东坡易传
「乾」卦の上卦は乾、下卦も乾である。卦辞はいう、「乾」は元・亨・利・貞である、と。初九の爻辞はいう、龍はなお潜伏しており、施し用いてはならな…
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
《東坡易伝》巻之一
乾卦(第一)
乾上,乾下。“乾”:元亨,利貞。初九,潛龍勿用。“乾”之所以取於“龍”者,以其能飛能潛也。飛者其正也,不能其正而能潛,非天下之至健,其孰能之?九二:見龍在田,利見大人。飛者,龍之正行也;天者,龍之正處也。見其在田,明其可安而非正也。
「乾」卦の上卦は乾、下卦も乾である。卦辞はいう、「乾」は元・亨・利・貞である、と。初九の爻辞はいう、龍はなお潜伏しており、施し用いてはならない、と。「乾」卦が「龍」に象を取ったのは、龍が飛ぶことも潜ることもできるからである。飛ぶことこそ龍の正しい位である。正位を守れずに潜伏に安んじることができるのは、天下の至健でなければ誰にできようか。九二の爻辞はいう、龍が田に現れ、大人に見えるに利あり、と。飛騰は龍の正しい行い、天空は龍の正しい居処である。いま「田」に現れたというのは、これが安んじるべき場所にすぎず、正位ではないことを示している。
九三:君子終日乾乾,夕惕若。厲,無咎。九三,非龍德歟?曰:否。進乎龍矣。此上下之際、禍福之交、成敗之決也。徒曰龍者不足以盡之,故曰君子。夫初之可以能潛,二之所以能見,四之所以能躍,五之所以能飛,皆有待於三焉。甚矣三之能處也!使三之不能處此,則“乾”喪其所以為“乾”矣。天下莫大之福、不測之禍,皆萃於我而求決焉。其濟、不濟,間不容髮。是以“終日乾乾”,至於夕猶“惕”然,雖危而無咎也。
九三の爻辞はいう、君子は終日乾乾として励み、夕方になってもなお警惕する。危険ではあるが咎はない、と。問う人がある、九三は龍の徳ではないのか、と。答えていう、そうではない。それはすでに「龍」で言い尽くせる範囲を超えている。九三は上卦と下卦の境目にあり、禍と福が交わり、成と敗が決する関所である。ただ「龍」の一字だけでは言い尽くせないから、爻辞は改めて「君子」と呼ぶ。初九が潜むことができ、九二が田に現れることができ、九四が躍りうることができ、九五が天に飛ぶことができるのは、みな九三のこの一関に依る。九三の処し方の難しさ、責任の重さは、実に甚だしい。もし九三がここを処し得なければ、「乾」はその「乾」たる所以を失う。天下の大きな福も不測の禍も、すべて我に集まって決断を求める。成るか成らぬか、その間は髪の毛一本も入らない。ゆえに「終日乾乾」として、夕になってもなお「惕」れるのである。危地にあってもついに咎はない。
九四:或躍在淵,無咎。下之上,上之下,其為重剛而不中。上不在天,下不在田者,均也。而至於九四,獨“躍”而不“惕”者,何哉?曰:九四,既進而不可復返者也。退則入於禍,故教之“躍”。其所以異於五者,猶有疑而已。三與四皆禍福雜,故有以處之,然後無咎。
九四の爻辞はいう、あるいは躍り出て、あるいは淵に留まる。咎はない、と。九三は下卦の上に居り、九四は上卦の下に居る。二爻とも陽が重剛の地にあって中位を得ず、上は天におらず、下は田にいないという点で、処境は同じである。しかるに九四に至って「躍」といい「惕」とは言わないのは、なぜか。曰く、九四はすでに進んで再び帰ることのできない境地である。退けば禍に入るから、爻辞はこれに「躍」を教えるのである。九五と異なる点は、なお一分の疑いを残しているだけである。九三と九四はいずれも禍福が交錯する地にあり、それぞれ処する術を備えて、はじめて咎がない。
九五:飛龍在天,利見大人。今之飛者,夕之潛者也,而誰?非“大人”歟?曰“見大人者”,皆將有求也。惟其處安居正,而後可以求得。九二者,龍之安;九五者,龍之正也。上九:亢龍,有悔。夫處此者,豈無無悔之道哉?故言“有”者,皆非必然者也。
九五の爻辞はいう、龍が天を飛び、大人に見えるに利あり、と。いま天を飛ぶこの一龍こそ、かつて水に潜んだあの一龍であり、これが「大人」でなくして誰であろうか。およそ「大人を見る」とは、すべて求めるところがあって見るのである。相手が安く居て正しく処してこそ、求める者も得るところがある。九二は龍の安んずる地、九五は龍の正位である。上九の爻辞はいう、龍が亢まり過ぎれば悔いがある、と。この位に処する者に、悔いを免れる道がないはずがあろうか。ゆえに爻辞で「有」という字を用いるのは、みな必ずしもそうとは限らないことを示すのである。
用九:見群龍無首,吉。“見群龍”,明六爻皆然也。蔡墨云:其“姤”曰:“潛龍勿用。”其“同人”曰:“見龍在田。”其“大有”曰:“龍飛在天。”其“夬”曰:“亢龍有悔。”其“坤”曰:“見群龍無首,吉。”古之論卦者以不變,論爻者以變。“姤”者,初九之變也;“同人”者,九二之變也;“大有”者,九五之變也;“夬”者,上九之變也;各執其一,而“坤”則六爻皆變。吾是以知用九之通六爻也,用六亦然。
用九はいう、群龍がいずれも首位を争わないのを見る。吉、と。「群龍を見る」というのは、六爻が皆これを同じくすることを示す。《左伝》に晋の太史蔡墨の言葉を載せる。乾卦が《姤》に変ずれば「潜龍勿用」といい、《同人》に変ずれば「見龍在田」といい、《大有》に変ずれば「飛龍在天」といい、《夬》に変ずれば「亢龍有悔」といい、《坤》に変ずれば「見群龍無首、吉」という、と。古人は一卦を論ずるにその不変を取り、一爻を論ずるにその変を取った。《姤》に変ずるは初九の一爻が変ずるのであり、《同人》に変ずるは九二が変ずるのであり、《大有》に変ずるは九五が変ずるのであり、《夬》に変ずるは上九が変ずるのであり、各々一爻を占めるのみである。しかるに《坤》に変ずるは六爻が皆変ずるのである。我はこれをもって「用九」が六爻を通じて言うことを知る。坤卦の「用六」も同じ理である。
《彖》曰:大哉乾元,萬物資始,乃統天。此論“元”也。元之為德,不可見也,其可見者“萬物資始”而已。天之德不可勝言也,惟是為能“統”之,此所以為“元”也。雲行雨施,品物流形。此所以為“亨”也。大明終始,六位時成。此所以為“利”也。生而“成”之,乾之“終始”也。成物,之謂“利”矣。時乘六龍以御天。飛、潛、見、躍,各適其時以用我,剛健之德也。乾道變化,各正性命。此所以為“貞”也。
《彖伝》はいう、大いなるかな乾の「元」。万物はこれに資して始まり、それは天道全体を統べる、と。この一句は「元」を釈する。「元」という徳はそれ自体が見えず、見えるのは「万物がこれに資して始まる」という效験だけである。天の徳は言い尽くせないが、ただ「元」だけがそれを統括し得る。これが「元」と称される所以である。「雲が行き雨が降り、品物が流布して形を成す」という句は「亨」を釈する。「大明が終始を貫き、六位が時に成る」という句は「利」を釈する。万物を生じさせてこれを成し遂げる、これが乾の「終始」である。万物を成就し得るからこそ「利」と呼ぶ。「時に乗じて六龍を駕して天を御する」とは、飛・潜・見・躍が各々その時に応じて我に用いられること、これがまさに剛健の徳である。「乾道は変化して万物に各々その性命を正さしめる」という句は「貞」を釈する。
保合太和,乃利貞。通言之也。“貞”,正也。方其變化各之,於情無所不至。反而循之,各直其性以至於命,此所以為“貞”也。世之論性命者多矣,因是,請試言其粗。曰:古之言性者,如告瞽者以其所不識也,瞽者未嘗有見也,欲告之以是物,患其不識也,則又以一物狀之。夫以一物狀之,則又一物也,非是物矣。彼惟無見,故告之;以一物而不識,又可以多物眩之乎?古之君子,患性之難見也,故以可見者言性。夫以可見者言性,皆性之似也。
「太和の気を保ち合わせてこそ、利かつ貞となる。」この一句は総括して言ったものである。「貞」とは正である。乾道が変化して万物が各々分かれて往くとき、「情」に落ちて至らぬところはない。さらに反転して路を収め、各々その本性を直くして、「命」にまで遡る。これを「貞」という。世に性命を論ずる者は多い。この機を借りて、試みにその概略を述べさせてほしい。古人が「性」を談ずるのは、盲人にかつて見たことのない物を説くようなものだ。盲人はもともと何も見たことがない。ある物の姿を教えようにも聞き取れぬを恐れて、別の物をもって譬える。しかし別の物をもって譬えても、それはあくまで別の物であって、元の物ではない。彼が見えないからこそ説き聞かせるのに、一物すら言い明かせないのに、なお多くの物をもって惑わせることがあろうか。古の君子は「性」の現れにくさに苦しみ、見える物をもって性を語った。およそ見える物をもって性を語れば、語り出されるのは皆「性」の近似物にすぎない。
君子日修其善以消其不善;不善者日消,有不可得而消者焉。小人日修其不善以消其善;善者日消,亦有不可得而消者焉。夫不可得而消者,堯舜不能加焉,桀紂不能亡焉,是豈非性也哉!君子之至於是,用是為道,則去聖不遠矣;雖然有至是者,有用是者,則其為道常二,猶器之用於手不如手之自用,莫知其所以然而然也。
君子は日々己の善を養い、それをもって己の不善を摩り滅ぼす。不善の部分は日々に減り、最後にどうしても滅ぼせないものが残る。小人は日々己の不善を長じ、それをもって己の善を摩り滅ぼす。善の部分は日々に減り、最後に同じくどうしても滅ぼせないものが残る。この滅ぼせないものは、堯・舜もこれに一毫も加えることができず、桀・紂もこれを一毫も去ることができない。これが「性」でなくして何であろうか。君子がこの層に至り、それを道を行う根拠とすれば、聖人に遠からずである。ただし「それに至る」ことと「それを用いる」ことは別である。こうなると、道は常に二つに分かれてしまう。譬えれば器を手に持って使うのは、ついに手が自ら動く、何がそうさせるかを知らずして自然にそうなる境地には及ばない。
性至於是,則謂之命;命,令也。君之令曰命,天之令曰命,性之至者亦曰命。性之至者非命也,無以名之而寄之命也。死生禍福,莫非命者,雖有聖者,莫知其所以然而然。君子之於道,至於一而不二,如手之自用,則亦莫知其所以然而然矣,此所以寄之命也。情者,性之動也,泝而上,至於命;沿而下,至於情,無非性者。性之與情,非有善惡之別也,方其散而有為,則謂之情耳。命之與性,非有天人之辨也,至其一而無我,則謂之命耳。
「性」をこの極みまで養うことを「命」という。命とは命令のことである。国君が下す令を命といい、上天が下す令を命といい、「性」が極まったものをも命という。実のところ性の極みは真に命ではないが、他に名づけるべき字がないから、「命」の字に仮託するだけである。生死・禍福で命でないものはない。聖人と雖も、そうなることは知るが、なぜそうなるかは知らない。君子が道において、渾然として合一し、もはや二つに分かれず、手が自ら動くように、何がそうさせるかを知らずして自然にそうなる地に至る、これこそこれを仮に「命」と名づける所以である。「情」は性の動きである。流れを遡れば「命」に上達し、流れに順って下れば「情」に落ちる。上っても下っても、性でないところはない。性と情の間には善悪の分別はなく、ただそれが散じて作用を為すとき、これを情と呼ぶ。命と性の間にも天人の分界はなく、ただそれが渾然一つで「我」がないとき、これを命と呼ぶ。
其於《易》也,卦以言其性,爻以言其情。情以為“利”,性以為“貞”。其言也互見之,故人莫知明也。《易》曰:“大哉乾乎,剛健中正,純粹精也。”夫“剛健”、“中正”、“純粹”、“精”者,此乾之大全也,卦也;及其散而有為,分裂四出而各有得焉,則爻也。故曰:“六爻發揮,旁通情也。”以爻為情,則卦之為性也明矣。“乾道變化,各正性命,保合太和,乃利貞”,以各正性命為貞,則情之為利也亦明矣。又曰:“利貞者,性情也”,言其變而之乎情,反而直其性也。
《周易》に落として言えば、卦は「性」を語るもの、爻は「情」を語るものである。情は「利」に対応し、性は「貞」に対応する。この二層の意は経文の中で交錯して語られているので、人々は見て取れないのだ。《乾・文言》はいう、「大いなるかな乾、剛健中正、純粋にして精なる」と。「剛健」「中正」「純粋」「精」と言うのは、乾の整全なる本体を言うのであり、それが「卦」である。それが散じて作用を為し、分裂四出して各々得るところがあるもの、それが「爻」である。ゆえに《文言》はまたいう、「六爻が発揮して、旁らに情に通ず」と。爻を以て情とする以上、卦を以て性とすることも明らかである。「乾道変化して各々性命を正しくし、太和を保ち合わせて、乃ち利貞」とは、「各々性命を正しくす」を貞とする以上、「情」が「利」に対応するのも同様に明らかである。《文言》はまた「利貞とは性情なり」と言う。語るのはまさに、変動して出れば情となり、身を反して収めればその本性を直くする、ということである。
首出庶物,萬國咸寧。至於此,則無為而物自安矣。《象》曰:天行健,君子以自強不息。夫天,豈以“剛”故能“健”哉!以“不息”故“健”也。流水不腐,用器不蠱,故君子莊敬曰強,安肆曰偷。強則日長,偷則日消。
「元首のように万物の上に高く出れば、天下万国ともに安寧を得る。」この地に至れば、君主は為すことなく万物は自ら定まる。《大象伝》はいう、天道の運行は剛健にして息まず、君子はこれに法って自ら奮い励まし、休むことがない、と。天は「剛」であるがゆえに「健」なのか。「息まない」がゆえに「健」なのである。流れる水は腐らず、常用する器物は蛀わない。ゆえに《礼記・表記》はいう、君子は荘重恭敬であれば日々に強健になり、安逸放縦であれば日々に苟且になる、と。強健な者は日々に生長し、苟且な者は日々に消磨する。
“潛龍勿用”,陽在下也。“見龍在田”,德施普也。“終日乾乾”,反復道也。王弼曰:“居上不驕,在下不憂,反覆皆道也。”“或躍在淵”,進無咎也;“龍飛在天”,大人造也。“亢龍有悔”,盈不可久也。“用九”,天德不可為首也。
《小象伝》はいう、「潜龍勿用」は陽気がなお下位にあるからである。「見龍在田」は徳の施しがすでに普く及んだことを言う。「終日乾乾」は道に往き来して離れないことを言う。王弼は釈していう、上の位に居て驕らず、下の位に居て憂えず、一往一来ともに道を離れない、と。「或躍在淵」は進んでも咎がないことを言う。「飛龍在天」は大人が興起することを言う。「亢龍有悔」は盈満の状態が長く保てないことを言う。「用九」は天の徳が首位を争うことを貴ばないことを言う。
《文言》曰:“元”者,善之長也,“亨”者,嘉之會也。陰陽合而物生,曰“嘉”。“利”者,義之和也,“貞”者,事之幹也。君子體仁足以長人;嘉會足以合理;利物足以合義,貞固足以幹事。君子行此四德者,故曰:“乾,元亨利貞。”禮非亨,則偏滯而不合;利非義,則慘洌而不和。
《文言伝》はいう、「元」は衆善の首、「亨」は美しきものの会合である。陰と陽が交合して万物が生成する、これを「嘉」という。「利」は義理の調和、「貞」は事を幹とする骨格である。君子は仁を体現して衆人の表率たるに足り、美しきものを会合させて条理に合うに足り、万物に各々その利を得させて義に合うに足り、正を守り堅固であって事務を担うに足る。君子はこの四つの徳を行う。ゆえに「乾、元亨利貞」という。礼が亨通しなければ偏枯滞塞して会合し得ず、利が義に合わなければ苛刻厳酷で調和し得ない。
初九曰:“潛龍勿用。”何謂也?子曰:“龍德隱者也。不易乎世。”王弼曰:“不為世所易。”“不成乎名,遯世無悶,不見是而無悶;樂則行之,憂則違之;確乎其不可拔,潛龍也。”
《文言伝》が問う、初九に「潜龍勿用」とあるのはどういう意味か。孔子が答える、これは龍の徳を具えて隠居する者である。「世に易えられず」、王弼は釈して、世俗に改変されない、とする。名声を成し遂げようとせず、世を避けて隠れても煩悶せず、人に認められなくても煩悶しない。意に合うことは行い、憂うべきことは避ける。志が堅く定まって動かせない、これが「潜龍」である。
九二曰:“見龍在田,利見大人。”何謂也?子曰:“龍德而正中者也。庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,博德而化。”《易》曰:“見龍在田,利見大人,”君德也。堯、舜之所不能加,桀、紂之所不能亡,是謂“誠”。凡可以閒而去者,無非“邪”也。邪者盡去,則其不可去者自存矣。是謂“閒邪存其誠”。不然,則言行之信謹,蓋未足以化也。
《文言伝》が問う、九二に「見龍在田、利見大人」とあるのはどういう意味か。孔子が答える、これは龍の徳を具えて中を居て正を守る者である。平常の言葉には信を守り、平常の行いには謹慎を守り、邪を防いで内心の実を全うし、世に益あって自ら誇らず、徳が広く博くして他を化育する。《周易》に「見龍在田、利見大人」とあるのは、人君の徳を語るのである。堯・舜も加えることができず、桀・紂も去ることができないあのもの、これを「誠」という。およそ防ぎ去ることができるものは、皆「邪」にほかならない。邪念を去り尽くせば、去ることのできないものが自ら存する。これが「邪を閑いて誠を存す」である。さもなくば、ただ言葉に信を守り行いに慎むだけでは、天下を化育するに足りない。
九三曰:“君子終日乾乾,夕惕若,厲,無咎。”何謂也?子曰:“君子進德修業。忠信,所以進德也;修辭立其誠,所以居業也。”“修辭”者,行之必可言也。修辭而不立誠,雖有業不居矣。“知至至之,可與幾也;知終終之,可與存義也。”“至之”,為言往也;“終之”,為言止也。“乾”之進退之決在三,故可往而往其幾,可止而止其義。“是故居上位而不驕,在下位而不憂。故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。”
《文言伝》が問う、九三に「君子終日乾乾、夕惕若、厲、无咎」とあるのはどういう意味か。孔子が答える、君子は徳を進め業を修めている。忠と信は徳を進める所以であり、言辞を修め誠を立てるのは業を守る所以である。「辞を修する」とは、為した事が必ず口に出して言うに堪えることを言う。言辞を修飾するだけで誠を立てなければ、功業があっても守れない。「至るべき所を知りこれに至れば、事機の微を語るに足る。止まるべき所を知りこれに止まれば、義理を共に守るに足る。」「之に至る」は前に進むことを言い、「之を終わらせる」は止まることを言う。乾卦の進退の決断はことごとく九三の一爻にある。ゆえに往くべきときは往く、これは「幾」を得たのであり、止むべきときは止む、これは「義」を守ったのである。「ゆえに上の位に居て驕らず、下の位に処して憂えず。ゆえに終日勤勉し、時勢に随って警惕する。危地にあっても咎なし。」
九四曰:“或躍在淵,無咎。”何謂也?子曰:“上下無常,非為邪也;進退無恆,非離群也。君子進德修業,欲及時也,故‘無咎’。”九五曰:“飛龍在天,利見大人。”何謂也?子曰:“同聲相應,同氣相求,水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎,聖人作而萬物睹。”燥、溼不與水、火期,而水、火即之;龍、虎非有求於風、云,而風、雲應之。聖人非有意於物,而物莫不欲見之。“本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。”明龍之在天也。
《文言伝》が問う、九四に「或躍在淵、无咎」とあるのはどういう意味か。孔子が答える、上ったり下ったり定まりはないが、邪僻のためではない。進んだり退いたり常規はないが、同類を離れようとするのではない。君子が徳を進め業を修めるのは、時機に及ぼうとするからで、ゆえに「咎なし」である。また問う、九五に「飛龍在天、利見大人」とあるのはどういう意味か。孔子が答える、同類の声は互いに応和し、同類の気は互いに求め合う。水は低湿に流れ、火は乾燥に就き、雲は龍に従い、風は虎に随って起こる。聖人が興れば万物は皆彼を仰ぎ見る。乾燥と湿潤は水火と約束したわけではないのに、水火は自らこれに趨就する。龍と虎は風雲に何も求めないのに、風雲は自ら応ずる。聖人はもともと万物に心を用いないのに、万物で彼を見たがらないものはない。「天に本づく者は上に親しみ、地に本づく者は下に親しみ、各々その類に従う。」これは龍が本来天にあるべきことを説明するのである。
上九曰:“亢龍,有悔。”何謂也?子曰:“貴而無位,高而無民。”王弼曰:“下無陰也。”“賢人在下位而無輔。”夫賢人者,下之而後為用。“是以動而有悔也”。“潛龍勿用”,下也。“見龍在田”,時舍也。時之所舍,故得安於田。
《文言伝》が問う、上九に「亢龍有悔」とあるのはどういう意味か。孔子が答える、地位は尊いが実の位はなく、高く立っているが民がいない。王弼は釈していう、その下に陰爻があって承載するものがないからだ、と。「賢人が下位にあって輔けを得ない。」賢人というものは、身段を低くしてこれを遇してはじめて、我のために用いられてくれる。「ゆえに一動すれば悔いがある。」「潜龍勿用」は下位に処するからである。「見龍在田」は時勢がこれをここに安頓したからである。時勢が安頓した場所だから、田に安んじることができる。
“終日乾乾”,行事也。“或躍在淵”,自試也。“飛龍在天”,上治也。“亢龍有悔”,窮之災也。乾元“用九”,天下治也。王弼曰:“夫能全用剛直,放遠善柔。非天下至治,未之能也”。“潛龍勿用”,陽氣潛藏。“見龍在田”,天下文明。以言行化物,故曰“文明”。
「終日乾乾」は事を行っているのである。「或躍在淵」は自ら試しているのである。「飛龍在天」は上位に居て天下を治めるのである。「亢龍有悔」は窮極が招く災いである。乾元「用九」は天下が治まるのである。王弼は釈していう、剛直な士を尽く任用し、柔媚を善しとする者を放逐して疎んじることができるのは、天下最善の治世でなければできない、と。「潜龍勿用」は陽気がなお潜んでいるのである。「見龍在田」は天下に文采光耀が生じたのである。己の言語と行為をもって万物を化育する。ゆえに「文明」という。
“終日乾乾”,與時偕行。“或躍在淵”,乾道乃革。“飛龍在天”,乃位乎天德。“亢龍有悔”,與時偕極。乾元“用九”,乃見天則。天以無首為則。“乾、元”者,始而亨者也。“利、貞”者,性情也。乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉。大哉乾乎!剛健中正,純粹精也。六爻發揮,旁通情也。“時乘六龍”,以御天也。“雲行雨施”,天下平也。君子以成德為行,曰可見之行也。君子度可成則行,未嘗無德也。故其行也,日有所見;日可見之行也。
「終日乾乾」は時勢とともに前行するのである。「或躍在淵」は乾道がここに至って変革するのである。「飛龍在天」は天徳の位に居るのである。「亢龍有悔」は時勢とともに尽きるのである。乾元「用九」、ここにおいて天の法則が顕現する。天は「首を居さない」ことを法則とする。「乾・元」は創始して亨通すること、「利・貞」は性と情を言うのである。乾は創始の初めから美しき利をもって天下に恵みながら、己がどこに利するかを言わない。まことに偉大である。偉大なり乾。剛健中正、純粋にして精である。六爻が発揮して、旁らに情に通ずる。「時に乗じて六龍を駕す」は天道を御する所以であり、「雲行雨施」は天下の太平を得る所以である。君子はすでに成就した徳性を行いに付す。それは日々に見える行いである。君子は事が成りうると量ってから行うので、徳性に依るものがないわけではない。ゆえに一挙動すれば日々に見える効験がある。これが「日に見えうる行」である。
“潛”之為言也,隱而未見,行而未成;是以君子弗用也。君子學以聚之,問以辯之,寬以居之,仁以行之。《易》曰:“見龍在田,利見大人,”君德也。九三重剛而不中,上不在天,下不在田,故“乾乾”,因其時而“惕”,雖危無咎矣。
「潜」の字の言うところは、隠伏してまだ顕れず、行動してまだ成就していない。ゆえに君子はしばらく施用しない。君子は学ぶことによって積み集め、問うことによって弁明し、寛厚をもって安んじ居り、仁愛をもって事を行う。《周易》に「見龍在田、利見大人」とあるのは、人君の徳を言うのである。九三は重剛の地にあって中位を得ず、上は天に至らず、下は田にいない。ゆえに「乾乾」と励み、時勢の変化に随って「惕」れ、危地にあっても咎がないのである。
九四重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故“或”之。“或”之者,疑之也,故無咎。“或”者,未必然之辭也。其“躍”也未可必,故以“或”言之,非以為惑也。夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶。先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況人乎?況於鬼神乎?“亢”之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪,其唯聖人乎?知進退存亡而不失其正者,其唯聖人乎?
九四は重剛の地にあって中位を得ず、上は天に至らず、下は田にいず、中は人位にもいない。ゆえに「或」という。「或」というのはなお疑いを存することを示し、ゆえに咎がない。「或」は「必ずしもそうとは限らない」という言い方である。果たして躍るか躍らないかは断定できないので「或」の字を用いて言うのであって、昏惑して措置を失するという意味ではない。いわゆる「大人」は、その徳は天地と合し、その明は日月と合し、その序は四時と合し、断ずる吉凶は鬼神と合する。天時に先んじて動けば天も彼に背かず、天時に後れて動けば天の時序に奉る。天すら彼に背かないのだから、いわんや人をや、いわんや鬼神をや。「亢」の字の言うところは、進むことだけを知り退くことを知らず、存続だけを知り覆亡を知らず、獲得だけを知り喪失を知らないことである。この地に落ちない者は、ほぼ聖人だけであろう。進退存亡の分寸を知りその正を失わない者は、ほぼ聖人だけであろう。
坤卦(第二)
坤上,坤下。“坤”,元亨,利牝馬之貞。龍,變化而自用者也。馬,馴服而用於人者也。為人用而又牝焉,順之至也。至順而不貞,則陷於邪,故“利牝馬之貞”。君子有攸往,先迷,後得主,利。西南得朋,東北喪朋,安貞吉?
「坤」卦の上卦は坤、下卦も坤である。卦辞はいう、「坤」は元・亨、牝馬のごとく正を守るに利あり、と。龍は変化して自ら主張するもの、馬は馴致されて人に駆使されるものである。人に駆使される上に牝である、柔順の極みである。柔順の極みでありながら正を守らなければ、邪僻に陥る。ゆえに「牝馬の貞に利あり」という。卦辞は続けていう、君子は往くところがあるが、先んじて動けば迷い、後に随えば主人を得る。利あり。西南に往けば朋類を得、東北に往けば朋類を喪う。安んじて正を守れば吉、と。
《彖》曰:至哉坤元,萬物資生,乃順承天。坤厚載物,德合無疆;含弘光大,品物咸亨。牝馬地類,行地無疆,柔順利貞。君子攸行,先迷失道,後順得常。西南得朋,乃與類行;東北喪朋,乃終有慶。安貞之吉,應地無疆。“坤”之為道,可以為人用,而不可以自用;可以為和,而不可以為倡;故“君子利有攸往”。往,求用也;先則迷而失道,後則順而得主,此所以為“利”也。西與南,則“兌”也,“離”也,以及於“巽”,吾朋也;東與北,則“震”也,“坎”也,以及於“乾”與“艮”,非吾朋也。兩陰不能相用,故必離類絕朋而求主於東北。夫所以離朋而求主者,非為邪也,故曰:“安貞吉”?
《彖伝》はいう、至るかな坤の「元」。万物はこれに資して生まれ、天道に順承する。坤は厚重にして万物を載せ、徳性は広く合して辺際なし。含容・寛大・光明・博厚、品物は皆これによって亨る。牝馬は地の類に属し、大地を行き尽くして窮まりなく、柔順にして正を守るに利あり。君子の往くところあるは、先んずれば道を迷い、後に随えば常を得る。西南に往きて朋を得るは、朋類とともに行くこと、東北に往きて朋を喪うは、終に慶賀あることである。安んじて貞なれば吉なる所以は、大地の無疆に応ずるからである。坤の道は、人に用いられることはできても、自ら主張することはできない。和声を為すことはできても、首唱することはできない。ゆえに「君子は往くところあるに利あり」という。いわゆる「往」とは、人が己を用いることを求めに行くことである。先んじれば道を迷い、後に随えば順従して主人を得る。これが「利」と称する所以である。西方と南方は兌・離で、巽を連ねて、皆我が同類である。東方と北方は震・坎で、乾と艮を連ねて、皆我が同類でない。二つの陰は互いに用い合えないから、必ず同類を離れ朋党を絶ち、東北に行って主人を求めねばならない。朋を離れて主を求める所以は、邪僻のためではない。ゆえに「安貞吉」という。
《象》曰:地勢坤,君子以厚德載物。“坤”未必無君德,其所居之勢,宜為臣者也。書曰:“臣為上為德,為下為民。”初六:履霜,堅冰至。《象》曰:“履霜堅冰”,陰始凝也;馴致其道,至堅冰也。始於微而終於著者,陰陽均也。而獨於此戒之者,陰之為物,弱而易入,故易以陷人。鄭子產曰:“水弱,民狎而玩之,故多死。”
《大象伝》はいう、地の勢いはこれが坤である。君子はこれに法り、厚い徳をもって万物を載せる、と。坤には君となる徳がないわけではないが、その居る位勢は臣となるに適しているだけである。《尚書》はいう、臣たる者は上に君徳を成し、下に百姓を養う、と。初六の爻辞はいう、足下に薄霜を履めば、堅氷が至る、と。《小象伝》はいう、「霜を履んで堅氷至る」は陰気が凝り始めること、その勢いに順って発展すれば堅氷の地に至る、と。微細から起こって顕著に終わるのは、陰も陽も同じである。しかし偏にここで誡めを発するのは、陰というものが柔弱にして滲み入りやすく、最も人を陥れやすいからである。鄭の子産がかつていった、水の性は柔弱で、百姓はこれを侮り玩び、かえって溺死する者が多い、と。
六二:直、方、大,不習,無不利。《象》曰:六二之動,“直”以“方”也。“不習,無不利”,地道光也。以六居二,可謂柔矣。夫“直、方、大”者,何從而得之?曰:六二,順之至也。君子之順,豈有他哉!循理無私而已。故其動也為直,居中而推其直為方。既直且方,非大而何?夫順生直,直生方,方生大,君子非有意為之也,循理無私,而三者自生焉。故曰:“不習,無不利。”夫有所習而利,則利止於所習者矣。
六二の爻辞はいう、直く、方く、大きい。習わずとも、利ならぬことなし、と。《小象伝》はいう、六二の動きは「直」かつ「方」であり、「不習无不利」は地道の光明の所在である、と。陰爻をもって第二位に居る、柔順なりと言うべし。さて「直・方・大」の三つはどこから得たのか。答えていう、六二は柔順の極みだからである。君子の順に、別の門道があろうか。ただ事理に循って私を挟まないだけである。ゆえに一動すれば「直」、中位に居てこの直を推し広げれば「方」となる。直くかつ方なら、「大」でなくして何であろう。順が直を生じ、直が方を生じ、方が大を生じる。君子は意をもって為すのではなく、ただ理に循って私がないから、この三つが自ずから生まれる。ゆえに「習わずとも、利ならぬことなし」という。およそ習練を待って利を得る者は、その利も習練したその一点に止まる。
六三:含章可貞。或從王事,無成有終。《象》曰:“含章可貞”,以時發也;“或從王事”,知光大也。三有陽德。苟用其陽,則非所以為“坤”也,故有章而含之。“坤”之患,弱而不可以正也,有章則可以為正矣。然以其可正,而遂專之,則亦非所以為“坤”也。故從事而不造事,無成而代有終。
六三の爻辞はいう、文采を含蔵して貞を守るべし。あるいは王の事に従うも、成の名を居らずして終わりを得る、と。《小象伝》はいう、「章を含みて貞なるべし」は時機の至るを待って発すること、「或いは王事に従う」はその知見が光明宏大であること、と。六三のこの爻は陽の徳を帯びている。もしこの陽を径直に施せば、「坤」の本分に合わない。ゆえに文采があっても含蔵するのである。坤の病は、柔弱にして自らその正を守れないことにある。この文采があれば、正を守ることができる。しかし貞を守れるからと言って、すなわち専断に走れば、これもまた「坤」の本分に合わない。ゆえにただ事に随って自ら事を起こさず、成の名を居らず、ただ人の代わりに事を終わらせるのである。
六四:括囊,無咎無譽。《象》曰:“括囊無咎”,慎不害也。夫處上下之交者,皆非安地也。“乾”安於上,以未至於上為危,故九三有“夕惕”之憂;“坤”安於下,以始至於上為難,故六四有“括囊”之慎。陰之進而至於三,猶可貞也;至於四,則殆矣。故自括結,以求“無咎無譽”。咎與譽,人之所不能免也,出乎咎,必入於譽;脫乎譽,必罹乎咎。咎所以致罪,而譽所以致疑也。甚矣,無咎無譽之難也!
六四の爻辞はいう、嚢を括り結ぶ。咎なく誉れもなし、と。《小象伝》はいう、「嚢を括りて咎なし」は慎謹なれば害を受けないこと、と。およそ上下卦の交接に処する者は、皆安穏の地ではない。乾は上に居るに安んじ、まだ上位に升らないことを危険とする。ゆえに九三に「夕惕」の憂懼がある。坤は下に居るに安んじ、ようやく上位に升ったことを難しとする。ゆえに六四に「嚢を括る」の慎謹がある。陰気が第三爻まで進むときはなお正を守りうるが、第四爻に至れば危ない。ゆえに自ら口を括り、ただ「咎なく誉れなし」を求める。咎と誉れは人の免れられないものである。咎を脱すれば必ず誉れに入り、誉れを免れれば必ずまた咎に遭う。咎は罪責を招き、誉れは猜疑を招く。咎もなく誉れもないを為す、実に難しい。
六五:黃裳,元吉。《象》曰:“黃裳元吉”,文在中也。“黃”,中之色也。“裳”,下之飾也。黃而非裳,則君也。裳而非黃則臣爾,非賢臣也。六五陰之盛,而有陽德焉,故稱裳以明其臣;稱黃以明其德。夫文生於相錯,若陰陽之專一,豈有文哉?六五以陰而有陽德,故曰“文在中”也。
六五の爻辞はいう、黄の裳、大いに吉、と。《小象伝》はいう、「黄裳元吉」は文采が中に蘊含すること、と。「黄」は中に居る色、「裳」は下身の服飾である。ただ黄であって裳でなければ、それは君主である。ただ裳であって黄でなければ、それは臣子にすぎず、賢臣にも数えられない。六五は陰気の最も盛んな位でありながら、陽の徳を帯びている。ゆえに「裳」をもってその臣位を点明し、「黄」をもってその徳性を点明する。文采は二つのものが交錯する中から生まれる。もし陰陽が各々純一で雑らなければ、どこに文采の言うべきがあろうか。六五は陰爻の身をもって陽徳を具える。ゆえに「文は中に在り」という。
上六:龍戰于野,其血玄黃。《象》曰:“龍戰于野”,其道窮也。至於此,則非陰之所以安矣。陰雖欲不戰而不可得,故曰“其道窮也”。用六:利永貞。《象》曰:用六“永貞”,以大終也。《易》以大小言陰陽。“坤”之順,進以小也;其貞,終以大也。《文言》曰:“坤”至柔而動也剛。夫物非剛者能剛,惟柔者能剛耳。畜而不發,及其極也,發之必決。故曰“沉潛剛克”。至靜而德方。夫物圓則好動,故至靜所以為方也。
上六の爻辞はいう、龍が郊野で戦い、その血は青黒と土黄とが相まじる、と。《小象伝》はいう、「龍野に戦う」はその道がすでに窮まったこと、と。この地に至れば、もはや陰の安んじうる所ではない。陰は戦わざるを得ない。ゆえに「その道窮まる」という。用六はいう、永く貞を守るに利あり、と。《小象伝》はいう、用六が「永貞」と言うのは、大をもって収結すること、と。《周易》は「大」「小」をもって陽と陰を呼ぶ。坤の柔順は小の姿をもって進み、坤の正守は大をもって終わる。《文言伝》はいう、坤は至って柔順であるが、動けば剛である、と。剛硬のものは必ずしも真に剛ではない。ただ柔のもののみが剛になりうる。蓄積して発せず、極みに積みれば、一発すれば必ず決裂する。ゆえに《尚書・洪範》は「沈潜剛克」という。「至静にして徳方なり」、円いものは動きを好む。静が極まるがゆえに、はじめて方正でありうるのである。
後得主而有常,含萬物而化光。坤道其順乎?承天而時行。積善之家,必有餘慶;積不善之家,必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辯之不早辯也。《易》曰:“履霜,堅冰至,”蓋言順也。惟其順也,故能濟其剛;如其不順,則辨之久矣。
《文言伝》は続けていう、後に随って主人を得て常を有し、万物を含容して化育の功が広大である、と。坤道はほぼ「順」の一字であろう。天道を承けて時に運行する。善を積む家には必ず余慶があり、不善を積む家には必ず余殃がある。臣が君を弑し、子が父を弑するのは、一朝一夕に成したものではない。その来りは一点一点積み成されたもので、ただ弁察すべきときに及ばず弁察しなかっただけである。《周易》に「霜を履めば堅氷至る」とあるのは、まさにこの「順」の字を語るのである。それが一路順って来たがゆえに、最後の一撃の剛を成し遂げた。もし順って来たのでなければ、人はとっくにこれを弁察していたであろう。
“直”,其正也,“方”其義也。君子敬以直內,義以方外;敬義立而德不孤。“直、方、大,不習無不利”,則不疑其所行也。小人惟多愧也,故居則畏,動則疑;君子必自敬也,故內“直”,推其直於物,故外“方”。直在其內,方在其外,隱然如名師良友之在吾側也,是以獨立而不孤,夫何疑之有?
「直」はその正を言い、「方」はその義を言う。君子は恭敬をもって内を直くし、義をもって外を方くする。敬と義が立てば、徳は孤ならない。「直方大、不習无不利」は、その行う所の事に疑いがないことを言う。小人は心中に欠けるところが多いので、閑居すれば恐れ、一動すれば疑慮する。君子は必ず自ら敬を持するので内が「直」く、この直を外物に推し及ぼすので行いが「方」くなる。直が内に守られ、方が外に立てば、あたかも名師益友が身の旁に立つかのごとく見える。ゆえに独り立ちても孤ならず、何をか遅疑せんや。
陰雖有美,含之以從王事,弗敢成也。地道也,妻道也,臣道也,地道無成而代有終也。天地變化,草木蕃;天地閉,賢人隱。《易》曰:“括囊,無咎無譽。”蓋言謹也。方其變化,雖草木猶蕃;及其閉也,雖賢人亦隱。
陰は美徳があっても、含蔵して王の事に従い、自ら成を居らない。これは地の道、妻たるの道、臣たるの道である。地道は成の名を居らず、ただ天に代わって事を終わらせる。天地が交感して変化すれば草木は蕃茂し、天地が閉塞して通ぜざれば賢人は隠退する。《周易》に「嚢を括りて、咎なく誉れなし」とあるのは、まさに一つの「謹」の字を語るのである。天地が流転変化するときは、草木のごとき卑しきものさえ蕃茂し、天地が閉塞するときは、賢人のごとき高明なるものも隠退せざるを得ない。
君子黃中通理,正位居體。美在其中,而暢於四支,發於事業,美之至也。“黃”,中之色也;“通”是“理”,然後有是色也。君子之得位,如人之有四體為己用也。有手而不能執,有足而不能馳,神不宅其體也。
君子は内に黄中の徳を懐きて条理に通達し、正位に居てその身に安んじる。美は内に蓄積し、四肢に暢達し、発して事業となる。これは美の極みである。「黄」は中に居る色である。まずこの「理」に通達して、はじめてこの色がある。君子が応有の位置を得るのは、人が四肢を有して自ら駆使するのと同じである。手があって物を取ることができず、足があって奔ることができないのは、精神が自己の身体内に安住していないからである。
陰疑於陽必戰。為其嫌於無陽也,故稱“龍”焉;猶未離其類也,故稱“血”焉。夫“玄黃”者,天地之雜也。天玄而地黃。“嫌”也、“疑”也,皆似之謂也。陰盛似陽必“戰”。方其盛也,似無陽焉,故雖陰而稱“龍”。然猶未離其陰陽之類也,故稱“血”,以明其雜。若陰已變而為陽,則無復“玄黃”之雜矣。
陰が盛んで陽に相似るに至れば、必ず戦う。なぜならこのとき見ればあたかも陽がないかのようだから、爻辞は「龍」をもってこれを呼ぶ。しかしそれはなお陰の類属を脱していないので、また「血」をもってこれを呼ぶ。いわゆる「玄黄」は、天色と地色とが相まじることである。天は青黒、地は土黄である。「嫌」と「疑」は、ともに「相似」の意を言う。陰気が盛んで陽に似れば必ず「戦」う。それが極まって盛んなとき、見れば陽がないかのようだから、陰爻でありながら「龍」と称する。しかしなお陰陽が各々その類を有する実情を脱していないので、また「血」と称し、それが相まじることを点明するのである。もし陰がすでに徹底して陽に変わったならば、もはや「玄黄」相まじるということもない。
屯卦(第三)
坎上,震下。“屯”:元亨,利貞。勿用有攸往,利建侯。因世之“屯”,而務往以求功,功可得矣;而爭功者滋多,天下之亂愈甚,故“勿用有攸往”。雖然我則不往矣,而天下之慾往者皆是也,故“利建侯”。天下有侯,人各歸安其主,雖有往者,夫誰與為亂?
「屯」卦の上卦は坎、下卦は震である。卦辞はいう、「屯」は元・亨、貞に利あり。往くところあるを用いず、侯を建てるに利あり、と。世の艱難に乗じて一心に功業を謀れば、功業は固より得られる。しかし功を争う者もますます多くなり、天下の乱局はかえって甚だしくなる。ゆえに「往くところあるを用いるな」という。我自身は行かないと言っても、天下に行きたがる者は目に満ちている。ゆえに「侯を建てるに利あり」という。天下に諸侯があれば、人は各々その君主に帰附して安んじ、なお妄動を企てる者があっても、誰とともに乱を為さん。
《彖》曰:“屯”,剛柔始交而難生,動乎險中,大亨貞。雷雨之動,滿盈,天造草昧;宜建侯而不寧。“屯”有四陰,“屯”之義也。其二陰以無應為“屯”,其二陰以有應而不得相從為“屯”。故曰:“剛柔始交而難生。”物之生,未有不待雷雨者,然方其作也,充滿潰亂,使物不知其所從,若將害之,霽而後見其功也。天之造物也,豈物物而造之?蓋草略茫昧而已。聖人之求民也,豈人人而求之,亦付之諸侯而已。然以為安而易之,則不可。
《彖伝》はいう、「屯」は剛と柔が始めて交わり難が生ずること。険中に動き、大いに亨って貞に利あり。雷雨が交作して充満す。天が草昧の際に万物を造るとき、正に侯を建てるに宜しく安んずべからず、と。屯卦には四つの陰爻がある。これが「屯」の取義の所在である。そのうち二つの陰爻は応爻がないために「屯」となり、他の二つの陰爻は応爻がありながら相従うことができず、これもまた「屯」となる。ゆえに「剛柔始めて交わりて難生ず」という。万物の生長に雷雨によらぬものはない。しかし雷雨が大作する時、天地間は充塞混乱し、万物はどこに往くべきかを知らず、あたかも雷雨がこれを害さんとするかのごとし。雨過ぎ天晴るるを待って、はじめてその効が見出だされる。天の造物は、一件一件に造るものか。ただ草草率率、混沌として明らかでないままに一括して生み出すだけである。聖人が百姓を求めるに、一人一人に求めるものか。ただ諸侯に交付してこれを治めさせるだけである。しかしこれをもって安枕して易く見れば、それは不可である。
《象》曰:雲雷,“屯”;君子以經綸。初九:磐桓;利居貞,利建侯。《象》曰:雖“磐桓”,志行正也。以貴下賤,大得民也。初九以貴下賤,有君之德而無其位,故磐桓居貞以待其自至。惟其無位,故有從者,有不從者。夫不從者,彼各有所為“貞”也。初九不爭以成其“貞”,故“利建侯”,以明不專利而爭民也。民不從吾,而從吾所建,猶從吾耳。
《大象伝》はいう、雲が上にあり雷が下にあるのが「屯」である。君子はこれに法り、糸縷を整えるように天下を経綸する、と。初九の爻辞はいう、徘徊して進み難い。居って貞を守るに利あり。侯を建てるに利あり、と。《小象伝》はいう、「磐桓」として進まなくとも、心志の行いは正しい。尊貴の身をもって卑賤の下に屈すれば、民心を大いに得る、と。初九は尊貴の身をもって卑下に屈し、君となる徳はあって君となる位がない。ゆえに盤桓して進まず、その正を安く守り、人心が自ら帰附するのを待つ。名位がないがゆえに、従う者もあれば従わぬ者もある。従わぬ者もまた各々その守る「貞」がある。初九は争わず、これをもって己の「貞」を成す。ゆえに「侯を建てるに利あり」という。これはそれが利益を独り占めせず、人と百姓を争わないことを示す。百姓が我に従わず、我の立てた諸侯に従うなら、それもまた我に従うに等しい。
六二:屯如,邅如。乘馬,班如。匪寇,婚媾。女子貞,不字;十年乃字。《象》曰:六二之難,乘剛也;“十年乃字”,反常也。志欲從五而內忌於初,故“屯”、“邅”不進也。夫初九,屯之君也,非寇也;六二之“貞”於五,也知有五而已,苟異於五者,則吾寇矣,吾焉知其德哉!是故以初為“寇”,曰吾非與“寇”為“婚媾”者也。然且不爭而成其貞,則初九之德至矣。
六二の爻辞はいう、進退難しく徘徊して進まず、馬に乗っても原地に旋回する。来るのは寇ではなく、婚媾を求める者である。女子は貞を守り、嫁ぐことを許さず、十年にしてはじめて嫁ぐ、と。《小象伝》はいう、六二の難は剛爻の上に乗ることによる。「十年にして乃ち字す」は常道に帰ること、と。それは一心に九五に従わんとしながら、内には初九を忌惮する。ゆえに「屯」「邅」して進まない。実は初九は屯卦の主人であって、寇ではない。ただ六二は一心に九五に貞を守る以上、心に九五の一つのみを認め、九五と異なる者は皆寇と見なす。どうして相手の徳性を分かち辨えようか。ゆえに初九を「寇」と見做し、我は「寇」と婚する者ではないという。それでもなお初九は争わず、かえって六二の貞守を成す。初九の徳性はすでに到り着いているのが見える。
六三:即鹿無虞,惟入于林中。君子幾,不如舍,往吝。《象》曰:“即鹿無虞”,以從禽也;“君子舍之,往吝”,窮也。勢可以得民從而君之者,初九是也。因其有民,從而建之使牧其民者,九五是也。苟不可得而強求焉,非徒不得而已,後必有患。六三非陽也,而居於陽,無其德而有求民之心,將以求上六之陰。譬猶“無虞”,而以“即鹿”,鹿不可得,而徒有入林之勞。故曰:“君子幾”,不如舍之。“幾”,殆也。
六三の爻辞はいう、野鹿を逐うも虞人の案内なく、ただ林中に入り込むのみ。君子は危険を見て取って、むしろ捨てる。強いて往けば吝を招くのみ、と。《小象伝》はいう、「鹿に即くも虞なく」は禽獣を追うに貪着すること、「君子之を捨て、往けば吝なり」はすでに行き詰まったこと、と。形勢を憑じて百姓の擁戴を得、その君となることができるのは初九である。すでに百姓を有するので、勢いに順ってこれを封立してその百姓を治めさせるのは九五である。もし本来得られないのに強いて求めれば、得られないばかりか、後日必ず禍患がある。六三は本来陽爻でないのに陽位を占め、その徳がないのに百姓を収攬する心を懐き、なお上六の陰爻を求めんとする。これは虞人の案内なしに鹿を逐うに等しい。鹿は追い得ず、徒らに林中に入り込む苦労を得るだけである。ゆえに「君子は幾を見る」、むしろこれを捨てよ。「幾」は危殆の意である。
六四:乘馬,班如;求婚媾。往吉,無不利。《象》曰:求而往,明也。方未知所從也,而初來求婚,從之,吉可知矣。九五:屯其膏,小貞吉;大貞凶。《象》曰:“屯其膏”,施未光也。“屯”無正主,惟下之者為得民。九五居上而專於應,則其澤施於二而已。夫大者患不廣博,小者患不貞一,故專於應,為二則吉,為五則凶。上六:乘馬班如;泣血漣如。《象》曰:“泣血漣如”,何可長也。三非其應,而五不足歸也。不知五之不足歸,惑於近而不早自附於初九,故窮而至於“泣血”也。
六四の爻辞はいう、馬に乗って旋回して進まないのは、婚媾を求めに行くこと。往けば吉、利ならざるなし、と。《小象伝》はいう、求めて後に往くは明なり、と。それはちょうど誰に従うべきかを知らないところ、初九が来て婚を求め、これに従えば吉であるのは知るべし。九五の爻辞はいう、恩沢を屯積して施さない。小なる貞は吉、大なる貞は凶、と。《小象伝》はいう、「その膏を屯す」は恩の施しが未だ広大でないこと、と。屯の世には正当な主人がなく、人の下に屈することを肯ずる者のみが民心を得る。九五は上位に高居して、ただそれに応ずる六二のみを顧みれば、その恩沢も六二一家に落ちるのみである。大人物が恐れるのは広博たらざること、小人物が恐れるのは専一たらざること。ゆえに「応に専顧する」という事は、六二にあっては吉、九五にあっては凶である。上六の爻辞はいう、馬に乗って旋回して進まず、泣きて血が出て涕涙が連なり流れる、と。《小象伝》はいう、「血を泣きて涟如たり」は、このような情状がどうして長く保てよう、と。六三はそれに応ずる爻ではなく、九五も帰附するに値しない。九五が帰附に値しないことを明らかにせず、眼前の近きものに迷わされ、早く初九に依付せず、ゆえに窮途末路に至り、「血を泣く」の地に落ちたのである。
蒙卦(第四)
艮上,坎下。“蒙”:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告。利貞。《彖》曰:“蒙”,山下有險,險而止,“蒙”。“蒙,亨”,以亨行時中也。“匪我求童蒙,童蒙求我”,志應也。“初筮告”,以剛中也;“再三瀆,瀆則不告”,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。
「蒙」卦の上卦は艮、下卦は坎である。卦辞はいう、「蒙」は亨通する。我が蒙昧の童に求めるのではなく、蒙昧の童が我に求めるのである。初めて問えば告げる。再び三び問えば、これは瀆すことであり、瀆せば告げない。貞に利あり、と。《彖伝》はいう、「蒙」とは山下に険があり、険に遇って止まる、これが「蒙」である。「蒙、亨」とは、亨通をもって行い、時機にちょうど合う中道である。「我童蒙を求めず、童蒙我を求む」とは、双方の心志が応じ合うことである。「初筮告」は、九二が剛健にして中に居るからである。「再三瀆、瀆れば則ち告げず」は、蒙を瀆したからである。蒙昧未鑿の状態をもって正なる性を涵養する、これが聖人の功業である。
“蒙”者,有蔽於物而已,其中固自有正也。蔽雖甚,終不能沒其正,將戰於內以求自達,因其欲達而一發之,迎其正心,彼將沛然而自得焉。苟不待其欲達而強發之,一發不達,以至於再三,雖有得,非其正矣。故曰:“匪我求童蒙,童蒙求我。”彼將內患其蔽,即我而求達,我何為求之?
いわゆる「蒙」とは、外物に遮られただけにすぎない。その心の中にはもともと自ら一つの正がある。遮蔽がいくら厚くても、ついにその正を埋没させることはできない。その正は心の中で争い、自ら衝き出ようとする。彼が通じようとする時に乗じて一寸点じ、彼のその正の心を迎えて接引すれば、彼は自ら豁然と開けて自ら得るところがある。もし彼が通じるのを待たずに強いて開き導き、一度言って通じなければ再び三度を言うならば、たとえ何かを分からせても、それは彼の本有の正ではない。ゆえに「我童蒙を求めず、童蒙我を求む」という。彼自身が心の中でこの遮蔽を苦にし、進んで我が許に来て通達を求める。我は何のために彼を求めようか。
夫患蔽不深,則求達不力;求達不力,則正心不勝;正心不勝,則我雖告之,彼無自入焉。故初筮告者,因其欲達而一發之也。“再三瀆,瀆則不告”者,發之不待其欲達,而至於再三也。“蒙,亨,以亨行”者,言其一通而不復塞也。夫能使之一通而不復塞者,豈非時其中之,欲達而一發之乎?故曰“時中”也。聖人之於“蒙”也,時其可發而發之,不可則置之,所以養其正心而待其自勝也,此聖人之功也。
遮蔽を苦にする度が浅ければ、通達を求めるにも力を用いない。通達を求めるに力を用いなければ、その正の心は遮蔽を圧倒できない。正の心が遮蔽を圧倒できなければ、我がたとえ道理を告げても、彼には道理を入れ込む路がない。ゆえに「初筮告」とは、彼が通じようとする時に乗じて点じることである。「再三瀆、瀆れば則ち告げず」とは、彼が自ら通じるのを待たずに開き導き、なお一に言い二に言うことを言う。「蒙、亨、以亨行」とは、一旦打ち通れば二度と塞がらないことを言う。人をして一通して再び塞がらないようにできるのは、まさに彼の心中のその火加減を掐め、彼が通じようとしてまだ通じない時に一を点ずることではないか。ゆえに「時中」という。聖人は蒙昧の人に対し、点じうる時機を見極めて点じ、時に至らなければしばらく置く。これは彼のその正の心を涵養し、彼自らが遮蔽に勝つのを待つためである。これがまさに聖人の功業である。
《象》曰:山下出泉,“蒙”;君子以果行育德。“果行”者,求發也。“育德”者,不發以養正也。初六:發蒙,利用刑人,用說桎梏;以往,吝。《象》曰:“利用刑人”,以正法也。所以“發蒙”者,用於未發,既發則無用。既發而用者,瀆蒙也。“桎梏”者,用於未刑,既刑則說。既刑而不說者,瀆刑也。發蒙者慎其初,不可使至瀆。故於初云爾。
《大象伝》はいう、山下に泉が湧き出すのが「蒙」である。君子はこれに法り、果たして行い徳を育む、と。いわゆる「果行」とは、その開発を求めること、いわゆる「育徳」とは、しばらく開発せずにその正を涵養することである。初六の爻辞はいう、蒙昧を啓発するには、刑を用いて人を整えるに宜しく、また人の桎梏を解いてやるに宜しい。ただひたすらこれを続ければ、吝を招く、と。《小象伝》はいう、「利用刑人」は法度を正しくするためである。启蒙に用いる手段は、彼がまだ竅を開かない時に用いるもので、一旦竅を開けば用いるに及ばない。竅を開いてなお使い続ければ、それは蒙を瀆すことである。「桎梏」はまだ本式に刑を用いる前に套めるもので、刑を用い終えれば解くべきである。刑を用い終えてなお解かなければ、それは刑を瀆すことである。蒙昧を啓発する者は初めの一歩で慎むべきであり、瀆すの地に至ってはならない。ゆえに初爻でこう言うのである。
九二:包蒙,吉。納婦,吉。子克家。《象》曰:“子克家”,剛柔節也。童蒙,若無能為也。然而容之則足以為助,拒之則所喪多矣。明之不可以無蒙,猶子之不可以無婦,子而無婦,不能家矣。
九二の爻辞はいう、蒙昧を包むは吉、嫁を娶るは吉、子は家に克つ、と。《小象伝》はいう、「子家に克つ」は剛と柔が互いに節して当を得ること、と。蒙昧の童は見れば何も成しえないかのようだが、しかしこれを包めば、自分の助力となるに足る。これを拒斥すれば、損失は大きい。明白な人は蒙昧な者の配があってはならないもので、ちょうど子が嫁なくしてはならないのと同じである。子に嫁がなければ、一つの家を支えられない。
六三:勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利。《象》曰:“勿用取女”,行不順也。王弼曰:“童蒙之時,陰求於陽,”“上不求三而三求於上,女先求男者也。女之為體,正行以待命者也,見剛夫而求之,故曰‘不有躬’也。施之於女,行不順”矣。
六三の爻辞はいう、この女を取るな。金夫を見れば躬を有さず、利なし、と。《小象伝》はいう、「女を取るを用いず」はその行いが順道に合わないこと、と。王弼は釈していう、童蒙の時は本来陰が陽を求めるべきである。いま上九が六三を求めず、かえって六三が上九を求める。これはすなわち女が先に男を求めることになる。女の本分は、自らを正しく守って相手の聘を待つことである。剛強の男を見るや進んで彼を求める、ゆえに「躬を有さず」という。このやり方を女に置けば、行いが順道に合わない。
六四:困蒙,吝。《象》曰:“困蒙”之吝,獨遠實也。實,陽也。六五:童蒙,吉。《象》曰:“童蒙”之吉,順以巽也。六五之位尊矣,恐其不安於童蒙之分,而自強於明,故教之曰:“童蒙,吉”。
六四の爻辞はいう、蒙昧の中に困る。吝あり、と。《小象伝》はいう、「困蒙」に吝ある所以は、それだけが「実」から最も遠いからである。いわゆる「実」とは陽爻を指す。六五の爻辞はいう、童のごとき蒙昧は吉、と。《小象伝》はいう、「童蒙」に吉ある所以は、その柔順にして巽なること、と。六五の位はすでに尊いが、ただそれが「童蒙」の本分に安んじず、聡明で強を張ることを恐れる。ゆえにわざわざこれに告げる、童のごとき蒙昧を保てば吉だ、と。
上九:擊蒙,不利為寇,利禦寇。《象》曰:利用“禦寇”,上下順也。以剛自高,而下臨弱,故至於用擊也。發蒙不得其道,而至於用擊,過矣。故有以戒之。王弼曰:“為之捍禦,則物咸附之。若欲取之,則物咸叛矣。”
上九の爻辞はいう、打ち擊って蒙を治めるには、寇を為すは宜しからず、寇を御ぐに宜し、と。《小象伝》はいう、「寇を御ぐ」に用うるに宜しきは、上下ともに順服するからである。上九は剛強をもって高位に居り、高きに臨んで柔弱の人に対する。ゆえに遂に手を動かして打ち擊つ。蒙昧を啓発するに法を得ず、手を動かして打ち擊つに至れば、それは過分である。ゆえに爻辞は誡めを加える。王弼は釈していう、彼らのために外患を御げば衆は皆帰附し、彼らを奪おうとすれば衆は皆叛く、と。
需卦(第五)
坎上,乾下。“需”:有孚,光亨,貞吉。利涉大川。《彖》曰:需,須也。險在前也。剛健而不陷,其義不困窮矣。“需,有孚,光亨,貞吉”,位乎天位,以正中也。謂九五也。“乾”之慾進,凡為“坎”者皆不樂也,是故四與之抗,傷而後避;上六知不可抗,而敬以求免,夫敬以求免,猶有疑也。物之不相疑者,亦不以敬相攝矣,至於五則不然,知“乾”之不吾害,知己之足以御之,是以內之而不疑。故曰“有孚,光亨,貞吉”。“光”者,物之神也,蓋出於形器之表矣。故易凡言“光”、“光大”者,皆其見遠知大者也;其言“未光”、“未光大”者,則隘且陋矣。
「需」卦の上卦は坎、下卦は乾である。卦辞はいう、「需」は孚有り、光あって亨り、貞なれば吉、大川を渉るに利あり、と。《彖伝》はいう、需とは待つことである。険阻が前に横たわり、剛健にして陥らない、理において困窮しない。「需、孚有り、光亨、貞吉」は、天位に居り中を得て正なるからである。これは九五を指す。乾は一心に前に進もうとし、坎体に属する爻は皆これを悦ばない。ゆえに六四はこれに抗して傷を負って退避し、上六は抗えないことを自ら知って、恭をもって禍を免れようと求める。恭をもって禍の免れを求めるは、心中に疑いを存することを示す。互いに猜疑しない者同士は、もともと恭をもって相手を牽制するに及ばない。九五に至れば違う。乾が己を害しないことを知り、また己がこれを禦ぐに足ることを知る。ゆえにこれを受け入れて毫も疑わない。ゆえに「孚有り、光亨、貞吉」という。いわゆる「光」とは事物の神采であり、すでに形体器物の外に出ている。ゆえに《周易》で「光」「光大」と言うのは皆遠く見て大きく識ること、「未光」「未光大」と言うのは狭く浅いことである。
利涉大川,往有功也。見險而不廢其進,斯有功矣。《象》曰:雲上於天,“需”;君子以飲食宴樂。“乾”之剛,為可畏也;“坎”之險,為不可易也。“乾”之於“坎”,遠之則無咎,近之則致寇。“坎”之於“乾”,敬之則吉,抗之則傷,二者皆莫能相懷也。惟得廣大樂易之君子,則可以兼懷而兩有之,故曰“飲食宴樂”。
「大川を渉るに利あり」とは、往けば功があることを言う。険阻を見てもそのために前進を中止しない、こうしてはじめて功がある。《大象伝》はいう、雲が天に上るのが「需」である。君子はこれに法り、飲食宴楽に安んじて自ら楽しむ、と。乾の剛強は畏るべきもの、坎の険陥は軽んじえないものである。乾が坎に対しては、遠ければ咎なく、近づけば強寇を招く。坎が乾に対しては、恭をもって相待てば吉で、正面から抗すれば傷を負う。両辺のどちらも相手を懐に収めることができない。ただ気量の広大な和楽平易の君子を得てはじめて、両辺をいずれも懐に抱き兼ね有することができる。ゆえに「飲食宴楽」という。
初九:需于郊,利用恆,無咎。《象》曰:“需于郊”,不犯難行也;“利用恆,無咎”,未失常也。尚遠於“坎”,故稱“郊”。處下不忘進者,“乾”之常也。遠之不惰,近之不躁,是為不“失常”也。
初九の爻辞はいう、郊野で待つ。恒を用うるに宜しく、咎なし、と。《小象伝》はいう、「郊に需る」は難を冒して行わないこと、「利用恒、无咎」は常道を失わないこと、と。それは坎からまだ遠い。ゆえに「郊」と呼ぶ。下位に処して前進を忘れない、これが乾の一貫の常態である。遠い時に怠らず、近い時に急がない、これを「常を失わない」という。
九二:需于沙。小有言,終吉。《象》曰:“需于沙”,衍在中也。雖“小有言”,以終吉也。“衍”,廣衍也。九三:需于泥,致寇至。《象》曰:“需于泥”,災在外也;自我“致寇”,敬慎不敗也。漸近則為“沙”,逼近則為“泥”。於“沙”則“有言”,於“泥”則“致寇”,“坎”之為害也如此。然於“有言”也,告之以“終吉”;於其“致寇”也,告之以“敬慎不敗”,則“乾”以見險而不廢其進為吉矣。
九二の爻辞はいう、沙地で待つ。少し言の争いあり、終に吉、と。《小象伝》はいう、「沙に需る」は心中に余裕があること、たとえ「小有言」とも終に吉、と。「衍」とは寛広余裕の意である。九三の爻辞はいう、泥中で待つ。寇を致す、と。《小象伝》はいう、「泥に需る」は災いがなお外にあること、強寇は自らが招いたもの、恭して慎めば敗れない、と。漸く近づけば「沙」となり、迫り来れば「泥」となる。沙ではただ「言有り」、泥に至れば「寇を致す」。坎の害はこのように一层ずつ急になる。しかし「言有り」に対しては爻辞は「終に吉」と告げ、「寇を致す」に対しては「敬慎すれば敗れず」と告げる。これを見れば乾はまさに「険阻を見て歩みを止めない」をもって吉とするのである。
六四:需于血,出自穴。《象》曰:“需于血”,順以聽也。“需于血”者,抗之而傷也;“出自穴”者,不勝而避也。九五:需于酒食,貞吉。《象》曰:“酒食貞吉”,以中正也。敵至而不忌,非有餘者不能。夫以酒食為需,去備以相待者,非二陰所能辦也,故九五以此待“乾”,“乾”必心服而為之用,此所以正而獲吉也。
六四の爻辞はいう、血の中で待ち、穴から出る、と。《小象伝》はいう、「血に需る」は柔順に人に聴き命じること、と。いわゆる「血に需る」は抗して傷を負うこと、いわゆる「穴より出る」は敵わずして退避することである。九五の爻辞はいう、酒食の間に待つ。貞なれば吉、と。《小象伝》はいう、「酒食貞吉」は中に居りて正を得るからである。敵が目前に来てもなお猜忌しない、実力の余裕ある者でなければできない。酒食を設けて待ち、防備を撤して迎える、これは六四・上六の二つの陰爻にできることではない。ゆえに九五がこの気度をもって乾に対すれば、乾は必ず心服してその用となる。これがその貞を守って吉を得る所以である。
上六:入于穴。有不速之客三人來,敬之,終吉。《象》曰:不速之客來,“敬之終吉”,雖不當位,未大失也。“乾”已克四而達於五矣,其勢不可復抗,故入穴以自固。謂之“不速之客”者,明非所願也。以不願之意而固守以待之,可得為安乎?其所以得免於咎者,特以“敬之”而已。故不如五之當位,而猶愈於四之大失也。
上六の爻辞はいう、穴に退き入る。速かれずして来た三人の客あり、これを敬せば終に吉、と。《小象伝》はいう、不速の客の来たるに「これを敬して終に吉」は、処する位は当たらなくとも大きな失いはない、と。乾はすでに六四を撃ち破り九五に抵達した。形勢上もはや抗しえない。ゆえに上六は穴に退き入って自ら守る。彼らを「不速の客」と称するのは、まさにこの三つの陽爻が自分の見たい者ではないことを示す。心では願わず、しかも固守して彼らの上門を待つ。これを安穏と言いうるか。それが災禍を免れえた所以は、ただ一つの「これを敬す」に過ぎない。ゆえにそれは九五の位の当たるには及ばないが、なお六四の大傷に勝る。
訟卦(第六)
乾上,坎下。“訟”:有孚,窒,惕,中吉;終凶。利見大人,不利涉大川。《彖》曰:“訟”,上剛下險,險而健,訟。“訟,有孚,窒,惕,中吉”,剛來而得中也。“終凶”,訟不可成也。初六信於九四,六三信於上九,而九二塞之,故曰:“有孚,窒。”而九四、上九亦不能置而不爭,此“訟”之所以作也。故曰:“上剛下險,險而健,訟。”九二知懼,則猶可以免,故曰:“惕,中吉。”“剛來而得中也”,言其來則息“訟”而歸矣,終之則凶。“利見大人”,尚中正也。謂九五也。“不利涉大川”,入于淵也。夫使川為淵者,“訟”之過也。天下之難,未有不起於爭,今又欲以爭濟之,是使相激為深而已。
「訟」卦の上卦は乾、下卦は坎である。卦辞はいう、「訟」は孚あって窒がれ、惕れて中に止むは吉、終わるまでは凶。大人を見るに利あり、大川を渉るに利あらず、と。《彖伝》はいう、「訟」は上剛にして下険、険にして健、ゆえに訟となる。「訟、孚有り、窒、惕、中吉」は剛が来て中位を得たからである。「終凶」は訟を終わるまで為すべからざること。初六はもと九四と相信相孚し、六三はもと上九と相信相孚したが、九二が中からこれらを窒いだ。ゆえに「孚有り、窒」という。九四と上九もまた争いを捨てて置かない。これが「訟」の発生する所以である。ゆえに「上剛下険、険にして健、訟」という。九二がもし畏れることを知れば、なお身を脱しうる。ゆえに「惕、中吉」という。「剛来りて中を得る」とは、九二が本位に退けば訟が息み各々散ることである。もし終わるまで為せば凶である。「大人を見るに利あり」は中正の徳を尚ぶこと、九五を指す。「大川を渉るに利あらず」は深淵に陥ること。もともと徒渉しえた河を深淵に変えたのは、まさに訟を為すの過である。天下の禍難は争いより起こらぬものはない。いままた争いをもってこれを渡らんとすれば、ただ互いに激盪して水をさらに深く攪すのみである。
《象》曰:天與水違行,“訟”,君子以作事謀始。王弼曰:“‘聽訟,吾猶人也;必也使無訟乎?’夫無訟,在於謀始。”“契之不明,訟之所以生也,”“故有德司契,”而“訟”自息矣。初六:不永所事,小有言,終吉。九二處二陰之間,欲兼有之,初不予而強爭焉。初六有應於四,不永事二而之四以為從;強求之二,不若從有應之四也。二雖“有言”,而其辨則明,故“終吉”。《象》曰:“不永所事”,訟不可長也。雖“小有言”,其辯明也。若事二,則相從於訟無已也。
《大象伝》はいう、天は西に転じ水は東に流れ、両者は背いて行く、これが「訟」である。君子はこれに法り、事を為すに初めにまず謀る、と。王弼は孔子の言葉を引いて釈していう、「訴訟を審理するに、我は人とほぼ同じ。必ず違うと言うなら、訴訟をその起こらざらしむることだ」、と。訴訟をなくする要は、初めに謀を善くすることにある。契約が明白に訂されぬこと、これがまさに訴訟の生ずる根源である。ゆえに徳ある者はただ契約の存根を執って逼討しない。訴訟は自ら息む。初六の爻辞はいう、この事を永くせず、少し言の争いあり、終に吉、と。九二は二つの陰爻の間に挟まれ、二つとも己のものにせんとする。初六はこれに与えず、九二は強いて争う。初六はもともと九四と応ずる。ゆえに長く九二に事えず、九四に向いてこれに従う。九二に強求されるよりは、己と応ずる九四に従うに如かず。九二はたしかに「言有り」だが、初六の理は明白に弁えられている。ゆえに「終に吉」である。《小象伝》はいう、「所事を永くせず」は訟を引き延ばすべからざること、たとえ「小有言」ともその申弁は明白である、と。もし真に九二に事えば、それとともに果てなく訴え続けることになる。
九二:不克訟,歸。而逋其邑人三百戶,無眚。《象》曰:“不克訟,歸。”“逋”,竄也。自下訟上,患至掇也。初六、六三,本非九二之所當有也。二以其近而強有之,以為邑人力征而心不服我,克則來,不克遂往,以我卜也。故九二“不克訟”而歸。則初六、六三皆棄而違之。失眾知懼,猶可少安,故“無眚”。“眚”,災也。其曰“逋其邑人三百戶”者,猶曰亡其邑人三百戶云耳。
九二の爻辞はいう、訟に克たず、帰って逃げ、その邑人三百戸も逋げ散る。眚なし、と。《小象伝》はいう、「訟に克たず帰る」、「逋」は逃窜すること、下位から上位と訟すれば、禍患は自ら手を伸ばして拾ったものである、と。初六と六三はもともと九二の占有すべきものではない。九二は近いのを恃んで強いてこれを占有し、これを己の邑人として駆使して征戦させる。しかしこの人々は心中これに服さない。それが勝てば従い来り、勝たねば一に走り去る。すべて我の勝敗を見て賭ける。ゆえに九二が「訟に克たず」して逃げ帰れば、初六・六三は皆これを抛って背いて去る。衆を失いつつ畏れることを知れば、なお稍や安くいられる。ゆえに「眚なし」という。「眚」とは災禍である。いわゆる「その邑人三百戸を逋す」とは、つまり己の三百戸の邑人を失ったと言うに等しい。
六三:食舊德,貞厲,終吉。或從王事,無成。《象》曰:“食舊德”,從上吉也。六三與上九為應,二與四欲得之,而強施德焉。夫六三之應於上九者,天命之所當有也,非為其有德於我也,雖二與四之德不能奪之矣。是以“食舊德”,以從其配,“食”者,食而忘之、不報之謂也,猶若食言云耳。與二陽近而不報其德,故厲而後吉。“或從王事,無成”者,有討於其舊,從之可也;成之,過矣。
六三の爻辞はいう、旧き徳を食み、貞を守りて厲を知れば、終に吉。あるいは王事に従うも成なし、と。《小象伝》はいう、「旧徳を食む」は上位者に従って吉なること、と。六三と上九はもと相応ずる一対である。九二と九四はともにこれを得たがり、硬く恩徳をこれに施す。しかし六三が上九と応ずるのは天命がもとより然るべきもので、誰が我に恩を施したからではない。ゆえに九二・九四が恩徳を施しても、この対を奪うことはできない。ゆえにそれは「旧徳を食み」、自ら命定の配偶に従う。いわゆる「食」とは、食べて忘れ、報いない意である。人の言う「言を食む」の如し。それは九二・九四の二つの陽爻に近く居りながらその恩徳に報いない。ゆえに先に危厲がありて後に吉を得る。「或いは王事に従う、成なし」とは、上に旧敵を討伐する事があれば、従って行くのは可である。成の名を奪い取るのは過分である。
九四:不克訟,復即命,渝,安貞吉。《象》曰:“復即命,渝”,安貞不失也。九四命之所當得者,初六而已。近於三而強求之,故亦“不克訟”。然而有初之應,退而就其命之所當得者,自改而安於貞,則猶可以不失其有也。九五:訟,元吉。《象》曰:“訟,元吉”,以中正也。處中得位而無私於應,故訟者莫不取曲直焉。此所以為“元吉”也。
九四の爻辞はいう、訟に克たず、反りて命に即き、渝して貞に安んずれば吉、と。《小象伝》はいう、「命に即きて渝す」は貞に安んじて応有のものを失わないこと、と。九四が命分に応じて得るべきは、初六の一つのみである。六三に近いからといって六三を強求し、ゆえに同じく「訟に克たず」。しかしそれは畢竟初六と己とが応ずるところがある。ただ退いて来り、命分に応ずるその一つに就き、自ら改めて貞に安んずれば、なお本属のものを失わずに済む。九五の爻辞はいう、訟、元吉、と。《小象伝》はいう、「訟、元吉」は中に居りて正を得るからである。中位に処してその所に居り、己と応ずる爻にも私心を存さない。ゆえに訟を為す者でその許に来て曲直を評せられぬ者はない。これが「元吉」の所以である。
上九:或錫之鞶帶,終朝三褫之。《象》曰:以訟受服,亦不足敬也。六三,上九之配也。二與四嘗有之矣,“不克訟”而歸於上九。上九之得之也,譬之鞶帶,奪諸其人之身而已,服之於人情有赧焉,故終朝三褫之。既服之矣,則又褫之,愧而不安之甚也。二與四,訟不勝者也,然且終無眚與吉也;上九,訟而勝者也,然且有三褫之辱,何也?曰:此止訟之道也。夫使勝者自多其勝以誇其能,不勝者自恥其不勝以遂其惡,則訟之禍,吾不知其所止矣。故勝者褫服,不勝者安貞無眚,止訟之道也。
上九の爻辞はいう、あるいはこれに大帯を錫うも、一朝にして三度これを褫がる、と。《小象伝》はいう、訟をもって服を受くるは、また人の敬するに足らざるなり、と。六三はもと上九の命定の配偶である。九二と九四はかつて一時これを占有したが、後に「訟に克たず」、はじめて上九の手に帰した。上九がこれを得るは、ちょうど一条の大帯を得たがごとく、それは人の身から奪ったものにすぎない。身に服せば人情に赤面すべきものである。ゆえに一朝にして三度剥がれる。すでに服してまた剥がれる、これは羞恥不安の極みを示す。九二と九四は訟に勝たなかった者で、終に「眚なく」吉を得た。上九は勝った者で、かえって三度の剥奪の辱を受けた。これはなぜか。答えていう、これがまさに訴訟を止息する法である。もし勝った者にその勝を自誇し能を衒わせ、負けた者にその敗を自慙させて恨みを加えさせれば、訴訟の禍患はどこに至って止むか、我は知らない。ゆえに勝った者には服を褫がせ、負けた者には貞に安んじて災なからしめる。これが訴訟を止息する理である。
師卦(第七)
坤上,坎下。“師”,貞丈人吉,無咎。丈人,《詩》所謂“老成人”也。夫能以眾正有功而無後患者,其惟丈人乎?故《彖》曰:“吉,”又何咎矣!《彖》曰:師,眾也。貞,正也。能以眾正,可以王矣。剛中而應,行險而順,以此毒天下,而民從之,吉,又何咎矣!用師,猶以藥石治病,故曰“毒天下”。
「師」卦の上卦は坤、下卦は坎である。卦辞はいう、「師」は丈人に貞なれば吉、咎なし、と。いわゆる「丈人」とは、《詩経・大雅・蕩》のいう「老成人」である。衆を率いて正道を行き戦功を立てて後患を残さないのは、ほぼこのような老成人だけであろう。ゆえに《彖伝》は「吉」という。どこに咎があろうか。《彖伝》はいう、師とは衆の意、貞とは正の意。衆を率いて正を為す者は、天下に王たるべし、と。九二は剛健にして中に居りて六五と応ずる。険中を行いて柔順に人に随う。この術をもって天下に一剤の猛薬を下せば、百姓もなおこれに従う。吉、どこに咎があろうか。兵を用うるは、薬石をもって病を治すに似たり。ゆえに「天下を毒す」という。
《象》曰:地中有水,“師”;君子以容民畜眾。兵不可一日無,然不可觀也。祭公謀父曰:“先王耀德而不觀兵。”夫兵戢而時動,動則威;觀則玩,玩則無震,故“地中有水,師”,言兵當如水,行於地中,而人不可知也。
《大象伝》はいう、地中に水あるが「師」である。君子はこれに法り、民を容れ衆を畜う、と。軍隊は一日もなくすべからざるも、取り出して衒うべからず。周の祭公謀父がかつていった、「先王は徳を耀かして兵を耀かさず」、と。兵器は蔵めておき、動すべき時に動けば、一動すれば威慴がある。終日これを陳べて人に見せれば、人は見慣れてしまう。見慣れればもはや人を震慴できない。ゆえに「地中に水あり、師」という。これは兵を用うるは水が地下を流行するがごとくあるべきで、人にその深さを測らせないという意である。
初六:師出以律。否,臧凶。《象》曰:“師出以律”,失律凶也。師出不可不“以律”也,否則雖臧亦凶。夫“以律”者,正勝也;不“以律”者,奇勝也。能以奇勝,可謂臧矣,然其利近,其禍遠;其獲小,其喪大。師休之日乃見之矣,故曰“凶”。
初六の爻辞はいう、師を出すは律を以てす。然らざれば臧にしても凶、と。《小象伝》はいう、「師出に律を以てす」は律を失えば凶なること、と。師を出すは「律を以て」せざるべからず。さもなくば、たとえ勝ち、麗しく打っても、なお凶である。いわゆる「律を以てす」とは正兵をもって勝つこと、「律を以てせず」は奇謀をもって勝つことである。奇謀をもって勝つは、麗しく打ったと言いうる。しかしその利は眼前にあり、その禍は遠くにある。その収穫は小さく、その損失は大きい。戦事が歇み班師して朝に帰る日に至れば、見出だされる。ゆえに「凶」という。
九二:在師中,吉,無咎。王三錫命。夫師出不先得主於中,雖有功,患隨之矣。九二有應於五,是以“吉”而無復有咎。《象》曰:“在師中,吉”,承天寵也;“王三錫命”,懷萬邦也。賞有功而萬邦懷之,則其所賞皆以正勝者也。
九二の爻辞はいう、師中に在りて中を行う。吉、咎なし。王は三たび命を錫う、と。兵を帯びて出征するに、あらかじめ朝中で君主の信任を得ていなければ、たとえ功を立てても禍患が随いて来る。九二は六五と応ずる。ゆえに「吉」にしてもはや咎なし。《小象伝》はいう、「師中に在りて吉」は天のごとき君恩を承くること、「王三たび命を錫う」は万邦を懐柔せんがため、と。功ある者を賞して万邦が帰心する。見ればその賞する所は皆正兵をもって勝った者である。
六三:師或輿尸,凶。《象》曰:“師或輿尸”,大無功也。九二體剛而居柔。體剛則威,居柔則順,是以無專權之疑,而有錫命之寵。六三體柔而居剛,體柔則威不足,居剛則勢可疑,以是不得專其師而為,或者之眾主之也,故“凶”而“無功”。六四:師左次,無咎。《象》曰:“左次無咎”,未失常也。王弼曰:“得位而無應,無應則不可以行,得位則可以處,故‘左次無咎’。”行師之法,欲左皆高,故左次。
六三の爻辞はいう、師あるいは尸を輿して帰る。凶、と。《小象伝》はいう、「師あるいは尸を輿す」は大いに功無きこと、と。九二は本体が剛健にして柔位に処す。本体が剛健なれば威厳あり、柔位に処すれば順に見える。ゆえに専権の猜疑を招かず、かえって君王の命を錫う寵信を得る。六三は本体が柔弱にして剛位に処す。本体が柔弱なれば威厳足らず、剛位に処すれば気勢が疑わしい。ゆえにこの軍を独掌して事を行うことができず、「或る者」らに同じく事を主らせるしかない。ゆえに「凶」にして「功無し」。六四の爻辞はいう、師は左に次る。咎なし、と。《小象伝》はいう、「左次咎なし」は常法を失わないこと、と。王弼は釈していう、それは正位を得たが応爻がない。応なければ進兵すべからず、正位を得れば駐守すべし。ゆえに「左次咎なし」と。行軍の法度は、左をことごとく高地にせよ。ゆえに左に退き次る。
六五:田有禽,利執,言無咎。長子帥師,弟子輿尸,貞凶。《象》曰:“長子帥師”,以中行也。“弟子輿尸”,使不當也。夫以陰柔為師之主,不患其好勝而輕敵也,患其弱而多疑爾,故告之曰:禽暴汝田,執之有辭矣,何咎之有?既使長子帥師,又使弟子與眾主之,此多疑之故也。臣待命而行,可謂正矣,然將在軍則不可,故曰“貞凶”。
六五の爻辞はいう、田に禽ありて利なし。これを執して師を出せば咎なし。長子をもって師を率いよ。もしまた弟子を従えば、尸を輿すに至る。貞にしても凶、と。《小象伝》はいう、「長子師を率いる」は中道を以て行うから、「弟子尸を輿す」は人を使うに当たらないからである、と。陰柔の質をもって一軍の主と為すは、彼の勝を好み敵を軽んずるを憂えるに足らず、彼の軟弱にして多き疑うを憂うべきである。ゆえにこれに告げる、禽が汝の田を害す、これを執すれば充分な言い分がある。どこに咎があろうか、と。すでに長子を遣りて兵を統ばしめた上に、また若き弟子と衆を同じく事を主らせる、これがまさに多き疑うの為したところである。臣たる者は命を待って動く、これは貞を守ったと言いうる。しかし将が軍中に身を置けば、事事に命を聴くわけにはいかない。ゆえに「貞凶」という。
上六:大君有命,開國承家,小人勿用。《象》曰:“大君有命”,以正功也;“小人勿用”,必亂邦也。夫師始終之際,聖人之所甚重也。師出則嚴其律,師休則正其功,小人無自入焉。小人之所由入者,常自不以律始,惟不以律,然後能以奇勝。夫能以奇勝者,其人豈可與居安哉!師休之日,將錄其一勝之功而以為諸侯、大夫,則亂自是始矣。聖人之師,其始不求苟勝,故其終可以“正功”,曰:是君子之功邪?小人之功邪?
上六の爻辞はいう、大君に命あり、国を開き家を承く。小人は用うべからず、と。《小象伝》はいう、「大君に命あり」は戦功を正すため、「小人は用うべからず」は用いれば必ず邦を乱るから、と。兵を用うるの初めと終わりは、聖人が極めて重んずるところである。兵を出すに律を厳明にし、兵を収むるに功を正す。小人には鑚むべき隙がない。小人の隙を鑚む路は、しばしば「律を以てせず」より始まる。まさに律を守らぬがゆえに、奇謀をもって勝ちうるのである。しかも奇謀をもって勝ちうるこの種の人、どうしてこれとともに太平の日を過ごせようか。班師の日に、もしその一度の僥倖の功を帳に記し、諸侯・大夫に封じれば、禍乱はここから始まる。聖人の師は、初めから僥倖の勝を図らない。ゆえに終わりに至って「功を正す」ことができ、あえて問うことができる。これは果たして君子の功か、小人の功か、と。
比卦(第八)
坎上,坤下。“比”:吉。原筮,元永貞,無咎。不寧方來,後夫凶。《彖》曰:比,吉也。比,輔也。下順從也。“原筮,元永貞,無咎”,以剛中也。“比:吉”,“比”未有不吉者也。然而比非其人,今雖吉,後必有咎。故曰“原筮”。筮所從也,“原”,再也。再筮,慎之至也。“元”,始也,始既已從之矣,後雖欲變,其可得乎?故曰“元永貞”。始既已從之,則終身為之貞;知將終身貞之,故再筮而後從。孰為可從者?非五歟?故曰“以剛中也”。
「比」卦の上卦は坎、下卦は坤である。卦辞はいう、「比」は吉。原筮して元永貞なれば咎なし。寧ならざる方が来り、後夫は凶、と。《彖伝》はいう、比は吉なり、比とは輔くこと、下の者は柔順に従う、と。「原筮、元永貞、无咎」は九五が剛健にして中に居るからである。「比、吉」とは、親附することはもともと吉ならざるはない。しかし親附する人を誤れば、目下は吉でも後日必ず禍がある。ゆえに「原筮」という。占い問う所はまさに誰に従うべきかである。「原」とは再びの意である。二度占い問うは謹慎の極みである。「元」は開端である。初めにすでに彼に従った以上、後日改めんと欲しても、なお改められようか。ゆえに「元永貞」という。初めにすでに従えば、終身そのために正を守るべきである。まさに終身正を守るを知るがゆえに、こそ二度占い問うて後に従う。さて誰が従うべき者か。九五にほかならないではないか。ゆえに「剛中を以て」という。
不寧方來,上下應也。不寧方來,謂五陰也。五陰不能自安,而求安於五。後夫凶,其道窮也。窮而後求比,其誰親之?《象》曰:地上有水,“比”。先王以建萬國,親諸侯。初六:有孚,比之,無咎。有孚盈缶,終來有他,吉。五陰皆求比於五。初六最處於其下,而上無應,急於比者也。夫急於求人者,必盡其誠,故莫如初六之有信也。五以其急於求人也而忽之,則來者懈矣。故必“比之”,然後“無咎”。是有信者,其初甚微且約也,其小盈缶而已;然而因是可以致來者,故曰“終來有他,吉”。《象》曰:比之初六,“有他吉”也。言致“他”者,初六之功也。
「寧ならざる方が来る」は上下が互いに呼応すること。いわゆる「寧ならざる方来」とは五つの陰爻を指す。五つの陰爻は自ら己を安頓することができず、九五の許に行って安頓を求めるしかない。「後夫凶」はその道がすでに窮まったことである。窮途に入ってはじめて親附を求めに来る、誰がなお彼を親しまんや。《大象伝》はいう、地上に水あるが「比」である。先王はこれに法りて万国を建て諸侯を親しむ、と。初六の爻辞はいう、孚を有して之に比するは咎なし。孚を有して盈缶すれば、終に来りて他あり。吉、と。五つの陰爻は皆九五に親附せんと欲す。初六は最も下に処し、上に応爻もなく、最も親附に急ぐ一爻である。急いで人を求める者は必ず全き誠意を出す。ゆえに孚誠は初六に比ぶる者なし。九五がもしその求める急なるがゆえにこれを軽慢すれば、後の来者も皆懈怠する。ゆえに九五は必ず回りてこれに親附し、しかる後に「咎なし」。この孚誠は初め極めて微小にして極めて簡素、ただ一只の瓦缶を盈たすのみ。しかしこれを恃って、より多くの人を招来しうる。ゆえに「終に来りて他あり、吉」という。《小象伝》はいう、比の初六は「他の吉あり」と。これは「他」を招来しえたのがまさに初六の功だというのである。
六二:比之自內,貞吉。《象》曰:“比之自內”,不自失也。以應為比,故自內於二,可謂“貞吉”、“不自失”者;於五,則陋矣。六三:比之匪人。《象》曰:“比之匪人”,不亦傷乎?近者皆陰,而遠無應,故曰“匪人”。六四:外比之,貞吉。《象》曰:“外比”於賢,以從上也。“上”,謂五也。非應而比,故曰“外比”。
六二の爻辞はいう、内より之に比す。貞なれば吉、と。《小象伝》はいう、「内より之に比す」は自らを失わないこと、と。六二は九五と応ずるを憑じて親附する。ゆえに「自内」という。六二の一面から見れば、「貞吉」「自らを失わず」と言いうる。しかし九五の一面から見れば、応のある一爻のみを親附すれば、格局は狭小である。六三の爻辞はいう、匪る人に之に比す、と。《小象伝》はいう、「匪る人に之に比す」は、あに傷ましからざらんや、と。六三は近傍は皆陰爻で、遠くには応爻もない。ゆえに「匪人」という。六四の爻辞はいう、外より之に比す。貞なれば吉、と。《小象伝》はいう、外より賢に比するは上に従うため、と。いわゆる「上」とは九五を指す。六四と九五はもと応ずる爻でないのに親附する。ゆえに「外比」と呼ぶ。
九五:顯比。王用三驅。失前禽,邑人不誡,吉。《象》曰:“顯比”之吉,位正中也;舍逆取順,“失前禽”也;“邑人不誡”,上使中也。王弼曰:“為比之主而應在二,‘顯比’者也。比而顯之,則所親者狹矣。夫無私於物,惟賢是與,則去之與來,皆無失也。三驅之禮,禽逆來趨己則舍之,背己而走則射之,愛於來而惡於去也,故其所施,常‘失前禽’也。以‘顯比’而居王位,用三驅之道者也。故曰‘王用三驅,失前禽’也。用其中正,征討有常。伐不加邑,動必討叛,邑人無虞,故不誡也。”“此可以為上之使,非為上之道”也。上六:比之無首,凶。《象》曰:“比之無首”,無所終也。“無首”,猶言無素也。窮而後比,是無素也。
九五の爻辞はいう、顯らかに比す。王は三駆を用い、前禽を失す。邑人は誡めず、吉、と。《小象伝》はいう、「顯比」の吉なる所以は位が正中に居るから、逆らい来るを捨てて背き去るを取る、すなわち「前禽を失す」、「邑人誡めず」は上に居る者の使いが中道に合うから、と。王弼は釈していう、比の主と為るも応ずる所は六二のみ、これが「顯比」である。親附してこれを顯わせば、親の範囲は狭くなる。万物に私心を存せず、ただ賢者と親しめば、去る者も来る者も、皆損と数うるに足らない。三駆の礼は、禽獣が面を向けて我に趨り来ればこれを放し、我に背いて走ればこれを射る。来るを好み去るを悪む。ゆえにこのように行えば常に「前禽を失す」。「顯比」の姿をもって王位に居る、その用いる所はまさに三駆の法である。ゆえに「王は三駆を用い、前禽を失す」という。その中正の道をもって、討伐に常規あり。討伐は己の封邑に加えず、一動は必ず叛逆を討つ。邑中の人に憂うべきものなし。ゆえに誡めに及ばない。ただこれは上に居る者が人を駆使する術と為しうるだけで、なお上に居る者の正道と言うには足らない。上六の爻辞はいう、之に比するに首なし。凶、と。《小象伝》はいう、「之に比するに首なし」は所終なきこと、と。いわゆる「首なし」とは、つまり平素の交情がないと言うに等しい。窮途に入ってはじめて親附しに来る、これはすなわち平素の交情がないことである。
小畜卦(第九)
巽上,乾下。“小畜”,亨。密雲不雨,自我西郊。《彖》曰:小畜,柔得位而上下應之,曰“小畜”。謂六四也。六四之謂小矣,五陽皆為六四之所畜,是以大而畜於小也。健而巽,剛中而志行,乃亨。未畜而亨,則“巽”之所以畜“乾”者,順之而已。“密雲不雨”,尚往也;“自我西郊”,施未行也。
「小畜」卦の上卦は巽、下卦は乾である。卦辞はいう、「小畜」は亨る。密雲雨なく、我が西郊より、と。《彖伝》はいう、小畜とは柔爻が正位を得て上下五つの陽爻が皆これに応ずる。ゆえに「小畜」という。六四を指す。六四こそその「小」である。五つの陽爻は皆六四に畜えられる。ゆえに大きなものがかえって小さなものに畜えられるのである。「剛健にして巽順、剛が中に居りて志行われ、乃ち亨る」とは、まだ畜えられぬうちにすでに亨る。見れば巽が乾を畜える術は、ただこれに順うのみである。「密雲雨なし」はそれがなお往かんとすること、「我が西郊より」は施与がまだ行い出されていないことである。
“乾”之為物,難乎其畜之者也。畜之非其人,則“乾”不為之用。雖不為之用而眷眷焉,不決去之,卒受其病者,“小畜”是也。故曰“密雲不雨,自我西郊”。夫陽施於陰則為雨;“乾”非不知“巽”之不足以任吾施也,然其為物也,健而急於用,故進而嘗試焉,既已為“密雲”矣。能為“密雲”而不能為“雨”,豈真不能哉?不欲雨也。雨者,“乾”之有為之功也,不可以輕用,用之於非其人,則喪其所以為“乾”矣。
乾というものは畜い牽し難い。これを畜える者が適な人でなければ、乾はその用を肯んじない。その用を肯んじなくとも、また恋々として去るに決せず、最後に大きな損を喰うのが、「小畜」のこの一卦である。ゆえに「密雲雨なく、我が西郊より」という。陽が己を陰に施せば化して雨となる。乾は巽が己のこの施与を担いえぬを知らぬではないが、その本性は剛健にして施展に急なるがゆえに、なお前に一試みた。こうしてすでに「密雲」を結んだ。「密雲」を結んで「雨」にならない、果たして降らせられないのか。降らせたくないだけである。雨とは乾の有所為の功業であり、軽く用うべからざるものである。対象を誤って用いれば、それが「乾」たる所以の本を失う。
“乾”知“巽”之不足以任吾施也,是以遲疑而重發之。欲之於“巽”而未決,故次於我之“西郊”。君子是以知“乾”之終病也,既以為雲矣,則是欲雨之道也,能終“不雨”乎?既已次於郊矣,則是欲往之勢也,能終不往乎?雲而不雨,將安歸哉!故卦以為“不雨”,而爻不免於雨者,勢也。君子之於非其人也,望而去之,況與之為雲乎?既已為雲矣,又可反乎?“乾”知“巽”之不足與雨矣,而猶往從之,故曰“密雲不雨,尚往也”。
乾は巽が己のこの施与を担いえぬを明らかに知る。ゆえに迟疑再三、この一歩を極めて重く見る。巽の許に行きたいが決心がつかず、こうして暫く我が「西郊」に駐まる。君子はこれをもって乾がついに損を喰うを見て取る。すでに雲を結んだ以上、それはもとより雨を降らせる路数である。いつまでも「不雨」でいられようか。すでに郊外に駐まった以上、それはもとより往かんとする勢いである。いつまでも行かずにいられようか。雲を成して雨を降らせぬ、この団雲はどこに帰宿せん。ゆえに整卦では「不雨」と言いながら、爻に至ってはついに雨を免れない。これは勢いの必ず至る所である。君子は適さぬ人に対し、遥かに見れば避けるべきである。いわんや彼とともに雲を結ぶをや。すでに雲を結んでなお頭を回せるか。乾は巽がそれとともに雨を成すに配さぬを明らかに知りながら、なおあえてそこに往く。ゆえに「密雲雨なし、尚往きなり」という。
《象》曰:風行天上,“小畜”;君子以懿文德。夫畜已而非其人,則君子不可以有為,獨可以雍容講道,如子夏之在魏,子思之在魯可也。初九:復自道,何其咎?吉。《象》曰:“復自道”,其義吉也。九二:牽復,吉。《象》曰:“牽復”在中,亦不自失也。九三:輿說輹,夫妻反目。《象》曰:“夫妻反目”,不能正室也。
《大象伝》はいう、風が天上を吹き行くが「小畜」である。君子はこれに法り、文章徳業を美しく養う、と。己を畜う者が適なる対象でなければ、君子は大いに為すことができず、ただ从容として学問を講論するのみ、子夏が魏に留まり子思が魯に留まったごとくで足る。初九の爻辞はいう、自らの道に復る。何の咎かあらん。吉、と。《小象伝》はいう、「自道に復る」は義において吉なり、と。九二の爻辞はいう、牽かれてともに復る。吉、と。《小象伝》はいう、「牽復」して中に居るは、また自らを失わざるなり、と。九三の爻辞はいう、輿に輹を脱し、夫妻は反目す、と。《小象伝》はいう、「夫妻反目」は室家を正しくできないこと、と。
陽之畜“乾”也,厲而畜之。厲而畜之者,非以害之也,將盈其氣而作之爾。陰之畜乾也,順而畜之。順而畜之者,非以利之也,將即其安而縻之爾。故“大畜”將以用“乾”,而“小畜”將以制之。“乾”進而求用則可,進而受制則不可。故“大畜”之“乾”,以之“艮”為吉;“小畜”之“乾”,以之“巽”為凶。
陽が来て乾を畜えるは、厳の法をもってこれを畜える。厳の法をもってこれを畜えるは、これを害せんとするにあらず、その気を蓄え満たしてこれを激発せんとするのである。陰が来て乾を畜えるは、柔順の法をもってこれを畜える。柔順の法をもってこれを畜えるは、これに利を与えんとするにあらず、その安逸を貪る心に就きてこれを拴せんとするのである。ゆえに《大畜》は乾を取りてこれを任用せんとし、《小畜》は乾を管えてこれを収めんとする。乾が前に往きて人に任用せられんを求めるは可なり。前に往きて自ら羅網に投じて人の管制を受くるは不可なり。ゆえに《大畜》の乾は艮に就けば吉、《小畜》の乾は巽に就けば凶である。
“乾”之慾去於“巽”,必自其交之未深也,去之則易。初九“復自道,何其咎,吉”,進而嘗之,知其不可,反循故道而復其所,則無咎。九二交深於初九矣,故其復也,必自引而後脫,蓋已難矣,然猶可以不自失也。至於九三,其交益深而不可復,則脫輹而與之處,與之處可也,然“乾”終不能自革其健而與“巽”久處而無尤也,故終於“反目”。
乾がもし巽から身を脱せんと欲せば、必ず交情のなお深からざる時に趁らねばならぬ。その時は身を抽くもなお易しい。初九の「自道に復る、何の咎かあらん、吉」は、それが前に一試みて、行えぬを知り、原路に順って本位に退く。ゆえに咎なし。九二は巽との交情が初九より深い。ゆえにその復るを要するに、必ず自ら力を用いて引き拽らねば脱し得ず、すでに甚だ力を費す。ただ自らを失わざるを為しうるに留まる。九三に至れば、交情はさらに深く、復ることができない。こうして遂に車軸の伏兎を脱し、巽とともに住す。ともに住すはもとより不可ならざるなし。しかし乾はついに己の剛健の性を改めえず、巽と長く処して嫌隙を生ぜしめぬは能わざること。ゆえに最後に「反目」の地に落ちた。
六四:有孚,血去惕出,無咎。《象》曰:“有孚”“惕出”,上合志也。九五:有孚,攣如;富以其鄰。《象》曰:“有孚,攣如”,不獨富也。凡“巽”皆陰也。六四固陰矣,九五、上九,其質則陽,其志則陰也。以陰畜“乾”,“乾”知其不可也;易以質陽而志陰者畜“乾”,“乾”知其不可也難。何則?不知其志而見其類也。六四“有孚,血去惕出,無咎”,六四之所“孚”者,初九也。初九欲去之,六四欲畜而留之,陰陽不相能,故傷而去,懼而出也。以其傷且懼,是以知陰之畜“乾”,其欲害“乾”之意見於外也。如此,以其為害也淺。而“乾”去之速,故“無咎”。
六四の爻辞はいう、孚有り、血去き惕出ず、咎なし、と。《小象伝》はいう、「孚有り」「惕出ず」は上の者と志を合わせること、と。九五の爻辞はいう、孚有り攣如、其の鄰に富まる、と。《小象伝》はいう、「孚有り攣如」は独り富むを肯んぜざるなり、と。およそ巽体に属するものは皆陰である。六四はもともと陰爻。九五・上九は本質は陽といえども、心志は陰である。明らかなる陰をもって乾を畜えれば、乾は一目にこれが不可を見て取る。本質は陽にして心志は陰なる者に換えて乾を畜えれば、乾はこれが不可を見出だし難い。何を以てか。彼の心志を見えず、ただ彼と己とが同類なるを見るだけだからである。六四の「孚有り、血去き惕出ず、咎なし」は、六四の「孚」する対象が初九である。初九は行かんと欲し、六四はこれを畜え留めんと欲す。陰と陽は合わない。ゆえに初九は傷を負って走り脱け、恐懼を懐いて出る。まさにそれが傷を負いまた恐れるがゆえに、陰が乾を畜うるに、その乾を害せんとする用心が面に擺れているを見出だしうる。こうなれば、その為す傷害はかえって浅い。しかも乾の身を抽くが速い。ゆえに「咎なし」である。
若夫九五之畜“乾”也,則不然。所“孚”者既已去我矣,我且挽援而留之,若中心誠好之。然此“乾”之所以眷眷而不悟,自引而後脫。二者皆欲畜“乾”而制之,顧力不能,是以六四與上“合志”,而九五以其富,附其鄰,併力以畜之。鄰,上九也。
九五の乾を畜える手法に至れば、そうではない。その「孚」する対象はすでに我を離れて去ったのに、我はなお手を伸ばして引き留める。その様はあたかも心の底から真に彼を好くがごとし。まさにこのゆえに、乾は恋々として看破らず、必ず自ら力を用いて引き拽らねば脱し出られない。九五と上九の二つはともに乾を畜えこれを管えんと欲すが、ただ力が足りない。ゆえに六四と上九とは「志を合わせ」、九五は己の富をもって隣を籠絡し、力を合わせてともに乾を畜える。ここに言う「隣」とは上九を指す。
上九:既雨既處;尚德載,婦貞厲。月幾望,君子征凶。《象》曰:“既雨既處”,德積載也。“君子征凶”,有所疑也。“小畜”之世,宜“不雨”者也。九三之於上九,其勢不得不雨者,以“密雲”之不可反而舍上九,則無與雨也。既已與之雨,則為其人矣,可不為之處乎?“乾”非德不止,九五、上九,質陽而志陰,故能“尚德”以載“乾”。
上九の爻辞はいう、雨はすでに降り、すでに止んだ。徳を尚んでこれを積み載せる。婦がこの正を守れば危厲がある。月はほぼ望に近づく。君子がこのとき征せば凶、と。《小象伝》はいう、「既に雨し既に処る」は徳が積んで載せうるに至ったこと、「君子征すれば凶」は心中に猜疑が起きたこと、と。「小畜」のこの世では、もともと「不雨」であるべきだった。しかるに九三は上九に対して、形勢上この雨を降らせざるを得ない。なぜなら「密雲」はすでに成り、頭を回せず、上九を撇けばそれとともに雨を成す対象がないからである。すでにそれとともにこの雨を降らせた以上、その人となったのであるから、どうして安んじてそれと処さざるを得ようか。乾は「徳」に遇わなければ肯んじて止まらない。九五・上九は本質は陽にして心志は陰。ゆえに「尚徳」の一筋をもって乾を承載しうるのである。
“尚德”者,非真有德之謂也,九五、上九知“乾”之難畜,故積德而共載之,此陽也,而謂之婦,明其實陰也。以上畜下,故“貞”。“乾”不心服,故“厲”。以陰勝陽,故“月幾望”。君子之徵,自其交之未合則無咎。既已與之雨矣,而去之,則彼疑我矣。疑則害之,故“凶”。
いわゆる「尚徳」とは、真に徳があるというのではなく、九五・上九が乾の畜え難いを明らかに知り、ゆえに一つの徳の姿を攒め上げてともにこれを承載するのである。この二爻はもと陽であるが、爻辞はこれを「婦」と称す。まさにその骨髄が陰であることを点明するのである。上位をもって下位を畜えるは、名分上は「貞」と算えられる。しかし乾は心服しない。ゆえに「厲」である。陰をもって陽を圧し過ぎた。ゆえに「月幾望」という。君子がもし出行せんとすれば、互いの交情がまだ黏合せぬうちに趁って去れば、咎はない。すでにそれとともにあの雨を降らせた以上、このとき身を抽いて離れ去れば、相手は我を疑う。一たび疑い起これば、手を下して我を害せんとする。ゆえに「凶」である。
履卦(第十)
乾上,兌下。履虎尾,不咥人,亨。《彖》曰:“履”,柔履剛也。說而應乎“乾”,是以“履虎尾,不咥人,亨”。剛中正,履帝位而不疚,光明也。“履”之所以為“履”者,以三能履二也。有是物者不能自用,而無者為之用也。“乾”有九二,“乾”不能用,而使六三用之。九二者,虎也。虎何為用於六三而莫之咥?以六三之應乎“乾”也。故曰“說而應乎‘乾’,是以履虎尾,不咥人,亨”。“應乎‘乾’”者,猶可以用二,而“乾”親用之,不可。何哉?曰:“乾”,剛也;九二,亦剛也。兩剛不能相下,則有爭;有爭,則“乾”病矣。
「履」卦の上卦は乾、下卦は兌である。卦辞はいう、虎の尾を履んでも虎は人を咥えず、亨る、と。《彖伝》はいう、「履」とは柔が剛を履むこと。説びて乾に順応す。ゆえに「虎尾を履みて人を咥えず、亨」という。九五は剛健中正、帝位に登りて心に疚しからず、光明磊落である。「履」が「履」たる所以は、六三が九二を履みつけうるからである。手にこの物を握る者はかえって自らこれを用いられず、これを有さない者がかえって彼のためにこれを用いる。乾の中に九二あり、乾は自らこれを用いえず、六三に用いさせるほかない。九二がすなわちあの虎である。虎はなぜ六三に使われるを肯んじてこれを咥えないのか。六三が乾と応ずるからである。ゆえに「説びて乾に順応す。ゆえに虎尾を履みても咥えられず、亨」という。六三が「乾に応ず」以上、なお九二を用いうる。しかし乾が自ら往きて九二を用いれば、不可である。なぜか。乾は剛、九二も剛。二つの剛は互いに譲らず、争執を起こす。争執が起これば、乾は損を喰う。
故“乾”不親用,而授之以六三。六三以不校之柔而居至寡之地,故九二禁為之用也。九二為三用,而三為五用,是何以異於五之親用二哉?五未嘗病,而有用二之功,故曰“履帝位而不疚,光明也”。夫三與五合,則三不見咥而五不病。五與三離,則五至於危而三見咥。卦統而論之,故言其合之吉;爻別而觀之,故見其離之凶。此所以不同也。
ゆえに乾は自ら往きて用いず、九二を六三に交付する。六三は人と計らわぬ柔順をもって、全卦最も孤寡の位に処す。ゆえに九二は肯んじてその使いに聴く。九二が六三に用いられ、六三がまた九五に用いられる。これは九五が自ら九二を用いるのと何の異なりがあろうか。九五はすでに損を喰わず、また九二を用いる功効を収めた。ゆえに「帝位を履みて疚しからず、光明なり」という。六三と九五が合すれば、六三は咥えられず九五も損を喰わず、六三と九五が心を離れれば、九五は危険に陥り六三も咥えられる。整卦より通盤に論ずれば、ゆえにそれらが相合するときの吉を語る。各爻より分かれて見れば、ゆえにそれらが相離れるときの凶を見出だす。これが卦辞と爻辞の言い方が異なる所以である。
《象》曰:上天下澤,“履”。君子以辯上下定民志。初九:素履往,無咎。《象》曰:“素履”之“往”,獨行願也。“履”,六爻皆上履下也。所履不同,故所以履之者亦異。初九獨無所履,則其所以為履之道者,行其素所願而已。君子之道,所以多變而不同者,以物至之不齊也。如不與物遇,則君子行願而已矣。
《大象伝》はいう、上に天あり下に沢あるが「履」である。君子はこれに法り、上下の名分を辨え、民の志を定める、と。初九の爻辞はいう、素のままに己の路を行く。咎なし、と。《小象伝》はいう、「素履」して「往ぐ」は独り己の願を踐行すること、と。「履」卦の六爻は、皆上のが下のを履む。履まれる対象が異なるがゆえに、履む方式も各々異なる。ただ初九のみ、下に履むべきものなし。さればその「履」道を行う法は、ただその平素の願を行うのみである。君子の道が変化多端にして各々異なる所以は、遇う事物が参差不斉だからである。もし根本的に外物が来りて相遇わなければ、君子もまたただ本願を踐行するのみである。
九二:履道坦坦,幽人貞吉。《象》曰:“幽人貞吉”,中不自亂也。九二之用大矣,不見於二,而見於三。三之所以能視者,假吾目也;所以能履者,附吾足也。有目不自以為明,有足不自以為行者,使六三得坦途而安履之,豈非才全德厚、隱約而不慍者歟?故曰“幽人貞吉”。
九二の爻辞はいう、履む道は坦坦として平らか、幽人は貞なれば吉、と。《小象伝》はいう、「幽人貞吉」は中に居りて自ら乱れざること、と。九二の作用は甚だ大きいが、しかし己の身に顯れず、六三の身に顯れる。六三が見える所以は、我が眼を借りたから、行える所以は、我が脚に乗ったからである。眼があっても自ら眼明を誇らず、脚があっても自ら行えるを誇らず、ただ六三に一条の坦途を得させて安々と行き続けさせる。これはまさに才干完備、徳性淳厚にして、幽隠困窘に処しても怨気を生ぜぬ人ではないか。ゆえに「幽人貞吉」という。
六三:眇能視,跛能履,履虎尾,咥人,凶。武人為于大君。《象》曰:“眇能視”,不足以有明也;“跛能履”,不足以與行也。咥人之凶,位不當也;“武人為于大君”,志剛也。眇者之視,跛者之履,豈其自能哉!必將有待於人而後能。故言“跛”、“眇”者,以明六三之無能而待於二也。二,虎也,所以為吾用而不吾咥者,凡以為“乾”也。六三不知其眇而自有其明,不量其跛而自與其行,以虎為畏己,而去“乾”以自用。虎見六三而不見“乾”焉,斯咥之矣。九二有之而不居,故為“幽人”;六三無之而自矜,故為“武人”。武人見人之畏己,而不知人之畏其君。是以有為君之志也。
六三の爻辞はいう、一目が眇しいながら能く視ると自ら以為り、脚が跛びながら能く履むと自ら以為る。虎尾を履みて虎は人を咥う。凶。武人が大君を為さんとす、と。《小象伝》はいう、「眇にして能く視る」は真に視えたと算うるに足らず、「跛にして能く履む」は真に行えたと算うるに足らず。咥わるるの凶は位が当たらざるに由る。「武人大君を為さんとす」は心志が剛猛なること、と。眇目の能く視、跛脚の能く行は、あに彼自身の本事か。必ず人に依ってはじめて為し得る。ゆえに「跛」「眇」というは、まさに六三が自ら本事なく、全く九二に頼るを点明するのである。九二がすなわち虎であり、それが我に用いられるを肯んじて我を咥えぬは、すべて乾の分に看するがゆえである。六三はすでに己が眇なるを知らず、かえって自ら眼明と以為り、また己が跛なるを量らず、かえって自ら行けると以為る。虎を以て我を懼れると為し、ここにおいて乾を抛ちて、自ら主張して虎を駆使する。虎の眼には六三のみを見て乾を見ず、さればこれを咥う。九二はこの本事があって自ら居らざる。ゆえに「幽人」である。六三は本事なくして自ら誇耀す。ゆえに「武人」である。武夫は人が己を懼れるを見て、人の懼れる所がその背後の君主であるを明らかにせず、ここにおいて遂に自ら君主を為さんの念を生ずる。
九四:履虎尾,愬愬,終吉。《象》曰:“愬愬終吉”,志行也。“愬愬”,懼也。九二之剛用於六三,故三雖陰而九二之虎在焉,則三亦虎矣。雖然,非誠虎也。三為“乾”用,而二輔之;四履其上,可無懼乎?及其去“乾”以自用,而九二叛之,則向之所以為虎者亡矣,故始懼“終吉”。以九四之“終吉”,知六三之衰也。六三之衰,則九四之志得行矣。
九四の爻辞はいう、虎尾を履み、愬愬として恐れ、終に吉、と。《小象伝》はいう、「愬愬終吉」は心志が行われて行くこと、と。「愬愬」とは恐懼の貌である。九二の剛強が六三に用いられ、ゆえに六三は陰爻といえども、身上に九二この虎を帯び、ここにおいて六三自身もまた虎となる。とは言うものの、それは真の虎ではない。六三がなお乾に用いられ、九二が旁らにこれを輔助する時、九四がその頭上を履む、能く恐れざらんや。六三が乾を抛ちて自ら主張し、九二がこれを背き棄つるに至れば、さきにそれを虎に似せしめたものもまたなくなる。ゆえに九四は起先恐れて「終に吉」。九四の「終吉」より、六三がまさに衰落することを知る。六三が一たび衰落すれば、九四の心志は行われて行くを得る。
九五:夬履,貞厲。《象》曰:“夬履貞厲”,位正當也。九二之剛,不可以剛勝也,惟六三為能用之。九五不付之於三,而自以其剛決物,以此為履危道也。夫三與五之相離也,豈獨三之禍哉?雖五亦不能無危。其所以猶得為正者,以其位君也。上九:視履,考祥,其旋,元吉。《象》曰:“元吉”在上,大有慶也。三與五,其始合而成功;其後離而為凶。至於上九,歷見之矣,故視其所履,考其禍福之祥,知二者之不可以一日相離也,而復其舊,則“元吉”。旋,復也。
九五の爻辞はいう、夬として事を行い、貞を守りて厲を知る、と。《小象伝》はいう、「夬履貞厲」はその居る位が正当だから、と。九二のあの剛強は、剛強をもって圧伏しうるものでなく、ただ六三のみがこれを駕馭しうる。九五はこの事を六三に付さず、己の剛強をもって万事を裁断せんとする。これをもって「履」道を行えば険路を行くことになる。六三と九五が一たび心を離れれば、あにただ六三のみが倒れるか。九五もまた危険を免れない。九五がなお「正」と算えられる所以は、ただそれが君位を占めるによる。上九の爻辞はいう、我が一路履み来た路を回視し、その中の吉凶の兆を考察す。能く旋環して元の処に帰るは、元吉、と。《小象伝》はいう、「元吉」にして上に居るは、大いに福慶あること、と。六三と九五は、初め相合して功業を成し、後に心を離れて凶となる。上九のこの爻に至れば、前の事は皆一々見遍した。ゆえに己の履み過ぎた路を回視し、禍福の兆を考察して、この二爻が一日も分離しえぬを明らかにし、従ってもとの様に復する。されば「元吉」である。「旋」とは帰るの意である。
《東坡易伝》巻之二
泰卦(第十一)
坤上,乾下。“泰”,小往大來,吉,亨。《彖》曰:“泰,小往大來,吉,亨”。則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也。內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人,君子道長,小人道消也。陽始於“復”而至於“泰”。“泰”而後為“大壯”,“大壯”而後為“夬”。“泰”之世,不若“大壯”與“夬”之世,小人愈衰而君子愈盛也。然而聖人獨安夫“泰”者,以為世之小人不可勝盡,必欲迫而逐之,使之窮而無歸,其勢必至於爭,爭則勝負之勢未有決焉,故獨安夫“泰”,使君子居中,常制其命;而小人在外,不為無措,然後君子之患無由而起,此“泰”之所以為最安也。
「泰」卦の上卦は坤、下卦は乾である。卦辞はいう、「泰」は小往きて大来る。吉、亨、と。《彖伝》はいう、「泰、小往大来、吉、亨」、これは天地が交わりて万物が通暢し、上下が交わりて心志が同じである。内は陽にして外は陰、内は剛健にして外は柔順、内は君子を用いて外は小人を置く。君子の道は日々に生長し、小人の道は日々に消退す、と。陽気は《復》卦より起こり、一路長じて《泰》に至る。《泰》の後は《大壮》、《大壮》の後は《夬》。ただ小人の益々衰え君子の益々盛んを就けて言えば、《泰》の世は実は《大壮》と《夬》に及ばない。しかし聖人は偏に《泰》に安んずる。それは彼が以為るに、世の小人は除き尽くせぬもの、必ずこれらを逼迫駆逐して行き詰まらしめんとすれば、形勢は必ず争闘に演じる。一たび争闘すれば、勝負は言い定められない。ゆえに聖人はただ《泰》に安んじ、君子を内に居らせて常に小人の命脉を握らせ、小人を外に居らせて安身する所なきに至らしめない。こうなれば、君子の禍患は起こる由なし。これが《泰》の最も安穏なる所以である。
《象》曰:天地交,“泰”;后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。“財”,材也。物至於“泰”,極矣,不可以有加矣,故因天地之道而材成之,即天地之宜而“輔相”之,“以左右民”,使不入於“否”而已。“否”,未有不自其已甚者始,故“左右”之,使不失其中,則“泰”可以常保也。
《大象伝》はいう、天地が交わるが「泰」である。后はこれに法り、天地の道を裁成し、天地の宜を輔相し、以て民を左右す、と。「財」とは裁制の意である。事物が「泰」のこの一歩に至れば、すでに頂に至った。更に上に添うべからず。ゆえにただ天地の道に順ってこれを裁成し、天地の宜に就きてこれを「輔相」し、「以て民を左右す」、無非これを「否」の中に滑り込ませぬだけである。「否」は、「太過」より始まらぬはない。ゆえにこれを左右して扶持し、これを中道を失わせぬようにせよ。さらば「泰」は長く保ちうる。
初九,拔茅茹,以其匯;征吉。《象》曰:“拔茅”、“征吉”,志在外也。王弼曰:“茅之為物,拔其根而相連引者也。茹,相連之貌也。三陽同志,俱志於外。初為類首,舉則類從。”故曰“以其匯,征吉”。
初九の爻辞はいう、茅を拔けば、その茹で以てその彙を引き連れてともに出る。征せば吉、と。《小象伝》はいう、「茅を拔き」て「征吉」は心志が外に向かうこと、と。王弼は釈していう、茅という草は、その根を一拔けば、連れて一串が跟いて出る。「茹」とは根鬚が相連なる貌である、と。三つの陽爻は志が同じく、皆一心に外に向かう。初九はこの類の頭である。それが一動すれば、同類が跟いて行く。ゆえに「其の彙を以て、征せば吉」という。
九二:包荒,用馮河,不遐遺;朋亡,得尚于中行。《象》曰:“包荒”,“得尚于中行”,以光大也。陽皆在內,據用事之處;而擯三陰於外,此陰之所不能堪也。陰不能堪,必疾陽;疾陽,斯爭矣。九二,陽之主也,故“包荒,用馮河”。“馮河”者,小人之勇也;小人之可用,惟其勇者。“荒”者,其無用者也;有用者用之,無用者容之不遐棄也,此所以懷小人爾。以君子而懷小人,其朋以為非也,而或去之,故曰“朋亡”。然而得配於六五,有大援於上,君子所以愈安也,雖亡其朋,而卒賴以安,此所以為“光大”也。
九二の爻辞はいう、荒を包み、馮河を用い、遐を遺らず。朋亡れども、中行に尚ぶを得ん、と。《小象伝》はいう、「荒を包み」て「中行に尚ぶを得」るは、胸襟が光明宏大なるによる、と。三つの陽爻は皆内卦に在り、当権して事を弁ずる位置を占め、三つの陰爻を外に排斥す。これは陰の堪えられざるところである。陰が堪えられなければ、必ず陽を憎む。一たび陽を憎めば、争闘を起こす。九二は衆陽の主である。ゆえに「荒を包み、馮河を用い」る。いわゆる「馮河」とは、小人式の勇である。小人の身に用いうるものは、すなわちこの勇である。いわゆる「荒」とは、用いる所なき人々である。用いうるは任用し、用いえぬは収容してこれらを遥かに抛てない、これが小人を安撫する法である。君子の身分をもって小人を安撫すれば、その同党はこれを否と為し、甚だしきはこれにより彼を棄て去る者もある。ゆえに「朋亡」という。しかしそれは六五と一対を配し、上に強大なる援手あり。君子はこれによりかえって益々安穏なり。朋党を失うも、終にこの一層を恃って安穏を得た。これが「光大」の所以である。
九三:無平不陂,無往不復,艱貞,無咎。勿恤其孚,于食有福。《象》曰:“無往不復”,天地際也。“乾”本上也,“坤”本下也。上下交,故“乾”居於內,而“坤”在外。苟“乾”不安其所而務進以迫“坤”,則夫順者將至於逆,故曰“無平不陂”。“坤”不獲安於上,則將下復以奪“乾”,“乾”之往適,所以速其復也,故曰“無往不復”。當是時也,“坤”已知難,而貞於我則可以“無咎”之矣。九三之所孚者,初與二也;以其所孚者為樂,進以迫“坤”而重違之,則危矣。故教之以“勿恤其孚”,而安“於食”,是以有“泰”之“福”。
九三の爻辞はいう、平なりして陂らざるなく、往きて復らざるなし。艱貞すれば咎なし。其の孚を恤うる勿れ、食に福あり、と。《小象伝》はいう、「往きて復らざるなし」は天と地の交接の際なり、と。乾はもと上に在り、坤はもと下に在る。いま上下交通し、ゆえに乾はかえって内卦に居り、坤はかえって外卦に在る。もし乾が己の位置に安んぜず、一味に前に坤を逼迫せば、本来柔順の一方は叛逆に転ぜん。ゆえに「平なりして陂らざるなし」という。坤が上に在りて安穩ならざれば、下に反撲して乾の位置を奪わんとす。乾が一味に往けば、ちょうど坤の回頭を加速す。ゆえに「往きて復らざるなし」という。この時に至れば、坤はすでに形勢の艱難を知る。ただそれが我に貞を守れば、「咎なし」と言いうる。九三が孚信する所は初九と九二である。もしただこれら同心の人と快楽を顧み、ともに前に坤を逼迫し、一再にこれに違逆せば、危ない。ゆえに爻辞はこれに「其の孚を恤うる勿れ」を教え、安々として己の禄食を享けよ、と。こうしてはじめて「泰」の「福」を享しうる。
六四:翩翩不富,以其鄰,不戒以孚。《象》曰:“翩翩不富”,皆失實也;“不戒以孚”,中心願也。王弼曰:“‘乾’樂上復,‘坤’樂下復,四處‘坤’首。”六五、上六皆失其故處而樂下者,故翩翩相從,不必富而能用其鄰,不待戒而自孚。
泰卦の六四の爻辞はいう、群鳥のごとく軽捷に翩として下に飛ぶ。自ら富まずとも、鄰近の同類を帯動しうる。預め誡めを用いずとも、彼此自然に孚信し合う、と。《象伝》は釈していう、「翩如として富まざる」は、上卦のこの三つの陰爻が皆本来充実の処を離れて虚浮したによる。「誡めずして孚を以てす」は、下に往くがもともとそれらの心の願いだから、と。王弼はいう、「乾の本性は上に帰るを楽しみ、坤の本性は下に帰るを楽しむ。六四は正に坤卦三爻の最前頭に処す」と。六五・上六は皆もとの位置を抛ちて下行を楽しむ者である。ゆえに六四が一たび頭を帯びれば、それらは翩然として相随う。まさに同心なるがゆえに、六四は財富なくしても鄰近の六五・上六を役使しえ、預め約束誡告せずとも、彼此自然に信任して間なし。
六五:帝乙歸妹,以祉元吉。《象》曰:“以祉元吉”,中以行願也。“妹”,女之少者也。《易》女少而男長,則權在女。六五以陰居尊位,有“帝乙歸妹”之象焉。“坤”樂下復,下復而奪“乾”,“乾”則病矣,而亦非“坤”之利也,“乾”病而疾“坤”,“坤”亦將傷焉。使“乾”不病、“坤”不傷,莫如以輔“乾”之意而行其下復之願,如帝女之歸其夫者。帝女之歸也,非求勝其夫,將以祉之。“坤”之下復,非以奪“乾”,將以輔之,如是而後可。
泰卦の六五の爻辞はいう、殷王帝乙が女を嫁がせ、これを以て祉あり、元吉、と。《象伝》はいう、「祉を以て元吉」は六五が上卦の中に居り、中道を守りて己の願いを実現するによる、と。「妹」とは年少の女子を指す。《周易》の通例は、女方が年少にして男方が年長なれば、主動権はかえって女方の手に落ちる。六五は陰柔の質をもって尊位を占め、正に「帝乙が女を嫁がせ」の意象に合する。坤の本性は下行回帰を楽しむが、しかし一下行すれば乾の地位を侵奪せんとす。乾が一たび損なわれれば、坤に対しても実は利なし。乾が病と成れば、必ず反りて坤を憎悪し、坤も同じく傷を受ける。乾をして病を受けさせず、坤をして傷を受けさせぬ最善の法は、乾を輔助する心意を抱いて己の下行の願いを実現すること、帝王の女が夫家に嫁ぐがごとし。帝王の女の下嫁は、夫を圧倒せんとするにあらず、夫に福祉を齎さんとするなり。坤の下行回帰も、乾の位置を奪わんがためにあらず、乾を輔助せんがためなり。こうしてはじめて行き通る。
上六:城復于隍,勿用師,自邑告命,貞吝。《象》曰:“城復于隍”,其命亂也。取土於隍,而以為城;封而高之,非城之利,以利人也。“泰”之所以厚“坤”於外者,非以利“坤”,亦以衛“乾”爾。“坤”之在上,而欲復於下,猶土之為城,而欲復于隍也。有城而不能固之,使復于隍,非城之罪,人之過也,故“勿用師”。上失其衛,則下思擅命,故“自邑告命”。邑非所以出命也,然既以失之矣,從而懷之則可,正之則吝。
泰卦の上六の爻辞はいう、城は隍に復す。師を用いる勿れ。自ら邑より命を告ぐ。貞なりといえども吝、と。《象伝》はいう、「城隍に復す」は政令がすでに紊乱したによる、と。そもそも本は壕溝より土を取りて城墻を築き、堆高して封実した。これは土をして自ら利を得せしむるためにあらず、城中に住む人を保護せんがためなり。泰卦が坤のこの一片の厚土を外卦に安放する所以も、坤をして利を得せしむるためにあらず、ただこれを以て内卦の乾を護衛するのみ。坤が上に居りて一心に下に帰らんと欲するは、ちょうど城上の土が壕溝に塌れ帰らんと欲するがごとし。城墻あって守りえず、これを壕溝に塌れ帰らしむるは、城墻の罪過にあらず、築城守城の人の過失である。ゆえに「師を用いる勿れ」——更に兵を興して弾圧すべからず。上が屏障を失えば、下は擅自に号令を発せんと欲す。ゆえに「自ら邑より命を告ぐ」という。采邑はもと政令を出す所にあらず。しかし大勢すでに失われた上は、形勢に順って安撫懐柔するはまだ可なり。硬く名分を按してこれを糾正せば、ただ憾惜を招くのみである。
否卦(第十二)
乾上,坤下。“否”之匪人,不利君子貞;大往小來。《彖》曰:“‘否’之匪人,不利君子貞;大往小來”,則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下無邦也。內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子,小人道長,君子道消也。《春秋傳》曰:“不有君子,其能國乎?”君子道消,雖有國,與無同矣。
否卦の上卦は乾(天)、下卦は坤(地)である。卦辞はいう、否閉の世は人道の宜しき所にあらず、君子の貞に利あらず。陽の大なるは外に往き、陰の小なるは内に来る、と。《彖伝》はいう、「否は匪人なり、君子の貞に利あらず、大往きて小来る」、これは天気が上昇し地気が沈降し、天地の二気が相交接せず、万物はこれにより通暢しえず、君臣上下の情が相交接せず、天下はこれにより邦国なきに等し。こ一卦は内は陰、外は陽、内は柔弱、外は剛強、小人は内に在りて当権し君子は外に擯せらる。小人の勢いはまさに生長し、君子の道はまさに消退す。《左伝》に晋の大夫の言葉を載せる、「君子なかれば、国はなお国たりえんや」と。君子の道が一たび消退せば、たとえ土地人民あっても、国なきとほぼ同じである。
《象》曰:天地不交,“否”;君子以儉德辟難,不可榮以祿。初六:拔茅茹,以其匯,貞吉,亨。《象》曰:“拔茅”“貞吉”,志在君也。自“泰”為“否”也易,自“否”為“泰”也難。何也?陰陽易位,未有不志於復,而其既復,未有不安其位者也。故“泰”有“徵”,而“否”無“徵”。夫苟無“徵”,則是終無“泰”也而可乎?故“坤”處內而不忘貞於“乾”,斯所以為“泰”之漸矣,故“亨”。
《象伝》はいう、天地が交わらざる、これが否卦である。君子はこれにより徳を斂めて難を避け、禄位の栄顯を貪るべからず、と。初六の爻辞はいう、茅を拔けば、その茹で以てその彙を引き連る。貞なれば吉、亨、と。《象伝》はいう、「茅を拔き」て「貞吉」は、その心志が始終君上に係るによる、と。泰より否に転ずるは易く、否より泰に回帰するは難しい。なぜか。陰陽が一たび互いに位置を換えれば、己のもとの位置に帰らんと欲せざる方なし。しかしそれが真に帰った時は、またその位に安んじて肯んじて再び挪動せざる方なし。ゆえに泰卦の初九は「征吉」を講じ、前往を鼓勵し、否卦の初六は根本的に「征」を提げない。すでに出征を提げざれば、あに永遠に泰に帰らざらんか。見れば転機はここにあり、坤は内卦を占めたといえども、乾に対してその貞信を忘れず、これこそ泰に通ずる漸進の路である。ゆえに「亨」という。
六二:包承,小人吉,大人否,亨。《象》曰:“大人否,亨”,不亂群也。陰得其位,欲包群陽,而以承順取之。上說其順而不知其害,此小人之吉也。大人之慾濟斯世也,苟出而爭之,上則君莫之信,下則小人之所疾,故莫如否。大人否而退,使君子小人之群不相亂,以為邪之勝正也,常於交錯未定之間,及其群分類別,正未有不勝者也,故“亨”。
否卦の六二の爻辞はいう、包み承順す。小人はこれにより吉、大人は否にして亨、と。《象伝》はいう、「大人否、亨」は、彼が君子と小人の両群を攪り混ぜ合わせざるによる、と。六二は陰爻をもって陰位に居り、その正位を得て、上の衆陽を皆裹め入れんと欲し、承順討好を恃ってこれらを籠絡す。上に在る者はその柔順を喜び、その中の禍害を見出ださず。これが小人の吉を得る所以である。大人はこの時世を救助する心あり。もし身を挺して出でて小人と相争えば、上は君主が彼を信ぜず、下はまた小人に忌恨せられん。さらば否にして出でざるに如かず。大人が否退すれば、君子の一群と小人の一群とを界限分明にして互いに攪混せしめず。なぜなら邪の正に勝ちうる所以は、しばしば正邪が交錯して界限未だ清からざる時にある。両類が各々その類に帰るに至れば、正の一方は勝たざるなし。ゆえに「亨」という。
六三:包羞。《象》曰:“包羞”,位不當也。三本陽位,故包承群陽而知羞之矣。九四:有命,無咎;疇離祉。《象》曰:“有命無咎”,志行也。君子之居“否”,患無以自行其志爾。初六有志於君,而四之應;苟“有命”,我無庸咎之矣。故君子之疇獲離其福。“疇”,類也。
否卦の六三の爻辞はいう、包み承順して心に羞ず、と。《象伝》はいう、「包羞」はその居る位が恰当ならざるによる、と。第三爻はもと陽位である。六三は陰柔をもってこれに居る。ゆえにそれは一面は六二のごとく衆陽を包裹承順し、一面また自らこうするの可羞なるを知る。九四の爻辞はいう、命ありて咎なし、疇は祉に離く、と。《象伝》はいう、「命ありて咎なし」はその心志が行わるるを言う、と。君子は否閉の世に処して、憂うる所はただ己の抱負を施行する由なきのみ。初六は一心に君上に向かい、九四は正にこれと応ずる。ただ上に命ありて我を出でて事に任ぜしむれば、我もまた自ら責むを用いず。ゆえに君子のこの類は皆福沢に沾う。「疇」とはすなわち同類の意である。
九五:休否,大人吉;其亡其亡,繫于苞桑。《象》曰:“大人”之“吉”,位正當也。九五,大人之得位,宜若甚安且強者也。然其實制在於內。席其安強之勢,以與小人爭而求勝,則不可。故曰“休否,大人吉”。恃其安強之勢,而不虞小人之內勝,亦不可。故曰“其亡其亡,繫于苞桑”。“休否”者,所謂“大人否”也,小人之不吾敵也,審矣。惟乘吾急,則有以幸勝之,利在於急,不在於緩也。苟否而不爭,以休息之,必有不吾敵者見焉,故“大人吉”。上九:傾否,先否後喜。《象》曰:否終則傾,何可長也。“否”至於此,不可復因。非傾蕩掃除,則喜無自至矣。
否卦の九五の爻辞はいう、否を休めよ。大人吉。其の亡びなん、其の亡びなんと念じて、苞桑に係るがごとくなれ、と。《象伝》はいう、大人の吉なる所以は、居る位が正当なるによる、と。九五は大人の位を得る爻で、見れば甚だ安穩にして甚だ強大なるべし。しかし否卦の実権は実は内卦の小人の手に操られている。己の安穩強大の形勢を憑じて、硬く小人と一勝負を争わんとするは、不可である。ゆえに「否を休めよ、大人吉」という。反りて、安穩強大を倚仗して全く小人の内部より勢を得るを提防せぬも、また不可である。ゆえに「其の亡びなん其の亡びなん、苞桑に係れ」という。いわゆる「否を休む」とは、すなわち六二爻の言う「大人否」である。小人はもと我が敵手にあらず、これは明らかに擺れている。彼らはただ我が急躁にして躁進する時に趁りてのみ、僥倖取勝の機会がある。見れば便宜は急に在りて緩に在らず。もし我が否にしてこれと争わず、局面を歇息せしめば、小人の敵に堪えざる形跡は自ら顯露す。ゆえに「大人吉」という。上九の爻辞はいう、否を傾けよ。先に否ありて後に喜ぶ、と。《象伝》はいう、否は終れば則ち傾く、あに能く久しからんや、と。否閉が上九のこの一歩に至れば、すでに因循し続くべからず。徹底して傾覆掃蕩せざれば、喜びは何処より来らん。
同人卦(第十三)
乾上,離下。同人于野,亨,利涉大川,利君子貞。《彖》曰:“同人”,柔得位得中,而應乎乾,曰“同人”。此專言二也。“同人”曰:“同人于野,亨。”此言五也,故別之。利涉大川,“乾”行也。“野”者,無求之地也。立於無求之地,則凡從我者,皆誠同也。彼非誠同,而能從我於野哉!“同人”而不得其誠同,可謂“同人”乎?
同人卦の上卦は乾(天)、下卦は離(火)である。卦辞はいう、野に於て人と同ず。亨。大川を渉るに利あり。君子の貞に利あり、と。《彖伝》はいう、同人卦は、柔なる者が正位を得て中に居り、上に乾に応ず。ゆえに「同人」と呼ぶ、と。この一句は専ら六二に就きて言う。《彖伝》はまたいう、「同人曰く、同人于野、亨」。この一句は九五に就きて言う。ゆえにわざと「同人曰く」の三字を加えてこれを分つ。「大川を渉るに利あり」は乾の剛健の行いである。いわゆる「野」とは、求取する所なき地である。人が求取する所なき地に立てば、およそ我に従うを肯んずる者は、皆真心にして我と同じなり。彼がもし真心に同じからずんば、肯んじて旷野の中に来りて我に從わんや。「同人」を講じて真心同じの人を得ざれば、なお「同人」と称しえんや。
故天與人同,物之能同於天者蓋寡矣。天非求同於物、非求不同於物也,立乎上,而天下之能同者自至焉,其不能者不至也,至者非我援之,不至者非我拒之,不拒不援,是以得其誠同,而可以“涉川”也。故曰“同人于野,亨。”“利涉大川,乾行也”。苟不得其誠同,與之居安則合,與之涉川則潰矣。涉川而不潰者,誠同也。
ゆえに天は人と同じなりといえども、天下万物の天と同じなりうるは実に少ない。天はすでに刻意して万物の己と同じならんを求めず、また刻意して万物の己と同じからざらんを求めず。それはただ高々と上に立つ。天下およそこれと同じなりうる者は自然に来り、同じなりえぬ者は自然に来らず。来るは我が彼を拉したるにあらず、来らざるは我が彼を拒んだるにあらず。拒まずまた拉さず、これこそ真心同じの人を得るなり。よってともに大川を渉るべし。ゆえに《彖伝》は「同人于野、亨」といい、また「大川を渉るに利あり、乾の行いなり」という。もし真心同じの人を得ざれば、彼らとともに平安の境に処してもなお合い得るが、一たびともに大川を渉れば潰散せん。大川を渉りて潰散せざるは、恃む所は正にこの「誠同」である。
文明以健,中正而應,君子正也。唯君子,為能通天下之志。《象》曰:天與火,“同人”,君子以類族辨物。水之於地為“比”,火之與天為“同人”。“同人”與“比”,相近而不同,不可不察也。“比”以無所不比為“比”,而“同人”以有所不同為“同”,故“君子以類族辨物”。
《彖伝》は続けていう、内卦の離は文明、外卦の乾は剛健、六二と九五は各々中正を得て彼此呼応す。これは君子の正道なり。ただ君子のみ、能く天下人の心志を会通す、と。《象伝》はいう、天は上に在り火の性は炎上、両者は同向、これが同人卦である。君子はこれにより族類を区別し事物の異同を辨える、と。水が地上を行くは比卦、火が天と同向するは同人卦。同人と比の二卦は似て相近く見えて、実は同じからず。細かに分辨せざるべからず。比卦は親附せざるなきを以て「比」と為す。同人卦は彼此本来異なるを承認する前提の下にその相同を求む。ゆえに「君子は族を類し物を辨す」という。
初九:同人于門,無咎。《象》曰:出門同人,又誰咎也?初九自內出,同於上;上九自外入,同於下。自內出,故言“門”;自外入,故言“郊”。能出其門而同於人,不自用者也。
同人卦の初九の爻辞はいう、門を出でて人と同ず。咎なし、と。《象伝》はいう、門を出でてのち人と同ずるは、また誰が彼を咎めん、と。初九は自ら内卦より外に走り出で、上の人と同ずるを求む。上九は自ら外卦より内に走り入り、下の人と同ずるを求む。裏より外に出るがゆえに「門」といい、外より裏に入るがゆえに上九は「郊」という。能く自家の門戸を走出して人と同ずるを求む、これは自ら是と為さず、一意孤行せざる人である。
六二:同人于宗,吝。《象》曰:“同人于宗”,吝道也。凡言“媾”者,其外應也;凡言“宗”者,其同體也。九五為“媾”,九三為“宗”。從“媾”,正也;從“宗”,不正也。六二之所欲從者,“媾”也;而“宗”欲得之,正者遠而不相及;不正者近而足以相困。苟不能自力於難而安於易,以同乎不正,則吝矣。
同人卦の六二の爻辞はいう、宗に於て人と同ず。吝、と。《象伝》はいう、「同人于宗」は吝の道なり、と。《周易》はおよそ「媾」と言うは、卦外のそれと応ずる爻を指す。およそ「宗」と言うは、同一の卦体の内に在る爻を指す。六二に対しては、九五は「媾」、九三は「宗」である。「媾」に從うは正、「宗」に從うは不正。六二が心に從わんと欲するはもと九五この「媾」なり。しかるに九三この「宗」もまたこれを拉し去らんと欲す。正応の九五は遠く上頭に在り、一時に及び難し。不正の九三は近く身辺に在り、纏擾困擾するに足る。もし六三が肯んじてあの難行の正路のために自ら勉力せず、ただ眼前の容易を図りて、不正の九三と合さらば、ただ憾惜あるのみである。
九三:伏戎于莽,升其高陵,三歲不興。《象》曰:“伏戎于莽”,敵剛也;“三歲不興”,安行也?九四:乘其墉,弗克攻,吉。《象》曰:“乘其墉”,義“弗克”也;其吉,則困而反則也。六二之慾,同乎五也。歷三與四而後至,故三與四皆欲得之。四近於五,五乘其墉,其勢至迫而不可動,是以雖有爭二之心,而未有起戎之跡,故猶可知困而不攻,反而獲吉也。若三之於五也,稍遠而肆焉。五在其陵,而不在其墉,是以伏戎于莽而伺之,既已起戎矣,雖欲反,則可得乎?欲興不能,欲歸不可,至於三歲,行將安入?故曰“三歲不興,安行也?”
同人卦の九三の爻辞はいう、戎を莽に伏せ、其の高陵に升りて望む。三歳興らず、と。《象伝》はいう、「戎を莽に伏せる」は敵手が剛なるに由る、「三歳興らず」はまた安くか行かん、と。九四の爻辞はいう、其の墉に乘るも、攻め克たず。吉、と。《象伝》はいう、「其の墉に乘る」は義においてもと攻めうべからず。その吉なる所以は、困に遭うて後に法則に反るによる、と。六二が真に之と同じならんと欲するは九五なり。しかるにそれは九三・九四を経由してはじめて上りゆけ。ゆえに三・四の両爻は皆これを截留せんと欲す。九四は九五に緊挨し、九五はすなわち高きに臨んでその墻頭に壓す。形勢はこれを逼迫して動けざらしむ。ゆえに九四は六二を争奪の心ありといえども、真に兵を興し武を動かす行跡なく、なお自ら困窘を知りて攻めず、回頭してかえって吉を得る。九三に至れば、九五より稍や遠く、ここに放肆となる。九五はただその望み見る高陵の上に在りて、並にその城墻の上に壓せず。ここにおいてそれは兵を草莽の中に伏せて窺伺す。すでに兵を動かした以上、たとえ手を收めんと欲すも、收め帰りえんや。発動せんと欲すれば力量足らず、退回せんと欲すればまた不可能。一直に拖到して三年、なおどこに行きえん。ゆえに「三歳興らず、安くか行かん」という。
九五:同人,先號咷,而後笑。大師克,相遇。《象》曰:同人之先,以中直也;“大師”“相遇”,言相剋也。子曰:“君子之道,或出或處,或默或語。二人同心,其利斷金;同心之言,其臭如蘭。”由此觀之,豈以用師而少五哉?夫以三、四之強而不能奪,始於“號啕”,而卒達於“笑”。至於用師,相剋矣;而不能散其同,此所以知二、五之誠同也。二,陰也;五,陽也;陰陽不同而為“同人”,是以知其同之可必也。君子出、處、語、默不同而為“同人”,是以知其同之可必也。苟可必也,則雖有堅強之物,莫能間之矣。故曰“其利斷金”。蘭之有臭,誠有之也;二五之同,其心誠同也;故曰“其臭如蘭”。
同人卦の九五の爻辞はいう、人と同ずるに、先に號咷して後に笑う。大師克ちて相遇う、と。《象伝》はいう、同人の先に號咷する所以は、九五が中を守りて心直なるに由る、「大師」にして「相遇う」は、双方交戦相克を言う、と。孔子は《周易・繋辞上》にいう、「君子の道は、あるいは出で、あるいは処り、あるいは黙し、あるいは語る。二人同心すれば、その利は金を断つ。同心の言は、その臭は蘭のごとし」と。これを見れば、あに九五が軍隊を動用したを以て彼を小に見んや。九三・九四のごとき強横を以てしても、終に六二を奪い去りえず。ゆえに九五は起先號咷して、最後に笑に帰す。軍隊を動用するに至れば、それは真の相攻相克である。しかしなお二・五の同を拆き散らしえず。正にこれにより六二と九五は真心同じなるを知る。六二は陰、九五は陽。陰陽はもと同じからざるも「同人」と成る。見ればこの「同」は靠り頼みうる。君子の出でと処り、語ると黙すとは各々同じからざるも、なお「同人」と成りうる。これをもってもこの「同」は靠り頼みうるを見る。すでに靠り頼みうる以上、さらばたとえ更に堅硬強横のものあっても、入り込みてこれを離間しえず。ゆえに「その利は金を断つ」という。蘭に香気あるは、それが実実在在に有するもの。二と五の相同は、心に真に相同なる。ゆえに「その臭は蘭のごとし」という。
上九:同人于郊,無悔。《象》曰:“同人于郊”,志未得也。物之同於“乾”者已寡矣,今又處“乾”之上,則同之者尤難。以其無所苟同,則可以“無悔”;以其莫與共立,則“志未得也”。
同人卦の上九の爻辞はいう、郊に於て人と同ず。悔いなし、と。《象伝》はいう、「同人于郊」はその志まだ得ざるなり、と。天下の乾と同じなりうるはもとより少なく、いわんや上九はまた乾体三陽の上に高居す。これと同じなりうる人はさらに求め難し。まさにそれが肯んじて随に人に苟同せざるがゆえに、「悔いなし」と言いうる。またまさに人のこれと並び共に立つ者なきがゆえに、「志未だ得ず」という。
大有卦(第十四)
離上,乾下。“大有”:元亨。《彖》曰:“大有”,柔得尊位,大中。而上下應之,曰“大有”。謂五也。“大”者皆見“有”於五,故曰“大有”。其德剛健而文明,應乎天而時行,是以“元亨”。《象》曰:火在天上,“大有”。君子以遏惡揚善,順天休命。以健濟明,可以進退善惡,“順天”之“休命”也。
大有卦の上卦は離(火)、下卦は乾(天)である。卦辞はいう、大有、元亨、と。《彖伝》はいう、大有卦は、柔なる者が尊位を得、中に居りて大なり。上下五つの陽爻は皆これに応ず。ゆえに「大有」と呼ぶ、と。ここに言うは六五である。およそ「大」と称しうる陽剛は、皆六五に所有せらる。ゆえに「大有」という。その徳性は剛健にしてまた文明、上に天道に応じて時に運行す。ゆえに「元亨」。《象伝》はいう、火が天上に在りて普く照る、これが大有卦である。君子はこれにより悪を遏め善を揚げ、天の休命に順う、と。乾の剛健を用いて離の明察を成せば、能く善を進用し悪を斥退す。これがまさに天の「休命」に順応するなり。
初九,無交害,匪咎;艱則無咎。二應於五,三通於天子,四與上近焉;獨立無交者,惟初而已。雖然無交之為害也,非所謂“咎”也。獨立無恃而知難焉,何咎之有?《象》曰:大有初九,“無交害”也。明惟初九為然也。
大有卦の初九の爻辞はいう、交害なし。咎にあらず。艱にすれば咎なし、と。九二は六五と応じ、九三は上に天子に通じ、九四は上九と相近し、孤零零として交往なきは、ただ初九の一爻のみ。とは言うものの、交往なきはただ一の妨害であって、なお爻辞のいわゆる「咎」に至らず。孤立して倚仗する所なく、しかも艱難を知りて自ら守る。どこに咎があらんや。《象伝》はいう、大有の初九は「交害なし」と。これは点明して、ただ初九の一爻のみがこの様であることを示す。
九二:大車以載,有攸往,無咎。《象》曰:“大車以載”,積中不敗也。“大車”,虛而有容者,謂五也。九二足以有為矣,然非六五虛而容之,雖欲往,可得乎?“積中”,明虛也。
大有卦の九二の爻辞はいう、大車を以て載せ、往くところあり。咎なし、と。《象伝》はいう、「大車を以て載す」は積んで中に在りて敗れざるを言う、と。いわゆる「大車」とは、中が空虚にしてよって物を容れうるもので、六五を指す。九二の才力はすでに有所為に足る。しかし六五が己を虚してこれを容納せざれば、それはたとい前に行かんと欲すも、行きえんや。《象伝》の「積中」というは、まさに六五の中間が虚空にして容れうるを点明する。
九三:公用,亨于天子,小人弗克。《象》曰:“公用,亨于天子”,小人害也。九三以陽居陽,其勢足以通於天子。以小人處之,則敗矣。九四:匪其彭,無咎。《象》曰:“匪其彭,無咎”,明辯晢也。“彭”,三也;九四之義,知有五而已。夫九三之剛,非強也;六五之柔,非弱也。惟明者為能辨此。
大有卦の九三の爻辞はいう、公は亨を以て天子にす。小人は克たず、と。《象伝》はいう、「公は亨を以て天子にす」は、小人に換えれば害と為る、と。九三は陽爻をもって陽位に居り、気勢は上に天子に通ずるに足る。この位置をもし小人に占めさせば、事を敗る。九四の爻辞はいう、其の彭に匪ず。咎なし、と。《象伝》はいう、「其の彭に匪ず、咎なし」は、彼が明察にして分辨し得るによる、と。「彭」とは盛大なる九三を指す。九四が守る所の道理は、心中ただ六五この一位の君主を認める。要するに九三は剛といえども、並に即ち強に等しくなく、六五は柔といえども、並に即ち弱に等しくない。ただ眼光明亮の人のみがこの一層を辨え清む。
六五:厥孚交如,威如,吉。《象》曰:“厥孚交如”,信以發志也;“威如”之吉,易而無備也。處群剛之間,而獨用柔,無備之甚者也。以其無備而物信之,故歸之者交如也。此柔而能威者,何也?以其無備,知其有餘也。夫備生於不足,不足之形見於外,則威削。
大有卦の六五の爻辞はいう、厥の孚は交如、威如。吉、と。《象伝》はいう、「厥孚交如」は孚信を以て衆人の心志を激発すること、「威如」の吉なる所以は、彼が平易坦蕩にして毫も防備なきによる、と。六五は一群の陽剛の間に身を処し、偏に独り柔道を用いる。これは防備を設けざるの極みである。まさに彼が防備を設けざるがゆえに、衆人はかえって彼を信ず。ゆえに帰附する者は紛至沓来、交相に往還す。柔弱の人がかえって威厳を生じうるは、何の故か。まさに彼が防備を設けざるがゆえに、人々は彼が内里綽綽として余裕あるを知る。要するに防備は不足より生ずるもの。不足の形跡が一たび外に露れば、威厳もまた削減す。
上九:自天祐之,吉無不利。《象》曰:“大有”上吉,“自天祐”也。曰“祐”,曰“吉”,曰“無不利”,其為福也多矣。而終不言其所以致福之由,而象又因其成文,無所復說。此豈真無說也哉!蓋其所以致福者遠矣。夫兩剛不能相用,而獨陰不可以用陽,故必居至寡之地,以陰附陽,而後眾予之,“履”之六三、“大有”之六五是也。六三附於九五,六五附於上九,而群陽歸之。二陰既因群陽而有功,九五、上九又得以坐受二陰之成績,故“履”有不疚之光,而“大有”有“自天”之“祐”,此皆聖賢之高致妙用也。
大有卦の上九の爻辞はいう、天より祐されん。吉、利ならざるなし、と。《象伝》はいう、大有の上爻の吉は、正に「天より祐されん」、と。「祐」といい「吉」といい「利ならざるなし」といい、得た福はすでに多い。しかるに爻辞は始終福を致す縁由を講じず、《象伝》もまたただ爻辞の現成の文句に順って重ねて一言を言うのみ、更に別の言葉なし。これはあに真に言うべき言葉なきか。実は福を致す根由は深遠甚だし。要するに二つの剛強は互いに用い合えず、孤单の一陰爻も陽剛を駆使しえず。ゆえに必ず至孤至寡の地に身を処し、陰柔を以て陽剛に依附して、しかる後に衆陽は肯んじて功労をこれに譲る。履卦の六三、大有卦の六五はこのごとし。履卦の六三は九五に依附し、大有卦の六五は上九に依附す。ここにおいて群陽は皆これに帰向す。二つの陰爻はすでに群陽を憑藉して功業を成就し、九五・上九はまた安坐してこの二つの陰爻の成績を承受しうる。ゆえに履卦には《彖伝》のいう「帝位を履みて疚しからず」のあの光明あり、大有卦には「天より祐されん」の福祐あり。これは皆聖賢の極めて高明なる意致と妙用である。
故孔子曰:“天之所助者,順也;人之所助者,信也。履信思乎順,又以尚賢也。是以‘自天祐之,吉無不利’”。信也,順也,尚賢也,此三者,皆六五之德也。“易而無備”,六五之順也。“厥孚交如”,六五之信也。群陽歸之,六五之尚賢也。上九特履之爾。我之所履者,能順且信,又以尚賢,則天人之助將安歸哉?故曰“聖人無功,神人無名”,而“大有”上九,不見致福之由也。
ゆえに孔子は《周易・繋辞上》にいう、「天の助くる所は順なり、人の助くる所は信なり。信を履みて順に思い、また賢を尚ぶ。ゆえに『天より祐されん、吉利ならざるなし』」と。诚信・順・尚賢のこの三樣は、悉く六五の徳行である。「易にして備なし」は六五の順、「厥孚交如」は六五の信、群陽が皆来りて帰附するは六五の尚賢である。上九はただこの三樣の上に踏むのみ。我が脚下に踏む所はすでに順にして且つ信、また能く賢を尚ぶ。さらば天助と人助はなお他人の身に帰りえんや。ゆえに《荘子》に「聖人功なく、神人名なし」の説あり。而も大有卦の上九もまたそれが福を致す縁由を見出だしえないのである。
謙卦(第十五)
坤上,艮下。“謙”,亨。君子有終。《彖》曰:“謙,亨”。天道下濟而光明,地道卑而上行。此所以為“謙、亨”也。天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙尊而光,卑而不可逾,君子之終也。此所以為“君子有終”也。不於其終觀之,則爭而得、謙而失者,蓋有之矣。惟相要於究極,然後知謙之必勝也。
謙卦の上卦は坤(地)、下卦は艮(山)である。卦辞はいう、謙、亨。君子終りあり、と。《彖伝》はいう、「謙、亨」は、天道は下に済えて益々光明を顯し、地道は卑に処して地気は上行するによる、と。これが「謙」の「亨」たる所以である。《彖伝》はまたいう、天道は盈満を虧して謙退を益し、地道は盈満を変易して謙下に流注し、鬼神は盈満を害して謙虚に福を降し、人情は盈満を悪み謙遜を好む。謙なる者は尊位に居りて徳は益々光顯し、卑位に処しても人の彼を越ゆる能わず。これがすなわち君子の好結末である。これが「君子終りあり」の所以である。もし結末の上より看ずれば、争奪して手を得、謙譲して損を喰うの事は、世間に確かにこれあり。ただ眼光を一直に終極の処に放ちて彼此印証してこそ、謙譲は必ず獲勝することを知る。
《象》曰:地中有山,“謙”。君子以裒多益寡,稱物平施。“裒”,取也。“謙”之為名,生於過也,物過然後知有“謙”。使物不過,則“謙”者乃其中爾。過與中相形,而“謙”之名生焉。聖人即世之所名而名之,而其實則歸於中而已矣。地過乎卑,山過乎高,故“地中有山,謙”。君子之居是也,多者取之,“謙”也;寡者益之,亦“謙”也。
《象伝》はいう、高山が地の中に蔵す、これが謙卦である。君子はこれにより多きを裒めて寡きを益し、物を稱えて施しを平かにす、と。「裒」は取り去るの意である。「謙」この名目は、もと「過」に逼られて出たものである。事物に過分あればこそ、人はいわゆる「謙」あるを知る。もし事物がもとより過分ならずんば、いわゆる「謙」もまたただ「中」に過ぎない。「過」と「中」とが両々相照らし合って、「謙」の名目がはじめて生ずる。聖人はただ世人のすでに有する呼称に順いてこれに名づけたのであるが、その実質はなお一の「中」の字に帰結する。地は過度に卑下し、山は過度に高聳す。ゆえに「地中に山あり、謙」という。君子はこのような位に処して、多きを取り去るは謙、寡きを補うもまた謙である。
初六:謙謙君子,用涉大川,吉。《象》曰:“謙謙君子”,卑以自牧也。此最處下,是“謙”之過也。是道也,無所用之,用於“涉川”而已。有大難不深自屈折,則不足以致其用。“牧”者,養之以待用云爾。
謙卦の初六の爻辞はいう、謙に謙げる君子、この徳を用いて大川を渉れば吉、と。《象伝》はいう、「謙々君子」は、卑下の姿をもって自ら牧むるによる、と。初六は全卦の最下に居り、これは謙の過頭である。このような過頭の謙は、平常には用場に適わず、ただ大川を渉るがごとき難関においてのみ用いうる。大艱難に遇うて己を深く屈折せしむるを肯んぜざれば、その効用を発揮するに足らず。「牧」とは、先に畜養しておいて、後日の取用を待つことである。
六二:鳴謙,貞吉。《象》曰:“鳴謙貞吉”,中心得也。雄鳴則雌應,故《易》以陰陽唱和寄之於“鳴”。“謙”之所以為“謙”者,三也:其“謙”也以勞,故聞其風、被其澤者,莫不相從於“謙”。六二,其鄰也;上九,其配也;故皆和之而鳴於“謙”。而六二又以陰處內卦之中,雖微九三,其有不謙乎?故曰“鳴謙”,又曰“貞吉”。“鳴”以言其和於三,“貞”以見其出於性也。
謙卦の六二の爻辞はいう、鳴く謙、貞なれば吉、と。《象伝》はいう、「鳴謙貞吉」は、この謙が心の内より発して自得するによる、と。雄鳥が一たび鳴けば雌鳥が応ずる。ゆえに《周易》は陰陽の間の唱和を一つの「鳴」の字に託する。謙卦が謙たる所以は、全く九三この一爻に恃む。その謙は功労をもって底子とするがゆえに、およそその風声を聞きその恩沢を受けた者は、これに跟いてともに謙下せぬはなし。六二は九三の近鄰で、上の一爻は九三の正応である。ゆえに両爻ともこれに応和して謙に鳴く。いわんや六二はまた陰柔をもって内卦の中に居る。たとえ九三なくとも、それはあに謙ならざらんや。ゆえにすでに「鳴謙」といい、また「貞吉」という。「鳴」はそれが九三と応和することを言い、「貞」はこの謙が本性より出ることを言う。
九三:勞謙,君子有終,吉。《象》曰:“勞謙君子”,萬民服也。“勞”,功也。“謙”五陰一陽,待是而後為“謙”,其功多矣。“艮”之制在三,而三親以“艮”下“坤”,其“謙”至矣,故曰“勞謙”。勞而不伐,有功而不德,非獨以自免而已,又將以及人,是得“謙”之全者也。故《彖》曰:“君子有終。”而三亦云。
謙卦の九三の爻辞はいう、労あって謙なる君子、終りあり、吉、と。《象伝》はいう、「労謙君子」は万民が服す、と。「労」とは功労である。謙卦は五陰一陽にして、全く九三この一爻に恃って謙と成る。その功労は甚だ大きい。下卦艮の主は第三爻に在り、九三は自ら艮体全体を帯びて坤の下に屈居す。謙の極みである。ゆえに「労謙」という。労苦あって誇らず、功業あって自らその徳に居らず、これはただもって自らを保つにあらず、また推して人に及ぼす。これをもってはじめて「謙」の全体を得たと算える。ゆえに《彖伝》は「君子終りあり」といい、九三の爻辞もまたしかのごとく言う。
六四:無不利,撝謙。《象》曰:“無不利,撝謙”,不違則也。是亦九三之所致也。二近其內,有配之象,故曰“鳴”;四近其外,三之所向,故稱“撝”。以柔居柔,而當三之所向,三之所撝,四之所趨也。以謙“撝謙”,孰不利者?故曰“無不利”。
謙卦の六四の爻辞はいう、利ならざるなし、撝謙、と。《象伝》はいう、「利ならざるなし、撝謙」は法則に違背せざるによる、と。これもまた九三が帯び出したものである。六二は九三の内側に挨し、配偶相応の意味あり。ゆえに「鳴」という。六四は九三の外側に挨し、正に九三が手を揮って指す方向に当たる。ゆえに「撝」という。六四は柔爻をもって柔位に居り、また正に九三の揮指する往く処に当たる。九三の揮指する所は、すなわち六四の趨赴する所である。己の謙をもって九三の謙を承接し揮布する。何の不利あらん。ゆえに「利ならざるなし」という。
六五:不富,以其鄰;利用侵伐,無不利。《象》曰:“利用侵伐”,征不服也。直者曲之矯也,謙者驕之反也。皆非德之至也,故兩直不相容,兩謙不相使。九三以“勞謙”,而上下皆謙以應之,內則“鳴謙”,外則“撝謙”。其甚者則謙謙相追於無窮,相益不已。則夫所謂“裒多益寡,稱物平施”者,將使誰為之?若夫六五則不然,以為謙乎,則所據者剛也;以為驕乎,則所處者中也;惟不可得而謂之謙,不可得而謂之驕,故五,“謙”莫不為之使也。求其所以能使此五“謙者”而無所有,故曰“不富,以其鄰”;至於侵伐,而不害為“謙”,故曰“利用侵伐”。莫不為之用者,故曰“無不利”。
謙卦の六五の爻辞はいう、富まずとも其の鄰を以てす。侵伐に用いるに利あり、利ならざるなし、と。《象伝》はいう、「侵伐に用いるに利あり」は、服せざるを征討すること、と。「直」は「曲」を矯正するに用い、「謙」は「驕」と相対して立つ。両者ともまだ徳の極みと算うべからず。ゆえに一味に剛直なる二人は一処に居りえず、一味に謙譲なる人も彼此使い動かしえず。九三は「労謙」をもって卦中に立ち、上下の諸爻は皆謙を用いてこれに応ずる。内には六二の「鳴謙」、外には六四の「撝謙」あり。こうして謙り下って、極処に至れば一味に相推譲し輾転して謙奉し、終わりなし。さらば《象伝》の講ずる「多を裒め寡を益し、物を稱え施を平かにす」というこの実事を、また誰に遣わして為させん。六五は然らず。それを謙と言えば、それが據るは剛健の尊位。それを驕と言えば、それの処するは上卦の中。まさにこれを謙と呼ぶ能わず、またこれを驕と呼ぶ能わざるがゆえに、其余の五爻これらの「謙者」は、それの調遣を聴かぬはなし。それが何を恃ってこの五つの謙者を調遣するかを問えば、実はそれは恃む所なし。ゆえに「富まず、其の鄰を以てす」という。甚だしきは兵を動かして征伐するも、そのなお謙なるを妨げず。ゆえに「侵伐に用いるに利あり」という。衆爻はそれに用いられざるなし。ゆえに「利ならざるなし」という。
上六:鳴謙,利用行師,征邑國。《象》曰:“鳴謙”,志未得也;可“用行師”,征邑國也。其為“鳴謙”,一也。六二自得於心,而上六“志未得”者,以其所居非安於謙者也,特以其配之“勞謙”而強應焉。貌謙而實不至,則所服者寡矣,故雖其邑國而猶叛之。夫實雖不足,而名在於謙,則叛者不利。叛者不利,則徵者利矣。王弼曰:“吉凶悔吝,生乎動者也。動之所起,興於利者也,故飲食必有‘訟’,‘訟’必有眾起,未有居眾人之所惡而為動者所害,處不競之地而為爭者所奪。是以六爻雖有失位,無應乘剛,而皆無凶、咎、悔、吝者,以謙為主也。”
謙卦の上六の爻辞はいう、鳴く謙、行師に用いるに利あり、邑国を征せよ、と。《象伝》はいう、「鳴謙」は志未だ得ざるなり。「行師を用い」るべきは邑国を征すること、と。上六と六二は同じく「鳴謙」と呼ぶ。六二のあの謙は内心自得するものだが、上六は「志未だ得ず」。それが居る地位はもと謙に安んずる地位にあらず、ただ正応の九三が「労謙」するにより、はじめて勉めて跟いて一声応和したにすぎない。外貌は謙遜にして実際はその分に及ばざれば、人を心服せしめうるものは少ない。ゆえに自家の采邑封国さえなお彼に背叛する。ただ実際は足らざるも、名義上は畢竟「謙」のこの一辺に立つ。さらば背叛者は立つ理を失い、征討者もまた理を占める。王弼はいう、「吉・凶・悔・吝は、皆『動』の中より生ずる。動の発起する所以は、また『利』に勾起される。ゆえに飲食の利あれば必ず争訟を引出し、争訟あれば必ず衆人の蜂起を引出す。かつて人の安く衆人の厭棄する卑下の地に処りて、かえって躁動の人に害せられたる者なく、また人と相争わざる地位に立ちて、かえって争奪の人に奪われたる者なし。ゆえに謙卦の六爻は、あるいは位を失い、あるいは応なく、あるいは剛爻を凌乘すといえども、皆凶・咎・悔・吝なし。全卦が謙を主とするに就く」と。
豫卦(第十六)
震上,坤下。“豫”:利建侯行師。“豫”之言暇也。暇以樂之,謂“豫”。建侯所以“豫”,“豫”所以行師也,故曰“利建侯行師”。有民而不以分人,雖欲“豫”可得乎?子重問晉國之勇,欒針曰:“好以暇。”是故惟暇者為能師。
豫卦の上卦は震(雷)、下卦は坤(地)である。卦辞はいう、豫、侯を建て師を行うに利あり、と。「豫」の意は従容にして余暇あること。余暇あってのち能くその楽を安享す。これを「豫」と呼ぶ。諸侯を分封するは、上に在る者に余暇あらしめんがため。余暇あってはじめて兵を興すに談ずるに足る。ゆえに「侯を建て師を行うに利あり」という。手に百姓の土地を攥んで人に分つを肯んぜざれば、「豫」せんと欲すも、豫しえんや。《左伝・成公十六年》に鄢陵の戦いを記す。楚の子重が晋人に何を恃って勇を称するかを問うと、晋の大夫欒鍼は答えていう、「好んで暇を以てす(好以暇)」——晋人は従容不迫を貴ぶ。見れば、従容にして暇ある者のみが、軍隊を帯び動かしうる。
《彖》曰:“豫”,剛應而志行,順以動,“豫”。“豫”,順以動,故天地如之。言天地亦以順動也。而況建侯行師乎?天地以順動,故日月不過,而四時不忒。聖人以順動,則刑罰清而民服。上以順動,則凡入於刑罰者,皆民之過也。
《彖伝》はいう、豫卦は、九四この一陽爻が衆陰の応を得て心志が行われ、衆情に順って動く。ゆえに豫と呼ぶ。豫はすでに順に応じて動くならば、天地の運行もまたこの外に出ず。これは天地もまた自然の理に順って動くを言う。《彖伝》は続けていう、いわんや諸侯を分封し軍隊を出動するがごとき類をや。天地は理に順って動く。ゆえに日月の運行に差錯なく、四時の更替に閃失なし。聖人は理に順って動く。されば刑罰は清簡にして百姓は服す。上に在る人はすでに理に順って動くならば、およそ自ら刑罰の中に落ちる者は、皆百姓自身の過失である。
“豫”之時義大矣哉!卦,未有非時者也。時未有,無義;亦未有無用者也。苟當其時,有義、有用,焉往而不為大?故曰“時、義”,又曰“時、用”,又直曰“時者”,皆適遇其及之而已。從而為之說,則過矣;如必求其說,則凡不言此者,皆當求所以不言之故,無乃不勝異說而厭棄之歟?盍取而觀之,因其言天地以及聖人王公,則多有是言,因其所言者大,而後及此者則其言之勢也。是說也,且非獨此見天地之情者四,“利見大人”者五,其餘同者不可勝數也,又可盡以為異於他卦而曲為之說歟?
《彖伝》は末に嘆じていう、豫卦の値する時、その含む義、実に大なるかな、と。実は六十四卦にそれぞれその時なきはなし。時あれば義なきもなく、用なきもなし。すでにその時に正当り、また義あり用あるならば、どの卦に擺ても皆「大」と言いえよう。ゆえに《彖伝》はあるいは「時義」といい、あるいは「時用」といい、あるいはただ一の「時」のみを言う。皆不過行文が恰好そこに至ったに過ぎない。後人がこの数処を捉えて別に一套の説を立てれば、すなわち過頭である。もし必ずそのために道理を見出さんとすれば、およそこの句を言わざる卦にも、皆その言わざる縁由を見出さざるべからず。それはあに尽きざる異説に圧されて堪えず、終に索性一概に厭棄せんか。いさぎよく《周易》の通篇を取りて一見せよ。およそ《彖伝》が天地および聖人王公に講ずる処には、この類の讃語は多い。まさに講ずる対象が大なるがゆえに、随ってこの一句を帯び出す。もと文勢が自然に然るなり。ただこの一類を就けて言うも、ただ豫卦のこの一処のみならず。《彖伝》の中に「天地の情を見る」と講ずるは四卦あり、「大人を見るに利あり」と講ずるは五卦あり、其余の彼此雷同は更に数え勝たず。あに能く一概に別卦と異なると為して、曲意にそのために説を立てんや。
《象》曰:雷出地奮,“豫”;先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。初六:鳴豫,凶。《象》曰:“初六鳴豫”;志窮凶也。所以為“豫”者,四也;而初和之,故曰“鳴”。已無以致樂,而恃其配以為樂,志不遠矣,因人之樂者,人樂亦樂,人憂亦憂,志在因人而已,所因者窮,不得不凶。
《象伝》はいう、雷が地より出でて震い奮い、万物奮作す。これが豫卦である。先王はこれにより音楽を作りて功徳を崇め、殷く上帝に薦り、祖考を以て之に配す、と。初六の爻辞はいう、人に応和して楽を取る。凶、と。《象伝》はいう、「初六鳴豫」は志窮まりて凶を致す、と。全卦を豫たらしめるは九四である。初六はこれと相応じて唱和す。ゆえに「鳴」という。自ら人を楽しませる本事を出しえず、ただ相応ずる九四に倚って楽を取る。こ志は則ち長遠ならず。およそ快楽が人を憑藉するものは、人が楽しめば彼も楽しみ、人が憂えば彼もまた憂うるほかなく、心思は全く人に依傍する上に在り。一たび依傍する所のあの一頭が窮まれば、彼は凶ならざるを得ない。
六二:介于石,不終日,貞吉。《象》曰:“不終日,貞吉”,以中正也。以陰居陰,而處二陰之間,晦之極,靜之至也。以晦觀明,以靜觀動,則凡吉凶禍福之至,如長短黑白陳乎吾前,是以動靜如此之果也。“介于石”,果於靜也;“不終日”,果於動也;是故孔子以為“知幾”也。
豫卦の六二の爻辞はいう、石に介するがごとく耿介にして、終日ならずして貞なれば吉、と。《象伝》はいう、「終日ならず、貞吉」は中に居りて正を得るによる、と。六二は陰爻をもって陰位に居り、また初六・六三の二つの陰爻の間に夾まる。これは晦暗の極処、安静の極処である。晦暗の地を以て明るい処を看、静定の心を以て動象を看れば、吉凶禍福が一たび眼前に至れば、長短黑白が眼前に擺たるがごとく分明である。ゆえにそれは静なりとも動なりともこのごとく果決である。「石に介す」は静なるの果決、「終日ならず」は動なるの果決。ゆえに孔子は《周易・繋辞下》に六二を「幾を知る」と称許す。事の剛に起きる苗头を見る能くするなり。
六三:盱豫,悔;遲有悔。《象》曰:“盱豫”有“悔”,位不當也。以陽居陽,猶力人之馭健馬也,有以制之。夫三非六之所能馭也,乘非其任而聽其所之,若是者,神亂於中而目盱於外矣。據靜以觀物者,見物之正,六二是也;乘動以逐物者,見物之似,六三是也。物之似福者,誘之;似禍者,劫之。我且睢盱而赴之,既而非也,則後雖有誠然者,莫敢赴之矣。故始失之疾,而其終未嘗不以遲為悔也。
豫卦の六三の爻辞はいう、盱として豫すれば悔あり、遅れても悔あり、と。《象伝》はいう、「盱豫」にして「悔」あるは位が当たらざるによる、と。もし陽爻をもって第三のこの陽位に居らば、力大なる人が烈馬を駕馭するがごとく、なおこれを制しうる。しかるに第三爻のこの位は、陰柔の六の駕馭しうる所にあらず。職に称わざる位子に坐りて、あの馬の乱走に任せば、人は心神内に慌て、眼は外に瞪大して張望す。静定を守りて事物を観察する者は、事物の真相を見る。六二がしかり。躁動に裹挟されて事物を追逐する者は、事物の假相を見るのみ。六三がしかり。福に似たるを見れば来りて彼を引誘し、禍に似たるを見れば来りて彼を劫持す。彼は眼を瞪えて扑し上がり、事後にはじめて然らざるを知る。さらば後日たとえ真に実在の好事に遇うも、彼は再び扑し上がるを敢えてしない。ゆえに初めは太急に失し、最終はまた遅疑によりて悔いるを免れない。
九四:由豫,大有得;勿疑,朋盍簪。《象》曰:“由豫,大有得”,志大行也。“盍”,何不也;“簪”,固結也。五陰莫不由四而“豫”,故“大有得”。“豫”有三“豫”、二“貞”。三“豫”易懷,而二“貞”難致。難致者疑之,則附者皆以利合而已。夫以利合,亦以利散,是故來者、去者、觀望而不至者,舉勿疑之,則吾朋何有不固者乎?
豫卦の九四の爻辞はいう、豫に由り、大有り得たり。疑う勿れ、朋曷ぞ簪めざる、と。《象伝》はいう、「豫に由り、大有り得たり」はその心志が大行なるを言う、と。「盍」は「何ぞ~せざる」、「簪」は牢固に結聚すること。五つの陰爻は九四を恃って豫を得ざるはなし。ゆえに「大有り得たり」。豫卦の六爻の中に、「豫」を以て名と為すは三爻あり(初六の鳴豫、六三の盱豫、上六の冥豫)、「貞」を以て名と為すは二爻あり(六二・六五)。三つの「豫」は招き易く、二つの「貞」は招致し難い。もし招致し難きがために彼らを疑えば、依附して来るは皆利を以て相合する者のみ。利を以て相合する者は、また必ず利を以て相散ず。ゆえに来る者、去る者、観望してなお来らざる者に対し、一概に猜疑する勿れ。さらば我が朋党に結び牢くならざるの何あらん。
六五:貞疾,恆不死。《象》曰:“六五貞疾”,乘剛也;“恆不死”,中未亡也。二與五,皆“貞”者也。“貞”者不志於利,故皆不得以“豫”名之,其“貞”同,其所以為“貞”者異,故二以得吉,五以得疾也。二之“貞”,非固欲不從四也,可則進,否則退,其“吉”也,不亦宜乎?五之於四也,其質則陰,其居則陽也。質陰則力莫能較,居陽則有不服之心焉。伕力莫能較而有不服之,則其貞足以為疾而已。三“豫”者皆內喪其守,而外求“豫”者也,故小者“悔吝”,大者“凶”。六五之“貞”,雖以為疾,而其中之所守者未亡,則恆至於不死。君子是以知“貞”之可恃也。
豫卦の六五の爻辞はいう、貞にして疾、恒に死せず、と。《象伝》はいう、「六五貞疾」は剛爻の九四の上を凌乘するによる。「恒に死せず」は中に居りて守る所未だ喪わざるによる、と。六二と六五は皆「貞」者である。「貞」者は利を求めるを心とせず。ゆえに両爻とも「豫」の字を用いて名と為さず。それらの貞は同じく、然るに貞たる所以の縁由は同じからず。ゆえに六二は吉を得て、六五は病を得る。六二の貞は、存心に九四に順従せざるを肯んじざるにあらず。進むべければ進み、進むべからざれば退く。それが吉を得るは甚だ当然ではないか。六五が九四に対しては然らず。その質地は陰に属し、居る位子は陽に属す。質地が陰に属すれば、力量は人に較量しえず。位子が陽に属せば、心中また服せざるを存す。力量は較量しえずして心中また服せざれば、そのこの貞守もまたただもって一場の病を生ずるに足るのみ。「豫」を以て名と為すあの三つの爻は、皆内に操守を失いて外に楽を求める者である。ゆえに軽きは「悔吝」を落とし、重きは「凶」を落とす。六五の貞は病を落成したといえども、その心中に守る所は未だ喪われず。よって能く長久に死せず。君子はこれにより「貞」は靠り頼みうるを知る。
上六:冥豫,成;有渝,無咎。《象》曰:“冥豫”在上,何可長也?冥者,君子之所宜息也。“豫”至上六,宜息矣,故曰“冥豫,成,有渝”者,盈輒變也。盈輒變,所以為無窮之豫也。
豫卦の上六の爻辞はいう、冥豫、成り。渝あれば咎なし、と。《象伝》はいう、「冥豫」にして上に在るは、あに能く長からんや、と。天色昏冥は、まさに君子の歇息すべき時である。豫が上六に至れば、また一歇息すべきである。ゆえに「冥豫、成り、渝あり」という。いわゆる「渝あり」とは、満つれば極処に至りて即ち変改するなり。満つれば改まる。これこそ綿延して尽きざる「豫」である。
随卦(第十七)
兌上,震下。“隨”:元亨,利貞,無咎。《彖》曰:“隨”,剛來而下柔,動而說,“隨”。大亨,貞無咎,而天下隨時。“隨”之時義大矣哉!大、時不齊,故隨之世,容有不隨者也。責天下以人人隨己而咎其貞者,此天下所以不說也,是故“大亨”而“利貞”者。貞者無咎,而天下隨時。時者,上之所制也,不從己而從時,其為“隨”也大矣。
随卦の上卦は兌(沢)、下卦は震(雷)である。卦辞はいう、随、元亨、貞に利あり、咎なし、と。《彖伝》はいう、随卦は剛爻が下に來りて柔爻の下に居り、内は震にして動き外は兌にして説ぶ。ゆえに「随」と呼ぶ。大いに亨り、貞なれば咎なし。天下万物は時勢に随順す。随卦の時の義、大なるかな、と。天下の大と時勢の参差はもと整斉画一しえず。ゆえに随の時代には、一部分人が一時まだ随い上がらぬを容許する。もし天下人に個個皆己に随従すべしを責成し、また那些の己見を堅守する者を有罪と為さば、これ正に天下人の肯んじて心服せざる縁由である。ゆえに卦辞はすでに「大亨」といい、また「利貞」という。貞を守る者は過失と算えず、而して天下は自ら時勢に随順す。いわゆる「時」とは、上に在る者の制定する所である。人々は我がこの人に屈従するにあらず、この時勢に順従するなり。こ様の「随」ははじめて大と算うるに足る。
《象》曰:澤中有雷,“隨”;君子以嚮晦入宴息。雷在澤中,伏而不用,故君子晦則入息。初九:官有渝,貞吉;出門交,有功。《象》曰:“官有渝”,從正吉也;“出門交有功”,不失也。物有正主之謂“官”。九五者,六二之正主也。二以遠五而苟隨於初,五以其隨初而疑之,則“官”有變矣。官有變,初可以有獲也,而非其正,故官雖有變,而以從正不取為吉也。初之取二也,得二而失五;初之不取二也,失二而得五。何也?可取而不取,歸之於正主。初信有功於五矣,五必德之,失門內之配,而得門外之交,是故舍其近配而出門以求交於其所有功之人,其得也必多。故君子以為未嘗失也。
《象伝》はいう、沢の中に雷あるが随である。君子はこれにより嚮晦に入りて宴息す、と。雷が沢の中に在り、蔵伏して発作せず。ゆえに君子は昏冥の時に至れば内に入りて休息す。初九の爻辞はいう、官に渝あり、貞なれば吉。門を出でて交われば功あり、と。《象伝》はいう、「官に渝あり」は正に従えば吉なり。「門を出でて交われば功あり」は失う所なきを言う、と。事物は各々それが名正言順の帰属あり。これを「官」と呼ぶ。九五こそ六二の名正言順の帰属である。六二は九五と離れて遠きがゆえに、苟且に初九に随った。九五は彼女が初九に随ったを見て疑いを起こし、この名分は変動を有するに至る。名分が一たび変ぜば、初九はもと機に乗じて六二を己の有と為しえた。しかしそれはそれが得るべきにあらず。ゆえに名分は変ずとも、初九はなお正道に従い攫取せざるを以て吉と為す。初九がもし六二を収下せば、六二を得て九五を失うなり。初九がもし六二を収めざれば、六二を失い九五を得るなり。なぜか。取りうるにして取らず、彼女を名正言順の主人に帰還すれば、初九は九五に対して実実在在の功労有り。九五は必ず彼に感念す。失うは門内の一配偶、換得するは門外の一交誼。ゆえに近在身辺の配偶を舍棄し、出門してあの己の恩恵を受けた人を結交すれば、得る所は必ず更に多し。ゆえに君子は彼が実は損失なしと為す。
六二:係小子,失丈夫。《象》曰:“係小子”,弗兼與也。“小子”,初也;“丈夫”,五也。兼與,必兩失。六三:係丈夫,失小子;隨有求得,利居貞。《象》曰:“係丈夫”,志舍下也。四為“丈夫”,初為“小子”。三無適應,有求則得之矣。然而從四,正也;四近而在上,從上則順,與近則固。故“係丈夫”,而利居貞。
随卦の六二の爻辞はいう、小子に係れば、丈夫を失う、と。《象伝》はいう、「小子に係る」は兼ねて与らざるなり、と。「小子」は初九を指し、「丈夫」は九五を指す。両辺とも欲すれば、必ず両辺とも失う。六三の爻辞はいう、丈夫に係れば、小子を失う。随に求むるあれば得る。居貞に利あり、と。《象伝》はいう、「丈夫に係る」はその志が下の一位を舍するを言う、と。六三に就いて言えば、九四は「丈夫」、初九は「小子」。六三は上頭に正応の爻なし。ゆえにただ求むる所あれば得手となる。ただ九四に従うが正道である。九四はすでに近くしてまたその上に在る。上に従うを順と為し、近処に親附するを牢と為す。ゆえに「丈夫に係る」といい、而も「居貞に利あり」という。
九四:隨有獲,貞凶。有孚在道,以明何咎?《象》曰:“隨有獲”,其義凶也;“有孚在道”,明功也。六三,固四之所當有也。不可以言“獲”,“獲”者,取非其有之辭也。二之往配於五也,歷四而後至。四之勢可以不義取之,取之則於五為凶,不取則於五為有功。二之從五也甚難,初處其鄰,而四當其道,處其鄰不忘貞,當其道不忘信,使二得從其配者,初與四之功也,故皆言“功”。居可疑之地而有功,足以自明,其誰咎之?
随卦の九四の爻辞はいう、随に獲あり、貞にしても凶。孚ありて道に在り、明を以てすれば何の咎あらん、と。《象伝》はいう、「随に獲あり」は義において凶なり。「孚ありて道に在り」はその功が明なるを言う、と。六三はもともと九四が有すべき者である。ゆえに「獲」と呼ぶべからず。「獲」とはもと己に属せざるものを攫取するの説である。ここに言うは六二である。六二が上りて九五と相配せんとすれば、必ず九四を経てはじめて到りうる。九四の地位を憑れば、もと道義を講じずに彼女を截り下ろしえた。截れば、九五に対しては凶なり。截らざれば、九五に対しては功なり。六二が九五に跟従せんとするはもと極めて難し。初九は彼女の近旁に在り、九四は彼女の必経の路上を挡ぐ。旁に在る初九は貞を守るを忘れず、道を挡ぐ九四は信を守るを忘れず。六二をして終にその帰るべき人に帰らしめ得たるは、これ初九と九四の両爻の功労である。ゆえに両爻の《象伝》は皆一の「功」の字を点出す。最も人の猜疑を招き易き位置に身を処しながら能くこ様の功労を立つるは、足りて自ら心跡を明らかにす。また誰が彼を怪罪しえん。
九五:孚于嘉,吉。《象》曰:“孚于嘉,吉”;位正中也。“嘉”謂二也。《傳》曰:“嘉偶曰配”。而昏禮為嘉,故《易》凡言“嘉”者,其配也。隨之時,陰急於隨陽者也,故陰以不苟隨為“貞”,而陽以不疑其叛己為“吉”。六二以遠五而貳於初,九五不疑而信之,則初不敢有,二不敢叛,故“吉”。
随卦の九五の爻辞はいう、孚を嘉に于す。吉、と。《象伝》はいう、「嘉に孚す、吉」は位正しくして中なるによる、と。「嘉」とは六二を指す。《左伝・桓公二年》はいう、「嘉なる耦を配と曰う」と。而も婚は古礼にて「嘉礼」に属す。ゆえに《周易》はおよそ「嘉」と言うは、皆正応の配偶を指す。随の時代には、陰爻は急ぎて陽爻に跟従せんと欲す。ゆえに陰は随に乱随せざるを以て「貞」と為し、陽は相手が己を背叛するを猜疑せざるを以て「吉」と為す。六二は九五より離れて遠きがゆえに、一たび初九に対して二心を起こした。九五は然るに猜疑せず、なお彼女を信任す。ここにおいて初九は彼女を己有と為すを敢えてせず、六二もまた背叛を敢えてせず。ゆえに「吉」。
上六:拘係之,乃從,維之;王用亨于西山。《象》曰:“拘係之”,上窮也。居上無應而不下隨,故“拘係之”,而後從。從而又“維之”,明強之而後從也。強之而後從,則其從也不固,故教之曰:當如王之通於西山。“王”,文王也;“西山”,西戎也。文王之通西戎也,待其自服而後從之,不強以從也。
随卦の上六の爻辞はいう、之を拘係し、乃ち從う。維して之、王は以て西山に亨る、と。《象伝》はいう、「之を拘係す」は上窮まれるによる、と。上六は卦頂に高居して正応なく、また下に人に随うを肯んぜず。ゆえに「之を拘係す」。縛り着けてはじめて從う。從った後もなお再び「之を維す」にて拴牢せざるべからず。見れば勉強してのち從ったものである。勉強して来たるの跟從は、靠り頼み難し。ゆえに爻辞は教導していう、まさに周王の西山に亨るの作法を学ぶべし。「王」は周文王を指し、「西山」は西方の戎人を指す。文王が西戎と往来するは、彼ら自ら心服するを待ってはじめて彼らを収納したのであって、人を強迫して跟従せしめたにあらず。
蠱卦(第十八)
艮上,巽下。“蠱”:元亨,利涉大川。先甲三日,後甲三日。《彖》曰:“蠱”,剛上而柔下,“巽”而止,“蠱”。“蠱,元亨”,而天下治也。“利涉大川”,往有事也。“先甲三日,後甲三日”,終則有始,天行也。
蠱卦の上卦は艮(山)、下卦は巽(風)である。卦辞はいう、蠱、元亨、大川を渉るに利あり。甲に先だつ三日、甲に後るる三日、と。《彖伝》はいう、蠱卦は剛が上に上り柔が下に降り、巽にして止まる。蠱なり。「蠱、元亨」は天下大治なり。「大川を渉るに利あり」は往けば事あるなり。「甲に先だつ三日、甲に後るる三日」は終れば則ち始まりあり、天の行いなり、と。
器久不用而蟲生之,謂之“蠱”。人久宴溺而疾生之,謂之“蠱”。天下久安無為而弊生之,謂之“蠱”。《易》曰“蠱”者,“事”也;夫“蠱”非事也,以天下為無事而不事事,則後將不勝事矣,此“蠱”之所以為“事”也。而昧者乃以“事”為“蠱”,則失之矣。器欲常用,體欲常勞,天下欲常事事,故曰“‘巽’而止,蠱”。夫下“巽”則莫逆,上止則無為,下莫逆而上無為,則上下大通,而天下治也。
器物は久しく用いざれば蛀虫を生ず。これを「蠱」と呼ぶ。人は長く宴安沈溺すれば病を生ず。これも「蠱」と呼ぶ。天下は長く太平にして為す所なければ積弊を生ず。同じく「蠱」と呼ぶ。《周易・序卦》は「蠱」はすなわち「事」であるという。実は蠱の本身は事にあらず。天下を事なしと為して何事も弁ぜざるにより、後日事は多く応接に給せざるに至る。これこそ「蠱」が「事」と訓せらるる所以の道理である。糊涂人はかえって「事有り」を蠱と看なす。則ち反りて言ったるなり。器物は常に用いるべし、身体は常に労動すべし、天下は常に事あらしむべし。ゆえに《彖伝》は「巽にして止まる、蠱」という。下が巽順なればこれに違逆する人なく、上が静止なれば作為する所なし。下に違逆なく上に作為なければ、ここにおいて上下は通暢して阻むものなし。天下もまた太平となる。
治生安,安生樂,樂生偷,而衰亂之萌起矣。“蠱”之災,非一日之故也,必世而後見,故爻皆以父子言之,明父養其疾,至子而發也。人之情,無大患難則日入於偷,天下既已治矣,而猶以“涉川”為“事”,則畏其偷也。
太平は安逸を生じ、安逸は享楽を生じ、享楽は苟且偸安を生じ、ここにおいて衰敗禍乱の苗头が冒出す。蠱この禍患は一日にして成らず。往々にして一代人を経てはじめて看え出ずる。ゆえに蠱卦の六爻は皆父と子をもって事を説く。まさに点明せんとするは、病は父輩が養い起こしたものにして、子のこの輩に至りて発作するなり。人の常情は、大患大難なければ一日日と苟且の中に陥る。天下は明明としてすでに太平なりしか、卦辞はなお偏に「大川を渉る」を正経の事と為して為す。人の偸安を怕るればなり。
“蠱”之與“巽”,一也;上下相順與下順而上止,其為“偷”一也。而“巽”之所以不為“蠱”者,有九五以乾之。而“蠱”無是也,故“蠱”之《象》曰:“先甲三日,後甲三日,終則有始”。而“巽”之九五曰:“無初有終,先庚三日,後庚三日,吉”。陽生於子,盡於已;陰生於午,盡於亥。陽為君子,君子為治;陰為小人,小人為亂。夫一日十二乾相值,支五干六而後復,世未有不知者也。“先甲三日,後甲三日”,則世所謂“六甲”也;“先庚三日,後庚三日”,則世所謂“六庚”也。甲、庚之先、後,陰陽相反,故《易》取此以寄治亂之勢也。
蠱卦と巽卦はもと一路である。一つは上下ともに相順、一つは下が順で上が止まる。「偸安」のこの一点を就けて言えば完全に同じである。巽卦の蠱と成るに至らざる所以は、それに九五ありて出でて匡正干済するによる。蠱卦にこ様の一爻なし。ゆえに蠱卦の辞は「甲に先だつ三日、甲に後るる三日、終れば則ち始まりあり」といい、巽卦の九五の爻辞は「初なくして終りあり、庚に先だつ三日、庚に後るる三日、吉」という。陽気は子に生じて巳に尽き、陰気は午に生じて亥に尽く。陽は君子に属し、君子が権を当てれば則ち治なり。陰は小人に属し、小人が権を当てれば則ち乱なり。一日は十二辰に分かれ、天干と地支とは相配相値し、地支は五輪を轉じ天干は六輪を轉じてはじめて原処に帰る。これは人人皆が懂える常識である。いわゆる「甲に先だつ三日、甲に後るる三日」は、すなわち世人の言う「六甲」なり。「庚に先だつ三日、庚に後るる三日」は、すなわち世人の言う「六庚」なり。甲と庚の各自の先後の次序は、陰陽恰好として相反す。ゆえに《周易》はこのを取りて治と乱の形勢を寄寓す。
“先甲三日”,子、戌、申也;申盡於巳,而陽盈矣。盈將生陰,治將生亂,故受之以後甲。“後甲三日”,午、辰、寅也,寅盡於亥,然後陰極而陽生。“蠱”無九五以乾之,則其治亂皆極其自然之勢,勢窮而後變,故曰“終則有始,天行也”。夫“巽”則不然,初雖失之,後必有以起之,譬之於庚。“先庚三日”,午、辰、寅也;“後庚三日”,子、戌、申也。庚之所後,甲之所先也。故“先庚三日”盡於亥,“後庚三日”盡於巳,先陰而後陽,先亂而後治,故曰“無初有終”。又特曰“吉”。不言之於“巽”《彖》,而言之於九五者,明此九五之功,非“巽”之功也。
「甲に先だつ三日」は甲子・甲戌・甲申のこの三つの甲日を指し、地支を以て称すれば子・戌・申なり。甲申の一旬は癸巳に至りて止まり、陽気はここに至りて満盈す。満盈すれば陰を生ず。太平久しければ乱を生ず。ゆえに続きて「甲に後るる」を用いる。「甲に後るる三日」は甲午・甲辰・甲寅を指し、地支を以て称すれば午・辰・寅なり。甲寅の一旬は癸亥に至りて止まり、しかる後に陰は極処に至りて陽気は重生す。蠱卦は九五のごとき一爻の出でて匡正するなく、ゆえにその治と乱は全く自然の勢に憑りて底に走り尽き、勢尽きてはじめて変ず。よって「終れば則ち始まりあり、天の行いなり」という。巽卦は則ち同じからず。初めは失誤するも、後には必ずこれを扶け起こす法あり。これを以て「庚」に比す。「庚に先だつ三日」は午・辰・寅、「庚に後るる三日」は子・戌・申。庚の後に排するは、正に甲の前に排する所である。ゆえに「庚に先だつ三日」は癸亥に至りて止まり、「庚に後るる三日」は癸巳に至りて止まる。これは先ず陰にして後に陽、先ず乱にして後に治なり。よって「初なくして終りあり」といい、なお特に一の「吉」の字を加う。この話を巽卦の《彖伝》の中に置かず、偏に九五の爻辞の中に置くは、まさに点明せんとするは、これは九五一爻の功労にして、巽卦の本身の功労にあらざるなり。
《象》曰:山下有風,“蠱”;君子以振民育德。鼓之、舞之,之謂“振”。“振民”,使不惰,“育德”,使不竭。初六:幹父之蠱,有子,考無咎;厲,終吉。《象》曰:“幹父之蠱”,意承考也。蠱之為災,非一日之故也。及其微而乾之,初其任也。見蠱之漸,子有改父之道,其始雖危,終必吉。故曰“有子,考無咎”。言無是子,則考有咎矣。孝愛之深者,其跡有若不順,其跡不順,其意順也。
《象伝》はいう、山の下に風あり。蠱。君子は以て民を振い徳を育む、と。鼓を撃ちて振作し、之を導きて舞い起こさしむ。これを「振」と呼ぶ。「民を振う」は百姓をして懶惰ならしめざるなり。「徳を育む」は徳行をして枯竭せしめざるなり。初六の爻辞はいう、父の蠱を干す。子あれば、考は咎なし。厲といえども終に吉、と。《象伝》はいう、「父の蠱を干す」は意にて考を承ぐるなり、と。蠱この禍患は一日にして成らず。それが未だ細微なるに趁りて手を動かして整治するは、正に初六この一爻の担当である。弊壊が剛に苗头を露すを見れば、子たる者は便ち父の旧法を改易するの道理あり。初めは険なるも、最後は必ず吉。ゆえに「子あれば考に咎なし」という。反りて言えば、もしこ様の一の子なくんば、先父は過錯を落下せん。孝愛深摯の人は、為した事はあるいは見れば順從せざるに似たるも、事蹟は順ならざるも、用心は則ち順なり。
九二:幹母之蠱,不可貞。《象》曰:“幹母之蠱”,得中道也。陰之為性,安無事而惡有為,是以為“蠱”之深而乾之尤難者,寄之母也。正之則傷愛,不正則傷義,以是為至難也,非九二其孰能任之?故責之二也。二以陽居陰,有剛之實,而無用剛之跡,可以免矣。
蠱卦の九二の爻辞はいう、母の蠱を干す。貞を得るべからず、と。《象伝》はいう、「母の蠱を干す」は中道を得るによる、と。陰の本性は事なきに安んじて有所為を悪む。ゆえに《周易》は蠱積最も深く整治最も難きのあの一種を、「母」の身上に寄托す。硬く正道を按して糾正すれば、母子の愛を傷る。糾正せざれば、また道義を傷る。これは難の極処の事にして、九二を除きて誰か担当しえん。ゆえにこの副の担子を九二に責成す。九二は陽爻をもって陰位に居り、剛強の実質有るも、剛を用いる痕跡を露さず。こうしてはじめて両頭とも傷らず。
九三:幹父之蠱,小有悔,無大咎。《象》曰:“幹父之蠱”,終無咎也。九三之德,與二無以異也。特不知所以用之,二用之以陰,而三用之以陽,故“小有悔”而“無大咎”。六四:裕父之蠱,往見吝。《象》曰:“裕父之蠱”,往未得也。六四之所居,與二無以異也,而無其德,斯益其疾而巳。“裕”,益也。
蠱卦の九三の爻辞はいう、父の蠱を干す。小さく悔あり、大咎なし、と。《象伝》はいう、「父の蠱を干す」は終に咎なし、と。九三の徳性は九二と並に両樣なし。ただそれをどう用いるかを懂えざるのみ。九二が用いるは陰柔の路子、九三が用いるは陽剛の路子。ゆえに「小さく悔あり」にして「大咎なし」。六四の爻辞はいう、父の蠱を裕らかにす。往けば吝を見ん、と。《象伝》はいう、「父の蠱を裕らかにす」は往けば得る未だならざるなり、と。六四の処する位置は九二と並に両樣なし。しかし九二のごとき剛中の徳性なし。さらばただ病を益々養い重くするのみ。「裕」とはすなわち増益・寛縦の意である。
六五:幹父之蠱,用譽。《象》曰:“幹父用譽”,承以德也。父有蠱而子乾之,猶其有疾而砭藥之也,豈其所樂哉?故初以獲“厲”,三以獲“悔”,六五以柔居中,雖有幹蠱之志而無二陽之決,故反以是獲“譽”。譽歸於己,則疾歸於父矣,父之德惟不可承也,使其可承,則非“蠱”矣。“蠱”而承德,是以無“巽”九五“後庚”之“吉”也。
蠱卦の六五の爻辞はいう、父の蠱を干し、誉を用う、と。《象伝》はいう、「父を干して誉を用う」は徳を以て承ぐるなり、と。父輩に弊壊あって子が出でて整治するは、人に病ありてこれに鍼砭下薬を為すがごとし。あに子の情願する所の事ならんや。ゆえに初六は「厲」を招来し、九三は「悔」を招来す。六五は柔爻をもって上卦の中に居り、弊壊を整治する志有るも、九二・九三の両陽爻のごとき決断なし。よってかえってこの柔緩を憑りて「誉」を得たり。しかし美譽は己の身上に帰し、病もまた父の身上に帰するなり。父輩のいわゆる「徳」はもと承継すべからざるものなり。それがもし真に承継し得るならば、則ち「蠱」と呼ばざるなり。明明として蠱なるにしてなおその徳を承ぐる。これが正に六五が巽卦九五の「庚に後るる三日」のごとき「吉」を得ざる所以である。
上九:不事王侯,高尚其事。《象》曰:“不事王侯”,志可則也。君子見“蠱”之漸,則“涉川”以救之。及其成,則“不事王侯”以遠之。“蠱”之成也,良醫不治,君子不事事。
蠱卦の上九の爻辞はいう、王侯に事えず、其の事を高尚にす、と。《象伝》はいう、「王侯に事えず」は志、則とすべきなり、と。君子は弊壊が剛に苗头を露すを見れば、大川を渉りてこれを救いに往く。弊壊がすでに養成するに及んでは、則ち「王侯に事えず」、遥かに避け去る。蠱は一たび積成すれば、好医生もまた肯んじて手を下して医治せず。君子もまた更に出でて事を弁ぜざるなり。
臨卦(第十九)
坤上,兌下。“臨”:元亨,利貞。至于八月,有凶。《彖》曰:“臨”,剛浸而長,說而順,剛中而應,大亨,以正天道也。至於“八月有凶”,消不久也。“復”而陽生。凡八月而二陰至,則“臨”之二陽盡矣,方長而慮消者,戒其速也。
臨卦の上卦は坤(地)、下卦は兌(沢)である。卦辞はいう、臨、元亨、貞に利あり。八月に至れば凶あらん、と。《彖伝》はいう、臨卦は剛の浸りて長ず、説びて順なり。剛中にして応ず。大亨にして正を以てすは天の道なり。「八月に至れば凶あらん」は消の久しからざるなり、と。復卦より陽気は萌生を始め、都合八箇月を経て二つの陰爻が下卦に侵入す。臨卦のこの二つの陽爻もまた消尽せんとす。陽がまさに生長する時にその消退のために憂慮するは、これを警戒して長ずること太速ならざるべからざるを欲するなり。
《象》曰:澤上有地,“臨”。君子以教思無窮,容保民無疆。澤所以容水,而地又容澤,則無不容也。故君子為無窮之教,保無疆之民。《記》曰:“君子過言,則民作辭;過動,則民作則。”故言必慮其所終,而行必稽其所弊。
《象伝》はいう、沢の上に地あり。臨。君子は以て教えて思うこと窮まりなく、民を容れ保みて疆なし、と。大沢は水を容れるを以てす。大地はまた大沢を容納しえ。さらば容納しえざるものなし。ゆえに君子は窮尽なき教化を施行し、疆界なき百姓を保養す。《礼記・緇衣》はいう、「君子は言を錯れば百姓は取りて辞を以てす、行を錯れば百姓は取りて法を以てす」と。ゆえに話を為さば必ずその終に何を引出すかを顧慮し、事を行わば必ずその将来に何の弊病を生出するかを考察せざるべからず。
初九:咸臨,貞吉。《象》曰:“咸臨貞吉”,志行正也。有應者為“咸臨”。“咸”,感也;感以“臨”,則其為“臨”也易。故“咸臨”,所以行正也。九二:咸臨,吉,無不利。《象》曰:“咸臨,吉無不利”,未順命也。二陽在下,方長而未盛也。四陰在上,雖危而尚強也。九二以方長之陽而臨眾陰,陰負其強而未順命,從而攻之,陰則危矣,而陽不能無損。故九二以“咸臨”之而後“吉”。陽得其欲而陰免於害,故“無不利”。
臨卦の初九の爻辞はいう、咸臨、貞なれば吉、と。《象伝》はいう、「咸臨貞吉」は志行が正なるによる、と。正応の爻あるのみ「咸臨」と称しうる。「咸」はすなわち感なり。感应を用いて臨めば、この「臨」は成し易し。ゆえに「咸臨」は正に正道を行うの途徑である。九二の爻辞はいう、咸臨、吉、利ならざるなし、と。《象伝》はいう、「咸臨、吉利ならざるなし」は未だ順命せざるなり、と。二つの陽爻は下に在りて、まさに生長し未だ強盛ならず。四つの陰爻は上に在りて、すでに岌岌として危くともなお余力あり。九二はまさに生長する陽を以て衆陰に臨む。陰は己がなお力量あるを仗りて命令を聴かず。この時もし兵を揮い進めて攻めば、陰は固然として危うけれど、陽もまた損傷を免れず。ゆえに九二は「咸臨」この感化の弁法を用いて、しかる後に吉を得る。陽は己の心愿を遂げ、陰もまた被害を免る。ゆえに「利ならざるなし」という。
六三:甘臨,無攸利;既憂之,無咎。《象》曰:“甘臨”,位不當也。“既憂之”,咎不長也。樂而受之謂之“甘”。陽進而陰莫逆,“甘臨”也。“甘臨”者居於不爭之地,而後可以居於陽。陽猶疑之,拒之固傷;不拒猶疑之,進退無所利者,居之過也。故六三之咎,位不當而已,咎在其位,不在其人,則憂懼可以免矣。
臨卦の六三の爻辞はいう、甘臨。攸く利なし。すでにこれを憂うれば咎なし、と。《象伝》はいう、「甘臨」は位が当たらざるなり。「すでにこれを憂う」は咎の長からざるなり、と。心裏に喜びて受け入るるを「甘」と呼ぶ。陽が上に進みて陰が絲毫も違逆せざれば、これが「甘臨」である。「甘臨」を用いる人は、もと人と争わざる地位に立ちてしかる後に陽位に処すべきなり。しかるに六三は偏に陰柔を以て陽位を占住す。陽はなおそれを疑う。それがもし陽を拒むが固然として傷を受け、拒まざれば陽もまた照舊これを疑う。進むも是ならず退くも是ならず。全く居る位が当たらざるに由る。ゆえに六三の過錯はただ位置が対せざるに在り。過錯は位に在りて人に在らず。さらばただ心に憂懼を存せば咎責を免れうる。
六四:至臨,無咎。《象》曰:“至臨無咎”,位當也。以陰居陰而應於初,陽至而遂順之,故曰“至臨”。六五:知臨,大君之宜,吉。《象》曰:“大君之宜”,行中之謂也。見於未然之謂“知”。“臨”之世,陽未足以害陰,而其勢方銳;陰尚可以抗陽,而其勢方卻。苟以其未足以害我而不內,以吾尚足以抗之而不受,則陽將忿而攻陰。六五以柔居尊而應於二,方其未足而收之,故可使為吾用。方吾有餘而柔之,故可使懷吾德,此所以為“知”也。天子以是服天下之強者則可,小人以是畜君子則不可。故曰“大君之宜,吉”,惟“大君”為宜用是也。大君以是行其中,小人以是行其邪。
臨卦の六四の爻辞はいう、至臨。咎なし、と。《象伝》はいう、「至臨咎なし」は位が当たるによる、と。六四は陰爻をもって陰位に居りて初九と相応ず。陽が一たび上り来ればそれは順従す。ゆえに「至臨」と呼ぶ。六五の爻辞はいう、知臨、大君の宜、吉、と。《象伝》はいう、「大君の宜」は中の行いを言う、と。事が未だ発生せざるに先に見出だすを「知」と呼ぶ。臨の時代には、陽はなお陰を傷害するに足らずとも気勢は正に鋭く、陰はなお陽に抗拒しえとも気勢は正に退却す。もし陰が陽に一時傷つけられざるがために収納せざるを肯んぜず、己がなお抗え堪うるがために承受せざるを肯んぜざれば、陽は必ず悩怒して起こり陰を進攻せん。六五は柔爻をもって尊位に居りて九二と相応ず。陽が未だ長足せざるに趁りてこれを収納し過ごす。ゆえに能くそれを我が用と為さしむ。己にまだ余力あるに趁りて柔を以てこれに待す。ゆえに能くそれをして我が恩徳に感念せしむ。これがいわゆる「知」である。天子がこの一手を用いて天下の強者を収服するは可なり。小人がこの一手を用いて君子を豢養するは不可なり。ゆえに「大君の宜、吉」といい、ただ「大君」のみがこの弁法を用いるに適合す。同じ一手にて、大君はこれを用いて中道を行い、小人はこれを用いて邪僻を行う。
上六:敦臨,吉,無咎。《象》曰:“敦臨”之“吉”,志在內也。“敦”,益也;“內”,下也。六五既已應九二矣,上六又從而附益之,謂之“敦臨”。“復”之六四既已應初九矣,六五又從而附益之,謂之“敦復”,其義一也。
臨卦の上六の爻辞はいう、敦臨。吉、咎なし、と。《象伝》はいう、「敦臨」の吉なる所以はその志が内に在るによる、と。「敦」は増益の意、「内」は下を指す。六五がすでに九二と相応じ、上六がまた跟い上りてそのために更に一層を加うる。これを「敦臨」と呼ぶ。復卦の六四がすでに初九と相応じ、六五がまた跟い上りてそのために更に一層を加うるを「敦復」と呼ぶ。両処の意は完全に同じである。
観卦(第二十)
巽上,坤下。“觀”:盥而不薦,有孚顒若。《彖》曰:大觀在上,順而巽,中正以觀天下。“觀,盥而不薦,有孚顒若”,下觀而化也。觀天之神道而四時不忒,聖人以神道設教,而天下服矣。無器而民趨,不言而物喻者,“觀”之道也。聖人以神道設教,則賞爵刑罰有設而不用者矣。寄之宗廟,則“盥而不薦”者也。盥者以誠,薦者以味。
観卦の上卦は巽(風)、下卦は坤(地)である。卦辞はいう、観、盥して薦せず、孚ありて顒若たり、と。《彖伝》はいう、大観は上に在り、順にして巽、中正を以て天下を観る、と。「観、盥して薦せず、孚ありて顒若たり」は下の観えて化せらるるなり。上天神妙の運行の道を観察すれば、四時の更替に毫も差錯なきを見る。聖人はこの神妙の道に取法して教化を設立すれば、天下は則ち服す。器械刑具を動用せずして百姓は自然に趨赴し、一言を発せずして万物は自然に領会す。これが「観」の道理である。聖人が神道を以て教を設くれば、爵賞と刑罰はただそこに設けられて用いるに及ばず。この道理を宗廟祭祀に寄托すれば「盥して薦せず」なり。手を洗い神を降すは一片の誠意を恃み、祭品を進献するは牲牢の滋味を恃む。真に人を動かすは誠意に在りて滋味に在らず。
《象》曰:風行地上,“觀”;先王以省方,觀民設教。初六:童觀,小人無咎,君子吝。《象》曰:“初六童觀”,小人道也。大觀在上,故四陰皆以尚賓為事。初六,童而未仕者也,急於用,以自衒賈,惟器小而夙成者為無咎,君子則吝矣。
《象伝》はいう、風は地上を行く。観。先王は以て方を省み民を観て教を設く、と。初六の爻辞はいう、童観、小人には咎なし、君子には吝、と。《象伝》はいう、「初六童観」は小人の道なり、と。大なる観るべき者は上に高居す。ゆえに四つの陰爻は皆王朝の賓客たるを正事と為す。初六はなお出仕せざる少年にして、任用せらるるを急ぎ、便ち自ら炫耀し四処に兜售す。ただ器量小にして早熟なる人がこうするのみ、咎に至らず。君子がこうすれば憾惜すべきなり。
六二:窺觀,利女貞。《象》曰:“窺觀”“女貞”,亦可醜也。六二遠且弱,宜處而未宜實者也。譬之於女,利貞而不利行者也。苟以此為觀,則是女不待禮而窺以相求,貞者之所丑也。六三:觀我生,進退。《象》曰:“觀我生進退”,未失道也。六三,上下之際也。故當自觀其生,以卜進退。夫欲知其君,則觀其民;故我之生,則君之所為也。知君之所為,則進退決矣。進退在我,故未失道也。
観卦の六二の爻辞はいう、門の隙間より覗き見る。女子の貞に利あり、と。《象伝》はいう、「闚観」にして「女貞」に及ぶのみは、詰まるところ亦た可羞の事なり、と。六二は九五と離れて遠く、自身もまた柔弱なり。静に処するに宜しくして、なお出でて事に任ずるに宜しからず。女子を以て比喩と為せば、すなわち貞を守るに利ありて外出行動に利あらざるあの一種である。もしこのような覗き見を「観」と為さば、則ち女子が媒聘の礼を待たず先に自ら窺探して人を求めると成る。これは貞を守る女子の引きて羞と為す所である。六三の爻辞はいう、我が生を観て進退す、と。《象伝》はいう、「我が生を観て進退す」は未だ道を失わざるなり、と。六三は下卦と上卦の交接する処に処す。ゆえにまさに自らその処境行事を観察して、以て進退を占定すべきなり。一位の君主を了解せんと欲せば、則ちその治下の百姓を看よ。ゆえに我がこの一身の境遇は、正に君主の作為の結果である。君主の作為を知れば、進退もまた断じ下せる。進退の主動権は我が己の手の中に在り。ゆえに「未だ道を失わず」という。
六四:觀國之光,利用賓于王。《象》曰:“觀國之光”,尚賓也。進退之決在六三,故自三以下,利退而不利進;自三以上,利進而不利退。進至於四,決不可退矣,故“利用賓于王”。
観卦の六四の爻辞はいう、国の光を観る。王に賓たるに用いるに利あり、と。《象伝》はいう、「国の光を観る」は賓を尚ぶなり、と。進退の択択は六三のこの一爻に在り。ゆえに三爻より下は、退に利ありて進に利あらず。三爻より上は、進に利ありて退に利あらず。すでに第四爻に進めば、則ち断じて退き帰りえず。ゆえに「王に賓たるに用いるに利あり」という。
九五:觀我生,君子無咎。《象》曰:“觀我生”,觀民也。上九:觀其生,君子無咎。《象》曰:“觀其生”,志未平也。此二觀,所自言之者不同,其實一也。觀我生,讀如“觀兵”之“觀”;“觀其生”,讀如“觀魚”之“觀”。九五以其至顯觀之於民,以我示民,故曰“觀我生”。上九處於至高而下觀之,自民觀我,故曰“觀其生”。今夫乘車於道,負者皆有不平之心,聖人以其一身擅天下之樂,厚自奉以觀示天下而天下不怨,夫必有以大服之矣。吾以吾可樂之生而觀之人,人亦觀吾生可樂,則天下之爭心將自是而起,故曰“君子無咎”。君子而後無咎,難乎其無咎也!
観卦の九五の爻辞はいう、我が生を観る。君子咎なし、と。《象伝》はいう、「我が生を観る」は実は民を観るなり、と。上九の爻辞はいう、其の生を観る。君子咎なし、と。《象伝》はいう、「其の生を観る」は志未だ平ならざるなり、と。この両処の「観」を講ずるは、言説の立足点が異なるも、実質は則ち一事である。「我が生を観る」の「観」は、《左伝》の「観兵」の「観」と読むべし。己を陳示して人に看せるなり。「其の生を観る」の「観」は、《左伝》の「観魚」の「観」と読むべし。旁らに立ちて察看するなり。九五は身に最も顕赫の地位に居り、己を陳示して百姓に看せる。ゆえに「我が生を観る」という。上九は最高処に処りて下に察看す。これは百姓の角度より我を観るなり。ゆえに「其の生を観る」という。さて大路の上に人の車に乗るあるを見よ。那些の重担を負いて步行する人は、心中みな不平の気有り。聖人は一身を以て天下の楽を独享し、自ら奉じて丰厚にこの一切を擺て天下に看せるも、天下人は然るに怨恨せず。それは必ず別に大いに人心を折服しうるもの在るなり。我がこの楽しむべき生涯を陳示して人に看せば、人もまた我が日の過ごすの楽しむべきを看出す。天下の争奪の心はまさにここより生ぜんとす。ゆえに爻辞ははじめて「君子咎なし」という——君子たるを得ずんば咎なしと談ずるに足らず。見ればこの「咎なし」は実に難きこと甚だし。
《東坡易伝》巻之三
噬嗑卦(第二十一)
離上,震下。“噬嗑”:亨,利用獄。道之衰也,而物至於相“噬”以求合教化,則已晚矣,故“利用獄”。《彖》曰:頤中有物,曰“噬嗑”。所以為“噬嗑”者,四也;否則為“頤”矣。“噬嗑”而“亨”,剛柔分,動而明。“噬嗑”之時,噬非其類而居其間者也。陽欲噬陰,以合乎陽;陰欲噬陽,以合乎陰。故曰“剛柔分,動而明”也。雷電合而章,柔得中而上行,雖不當位,“利用獄”也。謂五也。
噬嗑卦の上卦は離(火・電)、下卦は震(雷)である。卦辞はいう、噬嗑、亨、獄を用うるに利あり、と。世道衰敗し、万物は互いに啃咬吞噬する歩みに至る。この時更に教化を恃りて弥合せんと思えども、すでに晩し。ゆえに「獄を用うるに利あり」という。《彖伝》はいう、頤中に物あり、噬嗑と曰う、と。この一卦を噬嗑たらしめるは九四この一陽爻である。それなくんば、全卦は頤卦と成る。《彖伝》は続けていう、噬嗑にして亨るは、剛柔が上下に分居し、震動して離明なるによる、と。噬嗑の時代には、毎一爻が咬み去らんとするは、皆那些の己と同類ならずして横に中間に梗ぐものである。陽は陰を咬み去らんと欲し、陽と陽とを合攏せしめんとし、陰は陽を咬み去らんと欲し、陰と陰とを合攏せしめんとす。ゆえに「剛柔分かれ、動きて明なり」という。《彖伝》はまたいう、雷電合して章なり。柔は中を得て上行す。位に当たらざるも、なお「獄を用うるに利あり」、と。ここに言うは六五である。
《象》曰:雷電,“噬嗑”;先王以明罰勅法。初九:屨校,滅趾,無咎。《象》曰:“屨校滅趾”,不行也。居“噬嗑”之時,六爻未有不以噬為事者也。自二與五,反覆相噬,猶能戒以相存也。惟初與上,內噬三陰而莫或噬之,貪得而不戒,故始於小過,終於大咎。聖人於此兩者寄小人之始終;於彼四者明相噬之得喪。
《象伝》はいう、雷電、噬嗑。先王は以て罰を明らかにし法を飭す、と。初九の爻辞はいう、校を屨し趾を滅す。咎なし、と。《象伝》はいう、「校を屨し趾を滅す」は行わしめざるなり、と。噬嗑の時代に処して、六爻は「咬む」を以て能事と為さざる一爻なし。六二より六五に至るこれらの爻は、反来覆去に互いに咬み、なお彼此戒懼し相手に活路を留めるを知る。ただ初九と上九のみが、ただ卦内の三つの陰爻に向かいて啃咬するを顧み、これを反りて咬む者なし。所得に貪りて警戒を知らず。ゆえに起先はただ小過失にして、最後に大罪咎を落とす。聖人は初・上のこの二爻に小人の開頭と結局を寄托し、中間のあの四爻に互いに啃咬するの得と失を説明す。
六二:噬膚,滅鼻,無咎。《象》曰:“噬膚,滅鼻”,乘剛也。以陰居陰,至柔而不拒者也。故初九噬之若噬膚然,至於“滅鼻”而不知止也。夫滅鼻而不知止者,非初之利也。非初之利,則二無咎矣。
噬嗑卦の六二の爻辞はいう、膚を噬み鼻を滅す。咎なし、と。《象伝》はいう、「膚を噬み鼻を滅す」は剛に乘るによる、と。六二は陰爻をもって陰位に居り、柔の極処にして来りてこれを咬む者に対して毫も抗拒せず。ゆえに初九がこれを咬むは一块の嫩肉を咬むがごとく、一口下去して鼻子さえ埋め入れてなお收口を知らず。咬みて鼻を没するに至りてなお停められざれば、損を喰うは実は六二にあらずして初九なり。すでに初九に対して不利なるにしかば、六二は自然に「咎なし」となる。
六三:噬臘肉,遇毒,小吝,無咎。“臘肉”、“乾胏”、“乾肉”,皆難噬者也。凡《易》以陰居陽,則不純乎柔,中有剛矣。故六三、六五,皆有難噬之象。夫勢之必不能拒也,則君子以不拒為大,六二是也;六三之於九四,力不能敵,而懷毒以待之,則已陋矣,故曰“小吝”。出於見噬,而不能堪也,故非其咎。《象》曰:“遇毒”,位不當也。若以陰居陰,則無復有毒矣。
噬嗑卦の六三の爻辞はいう、腊肉を噬み毒に遇う。小吝、咎なし、と。「腊肉」「乾胏」「乾肉」は、皆咬み難きものである。《周易》の通例は、およそ陰爻をもって陽位に居るは、則ち純粋の柔にあらず、裏頭に剛を夾む。ゆえに六三・六五は皆「咬み難し」の象あり。形勢上明明として抵抗しえざるに、君子は則ち抵抗せざるを以て大度と為す。六二がすなわちこ様である。六三は九四に対して力量敵しえざるも、一肚子の毒を懐きてこれを待つ。未免小気に過ぎる。ゆえに「小吝」という。ただこの毒は人に咬まれて堪えられざるより発せられたるもの。ゆえになおその罪過と算うに足らず。《象伝》はいう、「毒に遇う」は位が当たらざるによる、と。もし陰爻をもって陰位に居らば、則ち更に何の毒かあらん。
九四:噬乾胏,得金矢。取其堅而可畏。利艱貞吉。《象》曰:“利艱貞吉”,未光也。六五:噬乾肉,得黃金。取其居中而貴。貞厲,無咎。《象》曰:“貞厲無咎”,得當也。九四居二陰之間,六五居二陽之間,皆處爭地而致交噬者也。夫不能以德相懷,而以相噬為志者,惟常有敵以致其噬,則可以少安;苟敵亡矣,噬將無所施,不幾於自噬乎?由此觀之,無德而相噬者,以有敵為福矣。
噬嗑卦の九四の爻辞はいう、乾胏を噬み金矢を得たり、と。これは金と矢の堅硬可畏の意を取る。爻辞は続けていう、艱貞に利あり、吉、と。《象伝》はいう、「艱貞に利あり吉」は未だ光ならざるなり、と。六五の爻辞はいう、乾肉を噬み黄金を得たり、と。これは黄色の居中、金の貴重の意を取る。爻辞は続けていう、貞厲、咎なし、と。《象伝》はいう、「貞厲咎なし」は当を得るによる、と。九四は二つの陰爻の間に夾まり、六五は二つの陽爻の間に夾まる。皆身に必ず争う地に処りて交相に啃咬せらるるを招く。およそ能く徳を以て相懐柔せず、ただ互咬を以て志向と為す人は、ただ常に咬むべき敵手あってのみ、勉めて一点の安穩を得ん。万一敵手なくなれば、この一口は施す処なし。あに回頭して己を咬まんとするに近からずや。これを見れば、徳なくして専ら互咬に恃むは、竟に敵ありを以て福気と為すなり。
九四“噬乾胏,得金矢”,六五“噬乾肉,得黃金”,九四之難噬,是六三、六五之得也;六五之難噬,是九四、上九之得也。“得”之為言,猶曰“賴此以存”云爾。“利艱貞吉”、“貞厲”、“無咎”,皆未可以居安而享福也,惟有德者為能居安而享福,夫豈賴有敵而後存邪?故曰“未光也”。“得當”者,當於二陽之間也。
九四は「乾胏を噬み金矢を得たり」といい、六五は「乾肉を噬み黄金を得たり」という。九四が咬み難き所以は、正に六三・六五の所得なり。六五が咬み難き所以は、正に九四・上九の所得なり。ここの「得」の字は、「これを恃ってはじめて生きてゆけ」の言いに等し。「艱貞に利あり吉」「貞厲」「咎なし」のこれらの断語は、皆なお安居して享福と談ずるに及ばず。ただ徳ある者のみが能く安居して享福す。あに咬むべき敵手あるを恃みてはじめて生き存えんや。ゆえに《象伝》は「未だ光ならざるなり」という。いわゆる「当を得る」とは、六五が恰好として九四と上九の二つの陽爻の間に当たるを言う。
上九:何校滅耳,凶。《象》曰:“何校滅耳”,聰不明也。“滅趾”者,止其行而已;不行猶可以無咎,“滅耳”則廢其聰矣。無及也,故“凶”。
噬嗑卦の上九の爻辞はいう、校を何し耳を滅す。凶、と。《象伝》はいう、「校を何し耳を滅す」は聴き明ならざるなり、と。初九の「趾を滅す」は、不過これを行路成さしめざるのみ。行路成さざればなお咎なきを得。上九の「耳を滅す」は、しかるに聴覚を整个廃掉する。再び補救しても及ばず。ゆえに「凶」。
賁卦(第二十二)
艮上,離下。“賁”:亨,小利有攸往。《彖》曰:“賁,亨”,柔來而文剛,故亨;分剛上而文柔,故“小利有攸往”。天文也,文明以止,人文也。剛不得柔以濟之,則不能“亨”;柔不附剛,則不能有所往,故柔之“文剛”,剛者所以“亨”也;剛之“文柔”,柔者所以利往也。“乾”之為“離”,“坤”之為“艮”,陰陽之勢、數也。“文明以止”,“離”、“艮”之德也。勢、數推之天,其德以為人。
賁卦の上卦は艮(山)、下卦は離(火)である。卦辞はいう、賁、亨、小さく往くところ有れば利あり、と。《彖伝》はいう、「賁、亨」は柔來りて剛を文れば則ち亨なり。剛を分かちて上りて柔を文る。ゆえに「小さく往くところ有れば利あり」、と。これは天の文なり。文明にして以て止まるは、これは人の文なり。剛はもし柔を得て調剤せざれば、能く亨るべからず。柔はもし剛に依附せざれば、往く処なし。ゆえに柔來りて剛を文れば、剛はこれにより亨を得ん。剛去りて柔を文れば、柔はこれにより往くところ有るに利を得ん。乾が離と変じ、坤が艮と変ずるは、これは陰陽自然の形勢と数なり。「文明にして以て止まる」は、則ち離と艮の両卦の徳性なり。形勢と数は、推して天の上に講ずべし。徳性に至っては、則ち人事を講ずるに用うるなり。
《易》有剛、柔、往、來,上下相易之說,而其最著者,“賁”之《彖》也。故學者沿是爭推其所從變,曰“泰”變為“賁”,此大惑也。一卦之變為六十三,豈獨為“賁”也哉!學者徒知“泰”之為“賁”,又烏知“賁”之不為“泰”乎?凡《易》之所謂剛柔相易者,皆本諸“乾”、“坤”也。“乾”施一陽於“坤”,以化其一陰而生“三子”,皆一陽而二陰;凡“三子”之卦有言“剛來”者,明此本“坤”也,而“乾”來化之。“坤”施一陰於“乾”,以化其一陽而生“三女”,皆一陰而二陽;凡“三女”之卦,有言“柔來”者,明此本“乾”也,而“坤”來化之。故凡言此者,皆“三子”、“三女”相值之卦也,非是卦也,則無是言也。
《周易》の中に剛柔往来・上下互換の説あり。その中で最も名あるは則ち賁卦の《彖伝》のこの一段である。ゆえに《易》を治める人はこれに順って争いて某卦は何れの卦より変来するかを推求し、賁卦は泰卦より変来すると言う。これは天大なる糊涂なり。一卦は其余の六十三卦を変出しえ。あにただ一の賁卦を変出するのみならんや。学者はただ泰が賁と変じうるを暁えて、またあに知らん、賁が泰に変り帰りえざるを。およそ《周易》の言う所の剛柔互換は、根子は皆乾と坤に在り。乾は一つの陽爻を坤に施して、坤の一つの陰爻を化して震・坎・艮のこの「三子」を生出す。皆一陽二陰なり。およそ「三子」の卦の《彖伝》に「剛來」と言うは、正にそれがもと坤なりて、乾來りてこれを化したるを点明す。坤は一つの陰爻を乾に施して、乾の一つの陽爻を化して巽・離・兌のこの「三女」を生出す。皆一陰二陽なり。およそ「三女」の卦の《彖伝》に「柔來」と言うは、正にそれがもと乾なりて、坤來りてこれを化したるを点明す。ゆえにおよそこの類の話を言うは、皆「三子」と「三女」とが上下相遇して成る卦なり。この類に属せざる卦は、《彖伝》の中にこの類の話なし。
凡六:“蠱”之《彖》曰:“剛上而柔下。”“賁”之《彖》曰:“柔來而文剛,分剛上而文柔。”“咸”之《彖》曰:“柔上而剛下。”“恆”之《彖》曰:“剛上而柔下。”“損”之《彖》曰:“損下益上。”“益”之《彖》曰:“損上益下。”此六者適,適遇而取之也。凡“三子”、“三女”相值之卦十有八,而此獨取其六,何也?曰:聖人之所取以為卦,亦多術矣,或取其象,或取其爻,或取其變,或取其剛柔之相易。取其象,“天水違行,訟”之類是也;取其爻,“六三:履虎尾”之類是也。取其變,“頤中有物,曰噬嗑”之類是也,取其剛柔之相易,“賁”之類是也。夫剛柔之相易,其所取以為卦之一端也,遇其取者則言,不取者則不言也,又何以盡怪之歟?
こう言うものは都合六卦あり。蠱卦の《彖伝》は「剛上りて柔下る」といい、賁卦の《彖伝》は「柔來りて剛を文り、剛を分かちて上りて柔を文る」といい、咸卦の《彖伝》は「柔上りて剛下る」といい、恒卦の《彖伝》は「剛上りて柔下る」といい、損卦の《彖伝》は「下を損して上を益す」といい、益卦の《彖伝》は「上を損して下を益す」という。この六処は、皆不過恰好遇つてはじめてこの説を取る。「三子」と「三女」とが上下相遇して成る卦は都合十八箇あるも、《彖伝》はしかるに単にこの六箇において剛柔相易の義を取る。何ぞや。答えていう、聖人の取りて卦を立つる路数はもとより甚だ多し。あるいは卦象を取り、あるいは爻を取り、あるいは卦変を取り、あるいは剛柔の互換を取る。卦象を取るは、訟卦の《象伝》「天と水と違行す、訟」この一類のごとし。爻を取るは、履卦の「六三、虎尾を履む」この一類のごとし。卦変を取るは、噬嗑卦の《彖伝》「頤中に物あり、噬嗑と曰う」この一類のごとし。剛柔互換を取るは、則ち賁卦のこの一類である。剛柔互換は不過卦を立つるに取る一端に過ぎず。遇つてこの一端を取れば則ち言い、取らざれば則ち言わず。また何ぞ必ずしも様様皆奇怪と為さんや。
觀乎天文,以察時變;觀乎人文,以化成天下。《象》曰:山下有火,“賁”;君子以明庶政,無敢折獄。“明庶政”,明也;“無敢折獄”,止也。初九:賁其趾,舍車而徒。《象》曰:“舍車而徒”,義弗乘也。“文剛”者,六二也。初九、九三,見文者也。自六二言之,則初九其趾、九三其須也。初九之應在四,六二之文,初九之所不受也。車者,所以養趾,為行文也。初九為趾,則六二之所以文初九者為車矣。初九自潔以答六四之好,故義不乘其車,而徒行也。
《彖伝》は最後にいう、天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す、と。《象伝》はいう、山下に火あり。賁。君子は以て庶政を明らかにし、敢えて獄を折らざるなり、と。「庶政を明らかにす」は離の「明」を取り、「敢えて獄を折らず」は艮の「止」を取る。初九の爻辞はいう、其の趾を賁る。車を舎てて徒らす、と。《象伝》はいう、「車を舎てて徒らす」は義において乘らざるなり、と。この一卦にて「剛を文る」に往くは六二にして、初九と九三は則ち文飾せらるるの一方なり。六二のこちらより見れば、初九は好比脚の趾、九三は好比頬の上の鬚。初九の正応は六四に在り。ゆえに六二がそれに與うる文飾を、初九は並に接受せず。車はもと代步して脚を養うを以てす。ここにおいて正に脚の趾のために文飾の事を行うに当たる。初九はすでに脚の趾なれば、さらば六二が初九を文飾するに用いるものは一輌の車に相当す。初九は自ら潔白を守りて、以て六四の情意に報いんと好む。ゆえに義においてあの車に乘るを肯んぜず、寧ろ徒歩にて行く。
六二:賁其須。《象》曰:“賁其須”,與上興也。六二施陰於二陽之間,初九有應而不受,九三無應而內之。無應而內之者,正也;是以仰賁其須,須者,附上而與之興也。九三:賁如,濡如,永貞吉。《象》曰:“永貞”之“吉”,終莫之陵也。初九之正配,四也,而九三近之;九三之正配,二也,而初九近之。見近而不貞,則失其正,故九三不貞於二,而貳於四,則其配亦見陵於初九矣。初九亦然,何則?無以相賁也。自九三言之,賁我者二也,濡我者四也;我可以兩獲焉,然而以永貞於二為吉也。
賁卦の六二の爻辞はいう、其の須を賁る、と。《象伝》はいう、「其の須を賁る」は上と興ずるに随うなり、と。六二は自らの陰柔を初九・九三の二つの陽爻の間に施加す。初九は別に正応あってこれを接受せず、九三は正応なくしてこれを納め入れたり。正応なくして肯んじて接納するは、これは正当なり。ゆえに六二は頭を仰げて九三の須を文飾す。いわゆる「須」とは、すなわち上の面に依附してそれとともに動くものである。九三の爻辞はいう、賁如として濡如たり、永貞吉なり、と。《象伝》はいう、「永貞」の吉なる所以は、終に凌えられざるによる、と。初九の正応は六四なり。しかるに九三は則ち六四に挨す。九三の正応は六二なり。しかるに初九は則ち六二に挨す。近処のを見て心を動かして貞を守らざれば、便ち正道を失う。ゆえに九三がもし一に六二を専守せず、反りて六四に対して二心を生出せば、その配偶の六二もまた初九に欺占せられん。初九の情形もまた同じくこのごとし。なぜこうか。彼此が一たび背離すれば、則ち更に互いに文飾しうるものなし。九三のこちらより言えば、我を文飾するは六二、我を潤沢するは六四、両辺とも我が手に得。しかるに長く六二を守定してはじめて吉と算う。
六四:賁如,皤如,白馬,翰如。匪寇,婚媾。《象》曰:六四當位,疑也。“匪寇,婚媾”,終無尤也。六四當可疑之位者,以近三也。六二以其賁賁初九,而初九全其潔,皤然也。初九之所以全其潔者,凡以為四也,四可不以潔答之乎?是以潔其車馬,翼然而往從之;以三為“寇”,而莫之“媾”也。此四者,危疑之間,交爭之際也,然卒免於侵陵之禍者,以四之無不貞也。
賁卦の六四の爻辞はいう、賁如として皤如たり、白馬翰如たり、寇にあらず婚媾なり、と。《象伝》はいう、四、位は疑わしきに当たる。「寇にあらず婚媾」は終に尤なきなり、と。六四が疑わしき位置に処する所以は、それが九三に緊挨するによる。六二は自らの文采を拿りて初九を文飾す。初九はしかるに一身の潔白を保全し、一片の素浄なり。初九が潔白を保全する所以は、全く六四のためなり。六四は能く同じ潔白を以てこれに報いざらんや。ゆえにそれは車馬を乾乾浄浄に収拾し、軽捷に駆けて初九に追随し、中間を挡ぐ九三を強寇と看なして、これと婚媾せず。初九・六二・九三・六四のこの四爻の間は、正に危疑叢生・彼此交争の関口なり。最後に竟に皆侵陵の禍を免れたるは、六四が一処も貞を守らざるなきに就く。
六五:賁于丘園,束帛戔戔;吝,終吉。《象》曰:六五之吉,有喜也。“丘園”者,僻陋無人之地也。五無應於下,而上九之所賁也,故曰“賁于丘園”。而上九亦無應者也,夫兩窮而無歸,則薄禮可以相縻而長久也。是以雖吝而有終,可不謂吉乎?彼苟有以相喜,則吝而吉可也。“戔戔”,小也。
賁卦の六五の爻辞はいう、丘園に賁る、帛を束ねて戔戔たり。吝、終に吉、と。《象伝》はいう、六五の吉は喜びあるなり、と。「丘園」は偏僻荒陋にして人煙なき所在なり。六五は下に正応なく、ただ上九が來りてこれを文飾す。ゆえに「丘園に賁る」という。而も上九もまた同じく正応なき者なり。二つの皆走投無路・帰する処なき人が一処に湊れば、さらば薄薄の一点の礼数はかえって足りて彼此を係え止め、しかも係えて長久なり。ゆえに寒儉なるも好結末あり。これを吉と呼ばざらんや。ただ両下裏に真に相悦の情あれば、さらばまた寒儉にしてまた吉利は、説き通るべし。「戔戔」とはすなわち少くして薄きの意なり。
上九:白賁,無咎。《象》曰:“白賁無咎”,上得志也。夫柔之文剛也,往附於剛,以賁從人者也。剛之文柔也,柔來附之,以人從賁者也。以賁從人,則賁存乎人;以人從賁,則賁存乎己,此上九之所以“得志”也。陽行其志,而陰聽命,惟其所賁。故曰“白賁”。受賁,莫若白。
賁卦の上九の爻辞はいう、白く賁る。咎なし、と。《象伝》はいう、「白賁咎なし」は上に居りて志を得るによる、と。柔が去りて剛を文るは、柔が自ら跑り過ぎて剛に依附するなり。等しく文采を帯びて人に将就するにして、文采の主動権は便ち相手の手の中に落つ。剛が去りて柔を文るは、柔が跑り来りて剛に依附するなり。等しく人が来りて我が文采に将就するにして、文采の主動権は便ち己の手の中に握る。これが正に上九の「志を得る」所以の故なり。陽は己の心意に按して事を行い、陰はただ命を聴くのみ。任凭それが如何に文飾せんと欲すとも。ゆえに「白賁」という——上九は自身に塗飾を加えず、ただ本色を以て人に示す。人の文飾を承受せんと要せば、何の底子も一片の純白に比ぶに及ばず。
剥卦(第二十三)
艮上,坤下。“剝”:不利有攸往。《彖》曰:“剝”,剝也,柔變剛也。“不利有攸往”,小人長也。順而止之,觀象也。見可而後動。君子尚消息盈虛,天行也。《象》曰:山附於地,“剝”;上以厚下安宅。身安而民與之,則“剝”者自衰,不與之校也。
剥卦の上卦は艮(山)、下卦は坤(地)である。卦辞はいう、剥、往くところ有るに利あらず、と。《彖伝》はいう、剥は剥なり。柔は剛を変ずるなり。「往くところ有るに利あらず」は小人長するなり。順にして止まるは象を観るに由るなり、と。これは時の行くべきを看準してしかる後に動くを言う。《彖伝》はまたいう、君子は消息盈虚を尚ぶ。天の行いなり、と。《象伝》はいう、山、地に附して剥く。上は以て下を厚くし宅を安くす、と。自身安穩にして百姓擁護すれば、来りて剥蝕する一方は自然に衰竭す。彼らと計較するを用いず。
初六:剝床以足,蔑;貞凶。《象》曰:“剝床以足”,以滅下也。六二:剝床以辨,蔑;貞凶。《象》曰:“剝床以辨”,未有與也。陽在上,故君子以上三爻為己。載己者,床也,故下為床。陰之長,猶水之溢也,故曰“蔑”。“辨”,足之上也,床與足之間,故曰“辨”。君子之於小人,不疾其有邱山之惡,而幸其有毫髮之善,“剝床以足”,且及其“辨”矣,猶未直以為凶也,曰“蔑,貞”而後“凶”。小人之於正也,絕蔑無餘,而後“凶”可必也;若猶有餘,則君子自其“餘”而懷之矣,故曰“剝床以辨,未有與也”。小人之為惡也,有人與之然後自信以果。方其未有與也,則其愧而未果之際也。
剥卦の初六の爻辞はいう、牀を剥きて足を以てす。蔑、貞なりとも凶、と。《象伝》はいう、「牀を剥きて足を以てす」は以て下を滅すなり、と。六二の爻辞はいう、牀を剥きて辨を以てす。蔑、貞なりとも凶、と。《象伝》はいう、「牀を剥きて辨を以てす」は未だ与あるならざるなり、と。この一卦は陽爻が最上に在り。ゆえに君子は上面の三爻を己と看なす。己を承載するは牀なり。ゆえに下面の三爻は便ち牀なり。陰気は生長して、好比水の一点々々漫溢して上がるがごとし。ゆえに「蔑」という。「辨」は牀脚以上の部位にして、正に牀身と牀脚の間に在り。ゆえに「辨」と呼ぶ。君子の小人に対するは、彼の丘山のごとき大の悪を痛恨せず、倒れて彼のなお毫髪のごとき一点の善あるを慶幸す。ゆえに牀はすでに脚より「辨」に剥れたるも、爻辞はなお肯んじて直截了当に凶と断ぜず、必ず「蔑、貞」の両字を加えてしかる後に「凶」という。小人は正道に対して、剥蝕して一点も剰さざるに至りてはじめて、これを必ず凶と断定しえ。もしなお一点剰らば、君子は則ちあの一点の上よりこれを懐柔す。ゆえに《象伝》は「牀を剥きて辨を以てすは、未だ与あるならざるなり」という。小人が悪を作るは、総じて人の附和あるを要してしかる後に自信して狠手を下しえ。なお人の附和なきに当たるは、正に彼が心裏に羞愧して狠手を下しえざる当口なり。
六三:剝之,無咎。《象》曰:“剝之無咎”,失上下也。王弼曰:“群陰剝陽,己獨協焉,雖處於剝,可以無咎。”“上下各有二陰,應陽則失上下也。”
剥卦の六三の爻辞はいう、剥す。咎なし、と。《象伝》はいう、「剥すれど咎なし」は上下を失えるによる、と。王弼はいう、「衆陰は一一斉に陽爻を剥蝕するも、ただ六三この一爻が上九と協同す。ゆえにそれは剥卦の中に身を処するも、なお咎なきを得」と。彼はまたいう、「六三の上下に各二つの陰爻あり。それはしかるに偏に上の陽に応和す。ゆえにそれが上下の同伴を失えたという」と。
六四:剝床以膚,凶。《象》曰:“剝床以膚”,切近災也。“剝床以膚”,始及己矣,雖欲懷之而不可得矣,故直曰“凶”。
剥卦の六四の爻辞はいう、牀を剥きて膚を以てす。凶、と。《象伝》はいう、「牀を剥きて膚を以てす」は災に切近なるなり、と。剥れて肌膚に至るは、則ち己の身上に剥れ来るを始むるなり。この歩みに至れば、たといなお前面の几爻のごとく小人を懐柔せんと欲すも弁じえず。ゆえに爻辞は更に何の限制も加えず、直截了当に「凶」と断ず。
六五:貫魚,以宮人寵,無不利。《象》曰:“以宮人寵”,終無尤也。“觀”之世幾於“剝”矣,而言不及小人者,其主陽也;六五,“剝”之主,凡“剝”者,皆其類也。聖人不能使之無寵於其類,故擇其害之淺者許之。四以下,“貫魚”之象也。自上及下,施寵均也。夫寵均,則勢分;勢分,則害淺矣。以宮人之寵寵之,不及以政也。不及以政,豈惟自安,亦以安之,故“無不利”。聖人之教人也,容其或有而去其太甚,庶幾從之。如責之以必無,則彼有不從而已矣。
剥卦の六五の爻辞はいう、魚を貫くがごとく、宮人を以て寵す。利ならざるなし、と。《象伝》はいう、「宮人を以て寵す」は終に尤なきなり、と。観卦のあの時代はすでに甚だ剥に近し。《易》の辞はしかるに小人を説きに往かざりしは、観卦は陽爻を主と為すに由る。剥卦の主爻はしかるに六五この陰爻なり。およそ來りて陽を剥蝕するは、皆それの同類なり。聖人はそれをして同類に対して一点の寵幸も與えざらしめんとする法なし。ただ一条の害処最も浅き路を挑きてこれに許すのみ。六四以下の四つの陰爻は、則ち「貫魚」の象なり。上より下に、寵愛を均斉に分ける。寵愛を一たび分け均せば、勢力は散開す。勢力散開すれば、害処もまた浅し。宮人に対待する方式を以て彼女らを寵するは、意は彼女らをして政事に干預せしめざるなり。政事に干預せざれば、但し六五の自己の安を得るのみならず、また彼女らをして安を得しむ。ゆえに「利ならざるなし」。聖人の人を教化するは、総じて彼をして一点を保留せしむるを容許し、ただ太過分のを去掉するのみ。こうすれば人々は大致なお肯んじて聴従す。もし一味に彼を責成して半点も許さざるべしとせば、則ち彼は索性聴かざらん。
上九:碩果不食,君子得輿,小人剝廬。《象》曰:“君子得輿”,民所載也;“小人剝廬”,終不可用也。“果”,未有不見食者也;“碩”而不見食,必不可食者也。智者去之,愚者眷焉。上九之失民久矣,五陰之勢足以轢而取之,然且獨存於上者,彼特存我以為名爾,與之合則存,不與之合則亡,君子以為是不可食之果也,而亟去之。彼得志於上,必食其下,故君子去其上而出其下,可以得民。載於下謂之“輿”,庇於上謂之“廬”。“廬”者,既剝之餘也,豈可復用哉!
剥卦の上九の爻辞はいう、碩果食われず。君子は輿を得、小人は廬を剥ぐ、と。《象伝》はいう、「君子は輿を得」るは民の載する所なり。「小人は廬を剥ぐ」は終に用うべからざるなり、と。果子に食われざるはなし。この一顆は又大にして人の食うなく、必ず食うべからざるなり。見識ある人は赶紧してこれを離れ、愚笨の人はなお恋々として舎れず。上九は民心を失うことすでに久しく、五つの陰爻の勢頭は足りてこれを碾碎し奪い去らん。それはしかるに偏になお孤零零として上頭に留まる。それは不過衆陰がこれを留めて一つの名義を為すのみ。肯んじて彼らと合すればこれを留め、肯んじて合せざればこれを除去す。君子はこれを看穿出して一顆の食うべからざる果子なりと知り、ここにおいて赶紧して走り去る。那些の人が一たび上面にて志を得れば、必定下面の人を吞食せん。ゆえに君子は上位を離れて下面に走り至れば、かえって民心を得るを得。下に在りて彼を承載するを「輿」と呼び、上に在りて彼を遮蔽するを「廬」と呼ぶ。「廬」は不過剥蝕の後に剰れる残余に過ぎず。あに更に用いうべきあらんや。
復卦(第二十四)
坤上,震下。“復”,亨。出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復,利有攸往。《彖》曰:“復,亨”。剛反動而以順行,是以“出入無疾”。自“坤”為“復”,謂之“入”;自“復”為“乾”,謂之“出”。“疾”,病也。“朋來無咎,反復其道,七日來復”。天行也。“坤”與初九為“七”。
復卦の上卦は坤(地)、下卦は震(雷)である。卦辞はいう、復、亨。出入疾なく、朋來咎なし。其の道を反復して七日に來復す。往くところ有るに利あり、と。《彖伝》はいう、「復、亨」は剛反りて動き、順を以て行うなり。以て出入疾なし、朋來咎なし、と。坤卦より転じて復卦と成るを「入」と呼び、復卦より一路長じて乾卦と成るを「出」と呼ぶ。「疾」はすなわち病害なり。《彖伝》は続けていう、「朋來咎なし、其の道を反復して七日に來復す」は天の行いなり、と。坤卦の六つの陰爻に復卦の初九を加えれば、正好「七」なり。
“利有攸往”,剛長也;“復”,其見天地之心乎?見其意之所向謂之“心”,見其誠然謂之“情”。凡物之將亡而“復”者,非天地之所予者不能也。故陽之消也,五存而不足;及其長也,甫一而有餘。此豈人力也哉?《傳》曰:“天之所壞,不可支也;”其所支,亦不可壞也。違天不祥,必有大咎。
《彖伝》はまたいう、「往くところ有るに利あり」は剛長するなり。復、其れ天地の心を見るか、と。その意向の在る処を看出すを「心」と呼び、その実実在在として然るを看出すを「情」と呼ぶ。およそ一件の事物が眼に消亡せんとすれども能く回復するは、天地が肯んじてこれに一条の生路を與うるに非ざれば、弁じえず。ゆえに陽気消退の時は、剥卦の上面にただ一陽を剰す。たといなお五つの位置在るも、それは已に支撐しえず。陽気生長の時に至れば、復卦は才だ一陽有るにして、便ち已に綽綽として余裕あり。これあに人力の弁じ得る所ならんや。《左伝》はいう、「天の壊たんとする所は支えられざるなり」と。反りて、天の支えんとする所は壊すべからざるなり。天意に違背するは吉利ならず。必定大禍を招来す。
《象》曰:雷在地中,“復”;先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。“復”者,變易之際也。聖人居變易之際,靜以待其定,不可以有為也,故“以至日閉關”明之,下至於“商旅不行”,上至於“后不省方”。
《象伝》はいう、雷は地中に在り。復。先王は至日に関を閉ざし、商旅は行かず、后は方を省めざるなり、と。「復」は新旧変易交接の関頭なり。聖人は変易の関頭に処して、ただ静かにその安定するを待つ。挙動有るべからず。ゆえに「至日に関を閉ず」を拿りてこの道理を点明す。下に説きて商旅の通行せざるに至り、上に説きて君主の四方を巡視せざるに至る。皆この意なり。
初九:不遠復,無祗悔。元吉。《象》曰:“不遠”之“復”,以修身也。去其所居而復歸,亡其所有而復得,謂之“復”。必嘗去也而後有歸,必嘗亡也而後有得,無去則無歸,無亡則無得,是故聖人無復。初九未嘗見其有過也,然而始有復矣。孔子曰:“顏氏之子,其殆庶幾乎?有不善,未嘗不知;知之未嘗復行也。”
復卦の初九の爻辞はいう、遠からずして復る。祗悔ならんのみ。元吉、と。《象伝》はいう、「遠からず」の「復」は以て身を修めるなり、と。本来の処所を離れて重ねて回去し、本有の東西を丟失して重ねて得る。これをはじめて「復」と呼ぶ。必定先に曽て離れたるあってしかる後に帰來と談ずるを得。必定先に曽て丟失したるあってしかる後に復得と談ずるを得。曽て離れざれば則ち帰と謂う所なく、曽て丟失せざれば則ち得と謂う所なし。ゆえに聖人は根本的に「復」这回事なし。初九は並にそれに何の過失あるを看出さず。しかるに《周易》が「復」を講ずるは正にこれより始まる。孔子は《周易・繋辞下》にいう、「顔氏の子は、其れ殆んど庶幾ならんか。不善あるは未だ嘗て知らざるなし。之を知れば未だ嘗て復た行わざるなり」と。
六二:休復,吉。《象》曰:“休復”之“吉”,以下仁也。“休”,初九也。以陰居陰,不爭之至也,退而“休”之,使復者得信,謂之“休復”。六三:頻復,厲,無咎。《象》曰:“頻復”之“厲”,義“無咎”也。以陰居陽,力不得抗;而中不願,故頻於初九之復也。外順而內不平者,危則“無咎”。“頻”,蹙也。
復卦の六二の爻辞はいう、休復、吉、と。《象伝》はいう、「休復」の吉は以下仁なるによる、と。「休」とはすなわち初九この一陽を指す。六二は陰爻をもって陰位に居り、不争の極処なり。それは退譲して下りて陽をして歇息舒展せしめ、あの来復の陽をして伸張するを得しむ。これを「休復」と呼ぶ。六三の爻辞はいう、頻復、厲、咎なし、と。《象伝》はいう、「頻復」の厲は義において咎なきなり、と。六三は陰爻をもって陽位に居り、力量は初九に抵抗しえざるも、心中は然るに甘んぜず。ゆえに初九の来復に対して眉頭を皺起す。外面は順從して心中不平の人は、正にこの一份の危懼を恃りてはじめて過錯を免れうる。「頻」とはすなわち眉を蹙むの意なり。
六四:中行,獨復。《象》曰:“中行獨復”,以從道也。“獨”,與初應。六五:敦復,無悔。《象》曰:“敦復無悔”,中以自考也。憂患未至而慮之,則“無悔”。六五,陰之方盛也;而內自度其終不足以抗初九,故因六四之獨復而附益之,以自託焉。
復卦の六四の爻辞はいう、中に行りて独り復る、と。《象伝》はいう、「中に行りて独り復る」は以て道に従うなり、と。いわゆる「独」とは、五つの陰爻の裏にただそれと初九とが正相应するを言う。六五の爻辞はいう、敦復、悔なし、と。《象伝》はいう、「敦復悔なし」は中に居りて以て自考するによる、と。憂患が未だ到らざるに先だちてそのために打算すれば、自然「悔なし」。六五は正に陰気極盛の時に当たるも、それは心裏にて分量を明白に計る。自己は終究初九に抵擋しえざるを知り、ゆえに六四の「独復」に順って更に一層を加え、自己を託付して過ごす。
上六:迷復,凶,有災眚。用行師,終有大敗;以其國,君凶;至于十年不克征。《象》曰:“迷復”之“凶”,反君道也。乘極盛之末而用之不已,不知初九之已復也,謂之“迷復”。“災眚”者,在天之罰也。初九之復,天也;眾莫不予,而己獨迷焉。用之於敵,則災其國;用之於國,則災其身。極盛必衰,驟勝故敗。在其終也,國敗君凶。至於十年而不復者,明其用民之過,而師競之甚也。
復卦の上六の爻辞はいう、迷復、凶、災眚あり。師を行えば終に大敗あり、其の国の君にすれば凶、十年に至るまで征すべからず、と。《象伝》はいう、「迷復」の凶は君の道に反するによる、と。極盛の末梢の上に騎りて一味に使用して肯んじて罷手せざるに、全く初九の陽気が已に回帰したるを知らず。これを「迷復」と呼ぶ。「災眚」は上天の降下する懲罰なり。初九の回復は天意に出づ。衆爻に賛許せざるなし。ただ上六のみ自己迷いて悟らず。この迷を敵に対するに用えば、則ち国家に災を招く。治国に用えば、則ち自身に災を招く。極盛の後は必ず衰落し、驟然に取勝したるは後に必ず敗す。最後に至れば、国もまた敗れ、君もまた凶なり。十年の久しきに至るもなお身を翻しえざるは、正にそれが百姓を役使する太過にして、用兵争強する太甚なるを説明す。
无妄卦(第二十五)
乾上,震下。“無妄”,元亨,利貞。其匪正有眚,不利有攸往。《彖》曰:“無妄”,剛自外來而為主於內。謂初九。動而健,剛中而應。謂九五。大亨以正,天之命也。“無妄”者,天下相從於“正”也。“正”者,我也;天下從之者,天也。聖人能必正,不能使天下必從,故以“無妄”為天命也。
无妄卦の上卦は乾(天)、下卦は震(雷)である。卦辞はいう、无妄、元亨、貞に利あり。其の正に匪ざるは眚あり、往くところ有るに利あらず、と。《彖伝》はいう、无妄、剛は外より來りて内に主と為る、と。これは初九を言う。《彖伝》は続けていう、動きて健なり、剛中にして応ず、と。これは九五を言う。《彖伝》はまたいう、大亨にして正を以てすは天の命なり、と。いわゆる「无妄」とは、天下人が一同に「正」に跟從するなり。「正」のこの一頭は我に在り。天下の肯否に跟從するは、あの一頭は天に在り。聖人は自己が必定貞を守るを保証しえども、天下が必定跟從するを保証しえず。ゆえに「无妄」を帰して天命と為す。
“其匪正有眚,不利有攸往”,“無妄”之往,何之矣?天命不祐,行矣哉!無故而為惡者,天之所甚疾也。世之妄也,則其不正者容有不得已焉。“無妄”之世,正則安,不正則危。棄安即危非人情,故不正者,必有天災。
《彖伝》はいう、「其の正に匪ざるは眚あり、往くところ有るに利あらず」——无妄の時代にてなお何処に往かんと欲するか。天命は肯んじて保佑せず。なお走り成りえんや。縁故なく悪を作る人は、上天の最も痛恨する所なり。世道が本身虚妄の時は、那些の正路に走り上がらざる人は、倒れて情有可原・其の已むを得ざるあり。「无妄」の時代に至れば、正を守れば則ち平安、正を守らざれば則ち危険。平安を放きて偏に危険に就くは、人之常情に合せず。ゆえにこの時なお正道を走らざるは、必定天降の災禍に遭わん。
《象》曰:天下雷行,物與無妄。妄者,物所不與也。先王以茂對時,育萬物。“茂”,勉也;“對”,濟也。《傳》曰:“寬以濟猛,猛以濟寬。”天下既已無妄矣,則先王勉濟斯時,容養萬物而已。
《象伝》はいう、天下に雷行き、物と无妄なる、と。虚妄のものは、万物の肯んじて附和せざる所なり。《象伝》は続けていう、先王は以て茂りて時に對し、万物を育む、と。「茂」は勉力、「對」は調剤補救なり。《左伝・昭公二十年》に子産の話を載す、「寛を以て猛に濟し、猛を以て寛に濟す」と。天下はすでに已に无妄に帰せば、さらば先王の為さんと要する所も、亦不過勉力してこの時世を調剤し、万物を容納養育するのみ。
初九:無妄,往吉。《象》曰:“無妄”之“往”,得志也。所以為“無妄”者,“震”也;所以為“震”者,初九也。“無妄”之權在初九,故“往”,“得志”也。六二:不耕穫,不菑畬,則利有攸往。《象》曰:“不耕穫”,未富也。六三:無妄之災:或繫之牛;行人之得,邑人之災。《象》曰:行人得牛,邑人災也。九四:可貞,無咎。《象》曰:“可貞無咎”,固有之也。九五:無妄之疾,勿藥有喜。《象》曰:“無妄”之“藥”,不可試也。
无妄卦の初九の爻辞はいう、无妄、往けば吉、と。《象伝》はいう、「无妄」の「往く」は志を得るなり、と。この一卦を无妄たらしめるは下卦の震なり。震を震たらしめるは初九なり。ゆえに无妄の主動権は初九の手裏に在り。よってそれは「往き」て「志を得」る。六二の爻辞はいう、耕さずして獲らず、菑せずして畬せず。則ち往くところ有るに利あり、と。《象伝》はいう、「耕さずして獲らず」は未だ富まざるなり、と。六三の爻辞はいう、无妄の災、あるいは牛を係するも、行人の得、邑人の災なり、と。《象伝》はいう、行人は牛を得、邑人は災なり、と。九四の爻辞はいう、貞なるべし、咎なし、と。《象伝》はいう、「貞なるべし咎なし」は固より之を有するなり、と。九五の爻辞はいう、无妄の疾、薬する勿かれ喜あらん、と。《象伝》はいう、无妄の薬は試すべからざるなり、と。
善為天下者不求其必然,求其必然乃至於盡喪。無妄者驅人而內之正也,君子之於“正”,亦全其大而已矣。全其大,有道不必乎其小,而其大斯全矣。古之為過正之行者,皆內不足而外慕者也。夫內足者,恃內而略外,不足者反之。陰之居陰,安其分者也,六二是也。而其居陽也,不安其分而外慕者也,六三是也。陽之居陽,致其用者也,九五是也。而其居陰也,內足而藏其用者也,九四是也。
善く天下を治める人は万無一失を追求せず。一味に万無一失を追求すれば、かえって全盤喪失に落ちん。「无妄」は人を駆りて「正」の裏頭に向かわしめて送るなり。君子の「正」に対するは、亦不過その大体を保全するのみ。大体を保全するは自ら訣竅あり。小処の上に斤斤計計較せざれば、大体はかえって保全し得住る。古來那些の過分に正を求める挙を為した人は、皆内裏充実せずして外に名を慕うなり。内裏充実の人は、内在を恃りて外面を計較せず。内裏不足の人は恰好として相反す。陰爻が陰位に居るは本分に安んずるなり。六二がすなわち是なり。陰爻が陽位に居るは、則ち本分に安んぜずして外に名を慕うなり。六三がすなわち是なり。陽爻が陽位に居るは、作用を尽き情に施展するなり。九五がすなわち是なり。陽爻が陰位に居るは、則ち内裏充実して作用を蔵するなり。九四がすなわち是なり。
六二安其分,是故不敢為過正之行,曰“不耕穫、不菑畬,則利有攸往”,夫必其所耕而後獲,必其所菑而後畬,則是揀髮而櫛,數米而炊,擇地而蹈之充其操者,蚓而後可將有所往,動則躓矣。故曰於義可獲,不必其所耕也;於道可畬,不必其所菑也。不害其為正而可以通天下之情,故“利有攸往”。所惡於不耕而獲者,惡富之為害也。如取之不失其正,雖欲富可得乎?故曰“不耕穫,未富也”。
六二は己の本分に安んず。ゆえに敢えて過分に正を求める事を為さず。爻辞ははじめて「耕さずして獲らず、菑せずして畬せず。則ち往くところ有るに利あり」という。もし必ず己が親手に耕したるのでなければ肯んじて収せず、必ず己が親手に墾いたるのでなければ肯んじて熟田として用いざれば、則ち一根々々髪を挑きて梳き、一粒々々米を数えて鍋に下すと成らん。この種の地を択びて後に脚を落すの操守を極処に推せば、蚯蚓を為さざる以外は弁じえず。この様の人は一たび前に走らんと要せば、一動すれば則ち跤を跌かん。ゆえにいう、道義上我が得るべきは則ち得べし。必ずしも我が親手の耕ならんを要せず。道理上熟田として用いうべきは則ち用うべし。必ずしも我が親手の墾ならんを要せず。これはすでにそれの貞を守るを妨げず、また天下の人情に通達しうる。ゆえに「往くところ有るに利あり」。人々の「耕さずして獲る」を厭悪するは、厭悪するは実は発財の帯來する禍害なり。もし取得の路子が正道を失わざれば、則ち発財せんと想うも発財成らず。ゆえに《象伝》は「耕さずして獲らず、未だ富まざるなり」という。
六三不安其分,而外慕其名,自知其不足,而求詳於無妄,故曰“無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災”。或者繫其牛於此,而為行道者之得之也,行者固不可知矣,而欲責得於邑人,宜其有無辜而遇禍者,此無妄之所以為災也。失其牛於此,而欲必求之於此,此其意未始不以為無妄也,然卒至於大妄,則求詳之過也。
六三は本分に安んぜず、然るに外に向かい「无妄」この名声を羨慕す。自ら底子足らざるを知り、便ち无妄の上に求全責備す。ゆえに爻辞は「无妄の災、あるいは牛を係するも、行人の得、邑人の災なり」という。人ありて牛をここに拴して、過路人に牽き去られたり。過路人は誰かもと查考する由なし。失主は偏に同邑の人に向かい追討せんと欲す。さらば自然に無辜の人の平白に禍に遭うあり。これが則ち「无妄」がかえって災と成る縁由なり。牛はここにおいて丟えしにしかば、則ち必ずここにおいて追出すべからざるべからず。彼のこの心思は未だ嘗て自ら是と為して「无妄」ならざるならず。しかるに結果は大妄と鬧成したる。正に求全責備の求むる過頭に由る。
九五以五用九,極其用矣,用極則憂廢,故戒之曰:“無妄之疾,勿藥有喜。”“無妄”之世而有疾焉,是大正之世而未免乎小不正也,天下之有小不正,是養其大正也,烏可藥哉!以“無妄”為藥,是以至正而毒天下,天下其誰安之?故曰:“無妄之藥,不可試也。”九四內足而藏其用,詘其至剛而用之以柔,故曰:“可貞,無咎。”可以其貞正物而無咎者,惟四也。其《象》曰:“固有之。”“固有之”者,生而性之,非外掠而取之也。
九五は第五のこの尊位を以て九の剛陽を施展す。作用は已に極処に用い盡す。極処に用いれば則ちそれの荒廃敗壊を怕る。ゆえに爻辞はこれを警戒していう、「无妄の疾、薬する勿かれ喜あらん」と。无妄の時代もなお病を生ずるは、好比大体端正の世道の裏に難免なお些かの小小の不正あるがごとし。天下に一点の小小の不正あるは、恰好としてあの大なる正を涵養する所なり。あに薬を下してこれを治せんや。「无妄」を薬と當てて灌下すれば、則ち極端の正を拿りて天下を毒害するなり。天下にまた誰か心を安んじ下しえん。ゆえに《象伝》は「无妄の薬は試すべからざるなり」という。九四は内裏充実して作用を蔵し、己の極剛の一面を屈折し下げ、改めて柔の方式を用いて施行す。ゆえに爻辞は「貞なるべし、咎なし」という——能く己の貞正を以て万物を端正して過錯を出さざるは、ただ九四のみ。その《象伝》は「固より之を有す」という。いわゆる「固より之を有す」とは、この正はそれが生來して具える天性にして、外より攫取して來りて己の有と據るにあらざるを言う。
上九:無妄,行有眚,無攸利。《象》曰:“無妄”之“行”,窮之災也。“無妄”之世有大妄者,六三也;而上九應之,六三外慕於正而竊取其名,三以苟免可也。至於上九,窮且敗矣。
无妄卦の上九の爻辞はいう、无妄の世に処して、更に行い有らんとすれば災眚あり。利ならざるなし、と。《象伝》はいう、「无妄」にしてなお行うは、窮の災なり、と。无妄の時代の裏に真に大妄なるは六三なり。上九はしかるに偏にこれと相応ず。六三は外に向かい正名を羨慕して「无妄」の名声を窃取す。これを憑りてなお勉めて禍を免れうる。上九に至れば、則ちすでに窮盡にして敗亡せり。
大畜卦(第二十六)
艮上,乾下。“大畜”:利貞,不家食,吉;利涉大川。《彖》曰:“大畜”,剛健篤實,輝光,日新其德。剛健者,“乾”也;篤實者,“艮”也;輝光者,二物之相磨而神明見也。“乾”不得“艮”,則素健而已矣;“艮”不得“乾”,則徒止而已矣。以止厲健,以健作止,而德之變不可勝窮也。
《大畜》卦の上体は艮(山)、下体は乾(天)である。卦辞はいう、貞に利あり。家に食わざれば吉。大川を渉るに利あり、と。《彖伝》は釈していう、《大畜》は剛健篤実にして、輝光は日にその徳を新たにす。いわゆる「剛健」は下体の乾を指し、いわゆる「篤実」は上体の艮を指し、いわゆる「輝光」はこの二種の性情が彼此切磨して、神妙光明がはじめて顯現するを言う。乾に艮なくんば、不過一味剛健なるのみ。艮に乾なくんば、亦不過一味静止なるのみ。「止」を用いて「健」を磨礪し、また「健」を用いて「止」を成全すれば、徳行はこれにより生出して変化窮尽するなし。
剛上而尚賢,能止健,大正也。“大”者,正也;謂上九也,故謂之賢。賢者見畜於上九,所以為“大畜”也。“不家食,吉”;養賢也。“利涉大川”,應乎天也。“乾”之健,“艮”之止,其德天也。猶金之能割,火之能熱也。物之相服者,必以其天。魚不畏網而畏鵜鶘,畏其天也。故“乾”在“艮”下,未有不止而為之用也。
《彖伝》は続けていう、剛は上にして賢を篤くす。能く健を止めるは大正なり、と。ここの「大」はすなわち「正」なり。上九の一爻を指す。ゆえに《彖伝》はこれを「賢」と称す。賢者は上九に畜養せられて、これをもってはじめて「大畜」と成る。《彖伝》はまたいう、卦辞の「家に食わざれば吉」は賢を養うを言い、「大川を渉るに利あり」は天に応ずるを言う、と。乾の剛健、艮の静止は、皆それらの生來して有する天性にして、好比金属が生來して物を割裂しえ、火が生來して熱を発するがごとし。万物の間に彼此能く制服するは、恃むは必ずこの種の天性なり。魚は漁網を怕れずして鵜鶘を怕るるは、怕れるは正にその天敵なり。ゆえに乾が艮の下に処るは、肯んじて止まり、肯んじて艮に用いられざるの理なし。
物之在“乾”上者,常有忌“乾”之心,而“乾”常有不服之意,“需”之上六,“小畜”之上九是也。忌者生於不足以服人爾,不足以服人而又忌之,則人之不服也滋甚。今夫“艮”自知有以畜“乾”,故不忌其健而許其進;“乾”知“艮”之有以畜我而不忌,故受其畜而為之用。“不家食”者,以“艮”為主也;“利涉大川”者,用“乾”之功也。
およそ乾の上頭に壓するものは、心中常に乾を忌惮する念を存し、乾もまた常に服せざるの心思を存す。《需》卦の上六、《小畜》卦の上九がすなわちこのごとし。忌惮の心は、自己の人を服するに足らざるより生出す。もとより人を服するに足らざるにして、また人を忌惮せば、さらば人の不服は更に厲し。いま艮は明白に己が確かに乾を畜えうる本事あるを知る。ゆえに乾の剛健を忌惮せず、かえってその上進を准許す。乾もまた明白に艮が確かに己を畜えうる本事あって並に己を忌惮せざるを知る。ゆえに甘んじてその畜養を受け、それに用いらる。いわゆる「家に食わず」は艮を主導と為し、いわゆる「大川を渉るに利あり」は乾の功用を発揮するなり。
《象》曰:天在山中,“大畜”。君子以多識前言往行,以畜其德。孔子論“乾”九二之德曰:“君子學以聚之,問以辨之。”是以知“乾”之健,患在於不學,漢高帝是也,故“大畜”之君子將以用“乾”,亦先厚其學。
《象伝》はいう、天は山の中に在り。大畜。君子は以て前言往行を多識して以て其の徳を畜む、と。孔子は《乾・文言》の裏に《乾》卦九二の徳行を論じていう、「君子は学に以て之を聚め、問に以て之を辨す」と。これにより知る、乾のごとき剛健の毛病は正に肯んじて書を読まざる上に出ず。漢高祖劉邦がすなわちこの一類なり。ゆえに《大畜》の世に処する君子は、乾の剛健の用を発揮せんと欲せば、また必ず先ず己の学問を打厚めざるべからず。
初九:有厲,利已。《象》曰:“有厲利已”,不犯災也。“小畜”之畜“乾”也,順而畜之,故始順而終反目。“大畜”之畜“乾”也,厲而畜之,故始厲而終亨。君子之愛人以德,小人之愛人以姑息。見德而慍,見姑息而喜,則過矣。初九欲進之意無已也,至於六四,遇厲而止。六四之厲,我所謂德也;使我知戒而終身不犯於災者,六四也。
初九の爻辞はいう、厲あり、已するに利あり、と。《象伝》はいう、「厲ありて已するに利あり」は災を犯さざるなり、と。《小畜》卦が乾を畜止するは、柔順の弁法を用う。ゆえに開頭は和順にして結局は夫妻反目なり。《大畜》卦が乾を畜止するは、厳厲の弁法を用う。ゆえに開頭は艱厲にして結局は亨通なり。君子が人を愛するは、徳を拿りて彼を成就するなり。小人が人を愛するは、一味に姑息遷就するなり。人の徳を以て相待するに倒れて悩怒し、人の己を姑息するに倒れて歡喜するは、則ち大錯なり。初九は一心に上進を要して止境なく、一直に六四に走り至り、艱厲に碰うてはじめて止まる。六四が初九の身上に加えたあの艱厲は、正に我が言う所の「徳」なり。我をして戒懼を知らしめ、一辈子災を犯さざらしめうるは、正に六四なり。
九二:輿說輹。《象》曰:“輿說輹”,中無尤也。“小畜”之“說輹”,不得已也,故夫妻反目。“大畜”之“說輹”,其心願之,故“中無尤”也。九三:良馬逐,利艱貞。曰閒輿衛,利有攸往。《象》曰:“利有攸往”,上合志也。三“乾”並進,故曰“良馬逐”。馬不憂其不良,而憂其輕車易道以至泛軼也,故“利艱貞”。九三,“乾”之殿也,故相與飭戒,閒習其車徒,則“利有攸往”。“上”,上九也;上利在不忌,三利在必戒。
九二の爻辞はいう、輿の輹を説く、と。《象伝》はいう、「輿の輹を説く」は中に尤なきなり、と。《小畜》卦九三の「輹を説く」は不得已に出ず。ゆえに緊接して則ち夫妻反目なり。《大畜》卦九二の「輹を説く」はしかるに自己心甘情願にして止まるなり。ゆえに「中に尤なし」という。九三の爻辞はいう、良馬逐う、艱貞に利あり。閑に輿衛を曰う、往くところ有るに利あり、と。《象伝》はいう、「往くところ有るに利あり」は上と志を合せるなり、と。乾体の三つの陽爻は一斉に上進す。ゆえに「良馬逐う」という。駕車の人は馬の好からざるを愁えず、ただ車軽路平にして走ること太速くして翻車出軌するを愁う。ゆえに「艱貞に利あり」という。九三は乾体の殿後の一爻なり。ゆえに同伴と互相に整飭戒備し、車馬徒衆を操練せねばならず。こうしてはじめて「往くところ有るに利あり」。《象伝》の裏の「上」は上九を指す。上九の好处は猜忌せざるに在り、九三の好处は必ず戒懼を知るに在り。
六四:童牛之牿,元吉。《象》曰:六四“元吉”,有喜也。六五:豶豕之牙,吉。《象》曰:六五之“吉”,有慶也。“童牛”,初九也;“牿”,角械也;童牛無所用牿然且不敢廢者,自其童而牿之,迨其壯,雖不牿可也。此愛其牛之至也。“豶豕”,羠豕也,九二之謂也。有牙而不鷙者,羠豕也,不鷙則可畜矣。“大畜”之畜乾也,始厲而終亨。初九,陽之微者也,而遂牿之,故至於九二,雖有牙而可畜也。其始牿之,其漸可畜,其終雖進之天衢可也。童而牿之,愛以德也,故“有喜”。不惡其牙而畜之,將求其用也,故“有慶”。凡物有以相德曰“喜”,施德獲報曰“慶”。孔子曰:“積善之家,必有餘慶。”
六四の爻辞はいう、童牛に牿す。元吉、と。《象伝》はいう、四の「元吉」は喜あるなり、と。六五の爻辞はいう、豶豕の牙、吉、と。《象伝》はいう、五の「吉」は慶あるなり、と。「童牛」は初九を指し、「牿」は牛角の上に套する木制の約束器具なり。小牛はもと牿を加うるを用いざるも、なお敢えて省去せず。それがなお小なるに趁りてこれに加えんと欲するなり。それが長壮するを待てば、たとい牿を加えずとも人を頂せず。これはこの頭の牛を愛護すること極処に至るなり。「豶豕」とはすなわち閹割せられたる猪にして、九二を指す。獠牙を長ずるも更に兇猛傷人せざるは、正に閹過の猪なり。兇猛ならざれば、則ち畜養すべし。《大畜》が乾体を畜止するは、開頭艱厲にして結局亨通なり。初九は陽気最も微弱の時にして、則ち早く趁りてこれに牿を加う。ゆえに九二に至れば、牙を長するも照樣畜養すべし。起先これに約束を加え、漸々としてそれは畜養せられうるに至り、最後に至ればたといこれを通天の大路に送り上ぐるも妨げなし。それが年幼なるに趁りて牿を加うるは、徳を拿りてこれを愛護するなり。ゆえに「喜あり」という。その獠牙を厭惡せずして肯んじてそれを畜養するは、後日これを用いんと要するなり。ゆえに「慶あり」という。およそ彼此徳を以て相待するを「喜」と呼び、徳を施して回報を得るを「慶」と呼ぶ。孔子は《坤・文言》の裏にいう、「善を積むの家は、必ず余慶あらん」と。
上九:何天之衢?亨。《象》曰:“何天之衢”,道大行也。“天衢”者,上之所履,而不與下共者也。德有以守之,雖以予人而莫敢受,苟無其德,雖吾不予夫將有取之者。上九之德足以自固,是以無忌於“乾”而大進之。其曰“何天之衢”者,何天衢之有,而不汝進也?夫惟以天衢進之,而“乾”大服矣。
上九の爻辞はいう、何ぞ天の衢なる、亨、と。《象伝》はいう、「何ぞ天の衢なる」は道大行なり、と。いわゆる「天衢」とは、上に居る者が自ら行い、下の人と共有せざるあの一条の通道なり。上位者もし徳行あってこれを守住れば、たといこれを人に譲るも、人もまた敢えて接受せず。もしあの徳行なくんば、たとい自己肯んじて譲らざるも、自ら人の來りて奪取するあらん。上九の徳行は足りて自ら守り自ら固くす。ゆえに乾に対して毫も猜忌なく、かえってこれを放きて大いに上進せしむ。上九が「何ぞ天の衢なる」というは、反問の一句なり。何処に更に天上の通衢有りて汝を攔住して上らしめざるならん。正にそれが天衢を拿りて乾に通行せしむるにしかば、乾もまた徹底して心服す。
頤卦(第二十七)
艮上,震下。“頤”:貞吉。觀頤,自求口實。《彖》曰:“頤,貞吉”,養正則吉也。“觀頤”,觀其所養也。謂上九。“自求口實”,觀其自養也。謂初九。天地養萬物,聖人養賢以及萬民,“頤”之時大矣哉!
《頤》卦の上体は艮(山)、下体は震(雷)である。卦辞はいう、貞なれば吉。頤を観、口実を自ら求めよ、と。《彖伝》はいう、「頤、貞吉」は養えば則ち吉なり。「頤を観る」は其の養う所を観るなり。「口実を自ら求む」は其の自ら養うを観るなり、と。ここに「養う所」と言うは上九を言う。ここに「自ら養う」と言うは初九を言う。天地は万物を養い、聖人は賢を養いて万民に及ぼす。《頤》卦の当たるこの時勢は実に大なるかな。
《象》曰:山下有雷,“頤”;君子以慎言語,節飲食。上止下動,有“頤”之象,故君子治所以養口者。人之所共知而難能者,慎言語、節飲食也。言語一出而不可復入,飲食一入而不可復出者也。
《象伝》はいう、山下に雷あり。頤。君子は以て言語を慎み飲食を節す、と。上卦の艮は静止して動かず、下卦の震は動作して已まず。正に上腭が動かざるにして下颔が開合するに似たり。これは口腮が咀嚼するの形象なり。ゆえに君子は則ちこの一張の嘴の上より功夫を下す。人人皆が為すべきを知りて、偏にまた為し難きは、正に言語を謹慎し飲食を節制のこの二事なり。話は一たび出口すれば更に收め帰りえず、東西は一たび吃り下去すれば再び吐き出しえず。
初九:舍爾靈龜,觀我朵頤,凶。《象》曰:“觀我朵頤”,亦不足貴也。“爾”,初九也;“我”,六四也。龜者不食而壽,無待於物者也。養人者,陽也;養於人者,陰也。君子在上足以養人,在下足以自養。初九以一陽而伏於四陰之下,其德足以自養而無待於物者,如龜也。不能守之而觀於四,見其可欲“朵頤”而慕之,為陰之所致也,故“凶”。所貴於陽者,貴其養人也。如養於人,則亦不足貴矣。
初九の爻辞はいう、爾の靈龜を舎て、我が朶頤を観る。凶、と。《象伝》はいう、「我が朶頤を観る」は亦た貴ぶに足らざるなり、と。爻辞の裏の「爾」は初九を指し、「我」は六四を指す。烏龜は物を食わずとも長寿を得。外物に依頼せざるなり。能く人を養うは陽に属し、人に養わるるを恃むは陰に属す。君子は上位に在れば足りて人を養い、下位に在るも足りて自ら養う。初九は一つの陽爻を以て四つの陰爻の下に潜伏す。その徳行はもと足りて自ら養いて外物に仰仗するを必とせず。正にあの烏龜のごとし。それは然るに己を守住しえず、かえって六四を張望し、相手の可口之物を咀嚼するを見て心に羨慕を生ず。これは陰爻に勾引されて過去したるなり。ゆえに「凶」。陽の貴ぶべき所以は、能く人を養うに貴ぶ。もし反りて人に養わるるを要せば、則ち貴ぶに足らず。
六二:顛頤,拂經;于丘頤,征凶。《象》曰:六二“征凶”,行失類也。從下為“顛”,過擊曰“拂”。“經”,歷也,“丘”,空也。“豫”之六五失民,而九四得之,則九四為“由豫”。“頤”之六五失民,而上九得之,則上九為“由頤”。六二有養人之位,而無養人之德,則“丘頤”也。夫“由”、“丘”二者,皆非相安者也。“丘”以其位,“由”以其德,兩立而不相忌者未之有也。六二、六三之求養於上九也,皆歷五而後至焉,夫有求於人者,必致怨於其所忌以求說,此人之情也。故六二、六三之過五也,皆擊五而後過,非有怨於五也,以悅其所求養者也。
六二の爻辞はいう、頤を顛し、經を拂いて丘頤に于る。征せば凶、と。《象伝》はいう、二の「征凶」は行いに類を失えるなり、と。下に向かい養を求むるを「顛」と呼び、路過する時に順手に一たび打つを「拂」と呼ぶ。「經」は経歷路過の意、「丘」は空虚の意なり。《豫》卦の六五は民心を失い、九四は民心を得たり。ここにおいて九四は万民の由る所の「由豫」と成る。《頤》卦の六五は民心を失い、上九は民心を得たり。ここにおいて上九は万民の由る所の「由頤」と成る。六二は能く人を養う位置を占めども、人を養う徳行なし。これがすなわち空に位を有する「丘頤」なり。「由」と「丘」のこの両者は、絶えて相安んじえず。「丘」の憑るは位置、「由」の憑るは徳行。両者は並立して互いに猜忌せざるは、従來あらず。六二・六三が上九に養を求めんと欲すれば、皆先ず六五を経由してはじめて到りうる。およそ人に求むる有るは、必ずその忌恨する対象を拿りて気を出し、以てその歡心を討う。これは人之常情なり。ゆえに六二・六三が六五を路過する時、皆先ずそれを一たび打ちてしかる後に過ぐ。並に真に六五と仇あるにあらず。ただ己が養を求むるあの一位に取悦せんがためのみ。
“由頤”者,利之所在也;“丘頤”者,位之所在也。見利而蔑其位,君子以為不義也,故曰“顛頤,拂經,于丘頤,征凶”。六二可以下從初九而求養也,然且不從而過擊五以求養於上九,無故而陵其主,故“征凶”。“征凶”者,明“顛頤”之吉也,二,陰也;五亦陰也,故稱“類”也。
「由頤」のあの一辺は実利の在る所、「丘頤」のこの一辺は名位の在る所。利の図るべきを見て名位を蔑視するは、君子はこれを不義と以為る。ゆえに六二の爻辞は「頤を顛し、經を拂き、丘頤に于りて、征せば凶」という。六二はもと下に初九に依従して養を求めえた。偏に肯んぜず、かえって六五を越えて且つ打撃し、上九に向かい養を求めんとす。縁故なく己の君主を凌犯す。ゆえに「征凶」という。「征凶」というは、正に反りて点明せんとするは、「頤を顛す」——下に初九に依従する——こそ吉なり。六二は陰爻、六五もまた陰爻。ゆえに《象伝》はそれらを「類」と称す。すなわち同類なり。
六三:拂頤,貞凶。十年勿用,無攸利。《象》曰:“十年勿用”,道大悖也。“拂頤”者,拂經于丘頤也。六二已詳言之矣,因前之辭故略,其實一也。“拂頤”之為不義,二與三均也。然二有初可從,而三不得不從上也,故曰“貞凶”。雖貞於其配,而於義為凶。“由頤”之興,“丘頤”之廢,可坐而待也,其勢不過十年,盍待其定而從之?故戒之曰“十年勿用”。用於十年之內,則“大悖”之道也。夫擊其主而悅其配,雖其配亦不義也,故“無攸利”。
六三の爻辞はいう、頤を拂く、貞なりとも凶。十年用いる勿れ、利ならざるなし、と。《象伝》はいう、「十年用いる勿れ」は道大いに悖るなり、と。いわゆる「頤を拂く」とは、すなわち六二の爻辞の裏に言う「經を拂きて丘頤に于る」なり。六二のあそこに已に詳細に講じた。ここは前文に承接すれば則ち簡に從う。実は一事なり。「頤を拂く」の不義たるは、六二と六三とは一樣なり。ただ六二はなお初九ありて依従すべし。六三は然るに上九に依従せざるを得ず。ゆえに「貞凶」という——たとい己の配偶の上九に対して忠貞と算うも、道義の上に講じてなお凶なり。「由頤」の興起、「丘頤」の廃黜は、坐して待ち得る所にして、あの形勢は頂多十年に過ぎず。何ぞそれが定局するを待ちてしかる後に依従せざらんや。ゆえに告誡して「十年用いる勿れ」という。もし十年の内に急ぎて施為有らんとすれば、便ち「大悖」の路数なり。己の君主を打撃して己の配偶に讨好するは、こ様の配偶もまた義と算うに足らず。ゆえに「利ならざるなし」という。
六四:顛頤,吉;虎視耽耽,其欲逐逐,無咎。《象》曰:“顛頤”之“吉”,上施光也。四於初為上。自初而言之,則初之見養於四為凶。自四言之,則四之得養初九為吉。初九之剛,其始若虎之“眈眈”而不可馴也,六四以其所欲而致之,“逐逐”焉而來,六四之所“施”,可謂“光”矣。
六四の爻辞はいう、頤を顛す、吉。虎視耽耽として、其の欲は逐逐たり。咎なし、と。《象伝》はいう、「頤を顛す」の吉は上の施しなり、と。六四は初九に相對して上位に処す。初九の一辺より看れば、初九が六四に養わるるは凶なり。六四の一辺より看れば、六四が能く初九を養い住むは却りて吉なり。初九のあの剛強は、起先は老虎の眼を瞪えたるがごとく馴服し難し。六四はそれの欲するものを拿りて之を招引すれば、それは便ち一步緊く一步と走り来る。六四の施すこの恩養は、「光大」と言うべし。
六五:拂經,居貞,吉。不可涉大川。《象》曰:“居貞”之“吉”,順以從上也。六五既失其民,為六二、六三之所拂而過也,慍而起爭之,則亡矣。故以順而從上,“居貞”為“吉”。失民者不可以犯難,故曰“不可涉大川”。
六五の爻辞はいう、經を拂く、貞に居れば吉、大川を渉るべからず、と。《象伝》はいう、「貞に居る」の吉は上に順うなり、と。六五は已に己の民衆を失い、六二・六三に順手に一たび打たれて越え去られたり。この時もし悩怒して起こり彼らと相争えば、則ち覆亡せん。ゆえにただ柔順にして上九に跟從し、貞に居り安んじてはじめて吉を得。已に民心を失えし人は冒険犯難に往くべからず。ゆえに「大川を渉るべからず」という。
上九:由頤,厲,吉。利涉大川。《象》曰:“由頤厲吉”,大有慶也。莫不由之以得養者,故曰“由頤”。有其德而無其位,故“厲”而後“吉”。無位而得眾者,必以身犯難,然後眾與之也。
上九の爻辞はいう、頤に由る、厲、吉。大川を渉るに利あり、と。《象伝》はいう、「頤に由る、厲、吉」は大いに慶あるなり、と。天下に彼を恃って供養を得ざる者はなし。ゆえに「由頤」と呼ぶ。上九は人を養う徳行有るも人を養う名位なし。ゆえに先ず一番の危厲を経歷して、しかる後に吉を得。名位なくして衆心を得る人は、必ず親身に冒険犯難に往きて、衆人はじめて肯んじて真心に彼に帰附す。
大過卦(第二十八)
兌上,巽下。“大過”:棟橈,利有攸往,亨。《彖》曰:“大過”,大者過也。“棟撓”,本末弱也。剛過而中,巽而說行,“利有攸往”,乃亨。二五者,用事之地也。陽自內出,據用事之地而擯陰於外,謂之“大過”,大者過也。陰自外入,據用事之地而囚陽於內,謂之“小過”,小者過也。“過”之為言,偏盛而不均之謂也,故“大過”者,君驕而無臣之世也。《易》之所貴者,貴乎陽之能御陰,不貴乎陽之陵陰而蔑之也。人徒知夫陰之過乎陽之為禍也,豈知夫陽之過乎陰之不為福也哉!
《大過》卦の上体は兌(沢)、下体は巽(木・風)である。卦辞はいう、棟橈、往くところ有るに利あり、亨、と。《彖伝》はいう、大過は大なる者の過なり。棟橈は本末弱なり。剛過して中なり、巽にして説びて行えば、往くところ有るに利あり。乃ち亨る、と。九二・九五は当権用事の位置なり。陽気は内裏より生出し、当権の位置を占住して陰を外面に排斥す。これを「大過」と呼ぶ。すなわち大なる者の過盛なり。陰気が外面より侵入し、当権の位置を占住して陽を裏頭に囚禁するを「小過」と呼ぶ。すなわち小なる者の過盛なり。いわゆる「過」とは、一辺偏盛にして彼此不均を言う。ゆえに《大過》の写す所は、正に国君驕横にして臣子なきに等しき時代なり。《周易》の看重する所は、陽の能く陰を統御するに在りて、陽の陰を欺凌・蔑視するに在らず。人々はただ陰が陽を壓過すれば禍を招くを知るのみ、あに思い及ばん、陽が陰を壓過すも同じく福気を帯來せざるを。
立陰以養陽也,立臣以衛君也,陰衰則陽失其養,臣弱則君棄其衛,故曰:“大過,大者過也。棟橈,本末弱也。”四陽者,棟也;初、上者,棟之所寄也。弱而見擯,則不任寄矣,此棟之所以橈也。“棟橈”,吾將壓焉,故“大過”之世,利有事而忌安居。君侈巳甚,而國無憂患,則上益張而下不堪,其禍可待也。故“利有攸往”,所利於往者,利其有事也,有事則有患,有患則急人,患至而人急,則君臣之勢可以少均。故曰:“剛過而中,巽而說行,利有攸往,乃亨。”
陰を設立するは、陽を養い住めんがため。臣子を設立するは、君主を護衛せんがため。陰が一たび衰弱すれば、陽は供養を失う。臣子が一たび軟弱なれば、君主は等しく自ら屏障を扔掉したるなり。ゆえに《彖伝》はいう、「大過は大なる者の過なり。棟橈は本末弱なり」と。卦中の四つの陽爻は棟梁にして、初六と上六の二つの陰爻は棟梁の両頭が擱放する処なり。両頭はすでに軟弱にしてまた排斥せらるれば、あの棟梁を承るに堪えず。これが正に棟梁弯曲の所以なり。棟梁一たび彎けば、我は則ち下面に壓されん。ゆえに《大過》の時代に処しては、事あるに利あり、最も安逸無事を忌避す。国君が奢侈して過分に過ぎ、国家は偏にまた憂患なければ、上頭は愈々張揚し、下頭は愈々受け堪えず。禍事もまた待ち来らん。ゆえに「往くところ有るに利あり」という——いわゆる前往に利ありは、利は事あるに在り。事あれば憂患有り、憂患有れば人を用うるを急ぐ。憂患臨頭して人を用うる吃緊なれば、君臣の間の勢位ははじめて稍稍拉平しうる。ゆえに《彖伝》はいう、「剛過して中なり、巽にして説びて行えば、往くところ有るに利あり、乃ち亨る」と。
“大過”之時大矣哉!《象》曰:澤滅木,“大過”;君子以獨立不懼,遯世無悶。初六宜“不懼”,上六宜“遯”。初六:藉用白茅,無咎。《象》曰:“藉用白茅”,柔在下也。“白茅”,初六也。所藉者,九二也。茅之為物,賤而不足收也,然吾有所甚愛之器,必以藉之,非愛茅也,愛吾器也。初之於二,強弱之勢固相絕矣,其存亡不足以為損益,然二所以得安養於上者,以有初之藉也。棄茅而不收,則器措諸地;棄初而不錄,則二親其勞矣。故孔子曰:“茅之為物薄,而用可重也。”
《大過》の時大なるかな。《象伝》はいう、沢は木を滅す。大過。君子は以て独立して懼れず、世を遯ても悶えざるなり、と。この両句の裏、「懼れず」と言うは初六を言い、「世を遯る」と言うは上六を言う。初六の爻辞はいう、藉するに白茅を用う。咎なし、と。《象伝》はいう、「藉するに白茅を用う」は柔は下に在るなり、と。「白茅」は初六を指し、墊かるる器物は九二を指す。茅草この東西は低賤にして、もと收藏するに値せず。しかるに我は一件の極めて珍愛する器皿有り。則ち必ずこれを拿りて墊かざるべからず。並に茅草を愛するにあらず、我が器皿を愛するなり。初六と九二とを相比せば、強弱は懸絶の極処に至り、初六は在ると不在とのは損益に関わらざるに似たり。然るに九二が上面にて安穩として人の供養を受けうる所以は、正に下面に初六の墊くあるによる。茅草を抛開して收めざれば、器皿はただ地上に擱るのみ。初六を抛開して用いざれば、九二は自ら往きてあの労苦を受くるを得。ゆえに孔子は《繋辞伝》の裏にいう、「茅の藉する所は薄なれど、重く用いうべきなり」と。
九二:枯楊生稊,老夫得其女妻,無不利。《象》曰:“老夫”“女妻”,過以相與也。卦合而言之,則“大過”者,君驕之世也;爻別而觀之,則九五當驕,而九二以陽居陰,不驕者也。盛極將枯,而九二獨能下收初六以自助,則“生梯”者也。“老夫”,九二也;“女妻”,初六也。凡人之情,夫老而妻少,則妻倨而夫恭。妻倨而夫恭,則臣難進而君下之之謂也,故“無不利”。“大過”之世,患在亢而無與,故曰:“老夫女妻,過以相與也。”
九二の爻辞はいう、枯楊に稊を生ず。老夫は其の女妻を得たり。利ならざるなし、と。《象伝》はいう、老夫に女妻は過ぎて以て相與するなり、と。整卦を合して看れば、《大過》は国君驕横の時代なり。各爻を分かちて看れば、驕横なるべきは九五にして、九二は陽爻を以て陰位に居る。正に驕横せざるあの一つなり。盛の極処はもと枯萎すべし。ただ九二のみ肯んじて下に初六を収納して己を幇助せしむ。これがすなわちいわゆる「稊を生ず」——枯楊が重ねて芽を抽くなり。「老夫」は九二を指し、「女妻」は初六を指す。人之常情に按すれば、丈夫年老にして妻子年輕なれば、妻子は則ち傲慢にして丈夫は則ち恭敬す。妻子傲慢にして丈夫恭敬は、朝廷の上に放せば、正に臣子の進用し難くして君主が肯んじて己を屈して人に下るなり。ゆえに「利ならざるなし」。《大過》の時代は、毛病は正に高亢孤立にして人の相與するなき上に出ず。ゆえに《象伝》はいう、「老夫女妻は、過ぎて以て相與するなり」と。
九三:棟橈,凶。《象》曰:“棟橈”之“凶”,不可以有輔也。九四:棟隆,吉;有它,吝。《象》曰:“棟隆”之“吉”,不橈乎下也。卦合而言之,則“本末弱”,“棟橈”者也。爻別而觀之,則上六當“棟橈”,初六弱而能立,以遇九二不橈者也。初、上非棟也,棟之所寄而已。所寄在彼,而“隆”、“橈”見於此,初六不“橈”於下,則九四“棟隆”;上六不足以相輔,則九三之“棟橈”以其應也。九四專於其應則吉,有他則吝矣。“棟”之“隆”也,非初之福,而四享其利。及其“橈”也,上亦不與,而三受其名。故“大過”之世,智者以為陽宜下陰,而愚者以為陰宜下陽也。
九三の爻辞はいう、棟橈、凶、と。《象伝》はいう、「棟橈」の凶は輔に弱ければなり、と。九四の爻辞はいう、棟隆、吉、他あれば吝、と。《象伝》はいう、「棟隆」の吉は橈は下ならざるなり、と。整卦を合して看れば、「本末弱なり」にして棟梁弯曲す。各爻を分かちて看れば、「棟橈」なるべきは上六にして、初六は弱といえども立ち得住る。それが九二に遇上したるによる。ゆえに彎けず。初六・上六は本身棟梁にあらず。ただ棟梁の両頭が擱放する処のみ。擱放する処はあちらに在りて、隆起あるいは弯曲はこちらに顯る。初六が下に在りて彎かざれば、九四は則ち「棟隆」なり。上六が輔助するに足らざれば、九三は則ち「棟橈」なり。九三は上六と相应するに由る。九四が一に己の応ずる所の初六を専守すれば吉、別に他求あれば憾惜あり。棟梁の「隆」は、並に初六の自らの福分にあらざれど、好处は九四に由りて享受せらる。棟梁の「橈」に至れば、上六もまた同じくその累を受けざるも、悪名は九三に由りて担わる。ゆえに《大過》の時代にて、明智の人は陽が陰の下に屈身すべしと以為り、愚昧の人のみ陰が陽の下に屈身すべしと以為る。
九五:枯楊生華,老婦得其士夫,無咎無譽。《象》曰:“枯楊生華”,何可久也?“老婦”“士夫”,亦可醜也。盛極將枯,而又生華以自耗,竭而不能久矣。“稊”者,顛而復孽,反其始也;“華”者,盈而畢發,速其終也。九五以陽居陽,汰侈已甚,而上六乘之,力不能正,只以速禍。故曰:“老婦得其士夫,無咎無譽。”“老婦”,上六也;“士夫”,九五也。夫壯而妻老,君厭其臣之象也,故教之以“無咎無譽”,以求免於斯世。“咎”,所以致罪;“譽”,所以致疑也。
九五の爻辞はいう、枯楊に華を生ず。老婦は其の士夫を得たり。咎なし誉なし、と。《象伝》はいう、「枯楊に華を生ず」は何ぞ久しきを得ん。「老婦士夫」は亦た醜るべきなり、と。盛の極処はもと枯萎すべきに、偏にまた花を開きて自己を耗損す。元気竭すれば、自然に長久ならず。「稊」は根部より倒下したる後に重ねて萌蘖し、其の開端に回帰するなり。「華」は余力を一次に涨満して全部発泄するなり。其の終結を加快す。九五は陽爻を以て陽位に居り、驕奢は過頭に過ぐ。上六はその頭上を凌駕するも、これを匡正する力量なし。ただ禍乱の到来を加速しうるのみ。ゆえに「老婦其の士夫を得たり、咎なし誉なし」という。「老婦」は上六を指し、「士夫」は九五を指す。丈夫年壯にして妻子年老は、これは君主が己の臣子を厭棄するの形象なり。ゆえに上六に「咎なし誉なし」を以て自処するを教え、以てこ様の世道の裏に免禍を求めしむ。咎あれば則ち罪責を招来し、誉あれば則ち猜疑を招来す。
上六:過涉,滅頂:凶,無咎。《象》曰:“過涉”之“凶”,不可咎也。“過涉”至於“滅頂”,將有所救也,勢不可救,而徒犯其害,故凶。然其義則不可咎也。
上六の爻辞はいう、涉りて頂を滅す。凶、咎なし、と。《象伝》はいう、「涉りて頂を滅す」の凶は咎むべからざるなり、と。涉水して一直に頂を没するに至るは、何人かを救わんと欲するによる。形勢は已に救いえず。徒らに自ら禍害を蒙受す。ゆえに凶という。然るに道義の上に講じて、この事は彼を責むべからざるなり。
坎卦(第二十九)
坎上,坎下。習“坎”。“坎”,險也。水之所行,而非水也。惟水為能習行於險,其不直曰“坎”,而曰“習坎”,取於水也。有孚,維心,亨。行有尚。《彖》曰:“習坎”,重險也,水流而不盈。險,故流;流,故不盈。
《坎》卦の上体は坎(水)、下体もまた坎にして、卦名は「習坎」と呼ぶ。「坎」はすなわち険陷にして、水の流経する処なり。本身は並に水にあらず。ただ水のみが能く反復して険陷の裏に通行するを練習す。ゆえにこの一卦は直に「坎」と呼ばずして「習坎」と呼ぶ。取義は正に水に在り。卦辞はいう、孚あり、心を維す。亨。行けば尚あらん、と。《彖伝》はいう、「習坎」は重険なり。水は流れて盈せず、険を行きて其の孚を失わざるなり、と。正に険あるにしかば、水ははじめて前に流る。正に前に流らんと要するにしかば、従來積満せず。
行險而不失其信。萬物皆有常形,惟水不然。因物以為形而已。世以有常形者為信,而以無常形者為不信。然而方者可斲以為圓,曲者可矯以為直,常形之不可恃以為信也如此。今夫水,雖無常形,而因物以為形者,可以前定也。是故工取平焉,君子取法焉。惟無常形,是以迕物而無傷。惟莫之傷也,故行險而不失其信。由此觀之,天下之信,未有若水者也。
《彖伝》はいう、険を行きて其の孚を失わざるなり、と。万物は皆固定の形状有り。ただ水のみ然らず。それはただ遇う所のものに依りて形を成すのみ。世人は固定の形状有るを信ずべしと算え、固定の形状なきを信ずべからずと算う。然るに方なるは削削して円と成しえ、彎なるは矯正して直と成しえ。見れば固定の形状は根本的に靠り住むべからず。「信」の憑据と為すべからず。いま水を看れば、固定の形状なしといえども、それが物に依りて形を成すこの一点は、事先に全く断じ准るべし。ゆえに工匠はこれを拿りて水平を取り、君子はこれを拿りて法則を取る。正に固定の形状なきにしかば、それは何れに触るとも損傷を受けず。正に損傷を受けざるにしかば、能く険難の中を行きて信実を失わず。これを見れば、天下の最も信実を講ずるは、水に比ぶるものなし。
“維心,亨”;乃以剛中也。所遇有難易,然而未嘗不志於行者,是水之心也。物之窒我者有盡,而是心無已,則終必勝之。故水之所以至柔而能勝物者,維不以力爭而以心通也。不以力爭,故柔外;以心通,故“剛中”。行有尚,往有功也。“尚”,配也。方園曲直,所遇必有以配之。故無所往而不有功也。
《彖伝》はいう、「心を維す、亨」は行いに剛中あるなり、と。遇う所の境況に難易有るも、然るに始終前行の志を改めざるは、正に水の心なり。我を堵塞するものは総じて尽頭有り。而もこの走らんと欲する心は止境なし。最終は必ずそれに勝ち越しえ。ゆえに水は極めて柔弱にして能く万物に勝つ。ただそれが蛮力を恃って争わずして、心志を恃りて貫通するに在り。蛮力を恃って争わざれば、ゆえに外表は柔なり。心志を恃りて貫通すれば、ゆえに内裏は「剛中」なり。《彖伝》はまたいう、「行けば尚あらん」は往けば功有るなり、と。「尚」は相配するの意なり。方の、円の、彎の、直の、水の遇う所の種種の形状は、それは皆必ずこれと相配する法あり。ゆえに何処に走り至るとも功効を收めうる。
天險不可升也:地險山川丘陵也;王公設險以守其國。朝廷之儀,上下之分,雖有強暴而莫敢犯,此“王公”之“險”也。險之時用大矣哉!《象》曰:水至,“習坎”。君子以常德行,習教事。事之待教而後能者,“教事”也。君子平居“常”其“德行”,故遇險而不變。“習”為“教事”,故遇險而能應。
《彖伝》はいう、天の険は升るべからざるなり。地の険は山川丘陵なり。王公は険を設けて以て其の国を守る、と。朝廷の礼儀、上下の名分は、たとい強横の徒あっても敢えて冒犯せず。これがすなわち「王公」の設くる所の「険」なり。険の時勢の上の功用は実に大なるかな。《象伝》はいう、水洊り至る。習坎。君子は以て徳を常にし、教事を習う、と。およそ教習を経てはじめて為し來る事は、則ち「教事」と呼ぶ。君子は平日に己の徳行を常あらしむ。ゆえに険難に遇うも改変せず。平日に政教の事を反復演練す。ゆえに険難に遇うも応付し來るを得。
初六:習坎,入于坎窞,凶。《象》曰:“習坎”入坎,失道凶也。六爻皆以險為心者也。夫苟以險為心,則大者不能容,小者不能忠;無適而非,寇也。惟相與同患,其勢有以相待,然後相得而不叛。是故居“坎”之世,其人可與同處患,而不可與同處安。九二、九五,二險之不相下者也;而六三、六四,其蔽也。夫有事於敵,則蔽者先受其害。故九二之於六三,九五之於六四,皆相與同患者也,是以相得而不叛,至於初、上,處內外之極,最遠於敵而不被其禍,以為足以自用而有餘,是以各挾其險以待其上。初不附二,上不附五,故皆有“失道”之“凶”焉。君子之習險,將以出險也。習險而入險,為寇而已。
初六の爻辞はいう、習坎、坎窞に入る。凶、と。《象伝》はいう、「習坎」に入るは道を失えり。凶、と。この一卦の六爻は、険詐を心中に存さざる一爻なし。すでに一心是険なれば、さらば上位に居るは人を容れえず、下位に居るは忠を尽しえず。何処に走り至るとも敵寇なり。ただ彼此共に患難に処し、形勢上互いに依靠せざるべからざるに非ざれば、しかる後に処し來りて背叛せず。ゆえに《坎》の時代に処して、これらの人は患難を同じくすべしとも、安楽を共にすべからず。九二と九五は、両重の険陷の中に互いに譲らざる両方なり。六三と六四は、則ち各自の屏障なり。一たび敵人に対して挙動有れば、屏障を為すは先にその害を受く。ゆえに九二が六三に対し、九五が六四に対するは、皆患難を共にするの関係なり。よって処し來りて背叛せず。初六と上六に至れば、内外両卦の最末端に処し、敵人より最も遠く、また禍害を受けず。自ら己を憑りて綽綽として余裕ありと以為り、ここにおいて各々険詐を挟みて上面の人に対付す。初六は九二に依附するを肯んぜず、上六は九五に依附するを肯んぜず。ゆえに皆「道を失えり」の「凶」を落とす。君子が険難を演習するは、険難より走出せんがため。険難を演習してかえって険難に陥入れば、則ちただ敵寇を為すのみ。
九二:坎有險,求小得。《象》曰:“求小得”,未出中也。“險”,九五也;“小”,六三也。九二以險臨五,五亦以險待之。欲以求五,焉可得哉?所可得者,六三而已。二所以能得三者,非謂其德足以懷之,徒以二者皆未出於險中,相待而後全故也。
九二の爻辞はいう、坎に険あり、求めれば小さく得、と。《象伝》はいう、「小さく求めて得」るは未だ中を出でざるなり、と。爻辞の裏の「険」は九五を指し、「小」は六三を指す。九二は険詐を拿りて九五に対付し、九五もまた険詐を來りてこれに対付す。これを憑りて九五を求得せんと欲せば、何処に求め得らん。求め得るは不過六三のみ。九二が六三を得うる所以は、並にその徳行が相手を感懐するに足ると言うにあらず。不過二つとも未だ険陷を脱せず、彼此依靠に非ざれば保全しえざるのみ。
六三:來之坎坎,險且枕,入于坎窞,勿用。《象》曰:“來之坎坎”,終無功也。“之”,往也;“枕”,所以休息也。來者“坎”也,往者亦“坎”也。均之二“坎”,來則得主,往則得敵。遇險於外,而休息於內也。故曰“險且枕”。六三知其不足以自用,用必無功,故退入於“坎”以附九二,相與為固而已。
六三の爻辞はいう、之るに坎坎、険且つ枕す。坎窞に入る。用いる勿れ、と。《象伝》はいう、「之るに坎坎」は終に功なきなり、と。「之」は往くの意、「枕」は歇息倚靠するに用うるものなり。退り帰るは坎、走り出づるもまた坎。同じく両重の坎にして、退り帰ればなお依附すべき主人を覓え得、走り出づればただ敵人に碰上するのみ。外に在りて険難に遇えば、則ち内卦に退りて歇息す。ゆえに「険且つ枕す」という。六三は己の力量が独りで一面に当たるに足らざるを明白に知る。硬く施為せんと欲すも必ず功なし。ゆえに坎中に退りて九二に依附し、二つ抱きて一団と成りて穩固を求むるのみ。
六四:樽酒,簋貳,用缶,納約自牖;終無咎。《象》曰:“樽酒簋貳”,剛柔際也。“樽酒,簋貳,用缶”,薄禮也。“納約自牖”,簡陋之至也。夫同利者不交而歡,同患者不約而信。四非五無與為主,五非四無與為蔽。饋之以薄禮,行之以簡陋,而終不相咎者,四與五之際也。
六四の爻辞はいう、樽酒、簋貳、缶を用い、約を牖より納る。終に咎なし、と。《象伝》はいう、「樽酒簋貳」は剛柔際なり、と。「樽酒、簋貳、缶を用う」は極めて菲薄の礼、「約を牖より納る」は簡陋の極処なり。要するに知るべし、利害相同の人は交往せずとも自然に投合し、患難相同の人は立約せずとも自然に互信す。六四は九五を離れば則ち依托すべき主人なし。九五は六四を離れば則ち遮擋すべき屏障なし。送るは菲薄の礼、行うは簡陋の儀節、最後は誰も誰を責めず。恃む所は正に六四と九五とのこの一層の交接の情分なり。
九五:坎不盈,祗既平,無咎。《象》曰:“坎不盈”,中未大也。“祗”,猶言適足也。九五可謂大矣,有敵而不敢自大,故“不盈”也。“不盈”,所以納四也。盈者人去之,不盈者人輸之。故不盈,適所以使之“既平”也。
九五の爻辞はいう、坎盈せず、祗既に平なり。咎なし、と。《象伝》はいう、「坎盈せず」は中にして未だ大ならざるなり、と。「祗」はすなわち「恰好够」の意なり。九五はもと大と算えうべし。ただ強敵在るに由り、敢えて大に自居せず。ゆえに「盈せず」。「盈せず」は、正に六四を容納せんがため。装満せられたるは、人は則ちこれを避く。未だ装満せざるは、人は則ち裏に向かい傾注す。ゆえに「盈せず」は、恰好としてそれをして終に「既平」ならしめうる弁法なり。
上六:係用徽纆,寘于叢棘,三歲不得,凶。《象》曰:上六失道,凶三歲也。夫有敵而深自屈以致人者,敵平則汰矣。故九五非有德之主也。無德以致人,則其所致者皆有求於我者也。上六維無求於五,故“徽纆”以“繫”之,“叢棘”以固之。上六之所恃者險爾,險窮則亡,故“三歲不得,凶”也。
上六の爻辞はいう、徽纆を以て係し、叢棘に寘き、三歳にして得ず。凶、と。《象伝》はいう、上六は道を失えり。凶は三歳なり、と。およそ強敵の当前あるによりてはじめて深く己を屈して人を招攬するは、敵人が一たび平定すれば則ち驕縦に起こる。ゆえに九五は並に真に徳行あるの一位の君主にあらず。徳行なくして人を招攬せば、さらば彼に招き來られたるも、皆彼に求むる有る人なり。ただ上六のみ九五に対して一の求むる所なし。ゆえに九五は則ち繩索を拿りてこれを捆縛し、荆棘を拿りてこれを圍死す。上六の倚仗する所は不過険詐のみ。険詐は尽頭に用いれば則ち覆亡せん。ゆえに「三歳にして得ず、凶」。
離卦(第三十)
離上,離下。“離”。火之為物,不能自見,必麗於物而後有形。故“離”之象,取於火也。利貞,亨。畜牝牛吉。《彖》曰:“離”,麗也。日月麗乎天,百穀草木麗乎土。言萬物各以其類麗也。
《離》卦の上体は離(火)、下体もまた離にして、卦名は則ち「離」と呼ぶ。火こ様の東西は、自ら己を顯出しえず、必ず別の物体に附着してはじめて形状の見ゆる有り。ゆえに《離》卦は火に取象す。卦辞はいう、貞に利あり、亨。牝牛を畜すれば吉、と。《彖伝》はいう、離は麗なり。日月は天に麗り、百穀草木は土に麗る、と。これは万物が各々自らの種類に按して附麗に往くを言う。
重明以麗乎正,乃化成天下;柔麗乎中正,故“亨”,是以“畜牝牛吉”也。六麗:二、五是柔麗中正也。物之相麗者,不正則易合而難久,正則難合而終必固。故曰“利貞,亨”。欲知其所畜,視其主。有是主,然後可以畜是人也。有其人而無其主,雖畜之不為用。故以柔為主,則所畜者,惟牝牛為吉。《象》曰:明兩作,“離”;大人以繼明照于四方。火得其所附,則一炬可以傳千萬;明得其所寄,則一耳目可以盡天下,天下之續吾明者眾矣。
《彖伝》はいう、明を重ねて正に麗るは、乃ち化成して天下なり。柔は中正に麗る。ゆえに亨る。以て牝牛を畜すれば吉なり、と。全卦の六爻の附麗の中にて、六二・六五のこの二爻は正に柔にして中正に附麗す。物と物と相附麗するに、正ならざるは凑合し易くして持久し難く、端正なるは凑合し難くして終に牢固なり。ゆえに卦辞は「貞に利あり、亨」という。要するに何を畜養しうるかを知らんには、先ず事を主るは誰かを看よ。こ様の主人ありてはじめてこ様の人を畜養しえ。こ様の人ありて相称の主人なくんば、たとい養うとも用場に派せず。すでにこの一卦は柔順を以て主と為せば、さらばその畜養する所は、ただ母牛のみ吉なり。《象伝》はいう、明は両作なり。離。大人は以て明を継きて四方を照らす、と。火は附着すべきものを覓え得れば、一支の火把は千万支に伝ええ。明德は寄托すべき人を覓え得れば、一双の耳目は遍く天下を知りえ、天下にて我がこの光明を接続する人もまた多く起こらん。
初九:履錯然,敬之,無咎。《象》曰:“履錯”之“敬”,以辟咎也。六爻莫不以相附離為事。而火之性災上者也,故下常附上。初九附六二者也,以柔附剛者,寧倨而無諂;以剛附柔者,寧敬而無瀆。瀆其所附,則自棄者也。故初履聲錯然敬之,以闢相瀆之咎。
初九の爻辞はいう、履錯然たり、之を敬せば咎なし、と。《象伝》はいう、「錯」の「敬」は以て咎を避くるなり、と。《離》卦の六爻は、互いに附麗するを務めと為さざる一爻なし。火性は上に燃ゆ。ゆえに下面のは常に上面のに附着に往く。初九の附する所は六二なり。柔順を以て剛強に附するは、寧ろ倨傲に顯れても、諂媚する勿れ。剛強を以て柔順に附するは、寧ろ恭敬に過ぎても、軽慢する勿れ。己の附麗する対象を軽慢するは、それは自暴自棄なり。ゆえに初九は己の歩脚の雑沓を一たび聴聞すれば、赶紧して恭敬に起こり、以て軽慢の招来する咎害を避くるを好む。
六二:黃離,元吉。《象》曰:“黃離元吉”,得中道也。“黃”,中也。陰不動而陽來附之,故“元吉”。九三:日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。《象》曰:“日昃之離”,何可久也。火得其所附則傳,不得其所附則窮。初九之於六二,六五之於上九,皆得其所附者以陰陽之相資也。惟九三之於九四,不得其傳而遇其窮,如日之昃,如人之耋也。君子之至此,命也。故“鼓缶而歌”,安以俟之。不然,諮嗟而不寧,則凶之道也。
六二の爻辞はいう、黄離、元吉、と。《象伝》はいう、「黄離元吉」は中道を得るなり、と。「黄」は居中の色なり。陰爻は安処して動かず、陽爻は自ら前來りて依附す。ゆえに「元吉」。九三の爻辞はいう、日昃の離、缶を鼓して歌わざれば、則ち大耋の嗟ならん。凶、と。《象伝》はいう、「日昃の離」は何ぞ能く久しからんや、と。火は附着すべきものを覓え得れば則ち伝え下りえ、覓え得え得ざれば則ち尽頭に走り至る。初九が六二に対し、六五が上九に対するは、皆附麗すべき対象を覓え得たり。陰と陽とが互相に憑借しうるに由る。ただ九三が九四に対するのみ、二つとも陽爻にして、伝え下りえずして正に窮盡に碰上す。好比太陽の偏西、好比人の暮年に到るがごとし。君子がこの歩みに走り至るは、それは命なり。ゆえにただ「缶を鼓して歌う」を管して、安然としてそれを待つ。然らざれば、声を唉して気を嘆き心神安ならず、それは正に凶を取るの路数なり。
九四:突如其來如,焚如,死如,棄如。《象》曰:“突如其來如”,無所容也。九三無所附,九四人莫附之,皆窮者也。然九三之窮,則諮嗟而已;九四見五之可欲,而不度其義之不可得,故其來“突如”,其炎“焚如”。六五拒而不納,故窮而無所容。夫四之慾得五,是與上九爭也,而上九,“離”之王公也。是以死而眾棄之也。
九四の爻辞はいう、突如として、其の來ること焚如、死如、棄如なり、と。《象伝》はいう、「突如として其の來る」は容る所なきなり、と。九三は附麗すべき対象なく、九四は人の肯んじて來りてこれに附麗するなし。二つとも尽頭に走り至る。ただ九三の窮は、ただ声を唉して気を嘆くのみ。九四は然るに六五の可欲なるを見て、また道義に按すれば根本的に得べからざるを量らず。ゆえにその來勢は「突如」、気焔は「焚如」。六五はこれを拒絶して肯んじて接納せず。ここにおいてそれは窮極にして容る所なし。九四が六五を得んと要するは、則ち上九と相争うなり。而も上九は《離》卦の裏の王公なり。ゆえに九四は終に身死して衆人に拋棄せらる。
六五:出涕沱若,戚嗟若,吉。《象》曰:六五之吉,離王公也。“王公”,上九也。六五上附上九,而九四欲得之。故“出涕”、“戚嗟”,以明不貳也。六五不貳於四,則上九離之矣,故吉。
六五の爻辞はいう、涕を出し沱若として、嗟若として憂え嘆く。吉、と。《象伝》はいう、六五の吉は王公に麗るなり、と。「王公」は上九を指す。六五は上に向かい上九に附麗するも、九四は偏にそれを得んと要す。ゆえにそれは「涕を出し」「戚嗟」して、以て己が絶えて二心なきを表明す。六五が九四に対して二心を生を生ぜざれば、上九もまたそれと相附麗す。ゆえに吉。
上九:王用出征,有嘉折首,獲匪其醜,無咎。《象》曰:“王用出征”,以正邦也。凡在下者,未免離於人也。惟上九離人,而不離於人。故其位為王,其德可以正人,各安其所離矣。而有亂群者焉,則王之所征也。“嘉”者,六五也。非其類者,九四也。六爻皆無應,故近而附之者得稱“嘉”也。其嘉之所以能克其非類者,以上九與之也。
上九の爻辞はいう、王用ひて出征し、嘉あらんとし、首を折る。匪其の醜を獲たり。咎なし、と。《象伝》はいう、「王用ひて出征する」は以て邦を正すなり、と。およそ下位に処するは、総じて免れず人に附麗に往かざるべからず。ただ上九のみ人をして来りて己に附麗せしめて、己は人に附麗するを必とせず。ゆえにその位置は王にして、その徳行は足りて人を匡正し、各爻をして皆自らの附麗する対象に安んぜしむ。もし群類を攪乱するあれば、それは則ち王の征伐する所なり。爻辞の裏の「嘉」は六五を指し、「其の類にあらず」は九四を指す。《離》卦の六爻は彼此皆正応なし。ゆえに靠れ近く依附して來れば、則ち「嘉」と称すべし。六五この「嘉」があの同類にあらざる九四に戦勝しうる所以は、上九がその一辺に立つに由る。
《東坡易傳》卷之四
咸卦(第三十一)
兌上,艮下。“咸”:亨,利貞。取女吉。《彖》曰:“咸”,感也。柔上而剛下,二氣感應以相與。止而說,男下女,是以“亨,利貞,取女吉也”。下之而後得,必貞者也。取而得貞,取者之利也。天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平。觀其所感,而天地萬物之情可見矣!情者,其誠然也。“雲從龍,風從虎”,無故而相從者,豈容有偽哉!《象》曰:山上有澤,“咸”。君子以虛受人。
《咸》卦の上体は兌(沢・少女)、下体は艮(山・少男)である。卦辞はいう、亨、貞に利あり、女を取るに吉、と。《彖伝》はいう、「咸」は感なり。柔は上りて剛は下り、二気感応して以て相與す。止りて説ぶ、男は女の下なり。以て「亨、貞に利あり、女を取るに吉なり」、と。先ず肯んじて己を屈して人に下りてしかる後に求めえば、求め得るは必ず貞正の女子なり。妻を取りて貞正を取り得るは、正に求娶する者の占める便宜なり。《彖伝》はまたいう、天地は感じて万物は化生し、聖人は人心を感じて天下は和平す。其の感ずる所を観れば、天地万物の情は見ゆるなり、と。いわゆる「情」とは、あの天然の真誠なり。《乾・文言》はいう、「雲は龍に從い、風は虎に從う」と。縁故なくして彼此相從う、ここの裏頭にあに半点の虚偽を容れんや。《象伝》はいう、山の上に沢あり。咸。君子は以て虚に以て人を受く、と。
初六:咸其拇。《象》曰:“咸其拇”,志在外也。“外”,四也。“咸其拇”者,以是為“咸”也。“咸”者以神交,夫神者將遺其心,而況於身乎?身忘而後神存,心不遺則身不忘,身不忘則神忘。故神與身,非兩存也,必有一忘。足不忘屨,則屨之為累也甚於桎梏,要不忘帶,則帶之為虐也甚於縲紲。人之所以終日躡屨束帶而不知厭者,以其忘之也。
初六の爻辞はいう、其の拇を感ず、と。《象伝》はいう、「其の拇を感ず」は志は外に在るなり、と。ここの「外」は九四を指す。いわゆる「其の拇を感ず」は、脚拇指のあの一点の動静を以て「感応」に當てたるなり。真の「咸」は精神を以て相交るなり。精神こ様の東西は、己の心を連れて放下せねばならず、いわんや身体をや。身体を忘れてはじめて精神は存り得住り、心が放下しえざれば身体は忘れえず、身体が忘れえざれば精神はかえって丟れり。ゆえに精神と身体とは両全しえず、必ずその一つを忘掉するを得。脚はもし鞋子を忘れえざれば、鞋子の拖累は脚鐐手銬よりも還って厲し。腰はもし腰帯を忘れえざれば、腰帯の折磨は人を捆る繩索よりも還って厲し。人が整日に鞋を穿き帯を束ねて厭煩を覚えざる所以は、正にそれらを忘掉了したるによる。
道之可名言者,皆非其至。而“咸”之可分別者,皆其粗也。是故在卦者,“咸”之全也,而在爻者。“咸”之粗也。爻配一體,自拇而上至於口,當其處者有其德。德有優劣,而吉凶生焉。合而用之,則拇履腓行、心慮口言,六職並舉而我不知,此其為卦也。離而觀之,則拇能履而不能捉,口能言而不能聽,此其為爻也。方其為卦也,見其“咸”而不見其所以“咸”,猶其為人也,見其人而不見其體也。六體各見,非全人也。見其所以“咸”,非全德也。是故六爻未有不相應者,而皆病焉,不凶則吝,其善者免於悔而已。六二:咸其腓,凶;居吉。《象》曰:雖“凶”“居吉”,順不害也。“順”,九三也。
およそ名言を以て言い出しうる道は、皆最高の道にあらず。同じく「咸」こ様の感応も、およそ一一分辨し出しうるは、皆ただその粗浅の一面のみ。ゆえに整卦の呈するは完整の「咸」にして、各爻の呈するは然るに零碎の「咸」なり。六爻は各々身体の一個部位に配し、脚拇指より一路に上りて口に至るまで、何れの位置に処るとも何れの位置の本领あり。本领に高下の別あれば、吉凶もまた随いて生出す。合して一斉に用うる時は、脚拇指は地を踏み、小腿は行走し、心は思慮し、口は説話し、六種の職能は一斉に発揮して我が己は渾然として覚えず。これがすなわち整卦の境地なり。分かちて一一に看る時は、脚拇指は能く走路するも抓握しえず、嘴は能く説話するも聴を得ず。これがすなわち各爻の境地なり。それを整卦と為す時は、ただあの感応を見るを得て、感応が怎様に発生するを見えず。好比一個人を看るに、ただこの人を見てその一個個の肢体を見えざるがごとし。六個の肢体が各自凸顯せば、則ち完整の人にあらず。感応の所以然を一一に看破せば、亦た完整の徳にあらず。ゆえに《咸》卦の六爻は正応ならざる一爻なしといえども、爻爻皆毛病有り。凶ならずんば吝なり。最も好きは亦不過悔恨を免るるのみ。六二の爻辞はいう、其の腓を感ず、凶。居れば吉、と。《象伝》はいう、凶といえども居れば吉は、害に遭わざるなり、と。ここの「順」は九三を指す。
九三:咸其股,執其隨,往吝。《象》曰:“咸其股”,亦不處也;志在隨人,所執下也。“執”,牽也;“下”,二也。體靜而神交者,“咸”之正也。“艮”,止也。而所以為“艮”者,三也。三之德固欲止,而初與二莫之聽者,往從其配也。見配而動,雖三亦然。是故三雖欲止,而不免於隨也。附於足而足不能禁其動者,拇也;附於股而股不能已其行者,腓也。初與二者,“艮”之體,而“艮”不能使之止也。拇雖動,足未必聽。故初之於四,有志而已。腓之所之(以)無不隨者,以動靜之制在焉。故可以凶、可以吉也。股欲止而牽於腓,三欲止而牽於二。不信己而信人,是以“往吝”也。
九三の爻辞はいう、其の股を感ず。其の随を執る、往けば吝、と。《象伝》はいう、「其の股を感ず」は亦た処らざるなり。志は人に随うに在り。其の執する所は下なり、と。「執」は牽制の意、「下」は六二を指す。身体は安静にして精神を以て相交る、これこそ「咸」の正道なり。艮の性情は静止なり。而もこの一卦の裏に艮の艮たる所以を体現するは、正に九三なり。九三は本性確かに停住せんと欲するも、初六・六二は皆その言を聴かず、各々走りて自らの応ずる所の爻に跟從す。一たび相应の対象を見れば則ち動くは、九三己れもまた免れず。ゆえに九三は停住せんと欲するも、終に免れず人に随いて走る。脚に附して脚がその乱動を管えざるは、脚拇指なり。大腿に附して大腿がその前行を止えざるは、小腿なり。初六と六二はもと艮体の一部分なれど、艮はそれらをして停まらしむる法なし。脚拇指は動いたといえども、脚は未だ必ずしもその言を聴かず。ゆえに初六が九四に対するは、亦不過心の裏にあの念頭を存ずるのみ。小腿の一たび邁動するに至れば、全身は跟いて走らざるなし。動と静との控制権が則ちその処に握るに由る。ゆえにそれは凶を招くを得、亦た吉を致すを得。大腿はもと停住せんと欲するも、然るに小腿に牽いて走らる。九三はもと停住せんと欲するも、然るに六二に牽いて走らる。己を信ぜずして人を信ず。よってはじめて「往けば吝」。
九四:貞吉,悔亡。憧憧往來,朋從爾思。《象》曰:“貞吉悔亡”,未感害也;“憧憧往來”,未光大也。九四之所居,心之所在也。方其為卦也,四隱而不見,心與百體並用而不知,是以無悔無朋。及其表之以四也,而心始有所在。心有所在,而物疑矣。故“憧憧往來”以求之,正則吉,不正則不吉。既感則“悔亡”;未感則害我者也。其朋則從,非其朋則不從也。
九四の爻辞はいう、貞なれば吉、悔亡ぶ。憧憧として往來すれば、朋は爾の思に從う、と。《象伝》はいう、「貞吉悔亡」は未だ害を感ぜざるなり。「憧憧往來」は未だ大ならざるなり、と。九四の在る位置は、正に心の在る所なり。それがなお整卦の一部分なる時は、九四は隠れて顯れず、心は全身百骸と一斉に運作して自己は並に察覚せず。ゆえに既に悔恨なく、また何の「朋」か談ぜん。これを単に標出して九四と為すを待ちて、心ははじめて一個の固定的の着落有り。心が固定的の着落有れば、外物もまたそれに対して起疑す。ここにおいてそれは心思往来不定にして人を求む。求め得て正なれば則ち吉、正ならざれば則ち不吉。感応は一たび達成すれば、悔恨は則ち消失す。感応が未だ達成せざれば、それはかえって我を傷害するものなり。己と一路なるは則ち跟從し、己と一路ならざるは則ち跟從せず。
九五:咸其脢,無悔。《象》曰:“咸其脢”,志末也。拇之動,腓之行,股之隨,心之憧憧往來,皆有為之病也。懲其病而舉不為者,是無為之病也。五之所在者,“脢”也。而脢者,體之不動而無事者也,畏其有事之勞,而“咸”於無事之求,“無悔”而已,志已卑矣。上六:咸其輔、頰、舌。《象》曰:“咸其輔頰舌”,滕口說也。上六之所在者,口也。夫有以為“咸”者,口未必不用;而恃口以為“咸”,則不可。
九五の爻辞はいう、其の脢を感ず。悔なし、と。《象伝》はいう、「其の脢を感ず」は志は末なり、と。脚拇指の動、小腿の走、大腿の人に随いて行く、心の往來不定は、皆「有所作為」の帯來したる毛病なり。然るにこの毛病を怕れるに由りて索性何も為さざれば、則ちまた「無所作為」の毛病と成る。九五の在る位置は「脢」にして、すなわち背脊肉。身上の動かずしてまた無事の処なり。それは做事の労苦を害怕して、則ち感応を「不必做事」の上頭に寄托す。こ様は固然として「悔なし」を得るも、志向は已に甚だ卑下なり。上六の爻辞はいう、其の輔頰舌を感ず、と。《象伝》はいう、「其の輔頰舌を感ず」は滕口の説なり、と。上六の在る位置は口なり。真に実感ある人は、嘴は未だ必ずしも用いざるにあらず。然るに単に一張の嘴を恃って感応を求むれば、則ち行かず。
恒卦(第三十二)
震上,巽下。“恆”:亨,無咎,利貞。利有攸往。《彖》曰:“恆”,久也。剛上而柔下,雷風相與,“巽”而動,剛柔皆應,“恆”。“恆,亨,無咎,利貞”,久於其道也。所以為“恆”者,貞也。而貞者施於既“亨、無咎”之後者也。上下未交,恩澤未渥,而驟用其貞,此危道也。故將為“恆”,其始必有以深通之,其終必有以大正之。方其通物也,則上下之分有相錯者矣。以錯致亨,亨則悅;悅故無我咎者。無咎而後貞,貞則可“恆”。故“恆”非一日之故也,惟久於其道而無意於速成者能之。
《恒》卦の上体は震(雷)、下体は巽(風)である。卦辞はいう、亨、咎なし、貞に利あり、往くところ有るに利あり、と。《彖伝》はいう、恒は久なり。剛は上にして柔は下、雷風相與して、巽にして動き、剛柔皆応ず。恒なり、と。「恒、亨、咎なし、貞に利あり」は、其の道に久しきを言う。一事をして長久たらしめうるは、恃むは「貞」なり。然るに「貞」は已に亨通し已に無咎なる後に施用せねばならず。上下は未だ交好せず、恩沢は未だ浸透せざるに、則ち冒然として正道を拿りて人を繩墨するは、これは危険の路数なり。ゆえに恒久の道を建立せんと欲せば、開頭は必ず先ず深くそれを打通し、最後にしてはじめて大いにそれを端正しうる。それが人情を打通する時は、上下の名分は難免して些か交錯錯位す。これを憑りて亨通を換得し、亨通すれば人心は歡悦し、歡悦すれば則ち來りて我を責むる人なし。人の責むるなければ、しかる後に守正を談ずるを得。正を守住しうれば、はじめて長久しうる。ゆえに「恒」は一天両天に造成するにあらず。ただ長久して正道上に守り而も急ぎて成を求めざる人のみ為し得るなり。
天地之道,恆久而不已也;“利有攸往”,終則有始也。物未有窮而不變者。故“恆”非能執一而不變,能及其未窮而變爾。窮而後變,則有變之形;及其未窮而變,則無變之名,此其所以為“恆”也。故居“恆”之世,而“利有攸往”者,欲及其未窮也。夫能及其未窮而往,則終始相受,如環之無端。
《彖伝》はいう、天地の道は恒にして久しく已まざるなり。「往くところ有るに利あり」は終れば則ち始まるなり、と。世上に窮盡に走り至りて変化発生せざるものなし。ゆえに「恒」は並に一様のものを死抱きて変えざるにあらず、能くそれが未だ窮盡に走り至らざるに趁りて先ず変ずるなり。窮盡するを待ちてはじめて変ずれば、則ち変の痕迹を顯出す。未だ窮盡せざるに趁りて変ずれば、則ち一個の「変」の名目を落さず——これこそいわゆる「恒」なり。ゆえに《恒》の時代に処してしかるに「往くところ有るに利あり」というは、正に事の尚未窮盡するに趁りて动手せんとするなり。能く未窮の前に前行せば、さらば終点と起点とは首尾相接し、一個の円環のごとく頭尾を覓ええず。
日月得天而能久照。“照”者,日月也。運之者,天也。四時變化而能久成。將明恆久不已之道,而以日月之運、四時之變明之,明其未窮而變也。陽至於午,未窮也;而陰已生。陰至於子,未窮也;而陽已萌。故寒暑之際人安之,如待其窮而後變,則生物無類矣。
《彖伝》はいう、日月は天を得て能く久しく照る、と。発光して照耀するは日月にして、それらを推し運転せしむるは然るに天なり。《彖伝》はまたいう、四時は変化して能く久しく成る、と。ここに恒久不息の道理を闡明せんと欲して、則ち日月の運行・四時の変化を拿りて印証するは、正にそれらが皆未だ窮盡せざるに趁りて先ず変じたるを説明せんと欲するなり。陽気は午の時に至りて、並に窮盡せざるに、而も陰気は已に生出したり。陰気は子の時に至りて、並に窮盡せざるに、而も陽気は已に萌動したり。ゆえに寒來暑往の際に、人々ははじめて安然として受得住す。もし非ずして窮盡するを待ちてはじめて変ぜば、さらば天地間の生物は絶種せんと欲す。
聖人久於其道,而天下化成;觀其所恆,而天下萬物之情可見矣。非其至情者,久則厭矣。《象》曰:雷風,恆。君子以立不易方。“雷”、“風”,非天地之常用也;而天地之化所以無常者,以有“雷”、“風”也。故君子法之,以能變為“恆”;“立不易方”,而其道運矣。
《彖伝》はいう、聖人は其の道に久しきにして天下は化成す。其の恒なる所を観れば、天地万物の情は見ゆるなり、と。およそ最も真実の性情に出づるにあらざるは、日子長ければ則ち人をして厭を生ぜしむ。《象伝》はいう、雷風。恒。君子は以て立てり。其の方を易えざるなり、と。雷と風とは並に天地の日常固定の作用にあらざれども、天地の化育の変動不居たる所以は、恰好として雷有り風有るに由る。ゆえに君子はこれを效法して、「能く変ずる」を己の「恒」と當てる。外面より看去れば「立てり、其の方を易えず」にして、而もその道は実は一直在運転す。
初六:浚恆,貞凶,無攸利。《象》曰:“浚恆”之“凶”,始求深也。“恆”之始,陽宜下陰以求亨;及其終,陰宜下陽以明貞。今九四不下初六,故有“浚恆”之凶。上六不下九三,故有“振恆”之凶。二者皆過也,易地而後可。下沈曰“浚”,上奮曰“振”。初六以九四不見下,故求深自藏以遠之,使九四雖田而無獲,可謂貞矣。然陰陽否而不亨,非所以為恆之始也,故“凶”。始不亨而用貞,終必兩廢,故“無攸利”。夫“恆”之始,宜亨而未宜貞。
初六の爻辞はいう、恒を浚む、貞なりとも凶、利ならざるなし、と。《象伝》はいう、「恒を浚む」の凶は始めに深を求むればなり、と。《恒》卦の開端は、陽は応に陰に屈就して亨通を求むべし。末尾に至れば、陰は応に陽に屈就して貞正を表明すべし。いま九四は肯んじて初六に屈就せず。ゆえに「恒を浚む」の凶有り。上六は肯んじて九三に屈就せず。ゆえに「恒を振る」の凶有り。両者は皆過分にして、位置を対調して來れば則ち行けり。下に向かい深沈するを「浚」と呼び、上に向かい奮起するを「振」と呼ぶ。初六は九四が肯んじて下りて己に就かざるに由りて、則ち深処に向かい躲藏し、遠くそれを避開し、九四をしてたとい出でて打猟すとも一の獲る所なからしむ——単にこの一点を看れば、亦た貞と算えうるなり。然るに陰陽は閉塞して通ぜず。これは応に恒久の道の開端たるべからず。ゆえに「凶」。開頭に未だ亨通せざるに急ぎて「貞」を用いれば、最後は両頭皆落空せん。ゆえに「利ならざるなし」。要するに知るべし、《恒》卦の開端は、応に亨通を講ずべしにして、還って貞正を講ずべからず。
九二:悔亡。《象》曰:九二“悔亡”,能久中也。“艮”、“兌”合而後為“咸”,“震”、“巽”合而後為“恆”。故卦莫吉於“咸”、“恆”者,以其合也。及離而觀之,見己而不見彼,則其所以為“咸”、“恆”者亡矣。故“咸”、“恆”無完爻,其美者不過“悔亡”。“恆”之世,惟四宜下初,自初以上,皆以陰下陽為正。故九二、九三、六五、上六,皆非正也。以中者用之,猶可以“悔亡”;以不中者用之,則無常之人也。故九三“不恆其德”。
九二の爻辞はいう、悔亡ぶ、と。《象伝》はいう、二の「悔亡」は能く中に久しきなり、と。艮と兌とが合してはじめて《咸》と成り、震と巽とが合してはじめて《恒》と成る。ゆえに卦象を論ずれば、《咸》《恒》より吉なるはなし。正にそれらの講ずるは「合」なるに由る。然るに爻を拆開して看れば、則ちただ自己を見て相手を見えず。さらばそれらをして《咸》《恒》と成らしむるものも亦たなし。ゆえに《咸》《恒》両卦は完美なる一爻なし。最も好きは亦不過「悔亡」の二字のみ。《恒》の時代は、ただ九四のみ応に初六に屈就すべし。初六より上は、皆陰が陽に屈就するを以て正と為す。ゆえに九二・九三・六五・上六は、皆正と算うに足らず。位置正ならずして能く中を守るは、なお「悔亡」すべし。位置正ならずしてまた能く中を守らざれば、則ち反復無常の人と成る。ゆえに九三は「其の徳を恒ならず」。
九三:不恆其德,或承之羞,貞吝。《象》曰:“不恆其德”,無所容也。《傳》曰:“人而無恆,不可作巫醫。”子曰:“不占而已矣。”夫無常之人,與之為巫醫且不可,而況可與有為乎?人惟有常,故其善惡可以外占而知,無常之人,方其善也,若可與有為;及其變也,冰解潦竭,而吾受其羞。故與是人遇者,去之吉,貞之吝。善惡各有徒,惟無常者無徒。故曰:“不恆其德,無所容也。”九四:田無禽。《象》曰:久非其位,安得禽也?九四居非其位,而重下初六。初六,其所欲得也,故曰“無禽”;上亢而下沉,欲以獲初,難矣。
九三の爻辞はいう、其の徳を恒ならざれば、或いは羞を承く。貞なりとも吝、と。《象伝》はいう、「其の徳を恒ならざる」は容る所なきなり、と。古書の上に一句を記して曰く、「一人の人もし恒心なければ、巫医と為るを得ず」と。孔子は続けていう、「こ様の人は根本的に彼を替わりて占卜するを用いず」と。この両句は皆《論語・子路》に見ゆ。反復無常の人は、彼と同じく巫医を做るも行かず。いわんや彼と一道に大事を幹せんをや。人はただ常を守りてはじめて、善悪は外面より推断し出しうる。無常の人は、正に彼が善を行うに當りて、看れば好像彼と同じく有所作為しうべしとするも、彼が一たび変ぜば、則ち冰の化し積水の乾きたるがごとく何も剩さず。我は便ち跟いて羞辱を蒙受す。ゆえにこ様の人に碰上すれば、彼を離れれば則ち吉、硬く彼を守れば則ち憾惜あり。善には善の同伙有り、悪には悪の同伙有り。ただ反復無常の人のみ一個の同伙もなし。ゆえに《象伝》はいう、「其の徳を恒ならざるは、容る所なきなり」と。九四の爻辞はいう、田に禽なし、と。《象伝》はいう、久しく其の位に非ざれば、安くんぞ禽を得んや、と。九四の占むるはもとその占むべき位置にあらず。又肯んじて尊を屈して下面の初六に就かず。初六は正にそれが得んと欲する所なり。ゆえに「禽なし」という。上面は高亢にして下面は深沈す。これを憑りて初六を猟獲せんと欲するは、難し。
六五:恆其德,貞婦人吉,夫子凶。《象》曰:“婦人貞吉”,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。“恆”以陰從陽為正,六五下即二,則婦人之正也。九二上從五,則夫子之病也。上六:振恆,凶。《象》曰:“振恆”在上,大無功也。“恆”之終,陰宜下陽者也。不安其分而奮於上,欲求有功,而非其時矣。故“凶”。
六五の爻辞はいう、其の徳を恒にす、貞なり。婦人は吉、夫子は凶、と。《象伝》はいう、婦人貞吉は一に從いて終るなり。夫子は義を制す。婦に從うは凶なり、と。《恒》卦は陰の陽に從うを以て正と為す。六五が下に九二に就くは、婦人の正道なり。九二が反りて上に六五に跟從するは、則ち男子の毛病と成る。上六の爻辞はいう、恒を振る。凶、と。《象伝》はいう、「恒を振る」は上に在りて大に功なきなり、と。《恒》卦は末尾に至れば、陰はもと応に陽に屈就すべし。上六は本分に安んぜず、かえって上面に在りて奮然として躁動し、還って功を立てんと欲すも、時機は已に早く対らず。ゆえに「凶」。
遯卦(第三十三)
乾上,艮下。“遯”:亨,小利貞。《彖》曰:“遯,亨”,遯而亨也。陰盛於“否”而至於“剝”,君子未嘗不居其間也。“遯”以二陰而伏於四陽之下,陰猶未足以勝陽,而君子遂至於遯。何也?曰:君子之遯,非直棄去而不復救也,以為有亨之道焉。今夫二陰在內,“遯”之主也;其勢至銳,而其朋至寡。銳,則其終必勝;寡,則其心常欲得眾。君子及其未勝而遯,則陰無與處而思求陽。陰思求陽而後陽可以處,故曰:“遯,亨,遯而亨也。”
《遯》卦の上体は乾(天)、下体は艮(山)である。卦辞はいう、亨、小貞に利あり、と。《彖伝》はいう、「遯、亨」は遯にして亨るなり、と。陰気は《否》卦に已に甚だ盛んにして、《剥》に至れば更に盛んなれども、君子は未だ嘗てあの様の世道の裏に還留せざらずや。《遯》卦は不過二個の陰爻が四個の陽爻の下に伏するに過ぎず。陰は還って陽に勝ち過ぐるに足らざるに、君子は倒れて已に退避したり。これは何のためぞ。答えていう、君子の退避は、並に乾脆として手を撒きて管せず、更に世を救わざるにあらず。退避の裏頭に自ら一条の通達の路あるを以為るなり。眼下二個の陰爻は内卦に在りて、《遯》卦の主角にして、気勢は極めて鋭利にして、同党は然るに極めて稀少なり。鋭利なれば、最終は必ず得勢す。稀少なれば、心は則ち常に更に多くの人を拉攏せんと想う。君子はそれが未だ得勢せざるに趁りて先ず退避すれば、陰は便ち人と相処すべきなし。已むを得ず頭を回して陽を求む。陰が肯んじて頭を回して陽を求めれば、陽ははじめて立足の地有り。ゆえに《彖伝》はいう、「遯、亨。遯にして亨るなり」と。
剛當位而應,與時行也。時當遯,雖有應,不得不逝也。“小利貞”,浸而長也。“遯”之時義大矣哉!“浸”而後“長”,則今猶微也。微而忘貞,則廢矣。《象》曰:天下有山,“遯”。君子以遠小人,不惡而嚴。山有企天之意而不可及,陰有慕陽之志而不可追,“遯”之象也。
《彖伝》はいう、剛は位に當りて応ず。時と偕に行くなり、と。時勢は応に退避すべしとなれば、たとい相应の対象有るとも、去らざるを得ず。《彖伝》はまたいう、「小、貞に利あり」は浸にして長ずるなり。《遯》の時義大なるかな、と。すでに先ず「浸潤」にして後に「生長」なれば、見ゆ、眼下眼下陰気は還って甚だ微弱なり。正にそれがなお微弱なるに由りて守正を忘れれば、事情は則ち敗壞せん。《象伝》はいう、天下に山あり。遯。君子は以て小人を遠ざく。悪を以てせずして厳なり、と。山は一心に天に到達せんと欲するの意有るも、終に到達しえず。陰は陽を羨慕するの心志有るも、終に追上しえず。これが正に《遯》の形象なり。
初六:遯尾,厲;勿用有攸往。《象》曰:“遯尾”之“厲”,不往,何災也?“遯”者皆外向,故初六為“尾”。首之所趣,尾所不能禁也,遯而不能禁,逝者眾矣。眾逝則我無與處,故危;勢不能禁而往迫之,則陽怒而為災,故不利“有攸往”。
初六の爻辞はいう、遯の尾、厲。往くところ有るに用いる勿れ、と。《象伝》はいう、「遯の尾」の厲は往かざれば何の災か有らん、と。退避する人は皆外に向かい走る。ゆえに最も下面に処する初六は「尾」と成る。頭は何処に走り至るとも、尾巴は攔えざるなり。すでに退避して攔えざれば、走り去る人は多し。人一たび走光せば、我がこの一辺は便ち誰と相処すべきなし。ゆえに危険。形勢上明白に攔えざるに、然るに還って追い上げて彼らを逼迫すれば、則ち陽剛を触怒して災禍を招来せん。ゆえに「往くところ有る」に利あらず。
六二:執之,用黃牛之革,莫之勝說。《象》曰:執用黃牛,固志也。六二“遯”之主,而與五為應,則有以固“執之”矣。方陽之遯,其所以執而留之者,非出於款誠至意,陽不顧也,故必有如牛革之堅者,而又用其黃焉,則忠確之至也。
六二の爻辞はいう、之を執するに黄牛の革を用う。之を勝く能わざるなり、と。《象伝》はいう、黄牛を執するは志を固うするなり、と。六二は《遯》卦の主角にして、また九五と相应す。ゆえに法有りて牢として「之を執る」を得。陽剛が退避せんと欲するに當りて、これを挽留するに用うる手段は、もし懇切至誠の心意に出づるにあらざれば、陽剛は看るを連れて肯んぜず。ゆえに必ず牛皮のごとき堅靭なるもの有らざるべからず。而且もまた「黄」この居中の正色を取らざるべからず。これがすなわち忠誠堅定の極処に至るなり。
九三:係遯,有疾,厲;畜臣妾,吉。《象》曰:“係遯”之“厲”,有疾憊也;“畜臣妾吉”,不可大事也。九三雖陽,而與陰同體,是為以陰止陽,徒欲止之而無應於上,止之不由其道,蓋繫之而已。彼欲去矣,而以力繫之,我惟無疾而後可,一日有疾,則彼皆舍我而去爾,何則?所以繫之者,恃力也。故曰:“畜臣妾,吉。”繫者,“畜臣妾”之道,而非所以畜君子也。
九三の爻辞はいう、遯を係る、疾厲あり。臣妾を畜すれば吉、と。《象伝》はいう、「遯を係る」の厲は疾憊有るなり。「臣妾を畜すれば吉」は大事すべからざるなり、と。九三は陽爻といえども、二個の陰爻と同じく内卦に在り。等しく陰を用いて陽を阻止するなり。それは一味に人を攔えんと想い、上面にはまた相应の援手なし。人を攔えてまた正道を走らず、不過硬く拴えたるのみ。人はもと走らんと欲するに、汝は然るに気力を用いて彼を拴えば、それはただ我が一直に生病せざる時のみ行けり。何れの日か我が病めば、彼らは則ち全て我を撇きて走り去らん。何を以てすればか。それらを拴えたるは恃むはただ気力のみに由る。ゆえに爻辞は「臣妾を畜すれば吉」という。硬く拴えるこ一套は、奴僕婢妾を畜養するの弁法にして、並に君子を畜養するの弁法にあらず。
九四:好遯,君子吉,小人否。《象》曰:君子“好遯”,“小人否”也。九四有初六之好,舍其好而遯,則“君子吉”,而“小人否”也。九五:嘉遯,貞吉。《象》曰:“嘉遯貞吉”,以正志也。六二,九五配也。舍其配而遯,故曰“嘉遯”。猶懼其懷也,故戒之以“貞吉”。
九四の爻辞はいう、遯を好む、君子は吉、小人は否、と。《象伝》はいう、君子は遯を好み、小人は否なり、と。九四は初六と相好の情分有り。能くこの情分を舎下して退避すれば、それは則ち「君子吉」にして、小人は然るに辦らず。九五の爻辞はいう、嘉遯、貞吉、と。《象伝》はいう、「嘉遯貞吉」は以て志を正すなり、と。六二は九五の配偶なり。九五が能く己の配偶を舎下して退避すれば、ゆえに「嘉遯」と呼ぶ。たとい如此なるも、なおそれが心裏に留戀するを怕る。ゆえにまた「貞吉」を拿りてこれを告誡す。
上九:肥遯,無不利。《象》曰:“肥遯無不利”,無所疑也。無應於下,沛然而去,“遯”之肥也。夫九三牽於二陰而為之止,我不知勢之不可以不遯而止之,非其利也;然則上九之“肥遯”,非獨以利我,亦以利三也。
上九の爻辞はいう、肥遯、利ならざるなし、と。《象伝》はいう、「肥遯、利ならざるなし」は疑なきなり、と。上九は下面に相应の牽掛なく、一たび走れば則ち痛快淋漓に走るを得。これがすなわち退避の中の「肥」——寛綽余裕有り。九三は二個の陰爻に牽住せられ、それらに替わりて出面して人を攔む。もし我が形勢の已に非ずして退るべからざるを明白せずして、還って往きて別人を攔阻せば、則ち誰に対しても好処なし。これを看れば、上九の「肥遯」は、単に我が己に対して利あるのみならず、九三に対しても亦た同じく利有り。
大壮卦(第三十四)
震上,乾下。“大壯”:利貞。《彖》曰:“大壯”:大者壯也。剛以動,故壯。“大壯,利貞”,大者,正也,正大而天地之情可見矣。以大者為正,天地之至情也。《象》曰:雷在天上,“大壯”。君子以非禮弗履。所以全其勇、壯也。
《大壮》卦の上体は震(雷)、下体は乾(天)である。卦辞はいう、貞に利あり、と。《彖伝》はいう、大壮は大なる者の壮なり。剛にして動けば則ち壮なり、と。「大壮、貞に利あり」は、大なる者は正なり。正大にして天地の情は見ゆるべし、と。「大なる者」を以て「正」と當てるは、これが正に天地の最も真実の性情なり。《象伝》はいう、雷は天上に在り。大壮。君子は以て礼に非ざれば履まざるなり、と。こ様に為して、はじめて己があの勇と壮とを保全し得住る。
初九:壯于趾,征凶有孚。《象》曰:“壯于趾”,其孚窮也。“乾”施壯於“震”者也。壯者為羊,所施為藩,故五以二為羊,三以六為藩。以類推之,則初九之壯,施於九四;九四藩決不羸,則初九亦觸四之羊也。以其最下而用壯,故曰“壯于趾”。自下之四,故曰“徵”。眾皆觸非其類,已獨觸其類。觸其類,則有孚於非其類矣,不孚於方壯之陽,而孚於已窮之陰,故雖有孚而不免於凶者,其孚窮而不足賴也。
初九の爻辞はいう、趾に壮んす。征せば凶、孚有り、と。《象伝》はいう、「趾に壮んす」は其の孚は窮まれるなり、と。この一卦は乾が強壮を震に施加するなり。壮を施す一方は「羊」にして、抵撞せらるる一方は「藩籬」なり。ゆえに六五は九二を拿りて羊と當て、九三は上六を拿りて藩籬と當つ。この類に推せば、初九の壮は則ち九四の身上に施加す。九四の爻辞は「藩決して羸れず」といえば、見ゆ、初九もまた九四を抵撞するあの頭の羊なり。それが最も下面に処して強壮を動用するに由りて、ゆえに「趾に壮んす」という。最も下面より九四に向かい奔るに由りて、ゆえに「征」という。衆爻の抵撞するは皆異類にして、ただ初九のみ抵撞するは同類なり。同類を抵撞せば、さらば肯んじてそれを信ずるは則ち異類のみ剩る。それは正当強盛の陽の信任を得ずして、已に窮途末路の陰の信任を得たり。ゆえにたとい人のそれを信ずる有るとも、なお免れず凶なり——それを信ずる人は自身已に尽頭に到れば、靠り住むべからざるに由る。
九二:貞吉。《象》曰:“九二貞吉”,以中也。初九以觸陽“凶”,九三以獨陰“厲”,皆失中者也。九二之於五也,進不觸之,退不助之,安貞而已,中也。九三:小人用壯,君子用罔,貞厲。羝羊觸藩,羸其角。《象》曰:“小人用壯”,君子罔也。“羊”,九三也;“藩”,上六也,“羸”,廢也。九三之壯施於上六。上六,窮陰也;九三,壯陽也。以壯陽觸窮陰,其勢若易易然。然而陽壯則輕敵,陰窮則深謀,故小人以是為壯,而君子以是為罔已也。以陽觸陰,正也;而危道也。是以君子不觸也。
九二の爻辞はいう、貞なれば吉、と。《象伝》はいう、二の「貞吉」は中以也、と。初九は同じく陽なる九四を抵撞して「凶」を招き、九三は単に一個の孤陰に対付に往きて「厲」に遇う。皆中道を失えり。九二が六五に対するは、前進してそれを抵撞に往かず、後退してそれを幇襯に往かず。ただ正道に安守するのみ。これがすなわち中なり。九三の爻辞はいう、小人は壮を用い、君子は罔を用う。貞なりとも厲。羝羊は藩に触れて其の角を羸る、と。《象伝》はいう、小人は壮を用い、君子は罔なり、と。爻辞の裏の「羊」は九三を指し、「藩」は上六を指し、「羸」は廃損の意なり。九三は己の壮を上六の身上に施加す。上六は尽頭に走り至りたる陰、九三は正当強盛の陽なり。強盛の陽を拿りて窮盡の陰を撞くは、形勢を看れば容易挙に似たり。然るに陽は一たび強盛なれば則ち敵を軽んじ、陰は一たび窮盡なれば則ち深く謀る。ゆえに小人はこの個を強壮と當て、君子は然るにそれを看穿して不過一場の空なり。陽を以て陰を抵撞するは、道理の上は正にして、行事の上は然るに危険なり。ゆえに君子は並に撞きに往かず。
九四:貞吉,悔亡。藩決不羸,壯于大輿之輹。《象》曰:“藩決不羸”,尚往也。九四有藩,是以知初九之觸也,欲進而消二陰者。九四之“貞吉”也,外有二陰之敵,而內有初九之觸,此九四之所以有“悔”也。忿其觸而羸其角,則是敵未亡而內自戰,四以是為病也,故見觸不校,即而懷之。以為其徒,則可以“悔亡”,故曰“藩決不羸,壯于大與之輹”。九四自決其藩,而不以羸初九之角,則向之觸我者止而為吾用,適所行以壯吾輹爾。臨敵而輹壯,可以往矣。
九四の爻辞はいう、貞なれば吉、悔亡ぶ。藩は決して羸れず。大輿の輹に壮んす、と。《象伝》はいう、「藩は決して羸れず」は往くを尚すなり、と。九四ここにも亦た一道の藩籬有り。これにより知る、初九は確かにそれを抵撞するに在り——初九は上進せんと欲して、上面のあの二個の陰爻を消えんと往くなり。九四の「貞吉」を要する所以は、外面に六五・上六二個の陰爻を敵人と為し、裏面にはまた初九の來りて己を抵撞する有り。これが正に九四の「悔」有るの緑故なり。たといそれの來りて撞くを悩恨して、則ち往きてその角を卡住すれば、便ち敵人は未だ除掉せざるにして内部先ず打ち起こる。九四はこれを大毛病と看作す。ゆえにそれは撞かるるを挨りても計較せず、かえって近く初九を安撫して來りて、自らの同伙に收作す。こうすれば則ち「悔亡」べし。ゆえに「藩は決して羸れず、大輿の輹に壮んす」という。九四は自ら藩籬を撤開して一個の口子を為し、初九の角を卡せざれば、さらば先前我を撞きしは、いま停まりて我が用と為る。恰好としてその気力を拿りて我が車上の伏兎を加固せり。陣に臨みて敵に對して車輹結實なれば、則ち前に走るを得。
六五:喪羊于易,無悔。《象》曰:“喪羊于易”,位不當也。“羊”,九二也;六五者,九二施壯之地也。以陰居陽則不純乎陰,有志於助陽矣。是以釋九二之羊而縱之,故曰:“喪羊于易,位不當也。”人皆為藩以御羊,而已獨無有,豈非易之至也歟?有藩者,羸其角;而易者喪之,羸其角者“無攸利”,則喪之者“無悔”,豈不明哉!
六五の爻辞はいう、易に羊を喪う。悔なし、と。《象伝》はいう、「易に羊を喪う」は位當らざるなり、と。爻辞の裏の「羊」は九二を指し、六五は則ち九二が強壮を施加する対象なり。六五は陰爻を以て陽位に居れば、則ち純粹の陰にあらず。心の裏に陽を幇助するの念頭を存す。ゆえに索性として九二のこの頭の羊を放開して、それに由る。よって《象伝》は「易に羊を喪う、位當らざるなり」という。別人は皆藩籬を筑きて羊を擋ぐるに、ただ六五のみ何も筑かず。これあに平易の極処にあらざらんや。藩籬を筑くるは、羊角を卡住せり。平易なるは、羊を放跑せり。羊角を卡せしは「利ならざるなし」を落とし、羊を放跑せしはかえって「悔なし」。道理は甚だ明白ならずや。
上六:羝羊觸藩,不能退,不能遂。無攸利,艱則吉。《象》曰:“不能退,不能遂”,不詳也。“艱則吉”,咎不長也。“羊”,九三也;“藩”,上六也。自三言之,三不應觸其藩;自上言之,上不應羸其角。二者皆不計其後而果於發者,三之觸我,我既已罔之矣,方其前“不得遂”,而退不得釋也,豈獨羊之患,雖我則何病如之?且未有羊羸角而藩不壞者也,故“無攸利”,均之為不利也,則以知難而避之,為“吉”。
上六の爻辞はいう、羝羊は藩に触れて、退く能わず、遂ぐる能わず。利ならざるなし。艱なれば則ち吉、と。《象伝》はいう、「退く能わず、遂ぐる能わず」は祥ならざるなり。「艱なれば則ち吉」は咎は長からざるなり、と。爻辞の裏の「羊」は九三を指し、「藩」は上六を指す。九三の一辺より説けば、それはもと応に人の藩籬を撞くべからず。上六の一辺より説けば、それはもと応に人の羊角を卡すべからず。両辺は皆後果を計らずして、冒然として発作す。九三の來りて我を撞くは、我は已にその虚妄を識破したり。それが前進して冲出去えず、後退してまた角を抽出しえざるを待ちて、苦を吃るはあにただあの頭の羊のみならんや。我がこの道の藩籬もまたあに同じく重く傷せざらんや。いわんや従來羊角の卡住せられて藩籬が還って完好無損なる有らざるをや。ゆえに「利ならざるなし」という。すでに両辺同じく不利なれば、則ち難を知りて退き、あの衝撞を避開するを以て「吉」と為す。
晋卦(第三十五)
離上,坤下。“晉”:康侯,用錫馬,蕃庶,晝日三接。《彖》曰:“晉”,進也。明出地上,順而麗乎大明,柔進而上行。是以“康侯,用錫馬,蕃庶,晝日三接”也。“晉”以“離”為君,“坤”為臣。“坤”之為物廣大博厚,非特臣爾,乃諸侯也。故曰“康侯”,君以是安諸侯也。夫“坤”順而“離”明,以順而進,趨於明,無有逆而不受者,故曰“錫馬”。馬所以進也,錫之馬而使蕃之,許其進之甚也。一日三接,喜其來之至也。《象》曰:明出地上,“晉”,君子以自昭明德。
《晋》卦の上体は離(火・明)、下体は坤(地)である。卦辞はいう、康侯は錫馬を用いて蕃庶ならしめ、昼日三接す、と。《彖伝》はいう、晋は進なり。明は地上に出づ。順にして大明に麗る。柔は進みて上行す。以て「康侯は錫馬を用いて蕃庶ならしめ、昼日三接す」なり、と。《晋》卦は離を以て君と為し、坤を以て臣と為す。坤こ様の東西は広大厚重にして、不止ただ一般の臣子、簡直と諸侯なり。ゆえに「康侯」と称す——君主はこ様の弁法を用いて諸侯を安撫す。坤は柔順にして離は光明なり。柔順を憑りて前進に往き、一路に光明に向かい奔れば、拒絶され門外に置かるるものなし。ゆえに「錫馬」という。馬は前進するに用うるものなり。これに馬を錫い、また馬をして蕃庶に繁衍せしむるは、十分にその上進を允許するなり。一日の内に三度接見するは、それの來ること殷勤なるを喜ぶなり。《象伝》はいう、明は地上に出づ。晋。君子は以て自ら昭明徳す、と。
初六:晉如,摧如,貞吉。罔孚,裕,無咎。《象》曰:“晉如摧如”,獨行正也;“裕無咎”,未受命也。三陰皆進而之“離”,九四居於其沖,欲並而有之,眾之所不與也。初六有應於四,將以眾適四,故進而眾摧之也。夫初六之適四,正也;其以眾適四,不正也。已獨行而不以眾,則得其正矣,故曰“貞吉”。我雖正矣,而眾莫吾信,故“裕”之而後“無咎”。裕之而後無咎者,眾未肯受吾命也。
初六の爻辞はいう、晋如として摧如たり、貞なれば吉。孚なければ裕として咎なし、と。《象伝》はいう、「晋如として摧如たり」は独行正なり。「裕として咎なし」は未だ命を受けざるなり、と。三個の陰爻は皆上進して離に帰附せんと欲す。九四は正に要衝の上に卡りて、それらを一幷に己有と為さんと欲す。これは衆爻の贊成せざる所なり。初六は九四と正応有り。大家を帯同して一斉に九四に帰附に往かんと打算す。ゆえにそれが一たび動けば、衆人は來りてこれを挫抑す。初六が自ら往きて九四に帰附するは、正当なり。大家を拉上して一斉に九四に帰附に往かば、則ち正当ならず。それが独自前往往きて衆人を裹挾せざれば、はじめてその正を得たりと算う。ゆえに「貞吉」という。我は正なりといえども、衆人は然るに我を信ぜず。ゆえに従容寛裕するを要して、しかる後に「咎なし」。寛裕するを要してしかる後に咎なきは、衆人が還って肯んじて我の号令を接受せざるに由る。
六二:晉如,愁如,貞吉。受茲介福,于其王母。《象》曰:“受茲介福”,以中正也。將進而之五,而四欲得之,故“晉如,愁如”。我守吾正,雖四為拒,不能終閉也,故受福於王母。六五之謂王母也,以其為王母,故二雖陰,亦可得而歸之矣。六三:無允,悔亡。《象》曰:“無允”之,志上行也。將適上九而近於四,悔也。雖與之近,而眾信其不與也,故“悔亡”。
六二の爻辞はいう、晋如として愁如たり、貞なれば吉。兹の介福を其の王母に受く、と。《象伝》はいう、「兹の介福を受く」は以て中正なり、と。六二は正に上進して六五に帰附せんと欲するに、九四は然るにそれを搶奪して來らんと欲す。ゆえに「晋如として愁如たり」。我はただ己の正道を守住するを管せば、九四はたとい中より攔阻すとも、終にこの条の路を関死しえず。ゆえに「王母」より福を受くを得。「王母」とは則ち六五を指す。正にそれが王母なるにしかば、六二はたとい同じく陰爻なるも、照樣それに帰附すべし。六三の爻辞はいう、衆允なり、悔亡ぶ、と。《象伝》はいう、衆允の志は上行なり、と。六三はもと上九に帰附に往かんと欲するに、偏にまた九四に挨りたり。これは悔るべし。たとい九四と靠れ近しといえども、衆人は然るにそれを信じて並に九四と同党せずと為す。ゆえに「悔亡」。
九四:晉如,鼫鼠,貞厲。《象》曰:“鼫鼠貞厲”,位不當也。求得而未必能者,鼫鼠也。六二、六三,非其所當得也。因其過我欲兼有之,而眾不聽,故曰“晉如,鼫鼠”。九四之有初六,正也;非其正者,固不可得矣。而正者猶危,則位不當之故也。
九四の爻辞はいう、晋如として鼫鼠たり、貞なりとも厲、と。《象伝》はいう、「鼫鼠貞厲」は位當らざるなり、と。様様皆抓らんと欲して様様また皆抓り成らざるは、正に鼫鼠なり。六二・六三はもと九四の得るべき所にあらず。ただそれらが己の身辺より経過するに由りて、則ち一幷に占有せんと欲すも、衆人は然るに答えず。ゆえに「晋如として鼫鼠たり」という。九四が初六を擁有するは、正当なり。正当ならざる東西は、もと得るを得ざるなり。然るに正当に得るべきを連れても還って危険なれば、それは則ち位置不當の緑故なり。
六五:悔亡。失得勿恤,往吉,無不利。《象》曰:“失得勿恤”,往有慶也。四奪其與,悔也。然而眾不與四,是以“悔亡”。夫以五之尊而下與四爭,其所附則陋矣,故雖失所當得,“勿恤”,而往則吉。夫下與四爭,必來;來者爭也,則往者不爭之至也。五猶不爭,而四何敢不置之?故其所失,終亦必得而已矣。苟終於得,則其不爭,非獨四之利也。
六五の爻辞はいう、悔亡ぶ。失得恤む勿れ。往けば吉、利ならざるなし、と。《象伝》はいう、「失得恤む勿れ」は往けば慶有るなり、と。九四はもと応に六五に帰附すべき人を奪い去りたり。これは悔るべし。然るに衆人は並に九四に親附せず。ゆえに「悔亡」。六五こ様の尊位を以て、然るに下りて九四と同じく己に依附する人を争奪せば、則ち未免鄙陋なり。ゆえにたといもと得るべきを失掉するも、亦た「恤む勿れ」にして、ただ前に往くを管すれば則ち吉。下りて九四と同じく争えば、則ち勢必として「來」なり。「來」とは則ち争うなり。さらば「往」とは正に徹底の不争なり。六五は尚ほ争わず、九四はまた何処に敢えて放手せざらんや。ゆえにその失掉したる所は、最終は必ず還って得返るを得。すでに終帰して得返り得れば、さらばこの不争は、単に九四一人の占める便宜のみならず。
上九:晉其角,維用伐邑,厲吉無咎,貞吝。《象》曰:“維用伐邑”,道未光也。剛之上窮者,角也。“晉其角”者,以是為晉也。以角為晉,必有所用其觸。三,吾應也;而四閉之,則上九之所伐者,四也。四與上同體,故為邑也。邑人而閉吾應,無以令之而至於用兵,道不光矣。此正也,而吝道也。故知戒於危,然後其吉,可以無咎。
上九の爻辞はいう、其の角を晋む。邑を伐つを維用う。厲、吉、咎なし、貞なりとも吝、と。《象伝》はいう、「邑を伐つを維用う」は道未だ光ならざるなり、と。陽剛は尽頭に升り至れば、則ち犄角と成る。「其の角を晋む」は、犄角を拿りて上進の憑借と當てるなり。犄角を拿りて上進せば、則ち必ずそれを用いて何かを抵撞せざるべからず。六三は我が正応にして、九四は然るに中より路を堵死す。さらば上九の討伐せんと欲するは則ち九四なり。九四は上九と同じく上卦離体の内に在り。ゆえにそれを「邑」と称す。同一の邑の裏の人にしてしかるに我が正応を封堵す。我は別の弁法を拿出してそれを号令しえず。已むを得ず兵力を動用す。この条の路は則ち光大に足らず。この事はたとい正当なるも、然るに憾惜有るの路数なり。ゆえに危険の処に在りて戒懼を知るを懂じて、しかる後に吉を得、はじめて咎なきを得。
明夷卦(第三十六)
坤上,離下。“明夷”:利艱貞。《彖》曰:明入地中,“明夷”。內文明而外柔順,以蒙大難,文王以之。“利艱貞”,晦其明也。內難而能正其志,箕子以之。《象》曰:明入地中,“明夷”,君子以蒞眾,用晦而明。王弼曰:顯明於外,乃所辟也。
《明夷》卦の上体は坤(地)、下体は離(火・明)である。卦辞はいう、艱貞に利あり、と。《彖伝》はいう、明は地中に入る。明夷。文を内にし明を外にす。以て大難を蒙る。文王は之を以てせり、と。「艱貞に利あり」は其の明を晦ますなり。内難にして能く其の志を正す。箕子は之を以てせり、と。《象伝》はいう、明は地中に入る。明夷。君子は以て衆を莅るに晦を用いて明なり、と。王弼はいう、明察を外面に顯露するは、恰好として応に回避すべき所なりと。
初九:明夷于飛,垂其翼。君子于行,三日不食。有攸往,主人有言。《象》曰:“君子于行”,義不食也。“明夷”之主在上六。二與五,皆其用事之地。而九三勢均於其主,力足以正之,此三者皆有責於“明夷”之世者也。夫君子有責於斯世,力能救則救之,六二之“用拯”是也;力能正則正之,九三之“南狩”是也。既不能救,又不能正,則君子不敢辭其辱以私便其身,六五之“箕子”是也。
初九の爻辞はいう、明夷の時に飛びて其の翼を垂る。君子は行きて三日食わず。往くところ有れば、主人に言有り、と。《象伝》はいう、「君子の行」は義食わざるなり、と。《明夷》一卦の主角は上六に在り。六二と六五は皆当権用事の位置に処し、而も九三の勢力はあの主角と相当にして、力量は足りてこれを匡正す——この三爻は皆《明夷》の世に対して責任を負うものなり。君子はこの世道に対してすでに責任を負えば、力量の救いえれば則ち救いに往く。六二の爻辞の「用拯」がすなわちこれ。力量の匡正しえれば則ち匡正に往く。九三の爻辞の「南狩」がすなわちこれ。既に救いえずしてまた正しえざれば、さらば君子もまた敢えて己の方便のためにこの屈辱を推掉せず。六五の爻辞の説く所の「箕子」がすなわちこれ。
君子居“明夷”之世,有責必有以塞之,無責必有以全其身而不失其正。初九、六四,無責於斯世,故近者則入腹獲心“于出門庭”,而遠者則行不及食也。“明夷”者,自“夷”以全其明也,將飛而舉其翼,必見縻矣,故“垂其翼”,所以示不飛之形也。方其未去也,“垂其翼”,緩之至也;及其去也,三日不遑食,亟之至也。是何也?則懼不免也。“明夷”之主,既已失其民矣,我有所適,所適必其敵也。去主而適敵,主且以我為謀之,故曰“主人有言”。“主人”,上六也。
君子は《明夷》の時代に処して、責任を負うは則ち必ず法を設けてこれを尽し、責任を負わざるは則ち必ず法を設けて自身を保全して而又正道を失わざるを要す。初九と六四はこの世道に対して並に責任を負わず。ゆえに離れ近き六四は「左腹に入りて明夷の心を獲」て、隨即して赶紧して「門庭を出づ」。離れ遠き初九は走ること飯を喫るに及ばざるに至る。いわゆる「明夷」は、自ら光明を弄り暗くして、以てこの光明を保全せんと好むなり。将に起飛せんとして翅膀を高挙すれば、必ず人に纏住して扣下せらる。ゆえに「其の翼を垂る」は、一付の飛走を打算せざる様子を摆出すなり。それが未だ走らざる時は、「其の翼を垂る」にして、慢ること極処に至る。真に走らんとする時に至れば、三日食を顧みず、また急ぐこと極処に至る。これは何のためぞ。脱身しえざるを怕るるなり。《明夷》の主角は已に民心を失掉したり。我は何処に往かんと欲するも、去処は必ずその敵方なり。主人を離れて敵人に投奔すれば、主人は則ち我が彼を図謀すと認定せん。ゆえに「主人に言有り」という。ここの「主人」は上六を指す。
六二:明夷,夷于左股,用拯馬壯,吉。《象》曰:六二之吉,順以則也。爻言左右,猶言內外也。在我之上,則於我為左矣。“明夷”之世,“坤”,君也,而將廢也。“離”,臣也,而方壯也。自“離”言之,“坤”之廢,左股之傷也。六二忠順之至,故往用拯之,愛其忠而憂其不濟也。故戒之曰:徒往不足拯也。馬壯而後吉,馬所以載傷者也。
六二の爻辞はいう、明夷、左股を夷す。拯ぐるに馬の壮なるを用う。吉、と。《象伝》はいう、二の吉は順にして則なり、と。爻辞に左右を言うは、則ち内外を言うに等し。我の上頭にあるは、我に対して則ち左と算う。《明夷》の時代は、坤は君主にして然るに将に廃せられんとし、離は臣子にして然るに正当強盛なり。離のこの一辺より看れば、坤の将に廃せられんとするは好比左腿が傷を受けたるがごとし。六二は忠順の極処に至る。ゆえに肯んじて前に往きてこれを救う。爻辞はそのこの忠誠を愛惜し、またその救い成らざるを担憂す。よって告誡して曰く、空手にして往けば救いえず。健壯の馬有らざるべからずして吉なり——馬は傷者を駄載するに用うるなり。
九三:明夷,于南狩,得其大首,不可疾貞。《象》曰:“南狩”之志,乃大得也。六二所居者順,而不失人臣之則,故可以拯不明之君。有功而不見疑,是以吉也。至於九三,其勢逼矣。雖欲拯之而不可得,故“南狩”以正之。“明夷”始自晦也,“南狩”,發其明之地也。以陽用陽,戒在於速,故“大首”既獲,則“不可疾貞”。
九三の爻辞はいう、明夷に南狩して其の大首を獲たり。疾貞すべからず、と。《象伝》はいう、南狩の志は乃ち大いに得るなり、と。六二の処する位置は柔順にして、また臣子たるの法度を失わず。ゆえに能く往きてあの昏暗の君主を救助し、功を立てても猜疑を招かず。よって吉。九三に至れば、形形勢は則ち人を逼す。たとい救わんと欲するも救い成らず。已むを得ず「南狩」の弁法を用いてこれを匡正す。「明夷」はもと自我晦藏より始まるにして、「南狩」は正にこの光明を発露せしむる所なり。陽剛の身を以て陽剛の事を行うは、最も戒備せねばならざるは操之過急なり。ゆえに「大首」を擒獲したる後に、便ち「疾貞すべからず」。
六四:入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。《象》曰:“入于左腹”,獲心意也。近不明之君,而位非用事之地,雖以遜免可也。是故“入其左腹,獲其心意”,而君子莫之咎者,以去其門庭之速也。君子之居此,懼不免爾。既免,未有不去者;既免而不去,懷其門庭,將以有求,則吾罪大矣。
六四の爻辞はいう、左腹に入りて明夷の心を獲て、門庭を出づ、と。《象伝》はいう、「左腹に入る」は心意を獲るなり、と。六四は昏暗の君主に貼近して、居する位置はまた当権用事の地にあらず。たとい委曲順從を以て免禍を求めんとするも、亦た厚く非すべからず。ゆえにそれが「其の左腹に入りて其の心意を獲る」は、君子は然るにこれを責めず。正にそれがあの道の門庭を離れて走ること極めて速きに由る。君子がこの位置に処して、怕れるはただ脱身しえざるのみ。一たび脱身しうれば、走らざるはなし。もし已に免禍して還って賴りて走らざれば、人の門庭を戀するは、それは別に求むる所有り。我が罪過は則ち大なり。
六五:箕子之明夷,利貞。《象》曰:箕子之貞,明不可息也。六五之於上六,正之則勢不敵,救之則力不能,去之則義不可,此最難處者也。如箕子而後可,箕子之處於此,身可辱也,而“明不可息”者也。
六五の爻辞はいう、箕子の明夷、貞に利あり、と。《象伝》はいう、箕子の貞は明は息めべからざるなり、と。六五は上六に對す。これを匡正せんと欲せば、勢力は敵せず。これを救わんと欲せば、力量は足らず。一たび走りて之を去らんと欲せば、道義の上はまた許可せず——これは全卦の最も安頓し難き一爻なり。ただ殷末の箕子のごときのみ応付し來るを得。箕子がこ様の境地に身処するは、寧ろ己の身子をして辱を受けしむ。あの内在の光明は然るに絶えて熄滅しえざるなり。
上六:不明晦,初登于天,後入于地。《象》曰:“初登于天”,照四國也;“後入于地”,失則也。六爻皆晦也。而所以晦者不同:自五以下,明而晦者也;若上六,不明而晦者也。故曰“不明晦”,言其實晦非有托也。明而晦者,始晦而終明;不明而晦者,強明而實晦,此其辨也。
上六の爻辞はいう、明ならずして晦なり。初め天に登りて、後に地に入る、と。《象伝》はいう、「初め天に登る」は四国を照るなり。「後に地に入る」は則を失えり、と。《明夷》の六爻は皆昏暗の中に処すといえども、昏暗の緑由は並に相同ならず。六五より下は、皆もと光明にして故意に自ら晦す。上六に至れば、然るにもと不明にして昏暗なり。ゆえに爻辞は「明ならず晦なり」というは、それが実実在在則ち暗にして、並に何の托辞もなきを言う。もと光明にして自ら晦する人は、開頭は暗にして結局は明なり。もと不明にして昏暗なる人は、硬く装い明察と為すにして実は暗なり——これがすなわち両者の分別なり。
家人卦(第三十七)
巽上,離下。“家人”:利女貞。《彖》曰:“家人”,女正位乎內。謂二也。男正位乎外。謂五也。男女正,天地之大義也。家人有嚴君焉,父母之謂也。父父、子子、兄兄、弟弟、夫夫、婦婦而家道正,正家而天下定矣。《象》曰:風自火出,“家人”。君子以言有物而行有恆。火之所以盛者,風也;火盛而風出焉。家之所以正者,我也;家正而我與焉。
《家人》卦の上体は巽(風)、下体は離(火)である。卦辞はいう、女の貞に利あり、と。《彖伝》はいう、家人は女は正位を内にし、男は正位を外にす。男女正しきは天地の大義なり、と。女の内位に正を守るは六二を指し、男の外位に正を守るは九五を指す。男女は各々その正を得たり。これは天地間の大道理なり。一家の中に厳正の君長あるは、説くは父母なり。父は父のごとく、子は子のごとく、兄は兄のごとく、弟は弟のごとく、夫は夫のごとく、婦は婦のごとくなれば、家道は則ち端正す。家家端正なれば、天下も亦た安定す。《象伝》はいう、風は火より自ず。家人。君子は以て言に物ありて行に恒あり、と。火の旺に燒けうる所以は、恃むは風なり。然るに火が一たび旺なれば、風はまた火の裏より生出す。家の端正なりうる所以は、恃むは我が己なり。然るに家が一たび端正なれば、我もまた則ちこの端正の裏頭に在り。
初九:閒有家,悔亡。《象》曰:“閒有家”,志未變也。家人之道,寬則傷義,猛則傷恩。然則是無適而可乎?曰:“君子以言有物而行有恆。”至矣,言之有物也,行之有恆也!雖有悍婦、暴子弟,莫敢不肅然,而未嘗廢恩也,此所以為至也。曾子曰:“君子所貴乎道者三:動容貌,斯遠曝慢矣;正顏色,斯近信矣;出辭氣,斯遠鄙倍矣。”如是,何閒之有?初九用剛於家之始,九三用剛於家之成,是以皆有悔也。夫所以至於“閒”者?惟德不足故也。德既不足,而又忘閒焉,則志變矣。及其未變而閒之,故“悔亡”。
初九の爻辞はいう、家あるを閑す。悔亡ぶ、と。《象伝》はいう、「家あるを閑す」は志の未だ変変ぜざるなり、と。治家の道は、太く寛ければ則ち義を傷い、太く厳ければ則ち恩を傷う。さらばあに一条の走り通るべき路なからんや。答えていう、「君子は言に物ありて行に恒あり」。説話に実在の内容有り、行事に一貫の常度有れば、これは極処に到る。こ一条有れば、家の裏にたとい潑悍の婦人・粗暴の子弟有るとも、敢えて粛然として敬起せざる者なし。而も恩情はまた始終廃掉せられざる。ゆえにそれを極処に到れりという。曽子は《論語・泰伯》の裏にいう、「君子が貴重する道は三樣あり。容貌挙止をして端荘ならしめれば、則ち粗暴慢待を遠離す。臉色をして端正ならしめれば、則ち誠信に近づく。説話の措辞語気を講究せば、則ち鄙陋悖理を遠離す」と。能くこ様に做到せば、還って何の防閑を用いん。初九は家道の剛に始まる時に剛強を動用し、九三は家道の已に成形したる後に還って剛強を動用す。ゆえに両爻は皆悔有り。何を以て非ずして「防閑」せざるべからざるこの歩みに走り至るや。ただ自己の徳行の足らざるに由る。徳行はすでに足らざるにして、また防閑を連れて忘れれば、家人の心志は則ち変壞せん。それが未だ変壞せざるに趁りて先ず防閑を立下す。ゆえに「悔亡」。
六二:無攸遂,在中饋,貞吉。《象》曰:六二之“吉”,順以“巽”也。有中饋,無遂事,婦人之正也。九三:家人嗃嗃,悔厲,吉。婦子嘻嘻,終吝。《象》曰:“家人嗃嗃”,未失也。“婦子嘻嘻”,失家節也。以陽居陽,過於用剛,故悔且危也。人見其悔且危也,而矯之以寬,則家敗矣。故告之以斯人之終吉,戒之以失節之終吝。
六二の爻辞はいう、遂ぐる攸なし、中饋に在り。貞なれば吉、と。《象伝》はいう、二の吉は順にして巽なり、と。家中の飲食供給を掌管して、擅自に大事を決斷せざるは、これは婦人の正道なり。九三の爻辞はいう、家人嗃嗃、悔厲吉。婦子嘻嘻、終に吝、と。《象伝》はいう、「家人嗃嗃」は未だ失われざるなり。「婦子嘻嘻」は家節を失えり、と。九三は陽爻を以て陽位に居り、剛を用うること過頭に過ぐ。ゆえにまた悔ありまた危なり。旁人はそれがまた悔ありまた危なるを見て、便ち寛縦を拿りて之を矯正せんと想う。こ個の家は則ち敗せん。ゆえに爻辞は明白に人に告げて曰く、九三のごとき人は最終は吉なり。同時にまた人に警告して曰く、節度を失掉すれば最終は憾惜有らんと。
六四:富家,大吉。《象》曰:“富家大吉”,順在位也。“家人”有四陽二陰,而陰皆不失其位,以聽於陽。陽為政而陰聽之,家欲不治不可得也。富者治之極也,故六二“貞吉”,其治也;六四“富家”,其極也。以治極致富,則其富可久,此之謂“大吉”。
六四の爻辞はいう、家を富ましむ。大吉、と。《象伝》はいう、「家を富ましむ、大吉」は順にして位に在るなり、と。《家人》卦は四個の陽爻・二個の陰爻有り。二個の陰爻は皆その正位を失わず、皆陽に聽命す。陽は政事を主持して陰は聴從す。こ様の家は治せらざらんと欲するも不可能なり。富足は治理して極処に至りたるの結果なり。ゆえに六二は「貞吉」という、それは治なり。六四は「家を富ましむ」という、それは治の極処なり。治理して極処に至るを恃りて富に致るは、こ様の富ははじめて守り久し。これを「大吉」と呼ぶ。
九五:王假有家,勿恤,吉。《象》曰:“王假有家”,交相愛也。“假”,至也。王至有家,則是家也大矣。王者以天下為一家,“家人”之家近而相瀆,天下之家遠而相忘,知其患在於相瀆也,故推嚴別遠以存相忘之意,知其患在於相忘也。故簡易“勿恤”,以通相愛之情。“家人”四陽,惟九五有人君之德,故稱其德、論天下之家焉。君臣欲其如父子,父子欲其如君臣,聖人之意也。
九五の爻辞はいう、王は家に假す。恤む勿れ。吉、と。《象伝》はいう、「王は家に假す」は交相愛すなり、と。「假」は「至」の意なり。君王の徳化の到る所は則ちその家なり。さらばこの家は大なりと言うべし。王者は天下を以て一家と當てるなり。尋常人家の家は、親近に由りて容易に褻慢に流る。天下のこの大家は、疏遠に由りて容易に彼此淡忘す。近処の毛病は褻慢に在るを知れば、ゆえに厳正を推行して遠近を分別し、以て一点の疏遠相忘の意思を保留せんと好む。遠処の毛病は淡忘に在るを知れば、ゆえにまた簡易に從事して「恤む勿れ」し、以て彼此相愛の情意を打通せんと好む。《家人》の四個の陽爻の中に、ただ九五のみ人君の徳行を具備す。ゆえにその徳行に就りて立論し、談ずるは天下のこの大家なり。君臣の間をして親しく父子のごとくならしめ、また父子の間をして敬しく君臣のごとくならしむ。これが正に聖人の用意なり。
上九:有孚,威如,終吉。《象》曰:“威如”之“吉”,反身之謂也。上九之所信者,三也。家人之無應者,惟三與上而已。人皆剛柔相與,而己獨兩剛相臨,是以終身不忘畏也。畏威如疾,民之上也,故畏人者人亦畏之,慢人者人亦慢之,此之謂“反身”。凡言終者,其始未必然也,“婦子嘻嘻”,其始可樂;“威如之吉”其始苦之。
上九の爻辞はいう、孚あり威如、終に吉、と。《象伝》はいう、「威如」の吉は身に反るなり、と。上九の信任するは九三なり。《家人》卦の裏に正応なきは、ただ九三と上九の両爻のみ。別人は皆一剛一柔に相配するに、ただこの両爻のみ二個の剛爻が彼此相對す。ゆえに終身に敢えて一個の「畏」の字を忘掉せず。病を怕るるがごとく威厳を怕るるは、これは民衆の裏の上等の人なり。ゆえに人を敬畏するは、人もまた彼を敬畏す。人を軽慢するは、人もまた彼を軽慢す。これを「反身」と呼ぶ。およそ爻辞の裏に「終」如何を言うは、起初は往々として然らず。「婦子嘻嘻」の開頭は甚だ快活なり。「威如の吉」の開頭は然るに甚だ難受なり。
睽卦(第三十八)
離上,兌下。“睽”:小事吉。《彖》曰:“睽”,火動而上,澤動而下,二女同居,其志不同行。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛。謂五也。是以“小事吉”。有“同”而後有“睽”。“同”而非其情,“睽”之所由生也。“說”之麗“明”,柔之應剛,可謂“同”矣,然而不可大事者,以二女之志不同也。
《睽》卦の上体は離(火・中女)、下体は兌(沢・少女)である。卦辞はいう、小事吉、と。《彖伝》はいう、睽は火は動きて上り、沢は動きて下る。二女は同居して其の志は同行せず。説びて明に麗る。柔は進みて上行し、中を得て剛に応ず。以て小事吉なり、と。ここに言うは六五を言う。ゆえに「小事吉」。先ず「同」有りて、しかる後に「睽」有り。表面上「同」にして実は真情にあらざるは、正に乖離の産生する根源なり。兌の欣悦が離の光明に附麗し、柔爻が剛爻と相应すれば、則ち「同」と算えうる。然るに大事を辦り成りえざるは、二個の女子の心志がもとより一樣ならざるに由る。
天地“睽”而其事同也,男女“睽”而其志通也,萬物“睽”而其事類也。“睽”之時用大矣哉!人苟惟“同”之知,若是必“睽”。人苟知“睽”之足以有為,若是必“同”。是以自其“同”者言之,則二女同居而志不同,故其吉也小;自其“睽”而“同”者言之,則天地“睽”而其事“同”,故其用也大。《象》曰:上火下澤,“睽”,君子以同而異。“同而異”,晏平仲所謂“和”也。
《彖伝》はいう、天地は睽して其の事は同じ。男女は睽して其の志は通ず。万物は睽して其の事は類なり。睽の時用大なるかな、と。一人の人もしただ一個の「同」の字を認るるのみならば、こう下去すれば必ず乖離に走向す。一人の人もし乖離の中にも照樣有所作為しうるを懂得せば、こう下去すればかえって必ず相同に帰す。ゆえに表面の「同」より講ずれば、二個の女子が同じ屋に住みて心志は同ならず。よってその吉はただ小吉なり。「乖離して実は相同」より講ずれば、天地は相睽するも其の為す所の事は却りて同じ。よってその功用は極めて大なり。《象伝》はいう、上は火、下は沢。睽。君子は以て同にして異なり、と。こ種の「同にして異」は、正に斉国の晏平仲が《左伝・昭公二十年》の裏に言う所の「和」なり。
初九:悔亡。喪馬,勿逐,自復。見惡人,無咎。《象》曰:“見惡人”,以辟咎也。“睽”之不相應者,惟初與四也。初欲適四而四拒之,悔也。四之拒我,逸“馬”也,“惡人”也。四往無所適,無歸之馬也。馬逸而無歸,其勢自復;馬復,則“悔亡”矣。人惟好同而惡異,是以為“睽”。故美者未必婉,惡者未必狠,從我而來者未必忠,拒我而逸者未必貳。以其難致而舍之,則從我者皆吾疾也,是相率而入於咎爾。故“見惡人”,所以“闢咎”也。
初九の爻辞はいう、悔亡ぶ。馬を喪う、逐う勿れ、自ら復る。悪人を見る。咎なし、と。《象伝》はいう、「悪人を見る」は以て咎を避くるなり、と。《睽》卦の裏に彼此相応せざるは、ただ初九と九四のみ。初九は往きて九四に帰附せんと欲するも、九四は然るにこれを拒絶す。これは悔るべし。九四が我を拒を拒絶するは、則ちあの走掉したる「馬」、則ちあの「悪人」なり。九四は出でてもまた別の去るべき処なし。これは一頭の帰家する処なき馬なり。馬は走りてまた帰るべき処なくば、形勢上自然に返り來る。馬が一たび返れば悔恨も亦た則ち消失す。人は総じて己と相同のを喜び、己と相同ならざるを厭惡す。乖離は則ちこう來るなり。要するに知るべし、長じて好く看ゆるは未だ必ずしも性情温婉ならず、面目可憎なるは未だ必ずしも心地兇狠ならず。我に順りて來るは未だ必ずしも忠誠ならず、我を拒絶して走開するは未だ必ずしも二心有らず。もし招致し難きに由りて乾脆として彼を撇下せば、さらば剩る我に順從するは全て我が病根と成り、大家は一路に災咎の裏に走り進まん。ゆえに「悪人を見る」は、正に以て「咎を避くる」の弁法なり。
九二:遇主于巷,無咎。《象》曰:“遇主于巷”,未失道也。“主”,所主也。有所適,必有所主。九二之進,則主五矣。“巷”者,二五往來相從之道也。使二決從五,則見主於其室;五決從二,則見主於其門。所以相遇於巷者,皆有疑也。何疑也?疑四之為寇也。然而猶可以“無咎”者,皆未失相從之道也,特未至爾。
九二の爻辞はいう、巷に主に遇う。咎なし、と。《象伝》はいう、「巷に主に遇う」は未だ道を失えざるなり、と。「主」とは則ち帰依する所の対象なり。人は往く所有れば、必ず帰依する所有り。九二が上に往き走るは、帰依するは則ち六五なり。「巷」は九二と六五との往来相就するあの条の路なり。假使九二が下定決心して六五に跟從せば、則ち六五の屋裏に在りて主人を見るべし。假使六五が下定決心して九二を接納せば、則ち自家の門口に在りて九二を見るべし。いま両辺はただ半路の小巷の裏に碰頭す。彼此皆疑慮有るに由る。何を疑うや。九四の來りて作梗為寇せんを疑う。然るに依然として能く「咎なし」は、双方皆相從の道を偏離せざるに由る。不過還って走り到らざるのみ。
六三:見輿曳,其牛掣。其人天且劓,無初有終。《象》曰:“見輿曳”,位不當也;“無初有終”,遇剛也。三非六之所宜據,譬之乘輿而非其人也。非其人而乘其器,無人則肆,有人則怍矣。故六三見上九,曳其輪而不進,擊其牛而去之。夫六三配上九,而近於九四,九四其寇也,無所應而噬之,未達於配而噬於寇,是以“天且劓”也。乘非其位而汙非其配,可以獲罪矣,然上九猶脫弧而納之,上九則大矣。有是大者容之,故“無初有終”。
六三の爻辞はいう、輿は曳かれ、其の牛は掣かる。其の人は天且つ劓なり。初めなし、終り有り、と。《象伝》はいう、「輿は曳かる」は位當らざるなり。「初めなし、終り有り」は剛に遇えばなり、と。第三この位置はもと陰爻の占むべきにあらず。好比一輛のもとその坐るべからざる車に坐りたるがごとし。その人ならずしてあの器物に坐上すれば、人に見えざる時は便ち無忌憚に肆し、人の見る有る一たびあれば則ち羞愧して當り難し。ゆえに六三は一たび上九を見れば、則ち車輪を回に拖きて肯んじて前進せず、また牛を打ちて赶紧して走開せんと想う。六三はもと上九と一対に配成す。偏にまた九四に緊挨す。九四はその寇仇にして、自ら応ずる所なくして來りてこれを吞噬す。六三は未だ配偶の処に走り到らざるに、先ず寇仇に咬住せられたり。よってはじめて「天且つ劓」の刑傷有り。坐るべからざる位置に坐り、またもと己に属すべき配偶を玷汚せば、罪を獲るに足る。然るに上九は還って弓箭を放下してこれを接納し來る。上九の度量は実に大なり。こ様の大度の人有りて肯んじてこれを容納すれば、ゆえに「初めなし、終り有り」。
九四:睽孤,遇元夫。交孚,厲,無咎。《象》曰:“交孚”“無咎”,志行也。“睽”之世,陽惟升,陰惟降。九二升而遇五,故為遇主;九四、上九升而無所遇,故為“睽孤”。元夫,初九也。夫兩窮而後相遇者,不約而交相信,是以雖危而“無咎”也。
九四の爻辞はいう、睽孤。元夫に遇う。孚を交わす。厲、咎なし、と。《象伝》はいう、「孚を交わし」「咎なし」は志行なり、と。《睽》の時代は、陽爻はただ上に升り、陰爻はただ下に降る。九二は上昇して六五に遇えば、ゆえに「主に遇う」と呼ぶ。九四・上九は上昇して然るに遇う所なし。ゆえに「睽孤」と呼ぶ。「元夫」は初九を指す。二個とも走投無路にしてしかる後に碰上頭する人は、立約せずとも彼此相信す。ゆえに処境はたとい危険なるも「咎なし」。
六五:悔亡。厥宗噬膚,往何咎?《象》曰:“厥宗噬膚”,往有慶也。六五之配,九二也;九二之“宗”,九四也。二與四同功,故亦曰“宗”。“膚”,六三也,自五言二之宗,故曰“厥宗”。六五之所以疑而不適二者,疑四之為“寇”也,故告之曰:四已噬三矣。夫既已噬三,則不暇寇我;我往從二,何咎之有?
六五の爻辞はいう、悔亡ぶ。厥の宗は膚を噬う。往けば何の咎か有らん、と。《象伝》はいう、「厥の宗は膚を噬う」は往けば慶有るなり、と。六五の配偶は九二にして、九二の「宗」は九四——九二と九四とは同じく陽爻にして職事相同なり。ゆえに亦た「宗」と称す。「膚」は六三を指す。六五のこの辺より往きて九二の宗を説く。ゆえに「厥の宗」と称す。六五の遅疑して肯んじて九二に帰附に往かざる所以は、九四の來りて作梗為寇せんを怕るるなり。ゆえに爻辞はこれに告げて曰く、九四は已に六三を啃食するに在りと。すでにそれが正に六三を啃するに忙ければ、則ち手を騰げ出して我を侵犯しえず。我が前去して九二に跟從するは、何の咎か有らん。
上九:睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧。匪寇,無媾;往,遇雨則吉。《象》曰:“遇雨”之“吉”,無疑亡也。上九之所見者,六三也。汙非其配,“負塗”之豕也。載非其人,“載鬼”之車也。是以張弧而待之,既而察之曰:是其所居者不得已,非與寇,為媾者也,是以說弧而納之,陰陽和而雨也。天下所以“睽”而不合者,以我求之詳也;夫苟求之詳,則孰為不可疑者?今六三之罪,猶且釋之;“群疑”之“亡”也,不亦宜哉!
上九の爻辞はいう、睽孤。豕は塗を負い、鬼は一車に載るを見る。先ず弧を張り、後に弧を説く。寇にあらず、婚媾なり。往きて雨に遇えば則ち吉、と。《象伝》はいう、「雨に遇う」の吉は群疑は亡ぶなり、と。上九の看見したるは正に六三なり。六三はもと玷汚すべからざる配偶を玷汚したり。好比あの頭の背上に泥漿を沾満したる猪のごとし。もと載すべからざる人を載す。好比あの輛の鬼を載せたる車のごとし。ゆえに上九は弓を張開してこれを待つ。隨後に細々として一たび看ればはじめて明白す。それがあの処境に落到したるは不得已に出づ。それは並に寇仇と一伙にあらず。それは來りて婚配を求めるなり。ここにおいて弓を放下してこれを接納し進れれば、陰陽は調和して便ち雨を下起す。天下の彼此乖離して一処に合しえざる所以は、我が人を査究すること太く細なるに由る。一たび査究すること太く細なれば、還って誰か懐疑すべからざるならんや。いま六三こ様の罪過を連れて尚ほ寛釈しうれば、さらば「群疑」の消亡は、亦た理所当たるべきならずや。
蹇卦(第三十九)
坎上,艮下。 “蹇”:利西南,不利東北。利見大人,貞吉。 《彖》曰:“蹇”,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉!“蹇,利西南”,往得中也。“不利東北”,其道窮也。 “艮”,東北也;“坎”,北也。難在東比,則西南者無難之地也。君子將有意乎犯難以靖人,必先靖其身,是故立於無難之地,以觀難之所在,勢之可否,見可而後赴之,是以往則“得中”也。難之所在,我亦在焉,則求人之不暇,其道窮矣。然此非為大人者言也,初六、九三、六四、上六,皆因其勢之遠近、時之可否以斷其往來之吉凶,故西南之利、東北之不利,為是四者言也。若九五之大人則不然。
《蹇》卦の上卦は「坎」(水・険)、下卦は「艮」(山・止)である。卦辞はいう、蹇は西南に利あり、東北に利あらず。大人を見るに利あり、貞なれば吉、と。《彖伝》は釈していう、蹇は難なり。険は前に在り、険を見て能く止まるは知なり、と。「蹇は西南に利あり」は往けば中を得るなり。「東北に利あらず」は其の道は窮まれるなり、と。 蘇軾はいう、八卦の方位に按すれば、「艮」は東北に在り、「坎」は正北に在り。艱険は皆東辺に落つ。さらば西南は便ち艱難なきの地なり。君子は意有りて危難を冒して別人を安定せば、必ず先ず自身を安頓し好くせねばならず。ゆえに彼は先ず危難なきの地に立ち、あそこより危難が究竟何処に在るか、形勢は可行か不可行かを看淸し、可行と看准してはじめて奔赴して過去す。よって前往してはじめて「中を得」るを得。たとい危難の在る所の処に我が己もまた其の中に陥在すれば、則ち人に相助を求むるにも及ばず、路は自然に尽頭に走り至る。不過この番の話は並に九五のごとき「大人」に對して説くにあらず。初六・九三・六四・上六のこの四爻は、皆己の険難より離るるの遠近・時機の可行か否かに按りて往来の吉凶を判定す。ゆえに「西南に利有り・東北に利あらず」はこの四爻に替わりて説くなり。九五のあの大人に至れば、則ち然らず。
“利見大人”,往有功也。當位貞吉,以正邦也。 “當位”而正,五也;五之謂“大人”。大人者不擇其地而安,是以立於險中而能正邦也。是豈惡東北而樂西南者哉?得見斯人而與之往,其有功無疑也,上六當之。 “蹇”之時用大矣哉! 《象》曰:山上有水,“蹇”。君子以反身修德。
《彖伝》はいう、「大人を見るに利あり」は往けば功有るなり。位に當りて貞なれば吉にして、以て邦を正すなり、と。 蘇軾はいう、いわゆる位に當りて而又中正なるは、九五のこの一爻なり。九五は則ち卦辞の裏に説く「大人」なり。大人は地方を挑揀せずして安身しうる。ゆえに彼は険難の當中に立ちて依然として能く邦国を匡正す。彼はあに東北を厭惡し西南を偏愛せんや。能くこ様の人を見て彼と一同に前往せば、建功は毫も疑問なし。上六の一爻は正にこの義に當る。 《彖伝》は最後に讚嘆していう、《蹇》卦の時に因りて制宜する功用は、実在に太大なり。 《象伝》はいう、山の上に水あり。蹇。君子は以て身に反りて徳を修む、と。
初六:往蹇,來譽。 《象》曰:“往蹇來譽”,宜待也。 九五以“大蹇”為朋來之主,以中正為往來之節,未及於五,難未艾也。犯之有咎,過五以上,難衰而可乘矣。故上六“往蹇來碩”,而六四以下皆以“往蹇”為病。而其來,有先後之差焉:見難而往,難不可犯,窮而後反。人不以窮而後反者,為有讓以其不得已也。惟初六,涉難未深而遽反,不待其窮,是以有“譽”也。
初六の爻辞はいう、往けば蹇、來れば譽、と。《象伝》はいう、「往蹇來譽」は待つべきなり、と。 蘇軾はいう、九五は身に「大蹇」を処して以て衆人の來り帰る主心骨と成り、また中正の徳を以て各爻の進退の準繩と為す。およそ未だ九五のあそこに到達せざるは、険難は皆止息せず。硬く闖り上げれば便ち過錯有り。九五を越えて上に往けば、険難は已に衰減せり。則ち勢に趁りて動くべし。ゆえに上六は「往蹇來碩」といい、而も六四以下の各爻は皆「往蹇」を以て毛病と看作す。各爻の頭を回りての「來」に至れば、亦た先後早晩の分別有り。艱難を見て依然として前往し、険難の実在に闖り過去しえざるを待ちて、走投無路にしてはじめて折返する——こ様の人は、別人は並に彼が山窮水盡してはじめて頭を回したるに由りてこれを責めず。彼が不得已に出づるを体諒するなり。ただ初六のみ、険難に渉入すること還って深からざるに則ち当機立断して退回す。窮途末路を待たず。ゆえにはじめて「譽」有り。
六二:王臣蹇蹇,匪躬之故。 《象》曰:“王臣蹇蹇”,終無尤也。 初六、九三、六四、上六,彼四者或遠或近,皆視其勢之可否以為往來之節;獨六二有應於五,君臣之義深矣。是以不計遠近、不慮可否、無往無來、“蹇蹇”而已。君子不以為不智者,以其非身之故也。
六二の爻辞はいう、王臣蹇蹇、躬の故にあらず、と。《象伝》はいう、「王臣蹇蹇」は終に尤なきなり、と。 蘇軾はいう、初六・九三・六四・上六のこの四爻は、或いは遠く或いは近く、皆形勢の可行か否かを看りて進退の分寸を決定す。ただ六二のみ九五と正相应して、君臣の間の情義は極めて深し。よってそれは遠近を計較せず、可行か否かを考慮せず、前往とも謂う所なく、退回とも謂う所なく、ただ「蹇蹇」と一味に犯難して行くのみ。君子はこれを不明智と以為らず。正にそれがこ様に為すは並に自己一身の利害のためならざるに由る。
九三:往蹇,來反。 《象》曰:“往蹇來反”,內喜之也。 六四:往蹇,來連。 《象》曰:“往蹇來連”,當位實也。 夫勢不可往者,非徒往而無獲,亦將來而失其故也,何則?險難在前,不慮可否而輕以身赴之,苟前不得進,則必有議吾後者矣。九三“往蹇”,而其來也得反其位,則“內喜之”也。內之二陰,不能自立於險難之際,待我而為捍蔽,是故完位以復我。我之所以得反者,幸也。至於六四,則九三躡而襲之矣,外難未夷而歸遇難,故曰“往蹇,來連”。“連”者,難之相仍也。“實”,陽也;九三以陽居陽,其有乘虛而不敢者乎?故曰“當位實也”。
九三の爻辞はいう、往けば蹇、來れば反る、と。《象伝》はいう、「往蹇來反」は内これを喜ぶなり、と。六四の爻辞はいう、往けば蹇、來れば連る、と。《象伝》はいう、「往蹇來連」は位に當りて実なり、と。 蘇軾はいう、形勢の前往を容許せざる時に勉強して往けば、不但に往きて一の獲る所なく、返り來るもまた連れてもとの位置を丟掉せん。何を以てするや。険難は則ち前頭に横在し、可行か否かを量らずして軽率に身を以て険に赴けば、万一前面に進入しえざれば、後方は必ず人の我を議論し我が位子を覬覦する有らん。九三は「往蹇」して退り來れば還って自己もとの爻位に回り得。ゆえに「内これを喜ぶ」という——内卦の初六・六二の二個の陰爻は険難の際に自立しえず、正に九三がそれらに替わりて遮擋するを指望す。よって彼の位置を保全してその返り來るを待つ。九三の退り來りうる所以は、僥倖なり。六四に至れば則ち同ならず。九三は緊跟して追襲して上がり來り、外面の険難は還って平定せざるに、退り來るもまた麻煩に撞上す。ゆえに「往けば蹇、來れば連る」という。「連」とは、則ち災難が一重また一重と接續するなり。「実」は陽爻を指す。九三は陽爻を以て陽位に居り。それはあに後方の空虚なるに由りて敢えて機に乗じて占据せざらんや。ゆえに《象伝》は「位に當りて実なり」という。
九五:大蹇,朋來。 《象》曰:“大蹇朋來”,以中節也。 險中者,人之所避也;而己獨安焉,此必有以任天下之大難也。是以正位不動,無往無來,使天下之濟難者朋來而取節焉,謂之“大人”,不亦宜乎?
九五の爻辞はいう、大蹇、朋來る、と。《象伝》はいう、「大蹇朋來」は節を中にするなり、と。 蘇軾はいう、険難の當中は人人の躲避する所にして、ただ九五のみ自ら其の間に安処す。これは必ず彼に天下の大難を担当する能力有るに由る。ゆえに彼は端居して正位して動揺せず、前往とも謂う所なく、退回とも謂う所なく、天下の難を濟さんと欲する人をして皆成群結伴して來らしめ、彼のここより進退の準の準則を領取せしむ。彼を「大人」と称するは、あに甚だ恰當ならざらんや。
上六:往蹇,來碩,吉。利見大人。 《象》曰:“往蹇來碩”,志在內也。“利見大人”,以從貴也。 六爻可以往者,惟是也,故獨享其利。天下有大難,彼三人者皆不能濟,而我濟之。既濟而天下不吾宗者未之有也,故曰“往蹇來碩”。“利見大人”者,明上六之有功,由九五為之節也。“內”與“貴”,皆五之謂也。
上六の爻辞はいう、往けば蹇、來れば碩。吉。大人を見るに利あり、と。《象伝》はいう、「往蹇來碩」は志は内に在るなり。「大人を見るに利あり」は以て貴に從うなり、と。 蘇軾はいう、六爻の中に真に放手して前往しうるは、ただ上六の一爻のみ。ゆえにただそれのみ独りでこの份の好处を享受す。天下に大難有れば、初六・九三・六四のあの三位は皆難を濟すに力なし。而も我が上六は能く濟す。すでに難を濟せば、天下に我を奉じて宗主と為さざるはなし。ゆえに「往蹇來碩」という。「大人を見るに利あり」というは、上六の建功しうる所以は全て九五がそれに替わりて進退の準則を定下したるに恃るを点明せんと要するなり。《象伝》の裏の「内」と「貴」は、説くは皆九五なり。
解卦(第四十)
震上,坎下。 “解”:利西南。無所往,其來復,吉。有攸往,夙吉。 《彖》曰:“解”,險以動,動而免乎險,解。“解,利西南”,往得眾也;“其來復,吉”,乃得中也。“有攸往,夙吉”,往有功也。 所以為“解”者,“震”也,“坎”也。“震”,東也;“坎”,北也。“解”者在此,所“解”在彼。東北,“解”者之所在;則西南,所“解”之地也。在難而思“解”,處安而惡擾者,物之情也。方其在難,我往則得眾,故“利西南”;及其無難,我往則害物,故“來復,吉”。“復”者,復東北也。東北有時而當復,是以不言其不利也。“來復”之為“吉”者,夙所往之時也,苟“有攸往”,非夙不可。“有攸往”而不夙,難深而不可“解”矣。
《解》卦の上卦は「震」(雷・動)、下卦は「坎」(水・険)である。卦辞はいう、解は西南に利あり。往くところなければ、其の來復は吉。往くところ有れば、夙に吉、と。《彖伝》はいう、解は険にして動く。動きて険を免る。解なり、と。「解は西南に利あり」は往けば衆を得るなり。「其の來復は吉」は乃ち中を得るなり。「往くところ有れば夙に吉」は往けば功有るなり、と。 蘇軾はいう、《解》卦を構成するは「震」と「坎」なり。「震」は東方に在り、「坎」は北方に在り。解救を施行する人はこの一辺に在り、解救せらるる対象はあの一辺に在り。東北は解救者の在る所の処にして、西南は便ち解救を待つの地なり。身が危難に陥れば則ち人の來りて解するを盼し、処境が安定すれば則ち別人の來りて攪擾するを厭惡す。これは人情物理なり。人がなお危難の中に在るに當りて、我が前往すれば則ち衆を得るを得。ゆえに「西南に利あり」。人が已に難なきを待ちて、我が再往けばかえって人を害す。ゆえに「來復、吉」という。「復」とは、則ち東北に回帰するなり。東北は時候有りて応に回去すべし。ゆえに《彖伝》は並にその不利を説かず。「來復」の「吉」たる所以は、応に趁早に前往すべきの時機に就りて説くなり。真に「往くところ有る」は、趁早に非ざれば可ならず。往く所有りて然るに趁早せざれば、禍難は積りて深く、則ち再び解き開きえず。
天地“解”而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲圻。“解”之時大矣哉! 《象》曰:雷雨作,“解”。君子以赦過宥罪。 初六:無咎。 《象》曰:剛柔之際,義“無咎”也。 “解”有二陽:九二有應於六五,而九四有應於初六,各得其正,而分定矣。惟六三者,無應而處於二陽之間,兼與二陽而“解”,始有爭矣。故“解”之所疾者,莫如六三也。六三欲以其不正亂人之正,故初與五皆其所疑而咎之。以其疑而咎之也,故特明其“無咎”,曰此與九四剛柔之際也,於義無咎。
《彖伝》は続けていう、天地は解きて雷雨は作る。雷雨は作りて百果草木は皆甲坼す。解の時大なるかな、と。《象伝》はいう、雷雨は作る。解。君子は以て過を赦し罪を宥す、と。 初六の爻辞はいう、咎なし、と。《象伝》はいう、剛柔の際は義咎なきなり、と。 蘇軾はいう、《解》卦は二個の陽爻有り。九二は六五と相应し、九四は初六と相应し、各自配對して正を得、名分は已に定まれたり。ただ六三のみ正応なくして、然るに二個の陽爻の中間に夾り、同時に両陽に攀附して以て脱身を求めんと欲す。争端は則ちここより生出す。ゆえに《解》卦の最も忌恨するは六三に若くなし。六三は己の不正を拿りて別人の正配を攪乱せんと欲す。よって初六と六五とは皆それに由りて疑を生じ、進みて初六を責怪す。正に初六は猜疑せられて責怪を受けたるにしかば、爻辞ははじめて特意にその「咎なし」を点明し、初六と九四とはもと剛柔正相接する一対にして、義理に按すれば過錯なしと説く。
九二:田獲三狐,得黃矢,貞吉。 《象》曰:九二“貞吉”,得中道也。 九二之所當得者,六五也。近而可取者,初六、六三也。此之謂“三狐”。三狐皆可取,而以得六五為“貞吉”也。此之謂“黃矢”,“黃”,中也;“矢”,直也。直其所當得也,是以六五為“黃矢”;釋其所不當得之三狐,而取其所當得之一矢,息爭之道也。
九二の爻辞はいう、田に三狐を獲て黄矢を得たり。貞なれば吉、と。《象伝》はいう、二の「貞吉」は中道を得るなり、と。 蘇軾はいう、九二が理當として得るべきは、それと相应する六五なり。離れ近く隨手に取りうるは、初六と六三にして、これがすなわちいわゆる「三狐」なり。三匹の狐狸は皆手に到りうるも、ただ六五を得るのみ「貞吉」と算う。六五は則ちあの支の「黄矢」なり。「黄」は居中の色、「矢」はその直を取る。直に己の理當として得るべきを取る。ゆえに六五を以て「黄矢」と比作す。もと己に属すべからざるあの三匹の狐狸を放掉して、ただあの支のもと己に属すべき箭を取る。これが正に争端を平息するの弁法なり。
六三:負且乘,致寇至,貞吝。 《象》曰:“負且乘”,亦可醜也;自我致戎,又誰咎也? 三於四為“負”,於二為“乘”。乘而不負,若負而不乘,猶可以免於寇。寇之所伐者,負且乘也。夫三苟與四而不與二,則四不伐;與二而不與四,則二不攻。所以致寇者,由兼與也。二與四皆非其配,雖貞於一猶吝也,而況兼與乎?丑之甚也! 九四:解而拇,朋至斯孚。 《象》曰:“解而拇”,未當位也。 “拇”,六三;“朋”九二也。三來附己,解而不取,則二信之。“未當位”者,明勢不可以爭也。
六三の爻辞はいう、負いて且つ乘す。寇を致す。貞なりとも吝、と。《象伝》はいう、「負いて且つ乘す」は亦た醜るべきなり。自我戎を致す。又た誰を咎めんや、と。 蘇軾はいう、六三は上面の九四に對しては「負」(背負)にして、下面の九二に對しては「乘」(凌乘)なり。ただ乘して負せざるか、或いはただ負して乘せざれば、なお強盗を免るるを得。強盗の討伐せんと欲するは、正にまた負しまた乘する人なり。六三はたといただ九四と結交して九二と結交せざれば、九四は則ち來りて討伐せず。ただ九二と結交して九四と結交せざれば、九二は則ち來りて攻撃せず。強盗を招来する緑故は、則ちそれが両辺とも要するに在り。九二と九四は皆その正配にあらず。たとい一に其中の一個に依附するも尚ほ憾あり。いわんや両頭に攀附するをや。醜ること極処に至る。 九四の爻辞はいう、而の拇を解け。朋至り斯ち孚なり、と。《象伝》はいう、「而の拇を解く」は未だ位に當らざるなり、と。 蘇軾はいう、「拇」は六三を指し、「朋」は九二を指す。六三が前來りて九四に攀附するに、九四はこれを解きて接納せざれば、九二は則ち九四を信任す。「未だ位に當らず」というは、形勢上争いに往くべからざるを点明せんと要するなり。
六五:君子維有解,吉;有孚于小人。 《象》曰:君子有“解”,小人退也。 六五,九二之配也。而近於四,六三欲附於二與四,故疑而疾之。夫以六五之中直,豈與六三爭所附者哉?而六三以小人之意,度君子之心,故六五“維有解,吉”。“維有解”者,無所不解之謂也。近則解四,遠則解二,是以六三釋然而退也。
六五の爻辞はいう、君子は維解有りて吉。孚は小人に於て有り、と。《象伝》はいう、君子は解有りて、小人は退くなり、と。 蘇軾はいう、六五は九二の正配なれども、然るにまた九四に靠近す。六三は既に九二に依附せんと欲しまた九四に依附せんと欲す。ゆえに六五に對して疑を起こしてこれを憎恨す。六五の中正誠直の品格を憑れば、何ぞ六三と同じく依附の対象を争奪せんや。然るに六三は小人の心を以て君子の腹を揣度す。よって爻辞は六五に「維解有りて吉」という。いわゆる「維解有り」とは、則ち解き開きえざるなきなり。近處に於て九四に對する糾纏を解き、遠處に於て九二に對する牽係を解けば、ここにおいて六三もまた則ち釋然として退く。
上六:公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。 《象》曰:“公用射隼”,以解悖也。 “隼”者,六三也;“墉”者,二陽之間也;“悖”者,爭也。二陽之所以爭而不已者,以六三之不去也。孰能去之?將使二與四乎?二與四固欲得之,將使初與五乎?則初與五,二陽之配,三之所疑也。夫欲弊所爭而解交斗,惟不涉其黨者能之,故“高墉”之“隼”,惟上六為能射而獲也。隼獲爭解,二與四無不利者。
上六の爻辞はいう、公は隼を高墉の上に射て之を獲たり。利ならざるなし、と。《象伝》はいう、「公は隼を射る」は以て悖を解くなり、と。 蘇軾はいう、「隼」は六三を指し、「墉」は九二と九四の両陽の間の地位を指し、「悖」は則ち争なり。二個の陽爻の争執して休まざる所以は、正に六三が遅遅として肯んじて離去せざるに由る。誰か能くこれを除掉せんや。九二と九四に去らしむるか。この両爻はもとそれを弄りて手に到らんと欲す。初六と六五に去らしむるか。初六・六五は恰好として両陽の正配にして、正に六三の猜忌する対象なり。争奪を終止し交斗を化解せんと欲せば、ただこの党派の裏に牽渉せざる人のみ辦り得。ゆえに「高墉」の上に盘踞するあの匹の「隼」は、ただ上六のみ能く射て之を獲る。隼は一たび射獲せられれば、争端は随いて解け、九二と九四もまた則ち何の不利もなし。
損卦(第四十一)
艮上,兌下。 “損”:有孚,元吉,無咎。可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。 《彖》曰:“損”,損下益上,其道上行。 自陽為陰,謂之“損”;自陰為陽,謂之“益”。“兌”本“乾”也,受“坤”之施而為“兌”,則損下也。“艮”本“坤”也,受乾之施而為“艮”,則益上也。惟“益”亦然,則“損”未嘗不“益”,“益”未嘗不“損”,然其為名,則取一而已。何也?曰:君子務知遠者大者,損下以自益,君子以為自損。自損以益下,君子以為自益也。
《損》卦の上卦は「艮」(山)、下卦は「兌」(沢)である。卦辞はいう、孚有り、元吉、咎なし、貞すべし、往くところ有るに利あり。曷之を用いん。二簋は享に用うべし、と。《彖伝》はいう、損は下を損して上を益す。其の道は上行す、と。 蘇軾はいう、陽より陰に変ずるを「損」と呼び、陰より陽に変ずるを「益」と呼ぶ。「兌」はもと「乾」にして、「坤」の施予を接受して(上爻が陰に変ず)「兌」と成る。これがすなわち下卦を減損したるなり。「艮」はもと「坤」にして、「乾」の施予を接受して(上爻が陽に変ず)「艮」と成る。これがすなわち上卦を増益したるなり。《益》卦の道理も亦た一樣なり。見れば「損」は未だ嘗て同時に「益」ならざらず、「益」は未だ嘗て同時に「損」ならざらず。然るに卦に命名する時はただ其中の一面を取る。何を以てするや。答えていう、君子は着力してあの長遠の・重大の一面を認識す。下に在る者を減損して己を増益するを、君子は自損と看作す。己を減損して下に在る者を増益するを、君子は自益と看作す。
“損”而有孚,“元吉,無咎”。 損下而下信之,必有道矣。孟子曰:“以佚道使民,雖勞不怨;以生道殺民,雖死不怨殺者。”使民知所以損我者,凡以益我也,則信之矣。損者,下之所患也,然且不顧而為之,則其利必有以輕其所患者矣。利不足以輕其所患,益不足以償其所損,則損且有咎;是故可以無咎者,惟“元吉”也。上之所以損我者,豈徒然哉,蓋“吉”之“元”者也,如此而後“無咎”。
《彖伝》はいう、損にして孚有れば、元吉、咎なし、と。 蘇軾はいう、下に在る者を減損して而下に在る者が依然として汝を信任すれば、これは必ずその道理有り。《孟子・盡心上》はいう、「百姓を安逸せしむるの方針を以て彼らを役使すれば、彼らは労苦するも怨恨せず。百姓を生存せしむるの方針を以て罪人を処死すれば、罪人は死するも行刑の人を怨恨せず」と。百姓をして明白せしむるに、およそ我がここより取り去るは、全て回り來りて我を増益せんがためなれば、彼らは自然に信ず。減損は下に在る者の憂患する事にして、而在上者は依然としてこの一点を顧みずして為せば、さらば其中の利益は必ず足りて百姓の憂患する所を抵消す。假使あの利益が百姓の憂患に抵えざれば、得る所の増益は受くる所の減損を補い回えざれば、さらばこの一の「損」は則ち過錯を招来せん。ゆえに能く「咎なし」たるは、ただ「元吉」のこの一種の情形のみ。上面が我を減損する所以は、あに徒らに拿走せんや。それは吉祥の中最大の一種なり。こうして後にはじめて「咎なし」を談ずるを得。
可貞,利有攸往。“曷之用?二簋可用享”,二簋應有時,損剛益柔有時,損益盈虛,與時偕行。 “有孚,元吉無咎”,為上卦言也;“可貞,利有攸往,曷之用?二簋可用享”,為下卦言也。損下益上,其道上行,然而下不可以無貞也,以損之道為上行,而舉不可貞則過矣。故“損”有“可貞”之道,九二是也;皆貞而不往則無上,皆往而不貞則無下,故“可貞,利有攸往”。有“往者”,有“貞者”,故曰“曷之用”。“曷之”者,擇之也;“二簋”,“兌”之二陽也。“兌”本“乾”也,而六三以身徇上,故自陽而變為陰。初九、九二,意則向之,而身不徇,故自如而不變也。祭祀之設簋也,亦以其意而已,我豈予之?神豈取之哉!君子之益人也,蓋亦有無以予之,而人不勝其益者也。然此二陽,皆有應於上者也:初九“遄往”,而九二“征凶”,故曰“二簋應有時”,言雖應,而往有時也。
《彖伝》は続けていう、貞すべし、往くところ有るに利あり。曷之を用いん。二簋は享に用うべし——二簋は時に応じ、剛を損し柔を益するも時有り。損益盈虚は、時と偕に行くなり、と。 蘇軾はいう、「孚有り、元吉、咎なし」は上卦に就りて説くなり。「貞すべし、往くところ有るに利あり、曷之を用いん、二簋は享に用うべし」は下卦に就りて説くなり。下を減損して上を増益し、その道は向上に運行すといえども、然るに下面も亦た守正の人なかるべからず。もし損道が向上に運行するに由りて、一概に下卦は皆守正すべからずと認定せば、則ち過頭に過ぐ。ゆえに《損》卦の裏には別に「貞すべし」の道有り。九二は便ちこれなり。皆守正して人の前往するなければ、上面に供奉なし。皆前往して人の守正するなければ、下面は則ち空きたり。ゆえに「貞すべし、往くところ有るに利あり」という——往く者有り、守正する者有り。よってまた「曷之を用いん」という。「曷之」とは、則ち選択を加うるなり。「二簋」は「兌」卦の二個の陽爻を指す。「兌」はもと「乾」にして、六三は自身を以て上面に徇奉す。ゆえに陽より陰に変じたり。初九・九二は心の裏もまた上面に向うも、ただ身子は跟いて往かざる。ゆえに照舊変わらず。祭祀の時に簋を摆上するは、亦不過心意を表達するのみ。我はあに真に神に何かを給えんや。神はあに真に我がここより何かを取り去らんや。君子が別人を増益するも、亦たこ様の一種の情形有り。並に何の東西を拿出して人に給えざるに、人は然るに受益無窮なり。不過この二個の陽爻は皆上面と応有り。初九は「遄に往け」にして、九二は然るに「征せば凶」なり。ゆえに「二簋は応時に用いるべし」という。意はたとい相应するも、前往は然るに時候を看るを要す。
《象》曰:山下有澤,“損”,君子以懲忿窒欲。 初九:已事遄往,無咎,酌損之。 《象》曰:“巳事遄往”,尚合志也。 《彖》曰:“損益盈虛,與時偕行。”則損、益視盈、虛以為節者也。初九陽之未損,則方盈也;六四陰之未益,則猶虛也。下方盈而上猶虛,則其往也不可後矣,故我雖有事,當且已之而遄往也。其往也自我,則損之多少我得酌之。若盤桓不進,迫於上之勢而後往,則雖欲酌之,不可得矣,其損必多。故勢不可以不損者,惟“遄往”,可以“無咎”。
《象伝》はいう、山下に沢あり。損。君子は以て忿を懲り欲を窒ぐ、と。 初九の爻辞はいう、事已りて遄に往け。咎なし。之を損するを酌べ、と。《象伝》はいう、「事已りて遄に往く」は尚志を合するなり、と。 蘇軾はいう、《彖伝》の講ずる「損益盈虚は時と偕に行く」は、見れば損と益とは盈と虚とを看りて分寸を定むるなり。初九は陽爻にして還って減損せられず、正に盈満に當る。六四は陰爻にして還って増益を得ず、尚ほ空虚なり。下面は正に盈にして上面は還って虚なれば、さらば前往は人後に落つべからず。ゆえに我はたとい事を身に有するも、応に暫く擱下して赶紧して前往すべし。すでに我が主動に往くなれば、減損の多少は便ち我が己に由りて斟酌す。もし盤桓して進まずして、上面の形勢に逼られて頭上に到りてはじめて往けば、あの時はたとい斟酌せんと欲するも及ばず。損失は必ず甚だ大なり。ゆえに形勢上減損有らざるべからざる時は、ただ「赶紧して往く」のみ「咎なし」たるを得。
九二:利貞,征凶。弗損,益之。 《象》曰:“九二利貞”,中以為志也。 初九已損矣,六四已益矣,則九二之於六五,不可復往,故“利貞,征凶”。其跡不往,其心往也,故“弗損,益之”。言九二以無損於己者益六五也。“兌”之三爻,未有不以益上為志者,初九跡與心合,故曰“尚合志也”;九二則其心向之而已,故曰“中以為志也”。夫以損己者益人,則其益止於所損,以無損於己者益人,則其益無方。故“損”之六三,益之六四,皆以損己者益人;而“損”之九二,益之九五,皆以無損於己者益之。以其無損於己,故受其益者,皆獲“十朋之龜”也。
九二の爻辞はいう、貞に利あり、征せば凶。損せざれば之を益す、と。《象伝》はいう、二の「貞に利あり」は中以て志と為すなり、と。 蘇軾はいう、初九は已に損過ぎ、六四は已に受益したり。さらば九二が六五に對しては、再び上に往くべからず。ゆえに「貞に利あり、征せば凶」という。それは形跡の上は往かざれども、心の裏は然るに往きたり。ゆえに「損せず、之を益す」という。意は九二が己を損せざるの方式を用いて六五を増益するを言う。「兌」卦の三爻は上を増益するを以て志と為さざる一個なし。初九は形跡と心意とが一致す。ゆえに《象伝》は「尚志を合するなり」という。九二はただ心の裏が上面に向うのみ。ゆえに「中以て志と為すなり」という。己を損害するの弁法を拿りて別人を増益するは、あの増益は己の損する所に至れば則ち完了す。己を損害せざるの弁法を拿りて別人を増益するは、あの増益は則ち辺際なし。ゆえに《損》卦の六三、《益》卦の六四は、皆己を損して以て人を益す。而も《損》卦の九二、《益》卦の九五は、皆己を損せざるの方式を以て別人を増益す。正に己を損せざるにしかば、この増益を承受する人は、皆「十朋の龜」のごとき貴重の報答を獲得しうる。
六三:三人行,則損一人;一人行,則得其友。 《象》曰:“一人行”,三則疑也。 “兌”之三爻皆以益上為志,故曰“三人行”;卒之損己以益上者,六三而已;故曰“損一人”、且曰“一人行”也。“友”,九二也。六三以身徇上,使九二得以不徵,此九二之所深德也,故曰“一人行,則得其友”。以心言之,則三人皆行;以跡言之,則一人而已。君子之事上也,心同而跡異,故上不疑;苟三人皆行,則上且以我為有求而來,進退之義輕矣。
六三の爻辞はいう、三人行けば則ち一人を損す。一人行けば則ち其の友を得、と。《象伝》はいう、「一人行く」は三なれば則ち疑うなり、と。 蘇軾はいう、「兌」卦の三爻は皆上を増益するを以て志と為す。ゆえに「三人行く」という。到頭に真に己を損して上を益するはただ六三の一爻のみ。ゆえに「一人を損す」といい、また「一人行く」という。「友」は九二を指す。六三は自身を以て上面に徇奉して、九二をして出征せざるを得せしむ。これは九二の深く感念する恩徳なり。ゆえに「一人行けば則ち其の友を得」という。心意に講ずれば、三個人は皆動身したり。形跡に講ずれば、往きしはただ一人のみ。君子が上級に事奉するは、心意は相同にして形跡は各異なり。ゆえに上面は疑を生ぜず。假使三個人皆動身せば、上面は則ち我らは求む所有りて來れりと以為らん。進退辭受の分寸も亦た変じて軽賤ならん。
六四:損其疾,使遄有喜,無咎。 《象》曰:“損其疾”,亦可喜也。 “遄”者,初九也。下之所損者有限,而上之求益者無已,此下之所病也。我去是病,則夫“遄者”喜我矣。自初言之,“已事遄往”,則四之求我也寡,故“酌損之”;自四言之,“損其疾”,則初之從我也易,故“遄有喜”。
六四の爻辞はいう、其の疾を損して遄に喜ばしめば、咎なし、と。《象伝》はいう、「其の疾を損す」は亦た喜ぶべきなり、と。 蘇軾はいう、「遄」は初九を指す。下に在る者の拿出しうるは有限にして、上に在る者の求取増益は然るに止境なし。これが正に下に在る者の病痛なり。我が六四はそれに替わりてこの病痛を去掉せば、あの趕來の初九は則ち我を歡喜す。初九の一辺より説けば、それは「事已りて遄に往く」。さらば六四のそれに對する索求は少し。ゆえにそれは能く「之を損するを酌ぶ」。六四の一辺より説けば、それは「其の疾を損す」。さらば初九の我に順從するも亦た容易し。ゆえに「遄に喜ばしむ」。
六五:或益之,十朋之龜;弗克違,元吉。 《象》曰:六五“元吉”,自上祐也。 六五者,受益之主,而非受益之地也。以受益之主而不居受益之地,不求益者也。不求益而物自益之,故曰“或”。“或”者,我不知其所從來之辭也。“十朋之龜”,則九二弗損之益也;龜之益人也,豈有以予人,而人亦豈有所取之?我亦效其智而已。六五之於九二,無求也,“自上祐之”。而二自效其智,雖欲避之而不可,以其不可避,知其非求也,故“元吉”。
六五の爻辞はいう、或いは之を益するに十朋の龜なり。弗くんじて違くべからず。元吉、と。《象伝》はいう、五の「元吉」は上より祐せらるるなり、と。 蘇軾はいう、六五は受益の主人にして、然るに並に受益の位置に処せず。身を受益の主と為して受益の地に居らざるは、これがすなわち増益を求取に往かざる人なり。増益を求めずして外物が自ら門に找して來りて彼を増益す。ゆえに「或いは」という——「或いは」は「我はそれが何処より來るを知らず」の説法なり。「十朋の龜」とは、則ち九二のあの種の己を損せずして來るの増益なり。龜は能く人を益するは、あにそれが何かを拿出して人に給えたるならんや。人はまたあにその身上より何かを取り去れたるならんや。不過我がその靈智を效法するのみ。六五は九二に對して求むる所なし。これは「上より之を祐する」なり。九二は自動してその智慧を献出す。六五は躲けんと欲するも躲けえず。正に躲けえざるにしかば、はじめて知る、これは求め來りたるにあらずと。ゆえに「元吉」。
上九:弗損,益之,無咎,貞吉,利有攸往。得臣,無家。 《象》曰:“弗損益之”,大得志也。 上九者,受益之地,不可以有損。而六三之德不可以無報也,故以無損於己者益之,則大得其志矣。六三忘家而徇我,我受其莫大之益,苟安居而無所往,則是以其益厚己而已。故“利有攸往”,然後有以受之而無愧也。
上九の爻辞はいう、損せずして之を益す。咎なし。貞なれば吉。往くところ有るに利あり。臣を得て家なし、と。《象伝》はいう、「損せず之を益す」は大いに志を得るなり、と。 蘇軾はいう、上九は増益を承受する位置に処す。再び減損有るべからず。然るに六三の徳行はまた報いざるべからず。ゆえに彼は己を損せざるの方式を用いて六三を増益す。これが則ち大いに己の心志を實現したるなり。六三は家室を忘掉して來りて我に徇奉す。我はその莫大の増益を承受したり。たといただ安坐して動かず、無所作為なれば、則ち別人の付出を拿りて自己を厚待するに成る。ゆえに必ず「往くところ有るに利あり」にして、施為有りて、しかる後に之を受けてはじめて愧無し。
益卦(第四十二)
巽上,震下。 益:利有攸往,利涉大川。 《彖》曰:“益”,損上益下,民說無疆。自上下下,其道大光。“利有攸往”,中正有慶。“利涉大川”木道乃行。 六四自損以益下,“巽”之致用,未有如“益”者也,故曰“木道乃行”。涉川者,用木之道也。
《益》卦の上卦は「巽」(風・木)、下卦は「震」(雷)である。卦辞はいう、《益》卦は往くところ有るに利あり、大川を渉るに利あり、と。《彖伝》はいう、益は上を損して下を益す。民は説びて疆なきなり。上より自ずりて下れば、其の道は大いに光なり、と。「往くところ有るに利あり」は中正にして慶有るなり。「大川を渉るに利あり」は木道は乃ち行わるるなり、と。 蘇軾はいう、六四は自ら減損して下面を増益す。「巽」は物象の上は木なり。木の功用を最も充分に発揮するは、如何なる卦も《益》に比ぶるなし。ゆえに「木道は乃ち行わるる」という。河を渡るは恃むは舟楫なり。あれは正に木材を使用する道なり。
“益”,動而“巽”,日進無疆。天施地生,其益無方。 “天施”,“乾”為“巽”也;“地生”,“坤”為“震”也。 凡“益”之道,與時偕行。 君子之視民,與己一也。“益”者要有所損爾,故“時”然後行。 《象》曰:風雷,“益”。君子以見善則遷,有過則改。 “懲忿窒欲”,則上之為損也少;改過遷善,則下之蒙益也多矣。
《彖伝》は続けていう、《益》卦は下卦は震動にして上卦は巽順す。其の益するは日に進みて疆なきなり。天は施し地は生ず。其の益するは方なきなり、と。 蘇軾はいう、いわゆる「天は施す」は、「乾」が「巽」に変じたるなり。いわゆる「地は生ず」は、「坤」が「震」に変じたるなり。 《彖伝》はいう、およそ増益の道は、皆時と偕に行くなり、と。 蘇軾はいう、君子が百姓を看待するは、自己を看待する同一なり。いわゆる「益」は、総じて一方の減損有るを要す。ゆえに必ず時機が合適するを待ちてはじめて施行す。 《象伝》はいう、風雷は益なり。君子は以て善を見れば則ち遷り、過有れば則ち改む、と。 蘇軾はいう、《損》卦の大象はただ人に「忿を懲り欲を窒ぐ」を教えるのみ。見れば上に在る者の減損せんと要するは実は甚だ少なし。《益》卦の大象は人に過を改め善に遷るを教う。見れば下に在る者の蒙受する増益は然るに甚だ多し。
初九:利用為大作,元吉,無咎。 《象》曰:“元吉無咎”,下不厚事也。 “益”之下、“損”之上也,故知“損”,則知“益”矣。逆而觀之,“益”之初九,則“損”之上九也,自初己上,無不然者。惟其上下、內外不同,故其跡不能無少異。若所以盡初之情、處事之宜,則“損”、“益”一也。“損”之上九,“益”之初九,皆正受益者也,彼之所以自損而專以益我者,豈以利我哉?將以厚責我也。我必有以塞之,故上九“利有攸往”,而初九“利用為大作”。上之有為也,其勢易有功,則其利倍;有罪則其責薄,故“損”之上九僅能“無咎”而已,正且吉矣。下之有為也,其勢難有功,則利歸於上,有罪則先受其責,故“益”之初九至於“元吉”,然後“無咎”。何則?其所居者,非厚事之地也。
初九の爻辞はいう、用いられて大作するに利あり。元吉、咎なし、と。《象伝》はいう、「元吉咎なし」は下は事を厚くせざるなり、と。 蘇軾はいう、《益》卦の下卦は、則ち《損》卦の上卦なり。ゆえに《損》を懂得せば則ち《益》をも懂得す。倒れて看れば、《益》卦の初九は《損》卦の上九に相當す。初爻より上に数えて、每爻皆こう対応しうる。ただ上下・内外の地位同ならざるに由りて、行跡の上は一点の差異なくあるべからず。初爻の処境を体察し、事を処する分寸を安排するに至れば、さらば《損》と《益》とは実は一回事なり。《損》卦の上九、《益》卦の初九は、皆正に増益を承受する一方なり。相手の自ら減損して一心に我を増益する所以は、あに我をして便宜を得せしめんがためならんや。それは我に向かい厚重の回報を索取せんと欲するなり。我は必ず報答有りてこの亏欠を填補せねばならず。ゆえに上九は「往くところ有るに利あり」といい、初九は「用いられて大作するに利あり」という。上位に在る者の有所作為するは、形勢上成り易きを得、好处は則ち加倍す。罪過有れば、責罰も亦た軽し。ゆえに《損》卦の上九はただ「咎なし」を做到せば、則ち既に正且つ吉と算う。下位に在る者の有所作為するは、形勢上成り難きを得、好处は上面に帰す。罪過有れば、然るに先ず己に由りて承当す。ゆえに《益》卦の初九は必ず「元吉」を做到して、しかる後に「咎なし」たるを得。何を以てするや。彼の処する地位は、もと厚重の事任を承当する所にあらざるに由る。
六二:或益之,十朋之龜。弗克違,永貞吉。王用享于帝,吉。 《象》曰:“或益之”,自外來也。 “益”之六二,則“損”之六五也。六五所獲之“龜”,則九二“弗損”之“益”也;六二所獲之“龜”,則九五“惠心”之“益”也。是受益者臣也,則以“永貞”於五為“吉”;王也,則以“享”帝為“吉”,皆受益而不忘報者也。
六二の爻辞はいう、或いは之を益するに十朋の龜なり。弗くんじて違くべからず。永貞吉。王用ひて帝に享すれば吉、と。《象伝》はいう、「或いは之を益す」は自ずりて外なり、と。 蘇軾はいう、《益》卦の六二は、《損》卦の六五に相當す。六五の得たるあの匹の「龜」は、九二の「損せず」して來りたる増益なり。六二の得たるこの匹の「龜」は、九五の「心を恵す」して來りたる増益なり。受益する人がもし臣子なれば、則ち長久して正を守りて九五に跟從するを以て吉と為し、もし君王なれば、則ち上帝に祭享するを以て吉と為す。兩種の説法は皆別人の増益を受けて報答を忘れざるなり。
六三:益之,用凶事,無咎。有孚中行,告公用圭。 《象》曰:益“用凶事”,固有之也。 “益”之六三,則“損”之六四也。“或益之”者,人益我也;“益之”者,我益人也。六四之於初九,“損其疾”以益之;六三之於上九,“用凶事”以益之,其實一也。君子之遇凶也,惡衣糲食、致觳以自貶,上九雖吾應,然使其自損以益我,彼所不樂也。故六三致觳以自貶,然後能“固”而“有之”。彼以我為得其益而不以自厚也,則信我而來矣,故曰“有孚中行”。“益”以六二為王,則初與三皆得為公,告者有以語之:“益之”也。《禮》之用圭也,卒事則反之,故圭非所以為賄,所以致信也。上九之益六三,以信而已,非有以予之;而六三亦享其信而無所取也,則上九樂益之矣。
六三の爻辞はいう、之を益するに凶事を用う。咎なし。孚有りて中行して、公を圭に以て告ぐ、と。《象伝》はいう、之を益するに凶事を用うは固に之を有するなり、と。 蘇軾はいう、《益》卦の六三は、《損》卦の六四に相當す。「或いは之を益す」というは、別人が來りて我を増益するなり。「之を益す」というは、我が往きて別人を増益するなり。六四が初九に對して、「其の疾を損す」の弁法を用いて之を増益す。六三が上九に對して、「凶事を用う」の弁法を用いて之を増益す。実質は一回事なり。君子が凶荒に遇うれば、則ち粗衣を穿き糙飯を喫い、用度を極薄に削減して自ら貶抑す。上九はたとい我が正応なるも、それをして自ら減損して我を増益せしむるを要せば、彼の心裏は並に楽意せず。ゆえに六三は先ず己の用度を極薄に減じて、しかる後に「牢固として保有」しうるこの増益を得。相手は我が確かに得る所を正処に用い、並に拿りて自己を厚待せざるを看れば、則ち肯んじて我を信じて來る。ゆえに「孚有りて中行す」という。《益》卦は六二を以て「王」と為せば、さらば初九と六三とは皆「公」と称すべし。禀告に來る人有りて彼に對して話有り。あの話は則ち「之を益す」なり。《周礼》の圭を用うる規矩に按せば、事が辦じ終えば圭は交還せねばならず。見れば圭は並に來りて行贿するに拿るにあらず。ただ以て誠信を表達するに用うるのみ。上九が六三を増益するは、憑るも亦たただ一個の「信」の字のみ。並に真に何の東西を拿出して彼に給えざらず。而も六三もまたただこの信任を享用するのみ。彼に向かい何かを索取せず。ここにおいて上九は則ち彼を増益するを楽意す。
六四:中行,告公從,利用為依遷國。 《象》曰:“告公從”,以益志也。 “益”之六四,則“損”之六三也,皆以身為“益”者也。六四“中行”而益初九,豈特如上九用圭而已哉!非徒告之,乃以身從之。夫能損身以徇人者,此以“益”為志也。初九本陰也,六四本陽也,而相易也;故初九為“遷國”也,六四自損而初受其益,初九之遷,六四資之,故初九“利用”,依我而遷也。
六四の爻辞はいう、中行して、公に告げて從う。用いられて家を遷すを為すに依るに利あり、と。《象伝》はいう、「公に告げて從う」は以て志を益するなり、と。 蘇軾はいう、《益》卦の六四は、《損》卦の六三に相當す。両爻は皆自身を拿りて「益」を成全する人なり。六四は「中行」して初九を増益す。あにただ上九のごとく圭を執て信を表すのみならんや。それは不止口頭に禀告するにして、親身に跟いて往きて做るなり。能く自身を減損して別人に徇奉するは、これがすなわち「益」を己の志向と當てるなり。初九はもと陰位にして、六四はもと陽位なり。而も両者は互換したり。ゆえに初九ははじめて「国を遷す」の象有り。六四は自ら減損して初九はその増益を承受したり。初九の遷移しうるは、全て六四の資助に恃る。ゆえに初九は「用いられ」——我が六四を依靠して以て遷徙を完成す。
九五:有孚惠心,勿問元吉。有孚,惠我德。 “益”之九五,則“損”之九二也。“惠”之以“心”,則惠而不費,九二益之以“弗損”之“益”,而九五惠之以不費之“惠”,其實一也。夫不費之惠,其有擇哉?故“勿問元吉”。我惟信二也,故二信我;我惟德二也,故二德我。“有孚,惠我德”,“永貞”之報也。 《象》曰:“有孚惠心”,勿問之矣;“惠我德”,大得志也。 “大得”六二之“志”也。
九五の爻辞はいう、孚有りて心を恵す。問う勿れ、元吉。孚有りて我が徳を恵す、と。 蘇軾はいう、《益》卦の九五は、《損》卦の九二に相當す。「心」を用いて恵を施すは、則ち恵を施して自己は並に耗費なきなり。九二は「損せず」の方式を用いて別人を増益し、九五は「費さず」の方式を用いて人に恵を施す。実質は一回事なり。すでに耗費せざるの恩惠なれば、還って挑挑揀揀するを要せんや。ゆえに「問う勿れ元吉」という。我はただ六二を信任するを管せば、ゆえに六二もまた我を信任す。我はただ六二の徳を感念するを管せば、ゆえに六二もまた我が徳を感念す。「孚有りて我が徳を恵す」は、正に六二の「永貞」の換來したる回報なり。 《象伝》はいう、「孚有りて心を恵す」は問う勿れ。「我が徳を恵す」は大いに志を得るなり、と。 蘇軾はいう、これは大いに六二の心志を實現したるなり。
上九:莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。 《象》曰:“莫益之”,偏辭也;“或擊之”,自外來也。 “益”之上九,則“損”之初九也。二者皆不樂為益者也,故“損其疾”、“用凶事”而後能致之。初九在下,勢不得已,故“已事遄往”;而上九則益不益在我者也,且損上益下,君子之所樂,而小人之所戚也,故至於上九,特以“莫益”、“勿恆”之“凶”戒之。“莫益之”者,非無以益,我固曰“莫益之”;“勿恆”者,非不可恆,我固曰“勿恆”。“莫”與“勿”者,我之偏見不廣之辭也,眾莫不益下所謂“恆”也,我特立是心,而“勿恆”之“凶”其宜矣。上者獨高之位,下之所疾也,而莫吾敢擊者,畏吾與也;莫益則無與矣。孔子曰:“無交而求,則民不與。莫之與,則傷之者至矣。”故“或擊之”。上九之致“擊”,如六二之致“益”,徒有是心,而物自有以應之,故皆曰“或”。“或”者,物自外來而吾不知也。
上九の爻辞はいう、之を益する莫し、或いは之を撃つ。心を立てて恒ならず。凶、と。《象伝》はいう、「之を益する莫し」は偏辞なり。「或いは之を撃つ」は自ずりて外なり、と。 蘇軾はいう、《益》卦の上九は、《損》卦の初九に相當す。この両爻は皆「増益」この件事を做るを楽意せざる人なり。ゆえに「其の疾を損す」「凶事を用う」の弁法を用いてはじめて彼らの増益を引出しうる。初九は下位に処し、形勢上不得已なり。ゆえに還って肯んじて「事已りて遄に往く」。上九は然るに益すと益せざるとは全て己に憑る。いわんや上を損し下を益するはもと君子の楽しみ小人の憂うる所の事なりをや。ゆえに上九に至れば、爻辞は特意に「益する莫し」「恒ならず」の凶険を拿りて彼を告誡す。いわゆる「之を益する莫し」とは、並に真に別人を増益するに用うべき東西なきにあらず。我が己が偏に「之を益する莫し」と説くなり。いわゆる「恒ならず」とは、亦たこの心が真に持久しえざるにあらず。我が己が偏に「恒ならず」と説くなり。「莫」と「勿」とは、皆我が一偏の見・心量の広からざるの説法なり。衆人は肯んじて下面を増益せざるなし。これを「恒」と呼ぶ。我は偏偏としてこ様の一副の心腸を立てば、さらば「恒ならず」の招来する「凶」も亦た理の當然なる所なり。上位は孤高独立の位にして、もと下面の忌恨する所なり。人の敢えて來りて我を撃たざる所以は、我に党援有るを怕るるなり。一たび肯んじて別人を増益せざれば、則ち党援なきなり。孔子は《周易・繋辞下》にいう、「交与なくして求むれば則ち民與せず。與する莫ければ則ち之を傷うる者は至る」と。ゆえに「或いは之を撃つ」という。上九の「撃」を招来するは、正に六二の「益」を招来するがごとし。皆ただ己がこ様の一副の心腸を存して、而も外物は自然に感応有り。ゆえに両処は皆一個の「或」の字を用う。「或」とは、則ち外物が自ら門に找して來るにして我は並に知らず。
《東坡易傳》卷之五
夬卦(第四十三)
兌上,乾下。 “夬”:揚于王庭,孚號有厲;告自邑,不利即戎;利有攸往。 《彖》曰:“夬”,決也,剛決柔也。健而說,決而和。“揚于王庭”,柔乘五剛也;“孚號有厲”,其危乃光也。 五陽而一陰,陰至寡弱而皆乘於決者,以其得所附也。上六之所乘者,九五之剛,所謂“王”也。欲決上六,必暴揚之於王之庭,此其勢有不便者,故五陽雖相信而不忘警,以為有危道焉。“號”者,所以警也。在強而知危,所以“光”也。
《夬》卦の上卦は「兌」(沢)、下卦は「乾」(天)である。卦辞はいう、夬は王庭に揚ぐ。孚號厲有り。邑より告ぐ。戎に即くに利あらず。往くところ有るに利あり、と。《彖伝》はいう、夬は決なり。剛は柔を決す。健にして説び、決にして和す、と。「王庭に揚ぐ」は柔は五剛に乘ずるなり。「孚號」は其の危に乃ち光なり、と。 蘇軾はいう、五個の陽爻が一個の陰爻に對す。陰は已に孤弱の極処に至る。五陽は然るに皆それに凌駕せられて之を決除せんと欲す。これはそれが依附する所有るに由る。上六の凌駕するは九五の剛にして、すなわちいわゆる「王」なり。上六を決去せんと要せば、則ち非ずして王の庭上に公開に掲発せざるべからず。これは情勢の上に不便の処有り。ゆえに五陽はたとい彼此相信するも、敢えて戒備を忘れず。その中に自ら危険の道有りと認為す。「號」とは、則ち以て衆人を警戒するに用うるなり。強勢の中に身处して危険有るを知れば、ゆえに其の道ははじめて「光」なり。
“告自邑,不利即戎”,所尚乃窮也。 “邑”者,民之所在也。與小人處,必先附其民;彼無民,將無與立。“戎”,上六也。五陽之強,足以即之有餘,然而不即也,此所以不窮也。自以為不足,雖弱有餘;自以為足,雖強有所止矣。故其“所尚”,乃所以“窮”也。 “利有攸往”,剛長乃終也。 陽盈則憂溢,溢則憂覆,故“利有攸往”。往則有所施用,所以求不盈也。 《象》曰:澤上於天,“夬”;君子以施祿及下,居德則忌。 君子之於祿、利,欲其在人;德、業,欲其在己。孔子曰:“脩辭立其誠,”所以居業也。“澤上於天”,其勢不居,故君子以“施祿”,不以“居德”。
《彖伝》は続けていう、「邑より告ぐ、戎に即くに利あらず」は尚るる所は窮まれるなり、と。 蘇軾はいう、「邑」は百姓の聚居する所なり。小人と相処するは、必ず先ず彼の手下の百姓を争取得せねばならず。彼が一たび百姓なきなれば、則ち憑借する所なし。「戎」は上六を指す。五陽の強盛は、以て上六を討伐するに綽綽として余裕有り。然るに偏に往きて討伐せず。これがはじめて窮途に走り至らざるの緑故なり。自ら力量の足らざると認為するは、弱といえども亦た余裕有り。自ら力量の足ると認為するは、強といえども亦た終に走り下去りえざるの一天有り。ゆえに其の「尚るる所」の東西は、恰好として彼をして「窮」せしむるものなり。 《彖伝》はいう、「往くところ有るに利あり」は剛長乃ち終るなり、と。 蘇軾はいう、陽は満れば則ち溢出するを怕り、溢出すれば則ち傾覆するを怕る。ゆえに「往くところ有るに利あり」。前往すれば則ち作用を施展する去処有り。正に盈満に至らざるを求得せんがためなり。 《象伝》はいう、沢は天に上る。夬。君子は以て禄を施し、徳に居れば則ち忌む、と。 蘇軾はいう、君子は俸禄財利に對しては、それが別人の身上に落るを希望す。徳行学業に對しては、それが自己の身上に成就するを希望す。孔子はいう、「辞を修めて其の誠を立つ」、これがはじめて其の業に居守する弁法なりと。「沢は天に上る」は、あの勢頭はもと存留し住むべからざるなり。ゆえに君子はこれを取りて「禄を施し」て、これを取りて「徳に居る」を為さざるなり。
初九:壯于前趾,往不勝,為咎。 《象》曰:“不勝”而“往”,咎也。 “大壯”之長,則為“夬”,故“夬”之初九,與《大壯》之初九無異也。“大壯”之初九曰:“壯于趾。”而“夬”之初九曰:“壯于前趾。”二者皆有羊之象,見於其所施壯之爻,是以知其無異也。曰:前者通“大壯”之辭也,必通“大壯”而為辭者,明其所“壯”同而所遇異也。“大壯”之初九施“壯”於“震”,“震”吾朋也,觸而遇其朋,是以決藩而遂之,因以為用。“夬”之初九施“壯”於“兌”,“兌”非吾朋也,苟不能勝,則往見牽矣,豈複決藩而遂我哉!君子之動,見勝而後往,故勝在往前;不能必勝而往,宜其“為咎”也。
初九の爻辞はいう、前趾に壮んす。往きて勝たざれば咎を為す、と。《象伝》はいう、勝たずして往くは咎なり、と。 蘇軾はいう、《大壮》卦の陽が再往きて上に長ずれば、則ち《夬》卦と成る。ゆえに《夬》卦の初九と《大壮》卦の初九とは両樣なし。《大壮》の初九は「趾に壮んす」といい、《夬》の初九は「前趾に壮んす」という。両爻は皆「羊」の象を帯び、皆その壮を施展するあの一爻の上に出現す。これにより知る、二者は相同なり。多く一個の「前」の字を出したるに至れば、それは《大壮》を一幷に牽連して進めるの措辞なり。必ず《大壮》を牽連して辞を立てるを要するは、それらの「壮」する所は相同にして遇う所は同ならざるを説明せんと要するなり。《大壮》の初九は「壮」を「震」の上に施す。「震」は我が同類にして、一たび衝撞すれば碰上するは己の人なり。ゆえに能く藩籬を冲破して径直に前に進み、かえってこれに藉りて用処を成就す。《夬》の初九は「壮」を「兌」の上に施す。「兌」は我が同類にあらず。一たび勝取しえざれば、前往すれば則ち牽制せられん。何処に還って藩籬を冲破し我が心願を遂ぐるを談ぜんや。君子の行動は、能く勝つを看准してはじめて前往す。ゆえに勝負は早く動身の前に定まれたり。勝取を確保しえずして冒然として前往せば、其の「咎を為す」は怪しむに足らず。
九二:惕號,莫夜;有戎,勿恤。 《象》曰:“有戎勿恤”,得中道也。 “戎”,上六也。“惕號,莫夜”,警也。“有戎,勿恤”,靜也。能靜而不忘警,能警而不用,“得中道”矣。與“大壯”九二“貞吉”同,故皆稱其“得中”。 九三:壯于九頁,有凶;君子夬夬獨行,遇雨若濡,有慍無咎。 《象》曰:“君子夬夬”,終無咎也。 初九為趾,故九三為九頁。與小人處而“壯”見於面顏,有凶之道矣。《易》凡稱其尤者,申言之,“乾乾”、“謙謙”、“蹇蹇”之類是也。九三之所以見“壯”於面顏者,避私其配之嫌也。故告之以不然,曰:九三之君子,以陽居陽,“夬”之尤者也,何嫌於私其配也哉!苟舍其朋而獨行以答其配,使上六之陰和洽而為雨,以至於“濡”,雖有不知我心而“慍”者,然終必無咎。
九二の爻辞はいう、號を惕す。莫夜に戎有り、恤む勿れ、と。《象伝》はいう、「戎有りて恤む勿れ」は中を得るなり、と。 蘇軾はいう、「戎」は上六を指す。「號を惕す。莫夜」(「莫夜」は則ち傍晚)は、説くは戒備なり。「戎有り、恤む勿れ」は、説くは鎮静なり。能く鎮静して戒備を忘れず、能く戒備して軽易に武を動かざるは、これがすなわち「中道を得る」なり。これは《大壮》卦九二の「貞吉」と同一の道理なり。ゆえに両処は皆それを「中を得る」と称す。 九三の爻辞はいう、頄に壮んす。凶有り。君子は夬夬として独行し、雨に遇て濡る。慍有るも咎なし、と。《象伝》はいう、「君子夬夬」は終に咎なきなり、と。 蘇軾はいう、初九は脚趾なり。ゆえに九三は顴骨なり。小人と相処して剛壮の気を臉上に摆くは、これがすなわち凶を取るの道なり。《周易》はおよそ某一爻が格外に突出するを強調せんと欲すれば、則ちあの字を重ねて一たび説く。「乾乾」「謙謙」「蹇蹇」は皆この一類に属す。九三の剛壮を臉上に顯する所以は、「己の正応に偏私する」の嫌疑を避開せんがためなり。ゆえに爻辞は彼に告げて曰く、必ずしも如此なるを要せずと。説くに、九三のこの位の君子は、陽爻を以て陽位に居り、《夬》卦の中最も果決の一個なり。何処に正応に偏私するの嫌疑有らんや。たとい彼が同伴を撇きて独自前行して上六に回應し、上六この陰爻をして彼と和洽して化して雨と為り、以て淋湿せらるるに至るも、たとい人の我が心意を了解せずして慍怒を生ずる有るとも、最終は必ず咎なきなり。
九四:臀無膚,其行次且;牽羊悔亡,聞言不信。 《象》曰:“其行次且”,位不當也;“聞言不信”,無不明也。 上六,九四之所謂臀也。“困”之六三“據于蒺藜”,故初六之“臀困于株木”。“夬”之上六見“夬”,故九四之“臀無膚”,皆謂其同體之末者為“臀”也。與眾陽處而同體者見“夬”,故“其行次且”而不安也。“羊”者,初九也;初九之觸,則我之悔也;而能牽之,故“悔亡”。雖能悔亡而聰不明矣,孰與“大壯”?九四既悔亡而得壯輹哉!夫君子惟能釋怨而收士,故為之聰、明者眾,“大壯”之九四是也;今初九觸我,我牽而縻之莫肯釋,則懼者眾矣。雖其左右前後將無不可疑,故“聞言”不信。
九四の爻辞はいう、臀に膚なし。其の行は次且たり。羊を牽けば悔亡ぶ。言を聞くも信ぜず、と。《象伝》はいう、「其の行は次且たり」は位當らざるなり。「言を聞きて信信ぜず」は聡明ならざるなり、と。 蘇軾はいう、上六は則ち九四の説く所の「臀」なり。《困》卦の六三は「蒺藜に據る」。ゆえにあの一卦の初六ははじめて「臀は株木に困む」。《夬》卦の上六は正に決除せられつつ有り。ゆえに九四ははじめて「臀に膚なし」——皆己と同体の末端の一爻を以て「臀」と呼ぶなり。九四は衆陽と同じく処するも、而も同体の末端は正に決除に遭う。ゆえに「其の行は次且たり」、躊躇して安んぜず。「羊」は初九を指す。初九の衝撞はもと我が悔恨の在る所なり。而も我は能くこれを牽制し得住る。ゆえに「悔亡」。たとい悔恨は消失したるも、耳目は然るに更に聡明ならず。《大壮》卦に比ぶれば如何や。《大壮》の九四は既に悔亡してまた堅固の車輹を得たり。君子はただ能く旧怨を釋去し士人を招納すれば、肯んじて彼に替わりて耳目を做る人は多し。《大壮》の九四は正に如此なり。いま初九は我を衝撞したるに、我はこれを牽い捆えて肯んじて放手せず。我を畏懼する人は則ち多し。左右前後を連れて皆一処の可疑ならざるなきと成る。ゆえに「言を聞く」も信ぜず。
九五:莧陸夬夬,中行無咎。 《象》曰:“中行無咎”,中未光也。 上六之不足“夬”,如“莧陸”也。九五以陽居陽,“夬”之尤者也,於所不足“夬”,用“夬”之尤,雖中而未光,故“中行無咎”。“中行”者,反與四陽處而釋上六也。此與上六為同體者,與九四均爾;然不至於“次且”者,以其剛之全也。剛之全者,則不戚其同體之傷矣,故九四之《象》以為“位不當也”。
九五の爻辞はいう、莧陸夬夬、中行して咎なし、と。《象伝》はいう、「中行して咎なし」は中未だ光ならざるなり、と。 蘇軾はいう、上六はもとこ様に大張旗鼓に往きて決除するに値せず。それは柔脆にして莧陸のごとし。九五は陽爻を以て陽位に居り、《夬》卦の中最も果決の一個なり。もと決除するに値せざる東西に對して然るに最も果決の手段を使出すは、たとい中道に合乎るも光なるに足らず。ゆえにただ「中行して咎なし」と説くのみ。いわゆる「中行」とは、頭を回して其の余の四個の陽爻と同じく処して上六を放過するなり。九五は上六と同体なり。この一点は九四と一樣なり。然るに九五は九四のごとく「次且」に至らざるは、それが剛健完足なるに由る。剛健完足の人は、則ち同体の者の傷を受くるを戚戚として懐にせず。ゆえに九四の《象伝》ははじめてそれを「位當らざるなり」と説く。
上六:無號,終有凶。 《象》曰:“無號”之“凶”,終不可長也。 “無號”者,不警也。陽不吾警,則吾或有以乘之矣,然終亦必凶。
上六の爻辞はいう、號なし。終に凶有り、と。《象伝》はいう、「號なし」の凶は終に長からざるなり、と。 蘇軾はいう、いわゆる「號なし」とは、則ち陽剛の一方が更に互相に警戒せざるなり。陽剛が我に對して戒備の號を発せざれば、我は或いは還って虚に趁りて入るを得。然るに到頭に依然として必ず凶なり。
姤卦(第四十四)
乾上,巽下。 “姤”,女壯,勿用取女。 《彖》曰:“姤”,遇也,柔遇剛也。“勿用取女”,不可與長也。 “姤”者,所遇而合,無適意之謂也。故其女“不可與長”。 天地相遇,品物咸章也。 “姤”者,“乾”之末,“坤”之始也,故曰“天地相遇”。以四時言之,則建午之月,“品物咸章”之際也。《易》曰:“萬物相見乎‘離’。”
《姤》卦の上卦は「乾」(天)、下卦は「巽」(風)である。卦辞はいう、姤は女壮なり。用いて女を取る勿れ、と。《彖伝》はいう、姤は遇なり。柔は剛に遇う、と。「用いて女を取る勿れ」は與に長くすべからざるなり、と。 蘇軾はいう、いわゆる「姤」は、偶然に碰上して便ち凑合して一処に在るにして、並に称心合意の結合にあらず。ゆえにこの女子は「與に長くすべからず」。 《彖伝》はいう、天地は相遇して品物は咸に章なり、と。 蘇軾はいう、「姤」は「乾」の末尾・「坤」の開端に処す。ゆえに「天地相遇」という。四時を以て講ずれば、正に建午の月(夏暦五月)にして、万物は一斉に章顯するの時節なり。《周易・説卦伝》はいう、「万物は『離』のこの一方に相見ゆ」と。
剛遇中正,天下大行也。姤之時義大矣哉! “剛”者,二也;“中正”者,五也。陰之長,自九二之亡而後為“遯”,始無臣也;自九五之亡而後為“剝”,始無君也。“姤”之世,上有君、下有臣,君子之慾有為,無所不可。故曰:“剛遇中正,天下大行也。” 象曰:天下有風,“姤”;后以施命誥四方。
《彖伝》は続けていう、剛は中正に遇う。天下は大行なり、と。《姤》の時義大なるかな。 蘇軾はいう、「剛」は九二を指し、「中正」は九五を指す。陰気は一路に生長し、九二の消亡するを待ちて後に《遯》卦と成る。あの時ははじめて臣なきなり。九五の消亡するを待ちて後に《剥》卦と成る。あの時ははじめて君なきなり。《姤》卦の世道は、上に君有り・下に臣有り。君子が有所作為せんと欲せば、辦り到らざるなし。ゆえに曰く、「剛は中正に遇う。天下は大行なり」と。 《象伝》はいう、天下に風あり。姤。后は以て命を施きて四方に誥ぐ、と。
初六:繫于金柅,貞吉;有攸往,見凶。羸豕孚蹢躅。 《象》曰:“繫于金柅”,柔道牽也。 剛而能止物者,謂之“金柅”,九二是也。初六之勢,足以兼獲五陽,然其始遇而合者,九二也。既合於二,若舍而之他,則終身無所容矣,故以繫二而貞為吉。有所往見為凶,初六者,“羸豕”也。雖“羸”而不可信者,以權在焉,以其“羸”而信之,則“蹢躅”而不可制矣。
初六の爻辞はいう、金柅に繫す。貞なれば吉。往くところ有れば凶を見る。羸豕孚は蹢躅す、と。《象伝》はいう、「金柅に繫す」は柔道は牽なり、と。 蘇軾はいう、剛強にして能く外物を制止するを「金柅」と呼ぶ。九二を指す。初六の勢頭は、もと足りて五個の陽爻を一幷に收服す。然るにそれが最初に遇上して結合したるは、九二なり。すでに九二と結合したれば、もしこれを撇きて別に何処かに投ずれば、則ち終身に容身の地なし。ゆえに九二に繫して正を守るを以て吉と為し、別に往く所有るを以て凶と為す。初六は則ちあの頭の「羸豕」なり。それはたとい瘦弱なるも輕信すべからず。権柄がその手裏に握るに由る。もしその瘦弱なるに由りてそれを信任せば、それは則ち躁動して乱踏し、控制しえざらん。
九二:包有魚,無咎;不利賓。 《象》曰:“包有魚”,義不及賓也。 “魚”者,初六也;“包”者,魚之所不能脫也;“賓”者,九四也。“姤”者,主求民之時,非民求主之時也,故近而先者得之,遠而後者不得也。不論其應與否也,嫌其若有咎,故曰“無咎”。 九三:臀無膚,其行次且,厲;無大咎。 《象》曰:“其行次且”,行未牽也。 以“姤”之初六為“夬”之上六,則“姤”之九三,“夬”之九四也,故其《象》同。九三之所謂臀者,初六;初六剝陽而進者也,處眾陽之間而同體者,有剝陽之陰,宜其“次且”而不安也。“夬”之九四下牽初九之羊,故有“聰不明”之咎。而九三無是也,故雖危無孔大咎,而《象》曰“行未牽也”。
九二の爻辞はいう、包に魚有り。咎なし。賓に利あらず、と。《象伝》はいう、「包に魚有り」は義賓に及ばざるなり、と。 蘇軾はいう、「魚」は初六を指し、「包」は魚の抜け出しえざる東西、「賓」は九四を指す。《姤》の時は、君主が往きて百姓を求むるにして、百姓が來りて君主を求むるの時にあらず。ゆえに離れ近く动手早きは之を得、離れ遠く动手遲きは之を得ず。並に正応有るか無るかを論ぜず。こ様に為すは過錯有るに似るを嫌う。ゆえに爻辞は特意に「咎なし」という。 九三の爻辞はいう、臀に膚なし。其の行は次且たり。厲、大咎なし、と。《象伝》はいう、「其の行は次且たり」は行くに未だ牽ならざるなり、と。 蘇軾はいう、《姤》の初六を以て《夬》の上六と看作せば、さらば《姤》の九三は《夬》の九四に相當す。ゆえに両爻の《象伝》の説法は相同なり。九三の説く所の「臀」は初六を指す。初六は陽爻を剥蝕して向上に生長するなり。衆陽の間に処して己と同体なるは偏偏としてこ様の一個の陽を剥く陰なり。其の「次且」して安んぜざるは怪しむに足らず。《夬》の九四は下に向かい初九のあの頭の「羊」を牽住したり。ゆえに「耳目は聡明ならず」の過失有り。九三はこの一層なし。ゆえにたとい危険有るも大の過錯なし。《象伝》はよって「行くに未だ牽ならざるなり」という。
九四:包無魚,起凶。 《象》曰:“無魚”之“凶”,遠民也。 既已失民,起而爭之則“凶”。 九五:以杞包瓜,含章,有隕自天。 《象》曰:九五“含章”,中正也;“有隕自天”,志不舍命也。 “金柅”也,“包”也,“杞”也,皆九二也;“豕”也,“魚”也,“瓜”也,皆初六也。“杞”,枸杞也,木之至痺者也。“包瓜”者,籠而有之也。瓜之為物,得所附而後止;不得所附,則攀援而求,無所不至。幸而遇喬木,則雖欲抑之不可得矣,故授之以杞,則杞能籠而有之。杞之所至,瓜之所及也。九五者,“姤”之主也;知初六之勢將至於剝盡而後止,故授之以九二。九二之所至,初六之所及也。“姤”者,陰長之卦;而九五以至陽而勝之,故曰“含章”。凡陰中之陽為“章”,陰長而消陽,天之命也;有以勝之,人之志也。君子不以命廢志,故九五之志堅,則必有自天而隕者,言人之至者,天不能勝也。
九四の爻辞はいう、包に魚なし。凶を起こす、と。《象伝》はいう、「魚なし」の凶は民を遠くするなり、と。 蘇軾はいう、すでに百姓を失去したれば、再起こりて人と同じく争奪すれば則ち凶なり。 九五の爻辞はいう、杞を以て瓜を包む。章を含む。天より隕る有り、と。《象伝》はいう、五の「章を含む」は中正なり。「天より隕る有り」は志は命を舎てざるなり、と。 蘇軾はいう、「金柅」といい、「包」といい、「杞」といい、指すは皆九二なり。「豕」といい、「魚」といい、「瓜」といい、指すは皆初六なり。「杞」はすなわち枸杞にして、樹木の中最も低矮の一種なり。「瓜を包む」は、瓜を籠えて己有に據るなり。瓜こ様の東西は、依附すべきを覓え得れば則ち停まる。依附すべきを覓え得えざれば、則ち攀援して索求し、至らざるなし。万一それをして高大の喬木に碰上せしめば、あの時はそれを壓制せんと欲するも壓制しえず。ゆえにこれに枸杞を配上せば、枸杞は則ち能くそれを籠え占めて占住す。枸杞の何処に長じ至るとも、瓜も亦た何処に至れば則ち止まる。九五は《姤》卦の主にして、彼は初六の勢頭が非ずして陽爻を剥尽するまでは肯んじて罷休せざるを知る。ゆえに九二を派してこれに給う——九二が何処に到るとも、初六も亦た何処に至れば則ち止まる。《姤》は陰気の生長する卦にして、而も九五は極盛の陽徳を憑りてこれに勝ち過ぐ。ゆえに「章を含む」という。およそ陰中の陽を則ち「章」と呼ぶ。陰長じて陽を消すは、あれは上天の命なり。法有りてこれに勝ちうるは、あれは人の志なり。君子は天命に由りて人の意志を廢掉せず。ゆえに九五は心志堅定なれば、則ち必ず天より降るの福分有り。これは説く、人の努力が極処に做るに至れば、天を連れても彼に勝ちえずと。
上九:姤其角,吝;無咎。 《象》曰:“姤其角”,上窮吝也。 剛之上窮者,“角”也。“姤其角”,以是為“姤”也。以角為“姤”,物之所不樂遇也;小人雖不能合,而君子亦無自入焉。故“吝,無咎”。
上九の爻辞はいう、其の角を姤す。吝、咎なし、と。《象伝》はいう、「其の角を姤す」は上窮吝なり、と。 蘇軾はいう、陽剛が最も上面・路を走るべからざる処に到るは、則ち「角」なり。「其の角を姤す」は、あの副の姿態を拿りて人と相遇に往くなり。頭角を用いて人と相遇するは、あれは別人の楽意して碰上せざるなり。小人は固然として彼と結合する法なければ、君子もまた進入り來るの門路なし。ゆえに「吝、咎なし」という。
萃卦(第四十五)
兌上,坤下。 “萃”:亨。王假有廟,利見大人,亨,利貞。用大牲,吉。利有攸往。 《彖》曰:“萃”,聚也;順以說,剛中而應,故聚也。“王假有廟”,致孝享也。“利見大人,亨”,聚以正也。 《易》曰:“方以類聚,物以群分。”有“聚”,必有黨;有黨,必有爭。故“萃”者,爭之大也。盍取其爻而觀之,五能“萃”二,四能“萃”初,近四而無應,則四能“萃”三;近五而無應,則五能“萃”上。此豈非其交爭之際也哉!且天下亦未有“萃”於一者也,大人者,惟能因其所“萃”而即以付之,故物有不“萃”於我,而天下之能“萃”物者,非我莫能容之,其為“萃”也大矣。“順以說,剛中而應”者,二與五而已;而足以為“萃”乎?曰:足矣,有餘矣!從我者納之,不從者付之其所欲從,此大人也!故“萃”有二“亨”,“萃”未有不亨者,而其未見大人也,則亨而不正;不正者,爭非其有之謂也。故曰:“利見大人,亨,聚以正也。”大人者,為可以聚物之道而已。“王”至於有“廟”,而盡其“孝享”,非安且暇不能。物見其安且暇,安得不聚而歸之?此“聚之正”也。
《萃》卦の上卦は「兌」(沢)、下卦は「坤」(地)である。卦辞はいう、萃は亨。王は廟に假す。大人を見るに利あり、亨、貞に利あり。大牲を用いれば吉。往くところ有るに利あり、と。《彖伝》はいう、萃は聚なり。順にして説び、剛中にして応ず。故に聚なり、と。「王は廟に假す」は孝享を致すなり。「大人を見るに利あり、亨」は聚に以て正するなり、と。 蘇軾はいう、《周易・繋辞上》に講ずる「事物は類を按りて聚合し、物類は群体を按りて分かつ」。聚集有れば必ず党派有り、党派有れば必ず争闘有り。ゆえに「萃」は正に争闘最大の時なり。妨げず六爻を取りて一たび看よ。九五は能く六二を聚め、九四は能く初六を聚む。六三は九四に靠近して自身応なし。ここにおいて九四は能く六三を聚む。上六は九五に靠近して自身応なし。ここにおいて九五は能く上六を聚む。これあに正に彼此交争の局面ならざらんや。いわんや天下もまた従來全部一個人の身上に聚り來るの道理なきをや。いわゆる大人とは、ただ能く衆人の各自の聚る所の去向に順りて、随即して彼らを交付し出去するのみ。ゆえにたとい人の我がここに聚り來らざる有るとも、然るに天下の衆人を聚合しうるは、我を除きて誰か彼らを容れえんや。こ様の「萃」ははじめて大と算う。人問うて曰く、いわゆる「順にして説び、剛中にして応ず」は、指す所は不過六二と九五の両爻のみ。これは則ち足りて「萃」を成就せんや。答えていう、足る、而且も綽綽として余裕有り。肯んじて我に跟從するは我は則ち接納し、肯んじて跟從せざるは我は則ち彼を彼の願う所に跟從する人に交付す——これがはじめて大人なり。ゆえに《萃》卦は二個の「亨」の字有り。聚集は亨通せざるなしといえども、然るに還って大人を見ざる前は、ただ亨通にして正ならず。いわゆる正ならずとは、則ちもと己に属せざる東西を争奪に往くなり。ゆえに曰く、「大人を見るに利あり、亨。聚に以て正するなり」と。大人とは、不過あの足りて衆人を聚合するの道理を做るのみ。君王は宗廟を設立し祭享を尽くすを做到するは、従容安閑の人に非ざれば辦り到らず。衆人は彼の従容安閑を看れば、何ぞ聚攏して來りて彼に歸附せざらんや。これがすなわち「聚の正」なり。
“用大牲,吉,利有攸往”,順天命也。 《易》之言薦、盥、禴、享,非正言也,皆有寄焉。“用大牲”者,猶曰用大利祿云爾。《易》曰:“何以聚人?曰財。”所聚者大,則所用者不可小矣。天之命我為是物主,非以厚我也,坐而享之則過矣。故“利有攸往,順天命也”。
《彖伝》は続けていう、「大牲を用う、吉。往くところ有るに利あり」は天命に順うなり、と。 蘇軾はいう、《周易》の裏の薦・盥・禴・享これらの祭礼を講ずるは、皆字面上に直く説くに就らず。全て別に寄托有り。いわゆる「大牲を用う」とは、等しく豊厚の利禄を拿出するを言うなり。《周易・繋辞下》はいう、「何を以て衆を聚むるや。曰く財」と。其の聚合する規模は大なれば、其の付出するは小なるべからず。上天は我に命じてこの一方の主人と為さしむるは、並に我が一人をして優厚に過ごさしめんがためならず。坐して其の成を享するは則ち太く過分なり。ゆえに「往くところ有るに利あり、天命に順うなり」という。
觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。 不期而聚者,必其至情也。 《象》曰:澤上於地,“萃”;君子以除戎器、戒不虞。 王弼曰:“聚而無防,則眾生心。”
《彖伝》は最後に説いて曰く、其の聚る所を観れば、天地万物の情は見ゆるべしと。 蘇軾はいう、約せずして同じく一処に聚り來るは、必ず最も真実の性情に出づ。 《象伝》はいう、沢は地に上る。萃。君子は以て戎器を除き不虞を戒む、と。 蘇軾は王弼の解釈を引いていう、「聚りて備えなければ、衆は則ち異心を生ず」と。
初六:有孚不終,乃亂乃萃。若號,一握為笑,勿恤;往無咎。 《象》曰:“乃亂乃萃”,其志亂也。 初六之所應者,九四也;九四有信之者而“不終”,六三是也。始以無應而“萃”於四,終以四之有應,諮嗟而去之,故其《象》曰:“萃如,嗟如。”此志亂而苟聚者也。“若號,一握為笑”者,“號”且“笑”也,“一握”者,其聲也,“號”、“笑”雜也。君子之於禍、福審矣,故笑則不號,號則不笑;先否而後通,則先號而後笑,未有號笑雜者也。此其志已亂焉,能為我寇哉!故“勿恤,往無咎”。
初六の爻辞はいう、孚有りて終らず。乃ち乱り乃ち萃す。若し號せば、一握して笑と為す。恤む勿れ。往けば咎なし、と。《象伝》はいう、「乃ち乱り乃ち萃す」は其の志は乱るるなり、と。 蘇軾はいう、初六の応ずる所は九四なり。而も九四はもと一人の彼を信任する人有るも「終り能わざるなり」。あの人は則ち六三なり。六三は起先に己の正応なきに由りて九四に聚附し、最後に九四に別に正応有るに由りて、已むを得ず嗟嘆して離去す。ゆえに六三の《象伝》は「萃如として嗟如たり」という——これが正に心志混乱して苟且に聚を求むるの様子なり。いわゆる「若し號せば、一握して笑と為す」とは、また號呼しまた発笑するなり。「一握」はあの声を形容す。號哭と笑語とが一処に攪在す。君子は禍と福とを看ること分明なり。ゆえに笑う時は則ち號哭せず、號哭する時は則ち笑わず。先ず阻塞して後に通達するは、則ち先ず號咷して後に歡笑す。從來號と笑と混雑するなし。見れば六三は心志已に乱れたり。それは還って能く來りて我を侵害せんや。ゆえに「恤む勿れ、往けば咎なし」という。
六二:引吉,無咎;孚乃利用禴。 《象》曰:“引吉無咎”,中未變也。 陰之從陽,以難進為吉。六二得位而安其中,不急於變,志以從上者也,故九五引之而後從。引之而後從,則其聚也固;是以吉而無復有咎。“禴”者,禮之薄者也,故用於既信之後。上以利祿聚之下,豈以利祿報之哉!故上“用大牲”而下用“禴”,以為有重於此者矣。
六二の爻辞はいう、引かれれば吉、咎なし。孚あれば乃ち禴を用うに利あり、と。《象伝》はいう、「引かれて吉、咎なし」は中未だ変ぜざるなり、と。 蘇軾はいう、陰爻が陽爻に追随するは、軽易に前進せざるを以て吉と為す。六二は位を得て中道に安処し、急ぎて自己を改変せず。もと上面に追随するの志有り。ゆえに九五の來りてこれを牽引するを要して、それははじめて跟從す。牽引せられて後に跟從するは、こうして聚合して來ればはじめて牢固なり。よって吉祥にして更に過錯なし。「禴」は祭礼の中最も菲薄の一種なり。ゆえに双方已に互信したる後に用う。上面が利禄を拿りて下面を聚攏して來るは、下面はあに亦た利禄を拿りて上面に報答せんや。ゆえに上面は「大牲を用う」にして下面は「禴」祭を用う。彼此の間に別に財物より更に重きもの有ると以為るなり。
六三:萃如,嗟如;無攸利,往無咎,小吝。 《象》曰:“往無咎”,上巽也。 六三之“萃”於四,四與我、與初皆不利也,去而之上,上亦無應;“巽”而納我者也,故雖“小吝”而“無咎”。 九四:大吉,無咎。 《象》曰:“大吉無咎”,位不當也。 非其位而有聚物之權,五之所忌也;非“大吉”,則有咎矣。
六三の爻辞はいう、萃如として嗟如たり。利ならざるなし。往けば咎なし、小吝、と。《象伝》はいう、「往けば咎なし」は上巽なり、と。 蘇軾はいう、六三が往きて九四に聚附するは、結果は九四に對しても初六に對しても不利なり。それが九四を離れて転じて上六に投向するは、上六はもと亦た正応なしにして、肯んじて謙順にして我を接納するなり。ゆえにたとい「小吝」有るも「咎なし」。 九四の爻辞はいう、大吉、咎なし、と。《象伝》はいう、「大吉咎なし」は位當らざるなり、と。 蘇軾はいう、其の位に在らずして衆人を聚合するの権柄を握有するは、これは九五の忌惮する所なり。もし「大吉」ならざれば、則ち過錯有らん。
九五:萃有位,無咎;匪孚,元永貞,悔亡。 《象》曰:“萃有位”,志未光也。 九五“萃”之主也,“萃”有四陰,而九四分其二;以位為心者,未有能容此者也,故曰:“萃有位,無咎。”挾位以忌四為無咎,而己志不光矣;惟大人為能忘位以任四。夫能忘位以任四,則四且為吾用,而二陰者獨何往哉!“匪孚”者,非其所孚也;“元”者,始也;“元永貞”者,始既以從之,則終身為之貞也。自六二之外,皆非我之所孚也;非我之所孚,則我不求聚,使各得永貞於其始之所從,“悔亡”之道也。
九五の爻辞はいう、萃して位有り。咎なし。孚ならざれば元永貞、悔亡ぶ、と。《象伝》はいう、「萃して位有り」は志未だ光ならざるなり、と。 蘇軾はいう、九五は《萃》卦の主にして、卦中に四個の陰爻有り。而も九四は其中の二個を分去したり。およそ権位を心の上に放く人は、こ様の局面を容れうる誰なし。ゆえに爻辞は「萃して位有り、咎なし」という。己の位子を仗りて九四を猜忌すれば、則ち勉強して過錯なしと算うも、己の心志は光なるに足らず。ただ大人のみ能く位子を忘掉して放手して九四を任用す。能く位子を忘掉して九四を任用せば、さらば九四はかえって我が用と為る。另外の二個の陰爻はまた何処に往かんと得んや。いわゆる「孚ならず」とは、もと我と相孚せざる人を指す。「元」は開始なり。「元永貞」とは、彼らが当初すでに別人に跟いたれば、則ち彼らをして終身にあの一方に對して正を守らしむるを言う。六二を除きて、其の余の各爻は皆我と相孚するにあらず。すでに我と相孚せざれば、我は則ち強いて聚合を求めに往かず。彼らをして各自当初の追随したる一方に對して長久して正を守らしむ。これが正に「悔亡」の門路なり。
上六:齎諮涕氵夷,無咎。 《象》曰:“齎諮涕氵夷”,未安上也。 “未安上者”,不樂在五上也。
上六の爻辞はいう、齎咨涕洟す。咎なし、と。《象伝》はいう、「齎咨涕洟」は未だ上に安んぜざるなり、と。 蘇軾はいう、いわゆる「未だ上に安んぜず」とは、則ち九五の上頭に処するを楽意せざるなり。
升卦(第四十六)
坤上,巽下。 “升”:元亨。用見大人,勿恤;南征吉。 《象》曰:柔以時,“升”,“巽”而順,剛中而應,是以大亨。“用見大人,勿恤”,有慶也。 “巽”之為物,非能破堅達強者也。幸而遇“坤”,故能“升”。其升也有時,故曰“柔以時,升”。“坤”既順之,五又應之,是以“大亨”。大人之於物也,危者安之,易者懼之,下“巽”而上順,質柔而遇易,志得而輕進,以此見大人所畏者也,故不曰“利”。雖不利,不可不見也。見而知畏,其為利也大矣。利之遠者曰“慶”,以其“有慶”,故雖有畏,“勿恤”也。
《升》卦の上卦は「坤」(地)、下卦は「巽」(木・風)である。卦辞はいう、升は元亨。大人を見るを用う。恤む勿れ。南征吉、と。《彖伝》はいう、柔は時を以て升る。巽にして順、剛中にして応ず。以て大亨、と。「大人を見るを用う、恤む勿れ」は慶有るなり、と。 蘇軾はいう、「巽」こ様の東西は、もと能く堅硬を冲破し強固を穿透しうるにあらず。幸いに「坤」に遇上したり。ゆえに能く上昇す。その上昇は時候を看るを要す。ゆえに「柔は時を以て升る」という。「坤」はすでにそれに順從し、六五もまたそれと相应す。よって「大亨」。大人が人物を對待するに、処境が危険なるは則ち彼をして安定せしめ、処境が太平易なるはかえって彼をして畏懼を知らしむ。いま下面は巽順にして上面は柔順す。本身は柔弱にしてまた一路に平易に遇上す。容易に志得意満して軽率冒進しやすし。こ様の状態を以て大人を見るは、正に彼をして心に敬畏を生ぜしめんと要するなり。ゆえに卦辞は「見るに利あり」と説かず。たとい「利」と説上げずとも、往きて見ざるべからず。見てしかも敬畏を懂ずれば、あの好处は則ち大なり。好处が深遠なるを「慶」と呼ぶ。「慶有る」に由りて、ゆえにたとい畏懼有る所も、亦た「恤む勿れ」。
“南征吉”,志行也。 《彖》曰:“‘巽’而順,剛中而應,是以大亨。”而六五為“升階”,由此觀之,非獨“巽”之上即“坤”,亦“坤”之下援“巽”也。“巽”之求“坤”,“坤”之求“巽”,皆會於“南”,“南征吉”,二者相求之謂也。 《象》曰:地中生木,“升”;君子以順德,積小以高大。
《彖伝》はいう、「南征吉」は志行なり、と。 蘇軾はいう、《彖伝》の講ずる「『巽』にして順、剛中にして応ず。以て大亨」にして、而も六五の爻はまた「階に升る」という。これを看れば、単に「巽」が向上に「坤」に貼近するのみならず、亦た「坤」が向下に「巽」を援引するなり。「巽」は「坤」を求め、「坤」は「巽」を求む。双方は皆「南」の方に會合す。いわゆる「南征吉」とは、説くは正に両方の彼此尋求するなり。 《象伝》はいう、地の中に木を生ず。升。君子は以て徳を順い小を積みて高大と為す、と。
初六:允升,大吉。 《象》曰:“允升大吉”,上合志也。 所以為“升”者,“巽”也;所以為“巽”者,初也。“升”之制在初,故初六雖陰柔,而其於升也蓋誠能之,故曰“允升”。陰升而遇陽,若陽升而遇陰,皆得其所升者也。初六以誠能之資而遇九二,宜其為吉之大者矣。
初六の爻辞はいう、允升、大吉、と。《象伝》はいう、「允升大吉」は上志を合するなり、と。 蘇軾はいう、この一卦をして《升》と為すは「巽」にして、「巽」をして「巽」と成らしむるは初爻なり。上昇の主宰は則ち初爻に在り。ゆえに初六はたとい陰柔の質なるも、上昇この件事の上に在りては却りて確かに能く勝任す。よって「允升」という。陰爻が上昇して陽爻に遇うか、或いは陽爻が上昇して陰爻に遇うかは、皆上昇すべきの去処を覓え得たりと算う。初六は確かに実能有るの資質を憑りて九二に遇上す。其の大吉を得るは怪しむに足らず。
九二:孚,乃利用禴,無咎。 《象》曰:九二之“孚”,有喜也。 九二升而遇九三,蓋升而窮者也。雖窮於三,而配於五,窮而之五,五亦無所升;而納之,故薄禮可以相縻而“無咎”也。 九三:升虛邑。 《象》曰:“升虛邑”,無所疑也。 九三以陽用陽,其升也果矣;六四以陰居陰,其避之也審矣;故曰:“升虛邑,無所疑也。”不言“吉”者,以至強克至弱,其為禍福未可知也,存乎其人而已。
九二の爻辞はいう、孚あれば乃ち禴を用うに利あり。咎なし、と。《象伝》はいう、二の孚は喜有るなり、と。 蘇軾はいう、九二は上昇して九三に遇う。これは升りて路を走るべからざるなり。それはたとい九三に擋住せられたるも、然るに六五と相配す。窮処より転じて六五に向かい奔れば、六五もまた自ら升るべき処なし。ここにおいてこれを接納したり。ゆえに一份の薄礼は則ち足りて双方を一処に係えて「咎なし」。 九三の爻辞はいう、虚邑に升る、と。《象伝》はいう、「虚邑に升る」は疑なきなり、と。 蘇軾はいう、九三は陽爻を以て陽位に居り。その上昇は十分に果決なり。六四は陰爻を以て陰位に居り。その退避もまた十分に周密なり。ゆえに「虚邑に升る、疑なきなり」という。爻辞が「吉」と説かざるは、最も強きを拿りて最も弱きを克するに由る。究竟禍か福かは還って説准らず。全てあの人が自ら如何做るを看るのみ。
六四:王用亨于岐山,吉,無咎。 《象》曰:“王用亨于岐山”,順事也。 上有所適,下升而避之,失於此而償於彼,雖不爭可也,人或能之。今六四下為三之所升,而上不為五之所納,此人情必爭之際也。然且不爭而“虛邑”以待之,非仁人其孰能為此?太王避狄於豳,而亨於岐;方其去豳也,豈知百姓之相從而不去哉!亦以順物之勢而已,以此獲吉,夫何咎之有?
六四の爻辞はいう、王用ひて岐山に亨す。吉、咎なし、と。《象伝》はいう、「王用ひて岐山に亨す」は事に順うなり、と。 蘇軾はいう、上面に別に往くべきの処有れば、下面の人が升り來る時は便ちそれを譲開き、ここに失掉したるはあそこに在りて補い回るを得。たとい争わずとも妨げなし。一般人は或いは還って做到しうるなり。いま六四は下面に於て九三の升逼する所となり、上面に於てはまた六五に接納せられず。これが正に人之常情の必ず争うの關頭なり。それは然るに偏に争わず、かえって城邑を空け出して人の來るを待つ。もし仁厚の人に非ざれば、誰かこの歩みに做到せんや。当年周の太王は狄人を躲避するがため豳地を離れ、後に岐山に在りて祭享を舉行したり。彼が豳地を離るる時は、あに料り得たらんや、百姓が成群して跟隨して肯んじて离散せざらんを。彼も亦不過事物の勢頭に順うのみ。こ様の做法を憑りて吉祥を得れば、還って何の過錯有らんや。
六五:貞吉,升階。 《象》曰:“貞吉升階”,大得志也。 “貞”者,貞於九二也。“巽”之所以能升者,以六五之應也;曰:此升之階也。“階”者,有可升之道焉,我惟為階,故人升之;我不為階,而人何自升哉!木之生也,克土而後能升;而土以生木為功,未有木生而土不願者也。故階而升“巽”;則六五為“得志”矣。
六五の爻辞はいう、貞なれば吉。階に升る、と。《象伝》はいう、「貞吉階に升る」は大いに志を得るなり、と。 蘇軾はいう、いわゆる「貞」とは、九二に對して正を守るなり。「巽」の上昇しうる所以は、六五有りてそれと相应するに由る。六五は説く、これがすなわち上昇の台階なりと。いわゆる「階」とは、一条の攀升すべきの路有るなり。我が肯んじて台階を做れば、別人ははじめて升り上がり來るを得。我が肯んじて台階を做らざれば、別人は何処より升らんや。樹木の生長は、土を克勝してはじめて上に向かい長ずるを要す。而も土は然るに樹木を生養するを以て己の功労と為す。從來樹木の長ぜんと要するにして土の情願せざる有らず。ゆえに六五が肯んじて台階を做して「巽」をして升り上がらしむるは、これがすなわちその「志を得る」なり。
上六:冥升,利于不息之貞。 《象》曰:“冥升”在上,消不富也。 “冥”者,君子之所息也;“升”至上六,宜息也。然而不息,則消之道也。施於不息之正者則可。孟子曰:“求則得之,舍則失之。”求在我者,此“不息”之正者也;求之有道,得之有命。求在外者,此“不息”之不正者也。
上六の爻辞はいう、冥升。不息の貞に利あり、と。《象伝》はいう、「冥升」は上に在りて消不富なり、と。 蘇軾はいう、いわゆる「冥」とは、君子が応に止息すべきの時候なり。上昇して上六に至れば、もと応に停まるべし。然るに還って肯んじて停まらざれば、それは則ち消損の路に走向す。不過もしこの止息せざるを正道の上に用うれば、それは則ち可なり。《孟子・盡心上》はいう、「求めれば則ち之を得、舎てれば則ち之を失う」と。我が自身の内に在るものを求むるは、これがすなわち「息まざる」の正途なり。あの種の「求めるに道有りて、得るは命有り」に至れば、身外の物を求むるなり。これがすなわち「息まざる」の不正の途なり。
困卦(第四十七)
兌上,坎下。 “困”:亨,貞大人吉,無咎;有言不信。 《彖》曰:“困”,剛揜也。 九二為初六、六三之所揜,九四、九五為六三、上六之所揜,故“困”。“困”者坐而見制,無能為之辭也。陰之害陽者多矣,然皆有以侵之;夫惟侵之,是以陽不能堪而至於戰。戰者有危道也,而無所謂“困”。“困”之世,惟不見侵,而見揜。陰有以消陽,而陽無所致其怒,其為害也深矣。
《困》卦の上卦は「兌」(沢)、下卦は「坎」(水)である。卦辞はいう、困は亨。貞大人は吉、咎なし。言有りて信ぜられず、と。《彖伝》はいう、困は剛は掩なり、と。 蘇軾はいう、九二は初六・六三に遮蔽せられ、九四・九五は六三・上六に遮蔽せらる。ゆえに「困」と呼ぶ。いわゆる「困」とは、あそこに坐りて人に牽制せられて、一点の弁法も使出しえざるの説法なり。陰が陽を傷害する情形は多しといえども、多くは來りてこれを侵犯するなり。正に侵犯なるにしかば、陽ははじめて受け堪えずして交戦に至る。交戦は固然として危険有れども、「困」と算うに足らず。《困》卦の世道は、恰好として侵犯せらるるにあらず、遮蔽せらるるなり。陰は法有りて一点ずつ陽を消損す。陽は然るに発怒すべき対象を連れて覓ええず。こ種の禍害ははじめて更に深し。
險以說,困而不失其所亨,其唯君子乎?“貞大人吉”,以剛中也。 剛中者,二也;二之謂大人。“貞”於“大人”而後“吉”者,五也。 “有言不信”,尚口乃窮也。 《象》曰:澤無水,“困”;君子以致命遂志。 “水”,潤下者也。在“澤”上則居,在“澤”下則逝矣。故“水”在“澤”下,為“澤無水”,命與志不相謀者也,故各致其極,而任其所至也。
《彖伝》は続けていう、険にして説び、困にして其の亨を失わず。其れ君子のみか、と。「貞大人は吉」は剛中なり、と。 蘇軾はいう、陽剛が居中なるは九二にして、九二は則ちいわゆる「大人」なり。「大人」に對して正を守りて後に「吉」たるを要するは、九五なり。 《彖伝》はいう、「言有りて信ぜられず」は口を尚るは窮まれるなり、と。 《象伝》はいう、沢に水なし。困。君子は以て命を致し志を遂ぐ、と。 蘇軾はいう、水の本性は向下に浸潤するなり。水は沢の上面に在れば則ち存り得住し、沢の下面に在れば則ち流り去る。ゆえに水が沢の下面に処すれば、便ち「沢に水なし」と成る——これは性命と志向とが両全しえざるの処境なり。よって已むを得ず二者をして各自極処に做到せしめ、それが何の歩みに走到するを任凭す。
初六:臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。 《象》曰:“入于幽谷”,幽不明也。 初六,揜九二者也。揜者非一人之所能,故初六之揜九二,必將有待於六三。六三固以初為“臀”也,“臀”得其所據而後其身能有所為。今六三之所據者,“蒺藜”也,則臀已困于株木,身且廢矣。“株木”也,“蒺藜”也,皆非臀之所據者也。夫以柔助剛,則其幽可明;以柔揜剛,其誰明之?“入谷”者也,有配在四而不善二,是以“三歲”不得見也。
初六の爻辞はいう、臀は株木に困み、幽谷に入り、三歳して覿えず、と。《象伝》はいう、「幽谷に入る」は幽なり、と。 蘇軾はいう、初六は九二を遮蔽する一方なり。遮蔽この件事は一個人の辦り成るにあらず。ゆえに初六が九二を遮蔽せんと要せば、必ず六三を指望せねばならず。六三はもとより初六を以て己の「臀」と當てる。臀部に坐るべきの憑借有りて、身子ははじめて有所作為しうる。いま六三の坐る所は然るに「蒺藜」なり。さらば臀部は早く已に枯れ樹樁の上に困められて、整個の身子も亦た則ち廢れたり。「株木」といい、「蒺藜」といい、皆臀部の坐るべき東西にあらず。柔順を用いて剛健を輔助すれば、幽暗の処もまた能く明亮に変る。柔順を用いて剛健を遮蔽すれば、還って誰の來りてこれに替わりて照亮せんや。ゆえにそれを「谷に入る」の人という。それは明明として九四に正配有るに、然るに偏に九二と為難せんと要す。よって「三年」も相見えず。
九二:困于酒食,朱紱方來,利用享祀;征凶,無咎。 《象》曰:“困于酒食”,中有慶也。 “困”之世,利以柔用剛。二與五皆剛者也,二以柔用之,而五以剛用之。天下之易懷者,惟小人也;方其見揜也,爭之以力,雖刀鋸有不足;而將懷之也,則酒食有餘矣,故九二“困于酒食”,所以懷小人也。九五則不然:揜我下者,我劓之;揜我上者,我刖之;輕用其威,威窮而物不服,乃大困也。既困而無助,則雖欲不求二不可得矣。“赤紱”者,所以爵命二也,故曰困於“赤紱”。五以赤紱為困,而二以是為方來,言此五之所困,而二之所不求而至也。困而求二,乃徐有說,以其用說為已晚矣。說於未困,則其所以為說者小,故九二之所困者,酒食而已;說於已困,則其所以為說者重,故九五之所困者,爵命也。祭祀者,人之求神而神無求也。祭之者,人也;享之者,神也。五求二,故祭之;二不求五,故享之而已。享之者固不徵,而征以求之,故“凶”。雖然,其義則不可咎,以其所從者君也。
九二の爻辞はいう、酒食に困む。朱紱は方に來る。亨祀を用うるに利あり。征せば凶、咎なし、と。《象伝》はいう、「酒食に困む」は中に慶有るなり、と。 蘇軾はいう、《困》の世道は、柔和の手段を用いて剛強を運用するに宜し。九二と九五とは皆剛爻にして、九二は柔和の方式を用いてそれを運用し、九五は然るに剛硬の方式を用いてそれを運用す。天下の最も安撫し易きは小人に若くなし。彼が汝を遮蔽する時に、汝が武力を拿りて彼と争えば、刀鋸を連れても足らざるを嫌う。然るに汝がもし肯んじて彼を安撫せば、一頓の酒食は則ち綽綽として余裕有り。ゆえに九二の「酒食に困む」は、正に以て小人を懐柔するの手段なり。九五は則ち同ならず。我の下面を遮蔽するは我は彼の鼻を割き、我の上面を遮蔽するは我は彼の脚を砍る。軽易に威刑を動用して、威勢は用尽して人は還って服せず。あれがはじめて大の困なり。すでに困窘してまた人の相助なければ、さらば則ち彼が九二に求助せんと欲せざるも辦りえず。「赤紱」は以て九二に加官授爵するの東西なり。ゆえに「赤紱」に困められたりという。九五は赤紱を以て困窘と看作し、九二は然るにこれを「方に來る」と看作す。これは九五が困窘の下に給わざるを得ざるにして、亦た九二が並に求取せずして自ら門に送て來りたるなり。困りて到頭にしてはじめて九二を求むれば、ここにおいて慢慢地として喜悦有り。ただこの份の喜悦の來りたるは已に太く晩し。未だ困窘せざる時に人をして喜悦せしむるは、以て取悦するの東西は甚だ小なるを得。ゆえに九二の困める所は不過酒食のみ。已に困窘してはじめて人をして喜悦せしむれば、以て取悦するの東西は則ち重し。ゆえに九五の困める所は竟として爵命なり。祭祀のこの回事に至れば、人が往きて神を求むるにして神は人を求めず。祭るは人にして、享を受くるは神なり。九五は九二を求む。ゆえに彼が來りて祭るなり。九二は九五を求めず。ゆえにただ享を受くるのみ。享を受くる人はもと出征すべからざるなり。もし出征して往きて人を求めれば、ゆえに「凶」。たとい如此なるも、道義の上より講ずれば然るに責怪すべからず。彼の追随する所は畢竟君主なればなり。
六三:困于石,據于蒺藜;入于其宮,不見其妻,凶。 《象》曰:“據于蒺藜”,乘剛也;“入于其宮,不見其妻”,不祥也。 六三,上揜四、下揜二者也。堅而不可勝者,石也;四之謂“石”。傷而不可據者,“蒺藜”也,二之謂“蒺藜”。六三陰也,而居於陽,自以為陽,而求配於上六,“不祥”也。三之應在上,而上六非其應也,“宮”則是矣,而非其“妻”。故曰:“入于其宮,不見其妻,凶。”小人易合而難久,故“困”之三陰,其始相與締交而揜剛,其終初六之“臀”困,六三之“妻”亡。
六三の爻辞はいう、石に困み、蒺藜に據る。其の宮に入りて其の妻を見ず。凶、と。《象伝》はいう、「蒺藜に據る」は剛に乘ずるなり。「其の宮に入りて其の妻を見ず」は祥ならざるなり、と。 蘇軾はいう、六三は向上に九四を遮蔽し向下に九二を遮蔽する一爻なり。堅硬にして戦勝すべからざるは石頭にして、九四は則ちあの「石」なり。能く人を傷うにして坐すべからざるは蒺藜にして、九二は則ちあの「蒺藜」なり。六三はもと陰爻にして然るに陽位に居り、便ち自ら以て陽と為して、ここにおいて転じて上六に向かい配を求む。これがすなわち「祥ならず」。六三の正応は上爻に在りといえども、上六は並にその真の配偶にあらず。屋子は対なりといえども、屋裏の人は然るにその「妻」にあらず。ゆえに「其の宮に入りて其の妻を見ず。凶」という。小人は結合し易くして持久し難し。ゆえに《困》卦の三個の陰爻は、起初は彼此結盟して陽剛を遮蔽し、到末には然るに初六の「臀」が困を受け、六三の「妻」は見えざるなり。
九四:來徐徐,困于金車,吝;有終。 《象》曰:“來徐徐”,志在下也;雖不當位,有與也。 初六我之配,二之所惡也。二剛而在下,載己者也,故為“金車”。欲下從初六而困於二,故其來“徐徐”,不急於配。配之所怨,剛之所與也,故雖“吝”而“有終”。 九五:劓、刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。 其曰“赤紱”,正也;“朱紱”,嚴之也;下受上之辭也。 《象》曰:“劓、刖”,志未得也;“乃徐有說”,以中直也;“利用祭祀”,受福也。 “用”,九二也。
九四の爻辞はいう、來ること徐徐なり。金車に困む。吝、終り有り、と。《象伝》はいう、「來ること徐徐なり」は志は下に在るなり。位は當らざるといえども與有るなり、と。 蘇軾はいう、初六は我が九四の正配にして、然るに九二の厭惡する所なり。九二は剛強にして下面に在り、我を承載する東西なり。ゆえに「金車」と比作す。九四は下りて初六に追随せんと欲するも九二に困住せられつつ有り。ゆえにその來るは「徐徐」にして、並に急ぎて己の配偶に就かず。その配偶の怨恨する対象は、恰好として剛爻の親附する一方なり。ゆえにたとい「吝」有るも「終り有り」。 九五の爻辞はいう、劓刖せらる。赤紱に困む。乃ち徐々として説有り。祭祀を用うるに利あり、と。 蘇軾はいう、ここに「赤紱」というは、その正名なり。上文の九二は「朱紱」というは、その莊嚴を加重するにして、あれは下より上の賜を承受する時の説法なり。 《象伝》はいう、「劓刖」は志未だ得ざるなり。「乃ち徐々として説有り」は中以て直なり。「祭祀を用うるに利あり」は福を受くるなり、と。 蘇軾はいう、いわゆる「用」は、指すは則ち九二なり。
上六:困於葛蘲,于臬危兀危;曰:動悔,有悔;征吉。 柔而牽己者,葛蘲也;三之謂“葛蘲”。剛而難乘者,臬危兀危也;五之謂“臬危兀危”。上六困於此二者而不能去,則謀全之過也。曰:不可動,動且有悔,而不知其不動乃所以有悔也。上無揜我者,則吉莫如征也,而不徵,何哉!以柔用剛,則乘之者至以為“蒺藜”;以剛用剛,則乘之者以為“臬危兀危”而已。 《象》曰:“困於葛蘲”,未當也。 上六足以為配,而六三未足以當也。 “動悔有悔”,吉行也。
上六の爻辞はいう、葛蘲に困み、臲卼に在り。動けば悔有りて悔有りと曰う。征せば吉、と。 蘇軾はいう、柔軟にして己を纏住するは葛藤にして、六三は則ちあの「葛蘲」なり。剛硬にして凌乘し難きはあの危聳不安の物にして、九五は則ちあの「臲卼」なり。上六はこの兩樣の東西に困住せられて擺脫し掉えず。それが一心に万全を求めてかえって失算したるなり。それは心裏に説く、動くべからず、一たび動けば則ち悔有らんと。然るに知らず、正に動かざるがはじめて悔を招来したるなり。上面には已に我を遮蔽する人なし。さらば最も吉利なるは前に出征するに若くなし。然るにそれは偏偏として征せず。これは何を以てするや。柔順を用いて剛強を駕馭すれば、それを凌乘する人はただそれを以て人を扎る「蒺藜」と當てる。剛硬を用いて剛強を駕馭すれば、それを凌乘する人もまたただそれを以て危聳して乘り難き「臲卼」と當てるのみ。 《象伝》はいう、「葛蘲に困む」は未だ當らざるなり、と。 蘇軾はいう、上六はもと足りて六三の配偶を做るべし。而も六三は然るにそれに配するに足らず。 《象伝》はいう、「動けば悔有りて悔有り」は吉行なり、と。
井卦(第四十八)
兌上,坎下。 “井”:改邑不改井,無喪無得,往來井井,汔至亦未繘井,羸其瓶,凶。 《彖》曰:巽乎水而上水,“井”,井養而不窮也。“改邑不改井”,乃以剛中也;“汔至亦未繘井”,未有功也。“羸其瓶”,是以凶也。 食者,往也;不食者,來也。食不食,存乎人。所以為“井”者,存乎己。存乎人者,二;存乎己者,一。故曰“往來井井”。“汔”,燥也。至井而未及水,曰“汔”。至得水而來出井,曰“未繘井”。井未嘗有得喪,“繘井”之為功,“羸瓶”之為凶,在汲者爾。 《象》曰:木上有水,“井”;君子以勞民勸相。 人之於井,未有錮之者也;故君子推是道“以勞民勸相”。
《井》卦の上卦は「兌」(沢)、下卦は「坎」(水)である。卦辞はいう、邑を改めて井を改めず。喪えず得ず、往來井井。汔至りて亦た未だ井を繘えず。其の瓶を羸む。凶、と。《彖伝》はいう、水に巽りて水上るは井なり。井は養いて窮まらざるなり、と。「邑を改めて井を改めず」は乃ち剛中なり。「汔至りて亦た未だ井を繘えず」は未だ功有らざるなり。「其の瓶を羸む」は以て凶なり、と。 蘇軾はいう、來りて水を汲み喫するを「往」と算い、來りて喫せざるを「來」と算う。喫するか喫せざるかは、人に取決する。而も井の其れ井と為る所以は、それ自らに取決する。別人に取決するは両頭有りて、自己に取決するはただ一個のみ。ゆえに「往來井井」という。「汔」は干の意なり。井辺に到りて還って水に够ざるを「汔」と呼び、已に水を打上げて然るに還って井口を提出せざるを「未だ井を繘えず」と呼ぶ。井は本身に從來得失という所なし。繩索が水を提げて成功と算い、瓶子が摔げ破れて凶険と算う。皆水を汲む人の身上に在るのみ。 《象伝》はいう、木上に水あり。井。君子は以て民を勞して相助を勸む、と。 蘇軾はいう、人は井に對して、從來それを封鎖して獨占するなし。ゆえに君子はこの道理を推廣して、以て「民を勞し相助を勸む」に用う。
初六:井泥不食,舊井無禽。 《象》曰:“井泥不食”下也;“舊井無禽”,時舍也。 《易》以所居為邪、正,然不可必也;惟“井”為可必。井未有在潔而不清,處穢而不濁者也,故即其所居,而邪、正決矣。孔子曰:“君子惡居下流,天下之惡者歸焉。”初六,惡之所鍾也;君子所受於天者無幾,養之則日新,不養則日亡,擇居所以養也。《彖》曰“井養而不窮”,所以養“井”者,豈有他哉!得其所居則潔,潔則食,食則日新,日新故不窮。“井泥”者,“無禽”之漸也,“泥”而“不食”,則廢矣。“舊井”,廢井也;其始無人,其終無禽。無人猶可治也,無禽不可治也。所以為井者亡矣,故時皆舍之。
初六の爻辞はいう、井は泥なりて食せず。旧井は禽なし、と。《象伝》はいう、「井は泥なりて食せず」は下なり。「旧井は禽なし」は時は舎てるなり、と。 蘇軾はいう、《周易》は通常一爻の居する位を以て邪正を判断す。然るにこれは並に絶対に靠得住するにあらず。ただ「井」のみ絶対に靠得住す。天下に一口の井も潔浄の地に処して水の清ならざらず、汚穢の地に処して水の濁らざるはなし。ゆえにただその居する位置を看れば、邪正は立刻に分明す。孔子は説いたり、「君子は下流に処するを惡む。天下の惡は皆焉に帰するを以てなり」と。初六は正に衆惡の匯聚する処なり。人の上天より禀受して來るはもと多からず。好く涵養すれば則ち一天天として更新し、涵養せざれば則ち一天天として消亡す。而居処を選択するは正に涵養の弁法なり。《彖伝》は「井は養いて窮まらず」という。さらば以て「井」を涵養するはまた何の別の訣竅有らんや。合適の処所に処すれば則ち潔浄なり。潔浄なれば則ち人の來りて喫する有り。人の來りて喫する有れば則ち日日更新す。日日更新するを以て枯竭せず。「井泥」は「禽なし」の開端なり。泥を淤して人の喫するなければ、この井は則ち荒廢す。「旧井」は則ち廢井なり。起先は人の來るなし、末了は禽鳥を連れても來らず。人の來るなければ還って整治しうるといえども、禽鳥を連れても來らざれば則ち整治するに從なし——それをして其れ井と為さしむる東西は已になくなれり。ゆえに当世の人は皆これを一旁に撇く。
九二:井谷射鮒,甕敝漏。 《象》曰:“井谷射鮒”,無與也。 九二居非其正,故無應於上則趨下而已。下趨者,谷之道也;失井之道而為谷,故曰“井谷”。九二之所趨者,初六也;初六之謂“鮒”。井而有“鮒”,則人惡之矣,然猶得志於甕,何也?彼有利器,而肯以我汙之歟?此必敝漏之甕,非是甕,不汲是井也。
九二の爻辞はいう、井は谷にして鮒を射す。甕は敝りて漏る、と。《象伝》はいう、「井は谷にして鮒を射す」は與する無きなり、と。 蘇軾はいう、九二は居位正ならず、上面はすでに正応なきなれば、則ち已むを得ず下に向かい流る。下に向かい流るは山谷の路数なり。井の本分を丟して谷と変ず。ゆえに「井谷」という。九二の趨向する所は初六にして、初六は則ちあの条の「鮒」なり。井の裏に小魚有れば、人は則ちそれを厭惡す。然るにそれは居然として還って甕の上に称心如意なり。何を以てするや。人家に好き器皿有れば、肯んじて拿り來りて我をして髒くせしめんや。あれは必ず一只のまた破れまた漏るる甕なり。こ様の甕にあらざれば、亦た來りてこ様の井を汲まざるなり。
九三:井渫不食,為我心惻;可用汲,王明並受其福。 《象》曰:“井渫不食”,行惻也;求“王明”,受福也。 “渫”,潔也。九三居得其正,井潔者也。井潔而不食,何哉?不中也。不中者,非邑居之所會也,故“不食”。井未有以不食為戚者也,凡為我惻者,皆行道之人爾,故曰“行惻”。“行惻”者,明人之惻我,而非我之自惻也,是井則非敝漏之甕所能容矣,故擇其所用汲者。曰:孰可用者哉?其惟器之潔者乎?器之潔,則王之明者也;器潔王明,則受福者非獨在我而已。
九三の爻辞はいう、井は渫みて食せず。我が心を惻と為す。汲むべし。王明なれば並に其の福を受けん、と。《象伝》はいう、「井は渫みて食せず」は惻を行うなり。「王明」を求むは福を受くるなり、と。 蘇軾はいう、「渫」は則ち潔浄なり。九三は居位正を得て、井水の潔浄なる一爻なり。井は已に潔浄にして然るに人の來りて喫するなし。何を以てするや。それが居中せざるに由る。居中せざれば、則ち城邑聚落の人來人往する所にあらず。ゆえに「食せず」。井は本身に從來人の來りて喫せざるに由りて憂愁せず。およそ我に替わりて惻然たるは、皆不過過路の人のみ。ゆえに「惻を行う」という。「惻を行う」というは、正にこれは別人が我に替わりて難過するにして、並に我が己の難過するにあらざるを点明せんと要するなり。こ様の井は、則ちまた破れまた漏るる甕の盛り得下せらるるにあらず。ゆえに水を汲むの器具を挑選す。人問うて曰く、如何様のは用うべきや。答えていう、ただ潔浄の器皿か。器皿が潔浄なれば、亦た君王が明察するを意味す。器皿が潔浄にして君王が明察なれば、さらば福を受くるは不止我が一人のみ。
六四:井甃,無咎。 《象》曰:“井甃無咎”,修井也。 “修”,潔也。陽為動、為實,陰為靜、為虛。泉者所以為井也,動也實也;井者泉之所寄也,靜也、虛也。故三陽為泉,三陰為井。初六最下,故曰“泥”;上六最上,故曰“收”;六四居其間而不失正,故曰“甃”。“甃”之於井,所以御惡而潔井也,井待是而潔,故“無咎”。
六四の爻辞はいう、井は甃なり。咎なし、と。《象伝》はいう、「井は甃なり」は井を修するなり、と。 蘇軾はいう、ここに「修」は則ちそれをして潔浄ならしむるなり。陽は動を主り実を主り、陰は静を主り虚を主る。泉水は井をして其れ井と為さしむるものにして、動に属し実に属す。井は泉水の寄托する処にして、静に属し虚に属す。ゆえに三個の陽爻は泉を代表し、三個の陰爻は井を代表す。初六は最も下に在り。ゆえに「泥」と呼ぶ。上六は最も上に在り。ゆえに「收」と呼ぶ。六四は中間に居りて其の正を失わず。ゆえに「甃」と呼ぶ。磚石の砌壁は井に對しては、以て汚穢を擋住し井水の潔浄を保持するに用うるなり。井はこれを恃りてはじめて潔浄なりうる。ゆえに「咎なし」。
九五:井洌寒泉,食。 《象》曰:“寒泉”之“食”,中正也。 此其“正”,與九三一也,所以食者,“中”也。 上九:井收,勿幕;有孚,元吉。 《象》曰:“元吉”在上,大成也。 “收”者,甃之上,窮也。“收”非所以為井,而井之權在“收”。夫苟幕之,則下雖有寒泉而不達,上雖有汲者而不獲,故“勿幕”,則“有孚,元吉”。
九五の爻辞はいう、井は洌にして寒泉は食さる、と。《象伝》はいう、「寒泉」の食するは中正なり、と。 蘇軾はいう、九五のこの「正」は、九三と一樣なり。その人の來りて喫する有る所以は、恃むはあの「中」の字なり。 上九の爻辞はいう、井は收なり。幕く勿れ。孚有りて元吉、と。《象伝》はいう、「元吉」は上に在りて大成なり、と。 蘇軾はいう、「收」は磚砌の井壁の最も上一層にして、すなわち井の尽頭なり。「收」は本身に並に井をして其れ井と為さしむるものにあらず。然るに井の關鍵は偏偏として「收」の手裏に握る。假使それを蓋住せば、さらば下面にたとい甘寒の泉水有るも送上來るべからず、上面にたとい水を汲む人有るも取り得べからず。ゆえに「幕く勿れ」といい、これがはじめて「孚有りて元吉」。
革卦(第四十九)
兌上,離下。 “革”:巳日乃孚,元亨利貞,悔亡。 《彖》曰:“革”,水火相息,二女同居,其志不相得,曰:“革”。“巳曰乃孚”革而信之;文明以說,大亨以正;革而當,其悔乃亡。 水、火,則有男女之象然後能相生,此非水、火也。“二女同居”而已。“二女同居”則“睽”,所以不“睽”者,“兌”欲下而遇“離”,“離”欲上而遇“兌”,雖欲相違而不能也。既不相得,又不相違,則不能無相攻;攻而不已,必有一勝;勝者斯“革”之矣。火能革金,“離”革“兌”者也,故曰“革”。火者金之所畏也,而金非火則無以就器用,器成而後知火之利也。故夫“革”,不信於“革”之日,而信於已“革”之日,以其始之不信,是以知悔者“革”之所不能免也,特有以亡之爾。
《革》卦の上卦は「兌」(沢)、下卦は「離」(火)である。卦辞はいう、革は巳日に乃ち孚なり。元亨、貞に利あり。悔亡ぶ、と。《彖伝》はいう、革は水火は相息す。二女は同居して其の志は得ざるなり、と。「巳日に乃ち孚なり」は革にして信ず。文明にして説び、大亨にして正す。革して當るれば其の悔は乃ち亡ぶ、と。 蘇軾はいう、水と火とは、先ず男女相配の象有りてしかる後に能く互相に化生す。而もこの一卦は並に水と火とにあらず。ただ「二個の女子が同じ屋に住む」のみ——「兌」は少女、「離」は中女なり。二個の女子が同住すれば、もと応に《睽》卦のごとく彼此乖離すべし。乖離せざる所以は、「兌」は下に向かい走らんと欲するにして正に「離」に碰上し、「離」は上に向かい走らんと欲するにして正に「兌」に碰上す。彼此躲開せんと欲するも躲成らず。すでに一塊兒に合しえず、また躲開しえざれば、不可能にして互相攻撃せずんばあらず。攻撃は止まざれば、必ず一方の取勝する有り。勝つ方は則ち相手を「革」掉す。火は能く金属を変革す。この一卦は「離」が「兌」を変革す。ゆえに「革」と呼ぶ。火は金属の畏懼する所なれども、然るに金属は火を経過せざれば則ち器用と成らず。器物が鑄成したるを待ちて、人ははじめて火の好处を明白す。ゆえに変革この件事は、変革を動手するの当日に人に取信せず、ただ已に革成したる後に人に取信す。正に開頭に信任せられざるにしかば、ゆえに知る、「悔」は変革の免れえざるなり。不過終に法有りてそれを消失せしむるのみ。
天地革而四時成;湯武革命,順乎天而應乎人。革之時大矣哉! 《象》曰:澤中有火,“革”;君子以治曆明時。 “歷”者天事也;“時”者,人事也。
《彖伝》は続けていう、天地は革して四時は成る。湯武は革命して天に順い人に応ず。革の時大なるかな、と。 《象伝》はいう、沢の中に火あり。革。君子は以て暦を治め時を明らかにす、と。 蘇軾はいう、「暦」は天に属する事にして、「時」は人に属する事なり。
初九:鞏用黃牛之革。 《象》曰:“鞏用黃牛”,不可以有為也。 以卦言之,則“離”革“兌”者也;以爻言之,則陽革陰者也。六爻皆以陽革陰,故初九、九三、九四、九五四者所以革人;而六二、上六者人革之。初九、九三所以為革者,火也;而六二者火之所附,初九、九三之所欲革者也。火以有所附為利,而所附者以得火為災,故初九、九三常願六二之留而不去也。夫六二苟留而不去,其見革也無日矣。六二之慾去,如“遯”之九三之慾遯也,故初九當用“遯”之六二,所以執九三者,固而留之。六二之所以去者,以我有革之之意也;故“不可以有為”,有為則革之之意見矣。
初九の爻辞はいう、鞏ぐるに黄牛の革を用う、と。《象伝》はいう、「鞏ぐるに黄牛を用う」は以て為有るべからざるなり、と。 蘇軾はいう、整卦に就りては、「離」が「兌」を変革す。爻に就りては、陽が陰を変革す。六爻は皆陽を以て陰を革す。ゆえに初九・九三・九四・九五のこの四爻は往きて別人を変革するにして、而も六二・上六は人に変革せらるるなり。初九・九三の能く変革を行う所以は、恃むは火なり。而も六二は正に火の依附する所の東西にして、亦た正に初九・九三の変革せんと欲する対象なり。火は依附有るを以て便利と為し、依附せらるる東西は然るに火に著るに由りて災と成る。ゆえに初九・九三は総じて六三が留まりて走らざるを盼す。然るに六二がもし真に留まりて走らざれば、変革せらるるも亦た早晩の事なり。六二は走らんと欲す。好比《遯》卦の九三が逃遁せんと欲するがごとし。ゆえに初九は応に《遯》卦の六二が黄牛の皮を用いて九三を拴住するの弁法を效法して、牢牢として六二を留住すべし。六二の走らんと要する所以は、正に我にそれを変革するの心思有るに由る。ゆえに「以て為有るべからず」という——一たび作為有れば、あのそれを変革するの心思は則ち露出す。
六二:巳日乃革之,征吉,無咎。 《象》曰:“巳日革之”,行有嘉也。 初九之所以固我,非愛我也,畏我去之;故未見其革爾。徒見其今之固我而不我革,以為可信而與之處,則及矣。君子見幾而作,彼今日不革,巳日必革之,故“征吉”。為初九計,則宜留;自為計,則宜徵。六二之所謂“嘉”者,五也;五之所以為“革”者,與初異矣。舍初從五,其吉也,豈復有咎哉!
六二の爻辞はいう、巳日に乃ち之を革す。征せば吉、咎なし、と。《象伝》はいう、「巳日に之を革す」は行くに嘉有るなり、と。 蘇軾はいう、初九の牢牢として我を拴住する所以は、並に我を愛惜するにあらず。我が走掉するを怕るるなり。ゆえに眼下は還ってそれが我を変革せんと欲するを看出しえず。たといただそれが今日我を拴住して我を革せざるを看るのみにして、則ち以てそれを信頼してそれと長処して下去るべしと為せば、あの禍は則ち臨頭せん。君子は細微の征兆を見れば則ち立刻に行動す。それが今日は革せざるとも、巳日に到れば必ず革せん。ゆえに「征せば吉」。初九に替わりて打算すれば、六二は応に留下すべし。自己に替わりて打算すれば、六二は則ち応に出征すべし。六二の説く所の「嘉」は、九五を指す。九五の変革を施行する路数は、初九と同ならず。初九を撇開して九五に追随するは、こ様の吉祥は、何処に還って過錯有らんや。
九三:征凶,貞厲。革言三就,有孚。 《象》曰:“革言三就”,又何之矣! 九三有應於上,故其意常欲征也。六二之所以不得去者,以我乘之也;舍之而征,則二去矣。二苟去之,則我與初九無所施其革,二陽相灼而喪其所附,則窮之道也。故“征凶,貞厲”。貞者,不征之謂也;不征則與六二處而不相得以相革者也,故危。雖危而不凶,言者以也。“革言三就”,猶曰革以三成。三者相持而成革,明二之不可去也。二存則初與三相信,二去則初與三相疑,此必然之勢也。故曰:“革言三就,有孚。”
九三の爻辞はいう、征せば凶、貞なりとも厲。革言は三就すれば孚有り、と。《象伝》はいう、「革言は三就す」は又た何ぞ之かん、と。 蘇軾はいう、九三は上六と相应す。ゆえにその心裏は総じて出征せんと想う。六二の走り掉しえざる所以は、我が九三有りてその上頭に壓るに由る。我がもしそれを撇きて往きて出征せば、六二は則ち走れり。六二が一たび走り掉せば、我と初九とは則ち変革を施行するの処なし。二個の陽爻が互相煎灼して依附する所の東西を失去せば、あれは則ち窮途なり。ゆえに「征せば凶、貞なりとも厲」という。いわゆる「貞」とは、則ち出征せざるなり。出征せざれば則ち六二と共処して彼此合せず互相変革す。ゆえに危険なり。たとい危険なるも凶に至らず。爻辞がこ様に説くはその憑拠有るなり。「革言は三就す」とは、等しく変革は三方の合力を靠りてはじめて成るを言う。三方が彼此牽制してはじめて変革を成り得。見れば六二はそれを走らしむるべからざるなり。六二が在れば、初九と九三とは則ち互相信任す。六二が一たび走れば、初九と九三とは則ち互相猜疑す。これは必然の情勢なり。ゆえに曰く、「革言は三就すれば孚有り」と。
九四:悔亡,有孚;改命,吉。 《象》曰:“改命”之“吉”,信志也。 下之二陽,以火為革者也;故見革者惟欲去之,此德不足者也。德不足而革,則所革者亡,革者亦凶。故初九、九三,皆以六二之留為吉也。上之二陽則不然,其革也以說。革而人莫不說,非有德者,其孰能之?九四,未當位者也;未當位而革,故悔革而說,故“悔亡,有孚”也。改命者始受命也,雖未當位,而志自信矣。
九四の爻辞はいう、悔亡ぶ。孚有り。命を改むれば吉、と。《象伝》はいう、「命を改む」の吉は志を信ずなり、と。 蘇軾はいう、下面の二個の陽爻は、火を靠りて変革を施行す。ゆえに変革せらるる一方はただ逃走せんと想う。これは徳行の足らざるの緑故なり。徳行が足らずして変革に往けば、さらば変革せらるる対象は逃げ掉して、変革する人もまた己凶なり。ゆえに初九・九三は皆六二を留住するを以て吉と為す。上面の二個の陽爻は則ち同ならず。それらの変革は恃むは和悦なり。変革して人人説ばざるなしとは、徳有る人に非ざれば誰か做到せんや。九四は居位當らざる一爻なり。居位當らずして変革に往けば、もと応に悔有るべし。然るに其の変革は能く人をして喜悦せしむ。ゆえに「悔亡ぶ、孚有り」。いわゆる「命を改む」とは、則ち重新して天命を承受するなり。たとい居位當らざるも、心志は然るに自ら人に取信せられたり。
九五:大人虎變,未占有孚。 《象》曰:“大人虎變”,其文炳也。 《易》曰:“雲從龍,風從虎。”虎有文而能神者也,豹有文而不能神者也。故大人為虎,君子為豹。非大人而革者,皆毀人以自成,廢人以自興,故人之從之也,必占其可從而後信。若大人之革也,則在我而已炳然日新,天下之所謂文者自廢矣,此豈待占而後信者哉!
九五の爻辞はいう、大人は虎変す。未だ占せずして孚有り、と。《象伝》はいう、「大人は虎変」は其の文は炳なり、と。 蘇軾はいう、《周易・乾卦・文言》はいう、「雲は龍に從い、風は虎に從う」と。老虎は既に文采有りてまた能く神に通ず。豹子は文采有れども能く神に通ぜず。ゆえに大人を以て虎と比作し、君子を以て豹と比作す。大人ならずして変革を行いに往くは、皆別人を毀掉して以て自己を成全し、別人を廢掉して以て自己を擡擧するを靠る。ゆえに人々が彼に跟從せんと要せば、必ず先ず一たび占問して跟從すべきか否かを待ちて、しかる後に敢えて相信す。大人の変革に至れば、ただ自己の身上に在りて已に光明燦爛・日新また新なれば、天下のあの文採有ると号称するは自然に皆黯然として作廢す。これあに還って占問して後に信ずるを用いんや。
上六:君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。 《象》曰:“君子豹變”,其文蔚也;“小人革面”,順以從君也。 上六,見革於大人者也。此見革者君子也,則其向之未革,乃其避世之遇爾。豹生而有文,豈其無素而能為之哉!若小人也,則革面而已。朝為寇讎,莫為腹心,無足怪者。下之二陽,德不足者也,故六二以征為吉;上之二陽,大人也;故上六以征為凶。
上六の爻辞はいう、君子は豹変す。小人は面を革す。征せば凶、居貞吉、と。《象伝》はいう、「君子は豹変」は其の文は蔚なり。「小人は面を革す」は順にして君に從うなり、と。 蘇軾はいう、上六は大人に変革せらるる一方なり。この変革せらるる人がもし君子なれば、さらば彼の從前の未だ変革せざりし所以は、不過避世すべき時候に碰上したるのみ。豹子は生れ下りて則ち花紋有り。あにそれが素より根柢なきにして臨時に装い出せたるならんや。もし小人なれば、それは則ちただ一副の臉色を換うるのみ。早上は還って仇敵にして、傍晚は則ち心腹と成る。これも亦た奇怪に値せず。下面の二個の陽爻は徳行足らず。ゆえに六二は出征を以て吉と為す。上面の二個の陽爻は大人なり。ゆえに上六は出征を以て凶と為す。
鼎卦(第五十)
離上,巽下。“鼎”:元吉,亨。《彖》曰:“鼎”,象也。“象”者,可見之謂也。天之生物不可見,既生而剛強之者可見也。聖人之創業,其所以創之者不可見,其成就熟好,使之堅凝而不壞者可見也。故《象》曰:“君子以正位凝命。”“革”所以改命,而“鼎”所以凝之也;知“革”而不知“鼎”,則上下之分不明而位不正,雖其所受於天者,流泛而不可知矣。
上卦は「離」、下卦は「巽」にして、合して《鼎》卦と成る。卦辞はいう、鼎は元吉、亨、と。《彖伝》はいう、鼎は象なり、と。蘇軾は解釈す、いわゆる「象」とは、能く人に看見せらるるあの一面を指す。上天は万物を生養す。あの生養の過程は看見するに從なし。然るに万物はすでに生成して堅剛強固に変じたれば、この一層は則ち看見しえたり。聖人は基業を開創す。彼の據りて開創する所のあの份の心力は看見するに從なし。然るに事業が成就したる後に精熟完好・堅凝にして敗壊せざれば、この一層は則ち看見しえたり。ゆえに《象伝》はいう、「君子は以て位を正し命を凝む」と。《革》卦は以て天命を変更するに用い、《鼎》卦は以て天命を凝定下來するに用う。ただ変革を懂得して凝定を懂得せざれば、上下の名分は淸楚ならず職位は端正ならず。さらばたとい上天より承受して來るものなるも、亦た氾濫流散して把捉するに從なからん。
以木“巽”火,亨飪也。聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。大器非器也,大亨非亨也。取“鼎”之用而施之天下,謂之“大亨”。“鼎”之用,極於亨帝而已,以其道養聖賢,則亨之大者也。國有聖賢,則君位定而天命固矣。“巽”而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以“元亨”。“元亨”,所謂“元吉,亨”也。柔進而上行者,五也;五得中而應乎剛,則所以為耳目者,“巽”也。《象》曰:木上有火,“鼎”;君子以正位凝命。
《彖伝》はいう、木を巽りて火を入るは以て餚なり。聖人は餚を亨して以て上帝に享し、而大餚して以て聖賢を養う、と。蘇軾はいう、最も大なる器具は已に不止器具のみなり、最も盛大の亨餚も亦た已に不止亨餚のみなり。鼎の功用を推廣して天下に施行して是れ、これをはじめて「大亨」と呼ぶ。単に器物に就りて講ずれば、鼎の用処は至多不過牲を亨して以て上帝を祭するのみ。もし能く鼎の含む所の道理を用いて聖賢を奉養せば、あれがはじめて亨餚の裏の最も盛大の一種なり。国の中に聖賢在位有れば、君主の地位は則ち安定して、天命も亦た穏固す。《彖伝》は続けていう、巽にして耳目は聡明、柔は進みて上行し、中を得て剛に応ず。以て元亨、と。蘇軾はいう、ここの「元亨」は、則ち卦辞の裏の「元吉、亨」なり。柔爻が上進して上位に居るは、六五なり。六五は中位を得て下に九二の剛に応ず。さらばそれに替わりて耳目を充当するは、則ち下卦の「巽」なり。《象伝》はいう、木上に火あり。鼎。君子は以て位を正し命を凝む、と。
初六:鼎顛趾,利出否;得妾以其子,無咎。《象》曰:“鼎顛趾”,未悖也;“利出否”,以從貴也。六爻皆“鼎”也。當其處者有其象,故以初為“趾”,二與三四為“腹”而實在焉;五與上為“耳”。初六上應九四,顛趾之象也;夫“鼎”,聖人將“以正位凝命”,亨而熟之至於可食而後已;苟有不善者在焉,則善與不善皆亨而並熟,而善者棄矣。鼎於是,未有實也;故及其未有實而顛之,以同其不善。如待其有實,則夫不善已汙之矣,實非吾之所欲棄也。於是焉而顛之以其所欲棄,出其所不欲棄,則天下之亂或自是起矣。
初六の爻辞はいう、鼎は趾を顛す。否を出するに利あり。妾を得て其子を以てすれば咎なし、と。《象伝》はいう、「鼎は趾を顛す」は未だ悖らざるなり。「否を出するに利あり」は貴に從うなり、と。蘇軾はいう、六爻を合わせて則ち一只の鼎なり。各爻は処する位置に依りて象を取る。初爻は鼎足にして、二爻と三・四爻は鼎腹にして、鼎の裏の盛る所の実物は則ちあそこに装る。五爻と上爻は鼎耳なり。初六は上に九四に応じ、牽引せられて翻起す。正に鼎足の倒転するの様子なり。鼎は、聖人の以て「位を正し命を凝む」に用うる器具にして、非ずして食物を熟して可食に煮ては算わざらず。假如裏に好からざる東西を摻れば、さらば好きと好からざると一斉に煮熟す。好きも亦た跟って丟棄せられん。この時鼎の中は還って実物を盛放せず。ゆえにそれが空きたるに趁りて則ちこれを翻転し來りて、あの好からざるを連れて一幷に淸掉す。たとい鼎の中に已に実物有るを待たば、あの好からざる東西は早く已にそれを汚染せり。而もこれらの実物はもと並に我が丟棄せんと想うにあらず。あの時に到りて再び翻倒すれば、既に我が丟棄せんと想うを倒掉し、亦た我が丟棄せんと想わざるを倒掉す。天下の禍乱は或いは説かずして則ちここより始まらん。
故曰:“鼎顛趾,未悖也。”“顛趾”而“出否”,盡去之道也;盡去之,則患鼎無實。聖人之於人也,責其身不問其所從,論其今不考其素,苟騂且角,犁牛之子可也。鼎雖以“出否”為利,而擇之太詳、求之太備,天下無完人。故曰:“得妾以其子,無咎。”從其子之為貴,則其出於妾者可忘也。九二:鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。《象》曰:“鼎有實”,慎所之也;“我仇有疾”,終無尤也。九二始有“實”者,“仇”者六五也。所謂“耳”也,九二之實,六五之所舉也。故其《象》曰:“鼎黃耳”。中以為實也,“仇有疾”而不能即我,畏九四也。“鼎”以耳行,故耳能即之則食,不能即之,則不食之道也。始有實者以不食為吉,惡其未足而輕用之也。故曰:“鼎有實,慎所之也。”
ゆえに《象伝》はいう、「鼎は趾を顛す、未だ悖らざるなり」と。鼎足を翻転し來りて汚物を倒出するは、徹底に淸除するの弁法なり。然るに淸くすること太く干浄なれば、また怕る、鼎の裏に再び用うべきの実物なからんことを。聖人が人才を對待するは、ただその本身如何を責求して、其の出身を追問せず。ただ其の眼下の表現を評論して、其の從前の経歴を考究せず。正に《論語・雍也》の説く所のごとし、ただ毛色が純赤にして双角が端正なれば、たとい雑色の耕牛の生下したる小牛なるも、照樣に以て祭祀の犠牲と為すに用うべし。鼎はたとい汚穢を倒出するを以て有利と為すも、然るに挑揀すること太く細にして要求すること太く全なれば、天下に一個の完人もなし。ゆえに爻辞はいう、「妾を得て其子を以てすれば咎なし」と。すでに看重するは兒子の貴重なれば、さらば彼が妾媵の生まるる所に出づるも、亦た以て計較せざるべし。九二の爻辞はいう、鼎に実有り。我が仇は疾有り。我に即かざれば吉、と。《象伝》はいう、「鼎に実有り」は之を慎むなり。「我が仇は疾有り」は終に尤なきなり、と。蘇軾はいう、九二は鼎の中に実物を始め有る一爻なり。いわゆる「仇」は、すなわち相匹配の対頭にして、六五を指す。六五は則ち上文の説く鼎耳にして、九二の盛る所の実物は、六五この只の耳を靠りて擡擧するを要す。ゆえに六五の《象伝》は「鼎は黄耳」という。意はそれが居中の徳を以て実と為すなり。「仇は疾有り」して我に靠拢しえざるは、それが九四を畏懼するに由る。鼎は耳を靠りてはじめて搬動しうる。ゆえに耳が能くそれに靠拢すれば則ち食を進るを得。靠拢しえざれば則ち喫得上がらざるの局面なり。剛に実物有る時はかえって取食せられざるを以て吉と為す。正にそれが未だ煮足らざるに就りて軽率に取用せられんを忌諱す。ゆえに《象伝》はいう、「鼎に実有り、之を慎むなり」と。
九三:鼎耳革,其行塞。雉膏不食,方雨虧悔,終吉。《象》曰:“鼎耳革”,失其義也。“耳”,上九也。九三之實,上九之所舉也。熟物之謂革,鼎之熟物,以腹不以耳;而上九“離”之極,火之所炎,以耳革者也。耳之受炎也,足以廢塞其行而不足以革,故曰:“鼎耳革,失其義也。”九三,實之將盈者也,於是可食矣,而其行廢,故雖有“雉膏”而不食也。耳以兩舉者也,六五之耳可“鉉”,而上九之耳不可鉉,則六五雖欲獨舉得乎?陰欲行而陽欲留,其為悔也大矣,故至於雨然後悔,虧而終吉。雨者,陰陽之和,“玉鉉”之功也。
九三の爻辞はいう、鼎の耳は革す。其の行は塞がる。雉膏は食われず。雨方有りて悔を虧き、終に吉、と。《象伝》はいう、「鼎の耳は革す」は其の義を失うなり、と。蘇軾はいう、ここの「耳」は上九を指す。九三の盛る所の実物は、上九を靠りて擡擧するを要す。東西を煮熟すを「革」と呼ぶ。鼎が食物を煮熟するは恃むは鼎腹にして鼎耳にあらず。上九は「離」火の頂端に処し、正に火焰の熏灼する処なり。ここにおいて変じて鼎耳を拿りて「革」するに成る。鼎耳は火の炙烤を受けて、ただ足りて鼎をして搬動しえざらしむるのみ。然るに並に食物を煮熟しえず。ゆえに《象伝》はいう、「鼎の耳は革す、其の義を失うなり」と。九三は鼎の中の実物が将に満たんとする一爻にして、もと已に取食すべし。偏に搬移の路は断絶せり。ゆえにたとい肥美の野鶏肉有るも喫得上がらず。鼎耳は兩只が一斉に擡擧するを要す。六五この只の耳は上に「鉉」を貫くべし。すなわち鼎を舉ぐる横杠なり。上九この只の耳は然るに燙して鉉を貫き上げべからざるなり。さらば六五はたとい独自擡起せんと想うも、辦り得んや。陰爻は走らんと欲して陽爻は留まらんと要す。こ様の悔恨は甚だ大なり。ゆえに陰陽の交感して雨を降るを待ちてはじめて、悔恨は減損して終に吉利に帰す。雨は、正に陰陽調和の産物にして、すなわち下文の説く所の「玉鉉」の功效なり。
九四:鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。《象》曰:“覆公餗”,信如何也?鼎之量,極於四,其上則耳矣。受實必有餘量,以為溢地也。故九三以不食為憂,明不可復加也;至於九四,溢則覆矣。故孔子曰:“德薄而位尊,知小而謀大,力少而任重,鮮不及矣。”方其未及也,必有告之者而不信,及其已信,則無如之何矣。
九四の爻辞はいう、鼎は足を折り、公餗を覆し、其の形は渥なり。凶、と。《象伝》はいう、公餗を覆すは如何ぞ信せんや、と。蘇軾はいう、鼎の容量は第四爻に到れば則ち頂に至る。再上れば便ち鼎耳なり。実物を盛放するは必ず多餘の空間を留出して、以て溢出するべきの余地と為さねばならず。ゆえに九三は喫得上がらざるを以て憂と為す。正に已に再び裏に加うべからざるを説明す。九四に至れば、一たび満溢すれば則ち傾覆せん。ゆえに孔子は《周易・繋辞下》の裏に説いて曰く、「徳は薄くして位は尊く、知は小にして謀は大なり、力は小にして任は重ければ、鮮しく及ばざるなり」と。禍患の未だ臨頭せざる時は、必ず人の來りて彼を勸告する有れども彼は肯んじて相信せず。彼が真に信ずるを待てば、亦た挽回すべからざるなり。
六五:鼎黃耳,金鉉;利貞。《象》曰:“鼎黃耳”,中以為實也。上九:鼎玉鉉,大吉;無不利。《象》曰:“玉鉉”在上,剛柔節也。六五、上九,皆所謂“耳”也。上九之耳,見於九三,故不復出也;在炎而不灼者,玉也;金則廢矣。六五之為耳也,中而不亢,柔而有容,故曰“黃耳”,則其所以為“鉉”者,以金足矣。上九之為耳也,炎而灼,不可以迫,故曰“耳革”,則其所以為鉉者,玉而後可。
六五の爻辞はいう、鼎は黄耳・金鉉なり。貞に利あり、と。《象伝》はいう、「鼎は黄耳」は中以て実と為すなり、と。上九の爻辞はいう、鼎は玉鉉なり。大吉、利ならざるなし、と。《象伝》はいう、玉鉉は上に在りて剛柔は節なり、と。蘇軾はいう、六五と上九とは、皆前面の説く所の鼎耳なり。上九この只の耳は、九三の爻の裏に已に講過せり。ゆえに更に重提せず。火焰の中に処して烧灼せられざるの材質は、ただ玉のみ。金はここに到れば則ち用場に派ばざるなり。六五は耳を做るに、居中にして高亢ならず、柔順にして能く物を容る。ゆえに「黄耳」と呼ぶ。こ様の耳に鉉を配上するは、金を用いて則ち足れり。上九は耳を做るに、火焰に烤られて燙して靠近しえず。ゆえに「耳革」と呼ぶ。こ様の耳に鉉を配上するは、非ずして玉を用ゐざれば可ならず。
金鉉可以及五而不可以及上,玉鉉則可以兩及矣。可以兩及,則上九之剛、六五之柔,我為之節也。九二之實,利在於不食,故六五之耳,利在於貞而不行;九三之實,以不食為憂,故上九之耳,得玉鉉則“大吉,無不利”。無不利者,上與五、與三之所利也。以鼎熟物,人皆能之;至於鼎盈而憂溢、耳炎而不可舉,非玉鉉不能。此“鼎”之所以“養聖賢”也。
金鉉は能く六五この只の耳の上に用うるも、上九この只の耳の上に用うべからず。玉鉉は然るに両只の耳とも貫き進るを得。すでに両只とも貫き進るを得れば、さらば上九の剛強・六五の柔順は、則ち皆玉鉉に由りて節制調和せらる。九二の盛る所の実物は、好处は暫時取食せられざるに在り。ゆえに六五この只の耳も、好处も亦た則ち正を守りて軽挙せざるに在り。九三の盛る所の実物は、喫得上がらざるを以て憂と為す。ゆえに上九この只の耳は、一たび玉鉉を配上すれば便ち「大吉、利ならざるなし」。いわゆる「利ならざるなし」とは、上九・六五と九三の三方が皆その利を得るを言う。鼎を用いて食物を煮熟するは、人人皆辦り得。鼎に已に装満して溢出するを担憂し、鼎耳が火に烤られて擡擧するに法なきに至れば、こ様の難局は玉鉉に非ざれば解き開きえず。これが正に《鼎》卦の能く「聖賢を養う」所以の道理なり。
震卦(第五十一)
震上,震下。“震”:亨。震來虩虩,笑言啞啞;震驚百里,不喪匕鬯。《彖》曰:“震”,亨。“震來虩虩”,恐致福也;“笑言啞啞”,後有則也。“震驚百里”,驚遠而懼邇也。“震”者,陽德之先,震陰而達陽者也,故“亨”。“震驚百里”,言其及遠也;“不喪七鬯”,言其和也;若震而不和,則必有僵仆隕墜者矣。“七鬯”,祭器也;必取祭器者,以見震長子也。若威而不猛,則可以為祭主矣。“出”之為言,見也。
上卦は「震」、下卦も亦た「震」。卦辞はいう、震は亨。震の來るは虩虩、笑言は啞啞。震は百里を驚かしむ。匕鬯を喪わず、と。《彖伝》はいう、震は亨。「震の來るは虩虩」は恐れて福を致すなり。「笑言は啞啞」は後に則有るなり。「百里を驚かしむ」は遠を驚かして邇を懼れしむるなり、と。蘇軾はいう、「震」は陽徳の先声にして、それは陰気を震動して陽気をして通達せしむ。ゆえに「亨」。「百里を驚かしむ」は、講ずるはその威力の能く遠方に及ぶなり。「匕鬯を喪わず」は、講ずるはそれがたとい威有るも和平を失わざるなり。假使震動して和平を失えば、それは則ち必ず人の震えて僵仆倒地し墜落受傷する有らん。匕と鬯とは祭祀に用うる器具なり。特意に祭器を取りて説くは、「震」が長子を象徴するの意を顯出せんと要するなり。たとい威厳有りて凶暴ならざれば、則ち以て宗廟の主祭人を充当すべし。「出」この個の字の意思は、則ち顯現なり。
《象》曰:氵存雷,“震”;君子以恐懼修省。初九:震來虩虩,後笑言啞啞,吉。二陽,震物者也;四陰,見震者也。“震”之為道,以威達德者也,故可試而不可遂。試則養而無窮,遂則玩而不終。初九,試而不遂者也,以虩虩之震,而繼之以啞啞之笑,明其不常用也。惟其不常用,故二陰莫敢犯其鋒,皆以逃避而後免也。《象》曰:“震來虩虩”,恐致福也;“笑言啞啞”,後有則也。以其威之不常用,故知其所以震物者,非以害之,欲其恐而致福也。“有則”者,言其不遂也。
《象伝》はいう、洊雷は震。君子は以て恐懼して修省す、と。初九の爻辞はいう、震の來るは虩虩、後に笑言は啞啞。吉、と。蘇軾はいう、卦中の二個の陽爻は震動を発出する一方にして、四個の陰爻は震動を承受する一方なり。「震」の道理は、威勢を靠りて徳意を伝達するなり。ゆえにただ試用一たびすべしにして、一味に用い尽す可からず。試用一たびすれば、威勢は則ち能く蓄養して尽りえず。一味に用い尽せば、人は則ち以て常と為して最後まで維持しえず。初九は正に試用して一味に用い尽さざる一爻なり。先ず驚懼不安の震動有りて、続きて便ち笑言自如なり。それが並に常常に威勢を動用せざるを説明す。正に常常に動用せざるにしかば、二個の陰爻は其の鋒芒を触犯するを敢えてする誰なし。皆躲避を靠りてはじめて禍患を免る。《象伝》はいう、「震の來るは虩虩」は恐れて福を致すなり。「笑言は啞啞」は後に則有るなり、と。蘇軾はいう、正に其の威勢が常常に動用せざるにしかば、知るべし、それが万物を震動するは並にそれらを傷害せんと要するにあらず。それらに心存戒惧して因りて福を得せしめんと希望するなり。いわゆる「則有り」とは、説くはそれが威はそれが威勢を極処に用いざるなり。
六二:震來,厲;億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。《象》曰:“震來,厲”,乘剛也。初九之威不可犯也,來則危,往則安。故雖“喪貝”而“勿逐”,“躋于九陵”以避之。以初九之不遂其震,而繼之以笑言也。故七日可以得所喪也。“喪貝”以明初九之威,“七日得”以明初九之不以威窮物也。六三:震蘇蘇,震行無眚。《象》曰:“震蘇蘇”,位不當也。六三不鄰於震矣,而猶蘇蘇然,懼也。行而避之,然後無眚,以明初九之威能及遠也。
六二の爻辞はいう、震の來るは厲。億に貝を喪う。九陵に躋る。逐う勿れ、七日に得ん、と。《象伝》はいう、「震の來るは厲」は剛に乘ずるなり、と。蘇軾はいう、初九の威勢は触犯すべからず。それは逼近すれば則ち危険にして、避開すれば則ち平安なり。ゆえにたとい「貝を喪う」も「逐う勿れ」にして、寧ろ「九陵に躋りて」往きてこれを躲開す。初九は並に震動を極処に用いざるに由りて、続きて則ち談笑の和有り。ゆえに七日の後に以て丟失したる東西を找回しうる。「貝を喪う」というは、以て初九の威勢を顯示す。「七日に得ん」というは、以て初九が並に威勢を拿りて人を絶路に逼至せざるを顯示す。六三の爻辞はいう、震は蘇蘇たり。震は行けば眚なし、と。《象伝》はいう、「震は蘇蘇たり」は位當らざるなり、と。蘇軾はいう、六三は已に震源と相鄰せざるに、然るに還って驚惶不定なり。見ればそれが害怕するなり。走開して往きて躲避して、しかる後に災禍なきなり。これが正に初九の威勢が能く遠処に及ぶを説明す。
九四:震遂泥。《象》曰:“震遂泥”,未光也。震於已震之後,遂而不知止者也,故“泥”。“泥”者,以言其不能及遠也,故二陰皆以處而不避為吉。六五:震往來,厲;億無喪,有事。《象》曰:“震往來,厲”,危行也;其事在中,大無喪也。九四以其“遂泥”之威加於六五,非六五之所當畏,其衰可坐而待也。夫九四雖未可乘,然往而避之則過矣,故曰:“往來,厲。”往來皆危,則以處為安矣。九四之威既已泥矣,豈復能如初九一震而喪六二之貞哉!以六五居中,處而待之,非獨無喪,億將有功。故曰:“億無喪,有事。”
九四の爻辞はいう、震は遂に泥なり、と。《象伝》はいう、「震は遂に泥なり」は未だ光ならざるなり、と。蘇軾はいう、別人が已に震動したる後に己が又た來りて震動して、一味に用い下去りて停止を知らざれば、ゆえに泥沼に陷入す。いわゆる「泥」とは、其の威勢が遠処に達せざるを言う。ゆえに上下の二個の陰爻は皆安居して躲避せざるを以て吉と為す。六五の爻辞はいう、震は往來して厲。億に喪なし。事有り、と。《象伝》はいう、「震は往來して厲」は危行なり。其の事は中に在り、大喪なきなり、と。蘇軾はいう、九四はその泥沼に陷入したる威勢を拿りて六五の身上に加う。もと六五の畏懼すべきにあらず。その衰竭は坐りて待つ則ち是れなり。九四はたとい還って凌駕しえざるも、然るに特意に走りて往きてこれを躲避するは則ち過分なり。ゆえに「往來して厲」という。來去皆危険なれば、則ち安処して動かざるを以て妥當と為す。九四の威勢はすでに泥沼に陷入したれば、何処に還って能く初九のごとく一たび震して六二をして貞守を失掉せしめんや。六五は身に中位に居りて、安処して時機を等待す。不但に損失有るべからず、而且に功績有らんを預料す。ゆえに爻辞はいう、「億に喪なし、事有り」と。
上六:震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎;婚媾有言。《象》曰:“震索索”,中未得也;雖凶無咎,畏鄰戒也。九四至此,其實不能為,徒襲其餘威以加上六。上六未得其已衰之情,故猶“索索”、“矍矍”而畏之。苟畏之不已,而征以避之,則四張而不可止矣,故凶。聖人知其不足避也,故告之曰:“震不于其躬,于其鄰”,言九四之威僅可以及五,而不及上;可以戒而無咎,無庸征也。九四始欲以威加物,及其泥而物莫之畏也,則其及於上六者,有言而已,衰之甚也。六爻皆無應,故九四兼有二陰,得稱“婚媾”也。六二“喪貝”而五無喪,六三“震行無眚”,而上六“征凶”,九四之不及初也遠矣。
上六の爻辞はいう、震は索索たり。視は矍矍たり。征せば凶。震は其の躬にあらずして其の鄰に在り。咎なし。婚媾は言有り、と。《象伝》はいう、「震は索索たり」は未だ中を得ざるなり。凶なりといえども咎なし。鄰を畏るるは戒なり、と。蘇軾はいう、九四はこの歩みに到れば、其の実已に無所作為なり。ただ残余の威風を憑りて上六の頭上に加うのみ。上六は還ってそれが已に衰竭したるの実情を看淸せず。ゆえに依然として瑟縮驚顧してこれを怕る。假如一味に怕れ下去りて、還って動身して逃開せんと要せば、さらば九四の気焰は則ち張揚し起來りて收えざらん。ゆえに凶。聖人はそれが並に躲避するに値せざるを知る。よって告誡して曰く、「震は其の躬にあらずして其の鄰に在り」と。意は九四の威勢はただ足りて六五に加うるのみにして、上六に加うべからざるなり。ただ戒備有れば則ち過錯なし。出行して躲避するを用いず。九四は起初に威勢を拿りて万物を壓服せんと欲したり。それが泥沼に陷入して万物が皆更にこれを怕れざるに至れば、さらばそれが上六の身上に加うるは、亦不過幾句の話のみ。見れば衰竭すること如何ばかりの甚しきや。此の卦の六爻は彼此皆正応なし。ゆえに九四は兼得て上下の二個の陰爻を得て、はじめて「婚媾」と称作すべし。六二は「貝を喪う」にして六五は毫も損失なし。六三は「震は行けば眚なし」にして上六は然るに「征せば凶」。九四は初九に比ぶれば、差えたるは実在に太く遠し。
艮卦(第五十二)
艮上,艮下。“艮”其背,不獲其身;行其庭,不見其人,無咎。《彖》曰:“艮”,止也;時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。“艮其止”,止其所也;上下敵應,不相與也;是以“不獲其身,行其庭,不見其人,無咎”也。所貴於聖人者,非貴其靜而不交於物,貴其與物皆入于吉凶之域而不亂也。故夫“艮”,聖人將有所施之。“艮,止也”,止與靜相近而不同,方其動而止之,則靜之始也;方其靜而止之,則動之先也,故曰:“時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。”此言“艮”之得其所施者也。
上卦は「艮」、下卦も亦た「艮」。卦辞はいう、其の背を艮す。其の身を獲ず。其の庭を行きて其の人を見ず。咎なし、と。《彖伝》はいう、艮は止なり。時止まれば則ち止まり、時行けば則ち行く。動静は其の時を失わず、其の道は光明なり、と。「其の止を艮す」は其の所に止まるなり。上下は応じて敵して與せざるなり。以て其の身を獲ず。其の庭を行きて其の人を見ず。咎なし、と。蘇軾はいう、人々が聖人を看重するは、並に彼の清浄にして外物と打交道せざるを看重するにあらず。彼が能く万物と一同に吉凶の境地に進入して慌亂せざるを看重するなり。ゆえに「艮」この個の止は、聖人はこれを拿りて往きて事に施用せんと要するなり。「艮、止なり」——止と静とは相近するも然るに相同ならず。正に事物の動く時にそれを止住するは、あれは静の開端なり。正に事物の静なる時にそれを止住するは、あれは動の先声なり。ゆえに「時止まれば則ち止まり、時行けば則ち行く。動静は其の時を失わず、其の道は光明なり」という。これは「艮」を用い得て地方に対えたるの情形を講ずるなり。
施之於天下之至動,是以為“頤”;施之於天下之至健,是以為“大畜”。今夫兼山“艮”,是施之於“背”而已,“背”固已止矣,“艮”何加焉?所以為柅者、為輪也;所以為防者、為水也。今也不然,為輿、為枙,為山、為防,不亦近於固歟?故曰:“艮其止,止其所也。”此所以“不獲其身”也。“上下敵應,不相與也”,此所以“行其庭,不見其人”也。物各止於其所,是果能止也哉?背止於身,身與之動而背不知也,今我施止於物之所,止有大於是物者。則挾而與之趨矣,我焉得知之?故曰“艮其背,不獲其身”,其庭未嘗無人也,有六人焉,敵應而不相與,則如無人。是道也,非向之所謂光明者也,以為無咎而已。
止を天下の最も好動の東西の上に施加すれば、ここにおいて《頤》卦有り。止を天下の最も剛健の東西の上に施加すれば、ここにおいて《大畜》卦有り。いま《艮》卦は両山の重曡にして、ただ止を「背」の上に施加するのみ。背はもと已に動かざるに、再び一層の止を加えてまた何の用有らんや。刹車木を做るの用処は、以て轉動する車輪を制住せんがためなり。堤防を築るの用処は、以て奔流する水を攔住せんがためなり。いまは然るに然らず。車廂に更に車廂を加え、車軛に更に車軛を加え、山に更に山を加え、堤防に更に堤防を加うるは、あに頑固に近からざらんや。ゆえに《彖伝》は「其の止を艮す、其の所に止まるなり」という。これがすなわち「其の身を獲ず」の緑故なり。「上下は応じて敵して與せざるなり」、これがすなわち「其の庭を行きて其の人を見ず」の緑故なり。每樣の東西が皆それ自らの位置に停在するは、これは真に能く止まると算せんや。背は身体に對しては動かざるなれども、然るに身体が一たび動けば、背もまた跟って動きて己は並に覚察せず。いま我が止を某物の処する地に施加するに、もし還ってこの物より更に大なる力量有らば、則ちそれを挾帯して一同に奔走せん。我はまた何処に察覚し得んや。ゆえに「其の背を艮す、其の身を獲ず」という。あの庭院の裏に至れば、未だ嘗て人なきにあらず。明明として六個の人在るに、ただ両両として相敵して彼此相往來せざるに由りて、則ち人なきがごとし。こ様の一条の路は、已に前面の説く所のあの種の光明大道にあらず。不過一個の過錯なきを求むるのみ。
《象》曰:兼山,“艮”;君子以思不出其位。初六:艮其趾,無咎,利永貞。《象》曰:“艮其趾”,未失正也。六二:艮其腓,不拯其隨,其心不快。《象》曰:“不拯其隨”,未退聽也。自“趾”而上,至於“輔”,當其處者有其德,與“咸”一也。“咸”以上六為“輔”,而五為“脢”,“艮”之“輔”在五,而“脢”不取,何也?“脢”則“背”也,“艮”皆取於動者而已。
《象伝》はいう、山を兼ぬるは艮。君子は以て其の位に出ざるを思わざるなり、と。初六の爻辞はいう、其の趾を艮す。咎なし。永貞に利あり、と。《象伝》はいう、「其の趾を艮す」は未だ正を失えざるなり、と。六二の爻辞はいう、其の腓を艮す。其の隨を拯わず。其の心は快からず、と。《象伝》はいう、「其の隨を拯わず」は未だ退きて聽せざるなり、と。蘇軾はいう、脚趾より往上して一直に面頬に到るまで、各爻は処する部位に依りて相应の徳性有り。この一点は《咸》卦と相同なり。《咸》卦は上六を以て面頬と為し、六五を以て脊背と為す。《艮》卦の面頬は六五に在りて、然るに脊背の象を取らず。何を以てするや。脊背は則ち卦辞の裏のあの「背」なればなり。而も《艮》卦の各爻は一律に動くべきの部位を取りて象を立つ。
“艮”則何為皆取於動者也?曰:卦合而觀之,見兩“艮”焉;見其施“艮”於止,故取其體之靜者而配之,曰“艮其背”。爻別而觀之,不見“艮”之所施,而各見其所遇之位;位有不同,而吉、凶、悔、吝生焉,故取其體之動者而不取其靜,以為其靜者已見於卦矣。
さらば《艮》卦は何を以て各爻皆動くべきの部位を取るや。答えていう、一卦を合わせて看れば、看見するは二個の「艮」の重曡なり。それが止をもと静止する東西の上に施加するを看れば、ゆえに身体上の静の部分を取りて之と相配し、「其の背を艮す」と説く。六爻を分けて看れば、則ち止が何処に施加したるを看出しえず。ただ各爻の遇う所の位次を看見するのみ。位次に高下の同ならざる有り。吉・凶・悔・吝も亦たこれに由りて産生す。ゆえに身体上の動くべきの部位を取りて静の部位を取らず。静のあの一面は已に整卦の裏に交代過ぎたるに由る。
上止而用下,下止而聽於上,此“艮”之正也。趾能動而聽於腓者也,“艮其趾”,不害於腓之動也;趾不自動而已,止而聽其上,上止則止,上行則行,此“艮”之正者也,故“利永貞”。腓能動而不聽於股者也,或曰“咸其股,執其隨”,隨者股之德也,故謂“股為隨”。“艮其腓”,則股雖欲行而不能矣,下止而不聽於上,上雖有憂患而莫之救,則上之所不快也,以是為失其正矣,故曰:“艮其趾,未失正也。”
上に在るは止住して下に在るを調用し、下に在るは止住して上に在るに聽命するは、これがはじめて《艮》卦の正道なり。脚趾はたとい動きうるも、然るに小腿に聽命するなり。「其の趾を艮す」は並に小腿の活動を妨礙せず。ただ脚趾が自ら擅に動かざるのみ。それは停まりて上面に聽從し、上面が停まればそれは停まり、上面が走ればそれは走る。これが正に《艮》卦の正道なり。ゆえに「永貞に利あり」という。小腿肚も亦た能く動くといえども、然るに肯んじて大腿に聽命せず。《咸》卦の九三の爻辞は「其の股を咸し、其の隨を執る」という。見れば「隨」は正に大腿の徳性なり。ゆえに大腿を以て「隨」と称す。「其の腓を艮す」は、小腿を止住したるなり。大腿はたとい走らんと想うも走り成らず。下に在るは一味に自止して上に在るに聽せず。上面はたとい憂患有るも人の相救するなし。これがすなわち上面の不快なる所以なり。こう一來れば則ち正道を失掉したりと算う。ゆえに《象伝》は對照して説いて曰く、「其の趾を艮す、未だ正を失えざるなり」と。
九三:艮其限,列其夤,厲薰心。《象》曰:“艮其限”,危薰心也。三不“艮於股”而“艮於限”,亦取諸動者也。“限”者,上下之際,所以俯仰之節也。“夤”者,自上而屬於下者也。“艮”於下之極,則其自上而下者絕矣;上下絕,心之憂也。心在六四,故憂之;及心也,謂之“薰”。六四:艮其身,無咎。《象》曰:“艮其身”,止諸躬也。“咸”之九四曰:“朋從爾思。”則四者,心之所在也。施之於一體,則“艮”止於所施,所不施者不及也。施之於心,則無所不及矣,故曰“艮其身”。“艮”得其要,故“無咎”。
九三の爻辞はいう、其の限を艮し、其の夤を列き、心を薰ぐるに厲、と。《象伝》はいう、「其の限を艮す」は危は心を薰ぐるなり、と。蘇軾はいう、九三は「大腿に止まる」と説かずして「腰際に止まる」と説くは、亦た動くべきの部位を取りて象を立つなり。いわゆる「限」とは、上身と下身との交接する処にして、人の能く俯し能く仰ぐは全てそれを以て樞紐と為す。いわゆる「夤」とは、上身より下身に連接するあの一条の筋絡なり。止を下身の頂端に施加すれば、さらば上より下に貫くの聯係は断れたり。上下が一たび断れれば、則ち内心の憂患なり。心の位置は六四に在り。ゆえにこれがため愁う。憂患が心に波及するを「薰」と呼ぶ。六四の爻辞はいう、其の身を艮す。咎なし、と。《象伝》はいう、「其の身を艮す」は諸の躬に止まるなり、と。蘇軾はいう、《咸》卦の九四の爻辞は「朋は爾の思に從う」という。見れば第四爻は正に心の在る所なり。止を身体の某一処に施加すれば、さらば止はただ施加したるあの一処に至れば則ち止まる。施加し到らざるの処は則ち管うべからず。もし止を心の上に施加せば、それは則ち到らざるの処なし。ゆえに「其の身を艮す」という。《艮》卦はここに在りて要領を抓住せり。ゆえに「咎なし」。
六五:艮其輔,言有序,悔亡。《象》曰:“艮其輔”,以中正也。口欲止,言欲寡。上九:敦艮,吉。《象》曰:“敦艮”之“吉”,以厚終也。“敦”,益也。“艮”至於輔,極矣;而又止之,故曰“敦艮”。梏者不忘釋,痿者不忘起,物之情也。在止之極而不忘於動,非天下之至厚,其孰能之?
六五の爻辞はいう、其の輔を艮す。言に序有り。悔亡ぶ、と。《象伝》はいう、「其の輔を艮す」は中以て正なり、と。蘇軾はいう、嘴は管得住しうるを要し、話は説くこと少なるを要す。上九の爻辞はいう、敦艮。吉、と。《象伝》はいう、「敦艮」の吉は厚を以て終るなり、と。蘇軾はいう、「敦」とは、則ち更に一層を加うるの意思なり。止は口頬に到れば、已に尽頭なり。ここに到りて還って更に一層の止を要す。ゆえに「敦艮」と呼ぶ。刑具を戴く人は念念として掙脫せんと忘れず、両腿の癱瘓したる人は念念として站起せんと忘れず。これは万物の常情なり。止の極点に身处して心裏にあの份の動の生意を忘れざるは、天下の最も敦厚の人に非ざれば、誰かこの歩みに做到せんや。
漸卦(第五十三)
巽上,艮下。“漸”:女歸吉,利貞。《彖》曰:“漸”,之進也。“女歸吉”也,進得位、往有功也。進以正,可以正邦也;其位剛得中也。此文轉以次相釋也。“漸”之中有進者,則“女歸”之“吉”也,而利於正。正者孰謂?謂“得位”而“有功”、“可以正邦”者也。其“得位”者何也?“剛中”者也。由此觀之,女則二與四;所歸則五也。止而“巽”,動不窮也。“止而‘巽’”,有所觀望而後進者,故不窮。《象》曰:山上有木,“漸”;君子以居賢德善俗。雲上於天,天所不能居,故君子不以居德;木生於山,山能居之,山以有木為高,故君子以是居德業、善風俗。
上卦は「巽」、下卦は「艮」。卦辞はいう、漸は女は帰すれば吉。貞に利あり、と。《彖伝》はいう、漸は進なり、と。「女は帰すれば吉」は進みて位を得、往きて功有るなり。進みて以て正しきは、以て邦を正すべきなり。其の位は剛は中を得るなり、と。蘇軾はいう、この一段の《彖伝》は一句また一句と輾転として相釈す。《漸》卦の中に「進」の意思を含む。あれは則ち「女帰」の「吉」たる所以にして、而且も貞に利あり。いわゆる「正」は誰を指すや。指すは「位を得」「功有り」「以て邦を正すべし」なり。其の説く所の「位を得」はまた何を指すや。指すは剛爻の居中なり。これを看れば、卦中の「女」は六二と六四にして、嫁する所の対象は則ち九五なり。《彖伝》は又たいう、能く止まりて巽なり。以て動けば窮まらざるなり、と。蘇軾はいう、「止まりて巽」とは、先ず観望審度してしかる後に前進す。ゆえに困境に陷入せず。《象伝》はいう、山の上に木あり。漸。君子は以て賢徳を居り俗を善くす、と。蘇軾はいう、雲気は天空に升るに、天は然るにそれを留住しえず。ゆえに《需》卦の《象伝》は並にこれを用いて徳を蓄うを説かず。樹木は山上に生ず。山は能くそれを容留し、山もまた樹木有るに由りて更に高峻を顯す。ゆえに《漸》卦の君子はこの象を借りて以て徳業を積蓄し風俗を改善す。
初六:鴻漸于干,小子厲;有言,無咎。《象》曰:“小子”之“厲”,義無咎也。“鴻”,陽鳥而水居,在水則以得陸為安,在陸則以得水為樂者也。故六爻雖有陰陽之異,而皆取於鴻也。初六,鴻之在水者也,遠則無應,近則遇二,以陰適陰,故曰“鴻漸于干”。“乾”,水涯也。兩陰不能相容,故為“小子”之所“厲”,以至於“有言”。雖然其所適非志於利也,則未至於六三之凶,“無咎”可也。
初六の爻辞はいう、鴻は干に漸す。小子は厲、言有り。咎なし、と。《象伝》はいう、「小子」の厲は義咎なきなり、と。蘇軾はいう、鴻は陽に属する鳥にして然るに水上に棲息す。水の中に在れば則ち登陸しうるを以て安穏と為し、陸の上に在れば則ち水を得るを以て快樂と為す。ゆえに六爻はたとい陰陽の別有るも、一律に鴻雁を取りて象と為す。初六は水の裏に停るる鴻にして、遠処に相应の爻なく、近処にただ六二に碰上す。陰爻を以て陰爻に就くに往く。ゆえに「鴻は干に漸す」という。「干」とは、則ち水辺なり。二個の陰爻は互に相容れず。ゆえに「小子」に危難せられて、以て責備を招来す。たとい如此なるも、その前去して投靠するは並に利益を貪図するにあらず。よって還って六三のごとく凶険に至らず。それを「咎なし」と説くは可なり。
六二:鴻漸于磐,飲食衎衎,吉。《象》曰:“飲食衎衎”,不素飽也。六二,鴻之在水者也。近則遇三,遠則遇五,無適而不得其欲,故擇其尤可恃者從之。二之從三也,雖近而難信;其從五也,雖遠而可恃。二陽皆陸也,在陸而尤可恃以安者,磐也,九五之謂“磐”。六二知五之可恃,不漸於三而漸於五,則食且樂如是。“衎衎”,樂也。“素飽”,徒飽也。夫飲食何為若昌樂也?豈非以五之足恃而不徒飽歟?苟為徒飽而已,則雖三可從;夫苟從三,則飲食未終而憂繼之矣。
六二の爻辞はいう、鴻は磐に漸す。飲食は衎衎たり。吉、と。《象伝》はいう、「飲食は衎衎たり」は素飽せざるなり、と。蘇軾はいう、六二も亦た水の裏に停るる鴻なり。近処に九三に碰上し、遠処に九五に遇着す。何れの一辺に往くとも皆その心願を遂ぐるを得。ゆえにあの更に靠得住きを挑りて投奔するを要す。六二が九三に跟從するは、たとい近きも信賴し難し。九五に跟從するは、たとい遠きも靠得住す。二個の陽爻は皆陸地と算う。陸地の上の最も依恃して安穏たるは磐石にして、九五は則ちこの塊の磐石なり。六二は九五が靠得住きを明白して、九三に投ぜずして九五に投ず。ここにおいて飲食歡樂してこ般の地步に至る。「衎衎」とは、歡樂の様子なり。「素飽」とは、白に一頓を喫うなり。飲食は何を以て能くこ様に暢快するや。あに正に九五の足りて依恃するに由らざらんや。ゆえに白喫と算えず。もしただ白に一頓を喫わんを図れば、さらば九三も亦た未だ嘗て跟從すべからざらず。然るに一たび九三に跟えば、飯は還って喫い終えざるに、憂患は則ち接踵して來らん。
九三:鴻漸于陸,夫征不復。婦孕不育,凶;利禦寇。《象》曰:“夫征不復”,離群醜也;“婦孕不育”,失其道也。利用“禦寇”,順相保也。九三,鴻之在陸者也;而上九非其應,故曰“鴻漸于陸”。無應於上而近於四,見四之可欲,則離類絕朋而趨之,故曰“夫征不復”。六二之從我,非正也,將視我而進退者也。上之所為,下必有甚者,九三適四而不反,則難以令於二矣。故曰:“婦孕不育,凶。”四,順於五者;而三寇之,言“禦寇”之利,以明三之不利也。
九三の爻辞はいう、鴻は陸に漸す。夫は征きて復らず。婦は孕みて育たず。凶。寇を禦ぐに利あり、と。《象伝》はいう、「夫は征きて復らず」は群を離るるなり。「婦は孕みて育たず」は其の道を失えり。「寇を禦ぐ」に利あるは順にして相保すなり、と。蘇軾はいう、九三は陸地の上に停るる鴻なり。上九はそれと正応にあらず。ゆえにただ「鴻は陸に漸す」という。上頭に相应するなく、近旁は然るに六四なり。六四の貪求すべきを見れば、便ち同類を離れ朋党を斷絶して之に向かい奔る。ゆえに「夫は征きて復らず」という。六二が我が九三に跟從するは、もと正道に合せず。それは我が挙動を看りて進退を決定するなり。上面が如何做れば、下面は必ず更に過分に做る。九三は走りて六四に就きて肯んじて頭を回らざれば、亦た六二を號令するに法なし。ゆえに「婦は孕みて育たず、凶」という。六四はもと九五に順從するにして、九三は然るに往きてこれを侵犯す。爻辞が寇を禦ぐに利ありと説くは、正に以て九三がこう做るの不利を点明す。
六四:鴻漸于木,或得其桷,無咎。《象》曰:“或得其桷”,順以“巽”也。六四,鴻之在水者也。近於五而非其應,故曰“鴻漸于木”。木生於陸,而非鴻之所安也;鴻之為物也,足不能握,其“漸於木”而“無咎”,蓋得其大而有容如桷者焉,九五之謂也。“或”者,幸而得之之辭也。無應而從非其配,非“巽”順,何以相保乎?
六四の爻辞はいう、鴻は木に漸す。或いは其の桷を得ん。咎なし、と。《象伝》はいう、「或いは其の桷を得ん」は順にして巽なり、と。蘇軾はいう、六四はもと応に亦た水の裏に停るる鴻なり。それは九五に靠近するも、然るに九五の正応にあらず。ゆえに「鴻は木に漸す」という。樹木は陸地の上に長ずるにして、もと鴻雁の安身しうる処にあらず。鴻こ種の鳥は、脚爪は枝條を抓握せず。それが樹上に落到して竟として能く「咎なし」は、大概として一根の粗大にして容身しうる、方椽のごとき平穏の枝干を覓え得たるなり。説くは九五なり。「或」の字は、僥倖して得たるの語気なり。上下皆正応なし。跟從する所はまた己の配偶にあらず。もし柔順謙遜を靠らざれば、何を以て彼此相保全せんや。
九五:鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。《象》曰:“終莫之勝,吉”,得所原也。九五,鴻之在陸者也;進而遇上九。上九,陵也;陵者,陸之又高者也;進而之陵,動乎無嫌,故六二之為“婦”也,“三歲不孕”而終莫之勝。夫以陸之陵,以為不得其願矣,而婦為之貞如此,則願孰大焉。故曰:“進以正,可以正邦也。”不求之人而求之身,雖服天下可也。
九五の爻辞はいう、鴻は陵に漸す。婦は三歲して孕まず。終に之に勝つ莫し。吉、と。《象伝》はいう、「終に之に勝つ莫し、吉」は願を得るなり、と。蘇軾はいう、九五は陸地の上に停るる鴻なり。再往きて前へば則ち上九に遇上す。上九は則ち高丘なり。いわゆる丘陵とは、陸地の裏の更に高き処なり。前に往きて高丘に登上すれば、挙動は光明にして猜疑すべきなし。ゆえに「婦」を充当する六二は、たとい「三歲して孕まず」とも、然るに終に彼女を壓倒しうる誰なし。陸地より高丘に登るは、看るに似て心願を遂げざるがごとし。然るにあの位の婦人は彼がため貞を守りてこの地步に至る。還ってこれより更に大なる心願有らんや。ゆえに《彖伝》はいう、「進みて以て正しきは、以て邦を正すべきなり」と。別人に向かい求取せずしてかえって自身に求むれば、たとい天下をして歸服せしめんと要するも辦り得。
上九:鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。《象》曰:“其羽可用為儀,吉”,不可亂也。上九,鴻之在陸者也。上無所適,而三非其應,故曰“鴻漸于逵”。“漸”有三陽,其二為陰之所溷,非其有應,則近而慕之。惟上九不然:夫無累於物,則其進退之際,雍容而可觀矣。
上九の爻辞はいう、鴻は逵に漸す。其の羽は用いて儀と為すべし。吉、と。《象伝》はいう、「其の羽は用いて儀と為すべし、吉」は乱るべからざるなり、と。蘇軾はいう、上九も亦た陸上に停るる鴻なり。その上面には更に往くべきの処なく、九三はまたその正応にあらず。ゆえに「鴻は逵に漸す」という——「逵」は四通八達の雲路なり。《漸》卦は三個の陽爻有り。其中の二個は陰爻に攪擾せらる。正応有りて牽くかあらずして則ち相鄰に由りて愛慕せらるるかなり。ただ上九のみ然らず。一個の人が外物に拖累せられざれば、さらば其の一進一退の間は、従容大方にして觀瞻に値す。
歸妹卦(第五十四)
震上,兌下。“歸妹”:征凶,無攸利。《彖》曰:“歸妹”,天地之大義也。天地不交而萬物不興,“歸妹”,人之終始也。說以動,所“歸妹”也。“說”少者,人之情也;故“說以動”,其所“歸”者,“妹”也。天地之所以交,必天降也;男女之所以合,必男下也。若女長而男少,則“大過”之所謂“老婦”、“士夫”,烏肯下之?夫苟不下,則天地不交,男女不合矣。故“歸妹”者,女少而男長,女用事而男下之之謂也。夫所以下之者,豈一日之故哉!將相與終始故也。
上卦は「震」、下卦は「兌」。卦辞はいう、歸妹は征せば凶。利ならざるなし、と。《彖伝》はいう、歸妹は天地の大義なり。天地は交わらざれば則ち万物は興らず。歸妹は人の終始なり。説びて以て動くは、歸する所は妹なり、と。蘇軾はいう、年少を喜ぶは、人之常情なり。ゆえに「説びて以て動く」は、嫁し出去するははじめて「妹」、すなわち少女なり。天地の能く交感する所以は、必ず天が先ず降り來るなり。男女の能く結合する所以は、必ず男方が先ず屈就するなり。假如女方が年長にして男方が年少なれば、則ち《大過》卦の説く所の「老婦」が「士夫」に配るに成る。男方はあに肯んじて屈就せんや。すでに肯んじて屈就せざれば、天地は則ち交感せず、男女も亦た則ち結合せず。ゆえに《歸妹》は、説くは女方が年少にして男方が年長、女方が主動にして男方が屈就す。而も男方の肯んじて屈就する所以は、あに一天の内の緑故ならんや。それは彼女と相守して終身して有始有終せんと要するの緑故なり。
“征凶”,位不當也。“無攸利”,柔乘剛也。“歸妹”之爻,男女皆易位。柔皆乘剛,此男所以說女而致其情者,權以濟事,一用而止可也。以此而征則凶,且男女皆不利也。《象》曰:澤上有雷,“歸妹”,君子以永終知敝。“歸妹”,女之方盛者也。凡物之有敝者,必自其方盛而慮之;迨其衰,則無及矣。
《彖伝》はいう、「征せば凶」は位は當らざるなり。「利ならざるなし」は柔は剛に乘ずるなり、と。蘇軾はいう、《歸妹》の一卦の爻位は、男女は皆位置を換えたり。柔爻は一概に剛爻の頭上に騎る。これが正に男方が女方を討好して彼女に情意を表達するの做法にして、権宜の計に属す。一たび用いて事を辦り成れば則ち足れり。もしこの一套を拿りて常法と當てて推行し下去れば則ち凶を招来し、而且も男女双方は皆利を得ず。《象伝》はいう、沢の上に雷あり。歸妹。君子は以て永終して敝を知る、と。蘇軾はいう、《歸妹》の写すは女子が正に盛年に當るの時なり。およそ終に敗壊する事物は、必ずそれが興盛する時に趁りてそれに替わりて籌劃せねばならず。それが衰落するを待てば、則ち及ばざるなり。
初九:歸妹以娣;跛能履,征吉。《象》曰:“歸妹以娣”,以恆也;“跛能履”,吉相承也。九二:眇能視,利幽人之貞。《象》曰:“利幽人之貞”,未變常也。“歸妹”以陰為君,在“兌”則六三是也,而初與二,其娣也;在“震”則六五是也,而四其娣也。所以為“兌”者,三也,故權在君;所以為“震”者,四也,故權在“娣”。權之在君也,則君雖不才,而娣常為之用;權之在娣也。則娣雖無能為損益,猶要其君。
初九の爻辞はいう、妹を歸するに娣を以てす。跛は能く履す。征せば吉、と。《象伝》はいう、「妹を歸するに娣を以てす」は以て恒なり。「跛は能く履す」の吉は相を以て承るなり、と。九二の爻辞はいう、眇は能く視る。幽人の貞に利あり、と。《象伝》はいう、「幽人の貞に利あり」は未だ常を変ぜざるなり、と。蘇軾はいう、《歸妹》の一卦は陰爻を以て主人と為す。下卦の「兌」の裏は、主人は六三にして、初九と九二とは彼女の媵妾なり。上卦の「震」の裏は、主人は六五にして、九四は彼女の媵妾なり。下卦をして其れ「兌」と成らしむるの關鍵は六三に在り。ゆえに権柄は主人の手裏に握る。上卦をして其れ「震」と成らしむるの關鍵は九四に在り。ゆえに権柄は媵妾の手裏に握る。権柄が主人の手裏に在れば、さらば主人はたとい才干なきとも、媵妾もまた照樣に彼女に替わりて力を出す。権柄が媵妾の手裏に在れば、さらば媵妾はたとい何の忙も幇けえざるとも、亦た還って反過來其の主人を挾制せんと要す。
六三不中而居非其位,跛、眇者也。其所以能履且視者,以初與二屈而為之娣也。二者各致其能於六三,故初九曰:“歸妹以娣,跛能履,征吉。”六二曰:“眇能視,利幽人之貞。”已有能履能視之才,不以自行而安為娣?使跛者得之以徵、眇者得之能視,何哉?豈非上下之常分有不可易者邪?故其《象》曰:“歸妹以娣,以恆也。”而九二之《象》亦曰:“未變常也。”九二亦娣也,其不言娣,何也?因初九之辭也。且跛、眇者一人,而為之視、履者二人,是二人者,豈可以廢一歟?故其《象》曰:“跛能履,吉相承也。”是以知其皆娣也,已有其能而不自用,使無能者亨其名,則九二非幽人而何哉!
蘇軾はいう、六三は既に居中せず、処する位置もまた正當ならず。正にあの個の跛にしてまた一只の眼の瞎けたる人なり。その還って能く走り還って能く看見する所以は、初九と九二とが肯んじて屈身してそれに媵妾を當て給うに由る。この二個の陽爻は各々本事を六三に献納す。ゆえに初九の爻辞はいう、「妹を歸するに娣を以てす。跛は能く履す。征せば吉」と。第二爻の爻辞はいう、「眇は能く視る。幽人の貞に利あり」と。それらは明明として能く走り能く看るの才干有るに、然るに拿り來りて自己行動せず、かえって安心して媵妾を做りて往きて、跛子をしてそれを借りて出行せしめ、独眼をしてそれを借りて東西を看せしむ。これは何を以てするや。あに正に上下の名分に更易すべからざるの定規有るに由らざらんや。ゆえに初九の《象伝》はいう、「妹を歸するに娣を以てす、以て恒なり」と。九二の《象伝》も亦たいう、「未だ常を変ぜざるなり」と。九二も亦た同樣に媵妾なり。何を以て爻辞は「娣」の字を点出せざるや。あれは初九の辞に承りて省略したるなり。いわんやまた跛にしてまた瞎きたるはただ一人にして、彼に替わりて看し彼に替わりて走るは然るに二個人有り。この二個人はあに一個を少掉しうべからんや。ゆえに《象伝》はいう、「跛は能く履す。吉は相を以て承るなり」と。これにより知る、それらは皆媵妾なり。己に本事有りて然るに自己使用せず、本事なき人をしてあの份の名声を享受せしむれば、さらば九二は「幽人」ならずしてまた何ぞや。
六三:歸妹以須,反歸以娣。《象》曰:“歸妹以須”,未當也。古者謂賤妾為“須”,故天文有“須女”。六三不知其託行於初九,而自以為能履;不知其借明於九二,而自以為能視,是以棄娣而用,“須”未足以當“娣”也。失二娣之助,則以跛、眇見黜而歸矣,歸然後知用娣。故曰:“反歸以娣”。九四:歸妹愆期,遲歸有時。《象》曰:“愆期之志”,有待而行也。九四,六五之娣也。以為權在己,故愆期不行以要其君,君猶待之有時焉,而後歸。此其志以為吾君必有所待,而後能行者也。
六三の爻辞はいう、妹を歸するに須を以てす。歸りて娣を以てす、と。《象伝》はいう、「妹を歸するに須を以てす」は未だ當らざるなり、と。蘇軾はいう、古人は地位の低賤の妾を「須」と呼ぶ。ゆえに星象の裏に「須女」この個の星名有り。六三は己が初九に托庇してはじめて走り動きうるを明白せず、かえって自ら以て能く走ると為す。己が九二の眼力を借りてはじめて看見しうるを明白せず、かえって自ら以て能く看ると為す。よって媵妾を撇開して贱妾を改用す。然るに贱妾は根本に媵妾に抵えず。兩位の媵妾の幇襯を失えば、それは則ち跛腿を加えたる独眼の様子を以て夫家に遣退せられて娘家に回る。回來して後にはじめて非ずして媵妾を用ゐざれば可ならざるを懂得す。ゆえに「歸りて娣を以てす」という。九四の爻辞はいう、妹を歸するに期を愆り、歸るに遲れて時有り、と。《象伝》はいう、期を愆るの志は行有りて待つなり、と。蘇軾はいう、九四は六五の媵妾なり。それは自ら以て権柄を己の手裏に握ると為す。ゆえに故意に日期を誤りて動身せず、これに藉りて己の主人を要挾す。主人は然るに亦た自ら彼女を待つの時有りて、しかる後に出嫁す。これがすなわちその心思なり。認定するは我が主人は必ず我を待つを得て、しかる後に成行しうると。
六五:帝乙歸妹,其君之袂,不如其娣之袂良;月幾望,吉。《象》曰:“帝乙歸妹,不如其娣之袂良”也,其位在中,以貴行也。“歸妹”未有如六五之貴者也,故曰“帝乙歸妹”。以帝乙之妹而履得其中,則其袂之良否,不足以為損益。非若跛者之託行、眇者之借明也,而九四欲以袂之良而加之,夫袂之良,豈足以加其君哉!“月幾望”者,陰疑於陽,《易》之所惡也。然至於娣之慾加其君,則以“月幾望”為“吉”,以為寧月之幾望,而無寧娣之加其君也。
六五の爻辞はいう、帝乙は妹を歸す。其の袂は其の娣の袂の良なるに如かず。月は幾く望なり。吉、と。《象伝》はいう、「帝乙は妹を歸す。其の娣の袂の良なるに如かず」は其の位は中に在り、貴を以て行くなり、と。蘇軾はいう、《歸妹》の一卦の裏に六五より更に尊貴なるなし。ゆえに「帝乙は妹を歸す」という。商王帝乙の妹の身份を以て而もまた中位を占れば、さらば衣袖の漂亮か否かは、根本に彼女に損益なし。これは跛子が人に托りて歩を代し、独眼が人に借りて眼力を得ると完全不同なり。然るに九四は偏に衣袖の華美を拿りて彼女を壓過せんと想う——衣袖の華美は、何処に己の主人を壓過せんや。いわゆる「月は幾く望なり」とは、陰気が陽に逼近して幾く陽と並列するなり。《周易》は向來こ種の局面を厭惡す。然るに一たび媵妾が主人を凌駕せんと欲するの事に碰上せば、かえって「月は幾く望なり」を以て吉と當てる。意は寧ろ月亮をして満盈に接近せしむるとも、媵妾をしてその主人を壓過せしむるならずと。
上六:女承筐,無實;士刲羊,無血。無攸利。《象》曰:上六“無實”,“承”虛“筐”也。“歸妹”男女皆易位,柔皆乘剛,此豈永終無敝者哉?上六則敝之所終也。天地之情,正大而已。大者不正,非其至情;其終必有名存實亡之禍。“女承筐,無實”,食不績之蠶也;“士刲羊,無血”,用已死之牲也;皆實亡之禍也。《象》曰:“歸妹,征凶,無攸利。”上六處其終,故受其凶之全也。
上六の爻辞はいう、女は筐を承えて実なし。士は羊を刲して血なし。利ならざるなし、と。《象伝》はいう、上六は実なし。空筐を承うるなり、と。蘇軾はいう、《歸妹》卦の裏は男女は皆位置を換え、柔爻は一概に剛爻の頭上に騎る。こ様の結合は何ぞ能く有始有終にして毫も弊病なからんや。上六は則ち弊病の終局なり。天地の間の真情は、無非「正」と「大」の二個の字のみ。大にして正ならざれば、則ち天地の真情にあらず。あ様に下去れば、最後は必ず有名無実の禍患の裏に落到せん。「女は筐を承えて実なし」とは、好比糸を吐かざる蚕を指望して以て人の衣食に供えんがごとし。「士は羊を刲して血なし」とは、好比已に死したる牲口を拿りて往きて祭祀するがごとし。皆徒らに其の名有りて実質は已に亡びたるの禍患なり。《象伝》は卦辞を引いていう、「歸妹、征せば凶。利ならざるなし」と。上六は正に最末の一位に処す。ゆえにあの份の凶険を整個兒として承受し下來す。
東坡易傳卷六
豐卦(第五十五)
震上,兌下。“豐”亨,王假之:勿憂,宜日中。《彖》曰:“豐”,大也;明以動,故“豐”。“王假之”,尚大也。“勿憂,宜日中”,宜照天下也。日中則昃,月盈則食;天地盈虛,與時消息,而況於人乎?況於鬼神乎?“豐”者,極盛之時也。天下既平,其勢必至於極盛,故曰“王假之,勿憂,宜日中”者。不憂其不至,而憂其已至也,宜日之中,而不宜其既中也。既盈而虧,天地鬼神之所不免也,而聖人何以處此?曰:“豐”者,至足之辭也。足則餘,餘則溢;聖人處之以不足,而安所求餘?故聖人無豐,豐非聖人之事也。
上卦は「震」、下卦は「兌」。卦辞はいう、豐は亨。王は之に假す。憂う勿れ。日中に宜し、と。《彖伝》はいう、豐は大なり。明にして動く。故に豐なり、と。「王は之に假す」は大を尚るなり。「憂う勿れ、日中に宜し」は以て天下を照すべきなり、と。然るに太陽は正午に到れば則ち偏西し、月亮は円満すれば則ち虧蝕す。天地の盈満と空虚とが尚ほ時節に随いて消長するに、いわんや人をや。いわんや鬼神をや。蘇軾はいう、《豐》は、極盛の時なり。天下は已に平定せり。形勢は必然として極盛に走向す。ゆえに卦辞ははじめて「王は之に假す。憂う勿れ。日中に宜し」という。この話はそれが極盛に到らざるを愁うにあらず。それが已に極盛に到りたるを愁うなり。太陽が正に中天に當るに宜しくして、然るに已に中天を過ぎたるに宜しからず。満れば則ち虧くるは、これは天地鬼神も皆免れえざるなり。さらば聖人は何を拿りて自処せんや。答えていう、「豐」は十足に充盈するの説法なり。十足なれば則ち多餘有り、多餘なれば則ち外に溢れ出す。聖人は始終己をして満足せざるの地位に処せしむ。何処に還って多餘を求めんや。ゆえに聖人のあそこには根本に「豐」なし。「豐」はもと聖人の分内の事にあらざるなり。
《象》曰:雷電皆至,“豐”,君子以折獄致刑。《傳》曰:“為刑罰、威獄,以類天之震曜”,故《易》至於“雷電相遇”,則必及弄獄,取其“明以動”也。至於“離”與“艮”相遇,則曰“無折獄”、“無留獄”,取其“明以止”也。初九:遇其配主,雖旬無咎,往有尚。《象》曰:“雖旬無咎”,過旬災也。凡人,智生於憂患而愚生於安佚。“豐”之患常在於暗,故爻皆以明暗為吉凶也。初九、六二、九三,三者皆“離”也,而有明德者也;九四、六五、上六,則所謂“豐”而暗者也。“離”,火也、日也,以下升上,其性也。以明發暗,其德也。故三“離”皆上適於“震”。
《象伝》はいう、雷電は皆至る。豐。君子は以て獄を折り刑を致す、と。蘇軾はいう、《左伝・昭公二十五年》に記する子産の話は、刑罰と威厳の牢獄を設立するは、上天の雷震電耀に比拟せんと要するなり。ゆえに《周易》はおよそ雷電の相合する卦象に遇えば、必ず斷獄に説及す。取るは「明有りて動く」の意思なり。「離」と「艮」と相遇の卦に至れば、則ち「獄を折る勿れ」「獄を留めざるべし」と説く。取るは「明有りて能く止まる」の意思なり。初九の爻辞はいう、其の配主に遇う。旬なりといえども咎なし。往けば尚有り、と。《象伝》はいう、「旬なりといえども咎なし」は旬を過れば災有るなり、と。蘇軾はいう、およそ人の智慧は憂患に生じ、愚昧は安逸に生ず。《豐》卦の禍患は常常に一個の「暗」の字の上に出づ。ゆえに各爻は皆明と暗とを拿りて吉凶を斷ず。初九・六二・九三のこの三爻は皆下卦の「離」に属し、光明の徳有るの一方なり。九四・六五・上六は、則ちいわゆる盛大にして昏暗の一方なり。「離」は火にして太陽なり。下より上に向かい升るはその本性にして、光明を用いて昏暗を照亮するはその徳性なり。ゆえに下卦の三個の「離」爻は皆上に往きて上卦の「震」に投ず。
初九適四,其配之所在也;而九四非其配,故曰“配主”。“旬”之為言,猶曰“周浹”云爾。“尚”,配也,九四以陽居陰,不安於暗者也,方其患蔽而求發,則雖兩剛可以相受,故曰“往有尚”,言其與配同也。及其暗去而明全,“離”之功既周浹矣,則當去之。既浹而不去,則有相疑之災。九四之為人,可與共憂患而不可與同安樂者也。
蘇軾はいう、初九は上に往きて九四に就く。あれは正にその配偶の在る所の位置なり。然るに九四は本身に並にその正配にあらず。ゆえにただ「配主」と称作す。「旬」この個の字は、等しく「周遍浹洽」を説くなり。「尚」とは、則ち匹配なり。九四は陽爻を以て陰位に居り、昏暗の裏に待在するに甘心せざるなり。正にそれが蒙蔽せらるるに苦しみて人の點亮するを求むる時に當れば、たとい二個とも剛爻なるも能く彼此接納す。ゆえに「往けば尚有り」という。意はそれの受くる待遇は正配と一樣なり。昏暗が除尽して光明が完満するに至れば、「離」の功效は已に周遍浹洽せり。則ち応に抽身して離去すべし。已に浹洽して然るに還って賴りて走らざれば、則ち彼此猜疑の災禍を招来せん。九四こ種の人は、之と共に患難するは可にして、之と共に安樂するは可ならず。
六二:豐其蔀,日中見斗,往得疑疾。有孚,發若,吉。《象》曰:“有孚發若”,信以發志也。九三:豐其沛,日中見沬,未折其右肱,無咎。《象》曰:“豐其沛”,不可大事也;“折其右肱”,終不可用也。“蔀”,覆也,蔽之全者也。“見斗”,暗之甚也。“沛”,旆也,蔽之不全者也。“沬”,小明也,明暗雜者也。六五之謂“蔀”,上六之謂“沛”,何也?二者皆陰也,而六五處中,居暗以求明;上六處高,強明以自用。六二之適五也,適於全蔽而甚暗者也。夫蔽全,則患蔽也深;暗甚,則求明也力。六五之暗,不發則已,發之則明矣。故曰:“往得疑疾,有孚,發若,吉。”以陰適陰,其始未有不疑者也,六二雖陰,而所以為“離”,明之所自出也,故始疑而終信也。
六二の爻辞はいう、其の蔀を豐なりして、日中に斗を見る。往けば疑疾を得。孚有りて若を發すれば吉、と。《象伝》はいう、「孚有りて若を發す」は以て志を信ずなり、と。九三の爻辞はいう、其の沛を豐なりして、日中に沬を見る。其の右肱を折る。咎なし、と。《象伝》はいう、「其の沛を豐なりする」は大事すべからざるなり。「其の右肱を折る」は終に用うべからざるなり、と。蘇軾はいう、「蔀」は遮蓋にして、指すは遮ること厳厳実実なり。「斗を見る」は、昏暗すること極処に至るなり。「沛」はすなわち旆、すなわち旗幔にして、指すは遮ること並に厳実ならざるなり。「沬」は微弱の光にして、指すは明暗の攙雑するなり。何を以て六五を「蔀」といい上六を「沛」というや。両者は皆陰爻なれども、然るに六五は身に中位に居りて、昏暗に甘処して光明を求む。上六は身に高位に居りて、勉强に明を逞して剛愎自用す。六二は上に就りて六五に往く。これはあの最も厳く遮り最も深く暗なる一方に投奔に往くなり。遮ること厳実なれば、蔽せらるるに苦しむも亦た更に深し。暗なること甚しければ、光明を求むるも亦た更に迫切す。六五のあの份の昏暗は、啓発せざれば則ち罷む。一たび啓発を経れば便ち能く光明す。ゆえに爻辞はいう、「往けば疑疾を得。孚有りて若を發すれば吉」と。陰爻を以て陰爻に就くに往けば、開頭は猜疑せざるなし。六二はたとい陰爻なるも、然るに「離」の明を構成するの關鍵にして、光明は正にそれより出づ。ゆえに起初は猜疑して終に相信に帰す。
若夫九三之適上六,則適於明暗雜者也;用人則不能,自用則不足,故不可以大事也。君子不畏其蔽,而畏其雜,以為無時而可發也,為之用乎則不可,不為之用乎則不敢,故折其右肱,以示必不可用而後免也。九四:豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。《象》曰:“豐其蔀”,位不當也;“日中見斗”,幽不明也;“遇其夷主”,吉行也。“夷”,等夷也。初九之謂夷主,不得其配而得其類也。“幽不明”者,以言其暗之甚,而不雜。“吉行”者,言初九之不可以久留也。六五:來章,有慶譽,吉。《象》曰:六五之“吉”,有慶也。六五以陰居陽,有“章”者也;而能來六二之明,故曰“來章”。借明於人而譽歸於己,君子予之。
九三が往きて上六に就くに至れば、あれは一個の明暗攙雑の対象に投奔するなり。それをして別人の才智を用いしめんと要せば、それは做不到す。それをして自ら主意を拿らしめんと要せば、才具はまた足らず。ゆえに大事を辦りえず。君子は相手の蒙蔽する厳実なるを怕れず、ただそれが明暗攙雑するを怕る。あの種の人は永遠に點醒すべきの時候なければなり。彼に替わりて效力して辦り到らず、彼に替わりて效力せざるも又た敢えてせず。ゆえに寧ろ自ら右臂を折りて、根本に任用に堪えざるの様子を摆出して、しかる後に脱身し得たり。九四の爻辞はいう、其の蔀を豐なりして、日中に斗を見る。其の夷主に遇う。吉、と。《象伝》はいう、「其の蔀を豐なりする」は位當らざるなり。「日中に斗を見る」は幽明ならざるなり。「其の夷主に遇う」は吉行なり、と。蘇軾はいう、「夷」は則ち同等・同輩なり。初九は便ちここに説く所の「夷主」にして、九四は己の正配に遇上しえざるに、然るに同類に遇上したり。いわゆる「幽明ならず」とは、それが暗なること甚しきを説くに、然るに並に攙雑せず。いわゆる「吉行」とは、初九が久しく留まるべからざるを説くなり。六五の爻辞はいう、章を來し、慶譽有り。吉、と。《象伝》はいう、五の吉は慶有るなり、と。蘇軾はいう、六五は陰爻を以て陽位に居り。本身は文採有るなり。而もまた能く六二の光明を招来して己の用と為す。ゆえに「章を來し」という。別人に向かい光を借りて声誉は己に帰するは、君子はこ種の做法を許可す。
上六:豐其屋,蔀其家,窺其戶,闃其無人,三歲不覿,凶。《象》曰:“豐其屋”,天際翔也;“窺其戶,闃其無人”,自藏也。上六翔於天際,自以為明之至也;而其暗則足以蔽其身而已,故曰“豐其屋,蔀其家”。九三自折其右肱而莫為之用,豈真無人哉!畏我而自藏也。“三歲不靚”,其自以為明者窮矣,故“凶”。
上六の爻辞はいう、其の屋を豐なりし、其の家を蔀し、其の戸を窺えば闃として其の人なし。三歲して覿えず。凶、と。《象伝》はいう、「其の屋を豐なりする」は天際に翔るなり。「其の戸を窺えば闃として其の人なし」は自ら藏るるなり、と。蘇軾はいう、上六は天際に翱翔して、自ら以て明察すること極処に到れりと為す。其の実その份の昏暗は、亦不過足りて己の一身を遮るのみ。ゆえに「其の屋を豐なりし、其の家を蔀す」という。九三は寧ろ自ら右臂を折りても肯んじてそれに替わりて力を出さず。家の裏はあに真に人なからんや。衆人がそれを畏懼して自ら躲蔵したるなり。「三歲して覿えず」は、それがあの点の自ら是と為すの聡明は已に尽頭に走到したるを説明す。ゆえに「凶」。
旅卦(第五十六)
離上,艮下。“旅”:小亨,旅貞吉。《彖》曰:“旅,小亨”,柔得中乎,外而順乎剛;止而麗乎明;是以“小亨,旅貞吉”也。旅之時義大矣哉!“旅”,六二、六五二陰據用事之地,而九三、九四、上九三陽寓於其間,所以為“旅”也。小者為主,而大者為旅。為主者以得中,而順乎剛為亨,故曰“小亨”;為旅者以居貞,而不取為吉,故曰“旅貞吉”。“止而麗乎明”,則居貞而不取之謂也;“貞吉”者指三陽,非二陰為主者之事也,故特曰“旅貞吉”。
上卦は「離」、下卦は「艮」。卦辞はいう、旅は小亨。旅は貞なれば吉、と。《彖伝》はいう、「旅、小亨」は柔は中を外に得て剛に順う。止まりて明に麗る。以て小亨、旅は貞なれば吉なり、と。旅の時義大なるかな。蘇軾はいう、《旅》卦の裏は、六二・六五の二個の陰爻が当権辦事の位置を占住し、九三・九四・上九の三個の陽爻がそれらの中間に寄居す。これがすなわち「旅」と称する所以の緑故なり。陰柔の小なる者が主人を做りて、陽剛の大なる者はかえって客旅と成る。主人を做るは居中にしてまた剛爻に順從するに由りて亨通す。ゆえに「小亨」という。客旅を做るは安分して正を守りて攫取に往かざるに由りて吉利す。ゆえに「旅は貞なれば吉」という。「止まりて明に麗る」は、講ずるは正に安分して正を守りて攫取に往かざるなり。「貞吉」の二個の字の指すは三個の陽爻にして、並に二個の主人を做る陰爻の事にあらず。ゆえに特意に「旅は貞なれば吉」と説く。
《象》曰:山上有火,“旅”,君子以明慎用刑,而不留獄。初六:旅瑣瑣,斯其所取災。《象》曰:“旅瑣瑣”,志窮災也。“羈旅”之世,物無正主,近則相依。自六二至上九,皆陰陽相鄰,而初獨孑然處六二之下,其細已甚,故曰“旅瑣瑣”也。斯,隸也;六二近於九三,三之所取也;初六窮而無依,隸於六二,役於九三。三“焚”二次,並以及初,故曰“斯其所取災”也。
《象伝》はいう、山の上に火あり。旅。君子は以て明慎に刑を用い獄を留めず、と。初六の爻辞はいう、旅は瑣瑣たり。其の災を取る斯なり、と。《象伝》はいう、「旅は瑣瑣たり」は志窮にして災なり、と。蘇軾はいう、羈旅寄居の世道の裏は、万物に一定の主人なし。誰か挨り近きは則ち誰を依靠す。六二より一直に上九に到るまで、皆陰陽は彼此相鄰す。ただ初六のみ孤零零として六二の下面に待在し、処境は細微の極処に至る。ゆえに「旅は瑣瑣たり」という。「斯」は隷属の意思なり。六二は九三に挨るにして、九三の攫取せんと要する対象なり。初六は走投無路にしてまた依托する所なし。已むを得ず六二に隷属して、九三の役使に供う。九三は六二この座の旅舎を燒掉して、連帯して初六に殃及す。ゆえに「其の災を取る斯なり」という。
六二:旅即次,懷其資,得童僕,貞。《象》曰:“得童僕,貞”,終無尤也。六二,九三之所即以為次也。因三之資以隸初六,故曰“得童僕,貞”。初六雖四之應,而四為三所隔,終“無尤”之者也。九三:旅焚其次,喪其童僕,貞厲。《象》曰:“旅焚其次”,亦以傷矣;以旅與下,其義喪也。“下”,初六也。六二,我之次也。而初隸於二,懷二而並有之,則初亦我之童僕矣。九三以剛居上,見得而忘義,焚二以取初,則一舉而兩失之矣。
六二の爻辞はいう、旅は即ち次に就き、其の資を懷き、童仆の貞を得、と。《象伝》はいう、「童仆の貞を得」は終に尤なきなり、と。蘇軾はいう、六二は正に九三が就近に住下して客舎と當てるあの一爻なり。それは九三の資財を憑借して初六を收りて属下と作る。ゆえに「童仆の貞を得」という。初六はたとい九四と正応なるも、然るに九四は九三に隔開せられたり。ゆえに終に人の來りてそれを怪罪するなし。九三の爻辞はいう、旅は其の次を焚き、其の童仆を喪う。貞なりとも厲、と。《象伝》はいう、「旅は其の次を焚く」は亦た傷なり。旅を以て下と與せば、其の義は喪えるなり、と。蘇軾はいう、ここの「下」は初六を指す。六二は我が九三の住る所の客舎にして、而も初六はまた六二に隷属す。我はただ六二を懐柔すれば、則ち初六を連れて一幷に擁有す。さらば初六も亦た則ち我が童仆なり。九三は剛爻を以て上位に居り、好处を見れば則ち義理を忘る。六二を燒掉して往きて初六を搶奪す。結果は一擧にして両頭皆落空す。
九四:旅于處,得其資斧,我心不快。《象》曰:“旅于處”,未得位也。“得其資斧”,心未快也。“資斧”,所以除荊棘、治次舍也。九四剛而失位,所乘者九三,有資斧而無地者也,故處而“心不快”。六五:射雉一矢,亡;終以譽命。《象》曰:“終以譽命”,上逮也。居二陽之間,可以德懷,不可以力取。如以一矢射兩雉,理無兼獲。得四則失上矣,若不志於取,亡矢而不射,則夫二陽者皆可以其功譽而爵命之,非獨得四可以及上也。
九四の爻辞はいう、旅は処に於り、其の資斧を得。我が心は快からず、と。《象伝》はいう、「旅は処に於り」は未だ位を得ざるなり。「其の資斧を得」は心未だ快からざるなり、と。蘇軾はいう、いわゆる「資斧」とは、以て荆棘を砍除し客舎を修治するの傢伙なり。九四は剛爻にして然るに正位を失い、脚下に踩るはまた九三なり。等しく工具是有りて然るに一塊の己の地なし。ゆえにただ凑合して安身して「心は快からず」。六五の爻辞はいう、雉を射れば一矢は亡ぶ。終に誉命を以てす、と。《象伝》はいう、「終に誉命を以てす」は上逮なり、と。蘇軾はいう、六五は九四・上九の二個の陽爻の中間に夾りて、ただ徳行を用いて感召しうるにして、力気を用いて奪取すべからず。好比一支の箭を用いて二匹の野鶏を射るがごとし。理に按ずれば兼得すべからず。九四を得れば則ち上九を失掉す。たといもと攫取するの意なきにして、寧ろこの支の箭を丟掉して発射せざれば、さらばこの二個の陽爻は皆その功徳声望に由りて之を推戴し之に爵命を給う。則ち不止九四を得るのみ、上九を連れても一幷に感通す。
上九:鳥焚其巢,旅人先笑後號咷。喪牛于易,凶。《象》曰:以旅在上,其義焚也。“喪牛于易”,終莫之聞也。九三次於六二之上,上九“巢”於六五之上,皆以剛臨柔。六二、六五皆無應,而在我下,其勢必與我。上九、九三知其無應而必我與也,故易而取之。九三“焚其次”,上九“焚其巢”,其為不義一也。而三止於“貞厲”,上至於“號咷”之凶者,六五旅之主也。“離”之《象》曰:“畜牝牛,吉。”六五之謂牛矣,易五以喪牛,終莫之聞者,驕亢之罪也。
上九の爻辞はいう、鳥は其の巢を焚く。旅人は先ず笑い後に號咷す。牛を易に喪う。凶、と。《象伝》はいう、旅を以て上に在るは其の義は焚かるるなり。「牛を易に喪う」は終に聞く莫きなり、と。蘇軾はいう、九三は客舎を六二の上に安在せしめ、上九は巢を六五の上に築る。皆剛爻を以て柔爻に凌駕す。六二と六五とは皆正応なしにして、また皆我の下方に処す。形勢上必然として我に帰附せん。上九と九三とは它らの依応なくして必ず己に帰附するを看准して、則ち軽慢にして前に攫取す。九三は「其の次を焚き」、上九は「其の巢を焚く」。両者の不義は一樣なり。然るに九三は不過一個の「貞なりとも厲」に落ち、上九は然るに號咷大哭の凶険に落到す。あれは六五が整個の《旅》卦の主人なるに由る。《離》卦の《象伝》はいう、「牝牛を畜えば吉」と。六五は則ちあの頭の牛なり。六五を軽慢して因りて牛を失掉す。事は臨頭に到りて竟として一人も來りて通報するなし。これは驕横自大の招く所の罪なり。
巽卦(第五十七)
巽上,巽下。“巽”:小亨,利有攸往,利見大人。《彖》曰:重巽以申命。君子和而不同,以“巽”繼“巽”,小人之道也。無施而可,故用於申命而已。剛“巽”乎中正而志行,柔皆順乎剛,是以“小亨,利有攸往,利見大人。”所以為“巽”者,初與四也。二五雖據用事之地,而權不在焉,故曰“剛‘巽’乎中正而志行”,言必用初與四而後得志也。權雖在初與四,而非用事之地,故曰:“柔皆順乎剛,是以小亨,”言必順二五而後亨也。“利有攸往”,為二、五用也;“利見大人”,見九五也。有其權而無其位,非九五之大人,孰能容之?
上卦は「巽」、下卦も亦た「巽」。卦辞はいう、巽は小亨。往くところ有るに利あり。大人を見るに利あり、と。《彖伝》はいう、巽を重ねて以て命を申す、と。蘇軾はいう、君子は和諧を講究して苟同せず。一味に順從を以て順從に接ぐるは、あれは小人の路数にして、何処に用うるも合適ならず。ゆえに已むを得ず反復申明の政令の上に用うるのみ。《彖伝》は又たいう、剛は中正に巽りて志行す。柔は皆剛に順う。以て小亨、往くところ有るに利あり、大人を見るに利あり、と。蘇軾はいう、この一卦をして其れ「巽」と成らしむるは、初六と六四の二個の柔爻なり。九二と九五とはたとい当権辦事の位置を占るも、実権は然るに它らの手上に在らず。ゆえに「剛は中正に巽りて志行す」という。意は必ず初六と六四とを任用して、しかる後に心志ははじめて實現しうるなり。実権はたとい初六・六四の手裏に握るも、然るに它らは並に辦事の位置を占らず。ゆえに「柔は皆剛に順う、以て小亨」という。意は必ず九二・九五に順從して、しかる後にはじめて亨通しうるなり。「往くところ有るに利あり」は、九二・九五に任用せらるるを説くなり。「大人を見るに利あり」は、九五を見るを説くなり。手裏に権柄を握りて然るに相应の名位なきは、九五こ様の大人に非ざれば、誰かそれを容れえんや。
《象》曰:隨風,“巽”,君子以申命行事。“申”,重也;兩風相因,是謂“隨風”,申命之象也。古之為令者,必反覆申明之,然後事必行。初六:進退,利武人之貞。《象》曰:“進退”,志疑也;“利武人之貞”,志治也。初六有其權而無其位,九二、九三之所病,故疑而進退也。小人而權在焉,則《易》謂之武人;武人負其力而不貞於君,志亂也;及其治也,則以貞於其君為利。
《象伝》はいう、風に随くは巽。君子は以て命を申して事を行う、と。蘇軾はいう、「申」は則ち重復なり。兩股の風が前後相接するを「風に随く」と呼ぶ。正に反復申令の象なり。古の時の號令を發布する人は、必ず反反復復として説明白にして、しかる後に事ははじめて辦り成るを得。初六の爻辞はいう、進退す。武人の貞に利あり、と。《象伝》はいう、「進退」は志は疑なり。「武人の貞に利あり」は志は治まれるなり、と。蘇軾はいう、初六は手裏に権柄有りて然るに名位なし。正に九二・九三の忌恨する所なり。ゆえにその心は疑慮有りて進退両難なり。小人にして権柄を握有するを、《周易》は則ち之を「武人」と称す。武人が己の力量を倚仗して肯んじて君主に忠せざるは、あれは心志の錯乱なり。心志が整治を得るに至れば、則ち君主に忠するを以て有利と為さん。
九二:巽在床下,用史、巫紛若,吉,無咎。《象》曰:“紛若”之“吉”,得中也。九二以陽居陰,能下人者也。知權在初六,故“巽”於床下,下之而求用也。初六,武人也;方且進退,我則下之而求其用,故求者紛然,而用者不力。譬之用史、巫,將以求福於神,神之降福未可知,而史、巫先享其利也。故“吉”而後“無咎”。紛然而求人者,非吉之道也,其所以吉者,居得其中,用事之地也。
九二の爻辞はいう、床下に巽る。史巫を用いて紛若たり。吉、咎なし、と。《象伝》はいう、「紛若」の吉は中を得るなり、と。蘇軾はいう、九二は陽爻を以て陰位に居り。肯んじて人の下に屈居するなり。それは実権が初六の手裏に在るを知る。ゆえに謙卑にして床下に伏し至るに、身段を放低して往きてその力を出すを求む。初六は一個の「武人」にして、正にあそこに在りて進退猶疑す。我は身段を放低してその力を出すを求めば、ここにおいて求告の一方は忙忙碌碌にして、被求の一方は然るに並に尽力せず。これは好比史巫を任用するがごとし。もと神靈に向かい福を求めんと欲するに、神靈の福を降さるか否かは還って知らず。史巫は然るに倒れて先ず実恵を得たり。ゆえに先ず「吉」にして後にはじめて「咎なし」。紛紛擾擾として人を求むるは、もと吉を致すの道にあらず。その還って能く吉なる所以は、身に中位に居りて当権辦事の処を占るるに由る。
九三:頻巽,吝。《象》曰:“頻巽”之“吝”,志窮也。九三以陽居陽,而非用事之地也。知權之在初六也,下之則心不服,制之則力不能,故頻蹙以待之。“復”之六三不能止初九之為“復”也,故“頻復”;“巽”之九三不能止初六之為“巽”也,故“頻巽”。六四:悔亡,田獲三品。《象》曰:“田獲三品”,有功也。六四,有其權而無其位者,與初六均也,蓋亦居可疑之地矣。而有九五以為之主,坦然以正待之,故“悔亡”。九五不求,而六四自求用,故其用也力。譬之於田:田者盡力以獲禽,而利歸於君。“一為乾豆,二為賓客,三為充者之庖。”君子不勞而“獲三品”,其與史巫之功亦遠矣。
九三の爻辞はいう、巽を頻す。吝、と。《象伝》はいう、「巽を頻す」の吝は志窮なり、と。蘇軾はいう、九三は陽爻を以て陽位に居るも、然るに当権辦事の位置上に在らず。それは実権が初六の手裏に落るるを知る。身段を放下せんと要せば、心裏は服せず。それを壓制せんと要せば、力量はまた足らず。ゆえにただ眉頭を皺えて對付するのみ。《復》卦の六三は初九のあの真の「復」を管住しえず。ゆえにただ「復を頻す」。《巽》卦の九三は初六のあの真の「巽」を管住しえず。ゆえにただ「巽を頻す」。六四の爻辞はいう、悔亡ぶ。田に三品を獲たり、と。《象伝》はいう、「田に三品を獲たり」は功有るなり、と。蘇軾はいう、六四も亦た権柄有りて名位なきの一爻にして、初六と一樣なり。同樣に容易に疑を招く地位に処す。然るにその上面に九五有りて主を做り、坦坦蕩蕩として正道を以て之を待す。ゆえに「悔亡」。九五は並に來りてそれを求めず。六四はかえって主動して用いらるるを求む。ゆえに力を出すこと格外に賣勁す。これは好比田獵するがごとし。打獵の人は拼力して禽獣を捕獲するに、好处は然るに君主に帰す。《穀梁伝・桓公四年》はいう、獵獲の第一等は干肉を做成して祭祀に供え、第二等は以て賓客を款待し、第三等は君主の厨房を充實すと。君子は必ずしも親身勞苦せずして「三品を獲たり」。これは史巫のあの点の功労に比ぶれば、相差は則ち遠し。
九五:貞吉,悔亡,無不利。無初有終。先庚三日,後庚三日,吉。《象》曰:九五之吉,位正中也。九五履中正之位,進不頻蹙以忌四,退不過“巽”以下之,蓋貞而已矣。此四所以心服而為之用也,是以“吉”且“悔亡”而“無不利”。“無不利”者,四與五皆利也。九五之德如此,故有“後庚”之終“吉”。
九五の爻辞はいう、貞なれば吉、悔亡ぶ。利ならざるなし。初めなし、終り有り。庚に先だつ三日、庚に後る三日。吉、と。《象伝》はいう、五の吉は位は中正なり、と。蘇軾はいう、九五は中正の位の上に踏在せり。往前すれば九三のごとく眉頭を皺えて六四を猜忌せず、往後すれば亦た九二のごとく過分に謙卑して之を討好に往かず。無非正を守るのみ。これが正に六四の心説誠服して甘愿としてそれに效力する所以の緑故なり。よって既に「吉」にしてまた「悔亡」、而且も「利ならざるなし」。いわゆる「利ならざるなし」とは、六四と九五の双方が皆利を得るを説くなり。九五の徳行がこの地步に到れば、ゆえにはじめて庚日の後に終に吉利に帰するの結局有り。
上九:巽在床下,喪其資斧,貞凶。《象》曰:“巽在床下”,上窮也;“喪其資斧”,正乎凶也。九二以陽居陰,上九處“巽”之極,故皆“巽”於床下。而上九陽亢於上,非能下人者也;九二之“巽”,將以用初六;而上九之“巽”,將以圖六四也,有用斧之意焉,特以處於無位之地,故喪其斧也。以上下言之則“正”,以勢言之則“凶”。
上九の爻辞はいう、床下に巽る。其の資斧を喪う。貞なりとも凶、と。《象伝》はいう、「床下に巽る」は上窮なり。「其の資斧を喪う」は正乎凶なり、と。蘇軾はいう、九二は陽爻を以て陰位に居り、上九は「巽」卦の頂点に処す。ゆえに両爻は皆「床下に巽る」という。然るに上九は陽剛高亢にして上に在り。もと人の下に甘居する人にあらず。九二の謙卑は、初六を任用せんと想うなり。上九の謙卑は、然るに六四を算計せんと欲するにして、裏に斧頭を動かすの心思を藏る。ただそれが位なく権なきの処に処するに由りて、斧子はかえって丟れたり。上下の名分に就りて説けば、それがこう做るは「正」と算う。実際の形勢に就りて説けば、あれは則ち「凶」なり。
兌卦(第五十八)
兌上,兌下。“兌”,亨,利貞。《彖》曰:“兌”,說也。剛中而柔外,說以利貞。是以順乎天而應乎人。說以先民,民忘其勞;說以犯難,民忘其死;說之大,民勸矣哉!小惠不足以勸民。《象》曰:麗澤,“兌”;君子以朋友講習。取其“樂而不流”者也。初九:和兌,吉。《象》曰:“和兌”之“吉”,行未疑也。九二:孚兌,吉;悔亡。《象》曰:“孚兌”之吉,信志也。和而不同,謂之“和兌”;信於其類,謂之“孚兌”。六三小人,而初九、九二君子也;君子之說於小人,將以有所濟,非以為利也。初九以遠之,而無嫌至九二,則初九疑之矣,故必有以自信於初九者,而後“悔亡”。文予而實不予,所以信於初九也。
上卦は「兌」、下卦も亦た「兌」。卦辞はいう、兌は亨。貞に利あり、と。《彖伝》はいう、兌は説なり。剛中にして柔外、説に以利貞。以て天に順い人に應ずなり、と。説びを以て民に先んずれば民は其の勞を忘れ、説びを以て難を犯せば民は其の死を忘る。説びの大は民をして勸めしむるなり、と。蘇軾はいう、小恩小恵は足りて百姓を勸勉するに足らず。《象伝》はいう、沢は相麗す。兌。君子は以て朋友と習を講ず、と。蘇軾はいう、取るは《礼記・楽記》の説く所の「楽しみて流れざる」の意思なり。初九の爻辞はいう、兌を和す。吉、と。《象伝》はいう、「兌を和す」の吉は行未だ疑ならざるなり、と。九二の爻辞はいう、兌を孚す。吉、悔亡ぶ、と。《象伝》はいう、「兌を孚す」の吉は志を信ずなり、と。蘇軾はいう、和諧して苟同せざるを「兌を和す」と呼び、同類に對して信用を講ずるを「兌を孚す」と呼ぶ。六三は小人にして、初九・九二は君子なり。君子が小人に對して和顔悦色するは、これに藉りて成全有らんと欲するにして、並に好处を撈うがためならず。初九は六三より離るる遠し。ゆえに嫌疑を招かず。九二に到れば、初九は則ちそれを疑心せんと要す。ゆえに九二は必ず初九に取信するの表現を拿出して、しかる後に「悔亡」たるを得。表面上は六三に敷衍して実際上は何をも給えざるは、これがすなわち九二が初九に取信するの弁法なり。
六三:來兌,凶。《象》曰:“來兌”之“凶”,位不當也。九四:商兌,未寧;介疾,有喜。《象》曰:九四之“喜”,有慶也。九五,“兌”之主也;上有上六,下有六三,皆其疾也。《傳》曰:“美疢不如惡石”。九四介於其間,以剛輔五,而議二陰者也,故曰:“商兌,未寧;介疾,有喜。”言疾去而後有喜也,疾去而後有喜,則《易》之所謂“慶”也。
六三の爻辞はいう、兌を來す。凶、と。《象伝》はいう、「兌を來す」の凶は位當らざるなり、と。九四の爻辞はいう、兌を商す。未だ寧ならず。疾を介せば喜有り、と。《象伝》はいう、四の喜は慶有るなり、と。蘇軾はいう、九五は《兌》卦の主人にして、その上面に上六有り、下面に六三有り。この二個の陰爻は皆その病なり。《左伝・襄公二十三年》に記する臧孫紇の話は、人をして受用せしむるの病痛は、かえって人を扎るの砭石の有益に如かずと。九四は中間に夾りて、剛爻を以て九五を輔佐し、それに替わりてこの二個の陰爻を掂量す。ゆえに「兌を商す。未だ寧ならず。疾を介せば喜有り」という。意は病根を除去して後にはじめて喜庆有り。病根を除去して後にはじめて喜庆有れば、あれが正に《周易》の裏の説く所の「慶」なり。
九五:孚于剝,有厲。《象》曰:“孚于剝”,位正當也。上六:引兌。《象》曰:“上六引兌”,未光也。六三、上六,皆“兌”之小人,以陰為質,以說為事者,均也。六三履非其位,而處於二陽之間,以求說為兌者,故曰“來兌”,言初與二不招而自來也,其心易知,其為害淺,故二陽皆“吉”,而六三“凶”。
九五の爻辞はいう、剥に孚す。厲有り、と。《象伝》はいう、「剥に孚す」は位は正當なり、と。上六の爻辞はいう、兌を引く、と。《象伝》はいう、上六の「兌を引く」は未だ光ならざるなり、と。蘇軾はいう、六三と上六とは皆《兌》卦の裏の小人にして、同樣に陰柔を以て本質と為し、同樣に別人を取悦するを以て正事と當てる。六三の処する位置は正當ならず、また二個の陽爻の中間に夾りて、討好を靠りて人の喜ぶを求む。ゆえに「兌を來す」という。意は初九・九二は並にそれを招かざるに、それは自ら凑上來りたるなり。こ種の人の心思は看穿し易くして、造成する禍害も亦た淺し。ゆえに二個の陽爻は皆吉にして、而も六三は自ら凶なり。
上六超然於外,不累於物,此小人之託於無求以為“兌”者也,故曰“引兌”,言九五引之而後至也,其心難知,其為害深。故九五“孚于剝”,“剝”者,五陰而消一陽也。上六之害,何至於此?曰:九五以正當之位,而孚於難知之小人,其至於“剝”,豈足怪哉!雖然,其心蓋不知而賢之,非說其小人之實也,使知其實,則去之矣。故有“厲”而不凶。然則上六之所以不光,何也?曰:難進者,君子之事也;使上六引而不兌,則其道光矣。
上六は然るに超然として局外に置身し、外物に牽累せられず。これは小人が一副の無所求の姿態を假托して以て人を取悦するなり。ゆえに「兌を引く」という。意は九五が往きてそれを牽引するを待ちて、それははじめて肯んじて來るなり。こ種の人の心思は看穿し難くして、造成する禍害も亦た深し。ゆえに九五は一個の「剥に孚す」に落ちる——いわゆる「剥」とは、五個の陰爻が一個の陽爻を消蝕し掉るの卦なり。上六の一人の禍害は、何ぞ嚴重してあの地步に到らんや。答えていう、九五は中正當位の身份を憑るるに、然るに往きて一個の心思の測り難き小人を信任す。最終は鬧りて《剥》卦のあの種の局面に到る。何の奇怪か有らん。話はたとい如此なれども、九五の心裏は其の実それを了解せずして誤りてそれを以て賢人と當てたるなり。並にその身上の小人のあの一面を喜ぶにあらず。假使実情を看淸せば、早く已にそれを撵走せり。ゆえにただ「厲有り」にして凶に至らず。さらば上六は何を以て「未だ光ならず」と説くや。答えていう、肯んじて軽易に上前せざるは、もと君子の做派なり。假使上六が人に牽引せられて始終諂媚取悦せざれば、それがこの条の路は則ち光明ならん。
渙卦(第五十九)
巽上,坎下。“渙”:亨,王假有廟,利涉大川,利貞。《彖》曰:“渙,亨”,剛來而不窮,柔得位乎外而上同,“王假有廟”,王乃在中也;“利涉大川”,乘木有功也。世之方治也,如大川安流而就下;及其亂也,潰溢四出而不可止。水非樂為此,蓋必有逆其性者,泛溢而不已。逆之者必哀,其性必復;水將自擇其所安而歸焉。古之善治者,未嘗與民爭;而聽其自擇,然後從而導之。
上卦は「巽」、下卦は「坎」。卦辞はいう、渙は亨。王は廟に假す。大川を渉るに利あり。貞に利あり、と。《彖伝》はいう、「渙、亨」は剛は來りて窮まらず。柔は位を外に得て上同なり、と。「王は廟に假す」は王は中に在るなり。「大川を渉るに利あり」は木に乘りて功有るなり、と。蘇軾はいう、世道が正に太平の時に當れば、則ち大河の安安穩穩として下流に向かい流るるがごとし。乱れ起來るを待てば、則ち決口漫溢して四処横流して止めえず。水は並にこ様を喜ぶにあらず。必ず何の東西か其の本性に逆る有りて、それははじめて泛濫して止まらざるなり。それに逆る東西は終に衰敗し、水の本性は終に回復す。水は自ら一個の安穏の去処を挑りて歸るべし。古の時の治理に善き者は、從來百姓と相争せず。百姓の自ら選択するに聽凭して、しかる後にこの勢頭に順いて引導す。
“渙”之為言,天下流離渙散而不安其居,此宜經營四方之不暇。而其《彖》曰“王假有廟”;其《象》曰“先王以亨於帝立廟”,何也?曰:犯難而爭民者,民之所疾也;處危而不偷者,眾之所恃也。先王居渙散之中,安然不爭,而自為長久之計;宗廟既立,亨帝之位定,而天下之心始有所繫矣。“剛來而不窮者”,九二也;“柔得位乎外而上同”者,六四也。“渙”之得民,惟是二者,此所以“亨”也;然猶未免乎“渙”。“王假有廟”,謂五也;王至於有廟,而後可以涉大川,於是“渙”始有所歸矣。有所歸而後有川,有川而後可涉,“乘木”,乘舟也。舟之所行,川之所在也。
「渙」この個の字は、説くは天下が流離失散して百姓が住居安穩せざるを言う。理に照れば応に四処奔走経営するに忙しくして及ばざるべし。然るに其の《彖伝》は偏に「王は廟に假す」と説き、《象伝》は又た「先王は帝に享して廟を立つ」と説く。これは何を以てするや。答えていう、危難を冒して人と百姓を争奪するは、正に百姓の痛恨する所なり。危局に身处して苟且敷衍せざるは、はじめて衆人の依靠する所なり。先王は渙散離乱の中に身处して、安安穩穩として民と争わず、而も天下に替わりて長久の打算を作す。宗廟は一たび建立し、天に祭るの位次が一たび定下せば、天下の人の心ははじめて牽係の処有らんと始す。《彖伝》の説く「剛は來りて窮まらず」は九二を指し、「柔は位を外に得て上同なり」は六四を指す。《渙》卦の民心を得うるは、全てこの両爻を靠る。これがすなわち其の「亨」たる所以の緑故なり。然るにたとい如此なるも、還って渙散の局面を脱出しえざりき。「王は廟に假す」の指すは九五なり。君王は宗廟に親臨するを做到して、しかる後にはじめて以て大河を渡越すべし。この時に到りて渙散の人心ははじめて帰宿有らんと始す。帰宿有りてしかる後にはじめて河有りと談じ得、河有りてしかる後にはじめて渡ると談じ得。「木に乘る」とは、則ち船に乘るなり。船の行駛する所は、正に河水の在る所の処なり。
《象》曰:風行水上,“渙”;先王以享于帝立廟。初六:用拯馬壯,吉。《象》曰:初六之“吉”,順也。九二在險中,得初六而安,故曰:“用拯馬壯,吉。”“明夷”之六二,有馬不以自乘,而以拯上六之傷;“渙”之初六,有馬不以自乘,而以拯九二之險。故《象》皆以為“順”,言其忠順之至也。九二:渙奔其機,悔亡。《象》曰:“渙奔其機”,得原也。得初六而安,是謂“機”也。
《象伝》はいう、風は水の上に行く。渙。先王は以て帝に享し廟を立つ、と。初六の爻辞はいう、拯うに馬を用いて壮なり。吉、と。《象伝》はいう、初六の吉は順なり、と。蘇軾はいう、九二は険難の中に陥りて、初六を得てはじめて安穏し下來る。ゆえに「拯うに馬を用いて壮なり。吉」という。《明夷》卦の六二は、好き馬有りて然るに拿り來りて己に騎せずして、而も拿りて往きて上九の造成したる傷害を救う。《渙》卦の初六は、好き馬有りても亦た拿り來りて己に騎せずして、而も拿りて往きて九二の陥れる所の険境を救う。ゆえに両処の《象伝》は皆それを「順」と称す。説くはそれが忠順すること極処に到れりと。九二の爻辞はいう、渙は其の机に奔り、悔亡ぶ、と。《象伝》はいう、「渙は其の机に奔る」は願を得るなり、と。蘇軾はいう、九二は初六を得てはじめて安穏す。初六は則ちここに説く所の「机」、すなわち憑几なり。
六三:渙其躬,無悔。《象》曰:“渙其躬”,志在外也。渙之世,民無常主。六三有應於上,志在外者也;而近於九二,二者必爭焉,故“渙其躬”,無所適從,惟有道者是予而後安。六四:渙其群,元吉;渙有丘,匪夷所思。《象》曰:“渙其群,元吉”,光大也。上九之有六三者,以應也;九五之有六四、九二之有初六者,以近也;皆有以群之。“渙”而至於群,天下始有可收之漸。其德大者,其所群也大;其德小者,其所群也小。小者合於大,大者合於一,是謂“渙其群”也。近五而得位,則四之所群者最大也,因君以得民,有民以自封殖,是謂“丘”也;“夷”、平也,民之蕩蕩焉,未有所適從者也。彼方不知其所從,而我則為丘以聚之,豈“夷”者之所思哉?民之所思,思夫有德而爭民者也。
六三の爻辞はいう、其の躬を渙す。悔なし、と。《象伝》はいう、「其の躬を渙す」は志は外に在るなり、と。蘇軾はいう、渙散離乱の世道の裏は、百姓に固定の主人なし。六三は上九と正応有りて、心志は外に向かう。然るにそれはまた九二に挨る。こ個の陽爻は必ず來りてそれを争わん。ゆえにそれは「其の躬を渙し」、一時に從う所なく、ただ己を道有るの一方に交與してしかる後に安定す。六四の爻辞はいう、其の群を渙す。元吉。渙にして丘有り。夷は思う所にあらざるなり、と。《象伝》はいう、「其の群を渙す。元吉」は光大なり、と。蘇軾はいう、上九が六三を擁有しうるは、靠るは正応なり。九五が六四を擁有し九二が初六を擁有しうるは、靠るは相鄰なり。それらは皆各自一個の群を結成せり。渙散して能く重新して群を聚め成すに到れば、天下ははじめて収拾すべきの苗头有らんと始す。徳行の大なる人は、聚め起すの群も大なり。徳行の小なる人は、聚め起すの群も小なり。小群は大群に併入し、大群は一統に帰す。これを則ち「其の群を渙す」と呼ぶ。六四は九五に靠近して而も正位に居る。ゆえに其の聚め起す所の群は最も大なり。君主を憑借して民心を得、民衆有りて自己壯大するは、これがすなわちいわゆる「丘」なり。「夷」は則ち平にして、指すは百姓が茫茫蕩蕩として還って帰宿なきの様子なり。それらは正に誰に帰向すべきを知らざるに、而も我は高丘を築起して彼らを聚攏し起來す。これはあにあの茫然平庸の輩の想得到るならんや。百姓の心裏の盼望する所は、正にあの種の徳行を憑りて人心を招徠するの人なり。
九五:渙汗,其大號;渙,王居無咎。《象》曰:“王居無咎”,正位也。“汗”,取其周浹而不反也。宗廟既立,亨帝之位定,而“大號”令出焉。其曰“渙,王居”,何也?《彖》曰:“王假有廟,王乃在中也。”渙然之中,不知其孰為臣、孰為主;至於有廟,而天下始知王之所在矣,故曰“渙,王居”,言“渙”之中有王居矣。
九五の爻辞はいう、渙は其の大号を汗す。渙、王は居りて咎なし、と。《象伝》はいう、「王は居りて咎なし」は正位なり、と。蘇軾はいう、「汗」を用いて比方するは、取るは汗が一たび發出せば則ち全身に周流して再び頭を回らざるの意思なり。宗廟は已に建立し、天に祭るの位次は已に確定せり。重大の號令は則ちここより發出せられたり。何を以て「渙、王は居りて」というや。《彖伝》はいう、「王は廟に假す。王は乃ち中に在るなり」と。一片の渙散の中は、人々は誰か臣か誰か主かを分辨しえず。宗廟有るを待ちて、天下ははじめて君王の何処に在るを知る。ゆえに「渙、王は居りて」という。意は渙散の中に已に君王の居所有るなり。
上九:渙其血,去逖出,無咎。《象》曰:“渙其血”,遠害也。上九求六三,必與九二爭而傷焉;“渙其血”,不爭也;九二“剛來而不窮”,不可與爭者也。雖不爭而處爭之地,猶未免也,故去而遠出,然後無咎。
上九の爻辞はいう、其の血を渙し去りて逖たり。咎なし、と。《象伝》はいう、「其の血を渙す」は害に遠ざかるなり、と。蘇軾はいう、上九が六三を欲せば、則ち必ず九三と相争わんと要して傷を受く。いわゆる「其の血を渙す」とは、則ち往きて争わざるなり。九二は「剛は來りて窮まらず」にして、もとそれに争い及ばざるなり。然るにたとい争わざるも、身子は還って争奪の地に站りて、依然として受累を免れ難し。ゆえに抽身して遠く走開くを要し、しかる後にはじめて過錯なからん。
節卦(第六十)
坎上,兌下。“節”,亨。苦節,不可貞。《彖》曰:“節,亨”,剛柔分而剛得中。“剛柔分”者,“兌”下而“坎”上也;“剛得中”者,謂二、五也。此所以為“節,亨”也。“苦節,不可貞”,其道窮也。謂六三也。說以行險,當位以節,中正以通。謂九二也。“兌”施“節”於“坎”,故曰“說以行險”。天地節而四時成。節以制度,不傷財,不害民。《象》曰:澤上有水,“節”;君子以制數度、議德行。“數度”者,其政事也;“德行”者,其教化也;皆所以為民物之“節”也。
上卦は「坎」、下卦は「兌」。卦辞はいう、節は亨。苦節は貞すべからず、と。《彖伝》はいう、「節、亨」は剛柔は分れて剛は中を得るなり、と。蘇軾はいう、いわゆる「剛柔分る」とは、「兌」は下に在り「坎」は上に在るなり。いわゆる「剛は中を得」とは、指すは九二と九五なり。これがすなわち其の「節、亨」たる所以の緑故なり。《彖伝》はいう、「苦節は貞すべからず」は其の道は窮まれるなり、と。蘇軾はいう、これは六三を指す。《彖伝》はいう、説びて以て険を行き、位に當りて以て節し、中正にして以て通ず、と。蘇軾はいう、これは九二を指す。下卦の「兌」は節制を上卦の「坎」に施加す。ゆえに「説びて以て険を行く」という。《彖伝》は又たいう、天地は節して四時は成る。節して制度を以てすれば、財を傷わず民を害せざるなり、と。《象伝》はいう、沢の上に水あり。節。君子は以て數度を制し徳行を議す、と。蘇軾はいう、いわゆる「數度」とは、指すは政令刑法なり。いわゆる「徳行」とは、指すは教化風俗なり。両者は皆用いて百姓と万物とに替わりて「節」を立下するに在るなり。
初九:不出戶庭,無咎。《象》曰:“不出戶庭”,知通塞也。九二:不出門庭,凶。《象》曰:“不出門庭,凶”;失時極也。“節”者,事之會也。君子見吉凶之幾,發而中其會,謂之“節”。《詩·東方未明》,刺無節也。其詩曰:“不能晨夜,不夙則莫。”言無節者不識事之會,或失則早,或失則莫也。
初九の爻辞はいう、戸庭を出でず。咎なし、と。《象伝》はいう、「戸庭を出でず」は通塞を知るなり、と。九二の爻辞はいう、門庭を出でず。凶、と。《象伝》はいう、「門庭を出でず。凶」は時を失うこと極なり、と。蘇軾はいう、いわゆる「節」とは、事の關節点なり。君子は吉凶の將に萌さんとするの苗头を見れば、一たび發動すれば恰好としてあの關節に切中す。これを則ち「節」と呼ぶ。《詩経・斉風・東方未明》の一篇は、諷刺するは正に節度なきなり。あの詩はいう、「晨夜すること能わず、夙ならざれば則ち莫なり」と。意は節度なき人は事の關節を認淸せずして、错るは太早きにあらずして則ち错るは太く遲きに在るなり。
“澤上有水,節”,以澤節水者也。虛則納之,滿則流之,其權在澤。初九、九二、六三,“澤”也,節人者也;六四、九五、上六,水也;節於人者也。節之於初九則太早,節之於六三則太莫,故九二者,施節之時、當發之會也。水之始至,澤當塞而不當通;既至,當通而不當塞。故初九以“不出戶庭”為“無咎”,言當塞也;九二以“不出門庭”為“凶”,言當通也。至是而不通,則失時而至於極,六三是也,是禍福之交、成敗之決也。故孔子曰:“君不密,則失臣;臣不密,則失身。幾事不密,則害成。”
「沢の上に水あり。節」は、沢を用いて水を節制するなり。沢は空けば則ち水を納入れ、満つれば則ち水を流出せしむ。主動権は沢のこの一辺に在り。初九・九二・六三は下卦に属して沢にして、別人を節制する一方なり。六四・九五・上六は上卦に属して水にして、別人に節制せらるる一方なり。初九に在りて手を動して節制すれば未免早く、六三を待ちてはじめて節制すれば又た太く遲し。ゆえに九二ははじめて節制を施行するの時候にして、正に發動すべきの關節なり。水は剛く來らんと要すれば、沢は応に堵住して放通すべからず。水は已に來れば、則ち応に放通して堵住すべからず。ゆえに初九は「戸庭を出でず」を以て「咎なし」と當てる。説くは此の時は応に堵すべきなり。九二は「門庭を出でず」を以て「凶」と當てる。説くは此の時は応に通ずべきなり。この時候に到りて還って放通せざれば、則ち時機を錯失すること極処に到るなり。六三は便ち如此にして、あれは正に禍と福とが交替し成と敗とが判定するの關口なり。ゆえに孔子は《周易・繋辞上》に説いて曰く、「君主が愼密ならざれば則ち臣子を失い、臣子が愼密ならざれば則ち性命を丟う。機密の事が愼密ならざれば事は則ち壞れん」と。
六三:不節若,則嗟若,無咎。《象》曰:“不節”之“嗟”,又誰咎也?諮嗟而節之,以為不可不節也。九二之節,節於未滿。節之者樂見,節者甘焉。六三之節,節於既溢;節之者嗟,見節者苦焉。若節者人之所不能堪,而人終莫之咎者,知六三之不得巳也。嗟者,不得已之見於外者也。六四:安節,亨。《象》曰:“安節”之“亨”,承上道也。六四承節於九五,在其上不在其身,故六四安焉。九五:甘節,吉;往有尚。《象》曰:“甘節”之“吉”,居位中也。畜而至於極,然後節之,其節也必爭。九二施節於不爭之中,此九五之所樂也,故曰“甘節”。樂則流,甘則壞;故以往適上六,陰陽相配、甘苦相濟為吉也。
六三の爻辞はいう、節せざれば則ち嗟す。咎なし、と。《象伝》はいう、「節せざる」の嗟は又た誰を咎めんや、と。蘇軾はいう、一辺に嗟嘆して一辺に還って節制するは、実在に節制せざるを得ざるに由る。九二の節制は、還って裝満せざるに趁りて手を動す。節制を施行する人はこの局面を看るを楽しみ、節制せらるる人も亦た甘心と覚ゆ。六三の節制は、已に漫り出すを待ちてはじめて手を動す。節制を施行する人はただ嗟嘆するのみにして、節制せらるる人も亦た苦しと覚ゆ。こ樣の節制はもと人の忍受し難き所なれども、然るに終に人の來りて之を責怪するなし。大家が六三の実在に已むを得ざるに出づるを知るに由る。いわゆる「嗟」とは、正にあの份の已むを得ざるが外に流露したる様子なり。六四の爻辞はいう、節を安んず。亨、と。《象伝》はいう、「節を安んずる」の亨は上道を承るなり、と。蘇軾はいう、六四は九五の節制を承受するにして、節制の権柄はその上頭に在りてその自身に在らず。ゆえに六四は能く安然として之に処す。九五の爻辞はいう、甘節は吉。往けば尚有り、と。《象伝》はいう、「甘節」の吉は位に居りて中を得るなり、と。蘇軾はいう、積蓄して極処に到りてしかる後に往きて節制すれば、あ樣の節制は必ず争執を引起す。九二は還って争執なきの時に節制を施行す。これが正に九五の楽見する所なり。ゆえに「甘節」と呼ぶ。然るに一味に快樂すれば則ち放縱し、一味に甘美なれば則ち敗壞す。ゆえに上に往きて上六に就くを要し、陰陽をして相配し甘苦をして相済わしめ、これはじめて吉と算う。
上六:苦節,貞凶;悔亡。《象》曰:“苦節貞凶”,其道窮也。《易》有“凶”而“無咎”者,“大過”之上六、“困”之九二是也;則未有“凶”而能“悔亡”者。亦如人之未有既死而病癒者也。上六“貞凶、悔亡”者,何也?“凶”者六三,“悔亡”者上六也。是以知“節”者在“坎”,而見“節”者之在“兌”也。六三施苦節於我,出於不得已則“無咎”,以是為正則凶矣,而我“悔亡”。
上六の爻辞はいう、苦節は貞なりとも凶。悔亡ぶ、と。《象伝》はいう、「苦節は貞なりとも凶」は其の道は窮まれるなり、と。蘇軾はいう、《周易》の裏に既に「凶」にして而もまた「咎なし」の有り。《大過》卦の上六、《困》卦の九二は則ち是れなり。然るに從來「凶」にして還って能く「悔亡」するはなし。好比人に死して後に病がかえって好くるの道理なきがごとし。さらば上六が「貞なりとも凶、悔亡ぶ」と説くは、ど樣の一回事なるや。「凶」なるは六三にして、「悔亡」するは上六なり。これに由りて知る、この「節」を身上に加えらるる一方は上卦の「坎」に在り、而も人をしてこの「節」を領教せしむる一方は下卦の「兌」に在る。六三が苦しみ堪えざるの節制を我が上六の身上に加うるに、もし確かに已むを得ざるに出づれば、それは還って「咎なし」と算う。然るにこの一套を以て常道と當てて固守し下去れば則ち凶なり。而も我が上六はかえってこれに由りて「悔亡ぶ」。
中孚卦(第六十一)
巽上,兌下。“中孚”,豚魚,吉。利涉大川,利貞。《彖》曰:“中孚”,柔在內而剛得中,說而“巽”,孚乃化邦也。“中孚”,信也。而謂之“中孚”者,如羽蟲之孚,有諸中而後能化也。羽蟲之孚也,必柔內而剛外,然則“頤”曷為不“中孚”也?曰:內無陽不生,故必柔內而剛外,且剛得中,然後為“中孚”也。剛得中則正,而一柔在內,則靜而久,此羽蟲之所以孚天之道也。君子法之,行之以“說”,輔之以“巽”,而民化矣。
上卦は「巽」、下卦は「兌」。卦辞はいう、中孚は豚魚は吉。大川を渉るに利あり。貞に利あり、と。《彖伝》はいう、中孚は柔は内に在りて剛は中を得。説びて巽なり。孚は乃ち邦を化すなり、と。蘇軾はいう、「中孚」は則ち誠信なり。「中孚」と呼ぶ所以は、取るは鳥類の卵を孵すの意思なり。裏面に先ず実実在在の東西有りて、しかる後に能く孵化して形と成る。鳥類の卵を孵すは、必ず裏柔にして外剛なり。さらば《頤》卦も亦た外剛内柔なり。何を以て「中孚」と呼ばざるや。答えていう、裏面に陽気なければ則ち生育しえず。ゆえに既に柔は内に在り剛は外に在るを要し、還って剛爻が中を得るを要して、しかる後にはじめて其れ「中孚」と成る。剛爻が中を得れば則ち端正にして、而も一分の柔が裏面に居れば、則ち能く安靜持久す。これが正に鳥類の天道に合して後代を孵育するの道理なり。君子はこれを效法して、和悦を用いて推行し謙順を用いて輔助すれば、百姓も亦た感化せらるるなり。
“豚魚,吉”,信及豚魚也。信之及民,容有偽;其及豚魚,不容有偽也。至於豚魚皆吉,則其信也至矣。“利涉大川”,乘木舟虛也。《易》至於“巽”在上而云“涉川”者,其言必及木。“益”之《彖》曰:“木道乃行。”“渙”之《彖》曰:“乘木有功。”“中孚”之《彖》曰“乘木舟虛”,以明此“巽”之功也。以“巽”行“兌”,乘天下之至順而行於人之所說,必無心者也。“舟虛”者,無心之謂也。
《彖伝》はいう、「豚魚は吉」は豚魚に信ずなり、と。蘇軾はいう、誠信を百姓に施及するは、還って幾分の仮装を容れ得。小猪と魚とに施及すれば、則ち一点の仮装も容れえず。小猪と魚とを連れても吉を得れば、さらばこの份の誠信は真に到家なり。《彖伝》はいう、「大川を渉るに利あり」は木舟の虚に乘るなり、と。蘇軾はいう、《周易》はおよそ「巽」が上卦に居りて「川を渉る」に講及するは、説法は必ず木に牽渉す。《益》卦の《彖伝》は「木道は乃ち行く」といい、《渙》卦の《彖伝》は「木に乘りて功有り」といい、《中孚》卦の《彖伝》は「木舟の虚に乘る」という。皆用いて「巽」の功效を点明するなり。「巽」の謙順を用いて「兌」の和悦を推動するは、等しく天下の最も順なる東西に乘りて、人人喜悦の処の上に行走するなり。あれは必ず一個の私心を存せざる人なり。いわゆる「舟虚」とは、説くは則ち私心を存せざるなり。
“中孚”以“利貞”,乃應乎天也。天道不容偽。《象》曰:澤上有風,“中孚”,君子以議獄緩死。化邦之時,不可以用刑。初九:虞,吉;有它不燕。《象》曰:“初九虞吉”,志未變也。“虞”,戒也,燕安也。六四,初九之應也;而近於五,為五所攣。所謂“它”也,六四不專於應,而有心於五,其色不安,此必變者也。初九及其未變,而戒之不輕往應,則遠於爭矣,故“吉”。
《彖伝》はいう、貞に利ありて以て天に應ずるなり、と。蘇軾はいう、天道は半点儿の虚假をも容れえざるなり。《象伝》はいう、沢の上に風あり。中孚。君子は以て獄を議し死を緩む、と。蘇軾はいう、正に邦国を感化する時に在りては、刑罰を濫用すべからず。初九の爻辞はいう、虞は吉。它あれば燕ならず、と。《象伝》はいう、「初九の虞は吉」は志未だ変ぜざるなり、と。蘇軾はいう、「虞」は戒備にして、「燕」は安寧なり。六四はもと初九の正応なり。然るにそれは九五に挨りて、九五に牽住せられたり。これがすなわち爻辞の説く所の「它」なり。六四が己の正応に對して専心せずして、かえって九五に對して心を動かし、臉色も亦た安穏ならざるは、これは必ず心を変えんとするなり。初九はそれが未だ変ぜざるに趁りて、先ず自ら警惕して、軽易に前去して之に応和せず。則ち争端を遠離したり。ゆえに「吉」。
九二:鶴鳴在陰,其子和之;我有好爵,吾與爾靡之。《象》曰:“其子和之”,中心原也。此“中孚”也,而爻未有能“中孚”者也。“中孚”者必正而一、靜而久,而初九、六四,六三、上九有應而相求,九五無應而求人者也,皆非所謂正而一、靜而久者也。惟九二以剛履柔,伏於二陰之下,端欲無求而物自應焉,故曰:“鳴鶴在陰,其子和之。”鶴鳴而子和者,天也;未有能使之者也。“我有好爵,吾與爾靡之”,有爵者,求我之辭也;彼求我、而我不求之之謂也。
九二の爻辞はいう、鶴は陰に鳴いて其子は之に和す。我に好爵有り、吾は爾と之を靡かん、と。《象伝》はいう、「其の子は之に和す」は中心の願なり、と。蘇軾はいう、この一卦は《中孚》と呼ばるるに、然るに六爻の裏に却って一爻も真に「中孚」を做到するなし。いわゆる「中孚」は、必ず端正専一・安靜持久せねばならず。而も初九と六四・六三と上九とは皆正応有りて因りて彼此相求め、九五は正応なきに然るに往きて人を求めんと要す。これらは皆端正専一・安靜持久と算上すべからず。ただ九二のみ陽剛を以て陰位の上に踏在し、二個の陰爻の底下に伏して、端端正正として一も求する所なく、外物は然るに自ら來りて之に應和す。ゆえに「鶴は陰に鳴いて其の子は之に和す」という。老鶴が一たび叫べば雛鳥は則ち和す。これは天然として如此にして、並に誰かそれらを駆使する有らず。「我に好爵有り、吾は爾と之を靡かん」は、これはあの爵禄を握有する人が來りて我を求めて説くの話なり。意は相手が來りて我を求むるにして、而も我は並に往きて相手を求めざるなり。
六三:得敵,或鼓或罷,或泣或歌。《象》曰:“或鼓或罷”,位不當也。六三履非其位,雖應在上九,而上九非下我者也。上不求三而三求之,求之必過五,五無應而寇我,故曰“得敵”也。得敵而躁,躁而失常,故“或鼓或罷,或泣或歌”也。六四:月幾望,馬匹亡,無咎。《象》曰:“馬匹亡”,絕類上也。初九以應而從我,九五以近而攣我,一陰而當二陽之求,盛之至也。故曰“月幾望”。“月幾望”者,非四之所任也,故必舍五而從初。如有二馬而亡其一,然後“無咎”,類五也。四與五皆“巽”也,故得稱“類”。
六三の爻辞はいう、敵を得て、或いは鼓し或いは罷め、或いは泣き或いは歌う、と。《象伝》はいう、「或いは鼓し或いは罷む」は位當らざるなり、と。蘇軾はいう、六三の処する位置は正當ならず。たとい上九と正応有るも、然るに上九は並に肯んじて我に屈就するにあらず。上九は來りて六三を求めず、六三は然るに往きてそれを求む。往きてそれを求めれば則ち必ず九五を越過するを得。九五は正応なく、便ち我を以て來犯の者と當てて對付す。ゆえに「敵を得」という。對頭に碰上すれば則ち心浮き気躁し、気躁すれば則ち常度を失う。ゆえに「或いは鼓し或いは罷め、或いは泣き或いは歌う」。六四の爻辞はいう、月は幾く望なり。馬は匹を亡う。咎なし、と。《象伝》はいう、「馬は匹を亡う」は類を絶ちて上るなり、と。蘇軾はいう、初九は正応たるに由りて我が六四に跟從し、九五は挨り近きに由りて我を牽住す。一個の陰爻が同時に二個の陽爻の求取に應付するは、興盛すること極処に到れりと謂うべし。ゆえに「月は幾く望なり」という。然るに「月は幾く望なり」のこの份の盛勢は六四の擔當し得起る所にあらず。ゆえに必ず九五を捨棄して初九に跟從せねばならず。好比もと二匹の馬有りて一匹を丟掉するがごとくして、しかる後にはじめて「咎なし」。丟掉したるは正に九五のこ一類なり。六四と九五とは同じく上卦の「巽」に属す。ゆえに能く「類」と称作すべし。
九五:有孚,攣如;無咎。《象》曰:“有孚攣如”,位正當也。“有孚”者,六四也。自五言之,則以得四為“無咎”,非應而求,從必攣而後固。特以其位當,是以“無咎”也。上九:翰音,登于天;貞凶。《象》曰:“翰音登于天”,何可長也!“翰音”,飛且鳴者也。凡羽蟲之飛且鳴者,其飛不長,雉雞之類是也。處外而居上,非“中孚”之道;飛而求顯、鳴而求信者也,故曰:“翰音,登于天”。九二在陰而子和,上九飛鳴而登天,其道蓋相反也;惟不下從陰得陽之正,故曰“貞凶”。
九五の爻辞はいう、孚有りて攣如たり。咎なし、と。《象伝》はいう、「孚有りて攣如たり」は位は正當なり、と。蘇軾はいう、ここの「孚有り」の対象は六四なり。九五のこの辺より説けば、六四を得れば則ち「咎なし」と算う。両者はもと正応にあらざるに九五は偏に往きてそれを求む。こ種の跟從の關係は非ずして牽挽し住めば牢固ならず。ただ九五の居する所の位次が正當なるに由るのみにして、ゆえにはじめて「咎なし」。上九の爻辞はいう、翰音は天に登る。貞なりとも凶、と。《象伝》はいう、「翰音は天に登る」は何ぞ長からんや、と。蘇軾はいう、「翰音」とは、一辺飛び一辺叫ぶの鳥なり。およそ飛びて還って叫ぶ禽鳥は皆飛ぶこと長遠ならず。野鶏家鶏の一類は則ち是れなり。上九は卦の外に処して而も最上に居り、「中孚」の道理に合せず。それは飛ぶを靠りて人の注目を求め、叫ぶを靠りて人の相信を求むるなり。ゆえに「翰音、天に登る」という。九二は陰爻の下に伏して雛鳥は自ら來りて應和し、上九は飛び叫びて直上して雲天に到る。両者の路数は正好として相反す。ただそれが肯んじて下りて來りて陰爻に跟從して以て陽剛の応有の正道を取得せざるに由るのみ。ゆえに「貞なりとも凶」という。
小過卦(第六十二)
震上,艮下。“小過”:亨,利貞。可小事,不可大事。飛鳥遺之音,不宜上,宜下大吉。《彖》曰:“小過”,小者過而亨也。陰自外入據用事之地,而囚陽於內,謂之“小過”。“小過”者,君弱而臣強之世也。“小者過而亨”,則大者失位而否矣。“過”以“利貞”,與時行也。《彖》之所謂“利貞”,則《象》之所謂過乎恭、儉與哀者,時當然也。
上卦は「震」、下卦は「艮」。卦辞はいう、小過は亨。貞に利あり。小事すべし。大事すべからず。飛鳥は之に音を遺す。上るに宜からず、下るに宜し。大吉、と。《彖伝》はいう、小過は小なる者は過りて亨なり、と。蘇軾はいう、陰爻は外面より進入して当権辦事の位置を占住し、陽爻を裏面に囚禁す。これを則ち「小過」と呼ぶ。いわゆる「小過」とは、君主が軟弱にして臣子が強横の時代なり。「小なる者は過りて亨」すれば、さらば大なる者も亦た位を失いて閉塞せり。《彖伝》はいう、過りて以て貞に利ありは時と與に行くなり、と。蘇軾はいう、《彖伝》の説く所の「貞に利あり」は、則ち《象伝》の説く所の行為が恭敬に過ぎ、用度が倹省に過ぎ、居喪が哀戚に過ぐるなり。これは皆時勢の然らしむる所なり。
柔得中,是以小事吉也;剛失位而不中,是以不可大事也。“小過”者,臣強而專。小事,雖專之可也。有“飛鳥”之象焉。“飛鳥遺之音,不宜上,宜下大吉”,上逆而下順也。“小過”有鳥之象。四陰據用事之地,其翼也;二陽囚於內,其腹背也;翼欲往,腹背不能止;翼欲止,腹背不能作也,故“飛鳥”之制在翼。
《彖伝》はいう、柔は中を得る。以て小事は吉なり。剛は位を失いて中せず。以て大事すべからざるなり、と。蘇軾はいう、《小過》の世道は、臣子が強横にして権を專らにす。小事情は、たとい彼に專斷せしむるも還って過去し得。《彖伝》は又たいう、飛鳥の象有るなり、と。「飛鳥は之に音を遺す。上るに宜からず、下るに宜し。大吉」は上れば逆にして下れば順なり、と。蘇軾はいう、《小過》卦は鳥の形象を具備す。四個の陰爻が当権辦事の位置を占住するは、あれは鳥の両翼なり。二個の陽爻は裏面に囚えらるるは、あれは鳥の腹と背なり。翅膀が飛ばんと要すれば腹背は攔止しえず、翅膀が停らんと要すれば腹背もまた發動しえず。ゆえに飛鳥の去留は全て翅膀に由りて主を作る。
鳥之飛也,上窮而忘返,其身遠矣,而獨遺其音;臣之僭也,必孤其君、遠其民,使其君如飛鳥之上窮,使其民聞君之聲不見其形也,而後得志。故曰:“飛鳥遺之音,不宜上,宜下大吉,上逆而下順也。”“小過”之世,其臣則逆,而其民順,故“不宜上、宜下”。上則無民而主孤,下則近民而君強也。
鳥は上に往きて飛び、極高処に飛到して便ち頭を回るを忘る。身子は已に遠くして看見せられず、ただ一串の鳴声を留遺するのみ。臣子が僭越するは、亦た必ず其の君主を孤立し其の百姓を疏遠して、君主をしてあの極高処に飛到したる鳥のごとくせしめ、百姓をしてただ君主の声音を聽き得て君主の身影を看見しえざらしめ、しかる後に彼ははじめて称心如意なり。ゆえにいう、「飛鳥は之に音を遺す。上るに宜からず、下るに宜し。大吉。上れば逆にして下れば順なり」と。《小過》の世道の裏は、臣子のあの一頭は違逆にして、百姓のこ一頭は順當なり。ゆえに「上るに宜からず、下るに宜し」。上に往けば則ち百姓を失掉して君主は孤立し、下に來れば則ち百姓に貼近して君主は強固なり。
《象》曰:山上有雷,“小過”;君子以行過乎恭、喪過乎哀、用過乎儉。“小過”之君弱,是以臣子痛自貶以張君父也。初六:飛鳥以凶。《象》曰:“飛鳥以凶”,不可如何也。“大過”之“棟”,小過之“飛鳥”,皆以為一卦之象。而其於爻也,皆寄之於初、上者,本末之地也。《春秋傳》曰:“凡師能左右之,曰‘以’。”飛鳥見“以”於翼;欲左而左,欲右而右,莫如之何也,故凶。
《象伝》はいう、山の上に雷あり。小過。君子は以て行いに恭しきに過ぎ、喪に哀しみに過ぎ、用いに儉しきに過ぐ、と。蘇軾はいう、《小過》の世道は君主が軟弱なり。ゆえに臣子を做る者は痛く心を決して自己を貶抑して、好く君父を擡擧し起來る。《大過》卦の「棟」、《小過》卦の「飛鳥」は、皆取りて整卦の象と作る。而も爻の上に落到すれば、一律に初爻と上爻とに安放す。あれは一頭一尾の処所なるに由る。《左伝・僖公二十六年》はいう、およそ能く軍隊を左右に調遣するを則ち「以」と呼ぶと。飛鳥は正に両翼に「以」せらるる——所駆使なり。翅膀が左に往かんと要すればそれは左に往き、右に往かんと要すれば右に往く。自己は一点の弁法もなし。ゆえに凶。
六二:過其祖,遇其妣;不及其君,遇其臣,無咎。《象》曰:“不及其君”,臣不可過也。卦合而言之,“小過”者,臣強之世也;爻別而觀之,六五當強臣。六二以陰居陰,臣強而不僭者也。“大過”以夫妻為君臣,而“小過”寄之“祖”與“妣”者,“大過”君驕,故自君父言之;而“小過”臣強,故為臣子之辭,其義一也。曰:不幸而過其祖矣,而猶遇其妣;妣未有不助祖者也,不幸而不及其君矣,而猶遇其臣;臣未有不忠於其君者也,故“小過”之世,君弱而不能為政,臣得專之者,惟六二也。然而於祖曰“過”,於君曰“不及”者,以見臣之不可“過”其君也。
六二の爻辞はいう、其の祖を過りて其の妣に遇う。其の君に及ばずして其の臣に遇う。咎なし、と。《象伝》はいう、「其の君に及ばず」は臣は過るべからざるなり、と。蘇軾はいう、整卦を合わせて看れば、《小過》は臣強の時代なり。六爻を分けて看れば、六五ははじめてあの強横の大臣なり。六二は陰爻を以て陰位に居り、臣勢はたとい強なれども並に僭越せざるの一類に属す。《大過》卦は夫と妻とを拿りて君と臣とに比ぶるに、《小過》卦は然るに「祖」と「妣」の上に寄托す。あれは《大過》は君主の驕横を講ずれば、ゆえに君父の口吻より説き、《小過》は臣子の強横を講ずれば、ゆえに臣子の口吻を用いて説く。道理は一樣なり。蘇軾は続きて爻義を申説して道く、不幸にして祖父を越過するも、然るに還って祖母に遇上するを得。而も祖母は祖父を幇けざるなし。不幸にして君主に及ばざるも、然るに還って君主の臣属に遇上するを得。而も臣属は君主に忠せざるなし。ゆえに《小過》の世道の裏は、君主は軟弱にして政事を親理しえずして、而も臣子は專斷を得す。做りて妥當たるはただ六二のみ。然るに祖父に對して「過」といい君主に對して「及ばず」というは、正に以て臣子は君主を越過すべからざるを顯出するなり。
九三:弗過防之,從或戕之,凶。《象》曰:“從或戕之”,“凶”如何也?九四:無咎,弗過遇之,往厲必戒,勿用永貞。《象》曰:“弗過遇之”,位不當也;“往厲必戒”,終不可長也。“小過”,陽失位而不中,故其君在三、四。三之所臣者,初與二也;四之所臣者,五與上也。《春秋》:臣弒其君,故曰“弒”。或曰“伐”。“弒”者,其所從來有漸,而“伐”者,一朝一夕之故也。
九三の爻辞はいう、過らずして之を防ぐ。從りて或いは之を戕す。凶、と。《象伝》はいう、「從りて或いは之を戕す」は其の凶如何、と。九四の爻辞はいう、咎なし。過らずして之に遇う。往けば厲、必ず戒む。永貞を用うる勿れ、と。《象伝》はいう、「過らずして之に遇う」は位當らざるなり。「往けば厲、必ず戒む」は終に長からざるなり、と。蘇軾はいう、《小過》卦の裏は陽爻は既に位を失いてまた居中せず。ゆえに君主を充当するは九三と九四なり。九三の統する所の臣子は初六と六二にして、九四の統する所の臣子は六五と上六なり。《春秋》の記事は、臣子が君主を殺害するは、一般に「弑」と写作し、有る時も亦た「伐」と写作す。「弑」と写すは、禍端が已に來ること久しく逐漸釀成せられたるなり。「伐」と写すは、則ち一朝一夕の間に突然發作するなり。
六二,強臣也,而未之過;九三剛而不中,莫能容也,故曰:“弗過防之,從或伐之,凶。”言六二弗過,而九三疑之,故或從而伐其君。謂之“伐”者,以明二本無意於逆,咎在三也。九四以陽居陰,可謂“無咎”矣,然而失位自卑,臣雖弗過,我則開之。“遇”,逢也。臣未僭而逢其惡,故曰:“弗過遇之,往厲必戒,勿用永貞。”言九四失位,而往從五,危而非正,不可長也。
六二はたとい強臣なるも、然るに還って未だ分を越えざるなり。九三は剛硬にして居中せずして、それを容下しえず。ゆえに爻辞は「過らずして之を防ぎ、從りて或いは之を伐す。凶」という。意は六二はもと並に分を越えざるに、九三は然るにそれを猜疑す。ここにおいて人の跟從し起來りて君主を討伐する有り。「伐」の字を用いる所以は、正に以て六二はもと叛逆の心なきを説明して、罪過は九三の身上に在るなり。九四は陽爻を以て陰位に居り。もと「咎なし」と算うべし。然るにそれは位を失いて自ら卑下に甘んず。臣子はたとい分を越えざるも、我は倒れて先ず彼に口子を開き給えり。「遇」とは、則ち迎えに往くなり。臣子は還って未だ僭越せざるに、我は先ず往きて彼のあの份の惡念に迎合す。ゆえに「過らずして之に遇い、往けば厲、必ず戒む。永貞を用うる勿れ」という。意は九四は正位を失いて、還って上に往きて六五に追随せんと要す。既に危険にしてまた正道に合せず。この条の路は走ること長からざるなり。
六五:密雲不雨,自我西郊;公弋,取彼在穴。《象》曰:“密雲不雨”,已上也。“已上”者,其勢不可復下之辭也。六五之權,足以為密雲,而終不為雨,次於西郊而不行。豈真不能哉?其謀深也。強臣之慾為變也,憂在內,是故見利而不為,見益而不取,縕畜以自厚,持滿而不發者,凡皆以遂其深謀也。當是時也,必有穴其間而為之用者,故戒之曰:“公弋,取彼在穴。”君子之居此,苟無意於為盜,莫若取其在穴者,以自明於天下,而天下信之矣。
六五の爻辞はいう、密雲は雨せず。我が西郊に自我す。公は弋して彼を穴に在るを取る、と。《象伝》はいう、「密雲は雨せず」は已に上れるなり、と。蘇軾はいう、いわゆる「已に上れる」とは、説くはその勢頭は再び降り來るべからざるなり。六五の手中の権柄は、足りて満天の密雲を釀成す。然るに始終肯んじて雨と化作せずして、ただ西郊に駐紮して兵を按じて動かず。あに真に辦り到らざらんや。それは其の圖謀の深遠なり。強臣が変故を發動せんと欲するは、憂慮するは内部に還って隱患の有るなり。ゆえに利有りて圖るべきを見て偏に手を動さず、好处を見て偏に往きて拿らず。力量を深深として蓄積し、弓を満に拉きて然るに遲遲として放たず。こ一切は皆あの深遠の圖謀を成全するがためなり。この種の時候に到れば、必ず暗処に藏れてそれに替わりて内応を做る人有り。ゆえに爻辞は告誡して説く、「公は弋して彼を穴に在るを取れ」と。君子がこの局面の裏に処するは、もしもと乱臣賊子を做るの心思なければ、最も好きの弁法は則ちあの洞穴の裏に躲る内応を揪出して、好く天下人に向かい己の心跡を表明すれば、天下人も亦た則ち彼を相信せん。
上六:弗遇過之,飛鳥離之,凶;是謂災眚。《象》曰:“弗遇過之”,已亢也。至於是,則“亢”而不可復返也,故曰“弗遇過之”,言君雖不逢其惡,而臣自僭也。“離”,遭也;君失其政而臣得之,其所從來遠矣。而憂患集於我,非我失政而遭其凶者,天禍也。故曰:“飛鳥離之,凶;是謂災眚。”
上六の爻辞はいう、遇わずして之を過る。飛鳥は之を離す。凶。これを災眚と謂う、と。《象伝》はいう、「遇わずして之を過る」は已に亢なるなり、と。蘇軾はいう、この歩みに到れば、則ち高亢して再び頭を回りえざるに至る。ゆえに「遇わずして之を過る」という。意は君主はたとい往きてそれがあの份の惡念に迎合せざるも、臣子は還って自顧自として僭越したるなり。「離」は則ち遭遇なり。君主が政権を丟掉して臣子がそれを接過ぐるは、この過程は已に來ること久し。然るに憂患は偏偏として我が身上に聚り來る——政権は並に我が丟掉したるにあらざるに、然るにこの份の凶険を遭うを要す。これがすなわち上天の降下したる禍なり。ゆえにいう、「飛鳥は之を離す。凶。これを災眚と謂う」と。
既濟卦(第六十三)
坎上,離下。“既濟”,亨小,利貞。初吉,終亂。《彖》曰:“既濟,亨小”者,亨也。凡陰陽各安其所,則靜而不用。將發其用,必有以蘊之者。水在火上,火欲炎而不達,此火之所以致其怒也。陰皆乘陽,陽欲進而不遂,此陽之所以奮其力也。火致其怒,雖險必達;陽奮其力,雖難必遂:此所以為“既濟”也。故曰:“既濟,亨小者,亨也。”言小者皆在上而亨,大者皆在下而否也。
上卦は「坎」、下卦は「離」。卦辞はいう、既濟は小を亨す。貞に利あり。初め吉、終り乱る、と。《彖伝》はいう、「既濟、亨」は小なる者は亨なり、と。蘇軾はいう、およそ陰陽が各自本位の上に安処すれば、則ち静止して作用を發生せず。それをして作用を發出せしめんと要せば、必ず何の東西を得てそれを鬱積せしめねばならず。水は火の上頭に壓す。火は上に向かい燒らんと要するも透り出去えず。これが正に火の發怒するの緑由なり。陰爻は一律に陽爻の上頭に騎る。陽は前進せんと要するも願を遂げえず。これが正に陽の奮力するの緑由なり。火は一たび發怒すれば、再び険しき阻隔なるも必ず燒穿す。陽は一たび奮力すれば、再び難しき処境なるも必ず衝過す。これがすなわち「既濟」と称する所以の道理なり。ゆえにいう、「既濟、小を亨す。小なる者は亨なり」と。意は小なる一方は皆上頭に在りて因りて亨通し、大なる一方は皆下頭に在りて因りて閉塞するなり。
“利貞”,剛柔正而位當也。“坎”上而“離”下,剛柔正也;陰皆居陰,陽皆居陽,位當也。“剛柔正而位當”,則小者不可復進,以貞為利也。“初吉”,柔得中也;“終”止則“亂”,其道窮也。柔皆乘剛,非正也;以“濟”則可,“既濟”,則當變而反其正,以此終焉。止而不變,則亂矣。《象》曰:水在火上,“既濟”;君子以思患而豫防之。“既濟”者,難平而安樂之世也,憂患常生於此。初九:曳其輪,濡其尾,無咎。《象》曰:“曳其輪”,義“無咎”也。“濟”者,皆自內適外,故“既濟”、“未濟”皆以初為尾,以上為首。“曳”者,欲行而未進之象也。初九方行於險,未畢濟者也,故“無咎”。
《彖伝》はいう、「貞に利あり」は剛柔は正して位は當るなり、と。蘇軾はいう、「坎」は上に在り「離」は下に在るは、これは剛柔各々其の正を得るなり。陰爻は皆陰位に居り陽爻は皆陽位に居るは、これは位次が恰當なり。すでに「剛柔は正して位は當る」なれば、小なる一方は則ち更に前進しえず。ゆえに正を守るを以て利と為す。《彖伝》は又たいう、「初め吉」は柔は中を得るなり。終りは止まれば則ち乱る。其の道は窮まれるなり、と。蘇軾はいう、柔爻が一律に剛爻の上頭に騎るは、もと正道にあらず。それを拿りて難關を渡過するは可なれども、然るに一たび渡過すれば、則ち応に変り來りて正道に回到して、好くそれを用いて收場するを要す。止まりて変ぜざれば、則ち乱れん。《象伝》はいう、水は火の上にあり。既濟。君子は以て患を思いて豫て防ぐ、と。蘇軾はいう、《既濟》は、艱難已に平らぎ天下安樂の時代にして、憂患は常常に則ちこ種の時候に滋生す。初九の爻辞はいう、其の輪を曳き其の尾を濡らす。咎なし、と。《象伝》はいう、「其の輪を曳く」は義咎なきなり、と。蘇軾はいう、いわゆる「濟」とは則ち河を渡るにして、皆内より外に向かい走るなり。ゆえに《既濟》《未濟》の兩卦は皆初爻を拿りて尾巴と當て上爻を拿りて頭と當てる。「曳」とは、走らんと想いて然るに還って未だ前進せざるの様子なり。初九は剛く険境に踏進して、還って未だ河を渡り盡さざるなり。ゆえに「咎なし」。
六二:婦喪其茀,勿逐,七日得。《象》曰:“七日得”,以中道也。安樂之世,人不思亂,而小人開之。開之有端,必始於爭;爭則動,動則無所不至。君子居之以至靜,受之以廣大,雖有好亂樂禍之人慾開其端,而人莫之予,蓋未嘗不旋踵而敗也。“既濟”爻爻皆有應,六二、六四居二陽之間,在可疑之地,寇之所謀;而六二居中,九五之配也,或者欲間之,故竊其“茀”。“茀”者,婦之蔽也;婦喪其茀,其夫必怒而求之,求未必得,而婦先見疑。近其婦者,先見詰,怨怒並生,而憂患之至不可以勝防矣。故凡竊吾茀者,利在於吾之逐之也,吾恬而不逐,上下晏然,非盜者各安其位,而盜者敗矣。故曰:“勿逐,七日得。”
六二の爻辞はいう、婦は其の茀を喪う。逐う勿れ。七日に得ん、と。《象伝》はいう、「七日に得ん」は中道を以てするなり、と。蘇軾はいう、天下安樂の時代は、人々はもと乱を作らんと想わず。小人が乱端を挑起したるなり。乱端を挑起するは総じて頭緒有りて、必ず争奪より開始す。一たび争えば則ち事を生じ、一たび事を生ぜば則ち何をも做り出す。君子がこ樣の時代に処するは、極靜の態度を以て自守し、極寛大の胸懐を以て承受す。たといあの種の乱を好み禍を楽しむ人の事端を挑起せんと想う有るも、衆人は亦た往きて彼に附和せず。さらば彼は転眼に垮掉せざるなし。《既濟》卦は爻爻皆正応有り。六二と六四とは二個の陽爻の中間に夾りて、容易に疑を招く処に処す。正に盜賊の算計する目標なり。而も六二は居中にして、九五の配偶なり。彼らを離間せんと想う人有り。ゆえに彼女の車簾を偸走せり。「茀」とは、婦人が車に乘る時の遮蔽物なり。婦人が車簾を丟掉せば、彼女の丈夫は必ず怒りて往きて追查せん。追うも未必追い得回さず、而も婦人は却って先ず嫌疑を落下せん。およそこの位の婦人に接近するは、皆先ず盤問を受け、怨恨と惱怒とは一斉に生じ出で、憂患は接踵して來りて則ち防げば勝げざるなり。ゆえにおよそ我が車簾を偸む人は、其の算盤は全て我が往きて追查せんに押上せられたり。我は安然として追わず、上下は相安して事なく、賊を做らざるは各自本位を安守し、賊を做るは自然に則ち落空せん。ゆえにいう、「逐う勿れ、七日に得ん」と。
九三:高宗伐鬼方,三年克之;小人勿用。《象》曰:“三年克之”,憊也。“未濟”,方其未出於難也。上下一心,譬如胡越同舟而遇風,雖厲民以犯難可也。及其“既濟”,已出於難,則上之用其民也,易以致怨;而下之為其上用也,易以致疑。故“未濟”之九四,“震用伐鬼方,三年有賞于大國”;而“既濟”之九三,以是為“憊”也。
九三の爻辞はいう、高宗は鬼方を伐ち、三年して之を克つ。小人は用うる勿れ、と。《象伝》はいう、「三年して之を克つ」は憊なり、と。蘇軾はいう、《未濟》の写す所は、還って未だ患難を走出せざるの時なり。あの時は上下は一条の心にして、好比胡人と越人とが同じく一条の船に坐りて大風に遇上すれば、たとい百姓を駆使して冒険犯難せしむるも行き通るを得。等到《既濟》に到れば、已に患難を走出せり。さらば上に在る者が百姓を役使すれば容易に怨恨を招来し、下に在る者が上頭に替わりて力を出せば容易に猜疑を招来す。ゆえに《未濟》の九四の爻は「震は用いて鬼方を伐ち、三年して大国に賞有り」といい、而も《既濟》の九三の爻は、然るに同樣の一件事を以て「憊」と看作す。
“未濟”之主在六五,而九四為之臣,有震主之威者也,其威不用之於主,而用之於“伐鬼方”,雖三年之久,未見其克,不克也而猶賞之以大國者,以難未平也。若出於難,則臣必用其威於主,而主亦疑其臣矣。“既濟”之九三,以九五為主,臣主皆強,故曰“高宗伐鬼方”,以見三之為五用也。雖以高宗之賢,三年而後克之者,“既濟”之世,民安於無事而不可用也。“未濟”之賞以大國也,豈嘗問其君子小人哉?有功斯國之矣;而“既濟”則“小人勿用”,蓋已疑其臣矣。
《未濟》卦の主人は六五にして、九四はそれに臣子を當て給う。あの種の威勢が足りて君主を震動するの人なり。彼のあの份の威勢は君主の身上に使わずして、而も鬼方を討伐するの上に使う。たとい三年を打ちても亦た攻克を見ざるも、攻克せずして還って彼に一個の大国を封ずるは、正に患難が還って未だ平定せざるに由る。假使已に患難を走出せば、さらば臣子は必ず威勢を君主の身上に使い至り、君主も亦た必ず臣子を猜忌せんと要す。《既濟》卦の九三は、九五を以て主と為し、君臣の双方は皆強し。ゆえに「高宗は鬼方を伐つ」という。以て九三が九五に替わりて力を出すを顯出す。たとい殷高宗のあ樣の賢明を憑るるも、亦た三年を打ちてはじめて攻克す。あれは《既濟》の世道の裏に百姓が無事に安んじて肯んじて人の駆使に供えざるに由る。《未濟》の裏の大国を封賞する時は、何曽受賞するは君子か小人かを問うたらんや。功労有れば則ち彼に封国を給う。而も《既濟》は然るに「小人は用うる勿れ」という。見れば君主は已に臣子を猜忌し始めたり。
六四:繻有衣袽,終日戒。《象》曰:“終日戒”,有所疑也。“繻”,當作“濡”。“衣袽”,所以備舟隙也。四居二陽之間而不相得,故備且戒如是也。卦以“濟”為事,故取於舟。九五:東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭,實受其福。《象》曰:“東鄰殺牛”,不如西鄰之時也;“實受其福”,吉大來也。
六四の爻辞はいう、繻有りて衣袽あり。終日戒む、と。《象伝》はいう、「終日戒む」は疑有るなり、と。蘇軾はいう、「繻」は応に「濡」と写作して、滲水の意思なり。「衣袽」とは、以て船縫を堵塞するの破布旧絮なり。六四は二個の陽爻の中間に夾りて而も彼此相投合せず。ゆえにこ樣に時刻として防備戒懼するを要す。整卦は河を渡るを以て主題と為す。ゆえに船を取りて象を立つ。九五の爻辞はいう、東隣は牛を殺すも西隣の禴祭に如かず。実に其の福を受く、と。《象伝》はいう、「東隣は牛を殺す」は西隣の時に如かざるなり。「実に其の福を受く」は吉は大いに來るなり、と。
“東”、“西”者,彼、我之辭也。祭未有水殺牛者,而云“殺牛”,不如禴祭,何也?曰:禴祭,時祭也。國之常事而殺牛者,非時;特殺而祭,以求福者也。小人以為禴祭常事,不足以致福,故以非時殺牛而求之,而不知時祭之福,不求而大來也。人之情,在難則厭事;而無難之世,常不能安有其福。故聖人以為“既濟”之主,在於守常安法而已,求功名於法度之外,則《易》之所謂殺牛也。上六:濡其首,厲。《象》曰:“濡其首,厲”,何可久也?“既濟”之上六,畢濟之時也。而以陰居之,未免於危也。
蘇軾はいう、「東」と「西」とは、「彼」と「我」の代称なり。祭祀の礼に牛を宰するより更に隆重なるなし。然るに爻辞は偏に牛を宰するも還ってあの簡薄の禴祭に如かずと説く。何を以てするや。答えていう、禴祭は時節を按じて挙行するの常祭にして、国家の常規典礼に属す。而も牛を宰するは然るに時節に合せずして、特に牲を殺して來りて祭るにして、為すは福を求むるなり。小人は以て禴祭は不過例行公事にして足りて福気を招来するに足らずと為して、ゆえに非常規の時候に牛を宰して往きて求む。然るに知らず、時を按じたる常祭の福気は、求めずして自然に大大として來到するなり。人之常情は、患難の裏に処すれば則ち多事を厭煩し、患難なきの時代に到れば、又た常常に己の福分を守住しえず。ゆえに聖人は以て、《既濟》の世の主人を做るは、關鍵は不過常規を恪守して法度に安んずるのみなり。法度の外に到りて往きて功名を謀求すれば、あれは則ち《周易》がここに説く所の「牛を殺す」なり。上六の爻辞はいう、其の首を濡らす。厲、と。《象伝》はいう、「其の首を濡らす。厲」は何ぞ久しかる可けんや、と。蘇軾はいう、《既濟》の上六は、河を渡り畢るの時なり。然るに陰爻を由りてこの位置を占むれば、依然として危険を免れえず。
未濟卦(第六十四)
離上,坎下。“未濟”:亨;小狐汔濟,濡其尾;無攸利。《彖》曰:“未濟,亨”,柔得中也。謂六五也。“小狐汔濟”,未出中也。“濡其尾,無攸利”,不續終也。“未濟”陽皆乘陰,上下之分定,未可以有為也。“汔”,涸也。“坎”在“離”上,則水溢而火怒於下,必進之象也;是以雖溢而可以“濟”。“坎”在“離”下,則水涸而火安於上,不進之象也,是以雖涸而不可以“濟”。
上卦は「離」、下卦は「坎」。卦辞はいう、未濟は亨。小狐は汔く濟らんとして其の尾を濡らす。利ならざるなし、と。《彖伝》はいう、「未濟、亨」は柔は中を得るなり、と。蘇軾はいう、指すは六五なり。《彖伝》はいう、「小狐は汔く濟らんとす」は未だ中を出でざるなり。「其の尾を濡らし、利ならざるなし」は終を續けざるなり、と。蘇軾はいう、《未濟》卦の裏は陽爻は皆陰爻の上頭に騎りて、上下の名分は已に定まりて、還って作為有るべきの時候に到らず。「汔」とは、則ち水が干渕するなり。「坎」は「離」の上に在れば、水は漫り上りて來りて火は下面に在りて發怒す。あれは必ず前進するの象なり。ゆえに水はたとい漫溢するもかえって渡り過ぐるを得。「坎」は「離」の下に在れば、水は已に干渕して火は上面に安居す。あれは肯んじて前進せざるの象なり。ゆえに水はたとい干渕するもかえって渡り過ぐるを得ず。
君子見其遠者、大者,小人見其小者、近者,初六、六三,小人也;見水之涸,以為可濟也,是謂“小狐汔濟”。而九二君子也,以為不可“曳其輪”而不進,則“小狐”安能獨濟哉!是謂“未出中也”。二陰輕進,而九二不予,是以六三“征凶”。初六“濡其尾”,雖九二亦病矣,故“無攸利”。見易而輕犯之,遇難而退,雖有智者不能善其後,故曰“不續終也”。
君子は遠処・大処を看見しえ、小人はただ小処・近処を看見するのみ。初六と六三とは小人にして、水の干れたるを見れば則ち以て渡り過ぐるべしと為す。これを則ち「小狐は汔く濟らんとす」と呼ぶ。九二は君子にして、以て軽挙すべからずと為して、ここにおいて車輪を拖住して前進せず。さらば「小狐」は何処に能く獨自として渡り過ぐらんや。これを則ち「未だ中を出でず」と呼び、還って河心に陷在せり。二個の陰爻は軽率に冒進し、九二はまた肯んじて配合せず。ゆえに六三は一個の「征せば凶」に落ち、初六は「其の尾を濡らし」て、九二を連れても跟って受累す。ゆえに「利ならざるなし」。容易を看て則ち軽率に往きて犯し、一たび困難に遇えば則ち後に向かい退く。こ樣の人はたとい智謀有るの人有るも彼に替わりて後事を収拾し好くるを得ず。ゆえに「終を續けざるなり」という。
雖不當位,剛柔應也。《易》二、三、四、五皆失位,惟“未濟”與“歸妹”也。故皆“無攸利”,而“歸妹”又“征凶”者,剛柔不應也。《象》曰:火在水上,“未濟”;君子以慎辨物居方。上下方安其位,而不樂於進取,則君子慎靜其身,而辨物居方,以待其會。初六:濡其尾,吝。《象》曰:“濡其尾”,亦不知極也。水火相射,極乃致用。故“濟”必待其極,“汔濟”,非其極也。九二:曳其輪,貞吉。《象》曰:九二“貞吉”,中以行正也。外若不行,中以行正也。
《彖伝》はいう、位は當らざるといえども剛柔は應ずるなり、と。蘇軾はいう、《周易》の裏に二・三・四・五の四爻が全て位を失うは、ただ《未濟》と《歸妹》の兩卦のみ。ゆえに兩卦は皆「利ならざるなし」といい、而も《歸妹》は還って多く一句の「征せば凶」有り。あれは其の剛柔が互に相応せざるに由る。《象伝》はいう、火は水の上にあり。未濟。君子は以て愼みて物を辨じ方に居らしむ、と。蘇軾はいう、上下の双方が正に各自の位次に安んじて進取を楽しまざれば、さらば君子は応に謹愼に静守して其身を守り、事物を辨明して各々其の所に安んぜしめ、以て時機の到來を等待すべし。初六の爻辞はいう、其の尾を濡らす。吝、と。《象伝》はいう、「其の尾を濡らす」は亦た極を知らざるなり、と。蘇軾はいう、水と火とは互相に激射して、極処に到りてはじめて功用を發生す。ゆえに河を渡るは必ずあの極処を待つを要す。「汔く濟らんとす」は、還って未だ極処に到らざるなり。九二の爻辞はいう、其の輪を曳く。貞なれば吉、と。《象伝》はいう、二の「貞なれば吉」は中以て正を行くなり、と。蘇軾はいう、表面上は似て肯んじて走らざるがごとし。其の実は中道を守りて正道を踐行するなり。
六三:未濟,征凶,利涉大川。《象》曰:“未濟征凶”,位不當也。“未濟”非不濟也,有所待之辭也。蓋將畜其全力,一用之於大難。大難既平,而小者隨之矣,故曰:“利涉大川”。六三見水之涸,幸其易濟而驟用之,後有大川,則其用廢矣,故曰“征凶”。見涸而濟者,初與三均也;初“吝”而已,三至於“凶”,位不當也。九四:貞吉,悔亡。震用伐鬼方,三年有賞于大國。《象》曰:“貞吉,悔亡”,志行也。九四有震主之威,苟不用於“鬼方”,則無所行其志矣,震主者悔也。貞於主而用於敵,所以“悔亡”也。
六三の爻辞はいう、未濟。征せば凶。大川を渉るに利あり、と。《象伝》はいう、「未濟、征せば凶」は位當らざるなり、と。蘇軾はいう、「未濟」は並に渡り過ぐるべからざるにあらず。而も等待有るの説法なり。それは全副の力量を蓄積し起來りて、一擧にして大難の上に用いんと要するなり。大難は一たび平らげば、小なる困難は自然に跟って解決す。ゆえに「大川を渉るに利あり」という。六三は水の干れたるを見て、容易に渡るを慶幸して急急忙忙として力気を用尽す。日後に大河に遇上せば、あの份の力気は早く已に耗光せり。ゆえに「征せば凶」という。水の干れたるを見て則ち搶りて渡るは、初六と六三とは一樣なり。然るに初六は不過「吝」にして、六三は然るに「凶」に到る。正に其の位次の當らざるに由る。九四の爻辞はいう、貞なれば吉、悔亡ぶ。震は用いて鬼方を伐ち、三年して大国に賞有り、と。《象伝》はいう、「貞なれば吉、悔亡ぶ」は志は行なり、と。蘇軾はいう、九四は君主を震動するの威勢有り。たといそれを鬼方の身上に用ゐざれば、則ち其の志向を施展するの処なし。而も君主を震動するは本身に則ち悔すべきの事なり。君主に對して忠貞を守住して、威勢を敵人の身上に使い至るは、これがすなわち其の「悔亡」たる所以の緑故なり。
六五:貞吉,無悔。君子之光,有孚;吉。《象》曰:“君子之光”,其暉“吉”也。光出於形之表,而不以力用。君子之廣大者也,下有九二,其應也;旁有九四、上九,其鄰也。險難未平,三者皆剛,莫能相用,將求用於我之不暇,非謀我者也。故六五信是三者,則三者為之盡力,而我無為,此“貞吉,無悔,君子之光”也。
六五の爻辞はいう、貞なれば吉。悔なし。君子の光、孚有りて吉、と。《象伝》はいう、「君子の光」は其の暉は吉なり、と。蘇軾はいう、光は形体の外より散發して出づるにして、並に氣力を靠りて使用せざるなり。これが正に君子の胸襟の廣大なる処なり。六五の下面に九二有りて、其の正応なり。傍辺に九四と上九有りて、其の近鄰なり。険難は還って未だ平定せず、こ三個は又た皆剛爻にして、彼此誰も誰を支使し動かしえず。正に來りて我が任用するを求むるに忙しくして及ばざるにして、並に我を算計する人にあらず。ゆえに六五はただこの三方を信任すれば、こ三方は則ちそれに替わりて竭尽全力して、而も我自己は作為する所なし。これがすなわち「貞なれば吉、悔なし、君子の光」なり。
上九:有孚于飲酒,無咎。濡其首,有孚,失是。《象》曰:“飲酒”濡首,亦不知節也。“節”,事之會也。“是”,是時也。至於是而不濟,終不濟也。故“未濟”之可以濟者惟是也。險難未平,六五信我,將以用我也;我則飲酒而已,何也?將安以待其會也,故“無咎”。上九之謂首,“濡其首”者,可濟之時也;若不赴其節,飲酒於可濟之時,則信我者失是時矣。
上九の爻辞はいう、孚有りて酒に飲むに於て咎なし。其の首を濡らせば、孚有りて是を失うなり、と。《象伝》はいう、酒に飲みて首を濡らすは亦た節を知らざるなり、と。蘇軾はいう、「節」とは、則ち事の關節点なり。「是」とは、則ち眼前のこ個の時機なり。この關節に到りて還って渡り過ぐるべからざれば、則ち終に渡り過ぐるべからざるなり。ゆえに《未濟》の世の還って能く渡り過ぐるの指望は、全てこ一個の關節の上に在り。険難は還って未だ平定せず、六五が我を信任するは、我を任用せんと打算するなり。我は然るに只顧酒を喫するは、何を為すや。安安靜靜としてあの關節の到來を等待せんと要するなり。ゆえに「咎なし」。上九は則ち爻辞の説く所の「首」なり。「其の首を濡らす」は、正に河を渡るべきの時候なり。假使あの關節に趕上せずして、本当に河を渡るべきの時に只顧酒を飲めば、さらば我を信任する人は則ちこの時機を錯過せんと要す。
