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《四庫全書総目》提要

宋 · 邵伯温 · 第1巻 / 2

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

伝授の一·青社の李之才(挺之)

易経易学典籍

術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。

《易學辨惑》一卷(永樂大典本)。宋邵伯溫撰。伯溫字子文,邵子之子也。南渡後官至利路轉運副使。事蹟具《宋史·儒林傳》。案沈括《夢溪筆談》,載“江南鄭夬字揚庭,曾為一書談《易》。後見兵部員外郎秦玠,論夬所談,玠駭然曰:‘何處得此法?’玠嘗遇一異人,授此曆數,推往古興衰運歷無不皆驗。西都邵雍亦知大略”云云,蓋當時以邵子能前知,故引之以重其術。

《易学辨惑》は全部で一巻。現行の伝本は《永楽大典》から輯出したものである。作者は宋人の邵伯温。伯温は字を子文といい、邵雍(世に邵康節と称す)の子である。宋室の南渡後、利路転運副使に至り、生平の事蹟は《宋史·儒林伝》に載る。按ずるに:沈括《夢渓筆談》に次のような一節がある——江南人の鄭夬、字は揚庭は、かつて《易》を論じた書を著した。後に兵部員外郎の秦玠に会い、書中の説を秦玠に語ると、秦玠は大いに驚いて「この法門をどこで得たのか」と言った。秦玠は自ら異人に遇い、この「暦数」を授かり、歴代の興衰・気運の移りを推算して驗とならぬことなしと言い、西都洛陽の邵雍も大略これを知ると言った。その他もろもろ。これはおそらく当時の人々が邵雍は未来をあらかじめ知り得ると伝えたため、彼を引き出してこの術数に重みを添えたのであろう。

伯溫謂邵子《易》受之李之才,之才受之穆修,修受之陳摶,平時未嘗妄以語人。惟大名王天悅、滎陽張子望嘗從學,又皆蚤死。秦玠、鄭夬嘗欲從學,皆不之許。天悅感疾且卒,夬賂其僕於臥內竊得之,遂以為學,著《易傳》、《易測》、《明範》、《五經時用》數書,皆破碎妄作,穿鑿不根。因撰此書以辨之。《宋史》邵子本傳頗採其說。

邵伯温曰く:邵雍の《易》学は李之才に伝わり、李之才は穆修に伝わり、穆修は陳摶に伝わった。邵雍は平生、決して軽々しくこの学問を人に語らなかった。ただ大名府の王天悦と滎陽の張子望のみが彼に従って学んだが、惜しいことに二人とも早く亡くなった。秦玠・鄭夬もまた門下に入ろうとしたが、邵雍はいずれも許さなかった。王天悦が病に重くて死に瀕した際、鄭夬はその僕を買収し、寝所から師説を記した手稿を盗み出し、これより以って己のものとして、《易伝》《易測》《明範》《五経時用》など数部の書を著したが、その内容は支離滅裂・肆意の杜撰で、随処に穿鑿して根拠がない。邵伯温はこのため本書を撰してこれを辨正した。《宋史》中の邵雍の本伝は、彼の説を少なからず採録している。

考《書錄解題》有鄭夬《易傳》十三卷,《宋史·藝文志》有鄭夬《時用書》二十卷、《明用書》九卷、《易傳辭》三卷、《易傳辭後語》一卷,今並佚。《司馬光集》有《進鄭夬易測札子》,稱其“不泥陰陽,不涉怪妄,專用人事,指明六爻,求之等倫,誠難多得。”與伯溫所辨,褒貶迥殊。光亦知《易》之人,不應背馳如是。

陳振孫《直斎書録解題》を査するに、鄭夬《易伝》十三巻を著録し、《宋史·芸文志》は鄭夬《時用書》二十巻・《明用書》九巻・《易伝辞》三巻・《易伝辞後語》一巻を著録する——これらの書は今やすべて亡佚した。《司馬光集》中に《進鄭夬易測札子》一篇があり、鄭夬のこの書は陰陽術数に拘泥せず、怪誕虚妄に渉らず、専ら人事に就いて論を立て、逐一六爻の意義を指し示すと称賛し、同輩の著述の中で実に得難いとした。これは邵伯温の辨斥と比べて、褒貶が截然と相反する。司馬光もまた深く《易》学に通じた人であり、理の上からいえば邵伯温とこのほどまで相違するはずがない。

以理推之,夬竊邵子之書而變化其說,以陰求駕乎其上。所撰《易測》,必尚隨爻演義,不涉術數,故光有“不泥陰陽,不涉怪妄”之薦。至其《時用書》之類,則純言占卜之法,故伯溫辭而闢之。其兼《易測》言之者,不過憎及儲胥之意耳。朱彝尊《經義考》載此書,注曰“未見”。此本自《永樂大典》錄出,蓋明初猶存。《宋史·藝文志》但題《辨惑》一卷,無“易學”字,《永樂大典》則有之,與《書錄解題》相合,故今仍以《易學辨惑》著錄焉。

情理を以て推すに:鄭夬は邵雍の書稿を盗み得た後、またその中の説を改頭換面して、密かに邵雍に凌駕せんと欲した。彼の撰した《易測》は、思うにやはり爻辞に順って義理を推演し、術数に渉らなかったのであろう、故に司馬光に「陰陽に泥まず、怪妄に渉らず」という推薦の語があったのである。彼の《時用書》の類いに至っては、それは純粋に占卜の法を講ずるもので、故に邵伯温は文を著して駁斥したのである。邵伯温が《易測》をも併せて数え挙げたのは、恨むに屋烏の愛ならぬ屋烏の憎、連帯してこれに関わる一切を悪んだに過ぎない。朱彝尊《経義考》はこの書を著録し、下に「未見」と注している。清初にはすでに伝本がなかったことが見える。現在この本は《永楽大典》から輯録したもので、明朝初年にはまだ世に存していたことが見える。《宋史·芸文志》はただ《辨惑》一巻と題し、「易学」の二字がない。《永楽大典》の収めるところにはこの二字があり、《直斎書録解題》の著録と合するので、今もなお《易学辨惑》という書名を用いて著録する。

巻首·《辨惑》を作るの縁起

欽定四庫全書。《易學辨惑》,宋邵伯溫撰。沈存中《筆談》象數一篇內,言江南人鄭夬曾為一書談《易》。其間一說曰:乾坤,大父母也;復姤,小父母也。乾一變生復,得一陽;坤一變生姤,得一陰。乾再變生臨,得二陽;坤再變生遁,得二陰。乾三變生泰,得四陽;坤三變生否,得四陰。乾四變生大壯,得八陽;坤四變生觀,得八陰。乾五變生夬,得十六陽;乾五變生剝,得十六陰。乾六變生歸妹,本得三十二陽;坤六變生漸,本得三十二陰。乾坤錯綜,陰陽各三十二,生六十四卦。

《欽定四庫全書》本《易学辨惑》、宋人邵伯温撰。沈括(字は存中)《夢渓筆談》「象数」の篇に曰く:江南人の鄭夬はかつて《易》を談ずる書を著し、書中にこのような説がある——「乾」「坤」の二卦は天地間の大父母、「復」「姤」の二卦はこれより生ずる小父母である。乾卦が一変して復卦を生じ、一個の陽を得る。坤卦が一変して姤卦を生じ、一個の陰を得る。乾卦が二変して臨卦を生じ、二個の陽を得る。坤卦が二変して遯卦を生じ、二個の陰を得る。乾卦が三変して泰卦を生じ、四個の陽を得る。坤卦が三変して否卦を生じ、四個の陰を得る。乾卦が四変して大壮卦を生じ、八個の陽を得る。坤卦が四変して観卦を生じ、八個の陰を得る。乾卦が五変して夬卦を生じ、十六個の陽を得る。坤卦(原文ここに誤って「干」と書く)が五変して剥卦を生じ、十六個の陰を得る。乾卦が六変して帰妹卦を生じ、本三十二個の陽を得る。坤卦が六変して漸卦を生じ、本三十二個の陰を得る。乾・坤の两支は交錯綜合し、陰陽各々三十二、ここにおいて六十四卦を生ずる。

夬之為書皆荒唐之論,獨有此變卦之說,未知其是非。予後因見兵部員外郎秦玠,論夬所談,駭然曰:“何處得此法?”玠云:嘗遇一異人,受此曆數,推往古興衰運歷無不皆驗,嘗恨不能盡其術。西都邵某亦知大略,已能洞吉凶之變。此人乃形之於書,必有天譴,此非世人所得聞也。予聞其言怪,兼復甚秘,不欲深詰之。今邵某與夬、玠已皆死,終不知何術也。竊惟我先君易學微妙,深不肖所不得而知也。其傳授次第、前後數賢者本末,在昔過庭,則嘗聞其略矣。懼世之士大夫但見存中所記,有所惑也,乃作《辨惑》。

沈括は続けて言う:鄭夬のこの書は通篇皆荒唐の論であるが、ただこの一組の変卦の説のみ、私はしばらくその是非を判断することができない。後に兵部員外郎の秦玠に会い、鄭夬の講ずるところを転述すると、秦玠は大いに驚き色を失い、「彼はどこからこの法門を得たのか」と言った。秦玠曰く:自らかつて異人に遇い、そこからこの「暦数」を承け、往古の興衰・気運の更替を推算するに、驗とならぬことなし。ただその人の本事を悉く学び得なかったことを恨む。西都洛陽の邵某(邵雍を指す)もまた大略これを知り、すでに吉凶の変化を洞察し得ると。鄭夬は竟にこれを書として公にする。必ず天譴を蒙るであろう。これはもとより常人の聴くべきものではない。私はその言うところが離奇で、しかも諱莫如深なるを聴き、もはや追問するに便ならず。今や邵某と鄭夬・秦玠は皆すでに亡く、私は終にそれが何の法術であるかを知らない。以上は沈括の記載である。私は窃かに思う:先父邵雍の《易》学は精微奥妙にして、不肖の子たる私は実にその全貌を窺知する由もない。しかしこの学問の伝授の次第・前後の諸賢の来竜去脈は、当年庭前に侍立して教を受けた時、概略を聞き得た。私は世上の士大夫がただ沈存中のこの一段の記載を見て誤解を生ずることを恐れ、ここにこの《辨惑》を著す。

伝授の一·青社の李之才(挺之)

先君受《易》於青社李之才,字挺之,為人倜儻不群,師事汶陽穆修伯長,性嚴急,少不如意,或至呵叱,挺之左右承順,如事父兄,略無倦意。登科,任孟州司戶。挺之坦率,不事儀矩,太守范忠獻公以此頗不悅。後忠獻建節移鎮延安,郡僚多送至境外,挺之但別於近郊。眾或讓之,挺之曰:“異時送太守止於是。且情文貴稱,范公實不我知,而出疆逺送非情,豈敢以不情事范公?”

先父邵雍の《易》学は、青社人の李之才、字は挺之に受けた。李挺之は人となり洒脱不羈・流俗と同じせず、汶陽人の穆修(字は伯長)に師事した。穆伯長は性情が厳厳しく急ぎ、少しでも意に合わなければ、甚だしくは当面呵責したが、李挺之は常に左右に恭順に承事し、父兄に事えるが如く、毫も厭倦の色がなかった。彼は進士に挙げた後、孟州司戸参軍に出仕した。李挺之は人となり坦率で、礼節儀度を講ずることなく、知州の范雍(謚は忠献)はこのため大いに喜ばなかった。後に范忠献は節鉞の命を受けて延安に鎮を改めるにあたり、州府の僚属は多くずっと州境の外まで送ったが、李挺之はただ近郊で別れた。衆人に彼を責める者があり、李挺之曰く:「往日太守を送るには、礼数はここに至れば足りる。況んや情意と礼文は相称することを貴ぶ——范公は実は私を知らず、私が出境して遠く送れば、それは真情ではない。私はどうして虚情假意を以て范公に事えんや」と。

未幾,忠獻責守安陸,過洛、三城,故吏無一人往者,獨挺之檄往省之,忠獻始稱歎,遂受知焉。又嘗為衛州共城令。先君築室蘇門山百源之上,時丁先祖母李夫人喪,布衣蔬食三年,躬以養先祖。

幾ばくもなく、范忠献は罪を得て安陸知州に貶せられ、洛陽と三城を路過した時、従前の属吏は一人として往って看望する者なく、ただ李挺之のみ書を持って往って探問し、范忠献はこれにて初めて彼を大いに讃嘆し、此より彼を賞識器重した。李挺之はまたかつて衛州共城県令を做った。当時先父は蘇門山百源の上に屋を築いて隠居し、ちょうど祖母李夫人が去世し、彼は三年の喪を守り、布衣を着て素食を食し、親自ら祖父を奉養した。

挺之聞先君好學苦心志,自造其廬,問先君曰:“子何所學?”先君曰:“為科舉進取之學耳。”挺之曰:“科舉之外有義理之學,子知之乎?”先君曰:“未也,願受教。”挺之曰:“義理之外有物理之學,子知之乎?”先君曰:“未也,願受教。”“物理之外有性命之學,子知之乎?”先君曰:“未也,願受教。”於是先君傳其學。

李挺之は先父が学を好みしかも志を立てて刻苦するを聞き、便ち親自らその草廬に登門して造訪し、先父に問うて曰く:「あなたの学ぶところは何か」。先父曰く:「科挙に応じ功名を求取する学問に過ぎない」。李挺之曰く:「科挙の外に『義理之学』あり、あなたは知るか」。先父曰く:「知らず、領教せんことを願う」。李挺之曰く:「義理の外に『物理之学』あり、あなたは知るか」。先父曰く:「知らず、領教せんことを願う」。李挺之はまた曰く:「物理の外に『性命之学』あり、あなたは知るか」。先父曰く:「知らず、領教せんことを願う」。ここにおいて先父は便ち彼に従ってこの学問を承受した。いわゆる「義理」とは、経書中の道理を講ずるもの。「物理」とは、万物の生成変化の法則を推窮するもの。「性命」とは、直に天命と人性の本源を探るもので、一层ずつ深い。

挺之籤書澤州判官聽公事。澤州人劉羲叟晚出其門,受曆法,亦為知名士;《易》學則唯先君得之也。挺之後終殿中丞。(按:原本作“終殿中丞、籤書澤州判官聽公事”。據《宋史·李之才傳》,石延年調兵河東,辟之才澤州籤書判官,轉殿中丞,則澤州判官當書在前,今依《宋史》改正。)熙寧中,其侄君翁嘗請文於先君,以表其墓。

李挺之は後に沢州簽書判官庁公事に出任し、これは州府の幕職官である。沢州人の劉羲叟は晚年彼の門下に出て、暦法を学び得、亦知名之士となった。《易》学に至っては、ただ先父一人のみ真伝を得た。李挺之は最終的に官は殿中丞に至った。(四庫館臣按:原本は「終殿中丞・簽書沢州判官聴公事」と作る。《宋史·李之才伝》に拠れば、石延年が河東で兵を調した時、李之才を徴辟して沢州簽書判官とし、後に殿中丞に転任した。見れば沢州判官の職は当に前に書くべし、今《宋史》に依って改正す。)煕寧年間、李挺之の甥李君翁はかつて先父に文を求め、以て彼の墓表を撰した。

伝授の二·汶陽の穆修(伯長)

挺之之師即穆修也。修字伯長,汶陽人,後居蔡州,遂葬於蔡。師事華山處士陳摶圖南而傳其學。修少豪放,性褊少合,多京洛間。人嘗書其詩于禁中壁間,真廟見之,深加歎賞,問侍臣曰:“此為誰詩?”或以穆修對。上曰:“有文如是,公卿何不薦?”丁晉公在側曰:“此人行不逮文。”由是上不復問。

李挺之の師は即ち穆修である。穆修は字を伯長といい、汶陽人で、後に蔡州に定居し、亦蔡州に葬られた。彼は華山処士の陳摶(字は図南)に師事し、あの学問を承伝した。穆修は少時より性情豪放で、気量は偏狭にして人と合するを少なく、長く京城と洛陽の一帯に往来した。かつて人ありて彼の詩を宮禁の墻壁上に題写し、宋真宗が見て大いに讃賞し、身辺の侍臣に問うて曰く:「これは誰の詩か」。ある人が答えて穆修と言うと、皇上曰く:「このような文才あれば、公卿大臣はどうして挙薦せぬか」。丁謂(後に晋国公に封ぜらる)が正に旁にあり、曰く:「この人の品行はその文章に及ばない」。此より皇上は便ち再び過問しなかった。

蓋伯長與晉公有布衣舊。晉公頃赴夔漕,伯長猶未仕,相遇漢上,晉公意欲伯長先致禮,伯長竟不一揖而去,晉公銜之,由是短於上前。後晉公貶朱崖,徙道州,有詩云:“卻訝有虞刑政失,四凶何事不量移。”可見其不相善也。

もとより穆伯長と丁晋公は早く布衣の時に相識った。当年丁晋公が夔州路転運使に赴任する時、穆伯長はまだ出仕せず、両人は漢水の上で相遇い、丁晋公は穆伯長に先に礼を行わせようと意したが、穆伯長は竟に一揖も作さず走り去り、丁晋公はこのため恨みを懐き、此より皇上の前で彼の短所を言った。後に丁晋公は朱崖に貶され、又道州に移置され、穆伯長は詩を作って譏刺して曰く:怪しいかな虞舜の刑政も亦失ありとは、共工・驩兜・三苗・鯀の「四凶」は、何を以て量移して内地を獲るべきか。見れば両人は素より和せず。

伯長祥符二年梁固榜登進士第,調海州理椽,以忤通判,遂為捃摭,由是削籍池州。其集中有《秋浦會遇》詩,自敘甚詳。後遇赦,敘潁州文學參軍,故當時呼之曰“穆參軍”。

穆伯長は大中祥符二年梁固榜にて進士に挙げられ、海州司理参軍に調任したが、通判を得罪したため、人に罪名を羅織され、ここにおいて官籍を削られ、池州に編管された。彼の文集中に《秋浦会遇》一詩があり、この遭遇を自述して甚だ詳しい。後に大赦に遇い、始めて潁州文学参軍に叙復し、故に当時の人は皆彼を「穆参軍」と称した。

老益貧。家有唐本韓、桞集,乃丐於所親厚者得金,募工鏤板,印數百帙,攜入京師相國寺,設肆鬻之。伯長坐其旁,有儒生數輩至其肆,輒取閱,伯長奪取怒視,謂曰:“先輩能讀一篇不失句讀,當以一部為贈。”咱是經年不售。時學者方從事聲律,未知為古文,伯長首為之倡,其後尹源子漸、洙師魯兄弟始從之學古文,又傳其《春秋》學。伯長國史有傳。

穆伯長は年老いて後ますます貧困した。彼の家に唐刻本の韓愈・柳宗元文集を蔵し、便ち相熟の親友に乞い湊めて一筆の銭を得、工匠を雇して版を刻し、数百部を印し、京城の相国寺に持ち帰って攤を擺して出售した。穆伯長は攤の旁に坐し、幾人かの儒生が攤前に走到し、随手に書を取り翻看すると、穆伯長は一把に奪回し、怒目して視て曰く:「諸君もし一篇を読んで句を破らざれば、私は一部をあなたに送らん」。このため终年も売り出すことができなかった。当時読書人は正に一味に声律科挙の文を鑽研し、まだ古文を写すことを知らず、穆伯長は率先してこれを倡導した。その後尹源(字は子漸)・尹洙(字は師魯)兄弟が始めて彼に跟って古文を学び、又彼の《春秋》之学を伝承した。穆伯長は国史中に伝がある。

伝授の三·華山の陳摶(希夷先生)

其師即陳摶也。摶字圖南,亳州真源人,葢唐末進士,負經綸之才。歷五季亂離,遊行四方,志不遂,入武當山,後隱居華山。自晉、漢已後,每聞一朝革命,顰蹙數日,人有問者,瞪目不答。一日方乘驢逰華陰市,聞太祖登極,圖南驚喜大笑。人問其故,曰:“天下自此定矣。”葢太祖方潛龍時,圖南常見天日之表,知太平之有自矣。

穆修の師は即ち陳摶である。陳摶は字を図南といい、亳州真源県人で、もと唐朝末年の進士で、経国済世の才幹を懐いた。彼は五代の戦乱離散を経歴し、四方に游歴するも志は施展を得ず、ここにおいて武当山に入り、後に華山に隠居した。後晋・後漢以後、一朝改姓易代すと聞く毎に、彼は愁眉を展べず数日、ある人がその縁故を問えば、彼はただ眼を瞪えて声を作さなかった。ある日彼が正に驢に騎り華陰の集市の上を行く時、宋太祖が登極したと聞き、陳図南は驚喜して放声大笑した。他人がその何故を問えば、彼曰く:「天下は此より安定する」。もとより宋太祖がまだ発跡せず、なお「潜竜」の時に在りしより、陳図南は常に彼に天子の相あるを見、太平の世は自ら来由あるを知った。

遁跡之初,有詩云:“十年蹤跡走紅塵,回首青山入夢頻。紫陌縱榮爭及睡,朱門雖貴不如貧。愁聞劍扶危主,悶見笙歌聒醉人。攜取舊書歸舊隱,野花啼鳥一般春。”豈淺丈夫哉!周世宗召見,問以黃白,對曰:“陛下為四海之主,當以治政為念,奈何留意於小道耶?”世宗不以為忤,拜諫議大夫,固辭,賜號“白雲先生”。

陳図南が剛に隠遁せんとする時、一首の詩を写して、大意は曰く:十年来紅塵を奔走し、回头すれば青山屢々夢に入る。京城の大道上は縱い栄顕なるも、安穏の一觉に比ぶに如かず。朱門は富貴なりといえども、終に清貧自在に如かず。愁い聴く兵戈声中に人ありて危局を扶持するを、悶え看る笙歌の吵擾なるあの酔客を。旧書を帯びて旧日の隠居之地に帰るに如かず、あそこは野花啼鳥も亦春天なり。(「愁聞剣扶危主」一句は原一字を缺き、当に「愁聞剣戟扶危主」と作るべし。)これは豈に識見浅薄の人の写し出すところならんや!周世宗は彼を召して入見せしめ、「黄白」の術、即ち金銀を点化する方術を問うた。彼は答えて曰く:「陛下は四海の主たる身として、当に治国理政を念とすべし、どうしてこの等の小道に留意せんや」。周世宗は見怪せざるのみならず、還って彼に諫議大夫を授けたが、彼は堅く辞して受けず、世宗は便ち号を「白雲先生」と賜った。

太平興國初,太宗皇帝召至闕,求一靜室休息,乃賜館於建隆觀,扄戶熟寐,月餘方起。詔以野服見於延英殿,賜坐,延問甚久。上方欲徵河東,圖南諫止之,會軍已興,詔復令寢於御園。及兵還,經百餘日方寤。乞歸山。九年復來朝,始陳河東可取;暨王師再舉,果降劉繼元,北漢平。

太平興国初年、太宗皇帝は陳図南を京城に召し、彼は一間の安静の屋を請うて休息したいと言い、ここにおいて彼を建隆観に住まわせ、彼は門を関して沉睡し、一箇月余りにして始めて起身した。太宗は詔を下して彼に山野の便服を着せて延英殿に覲見せしめ、座を賜い、問詢すること甚だ久しかった。当時太宗は正に兵を出して河東の北漢を征討せんと打算し、陳図南は進諫して勧阻したが、ちょうど大軍はすでに出動し、太宗は便ち詔を下して彼に仍り御園中に到り安睡せしめた。軍隊が班師するを待ち、彼は睡ること百余日にして始めて醒め、随即山に帰ることを請うた。九年後彼は再度入朝し、これにて始めて進言して河東は攻取可なりと言い、王師が再び出征するを待ち、果して劉継元を迫降せしめ、北漢は平定した。

按:《宋史·北漢劉氏世家》,開寶二年春太祖親征繼元,閏五月班師;太平興國四年太宗復親征繼元,繼元窮蹙,五月甲申送降。此云圖南九年來朝,始陳河東可取,暨王師再舉云云。太平興國無九年,已改元為雍熙。《太宗紀》雍熙元年冬十月賜華山隱士陳摶號“希夷先生”,與此合。若初召諫徵河東及陳河東可取事,《太宗紀》與《摶傳》俱不載;而劉繼元之降,又非雍熙元年事。或伯溫追述所聞,於歲時前後不能無誤也。

四庫館臣按:《宋史·北漢劉氏世家》に拠れば、開宝二年春宋太祖は親征して劉継元を伐ち、閏五月に班師した。太平興国四年宋太宗は再度親征して劉継元を伐ち、劉継元は窮蹙して路なく、五月甲申日に城を出て投降した。ここに陳図南の「九年にして朝に来り、これにて始めて進言して河東可取なりと言い、王師が再挙するを待ち」云々というは、しかし太平興国には第九年なく、あの時到ればすでに雍熙に改元していた。《宋史·太宗紀》は雍熙元年冬十月に華山隠士陳摶に号「希夷先生」を賜うと載せ、本文の記するところと相合する。当初召見の時に進諫して河東を征するを阻止したことおよび後に進言して河東可取と言ったことの二件に至っては、《太宗紀》と《陳摶伝》は均しく失載する。而して劉継元の投降は、又雍熙元年の事ではない。あるいは邵伯温が聴来の伝聞を追述したもので、年月の先後に出入あるを免れざるか。

上謂宰相宋琪等曰:“摶方外之士,在華山四十餘載,度其年蓋百餘歲矣,語論甚高。”因送至中書。琪等問曰:“先生得元黙修養之道,可以教人乎?”對曰:“摶不知吐納養性之理、神僊黃白之事,非有方術可傳。假令白日沖天,何益於聖世?聖上博通古今,深究治亂,真有道仁明之主,是君臣同德致理之時,勤行修煉,無出於此。”琪等稱歎,以其語白上,上益重之。

太宗は宰相宋琪等に対して曰く:「陳摶は方外の士、華山に住すこと四十余年、年紀を推するに已に一百余歳ならん、談吐議論は甚だ高明なり」。ここにおいて人をして彼を中書省に送らしめた。宋琪等は彼に問うて曰く:「先生既に玄黙静養の道を得たり、以て人に教うべきか」。陳摶は答えて曰く:「私は吐納養性の道理を知らず、亦神仙が金銀を点化する那一套を知らず、伝授すべき方術なし。縱い白日飛升し得るとも、聖明の世に対して何の益あらん。当今聖上は古今に博通し、治乱の由を深く究め、真に有道にして仁明の君主、正に君臣同心同德・共に太平を致すの時。いわゆる『勤行修煉』、これより更要緊なるはなし」。宋琪等は讃嘆已まず、この番の話を太宗に報告し、太宗はいよいよ彼を看重した。

太宗問曰:“昔在堯舜之為天下,今可致否?”圖南對曰:“堯舜土階三尺,茅茨不翦,其跡自不可及;然能以清靜為治,即今之堯舜也。”上善其對,亦拜諫議大夫,固辭,乞歸。上知其不可留,即賜宴便殿,詔宰執禁從作詩以□,賜號“希夷先生”。後再召,辭曰:“九重僊詔,休教丹鳳銜來;一片野心,已被白雲留住。”

太宗は彼に問うて曰く:「従前堯舜の天下を治めた局面は、如今還って重現し得るか」。陳図南は答えて曰く:「堯舜の宮室はただ三尺の土階のみ、茅草の屋頂は修剪をもせず、あの種の簡朴の行跡はもとより趕及せず。但だ能く清静無為を以て国を治めば、それ即ち当代の堯舜なり」。太宗は甚だ彼の回答を讃賞し、亦彼に諫議大夫を授けたが、彼は堅決に辞謝し、山に還ることを請うた。太宗は彼を留め得ざるを知り、便殿に於て宴を賜い、詔を下して宰執大臣と侍従近臣に詩を作らせて彼を送り(原文ここに一字を缺く)、併せて号を「希夷先生」と賜った。後に太宗は再度彼を徴召したが、彼は推辞して曰く:九重宮闕の仙詔は、丹鳳に銜えさせて来たるを休めよ。我がこの一片の山野の心は、早已白雲に挽留されたりと。

將終,預知死期,上表云:“臣大數有終,聖朝難戀,已取某年七月二十二日化形於蓮花峰下張超谷中。”又草疏遣其徒詣闕上之,莫得而見也。种放明逸表其墓,能述其大略。明逸亦傳其象學,明逸授廬江許堅,堅授范諤,由此一枝傳於南方也。世但以為學神仙術、善人倫風鍳而已,非知圖南者也。獨先君知之為詳,數數有詩及之。

陳図南は臨終の前、予め己の死期を知り、表を上げて曰く:「臣の大限は已に至り、聖明の朝は好しと雖も久しく恋するを難し、已に某年七月二十二日蓮花峰下の張超谷中に於て形骸を脱化せんと定む」。彼はまた一道の奏疏を起草し、門徒を派して朝廷に送り呈上せしめ、あの奏疏の内容は外人の見ることを得ざるなりき。種放(字は明逸)は彼の為に墓表を撰し、能く大致彼の生平を叙述した。種明逸も亦彼の「象学」を承伝し、明逸は廬江人の許堅に伝え、許堅は范諤に伝え、先天之学のこの一支は便ち此により南方に流伝した。世人はただ陳図南を以て神仙の術を学び・看相識人に擅む者と為すのみ、これは真に彼を了解したとは算しない。ただ先父のみ彼を了解すること最も詳しく、屢々詩中に彼に言及した。

先天易学の淵源と宗旨

圖南以上,傳授不可悉考,蓋自伏羲以至文王、周公、孔子以來,世世相傳,或隱或顯,未嘗絶也,如揚子雲、關子明、王仲淹皆其所從來者也。其學主於意、言、象、數,四者不可闕一。其理具見於聖人之經,不煩文字解說,止有一圖以寓其陰陽消長之數與卦之生變。圖亦非創意以作,孔子《繫辭》述之明矣。嗚呼,真窮理盡性之學也!

陳図南以上の伝授世系は、已に一一考実すること能わず。大略伏羲より以下、文王・周公を経て孔子に至る以来、世世相承え、時に隠没し時に顕揚すれども、未だかつて中断せず。揚雄(字は子雲)・関朗(字は子明)・王通(字は仲淹)等の人の如きは、皆この一脉の来路に属す。この学問は「意」「言」「象」「数」の四者を主とし、四者は一を缺くべからず。その道理は皆聖人の経典の中に備具し、必ずしも再び文字を以て解説するを要せず、ただ一幅の図あるのみ、以て陰陽消長の数理と卦の生成変化を寄寓す。この図も亦憑空に創制したるにあらず、孔子は《繋辞》裏に已に説き明らかせり。ああ、これは真に物理を窮究し・人性を尽通する学問なり!

先君之學雖有傳授,而微妙變通蓋其所自得也,能兼明意、言、象、數之蘊,而知《易》之體用、成卦立爻之所自。嘗有詩曰:“誰信畫前元有《易》,須知刪後更無《詩》。”然其學卒無所傳,平時未嘗妄以語人,故當時人亦鮮克知之者,唯以自樂而已。有大名王豫及其甥滎陽張,雖嘗從學,而又皆早死。

先父の学問は師承ありと雖も、しかし其中の精微変通の処は、多半は彼自ら体悟し得たところである。彼は能く同時に「意」「言」「象」「数」四者の底蘊に通暁し、因而《易》の体と用を懂り、亦卦の成る所以・爻の立つ所以の根由を懂った。彼はかつて詩を写して曰く:誰か肯んじ信ぜん伏羲が卦を画く之前に本来《易》理の存在することを、又応に知るべし孔子が刪定した後再び別の《詩》なきを。しかるにこの学問は最終に伝人なし:彼は平日決して軽々しく人に講せず、故に当時能く了解する者極めて少なく、彼も亦ただ自ら其の楽を得るのみ。かつて大名府の王豫とその甥・滎陽の張某ありて彼に従って学を受けたが、惜しいことに両人又都早く去世した。

門人の一·大名の王豫(天悦)

王豫字天悅,樞密直學士之子,丁父憂,居衛之新鄉。先君居共城,初未知先君有是學也,以詩招先君曰:“邵子著書十萬許,圖得聖人心甚苦。何時惠然肯訪來?吾當為君具雞黍。”先君欣然就之。天悅曰:“聞子好學,未知讀何書?”先君曰:“平時居家讀五經,泛觀諸子百家之書,然無師匠,未有所得也。”天悅曰:“子能相從乎?”先君曰:“固所願也。”

王豫は字を天悦といい、枢密直学士の子で、父の去世に因り喪を守り、衛州新郷に住した。当時先父は共城に住し、王天悦は起初先父にこの学問あるを知らず、詩を写して先父を邀請して曰く:邵先生は書を著すこと十万来字、苦苦聖人の心を画成して図と為さんと欲す。何時か肯んじ賞光して一趟来たらん。我は必ずあなたの為に鶏黍を備えて相待たん。先父は欣然として往いた。王天悦曰く:「あなたが学を好むと聞く、読むところの書は何かを知らず」。先父曰く:「平日家に在りて五経を読み、亦諸子百家の書を泛覧す、ただ師承なく、還た何等の心得と談ずるに足らず」。王天悦曰く:「あなたは能く我に跟って学ばんか」。先父曰く:「これは本来正に我が願うところなり」。

天悅蓋魁偉豪傑之士,雄辨該博,先君但唯諾而已。後及於《易》,先君不復假借,舉奧義數條,皆不能答,乃徐為解說。天悅得所未聞,茫然自失,遽反席再拜,執古弟子之禮焉。有時同行道路,雖沽酒,必具衣冠捧觴跪獻,為先生壽。

王天悦は体貌魁偉の豪杰之士で、口才雄弁・学識広博にして、起初先父はただ唯唯として応諾するのみ。後に《易》に談じ及ぶに至り、先父は再び謙譲退避せず、挙出して几条の深奥の義理を以て相問い、王天悦は皆答える能わず、先父はこれにて始めて従容として彼の為に講解した。王天悦は未だかつて聞かざる道理を聞き、茫然として失するが如く、立刻席位に退回し、再拝行礼し、古人の師を拝する弟子の礼を執った。此後時に同路して行く時、縱い沽来の村酒なるも、彼は必ず衣冠を整粛し・杯を捧げて跪献し、先父の為に祝寿した。

先生居百源,絶四鄰,居數年未嘗設榻。天悅不以時造,隆冬深夜,外戶不扄,但見燈下黙坐,或時諷誦。天悅於是尤加敬服,每有所得,筆而書之,貯一錦囊中,出入起居,須臾造次必以自隨也。

先父は百源に住し、四周に隣居なく、数年住すも未だかつて一張の臥榻を擺せず。王天悦は常に時に按せず前來して造訪し、隆冬深夜、外門も上闩せず、進入すれば先父が灯下に黙然として静坐し、時に低声に誦読するを見た。王天悦は因此いよいよ敬服し、心得ある毎に、随手に記下来し、一隻の錦囊裏に装し、出門在家・起居行止、片刻の間も必ず身辺に帯びた。

一日,有清河役卒不以時放,監護者又苦之,眾怒,持畚閘將入縣剽劫以起事,吏民大恐,莫知所為。天悅白令,願自往。令欲多假之從者,天悅曰:“不可,非獨無益,且有害也。”乃衣衰絰,歩出郭外,遇其眾,諭以禍福,皆不敢動,舍杖羅拜,以至感泣,遣還役次。州郡監司欲以其事上聞,天悅力止之。

ある日、清河工地上の役卒が期に到るも放帰せず、監工の人又百般彼らを折磨し、衆人は激憤し、畚箕・閘板の類いの家伙を抄起して県城に沖進して抢掠起事せんとし、官吏百姓は大いに驚恐し、如何にするかを知らず。王天悦は県令に禀告し、自ら前來せんことを願うと。県令は多く随従を派して彼に与えんと欲したが、王天悦曰く:「不可なり、あれは但だ益なく、反って害あり」。ここにおいて彼は仍り喪を守る麻衣孝服を穿着し、歩行して城を出、あの群人に迎上し、利害禍福を彼らに講して聴かせ、衆人は皆敢えて妄動せず、棍棒を扔下して囲攏下拝し、以て感動落涙するに至り、工地に遣送回された。州郡の監司はこの事を朝廷に上報して功を邀えんと欲したが、王天悦は極力勧止した。

後籤書河陽節度判官聽公事。有武臣為守,豪橫傲慢,以至乾元節謝恩祝聖,一切輒罷。天悅告之曰:“乾元之儀,天下所同,不以臣之大小為異。公被遇兩朝,歷位將相,尚乖恭事;苦元昊賊如何,更可責以臣節?”守怒,乃求他官以避之。

後に彼は河陽節度判官庁公事を簽書した。当時ある武臣が知州を做り、驕横傲慢にして、甚だしくは乾元節即ち皇帝誕節の謝恩祝聖典礼も一概に取消した。王天悦は彼を勧めて曰く:「乾元節の儀典は、天下の臣子一体に奉行し、臣子の官位の大小に因って分別せず。あなたは両朝の恩遇を受け、歴任将相之位に居り、尚且つ恭事の礼に違背す。然らば李元昊の如き叛賊は又当に如何。還た責求して彼に臣子の名分を守らしめ得るか」。知州は大怒し、王天悦は便ち改任して別の官職と為り以て彼を避けることを請うた。

景佑、慶曆中,屢上書言事,召赴資善堂,命近臣詢訪,語太激切,為所沮抑,送政府問狀,又以辭不屈忤時相,報罷,以太常寺太祝知河陽府伊闕縣事。會甘陵妖賊王則為變,所在告捕黨與甚急,洛之諸邑皆以獲捕為功。有以妖書告者,株連蔓延凡二百餘人。天悅至邑,按問得情,皆無狀,但為浮圖事所惑,夜聚眾規利而已。天悅嘆曰:“亂貝者王則也,斯民何罪!”乃盡釋之。

景祐・慶暦年間、王天悦は多次書を上げて時政を議論し、朝廷は彼を資善堂に召し、近臣に命じて当面詢問せしめ、彼は説くこと太も激切に過ぎ、人に圧制下去され、又政事堂に送到して供状を追問されたが、彼は言辞屈せず肯んじず、当朝宰相を触怒し、事は此に就いて罷み、ただ太常寺太祝の官銜を以て河陽府伊闕県を出知した。ちょうど甘陵即ち貝州の妖賊王則が乱を作し、各地は同党を緝捕して抓ること甚だ急しく、洛陽一帯の各県は皆人を抓到するを以て功労とした。ある人はいわゆる「妖書」を拿して出首告発し、株連蔓延して竟に二百多人に達した。王天悦は県に到りて後、逐一審問して実情を查明し、皆実拠なく、不過佛事の類いの名目に迷惑し、夜裏聚まりて小利を図るのみなるを発見した。王天悦は嘆じて曰く:「貝州を擾乱するは王則なり、これらの百姓に何の罪かあらん!」ここにおいて彼らを全部釈放した。

其間豪強數十人皆先已竄伏山谷,結集旁邑儕輩,皆巨盜。天悅聞之,遣其徒中一人,遺以所衣布袍,曰:“為我告若曹:茲事已十年矣,縱長注誤,亦屢經赦宥,可以自新。”俾令觀此取信。其人奔往,以天悅之言諭之曰:“我令賜汝活!”具道天悅意,將所得袍遍示之,眾皆相賀,歡欣從命;又語旁邑人,亦皆散去。天悅素不能謟事上位,尹雅不悅,捃摭以故縱妖黨聞於朝,執政者以宿怒深中之,坐是奪兩官,海州。先君送至海上,後得放還,監亳州明道宮,丁母憂以卒。

この批の人の裏に数十个の豪強あり、早已山谷に逃匿し、又隣県の同類と勾結し、皆これ巨盗なり。王天悦は聞きて後、彼らの同伙中の一人を派して前來せしめ、自己が身上に穿う布袍を解下して彼に交えて曰く:「我が為にあなたらに転告せよ:この事は已に十年を過去し、縱い当初長く迷誤に陥りしも、亦屢々赦宥に遇いたり、尽く改過自新すべきのみ」。彼らにこの件の袍子を看せ以て憑信と為さしめた。あの人は赶去し、王天悦の話を衆人に転述して曰く:「県令は我らに一条の活路を賞す!」又王天悦の意思を一一説明し、所得の布袍を拿出して遍く衆人に示し、大家は互相慶賀し、歓喜して服従した。彼又往って隣県の同伙に告知し、あの人たちも亦各々散去した。王天悦は一向上司に諂媚せず、河南尹は素より彼を喜ばず、便ち罪名を羅織し、「故意に妖党を縦放す」の名義を以て朝廷に奏報し、執政大臣は旧怨を挟んで深く中傷を加え、彼は因此二級の官階を奪われ、海州に安置された。先父は一直に彼を海辺に送った。後に赦に遇い放還し、亳州明道宮監官に任じ、母喪に遭いて去世した。

門人の二·滎陽の張子望

張字子望,樞密直學士逸之孫,比部員外郎、廣西轉運使道宗之子,與其兄峋子堅同年登科,兄弟皆有文學。子望尤喜窮經,而恬於仕進。少從先君學,嘗語人曰:“師事先生二十年,未嘗見先生說重複語。先生之道深不可測,亹亹日新如此。”

張某は字を子望といい、枢密直学士張逸の孫・比部員外郎兼広西転運使張道宗の子で、彼の哥哥張峋(字は子堅)と同一年に進士に挙げられ、兄弟は皆文才学問あり。張子望は尤も経書を窮究することを好み、而して做官進取を看ること甚だ淡し。彼は年軽くして先父に跟って求学し、かつて人に対して曰く:「我は先生に師と拜すること二十年、未だかつて先生が一句の重複の話を説くを聴かず。先生の学問は深不可測、即是ちこのように不断精進・日日更新するなり」。

有《洛中游春》詩云:“平生自是愛花人,到處尋芳不遇真。誰謂人間無正色?今朝始見洛陽春。”言學於先君而方有所得也。先君和之曰:“造物從來不負人,萬般紅紫見天真。滿城車馬空撩亂,未必逢春便是春。”恐其自畫而勉之使進也。先君行狀,子望所撰,今載於《褒德集》。

彼に《洛中游春》一詩あり、大意は曰く:自己の生平はもと花を愛する人、到処芳を尋ねるも総じて真花に遇わず。誰か道はん人間に純正の顔色なしと。今天始めて算えて洛陽の春を見得たりと。これは自己が先父に従って学を受けて而して剛に領悟あるを説く。先父は詩を作して相和し、大意は曰く:造化は从来人を辜負せず、千紅万紫は皆天然本真を顕出す。満城の車馬は徒らに喧嘩撩乱し、春に遇上するも未必真に春を懂得するを。これは彼が画地自限するを怕れ、彼を勉励して継続精進せしめんとするなり。先父の行状は即ち張子望の撰する所、如今《褒徳集》裏に収む。

元豐官制行,神宗皇帝以呉丞相充嘗薦,諭執政除太常丞,蔡確言資淺,乃以為寺簿。未幾感疾,卒於京師,官才宣義郎。子望平時記録先君議論為多,家人但見其素所寶惜,納之棺中。其後子堅得其遺藳見授,今《觀物外篇》是也,蓋十才一二。又嘗著《易說》藏於家。

元豊年間に新官制を推行し、神宗皇帝は丞相呉充がかつて彼を挙薦したに因り、執政大臣に指示して彼を太常丞に任命せしめた。蔡確は彼の資歴は尚浅しと言い、ここにおいて太常寺主簿に改任した。不久彼は病に患い、京師に死し、官階は才ただ宣義郎に過ぎず。張子望は平日先父の議論を記録すること最も多く、家里人はただ彼が一向にこれらの筆記を珍藏愛惜するを見、便ちそれらを棺中に随葬した。後に彼の哥哥張子堅は剩下の遺稿を找到して我に交え、即是ち今天の《観物外篇》、大概ただ原來の十分一二を保存する。彼は還た《易説》一部を写し、家中に収蔵す。

熙寧初,其父領漕廣西,時初置常平使者,兄子堅首除兩浙,宰相欲見子望,父兄強之,不得已而往。宰相欲留,子望辭以父遠官嶺外。當時行其難進易退如此。若假之以年,先君之學必有所傳,惜哉!子望有二子夭折,平生著述散落。陳恬叔猶能頌其遺詩,情致深遠,不愧前人之作也。

煕寧初年、彼の父は広西の漕運を主管し、当時朝廷は剛に常平使者の職を設置し、哥哥張子堅は首先に任命されて両浙に到り、宰相は一見張子望を見んと欲し、父兄は再三催促し、彼は不得已にして始めて去った。宰相は意ありて彼を留めて任用せんとし、張子望は却以て父が遠く嶺外に在りて官を做るを由として推辞した。当時彼は即是ちこのように「難進易退」の操守を奉行した。仮使上天が彼に多くの几年の寿命を与えば、先父の学問は必ず能く伝承あるを得たらん、可惜なるかな!張子望に両个の児子ありて皆夭折し、生平の著述も亦散失殆尽した。陳恬(字は叔易)は還た能く彼が留下した詩を背誦し、情致深遠にして、比べるに前代名家の作も亦毫も遜色なし。

求学未許の者·亳社の秦玠(伯鎮)

秦玠字伯鎮,未詳何處人,後居亳社。有吏才,善書翰,亦好學問,嘗以屯田貟外郎知懷州,長先君一歲,亦稱門人。在河南日,欲從先君學,先君以其人頗好任數,未之許也。嘗有書與先君云“先生鍵道彌固”,意謂先君靳其學不以告。先君答書,其略曰:“道滿天下,何物不有之,豈容人關鍵耶?”後歷兵部郎中,判三司理欠憑由司,遂退歸於亳,書問常不絶,先君亦之以詩。先君既沒,洛人李籲端伯守官於亳,見之尚無恙,每語及先君之學也。

秦玠は字を伯鎮といい、籍貫不詳、後に亳州に居住した。彼は做官の干才あり、書法文翰に擅み、亦学問を喜好し、かつて屯田員外郎の身份を以て懐州を知した。年紀は先父より大一歳なれども、亦自ら門人と称した。彼は河南に在る時先父に跟ってこの学問を学ばんと欲し、先父は彼という人が頗る権術心機を玩弄するを好むを以て、許さなかった。彼はかつて先父に信を写して、「先生は道を鎖すこと越えて牢固なり」と言い、意思是ち先父が学問を吝惜して肯んじ相告せざるを嫌う。先父は回信して、大意曰く:「道は天下に充満す、何の一東西か裏に道なからん。豈に人の鎖住し得る所ならんや」。秦玠は後に歴任兵部郎中、三司理欠憑由司を主判し、随后亳州に退帰し、先父と書信往来して始終断えず、先父も亦常に詩を以て相答えた。先父の去世以後、洛陽人の李籲(字は端伯)は亳州に在りて官を做り、彼を見る時彼は還た健在なり、毎々先父の学問を談起した。

窃書妄作の者·江東の鄭夬(揚廷)

鄭夬字揚廷,後以字為名,江東人,客遊懷、衛間,依大姓宗氏,亦嘗欲受教於先君。先君曰:“吾學於李挺之也,忘寒暑,忘晝夜,忘寢食,忘進取。挺之有所言,吾必曰:‘願略開端,無竟其說,請退而思之。’幸得之以為然,方敢自言;或未也,歸而再思之,得之而後已。又走四方,就有道而正焉。凡山川風俗、人情物理,吾皆究觀之,有益於吾學者必取焉。今足下志在口耳,又多外慕,能去是而誠心一意,然後可以語此學。”夬固不能也。

鄭夬は字を揚廷といい、後に便ち字を以て名と為し、江東人で、懐州・衛州一帯に客居し、大族宗氏の門下に寄食し、亦かつて先父に向って教を求めんと欲した。先父は彼に対して曰く:「我が李挺之に跟って学ぶ時、寒暑を忘れ、昼夜を忘れ、睡覚吃飯を忘れ、亦功名進取を忘れたり。挺之が毎に一段を講ずれば、我は必ず言う:『あなたにただ略々頭を開き、話を説尽せず、我に退下して自己思索せしめんことを請う』と。僥幸想通し・認定して確実に此れと為れば、始めて敢えて口を開きて講出す。若しまだ想通せざれば、回去して再想し、想通するに非ざれば罷まず。此外我又四処奔走し、有道の人に向って求正す。凡是山川形勢・風土習俗・人情物理、我は皆一一考察し、凡そ我が学問に有益なるは必ず吸取す。如今あなたの志は口耳の間に在り、ただ聴来して能く説くを求め、又多く外に向って名利を慕求す。能くこれらの毛病を去掉し・誠心専一せよ、然る後に乃ち以てこの学問を談ずべし」。鄭夬は当に做り到る能わず。

後秦玠在河內,嘗語夬以王天悅傳授先君之學有所記録,夬力求之,天悅惡夬浮薄,不與。不幸天悅感疾且卒,夬聞之,賂其僕就臥內竊得之,遂自以為己學,著《易傳》《易測》《明範》《五經明用》數書,皆破碎妄作,穿鑿不根,嘗以變卦圖標秦玠。

後に秦玠は河内に在り、かつて鄭夬に告げて曰く:王天悦は先父に従って学を受け、筆記記録を留有りと。鄭夬は便ち竭力して王天悦に向って索求し、王天悦は彼の人となり浮薄なるを厭悪し、肯んじ与えず。不幸王天悦は患病垂危し、鄭夬は聞きて後、彼の僕人を買通し、臥房裏より筆記を盗出し、ここにおいて当て自己の学問と為し、《易伝》《易測》《明範》《五経明用》等の几部の書を写成し、皆これ支離破碎の杜撰、穿鑿にして根拠なし。彼は還たかつてあの幅の変卦図を秦玠に拿看せしめた。

夬既竊天悅書,遂去宗氏入京師,補國子監生,得解,省試策問八卦次序,夬以所得之說對,主司異之,擢在優等。既登第,遊公卿門,以其所著書為投贄焉。後調太原府司録,執政薦館職者數人,將召試,為轉運李遇卿發其贓罪,投竄南方,遇赦得自便,復事逰謁。嘗過洛來見先君,慚怍引咎。先君曰:“足下向以拙者之言為然,不至此也。”不肖時在童稚,尚能記其狀貌,白晰短小輕狷人也。後卒以窮死。秦謂“必有天譴”,恐指此而言也。

鄭夬は王天悦の筆記を偷到して後、便ち宗氏を離開して進京し、国子監生に補し、発解試を通過した。礼部省試の策問題目は正に八卦次序に問い及び、鄭夬はあの一套の説を拿して応答し、主考官は彼が与衆不同なるを覚え、彼を優等に拔した。進士に挙げて後、彼は公卿門下に出入し、自己の所著の書を当て進見の礼と為した。後に太原府司録参軍に調任し、執政大臣は幾人を推薦して館閣の職に補せんとし、正に彼を召して考試せんとするを、却って転運使李遇卿に彼の貪贓罪行を掲発され、南方に流放された。赦に遇いて後自由を得、又照旧四処游謁して権貴を訪れた。彼はかつて洛陽を路過して先父を見に来り、満面愧色にして、自ら過錯を認めた。先父曰く:「あなたは当初若し肯んじ我がこの笨人の話を当回事と為さば、今天この地步に落到せざらん」。我はあの時還た孩童なりしも、亦還た彼の相貌を記得す:皮膚白浄、身材矮小、是れ一個の軽浮褊急の人なり。彼は後に終に窮困して死せり。秦玠は彼を「必ず天譴を蒙るべし」と言う、恐怕は即是ちこの事を指すならん。

秦玠・沈括の伝えたる惑を辨ず

夬之所著《易圖》非是,其說或有然者。竊書秦實知之,乃駭然嘆曰“夬何處得此法”,又謂自得之異人,“西都邵某聞其大略,已能洞吉凶之變”,近乎自欺矣。先君易學淵源傳授本末,秦不能知,獨以為“洞吉凶之變”,何其小也!謂得之異人,非世人所聞,尤為怪誕,然亦有謂,蓋指陳希夷而言也。

鄭夬の画いたる《易図》は并びに正確ならず、不過其中の個別の説法は或いは還た些か道理あらん。彼の偷書のこの事は、秦玠は実は知情なりき、却って還た装出して吃惊の様子を作りて嘆じて「鄭夬は何処よりこの法門を得たりや」と言い、又说この法門は自己が異人の所より学来したるなりと言い、還た説いて「西都の邵某はただ箇大概を聴きのみ、就已に能く吉凶変化を洞察す」と言う。これは即ち近く自欺欺人なり。先父易学の淵源師承・来竜去脈は、秦玠は根本より知る由なく、ただ之を当作して「吉凶の変を洞察す」の一套の預測の術と為し、未免この門の学問を看ること太小し!説いて異人の処より得たり・世人の能く聴聞する所に非ずと言うは、尤其荒誕なり。不過この話も亦一個の来由あり、大概是ち陳希夷を指して言うならん。

自伏犧已來,大中至正之道昭昭然具在《易》中,孔子為《彖》《象》《繫辭》,言之盡矣。但世人信之者寡,知之者鮮。若謂非世人所聞,將使誰聞之耶?先君既謝世,秦為此言;存中又不得其詳,但記秦所聞耳。此不得不辨也。

伏羲以来、あの「大中至正」の道は明明白白に皆《易》裏に備具し、孔子は《彖伝》《象伝》《繋辞》を作り、已に之を講尽せり。ただ世上肯んじ相信する者不多く、真能く懂得する者更少し。若し説いてこの道理は世人の応に聴聞する所に非ずと言わば、然らば又誰を譲りて聴かしめんや。先父の去世の後、秦玠は始めてこの番の話を説出し、沈存中は又没能其中の詳情を了解せず、ただ秦玠の説く所を記下来したるのみ。これは能わず加以辨正せざるべからず。

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