横渠易说
乾卦の元・亨・利・貞という四徳は、万物の始まりと終わりを貫いている。それに向かっても頭は見えず、それに従っても尾は見えない。しかし根本を推し…
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
横渠易説 宋・張載 撰
上経
乾卦
乾之四德,終始萬物,迎之不見其首,隨之不見其後,然推本而言,當父母萬物。[彖]明萬物資始,故不得不以元配乾;坤其偶也,故不得不以元配坤。
乾卦の元・亨・利・貞という四徳は、万物の始まりと終わりを貫いている。それに向かっても頭は見えず、それに従っても尾は見えない。しかし根本を推し究めれば、乾は「万物の父母となる」という名分に足る。《乾卦・彖伝》は万物がすべて乾の気に倚って始まることを明らかにしているので、「元」を乾に配さざるをえず、坤は乾の配偶なので、やはり「元」を坤に配さざるをえない。
天下[之]理得,元也;會而通,亨也;說諸心,利也;一天下之動,貞也。貞者,專靜也。不曰天地而曰乾坤,言天地則有體,言乾坤則無形,故性也者,雖乾坤亦在其中。初九,潛龍勿用。九二,見龍在田,利見大人。
天下の道理はいずれもそれぞれの所を得ないものはない、これが「元」である。万物が集まり通達して滞りがない、これが「亨」である。人の心を悦ばせ服従させる、これが「利」である。天下の一切の動作変化を統べる、これが「貞」である。「貞」とは、専一で静定していることである。《周易》が「天地」と言わず「乾坤」と言うのは、「天地」と言えば有形の形体に落ちてしまい、「乾坤」と言えば無形の健順の性にすぎないからである。だから「性」を論じるときは、乾坤もあわせてその中に含まれる。乾卦の初九の爻辞は「潜龍勿用」——龍が潜伏して出ず、用いるべからず。九二の爻辞は「見龍在田、利見大人」——龍がすでに田に現れ、大人に見るに利あり。
大而得易簡之理,當成位乎天地之中,時舍而不受命,乾九二有焉。及夫化而聖矣,造而位天德矣,則富貴不足以言之。九三,君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎。九四,或躍在淵,無咎。四處陰,故曰在淵。九五,飛龍在天,利見大人。上九,亢龍有悔。用九,見群龍無首,吉。
徳がすでに「大」の境地に至り、さらに乾の「易」・坤の「簡」の理を領会すれば、天地の間に自らの位分を確立すべきである。この時、時勢が彼を一時止まらせ、まだ命を受けて位に就いていない——乾卦九二爻はまさにこの境界である。やがて「大」から「化」へと至り、聖徳を成就し、「位乎天徳」の造诣に達すれば、世の富貴では彼を称えるに足らなくなる。九三の爻辞は「君子終日乾乾、夕惕若、厲无咎」——君子は一日中勤勉に励み、夜になっても戒め慎み、危地にあっても過ちがない。九四の爻辞は「或躍在淵、无咎」——九四は陽爻をもって陰位に居るので、身が深淵にあると言う。九五の爻辞は「飛龍在天、利見大人」。上九の爻辞は「亢龍有悔」。用九の辞は「見群龍无首、吉」。
[乾不居正位,是乾理自然,惟人推之使然耶!]彖曰:大哉乾元,萬物資始,乃統天。雲行雨施,品物流形。大明終始,六位時成,時乘六龍以御天。乾道變化,各正性命,保合大和,乃利貞。
(乾は一定の正位に固定して居らない、これは乾の理が本然として自然であるためで、どうして人が推し排して配置してこうなったのだろうか!)《乾卦・彖伝》に言う:偉大なりや、乾の「元」!万物は皆それに倚って始まり、それは天道全体を統べている。雲気が流行し雨沢が施され、各種の品物がこれによって流布して形を成す。日光が明らかに照り、始終を貫き、六爻の位は時に応じて成り、聖人はこの六条の龍に乗って天道を御する。乾道は運行し変化して、万物にそれぞれ自らの性と命を正しくさせ、あの至大の和気を保ち合会する、こうして「利」であり「貞」である。
雲行雨施,散而無不之也,言乾發揮偏被於六十四卦,各使成象。變,言其著;化,言其漸。萬物皆始,故性命之各正。惟君子為能與時消息,順性命、躬天德而誠(之)行[之]也。精義時措,故能保合大和,健利且貞,孟子所謂終始條理,集大成於聖智者歟!
「雲行雨施」とは、乾の気が発散し流行して届かない所がないことを言う。意味は、乾の功用が六十四卦に普遍的に及び、一卦ごとにそれぞれその卦象を成就させるということである。「変」は改易が顕著であることを言い、「化」は推移が漸微であることを言う。万物は皆これによって始まるので、性と命がそれぞれその正を得る。ただ君子だけが時勢の消長に随って進退し、性命の理に順い、身をもって天徳を体現して誠実にそれを践み行う。義理を精研して時に応じて措置を宜しくするので、あの至大の和気を保全し合会でき、剛健にして利あり、かつ貞固である。これが《孟子・万章下》の言う「始条理」「終条理」、聖と智を集めて大成とする境界であろう!
易曰:“大明終始,六位時成,時乘六龍以御天。乾道變化,各正性命。保合大和,乃利貞”,其此之謂乎!“乾道變化,各正性命”,此謂六爻。言天道變化趨時者,六爻各隨時自正其性命,謂六位隨時正性命各有一道理,蓋為時各不同。首出庶物,萬國咸寧。
《周易・乾卦・彖伝》に言う:「大明終始、六位時成、時乗六龍以御天。乾道変化、各正性命。保合大和、乃利貞」、語るのはまさにこの意味であろう!「乾道変化、各正性命」の二句は、六爻について言っている。意味は、天道が変化して時に随い赴き、六爻が各々その処する時に随って自己の性命を正しくする。六つの爻位が時に随って性命を正しくするのは、それぞれ一つの道理を具えているからで、それらが値する時が各々同じでないからである。《彖伝》の最後に「首出庶物、万国咸寧」と言うのは、聖人が超然として万物の上に出で、天下万国がこれによって安寧を得ることを言う。
不一則乖競。象曰:天行健,君子以自強不息。“潛龍勿用”,陽在下也。“見龍在田”,德施普也。“終日乾乾”,反復道也。道,行也,所行即是道。易亦言“天行健”,天道也。“或躍在淵”,進無咎也。
天下が一に帰することができなければ、互いに乖違し争競する。《乾卦・大象伝》に言う:天道の運行は剛健で已まず、君子はこれに法って自ら奮い励んで永く息まない。《小象伝》は初九「潜龍勿用」を解して、陽気がまだ下位にあると言う。九二「見龍在田」を解して、徳沢の施与がすでに普遍であると言う。九三「終日乾乾」を解して、道の上を反復して行くと言う。ここに言う「道」はすなわち「行」で、行う所がすなわち道である。《周易》にも「天行健」と言う、あれはまさに天道である。《小象伝》は九四「或躍在淵」を解して、上進して過ちがないと言う。
或躍進退皆可在淵者,性退也,故指其極而言也。“飛龍在天”,大人造也。乾之九五曰:“飛龍在天,利見大人”,乃大人造位天德,成性躋聖者爾。若夫受命首出,則所性不存焉,故不曰“位乎君位”而曰“位乎天德”,不曰“大人君矣”而曰“大人造也”。
「或躍」とは進退が両可であることを言う。「在淵」と言う所以は、その性向がもともと退処であるので、その極まる所に就いて言うのである。《小象伝》は九五「飛龍在天」を解して、「大人造也」と言う。乾卦九五の爻辞に「飛龍在天、利見大人」とあるのは、まさに大人が「位乎天徳」に造诣し、本性を成就して聖境に躋ることにすぎない。天命を受けて君長と出でることに至っては、それはすでに「性」の分内ではない。だから《小象伝》は「位乎君位」と言わず「位乎天徳」と言い、「大人が君主となった」と言わず「大人造也」と言うのである。
成性則躋聖而位天德。乾九二正位於內卦之中,有君德矣,而非上治也。九五言上治者,通言乎(聖人)[天]之德,聖人之性,[故]舍曰“君”而謂之“天”。見大人德與位之(者)[皆]造也。至健而易,至順而簡,故其險其阻,不可階而升,不可(逸)[勉]而至。仲尼猶天,“九五飛龍在天”,其致一也。“亢龍有悔”,盈不可久也。“用九”,天德不可為首也。
本性を成就すれば、聖境に躋って天徳の位に居る。乾卦九二は端正に内卦の中に居り、すでに君主の徳を具えているが、まだ上位にあって治を施してはいない。九五の言う「上治」は、天の徳・聖人の性に通じて言うので、「君」の字を捨てて「天」と称する——大人の徳も位も造诣の至る所であることが見える。乾は至って剛健ゆえにその道は平易であり、坤は至って柔順ゆえにその道は簡約である。だからこそ、その険峻阻絶の所は一段一段と登攀していけるものではなく、無理に力を用いても到達できるものではない。孔子は天のごとき人であり、九五「飛龍在天」は、彼の至る所と同一の境界である。《小象伝》は上九「亢龍有悔」を解して、盈満は長く保てないと言い、「用九」を解して、天徳は首領を争ってはならないと言う。
文言曰:元者,善之長也;亨者,嘉之會也,利者,義之和也;貞者,事之乾也。君子體仁足以長人,嘉會足以合禮,利物足以和義,貞固足以乾事。君子行此四德者,故曰“乾元亨利貞”。
《乾卦・文言伝》に言う:「元」は衆善の首長、「亨」は嘉美の会聚、「利」は義理の諧和、「貞」は事の主幹である。君子は仁徳を体して、衆人の長となるに足る。嘉美を会聚して礼に合するに足る。万物に利を施して義に諧和するに足る。貞固に移らずして事務の主幹となるに足る。君子はこの四つの徳を践み行うので、「乾、元亨利貞」と言うのである。
仁統天下之善,禮嘉天下之會,義公天下之利,信一天下之動。初九曰“潛龍勿用”,何謂也?子曰:龍德而隱者也。不易乎世,不成乎名,遁世無悶,不見是而無悶,樂則行之,憂則違之,確乎其不可拔,潛龍也。
仁は天下の一切の善を統攝し、礼は天下の一切の会聚を嘉美し、義は天下の一切の利益を公平にし、信は天下の一切の動作を統一する。《文言伝》が問う:初九の爻辞「潜龍勿用」とはどういう意味か。孔子答えて言う:これは龍のごとき徳を持ちながら隠居する人である。世俗のために自分を改易せず、名声の成就を求めず、世を避けて隠遁しても煩悶せず、人に称許されなくても煩悶しない。心の楽しむ所はそれを行い、心の憂える所はそれを避ける。堅定にして動揺できない、これが「潜龍」である。
孔子喜弟子之不仕,蓋為德未成則不可以仕,是行而未成者也。故潛勿用,龍德而未顯者也。不成名,不求聞也,養實而已,樂行憂違,不可與[無]德者語也。
孔子が弟子の仕進を急がないことを喜ぶのは、徳がまだ成就していなければ官に就いてはならないからで、これはまさに「行而未成」の類の人に属する。だから「潜龍勿用」と言うのは、龍徳がありながらまだ顕露していない人を指す。「不成乎名」とは、名声の伝聞を求めず、ただ自己の実徳を涵養するのみである。「楽則行之、憂則違之」という進退の節は、徳のない人とは語れないものである。
“用則行,舍則藏,惟我與爾有是夫!”顏子龍德而隱,故“遁世不見知而不悔”,(聖)與聖者同(能)。“遁世不見知而不悔”,聖人不為沽激之行以求時知,依乎中庸,人莫能知,以此自信,不知悔也。
《論語・述而》に孔子が顔淵に対して「用いられれば出でて道を行い、捨てられれば退いて蔵れる、ただ我と汝とがこれをなせるだろう!」と言ったと記す。顔淵は龍徳を具えて隠居したので、《中庸》が彼を「世を避けて隠居し、人に知られなくても悔恨しない」と称す——この一点で彼は聖人と同じである。「遯世不見知而不悔」とは、聖人が名を沽り俗を激る挙動をして当世の賞識を博することをせず、ただ中庸に依循して行い、人には知りようがない。彼はこの一点によって自信し自守するので、悔いるべきことがないと感じるのである。
(大而得易簡之理,當成位乎天地之中,時舍而不受命,乾九二有焉。及夫化而聖矣,造而位天德矣,則富貴不足以言之。)“樂則行之,憂則違之”,主於[求]吾志而已,無所求於外,故善世溥化,龍德而見[者]也,[若]潛而未見,則為己而已,不暇及夫人者也。
(ここに前文の一段が重出する:徳がすでに「大」に至り易簡の理を領会すれば、天地の間に位分を確立すべきである。時勢が彼を一時止まらせ、まだ命を受けて位に就いていない——乾卦九二はまさにこのようである。やがて大から化へ、位乎天徳に造诣すれば、富貴は彼を称えるに足らない。)「楽則行之、憂則違之」とは、ただ自己の志を成し遂げるにあるのであって、身外に別に求めるものがない。だから一世を善く化し徳沢を広く被らせることができるのは、龍徳がすでに顕現した人である。もし潜蔵してまだ顕現していなければ、ただ自己を修治するのみで、まだ他人に推し及ぼすことは顧みられない。
孟子不得已而用潛龍者也,顏子不用潛龍者也。孟子主教,故須說“予豈好辯哉?予不得已也”。九二曰“見龍在田,利見大人”,何謂也?子曰:龍德而正中者也。庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,德溥而化。易曰“見龍在田,利見大人”,君德也。
孟子はやむをえず潜龍の徳を取り出して施用した人であり、顔淵は終始潜龍の徳を施用しなかった人である。孟子は教えを伝える責を担っていたので、「我は豈に弁を好まんや、我はやむをえざるなり」(《孟子・滕文公下》)と言わざるをえなかった。《文言伝》が問う:九二の爻辞「見龍在田、利見大人」とはどういう意味か。孔子答えて言う:これは龍徳を具えて正しく中を得た人である。平常の言語は信を守り、平常の行事は謹み、邪念を防閑してその誠を存養し、一世を善く化しても自ら誇らず、徳沢が広く被って万物を化育する。《周易》の「見龍在田、利見大人」、これがすなわち君主の徳である。
庸言庸行,蓋天下經德達道,大人之德施於是(者)溥矣,天下之文明於是著矣。然非窮變化之神以時措之宜,則或陷於非禮之禮,非義之義,此顏子所以求龍德(而)正中,乾乾進德,思處其極,未敢以方體之常安吾止也。
平常の言語と行事は、まさに天下の常行の徳・共に由る道であり、大人の徳がこの歩に施されればすでに広博であり、天下の文采光明もこれによって彰かとなる。しかし変化の神妙を窮究し、時に応じて措置を宜しくすることができなければ、「礼に合わない礼」「義に合わない義」に陥る恐れがある。これがまさに顔淵が龍徳の居正得中を求め、勤勉に已まず徳を進め、時々刻々あの極致の所に処ろうと思い、一成不変の形跡の常規をもって自己の止息の地を安んずることを敢えてしなかった所以である。
顏氏求龍德正中而未見其止,故擇中庸得一善則拳拳服膺,歡夫子[之]忽焉前後也。乾三四,位過中重剛,時不可舍,庸言庸行不足以濟之,雖大人之盛有所不安。外趨變化,內正性命,故其危其疑,艱於見德者,時不得舍也。九五,大人化矣,天德位矣,成性聖矣,故既曰“利見大人”,又曰“聖人作而萬物睹”。亢龍以位畫為言,若聖人則不失其正,何亢之有!
顔淵は龍徳の居正得中を求めながら、まだ自己の止息すべき所を見ていない。だから《中庸》は彼を「中庸を擇び、一善を得れば拳拳として服膺す」と言う。彼はまた孔子の道が忽然として前にあり、忽然として後にある、捉摸しがたいと嘆賞した。乾卦九三・九四の二爻は、位置がすでに中位を過ぎ、しかも剛爻を重ねている。時勢が立ち止まることを許さず、平常の言行では応じ足りず、大人の盛徳をもってしてもなお安んじない所がある。外には変化に趨赴し、内には性命を端正する——あの危惧と疑慮、あのその徳を顕露しがたい処境は、皆時勢が止息を許さないために致す所である。九五に至れば、大人はすでに「化」し、天徳はすでに位に居り、本性はすでに成就して聖に入る。だから「利見大人」と言い、また「聖人作而万物睹」とも言う。「亢龍」に至っては、爻位の卦画に就いて言うのであって、聖人であればその正を失わず、どうして亢極があろうか!
德溥而化,言化物也,以其善世即是化也。善其身,自化也;兼善天下,則是化物也;知化則是德。化,聖人自化也。化之況味,在學者未易見焉,但有此次序。
「徳溥而化」とは、外物を化育することを言う。一世を善く化することができるのは、それ自体がすなわち「化」である。自身を完善にするのは自我の転化であり、兼ねて天下を善くするのは外物の化育である。この「化」を知りうるのが、すなわち徳である。「化」とは、聖人自身の転化を指す。「化」のあの滋味の境界は、学者には容易に体会できず、ただ「大」から「化」への这样一个の次第があることを知るのみである。
九三曰“君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎”,何謂也?子曰:君子進德修業。忠信,所以進德也;修辭立其誠,所以居業也。知至至之,可與幾也;知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。
《文言伝》が問う:九三の爻辞「君子終日乾乾、夕惕若、厲无咎」とはどういう意味か。孔子答えて言う:君子は徳行を増進し、功業を修治する。忠と信は、徳行を増進するためのものである。言辞を修飭してその誠を立てるのは、功業を守るためのものである。至るべき境地を知ってそれに至れば、彼と几微の理を論じることができる。止まるべき界限を知ってそこに止まれば、彼とともに義理を守ることができる。だから上位に居っても驕矜せず、下位に処っても憂懼しない。これによって終日勤勉し、処する時に随って戒懼し、危地にあっても過ちがない。
乾九三修辭立誠,非繼日待旦如周公,不足以終其業。忠信所以進德,學者止是一誠意耳,若不忠信,如何進德!不驕,德當至也;不憂,業當終也。適在不安之位,故曰因其時。
乾卦九三に「修辞立其誠」と言う。周公のように夜を日に継ぎ、天明を坐して待つほど勤勉でなければ、その功業を善く終わらせるに足らない。「忠信所以進徳」——学者のなすべきことはただ一つの「誠意」だけである。もし忠信でなければ、何をもって徳行を増進しようか!「居上位而不驕」は、徳行がもともとあの歩に至るべきだからである。「在下位而不憂」は、功業がもともと終成すべき所があるからである。九三はちょうど安穏でない位置に処するので、「因其時而惕」と言う。
求致用者,幾不可緩;將進德者,涉義必精;此君子所以立多凶多懼之地,乾乾德業,不少懈於趨時也。知至,極盡其所知也。九四曰“或躍在淵無咎”,何謂也?子曰:上下無常,非為邪也;進退無恆,非離群也;君子進德修業,欲及時也,故無咎。
学を求めて用に致そうとする人は、几微の兆に遅緩であってはならない。徳行を増進せんとする人は、義理に渉るとき必ず精審でなければならない。これが君子が多凶多惧の地に身を立てながらも、なお勤勉に已まず徳業に励み、時宜への趨赴に絲毫も懈怠を敢えてしない所以である。「知至」とは、自己の知りうる所を極尽まで推し究めることである。《文言伝》が問う:九四の爻辞「或躍在淵、无咎」とはどういう意味か。孔子答えて言う:上ったり下ったり常規はないが、邪僻なことをしようというのではない。進んだり退いたり定則はないが、同類を離れようというのではない…
以陽居陰,故曰“在淵”;位非所安,故或以躍。德非為邪,故進退上下,惟義所適,惟時所合,故曰“欲及時也”。能如此擇義,則無咎也。九四以陽居陰,故曰在淵,能不忘於躍,乃可免咎。“非為邪也”,終其義也。
九四は陽爻をもって陰位に居るので「在淵」と言う。この位置はそれが安穏とする所ではないので「或躍」と言う。その徳は邪僻に趨るものではないので、進退上下はただ義の宜しき所・時の合う所を見るのみ、ゆえに「欲及時也」と言う。こうして義を擇んで行えば、過ちはない。九四は陽爻をもって陰位に居るので、身が深淵にあると言う。上に騰躍することを忘れなければ、過ちを免れることができる。「非為邪也」とは、それが終始義を守ったことを言う。
九五曰“飛龍在天,利見大人”,何謂也?子曰:同聲相應,同氣相求,水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎,聖人作而萬物睹。本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。
《文言伝》が問う:九五の爻辞「飛龍在天、利見大人」とはどういう意味か。孔子答えて言う:同類の声は互いに応え呼び、同類の気は互いに求め合う。水は湿った所に流れ、火は乾いた所に趨る。雲は龍に随って生じ、風は虎に随って起こる。聖人が興れば、万物は皆彼を仰ぎ見る。本源が天に出ずる者は上に親附し、本源が地に出ずる者は下に親附する——これは皆それぞれその同類に従うのである。
谷神能象其聲而應之,非謂能報以律呂之變也,猶卜筮叩以是言則報以是物而已,易[所]謂“同聲相應”是也。王弼謂“命呂者律”,語聲之變,非此之謂也。聖人作,萬物睹,故利見大人。
山谷の虚神は人の声に倣って応えるが、それが律呂の変化をもって報いることができるというのではない。卜筮する時、あなたがどんな言葉で叩問すれば、それは相応の物象で答えるだけのことである。《周易》の言う「同聲相応」とはまさにこれを指す。王弼の言う「命呂者律」は、声の変化を論じたもので、ここで言う意味ではない。聖人が興れば万物は皆瞻仰に来る、だから「利見大人」と言う。
本乎天者親上,本乎地者親下,此一章止為飛龍在天而發。龍虎水火之喻,蓋明各逐一類去,本在上者卻上去,本在下者卻逐下。德性本得乎天者今復在天,是各從其類也。上九曰“亢龍有悔”,何謂也?子曰:貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。
「本乎天者親上、本乎地者親下」——この一章はただ「飛龍在天」に対して発せられたものである。龍虎水火のあれらの比喩は、万物が各々その同類を追い随うことを説明しようとするもので、もともと上にある者は上に往き、もともと下にある者は下に趨る。徳性はもともと天から得たものであり、今また天に帰る、これが「各従其類」である。《文言伝》が問う:上九の爻辞「亢龍有悔」とはどういう意味か。孔子答えて言う:位は尊いが実位はなく、地位は高いが百姓はなく、賢人は皆下位にあって辅助する者がいない。だから一たび挙動すれば悔恨を招く。
亢而自喪之也。“潛龍勿用”,下也。“見龍在田”,時舍也。“終日乾乾”,行事也。“或躍在淵”,自試也。“飛龍在天”,上治也。“亢龍有悔”,窮之災也。“乾元用九”,天下治也。居大中安止之地,至於三四則不得所安也。
これは亢極して自ら亡びを取るにすぎない。《文言伝》がまた言う:「潜龍勿用」は、下位に居るためである。「見龍在田」は、時勢が彼を一時止まらせるためである。「終日乾乾」は、切実に事を行っているためである。「或躍在淵」は、自ら試みているためである。「飛龍在天」は、上位にあって治を施しているためである。「亢龍有悔」は、窮極のもたらす災いである。「乾元用九」は、天下が治められることである。九二は大中に居って安止すべき地を得るが、九三・九四に至れば、安穏の所を得られない。
聖人神其德,不私其身,故乾乾自強,所以成之於天耳。“潛龍勿用”,陽氣潛藏。“見龍在田”,天下文明。“終日乾乾”,與時偕行。“或躍在淵”,乾道乃革。“飛龍在天”,乃位乎天德。“亢龍有悔”,與時偕極。
聖人は自己の徳を神妙不測にし、この身を私有としないので、勤勉に已まず自強して止まず、こうして天のもとで自己を成すことができる。《文言伝》に言う:「潜龍勿用」は、陽気が潜蔵してまだ発しないためである。「見龍在田」は、天下がこれによって文采光明となるためである。「終日乾乾」は、時勢とともに前行するためである。「或躍在淵」は、乾道がここで変革を生ずるためである。「飛龍在天」は、すでに天徳の位に居るためである。「亢龍有悔」は、時勢とともに窮極に至ったためである。
顏子未成性,是為潛龍,亦未肯止於見龍,蓋以其德其時則須當潛。顏子與孟子時異,顏子有孔子在,可以不顯,孟子則處師道,亦是已老,故不得不顯耳。九二、九三、九四至上九,皆是時也。
顔淵はまだ本性を成就していないので「潜龍」に属する。しかし彼もただ「見龍」の歩に止まることを肯じない、彼の徳と彼の処する時に就いて言えば、もともと潜蔵すべきだからである。顔淵と孟子の処する時勢は異なる。顔淵には孔子が在世しており、顕露せずともよかった。孟子は師道の位に身を置き、年歳もすでに老いたので、顕露せざるをえなかったにすぎない。九二・九三・九四から上九に至るまで、語るのは皆一つの「時」の字である。
九四曰:“上下無常,非為邪也。進退無恆,非離群也。君子進德修業,欲及時也。”此時可上可下,可進可退,“非為邪也”,即是直也。天道不越乎直,直方大則不須習,行之自無不利。
《文言伝》は九四を解して言う:「上下无常、非為邪也。進退无恒、非離群也。君子進徳修業、欲及時也。」この時位は上ることも下ることもでき、進むことも退くこともできる。「非為邪也」とは、一つの「直」の字である。天道は一つの「直」に外ならない。坤卦六二の言う「直・方・大」は、これを成し遂げればもはや演習する必要がなく、行い出せば自然と利あらざる所がない。
非為邪,則是陟降庭止也。進德修業欲及時,即是無然畔援,無然歆羨,誕先登於岸也,言無畔去,亦無援引,亦無歆向,亦無羨而不為,誕知登於岸耳。岸,所處地位也。此與進無咎同意,惟志在位天德而已。位天德,大人成性也。
「非為邪」とは、《詩経・大雅・大明》の言う「陟降庭止」で、上下するのは皆正直に循る。「進徳修業欲及時」とは、《詩経・大雅・皇矣》の言う「无然畔援、无然歆羡、誕先登于岸」——背いて去ることもせず、攀援して引きずることもせず、外物を歆慕することもせず、空しく艶羨してなさざることもせず、ただ篤実にあの岸に登ることを知る。「岸」とは、自己の処する地位を指す。これは《小象伝》の言う「進无咎」と同じ意味で、志はただ天徳に居処することにある。「位天徳」とは、大人が本性を成就したことである。
九三、九四大體相似,此二時處危難之大,聖人則事天愛民,不恤其他,誕先登於岸。九五“大人造也”,造,成就也,或謂造為至義亦可。大人成性則聖也化,化則純是天德也。聖猶天也,故不可階而升。聖人之教,未嘗以性化責人,若大人則學可至也。
九三・九四は大体似ており、この二つの時位は皆極めて大きな危難の中に処する。聖人はここでただ天道に奉事し、百姓を愛養するのみで、他は皆顧恤せず、篤実にあの岸に先に登る。九五に「大人造也」と言う、「造」は成就の意味であり、「造」を「至」と解する人も通じる。大人が本性を成就すれば聖となり、「化」となる。「化」に至れば、純粋に天徳である。聖は天のごとくなので、一段一段と登攀していくことはできない。聖人が人を教えるとき、「性化」のような境界をもって人に責め求めたことはない。「大人」に至っては、学んで到達できるものである。
位天德則神,神則天也,故不可以神屬人而言。莊子言神人,不識義理也;又謂至人真人,其辭險窄,皆無可取。孟子六等,至於神則不可言人也。上九亢龍,緣卦畫而言,須分初終,終則自是亢極。言君位則易有極之理,聖人之分則安有過亢!
天徳の位に居れば「神」であり、「神」はすなわち天である。だから「神」を人の身に繋属して語ることはできない。荘子が「神人」を語るのは、義理を解しないためである。彼がまた語る「至人」「真人」は、措辞が険狭に偏して、いずれも取るに足らない。孟子は善・信・美・大・聖・神の六つの等第を分けるが、「神」の等に至れば、もはや「人」をもって称することができない。上九の「亢龍」は、卦画に就いて言うのであって、必ず初と終を分けなければならず、終位に至れば自然と亢極である。君位に就いて言えば、もともと盛極して反する理がある。聖人の本分に就いて言えば、どうして過亢があろうか!
易雖以六爻為次序而言,如此則是以典要求也。乾初以其在初處下,況聖修而未成者可也。上以居極位畫為亢,聖人則何亢之有!若二與三皆大人之事,非謂四勝於三,三勝於二,五又勝於四,如此則是聖可階也。
《周易》は六爻の次序に按じて語るが、もしこの次序を死んだように見れば、《繋辞伝》の言う「以典要求」——固定不変の条例をもって套する——となる。乾卦初爻は最初最下の位置に処するので、聖徳の修養がまだ成就していない人に比況するのはよい。上爻は極位に居り、卦画が尽きて「亢」と称するが、聖人であれば、どうして亢極があろうか!九二と九三に至っては、語るのは皆大人の分内の事で、九四が九三に勝り、九三が九二に勝り、九五がまた九四に勝るというのではない。もし本当にこう見れば、聖境は一段一段と登攀していけるものとなる。
三四與二,皆言所過之時。二之時平和,見龍在田者則是可止之處也。時舍,時止也,以時之和平,故利見不至於有害。三四則皆時為危難,又重剛,又不中,至九五則是聖人極致處,不論時也。飛龍在天,況聖人之至若天之不可階而升也。大人與聖人自是一節妙處。
九三・九四と九二は、語るのは皆経歴する「時」である。九二の時は平正和緩で、「見龍在田」はまさに止息しうる一つの所である。「時舎」とは、時に随って止まることである。時勢が和平なので、「利見大人」でも禍害を招かない。九三・九四は皆危難の時に処し、重畳の剛爻であり、しかも中位に居らない。九五に至れば、それは聖人の造诣の極致の所で、もはや「時」を論じない。「飛龍在天」は、聖人の至る境に比況するので、天のごとく階を拾って上ることができない。大人と聖人の間には、自ずから一層の微妙な分際がある。
精義入神,以致用也;利用安身,以崇德也。”以理計之,如崇德之事尚可勉勉修而至,若大人以上事則無修,故曰“過此以往,未之或知”,言不可得而知也,直待己實到窮神知化,是德之極盛處也。
《繋辞下伝》に言う:「義理を精研して神妙に入るのは、施用のためである。順利に施用して身を安んずるのは、徳行を尊崇するためである。」道理に按じて推せば、「崇徳」の類の事はなお勉力の修为に倚って到達できる。大人以上の事に至っては、用功修为の術がない。だから《繋辞伝》は続けて「過此以往、未之或知」と言う——あれはもはや思慮の知りうる所ではなく、ただ自己が真実に「窮神知化」を成し遂げてこそ、それが徳の極盛の所である。
然而人為者不過大人之事,但德盛處惟己知之,“默而成之,不言而信,不怒而威”,如此方是成就吾之所行大人之事而已。故於此爻卻說,“大人者與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶”,如此則是全與天地一體,然不過是大人之事,惟是心化也。
しかし人力のなしうる所も、大人の分内の事にすぎない。ただ徳が盛んなあの歩に至れば、ただ自己の心だけが明白に知る。《繋辞上伝》の言う「黙然としてそれを成就し、言わずして自然に信ぜられる」、および古人の言う「怒らずして自ずから威厳がある」——こうまで成し遂げて、はじめて我が践行する大人の事を成就したと算えるにすぎない。だから《文言伝》は九五のこの爻でかえって「大人者、与天地合其徳、与日月合其明、与四時合其序、与鬼神合其吉凶」と言う。この歩に至れば完全に天地と一体となる。しかしそれはなお大人の事にすぎず、ただ心がすでに化しているだけである。
故嘗謂大可為也,大而化不可為也,在熟而已。蓋大人之事,修而可至,化則不可加功,加功則是助長也,要在乎仁熟而已。然而至於大以上自是住不得,言在熟極有意。
だから私はかつて言った:「大」は成し遂げうるものであり、「大而化之」は硬く作り出せるものではない、すべて一つの「熟」の字にある。大人の事は修为に倚って到達できる。「化」に至っては、もはや人力の功を加えることができない。一たび功を加えれば、それは苗を抜いて長を助けることになる。要はただ仁徳が純熟するにあるのみである。しかし「大」以上の歩に至れば、自然と止まることができない——「熟」のこの字を下すのは極めて分寸があることが見える。
大與聖難於分別,大以上之事,如禹、稷、皋陶輩猶未必能知,然須當皆謂之聖人,蓋為所以接人者與聖同,但己自知不足,不肯自以為聖。如禹之德,斯可謂之大矣,其心以天下為己任,規模如此;又克己若禹,則與聖人直無間別,孔子亦謂“禹於吾無間然矣”,久則須至堯舜。
「大」と「聖」は分かちがたい。「大」以上の境界は、禹・后稷・皋陶のあの輩でも必ずしも自ら知ることができない。しかし皆彼らを聖人と称すべきである、彼らの人に接し物に処する道が聖人と同じだからである。ただ自ら知るにまだ足らない所があり、自ら聖に居ることを肯じない。禹の徳行のごときは、「大」と算えられる。彼は心に天下を自己の荷担とする、気象規模はまさにこのようである。これに己私を克制して禹のようになれれば、聖人とほとんど分別がない。孔子も「禹については、私は彼に対し挑剔すべき所がない」(《論語・泰伯》)と言った。このようで久しければ、自然と尭舜の歩に至る。
有人於此,敦厚君子,無少異聖人之言行,然其心與真仲尼須自覺有殊,在他人則安能分別!當時至有以子貢為賢於仲尼者,惟子貢則自知之。人能以大為心,常以聖人之規模為己任,久於其道,則須化而至聖人,理之必然,如此,其大即是天也。
仮にここに一人の敦厚な君子がいて、言行が聖人と絲毫の差もないとしても、彼の心の中で真の孔子と比べれば、自分は必ず異なる所があると感じる。——この一層を、他人はどうして分別しえよう!当時は子貢が孔子より賢だと認める者さえいた、ただ子貢の心の中だけが明白に知っていた。人がもし「大」をもって心を立て、常に聖人の気象規模を自己の荷担とし、この道の上を久しく歩めば、必然に化して聖人に至る。これは道理上の必然である。その時、彼の「大」はすなわち天である。
又要細密處行之,並暗隙不欺,若心化處則誠未易至。孔子猶自謂“若聖與仁則吾豈敢”,儻曰“吾聖矣”,則人亦誰能知!故曰“知我者其天乎”。然則必九五言“乃位乎天德”,蓋是成聖實到也;不言“首出”,所性不存焉,其實天地也,不曰“天地”而曰“天德”,言德則德位皆造,故曰“大人造也”,至此乃是大人之事畢矣。
さらに細密の所で切実に行わなければならない、暗中に人なき隙にも自ら欺かない。心がすでに化したあの一層に至っては、実のところ容易に至れるものではない。孔子でさえ自ら「聖と仁とを言えば、我は豈に敢えて当たらん」(《論語・述而》)と称した。もし彼が「我はすでに聖人である」と言ったとしても、また誰が知ることができよう!だから彼は「我を知るのはただ天ぐらいだろう」(《論語・憲問》)と言った。こう見れば、九五が必ず「乃位乎天徳」と言うのは、聖を成すことが真実に到達したからであり、「首出庶物」と言わないのは、それがすでに「性」の分内ではないからである。実のところ指す所は天地であるが、「天地」と言わず「天徳」と言う。一たび「徳」と言えば、徳も位も皆造诣の至る所となる。だから「大人造也」と言う——ここに至って大人の事は完了する。
五,乾之極盛處,故以此當聖人之成德,言“乃位”即是實到為己有也。若田思慮勉勉而至者,止可言知,不可言位也,“乃位”則實在其所矣。大抵語勉勉者則是大人之分也,勉勉則猶或有退,少不勉勉斯退矣,所以須學問。進德修業,欲成性也,成性則(從)[從]心皆天也。所以成性則謂之聖者,如夷之清,惠之和,不必勉勉。彼一節而成性,若聖人則於大以成性。
九五は乾卦の極盛の所なので、それをもって聖人の徳行の成就に充てる。「乃位」と言うのは、真実に到って自己の所有となったことである。もしただ思慮と勉力に凭って勉强に至っただけなら、「知」と言うことはできても「位」とは言えない。「乃位」と言うのは、実在としてあの所に安住していることである。およそ「勉勉」と語るのは、皆なお大人の分内事に属する。勉力する以上、なお後退しうる。すこしでも勉力しなければ退いてしまうので、必ず学問に倚らなければならない。徳行を増進し功業を修治するのは、本性を成就するためである。本性が成就すれば、心の従う所は天でない所がない。性を成すことが聖と称される所以は、伯夷の清・柳下恵の和のように、もはや勉力して行う必要がないからである。ただ彼らはある一節の上で本性を成就したにすぎず、聖人であれば、「大」の全体の上で本性を成就する。
剛健故應乎天,文明故時行。乾二五皆正中之德,五則曰“大人造也”,又曰“聖人作而萬物睹”,大人而升聖乃位乎天德也。不言“帝王”而言“天德”,位不足道也,所性不存焉。潛龍自是聖人之德備具,但未發見。
ただ剛健ゆえに、天と相応ずることができる。ただ文明ゆえに、時に随って行うことができる。乾卦九二・九五は皆居正得中の徳を有するが、九五でこそ「大人造也」と言い、また「聖人作而万物睹」と言う——これは大人から上って聖となり、そうして天徳の位に居ったことである。《文言伝》は「帝王」と言わず「天徳」と言う、爵位は称するに足らず、それも「性」の分内ではないからである。「潜龍」はもともと聖人の徳がすでに完備具足しており、ただまだ顕発していないだけである。
見龍成性,至飛龍則位天德。“乾元用九”,乃見天則。乾元者,始而亨者也,利貞者,性情也。“利貞者,性情也”,以利解性,以貞解情。利,流通之義,貞者實也;利,快利也,貞,實也;利,性也,貞,情也。
「見龍」は本性がすでに成ったこと、「飛龍」に至れば天徳の位に居る。《文言伝》に「乾元用九、乃見天則」と言う——これによってはじめて天の法則が見える。「乾元」とは、開端して通達することである。「利貞」が言うのは、性と情である。「利貞者、性情也」のこの句は、「利」をもって「性」を解し、「貞」をもって「情」を解する。「利」は流通の意味、「貞」は真実の意味。「利」は暢快通利、「貞」は篤実不虚。「利」は性に対応し、「貞」は情に対応する。
情盡在氣之外,其發見莫非性之自然,快利盡性,所以神也。情則是實事,喜怒哀樂之謂也,欲喜者如此喜之,欲怒者如此怒之,欲哀欲樂者如此樂之哀之,莫非性中發出實事也。乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉!大哉乾乎!剛健中正,純粹精也;六爻發揮,旁通情也;
情はすべて気の形跡の外に落ち、それが発露すれば本性の自然でないものはない。暢快通利に本性を尽く顕出するので、これを「神」と称する。「情」は実在の事で、すなわち喜・怒・哀・楽である。喜ぶべきはこのように喜び、怒るべきはこのように怒り、哀しむべき楽しむべきはこのように哀しみ楽しむ、本性から発し出た実事でないものはない。《文言伝》に言う:乾は開端の所でよく美しき利益をもって天下を利沢するが、それがどこに利するかを言わない、実に偉大なり!偉大なりや、乾!それは剛健にして中正、純粋精一である。六爻が発揮し開いて、万物の情に旁通する。
“剛健中正”,中爻之德。“剛健中正,純粹精也”,主以中正為精也。“六爻發揮”,言時各異。“旁通情也”,情猶言用也。六爻擬議,各正性命,(其)[故]乾德旁通,不失太和而(和)[利]且貞也。時乘六龍,以御天也;雲行雨施,天下平也。
「剛健中正」とは、中爻の徳を言う。「剛健中正、純粋精也」は、「中正」をもって精粹の在る所とする。「六爻発揮」とは、六爻の値する時が各々同じでないことを言う。「旁通情也」——ここの「情」は「用」と言うがごときである。六爻が擬度商議して、万物に各々その性命を正しくさせるので、乾徳は旁通四達してあの至大の和気を失わず、利ありかつ貞である。「時乗六龍、以御天也」。「雲行雨施」、そうして天下太平となる。
君子以成德為行,日可見之行也。“成德為行”,德成自信而不疑,所以日見於外可也。潛之為言也,隱而未見,行而未成,是以君子弗用也。君子學以聚之,問以辯之,寬以居之,仁以行之。
《文言伝》に言う:君子がすでに成した徳を行事に見せるのは、毎日見える行為である。「成徳為行」とは、徳がすでに成就し、自信して疑わず、だから日々外に顕現することができる。「潜」のこの字は、隠伏してまだ顕現せず、践行してまだ成就していないことを言う。ゆえに君子はしばらく施用しない。君子は学習をもってそれを積聚し、発問をもってそれを弁明し、寛厚をもってそれに安処し、仁愛をもってそれを実行する。
君子之道,成身成性以為功者也,未至於聖,皆行未成之地耳。顏子之徒,隱而未見,行而未成,故曰“吾聞其語矣,未見其人也”。“龍德而隱”,聖修而未成者也,非如學者之未成。凡言龍,喻聖也,若顏子可以當之,雖伯夷之學猶不可言龍。龍即聖人之德,顏子則術正也。
君子の道は、自身を成就し本性を成就することを功夫とする。聖の歩に至らなければ、皆なお「行而未成」の境地に処する。顔淵のあの類は、隠伏してまだ顕現せず、践行してまだ成就していないので、孔子は「このような言葉は私は聞いたことがある、このような人は私はまだ見たことがない」(《論語・季氏》)と言った。「龍徳而隠」とは、聖徳の修養がまだ成就しておらず、一般の学者の未成とはまた異なる。およそ「龍」と言うのは、皆聖に比喩する。顔淵のような人はこれに当たることができるが、伯夷のような学問でもなお「龍」と称することはできない。「龍」はすなわち聖人の徳であり、顔淵は歩んだ路数が純正である。
易曰:“見龍在田,利見大人”,君德也。九三重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。九四重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故或之;或之者,疑之也,故無咎。
《周易・文言伝》に「見龍在田、利見大人」、これは君主の徳である。九三は重畳の剛爻で中位に居らず、上は天にあらず、下は田にあらず。だから終日勤勉し、処する時に随って戒懼し、危境にあっても過ちがない。九四もまた重畳の剛爻で中位に居らず、上は天にあらず、下は田にあらず、中間にまた人の位にあらず。だから「或」の字を用いる。「或」を用いるのは、迟疑不定の意味であるから、過ちがない。
此以六畫分三才也。以下二畫屬地,則四遠於地,故言中不在人;若三則止言不在天,在田而已。夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶,先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎!況於鬼神乎!亢之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。其唯聖人乎!知進退存亡而不失其正者,其唯聖人乎!
これは六つの卦画を天・地・人の三才に分配したものである。下の二画を地に属させれば、九四はすでに地位を遠く離れているので、「中不在人」と言う。九三に至っては、ただ「不在天」と言うのみで、まだ田間にあるにすぎない。《文言伝》に言う:いわゆる大人は、その徳は天地と合し、その明は日月と合し、その秩序は四時と合し、その吉凶は鬼神と合する。天に先んじて行えば天は彼に背かず、天に後れて動けば彼は天の時序を奉ずる。天でさえ彼に背かないのに、いわんや人をや!いわんや鬼神をや!「亢」の字に至っては、ただ進を知り退を知らず、ただ存を知り亡を知らず、ただ得を知り喪を知らぬことを言う。そうでない者は、おそらく聖人だけであろう!進退存亡の分際を知りその正を失わない者は、おそらく聖人だけであろう!
浩然無間則天地合德,照無偏繫則日月合明,天地同流則四時合序,酬酢不倚則鬼神合吉凶。天地合德,日月合明,然後能無方無體,然後無我,先後天而不違,順至理以推行,知無不合也。雖然,得聖人之任;皆可勉而至,猶不害於未化爾。
浩然として広大にして一絲の間隔もなければ、天地と徳を合する。万物を照察して偏私の繋累がなければ、日月と明を合する。天地とともに流行すれば、四時と序を合する。応接酬酢して一方に偏らなければ、鬼神とその吉凶を合する。天地と徳を合し、日月と明を合して、そうしてはじめて固定の方所なく拘限の形体なく、そうしてはじめて无我となれる。先天・後天いずれも相違わず、至極の理に順って推行すれば、知る所は理に合わないものがない。しかしこれも聖人の責任を担い上げたにすぎず、これらは皆勉力して到達できるが、なお彼が「未化」の段階にあることを妨げない。
坤卦
坤。元亨,利牝馬之貞。君子有攸往,先迷後得主利。西南得朋,東北喪朋,安貞吉。以西南為得明,乃安貞之德也;以東北為喪朋,雖得主有慶而不可懷也。西南土之位,東北木之位也。
坤卦の卦辞:坤は、元より亨通し、牝馬のように柔順貞正であれば宜しい。君子が往く所あって、先んじて前に出れば道に迷い、後れて従えば主人を得て利を得る。西南に往けば朋類を得、東北に往けば朋類を喪う。貞正に安んずれば吉である。西南をもって朋を得るのは、まさに貞正の徳に安んずることである。東北をもって朋を喪うのは、主人を得て終に喜慶があるとはいえ、朋類を懐恋してはならない。西南は土の方位、東北は木の方位である。
“西南得朋,東北喪朋”,江沱之間,有嫡不以其媵備數,是不能喪朋也;媵遇勞而無怨,卻是能喪朋者,其卒嘯也歌,是“乃終有慶”也。此婦人之教大者也。西南,致養之地,東北,反西南者也,陰陽正合,則陰相對者必陽也。“西南得朋”,是始以類相從而來也。“東北喪朋”,喪朋,相忘之義,聽其自治,不責人,不望人,是喪其朋也,喪朋則有慶矣。
「西南得朋、東北喪朋」は、《詩経・召南・江有汜》に詠まれた江水・沱水の間の事をもって語ることができる。あの正妻が陪嫁の媵妾を人数をそろえて同行させようとしなかったのは、「喪朋」できないことである。媵妾が労苦を受けて少しも怨恨がなかったのは、まさに「喪朋」できる人であり、最後に彼女は「其嘯也歌」して心気が舒畅した、これが「乃終有慶」である。これは婦人の教えの大きな節目である。西南は化育長養の地、東北は西南と正反対である。陰陽が正しく相配合すれば、陰に相対するのは必ず陽である。「西南得朋」とは、初めは同類が相聚まって来ることである。「東北喪朋」——「喪朋」は彼此相忘の意味で、相手に任せて自ら処置させ、人を責めず、人に望まない、これがその朋を喪うことである。朋を喪うことができれば、かえって喜慶があるのである。
江有沱、有汜、有渚,皆是始離而終合之象也。有嫡不以其媵備數,是不能喪朋;媵遇勞而無怨,是能喪朋也,以其能喪朋,故能始離而終合。“之子歸”,自嫡也;“不我以”,“不我與”,“不我過”,皆言其始之不均一也。“其後也悔”,嫡自悔也。處,“既安既處”之處也,始離而終既處也。歌是“乃終有慶”,慶則同有慶。
江水に沱・汜・渚といった分流があるのは、皆初め分離して終に会合する象である。正妻が媵妾を人数をそろえさせようとしなかったのは朋を喪うことができないこと、媵妾が労苦を受けて少しも怨恨がなかったのは朋を喪うことができること、彼女が朋を喪うことができたからこそ、初め分離して終に会合できるのである。詩の「之子帰」は正妻の嫁ぐことを指す。「不我以」「不我与」「不我過」は皆初めの待遇が均しからず一体となれなかったことを言う。「其後也悔」は正妻が自ら悔悟したことである。あの「処」の字は、《詩経》の「既安既処」の「処」で、初め分離して終に安らかに処ることを言う。「其嘯也歌」はすなわち「乃終有慶」であり、慶があれば嫡妻も媵妾もともに慶を有するのである。
彖曰:至哉坤元!萬物資生,乃順承天。坤厚載物,德合無疆。含弘光大,品物咸亨。牝馬地類,行地無疆。柔順利貞,君子攸行。先迷失道,後順得常。坤先迷不知所從,故失道;後能順聽,則得其常矣。西南得朋,乃與類行;東北喪朋,乃終有慶。安貞之吉,應地無疆。
《坤卦・彖伝》に言う:至極なりや、坤の「元」!万物は皆それに倚って生成し、それは天を順承する。坤は厚く重くして万物を載せ、徳性は辺際なきまで合する。含容宏大にして光輝広く被せ、各種の品物は皆これによって通達する。牝馬は地の類に属し、大地を行って疆界がない。柔順にして貞正に利あり、まさに君子の行うべき所である。先んじて前に出れば道路に迷い、後れて従えば常理に合する——坤が前にあって迷うのは、誰に従うべきかを知らないからで、道を失う。後れて順从し聴命すれば、その常道を得る。西南に往き朋を得るのは、同類と同行することである。東北に往き朋を喪うのは、終にかえって喜慶があることである。貞正に安んずる吉利は、地の無疆に応ずるのである。
象曰:地勢坤,君子以厚德載物。初六,履霜堅冰至。象曰:“履霜堅冰”,陰始凝也,馴致其道,至堅冰也。六二,直方大,不習無不利。象曰:六二之動,直以方也。“不習無不利”,地道光也。地道之有孚者,故曰光也。六三,含章可貞,或從王事,無成有終。象曰:“含章可貞”,以時發也。“或從王事”,知光大也。
《坤卦・大象伝》に言う:大地の形勢がすなわち坤であり、君子はこれに法り、深厚な徳をもって万物を載せる。初六の爻辞:霜を履めば、堅氷がまもなく来ることを知る。《小象伝》に言う:「履霜堅氷」は、陰気が凝結し始めたことである。この道に順って一歩一歩発展していけば、堅氷に至る。六二の爻辞:正直・端方・宏大で、演習せずとも利あらざる所なし。《小象伝》に言う:六二の動は、直くかつ方である。「不習无不利」は、地道が光明であるがゆえである。地道は自らその誠信不欺を有するので、「光」と言う。六三の爻辞:文采を含蓄して正を守ることができ、あるいは君王の事に従って、成功を居らずして終わりを全うする。《小象伝》に言う:「含章可貞」は、時を待って発するものである。「或従王事」は、その知恵が光明宏大である。
六三以陰居陽,不獨有柔順之德,其知光大,含蘊文明,可從王事者也。然不可動以躁妄,故可靜一以俟時;不可有其成功,故無成乃有終也。六四,括囊,無咎無譽。象曰:“括囊無咎”,慎不害也。六五,黃裳元吉。象曰:“黃裳元吉”,文在中也。上六,龍戰于野,其血玄黃。象曰:“龍戰于野”,其道窮也。用六,利永貞。象曰:“用六永貞”,以大(中)[終]也。
六三は陰爻をもって陽位に居り、柔順の徳があるだけでなく、その知恵はなお光明宏大で、文采光明を含蘊しており、君王の事に従うべきものである。しかし躁動妄進してはならず、静定専一に時機を待つのが宜しい。またその成功を擁してもならず、「无成」でこそ「有終」を得られる。六四の爻辞:袋を括るように収斂すれば、過ちもなく称誉もない。《小象伝》に言う:「括嚢无咎」は、謹慎であれば禍を招かない。六五の爻辞:黄色の裳、大吉。《小象伝》に言う:「黄裳元吉」は、文采が中に蕴含していることである。上六の爻辞:龍が原野で交戦し、青黄相雑じった血を流す。《小象伝》に言う:「龍戦于野」は、その路がすでに尽きたことである。用六の辞:永久に正を守るに宜しい。《小象伝》に言う:「用六永貞」は、宏大をもって終わりとする。
文言曰:坤至柔而動也剛,至靜而德方,後得主而有常,含萬物而化光。坤道其順乎,承天而時行!效法故光。屈伸、動靜、終始各自則,今以剛柔言之,剛何嘗無靜,柔何嘗無動,“坤至柔而動也剛”,則柔亦有剛,靜亦有動,但舉一體,則有屈伸、動靜、終始,乾行不妄,則坤順必時也。積善之家,必有餘慶;積不善之家,必有餘殃。
《坤卦・文言伝》に言う:坤は極めて柔順だが、一たび動けば剛である。極めて安静だが、徳性は端方である。後れて従って主人を得て常道を有し、万物を含容して化育広大である。坤道はおそらく一つの「順」であろう、天道を承受して時に随って施行する!それが乾を效法するので、光大することができる。屈と伸・動と静・終と始は、各々その法則がある。今、剛柔をもって言えば、剛に静がないことがあろうか、柔に動がないことがあろうか?「坤至柔而動也剛」——柔の中にも剛があり、静の中にも動があることが見える。どの一つの整体を挙げても、その中に屈伸・動静・終始がある。乾の運行に虚妄がなければ、坤の順承も必ず時に合する。《文言伝》がまた言う:善行を積み重ねる家には必ず余りある福慶があり、不善を積み重ねる家には必ず余りある禍殃がある。
餘慶餘殃,百祥百殃,與中庸必得之義同。善者有後,不善者無後,理當然,其不然者,亦恐遲晚中間。譬之瘠之或秀,腴之或不秀,然而不直之生也幸而免,遇外物大抵適然耳。君子則不恤,惟知有義理。
「余慶」「余殃」および《尚書・伊訓》の言う「百祥」「百殃」は、《中庸》が大徳ある者は必ずその位・その禄・その名・その寿を得ると論じるのと同じ理である。善を行う者には後があり、不善の者には後がない——これは道理上当然である。その中に応験しない者があっても、おそらく早晩の間の事にすぎない。これは痩せた田にも時には良い苗が生え、肥沃な田がかえって実らないことがあるようなものである。正直でない者が生きながらえるのは、僥倖して免れたのである。人が外物に遇うのは、大抵偶然にすぎない。君子はこれらに心を掛けず、ただ一つの義理があることを知るのみである。
臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辯之不早辯也。易曰“履霜堅冰至”,蓋言順也。直其正也,方其義也,君子敬以直內,義以方外,敬以直內則不失於物,義以方外則得己,敬義一道也。敬所以成仁也,蓋敬則實為之,實為之故成其仁。敬義立而德不孤。“直方大,不習無不利”,則不疑其所行也。
《文言伝》に言う:臣子が君主を弑し、子が父を弑するのは、一朝一夕の故ではなく、その由来は漸次積み重なったもので、ただ弁ずべき時に早く弁じなかったからである。《周易》の「履霜堅氷至」は、まさにこの勢いに順い漸を積むことを語る。「直」はその正に就いて言い、「方」はその義に就いて言う。君子は敬をもって内の心を端直にし、義をもって外の事を方正にする。敬をもって内の心を端直にすれば、外物への応接に喪う所がない。義をもって外の事を方正にすれば、己身に得る所がある。敬と義はもともと同じ一条の道理である。敬は仁を成就するためのもので、敬を持せば切実に行い、切実に行うので、その仁を成就できる。敬と義が確立すれば、徳は孤ならない。「直方大、不習无不利」は、彼が自己の行う所に対してもはや疑惑がないことを言う。
陰雖有美,含之以從王事,弗敢成也,地道也,妻道也,臣道也,地道無成而代有終也。天地變化,草木蕃;天地閉,賢人隱。易曰“括囊無咎無譽”,蓋言謹也。君子黃中通理,正位居體,美在其中,而暢於四支,發於事業,美之至也。
《文言伝》に言う:陰は美徳があるとはいえ、含蓄して君王の事に従い、成功を自ら居ることを敢えてしない。これは地道であり、妻道であり、臣道である。地道は成功を自ら居らず、天に代わって終成する所がある。天地の気が変化流通すれば草木は繁盛し、天地の気が閉塞して交わらなければ賢人は隠退する。《周易》の「括嚢无咎无誉」は、まさに謹慎を語る。君子は中に中和の徳を懐いて文理に通達し、名位を端正してその身を安処する。美は裏に蕴含し、四肢に暢達し、事業に発揮する——これは美の極まる所である。
陰疑於陽必戰,為其嫌於無陽也,故稱龍焉;猶未離其類也,故稱血焉。夫玄黃者,天地之雜也,天玄而地黃。正位居體,所以應黃裳之美。
《文言伝》に言う:陰が盛んになって陽と匹敵すれば、必ず交戦する。人がここにはもう陽がないと疑うことを恐れるので、これを「龍」と称す。しかしそれは結局陰の同類を離脱していないので、また「血」と称す。「玄黄」とは、天色と地色の混雑で、天は玄色、地は黄色である。「正位居体」は、まさに六五の「黄裳」の美に応ずる。
屯卦
屯。元亨利貞,勿用有攸往,利建侯。彖曰:屯,剛柔始交而難生,動乎險中,大亨貞。雷雨之動滿盈,天造草昧,宜建侯而不寧。往則失其居矣。象曰:雲雷屯,君子以經綸。
屯卦の卦辞:屯は、元より亨通して貞正に利あり、往く所あるべからず、諸侯を建てるに宜しい。《屯卦・彖伝》に言う:屯とは、剛気と柔気が交わり始めて艱難がこれに随いて生じ、険陷の中にあって動き、大いに亨通して貞正である。雷雨の鼓動が充満盈溢し、上天はまさに草創冥昧の局面を造作している。この時、諸侯を建てるに宜しく、自ら安寧を求めるべからず。この時もし軽率に往けば、自己の居所を失う。《屯卦・大象伝》に言う:雲が上にあり雷が下にあるのが屯である。君子はこれに法り、経緯をもって天下を治理する。
雲雷皆是氣之聚處,屯,聚也。初九,磐桓,利居貞,利建侯。象曰:雖磐桓,志行正也。以貴下賤,大得民也。磐桓猶言柱石。磐,磐石也;桓,桓柱也;謂利建侯,如柱石在下不可以動,然志在行正也。六二,屯如邅如,乘馬班如,匪寇婚媾。女子貞不字,十年乃字。象曰:六二之難,乘剛也。“十年乃字”,反常也。
雲と雷は皆気の聚集する所で、「屯」はすなわち聚である。初九の爻辞:磐桓して進まず、安居して正を守るに宜しく、諸侯を建てるに宜しい。《小象伝》に言う:磐桓して進まないが、志は正道を推行するにある。尊貴の身をもって卑賤の下に屈居すれば、大いに民心を得る。「磐桓」は柱石と言うがごとく、「磐」は磐石、「桓」は桓表の柱である。侯を建てるに宜しいと言うのは、柱石が下に安くあって動かせないがごとく、しかし志は正道を推行するにある。六二の爻辞:屯難にあって回旋し、馬に乗って徘徊して進まず、来るのは強寇ではなく求婚者である。女子は貞を守り嫁ぐことを肯じず、十年の後ようやく嫁ぐ。《小象伝》に言う:六二の艱難は、剛爻の上に乗凌するためである。「十年乃字」は、終に常道に復帰する。
班,布,不進之貌。六三,即鹿無虞,惟入于林中,君子幾不如舍,往吝。象曰:“即鹿無虞”,以從禽也。君子舍之,往吝窮也。處非其地,故曰“入于林中”。虞,防禁也。二以乘剛有寇,故五若可親;五屯其膏,故不若舍之。
「班」は散布徘徊して進もうとしない様子である。六三の爻辞:鹿を追逐して虞人の導きがなければ、ただ山林の中に陥入するのみである。君子は幾を見て作す、捨てるに如かず、往けば必ず憾惜がある。《小象伝》に言う:「即鹿无虞」は、ひたすら禽獣を貪逐することである。君子がそれを捨てるのは、往けば憾惜困窮に陥入するからである。六三の処する所はそれがいるべき位置ではないので、「入于林中」と言う。「虞」は、防守禁護を掌る官である。六二は剛爻を乗凌して寇難があるので、九五は親附できるかのようだが、九五が自らの膏沢を吝惜するので、むしろ捨てるに如かない。
六四,乘馬班如,求婚媾,往吉,無不利。象曰:求而往,明也。九五,屯其膏,小貞吉,大貞凶。象曰:“屯其膏”,施未光也。上六,乘馬班如,泣血漣如。象曰:“泣血漣如”,何可長也!待求而往。
六四の爻辞:馬に乗って徘徊して進まず、婚配を求めに往けば吉で、利あらざる所なし。《小象伝》に言う:求められて後に往くのは、明智である。九五の爻辞:屯聚して自らの膏沢を吝惜する。小事は正を守れば吉、大事は正を守れば凶。《小象伝》に言う:「屯其膏」は、恩の施しがまだ広大でないことである。上六の爻辞:馬に乗って徘徊して進まず、泣血が漣漣として止まない。《小象伝》に言う:「泣血漣如」——これでどうして長久しえよう!六四はまさに相手が来て求めるのを待ってから往いたのである。
蒙卦
蒙。亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告,利貞。禮聞取道義於人,不聞取其人之身。來之為言,屬有道義者謂之來。來學者,就道義而學之,往教者,致其人而取教也;“童蒙求我,匪我求童蒙”是也。
蒙卦の卦辞:蒙は亨通。我が蒙昧の童子に求めるのではなく、蒙昧の童子が我に求めるのである。初めの占筮では告げ、再三すれば凟れ、凟れれば告げない。正を守るに宜しい。礼に按すれば、人に道義を求めに行くことは聞くが、人そのものを取り寄せることは聞かない。いわゆる「来」は、道義ある側に就いて言うので、他者が彼の所に来てはじめて「来」と言う。「来学」は道義に就いて彼に学ぶこと、「往教」は人を招き寄せて彼に教を取ることである。卦辞の「童蒙求我、匪我求童蒙」はまさにこの理を言う。
教人當以次,守得定,不妄施。易曰:“初筮告,再三瀆,瀆則不告”,是剛中之德也。彖曰:蒙,山下有險,險而止,蒙。“險而止蒙”,蒙亨以亨行時中也。夫險而不止則入於坎,入於蹇,不止則是安其危之類也。以其知險而止也,故成蒙之義方以有求。“童蒙求我,匪我求童蒙”,以蒙而求,故能時中,所以亨也。
人を教えるには次第があり、自ら守りが定まり、軽率に施与しない。《周易》の「初筮告、再三凟、凟則不告」は、まさに九二の剛健居中の徳である。《蒙卦・彖伝》に言う:蒙は、山下に険があり、険に遇って止まる——これが蒙である。「険而止蒙」——蒙が亨通しうるのは、亨通の道をもって随時得中を実行するに倚る。険に遇って止まらなければ、坎卦の重険に陥入し、蹇卦の難行に陥入する。止まらなければ、危境に安処する類に属する。まさにそれが険を知ってよく止まるので、「蒙」の意義が成り立ち、転じて求める所を有するのである。「童蒙求我、匪我求童蒙」は、蒙昧の身をもって教を求めに来るので、随時得中することができ、よって亨通する。
[險而止蒙,夫於不當止而止,是險也,如告子之不動心,必以義為外,是險而止也。蒙險在內,是蒙昧之義。蒙方始務求學,而得之始,是得所止也。若蹇則是險在外者也。
「険而止蒙」:止まるべきでない所で止まった——これ自体が険である。たとえば告子の「不動心」は、必ず義を心外の物と見なす——これが険而止である。蒙卦の険は内卦にあり、まさに「蒙昧」の意に合する。蒙者は学を求めることを始めたばかりで、得る所の開端は、自己の止まるべき所を得ることである。蹇卦に至っては、あれは険が外卦にあるものである。
人心多則無由光明,“蒙雜而著”,“著”,古“著”字,雜著於物,所以為蒙。蒙,昏蒙也。“蒙亨”,以亨行時中也。“匪我求童蒙,童蒙求我”,志應也。“初筮告”,以剛中也。“再三瀆,瀆則不告”,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。象曰:山下出泉,蒙,君子以果行育德。
人の心頭の念慮が多くなれば、光明の由がない。《雑卦伝》の「蒙雑而着」——この「着」は古の「著」の字で、雑然として外物に附着し、よって蒙昧となったことを言う。「蒙」はすなわち昏昧である。《彖伝》に言う:「蒙亨」は、亨通の道をもって随時得中を実行するに倚る。「匪我求童蒙、童蒙求我」は、彼此の心志が相応ずることである。「初筮告」は、九二が剛健居中だからである。「再三凟、凟則不告」は、蒙道を凟れたからである。蒙昧がまだ鑿かれぬうちにその正を培養する——これは聖人を造就する功業である。《蒙卦・大象伝》に言う:山下に泉水が湧き出るのが蒙である。君子はこれに法り、果決な行動をもって徳性を培育する。
時[中]之義甚大,如“蒙亨以亨行時中也”者,蒙何(嘗)[以]有亨?以九二之亨行蒙者之時中,故蒙所以得亨也;蒙無遽亨之理,以九二循循行時中之亨也。蒙卦之義,主之者全在九二,彖之所論,皆二之義。
「時中」のこの二字は意義が極めて大きい。「蒙亨、以亨行時中也」のこの句——蒙それ自体は何を凭って亨通するのか。九二の亨通に倚って蒙者の随時得中を成全し、だから蒙はようやく亨通を得るのである。蒙にはもともと驟然と亨通する道理がなく、すべて九二が循循善誘してあの随時得中の亨通を施行することに倚る。蒙卦の意義は、主を為すのは全く九二一爻にあり、《彖伝》が論説する所は皆九二の意である。
教者但觀蒙者時之所及則道之,此是以亨行時[中]也;此時也,正所謂如時雨化之。如既引之中道而不使之通,則是教者之過;當時而道之使不失其正,則是教者之功。[“蒙以養正,聖功也”,]養其蒙使正者,聖人之功也。初六,發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。象曰:“利用刑人”,以正法也。
教える者は学者が当下到達しうる程度だけを見て彼を導く——これが「以亨行時中」である。この「時」はまさに《孟子・尽心上》の言う「如時雨化之」——時雨のように彼を潤化することである。もしすでに彼を中道に引き上げながら彼を通達させなければ、それは教者の過失である。時に因って引導して彼をその正を失わせなければ、それは教者の功労である。「蒙以養正、聖功也」——蒙昧の人を培養して彼を正に帰せしめることは、まさに聖人の功業である。初六の爻辞:蒙昧を啓発するには、刑罰をもって人を整粛し、彼を桎梏から解脱させるに宜しい。これに照らしてひたすら往けば憾惜がある。《小象伝》に言う:「利用刑人」は、法度を端正するためである。
以柔下賢,居於坎陷,然無所私繫,用心存公,雖不能諭人於道以辨曲直,正法可也。善行法者多說於任刑,道非弘矣,故以往吝,故一作終。故君子哀矜而勿喜也。九二,包蒙吉。納婦吉,子克家。象曰:“子克家”,剛柔接也。
初六は柔弱の身をもって賢者の下に屈居し、また坎険陷落の中に処するが、私心の牽繋がなく、心を公道に存する。道理をもって人を導き曲直を弁明することはできないが、法度を端正するにはよい。善く法を行う者は多くはひたすら刑を用いることを好み、そうすれば道は宏大でなくなるので「以往吝」と言う(「故」の字は一の本に「終」と作る)。だから《論語・子張》は、君子は実情を察知すれば哀矜の心を存すべきで自ら喜ぶべからずと言う。九二の爻辞:蒙昧を包容すれば吉、婦人を娶納すれば吉、子は家事を担うことができる。《小象伝》に言う:「子克家」は、剛と柔が互いに接応することである。
擇婦而納之則吉。九二以下卦之中主卦德,故曰子克家”。以子任家,必剛柔得中乃濟,不可嚴厲也。六三,勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利。金夫,二也;“不有躬”,履非正則不能固於一也。象曰:“勿用取女”,行不順也。六四,困蒙吝。象曰:困蒙之吝,獨遠實也。六五,童蒙吉。象曰:童蒙之吉,順以巽也。
良い婦人を選んで娶納すれば吉である。九二は下卦の中に居る位置をもって一卦の徳を主るので「子克家」と言う。子に家事を担わせるには、必ず剛柔ともにその中を得てこそ成し遂げられるので、ひたすら厳厲であってはならない。六三の爻辞:この女子を娶るべからず。彼女は金ある男子を見れば身を失い、益するところがない。いわゆる「金夫」とは九二を指し、「不有躬」は、彼女の処する所が正しくなく、堅守専一できないことを言う。《小象伝》に言う:「勿用取女」は、彼女の行いが正道に順わないことである。六四の爻辞:蒙昧に困り、憾惜がある。《小象伝》に言う:困蒙の憾惜は、それだけが剛実の爻から遠く離れているためである。六五の爻辞:童蒙、吉。《小象伝》に言う:童蒙の吉は、それが柔順にして謙遜だからである。
不願不信,蒙之失正者也。故蒙正如童吉,與夫彖之義同。上九,擊蒙,不利為寇,利禦寇。象曰:利用禦寇,上下順也。蒙暗犯寇,御之可也,以剛明極顯而寇蒙暗,則傷義而眾不率也。九二以剛居中,故能包蒙而吉。
向往しようとせず信従しようとしない——これは蒙昧にしてその正を失った人である。だから蒙でありながら正しく、童子のように純一であれば吉であり、これは《彖伝》の意と同じである。上九の爻辞:蒙昧を撃治するには、自ら強寇と為るべからず、強寇を御るに宜しい。《小象伝》に言う:強寇を御するに宜しいのは、上下ともに順当だからである。蒙昧昏暗の人が来て寇と為るのを御するのはよい。しかし剛強明察・極めて顕赫の勢いを凭ってあの蒙昧昏暗の人々を侵害すれば、義を傷つけ、衆人も肯じて服従しない。九二は剛爻をもって中位に居るので、蒙昧を包容して吉を得られる。
需卦
需。有孚,光亨貞吉,利涉大川。剛健而不陷而能俟時,故有孚於光亨也。訟、需、坎皆言“有學”,必然之理也。又如未濟“飲酒濡首”亦言“有孚”,襲同此。彖曰:需,須也,險在前也,剛健而不陷,其義不困窮矣。“需有孚光亨貞吉”,位乎天位,以正中也。“利涉大川”,往有功也。象曰:雲上放天,需,君子以飲食宴樂。“雲上於天,需,君子以飲食宴樂”,“九五,需于酒食貞吉”,未濟亦“有孚于飲酒”,以陰在前,無所施為,惟於飲食而已。
需卦の卦辞:需は、誠信有り、光明亨通、正を守れば吉、大河を渡渉するに宜しい。剛健にして険中に陥入せず、また時機を待つことができるので、光明亨通の中に誠信を含む。訟卦・需卦・坎卦は皆「有孚」を語る、これは必然の道理である。また未済卦上九の「飲酒濡首」も「有孚」を語り、用法はこれと相因じて同じである。《需卦・彖伝》に言う:需はすなわち等待で、険難が前にある。剛健にして陷落せず、その義は困窮に至らない。「需有孚、光亨貞吉」は、九五が天位に居って中正だからである。「利渉大川」は、往けば必ず功效があることである。《需卦・大象伝》に言う:雲気が天上に升るのが需である。君子はこれに法り、飲食宴楽をもって従容として時を待つ。「雲上于天、需、君子以飲食宴楽」は、九五の「需于酒食、貞吉」および未済卦の「有孚于飲酒」と同様、陰柔の険難が目前にあって施為する由がなく、ただ飲食の上で従容として自ら養うのみである。
初九,需于郊,利用恆,無咎。象曰:“需于郊”,不犯難行也。“利用恆無咎”,未失常也。九二,需于沙,小有言,終吉。象曰:“需于沙”,衍在中也。雖小有言,以吉終也。九三,需于泥,致寇至。象曰:“需于泥”,災在外也。自我致寇,敬慎不敗也。六四,需于血,出自穴。象日:“需于血”,順以聽也。
初九の爻辞:郊野で待つ、常を守り変わらないに宜しく、過ちがない。《小象伝》に言う:「需于郊」は、険難を冒して行かないことである。「利用恒无咎」は、常道を失わなかったことである。九二の爻辞:沙上で待つ、やや言語の傷あり、終に吉。《小象伝》に言う:「需于沙」は、寛綽にして中に居ることである。やや言語の傷があるが、終に吉をもって収場する。九三の爻辞:泥濘の中で待つ、寇難が来るのを招く。《小象伝》に言う:「需于泥」は、災禍が外卦にあることである。自ら寇難を招くが、恭敬謹慎であれば失敗しない。六四の爻辞:血の中で待つ、洞穴の中から出る。《小象伝》に言う:「需于血」は、柔順にして聴命することである。
以柔居陰,不能御弦,來則聽順而闢其路。九五,需于酒食,貞吉。象曰:酒食貞吉,以中正也。上六,入于穴,有不速之客三人來,敬之終吉。象曰:“不速之客來,敬之終吉。”雖不當位,未大失也。上無所出,故降人自穴,恭以納之,雖處極上,不至於失。
六四は柔爻をもって陰位に居り、強勁な弓弦に抵当しきれず、来者が至れば順従聴命して彼に路を譲る。九五の爻辞:酒食の中で待つ、正を守れば吉。《小象伝》に言う:酒食貞吉は、それが中に居って正を得たためである。上六の爻辞:洞穴に入ると、招かざる三人の客が来る。彼らを恭敬に待遇すれば、終に吉。《小象伝》に言う:「不速之客来、敬之終吉」——処する位は当たらないが、大きな過失はない。上六は最上にあって往く所がないので、洞穴から身を降ろして来者を納れ、恭敬に容納する。極上の位に処するが、失に至ることはない。
訟卦
訟。有孚,窒惕,中吉,終凶。利見大人,不利涉大川。彖曰:訟,上剛下險,險而健訟。“訟有孚窒惕中吉”,剛來而得中也。“終凶”,訟不可成也。“利見大人”,尚中正也;“不利涉大川”,入于淵也。象曰:天與水違行,訟,君子以作事謀始。
訟卦の卦辞:訟は、誠信ありながら窒塞され、よって戒懼する。中途に止息すれば吉、争訟を尽くせば凶。大人に見るに利あり、大河を渡渉するに利あらず。《訟卦・彖伝》に言う:訟卦は上体が剛健・下体が険陷、内は険にして外は健——ゆえに訟となる。「訟有孚窒惕中吉」は、剛爻が来て下卦に居って中位を得たことである。「終凶」は、争訟は尽くしてはならないことである。「利見大人」は、中正の人を崇尚することである。「不利渉大川」は、深淵に陥入するであろうことである。《訟卦・大象伝》に言う:天は西に転じ水は東に流れ、両者は相背いて行く——これが訟である。君子はこれに法り、事を作す初めにまず謀划を明らかにする。
初六,不永所事,小有言,終吉。象曰:“不永所事”,訟不可長也。雖小有言,其辨明也。初於正應,中有陰陽之間,不無訟。但以陰居下體為柔順,履險方初,不永所事,其理辨直,故小有言終吉。直一作正。九二,不克訟,歸而逋其邑人三百戶,無眚。象曰:“不克訟”,歸逋竄也。自下訟上,患至掇也。
初六の爻辞:争訟の事を長びかせず、やや言語の傷あり、終に吉。《小象伝》に言う:「不永所事」は、争訟は長びかせてはならないことである。やや言語の傷があるが、是非は終に弁明された。初六と九四はもともと正応だが、中間に陰陽の間阻が隔たるので、争訟なくしてはいられない。しかしそれは陰爻をもって下体に居り柔順で、険境に踏入れたのはまだ開頭で、事を長びかせず、道理もまた直く弁じたので、やや言語の傷があるのみで終に吉となる(「直」の字は一の本に「正」と作る)。九二の爻辞:争訟に勝つことができず、逃げ帰って自己の三百戸の封邑に入れば、災患はない。《小象伝》に言う:「不克訟」は、帰来して逃窜したことである。下位をもって上位と争訟すれば、禍患は手を伸ばして拾い取るがごとく自ら招く。
處險體剛,好訟者也,上下二陰俱非己應,理為不直,故不訟。歸而逋竄;使其邑人之眾無辜被禍,故曰“邑人無眚”。六三,食舊德,貞厲,終吉。或從王事無成。象曰:“食舊德”,從上吉也。
九二は険体の中に処して自身剛強であり、争訟を好む。しかし上下の二つの陰爻はいずれもその正応ではなく、道理の上で立たないので、官司を打つことができず、帰来して逃窜するほかない。こうしてこそ封邑の衆人を無辜に禍に遭わせないので、爻辞は「邑人无眚」と言う。六三の爻辞:旧有の徳沢を享用し、正を守り危惧を知れば終に吉。あるいは君王の事に従っても、成功を居らない。《小象伝》に言う:「食旧徳」は、上の者に順从すれば吉である。
履非其位,處險之極,若能不為他累,專應上九,則雖危終吉,故曰“舊德”;以陰居陽,又處成功,必有悔吝,故曰“無成”。九四,不克訟,復即命渝,安貞吉。象曰:“復即命渝”,安貞不失也。九五,訟元吉。象曰:“訟元吉”,以中正也。上九,或錫之鞶帶,終朝三褫之。象曰:以訟受服,亦不足敬也。體健而比於三,理為不直,故不克訟。
六三の居る所はそれが処すべき位ではなく、また険体の頂端にある。もし他の爻に牽累されず、専一に上九に応合できれば、危険があるとはいえ終に吉である。だから「旧徳」と言う。それは陰爻をもって陽位に居り、また成功の位に処するので、必ず悔恨憾惜がある。だから「无成」と言う。九四の爻辞:争訟に勝つことができず、帰って天命に就き心意を改め、正を守り安んずれば吉。《小象伝》に言う:「復即命渝」は、正を守り安んずれば失がないことである。九五の爻辞:争訟を聴断して大吉。《小象伝》に言う:「訟元吉」は、それが中に居って正を得たためである。上九の爻辞:あるいは争訟によって大帯を賜わるも、一朝のうちに三度剥奪される。《小象伝》に言う:争訟によって得た服飾は、尊敬に足らない。九四は体質が剛健にして六三に親近するが、道理の上で立たないので、官司を打つことができない。
師卦
師。貞,丈人吉,無咎。丈人剛過,太公近之。剛正、剛中,則是大人聖人,得中道也。太公則必待誅紂時,雖鷹揚,所以為剛過,不得稱大人。彖曰:師,眾也;貞,正也;能以眾正,可以王矣。剛中而應,行險而順,以此毒天下而民從之,吉又何咎矣!象曰:地中有水,師,君子以容民畜眾。初六,師出以律,否臧凶。象曰:“師出以律”,失律凶也。
師卦の卦辞:師は、正を守り、老成持重の丈人に統率させれば吉、過ちがない。「丈人」は剛強にしてやや過ぎた者で、姜太公がこの類に近い。もし剛にして正、剛にして中ならば、それは大人・聖人で、中道を得た者である。太公は必ず誅紂の時を待ってはじめて施展した。《詩経・大雅・大明》は彼を「維師尚父、時維鷹揚」と称す——あの威猛はまさに剛が過ぎた表れであり、だからまだ大人と称することができない。《師卦・彖伝》に言う:師とは衆であり、貞とは正である。衆人の力をもって正道を行うことができれば、王たるべきである。九二は剛健居中にして上に六五と相応じ、険難の中を行きながら衆心が順从する。この法をもって天下を役使しても百姓がなお跟従する——吉利であり、どうして過ちがあろうか!《師卦・大象伝》に言う:地中に水を蓄えるのが師である。君子はこれに法り、百姓を容納し民衆を畜養する。初六の爻辞:兵を出すには紀律に倚り、紀律が不善ならば凶。《小象伝》に言う:「師出以律」——紀律を失えば凶である。
“師出以律”,師之始也,體柔居賤,不善用律,故凶。九二,在師中,吉,無咎。王三錫命。象曰:“在師中吉”,承天寵也。“王三錫命”,懷萬邦也。懷愛萬邦,故所以重將帥。六三,師或輿尸,凶。象曰:“師或輿尸”,大無功也。
「師出以律」は、出師の初めを言う。初六は体質が柔弱にして卑賤の位に居り、紀律を運用することに善くないので凶である。九二の爻辞:身が軍中にあって中に居り偏らず、吉、過ちなし、君王が三度命令を頒賜する。《小象伝》に言う:「在師中吉」は、上天の寵遇を承けたことである。「王三錫命」は、万邦を懐撫するためである。まさに万邦を懐愛せんとするがゆえに、将帥をこのように看重するのである。六三の爻辞:軍隊はあるいは車で屍体を載せて帰る、凶。《小象伝》に言う:「師或輿尸」は、大いに功がないことである。
陰柔之質,履不以正,以此帥眾,固不能一。師丈人吉,非陰柔所御。六四,師左次,無咎。象曰:“左次無咎”,未失常也。次之不戰之地,則不失其常。六五,田有禽,利執言,無咎。長子帥師,弟子輿尸,貞凶。象曰:“長子帥師”,以中行也;“弟子輿尸”,使不當也。
六三はもともと陰柔の質で、処する所もまた正しくなく、このような人をもって衆人を統率させれば、もともと斉整画一にすることができない。師卦は丈人に統率させてこそ吉であり、陰柔の人が駕馭できるものではない。六四の爻辞:軍隊は左方に退駐する、過ちなし。《小象伝》に言う:「左次无咎」は、常法を失わなかったことである。交戦しない所に駐屯すれば、その常を失わない。六五の爻辞:田に禽獣が害を為す、辞を奉じて討伐するに宜しく、過ちなし。長子に軍隊を統率させ、もし次子らをともに兵を掌らせれば、屍を載せて帰ることになり、正を守っても凶。《小象伝》に言う:「長子帥師」は、行事が中に居ることである。「弟子輿尸」は、任使が当たらなかったことである。
柔居盛位,見犯乃較,故無咎。任寄非一,行師之凶也。上六,大君有命,開國承家,小人勿用。象曰:“大君有命”,以正功也。“小人勿用”,必亂邦也。師終必推賞,然小人雖有功,不可胙之以上,長亂也。承,猶繼世之承也。
六五は柔爻をもって尊盛の位に居り、侵犯されてはじめて計較するので、過ちがない。兵を統べる任を一人にとどまらない者に寄托するのは、まさに用兵の凶険の在る所である。上六の爻辞:大君が命令を頒し、諸侯を封建し卿大夫の家を承継する——小人は任用すべからず。《小象伝》に言う:「大君有命」は、功勲を論定するためである。「小人勿用」は、彼らを任用すれば必ず邦国を禍乱するからである。戦事が終われば必ず功を論じ賞を行う。しかし小人は功があるとはいえ、土地爵位を賞賜してはならない、それは禍乱を助長する。「承」の字は、世代相承の「承」と言うがごとし。
比卦
比。吉,原筮元永貞,無咎。不寧方來,後夫凶。鍾彖曰:“比吉”也,比,輔也,下順從也。“原筮元永貞無咎”,以剛中也。“不寧方來”,上下應也。“後夫凶”,其道窮也。象曰:地上有水,比,先王以建萬國,親諸侯。
比卦の卦辞:比は吉。再度占筮して、元善・長久・貞正を得れば、過ちがない。安寧ならざる邦国が紛紛として帰附に来るが、遅れて来る者は凶。(「鍾」の字は衍文と疑われる。)《比卦・彖伝》に言う:「比吉」——「比」はすなわち辅助で、下の衆爻が九五に順从する。「原筮元永貞无咎」は、九五が剛健居中だからである。「不寧方来」は、上下が彼此感応することである。「後夫凶」は、彼の路がすでに尽きたことである。《比卦・大象伝》に言う:地の上に水があるのが比である。先王はこれに法り、万国を建立し諸侯を親附した。
必原筮者,慎所與也。初六,有孚比之,無咎。有孚盈缶,終來有它,吉。象曰:比之初六,有它吉也。柔而無應,能擇有信者親之,己之誠素著顯,終有它吉,比好先也。六二,比之自內,貞吉。象曰:“比之自內”,不自失也。
必ず再度占筮する所以は、親附せんとする対象を慎重に扱うからである。初六の爻辞:誠信を懐いて親附すれば過ちなし。誠信が満盈して缶中の酒のごとければ、終に意外の吉慶が来る。《小象伝》に言う:比卦の初六は、意外の吉がある。初六は柔弱にして上に正応がないが、誠信ある人を選んで親附することができる。自己の誠素はすでに早くより顕著で、終に意外の吉を得る——親比は先んずるを貴ぶ。六二の爻辞:内部から親附し、正を守れば吉。《小象伝》に言う:「比之自内」は、自己を失わないことである。
愛自親始,人道之正,故曰“貞吉”。六三,比之匪人。象曰:“比之匪人”,不亦傷乎!履非其正,比之必匪其人,故可傷。六四,外比之,貞吉。象曰:外比於賢,以從上也。
仁愛は親しい者から始まる、これは人道の正である、だから「貞吉」と言う。六三の爻辞:親附する所は親附すべき人ではない。《小象伝》に言う:「比之匪人」——豈に傷ましからずや!六三の処する所は正しくなく、それが親附するのは必ず正当な人ではないので、傷ましい。六四の爻辞:外に向かって親附し、正を守れば吉。《小象伝》に言う:外に向かって賢者を親附するのは、上の九五に順从することである。
九五,顯比,王用三驅失前禽,邑人不誡,吉。象曰:顯比之吉,位正中也。舍逆取順,失前禽也。“邑人不誡”,上使中也。上六,比之無首,凶。象曰:“比之無首”,無所終也。失前禽,謂三面而驅,意在緩逸之,不務殺也。順奔然後取之,故被傷者少也。
九五の爻辞:光明正大に親比する。君王が田猟するとき三面から駆り立てるのみで、迎面して逃げる禽獣を放し、邑中の人は戒備する必要がない、吉。《小象伝》に言う:顕比が吉な所以は、それが位に居って中正だからである。逆来するを捨て順去するを取るので、前の禽獣を放し走らせる。「邑人不誡」は、上の者の役使が当を得て中道に合するからである。上六の爻辞:親比するに元首なし、凶。《小象伝》に言う:「比之无首」は、良い結局がないことである。いわゆる「失前禽」とは、三面から駆り立てるのみで、意はそれを放し逃がすにあり、ひたすら殺を求めない。奔逃する方向に順ってはじめて射取するので、傷つく者が少ない。
以剛居中而顯明比道,伐止有罪,不為濫刑,故邑人不誡,為上用中,此之謂也。不比者不懲,非用中也,故比必顯之,然殺不可務也。一云:上使中者,付得其人也。
九五は剛爻をもって中位に居り、親比の道を彰明し、討伐は有罪の者にのみ及び、濫りに刑罰を施さないので、邑中の人は戒備する必要がない。上の者が中を用いるとは、まさにこれを言う。肯じて親附に来ない者に対しても一概に懲治を加えなければ、それは「用中」ではない。だから親比は必ず公開彰明しなければならないが、しかしひたすら殺を求めてもならない。別の説あり:「上使中」とは、托付する所がまさに適当な人であることを言う。
小畜卦
小畜。亨。密雲不雨,自我西郊。彖曰:小畜,柔得位而上下應之曰小畜。健而巽,剛中而志行,乃亨。“密雲不雨”,尚往也。“自我西郊”,施未行也。象曰:風行天上,小畜,君子以懿文德。“自我西郊”,剛陽之氣進而不已也。初九,復自道,何其咎,吉。象曰:“復自道”,其義吉也。以理而升,進之於應也。九二,牽復,吉。象曰:牽復在中,亦不自失也。
小畜卦の卦辞:小畜は亨通。濃雲が密布して雨は降らず、雲気は我が西の郊野から升る。《小畜卦・彖伝》に言う:小畜は、柔爻の六四がその位を得て上下の五つの陽爻が皆それに応ずるので、小畜と言う。内卦は剛健・外卦は遜順で、剛爻が中に居って志向が行われるので亨通する。「密雲不雨」は、陽気がまだ上行していることである。「自我西郊」は、恩沢がまだ施行されていないことである。《小畜卦・大象伝》に言う:風が天上に行くのが小畜である。君子はこれに法り、文徳を修治して美しくする。「自我西郊」は、剛陽の気が前進して止まらないことである。初九の爻辞:本来の道路から返る、どうして過ちがあろうか?吉。《小象伝》に言う:「復自道」は、道理の上では吉である。それは理に循って上昇し、進んで六四に相応ずる。九二の爻辞:牽連してともに返る、吉。《小象伝》に言う:牽連して返り中位に居れば、自己を失わない。
初反自道,三為說輻,二以彙征在中,故未為失。九三,輿說輻,夫妻反目。象曰:“夫妻反目”,不能正室也。近而相比,故說輻而不能進,反為柔制,故曰反目;非其偶也,故不能正其室。六四,有孚血去惕出,無咎。象曰:“有孚惕出”,上合志也。以陰居陰,其體不躁,故曰“有孚”。能上比於五,與之合志,雖為群下所侵,被傷而去,懷懼而出,於義無咎。
初九は本道から返り、九三は車輪が脱落し、九二は中間に挟まれて同類とともに前行するので、過失がない。九三の爻辞:車輪が脱落し、夫妻が反目する。《小象伝》に言う:「夫妻反目」は、家室を整治できないことである。九三と六四は切近相親しいので、車輪が脱落して前進できず、かえって柔爻に制せられる。だから「反目」と言う。六四はその正配ではないので、自己の家室を端正することができない。六四の爻辞:誠信あり、血傷が離去し、憂懼が解脱する、過ちなし。《小象伝》に言う:「有孚惕出」は、上の九五と心志が合することである。六四は陰爻をもって陰位に居り、体性が躁動しないので「有孚」と言う。上に親比して九五と心志が合すので、下の一群の陽爻に侵逼されて傷つき離去し、恐懼を懐いて脱出しても、義理の上では過ちがない。
九五,有孚攣如,富以其鄰。象曰:“有孚攣如”,不獨富也。上九,既雨既處,尚德載,婦貞厲。月幾望,君子征,凶。象曰:“既雨既處”,德積載也。“君子征凶”,有所疑也。六四為眾陽之主,己能接之以信,攣如不疑,則亦為眾所歸,故曰“富以其鄰”。
九五の爻辞:誠信あって攣繋相連なり、隣とその富を共にする。《小象伝》に言う:「有孚攣如」は、独りでその富を占有しないことである。上九の爻辞:雨がすでに降り、すでに安処した。これは徳行を崇尚し、積み重ねて満載に至った所致である。婦人がこれを守れば危ない。月がまさに満ちんとして未だ満ちない時、君子がこの時出征すれば凶。《小象伝》に言う:「既雨既処」は、徳がすでに積み重なって満載に至ったことである。「君子征凶」は、前行すれば疑難があることである。六四は衆陽の帰する主爻で、九五が誠信をもってそれを納れ、攣繋相連して猜疑しないので、衆爻に帰せられる。だから「富以其鄰」と言う。
履卦
履虎尾,不咥人,亨。彖曰:履,柔履剛也。說而應乎乾,是以履虎尾,不咥人,亨。說雖應乾而二不累五也。剛中正,履帝位而不疚,光明也。無陰柔之累,故不疚,此所以正一卦之德也。象曰:上天下澤,履,君子以辯上下,定民志。初九,素履,往無咎。象曰:素履之往,獨行願也。
履卦の卦辞:虎の尾を履んでも虎は人を咬まない、亨通。《履卦・彖伝》に言う:履は、柔爻が剛爻を履踏することである。下卦は和悦して上より乾に応ずるので、虎の尾を履んでも咬まれず、よって亨通する。下卦が和悦して乾体に応合するとはいえ、六三は九五を牽累することはできない。九五は剛健中正で、帝位を履んで心に愧るところがないので光明である。陰柔の牽累がないので愧がない。これがまさに全卦の徳を端正する所である。《履卦・大象伝》に言う:上を天・下を沢とするのが履である。君子はこれに法り、上下の分際を辨明し、民衆の心志を安定する。初九の爻辞:質朴平素の道をもって行えば、往いても過ちがない。《小象伝》に言う:素履して往くは、独りで自己の心願を実行することである。
陰累不乾,無應於上,故其履潔素。九二,履道坦坦,幽人貞吉。象曰:“幽人貞吉”,中不自亂也。中正不累,無援於上,故中不自亂,得幽人之正。六三,眇能視,跛能履。履虎尾,咥人凶。武人為於六君。象曰:“眇能視”,不足以有明也;“跛能履”,不足以與行也。咥人之凶,位不當也。“武人為于大君”,志剛也。
初九は陰柔の牽累を受けず、外物に干かられず、上にまた相応する爻がないので、その行う路は潔く質素である。九二の爻辞:行う道は平坦にして広く、幽静に自ら守る人は正を守れば吉。《小象伝》に言う:「幽人貞吉」は、内心が自ら乱れないことである。九二は中に居って正を得て牽累する所がなく、上にまた奥援がないので、内心が自ら乱れず、幽人の正道を得た。六三の爻辞:一目を眇してもなお見ることを自ら能とし、一足を跛してもなお行くことを自ら能とする。虎の尾を履んで虎に咬まれる、凶。これは武人が妄りに大君の位に居ったものである(原文「大君」は「六君」と訛る)。《小象伝》に言う:「眇能視」は、分明に見るに足らない。「跛能履」は、人と並行するに足らない。咬まれる凶は、居る位が当たらないためである。「武人為于大君」は、心志が剛に過ぎることである。
大君者,為眾爻之主也。武人者,剛而不德也。九四,履虎尾愬愬,終吉。象曰:“愬愬終吉”,志行也。三五不累於己,處多懼之地,近比於三,能常自危,則志願終吉。陽居陰,故不自肆,常自危也。
いわゆる「大君」とは、全卦の衆爻の主宰である。いわゆる「武人」とは、剛強のみで徳行のない人である。九四の爻辞:虎の尾を履んで愬愬と戒懼すれば、終に吉。《小象伝》に言う:「愬愬終吉」は、心志が施行しうることである。六三・九五はいずれも九四を牽累せず、それは多く畏れる所に身を処し、また六三に切近する。もし常に自ら警め自ら危うくすれば、心願は終に吉を得る。九四は陽爻をもって陰位に居るので、放肆を敢えてせず、常に自ら警惕する。
九五,“夬履貞厲”,象曰:“夬履貞厲”,位正當也。上九,視履考祥,其旋元吉。象曰:元吉在上,大有慶也。視所履以考求其吉,莫如旋而及下,則獲應而有喜也。乘剛未安,其進也寧旋。
九五の爻辞:剛決に行事し、正を守り危惧を知る。《小象伝》に言う:「夬履貞厲」は、その居る位が正当だからである。上九の爻辞:自己が一路行って来た所を回視して禍福の兆を考察し、周旋して反顧できれば大吉。《小象伝》に言う:大吉にして最上に居るは、大いに喜慶があることである。行った所を回視して吉利を考求するには、周旋して反顧して下り三爻に及ぶに如かず、そうすれば応与を得て喜びがある。上九は剛爻を乗凌して処る所が安穏でなく、ひたすら前進するより、周旋して反顧するに如かない。
泰卦
泰。小往大來,吉亨。彖曰:“泰小往大來吉亨”,則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也。內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人,君子道長,小人道消也。象曰:天地交,泰,后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。
泰卦の卦辞:泰は、小が往き大が来る、吉利亨通。《泰卦・彖伝》に言う:「泰、小往大来、吉亨」——それは天地の気が相交わり万物が通暢し、上下の情が相交わり心志が同じである。内卦は陽・外卦は陰、内は剛健・外は柔順、内に君子を用い外に小人を斥ける。君子の道は日に増長し、小人の道は日に消退する。《泰卦・大象伝》に言う:天地の気が交合するのが泰である。君主はこれに法り、天地の道を裁成し、天地の宜しきを辅助し、もって百姓を護佑する。
初九,拔茅茹,以其彙征,吉。象曰:拔茅征吉,志在外也。九二,包荒,用馮河,不遐遺,朋亡,得尚于中行。象曰:“包荒,得尚于中行”,以光大也。中行,中立之行也,若朋比則未足尚也。舜文之大,不是過也。九三,無平不陂,無往不復,艱貞無咎。勿恤其孚,于食有福。象曰:“無往不復”,天地際也。
初九の爻辞:茅を抜けば根鬚が連なり起きる。同類とともに前行すれば吉。《小象伝》に言う:茅を抜いて征して吉は、心志が外にあることである。九二の爻辞:荒穢を包容し、徒渉して河を渡り、遠方の人を遺棄せず、党を結んで私を営まなければ、中道に配合して行うことができる。《小象伝》に言う:「包荒、得尚于中行」は、徳行が光明宏大だからである。いわゆる「中行」とは、偏り倚りなき行事である。もし結党比周すれば、称尚に足らない。舜と文王の偉大さも、これに過ぎない。九三の爻辞:つねに平坦にして傾かないことはなく、つねに前往して返らないことはない。艱難の中に正を守れば過ちはない。自らの誠信を憂慮するな、享用の上に自ら福分がある。《小象伝》に言う:「无往不復」は、天地交接の界限である。
因交與之際以著戒,能艱貞則享福可必。六四,翩翩,不富以其鄰,不戒以孚。象曰:“翩翩”“不富”,皆失實也。“不戒以孚”,中心願也。陰陽皆未安其分,故家不富,志不寧。六五,帝乙歸妹,以祉元吉。象曰:“以祉元吉”,中以行願也。
これは天地交接の際に乗じて戒懼の意を点明したものである。艱難の中で正を守ることができれば、福を享くるのは必然である。六四の爻辞:翩然として下降し、富有を以て隣を帯動せず、彼此告誡せずとも皆誠信がある。《小象伝》に言う:「翩翩」「不富」は、皆陽実を失ったためである。「不戒以孚」は、心から発する願望である。陰と陽はいずれもまだ自己の本分に安んじないので、家は富まず志は寧まらない。六五の爻辞:帝乙が妹を嫁がせたので福を得る、大吉。《小象伝》に言う:「以祉元吉」は、中に居って自己の心願を実行することである。
雖陰陽義反,取交際為大義。上六,城復于隍,勿用師。自邑告命,貞吝。象曰:“城復于隍”,其命亂也。泰極則否,非力所支,故不可以師,其勢愈亂。貞,以命令諭眾,然終吝道也。故知者先幾,艱貞無咎,著戒未然也。
六五は陰陽の名義の上では相反する——柔をもって尊位に居り下りて九二に応ずる——が、上下の交際を最大の義理として取る。上六の爻辞:城が傾覆して涸れた城壕に帰る。兵を用いるべからず。自己の城邑から命令を発しても、正を守っても憾惜がある。《小象伝》に言う:「城復于隍」は、政令がすでに紊乱したことである。泰は極まれば否に転ずる、人力の支えうる所ではない。だから兵を用いるべからず、兵を用いればただ局勢をいっそう乱すのみである。いわゆる「貞」とは、命令をもって衆人に曉諭することであるが、終に憾惜の道である。だから智慧ある者は先に几微を見、艱難の中に正を守って過ちに至らない——事の未だ発せざる先に戒懼を点明したのである。
否卦
否之匪人,不利君子貞,大往小來。彖曰:“否之匪人,不利君子貞,大往小來”,則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下無邦也。內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子,小人道長,君子道消也。象曰:天地不交,否,君子以險德闢難,不可榮以祿。
否卦の卦辞:閉塞の世は人道に合わず、君子が正を守るに利あらず。大が往き小が来る。《否卦・彖伝》に言う:「否之匪人、不利君子貞、大往小来」——それは天地の気が交わらず万物が通ぜず、上下の情が交わらず天下に邦国なし。内卦は陰・外卦は陽、内は柔弱・外は剛強、内に小人を用い外に君子を斥ける。小人の道は日に増長し、君子の道は日に消退する。《否卦・大象伝》に言う:天地の気が交わらないのが否である。君子はこれに法り、その徳を収斂して禍難を避け、爵禄をもって栄としてはならない。
蓋言上下不交便天下無邦,有邦而與無邦同,以不成國體也。在天下,他國皆無道,只一邦治,亦不可言天下無道,須是都不治然後是天下無道也。於否之時,則天下無邦也。
これは上下が相交わらなければ、天下は邦国がないに等しくなるということである。邦国があるとはいえ、邦国がないのと同じで、すでに国家の体統を成していないからである。天下全体に就いて言えば、他の国が皆無道でも、一つの邦国だけがよく治まっていれば、まだ天下無道とは言えない。必ず皆治まらなくてはじめて天下無道となる。「否」の時に至れば、それは天下に邦国がないのである。
古之人,一邦不治,別之一邦,直至天下皆無邦可之,則止有隱耳。無道而隱,則惟是有朋友之樂而已。子欲居九夷,未敢必天下之無邦,或夷狄有道,於今海上之國盡有仁厚之治者。初六,拔茅茹,以其匯,貞吉亨。象曰:“拔茅貞吉”,志在君也。
古の人は、この邦が治まらなければ別の邦に転じて往った。天下に往くべき邦がなくなってはじめて、ただ隠居の一途が残る。天下無道にして隠居すれば、それはただ朋友の間の楽しみのみである。孔子は九夷の地に住もうと思った(《論語・子罕》)。天下に真に往くべき邦がないとは敢えて断定せず、あるいは夷狄の邦にかえって道があるかもしれない。今日の海外の国にも、仁厚の治を施行する者が尽くあるように。初六の爻辞:茅を抜けば根鬚が連なり起きる。同類とともにあれば、正を守り吉にして亨通。《小象伝》に言う:「拔茅貞吉」は、心志が君主にあることである。
柔順處下,居否以靜者也。能以類正,吉而必亨,不事苟合,志在得主者歟!六二,包承,小人吉,大人否,亨。象曰:“大人否亨了”,不亂群也。處二陰之間,上順下容,眾不可異,故其道否乃亨。六三,包羞。象曰:“包羞”,位不當也。
初六は柔順にして下位に居り、閉塞の世に静かに自ら守る人である。同類を帯びて正道に帰ることができ、吉利にして必ず亨通する。苟且に迎合せず、心志は明主を得るにあるだろう!六二の爻辞:包容承顺は、小人にあっては吉である。大人はこの否塞を守ってこそ亨通する。《小象伝》に言う:「大人否亨」は、小人之群に混雑しないことである。六二は二つの陰爻の間に処し、上に順い下に容れるので、衆人はそれと相異なることができない。だからその路数は先に否塞して後に亨通する。六三の爻辞:羞辱を包蔵する。《小象伝》に言う:「包羞」は、居る位が当たらないことである。
處否而進,履非其位,非知恥者也。九四,有命無咎,疇離祉。象曰:“有命無咎”,志行也。居否之世,以陽處陰,有應於下,故雖有所命無咎也。九五,休否,大人吉。其亡其亡,繫于苞桑。象曰:大人之吉,位正當也。上九,傾否,先否後喜。象曰:否終則傾,何可長也!
六三は閉塞の世に処しながらひたすら進を求め、居る所はまたそれが処すべき位ではない。これは恥を知らない人である。九四の爻辞:君命を秉承して行事すれば、過ちなし。同類は皆依附して福を得る。《小象伝》に言う:「有命无咎」は、心志が施行しうることである。九四は閉塞の世に身を処し、陽爻をもって陰位に居り、下にまた初六と相応ずるので、受けた命があるとはいえ過ちがない。九五の爻辞:閉塞の局を休止する、大人吉。心に常に「まさに危亡せん、まさに危亡せん」と念じてこそ、叢生する桑の根に繋いだように牢固であれる。《小象伝》に言う:大人の吉は、居る位が正当だからである。上九の爻辞:閉塞の局を傾覆する、先に否塞して後に歓喜。《小象伝》に言う:否は尽きれば傾覆する、どうして長久しえよう!
以亡為懼,故能休其否。包桑,從下叢生之桑,叢生則其根牢。書云“厥草惟包”,如竹叢蘆葦之類。河朔之桑,多從根斬條取葉,其生叢然。
常に危亡を心に置いて戒懼するので、あの閉塞の局を休止できる。いわゆる「包桑」とは、根部から叢生する桑の木で、叢生すれば根柢が牢固である。《尚書・禹貢》の「厥草惟包」は、竹叢・芦葦の類の叢生する植物のごとし。黄河以北の桑の木は、多く根部から枝を斬って葉を採るので、生え出てくるのは叢生の様子である。
同人卦
同人于野,亨。利涉大川,利君子貞。彖曰:同人,柔得位,得中而應乎乾曰同人。同人曰“同人于野亨,利涉大川”,乾行也。文明以健,中正而應,君子正也。唯君子為能通天下之志。象曰:天與火,同人,君子以類族辨物。不能與人同,未足為正也。
同人卦の卦辞:曠野の上で人と和同すれば亨通。大河を渡渉するに利あり、君子が正を守るに利あり。《同人卦・彖伝》に言う:同人は、柔爻の六二がその位を得、中位に居って上より九五の乾体に応ずるので同人と言う。卦辞の「同人于野、亨、利渉大川」は、乾健の徳が運行していることである。文采光明にしてまた剛健、中に居って正を得て彼此相応ずる——これが君子の正道である。ただ君子のみが天下人の心志を会通できる。《同人卦・大象伝》に言う:天と火は同性にして上向するのが同人である。君子はこれに法り、族類によって事物を弁別する。人と和同できなければ、「正」とは言えない。
天下之心,天下之志,自是一物,天何常有如此間別!初九,同人于門,無咎。象曰:出門同人,又誰咎也!六二,同人于宗,吝。象曰:“同人于宗”,吝道也。九三,伏戎于莽,升其高陵,三歲不興。象曰:“伏戎于莽”,敵剛也。“三歲不興”,安行也。
天下人の心・天下人の志は、もともと同じ一つのものである。天はかつてあれやこれやの間隔分別があったろうか!初九の爻辞:門を出れば人と和同する、過ちなし。《小象伝》に言う:門を出て人と和同すれば、また誰が責められよう!六二の爻辞:ただ本宗族の内で和同すれば、憾惜がある。《小象伝》に言う:「同人于宗」は、憾惜の道である。九三の爻辞:兵甲を草莽の中に埋伏し、あの高い山陵に登り、三年も兵を興すことを敢えてしない。《小象伝》に言う:「伏戎于莽」は、敵する所が剛強の爻だからである。「三歳不興」——どうして安らかに行動しえよう。
九四,乘其墉,弗克,攻,吉。象曰:“乘其墉”,義弗克也。其吉則困而反則也。九五,同人先號啕而後笑,大師克相遇。象曰:同人之先,以中直也。大師相遇,言相剋也。上九,同人于郊,無悔。象曰:“同人于郊”,志未得也。二與五應而為他間,己直人曲,望之必深,故號啕也。師直而壯,義同必克,故遇而後笑。
九四の爻辞:相手の城墻に登るが攻め落とせない。これに就いて攻撃を罷めれば吉。《小象伝》に言う:「乗其墉」は、道義の上で攻め落とせないことである。それが吉な所以は、困窘の後に法則に帰ったことである。九五の爻辞:人と和同するに、先に号啕大哭して後に歓笑する。大軍が勝した後に彼此相遇する。《小象伝》に言う:同人が先に号啕する所以は、九五が中に居って心が直いからである。大軍が相遇するは、まず中から阻隔する者に勝たなければならないことを言う。上九の爻辞:郊野で人と和同すれば、悔恨なし。《小象伝》に言う:「同人于郊」は、心志がまだ実現していないことである。六二と九五はもともと相応じるが、他の爻に中から阻隔された。自己は理が直く相手は理が曲なので、期望が愈々深く、よって号啕する。出師は理直くして気壮んであり、道義が同じであれば必ず勝つので、相遇した後に転じて歓笑する。
大有卦
大有。元亨。彖曰:大有,柔得尊位,大中而上下應之曰大有。其德剛健而文明,應乎天而時行,是以元亨。柔得盛位,非所固有,故曰大有。剛健故應乎天,文明故時行。象曰:火在天上,大有,君子以遏惡揚善,順天休命。
大有卦の卦辞:大有は、大いに亨通。《大有卦・彖伝》に言う:大有は、柔爻の六五が尊位を得、大中の位に居って上下の衆爻が皆それに応ずるので大有と言う。その徳は剛健にして文明、天に応合して時に随って施行する、ゆえに大いに亨通する。柔爻が尊盛の位を得るのは、もともとそれが固有のものではないので「大有」と言う。ただ剛健ゆえに天に応合でき、ただ文明ゆえに時に随って行うことができる。《大有卦・大象伝》に言う:火が天上にあるのが大有である。君子はこれに法り、邪悪を遏止し善良を褒揚し、上天の美しき命令を順承する。
柔能大有,非天道也,乃天命也,故曰“順天休命”。遏惡揚善,勉□也。初九,無交害,匪咎。艱則無咎。象曰:大有初九,無交害也。初九,無交害,匪咎。艱則無咎。角日:大有初九,無交害也。
柔弱の爻が「大有」しうるのは、天道の常理ではなく、天命の与う所である。だから「順天休命」と言う。悪を遏め善を揚げることは、まさにこれに勉力するのである(ここに源本一字を欠く)。初九の爻辞:交わりがなければ禍害がない、過ちと算えない。艱難に処して戒懼を知れば、過ちがない。《小象伝》に言う:大有卦の初九は、交わりの害がない。(この一段の爻辞と《小象伝》は源本で一度重出する。)
二應於五,三能自通,四匪其旁,惟初無交故有害,然非其咎。九二,大車以載,有攸往,無咎。象曰:“大車以載”,積中不敗也。九三,公用亨于天子,小人弗克。象曰:“公用亨于天子”,小人害也。
九二は六五と相応じ、九三は自ら天子に通達でき、九四は傍らの盛勢に親附しない。ただ初九のみ交与がないので、「害」と言うに至った。しかしこれはその過ちではない。九二の爻辞:大車をもって載せ、往く所あり、過ちなし。《小象伝》に言う:「大車以載」は、積む所が中にあって敗壊に至らないことである。九三の爻辞:王公が天子に献享する、小人にはできない。《小象伝》に言う:「公用亨于天子」——もし小人を用いれば禍害となる。
非柔中文明之主不能察,非剛健不私之臣不能通,故曰“小人弗克”。九四,匪其彭,無咎。象曰:“匪其彭無咎”,明辨晢也。六五,厥孚交如威如,吉。象曰:“厥孚交如”,信以發志也;威如之吉,易而無備也。
柔順居中・文采光明の君主でなければ明察できず、剛健無私の臣子でなければ上達できない。だから「小人弗克」と言う。九四の爻辞:あの盛大の側に親附しない、過ちなし。《小象伝》に言う:「匪其彭无咎」は、明察して辨别が清楚だからである。六五の爻辞:その誠信が上下を交親附せしめ、しかも威厳を失わない、吉。《小象伝》に言う:「厥孚交如」は、誠信をもって衆人の心志を啓発することである。威如の吉な所以は、平易にして防備を設けないからである。
人威重有德望,則人自畏服,易曰“厥孚交如威如吉”,君子以至誠交人,然後有威重。“威如之吉,易而無備也”,君子至平易,有何關防擬備?惟以抑抑威儀為德之隅,儼然人望而畏之,既易而無備,則威如乃吉也。
人が威厳荘重にして徳望があれば、人は自ずから敬畏し順服する。《周易》の「厥孚交如威如、吉」——君子は極誠の心をもって人と交わり、そうしてはじめて威重がある。「威如之吉、易而无備也」——君子は極めて平易で、どうして関防戒備の用があろうか?ただ《詩経・大雅・抑》の言う「抑抑威儀」を徳の表徴とするのみで、荘然として敬すべく、人は一見して畏れを生ずる。平易でありながら防備を設けなければ、威厳があってこそ吉なのである。
上九,自天祐之,吉無不利。象曰:大有上吉,自天祐也。以剛而下柔,居上而志應於中,故曰履信思順,又以尚賢,蓋五陽一陰,又無物以間焉耳。剛柔相求,情也,信也。
上九の爻辞:上天の保祐を得る、吉利にして利あらざる所なし。《小象伝》に言う:大有卦上九の吉は、上天からの保祐による。上九は剛爻をもって下りて柔爻に接し、最上に居って心志が中に居る六五と相応ずる。だから《繋辞上伝》はそれを「履信思乎順」、また賢人を崇尚できると言う。全卦が五陽一陰で、また他のものが中から阻隔しないからである。剛と柔が互いに求め合う、これは「情」でもあり「信」でもある。
謙卦
謙。亨,君子有終。彖曰:謙亨,天道下濟而光明,止於下,故光明。地道卑而上行。天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙尊而光,卑而不可踰,君子之終也。
謙卦の卦辞:謙は亨通、君子は終わりを全うできる。《謙卦・彖伝》に言う:謙が亨通しうるのは、天道が下降して万物を済助し光明だからである——それは下済して下位に止まるので光明である。地道は卑下でありながらその気は下より上行する。天道は盈満を損いて謙退を益し、地道は盈満を改易して謙退に流注し、鬼神は盈満を損害して謙退に福を降し、人道は盈満を厭悪して謙退を喜好する。謙は、尊位に居ればいっそう光輝を顕し、卑位に処しても逾越されることがない——これが君子の終わりを全うすることである。
人樂尊之,故光而不揜;志下於人,故人不能加。天以廣大自然取貴,人自要尊大,須意、我、固、必,欲順己尊己,又悅己之情,此所以取辱取怒也。
衆人が楽しんで彼を推尊するので、彼の光輝は遮掩されない。彼自身は心志が人の下に甘んずるので、人はその上に凌駕する由がない。天は広大自然を凭って尊貴を取る。人がもし自らひたすら尊大であろうとすれば、私意を起こし己我を執り、固執して化せず、事に期必するという幾つかの毛病を免れない(即ち《論語・子罕》の言う「毋意・毋必・毋固・毋我」)。いつも人が自分に順い自分を尊崇し、さらに自分の性情に順って自分を悦ばせることを望む——これはまさに羞辱を招き怨怒を招く縁由である。
“謙尊而光,卑而不可踰”,夫尊者謙則更光,卑者已謙,又如何踰之!此天德至虛者焉。以其能謙,故尊而益光,卑又無人可踰,蓋已謙矣,復如何踰越也!謙,天下之良德。象曰:地中有山,謙,君子以裒多益寡,稱物平施。
「謙尊而光、卑而不可踰」——地位の尊貴な者が謙であれば、光輝はいっそう盛んになる。地位の卑下な者はもともと謙下なので、人はどこから彼を逾越しえよう!これはまさに天徳のうち最も虚静な一面である。謙であるがゆえに、尊に居って光輝が愈々増し、卑に処しても逾越する者がいない。もともとすでに謙なのに、何の逾越を語ろうか!謙は、天下の美徳である。《謙卦・大象伝》に言う:地中に山を蔵するが謙である。君子はこれに法り、多きを損じ少なきを益し、事物を衡量して施与を均平にする。
隱高於卑,謙之象也。易大象皆是實事,卦爻小象則容有寓意而已。言“風自火出家人”,家人之道必自烹飪始;風,風也,教也,蓋言教家人之道必自此始也。又如言“木上有水井”,則明言井之實事也。又言“地中有山謙”,夫山者崇高之物,非謙而何!又如言“雲雷屯”,雲雷皆是氣之聚處,屯,聚也。
高大を卑下の中に隠蔵する——これが「謙」の象である。《周易》の《大象伝》が語るのは皆実在の事であり、卦爻の《小象伝》でこそ寄托の用意が許される。《家人卦・大象伝》の「風自火出、家人」——家人の道は必ず烹飪の事から始まる。ここの「風」は風でもあり教化でもあり、家人を教化する道は必ずここから起ると言う。また《井卦・大象伝》の「木上有水、井」は、明白に井の実事を語る。また「地中有山、謙」——山はもともと崇高の物でありながら地中に蔵する、これが謙でなくて何であろう!また「雲雷、屯」——雲と雷は皆気の聚集する所で、「屯」はすなわち聚である。
多者寡者皆量宜下之。初六,謙謙君子,用涉大川,吉。象曰:“謙謙君子”,卑以自牧也。牧,逸也。六二,鳴謙,貞吉。象曰:“鳴謙貞吉”,中心得也。體柔居正,故以謙獲譽,與上六之鳴異矣,故曰“貞吉”,[中心安之也]。九三,勞謙,君子有終,吉。象曰:“勞謙君子”,萬民服也。(中心安之也。)有終則吉,人所難能。六四,無不利,撝謙。象曰:“無不利撝謙”,不違則也。
多きも少なきも、事宜を斟酌して謙にして自ら下る。初六の爻辞:謙にまた謙なる君子は、この態度をもって大河を渡渉すれば吉。《小象伝》に言う:「謙謙君子」は、卑下をもって自己を涵養することである。「牧」は、安閑として自ら養う意味である。六二の爻辞:謙徳に声名が伝い出る、正を守れば吉。《小象伝》に言う:「鳴謙貞吉」は、内心に自ら得る所があることである。六二は体質が柔順にして位を得て正なので、謙によって称誉を獲た。上六の「鳴」とは異なるので、「貞吉」と言う——内心が謙に安んずることである。九三の爻辞:功労がありながら謙である君子は終わりを全うする、吉。《小象伝》に言う:「労謙君子」——万民は皆彼に帰服する。内心が謙に安んじ、終わりを全うできれば吉——これは常人の難しがる所である。六四の爻辞:利あらざる所なし、謙徳を発揮する。《小象伝》に言う:「无不利撝謙」は、法則に違背しないことである。
裒多益寡,無不盡道,舉措皆謙。六五,不富以其鄰,利用侵伐,無不利。象曰:“利用侵伐”,征不服也。上六,鳴謙,利用行師,征邑國。象曰:“鳴謙”,志未得也,可用行師,征邑國也。
多きを損じ少なきを益して、尽く道に合わざる所がなく、一挙一動が皆謙である。六五の爻辞:富有に倚仗して隣を帯動せず、兵を興して討伐するに宜しく、利あらざる所なし。《小象伝》に言う:「利用侵伐」は、肯じて服従しない者を征討することである。上六の爻辞:謙徳に声名が伝い出る、師を出すに宜しく、自己の邑国を討伐する。《小象伝》に言う:「鳴謙」は、心志がまだ実現していないことである。師を出して、自己の邑国を討伐しうる。
下應於三,其跡顯聞,故曰“鳴謙”;最上用謙,為眾所服,故“利用行師”。然聲鳴其謙,必志有求焉,非如六二之正也,三止於下,如邑國之未賓也。一云:鳴謙則師有名。
上六は下りて九三に応じ、行跡が顕著にして声聞があるので「鳴謙」と言う。それは最上の位にあってよく謙を用い、衆人に服せられるので「利用行師」である。しかし自己の謙を張揚して声に出すのは、心に必ず求める所があり、六二のように純正ではない。九三が下位に止息しているのは、邑国がまだ帰服していないがごとし。別の説あり:謙徳に声名があれば、師を出せば名正言順となる。
豫卦
豫。利建侯行師。彖曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎!上動而下不順,非建侯行師之利也。天地以順動,故日月不過而四時不忒,聖人以順動,則刑罰清而民服,豫之時義大矣哉!象曰:雷出地奮,豫,先王以作樂崇德,殷薦之上帝以配祖考。
豫卦の卦辞:豫は、諸侯を建て軍隊を出すに宜しい。《豫卦・彖伝》に言う:豫は、九四この剛爻に上下の衆爻が応じて心志が行われ、理に順って動くので豫となる。豫は理に順って動くので、天地もまたこのようである。いわんや建侯行師をや!もし上の者が妄動して下が順从しなければ、建侯行師の利益はない。天地が理に順って動くので、日月の運行は過差せず四時の更替は錯乱しない。聖人が理に順って動けば、刑罰は清簡にして百姓は服従する——豫卦の時宜に因って制する意義は実に大きい!《豫卦・大象伝》に言う:雷が地中から出でて奮発するのが豫である。先王はこれに法り、音楽を制作し功徳を尊崇し、隆重に上帝に献祭し、祖先を以て配享した。
王者之樂,莫大於是。初六,鳴豫,凶。象曰:“初六鳴豫”,志窮凶也。知幾者上交不諂,今得應於上,豫獨著聞,終凶之道也。故凡豫之理,莫若安其分,動以義也。
王者の音楽で、これより盛大なものはない。初六の爻辞:逸楽を鳴き出す、凶。《小象伝》に言う:「初六鳴豫」は、心志が窮極して凶に至ることである。几微を知る者は、上に交わって諂媚しない。今、初六は上に九四と相応ずれば、独りで逸楽を張揚して衆人に皆聞こえるようにする——これは終に凶に帰する路数である。だからおよそ「豫」に処する道理は、本分を安守して義に依って動くに優るものはない。
六二,介于石,不終日,貞吉。象曰:“不終日貞吉”,以中正也。六三,盱豫,悔,遲有悔。象曰:盱豫有悔,位不當也。九四,由豫大有得,勿疑,朋盍簪。象曰:“由豫大有得”,志大行也。六五,貞疾恆不死。象曰:“六五貞疾”,乘剛也;“恆不死”,中未亡也。上六,冥豫,成有渝,無咎。象曰:冥豫在上,何可長也!
六二の爻辞:磐石のように耿介で、一日が終わるを待たずに決断し、正を守れば吉。《小象伝》に言う:「不終日貞吉」は、それが中に居って正を得たからである。六三の爻辞:目を見開いて上を望んで逸楽を求めれば悔恨があり、迟疑して改めなくても悔恨がある。《小象伝》に言う:盱豫して悔あるは、居る位が当たらないことである。九四の爻辞:全卦の逸楽は皆それより来る、大いに得る所有り。猜疑するなかれ、朋類は髪簪が髪を聚めるように合攏して来る。《小象伝》に言う:「由豫大有得」は、心志が大いに施行されることである。六五の爻辞:久病の身を守って終始死なない。《小象伝》に言う:「六五貞疾」は、剛爻の上に乗凌しているためである。「恒不死」は、居中の徳がまだ喪失していないことである。上六の爻辞:逸楽に昏冥すれど、事が成って能く改変すれば、過ちはない。《小象伝》に言う:逸楽に昏冥して最上に居る、どうして長久しえよう!
“不終日貞吉”,言疾正則吉也。六二以陰居陰,獨無累於四,故其介如石,雖體柔順,以其在中而靜,何俟終日,必知幾而正矣。體順用中,以陰居陰,堅介如石,故在理則悟,為豫之吉莫甚焉,不以悅豫而流也。
「不終日貞吉」とは、速やかに正に帰れば吉であること。六二は陰爻をもって陰位に居り、それだけが九四に牽累されないので、磐石のように耿介である。体質は柔順だが、中に居って能く静なので、どうして一日が終わるを待つ必要があろう。必ず几微を見て正に帰る。それは体性が柔順にして中を用い、陰爻をもって陰位に居り、堅定耿介して磐石のごとく、道理の上では一触すれば即悟する。豫卦にあって吉を論ずれば、これに過ぎる者はない。逸楽のために流に従い波に逐わないからである。
随卦
隨。元亨利貞,無咎。彖曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞無咎而天下隨時,隨時之義大矣哉!象曰:澤中有雷,隨,君子以嚮晦入宴息。上九,下居於初也,故曰“剛來下柔”。初九,官有渝,貞吉,出門交有功。象曰:“官有渝”,從正吉也。“出門交有功”,不失也。
随卦の卦辞:随は、元始亨通・貞正に利あり、過ちなし。《随卦・彖伝》に言う:随は、剛爻が下りて柔爻の下に居り、内は動・外は悦なので随となる。大いに亨通して貞正で過ちなく、よって天下は皆時宜に随順する。時に随う意義は実に大きい!《随卦・大象伝》に言う:沢中に雷があるのが随である。君子はこれに法り、天色が晩に向かえば入りて休息する。いわゆる「剛来下柔」とは、上九の剛が下りて初位に居ることである。初九の爻辞:主る事に変更有り、正を守れば吉。門を出て人と交われば功效あり。《小象伝》に言う:「官有渝」は、正道に順えば吉である。「出門交有功」は、失う所がないことである。
言凡所治務能變而任正,不膠柱也。處隨之初,為動之主,心無私繫,故能動必擇義,善與人同者也。六二,係小子,失丈夫。象曰:“係小子”,弗兼與也。六三,係丈夫,失小子。隨有求得,利居貞。象曰:“係丈夫”,志舍下也。
これはおよそ自己の主管する事務が皆時に随って変通し正道を任用し、琴柱に膠着して拘泥不化ではないことを言う。初九は随卦の初めに処し、発動の主爻で、心に私意の牽繋がないので、一たび動けば必ず義を擇んで行う。これは人と共にすることに善い者である。六二の爻辞:年少の者に係恋すれば、年長の丈夫を失う。《小象伝》に言う:「繋小子」は、両者を兼ね顧みることができないことである。六三の爻辞:年長の丈夫に係従し、年少の者を失う。随从して求める所有れば得られ、安居して正を守るに宜しい。《小象伝》に言う:「繋丈夫」は、心志が下の初九を捨てたことである。
舍小隨大,所求可得,必守正不邪乃吉。九四,隨有獲,貞凶。有孚在道,以明何咎!象曰:“隨有獲”,其義凶也。“有孚在道”,明功也。以陽居陰,利於比三則凶也。處隨之世,為眾所附,苟利其獲,凶之道也。能以信存道,則功業可明,無所咎矣。
小を捨て大に従えば、求める所は得られる。しかし必ず正を守り邪なくしてこそ吉である。九四の爻辞:随从して獲る所有るも、これを守れば凶。誠信あって道に合し、これをもって顕明すれば、どうして過ちがあろうか!《小象伝》に言う:「随有獲」は、義理の上では凶である。「有孚在道」は、功業が彰明しうることである。九四は陽爻をもって陰位に居り、もし六三に親比する利を貪れば凶である。随の時世に身を処して衆人に帰附されるのに、もしただ自己の所得を貪れば、それは凶を取る道である。誠信をもって正道を保存できれば、功業は顕明でき、過ちもない。
九五,孚于嘉,吉。象曰:“孚于嘉吉”,位正中也。上六,拘係之,乃從維之,王用亨于西山。象曰:“拘係之”,上窮也。處隨之世而剛正宅尊,善為眾信,故吉。或曰:孚於二則吉。
九五の爻辞:誠信をもって善美の人に随えば吉。《小象伝》に言う:「孚于嘉吉」は、それが位に居って中正だからである。上六の爻辞:彼を拘執して係留し、さらに繩索をもって維繫する。周王が西山で祭享する。《小象伝》に言う:「拘係之」は、随道が上位に至ってすでに窮極したことである。九五は随の時世に身を処し、剛正の徳をもって尊位に居り、よく衆に信を取るので吉である。またある人は、それが六二に誠信相随するので吉と言う。
蠱卦
蠱。元亨,利涉大川。元亨然後利涉大川。先甲三日,後甲三日。彖曰:蠱,剛上而柔下,巽而止,蠱。憂患內萌,蠱之謂也。泰終反否,蠱之體也,弱而止,待能之時也。蠱元亨而天下治也,“利涉大川”,往有事也。“先甲三日,後甲三日”,終則有始,天行也。象曰:山下有風,蠱,君子以振民育德。
蠱卦の卦辞:蠱は大いに亨通、大河を渡渉するに宜しい。まず元始亨通を成し遂げて、そうして後にはじめて大河の渡渉が論じられる。卦辞がまた言う:甲日の前の三日、甲日の後の三日。《蠱卦・彖伝》に言う:蠱は、剛爻が上にあり柔爻が下にあり、内は巽順・外は静止なので蠱となる。憂患が内部から萌生する——これを「蠱」と言う。泰が尽きて否に返るのは、まさに蠱の体質である。柔弱にして静止するのは、能力ある者が出て来る時機を待っているのである。蠱卦は大いに亨通して、よって天下は治まる。「利渉大川」は、往けば必ず為すべき事があることである。「先甲三日、後甲三日」は、終結の後にまた開始があること——これは天道の運行である。《蠱卦・大象伝》に言う:山下に風があるのが蠱である。君子はこれに法り、百姓を振済し徳行を培育する。
“後甲三日”,成前事之終;“先甲三日”,善後事之始也。剛上柔下,故可為之唱,是故先甲三日以蠲其法,後甲三日以重其初,明終而復始,通變不窮也。
「後甲三日」は、前の一件の終結を成全することである。「先甲三日」は、後の一件の開端を善く安排することである。剛が上にあり柔が下にあるので、天下の倡首となることができる。だから甲日の前の三日にまず旧有の法度を清理し、甲日の後の三日にあらためてその開端を鄭重にする。終結の後にあらためて開始することを表明し、変化に通達して窮尽がない。
至於巽之九五,以其上下皆柔,故必無初有終,是故先庚後庚,不為物首也。於甲取應物而動,順乎民心也。一本為事之唱。法一作治。初六,乾父之蠱,有子,考無咎。厲終吉。象曰:“乾父之蠱”,意承考也。
巽卦の九五に至っては、それは上下ともに柔爻なので、必ず「无初有終」である。だからそこでは「先庚三日、後庚三日」を語り、万物の首と為らない意を取る。蠱卦が「甲」を取るのは、事物に応接して動き、民心に順う意を取る。(「為之唱」は一の本に「為事之唱」と作り、「法」の字は一の本に「治」と作る。)初六の爻辞:父輩の遺した弊乱を匡正する。このような子があれば、先父は過失を残さない。危厲があるとはいえ、終に吉利。《小象伝》に言う:「乾父之蠱」は、心意が先父を承継するにある。
處下不繫應於上,如子之專制,雖意在承考,然亦危厲,以其柔巽故終吉。九二,乾母之蠱,不可貞。象曰:“乾母之蠱”,得中道也。處中用巽,以剛繫柔,乾母之蠱,得剛柔之中也。九三,乾父之蠱,小有悔,無大咎。象曰:“乾父之蠱”,終無咎也。義如初六,小有悔者,以其剛也。
蠱卦の初六は全卦の最下に居り、上に頼るべき正応がない。子として独りで家事を主持し自ら決断するがごときである。本意は父の未竟の事業を承継するにあるとはいえ、処境はなお危険厳厲である。幸いにそれは陰柔の質をもって巽順の徳を秉るので、最終的に吉に帰する。九二の爻辞に「乾母之蠱、不可貞」と言い、《象伝》は「『乾母之蠱』、得中道也」と解する。九二は下卦の中に居って巽順を施用し、自身の陽剛をもって上りて六五の陰柔に係り、母のために積弊を整治する。剛にして亢に至らず、柔にして弱に至らず、まさに剛柔相済の中道を得ている。九三の爻辞に「乾父之蠱、小有悔、无大咎」と言い、《象伝》は「『乾父之蠱』、終无咎也」と言う。その義理は初六と同じく、皆子が父業を承けて積弊を除くことである。異なる所は、九三が陽剛をもって陽位に居り、剛を用いてやや過ぎるので、わずかに悔恨があるが、大きな過错を釀すには至らない。
六四,裕父之蠱,往見,吝。象曰:“裕父之蠱”,往未得也。“裕父之蠱”,不能為父除患,能寬裕和緩之而已。以柔居陰,失之太柔,故吝。貞固乃可乾事,以柔致遠,往未得也。六五,乾父之蠱,用譽。象曰:“乾父用譽”,承以德也。雖天子必有繼也,故亦云“乾父之蠱”。上九,不事王侯,高尚其事。象曰:“不事王侯”,志可則也。隱居以求其志,故可則也。
六四の爻辞に「裕父之蠱、往見、吝」と言い、《象伝》は「『裕父之蠧』、往未得也」と言う。いわゆる「裕父之蠱」とは、この爻に父のために禍患を剷除する力がなく、ただ寛緩に因循して事を拖延敷衍し流していくことである。それは陰柔の質でまた陰位に居り、柔弱に過ぎる失があるので羞吝がある。積弊を整治するには、必ず貞正堅固であってこそ事業を担当できる。ひたすら柔を用いて久遠の功を成そうとすれば、往いても必ず得る所がない。六五の爻辞に「乾父之蠱、用誉」と言い、《象伝》は「『乾父用誉』、承以德也」と言う。たとえ天子の貴きにあっても、常に体を継ぎ成を守る人があるので、ここでも同じく「乾父之蠱」と称す——継位の君が徳をもって先に承けるので、美しい誉を得られる。上九の爻辞に「不事王侯、高尚其事」と言い、《象伝》は「『不事王侯』、志可則也」と言う。上九は卦外に居り、王侯に臣事せず、林下に退処して自己の志向を求め実現する——この志を守る節は天下の取法となることができる。
臨卦
臨。元亨利貞,至于八月有凶。彖曰:臨,剛浸而長,說而順,剛中而應。大亨以正,天之道也。“至于八月有凶”,消不久也。象曰:澤上有地,臨,君子以教思無窮,容保民無疆。臨言“有凶”者,大抵易之於爻,變陽至二,便為之戒,恐有過滿之萌。未過中已戒,猶履霜堅冰之義,及泰之三曰:“無平不陂,無往不復”,皆過中之戒也。
《臨》の卦辞に言う:「元亨利貞、至于八月有凶。」《彖伝》は解して言う:「臨は、剛が浸して長じ、説にして順、剛が中にありて応ず。大亨以正は、天之道也。『至于八月有凶』は、消不久也。」《象伝》に言う:「沢上に地あり、臨。君子以教思无窮、容保民无疆。」臨卦が大通大正の中でまず「有凶」を言うのは、《周易》が爻を立て象を取るに、およそ陽気が上長して第二爻に至れば、聖人はすなわち戒辞を出し、盈満が過甚となる兆がその中にすでに萌動していることを惟恐れるからである。まだ中を過ぎていないのにあらかじめ告誡するのは、まさに坤卦初六の「履霜堅氷至」と同じ機杼である。泰卦九三の「无平不陂、无往不復」に至っても、皆中を過ぎて設けられた戒辞である。天地の気は長あれば必ず消あり、聖人は気機の微動する所に言を立てるので、陽剛がまさに長ずる時に、すでにその消を預言するのである。
初九,咸臨,貞吉。象曰:“咸臨貞吉”,志行正也。臨為剛長,己志應上,故雖感而行正也。九二,咸臨,吉,無不利。象曰:“咸臨吉無不利”,未順命也。非咸則有上下之疑,有所不利。六三,甘臨,無攸利。既憂之,無咎。象曰:“甘臨”,位不當也。“既憂之”,咎不長也。體說乘剛故甘,邪說求容而以臨物,安有所利!能自憂懼,庶可免咎。
初九の爻辞に「咸臨、貞吉」と言い、《象伝》は「『咸臨貞吉』、志行正也」と言う。臨卦はまさに陽剛が漸長する時に当たり、初九は自己の志意をもって上りて六四に応ずるので、感通を凭って下に臨むとはいえ、行う所はその正を失わない。九二の爻辞に「咸臨、吉、无不利」と言い、《象伝》は「『咸臨吉无不利』、未順命也」と言う。もし真誠の感通をもって相臨まなければ、上下の間に互いに猜疑が生じ、利あらざる所となる。六三の爻辞に「甘臨、无攸利。既憂之、无咎」と言い、《象伝》は「『甘臨』、位不当也。『既憂之』、咎不長也」と言う。六三は兌体の中に身を置きながらまた九二の剛を乗凌するので、ただ甘美の言辞をもって讨好することを知るのみである。邪説をもって人の容納を求め、これに据って万物を臨御すれば、どうして利益があろうか!幸いにそれは自ら憂懼を知ることができ、こうしてようやく過ちを免れられる。
六四,至臨,無咎。象曰:“至臨無咎”,位當也。以陰居陰,體順應正,盡臨之道,雖在剛長,可以無咎。正一作說。六五,知臨,大君之宜,吉。象曰:“大君之宜”,行中之謂也。順命行中,天子之宜。上六,敦臨,吉,無咎。象曰:敦臨之吉,志在內也。體順則無所違,極上則無所進,不以無應而志在於臨,故曰敦臨志在內也。
六四の爻辞に「至臨、无咎」と言い、《象伝》は「『至臨无咎』、位当也」と言う。六四は陰柔をもって陰位に居り、本体は柔順にして応ずる所また正しく、親しく下民に臨む道理を極処まで尽くした。身は陽剛が漸長し陰柔がまさに消せんとする時に処するが、過ちなくありうる。(「正」の字は一の本に「説」と作る。)六五の爻辞に「知臨、大君之宜、吉」と言い、《象伝》は「『大君之宜』、行中之謂也」と言う。天命を順承して中道を行い、賢を任じて自ら辅らせ事事親ら為さない——これがまさに天子のあるべき民に臨む道である。上六の爻辞に「敦臨、吉、无咎」と言い、《象伝》は「敦臨之吉、志在内也」と言う。上六は坤体の中にあり、性が順ならば人に違逆する所がない。一卦の極に居れば、位の上で更に進むべき所がない。その下には正応がないが、心志はなお下に臨む事に係っている。だから「敦臨」であり「志在内」である。
觀卦
觀。盥而不薦,有孚顒若。盥求神而薦褻也。彖曰:大觀在上,順而巽,中正以觀天下。“觀盥而不薦,有孚顒若”,下觀而化也。觀天之神道而四時不忒,聖人以神道設教而天下服矣。象曰:風行地上,觀,先王以省方觀民設教。
《觀》の卦辞に言う:「盥而不薦、有孚顒若。」祭祀の初めの手を盥め清く誠にするのは、虔敬に神の格すを求めることである。牲牢を進献する薦礼に至っては、儀節が繁多で、かえって褻慢に近い。《彖伝》に言う:「大觀在上、順而巽、中正以觀天下。『觀盥而不薦、有孚顒若』は、下觀而化也。觀天之神道而四時不忒、聖人以神道設教而天下服矣。」《象伝》に言う:「風行地上、觀。先王以省方觀民設教。」先王が四方を巡省し民情を体察して後に教化を設立するのは、まさに風が地面の上を行って至らない処がないがごとし。
內順外巽,示民以順而外從巽,此祭所以為教之本,故盥而不薦。“中正以觀天下”,又曰“大觀在上”,皆謂五也,凡言“觀我生”,亦皆謂五也。天不言,藏其用而四時行。神道,如“盥而不薦”之類,盥簡潔而神,薦褻近而煩也。
觀卦は内卦が坤・外卦が巽で、内は柔順にして外は遜入する。百姓に順を昭示し、自身はまた躬ら謙巽を行う——これが祭祀が教化の根本となる所以である。だから「盥而不薦」を象に取る。《彖伝》の「中正以觀天下」、また「大觀在上」は、皆九五のこの一爻を指す。およそ爻辞の「觀我生」と言うのも、皆九五に就いて言う。天は従来言を発せず、その作用を蔵して、四時は自然に運行する。いわゆる「神道」とは、「盥而不薦」のような類である。手を盥める時は簡潔専一なので神明に通じ、薦献する時は褻近繁瑣でかえってあの精誠を失う。
有兩則須有感,然天之感有何思慮?莫非自然。聖人則能用感,何謂用感?凡教化設施,皆是用感也,作於此化於彼者,皆感之道,聖人以神道設教是也。天不言而四時行,聖人[神道]設教而天下服,誠於此,動於彼,神之道歟!
およそ陰陽の両端があれば、必ず相感がある。しかし天の感応にどうして思慮安排があろうか?ただ自然而然にすぎない。聖人はこの「感」を運用できる。何を用の感と言うか。およそ教化の種々の設施は、皆感を用いることである——ここに興作してあそこに化育される、これは皆感通の道に属し、聖人が神道をもって教を設けるのはこのようである。天は一言を発せずして四時は自ら行い、聖人は神道をもって教を設けて天下は自ら服す。至誠がここに立てば万物はかしこに動く、これがおそらく「神」の理であろう!気に両端があるゆえに感ぜざるをえず、感じてすなわち通ずるゆえに、安排を待たずして自然に流行する。
初六,童觀,小人無咎,君子吝。象曰:“初六童觀”,小人道也。所觀者末,小人之道,施於君子則吝。六二,窺觀,利女貞。象曰:“窺觀女貞”,亦可醜也。得婦人之道,雖正可羞。六三,觀我生進退。象曰:“觀我生進退”,未失道也。觀上所施而進退,雖以陰居陽,於道未失,以其在下卦之體而應於上,故曰“進退”。
初六の爻辞に「童觀、小人无咎、君子吝」と言い、《象伝》は「『初六童觀』、小人道也」と言う。見る所はただ枝節末梢のみ——これは小人の見識である。同じ一件を君子の身に置けば、羞ずべき吝すべきものとなる。六二の爻辞に「窺觀、利女貞」と言い、《象伝》は「『窺觀女貞』、亦可醜也」と言う。門の隙間から窺い望むのは、ただ婦人の静を守り自ら持する道に合するのみである。たとえこれをもって正を守ると算えても、君子に対して言えばなお醜い。六三の爻辞に「觀我生進退」と言い、《象伝》は「『觀我生進退』、未失道也」と言う。六三は上の者が施す教化を観察し、これに据って自己の進退を決定する。それは陰柔をもって陽位に居るが、位は当たらないとはいえ道理の上では失っていない。身が下卦の体にあって上りて上九に応ずるので、「進退」と言う。
六四,觀國之光,利用賓于王。象曰:“觀國之光”,尚賓也。體柔巽而以陰居下賓之,必無過也,故利。下一作陰。九五,觀我生,君子無咎。象曰:“觀我生”,觀民也。觀我所自出者。上九,觀其生,君子無咎。象曰:“觀其生”,志未平也。以剛陽極上之德,居不臣不任之位,以觀國家之政,志有所未平也,有君子循理之心則可免咎。俯視九五之為,故曰“觀其生”。
六四の爻辞に「觀國之光、利用賓于王」と言い、《象伝》は「『觀國之光』、尚賓也」と言う。六四は本体が柔順遜入で、また陰柔の質をもって九五の下に屈居して賓客を以て自処する。こうすれば必ず過失がないので「利」と称す。(「下」の字は一の本に「陰」と作る。)九五の爻辞に「觀我生、君子无咎」と言い、《象伝》は「『觀我生』、觀民也」と言う。いわゆる「觀我生」とは、反観して自己の身から生発し出た一切を観る——民風民俗はまさに人君の徳の自ら出ずる所であり、民を観るはすなわち己を観ることである。上九の爻辞に「觀其生、君子无咎」と言い、《象伝》は「『觀其生』、志未平也」と言う。上九は陽剛をもって一卦の極に居り、臣と為らず事を任ぜられもしない地位に処して、傍らより国家の政事を觀る。心に自ずから平静ならざる所がある。ただ君子の理に循り分を守る心を保てば、過ちを免れうる。それは俯して九五の所為を觀るので「觀其生」と言う。
噬嗑卦
噬嗑。亨,利用獄。彖曰:頤中有物曰噬嗑。噬嗑而亨,子路禮樂文章未足盡為政之道,以其重然諾,言為眾信,故片言可以折獄。如易“利用獄”,“利用刑人”,皆非卦爻盛德,適能是而已焉。剛柔分,動而明,雷電合而章,九五分而下,初六分而上,故曰“剛柔分”。“合而章”,合而成文也。柔得中而上行,雖不當位,利用獄也。象曰:雷電,噬嗑,先王以明罰法。六自初而進之於五,故曰“上行”。
《噬嗑》の卦辞に言う:「亨、利用獄。」《彖伝》に言う:「頤中に物あるを噬嗑と曰う。噬嗑して亨す。」子路は礼楽文章の上でなお為政の全体を尽くすに足らなかったが、ただ彼が然諾を重んじ、言い出せば衆人が皆信服したので、《論語》は彼を「片言可以折獄」と称す。《周易》の言う「利用獄」「利用刑人」の類は、いずれも一卦一爻のうち最も盛美の徳ではなく、ただちょうどこの一歩をなしうるにすぎない。《彖伝》は続けて「剛柔分、動而明、雷電合而章」と言う。九五の剛が分居して下り、初六の柔が分居して上る、だから「剛柔分」と言う。いわゆる「合而章」とは、剛柔が相合して文采を成すことである。また「柔得中而上行、雖不当位、利用獄也」と言う。《象伝》に言う:「雷電、噬嗑。先王以明罰法。」六五のこの柔爻は初位から一路進んで第五位に至ったので、「上行」と称す。
初九,屨校滅趾,無咎。象曰:“屨校滅趾”,不行也。戒之在初,小懲可止,故無咎。六二,噬膚滅鼻,無咎。象曰:“噬膚滅鼻”,乘剛也。六三居有過之地而己噬之,乘剛而動,為力不勞,動未過中,故無咎。六三,噬臘肉遇毒,小吝無咎。象曰:“遇毒”,位不當也。所間在四,四為剛陽,故曰“臘肉”;非禮傷義,故曰“遇毒”。能以為毒而舍之,雖近不相得,小有吝而無咎也。
初九の爻辞に「屨校滅趾、无咎」と言い、《象伝》は「『屨校滅趾』、不行也」と言う。悪行がまさに起こらんとする時に懲戒を加え、小さく刑を施せば彼を止まらせて更に前行せしめないので、過錯がない。六二の爻辞に「噬膚滅鼻、无咎」と言い、《象伝》は「『噬膚滅鼻』、乗剛也」と言う。六三は過ある地に処し、六二は上りてそれを咬治する。六二は初九の剛を凌乗して動くので、力を用いるに費えず、行動もまたまだ中を過ぎないので、過錯がない。六三の爻辞に「噬腊肉遇毒、小吝无咎」と言い、《象伝》は「『遇毒』、位不当也」と言う。六三の前に阻隔するのは九四で、九四は剛陽の爻で堅硬にして咬みがたいので、風乾した「腊肉」に比する。礼を越えて義に傷つくので「遇毒」と言う。六三はそれが毒であると覚えて捨てて食せず、九四と相近しいとはいえ彼此相合わず、ただ小さく羞吝があるのみで過錯に至らない。
九四,噬乾胏,得金矢,利艱貞,吉。象曰:“利艱貞吉”,未光也。五為陰柔,故喻乾胏;能守正得剛直之義,故艱貞吉,其德光大則其正非艱也。六五,噬乾肉,得黃金,貞厲無咎。象曰:“貞厲無咎”,得當也。上九,何校滅耳,凶。象曰:“何校滅耳”,聰不明也。九四、上九,難於屈服,故曰“乾肉”。得居中持堅之義,正而危則得無咎也。
九四の爻辞に「噬乾胏、得金矢、利艱貞、吉」と言い、《象伝》は「『利艱貞吉』、未光也」と言う。九四の上の六五は陰柔の爻で、驟然と咬合できないので、骨を連ねた「乾胏」に比する。九四は正を守って剛直の義を得ることができるので、艱難の中に貞を守れば吉である。もしその徳がすでに光大していれば、正を守ること自体ももはや艱難の事ではない。六五の爻辞に「噬乾肉、得黄金、貞厲无咎」と言い、《象伝》は「『貞厲无咎』、得当也」と言う。上九の爻辞に「何校滅耳、凶」と言い、《象伝》は「『何校滅耳』、聰不明也」と言う——荷う重枷が耳を掩没し、まさに耳ありながら聴き明らめないを見る。九四と上九の二つの陽爻は皆剛強にして屈服しがたいので、六五の咬む所を「乾肉」に比する。六五は中に居って持守堅固の義を得ることができ、正を守って危地に処してもなお過錯なくありうる。
賁卦
賁。亨,小利有攸往。彖曰:賁亨,柔來而文剛,故亨。分剛上而文柔,故小利有攸往,天文也;文明以止,人文也。觀乎天文以察時變,觀乎人文以化成天下。象曰:山下有火,賁,君子以明庶政,無敢折獄。無敢折獄者,明不兼於下,民未孚也,故止可明政以示民耳。
《賁》の卦辞に言う:「亨、小利有攸往。」《彖伝》に言う:「賁亨、柔来而文剛、故亨。分剛上而文柔、故小利有攸往、天文也。文明以止、人文也。觀乎天文以察時變、觀乎人文以化成天下。」《象伝》に言う:「山下有火、賁。君子以明庶政、无敢折獄。」なぜ「无敢折獄」と言うかというに、賁卦の明はただ外表の文飾に照見するのみで、光明はまだ下の隠情に兼ね及ばず、百姓が上に対する誠信もまだ孚洽していない。だからただ各項の政令を修明して民に昭示すべきで、この明察を凭って獄訟を断決することを敢えてしないのである。
初九,賁其趾,舍車而徒。象曰:“舍車而徒”,義弗乘也。文明之德,以貴居賤,修飾於下,故曰“賁其趾”;義非苟進,故曰“舍車而徒”。六一,賁其須。象曰:“賁其須”,與上興也。賁其須,起意在上也。九三,賁如濡如,永貞吉。象曰:永貞之吉,終莫之陵也。上下皆柔,無物陵犯,然不可邪妄自肆,故永貞然後終保無悔。
初九の爻辞に「賁其趾、舍車而徒」と言い、《象伝》は「『舍車而徒』、義弗乗也」と言う。初九は文明の徳を具え、尊貴の質をもって卑賤の位に屈居し、ただ下体に自ら修飾を加えるのみで、「賁其趾」と言う——文飾はただ足趾に及ぶのみである。義理に論ずればそれは苟且に進を求めることを肯じず、車を捨てて徒歩することを寧ろ取り、分に非ざる車に乗らない。第二爻の爻辞に「賁其須」と言う(原文は「六一」と作る、当に「六二」なるべし)。《象伝》は「『賁其須』、與上興也」と言う。いわゆる鬚を文飾するとは、六二自身に主宰がなく、念を起こし動くのはすべて上の九三に附随することを言う。九三の爻辞に「賁如濡如、永貞吉」と言い、《象伝》は「永貞之吉、終莫之陵也」と言う。九三の上下は皆柔爻で、来て侵陵するものがない。まさにこのがゆえに、いっそう邪僻放肆してはならず、必ず長久に正を守って、そうしてはじめて終始保全して悔恨を留めない。
六四,賁如皤如,白馬翰如,匪寇婚媾。象曰:六四當位,疑也。“匪寇婚媾”,終無尤也。以陰居陰,性為艮止,故志堅行潔,終無尤累。六五,賁于丘園,束帛戔戔,吝終吉。象曰:六五之吉,有喜也。陰陽相固,物所阜生,柔中之德比於上九。上九敦素,因可恃而致富,雖為悔吝,然獲其吉也。其道上行,故曰“丘園”。悔一作隘。上九,白賁,無咎。象曰:“白賁無咎”,上得志也。上而居高,潔無所累,為物所貴,故曰“上得志也”。上一作止。
六四の爻辞に「賁如皤如、白馬翰如、匪寇婚媾」と言い、《象伝》は「六四当位、疑也。『匪寇婚媾』、終无尤也」と言う。六四は陰柔をもって陰位に居り、本体は艮に属して性は止に主る。だから心志が堅定して操行が潔白で、初九とはもともと正応であって寇仇ではなく、終に怨尤の牽累がない。六五の爻辞に「賁于丘園、束帛戔戔、吝終吉」と言い、《象伝》は「六五之吉、有喜也」と言う。陰と陽が互いに凝聚固結してはじめて、万物はこれによって豊阜に生ずる。六五は柔中の徳をもって上九に親比し、上九は敦厚質素で、六五は倚恃する所があってよって富に致る。用いる束帛は微薄で悔吝を免れないが、最終的にはなお吉慶を獲る。六五の道は向上して行くので「丘園」を象に取る。(「悔」の字は一の本に「隘」と作る。)上九の爻辞に「白賁、无咎」と言い、《象伝》は「『白賁无咎』、上得志也」と言う。上九は最高の位に処し、素白にして牽累する所がなく、かえって万物に看重されるので「上得志也」と言う。(「上」の字は一の本に「止」と作る。)
剝卦
剝。不利有攸往。彖曰:剝,剝也,柔變剛也。“不利有攸往”,小人長也。順而止之,觀象也。君子尚消息盈虛,天行也。象曰:山附於地,剝,上以厚下安宅。處剝之時,順上以觀天理之消息盈虛。
《剝》の卦辞に言う:「不利有攸往。」《彖伝》に言う:「剝、剝也、柔変剛也。『不利有攸往』は、小人長也。順而止之は、觀象也。君子尚消息盈虚は、天行也。」《象伝》に言う:「山附于地、剝。上以厚下安宅。」剥落の時に身を処しては、ただ上にあるあの一陽に順承し、その中より天理自然の消長盈虚を体察するのみである。気は聚あれば必ず散あり、息あれば必ず消あり、君子の貴重する所はまさにこの天行の常を識ることにあり、時勢と相争わない。
初六,剝床以足,蔑貞凶。象曰:“剝床以足”,以滅下也。六二,剝床以辨,蔑貞凶。象曰:“剝床以辨”,未有與也。三雖陰類,然志應在上,二不能進剝陽爻,徒用口舌間說,力未能勝,故象曰“未有與也”。然志在滅陽,故亦云“蔑貞凶”。六三,剝之,無咎。象曰:“剝之無咎”,失上下也。獨應於陽,故反為眾陰所剝,然無所咎。六四,剝床以膚,凶。象曰:“剝床以膚”,切近災也。迫近君位,猶自下剝床,至床之膚,將及於人也。不言“蔑貞”,剝道成矣。一云:五於陰陽之際,義必上比,故以喻膚。
初六の爻辞に「剝牀以足、蔑貞凶」と言い、《象伝》は「『剝牀以足』、以滅下也」と言う。六二の爻辞に「剝牀以辨、蔑貞凶」と言い、《象伝》は「『剝牀以辨』、未有與也」と言う。六三は同じく陰類に属するが、志向は上りて上九に応ずる。六二はそれを推して陽爻を剥落せしめることができず、口舌を凭って離間遊説するのみで、気力は終に勝ることができない。だから《象伝》はそれを「未有與也」——同類の相助ける者がないと言う。しかしその心は結局陽を滅さんとするので、同じく「蔑貞凶」と断ずる。六三の爻辞に「剝之、无咎」と言い、《象伝》は「『剝之无咎』、失上下也」と言う。六三はただ上九と相応ずるので、かえって上下の衆陰に剝されるが、それ自身に就いて言えば過錯はない。六四の爻辞に「剝牀以膚、凶」と言い、《象伝》は「『剝牀以膚』、切近災也」と言う。六四はすでに君位に逼近し、剥落の勢いは下より上り、牀面に剝り至れば、牀上の人に傷つかんとする。この爻は「蔑貞」と言わなくなったのは、剥落の局面がすでに完全に形成されたからである。別の説:六五は陰陽の交界の際に処し、義理の上で必ず上に親比するので、「膚」をもってそれを譬喩する。
六五,貫魚以宮人寵,無不利。象曰:“以宮人寵”,終無尤也。六五為上九之膚,能下寵眾陰,則陽獲安而無不利矣。異於六三者,以其居尊制裁,為卦之主,故不云“剝之”也。終無尤怨者,以小人之心不過圖寵利而已,不以宮人見畜為恥也。陰陽之際,近必相比,六五能上附於陽,反制群陰不使進逼,方得處剝之善,下無剝之之憂,上得陽功之庇,故曰“無不利”。
六五の爻辞に「貫魚以宫人寵、无不利」と言い、《象伝》は「『以宫人寵』、終无尤也」と言う。六五はまさに上九に貼り接するあの一層の「膚」で、下りて衆陰を統領し、彼女らをして魚貫のごとく各々その寵を得しめ、上の一陽はこれによって安穏を獲る。自然と利あらざる所なし。それが六三と異なる所は、六五が尊位に居って群陰を裁制しうる一卦の主であることで、だから爻辞は「剝之」と言わない。いわゆる「終无尤怨」とは、小人の心思はただ寵幸利禄を図るに過ぎず、宫人のごとく畜養されても恥と為さないからである。陰陽相接の際、相近しき者は必ず互いに親比する。六五は上りて陽に附し、転じて群陰を制して進逼させず、これでこそ剥落の時に善く処したと言える——下に剝される憂患なく、上に陽徳の功の庇蔭を得る。だから「无不利」と言う。
上九,碩果不食,君子得輿,小人剝廬。象曰:“君子得輿”,民所載也。“小人剝廬”,終不可用也。處剝之世,有美實而不見採,然其德備,猶為民所載。小人處下則剝床,處上則反傷於下,是終不可用之也。
上九の爻辞に「碩果不食、君子得輿、小人剝廬」と言い、《象伝》は「『君子得輿』、民所載也。『小人剝廬』、終不可用也」と言う。剥落の世に身を処して、上九は樹梢のあの碩大にして摘食されない果実のごとし——美しい果実がありながら採取されない。しかしその徳性は完備しており、なお百姓に擁戴され承載される。小人に至っては、下位に処すれば人の牀榻を剥落し、一旦上位に居ればかえって下の人を傷害し、自己の廬舍さえ保てない——これが彼らが終に任用しえない所以である。一陽は剝されるとはいえ生意は絶えず、剥が極まれば転じて復となる——まさに天地生生の気は断滅を容れないを見る。
復卦
復。亨,出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復,利有攸往。靜之動也無休息之期,故地雷為卦,言反又言復,終則有始,循環無窮,入,指其化而裁之耳。深其反也,幾其復也,故曰“反復其道”,又曰“出入無疾”。彖曰:復亨,剛反動而以順行,是以“出入無疾,朋來無咎”。“反復其道,七日來復”,天行也;“利有攸往”,剛長也。復其見天地之心乎!
《復》の卦辞に言う:「亨、出入无疾、朋来无咎。反復其道、七日来復、利有攸往。」静中の動はもともと休止の時がないので、震下坤上のこの卦は「反」とも言い「復」とも言い、終りてまた始まり循環窮りなし。「入」の字に至っては、ただ気化流行の所に就いて裁断截取して言うにすぎない。深潜内斂はその「反」であり、几微初動はその「復」である。だから卦辞は「反復其道」と言い、また「出入无疾」と言う。《彖伝》に言う:「復亨、剛反動而以順行、是以『出入无疾、朋来无咎』。『反復其道、七日来復』は、天行也。『利有攸往』は、剛長也。復其見天地之心乎!」復が亨通する所以は、剥落すでに尽きた一陽が返回して動き、また坤順の徳に依って行くにある。だから出入に病なく、朋類が来て聚しても過錯がない。一往一復に自ら常道があり、七日の間に必ず回還する——これがまさに天道の運行である。陽気はすでにまさに長ずれば、往く所有るに利あり。この一陽初動の処に就いて、天地の物を生ずる心は昭然として見える。
復言“天地之心”,咸、恆、大壯言“天地之情”。心,內也,其原在內時,則有形見,情則見於事也,故可得而名狀。自姤而剝,至於上九,其數六也。剝之與復,不可容線,須臾不復,則乾坤之道息也,故適盡即生,更無先後之次也。此義最大。
復卦は「天地之心」と言い、咸・恒・大壮の三卦は「天地之情」と言う。いわゆる「心」は、内裏に就いて言う。本原はすでに内にあり、発動の時には形跡の見えるものがあり、そして「情」は具体的事物の上に顕現するので、名を指し状を描くことができる。姤卦の一陰が生じ始めたより算えて、一路剝卦の上九まで数えれば、その数はちょうど六である。剝と復の間は、一絲の糸も容れないほど緊接している。ただ一刹那でも復なければ、乾坤の道は止息する。だから陽気がまさに剝し尽きれば、生機は随って即ち発動し、その間にはまったく先後次第の分けるべきがない。この一層の義理は最も重大である——天地の気は一息も断絶せず、聚散は相仍げて本体は亡びない。まさに易道の最も吃緊の処である。
臨卦“至于八月有凶”,此言“七日來復”,何也?剛長之時,豫戒以陰長之事,故言“至于八月有凶”;若復則不可須臾斷,故言“七日”。七日者,畫夜相繼,元無斷續之時也。大抵言“天地之心”者,天地之大德曰生,則以生物為本者,乃天地之心也。地雷見天地之心者,天地之心惟是生物,天地之大德曰生也。雷復於地中,卻是生物。
臨卦は「至于八月有凶」と言い、ここでは復卦が「七日来復」と言う——なぜ月と日とが異なるのか。臨卦はまさに陽剛の上長する時に当たり、聖人はあらかじめ陰気の漸長する事をもって告誡するので、較べて遠い「八月」を用いる。復に至っては、一刻も中断できないので、切近の「七日」を用いる。いわゆる七日とは、昼夜が相承接して、もともと断続の言うべきがない意味である。およそ「天地之心」と言う所は、《繋辞伝》が「天地之大徳曰生」と講ずるように、万物を生養することをもって根本とするのが天地之心である。震下坤上にして天地之心を見ることができるのは、まさに天地之心はただ物を生ずるのみで、天地の最大の徳は一つの「生」の字である。雷気が地中に回復する——あれはまさに物を生ずる機括である。
彖曰:“終則有始,天行也。”天行何嘗有息?正以靜,有何期程?此動是靜中之動,靜中之動,動而不窮,又有甚首尾起滅?自有天地以來以迄於今,蓋為靜而動。天則無心無為,無所主宰,恆然如此,有何休歇?人之德性亦與此合,乃是己有,苟心中造作安排而靜,則安能久!然必從此去,蓋靜者進德之基也。
《彖伝》に言う:「終則有始、天行也。」天の運行はかつて止息したことがあろうか?まさにその本体が静なるがゆえに、どうして起訖の期限の言うべきがあろうか?ここに言う動は、静中の動である。静中の動は、動きて窮りなく、またどうして首尾起滅があろうか?天地有るより今天に至るまで、皆「静而動」のこの一路である。天はもともと心なく為なく、主宰があそこにあって安排するのではなく、ただ恒常にこのようであるのみで、どうして歇息があろうか?人の徳性もまたこの理と相契合して、はじめて真に自己の所有と為る。もし心の中に造作安排して一つの「静」を出せば、どうして長久しえよう!しかし学を為し徳を進めるには必ずここから入らなければならない、静はまさに徳を進める根基だからである。
象曰:雷在地中,復,先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。凡言“後”者,大率謂繼體守成之主也。復言“先王以至日閉關,商旅不行,后不省方”,以此校之,則後為繼承之主明矣。“先王以至日閉關”者,先王所重於至日,以其順陰陽往來,“閉關”者,取其靜也,閉關則商旅不行。先王無放過事,順時以示法,亦以示民。“后不省方”,如言富庶優暇,不甚省事,又明是繼文之主。
《象伝》に言う:「雷在地中、復。先王以至日閉關、商旅不行、后不省方。」およそ《周易》の「后」と言う所は、大抵体を継ぎ成を守る君主を指す。復卦はすでに「先王以至日閉關、商旅不行」と言い、また「后不省方」と言う。この二句を対照して見れば、「后」が継承の主であることは明らかである。いわゆる「先王以至日閉關」とは、先王が冬至のこの日を看重するのは、それがまさに陰陽往来の関節に当たるからである。「閉關」が取るのは一つの静の字で、關がすでに閉ざされれば、商旅は自然に通行しない。先王は一件も軽々しく見過ごすことがなく、天時に順って法度を昭示し、すなわち民に昭示する。「后不省方」に至っては、譬えていえば国家が富庶で政事が優裕閑暇で、事事親ら巡察する必要がない——これはまた分明に文治を承継した君主である。
初九,不遠復,無只悔,元吉。象曰:不遠之復,以修身也。祗猶承也,受也。一云:祗悔作神祗之祗。祗之為義,示也,效也,見也,言悔可使亡,不可使成而形也。六二,休復,吉。象曰:休復之吉,以下仁也。下比於陽,故樂行其善。六三,頻復,厲無咎。象曰:頻復之厲,義無咎也。所處非位,非頻蹙自危,不能無吝。吝一作咎。
初九の爻辞に「不遠復、无祗悔、元吉」と言い、《象伝》は「不遠之復、以修身也」と言う。「祗」の字は承受の「承」・領受の「受」のごとし。別の説:この「祗悔」の祗は神祗の「祗」に当たるべし。祗の義は顕示・呈効・顕現で、悔意が初起の時にそれを消亡せしめることができ、それを任せて形を成し顕露し出さしめてはならないことを言う。六二の爻辞に「休復、吉」と言い、《象伝》は「休復之吉、以下仁也」と言う。六二は下りて初九のこの陽爻に親比するので、その善を踐行することを楽しむ。六三の爻辞に「頻復、厲无咎」と言い、《象伝》は「頻復之厲、義无咎也」と言う。六三の処する所は正位ではなく、もし屡屡蹙迫して自ら危うくし、一度ごとに善に回头しなければ、羞吝を免れない。(「吝」の字は一の本に「咎」と作る。)
六四,中行獨復。象曰:“中行獨復”,以從道也。柔危之世,以中道合正應,故不與群爻同。六五,敦復,無悔。象曰:“敦復無悔”,中以自考也。性順位中,無它應援,以敦實自求而已。剛長柔危之世,能以中道自考,故可無悔,不然,取悔必矣。上六,迷復,凶,有災眚。用行師,終有大敗,以其國君凶,至于十年不克征。象曰:迷復之凶,反君道也。君道過亢反常,無施而可,故天災人害,師敗君凶,久衰而不可振也。
六四の爻辞に「中行獨復」と言い、《象伝》は「『中行獨復』、以従道也」と言う。陰柔危疑の時世の裏にあって、六四は群陰の中に居り、中道をもって下りて初九のこの正応に応ずるので、その余の諸爻と同流しない。六五の爻辞に「敦復、无悔」と言い、《象伝》は「『敦復无悔』、中以自考也」と言う。六五は性情が柔順にして位が中道に居り、倚るべき応援がなく、ただ敦厚篤実をもって己に反求するのみである。陽剛が漸長し陰柔が危疑する世に当たって、中道をもって自ら省察できるので、悔恨なくありうる。そうでなければ、悔恨を招くのは必定である。上六の爻辞に「迷復、凶、有災眚。用行師、終有大敗、以其国君凶、至于十年不克征」と言い、《象伝》は「迷復之凶、反君道也」と言う。君たるの道は一旦亢極に過ぎて常理に反すれば、一事として行き通るものがなく、天の降す災害・人の為す禍乱が接踵而至し、兵を出せば大敗し、君たれば凶危し、衰頽は長久にして振起できない。
无妄卦
無妄。元亨利貞。其匪正有眚,不利有攸往。彖曰:無妄,剛自外來而為主於內,動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也。“其匪正有眚,不利有攸往”,無妄之往何之矣!天命不祐,行矣哉!無妄四德,無妄而後具四德也。其曰“匪正有眚”,對無妄雷行天動也,天動不妄,故曰“無妄”。天動不妄則物亦無妄,乾道變化各正性命也。
《无妄》の卦辞に言う:「元亨利貞。其匪正有眚、不利有攸往。」《彖伝》に言う:「无妄、剛自外来而為主于内、動而健、剛中而応、大亨以正は、天之命也。『其匪正有眚、不利有攸往』——无妄之往何之矣!天命不祐、行矣哉!」《无妄》の一卦は元・亨・利・貞の四徳を兼ね具え、まさにただ妄ならざるを成し遂げて、そうして後に四徳が完備しうる。「匪正有眚」と言うに至っては、无妄と相対して言うのである。雷が天下に運行し、天体は動きて妄ならず、だから卦名を《无妄》と言う。天の動はすでに妄ならざれば、万物もまたこれに随って妄ならず——これは乾卦《彖伝》の言う「乾道変化、各正性命」である。気化流行にもともと差忒なく、物物各々その性命を正しくする——まさに「无妄」の二字の実義である。
象曰:天下雷行,物與無妄,先王以茂對時,育萬物。物因雷動,雷動不妄則物亦不妄,故曰“物與無妄”。育不以時,害莫甚焉。初九,無妄往吉。象曰:無妄之往,得志也。易所謂“得志”者,聖賢獲其願欲者也。得臣無家,堯之志也;貞吉升階,舜之志也。
《象伝》に言う:「天下雷行、物与无妄。先王以茂対時、育万物。」万物は雷動に因って萌発し、雷動はすでに妄ならざれば、万物もまた妄ならず。だから「物与无妄」——万物がともに不妄に帰する。万物を養育するに天時に順応しなければ、害はこれより大きいものはない。初九の爻辞に「无妄往吉」と言い、《象伝》は「无妄之往、得志也」と言う。《周易》の言う「得志」とは、聖賢が自己の心願を実現することを指す。損卦の上九が「得臣无家」と言うのは、唐尭の志向である。升卦の六五が「貞吉升階」と言うのは、虞舜の志向である。
六二,不耕穫,不災畲,則利有攸往。象曰:“不耕穫”,未富也。柔之為道不利遠者,能遠利不為物首則可,乘剛處實則凶。六三,無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。象曰:行人得牛,邑人災也。妄災之大,莫大於妄誅於人,以陰居陽,體躁而動,遷怒肆暴,災之甚者。繫牛為說,緣耕穫生詞。
六二の爻辞に「不耕獲、不菑畬、則利有攸往」と言い、《象伝》は「『不耕獲』、未富也」と言う。陰柔の道は久遠を図謀するに利あらず、私利から遠く離れ、万物に先んじて倡首とならなければ、まだよい。もし陽剛を凌乗し実を据えて自ら恃めば、凶を招く。六三の爻辞に「无妄之災、或繫之牛、行人之得、邑人之災」と言い、《象伝》は「行人得牛、邑人災也」と言う。妄然として招いた災禍に、故なく人に誅を加えるより大きいものはない。六三は陰柔をもって陽位に居り、体質が躁急にして妄動し、人に怒を遷して暴虐を肆行する——まさに災禍のうち最も重い一種である。爻辞が繫牛を取って説を立てるのは、上一爻の「耕獲」の話頭を承接して生出した詞である。
九四,可貞,無咎。象曰:“可貞無咎”,固有之也。九五,無妄之疾,勿藥有喜。象曰:無妄之藥,不可試也。體健居尊,得行其志,故以無妄為疾。“無妄之疾”,疾無妄之謂也,欲妄動而不敢妄,是則以無妄為疾者也,如孟子言“有法家拂士”,是疾無妄者也。以無妄為病而醫之,則妄之意遂矣,故曰“勿藥有喜”,又曰“不可試也”,言不可用藥治之。上九,無妄行,有眚,無攸利。象曰:無妄之行,窮之災也。進而過中,是無妄而行也。
九四の爻辞に「可貞、无咎」と言い、《象伝》は「『可貞无咎』、固有之也」と言う。九五の爻辞に「无妄之疾、勿薬有喜」と言い、《象伝》は「无妄之薬、不可試也」と言う。九五は体質が剛健にして尊位に居り、自己の志向を施行しうるので、かえって「无妄」を一種の病痛と為す。いわゆる「无妄之疾」とは、无妄をもって患と為す意味である。心に妄動せんと欲するも、不妄の理に拘束されて妄為を敢えてしない——これが无妄を病と見なすことである。《孟子》が国内に「法家拂士」ありと言うのは、まさにこの无妄をもって疾と為す情形である。もし真に无妄を病と為して薬を下してそれを医治すれば、妄の念は逞しゅうするを得る。だから「勿薬有喜」と言い、また「不可試也」と言う——薬をもって治してはならない意味である。上九の爻辞に「无妄行、有眚、无攸利」と言い、《象伝》は「无妄之行、窮之災也」と言う。前進して中道を超えれば、それは自ら无妄を恃んで妄行するものとなる。
大畜卦
大畜。利貞,不家食,吉,利涉大川。彖曰:大畜,剛健篤實輝光,日新其德。剛上而尚賢,能止健,大正也。“不家食吉”,養賢也。“利涉大川”,應乎天也。象曰:天在山中,大畜,君子以多識前言往行以畜其德。剛健篤實,日新其德,乃天德也。
《大畜》の卦辞に言う:「利貞、不家食、吉、利渉大川。」《彖伝》に言う:「大畜、剛健篤実輝光、日新其徳。剛上而尚賢、能止健は、大正也。『不家食吉』は、養賢也。『利渉大川』は、応乎天也。」《象伝》に言う:「天在山中、大畜。君子以多識前言往行以畜其徳。」剛健篤実にして日々その徳を更新する——これが天徳である。天の行は健にして已まず、人がこれに取法できれば、すなわち天徳をもって自身を畜養する。
陽卦在上,而上九又在其上,故曰“剛上而尚賢”。強學者往往心多好勝,必無心處(一)[之]乃善也。定然後始有光明,惟能定已是光明矣,若常移易不定,何(求)[來]光明!易大抵以艮為止,止乃光明。時止時行,“動靜不失其時,其道光明”,“謙天道下濟而光明”,“天在山中,大畜,君子以剛健篤實輝光,日新其德”,定則自光明,故大學定而至於能慮。人心多則無由光明。(蒙雜而著著古著字雜著於物所以為濛濛昏蒙)
大畜は下が乾・上が艮で、陽卦が上に居り、上九はまた艮体の最頂上にあるので、《彖伝》は「剛上而尚賢」と言う。勉强して功を用いて学ぶ者は、往々にして心に好勝の意が多すぎる。必ず无心をもって応対しなければならない(「一」は「之」に当たるべし)——これでこそ好と算えられる。心がまず定まることができて、そうして後にはじめて光明が有り始める。ただ真に定まることができれば、それ自体がすでに光明である。もし常に移易して定まることができなければ、光明はどこから来ようか(「求」は「来」に当たるべし)!《周易》は大抵艮をもって止とする。止まることができてこそ光明がある。止まるべきときは止まり行うべきときは行う——艮卦《彖伝》は「動静不失其時、其道光明」と言い、謙卦《彖伝》は「天道下済而光明」と言い、大畜卦は「天在山中、大畜、君子以剛健篤実輝光、日新其徳」と言う——心が定まれば自然に光明である。だから《大学》は「定」によって後に静かに安んずることができ、終に「慮」ることができるに至ると講ずる。人の心は頭緒が多すぎれば、光明の由がない。(この下に蒙卦を論ずる札記の一則を附す:《雑卦伝》の「蒙雑而着」——この「着」は古の「著」の字で、雑然として外物に附著する、だから蒙と言う。蒙とは、すなわち昏蒙である。)
初九,有厲,利己。象曰:“有厲利己”,不犯災也。趨其應則有二三之阻,故不若己也。九二,輿說輹。象曰:“輿說輹”,中無尤也。不阻於三則見童於四,不躁進者,位中也。九三,良馬逐,利艱貞。曰閒輿衛,利有攸往。象曰:“利有攸往”,上合志也。不防輿衛而進歷二陰,則或有童牿說(輻)[輹]之害,不利其往也。本乎天者親上,故上合志也。
初九の爻辞に「有厲、利己」と言い、《象伝》は「『有厲利己』、不犯災也」と言う。初九がもし急いで上りて六四のこの正応に趨らんとすれば、中間に九二・九三の阻隔があるので、止まって自ら止まるに如かない。九二の爻辞に「輿説輹」と言い、《象伝》は「『輿説輹』、中无尤也」と言う。九二は九三に阻まれなくとも、六四の牛牿に制せられる。それが躁進しない所以は、下卦の中に居るからである。九三の爻辞に「良馬逐、利艱貞。曰閑輿衛、利有攸往」と言い、《象伝》は「『利有攸往』、上合志也」と言う。もしまず車馬護衛の事を講習せずして貿然と前進し、六四六五の二つの陰爻を越えれば、牛牿が身に加わり車輹が脱落する(「輻」は「輹」に当たるべし)の禍害に遭うことがあり、そうなれば前往は利あらず。本源が天に出ずる者は自ずから上に親附するので、上と「合志」と言う。
六四,童牛之牿,元吉。象曰:六四元吉,有喜也。六五,豶豕之牙,吉。象曰:六五之吉,有慶也。上九,何天之衢,亨。象曰:“何天之衢”,道大行也。其道大行也,升於天,何待衢路而進?言無所不通也。衢字當為絕句。艮為止,止二陰也,不以止其類也,故亨。
六四の爻辞に「童牛之牿、元吉」と言い、《象伝》は「六四元吉、有喜也」と言う。六五の爻辞に「豶豕之牙、吉」と言い、《象伝》は「六五之吉、有慶也」と言う。上九の爻辞に「何天之衢、亨」と言い、《象伝》は「『何天之衢』、道大行也」と言う。すでにその道が大いに行われ、すでに天に上昇したのに、何の四通の大路を待ってはじめて前進しようか?これは通じない所がないことを言う。「衢」の字は当にここに断句すべし。上九は艮に属し、艮の本義は止で、それが止住するのは六四・六五の二つの陰爻であり、自己の同類の陽爻を止めるのではない。だから亨通できる。
頤卦
頤。貞吉。觀頤自求口實。彖曰:“頤貞吉”,養正則吉也。“觀頤”,觀其所養也;“自求口實”,觀其自養也。天地養萬物,聖人養賢以及萬民,頤之時大矣哉!觀頤,辨養道得失,欲觀人處己之方。象曰:山下有雷,頤,君子以慎言語,節飲食。山下有雷,畜養之象。
《頤》の卦辞に言う:「貞吉。觀頤自求口実。」《彖伝》に言う:「『頤貞吉』は、養正則吉也。『觀頤』は、觀其所養也。『自求口実』は、觀其自養也。天地養万物、聖人養賢以及万民。頤之時大矣哉!」いわゆる「觀頤」とは、養育の道の得失を辨别し、これに藉りて一人の人が人を待ち己に処する方術を看清しようとすることである。《象伝》に言う:「山下有雷、頤。君子以慎言語、節飲食。」山下に雷あり——雷は山腹に蔵されて生気が内に蓄えられ、まさに畜養の象である。口は言語を吐出し飲食を納入する所で、二つの事は皆頤口より起こる。だから君子はここに言語を謹慎してその徳を養い、飲食を節制してその身を養う。徳を養い身を養う——その理はもともと一貫である。
初九,舍爾靈龜,觀我朵頤,凶。象曰:“觀我朵頤”,亦不足貴也。體躁應上,觀我而朵其頤,求養而無恥者也。六二,顛頤拂經,于丘頤,征凶。象曰:六二征凶,行失類也。凡頤之正,以貴養賤,以陽養陰,所謂經也。頤卦群陰皆當聽養於上,六二違之,反比於初,以陰養陽,顛頤者也。群陰,上所聚養者也,六二亂經於聚養之義,失陰類之常,故以進則凶。
初九の爻辞に「舍爾霊龜、觀我朵頤、凶」と言い、《象伝》は「『觀我朵頤』、亦不足貴也」と言う。初九は本体が躁動して上りて六四に応じ、自身のあの食せずして生きうる霊龜を丢き棄て、ただ他人の垂涏して腮を鼓らすを盯視するのみ——これは人に養われることを求めて羞恥を知らない人である。六二の爻辞に「顚頤拂經、于丘頤、征凶」と言い、《象伝》は「六二征凶、行失類也」と言う。およそ頤養の正道は、尊貴なる者をもって卑賤なる者を養い、陽をもって陰を養う——これを「經」と言い、すなわち常法である。頤卦の四つの陰爻は皆上九に養を聴くべきなのに、六二はひとりでこれに違背し、かえって初九に親比して、陰をもって陽を養うものとなる——これが「顚頤」で、養の次序を顛倒した。群陰はもともと上九の聚養する対象であり、六二が聚養のこの事の上で常法を乱し、陰類の守るべき常道を失ったので、貿然と前行すれば凶である。
六三,拂頤,貞凶。十年勿用,無攸利。象曰:“十年勿用”,道大悖也。履邪好動,繫說於上,不但拂經而已,害頤之正莫甚焉,故凶。“繫說於上”一作“繫而說上”。六四,顛頤,吉。虎視眈眈,其欲逐逐,無咎。象曰:顛頤之吉,上施光也。體順位陰,得頤之正,以貴養賤而得賢者,雖反陽爻養陰之義,以上養下,其施光矣。然以柔養剛,非嚴重其德,廣大其志,則未免於咎。
六三の爻辞に「拂頤、貞凶。十年勿用、无攸利」と言い、《象伝》は「『十年勿用』、道大悖也」と言う。六三の行う所は邪僻でまた動を好み、ひたすら上九に係恋して喜悦する——常法に違背するだけではなく、頤養の正を損害するにこれより甚だしいものはない。だから凶と断ずる。(「系説于上」は一の本に「系而説上」と作る。)六四の爻辞に「顚頤、吉。虎視眈眈、其欲逐逐、无咎」と言い、《象伝》は「顚頤之吉、上施光也」と言う。六四は本体が柔順にして陰位に居り、頤養の正を得て、尊貴の位をもって下の賢者を養う。それは反転して陰をもって陽を養うので、陽が陰を養うの義に違うが、結局は上より下を養うので、施す恩沢は光大である。しかし柔をもって剛を養うに、自己の徳を荘厳凝重にし、自己の志を広大にすることができなければ、過錯を免れがたい。
六五,拂經,居貞吉。不可涉大川。象曰:居貞之吉,順以從上也。聽養於上,正也;以陰居頤卦之尊,拂經也。上九,由頤,厲吉,利涉大川。象曰:“由頤厲吉”,大有慶也。由頤自危然後乃吉者,下有眾陰順從之慶,驕則有它吝。此卦得養之正者方利涉大川,蓋養然後可動耳。
六五の爻辞に「拂經、居貞吉。不可渉大川」と言い、《象伝》は「居貞之吉、順以従上也」と言う。六五は上九に養を聴く——これは正である。しかしそれは陰柔の質をもって頤卦の尊位を占め、自ら人を養うことができずかえって人に養われる——これはまた常法に違背する。上九の爻辞に「由頤、厲吉、利渉大川」と言い、《象伝》は「『由頤厲吉』、大有慶也」と言う。天下はそれによって養を得るので、必ず自ら危懼を知ってそうして後に吉。下に衆陰の順従する慶があるからである。一旦驕矜すれば、別の羞吝を招く。この一卦の中でただ頤養の正を得た人のみが「利渉大川」なのは、いつもまず養い足りて、そうして後にようやく動作ありうるからである。
大過卦
大過。棟撓,利有攸往,亨。彖曰:“大過”,大者過也。“棟撓”,本末弱也。剛過而中,巽而說行,利有攸往乃亨,大過之時大矣哉!象曰:澤滅木,大過,君子以獨立不懼,遁世無悶。陽剛過實於中,本末過弱於外,故當過矯相與也。
《大過》の卦辞に言う:「棟撓、利有攸往、亨。」《彖伝》に言う:「『大過』は、大なる者の過なり。『棟撓』は、本末弱也。剛過而中、巽而説行、利有攸往乃亨。大過之時大矣哉!」《象伝》に言う:「沢滅木、大過。君子以独立不懼、遯世无悶。」この一卦は四つの陽爻が中間に聚まり、剛実が過盛である。初・上の二つの陰爻は首尾に分かれ処り、本末が過弱である。だから大過の時に身を処しては、必ず枉を矯めて正に過ぎる办法をもって彼此扶助し相与しなければならない。
初六,藉用白茅,無咎。象曰:“藉用白茅”,柔在下也。九二,枯楊生稊,老夫得其女妻,無不利。象曰:老夫女妻,過以相與也。扶衰於上,使枯木生稊,拯弱於下,使微陰獲助,此剛中下濟之功,亦自獲助於物也。九三,棟撓,凶。象曰:棟撓之凶,不可以有輔也。九四,棟隆,吉。有它吝。象曰:棟隆之吉,不撓乎下也。志在拯弱則棟隆而吉,若私應為心則撓乎下,吝也。
初六の爻辞に「藉用白茅、无咎」と言い、《象伝》は「『藉用白茅』、柔在下也」と言う。九二の爻辞に「枯楊生稊、老夫得其女妻、无不利」と言い、《象伝》は「老夫女妻、過以相與也」と言う。九二は上りて衰敗を扶持し、枯槁の楊樹をしてあらためて嫩芽を抽かしめ、下りて柔弱を拯救して微弱の陰爻に帮助を得しめる。これは陽剛が中に居って下に済する功用で、同時に自己もまた相手から助益を獲得する。九三の爻辞に「棟撓、凶」と言い、《象伝》は「棟撓之凶、不可以有輔也」と言う。九四の爻辞に「棟隆、吉。有它吝」と言い、《象伝》は「棟隆之吉、不撓乎下也」と言う。九四はもし心志が柔弱を拯救するにあれば、棟梁が高く隆れて吉である。もしひたすら初六に私應することを念とすれば、下りて弯曲することになり、それなら羞吝がある。
九五,枯楊生華,老婦得其士夫,無咎無譽。象曰:“枯楊生華”,何可久也!老婦士夫,亦可醜也。九五上繫上六,故不能下濟大事,徒益其末耳,無拯物之心,所施者狹。老婦士夫,所與者不足道。枯楊生華,勢不能久,故無譽;未至長亂,故無咎。上六,過涉滅頂,凶,無咎。象曰:過涉之凶,不可咎也。陰居上極,雖過而不足涉難,故凶。大過之極,故滅頂而無咎也。
九五の爻辞に「枯楊生華、老婦得其士夫、无咎无誉」と言い、《象伝》は「『枯楊生華』、何可久也!老婦士夫、亦可醜也」と言う。九五は上りて上六に係恋するので、下りて大事を済助することができず、いたずらに枝末を助長するのみである。それには万物を拯救する心がないので、施す範囲もよって狹窄である。老婦に少夫が配されるのは、交結する対象がもともと称道に値しない。枯楊が花を開くは、勢いとして久しくありえないので称誉がない。しかもなお久しい禍乱を釀すに至らないので過錯もない。上六の爻辞に「過渉滅頂、凶、无咎」と言い、《象伝》は「過渉之凶、不可咎也」と言う。上六は陰柔をもって一卦の最上に居り、過渉の志はあるが難を渉る力量がないので凶。しかしそれは大過の極処に身を処して、なすべからざるを明知しながらこれを蹈むので、たとえ水に頂を滅せられても、それに咎を帰することはできない。
習坎卦
習坎。有孚,維心亨,行有尚。習坎,重襲之義。八純卦惟此加“習”者,餘皆一字可盡其義,坎取其險,故重之而其險乃著也。色以離見,聲以震聞,臭以巽知,味以坎達。坎離者,天地之中二氣之正交。然離本陰卦,坎本陽卦,以此見二氣其本如此而交性也,非此二物則無易。
《習坎》の卦辞に言う:「有孚、維心亨、行有尚。」「習坎」の「習」は、重畳相襲の意である。八つの純卦のうちこの一卦のみ「習」の字を加え、残りの七卦は皆一字をもってその意義を言い尽くす。坎が取るのは険なので、必ず重畳してこそ、その険が現れる。顔色は離によって顕現し、音声は震によって聴聞され、気味は巽によって知覚され、滋味は坎によって通達する。坎と離は、天地の間の陰陽二気の最も純正の交合である。しかし離はもともと陰卦に属し、坎はもともと陽卦に属する——これをもって陰陽二気の本然がこのようであるを見、それらが交感して性を成すもこのようである。この坎離の二様がなければ、《周易》もまた成立するに由がない。
彖曰:習坎,重險也,水流而不盈,行險而不失其信。“維心亨”,乃以剛中也。“行有尚”,往有功也。天險,不可升也;地險,山川丘陵也。王公設險以守其國,險之時用大矣哉!象曰:水洊至,習坎,君子以常德行,習教事。可盈則非謂重險也,中柔則心無常,何能亨也!內外皆險,義不可止,故行有尚也。坎維心亨故行有尚,外雖積險,苟處之心亨不疑,則雖難必濟而往有功也。今水臨萬仞之山,要下即下,無復凝滯(人)[之]在前,惟知有義理而已,則復何迴避,所以心通。
《彖伝》に言う:「習坎、重険也、水流而不盈、行険而不失其信。『維心亨』は、乃以剛中也。『行有尚』は、往有功也。天険は、不可升也。地険は、山川丘陵也。王公設険以守其国。険之時用大矣哉!」《象伝》に言う:「水洊至、習坎。君子以常徳行、習教事。」水がもし盈満できれば、重険を成さない。中爻がもし柔なら、心に常主がなく、どうして亨通しえよう!内外ともに険なら、道理の上に止まって動かないことはできないので「行有尚」と言う。坎卦はただこの心が亨通すればこそ、行う所が嘉尚しうる。外はたとえ険阻が層積しても、これに処して心が亨りて疑わなければ、どんなに難しくても必ず済ることができ、往けば功效がある。水が万仞の高山に臨んで、下るべきときは下るがごとき——前に更にそれを滞らせうるものはない(「人」は「之」に当たるべし)。人が心にただ一つの義理を認めれば、なお何を回避しようか?これがいわゆる心通である。
初六,習坎,入于坎窞,凶。象曰:習坎入坎,失道凶也。比於二無出險之志,故云“入于坎窞”也。九二,坎有險,求小得。象曰:“求小得”,未出中也。險難之際,弱必附強,上下俱陰,求必見從,故求則必小得,然二居險中而未出也。六三,來之坎坎,險且枕,入于坎窞勿用。象曰:“來之坎坎”,終無功也。前之入險退(來)[求],枕險入窞,與初六同。
初六の爻辞に「習坎、入于坎窞、凶」と言い、《象伝》は「習坎入坎、失道凶也」と言う。初六はただ九二に親比するのみで、自身に険を出る志向がないので、それを「入于坎窞」——坎の中の小穴に陥り入ると言う。九二の爻辞に「坎有険、求小得」と言い、《象伝》は「『求小得』、未出中也」と言う。険難が頭に当たる際、弱者は必ず強者に依附する。九二の上下は皆陰爻で、それに求める所があれば必ず順従を得るので、求めれば必ず小さな收穫がある。しかしそれは結局なお険中に居って脱出していない。六三の爻辞に「来之坎坎、険且枕、入于坎窞勿用」と言い、《象伝》は「『来之坎坎』、終无功也」と言う。六三は前進すれば険中に陥り、退いて別に出路を求めても(「来」は「求」に当たるべし)、依然として険上に枕し坎穴に落ち入る——処境は初六と同じ。
六四,樽酒簋貳用缶。納約自牖,終無咎。象曰:“樽酒簋貳”,剛柔際也。四五俱得陰陽之正,險阻之際,近而相得,誠素既接,雖簡略於禮無咎也。上比於五,有進出之漸,故無凶。九五,坎不盈,祗既平,無咎。象曰:“坎不盈”,中未大也。險難垂出而下比於四,不能勉成其功,光大其志,故聖人惜之曰“祗既平無咎”而已矣,不能往有功也。一本云:坎盈則進而往有尚矣。
六四の爻辞に「樽酒簋貳用缶。納約自牖、終无咎」と言い、《象伝》は「『樽酒簋貳』、剛柔際也」と言う。六四と九五は皆各々陰陽の正位を得て、険阻の中で彼此相近して相得る。誠意素心がすでに接し合えば、礼数は簡略でも過錯がない。六四は上りて九五に親比し、すでに漸く険境を脱出する勢いがあるので、凶に至らない。九五の爻辞に「坎不盈、祗既平、无咎」と言い、《象伝》は「『坎不盈』、中未大也」と言う。九五はまさに険を出んとしながら、下りて六四に親比し、その功を成しその志を光らせるに勉力できない。だから聖人はそれのために惜しみ、ただ「祗既平无咎」と言うのみで、終に往いて功を建てることができない。別に一つの本に言う:坎がもし満ちれば、前進して往く所が嘉すべきとなる。
上六,係用徽纆,置于叢棘,三歲不得,凶。象曰:上六失道,凶三歲也。上六過中,逃險而失道者也,不附比陽中,幾於迷復之凶,故為所繫累也。陰柔不能附比於陽,處險之極乘剛,宜其為所拘戮也。
上六の爻辞に「系用徽纆、置于叢棘、三歳不得、凶」と言い、《象伝》は「上六失道、凶三歳也」と言う。上六はすでに中位を越え、険境を逃れようとしてかえって正道を迷う人である。それは陽剛中正の九五に親附することを肯じず、ほとんど復卦の上六「迷復」の凶に相仿つ。だから繩索に捆縛され牽累する。陰柔の質をもって陽剛に依附できず、また険の頂点上に処して九五の剛を凌乗する——拘系され誅戮されるも理所当然である。
離卦
離。利貞亨。畜牝牛,吉。以柔麗乎中正,故利貞。彖曰:離,麗也,日月麗乎天,百穀草木麗乎土,重明以麗乎正,乃化成天下。柔麗乎中正故亨,是以畜牝牛吉也。日月草木麗天地,麗,附著也。象曰:明兩作,離,大人以繼明照于四方。明目達聽,繼明之道也。人患惰於博覽,惟大人能勉而繼之。
《離》の卦辞に言う:「利貞亨。畜牝牛、吉。」六二・六五の二つの柔爻が中正の位に附麗するので「利貞」と言う。《彖伝》に言う:「離、麗也。日月麗乎天、百穀草木麗乎土。重明以麗乎正、乃化成天下。柔麗乎中正故亨、是以畜牝牛吉也。」日月は天に附著し、草木は地に附著する——いわゆる「麗」とは、附著の意である。《象伝》に言う:「明両作、離。大人以継明照于四方。」眼目をして明察にし聴聞をして通達せしめることは、光明をして相継ぎ息ませざらしめる方法である。人の通病は博覧に懶いことで、ただ大人のみが勉力して懈らず、この明徳を接続していくことができる。
初九,履錯然,敬之,無咎。象曰:履錯之敬,以辟咎也。“履錯然”,與之者多也。無應於上,無所朋附,以剛處下,物所願交,非矜慎之甚,何以免咎!六二,黃離,元吉。象曰:“黃離元吉”,得中道也。九三,日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。象曰:日昃之離,何可久也!明正將老,離過於中,故哀樂之不常其德,凡人不能久也。故君子為德,夭壽不貳。
初九の爻辞に「履錯然、敬之、无咎」と言い、《象伝》は「履錯之敬、以辟咎也」と言う。いわゆる「履錯然」とは、来てそれと交接する人が多いことを言う。初九は上に正応がなく朋比依附する所がないが、陽剛をもって最下に居り、まさに衆人の交結を願う対象である。もし極めて荘矜謹慎でなければ、どうして過錯を免れえよう!六二の爻辞に「黄離、元吉」と言い、《象伝》は「『黄離元吉』、得中道也」と言う。九三の爻辞に「日昃之離、不鼓缶而歌、則大耋之嗟、凶」と言い、《象伝》は「日昃之離、何可久也!」と言う。光明と中正がまさに衰老せんとし、附麗の勢いはすでに中位を過ぎたので、哀も楽もその徳を常守できない——常人は長久ありえない。それゆえ君子が徳を修めるには、短命であれ長寿であれその操守を改めず、一をもって貫く。
人向衰暮則尤樂聽聲音,蓋留連光景,視桑榆之暮景不足,則貪於為樂,惟鄭衛之音能令人生此意。易謂“不鼓缶而歌則大耋之嗟凶”,悲衰暮故為樂,不為則復嗟年景之不足也。
人は衰老の暮年に至ると、とりわけ声楽を聴くことを好む。それは光陰に留連して、桑榆の晩景に残る所が無多なのを眼に見て、行楽を貪るからである。そしてただ鄭・衛のような靡曼の音楽のみが最もこのような心思を勾起しうる。《周易》の「不鼓缶而歌、則大耋之嗟、凶」とは、まさに言う——衰暮を悲嘆するゆえに強いて歓楽を作す。もし楽を作さなければ、また年歳光景の足らざるを嗟嘆しなければならない。両端ともに命に安んじ理に順う道ではない。
九四,突如其來如,焚如,死如,棄如。象曰:“突如其來如”,無所容也。處多懼之地而以乘剛,故其來也遽,其處也危,無所容安,如見棄逐,皆所麗之失中也。三剛而不可乘,五正而不見容。六五,出涕沱若,戚嗟若,吉。象曰:六五之吉,離王公也。言王公之貴,人之所附,下以剛進,己雖憂危,終以得眾而吉者,柔麗中正也。
九四の爻辞に「突如其来如、焚如、死如、棄如」と言い、《象伝》は「『突如其来如』、无所容也」と言う。九四は多疑多懼の地位に処し、また九三の剛を凌乗するので、来勢が急遽にして処する所が危殆で、身を安ずる所がなく、人に拋棄驅逐されるがごとし——これは皆それが附麗する位置が中道を失ったことによる。九三は剛強にして凌乗すべからず、九五は中正にしてそれを容納することを肯じない。六五の爻辞に「出涕沱若、戚嗟若、吉」と言い、《象伝》は「六五之吉、離王公也」と言う。これは王公の位が尊貴にして衆人の帰附する所であることを言う。下に陽剛の上進が逼るありとはいえ、自己は憂懼危疑の中に処するも、最終的にはなお衆を得るによって吉——原因はまさにそれが柔順をもって中正の位に附麗するにある。
上九,王用出征,有嘉折首,獲匪其醜,無咎。象曰:“王用出征”,以正邦也。“有嘉折首”,服而善之也。“獲匪其醜”,執訊弗賓,示威以正邦而已,離道已成,然後不附可征。
上九の爻辞に「王用出征、有嘉折首、獲匪其醜、无咎」と言い、《象伝》は「『王用出征』、以正邦也。『有嘉折首』、服而善之也」と言う。いわゆる「獲匪其醜」とは、ただ首悪と賓服を肯じない者を拘を拘執して訊問を加え、残りの脅従は誅連しないことである——これはただ威厳を顕示して邦国を匡正するにすぎない。必ず光明附麗の道がすでに確立完成して、そうして後にようやくなお帰附しない者を征討しにいくことができる。
下経
咸卦
咸。亨利貞,取女吉。咸之為道,以虛受為本,有意於中,則滯於方體而隘矣。拇、腓、股、脢、輔,以一卦通體高下為言。彖曰:咸,感也,柔上而剛下,二氣感應以相與,止而說,男下女,是以“亨利貞取女吉”也。天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平,觀其所感而天地萬物之情可見矣。
《咸》の卦辞に言う:「亨利貞、取女吉。」咸の道理は虚心をもって受けるを根本とする。心中に先んじて一つの成見を存すれば、形体方所に滞礙して褊狹になる。爻辞の拇・腓・股・脢・輔は、一卦の通体の下より上への部位に就いて象を取ったものである。《彖伝》に言う:「咸、感也。柔上而剛下、二気感応以相与、止而説、男下女。是以『亨利貞取女吉』也。天地感而万物化生、聖人感人心而天下和平。観其所感而天地万物之情可見矣。」柔爻が上に居り剛爻が下に処し、陰陽二気が感応して彼此親与する。艮が内に止まり兌が外に悦び、男子が身を屈して女子の下に居る——だから卦辞は「亨利貞、取女吉」と称す。推して広くすれば、天地二気が相感して万物化生し、聖人が人心を感動して天下和平となる。ただそれが感ずる所を観れば、天地万物の情も皆見える。
咸,感也,其爻雖相應而詞多不吉,顧其時如何耳。說者多以咸恆配天地,殊不知咸自可配天地,故於序卦獨不言咸。咸既可以配天地,則恆亦可以配天地,皆夫婦之道也。咸之為言皆也,故語咸則非事。“咸感也”,不可止以夫婦之道謂之咸,此一事耳,男女相配,故為咸也。
咸はすなわち感である。この一卦の六爻は両両相応ずるが、爻辞は大多吉ならず——それは当時の時勢がどうかを見るのみである。易を解する人は多く咸・恒の二卦を合わせて天地に配するが、咸それ自体がすでに単独で天地に配しうるを知らない。だから《序卦伝》は独り咸卦を解説しない。咸がすでに天地に配しえれば、恒もまた同じく天地に配しえ、二卦は皆夫婦の道を講ずる。「咸」の字の本義は「皆」で、普遍に遺す所がない。だから咸と言えば、それは某一件の具体的事を指さない。《彖伝》の「咸、感也」は、ただ夫婦の道のみを咸と称してはならない——夫婦の道はただその中の一事である。男女相配もまた感に属するので、咸卦に帰するのである。
感之道不一:或以同而感,聖人感人心以道,此是以同也;或以異而應,男女是也,二女同居則無感也;或以相悅而感,或以相畏而感,如虎先見犬,犬自不能去,犬若見虎則能避之;又如磁石引針,相應而感也。若以愛心而來者自相親,以害心而來者相見容色自別。
感の途経は一種に止まらない。同類なるがゆえに相感するのあり——聖人が道をもって人心を感動する、これがすなわち同をもって相感することである。相異なるがゆえに相応するのあり——男と女とがすなわちこのようで、もし二つの女子が同居して一処に居れば、感の言うべきがない。彼此喜悦するがゆえに相感するのあり、また彼此畏懼するがゆえに相感するのあり——譬えば虎が先に狗を見れば、狗は自ずから走動できなくなる。狗が先に虎を見れば、かえってなお躲避でき去れる。また譬えば磁石が鉄針を吸引する、これも彼此相応して感ずる。愛心を抱いて来る人に至っては、自ずから彼此親近し、人を害する心を抱いて来る者は、一たび照面すれば神色に自ずから分辨し出る。
“聖人感人心而天下和平”,是風動之也;聖人老吾老以及人之老而人慾老其老,此是以事相感也。感如影響,無復先後,有動必感,咸感而應,故曰咸速也。象曰:山上有澤,咸,君子以虛受人。山上有澤,非交感不能也。感物之善,莫若以虛受人,有所繫慕,皆非正吉,故六爻皆以有應不盡卦義而有所譏也。
《彖伝》の「聖人感人心而天下和平」は、あれは風が物を吹き動かすがごとく天下を感化することである。聖人は自己の長輩を尊敬し、従って他人の長輩に推し及ぼす——そうすれば人人も皆自己の長輩を尊敬することを願う。これは実事をもって相感することである。感応は影の形に随い応の声に随うがごとく、根本として先後を分かちえない。動あれば必ず感あり、感じて応ぜざることなし。だから《雑卦伝》は「咸、速也」と言う。《象伝》に言う:「山上有沢、咸。君子以虚受人。」山上に沢水ありうるのは、気が交相感ずるのでなければできない。外物を感通してその善を得るには、虚心して人を受けるより善いものはない。心中に一旦係恋愛慕する所あれば、皆正吉ではない。だから咸卦の六爻は皆各々私應あるがゆえに咸道の全を尽くさず、爻辞の中にも皆譏評を帯びている。
初六,咸其拇。象曰:“咸其拇”,志在外也。六二,咸其腓,凶,居吉。象曰:雖凶居吉,順不害也。居則吉,趨則凶,以男下女為正,咸之道也。九三,咸其股,執其隨,往吝。象曰:“咸其股”,亦不處也;志在隨人,所執下也。
初六の爻辞に「咸其拇」と言い、《象伝》は「『咸其拇』、志在外也」と言う——感応はただ足の大拇指に及ぶのみで、動意は微小ながら心志はすでに外に馳求している。六二の爻辞に「咸其腓、凶、居吉」と言い、《象伝》は「雖凶居吉、順不害也」と言う。安居して動かなければ吉、急いで趨赴すれば凶。咸卦は男が女を求め陽が陰の下に居るを正とする——これがこそ感応の正道である。九三の爻辞に「咸其股、執其随、往吝」と言い、《象伝》は「『咸其股』、亦不処也。志在随人、所執下也」と言う——大腿は自ら主動できず、ただ身に随いて行く。心志がすでに人に随うにあれば、執守する所もまた卑下である。
心寧靜於此,一向定疊,前縱有何事亦不恤也,休將閒細碎在思慮。易曰:“何思何慮?天下殊塗而同歸,一致而百慮。”天地之道,惟有日月、寒暑之往來,屈伸、動靜兩端而已,在我精義入神以致用,則細碎皆不能出其間,在於術內,已過、未來者事著在心,畢竟何益!浮思遊想盡去之,惟圖向去日新可也。孔子以富不可求,則曰“從吾所好”,以思為無益,則曰“不如學也”,故於咸三以見此義。
心はここに安宁静定し、一直に定まり得て畳み実たり、前頭にたとえ何事かあっても掛慮せず、あの零砕の閑念を思慮の上に擱げない。《繋辞伝》に言う:「何思何慮?天下同帰而殊涂、一致而百慮。」天地の道は、ただ日月の往来・寒暑の往来、屈と伸・動と静のこの両端のみである。我のこちらではただ義理を精研し神妙に入りて用を致すを求めれば、一切の瑣碎の事は皆この両端の範囲を跑出せず、皆この門道術の内にある。すでに過ぎ去った事・まだ到來していない事を老いて心上に擱げるは、結局何の益があろう!浮泛の念頭・游蕩の想象は一概に取り去り、ただ往後日々に新たなるを図ればよい。孔子は富貴が強求すべからざるがゆえに「従吾所好」と言い、空想に益なきがゆえに「不如学也」と言った。だから咸卦九三のこの一爻の上に、まさにこの層の義理を見る。
九四,貞吉,悔亡。憧憧往來,朋從爾思。象曰:“貞吉悔亡”,未感害也。“憧憧往來”,未光大也。釋氏以感為幻妄,又有憧憧思以求朋者,皆不足道也。以陽居陰,非躁感於物者也,然體兌性悅,未免乎思以求朋之累也。蓋體悅之初,應止之始,己勞於上,朋止於下,故憧憧得朋,未為光大,不持以正則有謅瀆之悔。感非有意,咸三思以求朋,此則不足道。
九四の爻辞に「貞吉、悔亡。憧憧往来、朋従爾思」と言い、《象伝》は「『貞吉悔亡』、未感害也。『憧憧往来』、未光大也」と言う。仏家は感応を虚幻妄想と見なし、別に往来定まらず苦苦と思慮して同伴を求める人がある——この両者は皆称道に値しない。九四は陽爻をもって陰位に居り、もともと躁急に物に感ずるものではない。しかしそれは兌体に身を置き性は悦に主るので、なお思慮して朋を求める牽累を免れない。それは悦体の初に処し、また艮止の始に応ずるので、自己は上頭にあって心を労し奔走し、朋類は下にあって止住して動かない。だからただ憧憧往来してこそ同伴を得る——光明正大とは算えない。もし正道を持守できなければ、諂媚褻瀆の悔恨がある。真の感はもともと意有りて出ず、咸卦九三のように思慮をもって朋を求めるのは称道に足らない。
聖人惟於屈伸有感,能有屈伸,所以得天下之物,何用憧憧以思而求朋!大抵咸卦六爻皆以有應不盡咸道,故君子欲得虛受人,能容以虛,受人之道也。苟曉屈伸,心盡安泰寬裕,蓋為不與物校,待彼伸則己屈,然而屈時少,伸時多,假使亂[亡]橫逆,亦猶屈少伸多,我尚何傷!日月寒暑往來,正以相屈伸故不相害。尺蠖之屈以求伸,龍蛇之蟄以存身,又精義入神以致用,利用安身以崇德。
聖人はただ屈と伸のこの一機の上に感ずる。時に随いて屈し時に随いて伸びうるので、天下万物の感応を得る——何ぞ憧憧往来して心思を費し尽くして同伴を求めんや!大抵咸卦の六爻は皆各々私應あるがゆえに咸道の全を尽くさず、だから君子は虚心して人を受けることを成さなければならない。虚をもって物を容れうる——これがこそ人を受ける道である。人がもし真に屈伸の道理を懂得すれば、心中は自ずから十分に安泰宽裕する、彼が外物と計較しないがゆえに。相手が伸ばんとすれば、我は先ず屈す。しかし屈する時は少なく伸する時は多い。たとえ悖乱横逆の事に遇うても、依然として屈少なく伸多し、我に何の損傷があろう!日月寒暑は往来して息まず、まさに彼此が互いに屈伸するがゆえに相妨害しない。《繋辞伝》は「尺蠖之屈、以求信也。龍蛇之蟄、以存身也」と言い、また「精義入神、以致用也。利用安身、以崇徳也」と言う——皆この道理を講ずる。
九五,咸其脢,無悔。象曰:“咸其脢”,志末也。九五處悅之中,未免偏繫之弊,故不能感人心,而曰“咸其脢”,惟聖人然後能感人心也。一無曰字。上六,咸其輔、頰、舌。象曰:“咸其輔、頰、舌”,滕口說也。
九五の爻辞に「咸其脢、无悔」と言い、《象伝》は「『咸其脢』、志末也」と言う。九五は兌悦の中に身を処し、偏私係恋の毛病を免れないので、真に人心を感動できず、ただそれを「咸其脢」と言う——感応は背脊の肉に止まり、心に及ばない。ただ聖人ありてしかる後に人心を感動しうる。(一の本に「曰」の字なし。)上六の爻辞に「咸其輔・頬・舌」と言い、《象伝》は「『咸其輔・頬・舌』、滕口説也」と言う——感ずる所はただ牙牀・面頬と舌のみで、口舌の弁を逞しくするに過ぎない。
恒卦
恆。亨無咎,利貞,利有攸往。彖曰:恆,久也,剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔皆應,恆。“恆亨無咎利貞”,久於其道也,天地之道恆久而不已也。“利有攸往”,終則有始也。日月得天而能久照,四時變化而能久成,聖人久於其道而天下化成,觀其所恆而天地萬物之情可見矣。象曰:雷風恆,君子以立不易方。觀書當不以文害辭,如雲義者出於思慮忖度,易言“天地之大義”,則天地固無思慮。“天地之情”“天地之心”皆放此。
《恒》の卦辞に言う:「亨无咎、利貞、利有攸往。」《彖伝》に言う:「恒、久也。剛上而柔下、雷風相与、巽而動、剛柔皆応、恒。『恒亨无咎利貞』は、久于其道也。天地之道恒久而不已也。『利有攸往』は、終則有始也。日月得天而能久照、四時変化而能久成、聖人久于其道而天下化成。観其所恒而天地万物之情可見矣。」《象伝》に言う:「雷風恒、君子以立不易方。」震剛が上にあり巽柔が下にあり、雷と風が互相助長し、巽順して後に動き、六爻の剛柔がまた両両相応ずる——これが恒である。恒が亨通无咎にして正を守るに利なる所以は、よく久しくその道を守りうるにある。天地の道はまさに恒久にして已まざる。日月は天の気を得てよく久しく照臨し、四時は更迭変化してよく久しく万物を成就し、聖人は久しくその道を守りて天下化成する。君子はここに象を取り、身を立てて自己の方所を改易しない。読書は字句に文意を妨げさせてはならない。譬えば「義」は人の思慮忖度の中から生ずると言うが、《周易》が「天地之大義」を講ずるに、天地にはもともと何の思慮もない。およそ「天地之情」「天地之心」と言うは、皆この例に照らして体会しなければならない——人の心思をもって天地に比附してはならない。天地はただ気化自然にすぎない。
初六,浚恆,貞凶,無攸利。象曰:浚恆之凶,始求深也。柔巽在下以應於上,持用為常,求之過深也。故人道之交貴乎中禮,且久漸而成也。持一作特。九二,悔亡。象曰:“九二悔亡”,能久中也。以陽繫陰,用以為常,不能無悔,以其久中故免。九三,不恆其德,或承之羞,貞吝。象曰:“不恆其德”,無所容也。進則犯上,退則乘剛,故動則招悔取辱,惟常守一德,庶幾取容,故曰不恆其德則無所容也。一有“雖然貞吝,德則可常也”。
初六の爻辞に「浚恒、貞凶、无攸利」と言い、《象伝》は「浚恒之凶、始求深也」と言う。初六は柔巽の質をもって最下に居り上りて九四に応じ、一開頭にこの関係を常態として把持する——求むるの深さに過ぎる。だから人と人との相交は中道礼節に合するを貴び、しかも久しい浸潤を経てこそ成就しうる。(「持」の字は一の本に「特」と作る。)九二の爻辞に「悔亡」と言い、《象伝》は「『九二悔亡』、能久中也」と言う。九二は陽爻をもって陰爻に係恋し、なおそれを常道と為す——もともと悔恨なきありえない。ただそれがよく久しく中を守るがゆえに免れた。九三の爻辞に「不恒其徳、或承之羞、貞吝」と言い、《象伝》は「『不恒其徳』、无所容也」と言う。九三は前に進めば上位を冒犯し、後に退けば剛爻を凌乗するので、一動すれば悔を招き辱を取る。ただ恒常に一つの徳を守ってこそ、ようやく人に容納されうる。だからその徳を恒守できなければ身を容れる所なしと言う。(一の本はこの下に「雖然貞吝、徳則可常也」の一句あり。)
九四,田無禽。象曰:久非其位,安得禽也!田以時至則禽或可得,處常非位則功無以致,故君子降志辱身,不可常也。六五,恆其德貞,婦人吉,夫子凶。象曰:婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。上六,振恆,凶。象曰:振恆在上,大無功也。卦例於上爻多處之以貴而無位,高而無民,至恆又不可以此處,但見其不常在上,故大無功也。易道灼然義理分明,自存乎卦,惟要人玩之乃得。
九四の爻辞に「田无禽」と言い、《象伝》は「久非其位、安得禽也!」と言う。打猟がもし時に応じて往けば、なお或いは禽獣を猟り得る。久しく不当の位置に居れば、功業の成就するに由がない。だから君子は時に志向を降下し其身を屈辱するが、それはただ一時の権宜でありうるのみで、常態と為してはならない。六五の爻辞に「恒其徳貞、婦人吉、夫子凶」と言い、《象伝》は「婦人貞吉、従一而終也。夫子制義、従婦凶也」と言う——婦人は一に従い終るを常道とし、男子は事宜を裁断し義をもって準と為す。もしひたすら婦人に順従すれば凶。上六の爻辞に「振恒、凶」と言い、《象伝》は「振恒在上、大无功也」と言う。《周易》の通例は、上爻に対し多く「貴而无位、高而无民」によって説を立てる。恒卦に至ってはこのように処置できず、ただそれが躁動揺蕩して久しく上に居ることができないを見るので「大无功」と言う。易道は昭然として義理分明、もともと卦画の中に存在する。ただ人が肯んじて反覆玩味すれば、自然に得ることができる。
遯卦
遁。亨,小利貞。彖曰:“遁亨”,遁而亨也,剛當位而應,與時行也。“小利貞”,浸而長也。遁之時義大矣哉!當位而應,理不當遁,以陰長故遁,故曰“與時行”,又曰“小利貞”,又曰“遁而亨”也。
《遯》の卦辞に言う:「亨、小利貞。」《彖伝》に言う:「『遯亨』は、遯而亨也。剛当位而応、与時行也。『小利貞』は、浸而長也。遯之時義大矣哉!」九五のこの剛爻は位に当たり六二と相応ずるので、道理に照らせば退避すべきではない。ただ陰気が漸く上長するがゆえに、遯せざるをえない。それゆえ《彖伝》は「与時行」と言い、また「小利貞」と言い、また「遯而亨」と言う——退避は怯懦ではなく、気数時勢に随いて動くことである。
象曰:天下有山,遁,君子以遠小人,不惡而嚴。“遠小人不惡而嚴”,惡讀為憎惡之惡,遠小人不可示此惡也,惡則患及之,又焉能遠!嚴之為言,敬小人而遠之之義也。初六,遁尾,厲,勿用有攸往。象曰:遁尾之厲,不往何災也!危而不往何也?遁既後時,[往]則取災,故知者違難在乎先幾。
《象伝》に言う:「天下有山、遯。君子以遠小人、不悪而厳。」ここに「遠小人不悪而厳」の「悪」は、憎悪の悪と読むべきである。小人を疎遠しながら、この憎悪を彼に顕露して見せてはならない。一旦顕露すれば、禍患が随って来る——どうして「遠」の言うべきがあろう!いわゆる「厳」とは、荘敬をもって小人に対し彼と距離を保つ意である。初六の爻辞に「遯尾、厲、勿用有攸往」と言い、《象伝》は「遯尾之厲、不往何災也!」と言う。すでに処境が危険なのに、なぜかえって前往を許さないか?退避がすでに時機の後に落ちたので、更に身を動かして前往すれば災を招くからである。だから智慧ある人が禍難を避けるは、几を先に見るを貴ぶ。
六二,執之用黃牛之革,莫之勝說。象曰:執用黃牛,固志也。黃牛,中順也。陰邪浸長,二居君臣正合之位,戡難救時,莫若中順固志,使奸不能乾,不然,小人易間矣。九三,係遁,有疾厲。畜臣妾,吉。象曰:係遁之厲,有疾憊也。“畜臣妾吉”,不可大事也。為內之主,得位之正,立愛其下,畜臣妾之道盡矣,然以斯處遁,危疾宜焉。
六二の爻辞に「執之用黄牛之革、莫之勝説」と言い、《象伝》は「執用黄牛、固志也」と言う。黄は中の色で、牛の性は柔順——「黄牛」が取るはまさにまた中でありまた順なる意である。陰邪が漸長する時に当たって、六二は九五と君臣正しく相応合する位置に処して、禍難を戡定し時局を匡救するに、中を守り順にして心志を固くするより善い办法はなく、奸邪に干犯するに由なからしめる。そうでなければ、小人は容易にその中より離間する。九三の爻辞に「系遯、有疾厲。畜臣妾、吉」と言い、《象伝》は「系遯之厲、有疾憊也。『畜臣妾吉』、不可大事也」と言う。九三は下卦の主で、位を得て正しく、恩愛を立てて下を待つことができ、臣妾を畜養する道理は尽くしたと算えられる。しかしこのような係恋の心を帯びて退避の時に処すれば、危困疾憊に遭遇するもまた当然である。
九四,好遁,君子吉,小人否。象曰:君子好遁,小人否也。有應於陰,不惡而嚴,故曰“好遁”,小人暗於事幾,不忿怒成仇,則私溺為累矣。九五,嘉遁,貞吉。象曰:“嘉遁貞吉”,以正志也。“嘉”“好”義同,然五居正處中,能正其志,故獲貞吉。上九,肥遁,無不利。象曰:“肥遁無不利”,無所疑也。
九四の爻辞に「好遯、君子吉、小人否」と言い、《象伝》は「君子好遯、小人否也」と言う。九四の下には初六があってそれと相応ずる。君子は憎悪を露さずして自ら荘厳を守ることができるので「好遯」と称す——好む所有りながらなお退避しうる。小人は事情の几微に昧く、忿怒して仇怨を結ぶか、私愛に溺れて牽累されるかである。九五の爻辞に「嘉遯、貞吉」と言い、《象伝》は「『嘉遯貞吉』、以正志也」と言う。「嘉」は「好」と意思が同じく、ただ九五は正に居って中を得、自己の心志を端正にできるので貞吉を獲る。上九の爻辞に「肥遯、无不利」と言い、《象伝》は「『肥遯无不利』、无所疑也」と言う——外に遠く遯して寛綽自得、心中に更に遅疑なし。
大壮卦
大壯。利貞。彖曰:大壯,大者壯也,剛以動故壯。“大壯利貞”,大者正也,正大而天地之情可見矣。象曰:雷在天上,大壯,君子以非禮弗履。克己反禮,壯莫甚焉,故易於大壯見之。
《大壮》の卦辞に言う:「利貞。」《彖伝》に言う:「大壮、大者壮也。剛以動故壮。『大壮利貞』は、大者正也。正大而天地之情可見矣。」《象伝》に言う:「雷在天上、大壮。君子以非礼弗履。」自己を克制して礼に回復する——これが最大の強壮である。だから《周易》はこの層の意思を大壮の一卦の裏に顕現する。
克己,下學上達交相養也,下學則必達,達則必上,蓋不行則終何以成德?明則誠矣,誠則明矣,克己要當以理義戰退私己,蓋理乃天德,克己者必有剛強壯健之德乃勝己。“雷在天上,大壯,君子以非禮弗履”。夫酒清人渴而不敢飲,餚乾人飢而不敢食,非強有力者不能人所不能。
いわゆる克己とは、下学と上達とが互相涵養することである。肯んじて下学の処に功を用いれば、必ず通達しうる。通達すれば、必ず上向しうる。知行して実行しなければ、終に何をもって徳性を成就せんやを知らなければならない。明より入りて誠に至り、誠より発して明と為る——二者はもともと一事である。克己の関鍵は、天理義理をもって一己の私に戦勝し逼退するにあり。「理」はすなわち天徳で、克己しうる人は必ず剛強壮健の徳があってこそ、自己に勝ち過ぎることができる。《象伝》の「雷在天上、大壮、君子以非礼弗履」——譬えば酒がすでに澄清して人まさに口渴すれど敢えて飲まず、肉がすでに炙乾して人まさに飢餓すれど敢えて食わないがごとき——強毅有力の人でなければ、人のなしえない事を為すことができない。
人所以不能行己者,於其所難者則惰,其異俗者雖易而羞縮。惟心弘則不顧人之非笑,所趨義理耳,視天下莫能移其道。然為之人亦未必怪,正以在己者義理不勝惰與羞縮之病,消則有長,不消則病常在,消盡則是大而化之之謂聖。
人が自己の信ずる道理を践行できない所以は、難しい事に碰到すれば懈怠し、流俗と同じからざる事に碰到すれば、たとえ容易にできる事でも羞怯畏縮するにある。ただ心量が宏大の人のみが、他人の非議譏笑を理会せず、ただ義理に向かって走る——天下に彼の道を移易しうるものなし。実は真に行えば、旁人も必ずしも責怪しない、問題はまさに自己のこちらにある。義理が懈怠と羞縮の二つの毛病に勝ちえないのである。この毛病が一分消えれば徳が一分長じ、消えなければ毛病はずっと在り、消えて浄く尽きれば、それは《孟子》の言う「大而化之之謂聖」である。
意思齷齪,無由作事。在古氣節之士冒死以有為,於義未必中,然非有志概者莫能。況吾於義理已明,何為不為?正以不剛。惟大壯乃能克己,蓋君子欲身行之,為事業以教天下。今夫為長者折枝,非不能也,但恥以為屈而不為耳,不顧義理之若何。
心思が猥琐局促の人は、何の事も成しえない。古来のあの気節ある人々は死を冒しても作為せんとした——義理をもって衡量すれば必ずしも皆恰当ではないが、志气気概ある人でなければこれを為し出ることもできない。ましてや我らが義理にすでに明白であるのに、なぜなお為さないか?まさに剛に足らないがゆえに。ただ大壮の徳のみが克己しうる——君子は身をもって践行し、それを事業に成して天下を教化するのだから。まさに《孟子》の言う長者のために樹枝を折取するがごとき——できないのではなく、ただこのように己を屈するを恥として為すことを肯じないのみで、義理が究竟どうかを全く顧みない。
初九,壯于趾,征凶,有孚。象曰:“壯于趾”,其孚窮也。九二,貞吉。象曰:“九二貞吉”,以中也。九三,小人用壯,君子用罔,貞厲。羝羊觸藩,羸其角。象曰:“小人用壯”,君子罔也。以陽居陽,正也,然乘下之剛,故危。小人用此而進,如羝羊觸藩以為壯,故多見困,君子知幾則否。藩以喻四、三有應,所之在進而位正理直,小人處之,必以剛動。
初九の爻辞に「壮于趾、征凶、有孚」と言い、《象伝》は「『壮于趾』、其孚窮也」と言う。九二の爻辞に「貞吉」と言い、《象伝》は「『九二貞吉』、以中也」と言う。九三の爻辞に「小人用壮、君子用罔、貞厲。羝羊触藩、羸其角」と言い、《象伝》は「『小人用壮』、君子罔也」と言う。九三は陽爻をもって陽位に居り——これは正である。しかしそれは下の剛爻を凌乗するので危険。小人はこの壮の気を凭って前に闖れば、公羊が角をもって籬笆を頂いて自ら強壮と為すがごとく、結果は多く困住される。君子は几を見て止まるを懂得するので、このようにならない。「藩」は九四を比喻する。九三は上に正応があり、向かう所は前進にあり、しかも位正しく理直し。しかし小人をしてこの位置に処らしめれば、必ず剛強を凭って蛮動する。
九四,貞吉悔亡。藩決不羸,壯于大輿之輹。象曰:“藩決不羸”,尚往也。乘剛本有悔,不用其壯,故貞吉。三以四為藩,九四上無陽爻,故曰藩決,壯輿之輹,往無咎也。四能不為陰累,守己以正,則吉而無乘剛之悔,且得眾陽之助以銷陰慝。
九四の爻辞に「貞吉悔亡。藩決不羸、壮于大輿之輹」と言い、《象伝》は「『藩決不羸』、尚往也」と言う。九四は九三の剛を凌乗するので、もともと悔あるべきだったが、それがその壮を逞しゅうしないので、正を守って吉を得る。九三は九四を籬笆と為し、九四の上にはすでに陽爻の阻拦がないので「藩決」と言う——籬笆に口が開いた。車輹が強固ならば前往に過錯なし。九四は上の陰爻に牽累されず、自己の正道を守ることができれば、吉を得てまた剛を乗る悔恨がなく、しかも衆陽の相助を得て、もって陰邪を消除する。
六五,喪羊于易,無悔。象曰:“喪羊于易”,位不當也。羊外柔而內很,六五以陰處陽,羊喪之象也,能去其內剛,不拒來者,則無悔,故曰“喪羊于易無悔”。履柔危之地,乘壯動之剛,固之必悔者,位非其所堪也。上六,羝羊觸藩,不能退,不能遂,無攸利,艱則吉。象曰:“不能退,不能遂”,不詳也。“艱則吉”,咎不長也。剛競用觸則進退皆凶,危懼求全則咎有時而息也。然上六以陰居上,不詳事宜,用壯而觸,故進退不能。
六五の爻辞に「喪羊于易、无悔」と言い、《象伝》は「『喪羊于易』、位不当也」と言う。羊という牲畜は外表が柔順にして内裏は甚だ戾しい。六五は陰柔の質をもって陽位に処す——まさに喪羊の象である。それがもし内裏のあの狠の気を去り、来る衆陽に抗拒しなければ、悔恨がないので「喪羊于易无悔」と言う。柔弱危疑の地に身を履んで、また壮盛にして動く陽剛を凌乗する——硬く固守すれば必ず悔あり、この位置はもともとそれが承当しうる所ではないからである。上六の爻辞に「羝羊触藩、不能退、不能遂、无攸利、艱則吉」と言い、《象伝》は「『不能退、不能遂』、不詳也。『艱則吉』、咎不長也」と言う。ひたすら剛を逞しくして闘を好み角をもって頂けば、進も凶退も凶である。心に危懼を懐いて周全を求めうれば、過錯に止息の時がある。ただ上六は陰柔をもって最上に居り、事情の宜と不宜を審詳できず、壮を用いて妄触するので、進退両難に弄する至った。
晋卦
晉。康侯用錫馬蕃庶,畫日三接。彖曰:晉,進也。明出地上,順而麗乎大明,柔進而上行,是以康侯用錫馬蕃庶,畫日三接也。象曰:明出地上,晉,君子以自昭明德。初六,晉如摧如,貞吉罔孚,裕無咎。象曰:“晉如摧如”,獨行正也。“裕無咎”,未受命也。居晉之初,正必見摧,故摧如不害於貞吉也。未孚於人,或未見聽,寬以居之乃無咎。然初六有應在四,居下援上,未安其分,故曰“未受命”也。
《晋》の卦辞に言う:「康侯用錫馬蕃庶、画日三接。」《彖伝》に言う:「晋、進也。明出地上、順而麗乎大明、柔進而上行。是以康侯用錫馬蕃庶、画日三接也。」《象伝》に言う:「明出地上、晋。君子以自昭明徳。」初六の爻辞に「晋如摧如、貞吉罔孚、裕无咎」と言い、《象伝》は「『晋如摧如』、獨行正也。『裕无咎』、未受命也」と言う。上進の初に身を処して、正を守る人は必ず摧折に遭うので、摧折されるとはいえその貞吉に害なし。誠信がまだ人に孚洽していなければ、主張は或いは聴従されない——ただ寛舒従容に自処すれば、過錯なし。ただ初六は上に九四の正応があり、下位に身を置いて上位に援引せんとし、なお自己の本分に安んずることができないので、それを「未受命」と言う。
六二,晉如愁如,貞吉。受茲介福,于其王母。象曰:“受茲介福”,以中正也。進而無撓,多失於肆,故愁如乃吉。六五以陰居尊,故稱“王母”,俱以柔中,故受福可必也。六三,眾允,悔亡。象曰:眾允之志,上行也。上歷九四,不為眾信,則取悔可必,若志應在上,晉為眾允,則悔亡。九四,晉如鼫鼠,貞厲。象曰:“鼫鼠貞厲”,位不當也。鼫鼠為物,貪而畏人,體陽在進,反據陰位,故動止皆失,與六三之義為相反矣。
六二の爻辞に「晋如愁如、貞吉。受茲介福、于其王母」と言い、《象伝》は「『受茲介福』、以中正也」と言う。上進して毫も阻撓なければ、往々にして放肆の失があるので、幾分かの憂愁を帯びてこそ吉。六五は陰柔をもって尊位に居るので、それを「王母」と称す。六二と六五は同じく柔にして中を得るので、福を受くるは必然である。六三の爻辞に「衆允、悔亡」と言い、《象伝》は「衆允之志、上行也」と言う。六三は上進して九四を越えんとし、衆に信を取ることができなければ、悔を招くは必定である。もし心志が上に応じて衆人が皆それを信従すれば、悔恨は消亡する。九四の爻辞に「晋如鼫鼠、貞厲」と言い、《象伝》は「『鼫鼠貞厲』、位不当也」と言う。鼫鼠というものは、貪婪にしてまた人を怕れる。九四は本体が陽に属してまさに上進するに、かえって陰位を占拠したので、動も失当・止も失当——ちょうど六三の義理と相反する。
六五,悔亡,失得勿恤。往吉,無不利。象曰:“失得勿恤”,往有慶也。進而遇陽,故失得不恤而吉也。位不當必有悔,獲吉則悔亡。上九,晉其角,維用伐邑,厲吉無咎,貞吝。象曰:“維用伐邑”,道未光也。窮無所往,故曰角。居明之極,其施未光而應尚狹,持此以進,伐邑討叛而已,危而幸吉以得無咎,然終吝道也。無可進而進不已,惟伐邑於內而可矣,如君子則知止也。
六五の爻辞に「悔亡、失得勿恤。往吉、无不利」と言い、《象伝》は「『失得勿恤』、往有慶也」と言う。六五は上進して上九のこの陽爻に遇うので、得失を計較せずして吉を獲うる。それは陰をもって陽に居り位当たらず、もともと悔あるべきだった。すでに吉を得れば悔もまた消亡する。上九の爻辞に「晋其角、維用伐邑、厲吉无咎、貞吝」と言い、《象伝》は「『維用伐邑』、道未光也」と言う。上九はすでに窮極して往くべき所がない地歩に至ったので「角」を象に取る。それは光明の頂点に居りながら、施す所はなお広からず、応ずる範囲はまた狹窄である。このような局面を抱えて前に往けば、ただ自己の采邑を討伐し内部の叛離を平定するに過ぎない。危うくして僥倖に吉を得て勉强過錯を免れても、終に羞吝の道である。すでに更に進むべきなくしてなお進んで止まなければ、ただ内部に邑を伐つことができるのみ——君子に換えれば、可にして止まるを懂得するのである。
明夷卦
明夷。利艱貞。象曰:明入地中,明夷,內文明而外柔順,以蒙大難,文王以之。“利艱貞”,晦其明也,內難而能正其志,箕子以之。文王體一卦之用,箕子以六五一爻之德,文王難在外,箕子難在內也。象曰:明入地中,明夷,君子以蒞眾用晦而明。不任察而不失其治也。
《明夷》の卦辞に言う:「利艱貞。」《彖伝》に言う:「明入地中、明夷。内文明而外柔順、以蒙大難、文王以之。『利艱貞』は、晦其明也。内難而能正其志、箕子以之。」文王が体現するのは全卦の用で、箕子が体現するのはただ六五の一爻の徳である。文王の患難は外部の殷紂から来て、箕子の患難は自己の処する宗国の内にある。《象伝》に言う:「明入地中、明夷。君子以莅衆用晦而明。」君子が衆を治むるに、明察苛細のみを恃まないが、しかしこれによって治の効を失わない。
初九,明夷于飛,垂其翼。君子于行,三日不食。有攸往,主人有言。象曰:“君子于行”,義不食也。進應於上,為三所困,故曰“于飛垂翼”。君子避患當速,勢不與抗,退而遠行,不遑暇食,靜以自守,非有所往之時也。六二,明夷,夷于左股。用拯馬壯,吉。象曰:六二之吉,順以則也。與三同體,三為六應,故曰“夷于左股”,居中履順,難不能及,故曰“用拯馬壯吉”。馬謂初九,亦為己用,故欲拯闇同。
初九の爻辞に「明夷于飛、垂其翼。君子于行、三日不食。有攸往、主人有言」と言い、《象伝》は「『君子于行』、義不食也」と言う。初九は上進して六四に応ずるが、九三に阻困されるので、それを飛んで翼を垂れると言う。君子が禍患を避けるには迅速ならなければならない。形勢がすでに抗争を容れなければ、身を退いて遠く行き、飯を食するにさえ及ばず、静かに自守する——これは往く所有るべき時ではない。六二の爻辞に「明夷、夷于左股。用拯馬壮、吉」と言い、《象伝》は「六二之吉、順以則也」と言う。六二と九三は同じく離体にあり、九三はまた上六と相応ずる一爻なので、傷が左の股にあると言う。六二は中に居って柔順を履み、禍難がそれに傷つくに至らないので「用拯馬壮吉」と言う。ここの「馬」は初九を指し、初九もまた六二の用いる所と為りうる——二者が同じく昏暗を拯救する心願を有するがゆえに。
九三,明夷于南狩,得其大首,不可疾,貞。象曰:南狩之志,乃大得也。九三進獲明夷之主,故曰“南狩得其大首”。六四,入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。象曰:“入于左腹”,獲心意也。與上六同為一體,故曰“入于左腹”,與五親比,故曰“出門”“獲明夷之心”。蓋用柔履中,其志相得,故曰“獲心意”也。
九三の爻辞に「明夷于南狩、得其大首、不可疾、貞」と言い、《象伝》は「南狩之志、乃大得也」と言う。九三は上に向かって進取し、明夷を造成したあの首悪を擒獲したので「南狩得其大首」と言う。六四の爻辞に「入于左腹、獲明夷之心、于出門庭」と言い、《象伝》は「『入于左腹』、獲心意也」と言う。六四と上六は同じく坤体の中にあるので「入于左腹」と言う。それはまた六五と親近して相並ぶので「出門庭」して「獲明夷之心」と言う。それは柔を用いて中を履み、六五と心志が相得るので「獲心意」と言う。
六五,箕子之明夷,利貞。象曰:箕子之貞,明不可息也。雖近於闇,然柔順履中,闇不能掩,箕子之正也。上六,不明晦,初登于天,後入于地。象曰:“初登于天”,照四國也;“後入于地”,失則也。
六五の爻辞に「箕子之明夷、利貞」と言い、《象伝》は「箕子之貞、明不可息也」と言う。六五は上六のあの昏暗の一爻に紧挨するが、柔順にして中位を履むので、昏暗はその光明を掩いえない——これがまさに箕子のような正を守る徳である。上六の爻辞に「不明晦、初登于天、後入于地」と言い、《象伝》は「『初登于天』、照四国也。『後入于地』、失則也」と言う——初めは天上に升って、もともと四方の国を照臨することができた。後に地下に堕したのは、法則を喪失したためである。
家人卦
家人。利女貞。彖曰:家人,女正位乎內,男正位乎外,男女正,天地之大義也。家人有嚴君焉,父母之謂也。父父,子子,兄兄,弟弟,夫夫,婦婦,而家道正,正家而天下定矣。象曰:風自火出,家人,君子以言有物而行有恆。家道之始,始諸飲食烹(飫)[飪],故曰“風自火出”。家人道在於烹爨,一家之政,樂不樂、平不平皆繫乎此。
《家人》の卦辞に言う:「利女貞。」《彖伝》に言う:「家人、女正位乎内、男正位乎外。男女正、天地之大義也。家人有厳君焉、父母之謂也。父父、子子、兄兄、弟弟、夫夫、婦婦、而家道正。正家而天下定矣。」《象伝》に言う:「風自火出、家人。君子以言有物而行有恒。」一家の道の開端は、飲食烹饪のこの事の上から始まる(「飫」は「饪」に当たるべし)。だから「風自火出」と言う——火は下にあって炊爨し熱気が風と化し、内より外に及ぶ。家を治める道はまさにこの竈火炊爨の間に落ちる。一家の政事は、快楽であるか否か・和平であるか否か、皆この上に係る。
初九,閒有家,悔亡。象曰:“閒有家”,志未變也。男處女下,悔也。六二,無攸遂,在中饋,貞吉。象曰:六二之吉,順以巽也。九三,家人嗃嗃,悔厲吉。婦子嘻嘻,終吝。象曰:“家人嗃嗃”,未失也;“婦子嘻嘻”,失家節也。位為過中,則履非得宜,與其慢也寧嚴。
初九の爻辞に「閑有家、悔亡」と言い、《象伝》は「『閑有家』、志未変也」と言う。男子が女子の下に屈居するのはもともと悔すべきだった。ただそれが一開頭に防閑を立定したがゆえに、家人の心志がまだ変壞していないので、悔恨は消亡する。六二の爻辞に「无攸遂、在中饋、貞吉」と言い、《象伝》は「六二之吉、順以巽也」と言う。九三の爻辞に「家人嗃嗃、悔厲吉。婦子嘻嘻、終吝」と言い、《象伝》は「『家人嗃嗃』、未失也。『婦子嘻嘻』、失家節也」と言う。九三の位置はすでに下卦の中を過ぎ、行う所は合宜を尽くさないを免れない。しかし家を治めるには寛慢の失よりも、寧ろ厳厲の失を取る。一たび寛慢なれば、家の規矩がまず壊れるからである。
六四,富家,大吉。象曰:“富家大吉”,順在位也。柔順在位,故能長保其富。九五,王假有家,勿恤,吉。象曰:“王假有家”,交相愛也。有應在二,得男女內外,家道大正,足以化成天下,故王假之。上九,有孚威如,終吉。象曰:威如之吉,反身之謂也。以陽居尊,故威如,身修而家齊,故終吉。
六四の爻辞に「富家、大吉」と言い、《象伝》は「『富家大吉』、順在位也」と言う。六四は柔順の徳をもって正位に居るので、よく久しくこの富厚を保つことができる。九五の爻辞に「王假有家、勿恤、吉」と言い、《象伝》は「『王假有家』、交相愛也」と言う。九五の下には六二があって正応と為り、男が外を主り女が内を主って各々その所を得、一家の道が大いに端正で、もって天下を化成するに足る。だから君王が自らその家に至り徳教が家人に感格すると言う。上九の爻辞に「有孚威如、終吉」と言い、《象伝》は「威如之吉、反身之謂也」と言う。上九は陽剛をもって至尊の上に居るので、威厳あって畏るべし。しかし威厳の根本は己に反求するにあり、身修まって後に家斉うので、最終的に吉を得る。
睽卦
睽。小事吉。彖曰:睽,火動而上,澤動而下,二女同居,其志不同行。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉。天地睽而其事同也,男女睽而其志通也,萬物睽而其事類也,睽之時用大矣哉!象曰:上火下澤,睽,君子以同而異。一於異則乖而不合,故和而不同。
《睽》の卦辞に言う:「小事吉。」《彖伝》に言う:「睽、火動而上、沢動而下、二女同居、其志不同行。説而麗乎明、柔進而上行、得中而応乎剛。是以小事吉。天地睽而其事同也、男女睽而其志通也、万物睽而其事類也。睽之時用大矣哉!」火の性は上に動き、沢の性は下に動く——二つの女子が一屋に同居して心志が各々一方に奔るがごとし。下卦は悦んで上りて光明に附麗し、柔爻は上進して中を得、また下りて剛爻に応ずるので、ただ小事に宜しい。天地は一上一下に相睽れるが化育の事は同じく、男女は形質が相睽れるが心志は相通じ、万物は形態が万殊に相睽れるが気を禀け類を成す理は一様である。《象伝》に言う:「上火下沢、睽。君子以同而異。」もしひたすら異を求めれば、乖離して合せることができない。だから君子は大体が同じ中にあってなお各々の分別を保つ——まさに《論語》の言う「和而不同」である。
初九,悔亡,喪馬勿逐自復。見惡人,無咎。象曰:“見惡人”,以辟咎也。履睽之始,悔也,能以貴下賤,故悔亡馬復,屈下惡人,能免於咎。九二,遇主于巷,無咎。象曰:“遇主于巷”,未失道也。守正居中,故能求主於乖喪之際,不失其道,乖睽主有不可顯遇之時。
初九の爻辞に「悔亡、喪馬勿逐自復。見悪人、无咎」と言い、《象伝》は「『見悪人』、以辟咎也」と言う。乖離の初に身を処すれば、もともと悔がある。それが尊貴の身をもって卑下に屈居できるので、悔恨は消亡し走失の馬は逐わなくても自ら回る。己を屈して自己の嫌悪する人に接見することを肯んじれば、過錯を免れうる。九二の爻辞に「遇主于巷、无咎」と言い、《象伝》は「『遇主于巷』、未失道也」と言う。九二は正を守り中に居るので、乖離喪乱の際に事える主を尋求して正道を失わない。睽違の時勢の裏にあっては、君臣にはもともと公然と相見えない時がある。
六三,見輿曳,其牛掣,其人天且劓,無初有終。象曰:“見輿曳”,位不當也。“無初有終”,遇剛也。乘剛遇敵,輿衛皆困。九四,睽孤,遇元夫,交孚,厲無咎。象曰:交孚無咎,志行也。六五,悔亡,厥宗噬膚,往何咎。象曰:“厥宗噬膚”,往有慶也。二能勝三,如噬膚耳,何間已往。上九,睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪寇婚媾,往遇雨則吉。象曰:遇雨之吉,群疑亡也。
六三の爻辞に「見輿曳、其牛掣、其人天且劓、无初有終」と言い、《象伝》は「『見輿曳』、位不当也。『无初有終』、遇剛也」と言う。六三は剛爻を凌乗してまた強敵に遇い、車と護衛が皆困境に陥る。九四の爻辞に「睽孤、遇元夫、交孚、厲无咎」と言い、《象伝》は「交孚无咎、志行也」と言う。六五の爻辞に「悔亡、厥宗噬膚、往何咎」と言い、《象伝》は「『厥宗噬膚』、往有慶也」と言う。九二は六三に勝ることができ——一塊の皮肉を咬むように容易い。すでにこのようであれば、なお何が六五の前往を阻隔できようか。上九の爻辞に「睽孤、見豕負塗、載鬼一車、先張之弧、後説之弧、匪寇婚媾、往遇雨則吉」と言い、《象伝》は「遇雨之吉、群疑亡也」と言う——陰陽が交合して雨を降らせば、種々の猜疑はここに至って一斉に消釋する。
蹇卦
蹇。利西南,不利東北。利見大人,貞吉。蹇之世,大人乃能成功。象曰:蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉!“蹇利西南”,往得中也,“不利東北”,其道窮也,“利見大人”,往有功也,當位“貞吉”,以正邦也。蹇之時用大矣哉!象曰:山上有水,蹇,君子以反身修德。
《蹇》の卦辞に言う:「利西南、不利東北。利見大人、貞吉。」蹇難の時世の裏では、ただ大人の徳ある人のみが功業を成就できる。《彖伝》に言う:「蹇、難也、険在前也。見険而能止、知矣哉!『蹇利西南』は、往得中也。『不利東北』は、其道窮也。『利見大人』は、往有功也。当位『貞吉』は、以正邦也。蹇之時用大矣哉!」《象伝》に言う:「山上有水、蹇。君子以反身修徳。」外の患難がすでに強争すべからざれば、掉転して自身を責求し己徳を修養する。
見險能止,然不可終止而已,當見大人之德,進之坤順致養之地,則得其中。若更退守艮止,則難無時而解也,故曰“不利東北,其道窮也”。至於解卦,則曰“其來復吉,乃得中也”,與此互見矣,蓋難在內外,與震艮之動止則相反爾。
険難を見て止まることができるが、しかしこれによって一味に止まり続けてはならない。当に大人の徳ある人に親近し、西南の坤順にして養を致す所に進むべきで、それでこそ中を得たと算える。もし一味に退き帰って艮止を死守すれば、蹇難は永遠に解ける日がない。だから《彖伝》は「不利東北、其道窮也」と言う。解卦に至っては、「其来復吉、乃得中也」と言う——両処はちょうど交互に発明する。蹇と解の二卦の患難がそれぞれ内外に分かれ、震動・艮止の取向とちょうど相反するからである。
初六,往蹇來譽。象曰:“往蹇來譽”,宜待也。蹇難之際,用心存公,無所偏繫,故譽美可獲。六二,王臣蹇蹇,匪躬之故。象曰:“王臣蹇蹇”,終無尤也。九三,往蹇來反。象曰:“往蹇來反”,內喜之也。六四,往蹇來連。象曰:“往蹇來連”,當位實也。連,順也,序也。蹇反當位正吉,六四未能出險,故可止,而順序以俟難之解,當位處陰之實。
初六の爻辞に「往蹇来誉」と言い、《象伝》は「『往蹇来誉』、宜待也」と言う。蹇難の際にあって、存心が公正で偏私係恋する方がないので、美しい誉を獲る。六二の爻辞に「王臣蹇蹇、匪躬之故」と言い、《象伝》は「『王臣蹇蹇』、終无尤也」と言う。九三の爻辞に「往蹇来反」と言い、《象伝》は「『往蹇来反』、内喜之也」と言う。六四の爻辞に「往蹇来連」と言い、《象伝》は「『往蹇来連』、当位実也」と言う。「連」は順・次序の意である。蹇に処して返って来るに、位に当たり正を守れば吉。六四はまだ険境を脱出できないので、止まって次序に依って蹇難の化解を待つことができる——これがそれが位に当たり陰位に処する実である。
九五,大蹇朋來。象曰:“大蹇朋來”,以中節也。剛中之德,為物所歸。上六,往蹇來碩,吉,利見大人。象曰:“往蹇來碩”,志在內也。利見大人,以從貴也。與解繇同義。
九五の爻辞に「大蹇朋来」と言い、《象伝》は「『大蹇朋来』、以中節也」と言う。九五は剛健にして中を守る徳を備えるので、万物の帰向する所と為り、大難の中にあっても朋類は自ら来る。上六の爻辞に「往蹇来碩、吉、利見大人」と言い、《象伝》は「『往蹇来碩』、志在内也。『利見大人』、以従貴也」と言う。この一爻の言う所は、解卦の卦辞「其来復吉」の繇辞と同じ意味である。
解卦
解。利西南,無所往,其來復吉。有攸往夙吉。彖曰:解,險以動,動而免乎險,解。“解利西南”,往得眾也,“其來復吉”,乃得中也,“有攸往夙吉”,往有功也。天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲坼,解之時大矣哉!象曰:雷雨作,解,君子以赦過宥罪。難免人患散,則得眾者吉,往而不返,則生他變。有所往而不速,將後於時也,故無所往則靜吉,有所往則速吉。
《解》の卦辞に言う:「利西南、无所往、其来復吉。有攸往夙吉。」《彖伝》に言う:「解、険以動、動而免乎険、解。『解利西南』は、往得衆也。『其来復吉』は、乃得中也。『有攸往夙吉』は、往有功也。天地解而雷雨作、雷雨作而百果草木皆甲坼。解之時大矣哉!」《象伝》に言う:「雷雨作、解。君子以赦過宥罪。」下の坎は険にして上の震は動で、一動すれば険を脱出する——これが解である。天地の気が解ければ雷雨が随いて興作し、雷雨が一たび作れば、諸種の果実草木の外殻が皆迸裂して芽を抽く——解の時義はこのように広大である。君子はこの象を体察して、過失に赦免を加え罪愆に寛宥を加える。患難がすでに免除され人の禍患が散去すれば、衆心を得るものが吉である。もし一去して返回しなければ、別の変故を生ずる。往く所有って行動が迅速でなければ、また時機の後に落ちる。だから往く所なき時は安静にして吉、往く所有る時は迅速にして吉である。
初六,無咎。象曰:剛柔之際,義無咎也。險難方解,未護所安,近比於二,非其咎也。九二,田護三狐,得黃矢,貞吉。象曰:九二貞吉,得中道也。險亂方解,不正自疑之陰,皆自歸附而順聽也,故曰“田護三狐”。不以三狐自累,上合於五,則得黃矢之象也。
初六の爻辞に「无咎」と言い、《象伝》は「剛柔之際、義无咎也」と言う。険難がまさに解けたばかりで、初六にまだ安頓の去処がなく、近く九二に親比する——これは道理の上でその過錯ではない。九二の爻辞に「田護三狐、得黄矢、貞吉」と言い、《象伝》は「九二貞吉、得中道也」と言う。険乱がまさに解除されたばかりで、あの位置の正ならず自ら疑慮を生ずる陰爻は、皆自動的に帰附して順従聴命するので、田猟して三隻の狐を擒得したと言う。九二はこの三隻の狐に牽累されず、上りて六五に合すれば、「得黄矢」の象がある——黄は中の色を取り、矢は剛直を取る。
六三,負且乘,致寇至,貞吝。象曰:“負且乘”,亦可醜也。自我致戎,又誰咎也!不正而近比二剛,不能致一,故有小人負乘之象,貪以致寇也。九四,解而拇,朋至斯孚。象曰:“解而拇”,未當位也。位不當則所履者邪,故失位之陰因得駢附。險亂即解,解之則朋信。當一作正。
六三の爻辞に「負且乗、致寇至、貞吝」と言い、《象伝》は「『負且乗』、亦可醜也。自我致戎、又誰咎也!」と言う。六三は位が正しくなくまた九二・九四の二つの剛爻に親比し、心志が専一にできないので、小人が物を負いながら大車に乗る象がある。貪心が重すぎて、よって強盗を招来する。九四の爻辞に「解而拇、朋至斯孚」と言い、《象伝》は「『解而拇』、未当位也」と言う。位置が当たらなければ行う所が邪僻になる。まさにこのがゆえに、位を失った陰爻が並び附いて来ることができた。険乱がすでに解除された以上、この附贅の「拇」を解き去れば、同類の朋友が来て彼此信じ合う。(「当」の字は一の本に「正」と作る。)
六五,君子惟有解,吉。有孚于小人。象曰:君子有解,小人退也。君子道亨,則邪類之退必矣。上六,公用射隼于高墉之上,護之無不利。象曰:“公用射隼”,以解悖也。忘義而貪,故以喻隼。
六五の爻辞に「君子惟有解、吉。有孚于小人」と言い、《象伝》は「君子有解、小人退也」と言う。君子の道が一旦通行して阻害なければ、邪佞の徒の退去は必然である。小人もここから君子の道が確かに信頼できることを検証する。上六の爻辞に「公用射隼于高墉之上、護之无不利」と言い、《象伝》は「『公用射隼』、以解悖也」と言う。隼は貪猛の鳥である。あの悖乱の人は義理を忘れてひたすら貪求するので、隼をもって彼を譬喩する。
損卦
損。有孚元吉,無咎可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。彖曰:損,損下益上,其道上行。損而有孚元吉,無咎可貞,利有攸往。“曷之用?二簋可用享”,二簋應有時,損剛益柔有時,損益盈虛,與時偕行。象曰:山下有澤,損,君子以懲忿窒欲。損下益上,損剛益柔,非可常行,必有孚元吉,無咎可貞,然後利有所進,故下云“有時”。
《損》の卦辞に言う:「有孚元吉、无咎可貞、利有攸往。曷之用?二簋可用享。」《彖伝》に言う:「損、損下益上、其道上行。損而有孚元吉、无咎可貞、利有攸往。『曷之用?二簋可用享』——二簋応有時、損剛益柔有時。損益盈虚、与時偕行。」《象伝》に言う:「山下有沢、損。君子以懲忿窒欲。」下を減損して上を増益し、剛強を減損して柔弱を増益する——これは常に施行できる事ではない。必ず誠信・大吉・過錯なくして正を守ることを成し遂げて、そうして後に前進する所を論じうる。だから《彖伝》の下文に「有時」と言う——一切は時をもって断ずる。
初九,已事遄往,無咎,酌損之。象曰:“已事遄往”,尚合志也。損剛益柔有時,損不可過,抑而居下,有為而然,故事已則當速反於上,與四合志。損不以中,未免於咎也。九二,利貞,征凶,弗損益之。象曰:“九二利貞”,中以為志也。以陽居陰,剛德已損,故以征則凶。能志於正,則雖損非損,其實受益。
初九の爻辞に「已事遄往、无咎、酌損之」と言い、《象伝》は「『已事遄往』、尚合志也」と言う。剛強を減損して柔弱を増益するのは時機を見るべきで、減損は過分にできない。初九は己を抑えて下位に居り、もともと作為あるためにこのようである。だから事が一たび了結すれば、速やかに上に帰るべきで、六四と心志を相合させる。減損が中道に合しなければ、過錯を免れない。九二の爻辞に「利貞、征凶、弗損益之」と言い、《象伝》は「『九二利貞』、中以為志也」と言う。九二は陽爻をもって陰位に居り、剛徳はすでに減損する所有るので、さらに前行して征進すれば凶。それがもし正を守るを志と為せば、表面上は損であって実は損ではなく、かえって真に益を得る。
六三,三人行則損一人,一人行則得其友。象曰:一人行,三則疑也。六三本為上六,與坤同體,若連茹彙征,三人並行,則反非益上之道也。六四,損其疾,使遄有喜,無咎。象曰:“損其疾”,亦可喜也。六三志應於上,近不相得,不固其路使速應於上,則初九之應無所間阻,故曰“損其疾”,使彼有喜,故己亦可喜而無咎也。
六三の爻辞に「三人行則損一人、一人行則得其友」と言い、《象伝》は「一人行、三則疑也」と言う。六三はもともと泰卦の上六が移りて下ったもので、坤卦と同一の体である。もし茅草を抜き起こして根鬚が相連なるがごとく、三つの陰爻が一斉に並行して上れば、かえって上位を増益する正道ではない。六四の爻辞に「損其疾、使遄有喜、无咎」と言い、《象伝》は「『損其疾』、亦可喜也」と言う。六三は心志が上りて上九に応じ、相隣の六四と彼此相合わない。六四がもし六三の去路を堵塞しなければ、それをして迅速に上応せしめ、初九と六四の正応に阻隔がない。だから「損其疾」と言う——あの病根を損き去って、相手をして歓喜せしめ、それゆえ自己も喜ぶべく過錯がない。
六五,或益之十朋之龜,弗克違,元吉。象曰:六五元吉,自上祐也。龜弗能遠,言受益之可必,信然不疑也。“或益之”,上九自外來而比之,況其下者乎!上九,弗損益之,無咎,貞吉。利有攸往,得臣無家。象曰:“弗損益之”,大得志也。上九本為九三,雖為損下,其實上行,故云“弗損益之”。損終反益,反如益卦損上而益下,則可大得志,至於得臣無家,(咎)[言]所有之多也。以剛在上,受下之益多矣,故(大川)[無所]施損,當反益於下,故曰“弗損益之”。
六五の爻辞に「或益之十朋之亀、弗克違、元吉」と言い、《象伝》は「六五元吉、自上祐也」と言う。価十朋の大亀をもってもそれに違逆できないとは、益を受ける事が必ず疑いなく確かに信頼できることを言う。いわゆる「或益之」とは、上九が卦外より下りてそれに親附することである。上九ですらなおかつこのようである、ましてやそれより下の諸爻においてをや!上九の爻辞に「弗損益之、无咎、貞吉。利有攸往、得臣无家」と言い、《象伝》は「『弗損益之』、大得志也」と言う。上九はもともと泰卦の九三が移りて上ったもので、名は下を損ずると言うが実は上行である。だから「弗損益之」——更に人を損なわなくても自然に益がある。損が尽頭に至れば反転して益と為り、益卦が上を損して下を益するがごとく、このようであればこそ大いにその志を遂げて「得臣无家」に至る——所有する人衆の多いことを言う(「咎」は「言」に当たるべし)。上九は陽剛をもって最上に居り、下の増益を受けることすでに多いので、更に加減減損を施すべき所がない(「大川」は「无所」に当たるべし)。当に反転して下の人を増益すべきであるので「弗損益之」と言う。
益卦
益。利有攸往,利涉大川。彖曰:益,損上益下,民說無疆。自上下下,其道大光。“利有攸往”,中正有慶。“利涉大川”,木道乃行。益動而巽,日進無疆。天施地生,其益無方。凡益之道,與時偕行。象曰:風雷益,君子以見善則遷,有過則改。上巽下動者,損上益下之道,木以動而巽,故“利涉大川”。否卦九四下而為初九,故曰“天施地生”,又曰“損上益下”,又曰“自上下下”。
《益》の卦辞に言う:「利有攸往、利渉大川。」《彖伝》に言う:「益、損上益下、民説无疆。自上下下、其道大光。『利有攸往』、中正有慶。『利渉大川』、木道乃行。益動而巽、日進无疆。天施地生、其益无方。凡益之道、与時偕行。」上を減損して下を増益すれば、百姓はよって喜悦して疆りなし。上位に居る人が肯んじて下民の下に自処すれば、その道は大いに光明。震動して巽順なので、徳業は日進して窮りなし。天は気を施し地は物を生じ、その増益に一定の方所なし。およそ増益の道は、皆時勢に随って行う。《象伝》に言う:「風雷益、君子以見善則遷、有過則改。」上卦は巽にして下卦は震動——これがまさに上を損じ下を益する道である。巽は五行で木に属し、木は動によって水中に順入するので「利渉大川」。益卦は否卦の九四が下降して初九と為ったものなので、《彖伝》は「天施地生」と言い、また「損上益下」と言い、また「自上下下」と言う。
初九,利用為大作,元吉,無咎。象曰:“元吉無咎”,下不厚事也。以剛陽之德施益於下,故利用大作。然必元吉乃無咎也。六二,或益之十朋之龜,弗克違,永貞吉。王用享于帝,吉。象曰:“或益之”,自外來也。“或益之十朋之龜弗克違”,言損上益下之道,理不可易,人皆信之,雖十朋之龜亦不能違此道也。往見損,九五居中體柔,蒙上之益,修報於下,享帝之美,莫盛此焉。“或益之”,必有自外來而益之者也。
初九の爻辞に「利用為大作、元吉、无咎」と言い、《象伝》は「『元吉无咎』、下不厚事也」と言う。初九は陽剛の徳をもって利益を下民に施すので、大いに興作するに宜しい。しかし必ず大吉を成し遂げてこそ、過錯なしとしうる。六二の爻辞に「或益之十朋之亀、弗克違、永貞吉。王用享于帝、吉」と言い、《象伝》は「『或益之』、自外来也」と言う。いわゆる「或益之十朋之亀、弗克違」とは、上を損じ下を益するこの道理が改易すべからず、人人皆それを信従し、価十朋の大亀をもってもこの道理に違背できないことを言う。この層の意思は損卦の六五にすでに見えた。九五は中に居って体質が柔和で、上の増益を承受し、また徳を修めて下の人に報答する——帝を祭享する美徳に、これより盛大なものはない。いわゆる「或益之」とは、必ず外より来てそれを増益する者があるのである。
六三,益之用凶事,無咎。有孚中行,告公用圭。象曰:益用凶事,固有之也。
六三の爻辞に「益之用凶事、无咎。有孚中行、告公用圭」と言い、《象伝》は「益用凶事、固有之也」と言う。増益の道を凶荒禍患の救済に用いるので、過錯がない。心に誠信を存して中道を行い、圭を執って王公に上告する——この難を救う責は、もともとそれの分内に固有の事である。
中行者,不私於應,無所偏繫也。用心不私,以拯凶難,雖非王者之佐,可以用之牧伯以為藩屏之臣矣。體躁居陽,上有剛應,持此施益,用拯凶難,乃其固能也,故無咎可必。然亦須執禮告上公而行,方合中道,其曰“告公”者,未足專進為王者之佐也。
《益》卦六三の爻辞の言う「中行」とは、行事が中道を守り、自己の正応の爻に偏私せず、心中に偏執係恋する対象がないことを指す。用心に私意を存さず、この心力を取って兇険患難を救助する——このような人はたとえ王者を輔佐する大臣に足らなくとも、すでに一方の牧伯に任用して屏藩王室の重臣に充てることができる。六三は陰柔にして躁動し陽位に居り、上に上九の剛爻があってそれと相応ずる。このような資質を凭って増益を施行し凶難を救助するは、もともとそれの固有の能力である。だから「過錯なし」と断定する。しかしそれはなお礼に依って三公に上告してそうして後に施行しなければならず、こそ中道に合する。爻辞はただ「告公」と言って「告王」と言わない——それがまだ徑直に進用されて王者の輔佐に足らないを見る。
六四,中行告公從,利用為依遷國。象曰:“告公從”,以益志也。以陰居陰,體巽應卑,持此施益,可以為依遷之國。純用卑柔,仍告上公見從,方可用事,無剛故也。不足告王,故曰“告公”。本為初六,寄位於四,居陰體巽,所趨在下,以為依遷之國,人所容信,然必中行不私,然後可告必見從,蓋上以益下為心也。
《益》卦六四の爻辞に言う:「中道を守って行い、三公に禀告すれば聴従を得、依託しうる国を遷す所を作るに宜しい。」《象伝》は「告公従」を解して、これは天下を増益する志向が伸張を得たと言う。六四は陰爻をもって陰位に居り、本め巽体に属して応ずる初九は位卑く下にある。このような資質を凭って増益を施行すれば、人が国を遷して依託する対象と為りうる。それは純ら卑順柔和の道を用い、なお三公に禀告して許可を得てこそ事を行えるのは、自身に剛健の質が缺少するからである。それの分量は上りて王に達するに足らないので、ただ「告公」と言う。この一爻はもともと初六で、第四位に寄居し、陰位に居って巽体に属し、心志の趨向する所は下方にある。それゆえ人の遷依する国と為り、衆人に容納信任されうる。しかし必ず行事が中を守り私意を徇らず、禀告して後に必ず聴従されなければならない——上位に在る者はもともと下民を増益するを心とするからである。
九五,有孚惠心勿問,元吉。有孚惠我德。象曰:“有孚惠心”,勿問之矣。“惠我德”,大得志也。上九,莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。象曰:“莫益之”,偏辭也。“或擊之”,自外來也。體剛質巽,志應在下,位亢於上,故立心勿恆。“或擊之”,反“或益之”之義為文,故又云“自外來”也。未嘗損己而云“莫益之”,作易者因益卦而言爾。
《益》卦九五の爻辞に言う:「誠信を懐いて人に恵を施す心があれば、占問するに及ばず大吉。天下の人も誠信を懐いて我が恩徳を感戴する。」《象伝》に言う、すでに誠信の人を恵む心があれば、更に占問するを要しない。「恵我徳」とは天下を増益する志愿が大いに実現することを言う。上九の爻辞に言う:「それを増益する人なく、かえってそれを撃つ人あり、心を立てて常を守ることができず、兇険。」《象伝》に言う、「莫益之」は一端に偏執する説である。「或撃之」は、禍患は外より招来されたものである。上九は陽剛の体にして質性は巽に属し、心志はもともと下の六三にあるべきだったが、高く一卦の極位に踞るので、心を立てて恒常を持守できない。「或撃之」の一句は、六二の「或益之」の語意を反用して措辞したものであるので、《象伝》はまた「自外来」と言う。上九は並んで真に自己を減損していないのに、爻辞が「莫益之」と言う——あれは《易》を作った人が《益》卦の立意に順って発した言である。
夬卦
夬。揚于王庭,孚號有厲。告自邑,不利即戎,利有攸往。益而不已必決,故受之以夬。彖曰:夬,決也,剛決柔也,健而說,決而和。“揚于王庭”,柔乘五剛也;“孚號有厲”,其危乃光也。“告自邑,不利即戎”所尚乃窮也;“利有攸往”,剛長乃終也。
《夬》卦の卦辞に言う:「王庭の上にあって公に小人の罪を宣揚し、誠信をもって衆に号令し心に危惧を存す。まず自己の封邑より告誡し、すぐに兵戎を動用するに利あらず、往く所有るに利あり。」《序卦伝》に言う、増益が止まなければ必ず決潰するので、《益》卦の後に接ぐるは《夬》卦である。《彖伝》に言う:夬はすなわち決断・決去で、衆陽剛が一陰柔を決去する。下卦は乾健にして上卦は兌悦で、決断の中に和順を帯びる。「揚于王庭」は、上六の一陰が五つの陽剛の上に凌駕するがゆえに。「孚号有厲」は、まさに危険を知るがゆえにその道が光大する。「告自邑、不利即戎」は、ひたすら武力を崇尚すれば窮途に走ることを言う。「利有攸往」は、陽剛が生長して尽頭に至り、陰柔を決去する事がはじめて終成することを言う。
不可以必勝而忽慢,故能矜慎則愈光也。除惡務本,故利有所進而後為德乃終。象曰:澤上於天,夬,君子以施祿及下,居德則忌。君子道長,故非德之禁可以必行,然不可恃令之行,無恩以及下也。
勝券を穏操するがゆえに軽忽怠慢してはならないので、いよいよ荘敬謹慎するほどその道はいよいよ光大する。邪悪を剷除するには根本上より為さなければならないので、必ず一路に前進する所があって、徳業がはじめて終成する。《大象伝》に言う:沢水が天上に升る——これが《夬》で、君子はこれによって俸禄恩惠を下民に施及し、徳に安居して自ら誇耀しないことを領悟する。君子の道はまさに生長しているので、およそ徳に合せぬ事は皆禁じえて令行必果である。しかしまたただ政令の通行を倚仗して、恩沢が下の人に施及しないことは不可である。
初九,壯于前趾,往不勝為咎。象曰:不勝而往,咎也。言能慮勝而往則無咎。九二,惕號,莫夜有戎勿恤。象曰:“有戎勿恤”,得中道也。警懼申號,能孚號而有厲也。以必勝之剛,決至危之柔,能自危慮,雖有戎何恤!能得中道,故剛而不暴。
《夬》卦初九の爻辞に言う:「前の足趾が強壮にして急進し、前往して勝つことができなければ、過失と為る。」《象伝》に言う、勝つことができないを明知しながらなお前往するは、それがこそ過失である。これはあらかじめ必勝を估量して後に前往すれば、過失がないことを言う。九二の爻辞に言う:「警惕して衆に号令し、夕暮れに兵戎の来犯あっても憂慮するに及ばず。」《象伝》に言う、「有戎勿恤」は九二が中道を守ったがゆえに。警惕戒懼して反覆申令するは、まさに卦辞の言う誠信をもって号令し心に危惧を存するである。必勝の陽剛をもって極めて危険の陰柔を決去し、また自ら安に居りて危を思うことができれば、たとえ兵戎の来犯があっても何の憂慮すべきがあろう!中道を守りえたので、剛強にして暴戻ではない。
九三,壯于頄,有凶。君子夬夬,獨行遇雨若濡,有慍,無咎。象曰:“君子夬夬”,終無咎也。九三以陽居陽,進決於上,是壯于頄也。不得中道,過壯或凶,故曰“有凶”。君子明於事幾,能夬於用夬,進而緩之以善其終,不假用眾,故曰“獨行”;使之悅從,故曰“遇雨若濡”。君子之心終[無繫累],故必有慍。雖其有慍,於正無害,故[曰]“無咎”,[故]君子之道綽然餘裕,終不為咎也。
《夬》卦九三の爻辞に言う:「剛壮が顴骨の上に顕露すれば、兇険あり。君子は決然としてその決断を行い、独り前行して雨に遇い濡れるに似たも、人の怨怒を招くも、過錯なし。」《象伝》に言う、君子が決然としてその決断を行うは、終に過錯がない。九三は陽爻をもって陽位に居り、ひたすら上に向かって進逼して上六を決去する——これが「壮于頄」で、剛強は全て顔に書かれている。それは中道を守らず、剛壮に過ぎれば凶を招くことがあるので「有凶」と言う。君子は事情の几微を明察し、決断すべき処で果断に決断でき、前進の中にまた舒緩を懂得し、もって善終を求め、衆人の力に借重するを要しないので「独行」と言う。相手をして心より悦服して順従せしめるので「遇雨若濡」と言う。君子は心中に終に係累を留めないので、人の怨怒を招くを免れない。怨怒を招くとはいえ正道に妨害なく、だから「過錯なし」と言う。君子の道は寛綽して余有り、終に過失と為らない。
九四,臀無膚,其行次且,牽羊悔亡,聞言不信。象曰:“其行次且”,位不當也。“聞言不信”,聰不明也。一陰在上,眾陽爭趨,三其正應,己獨乘之,故行止皆凶。牽羊者必讓而先之,則為力也易,溺於所趨,必不能用,故曰“聞言不信”,溺於心者,聽必不聰。九五,莧陸夬夬,中行無咎。象曰:“中行無咎”,中未光也。陽近於陰,不能無累,故必正其行然後免咎。上六,無號終有凶。象曰:無號之凶,終不可長也。
《夬》卦九四の爻辞に言う:「臀部に皮肉なく、行って躊躇して進みがたし。もし羊を牽くがごとく羊をして前に走らせて己は後に随えば、悔恨は消失するが、惜しむべくはこの言を聞いても信じない。」《象伝》に言う、「其行次且」は居位の不当たるがゆえに。「聞言不信」は耳目が昏昧不明のがゆえに。上六の一陰が高く上に居り衆陽は争い趨赴し、九三と上六はもともと正応なのに、九四は独り九三の上に凌駕するので、前行しても止息しても兇険がある。羊を牽く人は必ず羊をして前に行かしめ己は後より駆逐する——こうすれば力を省ける。九四は争い趨赴する心思に沉溺し、必ずこの道理を用いえないので「聞言不信」——心が欲念に淹没された人は、何を聞いても聴き明らめない。九五の爻辞に言う:「莧陸を剷除するがごとく決然として決去し、中道を守って行えば、過錯なし。」《象伝》に言う、「中行无咎」はそれが中に居る徳がなお光大に足らないを言う。九五の陽爻は上六の陰に紧挨し、全く牽累なきありえないので、必ず自己の行為を端正にしてそうして後に過錯を免れうる。上六の爻辞に言う:「呼号して救を求める所なし、終に兇険あり。」《象伝》に言う、号なきの凶は、一陰が終に久しく衆陽の上に凌駕しえないがゆえに。
姤卦
姤。女壯,勿用取女。彖曰:姤,遇也,柔遇剛也。“勿用取女”,不可與長也。天地相遇,品物咸章也,剛遇中正,天下大行也。姤之時義大矣哉!非中爻不能備卦德,故曰“剛遇中正”。象曰:天下有風,姤,后以施命誥四方。上所以用柔於下者,誥令莫大焉。
《姤》卦の卦辞に言う:「女子が強壮に過ぎれば、このような女子を娶ってはならない。」《彖伝》に言う:姤はすなわち相遇うことで、一陰柔が衆陽剛に遇うことである。「勿用取女」は、彼女と久しく相処してはならないことを言う。天地陰陽が相遇うてこそ、万物は皆顕彰して生長する。陽剛が中正の位に遇うてこそ、教化は天下に通行しうる。《姤》の処する時勢の意義は真に重大である!中に居る爻でなければ一卦の徳を完備できないので、《彖伝》は特に「剛遇中正」と言う。《大象伝》に言う:天下に風吹拂す——これが《姤》で、君王はこれによって政令を頒布し四方に誥諭することを領悟する。上位に在る人が柔和の道をもって下民に対するに、誥諭政令より重大なものはない。
初六,繫于金柅,貞吉。有攸往,見凶。羸豕孚蹢躅。象曰:“繫于金柅”,柔道牽也。金柅二物也,處姤之時,不牽於近則所往皆凶。孚,信也。豕方羸時,力未能動,然至誠在於蹢躅,得申則申矣。如李德裕處置閹宦,徒知其帖息威伏,而忽於志不(忘)[妄]逞,照察少不至則失其幾也。
《姤》卦初六の爻辞に言う:「金屬の車閘に系縛され、正を守れば吉。往く所有れば、兇険に遇う。瘦弱の猪は実は一心に跳踉掙扎を想っている。」《象伝》に言う、「系于金柅」は陰柔の道が牽制を要することを言う。「金」と「柅」はもともと二つの物である。相遇う時に処して、初六のこの一陰がもし近旁の九二に牽かれなければ、往けば何れも兇険がある。「孚」はすなわち真実・誠信である。猪がまさに瘦弱の時、気力はまだ動かせないが、その一片の真心は全て跳踉掙扎の上にあり、一旦勢を得れば伸張し出る。これは唐朝の李徳裕が宦官を処置して、ただ彼らの表面上の服帖畏伏を見て、彼らの心中のあの罷休を肯じない妄念を忽略し、稽察がやや至らなければ、患を防ぐ先機を錯失したに似る。
九二,包有魚,無咎,不利賓。象曰:“包有魚”,義不及賓也。九三,臀無膚,其行次且,厲無大咎。象曰:“其行次且”,行未牽也。行而無所與遇,故曰“行未牽也”,進退無所繫也。九四,包無魚,起凶。象曰:無魚之凶,遠民也。
《姤》卦九二の爻辞に言う:「厨中に魚を包裹す、過錯なし。ただし賓客に分与するに宜しくない。」《象伝》に言う、「包有魚」は義理に照らしてこの魚は賓客に輪らないことを言う。九三の爻辞に言う:「臀部に皮肉なく、行って躊躇して進みがたし。危険あれど大きな過錯なし。」《象伝》に言う、「其行次且」はそれが前行する時に牽する所がないがゆえに。九三は前行して応じうる対象に遇わないので「行未牽也」と言う——進も退も牽掛係恋する所がない。九四の爻辞に言う:「厨中の包裹に魚なし。動けば兇険あり。」《象伝》に言う、魚なきの凶は、九四が下民を疎遠したがゆえに。
九五,以杞包瓜,含章,有隕自天。象曰:九五含章,中正也。“有隕自天”,志不舍命也。杞之為物,根固於下,瓜之為實,潰必自內。九五以中正剛健含章宅尊,而遇陰柔浸長之時,厚下安宅,潰亂是防,盡其人謀而聽天命者也。“以杞包瓜”,文王事紂之道,厚下以防中潰,盡人謀而聽天命者歟!上九,姤其角,吝無咎。象曰:“姤其角”,上窮吝也。窮不知變,吝之道也。
《姤》卦九五の爻辞に言う:「杞樹の枝葉をもって甜瓜を包裹し、内に美質を含み、好運は天より降って来る。」《象伝》に言う、九五が内に美質を含むは、それが中に居って正を得るがゆえに。「有隕自天」は、その心志が天命に違背しないを言う。杞という樹は、根が深く地下に扎する。瓜という果実は、腐壞はいつも裏面より始まる。九五は中正剛健の徳をもって内に美質を含み尊位に身を居するが、陰柔が漸く滋長する時勢に遇い、そこで下民を厚待し居所を安固にする——備える所はまさに内部の潰乱で、これは人事の謀を尽くしてそうして後に天命に聴憑する做法である。「以杞包瓜」と言うは、まさに周文王が商紂に事えた路数を言う:下を厚待して内部の潰爛を防ぎ、人の謀劃を尽くして後に天命に聴憑しよう!上九の爻辞に言う:「角の上にあって人と相遇う、憾惜あるも、過錯なし。」《象伝》に言う、「姤其角」はそれが最上に処して窮極して吝を生ずるがゆえに。窮処に走りて変通を知らないは、まさに憾惜を招致する路数である。
萃卦
萃。亨,王假有廟,利見大人,亨利貞。用大牲吉,利有攸往。姤者遇也,物相遇而後聚,故受之以萃。與渙卦義同,故繇辭互見。萃而不見大人之德,吝道也。彖曰:萃,聚也,順以說,剛中而應,故聚也。“王假有廟”,致孝享也。“利見大人亨”,聚以正也。“用大牲吉,利有攸往”,順天命也。觀其所聚而天地萬物之情可見矣。象曰:澤上於地,萃,君子以除戎器,戒不虞。
《萃》卦の卦辞に言う:「亨通し、君王が宗廟に来て祭祀す。大徳の人に見るに宜しく、亨通して正を守るに宜しい。牛羊の大牲を用いて献祭すれば吉を得、往く所有るに宜しい。」《序卦伝》に言う、姤はすなわち相遇うことで、万物が相遇うて後に聚合するので、《姤》卦の後に接ぐるは《萃》卦である。《萃》と《涣》の二卦は義理が相通ずるので、卦爻辞は彼此参見する。聚合して大徳の人の主持するを見なければ、あれは憾惜を招致する路数である。《彖伝》に言う:萃はすなわち聚合で、下は坤順にして上は兌悦、九五の陽剛が中に居って六二と相応ずるので、聚合しうる。「王假有廟」は、孝心を祭享に尽くすことである。「利見大人亨」は、聚合が正道を要することを言う。「用大牲吉、利有攸往」は、天命に順応することである。万物の聚合する道理を観察すれば、天地万物の実情は皆見える。《大象伝》に言う:沢水が地上に積聚す——これが《萃》で、君子はこれによって兵器を修繕し意外の変に戒備することを領悟する。
聚而致享,必有廟乃盡其實。聚而不見大人之德,吝道也。聚不以正,私邪勝也。富聚之世,順天之命,用大牲有所進為宜。散而通之,順天命而不凝於物也。凝一作疑。
人心が聚合して後に祭享を奉献するには、必ず宗廟があってこそこの誠実を尽数発出しうる。聚合して大徳の人を見なければ、あれは憾惜を招致する路数である。聚合して正道に依らなければ、私意邪念が上風を占める。財富人物が聚集する時代には、上天の命令に順い、牛羊の大牲を用いて献祭して進取する所有るがこそ合宜である。聚めたものを散じて出して流通せしめるは、まさに天命に順応して具体的事物に滞凝しないである。「凝」の字は別の版本に「疑」と作る。
初六,有孚不終,乃亂乃萃。若號一握,為笑勿恤,往無咎。象曰:“乃亂乃萃”,其志亂也。萃聚之世,物各以近相求,所處遠者,雖有其應,不能專一。初六履不以中,萃而志亂,故為眾輕侮,若能啼號齊諮,專一其守,不恤眾侮,則往而無咎。
《萃》卦初六の爻辞に言う:「誠信あるも終始貫持できず、そこで心思が紛乱して人に随いて聚合す。もし声を放って呼号すれば、一群の人が汝を嗤笑しても憂慮するに足らず、前往して過錯なし。」《象伝》に言う、「乃乱乃萃」はその心志が乱れたがゆえに。聚合の時代にあって、万物は各々近くに就いて相求める。処する位置が疎遠な者は、正応の爻あるとはいえ、専一に移らざることが難い。初六は行事が中道に合せず、人に随いて聚合して心志が散乱し、それゆえ衆人に軽慢欺侮される。もし痛切に呼号し嗟嘆して自省し、専一に自己の操守を堅守して、衆人の欺侮を心上に置かなければ、前往して過錯がない。
六二,引吉,無咎。孚乃利用禴。象曰:“引吉無咎”,中未變也。物思其聚之時,能自持不變,引而後往,吉乃無咎。凡言“利用禴”,皆誠素著白於幽明之際,未孚而略禮,則神怒而民怨。六三,萃如嗟如,無攸利。往無咎,小吝。象曰:“往無咎”,上巽也。九四,大吉,無咎。象曰:“大吉無咎”,位不當也。位非極顯而有物之萃,非大吉則悔吝必矣。
《萃》卦六二の爻辞に言う:「牽引されて上れば吉、過錯なし。心に誠信を存せば、微薄の禴祭を用いるに宜しい。」《象伝》に言う、「引吉无咎」はそれが中に居る徳が改変しなかったがゆえに。万物が皆急いで聚合する時に当たり、六二は自守して変らず、人に引薦されて後に往くを待って、はじめて吉があって過錯なし。およそ「利用禴」と言うは、皆誠意が素より人神の際に昭著であることを指す。もし誠信がまだ人神に孚さないのに礼数を簡省すれば、神明が震怒し百姓が怨恨する。六三の爻辞に言う:「聚合せんとするも嗟嘆するのみ、利益する所なし。往けば過錯なし、ただ稍々憾惜あり。」《象伝》に言う、「往无咎」は上六が柔順にして相容れるがゆえに。九四の爻辞に言う:「大吉、過錯なし。」《象伝》に言う、「大吉无咎」はそれが居位の不当たるがゆえに。九四の居する位は最も顕赫ではないが、衆物が聚まりてそれに帰する——もし大吉でなければ、悔恨憾惜は必ず免れがたい。
九五,萃有位,無咎。匪孚,元永貞,悔亡。象曰:“萃有位”,志未光也。居得盛位不能見,以大人之德繫應於二,故曰“有位”,履非不正,故無咎。然非君人之大信,為德非厚,不能無悔,故元永貞而後悔亡。上六,齊諮涕洟,無咎。象曰:“齊諮涕洟”,未安上也。以陰居上,極物之萃,非所堪也。
《萃》卦九五の爻辞に言う:「天下を聚合して尊位を据有す、過錯なし。もしまだ衆に信を取らざれば、元善・恒久・貞正の徳を守持してこそ、悔恨は消失する。」《象伝》に言う、「萃有位」はその心志がなお光大に足らないを言う。九五は盛大の位に身を居するが、大人の徳を天下に顕現できず、ただ心を六二との正応に係るので、爻辞はただ「有位」と言う。それが処する所は正ならざるにあらず、だから過錯なし。しかしそれはまだ天下に君臨する大信なく、徳もまた深厚に足らないので、悔恨なきありえない。だから元善・恒久・貞正を要して、そうして後に悔恨が消える。上六の爻辞に言う:「嗟嘆哀号し涕泪交流す、過錯なし。」《象伝》に言う、「斉咨涕洟」は上位に居りて安んじえないがゆえに。上六は陰柔をもって最上に居り、万物聚合の極を承受する——もともとそれの担当しうる所ではない。
升卦
升。元亨,用見大人勿恤,南征吉。彖曰:柔以時升,巽而順,剛中而應,是以大亨。“用見大人勿恤”,有慶也,“南征吉”,志行也。象曰:地中生木,升,君子以順德積小以高大。萃者聚也,聚而上者謂之升,故受之以升。乾之九二利見大人而以時之止,升之九二有六五配合之慶,故可見大人之德,南征而勿恤也。
《升》卦の卦辞に言う:「大いに亨通し、これを凭って大徳の人に見るに憂慮するを要せず、南に向かって進発すれば吉を得る。」《彖伝》に言う:陰柔が時機に順って上昇し、下が巽にして上が順、九二の陽剛が中に居ってまた六五と相応ずるので、大いに亨通する。「用見大人勿恤」は、福慶あるを言う。「南征吉」は、心志が施行を得るを言う。《大象伝》に言う:地中より樹木が生ずる——これが《升》で、君子はこれによって徳性に順循し細小を積累して高大を成就することを領悟する。《序卦伝》に言う、萃はすなわち聚合で、聚合して上に向かうを升と言うので、《萃》卦の後に接ぐるは《升》卦である。《乾》卦の九二も「利見大人」と言うが、時勢がまだ至らないがゆえに止まるを要した。《升》卦の九二は六五とそれと配合する福慶があるので、大人の徳を顕見でき、南に進発して憂慮するを要しない。
初六,允升,大吉。象曰:“允升大吉”,上合志也。允,信也。自信於己,與上合志而升。九二,孚乃利用禴,無咎。象曰:九二之孚,有喜也。與萃六二同。九三,升虛邑。象曰:“升虛邑”,無所疑也。上皆陰柔,往無所疑。
《升》卦初六の爻辞に言う:「誠信にして上昇す、大吉。」《象伝》に言う、「允升大吉」はそれが上と心志相合するがゆえに。「允」はすなわち誠信である。自己の内心が篤実信ずべく、上の陽爻と心志が相合してともに上昇する。九二の爻辞に言う:「心に誠信を存せば、微薄の禴祭を用いるに宜しく、過錯なし。」《象伝》に言う、九二の誠信は喜慶あるを言う。これは《萃》卦六二の道理と同じ。九三の爻辞に言う:「空虚無人の城邑に升入る。」《象伝》に言う、「升虚邑」は前路に毫も疑礙なきがゆえに。九三の上は皆陰柔の爻で、往いて阻疑する所なし。
六四,王用亨于岐山,吉無咎。象曰:“王用亨于岐山”,順事也。六五,貞吉升階。象曰:“貞吉升階”,大得志也。柔中極尊,不拒來者,使物皆階己而升,正而且吉,志宜大獲也。易所謂“得志”者,聖賢獲其願欲。得臣無家,堯之志也,貞吉升階,舜之志也。上六,冥升,利于不息之貞。象曰:冥升在上,消不富也。
《升》卦六四の爻辞に言う:「君王が岐山に祭享を行う、吉、過錯なし。」《象伝》に言う、「王用亨于岐山」は理に順って行う事である。六五の爻辞に言う:「正を守って吉を得、台阶に沿って上昇す。」《象伝》に言う、「貞吉升階」は心志が大いに実現することを言う。六五は陰柔にして中に居り極尊の位に処し、来て帰附する者を拒絶せず、衆人をして皆それを階梯として上進せしめる——すでに正当にして吉利、心志は自然に大いに獲る所有る。《易》の言う「得志」とは、聖賢が自己の心願を実現することを指す。《尚書》が舜の「賢臣を得て私家を忘却す」と言うは、あれは尭の心志である。「正を守って吉を得、級を拾って升る」は、あれは舜の心志である。上六の爻辞に言う:「昏冥の中にひたすら上昇す。息まざる正道を持守するに宜しい。」《象伝》に言う、昏冥にして上昇して最上に居れば、ただ消減するのみで富厚にはならない。
困卦
困。亨貞,大人吉,無咎,有言不信。彖曰:困,剛掩也。險以說,困而不失其所亨,其唯君子乎!“貞大人吉”,以剛中也;“有言不信”,尚口乃窮也。象曰:澤無水,困,君子以致命遂志。升而不己必困,故受之以困。困於險下,柔不自振,非窮而能亨,致命遂志者也。
《困》卦の卦辞に言う:「亨通して正を守るに宜しく、大徳の人は吉を得、過錯なし。この時言を発しても人に信ぜられず。」《彖伝》に言う:困は陽剛が陰柔に掩蔽されることである。険境に身を処してなお和悦しえ、困窮の中にその亨通の道を失わない——おそらく君子のみができることであろう!「貞大人吉」は、九二・九五の陽剛が中に居るがゆえに。「有言不信」は、ひたすら口舌を崇尚すれば窮途に走るを言う。《大象伝》に言う:沢に水なし——これが《困》で、君子はこれによって性命を捨てて志向を成全することを領悟する。《序卦伝》に言う、上昇して止まなければ必ず困窮するので、《升》卦の後に接ぐるは《困》卦である。険陷の下に困せられるに、陰柔の人は自振しえず、それならば窮困の中に通達し命を捨てて志を遂ぐる人ではない。
初六,臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。象曰:“入于幽谷”,幽不明也。處困者正乃無咎,居非得中,故幽而不明。九二,困于酒食,朱紱方來,利用享祀,征凶,無咎。象曰:“困于酒食”,中有慶也。困危之際,物思所附。九二以剛居中正,大人之吉,上下交說,不施聰明,美物方至,然未可有為,故以祭則吉,以征則凶,征雖或凶,於義無咎。際一作世。
《困》卦初六の爻辞に言う:「臀部が枯木の樹桩に困せられ、幽深の山谷に落ち入り、三年天日を見ず。」《象伝》に言う、「入于幽谷」は幽暗にして明ならざるがゆえに。困境の中に処しては、正を守ってこそ過錯なしとしうる。初六の居する所は中にも正にもあらず、だから幽暗不明。九二の爻辞に言う:「酒食の中に困せられ、紅色の祭服がまさに送られて来る。祭祀を行うに宜しく、出征すれば凶、過錯なし。」《象伝》に言う、「困于酒食」は中に居って福慶あるがゆえに。困厄危難の時には、衆人は皆依附する所を求めんと欲する。九二は陽剛をもって中に居り正を守る——まさに大徳の人の吉象で、上下ともにそれに親近することを楽しみ、それは自己の聡明を売弄せず、美好の物は自然に至る。しかしこの時はまだ大いに作為すべきでないので、用いて祭祀すれば吉、用いて出征すれば凶。出征は或いは兇険あるも、義理の上では過錯なし。「際」の字は別の版本に「世」と作る。
六三,困于石,據于蒺藜,入于其宮不見其妻,凶。象曰:“據于蒺藜”,乘剛也;“入于其宮不見其妻”,不祥也。九四,來徐徐,困于金車,吝有終。象曰:“來徐徐”,志在下也,雖不當位,有與也。心有偏繫,吝也,以陽履柔,故有終。
《困》卦六三の爻辞に言う:「巨石に困せられ、手は蒺藜の上に据え、自己の家に帰入っても妻子を見ず、兇険。」《象伝》に言う、「据于蒺藜」は九二の陽剛の上に凌駕するがゆえに。「入于其宮不見其妻」は、不祥の兆である。九四の爻辞に言う:「緩緩として来る、金飾の車子に困せられ、憾惜あるも善い結局あり。」《象伝》に言う、「来徐徐」はその心志が下の初六にあるがゆえに。居位は当たらないとはいえ、相応じ相与する伙伴がある。心に偏執係恋する所あれば、それが憾惜である。九四は陽爻をもって陰位に踏み、その剛を自抑しうるので、終に善い結局がある。
九五,劓刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。象曰:“劓刖”,志未得也;“乃徐有說”,以中直也;“利用祭祀”,受福也。以陽居陽,處困以剛,威怒以求物之來,是反為赤紱所困者也,與九二之義反矣。苟能徐以俟之,乃心有說,故曰“乃徐有說”。物既自至,以事鬼神,然後福可致焉。處困用中,可以不失其守而已,故言“利用祭祀”,然非有為之時也。
《困》卦九五の爻辞に言う:「劓刑刖刑を施行し、紅色の祭服に困せられ、慢慢としてやっと喜悦あり。祭祀を行うに宜しい。」《象伝》に言う、「劓刖」は心志がまだ実現しえざること。「乃徐有説」は中に居り正直なるがゆえに。「利用祭祀」は福祐を承受しうること。九五は陽爻をもって陽位に居り、困境に処してひたすら剛を用い、威厳憤怒を靠って人に帰附を逼れば、かえってあの身の紅色祭服に困せられる——九二の義理とちょうど相反する。仮に能く従容に等待すれば、心中に自然と喜悦あるので「乃徐有説」と言う。衆人がすでに自ら帰附して来れば、再びこれをもって鬼神に奉事して、そうして後に福祐が招致しうる。困に処して中道を守るは、ただその操守を失わぬに過ぎないので「利用祭祀」と言うが、これは大いに作為すべき時ではない。
上六,困于葛藟,于臲卼,曰動悔有悔,征吉。象曰:“困于葛藟”,未當也;“動悔有悔”,吉行也。處困之極,重剛在下,不得其肆,居非所安,舉則招悔,取舍皆咎,故行然後吉。一云:“動悔有悔”,猶云動悔之悔也。
《困》卦上六の爻辞に言う:「葛藤に纏われ困せられ、揺晃不安の中に処し、心中に一動すれば悔いありと言う。まさにこの悔意あるがゆえに、出行すれば吉。」《象伝》に言う、「困于葛藟」は処する所の当たらざるがゆえに。「動悔有悔」は、このような出行が吉であるを言う。上六は困境の頂点に処し、下に陽剛が重畳し、それは放手して施為することができず、居る所もまた安穏ならず、一たび挙動あれば悔恨を招き、取るも舍くるも是ならず、だから必ず行動してこそ吉。別の一つの解釈:「動悔有悔」は、すなわち動によって生ずるあの悔意に等しい。
井卦
井。改邑不改井,無喪無得,往來井井。汔至亦未繘井,贏其瓶,凶。彖曰:巽乎水而上水,井。井,養而不窮也;“改邑不改井”,乃以剛中也;“汔至亦未繘井”,未有功也,“贏其瓶”,是以凶也。象曰:木上有水,井,君子以勞民勸相。養而不窮,莫若勞民而勸相也。
《井》卦の卦辞に言う:「城邑は遷改しうるが、水井は遷改できない。井水は減少もせず增添もせず、往来する人は皆井の上に至りて水を汲む。水がまさに井口より提出せんとして綱がまだ拉き尽くされず、汲水の瓦瓶を打破すれば兇険。」《彖伝》に言う:水中に深入して水を提げ上ぐる——これが井で、井は人を養って窮竭しない。「改邑不改井」は、九二・九五の陽剛が中に居るがゆえに。「汔至亦未繘井」は、功用がまだ完成せざるを言う。「贏其瓶」は、だから兇険あり。《大象伝》に言う:木桶の上に水を載す——これが《井》で、君子はこれによって百姓を慰労し彼らに互相扶助を勧導することを領悟する。人を養って窮竭せしめざるに、百姓を慰労し互助を勧導するより善い办法はない。
初六,井泥不食,舊井無禽。象曰:“井泥不食”,下也;“舊井無禽”,時舍也。九二,井谷射鮒,甕敝漏。象曰:“井谷射鮒”,無與也。九三,井渫不食,為我心惻,可用汲。王明並受其福。象曰:“井渫不食”,行惻也;求王明,受福也。井以既出為功,井道之成在於上六,三其正應,而又以陽居陽,充滿可汲,為五所間,功不上施,故為我心惻。然若上六明於照物,則上下遠邇皆獲其利。“井渫不食”,強施行惻,然且不售,作易者之嘆歟!
《井》卦初六の爻辞に言う:「井底は一面の淤泥で飲用できず、廃棄の旧井は禽鳥すら来ない。」《象伝》に言う、「井泥不食」は最下に居るがゆえに。「旧井无禽」は時勢がすでにそれを捨棄したがゆえに。九二の爻辞に言う:「井底の泉眼は小魚を澆灌するに足るのみ、汲水の瓦甕は破れて漏水す。」《象伝》に言う、「井谷射鮒」はそれが上に相応じ相与する爻なきがゆえに。九三の爻辞に言う:「井はすでに淘洗され乾浄なのに飲みに来る人なく、我が心を惻然たらしむ。この井はもともと汲取すべきものである。君王がもし明察すれば、大家がともに福沢を承受せん。」《象伝》に言う、「井渫不食」は行路の人をしてこれに惻然たらしむ。君王の明察を祈求すれば、福沢を承受しうる。井は水が汲出されるをもって功用とし、井道の完成は上六の身に落ちる。九三と上六はもともと正応で、また陽爻をもって陽位に居り、井水は充盈して汲みうるが、九五に中間を隔てられ、功用が上達して施行できないので「為我心惻」と言う。もし上六が万物を明照しうれば、上下遠近の人は皆その利益を得られる。井はすでに淘浄されて取飲する人なく、勉力して施与するも人心は惻然とし、それにもかかわらずなお問津する人なし——これはおそらく《易》を作った人の慨嘆であろう!
六四,井甃,無咎。象曰:“井甃無咎”,修井也。無應於上,無敝漏於下,故但免咎而已。九五,井冽寒泉食。象曰:寒泉之食,中正也。“井冽寒泉”,美而可汲者也,剛中之德為眾所利。上六,井收勿幕,有孚元吉。象曰:元吉在上,大成也。
《井》卦六四の爻辞に言う:「磚石をもって井壁を修砌す、過錯なし。」《象伝》に言う、「井甃无咎」は水井を修治していること。六四は上に相応する爻なく、下にも破漏の患がないので、ただ過錯を免れるに過ぎない。九五の爻辞に言う:「井水は清洌、寒泉は飲用に供しうる。」《象伝》に言う、寒泉が飲用しうるは、九五が中に居り正を得るがゆえに。井水が清洌で寒泉のごとく、甘美にして汲取すべく、陽剛が中に居る徳性はまさに衆人の受用する所。上六の爻辞に言う:「井水が汲み上げられて井口を蓋うことなかれ、誠信を懐けば大吉。」《象伝》に言う、大吉にして最上に居るは、井道の大功が告成したこと。
革卦
革。巳日乃孚,元亨利貞,悔亡。彖曰:革,水火相息,二女同居,其志不相得曰革。“巳日乃孚”,革而信之,文明以說,大亨以正。革而當,其悔乃亡。天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人。革之時大矣哉!象曰:澤中有火,革,君子以治曆明時。
《革》卦の卦辞に言う:「変革の日に至ってはじめて人に信を取り、大いに亨通して正を守るに宜しく、悔恨は消失す。」《彖伝》に言う:革は水と火が互相熄滅し、二つの女子が一屋に同居して心志が相合わない——これを革と言う。「巳日乃孚」は、変革の後に人々がはじめて信従することを言う。下の離は文明にして上の兌は和悦、大いに亨通して正道に合する。変革が当を得れば悔恨ははじめて消失する。天地が更革して四時が形成され、商湯・周武が旧命を革除す——上は天道に順い下は人心に応ずる。《革》の処する時勢は真に重大である!《大象伝》に言う:沢水の中に火を含む——これが《革》で、君子はこれによって暦法を修治し時節を明弁することを領悟する。
初九,鞏用黃牛之革。象曰:“鞏用黃牛”,不可以有為也。賤而無應,非大亨以正之德中堅自守,不可有為。六二,巳日乃革之,征吉無咎。象曰:“巳日革之”,行有嘉也。俟上之唱,革而往應,柔中之德,所之乃吉。九三,征凶貞厲,革言三就,有孚。象曰:“革言三就”,又何之矣!以文明炎上剛陽之德進而之兌,兌內柔外剛,勢窮必反,故以征則凶。能守正戒懼,文命告之,此三革言,彼三從命,必然可信之理也。一云:征則雖正而危。
《革》卦初九の爻辞に言う:「黄牛の皮をもって牢く捆縛せよ。」《象伝》に言う、「鞏用黄牛」はこの時作為あるべからざるを言う。初九は位が卑しく上に相応する爻なく、大亨以正の徳行を具備しないので、ただ内裏に堅定に自守し、軽挙妄動すべからず。六二の爻辞に言う:「変革の日に至ってはじめて変革に着手し、往けば吉を得、過錯なし。」《象伝》に言う、「巳日革之」はこのように行動すれば美好の結果あるを言う。六二は上の九五の倡導を待って、そうして後にこれに応じて変革する。この柔順にして中に居る徳を凭ってこそ、往く所が吉。九三の爻辞に言う:「貿然として往けば凶あり、正を守るも危険あり。変革の議が三たび事理に合すれば、誠信あり。」《象伝》に言う、変革の議が三たびすでに妥当なれば、なお何の往く所があらん!九三は文明炎上の陽剛の徳をもって上りて兌体に入る。兌は内が柔にして外が剛で、気勢が窮処に走れば必ず反弾するので、貿然として出征すれば凶。もし正を守り戒懼して、文告の命をもって相手に曉諭し、こちらが三たび変革の義を申説すれば、かちが三たびその命を聴従する——これは必然に信じうる道理である。別の一説:出征は正道に合すとはいえなお危険あり。
九四,悔亡有孚。改命吉。象曰:改命之吉,信志也。約己居陰,心無私繫,革而必當,見孚於眾,改命倡始,信己可行,故吉。九五,大人虎變,未占有孚。象曰:“大人虎變”,其文炳也。以剛居尊,說而唱下,為眾所睹,其文炳然,不卜而孚,望而可信,下觀而化,革著盛焉。大人虎變,夫何疚之有!虎變文章大,故明;豹變文章小,故蔚。
《革》卦九四の爻辞に言う:「悔恨は消失し、誠信を懐く。天命を改換して吉を得。」《象伝》に言う、命を改めて吉なる所以は、その心志が人に信を取るがゆえに。九四は自己を約束して陰位に居り、心中に私意の係恋なく、変革は必ず当を得、衆人に信服され、率先して命を改め倡導し、自己の做法の可行を深信するので吉。九五の爻辞に言う:「大人は虎皮が毛を換えるがごとく煥然として新たなり、占卜するに及ばずすでに誠信あり。」《象伝》に言う、「大人虎変」はその文采が炳煥なるを言う。九五は陽剛をもって尊位に居り、和悦して下の人を倡率し、衆人の瞻仰する所と為り、文采は炳然として睹るべく、占卜するに及ばず人は自ずから信従し、彼を望見すれば信じるに足り、下の人は観看して感化を受くる——変革の道はここにおいて昭著に興盛する。大人は虎皮の変のごとし、何の内疚の言うべきがあらん!虎皮の紋章は闊大なので顕れて明らかに見え、豹皮の紋章は細小なのでただ茂密のみ。
上六,君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。象曰:“君子豹變”,其文蔚也;“小人革面”,順以從君也。以柔為德,不及九五剛中炳明,故但文章蔚縟,能使小人改觀而從也。
《革》卦上六の爻辞に言う:「君子は豹子が毛を換えるがごとくその文を修飾し、小人も面目を改換す。この時往けば凶あり、安居して正を守れば吉。」《象伝》に言う、「君子豹変」はその文采が茂密なるを言う。「小人革面」は彼らが順服して君上に聴従するを言う。上六は陰柔を徳とし、九五の陽剛が中に居る炳煥明亮に及ばないので、ただ文采が細密繁縟であるのみ。しかしまた小人をして観瞻を改換して順従せしめうる。
盛德之容,顏孟以上始可以觀。若顏子變則必大變,即大人虎變,虎變則其文至也,如此則不待占而有信。君子所至之分以致文,則足以為班班之縟。革面而聽命,已不敢犯,此所謂盡飾之道,斯行者遠矣,然猶是就小成上以致其文。顏子地位,於豹變已為褻就,未必肯於此發見,此所以如愚。
盛大なる徳性の気象は、顔回・孟子のこの等の人以上に至ってはじめて見え出る。顔回のごときは一旦変あれば、必ず大変——それが「大人虎変」である。虎変すれば文采は極致に達し、このようであれば占問するに及ばず自ずから誠信あり。君子は自己の至った分位に按って文采を成就し、また斑斑として観るべき繁縟の美を顕すに足る。小人は面目を改換して教命に聴従し、すでに冒犯を敢えてしない——これがいわゆる文飾を尽処に致すことで、このように推行すれば甚だ遠くまで行きうる。しかし結局はただ小さな成就の上にその文采を致すのみ。顔回の地位をもって言えば、「豹変」のこの一層は彼に対してすでに屈就と算えられ、彼は必ずしもこの上に自己を顕露することを肯じない——これが孔子が彼を「見たところ愚人のごとし」と言う所以である。
愚雖是於吾言無所不說,然必夫子省其私,始知不愚,察其人焉,惟是徇內尚質爾。然發則不小發,大抵止乃有光明,艮曰“時止則止,時行則行,其道光明”,形則著,著則明,必能止則有光明。今作事特未決,蓋非止也,止乃決為,然後就其上文章。
彼を愚と言うは、まさに彼が孔子の言に一句も欣然として領受せざるがないがゆえに。しかし必ず孔子が彼の私下の言行を考察して後に、彼が愚ならざるを知る。顔回この人を細察すれば、ただ一味に内に向かって功を用い質実を崇尚するのみ。しかし彼は一旦発用すれば、決して小小的発用ではない。大抵「止」しえてこそ光明ある——《艮》卦《彖伝》は「止まるべき時に止まり行うべき時に行い、動静ともに時機を錯過せず、その道光明」と言う。定形あれば顕著しえ、顕著すれば明亮しえ、必ず止しえてそうして後に光明あり。今の人は事を為すに遲遅として決断できない——あれは「止」ではない。「止」はまさに決然として為すことで、そうして後にこの上に文采を成就する。
顏子見其進,未見其止,未止故未發見其所止,又必欲如所期,蓋未見夫子著心處,故未肯止,是之謂隱而未見,行而未成,是以勿用。學者至此地位,亦必如愚。然顏子(學)舉措亦無不致文中節處,自(是)謂“博我以文”,則文豈不足?但顏子不以為意,所謂“有若無,實若虛”也。有顏子之心,則不為顏子之文可也。
孔子は顔回を「ただ彼の前進するを見て、彼の止まるを見ず」と言った。止まることがなかったので、まだ彼の止まる所を顕露したことがない。彼はまた必ず自己の期許する境地に達せんとし、まだ孔子の用心の所在を看透していないので止まることを肯じない——これが《乾》卦《文言》の言う「隠蔵して未だ顕現せず、践行して未だ成就せず」で、それゆえ「勿用」と言う。学者がこの地位に至れば、また必ず見たところ愚人のごとし。しかし顔回の挙止行事に、文采を成就し節度に合せざる所はない。彼自身が孔子を「文献典籍をもって我を拡充す」と言う——彼の文采がかつて足らざったかを見るべし。ただ顔回はこれを事と為さない——まさに曾子の言う「学問ありて無きがごとく、充実して虚きがごとし」である。ただ顔回のような心があれば、顔回のような文飾を為さなくとも、また不可なからず。
鼎卦
鼎。元吉亨。彖曰:鼎,象也,以木巽火,亨飪也。聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。象曰:木上有火,鼎,君子以正位凝命。正始而取新,莫先於正位而定命也。
《鼎》卦の卦辞に言う:「大吉、亨通。」《彖伝》に言う:鼎は象を取る器で、木柴を火中に送り入れ、もって食物を烹煮する。聖人は牲牢を烹煮して上帝を祭享し、また大規模に烹煮して聖賢を奉養す。下卦は巽順にして入り耳目は聡明、六五の陰柔は上行して尊位に居り、中位を得てまた九二の陽剛と相応ずるので、大いに亨通する。《大象伝》に言う:木の上に火燃ゆ——これが《鼎》で、君子はこれによって名位を端正し天命を凝定することを領悟する。開端を端正にして新物を取用するに、名位を端正し天命を安定するより優先するものはない。
初六,鼎顛趾,利出否。得妾以其子,無咎。象曰:“鼎顛趾”,未悖也。“利出否”,以從貴也。柔牽於上,必有義乃可。鼎顛趾必出否,妾從子貴,必以有子乃不悖於義也。九二,鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。象曰:“鼎有實”,慎所之也。“我仇有疾”,終無尤也。以陽居中,故有實,實而與物競,則所喪多矣,故所之不可不慎也。我仇謂三也,三為革為塞,固己路而為患者也,使其有疾而不能加我,則美實可保而吉可致也。然四亦惡三,三常懼焉,是有疾而無尤也。
《鼎》卦初六の爻辞に言う:「鼎足が翻倒し、汚穢の物を倒出するに宜しい。妾を娶りて彼女が子を生むによって、過錯なし。」《象伝》に言う、「鼎顛趾」は常理に違背しない。「利出否」は尊貴の者に順従するためである。初六は陰柔にして上に牽引され、必ず義理に合してこそ行き通る。鼎足の翻倒はもともと汚物を倒出するためで、妾が子によって尊貴を得るも、必ず真に子あるを得てこそ義理に違背しない。九二の爻辞に言う:「鼎中に実物を盛満し、我が対頭に病あり、我に靠近できず、吉。」《象伝》に言う、「鼎有実」は自己の去向を謹慎すべきを言う。「我仇有疾」は、終に怨咎なし。九二は陽爻をもって中位に居るので鼎中に実あり。実あって人と争競すれば損失が多いので、去向は謹慎せざるべからず。「我仇」は九三を指し、九三は鼎耳の変故・行路の阻塞を造成し、自己の道路を堵住して禍患と為るあの一爻である。仮にそれに病あって我に加害できなければ、鼎中の美実は保全しえ吉も招来しうる。ましてや九四もまた九三を厭悪し、九三は常に畏懼を心に懐く——これがまさにそれに病ありて九二に怨咎なき所以である。
九三,鼎耳革,其行塞,雉膏不食,方雨虧悔,終吉。象曰:“鼎耳革”,失其義也。耳革行塞,處二陽之間,上下俱實也。上下革塞,則雖有美實而不見取。若二使應五,四使應初,則其悔可虧,故曰“方雨虧悔”,能終不固塞其路則吉可召也,革塞之則失其義矣。以陽居陽,承乘皆剛,悔也,有九四之革,其行不得上通,此鼎耳之失義也。
《鼎》卦九三の爻辞に言う:「鼎耳に変故が生じ行進が阻塞され、肥美の野鶏肉は食しえず。陰陽が和合して雨を降らすを待てば、悔恨は減損し終に吉を得。」《象伝》に言う、「鼎耳革」は鼎耳の応有の義用を失うこと。鼎耳が変故し行路が阻塞するは、九三が二つの陽爻の間に処して上下ともに実体に填満されるがゆえに。上下ともに変故阻塞すれば、たとえ鼎中の美実あっても取用されない。仮に九二をして九五に応ぜしめ九四をして初六に応ぜしめれば、九三の悔恨は減損しうるので「方雨虧悔」と言う。始終自己の道路を堵死せざりえれば、吉は招来しうる。一味に変故阻塞すれば、鼎耳の義用を失う。九三は陽爻をもって陽位に居り、承ける所乗る所は皆剛爻——これが悔である。加うるに九四の造成する阻隔あれば、その行進は上に貫通できない——これがまさに鼎耳がその義用を失う所在である。
九四,鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。象曰:“覆公餗”,信如何也!六五,鼎黃耳金鉉,利貞。象曰:“鼎黃耳”,中以為實也。居中故其耳黃,體柔故其鉉金,柔故利於貞。一作利於勁正。上九,鼎玉鉉,大吉無不利。象曰:玉鉉在上,剛柔節也。以剛居上,能貞潔如玉以成鼎道,不牽陰柔以固其節,則吉無不利。鼎,象也,足陰腹陽,耳虛鉉剛,故曰“剛柔節”也。
《鼎》卦九四の爻辞に言う:「鼎足が折斷し、王公の美食を打翻し、鼎身は沾汚狼藉、兇険。」《象伝》に言う、王公の美食を打翻したは、受けたあの信任をどう交代すればよいか!六五の爻辞に言う:「鼎に黄色の鼎耳と金屬の挙鼎横杠を配す、正を守るに宜しい。」《象伝》に言う、「鼎黄耳」は中に居るをもってその充実と為す。六五は中位に居るので鼎耳は黄色を取り、体質が陰柔なので横杠は金を取り、柔順なので正を守るに宜しい。別の版本に「利于勁正」と作る。上九の爻辞に言う:「鼎に玉製の横杠を配す、大吉、利あらざる所なし。」《象伝》に言う、玉杠が最上にあるは、剛と柔が各々その節度を得たこと。上九は陽剛をもって最上に居り、玉のごとく貞正潔浄にして鼎道を成就しえ、陰柔に牽動されず自己の節操を堅守すれば、吉にして利あらざる所なし。鼎は象を取る器である:足は陰に属し腹は陽に属し、耳は中が空虚にして横杠は剛硬——だから「剛柔節」と言う。
震卦
震。亨,震來虩虩,笑言啞啞,震驚百里,不喪匕鬯。彖曰:“震亨,震來虩虩”,恐致福也;“笑言啞啞”,後有則也。“震驚百里”,驚遠而懼邇也,出可以守宗廟社稷以為祭主也。象曰:洊雷震,君子以恐懼修省。此卦純以君出子在而言,則震之體全而用顯,故曰“出可以守宗廟社稷”,不雜言君父共國之時也。
《震》卦の卦辞に言う:「亨通。雷震の来る時に人人は驚恐して四顧し、隨後は談笑自如。雷声は百里の遠を驚動し、主祭の者は匙勺と香酒すら失手しない。」《彖伝》に言う:「震亨、震来虩虩」は、恐懼がかえって福慶を招来しうるを言う。「笑言啞啞」は、事後の行為に法則あるを言う。「震驚百里」は、遠処は震驚し近処は畏懼する。長子は君父が外出する時に宗廟社稷を守護し、祭祀の主に充たることができる。《大象伝》に言う:雷声が接連して至る——これが《震》で、君子はこれによって心に恐懼を懐き身を修め省みることを領悟する。この一卦は完全に君父が外出し長子が留守する情形に就いて説を立てるので、震の卦体は完備して功用が彰顕し、はじめて「出でて宗廟社稷を守ることができる」と言う——君父と子が同一国に同時に在る時の情形を攙雑していない。
初九,震來虩虩,後笑言啞啞,吉。象曰:“震來虩虩”,恐致福也;“笑言啞啞”,後有則也。六二,震來厲,億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。象曰:“震來厲”,乘剛也。初動而之上,故曰“躋于九陵”。億,必也。六三,震蘇蘇,震行無眚。象曰:“震蘇蘇”,位不當也。蘇蘇亦索索之義,處非其地,故危困不一,能懼而改行,則無眚矣。
《震》卦初九の爻辞に言う:「雷震の来る時に驚恐四顧し、隨後に談笑自如、吉。」《象伝》に言う、「震来虩虩」は恐懼がかえって福慶を招来しうること。「笑言啞啞」は事後の行為に法則あること。六二の爻辞に言う:「雷震の来るに危険あり、必ず銭財を喪失し、九重の高陵に登る。追尋することなかれ、七天の後に自ずから復得せん。」《象伝》に言う、「震来厲」は六二が初九の陽剛の上に凌駕するがゆえに。初九は一動すれば直ちに上に趨るので「躋于九陵」と言う。「億」はここでは「必定」の意。六三の爻辞に言う:「雷震の下に神気が涣散して安んぜず、震懼に因って行動すれば災殃なし。」《象伝》に言う、「震蘇蘇」は居位の不当たるがゆえに。「蘇蘇」はすなわち「索索」のあの畏縮不安の意である。六三の処する所はそれが処るべき位置ではないので、危困が交集し、もし畏懼に因って行徑を改変しえれば災殃なし。
九四,震遂泥。象曰:“震遂泥”,未光也。處眾陰之中,為眾附比,剛陽之德而以位陰,故泥而未光也。六五,震往來厲,億無喪有事。象曰:“震往來厲”,危行也,其事在中,大無喪也。懼往亦厲,懼來亦厲,能行己以危,則富貴可保,故曰“無喪有事”,猶云不失其所有也。以其乘剛故危,以其在中故無喪,禍至與不至皆懼,則無喪有事。一有云懼陰之中。
《震》卦九四の爻辞に言う:「雷震の下に泥淖に陥入す。」《象伝》に言う、「震遂泥」はその徳がまだ光大ならざるがゆえに。九四は衆陰の中に処し、衆陰に依附親比され、本に陽剛の徳あるも陰位に居るので、陷溺して光大ならず。六五の爻辞に言う:「雷震の下に往来ともに危険あるも、必ず損失なからず、なお祭祀の事を主持しうる。」《象伝》に言う、「震往来厲」は行事が艱危なるを言う。それが主る事は中道を守るので、大体において損失なし。往くも懼れ来るも懼れ、危懼の心をもって自処して事を行えば、富貴は保ちえて、「无喪有事」——すなわち自己の原有するものを失わないと言う。六五は九四の陽剛の上に凌駕するがゆえに危く、中位に居るがゆえに喪失する所なし。禍患の来るも来らざるも常に戒懼を存せば、所有を失わず照常に任事しうる。別の版本に「懼陰之中」の一句あり。
上六,震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎。婚媾有言。象曰:“震索索”,中未得也。雖凶無咎,畏鄰戒也。危以動,懼以語,無交而求,則民弗與也,故以征則凶,能以鄰為懼,則可免咎。鄰謂五也,五既附四,己或與焉,則招悔而有言矣,能以鄰為戒,不待及身而戒則無咎。
《震》卦上六の爻辞に言う:「雷震の下に畏縮して前せず、両眼は驚惶して四顧し、往けば凶。雷震が自身に落ちずただ隣居の身に落ちれば、過錯なし。この時婚姻の親家に閑話あらん。」《象伝》に言う、「震索索」はまだ中道を取得せざるがゆえに。兇険あるも過錯なきありうるは、隣人を見て戒懼を知るがゆえに。危険の中に妄動し、恐懼の中に乱言し、交情なきに求めに行けば、百姓は親附しないので、貿然として往けば凶。隣人の遭遇をもって警懼と為せば、過錯を免れうる。「隣」は六五を指す。六五がすでに九四に依附した以上、上六もまたこれに牽連し入れば、悔恨を招いて閑話あり。隣人をもって前車の鑑と為し、禍患の身に臨むを待たず先に戒懼すれば、過錯なし。
艮卦
艮其背,不獲其身,行其庭,不見其人,無咎。雖處喧閧,亦無害於為學。有人於此,或日月而至焉,亦有終日而不至者,及其久也,去者常少。若居於家,聞嬰孩之啼則有不忍之心,聞奴婢喧戾則猶有不容之意,至於市井紛囂一不與我事,何傷於存誠養志!
《艮》卦の卦辞に言う:「背部に止息し、自己のこの身を覚察せず。その庭院を行き過ぐるも、中の人を見ず、過錯なし。」人はたとえ喧閙嘈雑の中に身を処しても、学問を為すに妨害なし。譬えばこのような人々あり、或るものは一月に一至・一日に一至して功を用い、或るものは終日到らざる境界あり。日子久しければ、中途に退く人は結局少数である。もし家中に居住して、嬰孩の啼哭を聴けば不忍の心を動かし、奴婢の吵閙忤逆を聴けばなお容れえぬ意あり。街市上の紛擾喧囂に至っては、全く我と相干らず——それは誠意を存養し心志を涵養するに何の損傷があろう!
易曰:“艮其背,不獲其身,行其庭,不見其人,無咎。”夫入他人之庭,不見其人可止也,艮其背至近於人也,然且不見,以其上下無應也。“時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明”,學者必時其動靜,則其道乃不蔽昧而明白。今人從學之久,不見進長,正以莫識動靜,見他人擾擾,非關己事而所修亦廢。由聖學觀之,冥冥悠悠,以是終身,謂之光明可乎?
《易》の裏に言う:「背部に止息し、自己のこの身を覚察せず。その庭院を行き過ぐるも、中の人を見ず、過錯なし。」他人の庭院に走り入って人を見ないは、なお相接しないと言いうる。「艮其背」は極めて人身に贴近した処であるが、尚且つ見えない——それは一卦の上下の各爻が両両敵対して感応なきがゆえに。《彖伝》の「止まるべき時に止まり行うべき時に行い、動静ともに時機を錯過せず、その道光明」——学者は必ず自己の動と静とを時に合せしめてこそ、その道は蔽塞昏昧に至らず明白顕豁なりうる。今の人は学に従うこと久しいのに長進を見ないのは、まさに動静の節を識らざるがゆえに。他人の紛紛擾擾を見て、もともと自己の事に関らないのに、自己の修する功夫も随いて荒廃する。聖人の学より見れば、このように昏昏沉沉・悠悠忽忽として一生を過ごす——なお光明と呼びうるか?
彖曰:艮,止也,時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。艮其止,止其所也,上下敵應,不相與也,是以不獲其身,行其庭,不見其人,無咎也。[動靜不失其時,是時措之宜也,集義也,集義久則自有光明。靜則無見,必動乃見。其道光明,以其本之光明,故其發也光明。]易言“光明”者,多艮之象,著則明之義也。
《彖伝》に言う:艮はすなわち止で、止まるべき時に止まり行うべき時に行い、動静ともに時機を錯過せず、その道光明。「艮其止」はそれが止まるべき処に止まること。一卦の上下の各爻は両両敵対して彼此親与せず、だから「自己のこの身を覚察せず、その庭院を行き過ぐるも人を見ず、過錯なし」。動静ともに時機を錯過せざるは、すなわち《中庸》の言う随時措置得宜で、また孟子の言う「集義」である。集義は積久すれば自然に光明を生ず。一味に静止すれば顕発する所なく、必ず動いてこそ顕発し出る。いわゆるその道光明とは、本原がもとより光明なるがゆえに、発用し出るもまた光明である。《易》の裏に「光明」を講ずる所は多く《艮》卦の象を取る——あれは「顕著してこそ明亮しうる」の意である。
象曰:兼山艮,君子以思不出其位。位,所安之分也。如“素夷狄行乎夷狄,素患難行乎患難”。初六,艮其趾,無咎,利永貞。象曰:“艮其趾”,未失正也。六二,艮其腓,不拯其隨,其心不快。象曰:“不拯其隨”,未退聽也。腓,體之隨也,不能禁其趾而徒止其腓,腓所未聽,故心不能快。
《大象伝》に言う:両山が重畳す——これが《艮》で、君子はこれによって思慮が自己の分位を越出しないことを領悟する。いわゆる「位」とは、自己の安処する本分で、まさに《中庸》の言う「身が夷狄にあれば夷狄の処境に按って為し、身が患難にあれば患難の処境に按って為す」である。初六の爻辞に言う:「脚趾を止住す、過錯なし、久しく正を守るに宜しい。」《象伝》に言う、「艮其趾」はまだ正道を失わざること。六二の爻辞に言う:「小腿肚を止住す、それが随従する部位を救いえず、心中は痛快ならず。」《象伝》に言う、「不拯其随」は下の脚趾が退譲して聴命せざるがゆえに。腓は身体に随いて動く部位である。先に脚趾を禁住できず、ただ徒らに小腿肚を止住するのみでは、脚趾は聴命せず、だから心中に痛快ありえない。
九三,艮其限,列其夤,厲薰心。象曰:“艮其限”,危薰心也。一身而動止中列,危至薰心。六四,艮其身,無咎。象曰:“艮其身”,止諸躬也。止於心,故能艮其身,咸之九四“朋從爾思”義近之。六五,艮其輔,言有序,悔亡。象曰:“艮其輔”,以中正也。不能施止於心而能止其言,故悔可亡也。上九,敦,艮吉。象曰:敦艮之吉,以厚終也。
《艮》卦九三の爻辞に言う:「腰間に止まり、脊背の肌肉を撕裂す、危険は烈火が心を熏るがごとし。」《象伝》に言う、「艮其限」は危険がその心を熏灼する。一つの身が中間にあって動と止に割裂され、危険は心を熏る歩に至る。六四の爻辞に言う:「自身を止住す、過錯なし。」《象伝》に言う、「艮其身」は止の功夫を自身の上に落とすこと。心上に止まりえれば、この身を止住しうる。《咸》卦九四の言う「朋友があなたの心思に随いて来る」は、義理がこれと相近しい。六五の爻辞に言う:「口舌を止住し、言説に条理あれば、悔恨は消失す。」《象伝》に言う、「艮其輔」は中に居り正を得るがゆえに。六五は止の功夫を心上に施しえないが、自己の言語を止住しうるので、悔恨は消失しうる。上九の爻辞に言う:「敦厚に止まる、吉。」《象伝》に言う、敦艮が吉なる所以は、敦厚をもってその止を終成しうるがゆえに。
漸卦
漸。女歸吉,利貞。彖曰:漸之進也,女歸吉也。進得位,往有功也;進以正,可以正邦也。其位,剛得中也;止而巽,動不窮也。漸者,天地之施交。“女歸吉”,“進得位”,皆指六四。施一作始。象曰:山上有木,漸,君子以居賢德善俗。居可久之德,難從無征之德,君子不以責人。君子以賢德自居,不強率人,待其心回,故善俗自然。一作不可推行無徵難從之德。
《漸》卦の卦辞に言う:「女子が出嫁して吉を得、正を守るに宜しい。」《彖伝》に言う:漸は循序にして進むので、女子の出嫁は吉を得る。前進して各々その位を得れば、往いて功あり。前進して正道に依循すれば、邦国を端正にしうる。いわゆるその位とは、九五の陽剛が中を得るを指す。下は艮止にして上は巽順なので、行動は窮困に至らない。漸とは、天地の気が交相に施予すること。「女帰吉」と「進得位」は、皆六四のこの一爻を指す。「施」の字は別の版本に「始」と作る。《大象伝》に言う:山上に樹木が生ず——これが《漸》で、君子はこれによって賢徳に安居して風俗を美化することを領悟する。君子は久しくありうる徳性に安処する。あの聴従しがたくまた実証の験すべきない高論は、君子は取って他人を責求しない。君子は賢徳をもって自処し、強いて他人を駆率せず、彼らの自ら回心転意するを待つので、風俗は自然に淳美に趨く。別の版本に「不可推行无徴難従之徳」と作る。
初六,鴻漸于干,小子厲,有言無咎。象曰:小子之厲,義無咎也。鴻為水鳥,漸進之始,出至於乾。鴻鵠之志非小子所量,見其出陸,爭欲危之,且疑其所處,非君子信己而行,義無咎也。六二,鴻漸于磐,飲食衎衎,吉。象曰:“飲食衎衎”,不素飽也。衎衎,和樂貌。飲食和樂,不徒飽而已,言獲志之多也。
《漸》卦初六の爻辞に言う:「鴻雁が漸く水辺の高地に飛至す。年少の人は危険あり、責難を招くも、過錯なし。」《象伝》に言う、年少者の危険は、義理に就いて言えば過錯なし。鴻は水鳥で、循序漸進の開頭は、水中より出て岸上の高地に至る。鴻鵠の遠志は小輩の揣度しうる所ではない。それが水を離れ陸に登るを見れば、争いてそれを危害せんとし、またその処する位置を猜疑する。これは君子が自信して行うに不当あるではなく、義理に就いて言えば過錯なし。六二の爻辞に言う:「鴻雁が漸く大磐石の上に飛至し、飲食は和楽融融、吉。」《象伝》に言う、「飲食衎衎」は徒らに飽食するにあらざるを言う。「衎衎」は和楽の様子。飲食して心情が和楽なるは、ただ肚子を填めるのみにあらず——これはその心願の実現する多きを言う。
九三,鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶,利禦寇。象曰:“夫征不復”,離群醜也;“婦孕不育”,失其道也;“利用禦寇”,順相保也。漸卦九三、六四易位而居,三離上卦,四離下體,故曰“夫征不復,婦孕不育”,然相與之固,物莫能間,故利用禦寇也。“征不復”者,變為艮且得位也,如六四之得桷;三四非正合,故曰“失其道”也。
《漸》卦九三の爻辞に言う:「鴻雁が漸く高平の地に飛至す。丈夫は出征して一往に復らず、婦人は懐孕するも子を養いえず、兇険。盗寇を抵御するに宜しい。」《象伝》に言う、「夫征不復」は自己の同類を脱離したこと。「婦孕不育」は正道を失掉したこと。「利用御寇」は彼此順応して相保全すること。《漸》卦の九三と六四は位置を互換して居る:九三はもともとそれに属すべき上卦を離れ、六四はもともとそれに属すべき下体を離れたので、「丈夫出征不回、婦人懐孕不育」と言う。しかし両爻は親しく相与して甚だ牢固で、外物の離間するに由なし、だから盗寇を抵御するに宜しい。いわゆる「征不復」は、九三が下りて艮体と為りまたその位を得るがゆえに——ちょうど六四が棲身する方桷を得られるがごとし。三と四はもともと正当の配合にあらず、だから「失其道」と言う。
六四,鴻漸于木,或得其桷,無咎。象曰:“或得其桷”,順以巽也。木非鴻所居,如四之易位而在上也,然本坤之爻,進而為巽,故或得其桷,居之可安也。順巽則眾所與也,故得所安。九五,鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。象曰:“終莫之勝吉”,得所願也。上九,鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。象曰:“其羽可用為儀吉”,不可亂也。無應於下,羽潔無汙,且處於高,故曰漸陸。
《漸》卦六四の爻辞に言う:「鴻雁が漸く樹木の上に飛至し、或いは一根の平直の枝椏を得ることを得、過錯なし。」《象伝》に言う、「或得其桷」は柔順にして謙遜なるがゆえに。樹木はもともと鴻雁の棲息する所ではない——ちょうど六四が位を換えて上卦に居るがごとし。ただそれはもともと坤体の爻で、上進して巽と為ったので、或いは平直の枝椏を得て、その上に棲息してなお安穏と算えられる。柔順謙遜なれば衆人の親与する所と為るので、安身の処を得られる。九五の爻辞に言う:「鴻雁が漸く高陵の上に飛至す。婦人は三年懐孕できず、しかし終に彼らに勝る者なし、吉。」《象伝》に言う、「終莫之勝吉」は心願が実現を得たを言う。上九の爻辞に言う:「鴻雁が漸く高遠の処に飛向し、その羽毛は礼儀の装飾に用いうる、吉。」《象伝》に言う、羽毛が儀飾に用いられて吉なるは、その行列が紊乱すべからざるがゆえに。上九は下に相応する爻なく、羽毛は潔浄にして汚なく、また高処に処するので「漸陸」と言う。
帰妹卦
歸妹。征凶,無攸利。彖曰:歸妹,天地之大義也,天地不交而萬物不興,歸妹,人之終始也,說以動,所歸妹也。“征凶”,位不當也;“無攸利”,柔乘剛也。泰之九三進而在四,六四降而在三,故曰“天地之大義”也。然泰道將終,徵將為否,故曰“凶”。三五皆乘剛,必退反乃吉。
《帰妹》卦の卦辞に言う:「往けば凶、利益する所なし。」《彖伝》に言う:少女の出嫁は天地間の大義である。天地の気が交らなければ、万物は興起できない。少女の出嫁は、人倫の終結と開始に関わる。喜悦に因って行動し、嫁する所はまさに少女である。「征凶」は居位の不当たるがゆえに。「无攸利」は陰柔が陽剛の上に凌駕するがゆえに。この一卦は《泰》卦より変じて来た。《泰》の九三は上進して第四位に居り、六四は下降して第三位に居るので、「天地之大義」と言う。しかし《泰》の道はまさに終了せんとして、更に前に走れば《否》に変ずるので「凶」と言う。六三・六五は皆陽剛の上に凌駕するので、必ず退き帰ってこそ吉。
歸妹與革,均是澤為大卦,義不相干,故革具四德而歸妹初不言德也。妹者是少女之稱也,對長男而言之,故言少女。先儒謂侄娣之義於卦不見,於爻辭則有君與娣之稱。長男而與長女,是人之常也;少女而與少男,是人之感也。說以動須是歸妹,聖人直是盡人情。象曰:澤上有雷,歸妹,君子以永終知敝。永常禮之終,知人情之敝。
《帰妹》と《革》の二卦は皆兌沢を主卦とするが、義理は互いに相干らず、だから《革》卦は元亨利貞の四徳を具備し、《帰妹》は一開頭に徳を講じない。「妹」は少女の称呼で、長男に対して言うので少女と言う。前代の儒者の言う侄娣陪嫁の義は、卦体の上に見えないが、爻辞の裏には「君」と「娣」の称谓がある。長男に長女が配されるは人倫の常道で、少女に少男が配されるは人情の感通である。喜悦に因って行動すれば必ず「帰妹」と為る——聖人はここに真に人情を説き尽くした。《大象伝》に言う:沢上に雷が響く——これが《帰妹》で、君子はこれによって終身の礼を恒久ならしめ人情の弊病を洞察することを領悟する。「永終」は常礼に恒久の帰結あらしむること、「知敝」は人情が敗壊し易い処を看透すこと。
初九,歸妹以娣,跛能履,征吉。象曰:“歸妹以娣”,以恆也;“跛能履吉”,相承也。陽處於上,不可不隨,故征吉,以兌應震,合卦之義,常道也。爻為陽故能履,非匹故跛。九二,眇能視,利幽人之貞。象曰:“利幽人之貞”,未變常也。震動乎上,雖匹而不至,所以眇,陽中,故能視。不援上,幽人之貞也。
《帰妹》卦初九の爻辞に言う:「女を嫁せて偏房をもって陪嫁し、跛脚の人がなお行走しうるがごとく、往けば吉を得。」《象伝》に言う、「帰妹以娣」は常道を守ること。「跛能履吉」は正室に承事しうること。上に陽爻あれば、随従せざるべからず、だから往けば吉を得る。下卦の兌をもって上卦の震に応ずるは、まさにこの卦の義理に合する——これが常道である。この一爻は自身が陽なのでなお行走しうる。正当の配偶ではないので「跛」と言う。九二の爻辞に言う:「眼睛が偏盲するもなお看見しうる、幽静に自守する人の貞正に宜しい。」《象伝》に言う、「利幽人之貞」は常道を改変しなかったこと。震は上にあって動き、配偶ではあるが下りて来るを肯じないので「眇」と言う。九二は陽爻でまた中位に居るので、なお看見しうる。上に攀援せざるは、まさに幽居自守の者の貞正である。
六三,歸妹以須,反歸以娣。象曰:“歸妹以須”,未當也。三陰本彙征在上,今六三反下而為兌,故曰“歸妹以須,反歸以娣”。女當待年於家,今待年夫家而反歸,故曰“未當”。九四,歸妹愆期,遲歸有時。象曰:愆期之志,有待而行也。九四當速交而為泰,今獨後者,三有所待也,故曰“愆期”。
《帰妹》卦六三の爻辞に言う:「女を嫁するに等待を要し、返回して後に再び偏房の身份をもって出嫁す。」《象伝》に言う、「帰妹以須」は処する所の当たらざること。三つの陰爻はもともと一同に上行したのに、今六三はかえって下りて兌体と為ったので、「女を嫁するに等待を要し、返回して後に偏房の身份をもって出嫁す」と言う。女子はもともと娘家で適婚の年を待つべきなのに、今は夫家で年歳を等待してまた返回したので「未当」と言う。九四の爻辞に言う:「女を嫁するに婚期を誤り、遅く出嫁するに自ずから時機あり。」《象伝》に言う、期を誤る心志は、時機を待って後に行動せんとすること。九四はもともと迅速に初九と交応して《泰》卦を成すべきだったが、今は偏偏として後に落ちた——六三がなお等待する所有るがゆえに。だから「愆期」と言う。
六五,帝乙歸妹,其君之袂不如其娣之袂良,月幾望,吉。象曰:“帝乙歸妹”,不如其娣之袂良也;其位在中,以貴行也。歸妹,交泰之事備矣,與泰六五同,又於此見□□為之戒也。以其貴行,故戒其滿以幾望。一作又於此見新故之戒也。上六,女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。象曰:上六無實,承虛筐也。上六與六三皆陰,故士女無實。
《帰妹》卦六五の爻辞に言う:「帝乙が少女を嫁がせるに、正室の衣袖はかえって陪嫁の偏房の衣袖に華美ならず。月がまさに満ちんとして未だ満ちず、吉。」《象伝》に言う、帝乙が妹を嫁がせるに、正室の衣袖は偏房に華美ならず。彼女は位に居りて中を守り、尊貴の身をもって下嫁するを以てす。《帰妹》に至って天地交泰の事はすでに完備し、《泰》卦六五の「帝乙帰妹」と同義である。またここに於いて□□の告誡を見ることができる。彼女が尊貴の身をもって出嫁するがゆえに、「月幾望」をもって盈満に過ぎるなかれと彼女を告誡する。別の版本に「又于此見新故之戒也」と作る。上六の爻辞に言う:「女子の捧ぐる竹筐に物なく、男子は羊を宰すれど血を見ず、利益する所なし。」《象伝》に言う、上六は空虚にして実なく、捧ぐるは一隻の空筐である。上六と六三は皆陰爻なので、男女の双方ともに空虚無実に落ちる。
豊卦
豐。亨,王假之,勿憂,宜日中。宜日中,不宜過中也。彖曰:豐,大也,明以動,故豐。“王假之”,尚大也;“勿憂宜日中”,宜照天下也。日中則昃,月盈則食,天地盈虛,與時消息,而況於人乎!況於鬼神乎!月盈則食,中弦盈之極也,此人鬼所以惡盈禍盈也。象曰:雷電皆至,豐,君子以折獄致刑。盛明如天,大之至也,動於上而明於下,故折獄致刑,民不惑矣。
《豊》卦の卦辞に言う:「亨通し、君王が自らその事に臨み、憂慮するを要せず、太陽がまさに中天にあるがごときを宜しとす。」いわゆる日中にあるを宜しとするとは、中天を超過すべからざるを言う。《彖伝》に言う:豊はすなわち盛大で、下の離は明にして上の震は動、だから豊大である。「王假之」は盛大を崇尚すること。「勿憂宜日中」は当に普く天下を照らすべきを言う。太陽は正中に至れば偏斜し、月は円満すれば虧蝕し、天地すら時序に随って盈虚・消長がある。ましてや人においてをや!ましてや鬼神においてをや!月は満てば虧けるのは、弦望を過ぎて盈が極に至るがゆえに——これがまさに人と鬼神が皆盈満を厭悪し盈満に禍を降す所以である。《大象伝》に言う:雷と電が一斉に到来す——これが《豊》で、君子はこれによって訟案を判決し刑罰を施行することを領悟する。光明盛大は上天のごとく、大なるの極処である。震動が上にあり明照が下にあるので、案を判じ刑を用いれば、百姓は迷惑しない。
初九,遇其配主,雖旬無咎,往有尚。象曰:“雖旬無咎”,過旬災也。所之在進,光大其宜也,故往而有尚。非均是陽爻,則蔀暗之災,與六二疑疾無以異也。六二,豐其蔀,日中見斗,往得疑疾,有孚發若,吉。象曰:“有孚發若”,信以發志也。凡言往者,皆進而之上也。初進而上則(進)[遇]陽而有尚。二既以陰居陰而又所應亦陰,故往無所發,愈增疑疾,能不私於累,信然接物乃吉。宜日中而所應得陰,故曰“見斗”,五在君位,故以斗喻夜見之象。
《豊》卦初九の爻辞に言う:「自己と相配する主人に遇う。彼此均等とはいえ過錯なく、往けば嘉尚を受ける。」《象伝》に言う、「雖旬无咎」——もし均等を超過すれば災禍あり。初九の往く所は上進にあり、その道を光大するはまさに宜しき所なので、前往すれば嘉尚を受ける。もし同じく陽爻でなければ、遮蔽され昏暗となる災禍があり、六二のあの疑を見て病を成す処境と分別なし。六二の爻辞に言う:「遮蔽する物が盛大にして、日が中天にあるに北斗を見る。往けば猜疑の病を招来す。もし誠信あって相手を感発しえれば吉。」《象伝》に言う、「有孚発若」は誠信をもって相手の心志を感発すること。およそ「往」と言うは、皆上進して上に趨るを指す。初九は上進して陽爻に遇い嘉尚を受ける。六二はすでに陰爻をもって陰位に居り、応ずる六五もまた陰爻なので、往いても感発すべきものがなく、かえって更に猜疑の病を増す。ただ私意の牽累を心上に置かず、誠信をもって外物を接待してこそ吉。もともと太陽が空に当たるがごときべきなのに、応ずる所は陰爻なので「見斗」と言う。六五は君位にあるので、北斗をもって夜にのみ見える景象を譬喩する。
九三,豐其沛,日中見沫,折其右肱,無咎。象曰:“豐其沛”,不可大事也。“折其右肱”,終不可用也。所應在陰,故曰“豐沛”。能折其右肱,絕去上六而不累其明,則可免咎也。光大之上,陰柔之終,不可用也。九四,豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。象曰:“豐其蔀”,位不當也;“日中見斗”,幽不明也;“遇其夷主”,吉行也。無應於下,近比於五,故亦云“見斗”;正應亦陽,故云“夷主”。
《豊》卦九三の爻辞に言う:「幔帳が盛大にして、日が中天にあるに微小の星辰を見、右の臂を折斷す、過錯なし。」《象伝》に言う、「豊其沛」は大事を為すべからざること。「折其右肱」は終に任用すべからざること。九三の応ずる上六は陰爻なので「豊沛」と言う。それは自己の右臂を折斷し、上六との牽連を断絶して自己の光明を累わしめなければ、過錯を免れうる。光明盛大の時に上位に居るも、陰柔の終点であって任用すべからず。九四の爻辞に言う:「遮蔽する物が盛大にして、日が中天にあるに北斗を見る。自己と同等の主人に遇う、吉。」《象伝》に言う、「豊其蔀」は居位の不当たること。「日中見斗」は幽暗不明のこと。「遇其夷主」はこのように行動してこそ吉。九四は下に相応する爻なく、ただ六五と相近して相比するのみなので、また「見斗」と言う。その正応の初九も同じく陽爻なので「夷主」と言う。
六五,來章,有慶譽,吉。象曰:六五之吉,有慶也。來章,反比陽則明也;有慶,得配於四也。上六,豐其屋,蔀其家,窺其戶,闃其無人,三歲不覿,凶。象曰:“豐其屋”,天際翔也;“窺其戶,闃其無人”,自藏也。豐屋蔀家,自蔽之甚,猶大明之世而夷墨其行,窮大而失居者也。處上之極,不交於下而居動之末,故曰“天際翔”也。
《豊》卦六五の爻辞に言う:「文采ある賢才を招来し、福慶と美誉あり、吉。」《象伝》に言う、六五が吉なる所以は、福慶あるがゆえに。「来章」は転じて陽爻に親比すれば光明を得ること。「有慶」は九四を得て配合と為すこと。上六の爻辞に言う:「房屋は高大にして家宅は遮蔽され、その門戸を窺看すれば寂静として人影なく、三年人に遇わず、兇険。」《象伝》に言う、「豊其屋」は天辺に翱翔するがごときこと。「窺其戸、闃其无人」は自己が自己を蔵したこと。屋宇が高大にして家宅が昏蔽するは、自我遮蔽の極に至ったこと——譬えば大明の世に生まれながら自己の行跡を晦暗汚濁に為すがごとき、これは一味に大を求めて安身の所を失う人である。上六は最上の極位に処し、下と交接せず、また震動の卦の末尾に居るので「天際翔」と言う。
旅卦
旅。小亨,旅貞吉。彖曰:“旅小亨”,柔得中乎外而順乎剛,止而麗乎明,是以小亨旅貞吉也,旅之時義大矣哉!象曰:山上有火,旅,君子以明慎用刑而不留獄。初六,旅瑣瑣,斯其所取災。象曰:“旅瑣瑣”,志窮災也。瑣瑣,不能致命遂志,身窮而志卑也,冗細其所為,取災之道也。
《旅》卦の卦辞に言う:「稍々亨通し、行旅の人は正を守って吉を得。」《彖伝》に言う:「旅小亨」は、六五の陰柔が外卦にあって中を得て陽剛に順従し、下は艮止にして上は離明に附麗するので、稍々亨通し行旅が正を守って吉を得る。《旅》の処する時勢の意義は真に重大である!《大象伝》に言う:山上に火燃ゆ——これが《旅》で、君子はこれによって刑を用いるに明察謹慎し、案件を積圧せざることを領悟する。初六の爻辞に言う:「行旅の人が猥琐卑屑なるは、まさにそれが自ら災禍を取る所以である。」《象伝》に言う、「旅瑣瑣」は心志が窮蹙して災を招くこと。いわゆる瑣瑣とは、命を捨てて志向を成全できず、困境に身を処して志气が卑下すること。作為する所が瑣屑冗雑——まさに災禍を招取する路数である。
六二,旅即次,懷其資,得童僕,貞。象曰:“得童僕貞”,終無尤也。居得位,即次之義,得三之助,故曰“懷其資”,下有一陰,無所繫累,故曰“得童僕貞”。九三,旅焚其次,喪其童僕,貞厲。象曰:“旅焚其次”,亦以傷矣,以旅與下,其義喪也。以陽居陽,其志亢也,旅而驕亢,焚次宜也。下比二陰,喪其御下之正,危厲之道。
《旅》卦六二の爻辞に言う:「行旅の人が旅舍に住み込み、盤纏を懐き、忠実の童僕を得て、正を守る。」《象伝》に言う、「得童僕貞」は終に怨咎なし。六二は居位が正を得て、まさに旅舍に住み込む意に合する。また九三の帮助を得るので「懐其資」と言う。下に初六の一つの陰爻あり、牽累するものがないので「得童僕貞」と言う。九三の爻辞に言う:「行旅の人が自己の旅舍を焼き、童僕を失掉す。正を守るも危険あり。」《象伝》に言う、行旅して旅舍を焼き棄てれば、すでに傷に足る。旅客の身份をもって下人に対するは、義理に按れば必ず彼らを失掉する。九三は陽爻をもって陽位に居り、心志が高亢に過ぎる。行旅在外にしてなお驕横高亢なれば、旅舍の焚かるもまた当然である。それは下りて二つの陰爻に親比し、下人を駕馭する正道を失掉した——これが危厲の路数である。
九四,旅于處,得其資斧,我心不快。象曰:“旅于處”,未得位也。“得其資斧”,心未快也。以陽居陰,旅于處也。所應在初,初為瑣瑣,志窮卑下,不能大助於己,但得其資斧之用而已,志未有得,故其心不快。六五,射雉一矢亡,終以譽命。象曰:“終以譽命”,上逮也。四處陰應下,堅介難致,雉之象也,以力致之,徒喪其矢。喪矢,喪其直也,文明居中,必不失其直,當終得譽美。
《旅》卦九四の爻辞に言う:「行旅の人が且く安身の処を得、盤纏と利斧を獲たるも、我が心は痛快ならず。」《象伝》に言う、「旅于処」はまだ応有の位置を得ざること。「得其資斧」するも心はなお痛快ならず。九四は陽爻をもって陰位に居り、まさに旅途中に権且に安身する様子である。それが応ずるは初六で、初六は猥琐卑屑、心志が窮蹙にして地位が卑下し、それに多大の帮助を与えられず、ただ盤纏利斧の実用を得るのみである。心志が真に実現していないので心中に痛快ならず。六五の爻辞に言う:「野鶏を射るに、一支の箭を損失すれど、最終的には美誉と爵命を獲得す。」《象伝》に言う、「終以誉命」は恩沢が上達するがゆえに。九四は陰位に居って下りて初六に応じ、堅硬耿介にして招致しがたく、まさに野鶏の象である。強力をもってそれを取れば、徒らに一支の箭を失う。箭を失うは、すなわち自己の正直を失うこと。六五は文明にして中位に居り、必ず正直を失わず、終に美誉を獲得すべし。
上九,鳥焚其巢,旅人先笑後號啕,喪牛于易,凶。象曰:以旅在上,其義焚也;“喪牛于易”,終莫之聞也。以陽極上,旅而驕肆者也,失柔順之正,故曰“喪牛于易”。易,肆也,肆怒而忤物,雖有凶危,其誰告之,故曰“終莫之聞”也。
《旅》卦上九の爻辞に言う:「鳥の巣が火に焼かれ、行旅の人は先ず歓笑して後に号啕す。軽慢疏忽の中に牛を遺失し、兇険。」《象伝》に言う、旅客の身をもって高位に居るは、義理に按れば焚かるべし。「喪牛于易」は、終にそれに告げる人なし。上九は陽爻をもって最上に処し、旅途中の驕横放肆の人で、柔順守正の徳を失掉したので「喪牛于易」と言う。「易」はすなわち放肆である。怒気を放縦して衆人に触忤すれば、たとえ兇険危難あっても、誰か肯んじて彼に告げんや、だから「終莫之聞」と言う。
巽卦
巽。小亨,利有攸往,利見大人。彖曰:重巽以申命,剛巽乎中正而志行,柔皆順乎剛,是以小亨,利有攸往,利見大人。象曰:隨風巽,君子以申命行事。初六,進退利武人之貞。象曰:“進退”,志疑也;“利武人之貞”,志治也。體柔居下,在巽之始,謙抑過中,故施於武人之貞則適得其宜。進退者,柔不自決之象也。
《巽》卦の卦辞に言う:「稍々亨通し、往く所有るに宜しく、大徳の人に見るに宜しい。」《彖伝》に言う:上下ともに巽なのは、まさに反覆して政令を申明する義を取る。陽剛が中正の道に謙順して心志が行を得、衆陰柔が皆陽剛に順従するので、稍々亨通し往く所有るに宜しく大徳の人に見るに宜しい。《大象伝》に言う:風に風が随いて相継いで来る——これが《巽》で、君子はこれによって命令を反覆申明し政事を推行することを領悟する。初六の爻辞に言う:「進退して猶疑す、武人のごとき貞正に宜しい。」《象伝》に言う、「進退」は心志が疑惑すること。「利武人之貞」は心志を整治せんとすること。初六は体質が陰柔にして最下に居り、巽順の開端に処し、謙卑退抑して中道に過ぎたので、武人のごとき剛断の貞正を施用してこそちょうど宜しい。いわゆる進退猶疑とは、まさに陰柔が自ら決断できない象である。
九二,巽在床下,用史巫紛若,吉無咎。象曰:紛若之吉,得中也。以陽居陰,其志下比,無應於上,故曰“巽在床下”。然不失中道,下為之用,故史巫紛若樂為之使,吉而無咎,非如上九喪其資斧。史巫,喻虛華過實者,言不失中道,則樂盡其誠者眾矣。九三,頻巽,吝。象曰:頻巽之吝,志窮也。三處陽剛,失巽之道,乘剛而動,頻吝所宜,志在比物,故吝,如復之六三志窮也。
《巽》卦九二の爻辞に言う:「牀下まで謙卑し、祝史巫覡を任用して紛紛として奔走せしむ、吉、過錯なし。」《象伝》に言う、紛紛として奔走して吉を得るは、九二が中に居るがゆえに。九二は陽爻をもって陰位に居り、心志が下りて親比し、上にまた相応する爻なし、だから「巽在牀下」と言う。しかしそれは中道を失わず、下の人はそれに用いられるを楽しむので、祝史巫覡が紛紛として楽んでその差遣を供し、吉を得て過錯なし——上九のように盤纏利斧を丢棄したに似ず。「史巫」はあの虚浮にして実質を超過する人を譬喩する。これはただ中道を失わなければ、あなたのために誠心を竭くすを願う人が自ずから众多であることを言う。九三の爻辞に言う:「再び謙卑して屡屡失当す、憾惜あり。」《象伝》に言う、頻巽が憾惜なる所以は、心志が窮蹙するがゆえに。九三は陽剛の位に処して巽順の道を失掉し、陽剛を凌駕して妄動し、屡屡憾惜を招致するもまた当然である。それは一心にただ他人に親附せんと想うのみなので憾惜——ちょうど《復》卦六三のように心志が窮蹙するがごとし。
六四,悔亡,田獲三品。象曰:“田獲三品”,有功也。柔順之德,以陰居位,雖或乘剛,悔終可亡。近比於五,不為諂妄,而又二三併為所獲,不私其累而樂為己用,田獲之類也。使三陽見獲,四之功也。九五,貞吉悔亡,無不利,無初有終。先庚三日,後庚三日,吉。象曰:九五之吉,位正中也。解見蠱卦。志不以正,則將有悔。“先庚三日”,讓始也;“後庚三日”,存終也;雖體陽居尊,無應於下,故不可為事之唱乃吉。不著於繇辭者,巽非憂患之時故也。
《巽》卦六四の爻辞に言う:「悔恨は消失し、田猟して三類の獲物を獲たり。」《象伝》に言う、「田獲三品」は功労あること。六四は柔順の徳を具え、陰爻をもって陰位に居り、時に陽剛の上に凌駕するあるも、悔恨は終に消失しうる。それは九五に近比して諂媚妄従せず、また九二・九三をして一併にその獲る所と為さしめ、私意の牽累を心上に置かないので、衆人はかえって楽んでそれに用いられる——これは田猟して獲る所有るがごとし。三つの陽爻をして皆收服せしむるは、まさに六四の功労である。九五の爻辞に言う:「正を守って吉を得、悔恨は消失し、利あらざる所なし。初めは順ならざるも終には成を成しうる。庚日の前の三日・庚日の後の三日に事を行えば吉。」《象伝》に言う、九五が吉なる所以は、居位が正にして中を得るがゆえに。この数句の解釈は《蠱》卦に見える。心志がもし正道に依らなければ、悔恨あらんとす。「先庚三日」は開端を他人に譲ること。「後庚三日」はその終結を保全すること。九五は陽体にして尊位に居るが、下に相応する爻がないので、事の倡導者に充当すべからず——このようであってこそ吉。この層の意思が爻辞に写し入れられなかったのは、《巽》は憂患の時ではないがゆえに。
上九,巽在床下,喪其資斧,貞凶。象曰:“巽在床下”,上窮也;“喪其資斧”,正乎凶也。柔巽過極,難為之下,物不為用,故曰“喪其資斧凶”。資斧尚喪,餘用殫矣。
《巽》卦上九の爻辞に言う:「牀下まで謙卑し、盤纏と利斧を丢棄す。正を守るも凶。」《象伝》に言う、「巽在牀下」は上に居って窮極したこと。「喪其資斧」は、このようであれば凶。柔順謙卑が頭を過ぎれば、他人は彼の下に居りがたく、衆人もまた彼に用いられるを肯じないので、「喪其資斧凶」と言う。盤纏利斧すら丢きれば、残りの用度も自然に耗盡する。
兌卦
兌。亨,利貞。彖曰:兌,說也,剛中而柔外,說以利貞,是以順乎天而應乎人。說以先民,民忘其勞;說以犯難,民忘其死。說之大,民勸矣哉!象曰:麗澤兌,君子以朋友講習。初九,和兌,吉。象曰:和兌之吉,行未疑也。以陽居下,無所比附,出門同人,行自信者也。九二,孚兌,吉,悔亡。象曰:孚兌之吉,信志也。私繫於近,悔也。誠於接物,信而不妄,吉且悔亡。
《兌》卦の卦辞に言う:「亨通し、正を守るに宜しい。」《彖伝》に言う:兌はすなわち喜悦で、陽剛が中に居り陰柔が外にあり、喜悦の道をもって正を守るので、上は天道に順い下は人心に応ずる。喜悦の心をもって百姓を帯領すれば、百姓は労苦を忘れる。喜悦の心をもって危難に赴けば、百姓は生死を忘れる。喜悦の道のなんと偉大なることか、百姓はこれによって皆鼓舞された!《大象伝》に言う:両沢が相連なり相潤す——これが《兌》で、君子はこれによって朋友と互相に講論研習することを領悟する。初九の爻辞に言う:「和順の道をもって相悦ぶ、吉。」《象伝》に言う、和兌が吉なる所以は、その行為がまだ疑うべき処なきがゆえに。初九は陽爻をもって最下に居り、何人にも攀附せず——ちょうど《同人》卦の言う門外に走り出て人と同じくするがごとき、行事に自信ある人である。九二の爻辞に言う:「誠信をもって相悦ぶ、吉、悔恨は消失す。」《象伝》に言う、孚兌が吉なる所以は、その心志が誠信なるがゆえに。私意を近旁の六三に係恋するは、すなわち悔である。誠意をもって人に待ち物に接し、篤実にして虚妄なからざれば、吉にして悔恨は消失する。
六三,來兌,凶。象曰:來兌之凶,位不當也。九四,商兌未寧,介疾有喜。象曰:九四之喜,有慶也。通其邪佞,使進而上,則小人道長而不寧,以諂為疾而拒外之,則終不失其得偶之慶也。九五,孚于剝,有厲。象曰:“孚于剝”,位正當也。說六三之進,則是孚于剝,近危之道也。故處乎盛位者,佞不可親也,當正位而進小人,信乎剝之道也。上六,引兌。象曰:“上六引兌”,未光也。與三為類而引升之,雖不傷類,然未足多也。
《兌》卦六三の爻辞に言う:「回りて下りて悦を求む、凶。」《象伝》に言う、来兌が凶なる所以は、居位の不当たるがゆえに。九四の爻辞に言う:「反覆斟酌して誰に悦を求むべきかとして心中未だ安んぜず、能く耿介に諂佞を疾病として防げば、喜慶あり。」《象伝》に言う、九四の喜は、福慶あること。もし六三のような邪佞の人を放任して上進せしめれば、小人の道は滋長して天下は寧らず。もし諂媚を疾病と視做して外に拒之れば、終に初九と相配する福慶を失わない。九五の爻辞に言う:「誠信をもって陽剛を剥落する小人に対すれば、危険あり。」《象伝》に言う、「孚于剥」はその居する所がまさに尊位に当たるがゆえに。六三の上進を喜べば、それが「孚于剥」——危険に接近する路数である。だから盛位に身を処する人は、諂佞の徒は親近すべからず。正位に身を当たって小人を引進すれば、それは真に陽剛を剥落する路に走る。上六の爻辞に言う:「他人を牽引して悦を求め来らしむ。」《象伝》に言う、「上六引兌」はその道がまだ光大ならざること。上六は六三と同じく陰類にしてそれを牽引して上昇せしむ——同類を傷害するとは算えないが、称許すべきものもない。
渙卦
渙。亨,王假有廟,利涉大川,利貞。萃“王假有廟”,渙然後聚道乃久,故“王假有廟”互見於此。凡言“有廟”者,聚道之極也。彖曰:渙亨,剛來而不窮,柔得位乎外而上同。“王假有廟”,王乃在中也;“利涉大川”,乘木有功也。象曰:風行水上,渙,先王以享于帝立廟。財散則民聚,王乃在渙中之一也。
《渙》卦の卦辞に言う:「亨通し、君王が宗廟に来て祭祀す。大河を渡るに宜しく、正を守るに宜しい。」《萃》卦にすでに「王假有廟」と言った。先ず渙散あって、そうして後に聚合の道が久しくありうるので、「王假有廟」はここに再度出現する——両卦は互相参見する。およそ「有廟」と言うは、皆聚合の道が極致に達することである。《彖伝》に言う:渙が亨通する所以は、陽剛が下りて来て窮困に至らず、陰柔が外卦にあって位を得て上と同心なるがゆえに。「王假有廟」は、君王がまさに中位に処するを言う。「利渉大川」は、木舟に乗ってこそ功效あるを言う。《大象伝》に言う:風が水面上を吹行す——これが《渙》で、先王はこれによって上帝を祭享し宗廟を建立することを領悟した。財物を散じて出せば民心は聚まり来る。君王もまた渙散の中に身を処する一員に過ぎない。
初六,用拯馬壯,吉。象曰:初六之吉,順也。處險之下,故必用拯,無應於上,順比九二之剛,拯而馬壯,其吉宜也。九二,渙奔其杌,悔亡。象曰:“渙奔其杌”,得願也。奮於險中,進而之前,則難解悔亡,故曰“奔其杌”,三四皆險,故曰“得願”,若退累於初,則險不能出,其悔終存。
《渙》卦初六の爻辞に言う:「拯救に用いる馬が健壮、吉。」《象伝》に言う、初六が吉なる所以は、その柔順なるがゆえに。初六は坎険の最下に処するので、必ず人に拯救されるを要す。上に相応する爻なく、順って九二の陽剛に親比し、救を得て乗る所の馬もまた健壮——吉を得るは理の当然である。九二の爻辞に言う:「渙散の時に凭倚すべき木墩に奔る、悔恨は消失す。」《象伝》に言う、「渙奔其杌」は心願が実現を得たこと。九二は険難の中に奮起し、一直に前に推進すれば、患難は化解し悔恨は消失するので「奔其杌」と言う。六三・九四は皆なお険中にあるが、それは進んで険を出ることができるので「得願」と言う。もし退き帰って初六に牽累されれば、険を出ることができず悔恨は終に在る。
六三,渙其躬,無悔。象曰:“渙其躬”,志在外也。援上而進,惟求自脫於險,無悔而已,非能及物者也。六四,渙其群,元吉。渙有丘,匪夷所思。象曰:“渙其群元吉”,光大也。己處險外,無私其應,常以拯眾為心,則其志光大獲吉;若志在所歸之地,近累於五,則非能平均其慮者也。
《渙》卦六三の爻辞に言う:「自己一身の私累を渙散す、悔恨なし。」《象伝》に言う、「渙其躬」は心志が身外にあること。六三は上九に攀援して上進し、ただ自己が険境を脱離するを求めるのみで、悔恨なきに過ぎない——なお人に恵を施しうると言うには及ばない。六四の爻辞に言う:「朋党の私を渙散して大群を成就す、大吉。渙散の中に丘山のごとき功業を聚起すは、常人の想到しうる所にあらず。」《象伝》に言う、「渙其群元吉」はその道が光明盛大なること。六四は自己が険境の外に身を処し、自己の正応に偏私せず、常に衆人を拯救するを心とするので、その心志は光明盛大にして吉を獲る。もし心思がただ自己の帰宿の上にあり近旁の九五に牽累されれば、それはその思慮を均平にしうる人ではない。
九五,渙汗其大號,渙王居,無咎。象曰:“王居無咎”,正位也。為渙之主,使物偏被其澤,正位凝命,可以免咎,不私於應,故能均布其大號也。渙然廓大,以王道自居乃無咎。上九,渙其血,去逖出,無咎。象曰:“渙其血”,遠害也。乘剛在上,若繫於三,害不可免,能絕棄陰類,遠去其難,則可免咎。
《渙》卦九五の爻辞に言う:「汗を発するがごとく重大の号令を散布し出し、君王の積聚した財貨を散去して王道をもって自居す、過錯なし。」《象伝》に言う、「王居无咎」はその居位が端正なるがゆえに。九五は渙散の卦の主爻で、万物をして普くその恩沢に蒙らしめ、名位を端正し天命を凝定すれば、過錯を免れうる。それは自己の正応に偏私しないので、重大の号令を均一に天下に布告しうる。心胸が渙然として開闊広大にして、王者の道をもって自処すれば、こそ過錯なし。上九の爻辞に言う:「あの傷害を渙散し、遠く離れて去る、過錯なし。」《象伝》に言う、「渙其血」は禍害を遠離すること。上九は陽剛を凌駕して最上に居り、もし六三に係恋すれば禍害は免れない。陰柔の一類の牽連を断絶舍弃して、遠くあの危難を避けえれば、過錯を免れうる。
節卦
節。亨,苦節不可貞。彖曰:節亨,剛柔分而剛得中,“苦節不可貞”,其道窮也。說以行險,當位以節,中正以通。天地節而四時成,節以制度,不傷財,不害民。象曰:澤上有水,節,君子以制數度,議德行。以苦節為貞,其道之窮必矣。
《節》卦の卦辞に言う:「亨通す。苦渋の節制は固守すべからず。」《彖伝》に言う:節が亨通する所以は、剛柔が各半にして陽剛が中を得るがゆえに。「苦節不可貞」は、そのように走り往けば道路は必ず窮まるを言う。喜悦の心をもって険難を行い、居位が当を得て節制あり、中に居り正を守ってよって通達す。天地に節度あって四時は形成を得、制度をもって節制すれば、財貨を損傷せず百姓を残害しない。《大象伝》に言う:沢上に水あり——これが《節》で、君子はこれによって礼数法度を制定し徳行を品評することを領悟する。苦渋の節制を当に固守すべき正道と為すは、あの路は窮処に走るが必然である。
初九,不出戶庭,無咎。象曰:“不出戶庭”,知通塞也。見塞於九二,故不出。九二,不出門庭,凶。象曰:“不出門庭,凶”,失時極也。體柔位陰,故不出門庭凶。六三,不節若則嗟若,無咎。象曰:不節之嗟,又誰咎也!處非其位,失節也,然能居不自安,則人將容之,故無咎。兌,說也,故能嗟諮取容。
《節》卦初九の爻辞に言う:「内室の庭院を走出さず、過錯なし。」《象伝》に言う、「不出戸庭」は通と塞の分際を懂得すること。初九は九二に去路を堵住されたので出ない。九二の爻辞に言う:「大門の庭院を走出さず、凶。」《象伝》に言う、門庭を出でずして凶なるは、時機を錯失すること甚だしきがゆえに。九二は体質が柔弱にして陰位に居るので、門庭を出でなければ凶。六三の爻辞に言う:「自己を節制できなければ、嗟嘆するのみ、過錯なし。」《象伝》に言う、節制できずして生ずる嗟嘆は、また誰を咎めん!六三の処する所はそれが処るべき位置ではなく、節制を失掉した。しかしそれは居りて自安せず、他人もまたそれを容れうるので、過錯なし。兌は喜悦なので、それは嗟嘆自省によって他人の容納を取得できる。
王弼於此無咎又別立一例,只舊例亦可推行,但能嗟其不節有過之心則亦無咎也。若武帝下罪己之詔而天下悅,大人過既改,則復何咎之有!六四,安節,亨。象曰:安節之亨,承上道也。九五,甘節,吉,往有尚。象曰:甘節之吉,居位中也。以剛居中,得乎盛位,優為其節者也,守之不懈,富貴常保,故曰“往有尚”。
王弼はこの「无咎」の上に別途一条の通例を立てたが、実は旧有の通例に照らしても講じ通る。ただ自己が節制を加えざるがために嗟嘆悔過の心を生出しえれば、すなわち過錯なし。ちょうど漢武帝が晚年に罪己の詔を下して天下が歓悦したがごとき——大人の過失はすでに改まれば、なお何の過錯の言うべきがあろう!六四の爻辞に言う:「安然としてその節制を守る、亨通。」《象伝》に言う、安節が亨通する所以は、上の者の道を順承するがゆえに。九五の爻辞に言う:「甘美にその節制を行う、吉、往けば嘉尚を受ける。」《象伝》に言う、甘節が吉なる所以は、居位が中を得るがゆえに。九五は陽剛をもって中位に居り、また盛大の君位を得て、能く従容としてその節制を行う人である。守持して懈怠しなければ、富貴はすなわち長保しうるので「往有尚」と言う。
上六,苦節,貞凶,悔亡。象曰:“苦節貞凶”,其道窮也。處險之極,故曰“苦節”。苦節而不正,悔也,必正而凶,則道雖窮而悔亡;苦節反若獲吉,取悔必多。
《節》卦上六の爻辞に言う:「苦渋の節制、固守すれば凶、悔恨は消失す。」《象伝》に言う、「苦節貞凶」はその道路がすでに窮処に至ったがゆえに。上六は坎険の頂点に処するので「苦節」と言う。節制を苦守して正に合せざるは、それは悔である。もし必ずその正を守ってなお凶に遭えば、道路は窮むれど悔恨はかえって消失する。反転して、節制を苦守してこれによって吉を得たがごとければ、招来する悔恨は必ず多い。
中孚卦
中孚。豚魚吉。利涉大川,利貞。彖曰:中孚,柔在內而剛得中,說而巽,孚乃化邦也。“豚魚吉”,信及豚魚也;“利涉大川”,乘木舟處也。中孚以利貞,乃應乎天也。象曰:澤上有風,中孚,君子以議獄緩死。中孚,上巽施之,下悅承之,其中必有感化而出焉者。蓋孚者覆乳之象,有必生之理,信且正,天之道也。
《中孚》卦の卦辞に言う:「誠信が小猪と魚に及ぶ、吉。大河を渡るに宜しく、正を守るに宜しい。」《彖伝》に言う:中孚は陰柔が内に居り陽剛が中を得、下の兌は悦にして上の巽は順で、誠信してこそ邦国を化育しうる。「豚魚吉」は、誠信が小猪と魚にさえ感通し届くを言う。「利渉大川」は、乗る所が中間虚空の木舟であるを言う。中孚にして正を守るに宜しきは、こそ天道に順応する。《大象伝》に言う:沢上に風吹く——これが《中孚》で、君子はこれによって訟獄を審議し死刑を寛緩することを領悟する。中孚の一卦は、上の巽が施予し、下の兌が欣然として承受し、その中に必ず感化されて生発し出るものがある。「孚」はもともと鳥が卵に伏して孵化する象で、その中に必然に生長する理を含む。すでに誠信にしてまた端正——これがまさに天の道理である。
初九,虞吉,有他不燕。象曰:“初九虞吉”,志未變也。為信之始,其信未孚,而志應在四,進有二三,剛柔之間,非以禮自防,使為眾所信,取悔之道也。故必防其萌,使志不亂,孚交如則威如乃吉。九二,鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡之。象曰:“其子和之”,中心願也。居中體巽,無所私繫,德必有鄰,物願所歸,位以德致,為五所任,故曰“與爾靡之”。靡,偃也,順從之也。
《中孚》卦初九の爻辞に言う:「先に度量して防備すれば吉、もし別に他念あれば安寧を得ず。」《象伝》に言う、初九が度量して後に吉なるは、その心志がまだ改変せざるがゆえに。初九は誠信の起点に処し、誠信はまだ人に信従されず、心志の応ずる所は六四にあり、中間にまた九二・六三を隔てる。剛柔交錯の際に処して、もし礼をもって自ら防範し自己をして衆人に信ぜらしめなければ、それは悔を招く路数である。だから必ず念頭がまさに萌動する時にそれを防止して心志を乱らさざらしめ、誠信が相交じて後に自ずから威望あり——こうしてこそ吉。九二の爻辞に言う:「鶴が山陰の処に鳴けば、その小鶴は声に応じて相和す。我に一杯の美酒あり、あなたとともに分かち享けんと願う。」《象伝》に言う、「其子和之」は心より発する願望である。九二は中位に居って巽体に属し、私意の係恋なく、徳ある人は必ず孤ならず、衆人は皆帰附を願う。地位は徳行をもって招致され、また六五に信任されるので「与爾靡之」と言う。「靡」は偃伏の意、すなわち順従である。
六三,得敵,或鼓或罷,或泣或歌。象曰:“或鼓或罷”,位不當也。處非所安,物之所惡,剛而乘之,柔不相比,進退之際,惟敵是求,不恆其德,莫非己致。一作惟敵是得,故求之云云。六四,月幾望,馬匹亡,無咎。象曰:“馬匹亡”,絕類上也。誠以接物,體巽居柔,陰德之盛美者也。陰德盛美,物所願交,故必一其所應,絕類於上,使陰不疑陽,如月近望而不過於盈,可以無咎。一作免咎。
《中孚》卦六三の爻辞に言う:「対手に遇うて、或いは鼓を撃ちて進攻し、或いは疲憊して停歇し、或いは哭泣し、或いは歌唱す。」《象伝》に言う、「或鼓或罷」は居位の不当たるがゆえに。六三の処する所はそれが安身する地ではなく、衆人に厭悪される。下の陽剛はそれに凌駕され、上の陰柔はまたそれと親比しない。一進一退の際に碰上するは浄く対頭で、徳行は恒久しえず、これ一切は一つとして自己の招来せざるがない。別の版本に「惟敵是得、故求之云云」と作る。六四の爻辞に言う:「月はまさに満ちんとして未だ満ちず、駕車の馬匹は一匹走失す、過錯なし。」《象伝》に言う、「馬匹亡」は同類を断絶して上りて九五に従うこと。六四は誠意をもって人に待ち物に接し、巽体に属して陰柔の位に居り——陰徳の中の最も盛美なり。陰徳が盛美なれば衆人は皆それと交結を願うので、それは必ず自己の応ずる対象に専一し、上に向かって同類の牽連を断絶し、陰柔をして陽剛を猜疑せしめず、月が円満に接近して盈に過ぎざるがごとき——こうすれば過錯なきありうる。別の版本に「免咎」と作る。
九五,有孚攣如,無咎。象曰:“有孚攣如”,位正當也。處乎盛位而信不交物,未免於咎也。上九,翰音登于天,貞凶。象曰:“翰音登于天”,何可長也!處信之極,好居物上,信而無實,窮上必凶。一云:將變而為小過也。
《中孚》卦九五の爻辞に言う:「誠信を懐いて衆人を牽系す、過錯なし。」《象伝》に言う、「有孚攣如」はその居する所がまさに尊位に当たるがゆえに。もし盛大の位に身を処して誠信が人と相交じえなければ、過錯を免れない。上九の爻辞に言う:「鶏の声が直に雲天に上る、固守すれば凶。」《象伝》に言う、鶏の鳴が直に雲天に上るは、どうして長久しえよう!上九は誠信の極点に処し、衆人の上に居るを喜び、徒らに信の名ありて実質なく、上に窮極すれば必ず凶を招く。別の一説:上九は一変すれば《小過》卦と為る。
小過卦
小過。亨利貞,可小事,不可大事。飛鳥遺之音,不宜上宜下,大吉。彖曰:小過,小者過而亨也,過以利貞,與時行也。柔得中,是以小事吉也;剛失位而不中,是以不可大事也。有飛鳥之象焉,“飛鳥遺之音,不宜上宜下大吉”,上逆而下順也。時宜用過,雖過正也。失其所安者,必矯其所為以求安,過於自大,其勢必危,過於自損,可以獲吉,故曰“上逆而下順,飛鳥之象”。象曰:山上有雷,小過,君子以行過乎恭,喪過乎哀,用過乎儉。過恭、哀、儉,皆宜下之義。
《小過》卦の卦辞に言う:「亨通して正を守るに宜しく、小事を為しうるも大事を為すべからず。飛鳥は鳴声を遺し、上に宜からず下に宜し、大吉。」《彖伝》に言う:小過は、小事の上に稍々過越あって亨通を得る。過越してなお正を守りうるは、時勢と同行するがゆえに。陰柔が中位を得るので小事を為せば吉。陽剛が位を失いまた中に居らないので大事を為すべからず。卦の中に飛鳥の象を含み、「飛鳥遺之音、不宜上宜下大吉」は、上に向かえば違逆し下に向かえば順遂なるがゆえに。時勢がまさに稍々過越あるを宜しとすれば、過越とはいえなお正当である。安身の処を失う人は、必ず自己の作為を矯正して安定を求める。過分に自高自大なればその勢いは必ず危く、過分に自我貶抑すればかえって吉を得うるので「上逆而下順、飛鳥之象」と言う。《大象伝》に言う:山上に雷響く——これが《小過》で、君子はこれによって行為を稍々恭敬に過ぎ、居喪を稍々哀戚に過ぎ、用度を稍々倹省に過ぐることを領悟する。過分の恭・哀・倹は、皆「下に居るに宜し」の意である。
初六,飛鳥以凶。象曰:“飛鳥以凶”,不可如何也。六二,過其祖,遇其妣,不及其君,遇其臣,無咎。象曰:“不及其君”,臣不可過也。與其上比於陽,不若下遇於陰,與其上合於五,不若退附於初,宜下之義也。無應於上,故能免咎。臣居己下,猶不可過,況其他乎!九三,弗過防之,從或戕之,凶。象曰:“從或戕之”,凶如何也!居陽以剛而應於上,為眾所疾,非過為防慎,人或戕之,凶之甚也。
《小過》卦初六の爻辞に言う:「飛鳥のごとく上に飛びて、よって凶を招く。」《象伝》に言う、飛鳥が上飛によって凶を招くは、それは如何ともすべなし。六二の爻辞に言う:「祖父を越過し、祖母に遇う。君主に僭及せず、臣属に遇う、過錯なし。」《象伝》に言う、「不及其君」は臣子たる者は分を越えてはならないを言う。上りて陽爻に親比するよりは、下りて陰爻に遇合するに如かず。上りて六五に迎合するよりは、退き帰って初六に依附するに如かず——これが「下に居るに宜し」の意である。六二は上に相応する爻がないので、過錯を免れうる。臣子が自己の下に居るにすら、なお越えてはならない、ましてやその他においてをや!九三の爻辞に言う:「過越を加えずして厳かに防備し、もし縦容して跟従すれば人に残害さるるあらん、凶。」《象伝》に言う、跟従して残害に遭うは、それは何等の兇険なるや!九三は陽位に居って秉性が剛強で、また上六と相応じ、衆人に忌恨される。もし格外に防備謹慎せざれば、来てそれを残害する人あり——それは極点まで凶なる。
九四,無咎,弗過遇之,往厲必戒,勿用永貞。象曰:“弗過遇之”,位不當也;“往厲必戒”,終不可長也。道非剛亢,故無咎,有應於下,故曰“弗過遇之”。過此以往,難無以除,故危而必戒;不可當然,故勿用永貞。一云:九四以陽居陰而乘九三之剛,非其過也,乃適與之遇爾,故無咎;若率是而往,必危以為戒,終不可久,故勿用永貞,當思奮爾。
《小過》卦九四の爻辞に言う:「過錯なく、過越するに及ばずして自然に相遇う。往けば危険あり、必ず戒備せよ、久しく固守すべからず。」《象伝》に言う、「弗過遇之」は居位の不当たるがゆえに。「往厲必戒」はこのようでは終に長久しえぬを言う。九四の守る道は剛強高亢ならず、だから過錯なし。下に初六があってそれと相応ずるので「弗過遇之」と言う。さらに前に走れば、患難を排除するに由なく、だから危険あって必ず戒備を要す。この局面は常態と為すべからず、だから「勿用永貞」と言う。別の一説:九四は陽爻をもって陰位に居り九三の陽剛の上に凌駕する——これはそれが意あるの過越ではなく、ただ恰好に九三と相遇うたのみなので、過錯なし。もしこのようの儘に一味に前行すれば必ず危険、引きて戒めと為すべく、終に長久しえないので「勿用永貞」と言い、奮発振作することを想うべきである。
六五,密雲不雨,自我西郊。公弋取彼在穴。象曰:“密雲不雨”,已上也。不能畜剛止健。凡言“自我西郊”,進而不已也。柔得中,小事吉,故曰“公弋取彼在穴”,非及物之功,且不能摧敵止暴也。三止於下,隱伏之象,故曰“在穴”。小過有飛鳥之象,故因曰“取彼在穴”。雨必蒸聚,自下而上,則其潤澤周普,今自西而東,趨其所應,其施未光也。“已上”亦尚往之義。上六,弗遇過之,飛鳥離之,凶,是謂災眚。象曰:“弗遇過之”,已亢也。不宜上而上,乃自取之災也。
《小過》卦六五の爻辞に言う:「濃雲は密布するも雨を降らさず、雲は我が西の郊野より飄来す。王公は繩を系した箭をもってあの洞穴裏に蔵する獲物を射取す。」《象伝》に言う、「密雲不雨」は陰気がすでに上行したがゆえに。六五は陽剛を畜止し剛健を制約できない。およそ「自我西郊」と言うは、皆一味に前進して停止を肯じないを指す。陰柔が中位を得るので小事を為せば吉、それゆえ爻辞は「公弋取彼在穴」と言う。これは物に恵を施しうる功業ではなく、また敵を摧折し暴乱を制止するに足らない。九三は下に止息し、まさに潜蔵隠伏の象なので「在穴」と言う。《小過》に飛鳥の象あるので、順って「取彼在穴」と言う。雨は必ず水気が蒸騰聚合して下より上りて、そうして後に潤沢が周遍普施する。今雲気は西より東に自ら、ただそれが応ずる一方に趨赴するのみで、恩施はなお光大に足らない。「已上」もまた一味に前に向かう意である。上六の爻辞に言う:「遇合を肯じずしてそれを過越し、飛鳥は羅網に遭う、兇険——これを災殃と言う。」《象伝》に言う、「弗遇過之」はすでに高亢が頭を過ぎたこと。上るべからざるに偏偏として上るは、それは自己の招来した災禍である。
既済卦
既濟。亨,小利貞,初吉終亂。彖曰:“既濟亨”,小者亨也,“利貞”,剛柔正而位當也。“初吉”,柔得中也;終止則亂,其道窮也。象曰:水在火上,既濟,君子以思患而豫防之。通其變然後可久,故止則亂也。
《既済》卦の卦辞に言う:「亨通し、柔小なる者は正を守るに宜しく、初めは吉利にして最終には乱を生ず。」《彖伝》に言う:「既済亨」は、柔小なる者もまた亨通を得るを言う。「利貞」は、剛柔が各々その正を得て爻位が妥当なるがゆえに。「初吉」は六二の陰柔が中を得ること。最後に至って停滞して進まなければ乱を生ず——その道路がすでに窮処に走ったがゆえに。《大象伝》に言う:水が火の上にある——これが《既済》で、君子はこれによって禍患を預想して事先に防備することを領悟する。必ずその変化に通達して、そうして後に長久しうるので、一旦停滞すれば乱を生ず。
初九,曳其輪,濡其尾,無咎。象曰:“曳其輪”,義無咎也。六二,婦喪其茀勿逐,七日得。象曰:“七日得”,以中道也。九三,高宗伐鬼方,三年克之,小人勿用。象曰:“三年克之”,憊也。上六險而應,此處卦之未濟以終亂者也,故以比鬼方。九三以陽居陽,文明而正,故用師雖久,困而必克,小人用之,取亡之道也。
《既済》卦初九の爻辞に言う:「車輪を拖住し、尾巴を沾湿す、過錯なし。」《象伝》に言う、「曳其輪」は、義理に就いて言えば過錯なし。六二の爻辞に言う:「婦人が車上の帷飾を遺し、追尋するを要せず、七天の後に自ずから失い復得せん。」《象伝》に言う、「七日得」は六二が中道を守るがゆえに。九三の爻辞に言う:「商高宗が鬼方を討伐し、三年にして克ち、小人は任用すべからず。」《象伝》に言う、三年にして克つは、疲憊不堪のこと。上六は険に居りて九三と相応じ、まさにこの一卦の中のまだ渡済せず終に乱を生ずるあの一爻なので、それを取って鬼方に比す。九三は陽爻をもって陽位に居り、文明にして端正なので、兵を用いること久しいも、困頓の中に終に勝ちうる。もし小人に換えて担当せしめれば、それは自ら滅亡を取る路数である。
六四,繻有衣袽,終日戒。象曰:“終日戒”,有所疑也。九五,東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭實受其福。象曰:“東鄰殺牛”,不如西鄰之時也。“實受其福”,吉大來也。東鄰,上六也;西鄰,六四也。過於濟,厚也;幾於中,時也。濟而合禮,雖薄受福。九五既濟之主,舉上與下,其義之得不言而著也。上六,濡其首,厲。象曰:“濡其首,厲”,何可久也!
《既済》卦六四の爻辞に言う:「華美の衣裳は終に破絮に変じ、終日戒備せよ。」《象伝》に言う、「終日戒」は心中に疑慮する所有ること。九五の爻辞に言う:「東辺の隣居が牛を殺して盛祭するは、西辺の隣居の微薄の禴祭を用いるに如かず、かえって実々に福祐を承受す。」《象伝》に言う、東隣が牛を殺すは、西隣の時宜に合するに如かず。「実受其福」は、大吉大利の到来すること。いわゆる東隣とは、上六を指す。西隣とは、六四を指す。上六は済渡の時を過ぎ、祭品は豊厚である。六四は中位に接近し、恰好に時宜に合する。渡済してまた礼に合すれば、祭品は薄いとも福を受けうる。九五は《既済》の一卦の主で、上六と六四を挙げて相比する——それ自身の義理の上の得当は言うまでもない。上六の爻辞に言う:「頭を沾湿す、危険あり。」《象伝》に言う、頭を沾湿して危険あるは、このようではどうして長久しえよう!
未済卦
未濟。亨,小狐汔濟,濡其尾,無攸利。彖曰:“未濟亨”,柔得中也。“小狐汔濟”,未出中也,“濡其尾無攸利”,不續終也,雖不當位,剛柔應也。象曰:火在水上,未濟,君子以慎辨物居方。初六,濡其尾,吝。象曰:“濡其尾”,亦不知極也。九二,曳其輪,貞吉。象曰:九二貞吉,中以行正也。六三,未濟征凶,利涉大川。象曰:“未濟征凶”,位不當也。有強援於上,故利涉大川,非義躁進,凶之道也。
《未済》卦の卦辞に言う:「亨通。小狐狸がまさに河を渡らんとして、尾巴を沾湿す、利益する所なし。」《彖伝》に言う:「未済亨」は六五の陰柔が中を得ること。「小狐汔済」はまだ険中を走出していないこと。「濡其尾无攸利」は事を接続して尽くせないこと。各爻の居位は当たらないが、剛と柔は両両相応ずる。《大象伝》に言う:火が水の上にある——これが《未済》で、君子はこれによって謹慎に事物を辨别し各々その位に安んぜしめることを領悟する。初六の爻辞に言う:「尾巴を沾湿す、憾惜あり。」《象伝》に言う、「濡其尾」もまた限度を知らざること。九二の爻辞に言う:「車輪を拖住し、正を守って吉を得。」《象伝》に言う、九二が正を守りて吉を得るは、中に居る徳をもって正道を行くがゆえに。六三の爻辞に言う:「まだ渡済せず、往けば凶。大河を渡るに宜しい。」《象伝》に言う、「未済征凶」は居位の不当たるがゆえに。六三は上に上九のこの強有力なる援手があるので、大河を渡るに宜しい。もし義理に合せず躁動急進すれば、それは凶を招く路数である。
九四,貞吉悔亡。震用伐鬼方,三年有賞于大國。象曰:“貞吉悔亡”,志行也。剛陽之德,迫近至尊,非正而吉,悔所招也。初處險中,叛而未一,奮動討伐,其勢必克,堪上之任,是以有賞。六五,貞吉無悔,君子之光,有孚,吉。象曰:“君子之光”,其暉吉也。上九,有孚于飲酒,無咎。濡其首,有孚失是。象曰:飲酒濡首,亦不知節也。飲酒而至於濡首,不節之甚也,其必失此樂也有孚。
《未済》卦九四の爻辞に言う:「正を守って吉を得、悔恨は消失す。奮起して鬼方を討伐し、三年の後に大国より封賞を得。」《象伝》に言う、「貞吉悔亡」は心志が施行を得たこと。九四は陽剛の徳ありて至尊の位に紧邻す。もし正を守ることができず僥倖に吉を得れば、悔恨は自己の招来したもの。初六は険陷の中に処し、叛離してまだ一統に帰さない。九四が奮起して討伐すれば、その勢いは必ず勝つ。君上の託付する重任を担当しえたので、よって封賞を得る。六五の爻辞に言う:「正を守って吉を得、悔恨なし。君子の光輝、誠信を懐く、吉。」《象伝》に言う、「君子之光」はあの光輝が吉祥を帯び来ること。上九の爻辞に言う:「誠信を懐いて飲酒す、過錯なし。もし頭頂を沾湿するまで沉湎すれば、たとえ誠信あっても正道を失掉す。」《象伝》に言う、飲酒して頭を湿すは、また節制を知らざること。飲酒して頭頂を沾湿するに至るは、節制を加えざるの極である。彼は必ずこの歓楽すらも一併に失掉する——これは確定して疑いなし。
繋辞上
[繫辭所舉易義,是聖人議論到此,因舉易義以成之,亦是人道之大且要者也。][繫辭反覆惟在明易所以為易,撮聚眾意以為解,欲曉後人也。][欲觀易先當玩辭,蓋所以說易象也。不先盡繫辭,則其觀於易也,或遠或近,或太艱難。不知繫辭而求易,正猶不知禮而考春秋也。][繫辭所以論易之道,既知易之道,則易象在其中,故觀易必由繫辭。]
《繋辞》の挙出する《易》義は、聖人がここに議論し、勢いに順って《易》義を挙げて話を円満にしたもので、同時に皆人道の中の重大にして緊要の部分である。《繋辞》が反覆申説するは、ただ《易》の《易》たる所以を闡明し、衆多の義理を汇聚して解釈を作し、後人をして明白ならしめんがためである。《易》を読まんとすれば、先ず卦爻の辞を玩味すべき——辞はまさに《易》象を説明するに用いられるがゆえに。先ず《繋辞》を読み透らなければ、《易》を看る時或いは疎遠に失し、或いは拘近に失し、或いは太だ艱難と覚える。《繋辞》を懂らずして《易》を求めるは、ちょうど礼制を懂らずして《春秋》を考訂するがごとし。《繋辞》は《易》の道を論述するに用いられる。《易》の道を懂れば、《易》象はその中に包含される。だから《易》を看るには必ず《繋辞》より入手しなければならない。
天尊地卑,乾坤定矣;卑高以陳,貴賤位矣;先分天地之位,乾坤立則方見易,故其事(無)[則莫]非易也。所以先言天地,乾坤易之門戶也。不言高卑而曰卑高者亦有義,高以下為基,亦是人先見卑處,然後見高也,不見兩則不見易。
《繋辞上》に言う:「天は上にあって尊く、地は下にあって卑しく、乾坤の両卦の位次はすなわち定まる。卑と高が一たび陳列されれば、貴賤の爻位もまた分明である。」先ず天地の位次を分かち、乾坤がすでに立てば、はじめて《易》を見ることができるので、万事万物は一つとして《易》ならざるがない。それゆえ先ず天地を言う——乾坤はまさに《易》の門戸である。「高卑」と言わずして「卑高」と言うも、また自ずから道理あり:高は下をもって根基と為すので、人もいつも先ず卑近の処を見て、そうして後に高遠の処を見る。対立の両端を見なければ、《易》を見ることができない。
物物象天地,不曰天地而[曰]乾坤(雲)者,言其用也。乾坤亦何形?猶言神也。人鮮識天,天竟不可方體,姑指日月星辰處,視以為天。陰陽言其實,乾坤言其用,如言剛柔也。乾坤則所包者廣。
一件ごとの物は皆天地に象を取る。天地と言わずして乾坤と言うは、それらの功用に就いて言うのである。乾坤にまたどうして形体があろうか?ちょうど「神」と言うがごとし。人は真に天を認識すること稀で、天は結局方所形体の指すべきがなく、やむをえず姑く日月星辰の所在を指して、それを天と見なす。陰陽は気の実体に就いて言い、乾坤は気の功用に就いて言う——剛と柔と言うがごとき。そして乾坤の包含する範囲は更に広大である。
動靜有常,剛柔斷矣;動靜陰陽,性也。剛柔,其體未必形。靜專動直,不為物累,則其動靜有常,不牽制於物也。然則乾為剛果,斷然不疑矣。直一作著。天地動靜之理,天圓則須動轉,地方則須安靜。
《繋辞上》は続けて言う:「動と静に各々常軌あれば、剛と柔は判然と分明である。」動と静・陰と陽は、皆気の本性である。剛と柔に至っては、それらの本体は必ずしも形の見えるものではない。静の時に専一にして動の時に正直で、外物に牽累されなければ、その動静は常軌あり、外物に牽制されない。こう見れば、乾の剛健果決たるは、断然疑うべきなし。「直」の字は別の版本に「着」と作る。天地動静の道理は:天は円なれば必ず旋転運動し、地は方なれば必ず安定静止する。
在天成象,在地成形,變化見矣。有形有象,然後知變化之驗。是故剛柔相摩。以人言之,喘息是剛柔相摩,氣一出一入,上下相摩錯也,於鼻息見之。人自鼻息相摩以蕩於腹中,物既消爍,氣復升騰。
《繋辞上》に言う:「天上に於いて日月星辰の象を成し、地上に於いて山川動植の形を成し、変と化は顕現し出た。」形あり象あり、そうして後に変化の実際の験を見ることができる。だから「剛柔相摩」と言う。人身に就いて言えば、一呼一吸がすなわち剛柔の相摩である。気が一出し一入し、上下が互相に摩擦交錯し、鼻息の上にそれが見える。人は鼻息の相摩より腹中に激盪し、食物がすでに消化熔解されれば、気はまた新たに升騰して上る。
乾知大始,坤作成物;乾以易知,坤以簡能;天地雖一物,理須從[此]分別。太始者語物之始,乾全體之而不道,故無不知也,知之先者蓋莫如乾。成物者,物既形矣,故言作,已入於形(氣)[器]也,初未嘗有地而乾漸形,不謂(知)[之]作,謂之何哉?然而乾以不求知而知,故其知也速;坤以不為而為,故其成也廣。
《繋辞上》に言う:「乾は万物の始を主管し、坤は万物を生成するを負責す。乾は平易をもって知り、坤は簡約をもって能くす。」天地は浑然として一物とはいえ、道理の上ではここより分別せざるをえない。「太始」は物の開端を言い、乾は全体的にそれを体現して言説しないので、知らざる所なし。「知」の在先を論ずれば、乾より先なるはなし。「成物」は物がすでに形を成したことで、だから「作」と言い、すでに形器の上に落ちた。初めはかつて地がなかったが、乾気が漸々凝まりて形質を成した——これを「作」と呼ばずして、なお何と呼びうるか。しかし乾は刻して知を求めずして自然に知るので、その知ること速やか。坤は意ある作為をせずして自然に成すので、その成就は広大。
[易則易知,簡則易從;易知則有親,易從則有功;有親則可久,有功則可大;可久則賢人之德,可大則賢人之業。易簡而天下之理得矣,天下之理得而成位乎其中矣。]此皆言聖人體天地之德然也。“可久”者,[可]以久遠推行;“可大”者,其得體也大。凡語道理之徒,道達不已,竟亦何(所)求推行及民!故以賢人[德業]措諸事業,而言“易簡理得而成[位]乎天地之中”。蓋盡人道,並立乎天地以成三才,則是與天地參矣。但盡[得]人道,理自當(耳)[爾],不必受命。仲尼之道,豈不可以參天地!
《繋辞上》に言う:「平易なれば理解され易く、簡約なれば遵従され易い。理解し易ければ親しむ人あり、遵従し易ければ功效あり。親しむ人あれば長久しえ、功效あれば広大しうる。長久しうるは賢人の徳性、広大しうるは賢人の事業。平易簡約にして天下の理は把握を得、天下の理が把握を得れば、人は天地の間に於いて自己の位次を成就する。」これらは皆聖人が天地の徳を体現する様子を言う。いわゆる「可久」とは、長遠に推行しうること。いわゆる「可大」とは、彼の得た本体が宏大なること。およそただ理を空談するに止まる人は、滔滔たるが絶えず言い止まざるも、畢竟また何を百姓の身に推行せんと求めるか!だから賢人の徳と業を具体的事業に落実して、はじめて「易簡理得而成位乎天地之中」と言う。人はただ人道を尽くしさえすれば、天地と並び立って三才と為る——それがすなわち天地と相参ずることである。ただ人道を尽くしえれば、道理はもとよりこのごとく、別に天命を承受するを要しない。孔子の道は、どうして天地と相参ずるに足らざらん!
言知者,知而已;言能者,涉於形(氣)[器],(能)能成物也。“易則易知”,“易知則有親”。今夫虎豹之為物,豢之雖馴,人亦不敢遂以親狎,為其難測。惟其平易,則易知易從一作信,“信則人任焉”,以其可[從]信,人斯委任,故易以有功矣。道體至廣,所以[有言難],有言易,有言小,有言大,無乎不在。“坤至柔而動也剛”,[剛]乃積大勢成而然爾。
「知」と言うは、ただ知るのみである。「能」と言うは、形器に牽渉し、能く万物を生成することである。「平易なれば理解され易く」「理解し易ければ親しむ人あり」。ちょうど虎豹のごとき物は、畜養して馴服したとはいえ、人も敢えてこれに親しみ狎玩しない——それが測度しがたいがゆえに。平易あってのみ、理解され遵従され易い——「従」の字は別の版本に「信」と作る。《論語》の「信を守れば、人は肯んじて託付す」は、まさに彼が信従すべきがゆえに、人々は事を彼に委任する。だから平易にしてこそ功效ありうる。道体は極めて広大なので、それを難と言う者あり、易と言う者あり、小と言う者あり、大と言う者あり、在る所あらざるなし。《坤》卦《文言》の「坤は極めて柔順にして、動けば剛健」と言う——この剛は、気勢が極大まで積累して後に自然にこのごとき。
乾至健無體,為感速,故易知;坤至順不煩,其施普,故簡能。志大則才大、事業大,故曰“可大”,又曰“富有”;志久則氣久、德性久,故曰“可久”,又曰“日新”。德業不可久、不可大,不足謂之賢[人],況可謂之聖[人]乎!
乾は極めて剛健にして形体なく、感応するに最も速やかなので「易知」と言う。坤は極めて柔順にして煩瑣ならず、施予するに普遍なので「簡能」と言う。心志が宏大なれば、才具も宏大・事業も宏大なので「可大」と言い、また「富有」と言う。心志が持久すれば、気も持久・徳性も持久するので「可久」と言い、また「日新」と言う。徳と業が持久しえず、また広大しえなければ、賢人と称するに配せず、ましてや聖人と称するにおいてをや!
易簡理得則知幾,知幾然後經可正。天下達道五,其生民之大經乎!經正則道前定,事豫立,不疑其所行,利用安身之要莫先焉。“成位乎其中”,與天地合其德[也]。
易簡の理を把握すれば事物の幾微を識りえ、幾微を識りて後に常道を端正にしうる。《中庸》の言う天下通行の五つの大道は、まさに百姓を養育する大経大法であろう!常道が端正なれば、道は預め定まり、事は預め立ち、行動して再び遅疑しない。「利用安身」の関要を講ずるに、これより優先するはない。いわゆる「天地の間に於いて自己の位次を成就する」とは、《乾》卦《文言》の言う天地とその徳を合わすことである。
聖人設卦觀象,繫辭焉而明吉凶,剛柔相推而生變化。是故吉凶者,失得之象也;悔吝者,憂虞之象也;變化者,進退之象也;剛柔者,畫夜之象也;六爻之動,三極之道也。吉凶者,失得之著也;變化者,進退之著也;設卦繫辭,所以示其著也。吉凶變化,悔吝剛柔,易之四象歟!悔吝由贏不足而生,亦兩而已。“變化進退之象”雲者,進退之動也微,必驗之於變化之著,故察進退之理為難,察變化之象為易。
《繋辞上》に言う:「聖人が卦体を設立し卦象を観察し、文辞を繋げて吉凶を闡明し、剛柔が互相に推移して変化を生出す。だから吉と凶は失と得の象、悔と吝は憂と慮の象、変と化は進と退の象、剛と柔は昼と夜の象である。六爻の変動は天地人の三極の道を体現す。」吉凶とは、得失が顕著に表出したこと。変化とは、進退が顕著に表出したこと。卦を設け辞を繋ぐは、まさにこれらの顕著なる処を人に指示せんがためである。吉凶・変化・悔吝・剛柔——おそらく《易》の四象であろう!悔と吝は有余と不足より生ずも、また相対の両端に過ぎない。いわゆる「変化は進退の象」とは、進退の萌動が極めて細微で、必ず顕著なる変化の上に験証を得るを要するがゆえに。だから進退の理を体察するは難しく、変化の象を観察するは較べて易い。
六爻盡利而動,所以順陰陽、剛柔、仁義、性命之理也,故曰“六爻之動,三極之道也”。是故君子所居而安者,易之序也;
六爻は事物の利を窮尽して後に発動する——まさに陰陽・剛柔・仁義・性命の道理に順応せんがためである。だから「六爻の変動は天地人三極の道を体現す」と言う。《繋辞上》は続けて言う:「だから君子の平居にして安処しうるは、《易》の次序である。」
序猶言分也。易之中有貴有賤,有吉有凶,皆其自然之分也。所居皆安之,君子安分也。所樂而玩者,爻之辭也。言君子未嘗須臾學不在易。玩,玩習也,每讀則每有益,所以可樂。[居則觀其象而玩其辭],動則觀其變而玩其占。占非卜筮之謂,但事在外可以占驗也,觀乎事變,斯可以占矣。蓋居則觀其象而玩其辭,此所以動則觀其變而玩其占也。
《繋辞上》第二章の「君子の居りて安んずる所は、易之序なり」と言う——この「序」の字はすなわち「分」で、本然の分位を指す。《周易》の一書の裏に尊貴あり卑賤あり、吉利あり兇険あり——これらは皆事物が自然に形成した分際で、人が強いて排して成したものではない。君子はどのような分位に処するも皆安然として自処しうる——これを「安分」と言う。経文は続けて「楽しみて玩る所は、爻之辞なり」と言う——君子の平日に喜愛し反覆揣摩する所は、各爻の爻辞である。これはすなわち、君子は一刻も学問を《易》の外に置くことがないと言うに等しい。「玩」は玩習・反覆して体味する意で、読む一遍ごとに一分の収獲が多くなるので、それを「可楽」と言う。経文の「居ればすなわちその象を観てその辞を玩り、動けばすなわちその変を観てその占を玩る」——ここの「占」は専ら蓍亀の卜筮を指すのではなく、およそ事情が外に顕露して験証すべきものは皆「占」と呼びうる。世事の変動を細看するは、すでに占しているのである。まさに平居に卦象を観て爻辞を味わいうるがゆえに、一旦挙動あれば、はじめてその変化を観察しその占験を玩味しうる——両頭はもともと一貫の功夫である。
繋辞上・第三章
彖者,言乎象者也;象,謂一卦之質。齊小大者存乎卦,卦有稱名至小而與諸卦均齊者,各著其義也,蓋稱名小而取類大也。辨吉凶者存乎辭,欲見小疵者,必存乎辭。憂悔吝者存乎介,悔吝吉凶之萌,惟介于石者能見幾而作。“憂悔吝者存乎介”,欲觀易象之小疵,宜存志靜,知所動之幾微也。靜知,亦作靜志。幾者動之微,虛靜則知幾。震無咎者存乎悔。凡言無咎者,必求其始皆有悔,今能改之也。有咎而免者,善震(而)[之]補也。
《繋辞上》第三章の「彖とは、象を言う者なり」と言う。「彖」は一卦の卦辞を指し、それが論説する所は全卦の総象である。ここに言う「象」とは、一卦の体質、すなわち整卦が呈する本然の形態である。経文はまた「小大を斉しくする者は卦に存る」と言う:ある卦は名号が極めて小さいのに、諸の大卦と並び立って同じく観られうる——各卦が各々標明すべき義理を有し、名称は小さいも取譬する類は極めて大なるがゆえに。経文の「吉凶を辨ずる者は辞に存る」——細微の毛病を見出さんと欲すれば、必ず辞句の裏に尋ね入るを要す。経文の「悔吝を憂うる者は介に存る」:「悔」と「吝」は吉凶がまさに萌動する苗頭で、《豫》卦六二の「介于石」のごとき操守堅定の人のみが、幾微を察見して当機に行動しうる。いわゆる「悔吝を憂うる者は介に存る」とは、卦象の中のあの細小の瑕疵を看清かんとすれば、心志を存養して寧静にし、よって行動が初起する時の幾微を知るべきことを言う。「静知」は一の版本に「静志」と作る。「幾」は変動がまだ形を成さない微兆で、ただ虚静の心のみが幾を知りうる。経文の「咎なきに震える者は悔に存る」:およそ《易》の中に「无咎」を講ずる——すなわち過錯なからん所は、その初を遡れば、もともと皆悔いうる処あったが、ただ今能く改正するのみ。本に過錯ありて終に禍を免れうるは、まさに奮然として震動してもって補救を加えるによる。
繋辞上・第四章
易與天地準,故能彌綸天地之道。“易與天地準”,此言易之[為]書也。易行乎其中,造化之謂也。言“彌綸”“範圍”,此語必夫子所造。彌者彌縫(補)綴[緝]之義;綸者往來經營之義。
《繋辞上》第四章は篇を開きて「易は天地に准じ、よって天地の道を弥綸しうる」と言う。「易与天地准」と言うは、《易》この書を講ず——その規模格局は天地と等斉しい。「易行乎其中」と言うに至っては、それは書を指さず、天地間の生生不已の造化そのものを指す。経文の裏の「弥綸」と後文の「範囲」という二つの詞は、必ず孔子自身が鋳造した語彙である。「弥」は弥縫・綴緝の意で、天地の道の縫隙を一一に補合する。「綸」は往来経営の意で、糸を理り縄を結ぶがごとく反覆して経緯し、それをして条貫して乱れざらしむる。
易之為書與天地準。易即天道,獨入於爻位繫之以辭者,此則歸於人事。蓋卦本天道,三陰三陽一升一降而變成八卦,錯綜為六十四,分而有三百八十四爻也。因爻有吉凶動靜,故繫之以辭,存乎教誡,使人動則觀其變而玩其占,其出入以度,內外使知懼,又明於憂患與故,無有師保,如臨父母。聖人與人撰出一法律之書,使人知所向避,易之義也。
《易》この書の格局は天地と等斉しい。《易》はその自体が天道で、ただ一たび爻位の上に落ち文辞を繋げば、人事の上に帰結する。卦の根柢はもともと天道である:三陰三陽が一升一降して八卦を変出し、八卦が錯綜して相重なりて六十四卦と為り、再び分かち開けば三百八十四爻である。每一爻に吉あり凶あり・動あり静ありなので、それに文辞を繋げて、教導告誡をその裏に存放し、人をして一たび挙動あればすなわちその変化を観察しその占験を玩味せしむる。《繋辞下》第八章の「その出入は度をもってし、外内にして懼れを知らしめ、また憂患と故とに明らかにして、師保なくとも、父母に臨むがごとし」と言うは、講ずる所はまさにこれである:人の進退出入に皆循すべき法度あり、外に応じて事に当たるも内に存して心を持するも懼れを知り、また憂患の由来と所以然に明白で、たとえ身辺に師傅保傅の督責なくとも、《易》を読む時は父母に面対するがごとく放肆を敢えてしない。聖人が世人のために撰したこの一部の法律に近き書は、人をして何に趨向し何に回避すべきかを知らしむ——これが《易》の用意である。
仰以觀於天文,俯以察於地理,是故知幽明之故;原始反終,故知死生之說。天文地理,皆因明而知之,非明則皆幽也,此所以知幽明之故。萬物相見乎離,非離不相見也。見者由明而不見[者]非無物也,乃是天之至處。彼異學則皆歸之空虛,蓋徒知乎明而已,不察夫幽,所見一邊耳。
《繋辞上》第四章の「仰いで以て天文を観、俯して以て地理を察す。これを以て幽明の故を知る。原を始め終を反すれば、故に死生の説を知る」と言う。天上の文象・地上の形理は、皆「明」を凭って人に認知される。「明」のその一分に属さざればすなわち皆「幽」である——これが聖人の幽明の所以然を知りうる所以である。《説卦》の「万物は離に於いて相見る」——離は火で日で明である。この一分の光明なくんば、万物は彼此照見しえない。要紧なのは:見られうるは固然として明によるが、見られないは決して物なきに等しくない——あれはちょうど天道の最深至の所在である。仏老のごとき異学は見られないを一概に空虚に帰する——これはただ「明」の一辺を知って「幽」の一辺を体察せず、見る所は片面に過ぎない。
氣聚則離明得施而有形,氣不聚則離明不得施而無形。方[其]聚也,安得不謂之(有)[客]?方其散也,安得遽謂之無?故聖人仰觀俯察,但云“知幽明之故”,不云“知有無之故”。
気が一たび凝聚すれば、「離」の光明はその上に施加しえて、形の見えるあり。気が凝聚せざれば、光明は附麗する所なく、すなわち無形と為る。しかし知るべし:まさにそれが聚まる時、どうしてこれが気が暫時作客して成した形体なるを承認せざらんや?まさにそれが散ずる時、またどうして直ちにそれが烏有に化したと断定せんや?聚散はただ気の一往一来で、一個の真の「生出」と「消滅」はない。だから聖人は仰いで天文を観俯して地理を察し、ただ「幽明の故を知る」と言って「有无の故を知る」と言わない——一字の差は、まさに儒者と諸子の分界である。
[大易不言有無,言有無,諸子之陋也。人雖信此說,然不能知以何為有,以何謂之無。如人之言曰自然,而鮮有識自然之為體。]盈天地之間者,法象而已;文理之察,非離不相睹也。方其形也,有以知幽之(故)[因];方其不形也,有以知明之故。
《大易》はかつて「有」と「無」を講じない。一たび口を開きて有を分かち無を分かつは、あれは諸子の浅陋である。人はたとえ口頭上でこの説法に信服しても、実際には究竟何をもって「有」と為し何をもって「無」と為すかを説き清めえない。ちょうど人人が皆「自然」の二字を言えるが、真に自然がいかなる本体かを識る人が極めて少ないがごとし。天地の間に充満するは、法則と形象に非ざるはなし。文彩条理が察見されうる所以は、離明の照臨あるに非ざれば不可である。気が凝まりて形を成す時は、まさにこれによってあの幽隠の一面の来たる所を推知すべく、気が散じて形を成さざる時も、またまさにこれによってあの顕明の一面の所以然を推知すべし。幽明はもともと一気の両態で、二つの世界ではない。
[釋氏語實際,乃知道者所謂誠也,天德也。其語(則)[到]實際,則以人生為幻妄,(幻妄)以有為為疣贅,以世界為陰濁,遂厭而不有,遺而弗存。就(而人)[使]得之,乃誠而惡明者也。儒者則因明致誠,因誠致明,故天人合一,致學(者)而可以成聖,得天而未始(離)[遺]人,易所謂不遺、不流、不過者也。
仏家の講ずる「実際」は、道を知る者の言う「誠」に相当し、すなわち天徳である。しかし彼らは一たび実際を講ずれば、人生を幻妄と看做し、作為あるを贅疣と看做し、この世界を陰濁の物と看做して、よってそれを厭棄して其有るを承認せず、それを抛き開けて其の存留せしむるを肯じない。たとえ彼らが真にこの路の上に得る所有るとも、それはただ《中庸》のいわゆる「誠」をして「明」を厭悪する一偏である。儒者は然らず:「明」より推して「誠」に至り、また「誠」より推して「明」に至り、明と誠は両進するので、天人合一しえて、為学の功夫を凭って聖人を成就しえて、天より之を得て終始人事を抛き下げない——これがまさに《繋辞》の言う「曲成万物而不遺」「旁行而不流」「範囲天地之化而不過」の境地である。
故語雖似是,觀其發本要歸,與吾儒二本殊歸。道一而已,此是則彼非,彼是則我非,是故不當同日而語。其言流遁失守,窮大則淫,推行則詖,致曲則邪,求之一卷之中,其弊數數有之。
だから仏家の話頭は聴き上げれば儒者と相似るとはいえ、ただその立論の根本と最後の帰宿を考察すれば、それが我ら儒家と二つの根本・二条の帰路なるを発見する。道理はただ一個:こちらが正しければかちが錯し、かちが正しければ我がこちらが錯する。それゆえ両家は根本より一処に置いて相提して論ずべきにあらず。彼らの言説は游移逃遁して拠守する所なし:大処に推せば夸誕に流れ、外に推行すれば偏頗に流れ、一曲の処に落ちれば邪僻に流れる。ただ彼らの一巻の書の裏に細かく尋検すれば、この類の毛病は触れて目に皆満つ。
大率知畫夜陰陽則能知性命;能知性命則能知鬼神,知聖人。彼(直)欲[直語]太虛,不以畫夜陰陽累其心,則是未始見易;[未始見易,]則雖欲免畫夜陰陽之累,末由也已。(已)[易]且不見,又烏能更語真際!舍真際而談鬼神,妄也。所謂實際,彼徒能(請)[語]之而已,未始真解也。]
大致に言えば、昼夜の交替・陰陽の消長を懂得しえてこそ、性命を懂得するに談じ足る。性命を懂得しえてこそ、鬼神を懂得し聖人を懂得するに談じ足る。彼らはこの一層を撇き開けて、径直に「太虚」を談論せんと欲し、昼夜陰陽に自己の心を牽累せしめるを肯じない——これは従来《易》を見たことがないに等しい。すでに従来《易》を見たことがなければ、たとえ昼夜陰陽の牽累を摆脫せんと欲するも、門路なし。《易》すらかつて見得ずして、またどこでさらに何の「真際」を講ずるに及ばん!真際を撇き開けて鬼神を談ずれば、ただ妄説あるのみ。彼らの口中のいわゆる「実際」は、ただこの二字を口に説き出しうるのみで、従来真に理会し得たことがない。
[易曰:“原始(要)[反]終,故知死生之說”者,死生止是人之終始也。][精氣為物,游魂為變,是故知鬼神之情狀。][“精氣為物,游魂為變”,精氣者,自無而有;游魂者,自有而無。自無而有,神之情也;自有而無,鬼之情也。自無而有,故顯而為物;自有而無,故隱而為變。顯而為物者,神之狀也;隱而為變者,鬼之狀也。
《繋辞上》第四章の「原を始め終を反すれば、故に死生の説を知る」と言う——いわゆる死生とは、人のこの一段の生命の終と始に過ぎず、別途に一套の神秘的名目はない。経文は続けて「精気は物を為し、游魂は変を為す。これを以て鬼神の情状を知る」と言う。いわゆる「精気為物」とは、気が無形より聚まりて有形と為ること。いわゆる「游魂為変」とは、気が有形より散じて無形に帰すること。無より有となるは、これが「神」の実情。有より無となるは、これが「鬼」の実情。無より有となるがゆえに顕現して一々の物と為る。有より無となるがゆえに隠没して変化と為る。顕現して物と為るは神の形状、隠没して変と為るは鬼の形状。鬼神の二字は、張載のここに於いては意志ある霊怪ではなく、気の屈伸往来の両種の情状である。
大意不越有無而已。物雖是實,本自虛來,故謂之神;變是用虛,本緣實得,故謂之鬼。此與上所謂神無形而有用,鬼有形而無用,亦相會合。所見如此,後來頗極推闡,亦不出此。]
総じての意思は「有」「無」の両端を出でないのみ。物は実実在在とはいえ、それはもともと虚の処より凝聚して来たので、その自ら虚より実となる一面に就いて「神」と称す。変化は化して虚に帰するとはいえ、それはもともと実体に縁って有ったので、その自ら実より虚となる一面に就いて「鬼」と称す。これは前面に言うた「神は形なくして用あり、鬼は形ありて用なし」の講法と、また正しく吻合する。我が当初の見解はすなわちこのごとく、後に反覆して推衍闡発して説く所を更に細密にしたとはいえ、終にこの意思を超出しなかった。
[與範巽之言:易所謂“原始反終[故]知死生之說”者,謂原始而知生,則求其終而知死必矣。此夫子所以直季路之問而不隱也。體不偏滯,[乃可謂無方無體。偏滯]於畫夜陰陽者物也,若道則兼體而無累也。以其兼體也,故曰“一陰一陽”,又曰“陰陽不測”,又曰“一闔一闢”,又曰“通乎畫夜”。語其推行,故曰“(通)[道]”;語其不測,故曰“神”;語其生生,故曰“易”;其實一物,指事而異名爾。
これは范巽之に答えた話である:《易》の言う「原を始め終を反すれば、故に死生の説を知る」は、生命の開端を推原して「生」を懂得すれば、それに循って終結を求めて「死」を懂得するもまた必然である意。孔子が子路の死生を問うに答えたは、まさにこの道理に就いて直截に作答したので、隠諱したものはない。およそ本体が一辺に偏滞せざるは、はじめて「无方无体」と称するに配す。昼夜陰陽のどれか一辺に偏滞するは、あれは「物」である。「道」に至っては、陰陽の両体を兼摂してどの一辺にも拖累されない。まさにそれが兼体するがゆえに、《繋辞》ははじめて「一陰一陽之謂道」と言い、また「陰陽不測之謂神」と言い、また「一闔一辟謂之変」と言い、また「昼夜の道に通じて知る」と言う。その推行流布に就いて言えば「道」と呼び、その測度すべからざるに就いて言えば「神」と呼び、その生生不息に就いて言えば「易」と呼ぶ。実は同一の物で、ただ異なる事相を指して異なる名目を立てたのみ。
大率天之為德,虛而善應,其(實)[應]非思慮聰明可求,故謂之神,老氏況諸谷以此。太虛者,氣之(所)體。氣有陰陽,屈伸相感(而)[之]無窮,故神之應也無窮;其散無數,故神之應也無數。雖無窮,其實湛然;雖無數,其實一而已。陰陽[之]氣,散則萬殊,人莫知其一也;合則混然,人不見其殊也。
大抵、天の具える徳性は、虚にして感応に善い。その感応は人の思慮聡明の求めえ得る所に靠らないので、「神」と称す。老子がそれを空谷に比したは、取る所はまさにこの一層の虚にして能く応ずるの意である。「太虚」はすなわち気の本体で、空空蕩蕩の一片の死寂ではない。気は陰陽に分かれ、一屈一伸して互相に感通して永く窮尽がないので、神の感応もまた窮尽なし。気の離散は千頭万緒にして数計すべからざるので、神の感応もまた数計するに由なし。無窮と言うも、その本体は実は澄然湛寂である。無数と言うも、その本体は実はただ一個である。陰陽の気が一たび散開すれば、万般の差別と為りて、人はそれがもともと一体なるを見出しえない。一たび合攏すれば、浑然一片と為りて、人はまたその中にもともと差別あったを見出しえない。
形聚為物,形潰反原,[反]原者,其游魂為變乎!所謂變者,對聚散存亡為(之)文,非如螢雀之化,指前後身而為說。輔嗣所解,似未失其歸也。]
形質が凝聚すれば一物と為り、形質が潰散すればすなわち本原に返帰す。いわゆる本原に返帰するとは、おそらく《繋辞》の講ずる「游魂為変」であろう。ここに言う「変」とは、聚と散・存と亡に相対して立てた文辞で、腐草が蛍に化し雀が水に入りて蛤と為るがごとき、前身後身の二つの躯殻を指して言うのではない。王弼は字を輔嗣といい、彼のこの一句の解釈は、見るに本旨を失っていない。
[所謂山川門霤之神,與郊社天地陰陽之神,有以異乎?易(所)謂“天且弗違而況於鬼神乎”!仲尼以何道而異其稱耶?又謂“游魂為變”,魂果何物?其遊也情狀如何?試求之[使]無疑,然後可以拒神怪之說,知亡者之歸。[此外]學(者)[素]所[援據]以質成其論者,不可不察以自祛其疑爾。]
人々が祭祀に言う山川・門戸・中霤のこの類の神は、郊祀社祭の中の天地陰陽の神と、二者に分別あるや否や?《乾・文言》の「天ですら違わざるに、ましてや鬼神においてをや」——孔子は究竟どの道理に依据してそれらを分別して称呼したか?《繋辞》はまた「游魂為変」と言う——それならば「魂」は到底どのような物か?それが「游」する時の情状はまたどのようなか?これらの問題を一一に追究して疑惑なきに至り、そうして後にはじめて種種の神怪の説に抵挡しえて、また真に死者が究竟どこに帰去するかを明白にする。この外、仏老の学が従来援引し拠守して、用いて彼らのあの套の議論を坐実する説法も、逐一考察して清めざるべからず——自己の心裏の疑団を先行して祛除せんがためである。
[氣之於人,生而不離、死而遊散者謂魂,一成而不變者為魄。]與天地相似,故不違;知周乎萬物而道濟天下,故不過;旁行而不流,樂天知命,故不憂;[意,有思也;必,有待也;固,不化也;我,有方也。四者有一焉,則與天地不相似。]
気が人身の上の分際に就いて言えば:活きる時は形体と相離れず、死後は游散して去るを「魂」と呼び、一旦凝成すれば固定して変らざるを「魄」と呼ぶ。《繋辞上》第四章の「天地と相似れば、故に違わず。知は万物に周して道は天下を済す、故に過らず。旁行して流れず、天を楽しみ命を知る、故に憂えず」と言う。いわゆる「天地と相似」は、《論語》の講ずる絶四をもって准とせねばならない:「意」は私自に揣度すること、「必」は心に期待あること、「固」は執滞して化せざること、「我」は自ら一所を立てること。この四者はただ一様に沾うとも、すなわち天地と相似ない。天地は思無く為無く・待無く執無く・方無く我無し。人は能くこの四病を絶去してこそ、「不違」に談じ足る。
如天地無私,則於道不離,然遺物而獨化,又過乎大中之表也。故下文曰範圍(天地之化)而不過,曲成(萬物)而不遺。(通乎畫夜之道而知)未能周萬物,則必有過。過,失也。
仮にただ天地の无私を学ぶのみならば、固然として道と相離れないが、しかしもしこれによって万物を抛き開けて自ら超化を求めれば、それはまた大中至正の界限の外に走り出た。だから《繋辞》の下文ははじめて「範囲天地之化而不過、曲成万物而不遺」と言い、また「昼夜の道に通じて知る」と言う:一面は超出を許さず、一面は遺漏を許さず。およそ万物に周遍しえざれば、必ず過失する所有る。ここの「過」は、すなわち差失の意で、単に頭を過ぐるを指すのみならず、また偏鋒に走ったを含む。
知周[乎]萬物[而]道濟天下,然後不錯。若不如此,則或得於(彼)[此](或)[而]失於(此)[彼]也。天惟運動一氣,鼓萬物而生,無心以恤物。聖人則有憂患,不得似天。天地設位,聖人成能。聖人主天地之物,又智周乎萬物而道濟天下,必也為之經營,不可以有(愛)[憂]付之無憂。
智慧が万物に周遍し道術が天下を救济するに足れば、こうして差错あるに至らない。もしこの一歩に及ばなければ、こちらを顧みてかちを失うを免れがたい。天はただこの一気を運転して、万物を鼓動して生生せしむのみで、一個の物を体恤する心を存しない。聖人はしかし憂患あり——この一点の上で、到底天と同じくできない。《繋辞下》第十二章の「天地位を設け、聖人成能す」:聖人は天地間の万物の主宰者で、また万物に智を周し天下を道に済すを要すれば、必ず天下のために経営擘画せざるをえず、自己のこの一片の憂ある心を、径直にあの憂なき天に交付して事を了えることはできない。
旁行[而]不流,圓神不倚也。[主應物不能固知,此行而流也。入德處不移,則是道不進,重滯者也。]安土敦乎仁,故能愛。安土,樂其所自生,(□□)[不得其生,非]忠厚之道也。[安土,不懷居也。有為而重遷,無為而輕遷,皆懷居也。]範圍天地之化而不過,
経文の「旁行而不流」は、円通神妙にして一辺に偏倚せざるを言う。もし一味にただ外物に応付せんと求め、自己の知る所を堅定に守住できなければ、それは「行」して流荡したである。反転して、徳に入る処を一歩も挪動を肯じなければ、それはまた道が長進せず、沉重滞塞の人と成る。経文は続けて「土に安んじ仁に敦い、故能く愛す」と言う。いわゆる「安土」とは、自己の従生するこの土地と本分を安楽すること。もし自己の生生の理すら安頓し住えなければ、忠厚の道ではない。また知るべし、「安土」は居処に恋着するにあらず:作為ある人はかえって遷徙の難を看重して動くを肯じず、無作為の人はかえって軽易に遷徙して守るを肯じない——この両様は皆「懐居」である。経文は再び「範囲天地之化而不過」と言う。
(過則溺於空、淪於靜,既不能存其神,又不能知夫化矣。大抵過則不是著有則是著無,聖人自不言有無,諸子乃以有無為說。說有無,斯言之陋也。在易則惟曰神,則可以兼統。)
一たび天地の化を範囲する分寸を超過すれば、空に沉溺し静に陷落する。すなわちあの生生の神を存え住えず、あの流行の化を認め得ない。大抵一の「過」は、「有」に執着するか、「無」に執着するかである。聖人はもともと有无を談ぜず、諸子は偏偏として有无を拿って説を立てる。一たび口を開きて有を講じ無を講ずれば、この話はすでに浅陋である。《易》の裏にはただ一個の「神」の字を言うのみで、「神」は有无・動静を一併に兼摂統貫しうる。
[窮理盡性,然後至於命;盡人物之性,然後耳順;與天地參,無意、必、固、我,然後範圍天地之化;從心不踰矩,老而安死,然後不夢周公。]通乎畫夜之道而知,不偏滯於畫夜之道,故曰通知。故神無方而易無體。
《説卦》の「理を窮め性を尽くして命に至る」と講ずるは:先ず物理を窮究して底に至り本性を尽処に発揮し、そうして後にはじめて「至于命」に談じ足る。人の性を尽くし物の性を尽くしえて、そうして後に孔子の六十にして「耳順」の境地あり。天地と並び立って三と為り、意・必・固・我の四病を絶去しえて、そうして後に「範囲天地之化」に談じ足る。七十にして「心の欲する所に従いて矩を踰えず」しえ、老いて死生に安んじえて、そうして後に必ずしも周公を夢見するを要しない。経文の「昼夜の道に通じて知る」と言うは、昼夜のどの一辺にも偏滞せざるを言うので、通じて之を知ると呼ぶ。まさにこのがゆえに、経文は最後に「神方なく易体なし」に帰結する。
繫辭言易,大概是語易書制作之意;其言“易無體”之類,則是天易也。神[與]易雖是一事,方與體雖是一義,以其不測,故言無方;以其生生,故言無體。然則易近於化。
《繋辞》の裏に「易」を講ずるは、大体に於いて《易》この書の制作の用意を講ずる。しかし「易无体」のこの類の説法のごときは、講ずる所は書ではなく、天地の間のあの自然の「天易」である。「神」と「易」は同じ一事を指すとはいえ、「方」と「体」もまた同一の意思とはいえ、各々側重あり。その測度すべからざるに就いて言えば「无方」と言い、その生生不已に就いて言えば「无体」と言う。こう見れば、「易」この字の分量は、更に「化」に贴近する——すなわちあの綿密漸進・跡の求め得べからざる流行である。
繋辞上・第五章
一陰一陽之謂道,一陰一陽是道也,能繼繼體此而不已者,善也。善,(之)猶言能繼此者也;其成就之者,則必俟見性,是之謂聖。仁者不已其仁,(始)[姑]謂之仁;知者不已其知,(方)[姑]謂之知;(此)是[謂]致曲,曲能有誠也,誠則有變,(化)必仁知會合乃為聖人也。(前)[所]謂聖者,於一節上成性也。夷惠所以亦得稱聖人,然行在一節而已。
《繋辞上》第五章は頭を開きて「一陰一陽之謂道」と言う。一陰一陽のこの交替往復の過程そのものが道である。一路に承接してこの道を自己身上に体現して永く間断せざりうるが、すなわち「善」である。いわゆる善とは、この道を承接し住う人を言うに等しい。真にそれを成就するに至っては、必ず本性を親見するを待たねばならず——これをはじめて「聖」と呼ぶ。仁を行う人は仁の上に停歇を肯じなければ、姑く彼を仁者と称す。知を求める人は知の上に停歇を肯じなければ、姑く彼を智者と称す。これが《中庸》の言う「致曲」で、一偏一曲の上より功夫を為し、一曲の中にも誠ありうる——誠あれば変化を生じうる。しかし必ず仁と知が会合して一と為ってこそ、聖人を成し得る。前面に言うたあの種の「聖」は、ただ或る節目の上に性を成就したのみ。伯夷・柳下恵のまた聖人と称されうる所以は、まさにこのがゆえに——しかし彼らの行う所は終にただ一節の上にあるのみ。
“百姓日用而不知”,蓋所[以]用莫非在道。飲食男女皆性也,但己不自察,由旦至暮,凡百舉動,莫非感而不之知。今夫心又不求,感又不求,所以醉而生夢而死者眾也。繼之者善也,成之者性也。
経文の「百姓は日々用いて知らず」と言うは、百姓が日常に用いる一切は一つとして道の裏にあらざるがないがゆえに。飲食と男女のこれら人倫日用は、もともと皆性である——ただ自己が省察しに行かないのみ。早より晚に至るまで、一切の挙動は一つとして感応の発用ならざるがなく、しかし人は自己で知らない。今の人は、心に求めに行かず、感にも求めに行かないので、渾渾噩噩・酔いて生まれ夢みて死する人があのように多い。経文は続けて「之を継ぐ者は善なり、之を成す者は性なり」と言う。
言繼繼不已者善也,其成就者性也。仁知各以成性,猶(仁禮以成性)勉勉而不息,可謂善成,而存存在乎性。仁知見之,所謂“曲能有誠”者也。不能見道,其仁知終非性之有也。性未成則善惡混,故亹亹而繼善者斯為善矣。惡盡去則善因以(亡)[成],故舍曰善而曰“成之者性[也]。
張載は《繋辞上》の「繼之者善也、成之者性也」の一句を解して言う:一路に承接して綿延して已まざりうるを「善」と呼び、それを凝定して自己の所有と為せるを「性」と呼ぶ。「仁」と「知」は各々皆用いて性を成就しうる——別本は此処に「仁礼以成性」と作る——皆勉力して懈らず永く停息せざるを要し、これをはじめて善く成就するを称しうる。そして経文の言う「存存」は、帰根結底に於いては「性」の上に落実する。仁者・智者は各々自己の一辺に偏した処より道を見た——これが《中庸》の講ずる「其次致曲、曲能有誠」である。もし始終道を見えなければ、あの一点の仁と知は終に本性中の固有の物ではない。性がまだ成就せざる時は、善と悪は混雑して一処にあるので、孜孜不倦としてあの点の善端を承接し住する——これがすなわち「善」と算えられる。悪が徹底して除尽されるを待って、善もまた随いて凝成する(原文は「亡」と作るも、別本に依って「成」とすべし)——だから経文は再び単に一個の「善」の字を言わずして「成之者性也」と言う。
神不可致思,存焉可也;化不可助長,順焉可也。存虛(名)[明],久至德,順變化,達時中,仁之至,義之盡也。知微知彰,不舍而繼其善,然後可以成(之)[人]性矣。仁者見之謂之仁,知者見之謂之知,
「神」は思慮をもって追求しうるではなく、ただそれを心中に存養するのみ。「化」は苗を揠くがごとく助長しうるではなく、ただそれに順って走るのみ。一段の虚にして明の心地を存養して、日を久しうして至徳に至達し、天地の変化に順応して、随時に中する分寸に通達しうる——これがすなわち仁の至・義の尽である。能くあの幽微の一頭を知り、また能くあの顕着の一頭を知り、放舍を肯じず一路に善端を承接し住して、そうして後に人の本性を成就すべし。経文は続けて「仁者は之を見て之を仁と謂い、知者は之を見て之を知と謂う」と言う。
聞見不足以為己有,“仁者見之謂之仁,知者見之謂之知”,心各(有)[見]本性,始為己有,苟未見性,須當勉勉。今學者既知趨向,殊不費力,何(謂)[為]不勉勉!百姓日用而不知,[故君子之道鮮矣。]百姓日用[而]不知,溺於流也。[顯諸仁,藏諸用,]
耳に聞き目に見て得たる物は、なお自己の所有と算えられない。経文の「仁者は之を見て之を仁と謂い、知者は之を見て之を知と謂う」——見れば、必ず心が自ら本性を見てこそ、はじめて真に自己のものと為る。もしまだ性を見ていなければ、勉め又勉めて少しも歇まざるを肯じすべし。今の学者はすでに力を用いる方向を知り、実は大いなる力を費すこともないのに、なぜ偏偏として勉勉不已を肯じないか!経文の「百姓は日々用いて知らず、故に君子の道は鮮し」——百姓は日々用いながら自知せず、まさに日常の流俗に淹没されたがゆえに。経文は再び「仁に顕れ、用に蔵る」と言う。
[非神不能顯諸仁,(不)[非]知不能藏諸用。][鼓萬物而不與聖人同憂。]老子言“天地不仁,以萬物為芻狗”,此是也;“聖人不仁,以百姓為芻狗”,此則異矣。聖人豈有不仁?所患者不仁也。天地則何意於仁?鼓萬物而已。聖人則仁爾,此其為能弘道也。
「神」にあらざれば、仁徳を顕発し出すことができない。「知」にあらざれば、功用を蔵斂することができない。経文は続けて「万物を鼓動して聖人と憂を同じくせず」と言う。《老子》の「天地は不仁、万物をもって芻狗と為す」は、この一句は正しい。しかしそれが続けて講ずる「聖人は不仁、百姓をもって芻狗と為す」は、この一句は異なる。聖人がどうして不仁なりえよう?聖人の憂患する所はまさに天下の不仁である。天地はどこに一個の仁を行う意を存するか?それはただ万物を鼓動してその生生に任すのみ。聖人はしかし仁ある——まさにこの一点の仁あるがゆえに、《論語》の言う「人能弘道」に談じ足る。
[鼓萬物而不與聖人同憂,天道也。聖(人)不可知也,無心之妙非有(仁)[心]所及也。]天不能皆生善人,正以天無意也。“鼓萬物而不與聖人同憂”,聖人之於天下,法則無不善也。然古者治世多而後世不治,何也?人徒見文字所記,自唐虞以[來論其治亂,殊不知唐虞以]上幾治幾亂,須歸之運數,有大(運)[數],有小(運)[數],故孟子曰:“天[下]之生(民)久矣,一治一亂。”
「万物を鼓動して聖人と憂を同じくせず」は、天道を講ず。聖が測知すべからざる歩に至る——あの无心にして成る妙用は、もともと一個の有心の人の企及しうる所ではない。天は生まれ来るが皆善人なるを保証できない——まさに天がもともと意なきがゆえに。経文は天の「万物を鼓動して聖人と憂を同じくせず」を言い、しかし聖人の天下に対するは、法を立て則を垂れて一処として善ならざるなし。しかしなぜ上古は治世が多く後世はかえって治められないか?それはただ人々が単に文字の記載する一段を見て、唐尭虞舜以来よりその治乱を論じ、殊に唐虞以上にはすでに多少の治・多少の乱を経歴したを知らざるのみ。これはすなわち気運の数に帰せざるをえない:大いなる運数あり、小さなる運数あり。だから《孟子・滕文公下》に言う:「天下の生は久し、一治一乱。」
繫之為言,或說易書,或說天,或說人,卒歸一道,蓋不異術,故其參錯而理則同也。“鼓萬物而不與聖人同憂”,則於是分出[天]人之道。[人]不可[以]混天,“鼓萬物而[不]與聖人同憂”,此言天德之至也。與天同憂樂,垂法於後世,雖是聖人之事,亦猶聖人之末流爾。
《繋辞》の行文は、或いは《易》この書を言い、或いは天を言い、或いは人を言い、末に皆同一の道に帰する——もともと两套の路数ではないので、文句は交錯参差するも道理は一貫である。「万物を鼓動して聖人と憂を同じくせず」のこの一句は、まさにここに於いて天の道と人の道を分かち開ける。人は天と混為一談にすべからず:天が万物を鼓動して聖人とその憂を同じくせずと言うは、これは天徳の極致を形容する——それは无心にして成るので、憂あるを謂う所なし。天とその憂楽を同じくし法度を垂れて後世に貽すに至っては、聖人の分内の事とはいえ、天徳に比すれば、あれはすでに聖人の末流の一段である。
神則不屈,無復回易,“鼓萬物而不與聖人同憂”(者),此直謂天也。天則無心,神(故)可以不詘,聖人則豈忘思慮憂患?雖聖亦人耳,焉得遂欲如天之神,庸不害於其事?聖人苟不用思慮憂患以經世,則何用聖人?天治自足矣。聖人所以有憂者,聖人之仁也;不可以憂言者,天也。蓋聖人成能,所以異於天地。
神は屈曲せざるもので、また反覆更改もない。「万物を鼓動して聖人と憂を同じくせず」のこの一句は、径直に天を言う。天はもともと心なきがゆえに、その神は毫も屈曲しえない。聖人はどうして思慮憂患を忘掉しえよう?聖人は聖とはいえ、畢竟なお人である——どうして一味に天のごとく神ならんと欲せんや、それはかえって自己の為すべき事を妨害せざらんや?聖人がもし思慮憂患を用いて世務を経綸するを肯じなければ、なお聖人を要して何を為さん?天が自ら治むれば足る。だから言う:聖人の憂ある所以は、まさに聖人の仁である。そしてあの「憂」の字をもって言うべからざるは、こそ天である。《繋辞下》の「天地位を設け、聖人成能す」——聖人はまさに「成能」のこの一点の上に於いて天地と同じからず。
富有之謂大業,日新之謂盛德。富有,廣大不御之盛與!日新,悠久無疆之道與!富有者,大[而]無外也;日新者,久[而]無窮也。顯其聚也,隱其散也,顯且隱,幽明所以存乎象;聚且散,推蕩所以妙乎神。“日新之謂盛德”,過而不有,(不)凝滯於心,知之細也,非盛德日新。惟日新,是謂盛德。義理一貫,然後日新。生生之謂易。
経文の「富有のこれを大業と謂い、日新のこれを盛徳と謂う」と言う。いわゆる富有とは、広大にして抵御するに由なきあの盛大であろう!いわゆる日新とは、悠久にして辺際なきあの道路であろう!富有とは、大にして外なきこと。日新とは、久しくして窮尽なきこと。気は一たび凝聚すれば顕現し、一たび離散すれば隠没する。顕あり隠あるがゆえに、幽明の分際は皆「象」の裏に存放される。聚あり散あり、推移激盪して已まざるがゆえに、「神」の妙用は見え出る。「日新のこれを盛徳と謂う」と言うは、事が過ぎ去れば留存せず、心上に凝滞して化せざるを講ず。もしただ些かの細碎の知見の上に盤桓すれば、それは盛徳ではなく、日新と算えられもしない。ただ一日々に新たなるのみが、盛徳と呼ばるる。義理が貫通して一と為りて、そうして後に日新に談じ足る。経文は続けて「生生のこれを易と謂う」と言う。
生生,猶言進進也。極數知來之謂占,“極數(之)[知]來”;前知也。前知其變,有道術以通之,君子所以措於民者遠矣。通變之謂事。能通其變而措於民,聖人之事業也。易簡之善配至德。循天下之理之謂道,得天下之理之謂德,故曰“易簡之善配至德”。
いわゆる「生生」とは、進みてまた進み、一歩も停まざるに等しい。経文の「数を極め来を知るのこれを占と謂う」——数を極処に推して将来を預知するは、これが先知である。先知してその変化を知り、また貫通すべき道術あれば、君子がこれに拠って百姓の上に施行するは、その效験は深遠である。経文の「変に通ずるのこれを事と謂う」——その変化を貫通して百姓の身に落実するは、これがこそ聖人の事業である。《繋辞上》第六章の末に「易簡之善は至徳に配す」と言う:天下の理に依循して行くを「道」と呼び、天下の理を真に己に得るを「徳」と呼ぶ。だから易簡の善はあの至極の徳に匹配するに足ると言う。
繋辞上・第七章
知崇禮卑,崇效天,卑法地,天地設位而易行乎其中矣。成性存存,道義之門。[“知崇禮卑”,叩其兩端而竭也,崇既效天,卑必法地。]非知,德不崇;非禮,業不廣。
《繋辞上》第七章の「知は崇く礼は卑し。崇きは天に效い、卑きは地に法る。天地が位を設けて易はその中に行わる。性を成して存存たれば、道義の門」と言う。いわゆる「知崇礼卑」とは、まさに《論語》の講ずる両端を叩問してその所有を尽くすこと。智はすでに天の高明を效法せんとすれば、礼は必ず地の卑順を效法せざるをえない。一高一低、両端を並び挙げて後に遺なし。もし「知」なければ、徳は崇高し起らない。もし「礼」なければ、業は広大に開かない。知と礼は、まさに徳を崇め業を広める両脚である。
[知]崇,天也,形而上也。通畫夜之道而知,其知崇矣。知及之而不以禮性之,非己有也,故知禮成性而道[義]出,如天地[設]位而易行。天地位定而易行[乎]其中,知禮成[性]而道義出。夫易,聖人所以崇德廣業,以知為德,以禮為業也,(蓋)[故]知崇則德崇矣。
「知崇」は天に属し、形而上の一辺である。昼夜の道に通貫して知りうる——この知はすなわち崇高と算えられる。しかし《論語》の言う「知は之に及ぶ」と言いながら礼をもってそれを自己の本性に化成できなければ、あの知は終に自己のものではない。だから必ず知と礼の両下が夾持して性を成就してこそ、道義はここより流出する——ちょうど天地が各々その位に安んじて易道が自然に中間に行わるがごとし。天地の位次が一たび定まれば、易はその中に行わる。知礼が性を成就すれば、道義は中より流出す。《易》この書は、まさに聖人が用いてその徳を崇高しその業を広大にするもの:知をもって徳と為し、礼をもって業と為すので、知が一たび崇めば、徳もまた随いて崇む。
此論易書之道,而聖人亦[所]以教人。“天地設位而易行乎其中”,比下文“成性存存道義之門”而言也。天地設位,故易行乎其中,知禮成性,則道義自此(而)出也,道義之門(者)[蓋]由仁義行也。
この一段はすなわち《易》書の裏の道理を論ずると同時に、またまさに聖人が拿って人を教うる処である。経文の「天地位を設けて易はその中に行わる」は、下文の「性を成して存存たれば道義の門」と相対照して言う:天地が位次を設定したので、易道はその中に行わる。人が知と礼の両面を性に成就すれば、道義は自然にここより流出す。いわゆる「道義の門」とは、まさに《孟子》の講ずる「仁義より行う」であって「仁義を行う」ではない——道義は成就した性の中より自然に流出するので、外より搬り来たりて勉めて身に安着するではない。
聖人亦必知禮成性,然後道義從此出,譬之天地設位則造化行(於)[乎]其中。知則務崇,禮則惟欲乎卑,成性須是知禮,存存則是長存。知禮亦如天地設位。
たとえ聖人であっても、必ず知と礼をもって性を成就してこそ、そうして後に道義はここより流出する——ちょうど天地が一たび位次を設定すれば、造化が自ずからその中に行わるがごとし。知に就いて言えば、ただそれの崇高なるを求めるのみ。礼に就いて言えば、ただそれの卑下切実なるを求めるのみ。本性を成就せんとすれば、知と礼が並進するに非ざれば不可。いわゆる「存存」とは、長久に存養して一刻も断えざること。知と礼のこの一高一低も、またまさに天地の上下の設位のごとし。
何以致不息?成性則不息。誠,成也,誠為能成性也,[如]仁人孝子所以成[其]身。柳下惠,不息其和也;伯夷,不息其清也;於清和以成其性,故亦得為聖人也。然清和猶是[性之]一端,不得(完)[全]正,不若知禮以成性,[成性]即道義從此出。
どうすれば間断せざるを得るか?性を成就すれば、自然に間断しない。「誠」はすなわち成で、ただ誠のみが本性を成就しうる——ちょうど仁人孝子が誠を靠って自身を成就するがごとし。柳下恵は、「和」の上に於いて間断しなかった。伯夷は、「清」の上に於いて間断しなかった。彼らは各々清・和の一端に就いて自己の性を成就したので、また聖人と称しうる。しかし清と和は終にただ性の一端で、全然中正ならず、知礼をもって性を成すに及ばない。性が一たび成就すれば、道義はすなわちここより流出する。
知極其高,故效天;禮著實處,故法地。人必禮以立,失禮則孰為道?“天地設位而易行乎其中,成性存存,道義之門”,(得)知禮以成性,性乃存,然後道義從此出。
知は極高の処に推すべきなので、それが天を效法すると言う。礼は切実の処に落つべきなので、それが地を效法すると言う。人は必ず礼を靠ってこそ自立しうる——《論語》の「礼に立つ」と講ずるがごとし。礼を失掉せば、なお何をもって道と算えんや?経文の「天地位を設けて易はその中に行われ、性を成して存存たれば道義の門」は、まさに知と礼をもって本性を成就することを講ず——性に存する所有りて、そうして後に道義はここより流出する。
學不能自信而明者,患在不[自]勉爾。當守道不回,如川之流,源泉混混,不舍畫夜,無復回卻,則[自信]自明,自得之也。易曰“繼之者善也”,惟[其]能相繼而不已者,道之善也;至於成性,則不勉而中,不思而得,從容中道矣,(易)[故]曰“成性存存,道義之門”。
為学して自信自明できない人の毛病は、ただ自己が勉励を肯じないに在るのみ。当に道を守住して回頭せず、河川の流水のごとくすべし。《孟子》の「源泉混混として、昼夜を舍てず」——一直に前に往きて絶えず倒退せず、このようであればすなわち自信自明しえ、自己が真に己に之を得たである。《繋辞》の「之を継ぐ者は善なり」——ただ一路に承接して綿綿として已まざりうるのみが、こそ道の善き処である。本性が成就するに至れば、ちょうど《中庸》の言う「勉めずして中り、思わずして得、従容として道に中る」——だから「性を成して存存たれば道義の門」と言う。
繋辞上・第八章
[聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,][時措之宜便是禮,禮即時措時中見之事業者。非禮之禮,非義之義,但非時中皆是也。非禮之禮,非義之義,又不可以一概言,如孔子喪出母,子思(守禮)[不喪出母,又不可]以[子思守禮]為非也。又如制禮(以)[者]小功不稅,他外反。日月已過乃聞而服曰稅。使曾子制禮,又不知如何。以此不可易言。
《繋辞上》第八章の「聖人は天下の動を見る所ありて、その会通を観て、以てその典礼を行う」と言う。いわゆる時宜に合する措置がすなわち礼である。礼とは、まさに「時中」を事業の上に落実するあの物である。《孟子》の「礼ならざる礼、義ならざる義」——およそ時中に合せざるは、皆この類に属す。ただし「礼ならざる礼、義ならざる義」も一概に論ずべからず:譬えば孔子は出された母のために服喪したが、子思は出された母のために服喪しなかった——我らはまたこれによって子思が礼を守ったを錯りと言うことはできない。また礼を制する人は小功の喪に「税」せずと規定した——「税」の字は他外反と読み、喪期の日月がすでに過ぎ去りて後に訃聞を聞きて補服することを指す——もし曾子に換えて礼を制せしめれば、またどのように定めたか知れない。見れば、この類の事は軽易に断語を下すべからず。
時中之義甚大,須是精義入神以致用,[始得]觀其會通以行其典禮,此(則)[方是]真義理也。行其典禮而不達會通,則有非時中者(也)[矣]。
「時中」のこの二字は、意義が極めて大である。必ず《繋辞下》の言う「義を精して神に入り、以て用を致すなり」のごとく、義理を研精して神に入る歩に至りて、そうして後に事理の会合貫通の処を観察して相応の典章礼制を施行しえて、これをはじめて真の義理と算う。もしただ典章礼制に照らして做すを知るのみで、それの会合貫通する所在を通達できなければ、時中に合せざる処あるを免れがたい。
[今學者則須是執禮,蓋禮亦是自會通制之者。然言不足以盡天下之事,守禮亦未為失,但大人見之,則為非禮非義,不時中也。君子要多識前言往行以畜其德,以其看前言往行熟,則自能比物丑類,亦能見得時中。]禮亦有不須變者,如天敘天秩[之類],如何可變![時中者不謂此。]
今の学者はなお先ず礼を執守するを要す——礼はもともとまた聖人が会通の処より斟酌して制定し出したがゆえに。文字言語は畢竟天下の事変を窮尽するに足らないので、成礼を謹守するもまた過失と算えられない。ただ大人の眼裏より見れば、その中に礼に合せず義に合せざる処あるを免れがたい——それは時中ではないがゆえに。《大畜・大象》の「君子は以て前言往行を多く識り、以てその徳を畜う」——君子は前人の嘉言善行を多く記取して自己の徳を蓄養するを要す。前言往行を熟烂に見れば、自然に類を比べて相求め類に触れて旁通しえて、また漸々時中を見出しうる。もちろん、礼の中にも根本より更改するを要しない部分がある——たとえば《尚書・皐陶謨》の言う天叙・天秩のこの類、あれは天然の倫序等差で、どうして変動しえよう!時中を講ずるは、これらを指すのではない。
繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。言天下之至賾而不可惡也,易語天地陰陽,情偽至隱賾而不可惡也,諸子馳騁說辭,窮高極幽,而知德者厭其言。故言為非艱,使君子樂取之為貴。
経文は続けて「辞を繋げて以てその吉凶を断ず。故に之を爻と謂う。天下の至赜を言うも悪むべからずなり」と言う。《易》は天地陰陽を講じて、人情の真偽を極隠微・極繁雑の歩に至らしめて講じ、読む人はしかし可厭と覚えない。諸子百家は言辞に縦横馳騁して、話を極高極幽の処に説き至るも、しかし真に徳を懂る人はかえって彼らのあの套の話を厭煩する。見れば、話を説き出すは難と算えず、難きは説き出して君子をして楽んで接受せしめうるに在り——これがこそ貴すべきである。
易之為書,有君子小人之雜,道有陰陽,爻有吉凶之戒,使人先事決疑,避凶就吉。擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化。
《易》この書の裏には、君子と小人の両種の人事が一処に夾雑し、道は陰陽の両面に分かれ、爻は吉凶の両様の告誡あり——人をして事の未だ発せざる先に疑惑を決断し、兇険を避けて吉利に趨らしめんがためである。だから経文は「之を擬して後に言い、之を議して後に動き、擬議を以てその変化を成す」と言う:先ず比拟斟酌して後に口を開き、先ず商量審度して後に行動し、この一番の擬議を靠って、自己の変に応ずる功夫を成就する。
凡一言動,是非可(不可)[否]隨之而生,所以要慎言動。“擬之而後言,議之而後動”,不越求是而已。(自)此(以下)皆著爻象之辭所以成變化之道,擬議以教(人)[之]也。凡有一跡出,(則)便有無限人議論處。至如天之生物亦甚有不齊處,然天則無心不恤,此所以要慎[言動]。易曰:“擬之而後言,議之而後動”,只是要求是也。
およそ一句の言・一個の挙動あるごとに、是と非・可与否が随いて生ずるので、言語挙動は皆謹慎するを要す。いわゆる「之を擬して後に言い、之を議して後に動く」は、帰する所はただ一個の「是」の字を求めるに過ぎない。ここより下は、皆爻象の文辞がいかに変に応ずる道を成就するかに就いて講じ、擬議の功夫を用いて人を教導する。およそ一点の痕跡が落ち出れば、無数の人があそこに議論する。天生が万物を養うにすら、甚だ参差不斉なる処がある——ただ天はもともと心なく、体恤計較しに行かない。人はしかしこのようにはできない——これがまさに言動を謹慎する所以である。《繋辞》の「之を擬して後に言い、之を議して後に動く」は、一個の是を求めるに過ぎない。
子曰:君子之道,或出或處,或默或語。二人同心,其利斷金。同心之言,其臭如蘭。君子自知自信,瞭然不惑。又於出處語默之際護與人同,則其志決然,利可斷金。惟仁者能聽盡言,己不欲為善則已,苟欲為善,惟恐人之不言。“二人同心,其利斷金”,夫一人固自明矣,又有一人言而同心,其為利也(知)[如]金鐵之可斷。義理必至於出處語默之不可易,如此其同也,己固自信,又得一人與之同,故利可斷金。
《繋辞上》第八章は孔子の《同人》九五を解するを引いて言う:「君子の道は、或いは出で或いは処り、或いは黙し或いは語る。二人が心を同じくすれば、その利は金を断つ。同心の言は、その臭は蘭のごとし。」君子は自己が明らかに知り篤実に信じ、心裏に了然として疑惑せず。また出仕と退処・沈黙と発言のこれらの関口の上で人と同心して相守しえれば、その志向は決然として移らず、鋒利にして金属を斬断しうる。仁者のみが他人が話を説き尽くすに聴き入れうる:自己が善を為さんと欲せざれば已むも、もし真に善を為さんと欲すれば、ただ他人が口を開くを肯じざるを恐れるのみ。いわゆる「二人同心、その利は金を断つ」——一人は固然としてすでに自明し、さらに一人が口を開きて彼と心を同じくすれば、この力量は金鉄のごとく堅を摧くものなし。義理は必ず出処語默ともに移易すべからざる歩に至ってこそ、両人はかくのごとく相同じと談じ足る。自己はもともとすでに自信し、また一人が自己と相同じを得る——だからその利は金を断ちうると言う。
繋辞上・第九章
大衍之數五十,其用四十有九。“大衍之數五十,其用四十有九”,天地之數也,一固不為用。“天一,地二,天三,地四,天五,地六,天七,地八,天九,地十。”(夫)[天]混然一物,無有終始首尾,其中何數之有?然[此]言(者)特示有漸爾,理須先數天,又[必]須先言一,次乃至於十也。
《繋辞上》第九章の「大衍の数は五十、その用は四十有九」と言う。この五十の数は、すなわち天地の数である。その中のあの「一」はもともと運用に参与しない——それは太極を象徴し、虚にして用いない。経文は「天一、地二、天三、地四、天五、地六、天七、地八、天九、地十」を列挙す。実は天は浑然一体の物で、終始なくまた首尾なく、その裏にどこに数の言うべきがあろう?このように排列する所以は、ただ一個の微より著に至る次第を顕示せんと欲するのみである:理を論ずれば必ず先ず天を数え、また必ず先ず「一」を言い、そうして後に依次に十まで数える。
且天下之數止於十,窮則自十而反一。又數當止於九,其言十者,九之耦也。揚雄亦曰“五(復於五行)[與五相守]”者,蓋地數無過天數之理,孰有地大於天乎?故知數止於九,九是陽極也,十也者姑為五之耦焉爾。
しかも天下の数はただ十に至って止まり、数えて窮尽すれば十より一に返帰す。もし更に深究すれば、数は実は九に止まるべきで、十に至るまで言う所以は、十はただ九の配偶の数に過ぎないがゆえに。揚雄《太玄》も「五と五と相守る」と講ず——見れば地数が天数を超過する道理はない。どこに地が天よりも大なりえよう?だから数はただ九に至って止まるを知る——九は陽の極点である。十に至っては、ただ姑く五の配偶と為すのみ。
分而為二以象兩,掛一以象三,揲之以四以象四時,歸奇於扐以象閏,五歲再閏,故再扐而後掛。天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四,凡三百有六十,當期之日。二篇之策萬有一千五百二十,當萬物之數也。
経文は続けて揲蓍の法を叙す:四十九策を手に随いて二分に分かつは、天地両儀を象る。中より一策を抽出して指間に挟むは、天地人の三才を象る。再び四策をもって一組として数えるは、四時を象る。数えて残った零頭を手指の間に挟むは、閏月を象る。五年の中に二個の閏月あるので、だから両度帰扐して後に掛す。天数に五個の奇数あり、地数に五個の偶数あり、五個の方位が彼此相配して各々匹合あり。天数は合計二十五、地数は合計三十、天地の数は総じて五十五——これが変化を成就し鬼神を運行する根拠である。《乾》卦六爻の策数は二百一十六、《坤》卦六爻の策数は一百四十四、合わせて三百六十で、まさに一年の日数に当たる。上下二篇の六十四卦の策数は共に一万一千五百二十で、まさに万物の数目に当たる。
極兩兩,是為天三。數雖三,其實一也,象成而未形也。[地]兩兩,地,[剛]亦效也,柔亦效也。七離九,六坎八。參天兩地,此但天地之質也,通其數為五。乾坤(止)[正]合為坎離,[坎離]之數當六七,精為日月,粗為水火,坎離合而後萬物生。得天地[之]最靈為人,故人亦參為性,兩為體,推其次序,數當八九。
両と両の相配を推極すれば、すなわち天の三と成る。数目は三とはいえ、実はただ一個の整体である——この時は象がすでに形を成して形質がまだ凝定していないがゆえに。地は則ち両両相偶である:地のこの一辺は、剛もまた来たりて效法し、柔もまた来たりて效法する。成数に就いて言えば、七は離に在り、九もまた離に在り。六は坎に在り、八もまた坎に在る。《説卦》の「天を参じ地を両として以て数を倚る」と講ずるは、これはただ天地の体質に就いて言うのみで、両者の数を打通して合計すればすなわち五である。乾坤は正しく相交合して坎離を成す。坎離の数は六と七に当たる。その精なるに就いて言えば日月、その粗なるに就いて言えば水火で、坎離が交合して後に万物ははじめて生出する。天地間の最も霊秀の一分を禀得して人と為るので、人もまた三をもって性と為し二をもって体と為し、依次に推排して下れば、人の数は八と九に当たる。
八九而下,土其終也,故土之為數終於地十。過此以往,萬億無窮,不越十終反一而已。陽極於九,陰終於十,數乃成,五行奇耦乃備。過此周而(反)[復]始,滋至無算,不越於是。陽用其極,陰不用極而用六者,十者,數之終,九之配也。地無踰天之理,終於其終而已焉。
八九以下は、土が最後の一位なので、土の数は地十の上に終結す。さらに後に推すれば、たとえ万亿無窮とも、ただ十まで数えて一に返帰するのみ。陽は九に至って極点、陰は十に至って終点で、数はここに至ってはじめて完成を算えられ、五行の奇偶の数もまた配備斉全する。ここを過ぎれば周りて復た始まり、繁衍して計算すべからざるも、なおこの格局を跳び出せない。陽はその極数の九を用い、陰は極数を用いずして六を用いる——これは十はただ数の終結にして九の配偶に過ぎないがゆえに。地は天を超過する道理なく、それはただ自己が終結すべき処に終結するのみ。
參天兩地,五也。一地兩,二也。三地兩,六也,坤用。五地兩,十也。一天三,三也。三天三,九也,乾用。五天三,十五也。凡三五乘天地之數,總四十有五,並參天兩地(者)[自然之]數(之)五,共五十。虛太極之一,故為四十有九。
「参天両地」は、合わせて五である。一をもって地の両に乗ずれば、二を得。三をもって地の両に乗ずれば、六を得——これが《坤》の用うる老陰の数である。五をもって地の両に乗ずれば、十を得。一をもって天の三に乗ずれば、三を得。三をもって天の三に乗ずれば、九を得——これが《乾》の用うる老陽の数である。五をもって天の三に乗ずれば、十五を得。この三と五の乗じ出した天地の各数を総じて加えれば、共に四十五を得、さらに「参天両地」のあの自然の数の五を加え、合わせて共に五十——これが大衍の数である。その中の太極を象徴するあの一を虚き去って用いないので、実際に用いる所は四十九である。
“掛一象三”,象天地之三也。揲[四],象四時[也。揲象]四時,(揲之)數不過十,十時乃(三)歲半,舉三揲(多)之餘也。直云“五歲再閏”者,盡(餘)[遇]多之(極)[數]也。揲[常]餘九,則揲者四十而已,四十乃[十四]時之數也。
いわゆる「一を掛けて以て三を象る」とは、天・地・人のこの三才を象ること。いわゆる「之を揲るに四を以てす」とは、四時を象ること。すでに四策一揲をもって四時を象る以上、一度の揲蓍の得る数は十の上下に過ぎず、十個の「時」はすなわち二年半——これはただ三度の揲蓍の余る零頭を挙げて言うのみ。経文は径直に「五歳に再び閏す」と言う——あれは零余の最多きあの情形に遇うに就いて言を立てたのである。もし毎度の揲蓍に常に九策を余せば、揲する所の実数はただ四十で、四十はまさに十四個の「時」の数目に合する。
此相間循環之數也。“五位相得而各有合”,一二相間,是相得也;各有合,以對相合也,如一、六,二、七,三、八,四、九。各有合,神也;位相得,化也。
これは彼此相間して循環往復する数である。経文の「五位相得して各々合あり」:一と二とが相間隔して次第に相承するは、これが「相得」である。「各有合」に至っては、両両相対して配合することを指し、たとえば一と六とが合し、二と七とが合し、三と八とが合し、四と九とが合す。「各有合」のこの一面に就いて言えば、陰陽が感通して測られざるで、「神」に属す。「位相得」のこの一面に就いて言えば、次第に推移漸進するで、「化」に属す。神と化は、まさに一物の両面である。
奇,所掛之一也;扐,左右手四揲之餘也。再扐後掛者,每成一爻而後掛也,謂第二第三揲不掛也。閏常不及(三歲)[五年]而再至,故曰“五歲再閏”。此歸奇必俟於再扐者,象閏之中間再歲也。“成變化[而]行鬼神”,成行陰陽之氣而已矣。
いわゆる「奇」とは、抽出して指間に挟むあの一策を指す。いわゆる「扐」とは、左右の両手が各々四策をもって一数した後に剩る零余である。「再び扐して後に掛く」は、毎度一爻を成して後にはじめて重ねて一を掛けるを言い、すなわち第二揲・第三揲は再び掛けない。閏月は常に五年に満たずして二度来るので、「五歳再閏」と言う。ここに奇を帰するは必ず両度の帰扐の後を待つを要す——まさに閏月が中間に二年を隔てるを象る。経文の「此れ変化を成し鬼神を行う所以なり」と言う——実は変化を成就し鬼神を運行するとは、ただ陰陽二気の屈伸往来を成就し運行するに過ぎない。
是故四營而成易,十有八變而成卦,八卦而小成。引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。顯道神德行,是故可與酬酢,可與祐神矣。
だから言う:分二・掛一・揲四・帰奇のこの四道の経営が一変を算成し、十八変してはじめて一卦を成し、先ず三画の八卦を得るを小成と呼ぶ。ここより引申して開き、類に触れて増長して開けば、天下の有りうる事情は皆包羅し尽くす。《易》は道理を顕示しえ、また徳行を神妙にして測りがたくしうるので、それをもって人事に応対酬答することもでき、またそれをもって神明の功用を賛助することもできる。
示人吉凶,其道顯;陰陽不測,其德神。顯故可與酬酢,神故可與祐神;受命如響故可與酬酢,知來藏往故可與祐神。示人吉凶,其道顯矣;知來藏往,其德行神矣。語蓍龜之用也。顯道者,危使平,易使傾,懼以終始,其要無咎之道也。神德行者,寂然不動,冥會於萬化之感而莫知為之者也。受命如響,故可與酬酢,曲盡鬼謀,故可與祐神。顯道神德行,此言蓍龜之行也。
《易》は吉凶を人に指示するので、その道は顕明である。陰陽変化は測度すべからざるので、その徳は神妙である。顕明なれば、それをもって事務に应酬しうる。神妙なれば、それをもって神明を賛助しうる。それは問訊を承受して応答すること回声のごとし——だから应酬しうる。それはすでに未来を預知しまた過往を収蔵しうる——だから神明を賛助しうる。吉凶を指示するは道の顕、来を知り往を蔵するは徳行の神である。これは蓍草と亀甲の功用に就いて言う。いわゆる「顕道」とは、《繋辞下》の講ずる「危き者をして平らかならしめ、易き者をして傾かしむ」で、人をして始終戒懼の心を存せしめ、その要旨は過錯なき路を走るに在る。いわゆる「神徳行」は、それは寂然として動かず、しかし暗かに万般変化の感召に契合し、しかも誰が為しているかを見出す人なし。問訊を承受して応答すること回声のごとし——だから人事に应酬しうる。曲折周尽に人に代わりて謀画す——だから神明を賛助しうる。「顕道神徳行」のこの一句は、講ずる所はまさに蓍亀の作用である。
子曰:知變化之道者,其知神之所為乎!化之於己,須臾之化則知須臾之頃必顯,一日之化則知一日之(化)[況]有殊。易知變化之道則知神之所為,又曰:“知幾其神乎!”
《繋辞上》第九章の末に孔子を引いて言う:「変化の道を知る者は、その神の為す所を知らんか!」変化を自己身上に落として見れば:片刻の間の変化は、片刻の工夫の裏に必ず顕現し出る物あるを見る。一整天の変化は、ここの日の光景が昨日とすでに同じからざるを見る。人がもし変化の道を懂得すれば、また神の作為を懂得する。だから《繋辞下》第五章もまた言う:「幾を知るは其れ神なるか!」事がまさに念頭を起こす処に於いて看破しえれば、あれはすなわち神である。
惟神為能變化,以其一天下之動也;人能知變化之道,其必知神之為也。聖人之進,豈不自見!今在學者區別是非,有化於(神)[善]者,猶能知之,況聖人乎!易言“窮神知化”,又言“知變化之道”,[知變,化]安得不知!
ただ「神」のみが変化を生出しうる——それが天下の一切の動作を自己の裏に統一するがゆえに。人がもし変化の道を懂得しえれば、また必ず神の作為を懂得する。聖人自身の長進は、どうして自己で見えざらんや!すなわち今日の学者も、是非を分辨する際に、もし人ありて漸々善に向かい化すれば、旁人ですら見出しうる、ましてや聖人においてをや!《繋辞下》の「神を窮め化を知る」と言い、ここにまた「変化の道を知る」と言う——すでにあの顕著の「変」すら知れば、あの漸進の「化」はまた知らざるの道理あらんや!
繋辞上・第十章
[變言其著,化言其漸。]易有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。辭、變、象、占,皆聖人之所務也,[故]易道具焉。一本無易道具焉四字,有故曰神而明之,存乎其人十字。
「変」はその顕著突兀の処に就いて言い、「化」はその漸進無跡の処に就いて言う——二字は軽重が同じからず。《繋辞上》第十章に言う:「易に聖人の道四あり:以て言う者はその辞を尚び、以て動く者はその変を尚び、以て器を制する者はその象を尚び、以て卜筮する者はその占を尚ぶ。」文辞・変化・卦象・占験のこの四様は、皆聖人の致力する所で、《易》の道理はこの裏に完備する。此処に別の一種の本子は「易道具焉」の四字なくして、「故曰神而明之、存乎其人」の十字と作る。
尚辭則言無所苟,尚變則動必精義,尚象則法必致用,尚占則謀必知來,四者非知神之所為,孰能與於此!知德之難言,知之至也。孟子謂“我於辭命則不能”,又謂“浩然之氣難言”,易謂“不言而信存乎德行”,又以尚辭為聖人之道,非知德,達乎是哉?
文辞を崇尚すれば、話は苟且を肯じない。変化を崇尚すれば、行動は必ず義理を精研す。卦象を崇尚すれば、取法は必ず実用に落ちる。占験を崇尚すれば、謀画は必ず将来を預知しうる。この四様は、もし神の作為を懂得する人でなければ、誰か参与しえよう!「徳」が言説しがたきを懂得する——これがまさに知の極致である。《孟子・公孫丑上》の「我は辞命に於いては能わず」と言い、また浩然の気を「言いがたし」と言う。《繋辞上》の「黙して之を成し、言わずして信ず、徳行に存る」と言い、同時に文辞を崇尚するを聖人の道に列入す——真に徳を懂得する人にあらざれば、能くこの一層に通達せんや?
學未至(於)[乎]知德,語皆有病。形而上者,得辭斯得象矣,故變化之理須存乎辭。言,所以顯變化也。易有聖人之道[四焉],而曰“以言者尚其辭”,辭者,聖人之所(以聖)[重]。人言命字極難,辭之盡理而無害者,須出於精義。易有聖人之道四,曰以言者尚其辭,必至於聖人,然後其言乃能無(敝)[蔽],蓋由精義所自出也,故辭不可以不修。
学問がまだ徳を懂得する歩に至らなければ、説き出す話は皆毛病あり。形而上のあの一層は、文辞を得ればすなわち卦象をも得るので、変化の道理は必ず文辞の裏に寄存せざるをえない。言語とは、まさに変化を顕発し出すに用いられる。《易》に聖人の道四条ありて、しかも先ず「以て言う者はその辞を尚ぶ」と言う——見れば文辞は聖人の看重する所である。人は常に事物に命名措辞するが極めて難しと言い、文辞をして義理を窮尽してしかも流弊を生ぜしめざらしめんには、必ず義理を精研する中より来らざるをえない。《易》に聖人の道四条ありて「以て言う者はその辞を尚ぶ」と言う——必ず聖人の歩に修めてこそ、説き出す話に遮蔽なきありうる。それは精義の中より自然に流出するがゆえに、だから文辞は修治を加えざるべからず。
[人於龜策無情之物,不知其將如何,惟是自然莫或使之然者,陰陽不測之類也。己方虛心以鄉之,卦成於爻以占之,其辭如何,取以為占。聖人則又於陰陽不測處以為占,或於夢寐,或於人事卜之。然聖人於卜筮亦鮮,蓋其為疑少故也。]
人が亀甲蓍草のごとき情識なき物に面対する時、もともとそれがどのような結果を出現するかを知らない。あれはただ自然に然るのみで誰かそれを然らしめるなく、陰陽の測度すべからざる一類に属す。自己はまさに心を虚しくしてそれに面対し、卦が爻より積成した後に拠って占問し、それの文辞がどう言うかを見て、取って占断と為す。聖人は則ち更に一歩を進め、陰陽の測度すべからざる処に於いて占を取る:或いは夢寐の中に於いて、或いはすなわち人事の上に於いて卜量す。ただ聖人の卜筮を用いる時はもともと少ない——その心裏の疑惑がもともと多くないがゆえに。
是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如響,無有遠近幽深,遂知來物,非天下之至精,其孰能與於此!參伍以變,錯綜其數,通其變,遂成天地之文,極其數,遂定天下之象,非天下之至變,其孰能與於此!
だから君子がまさに作為せんとし、まさに行動せんとする時は、すなわち《易》に向かって発問して言辞をもって求告し、それは問命を承受して応答すること回声のごとく、遠近幽深を問わず、皆これによって未来の事情を知りうる。もし天下の最も精微なる物にあらざれば、誰かこの一歩を為しえよう!三と五とを交互に推排してその変を求め、錯雑綜合してその数目を貫通しその変化を遂げて、よって天地間の文彩を成就す。その数目を窮極して、よって天下の物象を断定す。もし天下の最も変通に善き物にあらざれば、誰かこの一歩を為しえよう!
易無思也,無為也,寂然不動,感而遂通天下之故,非天下之至神,其孰能與於此!夫易,聖人之所以極深而研幾也。唯深也,故能通天下之志;唯幾也,故能成天下之務;唯神也,故不疾而速,不行而至。子曰“易有聖人之道四焉”者,此之謂也。
《易》は思慮なく、また作為なく、寂然として動かず、一たび感召されれば天下の一切の事故を貫通す。もし天下の最も神妙なる物にあらざれば、誰かこの一歩を為しえよう!《易》とは、まさに聖人が用いて幽深を窮極し幾微を研求する工具である。ただその幽深なるがゆえに、能く天下人の心志を貫通す。ただその幾を知るがゆえに、能く天下の事務を成就す。ただその神妙なるがゆえに、急趕するを要せずして自然に迅速にして、行走するを要せずして自然に到達す。孔子の「易に聖人の道四あり」と言うは、講ずる所はまさにこれである。
有不知則有知,無不知則無知,是以鄙夫有問,仲尼竭兩端而空[空],易[無思無為],受命乃如響。“無有遠近幽深,遂知來物,非天下之至精,孰能與於此”,[此]言易之為書也。至精者,謂聖人窮理極盡精微處,中庸所謂至矣。
心裏に一個の「不知」あってこそ、一個の「知」あるを顕出す。知らざるなき歩に至れば、かえって何の「知」かあると言うに及ばない。だから《論語・子罕》は鄙陋の人が来て発問するに、孔子はただ空空如として、その両端を叩いてその所有を尽くすを記す。《易》もまたまさに思無く為なきがゆえに、問命を承受して応答すること回声のごとし。経文の「遠近幽深なく、遂に来物を知る。天下の至精に非ざれば、その孰れか能く此に与らんや」と言うは、これは《易》この書に就いて言う。いわゆる「至精」とは、聖人が義理を窮究して極精極微の処に至るを指し、すなわち《中庸》の言う「至なり」である。
(天下之理斯盡,因易之三百八十四爻變動以寓之人事,告人以當如何時、如何事,如何則吉,如何則凶,宜動宜靜,丁寧以為告戒,所以因貳以濟民行也。)
天下の道理はここに至って窮尽する:聖人は《易》の三百八十四爻の変動を借って、人事をその裏に寄寓し、人に告げてどの時に処しどの事に遇い、どう為せば吉でどう為せば凶か、どの時に動くべきでどの時に静なるべきかを、反覆して叮嚀して告誡と為す。これがすなわち《繋辞下》の言う「貳に因りて民行を済す」で、吉凶両端の対照を凭って、百姓を助けてその路を善く走らしむる。
既言參伍矣,參伍而上覆如何分別?氣之聚散於太虛,猶冰凝釋於水,知太虛即氣[則無有有無。故聖人語性與天道之極,盡於參伍之]神變易而已。諸子淺妄,有有無之分,非窮理之學也。
経文がすでに「参伍以変」と言うた以上、参伍の上にまたどう分別せんや?気は太虚の中に聚まりてまた散じ——ちょうど水裏の氷が凝まりてまた化するがごとし。氷が化するは無きにあらず、ただ復た水に帰するのみ。太虚がすなわち気なるを懂得すれば、また何の「有」と「無」の分別あらん。だから聖人が性と天道の極致を講ずるも、ただ参伍交錯・神妙変易のこの一層の上に尽くるに過ぎない。諸子は浅陋にして妄断し、強いて一個の有・一個の無を立てる——あれは理を窮める学問ではない。
易非天下之至精,則辭不足[以]待天下之問;非深,不足[以]通天下之志;非通變極數,則文不足以成物。象不足以制器,幾不足以成務;非周知兼體,則其神不能通天下之故,(故)不疾而速,不行而至也。
《易》がもし天下の最も精微ならざれば、その文辞は天下の発問に応対するに足らない。もし幽深に足らなければ、天下人の心志を貫通するに足らない。もしその変に通じその数を極めること能わざれば、あの文彩は万物を成就するに足らず、卦象は器用を制作するに足らず、幾微は事務を成就するに足らない。もし周遍に知り兼摂に体すること能わざれば、それのあの神は天下の一切の事故を貫通しえず、また急趕せずして自然に迅速・行走せずして自然に到達を為しえない。
非至精、至變、至神不能與,故曰“神而明之,存乎其人”。無知者,以其無不知也;若言有知,則有所不知也。惟其無知,故能竭兩端,易所謂“寂然不動,感而遂通”也。無知則神矣,苟能知此,則於神為近。無知者,亦以其術素備也,道前定則不窮。
至精・至変・至神にあらざれば参与しえないので、《繋辞上》第十二章の「神にして之を明らかにするは、其の人に存る」と言う。聖人を「无知」と言うは、まさに彼に知らざるなきがゆえに。もし彼に知あると言えば、必ず別に知らざる所あらん。ただその无知なるがゆえに、能く両端を叩いてその所有を尽くしうる——これが《易》の言う「寂然として動かず、感じて遂に通ず」である。无知の歩に至ればすなわち神で、人がもしこの一層を懂得しえれば、神を離るるもまた遠からず。いわゆる无知とは、またその道術が平素よりすでに具備したに因る。《中庸》の「道は前に定まれば窮まらず」と言うは、まさにこの道理である。
一故神,譬之人身,四體皆一物,故觸之而無不覺,不待心使至此而後覺也,此所謂“感而遂通,不行而至,不疾而速”也。物形乃有小大精粗,神則無精粗,神即神而已,不必言作用。譬之三十輻共一轂則為車,若無(轂)[輻]與(輻亦)[轂,則]何以見車之用!感皆出於性,性之流也,惟是君子上達、小人下達之為別。
ただそれが「一」なるがゆえに、能く神なりうる。人身を拿って比方すれば:四肢百体は同一の身子なので、どの一処に碰うともどの一処に知觉あり、心が先に差遣してそこに至るを待つを要せずして覚える——これがいわゆる「感じて遂に通じ、行かずして至り、疾からずして速やかなり」である。物は一たび形体あれば、すなわち大小精粗の別あり。神は則ち精粗の謂いなく、神はただ神のみで、別にそれに何の作用あるかを言うを要しない。ちょうど《老子》の講ずる三十根の輻条が一個の車轂を共にしてはじめて車と為る——もし輻もなく轂もなくば、どこより車の用を見出さんや!一切の感応は皆性より出で、皆性の流行である。分別はただ君子がこれによって天理に上達し小人がこれによって人欲に下達するに在るのみ。
易言“感而遂通”者,蓋語神也。雖指暴者謂之神。然暴亦固有漸,是亦化也。聖人通天下之志,雖愚人與禽獸猶能識其意。有所感則化。感亦有[不速],難專以化言,感而遂通者神,又難專謂之化也。[聖人感天下之志,雖愚人猶能識其意。]
《易》の「感じて遂に通ず」と言うは、講ずる所はまさに神である。あの突如として至る一面を指して神と称すと言うも、しかし突然の中にももともと自ずから漸進の過程あり——あの一面はすなわち化である。聖人は天下人の心志を貫通し、愚人と禽獣に至るまでなお彼の意思を領会しうる。およそ感ずる所有れば、すなわち化あらん。ただ感にも来ること速やかならざるあり、一概に「化」をもって言いがたし。そして「感じて遂に通ず」のあの一種は神に属し、また一概に之を化と称しがたし。聖人は天下人の心志を感通し、たとえ愚人に於いてもなお彼の意思を領会しうる。
[凡氣,清則通,昏則壅,清極則神。故聚而有間則風行,風行則聲聞臭達,清之驗與!不行而至,通之極與!]天一,地二,天三,地四,天五,地六,天七,地八,天九,地十。
およそ気は、清ければ通暢し、濁れば壅塞し、清が極処に至ればすなわち神である。だから気が聚まりてその間になお空隙あれば、風はすなわち行走しうる。風が一たび行走すれば、声音は伝わり開き气味は達して遠く——これが「清」の験証であろう!行走するを要せずして自然に到達す——これが「通」の極致であろう!以下経文は列挙す:天一、地二、天三、地四、天五、地六、天七、地八、天九、地十。
繋辞上・第十一章
此語恐在“天數五、地數五”處。然聖人之於書,亦有不欲並[以]一說盡,慮易知後則不復研究,故有易有難,或在此說,或在彼說,然要終必見,但俾學者潛心。子曰:夫易,何為者也?夫易,開物成務,冒天下之道,如斯而已者也。“開物成務”,物,凡物也;務,事也;開,明之也;成,處之也。事無大小,不能明[則]何由能處!
「天一地二」のこの一段の話は、おそらくもともと「天数五、地数五」のあの一処に在るべきだった。ただ聖人が書を著すに、また話を一処に説き尽くすを肯じない時あり:彼は読者が容易に懂りえた後に再び深究しないを顧慮し、故意に易きあり難きあり、ある道理はここに置きて言いあるはかちに置きて言う——しかし到頭は終に顕露し出で、ただ学者をして沈潜して心を用いしめんと欲するのみ。《繋辞上》第十一章に言う:「あの易は、何を為す者か?あの易は、物を開き務を成し、天下の道を冒す、斯くのごときのみなり。」いわゆる「開物成務」とは、「物」は一切の事物を泛指し、「務」は事情である。「開」はそれを照明すること、「成」はそれを処置して妥当ならしむること。事情は大小を論ぜず、もし先ずそれを照明できなければ、何を凭ってそれを処置せん!
雖至粗至小之事,亦莫非開物成務。譬如不深耕易耨,則稼穡烏得而(立)[生]!“惟深也故能通天下之志,惟幾也故能成天下之務”,是則開物成務者,必也有濟(時)[世]之才。是故聖人以通天下之志,以定天下之業,以斷天下之疑。是故蓍之德圓而神,卦之德方以知[六爻之義易以貢。]
たとえ極粗浅・極細小の事でも、一つとして開物成務ならざるはない。譬えば《孟子》の言う深耕易耨——もし深耕細鋤を肯じなければ、庄稼はどこより長じ出づらん!経文の「ただ深きがゆえに、能く天下の志を通ず。ただ幾なるがゆえに、能く天下の務を成す」——見れば、能く物を開き務を成す人は、必ず世を済う才あるを要す。だから聖人は《易》を用いて天下人の心志を貫通し、天下の功業を奠定し、天下の疑難を決断す。だから蓍草の徳性は円通にして神妙で、卦の徳性は方正にして定知あり、六爻の意義は則ち変に随いて人に告ぐ。
圓神故能通天下之志,方知故能定天下之業,爻貢(所以)[故能]斷天下之疑。易書成,三者備,民患明,聖人得以洗濯其心而退藏於密矣。[惟]能通天下之志者為能感人心。吉凶與民同患。吉凶可以正勝,非聖人之患也。神以知來,知以藏往。(非神不能顯諸仁,非知不知藏諸用。)
蓍の円にして神なるは、天下人の心志を貫通しうるがゆえに。卦の方にして知あるは、天下の功業を奠定しうるがゆえに。爻の変に随いて告ぐるは、天下の疑難を決断しうるがゆえに。《易》書が一たび成れば、この三様は皆斉備し、百姓の禍患は分明に見られ、聖人はよって自己の心を洗滌して隠密の処に退蔵しうる。ただ天下人の心志を貫通しうる人のみが、人心を感動しうる。経文の「吉凶は民と患を同じくす」と言う:吉凶はもともと一個の「正」の字をもってそれに勝ちうる——もともと聖人の真の憂患の所在ではない。経文はまた「神以て来を知り、知以て往を蔵す」と言う——神にあらざれば仁徳を顕発し出すことができず、知にあらざれば功用を蔵斂することができない。
開物於幾先,故曰“知來”明憂患而弭其故,故曰“藏往”。古之聰明睿知,神武而不殺者夫!“神武不殺”,神(知)之大者[也],使知懼而不犯,神武者也。是以明於天之道而察於民之故,是興神物以前民用。言天之變遷禍福之道,由民之逆順取舍之故,故作易以先之。聖人以此齊戒以神明其德夫!
幾微のまだ動かざる先に於いて事物を照明する——だから「知来」と呼ぶ。憂患を看清してその根由を消弭す——だから「蔵往」と呼ぶ。経文は讚嘆して「古の聡明叡知、神武にして殺さざる者か」と言う。いわゆる「神武不殺」とは、神の最大の処である:人をして心に畏懼を存して触犯せざらしめ、刀兵を動かすを要せずして人は自ずから犯さない——これがこそ神武である。だから聖人は天の道を明了し、また百姓の実情を察知し、よって蓍亀のごとき神物を興起して、百姓の日用を引導する。これは言う:天の変遷・降福降禍の道理は、もともと百姓の順逆取舍に随いて来るので、聖人は《易》を作し、先の一歩にそれを指点し出す。経文は続けて「聖人は此を以て斉戒し、以てその徳を神明にするか」と言う。
民患除,憂疑亡,用利身安,故可退藏於密,窮神知化以崇高其德也。自此而下,又歷言其德之出而異名也。是故闔戶謂之坤,闢戶謂之乾,一闔一闢謂之變,闔戶,靜密也,闢戶,動達也,形開而目睹耳聞,受於陽也。一動一靜,是(道)[戶]之常,專於動靜則偏也。“一闔一闢謂之變”,人之有息,蓋剛柔相摩、乾坤闔闢之象也。制而用之謂之法,
百姓の禍患が除去され、憂慮疑惑が消亡し、用度は便利にして身心は安頓するので、聖人は隠密の処に退蔵しえて、神妙を窮究し造化を通暁し、以て自己の徳を崇高にす。ここより下、経文はまた逐条にこの徳が発用し出る時の種種の異名を列挙す。経文の「故に戸を闔ずるを坤と謂い、戸を辟くを乾と謂い、一闔一辟を変と謂う」:門戸を関起するは、静にして収斂である。門戸を打開くは、動にして通達である。形体が一たび開けば、眼は能く看、耳は能く聴く——あれは陽気を承受したがゆえに。一動一静はもともと門戸の常態で、もし専ら動に主とし或いは専ら静に主とすれば、偏した。いわゆる「一闔一辟を変と謂う」——人の一呼一吸は、まさに剛柔相摩・乾坤開闔の形象である。経文は続けて「制して之を用うるを法と謂う」と言う。
因其變而裁制之以教天下,聖人之法也。利用出入,民咸用之,謂之神。用之不窮,莫知其鄉,故名之曰神。[虛靜(昭)[照]鑑,神之明也。無遠近幽深,利用出入,神之充塞而無間也。]
その変化に順って裁断制作を加え、用いて天下を教化す——これが聖人の「法」である。経文の「利用出入し、民咸く之を用うるを神と謂う」:それを用いて尽きず、また誰もそれが究竟どこより来たりどこに去るかを知らないので、それに名を取りて「神」と呼ぶ。心地が虚静にして万物を照鑑しうるは、あれは神の明である。遠近幽深を分かたず、出入自如にして利ならざる所なきは、あれは神の天地に充塞して一糸の間隙もなきである。
是故易有大極,是生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦,八卦定吉凶,吉凶生大業。四象即乾之四德,四時之象,故下文云“變通莫大乎四時”。盡吉凶之理,則能盡天人之助而成位乎其中(矣),故下云“崇高莫大乎富貴”。有吉凶利害,然後人謀作,大業生;若無施不宜,則何業之有!
経文の「故に易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず」と言う。ここの四象は、すなわち《乾》卦の元亨利貞の四徳で、すなわち四時の象なので、下文に「変通は四時より大なるは莫し」と言う。吉凶の道理を窮究して底に至りえれば、天助と人助を尽く得て天地の間に位を成しうるので、下文にまた「崇高は富貴より大なるは莫し」と言う。まさに吉あり凶あり・利あり害あるがゆえに、人の謀慮は興起し大業は産出する。仮に何を為すも往きて宜しからざるなければ、なお何の功業を談じえん!
天生神物,聖人則之;天生蓍龜,聖人則之以占兆。一云“占之以兆”。天地變化,聖人效之;天地變化,聖人作易以(著)[蓍龜]效之,故曰“聖人效之”。天垂象,見吉凶,聖人象之;河出圖,洛出書,聖人則之。作易以示人,猶天垂象見吉凶;作書契效法,猶地出圖書。一雲猶河洛。[繫辭焉,所以告也。][易象繫之以辭者,於卦既已具其意象矣,又切於人事言之,以示勸戒。]
経文の「天は神物を生じ、聖人は之に則る」と言う:上天は蓍草と亀甲のごとき神物を生出し、聖人はすなわちそれらに取法して兆象を占断す。この句は一の版本に「兆を以て之を占す」と作る。経文の「天地変化し、聖人は之を效う」と言う:天地に変化あれば、聖人はすなわち《易》を作し、蓍亀を用いてそれを仿効す——だから「聖人効之」と言う。経文の「天は象を垂れて吉凶を見せ、聖人は之に象る。河は図を出し洛は書を出し、聖人は之に則る」と言う:聖人が《易》を作して世人に指示するは、ちょうど上天が星象を垂示して吉凶を顕すがごとし。書契を作して法度を立つるは、ちょうど大地が河図洛書を出現するがごとし。この句は一の版本に「猶河洛」と作る。経文はまた「辞を繋ぐるは、告ぐる所以なり」と言う。《易》の卦象に文辞を繋ぐるは、卦中にすでにその意と象を具備すれども、なお人事に切近して話を説き明白にして、用いて勧勉し告誡せんがためである。
繋辞上・第十二章
易曰:“自天祐之,吉無不利。”子曰:祐者,助也,天之所助者順也。(自)易曰“自天祐之”,此(篇)[言]宜在“立心勿恆凶”下,蓋上言“莫益之”,故此言多助也。變而通之以盡利,理勢既變,不能與時順通,非盡利之道。鼓之舞之以盡神。鼓天下之動者存乎神。神一作辭。
《繋辞上》第十二章は頭を開きて言う:「《易》に曰く『天より祐えらる、吉利あらざるなし』。子曰く、祐とは助なり。天の助くる所は順なり。」張載に按ずれば、「自天祐之」のこの一句はもともと《益》卦上九の「心を立てて恒ならざれば、凶」の下に排在すべきであった。上文が「之を益す者莫く、或いは之を撃つ」と講じて、人の相助するなきを言うがゆえに、ここに続けて多助を講じて、前後が正しく相照応する。経文の「変じて之を通じて以て利を尽くす」:事理と形勢がすでに変じて、人がもし時勢に随って順応変通できなければ、その利を窮尽する路数ではない。経文の「之を鼓い之を舞いて以て神を尽くす」:天下の一切の動作を鼓動するは、「神」に在る。此処の「神」の字は一の版本に「辞」と作る。
天下之動,神鼓之也,神則主(於)[乎]動,故天下之動,皆神[之]為(之)也。辭不鼓舞則不足以盡神,辭謂易之辭也。於象固有此意矣,又繫之以辭,因而駕說,使人向之,極盡動之義也。
天下の一切の動作は、皆神がそれを鼓動している。神はもともと動を主管するので、天下の動は一つとして神の作為ならざるはない。文辞がもし人を鼓舞できなければ、この神を発揮し尽くすに足らない。ここの「辞」とは、《易》の卦爻辞を指す。卦象の裏に本すでにこの層の意思を含み、聖人はまたそれに文辞を繋げて、文辞に就いて铺陳して開き、人をして向往し趨赴せしめ、「動」の意義を極処に推した。
歌舞為巫風,言鼓舞之[以]盡神者,與巫之為人無心若風狂然,主於動而已。故以好歌舞為巫風,猶(之)[雲]如巫也。巫主於動,以至於鼓舞之極也,故曰盡神。因說鼓舞之義,故取巫(以)為言。語其動而已。
《尚書・伊訓》は歌舞に耽るを「巫風」と呼ぶ。ここに鼓舞を用いて神を窮尽すると言うは、巫者が作法する時のあの无心にして癲がごとく狂がごとき様子を取り、一味にただ動に主とするのみ。だから歌舞を愛好するを巫風と称するは、「巫のごとし」と言うに等しい。巫は専ら動に主とし、動きて鼓舞の極点に至るまでするので、借りて「尽神」を形容する。ここはただ「鼓舞」の意思を講じんとするがゆえに、巫を取って比方を打つに過ぎず、言う所はただあの「動」の字のみで、真に巫風を美と為すのではない。
乾坤其易之縕邪!乾坤成列而易之乎其中矣,乾坤毀則無以見易,易不可見,則乾坤或幾乎息矣。陰陽、剛柔、仁義之本立,而後知趨時應變,故乾坤毀則無以見易。感而後有通,不有兩則無一,故聖人以剛柔立本,乾坤毀則無以見易。
経文に言う:「乾坤は其れ易の緼なるか!乾坤が列を成せば易はその中に立つ。乾坤が毀れれば、以て易を見るなし。易見えざらんとすれば、乾坤は或いは幾ばくか息えん。」陰と陽・剛と柔・仁と義のこれら成対の根本が一たび確立すれば、人ははじめてどう時宜に趨合し変化に応対するかを知る。だから乾坤が一たび毀れれば《易》を見るに由なしと言う。必ず先ず感あって後に通あり、対立の両端なければ、またあの統一の「一」もない。だから聖人は剛柔の両者を用いて根本を立定する。これがまさに張載の「一物両体」の説である:両が立たなければ一は見えず、乾坤が毀れれば以て易を見るなし。
乾坤既列,則其間六十四卦爻位錯綜以為變易。苟乾坤不列,則何以見易?易不[可]見,則是無乾坤。乾坤,天地也;易,造化也。聖人之意莫先乎要識造化,既識造化,然後(有)[其]理可窮。彼惟不識造化,以為幻妄也。不見易則何以知天道?不知[天]道則何以語性?
乾坤がすでに排列して両端を成せば、中間の六十四卦の爻位は錯綜交互して変易を生出す。仮に乾坤が排列し開かなければ、またどこより《易》を見んや?《易》が見えなければ、すなわち乾坤なきに等しい。乾坤とは、すなわち天地である。易とは、すなわち造化である。聖人の用意は、人をして先ず造化を認識せしめるより要紧なるはない。造化を認識して、その理ははじめて窮究すべき処あり。仏老の流がまさに造化を認識しないがゆえに、こそこの世界を幻妄と看做す。《易》を見なければ、何を凭って天道を知らん?天道を知らなければ、また何を凭って性を談論せん?
[不見易則不識造化,不識造化則不知性命,既不識造化,則將何謂之性命也?][有謂心即是易,造化也,心又焉能盡易之道!][易乃是性與天道,其字日月為易,易之義包天道變化。][釋氏之言性不識易,識易然後盡性,蓋易則有無動靜可以兼而不偏舉也。]
《易》を見なければ造化を認め得ず、造化を認め得なければ性命を知らない。すでに造化すら認め得なければ、また何を拿って性命を称説せん?或る人は「心がすなわち易、すなわち造化」と言うが、しかし心はまたどうして《易》の道理を窮尽しえよう!《易》の講ずる所はまさに性と天道で、字形に就いて言えば、日と月とが合わさって「易」と為り、その意義は天道の変化を包挙する。仏家は性を談じて《易》を識らない。必ず先ず《易》を識得して、そうして後にはじめて性を尽くすに談じ足る——《易》は有と無・動と静を一併に兼摂し、その中のどの一辺も偏挙しないがゆえに。
是故形而上者謂之道,形而下者謂之器,化而裁之謂之變,推而行之謂之通,舉而錯之天下之民謂之事業。一陰一陽不可以形器拘,故謂之道。乾坤成列而下,皆易之器。乾坤交(變)[通],因約裁其(變)[化]而[指]別之,[則名體各殊,]故謂之變。推(而)行其變,盡利而不遺,可謂通矣;舉盡利之道而錯諸天下之民以行其典禮,易之事業也。遺一作匱。
経文に言う:「故に形而上者を道と謂い、形而下者を器と謂い、化して之を裁くを変と謂い、推して之を行うを通と謂い、挙げて之を天下の民に错けるを事業と謂う。」一陰一陽の往復は形体器物をもって拘限できないので、それを「道」と称す。乾坤が排列して象を成す以下、およそ形の指すべきあるは、皆《易》の「器」である。乾坤が交相に貫通し、人はその中よりその流行を約束裁断して一一に指認分別し、よって名称と体段が各々同じからず——だから「変」と呼ぶ。この変を推行して開き、その利を尽くして遺漏なければ、「通」と呼びうる。再びこの尽利の道を挙げ出して天下の百姓に施し、用いて典章礼制を推行す——これが《易》の事業である。「遺」の字は一の版本に「匱」と作る。
(約裁其化而指別之,則名體各殊,故謂之變。)運於無形之謂道,形而下者不足以言之。(鼓萬物而不與聖人同憂,天道也。聖不可知也,無心之妙非有心所及也。)“形而上[者]”是無形體者(也),故形(以)[而]上者謂之道也;“形而下[者]”是有形體者,故形(以)[而]下者謂之器。無形跡者即道也,如大德敦化是也;有形跡者即器也,見於事實(如)[即]禮義是也。
この化を約束裁断して一一に指認分別すれば、名称と体段はすなわち各々同じからず——だからそれを「変」と称す。无形の中に於いて運行するを「道」と呼び、形而下のあの一層はそれを言い上げるに及ばない。天が万物を鼓動して聖人と憂を同じくせざるは、これが天道である。聖が測知すべからざる歩に至る——あの无心にして成る妙用は、一個の有心の人の企及しうる所ではない。いわゆる「形而上者」とは、形体なきもので、だから形而上者を道と称す。いわゆる「形而下者」とは、形体あるもので、だから形而下者を器と称す。形迹の指すべきなきがすなわち道で、たとえば《中庸》の言う「大徳敦化」である。形迹の見うるあるがすなわち器で、具体的事物の上に落実し、たとえば礼と義である。
(聖人因天地之化裁節而立法,使民知寒暑之變,故謂之春夏秋冬,亦化而裁之一端耳。)凡不形以上者,皆謂之道,惟是有無相接與形不形處知之為難。須知氣從此首,蓋為氣能一有無,無則氣自然生,[氣之生即]是道(也)是易(也)。化而裁之存乎變,推而行之存乎通,
聖人は天地の造化に依って裁節を加えて法度を制定し、百姓をして寒暑推移の節候を知らしめ、因りてそれに春夏秋冬と名を定める——これもまた「化して之を裁く」の一端に過ぎない。およそ形体の上に落ちざるは、皆道と呼ぶ。ただ「有」と「無」の相接する処・「有形」と「无形」の交界する処が、最も認取しがたい。知るべし、一切は必ず「气」のここより頭を起こさねばならぬ:気は有と無を統一しうるがゆえに——いわゆる無とは、ただ気がまだ凝聚していないことで、気は自然に生発する。そして気の生発そのものがすなわち道、すすなわち易である。経文は続けて「化して之を裁くは変に存り、推して之を行うは通に存る」と言う。
[常人之學,日益而(莫)[不]自知也。仲尼行(者)[著]習察,異於他人,[故自]十五至[於]七十,化而裁之,其進德之盛者歟!][聖人因天地之化裁節而立法,使民知寒暑之變,故為之春夏秋冬,亦化而裁之之一端耳。]
常人は学問を為して、一日々に長進あるも自己では覚察しない。孔子はしかし同じからず:《孟子》が世人を譏りて「之を行うも着せず、之に習うも察せず」と言う——孔子はちょうど行えば則ち着し、習えば則ち察し、旁人と両様なので、十五歳にして学に志すより一路に七十歳にして心の欲する所に従うに至るまで、一段一段に「化して之を裁く」——これはおそらく徳を進めるの盛であろう!聖人は天地の造化に依って裁節を加えて法度を制定し、百姓をして寒暑推移の節候を知らしめ、因りてそれに春夏秋冬と定める——これもまた「化して之を裁く」の一端に過ぎない。
“變則化”,由粗入精也,“化而裁之謂之變”,以著顯微也。“化而裁之存乎變”,存四時之變,則週歲之化可裁;存畫夜之變,則百刻之化可裁。[“推而行之存乎通”,]推四時而行,則能存週歲之通,推畫夜而行,則能存百刻之通。
《中庸》の「変すれば則ち化す」と言うは、あれは粗より精に入る過程である。《繋辞》の「化して之を裁くを変と謂う」と言うは、あれは顕著の一頭を拿って幽微の一頭を顕明すること。だから「化して之を裁くは変に存る」と言う:四時の分界の変を存住すれば、一整年の默默たる流行を裁断し出すべく、昼夜の分界の変を存住すれば、一昼夜百刻の默默たる流行を裁断し出すべし。いわゆる「推して之を行うは通に存る」:四時を推移して行い下れば、すなわち一整年の貫通を存住しうる。昼夜を推移して行い下れば、すなわち百刻の貫通を存住しうる。変は指すべき節点、化は跡なき流行で、両者は相須って後に見えうる。
神而明之,存乎其人,默而成之,不言而信,存乎德行。上天之載,無聲臭可象,[正]惟儀刑文王,當冥契天德而萬邦信說,故易曰“神而明之,存乎其人”。[“神而明之,存乎其人”,]不知上天之載,當存文王。
経文は最後に言う:「神にして之を明らかにするは、其の人に存る。黙して之を成し、言わずして信ずるは、徳行に存る。」《詩経・大雅・文王》の「上天の載は、声無く臭無し」と言う——天道には声音气味の象を取るべきがないので、あの詩は続けて「文王に儀刑せば、万邦孚を作さん」と言う——文王を效法して暗かに天徳に契合すれば、天下の万邦は自然に信服して喜悦す。だから《易》は「神にして之を明らかにするは、其の人に存る」と言う。すでに上天の載がどのようかを知らなければ、すなわち文王の身上に於いて存想体認すべし。
“默[而]成[之,存乎德行]”,學者常存德性,則自然默成而信矣。“神而明之,存乎其人”,道至有難明處而能明之,此則在人也。凡言神,亦必待形然後著,不得形,神何以見?“神而明之,存乎其人”,然則亦須待人而後能明乎神。[存文王則知天載之神,存眾人則知物性之邪。]
いわゆる「黙して之を成すは徳行に存る」とは、学者はただ常に徳性を存養すれば、自然に言わずして成し言わずして信じうる。いわゆる「神にして之を明らかにするは其の人に存る」とは、道理が極めて明白なりがたき処に至って竟にそれを照明しうる——この一層は全く人の身上に在るを言う。およそ「神」を講ずるも、必ず形体あってはじめて顕れ出るを待つ。形体なければ、神はどこより見えん?だから「神にして之を明らかにするは其の人に存る」と言う——見れば神もまた人あって後にはじめて照明されうる。文王の身上に於いて存想すれば、すなわち上天の載のあの神を知る。衆人の身上に於いて存想すれば、すなわち物性の偏邪なるあの一面を知る。
繋辞下
八卦成列,象在其中矣;因而重之,爻在其中矣;剛柔相推,變在其中矣;繫辭焉而命之,動在其中矣。吉凶悔吝者,生乎動者也;剛柔者,立本者也;變通者,趨時者也;吉凶者,貞勝者也;見乎變,隨爻象之變以通其利,故功業見也。
《繋辞下》第一章に言う:八卦が一たび排列して象を成せば、全部の卦象は皆この裏面に含まる。再び八卦を両両相重ねて六十四卦と為せば、三百八十四爻もまた皆この裏面に含まる。剛爻と柔爻が彼此推移往来すれば、一切の変化も皆この裏面に含まる。每一爻に文辞を繋げて命断を加えれば、人事の動向も同じくこの裏面に含まる。吉・凶・悔・吝のこの四様の名目に至っては、全て一個の「動」の字の上より生出する。剛と柔は、用いて根本を立定する。変と通は、用いて時に随い趨合する。そして吉と凶は、則ち一個の「正」の字を靠ってそれに勝つを要す。経文はまた功業が「変に見る」と講じ、張載は解して言う:人が爻位物象の変動に順ってその中の利益を貫通すれば、功業はよって顕現する。
聖人之情見乎辭。聖人之情,存乎教人而已。天地之大德曰生,將陳理財養物於下,故先敘天地生物。聖人之大寶曰位,何以守位曰仁,失位則無以參天地而措諸民也。
経文の「聖人の情は辞に見る」と言う:聖人の心意は、全く人を教うるこの一事の上にあるのみ。経文の「天地の大徳は生と曰う」は、これは下文がまさに財を理し物を養うの一類の事を陳説せんとするがゆえに、だから先ず一句に天地が万物を生養するを叙して、下文の張本と為す。経文の「聖人の大宝は位と曰う。何を以てか位を守ると曰う仁なり」:聖人がもし位を失掉せば、天地と並び立って三と為るに由なく、また仁政を百姓の身に施行するに由なし。
繋辞下・第二章
(昔)[古]者包犧氏之王天下也,仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文與地之宜,此皆是聖人取之於糟粕也。“地之宜”,如為黑,為剛滷,為大塗。
《繋辞下》第二章に言う:「古の包犠氏の天下に王たりしや、仰いで則ち象を天に観、俯して則ち法を地に観、鳥獣の文と地の宜とを観る。」これらは皆聖人が形迹のこの一層の糟粕の上より取ったもので、真の精神は尽くここに在らず。いわゆる「地の宜」とは、《説卦》の講ずる坤を黒色と為し剛鹵の地と為す、坤を大涂と為すがごとく、土地が各々其の性質と宜しき所有るを指す。
以通神明之德,以類萬物之情,神明之德,通於萬殊;萬物之情,類於形器。作結繩而為罔罟,以佃以漁,蓋取諸離。柔附於物,飲血茹毛之教,古所先有。[一作無有。]
経文は続けて「以て神明の徳を通じ、以て万物の情を類す」と言う:神明の徳とは、万般の差別の中に通ずるを要す。万物の情状は、則ち有形の器物の上に於いて帰類比拟するを要す。経文の「結縄を作して罔罟と為し、以て佃し以て漁す。蓋し《離》に諸を取る」と言う:《離》に附麗の義あり、罔罟の縄目は柔軟にして猟する所の物に依附し、まさに《離》象に合す。毛を茹で血を飲む漁猟の教は、上古に最も先んじて有った事である。「古所先有」は一の版本に「古所无有」と作る。
包犧氏沒,神農氏作,斵木為耜,揉木為耒,耒耨之利以教天下,蓋取諸益。天施地生[而]損上益下,[故]播種次之。日中為市,致天下之民,聚天下之貨,交易而退,各得其所,蓋取諸噬嗑。聚而通[貨]、交相有無次之。
経文の「包犠氏没して、神農氏作さる。木を斲って耜と為し、木を揉んで耒と為し、耒耨の利を以て天下に教う。蓋し《益》に諸を取る」と言う:天は施与し地は生養す。《益》卦の義理はまさに上を減損して下を增益するので、漁猟の後に続けて播種耕作を講ず。経文の「日中に市と為し、天下の民を致し、天下の貨を聚め、交易して退き、各々その所を得る。蓋し《噬嗑》に諸を取る」:《噬嗑》に咬合貫通の象あり、人が聚攏して貨物を流通し彼此互いに有無を通ず——この一歩もまた耕種の後に接ぐ。
神農氏沒,黃帝、堯、舜氏作,通其變,使民不倦,神而化之,使民宜之。鴻荒之世,食足而用未備,堯舜而下,通其變而教之也。神而化之,使[民]不知所以然,運之無形以通其變,不(類)[頓]革之,(使)[欲]民宜之也。[大抵]立法須是過人者乃能之,若常人安能立法!凡變法須是通,
経文の「神農氏没して、黄帝・尭・舜氏作さる。その変を通じて民をして倦まざらしめ、神にして之を化して民をして宜しからしむ」と言う。洪荒の世は、食らう所は足れるも器用はなお斉備せず。尭舜以下に至って、はじめてその変化を貫通して百姓を教導す。いわゆる「神にして之を化す」とは、百姓をしてその所以然を知らざる中に教化を受けしむる:聖人は无形の中に於いて運用し、よってその変を貫通し、驟然として更革せず——百姓をして合宜に覚え安んじ得せしめんがためである。大抵法を立つるこの事は、必ず人に過ぎたる人のみが為し得る——尋常の人はどうして法を立てえよう!およそ法を変ずるは、必ず先ず能く「通」ずるを要す。
變其勢也,動其情也,情有邪正故吉凶生。變能通之則盡利,能貞夫一,則吉凶可勝,而天地不能藏其跡,日月不能眩其明。辭各指其所之,聖人之情也;指之使趨時盡利,順性命之理,臻三極之道也。[人]能從之,則不陷於凶悔矣,所謂“變動以利言”者也。
変とは、形勢に就いて言う。動とは、人情に就いて言う。人情に邪あり正あるので、吉凶はこれによって産生す。変じて能くそれを貫通すれば、すなわちその利を窮尽しうる。能く正を守って専一なれば、吉凶は勝たれうる——あの時天地もまたその形迹を蔵しえず、日月もまたその光明を炫惑しえない。《繋辞下》の「辞とは、各々その之く所を指すなり」と言う——あれはまさに聖人の心意で、人を指点して時宜に趨合しその利を窮尽し、性命の理に順って、天地人の三極の道に達せしむ。人がもしそれに依従しえれば、兇険と悔恨に陥入しない——これが《繋辞下》の言う「変動は利を以て言う」である。
然爻有攻取愛惡,本情素動,因生吉凶悔吝而不可變者,乃所謂“吉凶以情遷”者也。能深存繫辭所命,則二者之動見矣。又有義命當吉當凶、當(否)[亨]當(亨)[否]者,聖人不使避凶趨吉,一以貞勝而不顧,如“大人否亨”、“有隕自天”、“過涉滅頂凶無咎”、損益“龜不克違”及“其命亂也”之類,三者[情]異,(情)不可不察。
しかし爻と爻との間に相攻相取・相爱相悪あり、本来の情実がすでにあそこに動いて、因りて吉凶悔吝を生出して更改しえざるは、これが《繋辞下》の言う「吉凶は情を以て遷る」である。能く深く《繋辞》の指点する話を存記すれば、この両種の動向は皆見出しうる。この外にさらに一類あり:義と命に按って本に吉なるべし・本に凶なるべし・本に否塞なるべし・本に亨通なるべしに、聖人は人をして凶を避け吉に趨かしめず、ただ一味に正を守って勝を取りて顧慮しに行かない——たとえば《否》卦九五の「大人否亨」、《姤》卦九五の「自天隕るあり」、《大過》上六の「渉りて頂を滅す、凶、咎なし」、《損》《益》両卦の言う「十朋の亀も克く違えず」、および《否》卦の「その命乱るなり」のこの類。この三種の情形は各々同じからず、細かく分辨せざるべからず。
天地之道,貞觀者也;日月之道,貞明者也;天下之動,貞夫一者也。著天地日月,以剛柔立其本也,其變雖大,蓋不能遷夫正者也。一本下有“剛柔立本,故又著見之”。貞明不為日月所眩,貞觀不為天地所遷。貞,正也,本也,不眩、不惑、不倚之謂也。
経文の「天地の道は、貞にて観る者なり。日月の道は、貞にて明らかなる者なり。天下の動は、貞にて一なる者なり」と言う。ここに天地と日月を標出するは、剛柔の両者を以て根本を立定する。それらの変化は極めて大とはいえ、終にあの「正」を遷移しえない。この句の下は一の版本にさらに「剛柔立本、故又着見之」の一語あり。いわゆる貞明とは、日月に炫惑されざること。いわゆる貞観とは、天地に遷動されざること。「貞」はすなわち正で、すなわち本で、眩まず惑わず偏倚せざるの意である。
天地之道至(廣)[大]至(大)[廣],貞乃能觀也;日月之明,貞乃能明也;天下之動,貞乃能一也。蓋言天地之道,不眩惑者始能觀之;日月之明,不眩惑者始能明之;天下之動,不眩惑者始能見夫一(者)也。所以不眩惑者何?正以是本也。本立則不為聞見所轉,其(見)[聞]其(聞)[見],須透徹所從來,乃不眩惑。此蓋謂人以貞而觀天地,明日月,一天下之動也。
天地の道は至大至広で、ただ正を守る人のみが観えうる。日月の光明は、ただ正を守る人のみが明えうる。天下の動作は、ただ正を守る人のみがそれを一に統一しうる。これは言う:天地の道は、炫惑されざる人のみが看清しうる。日月の明は、炫惑されざる人のみが照明しうる。天下の動は、炫惑されざる人のみがあの「一」を見出しうる。何を凭って炫惑されざりえよう?まさに「正」を立てて根本と為すがゆえに。根本が一たび立てば、耳聞目見に牽いて走られない。自己の聞見する物は、必ずその来歴を透徹に弄清してこそ、眩惑に至らざりうる。この一段はおそらく言う:人は「貞」を以て天地を観・日月を明・天下の動を統一するを要す。
貞明不為日月之所眩,貞觀不為天地之所遷,貞觀貞明,是己以正而明日月、觀天地也。[多]為日月之明與天地變化所眩惑,故必己以正道觀之。能如是,不越乎窮理。豈惟耳目所聞見,必從一德見其大源,至於盡處,則可以不惑也。[心]存默識,實(有)信有此,苟不自信,則終為物役。事千變萬化,其究如此而已,天下之動貞夫一者也。
貞明とは、日月に炫惑されざること。貞観とは、天地に遷動されざること。いわゆる貞観貞明とは、実は自己が正道をもって日月を照明し天地を観照すること。人は多く日月の光明と天地の変化に炫惑され住するので、必ず自己が正道を用いてそれを看るを要す。能くこのように為しえれば、すなわち「理を窮む」の二字を出でない。これは単に耳目の聞見する所の事にあらず、必ずあの一貫の徳の上よりそれの大本大源を見て、一直に尽処に推して、はじめて再び疑惑せざりうる。心裏に默默と存記体認して、実実にこの道理あるを信得する。もし自己が信過ざれば、終に外物に役使される。世事は千変万化するも、追究して底に至ればただこのごとし——だから「天下の動は、貞にて一なる者なり」と言う。
爻象動乎內,吉凶見乎外,因爻象之既動,明吉凶於未形,故曰“爻象動乎內,吉凶見乎外”。功業“通其變使民不倦”,豈有聖人變法而不通也?
《繋辞下》第一章の「爻象は内に動き、吉凶は外に見る」と言う:爻象がすでに動き起したに乗じて、すなわち吉凶のまだ形を成さざる前にそれを照明す——だから「爻象動乎内、吉凶見乎外」と言う。功業に至っては、まさに経文の言う「その変を通じて民をして倦まざらしむ」——どこに聖人が法度を変じて行き通らざるの道理あらんや!
黃帝、堯、舜垂衣裳而天下治,蓋取諸乾坤。君逸臣勞。上古無君臣尊卑勞逸之別,故制以禮,垂衣裳而天下治,必是前世未得如此,其文章禮樂簡易樸略,至堯則煥乎其有文章。然傳上世者,止是伏犧神農。此仲尼道古也,猶據聞見而言,以上則不可得而知。
経文の「黄帝・尭・舜は衣裳を垂れて天下治まる。蓋し《乾》《坤》に諸を取る」と言う:乾は上にあり坤は下にあり、君は安逸にして臣は労作す——まさにこの象である。上古はもともと君臣尊卑・労逸分工の分別なく、だから礼を用いてそれを節制す。「衣裳を垂れて天下治まる」と言うは、あれは必ず前代がまだこの一歩に及ばざりしを言う——あの時の文章礼楽は簡朴粗略で、尭に至りてはじめて《論語》の讃する「煥乎として文章あり」のごとし。しかし伝え得られた上古の世も、ただ伏羲・神農に至るを止む。孔子がここに古事を述説するも、またなお自己の聞見の及ぶ所に依拠して言うのみで、更に上は知るに由なし。
所傳上世者未必有自,從來如此而已。安知其間(固)[故]嘗有禮文,一時磨滅爾,又安知上世無不如三代之文章者乎!然而如周禮則不過矣,可謂周盡。今言治世,且指堯舜而言,可得傳者也。歷代文章,自夫子而損益之,見其禮而知其政,聞其樂而知其德,不可加損矣。
伝えられた上古の事は必ずしも皆確鑿たる来歴あるにあらず、ただ歴來このごとく言うに過ぎない。どうしてあの中間にかつて礼楽文明あって、ただ一時に湮滅したに過ぎざるを知らんや?またどうして上古に三代のごとき文章制度に及ばざるがなきを知らんや?ただ《周礼》のごときに至っては、則ち再び超過するものなく、周備詳尽と言うべし。今治世を講ずるに、姑く尭舜を指して言う——あれは文献の伝えうるあるがゆえに。歴代の礼楽文章は、孔子の一番の損益折衷を経て、よってその礼を見ればすなわちその政を知り、その楽を聴けばすなわちその徳を知る——再び増減するに由なし。
刳木為舟,剡木為楫,舟楫之利以濟不通,致遠以利天下,蓋取諸渙。舟車之作,舟易車難,故舟先於車。服牛乘馬,引重致遠,以利天下,蓋取諸隨。不勞而得其欲,故動而悅。[取諸隨]
経文の「木を刳って舟と為し、木を剡って楫と為し、舟楫の利を以て通通ぜざるを済し、遠きを致して以て天下を利す。蓋し《渙》に諸を取る」:《渙》に水上に流行し渙散通達の象あり。舟と車の制作は、舟を造るは易く車を造るは難し、だから舟は車の前に排す。経文の「牛に服し馬に乗り、重きを引き遠きを致し、以て天下を利す。蓋し《随》に諸を取る」:牛馬は人に代わって重を負い、人は労苦せずしてその欲するを得遂するので、動いて喜悦する——まさに《随》卦の震動にして兌説の卦象に合す。
重門擊柝以待暴客,蓋取諸豫。有備則無患,故豫。斷木為杵,掘地為臼,臼杵之利,萬民以濟,蓋取諸小過。備物致用,過以養物。[小過]弦木為弧,剡木為矢,弧矢之利以威天下,蓋取諸睽。養道雖至,禁綱尚疏,但懲其乖亂而已。[睽]
経文の「重門に柝を撃ちて以て暴客を待つ。蓋し《豫》に諸を取る」:預め防備あれば後患なし——「豫」はまさに預備の義である。経文の「木を断ちて杵と為し、地を掘りて臼と為し、臼杵の利、万民以て済る。蓋し《小過》に諸を取る」:器物を備弁して実用に供し、稍々力を過ぎて万物を养活す——だから《小過》を取る。経文の「木に弦して弧と為し、木を剡って矢と為し、弧矢の利を以て天下を威す。蓋し《睽》に諸を取る」:民を養う道はすでに周至なれど、禁令の網羅はなお甚だ稀疏で、弓矢はただあの乖戻作乱の人を懲治するに用いるのみ——だから《睽》卦の乖離の象を取る。
上古穴居而野處,後世聖人易之以宮室,上棟下宇以待風雨,蓋取諸大壯。剛以承上,柔以覆下,上其棟下其宇之象。棟,屋脊檁也;宇,椽也。若指第二檁為棟,則其間已有宇,不得[為]上棟也。若指栿為棟,又益遠矣。宇[兩]垂而下,故言“下宇”。
経文の「上古は穴に居り野に処り、後世の聖人は之を宮室に易え、上に棟下に宇ありて、以て風雨を待つ。蓋し《大壮》に諸を取る」:剛強は上にあって承托し、柔順は下にあって覆蓋す——まさに棟が上にあり宇が下にある形象である。「棟」は屋脊上の正檩で、「宇」は屋檐の椽子である。もし第二根の檩をもって棟と為せば、それの上頭にすでに宇あれば、「上棟」と称しえない。もし梁栿をもって棟と為せば、それはなお遠く離れた。宇は両辺より垂れ下るので、「下宇」と言う。
上古結繩而治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸夬。禮(成)教備,養道足,而後刑可行,政可明,明而不疑。備一作修。易說制作之意蓋取諸某卦,止是取[其]義與象契,非必見卦而後始有為也,然則是言夫子之言爾。
経文の「上古は縄を結びて治め、後世の聖人は之を書契に易え、百官以て治まり、万民以て察し。蓋し《夬》に諸を取る」:礼と教とが皆完備し、民を養う道もまた充足して、そうして後に刑罰は施行し下りうる、政令は明白に起りうる——明白なれば人はまた疑惑を生ぜず。「備」の字は一の版本に「修」と作る。《易》が或る制作を講じて「蓋し某卦に諸を取る」と言うは、ただその義理が卦象と契合するを言うのみで、聖人が先に卦を見てそうして後に着手して做したを言うのではない。こう見れば、これらの話はすなわち孔子が追述した説法に過ぎない。
繋辞下・第四章
[陽卦多陰,陰卦多陽。][陽卦多陰,則陽為之主;陰卦多陽,則陰為之主;雖小大不齊,而剛柔得位,為一卦之主則均矣。]陽一君而二民,君子之道也;陰二君而一民,小人之道也。一其歸者,君子之道;多以御者,小人之理。御一作御。陽遍體眾陰,眾陰共事一陽,理也。是故二君共一民,一民事二君,上與下皆小人之道也;一君而體二民,二民而宗一君,上與下皆君子之道也。
《繋辞下》第四章の「陽卦は陰多く、陰卦は陽多し」と言う。陽卦の裏に陰爻が多ければ、あの一個の陽爻がすなわち主と為る。陰卦の裏に陽爻が多ければ、あの一個の陰爻がすなわち主と為る。両者に小大の別あるも、ただ剛柔が各々その位を得て能く一卦の主と為る——この一点の上で相同じである。経文の「陽は一君にして二民、君子の道なり。陰は二君にして一民、小人の道なり」:衆人をして一に帰向せしむるは、君子の道である。众多を以て駕御するは、小人の理である。「御」の字は一の版本にもまた御と作る。一個の陽爻が遍体に貫通して衆陰に及び、衆陰が共同して一陽に奉事す——これは理に合す。だから言う:二個の君が一個の民を共有し一個の民が二個の君に奉事すれば、上下を論ぜず皆小人の道である。一個の君が二個の民を統体し二個の民が一個の君を共宗すれば、上下を論ぜず皆君子の道である。
繋辞下・第五章
易曰:“憧憧往來,朋從爾思。”子曰:天下何思何慮!天下同歸而殊塗,一致而百慮,天下何思何慮!日往則月來,月往則日來,日月相推而明生焉;寒往則暑來,暑往則寒來,寒暑相推而歲成焉;往者屈也,來者信也,屈信相感而利生焉。尺蠖之屈,以求信也;龍蛇之蟄,以存身也;精義入神,以致用也;利用安身,以崇德也。
《繋辞下》第五章は《咸》卦九四の爻辞を引いて言う:「憧憧として往来し、朋は爾の思に従う。」孔子は解して言う:天下に何の思慮すべきがあろう!天下の路は同じからずとはいえ、帰宿は一個である。百般の思慮あるも、致する所は一処である——それでなお何の思い慮るべきがあらん!日が過ぎ去れば月が来、月が過ぎ去れば日が来——日月が互相に推移して光明は生出す。寒が過ぎ去れば暑が来、暑が過ぎ去れば寒が来——寒暑が互相に推移して一年は成就す。去るは屈、来るは伸で、一屈一伸が互相に感応して、利益はその中より生出す。尺蠖が身を弓め屈するは、伸展を求めんがためである。龍蛇が蟄伏するは、自身を保存せんがためである。義理を研精して神に入る歩に至るは、その実用を致さんがためである。用いられて便利にして身心が安頓するは、自己の徳を崇高にせんがためである。
正惟存神爾。不能利用,(使)[便]不思不勉,執多以御,故憧憧(之)心勞而德喪矣。將陳恬知交養,故序日月寒暑屈信相感之義(也)。
ここに言う所は、正しくただ一個の「存神」に過ぎない。もし義理を用いて便利にできなければ、《中庸》の講ずる思わずして得・勉めずして中るに及ばず、ただ許多の頭緒を抓住して事を駕御し、よって心裏に憧憧として定まらず往来して紛擾し、結果として心力は勞敝して徳もまた随いて喪失す。孔子はまさに恬静と明知とが交相に養育する道理を陳説せんとして、だから先ず日月の往来・寒暑の推移・一屈一伸が互相に感応するこの層の意思を铺叙し出した。
君子行義以達其道,精一於義,使不思而得,不勉而中,如介于石,故能見幾而作。天下何思何慮,明屈信之變,斯盡之矣。
君子は義理を履行して自己の道を通達し、心思を義の上に専精凝一して、思索を待たずして自ずから得・勉强を待たずして理に中るを為し、《豫》卦六二の言う「石に介す」のごとく操守堅定なので、能く幾微を看破して当機に行動しうる。いわゆる「天下何思何慮」とは、ただ一屈一伸の変化を看明白にしえれば、この句の意思もまた窮尽する。
[天下何思何慮,行其所無事,斯可矣。]“何思何慮”,行其所無事而已。下文皆是[此]一意。行其所無事,惟務崇德,但妄意有意即非行其所無事;行其所無事,則是意、必、固、我已絕。今天下無窮動靜情偽,止一屈信而已,在我先行其所無事,則復何事之有!
「天下何思何慮」は、《孟子》の言う「その無事なる所を行う」を為しえれば已み。いわゆる「何思何慮」とは、その無事なる所を行うに過ぎない——下文の講ずる所は皆この一個の意思である。その無事なる所を行うは、ただその徳を崇高にするに専心す。一旦妄かに揣度して私意に着けば、それはその無事なる所を行うではない。真にその無事なる所を行いうるは、すなわち《論語》の講ずる意・必・固・我の四病がすでに断絶したである。如今の天下の無窮無尽の動静と真偽は、帰結すればただ一屈一伸のみ。我がこの一辺に於いて先ずその無事なる所を行いえれば、なお何の事の纏糾すべきかあらん!
日月寒暑之往來,尺蠖之屈,龍蛇之蟄,莫非行其所無事,是以惡其鑿也。百慮而一致,先得此一致之理,則何用百慮!慮雖百,卒歸乎理而已[矣]。此章[從]“憧憧往來”,要其有心,至於“德之盛也”,率本此意。
日月の往来・寒暑の推移・尺蠖の弓屈・龍蛇の蟄蔵は、一つとしてその無事なる所を行うならざるなし——だから《孟子》ははじめてあの穿鑿を厭悪する。百般の思慮あるも帰趣はただ一個で、先ずこの「一致」の理を得着すれば、なおあの百般の思慮を用うるや!思慮はたとえ百様あるも、最後にはただこの理に帰するに過ぎない。この一章は「憧憧往来」より講じ起り、要害はあの「有心」の病を点出するに在り、一直に「徳の盛なり」に至るまで講じて、通篇は皆この意思に本る。
咸之九四,有應在初,思其朋,是(咸)[感]其心也。不言心而言心之事,不能虛以受人,乃憧憧而致其思,咸道失矣。憧憧往來,心之往來也;不能虛以接物而有所繫著,非行其所無事也。
《咸》卦九四は、初六と相応ずる義ありて、一心に自己の同類を想着する——これがすなわち心を拿って人に感ずること。爻辞は直に心を言わずして心の為す所を言う——まさに彼が心を虚しくして他人を接納できず、かえって憧憧として定まらず一味に彼のあの点の思慮を用いるを見出す。このようであれば、《咸》卦の虚にして人を受くる感通の道は失掉す。いわゆる「憧憧往来」とは、心の往来して定まらざること。心を虚しくして外物に接应できずして牽系執着する所有れば、それはその無事なる所を行うではない。
精義入神,豫而已。學者求聖人之學以備所行之事,今日先撰次來日所行必要作事。如此,若事在一月前,則自一月前栽培(挨)[安]排,則至是時有備。言前定,[道前定,]事前定,皆在於此積累,乃能有功。天下九經,自是行之者也,惟豫而已。撰次豫備乃擇義之精,若是則何患乎物至事來!
いわゆる「精義入神」とは、説き穿てばすなわち一個の「豫」の字、すなわち預め備あること。学者が聖人の学を研求するは、将来の行わんとする所の事に預備せんがためである:今日に於いて先ず明日の必ず弁ずべき事を一一に編排停当す。このように照らして做せば、仮に某事がなお一ヶ月の後にあっても、すなわち一ヶ月の前より培植安排を開始し、時に至っては自然に備あって患なし。《中庸》の「言は前に定まれば則ち跲まず、事は前に定まれば則ち困まず、道は前に定まれば則ち窮まず」は、皆この一番の積累を靠ってはじめて功を見る。《中庸》の列する天下を治むる九条の大経は、もともと行いに往くべきもので、また无非一個の「豫」の字である。事先に編排預備するは、まさに義を択びて精に択ぶこと。能くこのようであれば、なお何の外物の頭に臨み事の逼り来るを恐れん!
精義入神須從此去,豫則事無[不]備,備則用利,用利則身安。凡人應物無節,則往往自失,故要在利用安身,(益)[蓋]以養德也。若夫窮神知化則是德之盛,故云“未之或知”。蓋大則猶可勉而至,大而化則必[在]熟,化即達也。
「精義入神」の功夫は、必ずここより做り起さねばならない:預め豫あれば、事は斉備せざるなし。斉備すれば、用いて便利あり。用いて便利あれば、身心は安頓す。およそ人が外物に応接して節制なければ、往往として自己が失措す——だから要紧の処は「利用安身」に在り、これがまさに用いて徳性を涵養する所である。「神を窮め化を知る」に至っては、あれはすでに徳の極盛なので、経文は「此れを過ぎて以往は、未だ之を知る或いはなきなり」と言う。大抵「大」のこの一歩に至るまではなお勉力を靠って達すべく、「大」より「化」に至るには必ず純熟を靠らねばならない。いわゆる化とは、すなわち通達无碍である。
“精義入神以致用”謂貫穿天下義理,有以待之,故可(推)[致]用。窮神是窮盡其神也,入神是僅能入於神也,言入如自外而入,義固有淺深。“日月相推而明生焉,寒暑相推而歲成焉”,神易無方體,一陰一陽不測,皆所謂“通乎畫夜之道”也。
いわゆる「精義入神以致用」とは、天下の義理を一一に貫穿して、胸中に先ず以て応対する所有り、だから能く実用に推致す。分別すべし:「神を窮む」はあの神を窮究して底に至ること、「入神」はただ剛に神の門裏に進入しうること。一個の「入」の字は、ちょうど外面より走り来りて入るがごとし——見れば二者の分量はもともと浅深の別あり。経文の「日月相推して明生焉、寒暑相推して歳成焉」——神と易は皆固定した方所と形体なく、一陰一陽の往復は測度すべからざる。これらは皆《繋辞上》の言う「昼夜の道に通ず」である。
(屈信相感而利生,感以誠也;情偽相感而利害生,雜之偽也。)“精義入神”,事豫吾內,求利吾外也;[求一作素。]“利用安身”,素利吾外,致養吾內也。窮神知化乃養成自然,非思勉之能強,故崇德而外,君子未或致知也。“精義入神”,(養)[豫]之至也。
一屈一伸が互相に感応して利益が生出するは、あれは誠を以て相感ずる。真情と虚偽とが互相に感応して利害が生出するは、あれは偽を攙雑した。いわゆる「精義入神」とは、事を預め我が内裏に備弁して、求めて我が外面に便利ならしめんとすること。「求」の字は一の版本に「素」と作る。いわゆる「利用安身」とは、平素より我が外面に便利にして、よって我が内裏を養育する。「神を窮め化を知る」に至っては、あれは涵養して自然而然の歩に至ったで、思索勉强を靠って強求しうる所にあらず——だから徳を崇めるの外に、君子は別に一套の知を致す工夫なし。「精義入神」とは、まさに「豫」を極処に為したである。
義以反經為本,經正則精;仁以敦化為深,化行則顯。義入神,動一靜也;仁敦化,靜一動也。仁敦化則無體,義入神則無方。“精義入神”,要得盡思慮,臨事無疑。“精義入神”,固不待接物。然君子何嘗不接物,人則見君子閒坐獨處,不知君子接物在其中。睡雖不與物接,然睡猶是成熟者。
義は常経に返帰するをもって根本と為し、常経が端正なれば、義ははじめて精。仁は敦厚化育をもって深しと為し、化育が推行されれば、仁ははじめて顕る。義の神に入るは、動の中に一個の静を含む。仁の敦化は、静の中に一個の動を含む。仁が敦化するがゆえに、指すべき体なし。義が神に入るがゆえに、求むべき方なし。「精義入神」を講ずるは、思慮を用い尽くして、事に臨む時にすなわち疑惑する所なからしめんとする。「精義入神」のこの事は、もともと外物と接触するを待たずして為すべきにあらず。しかし君子はまた何も外物と接せざらんや?旁人はただ君子が閑坐独処するを見て、君子の物に接する功夫がまさにこの裏頭に在るを知らない。すなわち眠るも、外物と相接しないとはいえ、しかしあの一覚もまたなお功夫を涵養して純熟する一段である。
義以反經為本,經正則精;仁以敦化為深,化行則顯。義入神,動一靜也;仁敦化,靜一動也。仁敦化則無體,義入神則無方。“精義入神”,要得盡思慮,臨事無疑。“精義入神”,固不待接物。然君子何嘗不接物,人則見君子閒坐獨處,不知君子接物在其中。睡雖不與物接,然睡猶是成熟者。
「義」は常道に回帰するをもって根本と為し、常道が端正なれば、「義」ははじめて精微なりうる。「仁」は敦厚化育をもって深厚と為し、化育が推行し開けば、「仁」ははじめて顕著なりうる。「義入神」は動より収りて静に帰す。「仁敦化」は静より発用して動と為す。「仁」は敦厚化育の歩に至れば、則ち或る形体に拘執しない。「義」は神妙に入る歩に至れば、則ち或る方所に局限しない。言う所の「精義入神」とは、思慮を窮究して尽頭に至り、事に遇う時に心中に再び疑惑なからしめんとする。この一層の工夫はもともと必ずしも外物と接触するを待たずして為す。しかし君子はまた何も真に外物と接せざらんや?世人はただ君子が閑坐独処するを見て、君子が事物に応接する工夫がまさにこの独処の中に在るを知らない。人が睡る時は外物と相接しないとはいえ、しかし睡中にもなお安穏にして乱れず——これがまさに平日の工夫がすでに純熟した後の自然而然の結果である。
知幾其神,精義入神,皆豫之至也。豫者見事於未萌,豫即神也。
《周易・繋辞下》の「幾を知る其れ神」と言い、また「精義入神」と言う——この二句の講ずる所は皆「豫」——預め備あること——を極処に為した境界である。いわゆる「豫」とは、事がまだ萌発せざる時にすでにそれを見たこと。能く未萌の先に於いて見えれば、この一份の先覚はその自体がすなわち「神」である。
精義入神,利用安身,此大人之事。大人之事則在思勉力行,可以(擴)推而至之;未之或知以上事,是聖人(德)盛德自致,非思勉可得。猶大而化之,大則人為可勉也,化則待利用安身以崇德,然後德盛仁熟,自然而致也,故曰“窮神知化,德之盛也”一。自是別隔為一節。
「精義入神」と「利用安身」とは、これは「大人」の分内の事である。大人の事は、なお思索・勉励・切実な践行の上に落ちて、推拡の工夫を以て一步一步に達すべし。「過此以往、未之或知」以上の境界に至っては、あれは聖人の徳性が充盛して後に自然に到達するもので、思索勉励を以て求め得る所にあらず。これはちょうど《孟子・盡心下》の言う「大而化之」のごとし:「大」はなお人力の勉强して達しうる所、「化」は「利用安身」以てその徳を崇高にするを待って、そうして後に徳性充盛・仁道純熟し、自然而然に到来する。だから《繋辞下》は「神を窮め化を知るは、徳の盛なり」と言う。この一句より、文義は自ずから別の一節を成す。
義有精粗,窮理則至於精義,若(精義)盡性則即是入神,蓋(為)惟一故神。
「義」に精微と粗浅の分別あり。事物の理を窮究すれば、すなわち精微の「義」に達しうる。もし自己の本性を窮尽しえれば、それはすでに「神」の境地に進入したである。これは天地の道がもともとただ一にして二ならず、ただその純一にして雑なきがゆえに、こそ神妙不测たりうるがためである。
通天下為一物(在己)而已,惟是要精義入神。
天下の万物を貫通して見れば、もともとただ一気のみ。真にこの一歩を為し得るには、関鍵はただ「精義入神」のこの一層の工夫に在る。
所存能靜而不能動者,此則存;博學則利用,用利則身安,身安所以崇其德也。所應皆善,應過則所存者復神。
心中に存養する所がもし静に守ることのみ能くして動に応じること能わざれば、それはただ一個の「存」の字を死守するのみ。広博に学ぶこと、はじめて学んだ所を用いて順利たりうる。用いて順利あれば、身心ははじめて安泰す。身心安泰は、まさに用いて徳性を崇高にする所。感応する所が事事に当を得て、感応が過ぎて後、心中に存養する所はまたあの神妙虚明の本体に回復す。
窮神知化,德之盛也。德盛者,神化可以窮盡,故君子崇之。一作窮理盡性。
《繋辞下》の「神を窮め化を知るは、徳の盛なり」と言う。徳性が充盛する人は、天地の神妙と造化の遷流とが皆彼に窮究されて底に至りうるので、君子はこの一層を最も崇高と看做す。この句は別本に「窮理尽性」と作る。
化,事之變也。大可為也,大而化不可為也,在熟而已。易謂“窮神知化”,乃德盛仁熟之致,非智力能強也。
いわゆる「化」とは、事物の遷移変易である。「大」は人力の為し得る所、「大而化之」は做作を靠って達成しうるにあらず、ただ工夫の純熟に在るのみ。《周易》の言う「神を窮め化を知る」とは、すなわち徳性が充盛し仁道が純熟した後に自然に到達する境地で、聡明才力を凭って勉强に求め得るものではない。
形而上者,得辭幾得象矣。神為不測,故緩辭不足以盡神,緩則化矣;化為難知,故急辭不足以體化,急則反神。易所以明道,窮神則無易矣。
形而上の道理は、一たびそれに恰当な言辞を見出しえれば、すなわちほぼその「象」を把握した。「神」は神妙不测なので、語気の舒緩する言辞は「神」を説き尽くすに足らない——語気が一たび緩めば、説き出す所は「化」に変ずる。「化」は知りがたいので、語気の急迫する言辞は「化」を体貼するに足らない——語気が一たび急げば、言う所はまた「神」に帰る。《周易》は用いて大道を闡明するもので、もしすでに「神」を窮尽せば、則ち《易》すらも用いるに及ばない。
見幾則義明,動而不括則用利,屈信順理則身安而德滋。窮神知化,與天為一,豈有我所能勉哉?乃德盛自致爾。大抵思慮靜乃能昭物,須放心寬快公平以求之,乃可見道。況德性自是廣大,易曰“窮神知化,德之盛也”,豈淺心可得!
能く事の幾微を見れば、「義」はすなわち明白す。行動して阻塞を受けなければ、功用はすなわち順利す。屈伸進退が皆道理に順えば、身心はすなわち安泰にして徳性は日に増す。「神を窮め化を知る」に至っては、あれは天と合して一と為る境界で、どうして我が個人の勉力の及び得る所であろう?ただ徳性が充盛して後に自然に到達するのみ。大抵思慮が安く静まって、はじめて事物を照見しうる。必ず心を放ちて寛舒明快・公正持平に求めてこそ、道を見るべし。ましてや徳性はもともと広大無辺で、《繋辞下》の「神を窮め化を知るは、徳の盛なり」と言うは、どうして浅狭の心量の得る所であろう!
化不可言難知,可以言難見,如日景之行則可知之,其所以行則難見也。雷霆感動雖速,然其所由來亦漸爾。能窮神知化,德之盛也歟!神化者,天之良能,非人能。故大而位天德,則窮神知化。
「化」は知りがたしと言いがたく、ただ見がたしと言いうるのみ。譬えば日影の推移は、人はこれを知りうるも、しかしそれが究竟何を凭って推移するかは、見えない。雷霆が震動するは迅疾とはいえ、しかしその由来もまた漸々積成した。能く神妙を窮尽し造化を体知するは、これが徳性の充盛であろう!神と化は、上天の本有する良能で、人力の造作しうる所にあらず。だから人は「大」に至りて能く天徳に安処する歩に至れば、自然に神を窮め化を知ることができる。
氣有陰陽,推行有漸為化,合一不測為神。其在人也,智義利用,則神化之事備矣。德盛者,窮神則智不足道,知化則義不足云。天之化也運諸氣,人之化也順夫時;非化非時,則化之名何有?化之實何施?中庸曰“至誠為能化”,孟子曰“大而化之”,皆以其德合陰陽,與天地同流而無不通也。
気は陰陽両端に分かつ:推移運行して逐漸に積累する一面を「化」と呼び、渾合して一と為りてその端を測る莫き一面を「神」と呼ぶ。人の身上に落とせば、能く智慧を以て義を択び能く知る所を用いて順当たらしめば、神と化の工夫もまた完備す。徳性が充盛する人は、「神」を窮尽する歩に至れば智慧はすでに言うに足らず、「化」を体知する歩に至れば「義」もまたもはや提するに及ばない。上天の造化は気に於いて運行し、人の造化は時に於いて順応す。もし気の推行でもなくまた時に合せざれば、「化」のこの名目はどこより有らん?「化」の実功はまたどこより施行せん?《中庸》の「ただ天下の至誠を能く化すと為す」と言い、《孟子・盡心下》の「大而化之」と言う——講ずる所は皆自身の徳性を以て陰陽に契合し、天地とその流行を同じくして通ぜざる所なし。
所謂氣也者,非待其鬱蒸凝聚,接於目而後知之;苟健順、動止、浩然、湛然之得言,皆可名之象爾。然則象若非氣,指何為象?時若非象,指何為時?世人取釋氏銷(凝)礙入空,學者舍惡趨善以為化,直可為始學(遺)遣累者薄乎云爾,豈天道神化所同語也哉!
いわゆる「気」とは、必ずしもそれが鬱結蒸騰して凝聚成形し眼に見え得るを待ってはじめて知ると為すにあらず。ただ健と順・動と止・浩然と湛然のこれらの状態が説き出されうれば、皆それを「象」と名づけうる。すでにこのようであれば、「象」がもし気にあらざれば、なお何を指して「象」と呼ばん?「時」がもし象にあらざれば、なお何を指して「時」と呼ばん?世人は仏家の「碍を銷して空に入る」の説法を取り、学者はまた悪を去り善に就くを「化」と為す——これらは至って初学者が牽累を遣除する浅近の法門と算うるのみで、どうして天道の神化と相提並論しえよう!
物無孤立之理,非同異、屈信、終始以發明之,則雖物非物也。事有始卒乃成,非同異、有無相感則不見其成,不見其成,則雖物非物。故一屈一信相感而利生焉。
天下に孤立して自存する物なし。もし同と異・屈と伸・始と終のこれらの対待関係を借ってそれを顕発せざれば、それは「物」と名づくとはいえ、実はこの物なきに等しい。事は開頭あり結尾あってはじめて完成を算う。もし同異・有無が彼此相感せざれば、その完成を見えず。完成を見えざれば、則ち「物」と名づくとはいえ、実はこの物なきに等しい。だから《繋辞下》は「一屈一信相感じて利生ず」と言う。
知幾者為能以屈為信。君子無所爭,彼信則我屈,知也。彼屈則吾不信而信矣,又何爭!無不容,然後能盡屈信之道,至虛則無不信矣。
能く幾微を識見する人は、はじめて「屈」を「伸」と看做すを懂得す。君子は人と争う所なし:相手が伸べんと要すれば、我はすなわち退屈す——これがまさに明智である。相手が自ら屈して下れば、我は自ら伸ぶを要せずして自然にすでに伸ぶ——それでなお何を争わん!心中に容れざる所なくして、そうして後に屈伸の道を窮尽しうる。心が極虚の歩に至れば、伸びえざるなきなし。
君子無所爭,知幾於屈信之感而已。精義入神,交信於不爭之地,順莫甚焉,利莫大焉。將致用者,幾不可緩;將進德者,徙義必精。此君子所以立多凶多懼之地,乾乾進德,不少懈於趨時也。
君子は人と争う所なく、ただ屈伸の相感ずる間に於いて幾微を見るのみ。「精義入神」は、まさに彼此相争わざる処に於いて双方ともに伸展を得——これより順遂なるもなく、これより有利なるもない。まさに学問を事の上に施用せんとする人は、幾微に一刻も遅緩すべからず。まさに徳性を長進せんとする人は、義に迁就するに必ず精審ならねばならぬ。これがまさに君子が多凶多懼の地に身を処すとはいえ、なお自彊して息まず日にその徳を進め、一刻も時に随い変に応ずるに懈怠せざる所以である。
明庶物,察人倫,然後能精義入神,因性其仁而行。不知來物,未足以利用。
先ず万物の理を明白にし、人倫の序を察知して、そうして後にはじめて「精義入神」に談じ足り、本性に順って仁道を自然に行い出しうる。もし将来の事を預知できなければ、なお「利用」を談ずるに足らない。
易曰:“困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。”子曰:非所困而困焉,名必辱;非所據而據焉,身必危。既辱且危,死期將至,妻其可得見邪!此明不能利其用者也,寡助之至,親戚畔之。
《周易・困卦》六三の爻辞に言う:「石に困み、蒺藜に拠り、その宮に入るも、その妻を見ず、凶。」孔子は解して言う:困むべからざる処に於いて自ら其の中に陥れば、名声は必ず辱を受く。拠るべからざる物を強いて拠れば、身家は必ず危殆す。すでに辱を受けまた危殆なれば、死期まさに至らんとす——妻子はどうしてなお見えん!この一条の言う所は、学んだ所を用いて順当たらしめえざる人で、彼を助ける人は極点まで少なく、親戚ですら彼を背弃す。
易曰:“公用射隼于高墉之上,獲之無不利。”子曰:隼者,禽也;弓矢者,器也;射之者,人也。君子藏器於身,待時而動,何不利之有!動而不括,是以出而有獲,語成器而動者也。此明能精義以致用者也。
《周易・解卦》上六の爻辞に言う:「公は隼を高墉の上に射て、之を獲て利あらざるなし。」孔子は解して言う:隼は獲物、弓矢は器械、弓を張りて射るは人。君子は器械を預め身に蔵して、時機を待って後に動く——なお何の不利かあらん!行動して阻碍なきがゆえに、一たび手を出せばすなわち擒獲する所有る——これは器械がすでに備成してはじめて手を動かす人を言う。この一条の言う所は、能く義理を精研して実用を致す人である。
子曰:小人不恥不仁,不畏不義,不見利不勸,不威不懲。小懲而大戒,此小人之福也。暗於事變者也。
孔子は言う:小人は不仁を以て羞恥と為さず、不義を以て可怕と為さず、実利を見ずんば勉励を肯じず、威慴を加えずんば警戒を知らず。小さな懲罰を受けて大きな禍患を免れるは、これが小人の福である。この一条の言う所は、事の変化に茫然として知らざる人である。
子曰:危者,安其位者也;亡者,保其存者也;亂者,有其治者也。是故君子安而不忘危,存而不忘亡,治而不忘亂,是以身安而國家可保也。明君子之見幾。
孔子は言う:危殆を招致するは、一味にその位に安んずる人。覆亡を招致するは、一味にその存を自保する人。禍乱を招致するは、一味にその治を自恃する人。だから君子は安穏の時に危険を忘れず、存続の時に滅亡を忘れず、治平の時に禍乱を忘れず——ここを以て自身は安泰にして国家は保全しうる。この一条の講ずる所は、君子が能く幾微を見ること。
子曰:德薄而位尊,知小而謀大,力小而任重,鮮不及矣。不知利用以安身者也。
孔子は言う:徳性は浅薄にして尊位に居り、智慮は短小にして大事を図謀し、力量は微弱にして重任を肩負う——このごとき人は禍を招かざること少なし。この一条の言う所は、学んだ所を用いて順当にして自身を安頓することを懂得せざる人である。
子曰:知幾其神乎!君子上交不諂,下交不瀆,其知幾乎!“上交不諂,下交不瀆”,人事不過於上下之交,此可盡人道也。人道之用,盡於接人而已,諂瀆召禍,理勢必然,故君子俯仰之際,直而好義,知幾莫大焉。
孔子は言う:能く幾微を識見するは、おそらく「神」であろう!君子は上位者と交往して諂媚せず、下位者と交往して軽慢せず——これがすなわち幾微を識見するであろう!いわゆる「上交不諂、下交不瀆」——人間の事情はただ上下の間の交接に過ぎず、この一層を為し得れば、人道もまた尽きる。人道の施用は、全く人と相接するこの一事の上に在る。諂媚と軽慢とは禍患を招来す——これは理勢の必然なので、君子は一俯一仰の間に皆正直にして義を好び、幾微を識見するにこれより大なるはない。
(知幾者為能以屈為信)幾者,動之微,吉之先見者也。幾(知)者象見而未形者也,形則涉乎明,不待神而後知也。“吉之先見”雲者,順性命則所(先)見皆吉也。
(能く幾微を識見する人は、はじめて「屈」を「伸」と看做すを懂得す。)《繋辞下》に言う:「幾とは、動の微にして、吉の先見する者なり。」いわゆる「幾」とは、徴象がすでに顕露して形体がまだ成就せざるあの一刻。一たび形を成せば、すなわち耳目の見うる明処に落ち、「神」を待たずともまた知りうる。「吉の先見」と言うに至っては、性命の理に順応すれば、則ち預見する所は自然に皆吉であるがゆえに。
觀其幾者,善之幾也,惡不可謂之幾。如曰“幾者動之微,吉之先見”,亦止言吉爾。且如孝弟仁之本亦可以言幾,造端乎夫婦亦可以言幾,親親而尊賢亦可以為幾,就親親尊賢而求之又有幾焉。又如言不誠其身,不悅於親,亦是幾處。苟要入德,必始於知幾。
観察すべき「幾」とは、善の萌芽で、悪は「幾」と呼べない。《繋辞下》の「幾者動之微、吉之先見」と言うも、ただ一個の「吉」の字を言うに過ぎない。譬えば孝悌は仁の根本で、これは「幾」と言いうる。《中庸》の君子の道は「夫婦に端を造る」と言う——夫婦の間もまた「幾」と言いうる。親愛して親を親み賢者を尊崇するも、同じく「幾」と算えうる。すなわち親を親み賢を尊ぶこの事の裏に於いて更に細処に求めれば、その中にまた別に「幾」在り。またたとえば《孟子・離婁上》の自身を誠ならしめえざれば父母を取悦せしめえずと言うも、これもまた「幾」の顕現する処である。人がもし徳性の門に進入せんと欲せば、必ず幾微を識見するより始める。
君子見幾而作,不俟終日。易曰:“介于石,不終日貞吉。”介如石焉,寧用終日,斷可識矣。知幾其神,由經正以貫之,則寧用終日,(而)斷可識矣。君子(見)既知其幾,則隨有所處,不可過也,豈俟終日?“幾者動之微,吉之先見者也。”夫幾則吉凶皆見,(時)特言吉者,不作則已,作則所求(乎)向乎吉。
《繋辞下》に言う:君子は幾微を見ればすなわち動作し、一日の過ぎるを待たず。《周易・豫卦》六二の爻辞に言う:「石に介す、日を終えずして貞吉。」操守が堅定して磐石のごとければ、どうして一整天を待つを用いん?当下にすなわち断然と識別しうる。幾微を識見するの「神」と称する所以は、常道の端正より一を以て之を貫くがゆえに——だからどうして一整天を待つを用いん?当下にすなわち断然と識別しうる。君子はすでにあの幾微を知れば、すなわち時に随い処に随いて皆安頓ありて錯過に至らず、どうしてなお一整天を待たんや?「幾とは、動の微にして、吉の先見する者なり」——「幾」に就いて言えば、吉と凶は実は皆すでに呈現す。単に一個の「吉」を言う所以は、人は動作せざれば已むも、一たび動作すれば、追求する所は自然に吉の方向に向かって往くがゆえに。
(“不終日貞吉”,言速正則吉也。六二以陰居陰,獨無累於四,故其介如石。雖體柔順,以其在中而靜,何俟終日?必知幾而正矣。)常易故知險,常簡故知阻,(君子見)豫之六二常不動,故能得動之微。
(「日を終えずして貞吉」は、迅速に正に帰れば吉と言う。《豫卦》六二は陰爻を以て陰位に居り、独り九四の牽累を受けず、だからその操守は石のごとく堅定す。本体は柔順とはいえ、中に居りて能く静なるがゆえに、どうして一整天を待つを用いん?必ず幾微を識見して当下に正を守る。)恒常に平易を守るがゆえに、能く険処を知る。恒常に簡約を守るがゆえに、能く阻処を知る。《豫卦》六二は恒常に動かざるがゆえに、能く「動」のあの一点の微芒を捕捉しうる。
(君子見幾而作,不俟終日。苟見其幾,則時處置不欲過,何俟終日?幾者動之微,吉之先見,特言吉者,事則直須求向吉也。)(豫之六二常不動,故能得動之微。)
(君子は幾微を見ればすなわち動作し、一日の過ぎるを待たず。仮にあの幾微を見れば、すなわち時に随いて処置して錯過せしめず、どうして一整天を待つを用いん?「幾者動之微、吉之先見」——単に一個の「吉」を言う所以は、事を為すはもともと一直に吉の方向に向かって求めるべきがゆえに。)(《豫卦》六二は恒常に動かざるがゆえに、能く「動」のあの一点の微芒を捕捉しうる。)
君子知微知彰,知柔知剛,萬夫之望。君子知微知彰,知柔知剛,未嘗不得其中,故動止為眾人之表。一無止字。
《繋辞下》に言う:君子は微隠を知るもまた顕著を知り、柔弱を知るもまた剛強を知りて、万民の仰望する所である。君子は能く微を知り彰を知り柔を知り剛を知れば、一処として中道に合せざるなく、だからその一動一静は皆衆人の表率と為る。「動止」は、別本に「止」の字なし。
(知崇禮卑,叩其兩端而竭也。崇既效天,卑必法地。)(易曰原始要終,故知死生之說。死生止是人之終始也。)
(《繋辞上》の「知は崇く礼は卑し」と言うは、これがまさに《論語・子罕》の言う両端を叩いてその義を尽くす。「知」はすでに上天の崇高を效法すれば、「礼」は必ず大地の卑下を效法す。)(《繋辞上》の「始を原め終に反る、故に死生の説を知る」と言う。いわゆる死生とは、ただ人の終と始に過ぎない。)
學必知幾造微。“知微之顯,知風之自,知遠之近,可以入德。”由微則遂能知其顯,由末即至於本,皆知微知彰知柔知剛之道也。
為学は必ず幾微を識見し精微の処に深造しうるを要す。《中庸》に言う:「遠きの近きを知り、風の自るを知り、微の顕るを知らば、以て徳に入るべし。」微隠の処より入手すれば、すなわち進んでその顕著を知りうる。末梢の処より入手すれば、すなわち上って根本に遡りうる。これらの講ずる所は皆「微を知り彰を知り柔を知り剛を知る」の道理である。
子曰:顏氏之子,其殆庶幾乎!有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。知不善未嘗復行,不貳過也。
孔子は言う:顔氏のこの弟子は、おそらく幾を知るに近からん!彼に不善の処あれば自ら覚察せざるなし、覚察して後はかつて再び犯さず。いわゆる不善を知ればすなわち再び犯さずとは、《論語・雍也》の顔回を称許する「過を貳びず」である。
盛德之士,然後知化,如顏子庶乎知化也。有不善未嘗不知,已得善者,辨善與不善也。易曰“有不善未嘗不知”,顏子所謂有不善者,必只是以常意有跡處便為不善而知之,此知幾也,於聖人則無之矣。
ただ徳性の充盛する人のみが、そうして後にはじめて造化を体知するに談じ足る。顔回のごときはほぼ化を知ると言うべし。「不善あれば未だ嘗て知らざるなし」は、彼がすでに善を把握し住したを説明す——だから能く何が善で何が不善かを分辨す。《繋辞下》の「不善あれば未だ嘗て知らざるなし」と言う——顔回のいわゆる「不善」は、必ずただ尋常に念を起こし稍々痕跡を留むる処に於いてすなわち不善として覚察し出したで、これがまさに幾微を識見する。聖人に至っては、この一点の痕跡すらもない。
知德為至當而不忘至之,可見(吉)善於微也。蓋欲善不舍,則善雖微必知之。不誠於善者,惡能為有為無,雖終身由之不知其道,烏足與幾乎!顏子心不違仁,故不善未嘗不知,其致一也。
徳性が最も恰当なるを知りて、しかも念々それに達せんことを忘れざれば、このように微細の処に於いて善を見出しうる。大凡して善に向かう心が放舍を肯じざれば、善はたとえ極めて微細とも必ず覚察しうる。善に対して誠心できざる人は、善と不善とが彼に於いて可有可無で、たとえ終身それに依って走るもその中の道理を明白せず——どうして「幾」を談ずるに配せん!顔回の心は三月仁に違わざるがゆえに、不善は自ら知らざるなし——これは幾微を識見するのともともと一回事である。
孔子稱顏子“不善未嘗不知,知之未嘗復行”,其知不善,非獨知己,凡天下不善皆知之,不善則固未嘗復行也。又曰“吾未見能見其過而內自訟”,亦是非獨自見其過,乃見人之過而自訟。“其殆庶幾”,言庶幾於知幾。
孔子は顔回を称許して「不善あれば未だ嘗て知らざるなし、之を知れば未だ嘗て復た行わざるなり」——彼の知る不善はただ自己ののみにあらず、およそ天下の不善は彼が皆能く知り、しかも知って後は自己はもともと再び犯さない。孔子はまた《論語・公冶長》に「吾れ未だ能くその過を見て内に自ら訟る者を見ざるなり」と言う——これも同じくただ自己の過失を見るのみにあらず、他人の過失を見てもまた能く反って自己を責める。いわゆる「其れ殆ど庶幾ならん」とは、顔回がすでに幾微を識見するに接近したを言う。
天地絪縕,萬物化醇;男女構精,萬物化生。始陳上下交以盡接人之道,卒具男女致一之戒而人道畢矣。
《繋辞下》に言う:天地の二気が交密して纏綿し、万物はこれによって化育して純厚す。男女の両性が交合して精を構え、万物はこれによって化育生成す。この一章は先ず上下の相交わるを陳述して、用いて人と相接する道を説き尽くす。最後に男女の専一無二の告誡を具列して、人道はここに至ってもまた完備す。
氣坱然太虛,升降飛揚,未嘗止息,易所謂“絪縕”,莊生所謂“生物以息相吹”、“野馬”一者歟!此虛實動靜之機,陰陽剛柔之始。浮而上者陽之清,降而下者陰之濁,其感(遇)通聚結,為風雨,為霜雪,萬品之流形,山川之融結,糟粕煨爐,無非教也。
気は太虚の中に充塞瀰漫して、升降飛揚して、かつて止息せず——これが《繋辞下》の言う「絪縕」で、すなわち《荘子・逍遥遊》の言う「生物が息を以て相吹く」と「野馬」である。これがまさに虚と実・動と静の枢機で、また陰陽剛柔の開端である。浮かびて上升するは陽気の清、降りて下沉するは陰気の濁。それらは互相に感通し聚合凝結して、風雨と為り、霜雪と為る。万物の流布して形を成し、山川の融凝して結聚し、乃至酒糟灰燼のごとき最も粗濁なる物も、一つとして天道が人に与える教誨ならざるなし。
心所以萬殊者,感外物而不一也。天大無外,其為感者絪縕(二端)而已。(萬)物(之)物所以相感者,利用出入,莫知其鄉,一萬物之妙者歟!
人心の千差万別なる所以は、外物に感じて各々同じからざるがゆえに。天は広大にして外辺なく、それが能く感ずる所以は、ただ陰陽二気が絪縕交密するのみ。万物の能く彼此相感ずる所以は、まさに《繋辞上》の言う「利用出入」のごとく、往来出入してしかもその方向を知る人なし——これはおそらく万物を渾然として一と為す神妙であろう!
虛則受,盈則虧,陰陽之義也。故陰得陽則為益,以其虛也;陽得陰則為損,以其盈也。艮三索而得男,乾道之所以成也;兌三索而得女,坤道之所以成也。故三之與上,有天地絪縕、男女構精之義者此也。
虚なればすなわち能く容受し、満ちればすなわち損虧する——これが陰陽の道理。だから陰が陽を得ればすなわち《益》と為る——陰はもともと虚なるがゆえに。陽が陰を得ればすなわち《損》と為る——陽はもともと盈なるがゆえに。《艮》は乾が三度坤に求索して少男を得たで、乾道はこれによって完成す。《兌》は坤が三度乾に求索して少女を得たで、坤道はこれによって完成す。だから《損》《益》両卦の三爻と上爻の間に天地絪縕・男女構精の意義を含む——道理はまさにここに在る。
陰虛而陽實,故陽施而陰受;受則益,施則損,蓋天地之義也。艮三索而得男,兌三索而得女,乾坤交索而男女成焉,故三之與上,所以有絪縕構精之義。夫天地之絪縕,男女之構精,其致一至矣。是理也,可以意考,而言之所不能喻也。以乾之三而索於坤,則是三人行而損一人也;索之而男女成焉,是得其友也。乾坤合而損益之義著,非致一其孰能與於此!
陰は虚にして陽は実なので、陽は施与して陰は容受す。容受の一方は益を得、施与の一方は損を受く——これはおそらく天地の道理である。《艮》は三索によりて少男を得、《兌》は三索によりて少女を得——乾と坤とが彼此交相に求索して男女の象が成就す。だから三爻と上爻の間にはじめて絪縕構精の意義あり。天地の絪縕・男女の構精は、あの専一無二はすでに極処に至った。この道理はただ心意を以て体会すべく、言語は説き明白すべからず。乾の第三爻を用いて坤に求索するは、すなわち《損卦》六三の言う「三人行けば則ち一人を損ず」。一たび求索して男女の象が成就すれば、これがすなわち「一人行けば則ちその友を得」。乾坤が交合して損益の意義が顕明す——もし専一無二にあらざれば、誰かこの一層に参与せん!
子曰:君子安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求,君子修此三者,故全也。危以動,則民不與也;懼以語,則民不應也;無交而求,則民不與也。莫之與,則傷之者至矣。易曰:“莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。”此又終以昧於致用之戒。
孔子は言う:君子は先ず自身を安頓して後に行動し、先ずその心を平和にして後に発言し、先ず交情を定めて後に請求する所有る。君子はこの三事を修好するので、能く保全しうる。もし危殆の中に於いて貿然として行動せば、百姓は則ち跟従しない。もし恐懼を懐いて言話せば、百姓は則ち呼応しない。もし交情なくして求む所有れば、百姓は則ち与えない。肯じて与える人なければ、則ち彼を傷害する人が来る。《周易・益卦》上九の爻辞に言う:「之を益す者莫く、或いは之を撃つ。心を立てて恒ならざれば、凶。」この一章は最後にまた「用を致す」に昧きを以て告誡として收束す。
子曰:乾坤其易之門邪!乾,陽物也;坤,陰物也;陰陽合德而剛柔有體,推而行之存乎通,所謂合德;(隤)確然(確)隤然,所謂有體。乾於天為陽,於地為剛,於人為仁;坤於天則陰,於地則柔,於人則義。先立乾坤以為易之門戶,既定剛柔之體,極其變動以盡其時,至於六十四,此易之所以教人也。
孔子は言う:乾坤はおそらく《易》の門戸であろう!乾は陽の一類、坤は陰の一類で、陰陽はその徳性を合し剛柔は各々形体あり。《繋辞上》の「推して之を行うは通に存る」と言うは、講ずる所は「徳を合す」である。《繋辞下》の乾は「確然」として人に易を示し坤は「隤然」として人に簡を示すと言うは、講ずる所は「体あり」である。乾は天上に於いては陽、地上に於いては剛、人の身上に於いては仁。坤は天上に於いては陰、地上に於いては柔、人の身上に於いては義。先ず乾坤を立てて《易》の門戸と為し、すでに剛柔の体質を定下して、再びその変動を極処に推して種種の時位を窮尽し、一直に演じて六十四卦を成す——これが《易》の用いて人を教うる方式である。
其稱名也雜而不越。其文辭錯綜而條理不雜,雜而不越。於稽其類,其衰世之意邪!世衰則天人交勝,其道不一,易之情也。人一作理。
《繋辞下》に言う:《易》の称挙する名目は繁雑とはいえ、法度を逾越しない。これはその文辞が錯綜交織して条理は並びに紊乱せざるを言う——だから「雑にして越えず」と呼ぶ。《繋辞下》は続けて言う:その帰する類を考察すれば、おそらく衰世の憂思を含まん!世道が一たび衰えれば、天理と人欲とはすなわち互相に争勝して、その道は一に帰すること能わず——これがまさに《易》の表現せんとする情実である。「人」の字は別本に「理」と作る。
夫易,彰往而察來,而微顯闡幽。如坤初六驗履霜於已然、察堅冰於將至之類。一云:“數往知來”,其義一也。其事肆而隱,顯者則微之使求其原,幽者則闡之使見其用;故曰“其事肆而隱”。卦有稱名至小而與諸卦均齊者,各著其義也,蓋稱名小而取義大也。因貳以濟民行。
《繋辞下》に言う:《易》は已往を彰明して将来を察知し、顕著なるを精微化し、幽隠なるを闡発す。譬えば《坤卦》初六の「霜を履みて堅氷至る」は、すなわち已然の霜を履むより検証し、将至の堅氷より察知す。別の一種の説法を「数往知来」と呼び、意思は一様である。いわゆる「その事は肆にして隠」とは、顕著なるに対してはすなわちそれを精微にして、人をしてその本原を追尋せしめ、幽隠なるに対してはすなわちそれを闡発し出して、人をしてその功用を見せしむ——だから「その事は肆にして隠」と言う。卦中に称名は極小にして地位は他の各卦と斉等なるあり——あれは各々その意義を彰顯する。名目は小なるも取る所の義理は大なるがゆえに。《繋辞下》はまた言う:「貳に因りて以て民行を済す。」
(無有遠近幽深,遂知來物,非天下之至精,孰能與於此。此言易之為書也,至精者謂聖人窮理以至於極盡精微處也。)天下之理既已思盡(思),因易之三百八十四爻變動以寓之人事告人,(以)則當如何時,如何事,(若其應也)如何則吉,如何則凶,宜動宜靜,丁寧以為告戒,(此)所以因貳以濟民行也。
(《繋辞上》の「遠近幽深なく、遂に来物を知る。天下の至精に非ざれば、その孰れか能く此に与らんや」と言う。これは《易》この書を講ず。いわゆる「至精」とは、聖人が事理を窮究して極尽精微の処に至るを指す。)天下の道理がすでに思索し尽くせば、よって《易》の三百八十四爻の変動を借って人事を寄托し世人に告知す:当にどの時に在るべきか、どのような事に遇うべきか、どう為せば吉でどう為せば凶か、動に宜しいか静に宜しいかを、反復叮嚀して告誡と為す——これが「貳に因りて以て民行を済す」の意思である。
易之興也,其於中古乎!作易者,其有憂患乎!諳識情偽吉凶之變,故能(體)盡性命。
《繋辞下》に言う:《易》の興起は、おそらく中古の時代に在らん!《易》を作した人は、おそらく憂患を心に懐きたらん!まさに人情の真偽と吉凶の変化に熟悉するがゆえに、こそ能く性命の理を窮尽しうる。
是故履,德之基也;繫辭獨說九卦之德者,蓋九卦為德,切於人事。困,德之修也。
《繋辞下》に言う:だから《履》卦は徳性の根基である。《繋辞》が単にこの九卦の徳性を講ずるは、この九卦の示す徳が最も人事に切近なるがゆえに。《繋辞下》はまた言う:《困》卦は徳性の修治である。
困而不知變,民斯為下矣;不待困而喻,賢者之常也。困之進人也,為德辨,為感速,孟子謂“人有德慧術智恆存乎疢疾”以此。自古困於內無如舜,困於外無如孔子。以孔子之聖而下學於困,則其蒙難正志,聖德日躋,必有人所不必知而云獨知者矣,故曰“莫我知也夫!”“知我者其天乎!”
困厄に陥りて変通を知らざれば、このごとき人は《論語・季氏》の言う下等である。困厄を待たずして事理を明白しうるは、あれは賢者の常態である。困厄が人の長進に対して、能く徳性を分明ならしめ、能く感発を迅速ならしむ。《孟子・盡心上》の「人の徳慧術知ある者は、恒に疢疾に存る」と言う——講ずる所はまさにこれ。自古以来、家庭の内部に於いて困を受くるに舜に比するなく、外部の境遇に於いて困を受くるに孔子に比するなし。孔子のごとき聖人を以てしかも困厄の中に於いて低き処より学び起り——則ち彼が患難を蒙受して心志は愈々端正に、聖徳は一天々に上進し、その中には必ず旁人の知るを要せずしてただ彼自身のみが知る境地ある所以にして、《論語・憲問》に曰く:「我を知る者莫きなり夫!」また曰く:「我を知る者は其れ天か!」
巽,德之制也。量宜接物,故曰制也。履和而至,和必以禮節之,注意極佳。益長裕而不設,(益必實為有益,如天之生物,長必裕之,非虛設也。)
《繋辞下》に言う:《巽》卦は徳性の裁制である。これは事の宜しき所を酌量して外物に応接するを言う——だから「制」と呼ぶ。また言う:《履》卦は和順にして目的に達しうる——和順は必ず礼を以て節制せねばならぬ。前人のこの一層の注解の用意は極めて善し。また言う:《益》卦は人をして増長宽裕ならしめて虚設せず。(「益」は必ず切実に增益する所有らねばならぬ——ちょうど上天が万物を生養し、生長せば必ずそれを宽裕ならしむがごとく、決して虚に一個の名目を設けるにあらず。)
益物必誠,如天之生物,日進日息。自益必誠,如川之方至,日增日得。施之妄,學之不勤,欲自益且不足,益人難矣哉!易曰:“益長裕而不設”,設,謂虛設,信夫!因銘諸牖以自訟。“益長裕而不設”,益以實也。妄加以不誠之益,非益也。益必實為有益,如天之生物,長必裕之,非虛設也。
外物を增益するは必ず誠より出でねばならぬ——ちょうど上天が万物を生養して、一天々に推進し一天々に生長するがごとし。自己を增益するもまた必ず誠より出でねばならぬ——ちょうど河水がまさに漲来して、一天々に增添し一天々に得あるがごとし。施与がもし虚妄より出で、為学がもし勤勉できざれば、自己を增益せんと欲するもなお足らず、なお他人を增益せんと欲するは、難し!《繋辞下》の「益長裕にして設けず」と言う——「設」はすなわち虚設の意で、この話は真に信ずべし!我はこれに因りてそれを窗牖の上に銘刻して用いて自己を責求す。「益長裕にして設けず」とは、増益は実処に落ちるを言う。胡乱に一種の不誠の増益を加上するは、あれは並びに真の増益にあらず。「益」は必ず切実に增益する所有らねばならぬ——ちょうど上天が万物を生養し、生長せば必ずそれを宽裕ならしむがごとく、決して虚に一個の名目を設けるにあらず。
巽稱而隱。巽順以達志,故事舉而意隱。井以辯義,稱物平施,隨所求小大與之,此辯義也。巽以行權。不巽則失其宜也。
《繋辞下》に言う:《巽》卦は事物を称量して形迹を露さず。これは巽順の道を以て心志を通達するを言う——だから事は弁じ成されて用意はしかし隠れて顕れず。また言う:《井》卦は用いて義の宜しき所を辨别す。これは井水のごとく事物を称量して公平に施与し、人の求むる大小に随いて分別して与えるを言う——これがすなわち義を辨ず。また言う:《巽》卦は用いて権変を行使す。これは巽順できざれば、すなわちその中の合宜を失掉するを言う。
易之為書也不可遠,為道也屢遷。心不存之,是遠也,不觀其書,亦是遠也,蓋其為道屢遷。
《繋辞下》に言う:《易》この書は疏远すべからざるもので、それの講ずる道は屡屡として遷変す。心裏にそれを存記せざれば、すなわち疏远である。それのこの書を読みに行かざれば、また疏远である。疏远すべからざる所以は、まさにそれの講ずる道が屡屡として遷変するがゆえに。
易之為書也,原始要終,以為質也;六爻相雜,唯其時物也。於一卦之義,原始要終,究兩端以求其中。六爻則各指所之,非卦之質也,故吉凶各類其情,指其所之。
《繋辞下》に言う:《易》この書は、開端を推原し終局を帰結して、以て一卦の本質と為す。六爻は互相に錯雑して、ただその時位の当たる所の物に随うのみ。一卦の義理に就いて言えば、開端を推原し終局を帰結し、首尾両端を窮究して以てその中を求めるを要す。六爻に至っては、則ち各々往く所の方向を指示して、並びに一卦の本質にあらず——だから吉凶は各々その情実に依って分類し、それの往く所の去処を指出す。
其初難知,其上易知,本末也;初辭擬之,卒成之終。若夫雜物撰德,辯是與非,則非其中爻不備。噫!亦要存亡吉凶,則居可知矣;知者觀其彖辭,則思過半矣。
《繋辞下》に言う:初爻の意旨は知りがたく、上爻の意旨は知りやすい——これが本と末の分別である。初爻の爻辞はただその始を擬議し、上爻に至ってはじめてその終を成就す。事物を錯雑し徳性を撰述し是と非を辨别するに至っては、則ち中間の幾爻なければ不完備である。ああ!もし存亡吉凶の関鍵を総括せんと欲せば、家に安坐してもまた知りうる。識見ある人はただ一卦の彖辞を見れば、すでに一多半を領会す。
初上終始,三四非貴要之用,非內外之主,中爻以要存亡吉凶。如困卦“貞大人吉無咎”,蓋以剛中也,小過小事吉,大事凶,以柔得中之類。易為君子謀,不為小人謀,故撰德於卦,雖爻有小大,及繫辭其爻,必喻之以君子之義。
初爻と上爻は一卦の終と始で、三爻四爻は最も貴要の功用にあらず、また内卦外卦の主爻にあらず。真に存亡吉凶を総括するは中爻で、すなわち二爻と五爻である。譬えば《困卦》の卦辞の「貞、大人吉、咎なし」と言うは、まさに九二・九五が剛健にして中に居るがゆえに。《小過》の卦辞の小事吉・大事凶と言うは、則ち六二・六五が柔順を以て中を得るがゆえに——皆この類に属す。《易》は君子のために謀を為し、小人のために謀を為さないので、卦の上に於いて徳性を撰述する時、たとえ爻位に小有り大有りとも、あの一爻に爻辞を繋ぐに至っては、必ず君子の応有の義理を以て彼に曉喻す。
柔之為道,不利遠者。柔之用近也。道有變動,故曰爻;爻有等,故曰物;物相雜,故曰文。爻者,交雜之義。易之興也,其當殷之末世,周之盛德邪?當文王與紂之事邪?
《繋辞下》に言う:柔は一種の道として、遠き者を利せず。これは柔の功用がただ切近の処に在るを言う。また言う:道に変動あり、だから「爻」と呼ぶ。爻に等級あり、だから「物」と呼ぶ。物が互相に錯雑し、だから「文」と呼ぶ。「爻」とは、すなわち交錯して雑陳するの意である。《繋辞下》はまた言う:《易》の興起は、おそらく殷商の末世・周朝の徳業がまさに盛んな時に当たらん!おそらく文王と紂王のあの一段の史事に当たらん!
剛柔錯雜,美惡混淆,文王與紂當之矣。是故其辭危。危者使平,易者使傾,其道甚大,百物不廢,懼以終始,其要無咎,此之謂易之道也。不齊戒其心,則雜而著也。百物不廢,鉅細無不察也。
剛と柔が交錯雑陳し、美と悪が混淆して分かちがたく、文王と紂王の時勢はまさにこの一局に当たった。だから《易》の言辞は危懼に充満す。《繋辞下》に言う:心に危懼を存するを平安に帰せしめ、軽心を掉うを傾覆に帰せしむ。この道理は極めて広大にして、各種の事物は一つとして遺棄されず。始より終まで戒懼を懐きて、その要領は過錯を招致せざるに在り——これを《易》の道理と呼ぶ。もしこの心を斎戒できなければ、則ち雑念が顕露し出る。いわゆる「百物廃せず」とは、巨細を論ぜず察せざるなきを言う。
夫乾,天下之至健也,德行恆易以知險;夫坤,天下之至順也,德行恆簡以知阻;能說諸心,能研諸侯之慮,
《繋辞下》に言う:乾は天下の最も剛健で、その徳行は恒常に平易にして、因りて能く険難を知る。坤は天下の最も柔順で、その徳行は恒常に簡約にして、因りて能く阻塞を知る。このようであれば能く人心を喜悦せしめ、能く人の思慮を精研す。
擬議云為,非乾坤簡易以立本,則易不可得而見也。簡易故能悅諸心,知險阻故能研諸慮。簡易然後(能)知險阻,(簡易)理得然後一以貫天下之道。至健而易,至順而簡,故其險其阻,不可階而升,不可勉而至。
人の一切の擬議と言行は、もし乾坤の簡易を靠って根本を立定せざれば、則ち《易》は見るに由なし。ただその簡易なるがゆえに、能く人心を喜悦せしむ。ただその険と阻を知るがゆえに、能く思慮を精研す。先ず簡易ありて、そうして後にはじめて険阻を知りうる。道理がすでに得られて、そうして後に能く一を以て天下の道を貫通す。乾は至りて剛健にしてその道は平易、坤は至りて柔順にしてその道は簡約なので、それらの知る所の険と阻は、拾級して登るべきにあらず、また勉强して至るべきにあらず。
太虛之氣,陰陽一物也,然而有兩體,健順而已。(又)亦不可謂天無意,陽之意健,不(耳)爾何以發散和一?陰之性常順,然而地體重濁,不能隨則不能順,(則)少不順即有變矣。有變則有象,如乾健坤順,有此氣則有此象可得而言;若無則直無而已,謂之何而可?是無可得名。
太虚に充塞する気は、陰と陽とはもともと同一の物で、しかしその中に両種の体性を含む——すなわち健と順に過ぎない。天に意向なしと言うべからざるもあり:陽の意向は剛健で、こうでなければまた何を凭って発散して万物を和合して一に帰せしめえん?陰の本性は恒常に柔順で、しかし地体は重濁にして、もし陽気に随順しえざれば順と算えられず、稍々一たび順ならざればすなわち変化を産生す。変化あればすなわち形象あり——譬えば乾の健・坤の順のごとく、この气あればすなわちこの象の言説しうるあり。もし気すらなくば、それは直に一個の「無」のみで、なおそれを何と称せん?あれは根本より命名するに由なし。
故形而上者,得辭斯得象,但於不形中得以措辭者,已是得象可狀也。今雷風有動之象,須(謂)得天為健,雖未嘗見,然而成象,故以天道言;及其(發)法也則是效也,效著則是成形,成形則(是)地道也。若以耳目所及求理,則安得盡!如言寂然湛然亦須有此象。有氣方有象,雖未形,不害象在其中。
だから形而上の物は、それに言辞を見出しえれば、すなわちその象を把握した。ただ形体なき処に於いてなお言辞を下しえれば、それはすでに象を得て描摹すべし。如今の雷と風は皆振動の形象ありて、必ず先ず天が剛健なるを認定せねばならぬ。天はかつて人に見られざるとはいえ、しかしそれはすでに象を成して其を為るので、「天道」を以てそれを称説す。效法に落実するに至れば、それは「效」である。效験が顕著なればすなわち形体と為り、形体を成せばすなわち「地道」に属す。仮にただ耳目の触及しうる所を凭って道理を求めば、どうして完備を求めえん!「寂然」「湛然」のごとき説法も、また必ずそれに相応する象あり。気あってはじめて象あり。象はまだ形を成さざるとはいえ、それがすでにその中に在るを妨げない。
繫辭言“能研諸慮”,止是剩“侯之”二字。說者就解而“諸侯有為之主”,若是者即是隨文耳。
《繋辞下》の「能く諸慮を研ぐ」と講ずるに、今本は「侯之」の二字を多く出す——あれはただ衍文である。解説する人は字の面に照らして「諸侯は有為の主」と講じ成す——このようであれば、ただ訛字に随って牽強附會するに過ぎない。
定天下之吉凶,成天下之亹亹者。是故變化云為,吉事有祥,象事知器,占事知來。天地設位,聖人成能;人謀鬼謀,百姓與能。言易於人事終始悉備,行善事者,易有祥應之理。萌兆之事,而易具著見之器;疑慮而占,則易示將來之驗。有以見天地之間,成能者聖人而已。能畏信於易者,雖百姓之愚,能盡人鬼幽明之助。
《繋辞下》に言う:《易》は能く天下の吉凶を判定し、天下の勤勉にして倦まざる事業を成就す。だから人の変化言行の中に、吉事は自ずから祥兆あり。象を事に於いて観ればすなわち成る所の器を知り、占問を事に於いてせばすなわち将来を知る。天地は上下の位を設立し、聖人はその中に於いて功能を成就す。人謀と鬼謀とを併用し、百姓ですらもその能に参与しうる。これは《易》が人事に対して始より終まで備わらざるなきを言う:善事を為す人は、《易》の中に自ずから祥瑞感応の道理あり。事がかえだ萌芽を現ずれば、《易》はすでにそれを顕現し出す器具を具備す。心に疑慮を存して占を求めれば、《易》はすなわち将来の応験を昭示す。これによって見れば天地の間に、能く功能を成就するはただ聖人のみ。そして《易》に対して敬畏と信従を心存しうる者は、たとえ愚昧の百姓とも、また能く人と鬼・幽と明の両方面の助けを尽く得る。
天能(為)謂性,人謀(為)謂能。大人盡性,不以天能為能而以人謀為能,故曰“天地設位,聖人成能”。天人不須強分,易言天道,則與人事一滾論之,若分別則只是薄乎云爾。自然人謀合,蓋一體也,人謀之所經畫,亦莫非天理(耳)。
上天の功能を「性」と呼び、人の謀画を「能」と呼ぶ。大人は己性を窮尽して、上天の功能を以て自己の功能と為さず、人の謀画を以て功能と為す——だから《繋辞下》は「天地位を設け、聖人能を成す」と言う。天と人は必ずしも勉强に分かつを要せず:《易》が天道を講ずるは、常に人事と合わせて言う。もし強いて分別せば、あれはただ見識の浅薄に過ぎない。自然の天と人の謀画はもともと自ずから契合し、原より一體である。人の謀画経営する一切も、また一つとして天理ならざるなし。
八卦以象告,爻彖以情言,八卦有體,故象在其中。錯綜為六十四爻,爻彖所趨各異,故曰“情言”。變動以利言,吉凶以情遷。能變通則盡利,累於其情則陷於吉凶矣。
《繋辞下》に言う:八卦は形象を以て告示し、爻辞と彖辞は情実を以て表達す。八卦は各々体質あるがゆえに、象はすなわちその中に在る。八卦が錯綜して演じて六十四卦三百八十四爻と為り、爻辞と彖辞の趨向する所は各々同じからず——だから「情を以て言う」と言う。また言う:変動は利害に依って言い、吉凶は情実に随いて遷移す。能く変通すれば、すなわちその利を窮尽しうる。自己の情に牽累されれば、すなわち吉凶の中に陥入す。
情偽相感而利害生。凡卦之所利與爻之所利,皆變通之宜也。如“利建侯”,“利艱貞吉”。屈信相感而利生,感以誠也;情偽相感而利害生,雜以偽也。誠則順理而利,偽則不循理而害。
《繋辞下》に言う:真情と虚偽とが互相に感応して、利と害は産生す。およそ卦の言う利と爻の言う利は、皆変通して宜を得た結果で、譬えば《屯卦》の「侯を建るに利あり」と言い、《明夷》の「艱貞にして吉に利あり」と言うがごとし。屈と伸とが互相に感応して利益が産生するは、あれは誠を以て相感ずる。真情と虚偽とが互相に感応して利害が産生するは、あれは虚偽を攙雑した。誠を以て相待てばすなわち道理に順って利を得、偽を以て相待てばすなわち道理に循わずして害を生ず。
易言“情偽相感而利害生”,則是專以人事言,故有情偽利害也。“屈信相感而利生”,此則是理也,惟以利言。
《繋辞下》の「情偽相感じて利害生ず」と言うは、これは専ら人事に就いて言うので、はじめて真情虚偽・有利有害あり。「屈信相感じて利生ず」と言うに至っては、あれは自然の理を講ずるので、ただ一個の「利」の字を言うのみ。
説卦
昔者聖人之作易也,幽贊於神明而生蓍,方其將有謀也,將有問也,命於蓍,此所謂“生蓍”,非謂在野而生蓍也。事在未來之前,吉凶在(書)方策之上,蓍在手中,卒歸三處一時合,豈非幽贊於神明而得爾也?起其用也。
《説卦》に言う:昔の聖人が《易》を創作せし時、暗かに神明の賛助を得て蓍占の法を産生せしめた。人がまさに謀画せんとし、まさに詢問せんとする時に、すなわちこの事を蓍草に托付す——これがこそいわゆる「蓍を生ず」で、蓍草が野地に生長すると言うのではない。事がまだ未来の前に、吉凶はすでに典册の上に写され、蓍草は則ち手中に握られる。この三処は最終に同一の時刻に会合一し——これはどうして暗かに神明の賛助を得てこそこのようであれるにあらざらんや!これは蓍占の功用がこれによって興起するを言う。
參天兩地而倚數,觀變於陰陽而立卦,地所以兩,分剛柔男女而效之,法也;天所以參,一太極兩儀而象之,性也。
《説卦》に言う:天数の三・地数の二を取って立数の依拠と為し、陰陽の変化を観察して卦象を建立す。地が「両」を取る所以は、それが剛と柔・男と女とを分出して效法を加え、「法」の一面に属するがゆえに。天が「参」を取る所以は、一個の太極に両儀を加えて以てそれを象と為し、「性」の一面に属するがゆえに。
一物兩體者,氣也。一故神,兩在故不測。兩故化,推行於一。此天之所以參也。兩不立則一不可見,一不可見則兩之用息。兩體者,虛實也,動靜也,聚散也,清濁也,其究一而已。有兩則有一,是太極也。若一則有兩,有兩亦一在,無兩亦一在。然無兩則安用一?不以太極,空虛而已,非天參也。
一個の物にして両種の体性を具有するは、すなわち「気」である。ただそれが一なるがゆえに、神妙なり。ただその両端が並び在るがゆえに、測度すべからず。ただそれに両あるがゆえに、能く化す。そしてこの「化」はまた始終あの「一」の中に於いて推行す。これがすなわち天の「参」と為る所以の道理である。両端が確立せざれば、あの「一」は顕現するに由なし。「一」が顕現しえざれば、両端の功用もまた停息す。いわゆる「両体」とは、虚と実・動と静・聚と散・清と濁で、追究して底に至ればただ一に過ぎない。両あればすなわち一あり——これが太極である。もし一と言えば、その中はすでに両を含む。両ある時は一はその中に在り、両なき時も一はなお在る。しかし両なくば、則ちこの「一」を要して何を為さん?太極を以て本と為さざれば、ただ一個の空虚が剩るのみで、それは天の「参」と為るにあらず。
(和順於道德而理於義)(理義即是天道也。易言“理於義”,一也。求是即為理義,言理義不如且言求是易曉。求是之心,俄頃不可忘。“理於義”,此“理”雲者,猶人言語之間常所謂“理”者,非同“窮理”之“理”。凡觀書不可以相類而泥其義,不爾則字字相梗。觀其文勢上下,如“充實之美”與《詩》之言“美”,輕重不同。)
(《説卦》に言う:道和順にして義に条理す。)(義理はすなわち天道である。《説卦》の「義に理す」と言うは、講ずる所は同一の事。「是」を求むるがすなわち義理で、「義理」と言うより、むしろ「是を求む」と言うがより明白に易し。是を求むる心は、片刻も忘るべからず。「義に理す」のこの「理」の字は、人々が平常に話す所の「理」のごとく、「理を窮む」の「理」とは並びに同じからず。およそ書を読むに字の面が相類するを以てその意義に拘泥すべからず——然らざればすなわち字字扞格す。それの上下文の語勢を看るを要す——譬えば《孟子・盡心下》の「充実のこれを美と謂う」の「美」は、《詩経》の裏に言う「美」と、分量の軽重は一様ならず。)
窮理盡性以至於命。性盡其道,則命至其源也。一作至於原也。(致)知與至為道殊遠,盡性然後至於命,不可謂一;不窮理盡性即是戕賊,不可至於命。然至於命者止能保全天之所稟賦,本分者且不可以有加也。既言窮理盡性以至於命,則不容有不知。
《説卦》に言う:事理を窮究し本性を窮尽して、天命に至る。本性がそれ自身の道理を尽くせば、天命もまたその本源に抵達す。「其の源に至る」は、別本に「原に至る」と作る。「知」と「至」の両者は相去ること甚だ遠し:本性を窮尽してそうして後にはじめて天命に抵達し、一回事と言うべからず。理を窮め性を尽くさざればすなわち自我を戕害し、また天命に抵達すること不可能なり。しかしいわゆる「命に至る」も、ただ上天の賦与したあの一份を保全しうるのみで、本分の内の物はなお増加すべからず。すでに「理を窮め性を尽くして以て命に至る」と言うた以上、則ちなお知らざる事あるを容さない。
天道即性也,故思知人者不可不知天,能知天斯能知人矣。知天知人,與窮理盡性以至於命同意。釋氏元無(天)用,故不取理。彼以(性)有為無,吾儒以參為性,故先窮理而後盡性。
天道はすなわち性なので、《中庸》の人を知らんと欲せば天を知らざるべからずと言う——能く天を知ってはじめて能く人を知る。天を知り人を知るは、「理を窮め性を尽くして以て命に至る」と同一の意思である。仏家はもともと実用を講ぜず、だから「理」のこの一層を取らない。彼らは「有」を「無」と看做すが、我ら儒者は天地人の三才を以て参合して性と為すので、先ず事理を窮究して、そうして後に本性を窮尽す。
凡人剛柔緩急,趨識無有同者,此“乾道變化各正性命”也,及盡性則皆忘之。窮理亦當有漸,見物多,窮理多,從此就約,盡人之性,盡物之性。天下之理無窮,立天理乃各有區處,窮理盡性,言性已是近人言也。既窮物理,又盡人性,然後能至於命,命則又就己而言之也。
人は剛あり柔あり・緩あり急ありて、志趣見識は完全に相同じきなし——これがまさに《乾卦・彖傳》の言う「乾道変化して、各々その性命を正しくす」。本性を窮尽する時に至れば、これらの差別は皆忘掉される。理を窮むるもまた当に循序漸進すべし:見る事物が多ければ、窮むる所の理もまた多く、これによって再び簡約に帰して、進んで人の性を窮尽し物の性を窮尽す。天下の道理に窮尽はないも、天理を立て起せば、各様の事物は自ずから各様の安頓の処あり。「理を窮め性を尽くす」と言うに、性を講ずる時はすでに人のこの一辺に就いて言う。すでに物の理を窮究し、また人の性を窮尽して、そうして後にはじめて天命に抵達しうる。そして「命」はまた自己のこの一身に就いて言う。
昔者聖人之作易也,將以順性命之理。是以立天之道,曰陰與陽;立地之道,曰柔與剛;立人之道,曰仁與義。陰陽、剛柔、仁義,所謂“性命之理”。易一物而三才備:陰陽氣也,而謂之天;剛柔質也,而謂之地;仁義德也,而謂之人。
《説卦》に言う:昔の聖人が《易》を創作せしは、それを用いて性命の理に順応せんと欲した。だから天の道を確立して、陰と陽と呼ぶ。地の道を確立して、柔と剛と呼ぶ。人の道を確立して、仁と義と呼ぶ。陰陽・剛柔・仁義は、すなわちいわゆる「性命の理」である。《易》は一物を以て三才を具備す:陰陽は気に属すれば、すなわちそれを天と称す。剛柔は質に属すれば、すなわちそれを地と称す。仁義は徳に属すれば、すなわちそれを人と称す。
一物而兩體者,其太極之謂歟!陰陽天道,象之成也;剛柔地道,法之效也;仁義人道,性之立也;三才兩之,莫不有乾坤之道也。易一物而合三才,天地人一,陰陽其氣,剛柔其形,仁義其性。
一個の物にして両種の体性を具有する——これはおそらくいわゆる太極であろう!陰陽は天道で、「象」の成就である。剛柔は地道で、「法」の效験である。仁義は人道で、「性」の確立である。三才は各々更に両端に分かれて、一つとして乾坤の道を含まざるなし。《易》は一物を以て三才を合し、天・地・人はもともと一貫である:陰陽はそれの気、剛柔はそれの形、仁義はそれの性である。
數往者順,知來者逆,是故易,逆數也。數往順,知來逆,易逆數,如孟子曰“苟求其故,則千歲之日至可坐而致也”。
《説卦》に言う:已往を推数するは順推で、将来を預知するは逆推なので、《易》の用うる所は逆推の数である。已往を推数するを順と為し、将来を預知するを逆と為す——《易》の用うる所は逆推で、ちょうど《孟子・離婁下》の言う「苟もその故を求めば、千歳の日至も、坐して以て致すべし」のごとし。
神也者,妙萬物而為言者也。全備天理,則其體孰大於此!是謂大人。以其道變通無窮,故謂之聖人。聖人心術之運,固有不疾而速、不行而至、默而識之處,故謂之神。
《説卦》に言う:いわゆる「神」とは、それが万物を神妙にするこの一点に就いて言う。能く天理を完全に具備すれば、則ちなおこれより大なる本体あらんや!これを「大人」と呼ぶ。彼の行う所の道が変通して窮まりなきがゆえに、彼を「聖人」と称す。聖人の心思の運用の際には、もともと急促せずして自然に迅速・行走せずして自然に到達・黙然として言なくして自然に領会する処あるので、それを「神」と称す。
動萬物者莫疾乎雷,撓萬物者莫疾乎風,燥萬物者莫熯乎火,說萬物者莫說乎澤,潤萬物者莫潤乎水,終萬物、始萬物者莫盛乎艮。造化之功,發乎動,畢達乎順,形諸明,養諸容載,遂乎悅潤,勝(之)乎健,不匱乎勞,始終乎止。
《説卦》に言う:万物を鼓動するに雷より迅疾なるは莫く、万物を揺撼するに風より迅疾なるは莫く、万物を烘干するに火より熾烈なるは莫く、万物を取悦するに沢より欣悦なるは莫く、万物を滋潤するに水より沾濡なるは莫く、万物を終結しまた万物を開啓するに艮より盛大なるは莫し。造化の功用は、震の動に於いて発端し、巽の順に於いて暢達し、離の明に於いて成形し、坤の容載に於いて養育し、兌の悦と坎の潤に於いて遂成し、乾の健に於いて力を得、坎の勞に於いて匱竭せずして、艮の止を以て終と為し始と為す。
乾,健也;坤,順也;震,動也;巽,入也;坎,陷也;離,麗也;艮,止也;兌,說也。健、動、陷、止,剛之象;順、麗、入、說,柔之體。一陽生於兩陰之上,各得其位,其勢止也。
《説卦》に言う:乾は剛健、坤は柔順、震は振動、巽は入伏、坎は陥険、離は附麗、艮は静止、兌は欣悦である。健・動・陥・止は、陽剛の形象。順・麗・入・説は、陰柔の体質。《艮卦》は一個の陽爻が二個の陰爻の上に生じて、各々その本位を得るので、それの勢態は止である。
巽,為雞。飛(遷)升躁動,不能致遠,雞之象。乾為寒,為冰,為大赤。“乾為大赤”,其正色也;“為冰”,健極而寒甚也。
《説卦》に言う:巽は鶏と為る。飛び起きて躁動して安らかならず、遠く達しえない——これがまさに鶏の形象である。また言う:乾は寒と為り、氷と為り、大赤と為る。「乾は大赤」は、それの正色を取る。「氷と為る」は、剛健が極点に至りて寒気が極盛なるの意を取る。
自此而下,皆所以明萬物之情。明一作類。坤為文,為眾。“坤為文”,眾色也;“為眾”,容載廣也。震為旉,為蒼莨竹,為萑葦。“震為萑葦”,“為蒼莨竹”,“為旉”,皆蕃鮮也。
ここより下は、皆用いて万物の情状を闡明す。「明」の字は別本に「類」と作る。《説卦》に言う:坤は文と為り、衆と為る。「坤は文と為る」は、それが衆色を兼含するを言う。「衆と為る」は、それが容載して広大なるを言う。また言う:震は旉と為り、蒼莨竹と為り、萑葦と為る。「震は萑葦と為る」「蒼莨竹と為る」「旉と為る」は、取る所は皆繁茂鮮盛の意である。
巽為木,為風,為長女,為繩直,為工,為白,為長,為高,為進退,為不果,為臭;其於人也,為寡髮,為廣顙,為多白眼,為近利市三倍;其究為躁卦。“巽為木”,萌於下,滋於上也;“為繩直”,順以達也;“為工”,巧且順也;“為白”,因所遇而從也;“為長,為高”,木之性也;“為臭”,風也,入也;“於人為寡髮廣顙”,躁人之象也。
《説卦》に言う:巽は木と為り、風と為り、長女と為り、縄墨の直と為り、工匠と為り、白と為り、長と為り、高と為り、進退不定と為り、猶豫不決と為り、気味と為る。人に就いて言えば、頭髪稀少と為り、額頭寛広と為り、眼白多しと為り、近利を逐って三倍の市利を得と為る。極処に推究すれば則ち躁動の卦と為る。「巽は木と為る」は、それが下より萌発して上に向かって滋長するを取る。「縄直と為る」は、それが勢に順って通達するを取る。「工と為る」は、それがすでに巧みにしてまた和順なるを取る。「白と為る」は、それが遇う所に随いて順従するを取る。「長と為り高と為る」は、木の本性である。「臭と為る」は、巽が風と為り入と為るがゆえに。「人に就いて言えば頭髪稀少・額頭寛広と為る」は、躁急の人の形象である。
坎為血卦,為赤。“坎為血卦”,周流而勞,血之象也;“為赤”,其色也。離為乾卦,其於木也為科上槁。“離為乾卦”,“於木為科上槁”,附(其)且燥也。(一作且躁也。)艮為徑路,為小石。“艮為小石”,堅難入也;“為徑路”,通或寡也。或一作且。兌為毀折,為附決。“兌為附決”,內實則外附必決也;“為毀折”,物成則止,柔者必折也。
《説卦》に言う:坎は血卦と為り、赤と為る。「坎は血卦と為る」は、それが周流して息まずして勞苦するを取る——まさに血の形象である。「赤と為る」は、それの顔色を取る。また言う:離は乾卦と為り、樹木に就いて言えば中空にして上端が枯槁す。「離は乾卦と為る」「木に於いては科上槁と為る」は、附着してしかも乾燥するの意を取る。(この句は別本に「且躁也」と作る。)また言う:艮は小路と為り、小石と為る。「艮は小石と為る」は、それが堅硬にして侵入しがたきを取る。「径路と為る」は、それが通行すべきとはいえ往往として狭少なるを取る。「或」の字は別本に「且」と作る。また言う:兌は毀折と為り、附決と為る。「兌は附決と為る」は、内裏が充実すれば則ち外面に附する所は必ず裂決するを言う。「毀折と為る」は、物は長成せばすなわち止まるべく、柔弱なるは必ず折断するを言う。
序卦
序卦相受,聖人作易,須有次序。序卦無足疑。序卦不可謂“非聖人之(縕)蘊”,今欲安置一物,猶求審處,況聖人之於易!其間雖無極至精義,大概皆有意思。觀聖人之書,須布遍細密如是,大匠豈以一斧可知哉!
《序卦》の諸卦は前後相承して、聖人の《易》を創作せしには、必ずその次序あり。《序卦》のこの一篇に疑いすべきはない。《序卦》が「聖人の深意にあらず」と言うべからず——今日に我らが一件の物を安放するも、なお仔細に妥当な処所を尋ねる、ましてや聖人の《易》に対してをや!その中に極めて精深の義理なしとはいえ、しかし大体は皆用意ある。《説卦》聖人の書を読むには、必ずこのように周遍細密に体会せねばならぬ。一位の大匠の本事は、どうしてただその一柄の斧頭を見るのみで知りえよう!
有天地,然後萬物生焉。盈天地之間者(為)唯萬物,故受之以屯。聚而不得出故盈,雖雷亦然。物生必蒙,蒙冒未肆。一作蒙稚者,蒙昧未肆。
《序卦》に言う:天地あって、そうして後に万物は生出す。天地の間に充満するはただ万物のみなので、接ぐ所は《屯》卦である。聚積して出ずること能わざれば、「盈」と呼ぶ——雷すらもこのごとし。《序卦》はまた言う:物が初生すれば必ず蒙昧す。これはそれが蒙覆されてまだ舒展できざるを言う。この句は別本に「蒙稚者、蒙昧未肆」と作る。
需者,飲食之道也。雲上於天,物皆有待之象。比必有所畜,故受之以小畜。物畜然後有禮,故受之以履。德積則行必有方,物積則散必有道。
《序卦》に言う:《需》とは、飲食の道である。《需卦》の象は雲気が天上に升りて、万物は皆待つ所有る。《序卦》はまた言う:親比して後に必ず畜聚する所有るので、接ぐ所は《小畜》。万物が畜聚して後に礼あるので、接ぐ所は《履》。徳性が積累すれば、行事は必ず方向あり。財物が積聚すれば、散施は必ず法度あり。
坎者,陷也;……離者,麗也。一陷溺而不得出為坎,一附麗而不能去為離。有父子然後有君臣,有君臣然後有上下,有上下然後禮義有所錯。性天經,然後禮義行,故曰有父子、君臣、上下,然後禮義有所錯。
《序卦》に言う:坎とは、陥落である。離とは、附麗である。一味に陥溺して出ずること能わざればすなわち《坎》。一味に附着して離るること能わざればすなわち《離》。《序卦》はまた言う:父子あって後に君臣あり、君臣あって後に上下あり、上下あって後に礼義ははじめて安放の処所有り。人は上天の常道を以て自己の本性と為して、そうして後に礼義ははじめて推行しうる——だから父子・君臣・上下あって後に、礼義ははじめて安放の処所あると言う。
夷者,傷也。傷於外者必反於家,故受之以家人。傷於外必反於家,萬物自然之理。
《序卦》に言う:夷とは、損傷である。外に於いて傷を受けた者は必ず家中に帰るので、《明夷》の後に続けて《家人》。外に於いて傷を受ければ家裏に帰る——これは万物自然の道理である。
雑卦
屯見而不失其居。險在外,故不失其居;與渙、解義反,故曰緩必有所失。蒙雜而著。“著”,古“著”字,雜著於物,所以為蒙。蒙,昏蒙也。(兌見而巽伏也)(兌說在外,巽入在隱。)
《雑卦》に言う:《屯》卦は顕現してその居る所を失わず。これは険難が外卦に在るがゆえに、その安居を失わず。それは《渙》《解》両卦と意義相反するので、渙散舒緩すればすなわち必ず失う所有ると言う。《雑卦》はまた言う:《蒙》卦は雑乱にして昭著す。「着」は古の「著」の字で、雑然として外物に附着するので、それが蒙を成す。「蒙」とは、すなわち昏昧蒙蔽である。(《兌》は外に顕現して《巽》は内に潜伏す。)(《兌》の欣悦は外に在り、《巽》の入伏は隠処に在る。)
井通而困相遇也。澤無水,理勢適然,故曰“相遇”。小過,過也。小過,過而未顛也。履,小處也。危者安其位者也,故履以不處為吉。大過,顛也。過至於顛,故曰“大”。歸妹,女之終也。妹歸而長,女之終也。一作歸妹。
《雑卦》に言う:《井》卦は通達で、《困》卦は相遇である。《困卦》の象は沢中に水なく、事理形勢はもともとこのようであるべし——だから「相遇」と言う。また言う:《小過》とは、過越である。《小過》は過越してまだ顛覆の歩に至らざる。 また言う:《履》とは、小さく処る所有り。危殆を招致するはまさに一味にその位に安んずる人なので、《履》卦はその位を固守せざるを以て吉と為す。また言う:《大過》とは、顛覆である。過越して顛覆の歩に至れば、それを「大」と称す。また言う:《帰妹》とは、女子の帰宿である。少女が出嫁して後に人を成す——これがすなわち女子の帰宿である。「妹帰」は別本に「帰妹」と作る。
佚文
繫辭所舉易義,是聖人議論到此,因舉易義以成之,亦是人道之大且要者也。繫辭反覆,惟在明易所以為易,撮聚眾意以為解,欲曉後人也。
《繋辞》の挙出する《易》義は、聖人が議論してここに至り、すなわち勢いに順って《易》義を挙げ出して以てそれを成全する——これもまた人道の中の最も重大にして緊要の部分である。《繋辞》は反復して申説し、ただ《易》の《易》と為る所以を闡明するに在り、众多の意旨を汇聚して解説と為す——後人をして明白しえしめんがためである。
化不可言難知,可以言難見,如日景之行則可知之,其所以行則難見也。人於龜策無情之物,不知其將如何,惟是自然莫或使之然者,陰陽不測之類也。己方虛心以鄉之,卦成於爻以占之,其辭如何,取以為占。聖人則又於陰陽不測處以為占,或於夢寐,或於人事卜之,然聖人於卜筮亦鮮,蓋其為疑少故也。
「化」は知りがたしと言いがたく、ただ見がたしと言いうるのみ。譬えば日影の推移は、人はこれを知りうるも、しかしそれが究竟何を凭って推移するかは見えない。人が亀甲蓍草のごとき情識なき物に面対するに、それがまさにどうならんかを知らず、ただ自然而然にして誰かそれを然らしめるなし——これは「陰陽不測」の一類に属す。自己は先ず心を虚しくしてそれに朝向し、卦は爻画より成り、これに拠って占問し、それの辞がどう言うかを見て、取って占断と為す。聖人は則ち更に陰陽不測の処に於いて取って占と為し、或いは夢寐を借り、或いは人事に就いて卜問す。しかし聖人の卜筮を用いる時は実は少ない——その心中の疑惑がもともと少ないがゆえに。
不見易則不識造化,不識造化則不知性命,既不識造化,則將何謂之性命也?大易不言有無,言有無,諸子之陋也。人雖信此說,然不知能以何為有,以何謂之無,如人之言曰自然,而鮮有識自然之為體。
《易》を見る能わざれば造化を認識しえず、造化を認識しえざれば性命を知らず。すでに造化を認識しえざれば、なお何を以て性命と呼ばん?《周易》は「有」と「無」を分説しない。一たび口を開けばすなわち有を分かち無を分かつは、あれは諸子百家の浅陋である。人々はこの説法を信ずるとはいえ、究竟何を以て「有」と為し何を以て「無」と呼ぶかを知らず——ちょうど人々が皆口に「自然」と言うも、真に「自然」がどのような一個の本体かを認識する人の少なきがごとし。
觀其幾者,善之幾也,惡不可謂之幾。如曰“幾者動之微,吉之先見”,亦止言吉耳。“上交不諂,下交不瀆”,人事不過於上下之交,此可盡人道也。且如孝弟仁之本亦可以言幾,造端乎夫婦亦可以言幾,親親而尊賢亦可以為幾,就親親尊賢而求之又有幾焉。又如言不誠其身,不悅於親,亦是幾處。苟要入德,必始於知幾。
観察すべき「幾」とは、善の萌芽で、悪は「幾」と呼べない。《繋辞下》の「幾者動之微、吉之先見」と言うも、ただ一個の「吉」の字を言うに過ぎない。「上交不諂、下交不瀆」——人間の事情はただ上下の間の交接に過ぎず、この一層を為し得ればすなわち人道を尽くしうる。譬えば孝悌は仁の根本で、これは「幾」と言いうる。《中庸》の君子の道は「夫婦に端を造る」と言う——夫婦の間もまた「幾」と言いうる。親愛して親を親み賢者を尊崇するも、同じく「幾」と算えうる。すなわち親を親み賢を尊ぶの上に於いて更に細処に求めれば、その中にまた別に「幾」在り。またたとえば《孟子・離婁上》の自身を誠ならしめえざれば父母を取悦せしめえずと言うも、これもまた「幾」の顕現する処である。人がもし徳性の門に進入せんと欲せば、必ず幾微を識見するより始める。
欲觀易,先當玩辭,蓋所以說易象也。不先盡繫辭,則其觀於易也,或遠或近,或太艱難。不知繫辭而求易,正猶不知禮而□□秋也。繫辭所以論易之道,既知易之道,則易象在其中,故觀易必由繫辭。繫辭獨說九卦之德者,蓋九卦為德,切於人事。
《易》を読まんと欲せば、先ず当にその文辞を玩味すべし——文辞はまさに用いて卦象を解説するがゆえに。先ず《繋辞》を読み透さざれば、則ち《易》を看る時に或いは疏远に失し、或いは拘近に失し、或いは過ぎて艱難と覚えん。《繋辞》を懂得せずして《易》を求むるは、まさに《礼》を懂得せずして《春秋》を読むに同じ(原文ここに二字を欠く)。《繋辞》は用いて《易》の道を論述する。すでに《易》の道を懂得すれば、卦象はすなわちその中に在る——だから《易》を読むに必ず《繋辞》を経由せねばならぬ。《繋辞》が単にあの九卦の徳性を講ずるは、この九卦の示す徳が最も人事に切近なるがゆえに。
有謂心即是易造化也,心又焉能盡易之道!易象繫之以辭者,於卦既已具其意象矣,又切於人事言之,以示勸戒。釋氏之言性不識易,識易然後盡性,蓋易則有無動靜可以兼而不偏舉也。無則氣自然生,氣之生即是道,是易。
或る人は心がすなわち《易》、すなわち造化と言うが、しかし心はまたどうして《易》の道を窮尽しえよう!《易》の卦象に文辞を繋ぐるは、卦は自体にすでにその意と象を具備すれども、なお更に人事に切合して言うを要し、用いて勧勉と告誡を顕示せんがためである。仏家は「性」を講じて《易》を識らず。必ず先ず《易》を識得して、そうして後にはじめて性を窮尽しうる——《易》は有と無・動と静を兼容并包して一辺に偏執せざるがゆえに。「無」の処より言えば、気は自然而然に生発す。気の生発はすなわち道、すなわち《易》である。
乾不居正位,是乾理自然,惟人推之使然邪?主應物不能固知,此行而流也。入德處不移,則是道不進,重滯者也。
乾は或る一個の正位を占拠しない——これは乾の道理がもともとこのようか、それともただ人が推衍するによりてそれをこのようにならしめるか?主意が事物に応接する時に確定して移らざること能わざれば、これはすなわち行に随いて流蕩す。しかし徳に入る処に於いて一味に固守して移るを肯じざれば、あれはまた道業が長進できず、沉重滞塞の一類に属す。
動靜不失其時,是時措之宜也,集義也。集義久則自有光明,靜則無見,必動乃見其道光明,以其本之光明,故其發也光明。學行之乃見,至其疑處,始是實疑,於是有學。
《艮卦・彖傳》の「動静時を失わず」と言うは、これがすなわち《中庸》のいわゆる「時に措くの宜」で、すなわち《孟子・公孫丑上》の言う「義を集む」。義を集むこと久しければ自然に光明あり。静の時は見え出ず、必ず動きてこそ彼の道が光明なるを見出す——彼が根本上よりもともと光明なるがゆえに、発し出すもまた光明なり。学問は必ず実行してはじめて見え出る。行いて疑難の処に至って、はじめて真実の疑惑で、よってはじめて真の学あり。
“險而止,蒙”,夫於不當止而止,是險也,如告子之不動心,必以義為外,是險而止也。蒙險在內,是蒙昧之義,蒙方始務求學而得之,始是得所止也。若蹇則是險在外者也。
《蒙卦・彖傳》の「険にして止まるは蒙なり」と言う。止まるべからざる処に於いてしかも止まったは、これがすなわち険で——譬えば告子の心を動かさざるは、必ず「義」を以て心外の物と看做す——これがすなわち険にして止まる。《蒙》卦の険は内卦に在りて、まさに蒙昧の意である。蒙昧の人がはじめて求学に致力して得る所有れば、あれははじめて当に止まるべき所を得たと算う。《蹇》卦に至っては、則ち険が外卦に在る一類である。
易乃是性與天道,其字日月為易,易之義包天道變化。易非止數,春秋大義不止在元。在易則是至理,在孟子則是氣。
《易》の講ずる所はまさに《論語・公冶長》の言う「性と天道」である。「易」のこの字は「日」「月」の两部分より構成し、「易」の意義は天道の変化を包挙す。《易》はただ象数の学のみにあらず——ちょうど《春秋》の大義もまたただ一個の「元」の字の上に在らざるがごとし。同一の事は、《易》に於いては最高の道理を言い、《孟子》に於いては則ち「気」を言う。
