六祖大師法寶壇経
風旛報恩光孝禅寺住持・嗣法比丘宗宝が編集した。(宗宝は元代の僧で、通行本『壇経』は彼によって再編されたものである。)
仏家典籍
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風旛報恩光孝禪寺住持嗣祖比丘宗寶編
風旛報恩光孝禅寺住持・嗣法比丘宗宝が編集した。(宗宝は元代の僧で、通行本『壇経』は彼によって再編されたものである。)
行由第一
行由第一
時,大師至寶林。韶州韋刺史(名璩)與官僚入山請師,出於城中大梵寺講堂,為眾開緣說法。師陞座次,刺史官僚三十餘人,儒宗學士三十餘人,僧尼道俗一千餘人,同時作禮,願聞法要。
その時、大師は宝林寺に来られた。韶州刺史の韋璩と部下の官員が山に入って大師を礼請し、城中の大梵寺講堂で大衆のために法縁を開き仏法を説くよう請った。大師が法座に上ると、刺史と官員三十余人、儒学の士人三十余人、僧尼と在家信者千余人が、同時に礼を行い、仏法の綱要を聞かんと願った。
大師告眾曰:「善知識!菩提自性,本來清淨,但用此心,直了成佛。善知識!且聽惠能行由,得法事意。惠能嚴父,本貫範陽,左降流於嶺南,作新州百姓。此身不幸,父又早亡。老母孤遺,移來南海,艱辛貧乏,於市賣柴。時,有一客買柴,使令送至客店;客收去,惠能得錢,卻出門外,見一客誦經。惠能一聞經語,心即開悟,遂問:『客誦何經?』客曰:『《金剛經》。』復問:『從何所來,持此經典?』客云:『我從蘄州黃梅縣東禪寺來。其寺是五祖忍大師在彼主化,門人一千有餘;我到彼中禮拜,聽受此經。大師常勸僧俗,但持《金剛經》,即自見性,直了成佛。』惠能聞說,宿昔有緣,乃蒙一客,取銀十兩與惠能,令充老母衣糧,教便往黃梅參禮五祖。
大師は大衆に告げて言われた。「善知識!覚悟の自性はもともと清浄である。ただこの心を用いれば、直ちに了達して成仏できる。善知識!しばらく私・惠能が法を得た経歴と因由を聞いてほしい。私の父はもと范陽の籍であったが、後に貶官されて嶺南に流され、新州の百姓となった。私の一生は不幸で、父はまた早く亡くなった。孤独で老いた母が私を連れて南海に移り、日々は艱難貧困で、私は市場で柴を売っていた。ある時、一人の客が柴を買い、宿屋まで届けさせた。客は柴を受け取り、私は銭を取って門外に出ると、一人の客が経を誦しているのを見た。私は経中の言葉を聞くや否や、心のうちに悟りが開け、尋ねた。『お客様が誦しているのは何の経ですか。』彼は言った。『金剛経』です。』私はまた尋ねた。『どこから来て、この経典を持っているのですか。』彼は言った。『私は蘄州黄梅県の東禅寺から来ました。あの寺は五祖弘忍大師がそこで住持教化しており、門人は千余人います。私はそこに至って礼拝し、この経を聴受しました。大師は常に出家・在家の人に勧めています。ただ『金剛経』を持てば、自ら本性を見て、直ちに了達して成仏できると。』私はこの話を聞いて、宿世の縁があるのだと思い、一人の客から十両の銀子を恵まれ、老母の衣食に充てるようにと与えられ、直ちに黄梅に赴き五祖に参礼するよう教えられた。
「惠能安置母畢,即便辭違。不經三十餘日,便至黃梅,禮拜五祖。祖問曰:『汝何方人?欲求何物?』惠能對曰:『弟子是嶺南新州百姓,遠來禮師,惟求作佛,不求餘物。』祖言:『汝是嶺南人,又是獵獠,若為堪作佛?』惠能曰:『人雖有南北,佛性本無南北;獵獠身與和尚不同,佛性有何差別?』五祖更欲與語,且見徒眾總在左右,乃令隨眾作務。惠能曰:『惠能啟和尚,弟子自心,常生智慧,不離自性,即是福田。未審和尚教作何務?』祖云:『這獦獠根性大利!汝更勿言,著槽廠去。』惠能退至後院,有一行者,差惠能破柴踏碓。經八月餘,祖一日忽見惠能曰:『吾思汝之見可用,恐有惡人害汝,遂不與汝言。汝知之否?』惠能曰:『弟子亦知師意,不敢行至堂前,令人不覺。』
「私は母を安んじさせ、すぐに別れを告げて路に就いた。三十余日とたたないうちに黄梅に着き、五祖に礼拝した。五祖は問うた。『お前はどこの人か。何を求めに来たのか。』私は答えた。『弟子は嶺南新州の百姓で、遠路はるばる大師を礼拝しに来ました。ただ仏になることのみを求め、他は求めません。』五祖は言った。『お前は嶺南の人で、しかも獦獠(当時の南方少数民族への蔑称)だ。どうして仏になれるか。』私は言った。『人には南方・北方の分かれはあっても、仏性にはもともと南北がありません。獦獠のこの身は和尚とは違いますが、仏性に何の差別がありましょうか。』五祖はさらに私と話そうとしたが、徒衆が皆左右にいるのを見て、私に衆に随って仕事をせよと命じた。私は言った。『惠能は和尚に申し上げます。弟子は自らの心に常に智慧を生じ、自性を離れません。これが福田です。和尚は私にどんな仕事をさせるのですか。』五祖は言った。『この獦獠、根性が鋭い!もう言うな、碓房へ行け。』私は後院に退がると、ある行者が私に柴を割り碓を踏ませた。八ヶ月余り過ぎたある日、五祖は忽然と私に会い、言った。『お前の見解は使えると思うが、悪人がお前を害することを恐れ、ずっと話しかけなかった。知っていたか。』私は言った。『弟子も師父のお心遣いを知っておりました。だから堂前まで出ないようにして、人に気づかれないようにしていました。』
「祖一日喚諸門人總來:『吾向汝說,世人生死事大,汝等終日只求福田,不求出離生死苦海;自性若迷,福何可救?汝等各去,自看智慧,取自本心般若之性,各作一偈,來呈吾看。若悟大意,付汝衣法,為第六代祖。火急速去,不得遲滯,思量即不中用;見性之人,言下須見。若如此者,輪刀上陣,亦得見之。』(喻利根者)眾得處分,退而遞相謂曰:『我等眾人,不須澄心用意作偈,將呈和尚,有何所益?神秀上座,現為教授師,必是他得。我輩謾作偈頌,枉用心力。』餘人聞語,總皆息心,鹹言:『我等已後依止秀師,何煩作偈?』神秀思惟:『諸人不呈偈者,為我與他為教授師;我須作偈,將呈和尚,若不呈偈,和尚如何知我心中見解深淺?我呈偈意,求法即善,覓祖即惡,卻同凡心,奪其聖位奚別?若不呈偈,終不得法。大難!大難!』
「五祖はある日、門人を皆呼び集めて言った。『お前たちに告げる。世人の生死は大事である。お前たちは終日福田ばかりを求め、生死の苦海を脱することを求めない。自性が迷えば、福報がどうして救えるものか。お前たちは各自帰って、自分の智慧を観照し、自分の本心の中の般若の体性を取り出し、各々一首の偈を作って私に見せよ。もし大意を悟った者があれば、衣法を伝えて第六代祖とする。急いで行け。遅れてはならない。思量して用いるのでは役に立たない。性を見た者は一言の下に見るべきだ。このような人は、刀を振るって陣に臨んでも、同じように見えるものだ。』(これは根器の鋭い人の譬えである。)衆人は吩咐を受け、退いて互いに言った。『我々のような者は心を澄ませ意を用いて偈を作る必要はない。作って和尚に呈して何の用があろう。神秀上座は今教授師である。きっと彼が法を得るのだ。我々がいい加減に偈頌を作っても、心力を空費するだけだ。』その他の者もこの話を聞いて皆心を休め、皆言った。『我々はこれから神秀師父に依止すればよい。どうしてわざわざ偈を作る必要があろうか。』神秀は心の中で思った。『皆が偈を呈しないのは、私が彼らの教授師だからだ。私は必ず偈を作って和尚に呈しなければならない。偈を呈しなければ、和尚はどうして私の心中の見解の深浅を知ることができようか。私が偈を呈する用意が、法を求めるためなら善いが、祖位を求めるためなら悪い。それではかえって凡夫の心と同じで、聖位を奪うことと何の差別があろうか。しかし偈を呈しなければ、終に法を得ることができない。難しい!難しい!』
「五祖堂前,有步廊三間,擬請供奉盧珍,畫楞伽經變相,及五祖血脈圖,流傳供養。神秀作偈成已,數度欲呈,行至堂前,心中恍惚,遍身汗流,擬呈不得;前後經四日,一十三度呈偈不得。秀乃思惟:『不如向廊下書著,從他和尚看見,忽若道好,即出禮拜,雲是秀作;若道不堪,枉向山中數年,受人禮拜,更修何道?』是夜三更,不使人知,自執燈,書偈於南廊壁間,呈心所見。偈曰:
「五祖の堂前に三間の廊下があり、もともと供奉の盧珍を請して『楞伽経』の変相図および五祖の血脉図を描かせ、流伝して供養するつもりであった。神秀は偈を成してから、幾度も呈しに行こうとしたが、堂前に至ると心が恍惚として遍身汗を流し、呈したいのに呈することができなかった。前後四日を経て十三回も呈することができなかった。神秀はそこで思った。『いっそ廊下に書いて、和尚に見えるに任せよう。彼が善いと言えば、私は出て礼拝し、私が作ったと言おう。もしだめだと言えば、私は山中で何年も修し、人の礼拝を受けてきたのが空しかったことになる。何の道を修しているのか。』この夜三更、彼は人に知らせず、自ら灯を持ち、偈を南廊の壁に書いて、心中の見えたところを呈露した。偈に曰く、
「身是菩提樹,心如明鏡臺,
身は菩提の樹、心は明鏡の台のごとし、
時時勤拂拭,勿使惹塵埃。
常に勤めて払い拭い、塵埃を惹かしめざれ。
「秀書偈了,便卻歸房,人總不知。秀復思惟:『五祖明日見偈歡喜,即我與法有緣;若言不堪,自是我迷,宿業障重,不合得法。』聖意難測,房中思想,坐臥不安,直至五更。祖已知神秀入門未得,不見自性。
「神秀は偈を書き終えると房に帰り、他人は皆知らなかった。彼はまた思った。『五祖が明日偈を見て喜べば、私は法と縁がある。もしだめだと言えば、それは私自身が迷っていて、宿世の業障が重く深く、法を得るべきでないということだ。』聖人の心意は忖度し難く、彼は房中で繰り返し思量し、坐しても臥しても安らかでなく、五更に至った。五祖はすでに神秀がまだ門に入らず、自性を見ていないことを知っていた。
「天明,祖喚盧供奉來,向南廊壁間,繪畫圖相,忽見其偈,報言:『供奉卻不用畫,勞爾遠來。經云:「凡所有相,皆是虛妄。」但留此偈,與人誦持。依此偈修,免墮惡道;依此偈修,有大利益。』令門人炷香禮敬,盡誦此偈,即得見性。門人誦偈,皆歎善哉。
「夜が明けると、五祖は盧供奉を呼んで南廊の壁に図を描かせようとし、忽然とあの偈を見て、彼に言った。『供奉は画かなくてよい。遠路を煩わせてしまった。経に言う、「凡そ形相あるものは、皆虚妄である」と。ただこの偈を留めて、人に誦持させよう。この偈に依って修行すれば、悪道に堕ちることを免れる。この偈に依って修行すれば、大きな利益がある。』また門人に香を点てて礼敬させ、皆この偈を誦せば性を見ることができるとした。門人は偈を誦し、皆讃嘆して善いと言った。
「祖,三更喚秀入堂,問曰:『偈是汝作否?』秀言:『實是秀作,不敢妄求祖位,望和尚慈悲,看弟子有少智慧否?』祖曰:『汝作此偈,未見本性,只到門外,未入門內。如此見解,覓無上菩提,了不可得;無上菩提,須得言下識自本心,見自本性不生不滅;於一切時中,念念自見萬法無滯,一真一切真,萬境自如如。如如之心,即是真實。若如是見,即是無上菩提之自性也。汝且去,一兩日思惟,更作一偈,將來吾看;汝偈若入得門,付汝衣法。』神秀作禮而出。又經數日,作偈不成,心中恍惚,神思不安,猶如夢中,行坐不樂。
「五祖は三更の時に神秀を堂内に呼び入れ、問うた。『偈はお前が作ったのか。』神秀は言った。『確かに私が作りました。妄りに祖位を求めるつもりはなく、ただ和尚の慈悲を望み、弟子に少しの智慧があるかどうかを見ていただきたいのです。』五祖は言った。『お前の作ったこの偈は、まだ本性を見ておらず、門の外に至っただけで、門の中に入っていない。このような見解をもって無上菩提を求めても、全く求めることができない。無上菩提は言下に自分の本心を認め、自分の本性の不生不滅を見なければならない。一切の時の中で、念念に自ら万法の滞碍なきを見れば、一が真ならば一切が真で、万種の境界は自ずから如如となる。この如如不动の心が、すなわち真実である。もしこのように見ることができれば、無上菩提の自性である。お前はしばらく帰って、一二日思量し、もう一首の偈を作って私に見せよ。お前の偈が門に入ることができれば、衣法をお前に伝えよう。』神秀は礼をして退出した。また数日過ぎたが偈は作れず、心中恍惚として神思は安らかでなく、夢の中にいるようで、行住坐臥のいずれも快くなかった。
「復兩日,有一童子於碓坊過,唱誦其偈;惠能一聞,便知此偈未見本性,雖未蒙教授,早識大意。遂問童子曰:『誦者何偈?』童子曰:『爾這獵獠不知,大師言:「世人生死事大,欲得傳付衣法,令門人作偈來看。若悟大意,即付衣法為第六祖。」神秀上座,於南廊壁上,書無相偈,大師令人皆誦,依此偈修,免墮惡道;依此偈修,有大利益。』惠能曰:『(一本有我亦要誦此,結來生緣)上人!我此踏碓,八箇餘月,未曾行到堂前。望上人引至偈前禮拜。』童子引至偈前禮拜,惠能曰:『惠能不識字,請上人為讀。』時,有江州別駕,姓張名日用,便高聲讀。惠能聞已,遂言:『亦有一偈,望別駕為書。』別駕言:『汝亦作偈?其事希有。』惠能向別駕言:『欲學無上菩提,不得輕於初學。下下人有上上智,上上人有沒意智。若輕人,即有無量無邊罪。』別駕言:『汝但誦偈,吾為汝書。汝若得法,先須度吾。勿忘此言。』惠能偈曰:
「さらに二日過ぎ、一人の童子が碓房の前を通り、一路あの偈を唱え誦していた。私は一聴してこの偈がまだ本性を見ていないことを知った。私は教えを受けたことはなかったが、すでに大意を識っていた。そこで童子に問うた。『お前が誦しているのは何の偈か。』童子は言った。『お前のような獦獠は知らないだろう。大師が言われた。「世人の生死は大事である。衣法を伝付しようと思い、門人に偈を作らせて見せた。大意を悟れば衣法を伝えて第六祖とする。」神秀上座が南廊の壁に一首の無相偈を書き、大師は皆に誦せと言われた。この偈に依って修行すれば悪道に堕ちることを免れ、この偈に依って修行すれば大きな利益がある。』私は言った。『(ある本はここに「私もこの偈を誦して来生の縁を結ぼう」という一句を加える。)上人!私はここで碓を踏んで八ヶ月余り、堂前に至ったことがありません。上人、どうか偈の前に連れて行って礼拝させてください。』童子は私を偈の前に連れて行き礼拝させた。私は言った。『惠能は字を識りません。上人、どうか私の代わりに一遍読んでください。』その時、江州別駕で姓は張、名は日用という人がいて、高らかに読み上げた。私は聞き終えて言った。『私にも一首の偈があります。別駕、どうか書いてください。』別駕は言った。『お前も偈が作れるのか。これは珍しい。』私は別駕に言った。『無上菩提を学ぼうとするなら、初学の人を軽視してはなりません。最も下等の人に最上等の智慧があるかもしれず、最上等の人が智慧を埋没しているかもしれません。人を軽視すれば、無量無辺の罪過があります。』別駕は言った。『お前はただお前の偈を誦せよ。私が代わりに書こう。お前が法を得たら、まず私を度せ。この言葉を忘れるな。』私の偈は、
「菩提本無樹,明鏡亦非臺;
菩提はもともと樹なく、明鏡もまた台にあらず、
本來無一物,何處惹塵埃?
本来一物もなければ、何処にか塵埃を惹かん。
「書此偈已,徒眾總驚,無不嗟訝,各相謂言:『奇哉!不得以貌取人,何得多時使他肉身菩薩。』祖見眾人驚怪,恐人損害,遂將鞋擦了偈,曰:『亦未見性。』眾以為然。
「この偈を書き終えると、徒衆は皆驚き呆れ、驚かない者はなく、互いに言った。『奇怪だ!本当に人を容貌で取ることはできない。どうして間もなく彼を肉身菩薩にしてしまったのか。』五祖は衆人が驚き怪しむのを見て、害する者があるのを恐れ、鞋で偈を擦り消して言った。『これも性を見ていない。』衆人はそれでそうだと思った。
「次日,祖潛至碓坊,見能腰石舂米,語曰:『求道之人,為法忘軀,當如是乎!』乃問曰:『米熟也未?』惠能曰:『米熟久矣,猶欠篩在。』祖以杖擊碓三下而去。惠能即會祖意,三鼓入室;祖以袈裟遮圍,不令人見,為說《金剛經》。至『應無所住而生其心』,惠能言下大悟,一切萬法,不離自性。遂啟祖言:『何期自性,本自清淨;何期自性,本不生滅;何期自性,本自具足;何期自性,本無動搖;何期自性,能生萬法。』祖知悟本性,謂惠能曰:『不識本心,學法無益;若識自本心,見自本性,即名丈夫、天人師、佛。』三更受法,人盡不知,便傳頓教及衣缽,云:『汝為第六代祖,善自護念,廣度有情,流佈將來,無令斷絕。聽吾偈曰:
「翌日、五祖は密かに碓房に来て、私が腰に石を繋いで米を搗いているのを見て言った。『道を求める者が法のために身を忘れるとは、こういうことであろう!』そこで問うた。『米は熟したか。』私は言った。『米はとっくに熟しました。ただ篩いが足りないだけです。』五祖は杖で碓を三下打って去った。私はすぐに五祖の意を領会し、三更の時に彼の部屋に入った。五祖は袈裟で囲いを作り人に見えないようにし、私のために『金剛経』を講説した。『応に住する所なくして其心を生ずべし』に講じ至ると、私は言下に大いに徹悟した。もともと一切の万法は自性を離れないのだと。そこで五祖に稟告して言った。『思いもよらず、自性は本来清浄であるとは。思いもよらず、自性は本来不生不滅であるとは。思いもよらず、自性は本来自己具足であるとは。思いもよらず、自性は本来動揺がないとは。思いもよらず、自性は万法を生ずることができるとは。』五祖は私がすでに本性を悟ったことを知り、私に言った。『本心を認識せずして法を学んでも用がない。もし自分の本心を認識し、自分の本性を見れば、それを大丈夫・天人師・仏という。』三更に法を受け、人知る者はなく、五祖はすなわち頓教と衣鉢を私に伝えて言った。『お前は第六代祖である。自分をよく護念し、広く衆生を度し、法を流伝して絶やさぬようにせよ。私の偈を聞け。
「『有情來下種,因地果還生,
有情識の衆生が来たって種を下し、この因地に凭って果実は自ら生ずる、
無情既無種,無性亦無生。』
情識なき物は種を下す能わず、仏性なくして生長もなし。』
「祖復曰:『昔達磨大師,初來此土,人未之信,故傳此衣,以為信體,代代相承;法則以心傳心,皆令自悟自解。自古,佛佛惟傳本體,師師密付本心;衣為爭端,止汝勿傳。若傳此衣,命如懸絲。汝須速去,恐人害汝。』惠能啟曰:『向甚處去?』祖云:『逢懷則止,遇會則藏。』惠能三更領得衣缽,云:『能本是南中人,素不知此山路,如何出得江口?』五祖言:『汝不須憂,吾自送汝。』祖相送,直至九江驛。祖令上船,五祖把艣自搖。惠能言:『請和尚坐。弟子合搖艣。』祖云:『合是吾渡汝。』惠能云:『迷時師度,悟了自度;度名雖一,用處不同。惠能生在邊方,語音不正,蒙師傳法,今已得悟,只合自性自度。』祖云:『如是,如是!以後佛法,由汝大行。汝去三年,吾方逝世。汝今好去,努力向南。不宜速說,佛法難起。』
「五祖はまた言った。『昔、達磨大師が初めてこの国土に来た時、人々は彼を信じなかった。それでこの袈裟を伝えて憑信とし、代々相承させた。法に至っては心をもって心に伝え、皆人に自ら領悟し自ら理解させるのである。古来、仏と仏とはただこの本体を伝え、師と師とは密かにこの本心を付与した。袈裟は争奪を引き起こす禍端である。お前で止め、もう伝えるな。もしこの衣を再び伝えれば、性命は糸に懸かるように危ない。お前は急いで行かねばならない。人がお前を害することを恐れる。』私は問うた。『どこへ行くべきですか。』五祖は言った。『「懐」の字に遇えば止まれ、「會」の字に遇えば隠れよ。』私は三更に衣鉢を領して言った。『惠能はもともと南方人で、一向にここの山路を識りません。どうすれば江口を出られるでしょうか。』五祖は言った。『案ずるな、私が自らお前を送ろう。』五祖は一路送り、九江驛まで至った。五祖は私に船に乗らせ、自ら櫓を把って搖った。私は言った。『和尚はお座りください。弟子が櫓を搖るべきです。』五祖は言った。『私がお前を渡すべきだ。』私は言った。『迷っている時は師父が度し、悟れば自分で度するのです。同じく度という名でも、用は違います。惠能は偏遠の地に生まれ、口音が正しくなく、師父の伝法を蒙って今已に開悟しました。自性に由って自度すべきです。』五祖は言った。『その通りだ、その通りだ。これより仏法はお前によって大いに興行される。お前が去って三年、私はようやく去世する。お前は今よく行き、努力して南へ向かえ。急いで法を説くな。仏法は興り難い。』
「惠能辭違祖已,發足南行。兩月中間,至大庾嶺(五祖歸,數日不上堂。眾疑,詣問曰:『和尚少病少惱否?』曰:『病即無。衣法已南矣。』問:『誰人傳授?』曰:『能者得之。』眾乃知焉)。逐後數百人來,欲奪衣缽。一僧俗姓陳,名惠明,先是四品將軍,性行麁慥,極意參尋。為眾人先,趁及惠能。惠能擲下衣缽於石上,云:『此衣表信,可力爭耶?』能隱草莽中。惠明至,提掇不動,乃喚云:『行者!行者!我為法來,不為衣來。』惠能遂出,坐盤石上。惠明作禮云:『望行者為我說法。』惠能云:『汝既為法而來,可屏息諸緣,勿生一念。吾為汝說。』明良久。惠能云:『不思善,不思惡,正與麼時,那箇是明上座本來面目?』惠明言下大悟。復問云:『上來密語密意外,還更有密意否?』惠能云:『與汝說者,即非密也。汝若返照,密在汝邊。』明曰:『惠明雖在黃梅,實未省自己面目。今蒙指示,如人飲水,冷暖自知。今行者即惠明師也。』惠能曰:『汝若如是,吾與汝同師黃梅,善自護持。』明又問:『惠明今後向甚處去?』惠能曰:『逢袁則止,遇蒙則居。』明禮辭(明回至嶺下,謂趁眾曰:『向陟崔嵬,竟無蹤跡,當別道尋之。』趁眾鹹以為然。惠明後改道明,避師上字)。
「私は五祖に別れを告げて後、身を発して南行した。二ヶ月の間に大庾嶺に至った。(五祖が帰った後、数日間堂に上らなかった。衆人は疑いを起こし、前に進み問うた。『和尚は病気か悩みがあるのですか。』五祖は言った。『病はない。衣法はすでに南へ行った。』問うた。『誰が伝えたのですか。』答えた。『能の者がそれを得た。』衆人はようやく悟った。)後ろに数百人が追って来て、衣鉢を奪おうとした。ある僧で俗姓は陳、名は惠明、もと四品将軍で、性情は粗鹵であり、一心に追尋しようとし、衆人の先頭を走って、私に追いついた。私は衣鉢を石の上に投げて言った。『この衣は信を表すものである。どうして力をもって争奪できるものか。』言い終えて草叢の中に身を隠した。惠明が駆けつけ、衣鉢を提げようとしても動かなかった。そこで叫んだ。『行者!行者!私は法のために来たので、衣のために来たのではない。』私はそこで出て、磐石の上に坐った。惠明は礼をして言った。『行者が私のために法を説いてほしい。』私は言った。『お前は法のために来たのだから、一切の外縁を屏息し、一つの念も生ずるな。私がお前のために説こう。』惠明は久しく黙して静かにしていた。私は言った。『善を思量せず、悪を思量せず、まさにこの時、どれが明上座の本来の面目か。』惠明は言下に大いに悟った。彼はまた問うた。『今の密語密意のほかに、別の密意はありますか。』私は言った。『お前に対して説けるものは密ではない。お前が振り返って照らせば、密はお前自身の上にある。』惠明は言った。『惠明は黄梅にいたが、実は自分の本来の面目を見極めていなかった。今日指示を蒙り、人が水を飲んで冷暖は自分だけが知るようなものです。今、行者こそ惠明の師父です。』私は言った。『お前がそう言うなら、私とお前は共に黄梅を師としよう。よく護持せよ。』惠明はまた問うた。『惠明は今後どこへ行くべきですか。』私は言った。『「袁」の字に遇えば止まれ、「蒙」の字に遇えば住せよ。』惠明は礼をして辞去した。(惠明は嶺下に帰り、追って来た衆人に言った。『上に登って高峻な山を捜したが、ついに蹤跡がなかった。別の路を探すべきだ。』追って来た者は皆その通りだと思った。惠明は後に道明と改名した。師父の名の上の一字を避けるためである。)
「惠能後至曹溪,又被惡人尋逐。乃於四會,避難獵人隊中,凡經一十五載,時與獵人隨宜說法。獵人常令守網,每見生命,盡放之。每至飯時,以菜寄煮肉鍋。或問,則對曰:『但吃肉邊菜。』
「私は後に曹渓に至り、また悪人に追尋された。そこで四會一帯で難を避け、猟人の隊伍に混じり、前後十五年を経て、時おり機に随って猟人のために法を説いた。猟人は常に私に猟網を守らせたが、私は生き物を見るたび皆放してやった。食事の時には菜を肉を煮る鍋に入れて借りて煮た。人が問うと、私は答えた。『私は肉の傍らの菜だけを食べます。』
「一日思惟:『時當弘法,不可終遯。』遂出至廣州法性寺,值印宗法師講《涅槃經》。時有風吹旛動,一僧曰:『風動。』一僧曰:『旛動。』議論不已。惠能進曰:『不是風動,不是旛動,仁者心動。』一眾駭然。印宗延至上席,徵詰奧義。見惠能言簡理當,不由文字,宗云:『行者定非常人。久聞黃梅衣法南來,莫是行者否?』惠能曰:『不敢。』宗於是作禮,告請傳來衣缽出示大眾。宗復問曰:『黃梅付囑,如何指授?』惠能曰:『指授即無;惟論見性,不論禪定解脫。』宗曰:『何不論禪定解脫?』能曰:『為是二法,不是佛法。佛法是不二之法。』宗又問:『如何是佛法不二之法?』惠能曰:『法師講《涅槃經》,明佛性,是佛法不二之法。如高貴德王菩薩白佛言:「犯四重禁、作五逆罪,及一闡提等,當斷善根佛性否?」佛言:「善根有二:一者常,二者無常,佛性非常非無常,是故不斷,名為不二。一者善,二者不善,佛性非善非不善,是名不二。蘊之與界,凡夫見二,智者了達其性無二,無二之性即是佛性。」』印宗聞說,歡喜合掌,言:『某甲講經,猶如瓦礫;仁者論義,猶如真金。』於是為惠能剃髮,願事為師。惠能遂於菩提樹下,開東山法門。
「ある日、私は思った。『時機が来た、法を弘めるべきだ。ずっと隠遁していてはいけない。』そこで出て広州の法性寺に至り、ちょうど印宗法師が『涅槃経』を講じているところに遇った。その時風が吹いて幡を動かし、一人の僧が言った。『風が動いている。』もう一人が言った。『幡が動いている。』議論がやまなかった。私は前に進み言った。『風が動いているのでもなく、幡が動いているのでもなく、お二人の心が動いているのです。』満座の者は皆驚いた。印宗は私を上座に請い、深奥の義理を追問した。彼は私の言語が簡要で道理が当を得て、文字に依拠しないのを見て言った。『行者はきっと尋常の人ではない。早くから黄梅の衣法が南来したと聞いているが、まさか行者であるお前ではないか。』私は言った。『不敢当です。』印宗はそこで礼を行い、伝わった衣鉢を取り出して大衆に見せてほしいと請った。印宗はまた問うた。『黄梅の伝付の時、どのように指授されましたか。』私は言った。『指授というものはありませんでした。ただ性を見ることを説き、禅定解脱を説きませんでした。』印宗は言った。『なぜ禅定解脱を説かなかったのですか。』私は言った。『それは二つの法だからです。佛法ではありません。佛法は不二の法です。』印宗はまた問うた。『どうすれば佛法の不二の法になりますか。』私は言った。『法師は『涅槃経』を講じて仏性を闡明する。それこそ佛法の不二の法です。たとえば高貴德王菩薩が仏に問うた。「四重禁戒を犯し、五逆罪を造り、および一闡提の類の人は、善根と仏性を断絶しますか。」仏は言われた。「善根に二種ある。一つは常、一つは無常である。仏性は常でもなく無常でもない。ゆえに断絶しない。これを不二という。一つは善、一つは不善である。仏性は善でもなく不善でもない。これを不二という。五蘊と十八界は、凡夫は二つと見るが、智者はその体性に二なきを了達する。この二なき体性がすなわち仏性である。」』印宗は聞いて、欢喜して合掌して言った。『私が経を講ずるのは瓦礫のようで、仁者が義を論ずるのは真金のようだ。』そこで私のために剃髪し、私を師と奉ることを願った。私はすなわち菩提樹の下で東山法門を開演した。
「惠能於東山得法,辛苦受盡,命似懸絲。今日得與使君、官僚、僧尼、道俗同此一會,莫非累劫之緣,亦是過去生中供養諸佛,同種善根,方始得聞如上頓教得法之因。教是先聖所傳,不是惠能自智。願聞先聖教者,各令淨心,聞了各自除疑,如先代聖人無別。」
「私は東山で法を得、辛苦を尽くし、性命は糸に懸かるようであった。今日使君・各位官員・僧尼と在家人と共にこの会に集まれたのは、累劫の因縁にほかならず、また過去生中に諸仏を供養し共に善根を種したからこそ、上述の頓教得法の因由を聞くことができるのだ。この教法は先代の聖人が伝えたもので、惠能自身の聡明ではない。先聖の教法を聞かんと願う者は、各々心を浄めて聞いてほしい。聞き終えた後は各々疑惑を除き、先代の聖人と差別なくなるように。」
一眾聞法,歡喜作禮而退。
満座の人は法を聞き、欢喜して礼をして退いた。
般若第二
般若第二
次日,韋使君請益。師陞座,告大眾曰:「總淨心念摩訶般若波羅蜜多。」復云:「善知識!菩提般若之智,世人本自有之;只緣心迷,不能自悟,須假大善知識,示導見性。當知愚人智人,佛性本無差別,只緣迷悟不同,所以有愚有智。吾今為說摩訶般若波羅蜜法,使汝等各得智慧。志心諦聽!吾為汝說。善知識!世人終日口唸般若,不識自性般若,猶如說食不飽。口但說空,萬劫不得見性,終無有益。善知識!摩訶般若波羅蜜是梵語,此言大智慧到彼岸。此須心行,不在口唸。口唸心不行,如幻、如化、如露、如電;口唸心行,則心口相應,本性是佛,離性無別佛。何名摩訶?摩訶是大。心量廣大,猶如虛空,無有邊畔,亦無方圓大小,亦非青黃赤白,亦無上下長短,亦無瞋無喜,無是無非,無善無惡,無有頭尾。諸佛剎土,盡同虛空。世人妙性本空,無有一法可得。自性真空,亦復如是。善知識!莫聞吾說空,便即著空。第一莫著空,若空心靜坐,即著無記空。善知識!世界虛空,能含萬物色像,日月星宿,山河大地,泉源谿澗,草木叢林,惡人善人,惡法善法,天堂地獄,一切大海,須彌諸山,總在空中。世人性空,亦復如是。善知識!自性能含萬法是大,萬法在諸人性中。若見一切人、惡之與善,盡皆不取不捨亦不染著,心如虛空,名之為大,故曰摩訶。善知識!迷人口說,智者心行。又有迷人,空心靜坐,百無所思,自稱為大。此一輩人,不可與語,為邪見故。善知識!心量廣大,遍周法界,用即了了分明,應用便知一切。一切即一,一即一切。去來自由,心體無滯,即是般若。善知識!一切般若智,皆從自性而生,不從外入。莫錯用意,名為真性自用,一真一切真。心量大事,不行小道。口莫終日說空,心中不修此行,恰似凡人自稱國王,終不可得,非吾弟子。
翌日、韋使君は大師にさらなる開示を請った。大師は座に昇り、大衆に告げて言った。「皆、心を浄めて『摩訶般若波羅蜜多』を念じなさい。」また言った。「善知識!菩提般若の智慧は、世人に本来備わっている。ただ心が迷っているために自ら覚悟できず、大善知識の開示引導を借りて性を見る必要がある。愚人と智人は仏性に本来差別がなく、ただ迷と悟が異なるために愚と智があるのだと知るべし。私は今日お前たちのために摩訶般若波羅蜜法を説き、お前たち各々に智慧を得させよう。専心して諦聴せよ!私がお前たちのために説く。善知識!世人は終日口で般若を念じているが、自性の中の般若を認識せず、食べると言うだけで飽きないようなものだ。口で空を説くだけでは、万劫を経ても性を見ることはできず、終に益がない。善知識!『摩訶般若波羅蜜』は梵語で、漢語では『大智慧・彼岸に到る』の意である。これは心で行ずる必要があり、口で念ずるだけではない。口で念じて心で行ぜなければ、幻のごとく化のごとく露のごとく電のごとし。口で念じて心でも行ずれば、心口相応して、本性がすなわち仏であり、本性を離れて別の仏はない。何を摩訶というか。摩訶は大である。心量が広大で虚空のようで、辺際がなく、方円大小もなく、青黄赤白でもなく、上下長短もなく、瞋もなく喜もなく、是もなく非もなく、善もなく悪もなく、頭もなく尾もない。諸仏の国土は皆虚空に同じ。世人の微妙な本性は本来空で、得べき一法もない。自性の真空もまたこのようである。善知識!私が空を説くのを聞いて空に執着するな。第一に肝要なのは空に執着しないことだ。もし空の心で静坐すれば、『無記空』に落ち込む。善知識!世界の虚空は万物の形色影像を含容することができる。日月星辰、山河大地、泉源溪澗、草木叢林、悪人善人、悪法善法、天堂地獄、一切の大海、須弥衆山、すべて虚空の中にある。世人の本性の空もまたこのようである。善知識!自性が万法を含容できるから、これを大という。万法は皆各人の自性の中にある。もし一切の人を見て、その悪であれ善であれ、取らず捨てず染着せず、心が虚空のようであれば、これを大という。ゆえに摩訶と称する。善知識!迷える人は口で言うだけで、智者は心で行ずる。またある種の迷える人は、心を空にして静坐し、何も思わず、自ら大と称する。このような種類の者とは語らってはならない。彼らは邪見に落ちているからだ。善知識!心量は広大で、遍く法界に及び、用いれば了了分明で、處に随って応用すれば一切を知る。一切はすなわち一、一はすなわち一切。来去自由で、心の本體に滞碍がない。これが般若である。善知識!一切の般若智慧は皆自性から生ずるのであって、外から来るのではない。心思を誤って用いるな。これをこそ真性の自我運用という。一が真ならば一切が真である。心量は大事であって、小道を行ってはならない。口で終日空を説くな。心中でこの行を修しなければ、凡人が王と自称しても終に成し得ず、我が弟子でもないようなものだ。」
「善知識!何名般若?般若者,唐言智慧也。一切處所,一切時中,念念不愚,常行智慧,即是般若行。一念愚即般若絕,一念智即般若生。世人愚迷,不見般若,口說般若,心中常愚。常自言:『我修般若。』念念說空,不識真空。般若無形相,智慧心即是。若作如是解,即名般若智。何名波羅蜜?此是西國語,唐言到彼岸,解義離生滅。著境生滅起,如水有波浪,即名為此岸;離境無生滅,如水常通流,即名為彼岸,故號波羅蜜。善知識!迷人口唸,當念之時,有妄有非。念念若行,是名真性。悟此法者,是般若法;修此行者,是般若行。不修即凡;一念修行,自身等佛。善知識!凡夫即佛,煩惱即菩提。前念迷即凡夫,後念悟即佛。前念著境即煩惱,後念離境即菩提。
「善知識!何を般若というか。般若は漢語で智慧である。一切の处所・一切の時の中で、念念皆愚昧でなく、常に智慧を行ずる、これを般若行という。一念愚なれば般若は断絶し、一念智なれば般若は生起する。世人は愚迷で般若を見ず、口で般若を説いて心中は常に愚昧である。彼らは常に自ら称して言う。『私は般若を修している。』念念に空を説くが、真空を認識しない。般若に形相はなく、智慧あるあの心がそれである。もしこのように理解できれば、般若智という。何を波羅蜜というか。これは西方の言葉で、漢語は『彼岸に到る』、その義を解すれば生滅を離れることである。外境に執着すれば生滅が起こり、水に波浪があるようで、これを此岸という。外境を離れれば生滅なく、水が常に滞りなく流れるようで、これを彼岸という。ゆえに波羅蜜という。善知識!迷える人は口で念ずるだけで、念ずる時にはまだ虚妄があり過失がある。もし念念皆行ずることができれば、これを真性という。この法を悟る者はこれを般若法といい、この行を修する者はこれを般若行という。修しなければ凡夫であり、一念修行すれば自身は仏に等しい。善知識!凡夫はすなわち仏であり、煩悩はすなわち菩提である。前の一念が迷えば凡夫であり、後の一念が悟れば仏である。前の一念が外境に執着すれば煩悩であり、後の一念が外境を離れれば菩提である。
「善知識!摩訶般若波羅蜜,最尊最上最第一,無住無往亦無來,三世諸佛從中出。當用大智慧,打破五蘊煩惱塵勞。如此修行,定成佛道,變三毒為戒定慧。善知識!我此法門,從一般若生八萬四千智慧。何以故?為世人有八萬四千塵勞。若無塵勞,智慧常現,不離自性。悟此法者,即是無念,無憶無著,不起誑妄。用自真如性,以智慧觀照,於一切法不取不捨,即是見性成佛道。善知識!若欲入甚深法界及般若三昧者,須修般若行,持誦《金剛般若經》,即得見性。當知此經功德無量無邊,經中分明讚歎,莫能具說。此法門是最上乘,為大智人說,為上根人說。小根小智人聞,心生不信。何以故?譬如大龍下雨於閻浮提,城邑聚落,悉皆漂流如漂棗葉。若雨大海,不增不減。若大乘人,若最上乘人,聞說《金剛經》,心開悟解。故知本性自有般若之智,自用智慧,常觀照故,不假文字。譬如雨水,不從天有,元是龍能興致,令一切眾生、一切草木、有情無情,悉皆蒙潤。百川眾流,卻入大海,合為一體。眾生本性般若之智,亦復如是。善知識!小根之人,聞此頓教,猶如草木根性小者,若被大雨,悉皆自倒,不能增長。小根之人,亦復如是。元有般若之智,與大智人更無差別,因何聞法不自開悟?緣邪見障重、煩惱根深。猶如大雲覆蓋於日,不得風吹,日光不現。般若之智亦無大小,為一切眾生自心迷悟不同,迷心外見,修行覓佛;未悟自性,即是小根。若開悟頓教,不能外修,但於自心常起正見,煩惱塵勞常不能染,即是見性。善知識!內外不住,去來自由,能除執心,通達無礙。能修此行,與般若經本無差別。
「善知識!摩訶般若波羅蜜は最も尊く、最も上で、最も第一であり、住する所なく、往く所なく、来る所もなく、三世の諸仏は皆ここから出生する。大智慧をもって五蘊の煩悩塵労を打破すべし。このように修行すれば、必ず仏道を成就し、貪瞋痴の三毒を戒定慧に転変する。善知識!私のこの法門は、一つの般若から八万四千種の智慧を生ずる。なぜか。世人に八万四千種の塵労があるからだ。もし塵労がなければ、智慧は常に顕現し、自性を離れない。この法を悟る者は無念である。追憶なく、執着なく、虚誑妄想を起こさない。自分の真如本性を運用し、智慧をもって観照し、一切法に取らず捨てず、これが性を見て仏となる道である。善知識!もし甚深の法界と般若三昧に入らんと欲すれば、必ず般若行を修し、『金剛般若経』を持誦せよ。すなわち性を見ることができる。この経の功徳は無量無辺で、経中に明白に説かれており、一々説き尽くすことはできない。この法門は最上乘で、大智慧の人のために説き、上等根器の人のために説く。小根小智の人が聞けば、心中信じない。なぜか。たとえば大龍が閻浮提に雨を降らせば、城邑村落は皆大水に漂い、棗の葉を漂わせるようになる。しかし大海に降らせれば、海水は増もせず減もしない。もし大乗人・最上乘人であれば、人が『金剛経』を講ずるのを聞いて、心が開解して悟る。ゆえに本性の中に般若の智慧が自らあり、自ら智慧を運用して常に観照し、文字に依拠する必要がないと知る。たとえば雨水は天上から突如有るのではなく、もとは龍が興起し、一切衆生・一切草木・有情無情に潤いを蒙らせる。百川衆流はまた大海に流れ帰り、一体を成す。衆生の本性の中の般若の智慧もまたこのようである。善知識!小根器の人がこの頓教を聞けば、根性の弱小な草木が大雨に注がれて皆自ら倒れ、生長できないようなものだ。小根器の人もまたこのようである。彼らはもともと般若の智慧があり、大智慧の人と差別がないのに、なぜ法を聞いても自ら開悟できないのか。邪見の障碍が重く、煩悩の根が深いからだ。大きな黒雲が太陽を遮り、風が吹き払わなければ日光が顕れないようなものだ。般若の智慧自体にも大小の分けはなく、ただ一切衆生の自心の迷悟が同じでないためである。心が迷う者は外に向かって見て、ひたすら修行して仏を求め、まだ自性を悟らない。それが小根器である。もし頓教を開悟すれば、外に向かって修せず、ただ自心の中に常に正見を起こし、煩悩塵労が常に彼を染めることができない。これが性を見ることである。善知識!内外とも執着して停留せず、来去自由で、執着の心を除くことができ、通達して障碍がない。この行を修すれば、『般若経』と本来差別がない。」
「善知識!一切修多羅及諸文字,大小二乘,十二部經,皆因人置。因智慧性,方能建立。若無世人,一切萬法本自不有,故知萬法本自人興。一切經書,因人說有。緣其人中有愚有智,愚為小人,智為大人。愚者問於智人,智者與愚人說法。愚人忽然悟解心開,即與智人無別。善知識!不悟即佛是眾生,一念悟時眾生是佛,故知萬法盡在自心。何不從自心中,頓見真如本性?《菩薩戒經》云:『我本元自性清淨,若識自心見性,皆成佛道。』《淨名經》云:『即時豁然,還得本心。』善知識!我於忍和尚處,一聞言下便悟,頓見真如本性。是以將此教法流行,令學道者頓悟菩提。各自觀心,自見本性。若自不悟,須覓大善知識、解最上乘法者,直示正路。是善知識有大因緣,所謂化導令得見性。一切善法,因善知識能發起故。三世諸佛、十二部經,在人性中本自具有。不能自悟,須求善知識指示方見;若自悟者,不假外求。若一向執謂須他善知識方得解脫者,無有是處。何以故?自心內有知識自悟。若起邪迷、妄念顛倒,外善知識雖有教授,救不可得。若起正真般若觀照,一剎那間,妄念俱滅。若識自性,一悟即至佛地。善知識!智慧觀照,內外明徹,識自本心。若識本心,即本解脫。若得解脫,即是般若三昧,即是無念。何名無念?若見一切法,心不染著,是為無念。用即遍一切處,亦不著一切處。但淨本心,使六識出六門,於六塵中無染無雜,來去自由,通用無滯,即是般若三昧、自在解脫,名無念行。若百物不思,當令念絕,即是法縛,即名邊見。善知識!悟無念法者,萬法盡通;悟無念法者,見諸佛境界;悟無念法者,至佛地位。
「善知識!一切の経典および種々の文字、大乗小乗・十二部経は、皆人のために設立された。智慧の体性があるからこそ建立できたのだ。もし世人がなければ、一切万法は本来存在しない。ゆえに万法は本来人によって興起したと知るべし。一切の経書は人に因って説かれてこそある。人の中に愚と智があり、愚は小人、智は大人である。愚人は智人に請い教え、智者は愚人のために法を説く。愚人が忽然と領悟して心地が開朗すれば、智人と差別がなくなる。善知識!悟らぬ時は仏が衆生であり、一念悟る時は衆生が仏である。ゆえに万法は皆自心の中にあると知るべし。どうして自心の中から当下に真如本性を見ないのか。『菩薩戒経』に言う。『我が本来の自性は清浄である。自心を識り本性を見れば、皆仏道を成就できる。』『淨名経』に言う。『当下豁然として開朗し、本心を再び得る。』善知識!私は弘忍和尚の所で、一聴の下に即座に領悟し、頓に真如本性を見た。ゆえにこの教法を流伝せしめ、道を学ぶ者に菩提を頓悟させるのだ。各々自心を観照し、自ら本性を見よ。もし自ら開悟できなければ、大善知識・最上乘法を解する者を求め、直ちに正路を指示せしめよ。このような善知識には大因縁があり、いわゆる教化引導して人に性を見せしめるのである。一切の善法は皆善知識に因って発起できる。三世の諸仏・十二部経は、人の自性の中に本来具備している。自ら領悟できなければ、善知識の指示を求めてこそ見ることができる。もし自ら領悟できれば、外に求める必要はない。もしひたすら他の善知識に依らなければ解脱できないと執着するなら、それは有り得ないことだ。なぜか。自心の内に自悟できる知識があるからだ。もし邪迷・妄念の顛倒を起こせば、外の善知識に教導があっても救うことができない。もし真の般若観照を起こせば、一刹那の間に妄念は皆滅する。もし自性を識れば、一悟して仏地に至る。善知識!智慧をもって観照し、内外明徹に、自分の本心を識れ。もし本心を識れば、本来の解脱である。解脱を得れば、般若三昧であり、無念である。何を無念というか。もし一切法を見て心が染着しなければ、これを無念という。用いれば遍く一切の處に及ぶが、また一切の處に執着しない。ただ本心を清淨にし、六識を六門から出させ、六塵の中に染まらず雑らず、来去自由で通用无碍。これが般若三昧・自在解脱であり、無念行と名づける。もし何も思わず、強いて念を斷絶させようとすれば、それは法に縛られるのであって、邊見と名づける。善知識!無念の法を悟る者は、万法に通達する。無念の法を悟る者は、諸仏の境界を見ることができる。無念の法を悟る者は、仏の地位に到達することができる。」
「善知識!後代得吾法者,將此頓教法門,於同見同行,發願受持。如事佛故,終身而不退者,定入聖位。然須傳授從上以來默傳分付,不得匿其正法。若不同見同行,在別法中,不得傳付。損彼前人,究竟無益。恐愚人不解,謗此法門,百劫千生,斷佛種性。善知識!吾有一無相頌,各須誦取,在家出家,但依此修。若不自修,惟記吾言,亦無有益。聽吾頌曰:
「善知識!後代に私の法を得る者は、この頓教法門を、見解が同じで修行が同じ者の間で、願を発して受持せよ。仏に事えるように終身退転せぬ者は、必ず聖位に入る。しかし必ず歴代以来黙々と伝わる付嘱を伝授せねばならず、正法を蔵めてはならない。もし見解が同じでなく修行が同じでなく、別の法門にあれば、彼に伝えるな。それは相手を損なうことになり、終に益がない。愚人が理解せず、かえってこの法門を毀謗し、百劫千生に仏の種性を断絶することを恐れる。善知識!私に一首の『無相頌』がある。各位は皆誦し持て。在家出家の者はただこれに依って修行せよ。もし自ら修せず、ただ私の言葉を記憶するだけでは用がない。私がこの頌を念ずるのを聞け。
「說通及心通,如日處虛空,
説法は通達し心地も通達、虚空に懸かる太陽のごとし。
唯傳見性法,出世破邪宗。
ただ性を見る一法を伝え、世に出ずるは邪宗を破るがため。
法即無頓漸,迷悟有遲疾,
法に本来頓漸なし、人の迷悟に遅速あるのみ。
只此見性門,愚人不可悉。
ただこの見性法門は、愚人は尽く解する能わず。
說即雖萬般,合理還歸一,
説法は千万種あれど、理に合すれば終に一に帰す。
煩惱闇宅中,常須生慧日。
煩悩の暗室の中に、常に智慧の太陽を昇らせよ。
邪來煩惱至,正來煩惱除,
邪念来れば煩悩至り、正念来れば煩悩除かる。
邪正俱不用,清淨至無餘。
邪正二辺とも用いずの時、清淨は極に至り余すところなし。
菩提本自性,起心即是妄,
菩提は本来自性、念を動かして求めれば妄となる。
淨心在妄中,但正無三障。
清淨の心は妄念の中にあり、正を持せば煩悩・業・報の三障なし。
世人若修道,一切盡不妨,
世人真に道を修せば、何を為すも妨げなし。
常自見己過,與道即相當。
常に己の過失を見れば、道と相応す。
色類自有道,各不相妨惱,
有形の物各々道あり、彼此相妨げ悩乱せず。
離道別覓道,終身不見道。
己の道を離れて道を求めれば、一生道を見る能わず。
波波度一生,到頭還自懊,
奔波勞碌して一生を過ごせば、到頭來己を悔いるのみ。
欲得見真道,行正即是道。
真の道を見んと欲せば、行い正しければ即ち道なり。
自若無道心,闇行不見道,
己に道を求むる心なくば、暗中に瞎走して道を見ず。
若真修道人,不見世間過。
若し真に道を修する者ならば、世間の過失を見ることなし。
若見他人非,自非卻是左,
若し人の非ばかりを見れば、己の「非」却って偏なり。
他非我不非,我非自有過。
他人是ならずとも我は随わず、我亦是ならざれば己に過あり。
但自卻非心,打除煩惱破,
ただ己の咎を摘む心を去れば、煩悩打破せらる。
憎愛不關心,長伸兩腳臥。
憎愛ともに心に關せず、兩脚を伸ばして安臥せん。
欲擬化他人,自須有方便,
人を教化せんと欲せば、己に方便あらざるべからず。
勿令彼有疑,即是自性現。
彼をして疑を生ぜしめず、即ち自性顯現なり。
佛法在世間,不離世間覺,
佛法は世間に在り、覺悟は世間を離れず。
離世覓菩提,恰如求兔角。
世間を離れて菩提を求むれば、兎の角を求むるがごとし。
正見名出世,邪見是世間,
正見を出世と名づけ、邪見は即ち世間なり。
邪正盡打卻,菩提性宛然。
邪正倶に打掉せば、菩提の性自ずから分明に現前す。
此頌是頓教,亦名大法船,
この頌は即ち頓教、亦の名を大法船という。
