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周易

周 · 佚名

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

《乾》の卦は六爻すべて陽爻で、純陽の天を象とする。卦辞の「元・亨・利・貞」四字は全書の総綱である。「元」は万物を創始する原動力、「亨」は通達…

易経易学典籍

術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。

上経

乾(卦一)·乾下乾上

《乾》:元,亨,利,貞。初九:潛龍,勿用。九二:見龍在田,利見大人。九三:君子終日乾乾,夕惕若厲,無咎。九四:或躍在淵,無咎。九五:飛龍在天,利見大人。上九:亢龍,有悔。用九:見群龍無首,吉。

《乾》の卦は六爻すべて陽爻で、純陽の天を象とする。卦辞の「元・亨・利・貞」四字は全書の総綱である。「元」は万物を創始する原動力、「亨」は通達して阻まれないこと、「利」は万物をそれぞれ宜しきを得させること、「貞」は正しく守り終わりまで固持することである。この卦を占えば、開創の機があり前途は通達する。ただ行いを宜しくし正道を守れば事を成すことができる。初九の陽爻は最下位に居り、「潜龍」は龍がなお深淵に潜んでいることで、陽気が初めて生じ、才徳の士がまだ頭角を現さず、時機未だ至らないことを譬える。ゆえに「勿用」――静かにすべきで動くべきではなく、しばらく施展しない。九二は下卦の中位に居り、「見龍在田」は龍がすでに地上に現れたことで、徳才が人に見られ始めた。このとき権位と徳望ある「大人」に見えるのが利であり、引見を求めるのである。九三は下卦の頂に居り、上下の交接する危地に処する。ゆえに君子は終日勤勉して怠らず、夜に入っても危機に臨むように警戒する。こうしてこそ過ちがない。九四はすでに上卦に入り、「或躍在淵」は龍が或いは騰躍して上がり、或いは退いて深淵に居ることで、進退両可である。時勢を審らかに度勢すれば災禍はない。九五の陽爻は上卦の中位に居り、全卦の最も尊い位である。「飛龍在天」は聖人が天子の位に居り事業が鼎盛することを譬える。このとき「大人」に見えて大業を成すのが利である。上九は極位に居り、「亢龍」は飛びすぎて高い龍で、物極まれば必ず反する。ゆえに悔恨がある。「用九」は《乾》卦に独有の通例で、六爻すべて変わるときにこれを用いる。群龍が争って頭領にならないのを見るのは、剛にして能く柔らぎ、強いて首に居らないから吉である。

《彖》曰:大哉乾元,萬物資始,乃統天。雲行雨施,品物流形。大明終始,六位時成。時乘六龍以御天。乾道變化,各正性命。保合大和,乃利貞。首出庶物,萬國威寧。

《彖伝》が卦辞を解釈して言う。偉大なことか、《乾》の代表する「元」よ!天下の万物はみなそれによって初めて始まり、それは全天道を統領している。雲気は流行し雨沢は布施され、各類の物種はこれによって成形しそれぞれ形態を具える。太陽の光明は終始を貫き、六つの爻位は時序に従い次々に生成される。聖人はすなわち六つの龍を駕るように天道の運行を御する。乾陽の道は絶えず変化し、あらゆる物をそれぞれ本性と命分を正しくさせる。この至大の和を保ち調合することができて、初めて「利貞」と言える。乾元の徳は首領のように万物の上に高出し、天下の万国はこれによって皆安寧を得る。

《象》曰:天行健,君子以自強不息。“潛龍勿用”,陽在下也。“見龍在田”,德施普也。“終日乾乾”,反復道也。“或躍在淵”,進無咎也。“飛龍在天”,大人造也。“亢龍有悔”,盈不可久也。“用九”,天德不可為首也。

《象伝》は二層に分かれる。まず一卦の象を総じて説く「大象」は、天体の運行が剛健にして息まないことを言い、君子はこれに取り法り、自ら奮発して永く歇まない。以下は爻ごとに解釈する「小象」である。「潜龍勿用」は、陽気がなお最も下に処しているからである。「見龍在田」は、徳沢がすでに衆人に普く施され始めたからである。「終日乾乾」は、正しい道を反復して行い敢えて懈怠しないからである。「或躍在淵」は、このように進取するからこそ過ちがないのである。「飛龍在天」は、「大人」が興起して功業を成す時である。「亢龍有悔」は、盈満の状態が長久であるはずがないことを言う。「用九」に至っては、天の徳性は生々して息まず強いて首に居らないことを言う。

《文言》曰:“元”者,善之長也;“亨”者,嘉之會也;“利”者,義之和也;“貞”者,事之幹也。君子體仁,足以長人;嘉會,足以合禮;利物,足以和義;貞固,足以幹事。君子行此四德者,故曰“乾:元、亨、利、貞。”

《文言伝》は専ら《乾》《坤》の二卦のために作られた解説である。それは言う。「元」は衆善の首、「亨」は衆美の会合、「利」は義理の調和、「貞」は事を為す主幹である。君子は仁愛を以て立身の本体とすれば、衆人の領袖たるに足りる。衆美を会聚せしめることができれば、礼に合するに足りる。万物をそれぞれその利を得させることができれば、義を調和するに足りる。正しくして堅固に移らざるを守れば、事務を主るに足りる。君子はこの四つの徳性を行った。ゆえに《乾》の卦辞は「元・亨・利・貞」と言うのである。

初九曰“潛龍勿用”,何謂也?子曰:“龍,德而隱者也。不易乎世,不成乎名,遯世無悶,不見是而無悶。樂則行之,憂則違之,確乎其不可拔,潛龍也。”九二曰“見龍在田,利見大人”,何謂也?子曰:“龍德而正中者也。庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,德博而化。《易》曰:‘見龍在田,利見大人’,君德也。”

人が問う。初九の爻辞に「潜龍勿用」と言うのは、どういう意味か。孔子は答える。龍とは、龍のごとき徳行を有して隠れ居て出ない人を指す。彼は世俗の風気に因りて己を変えず、名声を成すに急がない。世を避けて隠居しても煩悶せず、人に認められなくても煩悶しない。世道が行えるなら出て施展し、世道が憂うべきなら退避して為さない。操守は堅定にして動揺することができない――これが「潜龍」である。また問う。九二の爻辞に「見龍在田、利見大人」と言うのは、どういう意味か。孔子は答える。これは龍の徳を有して中を居り正を守る人である。平常の言語は信用を講じ、平常の行事は謹慎であり、邪念を防ぎ閑いて誠心を保存し、世に益あっても自ら誇らず、徳行は広博にして衆人を感化することができる。《周易》に「見龍在田、利見大人」と言うのは、まさに人君が有すべき徳行を講じたのである。

九三曰“君子終日乾乾,夕惕若厲,無咎”,何謂也?子曰:“君子進德修業。忠信所以進德也。修辭立其誠,所以居業也。知至至之,可與幾也。知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。”九四曰“或躍在淵,無咎”,何謂也?子曰:“上下無常,非為邪也。進退無恆,非離群也。君子進德修業,欲及時也,故無咎。”

また問う。九三の爻辞に「君子終日乾乾、夕惕若厲、无咎」と言うのは、どういう意味か。孔子は答える。君子の為すことは、徳行を増進し功業を修治することである。忠信を以て身を立てることは、徳行を増進する途である。言辞を修飾して誠意を確立することは、功業を守住する方法である。目標の所在を予知して力を尽くしてそれに達する人とは、事機の幾微を共に論ずることができる。事の当に止むべきを予知して果断にそれを終わらせる人とは、共に道義を持守することができる。ゆえに高位に居っても驕縦せず、下位に処しても憂愁せず、能く終日勤勉し時に因りて警惕する。たとえ処境が危険でも過ちはない。また問う。九四の爻辞に「或躍在淵、无咎」と言うのは、どういう意味か。孔子は答える。彼は時に上がり時に下がって定准がなく、行いが邪僻なのではない。忽ち進み忽ち退いて常規がないのも、同類を離れようとするのではない。君子が徳行を増進し功業を修治するのは、時機に追いつこうと欲するからであり、ゆえに災禍はない。

九五曰“飛龍在天,利見大人”,何謂也?子曰:“同聲相應,同氣相求。水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎,聖人作而萬物睹。本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。”上九曰“亢龍有悔”,何謂也?子曰:“貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。”

また問う。九五の爻辞に「飛龍在天、利見大人」と言うのは、どういう意味か。孔子は答える。声調が同じものは互いに応和し、気類が同じものは互いに尋ね求める。水は低湿の処に流れ、火は乾燥の処に向かって焼く。雲は龍に随いて生じ、風は虎に随いて起こる。聖人が一たび興起すれば、万物は皆彼を仰ぎ望む。およそ本源が天に出づるものは上に親附し、本源が地に出づるものは下に親附する――万物は各々その類に帰する。ゆえに聖人が位にあれば、天下は自ずから応ずる。また問う。上九の爻辞に「亢龍有悔」と言うのは、どういう意味か。孔子は答える。地位は尊貴なれどすでに実際の職位がなく、身処は高いが治めるべき百姓がなく、賢人は皆下位に在って彼を輔佐する者がいない。ゆえに一たび挙動あれば悔恨を招く。

“潛龍勿用”,下也。“見龍在田”,時舍也。“終日乾乾”,行事也。“或躍在淵”,自試也。“飛龍在天”,上治也。“亢龍有悔”,窮之災也。乾元“用九”,天下治也。“潛龍勿用”,陽氣潛藏。“見龍在田”,天下文明。“終日乾乾”,與時偕行。“或躍在淵”,乾道乃革。“飛龍在天”,乃位乎天德。“亢龍有悔”,與時偕極。乾元“用九”,乃見天則。

《文言》は続けて二つの角度から六爻を重ねて述べる。まず人事について言う。「潜龍勿用」は、身が最下位に処しているからである。「見龍在田」は、時勢がしばらく彼を停留させて待命させているからである。「終日乾乾」は、まさに勤力して事を為しているからである。「或躍在淵」は、自ら上進できるかを試みているからである。「飛龍在天」は、上位に居りて天下を治理するからである。「亢龍有悔」は、窮尽の処に走って招いた災殃である。乾元の徳が「用九」し得る所以は、天下がこれによって治を得るからである。次に天时について言う。「潜龍勿用」は、陽気がなお地下に潜蔵しているからである。「見龍在田」は、天下が初めて文采光明あるからである。「終日乾乾」は、時序に随いて一同に運行するからである。「或躍在淵」は、乾道がここに至って変革を生ずるからである。「飛龍在天」は、天徳に合する尊位に居るからである。「亢龍有悔」は、時序に随いて尽頭に走ったからである。乾元が能く「用九」するのは、これの中に上天の運行の法則が顕現したからである。

《乾》“元”者,始而亨者也。“利貞”者,性情也。乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉!大哉乾乎!剛健中正,純粹精也。六爻發揮,旁通情也。“時乘六龍”,以“御天”也。“雲行雨施”,天下平也。君子以成德為行,日可見之行也。“潛”之為言也,隱而未見,行而未成,是以君子“弗用”也。君子學以聚之,問以辯之,寬以居之,仁以行之。《易》曰:“見龍在田,利見大人”,君德也。

《乾》の言う「元」は、創始してそれを通達せしめることである。言う所の「利貞」は、乾陽が本有する性情である。乾道は始めから最も美しい利益を以て天下を利益しながら、決して自分が何を利したかを言わない。これはまことに偉大である!偉大なるかな乾道!剛強・健動・居中・守正は、純にして雑ならざる精粹である。六爻は各々作用を発揮し、旁ら万物の情を貫通する。「時乗六龍」は、天道の運行を駕御するために用いる。「雲行雨施」は、天下がこれによって太平する。君子は徳行を成就することを日常の行為とし、毎日見ることのできる実践とする。「潜」という字の意味は、隠伏して未だ顕現せず、すでに為していて未だ成功していないことである。ゆえに君子はこのとき「施用しない」。君子は学習によって学問を積聚し、発問によって疑難を弁明し、寛厚の態度を以て自ら処し、仁愛の心を以て之を行う。《周易》に「見龍在田、利見大人」と言うのは、まさに人君が有すべき徳行を講じたのである。

九三重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。九四重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故“或”之。“或”之者,疑之也,故“無咎”。夫“大人”者,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶,先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?“亢”之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。其唯聖人乎!知進退存亡而不失其正者,其唯聖人乎!

九三は陽爻を以て陽位に居り、剛に剛を加えてしかも中位に居らない。上は九五の天位に及ばず、下は九二の田位を離れた。ゆえにただ終日勤勉し時に因りて警惕し、処境が危険でも過ちがないほかない。九四も同じく剛に剛を加えて中に居らず、上は天位に在らず、下は田位に在らず、中間も人位に在らない。ゆえに爻辞は「或」の一字を用いる。「或」の字を用いるのは、疑慮を存して敢えて自ら専らにしないことを表示する。まさに疑を存して審慎するがゆえに、「災禍がない」のである。爻辞の言う「大人」に至っては、その徳行は天地と合し、光明は日月と合し、行事の次序は四時と合し、吉凶の判定は鬼神と合する。彼は天时に先んじて動いても上天は彼に背かず、天时に後れて動いても天时に奉順することができる。上天すら彼に背かないのに、いわんや人においてをや、いわんや鬼神においてをや。「亢」という字の意味は、進むことのみ知り退くことを知らず、生存のみ知り敗亡を知らず、獲得のみ知り喪失を知らないことである。この病に陥らざる能くする者は、おそらく聖人のみであろう!進退存亡の分寸を知って正道を失わない者は、おそらく聖人のみであろう!

坤(卦二)·坤下坤上

《坤》:元亨。利牝馬之貞。君子有攸往,先迷,後得主,利。西南得朋,東北喪朋。安貞吉。《彖》曰:至哉坤元,萬物資生,乃順承天。坤厚載物,德合無疆。含弘光大,品物咸亨。牝馬地類,行地無疆,柔順利貞。君子。君子攸行,先迷失道,後順得常。西南得朋,乃與類行。東北喪朋,乃終有慶。安貞之吉,應地無疆。

《坤》の卦は六爻すべて陰爻で、純陰の地を象とする。卦辞に言う。坤もまた「元」「亨」の徳を具えるが、その「貞」は母馬を譬とする――母馬は柔順にして能く遠行する。このような正を守ることが利である。君子が往く所あるとき、前頭に抢先すれば方向を迷い、後に随けば帰主を得て利を得る。西南方に往けば同類の相助けを得、東北方に往けば朋類を失う。安く正を守れば吉である。《彖伝》が解釈して言う。至極なるかな坤元!万物は皆それによって生長を得、それは天道に順承して行う。大地は厚重にして万物を承載し、その徳は天の無辺無際と合する。含容して寛厚、光大して昭明であり、各類の物種はこれによって皆通達を得る。母馬は地類に属し、大地を行くことに辺際がなく、柔順にして正を守るに利し。(底本はここに「君子。」の二字を衍出す。今は照録して削除しない。)君子が行動する所あって、先んずれば正道を迷い、後れて順承すれば常理に合する。「西南得朋」は、同類と结伴して同行するからである。「東北喪朋」は、しばらく朋類を失うも終に喜慶あるからである。「安貞」の吉なる所以は、大地の無窮無尽の徳性に順応したからである。

《象》曰:地勢坤。君子以厚德載物。初六:履霜,堅冰至。《象》曰:“履霜堅冰”,陰始凝也,馴致其道,至堅冰也。六二,直、方、大,不習,無不利。《象》曰:六二之動,直以方也。“不習無不利”,地道光也。六三,含章,可貞,或從王事,無成有終。《象》曰“含章可貞”,以時發也。“或從王事”,知光大也。

《大象伝》に言う。大地の形勢はすなわち坤順である。君子はこれに取り法り、深厚の徳性を以て万物を承載すべきである。初六は全卦の最下に居り、爻辞に「霜を踏めば、堅氷の至るを知る」と言う。《小象》は解釈する。これは陰気が初めて凝結したのであり、この趨勢に順って発展していけば、終には堅氷を結ぶ――占う者は微を見て著を知り、早めに患を防ぐべきである。六二の陰爻は下卦の中位に居りまた正を得ている。その徳は「直」にして曲らず、「方」にして則あり、「大」にして能く容れる。刻々に演習造作する必要なく、不利なことはない。《小象》に言う。六二の挙動は、正直にして法度に合う。「不習无不利」は、大地の道が自然に顕明である。六三の陰爻は陽位に居り、「含章」は才華を含蓄して露さないことで、こうしてこそ正を守ることができる。もし君王に輔佐して事を為せば、功を居らず自成せず、終に良い結局を得る。《小象》に言う。「含章可貞」は、時機を待ってから発揮する。「或従王事」は、彼の見識が光明遠大である。

六四,括囊,無咎無譽。《象》曰:“括囊無咎”,慎不害也。六五,黃裳,元吉。《象》曰:“黃裳元吉”,文在中也。上六,龍戰于野,其血玄黃。《象》曰:“龍戰于野”,其道窮也。用六,利永貞。《象》曰:用六“永貞”,以大終也。

六四の陰爻は陰位に居りて君位に逼近する。処境は多くの嫌疑があり、「括囊」は口袋を緊く結ぶことで、緘默収斂し鋒芒を露さないことを譬える。こうすれば過ちもなく称誉もない。《小象》に言う。「括囊无咎」は、謹慎のゆえに傷害を受けない。六五の陰爻は上卦の中位に居り、「黄」は中に居る土の色、「裳」は下身の服である。黄裳は柔順を以て尊位に居り僭越しないことを象徴する。ゆえに大吉である。《小象》に言う。「黄裳元吉」は、文采の美德が心中に蕴含している。上六は陰気が盛極して陽と相争い、爻辞は龍が郊野で交戦し、青黑と土黄の相雑する血を流すと言う。《小象》に言う。「龍戦于野」は、陰道がすでに窮尽の処に走ったからである。「用六」は《坤》卦に独有の通例で、六爻皆変わるときにこれを用いる。永久に正道を持守するに利し。《小象》に言う。用六が「永貞」と言う所以は、宏大の柔順の徳を以て善く始め善く終わるからである。

《文言》曰:坤至柔而動也剛,至靜而德方,後得主而有常,含萬物而化光。坤道其順乎,承天而時行。積善之家必有餘慶,積不善之家必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辯之不早辯也。

《文言伝》が《坤》を解くに言う。坤徳は最も柔順であるが、一旦発動すれば剛勁有力である。最も安静であるが、徳性は方正にして則ある。それは陽の後に随いてこそ帰主を得、これによって恒常がある。万物を含容し、これによって化育が広大である。坤道の要義はまさに一つの「順」の字であろう――天道を承受して時序に按じて運行する。善行を積累する家は、必ず後人に遺す福慶がある。悪行を積累する家は、必ず後人に遺す禍殃がある。臣子が君主を弑殺し、兒子が父親を弑殺するのは、一朝一夕に造成されたのではない。その由来は逐漸積累したものであり、根源は弁別すべき時に早く弁別しなかったことにある――これはまさに初六の「履霜堅氷至」が警示する道理である。

《易》曰:“履霜,堅冰至”,蓋言順也。“直”其正也,“方”其義也。君子敬以直內,義以方外,敬義立而德不孤。“直、方、大,不習無不利”,則不疑其所行也。陰雖有美,“含”之以從王事,弗敢成也。地道也,妻道也,臣道也,地道無成而代有終也。

《周易》に「履霜、堅氷至」と言うのは、まさに陰気が勢に順って累積する道理を講じたのである。六二の「直」は内心が端正であることを言い、「方」は行事が合宜であることを言う。君子は敬慎を以て内心を正直にし、道義を以て行為を方正にする。敬と義が一旦立てば、徳性は孤单无助にならない。ゆえに「直・方・大、不習无不利」と言うのは、彼が己の行う所に少しも遅疑しないからである。六三の陰爻は自身美德があるにもかかわらず、それを含蔵して君王に輔佐して事を為し、敢えて功業を己のものと算えない。これがすなわち大地の道・妻子の道・臣下の道である。大地は自ら創始の功を居らず、天に代わって万物の終結を完成する。

天地變化,草木蕃。天地閉,賢人隱。《易》曰:“括囊,無咎無譽”,蓋言謹也。君子黃中通理,正位居體,美在其中而暢於四支,發於事業,美之至也。陰疑於陽必戰,為其嫌於無陽也,故稱“龍”焉。猶未離其類也,故稱“血”焉。夫玄黃者,天地之雜也,天玄而地黃。

天地の気が交感変化すれば、草木は繁盛する。天地の気が閉塞して通ぜざれば、賢人は隠退する。《周易》に「括囊、无咎无誉」と言うのは、まさに六四のこの謹慎自守を講じたのである。君子は居中不偏の美德を懐いて事理を通達し、名分を端正して本位に安く処し、美は内心に蕴含して四肢に暢達し、さらに事業に顕発する。これは美の極点である。陰気が盛んで陽気と相匹敵するに足れば、必ず交戦する。まさに上六が純陰で、人にその中に陽が無いと疑わせるので、爻辞は特に「龍」と称して陽のなお在るを見せた。しかしそれは畢竟まだ陰の族類を脱していないので、また「血」と称す。「玄黄」に至っては、天色と地色の混雑――天色は青黑、地色は土黄――であり、こ の一戦が天地陰陽ともに敗傷したことを説明する。

屯(卦三)·震下坎上

《屯》:元亨,利貞。勿用有攸往。利建侯。《彖》曰:屯,剛柔始交而難生。動乎險中,大亨貞。雷雨之動滿盈,天造草昧。宜尋建侯而不寧。《象》曰:雲雷,屯。君子以經綸。

《屯》の卦は下震上坎、震は雷・動、坎は水・険である。「屯」は草木初生して土を穿って出る艱難を取り、万物の草創の時を象徴する。卦辞に言う。大いに亨通し、正を守るに利あり。貿然と往きて作為あるべからず、諸侯を分封し輔佐の力量を建立するに利あり。《彖伝》は解釈する。屯とは、剛爻と柔爻が初めて交合して艱難を生ずることである。険境の中にあってなお行動し得る。ゆえに能く大いに亨通して正を守住できる。雷動し雨降り、充塞盈満して天地の間にあり、まさに上天が万物を創造し混沌未開の草昧の時期である。ゆえに広く諸侯を建てて局面を安定すべきであり、安逸苟且すべきではない。(底本の「宜尋建侯」は一「尋」字を多くし、通行本に無い。今は照録して改めない。)《大象伝》に言う。雲が上にあり雷が下にあるのは《屯》の卦象である。君子はこれに取り法り、絲縷を整えるように経緯して天下を治理すべきである。

初九,磐桓,利居貞。利建侯。《象》曰:雖磐桓,志行正也。以貴下賤,大得民也。六二,屯如邅如,乘馬班如。匪寇,婚媾。女子貞不字,十年乃字。《象》曰:六二之難,乘剛也。十年乃字,反常也。六三,即鹿無虞,惟入于林中,君子幾不如舍,往吝。《象》曰:“即鹿無虞”,以從禽也。君子舍之,往吝窮也。

初九の陽爻は屯難の初めに居り、「磐桓」は徘徊して進まない様子である。このとき安居して正を守るに利あり、諸侯を建立するにも利あり。《小象》に言う。徘徊して前進しないが、彼の心志の行う所は端正である。尊貴の身を以て卑下の位に屈居する。まさにこれによって大いに民心を得る。六二は陰柔にして初九の剛に凌駕する。「屯如邅如」は艱難回旋の様子、「乗馬班如」は馬に乗ってまた盘旋して進まないことである。来る者は強盗ではなく、求婚する者である。女子は正を守り嫁ぐを許さず、十年を待って初めて出嫁する。《小象》に言う。六二の艱難は、剛爻に乗凌することから来る。「十年乃字」は、局面が終に反常から正常に回帰することを言う。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、「即鹿无虞」は野鹿を追逐して虞人の向導がないことで、ただ一味に山林の裡に陷るのみである。君子はこの幾微の兆を看清して、捨てて追わないに如かず、強いて往けば必ず憾惜を致す。《小象》に言う。「即鹿无虞」は、一味に禽獣を貪逐することである。君子がそれを捨てるのは、往けばただ困窮に陥り羞を蒙るのみだからである。

六四,乘馬班如,求婚媾。往吉,無不利。《象》曰:求而往,明也。九五,屯其膏,小,貞吉;大,貞凶。《象》曰:“屯其膏”,施未光也。上六,乘馬班如,泣血漣如。《象》曰:“泣血漣如”,何可長也。

六四の陰爻は陰位に居り、「乗馬班如」に盘旋猶豫するも、それは下に初九の陽に応じ、婚配を求め賢者の相助けを求めに行くことである。このように往けば吉利で不利なことはない。《小象》に言う。求める所有りて後に往くは、明智である。九五の陽爻は尊位に居るも坎険の中に陷り、「屯其膏」は恩沢が屯積阻塞して施し下せないことである。小事に正を守れば吉を獲るが、大事にたとえ正を守っても難を免れず凶險である。《小象》に言う。「屯其膏」は、恩沢の施与がなお広大でない。上六は陰柔にして屯難の極に居り、上に依る所なく下に応ずる所なく、依然「乗馬班如」に盘旋し、終に泣きて涙尽きて血に継ぎ、漣漣として止まないに至る。《小象》に言う。「泣血漣如」、このような局面はどうして長久であり得ようか。

蒙(卦四)·坎下艮上

《蒙》:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告。利貞。《彖》曰:蒙,山下有險,險而止,蒙。“蒙亨”,以亨行,時中也。“匪我求童蒙,童蒙求我”。志應也。“初筮告”,以剛中也。“再三瀆,瀆則不告”,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。

《蒙》の卦は下坎上艮、坎は険・水、艮は山・止である。「蒙」は蒙昧未開で、山下に泉出でて童蒙を啓迪する義を取る。卦辞に言う。亨通する。我が教を施す者が蒙昧の童子に求めるのではなく、童子が我に求めるのである。初めて占問すれば告げ、再び三びすれば褻瀆軽慢である。褻瀆すればもはや告げない。正を守るに利あり。《彖伝》は解釈する。蒙とは、山下に険あり、険に遇いて停まって前進しない。ゆえに蒙昧である。「蒙亨」は、亨通の道を以て教化を施行し、しかも行いが時に合い適中である。「匪我求童蒙、童蒙求我」は、双方の心志が相応じ、求学の心が先に動くからである。「初筮告」は、九二が陽剛にして中に居り、正道を以て相告げ得るからである。「再三瀆、瀆則不告」は、そのようになれば啓蒙という事を褻瀆することになる。蒙昧未鑿の時に趁ってその純正を培養する。これは聖人を造就する功業である。

《象》曰:山下出泉,蒙。君子以果行育德。初六,發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。《象》曰:“利用刑人”,以正法也。九二,包蒙,吉。納婦,吉。子克家。《象》曰:“子克家”,剛柔節也。六三,勿用取女,見金夫,不有躬。無攸利。《象》曰:“勿用取女”,行不順也。

《大象伝》に言う。山下に泉水が湧出するのは《蒙》の卦象である。泉水は初め出でて終には奔流して川を成す。君子はこれに取り法り、果決の行動を以て徳性を培育すべきである。初六は蒙の始めに居り、「発蒙」は蒙昧を開発することである。このとき刑罰を用いて威を立て、人をして脚鐐手銬のごとき桎梏を脱して警戒する所を知らしめるに利あり。しかしもし一味に刑を用いてこのように走下去なら、憾惜を招致する。《小象》に言う。「利用刑人」は、法度を端正するためである。九二は陽剛にして中に居り、全卦の教を施す主である。「包蒙」は一切の蒙昧者を包容することで、ゆえに吉である。婦を娶り室を納るるも吉で、兒子は家事を担当するに足る。《小象》に言う。「子克家」は、剛と柔が互相に調節し配合が宜しいからである。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、爻辞はこのような女子を娶るべからずと言う。彼女は金銭勢力ある男子を見れば身を失い、自身さえ保てない。利益と言うべきことはない。《小象》に言う。「勿用取女」は、彼女の行為が順正の道に合わないからである。

六四,困蒙,吝。《象》曰:“困蒙之吝”,獨遠實也。六五,童蒙,吉。《象》曰:“童蒙”之“吉”,順以巽也。上九,擊蒙,不利為寇,利禦寇。《象》曰:“利”用“禦寇”,上下順也。

六四の陰爻は九二と上九の二つの陽爻に遠く離れ、啓発する人がいない。「困蒙」は蒙昧の中に困守することで、ゆえに憾惜である。《小象》に言う。「困蒙之吝」は、孤单に陽剛の実徳を離れているからである。六五は陰柔にして尊位に居り下に九二に応ずる。天真未鑿の童子が虚心に教を受けるに肯んずるがごときで、ゆえに吉である。《小象》に言う。「童蒙」の「吉」なる所以は、柔順にしてまた謙遜だからである。上九は陽剛にして一卦の終わりに居り、「撃蒙」は剛猛の手段を以て蒙昧を撃ち去ることである。しかし施治が猛に過ぎれば逞暴となる。ゆえに強盗のように人を凌ぐに利せず、外来の侵擾を抵禦するに利あり。《小象》に言う。「利」に「禦寇」と言う所以は、こうすれば上下皆順服するからである。

需(卦五)·乾下坎上

《需》:有孚,光亨。貞吉,利涉大川。《彖》曰:“需”,須也。險在前也,剛健而不陷,其義不困窮矣。“需,有孚,光亨,貞吉”,位乎天位,以正中也。“利涉大川”,往有功也。《象》曰:雲上於天,需。君子以飲食宴樂。

《需》の卦は下乾上坎、乾は剛健、坎は険陷である。「需」は等待である。卦辞に言う。心中に誠信を懐けば、光明亨通することができる。正を守れば吉で、大河巨険を渡るに利あり。《彖伝》は解釈する。「需」はすなわち等待である。危険が前に横たわるが、下卦が剛健にして冒進陷落しない。道理の上から言えば必ず困窮に至らない。「需、有孚、光亨、貞吉」は、九五の陽爻が天子の位に居り、また中に居りて正を得るからである。「利渉大川」は、このように往けば必ず功を建て得ることを言う。《大象伝》に言う。雲気が天空に昇上して未だ雨を成さないのは《需》の卦象である。君子はこれに取り法り、等待の時に安らかに飲食宴楽し、精神を涵養して時機の成熟を待つべきである。

初九,需于郊,利用恆,無咎。《象》曰:“需于郊”,不犯難行也。“利用恆無咎”,未失常也。九二,需于沙,小有言,終吉。《象》曰:“需于沙”,衍在中也。雖小有言,以終吉也。九三,需于泥,致寇至。《象》曰:“需于泥”,災在外也。自我致寇,敬慎不敗也。

初九は険に最も遠く離れ、「需于郊」は郊野の曠遠の地で待つことで、恒常の心を保持するに利あり、過ちはない。《小象》に言う。「需于郊」は、危難を冒して前行しない。「利用恒无咎」は、常道を失わない。九二は稍々険に近づき、「需于沙」は水辺の沙地で待つことで、少少の口舌争執があるが、最終的に吉利である。《小象》に言う。「需于沙」は、それが寛綽従容にして中に居り迫らないからである。小口舌あるも、終に吉を得る。九三はすでに坎険に逼近し、「需于泥」は泥濘の中で待つことで、これによって強寇を招来した。《小象》に言う。「需于泥」は、災禍がなお外卦にある。強寇は自ら招来したので、恭敬謹慎すれば失敗しない。

六四,需于血,出自穴。《象》曰:“需于血,”順以聽也。九五,需于酒食,貞吉。《象》曰:“酒食貞吉”,以中正也。上六,入于穴,有不速之客三人來,敬之終吉。《象》曰:“不速之客來,敬之終吉”,雖不當位,未大失也。

六四はすでに坎険に入り、「需于血」は流血傷害の地で待つことである。幸いそれは陰柔にして正を得、険穴の中から脱身出ることができる。《小象》に言う。「需于血」は、柔順にして時勢に聴任し、強争しない。九五は陽剛中正にして尊位に居り、険難がまさに過ぎんとして、「需于酒食」は従容に飲宴して待つことで、正を守れば吉である。《小象》に言う。「酒食貞吉」は、中に居りて正を守るからである。上六は卦終わりに居りて坎穴に落ち、三人の請わざる客が来る――即ち下卦乾の三つの陽爻である。恭敬に相待すれば、終に吉を得る。《小象》に言う。「不速之客来、敬之終吉」は、上六が爻位当たらずとも、大きな過失がないことを言う。

訟(卦六)·坎下乾上

《訟》:有孚窒惕,中吉,終凶。利見大人。不利涉大川。《彖》曰:訟,上剛下險,險而健,訟。“訟有孚窒惕,中吉”,剛來而得中也。“終凶”,訟不可成也。“利見大人”,尚中正也。“不利涉大川”,入于淵也。《象》曰:天與水違行,訟。君子以作事謀始。

《訟》の卦は下坎上乾、坎は険、乾は健である。「訟」は争訟である。卦辞に言う。誠信あるも壅塞阻遏され、心に戒懼を存する。争訟は半途に止まれば吉、一味に打ち通せば凶。徳位ある「大人」に見えて己のために裁断せしめるに利あり、冒険して大河を渡るに利せず。《彖伝》は解釈する。訟卦は上体が剛強、下体が険陷で、内に険詐を懐き外に剛強を逞しゅうする。ゆえに訟を成す。「訟有孚窒惕、中吉」は、九二の剛が外より来たりて下卦の中位に居るからである。「終凶」は、争訟は打ち通すべからず、全勝を求むべからざるを言う。「利見大人」は、九五のような中正の裁断者を崇尚するからである。「不利渉大川」は、そのようにすれば深淵に陷入するからである。《大象伝》に言う。天は上に向かって運行し水は下に流れ去り、二者は背道して行く。これが《訟》の卦象である。君子はこれに取り法り、およそ事を為すには皆開頭において謀画を周全にし、後日の興訟を免れるべきである。

初六,不永所事,小有言,終吉。《象》曰:“不永所事”,訟不可長也。雖“小有言”,其辯明也。九二,不克訟,歸而逋。其邑人三百戶,無眚。《象》曰:“不克訟”,歸逋竄也。自下訟上,患至掇也。六三,食舊德,貞厲,終吉。或從王事,無成。《象》曰:食舊德,從上吉也。

初六は陰柔にして争訟の始めに居り、訟事を永く引き延ばさない。小小の口舌あるも、最終的に吉を得る。《小象》に言う。「不永所事」は、争訟は長久に拖延すべからざるからである。「小有言」なるも、是非は終に弁説明白し得る。九二は陽剛にして九五と相争い、官司に勝てず、帰って躲避するほかない。彼の封邑は三百戸に過ぎず、規模は小さく自処は卑下である。ゆえに災殃がない。《小象》に言う。「不克訟」は、帰って逃匿する。下位を以て上位と争訟するは、禍患の来ること手を伸ばして拾うがごとき容易さである。六三は陰柔にして陽位に居り、旧有の俸禄徳業を安享し、正を守りて危懼を知り、最終的に吉を得る。もし君王に輔佐して事を為すも、功を居らず自成しない。《小象》に言う。旧有の徳業を安享するは、上に在る者に順従してこそ吉を得るからである。

九四,不克訟,復既命渝。安貞吉。《象》曰:復即命渝,安貞不失也。九五:訟,元吉。《象》曰:“訟,元吉”以中正也。上九:或錫之鞶帶,終朝三褫之。《象》曰:以訟受服,亦不足敬也。

九四は陽剛にして中に居らず、本は争訟しようとしたが勝てず、そこで回頭して天命に就正して初衷を改変した。安く正を守れば吉である。《小象》に言う。回頭して天命に就正して念頭を改変し、正道に安く守れば失う所有らない。九五は陽剛中正にして尊位に居り、聴訟の主である。彼によって争訟を裁断すれば大吉である。《小象》に言う。「訟、元吉」は、彼が中に居りて正を守るからである。上九は争訟の極に居り、一味に纏訟して勝ち取り、或いはこれによって一条の顕貴の大帯を賞賜されよう。しかしこのようにして得た栄寵は牢固でなく、一朝の内に三度剥奪される。《小象》に言う。官司を打って換えた官服は、人の尊敬に値しない。

師(卦七)·坎下坤上

《師》:貞丈人吉,無咎。《彖》曰:師,眾也。貞,正也。能以眾正,可以王矣。剛中而應,行險而順,以此毒天下,而民從之,吉又何咎矣。《象》曰:地中有水,師。君子以容民畜眾。

《師》の卦は下坎上坤、坎は水・険、坤は地・衆である。「師」は軍隊である。卦辞に言う。出師は徳高望重の老成の人を以て統率せしめてこそ吉利で、過ちがない。《彖伝》は解釈する。師とは衆人であり、貞とは正である。衆人を率いて正道を行くことができれば、王業を成就することができる。九二は陽剛にして中に居り上に六五の君に応じ、険難の中を行走して衆心が順従する。用兵は本は民を苦しめ財を傷める事であるが、このように天下を役使すれば、百姓はなお追随を願う。吉利を得るばかりでなく、どこに過ちがあろうか。《大象伝》に言う。地中に水を蓄聚するは《師》の卦象である。君子はこれに取り法り、百姓を容納し民衆を畜養し、兵を民に寓すべきである。

初六,師出以律,否臧凶。《象》曰:“師出以律,”失律凶也。九二,在師中吉,無咎,王三錫命。《象》曰:“在師中吉”,承天寵也。“王三錫命”,懷萬邦也。六三,師或輿尸,凶。《象》曰:“師或輿尸”,大無功也。

初六は出師の始めに居り、軍隊の出動には必ず厳明の紀律が要る。紀律が善くなければ凶險である。《小象》に言う。「師出以律」は、反対に言えば紀律を失えば凶である。九二は陽剛にして下卦の中位に居り、統兵の将である。軍中に在って兵権を執掌して中道を持守し得る。ゆえに吉で過ちなく、君王は再三冊命を頒下して彼を褒奨する。《小象》に言う。「在師中吉」は、上天と君王の寵信を承受したからである。「王三錫命」は、君王が彼を頼りて万邦を安撫せんとするからである。六三は陰柔にして陽位に居り中に居らず正ならず、才は職に称えず、軍隊は或いは大敗して車に屍体を載せて帰る。凶である。《小象》に言う。「師或輿尸」は、このように兵を用いるのは大いに功無しを言う。

六四,師左次,無咎。《象》曰:“左次無咎”,未失常也。六五,田有禽。利執言,無咎。長子帥師,弟子輿尸,貞凶。《象》曰:“長子帥師”,以中行也。“弟子輿尸”,使不當也。上六,大君有命,開國承家,小人勿用。《象》曰:“大君有命”,以正功也。“小人勿用”,必亂邦也。

六四は陰柔にして正を得るが力は進取に足らず、「左次」は退きて紮営し敵を避けて自保することで、こうすれば過ちはない。《小象》に言う。「左次无咎」は、用兵の常法に背かない。六五は陰柔にして尊位に居り、田裡に禽獣来たりて庄稼を害するがごときで、その罪を声討して出師するに利あり、過ちはない。しかし老成持重の「長子」に統兵せしめるを要す。もし無徳の「弟子」にその間に参与せしめれば、屍を載せて帰り、たとえ正を守っても凶である。《小象》に言う。「長子帥師」は、彼が能く中道を秉持して行事するからである。「弟子輿尸」は、人を用いること当たらない。上六は戦事が終わり、天子は命令を頒下して功を論じ賞を行い、諸侯を分封し卿大夫を冊立する。しかし功ある小人に対してはただ財貨を賞するのみで、国政を授予してはならない。《小象》に言う。「大君有命」は、戦功を公正に評定するためである。「小人勿用」は、彼らを任用すれば必ず邦国を敗乱させるからである。

比(卦八)·坤下坎上

《比》:吉。原筮,元,永貞,無咎。不寧方來,後夫凶。《彖》曰:比,吉也;比,輔也,下順從也。“原筮,元永貞,無咎”,以剛中也。“不寧方來”,上下應也。“後夫凶”,其道窮也。《象》曰:地上有水,比。先王以建萬國,親諸侯。

《比》の卦は下坤上坎、水は地上にあり親しみ間なし。「比」は親附・輔助である。卦辞に言う。吉。再び一度占問を作り、もし帰附する所の人が元善・恒久・守正の徳を具えれば、過ちはない。四方の安寧ならざる邦国は皆来たりて帰附し、来ること太遲の人は凶である。《彖伝》は解釈する。比とは吉である。比とは輔助で、下の衆陰が九五の陽に順従する。「原筮、元永貞、无咎」は、九五が陽剛にして中に居り、天下の帰する主たるに堪えるからである。「不寧方来」は、上下が彼此感応するからである。「後夫凶」は、彼の帰附の道がすでに窮尽に走ったからである。《大象伝》に言う。地上に水あり、水土が相親しむは《比》の卦象である。先王はこれに取り法り、万国を分封し諸侯に親近し、以て天下の心を結んだ。

初六,有孚比之,無咎。有孚盈缶,終來有它,吉。《象》曰:比之初六,有它吉也。六二,比之自內,貞吉。《象》曰:“比之自內”,不自失也。六三,比之匪人。《象》曰:比之匪人”,不亦傷乎?

初六は親比の始めに居り、誠信を懐いて親附すれば過ちはない。誠信が充満し、瓦缶に酒を盛り満たすがごときで、質朴無華であるが、終に意外の福慶を帯来する。吉である。《小象》に言う。親比の道は初六のこの一爻に在りて、意外の吉慶がある。六二は陰柔中正にして九五と正応し、内卦より真心を以て君に帰附し、正を守れば吉である。《小象》に言う。「比之自内」は、自らその正を失わず、曲意逢迎しない。六三は中に居らず正ならず、上下の親附する所は皆適当な人ではない。《小象》に言う。親附すべからざる人に親附すれば、傷害を受けるではないか。(底本はここ《象》文に前の一つの引号を脱去す。今は照録して補わない。)

六四,外比之,貞吉。《象》曰:外比於賢,以從上也。九五,顯比,王用三驅,失前禽,邑人不誡,吉。《象》曰:“顯比”之吉,位正中也。舍逆取順,失前禽也。邑人不誡,上使中也。上六,比之無首,凶。《象》曰:“比之無首”,無所終也。

六四は陰柔にして正を得、外に向かって紧邻の九五の君に親附し、正を守れば吉である。《小象》に言う。外に向かって賢明の君に親附するは、上に在る者に順従する。九五は陽剛中正にして全卦の主であり、「顕比」は光明正大に天下をして来たり親附せしめ、私術を以て籠絡しない。君王が田獵するに三面よりのみ驅趕して网の一面を開き、迎面に逃走する禽獣を放ち去り、邑中の人さえ特に告誡戒備せしめないに似たり。吉である。《小象》に言う。「顕比」の吉なる所以は、それが位に居り端正にして中を得るからである。背逆して去る者を捨て、帰順して来る者のみ取る。ゆえに「失前禽」。「邑人不誡」は、上に在る者の驅使が中道に合して民を擾さないからである。上六は陰柔にして卦終わりに居り、親比して帰すべき首なく、また帰附を帯頭する時機を錯過した。凶である。《小象》に言う。「比之无首」は、彼が終に良い結局なきを言う。

小畜(卦九)·乾下巽上

《小畜》:亨。密雲不雨。自我西郊。《彖》曰:“小畜”,柔得位而上下應之,曰小畜。健而巽,剛中而志行,乃亨。“密雲不雨”,尚往也。“自我西郊”,施未行也。《象》曰:風行天上,“小畜”。君子以懿文德。

《小畜》の卦は下乾上巽、五陽一陰で、全く六四のこの一柔爻を頼りて衆陽を畜止するが、力量は有限である。ゆえに「小畜」と言い、小さく蓄積し暫時約束する義である。卦辞に言う。亨通する。濃雲密布しても雨は下らず、雲は我が西の郊野より漂来した。《彖伝》は解釈する。「小畜」は、六四の柔爻がその正位を得て上下の五つの陽爻が皆それに応ずる。ゆえに小畜と言う。下体は剛健、上体は柔順謙遜、九二・九五は陽剛にして中に居り心志は行われる。ゆえに亨通する。「密雲不雨」は、陽気がなお上行し続け、未だ回降して雨を成さない。「自我西郊」は、陰気が西より自ずから来て、恩沢の施与がまだ真に施行されていない。《大象伝》に言う。風が天上に吹行し、まだ雨を成して物を潤すことができないのは《小畜》の卦象である。君子はこれに取り法り、まず己の文章徳藝を修美し、大用の時を待つべきである。

初九,“復自道,何其咎?吉。《象》曰:“復自道”,其義“吉”也。九二,牽復,吉。《象》曰:牽復在中,亦不自失也。九三,輿說輻。夫妻反目。《象》曰:“夫妻反目”,不能正室也。

初九は陽剛にして正を得、己の本来行くべき路に回復する。どこに過ちがあろうか。吉である。(底本はこの爻辞の前に一つの引号を多くして下に収束なし。今は照録して削除しない。)《小象》に言う。「復自道」は、道理の上で講じれば本来「吉」なるべきである。九二の陽爻は中に居り、初九に牽引されて一同に返回する。吉である。《小象》に言う。牽引を受けて返回して中道を守ることができる。すなわち己の立場を喪失していない。九三の陽爻は陽位に居りて過剛で、六四に紧邻してその牽制を受ける。大車の輻条が脱落して車が動けないがごとき、また夫妻が反目して相争うに似たり。《小象》に言う。「夫妻反目」は、九三が己の家室を端正することができず、この柔爻を制し得ないからである。

六四,有孚,血去,惕出無咎。《象》曰:“有孚惕出”,上合志也。九五,有孚攣如,富以其鄰。《象》曰:“有孚攣如”,不獨富也。上九,既雨既處,尚德載。婦貞厲。月幾望,君子征凶。《象》曰:“既雨既處”,德積載也。“君子征凶”,有所疑也。

六四は全卦唯一の陰爻で、一柔を以て五剛を畜する。処境は本は極めて危険であるが、それは心に誠信を懐く。これによって傷害は消除し恐懼は擺脱し得て、過ちはない。《小象》に言う。「有孚惕出」は、それが上位の九五と心志が相合するからである。九五は陽剛中正で、誠信は堅固にして牽係相連のごときで、己の富有を以て鄰近の衆爻に恵及することができる。《小象》に言う。「有孚攣如」は、独り富貴を享有しない。上九は畜の極に居り、陰陽は終に和合して雨を降らせまた止息した。これは柔道の徳を積みて満載の地步に至ったのである。しかし婦人が一味にこの柔道を守れば危険がある。月亮がまさに圓けんとし未だ圓けざる時は陰気最も盛んで、君子がこの時出征すれば凶である。《小象》に言う。「既雨既處」は、徳がすでに積累して満載に至った。「君子征凶」は、この時前進すれば猜疑を招来するからである。

履(卦十)·兌下乾上

《履》:履虎尾,不咥人。亨。《彖》曰:“履”,柔履剛也。說而應乎乾,是以“履虎尾,不咥人”。亨,剛中正,履帝位而不疚,光明也。《象》曰:上天下澤,“履”。君子以辨上下,定民志。

《履》の卦は下兌上乾、兌は沢・悦、乾は天・剛である。「履」は踩踏し、引申して礼・行う所の道である。卦辞に言う。老虎の尾巴を踏んだが、老虎は人を咬まない。亨通する。《彖伝》は解釈する。「履」は、柔爻が剛爻を踩踏することである。下体は和悦にして上体の乾に順応する。ゆえに「履虎尾、不咥人」。亨通する所以は、九五が陽剛にして中に居り正を守り、天子の位を履行して心に愧なきを問い、その徳は光明磊落だからである。《大象伝》に言う。上は天で下は沢、尊卑が分明であるのは《履》の卦象である。君子はこれに取り法り、上下の名分を弁明し、民衆の心志を安定すべきである。

初九,素履往,無咎。《象》曰:“素履之往”,獨行願也。九二,履道坦坦,幽人貞吉。《象》曰:“幽人貞吉”,中不自亂也。六三,眇能視,跛能履,履虎尾,咥人,凶。武人為于大君。《象》曰:“眇能視”,不足以有明也。“跛能履”,不足以與行也。“咥人之凶”,位不當也。“武人為于大君”,志剛也。

初九は履の始めに居り、質朴無華の本色を以て行事して往けば、過ちはない。《小象》に言う。「素履之往」は、独り己の心願を実行し、外物に動かされない。九二の陽爻は中に居り、行う所の路は平坦寛闊で、幽居静処の人のように正を守れば吉である。《小象》に言う。「幽人貞吉」は、内心が中を持して自ら陣脚を乱さない。六三は陰柔にして陽位に居り、中に居らず正ならずして志は剛く力は弱い。目が半ば瞎えながら自ら以て能く見ると為し、脚が跛えながら自ら以て能く行くと為す。このようにして老虎の尾巴を踏みに行けば、咬まれる。凶である。これは一介の武夫が強いて君王を為さんとするに似たり。《小象》に言う。「眇能視」は、実は事物を看清するに足らない。「跛能履」は、実は人と同行するに足らない。「咥人之凶」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。「武人為于大君」は、心志が剛愎にして自ら量らないからである。

九四,履虎尾,愬愬,終吉。《象》曰:“愬愬終吉”。志行也。九五,夬履,貞厲。《象》曰:“夬履貞厲”,位正當也。上九,視履考祥,其旋元吉。《象》曰:元吉在上,大有慶也。

九四は君位に逼近し、虎尾を踏むがごときで、恐懼戒慎の様子を保持しさえすれば、終に吉を得る。《小象》に言う。「愬愬終吉」は、彼の心志が終に実行し得るからである。九五は陽剛中正にして尊位に居り、「夬履」は剛決果断に行事することである。このようは固然正を得るが、しかも危険を含んでおり、戒懼を知るべきである。《小象》に言う。「夬履貞厲」は、それが居る所はまさに君位で、責任が重く剛愎を生じ易いからである。上九は履の終わりに居り、回頭して己の一生の行う所を審視し、その中の吉凶の征兆を考察する。もし能く周全に反省すれば、大吉である。《小象》に言う。大吉が最上の一爻に現れるのは、彼に大きな福慶あることを言う。

泰(卦十一)·乾下坤上

《泰》:小往大來,吉,亨。《彖》曰:“泰,小往大來。吉,亨。”則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也。內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人,君子道長,小人道消也。《象》曰:天地交,泰。后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。

《泰》の卦は下乾上坤、天気は下降し地気は上昇し、二気が交感する。ゆえに「泰」と言い、通泰の義である。卦辞に言う。小さき者(陰)は外に往き、大いなる者(陽)は裡に来たる。吉、亨通する。《彖伝》は解釈する。いわゆる「泰、小往大来、吉、亨」は、天地の気が交合して万物が通暢し、君臣上下が相交わって心志が相同じいことを言う。この卦は内卦が陽、外卦が陰、内卦は剛健、外卦は柔順、内に君子あり外に小人あり、まさに君子の道が日増しに増長し、小人の道が日に日に消退する局面である。《大象伝》に言う。天地の気が交合するは《泰》の卦象である。君主はこれに取り法り、天地の運行の道を裁成し、天地の生養の宜を輔助し、以て百姓を引導し幇助すべきである。

初九,拔茅茹,以其匯。征吉。《象》曰:“拔茅征吉”,志在外也。九二,包荒,用馮河,不遐遺。朋亡,得尚于中行。《象》曰:“包荒,得尚于中行”,以光大也。九三,無平不陂,無往不復。艱貞無咎。勿恤其孚,于食有福。《象》曰:“無往不復”,天地際也。

初九は一株の茅草を抜き起こし、根鬚に連なって同類を併せて帯出する。賢者が出仕すれば必ず同道を引見するを譬える。このように往けば吉である。《小象》に言う。「拔茅征吉」は、彼の心志が外に向かって世を用いることに在る。九二は陽剛にして中に居り、泰を治する主である。能く荒穢汚濁を包容し、能く徒歩河を渉るがごとき果決あり、疏遠の人を遺棄しない。また朋党私交を結ばない。これによって中正の道に配得上する。《小象》に言う。「包荒、得尚于中行」は、彼の徳量が光明博大だからである。九三は内外卦の交界に処し、一直に平坦にして傾かざるはなく、一直に往きて返らざるもなし。能く艱難の中に正を守れば過ちはない。己の誠信が信じられないことを憂慮するには及ばず、飲食享用の上におのずから福分がある。《小象》に言う。「无往不復」は、ここはまさに天地陰陽の交接転折の処だからである。

六四,翩翩,不富以其鄰,不戒以孚。《象》曰:“翩翩,不富”,皆失實也。“不戒以孚”,中心願也。六五,帝乙歸妹,以祉元吉。《象》曰:“以祉元吉”,中以行願也。上六,城復于隍,勿用師,自邑告命。貞吝。《象》曰:“城復于隍”,其命亂也。

六四以下の三陰は翩翩然として聯翩と下り、自身は空虚にして富まざるも鄰近の同類を帯して一起に行動し、告誡せずとも彼此誠信に相従する。《小象》に言う。「翩翩、不富」は、陰爻が中に虚しく皆充実しないからである。「不戒以孚」は、内心の共同願望に出づるからである。六五は陰柔にして尊位に居り下に九二に応ずる。商王帝乙が妹妹を下して賢者に嫁がせ、尊を屈して下に交わるに正しきがごとく、これによって福祉を獲得する。大吉である。《小象》に言う。「以祉元吉」は、それが中道を秉持して己の心願を実現するからである。上六は泰極まりて将に否ならんとする時で、城墻が倒塌して城下の干壕に回る。このとき更に兵を興し衆を動かすべからず、ただ己の采邑の中より政令を発布するのみである。たとえ正を守るも、憾惜を免れ難い。《小象》に言う。「城復于隍」は、政令がすでに紊乱失序したからである。

否(卦十二)·坤下乾上

《否》:否之匪人,不利君子貞,大往小來。《彖》曰:“否之匪人,不利君子貞,大往小來。”則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下無邦也;內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子,小人道長,君子道消也。《象》曰:天地不交,“否”。君子以儉德辟難,不可榮以祿。

《否》の卦は下坤上乾、《泰》と正に相反する。天気は上昇し地気は下沈し、二気は交わらない。ゆえに閉塞する。卦辞に言う。閉塞の世は人道に合わず、君子が正を守りて自処するに利せず、大いなる者(陽)は外に往き、小さき者(陰)は裡に来たる。《彖伝》は解釈する。いわゆる「否之匪人、不利君子貞、大往小来」は、天地の気が交合せず万物が通暢せず、上下が相交わらずして天下は邦国なきに等しいことを言う。この卦は内卦が陰、外卦が陽、内卦は柔弱、外卦は剛強、内に小人あり外に君子あり、まさに小人の道が日増しに増長し、君子の道が日に日に消退する局面である。《大象伝》に言う。天地の気が相交わらざるは《否》の卦象である。君子はこれに取り法り、儉約収斂の徳行を以て禍難を躲避し、爵禄の栄顕を貪図すべからず。

初六,拔茅茹以其匯。貞吉,亨。《象》曰:“拔茅貞吉”,志在君也。六二,包承,小人吉,大人否。亨。《象》曰:“大人否亨”,不亂群也。六三,包羞。《象》曰:“包羞”,位不當也。

初六は《泰》卦の初九と同じく「拔茅連茹」の比喻を用いるが、方向は相反する。否塞の世においては、同類の賢者が相牽引して退隠し正を守る。ゆえに正を守れば吉で、反って亨通し得る。《小象》に言う。「拔茅貞吉」は、彼の心志がなお君国に在りて私利に在らざるからである。六二は陰柔中正にして上に在る者に包容承順し得る。小人は奉承を以て吉を取るが、大人は寧ろ否塞を守りて苟合せず、これによって反って亨通を得る。《小象》に言う。「大人否亨」は、彼が小人と混雑して群を成さないからである。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、一味に逢迎して、羞ずべき事を包蔵する。《小象》に言う。「包羞」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。

九四,有命,無咎,疇離祉。《象》曰:“有命無咎”,志行也。九五,休否,大人吉。其亡其亡,繫于苞桑。《象》曰:大人之吉,位正當也。上九,傾否,先否後喜。《象》曰:否終則傾,何可長也。

九四は陽剛にして上に在り、天命を秉承して行い以て否を済す。過ちなく、同類の人は皆従って福を受ける。《小象》に言う。「有命无咎」は、彼の心志が施行し得るからである。九五は陽剛中正にして尊位に居り、閉塞の局を止息し得る。大人はこれによって吉を得る。しかし彼はなお常に「まさに滅亡せん、まさに滅亡せん」の憂懼を存せねばならない。こうして国運は叢生の桑樹の根に係るがごとき牢固さを得る。《小象》に言う。大人の吉なる所以は、彼が居る所はまさに中正の君位だからである。上九は否の極に居り、閉塞の局を徹底に傾覆して回し、先ず否塞にして後に喜慶に転ずる。《小象》に言う。閉塞は盡頭に至れば傾覆する。このような局面はどうして長久であり得ようか。

同人(卦十三)·離下乾上

《同人》:同人于野,亨。利涉大川。利君子貞。《彖》曰:“同人”,柔得位得中,而應乎乾,曰同人。同人曰:“同人于野,亨。利涉大川”,乾行也。文明以健,中正而應,君子正也。唯君子為能通天下之志。《象》曰:天與火,同人。君子以類族辨物。

《同人》の卦は下離上乾、離は火・明、乾は天・健である。「同人」は人と和同し衆を結びて一と為す。卦辞に言う。曠遠の郊野にて人と和同すれば、亨通する。大河巨険を渡るに利あり、君子が正を守るに利あり。《彖伝》は解釈する。「同人」は、六二の柔爻がその正位を得てまた中に居り、上に九五の乾に応ずる。ゆえに同人と言う。《同人》の卦辞に「同人于野、亨。利渉大川」と言うは、乾陽の剛健の徳を頼りて之を行うからである。内卦は文明、外卦は剛健、六二と九五は中正にして相応ずる。これこそ君子の正道である。君子のみが能く天下人の心志を貫通する。《大象伝》に言う。天は上に在り火は上に炎え、二者は同じく上に趨る。これが《同人》の卦象である。君子はこれに取り法り、族類を分弁し事物を区別し、同異をして各々その分を得しむべきである。

初九,同人于門,無咎。《象》曰:“出門同人”,又誰咎也。六二,同人于宗,吝。《象》曰:“同人于宗”,吝道也。九三,伏戎于莽,升其高陵,三歲不興。《象》曰:“伏戎于莽”,敵剛也。“三歲不興”,安行也。

初九は和同の始めに居り、門を出て行って人と和同し、偏私する所なし。過ちはない。《小象》に言う。門を出てこそ人と和同する。誰が彼を怪罪せんや。六二は陰柔中正なるも、ただ己の宗族門戸の内の人と和同するのみで、これを狭隘に失す。ゆえに憾惜である。《小象》に言う。「同人于宗」は、憾惜を招致する一条の路である。九三は陽剛にして過ぎ、六二を争奪せんと欲するも九五に敵し得ず、そこで兵を草莽の中に埋伏し、また高丘に登って窺探し、三年も敢えて発動しない。《小象》に言う。「伏戎于莽」は、敵する所の九五が太だ剛強だからである。「三歳不興」は、このようにしてどうして安らかに行事できようかを言う。

九四,乘其墉,弗克攻,吉。《象》曰:“乘其墉”,義弗克也。其“吉”,則困而反則也。九五,同人先號咷而後笑,大師克,相遇。《象》曰:同人之先,以中直也。大師相遇,言相剋也。上九,同人于郊,無悔。《象》曰:“同人于郊”,志未得也。

九四もまた六二を争奪せんと欲し、すでに対方の墻頭に登ったが、終に攻め下すことができない。まさに攻め成さざるがゆえに返るを知る。ゆえに吉である。《小象》に言う。「乗其墉」は、道義の上で言えば本来攻め下すべからざるである。それが「吉」なる所以は、困窘の余り能く法則に回帰するからである。九五は陽剛中正にして六二と本是正応であるが、三・四の両陽に隔てられ、これによって先ず号啕大哭し、後に終に歓笑する。大軍を動用して阻隔する者に戦勝し、両人は相遇ることを得た。《小象》に言う。同人が先ず号啕する所以は、九五が中に居り直を守り心に守る所有るからである。「大師相遇」は、必ず阻撓を戦勝してこそ会合し得ることを言う。上九は卦終わりに居り、荒遠の郊外にて人と和同し、同志相応ずるはないも、悔恨に至るに至らない。《小象》に言う。「同人于郊」は、彼の天下と和同せんとする心志がまだ実現していないからである。

大有(卦十四)·乾下離上

《大有》:元亨。《彖》曰:“大有”,柔得尊位大中,而上下應之,曰“大有”。其德剛健而文明,應乎天而時行,是以元亨。《象》曰:火在天上,“大有”。君子以遏惡揚善,順天休命。

《大有》の卦は下乾上離、五陽一陰で、六五は一柔を以て尊位に居り衆陽を統領し、所有する所は極めて盛大である。ゆえに「大有」と言う。卦辞はただ二字――大いに亨通する。《彖伝》は解釈する。「大有」は、六五の柔爻が尊貴の位を得てまた大中の道に居り、上下の五つの陽爻が皆来たりてそれに応和する。ゆえに「大有」と言う。この卦の徳は、下体剛健、上体文明で、天道に順応して時序に按じて運行する。これによって大いに亨通する。《大象伝》に言う。火は天上にあり、光は万物を照らして及ばざるなし。これが《大有》の卦象である。君子はこれに取り法り、邪悪を遏止し善良を表彰し、上天の美しき命令に順承すべきである。

初九,無交害匪咎。艱則無咎。《象》曰:大有初九,無交害也。九二,大車以載,有攸往,無咎。《象》曰:“大車以載”,積中不敗也。九三,公用亨于天子,小人弗克。《象》曰:公用亨于天子,小人害也。

初九は大有の始めに居り、まだ人と交接せず、すなわち禍害と謂うべきなく、本は過ちではない。しかし富有は驕惰を生じ易い。常に艱難戒懼の心を存しさえすれば、過ちはない。《小象》に言う。《大有》卦の初九は、まだ相交わりて生ずる禍害がない。九二は陽剛にして中に居り、堅固の大車が能く重物を載せるがごときで、往く所あれば過ちはない。《小象》に言う。「大車以載」は、積載する所が中に居りて穏やかで、これによって傾覆敗壊しない。九三は陽剛にして正を得て下卦の上に居り、諸侯が天子に進献して宴饗の礼を得るに似たり。このような位分と担当は、小人には承当し得ない。《小象》に言う。諸侯が天子に進献し得るは、小人に換えてこの位に処せば、禍害を生ずるであろう。

九四,匪其彭,無咎。《象》曰:“匪其彭,無咎。”明辨晢也。六五,厥孚交如威如,吉。《象》曰:“厥孚交如”,信以發志也。“威如之吉”,易而無備也。上九,自天祐之,吉,無不利。《象》曰:大有上吉,自天祐也。

九四は君位に逼近し、「彭」は盛大の貌で、自ら盛満に居らずし得れば、過ちはない。《小象》に言う。「匪其彭、无咎」は、彼が事理を明察し弁識清楚にして、自我収斂を知るからである。六五は陰柔にして尊位に居り、誠信を以て上下と交接し、同時にまた威厳を保有する。ゆえに吉である。《小象》に言う。「厥孚交如」は、誠信を以て衆人の心志を啓発するからである。「威如之吉」は、一味平易にして毫も戒備なければ軽慢される。ゆえに威を以て之に済すを要す。上九は大有の極に居りて能く柔順謙下する。これによって上天の保佑を得る。吉で、不利なことはない。《小象》に言う。《大有》上爻の吉なる所以は、上天の保佑より来る。

謙(卦十五)·艮下坤上

《謙》:亨。君子有終。《彖》曰:謙,亨。天道下濟而光明,地道卑而上行。天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙,尊而光,卑而不可逾,君子之終也。《象》曰:地中有山,謙。君子以裒多益寡,稱物平施。

《謙》の卦は下艮上坤、山は本は高大なれど地下に屈居する。まさに謙退の象である。卦辞に言う。亨通する。君子は謙徳を到底に保持して好い結局を有することができる。《彖伝》は解釈する。謙、亨通する所以。天道は下りて万物を済助してその徳は光明であり、地道は卑下に処してその気は上行する。天道は盈満する者を虧損せしめ、謙退する者を増益せしめる。地道は盈満する者を崩塌改易せしめ、謙退する者を充盈流注せしめる。鬼神は盈満する者に加害して謙退する者に降福する。人情は盈満する者を厭悪して謙退する者を喜好する。謙徳は人をして尊位に居りてますます光大を顕わし、卑位に処しても人の逾越し得るなからしむ。これが君子が好い結局を有し得る所以である。《大象伝》に言う。地中に高山を蔵するは《謙》の卦象である。君子はこれに取り法り、多きを減損し少なきを増補し、事物の軽重を衡量して施与を均平ならしむべきである。

初六,謙謙君子,用涉大川,吉。《象》曰:“謙謙君子”,卑以自牧也。六二,鳴謙,貞吉。《象》曰:“鳴謙貞吉”,中心得也。九三,勞謙君子,有終,吉。《象》曰:“勞謙君子”,萬民服也。

初六は謙の最下に居り、謙にしてまた謙なる君子である。このような徳行を憑りて大河険阻を渡れば、吉である。《小象》に言う。「謙謙君子」は、卑下の姿態を以て己の徳性を養護する。六二は陰柔中正にして謙徳はすでに声名に発せられ、人に称道される。正を守れば吉である。《小象》に言う。「鳴謙貞吉」は、この種の謙徳は真に内心より之を得、外飾に非ざるからである。九三は全卦唯一の陽爻で、大きな功労ありながらなお能く謙退する。ゆえに能く好い結局を保有する。吉である。《小象》に言う。「労謙君子」は、まさに功あって伐れざるがゆえに、万民は心より悦服する。

六四,無不利,捴謙。《象》曰:“無不利,捴謙”,不違則也。六五,不富以其鄰,利用侵伐,無不利。《象》曰:“利用侵伐”,征不服也。上六,鳴謙,利用行師征邑國。《象》曰:“鳴謙”,志未得也。“可用行師”,征邑國也。

六四は陰柔にして正を得、九三の上に居りて能く謙徳を発揮・施行する(底本は「捴謙」と作り、通行本は多く「撝謙」と作る。即ち揮いて之を散ずるの義。今は底本の用字を照録する)。これによって不利なことはない。《小象》に言う。「无不利、捴謙」は、それが謙の法則に背かないからである。六五は陰柔にして尊位に居り、自身は富有ならざるも鄰近の衆爻の帰附を得ることができる。なお順服せざる者に対しては、兵を興して討伐するに利あり、不利なことはない。《小象》に言う。「利用侵伐」は、帰服せざる者を征討する。上六は謙の極に居り、謙の名は遠く播れるも志愿は未だ遂げられていない。このとき兵を興して己の属下の邑国を征討するに利あり。《小象》に言う。「鳴謙」は、彼の心志がまだ実現していないからである。「可用行師」は、征する所もただ己の邑国の内の服せざる者のみである。

豫(卦十六)·坤下震上

《豫》:利建侯行師。《彖》曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎?天地以順動,故日月不過,而四時不忒。聖人以順動,則刑罰清而民服,豫之時義大矣哉!《象》曰:雷出地奮,豫。先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。

《豫》の卦は下坤上震、雷は地中より奮起し、声気は暢達する。ゆえに「豫」と言い、和楽と預備の二義を兼ねる。卦辞に言う。諸侯を分封し師を興して兵を用いるに利あり。《彖伝》は解釈する。豫とは、九四のこの剛爻が衆陰の响应を得て心志が施行し得、形勢に順応して後に行動する。ゆえに豫と言う。豫卦は時に順って動く。天地でさえ皆このように運行する。いわんや諸侯を分封し師を興して兵を用いるのごとき人事においてをや。天地が時に順って動く。ゆえに日月の運行は差錯なく、四季の更替は偏失ない。聖人が時に順って動けば、刑罰は清簡にして百姓は順服する。《豫》卦の含む時機と義理はまことに重大である!《大象伝》に言う。雷が地下より震出し、万物が奮発するは《豫》の卦象である。先王はこれに取り法り、音楽を制作して功徳を推崇し、隆重に上帝に献祭し、祖先を以て配享した。

初六,鳴豫,凶。《象》曰:“初六鳴豫”,志窮凶也。六二,介于石,不終日,貞吉。《象》曰:“不終日貞吉”,以中正也。六三,盱豫,悔,遲有悔。《象》曰:“盱豫不悔”,位不當也。

初六は陰柔にして下に在りて上に九四に応じ、得意忘形して、安楽を人人皆聞くまでに張揚する。凶である。《小象》に言う。「初六鳴豫」は、心志がすでに窮極放縦し、ゆえに凶を招く。六二は陰柔中正にして操守は堅定にして石のごとく、幾を見て作し、一日の過ぐるを待たずして決断を作す。正を守れば吉である。《小象》に言う。「不終日貞吉」は、それが中に居りて正を守るからである。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、眼を大きく開いて九四を仰望して安楽を求め、必ず悔恨を生ずる。もしさらに遅疑して改めざれば、悔恨はさらに深い。《小象》に言う。(底本はここ「盱豫不悔」と作り、「不」字は爻辞の「悔」の義と合わず、「之」字の訛と疑う。今は照録して改めない。)このようである所以は、それが居る所の爻位が当たらないからである。

九四,由豫,大有得,勿疑。朋盍簪。《象》曰:“由豫大有得”,志大行也。六五,貞疾,恆不死。《象》曰:“六五貞疾”,乘剛也。“恆不死”,中未亡也。上六,冥豫,成有渝。無咎。《象》曰:“冥豫”在上,何可長也?

九四は全卦唯一の陽爻で、天下の安楽は皆彼より生ずる。これによって大いに獲る所有る。衆人を猜疑さえしなければ、朋友は髪簪が頭髪を聚攏するがごとき迅速に会合して来る。《小象》に言う。「由豫大有得」は、彼の心志が大いに施行し得るからである。六五は陰柔にして尊位に居るも九四の剛に凌乗し、権柄は旁落し、久病に纏われるに似たり。しかし中に居りて失わず、ゆえに長久にしても死亡に至らない。《小象》に言う。「六五貞疾」は、剛爻に乗凌するからである。「恒不死」は、中に居る徳がまだ喪失していないからである。上六は豫の極に居り、昏冥の享楽に沈溺する。しかし事はすでに極を成して変改あり得れば、過ちはない。《小象》に言う。「冥豫」にしてまた上位に高居すれば、このような局面はどうして長久であり得ようか。

随(卦十七)·震下兌上

《隨》:元亨,利貞,無咎。《彖》曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞無咎,而天下隨時,隨時之義大矣哉!《象》曰:澤中有雷,隨。君子以嚮晦入宴息。

《随》の卦は下震上兌、震は動、兌は悦である。「随」は随従である。卦辞に言う。大いに亨通し、正を守るに利あり。こうすれば過ちはない。《彖伝》は解釈する。随とは、剛爻が外より来たりて柔爻の下に屈居し、一動すれば人を喜悅せしむ。ゆえに随と言う。能く大いに亨通して正を守り過ちなければ、天下の万物は皆時勢に随順する。時勢に随順する意義はまことに重大である!《大象伝》に言う。雷は沢中に蔵して止息するは《随》の卦象である。君子はこれに取り法り、天色が晩に向かえば屋に入りて休息し、作息は天时に随順すべきである。

初九,官有渝,貞吉,出門交有功。《象》曰:“官有渝”,從正吉也。“出門交有功”,不失也。六二,係小子,失丈夫。《象》曰:“係小子”,弗兼與也。六三,係丈夫,失小子,隨有求,得。利居貞。《象》曰:“係丈夫”,志舍下也。

初九は随の始めに居り、主とする事に変動あり。正を守れば吉で、家門を出でて外人と交われば成功し得る。《小象》に言う。「官有渝」は、正道に随従してこそ吉を得る。「出門交有功」は、偏私に失わない。六二は陰柔中正にして初九のこの「小子」に近く係り、九五のあの「丈夫」を失う。《小象》に言う。「係小子」は、両辺を兼ね得ることができない。六三は上に九四のこの「丈夫」に係り、初九のあの「小子」を捨棄する。随従して求む所有れば、獲ることを得る。しかしなお安居して正を守るを宜とする。《小象》に言う。「係丈夫」は、心志の上で下面の初九を捨棄したからである。

九四,隨有獲,貞凶。有孚在道,以明,何咎?《象》曰:“隨有獲”,其義凶也。“有孚在道”,明功也。九五,孚于嘉,吉。《象》曰:“孚于嘉吉”,位正中也。上六,拘係之,乃從維之,王用亨于西山。《象》曰:“拘係之”,上窮也。

九四は位は君側に近く衆人が彼に随従する。これによって大いに獲る所有る。このような局面はたとえ正を守るも凶險ある。忌みを招き易いからである。心に誠信を存し行事は正道に合し、しかも処置は明智であれば、またどんな過ちがあろうか。《小象》に言う。「随有獲」は、道理の上で言えば本来凶險を含んでいる。「有孚在道」は、明智の帯来する功效である。九五は陽剛中正にして、誠信する所は嘉美善良の人と事である。ゆえに吉である。《小象》に言う。「孚于嘉吉」は、それが位に居り端正にして適中だからである。上六は随の極に居り、随従の情は極処に至り、人を拘禁してまた繩索を以て捆縛するがごときである。昔周文王はこのようにして虔誠に西山にて神霊を祭享し、人心を係留した。《小象》に言う。「拘係之」は、随道が上位に至りてすでに窮極したからである。

蠱(卦十八)·巽下艮上

《蠱》:元亨。利涉大川,先甲三日,後甲三日。《彖》曰:蠱,剛上而柔下,巽而止,蠱。蠱,元亨而天下治也。“利涉大川”,往有事也。“先甲三日,後甲三日”,終則有始,天行也。《象》曰:山下有風,蠱。君子以振民育德。

《蠱》の卦は下巽上艮。「蠱」は本は器皿を久しく置きて虫を生ずるを指し、引申して積弊すでに深く加えて整治すべしを言う。卦辞に言う。大いに亨通する。大河を渡りて事に任ずるに利あり。事を行うには「甲」の日の前の三日・後の三日に反復審度すべし。《彖伝》は解釈する。蠱とは、剛爻は上に在り柔爻は下に在り、下体は柔順にして上体は停止して進まず、因循して積弊する。ゆえに蠱を成す。積弊を整治して能く大いに亨通すれば、天下は治を得る。「利渉大川」は、往けば必ず一番の事業為すべき有るを言う。「先甲三日、後甲三日」は、事の終結する処はまさに新たな開端であり、これは天道運行の規律――新法を立てるには必ず先ずその弊を詳審し、頒行した後はまたその効を查核すべしを言う。《大象伝》に言う。山下に風あり、風は山に阻まれて回旋して物多く敗壞するは《蠱》の卦象である。君子はこれに取り法り、百姓を振済し徳行を培育すべきである。

初六,幹父之蠱,有子,考無咎。厲,終吉。《象》曰:“幹父之蠱”,意承考也。九二,幹母之蠱,不可貞。《象》曰:“幹母之蠱”,得中道也。九三,幹父之蠱,小有悔,無大咎。《象》曰:“幹父之蠱”,終無咎也。

初六は蠱の始めに居り、積弊はなお浅く、能く父輩の遺留した弊病を匡正することができる。このような兒子あれば、先父は過ちを遺さない。危厲あるも、最終的に吉を得る。《小象》に言う。「幹父之蠱」は、その用意は先父の心志を承継することに在り、先人を攻訐するに非ず。九二は陽剛にして中に居り六五の柔に応じ、母輩の遺留した弊病を匡正する。母親に対しては剛直固執に己見を堅持し過ぎるべからず。《小象》に言う。「幹母之蠱」は、彼が中和の道を得、剛柔相済するを得るからである。九三は陽剛にして過ぎ、父輩の弊を匡正して急切に失し、少少の悔恨あるも、大きな過ちはない。《小象》に言う。「幹父之蠱」は、その用心が正なるがゆえに、終に過ちはない。

六四,裕父之蠱,往見吝。《象》曰:“裕父之蠱”,往未得也。六五,幹父之蠱,用譽。《象》曰:“幹父用譽”,承以德也。上九,不事王侯,高尚其事。《象》曰:“不事王侯”,志可則也。

六四は陰柔にして力なく、父輩の弊に対してはただ寛緩姑息しその発展に聴任するのみである。このように下去すれば必ず憾惜を致す。《小象》に言う。「裕父之蠱」は、このように走下去れば獲る所有らざるを言う。六五は陰柔にして尊位に居り下に九二に応じ、父輩の弊を匡正して美誉を獲得する。《小象》に言う。「幹父用誉」は、彼が徳行を以て先業を承継するからである。上九は卦終わりに居り、蠱を治する事の外に超然とし、王侯に事えず、己の志節を爵禄よりも高く視る。《小象》に言う。「不事王侯」は、このような心志は世人の效法する所たるに足る。

臨(卦十九)·兌下坤上

《臨》:元亨,利貞。至于八月有凶。《彖》曰:臨,剛浸而長,說而順,剛中而應。大亨以正,天之道也。“至于八月有凶”,消不久也。《象》曰:澤上有地,臨。君子以教思無窮,容保民無疆。

《臨》の卦は下兌上坤、二陽は下に在りて漸長し四陰の上に臨む。「臨」は上に居りて下に臨み、尊を以て卑に莅む。卦辞に言う。大いに亨通し、正を守るに利あり。しかし八月の陰長陽消の時に至れば凶險あり。《彖伝》は解釈する。臨とは、陽剛の気が逐漸生長し、下体は和悦にして上体は柔順、九二は陽剛にして中に居り六五に相応ずる。能く大いに亨通してまた正道を持守するは、天道運行の規律である。「至于八月有凶」は、陽長の勢が長久でなく、消退の期がすでに遠からざるを言う。《大象伝》に言う。沢の上面は地、地は沢に臨むは《臨》の卦象である。君子はこれに取り法り、百姓を教誨する心思に窮尽なく、百姓を容納保護する気量に辺際なきを要す。

初九,咸臨,貞吉。《象》曰:“咸臨貞吉”,志行正也。九二,咸臨,吉,無不利。《象》曰:“咸臨吉無不利”,未順命也。六三,甘臨,無攸利;既憂之,無咎。《象》曰:“甘臨”,位不當也。“既憂之”。咎不長也。

初九は陽剛にして正を得て六四に相応じ、感通の道を以て下に臨む。正を守れば吉である。《小象》に言う。「咸臨貞吉」は、彼の心志の行う所が端正だからである。九二は陽剛にして中に居り六五に相応じ、同じく感通の道を以て下に臨む。吉で、不利なことはない。《小象》に言う。「咸臨吉无不利」は、彼が一味に上命に順従するに非ず、剛中の徳を以て自ら任ずるを言う。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、甜言媚悦の態を以て下に臨む。利益なし。しかし能く憂懼して改めれば、過ちはない。《小象》に言う。「甘臨」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。「既憂之」は、過ちは持続しない。

六四,至臨,無咎。《象》曰:“至臨無咎”,位當也。六五,知臨,大君之宜,吉。《象》曰:“大君之宜”,行中之謂也。上六,敦臨,吉,無咎。《象》曰:“敦臨之吉”,志在內也。

六四は陰柔にして正を得、下卦に緊接して初九に相応じ、親身に切近に下に臨むことである。過ちはない。《小象》に言う。「至臨无咎」は、それが居る所の爻位が得当だからである。六五は陰柔にして尊位に居り九二の賢を任用する。智慧を以て下に臨むことで、これはまさに大君が有すべき做法である。吉である。《小象》に言う。「大君之宜」は、行事が中道に合することを言う。上六は臨の極に居りて能く敦厚に下に待す。吉で、過ちはない。《小象》に言う。「敦臨之吉」は、彼の心志がなお内卦の二つの陽爻に係り、賢に親しみて自ら棄てないからである。

観(卦二十)·坤下巽上

《觀》:盥而不薦。有孚顒若。《彖》曰:大觀在上,順而巽,中正以觀天下,觀。“盥而不薦,有孚顒若”,下觀而化也。觀天之神道,而四時不忒,聖人以神道設教,而天下服矣。《象》曰:風行地上,觀。先王以省方觀民設教。

《観》の卦は下坤上巽、二陽は上に在りて四陰は仰観する。「観」はすなわち下に観示するとともに、上に仰観することでもある。卦辞に言う。祭祀のときちょうど手を洗い終え、まだ祭品を献上していないその一刻のように、心中に誠敬至極であり、人々はその荘厳粛穆の様子を仰望する。《彖伝》は解釈する。偉大なる観仰の対象は上位に高居し、下体は柔順、上体は謙遜、中正の徳を以て天下に展示する。ゆえに観と言う。「盥而不薦、有孚顒若」は、下の人が観仰して感化を受けるからである。上天の神妙なる運行の道を観察すれば、四季の更替に毫も差錯なし。聖人はこの神道に取り法って教化を設立すれば、天下は皆順服する。《大象伝》に言う。風が大地の上を吹行して到らざるなきは《観》の卦象である。先王はこれに取り法り、四方を巡視し民情を考察し教化を施行した。

初六,童觀,小人無咎,君子吝。《象》曰:“初六童觀”,“小人”道也。六二,窺觀,利女貞。《象》曰:“窺觀女貞”,亦可醜也。六三,觀我生,進退。《象》曰:“觀我生進退”,未失道也。

初六は最下に居りて九五に最も遠く、見る所は兒童のごとき浅陋である。これは小人においては過ちと算えないが、君子がこのようであれば憾惜とすべきである。《小象》に言う。「初六童観」、これは小人の路数である。六二は陰柔中正なるも内に居り、ただ門の縫より窺看するのみで、見る所は限りある。この種の見識は内室に深く居る女子にとっては正と称し得る。《小象》に言う。「窺観女貞」、もし男子がこのようであれば、また羞ずべきである。六三は内外卦の交に処し、反って己の行為の得失を観し、これに拠りて進むべきか退くべきかを決定する。《小象》に言う。「観我生進退」、能くこのように己を審して行えば、正道に背離していない。

六四,觀國之光,利用賓于王。《象》曰:“觀國之光”,尚賓也。九五,觀我生,君子無咎。《象》曰:“觀我生”,觀民也。上九,觀其生,君子無咎。《象》曰:“觀其生”,志未平也。

六四は九五に最も近く、近く一国の光輝文明を観瞻し得る。このとき賓客の礼を以て王廷に出仕するに利あり。《小象》に言う。「観国之光」は、このような人が上賓に尊ばれることを言う。九五は陽剛中正にして尊位に居り、天下の観仰する所の対象である。彼は己の施為教化を反省する。君子たりてこのように自察すれば、過ちはない。《小象》に言う。「観我生」、己の施為を観察することは、実は民風民俗の上より検験する。上九は卦終わりに居り、位に当たらないも、なお天下の観る所と為る。彼もまた己の所作所為を審視すべきである。君子たりてこのように自察すれば、過ちはない。《小象》に言う。「観其生」は、彼の心志がまだ平静自安し得ず、なお天下の観瞻を念と為すことを言う。

噬嗑(卦二十一)·震下離上

《噬嗑》:亨。利用獄。《彖》曰:頤中有物曰噬嗑。噬嗑而亨,剛柔分,動而明,雷電合而章。柔得中而上行,雖不當位,利用獄也。《象》曰:雷電,噬嗑。先王以明罰敕法。

《噬嗑》の卦は下震上離、全卦の六爻の中間に一つの九四の陽爻を隔て、口に物を含むがごときである。「噬」は咬む、「嗑」は合する。阻梗を咬み断ってこそ上下相合することができる。卦辞に言う。亨通し、刑獄を審理するに利あり。《彖伝》は解釈する。口腔の中に物が阻隔するを噬嗑と言う。それを咬み断ってこそ亨通を得る。この卦は剛爻柔爻が分布均勻で、下体は震動し上体は光明、雷と電が相配合して声威が顕著である。六五の柔爻は中に居りて上行し尊位に居る。陰を以て陽に居り爻位当たらないも、まさに獄を断ずるに適宜である――明察は電のごとく、威断は雷のごとし。《大象伝》に言う。雷電が交作するは《噬嗑》の卦象である。先王はこれに取り法り、刑罰を明確にし法令を整飭した。

初九,屨校滅趾,無咎。《象》曰:“屨校滅趾”,不行也。六二,噬膚滅鼻,無咎。《象》曰:“噬膚滅鼻”,乘剛也。六三,噬臘肉遇毒,小吝,無咎。《象》曰:“遇毒”,位不當也。

初九は卦の最下に居り、刑を受ける者にして刑を用いる者に非ず。脚に木枷を戴き、脚指まで遮没する。これは小懲大戒であり、ゆえに過ちはない。《小象》に言う。「屨校滅趾」は、彼をして再び前に行き犯罪の路に走る能わざらしめる。六二は陰柔中正にして、用刑の対象は柔脆にして治し易く、柔嫩の肌膚に咬み入り、深く鼻子さえ陥入するがごときである。用刑は深いれど、過ちはない。《小象》に言う。「噬膚滅鼻」は、六二が初九の剛に凌乗しているため、深く咬み力を用いざるを得ないからである。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、治する所は頑梗で、風干の腊肉を咬みて毒味に吃ったがごときである。稍々憾惜あるも、過ちはない。《小象》に言う。「遇毒」する所以は、それが居る所の爻位が当たらず、威信が人を服するに足らないからである。

九四,“噬乾胏,得金矢。利艱貞,吉。《象》曰:“利艱貞吉”,未光也。六五,噬乾肉得黃金。貞厲,無咎。《象》曰:“貞厲無咎”,得當也。上九,何校滅耳,凶。《象》曰:“何校滅耳”,聰不明也。

九四は陽剛で、治する所はさらに堅硬で、骨附きの干肉を咬みて銅の箭頭に咬み着いたがごとき――古时は訴訟に先ず箭矢を納めて質と為した。このとき艱難の中に正を守るに利あり。吉である。(底本はこの爻辞の前に一つの引号を多くして下に収束なし。今は照録して削除しない。)《小象》に言う。「利艱貞吉」は、功業がまだ光大せず、なお謹慎を要するを言う。六五は陰柔にして尊位に居り中道を秉り、干肉を咬みて黄金を得るがごとき――古时は訴訟に先ず銅鈞を納めて質と為した。正を守りて危懼を知れば、過ちはない。《小象》に言う。「貞厲无咎」は、その処置が得当だからである。上九は噬嗑の極に居り、悪積み罪大いなる者である。肩に大枷を扛げて耳朵まで遮没する。凶である。《小象》に言う。「何校滅耳」は、彼は聴覚ありといえど勧めを聴かず事理を明らかにせず、罪大きく赦し難きに致った。

賁(卦二十二)·離下艮上

《賁》:亨。小利有攸往。《彖》曰:賁亨,柔來而文剛,故亨。分,剛上而文柔,故小利有攸往。剛柔交錯,天文也。文明以止,人文也。觀乎天文,以察時變;觀乎人文,以化成天下。《象》曰:山下有火,賁。君子以明庶政,無敢折獄。

《賁》の卦は下離上艮。「賁」は文飾である。卦辞に言う。亨通する。小事の上で往くに利あり。《彖伝》は解釈する。賁の亨通する所以は、柔爻が下りて剛爻を文飾する。ゆえに亨通する。また剛爻を分けて上りて柔爻を文飾せしむ。ゆえに小処に往くのみ利あり。剛と柔が交錯して章を成すは、天の文采である。文明の徳を以て節止する所を知るは、人の文采である。天の文采を観察すれば、四時の変化を考察し得る。人の文采を観察すれば、天下を教化して風俗を成就し得る。《大象伝》に言う。山下に火あり、火光は山間の草木を照亮するは《賁》の卦象である。君子はこれに取り法り、各項の政務を明察するも、敢えて文飾の明のみを憑りて刑獄を判決しない。

初九,賁其趾,舍車而徒。《象》曰:“舍車而徒”,義弗乘也。六二,賁其須。《象》曰:“賁其須”,與上興也。九三,賁如,濡如,永貞吉。《象》曰:“永貞之吉”,終莫之陵也。

初九は最下に居り、己の脚趾を文飾し、寧ろ乗るべからざる車子を捨てて徒歩で行走する。《小象》に言う。「舍車而徒」は、道義の上で言えば本来あの車に乗るべからず、歩行に安んずるこそ節を守る。六二は陰柔中正にして九三に緊附し、鬍鬚が下巴に依附して生ずるがごときで、その文采は附する所の人に随って動くを要す。《小象》に言う。「賁其須」は、上面の九三と一同に興起するに随う。九三の陽爻は両陰の間に処し、文飾して光彩あり、また潤沢にして光あり。長久に正を守れば吉である。《小象》に言う。「永貞之吉」は、長久に正を守るから、終に彼を欺凌し得る人なし。

六四,賁如皤如,白馬翰如。匪寇,婚媾。《象》曰:六四,當位疑也。“匪寇婚媾”,終無尤也。六五,賁于丘園,束帛戔戔,吝,終吉。《象》曰:“六五之吉”,有喜也。上九,白賁,無咎。《象》曰:“白賁無咎”,上得志也。

六四は初九と本是正応であるが、九三に阻隔され、これによって文飾は素白に変じ、白馬に騎りて疾馳飛のごとく来る。来る者は強盗に非ず、婚配を求める者である。《小象》に言う。六四は位に居り得当なるも、受阻するがゆえに心に疑慮を生ず。「匪寇婚媾」は、終に過失はない。六五は陰柔にして尊位に居り、文飾を山丘園圃のごとき質朴の処に用い、用いる所の束帛は微薄少小で、吝啬憾惜のごとく見えるが、儉素を崇尚すれば、最終的に吉を得る。《小象》に言う。「六五之吉」は、可喜の処ある。上九は賁の極に居り、素白無飾に返帰し、過ちはない。《小象》に言う。「白賁无咎」は、上位に居る者が朴に返り真に帰って心志の遂げるを得たからである。

剥(卦二十三)·坤下艮上

《剝》:不利有攸往。《彖》曰:剝,剝也。柔變剛也。“不利有攸往”,小人長也。順而止之,觀象也。君子尚消息盈虛,天行也。《象》曰:出附於地,剝。上以厚下安宅。

《剥》の卦は下坤上艮、五陰は下に在りて上の一陽を逼迫し、陽気は尽きんとする。「剥」は剥落・剥蝕である。卦辞に言う。往く所有るに利せず。《彖伝》は解釈する。剥とは剥落で、柔爻が剛爻を侵蝕改変する。「不利有攸往」は、小人の勢力がまさに増長しているからである。このときただ柔順を以て之に待し止住して動かずするのみである。これは卦象の上より看出した道理である。君子は消退・生長・盈満・虧虚の循環を看重する。これは本是天道運行の規律だからである。《大象伝》に言う。山は地に附着してまさに崩落せんとするは《剥》の卦象である(底本の「出附于地」の「出」は、通行本は「山」と作る。今は照録して改めない)。上位に在る者はこれに取り法り、下民を厚くして己の居所を安固すべきである。

初六:剝床以足,蔑貞凶。《象》曰:“剝床以足”,以滅下也。六二:剝床以辨,蔑貞凶。《象》曰:“剝床以辨”,未有與也。六三:剝之,無咎。《象》曰:“剝之無咎”,失上下也。

初六は剥落の始めで、床脚より剥蝕を始め、正道は滅除される。凶である。《小象》に言う。「剥床以足」は、最も下より毀滅を始める。六二は剥蝕がすでに床身と床脚の相交わる部位に至り、正道は滅除される。凶である。《小象》に言う。「剥床以辨」は、それが上下ともに応援なきからである。六三もまた剥落の中に在るが、それは独り上九に相応じ、群陰と同流せずし得る。ゆえに過ちはない。《小象》に言う。「剥之无咎」は、それが上下の同類陰爻に背離して心は陽剛に向かうからである。

六四:剝床以膚,凶。《象》曰:“剝床以膚”,切近災也。六五:貫魚以宮人寵,無不利。《象》曰:“以宮人寵”,終無尤也。上九:碩果不食,君子得輿,小人剝廬。《象》曰:“君子得輿”,民所載也。“小人剝廬”,終不可用也。

六四は剥蝕がすでに床上の人の肌膚に及び、凶である。《小象》に言う。「剥床以膚」は、災禍がすでに眉睫に迫った。六五は陰柔にして尊位に居り、能く衆陰を率いて上九に順承せしむ。繩を以て一串の魚を串起すがごとき、また宮中の妃嬪が次々に君王の恩寵を承受するがごときで、各々その分に安んず。不利なことはない。《小象》に言う。「以宮人寵」は、こうすれば終に過失はない。上九は全卦僅存の一つの陽爻で、樹梢に残る大果実が食されざるがごときで、その中に復生の種子を含んでいる。君子はこれによって民衆の擁戴を車輿を得るがごとくに得るが、小人は己の棲身する屋廬さえ剥毀する。《小象》に言う。「君子得輿」は、百姓が彼を承載擁戴せんと願う。「小人剥廬」は、小人は到頭一用する所なく、自らその居を毀すを言う。

復(卦二十四)·震下坤上

《復》:亨。出入無疾。朋來無咎。反復其道,七日來復,利有攸往。《彖》曰:“復,亨”。剛反,動而以順行。是以“出入無疾,朋來無咎”。“反復其道,七日來復”,天行也。“利有攸往”,剛長也。復,其見天地之心乎。《象》曰:雷在地中,復。先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。

《復》の卦は下震上坤、一陽は五陰の下に生じ、まさに冬至一陽来復の象である。卦辞に言う。亨通する。出入往来に疾患なく、同類の朋友が来るも過ちはない。往复循環にその常道あり、七日すれば一回回来する。往く所有るに利あり。《彖伝》は解釈する。「復、亨」は、陽剛の気が返回し、動きて順理に依って行く。ゆえに「出入无疾、朋来无咎」。「反復其道、七日来復」は、これは天道運行の規律――《姤》卦一陰生じより、六爻の変を歴て《復》に至るは、まさに第七である。「利有攸往」は、陽剛がまさに生長しているからである。《復》卦の上より、ほぼ天地の生々して息まざる本心を見ることができるであろう!《大象伝》に言う。雷は地中に蔵し、陽気は初動して未だ発せざるは《復》の卦象である。先王はこれに取り法り、冬至のこの日に関口を閉鎖し、商旅は路に上がらず、君主も四方を巡視せず、以て初生の陽気を安養した。

初九,不遠復,無祗悔,元吉。《象》曰:“不遠之復”,以修身也。六二,休復,吉。《象》曰:“休復之吉”,以下仁也。六三,頻復,厲,無咎。《象》曰:“頻復之厲”,義無咎也。

初九は復卦の主爻で、出でて遠からずして正道に返回し、大きな悔恨を造成するに至らず。大吉である。《小象》に言う。「不遠之復」は、まさに自身を修養する功夫に用いる――過あれば即ち改め、積を成さしめない。六二は陰柔中正にして、能く下面の初九に親近して善道に返回する。これは美好の返回である。吉である。《小象》に言う。「休復之吉」は、それが能く己を屈して仁徳の人に下交するからである。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、屢々返回してまた屢々失足する。危厲あるも、それが善に向かう心に就て言えばなお過ちはない。《小象》に言う。「頻復之厲」は、道義の上で言えば過ちはない。

六四,中行獨復。《象》曰:“中行獨復”,以從道也。六五,敦復,無悔。《象》曰:“敦復無悔”,中以自考也。上六,迷復,凶,有災眚。用行師,終有大敗,以其國君凶,至于十年不克征。《象》曰:“迷復之凶”,反君道也。

六四は五陰の中に居り、独りそれのみが初九に相応じ、衆陰の間において独り正道に返回し得る。《小象》に言う。「中行独復」は、それが随従する所は道義であって同類に非ざるからである。六五は陰柔にして尊位に居り中道を秉り、敦厚篤実の心を以て善道に返回する。これによって悔恨なし。《小象》に言う。「敦復无悔」は、能く中道を以て自我省察考核する。上六は復の極に居りて昏迷して返らず。凶で、天災人禍あるべし。この状態を以て兵を出して戦えば、終に大敗し、国君にまで連累して凶險を遭わせ、十年の久しきに至るまで出征し得ない。《小象》に言う。「迷復之凶」は、それが為君の道に違背したからである。

无妄(卦二十五)·震下乾上

《無妄》:元亨,利貞。其匪正有眚,不利有攸往。《彖》曰:無妄,剛自外來而為主於內,動而健,剛中而應。大亨以正,天之命也。“其匪正有眚,不利有攸往”,無妄之往何之矣?天命不祐,行矣哉!《象》曰:天下雷行,物與無妄。先王以茂對時育萬物。

《无妄》の卦は下震上乾。「无妄」は卦名で、真実にして虚妄なく、一切が天然に合するを意とする。卦辞に言う。大いに亨通し、正を守るに利あり。もし行う所が正ならざれば災眚あり、往く所有るに利せず。《彖伝》は解釈する。无妄とは、剛爻が外より来たりて内卦の主と為り、下動して上健、九五は陽剛にして中に居り六二に相応ずる。能く大いに亨通してまた正道を持守するは、上天の命令である。「其匪正有眚、不利有攸往」は、无妄の世においてなお妄動せんとすれば、またどこに往かんや。天命は彼を佑助せず、なお行き通らんや!《大象伝》に言う。天下に雷声運行し、万物はいずれも真実无妄なりは《无妄》の卦象である。先王はこれに取り法り、勉力して天时に順応し以て万物を養育した。

初九,無妄往,吉。《象》曰:“無妄之往”,得志也。六二,不耕穫,不菑畬,則利用攸往。《象》曰:“不耕穫”,未富也。六三,無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。《象》曰:行人得牛,邑人災也。

初九は陽剛にして正を得、无妄の始めである。真実无欺の心を以て往けば、吉である。《小象》に言う。「无妄之往」は、彼の心志が実現し得る。六二は陰柔中正にして、収穫を求めんがために耕さず、熟田を求めんがために開荒せず、ただ本分を尽くして事を為して功利を計らない。このように往けば利あり。《小象》に言う。「不耕穫」は、彼は本より富を求める心を存さないからである。六三は陰柔にして位に当たらず、受ける所は无妄の災である。或る人が牛をあそこに拴いだら、路人が手を順に牽き去り、邑中の人は反ってこれによって盤査追捕の禍を蒙受する。《小象》に言う。路の人が牛を得れば、すなわち邑中の人の災殃と成る。

九四,可貞。無咎。《象》曰:“可貞無咎”,固有之也。九五,無妄之疾,勿藥有喜。《象》曰:“無妄之藥”,不可試也。上九,無妄行,有眚,無攸利。《象》曰:“無妄之行”,窮之災也。

九四は陽剛にして応ずる所なく、ただ静かにその正を守るべし。こうすれば過ちはない。《小象》に言う。「可貞无咎」は、この剛正は本来彼が固有する所で、守住すれば足り、外に求むる必用なし。九五は陽剛中正にして、本身は妄失なく、偶に得た疾患は意外に属す。薬を服さずとも自ら痊愈して喜あるべし。《小象》に言う。本无妄失にして乱に薬石を用いるは、この種の事は軽試すべからず。上九は无妄の極に居り、位はすでに窮極するもなお行動あるべしとすれば、災眚あり、利益なし。《小象》に言う。「无妄之行」は、窮尽の処に走ってなお妄動するが招来する災禍である。

大畜(卦二十六)·乾下艮上

《大畜》:利貞。不家食吉。利涉大川。《彖》曰:大畜,剛健篤實,輝光日新。其德剛上而尚賢,能止健,大正也。“不家食吉”,養賢也。“利涉大川”,應乎天也。《象》曰:天在山中,大畜。君子以多識前言往行,以畜其德。

《大畜》の卦は下乾上艮、艮山の厚重を以て乾天の剛健を畜止し、畜する所は甚だ大きい。卦辞に言う。正を守るに利あり。賢者は家中に在りて自らその力を食まずして朝に禄を受ける。吉である。大河巨険を渡るに利あり。《彖伝》は解釈する。大畜は、下体剛健、上体篤実で、その徳は輝光にして日々に更新する。上九の陽剛は上に居りて賢者を尊崇し、剛健の勢を止めることができる。これは大いなる中正の道である。「不家食吉」は、国家が賢才を供養するからである。「利渉大川」は、下卦が乾天に順応するからである。《大象伝》に言う。天が山中に涵蓄されるは、畜する所極めて大きく、《大畜》の卦象である。君子はこれに取り法り、広く前人の嘉言と往聖の懿行を記取し、用いて己の徳性を蓄養すべきである。

初九,有厲,利已。《象》曰:“有厲利已”,不犯災也。九二,輿說輹。《象》曰:“輿說輹”,中無尤也。九三,良馬逐,利艱貞,曰閒輿衛,利有攸往。《象》曰:“利有攸往”,上合志也。

初九は陽剛にして下に在りて六四に畜止され、冒進すれば危険あり。このまま停下するに利あり。《小象》に言う。「有厲利已」は、災禍に触犯しないためである。九二は六五に畜止され、車子の伏兎が脱落して自ずから停下し、強いて前進しないがごときである。《小象》に言う。「輿説輹」は、それが中に居り分を守るから、過失なし。九三は陽剛にして正を得て上九が之に相応じ、畜極まりてまさに通ぜんとし、良馬が奔馳追逐するがごときである。このとき艱難の中に正を守るに利あり、なお毎日駕車と防衛の本領を練習すべし。かくのごとくすれば往く所有るに利あり。《小象》に言う。「利有攸往」は、それが上位の上九と心志相合するからである。

六四,童牛之牿,元吉。《象》曰:“六四元吉”,有喜也。六五,豶豕之牙,吉。《象》曰:“六五之吉”,有慶也。上九,何天之衢,亨。《象》曰:“何天之衢”,道大行也。

六四は陰柔にして正を得、初九をその力なお微なる時に畜止する。まだ角を長ぜざる小牛に横木を加えるがごときで、患を未然に防ぐ。大吉である。《小象》に言う。「六四元吉」は、可喜の処ある。六五は陰柔にして尊位に居り、九二を畜止するにその暴性を去る之法を用いる。公猪を去勢した後には、その獠牙は在るももはや人を傷めないがごときである。吉である。《小象》に言う。「六五之吉」は、福慶あり。上九は畜極まりて通ずる位に居り、畜する所すでに成り、天空に通ずる四通八達の大路を担荷するがごときである。亨通する。《小象》に言う。「何天之衢」は、大道がこれより暢行して阻まざるを言う。

頤(卦二十七)·震下艮上

《頤》:貞吉。觀頤,自求口實。《彖》曰:頤,貞吉,養正則吉也。觀頤,觀其所養也。自求口實,觀其自養也。天地養萬物,聖人養賢以及萬民,頤之時大矣哉!《象》曰:山下有雷,頤。君子以慎言語,節飲食。

《頤》の卦は下震上艮、上下の両陽は上下の颚のごとく、中間の四陰は歯牙のごときで、まさに口腔の象である。「頤」は腮頬で、引申して口腹の養・養生養徳を言う。卦辞に言う。正を守れば吉。一人が養う所は何であるかを観察し、また彼が何に頼りて自ら口中の食物を求めるかを看るべし。《彖伝》は解釈する。頤の「貞吉」なる所以は、養う所が正を得てこそ吉だからである。「観頤」は、彼が别人を養育する方式を観察する。「自求口実」は、彼が己を養活する方式を観察する。天地は万物を養育し、聖人は賢才を養育して進んで万民に恵及する。《頤》卦の含む時機意義はまことに重大である!《大象伝》に言う。山下に雷あり、雷は下に動き山は上に止まり、まさに口の開合のごときは《頤》の卦象である。君子はこれに取り法り、言話を謹慎にして徳を養い、飲食を節制して身を養うべきである。

初九,舍爾靈龜,觀我朵頤,凶。《象》曰:“觀我朵頤”,亦不足貴也。六二,顛頤拂經于丘頤,征凶。《象》曰:“六二征凶”,行失類也。六三,拂頤,貞凶,十年勿用,無攸利。《象》曰:“十年勿用”,道大悖也。

初九は陽剛にして本は自養し得るも、神亀が食せずとも長生するがごときであるのに、己の霊亀の徳を捨棄し、眼を瞠々として别人の腮頬を鼓動して進食するを看て貪羨を生ず。凶である。《小象》に言う。「観我朶頤」は、この種の態度は実に看重するに値しない。六二は陰柔にして自身は人を養うこと能わず、反って下に向かって初九に養を求め、上が下を養うの常理を顛倒した。また転じて上に向かって高処の上九に養を求める。このように往けば凶である。《小象》に言う。「六二征凶」は、その行為が己の同類の分に背離したからである。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、頤養の正道に違背し、たとえこのまま守りて変わらずとも凶で、十年の久しきも施用すべからず。利益なし。《小象》に言う。「十年勿用」は、それが行う所の道が大いに理に背くからである。

六四,顛頤,吉。虎視眈眈,其欲逐逐,無咎。《象》曰:“顛頤之吉”,上施光也。六五,拂經,居貞吉,不可涉大川。《象》曰:“居貞之吉”,順以從上也。上九,由頤,厲,吉。利涉大川。《象》曰:“由頤厲吉”,大有慶也。

六四もまた下に向かって初九に養を求め、常理を顛倒したが、それは正を得て応あり。ゆえに吉である。養を求むるとき目光は虎のごとく専注沈穏にして、欲望は連接して来るもその正を失わない。これによって過ちはない。《小象》に言う。「顛頤之吉」は、上に在る者が下に施与する恩沢が光明正大だからである。六五は陰柔にして尊位に居るも人を養う力なく、君王が民を養う常理に違背し、ただ安居して正を守ってこそ吉で、冒険して大河を渡りて作為あるべからず。《小象》に言う。「居貞之吉」は、それが柔順にして上九のこの賢者に依従するからである。上九は陽剛にして上に居り、天下は皆彼によって養を得る。責任は重大で、危厲の地に処するも、能く戒慎すれば吉で、しかも大河を渡りて重任を担当するに利あり。《小象》に言う。「由頤厲吉」は、天下がこれによって大いに福慶有るからである。

大過(卦二十八)·巽下兌上

《大過》:棟撓,利有攸往,亨。《彖》曰:“大過”,大者過也。“棟撓”,本末弱也。剛過而中,巽而說,行。利有攸往,乃亨。“大過”之時大矣哉!《象》曰:澤滅木,大過。君子以獨立不懼,遯世無悶。

《大過》の卦は下巽上兌、四陽は中間に聚りて首尾の両爻は皆陰で、棟梁が中間は粗壮にして両端は脆弱なるがごときである。「大過」は陽大なる者の過盛である。卦辞に言う。棟梁は彎曲下垂する。このとき往く所有るに利あり、亨通し得る。《彖伝》は解釈する。「大過」は、陽大なる者の過盛である。「棟撓」は、本末の両端が皆柔弱だからである。陽剛は過盛なるも九二・九五はなお中位に居り、下体は謙遜、上体は和悦で、行動する所あるべし。往く所有るに利あってこそ、亨通し得る。《大過》卦の含む時機意義はまことに重大である!《大象伝》に言う。大沢の水が樹木を淹没するは《大過》の卦象である。君子はこれに取り法り、能く特立独行して恐懼せず、世を避けて隠居して煩悶しない。

初六,藉用白茅,無咎。《象》曰:“藉用白茅”,柔在下也。九二,枯楊生稊,老夫得其女妻,無不利。《象》曰:“老夫女妻,”,過以相與也。九三,棟橈,凶。《象》曰:“棟橈”之“凶”,不可以有輔也。

初六は陰柔にして最下に居り、行事は極めて慎重で、祭祀のとき潔白の茅草を以て器物の底下に墊くがごときである。過ちはない。《小象》に言う。「藉用白茅」は、柔順の者が下位に甘居して敬慎自持する。九二は陽剛にして下に初六の陰に比す。枯萎の楊樹が重新に嫩芽を生ずるがごとき、また年老の男子が年軽の妻子を娶るがごときで、陰陽は相済する。不利なことはない。《小象》に言う。「老夫女妻」は、過分の配合なりといえど、彼此相与して生意あることを得る。九三は陽剛にして過ぎて応援なく、棟梁の彎折するがごときである。凶である。《小象》に言う。「棟橈」の「凶」なる所以は、それが剛愎自用にして、いかなる輔助も得る能わざるからである。

九四,棟隆,吉。有它,吝。《象》曰:“棟隆之吉”,不橈乎下也。九五,枯楊生華,老婦得其士夫,無咎無譽。《象》曰:“枯楊生華”,何可久也。“老婦士夫”,亦可醜也。上六,過涉滅頂,凶。無咎。《象》曰:“過涉之凶”,不可咎也。

九四は陽剛にして陰位に居り、剛柔相済して、棟梁が隆起して力あるがごときである。吉。しかしもし他に初六の陰に牽係あれば、憾惜を招致する。《小象》に言う。「棟隆之吉」は、それが下に向かって彎曲屈撓しないからである。九五は陽剛中正なるも上に上六の陰に比す。枯楊が花を開くがごとき、虚華にして実なし。また年老の婦人が壮年の男子に嫁するがごときで、過ちはないも、称誉と謂うべきはない。《小象》に言う。「枯楊生華」は、このようにしてどうして長久であろうか。「老婦士夫」も、また羞ずべき配合である。上六は陰柔にして大過の極に居り、渉水が深に過ぎて水が頭頂を淹没するがごときである。凶。しかし彼は時を救うがために身を殺して仁を成すのであり、その義に就て言えば過ちと算えるべからず。《小象》に言う。「過渉之凶」は、このような凶は彼を責怪すべからざるを言う。

坎(卦二十九)·坎下坎上

《習坎》:有孚維心,亨。行有尚。《彖》曰:“習坎”,重險也。水流而不盈。行險而不失其信。維心亨,乃以剛中也。“行有尚”,往有功也。天險,不可升也。地險,山川丘陵也。王公設險以守其國。險之時用大矣哉!《象》曰:水洊至,習坎。君子以常德行,習教事。

《坎》の卦は上下皆坎で、ゆえに卦辞は《習坎》と称す。「習」は重畳・また熟習である。坎は水・険陷である。卦辞に言う。内心に誠信を懐き、これによって亨通する。このように行えば嘉尚を受ける。《彖伝》は解釈する。「習坎」は、重々の険難である。水は絶えず流動して盈満溢出せず。険境の中に行進しても己の規律と信実を失わない。「維心亨」は、九二・九五が陽剛にして中に居り、中心が剛実だからである。「行有尚」は、このように往けば必ず功を建て得るを言う。天の険は、高く攀ずべからざるに在り。地の険は、山川丘陵の起伏に在り。王公は則ち険固の城池を設置して国土を守衛する。険の時機と功用はまことに重大である!《大象伝》に言う。水が一波接一波に涌来するは《習坎》の卦象である。君子はこれに取り法り、徳行をして常あって変わらざらしめ、教化の事を反復演習すべきである。

初六,習坎,入于坎,窞,凶。《象》曰:“習坎入坎”,失道,凶也。九二,坎有險,求小得。《象》曰:“求小得”,未出中也。六三,來之坎,坎險且枕,入于坎,窞,勿用。《象》曰:“來之坎坎”,終無功也。

初六は陰柔にして重険の底に居り、坎中に陷り、また坎底の小穴に落到する。凶である。《小象》に言う。「習坎入坎」は、険を出る道を失ったから、ゆえに凶である。九二は陽剛にして中に居り、なお坎険の中に在るも、剛中の徳を憑りて小さな収穫あるのみ。《小象》に言う。「求小得」は、それがまだ険中を走出していないからである。六三は上下の両坎の間に処し、来るも坎・去るも坎で、険に険を加えてまた枕伏して安んじ難く、坎中に陷りまた小穴に落到する。このとき施為する所あるべからず。《小象》に言う。「来之坎坎」は、このようにすれば終に功效なきを言う。

六四,樽酒簋貳用缶,納約自牖,終無咎。《象》曰:“樽酒簋貳”,剛柔際也。九五,坎不盈,祗既平,無咎。《象》曰:“坎不盈”,中未大也。上六,係用徽纆,窴於叢棘,三歲不得,凶。《象》曰:上六失道,凶三歲也。

六四は陰柔にして正を得て君に近く、険難の時に極めて簡朴の礼物を以て相交わる。一樽の酒・二簋の飯を瓦缶を以て盛り、この簡約の誠意を窓口より進入せしむ。終に過ちはない。《小象》に言う。「樽酒簋貳」は、剛爻と柔爻が険中において相交接し、貴ぶ所は誠に在りて文に在らず。九五は陽剛中正にして、坎水はまだ盈満せず、ただ地面と持平するのみ。過ちはない。《小象》に言う。「坎不盈」は、居中の徳がまだ充分に光大せず、険がまだ尽きて出でていないを言う。上六は陰柔にして険の極に居り、罪人が繩索を以て捆綁され、荆棘叢生の牢獄に囚禁され、三年も脱身を得ないがごときである。凶である。《小象》に言う。上六は険を出る道を失った。ゆえに凶險三年の久しきを要す。

離(卦三十)·離下離上

《離》:利貞。亨。畜牝牛吉。《彖》曰:離,麗也。日月麗乎天,百穀草木麗乎土。重明以麗乎正,乃化成天下。柔麗乎中正,故亨,是以“畜牝牛吉”也。《象》曰:明兩作,離。大人以繼明照于四方。

《離》の卦は上下皆離で、離は火・日・明、その義は附麗である。卦辞に言う。正を守るに利あり、亨通する。母牛を畜養すれば吉。《彖伝》は解釈する。離とは附麗依存である。日月は天上に附麗し、百谷草木は土地上に附麗する。上下の両重の光明が正道に附麗すれば、天下を教化成就し得る。六二・六五の二つの柔爻は中正の位に附麗する。ゆえに亨通する。まさに柔順中正なるがゆえに、「畜牝牛吉」と言う――母牛は最も柔順の牲畜で、柔順の徳を以て自養するを象徴する。《大象伝》に言う。光明が連接して興起するは《離》の卦象である。大人はこれに取り法り、連続不断の光明を以て四方に照臨すべきである。

初九,履錯然,敬之無咎。《象》曰:“履錯之敬”,以辟咎也。六二,黃離,元吉。《象》曰:“黃離元吉”,得中道也。九三,日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。《象》曰:“日昃之離”,何可久也?

初九は明の始めに居り、脚歩は交錯雑乱にして行止は未定。このとき恭敬審慎しさえすれば、過ちはない。《小象》に言う。「履錯之敬」は、まさに恭敬を以て過ちを避ける。六二は陰柔中正にして、「黄」は居中の正色で、中正の道に附麗する。大吉である。《小象》に言う。「黄離元吉」は、それが中道を得たからである。九三は下離の終わりに処し、太陽が西に偏して将に落ちんとする時の光明のごときである。このとき瓦缶を敲いて歌い安時順命することができなければ、ただ年老將尽の悲嘆あるのみ。凶である。《小象》に言う。「日昃之離」は、このような光明はどうして長久であろうか。

九四,突如,其來如,焚如,死如,棄如。《象》曰:“突如其來如”,無所容也。六五,出涕沱若,戚嗟若,吉。《象》曰:六五之吉,離王公也。上九,王用出征,有嘉折首,獲匪其醜,無咎。《象》曰:“王用出征”,以正邦也。

九四は陽剛にして中に居らず正ならず、上離の始めに居り、来勢は突然にして猛烈で、烈火が驟起するがごときである。一切を焚焼し、即ち自ら滅亡を取り、終に棄絶される。《小象》に言う。「突如其来如」は、このような人は天地の間に容身する処なし。六五は陰柔にして尊位に居り上下の陽剛の間に処し、憂懼して涕泪滂沱・悲戚嘆息するに至る。まさにこの憂懼戒懼の心有るがゆえに、吉である。《小象》に言う。六五の吉なる所以は、それが王公の尊位に附麗して能くその憂う所を憂うからである。上九は陽剛にして明の極に居り、君王が彼を派遣して出征せしめ、嘉美の戦功あり、斬獲する所は首悪の人で、その党衆百姓を濫殺しない。ゆえに過ちはない。《小象》に言う。「王用出征」は、目的は邦国を端正するに在る。

下経

咸(卦三十一)·艮下兌上

咸:亨。利貞。取女吉。《彖》曰:咸,感也。柔上而剛下,二氣感應以相與。止而說,男下女,是以“亨利貞,取女吉”也。天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平。觀其所感,而天地萬物之情可見矣。《象》曰:山上有澤,咸。君子以虛受人。

《咸》の卦は下艮上兌、艮は少男・止、兌は少女・悦である。「咸」は即ち「感」で、无心の感・自然の交感である。卦辞に言う。亨通し、正を守るに利あり、妻を娶れば吉。《彖伝》は解釈する。咸とは感応である。柔爻は上に在り剛爻は下に在り、陰陽二気が互相に感応して結合する。下体は止まりて妄動せず、上体は和悦にして相応ずる。男子は女子の下に屈居して之を求む。ゆえに「亨利貞、取女吉」と言う。天地の二気は相感じて万物は化育生長し、聖人は人心を感動せしめて天下は和平安定する。それが感応する道理を観察すれば、天地万物の真情は看清楚することができる。《大象伝》に言う。山上に沢あり、沢水は下に潤して山体は承受するは《咸》の卦象である。君子はこれに取り法り、虚懐若谷に他人を接納すべきである。

初六,咸其拇。《象》曰“咸其拇”,志在外也。六二,咸其腓,凶。居吉。《象》曰雖“凶居吉”,順不害也。九三,咸其股,執其隨,往吝。《象》曰:“咸其股”,亦不處也。志在隨人,所執下也。

全卦は人身を以て下より上に向かって象を取る。初六は最下に在りて、感応はただ脚の大拇趾に至るのみで、動意は初めて萌して未だ作為ある能わず。《小象》に言う。「咸其拇」は、彼の心志はすでに外に向かうも、ただ力量はなお小さい。六二は小腿肚に感応する。小腿は一動すれば随って走らんとし、妄動すれば凶、安居して静を守れば吉。《小象》に言う。「凶」と言うも、能く「居」すれば「吉」、柔順に自守すれば受害しない。九三は大腿に感応する。大腿はただ身に随って動くのみで、一味に别人に跟従する態度を執守すれば、このように往けば必ず憾惜を致す。《小象》に言う。「咸其股」は、それもまた安く処し自守する能わざるを言う。心志はただ他人に追随することに在りて、執守する所は未免あまりに卑下である。

九四,貞吉。悔亡。憧憧往來,朋從爾思。《象》曰:“貞吉悔亡”,未感害也。“憧憧往來”,未光大也。九五,咸其脢,無悔。《象》曰:“咸其脢”,志末也。上六,咸其輔頰舌。《象》曰:“咸其輔頰舌”,滕口說也。

九四はまさに心の位置に当たり、全卦の感応の主である。正を守れば吉で悔恨は消失する。もし心思が往来して定まらず憂疑已まざれば、ただあなたと意念相合する少数の朋友のみがあなたに随従する。《小象》に言う。「貞吉悔亡」は、感ずる所がまだ損害を造成していないからである。「憧憧往来」は、このような私心の感応はまだ光明博大に足らざるを言う。九五は背脊の肉に感応する。背は心の後に在りて心と相背する。感ずること深からず、これによって悔なきもまた成す所なし。《小象》に言う。「咸其脢」は、感ずる所はただ末節に在るのみ。上六は卦終わりに居り、感応はただ牙床・面頬と舌頭に在るのみで、全く口舌を憑りて人を打動する。《小象》に言う。「咸其輔頬舌」は、口舌の能を逞しゅうするに過ぎない。

恒(卦三十二)·巽下震上

恆:亨。無咎。利貞。利有攸往。《彖》曰:恆,久也。剛上而柔下。雷風相與,巽而動,剛柔皆應,恆。“恆亨無咎利貞”,久於其道也。天地之道恆久而不已也。“利有攸往”,終則有始也。日月得天而能久照,四時變化而能久成。聖人久於其道而天下化成。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣。《象》曰:雷風,恆。君子以立不易方。

《恒》の卦は下巽上震、震は雷・長男、巽は風・長女である。「恒」は恒久である。卦辞に言う。亨通し、過ちなく、正を守るに利あり、往く所有るに利あり。《彖伝》は解釈する。恒とは長久である。剛爻は上に在り柔爻は下に在り、雷と風は互相に助長し、下体は順入して上体は奮動し、六爻の剛柔は一々相応ずる。ゆえに恒と言う。「恒亨无咎利貞」は、長久に己の正道を守住すべきを言う。天地の運行の道は恒久にして停息しない。「利有攸往」は、一段の終結する処はまさに新たな開端だからである。日月は天道に依循して運行し、ゆえに能く長久に照耀する。四季は絶えず変化し、ゆえに能く長久に万物を成就する。聖人は長久にその道を守り、天下は教化成る所有り。万物の恒守する所の規律を観察すれば、天地万物の真情は看清楚することができる。《大象伝》に言う。雷と風が相伴して作るは《恒》の卦象である。君子はこれに取り法り、卓然として自立し己の操守方向を改変しない。

初六,浚恆,貞凶,無攸利。《《象》曰:“浚恆”之“凶”,始求深也。九二,悔亡。《象》曰:九二“悔亡”,能久中也。九三,不恆其德,或承之羞,貞吝。《象》曰:“不恆其德”,無所容也。

初六は恒の始めに居り、しかも一上来すれば深く恒久の道を求め、之を操りて急に過ぐ。たとえこのまま守りて変わらずとも凶で、利益なし。(底本はここ《象》の前に一つの書名号を多くする。今は照録して削除しない。)《小象》に言う。「浚恒」の「凶」なる所以は、開始より求めること過深だからである。九二は陽剛にして中に居り、陽を以て陰位に居り本は悔あるべきも、能く中道を久しく守るがゆえに悔恨は消失する。《小象》に言う。九二の「悔亡」なる所以は、それが能く長久に中道を保持するからである。九三は陽剛にして中に居らず、恒久に己の徳行を保持する能わざれば、羞辱を承受するを免れず、たとえ自守するも憾惜を免れ難い。《小象》に言う。「不恒其徳」は、このような人はどこに行っても容身する処なし。

九四,田無禽。《象》曰:久非其位,安得禽也。六五,恆其德,貞,婦人吉,夫子凶。《象》曰:婦人貞吉,從一而終也。夫子制義,從婦凶也。上六,振恆,凶。《象》曰:振恆在上,大無功也。

九四は陽爻にして陰位に居り、久しく当たらざる位に処し、打獵して禽獣を獲れざるがごときである。《小象》に言う。長久に占るべからざる位置を占めれば、どうして禽獣を猟し得ようか。六五は陰柔にして尊位に居り、能く柔順の徳を恒久に保持して正を守る。これは婦人においては吉で、婦道は一より之を貴ぶからである。男子においては凶で、丈夫は義を以て断ずべきだからである。《小象》に言う。婦人はこの正道を守れば吉、一より終わるからである。男子は合宜の事を裁断すべきで、一味に婦道に順従すれば凶である。上六は恒の極に居りて震動の上に処し、恒久の道は揺擺振動に変じた。凶である。《小象》に言う。振動不定の態度を以て最上位に処するは、大いに功なきである。

遯(卦三十三)·艮下乾上

《遯》:亨。小利貞。《彖》曰:“遯亨”,遯而亨也。剛當位而應,與時行也。“小利貞”,浸而長也。遯之時義大矣哉!《象》曰:天下有山,遯。君子以遠小人,不惡而嚴。

《遯》の卦は下艮上乾、二陰は下より生長し、四陽は上に退避する。「遯」は「遁」に同じく、退避隠遁である。卦辞に言う。亨通する。小処に正を守るに利あり。《彖伝》は解釈する。「遯亨」は、能く時に及んで退避してこそ亨通を得る。九五は陽剛にして位に居り得当にして六二に相応じ、時勢の変化に随って進退し得る。「小利貞」は、陰気がまさに浸潤生長しているので、君子はただ小さく守る所有るべし。《遯》卦の含む時機意義はまことに重大である!《大象伝》に言う。天下に山あり、山は高しといえど終に天に及ばず、天は則ち高遠にして去るは《遯》の卦象である。君子はこれに取り法り、小人を疏遠し、疾言厲色を用いず、荘厳を以て自持して彼らをして敢えて親近せざらしむべきである。

初六,遯尾,厲,勿用有攸往。《象》曰:“遯尾”之“厲”,不往何災也?六二,執之用黃牛之革,莫之勝說。《象》曰:“執用黃牛”,固志也。九三,係遯,有疾厲,畜臣妾吉。《象》曰:“係遯”之“厲”,有疾憊也。“畜臣妾吉”,不可大事也。

初六は卦の最下に居り、退避して最後に落ち、隊伍の尾巴のごときである。危険。このとき往く所有るべからず。《小象》に言う。「遯尾」の「厲」なる所以は、ただ更に前に走らざれば、またどこに災禍があらんや。六二は陰柔中正にして九五に相応じ、その心志の固いこと黄牛皮繩を以て捆住するがごとく、誰も解き開く能わず。《小象》に言う。「執用黄牛」は、それが心志を固守して毫も動揺しないを言う。九三は陽剛にして下面の二陰と牽連あり、退避するとき心に係恋あり、病が身に在るがごとく困頓危險である。この種の人はただ奴僕姫妾のごとき小事を畜養するに宜しく、それならば吉である。《小象》に言う。「係遯」の「厲」なる所以は、病患あって疲憊するからである。「畜臣妾吉」は、彼が大事を担当すべからざるを言う。

九四,好遯,君子吉,小人否。《象》曰:“君子好遯,小人否”也。九五,嘉遯,貞吉。《象》曰:“嘉遯貞吉”,以正志也。上九,肥遯,無不利。《象》曰:“肥遯無不利”,無所疑也。

九四は初六と相好の私あるも、能く愛を割いて退避する。君子は之を為すことを得、ゆえに吉。小人は之を為すことを得ず、ゆえに能わず。《小象》に言う。「君子好遯」にして「小人否」なるは、分別は私愛を捨棄し得るか否かに在る。九五は陽剛中正にして、退避は尽善尽美にして時宜に合す。正を守れば吉である。《小象》に言う。「嘉遯貞吉」は、彼が正道を以て己の心志を端正したからである。上九は卦終わりに居りて牽係する所なく、退避は従容寛綽・優游自得である。不利なことはない。《小象》に言う。「肥遯无不利」は、彼が心中に毫も遲疑顧恋なきからである。

大壮(卦三十四)·乾下震上

《大壯》:利貞。《彖》曰:大壯,大者壯也。剛以動,故壯。“大壯利貞”,大者正也。正大,而天地之情可見矣。《象》曰:雷在天上,大壯。君子以非禮弗履。

《大壮》の卦は下乾上震、四陽は下に盛長し、陽大なる者は壮盛である。卦辞に言う。正を守るに利あり。《彖伝》は解釈する。大壮とは、陽大なる者の壮盛である。剛健の体を以て奮動する。ゆえに壮盛である。「大壮利貞」は、陽大なる者は必ず行いを端正にせねばならぬを言う。能く正にしてまた大なれば、天地の真情は看清楚することができる。《大象伝》に言う。雷が天上に響き声威は盛大なるは《大壮》の卦象である。君子はこれに取り法り、およそ礼に合わざる事は一概に為さない――真の強大は自我約束に在りて、力に恃んで妄為するに在らず。

初九,壯于趾,征凶,有孚。《象》曰:“壯于趾”,其孚窮也。九二,貞吉。《象》曰:九二“貞吉”,以中也。九三,小人用壯,君子用罔,貞厲。羝羊觸藩,羸其角。《象》曰:“小人用壯”,君子以罔也。

初九は最下に居りて陽気壮盛、脚趾に強を逞しゅうする。このように出征すれば凶で、これは確定无疑である。《小象》に言う。「壮于趾」は、その結果は必ず困窮し、これは断言し得る。九二は陽剛にして中に居り、壮に恃まずして能く中を守る。正を守れば吉である。《小象》に言う。九二の「貞吉」なる所以は、それが中に居りて偏らざるからである。九三は陽剛にして過ぐ。小人はここに処すれば一味に強に恃み、君子はここに処すれば若き無有と視してその壮を用いない。もし一味に強壮し走下去ば、たとえ守るも危険である。公羊が角を以て籬笆に頂いて反って角を卡住困らせるに似たり。《小象》に言う。「小人用壮」は、君子は同様の処境においてこれを有らざる事と作す。

九四,貞吉,悔亡。藩決不羸,壯于大輿之輹。《象》曰:“藩決不羸”,尚往也。六五,喪羊于易,無悔。《象》曰:“喪羊于易”,位不當也。上六,羝羊觸藩,不能退,不能遂,無攸利,艱則吉。《象》曰:“不能退,不能遂”,不詳也。“艱則吉”,咎不長也。

九四は陽剛にして陰位に居り、剛にして能く柔らぎ、正を守れば吉で悔恨は消失する。籬笆はすでに冲開されて羊角はもはや困を受けず、その壮は大車の車軸伏兎のごとく堅実にして行き得る。《小象》に言う。「藩決不羸」は、このときまさに引き続き前進すべきを言う。六五は陰柔にして尊位に居り、柔和の道を以て群陽の壮を消解する。田畔において軽易に羊を喪失するがごとき――その剛壮を失って反って悔なし。《小象》に言う。「喪羊于易」は、それが陰を以て陽に居り爻位当たらず、ただ柔道を以て之に処するのみだからである。上六は陰柔にして壮の極に居り、公羊が籬笆に頂住して退くも退き帰る能わず、進むも進み出る能わざるがごときである。利益なし。能く艱難を知りて自処すれば、転じて吉と為る。《小象》に言う。「不能退、不能遂」は、それが事を処すること周詳審慎に足らざるからである。「艱則吉」は、過ちは久しく持続しないを言う。

晋(卦三十五)·坤下離上

《晉》:康侯用錫馬蕃庶,晝日三接。《彖》曰:晉,進也,明出地上。順而麗乎大明,柔進而上行,是以“康侯用錫馬蕃庶,晝日三接”也。《象》曰:明出地上,《晉》。君子以自昭明德。

《晋》の卦は下坤上離、太陽は地面より升起し、光明は日に進む。「晋」は前進・晋陞である。卦辞に言う。安国の諸侯は天子の賞賜する車馬を得ること衆多で、一日の内に三度接見を受ける。《彖伝》は解釈する。晋とは前進で、光明が地面より升出する象である。下体は柔順にして上面の大光明に附麗し、柔爻は上進して尊位に居る。ゆえに「康侯用錫馬蕃庶、昼日三接」と言う。《大象伝》に言う。光明が地面より升出するは《晋》の卦象である。君子はこれに取り法り、自ら己の光明の徳性を彰顯すべきである。

初六,晉如摧如,貞吉。罔孚,裕無咎。《象》曰:“晉如摧如”,獨行正也。“裕無咎”。未受命也。六二,晉如,愁如,貞吉。受茲介福于,其王母。《象》曰:“受茲介福”,以中正也。六三,眾允,悔亡。《象》曰:“眾允”之志,上行也。

初六は晋の始めに居り、進まんと欲して摧抑され、正を守れば吉。たとえ信任されずとも、従容寛裕を以て待てば、過ちはない。《小象》に言う。「晋如摧如」は、彼が独り正道を走るを堅持する。「裕无咎」は、彼がまだ任命を接受せず、失うべき位なきからである。六二は陰柔中正にして上に正応なく、進まんと欲してまた憂愁す。正を守れば吉で、終に「王母」――六五のこの尊位に居る柔爻を指す――よりこの大福を承受する。《小象》に言う。「受兹介福」は、それが中に居りて正を守るからである。六三は陰柔にして正ならざるも、能く下面の衆陰の信任擁戴を得、これによって悔恨は消失する。《小象》に言う。「衆允」の體現する心志は、衆人が皆上に向かって前進せんと欲する。

九四,晉如鼫鼠,貞厲。《象》曰:“鼫鼠貞厲”,位不當也。六五,悔亡,失得,勿恤。往吉,無不利。《象》曰:“失得勿恤”,往有慶也。上九,晉其角,維用伐邑,厲吉,無咎,貞吝。《象》曰:“維用伐邑”,道未光也。

九四は陽爻にして陰位に居り、高位に貪據して才は称わず、前進の様子は碩鼠のごとき――貪婪にして技多くも一成する所なし。たとえ守るも危険である。《小象》に言う。「鼫鼠貞厲」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。六五は陰柔にして尊位に居り全卦の主と為る。悔恨は消失し、得失に対して皆憂慮する必用なく、往けば吉で不利なことはない。《小象》に言う。「失得勿恤」は、このように往けば必ず福慶あるを言う。上九は晋の極に居り、前進は頂角に至り、剛は極まりて躁る。ただ己の属下の邑国を討伐するに用いるべし。危厲あるも吉を得、過ちはないが、正道に就て言えばなお憾惜に属す。《小象》に言う。「維用伐邑」は、彼の行う所の道がまだ光大に足らざるからである。

明夷(卦三十六)·離下坤上

《明夷》:利艱貞。《彖》曰:明入地中,“明夷”。內文明而外柔順,以蒙大難,文王以之。“利艱貞”,晦其明也,內難而能正其志,箕子以之。《象》曰:明入地中,“明夷”。君子以蒞眾用晦而明。

《明夷》の卦は下離上坤、光明は地下に沈入する。「夷」は傷で、「明夷」は即ち光明が受損することで、賢者が昏暗の世に処するを象徴する。卦辞に言う。艱難の中に正を守るに利あり。《彖伝》は解釈する。光明が地中に沈入するを「明夷」と言う。内心は文明にして外表は柔順で、これによって大きな患難を承受し得る。周文王が羑里に囚われたときはこのようにした。「利艱貞」は、己の光明を隠晦せしめんとする。内部の危難に身を処してなお己の心志を端正し得るは、殷末の箕子がこのようにした。《大象伝》に言う。光明が地中に沈入するは《明夷》の卦象である。君子はこれに取り法り、民衆を治理するに察を炫いて明と為さず、表面は含晦して心中は自ずから明らかであるべきである。

初九,明夷,于飛垂其翼。君子于行,三日不食。有攸往,主人有言。《象》曰:“君子于行”,義不食也。六二,明夷夷于左股,用拯馬壯,吉。《象》曰:六二之吉,順以則也。九三,明夷于南狩,得其大首,不可疾貞。《象》曰:“南狩”之志,乃得大也。

初九は明夷の始めに処し、飛鳥が傷を受けて翅膀を垂下するがごときである。君子は機を見て去り、三日連ねて進食せずとも顧みない。彼が往く所有れば、彼を收留する主人もなお三言四言を免れない。《小象》に言う。「君子于行」は、道義の上で講じれば寧ろ餓えても昏君に禄を受けない。六二は陰柔中正にして、傷は左腿に在りてなお致命ならず。健壯の馬を以て己を拯救すれば、吉である。《小象》に言う。六二の吉なる所以は、それが柔順にして法則に合するからである。九三は陽剛にして下卦の上に居り、南方に向かって出獵して昏暗を討伐し、首悪元凶を擒獲するがごときである。しかし之を操りて急に過ぎて一挙に廓清せんことを強求すべからず。《小象》に言う。「南狩」の志向は、終に大いに成す所有るを得る。

六四,入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。《象》曰:“入于左腹”,獲心意也。六五,箕子之明夷,利貞。《象》曰:箕子之貞,明不可息也。上六,不明,晦,初登于天,後入于地。《象》曰:“初登于天”,照四國也。“後入天地”,失則也。

六四は陰柔にして正を得、昏君の腹心の地に深入し、この明を傷める者の心意を摸清し、そこで早めに門庭を走出して遠く避ける。《小象》に言う。「入于左腹」は、対方の真実の心意を探知した。六五は上六のこの昏暗の主に最も近く、処境はまさに箕子のごとく――佯狂して奴と為り自らを保ってその志を改めず、正を守るに利あり。《小象》に言う。箕子の守正は、光明の徳性は熄滅し得べからざるを説明する。上六は卦の極に居り、明を傷める者そのものである。昏暗不明で、初めは天位に登りて光は四方を照らし、最後は地下に墜入する。《小象》に言う。「初登于天」は、かつて四方の国に照臨した。「後入天地」は、為君の法則を喪失したからである。(底本の《象》文は「後入天地」と作り、爻辞の「後入于地」と小異なる。今は照録して改めない。)

家人(卦三十七)·離下巽上

《家人》:利女貞。《彖》曰:家人,女正位乎內,男正位乎外。男女正,天地之大義也。家人有嚴君焉,父母之謂也。父父,子子,兄兄,弟弟,夫夫,婦婦,而家道正。正家而天下定矣。《象》曰:風自火出,家人。君子以言有物而行有恆。

《家人》の卦は下離上巽、六二は内に居りて正を得、九五は外に居りて正を得、まさに男女各々その位を得る象である。卦辞に言う。女子が正を守るに利あり。《彖伝》は解釈する。家人の道は、女子は端正にして内位に居り、男子は端正にして外位に居る。男女各々その正を得るは、天地の間の大道理である。一家の中に威厳の主宰あるは、父母を指す。父は父らしく、兒子は兒子らしく、兄長は兄長らしく、弟弟は弟弟らしく、丈夫は丈夫らしく、妻子は妻子らしければ、家道は端正する。家々端正すれば、天下もまた安定する。《大象伝》に言う。風は火の中より生出す――火燃えて気動して風と為るは、まさに教化が内より外に及ぶがごとき、これが《家人》の卦象である。君子はこれに取り法り、言話には必ず実在の内容あり、行事には必ず恒久の常則あるべきである。

初九,閒有家,悔亡。《象》曰:“閒有家”,志未變也。六二,無攸遂,在中饋,貞吉。《象》曰:六二之吉,順以巽也。九三,家人嗃々,悔厲吉;婦子嘻嘻,終吝。《象》曰:“家人嗃々”,未失也。“婦子嘻嘻”,失家節也。

初九は家道の始めに居り、規矩を以て一家の人を防範約束すれば、悔恨は自然に消失する。《小象》に言う。「閑有家」は、人心がまだ変壊せざる時に趁って先に防閑を立下する。六二は陰柔中正にして内に居り、自ら主張を作して擅自に事を成さず、ただ家中に於て飲食の事を主持し、正を守れば吉である。《小象》に言う。六二の吉なる所以は、それが柔順にして謙遜だからである。九三は陽剛にして過ぎ、家を治めること過厳で、家人は呵責の声の中に愁苦不安する(「嗃々」は即ち「嗃嗃」、底本は重文符号を用いる。今は照録する)。悔恨危厲あるも、終帰して吉を得る。反対に、もし婦人孩子が嘻嘻哈哈として毫も節制なければ、最後は必ず憾惜を致す。《小象》に言う。「家人嗃々」は、厳なれど家を治める道を失わず。「婦子嘻嘻」は、家中の礼節法度を喪失した。

九四,富家,大吉。《象》曰:“富家大吉”,順在位也。九五,王假有家,勿恤,吉。《象》曰:“王假有家”,交相愛也。上九,有孚威如,終吉。《象》曰:威如之吉,反身之謂也。

九四は陰位陽爻にして正を得、家道を富厚ならしむることができる。大吉である。《小象》に言う。「富家大吉」は、それが柔順にしてまた当位に居るからである。九五は陽剛中正にして尊位に居り、君王は至誠を以て感格して一家を和睦せしむ。憂慮する必用なし。吉である。《小象》に言う。「王假有家」は、一家上下が彼此相愛する。上九は家道の終わりに居り、誠信を懐いてまた威厳を保有すれば、終に吉を得る。《小象》に言う。威厳の吉を得る所以は、先ず反って己を厳格に要求することを言う――自身が端正すれば、威厳は自ずから生ずる。

睽(卦三十八)·兌下離上

《睽》:小事吉。《彖》曰:睽,火動而上,澤動而下。二女同居,其志不同行。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉。天地睽而其事同也。男女睽而其志通也。萬物睽而其事類也,睽之時用大矣哉!《象》曰:上火下澤,睽。君子以同而異。

《睽》の卦は下兌上離。「睽」は乖離背違である。卦辞に言う。小事の上は吉利である。《彖伝》は解釈する。睽とは、火性は上に向かって動き沢水は下に向かって流れ、二者は背道して馳る。また中女と少女が一家に同住して、長ずるに従い心志は各々相同じからざるがごときである。この卦は下体は和悦にして上体の光明に附麗し、六五の柔爻は上進して尊位に居り、中位を得て九二の剛に相応ずる。ゆえに小事の上で吉利である。天地上下は相睽なるも、それらの万物を化育する事業は相同じ。男女陰陽は相睽なるも、彼らの合を求める心志は相通ず。万物の形態は各々異なり相睽なるも、それらの天地の気を禀受する道理は同類である。《睽》卦の含む時機と功用はまことに重大である!《大象伝》に言う。上は火、下は沢、これが《睽》の卦象である。君子はこれに取り法り、人と大同の中に於てなお己の独立不苟同を保有すべきである。

初九,悔亡。喪馬勿逐自復。見惡人無咎。《象》曰:“見惡人”,以辟咎也。九二,遇主于巷,無咎。《象》曰:“遇主于巷”,未失道也。六三,見輿曳,其牛掣,其人天且劓,無初有終。《象》曰:“見輿曳”,位不當也。“無初有終”,遇剛也。

初九は睽の始めに居り、悔恨は消失する。丟失した馬は追いに行く必用なく、それは自ずから帰って来る。たとえ己の厭悪する人に見えるも過ちはない。《小象》に言う。「悪人」に会見しに行くを肯んずるは、まさに怨咎を避けるため――乖離の時はさらに人と絶交すべからず。九二は陽剛にして中に居り、六二と本是正応なれど睽隔のために正面に相会し難く、ただ小巷の裡に不期に遇うのみ。過ちはない。《小象》に言う。「遇主于巷」は、この種の権変の会合は正道に背離していない。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、前に九四の阻撓あり後に九二の牽掣あり。車子が拖住され、駕車の牛が扯掣され、趕車の人はさらに黥額劓鼻の刑を施されるを見るがごときである。初めは順ならず、終帰して好い結果あり。《小象》に言う。「見輿曳」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。「无初有終」は、それが終に上九のこの陽剛正応と相遇するからである。

九四,睽孤遇元夫,交孚,厲,無咎。《象》曰:“交孚無咎”,志行也。六五,悔亡。厥宗噬膚,往何咎?《象》曰:“厥宗噬膚”,往有慶也。上九,睽孤見豕負途,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪寇,婚媾。往遇雨則吉。《象》曰:“遇雨之吉”,群疑亡也。

九四は乖離の時に孤立して応なく、幸いに初九のこの陽剛の善士に遇い、彼此誠信を以て相交わる。危厲に処するも、過ちはない。《小象》に言う。「交孚无咎」は、彼の心志が施行し得るからである。六五は陰柔にして尊位に居り、悔恨は消失する。その同宗――九二のこの正応を指す――が前来して相輔し、柔嫩の肌膚に咬み入るがごとき容易に親合する。このように往けばまたどんな過ちがあろうか。《小象》に言う。「厥宗噬膚」は、往けば必ず福慶あるを言う。上九は睽の極に居り、孤疑は極点に至る。猪の背上に満ちた汚泥を見、一車の鬼怪を載せたを見、そこで先ず弓を張って射んとし、随いてまた弓を放下した――もとより来る者は強盗に非ず、婚配を求める六三であった。往って之と陰陽相合し、雨に遇って疑は消えれば、吉である。《小象》に言う。「遇雨之吉」は、種種の猜疑が皆消散したからである。

蹇(卦三十九)·艮下坎上

《蹇》:利西南,不利東北。利見大人。貞吉。《彖》曰:蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉!蹇,利西南”,往得中也。“不利東北”,其道窮也。“利見大人”,往有功也。當位”貞吉”,以正邦也。蹇之時用大矣哉!《象》曰:山上有水,蹇。君子以反身修德。

《蹇》の卦は下艮上坎、山上に水あり、行路は艱阻である。「蹇」は跛足にして行き難く、引申して険阻を言う。卦辞に言う。西南の平易の地に往くに利あり、東北の険阻の地に往くに利せず。徳位ある「大人」に見えるに利あり、正を守れば吉。《彖伝》は解釈する。蹇とは艱難で、険陷が前に横たわる。危険を見て能く停下して進まない。これはまことに明智である!「蹇、利西南」は、往けば中正の処境を得ることを得る。「不利東北」は、あの路はすでに窮尽に走った。「利見大人」は、往けば必ず功を建て得る。九五等の爻は位に居り得当にして「貞吉」は、邦国を端正するに用いる。《蹇》卦の含む時機と功用はまことに重大である!(底本は此段の引号が残缺不全。今は照録して補わない。)《大象伝》に言う。山上に水ありは《蹇》の卦象である。君子はこれに取り法り、難に遇えば先ず躬を反して自省し徳行を修養すべきである。

初六,往蹇來譽。《象》曰:“往蹇來譽”,宜待也。六二,王臣蹇蹇,匪躬之故。《象》曰:“王臣蹇蹇”,終無尤也。九三,往蹇來反。《象》曰:“往蹇來反”,內喜之也。

初六は蹇の始めに居り、往けば険に遇い、返れば美誉を得る。《小象》に言う。「往蹇来誉」は、このとき停下して時機を待つべきを言う。六二は陰柔中正にして上に九五に応じ、身は王の臣子として、重々の険難の中に奔走して已まない。これは自身の私事のためではない。《小象》に言う。「王臣蹇蹇」は、忠を尽くすことこのごとく、終に過失なし。九三は陽剛にして下卦の上に居り、往けば険に遇い、返って下りてこそ安穏する。《小象》に言う。「往蹇来反」は、内卦の二つの陰爻が皆それが帰って来て依靠と為るを喜ぶからである。

六四,往蹇來連。《象》曰:“往蹇來連”,當位實也。九五,大蹇朋來。《象》曰:“大蹇朋來”,以中節也。上六,往蹇來碩,吉,利見大人。《象》曰:“往蹇來碩”,志在內也。“利見大人”,以從貴也。

六四は陰柔にして正を得、往けば依然険難で、返れば九三と聯合相連し得る。《小象》に言う。「往蹇来連」は、それが位に居り得当にして心地誠実で、人と相合し得るからである。九五は陽剛中正にして尊位に居り、最大の艱難の中に身を処するも、衆爻は朋友のごとく前来して相助ける。《小象》に言う。「大蹇朋来」は、彼が能く中道を秉持して節度あるからである。上六は蹇の極に居り、往けば路なく、返って下れば反って収穫は碩大で、吉で、しかも九五のこの「大人」に見えるに利あり。《小象》に言う。「往蹇来碩」は、彼の心志が内卦の衆爻に係るからである。「利見大人」は、彼が九五のこの尊貴者に随従して難を済すからである。

解(卦四十)·坎下震上

《解》:利西南。無所往,其來復吉。有攸往,夙吉。《彖》曰:解,險以動,動而免乎險,解。“解,利西南”,往得眾也。“其來復吉”,乃得中也。“有攸往夙吉。”,往有功也。天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲坼。解之時大矣哉!《象》曰:雷雨作,解。君子以赦過宥罪。

《解》の卦は下坎上震、動きて険の外に出る。「解」は解除・緩解である。卦辞に言う。西南の平易の地に往くに利あり。もし往くべき処なければ、旧位に回帰すれば吉。もし往く所有れば、早めに行動すれば吉。《彖伝》は解釈する。解とは、険に処して能く動き、一動すれば危険を脱離する。ゆえに解と言う。「解、利西南」は、往けば衆人の帰附を得るを得る。「其来復吉」は、回帰して中道を得る能くする。「有攸往夙吉」は、往けば必ず功を建て得る。天地の気が舒解すれば雷雨が興作し、雷雨が興作すれば百果草木の種子の外殻は皆迸裂して発芽する。《解》卦の含む時機意義はまことに重大である!《大象伝》に言う。雷雨が興作し、鬱結が疏解を得るは《解》の卦象である。君子はこれに取り法り、過失を赦免し罪愆を寛宥すべきである。

初六,無咎。《象》曰:剛柔之際,義無咎也。九二,田獲三狐,得黃矢,貞吉。《象》曰:九二貞吉,得中道也。六三,負且乘,致寇至,貞吝。《象》曰:“負且乘”,亦可醜也。自我致戎,又誰咎也?

初六は陰柔にして解の始めに居り、難は方が解けて作為する所なく、これによって過ちはない。《小象》に言う。それは九二と剛柔相接し上に九四に応ずれば、道義の上で言って過ちなし。九二は陽剛にして中に居り、田獵して三匹の狐狸を捕獲しまた黄銅の箭頭を得るがごとき――君上を媚惑する小人を除去して剛直中正の徳を守住した。正を守れば吉である。《小象》に言う。九二の「貞吉」なる所以は、それが中道を得たからである。六三は陰柔にして陽位に居り、本は物を負う小人なのに君子の車子に乗坐し、徳は位に称わず、これによって強盗を招来する。たとえ自守するも憾惜を免れ難い。《小象》に言う。「負且乗」は、実に羞ずべきである。盗寇は自ら招来したので、また誰を怪しまんや。

九四,解而拇,朋至斯孚。《象》曰:“解而拇”,未當位也。六五,君子維有解,吉,有孚于小人。《象》曰:君子有解,小人退也。上六,公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。《象》曰:“公用射隼”,以解悖也。

九四は陽爻にして陰位に居り、初六のこの小人と牽連あり。ただ脚拇趾のごとき小さな牽累を解除してこそ、志同道合の朋友が前来して誠を以て相待する。《小象》に言う。「解而拇」は、それが居る所の爻位が当たらないから、ゆえに自らその累を解くを要す。六五は陰柔にして尊位に居り、君子はただ真に小人の党を解除し得てこそ吉。効を見せ得るか否かは、小人が退避するか否かに之を験す。《小象》に言う。君子が解除する所有れば、小人は自ずから退去する。上六は解の極に居り、王公が高墻の上にて凶猛の鷹隼を射獵し、一箭にして射獲するがごときである。不利なことはない。《小象》に言う。「公用射隼」は、悖乱の患を解除するに用いる。

損(卦四十一)·兌下艮上

《損》:有孚,元吉,無咎。可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。《彖》曰:損,損下益上,其道上行。損而有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往,曷之用?二簋可用享。二簋應有時。損剛益柔有時,損益盈虛,與時偕行。《象》曰:山下有澤,損。君子以懲忿窒欲。

《損》の卦は下兌上艮、下卦の陽剛を減損して上卦に増益する。卦辞に言う。心に誠信を懐けば大吉、過ちなし。正を守るべし、往く所有るに利あり。何を以て祭祀するか。二簋の薄食を以て献享するに足る。《彖伝》は解釈する。損とは、下を減損して上を増益し、その道は上に向かって行く。減損するとき能く誠信を存すれば、大吉・過ちなし・正を守るべし・往くに利あり。何を以て祭祀するか。二簋の薄食で足る。ただ二簋の薄食を用いるも時宜に合するを要す。剛強を減損し柔弱を増益するは時機を看るを要し、減損・増益・盈満・虧虚は皆時勢に随って一同に推移するを得る。《大象伝》に言う。山下に沢あり、沢は自らその深を損して山はその高を益するは《損》の卦象である。君子はこれに取り法り、己の忿怒を懲戒し、己の欲望を堵塞すべきである。

初九,已事遄往,無咎。酌損之。《象》曰:“已事遄往”,尚合志也。九二,利貞。征凶,弗損,益之。《象》曰:“九二利貞”,中以為志也。六三,三人行則損一人,一人行則得其友。《象》曰:“一人行”,“三”則疑也。

初九は陽剛にして下に在りて六四に応じ、己の事を弁じ終われば速やかに前去して相助け、過ちはない。しかし相助けるときは分寸を斟酌し、己を損し過ぎるべからず。《小象》に言う。「已事遄往」は、上面の六四がまさに彼と心志相合する。九二は陽剛にして中に居り、正を守るに利あり。急切に往けば凶。己を減損する必用なく、ただ剛中の徳を守住すれば、本身が即ち上への増益である。《小象》に言う。「九二利貞」は、それが中を守るを以て己の志向と為すからである。六三は陰陽配合の理を講ず。三人同行すれば、一人を減損するを要す。一人独行すれば、反って一位の伴侣を得ることを得る。《小象》に言う。「一人行」してこそ専一に相得、「三」人同行すれば猜疑を生ずるを要す。

六四,損其疾,使遄有喜,無咎。《象》曰:“損其疾”,亦可喜也。六五,或益之十朋之龜,弗克違,元吉。《象》曰:六五元吉,自上祐也。上九,弗損,益之,無咎,貞吉,利有攸往,得臣無家。《象》曰:“弗損,益之”,大得志也。

六四は陰柔にして病多く、能く己の毛病を減損し、しかも初九をして速やかに前来して相助けしむれば、喜慶あり、過ちなし。《小象》に言う。「損其疾」は、これ本身就是可喜の事である。六五は陰柔にして尊位に居り虚心に益を受け、或る人が價値十朋の大宝亀を送り来たりて、推辞しても掉げない。大吉である。《小象》に言う。六五の大吉なる所以は、上天の保佑より来る。上九は損の終わりに居り、損は極まりて返る。更に下を減損せず、反って下に増益し、過ちなく、正を守れば吉、往く所有るに利あり、天下の臣民の帰心を得て一家一姓に限らざるを得る。《小象》に言う。「弗損、益之」は、彼の天下を利益する心志が大いに実現したからである。

益(卦四十二)·震下巽上

《益》:利有攸往。利涉大川。《彖》曰:“益”,損上益下,民說無疆。自上下下,其道大光。“利有攸往”,中正有慶。“利涉大川”,木道乃行。益動而巽,日進無疆。天施地生,其益無方。凡益之道,與時偕行。《象》曰:風雷,益。君子以見善則遷,有過則改。

《益》の卦は下震上巽、《損》と相反して、上を減損して下に増益する。卦辞に言う。往く所有るに利あり、大河巨険を渡るに利あり。《彖伝》は解釈する。「益」とは、上を減損して下を増益し、百姓の喜悦に辺際なし。上に在る者は尊を屈して下民に下就し、この路は極めて光大である。「利有攸往」は、九五・六二が中正相応して福慶あるからである。「利渉大川」は、巽は木で舟楫と為し得、木道が通行を得るからである。益卦は下動して上順し、これによって日々に増進して止境なし。上天は施与し大地は生育し、この種の増益は在る所なし。およそ増益の道は、皆時勢に随って一同に推行するを要す。《大象伝》に言う。風と雷が互相に増益するは《益》の卦象である。君子はこれに取り法り、善行を見ればそれに向かって靠攏し、過ち有れば即座に改正すべきである。

初九,利用為大作,元吉,無咎。《象》曰:“元吉無咎”,下不厚事也。六二,或益之十朋之龜,弗克違。永貞吉。王用享于帝,吉。《象》曰:“或益之”,自外來也。六三,益之用凶事,無咎。有孚。中行告公用圭。《象》曰:“益用凶事”,固有之也。

初九は上の益を得て陽剛にして下に在り、このとき大いに作為あるに利あり。しかし必ず大吉を為さねばならず、こうしてこそ過ちなし。《小象》に言う。「元吉」を要して「无咎」なるは、下位に居る人は本来このような厚重の大事を承当すべからざるがゆえに、一たび閃失あればその咎を辞し難い。六二は陰柔中正にして己を虚しくして益を受け、或る人が價値十朋の大宝亀を送り来たりて、推辞しても掉げない。長久に正を守れば吉。君王がこのような誠敬を以て上帝を祭享すれば、吉である。《小象》に言う。「或益之」は、この増益は外より自然に来たり、強求に出づるに非ず。六三は陰柔にして正ならず、得る所の増益を災を救うのごとき凶事の上に用いれば、過ちなし。心に誠信を存し、中道を秉持して行事し、なお圭を執りて信と為して王公に禀告するを要す。《小象》に言う。「益用凶事」は、この種の増益は本来このような処に用いるべきで、彼の分内固有の責だからである。

六四,中行告公,從,利用為依遷國。《象》曰:“告公從”,以益志也。九五,有孚惠心,勿問,元吉。有孚,惠我德。《象》曰:“有孚惠心”,勿問之矣。“惠我德”,大得志也。上九,莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。《象》曰:“莫益之”,偏辭也。“或擊之”,自外來也。

六四は陰柔にして正を得、中道を秉持して王公に禀告し、王公は聴従した。このとき大国に依托して国都を遷徙するのごとき大事に利あり。《小象》に言う。「告公従」は、彼が一心に下を益する志向のためだからである。九五は陽剛中正にして、誠信を懐いて恵愛の心有り、更に占問する必用なく、大吉である。天下もまた誠信を以て回報し、我が恩徳を感念する。《小象》に言う。「有孚恵心」は、問わずとも吉を知る。「恵我徳」は、彼の心志が大いに実現したからである。上九は益の極に居りて一味に人に益を求め、結果は誰も彼に増益せず、反って彼を攻撃する人有り。心を立てて恒久専一できず。凶である。《小象》に言う。「莫益之」は、一方に偏して益を求める辞である。「或撃之」は、禍患が外より上門して来る。

夬(卦四十三)·乾下兌上

《夬》:揚于王庭,孚號。有厲,告自邑。不利即戎,利有攸往。《彖》曰:“夬”,決也,剛決柔也。健而說,決而和。“揚于王庭”,柔乘五剛也。“孚號有厲”,其危乃光也。“告自邑,不利即戎”,所尚乃窮也。“利有攸往”,剛長乃終也。《象》曰:澤上於天,夬。君子以施祿及下,居德則忌。

《夬》の卦は下乾上兌、五陽は下より一陰を決去する。「夬」は決断・決去である。卦辞に言う。王庭の上にて小人の罪状を公開宣揚し、誠信を以て衆人に号令する。心に危懼を存し、まず己の城邑より号令を発布する。即座に武力を動用するに利せず、正道を堅持して往くに利あり。《彖伝》は解釈する。「夬」とは決去で、陽剛が陰柔を決去する。下体は剛健にして上体は和悦で、決断の中に於てなお和順を保持し得る。「揚于王庭」は、上六のこの柔爻が五つの剛爻の上に凌駕し、その罪は明白に揭示すべきだからである。「孚号有厲」は、まさに危懼を知るがゆえに、その道は光大する。「告自邑、不利即戎」は、一味に武力を崇尚すれば窮途に走入するを言う。「利有攸往」は、陽剛が極処まで生長し、陰を決する事は終に完成し得るからである。《大象伝》に言う。沢水が天上に昇り、蓄極まりて将に決せんとするは《夬》の卦象である。君子はこれに取り法り、俸禄を下の人に施与し、徳を積居して施して散ぜざるに対しては引いて戒めと為すべきである。

初九,壯于前趾,往不勝,為咎。《象》曰:不勝而往,咎也。九二,惕號,莫夜有戎,勿恤。《象》曰:“有戎勿恤”,得中道也。九三,壯于頄,有凶。君子夬夬獨行,遇雨若濡,有慍無咎。《象》曰:“君子夬夬”,終無咎也。

初九は最下に居りて前進の脚趾に強を逞しゅうし、往っても勝ち得なければ、すなわち過ちと成る。《小象》に言う。勝ち得ざるを知りてなお往く、これがすなわち過ちである。九二は陽剛にして中に居り、心に警惕を懐いて衆人に号令して戒備せしむ。たとえ傍晚天黑の時に兵戎突如来るとも、憂慮する必用なし。(「莫夜」は即ち「暮夜」で、日落の後を指す。)《小象》に言う。「有戎勿恤」は、それが中道を得て、備あれば患なしだからである。九三は陽剛にして過ぎ、剛強を面顴の上に顕露し、凶險あり。しかし君子は小人を決去するを決心して独り前行し、途中雨に遇いて沾湿される――即ち上六と牽渉あるを免れ難く人の非議を受ける――愠怒を招来するも、終に過ちはない。《小象》に言う。「君子夬夬」は、決心が堅定で、最終的に過ちはない。

九四,臀無膚,其行次且。牽羊悔亡,聞言不信。《象》曰:“其行次且”,位不當也。“聞言不信”,聰不明也。九五,莧陸夬夬中行,無咎。《象》曰:“中行無咎”,中未光也。上六,無號,終有凶。《象》曰:“無號之凶”,終不可長也。

九四は陽爻にして陰位に居り、進退に拠を失い、臀部の皮を磨破して坐立安んぜず、行走すれば趑趄して進み難きがごときである。もし羊を牽くがごとく衆に随って行き己の強を逞しゅうしなければ、悔恨は消失する。可惜なことに彼はこのような忠告を聴いても肯じて信じない。《小象》に言う。「其行次且」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。「聞言不信」は、彼は聴覚ありといえど事理を明らかにせざるからである。九五は陽剛中正にして上六に緊鄰し、馬歯筧を鏟除するがごとく果断に之を決去し、中道を秉持して行えば、過ちなし。《小象》に言う。「中行无咎」は、彼が上六と親比し、中正の徳がまだ充分に光大していないからである。上六は決去されるその陰爻で、孤立して援なく、呼号して救いを求めるも用なし。終に凶あり。《小象》に言う。「无号之凶」は、小人の道は終に長久なり得ざるを言う。

姤(卦四十四)·巽下乾上

《姤》:女壯,勿用取女。《彖》曰:姤,遇也,柔遇剛也。勿用取女”,不可與長也。天地相遇,品物咸章也。剛遇中正,天下大行也。姤之時義大矣哉!《象》曰:天下有風,姤。后以施命誥四方。

《姤》の卦は下巽上乾、一陰は五陽の下に生じ、《夬》と正に相反する。「姤」は相遇・不期而遇である。卦辞に言う。この女子は太だ強壮で、このような女子を娶るべからず。《彖伝》は解釈する。姤とは相遇で、柔爻が剛爻に遇上する。「勿用取女」は、このような人と長久に相処すべからざるを言う。天地の気が相遇して、万物は皆彰顕生長する。陽剛が中正の道に遇上すれば、教化は天下に通行し得る。《姤》卦の含む時機意義はまことに重大である!(底本はここ引号が残缺する。今は照録して補わない。)《大象伝》に言う。天下に風吹拂して、物として之と相遇せざるなきは《姤》の卦象である。君主はこれに取り法り、命令を頒布し四方に誥諭した。

初六,繫于金柅,貞吉。有攸往,見凶,羸豕孚蹢躅。《象》曰:“繫于金柅”,柔道牽也。九二,包有魚,無咎,不利賓。《象》曰:“包有魚”,義不及賓也。九三,臀無膚,其行次且,厲,無大咎。《象》曰:“其行次且”,行未牽也。

初六は全卦唯一の陰爻で、銅製の止輪木を以て車を剎住するがごとくそれを係住するを要し、正を守れば吉。もし放任して往かしめれば、凶險を見る――一頭の瘦弱の母猪は、力なきごとく見えるも、実は躁動不安にして終に必ず事を生ず。《小象》に言う。「係于金柅」は、柔道は必ず牽制約束されねばならぬを言う。九二は陽剛にして中に居り、近く初六のこの「魚」を包住した。過ちなし。しかしこの魚を賓客――他の陽爻を指す――の手に落としめるべからず。《小象》に言う。「包有魚」は、道義の上で言えばこの魚は賓客に輪るべからず。九三は陽剛にして過ぎて下に遇う所なく、臀部の皮を磨破し、行走は趑趄して進み難く、危厲あるも、大きな過ちはない。《小象》に言う。「其行次且」は、それが前行するとき初六に牽連されていないから、ゆえに危なれど大咎なし。

九四,包無魚,起凶。《象》曰:“無魚之凶”,遠民也。九五,以杞包瓜,含章,有隕自天。《象》曰:九五含章,中正也。有隕自天,志不舍命也。上九,姤其角,吝,無咎。《象》曰:“姤其角”,上窮吝也。

九四は初六と本是正応なれど、初六はすでに九二に包まれたがゆえに、包中に魚なし。これによって凶險を生出す。《小象》に言う。「无魚之凶」は、彼が本来己に帰附すべき民衆を疏遠したからである。九五は陽剛中正にして尊位に居り、高大の杞樹の葉を以て底下の瓜を包住する――尊位を以て下面の陰柔を含容し、美德を含蓄して露さず、終に美善の事が天より降るがごとき有る。《小象》に言う。九五が能く美德を含蓄するは、それが中に居りて正を守るからである。「有隕自天」は、彼の心志が始終天命を捨棄するを肯んぜざるからである。上九は卦の極に居り、遇う所はただ己の頭上の角のみで、高亢にして遇合する所なし。憾惜なるも、過ちはない。《小象》に言う。「姤其角」は、上位に居りて窮極し、ゆえに憾惜あるのみだからである。

萃(卦四十五)·坤下兌上

《萃》:亨,王假有廟。利見大人。亨,利貞,用大牲吉。利有攸往。《彖》曰:“萃”,聚也。順以說,剛中而應,故聚也。“王假有廟”,致孝享也。“利見大人亨”,聚以正也。“用大牲吉,利有攸往”,順天命也。觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。《象》曰:澤上於地,萃。君子以除戎器,戒不虞。

《萃》の卦は下坤上兌。「萃」は薈聚・会合である。卦辞に言う。亨通する。君王は宗廟に来たりて祖先を祭祀する。徳位ある「大人」に見えるに利あり、亨通し、正を守るに利あり。牛のごとき大牲を用いて献祭すれば吉。往く所有るに利あり。《彖伝》は解釈する。「萃」とは聚集である。下体は柔順にして上体は和悦、九五は陽剛にして中に居り六二に相応ずる。ゆえに聚まることを得る。「王假有廟」は、その孝心を致して祖先に献享する。「利見大人亨」は、聚合は必ず正道に依って進行せねばならぬ。「用大牲吉、利有攸往」は、天命に順応して行う。万物の聚合する所の道理を観察すれば、天地万物の真情は看清楚することができる。《大象伝》に言う。沢水が地面の上に聚まるは《萃》の卦象である。君子はこれに取り法り、兵器を修繕し、意料之外の変故に戒備すべきである――人衆の聚集する処は最も乱を生じ易い。

初六,有孚不終,乃亂乃萃,若號,一握為笑,勿恤,往無咎。《象》曰:“乃亂乃萃”,其志亂也。六二,引吉,無咎,孚乃利用禴。《象》曰:“引吉無咎”,中未變也。六三,萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。《象》曰:“往無咎”,上巽也。

初六は九四と本は誠信の応あるも、終わりまで堅持することができず、そこで心緒は紛乱して胡乱に聚合する。ただ呼号して応を求めれば、転眼の間に悲より笑に転ずる。憂慮する必用なく、往けば過ちはない。《小象》に言う。「乃乱乃萃」は、彼の心志が先に乱れたからである。六二は陰柔中正にして、九五に牽引されて上れば吉で過ちなし。心に誠信を存しさえすれば、禴のごとき最も薄き春祭を用いても神に通ずるに足る。《小象》に言う。「引吉无咎」は、それが居中の徳が始終改変していないからである。六三は陰柔にして正ならず、聚合せんと欲して相応ずる人なく、ただ嗟嘆するのみで利益なし。上行して上六に依附すれば過ちなし、ただ稍々憾惜あるのみ。《小象》に言う。「往无咎」は、上面の上六が柔順にしてそれを接納するを肯んずるからである。

九四,大吉無咎。《象》曰:“大吉無咎”,位不當也。九五,萃有位,無咎。匪孚,元永貞,悔亡。《象》曰:“萃有位”,志未光也。上六,齎諮涕洟,無咎。《象》曰:“齎諮涕洟”,未安上也。

九四は陽爻にして陰位に居りて衆陰が帰附し、処境は嫌疑あり。大吉を為してこそ、過ちなしとすることができる。《小象》に言う。「大吉」を要して「无咎」なるは、それが居る所の爻位が当たらないからである。九五は陽剛中正にして、天下の衆を聚めてまた尊位に居る。過ちなし。もし誠服せざる人有れば、元善・長久・守正の徳を以て彼らを感化し、悔恨は自ずから消失する。《小象》に言う。「萃有位」は、位のみ憑りて未だ人心を服し尽くさず、彼の心志がまだ充分に光大していないからである。上六は萃の極に居りて帰聚する所なく、ただ咨嗟嘆息し涕泪が交流するのみである。能くこのように自ら傷んで警を知れば、過ちなし。《小象》に言う。「齎咨涕洟」は、彼が上位に高居して安く処する能わざるからである。

升(卦四十六)·巽下坤上

《升》:元亨。用見大人,勿恤。南征吉。《彖》曰:柔以時升,巽而順,剛中而應,是以大亨,“用見大人勿恤”,有慶也。“南征吉”,志行也。《象》曰:地中生木,升。君子以順德,積小以高大。

《升》の卦は下巽上坤、木は地中に生じて上に向かって生長する。「升」は上昇である。卦辞に言う。大いに亨通する。このような態度を以て徳位ある「大人」に見えれば、憂慮する必用なし。南方に向かって進発すれば吉。《彖伝》は解釈する。柔爻は時機に依循して上昇し、下体は謙遜にして上体は柔順、九二は陽剛にして中に居り六五に相応ずる。ゆえに大いに亨通する。「用見大人勿恤」は、必ず福慶ある。「南征吉」は、彼の心志が施行し得る――南方は明で、明に向かって行けば吉。《大象伝》に言う。地中に樹木を生出し、日に長じて覚えず、これが《升》の卦象である。君子はこれに取り法り、自然に順って徳性を培育し、細小を積累して高大に至るべきである。

初六,允升,大吉。《象》曰:“允升大吉”,上合志也。九二,孚乃利用禴,無咎。《象》曰:九二之孚,有喜也。九三,升虛邑。《象》曰:“升虛邑”,無所疑也。

初六は陰柔にして最下に在り、上面の二陽の信任を得て之に随って上昇し得る。大吉である。《小象》に言う。「允升大吉」は、それが上面の陽爻と心志相合するからである。九二は陽剛にして中に居り六五の柔に応じ、心に誠信を存しさえすれば、禴のごとき最も薄き春祭を用いても神に通じ、過ちはない。《小象》に言う。九二の誠信は、必ず可喜の事ある。九三は陽剛にして正を得、上行して毫も阻礙なく、空虚無人の城邑に入るがごときである。《小象》に言う。「升虚邑」は、前路が通暢して遲疑すべきことなきを言う。

六四,王用亨于岐山,吉,無咎。《象》曰:“王用亨于岐山”,順事也。六五,貞吉,升階。《象》曰:“貞吉升階”,大得志也。上六,冥升,利于不息之貞。《象》曰:冥升在上,消不富也。

六四は陰柔にして正を得、周文王が岐山に於て山川神霊を祭享するがごときで、柔順に自処して僭越せず。吉で、過ちはない。《小象》に言う。「王用亨于岐山」は、柔順に彼の分内の事を為す。六五は陰柔にして尊位に居り九二の賢を任用し、正を守れば吉で、上昇は階を登りて上るがごとく一歩一歩穩やかである。《小象》に言う。「貞吉升階」は、彼の心志が大いに実現したからである。上六は升の極に居り、昏昧無知に一味に升を求める。このときただこの止息せざる勁頭を正道を持守する上に用いてこそ利あり。《小象》に言う。昏昧に升を求めてまた上位に高居すれば、ただ日に消損するのみで充実富有することはない。

困(卦四十七)·坎下兌上

《困》:亨。貞大人吉,無咎。有言不信。《彖》曰:“困”,剛揜也。險以說,因而不失其所,亨,其唯君子乎。“貞大人吉”,以剛中也。“有言不信”,尚口乃窮也。《象》曰:澤無水,困。君子以致命遂志。

《困》の卦は下坎上兌、沢は上に在りて水は下に漏れ、沢中に水なし。「困」は困窮である。卦辞に言う。亨通する。正を守る大人は吉を得、過ちはない。このとき言話を為しても人に信ぜられない。《彖伝》は解釈する。「困」とは、陽剛が陰柔に掩蔽されることである。険境に身を処して心中はなお和悦し得、これによって困窮の中にその守る所を失わず。ゆえに能く亨通する――これはおそらく君子のみが為し得るであろう。「貞大人吉」は、九二・九五が陽剛にして中に居るからである。「有言不信」は、困の時に口舌弁解を崇尚すれば、ただ窮途に走入るのみを言う。《大象伝》に言う。沢中に水なきは《困》の卦象である。君子はこれに取り法り、寧ろ性命を捨棄しても己の志節を成就すべきである。

初六,臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。《象》曰:“入于幽谷”,幽不明也。九二,困于酒食,朱紱方來。利用享祀。征凶,無咎。《象》曰:“困于酒食”,中有慶也。六三,困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。《象》曰:“據于蒺藜”,乘剛也。“入于其宮,不見其妻”,不祥也。

初六は陰柔にして困の底に居り、枝なく蔭なき枯樹の桩の上に坐困し、また幽深の山谷に陷入し、三年も光明を見ない。《小象》に言う。「入于幽谷」は、幽暗にして明らかならず。九二は陽剛にして中に居り、酒食過豊にして進用の門なき処境に困る。まもなく朱紅の蔽膝――君命の栄寵を象徴する――が到来せんとする。このとき誠敬に祭祀して天命を待つに宜しく、急切に前往すれば凶、しかし終に過ちはない。《小象》に言う。「困于酒食」は、それが中に居りて正を守るがゆえに、その中に自ずから福慶ある。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、前進すれば大石に阻まれ、退下すればまた蒺藜の上に坐り、家中に帰って妻子さえ見えない。凶である。《小象》に言う。「据于蒺藜」は、それが九二の剛に凌乗するからである。「入于其宮、不見其妻」は、これは不祥の兆である。

九四,來徐徐,困于金車,吝,有終。《象》曰:“來徐徐”,志在下也。雖不當位,有與也。九五,劓刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。《象》曰:“劓刖”,志未得也。“乃徐有說”,以中直也。“利用祭祀”,受福也。上六,困于葛藟,于臲,曰動悔有悔,征吉。《象》曰:“困于葛藟”,未當也。“動悔有悔”,吉行也。

九四は下りて初六に相応じんと欲するも、遅緩にして前進せず、九二のこの堅固の金車に阻まれるがためである。憾惜あるも、終に相合し得る。《小象》に言う。「来徐徐」は、彼の心志が下面の初六に在るからである。爻位は当たらないも、畢竟なお相応ずる伴侣ある。九五は陽剛中正にして尊位に居り、上下皆陰に掩蔽され、割鼻断足の刑を受けたがごときで、あの身の赤色蔽膝の尊位に困られる。しかし緩緩と自ずから解脱し、このとき誠敬に祭祀して神明に感通するに宜し。《小象》に言う。「劓刖」は、彼の心志がまだ実現していない。「乃徐有説」は、彼が中に居りて正直だからである。「利用祭祀」は、これによって福沢を承受し得るからである。上六は葛藤に纏われて困し、動揺不安の地に処する(底本はここ「于臲」と作り、通行本は「于臲卼」と作り、一「卼」字を脱す。今は照録して補わない)。心裡に「一動すればまさに后悔せん」と言い、まさに先にこの悔意有るがゆえに改めるを肯んじ、前往すれば吉である。《小象》に言う。「困于葛藟」は、処する所の位置が妥当ならず。「動悔有悔」は、悔を知りて行う。ゆえに吉利の行動である。

井(卦四十八)·巽下坎上

《井》:改邑不改井,無喪無得。往來井井。汔至,亦未繘井,羸其瓶,凶。《彖》曰:巽乎水而上水,井。井養而不窮也。“改邑不改井,”乃以剛中也。“汔至,亦未繘井”,未有功也。“羸其瓶”,是以凶也。《象》曰:木上有水,井。君子以勞民勸相。

《井》の卦は下巽上坎。「井」は水井で、人を養うこと窮まらざるの義を取る。卦辞に言う。城邑は遷移し得るも、水井は搬走すること能わず。井水は減少せず、また增多せず。来来往往の人は皆井上に至りて水を汲む。もし水を打ちて井口に至らんとして繩子がまだ完全に井外に提出せず、反って水瓶を碰破せば、凶である。《彖伝》は解釈する。水中に入りて水を提げ上げるは、すなわち井である。井は衆人を養育して窮尽しない。「改邑不改井」は、九二・九五が陽剛にして中に居り、その徳は井の常あるがごとし。「汔至、亦未繘井」は、功敗垂成にしてまだ成就していない。「羸其瓶」は、ゆえに凶である。《大象伝》に言う。木桶の上に水あるは《井》の卦象である。君子はこれに取り法り、百姓を慰労し彼らの互相帮助を勉励すべきである。

初六,井泥不食。舊井無禽。《象》曰:“井泥不食”,下也。“舊井無禽”,時舍也。九二,井谷射鮒,甕敝漏。《象》曰:“井谷射鮒”,無與也。九三,井渫不食,為我心惻。可用汲,王明並受其福。《象》曰:“井渫不食”,行惻也。求“王明”,受福也。

初六は井の底に居り、井水は淤泥に混じりて飲用すること能わず。この廃旧の井は禽鳥さえ来ない。《小象》に言う。「井泥不食」は、それが最も下に処するからである。「舊井无禽」は、時勢がそれを廃棄した。九二は陽剛にして上に応ずるなく、井中の泉眼はただ下に向かって漏出して小魚を養うのみで、汲水の瓦瓮はまた破漏して、一成する所なし。《小象》に言う。「井谷射鮒」は、それが上面に相応ずる爻なく承接し得ざるからである。九三は陽剛にして正を得、井水はすでに淘洗干浄なるも来たりて飲む人なく、人をして心中惻然たらしむ。この井は本是汲用し得るもので、ただ君王が明察すれば、上下皆同じくその福を受けることができる。《小象》に言う。「井渫不食」は、行路の人皆之がために惻然とする。「王明」を求めるは、まさに君民が同じく福沢を受けんがためである。

六四,井甃,無咎。《象》曰:“井甃無咎”,修井也。九五,井洌,寒泉食。《象》曰:“寒泉之食”,中正也。上六,井收勿幕,有孚元吉。《象》曰:“元吉”在“上”,大成也。

六四は陰柔にして正を得て力は物に及ぶ能わず、ただ磚石を以て井壁を修砌するのみで、能く人を養う能わざるも、過ちはない。《小象》に言う。「井甃无咎」は、水井を整修し、日後に人を養うの準備を為す。九五は陽剛中正にして、井水は清洌で、供に飲用すべき寒泉である。《小象》に言う。「寒泉之食」は、それが中に居りて正を守り、その徳は泉の清のごとし。上六は井の上口に居り、汲水はすでに成り、井口を蓋住するべからず、人人皆来たりて取るを得させよ。心にこのような誠信を存すれば、大吉である。《小象》に言う。「元吉」が最「上」の一爻に現れるは、井道の人を養う功が大いに完成したからである。

革(卦四十九)·離下兌上

《革》:已日乃孚。元亨。利貞,悔亡。《彖》曰:革,水火相息,二女同居,其志不相得曰革。“已日乃孚”,革而信之。文明以說,大亨以正。革而當,其悔乃亡。天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人。革之時大矣哉!《象》曰:澤中有火,革。君子以治曆明時。

《革》の卦は下離上兌、沢中に火あり、水火は相滅する。「革」は変革である。卦辞に言う。変革の事は事の成る日に至ってこそ人に信ぜられる。大いに亨通し、正を守るに利あり、悔恨は消失する。《彖伝》は解釈する。革とは、水と火が互相に熄滅することである。また中女と少女が一家に同住して、心志が彼此相合せざるがごとき。ゆえに革と言う。「已日乃孚」は、変革の後に人々は初めて信服する。下体は文明にして上体は和悦で、これによって大いに亨通してまた正を守ることができる。変革が得当なれば、悔恨はこそ消失する。天地は変革して四季は形成を得る。商湯の桀を放ち周武の紂を伐つごとき革命は、上は天道に順い下は人心に応ずる。《革》卦の含む時機意義はまことに重大である!《大象伝》に言う。沢中に火あるは《革》の卦象である。君子はこれに取り法り、暦法を修治して四時の変化を明らかにすべきである。

初九,鞏用黃牛之革。《象》曰:“鞏用黃牛”,不可以有為也。六二,巳日乃革之,征吉,無咎。《象》曰:“巳日革之”,行有嘉也。九三,征凶。貞厲。革言三就,有孚。《象》曰:“革言三就”,又何之矣。

初九は変革の始めに居り、時機はまだ至らず、ただ黄牛皮を以て己を牢く捆住し、兵を按じて動かずするのみ。《小象》に言う。「鞏用黄牛」は、このときまだ作為あるべからざる。六二は陰柔中正にして、あの日に至ってこそ手を動かして変革し、往けば吉で過ちなし。《小象》に言う。「巳日革之」は、このように行動すれば必ず嘉美の結果ある。九三は陽剛にして過ぎ、急に変革すれば凶で、たとえ守るも危険である。変革の主張は反復審議三度して、三度皆妥当してこそ、人の信を取ることができる。《小象》に言う。「革言三就」は、この地步を為してこそ、またどこに往きて更に穩妥の方法を求めんや。

九四,悔亡。有孚改命,吉。《象》曰:“改命之吉”,信志也。九五,大人虎變,未占有孚。《象》曰:“大人虎變”,其文炳也。上六,君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。《象》曰:“君子豹變”,其文蔚也。“小人革面”,順以從君也。

九四は陽爻にして陰位に居り、本は悔あるべきにして悔恨は消失する。誠信を懐いて旧命を改革すれば、吉である。《小象》に言う。「改命之吉」は、彼の心志が人の信を取るからである。九五は陽剛中正にして尊位に居り、変革の主である。その変革は猛虎が毛を換えるがごとく、文采は焕然として新たなり、占問する必用なく自ずから天下の信服する所と為る。《小象》に言う。「大人虎変」は、彼の文采が光明炳耀するを言う。上六は革の終わりに居り、君子の変革は豹子が毛を換えるがごとく、文采は細密にして漸次観るべきあり。小人は則ち表面の順従を改変するのみである。このとき更に急に前進すれば凶、安居して正を守れば吉。《小象》に言う。「君子豹変」は、彼の文采が茂密にして観るべきあり。「小人革面」は、柔順に新君に服从するのみである。

鼎(卦五十)·巽下離上

《鼎》:元吉,亨。《彖》曰:鼎,象也。以木巽火,亨飪也。聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。《象》曰:木上有火,鼎。君子以正位凝命。

《鼎》の卦は下巽上離、全卦の形は正に一只の鼎に似たり。初爻を足と為し、二三四を腹と為し、五を耳と為し、上を鉉と為す。卦辞に言う。大吉、亨通する。《彖伝》は解釈する。鼎とは、器物の象を取る。木柴を火の中に送入するは、食物を烹飪するに用いる。聖人は烹飪して上帝を祭享し、また大規模に烹飪して聖賢を供養する。下体は謙遜にして上体は光明で、これによって耳聡目明である。六五の柔爻は上進して尊位に居り、中位を得て九二の剛に相応ずる。ゆえに大いに亨通する。《大象伝》に言う。木の上に火あり、まさに烹飪の象で、これが《鼎》の卦象である。君子はこれに取り法り、己の名位を端正し、受ける所の使命を穩凝すべきである。

初六,鼎顛趾,利出否。得妾以其子,無咎。《象》曰:“鼎顛趾”,未悖也。“利出否”,以從貴也。九二,鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。《象》曰:“鼎有實”,慎所之也。“我仇有疾”,終無尤也。

初六は鼎の底に居り、鼎足が天に向かって翻倒し、反常のごとく見えるが、ちょうど裡面の陳渣穢物を倒出するに好し。妾によって子を生んで彼女をして立身を得しむるがごときで、過ちはない。《小象》に言う。「鼎顛趾」は、常理に背かない。「利出否」は、新たに納るる貴物に順従するがために先ずその旧穢を去る。九二は陽剛にして中に居り、鼎中に実物を盛満する。我が対頭の初六は近いれど病痛の嫌あり、我に靠近する能わず。吉である。《小象》に言う。「鼎有実」は、まさに満載なるがゆえに、さらに往く所を謹慎するを要す。「我仇有疾」は、終に過失なし。

九三,鼎耳革,其行塞,雉膏不食,方雨,虧悔,終吉。《象》曰:“鼎耳革”,失其義也。九四,鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。《象》曰:“覆公餗”,信如何也。六五,鼎黃耳金鉉,利貞。《象》曰:“鼎黃耳”,中以為實也。上九,鼎玉鉉,大吉,無不利。《象》曰:玉鉉在上,剛柔節也。

九三は陽剛にして応を失い、鼎耳が変形し、鼎を抬き動かす能わずして行進は受阻するがごときで、鼎中の肥美の野鶏肉も吃上できない。陰陽和洽して雨を降らすを待てば、先前の虧損悔恨は便ち漸々に消解し、最終的に吉を得る。《小象》に言う。「鼎耳革」は、それが有るべき義理の配合を失掉した。九四は陽を以て陰に居り下に初六の弱に応じ、鼎足が折断して王公の美食を一地に傾覆し、鼎身は汚濁に沾満するがごときである。凶である。《小象》に言う。「覆公餗」は、このような人の受ける所の信任はまたどう言うべきか――託する所は人に非ず、その咎は己に在る。六五は陰柔にして尊位に居り、鼎に黄色の耳・金属の挙鼎横杠を配するがごときで、正を守るに利あり。《小象》に言う。「鼎黄耳」は、居中の徳を以て其の充実の内容と為す。上九は陽剛にして鼎の極に居り、玉製の鉉を配するがごときで、剛の中に温を帯び、大吉で、不利なことはない。《小象》に言う。玉鉉が最上に居るは、剛と柔の配合が恰も節度あるからである。

震(卦五十一)·震下震上

《震》:亨。震來虩虩,笑言啞啞,震驚百里,不喪匕鬯。《彖》曰:震,亨。“震來虩虩”,恐致福也。“笑言啞啞”,後有則也。“震驚百里”,驚遠而懼邇也。“不喪匕鬯”,出可以守宗廟社稷,以為祭主也。《象》曰:洊雷,震。君子以恐懼修省。

《震》の卦は上下皆震、震は雷・動・長男である。卦辞に言う。亨通する。雷声が伝来するとき人人は惊恐不安で、過ぎればまた談笑自若である。巨雷は百里の遠を震驚するも、主祭者の手中の匙と香酒は畢竟喪失しない。《彖伝》は解釈する。震、亨通する所以。「震来虩虩」は、恐惧戒懼に因りて反って福気を招来する。「笑言啞啞」は、驚懼の後に行事に法則あり。「震驚百里」は、遠処の人は驚を受け近処の人は畏れる。「不喪匕鬯」は、このように鎮定の長子は外出しても宗廟社稷を守護するに足り、主祭の人を充当し得るを言う。《大象伝》に言う。雷声が連接して至るは《震》の卦象である。君子はこれに取り法り、恐惧の心を懐いて身心を修養し己を省察すべきである。

初九,震來虩虩,後笑言啞啞,吉。《象》曰:“震來虩虩”,恐致福也。“笑言啞啞”,後有則也。六二,震來厲,億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。《象》曰:“震來厲”,乘剛也。六三,震蘇蘇,震行無眚。《象》曰:“震蘇蘇”,位不當也。

初九は震動の主で、雷来るとき惊恐戒懼し、過ぎれば談笑自若である。吉である。《小象》に言う。「震来虩虩」は、恐惧に因りて福気を招来する。「笑言啞啞」は、驚懼の後に行事に法則あり。六二は陰柔中正なるも初九の剛に凌乗し、雷来るとき危険あり、大量の財貨を喪失し、高高の山陵に登って躲避するほかない。追尋に行く必用なく、七日の後に自ずから失うて復た得る。《小象》に言う。「震来厲」は、剛爻に乗凌するからである。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、震動の中に緩弱不安・神情恍惚である。もし震懼に因りて行動ある能わば、災眚なきべし。《小象》に言う。「震蘇蘇」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。

九四,震遂泥。《象》曰:“震遂泥”,未光也。六五,震往來,厲,意無喪,有事。《象》曰:“震往來厲”,危行也。其事在中,大無喪也。上六,震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎。婚媾有言。《象》曰:“震索索”,中未得也。雖凶無咎,畏鄰戒也。

九四は陽爻にして四陰の間に陷り、震動の勢は終に泥淖に墜入して振起しない。《小象》に言う。「震遂泥」は、その陽剛の徳がまだ光大していない。六五は陰柔にして尊位に居り、震動は来来往往し、皆危険あり。しかし心意の上に大きな喪失なく、なお祭祀の事を主持し得る。《小象》に言う。「震往来厲」は、行事が危険の中に処する。その主とする事が中道を守住するがゆえに、大きな損失なし。上六は震の極に居り、恐惧して脚歩は瑟縮し、眼神は驚惶して四顧する。このとき出行すれば凶。雷震はまだ己の身上に落ちず、ただ鄰近の処に落ちたのみなれば、先ず自ら戒懼し、便ち過ちなきべし。ただこのように謹慎すれば、婚配の親家は難免して閑話あるべし。《小象》に言う。「震索索」は、それが中道を得ていないからである。凶地に処して能く過ちなきは、鄰居の遭遇を見て先ず己を警戒するからである。

艮(卦五十二)·艮下艮上

《艮》:艮其背,不獲其身,行其庭,不見其人,無咎。《彖》曰:艮,止也。時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。“艮其止”,止其所也。上下敵應,不相與也。是以“不獲其身,行其庭,不見其人,無咎”也。《象》曰:兼山,艮。君子以思不出其位。

《艮》の卦は上下皆艮、艮は山・止である。卦辞に言う。背部に止住する――背は人体唯一の物を見ず欲を生ぜざる処――これによって己の身軀を覚察せず。彼の庭院を走過しても、庭中の人を見ない。こうすれば過ちなし。《彖伝》は解釈する。艮とはすなわち止である。停まるべき時に停まり、行くべき時に行き、動と静は皆時機を錯過しない。このような道理は光明正大である。「艮其止」は、止まるべき処に止まる。この卦は上下の各爻が両両同性で彼此敵と為りて相応ぜず、互いに牽扯しない。ゆえに「不獲其身、行其庭、不見其人、无咎」と言う。《大象伝》に言う。両山が重畳するは《艮》の卦象である。君子はこれに取り法り、思慮は己の職分の外に越出しないべきである。

初六,艮其趾,無咎。利永貞。《象》曰:“艮其趾”,未失正也。六二,艮其腓,不拯其隨,其心不快。《象》曰:“不拯其隨”,未退聽也。九三,艮其限,列其夤,厲,熏心。《象》曰:“艮其限”,危熏心也。

全卦はなお人身を以て下より上に向かって象を取る。初六は最下に在りて脚趾を止住し、動念の初めに於て停下する。過ちなく、しかも長久に正を守るに利あり。《小象》に言う。「艮其趾」は、まだ正道を失掉していない。六二は小腿肚を止住し、しかし九三のあの硬止の做法を挽救することができず、之に随って止まるほかなく、これによって心中痛快ならず。《小象》に言う。「不拯其随」は、九三が剛愎にして退讓して勧告を聴従するを肯んぜざるからである。九三は陽剛にして両卦の交に居り、腰際に止まり、硬として上下の脊肉を撕裂して開く。危険極まりて、憂懼は火の心を熏るがごとし。《小象》に言う。「艮其限」は、危険が彼の内心を煎熬する。

六四,艮其身,無咎。《象》曰:“艮其身”,止諸躬也。六五,艮其輔,言有序,悔亡。《象》曰:“艮其輔”,以中正也。上九,敦艮,吉。《象》曰:“敦艮之吉”,以厚終也。

六四は陰柔にして正を得、己の整个の身軀を止住し、妄動せず。過ちなし。《小象》に言う。「艮其身」は、止むべきを己の身上に止め、先ず己に求める。六五は陰柔にして尊位に居り、己の牙床口舌を止住し、言話は条条理ありて軽発せず。悔恨は消失する。《小象》に言う。「艮其輔」は、それが中に居りて正を得るからである。上九は艮の極に居り、止まること敦厚篤実である。吉である。《小象》に言う。「敦艮之吉」は、彼が敦厚の徳を以て善く終わるからである。

漸(卦五十三)·艮下巽上

《漸》:女歸吉,利貞。《彖》曰:漸之進也,女歸吉也。進得位,往有功也。進以正,可以正邦也。其位剛得中也。止而巽,動不窮也。《象》曰:山上有木,漸。君子以居賢德善俗。

《漸》の卦は下艮上巽。「漸」は循序漸進である。卦辞に言う。女子が出嫁すれば吉、正を守るに利あり。《彖伝》は解釈する。漸卦の講ずる前進は、女子が出嫁するがごとく六礼の次第に按じて行う。ゆえに吉である。前進して各々その位を得る。ゆえに往けば必ず功を建て得る。前進して正道に依循すれば、邦国を端正し得る。九五の居る所の位は陽剛にして中を得たり。下体は静止して上体は謙順で、ゆえに行動して困窮に陷入しない。《大象伝》に言う。山上に樹木を生長し、日に日に高大なるは《漸》の卦象である。君子はこれに取り法り、賢徳を蓄積して風俗を改善すべきである。

初六,鴻漸于干。小子厲,有言,無咎。《象》曰:“小子之厲”,義無咎也。六二,鴻漸于磐,飲食衎衎,吉。《象》曰:“飲食衎衎”,不素飽也。九三,鴻漸于陸。夫征不復,婦孕不育,凶。利禦寇。《象》曰:“夫征不復”,離群醜也。“婦孕不育”,失其道也。“利用禦寇”,順相保也。

全卦は鴻雁が循序して飛ぶを象とする。初六は最下に在りて、鴻雁は漸進して水辺の岸上に至る。年幼力弱の者はここに処して危険あり、少許の議論を招来するも、過ちはない。《小象》に言う。「小子之厲」は、道義の上で言えば過ちなし。六二は陰柔中正にして、鴻雁は漸進して大磐石の上に至り、安穩にして居るべく、飲食は和楽融融である。吉である。《小象》に言う。「飲食衎衎」は、受ける所の供養は白食に非ず、それが中正の徳あるからである。九三は陽剛にして過ぎ、鴻雁は漸進して高平の陸地に至り、すでにその宜を失った。丈夫は遠征して一たび去れば返らず、婦人は孕を懐いて生育し得ず。凶である。このときただ外寇を共に抵禦するに利あり。《小象》に言う。「夫征不復」は、己の群類を脱離した。「婦孕不育」は、正道を失掉した。「利用禦寇」は、彼此順承相保してこそ自全し得る。

六四,鴻漸于木,或得其桷,無咎。《象》曰:“或得其桷”,順以巽也。九五,鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。《象》曰:“終莫之勝吉”,得所願也。上九,鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。《象》曰:“其羽可用為儀,吉”,不可亂也。

六四は陰柔にして正を得、鴻雁は漸進して樹上に至る――雁の蹼は枝条を抓握する能わず、本は安んずる所に非ず――幸いに平展として椽のごとき横枝を尋ね得て棲息し得る。これによって過ちなし。《小象》に言う。「或得其桷」は、それが柔順にして謙遜で、遇う所に随って安んじ得るからである。九五は陽剛中正にして、鴻雁は漸進して高陵に至る。それは六二と本是正応なれど、三・四の両爻に阻隔され、婦人が三年孕まざるがごときである。しかし阻隔は終に正応の情に壓過する能わず。吉である。《小象》に言う。「終莫之勝吉」は、終に心願を実現した。上九は漸の極に居り、鴻雁は漸進して高遠の処に至り、それが脱落した羽毛は舞儀の装飾に用い得る。吉である。《小象》に言う。「其羽可用為儀、吉」は、この種の循序乱れざる進退の法は楷模たるに足り、紊乱すべからざるを言う。

帰妹(卦五十四)·兌下震上

《歸妹》:征凶,無攸利。《彖》曰:歸妹,天地之大義也。天地不交而萬物不興。歸妹,人之終始也。說以動,所歸妹也。“征凶”,位不當也。“無攸利”,柔乘剛也。《象》曰:澤上有雷,歸妹。君子以永終知敝。

《帰妹》の卦は下兌上震、少女は長男に嫁し、しかも悦を以て動く、正礼に由らず。「帰妹」は女を嫁がせること。卦辞に言う。このように往けば凶、利益なし。《彖伝》は解釈する。女を嫁がせるは、天地の間の大義である。天地が交合せざれば、万物は興盛し得ない。女を嫁がせるこの事は、人倫の終結と開端に関わる。喜悦に因りて行動し、嫁する所は少女である。「征凶」は、三・五等の爻の居る所の位が当たらないからである。「无攸利」は、柔爻が剛爻の上に凌乗し、名分が顛倒するからである。《大象伝》に言う。沢の上に雷あり、雷動して沢は随うは《帰妹》の卦象である。君子はこれに取り法り、長久の終局より着眼し、その中に出現し得べき弊敗を予知すべきである。

初九,歸妹以娣。跛能履,征吉。《象》曰:“歸妹以娣”,以恆也。“跛能履吉”,相承也。九二,眇能視,利幽人之貞。《象》曰:“利幽人之貞”,未變常也。六三,歸妹以須,反歸以娣。《象》曰:“歸妹以須”,未當也。

初九は陽剛にして下に在りて正応なく、女を嫁がせるも陪嫁の媵妾の身份を以て過ぐるのみである。跛脚の人がなお走路し得るがごときで、遠行に足らざるも、分に安んじ己を守れば前往して吉を得る。《小象》に言う。「帰妹以娣」は、長久し得べき本分を守る。「跛能履吉」は、下位に甘居して正室を承事する。九二は陽剛にして中に居りて応ずる所の六五は賢ならず、一只の眼を以て物を見るがごとき――才徳は有るも遇う所は人に非ず。このとき幽居して節を守る人のごとく正道を持守するに利あり。《小象》に言う。「利幽人之貞」は、常道を改変していない。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、卑賤の身を以て嫁を求めて娶らんとする人なく、退回して媵妾を充当するほかない。《小象》に言う。「帰妹以須」は、それが自処当たらざるからである。

九四,歸妹愆期,遲歸有時。象曰:“愆期”之志,有待而行也。六五,帝乙歸妹,其君之袂不如其娣之袂良。月幾望,吉。《象》曰:“帝乙歸妹,不如其娣之袂良”也。其位在中,以貴行也。上六,女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。《象》曰:上六無實,承虛筐也。

九四は陽剛にして応なく、嫁期は一再に耽誤される。遅く出嫁するは、適合の時機を等待する中に在る。《小象》に言う。「愆期」の體現する心志は、時機の成熟を待ってこそ行動せんとする。(底本はここ《象》字の前後に書名号なし。今は照録して補わない。)六五は陰柔にして尊位に居り、商王帝乙が妹を嫁がせるがごときである。この尊貴の新娘の衣袖は反って陪嫁媵妾の華美に如かず――徳を尚びて飾を尚ばず。月亮はまさに圓けんとして未だ満ちず。吉である。《小象》に言う。「帝乙帰妹、不如其娣之袂良」は、それが中に居りて徳を守り、尊貴の身を以て謙素の道を行うからである。上六は卦終わりに居りて実なく、女子が筐子を捧げて裡面は空虚なるがごとく、男子が羊を宰して血を割出す能わざるがごとき――祭祀は成らず、婚姻は実なし。利益なし。《小象》に言う。上六は空虚にして実なく、捧ぐる所はただ一只の空筐のみである。

豊(卦五十五)·離下震上

《豐》:亨,王假之。勿憂,宜日中。《彖》曰:豐,大也。明以動,故豐。“王假之”,尚大也。“勿憂宜日中”,宜照天下也。日中則昃,月盈則食,天地盈虛,與時消息,而況於人乎,況於鬼神乎?《象》曰:雷電皆至,豐。君子以折獄致刑。

《豊》の卦は下離上震、明にして動き、声勢は盛大である。「豊」は豊大である。卦辞に言う。亨通する。君王のみがこの種の盛大に達し得る。憂慮する必用なく、正午の太陽のごとく普照すべし。《彖伝》は解釈する。豊とは盛大である。光明ありて能く行動する。ゆえに盛大である。「王假之」は、盛大を崇尚する。「勿憂宜日中」は、天下を照臨すべきを言う。しかし太陽は正午に至れば偏西せんとし、月亮は圓満すれば虧蝕せんとする。天地の盈満と空虚でさえ時序に随って消長する。いわんや人においてをや、いわんや鬼神においてをや。《大象伝》に言う。雷と電が一斉に至り、威と明を併用するは《豊》の卦象である。君子はこれに取り法り、明察を以て訟案を判決し、威断を以て刑罰を施行すべきである。

初九,遇其配主,雖旬無咎,往有尚。《象》曰:“雖旬無咎”,過旬災也。六二,豐其蔀,日中見斗。往得疑疾,有孚發若,吉。《象》曰:“有孚發若”,信以發志也。九三,豐其沛,日中見沫,折其右肱,無咎。《象》曰:“豐其沛”,不可大事也。“折其右肱”,終不可用也。

初九は九四と同徳相配で、彼此均等相当なるも過ちなく、前往すればなお嘉尚を受ける。《小象》に言う。「雖旬无咎」なるも、一旦この均等の限度を超過して争先相尚すれば、災を生ぜんとす。六二は陰柔中正にして上に六五の暗に応じ、遮蔽する物は太だ大きく、正午時分に至って畢竟北斗星を見るに至る。このとき前往すれば猜疑の患を招来する。誠信を以て対方を啓発しさえすれば、吉である。《小象》に言う。「有孚発若」は、誠信を以て対方の心志を啓発する。九三は陽剛にして応ずる所の上六は昏暗已極で、遮蔽の幔幕はさらに大きく、正午時分には微小の星光さえ看見する。右臂を折断して為す所なきに似たり。しかしその自身に就て言えば過ちはない。《小象》に言う。「豊其沛」は、このとき大事を為すべからず。「折其右肱」は、彼が終に用を派す能わざるを言う。

九四,豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。《象》曰:“豐其蔀”,位不當也。“日中見斗”,幽不明也。“遇其夷主”,吉行也。六五,來章有慶譽,吉。《象》曰:六五之吉,有慶也。上六,豐其屋,蔀其家,窺其戶,闃其無人,三歲不覿,凶。《象》曰:“豐其屋”,天際翔也。“窺其戶,闃其無人”,自藏也。

九四も同じく大幔に遮蔽され、正午に北斗を見る。幸いに初九のこの己と平等相当の伙伴に遇う。吉である。《小象》に言う。「豊其蔀」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。「日中見斗」は、幽暗にして明らかならず。「遇其夷主」は、これは吉利の行動である。六五は陰柔にして尊位に居り、六二・九三のごとき文采才華ある人を招来し得る。これによって福慶と美誉あり。吉である。《小象》に言う。六五の吉なる所以は、福慶ある。上六は豊の極に居り、屋宇を造ること極めて大にして、自家を遮蔽して厳厳実実たり。門縫より裡を窺えば、寂静にして人なく、三年も一人の影を見ない。凶である。《小象》に言う。「豊其屋」は、驕亢して天辺に飛ばんとするがごとし。「窺其戸、閴其无人」は、彼が自ら己を蔵して人との往来を断絶したからである。

旅(卦五十六)·艮下離上

《旅》:小亨。旅貞吉。《彖》曰:“旅小亨”,柔得中乎外,而順乎剛,止而麗乎明,是以“小亨旅貞吉”也。旅之時義大矣哉!《象》曰:山上有火,旅。君子以明慎用刑而不留獄。

《旅》の卦は下艮上離、山は止まりて火は行き、火は一処に留まらない。「旅」は羈旅して外に在ること。卦辞に言う。小さく亨通する。旅居の人は正を守れば吉。《彖伝》は解釈する。「旅小亨」は、六五の柔爻が外卦に於て中を得て、また柔順に陽剛を承順する。下体は止まりて上体は光明に附麗する。ゆえに「小亨旅貞吉」と言う。《旅》卦の含む時機意義はまことに重大である!《大象伝》に言う。山上に火あり、火勢は迅速に移過するは《旅》の卦象である。君子はこれに取り法り、刑を用いるに既に明察にしてまた謹慎にして、案件を長久に積圧しないべきである。

初六,旅瑣瑣,斯其所取災。《象》曰:“旅瑣瑣”,志窮災也。六二,旅即次,懷其資,得童僕,貞。《象》曰:“得童僕貞”,終無尤也。九三,旅焚其次,喪其童僕,貞厲。《象》曰:“旅焚其次”,亦以傷矣。以旅與下,其義喪也。

初六は陰柔にして旅の始めに居り、人と為りて猥瑣卑屑にして斤斤計較する。これはまさに自ら災禍を取る原因である。《小象》に言う。「旅瑣瑣」は、心志がすでに窮困卑下し、ゆえに災を招く。六二は陰柔中正にして、旅途中に客舎に住み入れ、身上に盤纏を帯び、また忠実の童僕を得、正道を守持する。《小象》に言う。「得童僕貞」は、こうすれば終に過失なし。九三は陽剛にして過ぎ、客舎は火に焼毀され、童僕もまた失散し、たとえ守るも危険である。《小象》に言う。「旅焚其次」は、これもまた人を傷めるに足る。旅居の身を以て下人に剛暴の態度を用いれば、理に照らして彼らを失去すべきである。

九四,旅于處,得其資斧,我心不快。《象》曰:“旅于處”,未得位也。“得其資斧”,心未快也。六五,射雉,一矢亡,終以譽命。《象》曰:“終以譽命”,上逮也。上九,鳥焚其巢,旅人先笑後號咷。喪牛于易,凶。《象》曰:以旅在上,其義焚也。“喪牛于易”,終莫之聞也。

九四は陽爻にして陰位に居り、旅途中に暫く一処の棲身を得、盤纏と利斧を備下するも、心裡は終に痛快ならず。《小象》に言う。「旅于処」は、有るべき位分を得ていないからである。「得其資斧」は、ゆえに心裡はなお痛快ならず。六五は陰柔にして尊位に居り、野鶏を射るがごとく、一支の箭を損失するも、最終的にこれによって美誉と爵命を獲得する。《小象》に言う。「終以誉命」は、それが上に陽剛を承して恩沢が己身に及ぶからである。上九は陽剛にして旅の極に居り、高亢にして自処し、鳥の巣が火に焼掉されるがごときである。この旅人は起先に得意歓笑し、隨後に声を放ちて号哭する。また田畔において軽易に牛を丟失する――柔順の徳を失掉した。凶である。《小象》に言う。旅居の身を以て上位に高居すれば、理に照らして焚巢の禍あるべし。「喪牛于易」は、彼が最後に至るまで一句の勧告も聴かなかったを言う。

巽(卦五十七)·巽下巽上

《巽》:小亨。利有攸往。利見大人。《彖》曰:重巽以申命。剛巽乎中正而志行。柔皆順乎剛,是以“小亨,利有攸往,利見大人”。《象》曰:隨風,巽。君子以申命行事。

《巽》の卦は上下皆巽、巽は風・木で、その義は順入・謙遜である。卦辞に言う。小さく亨通し、往く所有るに利あり、徳位ある「大人」に見えるに利あり。《彖伝》は解釈する。両重の巽風が相随するは、まさに反復して政令を申明する象に合す。九五は陽剛にして謙順に中正の位に居り、これによって心志は施行を得る。初六・六四の二つの柔爻は皆陽剛に順承する。ゆえに「小亨、利有攸往、利見大人」と言う。《大象伝》に言う。一陣の風に一陣の風が接ぐは《巽》の卦象である。君子はこれに取り法り、命令を反復申明して後に政事を推行すべきである。

初六,進退,利武人之貞。《象》曰:“進退”,志疑也。“利武人之貞”,志治也。九二,巽在床下,用史巫紛若,吉,無咎。《象》曰:“紛若之吉”,得中也。九三,頻巽,吝。《象》曰:“頻巽之吝”,志窮也。

初六は陰柔にして最下に在り、卑巽に過ぎて進退定まらず。このとき武人のごとき剛毅果決の守正に取り法るに宜し。《小象》に言う。「進退」は、心志が遲疑不決である。「利武人之貞」は、剛毅を以てこの優柔を整治せんとする。九二は陽剛にして中に居りて自処卑下で、牀下に伏するがごとき謙順である。さらに祝史巫祝のごとき繁多の誠敬を以て神人の意を通達すれば、吉で、過ちなし。《小象》に言う。「紛若之吉」は、それが中道を得て、卑なれどその正を失わざるからである。九三は陽剛にして中に居らず、一再に勉强して順従の様子を作し、反復無常である。憾惜。《小象》に言う。「頻巽之吝」は、心志がすでに窮困し、守持する所なし。

六四,悔亡,田獲三品。《象》曰:“田獲三品”,有功也。九五,貞吉,悔亡,無不利,無初有終。先庚三日,後庚三日,吉。《象》曰:九五之吉,位正中也。上九,巽在床下,喪其資斧,貞凶。《象》曰:“巽在床下”,上窮也。“喪其資斧”,正乎凶也。

六四は陰柔にして正を得て上に九五を承し、悔恨は消失する。田獵して三類の獵物を獲るがごとき――古时の田獵の獲る所は分かれて祭祀・宴賓・庖厨を充てる三用を供した。《小象》に言う。「田獲三品」は、それが功労を建立したを言う。九五は陽剛中正にして、正を守れば吉、悔恨は消失し、不利なことはない。起初は未だ必ずしも順利ならずとも、終には好い結果あるべし。変革の令を発布するには、「庚」の日の前の三天・後の三天に反復審度してこそ吉。《小象》に言う。九五の吉なる所以は、それが居る所の位が正にして適中だからである。上九は巽の極に居り、卑順は頭を過ぎて牀下に伏する。己の身を防ぎ生を謀る資財と利斧さえ丟掉した。たとえ守るも凶。《小象》に言う。「巽在牀下」は、上位に居りて窮極した。「喪其資斧」は、このように下去すれば豈に凶ならずや。

兌(卦五十八)·兌下兌上

《兌》:亨。利貞。《彖》曰:兌,說也。剛中而柔外,說以利貞,是以順乎天而應乎人。說以先民,民忘其勞。說以犯難,民忘其死。說之大,民勸矣哉!《象》曰:麗澤,兌。君子以朋友講習。

《兌》の卦は上下皆兌、兌は沢・口・悦である。卦辞に言う。亨通し、正を守るに利あり。《彖伝》は解釈する。兌とは喜悦である。二・五の陽剛は中に居りて三・上の柔爻は外に在り、喜悦の道を以てまた能く正を守る。ゆえに上は天理に順い下は人心に応ずる。喜悦の道を以て百姓の前頭を走れば、百姓は労苦を忘れる。喜悦の道を以て百姓を帯領して難に赴かしめれば、百姓は生死を忘れる。喜悦の道はこのように重大で、百姓は自ずから鼓舞を受ける!《大象伝》に言う。両沢が相連して水気が互相に滋潤するは《兌》の卦象である。君子はこれに取り法り、朋友と一起に学問を講論し切磋研習すべきである。

初九,和兌,吉。《象》曰:“和兌之吉”,行未疑也。九二,孚兌,吉,悔亡。《象》曰:“孚兌之吉”,信志也。六三,來兌,凶。《象》曰:“來兌之凶”,位不當也。

初九は陽剛にして下に在りて私応する所なく、その喜悦は中和自然に出づる。吉である。《小象》に言う。「和兌之吉」は、彼の行為は坦荡にして猜疑する人なし。九二は陽剛にして中に居りて六三の陰に近く、能く誠信を以て自守してその悦を致す。吉で、悔恨は消失する。《小象》に言う。「孚兌之吉」は、彼の心志が誠実にして信ずべし。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、反って下面の二つの陽爻に讨好して悦を求む。凶である。《小象》に言う。「来兌之凶」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。

九四,商兌未寧,介疾有喜。《象》曰:“九四之喜”,有慶也。九五,孚于剝,有厲。《象》曰:“孚于剝”,位正當也。上六,引兌。《象》曰:上六“引兌”,未光也。

九四は九五の正と六三の邪の間に介在し、反復商量して取舍して心中安んぜず。能く果断に六三のこの種の病害を隔絶すれば、喜慶あり。《小象》に言う。「九四之喜」は、必ず福慶ある。九五は陽剛中正にして尊位に居るも、上六と親比する。もし誠信を以てこの陽剛を消剥する小人に対せば、危険あり。《小象》に言う。「孚于剥」は、まさにそれが居る所の位が極めて尊当なるがゆえに、さらに信ずる所は人に非ざるを警惕すべきである。上六は兌の極に居り、ただ下面の九五を牽引して喜悦を求むるのみ。《小象》に言う。上六の「引兌」は、その喜悦の道が光明正大ならざるを説明する。

渙(卦五十九)·坎下巽上

《渙》:亨。王假有廟。利涉大川,利貞。《彖》曰:“渙,亨”,剛來而不窮,柔得位乎外而上同。“王假有廟”,王乃在中也。“利涉大川”,乘木有功也。《象》曰:風行水上,渙。先王以享于帝,立廟。

《渙》の卦は下坎上巽、風は水上を行き、波紋は渙散する。「渙」は離散で、卦義は渙を救い人を聚むるに在る。卦辞に言う。亨通する。君王は宗廟に来たりて祖先を祭祀する。大河巨険を渡るに利あり、正を守るに利あり。《彖伝》は解釈する。「渙、亨」は、九二の剛が外より来たりて中に居りて困窮に至らず、六四の柔爻が外卦に於てその正位を得て上と同心する。「王假有廟」は、君王の誠心がその中に居り、これを以て渙散の人心を収摂する。「利渉大川」は、巽は木で、木舟に乗りて険を渡れば必ず成功し得る。《大象伝》に言う。風が水面上を吹行するは《渙》の卦象である。先王はこれに取り法り、上帝を祭享し宗廟を建立し、宗教と人倫を以て離散の人心を聚攏した。

初六,用拯馬壯,吉。《象》曰:初六之吉順也。九二,渙奔其機,悔亡。《象》曰:“渙奔其機”,得願也。六三,渙其躬,無悔。《象》曰:“渙其躬”,志在外也。

初六は渙の始めに居り、離散はなお浅く、このとき健壯の馬を以て拯救すれば、吉である。《小象》に言う。初六の吉なる所以は、それが柔順にして九二の剛を承順するからである。九二は陽剛にして中に居り、渙散の時に憑靠すべき几案に向かって奔る――初六のこの安身の所を指す――これによって悔恨は消失する。《小象》に言う。「渙奔其机」は、己の安身の願望を遂げ得た。六三は陰柔にして正ならず、能く己の一身の私念を渙散して上に上九に応ずる。これによって悔恨なし。《小象》に言う。「渙其躬」は、彼の心志が外に向かって渙を済することに在り、一己の打算のためならず。

六四,渙其群,元吉。渙有丘,匪夷所思。《象》曰:“渙其群元吉”,光大也。九五,渙汗其大號,渙王居,無咎。《象》曰:“王居無咎”,正位也。上九,渙其血,去逖出,無咎。《象》曰:“渙其血”,遠害也。

六四は陰柔にして正を得て上に九五を承し、能く己の朋党私群を渙散して大公に従う。大吉である。小群を散じて高丘のごとき大衆に聚成するは、常人の想到し得る所に非ず。《小象》に言う。「渙其群元吉」は、このようにするのが光明博大だからである。九五は陽剛中正にして尊位に居り、重大の号令を発布すること人身の出汗のごとき――一出すれば返らず、令出でれば必ず行われる。また王室の積聚した財貨を散発して天下を済す。過ちなし。《小象》に言う。「王居无咎」は、それが中正の君位に居るからである。上九は渙の極に居り、能く傷害を渙散し憂懼を遠離して患難の外に出る。過ちなし。《小象》に言う。「渙其血」は、遠く禍害を避けたからである。

節(卦六十)·兌下坎上

《節》:亨。苦節,不可貞。《彖》曰:“節亨”。剛柔分而剛得中。“苦節不可貞”,其道窮也。說以行險,當位以節,中正以通。天地節而四時成。節以制度,不傷財,不害民。《象》曰:澤上有水,節。君子以制數度,議德行。

《節》の卦は下兌上坎、沢に堤岸ありて水量に限あり、多ければ溢れ少なければ涸る。「節」は節制である。卦辞に言う。亨通する。しかし苦渋過分の節制は、固守すべからず。《彖伝》は解釈する。「節亨」は、剛柔各々半ばにして九二・九五の陽剛が中に居る。「苦節不可貞」は、そのようにすれば窮途に走入る。和悦の心を以て険難を行い、位に居り得当にして節制を知り、中正にしてこれによって通達する。天地に節度あってこそ、四季は形成を得る。制度を以て節制を加えれば、財用を損傷せず、百姓を危害しない。《大象伝》に言う。沢の上に水あり、蓄泄に度あるは《節》の卦象である。君子はこれに取り法り、礼数法度を制定し、徳行の高下を評議すべきである。

初九,不出戶庭,無咎。《象》曰:“不出戶庭”,知通塞也。九二,不出門庭,凶。《象》曰:“不出門庭凶”,失時極也。六三,不節若,則嗟若,無咎。《象》曰:“不節之嗟”,又誰咎也。

初九は節の始めに居り、謹守して内室の庭院を出ず、慎密に自守する。過ちなし。《小象》に言う。「不出戸庭」は、彼がいつ通行しいつ閉塞するかを知るからである。九二は出るべきときに出ず、依然門を閉じて出でず、時機を坐失する。凶である。《小象》に言う。「不出門庭凶」は、時機を錯失すること極点に至ったからである。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、自我節制するを肯んぜず、事後にただ嗟嘆あるのみ。しかしすでに自ら悔嘆を知るなれば、すなわち更に人に帰咎する必用なし。《小象》に言う。節制を知らずして嗟嘆を致すは、これをまた誰に怪しまんや。

六四,安節。亨。《象》曰:“安節之亨”,承上道也。九五,甘節,吉,往有尚。《象》曰:“甘節之吉”,居位中也。上六,苦節,貞凶,悔亡。《象》曰:“苦節貞凶”,其道窮也。

六四は陰柔にして正を得、安然として節制の中に行いて勉强を覚えず。亨通する。《小象》に言う。「安節之亨」は、それが九五の立つる所の節制の道を承順するからである。九五は陽剛中正にして尊位に居り、その節制は甘美適度で、人人は楽しんで従う。吉で、このように往けば嘉尚を受ける。《小象》に言う。「甘節之吉」は、それが位に居り適中で、過ぐるなく及ばざるなきからである。上六は節の極に居り、節制は苦に過ぎ、固守すれば凶。ただすでに身を苦しめ自ら約せば、悔恨は却って消失し得る。《小象》に言う。「苦節貞凶」は、この路はすでに窮尽に走ったからである。

中孚(卦六十一)·兌下巽上

《中孚》:豚魚,吉。利涉大川,利貞。《彖》曰:“中孚”,柔在內而剛得中,說而巽,孚乃化邦也。“豚魚吉”,信及豚魚也。“利涉大川”,乘木舟虛也。中孚以利貞,乃應乎天也。《象》曰:澤上有風,中孚。君子以議獄緩死。

《中孚》の卦は下兌上巽、三四の両爻は陰にして中間虚空、二五の陽剛は中に居りて中心篤実、まさに内心の誠信の象である。「孚」は誠信である。卦辞に言う。誠信が小猪と魚のごとき微賤の物に及べば吉。大河巨険を渡るに利あり、正を守るに利あり。《彖伝》は解釈する。「中孚」は、柔爻が内に居り剛爻が中位を得、下体は和悦にして上体は謙順で、誠信はこれによって邦国を感化し得る。「豚魚吉」は、誠信は小猪と魚にさえ感通し得る。「利渉大川」は、中空の木舟に乗るがゆえに浮渡し得る。中孚にしてまた正を守るに利し、これこそ天道に順応する。《大象伝》に言う。沢の上に風あり、風は水に入りて水は之を感ずるは《中孚》の卦象である。君子はこれに取り法り、訟案を審議するに反復推求し、死刑に対しては従緩に処置すべきである。

初九,虞吉,有它不燕。《象》曰:初九“虞吉”,志未變也。九二,鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡之。《象》曰:“其子和之”,中心願也。六三,得敵,或鼓或罷,或泣或歌。《象》曰:“或鼓或罷”,位不當也。

初九は誠信の始めに居り、能く予め信ずべき人を度量すれば吉。もし他に求む所有りて三心二意すれば、安寧を得ない。《小象》に言う。初九の「虞吉」なる所以は、彼の専一の心志がまだ改変していないからである。九二は陽剛にして中に居り、白鶴が山陰の処に鳴叫し、その幼雛が遠処に於て応和するがごときである。「我に一杯の好酒あり、あなたと共享せんと願う」――これは至誠の相感、求めずして自ずから応ずるの写照である。《小象》に言う。「其子和之」は、内心より発する願望で、勉强に非ず。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、己と相敵する上九に遇上し、これによって或いは鼓を撃ちて進攻し或いは疲憊して罷休し、或いは悲泣し或いは歓歌し、全く定准なし。《小象》に言う。「或鼓或罷」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。

六四,月幾望,馬匹亡,無咎。《象》曰:“馬匹亡”,絕類上也。九五,有孚攣如,無咎。《象》曰:“有孚攣如”,位正當也。上九,翰音登于天,貞凶。《象》曰:“翰音登于天”,何可長也?

六四は陰柔にして正を得て上に九五を承し、月亮がまさに圓けんとして未だ満ちざるがごときで、盛にして亢ならず。それは本来相匹配の初九を捨棄し、同駕の馬匹を失掉するがごときで、これによって過ちなし。《小象》に言う。「馬匹亡」は、同類との私交を断絶して専心して上に向かうからである。九五は陽剛中正にして尊位に居り、誠信を以て天下を牢固に維係し、筋脉の相連なるがごときである。過ちなし。《小象》に言う。「有孚攣如」は、それが居る所の位が極めて端正得当だからである。上九は信の極に居りて虚名を務め、鶏鳴の声が高く雲天に入るがごとき――声聞は情を過ぎ名は実を過ぐ。固守すれば凶。《小象》に言う。「翰音登于天」は、このような虚声はまたどうして長久し得ようか。

小過(卦六十二)·艮下震上

《小過》:亨。利貞。可小事,不可大事。飛鳥遺之音,不宜上,宜下,大吉。《彖》曰:小過,小者過而亨也。過以利貞,與時行也。柔得中,是以小事吉也。剛失位而不中,是以不可大事也。有飛鳥之象焉,“飛鳥遺之音,不宜上,宜下,大吉”,上逆而下順也。《象》曰:山上有雷,小過。君子以行過乎恭,喪過乎哀,用過乎儉。

《小過》の卦は下艮上震、四陰は外に在り二陽は中に居り、陰小なる者は稍々過ぐ。卦辞に言う。亨通し、正を守るに利あり。小事を為すべく、大事を為すべからず。飛鳥が掠過して遺す鳴声のごとく、上に飛ぶに宜からず、下に降るに宜し。大吉である。《彖伝》は解釈する。小過とは、陰小なる者が稍々過越してなお亨通し得る。稍々過ぎてまた正を守るに利あるは、時勢に随って行くからである。六二・六五の柔爻は中位を得る。ゆえに小事を為せば吉。九三・九四の陽剛は位を失いて中に居らず。ゆえに大事を為すべからず。この卦の形状は飛鳥の展翅の象あるがゆえに、「飛鳥遺之音、不宜上、宜下、大吉」と言う――上に向かって飛ぶは逆勢、下に向かって降るは順勢である。《大象伝》に言う。山上に雷あり、雷声は高処に在りて反ってその小を顕すは《小過》の卦象である。君子はこれに取り法り、行為の上に稍々恭敬に過ぎ、居喪の時に稍々哀戚に過ぎ、用度の上に稍々節儉に過ぐべきである。

初六,飛鳥以凶。《象》曰:“飛鳥以凶”,不可如何也。六二,過其祖,遇其妣。不及其君,遇其臣。無咎。《象》曰:“不及其君”,臣不可過也。九三,弗過防之,從或戕之,凶。《象》曰:“從或戕之”,凶如何也?

初六は陰柔にして最下に在りて急に上に飛ばんとし、まさに「不宜上」の戒を犯す。飛鳥が高翔して凶を招くがごときである。《小象》に言う。「飛鳥以凶」は、自らその禍を取る、奈何する所なし。六二は陰柔中正にして、九三のこの「祖」を越過し、六五のこの「妣」に遇上する。六五のこの君に及ばざるも、己の臣下の本分と相遇する――臣たるに安んず。これによって過ちなし。《小象》に言う。「不及其君」は、臣子たる者は君上を越過すべからざるを言う。九三は陽剛にして稍々の提防を知らず、一味に自恃するのみ。もし陰柔の小人を縦容して跟随して来らしめば、殘害されるを得べし。凶である。《小象》に言う。「従或戕之」は、このような凶險はまたどう形容すべきか。

九四,無咎。弗過遇之,往厲必戒,勿用永貞。《象》曰:“弗過遇之”,位不當也。“往厲必戒”,終不可長也。六五,密雲不雨,自我西郊。公弋取彼在穴。《象》曰:“密雲不雨”,已上也。上六,弗遇過之,飛鳥離之,凶,是謂災眚。《象》曰:“弗遇過之”,已亢也。

九四は陽爻にして陰位に居りて能く自抑する。ゆえに過ちなし。過越せずして恰も相遇する。前往すれば危険あり、必ず戒懼すべく、固執して長く変わらざるを守るべからず。《小象》に言う。「弗過遇之」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。「往厲必戒」は、この種の局面は終に長久し得べからざるを言う。六五は陰柔にして尊位に居りて済すべき陽なく、濃雲密布するも雨の下り来たらざるがごときで、雲は我が西辺の郊野より漂来する。ただ王公が繩を帯びた箭を以て洞穴の中の小物を射取るがごとき、六二のこの一柔を取りて自輔と為すのみ。《小象》に言う。「密雲不雨」は、陰気がすでに上面に昇って下降して雨を成す能わざるからである。上六は陰柔にして小過の極に居り、相遇することを肯んぜず一味に過越し、飛鳥が越え飛びて愈々高く終に羅網の捕える所と為るがごときである。凶、これを災殃と言う。《小象》に言う。「弗遇過之」は、それがすでに高亢の極点に至ったからである。

既済(卦六十三)·離下坎上

《既濟》:亨小,利貞。初吉終亂。《彖》曰:“既濟,亨”,小者亨也。“利貞”。剛柔正而位當也。“初吉”,柔得中也。“終止則亂”,其道窮也。《象》曰:水在火上,既濟。君子以思患而豫防之。

《既済》の卦は下離上坎、水は火の上に在り、まさに烹煮すでに成りたる象。全卦の六爻の陰陽は各々その位を得、六十四卦中最も整斉の一卦である。「既済」は事がすでに成就した。卦辞に言う。亨通するはただ小処のみ、正を守るに利あり。初めは吉利、最終は禍乱に転ずる。《彖伝》は解釈する。「既済、亨」は、亨通する所はただ細小の処に在るを言う。「利貞」に至っては、剛爻柔爻が各々その正を得て爻位皆当たるからである。「初吉」は、六二の柔爻が中に居るからである。「終止則乱」は、すでに成りたる後に停滯して進まざれば、その道は窮尽に走るからである。《大象伝》に言う。水が火の上に在るは《既済》の卦象である。君子はこれに取り法り、事の成る時に予め有り得べき禍患を想到してこれに防備を加えるべきである。

初九,曳其輪,濡其尾,無咎。《象》曰:“曳其輪”,義無咎也。六二,“婦喪其茀,勿逐,七日得。《象》曰:“七日得”,以中道也。九三,高宗伐鬼方,三年克之,小人勿用。《象》曰:“三年克之”,憊也。

初九は既済の始めに居り、車輪を拖住して快く走らしめざるがごとく、狐狸が河を渡りて尾巴を沾湿して止步して前進せざるがごとき――事の成る初めに節制を知る。ゆえに過ちなし。《小象》に言う。「曳其輪」は、道義の上で言えば過ちなし。六二は陰柔中正にして、婦人が車上の遮蔽帷幔を丟失して出行する能わざるがごときである。追尋に行く必用なく、七日の後に自ずから失うて復た得る。(底本はこの爻辞の前に一つの引号を多くして下に収束なし。今は照録して削除しない。)《小象》に言う。「七日得」は、それが中道を秉持し、失うて必ず復するからである。九三は陽剛にして下卦の上に居り、商代の高宗武丁が鬼方を討伐し、三年を費やしてこそ攻克したがごときである。このような師を勞し久しく戦う事は、決して小人を任用すべからず。《小象》に言う。「三年克之」は、すでに疲憊不堪に至ったを言う。

六四,繻有衣袽,終日戒。《象》曰:“終日戒”,有所疑也。九五,東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭,實受其福。《象》曰:“東鄰殺牛”,不如西鄰之時也。“實受其福”,吉大來也。上六,濡其首,厲。《象》曰:“濡其首厲”,何可久也?

六四は陰柔にして正を得てすでに坎水に入り、船に渗漏ありて破旧の衣物を備えて随時に堵塞し、終日戒備して懈らざるがごときである。《小象》に言う。「終日戒」は、心中すでに疑慮する所有り、危険の将に至らんを知る。九五は陽剛中正にして尊位に居るも、既済の世は盛極まりて将に衰えんとす。東辺の鄰国が牛を宰して大祭するは、反って西辺の鄰国が微薄の禴祭を用いるの誠敬に如かず。これによって真に福沢を承受するは後者である。《小象》に言う。「東隣殺牛」は、西隣の祭りの時宜に合するに如かず。「実受其福」は、吉慶が大いに降臨する。上六は既済の極に居り、渡河して水が頭に淹るがごときである。危険。《小象》に言う。「濡其首厲」は、このような局面はまたどうして長久し得ようか。

未済(卦六十四)·坎下離上

《未濟》:亨。小狐汔濟,濡其尾,無攸利。《彖》曰:“未濟,亨”,柔得中也。“小狐汔濟”,未出中也。“濡其尾,無攸利”,不續終也。雖不當位,剛柔應也。《象》曰:火在水上,未濟。君子以慎辨物居方。

《未済》の卦は下坎上離、火は水の上に在り、二者は相い用いられず。六爻の陰陽は全て位に当たらず、《既済》と正に相反する。而して《周易》はそれを以て全書の終卦と為し、事に終窮なきを寓意する。「未済」は事が未だ成就せず。卦辞に言う。亨通する。小狐狸はまさに河を渡り終わらんとして、尾巴を沾湿した。利益なし。《彖伝》は解釈する。「未済、亨」は、六五の柔爻が中位を得るからである。「小狐汔済」は、それがまだ坎険の中を走出していない。「濡其尾、无攸利」は、事を接続して到底まで能わざるからである。この卦は爻位が皆当たらないといえど、剛柔の各爻は両両相応ずる。ゆえになお成すべき理ある。《大象伝》に言う。火が水の上に在るは《未済》の卦象である。君子はこれに取り法り、謹慎に事物の性質を分弁し、それらをして各々その所に安んぜしむべきである。

初六,濡其尾,吝。《象》曰:“濡其尾”,亦不知極也。九二,曳其輪,貞吉。《象》曰:九二貞吉,中以行正也。六三,未濟,征凶。利涉大川。《象》曰:“未濟征凶”,位不當也。

初六は陰柔にして坎険の底に居り、力は弱く躁進し、小狐が河を渡りて尾巴を沾湿するがごときである。憾惜。《小象》に言う。「濡其尾」もまた、それが己の限度を量度するを知らざるからである。九二は陽剛にして中に居り、能く車輪を拖住して軽進せず。正を守れば吉。《小象》に言う。九二の「貞吉」なる所以は、それが居中の徳を以て行事端正するからである。六三は陰柔にして中に居らず正ならず、事未だ成らざるに急に前進すれば凶。しかし坎険はまさに出でんとし、能く時に乗じて大河を渡越すれば、却って利ある。《小象》に言う。「未済征凶」は、それが居る所の爻位が当たらないからである。

九四,貞吉,悔亡,震用伐鬼方,三年,有賞于大國。《象》曰:“貞吉悔亡”,志行也。六五,貞吉,無悔。君子之光,有孚吉。《象》曰:“君子之光”,其輝吉也。上九,有孚于飲酒,無咎。濡其首,有孚失是。《象》曰:“飲酒濡首”,亦不知節也。

九四は陽爻にしてすでに坎険を出でて離明に入り、正を守れば吉、悔恨は消失する。奮発して威武を以て鬼方を討伐し、三年にして成功し、終に大国の封賞を受けるがごときである。《小象》に言う。「貞吉悔亡」は、彼の心志が施行し得る。六五は陰柔にして尊位に居りて中を得、正を守れば吉、悔恨なし。これは君子の徳性の光輝で、誠信を懐いてこれによって吉利である。《小象》に言う。「君子之光」は、彼の光輝が人を照らす、ゆえに吉。上九は未済の終わりに居り、誠信を懐いて従容に飲酒して時を待つ。過ちなし。しかしもし縱飲して頭に浸湿するに至らば、それは誠信さえ分寸を失掉したことになる。《小象》に言う。「飲酒濡首」もまた、節制を知らざるがゆえに――全書はこれを以て篇を終え、まさに人事に窮尽なく、成敗はただ一つの「節」の字に在ることを告誡する。

繋辞上

天尊地卑,乾坤定矣。卑高以陳,貴賤位矣。動靜有常,剛柔斷矣。方以類聚,物以群分,吉凶生矣。在天成象,在地成形,變化見矣。是故剛柔相摩,八卦相蕩,鼓之以雷霆,潤之以風雨;日月運行,一寒一暑。乾道成男,坤道成女。

《繋辞伝》は孔門が《周易》の通義を解説する総論で、上下二篇に分かれる。上篇の開頭は言う。天は上に在りて尊く、地は下に在りて卑し、《乾》《坤》の両卦の地位はこれによって確定する。卑下と高上は依次に陳列し、尊貴と卑賤の位次は分明となる。天体は運動し大地は静止し、各々常規あり、陽剛と陰柔の分別は判定し得る。人は志向の類別を以て相聚まり、物は群類を以て相分かれ、吉と凶はこれらの聚散離合の中より生ずる。天上には日月星辰の象を形成し、地上には山川動植の形を形成し、変化の道理は顕現する。ゆえに剛柔の二気は互相に摩蕩し、八卦は互相に推動激蕩し、雷霆を以てそれらを鼓動し、風雨を以てそれらを滋潤する。日月は輪流に運行し、寒暑は交替更迭する。乾道は男性を化成し、坤道は女性を化成する。

乾知大始,坤作成物。乾以易知,坤以簡能;易則易知,簡則易從;易知則有親,易從則有功;有親則可久,有功則可大;可久則賢人之德,可大則賢人之業。易簡而天下之理得矣。天下之理得,而成位乎其中矣。

乾は万物の創始を主管し、坤は万物を養育して形を成すを負責する。乾は平易の方式を以て主宰し、坤は簡約の方式を以て效能する。平易なれば容易に人に理解され、簡約なれば容易に人に遵従される。理解し易ければ人を親附せしめ、遵従し易ければ功效を建立し得る。人を親附せしめれば長久し、功效を建立すれば広大し得る。能く長久するは賢人の徳性、能く広大するは賢人の事業である。「易」と「簡」の二字を掌握すれば、天下の道理は皆把握を得た。天下の道理が一旦把握を得れば、人は天地の間に於て己の位置を確立する。

聖人設卦觀象,繫辭焉而明吉凶,剛柔相推而生變化。是故吉凶者,失得之象也;悔吝者,憂虞之象也;變化者,進退之象也;剛柔者,晝夜之象也。六爻之動,三極之道也。是故君子所居而安者,《易》之序也;所樂而玩者,爻之辭也。是故君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占,是以自天祐之,吉無不利。

聖人は六十四卦を設立し卦中の象を観察し、卦爻の下に文辞を係えて吉凶を闡明し、剛爻柔爻は互相に推移して種種の変化を生出す。ゆえに「吉凶」は得失の象徴、「悔吝」は憂慮不安の象徴、「変化」は進退の象徴、「剛柔」は昼夜の象徴である。六爻の変動は、天・地・人の三才の終極の道理を體現する。これによって君子の平居の安処する所は、《周易》の揭示する次序である。楽しみ玩味する所は、各爻の文辞である。ゆえに君子は平居の時は卦象を観察して爻辞を玩味し、行動の時は爻変を観察して占断を玩味する。これに因って、上天は彼を保佑し、吉利にして宜しからざるなし。

彖者,言乎象者也;爻者,言乎變者也。吉凶者,言乎其失得也;悔吝者,言乎其小疵也。無咎者,善補過者也。是故列貴賤者存乎位,齊小大者存乎卦,辯吉凶者存乎辭,憂悔吝者存乎介,震無咎者存乎悔。是故卦有小大,辭有險易;辭也者,各指其所之。

「彖辞」は一卦の整体の象に就いて言を立て、「爻辞」は一爻の変動に就いて言を立てる。「吉凶」は得失に就いて言い、「悔吝」は小さな瑕疵に就いて言う。「无咎」に至っては、善く己の過失を彌補し、これによって災禍を遺さないことを指す。ゆえに貴賤を排定するは爻位に在り、卦徳の大小を衡量するは卦體に在り、吉凶を弁別するは文辞に在り、悔吝を憂慮するは事の初起のあの一点の征兆に在り、人心を震動せしめて補過无咎ならしめるは悔を知るに在る。これによって卦に小大有り、辞に険易あり。文辞の作用は、各々その趨向する所の方向を指明する。

《易》與天地準,故能彌綸天地之道。仰以觀於天文,俯以察於地理,是故知幽明之故;原始反終,故知死生之說;精氣為物,游魂為變,是故知鬼神之情狀。與天地相似,故不違;知周乎萬物,而道濟天下,故不過;旁行而不流,樂天知命,故不憂;安土敦乎仁,故能愛。範圍天地之化而不過,曲成萬物而不遺,通乎晝夜之道而知,故神無方而《易》無體。

《周易》は天地を準則と為す。ゆえに能く天地の間の一切の道理を包羅貫通する。頭を擡げて天上の星象を観察し、頭を低くして地上の形勢を審視し、これによって幽隠と顕明の縁由を懂得する。事物の開端を推究し、返求してその終結を、これによって生と死の道理を懂得する。精気は凝聚して物と為り、魂気は游散して変化を為る。これによって鬼神の実際の情状を懂得する。《周易》の道は天地と相似る。ゆえに天地に違背しない。その智慧は万物に及びその道は天下を救済するに足る。ゆえに過失なし。旁通四達して泛濫に流れず、天を楽しみ命に安んず。ゆえに憂愁せず。居る所の地に安処して仁徳に敦厚に、ゆえに能く人を愛する。それは天地の化育を籠罩して過分せず、万物の情を曲尽して遺漏なく、昼夜の道を貫通して知らざるなし。ゆえに言う。神妙は某一方所に局限せず、《周易》の道もまた某一の固定形體に拘らない。

一陰一陽之謂道,繼之者善也,成之者性也。仁者見之謂之仁,知者見之謂之知,百姓日用而不知,故君子之道鮮矣。顯諸仁,藏諸用,鼓萬物而不與聖人同憂,盛德大業至矣哉!富有之謂大業,日新之謂盛德。生生之謂易,成象之謂乾,效法之謂坤,極數知來之謂占,通變之謂事,陰陽不測之謂神。

一陰一陽が交替運行する、これを「道」と言う。この道を承継するは善であり、この道を自身に成就するは性である。仁厚の人はその中より仁を見て、それを仁と言い。智慧の人はその中より智を見て、それを智と言う。老百姓は日々それを用いて自ら知らず。ゆえに真に君子の道を懂得する人は少ない。天道は仁愛を万物を生育する上に顕現し、功用を无形の中に潜蔵し、万物を鼓動して生長せしめて聖人のごとく憂患の心を懐かず――このような盛徳大業はまさに極点に至った!有らざるなきを「大業」と言い、日日更新するを「盛徳」と言い、生々して已まざるを「易」と言い、天象を形成するを「乾」と言い、效法して形を成すを「坤」と言い、蓍数を窮極して未来を予知するを「占」と言い、変化を通達して之を事に措くを「事」と言い、陰陽変化して測度すべからざるを「神」と言う。

夫《易》廣矣大矣,以言乎遠則不御,以言乎邇則靜而正,以言乎天地之間則備矣。夫乾,其靜也專,其動也直,是以大生焉。夫坤,其靜也翕,其動也闢,是以廣生焉。廣大配天地,變通配四時,陰陽之義配日月,易簡之善配至德。

《周易》の道は広博にして宏大である。その遠きに就て言えば、辺際なく阻当すべからず。その近きに就て言えば、安静にして端正である。天地の間に充塞するに就て言えば、備わらざるなし。乾の性質は、静かなる時は専一凝聚し、動く時は剛直伸展する。ゆえに能く偉大を創生する。坤の性質は、静かなる時は閉合収斂し、動く時は開辟舒張する。ゆえに能く広博を生育する。この種の広大は天地と相配し、変化通達は四季と相配し、陰陽の義理は日月と相配し、「易」と「簡」の美善は最高の徳性と相配する。

子曰:“《易》,其至矣乎!夫《易》,聖人所以崇德而廣業也。知崇禮卑,崇效天,卑法地。天地設位,而《易》行乎其中矣。成性存存,道義之門。”

孔子は言う。《周易》はおそらく至高无上のものであろう!《周易》は聖人が以て徳性を推崇し事業を拡大する書である。智慧は高明を貴び、礼節は謙卑を貴ぶ。高明は天を效法し、謙卑は地に取り法る。天地は各々その位に安んじ、《周易》の道は天地の間に運行する。人はもし己の本性を成就して不断にそれを存養すれば、それはすなわち道義に通ずる門戸である。

聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象。聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻,言天下之至賾而不可惡也。言天下之至動而不可亂也。擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化。

聖人は天下万物の幽深繁雑を見て、卦画を以てそれらの形態容貌を模擬し、それらの各々相宜なる物性を象徴した。ゆえに「象」と言う。聖人は天下万物の運動変化を見て、その中の会合貫通の処を観察し、これに拠りて典章礼制を推行し、また卦爻の下に文辞を係えて吉凶を判斷した。ゆえに「爻」と言う。天下の最も幽深繁雑の事物を談論して人に厭悪せしめず、天下の最も紛紜の変動を談論して人に昏乱せしめない。先ず模擬審度して後に口を開き、先ず商議斟酌して後に行動する。このような擬議に憑って、初めて自身の変化を成就し得る。

“鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡之。”子曰:“君子居其室,出其言善,則千里之外應之,況其邇者乎?居其室,出其言不善,則千里之外違之,況其邇者乎?言出乎身,加乎民;行發乎邇,見乎遠。言行,君子之樞機。樞機之發,榮辱之主也。言行,君子之所以動天地也,可不慎乎!”

《中孚》九二の爻辞に言う。「白鶴は山陰の処に鳴叫し、その幼雛は遠処に於て応和する。我に一杯の好酒あり、あなたと共享せんと願う。」孔子は解釈して言う。君子は己の屋裡に住んで、言い出す話が善なれば、千里之外も皆响应する。いわんや近処の人においてをや。己の屋裡に住んで、言い出す話が不善なれば、千里之外も皆背離する。いわんや近処の人においてをや。話は自身より出でて、百姓の身上に加わる。行為は近処より発生し、遠方に顕現する。言と行は、君子の門軸と弩牙――最も関鍵の機括である。この機括が一動すれば、栄耀か羞辱かを決定する。言行は君子が以て天地を感動するものである。どうして謹慎せざるを得ようか!

“《同人》:先號咷而後笑。”子曰:“君子之道,或出或處,或默或語。二人同心,其利斷金。同心之言,其臭如蘭。”

《同人》九五の爻辞に言う。「先ず号啕大哭し、後に初めて歓笑する。」孔子は解釈して言う。君子の立身処世の道は、或いは出仕し或いは退隠し、或いは沉默し或いは発言し、形跡は尽く相同じからずともよい。ただ両人の心意が相同じければ、その鋭利は金属を斬断するに足る。心意相同じ人の言う所の話は、気味芬芳にして蘭草のごとし。

“初六,藉用白茅,無咎。”子曰:“苟錯諸地而可矣,藉之用茅,何咎之有?慎之至也。夫茅之為物薄,而用可重也。慎斯術也以往,其無所失矣。”

《大過》初六の爻辞に言う。「潔白の茅草を以て下に墊けば、過ちなし。」孔子は解釈して言う。本来祭品を直接地上に置いてもよいのに、今さら茅草を以て墊く。どこに過ちがあろうか。これは謹慎の極点に至った。茅草という物は本身は軽賤であるが、その用は很に重大であり得る。この種の謹慎の方法を一直に推行し下去れば、閃失あることなかろう。

“勞謙,君子有終,吉。”子曰:“勞而不伐,有功而不德,厚之至也。語以其功下人者也。德言盛,禮言恭;謙也者,致恭以存其位者也。”

《謙》九三の爻辞に言う。「功労ありて能く謙退する君子は、好い結局を保有し得る。吉。」孔子は解釈して言う。辛労して自ら誇耀せず、功ありてその徳に自居らず。これは厚道の極点に至った。言う所はまさに己の功労を帯びて人下に甘居する者である。徳性に就て言えば充盛すべく、礼節に就て言えば恭敬すべし。いわゆる謙とは、恭敬を極尽して己の地位を保全することである。

“亢龍有悔。”子曰:“貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。”“不出戶庭,無咎。”子曰:“亂之所生也,則言語以為階。君不密則失臣,臣不密則失身,幾事不密則害成。是以君子慎密而不出也。”

《乾》上九の爻辞に言う。「高く飛び過ぎた龍は悔恨あるべし。」孔子は解釈して言う。地位は尊貴なれどすでに実際の職位なく、身処は高いが治めるべき百姓なく、賢人は皆下位に在って彼を輔佐する者なし。ゆえに一たび挙動あれば悔恨を招来する。《節》初九の爻辞に言う。「内室の庭院を走出さず、過ちなし。」孔子は解釈して言う。禍乱の産生は、往々言語を以て階梯と為す。君主の言語が不慎密なれば臣子を失い、臣子の言語が不慎密なれば自身を喪い、機密の事が不慎密なれば事を壊す。ゆえに君子は慎密を謹守して軽々に言を出さない。

子曰:“作《易》者,其知盜乎?《易》曰‘負且乘,致寇至。’負也者,小人之事也。乘也者,君子之器也。小人而乘君子之器,盜思奪之矣。上慢下暴,盜思伐之矣。慢藏誨盜,冶容誨淫。《易》曰:‘負且乘,致寇至。’盜之招也。”

孔子は言う。《周易》を創作した人は、おそらく盗賊の産生する道理を很懂得していたのであろう?《周易》の《解》卦六三に「物を負って車子に乗れば、強盗を招来する」と言う。物を背負するは小人の為す事で、車子は君子の用いる器物である。小人が却って君子の車子に坐上すれば、盗賊は自ずから彼を搶奪せんと想い来る。上に傲慢して下に暴虐なれば、盗賊は自ずから彼を討伐せんと想い来る。財物を収蔵するに馬虎なれば、人に来て倫むを教えるに等しい。打扮して妖艶招揺なれば、人に来て淫するを誘うに等しい。《周易》に「負且乗、致寇至」と言うは、まさに自ら盗賊を招引するという事を講じたのである。

大衍之數五十,其用四十有九。分而為二以象兩,掛一以象三,揲之以四以象四時,歸奇於扐以象閏;五歲再閏,故再扐而後掛。天數五,地數五。五位相得而各有合,天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。

この段は揲蓍して卦を成す方法を講ずる。天地之数を演算するに用いる蓍草は五十根で、実際に動用するは四十九根である。先ずそれらを随意に両堆に分かち、天地両儀を象徴する。右堆の中より一根を取りて左手の小指の間に挂け、天地人三才を象徴する。再び両堆の蓍草を毎四根を一組として数え過ぎ、一年四季を象徴する。数え余った余数を手指の間に夾め、暦法上の閏月を象徴する。五年の中に两度閏を置くを要す。ゆえに两度帰余して後に挂ける。天の奇数は五つ――一三五七九、地の偶数は五つ――二四六八十。この十個の数は五つの位次に按じて両両相配して各々会合ある。天数を相加すれば二十五、地数を相加すれば三十、天地之数は总共五十五である。即ちこれらの数が、万物の変化を成就し、鬼神の功用を運行するのである。

《乾》之策二百一十有六,《坤》之策百四十有四,凡三百六十,當期之日。二篇之策,萬有一千五百二十,當萬物之數也。是故四營而成《易》,十有八變而成卦,八卦而小成。引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。顯道神德行,是故可與酬酢,可與祐神矣。子曰:“知變化之道者,其知神之所為乎。”

《乾》卦の六爻は皆老陽で、每爻三十六策、合計二百一十六策。《坤》卦の六爻は皆老陰で、每爻二十四策、合計一百四十四策。両者を相加すれば共に三百六十策で、正に一年の天数に合す。《周易》上下両篇の六十四卦の策数は总共一万一千五百二十で、正に万物の数に合す。ゆえに分二・挂一・揲四・帰奇の四道の程序を経てこそ一変を成し、十八変してこそ一卦を成し、先ず八卦を得るは初步の小成である。これより推衍して開き、類に触れて旁通してそれを拡充すれば、天下の為し得る事は皆その中に包括される。それは天道を彰顯し、神妙に人の徳行を顕す。これによって人事の往来酬酢に応対し、神明の功用を輔助し得る。孔子は言う。変化の道を懂得する人は、おそらく神明の作為を懂得するのであろう。

《易》有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如響。無有遠近幽深,遂知來物。非天下之至精,其孰能與於此。參伍以變,錯綜其數。

《周易》は聖人の道の四つの方面を包含する。それを以て言を立てる者は、その文辞を看重する。それを以て行動する者は、その変化を看重する。それを以て器物を制作する者は、その卦象を看重する。それを以て卜筮する者は、その占断を看重する。ゆえに君子はまさに作為せんとし行動せんとする時、それに向かって発問して答復を求得すれば、それの与える回答は回声のごとく迅捷である。事の遠近幽深を問わず、皆これによって将来の物を予知し得る。もし天下の最も精微の道理でなければ、誰がこの地步に達し得ようか。それは蓍数を三三五五に交互変化し、錯雑綜合して推演する。

通其變,遂成天下之文;極其數,遂定天下之象。非天下之至變,其孰能與於此。《易》無思也,無為也,寂然不動,感而遂通天下之故。非天下之至神,其孰能與於此。夫《易》,聖人之所以極深而研幾也。唯深也,故能通天下之志;唯幾也,故能成天下之務;唯神也,故不疾而速,不行而至。子曰:“《易》有聖人之道四焉”者,此之謂也。

その変化を貫通すれば、天下の文采条理を形成する。その蓍数を窮尽すれば、天下万物の形象を確定する。もし天下の最も変通し得る道理でなければ、誰がこの地步に達し得ようか。《周易》は本身に思慮なく造作なく、寂然として静止して動かず、一たび感应あれば天下の一切の事故を貫通する。もし天下の最も神妙の道理でなければ、誰がこの地步に達し得ようか。《周易》は聖人が以て幽深を窮究し幾微を研求する書である。ただその幽深なるがゆえに、能く天下人の心志を貫通する。ただその幾微なるがゆえに、能く天下の事務を成就する。ただその神妙なるがゆえに、急促する必用なくして自ずから迅速、行走する必用なくして自ずから到達する。孔子の「易有聖人之道四焉」と言うは、これらを講じたのである。

天一,地二;天三,地四;天五,地六;天七,地八;天九,地十。子曰:“夫《易》何為者也?夫《易》開物成務,冒天下之道,如斯而已者也。”是故聖人以通天下之志,以定天下之業,以斷天下之疑。是故蓍之德圓而神,卦之德方以知,六爻之義易以貢。聖人以此洗心,退藏於密,吉凶與民同患。神以知來,知以藏往,其孰能與此哉!古之聰明睿知,神武而不殺者夫。

天数は一、地数は二。天三、地四。天五、地六。天七、地八。天九、地十――奇は天と為り偶は地と為り、十数は五組に配成する。孔子は言う。《周易》は何を為すに用いるか。《周易》は万物の理を開通し天下の務を成就し、天下の一切の道理を涵蓋する書で、ただこれのみである。ゆえに聖人はそれに頼りて天下人の心志を貫通し、天下の事業を確定し、天下の疑難を裁断する。蓍草の徳性は圓通にして神妙、卦體の徳性は方正にして有智、六爻の意義は変化に随って人に吉凶を告ぐるに在る。聖人はこれらを以て己の心念を洗滌し、隠密の中に退蔵し、百姓と同じく憂患を共にする。神妙を以て未来を予知し、智慧を以て往事を含蔵する。なお誰がこの地步に達し得ようか。おそらく古代の聡明睿智にして神武の徳あって殺伐する必用なき聖人のみであろう。

是以明於天之道,而察於民之故,是興神物以前民用。聖人以此齋戒,以神明其德夫。是故闔戶謂之坤,闢戶謂之乾,一闔一闢謂之變,往來不窮謂之通,見乃謂之象,形乃謂之器,制而用之謂之法,利用出入,民咸用之謂之神。

天道を通暁して民情を體察するがゆえに、聖人は蓍亀のごとき神物を興起して、以て百姓の行動を指導する。聖人はそれに憑って斎戒浄心し、己の徳性をしてさらに神妙光明ならしむ。ゆえに言う。門戸を關閉するを「坤」と言い、門戸を打開するを「乾」と言い、一關一開を「変」と言い、往来して停まざるを「通」と言い、顕現するを「象」と言い、凝聚して形を成すを「器」と言い、制作して出して之を使用するを「法」と言い、出入して使用して不利なきなく百姓が日々それを用いてその然る所以を知らざるを「神」と言う。

是故《易》有大極,是生兩儀。兩儀生四象。四象生八卦。八卦定吉凶,吉凶生大業。是故法象莫大乎天地;變通莫大乎四時;縣象著明莫大乎日月;崇高莫大乎富貴;備物致用,立成器以為天下利,莫大乎聖人探賾索隱,鉤深致遠,以定天下之吉凶,成天下之亹亹者,莫大乎蓍龜。是故天生神物,聖人則之;天地變化,聖人效之;天垂象,見吉凶,聖人象之;河出圖,洛出書,聖人則之。

ゆえに《周易》は一つの「太極」あり、太極は陰陽両儀を生出し、両儀は老陰・老陽・少陰・少陽の四象を生出し、四象は八卦を生出す。八卦は吉凶を判定し、吉凶の判定はまた偉大の事業を成就する。ゆえに效法すべき形象は天地より大なるなく、変化通達は四季より大なるなく、天空に懸挂して光明顕著なるは日月より大なるなく、崇高は富貴より大なるなし。器物を備辨しその功用を尽くし、器具を製成して天下を利するに至っては、聖人より大なるなし。幽深繁雑を探索し深奥を鈎取し遠理を招致して、以て天下の吉凶を判定し天下人の勤勉不倦の事業を成就するに至っては、蓍草と亀甲より大なるなし。ゆえに上天は蓍亀のごとき神物を生出し、聖人は取りて法則と為す。天地は変化を発生し、聖人はそれを效仿する。上天は星象を垂示して吉凶を顕現し、聖人は取りて象徴と為す。黄河に龍図が出で洛水に亀書が出ずれば、聖人は取りて法則と為す。

《易》有四象,所以示也。繫辭焉,所以告也;定之以吉凶,所以斷也。《易》曰:“自天祐之,吉無不利。”子曰:“祐者,助也。天之所助者,順也;人之所助者,信也。履信思乎順,又以尚賢也。是以‘自天祐之,吉無不利’也。”

《周易》は四象あり、以て義理を顯示するに用いる。卦爻の下に文辞を係えるは、以て人に告ぐるに用いる。吉凶を以て之に判定を加えるは、以て疑難を裁断するに用いる。《周易》の《大有》上九に言う。「上天の保佑有りて、吉利にして宜しからざるなし。」孔子は解釈して言う。「祐」とは即ち幇助である。上天の幇助する所は、天道に順応する人である。世人の幇助する所は、信用を講ずる人である。信用を踐行してまた天道に順応するを念念忘れず、同時に能く賢者を尊崇する――まさにこれに因って、こそ「自天祐之、吉无不利」と言う。

子曰:“書不盡言,言不盡意。”然則聖人之意,其不可見乎?子曰:“聖人立象以盡意,設卦以盡情偽,繫辭焉以盡其言。變而通之以盡利,鼓之舞之以盡神。”

孔子は言う。文字は言うべき話を写し尽くせず、言語は心中の意思を言い尽くせない。このようであれば、聖人の心意は畢竟見る能わざるか。孔子はまた言う。聖人は卦象を確立して己の心意を窮尽し、六十四卦を設置して天下の真情と虚偽を窮尽し、卦爻の下に文辞を係えて己の言うべき話を窮尽した。それを変化通達せしめてその中の利益を窮尽し、人心を鼓動振奮せしめてその中の神妙を窮尽した。

乾坤,其《易》之縕邪?乾坤成列,而《易》立乎其中矣。乾坤毀,則無以見《易》。《易》不可見,則乾坤或幾乎息矣。是故形而上者謂之道,形而下者謂之器。化而裁之謂之變,推而行之謂之通,舉而錯之天下之民謂之事業。

《乾》《坤》の両卦は、おそらく《周易》の藴蔵する所在であろう?《乾》《坤》が一旦排定すれば、《周易》の道理はその中に立つ。《乾》《坤》がもし毀去されれば、《周易》を見るに由なし。《周易》が見るに由なければ、《乾》《坤》の功用もほぼ止息せんとするであろう。ゆえに言う。形體の上を超越するを「道」と言い、形體の下に落ちるを「器」と言い、それに対して化育裁成を加えるを「変」と言い、それを推広施行するを「通」と言い、それを拿りて天下の百姓に施加するを「事業」と言う。

是故夫象,聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象。聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。極天下之賾者存乎卦,鼓天下之動者存乎辭;化而裁之存乎變;推而行之存乎通;神而明之存乎其人;默而成之,不言而信,存乎德行。

ゆえに「象」に言う至れば。聖人は天下万物の幽深繁雑を見て、卦画を以てそれらの形態容貌を模擬し、それらの各々相宜なる物性を象徴した。これによって「象」と言う。聖人は天下万物の運動変化を見て、その中の会合貫通の処を観察し、典章礼制を推行し、文辞を係えて吉凶を判斷した。これによって「爻」と言う。天下の幽深繁雑の理を窮尽するは卦に在り、天下の運動変化を鼓動するは辞に在る。之を化育裁成するは変に在り、推広施行するは通に在る。それを神妙に領悟して発揚光大するに至っては、人の本身に在る。能く黙黙として之を成就し、言う必用なくして自ずから人に信を見るは、則ち全く徳行に在る。

繋辞下

八卦成列,象在其中矣;因而重之,爻在其中矣;剛柔相推,變在其中焉;繫辭焉而命之,動在其中矣。吉凶悔吝者,生乎動者也;剛柔者,立本者也;變通者,趣時者也。吉凶者,貞勝者也;天地之道,貞觀者也;日月之道,貞明者也;天下之動,貞夫一者也。夫乾,確然示人易矣;夫坤,隤然示人簡矣。爻也者,效此者也。象也者,像此者也;爻象動乎內,吉凶見乎外,功業見乎變,聖人之情見乎辭。天地之大德曰生,聖人之大寶曰位。何以守位?曰仁。何以聚人?曰財。理財正辭、禁民為非曰義。

《繋辞》下篇の開頭は言う。八卦が排定すれば、物象はその中に在る。八卦を両両に相重ねて六十四卦と為せば、六爻はその中に在る。剛爻柔爻が互相に推移すれば、変化はその中に在る。文辞を係えて人に告知すれば、行動の準則はその中に在る。吉・凶・悔・吝は皆行動の中より産生する。剛と柔は根本を確立する。変と通は時宜に趨赴する。吉凶は誰が正を守る能くするかに取决し勝出する。天地の道は、正を守るに頼りて永遠に人に顯示する。日月の道は、正を守るに頼りて永遠に光明である。天下の一切の運動は、最終的に「正」のこの一つの道理に帰する。乾は剛健の貌を以て人に「平易」を顯示し、坤は柔順の貌を以て人に「簡約」を顯示する。「爻」とは、これらを仿效する。「象」とは、これらを象徴する。爻と象は卦中に変動し、吉凶は外に顕現する。功業は変通の中に顕現し、聖人の心意は文辞の中に顕現する。天地の最大の徳性を「生」と言い、聖人の最大の宝物を「位」と言う。何に頼りてこの位を守住するか。仁に頼る。何に頼りて人衆を聚集するか。財に頼る。財貨を管理し名分言辞を端正し、百姓をして非作歹を為さざるを禁止する。これを「義」と言う。

古者包犠氏之王天下也,仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文與地之宜,近取諸身,遠取諸物,於是始作八卦,以通神明之德,以類萬物之情。作結繩而為網罟,以佃以漁,蓋取諸《離》。包犠氏沒,神農氏作,斫木為耜,揉木為耒,耒耨之利,以教天下,蓋取諸《益》。日中為市,致天下之民,聚天下之貨,交易而退,各得其所,蓋取諸《噬嗑》。

古時に伏羲氏が天下を統治し、頭を擡げて天上の星象を観察し、頭を低くして地上の法則を観察し、鳥獣の紋理と土地の適宜を観察し、近くは自身より象を取り、遠くは万物より象を取った。そこで初めて八卦を創作し、以て神明の徳性を會通し、以て万物の情状を比類した。彼はまた繩索を編結して網罟を做成し、以て獵を打ち魚を捕えた。これはおそらく《離》卦より象を取った――離は網目である。伏羲氏が死して後、神農氏が興起し、木頭を砍削して犂頭を做成し、木材を彎曲して犂柄を做成し、耕作の利を天下人に教えた。これはおそらく《益》卦より象を取った。彼はまた中午に集市を開設すると定め、天下の百姓を招来し、天下の貨物を聚集し、交易の後に各々散去して各々その所を得しめた。これはおそらく《噬嗑》卦より象を取った――上下相合して通ず。

神農氏沒,黃帝、堯、舜氏作,通其變,使民不倦,神而化之,使民宜之。《易》窮則變,變則通,通則久。是以“自天祐之,吉無不利”。黃帝、堯、舜垂衣裳而天下治,蓋取諸《乾》、《坤》。

神農氏が死して後、黄帝・堯・舜が相継いで興起し、彼らは事物の変化を貫通し、百姓をして倦怠に至らざらしめた。神妙に之を教化し、百姓をして各々その宜を得しめた。《周易》の道理は、窮尽の処に走れば即ち変じ、変ぜば即ち通達し、通達してこそ長久。まさにこれによって、「上天の保佑有りて、吉利にして宜しからざるなし」と言う。黄帝・堯・舜は衣を垂れて拱手し、為すなくして治まれば、天下は即ち安定した。これはおそらく《乾》《坤》の両卦より象を取った――乾上坤下、衣裳に制あり、尊卑に序あるがごとき。

刳木為舟,剡木為楫,舟楫之利,以濟不通,致遠以利天下,蓋取諸《渙》。服牛乘馬,引重致遠,以利天下,蓋取諸《隨》。重門擊柝,以待暴客,蓋取諸《豫》。斷木為杵,掘地為臼,杵臼之利,萬民以濟,蓋取諸《小過》。弦木為弧,剡木為矢,弧矢之利,以威天下,蓋取諸《睽》。

木頭を挖空して船を做成し、木頭を削尖して桨を做成した。舟楫の利は以て原来通行し得ざる水面を渡り、遠方に到達して天下を利し得る。これはおそらく《渙》卦より象を取った――巽木が坎水の上を行く。牛を馴服して車を駕り、馬匹を騎乗し、以て重物を牽引し遠方に到達して天下を利する。これはおそらく《随》卦より象を取った――物に随いて動く。重々の門戸を設置し、夜に木梆を敲撃して更を巡るは、以て凶暴の来客を防備する。これはおそらく《豫》卦より象を取った――豫とは預で、備あれば患なし。木頭を截断して杵を做成し、地上に臼を挖出した。杵臼が米を舂く利は万民を接济せしめた。これはおそらく《小過》卦より象を取った――上は動き下は止まり、まさに杵起こり臼落つるがごとし。繩弦を木上に係りて弓を做成し、木頭を削尖して箭を做成した。弓箭の利は以て天下を威服する。これはおそらく《睽》卦より象を取った――睽とは乖離で、威を以てその乖を定むる。

上古穴居而野處,後世聖人易之以宮室,上棟下宇,以待風雨,蓋取諸《大壯》。古之葬者,厚衣之以薪,葬之中野,不封不樹,喪期無數。後世聖人易之以棺槨,蓋取諸《大過》。上古結繩而治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸《夬》。

上古の人は洞穴の裡に住み荒野の中に棲息した。後世の聖人は宮室を改用して之に代替した。上に棟梁あり下に簷宇あり、以て風雨を抵禦する。これはおそらく《大壮》卦より象を取った――雷は天上に在り、壮大にして覆蓋の形あり。古時に死者を埋葬するには、ただ厚く柴薪を蓋えて原野の中に葬り、土を堆めて墳と為さず、樹を種えて標記と為さず、服喪にも一定の期限なし。後世の聖人は内棺外椁を改用して之に代替した。これはおそらく《大過》卦より象を取った――中間の四陽は厚実にして両端は陰虚で、まさに棺椁の形のごとし。上古は結繩の方法を以て事務を治理した。後世の聖人は文字契據を改用して之に代替し、百官はそれに憑って事を治め、万民はそれに憑って稽察した。これはおそらく《夬》卦より象を取った――夬とは決で、文字は是非を決断する所以である。

是故《易》者,象也;象也者,像也。彖者,材也;爻也者,效天下之動者也。是故吉凶生而悔吝著也。陽卦多陰,陰卦多陽,其故何也?陽卦奇,陰卦耦。其德行何也?陽一君而二民,君子之道也。陰二君而一民,小人之道也。

ゆえに《周易》の講ずるは「象」である。いわゆる象とは、事物に像を取ることである。「彖辞」が講ずるは一卦の材質本体で、「爻辞」は天下万物の運動変化を仿效する。これによって吉凶はその中より産生し、悔吝もまたこれによって顕著となる。八卦の中で、陽に属する卦は反って陰爻が多く、陰に属する卦は反って陽爻が多い。これは何の縁故か。陽卦の画数が奇数だからである――震・坎・艮は各々一陽二陰より組成し、共に五画。陰卦の画数が偶数だからである――巽・離・兌は各々一陰二陽より組成し、共に四画。それらの象徴する徳行に就て言えばまた如何。陽卦は一つの君主が二つの百姓を統領し、これは君子の道。陰卦は二つの君主が一つの百姓を争奪し、これは小人の道である。

《易》曰“憧憧往來,朋從爾思。”子曰:“天下何思何慮?天下同歸而殊途,一致而百慮。天下何思何慮?日往則月來,月往則日來,日月相推而明生焉。寒往則暑來,暑往則寒來,寒暑相推而歲成焉。往者屈也,來者信也,屈信相感而利生焉。

《周易》の《咸》卦九四に言う。「心思は往来して定まらず、あなたと意念相合する朋友のみがあなたに随従する。」孔子は解釈して言う。天下の事に何の苦思焦慮すべきあらんや。天下の万事は最終的に帰趨は相同じにして途徑は各々異なり、道理は一致して思慮は百端である。何の苦思焦慮すべきあらんや。太陽は落ちれば月亮は升起し、月亮は落ちれば太陽は升起し、日月は互相に推移して光明は産生する。寒冬は過ぎれば暑夏は到来し、暑夏は過ぎれば寒冬は到来し、寒暑は互相に推移して一年は形成する。過ぎ去るは收縮で、到来するは伸展である。一屈一伸が互相に感应し、利益はその中より産生する。

尺蠖之屈,以求信也;龍蛇之蟄,以存身也。精義入神,以致用也;利用安身,以崇德也。過此以往,未之或知也;窮神知化,德之盛也。”

尺蠖はその身を弓起するは、伸展を求得せんがためである。龍蛇は冬眠して蟄伏するは、自身を保全せんがためである。義理を精研して神妙の境に入るに至るは、実用を推致せんがためである。善く運用して自身を安定せしむるは、徳性を推崇せんがためである。この一層を超過してさらに上に言えば、人の知り得る所に非ず。神妙を窮究し造化を通暁するは、すでに徳性充盛の極致である。

《易》曰:“困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。”子曰:“非所困而困焉,名必辱。非所據而據焉,身必危。既辱且危,死期將至,妻其可得見耶!”

《周易》の《困》卦六三に言う。「大石に阻まれて困を受け、退下してまた蒺藜の上に坐り、家中に帰って妻子さえ見えない。凶。」孔子は解釈して言う。困を受くべからざる処においてそこに困を受ければ、名声は必ず辱を受ける。憑據すべからざる処において硬として憑據すれば、自身は必ず危険である。辱を受けまた危険なれば、死期はまさに至らんとして、どこに妻子を見ることがあろうか!

《易》曰:“公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。”子曰:“隼者,禽也;弓矢者,器也;射之者,人也。君子藏器於身,待時而動,何不利之有?動而不括,是以出而有獲,語成器而動者也。”

《周易》の《解》卦上六に言う。「王公は高墻の上にて凶猛の鷹隼を射獵し、一箭にして射獲した。不利なことなし。」孔子は解釈して言う。隼とは、獵取せんとする所の禽鳥である。弓箭とは、用いる所の器具である。それを射るは、人である。君子は才能器具を自身に収蔵して、時機の成熟を待って後に行動する。何の不利あらんや。行動する時に毫も窒礙なく、ゆえに一たび手を出せば獲る所有り――言う所はまさに先ず器具を備えて後に行動する人である。

子曰:“小人不恥不仁,不畏不義,不見利不勸,不威不懲。小懲而大誡,此小人之福也。《易》曰:‘履校滅趾,無咎。’此之謂也。”

孔子は言う。小人は不仁を以て羞耻と為さず、不義を以て畏懼と為さず、利益を見ずして努力するを肯んぜず、威懾を加えずして過を改めるを肯んぜず。彼をして少許の懲罰を受けしめて大きな警戒を得しむる。これはまさに小人の福気である。《周易》の《噬嗑》初九に「脚に木枷を戴きて脚趾を遮没す、過ちなし」と言うは、まさにこの道理を講じたのである。

“善不積不足以成名,惡不積不足以滅身。小人以小善為無益而弗為也,以小惡為無傷而弗去也,故惡積而不可掩,罪大而不可解。《易》曰:‘何校滅耳,凶。’”子曰:“危者,安其位者也;亡者,保其存者也;亂者,有其治者也。是故君子安而不忘危,存而不忘亡,治而不忘亂,是以身安而國家可保也。《易》曰:‘其亡其亡,繫于苞桑。’”

善行は積累せざれば名声を成就するに足らず、悪行は積累せざれば自身を毀滅するに足らず。小人は小さな善事を見て益なしと為して為すを肯んぜず、小さな悪事を見て痛痒に関わらずと為して改めるを肯んぜず。ゆえに悪は積みて掩盖し難く、罪は大きく解脫し得ざるに至る。《周易》の《噬嗑》上九に「肩に大枷を扛げて耳朵を遮没す、凶」と言うは、この種の人を言う。孔子はまた言う。危険を招致するは、まさにそれら自ら以て地位が安穏と為す人である。滅亡を招致するは、まさにそれら自ら以て長くその存を保ち得ると為す人である。禍乱を招致するは、まさにそれら自ら以てすでに治めたりと為す人である。ゆえに君子は安定の時に危険を忘れず、生存の時に滅亡を忘れず、太平の時に禍乱を忘れない。こうして自身はこそ安全で、国家はこそ保全し得る。《周易》の《否》卦九五に「まさに滅亡せん、まさに滅亡せんとしてこそ、叢生の桑根に係るがごとく牢固なり得る」と言うは、まさにこの意である。

子曰:“德薄而位尊,知小而謀大,力少而任重,鮮不及矣。《易》曰:‘鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。’言不勝其任也。”子曰:“知幾其神乎!君子上交不諂,下交不瀆,其知幾乎?幾者,動之微,吉之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。《易》曰:‘介于石,不終日,貞吉。’介如石焉,寧用終日?斷可識矣。君子知微知彰,知柔知剛,萬夫之望。”

孔子は言う。徳行は淺薄にして地位は尊貴、才智は短小にして大事を圖謀し、力量は微弱にして重任を担当するは、禍を遭わざること稀なり。《周易》の《鼎》卦九四に「鼎足は折断し、王公の美食を傾覆し、鼎身は汚濁に沾満す、凶」と言うは、まさに己の職任を承当し得ざるを講じたのである。孔子はまた言う。事機の幾微を予知し得るは、まことに神妙である!君子は上に交わって諂媚せず、下に交わって軽慢せず、おそらく幾微を懂得するのであろう。いわゆる「幾」とは、事物の変動の最初の征兆で、吉利が先行して顯露する苗头である。君子は幾微を見て即座に行動し、一日の過ぐるを待たない。《周易》の《豫》卦六二に「操守は堅定にして石のごとく、一日の過ぐるを待たずして決断を作す。正を守れば吉」と言う。すでに石のごとく堅定なれば、どこに一整天を等しがるの用あらんや。決断はすでに看清楚し得る。君子は能く細微を察知し、能く顯著を明弁し、能く柔を識り、能く剛を識る。ゆえに万衆の仰望する人と為る。

子曰:“顏氏之子,其殆庶幾乎?有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。《易》曰:‘不遠復,無祗悔,元吉。’”天地絪溫,萬物化醇。男女構精,萬物化生。《易》曰:‘三人行則損一人,一人行則得其友。’言致一也。

孔子は言う。顔回という人は、おそらく幾微を懂得するに近づいたのであろう。彼は不善の処あれば未だ自ら知らざることなく、知れば未だ再び重犯することなし。《周易》の《復》卦初九に「遠からず出でて返回すれば、大きな悔恨を造成するに至らず、大吉」と言うは、まさに彼を言う。天地の二気は氤氳交感し、万物はこれによって化育純厚する。男女陰陽は精気を交合し、万物はこれによって化生已まず。《周易》の《損》卦六三に「三人同行すれば一人を減損し、一人独行すれば反って伴侣を得る」と言うは、陰陽配合は専一を貴ぶを講じたのである。

子曰:“君子安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求。君子修此三者,故全也。危以動,則民不與也;懼以語,則民不應也;無交而求,則民不與也;莫之與,則傷之者至矣。《易》曰:‘莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。’”

孔子は言う。君子は先ず自身を安穏せしめて後に行動し、先ず心気を平和せしめて後に説話し、先ず交情を穏固せしめて後に請求ある。君子はこの三つの事を修養し好し。ゆえに能く周全である。処境が危殆の時に貿然行動すれば、百姓は追随しない。心に恐惧を懐いて勉强發言すれば、百姓は响应しない。交情なくして人に求めれば、百姓は与えない。与える人なければ、彼を傷害する人はまさに来たらんとす。《周易》の《益》卦上九に「彼を増益する人なく、反って彼を攻撃する人有り、心を立てて恒久に能わず、凶」と言うは、まさにこの道理を講じたのである。

子曰:“乾坤,其《易》之門耶?”乾,陽物也;坤,陰物也。陰陽合德,而剛柔有體。以體天地之撰,以通神明之德。其稱名也,雜而不越。於稽其類,其衰世之意邪?夫《易》,彰往而察來,而微顯闡幽,開而當名,辨物正言斷辭,則備矣。

孔子は言う。《乾》《坤》はおそらく《周易》の門戸であろう?乾は陽性の物、坤は陰性の物である。陰陽はその徳性を合し、剛柔はこそ各々形體ある。それを以て天地の造作を體現し、それを以て神明の徳性を會通する。《周易》の称説する名目は繁雑なれど、皆各々その分際を越出しない。それが象を取る類別を考察すれば、おそらく憂患衰世の用意を含むであろう。《周易》は過去を彰明して未来を察知し、細微を顯豁せしめ幽隠を闡発せしむ。打開して看れば、名称は皆その分に恰如し、事物を弁別し言辞を端正し文辞を判定して、完備にして遺なしと言うべし。

其稱名也小,其取類也大。其旨遠,其辭文,其言曲而中,其事肆而隱。因貳以濟民行,以明失得之報。

《周易》の称説する名物は看似細小なれど、譬を取る所の類別は極めて宏大である。その意旨は深遠、その文辞は文采に富み、その話は曲折婉轉にして事理に切中し、その陳述する事情は鋪陳明白にしてその中の道理は隠微にして尽くし難い。それは吉凶の二者の対挙に憑って百姓の行止を決断するを幇助し、以て得と失の各々の報應を昭示する。

《易》之興也,其於中古乎?作《易》者,其有憂患乎?是故《履》,德之基也,《謙》,德之柄也,《復》,德之本也,《恆》,德之固也,《損》,德之修也,《益》,德之裕也,《困》,德之辨也,《井》,德之地也,《巽》,德之制也。

《周易》の興起は、おそらく中古の時代に在ったであろう。《周易》を創作した人は、おそらく心中に憂患を懐いていたのであろう。ゆえに言う。《履》卦は礼を講じ、徳行の根基である。《謙》卦は謙退を講じ、徳行の把柄である。《復》卦は善に反るを講じ、徳行の根本である。《恒》卦は恒久を講じ、徳行の堅固の処である。《損》卦は私欲を減損するを講じ、徳行の修治である。《益》卦は人に增益するを講じ、徳行の寛裕である。《困》卦は困に処するを講じ、徳行の檢驗である。《井》卦は人を養うを講じ、徳行の立足之地である。《巽》卦は順入を講じ、徳行の裁断権衡である。

《履》,和而至。《謙》,尊而光,《復》,小而辨於物,《恆》,雜而不厭,《損》,先難而後易,《益》,長裕而不設,《困》,窮而通,《井》,居其所而遷,《巽》,稱而隱。《履》以和行,《謙》以制禮,《復》以自知,《恆》以一德,《損》以遠害,《益》以興利,《困》以寡怨,《井》以辨義,《巽》以行權。

さらにこの九卦の徳性を言う。《履》は和順にして能く理に達す。《謙》は愈々自卑すれば愈々尊栄光大を顯す。《復》は一陽の微を以て能く万物に明弁す。《恒》は雑事の中に処して厭倦を生ぜず。《損》は先ず艱難を覚えて後に容易に転ず。《益》は人をして長久寛裕にして虚設造作する必用なからしむ。《困》は身は窮境に在りて心は能く通達す。《井》は自身は動かずして水沢は他処に遷及し得る。《巽》は事物の軽重を称量して自身は隠して露さず。それらの用は。《履》を以て己の行為を調和し、《謙》を以て節制して礼を成し、《復》を以て自我省察し、《恒》を以て己の徳性を專一にし、《損》を以て禍害に遠離し、《益》を以て利益を興起し、《困》を以て怨尤を減少し、《井》を以て義理を弁明し、《巽》を以て権に通じ変に達する。

《易》之為書也不可遠,為道也屢遷,變動不居,周流六虛,上下無常,剛柔相易,不可為典要,唯變所適。其出入以度外內,使知懼。又明於憂患與故。無有師保,如臨父母。初率其辭而揆其方,既有典常。苟非其人,道不虛行。

《周易》この書は片刻も遠離すべからず。それが講ずる道理は絶えず遷移変動する。変化は一処に居らず、六個の爻位の間に周流し、忽ち上がり忽ち下がり定准なく、剛爻柔爻は互相に更替し、一成不変の教条としてはならず、ただ変化に随って適応するのみ。その進退出入には皆法度ありて内外を衡量し、人をして戒懼を知らしめる。また人をして憂患の由来と縁故を明了せしむ。師傅保姆が旁に在りて教誨せずとも、それを讀めば父母が親しく身辺に臨むがごときである。初めはその文辞に依循してその中の方向を推求すれば、自ずから常規の循すべきあるを発見する。ただし若しそれを領會し得る人でなければ、この道理は憑空に自ずから行われることはない。

《易》之為書也,原始要終,以為質也。六爻相雜,唯其時物也。其初難知,其上易知,本末也。初辭擬之,卒成之終。若夫雜物撰德,辯是與非,則非其中爻不備。噫!亦要存亡吉凶,則居可知矣。知者觀其彖辭,則思過半矣。

《周易》この書は、事物の開端を推原し事物の終局を帰結し、以て一卦の本質と為す。六爻は錯雑に相処し、各々当時の時勢と物類を代表する。初爻の意思は看清し難く、上爻の意思は看清し易い。一つは本で一つは末だからである。初爻の文辞はただ事物の開始を模擬するのみで、上爻に至ってこそ最終的に一卦の終局を完成する。錯雑の物象・撰述の徳性・是非の弁別に至っては、則ち中間の二三四五のこれらの爻に頼らざれば完備し得ない。噫!存亡吉凶の大要を求得せんとすれば、安坐しても即ち知ることを得る。智慧ある人はただ《彖辞》を一看すれば、全卦の意思に対して領會は半ばを過ぎる。

二與四同功而異位,其善不同;二多譽,四多懼,近也。柔之為道,不利遠者;其要無咎。其用柔中也。三與五同功而異位,三多凶,五多功,貴賤之等也。其柔危,其剛勝耶?《易》之為書也,廣大悉備。有天道焉,有人道焉,有地道焉。兼三才而兩之,故六。六者非它也,三材之道也。道有變動,故曰爻;爻有等,故曰物;物相雜,故曰文;文不當,故吉凶生焉。

第二爻と第四爻は同じく陰位に属し功用は相同じにして居る所の位次は同じからず。これによってそれらの善処もまた一様ならず。二爻は多く称誉を得、四爻は多く畏懼あるは、四爻が君位に逼近するからである。柔順の道は、本は中位に遠く離れた処に処するに利せず。而して二爻の大体に過ちなき所以は、それが用いるは柔順にして中に居るの道だからである。第三爻と第五爻は同じく陽位に属し功用は相同じにして位次は同じからず。三爻は多く凶險、五爻は多く功業あるは、貴賤の等次の造成する所である。この両個の位置上に若し柔爻なれば危険で、若し剛爻なればおそらく勝任し得るであろう。《周易》この書は、広大にして備わらざるなし。その中に天道あり、人道あり、地道あり。天地人の三才を兼取して各々両爻を以て相配す。ゆえに一卦は六爻である。六爻は他のものに非ず、まさに三才の道である。道は変動あり。ゆえに「爻」と言う。爻は貴賤等級あり。ゆえに「物」と言う。物類は互相に錯雑す。ゆえに「文」と言う。文采の配置が当たらざれば、吉凶はこれによって産生する。

《易》之興也,其當殷之末世,周之盛德耶?當文王與紂之事耶?是故其辭危。危者使平,易者使傾。其道甚大,百物不廢。懼以終始,其要無咎,此之謂《易》之道也。

《周易》の興起は、おそらく殷商の末世・周徳がまさに盛なる時に正しく当たったであろう。おそらく周文王と商紂王のあの君臣の事に当たったであろう。ゆえにその文辞は危懼の感に充満する。心に危懼を存する人には、それは彼を平安に趨らしむ。掉以軽心の人には、それは彼を傾覆に帰せしむ。それが講ずる道理は極めて広大で、万事万物は遺棄されるもの一つもなし。自始至終に戒懼の心を懐き、その要旨は人をして過錯を犯さざらしむるに在る――これを《周易》の道と言う。

夫乾,天下之至健也,德行恆易以知險。夫坤,天下之至順也,德行恆簡以知阻。能說諸心,能研諸侯之慮,定天下之吉凶,成天下之亹亹者。是故變化云為,吉事有祥。象事知器,占事知來。天地設位,聖人成能。人謀鬼謀,百姓與能。

乾は天下最も剛健で、その徳行は恒久平易で、これによって険難を識別し得る。坤は天下最も柔順で、その徳行は恒久簡約で、これによって阻碍を識別し得る。《周易》の道は人をして心中に悦服せしめ、人々の種種の思慮を研求し、天下の吉凶を判定し、天下人の勤勉不倦の事業を成就し得る。(底本の「能研諸侯之慮」の「侯」字は衍文で、通行本は「能研諸慮」と作る。今は照録して改めない。)ゆえに人の変化挙動と言語作為は、およそ吉利の事に属するは皆先ず祥兆ある。物象を観察すれば何の器物を造るべきかを知り、事情を占問すれば未来を予知し得る。天地は各々その位に安んじ、聖人は則ちその才能を成就する。人の謀画と鬼神の謀画は相參じ、普通百姓もまたその中に参与して各々その能を尽くし得る。

八卦以象告,爻彖以情言,剛柔雜居,而吉凶可見矣。變動以利言,吉凶以情遷。是故愛惡相攻而吉凶生,遠近相取而悔吝生,情偽相感而利害生。凡《易》之情,近而不相得則凶,或害之,悔且吝。將叛者其辭慚,中心疑者其辭枝,吉人之辭寡,躁人之辭多,誣善之人其辭游,失其守者其辭屈。

八卦は物象を以て人に告げ、爻辞と彖辞は情理を以て説明する。剛爻柔爻は錯雑に共処し、吉凶は即ち看出し得る。爻の変動は利害に就いて言い、吉凶は人情の向背に随って轉移する。ゆえに喜愛と厭惡が互相に衝突すれば吉凶を産生し、疏遠と親近が互相に取舍すれば悔吝を産生し、真誠と虚偽が互相に感应すれば利害を産生する。およそ《周易》の揭示する人情。位置が相近くして彼此相投合せざれば凶、或いは互相に加害し、或いは悔恨と憾惜を生出す。最後に言辞より人心を看る。まさに背叛せんとする人は、説話に慚愧を帯びる。心中に疑惑ある人は、説話は枝蔓にして定まらず。吉善の人は話少なく、浮躁の人は話多し。善良を誣陷する人は、説話は游移して根なし。操守を喪失した人は、説話は理屈して詞窮まる。

説卦

昔者聖人之作《易》也,幽贊於神明而生蓍,參天兩地而倚數,觀變於陰陽而立卦,發揮於剛柔而生爻,和順於道德而理於義,窮理盡性以至於命。昔者聖人之作《易》也,將以順性命之理。是以立天之道曰陰與陽,立地之道曰柔與剛,立人之道曰仁與義。兼三才而兩之,故《易》六畫而成卦。分陰分陽,迭用柔剛,故《易》六位而成章。

《説卦伝》は専ら八卦の取象と方位を講ずる。それは言う。昔聖人が《周易》を創作し、冥々の中に神明の贊助を得て蓍草を以て占筮する之法有り、三を以て天数と為し二を以て地数と為して筮数の根拠を確立し、陰陽の変化を観察して卦體を建立し、剛柔の作用を発揮して爻画を産生し、それらをして道德に和順し義理に条理せしめ、事物の理を窮究し人物の性を尽く顕して、天命に通達するに至る。また言う。昔聖人が《周易》を創作したは、それを以て性と命の道理に順応せんとする。これによって天道を確立するを陰と陽と言い、地道を確立するを柔と剛と言い、人道を確立するを仁と義と言う。天地人の三才を兼取して各々両爻を以て相配す。ゆえに《周易》は六画を以て一卦を組成する。陰位と陽位を区別し、柔爻と剛爻を交替使用す。ゆえに《周易》は六個の爻位を以て完整の文理を構成する。

天地定位,山澤通氣,雷風相薄,水火不相射,八卦相錯。數往者順,知來者逆,是故《易》逆數也。雷以動之,風以散之,雨以潤之,日以烜之,艮以止之,兌以說之,乾以君之,坤以藏之。

天は上に在り地は下に在り、位置は確定する。山と沢は気息相通じ、雷と風は互相に激蕩し、水と火は相厭棄せず。八卦はこのように両両相対して交錯して體を成す。已往の事を推数するは時序に順って数え下去り、未来の事を予知するは時序に逆らって推し上るを要す。ゆえに《周易》の講ずるは逆推して未来の数を求める。八卦の作用は。雷は以て万物を鼓動し、風は以て万物を吹散し、雨は以て万物を滋潤し、太陽は以て万物を晒乾し、艮山は以て万物を止住し、兌沢は以て万物を悦懌せしめ、乾天は以て万物を統領し、坤地は以て万物を収蔵する。

帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。萬物出乎震,震東方也。齊乎巽,巽東南也;齊也者,言萬物之絜齊也。

万物を主宰する天帝は、震卦より発動し、巽卦に於て整斉し、離卦に於て彼此相見え、坤卦に於て養育に致力し、兌卦に於て歓悦し、乾卦に於て交戦し、坎卦に於て勞倦し、艮卦に於て終に成る。これは一年の四時と八方の運転を言う。万物は震より生出し、震は東方に在りて春分に当たる。巽に於て整斉し、巽は東南に在りて立夏の前に当たる。いわゆる「斉」とは、万物がこの時に至って皆整潔斉一に長ちたを言う。

離也者,明也,萬物皆相見,南方之卦也,聖人南面而聽天下,嚮明而治,蓋取諸此也。坤也者,地也,萬物皆致養焉,故曰:致役乎坤。兌,正秋也,萬物之所說也,故曰:說言乎兌。戰乎乾,乾西北之卦也,言陰陽相薄也。坎者水也,正北方之卦也,勞卦也,萬物之所歸也,故曰:勞乎坎。艮,東北之卦也。萬物之所成終而成始也,故曰:成言乎艮。

離とは即ち光明で、万物はこの時に至って皆彼此顯現して見るべきあり。それは南方の卦で、夏至に当たる。聖人は南方に面向して天下を聴治し、光明に向かって治理するは、おそらくこれに象を取ったのであろう。坤とは即ち大地で、万物は皆ここに於て養育を得る。ゆえに「致役乎坤」と言う。その位は西南で、夏秋の交に当たる。兌はまさに秋分に当たり、万物が成熟して喜悦の時である。ゆえに「説言乎兌」と言う。「戦乎乾」は、乾は西北の卦で立冬の前に当たり、陰気が盛極して陽気と相迫相争することを言う。坎は即ち水で、正北方の卦で冬至に当たり、勞倦の卦で、万物はここに至って皆歸蔵休息する。ゆえに「勞乎坎」と言う。艮は東北の卦で立春の前に当たり、万物がすでに終結を完成してまた新生を開始する処である。ゆえに「成言乎艮」と言う。

神也者,妙萬物而為言者也。動萬物者莫疾乎雷,撓萬物者莫疾乎風,躁萬物者莫乎火,說萬物者莫說乎澤,潤萬物者莫潤乎水,終萬物始萬物者莫盛乎艮。故水火相逮,雷風不相悖,山澤通氣,然後能變化,既成萬物也。

いわゆる「神」とは、万物の変化の神妙不测に就いて立てた名である。万物を鼓動するに雷より迅疾なるなく、万物を吹拂搖撼するに風より迅疾なるなく、万物を乾燥せしむるに火より厲害なるなく、万物を欣悦せしむるに沢より能く悦ばせるなく、万物を滋潤するに水より能く潤すなく、万物を終結しまた開啟するに艮より盛なるなし。(底本の「躁万物者莫乎火」は一「熯」字を脱し、通行本は「莫熯乎火」と作る。今は照録して補わない。)ゆえに水と火は互相に追及し、雷と風は相違逆せず、山と沢は気息相通じ、然る後にこそ変化を生出し万物を成就し得る。

乾,健也。坤,順也。震,動也。巽,入也。坎,陷也。離,麗也。艮,止也。兌,說也。乾為馬,坤為牛,震為龍,巽為雞,坎為豕,離為雉,艮為狗,兌為羊。乾為首,坤為腹,震為足,巽為股,坎為耳,離為目,艮為手,兌為口。

八卦は各々卦徳あり。乾は剛健、坤は柔順、震は奮動、巽は順入、坎は陷険、離は附麗、艮は静止、兌は欣悦である。八卦は牲畜に象を取る。乾は馬と為るはその健行を取る。坤は牛と為るはその順載を取る。震は龍と為るはその奮起を取る。巽は鶏と為るはその時を知りて鳴くを取る。坎は猪と為るはその汚に居るを取る。離は野鶏と為るはその文采を取る。艮は狗と為るはその門を守りて止まるを取る。兌は羊と為るはその外柔を取る。八卦は人身に象を取る。乾は頭、坤は腹、震は足、巽は大腿、坎は耳、離は眼、艮は手、兌は口である。

乾,天也,故稱乎父。坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男。巽一索而得女,故謂之長女。坎再索而得男。故謂之中男。離謂之中男。離再索而得女,故謂之中女。艮三索而得男,故謂之少男。兌三索而得女,故謂之少女。

乾は天、ゆえにそれを父と称す。坤は地、ゆえにそれを母と称す。坤は第一次に乾より陽爻を求取して男を得た。ゆえに震は長男と言う。乾は第一次に坤より陰爻を求取して女を得た。ゆえに巽は長女と言う。第二次に求取して男を得た。ゆえに坎は中男と言う。第二次に求取して女を得た。ゆえに離は中女と言う。第三次に求取して男を得た。ゆえに艮は少男と言う。第三次に求取して女を得た。ゆえに兌は少女と言う。(底本はここに「離謂之中男。」の一句を衍出し、上下文と相牴牾する。今は照録して削除しない。)

乾為天,為圓,為君,為父,為玉,為金,為寒,為冰,為大赤,為良馬,為老馬,為瘠馬,為駁馬,為木果。坤為地,為母,為布,為釜,為吝嗇,為均,為子母牛,為大輿,為文,為眾,為柄,其於地也為黑。

以下は卦ごとに取る所の物象を羅列し、後世の象数占断の取用する根本である。乾の象徴する所有り。天、圓形、君主、父親、玉、金、寒冷、冰、大紅色、良馬、老馬、瘦馬、毛色斑駁の馬、樹上の果実。坤の象徴する所有り。大地、母親、布帛、釜鍋、吝嗇、均平、母子相随の牛、大車、文采、衆多、器物の柄。土地の一類の中に於ては、則ち黑色の土である。

震為雷,為龍,為玄黃,為旉,為大途,為長子,為決躁,為蒼筤竹,為萑葦。其於馬也,為善鳴,為馵足,為作足,為的顙。其於稼也,為反生。其究為健,為蕃鮮。巽為木,為風,為長女,為繩直,為工,為白,為長,為高,為進退,為不果,為臭。其於人也,為寡髮,為廣顙,為多白眼,為近利市三倍,其究為躁卦。

震の象徴する所有り。雷、龍、天地相雑の青黄の色、花朵舒放、寛闊の大路、長子、決断急躁、青嫩の竹子、芦荻。馬の一類の中に於ては、嘶鳴を善くする馬、後左足白の馬、足を擧げて高邁の馬、額頭に白斑ある馬。莊稼の一類の中に於ては、種子が倒生して後に土を出る作物。推究して極処に至れば、則ち剛健と為り、繁茂鮮活と為る。巽の象徴する所有り。樹木、風、長女、繩墨のごとき正直、工匠、白色、長、高、進退不定、事を為して果決ならず、気味。人の一類の中に於ては、頭髮稀少の人、額頭寛闊の人、眼白多きの人、近利を逐いて三倍の息を獲る人。推究して極処に至れば、則ち躁動の卦と為る。

坎為水,為溝瀆,為隱伏,為矯輮,為弓輪。其於人也,為加憂,為心病,為耳痛,為血卦,為赤。其於馬也,為美脊,為亟心,為下首,為薄蹄,為曳。其於輿也,為多眚,為通,為月,為盜。其於木也,為堅多心。

坎の象徴する所有り。水、溝渠、隠伏蔵匿、曲がりを矯直し直を揉曲す、弓と車輪。人の一類の中に於ては、憂慮の身に加わる、心病と為る、耳痛と為る。坎はまた血を主る卦で、その色は赤紅である。馬の一類の中に於ては、脊背健美の馬、性子急躁の馬、低く頭を垂るる馬、蹄甲薄き馬、拖沓して行き難き馬。車輿の一類の中に於ては、多災多難。これの外また通達、月亮、盗賊を象徴す。樹木の一類の中に於ては、堅実にして木心多き樹である。

離為火,為日,為電,為中女,為甲冑,為戈兵。其於人也,為大腹。為乾卦,為鱉,為蟹,為蠃,為蚌,為龜。其於木也,為科上槁。艮為山,為徑路,為小石,為門闕,為果蓏,為閽寺,為指,為狗,為鼠,為黔喙之屬。其於木也,為堅多節。兌為澤,為少女,為巫,為口舌,為毀折,為附決。其於地也,為剛滷。為妾,為羊。

離の象徴する所有り。火、太陽、閃電、中女、盔甲、戈矛兵器。人の一類の中に於ては、大きな肚子の人。それはまた乾燥を主る卦で、鱉・蟹・螺・蚌・亀のこれら外堅内柔の物を象徴す。樹木の一類の中に於ては、中空にして上部枯槁の樹。艮の象徴する所有り。山、小路、小石頭、門闕、木果と草実、門を守る閽人と寺人、手指、狗、老鼠、および各種の黑嘴の猛禽鷙獣。樹木の一類の中に於ては、堅実にして節多き樹。兌の象徴する所有り。沼沢、少女、巫祝、口舌、毀壞折損、附着して後に決裂。土地の一類の中に於ては、堅硬の鹽鹼地。これの外また妾、羊を象徴す。

序卦

有天地,然後萬物生焉。盈天地之間者唯萬物,故受之以《屯》。屯者,盈也。屯者,物之始生也。物生必蒙,故受之以《蒙》。蒙者,蒙也,物之稚也。

《序卦伝》は卦ごとに六十四卦の相承する次第を説明する。それは言う。先ず天地有り――即ち《乾》《坤》の両卦――然る後に万物は生出す。天地の間に充満するはただ万物のみ。ゆえに《乾》《坤》の後に続くは《屯》卦。「屯」は充盈の意で、また万物初生の意である。万物初生は必ず蒙昧未開。ゆえに続くは《蒙》卦。「蒙」は即ち蒙昧で、万物幼稚の階段である。

物稚不可不養也,故受之以《需》。需者,飲食之道也。飲食必有訟,故受之以《訟》。訟必有眾起,故受之以《師》。師者,眾也。眾必有所比,故受之以《比》。比者,比也。比必有所畜,故受之以《小畜》。物畜然後有禮,故受之以《履》。履而泰,然後安,故受之以《泰》。泰者,通也。物不可以終通,故受之以《否》。物不可以終否,故受之以《同人》。與人同者,物必歸焉,故受之以《大有》。有大者,不可以盈,故受之以《謙》。有大而能謙必豫,故受之以《豫》。豫必有隨,故受之以《隨》。以喜隨人者必有事,故受之以《蠱》。

万物幼稚なれば養育を加えざるを得ず。ゆえに続くは《需》卦。「需」の講ずるは飲食供養の道である。飲食を争奪すれば必ず訴訟を生ず。ゆえに続くは《訟》卦。訴訟は必ず群衆の相聚まりて起るを招致す。ゆえに続くは《師》卦。「師」は即ち衆人である。衆人が聚集すれば必ず親附歸向あり。ゆえに続くは《比》卦。「比」は即ち親比である。親比の後は必ず蓄積する所有り。ゆえに続くは《小畜》卦。事物が蓄積有りて然る後に礼節を講ず。ゆえに続くは《履》卦。「履」は即ち礼である。礼節を踐行して後に通泰し、通泰して後に安定す。ゆえに続くは《泰》卦。「泰」は即ち通達である。事物は永遠に通達する能わず。ゆえに続くは《否》卦。また永遠に閉塞する能わず。ゆえに続くは《同人》卦。人と和同し得れば、万物は必ず彼に歸附す。ゆえに続くは《大有》卦。盛大を擁有する者は自満すべからず。ゆえに続くは《謙》卦。すでに盛大にして能く謙退すれば、必ず安楽す。ゆえに続くは《豫》卦。安楽すれば必ず追随する人有り。ゆえに続くは《随》卦。喜悦の心を以て别人に追随すれば、必ず事端を生出す。ゆえに続くは《蠱》卦。

蠱者,事也。有事而後可大,故受之以《臨》。臨者,大也。物大然後可觀,故受之以《觀》。可觀而後有所合,故受之以《噬嗑》。嗑者,合也。物不可以苟合而已,故受之以《賁》。賁者,飾也。致飾然後亨則盡矣,故受之以《剝》。剝者,剝也。物不可以終盡剝,窮上反下,故受之以《復》。復則不妄矣,故受之以《無妄》。有無妄,物然後可畜,故受之以《大畜》。物畜然後可養,故受之以《頤》。頤者,養也。不養則不可動,故受之以《大過》。物不可以終過,故受之以《坎》。坎者,陷也。陷必有所麗,故受之以《離》。離者,麗也。

「蠱」は事為すべき有るの意である。事為すべき有りて然る後に盛大し得。ゆえに続くは《臨》卦。「臨」は即ち盛大である。事物盛大して然る後に觀仰すべきあり。ゆえに続くは《観》卦。觀仰すべき有りて然る後に会合する所有り。ゆえに続くは《噬嗑》卦。「嗑」は即ち合である。事物はただ苟且相合するのみなるべからず。ゆえに続くは《賁》卦。「賁」は即ち文飾である。文飾が極致に至れば、亨通の道もまた窮尽す。ゆえに続くは《剥》卦。「剥」は即ち剥落である。事物は一直に剥落して尽くる能わず。上の尽頭に剥きて即ち下に返って重生す。ゆえに続くは《復》卦。正道に返って再び虚妄ならず。ゆえに続くは《无妄》卦。真実无妄有りて、事物は然る後に蓄積し得。ゆえに続くは《大畜》卦。蓄積有りて然る後に養育し得。ゆえに続くは《頤》卦。「頤」は即ち養である。養育せざれば行動する所有る能わず。ゆえに続くは《大過》卦。事物は永遠に過度する能わず。ゆえに続くは《坎》卦。「坎」は即ち陷落である。陷落の後は必ず附麗する所有り。ゆえに続くは《離》卦。「離」は即ち附麗である。

有天地然後有萬物,有萬物然後有男女,有男女然後有夫婦,有夫婦然後有父子,有父子然後有君臣,有君臣然後有上下,有上下然後禮義有所錯。夫婦之道不可以不久也,故受之以《恆》。恆者,久也。物不可以久居其所,故受之以《遯》。遯者,退也。物不可以終遯,故受之以《大壯》。物不可以終壯,故受之以《晉》。晉者,進也。進必有所傷,故受之以《明夷》。夷者,傷也。傷於外者必反於家,故受之以《家人》。家道窮必乖,故受之以《睽》。睽者,乖也。

以下は下経の次第である。天地有りて然る後に万物あり、万物有りて然る後に男女あり、男女有りて然る後に夫婦あり、夫婦有りて然る後に父子あり、父子有りて然る後に君臣あり、君臣有りて然る後に上下の分あり、上下の分有りて然る後に礼義はこそ安放する処あり――ゆえに下経は男女交感を講ずる《咸》卦より始まる。夫婦の道は長久ならざるべからず。ゆえに続くは《恒》卦。「恒」は即ち長久である。事物は長久に一処に居る能わず。ゆえに続くは《遯》卦。「遯」は即ち退避である。事物は一直に退避する能わず。ゆえに続くは《大壮》卦。また一直に壮盛なる能わず。ゆえに続くは《晋》卦。「晋」は即ち前進である。前進すれば必ず損傷する所有り。ゆえに続くは《明夷》卦。「夷」は即ち傷である。外に在りて傷を受ければ必ず家中に返回す。ゆえに続くは《家人》卦。家道は窮処に走れば必ず乖違を生ず。ゆえに続くは《睽》卦。「睽」は即ち乖背である。

乖必有難,故受之以《蹇》。蹇者,難也。物不可以終難,故受之以《解》。解者,緩也。緩必有所失,故受之以《損》。損而不已必益,故受之以《益》。益而不已必決,故受之以《夬》。夬者,決也。決必有遇,故受之以《姤》。

乖違は必ず危難を帯来す。ゆえに続くは《蹇》卦。「蹇」は即ち艱難である。事物は永遠に艱難なる能わず。ゆえに続くは《解》卦。「解」は即ち舒緩である。舒緩鬆弛すれば必ず失う所有り。ゆえに続くは《損》卦。減損して停まざれば必ず転じて増益と為る。ゆえに続くは《益》卦。増益して停まざれば必ず満溢して決口す。ゆえに続くは《夬》卦。「夬」は即ち決去である。決去の後は必ず新たな遭遇あり。ゆえに続くは《姤》卦。

姤者,遇也。物相遇而後聚,故受之以《萃》。萃者,聚也。聚而上者謂之升,故受之以《升》。升而不已必困,故受之以《困》。困乎上者必反下,故受之以《井》。井道不可不革,故受之以《革》。革物者莫若鼎,故受之以《鼎》。主器者莫若長子,故受之以《震》。

「姤」は即ち相遇である。事物は相遇して後に聚集す。ゆえに続くは《萃》卦。「萃」は即ち聚集である。聚集して上行するを上昇と言う。ゆえに続くは《升》卦。上昇して止まざれば必ず困窮す。ゆえに続くは《困》卦。上に在りて困を受けるは必ず下に返回す。ゆえに続くは《井》卦――井は最も下にして能く人を養う。井は久しく用いれば変革淘洗を加えざるを得ず。ゆえに続くは《革》卦。事物を変革するに鼎より合適なるなし。ゆえに続くは《鼎》卦――鼎は能く生を烹じて熟と為す。宗廟鼎器を主持するに長子より合適なるなし。ゆえに続くは《震》卦――震は長男と為る。

震者,動也。物不可以終動,止之,故受之以《艮》。艮者,止也。物不可以終止,故受之以《漸》。漸者,進也。進必有所歸,故受之以《歸妹》。得其所歸者必大,故受之以《豐》。豐者,大也。窮大者必失其居,故受之以《旅》。旅而無所容,故受之以《巽》。巽者,入也。入而後說之,故受之以《兌》。兌者,說也。說而後散之,故受之以《渙》。渙者,離也。物不可以終離,故受之以《節》。節而信之,故受之以《中孚》。有其信者必行之,故受之以《小過》。有過物者必濟,故受之以《既濟》。物不可窮也,故受之以《未濟》,終焉。

「震」は即ち奮動である。事物は永遠に運動する能わず、総じてそれを止住するを要す。ゆえに続くは《艮》卦。「艮」は即ち静止である。事物は永遠に静止する能わず。ゆえに続くは《漸》卦。「漸」は即ち循序前進である。前進すれば必ず歸宿する所有り。ゆえに続くは《帰妹》卦。歸宿を得るは必ず盛大す。ゆえに続くは《豊》卦。「豊」は即ち盛大である。盛大して窮尽に至れば必ず安居の所を失う。ゆえに続くは《旅》卦。羈旅して外に在りて容身する処なければ、ただ謙順に入を求めるのみ。ゆえに続くは《巽》卦。「巽」は即ち順入である。順入して後に人を喜悅せしむ。ゆえに続くは《兌》卦。「兌」は即ち喜悦である。喜悦して後に人心は渙散す。ゆえに続くは《渙》卦。「渙」は即ち離散である。事物は永遠に離散する能わず。ゆえに続くは《節》卦。節制有りて人を信服せしむ。ゆえに続くは《中孚》卦。誠信ある人は必ず実行に付す。ゆえに続くは《小過》卦。行事が常人に稍々過越する者は、必ず事を成し得。ゆえに続くは《既済》卦。しかし事物の道理は窮尽の時有る能わず。ゆえに最後に続くは《未済》卦で、全書はここに終結する。

雑卦

《乾》剛《坤》柔,《比》樂《師》憂;《臨》《觀》之義,或與或求。《屯》見而不失其居。《蒙》雜而著。《震》,起也。《艮》,止也。《損》、《益》盛衰之始也。《大畜》,時也。《無妄》,災也。《萃》聚而《升》不來也。《謙》輕而《豫》怠也。《噬嗑》,食也。《賁》,無色也。《兌》見而《巽》伏也。《隨》無故也。《蠱》則飭也。《剝》,爛也。《復》,反也。

《雑卦伝》は《序卦》の次第に依らず、六十四卦を両両錯雑に対挙し、各々一两个字を用いて卦義を点出す。それは言う。《乾》は剛健を主り、《坤》は柔順を主る。《比》は親輔の楽あり、《師》は興兵の憂あり。《臨》と《観》の分別は、一つは上に居りて下に臨みて施与する所有り、一つは下に在りて仰觀して求取する所有り。《屯》は初生して顯現してその居る所を失わず、《蒙》は蒙昧雑乱にして終に顯著せんとす。《震》は奮起、《艮》は静止。《損》と《益》は、盛より衰に転じ衰より盛に転ずる開端。《大畜》の講ずるは時を待ちて動く、《无妄》の講ずるは意外の災。《萃》は下に聚まる、《升》は升りて返らず。《謙》は自ら軽んじて自ら重んぜず、《豫》は安楽して怠惰を生ず。《噬嗑》の講ずるは進食、《賁》の講ずるは文飾極まりて反って素白无色に歸す。《兌》は外に顯現し、《巽》は内に隱伏す。《随》は己を捨て人に従いて故常なく、《蠱》は則ち積弊を整飭す。《剥》は剥落腐爛、《復》は返回復生である。

《晉》,晝也。《明夷》,誅也。《井》通而《困》相遇也。《咸》速也。《恆》,久也。《渙》,離也。《節》,止也。《解》,緩也。《蹇》,難也。《睽》,外也。《家人》,內也。《否》、《泰》反其類也。《大壯》則止,《遯》則退也。《大有》,眾也。《同人》,親也。《革》,去故也。《鼎》,取新也。《小過》,過也。《中孚》,信也。《豐》,多故也。親寡《旅》也。

《晋》は白昼の光明、《明夷》は光明の傷を受くる。《井》は通達して人を養う、《困》は険難と相遭遇す。《咸》は感应迅速、《恒》は守持長久。《渙》は離散、《節》は節止。《解》は緩解、《蹇》は艱難。《睽》は乖離して心志は外に向かい、《家人》は和睦して心志は内に向かう。《否》と《泰》は、正に彼此相反する両類。《大壮》は壮盛して極処に至り反って止むべし、《遯》は時に及んで退避す。《大有》は所有する者衆多、《同人》は人と相親しむ。《革》は旧を革除し、《鼎》は新を取用す。《小過》は稍々過越あり、《中孚》は心中誠信。《豊》は事故繁多で、親近する人稀少なるは即ち《旅》である。

《離》上而《坎》下也。《小畜》,寡也。《履》,不處也。《需》,不進也。《訟》,不親也。《大過》,顛也。《姤》,遇也,柔遇剛也。《漸》,女歸待男行也。《頤》,養正也。《既濟》,定也。《歸妹》,女之終也。《未濟》,男之窮也。《夬》,決也,剛決柔也。君子道長,小人道憂也。

《離》は火性の炎上、《坎》は水性の潤下。《小畜》は畜積する所がなお少なし、《履》は履いて停まらず其の処に安んぜず。《需》は等待して冒進せず、《訟》は争訟して相親しまず。《大過》は本末俱に弱くして顛覆す。《姤》は相遇で、柔爻が剛爻に遇上す。《漸》は女子が出嫁して男方の礼に依って迎え来るを待ってこそ行く。《頤》は之を養うに正を以てす。《既済》は各々その位を得てすでに定まり、《帰妹》は女子が歸宿有るは即ち人倫の終、《未済》は男子が事を成し得ずして窮途に処す。《夬》は決去で、陽剛が陰柔を決去す。全書はこれを以て收束す。君子の道は日増しに増長し、小人の道は日に日に憂懼消退す。

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