陰を知らず、ただ進を知りて退を知らざれば、縦い金丹手に到るも、亦た必定して手に到りて又た失掉し、无妄の災は道理の上に於いて断定し得べきなり。道を修する人は、怎様にして赶紧に明師の口訣を求め去らざるを得んや。
上艮下乾(大畜卦第二十六)
大畜:利貞。不家食,吉。利涉大川。初九,有厲,利已。九二,輿說輹。九三,良馬逐,利艱貞;曰閑輿衛,利有攸往。六四,童牛之牿,元吉。六五,豶豕之牙,吉。上九,何天之衢,亨。
《大畜》卦の卦辞。正を守るに宜し。家の中に於いて自ら食せずして外に出でて朝廷に於いて食す、吉利。大河を渡るに宜し。初九爻辞。危険有り、停まりて動かざるに宜し。九二爻辞。車子は車軸下の伏兎を脱がれ、走り成らず。九三爻辞。良馬奔馳追逐し、艱難の中に正を守るに宜し。每天車駕と防衛の術を操演し、往く所有るに宜し。六四爻辞。小牛の角の上に一道の横木を加う、大いに吉利。六五爻辞。閹せる猪は雖も牙有るも人を傷せず、吉利。上九爻辞。天上四通八達の大道を肩負し、亨通。
大畜者,大養之義。卦德上艮止、下乾健,有健而能止,故謂大畜。此溫養聖胎之卦,承上覆卦而來。復者,復其先天之氣也。當先天之氣來復,於內自微而著,還其乾元面目,命基已固,聖胎已結,自有為而入無為,可以謹封牢藏,防危慮險,溫養沐浴,期於大化神妙不測之地,為金剛不壞之物。
「大畜」は大いに畜養を加うるの意。卦徳に就きて言えば、上体は艮、艮の性情は止、下体は乾、乾の性情は健。能く剛健にして又た能く止住す。だから《大畜》と呼ばれる。これは聖胎を温養するを講ずる一卦で、上一卦《復》を承接して来る。《復》卦の講ずるは先天之気を回復するなり。当に先天之気回り来たりて、裏面に於いて微弱より顕著に転じ、乾元本来の面目に還元し、命の根基已に穏固にして、「聖胎」已に結成せれば、便ち有為より無為に進入し、謹慎に封固し・牢牢として収蔵し、危を防ぎ険を慮り、「温養沐浴」(文火緩緩として涵養し・進退の功を暫停す)して、大化流行・神妙測るべからざるの地步に到達せんと期望し、金剛の一般に壞れざるの物と成る可し。
是道也,利於止健,不利於用健,故曰利貞。貞者,靜也。止健者,養健也。養健之功,即守中抱一之功。守中抱一,宜靜而不宜動,靜則保健,動則傷健。止非絕世離塵,靜非空寂無為,其中有抽添加減,內外兼修之道,故必不家食,方能大畜而致吉。不家食者,是外爐加減,內運真火,止於內而又止於外,綿綿若存,勿忘勿助,即遇大險大難之境,不動不搖,方是真畜,方是畜之大。
此の条の路は、剛健を止住するに宜しくして、剛健を使い出すに宜からず。だから卦辞に「貞に利し」と曰う。「貞」とはすなわち静。剛健を止住するは、即ち是れ剛健を涵養するなり。剛健を涵養するの工夫は、亦たすなわち中を守り一を抱くの工夫なり。中を守り一を抱くは静に宜しくして動に宜からず。静なれば則ち剛健を保住し、動けば則ち剛健を損傷す。但しここでの「止」は是れ世と隔絶し・塵を離れ俗を避くるに非ず、ここでの「静」も亦た是れ枯寂無為に非ず。其中別に抽添加減・内外兼修の門道有り。だから必ず「家食せず」せんを須して、はじめて大いに畜養を加えて吉利を得べし。いわゆる家食せずとは、是れ外炉の上に於いて加減の工夫を做し、内裡に於いて真火を運行し、既に内に止み又た外に止み、綿綿密密として好像有りて又た好像無く、忘れず亦た助長せず。就かり極険極難の境地に遇上するも亦た動かず搖れず。これがはじめて真の畜、はじめて畜なること大と算う。
是以又利於涉大川也。大川之涉,所以養於內而驗於外,即九年面壁之功。面壁者,如壁列萬仞,離種種邊,止於不識不知,打破虛空地位也。打破虛空,聖胎脫化,形神俱妙,與道合真,畜之大而成之大,與天為徒矣。
だから卦辞にまた大河を渡るに宜しと曰う。大河を渡るは、是れ内裡の養う所を把って外面に到りて験証すなり。亦たすなわち達磨「九年面壁」あの様子の工夫なり。いわゆる面壁とは、是れ万仞の高墻の一様に壁立して彼処に在り、種種の偏執辺見を脱離し、識らず知らざるの地方に停まり、虚空を一挙に打破す。虚空一たび打破せれば、聖胎脱して変化し、形体と精神と一斉に神妙に帰し、大道と合して真と為る。畜養得ること大なれば、成就も亦た則ち大、従此天と同類と為る。
初九,在大畜之始,進健則凶,止健則吉,有厲利己,正當棄有為而入無為之時。此養健於初也。九二,剛以柔用,保惜聖胎,待時脫化,如輿說輹,則車不行矣。修道者,剛健歸中,聖胎已結,急須住火停輪,不可更進其健,有傷元氣者。此養健得中也。
初九此の一爻は《大畜》卦の開頭に処り、剛健を推し出せば則ち凶、剛健を止住すれば則ち吉。だから危険有りて停まるに宜しと曰う。此れ正に有為を丢開し・無為に進入するの時候なり。此一爻の講ずるは開頭に於いて就きて剛健を涵養するなり。九二此の一爻は剛強の力量を柔順の方式の上に用い、「聖胎」を珍惜守護して、時機を等待して脱して変化せんとす。猶車子の車軸下の伏兎を脱がれて、車は便ち走り動く能わざるが如し。道を修する人は剛健の気既に中道に帰し、聖胎已に結成せれば、急に須く「火を住め輪を停め」(進退の火候を停下して・周天を運転せざらしむ)んを須し、復た前に往きて其の剛健を推進すべからず、以て元気を損傷するを免れん。此一爻の講ずるは剛健を涵養して恰好中を得るなり。
九三,養健已到氣足神全,誠於中而將達於外,如良馬逐而欲行矣。雖然聖胎完成,猶有一身陰氣未嘗化盡,全在艱辛守貞,一意不散,如日閉輿衛,時時防跌,十月功完,自然脫化,則利有攸往矣。此養健防危也。
九三此の一爻は、剛健を涵養して已に気足り神全きに養い至り、誠意裏面に積りて将に外面に透達せんとす。猶良馬の奔馳追逐し・躍躍として行かんと欲するが如し。雖も聖胎已に完成せりと説くも、渾身還た一分の陰気曾て化け尽くさず。全て艱苦に正を守り・一個の心思散乱せざるに憑り、猶天天車駕防衛を操演するが一様、時時跌跤を提防す。十個月の工夫做して圓満せば、自然に脱して変化し、あれは則ち往く所有るに宜し。此一爻の講ずるは剛健を涵養して危を防ぐを忘れざるなり。
六四,應於初陽,健德方生,而即養之。如童牛之牿也。牛性馴順,其健在角,牛在於童,其角方生,方生能養,元氣不散,漸長斯養,終必養至於純全之處,其吉已在於方健之養。此養健而堅固元氣也。
六四此の一爻は初九の陽爻と相応じ、剛健の徳剛かに生出して来れば則ち立即に涵養を加え去る。猶小牛の角の上に一道の横木を加うるが如し。牛の性情馴順にして、其の強健全て角の上に在り。牛還た幼小の時、角剛かに長じ出したるに、剛かに長じ出したるに趁りて則ち約束涵養を加えれば、元気便ち散失せず。一層一層に長じ・一層一層に養いて、終究に必ず純全の地步に養い至らん。其の吉利は、早く剛健初生の此の一番の涵養の裏に於いて就きて定下せり。此一爻の講ずるは剛健を涵養して以て元気を堅固にするなり。
六五,正當大畜之時,以陰養陽,如豶豕也。豕之去勢曰豶。豕去其勢,則氣質俱化,虛心而全實腹,如豶豕之牙也。豕柔牙剛,以柔養剛,剛得柔養而無傷。此養健而混合陰陽也。上九,在大畜之終,功完行滿,霹靂一聲,真人現出,驚愚駭俗;始於有作無人見,及至無為眾始知,何天之衢,誰不稱哉。
六五此の一爻は正しく大畜の時に当たり、陰を用いて陽を涵養す。猶閹せらるるの猪の如し。猪勢を去るを「豮」と呼ぶ。猪勢を去れば、気質便ち一斉に化尽し、心虚し下りて腹充実を得。正に爻辞のいう閹猪の牙の如し。猪性柔にして牙剛なり。柔を以て剛を養えば、剛柔の涵養を得て便ち人を傷せず。此一爻の講ずるは剛健を涵養して陰陽を混合するなり。上九此の一爻は《大畜》卦の最後に処り、功行圓満して、霹靂一声、「真人」顕現して、愚夫俗子を驚動す。起初意を著けて工夫を做すの時は人の看見する有らざるも、無為に進入するを待って、衆人はじめて知る。天上四通八達の大道を肩負して、誰か称賛せざらん。
修道者,而至於脫胎成真,身外有身,超出乎天地之外,不但成已,而且成物,畜之大而顯之大,其亨為何如乎。此養健而歸於神化也。然則,溫養聖胎之道,總要知得大畜健而止。既健又止,始則有為,終則無為,健而止於至善無惡,渾然太極,一氣流行,有無俱不立,物我悉歸空,性命雙修之道盡矣。
道を修する人は脱して真と成り・身の外に還た一個の身有るを做り到りて、天地の外に超出し、但だ自己を成就するのみならず、而且万物を成就す。畜養得ること大なれば、顕発も亦た則ち大。あの份の亨通は該に何等の気象ぞ。此一爻の講ずるは剛健を涵養して神化に帰するなり。こく如く説き来れば、聖胎を温養するの道理は、総じて《大畜》卦の是れ既に健にして又た能く止まるを懂れんを須す。既に健にして又た止まれば、開頭是れ有為、末了是れ無為。健にして能く至善悪無きの地方に停まり、渾然としてただ一個の太極、一気流行し、有と無との両辺倶に立てず、外物と自我と一斉に空に帰す――性命双修の道は、ここに至って則ち講じ尽くせり。
上艮下震(頤卦第二十七)
頤:貞吉。觀頤,自求口實。初九,舍爾靈龜,觀我朵頤,凶。六二,顛頤,拂經,于丘頤,征凶。六三,拂頤,貞凶,十年勿用,無攸利。六四,顛頤,吉;虎視耽耽,其欲逐逐,無咎。六五,拂經,居貞吉,不可涉大川。上九,由頤,厲吉,利涉大川。
《頤》卦の卦辞。正を守れば則ち吉利。頤養の道を観察し、自己に去りて口中の充実を求む。初九爻辞。爾の能く吐納自養するの霊亀を丢開して、却って眼巴巴として我の大嚼するを看る、凶険。六二爻辞。頤養の常道を顛倒し、常理に違背し、反って高き丘の上に向かって養を求む、前往すれば則ち凶険。六三爻辞。頤養の正道に違背し、此の如き做法を守着するも亦た凶、十年都用いて足らず、一様として利有る無し。六四爻辞。顛倒して下に向かって養を求む、吉利。老虎の如き目不転睛に盯住し、欲求一個接一個として間断せず、過なし。六五爻辞。常理に違背し、安居して正を守れば則ち吉利、但し大河を渡る可からず。上九爻辞。天下皆彼に由りて養を得、雖も危厲有るも終究吉利、大河を渡るに宜し。
頤者,腮頷。凡口食物則動,取其有養人之義。卦德上艮止。下震動。動不離止,止以養動,動不妄動,止不空止,動止如一,故謂頤。此擇善固執,虛以求實之卦,承上無妄而來。無妄者,動而健行,若非有涵養之功。則動之健之,皆不得當。無妄而即有妄,此養之道所由貴。養者,養其正,而去其不正也。正則有益於身心,不正則有害於身心,是以頤之道必貞,而始能得吉。
「頤」は本は腮幇と下巴を指す。凡そ口裡東西を喫すれば腮頷則ち動くを須す。取る所は人を養活するの意なり。卦徳に就きて言えば、上体は艮、艮の性情は止、下体は震、震の性情は動。動は止を離れず、止は用いて動を涵養するなり。動は是れ妄動に非ず、止も亦た是れ空止に非ず、動と止と合して一体を成す。だから《頤》と呼ばれる。これは善を択びて固く執り・虚を以て実を求むるを講ずる一卦で、上一卦《无妄》を承接して来る。《无妄》の講ずるは一動すれば則ち剛健に行い去るなり。もし涵養の工夫無くんば、則ち動くも好し健なるも好しと雖も、皆恰当ならざらん。本想虚妄無からんとするも反って立刻に虚妄有らん。涵養の道の可貴は正にここに在り。いわゆる養とは、是れあの正を養い・あの正ならざるを去掉すなり。正は身心に対して益有り、正ならざるは身心に対して害有り。だから頤養の道は必ず正を守って、はじめて吉を得べし。
然欲養之正,必先觀其養道之真假,觀非眼觀之謂,乃心中辨別是非,以窮理也。理明則真知灼見,動而修正,靜而養正,動靜皆得其所養,可以自求口實矣。不曰求口食,而曰求口實,不曰求口實,而曰自求口實,是所求者正,所實者大,不在膏梁厚味,而在仁義道德。然其所以飽仁義而味道德,總在自求,而不由人,一日克己復禮,天下歸仁焉。
然而養い正を得んと欲せば、必先ず養う所の道の是れ真是れ偽を看清まんを須す。此の個の「観」は是れ眼睛を用いて去看するに非ず、而も是れ心裡に於いて是非を辨別すなり、亦たすなわち理を窮むるなり。理一たび明白せば、則ち真知灼見有らん。動の時は其の正を修め、静の時は其の正を養い、動と静と皆各々其の養う所を得れば、則ち可き自己に去りて口中の充実を求めん。経文は「口食を求む」と説かずして「口実を求む」と説き、「口実を求む」と説かずして「自ら口実を求む」と説く。見るべし求むる所は是れ正、充実する所は是れ大、肥肉細粮の美味の上に在らずして、仁義道徳の上に在るなり。然而能く仁義に飽き・道徳に甘んずる所以は、総じて自己に於いて求むるに在りて、別人に靠らず。正に《論語・顔淵》のいう所の「一日己を克て礼に復れば、天下仁に帰さん」なり。
自求口實,則得實,是在自求何如耳。口者,虛中之物。實者,充實之謂。虛其心,實其腹,虛實相應,時動則動,動而進陽;時靜則靜,靜而運陰,動以修外,靜以養內,動靜不拘,內外合道。止固養,動亦養,動止皆不失其正,終得完成大道,以吉全之矣。
自己に去りて口中の充実を求めれば、則ち能く充実を得着す。関鍵ただ自求するの怎様なるを看るのみ。「口」は是れ中間虚空の物、「実」は是れ充実の意。其の心を虚にし、其の腹を実にし、虚と実と互相呼応す。該動の時に在れば則ち動き、動けば則ち「陽火を進め」(剛陽の功を用いて陽気を進補す)。該静の時に在れば則ち静まり、静まれば則ち「陰符を運ぜ」(陰柔の功を用いて運化して陰を退く)しむ。動は用いて外面を修治するを用い、静は用いて裏面を涵養するを用い、動静倶に一辺に拘り死せず、内外倶に道に合す。止固然として是れ養なり、動同様に是れ養なり。動と止と倶に其の正を失わざれば、最終に必ず能く大道を完成し、吉利を以て一切を保全せん。
彼一切以飢渴之害為心害者,養其小而失其大,謂之自求口食則可,謂之自求口實,則失之遠矣。既失其實,何得謂養乎?
あの些かの飢渇の傷害を把って心の傷害と成すの人に至っては、ただ小を養いて大を丢きたり。彼を説きて自己に去りて口中の食物を求むとは還た可なり、彼を説きて自己に去りて口中の充実を求むとは、あれは則ち差ること太も遠し。既にあの個の「実」を丢き掉れり、又た怎様にして還た養と算し得べきや。
初九,剛而妄動,不養於內,求養於外,棄真認假,如舍爾靈龜。觀我朵頤矣。此養口失實,不謹於始之養也。六二,以無德而欲養有德,自高自大,無而為有,虛而為盈,是顛倒其養,拂其借剛養柔之經,常于丘頤矣。此愚而自用,不知求實之養也。
初九此の一爻は剛強にして妄動し、裏面に於いて涵養せずして、却って外面に向かって養を求め、真を丢き・偽を認取す。正に爻辞のいう爾の霊亀を丢開して・却って眼巴巴として我の大嚼するを看るが如し。此一爻の講ずるはただ口腹を養いて充実を失掉し・開頭に於いて就きて謹慎ならざるの養なり。六二此の一爻は自己徳無きにして却って徳有るの人を養わんと想い、自高自大にして、本来無きに偏りて有りと説き、本来空虚に偏りて充盈と説く。これは養を把って顛倒して来りて、剛を借りて柔を養うの常理に違背し、反って常に高き丘の上に向かって養を求め去るなり。此一爻の講ずるは愚昧にして自ら是と為し・実を求むるを懂れざるの養なり。
六三,居於動而順其所欲,只在衣食上打點,不在性命上留心,養其小體為小人,是拂其養實之頤。即口食得正,亦是凶道。如此之人,雖終身而不知有德可修,豈僅十年勿用,無攸利乎?此愚而無知,終於不實之養也。
六三此の一爻は震動の体に居りて自己の欲望に順って走り、ただ衣食の上に於いて算盤を打ちて、性命の上に於いて留心せず。養う所は是れ自己あの個の小きな躯体、小人と成り了れり。これは実を求むるの養に違背するの頤なり。就かり其の口腹の養来たること正当なりと雖も、亦た仍ほ是れ一条の凶路なり。此の如き人は、只怕一輩子倶に還た徳修むべき有るを知らざらん。豈止是れ十年用いて足らず・一様として利有る無きのみならんや。此一爻の講ずるは愚昧無知にして・終究として実の処に落ち着かざるの養なり。
六四,有應於陽,以尊屈卑,不恥下問,借他人之剛明,以破己之柔暗,是謂顛頤。但以尊屈卑,恐有挾貴而問,其心不誠之嫌,幸其柔而得正,如虎視眈眈,其欲逐逐,目專一而心真切,出於自然,絕無勉強,未取於人,先求其己。求實即得實,始而有咎者,終可無咎。此不實求實,以上求下之養也。
六四此の一爻は下面の陽爻と相応じ、尊貴の身を以て卑下の位に屈就し、下に問うを恥とせず、別人の剛強明白を借りて来て自己の柔弱昏暗を破る。これを顛倒して養を求むと呼ぶ。但し尊貴を以て卑下に屈就すれば、難を免れずして身份を挟みて発問し・心誠懇ならざるの嫌疑有り。幸いなるに彼は柔順にして正を得、老虎の如き目不転睛に盯住し・欲求一個接一個として間断せず、眼神専一にして心意真切、自然より出でて、絶対に勉強無し。未だ別人の処より何を取得するに及ばずして、先ず自己の身上に於いて工夫を下す。実を求めれば則ち実を得、開頭過咎有るも、末了に於いて過咎無きを得べし。此一爻の講ずるは実ならざるの処より実を求め・上位を以て下位を求むるの養なり。
六五,虛心自處,只知養內,不知養外,是拂其養實之常經矣。然雖不能養實,而能養虛,居於貞而不遷移,亦致吉之道。但不可涉大川,以成金丹有為之功。此虛而不實、孤寂守靜之養也。
六五此の一爻は心を虚にして自処し、ただ裏面を養うを知りて、外面を養うを知らず。これは実を求むるの養の常理に違背するなり。然而雖も能く実を養う能わざるも、却って能く虚を養い、安居して正を守りて遷移せざれば、亦た是れ吉利を招致するの路子なり。ただ是れ大河を渡る可からず、亦たすなわち金丹あの一歩の有為の工夫を做り成す能わざるなり。此一爻の講ずるは虚にして実ならず・孤零零として清静を守着するの養なり。
上九,則居於柔,止於其所,動靜如一,既能養內,又能養外,既能養己,又能養人。其所養者大,乃養道所由,得以全始全終者,是謂由頤。然全始全終之養,須要在危厲之處做出,方能得吉。故又利涉於大川。大川至險之地,逆境也。逆境能養,則順境能養,自不待言。養而至於逆順不拘,險易無礙,則氣質俱化,陰陽混合,止於至善而不遷,聖胎凝結,大道完成矣。此虛實兼該、有始有終之養也。
上九此の一爻は剛爻を以て柔位に居り、自己の停まるべき地方に停まり、動と静と渾然として一体を成し、既に能く裏面を養い又た能く外面を養い、既に能く自己を養い又た能く別人を養う。其の養う所既に大なれば、正に頤養の道の能く始有り終有る所以の憑借なり。これを天下彼に由りて養を得と呼ぶ。然而此の種の始有り終有るの養は、必ず危厲の処境の中に於いて做し出さんを須して、はじめて吉を得べし。だから又た大河を渡るに宜しと曰う。大河は是れ最も険の地方、亦たすなわち逆境なり。逆境の中に於いて能く養えば、順境の中に於いて自然更に能く養う。これは説くを必とせざるなり。養い逆境順境倶に拘らず・険処易処倶に礙無きに至れば、あれは則ち気質完全に化尽し、陰陽混合して一を為し、至善の地に停まりて復た遷移せず、聖胎凝結して、大道完成せり。此一爻の講ずるは虚と実と兼備し・始有り終有るの養なり。
六爻各有所養,邪正不同,是非不等。求其剛柔相當,順逆不拘,有為無為,全始全終,其推上九之一爻乎?修道者急須靜觀密察,以虛求實,養其正而歸於至善無惡之地而後可。
六爻各々各々其の養法有り、邪と正と同じからず、是と非と等しからず。一個の剛柔恰好相当し・順境逆境倶に拘らず・有為無為倶に做り得・始有り終有るを找り出さんと要せば、大概に於いて上九此の一爻を推さんか。道を修する人は急に須く静静として観し・細細として察し、虚を以て実を求め、あの個の正を養い住めて至善悪無きの地步に帰して、然る後に乃ち行うべし。
上兌下巽(大過卦第二十八)
大過:棟橈,利有攸往,亨。初六,藉用白茅,無咎。九二,枯楊生稊,老夫得其女妻,無不利。九三,棟橈,凶。九四,棟隆,吉,有它吝。九五,枯楊生華,老婦得其士夫,無咎無譽。上六,過涉滅頂,凶,無咎。
《大過》卦の卦辞。棟梁彎曲せり、往く所有るに宜し、亨通。初六爻辞。潔白の茅草を用いて祭器の底下に垫え、過なし。九二爻辞。枯死したる楊樹重新に新芽を生じ、年老いたる男子年輕の妻子を娶る、一様として利あらざる無し。九三爻辞。棟梁彎曲せり、凶険。九四爻辞。棟梁隆起して彎折せず、吉利。もし別に他求有れば則ち羞吝を顕る。九五爻辞。枯死したる楊樹花を開き来る、年老いたる婦人年輕の丈夫に嫁ぐ、過なし亦た称譽なし。上六爻辞。水を渉ること深く過ぎ、水頭頂を淹没す、凶険。但し責怪すべきの過有りと算せず。
大過者,陽氣有過也。卦德上兌悅、下巽入;巽於內而悅於外,順其所欲,樂極生悲,卦體內四陽而外二陰,陽過於陰,陰不及陽,故謂大過。此調和藥物,實必用虛之卦,承上大畜而來。大畜者,健而能止,止健正,所以養健,不使陽氣太過耳。金丹之道,取二八兩弦之氣,凝結成胎,須要大小無傷,兩國俱全,若陽氣太盛,陰氣太弱,陰陽不調,失其生生之道。陰極必敗,陽極必虧,棟橈摧折之患,勢所必有,棟至摧折,大廈盡傾。
「大過」は陽気頭を過ぐる所有るの意。卦徳に就きて言えば、上体は兌、兌の性情は悦、下体は巽、巽の性情は入。裏面に於いて一味に順入し、外面に於いて一味に喜悦し、自己の欲望に順って走り、楽極処に至れば便ち悲を生出す。再び卦体に就きて言えば、裏面四根の陽爻・外面两根の陰爻、陽は陰を超過し、陰は陽に赶上せず。だから《大過》と呼ばれる。これは薬物を調和し・実有れば則ち必ず虚を用いるを講ずる一卦で、上一卦《大畜》を承接して来る。《大畜》は健にして能く止まり、剛健を止め得て端正、用いて剛健を涵養し、陽気をして太も頭を過ぐらしめず。金丹の道は、取る所は上弦・下弦两個の半月の「二八之気」、凝結して胎を成し、必ず大なる小なる倶に傷を受けず・彼我两家倶に保全せらるるを須す。もし陽気太も盛んに・陰気太も弱く、陰陽調和せざれば、則ち生生して息まざるの道理を失掉す。陰極処に至れば必ず敗れ、陽極処に至れば必ず虧く。棟梁彎曲して折断するの禍患は是れ勢いの必ず至る所なり。棟梁一旦折断せば、整座の大厦は則ち全て塌えん。
修道者,進陽太過,不知止足,能大而不能小,神室有傷,亦如此類。若能巽進而不至於過猛,和緩而不至於固執,通權達變,防危慮險,則剛柔相應,陰陽相濟,雖大而能不過,可以利有攸往,盡性至命,亨通而無阻滯矣。
道を修する人は一味に「陽火を進め」て太も頭を過ぎ、適可に止まるを懂れず、能く大にして能く小ならざれば、「神室」(神を安んじ丹を養うの内在の処所)則ち傷を受けん。亦た正に是れ此の一類の情形なり。もし能く漸進に順って猛に過ぐるに至らず、和緩従容にして固執するに至らず、既に能く権に通じ変に達し、又た能く危を防ぎ険を慮れば、あれは則ち剛と柔と互相呼応し、陰と陽と互相調剤して、雖も大にして能く頭を過ぐらず、往く所有るに宜しきを得、性を尽し命に至りて、亨通して阻滞無からん。
初六,性質本柔,又居卑下,柔之太過,謹慎之至,如借用自茅,而不敢先人,傲氣悉化,自無過大之時。此小而不妨太過者也。九二,剛而能柔,陽太過而借陰之濟也,過而不過,如枯楊生稊,老夫得其女妻,陰陽相當,生機常存,剛而不傷,自無不利。此用柔而剛不過者也。
初六此の一爻は性質本来柔弱にして、又た最も下面に処り、柔なること太も頭を過ぎ、謹慎極点に至る。猶潔白の茅草を用いて底下に垫えるが如く、敢えて別人の前頭を搶えず、一身の傲気全て化掉せられ、自然に頭を過ぐるの処有らず。此一爻の講ずるは小此の地步に到りて・妨げずそれを一种の太過と為すなり。九二此の一爻は剛強にして能く柔順、是れ陽太も頭を過ぎて陰を借りて来て調剤す。過ぎて却って又た過ざるに等し。正に枯楊新芽を長じ・老夫少妻を娶るが如く、陰陽恰好相当し、生機常に在り、剛にして損傷を受けず、自然に一様として利あらざる無し。此一爻の講ずるは柔を用いて剛をして頭を過ぐるに至らざらしむるなり。
九三,以剛用剛,只知前進,不知後退,金丹得而復失,棟橈之凶,所不能免。此用剛而太於過者也。九四,大而能小,心平氣和,如棟隆不敗,動與吉會矣。修道至於大而能小,已是陰陽相合,再不可過於用柔,若用柔太過,又傷於剛,大道難成,遺笑於大方,適以取吝而己。此剛而用柔不可過者也。
九三此の一爻は剛を用いて剛を使い去り、ただ前進を知りて後退を知らず、金丹手に到りて了又た失掉し、棟梁彎折の如き凶険は免るべからざるなり。此一爻の講ずるは剛を用いて太過を失するなり。九四此の一爻は能く大にして又能く小、心平にして気和し、猶棟梁の隆起して折損せざるが如く、一動すれば則ち吉利と相会す。道を修めて能く大にし又能く小なるに至れば、已に是れ陰陽相合なり。則ち復た過分に柔を用うべからず。もし柔を用いて太過なれば、反って又た剛を傷つけ、大道成り難く、還た行家に笑話せられん。ただ自ら羞吝を取るのみ。此一爻の講ずるは剛にして柔を用うるも亦た頭を過ぐべからざるなり。
九五,剛於悅而不能柔以悅,如枯楊生華,老婦得其士夫,過於淫奢,自滿自足,陽極生陰,真為假傷,理有可決,幸其剛而得中,內有主宰,不為客氣所惑,得以無咎。既已實腹,不能虛心中道而止,卻亦無譽。此剛而持盈之大過者也。
九五此の一爻は喜悦の上に於いて一味に剛を用い、能く柔を以て喜悦せず。正に枯楊花を開き・老婦少夫に嫁ぐが如く、淫逸奢靡に過ぎ、自満自足す。陽極処に至れば便ち陰を生出し、真は偽に傷せられん。此れは道理の上に於いて断定し得べきなり。幸いなるに彼は剛にして中を得、裏面主宰有り、「客気」に迷惑せられず。因って過無きを得。但し既に腹を実にしたるも、却って能く心を虚し下げて適可に止まる能わず。だから亦た何の称譽をも談ずるに及ばず。此一爻の講ずるは剛強にして満を持して已まざるの大過なり。
上六,在大過之終,愚而自用,不知藥物火候,任心造作,迷而不返,升之高,傷之甚,過涉滅頂,自招其凶,與人無咎。此柔而妄想之大過者也。觀於六爻之義,大過者凶,不過者吉。大過之中,亦有不過之道。是在人善於調和陰陽,歸於中正,不偏不倚為貴歟。
上六此の一爻は《大過》卦の末尾に処り、愚昧にして自ら是と為し、薬物を懂れず・火候を懂れず、心意に任せて胡乱に造作し、迷失して回頭を知らず。升ること越えて高ければ、傷るること越えて重し。水を渉ること深く過ぎて頭頂を淹没す、凶険は是れ自己の招來する所、別人の身上に怪むに到らず。此一爻の講ずるは柔弱にして痴心妄想の大過なり。通観六爻の義理。頭を過ぐるは則ち凶、頭を過ぐらざるは則ち吉。而して大過の中に於いても、亦た自ら頭を過ぐらざるの路子有り。これは則ち人の善く陰陽を調和し・中正の上に帰し・偏らず倚らずを看るに在る――これがはじめて可貴なり。
上坎下坎(習坎卦第二十九)
習坎:有孚,維心亨,行有尚。初六,習坎,入于坎窞,凶。九二,坎有險,求小得。六三,來之坎坎,險且枕,入于坎窞,勿用。六四,樽酒,簋貳,用缶,納約自牖,終無咎。九五,坎不盈,只既平,無咎。上六,係用徽纆,寘于叢棘,三歲不得,凶。
《習坎》卦。心中に誠信を存み、唯だ此の一点の真心亨通して、行動はじめて嘉尚するに値す。初六。重重の坎険の中に陥り、又た坎底の小さな坑洞の裏に掉け入る、凶険。九二。坎陷の中仍ほ険有り、ただ一点の小さな収穫を求め得るのみ。六三。來り去る倶に是れ坎険、既に危険にして又た険境に抵えられて安身する能わず、坎底の小さな坑洞に掉け入る、施為する所有る可からず。六四。一樽の薄酒・两簋の淡飯、瓦缶を用いて盛り、此の份の簡約の心意を把って窗口より遞し入る、最終に過有らざらん。九五。坎中の水満溢して出でず、ただ剛かに坑沿と斉平するのみ、過有らざらん。上六。繩索に捆縛せられ、叢生の荆棘の中に囚置せられ、三年倶に身を脱する能わず、凶険。
坎者,險也,陷也。習坎者,通險也。卦德上坎險、下坎險,由此險而達彼險,險而能通,故謂習坎。此黑中有白,陰中返陽之卦,承上頤卦而來。頤者,以虛求實,求其坎陷之真陽也。人自乾坤相交之後,一點元陽,走於坤宮,坤實而成坎,乾變而成離,於是陰陷其陽,天根昧而心交物,性相近而習相遠,日習日下,陷於下愚不移之地,而莫知底止矣。
「坎」の意思は是れ危険、是れ陷落。「習坎」は則ち重重の険陷の中に於いて出路を打通すなり。卦徳に就きて言えば、上卦坎は険・下卦坎も亦た険。此の一重の険境より彼の一重の険境に通じ、身険中に在りて能く通達す。だから「習坎」と呼ばれる。これは一個の「黒中に白有り」「陰中に陽に返る」の卦――坎卦上下两爻は是れ陰・当中一爻は是れ陽、好比一団の黒暗の裏に一点の光明を蔵するが如く、修行の做さんと要するは則ち純陰の中に於いてあの一点の陽を返り来らしむるなり。此の卦は上一卦《頤》を承接して来る。《頤》の講ずるは虚空の心を以て実在の物を求取し去るなり、求むる所正に坎水の当中に陷落するあの一点の「真陽」(先天本有の生機)。人自ら先天乾坤二気交合の後、乾卦当中のあの一点の「元陽」は坤宮の裏に跑進し、坤は本是れ三爻純陰にして、此の点の陽を得て便ち填実して坎と成り、乾は本是れ三爻純陽にして、此の点の陽を失えば便ち中虚して離と成る。ここにおいて陰は陽を把って陷住し、「天根」(先天の生機の根本)昏昧不明にして、一顆の心ただ外に向かって外物に攀縁するを知る。孔子曰く「性相近し、習相遠し」。習気一天天に下に往きて滑り、終に「下愚移らず」の地步に陷りて、再び停まるべき何処かを知らず。
然習惡則惡,習善則善,是在人習之如何耳。習惡者,入險之道;習善者,出險之道,出險須要能信其險。信者,心之主宰,若能信險,則不為外物所惑,習於善而即能善,所謂一念回機如同本得,是以習坎有孚,維心亨也。
然而惡に習染すれば則ち惡に変じ、善に習染すれば則ち善に変ず。関鍵ただ人の怎様に習い去るかに在るのみ。惡に習染するは、是れ険境に走進するの路。善に習染するは、是れ険境に走出するの路。険境に走出せんと要せば、先ず真に信じて自己の確実に身険中に処るを得んを須す。「信」は是れ一心の主宰、能く真に険有るを信ぜば、則ち外物に迷惑せられず、善に習えば亦た当に真に善を成すを得。いわゆる「一念回機すれば、本得の如く同じ」――念頭一たび転じ回れば、本自具足する物当下に則ち現成す。だから卦辞に「習坎、孚有り、心亨るを維る」と曰う。身重険に処りて心に誠信を存む、唯だ此の一点の真心のみ通じ過ぎ得べし。
有孚即心亨,不孚心不亨。有孚之心,即是道心,道心發現,人心不起,正氣增長,邪氣漸退,可以出入乎陰陽之中,而不為陰陽所拘矣。但信其有險,須要習而出險,信而不習,如不信也。既能信又能習,不隱不瞞,真履實踐,日習日善,自卑登高,由下而上,漸習於高明之境,盡性至命,還元復初而無難,故日“行有尚”。尚者,上也。行之能上,不行不上,知之尤貴於行之耳。
誠信有れば、心は則ち亨通す。誠信無ければ、心は則ち亨通せず。此の個の誠信有るの心は、則ち是れ「道心」(天理自然に発動して私意を夾まざる本心)。道心一たび現れば、「人心」(情識私欲に随って起るの妄心)便ち生ぜず、正気一天天に増長し、邪気一天天に消退し、人則ち能く陰陽の中に於いて出入自如にして、陰陽に拘束せられず。但し僅かに自己の険有るを信ずるは還た足らず、必ず切実に修習してはじめて険を出る能うを須す。信じて修せざれば、信無きに等し。既に能く信じ・又た能く修し、隱瞞せず・掩饰せず、一歩一歩真実に践履し、一天天に善に習い、低き処より高き処に登向し、下より上に由り、漸漸高明の境界に進入せば、則ち性を尽し命に至り・本に返り元に還るも亦た難からず。だから卦辞に「行に尚有り」と曰う。「尚」とは則ち「上」なり。肯んじて做し去ってはじめて上に向かう能く、做さざれば則ち上り去る能わず。見るべし知るは終究として切実に做し去るに如かざるを更に貴ぶを。
初六,性質本愚,又習於愚,日習日下,是謂習坎。在下之習,如在坎坑,又鑽窞孔,入於下流之處,而莫知所止,不凶而自致凶,此愚而又習於愚者也。
初六陰柔全卦の最下に居り、資質本来愚昧にして、又た一味に愚昧に習染し、一天天に下に向かって滑る。此れ正にいわゆる「習坎」――重重の陷落の裏に於いて反復して打转す。此の種の下に往きて走るの習気は、好比人已に坎坑に掉け入り、還た更に坑底の小洞に鑽進し、一直に下流の地に陷りて停住するを知らざるが如し。本来未だ必ずしも凶険ならざれども、却って是れ自己の凶険を招來せり。これは資質愚昧にして又た愚昧に習うの一類なり。
九二,居於二陰之中,日與小人為伍,不知親近有道之士,終陷於下而為愚人,如在坎坑之中而有險也。幸其剛而得中,陷之不深,雖不能出險,內有主宰,亦不為下流所惑。但嫌其信險而不習出險,僅小有得,不能明善復初,大有得耳。此剛而不知習善者也。
九二一陽上下两陰の間に陷り、好比天天小人と伍を為すが如く、去りて道有るの師友に親近するを懂れず、終究に下位に陷りて愚人と成る。正に身坎坑の中に在りて険難有るが如し。幸いなるにそれは陽剛にして下卦の中に居り、陷るること還た深しと算せず。雖も険を出る能わざるも、心裡到頭に個の主宰有りて、下流の習気に迷惑せらるるに至らず。ただ惜しむべしそれは険有るを信じ得れども、却って肯んじて工夫を下して険を出るを修習せず。だから僅かに小さく得る所有りて、明に本善に復し・本初に返回して大いに得る所有る能わず。これは一身の剛気有るも却って善を習うを懂れざるの一類なり。
六三,性質本險,又愚而自用以行險,險而又險,是來之坎坎矣。且近上險,前進上險,後退亦險,是險且枕矣。如此之人,不信有險,俞習俞險,習之者久,陷之者深。如入于坎窞,終在險地,永為勿用之人矣。此柔而只知習惡者也。
六三陰柔にして正ならず、資質本来険にして、又た愚昧にして剛愎自用に険を行い去る。険の上に険を加う。これがすなわち爻辞のいう所の「來るは坎坎」なり。其上緊く上卦の険に挨り、前に往きて進むは険、後に往きて退くも亦た険。だから「険にして且つ枕せり」と曰う――進退倶に険境に抵えられん。此の如き人は肯んじて自己の身険中に処るを信ぜず、越えて修習すれば越えて危険、習染し得ること越えて久しければ、陷落すること越えて深し。好像坎底の小洞の裏に掉け入りて、始終として険地に待在り、永遠に堪えて任用せらるる人と成らざるが如し。これは陰柔にしてただ惡に習染するを知るのみの一類なり。
六四,在上剛下柔之際,性質在中人之列,習於善則能善,習於惡則即惡,可善可惡,如一樽酒而用二簋盛之也。然四與五同居,信於善者,信於善而虛心下賢,借他人之明智,以破己之昏暗,如用缶納約,自牖以通其明。不能善者亦能善,始有咎者,終可無咎,此柔而能習其善者也。
六四上剛下柔の交界の処に処り、資質「中人」此の一等に属す。善に習えば則ち能く善を成し、惡に習えば則ち惡に変ず。善なり惡なりと定まらず。正像ただ一樽の酒有るも却って两簋を用いて盛るが如く、分量有限にして器具一ならず。幸いなるに六四九五と相鄰して同処し、是れ肯んじて善道に信從す。既に善道に信從せば、則ち虚心して己を屈し賢者に請教し、別人の明智を借りて来て自己の昏暗を破る。正に爻辞のいう瓦缶を用いて簡約の心意を盛り、窗口より遞し入れて光明をして相通せしむるが如し。本来善を成す能わざるも亦た能く善を成し、起初過有るも、最終に過無きを得べし。これは陰柔にして能く善に習染するの一類なり。
九五,居二陰之間,陽剛中正,把柄在手,既能不滿不盈,不見惡於小人,又能不遷不流,大有異於小人,如坎水不盈,只既平。不滿於內,亦不流外,實腹而能虛心,出於性成,是以無咎。此上智不移,不待習而自善者也。
九五一陽上卦の中に居り、两陰の間に処り、陽剛にして中正なり。修行の把柄は自己の手上に握られ、既に能く自満自盈せず・小人に厭惡せられず、又能く波に随い遷流せず・小人と大いに相同ならず。正像坎中の水並びて満溢せず・ただ坑沿と斉平するが如し。内裡自満せず、外面外流せず、「腹を実に」(先天真気を養い得て充実せしむ)して又た能く「心を虚に」(一毫の私意を存せず)す。これは本性天然に生成す。だから過無し。これは上智の人習気に移されず・刻意に修習せざるを須とせずして自然に善に合するの一類なり。
上六,雖係小人,本性未嘗不善,但性善而不知習善,自縛自束。繫於不善,自暴自棄,居於險地,如係用徽纆,寘于叢棘,終亦必亡而已。豈僅三歲不得出險哉!此下愚不移,終不習而終惡者也。然則,修道者,當自醒自悟。急須拜求真師,尋個出頭之路,以了性命,甚勿以福緣淺薄、自暴自棄,為世間無用之物。
上六雖も小人の一流に属するも、本性は却って未だ嘗て善ならざる無し。ただ善性有るも却って善を習い去るを懂れず、反って自己で自己を捆え住め、自己を不善の上頭に繫縛し、自暴自棄して長く険地に居る。正に爻辞のいう繩索に捆えられ・叢棘の中に囚置せらるるが如く、最後に亦不過身亡のみ、どこがただ三年険を出る能わざるの此の如き簡単ならんや。これは下愚移らず・始終として肯んじて修習せずして終に惡に帰するの一類なり。既に此の如くなれば、道を修する人は応当に自ら警醒し・自ら覚悟し、赶紧に真師を拜求し、一条の出頭の路を尋ねて、好くして性命の大事を了結し、千万に借口して自己の福縁浅薄なれば則ち自暴自棄して、世間の無用の物を做す勿れ。
蓋身心性命之學,人人有份。回頭是岸,立登聖基,是在人之能信能習耳。果能信之習之,日習日善,必將習於至善無惡,渾然天理地位矣。人何樂而不習善者哉!
知るを須す。身心性命此の門の学問は、人人倶に一份有るを。回頭すれば則ち是れ岸、当下に便ち能く聖を成すの根基を立起す。全て人の肯んじて信ずるか否か・肯んじて習うか否かを看るのみ。果真に能くそれを信じ・それを習い、一天天に善に習えば、必定して能く至善悪無く・渾然一片の天理の地位に習い至らん。人又た何苦して偏偏として善を習い去るを楽しまざるや。
上離下離(離卦第三十)
離:利貞,亨。畜牝牛吉。初九,履錯然,敬之,無咎。六二,黃離,元吉。九三,日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。九四,突如其來如,焚如,死如,棄如。六五,出涕沱若,戚嗟若,吉。上九,王用出征,有嘉折首,獲匪其醜,無咎。
《離》卦。正固を守持するに利し、因って亨通す。母牛の一般なる柔順の徳を畜養す、吉祥。初九。脚步錯雑紛乱す、ただ一分の敬慎を存すれば、則ち過有らざらん。六二。中に居る黄色の光に附麗す、大いに吉祥。九三。太陽西に偏る時の余明、此の時もし能く缶を撃ちて歌い・時に安んじ命に順わざれば、便ち只剩年老力衰の悲嘆、凶険。九四。來勢突兀として、烈火身を焚くが如く、死亡頭に臨むが如く、人に抛弃せらるるが如し。六五。涕涙滂沱、憂戚嗟嘆す、吉祥。上九。君王兵を出して征討し、嘉美の功を建立し、首惡を斬除し、俘獲する所は又た其の同夥に匪ず、過有らざらん。
離者,麗也,明也。卦體一陰附麗於二陽之中,虛中能明之象。卦德上離明、下離明,由此明而及彼明,由彼明而達此明,明內而又明外,內明而又外明。千明萬明,總是兩明,內明外明,總是一明,故謂離。此雄裡懷雌、陽中有陰之卦,承上大過而來。
「離」の意思是れ附麗、亦た是れ光明。卦体に就きて言えば、一根の陰爻两根の陽爻の当中に附麗す。是れ中間空虚にして能く光明を生出するの象なり。卦徳に就きて言えば、上卦離は明・下卦離も亦た明。此の一重の明より彼の一重の明に推及し、又た彼の一重の明より此の一重の明に返照し、内を明らかにして又た外を明らかにし、外を明らかにして又た内を明らかにす。千個の明万個の明も、総じて不過是れ上下此の两重の明。内明外明も、説き到底に至れば総じて是れ同じく一個の明。だから「離」と呼ばれる。これは「雄裡に雌を懐く」「陽中に陰有る」の卦――一身剛健の中に一点の柔順を含着す。それは上一卦《大過》を承接して来る。
大過者,陽剛太過,雄而不雌,任心造化,誤用其明矣。明者,離宮虛靈之氣,為人之神,心之主。心虛則靈,元神主事,明而得正,能以濟陽。心亂則迷,識神主事,明而不當,足以傷陽,是以離利於貞而亨也。然雖離利於貞而亨,若只知用明,不知養明,亦不得亨。
《大過》の講ずるは陽剛太も過ぎて、一味に雄を逞ぶして肯んじて雌を守らず、私心に任せて造作し去る。あれは則ち自己の光明を把って錯った地方に用いたるなり。いわゆる「明」とは、是れ離宮(人身に於いては則ち心を指す)あの一点の虚霊の気、亦たすなわち人の神・一心の主宰なり。心虚なれば則ち霊にして、「元神」(先天本有にして分別を帯びざる神明)家に当たり主を為し、明其の正を得て、能く陽気を扶助す。心乱るれば則ち迷にして、「識神」(後天見聞分別の妄識)家に当たり主を為し、明用いること当を得ず、反って以て陽気を損傷するに足る。だから《離》卦は正を守るに利してはじめて能く亨通す。然而雖も正を守るに利して亨通すと説くも、倘若ただ明を用うるを知りて、明を養うを知らざれば、亦た一様に亨通し能わず。
夫用明者,外明也。養明者,內明也。外明必本於內明,用明須當先養明,是以又畜牝牛吉也。畜者,養也。牛者,順象。牛至於牝,絕不用剛,其性至順,人能以柔順養明,雌而不雄,回光反照,閒邪存誠,先明內而後明外,內外俱明,虛靈不昧,無一物能瞞,無一物能移,自明明德而止於至善,其吉為何如乎?但明而致吉之道,有火候、有工程,稍有不謹,明而不亨,故明必至於內外無一不明、無一不正,方是明之利、明之亨、明之吉也。
いわゆる明を用うるは、是れ外に向かって発用するの明。いわゆる明を養うは、是れ内に向かって涵養するの明。外明必定して内明を以て根本と為す。明を用いんと要せば則ち先ず明を養わんを須す。だから卦辞に又た「牝牛を畜すれば吉」と曰う。「畜」とは則ち是れ畜養、「牛」は其の柔順の象を取る。而して牛は又た特に母牛を挙げ、全然として剛強を使わず、其の性最も柔順なり。人もし能く柔順を以て光明を涵養し、雌を守りて雄を逞ぶせず、「光を回して返照す」(外に向かって奔逐する神光を収め回して内に自身を照らす)、邪念を防閑し・誠実を存養し、先ず其の内を明らかにして而る後に其の外を明らかにせば、内外倶に明にして、虚霊昧ならず、一様としてそれを瞞し過ぐる能わざる無く、一様としてそれを移し動かす能わざる無し。自己の本有の明徳を彰明して至善に安止す。あの様子の吉祥は還た説かんを用いんや。ただ明に由りて吉を致す此の条の路の上に、「火候」(功を用うの緩急先後)有り・「工程」(一歩一歩の実修の進度)有り。稍々不謹慎有れば、明るも亦た亨通する能わず。だから必ず内外一処として明ならざる無く・一処として正ならざる無きを做し到りて、はじめて明の利・明の亨・明の吉と称し上ぐるを得。
初九,在明之初,不知養明,而即用明,履必錯然也。錯然之履,不但不能進明,而且有以傷明,惟敬之、博學之、審問之、慎思之、明辯之,自始自終,瞭然於心,而後篤行之,方無錯然之咎矣。此用明須當先求明者也。
初九明の開端に処り、先ず明を養うを懂れずして則ち急ぎて明を用いれば、脚下必然して錯雑紛乱せん。此の如き錯乱の挙歩は、但だ能く光明を増進せざるのみならず、反って以て光明を損傷するに足る。唯だ心に敬慎を存み、《中庸》のいう所に照らし、広博に学び・仔細に問い・慎重に思い・清楚地に辨え、頭より尾まで心裡に於いて透徹を弄り、然る後に再び切実に篤行して、はじめて脚步錯乱の過無からん。これは説く、明を用いんと要せば、必ず先ず明を手に到るを求めんを須すと。
六二,自知不明,而能虛心下賢求人之明,是謂黃離也。黃為中色,明而歸中,示己之無,尊人之有,雖愚必明,雖柔必強,不失其柔順之本質,其吉在於能虛心矣。此不明而求人之明者也。
六二自ら知る自己の明ならざるを、却って能く虚心して己を屈し・賢者に向かって請教し、別人の明を借りて来て自己の暗を補う。これを「黄離」と呼ぶ。黄は是れ五色の中の中色、光明にして中道に帰す。肯んじて自己の無きを承認し、別人の有を尊重せば、縦い愚鈍なりとも亦た必ず能く明に変じ、縦い柔弱なりとも亦た必ず能く強に変じ、同時に又た自己の柔順の本質を失わず。其の吉祥は則ち能く虚心するに在り。これは自己明ならずして去りて別人の明を求むるの一類なり。
九三,獨剛不柔,只知用明,不知養明,剛明太過,如日昃過缶之明,高極必下,明極必暗,是不能鼓缶而歌,則有大耋之嗟,不中不和,適以取凶而已。此用明而自敗其明者也。
九三独り陽剛有りて能く柔を兼ねず、ただ明を用うるを知りて、明を養うを知らず。剛と明と倶に太も頭を過ぎ、好比太陽西に偏りて以后の光明、已に頂点を過ぎ去りたるが如し。極高に升れば必定して下落し、明極処に至れば必定して暗に転ず。此の時もし能く缶を撃ちて歌い・時に安んじ順に処らざれば、則ち只剩年老力衰の悲嘆、既に中道に合せず又た能く調和せず、恰好として自己凶険を招來す。これは明を用いて反って自己で自己の光明を敗壞したるの一類なり。
九四,剛而不正,不能明內,即欲明外,是突如其來如也。突來之明,躐等而求,性躁行偏,妄作招凶,焚如、死如、棄如,欲求長生,反而傷命。此不明而自以為明者也。六五,居外明之中,所當明內而又明外者,乃懦弱無能,或見理不真,或力有不及,是以出涕沱若、戚嗟若也。然涕沱戚嗟,不敢妄作妄為,自守本分,亦致吉之道。此明而知己不明者也。
九四陽剛にして正位に居らず、内裡還た未だ明ならざるに、則ち急ぎて外に於いて明ならんと要す。これがすなわち爻辞のいう「突如として其の來るが如し」なり。此の種の突然に冒出して来るの明は、是れ等を躐え躁進して求め来るなり。性子急躁にして行事偏頗し、妄作妄為して自ら凶険を招く。ここにおいて「焚如・死如・棄如」――火に焚かるるに遭うが如く・死に赴くが如く同じく・棄絶せらるるが如し。本想長生を求めんとするも、反って性命を傷つけたり。これは本明ならずして自ら以て明と為すの一類なり。六五上卦の外明の中に居り、本応当に既に其の内を明らかにし又た其の外を明らかにすべし。偏偏として懦弱無能にして、或いは理を見るに真切ならず、或いは力量跟い上がらず。だから「涕を出して沱若たり・戚嗟若たり」、涕涙滂沱・憂戚嗟嘆す。不過正因りてただ涕泣嗟嘆する能うのみにして、反って敢えて妄作妄為せず、能く本分に安守す。此も亦た一条の吉祥を招致するの路なり。これは自己明有りて又た自己の還た明ならざるを知るの一類なり。
上九,居重明之上,剛而有為,既能明內,又能明外,既能明順,又能明逆,取象王用出征,有嘉折首,獲匪其醜也。人之真心,如王明明德,如出征,明德而德即明,如有嘉功,除去人心,如折首惡,不強制雜念,如不獲從丑,用明而至折首之明,則後天一切客氣,不退而自化,寂然不動,感而遂通,內外光明,而無一毫根塵之咎矣。此明而至善無惡者也。
上九上下两重の光明の上に居り、剛健にして能く為有らん。既に能く其の内を明らかにし、又能く其の外を明らかにし、既に能く順行造化の理を明白し、又能く逆修還丹の法を明白す。だから象を取りて「王用いて出征し、嘉にして首を折る、獲る其の醜に匪ず」と為す。人の「真心」(私欲を夾まざる本来の心)は好比此の位の君王、本有の明徳を彰明するは好比出兵征討す、明徳一たび顕れば・徳便ち自ら明る、好比嘉美の功を建立したるが如し。「人心」を除去するは好比首惡を斬除す。あの些かの零碎の雑念を硬として圧し去らざるは、好比あの些かの随従の党羽を俘獲し去らざるが如し。明を用いて能く首惡を斬除するの地步に到れば、後天の一切の「客気」(外来の浮躁邪雑の気)は駆逐するを必とせずして自己就きて化掉せらる。ここにおいて寂然として動かず・感じて遂に通じ、内外一片の光明、再び一絲一毫六根六塵に染污せらるるの過無し。これは明至善悪無きに到るの一類なり。
然則,用明之道,須要知雄守雌,剛中有柔,明而得正為貴乎。倘有剛無柔,不落於突如其來,即歸於日昃之離,不但不能增明,反而有以傷明。修道者,欲用其明,可不先養其明乎。
こく如く視れば、明を用うるの門徑は、総じて「雄を知りて雌を守る」(剛強の用処を明白しながら、自ら柔順の一辺に処る)を須し、剛中に柔を含み、明にして其の正を得て、はじめて最も可貴なり。倘若剛有りて柔無くんば、是れ九四の如き「突如來る」の躁進に落ちるに非ざれば、即ち是れ九三の如き「日昃の離」の衰暗に帰す。但だ能く光明を増長せざるのみならず、反って以て光明を損傷するに足る。道を修する人自己此の点の光明を用いんと想わば、怎様にして先ずそれを涵養して起かざるを得んや。
巻三
上兌下艮(咸卦第三十一)
咸:亨,利貞。取女吉。初六,咸其拇。六二,咸其腓,凶,居吉。九三,咸其股,執其隨,往吝。九四,貞吉,悔亡。憧憧往來,朋從爾思。九五,咸其脢,無悔。上六,咸其輔、頰、舌。
《咸》卦。亨通、正固を守持するに利し。妻を娶れば、吉祥。初六。感応ただ脚の大拇趾に到るのみ。六二。感応小腿肚の上に到る、凶険。安居して動かざれば則ち吉祥。九三。感応大腿の上に到る、ただ執着して人に随って行くを知るのみ、此の如くして前往すれば憾惜有らん。九四。正を守れば則ち吉祥、悔恨消失す。もし心思往來定まらざれば、あれは則ち只だ意気相投の朋友爾の心思に順って來るのみ。九五。感応脊背の肉の上に到る、悔恨無し。上六。感応ただ牙床・面頬・舌頭の上に在るのみ。
咸者,感也。卦德上兌悅、下艮止,剛止於內,柔悅於外,悅以止為體,止以悅為用,有陰陽相應之義。故謂咸。此調和陰陽之卦,承上坎卦而來。坎者,陰陷其陽,陽不健而陰不順,陰陽不交,此調和之功不可缺。
「咸」の意思是れ感応。卦徳に就きて言えば、上卦兌は悦・下卦艮は止。剛健の一面止定して裏面に在り、柔順の一面和悦して外面に在り。止定を以て本体と為し、和悦を以て発用と為し、陰陽彼此呼応するの意を含着す。だから「咸」と呼ばれる。これは一個の陰陽を調和するの卦で、上一卦《坎》を承接して来る。《坎》の講ずるは陰陽を把って陷住せられ、陽能く剛健せず・陰能く柔順せず、陰陽互いに交通せざるなり。だから調和此の一歩の功夫は万万缺くべからざるなり。
但調和陰陽,貴乎自然,不貴乎勉強。自然者,無心之感也。勉強者,有心之感也。無心之感,陰陽相和,咸無不感;有心之感,陰陽各別,感之有限,故咸有亨道也。
但し陰陽を調和するは、自然に貴しと在りて、勉強に貴しと在らず。自然とは、指すは「無心の感」(私意を起さず・其の自然に任せるの感通)。勉強とは、指すは「有心の感」(私意を掺めて攀求し去るの感通)。無心にして感ずれば、陰陽自然相和して、感じて通ぜざる無し。有心にして感ずれば、陰陽各自分離して、能く感通するは極めて有限なり。だから《咸》卦本身亨通の道を含有す。
咸道雖亨,然無心有無心之是非;有心有有心之是非,不得以枯木寒灰之無心,即謂咸之亨通。枯木寒灰,純陰無陽,何得謂感。所謂感者,陰陽潛通之義,如卦象少男少女同處,彼此無心,及至陰陽氣足,彼此情動,自然相感,此不感之感,何得以蠢然無心為感乎?
咸道雖も亨通すれども、しかるに無心も亦た無心の是非有り、有心も亦た有心の是非有り。能く枯木死灰の如き一も覚する所無きの状態を把って無心と成し、則ち此れ便ち咸卦の亨通なりと説くべからず。枯木寒灰は是れ純陰にして陽無し。どこが尚感応を談じ上ぐるに及ばんや。いわゆる感とは、是れ陰陽暗中相通ずるの意、猶此の卦の取る所の少男少女同じく一室に処りて、彼此本来無心にして、陰陽の気充足するに及ぶを待って、彼此情意自然発動し、便ち自然に相感ずるが如し。これがはじめて「感ぜずの感」なり。怎様にしてあの種の蠢然として知る無きの死寂を把って感応と為すを得べきや。
所謂無心者,無人心也。無人心即有道心,道心是心非心。所謂有心者,有人心也。有人心即無道心,人心非心是心。道心為真,人心為假。用假心,則感之不正,陰陽兩離。用真心則感之得正,陰陽相通,或陰感而陽應,或陽感而陰應,均以道心為主。以正而感,感以正,而不感以心,何物不可感,何感不能利乎。
いわゆる無心とは、是れ「人心」(情識私欲に随って起るの妄心)無きなり。人心無くんば、自然に則ち「道心」(天理自然に発動する本心)有り。道心看れば是れ個の心に似たるも、却って是れ平常あの個の攀縁造作する心に非ず。いわゆる有心とは、是れ人心有るなり。人心有れば、道心は則ち無し。人心看れば是れ心に非ずに似たるも、恰恰として正に是れあの個の作祟する心なり。道心是れ真、人心是れ偽。偽心を用いて感ぜば、感じること正を得ず、陰陽反って両相乖離す。真心を用いて感ぜば、感じて其の正を得、陰陽自然相通ず。或いは陰先ず感じて陽來て応じ、或いは陽先ず感じて陰來て応じ、総じて道心を以て主と為す。正を以て感ずれば、感ずる所は是れ「正」にして私心に非ず。あれは則ち還た何の物か感じて通ぜざる有らん、還た何の一種か感応して利益を得ざる有らん。
天下感之以正者,莫如貞女,女德主乎貞靜,不輕失身於人,必待其佳配而有感。此感之不以心而以正。卦德先止後悅,悅本於止之所由來也。修道者,調和陰陽,使陰陽感通,能取貞女之德以為感,則所感皆正,寂然不動,感而遂通,感而遂通,寂然不動,止於其所,逆之、順之,無不遂心如意而得其吉矣。
天下能く正を以て相感ずるは、貞潔の女子に比する莫し。女子の徳行は貞静を以て主と為し、肯んじて軽易に人に身を失わず、一定して合適の佳偶を待ってはじめて感ずる所有り。これがすなわち私心を以て感ぜずして、正道を以て感ずるなり。此の卦の卦徳は先ず止みて而る後に悦ぶ。見るべし和悦は正に止定あの処より生出して来るなり。道を修する人陰陽を調和し、陰陽をして感応相通せしめんと要せば、もし能く貞女此の一段の徳行を取って感応の準則と為さば、則ち感ずる所一処として正ならざる無し。寂然として動かず、一たび感ずれば便ち通じ、一たび感ずれば便ち通じて、仍ほ寂然として動かず、自己の応に処るべき位子の上に安止す。是れ逆修して本に返ると、是れ順行して物に応ずるとを論ぜず、称心如意して其の吉祥を得ざる無し。
初六,性愚志劣,不能煉己持心,妄想大事,如咸其拇矣。拇為足大趾,能動不能行之物,不能行而感之,感不得其正。此動人心之感也。六二,柔而無剛,內無道心,為人心所感,如感其腓矣。腓為足肚,宜靜不宜動之物。不宜動而妄動,動必招凶。然柔順得中,雖有人心感動,能居於正,不為人心所感,亦凶中致吉之道。此無道心之感也。
初六資質愚昧・志気低劣にして、能く「己を錬り心を持す」(自身の習気を磨去し・自己の心念を把住す)せず、却って妄想して性命の上の大事を成就せんとす。正に爻辞のいう「其の拇を咸くする」が如し。拇は是れ脚の大趾、是れ能く動くも能く路を走る能わざるの部位。能く路を走る能わざるも却って彼処に於いて妄動して感を求むれば、則ち感じること正を得ず。これは人心に帯動して起きたるの感応なり。六二陰柔にして剛無く、内裡道心無く、反って人心に感ぜられ、好比小腿肚の上に感応するが如し。腓は是れ脚の肚、是れ静に宜しくして動に宜からざるの部位。動くべからざるに妄動すれば、一動必定して凶を招く。幸いなるにそれは柔順にして下卦の中に居り、雖も人心の攪動有るも、却って能く正に安居して、人心に牽いて走らせられず。此も亦た凶中に吉に転ずるの一条の路なり。これは道心無きの感応なり。
九三,陽剛宜守道心,不可因外物而動。人心者,乃剛而不中,見景生情,如感其股矣。感之於股,不能止於其所,隨風起塵,執守不專,有道心而又生人心,以是往而行道,未免見羞於大方。此失道心之感也。
九三既に是れ陽剛、本来応に道心を守住し、外物に因って動く可からず。一旦剛にして中ならず・景を見て情を生ぜば、あれは則ち人心の主を為すに在り。正に爻辞のいう「其の股を咸くする」が如し。感応大腿の上に落つれば、則ち自己の止まるべき地方に止まらんとする能わず。猶風一たび起これば塵土便ち跟って揚がるが如く、把持するも専一ならず。本道心有りて又た人心を生出せば、此の如き心を帯いて道を行けば、難を免れずして明眼の行家の跟前に於いて醜を出さん。これは道心を丢失了の感応なり。
九四,陽剛本有道心,似乎貞而得吉,又剛而能柔,無感亦無所害,似乎有悔可亡,乃有應。初陰,為私慾所牽,道心中又來人心,外無感而內有感,故憧憧往來,朋從爾思也。朋從之思,因人心而昧道心,性亂情迷,一身皆為人心所搖動。此起人心又昧道心之感也。
九四陽剛にして、本来是れ道心有るなり。看れば正を守れば則ち能く吉を得。又能く剛中に柔を帯び、妄感し去らずとも亦た妨害無し。看れば悔有るも亦た消掉し得べし。無奈それは初六と相応じ、初六是れ陰爻にして、私欲に牽引せられ、ここにおいて道心の裡頭に又た人心を冒出し、外面還た未だ感ぜざるも裏面早已に感ぜたり。だから「憧憧として往來し、朋爾の思に從う」と曰う。此の種の朋類相從うの念頭は、人心に因って道心を昏昧せしめ、心性紊乱し・情識迷惑して、全身上下倶に人心に搖動せらる。これは既に人心を起きて、又た道心を昏昧せしめたるの感応なり。
九五,在上陰下陽之際,執兩用中,道心常存,人心不生,因物付物,皆出無心,如感其脢矣。脢為背肉,在心之上,近心而離心。道心人心所隔者,毫髮之間,感之於脢,雖近於心,而實非心,非心之心,是謂真心。真心非色非空,無方無所,虛靈不昧,是謂無心。以無心感有心,雖有心亦歸於無心,無心無悔,渾然天理,止於至善之地,而不遷矣。此守道心而無人心之感也。
九五上陰下陽の交界の処に処り、能く其の两端を執りて其中を用い、道心常に存み、人心生ぜず、何に遇上するも則ち物に随って応付し、全て無心より出ず。正に爻辞のいう「其の脢を咸くする」が如し。脢は是れ脊背の上の肉、位置は心の上に在り、心に靠近するも又た心を離れたり。道心と人心との相隔たる所は、不過毫髪の間なり。感応脢の上に落つれば、雖も心に近くも実在に是れあの個の私心に非ず。私心に非ざるの心は、はじめて「真心」と呼ばる。真心は色に非ず空に非ず、指すべき方所無く、虚霊にして昏昧せず。これを「無心」と呼ぶ。無心を用いて有心に感ずれば、縦い私心有るも亦た一併に無心に帰入す。無心なれば便ち悔無く、渾然一片の天理、至善の地に安止して復た遷移せず。これは道心を守住して・人心無きの感応なり。
上六,在咸之終,又在悅之極,順其所欲,務外失內,巧言令色,一切是假,是謂咸其輔頰舌也。凡口、言、笑三者皆動,口動而心未有不動者。此絕無道心全用人心之感也。
上六咸卦の末尾に処り、又た和悦の極点に在り、一味に自己の欲望に順い、ただ外面を顧みて裏面を丢き、巧言令色にして、一切皆是れ偽なり。これがすなわちいわゆる「其の輔頬舌を咸くする」なり。凡そ口・言・笑此の三様は一たび動けば、口一たび動けば、心倶に跟って動かざる無し。これは全て道心無く・純粋に人心を用うるの感応なり。
六爻皆有感道,或以人心感,或以道心感,或有道心而又感於人心,或背人心而只感以道心,是非不等,惟止於至善而感之,則道心常存,人心永滅,真陰真陽,隔礙潛通,如磁石吸鐵,金丹自虛無中結就矣。
六爻各々各々其の感応の道有り。或いは人心を以て感じ、或いは道心を以て感じ、或いは本道心有りて又た人心に感動せられ、或いは人心を背離してただ道心を以て相感ず。是非高下各々相同ならず。唯だ至善の処に安止して感ずるに、はじめて能く道心常に存し・人心永く滅し、「真陰」「真陽」(先天本有のあの一分の陰精と陽気)は縦い隔礙有るも亦た能く暗中貫通し、如同磁石の鐵を吸うが一般に自然相就き、「金丹」(性命交融して・本元に返帰して結成するの円明本体)便ち虚無の中より凝結成就す。
上震下巽(恒卦第三十二)
恆:亨,無咎,利貞。利有攸往。初六,浚恆,貞凶;無攸利。九二,悔亡。九三,不恆其德,或承之羞,貞吝。九四,田無禽。六五,恆其德,貞,婦人吉,夫子凶。上六,振恆,凶。
《恒》卦。亨通、過有らざらん、正固を守持するに利し、往く所有るに利し。初六。一開頭に就きて恒久の事を深求し、即かり正を守るも凶険、何の好処も無し。九二。悔恨消失す。九三。能く恒久に自己の徳行を守住せず、或いは羞辱を招來せんと要す、即かり正を守るも亦た憾惜有り。九四。田猟すれども禽獣を打ち得ず。六五。恒久に自己の徳行を守住し、正固を守持す。婦人に対しては是れ吉祥、男子に対しては却って是れ凶険。上六。躁動不安に恒久を求む、凶険。
恆者,久也。卦德上震動、下巽入,巽緩而動,動而從容,不即不離,心堅志遠,故謂恆。此真履實踐之卦,承上離卦而來。離者,明內而又明外,期於深造自得,明無不通也。
「恒」の意思是れ長久。卦徳に就きて言えば、上卦震は動・下卦巽は入。巽の和緩を以て動き、動くこと従容迫らず、既に急切に貼り上がらず、亦た撒手して離去せず。心志堅定にして眼光長遠なり。だから「恒」と呼ばれる。これは一個の真実践履を講ずる卦で、上一卦《離》を承接して来る。《離》の講ずるは既に其の内を明らかにし又た其の外を明らかにし、深造して自ら所得有るを指望し、明して通ぜざる無きに到るなり。
但通明之道,非有恆心者不能。恆則專心致志,愈久愈力,不生懈怠,可以了性,可以了命,此恆有亨道,而又能無咎矣。但恆雖亨而無咎,尤利於恆之得正。若不得正,棄真入假,仍是不亨而有咎。彼世間盲修瞎煉之徒,入於旁門外道,以非為是,予聖自雄,負修養虛名,碌碌一生,至死不悟者,何嘗不能恆?但恆於邪道,不恆於正道,欲求長生,反而促死,及至年滿月盡,自無出路,咎且不免,安能得吉?故恆亨無咎之道,惟利於貞耳。雖然,利於恆之正,尤利於恆行之正。
但し此の個の明を通達せんと要せば、恒心無きの人是れ做り到る能わず。恒有れば、則ち能く専心致志し、越久しければ越えて力量有りて、懈怠を生ぜず。既可に「性」(本性の上の事)を了却し、亦可に「命」(形気の上の事)を了却すべし。だから《恒》卦本身亨通の道を含有し、而且能く過無きを得。ただ是れ恒雖も亨通して過無しと雖も、尤も緊要なるは此の份の恒必ず其の正を得んを須す。もし其の正を得ざれば、真を丢き・偽に鑽進し、仍ほ是れ不亨通にして過有り。世上あの些かの盲修瞎錬の人は、傍門外道に落ち込み、錯れるを把って对と為し、自ら聖を命じ・自ら豪雄を逞ぶし、一個の修養の虚名を背負い、碌碌として一生し、死に到るも亦た覚悟せず――彼ら何嘗か能く堅持せざらんや。ただ是れ恒守するは邪道の上に於りて、恒守するは正道の上に於らず。本想長生を求めんとするも、反って自己を催して早死せしむ。寿数満尽するを待って、自己出路を找り見えず、過咎尚お免れんとする能わず。どこが尚吉祥を談じ上ぐるに及ばんや。だから恒にして亨通し・恒にして咎無きの門徑は、只だ一個の「貞」の字の上に在る。話雖も此の如くと雖も、利は恒に其の正を守るに在り、更に利は恒に其の正を行うに在り。
曰利有攸往者,利在於恆,行其正耳。貞者,正也,理也。理者,身心性命之道。是道也,盜陰陽、竊造化,脫生死、出輪迴,乃恆久之大事,非一朝一夕之功能成,必須柔巽漸進,由卑登高,由淺及深,一步步腳踏實地行去,方能奏效。
卦辞に「往く所有れば利し」と曰うは、是れ説く、好処は則ち恒久に此の個の正道を行い出すに在るを。「貞」とは則ち是れ正、亦たすなわち理なり。此の個の理は、指すは身心性命の大道なり。此の条の道は「陰陽を盗み・造化を竊む」(天地陰陽の運化の裏に於いて本来自己に属するあの点の生機を奪回す)を須し、生死を脱離し・輪廻を跳出せんと要す。是れ一樁の恒久の大事、是れ一朝一夕の功夫の成就する能く所に非ず。必ず柔和順入の姿態を以て循序漸進し、低より高に登り・浅より深に入り、一歩一歩脚実地に踏んで做し去って、はじめて効を奏する能う。
蓋經久不易之大事,必經久不已之大功而後成,利貞之恆,利有攸往之恆也。但欲行其正,先要知其正,窮理盡性,以至於命,盡性至命之功,全在窮理透徹耳。
一樁の経久変わらざるの大事は、必定して経久停まざるの大功夫を用いてはじめて做り成すを得。だから「貞に利す」の恒は、亦たすなわち「往く所有れば利す」の恒なり。但し行い得て其の正を得んと要せば、先ず何をか正と呼ぶを知らんを須す。《周易・説卦伝》に曰く「理を窮め性を尽し、以至命に至る」。見るべし性を尽し命に至る此の番の功夫は、全て道理を窮究して透徹するに靠る。
初六,在恆之初,不辨是非,而即深入,妄想久遠之事,是浚恆也。浚者,深也。不明理而深入,雖欲求正,反招其凶。此無攸利之恆也。九二,剛而得中,深明火候,通權達變,恆於時而不恆以心,恆於道而不恆於事,恆之無形跡者,此悔亡之恆也。
初六恒の開頭に処り、是非還た辨え清めざるに則ち一頭に深く入り、妄想してあの些かの久遠の大事を為さんとす。これがすなわち「恒を浚め」なり。「浚」は是れ深の意。道理明白せずして則ち深き処に往きて鑽むれば、雖も正を求めんと想うも、反って凶険を招來す。これは毫も好処無きの恒なり。九二陽剛にして下卦の中に居り、深深と「火候」(功を用うの緩急進退と時節先後)を懂れ、能く権に通じ変に達し、恒守するは時機の上に於いて恒執するは自己の心意に於らず、恒守するは道の上に於いて恒執するは具体の事相に於らず。これは恒にして形迹に落ちざるの一种、だから是れ悔恨消失するの恒なり。
九三,剛而居正,亦有志修道者。但剛而不中,急欲成功,其進銳者其退速,是不恆其德,或承之羞也。羞者,何羞?羞其志於德,而不能恆於德,志於正而不能恆行其正,遵道而行,又半途而廢,雖正亦吝。此有始無終之恆也。
九三陽剛にして正位に居り、亦た算す道を修むるに志有るの人なり。ただ是れ剛にして中ならず、急ぎて成功せんと要す。進むること太も猛きの人は退くるも亦た快し。これがすなわち「其の徳を恒たらず、或いは之に羞を承けん」なり。羞は何処に在るか。羞は徳に志を立てて能く其の徳を恒守せず、正に志を立てて能く其の正を恒行せず、明明として道を遵って走りて、又た半途にして廃すに在り。縦い本身是れ正なるも、亦た只だ一個の憾惜に落得するのみ。これは始有りて終無きの恒なり。
九四,剛居動體,時在有為,如有田可耕矣。乃居於柔位,志氣不振,恆久抱道,不能行持,如空田而無禽相顧,何貴於剛?此無一為之恆也。六五,柔而得中,無思無為,安常守分,志誠專密,可謂恆其一德矣。然貞一不二,以之避世養靜則可,以之盡性至命則難,故為婦人之吉,夫子之凶。此寂滅孤修之恆也。
九四陽剛にして震動の体に居り、正に作為有る可きの時候に当たる。好比一片の田有りて耕種すべきが如し。無奈それは陰柔の位の上に落ち、志気提起して來る能わず。雖も長久に道を抱着するも、却って能く切実に行持せず。猶空しく一片の田を守着して禽獣の來て光顧する無きが如し。此の如き剛は又た何処に貴しと在らん。これは一事成す無きの恒なり。六五陰柔にして上卦の中に居り、思無く為無く、尋常に安んじ・本分を恪守し、心志誠篤にして専一細密なり。説き可し恒守して一种の徳有りと。然而此の如き貞一不二は、用いて世を避け静を養うは是れ可なり、用いて性を尽し命に至るは則ち難し。だから婦人に対しては是れ吉・男子に対しては是れ凶と曰う。これは寂滅の一辺に偏り・孤修一味の恒なり。
上六,無而為有,虛而為盈,自尊自大,有己無人,是謂振起之仁。振起之恆,大極自敗,高極必下,終歸空亡。此自欺招凶之恆也。然則,修道者,貴乎恆於正道,尤貴乎恆行於正道,方能有往有利,盡性至命,作世間恆久不易之大事,但須要識得藥物,知得火候,進退急緩,不失其正耳。
上六本来無きに装作して有りと為し、本来空虚に装作して充盈と為し、自尊自大にして、眼裡ただ自己有りて別人無し。これがすなわちいわゆる振起浮躁の恒なり。此の種の振起の恒は、張大極点に到れば自己就きて垮掉せんと要し、極高に升れば必定して跌落し、最後に一場の空亡に帰す。これは自ら欺きて凶を招くの恒なり。こく如く視れば、道を修する人は恒に正道を守るを貴び、尤も恒に正道の上に於いて行うを貴ぶ。はじめて能く往く所有り・利有る所、性を尽し命に至り、世間此の樁の恒久変わらざるの大事を做り成す能う。ただ必ず「薬物」(丹を修するに用いる所の先天真陰真陽の気)を認得し・「火候」を懂れ、進退緩急倶に其の正を失わざれば乃ち可なり。
上乾下艮(遯卦第三十三)
遯:亨,小利貞。初六,遯尾,厲,勿用有攸往。六二,執之用黃牛之革,莫之勝說。九三,係遯,有疾厲,畜臣妾,吉。九四,好遯,君子吉,小人否。九五,嘉遯,貞吉。上九,肥遯,無不利。
《遯》卦。亨通、小処正固を守持するに利し。初六。退避最後頭に落ち、危険有り、往く所有るに宜からず。六二。黄牛皮の做る繩索を用いてそれを捆り住め、誰も解き開く能わず。九三。退避する時還た牽係を帯び、病を害するが如き危険。此の份の心を拿って奴僕侍妾を畜養するは、倒れて是れ吉祥。九四。能く好く退避するを懂れ、君子此に因って吉祥、小人は却って做り到る能わず。九五。退避するも嘉美得体、正を守れば則ち吉祥。上九。退避するも寛綽従容、利あらざる何も無し。
遯者,斂藏之義。卦德上乾健、下艮止,健本於止,以止用健,有健而不輕自用,故謂遯。此藏陽伏氣之卦,承上咸卦而來。咸者,由止致悅,調和陰陽之道。調和陰陽,莫先貴乎伏氣。伏氣者,不恃健而止健也。
「遯」は収斂蔵伏の意。卦徳に就きて言えば、上卦乾は健・下卦艮は止。健は止を以て根本と為し、止を用いて健を運使す。一身の剛健の力有るも却って肯んじて軽易に自ら用いず。だから「遯」と呼ばれる。これは一個の「陽を蔵し気を伏す」(陽気を把って蔵起き・先天真気を伏定す)の卦で、上一卦《咸》を承接して来る。《咸》の講ずるは止定に由りて和悦を生出す、あれは陰陽を調和するの道理なり。而して陰陽を調和するは、最先に緊要なるは「気を伏す」に若く莫し。いわゆる気を伏すとは、則ち自己の剛健を倚仗せず、反って此の份の剛健を把って止住すなり。
人之健德,繫先天正氣,及其一陰來姤之後,陰氣浸長,陽氣當退,至人於此,知其陰氣承天而動,難與力爭,不去退陰,先欲保陽。保陽者,收斂精神,止於其所,所以伏先天之氣也。能伏其氣,陽氣不傷,陰氣自化,是遯中而有亨道也。
人身上此の份の剛健の徳は、本是れ先天の一点の正気なり。一陰初生して・《姤》卦の象と成る以後に及ぶを待って、陰気一天天に滋長し、陽気は則ち応に収退すべし。至人此の個の時候に至りて、陰気の是れ天時を承けて動くを知り、硬碰硬として争い過ぐる能わざれば、ここにおいて急ぎて陰を退けに去らず、先ず自己の陽を保住せんと想着す。いわゆる陽を保つとは、則ち精神を収斂し、自己の在るべき地方に止定し、此を借りて先天一点の真気を伏蔵して起くなり。能く此の口の気を伏え得住せば、陽気便ち損傷を受けず、陰気自然消化す。これがすなわち退避の中に亨通の道を含着するなり。
但遯之為道,非避其陰,亦非坐觀成敗,乃借陰全陽之謂。借陰全陽,尤貴遯之於早。蓋早則陽氣盛而陰氣弱,易於遯;遲則陽氣弱而陰氣盛,難於遯。二陰四陽,陰氣猶順乎陽氣,於此而遯,遯之在先,是以遯之亨道,在於小利貞之時也。
但し退避此の条の路は、既に是れ陰を躲け開くるに非ず、亦た是れ袖手して成敗を傍観するに非ず、而も是れ陰を借りて来て陽を保全するなり。陰を借りて陽を全わせんと要すれば、尤も退くること早きを貴ぶ。退くること早ければ、陽気還た盛んにして陰気尚弱く、退くるに容易し。退くること遲ければ、陽気已に弱くして陰気正に盛ん、則ち退くるに難し。《遯》卦是れ二陰下に在り・四陽上に在り、陰気還た陽気に順從して在る。此の個の時候に於いて退避するは、是れ前頭に搶えり。だから退避の能く亨通するの関口は、則ち「小利貞」此の個の時節の上に在り。
小利貞者,陰氣未至傷陽氣,若至三陰生,陰氣不利不貞,大肆張狂,遯之不及矣。故止健伏氣之亨道,須在二陰方進之時乎。二陰方進,彼此無傷,陰順其陽之遯,小利貞,亦大利貞也。
いわゆる「小利貞」とは、是れ説く、陰気還た未だ陽気を傷つけず。もし三陰生出するを待って(《否》卦の象と成る)、陰気は則ち既に利ならず亦た貞ならず、大肆として張狂せん。あの時再び退避せんと想うも已に及ばず。だから剛健を止住し・真気を伏蔵する此の条の亨通の路は、必ず二陰剛かに上進するの時に赶在らんを須す。二陰剛かに進めば、彼此還た未だ損傷有らず。これは陰陽に順從するの退避、雖もただ是れ「小利貞」と説くも、其の実も亦た則ち是れ大利貞なり。
初六,居於卑下,如遯之於尾也。在尾之遯,客氣難傷,遯之最利。然以陰柔無能者居之,未免遯之不固,為物移轉,自招危厲。若勿用有攸往,遯之堅固,何厲之有?此遯之宜謹始者也。
初六全卦の最下に居り、好比退避して尾巴の上に退き到るが如し。尾部に退くれば、「客気」(外来の浮躁邪雑の気)はそれを傷つけ着く能わず。本是れ退避の中最も利有るの位置なり。ただ是れ此の個の位子に坐するは偏りて是れ陰柔無能の人、難を免れずして退くること牢固ならず、外物一たび牽かば則ち転じ、自己危厲を招來す。もし真に能く「往く所有るを用うる勿れ」を做り到りて、退避するも堅固ならば、又た怎様にして何の危厭か有らんや。これは説く、退避は一開頭に於いて就きて謹慎なるを貴ぶと。
六二,柔順中正,止於其所,客氣難入,如執之用黃牛之革,莫之勝說也。牛革之執,致虛守靜,外緣不入,內念不出,不遯而遯,此遯之不失守者也。九三,下近二陰,剛為柔牽,不知早遯,是遯有私繫,其疾甚厲。夫人之正氣如主人,客氣如奴僕,繫於陰而以假傷真,是養奴僕而失主人,故畜臣妾吉,此遯之有私繫者也。
六二柔順にして中正、自己の在るべき位子の上に止定し、客気侵入し難し。正に爻辞のいう黄牛皮の繩索を用いて捆り住めて・誰も解き開く能わざるが如し。此の種の牛皮の一般なる執守は、則ち是れ「虚を致し静を守る」の功夫。外面の攀縁進み來る能わず、裏面の念頭出で去る能わず。看れば退避無きに似たるも其の実退くること最も徹底す。これは退避して失守せざるの一類なり。九三下面緊く两個の陰爻に挨り、剛柔に牽住せられ、及早に退避するを懂れず。これは退避の中還た私情の牽係を帯びるなり。あの病痛は則ち很に危険なり。人の正気好比是れ主人、客気好比是れ奴僕。陰の上に牽係し、偽を用いて真を傷つくるは、奴僕を養いて主人を丢き了るに等し。だから爻辞に此の份の心を拿って臣妾を畜養するは倒れて還た吉祥と曰う。これは退避して私情の牽係有るの一類なり。
九四,剛以柔用,能藏真陽於陰氣方生之時,是好於遯也。好於遯而無私繫,惜命如惜寶,不使有一毫陰氣潛生於方寸之中,是以為君子之吉。若夫小人剛強自用,不知伏氣,認假傷真,則不吉矣。此遯之宜去私繫者也。
九四陽剛にして能く柔を以て運用し、能く陰気剛かに生起するの時候に於いて則ち「真陽」を蔵し好くす。これは善く退避するなり。善く退避して私情の牽係無く、性命を愛惜するは至宝を愛惜するが一様、一絲一毫の陰気をして方寸の心の裡に偷偷生ぜしめず。だから是れ君子の吉祥なり。あの些かの小人に至っては、剛強自用にして、気を伏すを懂れず、偽を認め真を傷つく。あれは則ち吉ならず。これは説く、退避最も緊要なるは私情の牽係を去掉するに在ると。
九五,剛健中正,所親者陽,所遠者陰,擇善固執,是調嘉美之遯也。遯之嘉美,不以假傷真,貞而未有不吉者,此遯之歸於中正者也。上九,在遯之上,剛柔混合,萬物不能移,造化不能拘,自由自專,是謂肥遯也。遯至於肥,內無所傷,外無所損,不伏氣而氣自伏,此遯之無有不利者也。
九五剛健にして中正、親近する所は是れ陽、疎遠する所は是れ陰。善を択びて牢々として守住す。これがすなわちいわゆる嘉美の退避なり。退避するも嘉美を得、偽を拿って真を傷つけず、正を守れば吉祥ならざる無し。これは退避して中正に帰するの一類なり。上九遯卦の最上に処り、剛と柔と渾然として混合し、万物それを移し動かす能わず、造化も亦たそれを拘え住む能わず。自由自在・自ら主宰を作す。これを「肥遯」と呼ぶ。退避此の如き寛綽従容の地步に到れば、内裡損傷無く、外面虧折無し。刻意に気を伏すを必とせずして気自然に伏住す。これは退避して利あらざる所無きの一類なり。
六爻惟上爻真體未傷,乃無為保健之功,其餘皆陰陽相雜,真體已虧,故必先伏其氣,而後不為客氣所侵。修道者,當真體未傷,須行無為之道以養陽。及真體稍虧,須行伏氣之功以防陰。其體不一,其用亦有異,是貴乎神而明之,存乎其人耳。
六爻の中ただ上爻の真体のみ傷を受けず。あれは是れ「無為」剛健を保全するの功夫なり。其の余の各爻は皆是れ陰陽夾雑して・真体已に虧損せり。だから必ず先ず気を伏え住めて、然る後にはじめて客気に侵犯せられざるに至らん。道を修する人、当に真体還た未だ傷を受けざるの時は、応に無為の道を行って陽気を涵養すべし。真体稍々虧損有るに及ぶを待っては、則ち応に気を伏すの功夫を行って陰気を防備すべし。本体の情形相同ならざれば、功を用うの法子も亦た分別有り。貴ぶべきは能く心領神会し・随処に明辨するに在り。これは則ち全て各人自己を看るのみ。
上震下乾(大壮卦第三十四)
大壯:利貞。初九,壯于趾,征凶,有孚。九二,貞吉。九三,小人用壯,君子用罔,貞厲。羝羊觸藩,羸其角。九四,貞吉,悔亡。藩決不羸,壯于大輿之輹。六五,喪羊于易,無悔。上六,羝羊觸藩,不能退,不能遂,無攸利,艱則吉。
《大壮》卦。正固を守持するに利し。初九。壮盛の力ただ脚趾の上に使わる、此の如くして出征すれば凶険、此の一点は是れ確信し得べし。九二。正を守れば則ち吉祥。九三。小人は一味に強を逞ばし壮を用い、君子は却ってそれを用い去らざるを知る。即かり正を守るも仍ほ危厲有り。公羊角を用いて篱笆に頂き、反って角を卡えて傷つけり。九四。正を守れば則ち吉祥、悔恨消失す。篱笆冲開せられて、角も亦た復た卡えられず、力量大車の車軸の上に壮なり。六五。平坦の地に於いて羊を丢き、悔恨無し。上六。公羊篱笆に頂き、退いて回る能わず、亦た冲り過ぐる能わず、何の好処も無し。肯んじて艱難の処に於いて工夫を下れば則ち吉祥。
大壯者,陽氣強壯之義。卦德上震動、下乾健,健於內而果於行,健行不息,故為大壯。此進陽壯氣之卦,承上恆卦而來。恆者,久於其道之功。久於其道,則身體力行,心堅志遠,一念不回,深造自得,是非大壯之人不能也。
「大壮」は是れ陽気強盛壮健の意。卦徳に就きて言えば、上卦震は動・下卦乾は健。内裡剛健にして、外行果決し、健行息まず。だから「大壮」と呼ばれる。これは一個の「陽を進め気を壮にす」(陽気を増進し・真気を壮大す)の卦で、上一卦《恒》を承接して来る。《恒》の講ずるは長久に道の上に守るの功夫なり。能く長久に道の上に守れば、則ち身体を以て力を行い、心志堅定・眼光長遠にして、一個の念頭再び退転せず、深造して自ら所得有る――これは大壮の人に非ざれば做り到る能わず。
益大壯之人,自命不凡,俯視一切,放得下,提得起。有大壯之志,即能行大壯之事,作人之所不能作,為人之所不能為,超凡入聖,為天下希有之事,如雷之一動,自地昇天,驚愚駭俗,震動一切矣。
大凡大壮と称し得る人は、自ら命じて凡ならずと為し、世間の一切を俯視し、応に放下すべきは放下し得・応に担当すべきは提げ起し得。大壮の志向有れば、則ち能く大壮の事業を做し出す。別人の做り來る能わざるの事を做し・別人の為し得ざるの挙動を為し、凡俗を超越して聖境に入り、天下少有の功業を成就す。これは則ち好比一声の春雷発動して、地底より一直に上天に貫き、愚夫を驚動し・流俗を駭倒し、一切を把って震撼して起さしむるが如し。
但大壯之道,尤貴壯之得正,若不得正,則壯之不大,其行不利。彼世間旁門外道之徒,著空執相,認假為真,水火不避,患難不懼,有至死不變者,何嘗不是壯?其如壯之不正,不但壯不能大,而且因壯傷生,何貴於壯?特以大壯之道,惟利於貞耳。
但し大壮此の条の路は、尤も壮其の正を得るを貴ぶ。もし其の正を得ざれば、壮は則ち大きく起こる能わず、行事も亦た順利ならざらん。世上あの些かの傍門外道の徒は、或いは空に執着し、或いは相に執着し、偽を認めて真を作し、水火倶に躲けず、患難も亦た怕れず、甚だしきは死に到るも亦た改めざる有り。彼ら何嘗か「壮」と算せざらんや。無奈壮正を得ず、但だ壮能く大ならざるのみならず、反って壮を逞ぶるに因って性命を傷つけたり。此の如き壮は又た何処に貴しと在らん。だから大壮の道は、只だ一個の「貞」の字に利する在り。
貞者,正也,理也。以理而壯,則內有主宰而志正,外無妄動而行正。志正則剛強不屈,萬物難移而內壯;行正則果決有斷,諸事能成而外壯。志以固其行,行以全其志,內外兼修,不壯者能壯,已壯者能大。已正而壯,其利寧有限量乎。
「貞」とは則ち是れ正、亦たすなわち理なり。理に依りて壮にすれば、裏面主宰有りて、志向は則ち正し。外面妄動せざれば、行事は則ち正し。志正しければ、則ち剛強不屈にして、万物それを移し動かす能わず。これは内壮なり。行い正しければ、則ち果決にして断有り、诸事倶に做り成すを得。これは外壮なり。志向を用いて行為を堅固にし、行為を用いて志向を成全し、内外一斉に修めれば、本来壮ならざるも能く壮に変じ、已に壮なるも還た能く大に変ず。既に其の正を得て又た能く壮なれば、あの好処豈に限量有らんや。
初九,在大壯之始,正當虛己求人,究明性命之理而後用。壯者,乃以剛自居,冒然進步,妄想高登,速欲成功,是壯於其趾矣。壯趾之壯,其進銳者,其退速,遠行必凶,可於理信之。此不謹於始之壯也。
初九大壮の開頭に処り、正に応に自己を虚し下げて去りて人に請教し、性命の道理を研究して明白にして而る後に手を動かすべし。壮を逞ぶの人は偏偏として剛を以て自ら居り、冒冒失失として前に往きて趕し、妄想して一歩に天に登らんとし、急ぎて成功せんと要す。これがすなわち「趾に壮んび」なり。脚趾の上に在るの壮は、進むること越えて猛ければ退くること越えて快し。遠く走れば必定して凶を招く。此の一点は道理に按じて則ち確信し得べし。これは一開頭に就きて則ち謹慎ならざるの壮なり。
九二,剛以治內,柔以應外,外不足而內有餘,不壯而壯,壯之有得於中,中而未有不正,正而未有不吉者。此嚴以治己之壯也。九三,躁進無忌,不壯於內而壯於外,小人以是而貪圖名利可也。至於修道君子,所當萬有皆空,而亦用壯於外,其壯罔用,不特壯不得正,即得其正,未取於彼,先傷於我,亦是危厲之道。如羝羊觸藩,必羸敗其角。此剛而務外之壯也。
九二剛を用いて内心を治理し、柔を用いて外物に応付す。外面不足を顕すも内裡綽綽として余有り。看れば壮ならざるに似たるも其の実是れ壮なり。壮にして中道に於いて所得有るを得たり。中に合すれば則ち正ならざる無く、正しければ則ち吉ならざる無し。これは厳格に自己を約束するの壮なり。九三躁進して顧忌する所無く、壮ならざるは裏面に於いて壮なるは外面に於り。小人此の個を拿って名利を貪図するは倒れて也た罷なり。道を修するの君子に至っては、本来応に万有皆な空なるを看るべきに、亦た壮を把って外頭に用い去れば、此の個の壮は則ち用い起すに従う無し。但だ壮正を得ざるのみならず、縦い正を得るも、還た未だ対方あの処より何を取るに到らざるに、先ず已に自己を傷つけたり。同じく是れ危厲の道、猶公羊の去りて篱笆に頂くが如く、必定して自己の角を頂き壞さん。これは剛強にして一味に外に向かって力を用うるの壮なり。
九四,剛而能柔,陰陽混合,金丹已結,所當正己之後、正人之時,是以貞吉而又悔亡也。貞吉者,正己之吉。悔亡者,正人之悔亡。又近六五虛心下賢之知音,不但不敗其己之壯,而且能大人之壯,如藩決不羸,壯于大輿之輹。此正己正人之壯也。
九四剛にして能く柔、陰陽渾然として混合し、「金丹」已に凝結し、正に自己已に正しく・応に去りて人を正すべきの時候に当たる。だから既に「貞吉」にして又た「悔亡」なり。「貞吉」は、是れ己を正すの所得の吉。「悔亡」は、是れ人を正すの消す所の悔。それは又た六五此の位の虚心して賢に下る知音に挨近し、但だ自己の壮を敗壞せざるのみならず、而且能く他人の壮を成全す。正に爻辞のいう篱笆冲開して角の卡えられざる・力量大車の車軸の上に壮なるが如し。これは既に己を正しく又た人を正すの壮なり。
六五,居於動體,柔而無剛,時在可壯,人不能壯,如喪羊於平易之地矣。然雖人不能壯,幸其柔順虛心,借他人之知識,以開自己之茅塞。虛心即能實腹,不壯者能壯,既壯者能大,可無喪羊之悔矣。此己不壯而借人之壯也。
六五震動の体に居り、陰柔にして剛無し。時勢正に壮を逞ぶべきに当たるも、自己偏偏として壮き起る能わず。好比平坦の地に於いて羊を把って丢き了るが如し。不過雖も自己壮き起る能わざるも、幸いなるにそれは柔順虚心にして、肯んじて別人の見識を借りて来て自己の茅塞を打開す。能く「虚心」(己見を存せず)すれば則ち能く「実腹」(真気内に充実す)し、本来壮ならざるも能く壮に変じ、已に壮なるも還た能く大に変ず。あの羊を丢きたるの悔恨も亦た則ち無し。これは自己壮ならずして別人の壮を借るの一類なり。
上六,愚而自用,妄猜私議,入於旁門,到得年滿月盡,生平所學,俱歸無用,如羝羊觸藩,不能退、不能遂矣。居動之極,禍已釀成,如何能退?在事之終,後悔不及,如何能遂?退之不能,遂之不得,空空一世,有何利乎?然則柔而無能者,與其自己用壯而受害,不若及早虛心求師,困而學之,勉強而行之,從艱難處下一番死功夫,不患不到大壯之地。此本不壯,而歸正即壯也。
上六愚昧にして剛愎自用し、胡乱に猜测し・私下に議論し、傍門に落ち込み、寿数満尽するに及ぶを待って、一生の学ぶ所全て無用に帰す。正像公羊篱笆に頂きて、退いて回る能わず亦た冲り過ぐる能わざるが如し。それは震動の極点に居り、禍事已に釀成せられ、怎様にして退いて回るを得ん。又た事情の末尾に処り、後悔するも亦た来るに及ばず、怎様にして冲り過ぐるを得ん。退くも退くる能わず・進むも進むる成らず、空しく一世を過し、尚何の好処か有らん。既に此の如くなれば、柔弱無能の人は、其れ自己壮を逞ぶして害を受くるより、早く及びて虚心して去りて明師を訪求するに如かず。縦い是れ困りて而る後に学び・勉強して行うと雖も、ただ肯んじて艱難の処に於いて一番の死功夫を下さば、愁えずして大壮の地步に到らざらん。これは本来壮ならず、一たび正に帰すれば則ち壮なり。
六爻皆有壯道,吉凶不一,求其壯於內,而能正己者,其惟九二。壯於外而能正人者,其惟九四乎。然則修道者,當未了道,必先正己,既已了道,又須正人。正己者,修道也;正人者,立德也。修道立德,方是壯之正、壯之大。大壯之利貞,必以道全德備為極功也。
六爻各々各々其の壮道有り、吉凶一ならず。要して壮在りて裏面にして能く自己を端正するを找れば、唯だ九二有るのみ。壮在りて外面にして能く他人を端正するは、唯だ九四有るのみ。こく如く視れば、道を修する人は還た未だ道を了ぜざる以前に、必ず先ず己を正せんを須す。已に道を了する以後に、又た必ず去りて人を正せんを須す。己を正すは、是れ道を修するなり。人を正すは、是れ徳を立つるなり。道を修すること徳を立つるを加えて、はじめて壮其の正を得・壮其の大を得と算すを得。《大壮》のいう所の「貞に利す」は、一定して道全く徳備わるを以て最後の極功と為さんを須す。
上離下坤(晋卦第三十五)
晉:康侯用錫馬蕃庶,晝日三接。初六,晉如摧如,貞吉;罔孚,裕無咎。六二,晉如愁如,貞吉,受茲介福于其王母。六三,眾允,悔亡。九四,晉如鼫鼠,貞厲。六五,悔亡,失得勿恤;往吉,無不利。上九,晉其角,維用伐邑,厲吉,無咎,貞吝。
《晋》卦。安泰の諸侯天子の賞賜する大批の車馬を獲て、一天の内三度蒙受して接見せらる。初六。上進せんと想うも挫折を受く、正を守れば則ち吉祥。一時信頼を得る能わざれば、寛裕従容にして、則ち過有らざらん。六二。上進せんと想うも心に憂愁を生じ、正を守れば則ち吉祥、王母あの処より此の一份の大福を承受するを得ん。六三。衆人倶にそれに信從し、悔恨消失す。九四。上進するも碩鼠の一般に鬼崇たり、即かり正を守るも亦た危険。六五。悔恨消失し、得と失と倶に憂慮するを必とせず。前往すれば吉祥、利あらざる何も無し。上九。上進獣角の尽頭に到る、只だ用いて自己の采邑を討伐する可し。雖も危厲有るも終に吉祥を得、過有らざらん。但し此の如き正を守着するも亦た免れず憾惜有り。
晉者,進也。卦德上離明、下坤順,由順而生明,用明而行順,順時順理,其明日增,故謂晉。此自誠而明,進火之卦,承上遯卦而來。遯者,止其健,而不輕用健也。不輕用健則心虛,心虛則燭照覺察,戒慎恐懼,不為物慾所瞞,黑中有白,神明自來矣。
「晋」の意思是れ前進。卦徳に就きて言えば、上卦離は明・下卦坤は順。順に由りて明を生出し、又た此の份の明を用いて順を行い去り、天時に順応し・事理に順応し、光明便ち一天天に增加す。だから「晋」と呼ばれる。これは一個の誠に由りて明、講ずる「火を進め」(陽火を進め、すなわち是れ前に向かって功を推進し・陽気を増長す)の卦で、上一卦《遯》を承接して来る。《遯》の講ずるは自己の剛健を止住し、軽易に剛健を動用せざるなり。軽易に健を用いざれば、心は則ち虚し。心一たび虚なれば、便ち能く燭照して覚察し、戒慎恐懼して、物欲に蒙騙せられず、黒暗の中に一点の白光を透出し、神明自然に就きて來る。
人之本來良知良能之性,炯炯不昧,其德本明,因交後天,識神用事,人心起而道心藏,良知之健,變為不良之健,良能之順,變為不良之順。心與物交,錮閉靈竅,神明有昧矣。
人本来あの一点の良知良能の天性は、炯炯然として昏昧せらるる能わず。其の徳性本来自ら光明なり。只だ後天に落入するに因りて、「識神」(後天見聞分別の妄識)家に当たり主を為し、人心一たび起これば、道心便ち蔵して起きたり。良知の剛健は変じて不良の剛健と成り、良能の柔順は変じて不良の柔順と成る。心一たび外物と交接すれば、則ち霊竅を錮閉して住め、神明ここにおいて昏昧有るに至れり。
聖人教人進火者,由不明而復進於明耳。進明之功,非順道不能。順者,順時順理,常存道心,不生人心,知之能之,無一不良。天之賦人者良,人之順天者亦良。天人合發,元神不昧,自誠而明,其明日增,由小而大,自微而著,漸進於高明遠見之處,有象於康侯,用錫馬蕃庶,晝日三接也。
聖人人を教えて「火を進め」せしむるは、為す所は不明より再び明に回進せんとするなり。而して光明を増長する此の番の功夫は、順道に循わざれば則ち成る能わず。いわゆる順とは、是れ天時に順い・事理に順い、常に道心を存み、人心を生ぜず、知る所能る所一様として良善ならざる無し。天の人に賦与するは是れ良、人の天に順從するも亦た是れ良。天と人と一斉に発動し、「元神」(先天本有の神明)復た昏昧せず、誠に由りて明を生じ、光明一天天に増長し、小より大に由り・隱より顕に到り、漸漸高明遠見の境地に進入す。正に卦辞の取る所の康侯車馬を獲賜り・一日三度接を受くるの景象に合す。
康侯者,安泰寧靜之侯。馬在午,屬於離明之象。蕃庶者,地所生,屬於坤順之象。晝日者,日之明,明在上也。三接者,地之順,順在下也。人之良知良能之真心,為一身之主,如一國之有康侯也。真心不背於天良,用明用順,如康侯用錫馬蕃庶也。
「康侯」は是れ安泰寧静の諸侯。馬は地支の午に配し、取るは是れ離明の象。「蕃庶」は是れ大地の生養する所の衆多の物、取るは是れ坤順の象。「昼日」は是れ白日の光明、明は上卦に在り。「三接」は是れ大地の柔順、順は下卦に在り。人あの点の良知良能の真心は、是れ一身の主宰、好比一国此の如き一位の康侯有るが如し。真心天の賦与する良善に違背せず、既に明を用い又た順を用いれば、則ち如同康侯大批の車馬を獲賜るが一般なり。
由順而生明,以明而行順,如晝日三接也。三接者,乃再三之順,不順而必至於順,其中有閒邪存誠之功。閒邪存誠,人心順、道心彰,誠則明矣,明則誠矣。誠明兼該,明明德而止於止善,進火之功盡矣。
順に由りて明を生出し、再以て明を以て順を行い去る。これがすなわち「昼日三接」なり。いわゆる三接とは、是れ再三に順うなり。本来順ならざるも亦た一定して順を做り到らんと要す。此の裏頭に一番の「邪を閑し誠を存す」(邪念を防ぎ住み・誠実を存み住め)の功夫有り。邪を閑し誠を存せば、人心便ち順服し、道心便ち彰顕す。誠なれば則ち明、明なれば亦た則ち誠。誠と明と两下兼備して、本有の明徳を彰明して至善に安止せば、火を進める此の番の功夫も亦た則ち做り尽せり。
初六,在明之初,大理未明,宜靜不宜動,是以晉如摧如,守貞而吉也。夫守貞而吉者,以其未能至信,先須窮理,充裕於內,運火自無差錯之咎矣。此未進明,先求其明也。
初六明の開端に処り、大道理還た未だ明白を弄らず、静に宜しくして動に宜からず。だから「晋如として摧如」と曰う――上進せんと想うも反って挫え住められ、唯だ正を守るのみはじめて吉祥。何を以てか正を守れば則ち吉祥なる。それは還た能く人に信を取る能わざるに因る。先ず義理を把って窮究して透徹せしめ、内裡をして充裕して起らしめ、將來火を運ぶも自然に差錯の過失有らざらんを須す。これは還た未だ明を進めず、先ず去りて明を把って手に到るを求むるなり。
六二,處於三陰昏暗之中,不但不能增明,而且有以蔽明,是以晉如愁如也。然柔而守正,不為假陰所惑,不進而亦不愁,是以貞而得吉。蓋能貞則致虛守靜,真陰現象,假陰自化,如受茲介福于其王母矣。此處不明,不遽進明也。
六二三個の陰爻の昏暗の当中に処り、但だ能く光明を増長せざるのみならず、反って光明を遮蔽するの危険有り。だから「晋如として愁如」と曰う。然而それは柔順にして正を守り、虚偽の陰気に迷惑せられず。雖も前進せざるも却って亦た憂愁せず。だから正を守りて吉を得。能く正を守れば則ち能く虚を致し静を守るに因る。虚静極処に到れば、「真陰」(先天本有の一分の陰精)自然現象し、「假陰」(後天情識雑念の陰)自然消化す。正に爻辞のいう王母あの処より此の份の大福を承受するが如し。これは身明ならざるの地に処りて、急ぎて去りて明を進めざるなり。
六三,不能自下而順,乃自上而順,似乎不正而致悔。然性柔志剛,不順陰而順陽,借他家之明,以濟我家之暗,我順他而他即順我,是以眾允其進,有悔可亡。此己不明,順人之明也。
六三能く下より上に自りて順わず、反って是れ上より下に自りて順う。看れば正ならざるも悔恨を招來せんと要するに似たり。然而それは性情柔和にして志気剛強、陰に順從せずして陽に順從し、「他家」の光明を借りて来て「我家」の昏暗を救う――丹道は自身後天此の一辺を以て「我家」と為し、先天真陽の在る所あの一辺を以て「他家」と為す。我彼に順えば、彼も亦た則ち我に順う。だから衆人倶に其の上進に信從し、本有の悔恨消掉し得べし。これは自己明ならずして別人の明に順從するの一類なり。
九四,居於明體,已進於明矣。但在二陰之內。明藏暗中,又應初陰,明而有私,邪正不分,是非相雜,以是進明如鼫鼠夜行,所見不大,其行不遠。雖用明得正,終有危厲。此剛而有私之明也。
九四已に離明の体に居り、算す明に進み到れりと。可是それは两個の陰爻の内に夾まれ、明暗の裏に蔵せり。又た初六の陰と相応じ、明中私心を帯び、邪正分かれず・是非夾雑す。此の如くして去りて明を進めば、猶碩鼠夜裡出行するが如く、看るに大ならず・走るに遠からず。雖も明を用うるは還た算す其の正を得れども、終究に危厲有り。これは剛にして私心を夾帯するの明なり。
六五,居於二陽之內,既明其我家不明,又明其他家有明,借剛濟柔,本有悔者而悔可亡。悔由於心之不虛,若知虛心,則以己求人,即能實腹,既實其腹,則吉凶止足,如在掌上,可以失得勿恤,直行無疑,往而進火下功。吉無不利者。此虛以招實之明也。
六五两個の陽爻の間に居り、既に明白して我家自身の明ならざるを知り、又た明白して他家あの辺に明有るを知り、剛を借りて来て自己の柔を濟す。本有悔恨も悔消掉し得べし。悔は是れ心肯んじて虚ならざるより來る。もし虚心を懂れ、自己を拿って去りて人に求教せば、則ち能く「腹を実に」(真気内に充実す)せん。腹既に充実せば、吉凶止足便ち自己の掌紋を看るが如く清楚なり。可に得失倶に憂慮せず、一直に走下去りて復た遲疑せず、放手して前往して去りて火を進め功を下し、吉祥にして利あらざる所無し。これは虚を以て実を招くの明なり。
上九,剛強自勝,只知進明,不知虛明,是以維用伐邑也。邑為私邑,伐邑即克己之功。克己之功,虛人心也。若不虛心,獨恃其剛,強制強伏,必危厲而後得吉,得無咎,以是用明,雖克己得正,亦屬勉強,不由自然,未免取吝於大方。此剛而高亢之明也。
上九剛強好勝にして、ただ往きて前に明を進めるを知るのみ、此の份の明を把って虚し下げるを知らず。だから「維れ邑を伐つを用う」と曰う。「邑」は是れ自家の私邑、邑を伐つは則ち是れ己を克すの功夫。己を克すの功夫は、説き到底に至れば則ち是れ人心を把って虚掉し去るなり。もし肯んじて虚心せざれば、単に自己一身の剛に靠り、強を以て強を壓伏するの办法を用いれば、必定して先ず一番の危厲を経て而る後にはじめて吉を得・はじめて咎無からん。此の如くして明を用うれば、雖も己を克すも亦た算す正を得れども、終究に勉強に属し、是れ自然より出ずるに非ず。難を免れずして行家の跟前に於いて一個の憾惜に落ちん。これは剛強にして高亢の明なり。
然則,進明運火之道,未明必先求其明,既明又當虛其明,虛實並用,剛柔相當;自誠而明,明本於誠,其明日進日高,用之不盡,取之不竭,大地裡黃芽長遍,滿世界金花開綻,無處不可用明,無處能傷其明矣。
こく如く視れば、明を進め火を運ぶの門徑は是れ。還た未だ明ならざれば、必ず先ず去りて明を求めんを須す。已に明れば、又た応に此の份の明を把って虚し下ぐべし。虚と実と並びて用い、剛と柔と相当し、誠に由りて明を生じ、明は誠を以て根本と為せば、あの份の光明便ち一天天に長進し・一天天に高明し、之を用いて尽きず・之を取って竭きず。遍地に「黄芽」長出し、満世界に「金花」開出す――此の两個倶に是れ丹道の先天真陽の萌動し・丹光の顕現するを形容するの比喻なり。あの時に到れば、何処に走り到るも倶に明を用うる能く、何処に走り到るも亦た此の份の明を傷つくる能わざらん。
上坤下離(明夷卦第三十六)
明夷:利艱貞。初九,明夷于飛,垂其翼;君子于行,三日不食。有攸往,主人有言。六二,明夷,夷于左股,用拯馬壯,吉。九三,明夷于南狩,得其大首;不可疾,貞。六四,入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。六五,箕子之明夷,利貞。上六,不明,晦;初登于天,後入于地。
《明夷》卦。艱難の中に於いて正固を守持するに利し。初九。光明傷ついたる鳥飛び在り、翅膀を垂下せり。君子路を趕り、三天飯を喫い上ぐる能わず。往く所有れば、主人還た閑話を説かん。六二。光明傷つき、傷は左腿の上に在り。一匹の健壮の馬に靠りて來り救援し、吉祥。九三。南方に巡狩するの際に於いて光明傷つき、却ってあの個の首惡を擒住せり。操ること過急する可からず、正固を守持せんを須す。六四。左辺の腹地に進入し、明夷の用心を探り得、ここにおいて門庭の中より走出せり。六五。箕子あの様子の如く自己の光明を把って収蔵して起き、正固を守持するに利し。上六。但だ明ならざるのみならず、反って昏暗。起初天上に升り、後來地下に堕ち入る。
明夷有二義。一夷者,藏也。一夷者,傷也。卦德上坤順、下離明,明在順中,明而順時,以順養明,故謂明夷。又明在暗中,明而有傷,亦謂明夷。此自明而誠,退火之卦,承上大壯而來。大壯者,健於動也。健於動,須要知其進退,若有進無退,壯之太過,必傷其明,明傷而壯,未有不敗者,此退火之功所由貴。
「明夷」は两重の意思を含着す。一個の「夷」は是れ収蔵、一個の「夷」は是れ損傷。卦徳に就きて言えば、上卦坤は順・下卦離は明。明順の中に在り、明にして能く時勢に順応し、順を用いて明を涵養す。だから「明夷」と呼ばれる。又た明暗に落ちるに因りて、明にして傷を受く、亦た「明夷」と呼ばれる。これは明に由りて返りて誠に帰し、講ずる「火を退け」(陽火を収退し・火候を把って降げ下る)の卦で、上一卦《大壮》を承接して来る。《大壮》の講ずるは剛健にして動を好むなり。剛健にして動を好めば則ち必ず進退を懂れんを須す。もしただ進を知りて退を知らざれば、壮太も過ぎて、必定して自己の明を傷つけん。明已に傷を受けて還た一味に壮を逞ぶせば、敗せざる無し。火を退くる此の番の功夫の可貴なるは正に此の裏に在り。
退火者,藏明於至幽至密之處,而不輕自用也。修道之所以進火用明者,以其不明而進至於明耳。既進至於明,內外不昧,可以韜明養晦,必至於至善無惡之地,使明無一點有傷,方謂火返其本,有氣無質,一團和氣,良知良能,元神不昧,非色非空,即色即空,色空不拘,如日在地上能照外,日在地下能照內。內之外之,無一不明,不明之明,勝於用明,明而無形跡可窺矣。無形跡可窺,方是火退,而火返本。但此火退、返本之道,亦逆道也。
いわゆる火を退くるとは、是れ光明を把って極幽極密の地方に蔵めて、肯んじて軽易に自ら用いず。道を修するの火を進め明を用いるを要する所以は、是れ原本明ならざるに因りて、一歩一歩に明に進み到らんと要すればなり。既に明に進み到りて、内外倶に昏昧せざれば、則ち応に光を韜め晦を養い、一直に做りて至善悪無きの地步に到り、此の份の明をして一点の損傷も無からしめて、はじめて「火其の本に返る」と呼ばるべし。只だ気有りて質無く、渾然として一団の和気、良知良能倶に在り、元神昧ならず、色に非ず空に非ずして而又た即色即空にして、色と空と倶にそれを拘え住む能わず。好比太陽地の上に在れば能く外面を照らし、太陽地の下に在れば能く裏面を照らすが如し。内に向かうと外に向かうとを論ぜず、一処として明ならざる無し。此の種の「明らずの明」は、反って刻意に明を用い去るに勝り、明して窺い探るべき形迹無きに到る。形迹窺う可き無きの地步に到って、はじめて火退けり・火本に返れりと算す。ただ是れ此の条の火退き本に返るの路は、亦た是れ一条の「逆」修の路なり。
逆者何逆?逆其所生之明於內,有明而不自用也。有明不用,非空空無為便能了事,其中有防危慮險之功,隨時收斂之道,要在於艱難不能自由處返來,若返於順,而不能返於逆,則火不歸元,明不入真,終必有傷,故明夷利於艱貞也。艱難守正,順時而退,明不受傷,丹元無滲漏之患,所謂“縱識殊砂與黑鉛,不知火候也如閒,大都全借修持力,毫髮差殊不結丹”。
逆するは是れ何ぞや。是れ自己の生出したる明を把って逆らいて収め回して内裡に到らしめ、明有りて自ら用いざるなり。明有りて用いずは、並びて是れ空空として一味無為にすれば則ち了事する能くに非ず。此の裏頭に危を防ぎ険を慮るの功夫有り、随時に収斂するの門道有り、緊要の処は艱難自由を得ざるの地方より返り來るに在り。もし只だ能く順いて返り・能く逆らいて返る能わざれば、あれは則ち火元に帰せず・明真に入らず、最終に必定して損傷を受けん。だから《明夷》は「艱貞」に利する在り。艱難の中に於いて正を守り、時勢に順って収退せば、明は則ち傷を受けず、「丹元」(内丹の根本元気)も亦た渗漏の患無し。張伯端《悟真篇》に説く明白なり。縦い朱砂と黑鉛此の两味の薬物を認得するも、火候を懂れざれば亦た仍ほ是れ白搭なり。此の樁の事は全て一分の実修の功力に靠り、毫厘に差しなば則ち丹を結成する能わず。
蓋以修丹之道,全要以火為準則,少於火而丹不成,過於火而丹即傷,及丹已成,急須住火停輪,沐浴溫養,守中抱一,深藏其明於無聲無臭之地,不使有一點火氣耳。
丹を修する此の条の路は、全て「火」を拿って準則を做さんを須するに因る。火候足らざれば、丹結び成らず。火候太も過ぎれば、丹則ち傷を受く。丹已に結成するに及ぶを待って、則ち得て赶紧に「火を住め輪を停め」(火を運び周天を行うの功夫を停下す)し、沐浴温養に転入し、中を守り一を抱き、此の份の光明を把って声無く臭無きの地方に深蔵し、それをして一点の火気を留下せしめざらん。
初九,在明夷之初,雖無傷之形,已有傷之幾,急須退火,以免其害。以象取之,如明夷于飛垂其翼;以人取之,如君子于行,三日不食,有攸往。垂翼之飛,不食而往,明於退而急退者。然主人有言者,退火乃聖胎凝結以後之事。聖胎凝結,自有真火,不用假火,如愚如訥。人所嫌忌,有言毀謗,必不能免。然雖有毀有謗,外傷而內不傷。此退火於未傷之前也。
初九明夷の開頭に処り、雖も還た未だ傷を受くるの形迹無しと雖も、却って已に傷を受くるの苗頭有り。必ず赶紧に火を退けて、好くして後患を免れんを須す。物象の上に就きて譬を取れば、好比光明傷ついたる鳥飛び在りて翅膀を垂下せるが如し。人事の上に就きて譬を取れば、好比君子路を趕りて・三天飯を喫い上ぐる能わず・還た往く所有らんと要するが如し。翼を垂れて飛び・食わずして行くは、倶に是れ応に退くべきを明白して則ち赶紧に退くの人なり。爻辞の「主人言有り」と曰うに至っては、是れ火を退くる本は是れ「聖胎」(内丹の凝成したる胚胎)結成の以後の事に因る。聖胎既に凝結せば、裏面自ら「真火」有り、假火を用うるに及ばず。外表看去鈍に似たり・木訥に似たり。此れ正に是れ旁人の嫌忌する所、人に議論せられ・毀謗に遭う、必定して免るべからず。不過縦い毀有り謗有るも、傷つくるも只だ是れ外面、裏面は並びて傷を受けず。これは還た未だ傷を受けざる以前に就きて先ず火を退くるなり。
六二,退火稍遲,而即見傷,如明夷于左股也。然柔順虛心,見傷即知。用壯馬急拯其不能早退之失,可不至於大傷其明,亦致吉之道。此退火於見傷之時也。
六二火を退くること稍々一歩遲れ、ここにおいて当下に則ち傷を見たり。好比光明傷つきて傷左腿の上に在るが如し。幸いなるにそれは柔順虚心にして、一たび傷を受くれば立刻に則ち察覺し、一匹の壮馬を用いて急々として去りて自己の能く早退せざりしの過失を補救すれば、則ち大いに其の明を傷るに至らず。此も亦た一条の吉祥を招致するの路なり。これは已に傷を見るの時候に於いて火を退くるなり。
九三,剛明兼備,運天然真火,煅去人心之首惡,人心一去,邪火自化,如明夷于南狩,得其大首也。但人心有識神居之,為歷劫輪迴之種子,不易去之,若去太猛,反激邪火妄動。真人有傷,惟不可疾貞,漸次化之,人心終有消滅之時。此運真火而明不傷也。
九三剛と明と两样兼備し、能く「天然真火」(造作を假らず・本自具足のあの一点の陽火)を運用して、人の心中の首惡を把って煆焼して掉る。人心一たび去れば、邪火自然消化す。正に爻辞のいう南方に於いて巡狩して首惡を擒住したるが如し。ただ是れ人の心裡に「識神」を住着せり。あれは是れ歷劫輪廻の種子、容易に去り掉る能わず。もし去ること太も猛ければ、反って邪火を激起して妄動せしめ、身中の真人を連ねて亦た傷を受けんを要す。だから只だ能く爻辞のいう所に照らして「疾くする可からず、貞なれ」、急燥せずして正を守り、一層一層にそれを化し去れば、人心終究に消滅の一天有らん。これは真火を運びて光明傷を受けざるなり。
六四,養明於幽深至密之處,如入于左腹矣。左腹之明,視之不見,不識不知,可獲明夷之心,于出門庭,出有心而入無心,一切邪火,焉得而發之。此退假火而明不傷也。
六四光明を把って幽深至密の地方に養い起き、好比左辺の腹地に進入したるが如し。左腹の中の明は、看るも看えず、識を用いず・知を用いず。此に因って能く明夷の用心を探り得、門庭の中より走出せり。出で去るは是れ有心、回り來るは是れ無心。一切の邪火どこが還た発き起さるを得んや。これは假火を退け掉りて光明傷を受けざるなり。
六五,守中抱一,絕不用明,而明常存,所謂內有天然真火,爐中赫赫長紅,如箕子之明夷,利在於貞也。利貞之明夷,外不足而內有餘。此養真火而明不傷也。
六五中を守り一を抱き、全然として去りて明を用いざるも、而も明は却って常に存す。これがすなわちいわゆる裏面に一団の天然真火有りて、丹炉の中赫赫として長紅なり。正に箕子あの様子の如く光明を把って収蔵して起き、正固を守持するに利する在り。此の種の「貞に利す」の明夷は、外面不足を顕すも内裡綽綽として余有り。これは真火を涵養して光明傷を受けざるなり。
上六,不明火候,只知順用其明,不知逆退其明,是不明而反晦也。不明反晦,無益有損,自招其災,如初登于天而進明,後入于地而傷明,金丹得而復失,前功俱廢矣。此不知退火而明終傷也。
上六火候を懂れず、ただ順いて去りて自己の明を用うるを知り、逆らいて明を把って収退して回るを知らず。結局但だ明ならざるのみならず、反って昏晦に転成す。明ならずして反って昏晦は、損有りて益無く、自己災を招く。正に爻辞のいう起初天上に升るは是れ明を進め、後來地下に堕ち入るは是れ明を傷つくるが如し。「金丹」手に到りて了又た丢き掉り、従前の功夫全部作廃す。これは火を退くるを知らずして光明終に傷を受くるに帰すなり。
噫!養火即養明。退火即藏明,明藏於內,火返其真,虛靈不昧,期其神化,歸於無形無色而後已。但須要知得養明、退火之火候耳。若不知火候,不特不能養明,而且有以昧明,是亦明夷而已,何能濟事乎!
唉!火を養うは則ち是れ明を養い、火を退くるは則ち是れ明を蔵む。明裏面に蔵まり、火其の真源に返帰し、虚霊にして昏昧せず、一路それを指望して神化して下去り、無形無色に帰してはじめて完と算す。ただ是れ必ず明を養い・火を退くるのあの一段の火候を懂れんを須す。もし火候を懂れざれば、但だ明を養い成さざるのみならず、反って明を把って昏に弄りて、あれも亦不過又た一場の「明夷」――光明傷を受くるのみ、怎様にして事を濟すを得んや。
上巽下離(家人卦第三十七)
家人:利女貞。初九,閑有家,悔亡。六二,無攸遂,在中饋,貞吉。九三,家人嗃嗃,悔厲,吉。婦子嘻嘻,終吝。六四,富家,大吉。九五,王假有家,勿恤,吉。上九,有孚威如,終吉。
《家人》卦。女子正固を守持するに利し。初九。一開頭に就きて家裡に於いて防閑の規矩を立下す、悔恨消失す。六二。擅自に外面に到りて何を成就し去らず、只だ家中に於いて飲食の事を操持し、正を守れば則ち吉祥。九三。家を治むること過嚴にして、家人嗷嗷として苦しみを叫ぶ。雖も悔恨危厲有るも、終究に吉祥。もし婦人孩子嘻嘻哈哈として全て規矩無ければ、最後に必ず憾惜有らん。六四。家道をして富足せしむ、大いに吉祥。九五。君王至誠を以て感格して来て其の家を治理す、憂慮するを必とせず、吉祥。上九。心に誠信を存して又た威厳有り、最終に吉祥。
家人者,家中有人,治內之道。卦德上巽入、下離明。明則可以巽行其道,巽則能以漸通其明,巽明相需,如以風吹火,火隨風生。有治家之道,故謂家人。此煉己持心、迴光返照之卦,承上晉卦而來。晉者,明由順生,進火用明之功。進火用明,須先明內,明內者煉己也。
「家人」は則ち家中に人有るなり。講ずるは内部を治理するの道理なり。卦徳に就きて言えば、上卦巽は入・下卦離は明。明有れば、則ち能く巽順の方式を用いて道を把って推行して下去る能く。能く巽順なれば、則ち能く一歩一歩に明を把って通達して開ける能く。巽と明と彼此相需し、好比風を用いて去りて火を吹くが如く、火風に随って則ち旺に起これり。其中治家の道理を含着す。だから「家人」と呼ばれる。これは一個の「己を錬り心を持す」「光を回して返照す」を講ずる卦で、上一卦《晋》を承接して来る。《晋》の講ずるは明順の中より生出す、是れ火を進め明を用うるの功夫なり。而して火を進め明を用いんと要せば、必ず先ず其の内を明らかにせんを須す。内を明らかにするは亦たすなわち己を錬るなり。
煉己者,煉我家之陰耳。我家之陰為何陰?人心是也。人身精、神、魂、魄、意,皆屬陰,聽命於人心,人心靜而五者皆靜,人心動而五者皆動,煉己即煉此人心耳。煉去人心,道心自現,道心現而心明,則精、神、魂、魄、意,皆化而為護法神矣。
いわゆる己を錬るとは、錬るは是れ「我家の陰」――丹道は自身後天此の一辺を把って「我家」と呼び、其中陰に属するの成分は則ち錬化せんと要するの対象なり。我家の陰究竟是れ何の陰ぞや。則ち是れ人心なり。人身上の精・神・魂・魄・意此の五様倶に陰に属し、全て人心に聴命す。人心一たび静なれば、此の五様跟って倶に静なり。人心一たび動けば、此の五様跟って倶に動く。だから己を錬るは説き到底に至れば則ち是れ此の個の人心を錬るなり。人心を把って錬化して掉れば、道心自然顯現す。道心一たび現れば、此の心便ち光明透亮にして、則ち精・神・魂・魄・意も亦た則ち一斉に転化し、大道を護持するの神明と成れり。
人之身,如家也。人之精、神、魂、魄、意,如一家之人也。煉人心而生道心,精、神、魂、魄、意,各安其位,各伺其事,喜、怒、哀、樂,皆和而中節,如一家治也。取象利女貞,女以守貞為貴,煉己如女之守貞不字,則我家之真陰現象。真陰現象,則心虛靈不昧,外物不得而入,可以循序漸進,以求他家之陽,無有不利者。
人の此の個の身子好比是れ一個の家、人の精・神・魂・魄・意好比是れ一家の人口。人心を把って錬掉して道心を生出せば、精・神・魂・魄・意便ち各々其の位に安んじ・各々其の事を管し、喜・怒・哀・楽倶に調和して節度に合す。猶一個の家治理して井井条々たるが如し。卦辞象を取りて「女貞に利す」と為す。女子は貞を守るを以て貴しと為し、己を錬るは猶女子の貞を守りて軽易に嫁を許さざるが如し。此の如くして我家の「真陰」はじめて顕象せんを會す。真陰一たび顕象すれば、心は則ち虚霊昧ならず、外物侵し入る能わず。便ち可に循序漸進して、去りて「他家の陽」(先天あの一点の真陽)を求め、利あらざる無し。
卦體二虛於下,五實於上。虛心即能以實腹,利女貞,正所以致虛守靜,以為成家立業計耳。故修道者,戒慎恐懼,於不睹不聞之內,不使有一毫陰氣潛藏於方寸之中也。
卦体に就きて言えば、六二陰を以て下に居りて中虚、九五陽を以て上に居りて中実なり。能く「虚心」すれば則ち能く「実腹」す。いわゆる「女貞に利す」とは、正に是れ人をして虚を致し静を守らしめ、將來家を成し業を立つるの打算を作さんと替うるなり。だから道を修する人は応に戒慎恐懼して、別人の看えざり・聴えざるの地方に於いて功夫を下し、一絲一毫の陰気をして方寸の心の裡に偷偷蔵せしめざらん。
初九,在家人之初,剛於煉己,如閒有家也。有己即能防閒剋制,方寸之中,空空洞洞,內念不生,外物不入,本有悔而悔可亡。此煉已於有己之初者也。
初九家人卦の開頭に処り、能く剛毅に己を錬るの功夫を下す。正に爻辞のいう一開頭に就きて家中に於いて防閑の規矩を立起するが如し。既に尚あの個の「己」有る在り、則ち要して防閑剋制して、方寸の間をして空空洞洞とし・裏面の念頭生ぜず・外面の物欲入らざらしめ、本来悔有るも悔消掉し得べし。これは「己有る」の最初の階段に於いて就きて己を錬るの功夫を下すの一類なり。
六二,柔而中正,返觀內照,心清意靜,不專遂於外,而謹慎於內,以靜制動,以一御紛,外物不納,客氣難入,如婦人在中饋而居貞,未有不得吉者。此煉己而用柔道者也。
六二柔順にして中正、返りて觀じ内に照らし、心清く意静かにして、一味に外面に到りて成就を求め去らず、而も裏面に於いて処処謹慎し、静を以て動を制し、専一を以て紛雑を駕馭す。外物納れ入る能わず、客気も亦た侵入し難し。好比婦人家に在りて飲食を操持して貞正に安守するが如く、吉を得ざる無し。これは己を錬りて柔道を用うるの一類なり。
九三,煉己功勤,雜念不生,如家人嗃嗃,悔厲驚懼,不敢為惡,自然得吉。否則有念不去,姑息養奸,恣情縱欲,如婦子嘻嘻,略無家法,焉能到得無己之時?如此修道,終不成道,取吝而已。此煉己當用剛道者也。
九三己を錬り功を用うること勤苦にして、雑念生ぜず。好比家を治むること厳厲にして家人嗷嗷として苦しみを叫ぶが如く、雖も悔恨危厲有り・心中驚懼するも、却って敢えて惡を為さず、自然に吉を得。反って、もし是れ念頭有りて肯んじて除去せず、姑息して奸を養い・情を恣にし欲を縦にせば、好比婦人孩子嘻嘻哈哈として・一点の家法も皆な無きが如く、どこが還た「己無き」の地步に到るを得んや。此の如くして道を修すれば、終究に道を成す能わず、只だ一個の憾惜に落つるのみ。これは己を錬る応に剛道を用いるべきの一類なり。
六四,以柔求剛,借剛濟柔,不即不離,漸次導引。虛心即能實腹,富有日新,方且積法財、聚天寶,其吉之大,不僅無己而已。此煉己柔而用剛者也。九五,陽剛得中,心正而身修,如王者假家施治,而天下自平,其吉出於自然,非有勉強,何憂恤之有?此煉己而剛柔如一者也。
六四柔を以て去りて剛を求め、剛を借りて来て自己の柔を濟し、既に急切に貼り上がらず、亦た撒手して離去せず、一層一層に引導して推進す。能く虚心すれば則ち能く実腹し、富有にして且つ日新にして、正に彼処に於いて「法財」を積攢し・「天寶」を聚集し在り(倶に是れ道を修するに需要するの功行と先天真気を指す)。それの吉祥の大は、則ち不止是れ「己無き」を做り到るに已まるのみなり。これは己を錬りて柔を以て剛を用うるの一類なり。九五陽剛にして上卦の中に居り、心正しく身修まり、好比君王至誠を以て感格して来て自己の家を治理し、天下自然太平なり。其の吉祥自然より出で、一点の勉強を帯びず。還た何の憂慮すべきか有らん。これは己を錬りて剛柔一片に打ち成るの一類なり。
上九,剛而居於巽體之上,可信其煉己有威如矣。煉己威如,嚴之於初,自能吉之於終,此煉己而有始有終者也。子書云:煉己不熟,還丹不結。還丹頭一步功夫,先要煉己,煉己煉到無己時,虛室生白,先天之氣,自虛無中來,凝結而成黍米之珠,其光通天徹地,一切魍魎邪魔,焉得而近之,煉己之功豈小焉哉!
上九陽剛にして巽体の最上に居り、可に信ず、それの己を錬る已に威厳を錬出して來たるを。己を錬るに威厳有れば、一開頭に就きて厳格に要求し、自然に能く最後に於いて吉を得ん。これは己を錬りて始有り終有るの一類なり。道書の上に説く。己を錬ること熟ならざれば、還丹は則ち結び成らずと。還丹の頭一歩の功夫先ず応に己を錬らんを須す。己を錬ること「己無き」の時候に錬り到れば、空虚の心室の裡自然白光を生出し、先天の気虚無の中より來りて、一粒の「黍米の珠」(丹家の金丹初結の時黍米の般の大小なるあの点の真種を形容する)に凝結し成り、其の光天を通じ地を徹し、一切の魍魎邪魔どこが還た敢えて靠近せんや。己を錬る此の番の功夫は、豈に是れ小事ならんや。
上離下兌(睽卦第三十八)
睽:小事吉。初九,悔亡。喪馬勿逐自復,見惡人,無咎。九二,遇主于巷,無咎。六三,見輿曳,其牛掣,其人天且劓。無初有終。九四,睽孤,遇元夫,交孚,厲無咎。六五,悔亡,厥宗噬膚,往何咎?上九,睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧後說之弧。匪寇婚媾,往遇雨則吉。
《睽》卦。小事吉祥。初九。悔恨消失す。馬を丢き了るも追い去るを必とせず、それ自己会うて回り來らん。面目憎悪すべきの人を見るも、亦た過有らざらん。九二。小巷の裡に於いて主人に遇上せり、過有らざらん。六三。大車の拖え住めらるるを見・車を拉するの牛も亦た牽掣せられ・車を趕るの人還た額を刺し鼻を割かるるの刑罰に遭うを見る。起初順ならず、終究に好き結果有らん。九四。乖離孤立の中、一位の陽剛の大丈夫に遇上し、彼此誠を以て相交わり、雖も危厲有るも亦た過有らざらん。六五。悔恨消失し、同宗の人相合するは一塊の軟肉を咬み開くが如き容易、此の如くして前往すれば還た何の過咎か有らん。上九。乖離孤立の中、猪の背上泥污満ちたるを見、又た一車鬼怪を載せたるを見る。先是れ弓を張りて射んと要し、随後又た弓を把って放下せり。元來対方是れ強盗に非ず、而も是れ婚配を求めに來るなり。前往もし一場の雨に遇上せば則ち吉祥。
睽者,彼此相違之義。卦德上離明、下兌悅,悅生於內,明用於外,悅非所悅,明非所明,悅明不當,故謂睽。此陰陽相隔,和緩調理之卦,承上明夷而來。明夷者,真明有昧之義。真明有昧,假明即出,識神用事,順其所欲,明於外而不明於內,性亂命搖,與道相隔,此睽之所由來也。然睽則睽矣。又有致合之道,特以明雖在外,若能虛其心,可以返明於內。欲雖起內,若能實其腹,可以掃欲於外。明返欲掃,神定情忘,則陰陽隔礙潛通,睽者亦可以致合,故小事吉也。
「睽」は彼此相違背するの意。卦徳に就きて言えば、上卦離は明・下卦兌は悦。悦裏面より生出し、明外面に向かって発用す。偏偏として悦ぶ所は悦ぶべきに非ず、明らかにする所は明らかにすべきに非ず。悦と明と倶に用いること当を得ず。だから「睽」と呼ばれる。これは一個の陰陽彼此相隔たりて・和緩に調理せんを須するの卦で、上一卦《明夷》を承接して来る。《明夷》の講ずるは真明昏昧有るを得たるなり。真明一たび昏昧すれば、假明就きて冒出し來り、「識神」家に当たり主を為し、一味に自己の欲望に順い、明は外面に在りて明は裏面に在らず。ここにおいて性乱れ・命搖れて、道と相隔たる――これがすなわち睽の來由なり。不過睽雖も是れ睽れたりと雖も、還たそれをして重新合攏せしむるの路子有り。明雖も外面に跑り到り去るも、ただ能く心を把って虚し下げれば、則ち可に明を把って内裡に返回到らしめん。欲雖も裏面より起き自るも、ただ能く腹を把って充実して起かば、則ち可に欲を把って外頭に掃き去らん。明返り回り・欲掃き出せば、神安定し・情忘掉し、則ち陰陽縦い隔礙有るも亦た能く暗中相通じ、乖離するも亦た可に重新合攏せん。だから卦辞に「小事吉」と曰う。
小事者,陰之事。人心用事已久,道心埋沒,大事已去,今欲致合,必先去人心而後生道心,道心復後,大事方吉。正在睽中,求其人心不壞,其事足矣。安敢望其大事之吉乎。試就小事吉者論之。
いわゆる小事とは、是れ陰に属するあの一辺の事なり。人心家に当たり已に很に久し、道心埋没して見えず、性命此の樁の大事早就きて丢き了れり。如今重新合攏せんと想わば、必ず先ず人心を去掉して、然る後にはじめて道心を生出し得るを得んを須す。道心恢復の以後に、大事はじめて談じ上ぐる吉を得。眼下正に乖離の中に在り、只だ人心の復た壞れ下去らざるを求むれば、此れ則ち足れり。どこが還た敢えて大事の吉を指望せんや。現在則ち単に「小事吉」此の一層に就りて來りて講ずる。
初九,在睽之初,道心方去,人心方來,若能剛而守正,不為人心所惑,道心自復,有悔者可以悔亡,如喪馬勿逐自復也。然必見惡人無咎者,惡人即人心,人心俱有五賊,足以敗道,不見人心,不知五賊作禍,見人心而順其所欲,漸次導引,五賊不得張狂,所以避害耳。此濟睽於方睽之時也。
初九睽卦の開頭に処り、道心剛かに離去し、人心剛かに到來す。此の時もし能く剛毅に正を守り、人心に迷惑せられざれば、道心自然回り來り、本有の悔恨消掉し得べし。正に爻辞のいう馬を丢きて追うを必とせず・それ自己会うて回り來るが如し。「惡人を見て咎無し」と説くに至っては、あの「惡人」は則ち指すは人心なり。人心の裡「五賊」(眼・耳・鼻・舌・意の五者外に向かって真気を劫奪するの作用)を帯びて、以て道業を敗壞するに足る。去りて人心を正視せざれば、則ち五賊の作祟して在るを知らず。人心を正視し、暫く其の欲望に順い、一歩一歩に引導を加えれば、五賊便ち張狂して起きる能わず。これがはじめて害を避くるの办法なり。これは剛かに乖離するの時候に就きて着手して補救するなり。
九二,當陰陽正睽之時,邪氣盛而正氣弱,道心未易相遇。然剛以柔用,從小道中進步,借人心生道心,如遇主于巷,本有咎者,即能無咎。此濟睽於正盛之時也。
九二正に陰陽大いに相乖離するの時候に当たり、邪気盛んにして正気弱し、道心容易に遇上せ難し。然而それは陽剛にして能く柔を以て運用し、小路より一歩一歩に進取し、人心を借りて道心を生出す。正に爻辞のいう小巷の裡に於いて主人に遇上せるが如し。本来過咎有るも、ここにおいて能く過咎無からん。これは乖離正に盛んなるの時候に於いて着手して補救するなり。
六三,愚而自用,順其所欲,如輿曳而牛掣也。不悅於內而悅於外,未得於彼,早失於己,如天頭而劓鼻也。如此之人,務外傷內,認假失真,到頭一著,窮無所歸,始悔自錯,故無初有終也。但不能悔於初,而悔於終,悔之無益。此不睽而自致其睽也。
六三愚昧にして剛愎自用し、一味に自己の欲望に順う。好比大車拖え住められ・車を拉するの牛牽掣せらるるが如し。裏面悦ばずして只だ外面に於いて悦を求むれば、還た未だ対方あの処より何を得るに到らざるに、自己早已に先ず失掉せり。好比額の上に刺され・鼻子割かるるが如し。此の如き人は只だ外面を顧みて裏面を傷つけ、偽を認めて真を丢き、臨了の一着に到り、路に走り投ぐる無く、はじめて自己の走り錯えたるを後悔す。だから「初無くして終有り」と曰う。ただ是れ能く開頭に於いて則ち悔いる能わずして、偏りて末了に到るを要してはじめて悔いれば、悔いるも亦た用無し。これは本来睽れずして自己乖離を招き出したるなり。
九四,陽在陰中,道心為人心所陷,人心惟危,道心惟微,孤陽無依,是睽孤也。然道心雖微,若能敏而好學,不恥下問,交孚抱道之君子,彼此資益,人心日去,道心日增,久之人心化,道心存。陰陽混合,孤者可以不孤,有咎者可以無咎。此以尊交卑,能濟其睽也。
九四一陽を以て陰中に処り、道心人心に陷せられ、正に《尚書・大禹謨》のいう「人心惟れ危く、道心惟れ微し」に応えり。孤零零として一点の陽依傍する所無し。これがすなわち「睽孤」なり。然而道心雖も微弱なれども、ただ能く敏にして学を好み・下に問うを恥とせず、道を抱くの君子と誠を以て相交わり、彼此資益せば、人心便ち一天天に減去し、道心便ち一天天に増長し、久しきこと積もりて人心化尽き・道心長に存し、陰陽渾然として混合し、孤单する可に復た孤单せず・過咎有る可に過咎無からん。これは尊位を以て去りて卑下を結交し、因って能く乖離を補救するなり。
大五,柔順虛心,居二陽之中。既明其我家純陰,又明其他家有陽,虛人心而求道心,本有悔者,而悔可以亡矣。夫道心者,人心之宗,厥取道心之宗,點化人心之假,如噬膚之易,以是往而行道,有何睽之咎乎?此以虛求實,能濟其睽也。
六五陰柔虚心にして、两個の陽爻の間に居り、既に明白して我家自身純粋に是れ陰なるを知り、又た明白して他家あの辺に陽有るを知り、人心を把って虚掉して去りて道心を求む。本来悔恨有るも、悔恨消掉し得べし。知るを須す、道心は是れ人心の本宗なり。此の個の本宗の道心を取って去りて人心の虚偽を点化するは、猶一塊の軟肉を咬み開くが如き容易なり。此の如き心を帯いて前往して道を行えば、還た何の乖離の過咎か有らん。これは虚を以て実を求め、因って能く乖離を補救するなり。
上九,處睽之極,道心埋沒已久,人不反顧,是睽孤也。道心埋沒,人心用事,習染成性,疑慮百出,如豕負塗,載鬼一車矣。若欲復道心,須先明人心,但明之貴於見之,見豕見鬼,實見的人心為害甚大。既能見得,即能明得,先不明而用心,如先張之弧也。後能明而復道心,如後說之弧也。無人心而不見道心,無道心而難知人心,借人心復道心。
上九睽の極点に処り、道心埋没すること已に久しく、人も亦た肯んじて頭を回して一眼を看るもせず。此れ同じく是れ「睽孤」なり。道心埋没し、人心家に当たり、習染して性と成り、疑虑百般に叢生す。好比猪の背上泥污満ちたるを見・一車鬼怪を載せたるを見るが如し。もし道心を恢復せんと想わば、必ず先ず人心を看清めんを須す。而して看清むるの関鍵は真実にそれを「見」到るに在り。猪を見鬼を見るは、正に是れ実実在在として人心の為害の大なるを見到るなり。既に見るを得れば、亦た則ち明るを得。先前明ならずして妄に其の心を用いたるは、好比先ず弓を張りて射んと要するが如し。後來明白して回りて道心を恢復するは、好比随後又た弓を把って放下したるが如し。人心無くんば則ち道心を照見する能わず、道心無くんば亦た難し人心を認識せんとするは。だから人心を借りて来て道心を恢復せんを須す。
人心雖罪之魁,亦功之首,匪寇而實婚媾也。人心既見,道心即復,於是虛人心,振道心,往而濟睽,則陰陽和合,如遇其雨,洗去一切舊染之汙,仍是當年圓成無虧之物,其吉為何如乎。此睽終必合,乘時而濟睽也。
人心雖も是れ罪魁なれども、却って亦た是れ頭功なり。正にいわゆる「寇に匪ざれば婚媾なり」――それは是れ劫奪しに來るの強盗に非ずして、倒れて実在に是れ親を結びに來るなり。人心一たび看破せられれば、道心則ち跟って恢復し、ここにおいて人心を虚掉し・道心を振起し、前往して去りて乖離を補救せば、陰陽便ち和合す。好比一場の好雨に遇上して、一切の旧日の染污を洗い去り、仍ほ是れ当年あの個の円満虧無きの本体なり。あの份の吉祥は還た説かんを用いんや。これは乖離最後に到りて必定して重合し、時機を趁いて去りて乖離を補救するなり。
六爻俱有睽而致合之道,僅得免其陰陽不睽,而不能陰陽有濟,故彖曰:“小事吉。”然小事能吉,大事即能吉,睽終而合,陰陽相通,至此而求,大事未有不致吉者。修道者,可不先求其小事之吉乎。
六爻倶に乖離に由りて和合に転向するの路子有り。不過僅かに能く陰陽の繼續して乖離するを免るるのみ、還た陰陽の彼此成就するを談じ上ぐるに及ばず。だから彖辞に「小事吉」と曰う。然而小事能く吉なれば、大事も亦た則ち能く吉なり。乖離頭を尽せば終に和合に帰し、陰陽彼此貫通し、此の個の地步に到って再び求むれば、大事吉を得ざる無し。道を修する人、怎様にして先ず去りて此の個の「小事の吉」を求めざるを得んや。
上坎下艮(蹇卦第三十九)
蹇:利西南,不利東北。利見大人,貞吉。初六,往蹇,來譽。六二,王臣蹇蹇,匪躬之故。九三,往蹇,來反。六四,往蹇,來連。九五,大蹇,朋來。上六,往蹇,來碩,吉。利見大人。
《蹇》卦。西南の方に往くに利し、東北の方に往くに利からず。大人を見るに利し、正を守れば則ち吉祥。初六。前往すれば蹇難有り、回り來れば則ち美譽を得。六二。王臣一再として険を蹈みて難を救い、並びて是れ自己一身の故の為めに非ず。九三。前往すれば蹇難有り、還た是れ返り回り來るを好しと為す。六四。前往すれば蹇難有り、回り來れば則ち能く人と連合す。九五。身大蹇難の中に処り、朋友前來して相助けん。上六。前往すれば蹇難有り、回り來れば則ち功業碩大にして、吉祥。大人を見るに利し。
蹇者,前進屯難之義。卦德上坎險、下艮止,止於險中,故謂蹇。此後天中保先天之卦,承上家人而來。家人者,明不外用,煉己之功也。煉己者,煉其後天之陰耳。
「蹇」は是れ前進阻受阻まれ・屯滞艱難の意。卦徳に就きて言えば、上卦坎は険・下卦艮は止。険中に於いて止む。だから「蹇」と呼ばれる。これは一個の後天の中に於いて先天を保全するの卦で、上一卦《家人》を承接して来る。《家人》の講ずるは明外に向かって発用せざる、あれは己を錬るの功夫なり。而して己を錬るは、錬るは正に是れ後天此の一分の陰なり。
人自先天失散,後天用事,人心惟危,如坎卦二陰在於一陽之外也。道心惟微,如坎卦一陽陷於二陰之中也。陽陷陰中,道心為人心所累,而不能振發,全是人心用事,險之極矣。但有險須要能止於險。能止於險,則人心漸消,道心漸生,可以處險,可以出險,而不為後天陰氣所傷矣。
人自ら先天散失し・後天家に当たる以後、「人心惟れ危く」、猶坎卦两個の陰爻一個の陽爻の外面に在るが如し。「道心惟れ微し」、猶坎卦一個の陽爻两個の陰爻の当中に陷るが如し。此れ正に是れ丹道のいう所の「坎中満」なり。外面の两画の陰は是れ後天の形殼、当中のあの一画の陽は、はじめて是れ先天真陽後天の裡に落ちて在るの一点の種子なり。陽陰中に陷り、道心人心に拖累せられて振作して起きる能わず、全て人心の家に当たるに憑る。険極点に到れり。但し既に険有れば、則ち要して能く険中に於いて止まらん。能く険中に於いて止まれば、人心便ち漸漸消去し、道心便ち漸漸生起し、既可に険境に安処し、亦可に険境に走出して、後天の陰気に傷せられざるに至らん。
辭曰:“賽利西南,不利東北”者,正處險出險之訣。西南屬坤,虛極靜篤之鄉,虛極招實,靜篤則動,先天之氣自虛無中來,道心發現,人心自退,乃生我之處,故利。東北為艮,陰氣剝陽將盡之方,陰氣剝陽,順其所欲,人心用事,道心將亡,乃死我之處,故不利。
卦辞に「蹇は西南に利し、東北に利からず」と曰う。此れ正に是れ険に処り・険を出るの口訣なり。西南は坤に属し、是れ虚極処に到り・静極篤に到るの地方。虚極処に到れば則ち能く実を招き來り、静極篤に到れば則ち動に転じ出づ。先天の気虚無の中より來り、道心一たび発現せば、人心自然退去す。あれは是れ我を生ずるの所在、だから利と曰う。東北は艮に属し、是れ陰気陽気を剥蝕して將に剥し尽くさんとするの方位。陰気陽を剥し、一味に自己の欲望に順い、人心家に当たり、道心將に亡びんとす。あれは是れ我を死するの所在、だから不利と曰う。
利於生道心而退人心,不利於起人心而傷道心。生道心即能處險,退人心即能出險。然必利見大人,貞吉者,特以大人者,不失其赤子之心者也。赤子之心,不識不知,無貪無求,即是道心。有道心即為大人,無道心即為小人,去人心,非見道心不能。見得道心,方能去得人心。
見るべし利有るは是れ道心を生じ・人心を退け、利あらざるは是れ人心を起き・道心を傷つくるなり。道心を生出せば則ち能く険境に安処し、人心を退去せば則ち能く険境に走出す。「利して大人を見、貞にして吉」に至って説く必ずせんを須するは、是れいわゆる大人と為すは、則ち是れ赤子の心を失掉せざるの人に因る。赤子の心は、識を用いず・知を用いず、貪無く求無し。あれは則ち是れ道心なり。道心有れば便ち是れ大人、道心無ければ便ち是れ小人。人心を去掉せんと要せば、道心を見ずんば是れ做り到る能わず――先ず道心を見て、はじめて去り得て人心を去掉せん。
利見大人者,即利見於道心耳。道心一見,邪正即分,穩穩當當,性定情忘,不為人心所誘,止則能以御險,動則能以濟險。止之動之,皆是道心運用,以正遇險,險中守正,終必出險解險,完成大道,以吉全之矣。
いわゆる「利して大人を見」とは、則ち是れ自己の道心を見るに利する在り。道心一たび現れば、邪と正と立刻に分明し、穏穏当々として、性定まり情忘れ、人心に引誘せられず。静止の時は能く険難を抵御し、行動の時は能く険難を救濟す。一止一動、全て是れ道心の運用して在る。正を以て去りて険を迎え、険中に於いて正を守れば、最終に必定して険を出で険を解し、大道を成就して、一個の「吉」の字を以て円満に場を収めん。
初六,在蹇之初,與物未交,人心未起之時,若往而交物,即起人心而有蹇,不往而來,人心不起,道心常存,而美譽之德在是矣。此柔而謹慎於未蹇者也。
初六蹇の開頭に処り、還た未だ外物と交接せず、人心尚未だ生起せず。此の時候もし前に往きて去りて外物と交接すれば、人心一たび起これば則ち蹇難有り。往かずして返り回り來れば、人心起きず、道心常に存し、あの份の美譽の徳は則ち此の裏に在り。これは陰柔にして能く未だ蹇ならざるの先に於いて便ち謹慎なるの一類なり。
六二,與五相應,五為坎中真陽,如王。二為艮中真陰,如臣。真陽有險,即真陰有險,如王臣蹇蹇也。有蹇而能止於其所,虛人心、求道心,不以艱難困苦移其志,所謂匪躬之故歟?此柔而能處於蹇者也。
六二九五と相応じ。九五是れ坎卦当中のあの一点の「真陽」、好比是れ君王。六二是れ艮卦当中の「真陰」、好比是れ臣子。真陽険有れば、真陰も亦た則ち跟って険有り。だから「王臣蹇蹇」と曰う。蹇難有りて能く自己の在るべき地方に止まり、人心を虚掉し・道心を求取し、艱難困苦に因って志向を改変せず。此れ大概是れ爻辞のいう所の「躬に匪ざるの故」の意思ならん。これは陰柔にして能く蹇難の中に安処するの一類なり。
九三,剛躁太過,與險為鄰,往即有蹇,幸其剛而得正,見險能止,不往來反,掃去人心,把持道心,遇蹇而無蹇。此剛而不入於蹇者也。六四,獨柔不剛,本自有險,強欲出險,往必有蹇,幸其屈己求人,不恥下問,來連有道之士,擴充其識見,道心漸生,人心漸去,終必出險而無蹇,此柔而借剛濟蹇者也。
九三剛強躁進太も過ぎて、又た険境と隣を為し、一たび前に往き去れば則ち蹇難有り。幸いなるにそれは陽剛にして正位に居り、険を見れば則ち能く止住し、前に往かずして返り回り來り、人心を掃き去り、道心を把え住めば、蹇難に遇上するも亦た蹇難無きに等し。これは剛強にして蹇難の裏に陷り進まざるの一類なり。六四独り柔有りて剛無く、本身則ち険中に在りて、硬として険を出でんと要すれば、前に往き去れば必定して蹇難有らん。幸いなるにそれは肯んじて己を屈し人を求め・下に問うを恥とせず、回り來りて道有るの士と連結し、自己の識見を拡充し、道心漸漸生起し・人心漸漸去掉して、最終に必定して険を出でて蹇難無からん。これは陰柔にして剛を借りて来て蹇難を救うの一類なり。
九五,陽陷於陰中,道心為人心所蔽,是謂大蹇。然剛中而正,借人心修道心,道心一來,人心即化,剛柔混合,先天之氣,從虛無中凝結成丹,大蹇而能大濟。此剛柔一氣,而無蹇者也。
九五一陽陰中に陷り、道心人心に遮蔽せられん。これを「大蹇」と呼ぶ。然而それは陽剛中に居りて正を得、能く人心を借りて来て道心を修す。道心一たび來れば、人心当下に則ち化し、剛と柔と渾然として混合し、先天の気虚無の中より凝結して丹と成り、大蹇の中に処りて反って能く大いに救濟有らん。これは剛柔合して一気と成りて蹇難と謂う所無きの一類なり。
上六,在蹇之終,正當人心安靜,道心發現之時,若不明火候,強制人心,反昧道心,往有蹇矣。不制人心,來養道心,而碩大之德在是矣。然必利見大人者,大人為了道成真,出險之人,從險地一一經歷過來,藥物火候,無不通曉。蹇終之時,正是生門死戶,可言可凶之處,須要真師大人口傳心授,方能殺裡求生,出蹇濟蹇,而不為陰陽所拘矣。此求師口訣,而濟蹇者也。
上六蹇の末尾に処り、正に人心安静し・道心発現するの時候に当たる。此の時もし火候を明白せずして、硬として去りて人心を壓制せば、反って道心を昏昧せしめ、前に往き去れば則ち蹇難有らん。去りて人心を壓制せず、頭を回して來りて道心を涵養せば、あの碩大の徳業は則ち此の裏に在り。必ず「利して大人を見」と説くに至っては、是れ大人は是れ已に道を了して真と成り・険境に走出したるの人、険地の裏より一一に経歴して過り來り、「薬物」と「火候」と通暁せざる無し。蹇卦終了するの時は、正に是れ生門と死戸と交界するの関口、吉とも凶ともなるべきの処、必ず真師大人の口傳心授有りて、はじめて能く殺機の裡に於いて生機を求得し、蹇を出で・蹇を濟し、而して陰陽に拘束せられず。これは師に求めて口訣を得て蹇難を救濟するの一類なり。
然則,出蹇濟蹇之道,須要真師訣破生門死戶,方能濟事。不知生門死戶,不但道心識不得,即人心亦識不得。識不得道心,焉能生得道心?認不得人心,焉能去得人心?道心不生,人心不去,縱然弄盡旁門,不蹇而自致蹇,無益於性命,反傷於性命,可不畏哉!
こく如く視れば、艱険に走出し・艱険を救濟するの門徑は、必ず「真師」――即ち真正に口訣傳承を得過るの明師――当に面して「生門死戸」を点破せしめて、はじめて事を辦じ成すを得。「生門」は指すは先天真陽生発して・下手して採取し得べきのあの一処の機竅。「死戸」は指すは後天陰気泄漏して・性命を耗散するあの一条の路徑。生門死戸の何処に在るかを懂れざれば、但だ「道心」を認み出す能わざるのみならず、「人心」に連ねても亦た一様に認み出す能わず。「道心」は是れ天理良知・先天真一の心、「人心」は是れ情識欲念に随って動くの後天の心。道心を認み出す能わざれば、怎様にして道心を把って生発して出來しむるを得ん。人心を辨え清むる能わざれば、又た怎様にして人心を把って除去せん。道心生じ出來せず・人心去掉せざれば、即かり傍門左道の法門を把って統統折騰して一遍を過すも、本来艱険の中に処らざるも、亦た要して自己で艱険を招き來り、性命の学に於いて毫も益処無く、反って性命を戕害す。此れ豈に可怕ならざらんや。
上震下坎(解卦第四十)
解:利西南。無所往,其來復吉;有攸往,夙吉。初六,無咎。九二,田獲三狐,得黃矢,貞吉。六三,負且乘,致寇至,貞吝。九四,解而拇,朋至斯孚。六五,君子維有解,吉,有孚于小人。上六,公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。
《解》卦。西南の方に往き去るに利し。もし往くべきの処無くんば、あれは則ち本位に返回して、吉利。もし往くべきの処有れば、則ち要して早く趁りて身を動かし、吉利。初六。過咎無し。九二。田猟の中三隻の狐狸を捕獲し、又た黄銅の箭矢を得。正道を守持すれば則ち吉利。六三。財貨を背負えりて又た大車に乘坐し、強盗を招き來り。雖も行事正を守るも、亦た免れず惋惜有る所。九四。爾の脚上の大拇指の束縛を解き開けば、同道の友前來して、彼此誠を以て相信ず。六五。君子只だ能く糾結を解き開かば、則ち吉利。此の份の誠信は小人を連ねても亦た能く感受し到る。上六。王公高墻の上に於いて鷹隼を射猟し、一擧に射獲す。利あらざる何も無し。
解者,脫散之義。卦德上震動、下坎險,陽氣動而出險,險外之動,動之遂心,故謂解。此乘時採藥之卦,承上睽卦而來。睽者,陰陽不和,悅明不當,陰氣用事,陽氣有陷,此解脫陽氣之功不可缺。解脫陽氣者,採藥也。採藥貴乎知時,若不知時,當面錯過,陰氣仍在,陽氣又去。雖藥在咫尺,未許我得。
「解」は是れ解脱・散去の意。卦徳に就きて言えば、上卦震は動・下卦坎は険。陽気一たび動けば便ち険陷を脱して出づ。動作険境の外に於いて発生す。だから動き起これば称心如意、因って《解》と呼ばる。これは一卦の「時に乗じて薬を採る」を講ずる卦――「採薬」は指すは火候の到來するあの一刻を趁いて先天真陽を攝取す――それは上一卦《睽》を承接して来る。《睽》の講ずるは陰陽不和・喜悦と明察と倶に用いること当を得ず、陰気権を当たり、陽気陷落す。此の一歩に到って、陷住したる陽気を把って解脱して出來すの功夫は則ち欠くる能わず。いわゆる陽気を解脱すとは、則ち是れ採薬なり。採薬最も緊要なるは是れ時機を懂るるに在り。もし時機を懂れざれば、機会当面に錯過し、陰気照らして旧に盤踞し、陽気又た已に散去し、薬物即かり咫尺に近在するも、亦た自己の手に得るに輪じ到らず。
悟真云:“鉛遇癸生須急採,金逢望後不堪嘗”。當其一陽生於坤地,先天之氣,自虛無中來,天地之心迴轉,所謂西南得朋,正鉛遇癸生,大藥發現,道心震動,人心安靜之時,此自然之解,吉之先見者也。是以解利西南,無所往,其來復,吉。無所往而來復,非人所勉強而然,乃一時自然之現露,出之於天。但天時已到,尤賴人力,急須下手扶陽抑陰,天人合發,藉此一點陽氣,復而又復,復於純陽無陰之地,道心常存,人心永滅,方是解去危難,縱橫逆順,無不如意,是以有攸往夙吉也。
張伯端《悟真篇》に曰く「鉛癸生に遇えば急採せんを須し、金望後に逢えば堪えて嘗むる能わず」。「鉛」は指すは先天の「真陽」、「癸生」は指すは真陽初動のあの一瞬、「望後」は指すは月満の後陽気衰に転ずるを。当に一陽坤地に生ずるに――即ち一片の純陰の静定の裏に於いて忽然として一点の先天真陽萌動すに――先天の気虚無の中より來り、天地の心回転す。これがすなわち《坤》卦のいう所の「西南朋を得」、正に是れ鉛癸生に遇い・大薬顕現し・「道心」震動して「人心」安静するの時候なり。これは是れ自然而然の解脱、是れ吉兆最も先ず頭を露わすの処なり。だから《解》卦に西南に利すると説き、往くべき処無くんば則ち本位に返回して吉利と。此の種の「往く所無くして來復す」は、是れ人の硬として做し出すに非ず、而も是れ一時の間自然に顯露し、天機より出づ。不過天時雖も到るも、還た人力の配合に靠らんを須す。必ず赶紧に下手して陽気を扶助し・陰気を抑制し、天機と人事と同時に発動し、此の一点の陽気を借りて反復して温養し、一復再復して、一直に純陽陰無きの境地に復し到り、道心長に存し・人心永く滅し、これがはじめて真に危難を解除したると算し、此の後縦横順逆倶に称心せざる無し。だから「攸往有り、夙に吉」と曰う。
夙者,早也。早則藥氣方生,屬於先天;遲則藥氣已過,屬於後天。藥氣方生而急採,則先天堅固而得吉;藥氣已過而始採,則後天又發而不吉。夙吉二字,大有深意,有不得不早者,所謂“若到一陽才動處,便宜進火莫延遲”者是也。
「夙」とは則ち是れ早なり。早ければ、則ち薬気剛かに萌生し、先天に属す。遲ければ、則ち薬气已に過去し、後天に落入す。薬气剛かに生ぜれば赶紧に採取して、先天真陽便ち以て堅固を得て吉利。薬气過去してはじめて手を動かせば、後天の識神情欲又た発動して起き、則ち吉利ならず。「夙吉」两個の字大いに深意有り、其中有るは不得不早く趁らざるを得ざるの道理。正に丹経のいう所の「もし一陽纔かに動くの処に到らば、便ち宜しく火を進めて遲延する莫かれ」――一陽初動の際に就きて則ち応に「陽火を進め」、即ち意念と呼吸の功を以て陽気を助長し、一刻も亦た拖延する能わざるが如し。
初六,居於至險之地,柔弱無能,不能自出,而知親近有道之士,借他人之智慧,以解自己之昏暗,有咎者亦能無咎。此柔而借剛解險者也。
初六一爻、最も危険の位置の上に処り、本身陰柔無能にして、自己に靠りて険を出る能わず。但しそれは能く道有るの士に親近するを懂れ、別人の智慧を借りて自己の昏昧を解き開く。本来過咎有るべきも、亦た能く変じて過咎無きと成れり。此一爻は是れ陰柔の質を以て他人の剛健の力を借助して険難を解脱するの一歩、相当して道を修する入門の時の師を訪し訣を求むるの工夫なり。
九二,以一陽而居於二陰之內,剛而能柔,惟精惟一,允執厥中,既不使人心為惡,如田中獲狐,而不縱放其狐,又不求人心強滅,如得黃矢,而不傷害其狐。不縱不傷,順其所欲,漸次導之,使其自消自化,不解而解,解之而最吉者。此剛而用柔解險者也。
九二一爻、一個の陽爻を以て两個の陰爻の中に処り、剛健にして能く柔順、正に《尚書・大禹謨》のいう所の「惟れ精惟れ一、允に厥の中を執る」に合す。それは既に「人心」をして放縦して惡を作さしめず、好比田中に於いて狐狸を捕獲して狐狸を把って放し走らせざるが如し。又た強求して人心を把って一擧に撲滅せんとせず、好比黄銅の箭矢を得るも却って並びてそれを用いて狐狸を射傷せざるが如し。放縦せず、亦た傷害せず、人心の欲望に順って慢慢と引導し、それをして自己で消解し・自己で転化せしめ、看れば刻意に解き去る無きに似たるも実際已に解けり。これは解くること最も吉利なるの一种なり。此一爻は是れ剛中柔を用いて険難を解脱するの工夫、亦たすなわち丹家のいう所の人心を馴伏してそれと硬として争わざるなり。
六三,愚而自用,妄想天寶,無道心而強制人心,以心制心,不但不能去人心,而且有以招人心。如負物者欲乘車,自致寇傷,雖解事屬正,然恃一己之陰,不求他家之陽,亦修道者取吝之事。此柔而強欲解險者也。
六三一爻、愚昧にして又た自ら以て是と為し、妄想して「天寶」――即ち先天大薬――を得んとす。可是自己並びて「道心」有りて主を為す無く、却って硬として「人心」を壓制せんと要し、後天の心を用いて去りて後天の心を管し、結果但だ人心を除き掉る能わざるのみならず、反って人心を把って招引して出來せり。これは猶物を背負うの人偏りて去りて車に乘らんと要するが如く、自己強盗を招きて劫傷せしむ。雖も解脱せんと要する此の件の事本身是れ正当なれども、但だ自己一身の陰質を倚仗し、去りて「他家」の真陽を求取せず――「他家」は指すは自身識神の外・先天の來る所のあの一点の真陽――此も亦た是れ道を修する人自ら困厄を取るの做法なり。此一爻は是れ陰柔の質を以て勉強して険難を解脱せんと想うの一歩、閉門して盲修するに属す。
九四,剛而不正,又應初陰,道心中人心相雜,解陰而不果,如解而拇矣。夫解散人心,所以振道心也。人心解去於道心來至,信之解之,在拇能動不能行,可見人心惟危,道心惟微矣。此剛為柔牽不解險者也。
九四一爻、雖も陽剛に属するも居位正ならず、又た初六の陰爻と相応じ、「道心」の裡「人心」を夾雑し、陰気を解き去らんと想うも却って決断を下す能わず。猶爻辞のいう只だ脚の拇指の束縛を解き開けたるのみの如し。知るを須す、人心を解散するは、正に是れ道心を振起せんが為めなり。人心解き去れば、道心はじめて會して到來せん。雖も亦たそれを信じ・亦た去りてそれを解くも、却って只だ拇指の上に於いて能く動き一動するのみ、還た歩子を邁し開く能わず。此に由りて正に見得るは《尚書・大禹謨》のいう所の「人心惟れ危く、道心惟れ微し」――人心危殆にして制し難く、道心幽微にして存し難し。此一爻は是れ陽剛陰柔に牽累せられ・険難を解き掉る能わざるの一歩の工夫なり。
六五,虛人心而求道心,是君子維有解也。道心為君子之心,人心為小人之心。道心之解與未解,可於人心驗之,人心化盡,方是道心之難解,若稍有一點人心,而道心之難猶未解去,故修道者必使宥密之中,而無絲毫滓質為極功。此點化群陰之解險者也。
六五一爻、「人心」を把って虚掉して「道心」を求取す。これがすなわち爻辞のいう所の「君子維れ解有る」なり。道心是れ君子の心、人心是れ小人の心。道心の困結解き開けたりや否やは、可に人心の上に於いて検験すべし。人心化して乾々浄々たれば、はじめて道心の難関真に解き開けたりと算す。只だ還た一絲の人心剩るあれば、道心の難関は則ち還た未だ解き去らざるなり。だから道を修する人は必ず深密隱微の処に於いても亦た一絲一毫の渣滓雑質を留下せざるを做り到らんを須し、はじめて功夫家に到ると算す。此一爻は是れ一身の群陰を点化し・険難を解脱するの工夫なり。
上六,在解之終,一切客氣盡消,只有人心未死,此一點人心,貪圖無比,即罪之魁,如隼鳥棲於高墉,所當急須解去者。幸在解終,正氣盛而邪氣弱,以道心而解人心,直下斷絕,無不利者。此大公無私之解險者也。
上六一爻、《解》卦の終結の処に処り、一切の「客気」――即ち後天染習して生ずるの雑気――倶に已に消尽し、只剩「人心」還た未だ死せず。此の一点の人心貪求比無し、正に是れ衆惡の首、好比鷹隼高墻の上に盤踞するが如く、是れ最も応に赶紧に解除すべきなり。幸いなるに解卦の最後に到りて、正気強盛にして邪気衰弱し、「道心」を用いて去りて人心を解除し、一刀両断して、利あらざる何も無し。此一爻は是れ大公無私・徹底して険難を解脱するの收功の工夫なり。
然則,解難出險之道,貴於知時,尤貴於剛柔相當,不先不後,不急不緩,乘時下手,未有不獲利者。然所以獲利處,總要知的西南坤位耳。噫!藥出西南是坤位,欲尋坤位豈離人,分明說破君須記,只恐相逢認不真。西南坤位,豈易知哉!
こく如く視れば、危難を解除し・険境に走出するの門徑は、貴ぶは時機を懂るるに在り、更に貴ぶは剛柔配合得当なるに在り。先を搶えず・後に落ちず、急燥せず・遲緩せず、時機を趁いて下手すれば、利を得ざる無し。可是利を得るの関鍵は、総帰して還た要して「西南坤位」――即ち真陽の発生するあの一処の方位と時候――を認得せんを須す。唉!薬物西南の坤位より出づるも、可に此の個の坤位を尋ぬるに要して又た何処が人身を離れ開くを得んや。話已に説き到りて明明白白なり、諸君に牢記せらるるを請う。只怕真に相逢するの時候に到りて仍ほ認み真切ならざらん。西南の坤位、どこが是れ容易に認め得るのならんや。
上艮下兌(損卦第四十一)
損:有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。初九,已事遄往,無咎,酌損之。九二,利貞,征凶。弗損益之。六三,三人行則損一人,一人行則得其友。六四,損其疾,使遄有喜,無咎。六五,或益之十朋之龜,弗克違,元吉。上九,弗損益之,無咎,貞吉。利有攸往,得臣無家。
《損》卦。心に誠信を懐き、大いに吉利、過咎無く、可に正道を守持し、往く所有るに利し。用いて何を以て奉献せん。两簋の薄食則ち可に用いて祭享せん。初九。事情辦じ完れば則ち赶紧に前往せよ、過咎無し。但し要して斟酌して减損せん。九二。正を守るに利し、急進すれば則ち凶険有り。復た减損するを必とせず、反って応に増益すべし。六三。三個人同行すれば、則ち要して一人を减ず。一個人独行すれば、反って伴侶を得ん。六四。其の疾病を减損し、それをして快く好転せしめば則ち喜慶有り、過咎無し。六五。人有りて價値十朋の大亀を贈送す、推辞する能わず、大いに吉利。上九。减損するを必とせず、反って増益す、過咎無し、正を守れば則ち吉利。往く所有るに利し、臣僕を得て彼此の家門を分かたず。
損者,減其有餘也。卦德上艮止、下兌悅,有所說而即止之,止其悅而無妄念。卦體二五,剛柔得中,虛實相應,剛而不至於躁,柔而不至於懦,減其有餘,增其不足,故謂損。此損中有益之卦,承上蹇卦而來。蹇者,有險能止,後天中保先天之道。然欲保先天,非去後天不能。去後天者,行損道也。
「損」とは則ち是れ多余の部分を减去するなり。卦徳に就きて言えば、上卦艮は止・下卦兌は悦。心中一たび喜悦有れば便ち立刻に止住し、喜悦を止住すれば則ち妄念を生ぜず。卦体に就きて言えば、九二と六五と两爻剛柔各々其の中を得、一虚一実彼此呼応し、剛強にして躁動に至らず・柔順にして懦弱に至らず、有余を减去し・不足を補上す。だから《損》と呼ばる。これは一卦の减損の中に増益を含有するを講ずる卦で、上一卦《蹇》を承接して来る。《蹇》の講ずるは険に遇えば能く止まる、是れ後天境地の中に於いて先天真陽を保全するの道理なり。然而先天を保住せんと要せば、後天を除去せざれば可ならず。後天を除去するは、走るは則ち是れ减損此の条の路なり。
但損之為道,是不順其欲而止其欲。人多不能誠信於中,不能誠信,有始無終,不但不得吉,而且致其咎。若能誠信,則起念即真,信之於心,自能見之於行,不致吉而吉即在,不致咎而咎自無。
但し减損此の門の功夫は、是れ欲望に順って走らずして、而も欲望を把って止住せんと要す。人大多能く心裡に於いて真に此の一点を篤信する能わず。能く篤信せざれば、則ち開頭有りて結尾無く、但だ吉利を得ざるのみならず、反って過咎を招來す。もし能く篤信せば、則ち念頭一たび起これば則ち是れ真、心裡信じ得て過し、自然行動の上に表現して、去りて吉利を求めずして吉利自在りて其中に在り、去りて過咎を躲けずして過咎自然無し。
雖然信於損固吉,固無咎,尤貴於信之得正,損之得正。世間觀空守靜,忘物忘形,至死不變之輩,何嘗不是信於損?但信非所信,損非所損,有損無益,仍是不吉,仍是有咎。是以可貞於信,辨其是非,分其邪正,明於心而驗於事,有攸往而無不利矣。
雖も篤信して减損すれば自然吉利・自然過咎無しと説くも、但し更に緊要なるは是れ信ずる所必ず正当・减ずる所必ず正当ならんを須す。世上あの些かの一味に空を觀じ静を守り・外物を忘掉し又た形骸を忘掉し・死に到るも改めざるの人は、何嘗か是れ篤信して减損せざらんや。可惜彼らは信じ錯えたるを対象・减じ錯えたるを地方、只だ减損有りて増益無く、結果仍ほ吉利ならず・仍ほ過咎有り。だから要して篤信の上に於いて正道を守持し、是非を辨明し・邪正を分け清め、心裡明白にして、還た要して事の上に於いて検験し、此の如くして往く所有りてはじめて利あらざる無からん。
但有往之利,雖利於信之正、損之正,尤貴乎真履實踐,有始有終。若未到從容中道之地,而功不可歇,必須為道日損,為功日益,損之又損,益之又益,直至損無可損,益無可益,剛柔相應,內外合道,至善無惡,渾然天理,而損益之功,方無所用矣。故曰曷之用二簋,可用享。
不過往く所有るの利益は、雖も信ずる所正当・减ずる所正当より來ると雖も、更に緊要なるは還た真実に履行し・始有り終有るに在り。もし還た未だ従容迫らず・自然に中道に合するの地步に到らざれば、功夫は則ち一刻も亦た停まる能わず。必ず《老子》のいう様子の如く「道を為して日に損す」にして、同時に功を為して日に益し、减じて又た减じ・増して又た増し、一直に减じて减ぐべき何も無きに到り・増して増ぐべき何も無きに増じ、剛と柔と彼此呼応し、内と外と倶に道に合し、純善惡無く・渾然一片の天理。あの時候に到って、損と益との功夫はじめて用処無し。だから卦辞に「曷が之を用いん。二簋可用ちて享れ」と曰う――何を拿って奉献せん。两簋の薄食則ち夠了なり。
簋為虛圓之物,二簋即二五剛柔之中。剛柔歸中,剛中有柔,柔中有剛,剛柔如一,二五之精,妙合而凝,還原反本,聖胎有象,由是享自在無為之樂,我命由我不由天,信乎損而損中有益,豈小焉哉!
簋は是れ中空にして円なるの礼器。「二簋」は正に指すは九二・六五两爻の剛柔各々中道を守るを。剛柔倶に中に帰し、剛裡に柔を含み・柔裡に剛を含み、剛柔合して一と為る。正に是れ周敦頤《太極図説》のいう所の「二五の精、妙に合して凝す」、此に由りて本原に返回し、「聖胎」――即ち内丹凝結して形と成るの象――已に迹象有り。從って自在無為の快楽を享受し、我の性命は我に由りて自ら主宰を為して天に由らず。見るべし篤信して减損し・而して减損の中自ら増益有る、其の功用どこが算す小なるを得んや。
初九,剛決勇猛,信於損而即欲行其損,是以已事遄往,損之必能無咎矣。但損之在初,恐其勇猛太過,有損而不正之失,必酌其是非可否,而後損之,方是損中有益,而無一咎之損。此損之須謹於初者也。
初九一爻、剛強果決・勇猛精進にして、一たび减損の道を信服すれば立刻に則ち要して手を動かして去りて减じん。だから爻辞に事情辦じ完れば便ち赶紧に前往すと曰う。此の如くして减損すれば必定して過咎有らざらん。但し减損還た起手の階段に在りて、怕れるは是れ勇猛太も過ぎて、减じ錯えたるを地方・正道に合せざるの毛病を出現す。必ず其中の是非可否を斟酌して、然る後に再び减じて、はじめて是れ减中に益有り・毫も過咎無きの减損なり。此一爻の講ずるは下手して减損するは必ず開頭に於いて就きて謹慎ならんを須す、亦たすなわち「己を錬り基を築く」の頭一歩は孟浪なる可からず。
九二,剛而有得於中,道心常存,人心不生,陰陽和合,金丹有象,正宜謹固牢藏之時,若不知止足而又損益,反起人心,有昧道心,不利且凶。蓋以剛氣歸中,不偏不倚,弗可損益矣。此不損而亦不益者也。
九二一爻、陽剛にして又た中に居りて得有り、「道心」長に存し、「人心」起きず、陰陽和合して、「金丹」――即ち先天真一の気凝結の象――已に形を顯し、正に是れ応当に小心して固守し・深蔵して露わさざるの時候なり。此の時もし止まるを知り足るを知るを懂れずして、還た要して再び加減し去れば、反って人心を撩動し・道心を蒙昧せしめ、既に利ならず又た凶険なり。剛気已に中正に帰し、偏らず倚らざるに因れば、則ち応に復た减損増益有るべからざるなり。此一爻の講ずるは既に减ぜず亦た増せざるの一歩の工夫、即ち丹家のいう所の温養固濟なり。
六三,愚而無知,見景生情,不能損人心,而反用人心,求益而反有損,如三人行,則損一人矣。若知益中有損,而能損去人心之二心,益其道心之一心,陰陽相當,損中有益,如一人行,則得其友矣。此求益而必用損者也。
六三一爻、愚昧無知にして、一たび境遇に遇えば便ち情識を動かし、能く「人心」を减損せず、反って人心を使用す。本想増益を求めんとするも却って反って損を受く。正に爻辞のいう三人同行すれば則ち要して一人を减ずるが如し。假如能く増益の中本来减損を含むを懂れ、能く人心あの種の三心二意の雑念を减去し、道心あの一片の純一の心を増益せば、陰陽分量相当して、减損の中便ち自ら増益有り。正に爻辞のいう一人独行して反って伴侶を得るが如し。此一爻の講ずるは増益を求めんと想わば必ず先ず减損の工夫を動かさんを須す。
六四,純陰無陽,其疾已深,幸其柔而得正,以陰順陽,誠求他家不死之方,以損我家之沉痾。不能損者亦能損,不速損者亦速損。損中有益,不但有喜,而且無咎。此損柔而求剛益者也。
六四一爻、一身純陰にして陽無く、病根已に深し。幸いなるにそれは陰柔にして居位正を得、能く陰を以て陽に順從し、誠心に「他家」の不死の方子を求取す――「他家」は指すは自身識神の外先天真陽の在る所、「不死の方」は即ち先天真一の気――用いて「我家」の沈重の旧疾を医治せんと。原本减じ掉る能わざるも亦た能く减じ掉り、原本减じること快からざるも亦た能く快く减ず。减損の中増益有り、但だ喜慶有るのみならず、而且過咎無し。此一爻の講ずるは自身の陰柔を减去し・真陽を求取して来て増益するの工夫なり。
六五,柔而得中,止於其所,虛心即能實腹,虛實相應,剛柔相濟,二五之精,妙合而凝,或益之十朋之龜矣。或益者,不求益而益,益出自然,非有勉強,乃返本還原之吉道,所謂“敲竹喚龜吞玉芝,鼓琴招鳳飲刀圭”者在是。此損柔而剛自益者也。
六五一爻、陰柔にして中に居り、在るべき位置の上に安止し、心一たび虚し下がれば、腹自然充実す――「虚心」は是れ識神雑念を化去し・「実腹」は是れ真気丹田に充盈す――一虚一実彼此呼応し、剛柔互相調濟し、「二五の精、妙に合して凝す」。ここにおいて則ち猶爻辞のいう人有りて價値十朋の大亀を贈送するが如し。いわゆる「或いは益す」とは、是れ去りて増益を求めずして増益自ら來り、益すること自然にして、毫も勉強せず。これは是れ本に返り元に還るの吉利の路徑、正に是れ《悟真篇》のいう所の「竹を敲きて亀を喚び玉芝を吞み、琴を鼓して鳳を招き刀圭を飲む」――静定を以て先天の気を招攝して服食す。此一爻の講ずるは陰柔を减去し・真陽自然増益するの工夫なり。
上九,在損之終,是損之於無可損,益之於無可益,由明明德而止於至善。弗損益之,已是無一行之有咎,無一事之不正,全始全終,而得其吉矣。修道至於止至善,道心常存,金丹凝結,以是往而點化人心,無有不利者。
上九一爻、《損》卦の終結の処に処り、已に减じて减ぐべき何も無きに到り・増して増ぐべき何も無きに到り、《大学》のいう所の「明徳を明らかにする」より「至善に止まる」に進み到れり。既に復た减ずるを必とせず亦た復た増すを必とせず、則ち已に一件として行為過咎有る無く・一件事情正道に合せざる無く、始有り終有りて、因って吉を得。道を修して至善に止まるの地步に到れば、「道心」長に存し、「金丹」凝結し、此の如き境界を用いて去りて「人心」を点化すれば、利あらざる何も無し。
蓋道心者主人,人心者奴僕,道心用事,一步一趨,皆是天理,私慾不生,雖人心亦化為道心,得臣無家,滓質俱消,“群陰剝盡丹成熟,跳出凡籠壽萬年。”此損益而歸於至善者也。
「道心」は是れ主人、「人心」は是れ奴僕に因る。道心権を当たり主を為せば、一擧一動倶に天理に合乎し、私欲生ぜず、人心を連ねても亦た道心に転化す。正に爻辞のいう臣僕を得て彼此の家門を分かたざるが如く、一身の渣滓雑質全部消尽す。いわゆる「群陰剥し尽せば丹成り熟し、凡籠を跳出して寿万年」――陰質剥落して乾浄なれば、丹は則ち熟し、此より凡俗の牢籠を跳出す。此一爻は是れ損益の功至善に帰結するの一歩なり。
損之功用,至精至微,不拘成規,隨時變通,總以剛柔如一,止於至善無惡之地為極功。行損道者,可不誠信於損,全始全終乎。
减損此の門の功夫は、極めて精細幽微にして、成法に拘泥せず、要して随時に変通し、総じて剛柔合一し・純善惡無きの地步に抵达するを以て最高の成就と為す。减損の道を修行する人は、怎様にして篤信して减損し・而且始有り終有りに做り到底せざるを得んや。
上巽下震(益卦第四十二)
益:利有攸往,利涉大川。初九,利用為大作,元吉,無咎。六二,或益之十朋之龜,弗克違,永貞吉。王用享于帝,吉。六三,益之用凶事,無咎。有孚,中行,告公用圭。六四,中行,告公從,利用為依遷國。九五,有孚惠心,勿問元吉,有孚惠我德。上九,莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。
《益》卦。往く所有るに利し、大河を渡るに利し。初九。大きな事業を興辦するに利し、大いに吉利、過咎無し。六二。人有りて價値十朋の大亀を贈送す、推辞する能わず、長久に正を守れば則ち吉利。君王それを用いて上帝に祭享す、吉利。六三。増益を把って凶険艱難の事情の上に用いれば、過咎無し。心に誠信を懐き、行事中を守り、圭玉を手持して去りて王公に稟告す。六四。行事中を守り、王公に稟告して聴從を得、大国に依託して国都を遷移するに利し。九五。心に誠信を懐きて仁恵の心を存み、占問するを必とせずして大いに吉利、人も亦た誠信を以て我の恩徳に感念せん。上九。人有りて来りて彼を増益する無く、反って人有りて彼を攻撃す。心を立つる能く恒久せず、凶険。
益者,增加其不足也。卦德上巽入、下震動,動而漸入,不急不緩而入之,故謂益。此益中用損之卦,承上解卦而來。解者,陽氣動而出險,漸生漸長,增益善之不足也。但益善非損不善,不能益其善,而損其不善,至於益之又益,損之又損,直至益無可益,損無可損,至於至善無惡之地而後已。是以利有攸往也。
「益」とは則ち是れ不足の部分を補足するなり。卦徳に就きて言えば、上卦巽は入・下卦震は動。一動すれば便ち漸漸深入し、急がず緩まずして入り進む。だから《益》と呼ばる。これは一卦の増益の中応に减損を用いるを講ずる卦で、上一卦《解》を承接して来る。《解》の講ずるは陽気一動して険陷を脱して出づ、漸生漸長す。亦たすなわち是れ不足の善に対して増益を加うるなり。可是善を増益せんと要せば、不善を减損せざれば便ち辦じ成る能わず。能く其の善を増益し・其の不善を减損し、益して又た益し・損して又た損しを做り到り、一直に益して益ぐべき無く・損して損ぐべき無きに到り、純善惡無きの地步に抵达してはじめて罷休す。だから卦辞に「往く所有れば利し」――往く所有るに利すると曰う。
人自無始劫以來,千生萬死,罪積如山,孽深似海,輪迴種子,愈久愈深,今欲行有益性命之事,非先拔去輪迴種子不能濟事。輪迴種子豈能遽去哉?其事有火候、有工程,非可懸虛不實,須要循序漸進,步步出力,益道心、損人心,益正氣、損邪氣,益中有損,方能有濟,利有攸在,利在於行出有益之事耳。
人無始劫以來より、千生万死して、罪業積もりて山の如く高く、孽障深きこと海の如く、輪廻の種子越えて積もれば越えて深し。如今有益の性命の事を做さんと想えば、先ず輪廻の種子を把って抜き掉らざれば、則ち事を辦じ成る能わず。輪廻の種子どこが能く一下子に除尽するを得んや。此の件の事に「火候」――即ち功を用うの緩急節度――有り、亦た「工程」――即ち修持の進程次第――有りて、能く虚空に懸けて談ずる能わず。必ず循序漸進して、一歩一歩に力を出し去るを須す。「道心」を増益し・「人心」を减損し、正気を増益し・邪気を减損し、増益の中減損を帯びて、はじめて能く成就有らん。いわゆる利の在る所とは、利は則ち有益の実事を做し出すに在るのみ。
但行有益之事,貴乎有始有終,若有始無終,仍是行而不利,無益有損。故有益、利行之道,惟在專心致志,下一番死工夫,從艱難困苦中做出,消盡歷劫輪迴種子,方能復我本來原物,是以又利涉大川也。大川至險,性命所關,若於至險之地能行去,則凡無險之處,自無不利矣。
但し有益の事を做するは、貴ぶは始有り終有るに在り。もし開頭有りて結尾無くんば、仍ほ是れ做すも亦た利を得ず、益処無くして反って損害有り。だから有益を修め・利を行い得るの門徑は、只だ専心致志に在り、一番の死功夫を下し、艱難困苦の当中より做し出して來り、歷劫以來の輪廻の種子を把って消磨して乾浄にして、はじめて能く我本来の原物――即ち先天真一の性――を恢復せん。だから卦辞に又た「大川を渉るに利し」と曰う。大川極めて険悪にして、性命に関係す。もし最も険悪の地方を連ねても倶に能く行き過ぐるを得ば、則ち凡そ険阻無きの地方は、自然に利あらざる無し。
卦德動而巽進,徐徐下功,不急不緩,其即隨時增減之道乎。初九,在益之初,即能勇猛直行,大作大用,是初念已真。能益於初,自能無咎於終。此用剛而決於益者也。
卦徳に就きて言えば、一動して而る後に柔順に深入し、慢慢として功夫を下し、急がず緩まず。此れ正に是れ随時に増減するの道理に非ずや。初九一爻、増益の開頭に処りて則ち能く勇猛に一直に前に、大いに作為有り・大いに施用有り。見るべし最初の一念已に真切なり。開頭能く増益すれば、結尾自然過咎無し。此一爻は是れ陽剛を用いて果決に増益を行うの一歩の工夫なり。
六二,柔順中正,識急緩、知吉凶,煉已持心,損之又損,先天之氣,自虛無中來,陰陽相合,如或益之十朋之龜矣。十朋之益,二五之精,妙合而凝,如龜之蟄神藏氣,聖胎有象,當斯時也,正宜守貞不二,沐浴溫養,至於十月功完,脫胎成真,積功累行,護國佑民,受皇王之封號;用享于帝,天爵修成,而人爵即從之,其吉為何如乎?此用柔而自然益者也。
六二一爻、柔順にして中に居りて正を得、緩急を認得し・吉凶を知り、能く「己を錬り心を持す」――即ち自身の習気を磨錬し・心念を把住す――損して又た損して、ここにおいて先天の気虚無の中より來り、陰陽相合す。猶爻辞のいう人有りて價値十朋の大亀を贈送するが如し。此の十朋の益は、正に是れ「二五の精、妙に合して凝す」、如同亀の一般に神気を蟄蔵し、「聖胎」――内丹凝結の象――已に形迹有り。此の個の時候に到りて、正に応当に貞一不二を守持し、「沐浴温養」の功を行い――即ち火候を停住し・静養して催さず――十月功成して、胎を脱して真と成るに到るを直す。再び功を積み行を累ね、国を護り民を佑け、帝王の封號を受く。いわゆる「用いて帝に享る」は、是れ先ず天爵を修成して、而して人間の爵位自然に随って來る。あの份の吉利は還た説かんを用いんや。此一爻は是れ陰柔を用いて自然に増益を得るの工夫なり。
六三,不中不正,咎過極多,不可益以吉事,須用凶事磨礪,自能戒懼修省,有孚於中行也。有孚則心誠,中行則行謹,心誠行謹,公而無私,事無不可告於人者,如用圭通信,損中有益,凶事亦可化為吉事,始而有咎者,終可無咎。此用柔而勉強益者也。
六三一爻、既に中に居らず又た正を得ず、過失極めて多し。可に順境吉事を用いてそれを増益する能わず、必ず凶険艱難の事情を用いて磨砺して、それをして戒懼自省せしめて、爻辞のいう心に誠信を懐きて行事中を守るを做り到らしめんを須す。誠信有れば、心は則ち真誠。行事中を守れば、行為は則ち謹慎。心誠にして行謹にして、公にして私無ければ、則ち何の事情か人に告げる可からざる無し。好比圭玉を手持して去りて信実を通達するが如し。减損の中増益有りて、凶事も亦た能く吉事に転化し、起初過咎有るも、最終に可に過咎無からん。此一爻は是れ陰柔を用いて逆境の中に於いて勉強して増益を得るの工夫なり。
六四,居於上巽之體,正當益己之後、益人之時,故中之於行,或因人指點,或借事開導,告其為人,人有益之公事,使學者心悅誠服,樂於從之耳。
六四一爻、上卦の巽体の中に処り、正に自己已に益を受け・応に去りて人を益すべきの時候に当たる。だから行事中を守る。或いは各人の資質に按じて指を点し加え、或いは具体の事情を借りて開導を加え、彼に人を為るの道理を告げ、人の為めに有益の公事を辦じ、道を学ぶの人をして心から悦び誠に服して、楽しみて跟從せしむ。
然道高者毀來,德修者謗興,必須依有大力者而為之,方能現身說法,使人遷善改過,是以利用為依遷國也。遷國之利,大行其道,如大顛之依文公,長春之依元帝。此無位者必借人力而益人者也。
然而道行高きの人は抵毀を招來し、徳行修まるの人は誹謗を引來す。必ず大力量有るの人に依託して來りて推行し、はじめて能く身を現して法を説き、人をして過を改め善に遷らしむるを得。だから爻辞に大国に依託して国都を遷移するに利すると曰う。依託して国を遷すの好処は、能く其の道を大いに行うに在り。好比唐代の僧人大顛韓文公韓愈に依託し・元代の長春真人丘處機元朝の君主に依託したるが如し。此一爻の講ずるは権位無きの人は必ず他人の力を借助してはじめて能く人を益するなり。
九五,陽剛中正,大道完成,渾然天理,可信其惠心在內,而即有元善之吉矣。夫惠心者,天之心也。天良之心常存,視萬物為一體,視人我如一家,一言一行,俱有益於世道人心,又可信其有惠德矣。既有惠心,又有惠德,猶如風吹物,莫不鼓舞而興起,如許遜令於旌陽,梅福官於南昌,皆能存惠心而行惠德。此有位者,不借人力而益人者也。
九五一爻、陽剛にして中に居りて正を得、大道已に完成し、渾然一片の天理。可に信ず、それの内裡仁恵の心を存するを、因って則ち至善の吉利有り。いわゆる恵心とは、則ち是れ天の心なり。天良の心長に存し、万物を看て如同一体、別人を看て自己と如同一家、一言一行倶に世道人心に有益有れば、則ち又た可に信ず、それは恵徳を具備するを。既に恵心有り、又た恵徳有れば、猶風万物を吹拂して、鼓舞を受けて振作して起來らざる無きが如し。好比晋代の許遜旌陽県令を為り・漢代の梅福南昌に於いて職に任じたるが如く、倶に能く恵心を存して恵徳を行えり。此一爻の講ずるは権位有るの人は他人の力を借助せずして即ち能く人を益するなり。
上九,剛而誤用,不能益已,強欲益人,不但莫益於人,而且為人擊責矣。夫益人之道,先要能損己過,己過損去,而益於善矣。己善,而後可以善人。此循序漸進,恆久之心。若立心不恆,未益於己,即欲益人,無益有損,自取其凶,此好強者,未益己而即欲益人者也。
上九一爻、陽剛にして用いて錯えたるを地方、能く先ず自己を増益せずして、却って硬として去りて別人を増益せんと要す。結果但だ人に対して益処無きのみならず、反って人に攻撃責難せられん。知るを須す、人を益するの道理は、先ず要して能く自己の過失を减損せん。自己の過失减じ去れば、はじめて善に於いて増益せりと算す。自己先ず善にして、然る後にはじめて可に別人をして善に向かわしめん。これは是れ循序漸進・恒久改めざるの用心なり。倘若心を立つる能く恒久せず、還た未だ自己を益する有らざるに則ち急ぎて去りて人を益せんとすれば、益処無くして反って損害有り、是れ自ら凶険を取るなり。此一爻の講ずるは強を逞ぶるを好むの人還た未だ己を益せざるに則ち搶えて人を益すの毛病なり。
然則,益之為道,當道未成,必先益己,及道已成,再去益人。益己益人,各有其時,如未到已益之後,不可益人。然益己益人,總要先能損己之過耳。能損已過而至於無過,可以益己,可以益人,無往不利矣。
こく如く視れば、増益の道理は是れ。大道還た未だ成就せざるの時候は、必ず先ず自己を増益せんを須す。大道已に成るに及ぶを待って、再び去りて別人を増益す。己を益すると人を益すると、各々各々其の時候有り。もし還た未だ自己の受益完成するに到らざれば、則ち可に去りて人を益する能わず。然而己を益すると人を益するとを論ぜず、総じて要して先ず能く自己の過失を减損せん。能く過失を减じて過失無きに到れば、則ち既可に己を益し、亦可に人を益し、何処に走り到るも倶に利あらざる無し。
上兌下乾(夬卦第四十三)
夬:揚于王庭,孚號有厲,告自邑,不利即戎,利有攸往。初九,壯于前趾,往不勝為咎。九二,惕號,莫夜有戎,勿恤。九三,壯于頄,有凶。君子夬夬獨行,遇雨若濡,有慍無咎。九四,臀無膚,其行次且,牽羊悔亡,聞言不信。九五,莧陸夬夬,中行,無咎。上六,無號,終有凶。
《夬》卦。王庭の上に於いて公開に宣揚し、誠信を以て呼号して戒懼を保持し、先ず自己の城邑より始めて誥戒し、立刻に武力を動用するに宜からず、往く所有るに利し。初九。脚の前趾強を逞ばし急進し、前往して能く取勝せざれば則ち過咎と成る。九二。警惕して呼号戒備し、即かり傍晚夜裡兵戎の來襲有るも、亦た憂慮するを必とせず。九三。剛強の気顴骨の上に現れ、凶険有り。君子决然として独行し、途中雨に遇えりて衣裳を淋湿せしむ。雖も慍怒有るも、却って過咎無し。九四。臀部皮肉無く、行走遲疑して進み難し。羊を牽いて慢慢として走れば則ち悔恨消失す、可惜此の話を聴き了るも却って肯んじて相信せず。九五。馬歯莧の一類の柔脆の物に対しても亦た果断に除去し、行事中を守り、過咎無し。上六。呼号して救を求むるの処無く、終究に凶険有り。
夬者,決也。卦體一陰居於五陽之上,陽將純而陰將盡,卦德健而和,和以行健,健而不猛,均有以陽去陰之義,故謂夬。此以陽退陰之卦,承上損卦而來。損者,止其悅而不妄悅,所以進陽退陰,以正氣而退客氣也。
「夬」とは則ち是れ決断・決去。卦体に就きて言えば、一個の陰爻高居して五個の陽爻の上に在り、陽將に純全ならんとし陰將に消尽せんとす。卦徳に就きて言えば、剛健にして和順、和順を用いて剛健を推行し、健にして猛ならず。倶に陽を以て陰を去るの意を含有す。だから《夬》と呼ばる。これは一卦の陽気を用いて陰気を退去するを講ずる卦で、上一卦《損》を承接して来る。《損》の講ずるは喜悦を止住して妄に喜悦を生ぜざらしむ、用意正に「陽火を進め」「陰符を退け」に在り――「陽火を進め」は是れ先天真陽を助長し、「陰符を退け」は是れ後天陰質を消退し――正気を以て「客気」を逼退す。
客氣者,識神所招,欲退客氣,莫若先去識神。人自交於後天,識神用事,酒色迷真,財氣亂性,情慾俱發,思慮紛生,心君迷惑,習於性成,非一朝一夕之故,豈能斬然決去哉!不能斬然決去,必須從容行事,隨時下手,終必識滅,滅而元神復,人心化而道心全,重見本來乾元面目矣。但此識神為人心所戀,欲去識神,莫若先明其心。心若一明,則道心現,而識神易去,故夬揚于王庭也。
いわゆる「客気」とは、是れ「識神」の招引して來たるなり。「識神」は指すは後天見聞情識の凝結して成るの主を為すの神、先天の「元神」と相対す。客気を退去せんと要せば、先ず識神を除掉するに如かず。人自ら後天に落入して、識神権を当たり、酒色真性を迷惑し、財気本性を擾乱し、情欲一斉に発動し、思慮紛紛として起こり、心君迷を受け、習慣久しきこと變じて性情と成る。これは是れ一朝一夕の造成する所に非ず。どこが能く一刀に斬断せんや。既に能く一刀に斬断する能わざれば、則ち必ず従容に行事し、随時に下手して、最終に識神必定して消滅せん。識神一たび滅すれば、「元神」――先天本有の霊明――則ち恢復し、人心転化して道心完全し、重新本来の乾元の面目を見ん。但し此の識神は正に是れ人心に貪戀せられて在るのなり。識神を除去せんと要せば、先ず自己の心をして明白せしむるに如かず。心一たび明白なれば、「道心」顯現し、識神就きて容易に除去す。だから《夬》卦に応に王庭の上に於いて公開に宣揚せんを要すと曰う。
王庭者,心君所居之處,乃分辨邪正之地。心明邪正,則心不為識神所迷,易於去之。但識神用事已久,根深權大,非可冒然下手,必須急緩得法,方能濟事。曰孚號者,真心實意,以聚正氣也。曰有厲者,戒慎恐懼,以防邪氣也。曰告自邑者,煉己也。曰不利即戎者,待時也。
「王庭」は是れ心君の居する所の地方、亦たすなわち是れ邪正を分辨するの所在なり。心裡邪正を明白せば、則ち識神に迷惑せられず、容易にそれを把って除掉せん。但し識神権を当たること已に久しく、根基深く・権柄大なり。可に貿然として下手する能わず。必ず急緩法を得て、はじめて能く事を成さん。いわゆる「孚号」とは、是れ真心実意に正気を聚集す。いわゆる「有厲」とは、是れ戒慎恐懼して邪気を防備す。いわゆる「邑より告ぐ」とは、則ち是れ「己を錬る」――先ず自身の習気の上に於いて功夫を做す。いわゆる「則ち戎に利あらず」とは、則ち是れ「時を待つ」――火候の到來を等候して硬攻せざるなり。
既能聚正氣,又能防邪氣,更能煉己待時,萬緣皆空,只一識神,乘時而決之,未有不利者也。卦德健而和,從容不迫,待時下手,其即決陰之妙訣乎?
既に能く正気を聚集し、又た能く邪気を防備し、更に能く己を錬り時を待てば、万縁倶に空しく、只剩一個の識神在り。時機を趁いてそれを把って決去すれば、利あらざる無し。卦徳剛健にして和順、従容迫らず、時機を等候して再び下手す。此れ正に是れ陰気を決去するの妙訣に非ずや。
初九,在決陰之初,獨剛不柔,冒然前進,是壯于前趾矣。前趾之壯,不但不能決陰,而反有以助陰,陽不勝陰,無咎而自致咎。此剛而不謹於決陰者也。
初九一爻、陰を決するの開頭に処り、只だ剛強有りて柔順無く、貿然として前進す。則ち是れ爻辞のいう脚の前趾強を逞ぶるなり。前趾強を逞ぶれば、但だ陰気を決し掉る能わざるのみならず、反って陰気に助力を添えたり。陽陰を壓え住む能わざれば、本来過咎無きも自己で過咎を招來す。此一爻は是れ剛強にして謹慎ならずして陰を決するなり、起手に就きて躁進するの毛病に属す。
九二,剛而能柔,儆惕自號,戒備嚴密,雖莫夜有戎,已伺於未發之先矣。何憂恤之有?此剛而能緩於決陰者也。九三,剛躁太過,急欲成功,壯氣現之於頄,宜有凶道,幸其以正去邪,為君子夬夬之決,但嫌其獨剛不柔,其行遇雨,若濡不能遽遂其志而有慍。然行既遇濡,始雖不能剛決,終必和決之,亦可無壯頄之咎矣。此剛而速於決陰者也。
九二一爻、陽剛にして能く柔順、警惕して自ら警めて呼号し、戒備嚴密にして、即かり傍晚夜裡兵戎の來襲有るも、已に早く事情未だ発せざる以前に就きて偵知して防備せり。還た何の憂慮すべきか有らん。此一爻は是れ剛強にして能く舒緩に陰を決するなり。九三一爻、剛強急躁太も過ぎて、急ぎて成功せんと要し、強を逞ぶるの気顴骨の上に顯現せり。本来応に凶険の路数有るべし。幸いなるにそれは正を以て去りて邪をし、是れ君子果決にして決するの作為なり。ただ是れそれの一味に剛強にして柔順せざるを嫌えり。路を行きて雨に遇えりて、沾湿せられて能く立刻に心願を遂げる能わず。此に因って些かの慍怒有り。然而既に路を行きて雨に遇い沾湿せらるれば、起初雖も能く剛決する能わざるも、最終に必定して能く和緩に決去せん。亦可に顴骨強を逞ぶるの過咎を免るるを得。此一爻は是れ剛強にして速を求めて陰を決するなり。
九四,剛居不正,道心為人心所累,如臀無膚,其行次且而決陰不果。幸其道心未抿,能以牽引陽氣而增長,本有悔而悔可亡。但嫌其不信決陰之言,道心中猶雜人心耳。此剛為柔傷,不知決陰者也。
九四一爻、陽剛にして居位正ならず、「道心」「人心」に拖累せられ、猶臀部皮肉無きが如く、路を走りて遲疑して進み難し。陰を決するも決すること果断ならず。幸いなるに其の道心還た未だ泯滅せず、能く陽気を牽引して之を増長せしめ、本来悔恨有るも悔恨消失し得べし。ただ是れそれの肯んじて陰を決するの忠告を相信せざるを嫌えり。道心の裡仍ほ夾雑して人心有り。此一爻は是れ陽剛陰柔に傷せられ・陰を決するを懂れざるの一歩なり。
九五,切近上陰,陰尊陽卑,道心為人心所瞞,貪戀識神,或決或不決,如莧陸夬夬。一時不能決斷其根然。夫道心人心所爭者,毫髮之間,這邊是道心,那邊是人心,果於決陰,便是道心,不果於決陰,便是人心。心者,神之室,識神與人心相連,故夬夬不定,幸其陽將純、陰將盡之時,理終勝欲,雖決之不能自然,亦必勉強而能決,是以中於行,而可無咎。此剛為柔牽,勉強決陰者也。
九五一爻、緊く上面の陰爻に挨り、陰尊位に居りて陽其の下に処り、「道心」「人心」に瞞し過せられ、「識神」を貪戀し、一会児決せんと想い・一会児又た決せず。猶爻辞のいう馬歯莧あの様の柔脆の物に対しても亦た決断して下る能わず、一時に其の根を断ち掉る能わざるが如し。知るを須す、道心と人心と相争うは、只だ毫髪の間に在るを。此の辺是れ道心なれば、あの辺則ち是れ人心。陰気に対して決断するも果決なれば、便ち是れ道心。決断するも果決ならざれば、便ち是れ人心。心是れ神の居室、識神人心と相連なる。だからはじめて決して復た疑い・猶豫定まらざる有り。幸いなるに正に陽將に純全ならんとし・陰將に消尽せんとするの時候に当たり、天理終究に人欲に勝てり。雖も決するもあの様に自然ならざるも、亦た必定して能く勉强して決去せん。此に因って行事中道に合し、可に過咎無からん。此一爻は是れ陽剛陰柔に牽累せられ・勉强して陰を決するの一歩なり。
上六,在決之終,群陰退盡,只有識神一陰未消,其時當決,其勢必滅,陽氣一進,陰氣即化,是以無號終有凶。陰氣之無號,即陽氣之孚號,陰氣之終凶,即陽氣之終吉。此陽氣純全,陰氣悉化之決者也。
上六一爻、決断の終結の処に処り、群陰已に退き尽き、只剩「識神」此の一個の陰爻還た未だ消掉せず。此の時候正に応に決去すべし、其の勢必然して消滅せん。陽気一たび進めば、陰気随って即ち化去す。だから爻辞に呼号する処無くして終究に凶険有りと曰う。陰気の呼号する処無きは、正に是れ陽気の誠信呼号するなり。陰気の最終の凶険は、正に是れ陽気の最終の吉利なり。此一爻は是れ陽気純全・陰気全部化尽するの決断なり。
然則,決陰之道,不可太剛,不可太柔,必須剛中有柔,柔中有剛,漸次而決,進一分陽,退一分明,陽氣進全,陰氣自化。若不知急緩運用,速欲成功,反助陰氣,有傷陽氣,陰氣終不能退,故退陰之道,須要深明火候耳。
こく如く視れば、陰気を決去するの門徑は、可に太も剛ならず、亦た可に太も柔ならず。必ず剛中に柔有り・柔中に剛有りて、一歩一歩に決し去らんを須す。一分の陽気を進め得れば、則ち一分の陰気を退去す。陽気十分完全に進み到れば、陰気自然消化す。もし急緩運用を懂れずして、只だ速成を図れば、反って陰気を助長し・陽気を損傷し、陰気終究に退き下去る能わず。だから「陰符を退くる」此の門の功夫は、必ず深深と「火候」――即ち功を用うの緩急節度――を懂れんを須す。
上乾下巽(姤卦第四十四)
姤:女壯,勿用取女。初六,繫于金柅,貞吉。有攸往,見凶,羸豕孚蹢躅。九二,包有魚,無咎,不利賓。九三,臀無膚,其行次且,厲無大咎。九四,包無魚,起凶。九五,以杞包瓜,含章,有隕自天。上九,姤其角,吝,無咎。
《姤》卦。女子過分に強壮なれば、此の如き女子を娶る勿れ。初六。車を把って金屬の止輪器の上に繫げ、正を守れば則ち吉利。もし往く所有れば、則ち會して凶険に遇わん。好比一頭の瘦弱の母猪も亦た躁動不安に乱れ跳ぶが如し。九二。包裹の裡魚有り、過咎無し。但し宜しく拿って賓客を款待するに用いる可からず。九三。臀部皮肉無く、行走遲疑して進み難し。雖も危厲有るも、却って大きな過咎無し。九四。包裹の裡魚無し、將に凶険を引起さんとす。九五。杞樹の枝葉を用いて甜瓜を包住し、文采含蓄して内に在り、會して美好の物天より降る有らん。上九。角の上に於いて人と相遇う、些かの困厄有るも、過咎無し。
姤者,遇也。不期而相遇之義。卦體一陰而入於五陽之下,五陽而遇一陰,故謂姤。此防陰保陽之卦,承上益卦而來。益者,增其陽之不足也。增其不足,必自一陽增至於六陽,陽純全而後已。然陽極必生陰,一陰潛生,陽氣即傷,故彖辭所以直謂姤,女壯也。但陽極必陰者,造化順行後天之道,而能借陰全陽者。
「姤」とは則ち是れ相遇う、指すは期せずして然りて碰上ぐるなり。卦体に就きて言えば、一個の陰爻潜入して五個の陽爻の下に在り、五陽一陰に遇上す。だから《姤》と呼ばる。これは一卦の陰を防ぎ陽を保つを講ずる卦で、上一卦《益》を承接して来る。《益》の講ずるは陽気の不足を補足するなり。既に補足せんと要せば、則ち必ず一陽より一直に六陽に増し到りて、陽気純全してはじめて罷休す。然而陽極処に到れば必定して陰を生じ、一陰暗中に萌生し、陽気随即傷を受く。だから卦辞に直截了当に《姤》は則ち「女壮」――陰気強盛と説く。不過いわゆる陽極まれば必ず陰とは、説くは是れ造化順行の後天の道。而して道を修する人は却って能く反って陰気を借りて陽気を成全す。
聖人逆運先天之學,如本卦二五,剛而得中,通權達變,剛中有柔,柔中有剛,可以出入乎陰陽之中,而不為陰陽所拘,用六而不為六所用,如遇女不取,陰氣雖壯,終聽命於陽氣,不但陽氣不傷,而且陰氣亦漸消化,此防陰之功所由貴也。
聖人の傳うる所は、是れ造化に逆らいて運行するの先天の学なり。本卦九二・九五四两爻の如き、陽剛にして各々中位に居り、権に通じ変に達し、剛裡に柔を含み・柔裡に剛を含み、可に陰陽の中に於いて出入自如にして陰陽に拘え住められず、陰数の六を運用して六に運用せられず。好比強壮の女子に遇見して去りて彼女を娶らざるが如し。陰気雖も強盛なれども、終究に陽気に聴命し、但だ陽気損傷を受けざるのみならず、陰気を連ねても亦た逐漸消化す。これがすなわち「陰を防ぐ」此の門の功夫の可貴なる所以の縁故なり。
初六,一陰潛生,其力足以敵五陽,如金柅能以止車於不行。修道者,守貞不失,防患於早,為吉。若有妄動,自招其陰,則凶。特以一陰進而群陰皆動,如一羸豕,能以引群豕而蹢躅,其機雖微,為害最大。此陰氣之始生也。
初六一爻、一陰暗中に萌生す。其の力量以て五陽に抵敵するに足る。好比金屬の止輪器能く車を把って止住して動かさざるが如し。道を修する人貞正を守持して失わず、及早に患を防げば、則ち吉利。もし妄動有れば、自己で陰気を招き來り、則ち凶険。特別に留意すべきは是れ。一陰一たび動けば、群陰倶に跟って動く。好比一頭の痩母猪能く一群の猪を帯得て躁動乱跳せしむるが如し。此の個の苗頭雖も細微なれども、為害は却って最も大なり。此一爻の講ずるは陰気剛かに萌生するの階段なり。
九二,剛以柔用,戒慎恐懼,能防始生之陰,如魚在包中不能為害,其利在主不在賓,蓋已伺之於早矣。此防陰於未發也。九三,剛而自恃,不能防閒於早,陰氣已發,制伏甚難,道心中人心相雜,如臀無膚,其行次且,主宰不定矣。幸其剛而守正,日乾夕惕,危厲自處,可無以陰傷陽之咎矣。此防陰於已發也。
九二一爻、陽剛にして柔順を以て運用し、戒慎恐懼して、能く剛かに萌生したるの陰気を防ぎ住む。好比魚包中に裹められて害を為す能わざるが如し。好処主人の一辺に在りて賓客の一辺に在らず、それは早就きて彼処に於いて守候して在るに因る。此一爻の講ずるは陰気未だ発せざるの時に於いて則ちそれを把って防ぎ住むなり。九三一爻、陽剛にして自ら恃み、能く及早に防閑する能わず。陰気已に発動し、制伏して起さんとするも很に難し。「道心」の中「人心」を夾雑す。好比臀部皮肉無くて・路を走りて遲疑して進み難く・自己の主を做す能わざるが如し。幸いなるにそれは陽剛にして正を守り、白天勤勉し・夜裡警惕し、自己を把って危厲の処境の中に放って警戒すれば、可に陰を以て陽を傷つくるの過咎を免るるを得。此一爻の講ずるは陰気已に発したる之後に去りてそれを防ぐなり。
九四,剛而失守,不能防陰而縱陰,坐觀成敗,道心有昧,人心亂生,禍起蕭牆,如魚出包中,無所不至矣。此不知防陰而見傷也。
九四一爻、陽剛にして守を失い、能く陰を防がずして反って陰気を放縦し、坐して成敗を看る。「道心」昏昧し、「人心」紛乱して叢生し、禍患内部より起こる。好比魚包裹に跑り出でて・何の地方にも去り得るに到るが如し。此一爻の講ずるは陰を防ぐを懂れずして終に傷を受くるに至るなり。
九五,剛健中正,天人混合,以道心而制人心,如以杞之陽,包瓜之明,黜聰毀智,光華內含,陰氣不得而近之,以是處姤,人力可以迴天,陽氣不傷,陰氣自化矣。此以陽防陰而無傷也。
九五一爻、剛健にして中に居りて正を得、天機と人事と混合して一と為り、「道心」を用いて「人心」を制服す。好比杞樹の陽剛の枝干を用いて甜瓜の明潤を包住するが如し。聰明を摒棄し・智巧を毀棄し、光華含蓄して内に在り、陰気靠近するに従う無し。此の如き態度を用いて《姤》卦の時局の裡に処れば、人力可に天運を挽回し、陽気損傷を受けず、陰気自然消化せん。此一爻の講ずるは陽を以て陰を防ぎて毫も損傷無きなり。
上九,剛而高亢,不能防陰於早,陽極必陰,剛極必敗,金丹得而復失,自取其咎,與陰無咎。此防陰不早而終傷也。六爻或知防陰,或不知防陰,或防陰於早,或防陰於遲,求其防於早,而陰不能生,其惟九二,以陽統陰,使其自消自化,得其中正者,其惟九五乎。防陰得其中正,用六而不為六所用,借陰保陽,不在是乎。
上九一爻、陽剛にして高亢、能く及早に陰を防ぐ能わず。陽極処に到れば必定して陰を生じ、剛極処に到れば必定して敗壞せん。「金丹」得て復た失う。これは是れ自ら其の咎を取る、陰気に怪むる能わず。此一爻の講ずるは陰を防ぐこと早からずして最終に傷を受くるなり。六爻の中、或いは陰を防ぐを懂れ、或いは陰を防ぐを懂れず。或いは防ぐこと早く、或いは防ぐこと遲し。要して防ぐこと早く・陰気をして生じ起さる能わざらしむるを論ずれば、唯だ九二有るのみ。要して陽を以て陰を統し・陰気をして自消自化して中正に合せしむるを論ずれば、あれは則ち唯だ九五了なり。陰を防ぎて能く中正に合し、陰数の六を運用して六に運用せられず、陰気を借りて陽気を保全す。正に此の裏に在らずや。
上兌下坤(萃卦第四十五)
萃:亨。王假有廟,利見大人,亨利貞。用大牲吉,利有攸往。初六,有孚不終,乃亂乃萃;若號,一握為笑,勿恤,往無咎。六二,引吉,無咎,孚乃利用禴。六三,萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。九四,大吉,無咎。九五,萃有位,無咎,匪孚;元永貞,悔亡。上六,齎諮涕洟,無咎。
《萃》卦。亨通。君王宗廟の裡に到りて神を迎え祭を致す、大徳の人を見るに利し、亨通して正を守るに利し。大牲畜を用いて献祭すれば則ち吉利、往く所有るに利し。初六。誠信有るも能く到頭まで堅持する能わず、ここにおいて心思紛乱・聚散常無し。假如呼号して助を求めば、一握手の間便ち憂を転じて笑と為す。憂慮するを必とせず、前往して過咎無し。六二。人に引薦せられて吉利、過咎無し。心中誠有れば、即かり微薄の禴祭を用うるも亦た可なり。六三。聚合せんと想うも只だ嘆息に落得するのみ、何の利益も無し。前往して過咎無し、只だ稍々困厄有るのみ。九四。大いに吉利、過咎無し。九五。聚合して尊位に居り、過咎無し。只だ是れ還た未だ人人信服せしむる能わず。只だ要して長久に大正の道を守持せば、悔恨則ち會して消失せん。上六。嘆息流涙・涕泗交い下る、過咎無し。
萃者,聚也。卦德上兌悅、下坤順,我順人而人即悅,故謂萃。此攢簇藥物之卦,承上夬卦而來。夬者,以陽而決陰也。決陰之道,乃丹頭到手以後之事。當丹頭未得,若無攢簇藥物之功,而丹頭不結。但人自有生以後,性相近而習相遠,忘其本真,逐於外假,心神不定,精氣耗散,非可遽能收攝,是貴乎以順為體,以和為用,循序漸進,火候不差,專心致志,愈久愈力,自然已失者而可還,已去者而可返,猶如王者假神有廟也。
「萃」とは則ち是れ聚集。卦徳に就きて言えば、上卦兌は悦・下卦坤は順。我人に順えば、人自然歓悦す。だから《萃》と呼ばる。これは一卦の「薬物を攢簇す」――散失したる精気神を把って收攝攏合す――を講ずる卦で、上一卦《夬》を承接して来る。《夬》の講ずるは陽気を用いて陰気を決去するなり。而して陰を決するは、是れ「丹頭」手に到る以後の事なり。「丹頭」は指すは丹を結ぶに憑る所のあの一点の先天真種。当に丹頭還た未だ得ざるの時、もし薬物を攢簇するの功夫を缺けば、丹頭は則ち結び成る能わず。人自ら出生の以後、本性相近くして習染相遠く、本真を忘掉し、身外の虚偽を追逐し、心神定まらず・精気耗散す。是れ一下子に則ち收攝して回る能く所に非ず。だから貴ぶは順を以て体と為し・和を以て用と為し、循序漸進して、火候錯えず、専心致志して、越久しければ越えて力有り。自然已に散失したる可に還り回り、已に離去したる可に返り來る。猶君王宗廟の裡に到りて神を迎え祭を致するが一様なり。
祖先為人之根本,忘其根本,則不孝而非人,王者假神在廟,所以使人人皆知有根本之當報耳。人之本來天真,如祖先之根本也。人之棄真認假,如忘祖先之根本也。人能收斂神氣,修持性命,復還本來天真,如不忘祖先之根本也。王者之不忘根本,能以聚天下之人心。修道者之不忘根本,能以攢性命之大藥。但此不忘根本之事,須要大人行之,非一切不知性命之小人所能行,是以利見於大人亨也。
祖先是れ人の根本。根本を忘掉するは則ち是れ不孝、亦た則ち人と成るを成さず。君王宗廟に於いて神を迎え祭を致すは、正に是れ人をして人人皆な根本応に報答すべきを知らしめんと要するなり。人本来の天真は、則ち如同祖先此の個の根本。人真を抛弃し・偽を認取するは、則ち如同祖先此の個の根本を忘掉す。人能く神気を収斂し・性命を修持し・本来の天真を恢復するは、則ち如同祖先此の個の根本を忘れず。君王根本を忘れず、能く天下の人心を攏聚す。道を修する人根本を忘れず、能く性命の大薬を攢聚す。但し此の件の根本を忘れざるの事は、必ず「大人」――即ち徳業已に成り・能く己を正しく物を正する人――に由りて做し去らんを須す。是れ一切の性命の学を懂れざる小人の做り得る所に非ず。だから卦辞に大人を見るに利して亨通すと曰う。
蓋大人者,正己而正物者也。正己則無我,神氣不散,以正為己也。正物則無人,氣質俱化,以正為物也。正己正物,內念不生,外物不入,內外一正,仁義禮智,皆本於信,金木水火,俱歸於土,先天聚,後天化,性定命凝,聚正之亨利,豈小焉哉!
いわゆる大人とは、是れ先ず自己を端正して再び外物を端正するの人なり。自己を端正すれば則ち「我」無くなり、神気涣散せず、是れ「正」を把って自己と為すなり。外物を端正すれば則ち人我の別無くなり、気質全部転化し、是れ「正」を把って外物と為すなり。己を正しく又た物を正しくすれば、内裡念頭起きず、外面物欲入らず、内外倶に一個の「正」の字に帰す。仁義礼智倶に「信」を以て根本と為し、金木水火倶に「土」の上に帰す――これは是れ丹家の五行を以て五徳に配し・中央戊己土を以て四象を統攝するの説法なり。先天の気攏聚し、後天の質化去し、性定まりて命凝す。此の種の正を聚めて得る所の亨通と利益とは、どこが算す小なるを得んや。
夫天之所以命於人者,正耳。人之所以報於天者,亦正耳。以正報天,不忘根本,如用大牲,上亨於天,未有不致其吉者。然用大牲致吉之道,非空空一念便能了事,須要腳踏實地,一步步行去,方能成功。若知而不行,猶如不知,何能得吉?利有攸往,知之貴於行之耳。
上天の人に賦与するは、是れ一個の「正」の字。人の用いて上天に報答するも、亦た是れ一個の「正」の字。正を以て天に報い・根本を忘れざれば、猶大牲畜を用いて上に天に祭享するが如く、吉利を得ざる無し。然而大牲を用いて吉を致すの道理は、是れ空空として一個の念頭にすれば則ち了事する能くに非ず。必ず脚実地に踏み、一歩一歩に走下去りて、はじめて能く成功せん。もし只だ是れ知りて去りて做さざれば、知らざると一様なり。怎様にして吉を得ん。いわゆる往く所有るに利するとは、正に是れ説く、「知」は貴ぶは能く「行」するに在ると。
初六,陰柔無斷,不辨是非,或信此,或信彼,乃亂乃萃,信非所當信,聚非所當聚矣。幸應四陽,若知亂萃無益,自悔悲號,親近真師,一經握引,暗中指點,當亦會得,道不遠人,人之為道而遠人。先號後笑,直下承當,不必憂恤,即時往而攢簇五行,和合四象,何患不到無咎之地哉!此改邪歸正之萃也。
初六一爻、陰柔にして決断無く、是非を辨えず、一会児此の個を信じ・一会児あの個を信ず。ここにおいて心思紛乱・聚散常無し。信じたるは信ずべからざるを信じ、聚めたるは聚むべからざるを聚めたり。幸いなるにそれは九四陽爻と相応じ、もし乱聚の益処無きを知りて、自己悔悟悲号し、去りて「真師」――即ち真正に口訣傳承を得過るの明師――に親近し、真師の握手して引進し・暗中に点撥するを経れば、亦た則ち能く領會せん。《中庸》に説く、道は並びて人を離遠せず、是れ人自己で道を求めて反って道を把って遠く弄ったるなりと。先ず呼号して而る後に歓笑す。直下に承当して、憂慮するを必とせず、立刻に前去りて「五行を攢簇し・四象を和合す」――身中の金木水火土五行の気を把って中央に収帰し・四方の象を把って收攝して一に帰す――何を愁えて過咎無きの地步に到らざらんを得んや。此一爻は是れ邪を改め正に帰するの聚合なり。
六二,居於三陰皆暗之中,一身純陰,而能順其所欲,漸次導引,化其氣質之性,聚其真如之性,其利如用禴祭神,以誠感通。始而有咎者,終而可以無咎。此柔而守正之萃也。
六二一爻、三個の陰爻倶に昏暗なるの当中に処り、一身純陰なりも、却って能く自己の欲望に順って慢慢と引導し、「気質の性」――後天禀受して形気と成るの習性――を化去し、「真如の性」――先天本来染まらざるの真性――を聚め起す。あの好処は猶微薄の禴祭を用いて神を祭するが如く、一片の誠意に憑りて神明に感通す。起初過咎有るも、最終に可に過咎無からん。此一爻は是れ陰柔にして正を守るの聚合なり。
六三,愚而自用,執著一己之陰,妄想成道,空而不實,是萃如必終嗟如,其無所利可知。幸其賢士在望,若能往而相聚,借剛濟柔,亦可以免嗟如之咎。但不能聚正人於早,及至受其害而後聚,難免小吝矣。此柔而借剛之萃也。
六三一爻、愚昧にして自ら以て是と為し、自己一身の陰質に執着し、妄想して道を成らんとし、空に落ちて実ならず。だから聚合せんと想うも終に只だ嘆息に落得するのみ、何の利益も無きも亦た可想像して知るべし。幸いなるに賢徳の士則ち眼前に在り。もし能く前去りて彼らと相聚し、他人の陽剛を借りて自己の陰柔を濟助せば、亦た可に徒然に嘆息するの過咎を免れん。ただ是れそれ能く及早に正人を聚合せず、害を受けたる以後に去りて聚むるを待てば、難を免れずして些かの小さな困厄有らん。此一爻は是れ陰柔陽剛を借助するの聚合なり。
九四,剛而能柔,陰陽相當,還丹凝結,大丹有望,不但聚之如意而大吉,必將聚於一無所咎之地矣。此凝結還丹之萃也。
九四一爻、陽剛にして能く柔順、陰陽分量相当し、「還丹」――即ち已に散せる真陽の返還して凝聚して成るの丹――已に凝結し、大丹望有り。但だ聚合して称心如意にして大いに吉利なるのみならず、而且必ず將に聚りて一も過咎無きの地步に到らんとす。此一爻は是れ還丹を凝結するの聚合なり。
九五,剛而中正,上智不移,正位凝命,無修無證,不待作為,五行一氣,本自無咎。雖然無咎,嫌其居於悅體,自滿自盈,信非所信,後悔必有。若知實腹而又虛心,行無為之事,溫養聖胎,永於貞一,用天然真火,鍛盡後天餘陰,號曰無漏真人,何悔之不亡乎?此溫養聖胎之萃也。
九五一爻、陽剛にして中に居りて正を得、是れ上等の智慧・退転せざるの人なり。自己の位分を端正し・天の賦与する所の命を凝定し、修と謂う所無く・証と謂う所無く、刻意に造作するを必とせず、五行一気に帰し、本来則ち過咎無し。雖も過咎無しと説くも、只だそれの身兌悦の体に処りて、容易に自満自盈し、信じたるは信ずべからざるを信じ、後悔必定して免れ難からんを嫌うのみ。假如能く「腹を実に」する以後に還た要して「心を虚に」せんを懂れば――真気充盈の後仍ほ要して心念を滌い尽さんを須す――無為の功夫を行い、「聖胎」を温養し、永遠に貞一に於いて守り、「天然真火」即ち先天自然の火を用いて後天の残り余るの陰質を焼き尽せば、則ち号して「無漏真人」と称す。還た何の悔恨か消掉せざるを得んや。此一爻は是れ聖胎を温養するの聚合なり。
上六,愚而無知,誤入旁門,以假為真,雖天寶在望,未許我聚,空空一世,臨死方悔,齎諮涕洟,自致其傷,與人無咎。此始不謹而終因之萃也。
上六一爻、愚昧無知にして、誤りて傍門左道に入り、偽を把って真と成しと為す。雖も「天寶」――即ち先天大薬――則ち眼前に在るも、亦た自己の聚め得るに輪じ到らず。白白として空しく一生を過し、死に臨みてはじめて後悔し、嘆息して涕を流す。これは是れ自己の招來したるの傷損、別人に怪むる能わず。此一爻は是れ起初謹慎ならずして最終に累を受くるの聚合なり。
六爻各有所萃,是非邪正不同,求其陰陽相當,剛柔如一之萃,其惟九四。以虛養實,了命了性,其惟九五乎?噫!金蝦基,玉老鴉,認得真的是作家。
六爻各々各々其の聚合有り、是非邪正各々相同ならず。要して陰陽分量相当・剛柔合して一と為るの聚合を論ずれば、唯だ九四有るのみ。要して虚を以て実を養い・性命双了の聚合を論ずれば、あれは則ち唯だ九五ならんか。唉!「金蝦基」「玉老鴉」此の一類の丹家隱語の指す所の真薬物は、認得して真切なるはじめて行家と算す。
上坤下巽(升卦第四十六)
升:元亨。用見大人,勿恤。南征吉。初六,允升,大吉。九二,孚,乃利用禴,無咎。九三,升虛邑。六四,王用亨于岐山,吉,無咎。六五,貞吉,升階。上六,冥升,利于不息之貞。
《升》卦。大いに亨通。宜しく去りて大徳の人を見るべし、憂慮するを必とせず。南方に向かって前行すれば、吉利。初六。許可を得て上昇す、大いに吉利。九二。心中誠有れば、即かり微薄の禴祭を用うるも亦た利有り、過咎無し。九三。一座の空虚無人の城邑に升入る。六四。君王岐山に於いて祭祀を舉行す、吉利、過咎無し。六五。正を守れば則ち吉利、台階を登るが如き様子に一歩一歩に上昇す。上六。昏暗の中に於いて一味に上昇す、永く息まずして正道を守持するに利し。
升者,自卑登高之義。卦德上坤順、下巽入,徐緩進步,順時而行,不即不離,漸入真常,故謂升。此謹慎火候之卦,承上姤卦而來。姤者,巽入於健,陽極陰生,邪氣日進,正氣日退,習染成性,漸入下愚不移之地矣。所以者何?因其陽失其健,陰亦不順耳。
「升」は是れ低き処より高き処に登向するの意。卦徳に就きて言えば、上卦坤は順・下卦巽は入。緩緩として前進し、時機に順って行い、即せず離れず、漸漸真常の境に進入す。だから《升》と呼ばる。これは一卦の火候を謹慎するを講ずる卦で、上一卦《姤》を承接して来る。《姤》の講ずるは柔順潜入して剛健の中に入り、陽極処に到りて陰気萌生し、邪気一天天に進逼し、正気一天天に退却し、習染久しきこと變じて性情と成り、漸漸下愚移らざるの地步に落ち到る。これは是れ何の縁故ぞや。其の陽剛健を失去したるに因れば、陰も亦た則ち肯んじて順從せざるなり。
金丹大道,未復其陽,先順其陰,陰若一順,則人慾不生,正念常存,循序漸進,可以自無而至有,自虛而至實,下學上達,明善復初而無難,故升有元亨之道也。但此元亨之升,乃竊陰陽、奪造化,超凡入聖之事,其中火侯細微,工程攸遠,非一切妄猜私議,盲修瞎煉者所能行,必須真師口傳心授,真知確見,方能一直前行,無阻無擋,是以用升之道,利於見大人也。
金丹大道は、還た未だ陽気を恢復せざる以前に、先ず応に陰気をして順服せしむべし。陰気一旦順服せば、人欲則ち生ぜず、正念長に存し、循序漸進して、可に無より有を從い・虚より実に到り、下に由りて学びて上に達し、善を明らかにし初に復るも亦た難からず。だから《升》卦大いに亨通の道理有り。但し此の種の元亨の上昇は、是れ陰陽を竊取し・造化を奪回し・凡を超えて聖に入るの大事なり。其中の「火候」――功を用うの緩急節度――極めて細微にして、「工程」――修持の進程歩驟――極めて久遠なり。是れあの些かの胡乱に猜测し・私下に議論し・盲修瞎錬するの人の行い得る所に非ず。必ず「真師」の口傳心授に由りて、真知確見有りて、はじめて能く一路前行して・阻無く擋無からん。だから上昇の道を運用するは、大人を見るに利する在り。
大人,即完成大道之聖人。蓋大人成己成物,一言一語,俱有道理。如風之無物不入,能以開人之智慧;如地之無物不長,能以救人之災殃。見大人而後用之,則藥物得真,火候有準,可以勿恤,嚮明遠行,一步有一步之益,一日有一日之功,自卑登高,由淺及深,終必進於聖賢之域,其吉為何如乎?
いわゆる大人とは、則ち是れ已に大道を完成したるの聖人なり。大人己を成就し又た万物を成就し、一言一語倶に道理に合乎す。猶風の一様に入らざる物無く、能く人の智慧を開発す。猶大地の一様に長養せざる物無く、能く人の災殃を救う。大人を見る之後に再び下手して功を用いれば、薬物はじめて其の真を得、火候はじめて準則有りて、則ち可に憂慮するを必とせず、光明に向かって遠行し、一歩一歩の収益有り・一天一天の功効有り、低き処より高き処に登向し、浅より深に入り、最終に必定して聖賢の境地に進入せん。あの份の吉利は還た説かんを用いんや。
初六,性柔志剛,虛心自下,親近有道之士,而高明者,未有不允其升,不授其真者。此柔而順剛之升也。九二,剛而有得於中,深明藥物火候,以誠而入,以柔而用,漸次下功,如以禴祭神,用誠感通,必升於一無所咎之地矣。此剛而用柔之升也。
初六一爻、性情柔順にして志気剛強、虚心して自ら下に処り、道有るの士に親近す。而して高明の人は、それをして上昇せしめざる許さず・真訣をそれに傳授せざる無し。此一爻は是れ陰柔陽剛に順從するの上昇なり。九二一爻、陽剛にして中に居りて得有り、深深と薬物と火候とを懂れ、誠意を以て手を入れ、柔順を以て運用し、一歩一歩に功夫を下す。猶微薄の禴祭を用いて神を祭して・誠意に憑りて神明に感通するが如く、必定して能く一も過咎無きの地步に升り到らん。此一爻は是れ陽剛にして柔を用うるの上昇なり。
九三,予聖自雄,不知尋師訪友,妄猜私議,冒然前進,欲向其前,反落於後,如升於虛邑,何能進於高明之地?此不知求師之升也。六四,柔而守正,順時進步,煉己持心,自卑登高,漸入佳境,如王用亨于岐山,未有不升於上者。此吉而無咎之升也。
九三一爻、自ら以て聖と為し・自ら英雄を逞ぶし、師を尋ね友を訪うを懂れず、胡乱に猜测し・私自に議論し、貿然として前進す。本想前に往かんとするも、反って後に落ち到る。猶一座の空城に升進するが如く、怎様にして能く高明の境地に進入せん。此一爻は是れ師を求むるを懂れざるの上昇なり。六四一爻、陰柔にして正を守り、時機に順って進歩し、「己を錬り心を持す」――自身の習気を磨錬し・心念を把住す――低き処より高き処に登向し、漸入佳境す。猶周文王岐山に於いて祭祀を舉行するが如く、上昇する能わざる無し。此一爻は是れ吉利にして過咎無きの上昇なり。
六五,虛人心而求道心,虛心即能實腹,所謂一念回機,如同本得,其增益道德,如升階之易,此柔而虛心之升也。上六,愚而自用,執著一己之陰,妄想增升道德,了命了性,升之不息,冥之不息,愈升愈冥,焉能出晦暗而進於高明?若欲升之不冥,必須求師口訣,利于不息之貞,懲忿窒欲,閒邪存誠,愈久愈力,亦可升於明善復初之地。此柔而歸正之升也。
六五一爻、「人心」を虚掉して「道心」を求取す。心一たび虚し下がれば、腹自然充実す。いわゆる一念回転すれば機関は、則ち如同本来則ち有るが一様なり。それ道徳を増益するは、台階を登るが如き容易なり。此一爻は是れ陰柔にして虚心なるの上昇なり。上六一爻、愚昧にして自ら以て是と為し、自己一身の陰質に執着し、妄想して道徳を増進し・性命を了却せんとし、一味に停まらずに上に往きて升り、亦た一味に停まらずに昏冥の裏に陷り、越えて升れば越えて昏し。怎様にして能く晦暗に走出して高明に進入せん。もし升りて昏まざらんと想わば、必ず真師の口訣を求得し、永く息まずして正道を守持し、忿怒を懲戒し・欲望を堵塞し、邪念を防閑し・誠意を存養して、越久しければ越えて力有れば、亦可に明を善かして初に復るの地步に升り到らん。此一爻は是れ陰柔にして正道に回帰するの上昇なり。
升之為道,以剛道而行柔道也。卦德巽而順行,外柔內剛,循序漸進,不急不緩。深造自得,未有不升於聖賢之堂奧者。然火候之秘,總要真師口傳心授。彖曰:“用見大人,勿恤,南征吉。”可以知矣。
上昇此の門の道理は、是れ剛健の道を用いて來りて柔順の道を推行すなり。卦徳是れ柔順深入して時に依りて運行し、外表柔和にして内裡剛強、循序漸進して急がず緩まず。造詣深く入りて自ら所得有れば、聖賢の堂奧に升入る能わざる無し。然而火候の秘密は、総じて要して真師の口傳心授ならん。卦辞に「用いて大人を見、恤えず、南に征すれば吉」と曰う。此の句の話より則ち可に明白せん。
上兌下坎(困卦第四十七)
困:亨。貞,大人吉,無咎。有言不信。初六,臀困于株,入于幽谷,三歲不覿。九二,困于酒食,朱紱方來,利用享祀,征凶,無咎。六三,困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。九四,來徐徐,困于金車,吝,有終。九五,劓刖,困于赤紱,乃徐有說。利用祭祀。上六,困于葛藟,于臲卼,曰動悔,有悔。征吉。
《困》卦。亨通。正道を守持せば、大徳の人吉利、過咎無し。此の時縦い言語有るも亦た人相信ずる無し。初六。臀部樹樁の上に困せられ、幽深の山谷に落入り、三年天日を見ず。九二。酒食の中に困せられ、紅色の官服剛かに到來す。祭祀を舉行するに利し、急進すれば則ち凶険有るも、過咎は無し。六三。石頭に困せられ、又た蒺藜の上に靠り、家の中に回り到りて却って妻子を見ず、凶険。九四。來ること緩慢遲疑にして、華美の金車に困せられ、些かの困厄有るも、終に好き結果有らん。九五。鼻を割き足を断つるの刑を受け、紅色の官服に困せられ、慢慢としてはじめて喜悦有らん。祭祀を舉行するに利し。上六。葛藤に纏繞せられて困せられ、動搖不安の中に処り。心裡説く、一動すれば則ち要して後悔せんと。果真に悔意を生出せば、前往すれば則ち吉利。
困者,窮難也。卦體下坎,一陽陷於二陰之中,上兌,一陰居於二陽之上,均係陰浸其陽,陽氣不通之象,故謂困。卦德險中出悅,悅出於險,兼有濟困之義。此磨礪身心之卦,承上萃卦而來。萃者,由順得悅,所以攢簇藥物,返本還原也。但能攢簇於平易,不能攢簇於艱險,仍是不能順、不能悅。特以修道者平易之境,皆能有守,艱險之地,每多變志,或為衣食逼迫改唸,或因疾病纏綿墮志,或因年老灰心,或因魔障歇功,諸如此類,皆是道心不力,為困所拘,終不成道。若果身困而心不困,境困而道不困,處險能悅,困中反有亨道矣。
「困」とは則ち是れ窮迫艱難。卦体に就きて言えば、下卦坎は是れ一個の陽爻两個の陰爻の中に陷り、上卦兌は是れ一個の陰爻两個の陽爻の上に壓る。倶に是れ陰気陽気を侵蝕し・陽気通ぜざるの象なり。だから《困》と呼ばる。卦徳に就きて言えば、険難の中に於いて喜悦を生出し、喜悦険難の裏より出で來る。還た兼ねて困厄を救濟するの意有り。これは一卦の身心を磨礪するを講ずる卦で、上一卦《萃》を承接して来る。《萃》の講ずるは順に由りて悦を得、用いて薬物を攢簇し・本に返り元に還るなり。可是只だ能く平順安逸の中に於いて攢簇し、能く艱難険阻の中に於いて攢簇する能わざれば、仍ほ算す能く順・能く悦に上らず。道を修する人は平順の境地に於いて倶に守り得住するに因るも、一たび艱険の地方に到れば、往往として則ち志向を改む。或いは衣食に逼迫せられて念を改め、或いは疾病纏綿に因って志を堕し、或いは年老に因って心を灰にし、或いは魔障に因って功を停む。此の如きの類は、倶に是れ道心夠力せざりて、困境に拘え住められ、終究に道を成す能わざるなり。倘若真に能く身困れども心困れず・境困れども道困れず、険中に処りて還た能く喜悦せば、則ち困厄の中反って亨通の路有らん。
雖然處險能悅,因為人所不及,亦必困所當困,若困所不當困,亦不得亨。蓋困之亨道,在於得其正耳。以正處困,以正而亨,困而與時偕行也。與時偕行,惟俱中正之德之大人能之。特以大人者,大智若愚,大巧若拙,諸念不生,遇境難遷,素位而行,不願乎外,不但所處得其吉,而且順命能無咎。至於一切衣食之徒,不信於困,行險僥倖,稍不如意,形於辭色,怨天尤人,咎即隨之,何能致吉?以正處困,險而能悅,則為大人;困而不信,悅以行險,則為小人。同一險也,同一悅也,而大人小人分之。修道者,遇困可不守其正乎?
雖も険に処りて能く悦ぶは已に常人の及ぶ所に非ずと説くも、亦た必ず困るべきの地方に於いて困らんを須す。もし困るべからざるの地方に於いて困れば、同じく亨通を得る能わず。困にして能く亨するの関鍵は、只だ守りて其の正を得るに在るに因る。正道を以て困に処れば、則ち正道を以て亨を得。これがすなわち身困厄に在りて能く時勢と一同に行進するなり。能く時と偕に行くは、唯だ中正の徳を兼具するの「大人」の做り到る能く所なり。大人大智愚の若く・大巧拙の若きに因る。各種の雑念生ぜず、境遇に遇うも亦た改易せず、本分に安んじて行い、分外の物を羨慕せず。但だ処る所の境地吉利を得るのみならず、而且天命に順受して過咎無し。あの些かの只だ衣食の為めに奔忙するの人に至っては、肯んじて困厄の意義を信服せず、険を冒し僥倖し、稍々如意ならざれば則ち言辞臉色に形して、天を怨み人を尤め、過咎随即跟って來る。怎様にして吉を得ん。正道を以て困に処り・険に遇えりて能く喜悦すれば、便ち是れ大人。身困厄に在りて肯んじて信服せず・喜悦を貪図して去りて険を冒せば、便ち是れ小人。同じく是れ険・同じく是れ悦にして、大人と小人とは則ち此の裏に於いて分け開く。道を修する人困厄に遇えば、怎様にして正道を守住せざるを得んや。
初六,在困之初,其困不大,又近二陽,不宜受困,乃柔弱無剛,自暴自棄,甘居人下,如臀困于株木,入于幽谷矣。如此之人,不當困而困,雖三歲之久,終不能出險。此小困而自致大困者也。
初六一爻、困厄の開頭に処り、困るること還た甚だ厲しからず、又た两個の陽爻に靠近す。本来応に困を受くべからず。可是それは柔弱にして剛無く、自暴自棄して、甘心して人の下に居る。猶臀部樹樁の上に困せられ・幽深の山谷に落入るが如し。此の如き人は、応に困るべからざるも自己で去りて困る。即かり三年の久しきを経過するも、終究に険を出る能わず。此一爻の講ずるは小困にして自己で大困を招來するなり。
九二,陽陷陰中,正在衣祿不足之時,如困于酒食也。幸其剛而得中,為道忘軀,身困而心不困,一日苦盡甜生,大道完成,方且服天衣、食天祿,如朱紱方來,修天爵而人爵即從之,先困後亨,理有可必。先困後亨之象,其利如用亨祀,以誠格天,久而見功,若正在困中,急欲出困,反招其凶,亦無咎,其困而不亨矣。此先困而後得亨者也。
九二一爻、陽気陰中に陷り、正に衣食俸禄不足するの時候に処す。猶酒食に困せらるるが如し。幸いなるにそれは陽剛にして中に居り、道の為めに身を忘れ、身雖も困るも心困れず。総有りて一天苦尽きて甘來り、大道完成せん。あの時便ち天衣を穿ち・天禄を食まん。猶紅色の官服剛かに到來するが如く、先ず天爵を修成して而して人間の爵位随って來る。先ず困れて後に通ず、道理の上是れ必然なり。先ず困れて後に亨するの象は、其の好処猶祭祀を舉行して・誠意を以て上天に感格し・日久して功を見るが如し。倘若正に困中に在りて則ち急ぎて困を出でんと要せば、反って凶険を招來す。即かり此の如くとも亦た算す過咎有るに上らず、只だ是れ困りて能く亨通せざるのみ。此一爻の講ずるは先ず困を受けて而る後に亨通を得るなり。
六三,愚而自用,不知尊師敬友,為正人君子所嫌惡,如困于石,據于蒺藜,自入於困矣。如此之人,本無實學,自負有道,務外失內,亦如人於其宮,不見其妻,終亦必亡而已。此無困而自致困者也。
六三一爻、愚昧にして自ら以て是と為し、師を尊び友を敬するを懂れず、正人君子に厭惡せらる。猶石頭に困せられ・蒺藜の上に靠るが如く、自己で困境に走り進む。此の如き人は本来真実の学問無く、却って自ら負うて道有りと為し、専ら外表を務めて内裡を失掉す。亦た猶自己の家中に回り到りて却って妻子を見ざるが如く、最終に必定して敗亡するのみ。此一爻の講ずるは本困厄無きに自己で困厄を招來するなり。
九四,出險地而居悅體,正當濟困之時,乃剛居於柔,不能速濟,似乎以柔傷剛,來徐徐如困於金章,而有吝道矣。然在困已久,不能直行其道,徐徐而來,終有如意之時。此有困而漸濟困者也。
九四一爻、険地に走出して兌悦の体に処り、正に困厄を救濟すべきの時候に当たる。可是陽剛柔位に居り、能く迅速に救濟する能わず。好像柔を以て剛を傷つけたるが如く、來ること緩慢遲疑して、如同華美の車飾に困せらるるが如く、因って困厄の道有り。然而困るること已に久しく、能く一直に其の道を施行する能わざれば、慢慢として來りて、終究に称心如意の時候有らん。此一爻の講ずるは困厄有りて逐漸に困厄を救濟するなり。
九五,陽剛中正,遇合不偶,有大作之道,而無大作之時,難行法財兩用之事,不能隨心所欲,如劓鼻刖足,赤紱受困,此抱道者之大困也。既在困中,未可強求於外,須當被褐懷玉,自苦自力,乃徐有悅也。徐悅之利,如用祭祀,以誠而入,日久功深,自有完成大道之時,此信困而漸出困者也。
九五一爻、陽剛にして中に居りて正を得。只だ是れ際遇偶合せず、大作為有るの道術も却って大作為の時機無く、難し「法財两用」――即ち道を修するに需要するの口訣と資財と両相配合す――の事を推行し、随う心欲する能わざる所。好像鼻を割き足を断つるの刑を受け・紅色の官服に困せらるるが如く、これは是れ大道を懐抱するの人の遇う所の大困厄なり。既に身困中に在れば、則ち可に外に向かって強求する能わず。応当に《老子》のいう様子の如く粗褐を身穿ちて美玉を懐抱し、自ら清苦に甘んじ・自己で努力して、慢慢としてはじめて喜悦有らん。此の慢慢と得來するの喜悦は、好処猶祭祀を舉行して・誠意を以て手を入れ・日久して功深く、自然に大道を完成するの時候有らんが如し。此一爻の講ずるは困厄を信服して逐漸に困厄に走出するなり。
上六,昏愚無知,自作聰明,妄清私議,如葛藟抑扯,穿鑿聖道,自謂得真,即便扭捏,日久受害,向前不得,退後不能,臲卼困危,是曰動悔,與其動而有悔,不若及早自悔,尋師訪友,明而後行,始雖入於旁門,而受困致悔,終必聞乎大道,而征往得吉,此有悔而終出困者也。
上六一爻、昏愚無知にして却って自ら聰明を作し、胡乱に議論し、葛藤の如き様子に牽扯攀附し、穿鑿附會して聖人の道を会し、自ら以て真傳を得たりと為す。ここにおいて硬として扭え・硬として捏えて、日子久しきこと其の害を受け、前に向かって進むを得ず・後に往かって退くる能わず、動搖不安・困頓危殆す。これを「悔に動く」と呼ばる――一動すれば則ち要して後悔せん。其れ動いてはじめて後悔するより、及早に自ら悔悟し、師を尋ね友を訪い、明白の之後再び行動するに如かず。起初雖も誤りて傍門に入り、因って困を受け悔を致すも、最終に必定して能く大道を聴聞し、前往して吉を得ん。此一爻の講ずるは悔悟有りて終に困厄に走出するなり。
六爻之用,有大人之困,有小人之困。大人之困,處險能悅,信其困而終無咎,小人之困,悅以行險,不信困而終有悔。困而致亨之道,險而能悅,待時守正,盡之矣。
六爻の用法は、大人の困厄有り、亦た小人の困厄有り。大人の困厄は、是れ険に処りて能く喜悦し、自己の受くる所の困厄を信服して最終に過咎無し。小人の困厄は、是れ喜悦を貪図して去りて険を冒し、困厄を信服せずして最終に悔恨を留下す。困にして能く亨通を致すの門徑は、則ち是れ険に遇えりて能く喜悦し・時機を等待して正道を守持す、此の如くのみ。
上坎下巽(井卦第四十八)
井:改邑不改井,無喪無得,往來井井。汔至,亦未繘井,羸其瓶,凶。初六,井泥不食,舊井無禽。九二,井穀射鮒,甕敝漏。九三,井渫不食,為我心惻;可用汲,王明並受其福。六四,井甃,無咎。九五,井洌,寒泉食。上六,井收勿幕,有孚,元吉。
《井》卦。城邑は可に遷改し、水井は能く遷改する能わず。井水既に减少せず、亦た增多せず。來往の人倶に井の上に到りて水を汲む。水を汲むこと幾乎として井口に到るも、却って還た未だ繩索を把って井外に提出せず。水を汲むの瓶を打破す、凶険。初六。井の裡淤泥満ちて、飲用する能わず。廃棄の旧井は禽鳥を連ねても亦た來らず。九二。井底の水只だ能く小魚に射到るのみ、水を汲むの瓮又た破れ漏れり。九三。井水已に淘洗して乾浄なるも却って人來りて飲用する無し、我の心中惻然たらしむ。此の井水本可に汲取すべし、もし君王賢明なれば、大家便ち能く一同に福を受けん。六四。磚石を用いて井壁を修砌す、過咎無し。九五。井水清澈にして、甘冽の寒泉可に飲用に供す。上六。井水汲み上げ來れり、井口を把って蓋う勿れ。心に誠信を懐けば、大いに吉利。
井者,有本之水,養人不窮,取其養義。卦德上坎險、下巽入,漸進以通險,有險而能出,如木下水而出水,故謂井。此積功修德之卦,承上升卦而來。升者,巽進而順行,所以增益其道德耳。道德增益,已巽進於無險之地,根本堅固,己無險而可以濟人之險,於是積功修德,以己所養,養人之養,誠中達外,有益於彼,無傷於我,如井,改邑不改井,無喪無得,往來井井也。
「井」は是れ源頭有るの水、人を養いて窮尽無く、取るは是れ「養」の意。卦徳に就きて言えば、上卦坎は険・下卦巽は入。漸漸深入して険難を通過し、険に遇えりて能く険を出づ。好像木桶水中に下げて又た水を把って提出するが如し。だから《井》と呼ばる。これは一卦の功を積み徳を修するを講ずる卦で、上一卦《升》を承接して来る。《升》の講ずるは柔順深入して時に依りて運行し、用いて自己の道徳を増益すなり。道徳増益の以後、已に柔順に険難無きの地方に進み到り、根本堅固なり。自己険無ければ、則ち可に去りて別人の険を救い、ここにおいて功を積み徳を修し、自己の養う所を拿って來りて別人を滋養し、中に誠にして外に達し、人に益有りて己に傷無し。正に《井》卦のいう所の城邑可に改むるも水井改めず、喪失する所無く亦た増得する所無く、來往の人倶に井の上に到りて水を汲むが如し。
夫修道者,養己已足,如井有水也。養己之後而養人,如改邑也。以自養者養人,如不改井也。養人必本於自養,養己如是,養人如是,如井無喪無得也。以養己者養人,人己皆得其所養,如往來井井也。若未到成道以後,強欲化人,則謂無本,無本之養,內無主宰,隨人使用,逐風揚塵,未益於人,先失其己,亦如井中取水,汔至於井,繘猶未至,井水羸其瓶,自取其凶。蓋開導後學之事,在大道完成之後。大道完成,性命由我不由天,承先啟後,可以有益於人,無傷於我。故六爻皆以自養為主也。
道を修する人、自己を養う已に養い足れば、則ち井の裡に水有るが如し。自己を養い足る之後再び去りて人を養えば、則ち城邑を遷改するが如し。自養の物を用いて去りて人を養えば、則ち水井並びて遷改せざるが如し。人を養うは必ず自養を以て本と為さんを須す。自己を養うは是れ此の個の道理、別人を養うも亦た是れ此の個の道理。猶井水既に减少せず亦た增多せざるが如し。己を養うの物を用いて人を養えば、人と己と倶に滋養を得。猶來往の人倶に井の上に到りて水を汲むが如し。もし還た未だ道を成るの以後に到らざるに則ち硬として去りて別人を度化せんと要せば、あれは則ち根本無しと呼ばる。根本無きの滋養は、内裡主宰無く、人に任せて使嗾せられ、風に随って塵を揚げ、還た未だ人に益する有らざるに、先ず自己を失掉せり。亦た猶井の中に於いて水を取るが如く、水已に快く井口に到るも、繩索却って還た未だ提出し來らず、反って水を汲むの瓶を把って打破し、自ら凶険を取る。知るを須す、後学を開導する此の件の事は、是れ大道完成の以後に在るを。大道完成せば、性命我に由りて天に由らず、先を承け後を啓き、はじめて可に人に益有りて己に傷無からん。だから六爻倶に自養を以て主と為す。
初六,性質本愚,不知求人以養已,乃無而為有,亦欲效高明者以養人,如舊井有泥無水,積汙百端,禽亦不顧,焉能養人乎?此絕不知自養者也。
初六一爻、性質本来愚昧にして、人を求めて來りて自己を滋養せしむるを懂れず、却って無中に有を生じ、亦た想う高明の人に效法して去りて別人を養わんと。好像一口の旧井・只だ污泥有りて水無く・各種の汚穢を積み満たし・禽鳥を連ねても亦た理睬せざるが如く、怎様にして能く人を養わん。此一爻の講ずるは完全に自養を懂れざるの人なり。
九二,正在養己之時,自養未足,即欲養人,無益於彼,先傷於我,如井谷外射,僅能養鮒,甕敝水漏,浸潤有限,其所以益於人者少,而其所自失者多,此養己未足者也。
九二一爻、正に自己を滋養するの時候に在りて、自養還た未だ充足せざるに、則ち去りて別人を養わんと想う。人に対して益処無くして、先ず自己を傷つく。好像井底の水外に向かって射出し、只だ能く小魚を養活し、瓮又た破れて水を漏るるが如く、浸潤有限にして、用いて人を益するは少なく、而して自己損失するは多し。此一爻の講ずるは自養還た未だ充足せざるの人なり。
九三,進於下體之上,養己已到可以養人之時,但近於險,未遇知音,限於不得養,如井水渫泛而無人食之也。然雖無人食,其道德崇高,望之者默相感化,是以為我心惻也。心惻者何?以其可用汲,望其有明眼王公大人信而取用,則人人皆得法範,而受福無窮矣。此養己已足者也。
九三一爻、下卦の上位に進み到り、自養已に可に人を養うべきの時候に到れり。只だ是れ険難に靠近し、又た知音に遇う無く、受限して所養を施展し出す能わず。好像井水已に淘浄して泛き上がるも却って人の飲用する無きが如し。然而雖も人の飲用する無しと雖も、其の道徳崇高にして、それを仰望する人無形の中に於いて感化を受く。だから「我が心の為めに惻たり」と曰う。何を以てか心裡惻然たる。此の井水本来可に汲取するに因る。明眼の王公大人の信服して取り用うる有らんを指望せば、則ち人人倶に能く法則規範を得、福を受くること無窮ならん。此一爻の講ずるは自養已に充足したるの人なり。
九四,居於險體,雖無養人之德,幸其柔而守正,能知自養,如井之甃以防險,內不傷而外不損,可無陷人之咎矣。此自知養己者也。
九四一爻、坎険の体に処り、雖も還た未だ人を養うの徳行有らずと雖も、幸いなるにそれは陰柔にして正を守り、自養を懂る。好像磚石を用いて井壁を修砌して來りて塌陷を防止するが如く、内裡傷を受けず・外面損を受けず、可に別人を陷害するの過咎を免れん。此一爻の講ずるは自己能く己を養うを知るの人なり。
九五,陽居陰內,外虛內實,虛實如一,剛柔混合,大道完成,是謂有本之水,如井冽寒泉,所養深厚,取之不盡,用之不竭。此養己足而可養人者也。
九五一爻、陽爻陰位の内に居り、外面虚にして内裡実なり。虚と実と合して一と為り、剛柔混融し、大道完成す。これが則ち源頭有るの水と呼ばる。好像井水清澈にして・寒泉甘冽、蓄養する所深厚にして、之を取って尽きず・之を用いて竭きざるが如し。此一爻の講ずるは自養充足にして可に人を養うべきの人なり。
上六,養己已到,如井功已收,可以勿幕井口,因人開導,自能有益於人,無傷於我。特以其吉已在於養己之初矣。此養人必本於養己者也。然則,養人之事,在成道以後,若未成道,未可養人,強欲養人,即有羸瓶之凶,養人者可不知先自養乎。
上六一爻、自養已に家に到りて、好像井功已に収成せるが如く、可に井口を把って蓋うを必とせず、人の根器に随って開導を加えれば、自然に能く人に益有りて己に傷無からん。注意するを要す、其の吉利実は早く当初自養するの時候に就きて已に定まり下せり。此一爻の講ずるは人を養うは必ず己を養うを以て本と為さんを須す。こく如く視れば、人を養う此の件の事は要して道を成るの以後に在るべし。もし還た未だ道を成らざれば、則ち可に人を養う能わず。硬として去りて人を養わんと要せば、則ち水を汲むの瓶を打破するの凶険有らん。人を養うの人は、怎様にして能く先ず自養するを懂れざるを得んや。
卷四
上兌下離(革卦第四十九)
革:巳日乃孚,元亨,利貞,悔亡。初九,鞏用黃牛之革。六二,巳日乃革之,征吉,無咎。九三,征凶,貞厲。革言三就,有孚。九四,悔亡。有孚,改命吉。九五,大人虎變,未占有孚。上六,君子豹變,小人革面。征凶,居貞吉。
《革》卦。巳の日に到ってはじめて人に信從せられ、大いに亨通、正を守るに利し、悔恨消失す。初九。黄牛の皮を用いて牢牢と縛り繋ぐ。六二。巳の日に到ってはじめて手を動かしてそれを变革す、前往して吉利、過咎無し。九三。急進すれば則ち凶険有り、即かり正を守るも亦た危厲有り。变革の主張反復して商議すること三次して而る後に定めば、則ち能く人に信を取るを得。九四。悔恨消失す。誠信有れば、天命を改換して吉を得。九五。大徳の人虎の紋のあの様子に焕然として變化するが如く、占問するを必とせずして已に誠信有り。上六。君子豹の紋のあの様子に文采變化するが如く、小人只だ表面の上に於いて順從するのみ。急進すれば凶険有り、安く居りて正を守れば則ち吉利。
革者,去而不用之義,所以去舊也。卦德上兌悅、下離明,悅本於明,以明制悅,悅而不得有妄,明而不得有昧,明中出悅,悅中有明,故謂革。
「革」は是れ去り掉て而して復た用いざるの意、用いて旧染を革除す。卦徳に就きて言えば、上卦兌は悦・下卦離は明。喜悦明察を以て根本と為し、明察を用いて喜悦を節制し、ここにおいて喜悦して妄動に至らず、明察して昏昧に至らず、明の中喜悦を生出し、喜悦の裏明察を含着す。だから《革》と呼ばる。
卦象兌為西方金,離為南方火,以火鍊金,金遇火而生明返陽,火遇金而入庫返本,亦革之義。此煅煉陰氣之卦,承上困卦而來。困者,險中出悅,所以取坎中真陽以出險也。然能取坎中真陽,而不能復離中真陰,金丹不結,仍不得悅,此明中出悅之道,不可缺也。明中出悅,鍛鍊陰氣之功也。鍛鍊陰氣,是鍛鍊己之私慾,無我之謂也。
卦象に就きて言えば、兌は是れ西方の金・離は是れ南方の火、火を用いて金を錬る。金火に遇えば便ち光明を生出して陽性に返回し、火金に遇えば便ち庫位に帰入して本原に返回す。此も亦た是れ「革」の意なり。これは一卦の陰気を煅錬するを講ずる卦で、上一卦《困》を承接して来る。《困》の講ずるは険の中より喜悦を生出す、用意是れ坎卦中間のあの一爻の「真陽」を取り出して以て険陷を脱出せんに在る。可是只だ能く坎中の真陽を取り出して、却って能く離卦中間のあの一爻の「真陰」を恢復する能わざれば、「金丹」則ち結び成る能わず、仍ほ真の喜悦を得る能わず。だから「明の中悦を出す」此の条の路欠くる可からず。明の中悦を出すは、則ち是れ陰気を煅錬するの功夫。陰気を煅錬するは、則ち是れ自己の私欲を煅錬す、亦たすなわち是れ「我無き」を做り到るなり。
人為萬物之靈,秉天地陰陽五行之正氣而生,當有生之初,不識不知,順帝之則,至善無惡,真性炯炯,虛靈不昧,喜怒哀樂,不著於心,富貴窮通,不動其意,虎[上凹下兒]不能傷,刀兵不能加,水火不能浸,生死不能累,飢只食,寒只衣,無思無慮,德本明也。及至二八,陽極生陰,後天用事,氣質之性發,知識之竅開。當斯時也,惟天縱上智之聖人,先天而天弗違,後天而奉天時,能保先天之真,而不為後天所傷。其次,中下之人,鮮有不為後天所規弄者。
人是れ万物の霊、天地陰陽五行の正気を禀受して生ず。剛かに出生するの時候、識らず知らず、上帝の法則に順い、純善惡無く、真性炯炯として発亮し、虚靈にして昏昧ならず。喜怒哀樂心に粘着せず、富貴窮通其の意を動搖せず。猛虎凶兕彼を傷つくる能わず――原文此の個の字は「上凹下児」を用いて字形を描摹す、即ち「兕」の字なり――刀兵彼の身の上に加わる能わず、水火彼に浸る能わず、生死彼を拖累する能わず。餓えれば則ち喫し、冷えれば則ち穿ち、思無く慮無し。本徳原是れ光明なり。二八十六歳に及ぶを待って、陽極処に到りて陰を生じ、後天権を当たり、「気質の性」――後天禀受して形気と成るの習性――発動して起き、知識の竅門打ち開く。此の個の時候に在りては、唯だ天賦上智の聖人有りて、能く天時に先んじて事を行いて天彼に違背せず・天時に後れて事を行いて天の時序を奉行し、先天の真性を保住し、後天に損傷せられず。其の次、中等下等の人は、很少有りて後天に擺布せられざらん。
自此而後,百憂感其心,萬事勞其形,認假為真,棄正入邪,日復一日,年復一年,性相近而習相遠,明德有傷,新者積而成舊,淨者染而有垢,此舊染之汙,所由來也。原其有舊染之汙者,皆由有己,一有其己,則道心昧而人心生,明非所明,悅非所悅,順其所欲,無所不至矣。革者,即革其己之不明,以復於明耳。然欲革其己之不明,須要己先能明,己既能明,則信於革,而己之不明可革矣。是以革之道,已日乃孚也。
此より以後、百般の憂慮其の心を感擾し、万種の事務其の身を勞累し、偽を認めて真と作し、正を棄てて邪に入り、一天又た一天・一年又た一年、本性相近くして習染相遠く、明徳損傷を受け、新しき積り久しく變じて旧と為り、乾浄の汚垢を染上す。これが則ち「旧染の汚」の由來なり。旧染の汚の根源を追究するは、倶に是れ一個の「己」有るに因る。一たび其の己有れば、「道心」則ち昏昧にして「人心」則ち滋生し、明察用いて錯えたるを地方にし、喜悦も亦た用いて錯えたるを地方にし、欲望に順って走れば、何の事も做し出來すを得。いわゆる「革」とは、則ち是れ自己の不明を革し掉て、以て本来の光明を恢復せんとなり。然而自己の不明を革し掉らんと要せば、必ず自己先ず能く明ならんを須す。自己既に能く明なれば、則ち會して变革を信服し、自己の不明便ち可に革除せん。だから变革の道に「巳の日乃ち孚あり」と曰う――光明の日の到來を待ってはじめて誠信有らん。
日者,明之象。孚者,信之謂。不明不信,能明乃信,明之信之,初念已真,未有不能革己者。是以革有元亨之道也。但革雖有元亨之道,又須革之得正,若是非不分,真假罔辨,一概革之,入於頑空寂滅之學,不正即不利,不利仍是不元亨,惟以正而革,克己復禮,去妄存誠,煅去後天一切滓質,現出先天一靈真性。到此地位,還原返本,渾然天理,純白無玷,有己之悔可亡矣。是道也,非知之艱,行之維艱,是在人之能信於革耳。
「日」は是れ光明の象、「孚」とは則ち是れ信なり。明白せざれば則ち能く信服する能わず、能く明白してはじめて能く信服す。明白して・信服せば、最初の一念已に真切にして、自己を革し掉る能わざる無し。だから《革》卦大いに亨通の道理有り。但し变革雖も元亨の道理有るも、還た必ず革するを正当ならしめんを須す。もし是非分かたず・真假辨えず、一概に革除せば、則ち頑空寂滅の学問に落入らん。正ならざれば則ち利あらず、利あらざれば仍ほ元亨と算せず。唯だ正道を以て去りて革し、己を克して礼に復り、妄を去りて誠を存し、後天の一切の渣滓雑質を煅し去り、先天あの一点の霊明真性を顯し出さば、此の個の地步に到りて、元に還り本に返り、渾然一片の天理、純白瑕無し。「己有る」に因って來るの悔恨則ち可に消失せん。此の条の路は、是れそれを知ること難きに非ず、而も是れそれを実行すること難きなり。全て人の能く变革を信服するや否やに在るのみ。
初九,剛而不明,不能逆革其內,乃順革於外,如鞏用黃牛之革,顧外失內,固執不通。此舍本逐末之革也。六二,虛心自處,明於革而先能去其私慾,私慾能去,則無己,無己則有人,有人則以己求人,即能實腹,實腹而己愈明,是以征吉,而且無咎。此虛心求明之革也。
初九一爻、陽剛にして明白せず、能く逆向に自己の内裡を变革する能わず、却って順って去りて外表を变革す。好比黄牛の皮を用いて外面を把って縛り牢めるが如く、外面を顧みて裏面を失い、固執して通達せず。此一爻は是れ本を舍てて末を逐うの变革なり。六二一爻、虚心して自ら処り、变革の道理を明白して先ず能く自己の私欲を去掉す。私欲能く去れば、則ち「己」無し。己無くば、はじめて人を容れ下すを得。人を容れ下すを得れば、はじめて能く自己を以て人に於いて求め、亦た則ち能く「腹を実に」せん――真気をして丹田に充盈せしむ。腹既に充実せば、自己越えて明白なり。だから前往して吉利、而且過咎無し。此一爻は是れ虚心して明を求むるの变革なり。
九三,剛而太過,只知革人,不知革己,雖革事得正,亦有凶屬。蓋以不能革己,即欲革人,不但人不受我革,且將有言來革我,雖欲不自革而不能。是以革言三就也。三就之革,可信其終於不能革己矣。此自大自尊之革也。
九三一爻、陽剛太も過ぎて、只だ別人を革するを知りて、自己を革するを知らず。雖も革する所の事情正当なれども、亦た仍ほ凶険の一面有り。能く先ず自己を革せずして則ち別人を革せんと想うに因れば、但だ別人我の变革を接受せざるのみならず、而且將に言語有りて反って來りて我を变革せん。あの時想う自ら革せざらんとするも亦た辦じ到る能わず。だから爻辞に变革の主張応に反復して商議すること三次して而る後に定まらんを要すと曰う。三次の商議を経てはじめて定まり下せるの变革は、見るべしそれ終究に還た是れ自己を革する能わざるなり。此一爻は是れ自ら大として尊ぶの变革なり。
九四,有剛不用,是以有悔可亡,悔出於不信革己。若信革己,剛即能柔,可以變化氣質,而不為陰陽所拘,豈僅有己之悔可亡,方且有改命之吉。此剛以柔用之革也。
九四一爻、剛強有りて濫用せず。だから悔恨有りて消失する可し。悔恨本来則ち肯んじて「己を革する」を信服せざるより出づるなり。もし己を革するを信服せば、剛強則ち能く転じて柔順と為り、可に気質を變化して陰陽に拘限せられず。豈に止まらんや「己有る」の悔恨可に消失せんのみ、而且復た天命を改換するの吉利有らん。此一爻は是れ柔を以て來りて剛を運用するの变革なり。
九五,陽剛中正,主宰在內,扶陽抑陰,開生門、閉死戶,留人道、塞鬼路,一切客氣,自消自化,如虎威常在,不變之變,無容占信其已革矣。此大人用剛有為之革也。
九五一爻、陽剛にして中に居りて正を得、主宰内に在り、陽気を扶助し・陰気を抑制し、「生門」を打ち開き・「死戸」を関閉す――「生門」は是れ先天真陽の生発するの処、「死戸」は是れ後天陰気の漏泄するの路――人を為るの正途を留住し、鬼趣に堕ち入るの邪路を堵塞し、一切の「客気」自消自化す。好像虎威長に在るが如く、看れば未だ變せざるに似たるも実已に大いに變せり。占問するを用いずして則ち可に信ず、それ已に革し尽せりと。此一爻は是れ大人剛を用いて有為有るの变革なり。
上六,在革之終。柔而得正,煉己功勤,虛極靜篤,如豹不威之變,誠中達外,氣質俱化,根塵全消,淨倮倮、赤灑灑,形神俱妙,與道合真矣。此君子用柔無為之革也。然用柔無為之革,惟有信心之君子能之,一切不信心之小人,則不能。蓋小人者,革面不革心,志念不堅,有始無終,必落空亡而致凶。君子者,永居於貞,志念良久,愈久愈力,終必成道而得吉。此邪正結果之革也。
上六一爻、变革の終結の処に処り、陰柔にして居位正を得、「己を錬る」の功夫下すこと勤く、虚極処に到り・静篤実に到る。好像豹の紋變化して威猛を顯さざるが如く、中に誠にして外に達し、気質全部転化し、六根六塵全て倶に消尽し、乾乾浄浄・赤条々として毫も牽挂無く、形と神と倶に神妙に臻り、道と合して真と為る。此一爻は是れ君子柔を用いて無為の变革なり。然而柔を用い無為の变革は、唯だ信心有るの君子の做り到る能く所、一切の信心無きの小人は則ち做り到る能わず。小人只だ外表を革して内裡を革せず、志念堅ならず、始有りて終無し、必定して空しく落ちて凶険を招致すに因る。君子永遠に貞正の上に於いて守り、志念持久して、越久しければ越えて力有り、最終に必定して道を成して吉を得ん。此一爻の講ずるは邪正两途各々其の結果を得るの变革なり。
六爻俱有革道,是非不等,總以無己為歸著,若稍有一點己在,革去而又來,陰氣不盡,陽氣不純,古經所謂“七返還丹,在人先須煉己待時”者,正欲其革去一切舊染之行,不使有絲毫之疵,留於方寸之中也。
六爻倶に变革の道有り、是非各々相同ならず。但し総帰して「己無き」を以て落脚の点と為す。もし還た一点の「己」を剩して在らば、革し掉て復た會して再び來らん。陰気尽きざれば、陽気則ち純ならず。古丹経のいう所の「七返して丹を還すは、人に在りて先ず己を錬り時を待つを須す」――還丹を錬らんと要せば、先ず己を錬りて而る後に時機を等候せんを須す――正に是れ人に一切の旧染の習行を革し去り、絲毫の瑕疵を方寸の心の裡に留下せしめざらしめんと要するなり。
上離下巽(鼎卦第五十)
鼎:元吉,亨。初六,鼎顛趾,利出否。得妾以其子,無咎。九二,鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。九三,鼎耳革,其行塞;雉膏不食,方雨虧悔,終吉。九四,鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。六五,鼎黃耳、金鉉,利貞。上九,鼎玉鉉,大吉,無不利。
《鼎》卦。大いに吉利、亨通。初六。鼎の足顛倒して上に向かい、鼎の中の汚穢を倒出するに利し。妾を娶りて儿子を生下す、過咎無し。九二。鼎の中実物を盛り、我の対頭病有りて、能く我に靠近する能わず、吉利。九三。鼎の耳革し去られ、行動阻受阻る。肥美の雉肉喫し上ぐる能わず、雨を降らすを待って、缺憾と悔恨と倶に消解し、終に吉利に帰す。九四。鼎の足折れ断じ、王公の美食を打ち翻し、鼎の身汚漬を沾み満たす、凶険。六五。鼎黄色の鼎耳・金屬の鼎を擧ぐるの横杠を配上し、正を守るに利し。上九。鼎玉製の鼎を擧ぐるの横杠を配上し、大いに吉利、利あらざる何も無し。
鼎者,烹煎鍛鍊之器,所以取新也。卦德上離明、下巽入,累進而生明,其心日下,其明日增,下而又下,增而又增。且卦體二五,虛實相應,明中能虛,巽中能實。虛明,則明無不照,而富貴窮通不能動其心。實巽,則德無不修,而吉凶禍福不能亂其性。巽進而生明,虛明而巽進,虛實相濟,如火得木而光華倍增,如木遇火而濁氣悉化,有煅煉烹煎之義,故謂鼎。
「鼎」は是れ烹煮煅錬の器具、用いて新を取る。卦徳に就きて言えば、上卦離は明・下卦巽は入。一層一層に深入して光明を生出し、其の心一天一天に謙下し、其の明一天一天に増加し、下して又た下し・増して又た増す。再び卦体に就きて言えば、九二と六五と虚実相応じ。明の中能く虚にし、入の中能く実にす。虚にして明なれば、則ち光明照らさざる所無く、富貴窮通其の心を動搖する能わず。実にして巽なれば、則ち徳行修せざる所無く、吉凶禍福其の性を擾乱する能わず。深入して明を生じ、虚明にして又た深入し、虚実互相濟助す。好比火木を得て光華倍増し・木火に遇えりて濁気全て消ゆるが如し。煅錬烹煮の意を含有す。だから《鼎》と呼ばる。
此煅煉大藥之卦,承上井卦而來。井者,巽進而通險,險通則後天所陷之真陽已出,大藥已生,可以巽進其明,運火煅煉矣。鍛鍊之功,所以消化陰氣、堅固陽氣,使生者而熟,舊者而新,能以明心,能以凝命,是以鼎本元吉,而又有亨道也。
これは一卦の大薬を煅錬するを講ずる卦で、上一卦《井》を承接して来る。《井》の講ずるは柔順深入して険難を通過すなり。険難一たび通ぜば、後天の裏に陷り在るの「真陽」已に出で來り、大薬已に產生せり。則ち可に柔順深入して其の明を増益し、火を運んで煅錬せん。煅錬の功夫は、是れ用いて陰気を消化し・陽気を堅固にし、生をして熟に變え・旧をして新に變え、既能く心を明らかにし、又能く命を凝す。だから《鼎》卦本来大きな吉にして、而且復た亨通の道理有り。
元者,善之長生之機。鼎之烹煎大藥,即烹煎此生機不壞,萬劫長存耳。但是道也,有火候,有次序,毫毛差殊,金丹不成,是在人先須窮究實理耳。
「元」は是れ衆善の首・生生不已の機括なり。鼎の烹煮する所の大薬は、則ち是れ此の一点の生機を烹煮してそれを壊らざらしめ、万劫を経歷して長に存せしむ。但し此の条の路に「火候」有り、次序有り。之を差うること毫厘なれば、金丹便ち錬り成る能わず。だから人必ず先ず其中の実理を窮究して明白せしめんを須す。
初六,在鼎之下,為下德之人,性質昏愚,其趾多顛而不正,欲立其鼎,不利於取新,利於去舊,能去其舊,則否出而趾不顛,周周正正,止於其所而不遷,如妾本下賤,生子則貴,亦可無咎,其初之有顛矣。此煉己之事,為立鼎之初功也。
初六一爻、鼎の最も下の面に処り、是れ徳行低下の人、性質昏愚にして、鼎の足多く顛倒正ならず。此の個の鼎を立て起さんと想うも、新を取るに利あらず、只だ旧を去るに利す。能く旧を去掉せば、汚穢便ち倒出して鼎の足復た顛倒せず、周正端穏にして、在るべき位置に安止して遷移せず。好比妾の身份本来低賤なれども、儿子を生めば便ち貴重に起來るが如く、亦可に過咎無からん。当初の顛倒反って好事と成れり。此一爻の講ずるは「己を錬る」の事、是れ鼎を立つるの頭一歩の功夫なり。
九二,剛而得中,真陽返回,已實其腹矣。腹既能實,道心常存,人心不生,如我仇有疾,不我能即矣。此養道心,自無人心也。
九二一爻、陽剛にして中に居り、「真陽」返回し、已に「腹を実に」せり。腹既能く実なれば、「道心」長に存し、「人心」生ぜず。正に爻辞のいう我の対頭病有りて・能く我に靠近する能わざるが如し。此一爻の講ずるは道心を養い住めば、人心自然に生ぜざるなり。
九三,獨剛無柔,實腹之後,不知虛心,是革去鼎耳,雖能了命,未能了性,其行塞窒,不能通前達後,壽同天地一愚夫,如不食雉膏也。幸其剛而守正,方雨行塞,有虧即悔,悔則自能虛心,既能虛心,其行不塞,由了命而又了性,終得以吉全之。此有道心,又虛人心也。
九三一爻、一味に剛強にして柔順無く、「腹を実に」する之後「心を虚に」するを懂れず、等しく鼎の耳を把って革し掉たるにし。雖も能く「命を了す」――命功を修し完す――も、却って能く「性を了す」――性功を修し完す――能わず。行動堵塞して通ぜず、前後気を打ち通ずる能わず。寿命縦い天地と同じく長久なるも、亦た不過是れ一個の愚夫なり。正に爻辞のいう肥美の雉肉喫し上ぐる能わざるが如し。幸いなるにそれは陽剛にして正を守り、正に路を行きて堵塞するの際に当たりて天甘雨を降らし、一たび缺憾有れば則ち悔意を生ず。一たび悔いれば、自然則ち能く虚心す。既能く虚心せば、行動便ち復た堵塞せず、命を了して由りて又た性を了し、最終に以て吉利保全を得。此一爻の講ずるは既に道心有り、又能く人心を虚掉するなり。
九四,由巽入明,金丹有象,正當防危慮險,用天然真火,煅盡後天群陰之時,乃剛為柔牽,鼎足又折,起人心而傷道心,如公餗覆傾命寶,得而復失,形雖存而神已喪,其凶不可言矣。此起人心,有昧道心也。
九四此一爻、工夫已に柔順漸進より明覺照察に転入し、内丹凝結して「金丹」初めて形象を具え、正に応該小心して危険を提防し・本性の中の自然発動するの「天然真火」を動用し、後天沾染の一切の陰濁習気を把って全部煅焼して乾浄にするの時候なり。偏偏此の爻陽剛なれども却って下面の陰柔に牽き住められ、成って「剛柔に牽かる」と為る。本来応に穩立すべきの鼎の足再び一度折れ断じ、「人心」の私意頭を擡げて「道心」を傷つけ、猶鼎足を折りて王公の美食を打ち翻すが一様に、性命の寶を把って傾覆して掉て、已に手に到るの丹重新又た失い、形体雖も在るも元神已に散じ、凶険形容する能わざるに到れり。此一爻の配するは正に是れ人心一たび起これば・道心便ち昏昧するあの一歩なり。
六五,柔順得中,虛人心而用道心,如鼎黃耳、金鉉也。黃耳者,鼎耳之中虛。金鉉者,鼎扃之中實,鼎耳貫鼎扃,剛柔相濟,虛實相應,火即是藥,藥即是火。當此之時,利於貞一不二,防危慮險,不必分外增減矣。此虛人心而養道心也。
六五此一爻柔順にして上卦の中に居り、能く「人心」の私意を把って空に騰げ・専ら「道心」を用いて主を為す。猶鼎の上の黄耳金鉉を配するが如し。黄耳とは、指すは鼎の耳中間是れ空なり。金鉉とは、指すは耳を貫くの横杠中間是れ実なり。鼎耳鼎扃を套り住め、一虚一実、剛柔互相補い・虚実相応じ。此の一層に到りて、火候と薬物と已に合して一片と成り、火を起これば則ち是れ薬を養い、薬を養えば則ち是れ火を行う、復た两截に分け作さず。此の時最も緊要なるは是れ純一不二の心志を守り定め、時時に危険を提防し、火候の上に於いて別に増添或いは减損するを必とせず。此一爻の配するは是れ人心を空に騰げ・道心を涵養するのあの一歩の工夫なり。
上九,在鼎之終,鼎新之功已盡,有無俱不立,物我悉歸空,靜則無為,動則自然,剛即是柔,柔即是剛,不用剛而剛全,不用明而明通,已到至誠可以前知地位,如鼎之玉鉉也。鉉而至玉,剛柔如一,氣質俱化,形神俱妙,與道合真,乃修道之極功,聖賢之全能,超出乎陰陽之外,而不為陰陽所拘,是以大吉無不利。此道心人心俱皆混化也。
上九此一爻鼎卦の最も末に処り、故を革め新を鼎くの工夫已に做し尽せり。有と無と两辺倶に復た執着せず、外物と自我と一斉に化空す。静まれば是れ無為、動けば是れ自然。剛則ち是れ柔、柔則ち是れ剛。刻意に剛を用いずして剛健完足し、刻意に明を用いずして明照通徹す。已に《中庸》のいう所の至誠にして能く前知するの地位に到れり。猶鼎の上玉鉉に換え成したるが如し。鉉玉の地步に做り到れば、剛柔渾然一体、後天の気質習性全部化尽し、形体と元神と一同に神妙に入り、大道と合して真と為る。これは是れ道を修するの最高の成就・聖賢の完満の能力、陰陽の範囲を跳出して復た陰陽に拘束せられず。だから大吉にして利あらざる所無しと曰う。此の一歩に到りて、「道心」と「人心」と已に徹底に混融して一と為れり。
修鼎之功,有剛有柔,有進有退,有增有減,不到有無不立,神化不測之地,不為極功。若不知剛柔、進退、增減之法,不落於三之鼎耳革,即歸於四之覆公餗,毫髮之差,千里之失。修道者,可不巽緩進明、謹慎火候乎。
此の一鼎の丹を烹錬するの工夫は、応に剛なるべきの地方有り、亦た応に柔なるべきの地方有り。応に火を進むべきの時候有り、亦た応に符を退くべきの時候有り。応に増添すべきの分寸有り、亦た応に减損すべきの分寸有り。有無两辺倶に執着せざる・變化神妙測る難きの地步に到らざれば、則ち究竟の成就と算するを得ず。假如剛柔・進退・増減の法度を懂れざれば、九三の如き鼎耳變質し・歩を擧ぐるも阻受阻るに落つるが非ざれば、則ち九四の如き鼎中の食を打ち翻し・前功尽く廃するに落つらん。之を差うること毫厘、之を失うこと千里。道を修する人、怎様にして柔順緩進にして明覺を生じ・謹慎に火候を守住せざるを得んや。
上震下震(震卦第五十一)
震:亨。震來虩虩,笑言啞啞;震驚百里,不喪匕鬯。初九,震來虩虩,後笑言啞啞,吉。六二,震來厲,億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。六三,震蘇蘇,震行無眚。九四,震遂泥。六五,震往來厲,億無喪,有事。上六,震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎,婚媾有言。
《震》卦。亨通。雷震忽然而して來り、人驚懼して四顧す。過後談笑自如にして、啞啞の笑い声を発す。雷声百里の遠きを震動すれども、主祭者手中の匕匙と鬯酒とは却って曽て失落せず。初九。雷震到來するの時驚懼不安、其の後却って能く談笑自如、吉祥。六二。雷震到來して危険有り、財貨を喪失せんとするを估量し、只だ高き九陵に登上って躲避するを得。去りて追うを必とせず、七天の後自ら會して失い復た得せん。六三。雷震人をして蘇醒警覺せしめ、震動の中に於いて前行して災患有らざらん。九四。雷震泥淖の裡に陷り進めり。六五。雷震往來倶に危険有り、損失有らざらんと估量するも、仍ほ事有りて辦ぜんを要す。上六。雷震の時索索として発抖し、両眼驚惶して四顧し、出行凶険。雷震自己の身の上に落ちずして隣人の身の上に落つれば、過咎無し。只だ是れ婚配の親家會して閑話有らんのみ。
震者,動也。取象為雷,卦體一陽生於二陰之下,靜中有動,二震相合,由此動而達彼動,由彼動而生此動,千動萬動,總是一動,故謂震。此動而行道,恐懼修省之卦,承上革卦而來。革者,由明得悅,以火鍊金,革去舊染也。革去舊染,非是忘物忘形,灰心息念之謂,須要在動中革去,方能濟事。
震の意思是れ動、象を取るは雷と為す。卦体是れ一個の陽爻两個の陰爻の下に生じ、静の中動機を含着す。上下两個の震卦相重ね、此の一辺の動に由りてあの一辺の動に通じ、又たあの一辺の動に由りて此の一辺の動を引出す。千動万動、根に帰すれば只だ一個の動なり。だから震と呼ばる。これは是れ動の中に於いて道を行い・心恐懼を存して身を修め省察するの一卦、上面の革卦を承接して來る。革卦の講ずるは明覺に由りて喜悦を生じ、火を用いて來りて金を錬り、積久の旧習染を革除すなり。旧習染を革除するは、並びて是れ外物を忘掉し・形体を忘掉し・心死灰の如く・念頭を断絶するに非ず。必ず日常の動作應事の中に於いて革除して、はじめて真に事を濟し得ん。
蓋大道活活潑潑,不色不空,依世法而修道法,借人事而修天德,有為無為,了性了命,無窮事業,盡要在動中做出,是以震有亨道也。但動有內動、有外動。內動者,內念之動;外動者,物來之動。內動屬我,外動屬彼。內動真,則外動亦真;內動假,則外動亦假。君子戒慎乎其所不睹,戒慎乎其內動也。恐懼乎其所不聞,恐懼乎其內動也。
大道本是れ活溌溌たり。既に有形の色相の上に落ちず、亦た空無の上に落ちず。要して世間法に依って出世の道法を修し出し、人間事を借りて去りて天賦の徳性を修せんを須す。有為の一段の工夫・無為の一段の工夫、性を了すの一節・命を了すの一節、無窮無尽の事業、全て要して動の中に於いて做し出來さんを須す。だから震卦本身則ち亨通の道を含着す。不過動は两种に分かつ。一种是れ内動、一种是れ外動。内動是れ自己の念頭の発動、外動是れ外物の到來して引起すの應接なり。内動自己に属し、外動相手方に属す。内動真なれば、外動も亦た之に随って真なり。内動偽なれば、外動も亦た之に随って偽なり。《中庸》に説く、君子は別人の見えざる処に於いても亦た戒慎す、戒慎するは正に是れ此の個の内動なり。別人の聴こえざる処に於いても亦た恐懼す、恐懼するも亦た正に是れ此の個の内動なり。
內無妄動,自有真動,真動之動,終日動未嘗動,以是而應外來之動,皆以無心應之,是以震來虩虩、笑言啞啞也。震來者,靜中忽有動來也。虩虩者,懼貌。啞啞者,笑聲。人之一念之善,道心發現,便是天堂;一念之惡,人心做作,便是地獄。地獄天堂,非世間所有,皆在人心生出,念之善惡,邪正分之,生死關之,有念而能修省之。
内裡妄動起こさざれば、自然會して真動有らん。真動此の種の動は、整天動きて在るも却って曽て動いたること無きが如し。それを用いて去りて外來の動に應付するは、全て無心を以て應ず。だから爻辞に雷震來るの時驚懼四顧し・過後笑語啞啞たりと曰う。震來とは、是れ静の中忽然として動機の到來有るなり。虩虩とは、是れ驚懼の様子なり。啞啞とは、是れ笑うの声音なり。人一個の善念を起こせば、「道心」顯露して出來し、当下則ち是れ天堂。一個の惡念を起こせば、「人心」造作出來し、当下則ち是れ地獄。地獄天堂並びて是れ世間別に其の処有るに非ず、倶に人の此の一点の心の上より生出す。念頭の善惡は、邪と正とを分け開き、亦た生と死とに関係す。正に念頭有るに因りて、はじめて身を修め省察するの余地有らん。
惡念漸去,善念漸生,久之念念相續,皆歸於正,則道心常存,人心不起,浩氣充塞,主人公穩坐中央,寂然不動,感而遂通,一切事物之來,言笑自若,啞啞應之,付於無心而已。雷震驚百里,亦不喪匕鬯矣。匕者,箸也。鬯者,美酒也。雷震百里,其聲至大,易足驚人,遇此而能不喪匕鬯,則其聲色貨利,富貴窮通,一切逆順境遇,必不能動於中矣。
惡念一点々々减去し、善念一点々々生長し、日久の之後念念相接して倶に正に帰せば、「道心」便ち常に在り、「人心」便ち起こらず。浩然の気周身に充満し、元神此の位の主人公穏穏として中央に坐し、寂然として動かずして一たび感ずれば則ち通ず。一切の事物到來するの時、談笑自如にして、啞啞の従容を用いて去りて應対し、無心に交えて去りて処置せしむるのみ。此の如くなれば、即かり雷声百里を震動するも、手中の匕と鬯とも亦た會して失落せざらん。匕則ち是れ食を取るの匙箸、鬯是れ祭祀の用うる所の香酒なり。雷震百里、声勢極めて大にして、最も容易に人を驚かす。此の如き動静に遇上して還た能く手中の匕鬯を失わざれば、則ち声色貨利・富貴窮通、一切の順境逆境、則ち倶に其の内心を動搖する能わざらん。
蓋君子懼內動,不懼外動。懼內動者,養其氣也。不懼外動者,不動其氣也。內能養氣,外不動氣,時動則動,時不動則不動,與雷同道,與時偕行,千動萬動,懼是真動,何礙於動。震之亨者,正在此也。
君子の怕るる所は是れ内動、外動を怕れず。内動を怕るるは、是れ為めに自己の元気を涵養せんと。外動を怕れざるは、是れ為めに元気をして外境に牽き走らせざらんと。内に能く気を養い、外に気を動かさず。動くべきの時候は則ち動き、動くべからざるの時候は則ち動かず。雷と同一個の道理、時機に随って一起に運行す。此の如くなれば千動万動倶に是れ真動、動は又た何の妨げか有らん。震卦の亨通なる所以は、正に此の裏に在り。
初九,在動之初,而能戒慎恐懼,於不睹不聞之中,是以震來虩虩,後笑言啞啞也。先虩虩者,辨別是非,謹之於始也。後啞啞者,得心應手,全之於終也。先懼後喜,動之而最吉者。此剛而得正之動者也。
初九此一爻動の開頭に処り、能く別人の見えざる・聴こえざるの地方に於いて則ち先ず戒慎恐懼を做り到る。だから爻辞に震來るの時虩虩として驚懼し・其の後笑語啞啞たりと曰う。先ず虩虩とは、是れ先ず是非を辨明し、起頭の処に於いて則ち謹慎なり。後に啞啞とは、是れ工夫心と手に應じ得るに做り到り、収尾の処に於いて能く保全す。先ず懼れて而る後に喜ぶは、是れ六爻の中動くること最も吉なるの一爻なり。此一爻の配するは是れ剛健にして又た正位に居るの動なり。
六二,以柔乘剛,妄想太高,行其所不能行,是有失主意,動其危厲之億,如喪貝登躋于九陵之上矣。幸其柔而守正,雖億而不敢妄行,即此便是生意,不必再尋生意,而危厲可無,是以勿逐七日得。此柔而恐懼於內動者也。
六二此一爻陰柔を以て陽剛の上に凌駕し、妄想して定まること太も高く、去りて自己の力の及ばざるの事を做せんとし、ここにおいて主意を失い、心裡危険に対するの種種の估量を生出す。猶爻辞のいう財貨を喪失し・九陵に登上るが如し。幸いなるにそれは柔順にして能く正を守り、雖も心中估量定まらずと雖も、却って敢えて軽擧妄行せず――此の份の敢えて妄行せざるは本身就きて是れ生機の在る所、別に別の処に到りて去りて生機を尋ぬるを必とせず、危厲自然可に免去せん。だから追い逐うを必とせず・七日の後失物自ら還らんと曰う。此一爻の配するは是れ柔弱にして内動に対して心恐懼を存するのあの一等の人なり。
六三,柔居剛位,既懼己之無能,又懼事之犯難,內外一懼,蘇蘇戰傈,身心不能自主矣。然性柔志剛,能親有道之士,借剛濟柔,不能行者亦能行,是以震行而得無眚。此柔而恐懼求人者也。
六三此一爻陰柔を以て陽剛の位に居り、既に自己の本事無きを怕れ、又た事情辦じ難きを怕れ、内外倶に是れ一個の怕の字なり。蘇蘇然として戦慄不安、身心主を作すを得ず。好在是れ其の性情柔順にして志向剛強、能く道有るの人に親近し、別人の剛健を借りて來りて自己の柔弱を補えば、原先做り到る能わざりしの事も亦た做り到るを得。だから爻辞に震動の中に於いて前行して災患無しと曰う。此一爻の配するは是れ柔弱にして恐懼に因って転じて去りて人を求むるのあの一等の人なり。
九四,剛居不正,又在二陰之間,日與小人為伍,有行道之力,而無行道之志,是遂泥之動,一步不能前進矣。此剛而不知恐懼者也。六五,獨柔無剛,有動之時,無動之德,往億來億,億而不果,恐懼危厲之億,何濟於事?幸其柔而得中,不敢妄為,無喪行於外,有懼事於內,亦不失其柔之本質。此柔而恐懼謹外者也。
九四此一爻陽剛にして居位正ならず、又た两個の陰爻の中間に夾まり、天天小人と伍を為し、道を行うの力量有りて道を行うの志向無し。成って爻辞のいう所の泥淖の裡に陷り進めたるの動、一歩も亦た前進するを得ず。此一爻の配するは是れ剛強にして恐懼修省を懂れざるのあの一等の人なり。六五此一爻孤柔にして剛無く、赶上ぐるは応に動くべきの時候、却って能く動くの徳行無し。來來回回反復して估量し、估量するも半天なるも亦た結果を拿出する能わず。此の種の只だ危険の上に於いて転を打つの估量は、事情に対して何の幇助か有らん。幸いなるにそれは柔順にして上卦の中に居り、敢えて胡來せず、外面真の損失無く、裏面還た一份の事を出さんを怕るるの警惕を存す。亦た算す陰柔の本分を失わざるに。此一爻の配するは是れ柔弱にして只だ外事の上に於いて謹慎恐懼するのあの一等の人なり。
上六,在重震之上,內外一懼,而無實行,是以震索索,視矍矍也。索索矍矍,懦弱無能,以一懼而終其事,不能遠達,無凶而亦有凶。然在外動之極,震不于其躬,于其鄰,本有咎者,亦可無咎。無咎者,以其懼人,不敢為惡。則賢人君子,必將導引為善,是以婚媾有言矣。此柔而恐懼於人者也。
上六此一爻两個の震卦相重ねるの最も上の面に処り、内外倶に只だ是れ一味に害怕して、却って実際の行動を拿出する能わず。だから爻辞に震動するの時索索として発抖し・両眼矍矍として四顧すと曰う。索索矍矍は、是れ懦弱無能の様子、一輩子の事則ち一個の怕の字の裏に了結せり。走ること遠からず、本来応に凶ならざるも亦た落ち得て凶有り。不過それは外動の極処に処り、雷震自己の身の上に落ちずして隣人の身の上に落つれば、原本応に過失有るべきも、亦可に過失を免るるを得。過失を免るる所以は、是れ他の人を怕れ、敢えて惡を作さざるに因る。此の如くなれば賢人君子必然に會して來りて彼を引導して善に向かわしめん。だから爻辞に婚配の親家會して閑話有らんと曰う。此一爻の配するは是れ柔弱にして只だ人を怕るるを知るのあの一等の人なり。
六爻皆有懼道,或內懼,或外懼,或致凶,或無咎,皆為修省得吉之道。求其懼於內,而不懼於外,謹於始而能全於終者。其惟初九之一爻乎?然則,修省之道,必以內懼外不懼為貴。內懼者,謹之於內也。外不懼者,見之於行也。先恐懼而後修持,一切外物,不得而動之,可以盡性,可以至命,順之逆之,無可無不可矣。
六爻各々一种の怕法有り。或いは怕るるは内に在り、或いは怕るるは外に在り、或いは凶険を招來し、或いは過失を免る。但し倶に可に身を修め省察して吉を得るの門徑と成るを得。もし找出せんと要するは既能く内に怕れ・又た外に怕れず、起頭謹慎にして結尾も亦た能く保全するをば、大概唯だ初九此一爻ならんか。こく如く視れば、身を修め省察するの道理は、一定に要して内裡怕るるを知り・外面怕れざるを以て可貴と為すを須す。内に怕るるは、是れ念頭の上に於いて謹守す。外に怕れざるは、是れ行事の上に於いて顯し出す。先ず恐懼の心を存し、然る後一歩一歩に修持せば、一切の外物則ち彼を動搖する能わず。此の如く可に本性を窮尽し、可に天命を了達し、順って做すも好く・逆らいて做すも好く、做さざるを得ざる何も無く、亦た做す可からざる何も無し。
上艮下艮(艮卦第五十二)
艮:艮其背,不獲其身;行其庭,不見其人。無咎。初六,艮其趾,無咎,利永貞。六二,艮其腓,不拯其隨,其心不快。九三,艮其限,列其夤,厲薰心。六四,艮其身,無咎。六五,艮其輔,言有序,悔亡。上九,敦艮,吉。
《艮》卦:背を止めれば、自己の身を意識せず、庭を行きても人を見ず。咎なし。初六、足の指に止まる。咎なく、永く貞を利る。六二、ふくらはぎに止まる。その随うものを救い得ず、その心快からず。九三、その腰に止まり、その夾脊の肉を裂き、危厲心を薫灼す。六四、その身に止まる。咎なし。六五、その輔(頬)に止まり、言に序ありて悔亡ぶ。上九、敦艮(篤く止まる)、吉。
艮者,止也。取象為山,卦體一陽止於二陰之上,陽尊陰卑,陽統陰而陰順陽,陽不為陰所傷,內止外止,止於內而又止於外,一止而內外貫之,故謂艮。此靜以養氣,擇善固執之卦,承上鼎卦而來。鼎者,巽進而生明,明出於巽,明而無處不通,無處有傷,烹煉大丹之功。然欲烹煉大丹,非擇善固執,止於其所者不能。止於其所,非空空無為,其道有行有止,行之止之,皆止於其所也。
艮とは止の義で、象は山に取る。卦体は一陽が二陰の上に止まり、陽は尊く陰は卑し、陽が陰を統べて陰が陽に順い、陽は陰に傷られない。内卦も止まり外卦も止まる。内に止まりまた外に止まり、一つの止が内外に通ずる。故に艮と曰う。これは静をもって気を養い、善処を択んで固守して移らぬ卦で、前の鼎卦を承けて来た。鼎卦は柔顺に漸進して明覚を生ずることを説く。明覚は巽順より来り、明が至れば処々に通達し処々に傷なく、これは大丹を烹煉する工夫である。しかし大丹を烹煉せんとするには、善処を択んで固く守り、止まるべき所に止まらなければ叶わない。いわゆる止まるべき所に止まるとは、空蕩として何もしないことではない。この道には行もあれば止もあり、行であれ止であれ、皆止まるべき所に止まるのである。
卦德內止者,止而止於其所也。外止者,行而止於其所也。止以養所止,行以驗所止,以此止而通彼止,以彼止而達此止,行止皆歸於一止。止而又止,如以此止背彼止,故謂艮其背。以止背止,是由止而行,行以驗止,行止相連,止而不入於空寂,行而不涉於放蕩,行即是止,止即是行,止固止,行亦止,內外一止,止於其所而不遷,是以不獲其身,行其庭,不見其人也。
卦徳に就いて言えば、内卦の止は、静にして止まるべき所に止まることであり、外卦の止は、行してなお止まるべき所に止まることである。静をもって止まる所を養い、行をもって止まる所を験す。こちらの止より彼方の止に通じ、彼方の止よりこちらの止に達し、行と止はついに同一の止に帰す。止に止まること、あたかもこの一つの止をもって彼の止に背くがごとき、故に卦辞に艮其背(その背に艮め)と曰う。止をもって止に背くとは、静より転じて行となし、また行をもって静を印すことである。行と止とは相連なりて断えず、止まりて枯寂断滅に堕ちず、行して放縦散漫に流れず。行はすなわち止、止はすなわち行、静は固より止なり、行もまたなお止なり。内外ただ一つの止のみ、止まるべき所に止まりて移らず。故に自己の身を覚えず、庭を行きても人を見ざると曰うのである。
不獲其身者,無我也。行庭不見人者,無人也。凡人有人我之分,內外之別者,由於有心,有心則有我,有我則有人,有我有人,不知其所止矣。能艮其背,則人我之心俱化,無人我之心,則人心去而道心生,只有一理,以理行止。
自己の身を獲ざるは、我相なきなり。庭を行きて人を見ざるは、人相なきなり。およそ人の人我を分ち内外を別つのは、私心あるに由る。私心あれば我あり、我あれば人あり。我と人と立てば、自ら止まるべき所を知らざるに至る。艮其背の能くする所となれば、人我の分別心は一斉に化し去り、人我の心なければ「人心」の私意は退きて「道心」生じ、胸中にはただ一つの天理のみ残り、一切の行止は皆この理に聴くのである。
靜則守正,以理而止,不由身而止,止其所,內不知有身也。動則行正,以理而行,不順人而行,止其所,外不知有人也。無我無人,既能止內,又能止外,動靜隨時,內外合道,行之止之,皆出無心,一理而已。更何有咎之不無乎?學者能於艮其背上用功夫,止於其所,不動不搖,則得其一而萬事畢,何患金丹不結、大道不成乎?
静なる時は正を守り、理に依りて止まり、身の欲求に由りて止まらず、止まるべき所に止まる。故に内に身あるを知らず。動く時は正を行い、理に依りて行い、人の意に順いて行わず、止まるべき所に止まる。故に外に人あるを知らず。我なく人なく、能く内に止まり能く外に止まり、動静は時に随いて変じ、内外皆道に合す。行であれ止であれ、皆無心より出て、ただ一理のみ。尚ほ何の咎か免れざることがあらん。道を学ぶ者、若し艮其背の三字に工夫を下し、止まるべき所に止まりて動揺せざれば、すなわちあの「一」を捉えて万事俱に了ん。何ぞ愁えん「金丹」が凝結せず、大道が修まらざるを。
初六,自卑自下,不敢妄動,如艮其趾也。止之於趾,非禮不履,初念已真,止而即能無咎。然柔者多無主宰,恐有止而不固之嫌,惟利於永貞,久於其道,方能始終而無一咎矣。此恆久守正之止也。
初六の爻は、自ら卑下に居りて妄りに動かざるを敢てせず、爻辞のいう趾に艮むがごとし。趾に止まるとは、礼に合わざる所に一歩も踏み入れぬこと。初めの一念既に真にして、止まれば即ち咎なし。ただ柔なる者は多く主宰なく、止まりて固まらざるの嫌いあるを恐る。惟だ永貞を利るのみ、この道に久しく功を用いてこそ、始より終に至るまで一点の咎もなからん。この爻に配するは恒久に正を守る止なり。
六二,柔而無剛,止之不固,稍進於上,如艮其腓也。腓不自行,隨足而行,止之於腓,由於無則明者以拯援,是以其心不快,不得不止耳。此柔而勉強之止也。九三,剛而不柔,躁動無忌,如腰夤也。知進而不知退,必敗其剛,有限而止,如列其夤也。列夤之止,其厲在於熏心好勝,急欲成功耳。此剛而勉強之止也。
六二の爻は陰柔にして剛健を欠き、止まること固からず、初六より稍々上に進みて、爻辞のいう腓に艮むがごとし。腓は自ら行く能わず、足に随いて行くのみ。腓に止まる所以は、剛明なる者の拯援なきに由り、是をもってその心快からず、已むを得ずして止まるのみ。この爻に配するは柔弱にして勉強の止なり。九三の爻は剛健にして柔顺を知らず、躁動して忌憚なく、その位正しく腰脊の処に当たる。進むを知りて退くを知らざれば、必ず自らの剛気を敗し、限られて後に止まる。爻辞のいう夾脊の肉を裂くがごとし。この裂けて後に止まる止の危うきは、争強好勝の心が内に薫灼し、急いで成功せんと欲するに在り。この爻に配するは剛強にして勉強の止なり。
六四,柔而守正,雖動而不易其方,如艮其身也。能止於身,躬自厚而薄責於人,則遠怨矣,是以無咎。此柔而治己之止也。六五,柔而得中,止於內,而又止於外,如艮其輔也。輔口開即動,止之於輔,口不妄開,必言不妄發。即或有言,是有序之言,或言而益於世道人心,或言而關乎身心性命,自不能行、引人於善,亦積功立德之事,本有悔而悔可亡。此柔而益人之止也。
六四の爻は陰柔にして正を守り、動くといえどもその方を易えず、爻辞のいう其身に艮むがごとし。能く身に止まれば、躬自ら厚くして人に責ること薄く、怨に遠ざかり、是をもって咎なし。この爻に配するは柔顺にして内に己を治むるの止なり。六五の爻は陰柔にして中に居り、内に止まりまた外に止まる。爻辞のいう其輔に艮むがごとし。口輔は一張すれば動く。輔に止まるとは、口を妄りに開かず、言を妄りにせぬこと。たとい口を開くとも、条理ある言のみ。或いは出でて世道人の心に益あり、或いは出でて身心性命に関わる。己未だ能くせざるといえども、能く人を導きて善に向かわしむ。これも功を積み徳を立つるの事にして、本有すべき悔はここに亡ぶ。この爻に配するは柔顺にして能く人を益する止なり。
上九,在重艮之上,既能內止,又能外止,內外一止,是謂敦艮。止而至敦,剛柔悉化,性定情忘,止於至善之地而不遷,無生無滅,如崇高大山,與天地同長久。此全始全終之止也。然則,止於其所之道,必須有為無為,行止如一,陰陽混化,止於至善無惡之地,方為極功。若不到至善無惡之地,未云全吉。修道者,可不知其所止之地乎?
上九の爻は重ねたる艮の上に在り、能く内に止まり能く外に止まる。内外一つの止、これを敦艮と謂う。止まりて敦厚篤実の地に至れば、剛柔悉く化し尽くし、性は定まり情は忘れ、至善の地に止まりて遷らず、生なく滅なく、高峻の大山のごとく天地と倶に長久なり。この爻に配するは始あり終あり、首尾完具の止なり。これより観れば、止まるべき所に止まるの理は、必ず有為の工夫と無為の工夫、行と止とが一片に合し、陰陽渾化して至善にして悪なきの位に止まってこそ、究竟の成就と謂うべし。至善無悪の位に至らざれば、未だ全吉とは言うべからず。道を修むる者、何ぞ先ず自らの止まるべき所を究明せざらんや。
上巽下艮(漸卦第五十三)
漸:女歸吉,利貞。初六,鴻漸于干,小子厲,有言,無咎。六二,鴻漸于磐,飲食衎衎,吉。九三,鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶。利禦寇。六四,鴻漸于木,或得其桷,無咎。九五,鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。上九,鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。
《漸》卦:女帰りて吉、貞を利る。初六、鴻漸く干に至る。小子厲しく、言ありて咎なし。六二、鴻漸く磐に至る。飲食衎衎たり、吉。九三、鴻漸く陸に至る。夫征して復らず、婦孕みて育たず、凶。寇を禦ぐに利し。六四、鴻漸く木に至る。或いはその桷を得ん、咎なし。九五、鴻漸く陵に至る。婦三歳孕まず、終に勝つものなし、吉。上九、鴻漸く陸に至る。その羽は儀の為に用うべし、吉。
漸者,徐緩不速之義。卦德上巽入、下艮止,止於其所而徐入,故謂漸。此循序漸修之卦,承上震卦而來。震者,動而修省,不妄動也。不妄動,則戒慎恐懼,剛氣在內,心堅志遠,可以脩金丹有為之道矣。有為之道,乃後天中返先天之道。返先天,所以使無者而復有,去者而仍還也。無者使有,去者仍還,非一朝一夕之功,其中火候細微,工程攸遠,必須循序漸進,方能深造自得。
漸とは徐緩にして速ならざるの義。卦徳に就いて言えば、上卦の巽は入、下卦の艮は止。止まるべき所に止まりて徐々に入る。故に漸と曰う。これは按部就班、循序に修持する卦にして、前の震卦を承けて来た。震卦は動の中に身を修め省察し、妄動せざるを説く。妄動せざれば、能く戒慎恐懼し、剛健の気は内に存し、心志堅定にして見ること遠く、これをもって「金丹」の有為の工夫に着手すべし。いわゆる有為の道とは、後天の中に先天に返る路なり。先天に返るとは、既に無きを復た有らしめ、既に去りたるを復た還らしむること。無きを復た有らしめ去りたるを仍ほ還すは、決して一朝一夕の工夫にあらず。其の中に火候微細にして工程漫長、必ず循序漸進してこそ、日益に深入して自ら得る所あらん。
卦之剛止於內,柔巽於外,以剛用柔,借柔養剛,實以虛用,虛以實行,剛柔相當,虛實兼該,如二五陰陽相應,真陰真陽,自然匹配,非若假陰假陽;強求之合。是道也,如女歸之道也。凡女歸男,男先求女,用媒妁以通信,兩家無嫌,然後女歸男家,男貪女愛,生子生孫,夫妻偕老,此女歸之吉,即男子之吉。
この卦は剛爻は内卦に止まり、柔爻は外卦に巽順す。剛を用うるに柔の方式をもって出し、柔を借りて剛を養う。実は虚をもって用い、虚は実をもって行い、剛柔分量相当にして虚実両面兼ね備えたり。六二と九五の陰陽相応ずるがごとく、「真陰」と「真陽」とは自然に配合し、後天の假陰假陽のごとく強求硬湊を要せざるなり。この理は、女の嫁ぐの理に同じ。およそ女が男に嫁ぐは、必ず男方先に来りて女方を求め、媒人を托して往来通信し、両家嫌隙なくして後に女は男家に嫁ぐ。男は貪り女は愛し、児を生み孫を育て、夫妻白頭偕老す。これ女帰りの吉にして、即ち男の吉なり。
若男不求女,女先求男,不用媒妁,私通苟合,急欲速成,不但女不吉,即男亦不吉,男女俱皆不吉,不過遂一時之樂,久必敗事。故修道者,用漸修之功,不求速成,剛以柔用,如以男求女也。不急不緩,循序而進,愈久愈力,如用媒妁以禮通信也。功夫到日,由勉強而歸自然,陰陽相合,剛柔混成,一粒靈丹,自虛無中凝結成象,如女歸男,男女匹配,而自生育,是以漸修之道,如女歸則吉也。
假令男方来りて求めず、女方却って先に男方を求め、媒妁を経ず、私に苟合し、急いで速成せんと欲すれば、唯だ女方不吉のみならず、男方も不吉、男女俱に皆不吉なり。ただ一時の楽を遂ぐるのみ、日久しくすれば必ず事を敗る。故に道を修むる者は漸修の工夫を用いて速成を求めず。陽剛を柔顺の方式をもって出すは、男方の女方を求むるに如く、急がず緩まず、次序に随いて推進し、久しければ愈々力あり、媒人を托して礼に依りて往来通信するに如し。工夫日に至れば、勉強に為すより転じて自然而然となり、陰陽相合し剛柔渾然として一片となり、一粒の霊丹虚無の中より凝結して形を成す。譬えば女の男家に嫁ぎ、男女配偶して自然に生育するがごとし。故に漸修の路は、女の嫁ぐがごときにして吉を得るなり。
但漸道雖吉,尤利於漸之得正,若不得正,亦不得吉。彼世之爐火閨丹,著空執相之徒,有終身行之不休不歇者,何嘗不云漸。但漸之不得其正,空空一世,到老無成,其吉安在?故必以正而漸,窮理盡性,以至於命,自有為而入無為,由勉強而抵自然,未有大道不成者也。
ただ漸修は吉なりといえども、尤も要なるは漸にその正を得ること。若し正を得ざれば、また吉を得ず。世の炉火を焼きて外薬を煉り、閨房採戦を為すの徒、及び一味に空無に執着し形相を死抱する者、その中に終身行いて休まず歇まざる者乏しからず。何れも自ら循序漸進と云わざるはなし。ただ漸めて正を得ず、空しく一世を忙にし、老いるに及んで一成する所なく、吉は何の処にか在らん。故に必ず正道に依りて漸修すべし。事理を窮究し本性を尽く顕し、一直に為して天命に達するまで、有為の工夫より無為の境地に入り、勉強より自然而然に至る。此のごとくすれば大道の修まらざるなし。
初六,在漸之至下,如鴻漸于干也。乾為水涯下流之地,漸之於乾,失其高飛之序。始不謹而終必凶,及至年滿月盡,反怨丹經之謬,是小子危厲而有言矣。有言之厲,自取之耳,與人無咎。此柔而不正之漸也。
初六の爻は漸卦の至下に処り、爻辞のいう鴻漸く干に至るがごとし。干は水涯下流の低窪の地なり。鴻の漸むこと干に至るのみにして、低より高く飛ぶの次第を失う。始め謹まざれば終り必ず凶。年月満ち尽くるに及びて得る所なきに至り、反って丹経の謬を怨む。これ爻辞のいう小子厲しく言あるなり。この言と危厲とは自ら招きたるにして、他人に怪すべからず。この爻に配するは柔弱にして路子正しからざるの漸なり。
六二,止而得中,如鴻漸于磐矣。磐為平穩之石,磐亦非鴻止之處,漸之於磐,煉己待時,虛心即能實腹,是以飲食衎衎,樂在其中,其吉可知。此柔而得中之漸也。
六二の爻は能く止まりてまた下卦の中に居り、爻辞のいう鴻漸く磐に至るがごとし。磐は平穏の大石なり。大石も元来鴻の最終の帰宿にあらず。漸めて磐石の一歩に至るは、正に用いて己を煉り時を待つべし。心中先ず私意を騰空すれば、丹田自然に充実す。故に爻辞に飲食衎衎と曰い、楽しみ其の中に在り、吉は言を俟たず。この爻に配するは柔顺にして中を守るの漸なり。
九三,剛而不中,漸之太高,如鴻漸于陸矣。陸為平頂之大山,漸之於陸,失其自卑登高之序,急欲成功,陰陽不和,涉假傷真,如夫征不復,貪戀外妻,婦孕不育,私通姦夫,適以取凶而已。凶之者,以其剛道貴於止所而禦寇,不貴於自用而為寇。此剛而失守之漸也。
九三の爻は剛健にして中ならず、一もって漸むこと高きに過ぎ、爻辞のいう鴻漸く陸に至るがごとし。陸は平頂の大山なり。漸めて陸に至れば、低処より一歩一歩高く登るの次第を失い、急いで成功せんと欲して陰陽配合せず、假に渉りて真を傷る。譬えば夫の征して復らず外の女を貪戀し、婦孕みて育たず私に奸夫あるがごとき、結果はただ自ら凶を取るのみ。凶なる所以は、陽剛の道は本位に止まりて盗寇を禦ぐを貴び、自らその能を逞しゅうして却って盗寇と為るを貴ばざるなり。この爻に配するは剛強にして本位を失守するの漸なり。
六四,以柔居柔,如鴻漸于木,或得其桷矣。桷為屋角之平,木亦非鴻止之處,漸之於桷,或可暫時休歇,虛極靜篤,以待陽復,自無當面錯過之咎矣。此柔而守正之漸也。
六四の爻は陰柔をもって陰位に居り、爻辞のいう鴻漸く木に至り或いはその桷を得んがごとし。桷は屋角の平直の椽木なり。樹木も元来鴻の久棲の処にあらず。漸めてこの一根の椽枝に至るは、ただ暫時休歇すべきのみ。この時心を虚にして極処に致り、静にして篤実を守り、専ら一陽の来復を待てば、自然に当面錯過の過を犯さず。この爻に配するは柔顺にして正を守るの漸なり。
九五,陽剛中正,如鴻漸于陵矣。陵為山之高而得中者,剛漸於中,燥氣俱化,真陰真陽,性情和合,不復為假陰假陽所隔,如婦三歲不孕,終莫之勝也。真復假化,真陰真陽,兩弦之氣,結而為丹,不孕者亦孕,所謂“一粒金丹吞入腹,始知我命不由天”,其吉為何如乎?此剛柔混合之漸也。
九五の爻は陽剛にして中正、爻辞のいう鴻漸く陵に至るがごとし。陵は山中の高くして中を得たる所なり。陽剛漸めて中正の位に至れば、燥急の気は全部化し去り、「真陰」と「真陽」の性と情と彼此和合し、復た後天の假陰假陽に隔断せられず。爻辞のいう婦三歳孕まず、終に勝つものなきがごとし。真一たび回復すれば假は自ら化し去る。真陰真陽は上弦・下弦の両半月の気のごとく、一輪の円月に合して凝結して丹を成す。元来孕まざるもまた孕み、正に丹家のいう一粒の金丹腹中に呑み入りて、始めて我が命の天に由らざるを知るなり。このごときの吉はまた如何に形容すべき。この爻に配するは剛柔混合して一となるの漸なり。
上九,在漸之終,剛柔悉化,自卑登高,漸無可漸,聖胎完成,如鴻漸于陸,棲於平穩之處矣。漸於平穩,正當休歇罷功,修德修行,接引方來之時,是以其羽可用為儀吉。此全始全終之漸也。六爻俱有漸道,惟初之太弱,三之太剛,非漸之吉道,其餘四爻,皆循序漸進之功,或柔或剛,各隨時而行,漸進之全體,大用畢露矣。
上九の爻は漸卦の末に処り、剛柔全部化し尽くし、低処より一路高処に登り、復た漸進すべきの余地なし。聖胎既に養い成り、鴻の漸く高処に飛びて平穏の所在に棲むがごとし。漸めて平穏に至るは、正に火を歇め功を収め、徳を修め行を修め、後学を接引すべきの時なり。故に爻辞にその羽は儀の為に用うべしと曰いて吉を得る。この爻に配するは始あり終あり、首尾完具の漸なり。六爻各々一種の漸法あり。ただ初六は太弱、九三は太剛にして、漸の吉道と称すべからず。其の余の四爻は皆循序漸進の工夫にして、或いは柔或いは剛、各々時機に随いて行う。漸進の道の全体と大用とは、此に至りて悉く顕露せり。
上震下兌(帰妹卦第五十四)
歸妹:征凶,無攸利。初九,歸妹以娣,跛能履,征吉。九二,眇能視,利幽人之貞。六三,歸妹以須,反歸以娣。九四,歸妹愆期,遲歸有時。六五,帝乙歸妹,其君之袂,不如其娣之袂良。月幾望,吉。上六,女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。
《帰妹》卦:征くれば凶、利ありとする所なし。初九、妹を帰すに娣を以てす。跛にして能く履む、往けば吉。九二、眇にして能く視る。幽人の貞に利し。六三、妹を帰すに須(まつ)を以てし、反って娣を以て帰す。九四、妹を帰すに期を愆(あやま)る。遅き帰に時あり。六五、帝乙妹を帰す。其の君の袂は其の娣の袂の良に如かず。月幾望なり、吉。上六、女は筐を承けて實なく、士は羊を刲きて血なし。利ありとする所なし。
歸妹者,交合不正之義。卦德上震動、下兌悅,內悅而外動,以動而遂說,順悅之動,如以女求男,陰先陽後,交合不正,故謂歸妹。此假中求真之卦,承上艮卦而來。艮者,止於其所,去其不正之悅,非禮之動耳。
帰妹とは、男女交合して正道に合せざるの義。卦徳に就いて言えば、上卦の震は動、下卦の兌は悦。内に喜びて外に妄動し、動によりて其の喜びに順随す。この喜びに順いて起る動は、譬えば女方の自ら男方を求むるがごとく、陰前にして陽後にあり、交合の次序正しからず。故に帰妹と曰う。これは假の中に真を求むる卦にして、前の艮卦を承けて来た。艮卦は止まるべき所に止まり、不正の喜びと礼に合わざる挙動とを去るを説く。
人當先天未破,後天未交之時,陰陽合一,陽統陰而陰順陽,一氣流行,生機不息,渾然天理,不待人力而自交者也。及其後天用事,先天真陽走失於外,識神借靈生妄,陰差陽錯,五行相戕,欲動情生,心與物交,由內以悅外,因外以動內,我家之陽,皆為他家所消矣。
人の先天の気未だ破損せず、後天の識神未だ插手せざる時は、陰陽本合一なり。陽は陰を統率し陰は陽に順從し、一気周流して生機断えず、浑然としてただ一段の天理のみ。人力をもって安排せずして自然に交合す。後天の当家作主に及びて、先天の「真陽」は外に走失し、識神は其の一点の霊光を借りて種種の妄念を生じ、陰差陽錯して五行彼此戕害す。欲望一たび動けば情識生じ、心は外物と交打交道し、内の喜びをもって外境を追逐し、また外境に牽動して内を動かし、自家の陽気は全て他家に消耗せらるるに至る。
我家者,東家,屬震。他家者,西家,屬兌。東家為主,性也。西家為客,情也。以兌求震,是以情亂性,客氣賊害主氣矣。且兌為金,主刑殺。震為木,主生德。以刑殺而克生德,陽氣日消,陰氣日長,消而又消,長而又長,陰純陽盡,雖欲不死而不能。是以歸妹征凶,無攸利也。
いわゆる我家とは東家にして卦に震に属し、いわゆる他家とは西家にして卦に兌に属す。東家は主人にして本性を指し、西家は客人にして情識を指す。兌をもって震を求むるは、即ち情識をもって本性を撹乱し、客気反って主気を戕害するなり。況んや兌は五行に金に属して刑殺を主り、震は五行に木に属して生発の徳を主る。刑殺をもって生徳を克伐すれば、陽気は日に日に消減し、陰気は日に日に增長し、消してまた消し、長じてまた長じ、純陰にして陽気尽絶するに至れば、縦い死なんと欲せざるも能わず。故に卦辞に帰妹征けば凶、利ありとする所なしと曰う。
然歸妹以兌求震,雖交合不正,聖人有後天中返先天之道,若以震家而求兌家,不但不為兌金所克,而且能盜兌中攝去之真陽,復還於震,情來歸性,刑化為德,木性愛金順義,金情戀木慈仁,金木交併,性情相合,由不正而仍歸正,還元返本,聖胎凝結,逢凶化吉,無攸利者,而亦無不利矣。試明不正中之正。
ただ帰妹は兌をもって震を求むるなり。交合の次序正しからざるといえども、聖人には後天の中に先天に返るの法あり。若し頭を掉して震家より兌家を求めれば、兌金に克せられざるのみならず、反って兌中に攝り去られたる「真陽」を奪い返し、重新たに震に帰還せしむべし。此の如くなれば、情識帰りて本性に附し、刑殺は生徳に轉化す。木の性は金を愛して義に順い、金の情は木を戀して仁に帰す。金木交併して性と情と合して一となり、不正より仍ほ正に返り、本元に還帰し本根に返る。聖胎凝結して凶に逢うも吉に化し、元来利なしと説きしも、また所往なく利なからざるに至る。以下にこの不正の中の正を説明せん。
初九,剛而居下,如歸妹以娣,娣為從嫁之妻,妹以娣自屈,時不正而德正,非禮不履,又如跛而能履,外物不得點染,以是往而修道,悅所當悅,未有不致其吉者。此時不正而能守正者也。
初九の爻は陽剛にして最下に居り、爻辞のいう妹を帰すに娣を以てすがごとし。娣は随嫁の側室なり。妹肯んじて偏房の身分を以て自ら居り己を屈す。見るべし、その処する時位正しからざるといえども、徳行は正なり。およそ礼に合わざる所は一歩も踏まず、また跛者の仍能く履むがごとく、外物の沾染せられず。このごとき心地を帯びて道を修めば、喜ぶべきにして喜び、吉を得ざるなし。この爻に配するは時位正しからずして自ら能く正を守るの一等の人なり。
九二,剛以柔用,外暗內明,如眇而能視,抱道幽居,守貞不二,以性命為一大事,自有真樂,不戀假樂,無時不貞,無事不利。此能守正而不入不正者也。
九二の爻は陽剛を柔顺の方式をもって出し、外表は暗昧なるがごとく見えて内裏は明白なり。爻辞のいう眇にして能く視るがごとし。大道を懐抱して幽にして独り居り、貞正の心を守りて毫も動揺せず、性命の事を一生の頭等の大事と為し、自然に一份の真楽ありて虚偽の快楽に留戀せず。一刻も正を守らざるなく、一事も順利ならざるなし。この爻に配するは能く正を守りて不正に落るを肯ぜざるの一等の人なり。
六三,柔而不正,務外失內,認假傷真,自取下賤,如歸妹以須矣。若能反而悔悟,以須歸娣,親近賢人,雖不能入於聖賢大道,亦可免其不正之愆。此反不正而就於正者也。
六三の爻は陰柔にして居位正しからず、一味に外に追求して内を失い、假を真と認めて因りて真を傷り、自ら己を低下の地に致す。爻辞のいう妹を帰すに須を以てし、空等に落るがごとし。倘若し能く回頭悔悟し、一歩退きて偏房の身分を以て嫁ぎ、賢徳の人に親近せば、聖賢の大道に進むを得ずといえども、また其の不正の過を免れん。この爻に配するは不正より回頭して正に走るの一等の人なり。
九四,剛居於柔,煉己待時,如歸妹愆期,遲歸有時也。愆期者,一非時不動,去人心也。遲歸者,動必有時,復道心也。去人心,復道心,所謂“致虛極、守靜篤,萬物並作,吾以觀其復”者在是。此由不正而待時復正者也。
九四の爻は陽剛にして陰位に居り、正に己を煉りて時を待つの工夫なり。爻辞のいう妹を帰すに期を愆り、遅き帰に時あるがごとし。いわゆる期を愆るとは、時機至らざれば一動もせず、「人心」を除くが為なり。いわゆる遅く嫁ぐとは、一動すれば必ず時機に合し、「道心」を回復するが為なり。人心を除き道心を回復するは、《老子》のいう虚を致すこと極、静を守ること篤く、万物並び作して吾其の復るを観る、即ちこの一歩を講ず。この爻に配するは不正の処に時機を待ちて重新たに正に帰るの一等の人なり。
六五,柔順虛心,屈尊下賢,由不正而求其正,如帝乙歸妹,其君之袂,不如其娣之袂良,借人濟己,雖愚必明,雖柔必強,亦如月與日交,得以生明,而幾望其光之吉,不可限量。此本不正借人歸正者也。
六五の爻は柔顺にして虚心、肯んじて尊位を放下して賢を求め士に下り、不正の処より正道を求む。爻辞のいう帝乙妹を帰し、其の君の袂は其の娣の袂の良に如かずがごとし。他人の長処を借りて己の不足を補えば、再び愚鈍なるも必ず明白となり、再び柔弱なるも必ず剛強となる。また月亮の太陽と交光して光明を生ずるを得るがごとく、将に円ならんとして未だ円ならざるの時に至れば、其の光輝の吉慶は限量すべからず。この爻に配するは本来不正にして他人の力を借りて正路に帰るの一等の人なり。
上六,昏愚無知,誤入旁門,在後天陰陽中作活計,強求強合,妄冀長生,反而促死。如女承筐無實,士刲羊無血,私通苟合,一旦事敗,性命有傷,其無攸利可知,此終歸不正,不知反正者也。然則,順其後天陰陽者,終落空亡,逆其先天陰陽者,必歸實濟。順為凡,逆為仙,只在中間顛倒顛,逆運之道,豈易知哉。
上六の爻は昏愚無知にして、誤りて傍門左道に入り、ただ後天の陰陽上に生活を討ち、硬求硬湊して長生を妄想し、結果反って命を催す。爻辞のいう女筐を承けて實なく、士羊を刲きて血なきがごとく、私に苟合して一旦事敗露せば、性命も皆損害を受け、利ありとする所なしと曰うは明らかなり。この爻に配するは始終不正に落ちて回頭帰正を知らざるの一等の人なり。これより観れば、後天の陰陽に順う者は終に一場の空を落とし、逆って帰りて先天の陰陽を取る者は必ず実在の成就を得。順行は即ち凡人、逆行は即ち神仙。分別はただ中間のあの一個を顛倒するに在り。この逆行返本の道理、何処にか明白ならん易きや。
上震下離(豐卦第五十五)
豐:亨。王假之,勿憂,宜日中。初九,遇其配主,雖旬無咎,往有尚。六二,豐其蔀,日中見斗,往得疑疾;有孚發若,吉。九三,豐其沛,日中見沬;折其右肱,無咎。九四,豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。六五,來章,有慶譽,吉。上六,豐其屋,蔀其家,闚其戶,闃其無人,三歲不覿,凶。
《豐》卦:亨。王假之(王これに至る)、憂うる勿れ。日中に宜し。初九、其の配主に遇う。旬なりといえども咎なし。往けば尚あり。六二、其の蔀を豐にす。日中斗を見る。往けば疑疾を得る。孚ありて発若せば吉。九三、其の沛を豐にす。日中沫を見る。其の右肱を折る。咎なし。九四、其の蔀を豐にす。日中斗を見る。其の夷主に遇う。吉。六五、章を来たし、慶誉あり、吉。上六、其の屋を豐にし、其の家を蔀う。其の戸を窺えば闃として其の人なし。三歳覿えず。凶。
豐者,盛大也。卦德上震動,下離明。明以運動,動本於明。明動相濟,明大而動大,故謂豐。此運火防危之卦,承上漸卦而來。漸者,止而巽行,所以循序漸進,不使火候有差耳。火者,明之象,運火即運明也。明為覺察之德,能覺則有道心而神知,能察則無人心而心明。神知心明,潛修密煉,明於動而動必明,其明日增,其動日大,明動並行,修道最易,此豐之所以有亨道也。
豐とは盛大の義。卦徳に就いて言えば、上卦の震は動、下卦の離は明。明覚を以て行動を運用し、行動はまた明覚に本づく。明と動と互相成就し、明照すればするほど大きく、動もまた大きくなる。故に豐と曰う。これは火を運びてまた危を防ぐの卦にして、前の漸卦を承けて来た。漸卦は止まりて後に柔顺に前行し、意は循序漸進に在りて、火候に差錯を生ぜしめず。火は明の象にして、運火は即ちこの一点の明覚を運用するなり。明は覚察の徳性なり。能く覚れば則ち「道心」在りて神志清知し、能く察すれば則ち「人心」起らずして心地明白なり。神清く心明らかにして、暗に潜修密煉し、動上に明白なれば、動けば必ず明に合し、明は日に增長し動は日に壮大となり、明と動と並行して、道を修むるに最も省力なり。これ豐卦の亨通する所以なり。
然明動之豐雖亨,須要知進知退,能大能小,防危慮險,方能豐者長豐,亨者長亨,如王假之有勿憂之道也。假者,大也。王者,當治道豐盛之時,諸事易於尚大,大而知保,何憂其大,勿憂之道為何道?宜日中之道也。
しかるに明と動と俱に盛なるこの豐は亨通すといえども、また必ず進むべきは則ち進み退くべきは則ち退き、放大する能く収小する能くを知り、処々に危険を提防してこそ、已に盛なるを長久に盛大に保たしめ、已に通ぜるを長久に亨通に保たしむべし。卦辞のいう王これに至りて憂うる勿れの道理のごとし。假は大の義なり。君王治道豊盛の時に当たれば、凡事皆大を求めやすし。大にして保守を知れば、何ぞ必ずしも其の大なるを憂えん。この憂うる勿れの道理とは何の道理ぞ。即ち日中に宜しきがごときの道理なり。
日為離明之象。中者,無偏無倚之謂。進明豐足,火候已到,藥物已成,急宜灶底抽薪,住火停輪,當止即止,明不過用也。明不過用,進退隨時,剛柔相當,不偏不倚,未豐者能以致,已豐者能以保,更何憂其豐而又不豐乎?
日は離卦の光明の象、中は偏倚なきの義。明覚豊足の地に進めば、火候既に家に到り、薬物既に煉成し、即ち急いで竈底より柴薪を抽き、火を停め輪を住め、止まるべきは則ち止まり、この一点の明は再多く用うべからず。明多く用いず、進退時に随いて定まり、剛柔分量相当、偏らず倚らず。未だ豊に至らざるは豊を求むるを得、已に豊に至るは豊を守るを得、何ぞ愁えん豊にしてまた豊ならざるを。
初九,在豐之初,其明不大,正當致豐之時,有應同德之賢,是遇其配主矣。遇配主而彼此資益,以增其明,雖在旬初,可以無咎,其用剛往而有尚,其理可決。此剛而致豐於始也。六二,所應非人,不但不能增明,反蔽其明,如豐其蔀,日中見斗矣。斗見、日中,日光不勝斗光,其明障蔽不通,以是往而運火行符,是非罔辨,其行犯難,必得疑疾矣。幸其真師在望,若知己不明,誠求他家之明,借剛濟柔,奮發精神,勇猛前進,不但無疑,而且致吉。此柔而借剛致豐也。
初九の爻は豐卦の開頭に処り、明未だ大ならず、正に力を努めて豊を求むべきの時なり。また志同じく道合するの賢者其れに応ずるあり。これ爻辞のいう其の配主に遇うなり。配主に遇いて彼此増益すれば、明は便ち日に增長し、旬初の階段に在るといえども、また咎なきを得べし。其の剛健を以て往きて嘉尚を受くるは、断定すべきなり。この爻に配するは剛健にして開頭に着手して豊を求むるの一歩なり。六二の爻は応ずる所の者は合適の人にあらず。其の明を増益する能わざるのみならず、反って其の明を遮蔽す。爻辞のいう其の蔀を豐にし、日中斗を見るがごとし。北斗日中に現るは、日光斗光に壓勝せざるを説明し、明遮られて通ぜず。このごとき状態を帯びて火を運び符を行えば、是非も分辨し難く、行事必ず艱難を犯し、一定に猜疑の病痛を招く。幸いに真師眼前に在り。ただ自ら不明を知り、誠心をもって他家の明を求め、他人の剛を借りて己の柔を補い、精神を奮発して勇猛前進せば、疑惑なきのみならず、能く吉を致す。この爻に配するは柔弱にして他人の剛を借りて豊を求むるの一歩なり。
九三,用明太過,欲豐其明,反昧其明,如日中見沫矣。沫見日中,日光不勝星光,明傷極矣。原其故,只知用剛,不知用柔,只知用明,不知養明。其進銳者,其退速,如拆其右肱,自取其敗,與人無咎。此剛而不能柔之豐也。
九三の爻は明を用うること太だ過ぎ、明を更に盛大にせんと欲して、反って己の明を昏昧ならしむ。爻辞のいう日中にして沫を見るがごとし。小星日中に現るは、日光星光に壓勝せざるを説明し、明已に傷られて極処に至る。緣故を追究すれば、ただ剛を用うるを知りて柔を用うるを知らず、明を用うるを知りて明を養うを知らざるに在り。進むこと猛き者は退くもまた速く、己の右肱を折るがごとく、自ら敗を取るにして他人に怪すべからず。この爻に配するは剛強にして柔する能わざるの豐なり。
九四,剛居動體,有近於陰,不但不能豐明,而且有以豐蔀,如日中見斗矣。然剛而能柔,不用其明,能養其明,是以遇其夷,主吉。夷者,視而不見,隱藏之謂。大凡真正修道之士,被褐懷玉,多隱於卑下之處,人不能識,四能遇之,彼此勸勉,養明而不用明,明自不傷,剛自不敗。此剛而能柔之豐也。
九四の爻は陽剛にして動の卦体に処り、また陰爻に近づく。明を盛大ならしむる能わざるのみならず、反って遮蔽を添う。爻辞のいう日中にして斗を見るがごとし。幸いに其れ剛にして能く柔なり、自らの明を逞しゅうせずして能くこの一点の明を涵養す。故に爻辞に其の夷主に遇いて吉を得ると曰う。夷とは、見えて見えざるがごとく、隠蔵して露さざるの義。およそ真に道を修むる者は、外に粗布を穿ちて内に美玉を懐き、多く卑下の処に隠居して、一般の人の認め出す能わざるなり。九四能くこのごとき人に遇い、彼此勧勉し、ただ明を養いて明を用いず。明自然に損傷を受けず、剛自然に敗壞せず。この爻に配するは剛にして能く柔なるの豐なり。
六五,柔順得中,虛心即能實腹,是以來章有慶譽也。來章者,虛實生白,神明自來也。有慶譽者,始於有作無人見,及至無為眾始知也。五在正豐之時,虛實相應。明動自然,金丹已結,正宜行無為之道,用文火以混養。此柔而無為之豐也。
六五の爻は柔顺にして上卦の中に居り、先ず心を騰空すれば丹田自然に充実す。故に爻辞に章を来たし慶誉ありと曰う。いわゆる来章とは、虚室白を生じ神明自然に到来すること。いわゆる慶誉とは、初め下手有為の時は旁人見る能わず、無為に入るに及んで後に衆人始めて知るなり。六五正に豊盛の時に処り、虚と実と彼此相応じ、明と動と自然合拍し、「金丹」已に凝結し、正に無為の道を行い、ただ文火をもって慢に温養すべし。この爻に配するは柔顺にして無為に入るの豐なり。
上六,柔而無知,不明大道,孤寂守靜,自滿自足,虛裝門面,入於黑暗不明之地,如有屋無人,不明於始,見凶於終,豐之極,凶之極,所謂巍巍佛堂,其中無佛者即是。此柔而頑空之豐也。然則,豐之為道,未豐須當先明後行而致豐;已豐須當住火停輪而保豐。致豐保豐,各隨其時,防危虛險,用明運火,不失之太過,不失之不及,得其中為吉歟。
上六の爻は柔弱にして無知、大道を明白せず、ただ孤零零に枯守静坐し、自満自足して虚に門面を撐え、黒暗不明の地界に落る。爻辞のいう其の屋を豐にし、空しく一人なきがごとし。開頭明白ならざれば結局凶を見る。豐極処に至れば、即ち凶極処に至る。俗話のいう巍々たる一座の佛堂にして裏面に佛なしとは、正にこの種の情形なり。この爻に配するは柔弱にして頑空に落るの豐なり。これより観れば、豐の道理は、未だ豊に至らざるは須く先ず明白にして後に行動して豊を求め、已に豊に至るは須く火を停め輪を住めて豊を保つべし。豊を求むると豊を保つとは、各々其の時機に随い、危険を提防し、明を用いて火を運び、太過にも失せず不及にも失せず、其の中を得れば則ち吉なり。
上離下艮(旅卦第五十六)
旅:小亨,旅貞吉。初六,旅瑣瑣,斯其所取災。六二,旅即次,懷其資,得童僕,貞。九三,旅焚其次,喪其童僕,貞厲。九四,旅于處,得其資斧,我心不快。六五,射雉,一矢亡,終以譽命。上九,鳥梵其巢,旅人先笑後號咷;喪牛于易,凶。
《旅》卦:小亨、旅貞吉。初六、旅瑣瑣たり。此の其の災を取る所以なり。六二、旅即ち次に就き、其の資を懐き、童僕を得る。貞。九三、旅其の次を焚き、其の童僕を喪う。貞なりといえども厲。九四、旅處を得、其の資斧を得るも、我が心快からず。六五、雉を射て一矢亡ぶ。終に命を以て誉れを得る。上九、鳥其の巢を焚き、旅人先ず笑い後に號咷す。牛を易に喪う。凶。
旅者,過而不留之義。卦德上離明、下艮止,止以用明,明本於止,止其明而不輕用,故謂旅。此養火出塵之卦,承上歸妹而來。歸妹者,悅而妄動,順其後天之陰,埋沒先天之陽,以假為真,以苦為樂。修道者,先須看破世事,一切萬緣萬有,以旅視之,不悅假傷真,不因外動內,明於止而止其所,止其明而明不傷,明止兼用,可以在塵出塵矣。是以旅小而得亨,旅貞而得吉也。
旅とは路過して停留せざるの義。卦徳に就いて言えば、上卦の離は明、下卦の艮は止。止を以て明を行い、明は止に本づき、この一点の明を止住して軽易に動用せず。故に旅と曰う。これは火候を涵養し、身塵中に在りて能く塵を出づるの卦にして、前の帰妹卦を承けて来た。帰妹は喜悦によりて妄動し、後天の陰に順い、先天の陽を埋没し、假を以て真と為し、苦を以て楽と為すを説く。道を修むる者は先ず世事を看破すべし。一切の因縁、一切の所有は、皆旅途中の過客と作して看、假を貪戀して真を傷ることなく、外境の牽引によりて内心を擾動せず。止上に明白にして、止まるべき所に止まり、この一点の明を止住して明傷られず、明と止と兼用すれば、身塵中に在りて塵外に超出すべし。故に卦辞に旅小亨、貞にして吉を得ると曰う。
小亨者,以止行明,明不妄用也。貞吉者,明本於止,止於至善也。以止行明,對景而忘情,明本於止,黜聰而毀智,不動不搖,如山之穩定地上,不昏不迷,如日之光照天中,內無所動,外無所昧,有事明以應之,無事明以止之,無貪無求,不迎不隨,不留不滯。蓋以旅之為道,一過而已,非可久戀他鄉,顧其外而忘其內,逐於末而棄其本,可明則明,雖明亦止,當止即止,雖止亦明,明止如一,有何不亨,有何不吉乎?
いわゆる小亨とは、止を以て明を行い、明乱用せざるなり。いわゆる貞にして吉を得るとは、明止に本づき、至善の地に止まるなり。止を以て明を行うは、即ち外境に對して情識を忘るること。明止に本づくは、即ち聦明を摒き機巧を毀棄すること。動かず揺がず、大山の穏やかに地に立つがごとく、昏らず迷わず、太陽の中天を照らすがごとし。内に牽動せらるる所なく、外に蒙蔽せらるる所なし。事あれば則ち明を用いて應付し、事なければ則ち明を以て守住す。貪なく求なく、迎えず随わず、留戀せず滞著せず。行旅の事は元来一過のみにして、久しく他郷に戀すべからず、外を顧みて内を忘れ、末梢を追逐して根本を丟棄すべからず。明すべき時は則ち明にして、明なるも仍ほ止なり。止まるべき時は則ち止まり、止まるも仍ほ明なり。明と止と一片に合成すれば、尚ほ何の亨通せざる、何の吉ならざるかあらん。
初六,柔而不明,不能看破世事,於止不知其所止,或旅於此,或旅於彼,瑣瑣不休,自取其災。此柔而不正之旅也。六二,柔順得中,止於其所,如旅人即之於次,內懷資本也。有資本而和光混合,與下流同居,可以不為下流所惑,所謂“圓即圓兮方即方,教人爭得見行藏”者即此。此柔而中正之旅也。
初六の爻は柔弱にして明白ならず、世事を看破せず、止上に自らの止まるべき所を知らず。一忽ち此に旅し一忽ち彼に旅し、瑣瑣碎々として了結なく、災禍は自ら招きたるなり。この爻に配するは柔弱にして路子正しからざるの旅なり。六二の爻は柔顺にして下卦の中に居り、止まるべき所に止まる。爻辞のいう旅即ち次に就き、其の資を懐くがごとし。本銭ありて能く和光同塵し、凡俗の人と同一処に処りて、凡俗に迷惑せられず。正に丹家のいう円すべきは則ち円に、方すべきは則ち方にし、人をして其の行蔵を窺う由なからしむなり。この爻に配するは柔顺にして中正の旅なり。
九三,剛而不柔,不能止內,強欲止外,斷絕人事,驚愚駭俗,如旅焚其次,喪其童僕矣。焚次之旅,雖旅事得正,起人嫌疑,亦招災取厲之道。此剛而太過之旅也。九四,剛而且明,如在處之旅,把柄在手,成己之後,又當成物,可以隨方結緣,積功累行而無難矣。然此應皆陰,雖有資斧,而無知音,不能如願,是以我心不快。自古有資斧而不能大行其道者,比比皆然。此剛而不得時之旅也。
九三の爻は剛強にして柔顺ならず、内に止まる能わず、偏に強いて外に止まらんとし、一切の人事を斷絶し、世を驚かし俗を駭がす。爻辞のいう旅其の次を焚き其の童僕を喪うがごとし。住処を焚くのこの旅は、旅中の事は尚ほ正と算うるといえども、旁人の猜疑を惹起し、亦た災を招き厲を取るの路子なり。この爻に配するは剛強にして太過の旅なり。九四の爻は既に剛健にしてまた明白なり。旅人の處を得るがごとく、把柄自らの手裡に握る。自己を成就したる後はまた他物を成就すべく、随處に結縁して功を積み行を累ねて難処なし。ただ其の応ずる所は全て陰爻にして、盤纏利斧ありといえども、知音なく、心裡に為さんと欲する事を為す能わず。故に我が心快からずと曰う。古来自来本銭本領ありて大行其道能わざる者、比々皆是なり。この爻に配するは剛健にして生れるに時に逢わざるの旅なり。
六五,柔順虛中,如射雉一矢亡也。射雉者,不用明也。矢亡者,不用剛也。不用明而明足,不用剛而剛全,剛明俱皆不用,氣質悉化,因物付物,既不失乎己,又不背乎人,德足服眾,終得以譽名命之,此柔順而能和光之旅也。
六五の爻は柔顺にして中に虚靜を懐く。爻辞のいう雉を射て一矢亡ぶがごとし。雉を射るは、自らの明を動用せざるなり。矢亡ぶは、自らの剛を動用せざるなり。明を用いずして明自ら足り、剛を用いずして剛自ら全し。剛と明と皆收して用いず、後天の気質習性は全部化し尽くし、物に随いて物に應じ、既に自己を失わず、また他人に違逆せず。德行衆を服するに足りて、終に美誉と爵命とを得る。この爻に配するは柔顺にして能く和光同塵の旅なり。
上九,侍剛用明,自尊自大,明於責人,暗於責已,無益於彼,有傷於我,如鳥焚其巢之旅,失笑後號咷,始而用明,終而敗明,喪牛于易之凶,豈能免諸。此明而誤用之旅也。六爻之旅,或旅於內,或旅於外,或剛於旅,或柔於旅,求其止於內而旅於外者,其惟六二,虛於己而旅於人者,其惟六五乎?知此者,可以處世不滅世,可以在世能出世矣。
上九の爻は剛強に仗り明察を逞しゅうし、自尊自大して、人を責るるには明白、己を責るるには糊塗なり。人に好処なく、己に反って損傷あり。爻辞のいう鳥其の巢を焚き、旅人先ず笑い後に哭するがごとし。起頭明を用いて末了反って明を敗り、易に牛を喪うの其の凶は、何処にか躲れ得ん。この爻に配するは明を錯処に用うるの旅なり。六爻の説く旅は、或いは内に旅し或いは外に旅し、或いは剛を以て旅に処り或いは柔を以て旅に処る。能く内に止まり能く外に旅するを尋ねれば、唯だ六二のみ。能く己を虚にして人と相處するを尋ねれば、唯だ六五のみ。この一層を得るの人は、世間に處して世間を毀棄せずして可、身を世間に在りて世間に超出する能くして可なり。
上巽下巽(巽卦第五十七)
巽:小亨。利有攸往,利見大人。初六,進退,利武人之貞。九二,巽在床下,用史、巫紛若,吉,無咎。九三,頻巽,吝。六四,悔亡,田獲三品。九五,貞吉,悔亡,無不利,無初有終;先庚三日,後庚三日,吉。上九,巽在床下,喪其資斧,貞凶。
《巽》卦:小亨。往く所有るに利し。大人を見るに利し。初六、進退して志定まらず。武人の貞に利し。九二、牀下に巽り、史巫を用いて紛若とせば、吉、咎なし。九三、頻巽、吝。六四、悔亡ぶ。田にして三品を獲る。九五、貞吉、悔亡く、利なきなし。初なくして終あり。庚に先だつ三日、庚に後るる三日、吉。上九、牀下に巽り、其の資斧を喪う。貞なりといえども凶。
巽者,進入也,伏下也,柔順漸進之謂。取象為風,卦體一陰伏於二陽之下,以柔道而行剛道,不急不緩,漸次而進,既內巽而又外巽,既下巽而又上巽,由近達遠,自卑登高,如風漸吹漸遠,漸吹漸高,無處不到。故謂巽。此柔巽進道之卦,承上豐卦而來。
巽とは入るの義にして、また伏るの義なり。柔顺にして漸進するを指し、象を風に取る。卦体は一陰爻が二陽爻の下に伏し、柔の路子を以て剛の事を行い、急がず緩まず、一層一層前に推進す。内卦も巽、外卦も巽、下も巽、上も巽、近処より遠処に通じ、低処より高処に登る。風の一路吹き去るがごとく、愈吹けば愈遠く愈吹けば愈高く、到らざる処なし。故に巽と曰う。これは柔順を以て道に進むの卦にして、前の豐卦を承けて来た。
豐者,明動合一,曲直應物,潛躍隨心,性命由我不由天矣。然明動合一之道,豈易成哉,苟非柔巽漸進之功不能。柔巽則耐久,漸進則能入,柔巽漸進,愈久愈力,工夫不缺,終必至於深造自得,是以巽小而有亨道也。
豐卦は明と動と合して一となるを説く。曲折に遇えば能く應じ、平直に遇うも能く應じ、或いは潛蔵し或いは飛躍し、全て自心に随い、性命は自己に作主して天に由らず。しかるに明動合一の境界は何処にか容易に到らん。柔順漸進の工夫なくては成る能わず。柔順なれば則ち能く耐久し、漸進なれば則ち能く深入す。柔順漸進、久しければ愈々力あり、工夫一日も缺かず、最終に必ず深造して自ら得る所あり。故に巽卦は小亨のみといえども、自ら亨通の道あり。
但能巽雖是亨道,或知其巽而不能行其巽者有矣;或能巽下,不能巽上者有矣;或能巽上,不能巽下者有矣;或巽於順,不能勇於逆者有矣;或巽於始,不能巽於終者有矣。凡此皆不能實行巽進之道。巽而不通,求其知行兼能,剛柔並用,能上能下、能順能逆,能內能外,始終如一之巽,惟具中正之大人能之,是以利有攸往,利見大人也。
ただ能く巽するは亨通の路子なりといえども、其の中にも種種の不徹底あり。巽すべきを知りて巽を行い出す能わざる有り、下に巽順する能く上に巽順する能わざる有り、上に巽順する能く下に巽順する能わざる有り、順境中に巽する能く逆境中に勇進するを敢てせざる有り、開頭に巽する能く末了に巽する能わざる有り。これら皆真に巽進の道を實行したと算すべからず。巽にして通ぜず。あの種の知と行と両面皆能く、剛と柔と並び用い、上る能く下る能く、順う能く逆う能く、内る能く外る能く、自始至終一のごとき巽を尋ねれば、唯だ中正の徳を具備する大人のみ能くする所なり。故に卦辞に往く所有るに利し、大人を見るに利しと曰う。
夫大人者,以性命為重,以道德為貴,視幻身如枯木,視富貴如浮雲,內常有餘,外若不足,真履實踐,漸次進步,心堅志遠,不到大道完成之後,絕不休歇,故利。若非大人,執於一偏,巽而不中不正,何能有往有利?此有往之利,必歸於大人耳。
いわゆる大人とは、性命を最も重く看、道德を最も貴く看る人なり。この幻化の身躯を枯木と作し、富貴を浮雲と作す。内裏常に余裕ありて外表は不足のがごとく、一歩一歩真履實踐し、次第に按じて進歩し、心志堅定にして見ること遠く、大道完成の日に至らざれば絶に歇手せず。故に利と曰う。大人に非ざれば、一頭に偏執して、巽するも中ならず正ならず、何ぞ往く所有り利ありと言うに足らん。この前往の利は、終に大人の身に帰すべし。
初六,柔而無剛,逡畏不力,方進即退,終難深造。然大道人人有分,特患無志耳。果若有志,親近真師,叩求口訣,勇猛精進,如武人之貞,未有入道不利者。此柔而借剛之巽也。九二,剛以柔用,不滿不盈,屈己下人,如巽在床下,用史巫紛若,不但治己得吉,而且應人亦無咎。此剛而能柔之巽也。
初六の爻は柔弱にして剛を欠き、畏首畏尾して力を用うるを肯ぜず、剛に一歩進みてまた退き、終に深造し難し。しかるに大道は人人に份あり。ただ志向なきを怕るるのみ。果真に志向を立定し、真師に親近し、口訣を叩問し、勇猛精進し、爻辞のいう武人のごとく貞にすれば、道に入らざるなし。この爻に配するは柔弱にして他人の剛を借るの巽なり。九二の爻は陽剛を柔順の方式を以て出し、自満せず自盈せず、肯んじて己を屈して人に下る。爻辞のいう牀下に巽り、史巫を用いて紛若とすがごとし。此の如くなれば自治して吉を得るのみならず、他人に應付するも咎なし。この爻に配するは剛にして能く柔なるの巽なり。
九三,自滿自盈,有己無人,不能虛心請益,由下而上巽,乃自用聰明,由上而上巽,本欲向前,反成落後,是謂頻巽。巽至於頻,順者能巽,逆者不巽,或巽或不巽,適以取吝而已。此剛而不能柔之巽也。
九三の爻は自満自盈して、眼裡に己ありて人なく、虚心に人に請教するを肯ぜず。本應く下より上に巽順すべきに、彼は自ら聦明を逞しゅうす。本應く上より更に上に巽順すべきに、彼は前に進まんと想うて反って後に落つ。これを頻巽と謂う。巽この地步に至れば、順境中には還って巽するを肯んじ、逆境中には巽するを肯ぜず、一忽ち巽り一忽ち巽らず、ただ一個の憾惜を落とすのみ。この爻に配するは剛強にして柔する能わざるの巽なり。
六四,獨柔無剛,似乎柔之太過,不能深造而有悔。然柔之得正,上近五剛,巽順於上,而得上之濟,是獲上之一品也。下近三剛,巽順於下,而得下之濟,是獲下之一品也。陰居陽中,順之逆之,皆不失其正,是獲中之一品也。上、中、下三品大藥。歸於中央,陰陽混合,金丹有象,純是生機,如田中種物,無有不告成者,有何悔之不亡乎?此柔而中正之巽也。
六四の爻は孤柔にして剛なく、看れば柔太過にして深造能わずして悔有るべきがごとし。しかるに其れ柔にして正に居り。上は九五の剛に挨り、能く上に巽順して上の接濟を得、これ上一品を獵獲したり。下は九三の剛に挨り、能く下に巽順して下の接濟を得、これ下一品を獵獲したり。陰爻を以て衆陽の中に居り、順いて做すも逆いて做すも其の正を失わず、これ中一品を獵獲したり。上中下三品の大藥一斉に中央に歸し、陰陽混合して「金丹」凝結して象を成し、純然たる一片の生機なり。田里に種下したる物の結果不為ざるなきがごとく、尚ほ何の悔恨の消えざるかあらん。この爻に配するは柔顺にして中正の巽なり。
九五,剛而能巽,惟精推一,允執厥中,是以有悔可亡,而修道無不利矣。其利者,蓋以剛而能柔之大人,能下能上,始而巽以自下,似乎用柔傷剛,是無初也。既而巽進於上,反能借柔全剛,是有終也。無初有終之象,如月之先庚三日,後庚三日。
九五の爻は剛健にして能く巽順し、《尚書》のいう惟精惟一、誠實にあの中を把捉するを做到す。故に本有の悔恨消するを得、道を修むるに利なきなし。利ある所以は、この剛にして能く柔なる大人は下る能く上る能くするに在り。初め巽順を以て自ら下に處り、看れば柔を用いて剛を傷るがごとく、これ爻辞のいう无初なり。接いで巽順にして上に進み、反って柔を借りて剛を成全し、これ爻辞のいう有終なり。无初有終の象は、月亮の先庚三日と後庚三日とに同じ。
先庚三日在於二十八,後庚在於初三,二十八微陽消於艮地,至三十光輝全隱,自二十八至三十,方三日,所謂“先庚三日”也。晦朔之半,月沾日光,陰中藏陽,至初三,現蛾眉之光於庚方,自初一至初三,方三日,所謂“後庚三日”也。先庚三日,巽藏其陽,後庚三日,巽進其陽。金丹之道先巽下而深造用其柔,後巽上而自得全其剛。陰中含陽,陽中用陰,大小無傷,至中至正,金丹凝結,剛巽之利,其吉莫大焉。此剛柔兩用之巽也。
先庚三日は二十八日より算え、後庚三日は初三に至るまでなり。二十八日のあの微弱の陽光は艮の方位に消没し、三十日に至りて光輝全部隱去す。二十八より三十に至るは正に三天、これいわゆる先庚三日なり。晦朔交替の際、月亮重新たに日光に沾り、陰中に陽を蔵起し、初三に至りて庚の方位に蛾眉のごとき一鉤の新光を現す。初一より初三に至るは正に三天、これいわゆる後庚三日なり。先庚三日は柔順にして陽を蔵起し、丹法中の「退陰符」のあの一段の工夫に相当す——火候を收斂して陽気を潛伏せしむ。後庚三日は柔順にして陽を推上し、「進陽火」のあの一段の工夫に相当す——火を運びて上進して陽気を生長せしむ。金丹の道も亦た此の如し。先ず下に向いて巽順し、深造して其の柔を用い、後に上に向いて巽順し、自得して其の剛を全うす。陰中に陽を含み、陽中に陰を用い、分量大小を論わず皆傷られず、至中至正を做到して「金丹」是れに凝結す。剛にして能く巽なるの帶來する利は、吉これより大なるはなし。この爻に配するは剛柔両面並び用うるの巽なり。
上九,在巽之終,巽下之功已畢,柔道宜退,剛道宜進,可以點化群陰之時,不必下巽,須當上巽,居於床上矣。若固執不通,宜在床上者,終在床下。柔過於剛,陰氣不化,必致大藥得而復失,前功俱廢,貞而有凶,可於理決之,此柔過於剛之巽也。然則,巽進漸入之道,須要識急緩、辨吉凶、知止足,可剛則剛,可柔則柔,隨時而用,巽進於剛柔中正為極功也。
上九の爻は巽卦の末に處り、下に向いて巽伏するの工夫已に做り了り、柔の路子は退くべく剛の路子は進むべく、正に一身の群陰を點化すべきの時なり。更に下に巽伏するを要せず、應に上に巽進して牀上に居るべし。假令死守して通ぜざれば、牀上に在るべきに始終牀下に待り、柔剛に勝りて陰気化せず、必ず大藥手に到りて重新たに失去し、前功盡く廢し、貞を守るも亦た凶なり。これは理を以て斷定すべきなり。この爻に配するは柔剛に勝るの巽なり。これより観れば、巽進漸入の道理は、須く緩急を辨え清く、吉凶を分明し、何処に止步知足するを知るべし。剛すべきは則ち剛に、柔すべきは則ち柔に、時機に随いて用い、巽進して剛柔中正の地步に至ってこそ、究竟の成就なり。
上兌下兌(兌卦第五十八)
兌:亨,利貞。初九,和兌,吉。九二,孚兌,吉,悔亡。六三,來兌,凶。九四,商兌未寧,介疾有喜。九五,孚于剝,有厲。上六,引兌。
《兌》卦:亨、貞に利し。初九、和兌、吉。九二、孚兌、吉、悔亡ぶ。六三、來兌、凶。九四、商兌して未だ寧ならず。介疾して喜あり。九五、孚于剥なり、厲あり。上六、引兌。
兌者,悅也。卦體二陽在下,一陰在上,虛於外而實於內,取象為澤,其德為悅,澤之為物,所以浸潤萬物,悅成萬物者,內悅外悅,自內而達外,由外以通內,內外相合,彼此無間,故謂兌。此悅於修道之卦,承上旅卦而來。旅者,以上行明,明不妄用,有志於道,而一切外物不得移之。
兌とは悦の義。卦体は二陽爻下に在り、一陰爻上に在り。外は虚にして内は實なり。象を澤に取り、徳性を悦と為す。澤の此の物は、能く萬物を浸潤し萬物を悦育す。内に喜悦し外に喜悦し、内より外に通じ、また外より内に通り返り、内外相合して彼此間隔なし。故に兌と曰う。これは道を修むるを以て楽と為すの卦にして、前の旅卦を承けて来た。旅卦は止を以て明を行い、明乱用せず、志を道に立てて一切の外物も彼を動搖せしめざるを説く。
夫志於道,悅於道者也。悅於道,即能行其道,是以兌有亨道也。然悅於道雖亨,尤利於貞,貞則利,而遂其悅,不貞則不利,而敗其悅,如卦象上兌下兌,六爻相併。下兌者,內悅也,上兌者,外悅也。內悅實,則外悅亦實,內悅虛,則外悅亦虛。實者悅之真,虛者悅之假,真者悅之久遠,假者悅之不長,利於貞者,正在於此。真正修道之人,不悅於聲色貨利,而悅於仁義道德,自有真悅,不務假悅,一步一趨。皆從身心性命上用工夫,悅於始自能全於終,悅而未有不亨,亨而未有不利者也。
既に志を道に立つれば、即ち道を以て楽と為すなり。道を以て楽と為せば、能く道を行い出す。故に兌卦は自ら亨通の道あり。ただ道を以て楽と為すは亨通すといえども、更に要なるは正を守ること。正を守れば則ち順利にして此の喜悦を遂げ、正を守らざれば則ち順利ならずして此の喜悦を敗る。卦象の上兌下兌を看るに、六爻兩兩相併す。下兌は内裏の喜悦、上兌は外面の喜悦なり。内悦實在すれば外悦も亦た之に随いて實在し、内悦虚浮なれば外悦も亦た之に随いて虚浮なり。實在は真の喜悦、虚浮は假の喜悦。真は悦ぶこと長久にして、假は悦ぶこと久しからず。いわゆる貞に利しとは、正に此に在り。真に道を修むる者は、聲色貨利を以て楽と為さず、仁義道德を以て楽と為し、自ら一份の真楽ありて虚偽の快楽を經營せず。一擧一動皆身心性命上に工夫を下し、開頭能く悦び、末了も亦た能く保全す。喜悦して亨通せざるなく、亨通して順利ならざるなし。
初九,剛而居正,悅出自然,絕無勉強,是謂和兌。悅至於和,能大能小,不傷其剛,自致其吉,此剛而有守之悅也。九二,誠實於中,內有主宰,悅於真而不悅假,一切虛幻之事,不得而動之,其吉在內,有何悔之不亡乎?此剛而得中之悅也。
初九の爻は陽剛にして正位に居り、喜悦は自然より出でて毫も勉强なし。これを和兌と謂う。悦ぶこと和の地步に至れば、放大する能く収小する能く、自らの剛気を傷らず、自然に吉祥を招く。この爻に配するは剛健にして操守あるの悦なり。九二の爻は中心誠實にして、内裏に主宰あり。ただ真に対して歡喜して假に対して歡喜せず、一切の虚幻の事も彼を動搖せしめず。吉は内裏に在りて吉なり。尚ほ何の悔恨の消えざるかあらん。この爻に配するは剛健にして中を守るの悦なり。
六三,柔而不中不正,不悅於內,而悅於外,舍其真而逐於假,為修道者之障礙,終於不能入道,其凶可知,此柔而務外之悅也。九四,剛以柔用,擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化,是謂商兌。兌至於商,不敢順悅,戒慎恐懼,不寧於處,非禮不履,如得介疾,終必有喜而遂其悅矣,此剛而能柔之悅也。
六三の爻は陰柔にして中ならず正ならず、内裏に喜悦を求めず、偏に外に喜悦を求め、真を舍てて假を追逐し、修道の路上の障碍と為りて、終に道に入る能わず。凶は明摆着なり。この爻に配するは柔弱にして外に悦を求むるの一等の人なり。九四の爻は陽剛を柔顺の方式を以て出し、先ず斟酌して後に説話し、先ず商議して後に行動し、反復の擬議を通じて變化を成就す。これを商兌と謂う。悦ぶこと商量斟酌の地步に至れば、一味に喜悦に順うを敢てせず、時時戒慎恐懼して心安下せず、礼に合わざる所は一歩も踏まず。一場の邪気を隔絶する病を得るがごとく、最終に必ず喜慶ありて此の喜悦を遂ぐ。この爻に配するは剛にして能く柔なるの悦なり。
九五,自滿自盈,能剛悅而不能柔悅,終必敗。剛而不悅,是孚于剝,必有厲矣。大凡天資聰明之人,全在虛心下氣,親近有道之士,方能受益。若挾貴挾才,直奉承而惡直言,親小人而遠君子,過日增而善日減,惡漸長而德漸消,不厲而自致厲,所謂“如有周公之才之美,使驕且吝,其餘不足觀也已。”此剛而自滿之悅也。
九五の爻は自満自盈して、ただ剛を用いて悦ぶを知りて柔を用いて悦ぶを知らず、最終に必ず失敗す。剛にして低頭するを肯ぜず、誠信を消剥する小人の身上に錯置せば、必ず危厲あり。大凡天資聦明の人は、全て虚心下氣して有道の士に親近してこそ、真に受益を得ん。若し地位に仗り才気に仗り、ただ奉承の話を愛聴して逆耳の直言を討厭し、小人に親近して君子を疎遠せば、過失は日に增加して善行は日に減少し、惡習は漸々に滋長して德行は漸々に消磨し、危厲の地步に至らざるも自ら危厲を招く。正に《論語》のいう、縱い周公のごとき才能と美質ありとも、驕にして且つ嗇なれば、其の余は亦た一觀に足らざるなり。この爻に配するは剛強にして自満の悦なり。
上六,悅之見外,巧言令色,人不悅而引人以悅之,此等之輩,無而為有,虛而為盈,不肯自思己錯,更將錯路教人,終於不能悅人,終於人不悅我,此柔而務外之悅也。然則,悅有真假,是非不同,吉凶悔吝不一,總以悅之得正為貴,正則亨,不正則不亨,修道者,可不以正而悅哉!
上六の爻は喜悦を外面に擺し、花言巧語にして好臉色を装出す。人家本喜悦せざるに、彼は偏に人家を牽引して彼に喜悦せしめんとす。此の一類の人は、無きを有りと説成し、空なるを満と説成し、自ら反省して錯は何処に在るを肯ぜず、反って錯路を他人に教え、結果は人を喜悦せしむる能わず、他人も終に彼を喜悦せず。この爻に配するは柔弱にして外に悦を求むるの一等の人なり。これより観れば、喜悦に真假あり、是非各々相同ならず、吉凶悔吝も亦た一樣ならず。總じて悦に其の正を得るを以て貴と為す。正なれば則ち亨通し、正ならざれば則ち亨通せず。道を修むる者、何ぞ正道を用いて此の喜悦を求めざらんや。
上巽下坎(渙卦第五十九)
渙:亨。王假有廟,利涉大川,利貞。初六,用拯馬壯,吉。九二,渙奔其機,悔亡。六三,渙其躬,無悔。六四,渙其群,元吉;渙有丘,匪夷所思。九五,渙汗其大號,渙王居,無咎。上九,渙其血去逖出,無咎。
《渙》卦:亨。王假に廟あり。大川を渉るに利し。貞に利し。初六、拯うに馬壯なるを用いれば吉。九二、渙其の杌に奔げば悔亡ぶ。六三、其の躬を渙ずれば悔なし。六四、其の群を渙ずれば元吉。渙にして丘あり。夷所思ならざるなり。九五、渙其の大号を汗せば、王居を渙ず。咎なし。上九、其の血を渙じて逖出せば、咎なし。
渙者,散亂不整之義。卦體下坎一陽藏於二陰之中,陽為陰所陷,上巽一陰入於二陽之下,陽為陰所傷,陰陽不交,性情各別,故謂渙。此陰陽喪亂重整之卦,承上巽卦而來。巽者,漸入真常,以其陰陽散亂,巽進以致濟耳。
渙とは散亂にして整わざるの義。卦体は下卦の坎は一陽爻が二陰爻の中に蔵れ、陽は陰に陷れられ、上卦の巽は一陰爻が二陽爻の下に侵入し、陽は陰に傷られ。陰と陽と相交らず、性と情と各々各の路を走る。故に渙と曰う。これは陰陽喪亂の後に重新たに整頓するの卦にして、前の巽卦を承けて来た。巽卦は漸々に真常の境に進入するを説く。正に陰陽既に散亂せるが故に、巽進の工夫を用いて之を救濟するを要す。
人自陰陽散亂,性情遷移,道心昧而人心生,正氣傷而邪氣盛,如坎中一陽,為陰氣所陷,先天藏於後天之中矣。先天既藏,浩氣不振,陰氣用事,為善不足,為惡有餘,不至喪盡天良而不止,如巽之一陰潛生於至陽之下,暗中消陽矣。此渙之所以為渙也。
人は自ら陰陽散亂し、性と情と各々遷移したる後は、「道心」昏昧にして「人心」滋生し、正気は傷られて邪気強盛なり。坎卦の中間のあの一陽爻が陰気に陷れられたるがごとく、先天の気は後天の裏面に蔵入せり。先天既に蔵起せば、浩然の気は振作し起らず、陰気当家作主して、善事を為すの力足らずして惡事を為すの余地有余あり。天良を喪盡するに至らざれば罷め肯ぜず。これまた巽卦のあの一陰爻の極盛の陽爻の下に悄悄と生じ、暗に一點ずつ陽気を消蝕するがごとし。これ渙の渙と為る所以なり。
然雖已渙,聖人有濟煥之道,能使渙者而重整,濟渙之道為何道?仍不離巽進之道。所爭者順而消陽,逆則扶陽耳。能逆其巽,於後天中返先天,漸次進步,不急不緩,閒邪存誠,克己復禮,散者能聚,亂者能整,依然當日原物,始渙而終不渙,是渙中而反有亨道矣。
既に渙散せるといえども、聖人には渙散を救濟するの辦法ありて、散掉せるを重新たに整合せしむる能くす。渙散を救濟するは何の辦法を靠るぞ。仍ほ巽進の此の路を離れず。争う所はただ、順いて走れば陽気を消耗し、逆いて走れば陽気を扶起するに在り。能く此の巽を逆用して、後天の中に先天に返り、一層一層進歩し、急がず緩まず、邪念を防閑して誠意を存養し、私己を克制して礼に帰れば、散掉せるは重新たに聚攏し、亂掉せるは重新たに整齊し、依舊として還って当初のあの本来の物事となる。初め渙なるも末了渙ならず。これ渙の中に反って亨通の道あるなり。
亨之者,事有險而心不險,外有險而內不險,借柔道而行剛道,以陽氣而化陰氣,如王假有廟。用誠格神,而神可格,亦如木順水性,利涉大川,而險可濟也。夫人之陰陽散渙者,皆由用人心而棄道心,一行一步,俱在險地,果其用道心而去人心,在虎穴中討命寶,於龍潭裡探明珠,巽進於險而通險。逆之順之,因事制宜,道心常存,人心永滅,五行攢簇,四象和合,何渙之有?但濟渙之道,有火候、有工程、有緩急、有止足,毫髮之差,千里之失,惟利於正耳。以正而濟,急緩得法,進退合時,何不亨,何不利乎?
いわゆる亨通とは、事に險ありて心に險なく、外に險ありて内に險なきなり。柔順の手段を借りて剛健の事を行い、陽気を用いて陰気を化し去る。卦辞のいう王假に廟あり、至誠を以て神明を感格して神明真に感格するがごとく、また木の水性に順いて行き、大川を渉るに利して險阻化解すべきがごとし。人の陰陽の散渙する所以は、皆「人心」を用いて「道心」を丟せるに因る。一擧一動皆險地に踏む。若し能く道心を用いて人心を去れば、虎穴の裏に性命の寶を討回し、龍潭の中にあの明珠を探得する能く、柔順にして險境に深入して險を打通す。逆いて用うるも順いて用うるも、事に随いて制宜す。道心常に在り、人心永に滅し、五行攢聚して四象和合せば、尚ほ何の渙散の言うべきかあらん。ただ渙散を救濟するの此の事は、火候あり、工程あり、緩急あり、止步知足すべきの分寸ありて、毫釐を差せば千里を失す。故にただ一個の正の字に利す。正道を以て救濟すれば、緩急法を得進退時に合して、何處にか亨通せざらん、何處にか順利ならざらん。
初六,在渙之初,道心去之未遠,人心生之末盛,若能勇猛拯濟,則回頭是岸,真寶現前,順手可得。吉即在於用壯速拯矣。此濟渙於渙初者也。九二,陽陷陰中,人心用事,已居於渙,宜有悔者,因其剛而得中,人心雖起,道心穩定,如渙奔其機,雖有悔而悔可亡。此處渙而安於渙者也。
初六の爻は渙の開頭に處り、「道心」離去すること未だ遠からず、「人心」生長すること未だ盛ならず。若し能く勇猛に下手して拯救せば、即ち回頭是れ岸にして、真寶眼前に在り、手を順けて得べし。吉は健壯の力を用いて迅速に拯救するに在りて吉なり。この爻に配するは渙の初期に着手して救濟するの一歩なり。九二の爻は陽陰中に陷り、人心当家作主して、既に身渙散の中に處す。本應く悔有るべし。ただ其れ剛健にして下卦の中に居れば、人心起るといえども道心は還って穩得住り、爻辞のいう渙其の杌に奔ぐがごとく、悔有るも悔消するを得べし。この爻に配するは身渙散に處して能く其の中に安處するの一歩なり。
六三,居於險極之地,是行險而有悔者。然有應於陽,順道心而不順人心,如渙其躬矣。悔出於有人心,有人心則有身。渙其躬,是無身而無人心,無人心而道心不昧,不致悔而自無悔。此遇渙而能出渙者也。
六三の爻は險の極處に處り、險を冒して行事して悔有るべきなり。しかるに其れ上面の陽爻と相應し、肯んじて「道心」に順いて「人心」に順わず。爻辞のいう其の躬を渙ずがごとし。悔は人心あるより來り、人心あれば則ち一個の身あり。此の身を渙ずれば、即ち無身にして人心なし。人心なければ則ち道心復た昏昧せず、悔を生ずるに至らずして自然に悔なし。この爻に配するは渙散に遇いて能く渙散を走出するの一歩なり。
六四,柔而守正,煉己持心,虛極靜篤,渙散其群陰,以待陽復之時,其吉莫大焉。吉之者,以其能渙散假陰,即能復還真陽。真陽真陰,兩而相合,五行攢簇,四象和合,已散者而又聚,已亂者而仍整,大渙而仍大合,如渙有丘,匪夷所思矣。此有渙而歸不渙者也。
六四の爻は陰柔にして能く正を守り、己を煉りて心を持ち、虚を致すこと極、静を守ること篤く、一身の群陰を渙散して、專ら一陽の來復を待つ。吉これより大なるはなし。吉なる所以は、能く假陰を渙散せば、即ち能く「真陽」を回復するに在り。真陽と「真陰」と両者相合し、五行攢聚して四象和合し、已に散りたるは重新たに聚攏し、已に亂れたるは重新たに整齊し、大渙散の後反って大聚合と為る。爻辞のいう渙にして丘あるがごとく、これ平常の人の思い及ぶ能わざる所なり。この爻に配するは渙散有りて終に渙散せざるに歸するの一歩なり。
九五,陽剛中正,識急緩,明吉凶,去假復真,能以濟換,是以渙汗其大號,渙王居無咎也。人之所以致渙而有咎者,以其誤認後天有形之假物,棄先天無形之真空,若能看破後天之假,不為後天所累,如渙其汗矣。既渙其汗而後大號其令,以正除邪,直行濟渙之道,則克己可以復禮,復禮可以為仁,心君安靜,渾然天理,止於至善一無所咎之地矣。此渙假而能全真者也。
九五の爻は陽剛にして中正、緩急を辨え清く吉凶を看明し、假を去りて真を回復し、能く渙散を救濟す。故に爻辞に汗するがごとき其の大号を渙じ、王居を渙じて咎なしと曰う。人の渙散に弄到して過失ある所以は、誤りて後天の有形の假物を寶貝と當て、先天の無形のあの一点の真空を丟棄するに因る。若し能く後天の假を看破して後天に拖累せられざれば、汗を發散するがごとし。既に此の一層の假を發散し了りて、然る後に再び大張りに號令を發し、正気を用いて邪気を清除し、一直に渙散を救濟するの工夫を做れば、則ち私己を克制して礼に歸るを得、礼に歸れば則ち仁徳を成就すべし。心中の此の君主安靜として、浑然としてただ天理のみ、至善に止まりて毫も過咎なきの地位に在り。この爻に配するは假を散去して能く真を保全するの一歩なり。
上九,在渙之終,剛柔混合,是渙其血去逖出也。渙其血者,人心不能傷道心也。去逖出者,道心能以退人心也。道心存,人心去,即人心亦化為道心,金丹凝結,聖胎有象,始而陰陽散渙而有咎者,終而陰陽混合而無咎,此渙終而仍得合者也。然則,人心生而道心即去,道心生而人心即去,人心足以渙陰陽,道心能以合陰陽,渙中能合,還原返本,復見本來面目,濟渙之道盡矣。
上九の爻は渙の末に處り、剛柔混合して一となり、即ち爻辞のいう其の血を渙じて遠く去出するなり。いわゆる渙其血とは、「人心」復た「道心」を傷る能わざるなり。いわゆる去逖出とは、道心能く人心を逼退するなり。道心存り住まり、人心退去し、人心をも并せて道心に化成し、「金丹」凝結して聖胎象を成す。初めは陰陽散渙に因りて過失あり、末了は陰陽混合に因りて過失なし。この爻に配するは渙盡頭に到りて反って重新たに合攏するの一歩なり。これより観れば、人心一生すれば則ち道心退き、道心一生すれば則ち人心退く。人心は以て陰陽を渙散し開くに足り、道心は能く陰陽を合起す。能く渙散の中に重新たに合攏し、本元に還歸し本根に返り、重ねて自らの本來面目を見れば、渙散を救濟するの道理は説盡されたり。
上坎下兌(節卦第六十)
節:亨。苦節不可貞。初九,不出戶庭,無咎。九二,不出門庭,凶。六三,不節若,則嗟若,無咎。六四,安節,亨。九五,甘節,吉,往有尚。上六,苦節,貞凶,悔亡。
《節》卦:亨。苦節は貞にすべからず。初九、戶庭を出でざれば咎なし。九二、門庭を出でざれば凶。六三、節せざれば則ち嗟若せん、咎なし。六四、安節、亨。九五、甘節、吉、往けば尚あり。上六、苦節、貞なりといえども凶、悔亡ぶ。
節者,有限而不可過之義,卦德上坎陷、下兌悅,險中解悅,悅以御險,故謂節。此逆中行順,變通守道之卦,承上兌卦而來。兌者,悅而達外,能悅道而行道者也。但順處能悅,逆處不能悅。悅之不真,終難出險,而不得悅。故修真樂道之士,不以艱難動其心,不以危厄移其志,境險而心不險,時險而道不險,樂天知命,隨地而安,借險養悅,悅以御險,境遇在彼,造命在我,陰陽不能限,造化不能拘,逆之順之,而不失其所守,此節之所以有亨道也。但節雖能亨,若不知通權達變,固執一節,反為節困,名曰苦節。節至於苦,不險而自致險,獨受勞碌,有損無益。不但不為節,而且失其節,非險中之悅,乃悅以行險,是以不可貞也。
節とは限度ありて超過すべからざるの義。卦徳に就いて言えば、上卦の坎は陷險、下卦の兌は喜悦。險中に自ら能く開解して喜悦を生じ、また喜悦を用いて險境を駕馭す。故に節と曰う。これは逆境の中に順を行い、權に通じ變に達して道を守るの卦にして、前の兌卦を承けて来た。兌卦は喜悦能く外面に達し、道を樂みて道を行い出すを説く。ただ順境中は人人能く悦ぶも、逆境中には未だ必ずしも悦ぶ能わず。悦ぶこと真ならざれば、終に險を出でず、即ち真の喜悦を得ず。故に真を修め道を樂む者は、艱難に因りて本心を動搖せず、危厄に因りて志向を改變せず。處境險にして心險ならず、時勢險にして道險ならず。天を樂み命を知り、所に随いて安んじ、險境を借りて此の喜悦を涵養し、また喜悦を用いて險境を駕馭す。境遇は自らに由らずといえども、命を造るは自らに在り。陰陽も彼を限制する能わず、造化も彼を拘束する能わず。順いて做すも逆いて做すも、皆自らの守る所を失わず。これ節卦の亨通する所以なり。ただ節は能く亨通すといえども、若し權に通じ變に達するを知らず、死して一個の節の字を抱住せば、反って節に困せられ、則ちこれを苦節と謂う。節苦の地步に至れば、本來險ならざるも自ら險を招き、白白に一場の勞碌を受け、損有りて益なし。節と算すべからざるのみならず、反って節を失掉す。則ち已に險中の悦に非ずして、喜悦を拿って險を冒するなり。故に卦辞に貞にすべからずと曰う。
夫君子修道立德,非禮不動,非道不立,非義不行,一步一趨,循規蹈矩,一言一語,隨時順理,其體常靜,如澤之無波無浪,其用則動,如水之可此可彼,靜而不至於失心,動而不至於迷性,動靜有常,因事制宜,不拘一節,時當塞而塞,遇險而能處險;時當通而通,出險而不致險,與時偕行,皆以無心處之,故能超出乎陰陽之外,不為陰陽所拘。蓋天地能役有形,不能役無形,能役有心,不能役無心,節不以心而以時,是謂隨時之節。節而隨時,如竹之節,節節有限,節節能通,有何不亨乎?
君子道を修め德を立つるは、礼に合わざれば動かず、道に合わざれば立たず、義に合わざれば行わず。一擧一動規矩に循い、一言一語時に随いて理に合す。其の本體は常に静にして、水澤の波なく浪なきがごとく、其の作用は則ち動にして、水の此に流るべく彼に流るべきがごとし。静にして本心を失うに至らず、動にして本性を迷失するに至らず。動静常あり、事に随いて制宜し、死守して某一個の節にせず。閉塞すべき時は則ち閉塞し、險境に遇いて能く險中に安處す。通達すべき時は則ち通達し、險境を走出して復た險を招かず。時機と倶に運行し、全て無心を用いて應付す。故に能く陰陽の外に跳び出でて陰陽に拘束せられず。天地は能く有形の東西を役使するも、無形のを役使する能わず。能く有心の人を役使するも、無心の人を役使する能わず。節を守るに一己の私心に憑らずして時機に憑る。これを随時の節と謂う。節にして能く時に随えば、竹子の節のごとく、一節一節各々限度ありて、また一節一節皆通氣する能くす。何處にか亨通せざらん。
初九,在節之初,剛而守正,先能辨別其是非而後行,是不出戶庭之節。不出戶庭,能謹慎於始,自無咎於終。此剛而能正之節也。九二,剛為柔牽,僅能節內,不能節外,窮居獨處,孤寂守靜,是謂不出門庭之節。不出門庭,節而不通,不凶亦凶,此剛而固執之節也。
初九の爻は節の開頭に處り、剛健にして能く正を守り、先ず是非を辨明して後に行動す。これ即ち戶庭を出でざるの節なり。戶庭を出でずは、能く起頭處に謹慎して、末了自然に咎なし。この爻に配するは剛健にして正に合するの節なり。九二の爻は陽剛にして陰柔に牽住せられ、「剛柔に牽かる」と為る。ただ内裏を節制する能く、外面を節制する能わず。窮居獨處して孤零零に枯守清靜す。これ即ち門庭を出でざるの節なり。門庭を出でずは、節にして通ぜず、本應く凶ならざるも落ちて凶有り。この爻に配するは剛強にして固執の節なり。
六三,不中不正,務外失內,不知有節,欲求其悅,反致不悅,嗟若之傷,自取之耳,與人無咎。此柔而不知有節也。六四,柔順得正,借剛濟柔,不能節者亦能節,是謂安然之節。節到於安,出於自然,不由勉強,此柔而借人以節也。九五,居於險地,內有主宰,苦中能甘。能甘於險,則凡不險之處,無不能節,又可知往而有尚,順之逆之,方且節節相通,進於至中至正,神化不測之地矣。此剛而變通之節也。
六三の爻は中ならず正ならず、一味に外に追求して内裏を丟し、節の字あるを知らず。あの喜悦を求めんと欲して、反って喜悦ならずして嗟嘆の傷感を招き、是れ自ら招きたるにして他人に怪すべからず。この爻に配するは柔弱にして節あるを知らざるの一等の人なり。六四の爻は柔順にして正位に居り、陽剛を借りて自らの陰柔を補い、元來節不住れるも亦た節得住る。これを安然の節と謂う。節能く安んずるの地步に至れば、自然より出でて勉强に靠らず。この爻に配するは柔順にして他人の力を借りて節を守るの一歩なり。九五の爻は身險地に居り、内裏に主宰ありて、能く苦中に甘味を嘗出す。既に能く險中に之を甘とするが如ければ、則ちおよそ險ならざるの地方は節不住れるなし。また斷定して前往必ず嘉尚を受くるを得べし。順いて做すも逆いて做すも、節と節との間處處相通じ、至中至正神妙測り難きの地位に進む。この爻に配するは剛健にして能く權に通じ變に達するの節なり。
上六,在節之終,柔而不剛,是謂苦節。節至於苦,苦中無甘,節於此而不能達於彼,如忘物忘形,止念灰心,存神入定之類,雖云有節,行險僥倖,無益於性命,乃節道中之凶事。但在於節,執一而終,不為人情世事所累,又得悔亡,所謂“不踐跡,亦不入於室”者。此柔而不通之節也。六爻惟三爻不知有節,其餘三爻皆有節,或太過、或不及,是非不等。求其節之能謹於始者,其推初九,節之中正,不貞而亨者,其惟九五乎?修道者,可不先辨其節之之所以為節哉。
上六の爻は節の末に處り、柔弱にして剛なし。これを苦節と謂う。節苦の地步に至れば、苦の裏に甘なく、此を節得住るも彼に通ぜず。物を忘れ形を忘れ、念頭を止住して心を死灰に弄し、神を存して定に入るのあの一類の做法のごとき、一種の節と説するも、其實は險を冒し僥幸して、性命に毫も益處なく、節を守るの道の裏の凶事なり。但し既に節上に守れば、一路を抱定して底まで走り、人情世事に牽累せられず、倒っても亦た悔恨消失を得べし。正に《論語》のいう、前人の足跡を踏まずして走れば、亦たあの内室に進入する能わざるなり。この爻に配するは柔弱にして變通を知らざるの節なり。六爻の中、唯だ六三のみ節あるを知らず。其の余の幾爻は皆節する所有り。ただ或いは太過、或いは不及にして、是非各々相同ならず。能く起頭處に謹慎して節を守るを尋ねれば、當に初九を推すべし。節中正にして固執するを須いずして自然に亨通するを尋ねれば、唯だ九五のみならん。道を修むる者、何ぞ先ず節の節と為る所以を辨明せざらんや。
上巽下兌(中孚卦第六十一)
中孚:豚魚吉。利涉大川,利貞。初九,虞吉,有它不燕。九二,鳴鶴在陰,其子和之;我有好爵,吾與爾靡之。六三,得敵,或鼓或罷,或泣或歌。六四,月幾望,馬匹亡,無咎。九五,有孚攣如,無咎。上九,翰音登于天,貞凶。
《中孚》卦:豚魚に孚あり、吉。大川を渉るに利し。貞に利し。初九、虞吉、他あれば燕ならず。九二、鳴鶴陰に在り、其の子之に和す。我に好爵あり、吾與爾之を靡かん。六三、敵を得、或いは鼓し或いは罷め、或いは泣き或いは歌う。六四、月幾望、馬匹亡ぶ、咎なし。九五、孚攣如あり、咎なし。上九、翰音天に登る。貞なりといえども凶。
孚者,信也。中孚者,信在內也。卦體外四陽,而內二陰,虛於內而實於外,虛實相當,內外相應,且卦德內悅而外巽,悅而巽行,不即不離而行道,故謂中孚。此虛以求實之卦,承上渙卦而來。渙者,陽為陰陷,陰潛入而陽漸消,若欲陰不陷陽而順陽,使陰陽相合,非篤信於道者不能。
孚は即ち信なり。中孚は、信内裏に存在するなり。卦体は外に四陽爻、内に二陰爻、内虚にして外實、虚實分量相當にして内外彼此相應す。再び卦徳に就いて言えば、内卦の兌は悦、外卦の巽は順。喜悦して能く柔順に行い去り、即かず離れずして道を行う。故に中孚と曰う。これは虚を以て實を求むるの卦にして、前の渙卦を承けて来た。渙卦は陽陰に陷れられ、陰悄悄に侵入して陽日に日に消減するを説く。若し陰をして復た陽を陷れずして反って陽に順わしめ、陰陽を重新たに相合せしめんと欲せば、道に篤信する人に非ざれば做る能わず。
夫人之不能入道者,皆由心不信道。心不信道,則懸虛不實,行持不力,必至有始而無終。若果心信,一念純真,萬慮俱息,誠中達外,即能真履實踐,自卑登高,由淺及深,漸可至於深造自得之地矣。夫金丹之道,以黃婆為陰陽之媒娉。中孚者,中信也。信屬土,即黃婆也。黃婆在中,可以調陰陽、通人我、應萬事,無一物不可感通,是以中孚豚魚吉也。豚魚為無知之物,信能感之,則無知者且能順其我,而況有知者乎。
人の道に入る能わざる所以は、皆心裡に道を信ぜざるに因る。心裡に道を信ぜざれば、半空に懸って實處に落ちず、行持力を用うるを肯ぜず、必ず開頭ありて結尾なし。倘若し真に能く心信せば、一念純真にして萬般の思慮皆止息し、誠意中に在りて外に通達し、即ち能く真履實踐して低處より高處に登り、淺より深に入り、漸々に深造自得の地步に到達すべし。金丹の道は、「黃婆」を以て陰陽の間の媒人と為す。中孚は即ち中信なり。信は五行に土に屬し、土は即ち黃婆なり。黃婆中に居りて、能く陰陽を調和し人我を溝通し萬事を應接す。感通せざるの東西一樣もなし。故に卦辞に中孚にして豚魚も亦た吉を得ると曰う。豚魚は無知の東西にして、誠信尚ほ能く之を感動す。無知の尚ほ能く我に順從す、況んや有知のをや。
修道者,能以感豚魚之信,用之修性命,未有不致其吉者。但信能行之於順,不能行之於逆,其信不真,終必敗。信猶不為吉,人之信於道者有矣,信道而在平易之境,順順序序行去者亦有矣。若遇大難大困,大魔大障,顛沛流離,難堪之處,為道忘軀,不失所守者,萬中無一,能於難堪之處,不動不搖,過得去、打得出,方是感豚魚之信。
道を修むる者能く此の豚魚すら感動し得るの誠信を拿出して、之を用いて性命を修めば、吉を得ざるなし。ただ人の信の順境に行い得て逆境に行い到らざる有り。此のごとき信は併び真ならず、最終に必ず失敗す。此の種の信は還って吉と算すべからず。世上道を信ずるの人是れ有り、平順容易の境地に一歩一歩照らして做し去るの人も亦た是れ有り。但し一旦大災難・大困厄・大魔頭・大障碍に遇い、顛沛流離して忍受し難きの時に、還って道の為に身を舍てて自らの守る所を失わざるは、萬人の中に一個を得る難し。能く忍受し難きの地方に動揺せず、過ぎ去るを得打出するを得ば、則ち始めて豚魚を感動するの誠信と算すべし。
中孚之吉,是以又利涉大川也。大川至險之地,逆境也。逆境能涉,則順境能涉,自不待言,順之逆之,俱皆過去得,其信無往不利,無往不吉矣。雖然旁門三千六百,曲徑七十二家,俱皆著空執相,非盡性至命之學,假足以亂真,邪足以混正。若不分真假邪正,而即信之,則信之不正,不正即不利,不利仍不吉,是以尤利於貞耳,以正而信,以正而行,動與吉會,逆順無礙,自有為而入無為,由了命而至了性,全始全終,可於理決之也。
正に《中孚》の此の内より發する誠信は能く吉を招くが故に、卦辞は又た之に「利渉大川」と曰う。大川は最も凶險の水域にして、修道の路上の逆境を比喻す。逆境すら渡る能くすれば、順境自然に更に渡る能くして、多く講ずるを用いず。順境も逆境も、樣樣皆闖り過ぐる來れば、此の誠信は便ち何處に走るも順遂にして何處に到るも吉利なり。話此の如しといえども、天下の旁門は三千六百家と號稱し、歧路小徑は七十二種と號稱す。彼らは頑空に執著するか、形相を死抓住するかに非ざればなく、皆「盡性至命」——本性を徹見し性命を了結する——の真學問に非ず。假は以て真を攪亂するに足り、邪は以て正に冒充するに足り。若し先ず真假邪正を辨清せずして一頭に信じ去れば、此の信は便ち信じて正を得ず。信じて正を得ざれば則ち益處を得ず、益處を得ざれば則ち吉と談ずるにも及ばず。故に卦辞尤も「利貞」を强調す。即ち正を守るなり。正道を以て信じ、正道を以て行い、一擧一動皆吉と相合し、逆境順境皆阻礙する所なく、「有為」の下手工夫より「無為」の自然境地に過渡し、性命を了結するより進んで本性を徹悟し、始あり終あり首尾完備す。此の道理は理に憑りて即ち斷定する能くす。
初九,在信之初,虞度其可信而方信,能謹於始,自吉於終,倘不能虞度其是非,忽信此,又信彼,反覆無常,難以全信,是有他而不得燕樂矣。此信道必謹於始也。
初九は誠信の開端に處り、先ず對方と法門とが信ずるに值するか否かを揣度し、信ずべしを確認して後に信ず。能く起頭處に謹慎せば、自然に末了に吉利なり。倘若し先ず是非を掂量する能わざれば、一忽ち此を信じ一忽ち又た彼を信じ、反反覆覆して定準なく、信心則ち保全する能わず。これ即ち爻辞のいう「有它」にして安樂を得ざるなり。初九此の爻に對應する工夫は、道を信ずるは必ず起手處に審愼に抉擇すべし。
九二,真信在中,知自守黑,陰陽隔礙潛通,神明自來,如鳴鶴在陰,其子和之,我有好爵,吾與爾靡之,同聲相應,同氣相求,不期然而然者。此潛修密煉之信也。
九二の真誠の信念は内心正中に守られ、甘んじて幽暗に居りて鋒芒を露さざるを得る。即ち《道德經》のいう「其の白を知りて其の黑を守る」の道理なり。此の如くなれば、元來隔閡して通ぜざる陰陽の氣は暗中に接通し、靈明の性は自然に到來す。正に爻辞のいう「鳴鶴陰に在り、其の子之に和す。我に好爵あり、吾與爾之を靡かん」——老鶴背陰處に鳴けば、小鶴便ち聲に應じて和す。我に一杯の好酒あり、爾と共に分ち享けんと願う。同じ聲音は互相に應和し、同じ氣類は互相に尋求す。刻意の安排に非ずして、自然而然而發生す。九二此の爻に對應する工夫は、姓を隱し名を埋めて暗中に煅煉するの誠信なり。
六三,入於旁門,執著一身,強扭強捏,如得敵之信,信至於敵,久必有變,始而信此,既而信彼,這條不成,又作那條,或鼓或罷,或泣或歌,虛而不實,所謂“同類易施功,非種難為巧”,信非所信,終必敗信,此認假為真之信也。
六三は誤りて旁門に入り、死死に自らの此の一具の肉身に執著し、强扭强捏して做作す。爻辞「或いは敵を得」のいうあの種の信のごとく——信じて自己と敵と為るの地步に至り、時間長ければ必ず變故を生ず。初め此の一家を信じ、接いで又た彼の一家を信じ、此の路走り通らざれば又た彼の一条に改換す。一忽ち鼓を擊ちて振作し、一忽ち手を罷めて停歇し、一忽ち哭泣し、一忽ち又た唱歌す。空虚にして切實ならず。正に丹經のいう「同類易く功を施し、種に非ざれば巧を為し難し」——同類の物を用いてこそ容易に功を見、同種の東西に非ざれば再び巧も亦た做り成さず。信ずる對象を錯れば、終に此の信を敗壞し盡さん。六三此の爻に對應するは、假を認めて真と為すのあの種の信なり。
六四,居上陽下陰之間,柔而守正,順其陽而不順陰,如月幾望馬匹亡也。人身純陰無陽,如月本無光也。必借他家之陽,然後生丹者,如月借日光也。月於晦朔之半,與日相交,初三,光輝方生,十五與日對望,光輝圓滿,陰順其陽也。十六一陰潛生,漸至三十,與日相背,光輝全無,陰違其陽也。
六四は上面の陽爻と下面の陰爻との間に居り、性質柔順にして能く正を守り、ただ陽に順從して陰に附和せず。正に爻辞のいう「月幾望、馬匹亡ぶ」のごとし。人の身體は「後天」——父母身を生じて後、陰陽已に駁雜せる狀態——に在りて、純是れ陰氣にして真陽なく、月亮の本身は光を發せざるがごとし。必ず「他家」の陽を借取し、即ち身外先天の一點の純陽真氣にして、然る後に結丹する能くす。月亮の太陽の光を借るに要するがごとし。月亮は晦日と朔日との間に太陽と交會し、初三あの日光華始めて生出す。十五に至りて太陽と遥遥に相望み、光華圓滿す。これ陰の陽に順從するなり。十六あの日一分的陰氣暗暗に滋生し、漸々に三十日に至りて太陽と背離し、光華全部消失す。これ陰の陽に違背するなり。
金丹之道,始而以陰求陽,復於純乾,如月幾望也。既可借陽退陰,以化其氣質,如馬匹亡也。順其陽而絕其陰,一粒寶珠,懸於太虛空中,圓陀陀、光灼灼、淨倮倮、赤灑灑,無物不照,無物能瞞,更何有咎之不無乎?此柔而求剛之信也。
金丹の道は、初めは陰を以て陽を求め、一歩一歩純陽の乾體に回復す。月亮の漸々に滿望に接近するがごとし。接いで又た此の已得の陽を借りて余陰を消退し、稟受の氣質の偏を化除すべし。爻辞のいう「馬匹亡ぶ」のごとく、成對の雜駁の物を一併に舍去す。陽に順從して陰を斷絕せば、一粒の寶珠便ち太虚空の中に懸り、圓滾滾・光燦燦・乾乾淨淨・赤裸裸として、照見せざるなく瞞過せざるなし。此の如くなれば又た何處にか還って過咎あらん。六四此の爻に對應する工夫は、柔順の質を以て剛健真陽を求取するの誠信なり。
九五,剛而中正,陰陽混合,性情精神,皆歸中央,仁、義、禮、智,皆歸於心,五行攢簇,誠一不二,是信之攣,如固結而不可解,所謂“一粒金丹吞入腹,始知我命不由天”,工夫到此,渾然天理,萬緣俱空,自然無咎。此剛柔如一之信也。
九五は剛健にして中に居りて正を得、陰陽融合して一となり、性と情・精と神と皆中央の黃庭に歸聚し、仁・義・禮・智は皆本心に收歸し、五行攢聚して一處に誠一不二なり。これ即ち爻辞「有孚攣如」の意思——信念は繩結のごとく纏り牢く、再び解き開く能わず。正に丹訣のいう「一粒の金丹腹中に呑み入りて、始めて我が命の天に由らざるを知る」のごとし。工夫此の一步に做り到れば、浑身上下純是れ天理にして、萬般の牽掛一斉に放下し、自然に過咎ある能わず。九五此の爻に對應する工夫は、剛と柔と浑然として一のごときの誠信なり。
上九,自用聰明,妄猜私議,不能巽下求人,窮究實理,冒然修為,其進銳者,其退速,本欲登高,反而落下,是亦翰音而已,何能沖舉登天,以成天下稀有之事乎?此誤用聰明之信也。
上九は自ら聦明に恃み、胡亂に猜測し私に議論し、謙遜に人に請教するを肯ぜず、實實在在の道理を窮究するを肯ぜずして、貿然として手を動かし修煉す。力を用うること猛き者は退くも亦た速く、本來高處に登らんと想うて反って跌落し來る。これも亦た不過爻辞のいう「翰音」のみ——聲音のみ天に飛び上りて、鷄身は飛び起る能わず。何處にか能く真に衝擧飛升して天下罕有の大事を成就せん。上九此の爻に對應するは、聦明を錯用するのあの種の信なり。
然則,中孚之道,貴乎信而得中,尤貴乎信而得正。信而得中,則志念堅固,經久不變,信而得正,則是非分明,修道最易。能中能正,信於道,即能行其道。行其道,即能成其道,一信而未有不吉,未有不利者也。
これに由りて見るべし、中孚の道は信に「中」を得るを貴び、尤も信に「正」を得るを貴ぶ。信じて中を得れば、志向念頭は堅固にして、長久を經歷しても改變せず。信じて正を得れば、是非分明にして、道を修むるに最も容易なり。既に能く中を守り能く正を守れば、大道を信奉して即ち能く大道を實行し、能く大道を實行すれば即ち能く大道を成就す。此の如く一信すれば、吉利ならざるなく順遂ならざるなし。
上震下艮(小過卦第六十二)
小過:亨,利貞。可小事,不可大事。飛鳥遺之音,不宜上,宜下,大吉。
《小過》卦辞に曰く:亨、貞に利し。小事は可なり、大事は可ならず。飛鳥の遺すの音、上るに宜しからず、下るに宜し、大いに吉なり。
初六,飛鳥以凶。六二,過其祖,遇其妣;不及其君,遇其臣,無咎。九三,弗過防之,從或戕之,凶。九四,無咎,弗過遇之;往厲必戒,勿用,永貞。六五,密雲不雨,自我西郊。公弋取彼在穴。上六,弗遇過之,飛鳥離之,凶,是謂災眚。
初六爻辞:飛鳥のごとく高飛して返らず、凶。六二爻辞:其の祖を過ぎて其の妣に遇い、其の君に及ばずして其の臣に遇う。咎なし。九三爻辞:過ぎて之を防がざれば、從いて或いは之を戕わん、凶。九四爻辞:咎なし。過ぎずして之に遇う。往けば厲、必ず戒めよ。永貞を用うる勿れ。六五爻辞:密雲雨せず、我が西郊より來る。公弋に彼を穴に取る。上六爻辞:遇わずして之を過ぐ。飛鳥之を離る。凶。これを災眚と謂う。
小過者,陰過於陽,小的過也。卦德上震動、下艮止,止以運動,動本於止,止之堅固,動而不大,且卦體二陽在於四陰之中,內實外虛,內剛外柔,以小養大,故謂小過。此實以用虛之卦,承上節卦而來。節者,有險面能悅,內有主宰,借世法而修道法,依人事而復天德,命基堅固,可以自有為而入無為矣。
「小過」とは、陰が陽を過ぐるを説き、小なる一方に超過あるなり。此の卦の卦徳は、上卦の震は動、下卦の艮は止。静止を用いて動作を運轉し、動は止に本づく。止まること堅固なれば、動も亦た大に過ぎず。再び卦體を看るに、二個の陽爻が四個の陰爻の當中に夾まれ、内裏充實にして外面虚柔、内剛にして外柔、小を以て大を涵養す。故に小過と曰う。これは一個の「實を以て虚を用うる」の卦にして、上面の《節》卦を承けて來た。節卦は身險境に處して卻って仍ほ喜悦し、内心に主宰ありて、世間法を借りて出世の道法を修め、人事を依托して天賦の德性を回復するを説く。此に至りて性命の根基已に堅固にして、「有為」の下手工夫より「無為」の自然境界に轉入すべし。
金丹之道,當先天真陽未復,須虛心而求實腹。及先天真陽已復,須實腹而又虛心,虛心之功,所以運天然真火,煅盡後天陰氣,以期脫化耳。是以小過而有亨道也。小過雖亨,尤利於貞,若不貞,而亦不亨。蓋小過之貞道,動不離靜,靜以運動,動靜如一,真人潛深淵,浮游守規中,勿忘勿助,綿綿若存,可小事不可大事也。
金丹の道は、「先天真陽」——形體に先だって有るあの一點の純陽真氣——未だ回復せざる時は、必ず先ず其心を虚にして其の腹を實に求めん。先天真陽已に回復したるに及んでは、實腹の後に再び虚心せよ。虚心の工夫は、天然の真火を運轉して、「後天」に積下せる陰濁の氣を煅燒し淨盡にして、最後の脫胎化形を求めんが為なり。故に《小過》は自ら亨通の道あり。小過は亨通すといえども、卻って尤も貞を守るに利す。若し正を守らざれば、亦た復た亨通せず。小過の正を守るの道は動靜を離れず、静を以て動を運轉し、動と靜と合して一體を成すに因る。正に《參同契》のいう「真人深淵に潛み、浮游して規中を守る」のごとく、遺忘せず助長せず、綿綿密密として有るがごとく又た無きがごとし。これ即ち卦辞「小事は可なり、大事は可ならず」の意思なり。
小事者,無為之事。大事者,有為之事。有為者,所以採陽。無為者,所以養陽。既已實腹,宜小過而養陽之事。若大而不能小,不但不能保陽,而且有以傷陽,小過之利於貞,利於小動,不利於大動,利於小止,不利於大止,動而能止,止中有動,止於其所而動之,雖動而不出其位,如飛鳥遺之音,不宜上,宜下。
いわゆる小事とは、「無為」の一路の事を指し、いわゆる大事とは、「有為」の一路の事を指す。有為は、真陽を採取するを用い、無為は、真陽を溫養するを用う。腹中既に充實せる以上、則ち小過の宜しきとする溫養真陽の事を做すべし。假令ただ大を知りて小を守る能わざれば、真陽を保つ能わざるのみならず、反って真陽を損傷す。小過の貞に利する所以は、其れ小動に利して大動に利せず、小止に利して大止に利せざるが為なり。動いて還って止まる能く、止の裏頭に又た動を含み、自らの本位に安處して運動し、動くといえども本位を越出せず。正に卦辞のいう飛鳥遺音、上るに宜しからず、下るに宜しきがごとし。
鳥雖上飛,其音下遺,動不離止也。動不離上,不宜上,宜下,小過而養大,抽鉛添汞,溫養十月,聖胎成全,霹靂一聲,嬰兒出現,養之足,而吉之大,小過而大吉,利貞之小過,神哉!妙哉!
鳥は上に向いて飛ぶといえども、鳴聲は下に留む。これ即ち動止を脫離せざるなり。動は上昇の勢を離れざるといえども、一味に上に向うに宜しからずして、收斂して下に向うに宜し。小の溫養を以て大の功果を成就す。鉛を抽出し汞を添入し、即ち真陽の氣を以て真陰の性を涵養す。溫養十個月に滿して聖胎完全に長成し、一聲の霹靂にして嬰兒のごとき陽神顯現す。溫養足れば、吉慶乃ち大なり。故に小過にして大吉と曰う。此の種の正を守るの小過は、真に神妙、真に奇絶なり。
初六,當小過之初,正宜止於其所,煉己持心,乃柔而止之不固,急欲沖舉飛昇,如鳥飛而不止,懸虛不實,欲向其前,反成落後,不吉而凶,理有可必。此小過而妄想大過者也。
初六正に小過の開頭に當り、本應く自らの本位上に安止して、自己を鍛煉し此の心を看住すべし。無奈其れ性質柔弱にして止まること牢固ならず、急いで衝擧飛升せんと欲す。鳥兒の一飛して停まるを肯ぜざるがごとく、半空に懸りて虚にして實ならず。前に進まんと欲して反って後に落ち、不吉なるのみならず而且凶あり。是必然の道理なり。初六此の爻に對應するは、小過の時に卻って大過を妄想するの毛病なり。
六二,性質本陰,若舍陽應陰,如過祖遇妣,陰太過陽矣。然柔而得正,不用過高之陰,而就卑下之陽,如不及其君,遇其臣,陰不過陽,而及至陰陽相當,剛柔一氣,內念不出,外物不入,不使有一毫客氣雜於鼎爐之中,自無得而復失之咎。此小過而不大過者也。
六二本性は陰に屬し、若し陽を舍棄して陰に應和せば、爻辞のいう祖父を越過して祖母に遇うがごとく、陰便ち過分に陽を壓過せしめん。しかるに其れ柔順にして中に居りて正を得、高處の陰に攀附せずして、卑下の陽に就近す。正に爻辞のいう君主に及ばずして臣子に遇うがごとく、陰便ち陽を壓過するに至らず。陰陽分量相當、剛柔化して一氣を成すに及んでは、内裏の念頭は外に跑らず、外面の物欲は内に侵さず、一絲一毫の客邪の氣も鼎爐の當中に混進せしめず、自然に得て後に失うの過失なし。六二此の爻に對應するは、小過にして大過に至らざるの分寸なり。
九三,陽氣充足,正當防危慮險之時,乃剛而不中,知大而不知小,弗過防之,從或戕之,天寶得而復失。此大過而不知小過者也。
九三陽氣充足して、正に應に危を防ぎ險を慮るべきの時に、偏偏其れ剛強にして中に居らず、ただ大處を知りて小處を懂得せず、細微處に格外に防備するを肯ぜず、一味に勢に順いて從い去れば、於是陰邪に傷られ、上天の賜う所の珍寶は得て後に重新たに失掉す。九三此の爻に對應するは、大過を懂得して小過を懂得せざるの失誤なり。
九四,剛而能柔,已是陰陽合一,五行混化,正當待時超脫,有無不立之時,再弗可過通其柔者,若不知止足,猶用柔道以前往,是小之太過,反招客氣,必有危厲,此其所當戒者。戒之者,須要隨時通變,勿用永貞,可止則止,休歇罷功,可動則動,脫胎神化,由養而脫,打破虛空,方為了當。此小過而不可太過者也。
九四剛健にして能く柔和なり。已に陰陽合して一と為り、五行混化して元に歸し、正に時機を待ちて超脫し、有と無と皆執著せざるの關頭に當る。則ち復た過分に其の柔道を施用すべからず。假令止るべきを知らずして、還って柔道一路を用いて推進せば、則ち小の太過頭なり、反って客邪の氣を招き、必ず危險あり。此れ正に其の應に警戒すべきの地方なり。警戒するには、則ち時に随いて權に通じ變に達し、死守して一成不變の成法にすべからず。止まるべきは則ち止まり、手を歇め工を罷め、動くべきは則ち動き、脫胎神化す。溫養よりして脫化に至り、虚空を打破して、乃ち了結と算すべし。九四此の爻に對應するは、小過にして卻って太過すべからざるの分際なり。
六五,純陰無陽,如密雲不雨,自我西郊矣。修真之道,取真陰真陽兩弦之氣而結丹,只密雲而不能致雨,自我郊而不及彼郊,彼我相隔,亦如公弋取彼在穴矣。五近於四,賢士在望,不能屈已以求人,或靜坐觀空,或忘物忘形,是欲一空而了大事,以空射空,彼空我空,取彼在穴,內外一空,空而不實,焉能濟事?此小過而不知求大者也。
六五純是れ陰氣にして陽なし。正に爻辞のいう密雲雨せず、我が西郊より來るがごとし。真を修めるの道は、「真陰」と「真陽」の兩弦の氣——上弦の金と下弦の水——を取りて配合結丹せんと要す。如今ただ密雲ありて雨を致す能わず、ただ自家の郊野に在りて對方のあの一邊に及ばず。彼我相隔たりて、亦た爻辞のいう王公帶繩の箭を以て洞穴の中に藏るる獵物を射取するがごとし。六五九四に靠近して賢德の士眼前に在るに、其れ能く己を屈して人に下りて求教する能わず。ただ或いは静坐觀空し、或いは物我形骸を忘掉し、一個の「空」の字に憑りて大事を了卻せんと想う。空を以て空を射れば、對方是れ空、自己も亦た是れ空。いわゆる「彼を穴に取る」、内外ただ一片の空を落とすのみ、空にして實ならず、怎麼にして事を成さん。六五此の爻に對應するは、小過の時に卻って大者を求取するを懂得せざるの偏差なり。
上六,愚而無知,已小過矣。再弗可遇,過者乃愚而自用,聽信盲師,動作於上,或搬精補腦,或運氣天谷,或存眉間之思,或守泥丸之神,或默朝上帝,或鑑形出殼,知進而不知退,如鳥飛極,上不能自止,終有災眚而莫可救。此本小過而又遇過者也。
上六愚昧無知にして、已に小過と算す。應に復た遇合所有りて更に過分に趨るべからず。其れ卻って愚昧にして自以為是し、瞎眼師父の教法を聽信し、一味に上部頭腦處に做作す。或いは精氣を搬運して腦を補い、或いは氣を天谷穴に運び、或いは兩眉の間を存想し、或いは死守して泥丸宮の神を守り、或いは默默として上帝を朝禮し、或いは内觀形體して妄に出神出殼を求む。ただ進むを知りて退くを知らず。鳥の極高の處に飛び到るがごとく、上って能く自ら止まらず、終に災禍を招きて挽救する由なし。上六此の爻に對應するは、本來ただ小過のみにして、又た過分の擧に碰上するの結局なり。
然則,小過之道,當丹未得,須以陰而求陽,及丹已得,須借陰以養陽,總要小之得正,不可小之太過,不可小之不及,方能亨,方能利,小過而大吉矣。
これに由りて見るべし、小過の道は、丹藥未だ手に到らざる時は、須く陰を用いて陽を求め、丹藥已に手に到りたるに及んでは、則ち陰を借りて陽を溫養すべし。總じて小を端正に得て、小の太過頭なるも不可、小の火候足らざるも不可なり。此の如くしてこそ能く亨通し、能く順利し、乃ち小過にして大吉なり。
上坎下離(既濟卦第六十三)
既濟:亨小,利貞。初吉終亂。
《既濟》卦辞に曰く:亨小なるのみ、貞に利し。初め吉、終り亂る。
初九,曳其輪,濡其尾,無咎。六二,婦喪其茀,勿逐,七日得。九三,高宗伐鬼方,三年克之,小人勿用。六四,繻有衣袽,終日戒。九五,東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭,實受其福。上六,濡其首,厲。
初九爻辞:其の輪を曳きて進ましめず、其の尾を濡らして後に退く。咎なし。六二爻辞:婦其の茀を喪う。逐う勿れ、七日に得ん。九三爻辞:高宗鬼方を伐つ。三年にして之を克つ。小人用うる勿れ。六四爻辞:繻あれば衣袽あり。終日戒めよ。九五爻辞:東鄰牛を殺すも、西鄰の禴祭に如かず。實に其の福を受く。上六爻辞:其の首を濡らす。厲。
濟者,陰陽相濟之義。既濟者,陰陽相濟之極也。卦德上坎陷、下離明,借險以養明,以明而御險,明由險生,險因明通,明險相濟,故謂既濟。此防危慮險、固濟丹元之卦,承上中孚而來。中孚者,悅而巽行,深造自得,陰陽不濟者,終必能濟矣。
「濟」は陰陽互相に接濟し互相に成全するの義、「既濟」は即ち陰陽相濟すること極處に到るなり。此の卦の卦徳は、上卦の坎は險陷、下卦の離は光明。險境を借りて此の光明を涵養し、又た此の光明を用いて險境を駕馭す。明は險中より生出し、險は明に因りて打通し、明と險と互相成全す。故に既濟と曰う。これは一個の危を防ぎ險を慮り、丹元を牢牢に封固するの卦にして、上面の《中孚》卦を承けて來た。中孚は心裡喜悦して行事謙遜、深入用功よりして自然に得あるを説く。元來陰陽能く相濟せざる人は、最終に必ず能く相濟せん。
但不濟須求濟,既濟須保濟。保濟者,固濟丹元之功。固濟丹元,在乎以明御險,防險養明耳。養明者,藏明於內,有智不用,有才不使,明其明德,止於至善也。防險者,謹慎於外,非禮不履,非義不行,素位而行,不願乎外也。內既能養明,外又能防險,明有養而明不傷,險遇明而險即消。
ただ未だ相濟せざる時は相濟を求めんと設法し、已に相濟せるは則ち相濟を保たんと設法すべし。いわゆる相濟を保つとは、丹元を封固して牢靠たらしむるの工夫なり。而るに丹元を封固するは、全て光明を用いて險境を駕馭し、險境を防備して光明を涵養するに在り。光明を涵養するは、此の明を裏面に藏るるなり。智慧ありて顯露せず、才能ありて施展せず、本有の明德を愈々彰明ならしめ、至善の地に安住す。此れ正に《大學》のいう「明德を明め」「至善に止まる」なり。險境を防備するは、外面に處處謹愼するなり。禮に合せざるは做さず、義に合せざるは行わず、當下の位分に安んじて事を做し、分外の妄想を生ぜず。此れ正に《中庸》のいう「其の位に素し、其の外を願わず」なり。内裏既に能く明を養い、外面又た能く險を防げば、明に涵養あれば則ち損傷を受けず、險明に碰えば則ち自然に消解す。
明為離德,位於南,為火,即神也。險為坎德,位於北,為水,即精也。神好動而火上炎,以精養神。火得水而燥氣悉化,精易洩而水下流,以神攝精,水得火而慾念自消。燥氣化而神安,則心虛;慾念消而精一,則腹實。
明は離卦の德性にして、方位は南、火に屬し、即ち人身の神なり。險は坎卦の德性にして、方位は北、水に屬し、即ち人身の精なり。神は躁動を喜び、火性又た上に炎燒す。故に精を以て神を涵養するを要す。火水の滋潤を得れば、燥烈の氣は全部化開す。精は走泄し易く、水性又た下に流る。故に神を以て精を收攝するを要す。水火の溫煦を得れば、欲念自然に消散す。燥氣化盡して神安定下來れば、心便ち虚靜なり。欲念消除して精專一にして雜ならざれば、腹便ち充實なり。
心虛則人心無而真陰現;腹實則道心發而真陽生,以真陰順真陽,以真陽統真陰,真陰真陽,兩而相合,恍惚有象,杳冥有精,結成一粒黍米寶珠,吞而服之,延壽無窮,是既濟固有亨道也。
心一たび虚靜なれば、「人心」——あの情識欲望に随いて起滅するの妄心——則ち消失し、「真陰」即ち本來柔順にして雜ならざるの元性便ち顯現す。腹一たび充實すれば、「道心」——あの一點の天賦の正覺の心——則ち發動し、「真陽」即ち先天純粹の元氣便ち生出す。真陰を用いて真陽に順承し、真陽を用いて真陰を統攝し、真陰真陽兩者相合し、恍恍惚惚の中に物象を現出し、杳杳冥冥の中に精真を含藏し、凝結して一粒の黍米大小の寶珠を成し、吞服下來れば、則ち能く延年無窮なり。これ既濟の本來亨通の道を具有するの緣故なり。
但陰陽既濟則明盛。明盛,易於恃明自用,若不謹慎,少有疏失,明極反暗,道心又昧,人心又起,濟中即有不濟,是既濟之亨又小也。
但し陰陽既に相濟せば、人の明德便ち熾盛に轉ず。明一たび熾盛なれば、容易に聦明に恃みて自ら主張を作し、若し謹愼せざれば、稍も疏失あれば、明極處に到りて反って昏暗に轉成し、道心又た遮蔽せられ、人心又た重新たに抬頭し、相濟の當中立刻に不相濟を含む。これ即ち既濟の亨通はただ「亨小」と算すの道理なり。
蓋以事在未濟,人多戒懼修省,用明以防險;事在既濟,人每晏在自殆,昧明而招險,亨小不大,得而復失,皆在於此,是以既濟亨道,惟利於守正耳。以正養明,以正防險,自然明不傷而險不生。但以明防險,尤利於既濟之初。初則吉,而終則亂也。
大凡事情還って未濟に處する時は、人多く戒懼警惕して身を修め反省し、明を用いて險を防ぐ。事情已に既濟せるに及んでは、人往々に安逸自滿して自ら危殆を取り、明を昏昧せしめて反って險を招く。亨通ただ小處にして盛大なる能わず、手に到りて重新たに失去す。根子は皆此に在り。故に既濟の亨通の道は、ただ貞を守るに利す。正を用いて明を涵養し、正を用いて險を防備せば、自然に明損傷を受けずして險も亦た生出せず。而るに明を用いて險を防ぐは、尤も既濟の開頭に趁くべし。開頭是れ吉にして、末尾に到れば則ち亂る。
初吉者,養明於早,有險無險。終亂者,用明太過,無險招險,總此一明,總此一險,能養其明則無險,過用其明則有險。修道者,可不於既濟之初,早防其險乎?
いわゆる「初吉」とは、早めに趁けて此の明を涵養し、本來險あるも變じて無險と為るなり。いわゆる「終亂」とは、明を用うること太過して、本來險なきに卻って險を招來するなり。歸根到底ただ同一個の明、同一個の險のみ。能く此の明を涵養すれば則ち險なく、此の明を過度に使用すれば則ち險あり。道を修むる者、何ぞ既濟剛剛成就するの時に、即ち早早に其の險を防備せざらんや。
初九,在既濟之初,剛而守正,如車曳其輪而不前,人濡其尾而退後,能敬謹於始,自無咎於終。此方濟,即防其不濟也。
初九既濟の開端に處り、剛健にして能く正を守る。爻辞のいう車輪を拖住して前に往くを肯ぜず、尾巴を沾濕して甘んじて後に退くがごとし。能く起頭處に敬愼せば、自然に末了に到るも亦た過咎なし。初九此の爻に對應する工夫は、剛剛濟成して則ち其の不濟を防ぐなり。
六二,柔而無剛,陰陽不濟,大道難修,如婦喪其茀而有險矣。然柔而中正,煉己待時,虛室生白,神明自來,是以勿逐七日得也。
六二柔弱にして剛氣なく、陰陽能く相濟せず、大道修成し難し。爻辞のいう婦人車上の遮飾を丟して險難有りのごとし。しかるに其れ柔順にして又た中に居りて正を得、能く一面に己を煉り一面に静にして時機を待ち、空虚の心室自然に光明を生じ、靈明の性自然に到來す。故に爻辞に追尋するを須いず、七日以後自ら失い復た得ると曰う。
七日者,火之數,煉己而火返真,以明破險,借險生明,取坎中之陽,填離中之陰,水火相濟,不待勉強,自然而然,此以陰而求陽相濟也。
いわゆる「七日」とは、火の成數にして、《河圖》は二と七とを以て火と為す。己を煉りて火の純真に返歸するの地步に到れば、則ち能く明を用いて險を破除し、又た險を借りて明を生出し、坎卦の中間のあの一畫の陽爻を取出して、離卦の中間のあの一畫の陰爻を填補し、水と火と互相に接濟す。勉强を用いずして自然而然而なり。六二此の爻に對應する工夫は、陰を以て陽を求めて相濟を成就するなり。
九三,居明之極,有近於險,如有鬼方也。不能戒備於早,既濟將不濟,雖剛而得正者,若欲不為險傷,亦必盡其力而方保濟,如高宗伐鬼方,三年克之。剛而得正者,且如此,而況不正之剛乎?故曰小人勿用。此既濟而不能豫防不濟也。
九三離明の頂端に居り、已に上卦の險に逼近す。邊地に鬼方の患あるがごとし。若し能く及早に戒備せざれば、既濟則ち將に不濟に轉成せん。たとい剛健にして正を守るの人とも、險に傷られざらんと欲すれば、必ず全力を竭して乃ち此の「濟」を保つ能くす。正に殷高宗の鬼方を征伐し、三年打ちて乃ち之を攻克するがごとし。剛健守正の人尚且此の如く吃力なり、況んやあの端正ならざる剛強の人をや。故に爻辞に「小人勿用」と曰う。九三此の爻に對應するは、既濟の時に卻って能く豫め不濟を防備せざるの失誤なり。
六四,當既濟之時,黜聰毀智,防危慮險,如舟有濡,先備衣袽,終日戒之。此既濟而能時防不濟也。
六四正に既濟の時に當り、能く聦明を摒退し機巧を毀棄し、危を防ぎ險を慮る。船身に滲漏あるに先だって漏を塞ぐの破衣舊絮を備え、終日警戒懈まざるがごとし。六四此の爻に對應するは、既濟の時に能く時時不濟を防備するの穩妥なり。
九五,當既濟之時,滿盈自居,腹實而不知虛心,既濟中即藏不濟,如東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭,實受其福也。
九五正に既濟の時に當るも、卻って圓滿を以て自ら居り、腹中已に充實せるといえども、還って虚心すべきを懂得せず。於是既濟の當中に就きて不濟を藏る。正に爻辞のいう東鄰牛を宰して盛祭するも、反って西鄰の薄禮の禴祭に如かず、能く實實在在に福佑を承受するがごとし。
蓋未濟之時,方致濟,以虛求實而能濟,既濟之時濟已極,實而不虛,仍不濟。虛能實,滿招愆,理所必然。此既濟而又招不濟也。
大凡未濟の時は、正に相濟を求めんと設法し、虚を以て實を求む。故能く濟なり。既濟の時は相濟已に極處に到り、ただ實ありて虚なく、反って又た不濟なり。虚乃ち能く實を容納し、自滿は過失を招く。これ必然の道理なり。九五此の爻に對應するは、既濟の後反って不濟を招來するの隱患なり。
上六,火候不明,持盈未已,不能防險於既濟之時,自然致險於既濟之終,如濡及於首,全身失陷,陰陽散渙,前功俱廢,危厲所不能免。此既濟而終歸不濟也。
上六火候を明白せず、一味に滿盈を守りて歇手するを肯ぜず、既濟の時に險を防ぐ能わず、自然に既濟の末尾に到りて險を招く。水頭頂に浸るがごとく、全身陷落して陰陽離散渙失し、先前の功夫全部作廢す。危厲は免るる能わず。上六此の爻に對應するは、既濟にして最終に不濟に歸するの下場なり。
修道者,至於取坎填離,水火相濟,不知費過多少苦功,幸而得之,及早封藏,防危慮險,以修向上事業。否則晏安自息,休歇罷功,火候有差,既濟又不濟,成而復敗,可不惜乎?故有為無為之道,隨時而用,必以有無一致,虛實兼該,了性了命為極功也。
道を修むる者坎を取りて離を填め水火相濟するを做到するは、幾多の苦功を耗費するを知らず。僥幸に得手したる後は、則ち應に及早に封藏保護し、危を防ぎ險を慮りて、更に上の一層の事業を做すべし。否則安逸を貪圖し自ら歇息し、手を撒手して干らざれば、火候一たび差錯あれば、既濟又た不濟と變成し、成し了りて又た重新たに敗掉す。豈に可惜ならずや。故に「有為」與「無為」の兩種の工夫は、時機に随いて變換使用し、務めて有と無と一貫し虚と實と兼備するを做到し、性を了じ命を了ずるを以て最終の極功と為すべし。
上離下坎(未濟卦第六十四)
未濟:亨。小狐汔濟,濡其尾,無攸利。
《未濟》卦辞に曰く:亨。小狐ほとんど濟らんとす。其の尾を濡らす。利ありとする所なし。
初六,濡其尾,吝。九二,曳其輪,貞吉。六三,未濟,征凶,利涉大川。九四,貞吉,悔亡;震用伐鬼方,三年有賞于大國。六五,貞吉,無悔;君子之光,有孚吉。上九,有孚于飲酒,無咎;濡其首,有孚失是。
初六爻辞:其の尾を濡らす。吝。九二爻辞:其の輪を曳く。貞吉。六三爻辞:未濟、征けば凶、大川を渉るに利し。九四爻辞:貞吉、悔亡ぶ。震を用いて鬼方を伐つ。三年にして大國の賞あり。六五爻辞:貞吉、悔なし。君子の光、孚あり、吉。上九爻辞:孚ありて酒を飮むに於いて咎なし。其の首を濡らせば、孚ありて是れを失う。
未濟者,陰陽猶未濟也。卦德下坎陷、上離明,明於外而暗於內,因明致陷,因險生明,陰差陽錯,兩不相應,故謂未濟。此煉己退陰,待時返陽之卦,承上小過而來。小過者,動止如一,以小養大,無為之道,乃陰陽相濟以後之事,當其未濟,必先煉去一切陷陽之陰,而後真陰現象,真陽來還,陰陽相濟,金丹凝結,此煉己待時有為之功,所以貴也。
「未濟」とは、陰與陽と未だ互相に接濟せざるを説く。此の卦の卦徳は、下卦の坎は險陷、上卦の離は光明。明外に在りて暗内に在り。外に向いて明を逞しゅうするに因りて、反って自身を陷落せしめ、又た身險陷に處するに因りて、乃ち此の一點の明を逼出す。陰差陽錯して兩邊能く相應せず。故に未濟と曰う。これは一個の「己を煉りて陰を退け、時を待ちて陽に返る」の卦にして、上面の《小過》卦を承けて來た。小過は動と止と合一し、小の溫養を以て大の功果を成就するを説く。あれは「無為」の一路に屬し、陰陽已に相濟したる以後の事なり。陰陽未だ相濟せざる時に當たりては、必ず先ず一切の真陽を陷害するの陰質を煉去して、然る後に「真陰」乃ち本象を顯出し、「真陽」乃ち本位に回還し、陰陽相濟して金丹凝結す。此の一段の己を煉りて時を待つの「有為」の功は、正に其の可貴なる處なり。
人自二八數足,乾坤相交,乾中之陽入於坤宮,坤實成坎。坤中之陰入於乾宮,乾虛成離。離中一陰,受乾陽之氣,陰陽團聚而變為火;坎中一陽,受坤陰之氣,陰陽熏蒸而變為水。
人二八十六歲に到り、先天の數圓滿したる以後は、乾坤兩卦交感す。乾中間のあの一畫の陽は坤宮に走入り、坤は中虚より中滿と變じて坎卦と為る。坤中間のあの一畫の陰は乾宮に走入り、乾は中滿より中虚と變じて離卦と為る。離卦中間のあの一畫の陰は、乾陽の氣の包裹を受けて、陰與陽と一處に團聚して火と化す。坎卦中間のあの一畫の陽は、坤陰の氣の包裹を受けて、陰與陽と一處に熏蒸して水と化す。
此水此火,在後天中陰陽相雜,真假相混,日生夜長,溫和之火,化而為暴燥之火,真一之水,化而為淫慾之水。火性一發,識神用事,元神退讓;水性一動,濁精作禍,元精消耗,於是爭名奪利,比勝好強,損人利己,聰明外用矣。恣情縱欲,迷於聲色,自暴自棄,陰險在內矣。
此の水與此の火とは、「後天」の境地に落ちて、陰與陽と夾雜し、真與假と混同し、白天生長し夜裏滋蔓す。本來溫和の火は、暴烈燥急の火と變成し、本來純一にして雜ならざる水は、淫欲の水と變成す。火性一たび發作すれば、後天の識神当家做王して、先天の元神は只だ退避する好し。水性一たび躁動すれば、濁亂の精は禍患を惹出して、先天の元精便ち不断に耗損す。於是名を爭い利を奪い、強を比べ勝を鬪い、人を損い己を利し、聦明全て外面に用い、情を縱げ欲を恣にし、聲色に沉迷して自暴自棄し、陰險全て裏面に藏る。
明用於外,而暗於內。陷其真而認其假,人心惟危,道心惟微,性亂命搖,陰陽不和,五行相傷,七情六慾,般般懼全,千謀百智,件件皆有,此未濟之所以為未濟也。
明外面に用いて、裏面は反って是れ暗なり。真を陷没して、卻って假を認取す。「人心」危殆にして安んじ難く、「道心」幽微にして見え難し。此れ正に《尚書・大禹謨》のいう「人心惟れ危く、道心惟れ微」なり。於是本性錯亂して命根動搖し、陰陽失和して五行互相に克傷し、七情六慾樣樣俱全して、千般の算計百般の機巧件件皆あり。これ未濟の其れ未濟と成るの緣由なり。
然曰未濟,是未至於濟,非絕不能濟,特人未求其濟耳。若求其濟,亦終能濟,是以未濟而有亨道也。未濟雖有亨道,但後天陰氣,用事已久,先天真陽,陷溺已深,未能遽然有濟,必須煉己之功,方能見效。
ただ「未濟」と説くは、只だ未だ相濟に達せざるのみ、併び絶對に相濟する能わざるに非ず。不過人自己未だ之を求め去らざるのみ。若し肯んじて相濟を求め去れば、最終も亦た能く相濟す。故に未濟卦は仍舊として亨通の道あり。未濟は亨通の道あるといえども、但し「後天」の陰濁の氣は当家する已に久しく、「先天」の真陽は陷溺する已に深く、一下に相濟する能わず。必ず一番の己を煉るの工夫を下して、乃ち效驗を見るに到る。
煉己者,煉人心也。人心為群陰之祖,人心一去,群陰亦化,虛室生白,真陽漸有可復之幾。但未到煉己純熟之時,則心不虛而明不真,陰氣猶未退盡,不可急求其濟,倘不知火候,急欲濟之,是人心用事,假明做作,未濟終不濟,如小狐汔濟,濡其尾,無攸利矣。狐屬陰,多疑之物,小狐雖疑少,不能無疑。
いわゆる煉己とは、煉るは即ち「人心」なり。人心は一切の陰質の老祖宗にして、人心一たび去れば、衆陰も亦た之に随いて消化し、空虚の心室自然に光明を生じ、真陽乃ち漸々に回復の苗頭あり。但し煉己未だ純熟せざる時は、心虚ならず明も亦た真ならず、陰氣未だ退盡せず、急いで相濟を求むべからず。倘若し火候を懂得せずして一味に急いで濟せんと要すれば、即ち彼れ人心の当家にして假明の做作にして、未濟終に還って不濟なり。正に卦辞のいう小狐ほどなく岸に渡らんとして尾巴を沾濕し、利ありとする所なきがごとし。狐狸は陰に屬し、多疑の動物なり。小狐は疑心少なきといえども、卻って全く疑心なき能わず。
人心不去,道心不彰,亦小狐之類,雖有濟之幾,未至濟之時,幾於濟而煉己未熟,雖欲向前,反成落後,濡尾不利,如何能濟?
人心去除せざれば、道心則ち顯し出でず。此のごときの人は亦た即ち小狐の一類なり。已に相濟の苗頭あるといえども、卻って未だ相濟の時候に到らず。眼看ほどなく濟んとして、煉己卻って純熟せず。前に進まんと欲して、反って後に落ち、尾巴を沾濕して利益する所なし。怎麼にして濟し成さん。
故修道者,煉己必至於虛極靜篤,陷陽之陰退盡,方能先天至陽之氣,自虛無中來。真陰真陽,兩而合一,未濟者而能濟。經云:“煉己不熟,還丹不結。”可知煉已為修真第一著,煉已待時,豈小補雲哉!
故に道を修むる者の己を煉るは、必ず《道德經》のいう「虚を致すこと極、靜を守ること篤」の地步に煉り到りて、真陽を陷害するの陰質を乾乾淨淨に退し盡して、先天至陽の氣乃ち虚無の當中より到來せん。真陰與真陽と兩者合して一と為れば、元來未濟なるも亦た能く濟なり。丹經上に説く:「煉己熟ならざれば、還丹結ばず。」見るべし、煉己是真を修めるの頭一著の工夫なり。己を煉りて時機を待つは、豈に只だ小小の補益のみならんや。
初六,在深險之處,為下德之人。修道須先煉己持心,由漸而頓,未可遽求其濟,乃愚而自用,亦欲效高明者之致濟,身未動而險即隨之,如濡其尾而不能前,適以取吝而已。此未濟而強求其濟者也。
初六深險の地に處り、德行低下の人に屬す。道を修むるは本應く先ず己を煉りて心を持ち、漸修に由りて後に頓悟し、匆忙に成を求むべからず。其れ卻って愚昧にして自以為是し、亦た高明の士に仿效して相濟を求めんと想う。身子未だ動かざるに、險便ち之に跟隨して來る。正に爻辞のいう尾巴を沾濕して前進する能わず、只だ一個の憾惜を落とすがごとし。初六此の爻に對應するは、未濟の時に强いて相濟を求むるの躁進なり。
九二,剛以柔用,大智若愚,大巧若拙,煉己待時,如車曳其輪。暫時養剛,雖在未濟之時,而有暗濟之吉。此未濟而待時致濟者也。
九二剛健にして卻って柔和の方式を用いて施展す。大智慧看れば愚拙のごとく、大機巧看れば笨拙のごとし。一面に己を煉り一面に時機を等待す。正に爻辞のいう車輪を拖住して急いで前行せざるがごとし。暫く此の剛氣を涵養起して、身未濟の時に處すといえども、已に暗に相濟の吉兆を含む。九二此の爻に對應する工夫は、未濟の時に静に時機を待ちて以て相濟を成すなり。
六三,在未濟之極,將有可濟之幾,不知藥物火候,依一己之陰,妄想有濟,行險僥倖,未濟終不濟,徵遠而未有不凶者。幸其居於二陽之間,能順有道之士,借人濟已,陰可化而陽可復,雖涉大川之險,亦吉無不利矣。此未濟而求師致濟者也。
六三未濟の極處に處り、將に相濟すべきの機會あらんとするも、卻って藥物與火候とを懂得せず、只だ自己一身の陰質に憑りて、妄に相濟を成就せんと想い、險を冒し僥幸すれば、未濟終に還って不濟なり。遠行して進を求むるに凶ならざるなし。幸いに其れ兩個の陽爻の間に夾まれて、能く有道の士に順從し、他人の力を借りて自己を成就せば、陰便ち化去るを得て陽便ち回復するを得、縱い大川を渉越するのごとき凶險も、吉利にして宜しからざる所なし。六三此の爻に對應するは、未濟の時に師を尋ね道を訪ねて以て相濟を成すなり。
九四,剛居柔位,似乎失正,不吉而致悔。然其所以貞吉而悔可亡者,特以勇猛精進,用剛道震起,伐鬼方而除後天之陰,潛修密煉,用柔道,三年有賞于大國,以復先天之陽。然必三年有賞者,真陽為假陰所陷已久,真者固不易復,假者亦所難除,必須功深日遠,方能有濟,此未濟而漸次致濟者也。
九四陽剛を以て陰柔の位に居り、看れば正を失うがごとく、本應く不吉にして悔を招くべし。其の還って能く正を守りて吉を得悔恨消散する所以は、全て勇猛精進に在り。先ず剛健の道を用いて奮然として振起し、鬼方を征伐して「後天」の積習の陰濁を掃除す。これ丹道のいう「進陽火」に相當す。即ち剛猛の火候を以て陽氣を推進す。再び心を潛め隱修し、暗中に煅煉して、改めて柔順の道を用う。三年の後大國の封賞を受くるは、「先天」の真陽を回復するなり。これ丹道のいう「退陰符」に相當す。即ち柔緩の火候を以て陰氣を退去す。必ず三年を經過して乃ち封賞ある所以は、真陽假陰に陷没せられて已に久しく、真は固より恢復し易からざるも、假も亦た同樣に除盡し難きに因り、必ず功夫深く日子久しくして、乃ち成就する所有らん。九四此の爻に對應するは、未濟の時に循序漸進して以て相濟を成すなり。
六五,虛人心而求道心,不為假明所誤,是以貞吉也。下應二陽,取彼坎中之實,以填我離中之虛,虛心而能實腹,是以無悔也。貞吉,無悔,陰陽相合,假明去而真明生。寂然不動,感而遂通,感而遂通,寂然不動。是謂君子之光,始而未濟者,終而大濟,其致吉已於虛心信之矣。此未濟而能虛心致濟者也。
六五「人心」を虚去して「道心」を求取し、虚偽の聦明に耽誤せられず。故に正を守りて吉を得。其れ下に向いて兩個の陽爻に應合し、對方の坎卦中間のあの一畫の實陽を取來り、自己の離卦中間のあの一畫の虚陰を填補す。心能く虚にして腹能く實なり。故に悔恨なし。正を守りて吉を得、悔恨全て消えれば、陰陽便ち相合し、假の明退去して真の明生出す。寂然として動かず、一たび感觸あれば則ち通達し、一たび感觸あれば則ち通達して、轉頭して又た寂然不動に歸す。これ即ち爻辞のいう「君子の光」なり。初め未濟なるも、最終に大大地濟成す。其の吉祥を招來するの關鍵は、早く就きてあの虚心の誠信上に落つ。六五此の爻に對應するは、未濟の時に能く虚心にして以て相濟を成すなり。
上九,在未濟之終,正是有濟之時,可信其陰陽相濟,出於自然,不待勉強,飲酒宴樂,可以無咎。然天時雖有濟,亦人事不可廢,盡人事以扶天道,則天人合發,信於濟而信之是矣。否則,天時有濟,不過偶然間耳。若無調理水火之功,則先天至寶,來而又去,濟之不固,終歸不濟,如濡其首,有孚失是矣。此乘時而用人力致濟者也。
上九未濟の終點に處り、正に相濟すべきの時にして、能く信じ得べし陰陽相濟の自然より出るを、勉强を用いず。從容として酒を飲み宴樂するも、亦た過咎なし。しかるに天時は相濟の機會を給うといえども、人事は仍舊として荒廢すべからず。人事を盡して天道を輔助し、天與人との機緣一齊に發動し、此れ乃ち信じて對を得信じて正を得ると算すべし。否則天時縱い相濟あるも、亦不過偶然碰上するのみ。倘若し水火を調理するの實功なければ、先天至寶來りて又た走掉し、濟すること牢ならず、終歸として還って不濟なり。正に爻辞のいう頭を浸濕すれば、誠信あるも亦た分寸を失掉するがごとし。上九此の爻に對應するは、天時に趁いて人力を用いて以て相濟を成就するなり。
然則,未濟致濟之道,當陽氣有陷,須煉己待時以防險。當陽氣出陷,又當借明破暗以化陰,急緩進退,不失其時,方是陰陽相濟、性命雙修之道。學者欲修大道,可不以煉己為先哉!
これに由りて見るべし、未濟より相濟に走向するの路徑は、陽氣還って陰中に陷る時に當たりては、須く一面に己を煉り一面に時機を等待し、用いて險難を防備すべし。陽氣已に陷阱を脫出したる時に當たりては、又た應に光明を借りて昏暗を破除し、用いて殘餘の陰質を化盡すべし。急與緩・進與退と、皆應有の時候を錯過せず。此れ乃ち陰陽相濟・性命雙修の正道なり。道を學ぶの人大道を修成せんと欲せば、何ぞ己を煉るを第一位に放たざらんや。
