周易口义
繋辞上・子曰知変化之道者其知神之所為乎
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
周易口義 発題
先生曰:夫《易》者,伏羲、文王、周公、孔子所以垂萬世之大法,三才變易之書也。自伏羲仰觀天文,俯察地理,始畫八卦,故爻有九六以盡陰陽之數,位有三畫以盡三才之道,寫天地雷風水火山澤之象以盡天下之用,明健順動入止說陷明之體以盡天下之理。然而伏羲之時,世質民淳,巧偽未興,詐端未作,故雖三畫亦可以盡吉凶之變。自神農至堯舜,莫不取法八卦之象以為大治之本。歴夏商以及桀紂之世,民欲叢生,奸偽萬狀,禮隳樂缺,天下紛然,故三爻不能盡萬物之消長、究人心之情偽。文王有大聖之才,罹於憂患,觀紂之世小人在位,詐偽日熾,思周身之防,達憂患之情,通天人之淵蘊,明人事之始終,遂重卦為六十四,重爻為三百八十四,又於逐卦之下為之彖辭,故天地通變之道、萬物情偽之理一備於此。
胡瑗先生は言います。《易》という書は、伏羲・文王・周公・孔子という四人の聖人が万世に根本の大法を立てるために用いたもので、天・地・人の「三才」が変化転易する理を説く書です。はじめに伏羲が上を仰いで天の日月星辰を観察し、下を俯して地上の山川の形勢を考察し、これによって八卦を画き始めました。ですから爻は九・六の二種に分かれ、「九」で陽を、「六」で陰を表して陰陽の数を尽くし、各卦は三画だけを立てて天・地・人の三才の道に対応させ、また天・地・雷・風・水・火・山・沢という八種の物象をもって天下のあらゆる事物の功用を描き尽くし、さらに乾の健・坤の順・震の動・巽の入・艮の止・兌の説・坎の陷・離の明という八種の卦性をもって天下の道理を明らかにしました。ただ伏羲の時代は風気が素朴で、民は淳厚で、機巧や虚偽はまだ起こらず、詐欺の芽も出ていなかったので、三画の八卦だけでも吉凶の変化を説き尽くすに足りたのです。神農から堯・舜に至るまで、歴代の聖王で八卦の象を取り法して天下を大いに治める根本としなかった者はいません。夏・商を経て桀・紂の時代に至ると、人の欲望が群生し、奸邪虚偽が万状をなし、礼制が毀れ楽教が欠けて、天下は紛然と乱れ、三画の爻ではもはや万物の消長を説き尽くせず、人心の真偽を見透かせなくなりました。文王は大聖人の才を備えながら憂患の中に身を置き、紂王の世に小人が権を握り詐偽の風が日に日に盛んになるのを見て、身を全うする方策を深く考え、憂患の実情を察し、天道と人事の奥深い含意を貫き、世事の来竜去脈を明らかに見て、八卦を二つずつ重ねて六十四卦とし、三爻を倍して三百八十四爻とし、また各卦の下に「彖辞」――すなわち一卦の大義を断定する文字――を系しました。こうして天地の変通する規律と万物の真偽の道理が、すべてこの書の中に備わったのです。
然謂之《易》者,按《乾鑿度》云:「易一名而含三義,簡易也,不易也,變易也。」故穎達作疏,洎崔覲、劉正簡皆取其說。然謂不易、簡易者,於聖人之經繆妄殆甚。且仲尼曰:「名不正則言不順,言不順則事不成。」是言凡興作之事先須正名,名正則事方可成,況聖人作《易》為萬世之大法,豈復有二三之義乎?按掦子曰:「陰不極則陽不生,亂不極則徳不形。」又《繫辭》曰:「易窮則變,變則通,通則乆。」又云:「生生之謂易。」是大《易》之作,專取變易之義,蓋變易之道,天人之理也。
この書がなぜ「易」と呼ばれるかについては、漢代の緯書《乾鑿度》に「易という名称には三層の意味が含まれる。一は簡易、二は不易、三は変易である」とあります。唐代の孔穎達が《周易正義》を作ったときこの説を踏襲し、後の崔覲・劉正簡らもこれに倣って説きました。しかし「不易」「簡易」まで書名の取り義に算入するのは、聖人のこの経典に対して実に甚だしく謬妄です。孔子は「名分が正しくなければ言葉が順に通らず、言葉が順に通らなければ事は成し遂げられない」と言いました。これは、何事かを興そうとするにはまず名称を正さねばならず、名称が正しくてはじめて事が成り立つということです。まして聖人が《易》を作って万世の根本大法とするのに、どうして一つの書名に二つも三つも取り義を並べることが許されましょうか。揚雄は「陰気が極まらなければ陽気は生じず、禍乱が極まらなければ徳政は現れない」と言い、《繋辞伝》も「事が窮まれば変わり、変われば通じ、通じれば久しく続く」と言い、また「生んではまた生み、化育やまない、これを易と呼ぶ」と言います。これを見れば、この大《易》の制作はもっぱら「変易」の意味を取ったのであって、変易の法則こそが天道と人事を貫く根本の道理だからです。
以天道言之,則陰陽變易而成萬物,寒暑變易而成四時,日月變易而成晝夜;以人事言之,則得失變易而成吉凶,情偽變易而成利害,君子小人變易而成治亂。故天之變易則歸乎生成而自為常道,若人事變易,則固在上位者裁制之如何耳。
天道の面から言えば、陰気と陽気が交互に変易して万物を化生し、寒来暑往が交互に変易して春夏秋冬の四時を成し、太陽と月が交互に変易して昼と夜を分かちます。人事の面から言えば、一事に得と失があって交互に変易すれば吉と凶が生じ、人心に真と偽があって交互に変易すれば利と害が生じ、朝廷で君子と小人が交互に進退すれば治世と乱世が生じます。ですから天道の変易は結局のところ万物の化生成就に帰し、それ自体が恒常の法則であって、人が心を煩わす必要はありません。人事の変易がどちらに転ぶかは、もっぱら上位に居る執政者がどのように裁断し制御するかにかかっているのです。
何則?在位之人苟知其君子小人相易而為治亂,則當常進用君子而擯斥小人,則天下常治而無亂矣;知其情偽相易而成利害,當純用情實而黜去詐偽,則所為常利而無害矣;知其得失相易而成吉凶,當就事之得而去事之失,則其行事常吉而無凶矣。是皆人事變易,不可不慎也。故大《易》之作,專取變易之義。
なぜそう言えるのでしょうか。官位に居る人が、君子と小人の進退の入れ替わりが治世と乱世をもたらすと悟れば、常に君子を抜擢任用し小人を排斥退ければよく、そうすれば天下は長く治まって禍乱を生じません。人心の真実と虚偽の交替が利と害をもたらすと悟れば、誠実な人を一概に任用し奸詐の徒を罷黜すればよく、そうすれば為すことは常に利を得て害を受けません。事の得当と失当の交替が吉と凶を招くと悟れば、正しく行えたことに倣い、誤ったところを取り除けばよく、そうすれば行いは常に吉で凶に至りません。これらはみな人事上の変易であり、慎重に扱わなければならないものです。ですからこの大《易》の制作は、もっぱら「変易」の意味を取ったのです。
謂之《周易》者,自伏羲畫卦,文王重之,又從而為之彖辭,至周公又為之爻辭,仲尼又十翼之,數聖相繼,其道大備於周,故曰《周易》。謂之上經、下經者,自乾坤至坎離三十卦謂之上經,自咸恆至未濟三十四卦謂之下經。然則所以分上下二經者,以簡帙重大,故分之也。乾坤者天地之象,坎離者日月之象,故取以為上經;咸恆者夫婦之義,既濟未濟人倫終始之道,故取以為下經。先儒亦常謂不分之即無損於義,分之亦無害,其實但以簡帙重大而分之也。乾傳者,乾卦名也;傳,傳也,言傳述聖人之法以示萬世也。
《周易》と呼ぶのは、伏羲が八卦を画き、文王が八卦を二つずつ重ねて六十四卦として各卦に彖辞を系し、周公が各爻に爻辞を系し、最後に孔子が《十翼》を作ってそれを闡明したという、幾人かの聖人の前後相承の営みによって、この学問が周の代に大いに備わったからです。「上経」「下経」に分かれるのは、《乾》《坤》の二卦から《坎》《離》の二卦までの三十卦を上経と呼び、《咸》《恒》の二卦から《未濟》卦までの三十四卦を下経と呼びます。上下二経に分けたのは、竹簡の巻帙が多く重かったため、分けざるを得なかったからです。《乾》《坤》は天と地の象を取り、《坎》《離》は日と月の象を取るので、これらをもって上経を統領します。《咸》《恒》は夫婦の結合の義を説き、《既濟》《未濟》は人倫に始終ある道を説くので、これらをもって下経を締めくくります。前代の学者も、分けなくても経義に損はなく、分けても妨げはない、実際はただ簡冊が重いために分けたのだとよく言いました。篇題に掲げる「乾伝」については、「乾」は卦の名称であり、「伝」は伝述の意で、聖人の立てた法則を伝述して万世に示すことを指します。
周易口義 巻一 宋 胡瑗 撰
上経 乾
乾 乾下乾上
義曰:此伏羲所畫之卦也。伏羲畫八卦,始有三爻,一爻為地,二爻為人,三爻為天,以象三才之道,然未能盡變通之理,故文王重之為六爻。初為地之下,有蒙泉之象;二為地之上;三於人為臣民之位;四出於臣民之上,為儲貳之象;五正當天位;六為天之上,有太虛之象。然後萬物成形而天下之能事畢矣。六爻皆陽,象天積諸陽氣而成也。既象天,其不名天而名乾者,蓋天者乾之形,乾者天之用。
胡瑗の解説:これは伏羲の画いた卦です。伏羲が八卦を画いた当初、各卦は三爻だけで、最下の一爻は地を表し、中間の一爻は人を表し、最上の一爻は天を表して、天・地・人の「三才」の道に象を取りました。しかし三爻では変化通達の理を尽くすに足りないので、文王がこれを二つずつ重ねて六爻としました。初爻は地面の下にあり、地底に伏す泉の意象があります。二爻は地面の上にあります。三爻は人事に就いて言えば臣民の居る位です。四爻は臣民を超えた上にあり、太子・储君の象です。五爻はまさに天子の位に当たります。上爻は天位の上にあり、太虚の寥廓たる意象があります。このようにして万物がそれぞれ形を成し、天下で為し得ることのすべてが包み尽くされます。乾卦の六爻はすべて陽爻で、天に象を取ります。天はまさに多数の陽気が積み重なって成ったものです。では天に象を取るのに、なぜ「天」と呼ばず「乾」と呼ぶのでしょうか。「天」は乾の形体を指し、「乾」は天の功用を指すからです。
夫天之形,望之其色蒼然,南樞入地下三十六度,北樞出地上三十六度,狀如倚杵,此天之形也。言其用,則一晝夜之間凡行九十餘萬里。夫人之一呼一吸謂之一息,一息之間天行已八十餘里,人之一晝一夜有萬三千六百餘息,是故一晝一夜而天行九十餘萬里,則天之健用可知。自古及今,未嘗有毫釐之過,亦未嘗有毫釐之不及,蓋乾以至健至正而然也。
天の形体は、遠く望むと一面の蒼蒼たる色で、回転する南極は地平線の下三十六度に没し、北極は地平線の上三十六度に高く出て、天球全体が斜めに倚りかかった、斜めに立てかけた杵のようです。これが天の形体です。天の功用は、一昼夜の間に九十万余里を運行します。人の一呼一吸を「一息」と言い、一息の間に天はすでに八十余里を進み、人は一昼一夜におよそ一万三千六百余息あるので、一昼一夜に天は九十万余里を行くのです。天の剛健にして息まない功用はこれで思い浮かべられます。古から今に至るまで、その運行は一毫も速くなったことがなく、一毫も遅くなったこともありません。これはまさに乾の徳が極めて剛健で極めて中正だからこそ、このようであり得るのです。
故聖人於此垂教,欲使人法天之用而不法天之形,所以名乾而不名天也。且天之形,象人之體魄也;天之用,象人之精神也。使寒暑以成,日月以明,萬物以生,此天之健用也。若人之有耳目口鼻四體,是其形也;其口言、鼻臭、目視、耳聽、手足四體之運,此其用也。至於心之思慮,蘊於內則為五常百行,發於外則為政教禮義。故為君、為臣、為父、為子、為兄、為弟、為夫、為婦,以至於為士農工商,莫不本於乾乾不息,然後皆得其所成立也。左氏曰:「民生在勤,勤則不匱。」是皆言人當法天之健用也。故曰乾。
ですから聖人がここに立てた教えは、人に天の功用に效えと命じるのであって、天の形体を模倣せよというのではありません。このためこの卦を「乾」と名づけて「天」と名づけなかったのです。さらに言えば、天の形体は人の躯殻のようなもので、天の功用は人の精神のようなものです。寒来暑往をして四時を成就せしめ、日月をして照らし明かさしめ、万物をして生長せしめるのは、みな天の剛健にして息まない功用です。人に耳・目・口・鼻と四肢があるのは人の形体であり、口がものを言い、鼻が味を辨え、目が見、耳が聞き、手足四肢が動けるのが、はじめて人の功用です。心の中の思慮に至っては、内に蔵すれば仁・義・礼・智・信の「五常」と種々の品行であり、外に発露すれば政令教化と礼法道義です。ですから国君であれ臣下であれ、父であれ子であれ、兄であれ弟であれ、夫であれ妻であれ、さらに士・農・工・商に至るまで、「乾乾として息まない」という自ら強めてやまない精神を根本としないものはなく、そうしてはじめて各自に成し遂げることができます。《左伝》に「民の生計は勤労にあり、勤労すれば乏しくならない」とあります。これらの言葉はみな、人は天の剛健にして息まない功用に效うべきだと説くものです。ですからこの卦を「乾」と称するのです。
元、亨、利、貞。
乾卦の卦辞は言います。乾には万物を創生する「元」の徳、万物を暢達させる「亨」の徳、万物を各自に宜しきを得させる「利」の徳、万物を正固に帰させる「貞」の徳がある、と。
義曰:文王既重伏羲所畫之卦,又為此卦下之彖辭,以明乾之四徳,又配之四時五常而言也。元者,始也,言天以一元之氣始生萬物,聖人法之以仁而生成天下之民物,故於四時為春,於五常為仁。
胡瑗の解説:文王は伏羲の画いた八卦を二つずつ重ねた上で、この卦の下に彖辞を系し、乾の具える四種の徳性を闡明し、それらを春夏秋冬の四時と仁義礼智の五常に一つずつ配当てて説きました。「元」は始まりのことで、天が渾然一体の元気をもって万物の生育を始めることを言います。聖人はこれに效って、仁愛の心をもって天下の百姓と万物を生養します。ですから「元」は四時では春に、五常では仁に配します。
亨者,通也。夫物春始生之,夏則極生而至於大通,故高者、下者、洪者、纎者各遂其分而得其性也。聖人觀夏之萬物有高下洪纎,乃作為禮以法之,使尊者、卑者、貴者、賤者各定其分而不越於禮,故於四時為夏,於五常為禮。
「亨」は通達のことです。万物は春に萌え始め、夏になると極めて盛んに成長して完全に通暢します。ですから高いものも矮いものも、粗大なものも細小なものも、それぞれ自分の本分に沿って生長し、皆その本性を遂げます。聖人は夏の万物に高下・粗細があるのを見て、礼制を制作してこれに取り、尊い者・卑しい者・貴い者・賤い者がそれぞれ名分に安んじて礼の限界を逾越しないようにしました。ですから「亨」は四時では夏に、五常では礼に配します。
利者,和也。在《文言》曰:「利者,義之和。」言物之既生既育,故必成之有漸,自立秋涼風至,八月白露降,九月寒露降,以至為霜為雪,以成萬物,莫不有漸而成也。聖人法之以為義,義者冝也,天下之民雖有禮以定其分,然必得其義以裁制之,則各得其冝也,故於四時為秋,於五常為義。
「利」は和順のことです。《文言伝》に「利とは義の和である」とあります。これは万物がすでに生育成長した後、成熟には必ず漸進の過程があって、立秋の涼風が吹き起こり、八月に白露が降り、九月に寒露が降り、霜が結び雪が落ちるに至るまで、万物を成熟に促し、どれ一つとして循序漸進によらずして成ったものはない、ということです。聖人はこれを取り法して「義」に落とし込みました。義とは宜しきことです。天下の百姓はすでに礼をもって各自の名分を定めていますが、なお義をもって裁断し節制しなければ、人人各自に宜しきを得させることはできません。ですから「利」は四時では秋に、五常では義に配します。
貞者,正也,固也,言物之既成必歸於正,以陰陽之氣幹了於萬物。聖人法之為智,事非智不能幹固而成立,故於四時為冬,於五常為智。然則此五常不言信者何也?蓋信屬於土,土者分王四季,凡人之有仁義禮智,必有信然後能行,故於四者無所配也。
「貞」は端であること、また固いことで、万物がすでに成熟した以上、必ず正定に帰し、陰陽の二気が万物の生長を収め結び、仕切り果たすことを言います。聖人はこれを取り法して「智」に落とし込みました。いかなる事も智慧なくしては堅く干办し成し遂げることができません。ですから「貞」は四時では冬に、五常では智に配します。では五常のうちなぜ「信」を挙げないのでしょうか。信は五行では土に属し、土は春夏秋冬の四季の末にそれぞれ旺んであって、どれか一季に専属しないからです。人は仁・義・礼・智を具えていても、必ず信を底子としなければ通行しません。ですから信はこの四徳に別途配当てしないのです。
然此四徳,以天下事業言之,則元為樂,亨為禮,利為刑,貞為政。何則?蓋元者始生萬物,萬物得其生然後鼔舞而和樂,聖人法之制樂以治天下,則天下之民亦熙然而和樂,故以元為樂也。天下既已和樂,然而不節則亂,故聖人制禮以定之,使上下有分,尊卑有序,故以亨為禮也。
さらにこの四種の徳性を天下を治める事業に落として言えば、「元」は楽に当たり、「亨」は礼に当たり、「利」は刑に当たり、「貞」は政に当たります。なぜでしょうか。「元」は万物の生育を始めるので、万物が生気を得ると自然に歓欣鼓舞して和順に楽しみます。聖人はこれを取り法して楽を制作して天下を治め、天下の百姓も熙熙として融和し和睦して楽しみます。ですから「元」を楽に配します。天下がすでに和楽しても、和楽ばかりで節制がなければ乱が生じます。ですから聖人は礼を制定してこれを規範とし、上下それぞれに名分があり尊卑それぞれに次序があるようにしました。ですから「亨」を礼に配します。
夫禮樂既行,然其間不無不率教者,聖人雖有愛民之心,亦不得已乃為刑以治之,於是大則有征伐之具,小則有鞭樸之法,使民皆畏罪而遷善,故以利為刑也。夫天下既有樂以和之,禮以節之,刑以治之,不以正道終之則不可也,故政者正也,使民物各得其正,故貞為政也。夫四者達而不悖,則天下之能事畢矣。故四者在《易》則為元亨利貞,在天則為春夏秋冬,在五常則為仁義禮智,聖人備於乾之下,以極天地之道而盡人事之理也。
礼と楽がすでに推行されても、その中にはなお教化に服さない者が免れず、聖人は百姓を愛護する心を持ちながらも、やむを得ず刑罰を設けて彼らを取り締まるほかありません。大きいものには征伐して罪を討つ軍事手段があり、小さいものには鞭打ち杖責めの刑具があり、百姓をして皆罪に罹るのを恐れて邪を改め正に帰らせます。ですから「利」を刑に配します。天下に楽をもって人を和睦させ、礼をもって人に節を持たせ、刑をもって懲治するものがあっても、正道をもって最後まで収束しなければ、やはり成り立ちません。「政」は端正の意で、百姓と万物を各々正に帰させるものです。ですから「貞」を政に配します。この四つがともに通行して互いに背かなければ、天下を治めるに為し得ることは備わります。したがってこの四者は《易》では元・亨・利・貞であり、天時では春・夏・秋・冬であり、五常では仁・義・礼・智です。聖人はこれらを完备に乾卦の下に安置して、天地の法則を尽くし人事の道理を説き尽くしたのです。
初九,潛龍勿用。
初九の爻辞は言います。龍はまだ下に潜伏し、このとき施し用いるべからず。胡瑗の読みでは、この一語は聖人が後世を戒めるもので、潜蔵隠遁を徳として奉ずるなというものです。
義曰:自此至用九,皆周公所作之爻辭也。爻者,效也,效一卦之動而為之,故謂之爻。謂之初者,一卦之始也;謂之九者,陽之數也。凡《易》言九六者,皆陰陽之數也。天一、天三、天五、天九是陽數之竒也,地二、地四、地六是陰數之耦也。潛者,隠也;龍者,有變化之神,陽氣之象也;陽以生成為徳,君子之象也。
胡瑗の解説:この条から「用九」まで、すべて周公の作った爻辞です。「爻」の意味は仿效で、一卦の中の変動を仿效して書かれたので爻と呼びます。「初」と称するのは一卦の始まりに居るからで、「九」と称するのは九が陽の代数だからです。凡そ《易》で「九」「六」と言うのは、みな陰陽の数を指します。天一・天三・天五・天九は陽に属する奇数で、地二・地四・地六は陰に属する偶数です。「潜」は隠伏のこと、「龍」は変化し得る神物で、陽気を象徴します。陽は万物を生養成就することを徳とするので、また君子を象徴します。
凡乾坤之十二爻,配之十二月,今初九乃是建子之月,一陽始萌於黃鍾之宮,雖生成之功未及於物,然已有生成萬物之心矣;若君子未得位之時,雖道未澤於世,然已有澤天下之心矣。謂之潛龍者,言陽氣未發見而在潛隠之地也;勿用者,聖人戒後世勿用此潛龍為徳也。
乾・坤の二卦は合わせて十二爻で、それぞれ十二ヶ月に配します。ここの初九が配するのは夏暦十一月の建子の月で、そのとき第一線の陽気が「黄鐘」という律の主る地下の宮に萌動し始めています。それはまだ生養の功効を万物に施してはいませんが、すでに万物を生育する心意を懐いています。これはちょうど君子がまだ職位を得ていないときに、その道はまだ世に及ぼせないけれど、心にはすでに天下に沢を被せる志願を存しているようなものです。「潜龍」と称するのは、陽気がまだ顕れ出ず、なお潜蔵隠伏の所に居るからです。「勿用」と言うのは、聖人が後世の人に、こういう潜蔵隠遁を徳として奉ずるなと戒めるものです。
何以言之?凡人萃五行秀氣而生,為萬物之最靈者也,然天下之眾,愚不肖者常多,賢智者常少,況聖人挺全粹之徳,受天元之純,則又過於賢也逺矣。夫有聖人之資,則無所不通,無所不明矣,固當出見於世,輔其君,澤其民,利其物,以成天下之事業則可也。《文言》曰:「君子以成徳為行,日可見之行也。」今有聖人之徳之明,反以潛隠為事,則天下之愚不肖將誰治之?是不知天所以生聖人之意也。
何をもってそう言うのでしょうか。人は五行の精粹の気を聚めて生まれたもので、万物の中で最も霊性ある存在です。しかし天下の芸芸众生では、愚昧で不肖な者が常に多数で、賢明で智ある者が常に少数です。まして聖人は純粋で完备な徳性を秉受し、天の元気の精純を承けているのですから、一般の賢者に比べてはるかに超えています。聖人の資質を具えている以上、通じないことも明らかでないこともなく、本来ならば出て世に顕れ、その君を辅佐し、その民に恵沢を施し、天下の事物を利益し、世を済う事業を成し遂げるべきです。《文言伝》に「君子は修め成した徳行を実践に移し、日々に人に見える行いとする」とあります。今、聖人のような徳行と明智を持ちながら、かえって一途に隠遁を事とするならば、天下の愚昧で不肖な者を誰が治めるのでしょうか。これは天が聖人を生み出した用意を解さないということです。
孔穎達作疏,以謂勿用者,於此時小人道盛,若其施用則為小人所害,寡不敵眾,弱不勝強,禍患斯及,故戒勿施用。此大非聖人之。夫聖人才無所不能,智無所不周,懐道徳,持仁義,以革天下弊,舉陋典,新汙俗,矯曲為直,表邪為正,以陶冶於上而天下治矣,又何憚小人之害?若懼其見害而勿施用,則是天下常亂而不可得治也。
孔穎達は《周易正義》を作って「勿用」を、「このとき小人の勢力がまさに盛んで、もし出て施展すれば小人に害され、人少なくして人多きに敵せず、力弱くして力強きに敵せず、禍患が即座に臨むので、施展するなと戒めるのだ」と解釈しました。これは聖人の本意を大きく背いています――原文「此大非聖人之」の下には脱字があるはずです。知るべきことは、聖人は才干に能くしないことはなく、智慮に周らないことはなく、道徳を懐に抱き仁義を秉持して、天下の弊を革め鄙陋な旧制を廃し、汚濁な風俗を更新し、曲がったものを矯めて笔直とし、邪僻なものを表正して端正とし、上位にあって陶冶教化すれば、天下はまた治まるのであって、何も小人の加害を怖れる必要はないということです。もし害を受けるのを怖れて施展しなければ、天下は長く乱れたまま永遠に治まらないだけです。
然此勿用者,蓋言勿用此潛龍為徳也。今歴考《易》中或彖或爻言勿用者有四:若《屯》之彖云「勿用有攸往」,言屯難之時,不可徃撓其民,務安全也;《姤》之彖云「勿用取女」,言一女配一男是其正也,今一陰而遇五男,剛壯者也,若此之女勿可取之,不可與長也。
ですからここでの「勿用」は、潜蔵隠遁のやり方を徳として奉ずるなということです。今、《易経》の中で彖辞か爻辞が「勿用」と言う所を逐一考查すると、全部で四ヶ所あります。《屯》卦の彖辞が「勿用有攸往」と言うのは、艱難草創の時に居て、急いで往って百姓を騒がせてはならず、必ず彼らを安定させ保全せよということです。《姤》卦の彖辞が「勿用取女」と言うのは、一女に一男を配するのが正当な婚配なのに、《姤》卦は一つの陰爻が五つの陽爻に遇うもので、あれは剛健強盛な一群の男子であり、そのような女子は娶ってはならず、彼女と長く共に居ることはできないということです。
《師》之上六曰「大君有命,開國承家,小人勿用」,言上六師道之成,大君班爵行賞,其功大者開建其國為諸侯,其功小者建立其家為卿大夫。若小人偶立一戰之效,與之金帛可也,賜之甲冑可也。後漢光武不任功臣以吏事,深得其道;不然,若用小人必亂其邦,所以韓、彭、英、盧立功受地,不旋踵而就戮也。
《師》卦の上六の爻辞が「大君有命、開国承家、小人勿用」と言うのは、上六に至って用兵の道がすでに完成し、天子が詔命を頒布して等級を分けて賞を行うということです。功労の大きい者には国土を封じて諸侯とし、功労の小さい者にはその家族を立てて卿大夫とします。小人が偶に一度戦功を立てた場合には、金帛を賞してもよく、盔甲兵器を賜うてもよいのですが、土地と民人を与えてはいけません。後漢の光武帝が開国功臣に民を治める政務を担当させなかったのは、まさにこの理を深く得ていたからです。そうしなければ、一旦小人を任用すれば必ず国家を攪乱します。だから韓信・彭越・英布・盧綰らは功を立て封地を受けながら、あっという間に誅戮に遭ったのです。
之六三曰「勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利」,言婦人必當正靜其徳,以待六禮之備,然後用父母之命、媒妁之言,方可歸之。今六三持身不正,見其金夫遂欲從之,聖人戒之勿用取此女也。
四ヶ所目は《蒙》卦の六三――原文はこの句の冒頭に卦名が脱落――の爻辞で「勿用取女、見金夫、不有躬、无攸利」と言います。これは婦人は必ず端正沉静に自らの徳操を守り、納采・問名など六つの婚礼が備わってから、父母の命令と媒人の仲立ちを凭りて、はじめて嫁してよいということです。今、六三は身を正さず、財貨ある男子を見るとついて行こうとするので、聖人はこのような女子を娶るなと戒めたのです。
由是觀之,聖人之戒後世不可用潛龍為徳,誠無疑矣。故孔子目長沮、桀溺曰:「鳥獸不可與同群,吾非斯人之徒與而誰與?」又曰:「素隱行怪,後世有述焉,吾弗為之矣。」葢後世之人多以潛隱為徳,或隱於巖野,或遯於林泉,罔徳義以沽名,傲衣冠以耀志,故有終身不見用於世而亂人倫者也。
これから見れば、聖人が後世に潜蔵隠遁を徳とするなと戒めるのは、確かに疑いがありません。ですから孔子は長沮・桀溺という二人の隠者を評して「人はとても鳥獣と群れをなして共に居ることはできない。私がこの世の人々と交わらずして、誰と交わるのか」と言い、また「僻遠の理を探寻し怪異の行を為すのは、後世に或いは称述する者があろうが、私はそういうことはしない」と言いました。ほぼ後世の人は多く潜蔵隠遁を美徳とし、或いは山岩荒野に隠れ、或いは林泉の間に遁入し、徳義を欺罔して名声を沽取し、衣冠礼法を傲慢に見て志節を炫耀します。このため終身世に用いられず、かえって人倫綱常を攪乱する者がいます。
且疏又引舜耕歴山、漢祖為泗水亭長,是豈終潛哉?蓋養成其徳耳。然聖賢其無隠乎?曰:已道未著,已行未成,必學問之以養成聖徳,然後施為於天下耳,甘終身於山林川澤哉?
さらに孔穎達の疏は舜がかつて歴山で田を耕し、漢高祖がかつて泗水の亭長であった例を挙げますが、あの二人が一生潜蔵して出なかったとでも言うのでしょうか。ただあの期間に自らの徳行を涵養成就していただけです。では聖賢は決して隠居しないのでしょうか。答えは:自らの道がまだ顕明でなく、自らの徳行がまだ修まって成らないときは、必ず学び請うことによって聖人の徳を涵養成就し、その後に天下に施行するのであって、どうして甘んじて一生山林水沢の間に老い終えるものでありましょうか。
然或上下為戾,亦有可隠之時,故《中庸》曰:「君子之道,費而隱。」雖然,豈隠遁哉?隠其身,不隠其道。所以然者,不以一己之私忘天下之公。故孔子皇皇於衰周,孟軻汲汲於戰國,皆謂有聖人之徳,身未顯而其道不自窮也。乾六爻皆聖人象也,若之何有聖人之資而潛隠自居乎?《文言》曰:「潛之為言也,隠而未見,行而未成,是以君子弗用也。」聖人之戒勿用潛隠為徳,可謂明矣。
もちろん、君臣上下が互いに乖違するなら、確かに隠退してよいときもあります。ですから《中庸》に「君子の道は、作用は広大で本体は幽微である」とあります。とはいえ、それはどうして隠遁避世でありましょうか。隠すのは自分の身だけで、自分の道を隠すのではありません。そうするのは、一己の私念をもって天下の公義を抛り棄てることができないからです。ですから孔子が衰乱の周の代に奔走して栖栖遑遑とし、孟軻が戦国の世に汲汲として求めたのは、みな彼らが聖人の徳を懐に抱き、自身は顕達しなくても、その道はこれによって自封しないということを言うのです。乾卦の六爻はみな聖人の象を説くもので、どうして聖人の資質を有しながら甘んじて潜蔵隠伏に居ることができましょうか。《文言伝》に「潜と言うのは、隠伏して未だ顕れず、徳行がまだ修まって成らないので、君子はしばらく施用しないのだ」とあります。聖人が潜蔵隠遁を徳とするなと戒めるのは、まことに明らかだと言えます。
九二,見龍在田,利見大人。
九二の爻辞は言います。龍がすでに田野に現れ、このとき大才大徳の「大人」に見えるに利あり。
義曰:九二之爻,是十二月中氣之後、正月中氣之前,陽氣發見地上之時也。田者,稼穡所生而有資益之地也。以人事言之,則是聖賢君子有中庸之徳發見於世之時也。夫君子之道,積於內則為中庸之徳,施於外則為皇極之化。此爻但有君徳而無君位,故曰見龍在田。
胡瑗の解説:九二のこの爻が配するのは、夏暦十二月の中気大寒以後、正月の中気雨水以前で、まさに陽気が地面の上に顕れ出る時節です。「田」は農作物を植え、人を生養し資益し得る土地です。人事に就いて言えば、これは聖賢君子が中庸の徳を懐いて世に顕れるときです。君子の道は、内に蓄えれば中庸の徳であり、外に施せば《尚書・洪範》の言う「皇極」のような大中の教化です。この爻は人君の徳があって人君の位がないので、「見龍在田」と言うのです。
利見大人者何?蓋凡有大人之徳,必須利見有大才大徳之君,然後可以行己之道,若舜之得堯、禹之得舜、伊尹之得成湯、傅說之得高宗、呂尚之得周文是也。然則五得天位,亦曰利見大人者何?曰:有是君必須有是臣,然後萬務可舉,天民可治,若堯得舜、舜得禹皋陶、禹得稷、成湯得伊尹、文王得呂尚是也。故九二九五之爻皆言利見大人。
「利見大人」とは何の意味でしょうか。凡そ自身に大人の徳を具える人は、必ず大才大徳の君主に遇う幸いがあって、そうしてはじめて自分の主張を推行できます。舜が堯に遇い、禹が舜に遇い、伊尹が成湯に遇い、傅説が殷の高宗に遇い、呂尚が周の文王に遇ったのは、みなこのようです。では九五はすでに天子の位に居るのに、なぜ「利見大人」と言うのでしょうか。答えは:このような君主があっても、なおこのような臣下があってはじめて、万般の政務が立てられ天下の百姓が治められるのであって、堯が舜を得、舜が禹と皋陶を得、禹が后稷を得、成湯が伊尹を得、文王が呂尚を得たのは、みなこのようです。ですから九二と九五の両爻とも「利見大人」と言うのです。
今驗於《易》,或彖或爻言利見大人者有七:《萃》之彖曰「王假有廟,利見大人」,言既作廟以萃聚先祖之神靈,必須得大才大徳之人以輔行其禮;《訟》之彖曰「利見大人」,言訟之事必須利見大才大徳之人以辨其是非;《巽》之彖曰「小亨,利有攸往,利見大人」,言申其號令法制,必須大才大徳之人以參酌恢隆之也;《蹇》之上六曰「徃蹇來碩,吉,利見大人」,言居蹇難之極,往則益蹇,若來居位則安,安則得其碩大之福而吉,必須利見大才大徳之人以求解散蹇難也。及此乾之二五,凡七,皆聖人之微也。
今、《易経》を取って照合すると、彖辞か爻辞で「利見大人」と言う所は全部で七ヶ所あります。《萃》卦の彖辞が「王假有廟、利見大人」と言うのは、君王がすでに宗廟を建てて祖先の神霊を聚合した以上、必ず大才大徳の人を得て祭礼の挙行を輔佐させねばならないということです。《訟》卦の彖辞が「利見大人」と言うのは、訴訟のような事には必ず大才大徳の人に遇う幸いがあって是非曲直を辨明させねばならないということです。《巽》卦の彖辞が「小亨、利有攸往、利見大人」と言うのは、号令法度を申明するには必ず大才大徳の人を凭りて損益を斟酌し発揚光大させねばならないということです。《蹇》卦の上六の爻辞が「往蹇来碩、吉、利見大人」と言うのは、艱難険阻の頂点に身を処してさらに往けばただ難しいばかりで、退き返って本位を安守すれば安穏を得、安穏であれば碩大の福分を得て吉であり、これも必ず大才大徳の人に遇う幸いがあって艱難の解除を求めなければならないということです。乾卦の九二・九五の二ヶ所を加えて全部で七ヶ所で、説くのはみな聖人の深微な用意です――原文「聖人之微」の下に脱字がある疑いがあります。
九三,君子終日乾乾,夕惕若,厲,無咎。
九三の爻辞は言います。君子は終日勤勉して懈らず自ら強めて息まず、夜に至ってもなお戒懼し警惕します。危険な境地に居るといえども、過咎はありません。
義曰:九三居下卦之上,在人臣之極位,正當公相之權也。上則須輔弼於君,下則須總領百官以平均天下之民,凡朝廷之幾務,莫不一責於已。若專奉上而怠於恤下,則有佞邪之謟;若勤恤於下而簡於奉上,則有侵權之誅。固宜終朝乾乾,日不自暇,慎思之,力行之,不倦以終之,是上則以思輔其君,下則以思總百官以治天下之民,自朝及夕常戒懼而惕若,則可以無咎矣。若者,辭之助。注以為至於夕猶惕然,若厲,今則不取。
胡瑗の解説:九三は下卦の最上の位に居り、人臣の至り得る最高の位置で、ちょうど三公宰相の権柄に相当します。上に対しては君主を輔佐匡正し、下に対しては百官を統領して天下の百姓を各自にその平を得させ、朝廷の一切の機要政務で彼に帰さないものはありません。もし君上に事えるばかりで下民を体恤するのに懈怠なれば、諂媚の佞臣となり、もし下民を体恤するばかりで君上に事えるのに怠慢なれば、君権を侵奪する誅責を招きます。ですから彼は理の当然として終日勤勉して已まず、一日の終わりまで自らを閑かにするを敢えてせず、事事謹んで思量し力を尽くして実行し、倦まず貫徹し果たします。これは上に対して一心に君主を輔佐することを思い、下に対して一心に百官を統率して天下の百姓を治めることを思うことです。朝から晩まで常に戒懼を懐き警惕して安からざれば、こうして過咎なくあり得ます。「若」の字はここではただ句末の語助詞です。王弼の注はこれを「夜になってもなお警惕する様子で、危険があるかのようだ」と説きますが、この説は今採用しません。
九四,或躍在淵,無咎。
九四の爻辞は言います。龍は或いは騰躍して起き、或いはなお深淵の中に留まります。このようにすれば過咎はありません。
義曰:或者,疑惑也;躍者,騰躍也;淵者,龍之常處也。九三已極人臣之位,九四出人臣之上,切近至尊之位,既非人君,又非王官,是儲貳之象也。何哉?仲尼曰:「或躍在淵,乾道乃革。」言人道近於地,今九四近於天位,已出人臣之上,是乾道革變之始也。
胡瑗の解説:「或」は疑惑で定まらないこと、「躍」は身を躍らせて跳ぶこと、「淵」は龍が平素栖息する深水です。九三はすでに人臣の頂点に至り、九四はさらに人臣の上を超えて至尊の君位に紧接し、国君でもなく朝廷の百官にも属さず、これはまさに太子・储君の象です。何をもって見れば分かるのでしょうか。孔子は「或躍在淵、乾道乃革」と言いました。人道は本来地位に近いものですが、今、九四はすでに天子の位に迫近し臣列の上を超えており、これはまさに乾道の変革が起こる起点です。
夫太子者,天下之本,生民之望也。不有所進則無以副四海之望,欲進其位又恐侵君之權,處多懼之地,故不得不疑也。始則疑惑,終則無咎者,蓋或躍以進其徳,在淵以守其位分,是進其徳不進其位也。故昔者太子必入太學,求賢師以教諭之,就賢友以漸摩之,使知為君、為臣、為父、為子之道,目見正色,耳聞正聲,是躍以進已徳而在淵以守已位也。
太子は天下の根本であり、百姓が仰望する人です。彼がもし進取しないなら四海の期望に背くことになり、しかし地位でさらに進もうとすれば君父の権柄を侵犯する恐れがあり、こういう至るところ畏るべき地位に身を処するので、疑虑重重にならざるを得ません。初めは疑惑し、終いには過咎がないのは、「或躍」が徳行の上で進を求め、「在淵」が自分の名分本位を守ること、すなわち徳を進めて位を進めないことだからです。ですから古は太子は必ず太学に進んで読書し、賢徳の師傅を請して彼を教導させ、賢徳の友に親しんで切磋し薫染させ、彼に君たり臣たり父たり子たりの道理を知らしめ、目に見るのは端正な容色、耳に聞くのは雅正な音声、これがすなわち「躍」をもって自分の徳行を増進し、「在淵」をもって自分の位分を守ることです。
《震》曰:「震驚百里,不喪匕鬯。」言百里者,威不逺也;匕鬯者,宗廟之器也。有威而不過,守禮而循常,是以見臣子之道全而不侵於君父也。
《震》卦の彖辞は言います。「雷の声は百里の遠くに震动し、主祭する人の手の中の匕と鬯は失われない」。「百里」と言うのは、この威勢は遠く播まず自ら限度があることを示します。「匕」は宗廟祭祀で牲を取る礼器、「鬯」は祭祀に用いる香酒で、いずれも宗廟の中の器物に属します。震卦は長子をもって祭りを主らせ、威厳はあれど過分でなく、礼数を守り常規に依循します。これをもって臣たり子たりの本分が全うに保たれて君父を侵犯するに至らないことが見られます。
今輔嗣之注曰「近乎尊位,欲進其道,廹乎在下,非躍所及」,孔頴達從而疏之曰「以其遲疑進退,不敢果敢以取尊位」。且聖人六經垂萬世之教,為天下之法,所以教人臣之忠、人子之孝也,今其言曰「不敢果敢以取尊位」,是何人臣之忠、人子之孝哉?又言曰「西伯內執王心,外率諸侯以伐紂」,此尤違聖人之。如其言,則簒逆之道也,今故不取。
今、王弼の注は「九四は尊貴の君位に迫近し、自らの道を推進しようとするが、またなお下位に制されて、一躍すれば至れるものではない」と言い、孔穎達が続いて疏を作って「彼が迟疑して定まらず進退両難で、敢えて果決して尊位を取得しないからだ」と言います。知るべきことは、聖人の六経は万世に垂示する教典で天下人の法度であり、まさに人臣に忠を尽くし人子に孝を尽くすことを教えるものであるということです。今、彼らは「敢えて果決して尊位を取得しない」と言う。これはどのような人臣の忠、人子の孝でありましょうか。彼らはまた「西伯文王は心の中に王を称える念を存し、外では諸侯を率いて紂王を討伐に行った」と言いますが、これはさらに聖人の本意に背きます――原文「此尤違聖人之」の下にも脱字があります。彼らのこの説に照らせば、それはまったく篡奪叛逆の道なので、今採用しません。
夫聖人之言,不勸則戒。勸之者,欲其進徳也;戒之者,懼其侵君之權也。為儲貳者,但進修其徳,以禮法而守其位,則《文言》所謂「進徳修業,欲及時也」,故無咎。
聖人がものを言うのは、勉励か告戒かのどちらかです。勉励は彼に徳行の上で長進してほしいと望み、告戒は彼が君父の権柄を侵犯するのを恐れるからです。储君の身にある者は、ただ不断に進めて自らの徳行を修養し、礼法をもって自らの位分を守れば、それはちょうど《文言伝》の言う「徳行を増進し功業を修治するのは、適当な時機に追い付こうとするもの」に合し、したがって過咎がありません。
九五,飛龍在天,利見大人。
九五の爻辞は言います。龍はすでに飛騰して天に在り、このとき大才大徳の「大人」に見えるに利あり。
義曰:九五之爻,當建辰之月,陽氣盛而上升於天,如龍之騰飛然,猶聖人積中正誠明之徳,徳既廣,業既成,即人君之位,上合天心,下順人情,以居至尊之地也。然乾之六爻,九二九五並言利見大人者,九五雖有聖人之徳之位,必須得大才大徳之臣輔佐之,然後可以有為於天下,使一民不失其所,一物必遂其性,此聖人之心也,故言利見太人。
胡瑗の解説:九五のこの爻が配するのは夏暦三月の建辰の月で、陽気がまさに盛んで天に上升し、龍が飛騰して起きるがごときです。これは聖人が中正・誠明の徳性を蓄積し、徳がすでに広大で業がすでに成就し、即座に君主の位に登り、上は天意に合し下は民情に順い、至尊の地位に居るようなものです。乾卦の六爻のうちなぜ九二と九五がともに「利見大人」と言うかについては、九五は聖人の徳と聖人の位を兼ね備えていても、なお必ず大才大徳の臣子を得て輔佐させてはじめて、天下に有所作为をなし、一人一人の百姓をしてその安らぐ所を失わせず、一つ一つの事物をしてその本性を遂げさせることができるのであって、これがまさに聖人の心愿です。ですから「利見大人」と言うのです――原文はここで「大人」を「太人」と作っています。
九二雖有聖人之徳,固須得大才大徳之君,然後得已道之行。先聖云:「水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎,聖人作而萬物覩。」此言聖人在位,天下有聖人之徳者皆來仕於朝,皆以類應也。《禮》曰:「天降時雨,山川出雲。」如聖人在上,則天下聖人皆來輔佐之也。孟子曰:「堯以不得舜為己憂,舜以不得禹、稷、皋陶為己憂。」堯,大聖人也,必得舜;舜,大聖人也,必得禹、稷、皋陶,故可以治。是雖有大才大徳之君,必利見大才大徳之臣,然後成天下之治也。
九二に至っては、聖人の徳を具えていても、必ず大才大徳の君主に遇わなければ自分の主張は通行しません。孔子は言いました。「水は湿った所に流れ、火は乾いた所に向かって燃え、雲は龍に随いて生じ、風は虎に随いて起こり、聖人が一旦興起すれば万物はみな彼を仰望する」。これは聖人が君位に居れば天下の凡そ聖人の徳ある者は皆朝中に来て仕えるということで、みな同類が相感じ相応ずる道理です。《礼記》に「天が時に応じた雨を降らせようとするときは、山川が先に雲気を起こす」とあります。まさに聖人が上位にあれば天下の聖賢が皆来て彼を輔佐するがごときです。孟子は「堯は舜を得られないことを己の憂いとし、舜は禹・后稷・皋陶を得られないことを己の憂いとした」と言いました。堯は大聖人で必ず舜を得なければならず、舜は大聖人で必ず禹・后稷・皋陶を得なければならず、そうしてはじめて天下を治められます。見よ、たとい大才大徳の君主があっても、必ず大才大徳の臣子に遇う幸いがあってはじめて天下の治平を成就し得るのです。
上九,亢龍有悔。
上九の爻辞は言います。龍が高く飛び過ぎて極点に至れば、必ず悔恨があります。
義曰:此一爻居卦之終,亢極之地也。若聖人當衰耗之年,不可更專己任,必得聖賢之人以代己之聰明也。故堯之耄期倦於勤,則授之舜;舜耄期倦於勤,則授之禹;禹耄期,則授之啟。是聖人與時消息,知進退存亡而不至亢極,故無悔耳。
胡瑗の解説:この爻は全卦の最後に処し、高亢が極点に至る位置です。たとえば聖人が精力の衰えた晚年に至れば、もはや一途に重任を独り揽りしてはならず、必ず聖賢の人を見つけて自分の耳目心力に接替させなければなりません。ですから堯は八九十歳に至って勤労政事に倦み、天下を舜に伝え、舜は八九十歳に至って勤労政事に倦み、天下を禹に伝え、禹は老耄の年に至って子の啓に伝えました。これは聖人が時勢に随って消長進退し、進むべき退くべき存すべき去るべきを知って、したがって亢進して極端に至らず、悔恨がなかったということです。
然聖人之徳固無亢也,蓋其年有亢耳;聖人之道固無悔也,蓋其身有盛、有長、有耄耳。今上九是年齒衰耗、精神倦怠之時,若居此時不能自反而求代己任,則必有悔矣。《離》之九三曰:「日昃之離,不鼔缶而歌,則大耋之嗟,凶。」《太玄》首之上九曰:「巔靈氣形反正。」此謂也。是皆聖賢謂耄必求代而著萬世之戒也。
ただ聖人の徳は本来亢極するものではなく、亢極するのはただ彼の年歳であり、聖人の道は本来悔恨の謂れではなく、盛年・壮年・老耄の別があるのはただ彼の身体です。今、上九はまさに年齢が衰朽して精神の疲倦する時で、このときに処してもし反身して自省し人を求めて自分の重任に接替させることができなければ、必ず悔恨があります。《離》卦の九三の爻辞は言います。「日の偏りし西のときの附麗の明が、瓦缶を敲いて歌い安然として処することができなければ、ただ年老い力衰えた悲嘆が残るばかりで、凶である」。揚雄の《太玄》の或る首の上九もまた言います。「頂点に登れば、霊気と形体はともに正に返り帰るべきである」。説くのはまさにこの道理です――原文はここで首名に脱漏の疑いがあります。これらはみな聖賢の言う、人は老耄に至れば必ず人を求めて接替させるべきであり、従って万世に垂示する告戒を書き著したものです。
用九,見群龍無首,吉。
「用九」の辞は言います。一群の龍が現れて、皆頭一つを争わないのは、これは吉利です。
義曰:乾之六爻,自初至上皆稱龍者,終始全用剛陽之徳也。王者法天之健,居兆人之上,亦當終始用其剛陽之徳也,故言用九見群龍。然謂無首吉者,言全用剛徳,不可居物之首也。
胡瑗の解説:乾卦の六爻は初爻から上爻まで皆龍と称するのは、始めから終りまで完全に剛健陽剛の徳性を施用することを示します。君王が天の剛健に效い、億万人の上に居る以上、また始めから終りまでこの剛陽の徳を施用すべきです。ですから「用九、見群龍」と言います。「无首吉」と言うのは、剛徳を全て用いるといえども、衆人の先頭に立って発難の頭一つを抢ってはならないということです。
何則?夫國家兵武,至剛威者也,動則蠧民之財,殘民之命,聖人不得已而用之也。凡人臣有背叛,四夷有侵撓,天子於是加兵以誅討之,去其元惡大憝,以安天下之生靈,待其有犯,然後應之耳,不可先之也。先之則窮黷矣。夫窮兵黷武,豈聖人事哉?秦之始皇、漢之孝武、隋之煬帝、唐之明皇,皆為首以自取敗亡之道耳,故聖人戒之,言無首乃得無咎也。
なぜでしょうか。国家の兵戎武力は最も剛猛威烈のもので、一旦動用すれば百姓の財物を耗損し百姓の性命を傷残させます。聖人は万に一つ已むを得ないときにのみこれを使用します。凡そ臣下に背叛作乱があり、四方の外族に辺境の侵擾があって、はじめて天子は兵を出して討伐し、あの首悪巨凶を除き去って天下の生霊を安定させます。相手が先に侵犯して来て然る後に起きて応じるのであって、決して先手を打って動くことはできません。先手を打って動けば窮兵黷武となります。窮兵黷武など、どうして聖人の為すことでありましょうか。秦始皇・漢武帝・隋煬帝・唐玄宗は、皆兵端を挑発する頭一つを抢った者で、自ら敗亡を取っただけです。ですから聖人はここで告戒して、先を争い首を為さなければ、はじめて過咎がないと言うのです。
彖曰:大哉乾元,萬物資始,乃統天。雲行雨施,品物流形。大明終始,六位時成,時乘六龍以御天。乾道變化,各正性命,保合太和,乃利貞。首出庶物,萬國咸寧。
《彖伝》は言います。偉大なるかな乾の元始の徳。万物は皆これに倚靠してはじめて開端を持ち、これが全天道を統領します。雲気が流行し雨沢が普く降り、各類の物種が流布して形を成します。太陽が照明して始終を貫徹し、六つの爻位が時序に依って成立し、聖人は時に乗じて六条の龍を駕して天道を御します。乾道は運行変化して万物をして各自にその本性と禀命を端正せしめ、あの渾然一体の太和の気を保持し調合して、これによって「利」と「貞」があります。乾の徳は衆物の上に高く出て、天下の万国は因って皆安寧を得ます。
義曰:彖曰者,仲尼為十翼之文,贊明易道,以觧文王所作卦下彖辭之辭,以明一卦之大要,故亦謂之彖。大哉乾元,萬物資始,乃統天者,此三句釋乾元之義也。大者,無限極之辭;乾者,剛陽至健之氣;元者,始生長養之徳。言天以一元之氣生成萬物而無有限極也。
胡瑗の解説:いわゆる「彖曰」は、孔子の作った《十翼》の文字で、易道を賛述闡明し、文王が卦下に系した彖辞を解釈し、一卦の大綱要旨を点明するので、この部分を《彖伝》とも呼びます。「大哉乾元、万物资始、乃統天」の三句は「乾元」の含義を解釈するものです。「大」は辺際限量なきの意、「乾」は剛健陽剛が極点に至る気を指し、「元」は万物の生育長養を始める徳性を指します。これは天が渾然の元気をもって万物を生成し、いかなる界限止境もないということです。
然坤則稱至哉者,蓋天氣降於地為萬物之始,地承天之氣以育成萬物之形,是有所至,故曰至哉。資者,取也,言乾以一元之氣發育施生,故萬種之物資而為始;坤則待天氣之降然後能生萬物,故乾言資始,坤言資生,此聖人於一字皆有意。乃統天者,夫天者,形之名,今以剛健之徳運行不息,故得天氣常存,是乾元能統領天之形也。
《坤》卦の《彖伝》は「至哉坤元」と言いますが、それは天の気が地上に降りて万物の開端となり、地が天の気を承受して万物の形体を化育するのは、承接する所があって至るので、「至哉」と言うのです。「資」は取用の意で、乾は渾然の元気をもって生育を発動するので万類の事物は皆これを取って自らの開始とし、坤は天気の下降を待ってはじめて万物を生養し得ます。ですから乾は「資始」と言い坤は「資生」と言うのであって、聖人の下す一字一字に分寸の用意があることが見えます。「乃統天」に至っては、「天」は本来形体の名称ですが、今、剛健の徳に凭って運行して停まらず、天の気がはじめて長く存し得ます。乾元が天の形体を統領し得ることが見えます。
雲行雨施,品物流形者,此釋亨之徳也。乾為陽氣而上統於天,天將降雨,山川出云,雲氣升行,雨澤下施,故品彚之物各流佈其形體而得亨通也。
「雲行雨施、品物流形」の二句は「亨」の徳を解釈するものです。乾は陽気で上に向かって天に統攝されます。天がまさに雨を降らさんとするとき、山川が先に雲気を蒸騰させ、雲気が昇騰流行し、雨沢が下に洒布し、ここにおいて各類の事物が各自に流布しその形体を舒展して、従って亨通を得ます。
大明終始,六位時成,時乘六龍以御天者,此四句總結乾之徳。大明終始之道,六爻之位各有次序:初則潛,陽氣潛萌於黃鍾之宮;二則見,陽氣見於地之上;三則處人臣之極;四則出人臣之上,為儲君;五則陽氣至盛,隮升於天;上則亢極,在太虛之中。時潛則潛,時見則見,時躍則躍,時升則升,是六位以時而成也。
「大明終始、六位時成、時乘六龍以御天」の数句は乾の徳性を総結するものです。太陽が照明し終始を貫徹する道理は、六爻の位に落ちて各々次第があります。初爻は「潜」で、陽気が潜蔵して黄鐘の主る地下の宮に萌動します。二爻は「見」で、陽気が地面の上に顕現します。三爻は人臣の頂点に処します。四爻は人臣の上を超えて储君の位です。五爻は陽気が最も旺盛で天に昇騰します。上爻は則ち高亢して極点に至り、太虚の空闊の中に処します。潜蔵すべきときには潜蔵し、顕現すべきときには顕現し、騰躍すべきときには騰躍し、上升すべきときには上升する、これがすなわち六つの爻位が時序に依って成立するということです。
時乘六龍以御天者,夫以上下定位而言之謂之六位,以陽氣變化而言謂之六龍。陽氣自十一月漸升,冬至之日萌於黃鍾之宮,至五月而陰氣漸升,是乘此六龍之位以時而升降,故大明生成萬物終始之道,以控御天體也。且人之神氣,萃之則生,散之則亡;天有剛陽之氣運行不息,故天體常存也。
「時乘六龍以御天」と言うのは:上下の定位という角度から言えば「六位」と呼び、陽気の変化という角度から言えば「六龍」と呼びます。陽気は夏暦十一月から漸次上升し、冬至の日に黄鐘の宮に萌動し、五月に至って陰気がまた漸々上升し始めます。これはすなわちこの六龍の位を駕して、時序に随って升降するということです。ですから太陽が照明し万物を生養し終始を貫徹する法則をもって、全天体を駕御統攝し得ます。さらに言えば、人の精神の気は聚まれば人は生き、散じれば人は死にます。天には剛健の陽気があって運行して停まらないので、天体がはじめて長久に存在し得ます。
乾道變化,各正性命者,此二句申明乾元之徳。變者,後來改前,以漸變易也;化者,一有一無,全然而化也。性者,天生之質,有剛柔遲速之別也;命者,人所稟受,有貴賤夭壽之等也。天以剛陽之徳,自然以漸變化,各正其萬物之性命。按《書》曰:「惟天陰隲下民。」是或富或貴、或夭或壽,皆上天黙定之也。至於草木之性,有甘有苦,有益人者,有害人者,皆天所賦性命之然也。
「乾道変化、各正性命」の二句は、さらに乾元の徳性を申明するものです。「変」は後のものが前のものに取代わり、漸々と改易すること、「化」は有から無へ、無から有へ、まるごと転換することです。「性」は天が賦与する資質で、剛と柔、遅鈍と敏捷の分別があり、「命」は人が禀受する命分で、貴と賤、短命と長寿の等差があります。天は剛健陽剛の徳性に凭って、自然と歩々変化して万物をして各自にその本性と命分を端正せしめます。《尚書・洪範》に「ただ上天は黙々として下民を安定させる」とあります。人の或いは富或いは貴、或いは夭或いは寿は、みな天が暗中に定めたことが見えます。草木の性質に至っては、甘きあり苦きあり、人に益するものあり、人に害するものあり、これもみな天の賦与した性命がもとより然るものです。
保合太和,乃利貞者,此釋利貞之徳也。天以剛陽之徳生成萬物,必以漸成之,以保合太和之道。蓋剛陽不以健而利物,則不能保合者也,故必漸成之。若立秋涼風至,八月白露降,九月寒露降,以至為霜為雪,是漸成其物而不暴,終能正固而幹了之也。若其大暑之後寒涼暴至,則萬物能成乎?故曰保合太和乃利貞。
「保合太和、乃利貞」の二句は「利」「貞」の二つの徳を解釈するものです。天は剛健陽剛の徳性に凭って万物を生成し、必ず一歩一歩ゆっくりと促成して、あの渾然の太和の気を保持調合するのに用います。剛陽はもし剛健の力をもって万物を利益しなければ保全調合できないので、必ず循序漸成しなければなりません。立秋の涼風が吹き起こり、八月に白露が降り、九月に寒露が降り、霜が結び雪が下るに至る、これはゆっくりと万物を成熟させて粗暴急遽でなく、ついに万物を正定堅固にし円満に収穫せしめることができるのです。もし大暑が過ぎたばかりで驟然と寒凉が降臨すれば、万物はなお成熟し得るでしょうか。ですから「保合太和、乃利貞」と言うのです。
首出庶物,萬國咸寧者,自大哉而下明乾之四徳:元為春以始生,亨為夏以大通,利為秋以漸成,貞為冬以幹了,是天道自然而然也。此二句言人為天下之君,首出萬民之上,法乾之四徳,為禮樂刑政以生成天下之萬民,故樂為元,禮為亨,刑為利,政為貞,四達而不悖,萬國所以皆得安寧也。
「首出庶物、万国咸寧」の二句:「大哉乾元」以下はみな乾の四種の徳性を闡明しています――元は春に配して生育を始めるを主とし、亨は夏に配して大いに通暢するを主とし、利は秋に配して漸次成熟するを主とし、貞は冬に配して収結完成するを主とし、これは天道の自然と然る運行です。この最後の二句は言います。人が天下の君主となって万民の首に居り、乾の四徳に效法して礼・楽・刑・政を制定して天下の百姓を生養します。楽は「元」に対応し、礼は「亨」に対応し、刑は「利」に対応し、政は「貞」に対応し、この四者が通行して互いに背かなければ、天下の万国は因って皆安寧を得ます。
象曰:天行健,君子以自強不息。
《大象伝》は言います。天道は運行して剛健にして已まず、君子はこれに取り法って自ら奮発して永く息まない。
義曰:此先聖所作大象之辭,所以明一卦之用也。天行健者,蓋言天以至健而行,故一晝夜之間凡行九十餘萬里。而君子之人則當法之而健健不已,以至為君、為臣、為父、為子,小之一身,次之一國,大之天下,皆當法天之至健之徳,強勉於已,夕思晝行,無有休息,則可以成天下之事業而行天下之大道也,故曰天行健,君子以自強不息。
胡瑗の解説:これは孔子の作った《大象伝》の辞で、一卦の功用を闡明するものです。「天行健」は、天が極めて剛健の力に凭って運行するので、一昼夜の間に九十万余里を行くということです。君子はまさにこれに效法して剛健にして已まざるべきです。国君たるも臣子たるも父たるも子たるも、小にして一身の修養、次いで一国を治め、大にして天下を経纶するも、皆天の極めて剛健の徳性に效法して自ら勉励し、夜は思慮し昼は実行して片刻も停歇せず、こうしてはじめて天下の事業を成就し天下の大道を推行し得ます。ですから「天行健、君子以自強不息」と言うのです。
潛龍勿用,陽在下也。見龍在田,徳施普也。終日乾乾,反復道也。或躍在淵,進無咎也。飛龍在天,大人造也。亢龍有悔,盈不可乆也。用九,天徳不可為首也。
《小象伝》は言います。「潜龍勿用」は陽気がまだ下にあるからです。「見龍在田」は徳沢の施布がすでに普いということです。「終日乾乾」は反反覆覆して正道に離れないということです。「或躍在淵」はただ徳の上で進取するので過咎がないということです。「飛龍在天」は大人が興作創制のときに至ったということです。「亢龍有悔」は盈満の状態は長く保持できないということです。「用九」は天徳に取り法って先を争って発難の頭一つを為してはならないということです。
義曰:潛龍勿用至不可為首也,此先聖又解釋周公之爻辭,故謂之小象。潛龍勿用,陽在下也者,言建子之月陽氣始發,而功尚未及於物,是猶以聖人之徳而在於潛隠之時也。
胡瑗の解説:「潜龍勿用」から「不可為首也」までのこの段は、孔子が再度周公の作った爻辞を解釈したもので、ですから《小象伝》と称します。「潜龍勿用、陽在下也」は、夏暦十一月の建子の月に陽気が剛に萌え発して、功効がまだ万物に施及しないことで、これはちょうど聖人の徳を懐に抱いてまさに潜蔵隠伏のときに居るようなものです。
然千里一賢猶為比肩。且千里至逺之處而間有一賢,則猶以為比肩相接,是則普天之下庸庸者多而賢智者寡矣。以賢者尚或如此其少,況聖人乎?是蓋千載而一遇也。以天之所以生聖人者,必將有以益於天下,而興天下之利,除天下之害,舉天下之教化,行天下之大道也,而復潛遁為事,則是辜天地之生矣。
古語に言います。千里の内に一人の賢人が出れば、肩が挨ぐほどと算します。千里という遼遠の範囲内に偶に一人の賢人があれば、すでに踵を接し肩を比べたと算するのですから、普天の下で平庸な人が多く賢明智慧の人が少ないことが見えます。賢人でさえこのように稀少です。まして聖人においてをや。それはまさに千年に一回遭うほどです。天が聖人を生んだ所以は、必ず彼に天下に裨益があって、天下の利益を興し、天下の禍害を除き、天下の教化を推行し、天下の大道を践行せしめようとするものです。もし彼がかえって一途に潜蔵遁世を能事とするならば、天地が彼を生育した本意を負うことになります。
雖然,天陽之氣有時而潛,有時而見;聖賢君子亦有時而潛,有時而見。蓋聖人慮萬世之下觀此潛龍之事,遂務隱遁而失其施用,故於此戒之,言當勿用此潛龍為徳也。今言潛龍勿用者,以其陽氣在地之下而功未及物,故曰陽在下也。
とはいえ、天上の陽気は或いは潜伏し或いは顕現し、聖賢君子もまた同じく或いは潜蔵し或いは出仕します。ほぼ聖人は万代以後の人がこの「潜龍」の爻辞を見て一途に隠遁を追求し、徒に自分の用を捨て去るのではないかと顾虑して、ここで告戒を加え、このような潜蔵を徳として奉ずべきではないと言うのです。ここで「潜龍勿用」と言うのは、陽気がまだ地面以下にあって功効がまだ万物に施及しないからで、ですから《小象》は「陽在下也」と解しました。
見龍在田,徳施普也者,言陽氣發見於地之上而功及乎物也,是猶聖人執中道,其功施布而無所不至,使賢者智者皆可以俯而就之,愚者不肖者皆可企而及之,以至一民一物慾使無不得其宜而皆合於中道,是其徳施普也。然而雖有聖人之徳而無聖人之位,不能大營造天下之事業,故曰徳施普也。
「見龍在田、徳施普也」は、陽気が地面の上に顕露して功効がすでに万物に施及したということです。これはちょうど聖人が中正の道を執守して、その功業教化を布施し出して到らない所なく、賢明有智の人をして皆俯身してそれに迁就せしめ、愚昧不肖の人をしても皆踵を上げてそれに及ばせ、乃ち一人一人の百姓、一件一件の事物をして皆その宜しきを得、全て中正の道に合せしめる、これがすなわち彼の徳沢の施布の普いということです。ただこのとき彼は聖人の徳はあれど聖人の位がなく、まだ大規模に天下の事業を営建することはできないので、《小象》はただ「徳施普也」と言うのみです。
終日乾乾,反復道也者,乾乾,健健不息之謂。九三當公相之位,其責甚重,上以道承事於天子及其儲君,而盡其忠義之分,竭其人臣之節;下以道表率百官之事,平均萬民之政教。反覆以事上治下,不離其道,故曰反復道也。或躍在淵,進無咎也者,言儲貳之位能進其徳,則不失天下之望;守其位分,則絶君上之疑。雖日進其徳而無有咎悔,故曰進無咎也。
「終日乾乾、反復道也」:「乾乾」とは剛健にして息まない様子です。九三は三公宰相の位に居り、責任は極めて重く、上に対しては正道をもって天子と储君に事え、己の忠義の本分を尽くし人臣の節操を竭くし、下に対しては正道をもって百官を率いて事を行い、天下の百姓の政令教化を各自にその平を得させます。彼は反反覆覆として上に事え下を治め、終始正道から離れないので、「反復道也」と言うのです。「或躍在淵、進无咎也」は、储君の位に身を居して徳行の上で進を求めることができれば天下人の期望に負わず、自分の名分本位を守れば君上の猜疑を断つことができます。こうして日々徳行を増進しても過咎悔恨はありません。ですから「進无咎也」と言うのです。
飛龍在天,大人造也者,言九五之爻正當陽氣極盛之時,生成萬物而萬物各遂其性,猶聖人有大中之徳,又居聖人之位,故當興利除害,扶教樹化,鋤奸進賢,以至經營萬事,設為仁義之道,使一民一物無不被其澤,無不遂其性。故言飛龍在天,是大人營造興制之時,故曰大人造也。
「飛龍在天、大人造也」は、九五のこの爻がまさに陽気最盛のときに当たり、万物を生育成就して万物が各自にその本性を遂げることを言います。これは聖人が大中至正の徳を備え、また聖人の位に居るがゆえに、まさに利を興し害を除き、教化を扶植し風俗を樹立し、奸邪を剷除し賢良を進用し、乃至万般の事務を経営して仁義の道を建立し、一人一人の百姓、一つ一つの事物をして皆彼の恩沢を受け、皆その本性を遂げさせるべきだということです。ですから「飛龍在天」はまさに大人が営建興作し創制立法する時であり、したがって《小象》は「大人造也」と言うのです。
亢龍有悔,盈不可乆也者,大凡日中則昃,月盈則蝕,物理之常也。今聖人自初至上,其功已著,其徳已成,則至於年衰齒耗,當求所代以副天下之望則可,不然則有過亢之悔。故謂之盈滿之地不可乆居,知其可退而退,則悔吝可逺,故曰盈不可乆也。
「亢龍有悔、盈不可久也」:凡そ太陽が正中に昇れば西に斜め、月が満ちれば欠け蚀するのは、事物の常理です。今、聖人は初爻から上爻に至り、功業はすでに顕著で徳性はすでに成就し、年老い力衰えたときに至れば、まさに後継者を物色して接替させ、天下人の期望に負わないようにすべきで、これが正しいのです。然らざれば過度に亢進する悔恨があります。ですから盈満の位置は久しく居るべからず、退くべきを知って退けば悔恨と遺憾を遠く離し得ます。ゆえに「盈不可久也」と言うのです。
用九,天徳不可為首也者,言聖人用剛健之徳以化成天下,鎮撫四夷,懐來諸侯。如四夷交侵,中國諸侯不臣天子,則聖人以兵應之,是不為首也。凡先動為首,後動為應,若其純用剛徳而又為事首,是必至於過暴而為禍害也。待其有犯已者然後應之,則不失其道,故曰天徳不可為首也。
「用九、天徳不可為首也」は、聖人が剛健の徳を施用して天下を化育成就し、四方の外族を鎮撫し、諸侯を懐柔招来することを言います。もし四方の外族が交々侵擾し中原の諸侯が天子に臣服しなければ、聖人ははじめて兵力を動用して応付します。これを先を争って首を為さないと言います。凡そ先に動くのを「首」と言い、後に動くのを「応」と言います。もし一味に剛徳を使用してなお事端を挑発するのを抢うならば、必ず過度に暴烈に走って禍害を釀成します。相手が先に自分に侵犯して来るのを待って然る後に起きて応対すれば、その正道を失いません。ですから「天徳不可為首也」と言うのです。
文言曰:元者,善之長也;亨者,嘉之也;利者,義之和也;貞者,事之幹也。
《文言伝》は言います。「元」は衆善の首です。「亨」は衆美の会聚です――原文はこの句で「嘉之」の下に「会」の字を脱しています。「利」は義理の諧和です。「貞」は事を成り遂げる主幹です。
義曰:文言者,先聖以乾坤之義尤深,故又作文飾之言以解其義。元者,善之長也者,自此以下至元亨利貞,文言之第一節也。元者,始也,言天以一元之氣始生萬物,萬物皆由一元而生,是為眾善之長也。何則?善莫大於生徳,故天地之大徳曰生,是大徳生成以元為始,即此元者能長於眾善也。
胡瑗の解説:いわゆる《文言》は、孔子が乾・坤の二卦の義理が殊に深奥であるため、別に一篇を作って文飾潤色を加えてその含義を解説する文字です。「元者善之長也」から以下「乾元亨利貞」までが《文言伝》の第一節です。「元」は開始で、天が渾然の元気をもって万物の生育を始め、万物が皆この一元の気によって生まれるので、衆善の首となります。なぜか。善は生育の徳より大きいものがないので、《繋辞伝》は「天地の最大の徳は生である」と言います。この万物を生成する大徳は「元」をもって開端とするので、「元」が衆善の首に居り得ることが見えます。
亨者,嘉之也者,言天既以一元之氣施生萬物,而至於盛夏之月,則陽氣極盛,萬物皆極其生養而無不繁蔚,故高下洪纎無不得其所,是嘉美之所聚也。利者,義之和也者,義,冝也;和,漸也。所謂自立秋涼風至以至為霜為雪,是天之生物皆使不失其冝,以積漸而成之也。貞者,事之幹也者,言天之使物自始生至於亨通,而又成之有漸,及冬之時,則生成之功已畢,使皆得其正固而幹了之。
「亨者嘉之会也」は、天がすでに元気をもって万物を施生し、盛夏の時節に至ると陽気が最も旺盛で、万物が皆極まるまで成長して繁茂葱郁でないものなく、だから高いものも矮いものも粗いものも細いものも皆その所を得、これはまさに美好の事が汇聚する時だということです。「利者義之和也」:「義」は适宜で、「和」はここでは漸次調和を指します。いわゆる立秋の涼風が吹き起こってから霜が降り雪が落ちるに至るまでは、みな天が万物を生養してそれらを各々その宜しきを失わせず、一点一点の積累漸進を凭って促成するのです。「貞者事之干也」は、天が万物を初生から亨通に至らせ、また循序漸進してその成熟を促し、冬に至ると生育成就の功夫がすでに完毕し、万物をして皆正定堅固を得させ、この事を徹底して結了させるということです。
君子體仁足以長人,嘉足以合禮,利物足以和義,貞固足以幹事。君子行此四徳者,故曰乾元亨利貞。
《文言伝》は続けて言います。君子は仁を自身に体現すれば衆人の首領となるに足り、衆美を聚合すれば礼に合するに足り――原文「嘉」の下も同じく「会」の字を脱しています――万物をして各々その利を得させれば義に諧和するに足り、正を守り堅固であれば事を成し遂げるに足ります。君子はこの四種の徳性を躬行するので、「乾:元・亨・利・貞」と言うのです。
義曰:此以下言君子法天四徳而行也。君子體仁足以長人者,言天以一元之氣生成萬物,而萬物得遂其性,各安其所,故君子以至仁之徳陶成天下,使一民一物莫不受其賜。是故於一家施仁,則一家之內愛敬而尊事之;一國施仁,則一國之內愛敬而尊事之。雖有鰥寡孤獨窮民之無告者,均使之不失其所,如此是為眾人之長也。
胡瑗の解説:ここから以下は、君子が天の四徳に效法して事を行うことを説きます。「君子体仁足以長人」は、天が元気をもって万物を生成し、万物が各々その本性を遂げ各々その所に安んずるので、君子は最も深厚な仁徳をもって天下を陶鋳成就し、一人一人の百姓、一つ一つの事物をして皆彼の恩惠を受けさせます。このため一家の中で仁愛を施行すれば一家の人が皆彼を敬愛し尊奉し、一国の中で仁愛を施行すれば一国の人が皆彼を敬愛し尊奉します。たとい鳏夫・寡婦・孤児・子なき老人といった途に窮した窮苦の百姓であっても、一律に彼らをして安身の所を失わせません。こうできれば衆人の首領となるに足る資格があります。
嘉足以合禮者,言天以盛夏亨通萬物,而萬物莫不茂盛,故君子施嘉美之道,使各得聚謂。猶民物既已富庶,則不可以無節,故欲男女有別,則為之制婚姻之禮;欲上下交接而和樂,則為之制鄊飲酒之禮;欲其尊君賓王,則為之制朝覲之禮;欲其篤哀慼孝思,則為之制喪祭之禮。如是之類,是君子以嘉美之道而使皆合禮也。
「嘉会足以合礼」は、天が盛夏に凭って万物を亨通させ万物に茂盛でないものがないので、君子は美好の教化の道を施行して人をして各々その聚合する所を得させるということです――原文「使各得聚謂」の一句に訛脱の疑いがあります。これはちょうど百姓と物産がすでに富足して众多であれば節制がなくてはならないようなものです。男女に別あらしめたければ彼らのために婚姻の礼を制定し、上下が交往して和睦歓楽あらしめたければ彼らのために郷飲酒の礼を制定し、彼らに国君を尊崇し王室に賓服させたければ彼らのために朝覲の礼を制定し、彼らに哀傷の情を篤くし孝思を深くさせたければ彼らのために葬礼祭礼を制定します。このような類が、すなわち君子が美好の道をもって人事を全て礼に合せることです。
利物足以和義者,言君子法天霜露之氣而成就萬物皆有其漸,故始以仁義禮樂教之導之。然民有不令不肖者,雖善教之而終不能遷,則必用刑罰以整齊之,使不至於亂而皆得其利,又以漸而成治,使天下之物各得其冝也。貞固足以幹事者,言君子法天貞正之徳,能幹了其事。若正而不固,則無能終其正;若固而不正,則入於邪。必當守正堅固,然後可以幹濟天下之事也。此君子法天之四徳而行,故曰乾元亨利貞也。
「利物足以和義」は、君子が天の霜露の気が万物を成就するに漸進の過程ある道理に效法し、まず仁義礼楽をもって百姓を教導引領するということです。しかし百姓の中には常に不良不肖の徒がおり、縦使よく教えても終に改めようとしないので、必ず刑罰を動用してこれを整飭し、社会を混乱に至らせず人人に各々その利を得させ、更に歩々治平に向かわせ、天下の万物を各々その宜しきを得させます。「貞固足以干事」は、君子が天の貞正の徳性に效法して事を办理成就し得るということです。もし端正なだけで堅固でなければ正道を貫徹し果たす術なく、もし堅固なだけで端正でなければ邪路に陥ります。必ず正を守りかつ堅定であって然る後に天下の大事を成し遂げられます。これがすなわち君子が天の四徳に效法して事を行うことで、ですから「乾:元・亨・利・貞」と言うのです。
初九曰「潛龍勿用」,何謂也?子曰:龍徳而隠者也。不易乎世,不成乎名,遯世無悶,不見是而無悶,樂則行之,憂則違之,確乎其不可潛龍也。
《文言伝》は問います。初九の爻辞に「潜龍勿用」とあるのは何の意味ですか。孔子は答えます。これは龍のような徳を有しながらしばらく隠伏する人です。彼は世俗のために自分を変えず、名声を急いで成そうともしません。世を避けて隠居しても煩悶せず、人に許されなくても煩悶しません。意に合う事は為し、意に合わない事は避けます。その志節は堅定して動揺させられません。これが潜龍です――原文「確乎其不可」の下に「抜」の字を脱しています。
義曰:此孔子欲申言乾六爻之,故假設問荅以明其義。此以下至動而有悔,文言之第二節也。潛龍勿用,其義何謂也?子曰:龍徳而隠者也。言有聖人之徳而處於貧賤,是隠遁之時也。不易乎世者,言有聖賢之道,則必隨世俗而施為教化,以磨揉於下,使其亂則變而為治,惡則悛而為善。今潛隱之時,但韜晦其光而自修其已,是不為世俗而變易者也。
胡瑗の解説:これは孔子がさらに乾卦の六爻の義理を申し説こうとして――原文「乾六爻之」の下に一字脱漏の疑いがあります――設問作答の形式を仮托してその含義を闡明したものです。ここから以下「動而有悔」までが《文言伝》の第二節です。「潜龍勿用」、その意味は何でしょうか。孔子は答えます。これは龍徳を有して隠伏する人です。これは聖人の徳を懐に抱きながら貧賤の中に処し、まさに隠遁のときであるということです。「不易乎世」は、人に聖賢の道があれば必ず世俗の情状に順って教化を施行し、下で磨き薫陶して乱れたものを治まったものに、悪いものを善いものに改めさせます。しかし今は潜蔵隠伏のときに処して、ただ自分の光を収斂し自分を修養するのみです。これが世俗に迎合して自分を変えないということです。
不成乎名者,言聖人不務於名,其有實則名隨之矣,今但以潛隠為事而不行教化之實,是不成其名也。遯世無悶者,言既潛遁則不務行其教化之實,是無所憂於天下,故遯世而無以為悶也。不見是而無悶者,言有聖人之徳,居其位,行其道,是為世所是也;今止以潛隠為事而不務行其教化,則不見是於天下也。雖不見是於天下,然已亦終無所憂悶而務專獨為事也。
「不成乎名」は、聖人は本来名声を刻意追求せず、実際の功業さえあれば名声は自ずと随いて来ます。今はただ潜蔵隠伏を事として教化の実事を行わないので、名声もまた成就しません。「遁世无悶」は、すでに潜蔵遁世している以上教化の実務に従事せず、天下にも憂うる所がないので、世を避け隠居しても煩悶を覚えません。「不見是而无悶」は、聖人の徳を懐に抱き相応の職位に居り自分の道を推行すれば、はじめて世人に肯定されます。今はただ潜蔵を事として教化を推行しようとしないので、自然に天下人の肯定を得られません。天下人の肯定を得られないといえども、彼自身は終始毫も憂悶がなく、一味に専ら独善其身を顧みるのみです。
樂則行之,憂則違之者,凡聖人有為於時,則其所施設教化皆與天下同之。若天下之所樂,己亦樂而行之;天下之所憂,己亦憂而違去之,是憂樂皆同於天下,此聖人之常行也。今止以潛遁為事,是所為皆異於眾也。若天下之所憂,已或樂之則行也;天下之所樂,已或憂之則違去之而不行也。是務隠晦者,雖憂樂必異於世也。
「楽則行之、憂則違之」:凡そ聖人が世に有所作为する時、彼の布置施行する教化は皆天下人と一致します――天下人の好むものは自分も好んで為し、天下人の憂うるものは自分も憂えてそれを去ります。憂と楽が皆天下と同じくする、これが聖人の平常の行事です。今はただ潜蔵遁世を正事として、為す所は皆衆人と相反します。天下人が憂うる事を彼は或いはかえって快意と感じて為し、天下人が好む事を彼は或いはかえって可憂と感じて避けて為しません。見るべし、一味に隠晦を追求する人は、憂楽さえも必ず世人と相違するのです。
確乎其不可濳龍也者,言如上之數事確然不能舉也,其所為者是濳隠之人也。此皆聖人著為萬世之戒,言上之所行皆濳晦之事,故當勿用此為徳也。
「確乎其不可抜、潜龍也」は、上に列挙したあの数件の事を彼は皆堅決に肯んじて為さず、彼の為す所はまさに潜蔵隠伏の人の様子であるということです。これらはみな聖人が書き下して万世の告戒としたもので、上に言うあの行跡は全て潜蔵晦匿の事なので、それを徳として奉ずべきではないのです。
九二曰「見龍在田,利見大人」,何謂也?子曰:龍徳而正中者也。庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,徳博而化。易曰「見龍在田,利見大人」,君徳也。
《文言伝》は問います。九二の爻辞に「見龍在田、利見大人」とあるのは何の意味ですか。孔子は答えます。これは龍徳を有して中正の位に居る人です。彼は平常の言には必ず信実があり、平常の行いには必ず謹慎を求め、邪念を防いで己の至誠を存養し、世人に福を造って自ら誇らず、徳性は広博にして人を感化し得ます。《易経》の「見龍在田、利見大人」は、まさに人君の徳を説くのです。
義曰:此釋九二爻辭,言聖人居於下位而所行無過無不及者,以其有中正之徳也,故曰龍徳而正中者也。庸言之信,庸行之謹者,庸,常也,言九二之君子有聖人之徳,故俯仰循理,從容中道,至於常言必信實,常行必謹慎。是由其性至明,故出處語黙皆合於中和之域,然後口無可擇之言,身無可擇之行也。
胡瑗の解説:これは九二の爻辞を解釈するもので、聖人は下位に居るといえども為す所は過ぎることも及ばないこともなく、まさに中正の徳を具えるがゆえに、「龍徳而正中者也」と言うのです。「庸言之信、庸行之謹」:「庸」は平常のことで、九二のこの君子は聖人の徳があるので一挙一動が事理に依循し、従容不迫に中道に合し、平常言うことは必ず信実で平常為すことは必ず謹慎です。これは彼の本性が極めて明澈だからで、出仕するも退処するも、口を開くも沈黙するも、皆中正平和の分寸の内に落ち、ここにおいて彼の口には挑剔すべき一言もなく、身には挑剔すべき一行もありません。
閒邪存其誠者,寛而防之謂之閒,誠則至誠也。言此九二能以中正之徳防閒其邪惡,慮其從微而至著,故常切切而防閒之。若《中庸》所謂博學之,審問之,慎思之,明辨之,篤行之,以小善至於大善,由大善乃至於聖,是由能防其邪惡而內存至誠然也。
「閑邪存其誠」:寛緩従容に防ぐことを「閑」と言い、「誠」は至誠です。これは九二が中正の徳に凭って自分の邪悪の念を防ぎ、それが細微な所から漸々長じて顕著となるのを顾虑するので、時時懇切に防閑を加えるということです。《中庸》の言う広博に学び、審慎に問い、緻密に思い、明晰に辨え、切実に行うように、小さな善行から大きな善行に積み、さらに大善から進んで聖境に至るのは、みな自分の邪悪を防ぎ得て内心に至誠を存養することに凭ってはじめて為し得るのです。
《中庸》又曰「至誠無息,不息則乆,乆則徵」,言至誠之道終而不已則有證驗也。又曰「其次致曲,曲能有誠」「唯天下至誠為能化」,蓋言委曲之事發於至誠,則形於外而見著,見著則章明,章明則感動人心,人心感動則善者遷之、惡者改之,然後化其本性,故曰「惟天下至誠為能化」,此聖人存誠之驗也,故曰閒邪存其誠也。
《中庸》はまた「至誠は間断しない、間断しなければ長久にし、長久なれば検証が顕れ現れる」と言います。意味は至誠の道を貫徹し果たし持続して已まなければ、実効が顕れ出るということです。《中庸》はまた「次一等の人は細微曲折の所から功を用い、細微の所からも誠を致し得る」と言い、また「ただ天下の至誠のみが万物を感化し得る」と言います。ほぼ言うのは、たとい瑣細曲折の事でも至誠から出れば外に顕露して人に見られ、人に見られれば彰明し、彰明すれば人心を打ち動かし、人心が打ち動かされれば善い人は激励を受けて向上し、悪を為す人は感召を受けて悔改め、然る後に本性までも転化されるということです。ですから「惟天下至誠為能化」と言うのであって、これがまさに聖人が至誠を存養する効験です。ゆえに《文言》は「閑邪存其誠」と言うのです。
善世而不伐者,伐,矜伐也。夫中人之性,有一善則盎然溢於面目而自矜伐其能也;若夫有善功、有善徳而不自矜伐者,唯聖人能之。若堯之時洪水氾濫於中國而民幾魚矣,唯大禹能排決疏導之以消其難,使萬世之下被其賜,然而禹亦未嘗矜伐之,故舜稱曰:「汝惟不矜,天下莫與汝爭能;汝惟不伐,天下莫與汝爭功。」
「善世而不伐」:「伐」は自ら誇ることです。中等の資質の人は、一点の善行さえあれば得意洋洋として顔に表し、自分の本事を自誇します。善功を建て善徳を有しながら自ら誇らないのは、聖人のみが為し得ることです。堯のとき洪水が中原に泛濫して百姓がほとんど魚鱉になりかけたとき、ただ大禹のみが開鑿疏導して水患を排除し、万代以後の人をして皆彼の恩沢を受けさせましたが、禹もかつて自誇しませんでした。ですから舜は彼を称賛して「まさに汝が自ら矜持しないがゆえに天下に汝と才能を争う者なく、まさに汝が自ら誇らないがゆえに天下に汝と功労を争う者なし」と言いました。
又若仲尼萬世之師,其功配天地,其明並日月,然且嘗言「君子之道四,丘未能一焉」。以仲尼之於四事,豈有不能哉?蓋聖人雖有大善於世而不自伐也。徳博而化者,此言既有中正之徳,其言常信,其行常謹,又能防閒其邪惡而存其至誠,有大善而不自伐,故其徳廣而化行於天下矣。易曰「見龍在田,利見大人」,君徳也者,九二雖未居大人之位而為人臣,乃有人君大中之徳,故特舉本爻之辭以結之。
また孔子は万世の師表で、その功業は天地と相配し、その明智は日月と并列し得るのに、なお「君子の道に四条あり、我が孔丘は一条も能くしていない」と言いました。孔子の修養をもってすれば、あの四つの事に本当に能くしないことがあり得ましょうか。聖人は世間に大きな功徳があるといえども、従来自ら誇らないことが見えます。「徳博而化」は、彼に中正の徳があって言うことは常に信実で行うことは常に謹慎であり、また邪悪を防ぎ至誠を存養し、大きな功徳があって自誇しないので、その徳性は広大で教化が天下に推行し得るということです。「《易》曰、見龍在田、利見大人、君徳也」に至っては――九二はまだ大人の君位に登らずただ人臣であるにもかかわらず、すでに人君のあの大中至正の徳を具えているので、特に本爻の爻辞を挙げて総結としたのです。
九三曰「君子終日乾乾,夕惕若厲,無咎」,何謂也?子曰:君子進徳修業。忠信,所以進徳也;修辭立其誠,所以居業也。知至至之,可與幾也;知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。
《文言伝》は問います。九三の爻辞に「君子終日乾乾、夕惕若厲、无咎」とあるのは何の意味ですか。孔子は答えます。君子は徳行を増進し功業を修治します。忠誠信実は徳行を増進する所以であり、言辞を修饬して己の誠意を確立するのは功業を守る所以です。目標の在る所を予知して努力してそれに達すれば、彼と事物の細微な兆候を論じることができます。何れの所で終わるべきかを知って果たしてそこに終われば、彼とともに道義を守ることができます。このため彼は上位に居ても驕縦せず、下位に処しても憂悶しません。ですから勤勉して懈らず時に随って警惕を保てば、たとい危険な処に居ても過咎はありません。
義曰:君子進徳修業,忠信所以進徳也者,內盡其心謂之忠,不欺於物謂之信。蓋九三居人臣之極位,內能盡己之心,不欺於物,使徳行日進而功業日修也。修辭立其誠,所以居業也者,辭謂文教也,誠謂至誠也,言外以修其文教,內以敦其誠實,此所以居業也。然上謂之修業,下謂之居業者,蓋文辭相避,亦功業之盛,故當居之也。
胡瑗の解説:「君子進徳修業、忠信所以進徳也」――内心に己の誠意を竭くすのを「忠」と言い、人を待ち物を接するに欺瞞を加えないのを「信」と言います。九三は人臣の最高の位置に居り、内は己の心力を竭くし得て外はいかなる人事をも欺かず、徳行を日々に長進させ功業を日々に修治させます。「修辞立其誠、所以居業也」――「辞」は文教政令を指し、「誠」は至誠を指します。対外に己の文教を修明し対内に己の誠実を敦厚にする、これが功業を守る方法です。上文が「修業」と言い下文が「居業」と言うのは、行文上の重複を避けるもので、同時に功業がすでに盛大なれば本来それを稳稳と守るべきだからです。
知至至之,可與幾也者,幾者,有理而未形之謂也。言君子之所學,學聖賢之事業、致君澤民之術也,小而一邑,次而一郡,以至為將為相佐天子治天下,當其未至之時,知其必至,預習其業,朝夕以思之,學其為治之道;至於有位,宰一邑,牧一郡,為將為相,舉而行之無所施而不可,蓋由知至而至之耳。昔孟子四十不動心,蓋當志學之年,天下之事無所不學,及其壯仕之歳,凡天下之事莫有動其心者,是知至而至之也。
「知至至之、可与几也」――「几」は道理がすでに存在してなお形跡を顕さない微妙な兆候を指します。これは君子の学ぶ所は聖賢の事業・君主を辅佐し百姓を潤沢する方法で、小にして一邑を治め、次いで一郡を治め、乃至将帥となり宰相となって天子を辅佐して天下を治めるということです。彼がまだその位置に至らないときに予め自分が必ず至ることを知り、そこで予めその職事を演習し朝夕思量して治理の道を学び、真に職位を得て一邑を主管し一郡を治め将となり相となったとき、取り出して施行すれば通じない所が一つもありません。これは全て彼が目標を予知して努力してそれに達したことに凭ります。昔、孟子は四十歳で不動心を能くしましたが、まさに少年に志を立てて学を求める年齢に天下の事を学ばない所なく、壮年に至って出仕すれば天下のいかなる事も彼の心を動揺させ得なかったからです。これが「知至而至之」です。
知終終之,可與存義也者,言為臣之義,終始一徳以奉其上,是得臣之冝也,豈非知終乎?然後之人臣居於顯位,上而奉一人之尊,下而有百官萬民之責,內無覬覦僭竊之心,若伊尹之於太甲、周公之於成王、霍光之於昭帝、諸葛亮之於蜀主,此數君子是謂知終終之,於人臣之分能存萬世之義也。
「知終終之、可与存義也」――臣子たるの道理は始から終まで同一の徳操をもって君上に事え、これが臣たるの本分に合します。これはまさに「知終」ではありませんか。後世の臣子は顕要の位に居り、上は天子一人の尊厳に奉事し、下は百官万民の責任を担いながら、心に断じて君位を覬覦し僭越窃取する念がなく、伊尹が太甲を辅佐し、周公が成王を辅佐し、霍光が漢昭帝を辅佐し、諸葛亮が蜀の後主を辅佐した、この数人の君子を「知終終之」と呼び、臣たるの名分の上で万世に伝え得る道義を守り得たのです。
是故居上位而不驕,在下位而不憂者,言九三居人臣之分,其徳業既已進修,則宜進退必以徳而升降必以道,故居上位而無驕亢之色,在下位而無憂悶之心。故乾乾不息,因其所為之時而惕懼戒慎,雖履至危之地,亦免其咎矣。
「是故居上位而不驕、在下位而不憂」は、九三が人臣の本分に居て徳行と功業がすでに修進したならば、進退取舍は必ず徳に依拠し昇迁貶降は必ず道に依拠するので、上位に居ても驕横に人を凌ぐ神色がなく、下位に処しても憂愁鬱悶の心思がないということです。したがって彼は勤勉して息まず、処する時勢に随って時々警惕戒慎し、たとい極めて危険な所を踏んでも過咎を免れられます。
九四曰「或躍在淵,無咎」,何謂也?子曰:上下無常,非為邪也;進退無恆,非離群也。君子進徳修業,欲及時也,故無咎。
《文言伝》は問います。九四の爻辞に「或躍在淵、无咎」とあるのは何の意味ですか。孔子は答えます。彼は上ったり下ったりして定まりがありませんが、邪僻の事を為そうとするのではありません。時に進み時に退いて常態がありませんが、自分の同類を離脱しようとするのでもありません。君子が徳行を増進し功業を修治するのは、適当な時機に追い付こうとするので、過咎はありません。
義曰:此先聖釋九四之爻辭。以位言之曰上下,以出處言之曰進退。今九四當儲貳之位,故雖或上或下,非苟為其邪佞也;或進或退,非苟離其群類也。是故進其徳以副天下之望,修其業以絶君上之疑,如此者是將欲及時而行道也。故上與進是或躍之義,下與退是在淵之謂也。故無咎者,言若不能進其徳以塞天下之望,又不能守其位分而致君之疑,則其為禍也不細矣。今得無咎者,誠能副民望而去君疑也。
胡瑗の解説:これは孔子が九四の爻辞を解釈したものです。位次から言えば「上下」と言い、出仕退処から言えば「進退」と言います。今、九四はまさに储君の位に当たるので、彼が時に上り時に下るのは、随分に邪媚の事を為すのではなく、時に進み時に退くのも、随分に自分の同類を離脱するのではありません。したがって彼は徳行を増進して天下人の期望に負かず、功業を修治して君上の疑忌を断ち、こうするのはまさに時機に追い付いて大道を推行しようとするものです。ですから「上」と「進」は「或躍」の意であり、「下」と「退」は「在淵」の意です。「无咎」と言うのは、彼がもし徳行を増進して天下人の期望に副うことができず、また自分の位分を守って君主の猜疑を招くことがなければ、闯らかした禍は小さくなかったはずです。今、過咎なくあり得たのは、まさに彼が確かに民望に負かずかつ君疑を消除したからです。
九五曰「飛龍在天,利見大人」,何謂也?子曰:同聲相應,同氣相求。水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎。聖人作而萬物覩。本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。
《文言伝》は問います。九五の爻辞に「飛龍在天、利見大人」とあるのは何の意味ですか。孔子は答えます。同じ声は互いに応和し、同じ気は互いに求め合います。水は低湿の所に流れ、火は乾燥の所に向かって燃え、雲は龍に随って生起し、風は虎に随って興起します。聖人が一旦興起すれば万物は皆彼を仰望します。根源が天にある者は上に親附し、根源が地にある者は下に親附し、各々自分の同類に従います。
義曰:此釋九五之爻辭。同聲相應,同氣相求者,此釋聲氣自然相感之道也。同聲,若彈宮而宮應,彈商而商鳴,「鶴在陰,其子和之」之類是也;同氣,若天欲雨而柱礎潤、磁石引針、琥珀拾芥之類是也。水流溼,火就燥者,此釋無情之物自然相應。夫地體卑下,水性就下,其流必就卑溼也;火本炎上,其性燥,故焚其芻薪必先於燥也。
胡瑗の解説:これは九五の爻辞を解釈します。「同声相応、同気相求」は、声と気が自然に相感ずる道理を説きます。いわゆる同声は、宮音を弹き鳴らせば他所の宮弦も随いて振鳴し、商音を弹き鳴らせば他所の商弦も随いて振鳴するようなものです。《中孚》卦の九二の爻辞に「鶴が木陰で鳴けばその幼雛がそれに応和する」とあるのがこの類です。いわゆる同気は、天が雨を降らそうとするとき柱の下の石礎が先に返潮し、磁石が鉄針を吸い、琥珀が摩擦後に草芥を吸い起こす類です。「水流湿、火就燥」は、无知無情の物も自然に相応ずることを説きます。地の形体は低下し水の本性は下に流れるので、必ず低窪潮湿の所に流れ向かい、火は本来上に燃えその性は乾燥に属するので、柴草を燃やせば火は必ず乾燥の所から先に燃え起こります。
雲從龍,風從虎者,此言有情感無情也。龍者水畜,雲者水氣,故龍吟則景雲出;虎是猛威之物,而風亦是震動之氣,故虎嘯則谷風生。聖人作而萬物覩者,言聖人之作,光明盛大,與天地合徳,萬物莫不遍燭。夫天地感應而生萬物,聖人感應而用天下之賢,共成天下之業,敷為皇極之教,而天下萬物莫不觀覩之也。前言大人造,是聖人營造興制之時,此統言之,故曰聖人作而萬物覩也。本乎天者親上,本乎地者親下者,此言本天則動物也,本地則植物也,言天之運動而飛物亦動,地之凝靜而植物亦靜,此聖人推舉自然之理以明之也。
「雲従龍、風従虎」は、有情の物が無情の物を感召することを説きます。龍は水中の動物で雲は水気なので、龍が一たび吟嘯すれば祥雲が随いて升ります。虎は威猛の野獣で風もまた震動の気なので、虎が一たび長嘯すれば山谷の風が随いて生じます。「聖人作而万物覩」は、聖人が一旦興起すれば光明盛大で天地の徳と合し、万物で彼に照徹されないものはないということです。天地は相互に感応して万物を生育し、聖人は相互に感応して天下の賢才を任用し、ともに天下の事業を成就し、「皇極」のような大中の教を布施し出して、天下の万物で彼を仰望瞻観しないものはありません。前の《小象》の「大人造」は聖人が営建創制するあの一段の時を指し、ここでは総括して言うので「聖人作而万物覩」と講じます。「本乎天者親上、本乎地者親下」は、天に根源するのは動物で、地に根源するのは植物だということです。天は運転して停まらないので飛禽走獣もまた動くことを好み、地は凝定安静なので草木もまた安静にして移らないのです。これは聖人が自然の理を挙げて同類相従の道理を説明したものです。
上九曰「亢龍有悔」,何謂也?子曰:貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。
《文言伝》は問います。上九の爻辞に「亢龍有悔」とあるのは何の意味ですか。孔子は答えます。彼は尊貴でありながら実際の職位がなく、崇高でありながら帰附する百姓がなく、賢人は下位にあっても来て輔佐しないので、一たび挙動があれば悔恨を招きます。
義曰:夫卦之六爻,上與初為無位,初則未中,上則過中,是雖在高貴而無大中之位。既貴而無位以居於尊高,則安得天下之民也?賢人在下位而無輔者,今既亢極,則賢雖在下位而亦不輔佐矣。夫如是,則動靜之間皆有悔也。
胡瑗の解説:一卦の六爻のうち、上爻と初爻はいずれも職位なしと数えます。初爻はまだ中位に至らず、上爻はすでに中位を越えました。ですから上九は高貴の地に身を居しながら大中至正の実位がなく、尊貴であって実位なく高く上に踞するのに、どうして天下の百姓の帰附を得られましょうか。「賢人在下位而无輔」と言うのは、今、彼が亢進して極点に至ったため、賢者は縦使下位にあっても肯んじて来て輔佐しないからです。このようであれば、動くのも静かなのも、悔恨を招きます。
潛龍勿用,下也。見龍在田,時舎也。終日乾乾,行事也。或躍在淵,自試也。飛龍在天,上治也。亢龍有悔,窮之災也。乾元用九,天下治也。
《文言伝》はまた言います。「潜龍勿用」は彼が卑下の地に居るからです。「見龍在田」は一時に時勢に捨てられたからです。「終日乾乾」は彼が本位の事を実做しているということです。「或躍在淵」は彼が自分の才徳を試験しているということです。「飛龍在天」は上位に居て天下を治めるということです。「亢龍有悔」は窮極に走って招いた災いです。「乾元用九」は天下がこれによって治平を得るということです。
義曰:此以下至天下治也,文言之第三節,全以人事明其義也。濳龍勿用,下也者,言聖人有龍徳,在於潛隠之時,故聖人戒其勿用此為徳者,以其功不及物,居無位之地而處於卑下也。見龍在田,時舎也者,舎,棄舎也。若仲尼有聖人之徳而無其位,當衰周之時,皇皇汲汲而不得見於世,是為時之所棄舎也。夫既為時棄舎,然而前又言徳施普也及天下文明者何也?前蓋以聖人之徳言之也,此所謂時舎者,以位言之也。
胡瑗の解説:ここから以下「天下治也」までが《文言伝》の第三節で、完全に人事をもってその義理を闡明します。「潜龍勿用、下也」は、聖人は龍のような徳がありながらまさに潜蔵隠伏のときに居り、聖人がこれを徳として奉ずるなと告戒するのは、このとき彼の功効が物に及ばず、職位のない所に身を居して卑下の位に居るからです。「見龍在田、時舎也」――「舎」は捨棄の意です。ちょうど孔子が聖人の徳を有しながら相応の職位がなく、周室の衰微する時代に処し、栖栖遑遑として汲汲と奔走しても世に顕用されない、これが時勢に捨てられたということです。時勢に捨てられた以上なのに、前の《小象》はまた「徳施普也」と言い、後文はまた「天下文明」と言うのはなぜでしょうか。前のものは聖人の徳に就いて言ったのであり、ここで言う「時舎」は彼の職位に就いて言うのです。
終日乾乾,行事也者,言九三居人臣之極位,有奉上率下之責,至難至重,故終日之間乾乾不息,以行當位之事也。或躍在淵,自試也者,言九四已離下卦而居上卦之下,逼近至尊,慮有僭上之嫌,故疑之而或騰躍,以試己之才徳,副天下之望也。飛龍在天,上治也者,言聖人有龍徳而居天位,以興天下之治也。亢龍有悔,窮之災也者,言聖人當過亢之年,其精力耗倦,若不求所代以終其位,則必有窮極之災也。
「終日乾乾、行事也」は、九三が人臣の最高の位置に居り、君上に奉事し百官を統率する責任を肩に負い、最も難く最も重いので、終日勤勉して息まず、本位で為すべき事を行うということです。「或躍在淵、自試也」は、九四がすでに下卦を離れて上卦の最下位に処し、至尊に紧逼して君上を僭越する嫌いがあると顾虑し、心に疑虑を存して偶或に騰躍して一試し、もって自分の才徳を検験し、天下人の期望に負かないようにするということです。「飛龍在天、上治也」は、聖人が龍徳を懐に抱いて天子の位に居り、従って天下の治平を興起するということです。「亢龍有悔、窮之灾也」は、聖人が過分に亢進した年齢に至り、精力がすでに衰耗疲倦し、もし後継者を物色して自分の職位を結了させなければ、必ず窮極の災いを招くということです。
乾元用九,天下治也者,言乾以一元之氣,自濳至飛,終始本末,能用陽剛之徳以生成萬物;在聖人則有剛明之道,以一己不能盡天下之治,固在左右前後大臣小臣皆能用剛正之君子,然後得天下治矣。
「乾元用九、天下治也」は、乾が渾然の一元の気に凭って、潜蔵から飛騰に至るまで、頭から尾まで、本から末まで、皆剛陽の徳を施用して万物を生成し得るということです。聖人に落とせば、剛健明察の道があるということです。ただ彼一人に凭っては天下を全て治め周わることができず、要は左右前後の大臣小臣が皆剛正の君子を任用できれば、そうして天下ははじめて治平を得られます。
濳龍勿用,陽氣濳藏。見龍在田,天下文明。終日乾乾,與時偕行。或躍在淵,乾道乃革。飛龍在天,乃位乎天徳。亢龍有悔,與時偕極。乾元用九,乃見天則。
《文言伝》はまた言います。「潜龍勿用」は陽気がまだ地下に潜蔵しているからです。「見龍在田」は天下の万物が文采焕発し一面光明だからです。「終日乾乾」は天時とともに運行するからです。「或躍在淵」は乾道がここで変革を生じるからです。「飛龍在天」は天徳に合う尊位に居るからです。「亢龍有悔」は時勢とともに極点に走るからです。「乾元用九」はここにおいて上天の法則が顕現します。
義曰:此以下文言之第四節,全以天氣明其義也。陽氣濳藏者,言建子之月陽氣濳施於地下而藏遁之時也。天下文明者,言天氣發見於地上,使勾萌皆達,枯槁畢榮,故高下洪纎皆流形品,使天下之物有文章而光明也。與時偕行者,言建寅之月三陽並用之時,其卦成泰,故君子終日之間乾乾不已,與天時相契而行也。
胡瑗の解説:ここから以下は《文言伝》の第四節で、完全に天時の気をもってその義理を闡明します。「陽気潜蔵」は、夏暦十一月の建子の月に、陽気が地下に潜行施布して蔵伏して出ないときを言います。「天下文明」は、天の陽気が地面上に顕露して、曲がった幼芽も皆钻り出て、枯れた草木も皆再び繁荣し得るので、高いものも矮いものも粗いものも細いものも、皆各自の形体品類を流布し出して、天下の万物が文采粲然として光明になるということです。「与時偕行」は、夏暦正月の建寅の月に、三つの陽爻が同時に生発するときで、配する卦はまさに《泰》卦です。ですから君子は終日勤勉して已まず、天時と契合して行きます。
乾道乃革者,言九四離下卦之上而入上卦之下,故其道有所變革也。乃位乎天徳者,言天者積諸陽氣而成,今九五之爻以剛陽之徳居至尊之地,是位本乎天位者也。與時偕極者,言四月之間陽氣盛極,如聖人當耄期之年,是與時偕極也。乃見天則者,言乾元能用剛陽之徳,乃顯天之法則也。
「乾道乃革」は、九四が下卦の頂端を脱して上卦の最下位に入ったので、その道が変革を生じたということです。「乃位乎天徳」は、天は衆多の陽気が積聚して成ったもので、今、九五のこの爻が剛健陽剛の徳をもって至尊の地に居るので、その処する位はまさに天位に本づくことが見えるということです。「与時偕極」は、夏暦四月に陽気が盛んで極点に至るのは、ちょうど聖人が八九十歳の高齢に至るがごときで、これが時勢とともに極点に走るということです。「乃見天則」は、乾元が剛陽の徳を施用し得て、ここにおいて上天の法則を顕現するということです。
乾元者,始而亨者也。利貞者,性情也。乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉。大哉乾乎,剛健中正,純粹精也。六爻發揮,旁通情也。時乘六龍以御天也,雲行雨施,天下平也。
《文言伝》は言います。いわゆる「乾元」は、万物を開創して亨通せしめるものです。いわゆる「利貞」は、万物の本性と情態を指します。乾は開創の初めから美好の利益をもって天下に施恵し得るのに、自分が何処に利するかを言わない。実に偉大かな。偉大かなこの乾の徳、剛にして強く、健にして勁く、中にして和し、正にして端し、純一精粹にして夾雑せず。六爻の発揮鋪展は、旁通曲達して万事万物の情状を写し尽くしました。聖人は時に乗じて六龍を駕して天道を御し、雲気は流行し雨沢は普く降り、天下は因って太平です。
義曰:此以下文言之第五節,又重釋乾之四徳也。乾元者始而亨者也者,元,始也;亨,通也。言乾以一元之氣始生萬物,萬物皆資始於一元,然後得其亨通,故於春則芽者、萌者盡達,至夏則繁盛,是乾以一元之氣始生於物而物得其亨通也。
胡瑗の解説:ここから以下は《文言伝》の第五節で、再び乾の四種の徳性を解釈します。「乾元者、始而亨者也」――「元」は開始、「亨」は通達です。乾が渾然の元気をもって万物の生育を始め、万物が皆この一元の気を取って自らの開端とし、そうしてはじめて亨通を得るということです。ですから春に至れば芽を抽くもの萌動するものが皆伸び出し、夏に至れば茂盛繁密となります。これはまさに乾が一元の気をもって万物の生育を始め、万物がこれによって亨通を得たということです。
利貞者性情也者,言萬物既生而繁盛,則必漸成之,故利於秋,貞於冬。當秋之時,則萬物和漸而成;至於冬,則幹了而無不獲其正性。言之人事,則聖人能生成天下民物,使皆獲其利而不失其正者,葢能性其情也。何則?葢性者,天生之質,仁義禮智信五常之道無不備具,故稟之為正性;喜怒哀樂愛惡欲七者之來,皆由物誘於外,則情見於內,故流之為邪情。唯聖人則能使萬物得其利而不失其正者,是能性其情,不使外物遷之也。
「利貞者、性情也」は、万物がすでに生長繁盛した以上、必ず一歩一歩その成熟を促すので、「利」は秋に落ち、「貞」は冬に落ちます。秋に至れば万物は和順漸進して成熟に趨き、冬に至れば収結完成して自らの正性を獲得しないものはありません。人事に換えて言えば、聖人が天下の百姓万物を生養成就して彼らをして皆利益を得てその正を失わせないことができるのは、まさに聖人が本性をもって情感を節制し得るからです。なぜか。「性」は天が賦与する資質で、仁・義・礼・智・信の五常の道が完备にその中に含まれていないものがないので、禀受し下れば正性となります。而して喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲の七者の発動は、皆外物が外で誘引するに因るので、情が内に動き、放縦し続ければ流れて邪情となります。ただ聖人のみが万物をしてその利を得てその正を失わせないことができるのは、まさに彼が本性をもって情感を統攝し、外物に自分を牽き去られないからです。
然則聖人之情固有也,所以不為之邪者,但能以正性制之耳,不私於己而與天下同也。聖人莫不有喜之情,若夫舉賢賞善、興利於天下,是與天下同其喜也;聖人莫不有怒之情,若夫大奸大惡、反道敗徳者從而誅之,是與天下同其怒也;聖人莫不有哀之情,若夫鰥寡孤獨則拯恤之,凶荒札厲則賙貸之,是與天下同其哀也;聖人莫不有樂之情,若夫人情慾壽則生而不傷,人情慾安則扶而不危。若此之類,是與天下同其樂也。
こう言えば、聖人の情感は本来あるのであって、流れて邪僻にならない所以は、ただ彼が端正の本性をもって節制し得るからにほかなりません。彼は情を私に己に帰せず、天下人と共有します。聖人に喜悦の情のないことはありません。たとえば賢才を挙薦し善行を賞与し天下のために利益を興辦する、これがすなわち天下人と彼の喜を共有することです。聖人に憤怒の情のないことはありません。たとえばあの大奸大悪、正道を背き徳行を敗壊する人に対しては即座に誅討を加える、これがすなわち天下人と彼の怒を共有することです。聖人に哀憫の情のないことはありません。たとえば鳏夫寡婦・孤児独老に救助撫恤を加え、饑荒瘟疫に遇えば賑済貸借する、これがすなわち天下人と彼の哀を共有することです。聖人に歓楽の情のないことはありません。たとえば人情は皆長寿を欲すれば、彼は人をして生を得て傷害を受けさせず、人情は皆安穏を欲すれば、彼は人を扶助して危険に陥らせません。このような類がすなわち天下人と彼の楽を共有することです。
是皆聖人有其情則制之以正性,故發於外則為中和之教,而天下得其利也。小人則反是,故以情而亂其性,以至流惡之深,則一身不保,況欲天下之利正乎?
これらはいずれも説明するのは、聖人は情感があるといえども、端正の本性をもって節制を加えるので、外に流露すれば中正平和の教化となり、天下人はこれによって実恵を得るということです。小人は則ち正に反対で、情感に任せて自分の本性を攪乱させ、悪習に陥ることいよいよ深くなり、自身さえ保てなくなるのに至ります。まして天下人をして利を得正を得させようとするをや。
乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉者,此又嘆美乾之徳,言乾始以一元而生成美利於天下,於卦不言所利者,誠由至廣至大,無有限極,故不可以所利言之也。然則《易》卦有具四徳者七,其餘皆言所利,若坤言「利牝馬之貞」、屯言「利建侯」之類是也,葢有所繫然耳,獨乾徳至大,故不可言所利也。
「乾始能以美利利天下、不言所利、大矣哉」は、再び乾の徳性を賛美するものです。乾が始めから渾然の元気をもって天下の美好の利益を生成するのに、卦辞の中ではそれが何処に利するかを指し明さないのは、実にそれがあまりに広くあまりに大きく辺際がないため、ある具体的な利処をもってそれを言うことができないからです。《易経》の六十四卦の中で元亨利貞の四徳を兼備するのは全部で七卦あり、其余の各卦はみな利する所を指し明さなければなりません。たとえば《坤》卦の「利牝馬之貞」、《屯》卦の「利建侯」の類です。それは彼らが各々牽繋する所があるからです。ただ乾徳のみが極めて広大なので、利する所を指し明すことができません。
其曰大哉乾乎,剛健中正,純粹精也者,此言乾之徳至大而不可窮測也。以其剛健運行,晝夜之間凡行九十餘萬里,而無毫釐之過與不及,至於春夏以生,秋冬以成,自古逮今未嘗違悖,是其至健而不失中正也。所以然者,葢以至純至粹,精健而不雜故也。
「大哉乾乎、剛健中正、純粹精也」と言うに至っては、これは乾の徳性が極めて広大で測度し得ないことを説きます。それは剛健に運転して一昼夜の間に九十万余里を行くのに、一毫の過も不及もなく、春夏に万物を生長させ秋冬に万物を成熟させるに至っては、古から今に至るまで錯乱し違背したことがありません。これがすなわち極めて剛健にして中正を失わないということです。このようであり得る所以は、それが極めて純一で極めて精粹で、精純剛健にして丝毫の渣滓を夾雑しないからです。
六爻發揮,旁通情也者,言乾之六爻或濳、或見、或躍、或飛,而跡皆不同,故發越揮散,則可以見聖人出處進退之情也。時乘六龍以御天也者,已解在彖。雲行雨施,天下平也者,言乾以一元之氣布而為雲、散而為雨,以生成天下而無不均也。
「六爻発揮、旁通情也」は、乾の六爻が或いは潜伏し或いは顕現し或いは騰躍し或いは飛升して、行跡が各々同じでないということです。ですからそれらを鋪展して発揮すれば、聖人の出仕退隠・進取退譲の種々の情態が見えます。「時乗六龍以御天也」の一句は、前に《彖伝》を解釈したときすでに講じました。「雲行雨施、天下平也」は、乾が渾然の元気をもって、布散して雲となり洒落して雨となり、もって天下の万物を生養して均しく沾らないものがないということです。
君子以成徳為行,日可見之行也。潛之為言也,隠而未見,行而未成,是以君子弗用也。
《文言伝》は言います。君子は修め成した徳性を実践に付し、それは日々に人に見られる行いです。「潜」の字に至っては、徳がまだ隠伏して顕れず、行いがまだ修まって成らないので、君子はこのとき施用しないと言うのです。
義曰:自此至其唯聖人乎,文言之第六節也。此一節復釋潛龍之言,故先發上二句,以明不可用潛龍為徳也。言君子之人得其天性之全,故五常之道亦必博學審問,然後修成其徳,為常行之行而發之於天下,使天下之人日見其所行,此謂君子之常道也。
胡瑗の解説:ここから「其唯聖人乎」までが《文言伝》の第六節です。この節は再び「潜龍」の言葉を解釈するので、まず上の二句を提出して、潜蔵を徳とすべからざるを説明するのに用います。これは君子が完整の天性を秉受したとはいえ、仁義礼智信の五常の道もなお広博に学び審慎に問わなければならず、そうしてはじめて自分の徳を修め成して日常践履の行いに化して天下に施展し、天下人をして日々に彼の作為を見させる、これがはじめて君子の常道と呼ばれるものです。
潛之為言也,隱而未見,行而未成,是以君子弗用也者,夫君子之人既以成徳為行為心,則不可專務隠晦。今之潛,則是以聖人之資性反在於潛遁未見之時也。行而未成者,言既有聖人之性,則必學之問之,修成其道而為行於己,然後用之於外,則可以成聖人之全徳。今止以潛遁為心,則是有聖人之資質而不學不問,亦終不能成行於已,是與不聖同矣,故聖人於此戒之,言是以君子弗用此潛龍為徳也。
「潜之為言也、隠而未見、行而未成、是以君子弗用也」――君子はすでに徳性を修め成して実践に付すことを本心としている以上、一味に隠晦を追求すべきではありません。今、言う所の「潜」は、まさに聖人の資質本性を潜蔵遁世・顕現することなき境地に倒放するものです。いわゆる「行而未成」は、聖人の天性があれば必ず学び問わなければならず、道を修め成して自らの行為に落とし込み、然る後に外に施用してはじめて聖人の完备な徳を成就し得るということです。今、ただ潜蔵遁世を心に置けば、それは空しく聖人の資質を有しながら学ばず問わず、ついに自分の身に徳行を成就できず、聖人でない者と区別がありません。ですから聖人はここで告戒を加えて、したがって君子はこのような潜蔵を徳として施用しないと言うのです。
君子學以聚之,問以辨之,寛以居之,仁以行之。易曰「見龍在田,利見大人」,君徳也。
《文言伝》は言います。君子は学習をもって学問を積聚し、請教をもって疑惑を辨明し、寛厚の態度をもって処世自居し、仁愛の原則をもって人を待ち事を行います。《易経》の「見龍在田、利見大人」は、まさに人君の徳を説くのです。
義曰:此釋九二爻辭也,言君子之人稟天之全性,發見於世而能執中庸之道者也。何哉?蓋聖人雖得天生善性之全,亦須廣博其學以精其徳,審問以辨其疑,而又寛裕居其時以畜聚其事業,而志於逺大,是以執其中庸而不有妄動,以至推仁義以愛人,示恩信以撫物,其徳業恢廣,無所不至,使天下之賢智者可以俯就,天下之愚不肖者可以企及,此皆由博學、審問、寛居、仁行之然也。
胡瑗の解説:これは九二の爻辞を解釈し、君子が天の完整な善性を秉受して世に顕れ中庸の道を執守し得ることを言います。なぜそう講ずるのでしょうか。聖人は天から完整の善性を得たといえども、なお広博に学を求めて己の徳を精純とし、審慎に発問して己の疑惑を辨清し、さらに寛裕の心境をもって己の遇う時勢に安処し、従って己の事業を積蓄し志を遠大の所に立てねばならないからです。このため彼は中庸を執守して軽挙妄動せず、進んで仁義を推行して他人を愛護し、恩徳信義を昭示して万物を安撫し、徳行事業を恢弘広大にして到らない所なく、天下の賢明智慧の人をして俯身して相就くを願わせ、天下の愚昧不肖の人をしても踵を上げて追い付かせることができます。これらは皆博学・審問・寛居・仁行に凭ってはじめて為し得るのです。
是故庸人之情,苟一善得於已,則必悻悻然恥於下問,而又躁妄以求其進,所居失其寛,所行失其仁,是故業不能成於逺大而終為淺丈夫矣。故聖人又於此嘆美九二之徳,言其見龍在田,以其有人君之徳而無人君之位耳。
反対に言えば、平庸の人の常情は、自分に剛に一点の長所があれば、むきになって自分に及ばない人に請教するのを恥じ、また急躁妄動して一味に上進を求めます。こうなれば処世は寛厚を失い行事は仁愛を失います。ですから事業は遠大の所に成就できず、ついにただ器局の浅薄な人となるだけです。したがって聖人はここで再び九二の徳性を賛美して、彼は「見龍在田」したがただ人君の徳があって人君の位がないだけだと言うのです。
九三重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。
《文言伝》は言います。九三は剛爻を重ねて中位に居らず、上に向かって天位に及ばず、下に向かってまた田野の位にありません。ですから彼は勤勉して懈らず時に随って警惕を保ち、危境に処しても過咎がありません。
義曰:此又釋九三之爻。葢此一卦上下皆乾,是重剛也;三四介重剛之間,下已過於二,上不及於五,故皆曰重剛而不中也。上不在天,非九五之君也;下不在田,非九二之臣也。正當大臣之位,上有一人之奉,下有百官萬民之責,故乾乾因其時而惕懼,不敢遑安,如此則雖在危地亦可無咎。
胡瑗の解説:ここはまた九三のこの爻を解釈します。乾卦の上下二つの経卦はともに乾なので「重剛」と呼びます。三・四の両爻はこの重剛の間に挟まり、下にはすでに居中の二爻を越え、上にはまた居中の五爻に及ばないので、両爻とも「重剛而不中」と言います。「上不在天」は彼が九五のような君主でないということ、「下不在田」は彼もまた九二のような臣子でないということです。彼はまさに大臣の位置に居り、上には奉事すべき天子一人があり、下には責任を負うべき百官万民があるので、終日勤勉して時に警惕畏懼し、片刻の安逸をも敢えてしません。こうすれば、身は険地に居るといえども過咎がありません。
九四重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故或之。或之者,疑之也,故無咎。
《文言伝》は言います。九四は剛爻を重ねて中位に居らず、上に向かって天位に及ばず、下には田野の位に在らず、中に居ってもまた人の位に在りません。ですから「或」と言います。いわゆる「或」は迟疑して定まらない意で、したがって過咎がありません。
義曰:此又釋九四之爻。乾之六爻,上二爻為天,下二爻為地,中二爻為人,備三才也。此九四一爻,上不在天,下不在田,中不在人,是中不在人臣而正得儲君之位。既為儲貳,則進退上下皆有疑惑,故所進而上者,修徳也;所退而下者,守位也。夫如是,故無咎矣。
胡瑗の解説:ここはまた九四のこの爻を解釈します。乾卦の六爻の中、上の二爻は天を表し、下の二爻は地を表し、中の二爻は人を表し、ちょうど天地人の三才を斉備します。九四のこの爻は、上に向かって天位に及ばず、下には田野の位に在らず、中に居ってもまた人の位に在りません――すなわち人臣の列に属さず、恰好に储君の位を取りました。すでに储君であれば、進退上下は皆疑虑を免れません。上に向かって進取する面は徳行を修養することで、下に向かって退守する面は位分を守ることです。こうするので過咎がありません。
夫大人者,與天地合其徳,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶。先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?
《文言伝》は言います。いわゆる「大人」は、その徳は天地と合し、その明は日月と合し、その政令の次序は四時と合し、その善を賞し悪を罰するのは鬼神の福を降し禍を降す吉凶と合します。彼が天時に先んじて事を行えば天も彼に背かず、彼が天時に後れて事を行えばそれは天時に奉順するものです。天ですらなお彼に背かないのに、まして人においてをや、まして鬼神においてをや。
義曰:此又釋九五之爻。大人者,大才大徳之人也。夫天高而覆,地厚而載,故其徳曰生;聖人亦能以仁愛生成於物,故與天地合徳。日月至明,故無幽無隠皆燭之;而聖人亦能同其明。天以春夏秋冬而生成肅殺,聖人亦能以仁義刑政化天下,故與四時合其序。鬼神之為道,善者福之,淫者禍之;聖人則賞善罰惡,是與鬼神合其吉凶。先於天時而行事,則天弗違之,是天合大人也;後於天時而行事,則奉順於天時,是大人合天也。以天之至大而聖人合之,況於人與鬼神乎?
胡瑗の解説:ここはまた九五のこの爻を解釈します。「大人」とは大才大徳の人です。天は高く上に在って万物を覆い、地は深厚に下に在って万物を載せるので、それらの徳を「生」と呼びます。聖人もまた仁愛の心をもって万物を生養成就し得るので、天地の徳と合すると言います。日月は最も光明なので、幽暗隠蔽で照らさない所がありません。聖人もまた同様の明察を有し得ます。天は春夏をもって生長させ秋冬をもって肅殺し、聖人もまた仁義と刑政をもって天下を化育し得るので、四時の次序と合すると言います。鬼神の道理は、善を行う者には福を降し淫邪の者には禍を降します。聖人は則ち善を賞し悪を罰します。これがすなわち鬼神の吉凶と合するということです。彼が天時に先んじて事を行っても天は彼に背かないのは、天が来て大人に合するのであり、彼が天時に後れて事を行えばそれは天時に奉順するのであって、これは大人が往って天に合するのです。上天のあの至り高く至り大なるをもってしてなお聖人と相合し得るのに、まして人と鬼神においてをや。
亢之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。其唯聖人乎?知進退存亡而不失其正者,其唯聖人乎。
《文言伝》は言います。いわゆる「亢」とは、前進を知るのみで後退を知らず、保存を知るのみで消亡を知らず、獲得を知るのみで喪失を知らないことです。これがどうして聖人であり得ましょうか。進退存亡の分寸を知ってその正を失わない者は、ほぼ聖人のみでしょう。
義曰:此又釋上九之爻。亢之為言,但知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪,如此之類皆聖人之所不為,是亢而招悔者也。唯聖人為能知進而不忘退,知存而不忘亡,知得而不忘喪,故於衰耗之年則求所代而終之,堯、舜、禹是也。上一句其唯聖人乎,於義不安,當為羨文。
胡瑗の解説:ここはまた上九のこの爻を解釈します。いわゆる「亢」は、前進を知るのみで後退を知らず、保存を知るのみで消亡を知らず、獲得を知るのみで喪失を知らないことで、このような類は皆聖人の為さない所で、亢進するがゆえにはじめて悔恨を招きます。ただ聖人のみが前進を知って後退を忘れず、保存を知って消亡を忘れず、獲得を知って喪失を忘れずにいられます。ですから衰老力竭の年に至れば、後継者を物色して自分の職位を結了させます。堯・舜・禹がこれです。上のあの「其唯聖人乎」の一句に至っては、文義で通らないので、出て余った衍文であるべきです。
坤 坤下坤上
義曰:此伏羲所畫、文王所重,純陰之卦也。上下六爻皆陰,以象地積諸陰氣而成也。坤者,順也。言坤柔順之徳,上承於天以生成萬物,猶臣以柔順之徳上奉於君,以生成萬民也。
胡瑗の解説:坤卦の三画の符号は伏羲の画いたものに出て、これを上下に重畳して六画の卦としたのは周文王に出て、これは純粋に陰爻で組まれた卦です。上下の六根の爻は全て陰爻で、もって大地を象徴します――大地はまさに衆多の陰気を積聚してはじめて形体を凝成したものです。「坤」の字の本義は順従で、これが坤の「卦徳」すなわち一卦の代表する根本的な性情と功用です。これは坤の具える柔順の徳が、上は天の陽気を承接して従って万物を生養成就することを言います。ちょうど臣子が柔順の品德をもって上は君主に奉事し、従って天下の百姓を養育するがごときです。
元亨,利牝馬之貞。君子有攸往,先迷後得主利。西南得朋,東北喪朋。安貞吉。
坤卦の卦辞は言います。坤は「元亨利貞」の四徳を具えます――元は創始、亨は通達、利は各々その宜を得、貞は正を守り固く持すること――ただその貞は母馬のような柔順貞正に取り法ります。君子が往く所あるとき、人の先に抢えば方向を迷い、人の後に落ちればかえって依帰を見つけて利を得ます。西南方に往けば同類の助けを得、東北方に往けば同類を失います。本分に安んじ正しい道を持定すれば吉祥を得ます。
義曰:此一節是文王所作卦下之彖辭也。凡坤之四徳,與乾之四徳同也。但乾以剛健之徳資始萬物,坤以柔順之徳資生其形也。其言利牝馬之貞者,蓋乾體至大,全用剛徳,故於乾卦之下直言元亨利貞,而不言所利也。今坤主臣道,故言利牝馬之貞者,蓋馬取其服乘有善行之才,而又牝馬順之至也。以言地之為道,能順承天之氣以生成萬物,無有休息。若人臣順承於君,而能宣君之令、行君之事,皆不失其正道,故言利牝馬之貞也。
胡瑗の解説:この節は周文王が卦下に系した彖辞、すなわち一卦の大義を総断する卦辞です。坤の具える四徳は乾卦の四徳と本来同じものです。差異は、乾が剛健の徳をもって万物に創生の動力を提供し、坤が柔順の徳をもって万物に成形の質地を提供することです。「利牝馬之貞」と言う所以は、乾の体量が極めて博大で純粋に剛徳を用いるので、乾卦の下に直接「元亨利貞」と言い、さらに利する方向を指し明す必要がないのに対し、坤の主管するのは臣子の道なので、母馬のように正を守るに利ありと言わなければなりません。馬を取って象とするのは、馬が人に駕乗を供し行くことを善くする才能有るがゆえで、母馬はまた柔順が極点に至っています。これは大地の運行の道が、順従して天の陽気を承受して万物を生養し永く停歇しないことを言います。ちょうど臣子が順従して君主を承奉し、君主の号令を宣布し君主の政事を办理して皆正道を失わないがごときです。ですから「利牝馬之貞」と言います。
君子有攸往者,夫坤體之利,唯至順至正,然後不失其常道。人臣之分,亦當執其正而濟之以順。若順而不正,則失於諂媚;若正而不順,則失於悍愎而有先君之事。是故惟君子有全徳,乃能循此道,始終不失其分,以此而往,無所不利,故曰君子有攸往也。
「君子有攸往」と言うに至っては、坤のこの卦体のよい所は、極順極正を為してはじめてその固有の常道に背かないことです。臣子の本分もまたこのようで、正道を持守し、また柔順をもってそれを成全すべきです。順従するだけで端正でなければ阿諛奉承に流れ、端正なだけで順従でなければ剛愎自用に流れ、さらには君主の前頭に抢って擅自に行事するに至ります。ですからただ徳行の完备した君子のみがこの道に遵循して始めから終りまで本分を失わないことができ、このような品德を帯びて前往すれば往いて利ならないことはありません。ですから卦辞は「君子有攸往」と言うのです。
先迷後得主利者,夫乾者天道,坤者地道。言之人事,則乾為君、為父、為夫,坤為臣、為子、為婦。言其分,則君倡而臣和,父作而子述,夫行而婦從。若臣先君而倡、子先父而作、婦先夫而行,則是亂常道也。若能處其後而順行其事,不為事先,則得其主守,而不失為臣為子為婦之道也。
「先迷後得主利」と言うに至っては、乾は天道を表し坤は地道を表します。人事に落とせば、乾は君主・父・夫であり、坤は臣子・子・妻です。各自の名分に照らせば、君主が発起して臣子が応和し、父が創始して子が承述し、夫が先行して妻が跟従します。もし臣子が君主の前に抢って発起し、子が父の前に抢って創始し、妻が夫の前に抢って行動すれば、それは常道を撹乱したものです。もし後に安処して上位者の意思に順って事を成し遂げ、発起する人を抢って為さなければ、自分の依帰する主体を守ったことになり、臣たり子たり妻たりの正道を失いません。
西南得朋者,西南致養之地,陰之位也。今坤本陰,以陰之陰,是得其朋類而行。若君子未仕之時,必得明師賢友以相切磋。蓋聖賢事業尤甚淵博,獨學則不能成,獨見則不能明,固須資於朋類而後有所至也。故《伐木》詩曰:自天子至庶人,未有不須友以成也。是言人必得朋類而事業可成也。
「西南得朋」と言うに至っては、西南は万物を滋養する方位で、陰の位置に属します。坤はもともと陰で、陰の身分をもって陰の位に往けば、同類を見つけて伴行するに等しい。これはちょうど君子がまだ出仕しないときに、必ず明師益友と交わって互いに切磋しなければならないようなものです。聖賢の学問事業は極めて淵深広博で、独り苦学しても成就し難く、独り思索しても通明し難く、本来同類の助けを借りてはじめて到達し得るものです。ですから《詩経・小雅》の《伐木》篇の詩序に「上は天子より下は平民に至るまで、朋友に依頼して自らを成就しない者はいない」とあります。これはすなわち人は必ず同類の相助を得てはじめて事業を成し得るということです。
東北喪朋者,西南為陰位,東北為陽位。今離西南而反之東北,是以陰之陽,喪失其朋類。如君子之人,與師友講成道徳,及其業已就、其性已明,務行其道而薦身於朝廷之間,以求致君澤民之事,是喪失其朋類者也。安貞吉者,言地體安靜而永守其正。若天氣降於地,地則承而發生,是不妄有所發也。如臣之輔君,當常守安靜貞正之徳,待君倡然後和之,是亦不妄有所動,故得獲其吉也。
「東北喪朋」と言うに至っては、西南は陰の方位、東北は陽の方位です。今、西南を離れて東北に向かうのは、陰の身分をもって陽位に入ることで、因って同類を失います。これはちょうど君子が師友とともに講習して道徳を成就し、学業すでに成り心性すでに明らかになれば、自分の主張を推行することに致力し、自身を朝廷に薦め入れて君主を輔佐し百姓に恵みを施す事を為す――これはすなわち元の同類を離れるに等しいということです。「安貞吉」と言うに至っては、大地の形体は安らかに静まり、永遠にその端正を守ることを説きます。天の陽気が地に降れば地は承接して万物を生発させ、擅自に発動しません。これはちょうど臣子が君主を輔佐するに、常に安静貞正の品德を守り、君主が先に発起して然る後に応和し、同じく擅自に妄動しないので、吉祥を獲得し得るがごときです。
彖曰:至哉坤元,萬物資生,乃順承天。坤厚載物,徳合無疆;含弘光大,品物咸亨。牝馬地類,行地無疆;柔順利貞,君子攸行。先迷失道,後順得常。西南得朋,乃與類行;東北喪朋,乃終有慶。安貞之吉,應地無疆。
《彖伝》は言います。坤の創始の徳はなんと周至なることか。万物はそれに倚靠してはじめて形を成して生長し、それは順いかつ天の陽気を承受します。大地は深厚にして万物を載せ、その徳は広大にして辺界がありません。それは含容して寛厚にして光明盛大であり、各類の事物は因って皆亨通し得ます。母馬は大地と同類で、大地を行って止境がありません。柔順にして正固を守持するのは、まさに君子の行くべき道です。前に抢えば方向を迷い、後に随って従えばはじめて常道に合します。西南に往って同類を得るのは、自分の族類と同行するのであり、東北に往って同類を失うのは、ついにかえって喜慶があります。貞正に安んじて吉祥を得るのは、まさに大地の辺際なき徳行に応ずるものです。
義曰:此以下先聖釋文王彖辭之辭。至哉坤元,萬物資生,乃順承天,此三句釋坤元之徳也,故先嘆美之。言至哉者,蓋坤主承天之氣而生萬物之形,必有所至也。萬物資生者,言一元之氣降於地,為萬物之始也。承一元之氣以生萬物之形,是天下萬品之物,莫不資取於坤元而生其形質也。乃順承天者,蓋地得天之降氣,然後順從而發生萬物也。
胡瑗の解説:ここから下は、孔子が文王の彖辞を解釈する言葉です。「至哉坤元、万物资生、乃順承天」の三句は坤の創始の徳を解釈するので、まず賛嘆を加えます。「至哉」と言うのは、坤が専ら天の陽気を承受して万物の形体を生成することを主とし、必ず抵達する所があるからです。「万物资生」と言うのは、あの統一の元気が大地に降落して万物の開端となり、この元気を承接して万物の形体を生成するので、天下の各類の事物で坤の創始の徳に取資してはじめて形質を得ないものはないということです。「乃順承天」と言うのは、大地が天の降した陽気を得て然る後に、順って万物を生発させるからです。
坤厚載物,徳合無疆,此二句釋坤之自然之徳也。坤厚載物者,言地道博厚,於天下之物,高下洪纎無不持載,無不包容也。徳合無疆者,言地者形之名,坤者地之用,是地之形則至廣至大而無疆畔;若其徳,則持載生育萬物,大無不周,逺無不及,是坤之徳亦合地形之無疆也。
「坤厚載物、徳合无疆」の二句は坤が天然に具える徳行を解釈します。「坤厚載物」と言うのは、大地の道が博大厚重で、天下の万物に対して高いものも低いものも粗大なものも細小なものも、載せないものなく包み容れないものがないということです。「徳合无疆」と言うのは、「地」は形体に就いての名称で、「坤」は大地の功用に就いて言います。地の形体は極めて広大で辺界がありません。その徳行に至っては、万物を載せて生育し、再大なるも周遍しないものなく、再遠きも到達しないものなく、坤の徳行が同じく大地の形体のあの無辺無際に合することが見えます。
含光大,品物咸亨者,此釋亨之徳也。含,包也;厚也;光,明也;大,盛也。謂之含者,言坤之為體,無所不包,無所不周;謂之者,言博厚而無所不載;謂之光者,言萬物由地而生,皆得亨通而光明;謂之大者,言其體至廣至大。謂坤之有此四徳,然後萬物繁植,得其亨通也。
「含弘光大、品物咸亨」のこの一句は坤の亨通の徳を解釈します(原文はここおよび下文で二つの「弘」の字を脱しています)。「含」は包容、「弘」は厚重、「光」は明亮、「大」は盛大です。「含」と称するのは、坤が一つの全体として包容しないものなく周遍しないものがないということです。「弘」と称するのは、博大厚重にして載せないものがないということです。「光」と称するのは、万物が大地から生まれて皆亨通して顕明し得るということです。「大」と称するのは、その形体が極めて広大だからです。まさに坤がこの四種の徳行を兼備するがゆえに、然る後に万物は繁盛生長して各々亨通し得たのです。
牝馬地類,行地無疆者,此釋利牝馬之貞。言地之為道,生成萬物,無有休息;馬為人所服乘,亦能行之不息,是為地之倫類,而行之無疆也。柔順利貞,君子攸行者,此釋君子有攸往之義。言君子之人,能柔和謙順以盡其為臣之節,而又不失其正,是所往無不獲其利也。
《彖伝》の「牝馬地類、行地无疆」のこの一句が解釈するのは、卦辞の中の「利牝馬之貞」です。大地の運行の道は万物を生養成就して永遠に停歇することがなく、馬は人に駕乗を供して同じく行き止まないことを能くし、大地と同じ類に属するので、大地を行って辺際がないと言います。《彖伝》の「柔順利貞、君子攸行」のこの一句が解釈するのは、卦辞の中の「君子有攸往」の含義です。君子が柔和謙遜をもって臣子たるの節操を尽くし、同時にまた自分の端正を失わない、柔順にしてその正を失わない、これがまさに君子の行くべき道であるから、どこに往いても利益を獲得できるということです。
先迷失道,後順得常者,此釋先迷後得主利之義。言為人子、為人臣、為人婦,其為道必須待倡而後和,行而後隨。若首先而行,則迷惑錯亂而失其道;若所行居人之後,而順承其上,乃得君子之常道也。西南得朋,乃與類行者,已釋在前。東北喪朋,乃終有慶者,此言君子已仕,進用朝廷,上以致君,下以澤民,以施已之素蘊,是終獲其美慶之道也。
「先迷失道、後順得常」のこの一句は卦辞「先迷後得主利」の意を解釈します。子たる者、臣たる者、妻たる者は、その人たるの道が必ず相手が先に発起して然る後に応和し、相手が先に行動して然る後に跟従しなければなりません。もし抢えて先に行けば迷惑錯乱して正道を失い、人の後に居って順従して上位者を承奉してはじめて君子の常道に合します。「西南得朋、乃与類行」は前にすでに解釈しました。「東北喪朋、乃終有慶」は、君子がすでに出仕して朝廷に任用され、上は君主を輔成し下は百姓に恵みを施し、平素の学養を全部施展し出す、これがすなわち最終的に美好の喜慶を獲得する道です。
安貞之吉,應地無疆者,此言坤之所以安靜守正而得吉者,蓋由承天之氣以發育萬物,無所不得其生,是其徳之無疆也。君子之人上承於君,亦當安然守至正之徳,而不為事始,不為物先,待君令而後行,此其所以獲吉也,是其徳應地無疆也。
「安貞之吉、応地无疆」のこの一句は言います。坤が安静に正を守って吉祥を得られ得る所以は、それが天の陽気を承接して万物を発育し、一つの物もそれに因って生長を獲得しないものがないからで、これがまさにその徳行の無辺無際です。君子が上は君主を承奉するに、また安らかに極端正の品德を守り、事の発起者を為さず、他の物の前に抢わず、君主の命令が下るを待って然る後に行動します。これがすなわち彼が吉祥を獲得し得る所以であり、まさにその徳行が大地の無辺に応ずるのです。
象曰:地勢坤,君子以厚徳載物。
《大象伝》は言います。大地の形勢は坤の柔順厚重を体現し、君子はこの卦象に取り法って、寛厚の徳行をもって万物を載せ衆人を容れるのです。
義曰:此先聖大象之辭。言地之形體,固本柔順,柔順者地之勢也,故能生成萬物之形質也。君子以厚徳載物者,言君子之人法地之道,以寛厚其徳,使其器業廣大弘博,無所不容,以載萬物,使萬物無不得其所,皆如地之容載也。
胡瑗の解説:これは孔子の作った《大象伝》の言葉です。大地の形体はもともと柔順を根本とし、柔順こそ大地の形勢なので、万物の形体的質地を生成し得ます。「君子以厚徳載物」と言うのは、君子が大地の道に效法して自分の徳行を寛広厚重とし、胸襟器量と事業規模を広大弘博にして容納できないものなく、これをもって万物を載せ、万物に一つもその所を得ないものなく、大地が一切を容載するがごときにせよということです。
初六:履霜,堅氷至。象曰:履霜堅氷,陰始凝也;馴致其道,至堅氷也。
初六の爻辞は言います。足で霜を踏んだなら、堅厚な氷がまもなく至ります。《小象伝》は言います。霜を踏んで堅氷の至るを知るのは、陰気が凝結を始める兆です。この路に沿って一歩一歩順習して往けば、堅氷の地步に至ります。
義曰:言履霜者,陰氣始凝結之時也;堅氷者,陰氣極盛之時也。夫坤之六爻皆陰,而初六居其最下,是陰氣始凝之時也。大凡陰之為氣,至柔至微,不可得而見,故自建午之月,則一陰之氣始萌於地下,以至於秋,人但見其物之衰剝、時之愴慘,且不知其陰之所由來。然於履霜之時,則是其跡已見,故可以推測其必至於堅氷也。
胡瑗の解説:いわゆる「履霜」は陰気が剛に凝結し始めるときであり、いわゆる「堅氷」は陰気が極盛のときです。坤卦の六爻は全て陰爻で、初六は最下の「爻位」すなわち一爻が卦中に居る層次に居り、まさに陰気の初凝のときです。凡そ陰は一種の気として、極めて柔弱細微で見ることも触ることもできません。ですから建午の月(夏暦五月・夏至のある月)から、第一縷の陰気が地下に萌動し始め、秋に至るまで、人々はただ万物が衰敗凋落し時節が凄涼惨淡なのを見るだけで、この陰気が何処から来るかを知りません。しかし霜を踏み得るときになれば、その痕跡はすでに顕現したので、必ず堅氷に発展すると推し断じることができます。
以人事言之,則人君御臣之法,此其始也。夫人之深情厚意,不易外測,故大奸若忠是也。然為臣而佐君,必有行事之跡,於其始善善惡惡可得而度之,故在人君早見之也。見其人臣之間始有能竭節報効,則知終必有黃裳之吉,乃任而用之,使之由小官至於大官,則為國家之福。
人事をもって言えば、君主が臣下を駕御する方法はここから起こります。人心の深い処の情意は外表から測り難いので、大奸が忠に似るという事があります。しかし臣子として君主を輔佐する以上、必ず事を办った痕跡を残します。痕跡が剛に現れたときに、善に趨くか悪に趨くかを推し断じることができるので、要は君主が早く見抜き得るかにあります。或る臣子が始めから節操を竭くして朝廷に報効するのを見れば、彼が最終的に必ず六五の「黄裳元吉」のような吉祥があることを知り、そこで彼を任用して小官から大官に升らせれば、これが国家の福気となります。
若奸邪小人,其有諂佞之狀一露,則知積日累乆,必至於龍戰之時,故當早辨而黜退之,則其惡不能萌漸也。若使至於大位,以僭竊侵陵,則惡亦不易解矣。是由履霜之積,積而不已,終至堅氷,是冝辨之在始也。象曰履霜堅氷陰始凝也者,言陰之至於履霜,是陰氣始凝之時也。堅氷二字,當為羨文,蓋下文已有至堅氷也。馴至其道至堅氷也者,蓋馴者,馴狎之義,謂臣之積惡有漸,乆而不已,則至大患也。
反対に、もし奸邪の小人であれば、一旦諂媚佞巧の形跡を露呈すれば、日積月累して往けば必ず上六の「龍戦于野」のような君臣相闘の地步に発展することを知り、早く辨明して罷黜斥退すべきです。こうすれば彼の悪は少しずつ滋長する由がありません。もし彼が高位に這い上るのを聴き任せて僭越して権を窃み君上を欺凌すれば、そのときの禍害は容易に化解しません。これがまさに霜を踏むの積累で、積んで止まなければ終に堅氷となります。分別の功夫は始めに下すべきことが見えます。《小象伝》の「履霜堅氷、陰始凝也」は、陰気が霜を踏み得る程度に至ったのはまさにそれが凝結を始めるときだと説くもので、その中の「堅氷」の二字は衍文であるべきです。なぜなら下の一句にすでに「至堅氷」があるからです。「馴致其道、至堅氷也」に至っては、「馴」は馴狎して常に習い慣れる意で、臣子の悪行の積累に過程があり、長く放任して顧みなければ大禍を釀成するに至ることを指します。
六二:直、方、大,不習無不利。象曰:六二之動,直以方也;不習無不利,地道光也。
六二の爻辞は言います。正直・方正・博大で、反復演習しなくても、不利なこともありません。《小象伝》は言います。六二の発動は正直かつ方正です。演習するまでもなく往いて不利なしは、大地の道がもとより光明盛大だからです。
義曰:直,正也。待夫陽之至,然後發而生成萬物,是其體安靜守正而不為物之先也。方,義也。義,冝也。言生物無私,使各得其宜也。大者,言地體至大,無所不包,無所不容也。不習無不利者,言坤有三徳,自然而物生,故不待修習而後能。以人事言之,則君子之人,其徳素蘊,其行素著,聖賢之事業已習之於始,至此用之朝廷之上,隨時而行之,且非臨事而乃營習,故無所不利,是以孟子四十不動心者此也。於卦則二為地之上,是萬物發生之時也,故三徳之備,地道之美,盡於此矣。象曰六二之動,直以方也;不習無不利,地道光也者,言六二以直方大之三徳發動而生物,無不得其冝,蓋以自然之質,不勞而生,不為而成,光大之至也。
胡瑗の解説:「直」は端正です。大地は陽気が来るのを待って然る後に発動して万物を生成するので、その本体は安静にして正を守り、万物の前に抢わないことが見えます。「方」は道義に合することです。いわゆる義は适宜で、大地が万物を生養するに毫も偏私なく、一物一物に各々その宜を得させるということです。いわゆる「大」は、大地の形体が極めて博大で包羅しないものなく容納しないものがないということです。「不習无不利」と言うのは、坤がこの三種の徳行を具えて万物が自然と生まれ出るので、修習を経てはじめてできるというものではないということです。人事をもって言えば、君子の徳行は平素にすでに藴蓄し、操行は平素にすでに彰顕し、聖賢の事業は早くから初めに演練してあり、このとき朝廷に持ち出して施用して時勢に随って推行するのであって、事に臨んではじめて奔走して練習するのではないので、往いて不利なしです。孟子が自分は四十歳で不動心であったと言ったのは、この道理を講じたものです。卦体に就いて言えば、二爻は地面の上に居り、まさに万物の発生するときなので、三種の徳行の完备と大地の道の美好は全てこの一爻に体現し尽くされています。《小象伝》の「六二之動、直以方也、不習无不利、地道光也」は、六二が直・方・大の三種の徳行に凭って発動して万物を生養し、一物としてその宜を得ないものがないということです。これはそれが天然の資質に出て、気力を費やさずに万物が生長し、造作を加えずに万物が成就し、光明盛大が極点に至るからです。
六三:含章可貞,或從王事,無成有終。象曰:含章可貞,以時發也;或從王事,知光大也。
六三の爻辞は言います。美好な才華を含蓄して正を守ることができ、或いは出て君王の事務を办理し、功を自居せずしてよい結末を有します。《小象伝》は言います。美質を含蓄して正を守るのは、適当な時機を待ってはじめて発揮するためです。出て君王の事務を办理するのは、この人の見識が光明で宏大であることを説明します。
義曰:含,畜也;章,美也;貞,正也。言六三陽位,今以陰居之,是能執謙不敢為事之倡始,故內畜聖賢之事、章美之道,待君之所令及謀議之所至,則從而發其章美之道以進於君,如此是得臣子之正。或從王事無成有終者,言六三之君子執臣子之分,不敢先倡,待君有命然後從而行之;既行之,又歸美於君而不敢居其成功,但竭節盡忠而終於為臣之分也。
胡瑗の解説:「含」は蓄蔵、「章」は美好、「貞」は端正です。六三はもとより陽位ですが、今は陰爻がこれに居るので、謙退を持守して事の発起者となることを敢えてしないことが分かります。ですから聖賢の学問・美好の才華を心に蓄蔵して、君主の命令が下り、あるいは政事を商議して自分に問うのを待って、はじめて勢いに順ってこの美質を発揮して君主に進献し、こうして臣子の正道に合します。「或従王事、无成有終」と言うのは、六三のような君子が臣子の本分を謹守して先を争って倡議することを敢えてせず、君主に命令があって然る後に照らして行い、為し成した後にはまた功美を君主に帰して功を自居することを敢えてせず、ただ節操忠誠を竭くして臣たるの本分を守り尽くすということです。
象曰含章可貞,以時發也者,言人臣含畜章美之道,若謀議臣之所為而不知君之所命,則失所以為臣之分也。今含畜章美,俟可發而發之,然後功成於己,即歸之於君,而不失臣子之分也。或從王事,知光大也者,此言君子待君之命而從之,則是君子之智益光明而盛大也。
《小象伝》の「含章可貞、以時発也」は、臣子が美質を内に蓄蔵して、もし自分が办たい事を謀るばかりで君主に命令があるかどうかを顧みなければ、臣子たるの本分を失うということです。今、美質を蓄蔵して発揮すべきときを待ってはじめて発揮し、事が成した後には即座に功労を君主に帰すれば、はじめて臣子の本分を失いません。《小象伝》はまた「或従王事、知光大也」と言い、君子が君主の命令が下るのを待ってから承办すれば、その智慧は愈々光明にして盛大となるということです。
六四:括囊,無咎無譽。象曰:括囊無咎,愼不害也。
六四の爻辞は言います。袋を結び締めるように自分を収斂すれば、過咎もなく称誉もありません。《小象伝》は言います。袋を結び締めて過咎がないのは、事を処するに謹慎だからで、他人は彼を傷つけられません。
義曰:括,結也;囊,所以盛物也。坤是陰卦,六四本陰位,又以陰居之,則是陰陽之道不交,而君臣之間不相接也。然六四既當此否塞之時,則必括結其囊,藏其徳,卷而懐之,以待其時。無咎者,言六四有聖賢之才,若非時而進,則為小人所害;今既能韜光晦跡,故得無咎也。無譽者,言六四既括結其囊,所以斂其才徳,則天下之美譽何由而至哉,故曰無咎無譽也。象曰括囊無咎,慎不害也者,言六四當君臣不交之時,而能慎宻而不出,則小人雖有殘賊之心而欲害之,必不能及也。
胡瑗の解説:「括」は結び締めること、「嚢」は物を盛る袋です。坤はもとより陰卦で、六四はもとより陰位で、また陰爻がこれに居るので、陰陽の道が相交通せず、君と臣の間が彼此相接触しないことが分かります。六四はすでにこの閉塞のときに居る以上、必ず袋を結び締め、徳行を蔵して、抱負を収め巻きて懐に揣して時機を待たねばなりません。「无咎」と言うのは、六四はもとより聖賢の才があり、もし時宜に合わず出て進を求めれば小人に陥害されるところ、今は光芒を収斂し行跡を隠蔵し得るので、過咎がないということです。「无誉」と言うのは、六四がすでに袋を結び締めて才能徳行を皆収めてしまった以上、天下の美名は何処から来ましょうか。ですから「无咎无誉」と言うのです。《小象伝》の「括嚢无咎、慎不害也」は、六四が君臣相交通しないときに居り、謹慎緻密にして外露しないことができれば、小人は縦使残害の心を有して彼に害を加えようとしても、必ず彼を傷つけられないということです。
六五:黃裳,元吉。象曰:黃裳元吉,文在中也。
六五の爻辞は言います。黄色の下裳を穿いていれば大いに吉祥です。《小象伝》は言います。黄裳大吉は、美好の文采が内裏に藴含され中位に居るからです。
義曰:黃者,中之色;裳者,下之飾。蓋衣譬其君,裳喻其臣。以六五居上卦之中,而當公卿之位,是能執中道、施美利而暢於四方,故獲元大之吉也。象曰黃裳元吉,文在中也者,大凡五色備具謂之文,今六五能居中而施其美利,自內及外,自朝廷及天下,是得黃中之色,而可以見四方之色也。
胡瑗の解説:黄は五色の中で中に居る色で、裳は下身に穿く服飾です。上衣は君主に譬え、下裳は臣子に譬えます。六五は上卦の中位に居り、公卿の職位に相当し、「中」の道を持守し得ます。すなわち偏らず倚らず恰到好処で、美好の利益を四方に推行するので大吉を得ます。《小象伝》の「黄裳元吉、文在中也」:凡そ五種の色が斉備してはじめて「文」と呼ばれます。今、六五は中位に居って美利を施行し、内から外に及び、朝廷から天下に推し及ぼすので、居中の黄色を得、しかもこれによって四方の各種の色を顕現し得るのです。
上六:龍戰于野,其血玄黃。象曰:龍戰于野,其道窮也。
上六の爻辞は言います。龍が郊野の上で交戦し、流れる血は青黒と土黄の相雑の色です。《小象伝》は言います。龍が郊野の上で交戦するのは、陰柔が発展して尽頭に至り行く路がなくなったからです。
義曰:龍者,陽之氣;戰者,戰敵之稱;野者,非龍之所處。言陰之為物,至微至柔,積而不已,至於彰著,必成堅氷。蓋自履霜,若能積其善、杜其惡,及其終則有黃裳之大吉;若不能杜其惡,以至害於而家、凶於而國,終有龍戰之災也。夫奸臣賊子之為心,其禍亂之萌,包蔵之乆,至此既不可遽滅之,則必有賢明之君起而誅討之。然而以陽來勝陰,不無相傷,故血玄黃也。玄者,天之色;黃者,地之色,言上下相傷之甚也。象曰龍戰于野,其道窮也者,言自細惡而不辨,至於盛大以及於戰,是其道之窮極也。
胡瑗の解説:「龍」は陽気を指し、「戦」は敵と交鋒する言い方で、「野」は郊外で、本来龍の居るべき所ではありません。これは陰というものが、初めは極めて細微柔弱だが、一旦積累して止まなければ、顕露し出るとき必ず凝って堅氷となることを言います。霜を踏むあの一歩から、もし善行を積み悪念を絶つことができれば最後に六五の「黄裳」のような大吉があり、もし悪念を絶つことができずに至れば、あなたの家を危害しあなたの国を禍乱し、ついに龍戦の災いがあります。奸臣賊子の心思は、禍乱の苗头を包蔵して久しく、このときにはすでに一挙に剷除できないので、必然に賢明の君主が起って彼を討伐しなければなりません。しかし陽をもって陰に戦勝すれば双方が互いに損傷することを免れないので、流れる血は青黒と土黄の相雑です。玄は天の色、黄は地の色で、これは上下双方が彼此に極めて甚だしく損傷することを言います。《小象伝》の「龍戦于野、其道窮也」は、細小な悪行から分辨を加えず、それが壮大に至って交戦に演じるまでの、その路の尽頭に走ったということです。
用六:利永貞。象曰:用六永貞,以大終也。
用六の一条は坤卦が全て陰爻を用いる原則を総論して、長く正固を守持するに利ありと言います。《小象伝》は言います。用六にして永く正を守るのは、宏大の義理に凭って善く始め善く終えることができるからです。
義曰:此言六者,陰之位,自初至終,皆有柔順之徳,故曰用六。然既柔順而不守其正,則為邪為惡,故純用柔順,則利在永長守其貞正,則不失臣子之道也。象曰用六永貞,以大終也者,言既能用其柔順,又能永守貞正之道,則是臣子能以大義而終也。
胡瑗の解説:ここで言う「六」は陰爻の代称で、坤卦は初爻から上爻まで皆柔順の徳行を具えるので「用六」と呼びます。ただ柔順だけあって正を守らなければ邪僻奸悪に流れるので、純粋に柔順を用いるとき、よい所は長久に貞正を守持することにあり、こうしてはじめて臣子たるの正道を失いません。《小象伝》の「用六永貞、以大終也」は、自分の柔順を施用し得てまた永遠に貞正の道を守り得れば、それは臣子が大義に凭って善く終わり得るということです。
文言曰:坤至柔而動也剛,至靜而徳方,後得主而有常,含萬物而化光。坤道其順乎,承天而時行。
《文言伝》は言います。坤は極めて柔順であるが、一旦発動すれば剛健にして力があり、極めて安静であるがその徳行は方正にして偏りがありません。後に随って跟従してはじめて依帰を見つけ常道があり、万物を含容して化育の功を光大させます。坤の道はほぼ一つの「順」の字でしょう――天の陽気を承接して時節に随って推行するのです。
義曰:此以下仲尼之文言,釋坤之徳也。坤至柔而動也剛者,言坤之體用至柔,得天之降氣,然後生成萬物之形質,無不持載,是其動則至剛也。至靜而徳方者,言地體凝靜,不妄有所動,待天之降氣,然後始發生萬物;若天氣不降於下,則凝結安靜,而其徳至方至正,不妄有所發也。
胡瑗の解説:ここから下は孔子の作った《文言伝》で、坤の徳行を解釈するのに用います。「坤至柔而動也剛」と言うのは、坤の体性作用は極めて柔順で、天の降した陽気を得て然る後に万物の形体的質地を生成し、一物としてそれに載せられないものがないので、それが一旦発動すれば極めて剛健であることが見えます。「至静而徳方」と言うのは、大地の形体が凝定安静で軽挙妄動せず、天が陽気を降すのを待ってはじめて万物を生発させ、もし天の陽気が下降しなければそれは凝聚して安静で、その徳行は極めて方正で極めて端正で、擅自に発動しないということです。
後得主而有常者,此釋文王之彖辭也。凡為人臣之道,必待君倡而後和,君令而後從,不敢居事之先,則得所守而不失臣子之常也。含萬物而化光者,此釋含弘光大之義,言地之道含養萬物,其徳弘厚而光大也。坤道其順乎,承天而時行者,此仲尼嘆美坤卦之辭,言坤道至柔至順,承天之道,順時而行之,若春則生、秋則成是也。以人事言之,若臣奉君之命以時而行之,皆無不得其宜也。
《文言伝》の「後得主而有常」は、文王の卦辞の中の「先迷後得主利」の一句を解釈するものです。凡そ臣子たるの道理は、必ず君主が先に発起して然る後に応和し、君主が先に下令して然る後に遵行し、事に先んじることを敢えてせず、こうしてはじめて自分の本分を守って臣子の常道を失いません。「含万物而化光」と言うのは、卦辞「含弘光大」の意を解釈するもので、大地の道が万物を含容養育しその徳行が宏厚広大にして光明だということです。「坤道其順乎、承天而時行」と言うのは、孔子が坤卦を賛美する言葉で、坤道は極めて柔で極めて順で、天の道を承接して時節に随って推行し、たとえば春に万物を生発させ秋に万物を成熟させるがごときということです。人事をもって言えば、臣子が君主の命令を奉じ、相応の時機に照らして執行すれば、一件として妥帖合宜でないものはありません。
積善之家必有餘慶,積不善之家必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辨之不早辨也。易曰:履霜堅氷至,蓋言順也。
《文言伝》は言います。善行を積み重ねる家には必ず余りある福慶が後人に残され、悪行を積み重ねる家には必ず余りある災殃が子孫に遺ります。臣子が君主を殺し、子が父を殺すのは、一朝一夕に成ったものではなく、その由来は少しずつ積み重なったもので、根っこは分辨すべきときに早く分辨しなかったことにあります。《周易》の「履霜、堅氷至」は、まさにこの勢いに順って積累する道理を講じたものです。
義曰:此釋初六之爻辭也。積善之家必有餘慶,此釋履霜之義,因先發此文。言君子之人不以小善為無益而不為,故積日累乆,至於大善,延及於乃子乃孫,皆獲慶善之餘也。故《中庸》曰:舜其大孝也與,徳為聖人,尊為天子,富有四海之內,宗廟饗之,子孫保之。故大徳必得其位,必得其祿,必得其名,必得其壽。其言大舜自匹夫有一小善,未嘗舍去,以至積為大善,而終享聖人之位,流慶於後,此積善之慶也。
胡瑗の解説:これは初六の爻辞を解釈します。「積善之家必有余慶」は「履霜」の意を解釈するので、まずこの一句を提出します。君子は善事が小さいからといって無益と見なして為さないことはなく、このため日積月累して大善を成就し、福沢が子と孫に延び及び、人人が皆善行の残した余慶を得ます。ですから《礼記・中庸》に言います。舜はほぼ最も孝順の人でしょう。徳は聖人、尊貴は天子、富は四海の内を有し、宗廟で彼を祭享し、子孫孫孫が彼の功業を保有します。したがって大徳ある人は必ず相応の地位を得、必ず相応の俸禄を得、必ず相応の名声を得、必ず相応の寿数を得ます。この段の言葉は、大舜が一介の平民から始まって小さな善も一点肯んじて見逃さず、ずっと積み重ねて大善となし、ついに聖人の地位を享有して福慶を後代に流伝させたことを言うのです――これがすなわち積善の福慶です。
積不善之家必有餘殃者,夫小人以小惡為無傷而弗去,故積小惡以至大惡,累小罪以及大罪,而終有殃禍加之於身,以至乃子乃孫皆受餘殃也。臣弒其君、子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辨之不早辨也者,言君素寵其臣,父素寵其子,寵而不已,耳目之所狎習,荏成凶惡,以至包蔵禍賊之心,非在弒君之朝、弒父之夕驟使然也。蓋由積乆漸漬而成其凶災也如此,由君之不早辨其臣、父之不早辨其子故也。易曰履霜堅氷至,蓋言順也者,此先聖因履霜之戒,故引上文以結。蓋言順者,是言履霜而至堅氷,由順而積至之也。
「積不善之家必有余殃」と言うのは、小人が小さな悪行は大した傷ではないと見なして除くことを肯んじないので、小悪が積もって大悪となり、小罪が累ねて大罪となり、ついに災禍が自分の身に落ち、さらに子と孫までもがこの遺留の禍殃を受け継がなければならないということです。「臣弑其君、子弑其父、非一朝一夕之故、其所由来者漸矣、由辨之不早辨也」と言うのは、君主が平素にあの臣子を寵信し、父が平素にあの子を寵愛し、寵愛に節制がなく、耳に濡れ目に染み常に習い慣れて、徐々に凶悪を養い成し、心に禍害の心を包蔵するに至るまで――決して君を弑するあの朝、父を弑するあの夜になって突然こうなったのではないということです。これらはみな長期の浸染積累によって凶災を釀成したもので、根源は君主が彼の臣子を早く見抜かなかったこと、父が彼の子を早く見抜かなかったことにあります。「易曰、履霜堅氷至、蓋言順也」と言うのは、孔子が履霜の告戒を借りて上文を引いて収束したもので、いわゆる「順」とは、霜を踏むことから堅氷に発展するのは、まさにこの勢いに順って少しずつ積み重なってあの地步に至ったということです。
直其正也,方其義也。君子敬以直內,義以方外,敬義立而徳不孤。直方大,不習無不利,則不疑其所行也。
《文言伝》は言います。「直」が講じるのは内心の端正、「方」が講じるのは行事の合宜です。君子は恭敬をもって内心を正直とし、道義をもって外在的な行為を方正とします。恭敬と道義が一旦立てば、徳行は孤立して助けなしとはなりません。爻辞が講じる「直方大、不習无不利」は、まさにこのような人が自分の歩む道に少しも疑慮を抱かないことを言うのです。
義曰:此釋六二之爻辭也。直其正也者,言地之為道,不為妄動,必待天氣至而後發之,故其徳無有不正也。方其義也者,義,冝也。言地之為徳,四時之間生育萬物,終始皆得其冝也。君子敬以直內者,凡人有忿怒之氣,皆出於心之不敬,故君子之人既執直於內,則必濟之以恭敬也。以之事君而能恭敬其顏色,內有執直不回之心,則反覆之間皆合於道也。
胡瑗の解説:これは六二の爻辞を解釈するものです。「直其正也」と言うのは、大地の運行の道が軽挙妄動せず、必ず上天の陽気が来るのを待って発動するので、その徳行に端正でないものがないことを講じます。「方其義也」と言うのは、義とは适宜であり、大地の徳行が四季の中で万物を生育して、初めから終りまで各々その宜を得ることを講じます。「君子敬以直内」と言うのは、人の身に凡そ忿怒の気があるのは皆内心の恭敬しないことから出るので、君子がすでに内心に正直を持守する以上、必ず恭敬をもってこれを成さなければならないからです。この態度をもって君主に事えれば、神色を恭敬に保ち内心にまた正直にして回避しない操守があり、反復する応対の間において皆道に合することができます。
義以方外者,夫君子外有廉隅方正而立,則邪不能入;然而所行又能合其宜,則於事無不通濟也。夫直而不敬則傷於訐,方正而不得其冝則傷於愎,故君子直則必敬於內,方則必合於外也。敬義立而徳不孤者,言君子之人內直以敬,外方以義,則其徳不孤也。何則?蓋君子既以敬義接於人,則人亦以敬義反於已,是不孤也。
「義以方外」と言うのは、君子が外にあって棱角があり立身が方正ならば、邪悪は侵入することができません。同時にその為す所も皆事の宜に合うので、事を办して通達しないことがありません。ただ一筋に正直で恭敬がなければ、人の短所を攻撃糾弾することに流れ、一筋に方正で時宜に合わなければ、剛愎自用に流れます。ですから君子は正直のとき必ず内心に恭敬を保ち、方正のとき必ず行為を外物の宜に合わせます。「敬義立而徳不孤」と言うのは、君子の内心が恭敬によって正直となり外在が道義によって方正となれば、その徳行は孤単になりません。なぜなら君子が恭敬と道義をもって人に接すれば、他人もまた恭敬と道義をもって彼に報いるからで、これが孤単でない所以です。
直方大,不習無不利,則不疑其所行也者,夫直而不邪,正而謙恭,義則與物無競,方則凝重不躁,如此既不假營習而無所不利,則不須疑慮其所行而皆中於道也,故曰不疑其所行也。
「直方大、不「直方大、不習无不利、則不疑其所行也」と言うのは、このような人が正直にして邪僻でなく、端正でかつ謙恭であり、道義を講じれば外物と争競せず、方正を守れば凝重にして浮躁しないことを講じます。この地步に至れば、臨時に駆けまわって演練しなくても往いて不利なしで、自分の行為に対して猶疑する必要もありません。一挙一動が皆道に合するから、「不疑其所行」と言うのです。
陰雖有美,含之以從王事,弗敢成也。地道也,妻道也,臣道也。地道無成而代有終也。
《文言伝》は言います。陰柔の方は美質を懐いていても、それを含蓄して、それをもって君王の事務を承办し、成功を自分のものとすることを敢えてしません。これは大地の道であり、妻子の道であり、また臣子の道です。大地の道は創始の功を自居せず、天に代わって生育の事を完成させます。
義曰:此釋六三之爻辭也。言為臣之道,當內含章美之徳,以待君議論之所及、詢謀之所至,然後發已之素蘊,以贊行君之事業,輔成君之教化。及其有所成功,則歸美其君而不敢自居其成功,此所以盡為臣為子之分,故曰陰雖有美,含之以從王事,弗敢成也。
胡瑗の解説:これは六三の爻辞を解釈するものです。臣子たるの道理は、内心に美好の徳行を含蓄して、君主が政事を議論して言い及んだり謀画を諮り問い及んだりするのを待ち、はじめて自分の平素の学養を取り出して、君主を助けて事業を推行し、君主を輔佐して教化を成すべきだということです。成績があったときは美名を君主に帰し、功労を自分の頭に算えることを敢えてしません――これがまさに臣子たる・子たるの本分を尽くすことなので、「陰雖有美、含之以従王事、弗敢成也」と言うのです。
地道也,妻道也,臣道也者,此先聖釋地之道,因舉大綱而言之。蓋凡為子當奉於父,為弟當事於兄,卑者當事於尊之類,皆下奉上之道也。地道無成而代有終也者,言地之為徳,必待天之氣至,然後發之以贊成天之生育之徳,是得其地道大終之義也。
「地道也、妻道也、臣道也」と言うのは、孔子が大地の道を解釈するにつれて挙げた大綱です。凡そ子たる者は父に事え、弟たる者は兄に事え、地位の低い者は尊貴な者に事えるべきで、皆下位の者が上位者を奉承する道理に属します。「地道无成而代有終也」と言うのは、大地の徳行が必ず上天の陽気が来るのを待って然る後に発動し、もって上天の万物を生育する功徳の完成を助け、これが大地の道が天に代わって功を収め善く始め善く終わる含義を得たということです。
天地變化,草木蕃;天地閉,賢人隠。易曰:括囊,無咎無譽,蓋言謹也。
《文言伝》は言います。天地二気が交感して変化すれば、草木は繁茂して生長します。天地が閉塞して通じなければ、賢人は隠退して身を蔵します。《周易》の「括嚢、无咎无誉」は、まさにこの謹慎して自らを守る態度を講じたものです。
義曰:此釋六四之爻辭也。天地變化,若陽下交陰,陰上交陽,陰陽交通,故能生成萬物,而草木品類皆得蕃昌,猶如君臣之道交接則天下得其安也,故曰天地變化草木蕃也。天地閉,賢人隠者,言天地不交,陰陽不通,則草木枯槁而萬物衰滅,猶君不交於臣、臣不交於君,君臣道塞則賢者退隠也。
胡瑗の解説:これは六四の爻辞を解釈するものです。いわゆる天地変化は、陽気が下降して陰と交わり、陰気が上昇して陽と交わり、陰陽が彼此貫通するので、万物を生成し得て、草木の各類が繁茂し昌盛し得るのです。これはちょうど君臣の道が彼此相通じて、天下が安定を得るようなもので、ですから「天地変化草木蕃」と言います。「天地閉、賢人隠」と言うのは、天地が相交わらず陰陽が相通じなければ、草木は枯れ万物は衰敗し滅絶するということです。これはちょうど君主が臣子と溝通せず臣子が君主と溝通せず、君臣の道が閉塞すれば、賢能の人は退隠するがごときです。
蓋坤為陰卦,四本陰位,又以陰居之,是天地閉塞、陰陽不交之時,是猶君不交於臣,而賢者退而自處也。若於此不能退,則為小人之害也。易曰括囊,無咎無譽,蓋言謹也者,言賢者當此之時,既能括結其囊而自處,是能謹慎而避害也。
坤はもとより陰卦で、第四爻はもともと陰位であり、今また陰爻がこれに居るので、純陰にして陽なし、これがまさに天地が閉塞し陰陽が相往来しないときで、ちょうど君主が臣子と相通じず、賢能の人が仕方なく退いて独りその身を善くするようなものです。もしこのとき退避することを肯んじなければ、かえって小人の陷害を受けます。「易曰、括嚢、无咎无誉、蓋言謹也」と言うのは、賢者がこのようなときに処し、袋を結び締めて安らかに自守し得れば、すなわち謹慎をもって禍害を避けることを知ったということです。
君子黃中通理,正位居體,美在其中,而暢於四支,發於事業,美之至也。
《文言伝》は言います。君子は居中の黄徳を内に懐いて事理に通達し、居位が端正にして本分を安守し、美質は心中に藴蔵され、四肢に暢達し、事業の上に発揮されて、これは美しさの極みです。
義曰:此釋六五之爻辭也。黃者,中之色,居其中則通於四方之理,言其黃則極於四方之色,今六五之君子有此黃中之徳,故能通天下之物理也。正位居體者,言六五位極公相,是得其正也;而又執柔順之道以全臣子之節,是居其體也。美在其中,而暢於四支,發於事業,美之至也者,言六五正居公相之位,內總百揆,外統九州島牧伯,而又作樂以興天下之和,制禮以正天下之序,施刑以懲天下之惡,為政以正天下之治,是皆內含章美之道以通暢於四支,開發天下之事業,如此是文明章美之極至者也。
胡瑗の解説:これは六五の爻辞を解釈するものです。黄は居中の色で、中位に居れば四方の事理を知り得ます。黄に言及すれば、四方の各種の色を尽くします。今、六五という君子がこの居中の黄徳を具えているので、天下万物の理に通達し得ます。「正位居体」と言うのは、六五が公卿宰相の極位に居り、これがその正を得たものです。同時にまた柔順の道を持守して臣子たるの節操を保全し、これが自分の本位に安んじたものです。「美在其中、而暢于四支、発于事業、美之至也」と言うのは、六五がまさに公卿宰相の位置に居り、内にあっては百官を総領し、外にあっては九州の方伯長官を統轄し、また音楽を制作して天下の和睦を興し、礼儀を制定して天下の秩序を正し、刑罰を施行して天下の邪悪を懲治し、政事を办理して天下の治理を匡正するということです。これらは皆内心に藴蔵した美質を四肢に暢達させ、さらに進んで天下の事業を開創するもので、このようであるからこそ文采光明・美質盛大が極点に至るのです。
陰疑於陽必戰,為其嫌於無陽也,故稱龍焉;猶未離其類也,故稱血焉。夫玄黃者,天地之雜也,天玄而地黃。
《文言伝》は言います。陰が盛んになって陽と匹敵すれば、必ず争戦が起こります。人が誤ってこのときすでに陽がないと思い込むのを恐れたので、わざと「龍」と称しました。また陰は結局自分の族類を離れていないので「血」と称しました。いわゆる玄黄は、天色と地色が相混雑したもので、天色は青黒の玄、地色は土黄の黄です。
義曰:此釋上六之爻辭也。言其疑者,蓋其始不杜凶惡之漸,以至於極盛,則疑忌之心生,而僭竊禍亂之事作,以至見侵於陽,而陽與之戰也。為其嫌於無陽也,故稱龍焉者,此坤六爻皆隂,故無陽。龍,陽也,此稱之者,蓋言隂至於此,既已極盛,則是至於建子之月,必有一陽之生,以消退群隂,使之不能有為也。猶如亂臣賊子為惡已甚,則必有剛明之君子與之戰而滅之也。此蓋聖人不容隂之過盛,故稱龍以存戒也。
胡瑗の解説:これは上六の爻辞を解釈するものです。「疑」に言及するのは、初めに凶悪の苗头を杜絶せず、それが極盛に発展するのを任せたので、猜忌の心が生じて、僭越して権を窃み禍乱を作る事が為されるに至り、以致って陽の進攻を受け、陽がそれと交戦するからです。「為其嫌于无陽也、故稱龍焉」と言うのは、坤卦の六爻は全て陰爻なので卦中にもともと陽がありません。龍は陽の象徴ですが、ここで龍と称するのは、陰がこの地步に発展すればすでに極盛で、建子の月(夏暦十一月・冬至のある月)に至れば必ず一縷の陽気が生じて衆陰を消退させ、それらに所為なからしめるということです。これはちょうど乱臣賊子が悪を為しすぎれば、必ず剛強明察の君子が起って彼と相闘いこれを滅ぼすがごときです。これは聖人が陰の過分な強盛を容れないので、わざと「龍」の字を掲げて一分の警戒を留めたものです。
猶未離其類也,故稱血焉者,言陽微隂盛以至相敵,然而隂雖至極,猶不能離其隂類,故雖見敵於陽,但稱血也。猶臣雖盛極,見侵於君,猶不能離臣之分也。夫黃者,天地之雜也;天而地黃者,天之色,黃地之色。以其上下相敵,必有相傷,故黃之色錯雜於其間。然隂雖至盛,終不能勝於陽,猶臣之道惡雖至盛,亦終不能有其成也。此皆聖人存戒於人君,言於履霜之時,則必察其臣之所為而進退之,故至此可無龍戰之事也。
「猶未離其類也、故稱血焉」と言うのは、陽が衰微し陰が強盛して、双方の勢が釣り合うに至るということです。しかし陰は縦使頂点に至っても、なお自分の陰類から脱しきれないので、陽と敵しながらも「血」と称するだけで「龍」とは称しません。これはちょうど臣子の勢力がどんなに盛んでも、君主の討伐を受ければ、終に臣子の名分を離れられないがごときです。「夫玄黄者、天地之雑也、天玄而地黄」と言うのは(源文はここでいくつかの「玄」の字を脱しています)、玄は天の色、黄は地の色で、上下が相敵する以上必ず彼此損傷するので、玄と黄の二色が血の中に錯雑するのです。しかし陰は極盛といえども終に陽に勝てず、ちょうど臣子の悪がどんなに大きくても最後には事を成し得ないがごときです。これらは皆聖人が君主のために留めた警戒です。霜を踏むときに臣子の為す所を考察して、それに据って進用しまたは黜退すれば、後に至って龍戦のような事を無くすことができるのです。
屯 震下坎上
屯:元亨利貞,勿用有攸往,利建侯。
屯卦の卦辞は言います。屯は同じく元・亨・利・貞の四徳を具えますが、この艱難な創始のときには更に行動して百姓を攪扰することがなく、諸侯を分封して彼らに分かれて一方を治めさせるに利があります。
義曰:此文王所作之卦名也。文王既定乾坤二卦於前,以明天地之道,又以震坎二象畫為六位,以次於後,名之曰屯。屯者,屯難之名,天地始交而生物之時也。夫天地氣交而生萬物,萬物始生,必至艱而多難,由艱難而後生成。盈天地之間,亦猶君臣之道始交,將以共定天下,亦必先艱難而後至於昌盛,如湯之於伊尹、文武之於呂望,其始交時皆有四方之多虞,然後卒能共治天下,是皆先艱而後通也。
胡瑗の解説:これは周文王の定めた卦名です。文王はまず乾・坤の二卦を前に並べて天地の道を闡明し、また震・坎の二つの卦象を重ねて六爻とし、続いて後に並べて「屯」と命名しました。屯は艱難の名称で、天地が剛に交合し始め万物を生養し始めるときを指します。天地二気が交合して万物を生じ、万物が剛に生じ出れば、必ず極めて艱苦で阻害が重なり、艱難を経てはじめて長成し得ます。天地の間に充塞するこのような情形は、またちょうど君臣が剛に結合してともに天下を安定せんとするに当たり、同じく必ず先に艱難を経歴して然る後に昌盛に向かうがごときです。商湯と伊尹、周文王・周武王と呂望の如く、彼ら君臣が初めて相遇したとき皆四方の重々なる憂患に臨み、最後に至ってやっと共同で天下を治めました――これらは皆先に艱難あり後に通達するものです。
然萬物始生多難,何以見之?試以草木言之,當勾萌甲拆之時,其體弱而未成,日曝之則槁,必雨以潤之,雨乆反害,是始生多難可知也。君臣倡治,豈無難哉。然屯有二義:一為屯難,剛柔始交而難生是也;二為盈,《序卦》云:有天地然後萬物生焉,盈天地之間者惟萬物,故受之以屯,屯者盈也。是為二義。
それでは万物の初生に災難が多いのは、何処から見て取れるでしょうか。草木をもって言えば、嫩芽が土を突き種殻が裂けるとき、形体は柔弱にしてまだ長成せず、太陽が照れば枯焦し、必ず雨水の滋潤が要ります。しかし雨が長く降ればかえって傷害となる――初生段階の艱難はこれより知ることができます。君臣が手を携えて治世を開創するに、艱難がないことがありましょうか。ただ「屯」の字には二層の意味があります。一は艱難で、《彖伝》の「剛柔始交而難生」がこれに当たります――「剛柔」は陰陽二種の爻性で、陽爻を剛・陰爻を柔とします。二は充盈で、《序卦伝》の「天地あって然る後に万物生じ、天地の間に充満するものは万物のみ、故に次ぐに屯をもってす、屯は盈なり」です。これが屯の二層の含義です。
以人事言之,自古聖賢未有不由險難成名。若文王囚羑里,周公攝政有管蔡之流言,仲尼厄於陳、畏於匡、樹於宋、削跡於魯,孟軻有臧倉之困,齊梁之君以為迂闊,是皆出於險難而後能興事業於當時,或垂名教於後世。是以君子之人將欲立功立事,不可以時屯而不往、世難而不行。雖小人之譖毀傾險,安損君子之道哉。且君子之道,獨立不懼而行,若終屯而不行,乃生靈之不幸耳,小人何能掩我哉。唯君子能徧歴險阻艱難,然後可以成名,此聖人明卦之深教也。
人事をもって講じれば、古来の聖賢で険難の中から名声を成した者でないものはありません。文王は羑里に幽囚され、周公は摂政のとき管叔・蔡叔が流言を散布するに遭い、孔子は陳国で糧を絶たれ匡地で包囲され宋国で桓魋に樹を伐られて逼められ魯国で行跡を抹消され、孟子は臧倉の阻撓を受け斉王・梁王はまた彼の主張が迂闊で実用に適わないと嫌いました――これらの人は皆険難の中から出て、然る後に当時に事業を興し、あるいは名教を後世に流伝させました。ですから君子が功業を建てようと欲するなら、時勢の艱屯を以て出ないことなく、世道の艱難を以て行動しないことはできません。縦使小人が讒毀を進め陥穽を設けて傾軋しても、何処から君子の道を損傷し得ましょうか。況んや君子の道はもともと独り立っても恐れずに歩み行くものです。もし終始屯難のために出て事を為さなければ、それはただ天下の百姓の不幸に過ぎず、小人がどうして私を遮蔽し得ましょうか。ただ君子のみが険阻艱難を遍歴し得て、然る後に名声を成し得ます。これが聖人がこの卦を闡明して寄託した深意です。
元亨利貞者,此屯之四徳,亦天地之四徳也。註疏以為劣於乾,非也。蓋陰陽之始交,必有屯難,萬物由屯難而後生。如春之時,則勾萌畢達,元之徳也;夏之時,則物生而大通,亨之徳也;秋之時漸而成之,利之徳也;既生既通既成,而又於冬幹了之,貞之徳也。是屯之四徳,亦乾坤之四徳也。
「元亨利貞」と言うのは、これは屯卦の四徳であり、すなわち天地の四徳です。旧来の注疏は屯の四徳が乾卦より一等下だと見なしていましたが、これは誤りです。陰陽が剛に交合し始めれば必ず屯難が伴い、万物はまさに屯難を経てはじめて生じ出ます。ちょうど春の如く、草木の嫩芽がことごとく地面を突き出れば、これが「元」の徳です。夏に万物が生長して大いに通暢すれば、これが「亨」の徳です。秋に漸くこれらを成熟させれば、これが「利」の徳です。すでに生長しすでに通暢しすでに成熟して、また冬に至ってこの一巡を収束完結させれば、これが「貞」の徳です。見れば分かるように、屯卦の四徳はすなわち乾坤二卦の四徳です。
以人事言之,則君臣始交而定難,難定而後仁徳著。故揚子曰:亂不極則徳不形。是其拯天下之大危,解天下之倒懸,出民於塗炭,由於難而後仁著也,此元之徳也。天下既定,必得禮以總制之,使君臣父子兄弟夫婦尊卑上下之分不相錯亂,此亨之徳也。天下既定,人倫既序,然後保合太和而各得其宜,一歸於貞,此利貞之徳也。
人事をもって講じれば、すなわち君臣が初めに結合して禍難を平定し、禍難が平定した後に仁徳が顕現するということです。ですから揚雄は言いました。乱が極点に至らなければ徳は顕れません。天下の大危局を拯救し、天下の倒懸のような苦痛を解き、百姓を水深火熱から救い出すのは、皆先に艱難があって然る後に仁徳が彰顕するので、これが「元」の徳です。天下がすでに安定すれば、必ず礼をもって統一して節制し、君臣・父子・兄弟・夫妻および尊卑上下の名分を相錯乱せしめないこと、これが「亨」の徳です。天下がすでに定まり人倫に序があって然る後に、天地の太和の気を保全し合会して、万物に各々その宜を得させ、斉しく正固に帰する、これが「利」と「貞」の徳です。
勿用有攸往者,此以下專以人事言之。屯難之世,天下未定,萬民未安,不可重為煩擾之事,往而撓之;若復往而撓之,是益屯也。必在省其刑罰,措其甲兵,輕其徭役,薄其稅斂,以安息之可也。利建侯者,夫天下始定,民方息肩於困難,一人不能獨治,政教不能徧及,必建侯分守,使之行上之號令,布上之徳教,以各治一國之民,則幽僻逺陋之地無不被其澤,故屯難可以寧,生民可以定也。
「勿用有攸往」と言うのは、ここからは専ら人事に就いて言います。屯難の時代には天下はまだ安定せず百姓はまだ安頓せず、更に煩扰の事を加えて走り彼らを攪動することはできません。もし更に攪動すれば、それは屯難を加重するものです。必ず刑罰を減省し兵甲を収め、徭役を軽減し賦税を下げて、百姓に休養生息させる、これが正しいのです。「利建侯」と言うのは、天下が剛に安定して百姓がやっと困苦から重荷を卸したからです。況んや天下の地域は極めて広く、君主一人が独自に治理することは不可能で、政令教化も処処に届きません。必ず諸侯を分封して各々土を守る職責を画分し、彼らに朝廷の号令を推行し朝廷の徳教を宣布させ、各々一国の百姓を治めさせれば、偏僻遥遠の角落も恩沢を蒙らないところなく、屯難は平息し百姓は安定し得ます。
彖曰:屯,剛柔始交而難生,動乎險中,大亨貞。雷雨之動滿盈,天造草昧,冝建侯而不寧。
《彖伝》は言います。屯卦は、陽剛と陰柔が剛に交合し始めると艱難が随って生じ、険陷の中で奮動して止まず、ついに大いに亨通して正固を守持し得ます。雷が動き雨が降って、生機は天地の間に充盈します。上天の万物創造はまさに草創蒙昧の段階にあり、このとき諸侯を分封すべく、安逸に自居すべきではありません。
義曰:此以下先聖釋文王彖辭之辭也。言謂之屯者,是天地剛柔二氣始交,萬物始生,則必有其難也;若君臣始交,萬物始定,則亦必有難也。動乎險中,大亨貞者,此以上下二體言之也。震為動而下,坎為險而上,是動於險中也。屯之初動而不已,故得大通。言聖人創業初在險難,而教化未濟,故於此動乎險中而不已,則出乎險中,而施元亨利貞之四徳,以濟天下之民也。
胡瑗の解説:ここから下は孔子が文王の卦辞を解釈する言葉です。いわゆる「屯」は、天地間の剛柔二気が剛に交合し始め万物が剛に生長し始めて、必ず艱難が伴うということです。同じく君臣が剛に結合し万事が剛に安定し始めても、必ず艱難が伴います。「動乎険中、大亨貞」と言うのは、これは上下二つの卦体に就いて講じるので、震卦は動で下に居り坎卦は険で上に居るので、険陷の中で奮動することになります。屯卦は始めから奮動して止まないので、大いに通達し得ます。これは聖人が基業を創立する初めにまさに険難の中に居り、教化がまだ完成しないので、険難の中で奮動して止まなければ、険境を衝き出して元・亨・利・貞の四徳を施行して天下の百姓を救済し得るということです。
大亨貞者,釋四徳也。不言利者,蓋聖人於乾坤二卦既備言四徳,故於諸卦有四徳者,皆略而不舉也。雷雨之動滿盈者,此聖人重釋亨貞之義也。言屯者盈也,陰陽始交則有雷雨之澤,以生成萬物,而使盈滿於天地之間。若君臣始交,以徳澤佈於天下,使天下之人皆被其賜,而至於盈盛也。
「大亨貞」と言うのは、四徳を解釈するものです。ここに「利」の字を挙げないのは、孔子が乾・坤の二卦で四徳をすでに完備に講じたので、四徳を具える他の卦では皆簡略にして一々列挙しないからです。「雷雨之動満盈」と言うのは、これは孔子が再び亨と貞の含義を解釈するものです。屯には充盈の意味があり、陰陽が剛に交合すれば雷雨の潤沢があり、もって万物を生養し生機を天地の間に充満させます。これはちょうど君臣が剛に結合すれば徳沢を天下に布施し、天下の人が皆恩恵を蒙り、一片の充盈興盛に至るがごときです。
天造草昧,冝建侯而不寧者,草,草創也;昧,昧也。夫天之營造萬物於草創冥昧之時,在聖人則當興制天下之事。然教化未備,人民冥昧而未通,以聖人一已不能獨治,必分建邦國之諸侯以撫綏其民,是聖人於此之時,豈得安寧而遑暇,冝急急以治屯也。
「天造草昧、宜建侯而不寧」と言うのは、「草」は草創、「昧」は幽暗不明です。上天が草創幽暗の段階で万物を経営創造するのに、聖人に当たれば、まさにこのとき天下の各種の事務を興办し制定すべきです。しかし教化はまだ斉備せず百姓は蒙昧にして未だ開かず、聖人一人が独自に治理できないので、必ず各邦国の諸侯を分封して彼らの百姓を安撫させなければなりません。見れば分かるように、聖人はこのようなときにどうして安逸清閑でいられましょうか。時間を緊めて屯難を治理すべきです。
象曰:雲雷屯,君子以經綸。
《大象伝》は言います。雲が上に集まり雷が下に動く、これが屯卦の象です。君子はこれに取り法って、艱難創始の世に糸縷を整理するように天下の事務を筹划治理します。
義曰:此先聖大象之辭也。言云而不言雨者,蓋雲者,畜雨將降之時也。故又有雷動於下,將興雨澤以蘇天下之民物,是天地經綸之始也。故君子法此之象,當屯難之世,撥亂反正,施教行化,興天下之利,除天下之害,以經綸當世之務也。
胡瑗の解説:これは孔子の作った《大象伝》の言葉です。雲のみを言って雨を言わないのは、雲は雨を蓄積してまさに降らんとする状態だからです。下にまた雷が鼓動して、まさに雨沢を興して天下の人と物を蘇活させようとしており、これがまさに天地が経営治理する開端です。ですから君子はこの卦象に效法して、屯難の時代に処し、乱世を撥いて正道に帰し、教化を推行し、天下の利益を興し、天下の禍害を除いて、もって当世の事務を筹划治理するのです。
初九:盤桓,利居貞,利建侯。象曰:雖盤桓,志行正也;以貴下賤,大得民也。
初九の爻辞は言います。徘徊して進まず、安らかに居て正を守るに利あり、諸侯を分封するに利あり。《小象伝》は言います。徘徊して進まないけれど、その志向と行事は端正です。尊貴の身をもって卑賤の者の下に居るので、大いに民心を得ます。
義曰:盤桓者,不進之貎。言初九居屯難之初,天下方定,不可煩擾於民,故盤桓然不遽而進。然身雖盤桓,而其志在經綸天下,不失其正也。利建侯者,以其天下至廣,不能獨治,況當屯難之世,生民方定,必須封建聖賢之諸侯,以康天下之難者也。象曰志行正也者,此先聖象辭,言身雖不進,然志在經綸天下,所行不失其正故也。以貴下賤,大得民也者,此言初九以一陽居眾陰之下,是以崇貴而謙處於下,屈已而就卑者也,故身能禮下賢善,而民心莫不歸之。
胡瑗の解説:「盤桓」は徘徊して進もうとしない様子です。初九が屯難の頭に居り天下が剛に安定したので、更に百姓を煩扰してはならず、徘徊して進取を急がないのです。しかし身は徘徊していても、志向は天下を筹划治理し、正道を失っていません。「利建侯」と言うのは、天下の地域が極めて広く一人で独自に治理できず、況んやまさに屯難の世で百姓がやっと安頓したので、必ず賢聖の諸侯を分封して、天下の禍難を平息させなければならないからです。《小象伝》の「志行正也」は、これは孔子の象辞で、身は前進しないけれど志向は天下を経綸し、為す所は端正を失わないことを講じます。「以貴下賤、大得民也」と言うのは、初九が一本の陽爻をもって衆多の陰爻の下に居るので、身分が尊貴でありながら謙遜に下位に居り、自分を屈抑して低微に就くに等しいということです。まさに彼が礼をもって賢良善士に接し得るからこそ、民心で彼に帰附しないものがありません。
六二:屯如邅如,乘馬班如,匪冦婚媾。女子貞不字,十年乃字。象曰:六二之難,乘剛也;十年乃字,反常也。
六二の爻辞は言います。行き難い様子、回転する様子、馬に乗りながら盤旋して進まず。来る者は强盗ではなく求婚者です。この女は正を守って嫁を許さず、十年を過ぎてはじめて嫁を許します。《小象伝》は言います。六二の艱難は、それが陽剛の上に凌駕するからです。十年にしてはじめて嫁を許すのは、艱難が過ぎて常態に帰ったからです。
義曰:屯,難也;邅,回也;如,語辭也。言六二與九五為正應,而下乘初九之剛,欲乘馬而行往應於五,則以其難在於初,故邅回班旋而不敢進也。匪冦婚媾者,冦謂初也,言六二若非初九為冦於已也,則上與五為婚媾矣。女子貞不字,十年乃字者,女子以陰言之,未有所從者也。蓋此六二以陰居陰,正也;處下卦之中,中也。六二能居中得正,不以初九為冦於已而下從之,是女子能守正不變,不為初之愛字者也。十年乃字者,十年乃天地之終數也,數終則反常,難釋則亨來,是以中正之女,至此十年難極,則可以受九五之愛字也。
胡瑗の解説:「屯」は艱難、「邅」は回転、「如」は語気助詞です。六二は九五と一対の「応」を結び、すなわち初と四・二と五・三と上の間に一陰一陽が彼此感通する関係で、ここはまさに正応です。しかし六二の下はまた初九の陽剛の上に「乗」り――陰爻が陽爻の上に圧するを「乗」といい、陰爻が陽爻の下に居るを「承」といい、合わせて「承乗」と称します――馬に乗って九五に応合しようとしても、難処は偏に初九に出るので、徘徊盤旋して進むを敢えてしません。「匪寇婚媾」と言うのは、「寇」は初九を指し、六二がもし初九に寇仇のように絡まれるのでなければ、とっくに上って九五と婚配を結んだはずだという意味です。「女子貞不字、十年乃字」と言うのは、女子は陰爻に就いて言い、まだ誰にも帰属しないことを指します。六二は陰爻をもって陰位に居るので「正」であり、また下卦の中間に居るので「中」です。合わせれば「中正」となります。六二は居中に正を守り得て、初九の絡みのために下って彼に従うことなく、ちょうど女子が正を守り変わらず初九の許配を受け入れないがごときです。「十年乃字」と言うのは、十は天地之数の終点で、数が尽きれば常態に帰り、難処が解除され亨通が来るので、この中正の女子が十年の艱難が尽きれば、九五の許配を受け入れ得るのです。
象曰六二之難,乘剛也者,言六二所以邅回班旋,乘馬而不敢進者,蓋以陰柔之質而乘初九之剛也。十年乃字,反常也者,言於十年難終之後,得從九五之應,是反得常道也。此爻施之人事,猶君子守正專應,不妄有所從者也。
《小象伝》の「六二之難、乗剛也」は、六二が回転盤桓して馬に乗りながら進むを敢えてしないのは、それが陰柔の資質をもって初九の陽剛の上に圧するからだということです。「十年乃字、反常也」と言うのは、十年の艱難が尽頭に至った後、ついにそれと相応の九五に従い得るので、これが常道に帰ったということです。この爻を人事に当てれば、ちょうど君子が正道を守持して専一に自分と相応の人を待ち、易々と他人に追随しないがごときです。
六三:即鹿無虞,惟入于林中。君子幾不如舍,往吝。象曰:即鹿無虞,以從禽也;君子舎之,往吝窮也。
六三の爻辞は言います。野鹿を追うに山林を掌る虞人の案内がなければ、徒らに林の奥深くに闖入するだけです。君子は苗头を見極めて、これを捨てるに如かず。一味に前往すれば悔恨があります。《小象伝》は言います。鹿を追って虞人の案内がないのは、一心に禽獣を貪求するからです。君子がそれを捨てるのは、更に進めば悔恨と困窮を招くだけだからです。
義曰:即,就也;虞,虞人也。以畋獵言之,欲就其鹿而無虞人導之,鹿不可得也。夫六三以陰居陽,本失正也。夫人之不正,則雖君子能博施者,亦不愛於已矣。上又無應,若往求於五,五屯其膏,自與二為應,必不見納;若下求於初,初又有六四之應,則是以不正而妄動,上下皆不獲其安。
胡瑗の解説:「即」は近づき追逐すること、「虞」は山林川沢を掌る虞人を指します。打猟をもって言えば、鹿を追い得ようとして虞人の案内がなければ、鹿は捕まえられません。六三は陰爻をもって陽位に居るので、もとより正を失っています。人の身が正でなければ、たとえ恩惠を広く施せる君子でも、彼に親近しません。況んや六三の上にはまたそれと相応の爻がなく、もし上って九五を求めれば、九五はまさに自分の恩沢を吝嗇しており、況んやそれはすでに六二と相応しているので必ず受納を肯んじません。もし下って初九を求めれば、初九はまたすでに六四がそれと相応しています。このように不正の資質をもって軽挙妄動すれば、上に向かっても下に向かっても安頓を得ません。
故君子立身處世,則必內畜其徳,外其行,而存心於聖賢,自任以天下生靈之重,不為躁進妄動,必待時之所推、君子之援引以為先容,則位可得而道可行也。今以不正之質,而又不畜其徳,不其行,但以躁進妄動為心,而又無君子之援,是其往必無所得也。故若欲就其鹿,無虞人援引度其可否,則鹿必不可得,而徒入于林中而已,何所獲哉。
ですから君子が立身处世するには、必ず内に徳行を蓄養し、外に操行を整飭し(源文はここと下文「不其行」で各々一字を脱しています)、心思を聖賢の道に置き、天下蒼生の重荷を自分の肩に担わなければなりません。急躁に冒進せず軽挙妄動せず、必ず時勢の推挙を待ち、有徳の人の引薦を先導として、こうしてはじめて地位が得られ主張が行き通ります。今、六三はもとより不正の資質で、また徳行を蓄養せず操行を整飭せず、一味に躁進妄動の心を存し、偏にそれを援引してくれる君子がいないのですから、その前往は必ず一得もありません。ですからあの鹿を追おうとしても、虞人が彼のために道を案内し彼のために可否を判断してくれなければ、鹿は必ず捕まえられず、徒らに林の中に闖入するだけで、一体何が得られましょうか。
君子幾不如舎往吝者,註疏謂幾為語辭,非也。蓋幾者,有理而未形者也。君子之人能知之先見,知微知彰,度其所然,正身而動。知其進退無所適,而又無其援,必不利矣,則不如舍之,是能豫決其可否,知幾之君子也。若不能如是,而務為躁進,必取其悔吝也。
「君子幾不如舎、往吝」と言うのは、旧注疏は「幾」を語気詞と見なしましたが、それは誤りです。「幾」は事理がすでに存在しながらまだ形を顕さない苗头です。君子は事先に察知し得て、隠微の処も見え顕明の処も見え、事が大致どうなるかを斟酌して、然る後に自身を端正して行動します。彼は自分が進んでも退いても行く所がなく、また援引する人もなく、必ず順利でないと見極めれば、放棄するに如かず――これがまさに予め可行か否かを判断し、微を見て著を知る君子です。もしこうできず、ひたすら急躁に冒進すれば、必ず自ら悔恨を取ります。
象曰即鹿無虞,以從禽也者,凡飛走可擒獲者皆謂之禽,故《曲禮》曰:猩猩能言,不離禽獸。又《書》云:無禽荒者,皆可擒取之義也。六三雖欲即鹿從禽,然而無虞人以度其可否,雖有鹿亦不可得也。鹿即喻乾祿財利之謂也。
《小象伝》の「即鹿无虞、以従禽也」:凡そ飛べ走れ捕らえられる動物は皆「禽」と呼ばれます。ですから《礼記・曲礼》に「猩猩は言葉を能くするも、なお禽獣の類を離れず」と言い、《尚書》もまた「田猟に沉溺するな」と戒めます。ここの「禽」は皆擒獲できる意を取ります。六三は鹿を追い獣を逐いたいと思っても、虞人が彼のために追えるかどうかを判断してくれなければ、たとえ鹿があっても捕まえられません。この鹿はまさに官禄財利を求めることの譬えです。
君子舎之往吝窮也者,此聖人為妄求躁動之戒也。故《繫辭》云:君子安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求。危以動則民不與也,懼以語則民不應也,無交而求則民不與也,莫之與而傷之者至矣。今六三居屯難而求進,是危以動也;非應而往,是懼以語也;以無虞而求鹿,是無交而求也。如此而往,則速其悔吝,困窮可知矣。
「君子舎之、往吝窮也」と言うのは、これは聖人が軽率に妄求し急躁に妄動する人のために立てた告戒です。ですから《繫辞伝》は言います。君子はまず自身を安らかにして然る後に行動し、まず内心を平和にして然る後に言語し、まず交情を定めて然る後に求むるものです。危険な処境で行動すれば、百姓は跟従しません。恐れを懐いて言語すれば、百姓は応答しません。交情がないのに請求すれば、百姓もまた与えません。助ける人がいなければ、彼を傷つけに来る人が至ります。今、六三は屯難の中に居りながら進を求める、まさに「危以動」です。相応の爻がないのに強いて前往する、まさに「懼以語」です。虞人がいないのに鹿を追う、まさに「无交而求」です。このように貿然と前往すれば、ただ悔恨を招くのを速めるだけで、困窘して通達しないのは想いが及びます。
六四:乘馬班如,求婚媾,往吉,無不利。象曰:求而往,明也。
六四の爻辞は言います。馬に乗りながら盤旋して進まず、相手が来て婚配を求めるのを待って然る後に前往すれば吉祥で、不利なこともありません。《小象伝》は言います。人が来て求めるのを待って然る後に前往するのは、彼が明智であることを説明します。
義曰:此一爻誠可謂知幾之君子也。然雖與初九為正應,而二近於初,疑其與初相得而隔已之路,故乘馬班旋而不敢進也。然已守正而無求於陽,故待初九之來求於已以為婚媾,然後往而應之,則獲吉而無所不利也。若君子雖懐才蘊徳,有聖賢之事業,然亦不可以已而求人,必待其人再三見求於已而往,則道可行、言可從也。故伊尹耕於有莘之野,由湯三聘而後往,以堯舜之道覺天下之民是也。象曰求而往,明也者,言六四居其正而能知其幾,性修智明,不為妄動,必待人求於已然後往而應之,果非君子性修智明,其能與於此乎。
胡瑗の解説:この爻は真に微を見て著を知る君子と称すべきです。六四は初九と一対の正応ですが、六二が初九に緊接し、六四は六二がすでに初九と仲良く処して自分の去路を遮ったと疑うので、馬に乗りながら盤旋して進むを敢えてしません。しかしそれ自身は正を守り、陽爻に向かって自ら求めることをしないので、必ず初九が来て自分に婚配を求めるのを待って然る後に応合に往き、こうして吉祥を獲得して不利なしです。これはちょうど君子が縦使才華を懐蔵し徳行を藴蓄して聖賢のような事業本领があっても、自分から人に求めるべきではなく、必ず相手が再三来て請うのを待ってはじめて動身し、こうしてはじめて主張が推行でき言葉が聴従されるがごときです。ですから伊尹が有莘の田野で耕作して、商湯が三度招聘して後に出山し、堯舜の道をもって天下の百姓を喚醒したのは、まさにこの例です。《小象伝》の「求而往、明也」は、六四が居位を正しくして苗头を察知し得て、心性に修養があり智慮が明達し、軽挙妄動せず、必ず人が来て自分を求めるのを待って然る後に応合に往くことを講じます。もし心性に修養があり智慮明達の君子でなければ、どうしてこの地步に至れましょうか。
九五:屯其膏,小貞吉,大貞凶。象曰:屯其膏,施未光也。
九五の爻辞は言います。自分の膏沢を吝嗇して普く施さず、小範囲で正道を守持すれば吉祥を得られますが、大範囲で正道を守持すれば凶険があります。《小象伝》は言います。膏沢を吝嗇するのは、恩施がまだ広大でないからです。
義曰:凡為人君之道,當如天之造物,雲行雨施,滿盈天下,使萬物無不被其澤則可也。《書》曰:無偏無黨,王道蕩蕩。此為君者所當然也。今九五據至尊之位,而反屯難其膏澤,專應在二,不及於眾,是但能煦煦之仁、孑孑之義,私已之親,偏已之應。若施之一家,則可以澤一家;若施之一國,則可以澤一國;若施之天下,則無以濟。是恩澤不及於廣逺,使天下之人無以慰其望,是以小貞則吉而大貞則凶也。是所施膏澤不至光大也可知,故象曰施未光也。
胡瑗の解説:凡そ君主たるの道理は、上天が万物を創造するがごとく、雲気が流行し雨水が普降して天下に充満し、万物に一つも潤沢を受けないものなきにすべきです。《尚書・洪範》は言います。偏私せず結党せざれば、王道は広く平坦です。これが君主たる者の有るべき姿です。今、九五は至尊の位を占めながら、かえって自分の恩沢を吝嗇して、六二の一爻と相応するだけで、衆人に恵みが及ばない、これはただ小恩小恵式の仁、孤立して瑣末な義で、自分に親しい人を偏私し自分と相応の人に偏向するだけです。この恩沢を取って一家に施せば一家を潤沢するに足り、一国に施せば一国を潤沢するに足りますが、天下に施さんとすれば足りなくなります。恩沢が広遠の処に達せず、天下の人の期望を安慰する所なし、ですから小処で正を守れば吉、大処で正を守れば凶です。見れば分かるように、彼の施す膏沢はまだ光大でないので、《小象伝》は「施未光也」と言います。
上六:乘馬班如,泣血漣如。象曰:泣血漣如,何可長也。
上六の爻辞は言います。馬に乗りながら盤旋して進まず、血涙が漣々として流れて哭きます。《小象伝》は言います。血涙を流して哭く、この局面をどうして長く維持し得ましょうか。
義曰:此言上六處一卦之上,最居屯難之極,欲應於五,五屯其膏而無所告也,固若鰥寡孤獨失職之民,不得其所而罹於塗炭之中,無所告愬者也。五既澤不及於已,三又失其正應,故乘馬班旋而不得進,泣血相續而無所愬也。
胡瑗の解説:これは上六が一卦の最上に居り、まさに屯難が頂点に達したときを言います。それは九五に応合しようとしても、九五は膏沢を吝嗇しているので、求告する所がなく、ちょうど鰥夫・寡婦・孤児・独老といった寄る辺を失った百姓が、安頓を得られず水深火熱に陥って、申訴する処がないがごときです。九五の恩沢がすでにその身に届かず、六三はまたそれと相応の正配ではないので、ただ馬に乗りながら盤旋して前進できず、血涙が絶えず訴える所がないのみです。
象曰泣血漣如,何可長也者,此先聖之微,非謂上六也,蓋責其為君臣之道也。夫人君者,不欲一夫有失其所、一物不遂其性,為人臣者又當佐君力行之。今人見赤子墜井,自非親戚,皆將匍匐而救之,況為民之父母,豈可使斯民有此屯難之事,泣血漣如而無所告哉。是不可使之長如此也。是不可長者,蓋責其為君臣之道也。此先聖之微,然自古以來,獨伊尹可能當此也。
《小象伝》の「泣血漣如、何可長也」は、これは孔子の言葉の中の深意で、単に上六の一爻を言うのではなく、君たる・臣たるの道理を責め求めているのです。君主たる者は、一人として安身の処を失う者なく、一物として本性に順えないものなきを願います。臣子たる者は、また君主を輔佐してこの一点の実現に努力すべきです。今日、人々が嬰児が井戸に落ちるのを見れば、たとえ親戚でなくても皆転がるようにして救いに走ります。況んや身に百姓の父母官たる者が、どうして百姓をこのような屯難の地步に落として、血涙漣々にして申告する所なしとし得ましょうか。この局面は決して長くさせてはなりません。「不可長」と言うのは、まさに君臣の尽くすべき道理を責め求めているのです。これが孔子の深意です。しかし古来、この責任に当たり得るのは伊尹一人のみでした。
蒙 坎下艮上
蒙:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告。利貞。
蒙卦の卦辞は言います。蒙昧は通達に向かい得ます。私があの蒙昧な童児を求めるのではなく、蒙昧な童児が私を求めるのです。初めて占問すれば明白に告げます。一再する纏綿の問いは冒涜で、冒涜すれば告げません。正道を守持するに利ありです。
義曰:蒙即蒙昧之稱也。凡義理有未通、性識有未明,皆謂之蒙。所以次於屯者,按《序卦》云:屯者,物之始生也,物生必蒙,故受之以蒙。又曰:蒙者,物之稚也。言若人之稚,其心未有所知,故曰也。蒙亨者,言昧之人,其性不通,其志不明,必得賢明之人舉其大端以開發之,則其心稍通,通而不已,遂至大通。亦若民之生,雖懵然無所知,然無所明,必得在上賢明之君善教化之,教化之不已,則知禮義而至於大通,故曰蒙亨也。
胡瑗の解説:「蒙」とは蒙昧の意です。凡そ道理が思い通らず心性見識が開明しない者を皆蒙と呼びます。それが屯卦の後に列なる所以は、《序卦伝》が言うには、屯は万物が生長し始めることで、万物が初生すれば必ず蒙昧なので、次ぐに蒙卦をもってす。また言います。蒙は万物の幼稚段階です。ちょうど人が幼少のとき心中にはまだ何も分からないので蒙と呼びます(源文はここで一「蒙」の字を脱し、下文「言昧之人」も同じ)。「蒙亨」と言うのは、蒙昧の人の心性が通せず志向が明らかでないので、必ず賢明の人が綱領を提起して彼を啓発しなければならず、彼の心が漸く通達し、通じた後に停まらずついに大通に達することを講じます。ちょうど百姓が生まれて懵懵懂懂で何も知らず、一つも明らかな所がないので、必ず上位に居る賢明の君主がよく彼らを教化し、教化が止まなければ、彼らは礼義を知って大通に達するがごときで、ですから「蒙亨」と言います。
匪我求童蒙,童蒙求我者,我謂賢明老成之人也。言非是賢明老成之人往求童蒙者而告之,蓋是童蒙之人其性不明、其志不通,思其開釋而來求於我,我則告之。亦若賢明之君,非是已欲自求於民而治之,蓋其民無知不能自治,思欲開發闇昧之心以求於已,則已然後居其位,明教化以導之。是以古之聖賢在上者,其處心積慮,非樂居於權位、好處於富貴,蓋民來求治於我,我當治之。亦以天之生民,蚩蚩者眾,無所知識,須得聖賢之人以治之,以堯舜居之而不為樂者,是聖人之本心也。
「匪我求童蒙、童蒙求我」と言うのは、「童蒙」は年幼蒙昧にしてまだ自ら理を明らかにできない人を指し、この「我」は賢明老成の人を指します。賢明老成の人が蒙童を捜しに行って道理を講るのではなく、蒙童が自分の心性が明らかでなく志向が通じないので、開導を求めたくて来て私を求め、私はこれにおいて彼に告げるという意味です。これもまたちょうど賢明の君主が、自分から百姓に統治の権を求めるのではなく、百姓が无知にして自ら治めることができず、自分の蒙昧な心を開発したくて彼に奔附し、彼はこれにおいて君位に居って教化を申明して彼らを導くがごときです。ですから古の上位に居た聖賢の人々は、その一翻の用心は権位に居るを楽しみ富貴を享受するのを好むのではなく、百姓がすでに来て私に治理を求める以上、私はこの治理の責任を担うべきだということでした。また上天が生んだ百姓は渾渾噩噩の者が多く、知識見聞がなく、必ず聖賢の人が出てきて彼らを治理しなければならず、堯舜が君位に居りながらこれを以て楽しみとしなかった、これが聖人の本心です。
初筮告,再三瀆,瀆則不告者,筮所以決疑也。言童蒙之人不能自明,志有所疑,來決於已,則已舉其大端一理以明告之。而蒙者必當精思其可否,深慮其善惡,然後可以大通其志。若或不思不慮,而其性不達,以至於再於三求告於老成之人,則其事煩而瀆亂矣。既已瀆亂,則老成之人不復告之矣。故仲尼曰:舉一隅不以三隅反,則吾不復之矣。
「初筮告、再三瀆、瀆則不告」と言うのは、占筮はもともと疑惑難問を決断するのに用います。蒙昧の人が自分で分からず心に疑惑があり、私に来て決断を求めるなら、私は大綱を提起し一条の道理を挙げて明白に彼に告げます。教えを受ける人は必ずそれが可行か否かを仔細に思考し、その中の善悪を深入り考慮して、然る後に自分の心志を大いに通達させなければなりません。もし思わず慮らず心性が依然として通じず、以致って再三老成の人に来て答えをねだるなら、事は煩瑣で冒涜混乱です。すでに冒涜混乱ならば、老成の人は彼に告げません。ですから孔子は言いました。一つの角落を挙げて、彼がそれによって他の三つの角落を推知できなければ、私は彼に教えません。
故古之時有樸作教刑,以至蒙昧之人諭之而不思、告之而不慮,則有鞭樸夏楚之刑以戒之。亦如昧之民求治於在位者也,聖賢之人在上,則道之以教化,漸之以禮義,有或不能以自通,以至反善趨惡,瀆上之化,故古之時有明於五刑以弼五教以正之。是言再三瀆亂則不復告之,而有懲戒之刑也。利貞者,此言亨蒙之道,當利以正也。故先聖曰:子帥以正,孰敢不正。言必以正道開發於人也。
ですから古に「朴作教刑」の規定がありました。開導しても思慮することを肯んじず、告げても考慮することを肯んじない蒙昧の人に対しては、鞭や木条の類の責罰をもって彼を警戒するのです。これもまたちょうど蒙昧の百姓が在位者に治理を求めるがごときです。聖賢が上にあって、教化をもって彼らを引導し礼義をもって彼らを熏陶します。もし人にあって依然として自ら通暁できず、甚だしきは善に背き悪に趨り、上位者の教化を褻慢するならば、古にまた「明于五刑以輔助五教」の方法で彼らを矯正しました。これはすなわち再三冒涜すれば彼に告げず、これに代えて懲戒の刑罰を用いるということです。「利貞」と言うのは、蒙昧を開通する方法は、端正を以て有利とすることを講じます。ですから孔子は言いました。あなたがみずから正道を歩むを率先すれば、誰が敢えて正しくありましょうか。必ず正道をもって人を啓発すべきだという意味です。
彖曰:蒙,山下有險,險而止,蒙。蒙亨,以亨行時中也。匪我求童蒙,童求我,志應也。初筮告,以剛中也。再三瀆,瀆則不告,瀆蒙也。蒙以飬正,聖功也。
《彖伝》は言います。蒙卦は、山の下に険陷があり、険に遇って停まって進まない、これが蒙です。「蒙亨」は、亨通の道に凭って行って時宜に合し恰到好処だからです。「匪我求童蒙、童蒙求我」(源文はここで一「蒙」の字を脱しています)は、上下双方の心志が相応ずるからです。「初筮告」は、九二が陽剛にして居中の品質を具えるからです。「再三瀆、瀆則不告」は、そのようにすれば啓蒙の事を冒涜するからです。蒙昧未鑿の状態をもって純正を涵養するのは、まさに聖人を造り成す功夫です。
義曰:艮為止、為山,坎為險、為水。山之下有險,窒塞而不通,則是蒙之象也。夫水之性無不下,導之則為江為海,止之則為潢為汙,今止而未決,是其有蒙之義也。蒙亨,以亨行時中也者,言昧之人智性既未明,而賢明老成之人必以一理而決之,使其由稍通以至於大通,如此是以亨通而行,皆得時之中也。
胡瑗の解説:艮卦は停止を象徴し山を象徴し、坎卦は険陷を象徴し水を象徴します。蒙卦はまさに坎が下・艮が上です。山の下に険陷があって堵塞して通じない、これが蒙の卦象です。水の本性は下に流れないものがなく、疏導すれば江河大海に匯し、堵えば死水汚潭に積もります。今それは遮られて疏通が加えられず、まさに蒙昧の意を含んでいます。「蒙亨、以亨行時中也」と言うのは、蒙昧の人の智慧心性がまだ開明せず、賢明老成の人が必ず一条の道理をもって彼のために決断し、彼を稍々通暁から完全な通達に至らしめるので、このように亨通の道に凭って行えば、様々な事が皆時宜に合し恰到好処の中道であることを講じます。
匪我求童蒙,童蒙求我,志應也者,言非賢明老成之人求於童蒙之人,蓋童蒙之人來求決於賢明老成之人也。既來求決,則賢明老成之人當告以善道,是上下之志相為合應也。再三瀆,瀆則不告,瀆蒙也者,言蒙昧之人既來求決於賢明之人,賢明者但開發一隅而告之。其蒙者既得賢明之告,必當思慮之,自一隅以至於三隅,然後可通也。今若不思不慮,以至於再於三而瀆問於賢明之人,則賢明之人不復告之,以其不能思慮而自瀆亂於者也。孔子曰:學而不思則罔,是也。
《彖伝》の「匪我求童蒙、童蒙求我、志応也」は、賢明老成の人が蒙童を求めるのではなく、蒙童が前もって賢明老成の人に来て決断を求めることを講じます。すでに決断を求めて来れば、賢明老成の人は正しい道理を彼に告げるべきで、これが上下双方の心志が彼此相合相応することです。「再三瀆、瀆則不告、瀆蒙也」と言うのは、蒙昧の人がすでに賢明の人に来て決断を求めるなら、賢明の人はただその中の一つの角落を提点して彼に告げ、教えを受ける人は指点を得た後、必ず自分で反復して思索し、この一つの角落から残りの三つの角落に推し及ぼして、然る後に真の通達を得なければならないということです。今もし思わず慮らず、以致って一再再再と纏綿追問するならば、賢明の人は彼に告げません。彼が心を用いて思考することを肯んじず、自分でこの求教の事を攪乱したからです(源文「自瀆乱于者也」の一句に脱字あり)。孔子の「学びて思わざれば則ち罔し」は、まさにこの意味です。
初筮告,以剛中也者,剛中謂九二也。言九二以剛明之徳而居中,是能以剛中之徳而發其蒙昧者也。蒙以飬正,聖功也者,此言聖賢外能晦其徳,而內飬其至性,至誠不息以育其徳,是其聖賢之功也。此正合潛龍之義,始卷懐其才徳,而終存心於天下後世。怪民不知蒙晦養正之意,乃退身於山林,是豈聖賢之功乎。
「初筮告、以剛中也」と言うのは、「剛中」は九二という爻を指します。九二が剛強明察の徳行に凭って下卦の中位に居り、この種の剛にして中を得た品德をもって蒙昧の人を啓発し得るということです。「蒙以蒙以養正、聖功也」と言うのは、聖賢は外に対して自分の徳行を収斂し隠蔵し得て、内に対して自分の天性を涵養し、至誠にして止まない功夫をもって徳行を培育し、これが聖賢を成就する功夫だということです。これはちょうど乾卦初九の「潜龍」の意に合します。開頭に才華徳行を収め巻いて懐に蔵しながら、心中には始終天下後世を装っているのです。怪しむべきは有人が韜晦養正の本意を知らず、竟に山林の裏に身を抽いて退隠すべしと思うことですが、あれはどうして聖賢の功夫でありましょうか。
象曰:山下出泉,蒙。君子以果行育徳。
《大象伝》は言います。山の下に泉水が湧き出る、これが蒙卦の象です。君子はこれに取り法って、果決に践行に付し、かつ自分の徳行を涵育します。
義曰:言泉之始發於山下,未有所之,則必待決導之,然後流注而至為江為海。於未決之前,雖出於山之下而未有所適,是蒙之象也。君子以果行育徳者,言君子之人則當果決其行,而力學審思、強問篤行,使其性明志通,又且養育其徳以修其志,使其道之大成,至於聖賢而後已,然後發其所畜以教化於人也。
胡瑗の解説:泉水が剛に山の脚下から湧き出るときはまだ行く処がなく、必ず人が疏通引導して然る後に流下して江河大海に匯します。疏通されない前には、すでに山を出たけれど行く所なし、これがまさに蒙の卦象です。「君子以果行育徳」と言うのは、君子は果決に行動に付すべく、努力して求学し仔細に思考し勤めて発問し切実に践行して、自分の心性を明白にし志向を通達せしめ、同時に徳行を涵養して志向を修治し、所学の道を大成して聖賢の地步に至らなければ罷休せず、然る後に積蓄した学問を取り出して他人を教化せよということです。
初六:發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。象曰:利用刑人,以正法也。
初六の爻辞は言います。蒙昧を啓発するには、人に刑罰を施用するに宜しく、またすでに悔悟した人の足枷手錠を解くにも宜しく、一味に刑を用い続ければ悔恨があります。《小象伝》は言います。人に刑罰を施用するに宜しいのは、法度を端正するためです。
義曰:據此一爻,注之解以為初六在屯難之後,居蒙昧之初,不能自明,而上得九二之陽以照於已,遂發其蒙。蒙昧既發,則志遂明於事而無所疑,可以用刑于人,或說其罪,無所不當也。今則不取,蓋此一爻乃亨蒙之法也。初六居蒙之初,乆在蒙昧,不能通明,必得在上聖賢之君申嚴其號令、設張其教化以開示之,使得其曉悟,故曰發蒙也。若其性識至昧,雖得號令教化開發之而尚不通曉於心,反善趨惡,犯君之教化,則賢明之君當用刑罰以決正之,故曰利用刑人也。
胡瑗の解説:この爻について、旧注の解釈はこうでした。初六は屯難の後・蒙昧の初めに居り、自分で明らかにできず、上の九二の陽爻が自分を照らすに倚って蒙昧が開かれ、蒙昧が一たび開かれれば心志は事に対して清楚にして疑惑なく、人に刑を用いるも、その罪を赦免するも、皆処置が適当です。今、私はこの講釈を採用しません。この爻が実際に講じるのは蒙昧を開通する方法だからです。初六は蒙卦の開頭に居り、長く蒙昧の中に困って通達明白できないので、必ず上位に居る聖賢の君主が号令を厳整に申明し教化を設立推行して開導指点し、彼を醒悟させなければならないので、「発蒙」と呼びます。もし彼の心性見識が極めて昏昧で、号令教化の啓発を経てもなお心中が明白せず、かえって善に背き悪に趨り、君主の教化を触犯するならば、賢明の君主は刑罰を動用して彼を判決匡正すべきで、ですから「利用刑人」と言います。
然又其間乆在蒙昧之時,不知禮義,不知教化,過而為之,以至遭桎梏之苦,始曉悟而自悔,則聖賢之君又當肆赦之。《書》曰:舊染汙俗,咸與維新,是也,故曰用說桎梏也。以往吝者,言凡刑法者,小懲而大戒,刑一而勸百,使天下之人皆遷善而逺罪,是不得已而用之也。語曰:上失其道,民散乆矣,雖得其情,則哀矜而勿喜也。不可恃已之勢、肆已之威、快已之慾,用之以往無有休已,則自取悔吝也。
しかしその中にも長く蒙昧の中に居り、礼義を知らず教化を知らず、過失に因って法禁を触犯し、以致って枷錮を戴く苦しみを喫して、これにおいて醒悟して自責する人もあります。そうすれば聖賢の君主はまた彼を寛赦すべきです。《尚書・胤征》の「過去に悪風気に染まった者は、一概に改過自新させる」は、まさにこの意で、ですから「用説桎梏」と言います。「以往吝」と言うのは、刑法の本意は小さい懲罰をもって大きい警戒を換え、一人を懲办して百人を勧勉し、天下の人が皆善に向かい罪を遠ざけることにあり、已むを得ずして動用するものだということです。《論語》は言います。上位の人が正道を失えば、百姓の心が離れてすでに久しい。案情を査明したとしても、彼らを哀れむべきで欣喜し得意としてはならない。決して自分の権勢に倚仗し自分の威風を放縦し自分の一時の痛快を図って、刑を用い続けて終わりなくしてはならず、そのようでは自ら悔恨を取るのみです。
九二:包蒙吉,納婦吉,子克家。象曰:子克家,剛柔接也。
九二の爻辞は言います。蒙昧の人を包容し得れば吉祥、婦人を受納し得れば吉祥、子は家を撑え持ち得ます。《小象伝》は言います。子が家を撑え持ち得るのは、陽剛と陰柔が互相接応するからです。
義曰:初六發蒙,蒙之小者也;上九擊蒙,蒙之大者也。而餘四爻皆陰柔之質,惟此九二以剛明之徳居下卦之中,是居得其中者也。夫剛則能斷天下之事,明則能察天下之微。有剛明中正之徳,則天下之賢不肖者皆從而歸之,天下之蒙昧之人皆樂而求之,而已能包容無所不納,故曰包蒙吉。
胡瑗の解説:初六が「発蒙」と講じるのは小さい蒙昧に対するもの、上九が「撃蒙」と講じるのは大きい蒙昧に対するものです。残りの四爻は皆陰柔の資質で、この九二のみが剛強明察の徳行をもって下卦の中位に居る、中を得た爻です。剛強ならば天下の事を決断し得て、明察ならば天下の細微の跡象を見抜き得ます。剛強・明察・中正の徳行を具えれば、天下の賢能な者も不賢な者も皆前に来て彼に帰附し、天下の蒙昧の者は皆喜んで来て彼に教えを求め、彼は一概に包容して受納しないものなし、ですから「包蒙吉」と言います。
納婦吉者,婦所以助已而成治也。以上下三爻皆陰柔之質,故稱婦也。然其中必有賢者能者,而九二又能納之以助於已。蓋言九二居人臣之位,正應於五,五為至尊而以柔順之質專委於二,荷天子之重任,掌天下之繁務,其責至重,雖有剛明之徳,亦不能獨當之,必在廣納天下之賢才以相輔助,然後可以成治也,故云納婦吉也。
「納婦吉」と言うのは、婦は自分が治理を成し遂げるのを助けるのに用います。上下の残りの各爻が皆陰柔の資質なので、「婦」を以てそれらを呼称します。これらの陰爻の中には必ず賢能の士があり、九二はまた彼らを受納して自分を輔助させ得ます。これは九二が人臣の位置に居って六五と正に相応することを言います。六五は至尊の身でありながら、柔順の資質をもって政事を全権で九二に委託します。九二は天子の重託を肩負って天下の繁重な政務を掌管し、責任は極めて重大で、縦使剛強明察の徳行があっても、一人では担い下げられず、必ず広く天下の賢才を受納して互いに輔助させて然る後に治理を成し得るので、「納婦吉」と言います。
子克家者,言有包蒙納婦之吉,施之人子則可以幹父之事而克集一家之治,施之人臣則可以乾君之命而克成天下之治也,故曰子克家。象曰子克家,剛柔接也者,言六五與九二為正應,上以柔順而接於下,父之慈也;下以剛明而奉於上,子之孝也。父子之義相交,則家道成也;君臣之義相交,則天下治也。是六五之君能以柔順之道下委於九二之臣,九二之臣能以剛明之徳上奉其六五之君,是則剛柔相接而克成其治也。
「子克家」と言うのは、蒙昧を包容し賢才を受納する吉祥を得て、子たるに用いれば父の事務を承办して一家を治理し善くし得て、臣子たるに用いれば君主の命令を承办して天下を治理し成し得るということです。ですから「子克家」と言います。《小象伝》の「子克家、剛柔接也」は、六五と九二が互いに正応であることを講じます。上位者が柔順をもって下に対するのは、これは父の慈愛です。下位者が剛強明察をもって上に奉ずるのは、これは子の孝順です。父子の義が彼此交通すれば家道が成立し、君臣の義が彼此交通すれば天下が大治します。これがすなわち六五という君主が柔順の道を以て政事を九二という臣子に委託し得て、九二という臣子が剛明の徳行を以て六五という君主に事え得て、剛と柔が互相接応して治世を成し遂げたのです。
六三:勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利。象曰:勿用取女,行不順也。
六三の爻辞は言います。この女子を娶ってはなりません。彼女は金銭権勢ある男子を見れば身を失って従い、自身を保ち得ず、何の利益もありません。《小象伝》は言います。この女子を娶ってはならないのは、彼女の行為が順正の道に合わないからです。
義曰:金夫者,剛陽之人也。六三以陰柔而居陽位,本不正也。以不正之女,不能順守婦道,比近九二剛陽之人,故起躁求之心而欲遽從之,是不有其躬,非清之行,故聖人戒之曰勿用取此六三不正之女也。無攸利者,言六三之女以不正之質而從於剛夫,則必蠱其一家之事;亦猶不正之臣以此道而事君,必害其天下之治,復何有所利哉。象曰勿用取女,行不順也者,先聖所以言勿用取此女者,以其不正之質,而又躁求於金夫,不待夫見求而自遽應之,是行不順也。
胡瑗の解説:「金夫」は剛強の男子を指します。六三は陰柔の質をもって陽位に居るので、もとより正でありません。この不正の女子は柔順に婦道を守り得ず、また緊接する九二という剛強の男子と相「比」し――いわゆる比は隣接二爻が彼此親近する関係です――躁動して合を求める心を生じ、直ちに彼に従おうとし、これがすなわち自身を保ち得ず、貞潔清白の操行ではありません(源文はここで一字を脱しています)。ですから聖人は告戒して言います。六三という不正の女子を娶ってはなりません。「无攸利」と言うのは、六三のような女子が不正の資質をもって剛強の男子に追随すれば、必ず一家の事を壊すことになり、これもまたちょうど不正の臣子がこの方式を以て君主に事えれば、必ず天下の治理を妨害するがごときで、何の利益がありましょうか。《小象伝》の「勿用取女、行不順也」は、孔子がこの女子を娶るなと言った所以は、彼女が資質不正で、また急躁に有勢の男子を追求し、相手が来て求めるのを待たずに抢えて応承する、これがすなわち行為が順正の道に合わないからです。
六四:困蒙,吝。象曰:困蒙之吝,獨逺實也。
六四の爻辞は言います。蒙昧の中に困って、悔恨があります。《小象伝》は言います。蒙昧に困って悔恨が生じるのは、それのみが陽爻という「実」から最も遠いからです。
義曰:六四以陰柔之質居蒙昧之世,又處陰之位,上既逺上九之陽,下又逺九二之陽,在二陰之間,無陽以發明於已,困於蒙暗,不得通達,故有悔吝。是以自古聖賢未有不自擇師取友、親仁善鄰以成者也。故子貢問為仁於仲尼,仲尼答曰:工欲善其事,必先利其器。居是邦也,事其大夫之賢者,友其士之仁者。
胡瑗の解説:六四は陰柔の資質をもって蒙昧の時代に処し、また陰位に居り、上へは上九という陽爻から遠く離れ、下へは九二という陽爻からも遠く離れ、二つの陰爻の中間に挟まれて、陽爻が来て自分を啓発照亮することがなく、蒙昧幽暗の裏に困って通達できないので、悔恨があります。ですから古来の聖賢は、自分で師を擇び友を交わり、仁人に親近し良隣と結好して成就した者でないものがありません。ですから子貢が孔子に仁を為す法を請教したとき、孔子は答えました。工匠が仕事をよくしようと欲すれば、必ず先に自分の工具を磨き快くしなければならない。この国に住むならば、大夫の中の賢徳の者に事え、士人の中の仁厚の者と交わるべし。
夫賢者事之,仁者友之,以相訓導,以相琢磨,未有不成其道業者。果能此道,則雖愚必明,雖弱必強,則自小賢以至於大賢,自大賢以至於聖人也。故孔子又曰:里仁為美,擇不處仁,焉得智。言人之所居必擇仁者之裡而處之,觀其動作必中於道,觀其言語必中於義,出入遊處,日漸月摩,雖有凶子頑弟,未有不率而至於善者。
賢徳の人には師の礼をもって事え、仁厚の人と朋友を結び、彼此訓導し彼此切磋琢磨すれば、学問事業を成就できないことはありません。真にこの道に照らして往けば、もとより愚鈍な者は必ず明白となり、もとより柔弱な者は必ず剛強となり、これにおいて小賢から大賢に進み、大賢から聖人に進みます。ですから孔子はまた言いました。仁厚の人と隣を為すがよいので、住処を挑んで仁厚の地を挑まないのは、どうして明智と言えましょうか。人が住処を選ぶには必ず仁者の聚居する里巷を挑んで住み、彼らの挙動を見れば必ず道に合し、彼らの言談を聴けば必ず義に合し、日常出入相処して日々月々に染められれば、たとえ家に凶頑の子弟があっても、帯動されて善良に趨らないことはないという意味です。
又若孟子之母三徙其居,而卒使其子為萬世之大賢,是由母能親仁善鄰之力也。今六四不能親仁善鄰,故至於困窮而有悔吝也,宜矣。象曰困蒙之吝,獨逺實也者,夫陽主生物,故為實。今六四既逺上下之剛陽,至於困窮而有悔吝,是逺於陽實,故曰獨逺實也。
また孟子の母の如く三度搬家して、終に彼女の子を万世が景仰する大賢と成したのは、まさに母が仁人に親近し善隣を擇取し得た力です。今、六四は仁人に親近し良隣と結好することができないので、困窘して悔恨を生ずる地步に落ちたのは、また応に然るべきです。《小象伝》の「困蒙之吝、独遠実也」:陽は万物を生養するのを主るので「実」と称します。今、六四は上下二本の陽爻から皆遠く、以致って困窘して悔恨を生ずるのは、まさに陽という実体から遠ざかったので、「独遠実」と言うのです。
六五:童蒙,吉。象曰:童蒙之吉,順以巽也。
六五の爻辞は言います。童児のように蒙昧で自分から主張を為さなければ、吉祥です。《小象伝》は言います。童蒙が吉祥な所以は、それが柔順でもあり謙遜でもあるからです。
義曰:六五陰柔之質而居陽位至尊之極也,內有剛徳可以通天下之志,外示柔順足以專任臣之道,故獲童蒙之吉。非六五柔順之徳,無以委任九二剛明之臣;非九二剛明之才,無以當六五委任之重。故此能專權委寄,所謂勞於求賢,逸於任使,不勞聰明,垂拱而自治者也。象曰童蒙之吉,順以巽也者,以陰柔居至尊,是順也;能專任於賢而以柔接之,是巽也。
胡瑗の解説:六五は陰柔の資質をもって陽位に居り至尊の頂点に処し、内心に剛健の徳があって天下人の心志に通暁するに足り、外表は柔順を顕して専一に臣下を任用するに足るので、「童蒙」の吉祥を獲得します。六五のこのような柔順の徳行がなければ、政事を九二のような剛明の臣子に託する由がなく、九二のような剛明の才干がなければ、また六五のこの重荷の託負に堪えません。ですからここに専一に権柄を託し得るのは、まさにいわゆる賢才を尋訪するときは辛労し任用した後は安逸で、事事に自分の耳目心思を労せず、垂衣拱手して天下が自然に大治するのです。《小象伝》の「童蒙之吉、順以巽也」:陰柔の質をもって至尊の位に居る、これが「順」です。専一に賢者を任用して柔和の態度をもって彼に対し得る、これが「巽」、すなわち謙遜卑下です。
上九:擊蒙,不利為冦,利御冦。象曰:利用御冦,上下順也。
上九の爻辞は言います。強力を以て蒙昧を撃つ。兵を用いて他人を侵扰する強寇を為すのは不利、兵を用いて来犯の強寇を抵御するのが利です。《小象伝》は言います。外寇を抵御するのに用いるに宜しいのは、このようにすれば上上下下が皆心より悦び誠に服するからです。
義曰:據初九是蒙之小者,故曰利用刑人。凡昧於理者皆謂之蒙:若為臣不盡臣之忠,為子不盡子之孝,為弟者當奉於兄而反為輕侮之事,為兄者所以友于弟而反為傷虐之行,為士者所以守義明先王法則以正流俗而反為偷薄之行,為農者所以力穡務本而反為怠惰之事,為工者所以作器用以利於人而反為雕巧之弊,為商者所以通濟有無而反為侈靡之異,是皆反於常理而蒙昧之小者,故用刑法以正之。
胡瑗の解説:初六のあの爻(源文は「初九」と作る)の説に拠れば、それが対付するのは小さい蒙昧なので「利用刑人」と講じました。凡そ道理に昏昧不明な者を皆蒙と呼びます。臣子たる者が忠を尽くさず、子たる者が孝を尽くさず、弟たる者が本来兄に事えるべきにかえって軽慢侮辱し、兄たる者が本来弟を友愛すべきにかえって傷害虐待し、士人たる者が本来道義を守り先王法度を闡明して流俗を矯正すべきにかえって行事が澆薄し、農夫たる者が本来耕種に努力し根本を専務すべきにかえって怠惰懶惰し、工匠たる者が本来器物を制作して人に便利にすべきにかえって雕琢取巧に流れ、商人たる者が本来有無を相通じ余缺を調剤すべきにかえって奢侈浮華を助長する――これらは皆常理に違反する蒙昧で、小さい類に属するので、刑法をもって彼らを匡正します。
今上九乃是之大者,若諸侯群臣所以佐天子而反為叛逆之丑,若夷狄所以柔服於中國而反為叛亂之孽,罪深惡大,非五刑所能制,必在興師動眾以征伐之,故曰擊蒙也。不利為冦者,夫兵凶器也,戰危事也。若逞其凶器,肆其危事,以自冦於人,往必不利。故秦之始皇、漢之孝武、隋之煬帝,皆貪一時之慾,恃一己之威,窮兵黷武,長征逺伐,使天下之男死不得縁南畝,天下之女罷不得就蠶室,而勞於饋餉,流離四郊,以至老母吊其子,婦哭其夫,怨毒之氣徹於骨髓,愁痛之聲淪於腸胃,此皆為冦不利之明效也。
上九に至っては、対付するのは大きい蒙昧です(源文はここで一「蒙」の字を脱しています)。諸侯群臣が本来天子を輔佐すべきにかえって叛逆の醜事を為し、四方の夷狄が本来中原に柔順帰服すべきにかえって叛乱の禍端を作るの如く、この類は罪悪が深重で、五種の刑罰で制し得ないので、必ず兵を発し衆を動かして征討せねばならず、ですから「撃蒙」と言います。「不利為寇」と言うのは、兵器は凶険の物で戦争は危険の事です。もしこの凶器を逞しく用い恣意にこの危事を為し、かえって強寇のように他人を侵扰すれば、前往は必ず不利です。ですから秦始皇・漢武帝・隋煬帝は、皆一時の欲望を貪り一己の威勢に仗恃して、窮兵黷武し長途遠征して、天下の男子が累死しても田中の荘稼に顧みる暇なく、天下の女子が疲弊しても養蚕に顧みる暇なく、皆軍糧を転運するに苦しみ、四郊に流離し、以致って老母が子を哭祭し妻子が夫を哭泣し、怨恨の気は骨髓に深く入り愁苦の声は腸胃に鑽入した――これらは皆「為寇不利」の明らかな例証です。
言利御冦者,言征伐之事,非務乎窮兵黷武,蓋在於御難備害而已。若三苗之民反道敗徳而舜征之,葛伯有先祖之奉而不祀、有千乘之富而奪人之饋餉,湯始征之,昆夷玁狁為華夏之難而文王討之,三監叛周而周公誅之,四夷交侵,宣王伐之,此皆利於御冦之明效也。象曰利用御冦,上下順也者,言諸侯之叛逆、四夷之不賓服,人神之所共怒也,故聖人選兵簡將以擊之,則上下之心無不承順也。《中庸》曰:喜怒哀樂發而皆中節謂之和。若此可謂怒中其節也,上下安得不順承之哉。
「利御寇」と言うのは、征伐のこの事は窮兵黷武を務とせず、ただ禍難を抵御し侵害を防備するにあるのみということです。三苗の民が正道を背き徳行を敗壊したので、舜は兵を出して彼らを征討しました。葛伯は本来祖先を祭祀する職分がありながら祭祀せず、千乗の富を擁して他人の送った飯食を搶奪したので、商湯はこれに因って征伐を始めました。昆夷・玁狁が華夏の禍患となったので、周文王は彼らを討伐しました。管叔・蔡叔・霍叔の三監が周室を背叛したので、周公は彼らを誅討しました。四方の夷狄が交々侵犯したので、周宣王は兵を出して討伐しました――これらは皆「利于御寇」の明らかな例証です。《小象伝》の「利用御寇、上下順也」は、諸侯が叛逆し四夷が帰服を肯んじないのは、人と神が共に憤怒する事なので、聖人が士卒を挑選し将領を簡抜して彼らを討伐すれば、上上下下の人心で順従しないものがないということです。《礼記・中庸》は言います。喜怒哀楽が発出して皆節度に合することを「和」と呼びます。このように兵を出せば、怒りを発して節度に合したと言え、上上下下がどうして順従擁戴せざり得ましょうか。
需 乾下坎上
需,有孚,光亨,貞吉,利渉大川。
《需》卦の卦辞は言います。心中に誠信を懐き、徳行が光明にして通達し、正道を守れば吉を得、大江大河を渡って険難の事業を承担するに适宜です。「孚」は内心から発し偽飾を加えない誠信を指します。「光亨」は徳行が光明であるがゆえに処処に通達することを言います。「貞」は正道を守持することを指します。「利渉大川」は《周易》に常見の譬喻で、十分な力量をもって険を渉り難を済し大事を成就する意です。
義曰:需,訓為須,須待也。需所以次於者,按《序卦》云:「蒙者,物之稚也。物稚不可不養,故受之以需。需者,飲食之道也。」夫需又為濡潤之義。物在蒙稚,必得雲雨以濡潤之;人在蒙稚,必得飲食以濡潤之,以養成其體也。謂之待者,蓋卦之二體,乾在下必務上進,既欲其進而又險在於上,於是見險而止。猶君子以險難在前,故待時而動,不妄求進,是須待之義也。
胡瑗の解説:「需」の字は「須」と訓ずべく、すなわち待つことです。《需》卦が《蒙》卦の後に緊接する所以は、《序卦伝》に明らかに講じられています。「蒙は万物の幼稚の段階、万物がすでに幼稚ならば、養育を加えざるを得ず、故に《蒙》卦に承ぐるは《需》卦なり。需はまさに飲食養育の道を説く。」また「需」の字には滋潤の意味もあります。草木が幼嫩のとき、必ず雲雨の滋潤を得てはじめて長成し得ます。人が蒙昧幼弱のとき、必ず飲食の滋養を得てはじめて身体を成人に養育し得ます。「需」を待つと解するに至っては、上下両体の「卦徳」に就いて言うのです――いわゆる卦徳とは八卦の各々の性情で、乾を健・坤を順・坎を険・巽を入とします。下体は乾で乾徳は剛健、本性は必ず上に進取しようとします。しかしそれが上進しようとしても、上体坎の険陷がまさに前頭に横たわるので、危険を見て歩みを停めます。これはちょうど君子が険難が目前にあるのを明知して、時機の成熟を待ってはじめて行動し、軽率に進を求めることを肯んじないがごときで、これが「須待」の含義です。
有孚光亨者,此指九五而言也。故卦辭或統論一卦以明其體,或因一爻以明其徳。此需是九五當其義,故指而言之,以明其徳。孚者,由中之信也;光,明也;亨,通也。夫九五以陽明之徳,處至尊之位,有由中之信以待於物,物亦以由中之信接於己,上下交相以至誠之道浹洽於天下,其徳乃光明而亨通也,故曰有孚光亨也。
「有孚光亨」のこの一句は、専ら九五の一爻に就いて言います。《周易》の卦辞は、或いは全卦の体性を通論し、或いはその中の一爻を捉えてこの一卦の徳行を顕します。《需》卦はまさに九五の一爻が最も卦義に合うので、卦辞は直にそれを指して言い、もってこの一卦の徳行を顕明にします。「孚」は内心から発する誠信、「光」は光明、「亨」は通達です。九五は剛陽にして明叡の徳性をもって、最も尊貴の君位に居り、内心から発する誠信をもって天下万物に対すれば、万物もまた内心から発する誠信をもって彼に応えます。上下が彼此皆至誠の道を以て相交わり、この誠意は天下全体に浸潤融洽するので、彼の徳行はこれにおいて光明にして通達です。ですから卦辞は「有孚、光亨」と言います。
貞吉者,言九五以陽居陽,得正者也。夫既有由中之信接於物,必須濟之以正,乃獲其吉也。若信而非正,則入於邪僻,故先聖云「信近於義」,又曰「子帥以正,孰敢不正」,故曰貞吉。然則此非止於九五人君之道獨當然,若凡在位者能以正信之道接於下,則下亦信之而從正也。若父子之間以正信相接,則不陷於不善;朋友之間以正信相接,則不陷於不義。是凡為人者有由中之信,皆當正而行之,乃得吉也。然既以正信接於人,而人亦以正信歸於已,以此而濟大難,何不利之有,故曰利渉大川。
「貞吉」の二字は、九五が陽爻をもって陽位に居って「正」を得たことを言います。いわゆる「爻位」は、六爻が下から上への位置で、一三五は陽位・二四六は陰位です。陽爻が陽位に居れば「得正」と称します。人がすでに内心から発する誠信をもって他人に対する以上、必ず正道をもってこの誠信を成さなければ、吉祥を得られません。假如信のみあって正に合わなければ、邪僻に滑り込みます。ですから孔子は「信は義に近し」と言い、また「あなたがみずから正路を歩むを率先すれば、誰が敢えて正しくありましょうか」と言ったので、卦辞は「貞吉」と言います。この道理は九五のような人君のみに適用するのではありません。凡そ官に居り位に在る者が、正にして信ある道をもって属下に対すれば、属下もまた彼を信任して正路に従います。父子の間が正信をもって相待すれば、不善に陥らず、朋友の間が正信をもって相待すれば、不義に陥りません。見れば分かるように、凡そ人たるものは、内心から発する誠信があれば、皆正道に循って実行してはじめて吉を得るべきです。すでに自分が正信をもって人に対すれば、他人もまた正信をもって自分に帰附し、このような人心を用いて大きい艱難を渡れば、何の不利がありましょうか。ですから卦辞は「利渉大川」と言います。
彖曰:需,須也,險在前也。剛健而不陷,其義不困窮矣。需有孚光亨貞吉,位乎天位,以正中也。利渉大川,往有功也。
《彖伝》は解釈して言います。需とは待つことで、険陷が前方に横たわるからです。下体は剛健にして終に陥落せず、道理上において困頓窮絶の地步に至りません。《需》卦の言う心に誠信を懐き光明通達し正を守って吉を得るのは、九五が「天位」(天子の至尊の位を象徴する)に居り、かつ中でもあり正でもあるからです。いわゆる「利渉大川」は、このように前往すれば必ず功業を建て得ることを言います。
義曰:需者,濡潤飲食之謂也,亦謂須待之義也。險在前也者,此以二體明之:坎在上為險,乾在下務於上進,而坎險在上,是以待時而動,不躁求妄進,故曰需須也險在前也。剛健而不陷其義不困窮矣者,此言雖險阻在前,而下之三陽皆剛明至健之人,必有欲進之心也。然而既剛且健,其進又不躁不妄,固不陷溺於險難之中,而其義不至困窮矣。
胡瑗の解説:「需」は滋潤養育・飲食の道を指すとともに、時機を待つ意も指します。《彖伝》の「険在前也」は、上下両体をもって説明します。坎が上にあればすなわち険で、乾が下にあって一心に上に進取しようとしますが、坎険がまさに上に圧しているので、ただ時機を待って行動するよりなく、急躁せず妄りに前進を求めないので、《彖伝》は「需、須也、険在前也」と言います。「剛健而不陥、其義不困窮矣」に至っては、険阻が目前にあっても、下卦の三つの陽爻は皆剛強明達・極めて強健の人物で、必ず上進の心を懐きます。しかし彼らは剛でありかつ健で、前進するときもまた急躁せず妄動せず、もとより険難の中に陥溺しないので、道理上において困頓窮絶に陥りません。
需有孚光亨貞吉位乎天位以正中也者,此言九五之位,有剛明之徳,居至尊之極,以陽居陽是正也,又在上卦之中是中也。既內有由中之信,而外得其正,故得光明而亨通,是處至尊之位而以中正者也。利渉大川往有功也者,言有光亨之徳,知其可進之時,然後施己之道,又本懐乾健之性,以斯而往必有成功,故曰往有功也。
《彖伝》の「需有孚、光亨、貞吉、位乎天位、以正中也」は、九五の一爻が剛強明叡の徳行を具え、至高無上の君位に居ることを言います。陽爻をもって陽位に居る、これが「正」です。また上卦三爻の中間に居る、これが「中」です。「中正」は《周易》が爻位の善悪を評断する重要な標準で、偏らず倚らず、かつ居位が妥当であることを指します。九五は内に内心から発する誠信があり、外にまた正道を守ったので、光明通達し得て、まさに至尊の位に居りながら中正を能くする人です。「利渉大川、往有功也」に至っては、彼がすでに光明通達の徳行を有し、また前進すべき時機を見極め得て、然る後に自分の主張を施行するということです。加うるにもとより乾卦剛健の秉性を懐いているので、このように出発前往すれば、必ず成功を取得し、ですから《彖伝》は「往有功也」と言います。
象曰:雲上於天,需。君子以飲食宴樂。
《象伝》は解釈して言います。雲気が天上に升騰して、まだ雨と化して降らない、これが《需》卦の卦象です。君子はこの象を体察して、飲食を以て身体を調養し、安閑和楽を以て心神を安頓し、従容として時機を待ちます。
義曰:坎為水為雲,乾為天,今坎在乾上,是雲上於天也。且云者,畜雨之具也,今上於天,是必反降雨澤於下也。君子觀此需待之象,以飲食養其身,以宴樂寧其神,居易以俟命,待時而後動也。
胡瑗の解説:坎は卦象上で水を代表し、また雲をも代表します。乾は天を代表します。今、坎は乾の上にあり、まさに雲気が天上に升った景象です。雲は雨水を蓄積する物で、すでに天上に升った以上、必ずかえって雨沢を下に降らせます。君子はこの「待つ」の卦象を観察して、飲食を用いて自分の身体を調養し、安閑和楽を用いて自分の精神を安定し、平易の境地に安んじて天命を等候し、時機が至ってはじめて行動するのです。
註疏之說,以飲食宴樂謂童蒙既發,盛徳光亨,無所為而但飲食宴樂而已。觀此則是教天下以逸豫為心也,非聖人之,今則不取。飲食者,所以養身也;宴樂者,所以寧神也,是亦樂天知命、居易俟時耳。故君子之於飲食,非謂肥甘其口腹也。孟子曰:「飲食之人,無有失也,則口腹豈適為尺寸之膚哉。」君子之於宴樂,非謂苟安其身也,所以保其躬,治其心,明其性,是君子樂天知命,待天時之至也。
旧来の注疏は「飲食宴楽」を解釈して、童蒙がすでに啓発され盛大の徳行が光明通達し、これにおいて為す事なく、只管飲食宴楽するのみと言いました。このように講じれば、天下の人に安逸享楽を心思と為せと教えるに等しく、実に聖人の本意に合いません(原文はここで「非聖人之」の下に脱字の疑いあり)。ですから今この説を採用しません。飲食は身体を調養するのに用い、宴楽は心神を安定するのに用い、これもまた天を楽しみ命を知り、平易の地に安居して時機を等候するのに属します。ですから君子の飲食に対するは、肥美甘甜の物を以て口腹を満足せんとするのではありません。《孟子》は言います。「一味に飲食を講究する人は、人々が彼を見下すのは、彼が口腹の欲のために心志の滋養を失うからだ。もしその大者を失わなければ、口腹はまたどうしてあの一尺一寸の皮肉のみのためであろうか。」君子の宴楽に対するは、苟且に身体の安逸を求めるのではなく、身軀を保养し内心を整治し本性を澄明にして、まさに君子が天を楽しみ命を知り、静かに天時の到来を候つ方式です。
孟子曰:「仁義忠信,樂善不倦,此天爵也;公卿大夫,此人爵也。古之人修其天爵,而人爵從之。」今夫君子之待時也,若農夫之趨於田也。農者非不耕而可待其食也,非務休逸而可待四時之有成也,必力勤於稼穡,志專於耕耨,然後春生之,夏長之,秋成冬蔵之。如不耕耨,不播種,則四時何有成哉。君子之待時,必須修其仁義忠信之徳,然後可享其位,伸其道也,故曰君子以飲食宴樂。
《孟子・告子上》は言います。「仁・義・忠・信は、善事を好んで倦まない、これは上天の与えた爵位です。公・卿・大夫は、これは人間の与えた爵位です。古の人は上天の与えた爵位を修養すれば、人間の爵位は自然と跟って来ます。」君子の時機を待つは、ちょうど農夫が田間に赴くがごときです。田を種る者は、耕作しなくても収成を待ち得るのではなく、また一味に休息安逸を貪っても四季の成熟を待ち得るのではなく、必ず稼穡の上に力を出し勤劳し耕耘の上に心志を専一にして、然る後に春にこれを萌生させ夏にこれを生長させ秋にこれを成熟させ冬にこれを蔵します。假如耕耘せず播種せなば、四季にまたどうして収成がありましょうか。君子の時機を待つも、必ず先に自分の仁義忠信の徳行を修養して、然る後にその位を安享しその道を施展し得ます。ですから《象伝》は「君子以飲食宴楽」と言います。
初九:需于郊,利用恆,無咎。象曰:需于郊,不犯難行也。利用恆無咎,未失常也。
初九の爻辞は言います。水辺から遠い郊野で待つ、恒久不変の操守を堅守するに宜しく、こうすれば過錯がない。《象伝》は解釈して言います。郊野で待つのは、険難を冒犯して強行前進しないからです。恒常の徳を堅守するに宜しく過錯がないのは、彼が平常の道を失わなかったことを言います。
義曰:郊者,曠逺之地也。按此卦坎在上為險,乾在下為健。夫有剛健之徳,必欲上進。今初九雖是剛健之質,然而險難在前,故見險而止,待時而動,厄窮而不憫,樂天知命,不務速進,但需待其時逺難而已。然所以於郊者,郊最逺於水,待之於此,最逺難者也,故曰需于郊也。利用恆無咎者,言居無位之地,又處險難之下,本有咎也。然初九若能守其恆心,不為困窮而易其節,不以貧賤而渝其志,相時之可否,可進則進,故得免其咎也。
胡瑗の解説:「郊」は空曠遼遠の地です。この卦は坎が上で険陷を代表し、乾が下で剛健を代表します。凡そ剛健の徳を具える者は、必ず上に進取しようと欲します。今、初九は禀性が剛健でありながら、険難がまさに前にあるので、危険を見て停まり、時機が適してはじめて行動します。処境が困厄でも憂傷怨恨せず、天を楽しみ命を知り、進を急いで求めず、ただ時機を待って危難を遠ざけるのみです。「需于郊」と言う所以は、郊野が水から最も遠く、ここで待つのはすなわち険難から最も遠い位置なので、「郊野で待つ」と言います。「利用恒、无咎」に至っては、初九が職位なき最下に居り、また険難の下に居るので、もとより咎害があるはずです。しかし彼がもし恒久不変の心志を守り得て、困窮に因って節操を改めず、貧賤に因って志向を動揺せず、時勢の可行か否かを審察して、進むべければ進むならば、咎害を免除し得ます。
象曰需于郊不犯難行也者,言此初九能見險待時於逺郊之地,是不犯冐險難而行也。利用恆無咎未失常也者,言俟時而動,不犯難行者,乃有常之君子也。故《中庸》曰:「君子居易以俟命,小人行險以徼倖。」言君子雖居貧賤,而但守平易之心,不妄動,不躁進,俟時而已;小人則務險詖其行,以徼恩幸。今初九能守常不變,是君子所為也。
《象伝》の「需于郊、不犯難行也」は、初九が危険を見抜き得て、遥遠の郊野で時機を待つ、これがすなわち険難を冒犯して貿然と前行しないことです。《象伝》の「利用恒无咎、未失常也」は、時機を待ってはじめて行動し冒険して硬闯しない人は、まさに常道を持守する君子だということです。ですから《中庸》は言います。「君子は平易の境地に安んじて天命を等候し、小人は険を走って僥幸に求めます。」君子はたとえ貧賤に身を処しても、ただ平和坦易の心を守り、妄動せず急進せず、静かに時機を候つのみ。小人は専ら険悪偏邪の行径に功夫を下し、僥幸に恩寵を博取せんとするという意味です。今、初九は常道を守って改変しない、まさに君子の作為です。
九二:需于沙,小有言,終吉。象曰:需于沙,衍在中也。雖小有言,以吉終也。
九二の爻辞は言います。水辺に近い沙地で待つ、少々非議の言が来るも、最終的に吉を得ます。《象伝》は解釈して言います。沙地で待つのは、彼の心中に寛綽舒缓の度量があるからです。少々の閑言はあっても、結果は吉祥を以て収まります。
義曰:沙者,近於水,亦平易之地焉。按六四為險難之初,三最近之,初最逺之,而二居逺近之間,以陽居中,內有剛明之徳,而處得其中,但守平易之心,需于沙而已。小有言終吉者,言九二將近於難者也。夫險難者,小人陰險之行也。已以君子之道守其中正,不與小人苟合,則小人興構之言以謗於已。然九二動以剛徳,行以中道,不顧流俗之毀訾,雖有小人讒構之言,終不能為害於己,故曰需于沙小有言終吉也。
胡瑗の解説:沙地は水に近づき、同時にまた平坦舒缓の地です。この卦に拠れば、六四は険難の頭で、九三はそれに最も近く、初九はそれに最も遠く、九二はまさに遠近の間に居り、陽爻をもって下卦の中位に居り、内に剛強明達の徳があり位置もまたその「中」を得ているので、ただ一分の平和坦易の心を守って、沙地で待つのみです。いわゆる「小有言、終吉」は、九二がすでに漸く険難に近づいたことを言います。いわゆる険難は、小人の険険な行径を指します。九二は君子の道を以て自分の中正を守り、小人と苟且に迎合することを肯んじないので、小人は言語を捏造して彼を毀謗します。しかし九二の行動は剛正の徳に依凭し、行事は中道に遵循し、流俗の詆毀を顧みないので、縦使小人の構穽する讒言があっても、終に彼を傷つけられず、ですから爻辞は「需于沙、小有言、終吉」と言います。
象曰需于沙衍在中也雖小有言以吉終也者,衍,寛衍也。言九二所以需待於沙者,以中有寛衍之徳而居中也。夫小人之言也,如犬之狺狺焉,吠其聲者有之,吠其形者有之,安能為君子之害。故九二雖有小人之言將害於已,然而終不能害之,自獲其吉也。
《象伝》の「需于沙、衍在中也、雖小有言、以吉終也」の中の「衍」は寛綽舒缓の意です。これは九二が安心して沙地で待ち得るのは、まさに彼の心中に寛綽舒缓の気度があり、かつ中位に居るからだということです。小人の言語は、ちょうど犬が汪々と吠えるがごときで、或る者は音響を聞いて叫び、或る者は影子を見て叫び、どうして真に君子を傷つけ得ましょうか。ですから九二は小人の言語による中傷を受けても、あれらの言は終に彼を害せず、彼は自然と吉祥を獲得し得ます。
九三:需于泥,致冦至。象曰:需于泥,災在外也。自我致冦,敬慎不敗也。
九三の爻辞は言います。水辺に緊靠する泥濘の地で待つ、強寇の到来を招致しました。《象伝》は解釈して言います。泥地で待つのは、災禍がまだ外卦にあって身に臨まないからです。強寇は自分が招いたので、恭敬謹慎ならば失敗を招きません。
義曰:上卦坎為險,又為水。六四在陰險之初,而三最近之。夫泥之為物,最近於水者也,此九三去難最廹,故曰需于泥也。致冦至者,六四居險難之初,小人之行者也,以小人之心毀壊正道,荼毒良民,讒謗君子者也,則君子之人必在敬而逺之。然九三以陽剛君子之徳,而反不敬逺小人,則己之道何以著於天下。又以至健之質,務欲上進,而最廹於小人,故致小人之為冦也。然九三以陽居陽,雖不及中,且履正者也,以至正之道,又內謹其心,外慎其事,則為冦之小人終不能陷於己。
胡瑗の解説:上卦の坎は険を代表するとともに水をも代表します。六四は陰険の開頭に居り、九三はそれに最も近いです。泥という物は最も水に贴近するので、九三が険難に最も迫近するのが見え、ですから爻辞は「需于泥」と言います。いわゆる「致寇至」は、六四が険難の開端に居り、小人の行を行う一爻で、小人の心腸を懐いて正道を敗壊し、善良の百姓を荼毒し、讒言を進めて君子を毀謗するからです。このような人に対して、君子は必ず恭敬して彼を遠く避けなければなりません。しかし九三は陽剛君子の徳性を具えながら、かえって恭敬して小人を疏远することを肯んじないのですから、自分の正道はどうして天下に昭著し得ましょうか。加うるに彼の禀性が極めて剛健で一心に上進を思い、位置もまた最も小人に贴近するので、小人の侵犯を招来しました。しかし九三は陽爻をもって陽位に居り、居中していないけれど正位に踏んでいるので、彼がすでに極めて端正の態度を以て行事し、内にその心を謹守し外にその事を慎重にすれば、来て侵犯する小人は終に彼を陥害できません。
象曰需于泥災在外也者,易中凡上卦為外,下卦為內。今九三雖進而至此,然尚未入於難,但廹近六四,是來害己者在外也。自我致冦敬慎不敗也者,言冦之慾來,皆由己之慾進而自廹之也。然君子所行必中道,所為必中節,使無毫髮之差,則小人不能窺伺而起害也。今既至此,則固宜恭敬謹慎其所為,則小人終亦不能克勝也,故曰敬慎不敗也。
《象伝》の「需于泥、災在外也」:《周易》において、凡そ上卦を皆「外」と呼び下卦を皆「内」と呼びます。今、九三は前進してこの位置に至ったけれど、まだ真に険難に入っておらず、ただ六四に緊逼しているので、来て彼を害する力量はまだ外卦にあるのが見えます。《象伝》の「自我致寇、敬慎不敗也」は、強寇が来る所以は、皆自分が上進を急ぎ主動して逼近して招惹したに由るということです。しかし君子の行為は必ず中道に合し、作為は必ず節度に合して、毫髪の差もなければ、小人は窺伺して手を下す由がありません。今、すでにこの地步に至った以上、更に自分の為す所に対して恭恭敬敬・謹慎小心すべく、こうすれば小人も終に逞し得ないので、《象伝》は「敬慎不敗也」と言います。
六四:需于血,出自穴。象曰:需于血,順以聽也。
六四の爻辞は言います。血を流し傷つく処境の中で待ち、ついに洞穴の裏から退出しました。《象伝》は解釈して言います。血を流す処境で待つのは、六四がただ柔順に下の三陽の進取に聴従するよりないことを指します。
義曰:血者,傷之謂;穴者,所居之地也。夫乾之為體,本在於上,今卦反在於下,三陽皆欲上進,復其本位。六四以小人陰險之質,居險之初,而窒塞其中。然下之三陽以至健之徳,俟時而動,至此皆引類而進。六四雖始欲拒其進,妨其路,然覩眾賢之來,其勢度己之力必不能退,故退而避之,則始獲安居。如或止而不使之進,是必致眾賢之所害,自待其傷,故曰需于血也。出自穴者,言若能度己之力不能御,則退其所居,而不敢妨眾賢之進,如此則庶可以免害也。象曰順以聽也者,夫小人不能與君子敵,今三陽上進,已必柔順以聽從其所命也。
胡瑗の解説:「血」は傷つくことを指し、「穴」は居住する処を指します。乾のこの一体は本来上にあるべきに、今《需》卦でかえって下に居るので、三つの陽爻は皆上に進取してそれらの本来の位置を回復しようと欲します。六四は小人陰険の資質をもって、険難の開端に居り、通路の中間に堵塞しています。しかし下の三つの陽爻は極めて剛健の徳性に凭って、時機の成熟を待って一斉に行動し、このとき皆同類を招引してともに上進します。六四は初めは彼らの前進を拒絶し彼らの去路を阻擋しようと思いましたが、衆多の賢者が一斉に湧き来るのを眼に見て、その声勢の下に、自分の力量が到底挡えられないと忖量して、退譲避開して、これにおいて安身の処を得ました。假如強いて挡えて彼らを前進させなければ、必ず衆賢の打撃を招き、自分は傷つくのを待つので、爻辞は「需于血」と言います。いわゆる「出自穴」は、彼がもし自分に抵御する力なしと忖量すれば、もとより占拠した処から退出して、衆賢の上進を妨害することを敢えてせず、こうすれば大概禍害を免れ得るということです。《象伝》の「順以聴也」は、小人はもとより君子に敵せず、今、三陽が上に進取するので、六四はただ柔順に彼らの号令に聴従するよりないということです。
九五:需于酒食,貞吉。象曰:酒食貞吉,以中正也。
九五の爻辞は言います。酒食を以て賢才を款侍して従容として待ち、正を守れば吉を得ます。《象伝》は解釈して言います。酒食を備え置いて正を守り吉を得られるのは、九五が中に居りかつ正を得ているからです。
義曰:註疏之解,謂需之所須,須於天位,何所復需,需于酒食,以宴樂而已。若此,則是教人以體逸為心耳,無足為法。夫自古聖帝賢王,雖當平治,未敢忘於喪亂危亡,及匹夫匹婦之失所者,夕思晝行,以濟於天下,安敢自懐於安逸哉。
胡瑗の解説:旧注疏はこの爻を解釈して、《需》卦の待つ所は天子の位に外ならず、今すでに天位に居るのに、まだ待つべき何があるかと言い、只管酒食を備え办して宴飲して楽しむのみという説を為しました。このように講じれば、身体の安逸を以て心思と為すことを教えるもので、取り法すに足りません。古来の聖明の帝王・賢能の君主は、たとえ太平の世に身を処しても、喪乱危亡の可能性を忘れることを敢えてせず、まだ普通百姓の流離失所があることを忘れることを敢えてせず、夜には思慮し昼には践行し、一心に天下を救済せんことを思って、どうして自分を安逸に沉溺させることを敢えてしましょうか。
蓋九五以中正之徳,居至尊之位,而息於險難,又以由中之信待於物,則天下之賢者樂從之。賢者既樂從之,則必飬之,故需于酒食,所以待賢也,亦所以養身也。賢人既養,則天下之賢皆引類而歸之;身既安,則可以暢仁義之道於天下,故曰需于酒食。既以酒食待天下之賢,得其正則吉也,故曰貞吉。象曰以中正也者,言九五居卦之中是以中也,以陽居陽是以正也,既有中正之徳,於是用酒食以待賢,所以獲吉者也。
実は九五は中正の徳を以て至尊の位に居り、すでに険難の中から脱して安定し、また内心から発する誠信を以て衆人に対するので、天下の賢者は皆喜んで彼に帰附します。賢者がすでに喜んで帰附する以上、必ず彼らを供養しなければならず、ですから「需于酒食」と言います――これは賢才を款侍するのにも用いられ、また自身を調養するのにも用いられます。賢人が供養を得れば、天下の賢才は便ち同類を招引してともに帰り、自身が安定すれば、仁義の道を天下に暢行し得るので、爻辞は「需于酒食」と言います。すでに酒食を以て天下の賢才を款侍し、しかもこのようにするのが正道に合すれば、自然と吉祥なので、「貞吉」と言います。《象伝》の「以中正也」は、九五が上卦三爻の中間に居る、これを「中」と呼び、陽爻を以て陽位に居る、これを「正」と呼びます。すでに中正の徳を具え、こうして酒食を以て賢者を款侍する、これが彼が吉祥を獲得し得る所以です。
上六:入于穴,有不速之客三人來,敬之終吉。象曰:不速之客來,敬之終吉,雖不當位,未大失也。
上六の爻辞は言います。洞穴に退入して安居していると、招かざる三人の客が来訪し、恭敬して彼らを接待すれば、終に吉を得ます。《象伝》は解釈して言います。招かざる客が至り、恭敬して彼らを接待して因って終に吉祥を得ます。上六は居る位が当たらないけれど、まだ大きな過失があるとは言えません。
義曰:上六居一卦之極,以陰柔之質,乃復入于穴以獲其安。何則?蓋六四退避,不敢妨群賢之路;九五又能用酒食以待之,賢者既以仕進,不見害於己,故得入其穴以安其居也。有不速之客三人來敬之終吉者,速,召也。言四五既使群賢並進,而上六又執柔而得安居,故下之三陽君子皆不期而自應,不召而自來。然既以一陰而當三陽之應,則是為其主也,上六固當執柔順恭敬,盡其禮而接納之,如此則終得其吉也。
胡瑗の解説:上六は全卦の最上端に居り、陰柔の資質を以て、洞穴の中に退りて安寧を得ます。なぜこのようなことかというと、六四がすでに退譲避開して衆賢の去路を阻擋するを敢えてせず、九五はまた酒食を備え办して彼らを款侍するので、賢者はすでに出仕進用を得て、上六に害を加えに来ず、それゆえ洞穴に入って安居し得ます。いわゆる「有不速之客三人来、敬之終吉」の中の「速」は召請の意です。これは六四・九五がすでに衆賢を一斉に進用せしめ、上六がまた柔順を持守してその位に安居し得るので、下卦の三つの陽爻という君子が皆期せずして来て呼応し、召請する人なくして自ら来たということです。すでに一つの陰爻を以て三つの陽爻の来応を承接する以上、上六は彼らの主人となり、それでは自ら当に柔順恭敬の態度を持守し礼数を尽くして彼らを接納し、こうして終に吉祥を得られるのです。
象曰雖不當位未大失也者,言上六既當無位之地,而能恭敬以接納三陽之君子,是能來天下之賢者也。位雖不當而有所過失,然亦不至於大也。何哉?夫納賢好善,優於天下,天下之至美者也,有此至美,雖有過失,又何大哉。
《象伝》の「雖不当位、未大失也」は、上六が職位なき最上端に居りながら、恭恭敬敬して三つの陽爻のような君子を接納し得るので、これがすなわち天下の賢才を招徕し得るということです。その爻位は当たらないがゆえに些かの過失を免れませんが、また大きな過失に至ることはありません。なぜなら、賢才を接納し善道を好むことは、その寛厚が天下を容納するに足るので、これは天下の最も美好な品質であり、このような最も美好な品質があれば、縦使些かの過失があっても、またどうして大きくなり得ましょうか。
訟 坎下乾上
訟:有孚窒惕,中吉,終凶。利見大人,不利渉大川。
《訟》卦の卦辞は言います。自分に確かに誠信があるのに人に堵塞され抑圧され、因って心中に戒懼を存します。争訟は半ばに進んで適可に止めれば、吉祥を獲得し得ます。もし一味に争い尽くせば、結局は凶険です。大才大徳の人に見えて是非を裁断してもらうに适宜し、冒険して大江大河を渡って艱難の事を為すには适宜しません。
義曰:按《序卦》云:「需者,飲食之道也。飲食必有訟,故受之以訟。」然謂之訟者,上下不和,物情違戾,所以致也。有孚窒惕中吉者,蓋孚者,由中之信。人所以興訟,必有由中之信實於己,而為他人之所窒塞,不得已而興訟,蓋己直而彼曲,己是而彼非。其間情偽利害雖存,則必具兩造以聽斷於在位之人。然雖已有信實而為人之窒塞,亦須恐懼兢慎而不敢自安,則庶幾免於凶禍;又中道而止,則可以獲吉也。
胡瑗の解説:《序卦伝》に拠れば「需は飲食の道を講ず。飲食の利あれば、必ず争訟を引き起こす。故に《需》卦に承ぐるは《訟》卦なり」と言います。「訟」と呼ぶ所以は、上下が和睦せず人情が相互に乖違抵触して、争訟を招致したからです。いわゆる「有孚窒惕、中吉」の「孚」は内心から発する誠信を指します。人が官司を打つ所以は、必ず自分の心中に確かに誠信実理があるのに、相手方に堵塞され抑圧されて、已むを得ず訴訟を興すのです――畢竟自分が理を占めて相手が理屈に窮し、自分が是で相手が非だからです。その中の真情と虚偽、利害と得失がすでに糾纏している以上、必ず原告被告の両造が俱に備わり、在位の官長に交えて聴断せしめなければなりません。しかし自分に確かに誠信があって人に堵塞されても、なお心に恐懼を懐き小心謹慎にして、自ら安穏と為すことを敢えてせず、こうしてはじめて凶禍を免れ得る可能性があり、加うるに争いが中途に至って止むことを知れば、吉祥を獲得し得ます。
終凶者,言能兢懼中道而已則可也。若於訟之時,必欲終成而不已,則聽訟之人必加之以鞭樸之刑,重之以流竄之罪,如此則是凶之道也。利見大人者,夫爭訟之所由興,皆由情意之相違戾,上下之不和同。鬬訟一生,奸偽萬狀,然刑獄之情至幽至隠,必得大才大徳之人以明斷其事,則情偽利害、是非曲直,可曉然而決矣。何則?蓋大人者,才識明達,智慮通曉,雖幽隠纎芥皆能察辨之,故訟者往求而決之冝矣。不利渉大川者,大川謂大險大難也。凡歴險渉難,必須物情相協,志氣和同,則可得而濟也。今訟之時,是其物情違忤而不相得,欲濟渉險難必不可得。何則?以剛健在上,坎險在下,用剛健而渉坎險,則愈入於深淵,何利之有。
いわゆる「終凶」は、ただ戒懼謹慎にして適可に止めれば足りるということです。假如争訟のときに、是非とも官司を打ち尽くして罷休を肯んじなければ、聴訟する人は必ず彼に鞭笞杖責の刑罰を加え、重ければ還って辺地への流刑を判決し、これがすなわち凶険の路を走ることです。いわゆる「利見大人」:争訟が興る所以は、皆人情意願が相互に乖違し上下が和同し得ないに由ります。一旦争闘訴訟が発生すれば、欺詐虚偽の様々な手が層出して窮まりません。刑獄の案情は往々にして極めて隠微幽深で、必ず才大徳高の人を得てこの事を明断せしめてはじめて、真情と虚偽・利害と曲直が、清清楚楚に判決し出せます。なぜなら「大人」のような人は才識が明達し思慮が通透し、たとえ細芥の如き隠微の処でも皆察辨し出せるので、官司を打つ人が前に行って彼の裁断を請うのは合适だからです。いわゆる「不利渉大川」の「大川」は大きい険阻艱難を指します。凡そ険阻を経歴し艱難を渡るには、必ず人心が協調し志気が一致してはじめて成功し得ます。今、まさに争訟の時に当たり、人情は彼此違逆して互いに相得ないので、険難を渡らんと欲しても必ず办り得ません。なぜかというと、上卦の乾は剛健で下卦の坎は険陷であり、剛健を以て坎険に闯えば、ただ愈々深く陥り、深淵に掉り込むのみで、どうして利益がありましょうか。
彖曰:訟,上剛下險,險而健,訟。訟有孚窒惕中吉,剛來而得中也。終凶,訟不可成也。利見大人,尚中正也。不利渉大川,入于淵也。
《彖伝》は解釈して言います。《訟》卦は上体が剛強・下体が険陷で、内に険詐があり外に剛健を表す、これが争訟を形成します。卦辞が「有孚窒惕、中吉」と言うのは、剛爻が来て下卦に居りて中位を得たからです。「終凶」と言うのは、争訟は争い尽くして了結を求めてはならないからです。「利見大人」と言うのは、崇尚する所が中正の徳だからです。「不利渉大川」と言うのは、そのようにすればただ深淵に掉り込むのみだからです。
義曰:大凡在上者剛,在下者柔,則不至於不和;在上者巽,在下者險,亦不至於為訟。今在上者既剛,為下者又險,其訟必興,故曰訟上剛下險,險而健,訟。訟有孚窒惕中吉剛來而得中也者,此言九二之爻也。以訟之所由興,由已有信實而為人之所窒塞,又兢懼怵惕,得中而止,不敢終竟其事而獲其吉,是惟九二以剛明之徳而處得其中,則能然也。
胡瑗の解説:大凡上位の者が剛強で下位の者が柔順ならば、和睦しないに至らず、上位の者が謙遜で下位の者が険詐でも、またまだ官司に鬧すに至りません。今、上の者がすでに剛強で下の者がまた陰険ならば、争訟は必ず興るので、《彖伝》は「訟、上剛下険、険而健、訟」と言います。《彖伝》の「訟有孚窒惕、中吉、剛来而得中也」は、九二の一爻を講じるものです。争訟が興る所以は、自分に確かに誠信実理があるのに他人に堵塞されるに由ります。而るに九二はまた戒懼警惕し得て、争いが中途に至れば停まり、事を絶に為すことを敢えてしないので、吉祥を獲得します。この一点は、九二のように剛強明達の徳を以てしかも下卦の中位に居る爻のみが、為し得ることです。
終凶訟不可成也者,為訟之道,雖有理而見窒於人,然亦不可乆於其事,若必欲成其事而終竟於訟,則凶禍必及之也。利見大人尚中正也者,言九五之爻,以剛明居中,又處得其正,獄訟之事皆可決之,是善聽訟之主,蓋所尚者中正而已。不利渉大川入于淵也者,大川謂大險大難也。若以訟道入於大險大難,則訟愈深也,故曰入於淵,淵即川之又深者也。
《彖伝》の「終凶、訟不可成也」は、官司を打つこの事は、たとえ自分に理があって人に堵塞されても、長く糾纏し続けてはならず、もし是非とも事を為し成し官司を打ち尽くせば、凶険禍患が必ず降臨するということです。《彖伝》の「利見大人、尚中正也」は、九五の一爻を講じます。それは剛強明達の徳を以て上卦の中位に居り、また陽位に居ってその正を得、獄訟の事は皆それによって裁決し得る、まさに訴訟を聴断するに善い君主で、この卦の崇尚する所は「中正」の二字に過ぎないことが見えます。《彖伝》の「不利渉大川、入于淵也」において、「大川」は大きい険阻艱難を指します。もし争訟の心を帯びて大険大難に闖入すれば、官司はただ愈々深く陥るのみで、ですから「深淵に掉り込む」と言います――深淵はすなわち江河の中の更に深い所です。
象曰:天與水違行,訟。君子以作事謀始。
《象伝》は解釈して言います。天は西に転じ、水は東に流れ、両者は道を背いて行く、これが《訟》卦の卦象です。君子はこの象を体察して、何事を為すにも前もって、まずその開頭を謀画して周全にします。
義曰:天之運行則左旋而西,水之流行則無不東流,以天與水所行既相違悖,則不相得,是訟之象也。君子之人當法此訟卦,凡作一事,必須謀其始而圖其終,使爭訟之端無由而起。以之居一家,興一事,則皆謀慮其初,使上下和睦而絶閨門之訟;以之居一國,凡造一事,必須謀度其初,使人民和同而絶一國之訟。若此之類,皆於其始慎慮之,則忿爭辨訟自然可以息也。故孔子曰:「聽訟,吾猶人也,必也使無訟乎。」其獄訟之事,得明賢之人聽治之,而又謀之在始,則刑可期於無刑也。
胡瑗の解説:天の運行は左から西へ旋転し、水の流動は東に向かわないものがなく、天と水の行く方向がすでに相違背するので、彼此は一処に合し得ず、これがまさに争訟の卦象です。君子は《訟》卦に效法すべく、凡そ一事を為さんとすれば、必ず先にその開端を謀画し、更にその結局を筹划して、争訟の苗头を生起する由なからしめます。この道理を治家に用いれば、一事を興办する毎にまず初めに仔細に謀慮して、上下を和睦せしめ、従って家門の内の争訟を杜絶します。これを治国に用いれば、一項の事務を創立する毎にまず初めに周密に謀画して、百姓を和同せしめ、従って一国の内の争訟を杜絶します。この類に推すに、皆開頭の処で審慎に考慮すれば、忿争と訴訟は自然と平息します。ですから孔子は言いました。「訴訟を審理するのは、私も他人と大差ない。必ず異なると言えば、訴訟が根本から発生しなくするよう努めることだ。」獄訟の事は、すでに明達賢能の人を得て聴断処理し、また事の開端に予め謀画し得れば、刑を用いる最終目標は、「刑を用いる必要なし」の地步に達することを指望し得るのです。
初六:不永所事,小有言,終吉。象曰:不永所事,訟不可長也。雖小有言,其辯明也。
初六の爻辞は言います。争訟の事を長引かせず、少々口舌の争いはあっても、終に吉を得ます。《象伝》は解釈して言います。争訟を長引かせないのは、訟事は長く糾纏し得ないからです。少々口舌はあっても、是非曲直は結局明白に分辨されました。
義曰:夫剛險相勝,物情違戾,故理有窒塞而事有侵犯,是以成訟也。今此一爻以柔順之質居下卦之初,其性柔順,不好為訟者也。然應在九四,九四以剛強而好訟,來犯於己,是以初六不得已而應之。然訟之所由興,在乎得理而已,不可終竟其訟,故曰不永所事。小有言終吉者,興訟之道,若不務終其事,則聽訟者亦必哀矜之。雖然事理明辨,亦須惕懼戒慎,然後可以終得其吉。今初六其性柔順,不好辯訟,雖小有忿爭之言,又不終竟其事,故終獲吉也。象曰其辯明也者,言雖小有辯訟之言,且非己好,蓋九四來侵於已,其理自可明矣。
胡瑗の解説:剛強と険詐が互相争勝し、人情が彼此乖違すれば、道理上に堵塞があり事上に侵犯があり、争訟はこれに由って形成されます。この爻は柔順の資質を以て下卦の最下に居り、性情は柔順で、もとより官司を打つことを好みません。しかしそれは九四と相「応」します――いわゆる「応」は、初と四・二と五・三と上の陰陽相配・彼此感通の関係です――九四は剛強にして訟を好み、主動して来てそれを侵犯し、初六は已むを得ず応付します。しかし争訟の関鍵はただ道理を争うに在るのみで、官司を打ち尽くしてはならないので、爻辞は「不永所事」と言います。いわゆる「小有言、終吉」:官司を打つとき、もし一味に終結を求めなければ、聴訟する人も必ず彼を哀れみ体谅します。たとえ事理がすでに辨明されても、なお心に警惕を存し戒慎小心にして、然る後に終に吉を得られます。今、初六は性情が柔順で争弁訴訟を好まず、少々の忿争の言語はあっても、事を絶に為さないので、終に吉祥を獲得します。《象伝》の「其辯明也」は、些かの争弁の辞はあっても、自分の喜好から出たのではなく、九四が前来して侵犯したので、是非の理は自然に辨明し得るということです。
九二:不克訟,歸而逋,其邑人三百戶,無眚。象曰:不克訟,歸逋竄也。自下訟上,患至掇也。
九二の爻辞は言います。官司に勝てず、自分の封邑に逃げ帰って躲避すれば、それは三百戸のみの小邑なので、災禍がありません。《象伝》は解釈して言います。官司に勝てず、帰って逃匿躲蔵するよりありません。下の身を以て上の人と争訟すれば、禍患の到来は手を伸ばして拾い取るがごとく、自分で招いたものです。
義曰:克者,能勝之辭。據彖辭言訟上剛下險,則好訟之人也。今九二以剛強之質,又居坎險之中,好為其訟而上敵於九五。然九五居至尊之位而行得其正,今九二以非理訟之,是下訟於上,少訟於長,卑訟於尊,賤訟於貴,此而行訟,何由勝,故曰不克訟也。
胡瑗の解説:「克」は勝ち得る意です。《彖伝》の言う所に拠れば、《訟》卦は上剛下険で、下卦の坎中の人はまさに官司を打つを好む人であることが見えます。今、九二は禀性が剛強で、また坎険の中間に居り、争訟を好んで、竟に上に向かって九五と抗衡します。しかし九五は至尊の位に居り、為す所はまた皆正道に合します。九二は道理なき理由を執って彼と争うのですから、これはすなわち下位の者が上位者と争訟し、年少の者が年長者と争訟し、卑の者が尊の者と争訟し、賤の者が貴の者と争訟することになります。このように官司を打って、何に凭って勝てましょうか。ですから爻辞は「不克訟」と言います。
歸而逋者,九二既不克訟,若不退歸而逋竄,則禍必及之矣。其邑人三百戶無眚者,言訟不克勝而逋逃,若反據其強盛之國,則是復有敵上之意,故退避於至小之邑,而止三百之戶,則可以免其災□。三百戶即《周禮》司徒所謂通十為成,成一百井,三百家,革車一乘,二十人,徒二十人之邑,是其邑之至小者也。象曰自下訟上患至掇也者,掇,拾取之謂也。自外來謂之災,自已召謂之眚,此先聖因象而戒之,言凡人以下而訟上,至於逋逃,蓋自掇取其患害也。
いわゆる「帰而逋」は、九二がすでに官司に勝てない以上、もし退りて躲蔵しなければ、禍患は必ず身に追い及ぶということです。いわゆる「其邑人三百戸、无眚」は、官司に勝てずして逃亡するに、もしかえって自分の強大な封国に拠守すれば、それはすなわちまだ君上に対抗する意があるに等しいので、極小の封邑に退避して、三百戸のみあれば、こうしてはじめて災禍を免除し得るということです。「三百戸」はすなわち《周礼・地官・司徒》の言う建制で、十を以て一「成」とし、一成には百の井田・三百戸の人家があり、兵車一乗・甲士と徒卒各若干人を出す、これはすでに封邑中の最も小さいものです。《象伝》の「自下訟上、患至掇也」において、「掇」は手を伸ばして拾い取る意です。災禍が外から来るのを「災」と呼び、自分で招くのを「眚」と呼びます。これは先聖が卦象に依拠して世人を告戒するので、凡そ下の身を以て上の者と争訟して、以致って逃亡躲蔵せざるを得ないのは、皆自分で手を伸ばして禍患を拾い帰ったのだということです。
六三:食舊徳,貞厲,終吉。或從王事,無成。象曰:食舊徳,從上吉也。
六三の爻辞は言います。旧来の俸禄を安享し、正を守って心に危懼を存して、終に吉を得ます。あるいは君王の事に従って办しても、功を自恃して誇らず、成功を自分の身に算えません。《象伝》は解釈して言います。旧来の俸禄を安享するのは、上の者に順従し得るからで、吉を得ます。
義曰:六三以陰柔之質,居坎險之終,其性和同,不犯於物。然而上應於上九,上九之性剛暴,乃來訟於己,巳不與之辯爭,故眾人莫克傾覆,時君不為憎忿,所以保全舊徳,是所食爵祿不為上九之侵奪也,故曰食舊徳。貞厲者,言本亦失正,而又介二陽之間,雖得食其舊徳,於正道言之亦危厲也。終吉者,言此六三雖有危厲,然已不好辯訟,能以順從於上,故終得吉也。或從王事無成者,言六三居一卦之下體,柔而不敵上,雖有訟於己,而已能順之,不為之辯,是以終為在上之信任,而人委之以事。及其成功,而且不自恃其力,又不敢居其成,但從王事,守其本位本祿而已,故獲其吉也。
胡瑗の解説:六三は陰柔の資質を以て坎険の最上端に居り、性情は和順で、他人を冒犯しません。しかしそれは上九と相応し、上九は性情が剛烈暴躁で、かえって来てそれに訴訟を挑発しますが、六三は彼と争弁せず、それゆえ衆人はそれを扳倒できず、当時の君主もまたそれに対して憎悪の心を生じず、それは旧来の徳位を保全し得て、享用する爵位俸禄が上九に侵奪されなかったので、爻辞は「食旧徳」と言います。いわゆる「貞厲」は、六三が陰爻を以て陽位に居るので、もとより正を失い、また九二・九四の二つの陽爻の中間に挟まれて、旧来の俸禄を保ち得るといえども、正道から見れば、処境は依然として危険だということです。いわゆる「終吉」は、六三は危厲があっても、争弁訴訟を好まず、上の者に順従し得るので、終に吉を得るということです。いわゆる「或従王事、无成」は、六三が下卦に居って柔弱にして上と抗争せず、たとえ人がそれに訴訟を挑発しても、それは相手に順って争弁せず、それゆえついに上の者の信任を取得して、政事を以て委託されるということです。事が办り成したとき、それは自ら力を出したことを恃まず、また功労を己が有とすることを敢えてせず、ただ君王の事に従って办して、自分の本来の位分と俸禄を守るのみで、吉祥を獲得し得ます。
九四:不克訟,復即命,渝安貞,吉。象曰:復即命,渝安貞,不失也。
九四の爻辞は言います。官司に勝てず、回頭して正理に順就し、争訟の心を改めて正を守るに安んじれば、吉を得ます。《象伝》は解釈して言います。回頭して正理に順就し、態度を改めて正を守るに安んじれば、損失はありません。
義曰:九四以剛暴之性,與物不和,好為爭訟者也。而初六為己正應,己以非理訟之。然初能以陰柔之質,不與物競,雖為九四見陵,而自能辨明,故四於此不能勝之也,故曰不克訟也。復即命渝安貞吉者,即,就也;渝,變也。言九四以非理訟於初,既不能勝,則當反就其好,而變爭訟之命,故可安靜守正而獲吉也。
胡瑗の解説:九四は性情が剛烈暴躁で、人と合わず、争訟を好む一爻です。初六はもとよりその正応ですが、それは道理なき理由を執って初六と官司を打ちます。しかし初六は陰柔の資質を以て人と相争わず、九四の欺凌を受けても、自ら道理を辨明し得るので、九四はこの事の上でそれに勝てず、それゆえ爻辞は「不克訟」と言います。いわゆる「復即命、渝安貞、吉」:「即」は近づき順就する意、「渝」は改変の意です。これは九四がすでに非理を以て初六と争訟してまた勝てない以上、回頭して正理に順就し、あの一味に争訟する做法を改めて、こうして安静に正を守って吉祥を獲得し得るということです。
然而九二九四皆不克訟,二乃逋,四乃吉,何也?蓋二者以下訟上,以卑訟尊,於義不可,是以懼而逋竄,不敢據其強邑,然後始可免咎。此九四者以上訟下,雖為不可,然能反其所好,變其所訟,改前之非,從今之是,此所以獲吉也。象曰復即命渝安貞不失也者,九四既復即其命,變其前非,修其正應之道,守其安貞之徳,復何有所失也。
しかし九二と九四は同じく官司に勝てないのに、九二はただ逃亡躲蔵するのみで、九四は吉を得られるのは、なぜでしょうか。九二は下位の者を以て上位の者を告げ、卑の者を以て尊の者を告げたので、道義上において根本から説が立たず、ただ心に恐懼を懐いて逃匿躲蔵し、自分の強盛の封邑に拠守するを敢えてせず、こうしてようやく咎害を免除したからです。九四に至っては、上の者を以て下位の者を告げたので、同じく応すべきでないけれど、彼は転じて来て自分の偏好を改め、争訟の做法を改変し、従前の錯誤を糾正して、目下の正理に服従し得る、これが彼が吉を得られる所以です。《象伝》の「復即命、渝安貞、不失也」は、九四がすでに回頭して正理に順就し、従前の過失を改正し、初六と相応ずる正道を重修して、安静に正を守る徳行を守れば、まだ何の損失がありましょうかということです。
九五:訟,元吉。象曰:訟元吉,以中正也。
九五の爻辞は言います。彼に由って訴訟を聴断せしめれば、大いに吉祥です。《象伝》は解釈して言います。訴訟を聴断して大吉なのは、九五が中に居りかつ正を得ているからです。
義曰:九五以剛明之徳,居至尊之位,為訟之主者也。以陽居陽,故所行者正,而無過與不及,皆得中道;而內有剛明之才,則無所偏黨,臨事果斷。以此為聽訟之主,則可察天下幽隠之情,決天下寃枉之獄也。然以居中得正,又能決斷無私,以此數徳,故獲元大之吉也。
胡瑗の解説:九五は剛強明達の徳を以て至尊の位に居り、全卦の訴訟を裁断する主爻です。それは陽爻を以て陽位に居るので、行事が端正です。過分でもなく不及でもなく、処処に中道に合します。加うるに内に剛強明叡の才干を具えるので、いずれの一方をも偏袒せず、事に遇って果決に断じ得ます。このような人を以て訴訟を聴断する主宰と為せば、天下の幽微隠蔽の実情を洞察し、天下の冤を含み屈を受ける案件を判決し得ます。彼はすでに中に居り正を得て、また決断し得て私心がないので、この数様の徳行に凭って、至大の吉祥を獲得します。
上九:或錫之鞶帶,終朝三褫之。象曰:以訟受服,亦不足敬也。
上九の爻辞は言います。或いは官司に勝ったために大帯を賞賜されたが、一朝の内に三度剥奪されました。《象伝》は解釈して言います。官司を打って得た礼服は、もとより人の尊敬に値しません。
義曰:上九以剛陽之性,居訟之極,而下有六三之應,六三又柔順而不與物爭,故此上九訟而能勝也,乃有鞶帶之錫。夫鞶帶者,寵異之服也。且上之賜必以禮,下之受必以功,此古之常道。今上九以爭訟忿競而受其寵異之服,則是賜之不以禮,受之不以功,其為愧恥可知矣,故於終朝之間三褫之而不能自安也。
胡瑗の解説:上九は禀性が剛陽で、争訟の最上端に居り、下にまた六三がそれと相応しています。六三は柔順にして人と相争わないので、上九は官司を打って竟に勝ち得て、こうして大帯の賞賜を得ました。いわゆる「鞶帯」は、特殊の恩寵を顕示する礼服です。しかも上位の者の賞賜は必ず礼に合せねばならず、下位の者の接受は必ず功労に凭らねばならない、これが古来の常理です。今、上九は争訟忿争に靠ってこの特殊恩寵の礼服を受けたのですから、それはすなわち賜うが礼に合わず受けるが功労に凭らず、その中の羞媿は想いが及ぶので、一朝の内に三度剥奪されて、自分も心安らかにできません。
褫雲者,為褫奪之褫,又為恥辱之恥,蓋受之不當其分,則必反覆褫奪而不自安也。何哉?至如有虞之時,所賜皆以禮,所受皆以功,以至九官尚相遜而不敢當其所賜,況今上九乃因爭訟而受此寵異之服,則褫不亦冝乎。象曰以訟受服亦不足敬也者,言凡授受賜予,有差過其分,則君子且不敢當,是恐貽其羞辱也。今上九以訟而當其厚賜,何足敬尚之哉。
「褫」のこの字は、剥奪の「褫」であるとともに、羞恥の「恥」に通じます。受けた物が自分の応得の名分を超えれば、必ず反復して剥奪されて心中が安らかでありません。なぜこのように言うかというと、虞舜の時代を取って見れば、凡そ賞賜あるものは皆礼に合し、凡そ接受あるものは皆功労に凭り、甚だしきは九位の大臣が互いに推譲して、彼らに与えた賞賜を承受するを敢えてしませんでした。況んや上九は官司に勝ったためにこの恩寵の服を領いたのですから、剥奪されるのはまた当然の理ではありませんか。《象伝》の「以訟受服、亦不足敬也」は、凡そ授与と賞賜の接受は、一点でも本分を超えれば、君子はなお承当するを敢えてせず、自分に羞辱を招来するを恐れるということです。今、上九は官司を打ってこのような厚重の賞賜を領受したのですから、どうして人の尊敬推重に値しましょうか。
師 坎下坤上
師:貞,丈人吉,無咎。
《師》卦の卦辞は言います。兵を出し衆を用いるには必ず正道を守持し、老成にして威望があり法度を以て衆人を統率し得る「丈人」に主持せしめてはじめて吉を得て、過錯がありません。
義曰:按《序卦》云:「訟必有眾起,故受之以師。師者,眾也。」師貞丈人吉無咎者,丈,長也。丈人者,言能以法度長於人也。語曰:「杖者出,斯出矣。」是長之謂也。夫興師動眾,其賞罰號令必一。賞罰號令既一,則群聽不惑,眾心皆歸,則天下之人合志畢慮,同心戮力,可以立大功於天下也,此乃長子帥師以中行者是也。若賞罰號令出於二三,則群聽必惑,眾心無所適從,而上下違背,離心離徳,則兵戰之功無由而成也,故師或輿尸大無功者是也。
胡瑗の解説:《序卦伝》に拠れば「官司は必ず衆人の聚集起事を引き起こす。故に《訟》卦に承ぐるは《師》卦なり。師とは衆なり」と言います。いわゆる「師、貞、丈人吉、无咎」:「丈」は年長の意で、「丈人」は法度に凭って衆人の長と為り得る人を言います。《論語》に「杖を拄く長者が出れば、己は跟いて出る」と記するのは、まさにこの種の年長者の身分を言います。凡そ兵を興し衆を動かすには、賞罰と号令が必ず統一せねばなりません。賞罰号令が統一すれば、衆人の聴聞は迷惑せず、人心は皆一処に帰向し、こうして天下の人が志向を合し思慮を一にし、同心協力して、天下に大功を建立し得ます――これが六五の爻辞の言う「長子帥師」にして行事が中道に合する情形です。反対に、もし賞罰号令が二三人の口から出れば、衆人の聴聞は必ず迷惑し、人心は従う所なく、上下は彼此違背し、離心離徳して、作戦の功業は成就する由ありません――これがいわゆる「師或輿尸」にして大功なき情形です。
然師卦之中最得其正者唯九二而已。然此一卦五陰一陽,而九二獨以剛陽之徳,居得其中,為六五之委任,是將之有材有徳而又有其權位者也。如是則可以興師動眾,而不失其將兵之道,以役天下之人,使皆同心戮力,悅從於上而無怨望者也。
《師》卦の六爻の中で、最もその正を得るのは九二の一爻のみです。この卦は五つの陰爻が一つの陽爻に配され、ただ九二のみが剛陽の徳を以て下卦の中位に居り、また六五の君の委任を受け、これがすなわち才干もあり徳行もありかつ権位を握る統帥です。このような人であればこそ、兵を興し衆を動かしても帯兵の正道に違背せず、天下の人を役使して皆同心協力せしめ、欣然として上位の者に聴従して心中に怨恨なからしめ得ます。
然須吉而無咎者,夫兵之所動,生靈之性命,社稷之安危,皆繫之。若一失其機,一失其道,則血肉生靈,板蕩天下,其為禍不細矣。故在將兵者以恩威兼濟,而協民之心,合民之力,而使不失其機變,不失其威權,必致成功大吉,然後可以無咎也,故曰師貞丈人吉無咎。
卦辞がまず吉を得て然る後に无咎となるのを言う所以は、軍隊が一旦調動すれば、百姓の性命・国家の安危が皆この上に係るからです。ただ一度でも戦機を失い正道に違背すれば、生霊を塗炭にし天下を動蕩させ、その禍害は少なくありません。ですから帯兵する人は必ず恩徳と威厳を併用し、民衆の心志を協調し民衆の力量を聚合して、随機応変の時機を過さずかつ自分の威権を喪失せず、必ず成功を取得し大吉を獲得して、然る後に過錯なしと言うに至るので、卦辞は「師、貞、丈人吉、无咎」と言います。
夫所謂丈人者,莊嚴之稱,言必須以威猛剛強,然後可以陳師鞠旅而役毒師眾,此未盡其。何則?凡用兵之道,必剛柔相濟,恩威相須,然後可以戡難成功。或第莊嚴其色,憡其威貎,夫何益哉。
或る人は「丈人」はただ荘重厳厲の称呼で、必ず威猛剛強であってはじめて軍隊を陳列し将士を告誡し、全軍を役使統領し得ると言いますが、この講釈は道理を透しきれていません(原文はここで「此未尽其」の下に脱字の疑いあり)。なぜなら、凡そ用兵の道は、必ず「剛柔」を互相調剤し――剛は強勁果決を指し柔は寛和含容を指し、二者は偏廃し得ません――恩と威もまた互相配合して、然る後に禍難を平定し成功を取得し得るからです。もし顔色を荘厳に装い威儀を嚇人に作るのみならば、また何の用がありましょうか。
彖曰:師,眾也;貞,正也。能以眾正,可以王矣。剛中而應,行險而順,以此毒天下而民從之,吉又何咎矣。
《彖伝》は解釈して言います。師とは衆のこと、貞とは正のことです。衆人を率いて正道に赴かしめ得れば、天下に王と称し得ます。九二は剛健にして中に居り、また六五と相応します。険難の中を行っても民心に順い得ます。このような方式を以て天下を役使し天下を整治すれば、百姓は依然として喜んで従い、すでに吉を得て、またどうして過錯がありましょうか。
義曰:師者,眾之稱;貞者,正之謂,故曰師眾也貞正也。此言於丈人獲吉者,蓋能以法令長於人,統其眾,帥其民,使天下之人皆同心戮力而歸正,則其丈長之人如此,而可以王天下矣。凡言王者,天下之所歸於己者也,即湯武之兵戢亂而王是也。
胡瑗の解説:「師」は衆人の称谓、「貞」は端正の意なので、《彖伝》は「師、衆也、貞、正也」と言います。ここに「丈人」が吉を得ると講じるのは、彼が法令に凭って衆人の長と為り、部衆を統率し百姓を率領して、天下の人を皆同心協力して正道に帰せしめ得るからです。長者の身としてこの地步に至れば、天下に王と称し得ます。凡そ「王」と言うのは、天下が自分に帰附する意を指し、商湯・周武王が兵を起して禍乱を平定して因って王と称したがごときです。
剛中而應者,此指九二而言也。言九二以剛陽之徳而處得其中正,上應於六五之君,為六五之君所委任,是以居於中正,有將帥之才也。其體剛陽,剛陽則明斷,有將帥之徳也;而又為五所注意,有將帥之任也,故能興師動眾,使天下之民畢從之也。
《彖伝》の「剛中而応」は、九二の一爻を指します。九二は剛陽の徳を以て下卦の中位に居りてその中正を得、上に向かって六五の君と相応し、六五の委任を受けます。まさにそれが中正に居るからこそ、統帥の才干を具えます。その本体は剛陽で、剛陽ならば明察決断し得て、これで統帥の徳行を具えました。また六五の属意を受けるので、これで統帥の職任を具えました。ですから兵を興し衆を動かして、天下の百姓を皆それに従わせ得ます。
何哉?蓋將兵之道,若剛而不中則失於暴,暴必傷物;明而不中則失於太察,太察則不能容民而士不附,皆失所以將兵之道也。故此有中正之徳,有剛明之才,又為君之所寵任,兼此數長,故可以成必戰之功,而協從於天下也。
なぜこのように言うかというと、帯兵の道理は、剛強で中道に合わなければ、残虐に失し、残虐ならば必ず人を傷つけます。明察で中道に合わなければ、苛細に失し、苛細ならば部衆を容納できず、将士もまた帰附を肯んじません――この両者は皆帯兵の正道に背離します。而るに九二はすでに中正の徳を有し、また剛強明達の才を有し、更に君主の信任重用を受け、この数様の長処を兼備するので、必勝の戦功を成就し得て、天下の人を皆協力順従せしめます。
行險而順者,此據二體而言也。坎為險,坤為順,以興師之道,天下之至險也。何哉?夫兵,凶器也;戰,危事也。其征伐一出,則安危隨之,豈非至險乎。然而行此危險之事,必須順於物理,協於民心,然後得為師之道也。以此毒天下而民從之吉者,此言以剛中之才徳役使天下之民,而民皆悅隨,乃得其吉。既得其吉,何過咎之有,故曰又何咎矣。
《彖伝》の「行険而順」は、上下両体に就いて講じるので、坎は険を代表し坤は順を代表します。兵を興して戦うこの事は、天下の最も危険な事です。なぜなら、兵器は凶険の器で戦争は危殆の事で、征伐の命令が一旦発せられれば、国家の安危は随って定まるので、これが最も危険でなくて何でしょうか。しかしこのような危険な事を為すには、必ず事物の常理に順い、民衆の心愿に合して、はじめて用兵の道に合します。「以此毒天下而民従之、吉」に至っては、剛健居中の才干徳行に凭って天下の百姓を役使するに、百姓は皆欣然として跟従し、こうして吉祥を得るということです。すでに吉を得た以上、まだ何の過錯が言えましょうか。ですから《彖伝》は「又何咎矣」と言います。
象曰:地中有水,師。君子以容民畜眾。
《象伝》は解釈して言います。大地の中に水を蓄蔵する、これが《師》卦の卦象です。君子はこの象を体察して、百姓を寛容に対し、衆人を蓄養聚集します。
義曰:坎為水,坤為地,以地至博厚,而水行其中,無所不容,此師卦之象也。君子法此師卦之象,包容其民,畜聚其眾,是得為師之道也。故將驅民於兵戰,則必須以恩信而懐結之,以仁義而畜養之,及其臨事而使,則人之從也,雖死而不怨,故曰君子以容民畜眾。
胡瑗の解説:坎は水を代表し、坤は地を代表します。大地は極めて広博深厚で、水はその中間を流行して容れない所なし、これが《師》卦の卦象です。君子はこの卦象に效法して、自分の百姓を寛容に包納し、衆人を蓄養聚集して、これにおいて統衆の道を掌握したと言えます。ですから、もし百姓を駆使して戦争に従事させようとすれば、必ず先に恩徳と信義を以て彼らの心を籠絡し、仁義を以て彼らを蓄養しておき、事に臨んで彼らを役使するときに、人々の従う心が真誠であれば、縦使戦死しても怨恨しません。ですから《象伝》は「君子以容民畜衆」と言います。
初六:師出以律,否臧凶。象曰:師出以律,失律凶也。
初六の爻辞は言います。兵を出して戦うには紀律法度に靠って約束せねばならず、このようにしなければ、たとえ一時得手しても終に凶険に帰します。《象伝》は解釈して言います。兵を出すには紀律に靠り、一旦紀律を失えば凶禍があります。
義曰:師,眾也;律,法也。言行師之道,役其群眾,在於事始,未必盡從,故或勇或怯,或逆或順。如此則冝何為?須在將兵者必有法律以制之,使進者必進,退者必退,然又不可失其威嚴。蓋戰鬬之事,動驅民於死亡,非如此則莫可為之統率也。故初六者居卦之下,為出師之始,必當用之以道,制之以威,動靜之間,不可一失其法律也。
胡瑗の解説:「師」は衆人、「律」は法度です。用兵の道は、衆人を役使するにあり、事の剛に始まるときに衆人は必ずしも皆服従を肯んじず、或いは勇敢あり或いは怯懦あり、或いは命に抗するあり或いは順従するありとします。このような情形に遇ってはどうすべきでしょうか。関鍵は帯兵する人が必ず法度を以て彼らを節制し、前進すべきは必ず前進させ後退すべきは必ず後退させ、同時にまた自分の威厳を失わないことです。作戦のこの事は、動けば百姓を死地に駆り赴かせるので、このようにしなければ彼らを統率し得ません。初六は全卦の最下に居り、まさに出兵の開端なので、必ず正道を以て引導し威厳を以て節制し、一動一静の間に一度も法度を失ってはなりません。
否臧凶者,否,不也;臧,善也。言為將統眾,於一動一止之間,舍法律則不可。苟不以法律,則行伍無以齊一,眾心無所適從,故雖偶有一能屈於人,能勝其敵,是皆一時之幸,然於長乆之終至於凶也,故象所謂失律凶也。
いわゆる「否臧凶」:「否」は不の意、「臧」は善の意です。これは将領たり部衆を統率する者が、行動と停止の毎度の間に、法度を捨棄してはならないということです。假如法度を用いなければ、隊伍は斉整画一せず、衆人の心も従う所なし、ですから縦使偶に一度相手を圧倒し敵に戦勝し得ても、それはただ一時の僥幸に過ぎず、長遠から見れば終に凶険に向かうので、《象伝》は「失律凶也」と言います。
九二:在師中吉,無咎,王三錫命。象曰:在師中吉,承天寵也。王三錫命,懐萬邦也。
九二の爻辞は言います。身に軍中にあって中道を行い得て、因って吉を得、過錯なく、君王は三度賞賜の命を頒下します。《象伝》は解釈して言います。軍中で中道を行って吉を得るのは、天子の恩寵を承受したからです。君王が三度命を頒して賞賜するのは、天下万邦を安撫するためです。
義曰:夫九二以剛陽居下卦之中,為六五柔順之君之所信任,是用剛而不失其威嚴,居中而所行無過無不及,而又有權有位,可以出竒立功立事於國家者也。何則?夫將兵統眾,柔而無剛則失於怯懦而不能斷;剛不居中,則過不及皆有之。既剛而中,苟不見任於君,則雖有胸中之竒、萬全之,無所施也。今九二於此數事皆備有之,故統兵出征必立其功,是能以中而獲吉也。
胡瑗の解説:九二は剛陽の質を以て下卦の中位に居り、柔順の君たる六五の信任を得ます。これは剛強を以てしながら威厳を失わず、中道に居って為す所が過分でも不足でもなく、同時に権柄と職位を握り、出奇して制勝し国家のために功業を建立し得る人です。なぜこのように言うかというと、帯兵統衆する人は、もし一味柔弱で剛勁なければ、怯懦に失して決断できず、もし剛強であっても中に居らなければ、過分と不足の毛病が皆出ます。縦使剛強でかつ中道に合しても、もし君主に任用されなければ、胸中に縦使奇謀・万全の策があっても(原文はここで「万全之」の下に脱字の疑いあり)、施展する処がありません。今、九二はこの数方面が斉備しているので、兵を率いて出征すれば必ず功勲を建立し得て、まさに中道に凭って吉祥を獲得するのです。
無咎者,夫兵者國家之大事,社稷之安危、生民之性命所繫,苟一失其道,咎莫大焉,必獲其吉,然後可以無咎也,故曰在師中吉無咎。王三錫命者,言九二既為六五之信任,是其有才有徳,而又承其權位,酌行中道,不失為師之義也,故王者再三錫其命。所謂三錫者,一命受爵,再命受服,三命受車馬也。然九二所以致其賜者,蓋人君以忠良難偶,才不易得,又況於不常之事而立不常之功,故所以稠厚其賜也。
いわゆる「无咎」:用兵は国家の大事で、国家の安危・百姓の性命が皆これに係るので、一旦正道に違背すれば、過錯はこれより大きいものなく、必ず先に吉祥の結果を獲得して然る後に過錯なしと言うに至るので、爻辞は「在師中吉、无咎」と言います。いわゆる「王三錫命」は、九二がすでに六五の信任を得て、彼に才有り徳有りでまた権位を承受し、事理を斟酌して中道を行い、統衆の義に違背しないので、君王が一再して賞賜の命令を頒下するということです。古のいわゆる「三錫」は、第一に爵位を賜り、第二に冠服を賜り、第三に車馬を賜ります。九二がこのような賞賜を得られた所以は、君主が忠誠賢良の人は遇い難いと感じ、人才は求め易くなく、況んや彼はまた非常の事に非常の功を建てたので、賞賜が格外に優厚だったのです。
象曰在師中吉承天寵也者,言九二以剛陽居中,然能在師旅之間成立其功,蓋應於五,而六五能信任之,使己之才徳可以運籌決勝,扶衛社稷,是能上承天寵然也。王三錫命懐萬邦也者,此又言承上王再三之錫命者,蓋由得將之才徳備,而盡所以用兵之道。以卦體終始六爻,獨此九二有剛中之徳,為師之主,上下莫不歸之,是有懐萬邦之象也。
《象伝》の「在師中吉、承天寵也」は、九二が剛陽の質を以て中位に居り、行軍作戦の中で功業を建立し得るのは、それが六五と相応して、六五がそれを信任し得て、その才干徳行を帷幄に運籌し千里に決勝させ、国家を扶持し保衛せしめたからだということです。ですからそれは上に向かって天子の恩寵を承受したと言います。《象伝》の「王三錫命、懐万邦也」は、さらに進んでそれが君王の一再する賞賜を承受する縁由を解釈するので、それは統帥の有るべき完備な才徳を得て、また用兵の道を尽くすまで施行したのです。全卦の六爻を始から終まで見れば、ただ九二のみが剛健居中の徳を具え全軍の主帥で、上上下下としてそれに帰附しないものなく、天下万邦を安撫する気象があります。
六三:師或輿尸,凶。象曰:尸或輿尸,大無功也。
六三の爻辞は言います。軍中の衆人が皆主を為そうとして、甚だしきは車で屍体を載せて帰るに至り、凶険です。《象伝》は解釈して言います。この種の衆人が争って主事する局面は、結果は大いに功なくして帰るものです。
義曰:輿,眾也;尸,主也。六三居下卦之極,以陰居陽,失位不正之人也。以六三當行師之時,是不能專一號令,紛揉群聽,在眾皆得以主之也,以此而行,則凶可知矣。象曰大無功也者,此言出軍行師,其動作必以律,進退必以法,精練士卒,整一行伍;或天時不得,或地利不順,以至無功而敗於敵。又況六三以不正之陰柔,使號令二三而眾得主之,則是大無功者也。
胡瑗の解説:「輿」は衆多の意、「尸」は主持・主を為す意です。六三は下卦の最上端に居り、陰爻を以て陽位に居るので、位を失い正でない人です。六三を以て行軍作戦の責任を担当させれば、号令を統一し得ず、衆人の聴聞は混雑紛乱し、人人が皆出てきて主を為し得ます。このように兵を帯べば、凶険は想いが及びます。《象伝》の「大无功也」は、兵を出し軍を行うには、一挙一動が皆紀律に依照し一進一退が皆法度を遵守し、更に精心に士卒を訓練し隊伍を斉整しなければならないということです。このようであっても、或いは天時不利に遇い或いは地形不便に遇って、功なくして敵に敗られることもあり得ます。況んや六三は不正の陰柔の質を以て、号令を二三の処から出して人人に主を為し得らしめるのですから、それは必ず大いに功なしです。
六四:師左次,無咎。象曰:左次無咎,未失常也。
六四の爻辞は言います。軍隊は左方に退駐して前進せず、過錯がありません。《象伝》は解釈して言います。左方に退駐して過錯がないのは、用兵の常理に違背しなかったからです。
義曰:次,止也。按《春秋》荘二年冬「公次於滑」,八年「師次於郎,以俟陳人、蔡人」,是皆次者止之義也。夫師必尚右,右者陰也,陰主於殺;左者陽也,陽主於生。今六四不右而左次之,是止而不進之義也。既不進,則是志不在於殺者也。何則?夫六四以陰柔之質,本無剛嚴果斷之徳,不能成戰陣之功,但次止其兵而無肅殺之意。以此而行,則是量時度力,不蹈於禍,雖無功於大事,止獲保全而免其凶咎而已矣。象曰左次無咎未失常也者,言六四雖不能統眾成戰陣之功而次止其師,然亦不失其常也。
胡瑗の解説:「次」は駐留・停止の意です。《春秋》荘公二年冬に「荘公が滑に軍を駐す」と記し、荘公八年に「軍隊が郎に駐扎して、陳国・蔡国の軍隊を等候す」と記します。ここの「次」は皆停駐の意です。用兵の礼は右を尊とし、右は陰に属して陰は肅殺を主り、左は陽に属して陽は生養を主ります。今、六四は右に居らずして左に退駐するので、まさに停まって更に前進しない意です。すでに前進しない以上、その心志は殺伐に在らざることが見えます。なぜなら、六四は陰柔の資質を以て、もとより剛毅厳明・果決に事を決する徳性なく、戦陣上の功業を成就できず、ただ軍隊を駐扎させて、肅殺の心を存せざるのみです。このように行事するのは、すなわち時勢を衡量し自分の力量を估計して、禍患に踏み入らず、大事の上に功勲を建立しないけれど、ただ自身を保全し凶咎を免除するのみです。《象伝》の「左次无咎、未失常也」は、六四は大衆を統率して戦功を成就できずただ軍を駐して停留するのみであるけれど、また用兵の常理に違背していないということです。
六五:田有禽,利執言,無咎。長子帥師,弟子輿尸,貞凶。象曰:長子帥師,以中行也。弟子輿尸,使不當也。
六五の爻辞は言います。田中に禽獣が為害していれば、相手の順わず服せざる言挙を捉えて兵を出して討伐するに宜しく、こうすれば過錯がありません。老成持重の長子に軍隊を統率させれば可、もし年少無能の子弟に主事させれば、衆人が争って主を為して、正を守ってもなお凶険です。《象伝》は解釈して言います。長子に軍隊を統率せしめるのは、彼の行事が中道に合するからです。子弟らが争って主事するのは、任用が適当でないからです。
義曰:夫田野之有禽,則是害苗稼,固當獵取之;天下有奸詐之人,則是犯王之命,固當征討之。蓋奸臣賊子,雖治平之世亦不能無,但在上之人實時誅之,不可使滋蔓其牙櫱,必務翦除而清其亂也,是如田之有禽必傷害苗稼,固獵而去之可也。利執言無咎者,夫兵者凶器,聖王不得已而用之,用之者所以誅不廷而討不軌也。然而征討之事,聖人固不當親往之,所利者但執彼之不順之言,遣將而征討之可也,以此而行,於義自得其無咎矣。
胡瑗の解説:田野に禽獣があれば、荘稼を損害するので、もとよりそれを猟取して除くべきです。天下に奸詐の徒があれば、すなわち王命に触犯したので、もとより兵を出して討伐すべきです。奸臣賊子はたとえ太平の世でも完全にはなり得ませんが、ただ上位の人が時宜を得て誅除し、彼らの萌芽を蔓延滋長させず、必ず務めて剪除し尽くして禍乱を澄清せねばなりません。これはちょうど田中に禽獣があれば必ず荘稼を傷害し、理当猟してこれを除くがごときです。いわゆる「利執言、无咎」:兵器は凶険の物で、聖王は已むを得ずしてこれを用い、朝覲に来ず法度を守らない者を誅討するのに用います。ただ征討のこのような事は、聖人はもとより自ら往くべきではなく、适宜の做法はただ相手の順服せざる言辞を捉えて名義として、将領を派遣して討伐せしめるに過ぎません。このようにして行けば、道義上において自然と過錯がありません。
長子帥師者,夫長子止言九二之爻也。言九二有剛明之才、中正之徳,能統一師眾,又為六五所委任,故能帥其眾同心戮力,以赴難然後獲其成功也,是長子帥師之效也。弟子輿尸貞凶者,弟子止謂眾陰之爻也。輿,眾也;尸,主也。夫統兵舉眾,必使號令齊一,法律中正,然後能成戰陣之功。或任以柔弱之質,而復眾主其兵,號令賞罰出於二三,以至眾有離叛之心,又不能成戰陣之功,以正道則凶也。
いわゆる「長子帥師」において、この「長子」はただ九二の一爻を指します。九二は剛強明達の才干・中正の徳行があって全軍を統一し得て、また六五の委任を受けるので、部衆を率いて同心協力して危難に奔赴し、然る後に成功を取得し得ます。これが「長子帥師」の成效です。いわゆる「弟子輿尸、貞凶」において、この「弟子」はただ卦中のあれらの陰爻を指します。「輿」は衆多、「尸」は主を為すことです。兵を統し衆を動かすには、必ず号令を斉整画一せしめ法度を中正合宜にして、然る後に戦陣の功を成就し得ます。もし任用するのが柔弱の輩で、また多くの人を一斉に軍事を主持せしめれば、号令賞罰が二三の処から出て、以致って衆人に離心叛意を生じ、戦功を成就し得ず、正道に就いて言えば自然と凶険です。
上六:大君有命,開國承家,小人勿用。象曰:大君有命,以正功也。小人勿用,必亂邦也。
上六の爻辞は言います。天子は冊命を頒下し、功の大きい者は諸侯に封じて邦国を開建させ、功の小さい者は卿大夫に封じて采邑を承受させますが、小人は任用してはなりません。《象伝》は解釈して言います。天子が冊命を頒下するのは、公正に功労を論定するためです。小人は任用してはならないのは、一旦任用すれば、必ず国家を擾乱するからです。
義曰:夫初六者,行師之始也,當以法律而用之。今上六居用師之終、賞功之際,是大君有賞賜之命也,故曰大君有命。開國承家者,功大則開建一國以為之諸侯也,功小則承一家以為卿大夫也。小人勿用者,夫兵家之道,動以萬數,故所任之人或以勇力,或以謀智,是必有小人廁於其間,未必皆賢也。是以成功之後,居上者論功定賞,差次其秩,必審其可用不可用。若是賢人君子運謀智而決勝者,則當封之公侯,爵之卿大夫可也。
胡瑗の解説:初六は行軍の開端に居り、当に法度を以て部衆を節制すべきです。今、上六は用兵の終了・功を論じ賞を行うときに居り、まさに天子が賞賜の命を頒下する時刻なので、爻辞は「大君有命」と言います。いわゆる「開国承家」は、功労の大きい者は一つの邦国を開建させ彼を諸侯に封じ、功労の小さい者は一処の采邑を承受させ彼を卿大夫に任ずるということです。いわゆる「小人勿用」:用兵の事は動けば万人を以て計るので、任用する人は或いは勇力に凭り或いは謀略智計に凭り、その中には必ず小人が夾雑し、必ずしも個個が賢者ではありません。ですから勝利を取った後、上位の人が功労を評定し賞格を確定し秩位の高下を排出するとき、必ず誰が任用すべきか誰が任用すべきでないかを審察しなければなりません。もし賢人君子で、謀略智計を運用して勝利を取得した者ならば、彼を公侯に封じ卿大夫の爵位を授予すべきです。
蓋君子雖獲大功而無矜伐之心,雖位尊權重又無驕慢之志,寵盛則益恭,爵崇則愈謹者也。若小人得一小功,則希其大賞,使之在高位必生驕慢,驕慢生則覬覦之心熾,是堅氷之漸所由來矣。然則小人冝如何而置之?錫之金帛,厚之田宅可也;若賞之以大位則不可也,以是庶可絶覬覦而窒禍階也。
なぜなら君子はたとえ大功を立てても、自ら誇る心思がなく、たとえ位高く権重くても、驕縦傲慢の念頭なく、恩寵が愈々隆れば愈々恭敬し、爵位が愈々高ければ愈々謹慎します。小人は然らず、一点の小功を得ても、大賞を得るを指望し、一旦彼を高位に居らせれば、必ず驕縦傲慢を生じ、驕慢が一生すれば、非分を覬覦する心が熾盛になり、これがまさに《坤・文言》の言う「履霜堅氷至」のような禍端が漸より成る開始です。それでは小人に対してどう安置すべきでしょうか。金帛を賞して田宅を多く与えるのは、可です。もし高位を彼に賞すれば、不可です。このようにすれば、大概彼の非分の想いを断絶し、禍乱の階梯を塞ぎ得ます。
是故漢之高祖以韓彭英盧之輩而王天下,及其賞功則封之列國,授之大權,然其終亦不免叛逆之禍,而幾至於喪亂也。後光武中興有天下,雖臣有大勲大功,亦但賜之金帛土田而已,此誠英斷睿哲,深謀逺慮,先天下之禍亂而思之,合聖人之微意,得小人勿用之深者也。聖人於此切戒之,言勿用此小人居於大位,若其用之,必至於亂邦也。
ですから漢高祖は韓信・彭越・英布・盧綰らの一班を靠って天下を取得しましたが、功を論じ賞を行うに及んで、彼らを列国の諸侯に封じ大きい権柄を授予したので、結果は終に叛乱の禍事を免れず、ほとんど天下の大乱を釀成せんとしました。後に光武帝は漢室を中興して天下を有しましたが、臣子はたとえ大功勲を立てても、ただ金帛と田地を賞賜するのみでした。これは実に英明果決・叡智通達で、謀画が深遠で、天下の禍乱が未だ起らざる先に予め考慮し得て、まさに聖人の微妙な用意に合し、真に「小人勿用」の深意を領会しました。聖人はここで鄭重に告戒します。このような小人を高位に居らせてはなりません。もし彼らを任用すれば、必ず国家を擾乱する地步に至ります。
比 坤下坎上
比:吉。原筮元永貞,無咎。不寧方來,後夫凶。
《比》卦の卦辞は言います。親近して輔助すれば、吉祥です。本原を推究し卜問して決疑し、相手が「元」(善の長)「永」(長久不変)「貞」(正を守り回らざる)の三種の徳行を具えるかを見、こうしてはじめて過錯がありません。もとより安寧を得ない人もまた紛紛として来て帰附します。而して遅々として帰附を肯んじず最後に至って来る人は、凶険があります。
義曰:比者,相親比之義也。比吉者,言所以得吉,蓋上下順從,眾心和睦。眾心和睦則禍害不生,故由此而得吉也。
胡瑗の解説:「比」は彼此親近輔助の意です。いわゆる「比、吉」は、吉を得られる所以は、上下が彼此順従し衆人の心意が和睦するからだということです。人心が和睦すれば、禍害は生じないので、これに由って吉祥を得ます。
原筮元永貞無咎者,原,究也;筮者,決疑之物也;元,善之長也;貞,正也。言人之所相親比不可不慎也。若所比之人善,則為吉為美也;若所比之人惡,則為凶為禍也。故當原其情性,筮決其善惡,必湏有元善之徳,永長而不變,守正而不回,有此三徳,故可親附之,獲其吉而得無咎也。苟三徳不備者,未盡所以相親附之道也,則凶咎將至焉。是以君子之人,居官則親其同僚,為士則親其朋友,以至閭里則親其賢善之人,如此則皆可以獲其無咎也。
いわゆる「原筮元永貞、无咎」:「原」は推究、「筮」は疑惑難問を決断する手段、「元」は衆善の首、「貞」は端正です。これは人がどのような人と相親近するかは、慎重にせざるを得ないということです。親近する人が善人ならば、吉となり美となり、親近する人が悪人ならば、凶となり禍となります。ですから相手の性情を推究し、卜筮を以て彼の善悪を判断して、必ず彼が最上等の善徳を具え、長久に保って改変せず、正道を守って迂曲しないかを見ねばなりません。この三種の徳行を具えてはじめて、彼に親附しに行って吉祥を得過錯を免れ得ます。假如この三種の徳行が斉備しなければ、人と相亲相辅の道理を尽くさず、凶険と咎害が臨頭します。ですから君子は官を為れば自分の同僚に親近し、士を為れば自分の朋友に親近し、乃ち郷里にあればそこの賢良善行の人に親近します――このようにすれば皆過錯を免れ得ます。
不寧方來者,寧,安也;方,將也。言有此元永貞三徳之人為比之主,則人將親比之,然後獲其安也。是以天下之人,其有不安者,有不得所者,率將輔從於賢善之人,則此相親比者,無不獲其利而無不得其所從也。後夫凶者,言在上為比之主,能使天下之人皆悅而來親比。然天下之人既至親比,其有後至而不從者,則必為居上之人所誅戮也,是終自取其凶咎也。故昔夏禹會於塗山,執玉帛者萬國,獨防風恃強而後至,為夏禹之所戮,此其後夫凶之驗也。
いわゆる「不寧方来」:「寧」は安定、「方」は将にです。これは元・永・貞の三徳を具える人があって衆人の親附の中心と為れば、人々は彼に親近しに来て、然る後に安定を獲得し得るということです。それゆえ天下の人の中で凡そ処境が安まらず落着きない者は、皆この賢善の人を輔助し跟従しに来ます。このように彼此相亲相辅すれば、好処を得ない者なく帰宿を見つけない者もありません。いわゆる「後夫凶」は、上位に居って衆人の親附の中心と為る人は、天下の人を皆欣然として来て親附せしめ得ます。しかし天下の人がすでに紛紛として来附しているのに、その中に更に遅れて服従を肯んじない者があれば、必ず上位に居る者に誅殺される、これは彼が自ら招いた凶咎です。ですから昔、夏禹が塗山で諸侯を会合したとき、玉帛を手執って来て朝会した者は万国ありましたが、ただ防風氏が自分の強大を倚仗して遅到したので、夏禹に処死されました。これが「後夫凶」の験証です。
彖曰:比,吉也;比,輔也,下順從也。原筮元永貞無咎,以剛中也。不寧方來,上下應也。後夫凶,其道窮也。
《彖伝》は解釈して言います。比は吉祥です。比とは輔助で、下の衆爻は皆上に順従します。「原筮元永貞、无咎」と言うのは、九五が剛陽の徳を以て上卦の中位に居るからです。「不寧方来」と言うのは、上下が彼此相応ずるからです。「後夫凶」と言うのは、彼が自ら親附の路を走り絶ったからです。
義曰:比吉者,此統明比卦之義,言人之所以相附近,由其志意符契而無所相違,以是為比,故獲其吉也。比輔也者,言人之所來比於上,由其有元永貞三徳之人為比之主,以是天下之人皆悅隨依輔之也。下順從也者,言此比之卦,惟九五一爻以剛陽之徳而居尊位,為比之主,使下之眾陰皆來親附而順從,是蓋居上者有徳以率服之然也。
胡瑗の解説:「比、吉也」は《比》卦の大義を総説するので、人が彼此依附親近し得る所以は、志向意願が彼此契合して相違の処がないからで、これを「比」と呼び、吉祥を得られます。「比、輔也」は、人々が上位者に来て親附する所以は、元・永・貞の三徳を具える人があって衆人の帰向の中心と為るので、それゆえ天下の人が皆欣然として追随し彼に依靠し輔助するということです。「下順従也」は、《比》卦の六爻の中で、ただ九五の一爻が剛陽の徳を以て尊位に居り、衆人の親附の主爻で、下の衆多の陰爻を皆来て親附順従せしめるということです。これがまさに上位に居る者に徳があって、衆人を統率し折服し得る所以です。
原筮元永貞無咎以剛中也者,言九五所以為天下之人來比附而無咎者,蓋其以剛陽之徳居上卦之中故也。不寧方來上下應也者,言九五以剛陽之徳居於尊位,上下眾陰皆親附於己,至於不寧之人,罔不來應也。後夫凶其道窮也者,親比之時,已獨後人,是比道已窮,其凶也,不亦冝乎。
《彖伝》の「原筮元永貞、无咎、以剛中也」は、九五が天下の人を来て親附せしめ得て過錯がないのは、まさにそれが剛陽の徳を以て上卦の中位に居るからだということです。《彖伝》の「不寧方来、上下応也」は、九五が剛陽の徳を以て尊位に居り、上下の衆多の陰爻が皆来てそれに親附し、あのもとより安寧を得ない者に至るまでも、来て応じないものがないということです。《彖伝》の「後夫凶、其道窮也」は、まさに天下が彼此親附するときに当たって、自分が偏に他人の後ろに落ちるので、これは相亲相辅の路を尽頭まで走ったのであり、彼が凶険に遭遇するのは、また当然の理ではありませんか。
象曰:地上有水,比。先王以建萬國,親諸侯。
《象伝》は解釈して言います。大地の上に水があり、水と地が緊密に相依する、これが《比》卦の卦象です。先王はこの象を体察して、こうして衆多の邦国を分封建立し、各位の諸侯を親近籠絡しました。
義曰:坤下地也,坎上水也。且地得水則潤澤,水得地則安流,今地上有水,乃合和親比之象也。先王以建萬國親諸侯者,言比之大莫大於建國親侯,是以先王法此象,建萬國使相親附,其諸侯使之和協,然後天下四方皆可以使之親比也。且諸卦言君子,而此獨言先王者,蓋建國親侯莫非天子之事也,故止言先王。凡能君臨天下、愛萬民,通謂之君子;又諸卦或言後者,天子諸侯之通稱也。
胡瑗の解説:下卦の坤は地、上卦の坎は水です。地は水の滋養を得て潤沢となり、水は地の承載を得て安らかに流れます。今、地上に水があるのは、まさに彼此融洽親附の象です。《象伝》の「先王以建万国、親諸侯」は、親比の道の中で最大の事は、邦国を分封し諸侯を親近するに過ぎないことを言います。ですから先王はこの卦象に效法して、万国を建立して彼らを彼此親附せしめ、各位の諸侯に対しては籠絡を加え、彼らを和睦協同せしめて、然る後に天下四方が皆相亲相辅し得たのです。また他の卦の《象伝》は多く「君子」と言い、ただここで「先王」と言うのは、邦国を建立し諸侯を親近するのが皆天子の職事なので、「先王」のみを言います。凡そ天下に君臨し万民を愛護し得る者は、通称を「君子」と言います。ある卦の《象伝》で「后」と言うのは、天子と諸侯の通称です。
初六:有孚比之,無咎。有孚盈缶,終來有它,吉。象曰:比之初六,有它吉也。
初六の爻辞は言います。誠信を懐いて他人に親附しに行けば、過錯がありません。誠信が充盈して、ちょうど美酒が質朴の瓦器に盛り満ちたがごときです。最終に意外の人が来て帰附し、吉祥です。《象伝》は解釈して言います。《比》卦の初六の一爻は、意外の帰附を招来して因って吉を得ます。
義曰:凡親比之道,貴心無繫應,光大其志,來者見納,則得為比之道也。今初六處比卦之初,以柔順之質而上無專應,是有由中之信,行親比之道,自然不蹈於咎過者也。有孚盈缶者,缶即素質之器也。凡親比之人,苟無由中之信,雖豐其禮,盛其器,以接於物,終無有信之者。今以至約之禮、至儉之器也,然此初六本有至信發之於中以接於物,雖此質素之器,以其信而盈溢之,則合於親比之道,所以獲吉也。故《左傳》曰:「苟有明信,澗溪沼沚之毛,蘋蘩薀藻之菜,筐筥錡釡之器,潢汙行潦之水,可以羞於王公,可以薦於鬼神。」夫以鬼神之尊、王公之貴,以此微薄之物尚可為薦羞,蓋以至誠為之本,而物為之末也。
胡瑗の解説:凡そ相亲相辅の道は、貴ぶべき処は心中に専ら一つの特定の対象に係念せず、志向を広く大きく放ち、凡そ来て帰附する者を皆接納し、これが「比」の正道に合します。今、初六は《比》卦の最下に居り、柔順の資質を以て上に専ら相応ずる対象なく、それが内心から発する誠信を懐いて親附の道を実行するので、自然と過錯に陥らないことが見えます。いわゆる「有孚盈缶」の「缶」は質地が朴素な瓦器です。凡そ人と相亲附する人は、假如内心から発する誠信がなければ、縦使礼数が豊厚で器皿が華美なのを以て他人を接待しても、終に彼を信ずる人がありません。今、初六が用いるのは最も簡約の礼・最も倹朴の器です。しかしそれはもとより極誠の心が内里から発して人に対するので、たとえこのような朴素の瓦器であっても、誠信がその中に充盈するに由って、相亲相辅の道に合し、それゆえ吉祥を獲得します。ですから《左伝》は言います。「真誠昭著なる信実あらば、山澗溪沼の中の野草・蘋蘩蕰藻の類の水菜・方筐圓筥・足なし足ある炊器・積水と路上の流水も、皆王公に進献し鬼神に奉祭し得る。」鬼神の尊貴・王公の顕赫を以ても、このような微薄の物を以てなお進献祭祀し得るので、誠意が根本で器物はただ末節に過ぎないことが見えます。
終來有它吉者,蓋此初六本負廣大之徳,無專應之私,又以其至信盈溢於素質之器,故於終乆之道,有它來比輔而得其吉也。若西漢鄭當時,待四方賢士以延時髦,而輔己之不逮,然奉養不過一盤餐而已,蓋本以至信接物,當世賢士英傑莫不歸心,以是盡所以比附之道也。
いわゆる「終来有它、吉」は、初六がもとより広大の徳量を懐き、一人に専応する私心なく、また極誠の心を以てあの朴素の器皿に充満したので、長遠から見れば、意料の外の人が来て彼に親附輔助し、因って吉を得るということです。ちょうど西漢の鄭当時の如く、彼は四方の賢士を款侍し、当時の俊傑の才を招致して、彼らを以て自分の能力の及ばざる処を補いました。しかし招待の飲食はただ一盤の飯菜に過ぎませんでした。まさに彼がもとより極誠を以て人に対したからこそ、当時の賢士英傑で帰心しないものがなかった――これがすなわち相亲相辅の道理を尽くしたのです。
六二:比之自內,貞吉。象曰:比之自內,不自失也。
六二の爻辞は言います。内卦から上に向かって九五に親附し、正を守れば吉を得ます。《象伝》は解釈して言います。内卦から親附しに行くのは、それが自分の守るべき正道を失わなかったことを言います。
義曰:六二止與九五相應,是不若初六之廣大其道、恢宏其志、廣比於人,但偏私以應於五,故於卦言之,是自內而比於上也。然得其貞吉者,以六二志偏專應,苟更不以正道處之,則滛邪佞媚無所不至也,故當大正乃得吉也。
胡瑗の解説:六二はただ九五の一爻と相応ずるのみで、初六のように道量を広く放ち心志を大きく放って広く人と相亲するのとは異なります。それはただ偏私の心を帯びて九五に応和するので、全卦に就いて言えば、これを内卦から上に親附すると呼びます。しかしそれが「貞吉」を得られた所以は、六二の心志が一方に専応するに偏るので、もし更に正道を以て自処しなければ、淫邪諂媚の事は為さないものがなくなります。ですから必ず端正に持守してはじめて吉祥を得られます。
六三:比之匪人。象曰:比之匪人,不亦傷乎。
六三の爻辞は言います。親附する所は正当でない人です。《象伝》は解釈して言います。親附すべきでない人を親附したのは、まさに心痛めずにおれまいか。
義曰:六三過二,不得中也;以陰居陽,不得正也。夫以不中不正之人,當親比之世,則所行皆非人之常道也。夫以是,雖有中正之人,必不相輔。故孔子於衛主顏讎由,彌子之妻與子路之妻兄弟也,彌子謂子路曰:「孔子主我,衛卿可得也。」子路以告,孔子曰:「有命。」孔子進以禮,退以義,得之不得曰有命,是聖賢之人雖欲假位行道,汲汲於救時,然非人則不主也。
胡瑗の解説:六三は下卦の第二位を越過したので、中に居らず、また陰爻を以て陽位に居るので、正を得ません。このような中でもなく正でもない人を以て、天下が彼此親附する時代に処すれば、彼の為す事は皆人の常道に合いません。まさにこのため、たとえ中正の人があっても、必ず来て彼を輔助することを肯んじません。ですから孔子は衛国に居ったとき、顔讐由の家に寄居しました。弥子瑕の妻と子路の妻は姉妹で、弥子瑕は子路に言いました。「孔子がもし我が家に来て住むことを肯ずれば、衛国の卿位は手に入れられる。」子路はこの言を孔子に転告し、孔子は言いました。「一切は自ずから天命あり。」孔子は出仕するに礼に依り、退隠するに義に依り、得られるか得られないかは皆天命に帰しました。見れば分かるように、聖賢の人は職位を借りて自分の主張を推行せんことを想い、急切に時世を救助せんと欲しても、相手がもし正当の人でなければ、投靠しに行くことを肯んじないのです。
又若魯桓公以不正之人,於家則殺兄,於國則弒君,嘗欲求於衛,至桃丘之地,而衛侯以其弒逆不正之君,則弗與之見,故仲尼於《春秋》但書公衛侯於桃丘弗遇。是由持不正之道,欲求比於人,則人莫之於輔,以人莫有與之者,誠可悼也,故象曰不亦傷乎,是可傷也。
また魯桓公の如きは、もとより行為が不正の人で、家で兄を殺害し国中で君主を弑殺しました。彼はかつて衛国と相会せんと欲して、桃丘という地に至りましたが、衛侯は彼が弑逆不正の国君であるがゆえに、彼と相見ることを肯んじませんでした。ですから孔子は《春秋》にただ「桓公が衛侯と桃丘に相約したが、会えなかった」と書きました。見れば分かるように、不正の道を抱いて他人の親附を求めに行けば、他人は来て彼を輔助しません。彼と伴うことを肯ずる人がないので、実に痛惜に値します。ですから《象伝》は「不亦傷乎」と言い、まさにこれが痛惜すべき事だというのです。
六四:外比之,貞吉。象曰:外比於賢,以從上也。
六四の爻辞は言います。外に向かって上卦の九五に親附し、正を守れば吉を得ます。《象伝》は解釈して言います。外に向かって賢者を親附するのは、上の君主に順従するためです。
義曰:二言比之自內者,以其上繫於九五,一志而專應之,是自內而比者也。此六四外比之貞吉者,蓋初六有由中之信而能比天下之賢,故不專於一應而天下之人皆比之,故有它來之吉;此六四既非初之專應,必須外比於九五之賢也。然以陰居陰,履得其正;九五以陽居陽,亦得其正。故九五之爻以一陽居至尊,眾陰之所歸也,此則徃而親比之,是能外附於賢而不失其正道,所以獲吉也。
胡瑗の解説:六二が「比之自内」と言うのは、それが一心に上に向かって九五に係念し、専一にそれと相応ずるので、これは内卦から上に親附するに属します。ここで六四が「外比之、貞吉」と言うのは、初六が内心から発する誠信を懐いて天下の賢者を親附し得るので、一爻に専応せず、天下の人が皆来てそれに親附し、それゆえ意外の来帰の吉祥があります。六四はすでに初六のように別に専応の対象を有しないので、必ず外に向かって九五という賢者を親附しなければなりません。しかも六四は陰爻を以て陰位に居り、正位に踏んでいます。九五は陽爻を以て陽位に居り、またその正を得ています。九五のこの一爻は一つの陽爻を以て至尊の位に居り、衆多の陰爻が共に帰向する中心です。六四はこれにおいて往いてそれに親附し、これがすなわち外に向かって賢者に依附して自分の正道を失わず、吉祥を獲得するのです。
九五:顯比,王用三驅,失前禽,邑人不誡,吉。象曰:顯比之吉,位正中也。舍逆取順,失前禽也。邑人不誡,上使中也。
九五の爻辞は言います。明白に人と相亲附し、君王は「三駆」の礼を以て田猟し、前に逃走する禽獣を放ち去らせ、自分の邑中の人もわざわざ告誡せず、吉祥です。《象伝》は解釈して言います。顕明に相亲附して吉を得るのは、九五が位が中正であるからです。背離して去る者を捨て順服して来る者を留め取るので、前の禽を放ち去らせたと言います。邑中の人が告誡を要しないのは、上位の者が中道を以て彼らを役使するからです。
義曰:九五顯比者,言此九五以剛明居至尊,為比之主者也。必須虛心廣志,以待天下之賢,以比天下之人,故於比道光大也。今反一志專應,其道褊隘而私繫於物,是止能顯然明比於六二也。王用三驅失前禽者,三驅,田獵之禮,欲左者左,欲右者右,不用命者入吾網,此三驅之禮也。然用此三驅者,蓋從田獵之時,禽有逆之而去者則棄而殺之,其有順而來者則愛而活之,田獵之禮常失前往之禽也。
胡瑗の解説:いわゆる「九五顕比」は、九五が剛強明達の徳を以て至尊の位に居り、全卦の親附の中心だということです。それは本来虚懐若谷にして心志を放開し、以て天下の賢者に対し天下の人と相亲すべく、こうすれば「比」の道理が光大し得ます。今それはかえって一心に某一爻に専応し、道量が狭隘にして私自らある対象に係念して、結果はただ明白に六二を親附するのみです。いわゆる「王用三駆、失前禽」の「三駆」は古代田猟の礼制で、左に走らんと欲するは左に往かせ、右に走らんと欲するは右に往かせ、命に聴かずして網中に闖入した者のみを捕取する、これが三駆の礼です。三駆を採用する所以は、田猟のとき、禽獣の中で猟人に背いて逃走するは放棄して追わず、方向に順って奔来するを憐れんで放生するので、田猟の礼に拠れば、常にあの前に逃走去る禽獣を放ち去らせます。
今九五不能恢洪廣大其道,而止應於二,是應於己者則比之,不應於己者則棄之,是常失於不應己者也。邑人不誡吉者,言九五其志既狹,但顯然明比於二,是不能親天下之賢,而賢者亦不來附於上,故止於已邑之人不為誡令,而歸附於已,故得其吉也。象曰顯比之吉位正中也者,五處至尊,不能廣逺其志,而苐顯然比於六二,然本不得吉,此所以獲吉者,蓋以其居中得正也。邑人不誡上使中也者,言此比道雖不廣,而能於己邑之間不須誡令而得吉者,蓋由居上者使以中道之故也。
今、九五は自分の道量を拡充宏大にできず、ただ六二と相応ずるに等しく、自分と相応ずるは親近し、自分と相応じないは抛き去るので、常にあのもとより自分と相応じない人を失います。いわゆる「邑人不誡、吉」は、九五の心志がすでに狭窄で、ただ明白に六二を親附するので、天下の賢者を親近し得ず、賢者もまた来て上に帰附せず、それゆえただ自分の封邑の内の人が、特に告誡の命令を発せずとも自然と彼に帰附し、吉祥を得るということです。《象伝》の「顕比之吉、位正中也」は、九五は至尊の位に身を処しながら、心志を広く遠く放てず、ただ明らかに六二を親附するので、理に照らせばもとより吉を得るべきではなく、それがなお吉を得られる所以は、中に居りかつ正を得ているからだということです。《象伝》の「邑人不誡、上使中也」は、それの相亲の道は広くないけれど、自分の封邑の内で告誡を下令せずとも吉祥を得られるのは、上位の者が中道を以て彼らを役使するに由るということです。
上六:比之無首,凶。象曰:比之無首,無所終也。
上六の爻辞は言います。人と相亲附しても、先んじて首に居り率先して帰附することを肯んじなければ、凶険です。《象伝》は解釈して言います。親附しても帯頭して先んずることができないのは、彼がよい結局を有しないことを言います。
義曰:比言無首凶,而乾言無首吉者,何也?蓋乾之為道,至剛至健,若為事物之先,必至玩威而暴物,是必待物之來犯,然後從而加之,所以得吉也。此親比之道,必先往比於人,如在下者比於上,卑者比於尊,愚者比於賢,又原其情性,筮決其善惡,觀其有元永貞三徳之人,從而附之。如是,卑可升於尊,愚可至於賢,是必先往而比,則可獲其吉也。是故聖人一起,天下之人畢來附之,其有不從而逆之者,則為聖人之所誅戮也,故有後夫之凶。今上六以陰柔之質,居比卦之終,是不能率先親比於賢者,所以致其凶咎,信無所終也。
胡瑗の解説:《比》卦は「无首」を以て凶とし、《乾》卦の《用九》はかえって「群龍无首、吉」と言うのは、なぜでしょうか。乾の道理は極めて剛強健壯なので、もし事事に人の前に抢えば、必ず威勢を濫用して他人を残虐に遇します。ですから相手が先に来て冒犯するのを待って、然る後に懲治を加えて、こうしてはじめて吉を得られます。而して相亲相辅の道はこれと相反して、必ず自分が先に他人を親附しに行かねばなりません。下の者は上の者を親附し、卑微の者は尊貴の者を親附し、愚昧の者は賢明の者を親附します。同時にまた相手の性情を推究し、卜筮を以て彼の善悪を判断し、彼が確かに元・永・貞の三種の徳行を具えるのを見極めて、然る後に従い依附します。このようになれば、卑の者は尊位に上升し得て、愚の者は賢明に進み得るので、必ず抢えて往って親附してはじめて吉祥を獲得し得ることが見えます。ですから聖人が一旦興起すれば、天下の人は皆来て帰附し、その中にもし服従を肯んじずかえって抗拒する者があれば、聖人に誅殺される、これが卦辞の言う「後夫凶」です。今、上六は陰柔の資質を以て《比》卦の最末端に居り、まさに率先して賢者を親附し得ない人なので、凶咎を招来し、確かによい結局はありません。
小畜 乾下巽上
小畜:亨。密雲不雨,自我西郊。
《小畜》卦の卦辞は言います。小さく蓄聚して、亨通します。濃雲が密布しても雨が降り来ない、その雲気は我らの西辺の郊野から升ったのです。「畜」はここでは蓄聚・止畜の意で、上体の巽が柔順を以て下体の乾の剛健を蓄止し、力量が限られているので、「小畜」と称します。
義曰:《序卦》云:「比必有所畜,故受之以小畜。」是由比卦旣相親比,則必有畜積之道也。蓋此一卦是乾巽二體,乾本剛健而居上,處於下則必務於進;而巽以柔順處上,必不能止御之也。亦猶在上之邪欲已形,然雖有順正之德,必不能止畜之也,故得小畜之名。
胡瑗の解説:《序卦伝》は言います。「彼此親附すれば、必ず蓄積する所有り。故に《比》卦に承ぐるは《小畜》卦なり。」これは《比》卦がすでに相互親附を講じた以上、続いて必ず蓄聚の道があるからです。この卦は乾・巽の両体から成ります。乾の本性は剛健で、本来上位に居るべきに、今はかえって下に居るので、必ず力を竭くして上に進取しようとします。而して巽は柔順の徳を以て上位に居るので、必ずそれを拦え止められません。これはちょうど上位者の邪僻の欲望がすでに顕露し出て、下にたとえ柔順守正の徳行があっても、終に止められず蓄えられないがごときです。ですからこの卦は「小畜」と命名され、蓄止し得る力量が極めて小さい意です。
此小畜亨者,以大畜之卦其畜道至盛,故不言亨;而此得亨者,蓋大畜是乾下艮上,以乾在下必欲上通,而艮居上卦為山,又能止物,是使在下之陽不得上進,及夫畜極乃亨,故卦下所以不言亨也。若此小畜亦乾在下而巽在上,巽以柔順之質不能拒物,乾雖上進而不能止之,故初則復自道,九二則牽復,至於依附乃能止之,獨止於九三一爻而已,是陽志得以上升,故言亨也。然按此一卦之跡,其文王之事耶。蓋文王當紂殘暴不道之君,以己雖有其才德,然紂之左右前後皆僉壬,故終不能止之也。以此知文王內文明外柔順,而道在小畜也。
ここで《小畜》卦辞が「亨」と言う所以は、《大畜》卦を以て対照し得ます。《大畜》の蓄止の道は極めて強盛なので、卦辞はかえって「亨」を言いません。而して《小畜》は「亨」と言います。《大畜》は乾下艮上で、乾は下にあって必ず上に通達しようと欲し、艮は上卦に居り山を象徴してまた事物を阻止し得るので、下の陽爻を上進し得なくして、極点に蓄止してはじめて亨通に転じるので、卦辞の中に「亨」を言いません。《小畜》に至っては、同じく乾が下・巽が上ですが、巽は柔順の資質を以て他人を挡えられず、乾は上に進取しても、それは止められません。ですから初九は「復自道」で自分で本路に帰り、九二は「牽復」で牽引されてともに帰り、依附する所あってはじめて勉强に止まり、真に止められたのは九三の一爻のみです。陽剛の心志がすでに上に伸展し得るので、卦辞は「亨」と言います。もしこの卦の反映する情事に拠れば、大概は周文王の処境を言うのでしょう。文王はまさに商紂のような残虐無道の君主に遇い、自分には才徳がありながら、紂王の身辺前後は皆奸佞の小人なので、終に彼を阻止できませんでした。これに由って文王が内に文明で外に柔順なことが知られ、彼の処したのはまさに《小畜》の道です。
密雲不雨自我西郊也者,夫陰陽交則雨澤乃施。若陽氣上升而陰氣不能固蔽則不雨;若陰氣雖能固蔽而陽氣不交,亦當不雨,猶若釜甑之氣,以物覆之則蒸而為水也。夫東震北坎皆陽方,其陰氣上交於坤位則雨矣;南離西兌皆陰方,其雲氣不能為雨。今言自我西郊,是雲氣起於西郊之陰位,必不能為雨也。以人事言之,則猶君之邪惡已形,而又有便佞之臣左右逢迎其志,其間雖有一二賢正之人,亦必不能止矣。夫君欲旣行而諂諛以滋之,臣又不能止畜,則膏澤何從而下哉。
いわゆる「密雲不雨、自我西郊」:陰陽二気が交合してはじめて雨沢が降下します。もし陽気が上昇して陰気がそれを厳密に遮蓋し得なければ、雨は降り成りません。もし陰気は遮蓋し得ても陽気が来て交合しなければ、同じく降り成りません。これはちょうど鍋甑の裏の蒸汽に、上から物で蓋いして、蒸汽がはじめて水に凝結するがごときです。方位に拠れば、東方の震・北方の坎は皆陽方に属し、そこの陰気が上昇して坤位と交合すれば、雨が降ります。南方の離・西方の兌は皆陰方に属し、そこの雲気は雨を結びません。今、卦辞が「自我西郊」と言うのは、まさに雲気が西郊という陰に属する方位から起ったので、必ず雨が降らないことを言います。人事を以て譬えれば、ちょうど君主の邪悪がすでに顕露し、身辺にまた一班の便佞の臣が彼の心意に迎合するがごときです。この中にたとえ一二人の賢良守正の人があっても、必ず阻止し得ません。君主の私欲がすでに推行し開き、諂諛の徒はまた傍らから助長し、正直の臣子は蓄止を加え得ないのですから、恩沢はまた何処から百姓の身に降りましょうか。
彖曰:小畜,柔得位而上下應之,曰小畜。健而巽,剛中而志行,乃亨。密雲不雨,尚往也。自我西郊,施未行也。
《彖伝》は解釈して言います。《小畜》卦の中で、六四という柔爻が陰位に居ってその正を得、上下の五つの陽爻が皆それと相応ずるので、「小畜」と呼びます。下体は剛健にして上体は謙順で、九二・九五の二つの剛爻が分かれて上下卦の中位に居り、心志は施行を得て、それゆえ亨通します。いわゆる「密雲不雨」は、陽気がなお続けて上行して、まだ陰気と交合していないことを言い、いわゆる「自我西郊」は、恩沢がまだ施布し来っていないことを言います。
義曰:柔得位而上下應之曰小畜,此指六四而言也。小畜卦有二義。何者?夫陽以生物,其德至大;陰以濟陽,其德至小。今六四以一陰柔得位,體無二陰以分其應,故上下五陽皆應之,是小者能畜矣。夫三陽在下而並進,四以一陰獨當其路,勢極柔弱,必不能止御,至於進極乃始能畜,是小有所畜也。此二義也。
《彖伝》の「柔得位而上下応之、曰小畜」は、これは六四の一爻に対して講じるものです。小畜の「畜」には二層の含義があります。陽気は万物を生養して徳性が極めて大きく、陰気は陽気を輔助して物を成して徳性が極めて小さい、これが「剛柔」の大小の別です。六四は一つの陰爻を以て第四位という陰位を正しく占めて、「得位」と呼びます(「爻位」の中で偶数位は陰に属し、陰爻がこれに居るを当位とします)。全卦に再び第二の陰爻がなくて衆陽の呼応を分け取るので、上下の五つの陽爻は皆来てそれと相感します――一陰一陽が彼此感通すればすなわちいわゆる「応」です――これがすなわち小さい者が衆陽を蓄止し得るのです。更に見れば、下卦の乾の三つの陽爻は肩を並べて上行し、六四は独り一陰を以て必ず経るべき路に挡え、力量は極めて弱く、起初は根本から拦えられず、陽気が尽頭に推進するまで勉强に止め得て、蓄えた所は十分に限られているので、「小さく蓄する所有り」と称します。
健而巽、剛中而志行,乃亨者,此據二體而言,又就釋所以得亨之義也。夫乾以健位於下,巽以順處於上,乾健務進而巽順不能止之,使其剛健巽順安然由中而行,是於邪欲得亨耳。密雲不雨、自我西郊,施未行也者,已解在前。
「健而巽、剛中而志行、乃亨」の数句は、上下二つの卦体に就いて立論し、同時にまた小畜が亨通し得る所以を解釈しています。下卦の乾は剛健を以て下に居り、上卦の巽は柔順を以て上に居ります。「剛中」は九二・九五の二つの陽爻が各々上下卦の中位に居ることを指し、「志行」はそれらの意志が推行を得ることを言います。乾の剛健は一意に上に推進し、巽の柔順は拦阻できないので、あの剛健の気は巽の順従に藉って、安々として一路通行する――胡瑗に拠れば、このようになれば正当でない欲望もついて暢達します。「密雲不雨、自我西郊、施未行也」の一句に至っては、前文ですでに講じたので、ここでは重複しません。
象曰:風行天上,小畜。君子以懿文德。
《大象伝》は言います。風が天上を吹行する、これが小畜の卦象です。君子はこれに取り法って、自分の文采と徳行を涵養し美化します。「懿」は美好・これを美好にすること、「文徳」は礼楽文章の類の教養を指します。
義曰:風者,震動之氣,能生物,亦能成物,其行於地上,則可以助天地生成之力也。今以二體言之,則巽在乾上,則是風行於天之上,其功不及於物,是小畜之象也。君子當此之時,知其未可以進用,則懷畜仁義,懿美文德,樂天知命,待時而動,其志在於佐君以澤天下之民物而已。
風は万物を鼓動し得る気で、万物を催生し得て、また万物を促成し得ます。風がもし地面の上を吹行すれば、天地の生養の功を完成するのを助け得ます。今、上下二つの卦体に就いて見れば、巽の風は乾の天の上に高居して、天空の裏を吹き過ぎ、地面の万物の身には吹き届かず、功效は実処に落ちない、これがまさに蓄える所が極めて微な小畜の象です。君子はこのようなときに処して、自分がまだ出仕して事に任ずる時機に至っていないのを明白にして、退いて仁義を積蓄し文采徳行を涵養し、天命に安んじて怨尤せず、静かに時機を候って行動します。彼の心中に存するのは、終始君主を輔佐して恩沢を天下の百姓万物に施すというこの一事です。
初九:復自道,何其咎,吉。象曰:復自道,其義吉也。
初九の爻辞は言います。自分の固有の正道に沿って帰って上行すれば、どうして過錯がありましょうか。吉利です。《小象伝》は言います。自分の固有の道路に沿って帰るのは、道理から言えばもとより吉利です。
義曰:乾體在上,今居於下,必務上進也。此初九以剛健之質居乾之初,勢必務進,而又應在六四,六四又以柔弱居巽始,是必不能為之制畜,但聽其進而不拒,順其性而不違,此所以得復自故道而剛志得行,安然不犯咎過而自以為吉也。象曰其義吉也者,言復自故道而無所違拒,於義理自吉也。
乾はもとより天で、上位に居るべきに、今はかえって下卦に屈居するので、必ず力を求めて上に前進せねばなりません。初九は剛健の資質を以て乾卦の最下の一爻に居り、形勢上において必ず上行を急ぎます。それと相応ずるのはまさに六四で、六四はまた柔弱の質を以て巽卦の起始に居り、根本からそれを蓄止する力量がなく、ただそれの前進に聴任して阻拦を加えず、その本性に順って違逆しないのみです。まさにこのため、初九は自分の固有の正道上に帰って行進し得て、剛健の志向が施展を得て、安々として何の過失にも触犯せず、自然と吉利です。《小象伝》の「其義吉也」は、それが旧有の正道に循って前行し、一路に誰の違逆阻拦もなく、道理から言えばもとより吉利であるべきだということです。
九二:牽復,吉。象曰:牽復在中,亦不自失也。
九二の爻辞は言います。牽連を受けてともに帰って上行し、吉利です。《小象伝》は言います。牽連して返り得るのは、九二が下卦の中位に居るからで、こうすれば少なくとも自分の有るべき分寸を失いません。
義曰:九二以剛陽而務進,然其應在五,五雖以剛陽居上,而體本巽順,非制畜之極,不能逆己之進,故得牽連而復。所以得吉者,居中之故也。然五本剛健,雖不違己志,然猶不若六四以柔道依違於初,使其安然上進,故此必待牽連而後得復也。象曰牽復在中,亦不自失也者,言九二必待牽連而後復,是不能復有所為,但於己不自失耳。
九二は陽剛の爻で、一心に上に推進しようとします。それと相応ずるのは九五です。九五もまた陽剛で上卦に居りますが、所属の上卦の本体は柔順の巽で、強力に蓄止し得る地步に至っていないので、九二の上行を挡えられず、九二はこれにおいて同類に牽引されて一道に正道に返ります。それが吉利な所以は、下卦の中位に居って行事が偏らず倚らないからです。ただ九五は本性が剛健で、九二の意願に違背しないけれど、六四が柔順の道を以て初九に対して依違両可にして安然の上行に任せたほどには及ばないので、九二は必ず人に牽引されるのを待ってはじめて返り来れるのです。《小象伝》の「牽復在中、亦不自失也」は、九二が牽引に靠ってはじめて動き得るのは、それが自分で主動して所為を為せず、ただ本身に就いて言えば分寸を失わないのみだということが見えます。
九三:輿說輻,夫妻反目。象曰:夫妻反目,不能正室也。
九三の爻辞は言います。車の輪が脱落して路を行けず、夫妻は顔を翻して相視ます。《小象伝》は言います。夫妻が顔を翻すのは、夫が自分の家室をも端正し得ないからです。「説」は「脱」に通じ、「輿」は車、「輻」は車輪を指します。
義曰:輿,車也;輻,車輪也。乾為陽,故稱夫;巽為長女,故稱妻。言九三以剛健欲務上進,上九居畜之極,固止而不從之,是故輿說其輻而不能行,夫妻反目而不能正。然按大畜之三,則曰閒輿衛,利有攸往,而此言輿說輻者,蓋大畜之時,臣能以大正之道畜君於始,使其邪欲之不行,故畜則有厲,而二則說輹,九三畜極則通,所往皆獲其利,故曰閒輿衛,利有攸往。
「輿」は車、「輻」は車輪を指します。下卦の乾は陽に属するので、丈夫を象として取り、上卦の巽は長女なので、妻子を象として取ります。九三は剛健の質を以て上行を急ぎ、上九は畜止の極点に居り、牢く挡えてそれに順従することを肯んじないので、車輪は脱落して動けず、夫妻は顔を翻して家室が正でありません。ただ《大畜》卦の九三に対照すれば、爻辞はかえって「閑輿衛、利有攸往」――車馬守衛の事を練習し、往くに利ありと言います。同じ一つの「畜」の字で結果が相反するのは、原因に在ります。大畜のときは、臣子が一初めから大中至正の道を以て君主を蓄止し得て、君主の邪念を行き通らせないので、蓄止の初めに危厲があって九二に車輪脱落の象があり、九三に至って畜止が極点に至ればかえって通達し、往く所は利を得ないものなく、それゆえ「閑輿衛、利有攸往」と言います。
今小畜巽順居上,其臣之勢微力弱,不能御君邪欲之志,故初則復自道,二則牽復,至此九三方能止畜而不使之進,故曰輿說輻,夫妻反目也。大凡非至聖之人,不能無邪曲之情,必左右前後皆得正人端士,以大正之道而規戒制畜之,使其思慮不入於邪,言動皆由於正,則終有天衢之亨也。
小畜卦は然らず、柔順の巽が上位に居り、臣子たるの一方は勢孤力弱で、君主の邪僻の欲念を管束し得ないので、初九は旧道に循って上行し得て、九二は牽引されて返り、九三に至るまで、あの蓄止の力量がはじめて勉强に積み足されて、それを挡えて更に進ませず、これにおいて車輪脱落・夫妻反目の象があります。大凡極めて高明の聖人でない以上、心中は総じて偏邪の念頭を免れ得ず、必ず身辺の前後左右が皆端正の士で、大中至正の道理を以て規勧告誡し約束を加え、彼の心思を邪僻に落とさず、言語行動を皆正道から出させて、終に《大畜》の上九の言うような、天上の通衢のような広大亨通の大路を歩み得るのです。
若夫左右前後皆以讒諂佞諛逢迎其惡,則其間雖有一中正之臣,亦必不能止畜之也。夫正臣不能止畜,則放僻邪侈無所不入,驕奢淫佚無所不至,而車輿說輻之咎、夫妻反目之禍,何以逃哉?且大畜始雖不通,至於九三則利有攸往,是其為福也甚大;小畜始雖能亨通,至於九三則有說輻反目之禍,其為患也非輕。蓋制畜之道當在其始,而聖人所以戒也。象曰夫妻反目,不能正室也者,言九三至放縱旣極,而見畜於至正之臣,以至不能正己之室,況於他事乎?則其為禍也可知矣。
反対に、もし君主の身辺の前後左右が全て讒を進め媚を献じ彼の悪習に逢迎する人ならば、その中に縦使一位の中を守り正を持する臣子があっても、必ず彼を畜止し得ません。正直の臣がすでに管束できなければ、君主は邪僻を放縦して為さないことなく、驕奢淫逸して至らない所なく、車輪脱落の過失・夫妻反目の禍患は、またどうして避け得ましょうか。更に比較すれば、《大畜》は初めは順遂でなくても九三に至って「利有攸往」で得る福が極めて大きく、小畜は初めは亨通し得ても九三に至ってかえって車脱輪・夫妻反目の禍があり、患として軽くありません。見れば分かるように、君心を約束するこの事は、功夫を最初に下すべきで、聖人はまさにこれに藉って告戒を提出したのです。《小象伝》の「夫妻反目、不能正室也」は、九三が放縦して極点に至って、はじめて守正の臣子に畜止され、自分の家室をも端正し得なくなったので、況んや他の事においてをや、その中の禍害はまた想いが及びます。
六四:有孚,血去惕出,無咎。象曰:有孚惕出,上合志也。
六四の爻辞は言います。心中に誠信を懐き、傷害は消除を得て、恐懼は散去を得て、過失がありません。《小象伝》は言います。誠信があって恐懼が散去するのは、それが上に向かって上九と同心合志するからです。「孚」は内心から発する誠信、「血」は受けた傷害を指し、「惕」は戒懼です。
義曰:孚謂由中之信也;血者,所傷之稱也;去,除也;惕,懼也;出,散也。言六四以柔順居巽之初,下之三陽上進,而已獨當其路,將以拒止之而不使其進,則必為其所傷,故當以由中之信發於至誠,依附於上之二陽,同心一志,與之共止畜之,則傷害可以去,惕懼可以出散,而免其凶咎也。
「孚」は内心から発する誠信、「血」は受けた傷害の代称、「去」は除くこと、「惕」は恐懼、「出」は散去です。六四は柔順の質を以て上卦の巽の起始に居り、下の乾の三つの陽爻が一斉に上行するのに、ただそれが路口に挡えて、拦えてそれらを前進させまいとするので、この勢いは必ずそれらに傷つけられます。ですからそれは内心から発する誠信を取り出し、極めて真摯の態度を以て上の九五・上九の二つの陽爻に依附し、それらと同心同志して合力してともに下の陽気を畜止すべく、このようになれば、傷害は除かれ恐懼は消散し、従って凶険と過失を免れ得ます。
象曰有孚惕出,上合志也者,言六四所以畜於物者,蓋上九當制畜之極,已能一心合志,依附於上而共畜之,則能出散惕懼也。此不言血者,蓋惕懼旣散,則去其傷害可知矣。
《小象伝》の「有孚惕出、上合志也」は、六四が外物を蓄止し得る所以は、全て上九がまさに畜止の極点に居るに依り、而して六四がまた一心一志にそれと志同道を合わせて、上に依附して共に蓄止を施行するので、それゆえ恐懼を駆散し得たのだということです。ここに恐懼の散去のみを言って更に「血」を提しないのは、恐懼がすでに消散すれば、傷害は自然と随って消除するので、言わずとも明白だからです。
九五:有孚攣如,富以其鄰。象曰:有孚攣如,不獨富也。
九五の爻辞は言います。誠信を懐いて衆爻を牽係し、自分の富厚を近隣の同伴に分けます。《小象伝》は言います。誠信を懐いて衆爻を牽係するのは、九五が富厚を独占することを肯んじないことを言います。「攣」は牽連維係、「如」は語助詞です。
義曰:攣,攀連也;如,語辭也;鄰謂九二也。此九五居小畜之時,位雖剛明,體本巽順,又以由中之信攀攣於物,故九二所以得牽復而上進也。故曰有孚攣如。富以其鄰者,言九二以陽質上應於九五,九五又以由中之信接之,是不專己之富盛而分用於二也。
「攣」は牽連攀附、「如」は句末の語助詞、「隣」はここでは九二を指します。九五は小畜の時に身を処し、爻位は陽剛顕明であるけれど、所属の上卦の本体は柔順の巽で、加うるにそれはまた内心から発する誠信を以て他人を牽係するので、九二が牽引されてともに正道に返り続けて上行し得、それゆえ爻辞は「有孚攣如」と言います。「富以其隣」に至っては、九二が陽剛の質を以て上に向かって九五と相応し、九五はまた誠信を以てそれを接納するので、九五が自分の富厚強盛を独占せず、分け出して九二にともに享用させることが見えるということです。
上九:旣雨旣處,尚德載,婦貞厲,月幾望,君子征凶。象曰:旣雨旣處,德積載也;君子征凶,有所疑也。
上九の爻辞は言います。雨はすでに降り人もすでに安処しました。これは徳行を崇尚して積累が深厚になった結果です。婦人が一味にこれを守って行えば危厲があります。月は将に満盈せんとしています。君子がもし更に前に向かって行進すれば、凶険があります。《小象伝》は言います。雨も降り安処したのは、徳行が積累して満載に至ったからです。君子が前行すれば凶なのは、すでに他人の猜疑を引き起こしたからです。
義曰:夫六四以柔順不能畜物,使初得復自故道;至於九五,雖以剛質處中,然體本巽順,故亦不能拒九二之進;至此上九,制畜既極,九三雖欲務上進,乃為己之所御,而其志不通也,故其辭曰輿說輻、夫妻反目是也。夫陽氣上進,陰不能固蔽之,則不為雨澤也,彖所謂密雲不雨是也;若陽氣上升,陰能固蔽之,則蒸而為雨。今此上九是能固畜九三之進,然位雖陽爻,而體本巽順,是陰陽相應而成雨澤,故言旣雨也。
六四は柔順で、陽気を畜止できないので、初九は旧道に沿って自ら上進し得ました。九五に至っては、陽剛を以て中位に居るけれど、上卦の本体は巽の柔順で、同じく九二の上行を挡えられません。上九に至るまで、畜止の力量が極点に積累して、九三は一心に上行せんと欲しても、それに挡え戻されて、志向は再び伸展し得なくなったので、九三の爻辞ははじめて「輿説輻、夫妻反目」と言います。更に陰陽から雨を論ずれば、陽気が一味に上昇して、陰気がそれを封鎖し得なければ、雨水に凝りません。《彖伝》の言う「密雲不雨」はまさにこの情形です。陽気が上昇して陰気がそれを封じ得れば、二気は蒸鬱交合して、はじめて降雨します。今、上九は牢く九三の上行を畜え得て、それ自身は陽爻であるけれど、所属の卦体は柔順の巽で、陰陽が彼此感応して雨沢を成したに等しいので、爻辞は「既雨」と言います。
旣處者,旣安也。夫六四以柔弱之故,是以惕懼而不敢安;此上九旣為制畜之極,能固止其九三之進,則安然而居,不在惕懼也,故曰旣處。尚德載者,言昔之不雨,今旣雨矣;昔之不安,今旣安矣,此皆由君子之人貴尚其德而行之故也。婦貞厲者,言此上九雖以陽處之,然而體本柔順,下應於九三,是婦道也;以婦而制畜其夫,於正道言之,蓋亦亢厲也。
「既処」はすなわちすでに安定したことです。六四は質地が柔弱なので、終日戒懼して身を安んずるを敢えてしませんでした。上九はすでに畜止の極点に居り、牢く九三の上進を止め得るので、自然と安然として居り、更に戒懼を用いず、ですから「既処」と言います。「尚徳載」は言います。従前は雨が降らず、今は降りました。従前は安を得ず、今は安を得ました。この一切は皆君子が徳行を看重し切実に践行して、徳行の積累が満載の地步に至ったに由ります。「婦貞厲」に至っては、上九は陽爻を以てこの位に居るけれど、所属の卦体はもとより柔順で、また下に向かって九三と相応し、これは妻子が丈夫に対する関係に属します。妻子の身分を以て丈夫を管束するのは、正道に照らして衡量すれば、強亢に過ぎて危厲があるのを免れません。
月幾望者,至陰之精也。乾為陽,故為日;巽為陰,故為月。日常滿,月多虧,今至於此,是巽之極而陰之盛也。月至盈而言幾望者,蓋月者臣之象也,君之邪惡旣見畜於臣,是臣德之盛也,然以臣之分則不可過,故當常若月之幾至於望則可也。
「月幾望」の月は、極陰の気が凝って成った精華です。乾は陽に属して太陽を象として取り、巽は陰に属して月亮を象として取ります。太陽は常に円満ですが、月亮は常に虧缺があります。今、上九に至っては、まさに巽の柔順が極処に至り陰気が極めて旺盛のときです。月は明らかにすでに円満に近づいているのに、爻辞はただ「幾望」と言う――将に満ちんとして未だ満ちず、これは月が臣子を象徴するからです。君主の邪念がすでに臣子に畜止されている以上、臣子の徳望が極盛であることを説明します。しかし臣子の本分に就いて言えば、徳望がどんなに盛んでも君主を越えてはならず、ですから永遠に月が将に円かならんとして未だ円かならざる分寸に保つのが適当です。
君子征凶者,夫上九居制畜之極而有旣雨既處之事,是時之甚盛也,為君子者若復更有所往,不知其止,則是凶咎之道,此聖人存誠之意也。象曰旣雨旣處,德積載也者,言所以獲既雨既處者,由君子以仁德積之於內而行之於外,以至有大正之道畜其剛健之進,皆由久於積習然也。君子征凶,有所疑也者,言至此道盛之時,若復征進不已,則必為人之所見疑也。
「君子征凶」は言います。上九は畜止の頂点に居り、すでに雨が降り人が安んずる局面があって、まさに時勢が最も隆盛のときです。このとき君子たる者がもしなお前に向かい続けて、適可に止むを知らなければ、それは凶を招き禍を惹く路数です――聖人がここに存するのは一片の誠懇に告戒する心です。《小象伝》の「既雨既処、徳積載也」は、雨降り人安んずるこの結果を得られたのは、全て君子が仁徳を内に積蓄し外に施行して、大中至正の道を以てあの剛健の上行の勢を畜止し得るに至るまでに由り、これらは皆長久の積累修習があってはじめてあるということです。また「君子征凶、有所疑也」と言うのは、徳盛んに道隆んのときに至って、もしなお一味に前行して止まなければ、必ず旁人の猜忌を招くということです。
履 兌下乾上
履虎尾,不咥人,亨。
卦辞は言います。虎の尾を踏んでも、虎は人を咬まず、亨通します。「咥」は咬嚙です。
義曰:按《序卦》云,物畜然後有禮,故受之以履。言物旣有所畜聚,須禮以節制之,故履所以次於小畜也。然則履者,禮也。夫人之情,目之於色,耳之於聲,口之於味,鼻之於臭,四體之於安逸,必得禮以節制之,然後所為適中,動作合度,而放僻之心無自入矣。苟不以禮節制之,則必驕情肆欲,無所不至,是其禮不可一失之也。
《序卦伝》は言います。「物畜みて然る後に礼あり。故に受くるに履を以てす。」これは万物がすでに積聚する所有れば、必ず礼を以て節制を加えなければならないので、《履》卦が《小畜》の後に列ぶということです。このように見れば、「履」とは礼です。人の性情は、眼は美色を貪好し、耳は声楽を貪好し、口は滋味を貪好し、鼻は香気を貪好し、四肢は安逸を貪図して、礼を以て節制せざるを得ません。節制した後には、為す所が分寸に合し、挙止が法度に合して、放縦邪僻の念頭もまた侵入する由がなくなります。倘若礼を以て節制しなければ、必ず性情を驕縦し欲望を放肆して、為せない事はありません――礼が一刻も欠け得ないことが見えます。
此卦上乾為天為剛,是為君、為父、為夫之道也;下兌為澤為順,是為臣、為子、為婦之道也。乾剛在上,是能以尊嚴臨於下也;兌說在下,是能以說順奉於上也。上下相承,故得君臣父子夫婦皆有其節制,則上下之分定,而尊卑之理別,天下之禮行矣。
この卦は上体が乾で、天を象徴し剛健を象徴して、君主・父・丈夫の方を代表します。下体は兌で、沼沢を象徴し和悦順従を象徴して、臣子・子・妻の方を代表します――各卦の具えるこのような性情を、易家は「卦徳」と称します。乾の剛健は上にあって、尊厳を以て下に臨御し得ます。兌の和悦は下にあって、喜悦順従を以て上に奉事し得ます。上下が彼此相承じ、下位が上位に順奉するのを「承」と呼び、こうして君臣・父子・夫婦の間に各々節度があり、上下の名分が確定し、尊卑の道理が分かれて、天下の礼は通行するのです。
履虎尾,不咥人,亨者,此聖人之意也。虎者,至威至猛之物也;咥,齧也。然今履蹈其尾而不見咥齧,終獲其亨者,蓋言暴猛之物不可以犯,若君子能盡禮以履之,終亦不見其傷也。何則?夫以天下之尊莫尊於君,生殺之權繫之也。若為臣者能內盡其忠,外盡其禮,柔荘肅慎以事於上,則君雖有雷霆之威嚴,亦將溫顏柔色而接之矣。一家之尊莫尊於父,一家之喜怒繫焉。若為子者內盡其孝,外盡其禮,溫柔恭順以事其父,則父雖至嚴,亦將柔順而接之矣。
「履虎尾、不咥人、亨」の一句は、聖人の深意を寄寓しています。虎は極めて威厳で極めて凶猛の動物で、「咥」とは咬むことです。しかし人がその尾を踏んでも咬まれず、終にかえって亨通する、これは凶猛の物は本来冒犯し得ないが、君子がもし完備な礼数を以てそれと相処すれば、終に傷害を受けないということです。なぜこのように言うかというと、天下の最も尊貴なのは君主に過ぎず、生殺の大権が皆その手中に係ります。臣子たる者がもし内心に忠誠を竭くし、外表に礼節を恪守して、柔和荘重・恭謹審慎に君上に事えれば、君主は縦使雷霆の如き威厳があっても、和顔悦色を以て彼に対します。一家の中で最も尊貴なのは父に過ぎず、全家の喜怒が皆その身に係ります。子たる者がもし内心に孝道を竭くし、外表に礼節を恪守して、温和恭順に父に事えれば、父は縦使極めて厳厲であっても、柔順の態度を以て彼に対します。
況於下者有文以相接,有情以相親,其間縱有離間之心,亦不可得而離間也。是故君父之至嚴,鈇鉞在前,鞭樸在後,為臣子者果盡其心,竭其力,厚其禮以事之,則終不見其傷害也。故曰履虎尾,不咥人,亨。
況んや下位に居る人がもし礼文を以て相交接し真情を以て相親近すれば、その間に縦使挑撥離間せんと欲する人があっても、手を下す由がありません。ですから、たとえ君父が極めて厳厲で、斧鉞を前に陳列し鞭杖を後に予備しても、臣子たる・子たる者はただ真に心を尽くし力を竭くして、厚重の礼数を以て奉仕すれば、終に傷害を受けません。これが卦辞の言う「履虎尾、不咥人、亨」です。
彖曰:履,柔履剛也。說而應乎乾,是以履虎尾,不咥人,亨。剛中正,履帝位而不疚,光明也。
《彖伝》は言います。履卦は、柔順の者が剛強の者の上を踏むことです。下体は和悦にして上に向かって乾に応ずるので、虎尾を踏んでも咬まれず、亨通を得ます。九五は陽剛でかつ中に居り正を得て、帝王の位に登臨して問いに愧ずる所なく、その道は光明正大です。
義曰:履柔履剛也者,此言得履卦之名者,蓋由以柔順之體上承於乾剛之質,此所以名曰履也。說而應乎乾,是以履虎尾,不咥人,亨者,此就二體而言之。兌以陰柔處於下,而上承剛健,是由賤之事貴,卑之事尊,苟非盡悅順之禮以事之,則其傷害可知矣;固當執此道以事之,則猶蹈猛摯之獸而亦不見其咥齧也,故曰說而應乎乾,是以履虎尾,不咥人,亨也。
「履、柔履剛也」の一句は、この卦がなぜ「履」と命名されたかを解釈するので、柔順の兌体が下にあって、上に向かって乾の剛健の者を承奉し、足でその上を踏むがごときなので、「履」と呼びます。「説而応乎乾、是以履虎尾、不咥人、亨」は、上下両体に就いて立論します。兌は陰柔を以て下位に居り、上に向かって剛健の乾を承奉する、これはちょうど卑賤の者が尊貴の者に事え、低位の者が高位の者に事えるがごときです。もし十足の和悦順従の礼を出して奉事しなければ、受ける傷害は想いが及びます。反対に、この路数を堅持して奉事すれば、たとえ猛獣を踏んでもそれに咬まれないので、「説而応乎乾、是以履虎尾、不咥人、亨」と言います。
剛中正,履帝位而不疚,光明也者,此止言九五之德也。體本剛健,而又以陽處陽,居中履正,是其德剛明而中正也。以此履踐至尊之位而不有疾病,則其道光大而明顯也。
「剛中正、履帝位而不疚、光明也」のこの一句は、専ら九五の一爻の徳行に就いて言います。九五の所属の上卦の本体は剛健で、それ自身はまた陽爻を以て陽位に居り上卦の中位に居って、中に居りかつ位に当たっています――一爻がすでに中位を得かつその位に当たるを、易家は「中正」と称します――その徳が剛強明達にして偏らず倚らないことが見えます。このような徳行に凭って至尊の位に登れば、心中に少しの虧欠病痛もなく、その道は自然と広大にして光明显著です。
象曰:上天下澤,履。君子以辨上下,定民志。
《大象伝》は言います。上は天で下は沢で、尊卑が判然として分明し、これが履の卦象です。君子はこれに取り法って、上下の名分を分辨し、百姓の心志を安定します。
義曰:乾,天也;兌,澤也。夫天本在上,今居於上;澤本在下,今居於下,是尊卑分定而各得其所也。故君子於此時,以人之飽食暖衣逸居而無教則近於禽獸也,是以作為禮制以節之教之,辨別其民之上下,安定民之心志,使為君、為父、為夫、為長,凡在人之上者,皆以恩威接於下;使其為臣、為子、為婦、為幼,凡在人之下者,皆以柔順事於上。如此則上下之分定,而人民之志固定矣。
乾は天、兌は沢です。天は本来上にあるべきで、この卦ではまさに上にあり、沢は本来下にあるべきで、この卦ではまさに下にあります。尊卑の名分が確定し、各々応有の位置に安処します。ですから君子はこのときに、人がもしただ飽き食い暖かく着て安逸に居って教化がなければ、禽獣と相去る遠からずであることを思い、こうして礼法を制訂して彼らを節制し彼らを教導して、百姓の間の上下の等第を分辨し、百姓の心志を安定します。君主たる者・父たる者・夫たる者・兄たる者をして、凡そ人の上に居る者は、皆恩徳と威厳を以て下に対せしめます。臣子たる者・子たる者・妻たる者・幼輩たる者をして、凡そ人の下に居る者は、皆柔順の態度を以て上に事えさせます。このようになれば、上下の名分は確定し、百姓の心志もまた安定して動きません。
初九:素履,往無咎。象曰:素履之往,獨行願也。
初九の爻辞は言います。質朴无华の方式を以て礼を行い、往って事を行えば過錯がありません。《小象伝》は言います。質朴を以て礼を行って往くのは、独り自分の心愿を実行するからです。「素」は本色・朴素です。
義曰:夫禮之本,本於質。是故冠冕之始,始於緇布之質;衣裳之始,始於韠韍之質;器皿之始,始於汙尊瓦缶之質;飲啜之始,始於太羮玄酒之質,是皆禮之始,率以質素為本也。今初九居履之初,是能本於質素而行,故曰素履也。往無咎者,往則踐履而行之之謂也,言當此履之始而君子能往踐質素而行之,故得無咎。
礼の根本は質朴にあります。ですから冠冕の制は最初はただ一頂の黒布で作った緇布冠で、衣裳の制は最初はただ一幅の前身を遮蔽する皮製の蔽膝で、器皿の制は最初はただ地を掘って坑とし酒尊と為し瓦缶を以て物を盛り、飲食の制は最初はただ調味を加えない肉汁と一碗の清水を以て酒に充てたものです。これらは皆礼の最初の様子で、一概に質朴を本としました。今、初九は履卦の開端に居り、まさに質朴を守って行い得るので、「素履」と言います。「往无咎」の「往」は、すなわちそれを切実に践行し出すことです。礼を行う道が剛に歩み始めたときに、君子が身体で力を行い質朴を守って為し得るので、過失がないということです。
象曰獨行願也者,此履卦之初能踐履質素而行者,蓋獨行己之願也。何哉?其為禮之始,本起於質樸,迨後世則尚文尚華,惟君子則能不撓於眾,而獨行此質素之願,以矯正當時於淳約也。
《小象伝》の「独行願也」は、履卦の初爻のこの質朴の礼を践行し得る人は、すなわち独り自分の心愿を実行するのだということです。なぜ一つの「独」の字を強調するかというと、礼は初創のときにもとより質朴から出たが、後世に至っては一味に文飾華美を崇尚します。ただ君子のみが衆人の風気に動揺されず、独りこの守朴の心愿を堅持し得て、それを以て当時の風気を矯正し、世道を淳厚倹約の上に拉戻すのです。
九二:履道坦坦,幽人貞吉。象曰:幽人貞吉,中不自亂也。
九二の爻辞は言います。行く所の路は平坦広大で、幽静に自守する人が正道を守持すれば吉祥を獲得し得ます。《小象伝》は言います。幽静に自守する人が正を守って吉を得るのは、彼の内心が中を持して自ら乱れないからです。
義曰:九二居下卦之中,其體是兌,兌者,和說之謂也。今旣履得其中,又能和說,則是樂其道而忘其憂,踐其道坦坦然安於循理也。幽人貞吉者,幽人則樂道慎獨之人也。凡人之為禮,貴本於中而行,則得其為禮之中道,故《周禮》大司徒以六禮教萬民之中,是所行之禮貴得其中也。
九二は下卦の中位に居り、所属の卦体は兌で、兌の性情は和悦です。それはすでに行事が中を得て、また和悦を以て人に対するので、自分の守る道を楽しみとして憂愁を忘れ、路の上を坦坦蕩蕩として、安心して事理に依循して行きます。「幽人貞吉」の「幽人」は、道を守るを楽しみ独り居るときも自律を放松しない人を指します。凡人が礼を行うに、貴ぶべきは内心の中道から出ることで、こうして出した礼が分寸に合します。ですから《周礼》に大司徒が六礼を以て万民を教導して一つの「中」の字を致さしめたと記します。礼を行うに最も緊要なのは恰到好処であることが見えます。
且凡人之為禮,有恭肅矜莊而過其中者,有簡易惰慢而不及其中者,有外能恭莊而內實不敬者,有內能恭敬而外不整肅者,有顯然能行中道而欺於闇室者,有不欺於闇室而傲於等夷者,是皆為禮失其本而不得其中,故唯此樂道慎獨之人能行之,是於正道而得其吉者也。
更に言えば、人々が礼を行うに、或いは恭敬厳肅して拘謹做作に至って分寸を超過し、或いは随怠慢で分寸に足らず、或いは外表は恭敬荘重でも内心は実は誠敬でなく、或いは内心は誠敬でも外表が整肅に足らず、或いは衆の前では中道を行い得ても独り暗室に居れば自欺し、或いは独り暗室で自欺せずとも同輩に対しては傲慢無礼です。これらは皆礼を行って根本を失い分寸を拿えられないものです。それゆえただあの道を守るを楽しみ慎独して自ら持する人のみが、恰如其分を為し得て、これがまさに正道上を歩んで吉祥を獲得する所以です。
六三:眇能視,跛能履,履虎尾,咥人,凶。武人為于大君。象曰:眇能視,不足以有明也;跛能履,不足以與行也;咥人之凶,位不當也;武人為于大君,志剛也。
六三の爻辞は言います。片眼が盲いてもなお見えると自以為し、足が跛けてもなお歩けると自以為して、虎尾を踏んで虎に咬まれ、凶険です。これはちょうど強さを逞しする武夫が強いて大君を充当せんとするがごときです。《小象伝》は言います。独眼は見えると言っても、終に分明に見るに足りません。跛足は歩けると言っても、終に人と並んで行くに足りません。咬まれる凶険は、居る爻位が当たらないからです。武夫が強いて大君を充するのは、心志が一味に剛暴だからです。
義曰:六三位過九二,不中也;以陰履陽,不正也。過中失正,則所行之禮皆不知其本始,而不能免其憂、逃其凶也。喩如眇者之能視,亦不足明其中道;跛者之能履,亦不足行其正道。以陰而乘剛,是踐履其虎之尾而見咥者也。且以陰而履剛,其志本暴,猶若強暴之人為于大君,視所行所為皆不中不正而至凶禍者也。
六三の位置はすでに九二の中位を越過して「中」に合わず、また陰爻を以て第三という陽位に居り「正」に合わず、すでに中を過りかつ正を失えば、それの行う礼は皆根本源头を明白にせず、憂患は避けられず凶険は逃れられません。これはちょうど独眼の人が見えると自以為しても、実は中道を照らし明らかにできず、跛脚の人が歩けると自以為しても、実は正路を歩み出せないがごときです。それは陰爻を以て下の陽爻の上に凌駕し――陰が陽の上に居るを「乗」と呼び、陰が陽の下に居るを「承」と呼び、合わせて「承乗」と称し、その中の「乗剛」は勢に逆らい危ない象です――これはすなわち虎尾を踏んで咬まれるに等しいです。更に、陰柔の質を以て剛強を踏むは、その心志はもとより強横を帯び、ちょうど一身の蛮力に凭る武夫が強いて君主を為らんとするがごときで、一挙一動が皆中でなく正でなく、最後に凶禍を招来します。
九四:履虎尾,愬愬終吉。象曰:愬愬終吉,志行也。
九四の爻辞は言います。虎尾を踏んで、戒懼惶恐して、終に吉祥を獲得します。《小象伝》は言います。戒懼惶恐して終に吉を得るのは、それの志向が施行を得たからです。「愬愬」は驚懼の様子です。
義曰:愬愬,驚懼之貌也。九四處上卦之初,履六三之上,而六三以陰居陽,其志尚剛武,今九四乘之,是履虎尾也。旣履此剛暴之上,為九四者固當愬愬恐懼,則終得其吉也。何則?四本陰位,今以陽而居之,是本有謙志;又近於九五之尊,五以已有剛明而尚謙志,委任之。旣為上之所委,又能愬愬然恐懼,則得其吉也,故曰履虎尾,愬愬終吉。
「愬愬」は驚懼不安の様子です。九四は上卦の起始に居り、六三の上を踏んでいます。六三は陰爻を以て陽位に居り、心志は剛強勇武を崇尚するので、今、九四はその上に凌駕し、まさに虎尾を踏む処境です。すでにこのような剛暴の一爻の頭上を踏んだ以上、九四たる者は自然と時々驚懼警惕すべく、こうして終に吉を得られます。なぜかというと、第四位はもとより陰位で、今は陽爻がこれに居るので、それはもとより謙退の心を存することが説明されます。それはまた九五という尊位に緊挨し――二爻が相隣るを「比」と呼びます――九五自身は剛強明達にしてまた謙退を看重するので、事をそれに委任します。すでに上の信任を受け、自分もまた驚懼戒慎し得れば、自然と吉祥を獲得するので、「履虎尾、愬愬終吉」と言います。
象曰志行也者,言九四能履蹈於六三之虎尾,終乃得吉而不見其咥者,蓋因已本尚謙而見信任於五,又能愬愬然恐懼,不敢自安,以是而獲其終吉,則己之志得行也。
《小象伝》の「志行也」は、九四が六三という虎尾を踏んで、終に吉を得て咬まれなかったのは、原因に在ってそれがもとより謙退を崇尚し、因って九五の信任を得、加うるに自分がまた驚懼戒慎して一刻の自安も敢えてしなかったからだということです。この二点に凭って最後の吉祥を獲得し、それの心中の志向もまた施行を得たのです。
九五:夬履,貞厲。象曰:夬履貞厲,位正當也。
九五の爻辞は言います。剛決の態度を以て礼を行い、これを守って往けば危厲があります。《小象伝》は言います。剛決して礼を行って危厲があるのは、それの処する位置がもとより極めて正当だからです。「夬」は決断・剛断です。
義曰:夬,決也;貞,正也;厲,危也。言此九五以陽居陽,有剛明之德而居尊位,為臨制典禮之主也。夫旣有剛明之德,而又居至尊之位,故能決然定典禮之是非,辨制度之中正,分上下之等夷,齊天下之民志也。夫為禮之道,本於尚謙,在《繫辭》則曰謙以制禮是也。今九五以剛為禮之主,於正道言之,則危厲可知也,故曰夬履貞厲。
「夬」は決断剛断、「貞」は正、「厲」は危」は危険です。九五は陽爻を以て陽位に居り、剛強明達の徳行を具えてかつ至尊の位に身を処し、典章礼制を主持する人です。すでに剛明の徳がありかつ至尊の位に居るので、彼は果断に典礼の是非を裁定し、制度が中正か否かを辨明し、上下尊卑の等級を画分し、天下人の心志を統一し得ます。しかし礼を制し礼を行う根本は謙退を崇尚するにあり、《繫辞伝》にすなわち「謙以制礼」と言います。今、九五は一味に剛断を以て礼制を主持するので、正道上において衡量すれば、その中の危厲はまた想いが及ぶので、爻辞は「夬履貞厲」と言います。
象曰位正當也者,言此九五旣為制禮之主,固當尚謙退為本,則得其中而吉也。今乃以剛夬而為之,是於貞道有厲也。故聖人於此責之,言九五所處之位旣已正當,則宜尚謙為本,不可用剛夬以制禮,故有貞厲之道也。
《小象伝》の「位正当也」は、九五はすでに礼を制する主人なので、もとより謙退を根本とすべく、こうすれば恰到好処を拿捏して吉を獲得し得るということです。今それは剛断の方式を以て為すので、正を守るこの路の上で危険があります。ですから聖人はここでそれを責めます。九五の処する位置はすでに極めて正当なのに、更に応に謙退を本とすべく、剛断を動用して礼法を制訂すべきではないので、「貞厲」のような断語があります。
上九:視履考祥,其旋元吉。象曰:元吉在上,大有慶也。
上九の爻辞は言います。自分の一路礼を行った結果を省視し、その中の禍福の徴兆を稽考して、周旋反復の間に皆礼に合すれば、大吉があります。《小象伝》は言います。大吉が最上の一爻に現れるのは、極めて福慶の事です。
義曰:視,瞻視也;考,稽考也;祥,禍福之兆也。何謂禍福之兆?蓋凡能履其禮之中正而行者,則獲其福慶也;不能由履之中正而行者,則至於禍患也。夫初九居履之初,尚其質素而行之,故得無咎;今此上九居卦之極,是禮法之已成也。禮之旣成,則當視瞻其所行之道,而稽考其禍福也。其旋元吉者,言上九旣居禮法之成,又能視其所行之如何,故周旋反覆之間,皆能獲元大之吉也。象曰大有慶也者,言此上九居禮之成,又能視其禍福,以至周旋之間皆獲元大之吉,是大有其福慶之事也。
「視」は省察観看、「考」は稽查考覈、「祥」は禍と福の先兆を指します。何を禍福の先兆と呼ぶかというと、凡そ中正の礼に依って行い得る者は福慶を得、中正の礼に依って行い得ない者は禍患に落ちます。初九は履卦の開端に居り、質朴を崇尚して行ったので、過失がありません。上九は全卦の頂端に居り、礼法がすでに完備成形したことを説明します。礼がすでに成った以上、回頭して自分の一路歩んできた做法を省視し、その中の禍福の徴兆を稽考すべきです。「其旋元吉」は言います。上九はすでに礼法が完成したときに居り、また自分の行った得失を審視し得るので、周旋進退・反復応接の間において、皆「元吉」を獲得し得ます――「元」は大であり衆善の首なので、「元吉」はすなわち大吉大善です。《小象伝》の「大有慶也」は、上九が礼法が成就したときに居り、また禍福を省察し得て、以致って手を挙げ足を投ずる間に皆大吉を獲得する、これは自然と福慶が極めて多い事だということです。
泰 乾下坤上
泰:小往大來,吉,亨。
卦辞は言います。泰卦は、陰柔の小さい者が往って外卦に居り、陽剛の大きい者が来て内卦に居り、吉祥で亨通します。
義曰:按《序卦》云,履而泰然後安,故受之以泰。蓋言凡人旣能行其禮典,則必獲其安泰。泰者,安也。以二體言之,則乾本在上,今降而下之;坤本在下,今升而上之,是上下相交、陰陽相,故謂之泰。以人事言之,君以禮下於臣,臣以忠事於君,君臣道交而相和同,則天下皆獲其安泰也,故曰泰。
《序卦伝》は言います。「履して泰にして然る後に安んず。故に受くるに泰を以てす。」これは人がただ礼に依って行い得れば、必ず安泰を獲得するので、《泰》卦が《履》卦の後に接ぐということです。「泰」とは安です。上下両体に就いて見れば、乾は本来上にあるべきに、この卦では降りて来て内に居り、坤は本来下にあるべきに、この卦では升って行って外に居り、上下が彼此往来交通し、陰陽が彼此感合するので、「泰」と呼びます。人事に就いて見れば、君主が礼を以て己を屈して臣子と下交し、臣子が忠誠を以て君主に奉事し、君臣の道が交通して彼此和同すれば、天下は皆安泰を得るので、卦名を「泰」とします。
小往大來,吉亨者,自內之外是往也,由外入內是來也。陽德剛明,又主生育,其道至大,故稱大,今下降之,是大來也;陰主柔弱,又為消剝,故稱小,今上而升之,是小往也。陰陽之氣旣交,則萬物得其吉而亨也。以人事言之,則大為君子也,小為小人也。大者來居於內,是君子進用於朝廷;小者往而處外,是小人退黜於巖野也。君子旣進,小人旣退,則君臣之道交而上下之心和同,成治於天下,而天下之民皆得其吉而亨通也。
「小往大来、吉亨」の中で、内卦から外卦に走るを「往」と呼び、外卦から内卦に進むを「来」と呼びます。陽の徳性は剛強明達でかつ生育を主宰し、その道は極めて大きいので「大」と称し、この卦は陽が内にあるのでまさに「大来」です。陰の徳性は柔弱でまた消損剥落を主るので「小」と称し、この卦は陰が外にあるのでまさに「小往」です。陰陽二気がすでに交通すれば、万物は皆吉祥亨通を得ます。人事に就いて言えば、「大」は君子を指し「小」は小人を指します。大きい者が来て内卦に居るのは、君子が朝廷に進用されることで、小さい者が往って外卦に居るのは、小人が山野に貶退されることです。君子が進用し小人が退去すれば、君臣の道は交通し、上下の心は和同し、天下は因って大いに治まり、百姓も皆吉祥と亨通を得ます。
彖曰:泰,小往大來,吉,亨。則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也。內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人。君子道長,小人道消也。
《彖伝》は言います。泰卦の「小往大来、吉、亨」とは、これは天地二気が交合して万物が通暢し、君臣上下が交通して心志が相同じることです。陽が内にあり陰が外にあり、剛健が内にあり柔順が外にあり、君子が内にあり小人が外にあります。君子の道は日一日と生長し、小人の道は日一日と消退します。
義曰:天地交而萬物通者,言陽氣下附,陰氣上騰,二氣交感,萬物得其生而亨通也。上下交而其志同者,上,君也;下,臣也。若君以禮敬接於臣,臣以忠節事於君,財是上志下接,下情上通,上下之道交通,故能行天下之大道也,立天下之大治也,則天下之民皆得其安泰也。
「天地交而万物通」は、陽気が下降して地に附着し、陰気が上昇して天に騰達して、二気が交互に感応すれば、万物はここにおいて生長し通暢を得るということです。「上下交而其志同」の中の「上」は君主を指し「下」は臣子を指し、君主が礼敬を以て臣子に対し、臣子が忠貞節操を以て君主に奉事して、これにおいて君主の意旨が下に達し臣下の実情が上に通ずると言えます。上下の道が彼此交通するので、天下の大道を推行し天下の大治を建立し得て、百姓もまた皆安泰を得ます。
內陽而外陰者,陽為君子,陰為小人,小人外而君子內,泰之道也。內健而外順者,此止以君子之身而言也,故君子內懐剛健之德而外示柔順之貌,以此之故,所以為泰也。內君子而外小人者,言君子則親附而用之,小人則疎遠而黜之,是君子之道日以長,而小人之道日以消。然則聖人作《易》,書不盡言,言不盡意,於此所以丁寧而言者,蓋欲其在位者登君子而任用之,抑小人而黜退之,則天下之事無不舉,萬民之業無不安,是泰道畢矣,故聖人所以申勸而言也。
「内陽而外陰」:陽は君子を代表し陰は小人を代表し、小人が外に摒せられ君子が内に居る、これが泰の路数です。「内健而外順」:この一句は単に君子自身に就いて立論し、君子は内に剛健の徳を懐き外に柔順の容を顕す、まさにこのため泰道を成就し得ます。「内君子而外小人」:君子に対しては親近依靠して任用を加え、小人に対しては疎遠排斥して貶退を加えるので、君子の道は日一日と生長し小人の道は日一日と消退するということです。聖人が《易》を作るに、もとより文字は言うべき話を尽くせず、話は心中の意を尽くせないが、ここでは反復して丁寧に言う、その用意は位に在る人が君子を提拔して重用し、小人を抑制して斥退することを希望するにあります。果たして能くこのようになれば、天下の事で成さないものなく、万民の生業で安まらないものなく、泰道もまた円満します。聖人がこのように講じたのはまさに申明白勉するためです。
象曰:天地交,泰。后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。
《大象伝》は言います。天地二気が交合する、これが泰の卦象です。君主はこれに取り法って、天地の生養の道を裁節成就し、天地の宜しき事に輔助配合して、以て百姓を扶助します。「后」は天子諸侯を指し、「財」は「裁」に通じ、「左右」は扶助です。
義曰:夫天氣下降,地氣上升,二氣交通而萬物得其生,此天地交泰之道也。後者,天子諸侯之通稱也。蓋天地交泰以生天下之財,是以天子諸侯觀此泰卦之象,阜豐其財,以成就天地生育之道,故作為網罟以畋以漁,作為耒耜以耘以耔,用商賈以通有無,作工功以便器用,阜豐其財,使鰥寡孤獨皆有常餼,此所以成天地化育之道,輔相天地所生之宜,以扶助天下之民而至於安泰也。
天気は下降し地気は上昇して、二気が交通して万物が生長を得る、これが天地交泰の道です。「后」は天子と諸侯の通称です。天地が交泰して天下の財貨を生ずるので、天子諸侯は泰卦の象を観察して、財貨を豊厚にする法を設けて、以て天地の生養の功を成全します。網罟を制作して人に猟し魚捕させ、耒耜を制作して人に耕耘し培土させ、商賈を運用して各地の有無を相通させ、工役を興辦して器用を便利にします。財貨が豊厚になれば、鰥夫・寡婦・孤児・子なしの老人が皆固定的の口粮を有し得ます。これが天地の化育の道を成就し天地の宜しき生養の事に輔助し、以て天下の百姓を扶持して安泰に達するのです。
初九:拔茅茹,以其彚,征吉。象曰:拔茅征吉,志在外也。
初九の爻辞は言います。茅草を拔けば、根鬚が相牽連して同類を帯び出し、前行すれば吉祥です。《小象伝》は言います。茅を拔いて前行して吉を得るのは、それの志向が外の天下にあるからです。「茹」は根鬚が相牽連することを指し、「彙」は同類です。
義曰:乾本在上,今居於下,必務上進,若君子將進用於朝廷,以佐君澤民而興天下之泰也。茹者,相續之稱也;彚者,類也;徵者,進也。夫茅之為物,拔之則其根牽連而起。若此初九之君子旣進用於朝廷,則天下之賢必皆引類而進,則是君子之道長之時也。君子之道得長,則天下之民受其賜,如此則吉莫大也。象曰志在外也者,言初九之君子必將引類而登進者,蓋其志於天下之民而進求其用,所以佐君而共立天下之治,興天下之泰也。
乾は本来上にあるべきに、この卦では下に居るので、必ず力を求めて上進し、ちょうど君子が将に朝廷に任用されんとして、君主を輔佐し百姓に恵を施し、天下の安泰を興起するがごときです。「茹」は根鬚が相牽連する講釈、「彙」は同類、「征」は前進です。茅草という物は、一たび拔き起れば根鬚は牽連して片を成して一斉に帯び出ます。初九のこの君子が一旦朝廷に任用されれば、天下の賢才は必ずまた接続して引薦され上る、これがまさに君子の道が生長する時です。君子の道が生長を得れば、天下の百姓は恩沢を受けて、吉利はこれより大きいものがありません。《小象伝》の「志在外也」は、初九のこの君子が必ず同類を牽引してともに登進するのは、彼の心思がもとより天下の百姓の上にあり、出仕して用を求めるのはただ君主を輔佐しともに天下の治世を建立し、天下の安泰を興起するためだということです。
九二:包荒,用馮河,不遐遺,朋亡,得尚于中行。象曰:包荒,得尚于中行,以光大也。
九二の爻辞は言います。荒穢を包容し得て、敢えて徒歩で河を渉る猛勇の人を任用し得て、疎遠の人を遺棄せず、私党を結ばず、因って中道に合して行きます。《小象伝》は言います。荒穢を包容し得て中道に合するのは、その道が光明広大だからです。
義曰:九二以剛明之德居中,而上應於六五之君,為六五之所任,是君子見用於時,為興泰之臣也。然而天下雖泰,其間不無荒穢,而九二旣以剛居中,則必寛弘廣大其心,以包藏其荒垢也,故曰包荒。用馮河者,馮河是暴猛之人也。九二旣居重位,柄重權,為天子之見任,而能逺大其器量,雖此馮河暴猛之人亦能用之。何則?夫良匠無棄材,隨其長短大小而皆適其用;況天下之廣,當泰之時,雖此暴猛之人亦有以用,故曰用馮河。
九二は剛強明達の徳を以て下卦の中位に居り、上に向かって六五の君と相応し、六五に倚任される、これは君子が時に逢い用を受けて、泰道を興起する大臣を充当するのです。天下はすでに安泰であるけれど、その中に荒蕪汚穢の処がないとは限りません。九二はすでに陽剛を以て中に居るので、必ず胸襟を放って寛厚広大にし、あの荒穢汚垢を一併して包容し入れるので、爻辞は「包荒」と言います。「用馮河」の「馮河」は、舟楫を用いず徒歩で水を渉るような粗暴勇猛の人を指します。九二は要位に身を居り重権を手に握り、天子に倚任されながら、器量を放って遠大にし、この類の粗猛の人をも用い得られます。なぜかというと、高明の工匠に廃料なく、長いも短いも大きいも小さいも皆各々用処があり、況んや天下の大に、正に安泰の時に当たっては、このような猛人すら自ずから用いる処があるので、「用馮河」と言います。
不遐遺者,遐,遠也;遺,棄也。言此九二之君子,荒穢者包藏之,暴猛者能用之,是皆由其廣大寛厚之至,故雖遐遠者亦不遺棄之也。朋亡得尚于中行者,言九二旣以剛明之德見任於六五,而又廣大其量以容於物,故必不親己之所親而親其朋類,如此所以得尚於中道而行也。象曰以光大也者,言九二之君子旣得尚於中而行,是其道光大而明顯也。
「不遐遺」の「遐」は遥遠、「遺」は抛弃です。これは九二のこの君子が、荒穢のは包容し得て粗猛のは任用し得て、皆彼の極めて広大寛厚の胸襟から出るので、関係が疎遠の人をも彼に抛弃されないということです。「朋亡、得尚于中行」は言います。九二はすでに剛明の徳を以て六五に倚任され、また器量を拡大して衆人を容納し得るので、決してただ自分が私下に親近する人に親近し自分の一党を提携するに止まらず、まさにこのため中道に合して行い得ます。《小象伝》の「以光大也」は、九二のこの君子がすでに中道に合して行事し得れば、彼の道は自然と広大にして光明显著だということです。
九三:無平不陂,無往不復,艱貞無咎,勿恤其孚,于食有福。象曰:無往不復,天地際也。
九三の爻辞は言います。ずっと平坦で傾斜に転じないものなく、ずっと往って返らないものなく、艱難の中で正を守れば過失がありません。自分の誠信が人に知られるかを憂慮せず、俸禄を安享して自ずから福分があります。《小象伝》は言います。往って返らないものがないのは、九三がまさに天地の交界の処に居るからです。
義曰:此一爻,聖人因天地將復之際,故設為之戒也。言乾本在上,坤本在下,所以泰者,上下交也;今九三居下卦之極,是天地將復之際也,天地復則不交而否矣。故聖人戒之曰:無有平而不歸險陂,無有往而不復其所者,猶若無有泰極而不至衰否,故當艱難而守之以正道,則可以久於其泰而免其凶咎也。
この一爻は、聖人が天地が将に各々本位に復帰せんとする時機に乗じて設けた告戒です。乾は本来上にあり坤は本来下にあり、この卦が泰たる所以は、まさに上下が互換して彼此交通するからです。今、九三は下卦の頂端に居り、天地は将に各々原位に帰らんとして、一旦原位に復帰すれば更に交通せず、泰は否に転じます。ですから聖人は告戒して言います。ずっと平坦で傾斜に転じないものなく、またずっと往って原処に返らないものなく、安泰が極点に至って衰敗閉塞に向かわないものがないがごときです。それゆえ艱難の中で正道を堅守して、こうしてはじめて泰の局面を少し久しく維持し得て、凶険と過失を免れます。
勿恤其孚,于食有福者,言旣能艱守正道,則不待憂恤其孚信而自然明顯,故可以往而安食其福祿也。象曰無往不復,天地際也者,言九三居乾之上,是將復於上;在坤之下,是將復於下,當天地之分際,故曰天地際也。
「勿恤其孚、于食有福」は言います。すでに艱難の中で正道を守住し得れば、自分の誠信が人に知られぬのを愁う必要なく、それは自然と顕露し出て、それゆえ安心して前行し安然と応得の福禄を享受し得ます。《小象伝》の「无往不復、天地際也」は、九三が乾体の最上の一爻に居り、将に上に向かって天の位置に復帰せんとして、同時にまた坤体の最下の一爻に緊挨し、坤もまた将に下に向かって地の位置に復帰せんとするので、それはまさに天と地の分界の処に当たって、「天地際」と言います。
六四:翩翩,不富以其鄰,不戒以孚。象曰:翩翩不富,皆失實也;不戒以孚,中心願也。
六四の爻辞は言います。軽捷に飛び下り、自分の富厚に靠らずとも近隣の同伴を帯動し得て、告誡せずとも彼此誠信に相従います。《小象伝》は言います。翩然として飛び下って富まないのは、上下が皆本位を離れたからです。告誡せずとも彼此誠信なのは、内心の共同的意願から出るのです。
義曰:翩翩者,自上而下疾飛之貌也。夫九三以陽居乾卦之極,是三陽同志皆務上進也;六四以陰居坤卦之初,是三陰同志而皆欲下復也,故此所以翩翩然與上二陰具復其本,所以無有凝滯也,故曰翩翩。不富以其鄰,不戒以孚者,以,用也,言三陰同志皆欲下復,故此六四不待富盛而自然能用其鄰,不須戒備而自孚信也,故曰不富以其鄰,不戒以孚。
「翩翩」は上から下へ疾く飛ぶ様子です。九三は陽爻を以て乾体の頂端に居り、下卦の三つの陽爻の志向が一致して皆上に推進せんと欲することを説明します。六四は陰爻を以て坤体の起始に居り、上卦の三つの陰爻の志向が一致して皆下に本位に復帰せんと欲することを説明します。ですから六四は軽捷に上の六五・上六の二つの陰爻とともに本来の位置に帰り、中間に半点の滞碍もなく、それゆえ「翩翩」と言います。「不富以其隣、不戒以孚」の「以」は「用」と講じます。三つの陰爻は志同道を合わせて皆下に帰らんと欲するので、六四は自身の富厚に凭藉せずとも自然と近隣の同伴を帯動し得て、予め約束防備せずとも彼此自然と誠信を以て相待するので、「不富以其隣、不戒以孚」と言います。
象曰皆失實也者,實謂居處也。言乾本在上,今泰之時則下之;坤本在下,今上之,是上下皆失其實也。六四所以翩翩然欲將復而居下,謂其失實故也。中心願也者,言六四不待戒備,自然有孚信而下復者,是眾心之所共願也。
《小象伝》の「皆失実也」において、ここの「実」は本来応に処すべき位置を指します。乾は本来上にあるべきに、泰卦の時には下に降り、坤は本来下にあるべきに、泰卦の時には上に升りました。上下が皆本位を離れました。六四が翩然として下に帰るのを急ぐ所以は、まさに自分が今失位の状態に居るからです。「中心願也」に至っては、六四が予め防備せずとも自然と誠信を以て下に復帰し得るのは、これは衆爻の心中の共同的願望だということです。
六五:帝乙歸妹,以祉元吉。象曰:以祉元吉,中以行願也。
六五の爻辞は言います。帝乙は娘を下の諸侯に嫁がせ、因って福祉を獲得し、大吉です。《小象伝》は言います。福を得て大吉なのは、六五が中道を以て自分の素来の心愿を実現し得たからです。
義曰:帝乙,商之賢王也。歸者,婦人謂嫁曰歸;歸妹之為言順也;祉,福也。此六五乃中順之主也,當此泰平之時,能以文柔接於下,則彖所謂上下交而其志同,卽君降志而接其臣,所以興泰道者也。猶言帝乙賢王以女下嫁於諸侯,是謙順之至也,故曰帝乙歸妹。
帝乙は商代の一賢明の君王です。「帰」は古人が女子の出嫁を称する講釈で、「帰妹」の二字は柔順相従の意味を含有し、「祉」は福です。六五は中を持して柔順の君主で、この泰平の時に当たり、文雅柔和の姿態を以て下の臣子を接納し得る、すなわち《彖伝》の言う「上下交而其志同」――君主が身段を低く放して臣下を結交しに行く、泰道はまさにこのように興るのです。これはちょうど賢王帝乙が娘を諸侯に下嫁させて、謙遜柔順が極点に至ったがごときなので、爻辞は「帝乙帰妹」と言います。
以祉元吉者,夫天子以女而下降於諸侯,是順之之至也,而在下者又能盡其分,故上下皆獲其福祉而有元大之吉也,故曰以祉元吉。象曰中以行願也者,言君治天下,必欲得賢能之臣為之委任也。今六五能執謙以下於九二賢明之臣,以至獲元大之吉,是由其中道而素願得行也。
「以祉元吉」は言います。天子が娘を諸侯に下嫁させるのは、柔順がすでに極点に至り、而して下位に居る一方もまた各々本分を尽くし得るので、上下が皆福祉を得て、最大の吉祥を獲致するので、「以祉元吉」と言います。《小象伝》の「中以行願也」は、君主が天下を治理するに、総じて賢能の臣を得て重任を委すことを希望するのに、今、六五は謙退の心を守って身を屈して九二のこの賢明の臣を交結しに行き、以致って大吉を獲得する、これがまさに中道に凭って自分の素来の心愿を実現し得たのだということです。
上六:城復于隍,勿用師,自邑告命,貞吝。象曰:城復于隍,其命亂也。
上六の爻辞は言います。城墻が傾覆して護城の乾壕に坍れ帰り、軍隊を動用してはならず、ただ自分の城邑の内で号令を発施するのみ、これを守って往けば実に鄙吝です。《小象伝》は言います。城墻が壕溝に坍れ帰るのは、政令がすでに紊亂したからです。「隍」は水のない護城壕です。
義曰:大凡平治之世,雖教化甚盛,其間不能無奸惡之人。堯舜太平也,未必無小人;桀紂暴亂也,未必無君子,皆繫於其上之所為如何耳。是故古之善為國者,旣以仁義道德為己任而安治天下,又且髙其城,浚其隍,以為之戒備而防天下之奸冦也。何則?天下雖在熙泰,而奸惡之人其心未嘗安,故聖人謂王公設險以守國者,將使治天下者必有仁義以興治道,亦須設險厄以崇備也。若但有其德而不能設備,則不可以保其國也;若但設其險阻而無其德,其國固不能以保也。
大凡太平の世は、縦使教化が極盛であっても、その中に奸悪の人が一人もいないことはあり得ません。堯舜の太平盛世に必ずしも小人がないとは限らず、桀紂の暴乱の世にも必ずしも君子がないとは限りません。関鍵は全て上位者がどうするかに過ぎません。ですから古の治国に善い人は、一方は仁義道徳を己の任として以て天下を安定し、一方はまた城墻を高く加え壕溝を深く掘って、戒備として天下の奸人と寇盗を防範しました。なぜかというと、天下は熙洽安泰の中に居るけれど、奸悪の人の心は従来安分したことがないからです。ですから《易》の中に「王公設險以守其国」と言い、まさに天下を治める人がすでに仁義を以て治道を興起する以上、必ずまた険要を設置して防備を加強しなければなりません。倘若徳行のみあって防備を設けなければ、国家は保てません。倘若険阻を設けるのみで徳行がなければ、国家は同じく保てません。
昔在太王居邠,狄人侵之,去而居岐山之下而邑焉。以太王為國非無德也,然卒為狄人之所迫者,以不設備故也;使太王居是時髙其城池,則雖夷狄之侵擾,亦無能為也。又秦之始皇有天下,北築長城,西據崤函,帶山阻河,險厄萬里,非無備也,然二世則失天下者,以不為德故也;使秦皇能以是國而修其德以濟之,則傾亡之禍無有也。以此知為國者必有其德,又設其險,則可以永永而守也。
従前、太王は邠の地に住んで、狄人が来て侵犯したので、已むなく遷り去って岐山の脚下に別に城邑を建てました。太王が治国を以て論ずれば、徳行がないのではなかったが、終に狄人に逼られて、原因は防備を設けなかったに在りました。假使太王が当時に城墻壕池を高く深く築いたら、たとえ夷狄が来て騒擾しても、彼を奈何し得なかったでしょう。更に見れば、秦始皇は天下を擁有して、北辺に長城を修築し、西辺に崤山函谷を拠守して、山を環し河を帯びて険要が万里に綿延し、防備がないとは言えなかったが、しかし二世に伝わって天下を失った、原因は徳行を修めなかったに在りました。假使秦始皇がこのような国勢に凭って更に徳行を修養してそれを輔成したら、傾覆滅亡の禍はもとより免れ得たでしょう。これに由って治国する人は必ずすでに徳行を有しかつ険要を設けて、はじめて長く久しく国家を守住し得ることが知られます。
然呉起曰在德不在險,蓋一時之權言耳,非萬世之大法也。且五帝而下,堯都於冀,舜都於蒲,今之河中府是也;禹都於安邑,湯都於亳,今之河南是也;周都於酆鎬,今之洛京是也。是皆其所都之地、所處之國,未有不以山河之險而守其國也。聖人之戒治天下者,安不忘危,治不忘亂,則可以永有其泰也。
呉起の言う「在徳不在險」に至っては、あれはただ当時の情勢に対する権宜の談で、万世に通行する大法ではありません。況んや五帝以下、堯は冀州に都を建て、舜は蒲坂に都を建て、すなわち今の河中府で、禹は安邑に都を建て、湯は亳に都を建て、すなわち今の河南で、周は酆・鎬に都を建て、すなわち今の洛京です。これらの帝王の建てた都城・拠った国土は、山河の険固に凭って国家を守衛しない一処もありません。聖人は天下を治理する人に告戒します。安定のときに危難を忘れず、治世の裏で禍乱を忘れず、こうしてはじめて長く安泰を保有し得ます。
上六處卦之極而泰道將革,又不能居安而思危,處治而思亂,以至驕慢邪侈而不為之戒備,故有城復于隍之事也。蓋言城復傾圯而無髙險之阻,隍復盈滿而無固之限,是皆恃泰之至,以及於否也,故曰城復于隍也。
上六は全卦の頂端に居り、泰道が将に変易せんとして、それは安定のときに危難を思い治世の裏で禍乱を思うことができず、以致って驕縦怠慢・邪僻奢侈で防備を加えず、こうして城墻が壕溝に坍れ帰る局面が現れました。これは城墻が倒塌して来て、更に高峻険固の屏障なく、壕溝が填め平られ填め満されて、更に堅固の界限がないということです。この一切は安泰を仗恃すること過ぎて、はじめて閉塞の否境に落ちたので、「城復于隍」と言います。
勿用師者,夫泰道既極,已不能自為之備,而更用軍師以攻伐於人,則是不量己力,而天下之人必不服從,適自取滅亡之道耳,故聖人又戒之,言不可復用師也。自邑告命貞吝者,夫威賞政令行之於天下則可,今上六既無所戒備,又不可用師,威德不足以及遠,告命不能及天下,但可號令於己邑之中而已。此皆由恃安泰之過而不能防閒以至於此,以正道言之,誠足以鄙吝者也,故曰自邑告命貞吝。象曰其命亂也者,蓋其命令紛亂,不能及於天下。聖人所以丁寧而言之者,欲戒後之人君處天下之泰,必常思危亡之事,則可以常保其泰也。
「勿用師」は言います。泰道がすでに尽頭に至り、自分は防備をも為し得ないのに、軍隊を動用して他人を攻伐せんとするのは、自身の力量を衡量しないことで、天下の人は必ず服従を肯んじず、ただ自ら滅亡を尋ねる路数に過ぎないので、聖人は更に告戒を加えて、兵を再用する不可と言います。「自邑告命貞吝」は言います。威刑・賞賜・政令が天下に通行し得てはじめてよいのに、今、上六はすでに戒備なくまた用兵し得ず、威望徳行は遠い所に届かず号令は天下に伝わらず、ただ自分の一座の城邑の内で号令を発施するのみです。これらは皆安泰を仗恃すること過ぎて防範を知らずしてこの地步に落ちたので、正道上において言えば、実に鄙吝可惜なので、「自邑告命貞吝」と言います。《小象伝》の「其命乱也」は、彼の政令が紛雑錯乱して天下に行き届かないことを指します。聖人が反復丁寧に言う所以は、後世の君主に告戒するので、身が天下安泰の時に居っては、必ず常に危亡の事を思って、こうしてはじめて長く安泰を保ち得ます。
否 坤下乾上
否之匪人,不利君子貞,大往小來。
卦辞は言います。閉塞の世は人の応有の常道に合わず、君子が正道を守持するに利せず、陽剛の大きい者が往って外に居り、陰柔の小さい者が来て内に居ります。
義曰:按《序卦》云,物不可以終泰,故受之以否。否者,閉塞之道也。天地相交,陰陽相接,則萬物得其亨通而繁盛,故曰泰,泰者,通也;物不可終通,故天地各復其本而陰陽不相交,則萬物皆閉塞而不生,此否之道也。
《序卦伝》は言います。「物は以て終に泰たる可からず。故に受くるに否を以てす。」「否」とは閉塞不通の道です。天地二気が相交じ陰陽が彼此接合すれば、万物は亨通繁盛を得るので「泰」と呼び、泰は通です。しかし事物は永遠に通達し得ず、天地が各々本来の位置に帰って陰陽が更に交合しなければ、万物は皆閉塞して生長できず、これが否の路数です。
否之匪人者,匪,非也。言天地不交,萬物不生而否塞,此非所謂人之常道也。夫君必以至誠接於臣,臣必以至忠奉於君,則天下可以獲安也;今否之時,君臣不交而物不得其所,是非人之常道也。何則?夫人情莫不欲安、欲逸、欲富、欲壽,否之時則不得其安,不得其逸,不得其富,不得其壽,是豈人之常道乎?
「否之匪人」の「匪」はすなわち非です。これは天地が相交じず万物が生長し得ず処処閉塞するのは、これは人の応有の常道ではないということです。君主は必ず極めて誠懇の態度を以て臣子に対し、臣子は必ず極めて忠貞の態度を以て君主に奉事して、天下ははじめて安定を得られます。今、閉塞の世にあっては、君臣が互いに交通せず、万物は応有の位置を得ず、これは自然と人の常道ではありません。なぜかというと、人の常情で安定を想わず安逸を想わず富足を想わず長寿を想わないものはなく、閉塞の時に至っては、安定も得られず安逸も得られず富足も得られず長寿も得られません――これがまだ人の常道と算えられましょうか。
不利君子貞者,夫否之時,天地不相交,君臣不相接,小人見用而其道長;小人之道長,則疾於君子,為君子者苟欲以正道而行,則必為小人之所害,故韜晦道德,卷懷仁義,退而自處,不露其正則可也。大往小來者,陽德至大,陰德至小;今否之時,陽之大德往居於外,陰之小德來處於內,往者屈之,來者伸之,猶君子往屈於巖穴,小人來居於朝廷,則否道所以致也。
「不利君子貞」は言います。閉塞の時に、天地が相交じず君臣が相接せず、小人は任用を得て気焔が日に長じます。小人の道が一たび長ずれば、君子を憎悪せんとします。君子たる者がもし必ず正道に按って行事せんとすれば、必然に小人に害されるので、道徳を収斂蔵起し仁義を懐中に巻蔵して、退いて独り其身を善くし、自分の正直を顕露せず、こうしてはじめて可です。「大往小来」は言います。陽の徳性は極めて大きく陰の徳性は極めて小さいのに、今、閉塞の時に、陽の大徳は往って外卦に居り陰の小徳は来て内卦に居り、往外の一方は圧屈を受け進来の一方は伸展を得、ちょうど君子が山野岩穴の間に退避して委屈を受け、小人が進んで朝廷を占拠するがごときで、閉塞の局面はこのように造成されたのです。
彖曰:否之匪人,不利君子貞,大往小來。則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下無邦也。內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子。小人道長,君子道消也。
《彖伝》は言います。否卦の「否之匪人、不利君子貞、大往小来」とは、これは天地二気が交じらずして万物が通じず、君臣上下が交じらずして天下が国なきに形ずることです。陰が内にあり陽が外にあり、柔が内にあり剛が外にあり、小人が内にあり君子が外にあります。小人の道は日一日と生長し、君子の道は日一日と消退します。
義曰:言否之所以非人常道而不利君子貞者,由天地各復其所,二氣不相交而萬物不得其亨通也。上下不交而天下無邦也者,上,君也;下,臣也。君不以禮敬接於臣,臣不以忠節事其君,禮敬忠義之情不交,則君臣之道塞;君臣之道塞,則天下之諸侯從而亂,所以邦國將至於傾覆矣。
否が人の常道に合わず君子の正を守るに利せざる所以は、天地が各々本位に帰って二気が更に交合せず、万物が亨通を得ないからです。「上下不交而天下无邦也」の中の「上」は君主を指し「下」は臣子を指し、君主が礼敬を以て臣子に対せず、臣子が忠貞節操を以て君主に奉事せず、礼敬と忠義の情が彼此通じなければ、君臣の道は堵塞します。君臣の道が一たび堵塞すれば、天下の諸侯は随って離心して作乱し、邦国も将に傾覆せんとして、国ありと雖も国なきに形ずるようになります。
內陰而外陽者,內者,親也;外者,疎也。陰為小人,陽為君子,親小人而疎君子,此所以成否道也。內柔而外剛者,此小人之體也。內而柔,則陰賊殘害;外而剛,則狠僻凌暴。故語曰色厲而內荏,厲,嚴厲也;荏,柔荏也。外有嚴厲之色,內有柔荏之心,此所以反君子之道也。內小人而外君子,小人道長,君子道消也者,由其內小人而親信之,外君子而疎逺之,是以小人之道日以長,君子之道日以消也。
「内陰而外陽」の中で、「内」は親近を意味し「外」は疎遠を意味します。陰は小人を代表し陽は君子を代表し、小人を親近し君子を疎遠にすれば、閉塞の局面はこのように形成されます。「内柔而外剛」は、小人の本相を言うので、内里が柔軟であれば陰狠に他人を残害し、外表が剛硬であれば凶狠乖僻に他人を欺圧します。ですから《論語》に「色厲而内荏」の講釈があります――「厲」は厳厲、「荏」は柔弱です。外に厳厲の顔色を擺出し、内は一副の軟弱の心腸で、これはまさに君子の道と相反します。「内小人而外君子、小人道長、君子道消」は、小人を近い処に置いて親信を加え、君子を遠い処に推して疎遠を加えるので、小人の道は日一日と生長し君子の道は日一日と消退するのです。
象曰:天地不交,否。君子以儉德辟難,不可榮以祿。
《大象伝》は言います。天地二気が相交じない、これが否の卦象です。君子はこれに取り法って、倹約の徳行を以て禍難を躲避し、高官厚禄を以て自身を炫耀してはなりません。「辟」は「避」に通じます。
義曰:言君子於此天地不交、賢人道塞之時,則當韜光遁跡,以全身遠害,不可與小人並立;若與小人並立,則必見害而召禍也。故但守儉素之德,不憫貧賤,以避小人疾之患耳。如不得已而仕,則不可居重位、享重祿以榮其身,第可全已遠害而已。故《君子陽陽》之詩曰:君子陽陽,左執簧,右招我由房。言周之衰,君子遭是時者相招為祿仕,但為一伶官之賤職,以全身遠害而已矣。
君子は天地が交じらず賢人の道が堵塞したときには、鋒芒を収斂し行跡を隠蔵して、以て自身を保全し禍害を遠く離れ、小人と肩を並べて立ってはなりません。一旦小人と並立すれば、必ずその陷害に遭い禍患を招来します。ですからただ倹約朴素の徳行を守住し、貧賤のために傷懐せず、この弁法を以て小人の嫉恨を躲ればよいのです。倘若已むを得ず出仕しても、要職を占拠し厚禄を享受して自分を光耀してはならず、ただ自身を保全し禍害を遠く離れるを求めれば足ります。ですから《詩経・王風》の《君子陽陽》の一篇に言います。「君子陽陽、左に簧を執り、右に我を由房に招く。」これは周室が衰微の際に、この時に遭逢した君子が彼此招引して領薪水の小官を為り、ただ楽工の類の低賤の職位を充当して、以て自身を保全し禍害を遠く離れるに過ぎないということです。
初六:拔茅茹,以其彚,貞吉,亨。象曰:拔茅貞吉,志在君也。
初六の爻辞は言います。茅草を拔けば、根鬚が相連して同類を帯び出します。正道を守持すれば吉祥で亨通します。《小象伝》は言います。茅を拔いて正を守って吉を得るのは、それの心中に終始君主を想っているからです。
義曰:泰之初,是君子道長之時,可以進用於朝廷,是以連引其類而進之,故其爻辭曰拔茅茹,以其彚,征吉。今否之初,是小人道長、君子不可用之時也。時旣不可用,則必引類而退,守以正道,不可求進,然後得其吉而獲亨也。象曰拔茅貞吉,志在君也者,夫君子之志,未嘗不在致君澤民也,雖當此否塞之時,引退守正,不苟務其進,俟時而後動者,蓋亦志在致君澤民而已。
泰卦の初爻は、まさに君子の道が生長する時に当たり、朝廷に進用され得るので、同類を牽引してともに上進し、爻辞は「拔茅茹、以其彙、征吉」と言います。今、否卦の初爻は、小人の道が生長し君子が出仕し得ない時です。時勢がすでに出仕を容れなければ、必ず同類を帯びてともに退いて、正道を守住して進取を謀らず、然る後に吉を得て亨通し得ます。《小象伝》の「拔茅貞吉、志在君也」は、君子の志向は従来君徳を輔成し百姓に恵を施すこの一事を離れたことがなく、たとえ閉塞の時に居って身を引いて退避し正道を守って苟且に進を求めず、時機を待って行動しても、心中に存するのはなお依然として君徳を輔成し百姓に恵を施すことだということです。
六二:包承,小人吉,大人否亨。象曰:大人否亨,不亂群也。
六二の爻辞は言います。順従の心を懐いて上の者を承奉し、小人はこれに由って吉を得、大徳の人は閉塞の中で自守して亨を得ます。《小象伝》は言います。大人が否世にかえって亨通し得るのは、彼が小人と混杂して群を為さないからです。
義曰:六二居否之時,小人而見用者也。然而以陰居陰,處得中正,是於小人之中能包其柔順便佞之心以奉承於上,是以小人而得小人之吉者也。大人否亨者,若大德大才之人則不然:居是時也,以其道塞而不通,故能以正自守,韜藏其仁義,卷懐其道德,不為世俗之所變,而不雜於小人之中,於否之世行否之中道,所以全身遠害也。
六二は閉塞の世に居り、任用された小人です。ただそれは陰爻を以て陰位に居り、また下卦の中位に居って位置が中正なので、小人の中ではあの柔順諂媚の心思を收起して上を承奉し得て、因って小人の身分を以て小人に属する吉利を得ます。「大人否亨」はこれと異なり、大徳大才の人がこの時に処して、道路が堵塞して通じないので、正を守り自ら持して、仁義を収蔵し道徳を懐に巻き、世俗の風気に改変されず、また小人の堆に混杂せず、閉塞の世に閉塞の世の行うべき中道を歩んで、この弁法を以て自身を保全し禍害を遠く離れます。
《中庸》曰:國有道,其言足以興;國無道,其黙足以容。《詩》曰:旣明且哲,以保其身。蓋否之時不可進用,但以義而自處,全身遠害而已。《中庸》又曰:素富貴行乎富貴,素患難行乎患難,君子無入而不自得焉。是言大人君子於否之時行否之道,所以亨也,故曰大人否亨。象曰大人否亨,不亂群也者,言大人君子其時雖否,然能以道自處,以正自守,不與小人雜,是不亂其群類也。
《中庸》は言います。「国に道あれば、その言は以て興るに足る。国に道なければ、その黙は以て容るるに足る。」《詩経・大雅・烝民》は言います。「明らかにして且つ哲なれば、以てその身を保つ。」見れば分かるように、閉塞の時は出仕して用を受けるに宜しくなく、ただ道義に依って自分を安頓し、性命を保全し禍害を遠く離れればよいのです。《中庸》はまた言います。「素富貴なれば富貴に行い、素患難なれば患難に行う。君子は入るとして自ら得ざるなし。」これがまさに大徳君子が閉塞の世に閉塞の世の路を歩み、因って亨通し得るので、爻辞は「大人否亨」と言います。《小象伝》の「大人否亨、不乱群也」は、大徳君子は否世に逢うと雖も、道を以て自処し正を以て自守し得て、小人と相混ざらず、また自分の所属するこの一類を搅乱しないということです。
六三:包羞。象曰:包羞,位不當也。
六三の爻辞は言います。ただ羞恥を包蔵して苟且に身を容れるのみです。《小象伝》は言います。羞恥を包蔵するのは、それの居る爻位が当たらないからです。
義曰:六二雖以小人之道用於時,猶且不失其中,承事其上而得其吉也。今此六三位既過中,履復失正,小人之道愈,但包其羞恥,苟容其身而已,故曰包羞。象曰包羞,位不當也者,蓋言六三於小人之中最為甚者,言其所處之位不當故也。
六二は小人の道を以て世に用いられたと雖も、畢竟なお中道を失わず、上に承事して吉利を獲得し得ました。今、六三の位置はすでに中位を越過し、居る所もまたその正を失い――陰爻が陽位に居ればすなわち当位せず――小人の習気は愈々甚だしく、ただ羞恥を包蔵して苟且に容身を求めるのみなので、「包羞」と言います。《小象伝》の「包羞、位不当也」は、六三が小人の中では最も不堪の一つであるのは、原因がそれの処する位置が適当でないに在るということです。
九四:有命無咎,疇離祉。象曰:有命無咎,志行也。
九四の爻辞は言います。任命する所有れば過失がありません。同類もまた従って福祉に沾じます。《小象伝》は言います。任命する所有って過失がないのは、それの志向が施行を得たからです。「疇」は同類、「離」は附着です。
義曰:有命,謂九四有命於初也;疇,類也;離,附也;祉,福也。夫否塞之時不可有命於其人,蓋小人眾多也;然此九四乃有所命者,以其有剛明勤儉之德,所應在初耳。何則?初六居否之時,以道不行於天下,故不苟進,引類而退,存心在君,蓋守道之君子也。今九四有命焉,所以為無咎也。然以君子而應君子,不唯已得無咎,使其疇類亦得附離於福祉也,故曰有命無咎,疇離祉。象曰有命無咎,志行也者,蓋九四以正而見命於初,以至同有其福祉,是己之志得行也。
「有命」は九四が下に向かって初六に対して任命する所有ることを指し、「疇」は同類、「離」は附着、「祉」は福です。閉塞の世はもとより随に人を任命するに宜しくなく、小人が多すぎるからです。九四は任命する所有るのは、それが剛強明達・勤勉倹約の徳行を具え、しかもそれと相応ずるのがまさに初六だからです。なぜこのように言うかというと、初六は否世に身を処して、道が天下に行かれないので、苟且に進取することを肯んじず、かえって同類を帯びて退避し、心中には終始君主を記懸しており、まさに一守道の君子です。今、九四はそれに対して任命する所有るので、過失がありません。しかも君子を以て君子に応和すれば、ただ自分に過失がないのみならず、また同類の人を一併して福祉に附着せしめ得るので、「有命无咎、疇離祉」と言います。《小象伝》の「有命无咎、志行也」は、九四が正道を以て初六に命を授けて、以致って彼此福祉を共享する、これがすなわち自分の志向が施行を得たのだということです。
九五:休否,大人吉。其亡其亡,繫于苞桑。象曰:大人之吉,位正當也。
九五の爻辞は言います。閉塞の勢を止息せしめ、大徳の人はこれに由って吉を獲得します。心中に時々将に覆亡せんとす・将に覆亡せんとすと念じて、江山は叢生の桑樹の根に係えた如く牢固になります。《小象伝》は言います。大人が吉を得る所以は、彼の居る位置が極めて正当だからです。
義曰:休,息也。夫以柔順之道婉遜以承其上而獲小人之吉者,六二是也;以剛健中正之德而履至尊之位,憂天下之所宜憂,泰天下之所未泰,消去天下之小人而休息天下之否道者,惟九五大人行之而獲吉也,故曰休否,大人吉。
「休」は止息です。柔順婉転の態度を以て上を承奉して、従って小人のあの一份の吉利を得たのは六二です。而して剛健中正の徳を以て至尊の位に登り、天下の憂慮すべき事を憂慮し、天下のまだ安頓せざる局面を安頓し、天下の小人を鏟除して、閉塞の勢を停止せしめたのは、ただ九五のこの大人のみが為し得、因って吉を獲得するので、爻辞は「休否、大人吉」と言います。
其亡其亡,繫于苞桑者,桑之為物,其根幹皆相迫結而堅固者也;苞即叢生也。夫以大人之德,能消天下之否而反於泰,雖然,且當常謂危亡之在前,不敢遑安,而曰其亡矣其亡矣。如此之戒,則社稷盤固,如係于苞桑之上而不可拔也。
「其亡其亡、繫于苞桑」:桑樹という植物は、根と幹が皆盤繞糾結して、極めて堅固で、「苞」とはすなわち叢生して簇を成すことです。大人の徳行に凭って、天下の閉塞を消除して安泰に帰り得ると雖も、なお応に常に自分に危亡が眼の前に在ると提醒し、一刻も懈怠安逸を敢えてせず、口に将に亡びんとす・将に亡びんとすと念ずべきです。このような警戒があれば、国家社稷ははじめて盤結牢固となり、叢生の桑樹の根幹に係えたように拔き動かせません。
上九:傾否,先否後喜。象曰:否終則傾,何可長也。
上九の爻辞は言います。閉塞の局を傾覆すれば、先は閉塞で後は歓喜に転じます。《小象伝》は言います。閉塞が尽頭に至れば傾覆するので、どうして長く維持し得ましょうか。
義曰:傾,覆也,圯也。夫否極則泰,剝極則復,未濟終之於既濟,此《易》之常道也。在《繫辭》則曰易窮則變,變則通,通則久;又揚子曰:陰不極則陽不生,亂不極則治不成,皆變易之常道也。今上九居卦之極,則必傾去其否而反之於泰,可以獲其亨通也,故曰傾否。先否後喜者,此言否之道,始則六二包承而大人否,九五休否而有大人吉,至此上九則否傾而之泰,是先否後喜之驗也。
「傾」は傾覆・坍塌です。閉塞が極点に至れば通泰に転じ、剥落が極点に至れば回復に転じ、《未済》の後は終に《既済》に帰する、これは《易》理の常道です。《繫辞伝》は「易は窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通じ、通ずれば則ち久し」と言い、揚雄もまた言いました。陰は極点に至らなければ陽は生じ出ず、乱は極点に至らなければ治は成らず。これらは皆変易の常理です。今、上九は全卦の頂端に居り、必然に閉塞の局を推倒して安泰上に回転し、従って亨通を獲得するので、「傾否」と言います。「先否後喜」は言います。否卦は一路下来して、起初は六二が順従を包蔵して大徳の人はただ否に自守するのみ、続いて九五は否塞を止息せしめて大人が吉を得、上九に至っては否局が傾覆して泰境に転入する――これがまさに先は閉塞・後は歓喜に応験します。
象曰否終則傾,何可長也者,言何可常若此之否也。然聖人言之,繫乎勸戒也。泰之時,慮其恃安而過極,故九三則曰無平不陂,無往不復,至上六則曰城復于隍,皆所以存戒之之意也;今否之時,又慮其躓跋而不進,故九五言休否大人吉,至此上九則言傾否,先否後喜,亦存勸之之意也。此皆極言人事之道,而明《易》之深也。
《小象伝》の「否終則傾、何可長也」は、このような閉塞の局面はどうして長く維持し得られようということです。ただ聖人がこのように講じるのは、その用意が全て勧勉と告戒にあります。安泰の時には、人が太平を仗恃して放縦に過ぎるのを恐れ、九三に「无平不陂、无往不復」と言わせ、上六に至ってまた「城復于隍」と言わせ、皆告戒の意を存します。閉塞の時には、また人が跌跌撞撞・灰心して進まざるのを恐れ、九五に「休否、大人吉」と言わせ、上九に「傾否、先否後喜」と言わせ、勧勉の意を存します。これらは皆人事の道理を極処まで講じて、従って《易》理の深切を顕明にするのです。
同人 離下乾上
同人于野,亨,利涉大川,利君子貞。
卦辞は言います。人と曠遠の郊野で和同すれば、亨通します。大河巨険を渡るに宜しく、君子が正道を守持するに利します。
義曰:按《序卦》云,物不可以終否,故受之以同人。夫天下否塞之久,人人皆欲其亨通,是必君子同志以興天下之治,則天下之人同心而歸之,故曰同人。同人于野亨者,野取遐遠廣大之稱。大凡君子推己之仁以及天下之人,施己之義以合天下之宜,廣大宏博,無所不通,然後得同人之道而至於亨通,故曰同人于野亨。
《序卦伝》は言います。「物は以て終に否たる可からず。故に受くるに同人を以てす。」天下が久しく閉塞すれば、人は皆通達を盼い、ここにおいて必ず君子らが志同道を合わせて天下の治世を興起し、天下人がはじめて同心に帰附するので、卦名を「同人」とします。「同人于野、亨」の「野」は、遥遠広大の意を取ります。大凡君子が自分の仁心を天下の人に推及し、自分の義挙を天下の宜しきに合するまで施行して、胸襟が広大宏博にして通じない所なく、然る後にはじめて同人の道を得て亨通に達すると言え、ですから「同人于野、亨」と言います。
利涉大川者,言君子旣推仁義以同天下之心,使天下之人同心而歸之,無有不從,則雖有大險大難,亦得而濟之也,故曰利涉大川。利君子貞者,夫君子有仁義之心、忠恕之道,推之於身而加乎其民,故不以一己為憂,所憂者天下;不以一己為樂,所樂者天下。以至天下之人合心而從之,是君子之正也,故同人之道,所利者唯君子之正者也。
「利渉大川」は言います。君子がすでに仁義を推行して天下人を同心せしめれば、天下人は皆帰附して従わないものなく、このような人心があれば、縦使極大の艱険災難に遇っても、渡り切り得るので、「利渉大川」と言います。「利君子貞」は言います。君子は仁義の心と忠恕の道を懐いて、先ず自身に落実し、更に百姓に推及するので、彼は一己のために憂えず、憂える所は天下で、一己のために楽しまず、楽しむ所は天下です。以致って天下人は同心に彼を追随する、これがまさに君子の正道です。ですから同人のこの路では、利を得るのは正を守る君子のみです。
彖曰:同人,柔得位得中而應乎乾,曰同人。同人曰:同人于野,亨,利涉大川,乾行也。文明以健,中正而應,君子正也。唯君子為能通天下之志。
《彖伝》は言います。同人卦は、陰柔の者がその位に当たり中位に居って上に向かって乾に応ずるので、「同人」と呼びます。同人の卦辞の「同人于野、亨、利渉大川」は、あれは乾の剛健の道に凭って施行するのです。下体は文明で上体は剛健、六二と九五は中正に相応ずる、これは君子の正道です。ただ君子のみが天下人の心志を会通し得ます。
義曰:柔得位得中而應乎乾者,此就二五之爻,釋所以得同人之名也。六二以陰居陰,是柔得位也;居下卦之中,是得中也。旣中且正,又應於九五之尊,是得位得中而應乎乾也。以人事言之,則是有中正之臣而上應於乾剛之君,君臣之道同,則天下之人合心而歸之矣。又如在上者能以剛健之德、仁義之道推諸天下,而在下者又以柔順中正而應之,上下之心旣同,是得同人之道。
「柔得位得中而応乎乾」の一句は、六二と九五の両爻に就いてこの卦がなぜ「同人」と命名されたかを解釈します。六二は陰爻を以て第二という陰位に居って「柔得位」で、また下卦の中位に居って「得中」です。すでに中に居りかつ位に当たって、更に上に向かって至尊の九五と相応する、これがすなわち「得位得中而応乎乾」です。人事に就いて言えば、すなわち一中正の臣が下にあって上に向かって剛健の君主に呼応し、君臣の道が彼此相同じれば、天下人は自然と同心に帰附します。またちょうど上位の者が剛健の徳・仁義の道を以て天下に推行し、下位の者がまた柔順中正を以て響応して、上下の心がすでに相同じれば、同人の道もまた成立するがごときです。
同人曰,此三字蓋羨文,於義無所通。同人于野,亨,利涉大川,乾行也者,言所以得於野亨而險難無不濟者,由君子以勤健之德、中正之道以同天下之人,使天下之人同心而歸之,是以乾之道而行也。
《彖伝》の裏の「同人曰」という三つの字は、大概是伝抄のとき多く出た衍文で、文義に就いて講じ通らず、強いて解く必要がありません。「同人于野、亨、利渉大川、乾行也」は、曠野で和同して亨通し険難を渡らないものがない所以は、君子が勤勉剛健の徳行・中正不偏の道理を以て天下人と和同し、天下人を同心に帰附せしめ――これがまさに乾の剛健の道に依って行事するのだということです。
文明以健,中正而應,君子正也者,此以二體明利君子之貞也。下離為文明,上乾為健,以是之德則無所不濟,而天下之人莫不與之同心也,故曰文明以健。又以六二柔順而居下卦之中,九五以剛健而居上卦之中,上下皆有中正之德相應,故能率人之心以同天下,此君子之正也。
「文明以健、中正而応、君子正也」は、これは上下両体を以て卦辞の「利君子貞」の道理を説明します。下卦の離は文采光明を象徴し、上卦の乾は剛健を象徴し、このような徳性を具えれば、成さない事なく、天下人も彼と同心せぬものなし、ですから「文明以健」と言います。更に見れば、六二は柔順を以て下卦の中位に居り、九五は剛健を以て上卦の中位に居り、上下が皆中正の徳を具えて彼此相応するので、衆人の心を統率して天下と和同し得る――これがすなわち君子の正道です。
唯君子為能通天下之志者,因上文明君子之正,此又申說君子之道。且凡人之情,思慮不廣,唯止一身一家而已;唯君子則不然,但推其仁義之道、忠恕之德以及天下。以天下之人莫不欲安,則君子扶而不危;人莫不欲壽,則君子生而不傷;人莫不欲富,則君子厚而不困;人莫不欲逸,則君子節其力而不盡。是皆君子盡心於已,推之於人,恢廣宏大,無所不同,故能通天下之志也。
「唯君子為能通天下之志」の一句は、上文ですでに説明した君子の正を承接して、更に進んで君子の道を申述します。常人の心思は開濶に足らず、顧念する所はただ一身一家に過ぎません。君子は然らず、彼は仁義の道・忠恕の徳をずっと天下に推广します。天下人に安定を想わないものがなければ、君子は彼らを扶持して危境に陥らせず、長寿を想わないものがなければ、君子は彼らを養育して傷害を加えず、富足を想わないものがなければ、君子は彼らを厚実にして困乏に致らせず、安逸を想わないものがなければ、君子は民力を節制して使用してそれを尽くしません。これらは皆君子が先ず自分の身の上に心を尽くし、更に他人に推及して、胸懐が恢廓宏大にして通じないものがないので、天下人の心志を会通し得ます。
象曰:天與火,同人。君子以類族辨物。
《大象伝》は言います。天は上にあり火の性は炎上して、二者の趨向は相同じ、これが同人の卦象です。君子はこれに取り法って、族類を帰併区別し、事物の性質を弁別明らかにします。
義曰:夫天體居上,而火之性又炎上,是得同人之象也。君子法此象,於是類其族,辨其物。族即族黨也,物即物性也。言其分別族黨,使各以其類;明辨其物性,使各得其所。善者同於善,不善者同於不善;君子則與君子同道,小人則與小人同道,是類別天下,使各得其同也。
天体は上位に居り、火の性質もまた上に騰升して、二者の趨向は一致し、まさに同人の象に合します。君子はこの象に效法して、こうして族類を帰併し事物を弁別します。「族」は族党人群を指し、「物」は事物の性質を指します。これは族党を分別して各々その類に帰せしめ、物性を明辨して各々その位置を得せしめるということです。善と善は一処に帰し、不善と不善は一処に帰し、君子と君子は道を同じくし、小人と小人は道を同じくします。このように天下を類に按って分別し開けて、毎一類に各々その同を得せしめます。
初九:同人于門,無咎。象曰:出門同人,又誰咎也。
初九の爻辞は言います。門を出て行って人と和同すれば、過失がありません。《小象伝》は言います。門を出れば人と和同できるのに、また誰が来て責め咎めましょうか。
義曰:門者,亦言其遐遠廣大也;咎者,怨咎也。夫廣遠寛大,無所不同,是同人之道也。今初九以文明之性履同人之始,是其用心廣大,無所偏私,出於門則與人同也。夫出而與人同,則人亦同心歸之,又何有怨咎者乎?
ここの「門」は、同じく遥遠広大を形容しています。「咎」は怨恨責咎を指します。胸襟が開濶寛大で誰とでも和同し得る、これがはじめて同人の道です。初九は文明の性情を以て同人卦の開端に居り、用心が広大にして一点の偏私もなく、一たび門を出れば人と和同し得ます。すでに門を出れば人と和同するので、他人もまた彼に同心に帰附し、どうしてまだ怨恨責咎する誰がいましょうか。
六二:同人于宗,吝。象曰:同人于宗,吝道也。
六二の爻辞は言います。ただ自分の宗主する一方と和同すれば、鄙吝する所有ります。《小象伝》は言います。ただ宗するところの一方と和同するのは、これは一つの鄙吝の路です。
義曰:宗,主也;吝,鄙也。夫不以己之親疎,不以己之憎愛,則盡同人之道矣。今六二不能遠大其志,廣與人同,而反私心偏意上繫於九五之主,是其道褊狹,誠可以鄙吝者也。
「宗」は宗主、「吝」は鄙陋です。もし相手と自分の関係の親疎を問わず、自分の一時の愛憎に凭って取捨しなければ、はじめて同人の道を尽くしたと言えます。今、六二は志向を放って遠大にし広く衆人と和同し得ず、かえって私心偏意を帯びて、一味に上に向かって九五という主上に牽係して、路子は未だ狭隘に免れず、実に鄙陋可惜と称し得ます。
九三:伏戎于莽,升其髙陵,三歲不興。象曰:伏戎于莽,敵剛也;三歲不興,安行也。
九三の爻辞は言います。兵衆を草莽の中に埋伏し、また高い山陵に登って观望して、三年も発動を敢えてしません。《小象伝》は言います。兵衆を草莽の中に埋伏するのは、剛強の者と敵せんとするからです。三年も発動を敢えてしない、この路はどうして歩き通えましょうか。
義曰:戎,兵也;莽,林莽也;陵,丘陵也;興,起也。夫六二以中正之道上應於九五中正之君,君臣上下各以正道相應,而九三以陽居陽,志好強暴,不量己力,輒欲私貪六二之應而奪之,是以伏其兵戎於林莽之中。然而以不正險陂之行加於人,故不敢顯然興其兵戎,但伏於林莽之中,又且恐懼而不敢進,故升其髙陵以望之也。
「戎」は兵衆、「莽」は叢生の草木林藪、「陵」は丘陵、「興」は発動です。六二は中正の道を以て上に向かって九五という中正の君に呼応し、君臣上下は各々正道に依って彼此相応します。九三は陽爻を以て陽位に居り、心志は強横を逞しするを好み、自分の分量を掂量せず、動すれば貪念を起して、六二のこの段の感応を己が為に据えんと欲して、こうして兵衆を草莽の裏に埋伏します。しかし彼が用いるのは正でなく険悪の手段なので、公然と兵を挙げるを敢えてせず、ただ草莽の中に蔵れるのみで、蔵れてはまた心虚して恐れ、貿然と前進を敢えてせず、それゆえ高陵に登って形勢を张望します。
三歲不興者,夫以不正之道而欲犯於至正之人,其勢必不克勝,故至於三年之間亦不能興起也。象曰伏戎于莽,敵剛也者,言其以不正之道欲妄攻奪,是其志不懼九五之剛而輒欲敵之也。三歲不興,安行也者,以不正之小人而欲敵大正之君子,其勢自然不能勝,雖竆三歲之間,安能行之哉?
「三歳不興」は言います。不正当の手段を以て極めて端正の人を冒犯すれば、形勢上において必ず勝ち得ないので、三年の久しきに拖到しても発動し起こせません。《小象伝》の「伏戎于莽、敵剛也」は、彼が不正当の路数を以て妄図して攻奪せんとし、その心が竟に九五の剛強を畏れず、動すればそれと敵せんとすることを言います。また「三歳不興、安行也」と言うのは、不正の小人を以て大中至正の君子に対抗すれば、形勢上において自然と勝ち得ず、縦使三年の時間を耗尽しても、この路はどうして歩き通えようということです。
九四:乘其墉,弗克攻,吉。象曰:乘其墉,義弗克也;其吉,則困而反則也。
九四の爻辞は言います。あの墻頭に登っても、終に攻め下せず、吉祥です。《小象伝》は言います。墻頭に登って攻め下せないのは、道義上において講ずればもとより勝つべきではありません。それが吉を得る所以は、困窘に陥って回頭して法則を遵守するからです。「墉」は城墻です。
義曰:墉謂乘九三之墉也;克,能勝之辭也。九三不量己力,志尚剛暴,欲謀奪九五之偶,已為大非,故伏其兵戎於林莽之中;今九四位乘於九三之上,亦欲因其九三之勢,乘陵而奪取六二,以義言之,是必不克勝也。然得吉者,蓋已旣不能克勝,故因其勢之困弱而反守於法則,故得免咎而獲吉也。象曰其吉,則困而反則也者,言九四旣因其困弱而反守法則,是改過之人也,故《左傳》曰:人誰無過?過而能改,善莫大焉。此九四所以獲吉也。
「墉」は九四が九三という墻頭の上を踏んでいることを指し、「克」は勝ち得る意です。九三は自分の力量を掂量せず一味に強横を逞しして、九五の配偶たる六二を謀奪せんと欲して、もとより大錯で、因って兵衆を草莽の中に埋伏しました。今、九四の位置はまさに九三の上に壓して、また九三の造成した形勢に藉って、凌駕して上に行って六二を奪取せんと欲します。道義上において衡量すれば、それは必ず勝ち得ません。しかしそれはかえって吉を得るのは、すでに攻め下せない以上、すなわち自身の勢窮力弱の処境に順って回頭して法度を遵守して、こうして過失を免れて吉祥を獲得したのです。《小象伝》の「其吉、則困而反則也」は、九四が困窘に因って回頭して法を守ったのは、改めること能き人に属すということです。ですから《左伝》は言います。「人誰か過なからん。過りて能く改むれば、善はこれより大なるはなし。」これがまさに九四が吉を得る縁由です。
九五:同人,先號咷而後笑,大師克相遇。象曰:同人之先,以中直也;大師相遇,言相剋也。
九五の爻辞は言います。人と和同して、起初は声を放って痛哭し、後には歓笑し、大軍を出動して阻礙を勝って、終に応ずる所の爻と相会します。《小象伝》は言います。同人が先に哭する所以は、九五が中道を秉持して正直だからです。大軍が相会し得たのは、それが中で梗を為す人に勝ったことを言います。
義曰:九五與六二之爻,下以文明,上以剛健,各恃中正以相應,而欲同心同力共治於天下,然而物有間於己而不得相遇者,蓋以九三伏戎于莽,九四又乘其墉,皆奪己之應,故已乃用太師以攻伐而克之,是先號咷也。旣攻伐而克之,然後得與六二相遇,而同心同力以共成天下之治,是後有笑也,故曰同人先號咷而後笑,大師克相遇。
九五と六二のこの両爻は、下は文明の徳を以て上は剛健の徳を以て、各々中正の位に凭って彼此呼応して、もとより同心協力してともに天下を治理せんと欲しましたが、人が中に阻隔して、それらを相会せしめませんでした――九三は兵衆を草莽に埋伏し、九四はまた墻頭に登って、皆九五の有るべき呼応を争奪しています。こうして九五は已むなく大軍を出動して彼らを討伐し勝ち得ました、これがすなわち「先号咷」で、先に一番の痛哭がありました。討伐が勝を得た後、はじめて終に六二と相会して、同心協力して共に天下の治世を成就した、これがすなわち「後笑」です。ですから爻辞は「同人、先号咷而后笑、大師克相遇」と言います。
象曰同人之先,以中直也者,言九五始以九三九四為孽於其間而不得與六二相應,然一舉其師則克之者,蓋由己以大中之道、至直之德而往伐之,故無有不勝也。
《小象伝》の「同人之先、以中直也」は、九五が起初は九三・九四が中間で乱を為して、六二と呼応し得なかったが、しかしそれが一たび兵を出せば相手を打敗した、原因は自分が大中の道・極めて正直の徳行に凭って討伐したので、勝たない道理がなかったということです。
上九:同人于郊,無悔。象曰:同人于郊,志未得也。
上九の爻辞は言います。郊外で人と和同して、悔恨がありません。《小象伝》は言います。郊外で人と和同するのは、それの志向がまだ実現していないことを説明します。
義曰:郊者,國城之外曠遠之地也。夫同人之道,貴其無所不同,則可以立功立事也。今上九居同人之極而處於遐曠之地,志無所同,但可以免其悔吝而已;若其欲立功立事於天下,則其志未有所得,故象曰志未得也。
「郊」は国都の城墻の外の空曠遼遠の地です。同人の道は、貴ぶべき処は同じくしない所なく天下人と相通じ得ることにあり、こうすればはじめて功業を建立し事業を成就し得ます。今、上九は同人卦の頂端に居り、また身に僻遠空曠の地にあって、それと和同すべき対象なく、ただ悔恨を免れるに至るのみで、もし天下に功業を建立せんと言わば、それの志向はまだ落着せず、ですから《小象伝》は「志未得也」と言います。
大有 乾下離上
大有:元亨。
卦辞は言います。大有卦は、その徳が至大にして亨通します。
義曰:按《序卦》云,與人同者,物必歸焉,故受之以大有。蓋言君子推仁義之心以及於人,行忠恕之道以同於物,則天下之人皆同心而歸,是大有於天下也。然則大有者,大有於眾也,《雜卦》言大有眾者是也。
《序卦伝》は言います。「人と同じくする者は、物は必ず焉に帰す。故に受くるに大有を以てす。」これは君子が仁義の心を他人に推及し、忠恕の道を以て万物と相和同すれば、天下人は皆同心に彼に帰附し、これがすなわち天下に擁有するに広大だということです。見れば分かるように、「大有」とは衆人に大有することで、《雑卦伝》のいわゆる「大有、衆也」は、まさにこの意を講じています。
元亨者,元,大也;亨,通也。夫大有於天下之眾,苟不以天地元大之德治於天下,則不能致其亨通也。故大有之世,必以元大之德亨通於天下,故曰元亨。
「元亨」の「元」は大、「亨」は通です。《易》の中の「元亨利貞」の四字は乾の四徳と号し、「元」はその首に居って衆善の長です。すでに天下の衆を広く有する以上、天地のような至大の徳行を以て天下を治理しなければ、亨通に達し得ません。ですから大有の世には、必ず至大の徳行に凭って天下を亨通せしめ、それゆえ卦辞は「元亨」と言います。
彖曰:大有,柔得尊位大中,而上下應之,曰大有。其德剛健而文明,應乎天而時行,是以元亨。
《彖伝》は《大有》卦を解釈して言います。六五という爻は柔順の質を以て至尊の君位を取得し、また上卦の正中に居って、行うは寛大中正の原則なので、上下の五つの陽爻が皆来てそれに響応し、これをはじめて「大有」と呼び、すなわち所有の物が盛大です。この卦は下体は乾・上体は離で、「卦徳」は一卦の象徴する品性を指します。乾の卦徳は剛健、離の卦徳は文明です。剛健ならば事務を担当し得て、文明ならば事理を照察し清らかにし得ます。このような徳性に凭って天時に順応して行動するので、「元亨」――万物を開創して大いに通達することを獲得し得ます。
義曰:此就六五一爻以釋卦名也。夫六五以柔順之質,居至尊之位,以大中之道行於天下,使天下之人無過無不及而盡合於中,故天下之人皆來應之也。以卦體言之,則是六五獨以柔順文明,用其大中,而上下五陽他無所従,故皆來應之也。推之人事,則是聖人在位,得柔順之中道,而逺近無不應之,是大有天下之民也。
胡瑗の解説:ここは専ら六五の一爻に就いて卦名の由来を解釈します。六五はもとより陰爻で、柔順の資質を以てかえって最も尊貴の君位を占拠し、寛大中正の原則を以て天下を治理して、天下人の行為を過分でも不足でもなく全て中道に合せしめるので、挙国上下が皆来てそれに帰附響応します。もし卦体の上から見れば、全卦にただ六五の一爻のみが陰柔で、また離体に居って文明の徳を具え、その寛大中正に凭って、上下の五つの陽爻は別に従う所なく、ただ一斉に来てそれに響応するのみです。人事の上に推して言えば、すなわち聖人が君位に身を居り、柔順にして偏らず倚らない中道を守住して、こうして遠近の人は響応せぬものなく、これがまさに天下万民を擁有する盛大の気象です。
其德剛健而文明,應乎天而時行,是以元亨者,此就二體而釋所以得元亨之義也。乾在下為剛健,離在上為文明。剛健則能幹濟於事,文明則能照察於物。其德既剛健而文明,則能應順乎天時而行也。夫天以春而生成萬物,聖人以仁而愛育之;天以秋而肅殺萬物,聖人以刑罰而懲勵之。是聖人所為皆順於天,以時而行也。既以剛健文明之德,又上順於天時而行,是以獲其元亨也。
《彖伝》が剛健でかつ文明、上に天道に応えて時に按って行動して因って大いに通達すると講ずるに至っては、これは上下二つの卦体からこの卦がなぜ開創通達し得るかを解釈します。乾は下にあって、その性は剛健、離は上にあって、その性は文明です。剛健ならば、事情を成し遂げる能力があり、文明ならば、事物を透徹に見抜き得ます。君徳がすでに剛健でかつ文明ならば、天時の節奏に順って行動し得ます。上天は春に万物を生養すれば、聖人は仁愛を以て百姓を撫育し、上天は秋に万物を肅殺すれば、聖人は刑罰を以て世人を懲戒警励します。見れば分かるように、聖人の一切の挙措は皆天道に合し、皆時令に按って行きます。すでに剛健文明の徳性を具え、また上に天時に応えて動き得るので、開創して亨通の功效を収めたのです。
象曰:火在天上,大有。君子以遏惡揚善,順天休命。
《大象伝》は言います。離火が乾天の上に高く懸って、光の照る所は及ばない所なし、これが《大有》の卦象です。君子はこの景象に取り法って、一切の邪悪を遏止し、一切の善行を表彰し、恭順に上天の賜う美好の旨意を承接します。
義曰:夫火性本明,天體居上,今火在天之上,至明而無所不燭,是大有之象也。君子法此,以大有天下之眾,則當遏絶其惡而揚舉其善。何則?大凡天下所以不明者,由其惡不去也,聖人在位則遏絶之:若惡之大者則誅擊之,惡之小者則刑戮之。如此,則天下之為惡者知懼也。天下之所以不知者,由其賢善之人不用也,聖人在上則揚舉之:若大賢則置之大位,小賢則置之小位。如此,則天下之賢者知勸也。順天休命者,休,美也。夫福善禍淫,天之命也。聖人在上,惡者遏之,善者揚之,是能承順天休美之命也。
胡瑗の解説:火の本性は光明で、天の形体は上方に高居し、今、火は天の上に升って、光明は極致に達し、照らさない処なし、これが《大有》の卦象です。君子はこれに效法して、すでに天下万民を擁有する以上、邪悪を鏟除し良善を挙揚すべきです。なぜこのように言うかというと、天下が昏暗で明らかでない所以は、悪が除かれていないからです。聖人は位に在れば断然に鏟除して、罪の大きいは誅討を加え、罪の小さいは刑罰を施して、こうすれば天下の悪を為す人は畏れるを知ります。天下が蒙昧で知らない所以は、賢良の人が任用されていないからです。聖人は上にあって拔擢を加えて、大賢は高位に安置し小賢は低位に安置して、こうすれば天下の賢才は自勉するを知ります。爻辞の中のあの「休」の字は美好の意です。福を行く善の人に降し禍を淫乱の人に降るのは、これは上天の旨意で、聖人は上にあって、悪を遏止し善を表彰する、まさに上天のこの美しい安排に承順したのです。
初九:無交害,匪咎,艱則無咎。象曰:大有初九,無交害也。
初九の爻辞は言います。人と利害の交を結ばない、これは過失ではありません。ただ艱難自恃の心志を守住して、終に災禍を招来しません。《小象伝》は言います。《大有》の初九の一爻は、まさにその人と利を以て相交らない義を取ります。
義曰:交害者,相交以利害者也。大凡以親而交於人,則必有疎之者矣;以喜而交於人,則必有怒之者矣;以利而交於人,則必有害之者矣。唯君子為能用心廣大,故無意於交也。今初九居大有之始,處卦之下,是無心於物者也。旣無心於物,則所尚遠大,不交於有害者也。匪咎者,言初九之所以無心於物而不交於害,豈凶咎之道耶?然雖非凶咎之道,又當艱難其志,終久而不變,則庶可以全得無咎也。
胡瑗の解説:いわゆる交害とは、人と人との間で利害を以て相結交することを指します。大凡親近に因って人と結交した者は、後日必ず疎遠する時あり、歓喜に因って人と結交した者は、後日必ず悩怒する時あり、利益に因って人と結交した者は、後日必ず互相加害する時あります。ただ君子は胸襟が広大で、はじめて刻意して何人かを攀結しません。初九は《大有》の初・全卦の最下の位置に居り、心が外物に牽動されない人です。すでに外物に心がなければ、崇尚する所は自然と高遠博大で、あの禍害をもたらす交情を結びません。爻辞がこれは過失ではないと言うのは、初九が物に心なく人と利害の交を結ばないのは、これはどうして凶を招き禍を致す路数でありましょうかと講じています。話はこのようであるけれど、なお心志を艱難謹慎に守り、長久に改めず、はじめて完全に過錯を免れ得ます。
九二:大車以載,有攸往,無咎。象曰:大車以載,積中不敗也。
九二の爻辞は言います。堅固な大車のように重物を承載し、往く所有っても災禍がありません。《小象伝》は言います。大車が重物を載せ得るのは、載せた物が車廂の正中に堆いで重心が穏当にして傾覆に至らないからです。
義曰:九二以剛明勤健之才,當大有之時,履得中道,應於六五,是其中正之臣而可當其重任者也,猶若大車之持載,雖甚任重而不至傾敗者也。有攸往無咎者,夫君子懐才抱道,患不得其位;旣得其位,患不得其君。所謂得君者何?若己言則君聴之,己諫則君從之,已有所興為則君順之是也。今二以剛明中正之才,為六五之所委任,故所行所往無不利也。所往旣利,則凶咎何由而至哉?故曰有攸往無咎。象曰積中不敗也者,言君子有剛健之才德積畜於內,雖授之大位、任之重權,而無有墮廢之事,是猶大車之持載,積於其中而無有傾敗也。
胡瑗の解説:九二は剛強明叡・勤勉強健の才干を具え、正に《大有》の盛大の時に当たり、処するもまた下卦の中位で、行事は中道に合し、上に六五の君と相「応」し――「応」とは初と四・二と五・三と上の両々相感の固定的対位関係を指します。それは一「中正」の大臣――中位に居りかつその位に当たるので中正と称します――で、天下の重任を担当するに足り、ちょうど一輛の大車が重物を装載して、負担は極めて沈重でも翻覆しないがごときです。爻辞が往く所有っても災禍なしと言うのは、君子が才学と道義を怀抱して、起初は職位を得られないことを憂い、職位を得て後はまた自分を信任し得る君主に遇わないことを憂いました。何を明君に遇うと呼ぶかというと、自分が言を進めれば君主が聴き、自分が諫めれば君主が従い、自分が興革する所有れば君主が支持するを肯ずることです。今、九二は剛明中正の才に凭って六五の委任を受け、行事の往く所は順利でなくなく、往く所がすでに順利なれば、災禍はまた何処から来ましょうか。ですから往って害なしと言います。《小象伝》が載せた所が正中に堆いて傾覆しないと講じるのは、君子が剛健の才徳を胸中に積蓄して、縦使高位を授けられ重権を委されても、荒廃敗壊の事がない、ちょうど大車の載せた物が皆車身の正中に堆くので穏当にして傾らないがごときだということです。
九三:公用亨于天子,小人弗克。象曰:公用亨于天子,小人害也。
九三の爻辞は言います。三公級の大臣は天子に献享しその道を上通し得ますが、小人がこの位置に居れば承担し得られません。《小象伝》は言います。三公は天子に献享し得ますが、もし小人がこの高位に居れば、かえって禍害となります。
義曰:此一爻處大有之時,以陽居陽,當下卦之極,為眾陽之長,是尊極之臣、在三公之任者也。然當此至重之位,以君子則用可享於天子,而行天下之大道,立天下之大位也;以小人處之,則不能克勝其任,以至壊敗王事而為害於時也。故曰公用享于天子,小人弗克。
胡瑗の解説:九三のこの一爻は《大有》の時に居り、陽爻を以て陽位に居り、また下卦の頂端に当たり、衆陽の首で、地位が尊崇して極点に至った大臣に属し、三公級の職任を担負しています。しかしこのように吃重の位置に身を居って、もし君子がこれを担当すれば、上に天子に通じ献享の礼を承受し、天下の大道を推行し、天下の綱紀を確立し得ます。もし小人がこれに占拠すれば、あの重任を担い起せず、甚だしきは王朝の政事を敗壊して、一時の害となります。ですから爻辞は言います。三公は天子に通達し得て、小人は勝任し得ないと。
九四:匪其彭,無咎。象曰:匪其彭,無咎,明辨晳也。
九四の爻辞は言います。あの勢力が盛大な九三に依附しに行かなければ、過錯がありません。《小象伝》は言います。九三に依附せずして過錯を免れるのは、九四が善悪を明察し是非を弁別し得るからです。
義曰:彭謂九三也。匪其彭者,是不有奉九三之心也。九四以陽居陰,當上卦之下,履失其正,而上近六五之君,下比九三之臣,處於君臣之間,若行不正則咎莫大焉。且九三位為三公,有權之臣也,四柔順屈節以趨附之,是行乎非正之道,而必有非常之咎也,固當常有不奉三之心,則得其無咎矣。象曰匪其彭無咎明辨晳也者,凡知人曰晳,此所以匪其彭者,由九四能明察其善惡,辨別其事宜,知九三之不可趨附之而不附,故獲無咎。
胡瑗の解説:ここの「彭」は九三を指し、九三に親附しないは、彼を奉承する心思を存せざることです。九四は陽爻を以て陰位に居り、上卦の最下の一位に居って、「爻位」が当たりません――陽爻は本来一三五の陽位に居るべきに、今は陰位の上に落ちて、処する所が正でありません。それは上に六五の君に緊挨し、下にまた九三の臣と相隣して、君臣の間に夾み、行事が一旦正でなければ、罪過は大きくて復加するなしです。況んや九三は三公の位に身を居り、権柄を手に握る重臣で、九四がもし柔順屈節して彼に巴結しに行けば、走るは正でない路で、必然に尋常ならざる罪責を招来します。ですから九四は終始九三を奉承する心を存せざるべく、こうしてはじめて過錯を免れ得ます。《小象伝》が彼は明察にして分弁し得ると言うのは、凡そ人物を識別し得るを「晰」と呼び、九四が九三に依附しない所以は、まさに彼が善悪を見清く事理を分明にし、九三が攀附すべきでないことを知って終始攀附しに行かないので、過錯がないのです。
六五:厥孚交如,威如,吉。象曰:厥孚交如,信以發志也;威如之吉,易而無備也。
六五の爻辞は言います。君主は内心から発する誠信を以て上下と相交わり、同時にまた人を敬畏させる威儀があって、因って吉祥です。《小象伝》は言います。誠信を以て相交わるのは、自分の信実を以て天下人の誠心を激発することです。威儀が吉祥をもたらすのは、上下が坦然平易で彼此防備を設けずに足るからです。
義曰:孚,由中之信也;交,謂上下之道相交也。六五居大有之時,以柔順而處至尊之位,是執柔示信以接於物,故上下皆歸向之也。夫己以由中之信接於人,人亦以由中之信奉於己,上下交相親信,故曰厥孚交如。威如吉者,言既以由中之信及於天下,天下皆親信之,則是威德並行而獲其吉也,故不賞而民勸、不怒而民威於鈇鉞是也。
胡瑗の解説:孚は内心から発する信実、交は上下の間で彼此往来相接することです。六五は《大有》の時に居り、柔順の質を以て至尊の位に居り、柔道を握持して誠信を以て人に対し物を接するので、上上下下が皆彼に帰向します。自分が一片の真心を以て人に対すれば、他人もまた一片の真心を以て自分に奉事し、上下が互相親近信任するので、爻辞は彼の誠信が人と相交わると講じます。威儀があって吉を得ると言うに至っては、誠信がすでに天下に遍く及び、天下人が皆親近信服するので、威厳と徳沢を一同に施行して吉を獲得したのです。ちょうど《礼記・中庸》の称える如き、賞を行わずとも百姓は自然と奮勉し、怒を発せずとも百姓はその威を敬畏して刀斧の刑に勝るがごときです。
象曰厥孚交如,信以發志也者,言發己之信以及天下之信,已能如是,則天下有信無信之人皆發其誠志以交應之也。威如之吉,易而無備也者,易,平易也;備,戒備也。言已既有孚信交於人,又有威德以及於天下,賞一賢而天下之賢知勸,罰一罪而天下之罪知懼,有此威德之著,故天下皆平易而無所戒備也。
《小象伝》が信実を以て心志を激発すると言うのは、君主が自分の誠信を天下に推及して、天下人の誠信を感発しに行くことを講じ、この地步に至り得れば、天下は本来信用を講ずると講ぜずとを問わず、皆誠心を出して彼に響応します。威儀の吉が平易にして防備を設けないに在ると言うに至って、その中の「易」は平易坦荡、「備」は戒備提防です。これは君主がすでに誠信を以て人と相交わり、また威望徳沢が天下に施及するので、一人の賢人を賞すれば天下の賢人は皆激励を受け、一件の罪行を懲処すれば天下の罪ある人は皆畏れるを知る、威徳がこのように昭著なので、天下が相处して坦然平易で、彼此防備を設けるを用いないということです。
上九:自天佑之,吉,無不利。象曰:大有上吉,自天佑也。
上九の爻辞は言います。上天の所から佑助が降して、吉祥で、順利でないことがありません。《小象伝》は言います。《大有》の上爻が吉を得る所以は、上天の佑助を得たからです。
義曰:按《繫辭》云:天之所助者,順也;人之所助者,信也。履信思乎順,又以尚賢,是以自天佑之,吉無不利也。此言餘爻皆履剛,而上九獨乘六五之柔,是思順也;六五有孚信而已履之,是履信也;又以剛而居上,處無位之地,是能崇尚於賢者。旣能思乎柔順之道,履乎孚信之德,又以尚賢,如此則自天而下無有不助之者,又何不利之有?
胡瑗の解説:《周易・繫辞》が講じたのは、上天の佑助する所は天道に順応し得る人で、衆人の佑助する所は信用を講ずる人で、一人が信実を践行し心に柔順を存し、また賢才を崇尚し得るので、天から降祐・吉にして利せざる所なしの結果があります。ここは言います。其余の各爻が脚下に踏むは皆陽剛で、ただ上九のみが六五という柔爻の上に凌乗する――「承乗」は相隣る二爻の上下関係を講じ、下にあって上を承托するを承、上にあって下を壓臨するを乗と言い、上九が剛を以て柔に乗ってもなお相安んずるは、まさにその心に柔順を存することを見るに足ります。六五はもとより誠信を有し、而して上九が親身践履する、これがすなわち信実を践行することで、上九はまた陽剛を以て全卦の最上・職位の言うべきなき地に居り、まさに彼が賢者を推崇し得ることを表明します。すでに心に柔順の道を存し、かつ诚信の徳を践履し得て、加うるに賢人を尊崇すれば、上は天意より下は人心に至るまで、来て彼を助けないものなく、まだ何の順利でないことがありましょうか。
謙 艮下坤上
謙:亨。君子有終。
《謙》卦の卦辞は言います。謙退は人事を事事通達せしめ得て、君子が謙を行えば、終身守持して改変せざるを得ます。
義曰:按《序卦》云:有大者不可以盈,故受之以謙。謙者,卑退而不自驕盈之謂也。以二體言之,則艮下剛而止也,坤上柔而順也。大凡內剛止而外不柔順則失於亢,外柔順而內不剛止則近於佞。剛也柔也,內外相稱,此盡其所以為謙之道也。旣盡其謙,則是無不濟而亨通也。
胡瑗の解説:《序卦伝》は言います。盛大の物を擁有する人は自満し得なし。故に《大有》の後は《謙》に接ぐ。いわゆる謙とは、自ら卑下に処し退譲して驕矜自満しないことです。上下二つの卦体から見れば、下卦は艮で、剛強にして止まり得ます。上卦は坤で、柔和にして順い得ます。「剛柔」は《周易》の最も基本的な一対の性質で、陽は剛・陰は柔です。大凡内心が剛強にして止まり得て外表が柔順でない人は、高亢にして人を逼るに失し、外表が柔順で内里が剛強にして守る有らざる人は、また諂媚に近いです。剛と柔・内と外が両々相匹配して、これが謙の道理を講じ尽くします。謙の功夫がすでに做足すれば、何の事を為しても成さないことなく、自然と処処通達します。
君子有終者,終謂終身踐履而不變也。夫用謙之道,貴在久而行之。若夫小人亦有時而用謙,但不能終久由之,故朝行而夕或改矣。唯君子則能先明其性,平其心,發之於外則皆恭敬之道,故有庸言之信、庸行之謹,終身而行之無有改也。
君子が終を有り得ると言うに至って、この終は終身奉行して改変しないことを指します。謙徳を運用するに、貴ぶべきは長久に堅持し得ることです。小人にも偶に謙譲する時があるけれど、ずっと照らして行うこと能わず、往々にして朝はなお謙恭で夕には様を変えます。ただ君子のみが、先ず自分の心性を照察明らかにし、心気を平和に放って、言語挙止に発すれば恭敬せぬなく、ですから《周易・乾卦・文言》の言うようなことを為し得ます。平常の言語は必ず信実を求め、平常の行事は必ず謹慎を求めて、一生このようで始終改めず。
彖曰:謙,亨。天道下濟而光明,地道卑而上行。天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙尊而光,卑而不可踰,君子之終也。
《彖伝》は言います。謙が通達し得る所以は、天の規律が陽気を降して万物に交済し、因ってその道は益々光明となり、地の規律が自ら卑下に処して、因って地気が上昇し得るからです。天道は盈満を虧損して謙退を增益し、地道は盈満を改変して謙下に流注し、鬼神は盈満に禍害を加えて謙遜に福を降し、人情は盈満を悪みて謙譲を好みます。謙は、尊位に在れば徳行が更に光顕し、卑位に在っても越えられる人なく、これがまさに君子が始終守持する徳行です。
義曰:謙亨,天道下濟而光明,地道卑而上行者,此釋所以得謙亨之道也。夫天體雖髙,以其能降下其氣而生萬物,是得其謙而道益光明也;地以其卑,故其氣得以上升,相濟以成萬物。夫天氣下降,地氣上升,二氣相交而能生成萬物,是得謙亨之義也。以天地至大,尚以謙而後亨,況於人乎?
胡瑗の解説:《彖伝》は先ず謙が亨通する所以を講じ、天道が下済して光明・地道が卑下して上行するに在り、これは謙がなぜ通達し得るかを解釈しています。天の形体は極めて高いけれど、陽気を降して万物を生養するを肯ずる、まさにそれが謙なので、その道はかえって愈々光明になります。地は本来卑下に居るので、地気が上昇し得て、天気と相配合して万物を成就します。天気が下降し地気が上昇して、両気が交感し、万物が生成を得る、これが謙が亨通し得る道理です。天地は何と広大なことか、なお謙下に靠ってはじめて通達するのに、況んや人においてをや。
天道虧盈而益謙者,此以下廣言謙之義也。虧,損也;益,增也。夫天之為道,盈滿者虧損之,謙順者増益之,至如日中則昃、月盈則蝕,皆其類也。地道變盈而流謙者,變,變易也;流,流佈也。至如水旣盈滿則必決洩而虧散之,其卑下者則流佈而增盈之,此其類也。
天道が盈満を減損し謙退を增益するという一句以下は、推し広げて謙の意義を申説します。虧は減損、益は增添です。上天の運行の法則は、満盈するを減損を加え、謙順するを增益を加える、譬えて言えば太陽が正中に升れば西に斜し始め、月が円満した後は虧欠し始める、皆この類に属します。地道が盈満を改変して謙下に流注するに至っては、変は改易、流は流布です。譬えて言えば水が積満すれば必然に決口して泄れ出て散じ、地勢が低下の処には水が流注して来てそれを填め満たす、またこの類に属します。
鬼神害盈而福謙者,害謂禍害之也,福謂福慶之也。鬼神者,天地之用也,有盈滿者則從而禍害之,有謙損者則從而福慶之。人道惡盈而好謙者,人之為道,有驕淫者眾共惡之,有謙退者眾共好之。以天地鬼神之為道,或虧變禍害其盈者,而益流福慶其謙者,其在於人者可知矣。
鬼神が盈満に禍害を加えて謙遜に福を降すと言うのは、害は禍患を降し、福は福慶を賜うことです。鬼神は天地造化の作用で、満盈自大のに遇えば随って災を降し、謙退自損のに遇えば随って福を賜います。人情が盈満を悪み謙譲を好むと言うのは、人情に就いて言えば、驕横放縦の人は衆人が一斉に彼を悪み、謙遜退譲の人は衆人が一斉に彼を好みます。天地鬼神の法則がなおこのようである――盈満の者には或いは減損し或いは改易し或いは禍を降し、謙退の者には或いは增益し或いは流注し或いは福を賜う――それではこの道理が人の身に落ちればどうかは、また想いが及びます。
謙尊而光者,以尊上而言之,若天子諸侯及為人父、為人兄,凡在人上者,苟能好謙,則其德愈尊而光大矣。卑而不可踰者,卑者以爵言之士也,以人言之庶民也,及為子、為弟,凡在人下者,若能益尚謙退,則雖在卑下,亦眾人所不能踰越也。君子之終也者,言上之所行終身由之而不變者,唯君子為能然也,此聖人舉之以結上文耳。
謙の者が尊に居って更に光大を顕すと言うのは、上位に居る人に就いて講じたので、天子・諸侯、および父たる者・兄たる者のごとき、凡そ位が人の上に在る者は、ただ謙徳を好み得れば、彼の威望は愈々尊崇にして光大になります。謙の者が卑しといえども越え得る人なしと言うのは、下位に居る人に就いて講じたので、爵位の上から言えば士人・身分の上から言えば百姓、および子たる者・弟たる者のごとき、凡そ位が人の下に在る者は、もし更に謙退を崇尚し得れば、縦使卑微に身を処しても、彼を超越し軽慢する人はありません。末句が君子の終を点出するに至っては、上に講じたこれらを、終身奉行して改変せざるを得るのは、ただ君子のみが為し得るということです。これは聖人がこの句を拈出して上文を収束したのです。
象曰:地中有山,謙。君子以裒多益寡,稱物平施。
《大象伝》は言います。高大の山がかえって地の下に隠蔵する、これが《謙》の卦象です。君子はこれに取り法って、多き頭を減らして下し、少き頭を補いて上げ、事物の多寡を衡量して、施予を均平に趨かせます。
義曰:山體本髙,地體本卑,今山居地之中,是抑髙舉下之義而得謙之象也。君子假借其象,言物有多者減而裒聚之,少者增益之,稱其物之多少而均平其施與,是亦抑髙舉下之義也。
胡瑗の解説:山は本来高聳し地は本来低平なのに、今、山は地の中間に蔵れて、これは高き者を圧抑し下き者を抬挙する意を含有し、まさに謙の卦象に合します。君子はこの景象を借取して教を立てます。財物の多き頭は削減し聚めて来て、少き頭は添補して上げて、各々の多寡を衡量して施予を均平に趨かせる、これは同じく高きを抑え下きを挙げる道理です。
初六:謙謙君子,用渉大川,吉。象曰:謙謙君子,卑以自牧也。
初六の爻辞は言います。謙にしてまた謙の君子は、この徳行に凭って大河巨険を渡渉しても、吉を得られます。《小象伝》は言います。謙にしてまた謙の君子は、卑下を以て自処して自身を涵養します。
義曰:初六以謙巽而居一卦之下,是其謙而又謙者也。夫謙謙之道,小人所不能為,唯君子則能行之,故曰謙謙君子。用渉大川吉者,夫君子持身卑退,恭敬之心發於內,則謙謙之道形於外,故眾心皆歸而萬民皆服。民眾旣歸,則雖有大險大難,用是而渉之無有不濟,況於平易常處之時,獲其吉也可知矣。象曰謙謙君子卑以自牧也者,牧,養也,守也。言大人君子所以謙而又謙者,蓋內明其性,外篤其敬,以卑而自守故也。
胡瑗の解説:初六は謙遜卑順の質を以て全卦の最下位に居り、謙が極処に至り謙にしてまた謙の人です。謙にしてまた謙のこの路は、小人には歩けず、ただ君子のみが為し得るので、爻辞は彼を謙謙君子と称します。これに凭って大河を渡渉して吉を得ると言うのは、君子が自身の謙卑退譲を持守して、恭敬の心が内里から発して、謙謙の徳が外に顕現して、こうして人心は皆来て帰附し万民は皆順服を肯ずるからです。民衆がすでに帰心すれば、縦使天大の凶険艱難があっても、この人心に凭って渡れば成らないなく、況んや平常無事の時において、吉を得るは自然と言うを待ちません。《小象伝》が卑下を以て自ら涵養すると言うのは、あの「牧」の字は涵養でありまた守持です。これは大人君子が謙の上に謙を加え得る所以は、内里に心性を照察分明にし、外に恭敬を篤実に為して、終始卑下を以て自守するからだということです。
六二:鳴謙,貞吉。象曰:鳴謙貞吉,中心得也。
六二の爻辞は言います。謙徳の名声が外に伝揚して、正道を守持して吉を得ます。《小象伝》は言います。名声が外に伝わり貞正に吉を得るのは、この謙徳がもとより心中から得たからです。
義曰:鳴者,聲聞流傳於外也。夫六二居卦之中,以陰居陰,是君子履中居正,積柔順而行其謙,故聲聞流於人也。貞吉者,言六二以謙退之聲聞於人,是得正道之吉也。象曰鳴謙貞吉中心得也者,此言君子所作所為皆得諸心,然後發之於外,則無不中於道也。故此謙謙皆由中心得之,以至於聲聞流傳於人而獲至正之吉也。
胡瑗の解説:鳴は名声が外に流伝することです。六二は下卦の中位に居り、また陰爻を以て陰位に居って、まさに君子が中正の上に踏み、柔順の徳を積蓄して謙道を行うので、声誉は自然と衆人に伝揚します。正を守って吉を得ると言うのは、六二が謙退の名声を以て人に知られるのは、これは正道を守住して得た吉祥を指します。《小象伝》がこの謙徳は内心から獲得したと講じるのは、君子の一言一行が皆先ず内心の真実から得て、然る後に外に発露するので、正道に合せぬなく、ですからここの謙にしてまた謙は、全て内心から自然と生出して、進んで名声を人に伝えて極めて純正の吉祥を獲得したのです。
九三:勞謙君子,有終,吉。象曰:勞謙君子,萬民服也。
九三の爻辞は言います。勤労して謙徳を失わない君子は、善く始め善く終り得て、因って吉祥です。《小象伝》は言います。勤労して謙を行う君子には、天下万民が帰心順服します。
義曰:勞謙者,言勤勞于謙也。九三以陽居陽,為下卦之長,眾陰所歸而其位至重,故上則謙以奉於君,下則謙以治於民,勤勤不已,無有厭斁之心,是謂勞謙者也。君子有終者,言君子唯以行道為己樂,不以用謙為己勞,故終身行之而不變,所以得其吉也。象曰勞謙君子萬民服也者,言君子之人勤勞而行謙,則為萬民之所服而眾心之所歸。且凡人能謙者,天地鬼神尚且佑助而福慶之,則民之服従也可知矣。
胡瑗の解説:いわゆる労謙とは、謙のこの事の上に苦功を下るを肯ずるを言います。九三は陽爻を以て陽位に居り、下卦の首領で、衆多の陰爻が皆それに帰向し、位置は極めて吃重です。それゆえ上に対しては謙恭を以て君主に奉事し、下に対しては謙和を以て百姓を治理し、勤勤懇懇として歇まるを肯んじず、半分の厭倦懈怠の心なく、これを労謙と呼びます。君子が終を有り得ると言うのは、君子がただ道を行うを己の快楽と為して、謙を守るを負担と為さないので、終身奉行して改変せず、因って吉を得ます。《小象伝》が万民が順服すると言うのは、君子が勤労して謙を行えば、万民に信服され衆心に帰向され得るということです。況んや凡そ謙し得る人は、天地鬼神でさえ彼を佑助し彼に福を賜うのに、百姓の順服は自然と更に言うを待ちません。
六四:無不利,撝謙。象曰:無不利撝謙,不違則也。
六四の爻辞は言います。処処利ならざるなく、それが一挙一動・号令発施の間に皆謙道に合するからです。《小象伝》は言います。処処利ある所以は、六四が守るべき法度に違背しなかったからです。
義曰:撝謂指揮之間皆謙也。夫大有之四處君臣之間,故聖人戒之言匪其彭,然後得無咎,以其以陽而居陰也;此謙之四亦在君臣之間,乃言無不利撝謙者,以其以陰居陰,履得其正故也。何則?凡朝廷之間,必得正人端士以贊佐其君,則為治於天下無所不利也。
胡瑗の解説:撝は、手を挙げ足を投じ号令を発施する際に処処謙徳を失わないことを言います。《大有》卦の九四もまた君臣の間に夾んでいましたが、聖人はそれに必ず九三を攀附せざるべしと告戒して、はじめて過錯を免れ得るとしました。あれはそれが陽爻を以て陰位に居り処する所が正でなかったからです。《謙》卦の六四は同じく君臣の間に夾んでいますが、爻辞は往くも利ならざるなく挙措が皆謙だと言います。あれはそれが陰爻を以て陰位に居り爻位が端正適当だからです。なぜ位が正しければ利があるかというと、朝廷の上には必ず正派端方の士があって君主を輔佐してはじめて、天下を治理するに往くも利ならざるなしとなります。
今六四以至柔之質而居柔位,是至正之人也。以至正之人而上近於六五之君,下比於九三之臣,而盡謙巽之道以承接之,故進退俯仰以至指揮之間,皆得用謙之道而無有不利也。象曰無不利撝謙不違則也者,言六四所以然者,由履於正位,不違逆其法則也。
今、六四は極めて柔順の資質を以て柔位に居り、まさにこのような端方守正の人です。このような端正の人を以て、上には六五の君に親近し、下には九三の臣と相「比」し――「比」は相隣る二爻が彼此親近相辅することを指します――而して謙遜卑順の道を尽くして承事し接納するので、進退俯仰は言うに及ばず号令を発施しても、件件が皆謙道に合し、因って利ならざるなしです。《小象伝》がそれが法度に違背しないと言うのは、六四がこのようである所以は、まさにそれが端正の位置に立って、守るべき規矩に違逆しなかったからだということです。
六五:不富以其鄰,利用侵伐,無不利。象曰:利用侵伐,征不服也。
六五の爻辞は言います。財富の豊厚に靠らずとも左右隣邦を役使し得て、兵を出して討伐するに适宜で、利ならざるなしです。《小象伝》は言います。征討に适宜な所以は、あの帰服を肯んじない人を討伐するためです。
義曰:以,用也。六五以柔順居至尊之位,是能執柔以治人,居謙以遇物,故不待富盛而能用其鄰也。以天子言之,則能用其四夷與天下諸侯;以諸侯言之,則能用其鄰國也。利用侵伐無不利者,言六五以柔德化治天下而能用其鄰,當此之時,苟有不庭不軌之人,則是不率仁人之教而天下共棄之。人乘天下共棄之心而伐之,無所不利。
胡瑗の解説:爻辞の裏の「以」の字は「用」と講じます。六五は柔順の徳を以て至尊の位に居り、柔道を握持して衆人を治理し謙徳を守って人に対し物を接し得るので、財力の富足に靠らずとも四隣の効力を得ます。天子に就いて言えば、四方の部族と天下の諸侯を役使し得て、諸侯に就いて言えば、相隣る邦国を借重し得ます。征討に适宜して利ならざる所なしと言うのは、六五が柔徳を以て天下を教化しまた四隣を調動し得て、この種のときにもし朝覲を肯んじず法度を守らない人があれば、それは仁君の教化に服せずして天下に共に棄てられる者です。天下の共棄の心に順って彼を討伐すれば、自然と順利でないものがありません。
夫堯舜以至仁率天下,然尚有三苗之徵,則其它可知矣。但聖人在上,有叛逆之人則眾所共怒也,以至仁而侵伐之,無有不利也。然先聖於此特言侵伐者,蓋有意於勸耳。何則?夫人君之治天下,必恩威兼用然後可濟,今當謙之時,不可純用於謙,其有不庭不軌,必以侵伐而克之也。
堯・舜は最高の仁徳を以て天下を統率しても、なお三苗を征討する挙動があり、其余の情形もまた想いが及びます。ただ聖人が上に在れば、叛逆の人が出るは衆怒の帰する所で、至仁の師を以て彼を討伐すれば、順利でないものがありません。ただ先聖が《謙》卦の裏で特に征伐の二字を提出したのは、別に一番の勧誡の用意があります。なぜかというと、君主が天下を治理するに、必ず恩徳と威刑を併用してはじめて成し得、今は正に謙を尚ぶ時に当たっても、一味に謙譲のみを用い得ず、朝覲を肯んじず法度を守らないに遇えば、終に征討を以て彼を制服せねばなりません。
上六:鳴謙,利用行師,征邑國。象曰:鳴謙,志未得也,可用行師征邑國也。
上六の爻辞は言います。謙徳の名が外に伝揚して、軍隊を出動して、自分の封邑の内の叛乱を征討するに适宜です。《小象伝》は言います。名声はすでに伝わり開けたけれど、志向はまだ真に実現していないので、ただ兵を出して自分の属邑を整治するのみです。
義曰:上六居上卦之極,謙道已得而處於無位,然本以其行謙,故亦有聲名流傳於外,故曰鳴謙。利用行師征邑國者,言上六雖行謙而聲名既著矣,然而居無位之地,無功實之效,故但可行師徵己之邑國而已,是其功未能及遠,不若六五之用侵伐而無所不利也。
胡瑗の解説:上六は上卦の頂端に居り、謙の功夫はすでに修足したけれど、居る所は職位のない地で、ただそれはもとより謙を行っているので、名声は照样外に伝揚し、それゆえ爻辞はそれの謙名が遠く播れていると言います。兵を出して自分の属邑を征討するに适宜だと言うのは、上六が謙を行って声名はすでに顕赫であるけれど、身に無位の地に居り、実際の事功の凭藉が缺少して、ただ兵を出して自分の封邑の内の事を整治するに過ぎず、その功業はまだ遠方に推及できず、六五のように兵を出して討伐して往くも利ならざるなしには及びません。
象曰鳴謙志未得也者,按六二亦言鳴謙,而象曰中心得也,此言志未得者,蓋六二當人臣之位,居中履正,以此而行謙,故得吉也。今上六雖有謙巽之聲聞於外,然居無位之地,雖欲立功立事於天下,其志未有所得也。
《小象伝》がそれの心志がまだ実現していないと言うのは、六二もまた謙名の遠播を講じていて《小象》はあれは内心の真実に得たと言うのに、ここではなぜ心志が未遂だと言うのでしょうか。六二は人臣の位置に正しく当たり、中に居り正を守って、この位置に凭って謙を行うので、吉を得られました。而して上六は謙遜の名が外に遠く播れていると雖も、処する所は無職無位の地で、縦使天下に功業を建立せんと欲しても、心志はなお実処に落ち得ないのです。
豫 坤下震上
豫:利建侯行師。
《豫》卦の卦辞は言います。和楽の局面の下で、諸侯を分封し軍旅を出動するに宜しいです。
義曰:豫,樂也,悅也。按《序卦》云:有大而能謙必豫,故受之以豫。言聖人在上,大有天下之眾,而又能持謙巽之德以臨於下,則天下之人皆悅豫而従之。以二體言之,則雷出於地上而蟄蟲昭蘇,勾萌皆達,萬物無不得其豫悅也,故曰豫。
胡瑗の解説:豫とは、歓楽・喜悅です。《序卦伝》は言います。すでに盛大でかつ謙退し得れば、必ず和楽をもたらす。故に《謙》卦の後は《豫》卦に接ぐ。これは聖人が上に在り、すでに天下万民を擁有して、また謙遜卑順の徳を持守して下の人に対すれば、天下人は皆歓欣鼓舞して彼に従うということです。上下二つの卦体から見れば、震の雷は地面から奮発して出て、蛰伏の虫豸は醒め蘇り、屈曲の芽と初生の苗は皆土を破って伸展し、万物は各々その楽を得ないなく、ですから卦名を豫とします。
利建侯行師者,天下之人既已悅豫,則當建立諸侯而分治天下,出兵行師以討其叛逆。何則?夫民苟不順,何為而可哉?民心既已悅順,雖驅之死地而亦従之,故豫而建侯行師無所不利矣。若武王之伐紂,以其順天應人,是以一怒而安天下,天下之民無不悅豫而順従也。
諸侯を分封し軍旅を出動するに宜しいと言うのは、天下人がすでに歓悦した以上、諸侯を分封して分区治理させ、軍隊を出動して叛逆を討伐せしめるべきだからです。なぜかというと、百姓がもし順従を肯んじなければ、何の事を為しても成せましょうか。民心がすでに歓悦順服すれば、たとえ彼らを湯火に赴かせても従うを肯ずるので、和楽の時に諸侯を封建し兵を興して征討すれば、順利でないものがありません。周武王が商紂を討伐したがごときは、上に天意に順い下に人心に応えたので、奮然と一怒して天下を安定し、天下の百姓は歓欣順服せぬものがありませんでした。
彖曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎?天地以順動,故日月不過而四時不忒;聖人以順動,則刑罰清而民服。豫之時義大矣哉!
《彖伝》は言います。《豫》卦が豫たる所以は、九四という陽剛の爻が陰爻の応和を有り、心志が施行を得るからで、下卦の坤は順・上卦の震は動で、情理に順って行動する、これが豫です。すでに理に順って動けば、天地でさえそれと相合するのに、況んやただ諸侯を分封し兵を出して征討するような事においてをや。天地はまさに理に順って動くので、日月の運行に差錯なく四時の更替に失序なく、聖人は民心に順って動くので、刑罰は清簡にして百姓は帰服します。《豫》卦の処する時機と義理は、実に重大です。
義曰:剛應而志行者,此以二體明其義。剛謂九四也,應謂初也。九四以剛陽居大臣之位,又處震動之下,下與初六為應,是上下之志皆得通行也。順以動豫者,震上動也,坤下順也,言聖人所動皆順於民心,則民無有不順而悅豫也。
胡瑗の解説:陽剛に応があって心志が行を得ると言うのは、上下両体に就いて卦義を説明します。剛は九四を指し、応は初六を指します。九四は陽剛の質を以て大臣の位に居り、また震体の最下に居って、下に初六と相応するので、上下の心志が皆暢通して施行し得ます。理に順って動けばすなわち豫だと言うのは、上卦の震が動を主り下卦の坤が順を主ることを指し、聖人の一切の挙動が皆民心に順えば、百姓は順服歓悦せぬものがありません。
豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎者,此釋建侯行師之義。言聖人能以豫順民心,又合乎時,雖天地之至髙至厚尚亦不違,況建侯以治民、行師以戡難乎?其利可知也。天地以順動,故日月不過而四時不忒者,言天地之大,一晝一夜凡行數十餘萬里而無毫釐之過與不及,是能以至順而動,故日月代明而無薄蝕之差,四時迭行而無盭繆之愆也。
和楽して理に順り以て動けば、天地でさえそれと相合するのに、況んや諸侯を分封し兵を出して征討するにおいてをやというのは、これは封建と用兵の道理を解釈します。聖人が能く和楽を以て民心に順応しまた時宜に合すれば、至高の天・至厚の地でさえ彼に違逆しないのに、況んや諸侯を分封して百姓を治理し軍隊を出動して禍乱を平定するにおいてをや、その中の利益は言うまでもありません。天地が理に順って動くので日月に差なく四時に乱れないと言うのは、天地がこのように広大で、一昼一夜に数十万里を運行するのに、一糸一毫の過頭も不足もなく、まさに最も順なる方式を以て運動するので、日月は輪番に照り耀いて虧蝕の差錯なく、四季は順次更替して顛倒錯乱の失誤がないということです。
聖人以順動,則刑罰清而民服者,聖人以天地為心而有所動作,則天下之人悅豫而従,故刑罰清而民服従之。然此指刑罰而言者,葢聖人用之所以禁暴止奸,萬民之所深畏者也。當刑者刑之,當罰者罰之,懲一而勸百,故刑罰可措而清矣,是天下之民服従而不犯也。豫之時義大矣哉者,聖人嘆美之辭也,言豫之時其義至大,意使後人所動所為當順於心而已。
聖人が理に順って動けば刑罰は清簡にして百姓が帰服すると言うのは、聖人が天地の生養の心を以て心として挙措する所有れば、天下人は歓悦して従うので、刑罰は清簡にして百姓は服従するということです。ここに単に刑罰を挙げて言う所以は、刑罰はもとより聖人が暴行を禁絶し奸邪を遏止するのに用いる手段で、また万民が最も畏懼する物だからです。刑を用いべきは刑を用い、処罰すべきは処罰して、一人を懲治して百人を警戒するので、刑罰は擱置して用いず清簡に帰し得て、天下の百姓は自然と服従して法を犯しません。末句が《豫》卦の時義の大を讃嘆するのは、聖人が称美する話で、和楽の時の含む義理が極めて重大で、その用意は後人に凡そ挙動作為ある毎に、必ず人心に順わねばならぬと欲するにあります。
象曰:雷出地奮,豫。先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。
《大象伝》は言います。震雷が地の下から奮発して出て、声勢が昂揚する、これが《豫》の卦象です。先王はこれに取り法って、音楽を制作して徳業を推崇し、盛大の礼儀を以て楽章を上帝に献享し、かつ祖先を以て配享しました。
義曰:雷者,陰陽奮擊成聲也。殷,盛也。言雷聲奮出於地上,則震動萬物,使勾者盡出,萌者盡達,萬物起而滋植,悅豫之象也。先王觀此之象,則必順時而動,使天下之人皆従服而和樂也。
胡瑗の解説:雷は、陰陽二気が相激し相搏して発出する声響です。殷は、盛大です。これは雷の声が地面から轟然として出て、万物を震動させ、蜷曲の芽を尽くして土を破らせ、初萌の苗を尽くして舒展せしめ、万物が勃然として生長する、まさに歓悦和楽の景象だということです。先王はこの景象を観察して、時令に順って行動し、天下人を皆心の服悦・安和快楽せしめました。
民旣和樂,於是採其和聲,作樂以通天下之和,使天下之人聞之而無不悅樂,則其德從而崇髙也。故若武王伐紂之後,天下之民旣出於塗炭而得其和樂,於是象其成功而作大武之樂,是由順民心而動者也。且聖人作樂,不惟民得其和,又且薦之上天,配以祖考,所以通人神之和而告其成功也。
百姓がすでに和楽したので、こうしてあの和平の声を采集して、音楽を製成して天下の和気を貫通し、天下人に聞かせて歓喜せぬなくして、君主の徳業もまた随って崇高になりました。ですから周武王が商を滅ぼした後、天下の百姓は水深火熱を脱離して安楽を重獲したので、武王は自分の功業に依照して《大武》の楽を創制した、これがまさに民心に順って行動した結果です。況んや聖人が音楽を制作するは、ただ百姓にその和平を得せしめるのみならず、またそれを上天に献享し祖先を以て配祭して、以て人と神の間の和気を溝通し、かつ上天に功業の成就を報告するのです。
初六:鳴豫,凶。象曰:初六鳴豫,志窮凶也。
初六の爻辞は言います。得意して形を忘れて歓楽を張揚し出せば、凶険があります。《小象伝》は言います。初六が歓楽を外に張揚するのは、心志が逸楽に沈溺して尽頭に走ったので、凶です。
義曰:鳴謂聲名流傳於外也。初六居豫之初,繫應於四,四為悅豫之主,有盍簪之朋而已應之,是得志於四也。夫以小人得志,則悅豫過甚,驕奢放恣,無所不為,以至聲傳於外而致其凶咎也。象曰鳴豫志窮凶也者,大凡樂不可極,志不可滿,人理之常也,今初六致其凶咎者,志窮於悅樂故也。
胡瑗の解説:鳴は名声が外に張揚することです。初六は《豫》卦の初に居り、九四と相応します。九四は歓楽を掌握する主爻で、衆人は髪簪が頭髪を聚攏するように彼に帰附し、而して初六は恰好彼と相応して、九四の所で志を得たに等しいです。小人が一旦志を得れば、歓楽は頭を過し、驕縦奢侈・放肆妄為して、為せないことなく、以致って張揚して遠近に皆聞こえて、凶禍を招来します。《小象伝》が彼の心志が尽頭に走って凶だと言うのは、大凡快楽は極処まで享けず、心愿は十分まで填めてはならず、これは人事の常理で、初六が凶咎を招来したのは、まさに心志が一味に享楽の裏に沈溺して、更に回旋の余地がなかったからです。
六二:介于石,不終日,貞吉。象曰:不終日貞吉,以中正也。
六二の爻辞は言います。節操が磐石の如く堅定で、一日が過ぎるを待たずして苗头を看清みて身を抽き、正を守って吉を得ます。《小象伝》は言います。終日を待たずして正を守って吉を得るのは、六二が中に居りかつ位に当たるからです。
義曰:介于石者,言介然如石之堅勁也。六二處悅豫之時,居中履正,是中正知之君子也。初六有鳴豫之凶,已下交之而無褻瀆之心;九四為悅豫之主,有盍簪之朋,已上交之而無諂媚之行。是君子之人介然守其節操,堅勁如石,守其正道,故不終日之間所以獲其吉也。先聖繫辭釋此爻曰:君子見幾而作,不俟終日,介如石焉,寧用終日。是言六二中正而獲吉也。
胡瑗の解説:節操が石の如く堅定だと言うのは、操守が卓然として独立し石のように堅硬であることを形容します。六二は衆人が逸楽に耽る時に居りながら、下卦の中に居りかつ陰爻を以て陰位に居って、すなわち中にしてかつ正で智慧ある君子です。初六には張揚して凶を取る患があり、六二は下に向かってそれと交往しても軽慢褻狎の心を帯びず、九四は歓楽の主爻で身辺に大批の依附者を聚めているのに、六二は上に向かって彼と交往しても一糸の諂媚の態を帯びません。これがまさに君子が卓然として自分の節操を守住し、石の如く堅硬にして正道を堅守するので、一日が過ぎるを待たずして吉祥を獲得し得ます。先聖は《繫辞》の裏でこの一爻を解釈して言います。君子は事の細微の徵兆を見れば直ちに行動し、一日が過ぎるまで待つ必要なく、操守が磐石の如く堅ければ、どうして終日拖延するを用いようか。言う所はまさに六二が中に居り正を守って吉を得るのです。
六三:盱豫,悔,遲有悔。象曰:盱豫有悔,位不當也。
六三の爻辞は言います。眼を開いて上を仰いで諂媚して歓楽を求めれば、悔恨があります。遅疑して進まなくても、同じく悔恨があります。《小象伝》は言います。諂媚して楽を求めて悔に至るのは、六三の処する位置が恰当でないからです。
義曰:盱者,盱睢諂媚之謂也;遲,緩也。以不中不正之質而上近於九四操權之臣,若盱睢諂媚以求悅於四,則必有悔也;若遲緩而不求於四,亦必有悔也。然則六三何以進退遲速之間皆有悔?蓋悅豫之時,以正而從之則可也,三旣以不正而所求者又不正,則宜其速悔矣。
胡瑗の解説:盱は目を張り仰ぎ視して逢迎諂媚する様子、遅は遅緩です。六三はすでに中に居らずまた位に当たらず、上に権柄を手握る九四に緊挨します。もし大眼を睜いて九四に討好巴結しに行けば、必然に悔恨を招来し、もし遅疑观望して九四に親附しに行かなくても、照様悔恨があります。それでは六三はなぜ進んでも悔い退いても悔い、速くても悔い慢くても悔いるのでしょうか。和楽の時に、ただ正道を以て追随してはじめて行き通るからです。六三は本身が正でなく、追随せんとする九四もまた正応ではないので、速やかに後悔するも怪しむに足りません。
九四:由豫,大有得,勿疑,朋盍簪。象曰:由豫大有得,志大行也。
九四の爻辞は言います。天下の歓楽が皆彼に由って来るので、大いに得る所有ります。ただ属下を猜忌しなければ、同道の人が髪簪が髪を束ねるように聚攏して来ます。《小象伝》は言います。歓楽が彼に由って生じ大いに得る所有るのは、彼の心志が充分に施展を得たことを言います。
義曰:此卦上下群爻皆陰柔,而四獨以剛陽之德為豫之主,然非至尊之位,乃專權之臣也。權既已專,是以上下皆附從之,必由於已而後得豫也,故曰由豫也。大有得者,四既得眾爻從之以取其悅樂,是已之大有所得也。
胡瑗の解説:この卦は上下の各爻が皆陰柔で、ただ九四のみが陽剛の徳を以て歓楽の主宰となりましたが、しかしそれの居る所は至尊の位ではなく、ただ一位の大権を独攬する臣子です。権柄がすでに一身に集まれば、上下は皆来て依附し順従して、天下の歓楽は皆彼を経由してはじめて獲得するので、爻辞は歓楽が彼に由って来ると言います。大いに得る所有ると言うのは、九四がすでに衆爻の追随を得てこの歓楽を享有するので、自身の収穫が甚だ大きいからです。
勿疑朋盍簪者,朋,類也;盍,合集也;簪,冠之笄也。言四秉悅豫之權,眾來附已,然而必藉天下群才共成天下之事業。群材既已從己,己必盡誠以信任之,不有疑貳之心,則彼將引其朋類、合其簪纓而來也。
猜疑せず同類が聚合して来ると言う、その中の朋は同類、盍は聚合、簪は冠を束ねる髪笄です。これは九四が和楽の権を握有して、衆人が来て依附するけれど、天下の事業を成就するには終に天下の衆多の人才に倚仗せねばならないということです。衆才がすでに自分に帰附した以上、自分は必ず十足の誠意を出して彼らを信任し、半点の猜疑二心を存せず、さすれば彼らは各々の同類を招引し衣冠を整肅して群を成して来るでしょう。
象曰由豫大有得志大行也者,九四以剛陽之才為豫之主,上下群陰悅附於已,而又能信任天下之士,天下之士皆合其簪纓而來,是得其位而有權,故其志大得行也。
《小象伝》が彼の心志が大いに施行したと言うのは、九四が陽剛の才に凭って和楽の主宰となり、上下の各陰爻が皆歓喜して彼に帰附し、彼はまた天下の士を信任し得て、天下の士は冠を整え伴を結んで来る、これはすでに合適の位置を得かつ実権を握ったので、抱負が大いに展開し得たのだということです。
六五:貞疾,恆不死。象曰:六五貞疾,乘剛也;恆不死,中未亡也。
六五の爻辞は言います。正を守るこの事の上で毛病が出たけれど、長く拖延しても覆亡に至りません。《小象伝》は言います。六五がこの病症を有する所以は、それが陽剛の九四の上に凌乗しているからです。久しく病んで死なない所以は、それがなお中位に占めて、根基がまだ喪尽していないからです。
義曰:疾謂疾病也,恆者綿綿之貌。六五以柔弱之質居至尊之位而履失其正,又下乘九四剛陽之權臣,是於正道有所疾也。恆不死者,言六五以柔弱之質而履失其正,是有疾病者也,然而得常不死者,以其居中處尊,猶且綿綿不絶而未至於亡也。
胡瑗の解説:疾はすなわち病、恒は息が綿長にして絶えない様子を形容します。六五は柔弱の質を以て至尊の位に居り、処する所はもとよりすでに正を失い、下にまた九四という陽剛の権臣に凌乗し――承乗の関係の裏で、柔を以て剛に乗るは最も不利です――ですから正道上において病が出ました。長く死なないと言うのは、六五は資質が柔弱で処する所が正を失い、確かに一つの病人です。しかし長く死なずにいられるのは、それが畢竟上卦の中に居りて尊位を拠し、一息がなお存して綿延して絶えず、まだ滅亡に至らないからです。
然所存者但位號而已。故若周平東遷之後,天下之權盡屬強臣,而天王所存者位與號爾。此六五所以然者,蓋一卦之中最正者六二一爻而已,其執節堅勁,所交不諂不瀆,是至正之臣也,今五乃不能委任之,而又且乘陵於四,此所以得不死之疾也。
ただ保住した所はただ一つの名位称号に過ぎません。ちょうど周平王が東に洛邑に遷って後、天下の大権が全て強臣の手中に落ちて、周天子の残った所はただ一つの王位と一つの王号のみでした。六五がこの地步に落ちたのは、全卦の中で最も端正なのがただ六二の一爻であるのに因ります。それは節操が堅定で、上と下と相交わるに諂媚せず軽慢せず、最も純正の臣子なのに、六五は偏に彼を委任することを肯んじず、かえって身を九四の頭上に壓したので、これにおいて久しく拖えて愈えない病症に落ちたのです。
上六:冥豫成,有渝,無咎。象曰:冥豫在上,何可長也。
上六の爻辞は言います。逸楽に昏昧して積習がすでに成ったけれど、もし翻然として改変し得れば、災禍がありません。《小象伝》は言います。逸楽に昏昧してかつ上位に高居すれば、この種の情形はどうして長久であり得ましょうか。
義曰:冥謂冥昧也。上六居豫之極,悅樂過甚而不知止節,以至智性昏迷,冥冥而無所知識,以至於凶咎也。大凡禮樂之道,必相須而成,然後制節和平皆得其所也。若禮勝而樂不至,則民散而不和也;樂勝而禮不至,則民蕩而不反也。是樂必有禮以為節,禮必得樂而後和,二者兼備則不至悔咎也。
胡瑗の解説:冥は昏暗蒙昧です。上六は《豫》卦の頂点に居り、享楽が頭を過して節制を知らず、以致って心智が昏迷し、糊裏糊塗として何も明白せず、終に凶禍を招来します。大凡礼と楽のこの両様は、必ず互相配合してはじめて成就し得て、然る後に節制と和悦が各々その宜を得ます。もし礼の一面が過重で楽が追いつかなければ、百姓は離散して和睦せず、もし楽の一面が過重で礼が追いつかなければ、百姓は放蕩して収め戻せません。ですから楽は必ず礼があって節制し、礼は必ず楽があってはじめて和融を顕し、両者を兼備してはじめて悔恨と災禍を招来しないに至ります。
今上六悅樂過甚,是不知所節,以至冥暗也。古之太康內作色荒、外作禽荒而貽邦國之患,商紂作長夜之樂以至傾圯社稷,是皆智性昏迷,恃樂過極以至亡也。非獨人君則然,至於公卿大夫而下莫不若是。故《伊訓》曰:惟茲三風十愆,卿士有一於身,家必喪;邦君有一於身,國必亡。故知自天子至於士庶人,凡酣樂過甚必有凶咎也。
今、上六は享楽に度がなく、すなわち節制を解さず、はじめて昏暗糊塗の地步に落ちました。古の夏代の太康は、内は女色に沈溺し外は田猟に沈溺して、国家に大禍を遺し、商紂王は通暁達旦に作楽して、終に社稷を傾覆しました。これは皆心智が昏迷して享楽を仗って極端に走って滅亡した例です。君主のみならず、公卿大夫以下も例外がありません。ですから《尚書・伊訓》は言います。この三種の悪風・十項の過失は、卿士の身に一条沾えば家は必ず敗落し、封国の君の身に一条沾えば国は必ず滅亡する。見れば分かるように、上は天子より下は士人百姓に至るまで、凡そ酒を縱し楽を為して分寸を過ぎる者は、必ず凶禍を招来します。
有渝無咎者,渝,變也。言苟能因其逸樂之過而反思悔咎,自省於已,變前之為而節之以禮,則庶幾免於悔咎也。象曰冥豫在上何可長也者,此聖人深戒之意也,言其悅豫過甚,至於情蕩性冥而不知所止,是何可長如此乎?言能渝變則可以無咎也。
改変し得れば災禍がないと言う、その中の渝は改変です。これはもし逸楽が過度に因って回頭して反省し追悔自責し、自身を検点し、従前の做法を改めて礼を以て節制を加え得れば、それならばほぼ悔恨と災禍を免れ得るということです。《小象伝》が楽に昏昧して上位に居るはどうして長久であり得ようと言うのは、これは聖人が深切に告戒する用意です。享楽が頭を過して、性情を放蕩し心神を昏昧にして収束を知らぬに至れば、このように下去してどうして長久であり得ましょうか。言外の意は、ただ翻然として改過するを肯えば、差錯を出さずに済むということです。
随 震下兌上
隨:元亨利貞,無咎。
《随》卦の卦辞は言います。「元亨利貞」の四徳を具えて、はじめて過錯を免れ得ます。「元亨利貞」は天地が万物を生成する四種の徳性で、元は開創、亨は通達、利は和宜、貞は正固です。
義曰:按《序卦》云:豫必有所隨,故受之以隨。言聖賢在上,旣得天下之悅豫,必皆樂而隨之也。然謂之隨者,兌上為說,震下為動,是聖賢動順民心,則天下皆悅樂而隨之也。元亨利貞者,此天地之四德也。凡聖賢之人慾天下之隨已,故當修天地生成之四德,然後可以使天下皆悅而隨之,則可以免咎也。
胡瑗の解説:《序卦伝》は言います。和楽の後に必ず追随あり。故に《豫》卦の後は《随》卦に接ぐ。これは聖賢が上に在り、すでに天下の歓悦を獲得した以上、衆人は必然に彼を追随するを楽しむということです。随と呼ぶ所以は、上卦の兌が喜を主り下卦の震が行動を主り、聖賢の挙動が民心に順応すれば、天下人は歓喜して従うからです。いわゆる開創・通達・和宜・正固は、天地が万物を生成する四種の徳性です。凡そ聖賢が天下人に自分を追随せしめんと欲すれば、天地のこの四種の化育の徳を修養して、然る後にはじめて天下人を心から悦服して従わせ得て、また過錯を免れ得るのです。
凡人將隨於人者,亦當審其所隨之人有此元亨利貞之四德,能生成於民物者,然後隨之,則得其所安而獲其無咎也。是隨之道,必以此四德兼備,然後可以求人之隨及隨於人也。
反対に言えば、一人が他人を追随せんと打算するも、また応に先ず追随せんとする対象が開創・通達・和宜・正固のこの四種の徳性を具えるか否か、真に百姓を養育し万物を成就し得るか否かを看清みて、然る後に追随して、こうしてはじめて身を安んじ命を立てて差錯を出さずに済みます。見れば分かるように、追随の道は、必ず四徳を斉備してはじめて、他人に自分を追随するを求め、あるいは自分が他人を追随することを言えます。
彖曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞無咎,而天下隨時。隨時之義大矣哉!
《彖伝》は言います。《随》卦が随たる所以は、陽剛の体が下降して陰柔の下に居り、下卦は震動して上卦は兌悦で、一たび動けば人を喜ばせ、人は自然と追随します。大いに通達し正を守って過錯なく、こうして天下人は皆時に及んで追随します。時勢に随順する道理は、実に重大です。
義曰:剛來而下柔,動而說隨者,此就二體以釋其義。夫震以動,其性剛;兌以說,其性柔。今震在兌下,是剛來而下於柔也。猶聖賢君子以至剛之德、至尊之位、至貴之勢接於臣而下於民,故賞罰號令一出於上,則民皆悅然隨於下也,故曰剛來而下柔,動而說隨。
胡瑗の解説:陽剛が下降して陰柔の下に居り、一たび動けば人を喜悦せしめて追随を生ずると言うのは、これは上下両体から卦義を解釈します。震は動を主り、その性は剛に属し、兌は悦を主り、その性は柔に属します。今、震は兌の下にあって、すなわち陽剛が下降して陰柔の下に居ります。これはちょうど聖賢君子が至剛の徳を懐き至尊の位に居り至貴の勢を握りながら、身を屈して臣子を接納し百姓に俯就することを肯ずるがごときなので、賞罰号令が一たび上から発せられれば、下の人は皆欣然として追随します。それゆえ剛者が柔の下に居り、一たび動いて人を悦服せしめ、こうして追随があると言います。
大亨貞無咎而天下隨時者,此釋元亨利貞之四德也,言有是四德兼備而無其咎過,則天下之人盡將奔走匍匐及時而隨之矣。隨時之義大矣哉者,言隨時之義至大,非大才大智有上四德之人,必不能使天下之民悅而隨之也,故先聖於此重嘆美之也。
大いに通達し正を守り過なくして天下が時に及んで追随すると言うのは、これは開創・通達・和宜・正固のこの四徳を解釈するので、四徳を具えてかつ過失がなければ、天下人は奔走して駆け来り俯身して帰附し、時に及んで彼を追随します。末句が時に因って随う意義の大を讃嘆するのは、この道理が極めて重大で、才略が宏大で智慮が深遠でかつ上述の四徳を兼具する人でなければ、断じて天下の百姓を心悦誠服して追随せしめ得ないので、先聖はここで再三称美したのです。
象曰:澤中有雷,隨。君子以嚮晦入宴息。
《大象伝》は言います。雷が大沢の中に潜蔵して、時機を待って然る後に動く、これが《随》の卦象です。君子はこれに取り法って、天色が晩に向かえば内に入って安歇休息します。
義曰:雷在澤中,是待時而動,若雷之一奮,則萬物皆隨而震動,是隨之象也。君子以嚮晦入宴息者,此當有二義。言隨之時必當慎其所以為隨之道,不可輕動,必須待其人有是四德之備而後隨之。雖然,亦未可以顯然而從之,固當韜光養正,向於隠晦之中以自安息,而詳審其人使可以隨,然後往而隨之,則得其道也。
胡瑗の解説:雷は沢中に伏して、時機を待ってはじめて発動し、一旦雷の声が奮起すれば、万物は皆それに随って震動する、これがすなわち随の卦象です。君子が晩に向かえば内に入って休息するという句に至っては、その中に二層の意思を含みます。頭の一層は言います。追随の時に居っては、必ず追随の道に対して格外に慎重で、軽挙妄動してはならず、必ず相手が確かに四徳を具えるのを待って、はじめて追随に行くべきです。縦使このようであっても、なお張揚して投奔しに行くに宜しくなく、鋒芒を収斂し正気を涵養して、幽隠の処に退いて自分を安頓し、あの人を仔細に審察し清らかにして、追随すべきことを確認して後、更に往って追随して、これがはじめて道理に合します。
苟不擇其人,又且顯然而往,至於中道有所不至,則其為患不細矣,故《論語》曰:朋友數斯疎矣,事君數斯辱矣,是也。又若君子欲人隨於已,亦當韜光濳德,向於冥晦之中,使其元亨利貞四德之備,則天下之人自然隨之也。故君子之隨於人者,若伊尹起莘而隨湯,太公起海濱而隨文王,七十子之隨仲尼,皆得其為隨之道也。
假如選択を加えずに貿然と往き、また姿態を極めて張揚に擺せば、一旦中途で相手が合意でないことを発覚したとき、惹き出す麻煩は少なくありません。ですから《論語》は言います。朋友に対して親昵煩絮に過ぎれば、かえって疎遠され、君主に事えて進言が頻繁に過ぎれば、かえって自ら辱を取ります。第二層の意思は、君子がもし他人に来て自分を追随せしめんと希望すれば、また応に光芒を斂蔵し徳性を潜養して、幽暗の中に退処して、開創・通達・和宜・正固の四徳を修養完備すれば、天下人は自然と来て追随します。君子が他人を追随した範例に至っては、伊尹が莘野から出て成湯を追随し、姜太公が海濱から出て文王を追随し、孔門の七十弟子が孔子を追随した如きは、皆追随の道に合します。
故先聖於象辭以戒後人,凡隨之道尤宜重愼也。註疏謂物皆說隨,可以無為,不勞明鑑。且凡聖人在上,天下未隨之時,則當焦心勞思以治之;及天下既隨之後,則亦當憂勤而思所以安之之道,豈有物既隨而荒怠佚樂、無憂勤之志者哉?
ですから先聖は《大象》の裏で後人に告戒します。追随のこの事は尤も応に慎重であるべきと。旧有の注疏は万物が皆欣然として相随えば、君主は以て為す所なく神明察を労せずともよいと言いますが、この講釈は妥当でありません。聖人が上に在って、天下がまだ帰附しないときは、固より苦心焦思して治理せねばならず、天下がすでに帰附したときに及んでも、同じく憂労勤勉して、人心を安頓する道を謀求せねばなりません。どこに万物がすでに帰附すれば、すなわち荒廃懈怠して安楽に耽り、更に憂勤の志を存せぬ道理がありましょうか。
初九:官有渝,貞吉,出門交有功。象曰:官有渝,從正吉也;出門交有功,不失也。
初九の爻辞は言います。素来把守した主張に変通する所有れば、正を守って吉を得て、門を出て行って人と結交すれば、功效を建立し得ます。《小象伝》は言います。主張に変あって正道に帰依すれば、吉を得る所以です。門を出て結交して功あるのは、自分の立身する所を失わなかったからです。
義曰:官,主守也;渝,變也。大凡人素有所主守,確然持一節不變者,當隨之世,則必觀時量勢而變其前之所守,則其人之可從者決然往而隨之可也。今初九居隨之時,當動之始,固宜易所素守,擇其人而隨之也。旣欲擇其人,則必視其有四德之備、大賢大正之人使可以隨之,則隨之則於正道得吉也。出門交有功者,言不能韜光晦跡拱黙以待其人,而已出門矣,則必擇其有功者然後交之,乃可以獲安而不失其所也。
胡瑗の解説:官は、主守する立場を指し、渝は、変通です。大凡一人が平素固守する所有って、死にも一節を抱き定めて改変を肯んじないけれど、追随を講ずる時代に至っては、必ず時勢を審し度を計って、従前の固守を略か変通しなければなりません。確かに従うに値する人に遇えば、毅然として往って追随します。初九は《随》卦の初に居り、まさに行動の開端に当たり、もとより応に素来の執守を改易して、合適の人を選択して追随すべきです。すでに選択する以上、相手が四徳を斉備するか否か、大賢大正の人と称し得るか否かを見て、追随すべきことを確認して後に追随すれば、このようにすれば正道に合して吉を得ます。門を出て結交して功あると言うのは、もし行跡を斂蔵し拱手静默してあの人を待つことを為し得ず、すでに門を邁げ出た以上、それならば必ず真に事功の建樹ある人を挑選して然る後にそれと結交して、かくの如くしてはじめて安穩に自処して立身の地を失わないことを指します。
象曰官有渝從正吉者,大凡人之守節,確然執一而不能通變者,未可以語聖賢之道也。夫聖賢之道,隨時通變,無所執泥,當可隨之時,雖素有所主,亦必擇其人之善者而從之也;若時不可動而人不可隨,則退而固其所守,以道自處也。然雖去就不同,但從於正則吉也。
《小象伝》が主張に変あっても正道に帰依したので吉を得ると言うのは、凡そ節を守るに一端に執定して変通を解さぬ人は、なお聖賢の道を談ずるに足りません。聖賢の做法は時勢に随って霊活に権変して拘泥固執せず、追随すべき時機に碰えば、縦使平素別に主張があっても、その中の良善の人を挑選して従いに行き、もし時勢が行動に宜しくなく相手が追随するに値しなければ、それならば退き帰って自分の操守を守牢にし、道義を以て自身を安頓します。出処進退は同じでないと雖も、帰依する所が正道であれば、結果は皆吉です。
六二:係小子,失丈夫。象曰:係小子,弗兼與也。
六二の爻辞は言います。底下のあの若い人に牽係すれば、上面のあの成年男子を失います。《小象伝》は言います。若い人に牽係するのは、両頭が同時に兼顧し得ないからです。
義曰:小子謂初九也,丈夫謂九五也。大凡陰柔不能自立,必得剛陽之人以繫之則可也。今六二居隨之時,與九五為正應而最逺之,初九非其應而切近之,故已以陰柔之質因而附於初,是失九五之丈夫而繫初九之小子也。然則六二履於中正,何繫乎非應?蓋陰弱而無常守故也。
胡瑗の解説:小子は初九を指し、丈夫は九五を指します。大凡陰柔の質は自立できず、必ず陽剛の人に依托してはじめて行えます。六二は《随》卦の時に居り、九五ともとより正しく相対応する一対ですが、相隔たるが最も遠く、初九はそれの正応ではないけれど、身辺に近在します。ですから六二は柔弱の質を以て勢に順って初九に依附して、九五という丈夫を抛き去り初九という小子に牽係したに等しいです。すでに六二は中に居り正を守るのに、なぜかえって相応せぬ爻に牽係するのでしょうか。陰質が柔弱で恒久不移の操守に缺少するからです。
夫以不定之性而又居隨之時,是必舍逺而繫近矣。然所以不言凶者,蓋聖人於此戒之,謂其尚有從正之道,若能繫於九五而舍於初九,則不至於凶咎也。象曰係小子弗兼與者,言繫於初則失五,繫於五則失初,從此則失彼,從邪則失正,是不可以兼與也。
このような揺擺不定の性情を以て、また人人が相随う時に居れば、自然と遠を捨て近を求めます。爻辞が凶と断じなかった所以は、聖人がここに告戒の意を留めたからです。六二は畢竟なお正道に帰依する余地があって、もし改めて九五に牽係し初九を放開し得れば、凶を招くに至りません。《小象伝》が両頭は兼ね得ないと言うのは、初九を係えれば九五を失い、九五を係えれば初九を失い、こちらに従えばあちらを丢き、邪路に従えば正路を失うので、終に両全し得ないということです。
六三:係丈夫,失小子,隨有求得,利居貞。象曰:係丈夫,志舍下也。
六三の爻辞は言います。上面のあの成年男子に牽係し、底下の若い人を失います。このように追随すれば、求める所に得る所有りますが、正道に安処するに宜しいです。《小象伝》は言います。丈夫に牽係するのは、六三の心志がすでに下のあの一頭を捨棄したことを言います。
義曰:丈夫謂四也,小子亦謂初也。六三亦以柔弱之質不能自立,必得剛陽之人以隨之也。上既近於四而下又逺於初,是以隨九四之丈夫而失初九之小子也。隨有求得者,言隨之時,六三上無正應,九四又下無正應,是兩無所繫而又相比,今六三往隨之,是所求有得也。
胡瑗の解説:ここの丈夫は九四を指し、小子はなお初九を指します。六三も同じく柔弱の質を以て自立できず、必ず一位の陽剛の人に依托して追随に行かねばなりません。それは上に九四に緊隣し、下に初九から離れるが較遠なので、九四という丈夫を追随して初九という小子を失いました。追随して求める所に得あると言うのは、この追随の時に、六三は上に正応なく、九四も下に正応なく、両爻が皆牽係する所なくかつ彼此緊隣するので、今、六三が往って彼を追随すれば、求める所は自然と収穫あるからです。
利居貞者,言六三、九四皆非所應,今既相從,必以正道乃獲其利而無凶咎之事也。是以凡師友朋黨之間所相隨者,必皆以正則可以全其終也。故仲尼曰:居是邦也,事其大夫之賢者,友其士之仁者。蓋言必得正人端士,然後可以相從也。
正道に安処するに宜しいと言うのは、六三と九四は本来正応ではなく、今すでに相従した以上、必ず正道を歩んで、はじめて好処を得て凶禍を出さないからです。ですから凡そ師徒・朋友・同道の間の相互追随は、必ず正を以て相处して、はじめて善終を保全し得ます。孔子は言ったことがあります。一つの邦国に住すれば、そこの賢良の大夫に事え、そこの仁厚の士人と結交せよ。講ずる所はまさに必ず端正正派の人を見つけて、然る後に彼此相従することを談じ得るのです。
九四:隨有獲,貞凶。有孚在道,以明,何咎?象曰:隨有獲,其義凶也;有孚在道,明功也。
九四の爻辞は言います。追随して収穫する所有っても、もし一味に己が為に据えれば、たとえ自守しても凶険があります。ただ誠信を心に懐き行事を臣道に合して、かつこの心跡を表明し出せば、また何の過錯がありましょうか。《小象伝》は言います。収穫する所有ってそれを据えるは、道理に就いて言えば凶です。誠信を懐き臣道を恪守して、はじめて自分の功業を顕明し得ます。
義曰:九四以陽居陰,履非其正,然而已以剛明之才得居人臣之極位,用心廣大,無所繫吝,天下之民欲隨於己,巳輒納而不拒之,是有所獲也。貞凶者,夫民,君之民也,已居人臣之位而輒有之,則侵權擅民,於人臣之正道大為凶也。
胡瑗の解説:九四は陽爻を以て陰位に居り、処する所は端正ではありません。しかしそれは剛強明叡の才に凭って人臣の最高の位置を占拠し、胸襟は広々として偏私吝惜なく、天下の百姓がそれに帰附せんと愿えば、それは一概に接納して拒絶せず、これがすなわちいわゆる収穫あることです。自守しても凶だと言うのは、百姓はもとより君主の百姓だからです。臣子の身として彼らを自分の名下に収帰すれば、それは君権を侵奪し民衆を擅自に据有するので、人臣の守るべき正道に按って衡量すれば、これは大凶の事です。
有孚在道以明何咎者,孚,誠信也;道,臣子之道也。言九四雖擅有君之民、侵取君之權,蓋是君之澤未下於民而已又當臣位之極,故天下皆願歸之也。然既在嫌疑之地,則宜如何?故必當推其至誠至信,率天下之民以奉於上,盡其齊物之心,顯然推白其臣子之道,以明非有叛逆之惡,則庶可以免其刑戮而逃其悔吝也。
誠信を懐いて臣道に合し心跡を表明すれば過錯なしと言う、その中の孚は誠実守信、道は人臣たるの守るべき本分です。これは九四が君主の百姓を擅自に据有し君主の権柄を侵奪したと雖も、しかしあれは君主の恩沢がまだ民に下達していないので、それがまた恰好臣位の頂点に居るので、天下人は皆それに帰附せんと愿うということです。すでに猜疑を招く地位に身を居れば、どうすべきでしょうか。必ず十足の誠意と信実を出して、天下の百姓を率いて君上に奉事し、人に対し一視同仁を尽くし、臣たるの本分を明白に擺出して、以て自分に断じて叛逆の心がないことを表明して、こうしてはじめて刑戮を免れ悔恨を躲ける望みがあります。
故昔者文王當紂之時,三分天下有二,而記者稱之曰:文王有君民之大德,有事君之小心。然尚不免紂之疑而有羑里之囚,至不免。是臣子之道,當顯然盡其誠信以事於君,則可以免咎。象曰有孚在道明功也者,言既有孚信在於臣子之道,而上得剛明之君知己非叛違之意,故足以明己之功也。
従前、周文王は商紂の世に身を処し、天下を三分して彼はすでにその二を拠っていましたが、記述する人は彼を称えて言います。文王は万民を統御する大徳もあれば、君主に奉事する小心謹慎もある。饒すくしてこのようであっても、なお紂王の猜忌を免れず、羑里の禍に囚禁を遭って、終に躲れられませんでした。見れば分かるように、臣子たる者は、理当自分の誠信を明白に擺出して君主に奉事して、はじめて罪責を免れ得ます。《小象伝》がこうしてはじめてその功を顕明し得ると言うのは、すでに誠信を臣子の本分の上に落実し、上にまた剛強明叡の君主に遇い、自分に背叛の意がないことを明白にすれば、自分の功業を彰顕するに足るということです。
九五:孚于嘉,吉。象曰:孚于嘉吉,位正中也。
九五の爻辞は言います。誠信を以て善美の人を任用すれば、吉祥です。《小象伝》は言います。誠信に善人を任用して吉を得るのは、九五の居る位が正でかつ中だからです。
義曰:九五居隨之時,以剛陽居至尊而履得其正,處於大中,故天下之人莫不鼔舞而隨之。然則如何以副天下所隨之望?故當虛其心,盡其誠,以信任大才大賢嘉善之人,以共成天下之大治,則吉莫與盛。象曰孚于嘉吉位正中也者,言九五為中正之君,下應於六二,六二亦為中正之臣,而已能孚信而任之,則天下之賢皆來隨於已,而輔成天下之事業也。
胡瑗の解説:九五は《随》卦の時に居り、陽剛の質を以て至尊の位に居って処する所が端正で、また上卦の中に当たるので、天下人は歓欣鼓舞して彼を追随せぬものがありません。それではどうすれば天下人の追随の期望に副えられるでしょうか。虚懐若谷にして誠意を竭くして、あの才が大で徳が厚く善良美好の人を信任して、彼らと一道に天下の大治を成就せしめれば、このような吉祥はこれより盛大なものがありません。《小象伝》が彼の居る位が正でかつ中だと言うのは、九五が中正の君主で、下に六二と相応して、六二もまた中正の臣子であることを講じ、九五がすでに誠信を以て彼を任用し得れば、天下の賢才は皆来て追随して、共に輔助して天下の事業を成就するのです。
上六:拘係之,乃從維之,王用亨于西山。象曰:拘係之,上窮也。
上六の爻辞は言います。彼を拘捕捆縛して、はじめて帰従するを肯んじ、更に束縛看管を加えます。君王は因って西山の地でその道を暢行し得ます。《小象伝》は言います。拘捕捆縛の手段を動用するのは、上六がすでに全卦の極上に居って窮途末路だからです。
義曰:夫隨之世,天下之人莫不畢從於上也。今上六處卦之終,最居於上極,是其兇頑而不從之人也。夫兇頑之人,雖王者興而不從,聖人起而不服,必待其拘囚縶繫之後乃從也。
胡瑗の解説:人人が相随う時代に、天下人は徹底的に上位者に服従せぬものがありません。而して上六は全卦の最後・位置の最高の処に居り、まさにあの凶暴頑固で死んでも帰附しない人です。この種の人は、たとえ王者が興起しても従うを肯んじず、聖人が出世しても心服するを肯んじず、必ず彼を拘捕囚禁し捆縛するに至ってはじめて、範に就くを肯んじます。
維之王用亨于西山者,維即維縶之也。西山,以上體兌,兌西方之卦;山取其險惡也。夫聖人在上,天下之民莫不歸之,而此上六兇頑之人,置之一方則一方受其害而罹其險惡,今既加之以誅伐而維縶之,使不能萌其惡以毒於民,故雖西方險阻之地亦得亨矣。
束縛を加えて君王が西山で通達し得たと言う、その中の維はすなわち拴係捆縛です。いわゆる西山は、上卦が兌で、兌は方位の上で西方に属するからです。山はその険峻悪劣の意を取ります。聖人が上に在って、天下の百姓は帰附せぬなく、ただ上六のこの凶頑の徒が、彼をどの一方に置いても、どの一方もその禍害を受けその荼毒を遭います。今、すでに討伐を加えて彼を拘係したので、彼は更に悪念を生出して百姓を毒害し得ず、それゆえ西方のような険阻の地も同じく政通人和となりました。
蠱 巽下艮上
蠱:元亨,利涉大川。先甲三日,後甲三日。
《蠱》卦の卦辞は言います。敗壊の事を整治すれば、開創して大いに通達し得て、大河巨険を渡るに宜しいです。政令を発布するに、甲日の前の三日に予め申明し、甲日の後の三日に反復して叮嚀します。
義曰:蠱,壞也。按《左傳》昭公元年云:皿蟲為蠱,榖之飛者亦為蠱。蓋言三蟲食一皿,有敗壞之象,故云皿蠱為蠱;又言榖之積久腐壊者則變而為飛蟲,亦蠱敗之象,故云榖之飛者亦為蠱。夫物既蠱敗,則必當修飾之,故《雜卦》曰:蠱則飾也。是矣。以人事言之,則是風俗薄惡、教化陵遲而不綱不紀也。方此之時,聖賢之人必以仁義之道施為而拯治之也。
胡瑗の解説:蠱とは、敗壊です。《左伝》の昭公元年に記します。器皿の裏に虫が生ずるを蠱と呼び、穀物が久しく積んで生出した飛虫もまた蠱と呼びます。意は数条の虫が一つの器皿を蛀食して、腐壊の象があるので、器皿に虫が生ずるを蠱と呼び、穀物が堆置して久しく腐爛して飛虫を化生するのも同じく敗壊の象なので、穀中の飛虫もまた蠱と呼びます。事物がすでに敗壊すれば、必ず修整を加えなければならないので、《雑卦伝》は言います。蠱はすなわち整飭修治。人事の上に移して言えば、すなわち風俗が浇薄敗壊し教化が衰頽松弛して、綱紀が荡然たることです。まさにこの種の時に当たって、聖賢の人は必ず仁義の道を拿出して救治を施行します。
元亨者,元者天地大生之德,於人為仁也;亨者天地大通之德,於人為禮也。言聖賢當此天下蠱壊之時,思欲拯治之,必有天地大生之德、至仁之道以拯濟之,又當以禮制而拯葺之,以救弱扶衰,興滯補弊,使天下之生靈各得其大通也。
開創して通達し得ると言う、その中の元は天地が広大に生育する徳性で、人の身に落ちればすなわち仁で、亨は天地が広大に通達する徳性で、人の身に落ちればすなわち礼です。これは聖賢が天下の敗壊の局に面して、着手して救治せんと欲すれば、必ず天地が万物を生育するような徳性・至仁の道を具えて以て拯済を加え、また礼法制度を以て修補收拾し、衰弱を扶助し壅滞を疏通し弊病を彌補して、天下の蒼生を各自暢達阻ならざらしめるということです。
利涉大川者,大川謂大險大難也。夫治天下弊壊之事,不可安然而治之,必在沖涉大難,奮不顧一己之私,存心於天下,然後可以治其事,措之安平也。何則?以天地之德至廣至大而發生萬物,尚有屯難,況聖賢治天下蠱敗之事,豈無險難乎?
大河を渡渉するに宜しいと言う、あの大河は極大の凶険艱難を譬喩しています。天下の積弊を整治するは、安穩として成し得ず、必ず重々の艱険を冲過して、身を奮い顧みず個人の得失を計らず、一心を天下に係えて、然る後に事情を成し安頓平穩し得ます。なぜかというと、天地の徳性は何と広大なことか、万物を生育するにさえ屯難険阻があれば、況んや聖賢が天下の敗壊の事を整治せんとするに、どうして凶険なしにあり得ましょうか。
先甲三日後甲三日者,庚甲皆申令之名也。凡事仁恩,於五行為木,木主春,春為施生,故為仁恩之令也。凡事已蠱敗,非下民之所能為,皆在上者致之也,然聖賢必欲治之,則當以仁恩之令而為之先也。
甲日の前の三日・甲日の後の三日と言う、庚と甲は皆号令を発布する日名です。凡そ仁愛恩沢の類の事は、五行の中で木に配属して、木は春季を主り、春は生機を施予するので、甲日の発する所はまさに仁恩の令です。事情がすでに敗壊したのは、もとより下の百姓が造成したのではなく、皆上位の者が招致したのです。しかし聖賢がすでに整治せんとする以上、応に先ず仁恩の令を以て路を開くべきです。
是故民有匱乏者,則出粟帛以濟之;民有失於奢者,則以禮而節之;民有未出於塗炭者,則出之而使安其所;民有入於兇頑而陷於刑辟者,則使之改過自新。故先之三日以申諭之,後之三日以丁寧而勸戒之,如此則天下之事無有不舉矣。
それゆえ百姓に貧乏無着のがあれば、粮食布帛を発放して周済し、百姓に奢侈して度を失うがあれば、礼制を以て節制し、百姓がなお困苦の中に陥っていれば、彼らを拔出して安頓し、百姓がすでに凶頑に堕して刑律に触犯していれば、彼に改過自新の機会を与えます。ですから甲日の前の三日に先行して曉諭し、甲日の後の三日に反復して叮嚀勧誡して、このようになれば、天下の事で成さないものがありません。
彖曰:蠱,剛上而柔下,巽而止,蠱。蠱元亨,而天下治也。利渉大川,往有事也。先甲三日,後甲三日,終則有始,天行也。
《彖伝》は言います。《蠱》卦は陽剛が上にあり陰柔が下にあり、下体は巽順で上体は静止で、これが蠱を構成します。敗壊を整治して大いに通達し得て、こうして天下は治を得ます。大河を渡渉するに宜しいは、往けば必ず一番の事業が為すべきことを言います。甲前三日・甲後三日は、終結した後はまた開端、これがまさに上天の運行の節律です。
義曰:上體艮為剛,下體巽為柔。夫天下之事所以弊壊者,由上無剛明之德以制於下,下無柔順之心以從令於上耳。今此卦上既剛明而能下,又柔順以奉令,故蠱敗之事可以得治也,故曰蠱剛上而柔下。
胡瑗の解説:上卦の艮は剛に属し、下卦の巽は柔に属します。天下の事情が弊壊する所以は、上に剛強明叡の徳性が缺少して下屬を節制し、下に柔順服従の心が缺少して上令を奉行するからです。今、この卦は、上はすでに剛強明叡にして己を屈して人に下るを肯んじ、下はまた柔順にして政令を奉行するを肯んじるので、敗壊の事が整治を得、それゆえ《彖伝》はそれが剛を以て上に居り柔を以て下に居ると言います。
巽而止蠱者,上艮為止,下體為巽,巽為權變,艮為鎮靜。夫能用權者多失於鎮靜,今既止靜又能行權,故可以治蠱敗之事也。利涉大川往有事者,言聖賢之人慾治蠱敗之事,則雖大險大難必往而治之,庶成天下之事業也。先甲三日後甲三日終則有始天行也者,言上之行仁恩之令,先之三日,後之三日,終而復始,若天有四時之行,春生而秋成,始始終終,無有休息也。
巽順にして止まり得ればすなわち蠱だと言う、上卦の艮は静止を主り、下卦は巽で、巽は権变通融を代表し艮は鎮定沈静を代表します。権変に善い人は往々にして浮躁に失しますが、今はすでに鎮静し得てかつ通権達変し得るので、敗壊の事を整治し得ます。大河を渡渉するに宜しく往けば事有るべきと言うのは、聖賢が敗壊を整治するに、縦使天大の艱険があっても必ず往って処置して、以て天下の事業を成就せんことを求めるを指します。甲前三日・甲後三日は、終わりて復始まるはすなわち天道の運行だと言うのは、上位の者が仁恩の令を施行して、前の三日に予告し後の三日に叮嚀して、一輪が結ばればまた一輪の開端で、ちょうど上天の四時の運行のごとき、春は生発し秋は成熟して、終わりて復始まり、従来歇まらないということです。
象曰:山下有風,蠱。君子以振民育德。
《大象伝》は言います。山の下に風が起って、草木が凋落する、これが《蠱》の卦象です。君子はこれに取り法って、一面は百姓を賑済振作し、一面は自分の徳業を培育します。
義曰:按《左傳》云:在《周易》,女惑男、風落山,謂之蠱。言山之有材木,今為其風之所落而在山之下也。夫風之為氣,能生物亦能落物,此即肅殺之風,故為蠱之象也。君子觀此之象,以拯救天下敗壊之事,振濟萬民之難,使皆得其所而遂其性;又且養育己之德業而加於天下,不使至於蠱敗也。
胡瑗の解説:《左伝》は言います。《周易》の講釈に拠れば、女子が男子を迷惑し、山風が草木を吹落とすを、皆蠱と呼びます。これは山上にもとより林木があるのに、今は風に吹き落とされて、山脚の下に堆積したということです。風という気は、万物を生長し得て、また万物を摧落し得て、ここでは肅殺の風を指すので、蠱の卦象に取られます。君子はこの景象を観察して、天下の敗壊の事を救治しに行き、万民の苦難を賑済して、人人に各々その所を得て各々その性を遂げしめます。同時にまた自分の徳行事業を培養して天下に施及し、世道を再び敗壊の地步に走らせません。
初六:幹父之蠱,有子,考無咎,厲終吉。象曰:幹父之蠱,意承考也。
初六の爻辞は言います。子が出面して父の遺留した敗壊の事を整治すれば、このような子があれば、先父は過咎を免れ得て、処境は艱危であれど、終に吉祥を得ます。《小象伝》は言います。父の留下した乱局を整治するのは、用意は父の心志を承継するにあります。
義曰:大凡事之蠱敗,必求所以修飾之也。初六居卦之始,得巽之體,能用權變以承家道而乾集父事,故云幹父之蠱。有子者,夫能代父之任而成家之事者,子之職也,一不能然,是無子矣。今初以權變而幹父之事,使男正位乎外,女正位乎內,內外和睦,上下整肅,是得其為子之道也。
胡瑗の解説:凡そ事情が敗壊すれば、総じて修整する法を設けねばなりません。初六は全卦の開端に居り、巽体に属して、権変を運用して家業を承接し父の未竟の事を成し得るので、それが父の遺留した乱局を整治すると言います。このような子があると言うのは、父に替って責任を担い家事を成すのが、もとより子たるの職分で、一旦為し得なければ、子なしに等しいからです。今、初六は権変の才を以て父の事を辦理して、男子を外に各々その位を正しくし婦人を内に各々その位を正しくせしめ、内外は和睦し上下は整肅して、これがすなわち人子たるの本分を尽くしたのです。
考無咎者,言父有不能幹家之事而至於蠱敗,咎莫大焉;苟得賢明之子以代其任而成其事,則可使其父立於無過之地矣。今初六能用其權變以幹濟其事,使其父得無咎也。
先父が過咎を免れ得ると言うのは、父が家業を操持し得ず以致って敗壊に弄られた、この過失は大きくてこれより過ぐるなく、倘若賢明の子が彼に替って承担し事情を成せば、父を過失なしの地位に立たせ得るということです。今、初六は権変を運用して事情を成し得て、因って父を過咎を免れせしめます。
然謂之考無咎者,夫生曰父曰母,死曰考曰妣,蓋言初六不唯能幹父之蠱而致父於無過,兼使其父雖至於終沒,亦免其咎而致其令名以光於後也。故《祭義》曰:亨孰羶薌,嘗而薦之,非孝也,養也。君子之所謂孝者,國人稱願然曰:幸哉有子若此,所謂孝也已。
先考无咎と言って父无咎と言わない所以は、在世の時は父・母と称し、去世した後は考・妣と称するからです。これは初六がただ父の留下した乱局を整治して父を過失を免れせしめるのみならず、また父をたとえ身故した後にも罪責を洗脱せしめ、美名を留下して後世に照耀せしめ得るということです。ですから《礼記・祭義》は言います。牲肉を烹煮し香気を調和して、親口で嘗めて然る後に双親に進献するは、あれはただ奉養で、まだ孝とは算えられません。君子の言う孝は、全国の人を皆称羨して言わせるに至るに在ります。真に幸運だなあ、このような子があって!これをはじめて孝と呼びます。
又哀公問於孔子曰:何謂成親?孔子曰:君子也者,人之成名也。百姓歸之名,謂之君子之子,是使其親為君子也,是為成其親之名也。蓋言父雖有過,而子能終乾之,則使其父免咎矣。
魯哀公はまた孔子に問いました。何を双親を成全すると呼ぶか。孔子は答えました。いわゆる君子とは、人々が彼に与える一つの成就性の美名です。百姓がこの名号を以て彼に帰して、彼を君子の子と称せば、これはすなわち彼の父をも君子に抬挙したに等しく、また双親の名声を成全したのです。この段の話は言います。父は縦使過失があっても、子がもし事情を徹底的に成し得れば、また父を罪責を免れせしめ得ます。
厲終吉者,厲,危也。言初六居卦之始,幹父蠱敗之事,是主艱也,故當常若危厲在前,恐懼其始,則終可以獲吉也。象曰幹父之蠱意承考者,意謂心之所存也。言為子之道,不可盡循父之命,但心之所存以至孝事其親而成之耳。
処境が艱危で終に吉祥を得ると言う、あの厲の字はすなわち危険です。これは初六が卦の開端に居って、父の遺留した乱摊子を整治しに行くのに、担うは最も難辦の頭の一歩なので、時時危難が眼前に擺する如くにして、一初めから戒懼の心を存して、終にはじめて吉を得られるということです。《小象伝》が用意は父志を承継するに在りと言う、あの意の字は心中に存する念頭を指します。これは子たるの道理は、事事皆父の吩咐に照らして為すのではなく、心中に一片の至孝を存して、それを以て双親に奉事しかつ事情を成すのだということです。
九二:幹母之蠱,不可貞。象曰:幹母之蠱,得中道也。
九二の爻辞は言います。母の一方の家務を整治するに、固執して長くこの上に守るべからずです。《小象伝》は言います。母の一方の事務を整治して進退を知るは、まさに中道に合します。
義曰:九二以剛明居中而在內卦之內,是能幹其母蠱壊之事也,故曰幹母之蠱。不可貞者,言君子之人必上思忠於君,下思利於民,不可屑屑然專以治閨門之事,久執其道為己之正也。象曰幹母之蠱得中道也者,九二以剛明之德居得中位,在內則能幹母之蠱,在外則能幹父之事,在朝廷則能忠於君而利於民,是周旋進退皆得於中道也。
胡瑗の解説:九二は剛強明叡の質を以て中位に居って内卦の中に居り、母のあの一方の敗壊した家務を料理し得るので、それが母の事を整治すると言います。固守するべからずと言うのは、君子は必ず上に君主に効忠せんことを思い下に百姓に造福せんことを思って、瑣瑣碎碎として専ら内室家務を管内して、この事を長久に執守して自分の本分と為すべからざるということです。《小象伝》が彼は中道に合すると言うのは、九二が剛明の徳を以て中を得る位に居って、家にあっては母の一方の事を整治し得て、外にあっては父の一方の事を承担し得て、朝廷にあっては君主に忠を尽くして百姓に福を造り得て、どのように周旋進退しても中道に合するということです。
九三:幹父之蠱,小有悔,無大咎。象曰:幹父之蠱,終無咎也。
九三の爻辞は言います。父の遺留した乱局を整治するに、少しばかり懊悔する所有るけれど、大きい過失を釀成するに至りません。《小象伝》は言います。父輩の敗壊の事を整治して、終に過錯がありません。
義曰:九三以陽居陽,有剛明之德,履於至正,故能幹父之蠱。何則?夫剛則有能之才,正則公而不私,以此而行,則克乾其事而無所不濟也。小有悔無大咎者,言九三全用剛以乾其家事,則必傷於和睦之道,而親族之間必小有悔恨之者;然已代父之任,整肅閨門之教而乾成其事,則終無大咎也。
胡瑗の解説:九三は陽爻を以て陽位に居り、剛強明叡の徳性を具えて、処する所が極めて端正なので、父の留下した敗壊の事を整治し得ます。なぜかというと、剛ならば、事を辦する才干があり、正ならば、公道にして私を徇らないからです。この両様に凭って為れば、事情は成し得て、通達せぬなくなります。少し懊悔あるも大過なしと言うのは、九三が一味に剛を以て家事を処理するので、和睦を傷つけるを免れず、親族の間に総じて少しの怨懟懊悩があります。ただそれは畢竟父に代って担子を挑起し、門内の規矩を整肅して事情を成したので、終に大きい過失はありません。
六四:裕父之蠱,往見吝。象曰:裕父之蠱,往未得也。
六四の爻辞は言います。父の遺留した敗壊に対してただ寛緩拖延するのみで、このように往って行事すればただ困頓に遭遇するのみです。《小象伝》は言います。一味に寛緩して整治せざれば、往っても収穫する所有りません。
義曰:夫父以柔懦不能剛決,以至蠱壊其家,而六四又以柔弱之質承其蠱敗之後,無剛明果決之才,不能代父之任而乾家之事也。然而以陰履正,故但少能寛裕其父之事耳,故曰裕父之蠱。
胡瑗の解説:父は柔弱怯懦で果断に事を決し得ず以致って家業を壊しました。六四はまた柔弱の質を以てこの敗壊した後の局面を接手して、すでに剛強明叡・果断決絶の才干なく、父の重担を担い起せず家の中の事を成せません。ただそれは陰爻を以て陰位に居って処する所が端正なので、なお父の事に対して略か寛緩に維持し得、それゆえ爻辞はそれがただ父の乱局を寛緩するのみだと言います。
往見吝者,夫承蠱敗之後而以柔弱之質將有所往,必見悔吝而無所成也。然初六亦以陰柔之道乃能幹父之蠱,此即往而見吝,何也?蓋初六居壊敗之始,當乾家之初,能用權變以治其事,致父於無過之地,故聖人言之以為萬世治家之法,當在於始也。是以為臣為子者,不可以無剛明之才也。今六四既居事壊之後而無剛明之才,不能幹濟其事,故往見吝而無所得也。
往けば必ず困頓に遭うと言うのは、敗壊した後の残局を接手して、また柔弱の質を以て挙動する所有れば、必然に困窘懊悩に遭遇して一事も成さないからです。しかし初六も同じく陰柔なのに、なぜかえって父の乱局を整治し得て、六四は一たび往けば困吝を見るのでしょうか。初六は敗壊が剛に頭を起した時に居り、家業を整治する開端に正しく当たって、権変を以て事情を処理妥当にし得て、父を過なき地に立せしめたからです。聖人は特にこの一点を拈出して、万世の家を治める法則と為した――功夫は開頭に下すべし。これに由って知られるように、臣子たる・子たる者は、剛強明叡の才干なしにはいられません。今、六四は身に事情がすでに壊透した後に居り、また剛明の才に乏しく、整治の事を成せないので、往けばただ困に遭って毫も得る所がありません。
六五:幹父之蠱,用譽。象曰:幹父用譽,承以徳也。
六五の爻辞は言います。父の遺留した敗壊の事を整治して、因って美好の声誉を獲得します。《小象伝》は言います。父の業を整治して美譽を得るのは、徳行を靠って父志を承継するのです。
義曰:譽者,嘉美之稱也。六五所以能幹父之蠱者,蓋承以其徳,不在剛威,而能代父之任、承家之事,又有大中之道,下應九二剛明之人,用是所以得嘉美之譽也。象曰幹父用譽承以徳者,言六五所以用譽者,非徒取於虛名也,蓋以大中至正之徳承父之志以治其事,使社稷永固,生靈受賜,各遂其所,而天下嘉美之譽自然至矣。
胡瑗の解説:誉は、美好の称許です。六五が父の遺留した敗壊を整治し得たのは、徳行を以て承継したに靠り、剛猛威勢を靠ったのではありません。それは父に替って担子を挑起し家業を接続し得て、また寛大中正の道を守り、下に剛明の九二と相応し、それゆえ美好の声誉を贏得しました。《小象伝》が彼は徳を以て承継したと言うのは、六五の得た賛誉は徒らに虚名を有するのではなく、寛大中正の徳行を以て父の心志を承接して事務を処理し、国家の根基を長久穏固にして、百姓を恩沢を蒙り各々その所を得せしめ、こうして天下の美譽は自然として来たということです。
上九:不事王侯,髙尚其事。象曰:不事王侯,志可則也。
上九の爻辞は言います。更に王侯に事えず、自分の志節を高遠に抬します。《小象伝》は言います。王侯に事えず、このような心志は取り法うに値します。
義曰:夫事治於始,至於終則其事已成也。大凡人子之始,竭力盡孝以事父而治於家;人臣之始,竭力盡忠以事君而利於民。及夫國家既濟,功業既成,榮問既極,而苟年德衰耗,則必有止足之心而不累其位,退休歸老,不事於王侯而自崇髙尊尚其事也。
胡瑗の解説:事情を開頭から着手して整治して、末尾に至れば、事業もまた成就します。大凡子たる者は、起初は孝心を竭くして父に奉事して家を治め、臣子たる者は、起初は忠心を竭くして君主に奉事して百姓に利を謀ります。国家がすでに安定し功業がすでに成就し名声栄寵が皆頂点に至ったときに及んで、もし年歳と精力が漸く衰えれば、止まるを知り足るを知る心を生出して、更に官位に自分を拖累せず、退休して郷に帰り、更に王侯に事えずして、自分の操守志節を高遠尊貴に看るべきです。
象曰不事王侯志可則也者,言上九之不事王侯,蓋有足止之心、髙尚之行,可為世俗之所法則也。言聖人之德始終如一,無有衰耗,若周公之輔於周,亦卒於周,未聞髙尚其事也。夫有周公之資則可,為自賢人而下,則不能無衰耗矣,功業既成則休退宜也。然世俗所謂髙尚者,內則無心於家,不孝於父而乾其事;外則無心於國,不忠於君而利其民;但髙傲衣冠,晦跡山林,逺去人跡,此直豕鹿木石之伍耳,非聖人言蠱上之意也。
《小象伝》がこのような心志は取り法う可と言うのは、上九が王侯に事えざるは、足るを知り止まるを知る心・高潔に自守する行から出て、世人の效法する榜様と為り得るに足るということです。ただ聖人の徳行は始終如一で、従来衰退せず、周公が周室を輔佐して、死するまで周室で事に任じていたがごときは、彼が何らかの清高を標榜しに行ったと聞きません。周公のような資質があれば自然とずっと幹し続け得ます。賢人以下は、精力徳望に衰退を免れず、功業がすでに成就した以上、激流に勇退するが合宜です。世俗が標榜するいわゆる清高に至っては、内は家に心なく、父に孝せず家事を操持するを肯んじず、外は国に心なく、君主に忠を効めず百姓に利を謀らず、ただ衣冠を孤傲に擺して、山林に身を蔵して、人跡を遥かに躲ける――これはただ猪鹿草木と同類なのみで、断じて聖人が《蠱》卦の上爻の裏で表現せんと欲する意ではありません。
臨 兌下坤上
臨:元亨利貞,至于八月有凶。
《臨》卦の卦辞は言います。開創・通達・和宜・正固の四徳を具えますが、しかし八月に至れば、凶険があります。
義曰:按《序卦》云:有事而後能大,故受之以臨。臨者,大也。聖賢之人興立事業,必自小以至於大,故臨所以次於蠱也。然謂之臨者,居上臨下之義也。此卦之體二陽漸進,是聖賢興起,君子之道得行,有才德以臨於天下也。
胡瑗の解説:《序卦伝》は言います。事ある可き然る後に壮大し得。故に《蠱》卦の後は《臨》卦に接ぐ。臨とは、盛大です。聖賢が事業を興辦すれば、必ず小から大に至るので、《臨》を《蠱》の後に排します。臨と呼ぶ所以は、上位に居って下に俯臨する意を取ります。この卦の卦体は二つの陽爻が下から逐步上進して、聖賢の崛起・君子の道が推行を得て、才干と徳行に凭って天下を統臨することを象徴します。
元亨利貞者,天地之四德也。夫聖賢興起,必有四德之備,如春之生、夏之長、秋之成、冬之固,使天下無一物不被其澤,無一民不受其賜,乃可以臨於人也。至于八月有凶者,八月即周之八月、今之六月,斗建未之時,二陰生也;臨卦二陽生,即周之二月、今之十二月,斗建丑之時也。
開創・通達・和宜・正固は、天地の四種の徳性です。聖賢が崛起するには、必ず四徳を斉備して、ちょうど春は生発・夏は長養・秋は成熟・冬は収蔵堅固の如く、天下に一の物としてその恩沢を受けず、一の人としてその賜予を蒙らざるを致さしめて、これがはじめて衆人を統臨しに行くに配します。八月に至れば凶険があると言う、この八月は周暦の八月・すなわち宋代の通行暦法の六月で、北斗の斗柄が未位を指向する時節で、この時に第二の陰爻が生じ始めます。而して《臨》卦の二陽は初めて生じて、周暦の二月・宋代の通行暦法の十二月に相当し、斗柄が丑位を指向する時節です。
此言聖賢興起,君子道長,而至于八月有凶者,蓋聖人之戒也。言二陽始進,進而不已,不顧陰氣之侵逼,至於入月二陰之生,則其卦為遯,以至為否,陰氣漸進,陽氣必消也。猶君子乘時得位以臨於人,若不能思極慮以防其失,使小人得乘隙而進,則至於侵害矣。故當此之時,居其安不忘其危,在其治不忘其亂,則可以久臨於天下而無有危亂也。
ここで聖賢が崛起し君子の道が日に漸く増長するが、八月に至ればすなわち凶険あると言うのは、すなわち聖人の一番の告戒です。意は言います。二つの陽爻が剛に上進したのに、もし一味に上進して止まず、全く陰気の侵逼を顧慮せなければ、八月に至って第二の陰爻が生出すれば、卦象は《遯》に変じ、更に進んで《否》に変じて、陰気は歩々進逼して陽気は必然に消退します。これはちょうど君子が時に乗じ位を得て衆人を統臨するに、もし深く思い遠く慮って疏失を防範できず、小人に機可乘じて鑽り入らしめれば、侵害を遭うがごときです。ですからまさにこの時に当たり、身に安穩の中に居って危険を忘れず、治世の中に居って禍乱を忘れず、はじめて長く天下を統臨して乱子を出さずに済みます。
彖曰:臨,剛浸而長,說而順,剛中而應,大亨以正,天之道也。至于八月有凶,消不久也。
《彖伝》は言います。《臨》卦は陽剛が漸漸と生長し、下卦は兌悦で上卦は坤順で、九二は陽剛を以て中位に居って六五と相応します。大いに通達してかつ正道を守持する、これがまさに上天の法則です。八月に凶あるに至っては、陽気が消退する日が遠からないことを言います。
義曰:浸,漸也。言所以為臨者,二陽始生,其德漸進,猶君子得其時、遇其君,以漸而進於位,興立事業以臨於天下也,故曰臨剛浸而長。說而順者,上坤為順,下兌為悅也。言剛浸而長,是聖賢之人臨於天下,有至尊之勢、至嚴之威也。其勢至尊,其威至嚴,則卑賤之俗、疏逺之民,其情曷以通而其恩曷以下哉?是必有仁義之化以悅順於民心,使天下無不被其澤,無不受其賜,彼皆悅然以順於上也。
胡瑗の解説:浸は、漸漸です。《臨》が臨たる所以を言うのは、二つの陽爻が剛に生出して、徳勢が一点ずつ上長して、ちょうど君子が時機に趕いて明君に遇い、一歩一歩に職位を升進して、事業を興辦して天下を統臨するがごときなので、《彖伝》は陽剛が漸漸増長すると講じます。喜悦でかつ柔順だと言うのは、上卦の坤が柔順を主り下卦の兌が喜悦を主るを指します。陽剛が漸長するは、聖賢が天下を統臨して、至高の権勢・至厳の威望を握有することを意味します。しかし権勢がすでに高く威厳がすでに重ければ、あの身分が卑微の民俗・疎遠して外に居る百姓は、彼らの実情はどうして上達し、君上の恩沢はまたどうして下に及びましょうか。ですから必ず仁義の教を以て感化して、民心を歓悦順服せしめ、天下にその恩沢を受けずその賜予を蒙らざるなくして、人人に心悦誠服して上位者に帰順せしめねばなりません。
剛中而應者,此謂九二以剛明之德而處下卦之中也。凡臨人之道,必須下其身,先於臣民,以交接於下,則下之志皆得上通也。大亨以正天之道也者,夫聖賢在上,既能悅而順人,以剛明之德先於臣民,故能行元亨利貞之四德,以撫育萬民,生成萬物,此乃天之道也。
陽剛が中に居って応あると言うのは、九二が剛強明叡の徳を以て下卦の中位に居り、また六五と相応することを指します。凡そ衆人を統臨する道理は、必ず身を低くして臣民の前を歩き、自ら下と接触して、はじめて下情が上達し得ます。大いに通達してかつ正を守るはすなわち天道だと言うのは、聖賢が上に在って、すでに人を歓悦順服せしめ得て、かつ剛明の徳を以て臣民の表率と為し、因って開創・通達・和宜・正固のこの四徳を推行し、万民を撫育し万物を化育する、これがまさに上天の法則だということです。
至于八月有凶消不久也者,此言二陽漸進,至于八月二陰浸長,則陽道不久而消剝矣;亦如君子之待其時,不顧小人之進,使其少得勢則必侵害君子,君子之道不久而漸退矣。然不曰七月者,蓋其一陰始生,小人之勢尚弱,未能為害;至于八月二陰既長,則小人之道漸盛而其黨漸熾,故有侵害之事也。聖人至此言之,所以戒萬世居安思危之意也。
八月に凶あって陽気の消退が即ち在ると言うのは、二つの陽爻が一路上進して、八月に至って二つの陰爻が漸漸と長し起きて、陽剛の道は久からずして消損剥落しようとするということです。これもまたちょうど君子が顧みて自分の時機を待つのみで、小人の進逼を提防せず、一旦小人に少々勢を得させれば、必ず来て君子を侵害し、君子の道は久からずして漸漸退縮するがごときです。なぜ七月と言わないかに至っては、あの時はまだ一つの陰爻が初めて生じたのみで、小人の勢力がなお弱く、人を害し得ないからです。八月に至って二つの陰爻がすでに長じて、小人の道は漸く盛んに党羽は漸く多くなって、はじめて侵害の事が出現します。聖人がここで点明したのは、まさに万世の人に居安思危を告戒せんと欲するにあります。
象曰:澤上有地,臨。君子以教思無窮,容保民無疆。
《大象伝》は言います。大沢の上に地があって水に俯臨する、これが《臨》の卦象です。君子はこれに取り法って、百姓を教化する心思は窮尽せず、百姓を包容し安頓する胸懐は辺際がありません。
義曰:夫臨者,居上以臨下也。至髙,天也;至下,地也。今不云天臨而曰澤上有地臨者,蓋地之勢最附近於澤,而澤又依著於地,是臨之象也。君子法此之象,汲汲然惟恐一物之不被其澤,故夜以思之,晝以行之,焦心極慮,施其教化以臨於民而無有窮已也,又能寛容保安之而無有疆畔也。
胡瑗の解説:いわゆる臨とは、上位に居って下に俯臨することです。最高は天、最低は地です。ここで天が俯臨すると言わず、大沢の上に地があると言うのは、地勢が大沢と最も貼近して、沢水はまた地に依附するので、まさに俯臨の形象に合するからです。君子はこの景象に取り法って、急切してただ一つの物が自分の恩沢に沾わないことを恐れ、こうして夜は反復思量し昼は手を動かして実行して、精を殫し慮を竭くして教化を推行して百姓を統臨して、永く止息しません。同時にまた寛厚に包容し安頓し得て、辺界の制限がありません。
然則為君子者,不能思其教化,則不可臨於民者一也;能教而不能寛容之,則不可以臨民者二也;能容而不能保安之,則不可以臨民者三也。須三者之道兼備,而又有元亨利貞之四德,夫然後可以臨於民也。
これに由って言えば、君子の身として、もし教化の為に心思を費やすを肯んじなければ、これは百姓を統臨し得ない第一条で、教を施し得ても寛厚に包容し得なければ、これは百姓を統臨し得ない第二条で、包容し得ても保護し安頓し得なければ、これは百姓を統臨し得ない第三条です。必ずこの三様を皆為し遂げて、加えて開創・通達・和宜・正固の四徳を斉備して、然る後に百姓を統臨しに行く資格を足るのです。
初九:咸臨,貞吉。象曰:咸臨貞吉,志行正也。
初九の爻辞は言います。感化の方式を以て衆人を統臨すれば、正を守って吉を得ます。《小象伝》は言います。感化して臨み正を守って吉を得るのは、それの心志がもとより正道に行っていたからです。
義曰:咸,感也。夫剛者必有至尊之勢、至嚴之威以臨於人。今初九以剛明之才居一卦之下,是聖賢之人下其身以先於臣民者也。夫既下其身以先之,則天下之民莫不感悅而從矣,故曰咸臨。既能下其身先於人,人皆從之,則得其正而獲吉也。
胡瑗の解説:咸は、感動・感化です。剛強の人はもとより自ずと至尊の権勢・至厳の威風を帯びて衆人に面します。今、初九は剛強明叡の才を以て全卦の最下位に居り、まさに聖賢が身を低くし臣民の先頭を歩くを肯んじる様子です。すでに身を低くして帯頭して為せば、天下の百姓は感動歓悦して従わぬなく、それゆえ爻辞は彼が感化を以て衆に臨むと言います。己を屈して先に居れば、人人が従い、自然と正道に合して吉を得ます。
象曰咸臨貞吉志行正也者,且聖賢之人非苟欲柔邪佞媚以取悅於天下之人,蓋上之臨下,以仁義之化行己之道,興天下之利耳。今初九以剛明之才處眾陰之下,是其志本行於正也。
《小象伝》が彼の心志が正道に行っていたと言うのは、聖賢が身を低くするは、柔媚諂諛に靠って天下人を討好せんと欲するのではありません。上位者が下を統臨するは、もとより仁義の教化を以て自分の主張を推行し天下の公利を興起するのみです。今、初九は剛明の才を以て衆陰の下に居るので、それの心志が元々正道上を行っていたことが見えます。
九二:咸臨,吉,無不利。象曰:咸臨吉無不利,未順命也。
九二の爻辞は言います。感化の方式を以て衆人を統臨すれば、吉祥で、利ならざるなしです。《小象伝》のこの句は「未順命也」と作りますが、胡瑗はその中の「未」の字は伝写の中で余分に入った衍字で、本意は天下にその教命に順従せぬなしとすべしと認めます。
義曰:九二亦以剛明之才居下卦之中,下其身以先於臣民者也,是以天下之人莫不感悅而歸之,故曰咸臨也。吉無不利者,初九雖能使人感悅而従之,然未得其中,故但得貞吉而已;九二以剛明之徳處下卦之中,則所為無過與不及,皆得中道,而又居眾陰之下,能下其身以接於民,則獲其吉而無所不利矣。
胡瑗の解説:九二も同じく剛強明叡の才を以て下卦の中位に居り、身を低くして臣民の先頭を歩くを肯んじるので、天下人は感動歓悦して帰附せぬなく、それゆえまたそれが感化を以て衆に臨むと称します。吉にして利ならざる所なしと言うのは、初九はまた人を感悦して従わしめ得るけれど、まだ中に居らないので、ただ一つの守正の吉を得たのみで、九二は剛明の徳を以て下卦の正中に居って、為す所は過分なくまた不足なく件件中道に合し、加うるに身に衆陰の下に居って己を屈して百姓を接納に行くを肯んじるので、すでに吉を得てかつ往くも利ならざるなしです。
象曰未順命也者,此未字當為羨文。夫九二有剛明之徳以臨於人,天下皆感悅而歸之,無有不順其命者也,而經文言未順命,豈天下率歸而有未順命者乎?蓋易經傳之久,其間不能無脫誤,故此未字當為羨文也。
《小象伝》の裏のあの句「未順命也」は、この「未」の字は応に余分に出た衍字です。九二は剛強明叡の徳を以て衆人を統臨して、天下は皆感動歓悦して帰附して、彼の号令に順従せぬ者なく、而して経文はまだ教命に順従せずと言う、天下人が皆帰附したのに、なお号令に順従せぬ者がありましょうか。大概は《周易》の流伝が日に久しく、その間に脱漏訛誤を免れず、ですからこの「未」の字は衍文と視るべきです。
六三:甘臨,無攸利。既憂之,無咎。象曰:甘臨,位不當也;既憂之,咎不長也。
六三の爻辞は言います。甜言媚態を以て衆人を統臨すれば、何の好処もありません。一旦これが為に憂懼反省すれば、過錯がありません。《小象伝》は言います。甜媚を以て下に臨むのは、処する位置が恰当でないからです。すでに憂懼反省した以上、過錯は拖延せぬになります。
義曰:甘者,柔邪佞媚之道也。六三不中不正,又居兌之極,是過於柔佞也。為上者以此不正之行、悅媚之道而臨於人,故謂之甘臨。夫以不正之行、佞媚之道以苟且取譽於民,雖苟得頃刻之悅、一時之譽,然於天下之事終無所利矣。故在《書》曰:罔違道以干百姓之譽者,是也。象曰既憂之無咎者,言六三若能以己之不正而反自思省,以憂其危,知甘佞為非而變從於正道,則可以免咎悔也。
胡瑗の解説:甘は、柔媚邪佞で一味に討好する路数を指します。六三はすでに中に居らずまた位に当たらず、また兌体の頂端に居って、柔媚が頭を過しています。上位に居る人がこの種の正でない行経・諂媚の手段を以て衆人に面するので、甜媚にて下に臨むと称します。正でない行経・諂媚の手段に凭って苟且に百姓の称誉を博取すれば、縦使片刻の歓心・一時の名声を換え得ても、天下の大事に対して終に半点の好処がありません。ですから《尚書》は言います。正道に違背して百姓の賛誉を博取する勿れ。講ずるはまさにこの道理です。《小象伝》がすでに憂懼すれば過錯は長からずと言うのは、六三がもし自分の正でないに対して回頭反省し、その中の危険に憂懼を感じ、甜媚が誤りであると明白にして正道に改従し得れば、過錯と懊悔を免れ得るということです。
六四:至臨,無咎。象曰:至臨無咎,位當也。
六四の爻辞は言います。極めて恰当の方式を以て下に統臨すれば、過錯がありません。《小象伝》は言います。至臨にして過錯なきは、それの処する位置が正当だからです。
義曰:六四所履得正,下應於初九剛明之援,以臨於人,能至於臨下之道而得無咎也。蓋上之臨下必得其正道,若一失於正而入於邪,則下之從也若影響之效,固不可以無正也。是以孔子曰:其身正,不令而行;苟不正其身,雖令不從。是上之臨下必由於正也。
胡瑗の解説:六四は処する所が端正で、下にまた剛明の初九があって呼応の援と為り、このに凭って衆人を統臨すれば、臨下の道を位に做り致し得て、因って過錯がありません。上位者が下を統臨するには、必ず正道を歩まねばなりません。一旦正を失って邪路に落入れば、下の跟従は影が形に随い回声が声に応ずるように直ちに仿効するので、断じて一つの正の字があらざるを得ません。それゆえ孔子は言います。その身が正しければ、命令を下さずとも事は行き通り、その身が正しからざれば、縦使命令を下しても聴従する人なし。見れば分かるように、上位者が下に臨むは、全て一つの正の字に在ります。
今六四以陰居陰,是履得其正,以此臨下則下無不從,是至於為臨之道而獲其無咎也。象曰至臨無咎位當也者,六四以陰居陰,處不失正,是能正一心以正朝廷,正朝廷以正百官,正百官以正萬民,正萬民以正四方,正四方則逺近莫不一於正,誠由居當其位而行得其正也。
今、六四は陰爻を以て陰位に居って処する所が端正で、このに凭って下を統臨すれば、下に従わざるなく、それがすでに臨下の道を極処に做り致して過錯を免れたことが見えます。《小象伝》がそれの位置が正当だと言うのは、六四は陰爻を以て陰位に居って処する所がその正を失わず、こうしてまず自分の一念の心を端正し、進んで朝廷を端正し、朝廷を端正して、進んで百官を端正し、百官を端正して、進んで万民を端正し、万民を端正して、進んで四方を端正し、四方が一たび正しくなれば、遠近は純正に帰せぬなくなります。これは確かにその居る位が恰当で、行う所がまた正道に合したからです。
六五:知臨,大君之宜,吉。象曰:大君之宜,行中之謂也。
六五の爻辞は言います。智慧に凭って賢才を任用して天下を統臨するは、これは偉大な君主が持つべき做法で、吉祥です。《小象伝》は言います。偉大な君主が持つべき做法とは、まさに中道を奉行するを指します。
義曰:知臨謂能用群賢而任知以臨於人也。六五以陰柔之質居坤順之中,履至尊之位,得大中之道,九二有剛明之才,五以至誠接納而信任之,故天下之賢莫不竭其聰明、盡其才智以輔於己也。能用天下之賢,以知而臨於人,是得大君所行之宜而獲其吉也,故若堯舜之為君而任皋、稷、禹之徒是也。
胡瑗の解説:いわゆる智慧に凭って統臨するとは、衆多の賢才を任用し明智に依頼して衆人に面することを言います。六五は陰柔の質を以て坤順の中に居り、至尊の位を占めて、寛大中正の道を守っています。九二は剛強明叡の才を具えて、六五はすなわち至誠を以て彼を接納し信任するので、天下の賢才は聡明才智を竭くして自分を輔佐せぬものがありません。天下の賢人を任用し得て、智慧に凭って衆人を統臨する、これがまさに偉大な君主の応有の做法に合して、因って吉を得ます。ちょうど堯・舜が君主を為して皋陶・后稷・大禹のこの一班の人を任用したがごときです。
象曰大君之宜行中之謂也者,夫天下至大,生靈至眾,居上者以一耳一目不能周其視聴,必得天下之賢才以輔於己則可也。今六五能任用剛明才智之臣以臨於下,是大君所行之中道,莫尚於此。
《小象伝》がこれがすなわち中道を奉行するだと言うのは、天下はこのように広大で百姓はこのように衆多で、上位に居る人はただ一双の耳・一双の眼を有って、遍く見られず全く聴けないので、必ず天下の賢才を借助して自分を輔佐せしめてはじめて行えます。今、六五は剛明有智の大臣を任用して下を統臨し得て、これがまさに偉大な君主の行う中道で、更にこれより高明なものがありません。
上六:敦臨,吉,無咎。象曰:敦臨之吉,志在內也。
上六の爻辞は言います。敦厚の徳を以て下に統臨すれば、吉祥で、過錯がありません。《小象伝》は言います。敦厚にて下に臨むのが吉を得る所以は、それの心志が終始下の内卦に向っているからです。
義曰:敦,厚也。坤為博厚,而上六處坤之極,是能以敦厚之道而下臨於人也。吉無咎者,六四、六五皆有剛明之援所以獲吉,今上六雖有敦厚之德,然下無正應,無剛明之助,是本有咎矣,必須吉而咎乃得免,故曰吉無咎。
胡瑗の解説:敦は、厚重です。坤の徳性は広博深厚で、上六はまた坤体の最上に居るので、敦厚の道を以て下に衆人を統臨し得ます。吉にして過なしと言うのは、六四・六五は皆剛明の爻があって呼応して救援を求め得るので、吉を得られます。上六は敦厚の徳を有すると雖も、下に正応なく、剛明の者の幇助を得られず、本来過咎あるべきで、必ず先ずこの一つの吉があって、過咎がはじめて免除を得るので、爻辞は吉を無過の前に放ちました。
象曰敦臨之吉志在內也者,夫坤之體本在於下,今在上而其志樂於下復,是志在於內也。何則?蓋上六處一卦之極,雖下無剛明之人以為己助,然能以敦厚之徳附於二陰,故三陰同志皆樂下復,是其志在內者也。
《小象伝》がそれの心志が内に在ると言うのは、坤の本体はもとより下に在るべきに、今は上に居るのに、それの心志は下に帰回するを楽しむ、これがすなわち志が内卦に在ることです。なぜかというと、上六は全卦の頂端に居り、下に剛明の人があって依靠と為し得ないと雖も、敦厚の徳を以て他の二つの陰爻と相親附し得て、それゆえ三つの陰爻は同心同志で、皆下に帰回するを楽しむ、これがすなわちいわゆる志が内に在ることです。
観 坤下巽上
觀:盥而不薦,有孚顒若。
《観》卦の卦辞は言います。上位に居る聖人が天下を臨御するには、応に宗廟の大祭が剛に「盥」の礼を行い手で香酒を酌んで地に灌ぎ神を降ろすあの一刻の如く、全副の誠敬をその中に傾注して、後に牲肉を進献する繁瑣の環節に及ぶを待たずして、このようにすれば天下人は自ずと誠信を以て彼に響応し、個個に顔を仰いで、神情は恭粛となります。
義曰:《序卦》云:臨者,大也。物大然後可觀,故受之以觀。觀者,觀也。此卦之體,二陽在上,是聖賢之人有剛明之徳,以臨觀於天下,使天下之人莫不仰觀而化之也。觀盥而不薦者,盥、薦者皆祭宗廟所行之禮也。盥謂天子始入廟,則必盥手酌鬱鬯於地,以求幽陰之時也。薦謂三獻薦腥、五獻薦熟之時也。
胡瑗の解説:《序卦伝》は講じます。「臨」はすなわち盛大で、事物が盛大して後に人の瞻仰に値する。故に《臨》卦の後に接ぐは《観》卦。「観」はすなわち瞻仰し取り法う意です。本卦の卦体に就いて見れば、九五・上九の二つの陽爻が上位に高居して、聖賢の人が剛健明察の徳性を具えて高く居りて天下を照臨し、天下人を皆頭を仰いで瞻望而してその教化を受けしめることを象徴します。卦辞の「盥而不薦」は、「盥」と「薦」は皆宗廟祭祀の中の礼節で、「盥」は天子が剛に宗廟に進む時、必ず先ず手を浄め、再び鬱鬯の香酒を酌んで地上に洒して、以て幽冥の中の神霊を招請し、「薦」はすなわち三献の時に生肉を進献し五献の時に熟肉を進献するあの一段の儀節です。
夫始盥之時,其禮簡畧,故至誠之心、恭肅之意莫不盡之。若薦腥熟之時,則其禮已煩,雖有強力之容、恭懿之心,則亦倦怠矣。是以聖人在上臨御天下,必當如始盥之時,盡其至誠之心,以為天下所觀法也。固不可如行薦之時,禮數煩劇,其志懈怠,則不能使天下之人觀之以為法則也。有孚顒若者,孚,信也;顒謂恭肅之貌也;若,語助也。言聖人既能盡至誠之心,如始盥之時而臨制天下,則天下之人仰以法之,皆以孚信而應之,其貌顒顒然,盡其恭肅以應夫上也。
剛に盥の礼を行う時は、儀節はなお簡単なので、あの極めて誠懇の心思・恭敬厳粛の意念は、全てその中に傾注し得ます。生肉熟肉を進献する時に至れば、礼節はすでに繁多で、たとえ力を勉めて荘重の儀容を維持し恭謹の心意を保持しても、人は疲倦松懈を免れません。それゆえ聖人が上に在って天下を統治するには、必ず剛に盥の礼を行う時の如く、至誠の心を足り足して、天下人に彼を以て観瞻し取り法う榜様と為さしめ、断じて薦の礼を行う時の如く、礼数が繁雑瑣碎で心志が懈怠疲沓してはならず、さすれば天下人に彼を準則と為さしめ得ません。「有孚顒若」に至っては、「孚」は誠信、「顒」は恭敬粛穆の容貌を形容し、「若」は句末の語助詞です。これは言います。聖人がすでに初めて盥する時の如く誠敬を竭くして天下を治理し得れば、天下人は皆仰ぎ望んで彼に效法し、誠信を以て彼に回応して、一つ一つが神色を荘重にして、最大の恭敬を以て上位の君に対するのです。
彖曰:大觀在上,順而巽,中正以觀天下。觀盥而不薦,有孚顒若,下觀而化也。觀天之神道,而四時不忒;聖人以神道設教,而天下服矣。
《彖伝》は言います。偉大な瞻仰の対象が上位に高居して、下卦は柔順・上卦は遜入で、君主は中に居り正を守る「中正」の徳を以て天下人に観仰せしめます。いわゆる「盥而不薦、有孚顒若」とは、下位者が上位者を瞻仰して感化を受けるを言います。上天のあの神妙測れざる運行の道を観察すれば、四季は推移して従来差錯を出さず、聖人はこの神妙の道に效法して教化を設立して、天下もまた心悦誠服します。
義曰:大觀在上者,謂此卦以二陽居於上,臨觀於下,使其教化浹洽,而天下之所觀仰也。順而巽者,此以二體而言,下坤為順,上巽為權也。夫聖賢之人雖有剛明之德以臨於下,然在乎不自尊大,不自髙抗,凡所作為皆用柔順之道以下於民,則天下之民悅而從之,無所懈倦,而又示之以權變之道,使民由之而不知其所以然也。中正以觀天下者,夫觀有二義:以度而言之,則謂之觀;以目所觀,亦謂之觀也。此一句指九五而言,蓋以陽居陽,又處上卦之中,履至尊之位,有大正大中之徳,以臨於天下,使天下皆有所觀法也。
胡瑗の解説:いわゆる「大観在上」とは、本卦に二つの陽爻があって上位に居り、高く居りて下を照臨して、教化を普遍に浸潤せしめ、天下人が共に仰望する対象と為るを言います。いわゆる「順而巽」とは、上下両卦が各々その性情すなわち「卦徳」に就いて講じるので、下卦の坤の卦徳は柔順、上卦の巽の卦徳は巽入にして通権達変し得ます。聖賢の人は剛健明察の徳を有して下に君臨すると雖も、貴ぶべき処は自ら尊大に居せず身価を抬高せず、凡そ作為あるは皆柔順の道を以て百姓に俯就して、こうして天下の百姓は心悦誠服して従い毫も厭倦せず、同時にまた通権達変の方法を以て彼らを引導して、百姓を日日遵行してその所以を覚え知らせぬことです。いわゆる「中正以観天下」は、「観」の字に二層の意思があり、法度を審度する上から言えば「観」と呼び、眼の見る所の上から言ってもまた「観」と呼びます。この一句は九五の爻に就いて講じるので、九五は陽爻を以て陽位に居って、これを「正」と為し、また上卦の中位に居って、これを「中」と為し、合せてすなわち「中正」です。彼は至尊の位に登臨して、大中大正の徳を以て天下を照臨して、天下人に瞻仰し效法する所有らしめます。
觀天之神道而四時不忒,聖人以神道設教而天下服者,此廣明其義也。言下之人既觀上之道以為法則,而聖人又觀天之道以為法則也。神道者,陰陽不測之謂也。天運至神之道,生育萬物,春生夏長,秋成冬固,使物皆遂其性,而不可推測其用,四時之行無或差忒。聖人法之,亦以至神之道設為仁義之教,以成治天下,使天下之人各安其性而懐其業,不知其所以然而然也。
「観天之神道而四時不忒、聖人以神道設教而天下服」のこの一句は、上の道理を更に申説して透徹にします。それは言います。下位者は上位者の道を瞻仰して準則と奉じ、而して聖人は自己又上天の道を瞻仰して準則と奉じます。いわゆる「神道」とは、すなわち陰陽の変化が測度し難い意です。上天はこの至って神妙の法則を運転して、万物を生養します。春は萌発し、夏は滋長し、秋は成熟し、冬は収蔵堅固にして、万物を各々その本性を実現せしめて、その作用は推測する所なく、四季の運行は従来一点の差錯も出しません。聖人はそれに效法して、またこの種の神妙無跡の方式を以て、仁義を確立して教化と為し、以て天下の治理を成就して、天下人を各々その本性に安んじ各々その本業を楽しませ、知らず覚えずの間に正道に帰せしめます。
象曰:風行地上,觀。先王以省方觀民設教。
《象伝》は言います。風が大地の上に吹行して、到らぬ処なし、これが《観》卦の取象です。先王はこの卦象に取り法って、四方を巡行して民情を察看し、拠って教化を設立しました。
義曰:夫風行於地上,則無所不至,物無不順,生成萬物,萬物得其茂盛,皆可以觀,故曰觀之象也。先王以省方觀民設教者,是先王觀此之象,以省察四方之利害,觀視萬民之善惡,而設仁義之教以行於天下,使一民一物皆得遂其生成而不失其所也。
胡瑗の解説:風が地面上に吹行して、到らない処がなく、万物にそれに順従せぬなく、風気の至る所は群生を化育して、万物を長えて繁茂観る可ならしめるので、これがすなわち《観》卦の取象です。「先王以省方観民設教」とは、先王がこの卦象を観察して、こうして四方を巡行して、各地の利弊得失を省察し、万民の善悪風習を考察して、進んで仁義の教を制定して天下に推行し、一つ一つの百姓・一つ一つの物類を皆順遂に生長せしめ各々その所に安んぜしめたを言います。
初六:童觀,小人無咎,君子吝。象曰:初六童觀,小人道也。
初六の爻辞は言います。児童のように懵懂に観看するは、これは小人の身においては過錯と算えず、君子の身においては可鄙の憾事です。《小象伝》は言います。初六の「童観」は、小人の歩む路子です。
義曰:按此卦二陽居上,有剛明之徳,為天下之所觀,而天下之人莫不奔走以觀其道而為法則也。今初六以陰弱之質,最居其下,而逺於剛陽,不能上進以求聖賢之道而觀之,但冥冥然無所知識,無所聞見,若兒童之所觀也,故曰童觀。小人無咎者,言於小人之道則得其無咎也。何則?夫小人之人,天下之事無所歸責,但營保一身而已,故不能進而觀聖賢之道為己之法則,以至終身愚懵,無能開發,止為兒童之見,此於小人所以無咎也。
胡瑗の解説:本卦の九五・上九の両陽爻は上位に高居して、剛健明察の徳を具えて、天下人が共に瞻仰する対象で、天下人は争相って往って彼らの道術を観摩し準則と奉じせぬものがありません。今、初六は陰柔孱弱の資質を以て全卦の最下面に居り、上の陽剛の爻に離れるが最も遠く、上に向かって聖賢の道を求取して観摩する能わず、ただ昏昏然として一の知る所なく一の聞く所なく、ちょうど小孩子が物を観るがごとき懵懂なので、「童観」と呼びます。「小人无咎」と言うのは、小人のこの一類の人の処境に就いて講じたので、彼らがこのようであるは過錯を構成しません。なぜかというと、小人は天下の大事に対してもとより担責を須とせず、ただ自身を保全するを求めるのみなので、上進して聖賢の道を瞻仰して持って自分の法則と為す能わず、以致って一輩子愚昧懵懂にして開窍する所なく、ただ児童の如き見識を有すのみで、これは小人の身においては罪過を談ずるに足りないのです。
君子吝者,夫君子之人則當求聖賢之道,學聖賢之事業,廣其視聽,大其知識,以充己之道,上思致君,下思利民,而成天下之事業,則君子之道畢矣。今以童觀在下,而君子之人苟亦昧然無所聞見,而不能明顯以求觀於上,取法於聖賢之人,則誠可鄙吝也。
「君子吝」に至っては、君子のこの一類の人は本来応に聖賢の道を追求し聖賢の事業を修習して、自分の見聞を拡大し自分の学識を増広して、以て自身の道徳を充実し、上に対しては君主を輔佐して治世を成就せんことを思い、下に対しては百姓に福を造らんことを思い、進んで天下に功業を建立して、君子の道がはじめて完備と算えられます。今、《観》卦の最下位に居ってただ児童の如き眼界を有すのみで、君子がもしまたこのように蒙昧無知で、光明正大に上に向かって瞻仰し聖賢に取り法う能わざれば、あれは実に可鄙可惜の事です。
六二:窺觀,利女貞。象曰:窺觀女貞,亦可醜也。
六二の爻辞は言います。門の縫から偷看するは、これはただ女子が正道を守持するに適います。《小象伝》は言います。偷看してただ女子の正に宜しきは、君子に対して言えば実に一件の羞恥の事です。
義曰:夫自外顯然而觀,則謂之觀;自內而觀,則謂之窺。此六二一爻,以陰柔之質居下卦之內,遠於在上二陽剛明之人,不能往而從之,惟在內窺竊而觀之,故曰窺觀也。利女貞者,夫居觀之時,大觀在上,而已為窺觀之道,不能顯然而求觀其道以為法則,是但利於女子之貞而已,固不可為君子之道。何哉?蓋女子之職主於閨門之內,不預外事,故但自內而窺竊於外耳,故曰利女貞也。
胡瑗の解説:外に立って公開に観るを「観」と呼び、裏に躲れて偷偷に観るを「窺」と呼びます。六二のこの一爻は陰柔の資質を以て下卦の内に居り、上の二つの剛健明察の陽爻に離れるが甚だ遠く、親身に往って追随し得ず、ただ裏辺に待ちて偷偷に張望するのみなので、「窺観」と呼びます。「利女貞」と言うのは、まさに天下が共仰の時に当たり、偉大な瞻仰の対象が上に在るのに、而して六二の歩むは偷看の路子で、光明正大にあの道理を求取して準則と為す能わざれば、このようであるはただ女子の正を守る分寸に合するのみで、断じて君子の道と算えられません。なぜかというと、女子の職分は主として内室の中に在って、外の事に参与しないので、ただ裏から外に向かって窺望するのみで、それゆえ「利女貞」と言います。
象曰窺觀女貞亦可醜也者,言為窺觀者,於女子之行則可為正,其於君子誠可以丑也。蓋凡君子之人,上必志於君,下必志於民,而思兼濟於天下,故皇皇汲汲以求聖賢之道。若聖賢在上,則顯然而往觀之,以廣己之視聽,發己之才識,而成己之道,以著天下之事業也。今乃反為女子之事,而窺竊以觀於人,是誠足丑也。
《小象伝》が「窺観、女貞、亦可醜也」と言うのは、偷看のこの路を歩むは、女子の行為の上に放てばなお正道に合するを算えて、君子の身に放てば実に可恥だということです。君子のこの一類の人は、上に対しては必ず君主を輔佐せんことを立志し、下に対しては必ず百姓を安頓せんことを立志して、一心に天下を兼済せんことを思うので、総じて急切奔走して、聖賢の道を求取します。倘若聖賢が上位に在れば、君子は応に堂堂正正として前に往って瞻仰し、これに借って自分の見聞を拡大し自分の才識を激発し自身の道徳を成就して、従って天下に功業を顕立すべきです。今、かえって女子のような事を為しに行って、躲れて他人を偷看する、これがはじめて真に人を羞愧せしめます。
六三:觀我生,進退。象曰:觀我生進退,未失道也。
六三の爻辞は言います。自分の施行する政教風化を省察して、拠って進取するか退守するかを決定します。《小象伝》は言います。自身の発出する政教を観察して或いは進み或いは退くは、正道に背離していません。
義曰:生謂風教之所自出也。六三處下卦之上,為眾人之長者也。既為眾人之長,則風教號令皆自己出也。是以六三必下觀於民而察己之道,其風教有過於中者則俯而就之,其風教有不及於中者則勉而及之,使進退俯仰皆至於道也。然六三既有風教下及於民,而又曰進退,何也?蓋所履非至尊之位,但居一卦之上,為眾人之長耳。象曰觀我生進退未失道也者,言六三雖非至尊之位,以其風教之及於下,而又能察己之所出,未至者則進之,過中者則退之,是或進或退皆未失於道也。
胡瑗の解説:「生」は教化風気が自分の身から発出することを指します。六三は下卦の最上位に居り、衆人の首領です。すでに衆人の長の身たれば、風気教化・号令政令は皆自分から発出します。ですから六三は必ず下に向かって百姓を観察して、以て自分の行う道を省察しなければなりません。凡そ自分の教化が過分に失するは、俯身収斂して中道に帰回し、凡そ不及に失するは、勉力補足して中道に趕えて、務めて一進一退・一俯一仰を皆正道に合せしめます。しかし六三はすでに教化が民に下達するを有するのに、爻辞はなぜなお「進退」と言うのでしょうか。彼の踏む所は至尊の位ではなく、ただ一卦の上に居って衆人の首領を充当するに過ぎないからです。《小象伝》が「観我生進退、未失道也」と言うのは、六三は至尊の位に居らないと雖も、しかし彼の教化は民に下達し得て、また自分の発出する政令を省察し得て、為すに足りないは力を加えて推進し、中道を過るは収斂退譲するので、進むと退くとを論ぜず、皆正道を偏離していないということです。
六四:觀國之光,利用賓于王。象曰:觀國之光,尚賓也。
六四の爻辞は言います。一国の政教の光輝を瞻仰して、賓客の礼を以て君王に延請されるに宜しいです。《小象伝》は言います。国家の光輝を瞻仰するは、彼が上賓に崇尚礼遇されたことを説明します。
義曰:夫大觀之時,有其才、有其德而又有其位,為天下之所觀法者,莫尚於九五也。初六最遠之,故曰童觀;六二居內,不能顯然求觀,故曰窺觀。惟六四以陰居陰,履得其正,而切近於九五,是能上附於賢明之君,而求觀聖賢之道,故朝廷之義、宗廟之禮無所不知,仁義之道、禮樂之事無所不習。如是而進於朝廷,觀國之光輝,故王者以之為賓也。
胡瑗の解説:天下が共仰の時に、すでに才能を有しまた徳行を有しまた尊位を占拠して、天下の取り法う対象と為るに足るは、九五に比ぶ者なしです。初六は九五に離れるが最も遠いので「童観」と呼び、六二は身に内卦に居って公開に前に往って瞻仰し得ないので「窺観」と呼びます。ただ六四のみが陰爻を以て陰位に居り、「爻位」が位に当たり正を得て(陰爻が第二・第四のこの類の偶位に居るを正と為す)、また九五に緊挨するので、上に向かって賢明の君に依附して聖賢の道を求取して観摩し得て、こうして朝廷の礼義・宗廟の儀節は通暁せぬなく、仁義の道理・礼楽の事務は熟習せぬなくなります。このような修養に凭って朝廷に進入して、一国の政教の光輝を瞻仰すれば、君王は自然と彼を上賓に看待します。
且如舜以一匹夫之賤,登之朝,堯與之迭為賓主,是有徳之使然也,故曰觀國之光,利用賓于王。象曰觀國之光尚賓也者,言六四既上附九五,能觀國之光,故主者尊尚其徳,體貌其位,而以之為賓也。
譬えて言えば虞舜はもとより一介の平民で身分は卑微でしたが、一旦朝廷に挙薦されるや、堯は彼と互いに賓主と為して礼を以て相待して、これがまさに徳行の致す所なので、爻辞は「観国之光、利用賓于王」と言います。《小象伝》が「観国之光、尚賓也」と言うのは、六四がすでに上に九五に附して国家の光輝を瞻仰し得た以上、上位の君は彼の徳行を推崇し彼の身份を礼敬して、賓客の礼を以て彼を待ちて、彼をただ臣属と為さないということです。
九五:觀我生,君子無咎。象曰:觀我生,觀民也。
九五の爻辞は言います。自分の発出した政教を省察して、君子がこのようにすれば過錯がありません。《小象伝》は言います。いわゆる自身の出す所を観察するとは、実はすなわち百姓を観察することです。
義曰:九五居至尊之位,為天下之所觀仰也,風教號令一出於已也。是以下觀於民,若民善,則知己風教之善也;民惡,則知己風教之惡也。然而九五履正居中,而又處至尊之位,以天下之大,或風教有未至,奸邪有未去,習俗未盡善,禮樂未盡興,則皆其咎也。然九五能觀察於民而修飾於已,使向之未至者皆趨於道,是君子居之則得其無咎也。象曰觀我生觀民也者,夫觀流則可以知源,視影則可以知表,聖賢觀民則可以知己政之得失也。故常切切思省,下觀於民,是以至於無咎也。
胡瑗の解説:九五は至尊の位に居り、天下が共に仰望する対象で、風気教化と号令政令は皆彼一人から発出します。それゆえ彼は下に向かって百姓を観察しなければなりません。百姓が善良ならば、自分の教化が良いことを知り、百姓が浇薄ならば、自分の教化に毛病が出たことを知ります。九五はすでに正を守りかつ上卦の中に居り、また至尊の位を占めて、かくの如き大きい天下に面して、もし教化にまだ至らぬ処があり奸邪がまだ除尽されず風俗がまだ淳美に足らず礼楽がまだ興起していなければ、あれは皆彼の頭上に算えられます。しかし九五は民情を体察し反って自分を修正し得て、もとより到位しなかった処を皆正道に帰せしめるので、君子がこの位置に居れば、過失がありません。《小象伝》が「観我生、観民也」と言うのは、水流を見ればすなわち源頭を推知し得て、影子を見ればすなわち形体を推知し得て、聖賢が百姓を観察すれば、また自分の施政の得失を推知し得ます。ですから彼は常に懇切に反省し、下に民情を体察するので、こうして過失なきを為し得たのです。
上九:觀其生,君子無咎。象曰:觀其生,志未平也。
上九の爻辞は言います。自分が人に顕示する行止を省察して、君子がこのようにしてはじめて過錯がありません。《小象伝》は言います。自身の表現を観察するのは、彼の心志がまだ平静に下り得ないからです。
義曰:上九有剛陽之德,居一卦之上,非至尊之位,故不觀於民,而為民之所觀也。然非至尊之位而為天下之所觀仰者,則《中庸》所謂動而世為天下法、言而世為天下則者,此爻是也。是知為天下之所觀,則天下之責歸之,而萬民之法由之也。若其言之一玷,動之一跌,則天下莫不知之,是有所咎也。
胡瑗の解説:上九は剛健の陽徳を具えて、全卦の最上に居るけれど、至尊の位には在らないので、彼は下に向かって百姓を観察するのではなく、百姓に観察されるのです。すでに尊位に居らずして天下に仰望されるは、まさに《中庸》の言う「一挙一動がすなわち世世代代の法度と為り、一言一語がすなわち世世代代の準則と為る」、言う所はこの一爻です。見れば分かるように、すでに天下人に瞻仰される以上、天下の責望は皆彼の身に帰して、万民の行為準則もまた皆彼に取られます。倘若彼の言語上に一点の瑕疵があり挙動上に一度の失足があれば、天下に知らぬ人なく、それならば過咎を招来するのです。
故上九即當切切思省,以觀己之所出,使動息語黙皆合於道,以副天下之所觀法,則是於君子而得無咎也。象曰觀其生志未平也者,言上九有盛大之德,為天下之觀仰,然處於無位之地,而權不在已,又其責望既重,故夕思晝行,常欲興天下利,除天下害,知其心志之未平也。
ですから上九は応に懇切に反省して、自分の発出する一切の言行を審視して、一挙一動・一言一黙を皆正道に合せしめ、天下人の瞻仰取法に対して資きありとするよう好くして、このようにして君子の身に過錯を留下しません。《小象伝》が「観其生、志未平也」と言うのは、上九は徳行が盛大で天下に仰望されるのに、職位のない処に身を居り、権柄は自分の手に在らず、而して衆人の彼への期望はあのように重いので、それゆえ彼は日夜思慮操労して、天下の為に利を興し天下の為に害を除くを総じて思うので、彼の心志は終始平静に下り得ないことが見えます。
噬嗑 震下離上
噬嗑:亨,利用獄。
《噬嗑》卦の卦辞は言います。口の中に梗塞する硬物を咬断して嚼合すれば、事情は通達し得ます。この卦は刑罰訟獄の事を処理するに用うるに宜しいです。
義曰:按《序卦》云:可觀而後有所合,故受之以噬嗑。蓋人以大才大徳為天下之觀法,使天下合心而歸之也。然則此卦自頤而得,頤者上艮下震,二陽居外,四陰在其內,是其所養之道也。今噬嗑即是九四矣,一陽居三陰之中,如剛梗之物在於頤中,必待噬而齧之,然後可得其合。
胡瑗の解説:《序卦伝》は講じます。瞻仰すべき対象があって、衆心は然る後に帰合する所有る。故に《観》卦の後は《噬嗑》卦に接ぐ。意は人が大才大徳に凭って天下の取り法う榜様と為れば、天下人は同心して彼に帰附するということです。本卦は《頤》卦に由って変じて来たのです。《頤》卦は上が艮で下が震で、二つの陽爻が最外に分居し四つの陰爻が裏に夾んで、万物を頤養する道を取りました。今、《噬嗑》の多出した所はまさに九四のこの一陽爻で、一陽が三陰の当中に横たわり、ちょうど一件の堅硬梗塞の物が口腔の裏に卡っているがごときで、必ず咬断し嚼砕して、はじめて上下の顎が合攏し得ます。
故若朝廷之上、朋友之中、閨門之內,有一小人間廁其間,則為君子良民之害,故必須刑罰竄殛之,則君子之道得以行,良民之志得以伸,心氣和同,上下協合,所以大通也,故曰噬嗑亨也。利用獄者,上體離為明,下體震為動為威。夫刑獄之事,巧詐百端,情偽萬狀,至幽至隠而難察者也,必得威明之人,施剛之才以制之,則奸偽可以刑服,強梗可以放逐,而君子之道得行,上下之志和合也。
ですから朝廷の上であれ朋友の間であれ家門の内であれ、ただ一人の小人がその中に夾雑すれば、君子と善良の百姓の禍害と為ります。必ず刑罰を動用して彼を懲治放逐して、君子の道がはじめて行き通り、良民の心志がはじめて伸展し得て、人心は和洽し上下は配合して、それゆえ大いに亨通すると言い、卦辞が「噬嗑亨」と講ずるはまさにこの意です。「利用獄」に至っては、上卦の離は火で、明察を象徴し、下卦の震は雷で、行動して威勢あるを象徴します。刑獄のこの類の事は、奸巧欺詐して花様は百出し、実情と偽装は千変万化して、最も幽深隠秘にして査明し難く、必ず威勢と明察を兼具する人があって、剛断の才を施展して処置して、はじめて奸偽の徒を法に伏せ強横の輩を逐われ、従って君子の道が行を得て上下の心志が和合するのです。
彖曰:頤中有物曰噬嗑,噬嗑而亨。剛柔分,動而明,雷電合而章。柔得中而上行,雖不當位,利用獄也。
《彖伝》は言います。口腔の中に物を含んで、必ず咬合して、これを「噬嗑」と呼びます。咬断して嚼合すれば、事情は因って亨通します。陽剛と陰柔が上下に分処して、下卦は震動で上卦は離明で、雷と電が相合して光彩が顕著です。柔爻が上行して中位に居って、居る位は相称ではないと雖も、刑獄を処理するに宜しいです。
義曰:頤中有物曰噬嗑者,夫剛梗之物在於頤中,是為口頰之患,噬齧之然後得合也。噬嗑而亨者,小人為君子良民之害,必須刑戮之,則上下之志合而大通也。剛柔分者,離陰也,為柔為明;震陽也,為剛為威。以威剛至明而用刑,則君子小人分而無間廁也。
胡瑗の解説:「頤中有物曰噬嗑」とは、堅硬梗塞の物が口の中に卡って、口頬の禍患と為り、必ずそれを咬断してはじめて合攏し得るを言います。「噬嗑而亨」とは、小人はすなわち君子と良民の禍害で、必ず刑罰を以て除掉して、上下の心志がはじめて契合して大いに通達するを言います。「剛柔分」の中の「剛柔」は、陰陽の両種の爻性を指します。離は陰に属し、その性は柔にして明で、震は陽に属し、その性は剛にして威です。威猛剛断を以て極明察を加えて刑を用いれば、君子と小人は截然として分かれて、更に夾雑相混しなくなります。
動而明,雷電合而章者,夫有剛威之才而不能明察,則暴而傷於物;有明察之才而不能剛威,則柔懦而不能立事。是必威明兼濟,則事無不立也。今噬嗑之卦,動而且明,雷電相合而和同,故其道光顯而章著也。
「動而明、雷電合而章」の意思は、ただ剛猛の威勢があって明察し得なければ、暴虐に流れて人物を傷害し、ただ明察の才識があって剛断して威を立て得なければ、柔弱に失して事を成し得ない、必ず威勢と明察の両者を兼備して、はじめて成さない事なしです。今、《噬嗑》の一卦は、すでに行動し得てかつ明察し得て、雷と電が相合して配和を得るので、その道理は光明显著です。
柔得中而上行,雖不當位,利用獄也者,此指六五而言也。六五以柔順之道,履得其中而居至尊之位,夫以柔而居至尊,所行不得其位,所處不當其位,然猶以居離明之中,其性至明,故利用於刑獄之事也。何則?夫獄之情至深至隠,其間奸偽利害出於萬狀,故非至明之君子則不能制其事。今六五所處雖不得正,然以其居離卦之中,是其性至明,故利用於獄也。
「柔得中而上行、雖不当位、利用獄也」のこの一句は、六五に就いて講じます。六五は下から上行して来た柔爻で、柔順の道を以て上卦の中位に居り、また至尊の位の上に坐します。陰柔の質を以て至尊の位を占拠して、その作為と処する位置は相称ではなく、すなわち陰爻が第五という陽位に居ってその正を失います。しかしそれは畢竟離卦の光明の正中に居って、秉性は極めて明察なので、刑獄の事を処理するに宜しいです。なぜかというと、獄訟の実情は最も深く最も隠れて、その中の奸詐と利害は千変万化して、極明察の君子でなければ裁断し得ないからです。六五の処する所はその正を得ないと雖も、しかし離卦の中に居るに因って秉性は至明なので、刑を用い獄を断ずるに宜しく、これがまさに本卦が獄を断ずる任を彼に托付した縁故です。
象曰:雷電噬嗑,先王以明罰勑法。
《象伝》は言います。雷震と電閃が相合するは、すなわち《噬嗑》の卦象です。先王はこれに取り法って、刑罰を明確にし法令を整飭しました。
義曰:震為雷,故有威;離為火,故有明。有威有明,能辨小人之情,用刑以去之,此噬嗑之象也。先王以明罰勅法者,言先王當有威明之徳,有善必賞,有惡必刑,所以明示其罰而正勅其法也。
胡瑗の解説:震は雷なので、威勢があり、離は火なので、光明があります。すでに威ありかつ明あれば、小人の実情を弁明して、刑罰を以て彼らを除掉し得て、これがすなわち《噬嗑》の取象です。いわゆる「明罰勅法」とは、先王が応に威厳にして明察の徳性を具えて、善行あれば必ず奨賞し悪行あれば必ず処罰して、刑罰を公開に宣示し国家の法令を端正整飭するを言います。
初九:履校滅趾,無咎。象曰:履校滅趾,不行也。
初九の爻辞は言います。脚上に木製の桎梏を着して、脚趾を遮没しても、災禍がありません。《小象伝》は言います。桎梏を着して脚趾を遮るは、彼を更に悪処に向かって歩を邁げ得せぬにするためです。
義曰:履校者,以木械桎其足之謂也。滅,沒也。趾,足趾也。初九居噬嗑之初,是被刑之輕者也,其罪惡未至於大,故但校滅其趾而已。夫聖人之視民也,如父母之於赤子,雖有罪豈忍加之刑戮哉?蓋慮罪小之時不為之懲戒,則必至於大惡,故當此罪小之時,加以木械桎其足趾,使其惡之不能行也。
胡瑗の解説:「履校」は木製の刑具を以て彼の脚を卡住し、「滅」は遮没、「趾」は脚趾です。初九は《噬嗑》卦の最初に居り、刑を受けるが較軽い人に属して、罪過はまだ大きくて厳重の地步に至らないので、ただ木枷を以て脚趾を遮るのみです。聖人は百姓を看待すること、父母が嬰児を看待するがごときで、孩子は縦使罪があっても、どうして忍心して重刑を動用しましょうか。ただ罪過がなお小さい時にもし懲戒を加えなければ、後日必ず大悪に演成することを考慮して、罪の小さい時に乗りて、木製の刑具を以て彼の脚趾を鎖住して、彼の悪念を歩を邁げて施行し得せぬにするのです。
故《繫辭》曰:小人不恥不仁,不畏不義,不見利不勸,不威不懲,小懲而大誡,此小人之福也。言小人不仁不義,見利則勸,恃威則懲,此所以為小人之福也。象曰履校滅趾不行也者,言其當罪小之時,用校以滅其趾,使知其罪雖小不可為而不行也。
ですから《繫辞伝》は言います。小人は不仁を以て羞恥と為さず、不義を以て可怕と為さず、好処を見ざれば善に向かうを肯んじず、威懾なければ収斂を知らず、彼に小さい苦頭を吃らせて大禍を免れせしむるは、これがまさに小人の福気です。これは小人がもとより不仁不義で、利益を見てはじめて勉力するを肯んじ、威勢に遇ってはじめて警惕を知るので、早めに彼に一点の懲戒を与えるは、かえって彼を成全したということです。《小象伝》が「履校滅趾、不行也」と言うのは、彼の罪過がなお小さい時に乗りて、木枷を以て脚趾を遮って、彼に罪は小さいと雖もまた犯すべからざるを明白にせしめ、従此更に歩き去らざらしめるということです。
六二:噬膚滅鼻,無咎。象曰:噬膚滅鼻,乘剛也。
六二の爻辞は言います。柔嫩の肌膚を咬嚙して、深くて鼻子を遮没するに至っても、過失がありません。《小象伝》は言います。膚を咬み鼻を没するは、六二が陽剛の上に乗凌しているからです。
義曰:膚者,柔脆易齧之物;滅鼻者,用刑之也。六二以陰居陰,又處下卦之中,是得正且中也。以此中正之道用刑至當,如齧其柔脆之膚,言其易而民服也。然下乘初九之剛,故用刑大過,至於滅鼻之。然以居中履正,用刑至當,雖滅鼻而過於察,是亦無咎也。象曰噬膚滅鼻乘剛也者,夫初九者過惡之小人,已乘於上,當用刑以懲之,所以至於滅鼻之。然非專尚刻,蓋以乘初九之剛故也。
胡瑗の解説:「膚」は柔軟脆嫩で容易に咬み動かし得る物で、「滅鼻」は刑を施すが深重を指します。六二は陰爻を以て陰位に居り、また下卦の中位に居って、すでにその正を得て、またその中を得ています。このような中正の道を以て刑を断ずれば、処置は極めて允当で、ちょうど柔嫩の肌膚を咬むがごとき軽易なので、百姓は自然と服気します。ただ六二の下には初九の陽剛を「乘」っており――陰爻が陽爻の上に壓るを「乘」と呼び、陰爻が陽爻の下に居るを「承」と呼び、合せて「承乘」と称します――ですから刑を用いるに過重を免れず、深くて鼻を没するに至ります。しかしそれは中に居り正を守って、刑を用いるが畢竟得当なので、失して苛察に過ぎると雖も、また過錯と算えられません。《小象伝》が「噬膚滅鼻、乘剛也」と言うのは、初九はもとより過悪ある小人で、六二は彼の上に凌駕して、まさに応に刑を以て彼を懲治して、はじめて鼻を没するに重く、これは一味に苛刻を崇尚するのではなく、ただ六二が初九の陽剛に乗凌しているに因るのみだということです。
六三:噬臘肉遇毒,小吝,無咎。象曰:遇毒,位不當也。
六三の爻辞は言います。整只の風乾した腊肉を咬啃して、毒味を吃到して、略か憾惜あるけれど、災禍がありません。《小象伝》は言います。毒味を吃るは、六三の居る位置が恰当でないからです。
義曰:臘肉者,全乾之謂也。六三居下卦之極,是為不中;以陰居陽,是為不正。凡用刑之道,有諸己然後可以求諸人,無諸己則不可責於人也。今六三以不中不正之行而刑人之過,則人無有服從之者,故若噬臘肉之難也。民心既不從,怨懟既已結,故非但不能刑人,將反招其害也,故曰噬臘肉遇毒也。小吝無咎者,言六三以不正不中而為人之見害,故小有所吝。然而居震動之上,以柔順之質而應於上九剛明之人,則能辨民之邪正,察獄之情偽,是雖始有小吝,終亦自然無咎。
胡瑗の解説:「腊肉」は整只の風乾した肉を指します。六三は下卦の頂端に居り、中位に居らず、これを「不中」と為し、また陰爻を以て陽位に居って、これを「不正」と為します。凡そ刑を用いる道理は、総じて自分が先ず為し遂げて、然る後に他人を求め得、自分が皆為し得ざれば、他人を責備する資格ありません。今、六三は不中不正の操行に凭って他人の過失を懲治するので、心服する人なく、ちょうど風乾腊肉を啃むがごとき費力難嚼です。民心がすでに服せず、怨恨はまたすでに結んだので、結果はただ人を治め得ぬのみならず、かえって禍害を招来するので、爻辞は「噬腊肉遇毒」と言います。「小吝无咎」と言うのは、六三が不正不中の資質に凭って行事して、かえって人に害されたので、少し憾惜があるからです。しかしそれは震動の卦の上位に居り、また上九という剛健明察の人と相「応」し――初と四・二と五・三と上が、両爻が一陰一陽して彼此感通するをすなわち「応」と呼びます――因って百姓の邪正を弁別し獄情の真偽を察知し得て、起初は略か小憾あると雖も、終に自然と過錯ありません。
九四:噬乾胏,得金矢,利艱貞,吉。象曰:利艱貞吉,未光也。
九四の爻辞は言います。骨を帯びた乾肉を咬啃して、銅の箭頭を得到して、艱難の中に正道を守持するに宜しく、吉祥を獲得し得ます。《小象伝》は言います。艱難に正を守って吉を得るに宜しいは、彼の道がまだ光大していないことを説明します。
義曰:乾胏者,肉之帶骨者也,因有骨而乾,愈於噬臘肉之難也。夫君子處得髙位而進輔於君,以乾天下之事者,必有中正之徳。徳既中正,則刑一人而天下服其罪,賞一人而天下勸其善。今九四處上卦之初,是不中也;以陽居陰,是不正也。以不中不正之道而刑于人,則甚於噬臘肉之難也。
胡瑗の解説:「乾胏」は骨頭を帯びた乾肉で、骨があるが為に更に乾硬で、風乾腊肉を啃むよりもなお費力です。君子が高位に身を居り上前して君主を輔佐し天下の大事を承担するには、必ず中正の徳を具えねばなりません。徳行がすでに中正なれば、一人を懲処すれば天下人は皆彼の罪に心服し、一人を奨賞すれば天下人は皆勧を受けて善に向かいます。今、九四は上卦の起始に居り、中位に居らず、これを「不中」と為し、陽爻を以て陰位に居って、これを「不正」と為します。不中不正の道に凭って他人を懲治すれば、それならば腊肉を啃むよりもなお口を下し難いです。
金,剛也;矢,直也。九四履文明之始,其體剛,剛則果於行事,明則辨於邪正,雖非中正,猶有剛明,故所行無不得其直。然四本以不中不正,故當憂民之所不服,慮惡之所不懲,艱難其心,退有所懼而守之以正,則可以責於人而人服之,故獲其吉也。象曰利艱貞吉未光也者,蓋由艱難守正而後得吉,是道未光大也。
「金」はその剛硬を取り、「矢」はその正直を取ります。九四は離卦の文明の起点の上に踏んで、本体は陽に属して剛で、剛なれば果決して行事し得て、明なれば邪正を弁別し得て、不中不正と雖も、畢竟剛と明を兼有するので、為す所は皆正直を失いません。ただ九四は終に不中不正の地に居るので、それゆえ応に百姓が服せぬを憂慮し悪人がまだ懲戒を受けざるを擔心して、心思を艱難の処に放ち、時時退省して心に戒懼を存して、正道を以て自守して、このようにして他人を責求すれば、他人がはじめて心服して、こうして吉祥を獲得します。《小象伝》が「利艱貞吉、未光也」と言うのは、艱難に正を守るに靠ってはじめて吉祥を換え得て、彼の道がまだ光大に足らぬことが見えるということです。
六五:噬乾肉,得黃金,貞厲,無咎。象曰:貞厲無咎,得當也。
六五の爻辞は言います。風乾した肉を咬啃して、黄金を得到して、正道を守持して常に危懼の心を存せば、過失がありません。《小象伝》は言います。正を守り戒懼して過失なきは、処置が得当だからです。
義曰:噬乾肉者,易於乾胏而難於噬膚也。六五以文柔處其至尊,所行所為皆合於道,無過無不及,以此主刑賞之柄,握生殺之權,宜矣。得黃金者,黃,中之色也;金者,剛之物也。夫天下之獄,必有中正剛明之徳可也。六五雖少失於正,然以有離明之質,行得中道,而能用刑者也。
胡瑗の解説:風乾した肉を咬むは、骨を帯びた乾肉を啃むより容易で、しかし柔嫩肌膚を咬むより費力です。六五は文明柔和の質を以て至尊の位に坐って、為す所は皆正道に合し、すでに過分なくまた不及なく、このような人に刑賞の柄を執掌せしめ生殺の権を握らせるは、まさに相宜です。いわゆる「得黄金」とは、黄は五色の中に居る色で、金は剛硬の物で、合せてすなわち中にしてかつ剛を象徴します。天下の獄訟を裁断するには、もとより中正剛明の徳があってはじめて行えます。六五は正を守る上において少し欠缺があると雖も、しかし離卦の光明の資質に凭って中道に行うので、刑を用い得る人です。
貞厲無咎者,言六五處至尊之位,有文明之徳,然用刑雖少失於正而人有不服,今若堅守其正而常若危厲,則無咎矣。象曰貞厲無咎得當也者,言六五能守其正,常若危厲,則所行所為無不當也。
「貞厲无咎」と言うのは、六五は身に至尊の位に居り、文明の徳を具えて、ただ刑を用いる時に少しその正を失い、因って不服する人有るべく、今、もし正道を堅守し得て、かつ時時危険が頭に臨む有りの如く戒懼警惕すれば、過錯がないということです。《小象伝》が「貞厲无咎、得当也」と言うのは、六五が正道を守住し常に危懼を懐き得れば、それならば彼の一切の挙措は恰当せぬなくなるということです。
上九:何校滅耳,凶。象曰:何校滅耳,聰不明也。
上九の爻辞は言います。頚上に大枷を扛って、耳朵まで遮没して、凶険です。《小象伝》は言います。枷を着して耳を遮るは、彼は耳朵を有すると雖も、心中に道理を聴き明白せぬからです。
義曰:上九居卦之極,罪之大者也;何校滅耳,刑之者也。夫君子之人,有善必勸,勸之不已,則小善至於大善,以至愚者必賢,賢者必聖也;小人則有惡不悛,以至積小惡至於大惡,由小罪至於大罪也。今上九過惡之小人,罪之至者也。
胡瑗の解説:上九は全卦の頂端に居り、罪悪の最大の人で、「何校滅耳」は、まさに彼の身に加えられた刑罰です。君子のこの一類の人は、一分の善あれば勉力して為しに行き、勉力して止まず、小善が大善に積みて、こうして愚鈍の人もまた賢に変じ得て、賢者は更に聖境に進み得ます。小人はすなわち悪行があっても悔改するを肯んじず、以致って小悪が大悪に積み小罪が大罪に積みます。今、上九はまさに罪悪が累々たる小人で、罪はすでに極点に至りました。
夫小人之為惡,雖日有聖人之教化聞於耳而不知遷善,雖有聖人之刑罪將及於身而不知改過,以至積罪至大,長惡不悛,君子雖欲愛之,不可得也。故此所以被刑之校加於首而滅沒其耳,凶禍所以及之也。
小人が悪を為すは、たとえ日日に聖人の教化が耳朵に伝進しても、改過して善に向かうを知らず、たとえ聖人の刑罰が眼見て身に落ちんとするも、悔改自新を知らず、以致って罪過は愈々積みて大きくなり長期悪を為して回頭するを肯んじず、君子は縦使彼を愛護せんと欲しても、下手する所がありません。ですから彼は終に木枷に頚項を套せられ耳朵まで遮没して、凶険の禍患もまたこのように彼の身に落ちました。
故《繫辭》云:善不積,不足以成名;惡不積,不足以滅身。小人以小善為無益而弗為也,以小惡為無傷而弗去也,故惡積而不可揜,罪大而不可解。夫人之耳聽必聰也,人之目視必明也,小人之耳非聵也,目非瞽也,日聞聖賢之教化而不能飭身歸善,以至陷於刑戮,蓋積惡之久而不知罪之,是聰不能自明也。
ですから《繫辞伝》は言います。善行を積累せざれば、名声を成就するに足らず、悪行を積累せざれば、自身を毀滅するに足らず。小人は総じて小善は好処なしと為して為すを肯んじず、小悪は妨害なしと為して除くを肯んじず、こうして悪が積みて掩盖し得ず罪が大きくて開脱し得ないに至ります。人の耳朵はもとより聴き分けて清楚分明すべく、眼睛はもとより看透して明白すべきに、小人の耳朵は聾せず、眼睛も瞎せず、日日に聖賢の教化を聴いて、しかし自身を整飭して善道に帰し得ず、終に刑戮の中に陥る、ただ悪を為すが久しくて自らその罪を知らざるに因り、これがすなわち聴覚あると雖も心中に自ら明白せぬことで、《小象伝》のいわゆる「聡不明」はまさにこれを指して言います。
賁 離下艮上
賁:亨,小利有攸徃。
《賁》卦の卦辞は言います。文飾が宜を得れば、亨通し得ますが、ただ往く所有り作為ある这一面において、利益は大ならざるのみです。
義曰:按《序卦》曰:物不可以苟合而已,故受之以賁。賁者,飾也,言物之既相合,必有文章賁飾之也。賁亨者,夫噬嗑之時,則是聖人削鋤強梗,強梗既鋤,則可以制作禮樂,申明仁義,施為教化,設為文章以文飾之,則治道大通於天下矣。小利有攸往者,夫治天下必有賢明之才,處中正之位,乃能興治立事。今賁之上九,以陽居一卦之上,在無位之地,是不能大有所為,故小利有攸往而已。
胡瑗の解説:《序卦伝》は講じます。事物はただ草率に凑合する可からず。故に《噬嗑》の後は《賁》卦に接ぐ。「賁」はすなわち文飾で、意は万物がすでに聚合すれば、必ず文采を有って以て修飾を加うべしということです。「賁亨」と言うのは、《噬嗑》の時に、聖人がまさに強横梗阻の徒を鏟除して、強梗が一旦鏟除されれば、礼楽を制作し仁義を申明し教化を推行して、典章文采を建立して以て修飾を加え、こうして治国の道が天下に大いに通達するからです。「小利有攸往」と言うのは、天下を治理するには必ず賢明の才が中正の位置を占拠して、はじめて治道を興起し事業を建立し得るからです。今、《賁》卦の上九は陽爻を以て全卦の最上に居って、職位のない処に居って、大いに作為し得ないので、ただ小さく往く所有るのみです。
彖曰:賁亨,柔來而文剛,故亨;分剛上而文柔,故小利有攸往。天文也。文明以止,人文也。觀乎天文以察時變,觀乎人文以化成天下。
《彖伝》は言います。《賁》卦が亨通するのは、柔爻が下りて来て剛爻を文飾するので、亨通します。また剛爻を分出して上行して柔爻を文飾するので、往く所有る上において利益は大ならざるです。これは天の文采です。文采が光明でかつ各々その分に安んずる、これは人の文采です。天の文采を観察すれば、四時の変化を察知し得て、人の文采を観察すれば、天下を教化して治世を成就し得ます。
義曰:賁卦自泰而得,坤之上六來居乾之九二,此以柔道文飾剛健之德也。夫治國之道,不可專於剛,剛則暴;不可專於柔,柔則懦。剛柔相濟,然後治道可成。何則?兵革所以禦侮而不可久玩,刑罰所以止奸而不可獨用,必有仁義禮樂、文章教化以文飾之,則天下大通矣,故曰柔來而文剛,故亨。
胡瑗の解説:《賁》卦は《泰》卦に由って変じて来ました。坤卦の上六が下りて来て乾卦の九二の位置に居り、これがすなわち柔順の道を以て剛健の徳を文飾するのです。国を治める道理は、一味に剛を用い得ず、一味に剛を用いれば暴虐に流れ、また一味に柔を用い得ず、一味に柔を用いれば懦弱に失します。「剛柔」の両者が相互に調剤して、治道がはじめて成就します。なぜかというと、兵甲武備は外侮を抵御するのに用いるのに、長く玩弄するべからず、刑罰は奸邪を制止するのに用いるのに、ただそれに単靠して国を治め得ず、必ず更に仁義礼楽・典章教化を有って以て文飾を加えて、天下がはじめて大いに通暢するので、《彖伝》は「柔来而文剛、故亨」と言います。
分剛上而文柔,故小利有攸往者,此言以泰卦乾之二分居坤之上,是分剛陽之道而文飾於柔徳也。夫聖賢有剛健文明之德,則必履至尊之位,總大任,持大權,乃可大有為於天下。今以剛居無位之地,是但小有所往而已。
「分剛上而文柔、故小利有攸往」とは、《泰》卦の乾体の九二を分出して上に坤体の頂に居る、これは陽剛の道を分出して陰柔の徳を文飾することを言います。聖賢がもし剛健文明の徳を具えれば、応に至尊の位に登上して、重任を総攬し大権を執掌して、はじめて天下に大いに作為し得ます。今、この一剛爻は却って上九に停留在りて、六爻の中で、第五の爻は君位で、上の爻はすでに君位の外に在って、もとより職位のない処なので、彼はただ小さく往く所有るのみです。
天文也者,此以下廣釋文飾之義也。按經但云天文也,上下相應不成義理,當上有剛柔交錯四字,蓋遺脫故也。言剛柔交相錯雜以成天文,是天之文也。若寒暑相推而成四時,日月相代而成晝夜,陰陽相蕩而成風雨雷霆,此皆剛柔交錯,天之文也。
「天文也」以下は、更に一歩進んで文飾の道理を申説します。今本の経文に拠ればただ「天文也」の三字を写して、上下は照応し起らず義理を講じ通せないので、応にそれの前にまた「剛柔交錯」の四字があるべく、想うに伝抄の時に脱漏したのでしょう。これは剛と柔が交互錯雑して、従って天の文采を形成するを言います。譬えて言えば寒暑が推移して四季と成り、日月が更替して昼夜と成り、陰陽が激蕩して風雨雷霆と成る、これらは皆剛柔の交錯の致す所で、まさに天の文采です。
文明以止,人文也者,此以二體而言,離下為文明,艮上為止,既有文章之光明,又能止靜,是人之文也。若夫君聖臣賢,上行下化,仁義禮樂著於天下,是國之文也。父義母慈,兄友弟恭,男正位乎外,女正位乎內,閨門之內和諧肅穆,是家之文也。聖人舉此文明之道,發於天下國家,以文成其治,使刑罰措而不用,兵革寢而不作也。
「文明以止、人文也」とは、上下両卦の卦徳に就いて講じるので、下卦の離は文明で、上卦の艮は止で、すでに典章文采の光輝があって、かつ分限に止まり安靜にして躁らざるを得て、これがすなわち人の文采です。君主が聖明・臣子が賢能で、上がどう為れば下がどう受化して、仁義礼楽が天下に彰顕するがごときは、これは一国の文采です。父が行事して宜に合し母が慈愛で、兄が友善・弟が恭敬で、男子が外にあって本位を守好り女子が裏にあって本位を守好って、一家門の内が和睦粛穆ながごときは、これは一家の文采です。聖人はこの套の文明の道を以て天下国家に推行して、文治を以てその治理を成就して、刑刑罰を擱置して用いず兵甲を収蔵して動かさざらしめます。
觀乎天文以察時變,觀乎人文以化成天下者,天文即前所謂也。聖人上觀乎天文以察時之變,若東作西成、南訛朔易、雨暘風燠、災祥之類也。聖人觀乎人文,使君明臣忠,父慈子孝,兄弟有禮,長幼有序,各得其正,故制作禮樂,施為政教,以化成天下而成天下之治也。
「観乎天文以察時変、観乎人文以化成天下」のその中の「天文」はすなわち前に言った剛柔交錯の象です。聖人は上に向かって天の文采を観察して、以て時令の変化を察知します。例えば《尚書・堯典》の講ずる東作・西成・南訛・朔易のこれら四時に随って定まる農政、および晴雨風暖・災異祥瑞の一類の徴候です。聖人は人の文采を観察して、君主を聖明・臣下を尽忠・父を慈愛・子を孝順・兄弟の間に礼あり・長幼の間に序あらしめ、人人に各々その正を得せしめ、こうして礼楽を制作し政教を施行して、文治を以て天下を感化して、天下の治世を成就します。
象曰:山下有火,賁。君子以明庶政,無敢折獄。
《象伝》は言います。山脚の下に火光が照映して、これが《賁》卦の取象です。君子はこれに取り法って、各項の政務を清楚明白に興辦するけれど、軽率に獄訟を判決するを敢えてしません。
義曰:夫山有草木之茂,而火明其下,光明照於上,有賁飾之象也。君子觀此之象,以明舉其庶政。庶政者,謂國家禮樂教化之道,申明興舉之,以文飾天下之治,以其繁而不以儉曰庶政。
胡瑗の解説:山上には繁茂の草木が長り、山下には火光が照耀して、光亮が山体に映じ上るは、まさに文飾装点の景象です。君子はこの卦象を観察して、こうして各項の政務を清清楚楚として興辦し起します。いわゆる「庶政」は、国家の礼楽教化のこの一整套の事務を指して、一々に申明し興挙して、以て天下の治理を文飾するので、それは頭緒が繁多にして簡省を尚ばないので、「庶政」と呼びます。
無敢折獄者,夫獄訟之情,至幽至隠者也,其間奸詐萬狀,情偽萬端,必有剛明之德,則能別於寃枉,決其是非,而其情可得而見。今賁之象,其明不遠到,故聖人戒之,言但可以明其庶政,而不可果敢而折獄也。何則?蓋獄事至重,決而行之,則死者不復生,刑者不復贖,是必有剛明之徳,乃可決其事,曲直是非之情無所不當矣。
「无敢折獄」と言うのは、獄訟の実情は最も幽深最も隠秘で、その中の奸詐は千般・真偽は万変して、必ず剛断明察の徳を具えて、はじめて冤屈を分辨し是非を判定して、真相を清楚に見得るからです。今、《賁》卦の取象は、あの点火光は遠くを照らし得ないので、聖人は告戒を加えます。ただそれを以て庶政を明白に成辦し得て、一時の果敢に凭って獄案を判決するべからず。換言すれば、文飾の明は政務を整飭するに足るけれど、幽深隠秘で明白し難い獄情を照透し得るとは限らない。なぜかというと、獄案の関係は重くて、一旦判決執行すれば、死した人は更に活きず、刑を受けた人は贖回し得ないので、必ず剛断明察の徳を具える人に由って、はじめてこの類の事を裁決して、是非曲直を件件恰当に断じ得るのです。
初九:賁其趾,舍車而徒。象曰:舍車而徒,義弗乘也。
初九の爻辞は言います。自分の脚趾を文飾して、寧ろ車子を捨てて歩行するを取ります。《小象伝》は言います。車を捨て歩行するは、道義に按ってあの車に乗るべきでないからです。
義曰:趾,足也。初九處賁之初,有至明之性,體於陽,有至剛之德,是君子之人能以道義賁飾其身,可行則行,可止則止,不為苟且,是能賁飾其行趾也。舍車而徒者,以卦體言之,則初九之正應在於六四,而與六二相比。六二上無正應,欲求於初,而初有剛明之德,確然守正,惟義所在,不顧六二而棄之,但待其時而往從六四之正應也。
胡瑗の解説:「趾」はすなわち脚です。初九は《賁》卦の開端に居り、極明察の性情を禀有し、本体は陽に属して、極剛正の徳操を具えて、まさに君子が道義を以て自身を文飾し得ます。行くべきは行き停まるべきは停まって、断じて苟且に迁就せず、これがすなわち自分の行止を文飾することです。「舍車而徒」と言うのは、卦体に就いて見れば、初九の正応は六四にあり、而してそれと六二は「比」の関係で――上下が緊隣して互相親近するをすなわち「比」と呼びます。六二は上に正応なく、転じて初九を求めんとしますが、初九は却って剛健明察の徳を有して、確実に正道を守り、一切はただ道義の在る所を看るので、六二を理会せずそれを一方に撇き、ただ時機が成熟するを待って、再び前に往って六四という正応と会合するのです。
猶君子之人能以道義飾於身,故車雖至貴,若義不當乘則舍之;徒雖至賤,若義當行則從而行之,是所行所止皆惟義之所在也。象曰舍車而徒義弗乘也者,六四逺也,徒步勞也,初九不以遠且勞而必往之;六二近也,乘車安也,初九不以安而苟乘之,是皆去就以義也。
これはちょうど君子が道義を以て自身を修飾するがごときです。車子は尊貴と雖も、道義に按って乗るべからざれば捨て、歩行は低賤と雖も、道義に按って行くべきならば行きます。彼の一行一止が、全て道義がどちらの辺に在るかを看ることが見えます。《小象伝》が「舍車而徒、義弗乗也」と言うのは、六四は離れるが遠く歩行はまた辛苦なのに、初九は路が遠く労累するを因って往かざらず、六二は離れるが近く車に坐るはまた安逸なのに、初九はまた安逸を因って随に乗上せず、これは皆道義に依って取舍去就を決定するので、貴賤労逸は彼の考量の内に在らず、彼はただ該と不該を問うのみだということです。
六二:賁其須。象曰:賁其須,與上興也。
六二の爻辞は言います。彼の鬍須を文飾します。《小象伝》は言います。鬍須を文飾するは、上の陽爻と一緒に興起するためです。
義曰:須者,待也。夫君子之進,不可以躁,必待其時,有其君,往而可以行己之道,則決然而進無累矣。今六二之爻,上無正應,是未可以往,必退而待其時,候可進而進之,故但以道義賁飾其身,由中而行之,以須待而已。
胡瑗の解説:「須」はここでは「待」に通じ、等待の意です。君子が出仕して進を求めるは躁急すべからず、必ず時機を等待して、輔すべき君に遇って、往けばすなわち自分の主張を施行し得る、あの時に至ってはじめて決然として進んで、毫も牽累なしです。今、六二のこの一爻は上に正応なく、まだ往くべきでないことを説明して、ただ退き下って時機を等候して、進むべきの時に再び進むのみです。ですから彼は眼下はただ道義を以て自身を修飾して、中道に依って行事して、静かにその時を待つのみです。
象曰賁其須與上興也者,夫六二所以賁飾其身而待者,蓋上無正應,未可以往也。已既無應,而切近於九三,九三亦無其應,近而相得,故已能上與九三合志同心以興起也。猶居朝廷之間,親其賢而共成其治;朋友之間,亦能比其賢而能成其事業者也。
《小象伝》が「賁其須、與上興也」と言うのは、六二がただ自身を修飾して静候する所以は、上に正応なく、まだ往く能わざるからです。自分はすでに応ないのに、九三に緊挨して、九三の上に同じく応爻なく、両爻が相隣り彼此投合するので、六二は上に向かって九三と同心同徳して、一緒に興起して有為し得ます。これはちょうど朝廷の中に身を居って、賢者に親近して共同に治世を成就するがごときで、また朋友の間にあって、賢者に親附し得て一同に事業を成就するがごときです。
九三:賁如濡如,永貞吉。象曰:永貞之吉,終莫之陵也。
九三の爻辞は言います。文飾して光彩あり、また水の如く潤沢して、長く正道を守持して吉祥を獲得し得ます。《小象伝》は言います。長久に正を守って吉を得るは、終に彼を欺凌し得る人なしということです。
義曰:夫六二以無正應,未可以進,故賁飾其身以須其時;而九三亦上無正應,亦未可進,故與六二同志,交相文飾,交相濡潤,候其時則進於朝,輔其君以贊成天下之治也,故曰賁如濡如。永貞吉者,言九三既與六二交相賁飾濡潤,然非正應,則當永長而守之以正,則得其吉也。象曰永貞之吉終莫之陵也者,言能永守正道,則外人不能間而侵陵之也。
胡瑗の解説:六二は正応ないが為に、まだ進取し得ず、先ず自身を修飾して時機を等待します。九三の上に同じく正応なく、また進取し得ず、こうして六二と志趣が相同じて、彼此文飾し互相潤沢して、時機が来臨すれば便ち一同に朝に入りて、君主を輔佐し共に天下の治業を襄けるので、爻辞は「賁如濡如」と言い、「濡如」はまさに両爻が互相潤沢し光采が相生ずる様子を形容します。「永貞吉」と言うのは、九三がすでに六二と互相文飾潤沢すれば、両者は畢竟正応ではないので、応に長長久久に正道を以て自守して、こうしてはじめて吉祥を獲得し得るということです。《小象伝》が「永貞之吉、終莫之陵也」と言うのは、長く正道を守住し得れば、外人は彼を離間し侵凌するに由なしということです。
六四:賁如皤如,白馬翰如,匪宼婚媾。象曰:六四當位疑也,匪冦婚媾,終無尤也。
六四の爻辞は言います。文飾して潔白素浄で、白馬が奔馳して飛ぶが如し。来るは強盗ではなく、求婚配の人です。《小象伝》は言います。六四は位置は正しいと雖も、心中になお疑虑があります。ただ来た者が強盗でなく婚配の人であると看清めば、終に過失ありません。
義曰:皤者,潔白之貌。六四以陰居陰,履得正位而行得正道,能以五常之道飾其身,修其行,潔白其志,使君子之德成而無有玷缺也,故曰賁如皤如。白馬翰如者,言六四應在於初,初有剛明之德,而已有正一之行,能賁飾其身而又潔白其馬往而從之也。
胡瑗の解説:「皤」は潔白の様子です。六四は陰爻を以て陰位に居り、位置は端正で、行事もまた正道を歩み、仁義礼智信のこの五常の道を以て自身を文飾し品行を修治し心志を滌浄し得て、君子の徳を修成して毫も瑕疵なからしめるので、爻辞は「賁如皤如」と言います。「白馬翰如」と言うのは、六四の正応は初九にあり、初九は剛健明察の徳を具えて、而して六四は自身の操行が専一純正で、すでに己身を修飾し、また坐騎を雪白に洗刷して、馬を駆って前に往って初九を追随するということです。
匪冦婚媾者,婚媾謂合也。六四雖正應於初九,若往而就之必得合,然猶疑懼六三間於其間為己之害,故言若非六三為冦,則與初九合也。象曰六四當位疑也者,六四之往應初九,固無有不得,然猶恐初九為六三之所間,故云疑也。匪冦婚媾終無尤也者,言六四履正位,行正道,又且賁飾其身,潔白其志,雖六三為冦於其間,亦不能為害,故終無尤過也。
「匪冦婚媾」と言う、「婚媾」はすなわち結合の意です。六四は初九と正しく相応するけれど、往って投合するは本来必ず事成ると雖も、ただなお六三が横に中間に插って自分を加害するを怕れるので、言います。ただ六三が来て強盗を充当して作梗するのでなければ、六四は初九と結合し得ると。《小象伝》が「六四当位疑也」と言うのは、六四が前に往って初九と相応するは、もとより成らぬ道理ないのに、ただ初九が六三に由って中から阻隔されるを擔心するので、はじめて疑虑あると言うのです。《小象伝》が「匪冦婚媾、終无尤也」と言うのは、六四は正位の上に踏んで、歩むは正道で、また己身を修飾し心志を滌浄し得て、たとえ六三が中間に横たわって強盗を充当しても、彼を傷害し得ないので、終に何らかの過失ありません。
六五:賁于丘園,束帛戔戔,吝,終吉。象曰:六五之吉,有喜也。
六五の爻辞は言います。文飾を山丘園圃のこの類の本を務める処に用いて、束ねた布帛が堆積して衆多豊盛です。吝嗇に顕れると雖も、終には吉祥です。《小象伝》は言います。六五の吉祥は、なお可喜の事を帯びて来ます。
義曰:丘園謂敦實之地,若務農重本之類也。六五秉柔中之徳,居至尊之位而為賁之主,在初九則賁飾其趾,二又能待時而飾身,至此則是賁飾已至,即不可更務文華,而反賁飾於敦實之地,使天下知其本而務於農桑之事,故國用豐阜,民財充實,而貨帛眾多,戔戔然而至盛也。
胡瑗の解説:「丘園」は敦厚朴実の所在を指し、例えば農事を重視して農を本と為す一類の事です。六五は柔順居中の徳を秉持して、至尊の位を占拠して、全卦の文飾の主爻です。文飾の道は、初九は脚下の行止を修飾し、六二は時機を等待して己身を修飾し、六五のここに至っては、文飾はすでに到位したので、更に一味に華美を追求すべからず、かえって応に力气を敦厚朴実の根本の上に用いて、天下人に何が立国の本かを明白にせしめ、農桑に専心従事せしめて、こうして国家の用度は豊足し百姓の財貨は充実して、布帛は衆多に堆積して、一派の興盛の景象となります。
吝終吉者,吝謂吝嗇也。凡王者治天下,國用既阜,民財既實,則不可更務奢侈,必當吝嗇其財,節儉其用,然後終於富盛而獲吉也。象曰六五之吉有喜也者,六五能施飾於敦實之地,至於財用繁盛,復能儉嗇節用,使上不匱於用度,下不乏於財力,上下之情交相喜悅,所以不惟獲吉而又有喜慶之事也。
「吝終吉」と言う、ここの「吝」は倹省吝惜の意です。凡そ君王が天下を治理するに、国家の用度がすでに豊足し百姓の財力がすでに充実した以上、更に転じて奢侈を追求するべからず、必ず財物を愛惜し開支を節省して、このようにしてはじめて長く富盛を保ち吉祥を獲得し得ます。《小象伝》が「六五之吉、有喜也」と言うのは、六五が文飾を敦厚朴実の根本に施し得て、財用の繁盛を為し遂げ、また倹省節用し得て、上に用度を缺かず下に財力を乏しからず、上下の情が彼此歓悦するので、ただ吉を得るのみならず、なお别に可喜可慶の事があるということです。
上九:白賁,無咎。象曰:白賁無咎,上得志也。
上九の爻辞は言います。素白を以て文飾と為せば、過錯がありません。《小象伝》は言います。素白の飾にして過錯なきは、上位に居る者の心志が施行を得たからです。
義曰:夫此卦自賁趾至此上九,賁道已成,如白之受採,無入而不自得。以人君之尊,是始則勞於求賢而急天下之治,既得其賢,又且逸於任使,以至臻極治之道,自有為而至無為,但守其質素,無施而不可也。
胡瑗の解説:本卦は初九の「賁其趾」から一路して上九に至って、文飾の道はすでに完成して、ちょうど素白の底子が最も彩絵を承受するに能うがごときで、どの一歩に走到しても自在従容であり得ます。君主の尊位に就いて言えば、起初は辛労して賢才を訪求し急いで天下を治好らんとして、賢才がすでに得た以上、任用し起せば軽松で、至治の境に達成するまで、作為あるから無為にして治まるに進んで、ただあの質朴本色を守住して、何を為しても行き通ります。
又君子之人,始能治其心,明其性,飾其身,至此可以為仁,可以為義,為禮為智,處於富貴,富貴得其宜;居於貧賤,貧賤得其道;以至為將為相為公卿,無所施而不可,無有疑懼而動心者。
更に君子に就いて言えば、起初は自分の心を整治し自分の性を澄明し自分の身を修飾し得て、この一歩に至れば、仁を行うも可、義を行うも可、礼を守り智を用うるも可ならざるなく、富貴の中に居れば、富貴はその分寸を得て、貧賤の中に居れば、貧賤もまた自ずとその道があり、乃至将帥・宰相・公卿に出任しても、どこに擺られても行き通り、疑虑恐懼が彼の心を動揺し来ることありません。
今上九處此之地,其所賁飾之道既備,故用之天下則天下治,用之一國則一國安,施之一家則一家肅,進退出處皆得其宜而無有過咎。象曰白賁無咎上得志也者,上九能以五常之道修其身,道義已成,事業已備,但至此則廣而充之,天下無不得其所,是在上而其志得行也。
今、上九はこのような位置の上に立って、彼の文飾修養の道はすでに完備したので、彼を以て天下を治めれば、天下は安定し、彼を以て一国を治めれば、一国は太平し、一家に施せば、一家は整粛して、進取するも退処するも出仕するも隠居するも、皆その分に恰如して、過失ありません。《小象伝》が「白賁无咎、上得志也」と言うのは、上九が五常の道を以て自身を修養し得て、道義はすでに成就し事業はすでに完備して、この一歩に至ればただそれを推広拡充して出すに須て、天下に各々その所を得せぬなく、これがすなわち身に上位に居って心志が施行を得たことだということです。
剥 坤下艮上
剝:不利有攸往。
《剥》卦の卦辞は言います。まさに陰気が陽気を剥蝕する時に当たって、往く所有るに適いません。
義曰:按《序卦》云:飾然後亨則盡矣,故受之以剝。剝者,言五陰盛長,一陽居其上,勢微力弱,始由一陰之生,漸至於盛,以削剝群陽,至於盡而萬物衰破之時也。其在人事,則小人盛長而君子消剝之時也。
胡瑗の解説:《序卦伝》は講じます。文飾が極致に至って更に亨通を求めれば、その道もまた窮尽する。故に《賁》卦の後は《剥》卦に接ぐ。いわゆる「剥」とは、五つの陰爻が旺盛に滋長して、ただ一つの陽爻が最上面に孤悬して、勢単力薄で、起初はただ一陰が初生し、漸漸と長じて極盛に至って、衆陽を一層一層に剥蝕し尽くした、まさに万物が衰敗凋零する時です。人事の上に落ちれば、すなわち小人が勢を得て坐大し君子が消磨剥落される時節です。
不利有攸往者,夫君子之所務,上思忠於君,下思利於民,其一謀一慮必以天下之利存於心;小人則不然,其意日以殘賊良民、侵削君子為務。今剝之時,君子消剝、小人盛長之際也,君子若復有所往,必見害於小人也。
「不利有攸往」と言うのは、君子の致力する所は、上に対しては君主に忠ならんことを思い下に対しては百姓に福を造らんことを思い、一回の謀画毎・一番の考慮毎に、心中に装うは皆天下の利益で、小人は然らずして、彼らは日日に思うはすなわち良民を残害し君子を侵奪排擠するのみだからです。今、まさに剥落の時に当たって、君子が消剥され小人が滋長する関口で、君子がもしなお行動する所有らんとすれば、必ず小人の毒手を遭うのです。
彖曰:剝,剝也,柔變剛也。不利有攸往,小人長也。順而止之,觀象也。君子尚消息盈虛,天行也。
《彖伝》は言います。《剥》はすなわち剥落で、陰柔が陽剛を改変することです。「不利有攸往」と言うのは、小人がまさに滋長しているからです。形勢に順って法を設けてそれを制止するは、これは卦象の上から得た道理です。君子は消退・生息・盈満・虧虚の更替を看重するのは、これがもとより天道の運行の規律だからです。
義曰:剝者,剝落之義。柔,陰也;剛,陽也。夫天地之所以成歲功者,在於陽也,今陰氣盛長,陽氣消剝,則萬物衰落而歲功無成也。人君所以共天位、治天下者,君子也,今小人盛長,以至專權得勢而侵削君子也。
胡瑗の解説:「剥」は剥落の意です。「柔」は陰爻を指し「剛」は陽爻を指し、いわゆる「柔変剛」は、すなわち陰が一歩一歩に陽に取代します。天地が一年の収成を成就し得る所以は、全く陽気に靠り、今、陰気が盛長して陽気が剥蝕されれば、万物は衰敗零落して、一年の収成もまた落空します。君主が天位を共守し天下を治理するのに用いるは、君子です。今、小人が滋長して、甚だしきは専権して勢を得て、かえって君子を侵奪排擠すれば、国事は自然と随って敗壊します。
不利有攸往,小人長也者,夫聖賢之為心,以仁義為心,故三月無君則皇皇如也,以天下之民失其所而安在己也。小人之意,日在於殘賊,故其氣不相合,道不相同。今君子之所以不可進者,以小人長也。
「不利有攸往、小人長也」とは、聖賢の存心は仁義を以て本と為すので、《孟子》が士人は三箇月事奉すべき君主なければ、すなわち惶惶として安んぜず、天下の百姓が一旦流離失所すれば、責任は便ち自分の身に落ると講ずるを言います。小人の心思は却って日日に他人を残害する上に放って、両辺の気息は相合し得ず道路は根本に同じでなしです。今、君子が貿然と進取すべからざる所以は、まさに小人の勢力が滋長しているに因ります。
順而止之,觀象也者,此以二體而言,艮為止,坤為順。言小人道盛,君子言必見危,動必見害,故當觀其象,量其勢,先時知幾,素位而行,居易俟命,而外順小人,內則止而不行,故可以全身遠害也。《中庸》云:天下有道,其言足以興;天下無道,其黙足以容。言君子儉德避難之道也。
「順而止之、観象也」とは、上下両卦に就いて講じるので、艮の卦徳は止、坤の卦徳は順です。意は小人の勢頭がまさに盛んで、君子は一口開けば危険あり一挙動すれば傷害を受けるので、応に卦象を観察し形勢を估量して、事変が発生する前に苗头を看出し、当下の位分に安んじて行事し、平心静気に時運を等待して、外表は小人に順えども、内里は按じて動かず、こうしてはじめて自身を保全し禍害を遠離し得ます。《中庸》は言います。天下が太平の時は、君子の言論は事功を興起するに足り、天下が無道の時は、彼の沈黙は身を容れ自ら保つに足る。講ずるはまさに君子が才徳を収斂し禍難を避开する方法です。
又若小人道盛,君子之人慾屏去之,必當外順其行,以漸而止之,則可以去也。何則?夫小人既盛,而君子若遽欲絶之,則其勢必為小人之所害,故當遜順其所為,觀其勢使之不能窺見其跡,然後止之,則無有不可也。
更に、小人の勢力がまさに盛んで、君子がもし彼らを排除し去らんと欲すれば、必ず表面上彼らの做法に順って、一歩一歩に遏止を加えて、はじめて真に除去し得ます。なぜかというと、小人はすでに勢を得たので、君子がもし急いで彼らと決裂すれば、形勢の上で必ずかえって小人に害されるからです。ですから応に委婉に彼らの挙動に順応して、暗に形勢を観察して、彼らに自分の意図を看出されずして、然る後に制止を加えれば、それならば成さないものがありません。
君子尚消息盈虛天行也者,天之道至神也,有陰陽之舒慘,寒暑之往來,四時之運行,晝夜之明晦,消久則息,盈久則虛。以天道之大,猶不免於此,君子之人道有通塞,時有否泰,理固然也。是以可進則進,可退則退,當消而消,當息而息,出處語黙皆以時而動,是如天之所行也。
「君子尚消息盈虚、天行也」とは、天道は極めて神妙で、陰気と陽気の舒展と肅殺あり、寒来暑往あり、四季の運行あり、昼明夜晦あり、消退が久しければ必ず生息に転じ、盈満が久しければ必ず虧虚に転ずるを言います。天道の大を以てしてさえこの循環を免れないので、君子の道路も自然と通あれば塞あり、時運も自然と閉塞と通泰があり、これがもとより常理です。それゆえ彼は進む能ければ進み、退くべきならば退き、消退すべき時は便ち消退し、生息すべき時は便ち生息して、出仕退隠・発言沈黙は、皆時機に随って動く、これがすなわち上天の運行と一つの道理です。
象曰:山附於地,剝。上以厚下安宅。
《象伝》は言います。高山が崩落して地面に附着する、これが《剥》卦の取象です。上位に居る人はこれに取り法って、下民を厚待して、彼らの居所を安定します。
義曰:宅,居也。山本至髙,地本至下,今山反附著於地,是剝落之象也。猶君子之道消而天下生靈失所,不得其安。故凡居上者當此之時,必先厚於其下。所謂厚下者,蓋以仁義之道,務農重本,輕徭薄賦,天下之人衣食充足,財用豐實,而又安其所居,使各得其所,如此是可謂治剝之道也。何哉?蓋國以民為本,本既不立,則國何由而治哉?
胡瑗の解説:「宅」はすなわち居所です。山は本来極高く地は本来極低いのに、今、山はかえって崩落して地に貼附するは、まさに剥落の景象です。これはちょうど君子の道が消退して、天下の蒼生が流離失所して安寧を得ざるがごときです。ですから凡そ上位に居る人は、この時に当たって必ず先ず下民を厚待せねばなりません。いわゆる「厚下」とは、すなわち仁義の道に本着して、農事を勉励し根本を重視し、徭役を軽減し賦税を薄取して、天下人を衣食充足・財用豊実にして、また自分の屋舎に安居し得て、人人に各々その所を得せしめることです。このように為して、はじめて剥落の世を救治する方法と称し得ます。なぜかというと、国家は百姓を以て根本と為して、根本が立たなければ、国家はなお何処から治め起しましょうか。
初六:剝床以足,蔑貞凶。象曰:剝床以足,以滅下也。
初六の爻辞は言います。床身を剥蝕して、床脚から始まります。正道が蔑棄されて、凶険があります。《小象伝》は言います。床脚から剥し起すは、最下面の根基を毀壊せんとするためです。
義曰:床者,人之所藉以安身也。足居床之下,初六最處一卦之下,民之象也。言小人得位乘時,藉勢恣其奸惡,以剝削於天下。然為剝亦有漸,故自微而至於著,自下以至於上,剝之始,先剝於民。夫民者,君所賴為本也,在《書》曰:民惟邦本,本固邦寧。
胡瑗の解説:床は人が身体を安頓するのに用いる物です。床脚は床の最下面にあり、初六はまた全卦の最下位に居り、まさに百姓の象徴です。これは小人が位を得時に赶上り権勢を仗って、肆意に奸を為し悪を為して、天下を剥奪するを言います。ただ剥蝕は総じて循序漸進で、軽微から顕著へ下面から上面へと、剥落の初は、先ず百姓の身から剥し起します。百姓は君主が国を立つるに頼る根本で、《尚書・五子之歌》は言います。百姓こそが国家の根本で、根本が穏固なれば、国家がはじめて安寧する。
今小人在上,肆其奸惡,奪民之財,困民之力,使之舍安而就危,去存而卽亡,父母不能保而離散,兄弟妻子不相守而逃亡,怨氣交而上下不通,是其本已弱矣。其本既弱,則君子之正道微蔑而不行,是凶之極也。
今、小人は上位を窃拠して、肆意に悪を為して、百姓の財物を掠奪し、百姓の気力を耗尽して、彼らを安穩を捨てて危亡に走らせ、生路を離れて死地に趨らしめます。父母は子女を保全し得ずして各自離散し、兄弟妻児は彼此照応し上らずして四処逃亡して、怨憤の気は交結して、上下の情意は堵塞して通ぜず、これがすなわち国家の根本がすでに虚弱を説明します。根本が一旦虚弱すれば、君子の正道は便ち衰微湮没して推行せず、凶険は極点に至ります。
六二:剝床以辨,蔑貞凶。象曰:剝床以辨,未有與也。
六二の爻辞は言います。床身を剥蝕して、すでに床身と床脚と交接の部位に剥き至りました。正道が蔑棄されて、凶険があります。《小象伝》は言います。床辨に剥き至るは、更に親附し相助けるを肯んじる人なきからです。
義曰:按初六居一卦之下,是民之象,故曰剝床以足;六四處上卦之下,切近於君,故曰剝床以膚。六二居膚足之間,是上下分辨之際,以人事言之,則是居君民之間,臣之位也。始旣剝於民,至此則剝於臣也。夫臣者,國家之倚毘,君所賴以安者也,在《詩》曰:濟濟多士,文王以寧。今小人得勢,侵迫於其君子,使君子言不得通,道不得行,國家斯無倚毘而君不得其所安,故至正之道消蔑而其凶愈大也。
胡瑗の解説:初六は全卦の最下に居り、百姓の象徴なので、「剥床以足」と言い、六四は上卦の最下に居って、君位に緊挨するので、「剥床以膚」と言います。六二は「膚」と「足」の中間に夾んで、まさに上下の分界の処で、人事に就いて言えば、すなわち君と民の間に居る臣子の位です。剥蝕は先ず百姓から始まって、ここに至って便ち臣子の身に剥き至りました。臣子は国家の倚靠で、君主が天下を安定するに頼る人で、《詩経・大雅・文王》は言います。衆多の賢士が濟濟として一堂に集うは、文王は因って安寧を得た。今、小人が勢を得て、君子を欺凌逼迫して、君子の話を説き出し得ず主張を推行し得せぬにして、国家は因って倚靠を失去し君主も安穩を得られないので、最中正の大道が消磨蔑棄されて、凶険もまた更に大となります。
象曰剝床以辨未有與也者,夫君子之人在位而行道,則天下之民物得其生而受其賜,故《詩》曰:愷悌君子,民之父母。是民必得君子而後生也。今小人始既剝於民,民被剝而已困,故不能為助於君子,至此君子又為小人之所剝也。夫臣民既皆被其剝而受其害,則此小人者,天下之所共惡,眾人之所不與,故象曰未有與也。
《小象伝》が「剥床以辨、未有與也」と言うのは、君子が位に在ってその道を施行すれば、天下の百姓と万物はすなわち各々その生を遂げ恩沢を蒙るので、《詩経・大雅・泂酌》が言います。和楽平易の君子は、すなわち百姓の父母。見れば分かるように、百姓は必ず君子が上に在ってはじめて活き下去り得ます。今、小人は先ず百姓を剥奪して、百姓は剥きられて困頓堪えずして、便ち更に君子を援助する力なく、この一歩に至って、君子は自分もまた小人の剥蝕の対象と為りました。臣と民はすでに皆その剥奪を受けその禍害を遭うので、これらの小人はすなわち天下が共に厭悪し衆人が皆親附するを肯んじない者で、それゆえ《小象伝》は「未有與」と言います。
六三:剝之,無咎。象曰:剝之無咎,失上下也。
六三の爻辞は言います。剥落の時に居って自守し得れば、過錯がありません。《小象伝》は言います。剥落の時にして過錯なきは、彼が上下の衆陰と流を同じくせぬからです。
義曰:剝之卦,五陰盛長,小人眾多,同心協力,以殘賊良民、侵剝君子為意;上九有剛明之才,獨居一卦之外而無有助之者。今六三居下卦之上,為上九之正應,而能出乎其類,獨異於群眾,不為侵剝而有好賢樂善之心,應於上九之君子,是於小人之中獨不為小人之行,故雖在剝之時而得無咎也。象曰剝之無咎失上下也者,言上下群陰皆以侵剝為志,而獨六三能上應於君子,舍去小人之行,而不與上下群陰同志。
胡瑗の解説:《剥》卦の五つの陰爻は旺盛に滋長して、小人が衆多で同心協力して、一意に良民を残害し君子を侵奪することを象徴します。上九は剛健明察の才を有すると雖も、孤孤零零として全卦の外に悬って、彼を幇う人ありません。今、六三は下卦の頂端に居り、恰好上九の正応で、同類を超出して衆陰と迥然として同じでなく、侵剥に参与せず、かえって賢者を敬重し善を楽しむ心を懐いて、上に上九という君子に応じます。これがすなわち一群の小人の当中に居ってただ彼のみが小人の勾当を為さないので、剥落の世に身を居ると雖も、また過錯がありません。《小象伝》が「剥之无咎、失上下也」と言うのは、上下の衆多の陰爻が皆一門心思に侵奪剥蝕せんとするのに、ただ六三のみが上に君子に応和して、小人の行経を抛開して、上下の群陰と同一条の心に在らぬということです。
六四:剝床以膚,凶。象曰:剝床以膚,切近災也。
六四の爻辞は言います。剥蝕がすでに床面に至って、人の肌膚に逼近して、凶険です。《小象伝》は言います。肌膚に剥き至るは、災禍がすでに目睫の間に迫っているを説明します。
義曰:膚謂及其身也。小人之為剝,自小以至大,由外而及內,始則剝天下之民,使皆墜於塗炭而不得其安;次又剝天下之賢,使皆困躓而不得進;臣民既已剝盡,遂及君子之身,此凶之極也。象曰剝床以膚切近災也者,剝道愈而災害愈切,蓋天下之臣民既已盡剝,至此以及其身,是災之切也。故凡居上位者,必在知人,賢者進之,不肖者黜之,使君子在上而小人削跡,自然侵剝之道無自入而不能行也,故聖人戒之。
胡瑗の解説:「膚」とは剥蝕がすでに自身に触れ至ったを言います。小人の剥蝕は、小から大へ外から内へと、起先は天下の百姓を剥奪して、彼らを悉く水深火熱に陥らせて安寧を得せず、接いで天下の賢才を剥奪して、彼らを個個に困頓受挫して進用し得せず、臣と民が皆剥き光られた後は、便ち君子の本人の番に輪って、これは凶険が極点に至る地步です。《小象伝》が「剥床以膚、切近災也」と言うのは、剥蝕が愈演愈烈となれば、災害もまた愈々逼り愈々近く、天下の臣民はすでに剥き尽くされたので、この一歩に至って自分の身に剥き至れば、災禍は自然と咫尺に近在します。ですから凡そ上位に居る人は、関鍵は人を識るに在りて、賢能なれば便ち彼らを抜擢し上げ、不肖なれば便ち彼らを罷黜し下げて、君子を上に在らしめ小人を斂跡せしめれば、それならば侵奪剥蝕の路は自然と入り行きする由なく、それゆえ聖人はここで特に告戒を提出しました。
六五:貫魚,以宮人寵,無不利。象曰:以宮人寵,終無尤也。
六五の爻辞は言います。繩子を以て一串の魚を串起す如く群陰を統領して、宮人に対する方式を以て彼らに恩寵を与えれば、利ならざるなしです。《小象伝》は言います。宮人に対する方式を以て寵幸を与えれば、終に過失ありません。
義曰:貫魚謂駢頭相次,眾多之貌,以人事言之,則是小人之眾若貫魚然也。夫小人之行奸惡兇暴,居一郡則一郡被其害,處一邑則一邑罹其殃,況當天下之權,握天下之勢哉?然王者不能無嬖倖之人,但不可恣已之情,私天之祿以加厚之,使其縱慾肆情以殘天下,故當御之以道,使不能釁其毒也。今六五當至尊之位,雖小人眾多如貫魚然,但厚之田宅,加之金帛,而不使竊天下之權,如寵宮人而寵之,則無所不利也。象曰以宮人寵終無尤也者,言寵小人以宮人之寵,使不能有其權,則於己身終無過尤也。
胡瑗の解説:「貫魚」は魚頭が魚頭に挨って一串に串成る様子で、数量の衆多を形容して、人事に就いて言えば、すなわち小人が群を成して一串の魚の如く一片に連ったことです。小人は行事して奸悪凶暴で、一郡を占拠すれば一郡はその害を受け、一邑に盤踞すれば一邑はその殃を遭い、況んや彼らに天下の権柄を掌らせ天下の勢力を握らせるにおいてをや。ただ君王の身辺には総じて親近寵幸の人を免れないけれど、ただ自分の私情を放縦して、上天の授予する爵禄を私相に厚賜し取りに行って、彼らを欲を縱し性に任じて天下を残害せしめてはならず、ですから正道を以て彼らを駕馭して、彼らに毒害を散布する由なからしめます。今、六五は身に至尊の位に居って、縦使小人が一串の魚の如く多くとも、ただ彼らに田宅を与え金帛を賞して、断じて彼らに天下の権柄を窃取せしめず、ちょうど宮中の侍御を寵愛するがごときに彼らを寵すれば、それならば利ならざるなしです。《小象伝》が「以宮人寵、終无尤也」と言うのは、宮中の侍御に対する分寸を以て小人を寵幸して、ただ彼らに恩沢を与えて権力を与えなければ、それならば君主の自分の身において、終に過失を留下しないということです。
上九:碩果不食,君子得輿,小人剝廬。象曰:君子得輿,民所載也;小人剝廬,終不可用也。
上九の爻辞は言います。一枚の碩大な果実が枝頭に留って吃されなかった。君子は車輿を得て承載され、小人は屋舎まで剥毀されます。《小象伝》は言います。君子が車輿を得るは、百姓が彼を擁戴するを愿うからです。小人が屋舎を剥毀されるは、この種の人は終に任用すべからざるを説明します。
義曰:此一卦以陰剝陽,而陽氣幾至剝盡,而上九獨居其上,不為群陰之所剝。旣不為陰之見剝,至於建子之月,復於地中而再生萬物,如碩大之果最居其上而不見食於人,則必有再生之象也。以人事言之,猶君子守正執節,明哲以保其身,不為小人之所害,至此將復其位而得行其道也。
胡瑗の解説:この卦は陰が陽を剥蝕して、陽気はほぼ剥き光られて、ただ上九のみが最上面に孤悬して、群陰に剥き掉されませんでした。すでに陰気に剥き尽くされなければ、建子の月すなわち農暦の十一月に至って、この一陽は便ち地下に帰回して、重ねて万物を生育する、まさに一枚の碩大な果実が枝頭に高く挂って人に吃されなかったがごときで、その中に必ず再生の生機を含んでいます。人事に就いて言えば、これはちょうど君子が正道を堅守し節操を持定して、明智に凭って自身を保全して小人に害されず、この時に至って便ちその位を恢復して、自分の主張を施行するを得るがごときです。
君子得輿、小人剝廬者,輿所以乘載於物,廬所以安庇其身也。此上九剝極之時,若以君子居之,則削去小人之害,施仁義於天下,使天下之民出於塗炭,由之而得其乘載也;如復以小人居之,則為害愈,故不唯剝於一身,以至廬舍亦皆見剝,而天下之民無所庇身而不能保存也。
いわゆる「君子得輿、小人剥廬」とは、車輿は以て人と物を承載するのに用い、廬舍は以て身体を安頓し庇護するのに用います。上九はまさに剥落が極点に至る時に正しく当たって、もし君子がこの位置に占拠すれば、彼は小人の造成した禍害を鏟除して、仁義を天下に施行して、百姓を水深火熱から脱出せしめ、従って車輿の如く天下を承載し起します。もしかえって小人がこの位置に占拠すれば、為害はただ更に深く、自身が剥きられるのみならず、屋舎までも一並びに剥毀されて、天下の百姓は更に栖身する処なく、性命もまた保住し得ません。
復 震下坤上
復:亨,出入無疾,朋來無咎,反復其道,七日來復,利有攸往。
《復》卦の卦辞は言います。一陽が返回来たるは、亨通します。陽気が出入して妨害なく、同類が前来り相助けて、過錯がありません。それの固有の軌道に循って往返して、七爻の数を経て回復して、往く所有るに宜しいです。
義曰:按《序卦》云:物不可以終盡,剝窮上反下,故受之以復。言陰陽二氣有消長升降,陽氣既剝盡,則必來復也。然所謂復者,是四月純陽用事,其卦為乾;至於五月則一陰剝一陽,故其卦為姤;六月則二陰剝二陽,故其卦為遯;以至於七月為否,八月為觀,九月為剝,十月為坤,是陰氣之極盛也。
胡瑗の解説:《序卦伝》は講じます。事物はずっと剥き尽くして底に至ることなく、剥きて上頭で窮尽すれば便ち下に返回する。故に《剥》卦の後は《復》卦に接ぐ。これは陰陽二気が消あり長あり升あり降あり、陽気はすでに剥き尽くされれば、便ち必ず帰って来るを言います。いわゆる「復」は、一年十二月の消息卦に就いて言うので、四月は純陽が令に当たり、卦は《乾》で、五月に至って一陰が一陽を剥き去り、卦は《姤》で、六月は二陰が二陽を剥き去り、卦は《遯》で、以下七月は《否》、八月は《観》、九月は《剥》、十月は《坤》で、この時に陰気は最も盛極です。
至十一月則一陽之氣濳復於黃鍾之宮,以再生萬物,而萬物得其亨通也。亦猶君子時有否泰,道有消長,始為小人之所剝,及其乘時得位,發其事業於天下,其道大通,故曰復亨。出入無疾者,言陽氣有生物之心,入於地中,出於地上,物無違之疾之者。猶君子有五常之質,剛明之徳,量時復位,天下之人無有違之而疾害者。
十一月に至って、一陽の気は便ち黄鍾の宮に潜蔵回復して、重ねて万物を生育して、万物はこれに由って亨通を得ます。これもまたちょうど君子の時運に閉塞あり通泰あり、道路に消退あり増長あるがごときです。起初は小人に剥蝕壓制されて、時機に乗って位置を取得し、事業を天下に施展するに及んで、その道は便ち大いに通達するので、卦辞は「復亨」と言います。「出入无疾」と言うのは、陽気が万物を生育する心を懐いて、地中に潜入し、また地面に冒出して、万物にそれに違逆し厭悪する者なしということです。これはちょうど君子が五常の質と剛健明察の徳を具えて、時勢を審度して自分の位に帰回すれば、天下人に彼に違逆し加害する者なしがごときです。
朋來無咎者,朋,類也。言一陽雖復於地中,有生物之心,然其氣微弱,未能獨成其功,必得群陽並進,乃可以共濟其事也。亦猶君子求進其身,欲行其道,而或勢孤援寡,必不能獨成其事,是必得其氣類才德相合者推引而進,則可以致君澤民而成治於天下,乃可獲吉而得其無咎。
「朋来无咎」と言う、「朋」は同類の意です。一陽はすでに地中に帰回して、万物を生育する心を懐くと雖も、しかしその気力はなお微弱で、単独に功業を成就し得ず、必ず衆陽が一同に前進するを待って、はじめて合力して事情を成辦し得ます。これもまたちょうど君子が自身を進用せしめ自分の主張を施行せんと欲するに、もし勢孤力単で援手に缺少すれば、必ず独自に成事し得ず、必ず気類が相同じく才徳が相合う人があって互相推引して進んで、はじめて上に君主を輔け下に百姓を沢して、天下に治業を成就して、こうしてはじめて吉を獲得して過錯なしがごときです。
反復其道者,言陽氣自上而反覆於地以生萬物,皆得其道,猶君子之人復於其位,進退皆合其道。七日來復者,言陽氣消剝至於此,凡歴七爻,以一爻為一日,故謂之七日。然不謂月而言日者,蓋日為陽,聖人慾見其陽道來復之速,故以七日言之,其實卽七月之間後復也。利有攸往者,言一陽之生,君子浸長,小人浸衰,則君子當此之時,居其位,行其道,所往無不利也。
「反復其道」と言うのは、陽気が上から地下に返回して、以て万物を生育して、一切がその固有の軌道に合するを言います。ちょうど君子が自分の応有の位置に帰回して、一進一退が皆道に合するがごときです。「七日来復」と言うのは、陽気は剥蝕された自からここに至るまで、共に七爻を経歴して、一爻を一日に当作するので、「七日」と呼びます。なぜ月と言わずして日と言うのでしょうか。「日」は陽に属するので、聖人は陽道の回復の速を顕出せんと欲して、七日を以て講じ、その実は七箇月を経て後に回復するを指すからです。「利有攸往」と言うのは、一陽が初生する際に、君子の勢力は一天一天に増長し、小人の勢力は一天一天に衰減して、君子はこの時に居って、自分の位置を占住して自分の主張を推行すれば、何処へ往くも順利でないないということです。
彖曰:復亨,剛反,動而以順行,是以出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復,天行也。利有攸往,剛長也。復其見天地之心乎!
《彖伝》は言います。《復》卦が亨通するのは、陽剛が返回するからで、それは柔順の道に依って動くので、出入は皆妨害なく、同類が前来っても過錯がありません。固有の軌道に循って往返して、七爻の数を経て回復する、これは天道の運行です。往く所有るに宜しいは、陽剛がまさに増長しているからです。《復》卦から、大概天地が万物を生養するあの本心を見る可きでしょう!
義曰:下震為動,上坤為順,言復之所以得亨者,由剛陽之氣反復於地,又動而不失其柔順,由是所以萬物以生以成也。言君子動而不妄,行而不暴,能觀其時,可進則進,是以出入之間無有疾害之者,皆由順而動之之故也,故曰剛反動而以順行,是以出入無疾。
胡瑗の解説:下卦の震の卦徳は動、上卦の坤の卦徳は順です。《復》卦が亨通し得る所以は、陽剛の気が地中に返回して、一たび動き起せばまたその柔順を失わず、万物はこうして生長成就を得ます。人事に就いて言えば、君子は行動して妄為せず、做事して粗暴せず、時勢を審察し得て、進む可きの時に至ってはじめて進むので、出入進退の間に彼を傷害する有りなく、これは皆道理に順って動く縁故なので、《彖伝》は「剛反、動而以順行、是以出入无疾」と言います。
朋來無咎,反復其道,七日來復,天行也者,夫天之行有消有長,有升有降,謙者益之,盈者流之,故陽極必剝,隂極則復,皆天道自然之理也,故曰天行也。利有攸往,剛長也者,言剛陽漸長,小人道消,則是君子之道長,故所往而無不利也。
「朋来无咎、反復其道、七日来復、天行也」とは、上天の運行は消あり長あり升あり降あり、謙損するはかえって增益を得、盈満するはかえって傾瀉を遭うので、陽は極点に至れば必ず剥落され、陰は極点に至れば必ず回復に転ずる、これは皆天道自然の道理で、それゆえ「天行也」と言います。「利有攸往、剛長也」とは、陽剛が漸漸増長し、小人の道が漸漸消退して、すなわち君子の道が増長しているので、何処へ往くも利ならざるなしということです。
復其見天地之心乎者,夫天地所以肅殺萬物者,隂也;生成萬物者,陽也。天地以生成為心,故常任陽以生成萬物。今復卦一陽之生,潛於地中,雖未發見,然生物之心於此可得而見也。故董仲舒曰:陽常居大夏,以生育長養為事。以此見天地之心在於生成而已。猶聖賢之心以生成天下為心,雖始復其位,其事業未大被於天下,而行道之初已有生育之心也。
「復其見天地之心乎」とは、天地が万物を肅殺するのに用いるは陰気で、万物を生養するのに用いるは陽気で、天地は生養を以て本心と為すので、総じて陽気に任けて万物を生成せしめるを言います。今、《復》卦の一陽は初生して、地下に潜蔵して、まだ顕露出していないと雖も、しかし天地のあの万物を生育する本心は、ここですでに見えています。ですから漢代の董仲舒は言いました。陽気は常に盛大の夏季に居りて、生育長養を以て職事と為す。これに由って天地の本心はただ万物を生養するに在ることが見えます。これはちょうど聖賢の心が天下を養育するを以て心と為すがごときです。剛に自分の位置に帰回して、事業はまだ天下に広被していないと雖も、道を行う初において、あの万物を生育する心意はすでに具備しています。
在太中首曰:昆侖旁薄幽。夫昆侖,天氣也;旁薄,地氣也;幽,晦也。言天地之氣始雖幽晦而不可見,然生物之心可得而推矣,故知聖賢雖在幽晦之間,而其心亦天地之心也。而揚子又為之辭曰:昆侖旁薄幽,何為也?曰:賢人天地,思而包群類也。是則天地聖賢之心可見也。
揚雄の《太玄経》の《中》首は言います。「崑崙旁薄幽。」ここの「崑崙」は天気を指し、「旁薄」は地気を指し、「幽」は晦暗暗明らかならざるです。意は天地の気は起初は晦暗暗として見難いと雖も、しかしそれの万物を生育する心意は推知し得て、これに由って聖賢はたとえ晦暗暗顕れざる時に身を居ても、彼の心はすなわち天地の心であることを知ります。揚雄はまたこの句の為に解説を作して言います。「崑崙旁薄幽」とは何の謂いか。答えて曰く、賢人は天地を以て法と為して、心思を用いて万類を包容する。このように見れば、天地と聖賢の本心は就中皆可に見えます。
然天地以生成為心,未嘗有憂之之心,但任其自然而已,故老子曰:天地不仁,以萬物為芻狗。是雖有凶荒水旱饑饉,而未嘗憂而治之也。若聖賢有天地生成之心,又有憂萬物之意,是以其功或過於天地,故《繫辭》曰:鼔萬物而不與聖人同憂。但聖人無天地之權耳,使其有天地之權,則凶荒水旱之類無得而致也。故復卦之初,其生成之心可見也。
ただ天地は生養を以て心と為すと雖も、しかしかつて憂慮の心を有せず、ただ万物に任けて自然にするのみなので、《老子》は言います。天地は偏私の愛を存せず、万物を以て祭祀に用いる草扎の狗と視る。すなわち縦使凶年・水旱・飢荒があっても、天地はかつて憂心して救治せずということです。聖賢に至っては、すでに天地の万物を生養する心を有し、また一つの万物を憂念する心意を添えたので、彼の功業は時にかえって天地を超過する、それゆえ《繫辞伝》は言います。天地は万物を鼓動するが、聖人のように憂患を懐くようではない。ただ聖人に天地のような権能がないのみで、假使彼が天地の権能を握有せば、凶年・水旱の一類の災禍もまた発生しないでしょう。ですから《復》卦の初起の時に、あの生養の心はすでに見えました。
象曰:雷在地中,復。先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。
《象伝》は言います。雷が地中に潜伏する、これが《復》卦の取象です。先王はこれに取り法って、冬至のこの日に関口を閉閉して、商旅を通行せず、君主もまた出巡して四方を視察しませんでした。
義曰:雷者,陽之精也,雷本行於天之上,今復於地下,是復之象也。先王觀此象,於冬至微陽始生之時,閉其門關而禁止其商旅。後者,天子諸侯之通稱;方,事也。天子諸侯於此微陽始生之時,而又不省視其事也。
胡瑗の解説:雷は陽気の精華で、本来は天上に運行していたのに、今は却って地下に返回する、これがすなわち《復》の卦象です。先王はこの卦象を観察して、こうして冬至の微陽が初生する時節に、関口を閉閉して、商旅の往来を禁止しました。「后」は天子と諸侯の通称で、「方」はここでは政事を指します。天子諸侯はこの微陽が初生する際に、また暫く政務を省視せずして、陽気を静かに滋長せしめるを好みます。
初九:不逺復,無祗悔,元吉。象曰:不逺之復,以修身也。
初九の爻辞は言います。遠からずして正道に返回して、大きい悔恨に至らず、最も吉祥です。《小象伝》は言います。遠からずして回頭するは、まさに以て自身を修養する功夫です。
義曰:群陽剝盡而純陰用事,獨此一陽反於地下以萌生萬物,是其復之初而來復之速者也。猶賢人君子凡思慮之間一有不善,則能早辨之,使過惡不形於外,而復其性於善道。惟聖人得天性之全,故凡思慮之間未有一不善,故發而皆中於道。賢人而下,則其性偏於五常之道,有厚有薄,情慾之發有邪有正,故於心術之間、思慮之際,不能無所汨。惟大賢君子為能治心明性,知其有不善而速改之,不能形於外,故可以無大悔吝而獲元大之吉也。祗即大也。
胡瑗の解説:衆陽は剥落して殆ど尽くされ、純陰が令に当たって、ただこの一陽が地下に返回して、重ねて万物を萌発する、これは回復の初でかつ帰って来るが速い様子です。これはちょうど賢人君子が、凡そ思慮の間に一の不善の念頭あるや、すなわち早く察覚し得て、過失を外に表露せずして、本性を善道上に帰回せしめるがごときです。ただ聖人は天生の禀性が完備したので、思慮の中にかつて一念の不善なく、一たび発出来れば皆正道に合します。賢人以下は、禀性は五常の道の上に偏あって、厚あり薄あり、情欲が発動する時に邪あり正あって、それゆえ心術の運作・思慮の往来の間に、私欲に攪扰淹没されるを免れません。ただ大賢君子のみが心地を整治し本性を澄明して、一たび不善あるを発覚すれば便ち急いで改掉して、それを外面に顕露せずして、大きい悔恨憾惜に至らずして、最大の吉祥を獲得し得ます。爻辞の中の「祗」は、ここではすなわち大の意です。
象曰不遠之復以修身也者,言聖人君子于思慮有所不善而能速改之,以至由小賢至於大賢,由大賢至於聖人,自古及今有能行之者,惟顏子一人而已。故先聖《繫辭》釋此爻,獨以顏子配之,曰:顏氏之子,其殆庶幾乎!有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。
《小象伝》が「不遠之復、以修身也」と言うのは、聖人君子が思慮の間に一たび不善あれば便ち迅速に改正し得て、因って小賢より大賢に進み、大賢より聖人に進みて、古到今に真にこの一歩を為し得たは、ただ顔回の一人のみだということです。ですから孔子は《繫辞伝》の中でこの一爻を解釈するに、単々顔回を拿って相配して、言います。顔家のあの後生は、大概すでに道に近づいたでしょう!彼は不善あれば自ら知らざるなく、一旦知れば便ち更に重犯せず。これがまさに「不遠而復」の最も良い写照です。
是君子凡於思慮之間未精審其可否,邪則改之,正則從之,勿謂人所不見、眾所不聞而輒自寛假,以有諸內必彰於外也。蓋有諸中必形於外,發於心必施於四支。在《中庸》曰:君子戒慎乎其所不覩,恐懼乎其所不聞,莫見乎隠,莫顯乎微,故君子慎其獨也。是則人之有過,患不知之,知而改之,則無有不至於善者也。故聖人於此言不遠之復,是君子修身之法也。
ですから君子は思慮の間に可否を細審すべく、邪に属するは改掉し、正に属するは依従して、他人が見るなく衆人が聴くなしと為して、随意に自分を放縦してはなりません、心中にある物は必ず外に顕露するからです。凡そ内心に存するは必ず外に形い、心中から発するは必ず四肢挙止の上に表現します。《中庸》は言います。君子は人の見る処なき処においても戒慎し、人の聴く処なき処においても恐懼して、隠蔽の処より顕現し易きなく、細微の処より顕露し易きなく、それゆえ君子は独处の時に格外謹慎する。このように見れば、人に過失あるは、怕れる所はただ自分が知らぬのみで、知れば便ち改めて、善に達し得ざるなしです。ですから聖人はこの一爻において「不遠之復」を講じて、まさに君子の修身の法門です。
六二:休復,吉。象曰:休復之吉,以下仁也。
六二の爻辞は言います。美好に正道に回復して、吉祥です。《小象伝》は言います。美好に回復して吉を獲るは、彼が俯身して下のあの仁者に親近する能うからです。
義曰:六二以陰居陰,得正者也;在下卦之中,得中者也;下近於初,附近於仁賢者也。既中且正,而又附於初九之賢,故得休美而復其善道,以獲其吉也。
胡瑗の解説:六二は陰爻を以て陰位に居って、これはその正を得たので、下卦の中位に居って、これはその中を得て、下にまた初九に緊挨して、仁徳賢者に親附するに等しいです。すでに中に居りかつ正を守って、なお初九という賢者に依附するので、美好に善道上に帰回して、従って吉祥を獲得し得ます。
六三:頻復,厲,無咎。象曰:頻復之厲,義無咎也。
六三の爻辞は言います。眉頭を皱らせて勉強に正道に回復して、危険あると雖も、過錯がありません。《小象伝》は言います。勉強に回復して危厲あるは、道理の上に就いて言えばなお過錯に至りません。
義曰:頻,蹙也。六三處不得其正,行不得其中,又違於仁,則是過惡之人也。以過惡之人居下卦之上,猶愈於上六昏迷不復之人,故此六三必待頻蹙強勉而後能復也。則《中庸》所謂有勉強而行之者,此是也。然猶頻蹙勉強而復,則當常自思省憂懼,以為危厲在前而不敢為於邪惡,以改過遷善,則可以獲其無咎也。
胡瑗の解説:「頻」は眉を皱る意です。六三は処する所がその正を得ず、行う所が中に合せず、また仁徳に背離して、過失悪行ある人と算え得ます。このような人を以て下卦の上に居って、畢竟なお上六のあの昏迷して底に至って終始回頭するを肯んじぬ人に勝るので、六三は眉を皱って勉力自強して、然る後に正道に帰回し得ます。これがまさに《中庸》の言う「勉強而行之」のあの一類の人です。ただすでに眉を皱って勉強してはじめて回頭する以上、応に常に自我反省し心に憂懼を懐いて、ただ危険が眼前に擺する有りと為して、因って更に邪悪の事を為すを敢えてせず、改過して善に向かって、このようにしてはじめて過錯なきを為し得ます。
六四:中行獨復。象曰:中行獨復,以從道也。
六四の爻辞は言います。衆陰の中間を歩んで、独り正道に回復します。《小象伝》は言います。中に居って独り回頭するは、正道を追随するためです。
義曰:四居位得正,雖非其中,然於五陰之間而獨得其中,雖遠於初而與之為正應,傑然而復於善,以從聖賢之道也。象曰中行獨復以從道也者,言初有聖賢之資,而六四為之正應,是能從於聖賢之道也。故揚子曰:希驥之馬,亦驥之乘;希顏之人,亦顏之徒。正此謂也。
胡瑗の解説:六四の居る位はその正を得て、上下卦の中位には在らないと雖も、五つの陰爻の当中において、それは恰好正中に排します。それは初九に離れるが遠いと雖も、しかし初九と正応を結成して、因って卓然として善道に帰回して、聖賢の道を追随します。《小象伝》が「中行独復、以従道也」と言うのは、初九は聖賢の資質を有って、六四はまさにそれの正応なので、聖賢の道を追随し得るということです。揚雄は言ったことがあります。駿馬を仰慕する馬は、また駿馬の一類の坐騎と算え得、顔回を仰慕する人は、また顔回の一門の弟子と算え得。言う所はまさにこの意です。
六五:敦復,無悔。象曰:敦復無悔,中以自考也。
六五の爻辞は言います。敦厚篤実に正道に回復して、悔恨がありません。《小象伝》は言います。敦厚に回復して悔なきは、彼が中を守って自我省察し得るからです。
義曰:六五處坤之體,有敦厚之德;居上卦之中,有大中之道。夫有敦厚之德,則思慮不及於邪而動無躁妄;有大中之道,則所行無過與不及。如是,故能治心明性,以復於善道,而悔吝亡矣。象曰敦復無悔中以自考也者,五有敦厚大中之道,以自考察己之思慮,有不善未常不復於善也。
胡瑗の解説:六五は身に坤卦の体に居り、敦厚篤実の徳を具えて、また上卦の中位に居って、大中の道を秉持します。敦厚の徳あれば、思慮は邪僻に転向せず、挙動もまた躁急妄為せず、大中の道あれば、行事は過分せずまた不及せずです。このようにして、彼は便ち心地を整治し本性を澄明して、善道上に帰回して、悔恨と憾惜もまた消失します。《小象伝》が「敦復无悔、中以自考也」と言うのは、六五が敦厚にして大中の道に凭って、随時に自分の思慮を省察して、一たび不善あれば、立刻に善に帰回せぬなしということです。
上六:迷復,凶,有災眚。用行師,終有大敗,以其國君凶,至于十年不克征。象曰:迷復之凶,反君道也。
上六の爻辞は言います。昏迷して回頭を知らざれば、凶険で、かつ天災人禍を招来します。若し以て兵を出して戦わしめれば、終に必ず大敗を遭い、なお国君を連累して凶険を蒙らせて、以致って十年の久も再び出征する力なし。《小象伝》は言います。昏迷して復せざるの凶は、それが君たるの道に違反したからです。
義曰:復道貴於速,上六處卦之極而居復之終,是其心昏迷而終不能復者。不能復,則邪惡著見,凶之道也。夫自外而來曰災,自己所招曰眚,言其心昏迷而恣私邪,私邪既積,過惡顯著,則天地所不與,鬼神所共怒,而外來之災、自招之眚所以皆至也。
胡瑗の解説:回復の道は迅速を貴ぶに、上六は全卦の尽頭に居り、また回復の道の最後に居って、彼の心中は昏昧迷惑して終に回頭し得ぬを説明します。回頭し得なければ、邪悪は顕露出て、これは凶を招く道です。外面から降臨するを「災」と呼び、自分が招惹するを「眚」と呼び、これは彼の心思が昏迷して私邪を放縦して、私邪が積みて多くなれば、過悪は昭然として、こうして天地は佑せず鬼神は共に怒りて、外来の災禍と自招の禍患もまた一斉に門を找んじて来ます。
用行師終有大敗,以其國君凶者,夫以迷復之道而用兵行師以伐於人,必不能克勝,而終至於大凶敗,以血肉生靈,虛竭帑藏,以累其君,凶之極也。至于十年弗克征者,十數之極也,言用事而行師以致大敗,雖十年之間終不能興起征伐之事。象曰迷復之凶反君道也者,夫君所以主宰天下、司牧生民,今用此迷復之道行師以征伐於人,以致有大敗,是反君所行之道者也。然特以行師言者,蓋舉其重者言之,即它可知矣。
「用行師終有大敗、以其国君凶」とは、昏迷して返らざる路数に凭って兵を興して他人を討伐すれば、必ず取勝し得ず、最後に惨敗の地步に落ちるを言います。徒らに百姓の血肉性命を葬送し、国庫の積儲を耗空して、なお自分の君主を連累して一同に禍を蒙らせて、凶は極点に至ります。「至于十年弗克征」と言う、「十」は数目の終極で、意は政に当たる者が貿然と兵を出して大敗を招致して、元気が大いに傷い、この後はたとえ十年を過ぎても、更に征伐の事を発動する力なしです。《小象伝》が「迷復之凶、反君道也」と言うのは、君主の職責は天下を主宰し百姓を牧養するに在るのに、今は却ってこの種の昏迷して返らざる路数を以て兵を出して他人を征討して、惨敗を招致した、これはすなわち君たるの応行の道に違背したのです。爻辞が単に「行師」を挙げて言うのは、最も重大の事を拿って代表と為したので、其余の事は、この類に照らして推せばすなわち明白です。
無妄 震下乾上
無妄:元亨利貞。其匪正有眚,不利有攸往。
《無妄》卦の卦辞にいう。本卦は「元亨利貞」という四つの徳を備えています。元は万物の創始、亨は万物の亨通、利は万物がそれぞれ宜しきを得ること、貞は正しく固く守り抜くことです。人が正道に従わなければ「眚」を招きます。それは自ら引き起こした災禍であり、そのような人はどこへ行こうと何事をしようと、うまく行きません。
義曰:按《序卦》云「復則不妄矣」,言君子之人既能先復其性,邪惡不萌於心,而善道充積於內以發於外,無有非妄之事矣。然而具天地生成之四德者,蓋以四海至廣,生靈至眾,情偽萬狀,聖人在上必有天地四德之備,然後可使天下之人服而化之,無有非妄之行。故有仁以濟之,使皆遂其性而樂其生,以至有禮以節之,有刑以齊之,有政以正之,餘則乾卦言之備矣。以其具是四德而有天下,則天下信無非妄者也。
胡瑗が解釈します。《序卦伝》に「復すれば妄ならず」とあるように、君子はまず自分の本性に復れば、邪悪な念が心に萌えず、善の道が内に充満して外に表れ、すべての行いが虚妄でなくなります。ではこの卦がなぜ天地生成の四徳を備えなければならないのでしょうか。四海は広大で百姓は多く、人情の真偽は千変万化するため、聖人は上に立つ者として必ず天地の四徳を兼ね備えてこそ、天下の人を心服させ教化し、虚妄の行いをなくすことができるのです。だから仁愛をもって彼らを済わせ、皆がその性を遂げて安楽に生きるようにし、さらに礼で節制し、刑罰で整え、政令で匡正します。その余の道理は《乾》卦ですでに詳しく述べられています。君主がこの四徳を兼備して天下を有するからこそ、天下には本当に虚妄の事が一つもなくなるのです。
「其匪正有眚,不利有攸往」者,言聖人在上,旣有四德以及於天下,則天下莫不一歸於正,而無敢有非妄之行者。然而上下之間或有一不正之人,欲以非妄之行而有所往,則必無所利,故有自招之眚所以致也。
卦辞の「其れ正ならざれば眚あり、往くところあるに利しからず」というのは、聖人が上位にあってすでに四徳を天下に施したので、天下に正道に帰らない者はなく、虚妄の事を敢えてする者もいないということです。しかし朝野上下の間に、万一、心術の正しくない者がいて、虚妄な行いを凭りにして何かをしようとすれば、必ず利益を得られません。彼が遭う災禍を「眚」と言い、「眚」は天が降す災とは異なり、自分で招いたものです。だから自作自受と言うのです。
彖曰:無妄,剛自外來而為主於內,動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也。「其匪正有眚,不利有攸往」,無妄之往,何之矣?天命不佑,行矣哉!
《彖伝》にいう。《無妄》卦では、陽剛が外卦から内卦に来て内卦の主爻となります。下卦震の性質は動、上卦乾の性質は健なので「動而健」と言い、九五は陽爻で上卦の中位に居り、六二と陰陽が相応するので「剛中而応」と言います。それゆえ大いに亨通して正道に合し、これはまさに天の意旨です。卦辞にいう正を守らなければ災禍があり、往くのに利しないというのは、天下の人が皆虚妄でない時に、なお妄動して前行しようとしても、どこへ行けるでしょうか。天が保佑を加えない以上、そのような事が通用するはずがありません。
義曰:剛卽陽也。無妄由否卦而來,是乾之一陽自外而來,居於內卦之初,是為主於內卦也。「動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也」者,上乾為健,下震為動;剛中謂九五也,應謂六二也。夫有其君而無臣,則無妄之道不能行;有臣而無君,固不可得而行。今九五有剛明之德而為之君,六二有柔正之德而為之臣,君倡於上,臣和於下,相成以道,然後以元亨利貞之四德以被天下,其威命之行莫不懾服,而天下之人悚然不能為非妄,此天之威命也。
胡瑗が解釈します。《彖伝》の「剛」は陽爻のことです。この卦は《否》卦から変じて来たもので、《否》卦は乾が上・坤が下で、乾の一つの陽爻が外卦から降りて内卦の最下位に落ち、初九となりました。だから陽剛は外より来て内卦の主となると言うのです。「動而健、剛中而応、大亨以正、天之命也」については、八卦にはそれぞれ「卦徳」、すなわちその卦が象徴する基本的な性質があります。上卦乾の卦徳は剛健、下卦震の卦徳は震動です。「剛中」とは陽爻で上卦の中位に居る九五を指し、「応」は易例の専門用語で、初と四、二と五、三と上の三組の対応爻位が一陰一陽で互いに感通することを指し、ここでは九五に配する六二を指します。賢明な君主がいても輔佐の臣がなければ虚妄なき政教は行えず、臣がいても君主がなければなおさら行えないことを知るべきです。今、九五は剛強で明察、相応しい君であり、六二は柔順で正を守る、相応しい臣です。君は上で唱え、臣は下で応え、君臣は正道をもって互いに成全し、その後に元・亨・利・貞の四徳を天下に覆い、威厳ある号令の及ぶところ服しない者はなく、天下人は惕然として戒め恐れ、敢えて虚妄の事をしません。これが天の威命です。
「其匪正有眚,不利有攸往」者,言聖人有威德及於天下,雖父子昆弟之間、州閭鄉黨之內,莫敢有一於不正而非妄者。或有不正之人非妄而欲有所往,則無所利而災眚及之也。「無妄之往,何之矣?天命不佑,行矣哉」者,言無妄之世以有妄而行,復何所往哉?之即往也,佑福也。言君之威德被於下,所至無有敢犯之者,若其復有非妄不正之行,則是犯天之威命,而天必不福佑也,其可行之哉?
《彖伝》が改めて「其れ正ならざれば眚あり、往くところあるに利しからず」と言うのは、聖人の威望と恩徳が遍く天下に及べば、父子兄弟の間でも郷里隣里の内でも、正を守らず虚妄を行うことを敢えてする者は一人もいないということです。もし本当に心術の正しくない者が虚妄の挙を凭りに行動しようとすれば、得るところが全くなく、かえって災禍が身に臨みます。「无妄之往、何之矣、天命不佑、行矣哉」とは、人々が皆虚妄でない時代に妄念を抱いて行うのでは、どこへ行けるでしょうか、ということです。句中の「之」はすなわち「往」で、「佑」は福を降すことです。これは君主の威徳が百姓に覆い被さり、及ぶところ冒す者はなく、もしなお虚妄不正の挙動があれば、それは天の威命を犯すことであり、天は必ず福を降して保佑しようとはせず、そのような事がどうして通用するでしょうか、ということです。
象曰:天下雷行,物與無妄。先王以茂對時,育萬物。
《大象伝》にいう。雷の声が天の下に行きめぐり、万物が震動を受けて、各々敢えて虚妄をしません。先王はこの卦象を体して、力を尽くしてこの時勢に順応し、心を尽くして天下の万物を養育しました。
義曰:夫雷之行於天下,萬物無不聳動兢懼而不敢為妄,如君之威德發於上而被於下,天下之人聳然聽從而無敢有妄也。是以先王茂對此無妄之時,則宜如何哉?固當盡仁愛之道以養育萬物,使天下各遂其所,各安其業,以至鰥寡孤獨皆得其所養。如此,則可以使天下之人久於無妄之道也。何則?蓋天既以無妄而在上者,苟不養育之,則未見使天下終久而不為非妄者也。
胡瑗が解釈します。雷が天の下に轟くとき、万物は聳然として震動し、戒め恐れて収斂し、敢えて妄動しないものはありません。これは君主の威望恩徳が上より発して下に覆い被さり、天下人が粛然として命を聴き、誰も敢えて虚妄しないのと同じです。では先王が力を尽くしてこの時勢に順応するとは、どうすべきだったのでしょうか。当然、仁愛の道を尽くして万物を養育し、天下人にそれぞれの願いを実現させ、それぞれの本業に安んじさせ、妻を失った老人、夫を失った婦人、父母を失った子、子のない老人に至るまで、すべて養う者があるようにすべきです。ここまでしてはじめて、天下人に長く虚妄なき正道を守らせることができます。なぜなら、天がすでに虚妄を容れない威厳をもって上に臨んでいるからであり、上に位する者が養育を加えないのに、天下が長く虚妄を生じない例は見たことがありません。
初九:無妄,往吉。象曰:無妄之往,得志也。
初九の爻辞にいう。心中に虚妄を抱かずに往けば、吉祥を得ます。《小象伝》の解釈にいう。虚妄なく往くのが吉なのは、心志を施すことができるからです。
義曰:夫君子有剛明之才,足以致天下於無妄者,必得剛明之君,然後可以行己之道。今初九有剛明之才,而九五為剛明之君,若往而輔之,則施己之威德於天下,而天下之人不敢為非妄,自然成其治,以此而行,必其吉也。「象曰:無妄之往,得志也」者,夫賢人君子有兼濟天下之心,則必遭時遇主,日行其道,致天下於無妄,此君子之志也。今初九能然,是其志得行矣。
胡瑗が解釈します。君子はたとい剛強明達の才幹を有し、天下を虚妄なき境地に致すに足りても、必ず剛強明察の君主に遇わなければ、自分の主張を施行することは言えません。今、初九は剛明の才幹を具え、九五はまさに剛明の君主です。初九がもし往って彼を輔佐すれば、自分の威望恩徳を天下に施行し、天下人は敢えて虚妄の事をせず、太平の治は自然に成就します。このようにすれば、必ず吉祥です。《小象伝》の「无妄之往、得志也」というのは、賢人君子は兼ねて天下を善くしようという心願を懐き、必ず良い時代に逢い良い君主に遇い、日々自分の主張を推行して天下を虚妄なきに導くこと、これが君子の志向の在るところだからです。今、初九はまさにこれを為し得ており、その志向が施せたと見えます。
六二:不耕穫,不菑畬,則利有攸往。象曰:不耕穫,未富也。
六二の爻辞にいう。争って耕しを始めず収穫だけを得て、争って荒地を開墾せず熟田を引き受ける。このようにすれば往くところあるに利があります。《小象伝》の解釈にいう。耕種を争わずただ収穫を司るのは、功労と富厚を己のものとしないからです。
義曰:耕者,田事之始也;獲者,收成之終。田一歲曰菑,三歲曰畬。今六二以柔順之質居中履正,上有剛明之君倡威令於天下,是待君倡而後和,令而後行。如此,謂不擅君之權,不竊君之美,是若農不耕而獲,不菑而畬,皆所以代事之終而成君之美,則所往而無有不利也。
胡瑗が解釈します。耕作は農事の始めで、収穫は農事の終わりです。開墾して一年目の田を「菑」といい、耕作して三年目の熟田を「畬」といいます。今、六二は柔順の資質をもって下卦の中位に居り、また陰爻が陰位に居るので「中正」に合しています。中間の位次を占め、陰陽も位次と相配しているのです。上には剛強明察の君主が天下に威令を発しています。だから君主が先に唱えるのを待って後に附和し、命令が下るのを待って後に執行します。このようにするのを、擅りに君主の権柄を侵奪せず、君主の美名を窃取しないと言い、農夫が耕しを争わず収穫だけを司り、開墾を争わず熟田だけを引き受けるようなものです。皆君主のために事の結末を完成し、君主の美名を成全するのであり、それゆえ往って何事をしても順利でないことはありません。
「象曰:不耕穫,未富也」者,人臣之道,貴其成君之事而代君之終也。苟或居事之先,為物之倡,則是竊君之美而自居其富盛也。今二乃能不耕而獲,不菑而畬,是能待君倡而後和,以代君之終,是不居於富盛者也。
《小象伝》の「不耕獲、未富也」というのは、臣たる正道は、君主の事業を成全し、君主のために結末を仕上げることを貴ぶからです。もし事の先頭に抢えて、あちこちで発起者になろうとすれば、それは君主の美名を窃取して功労富厚を自分の名下に帰するものです。今、六二は耕しを争わず収穫だけを司り、開墾を争わず熟田だけを引き受けることができ、まさに君主の唱導を待って後に附和し、君主のために結末を完成するので、功労富厚を己のものとしないのです。
六三:無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。象曰:行人得牛,邑人災也。
六三の爻辞にいう。これは端なくして来た災禍です。人が牛をそこに繫いでおいたところ、通行人が手を延ばして牛を牽き去り、本郷本邑の人がそれゆえ牛を失った冤罪を蒙ります。《小象伝》の解釈にいう。通行人は牛を得て、邑中の人はかえって災いに遭いました。
義曰:夫居無妄之時,必有剛明之德,履中蹈正,然後可以致天下於無妄也。今六三以不中不正之身處無妄之時,是有妄之人也。以有妄之人慾治於無妄之世,則上下所不容,故災害及之也,故曰「無妄之災」。「或繫之牛,行人之得」者,牛即治田之具也。六三既以不中不正,而又欲擅君之權,竊君之美,不待倡而和,不待令而行,乃如不獲而耕,不畬而菑,故為或人之繫其牛,以至行道之人皆可以奪而得之也。「邑人之災」者,六三以不中不正為非妄之人,雖父子昆弟之間有所不容,故不唯已有其災,至於己之所屬之人亦皆為其所累而受其災也。
胡瑗が解釈します。虚妄を容れない時代に処しては、必ず剛強明達の徳性を有し、行いに中を居り正を守ってこそ、天下を虚妄なき境地に致すことができます。今、六三は中位に居らず正位にも当たらないのに、このような時代に身を処しています。まさに心に虚妄を抱く人です。心に虚妄を抱く人が虚妄なき世道で事を治めようとすれば、上下皆彼を容れず、災害は自然に門にやって来ます。だから爻辞はこれを端なき災と言うのです。「人が牛を繫ぎ、通行人が牽き去る」というのは、牛はもと耕田の器具です。六三は中にあらず正にあらずして、また擅りに君主の権柄を奪い、君主の美名を窃もうとし、君主の唱導を待たずに自分で主張をなし、命令が下るのを待たずに擅りに行事します。これは収穫すべきでないのに争って耕し、引き受けるべきでないのに争って墾するようなもので、結果はかえって人が牛をそこに繫いだように、道を通る人が皆牽き去ることができるのと同じです。「邑人之災」というのは、六三この中ならず正ならず心に虚妄を抱く人は、父子兄弟の間にも容れられず、ゆえに害を受けるのは彼自身だけでなく、彼の一族一邑の人も彼に連累され、ともに殃に遭うということです。
九四:可貞,無咎。象曰:可貞無咎,固有之也。
九四の爻辞にいう。正道を守るべくして、それゆえ過ちがありません。《小象伝》の解釈にいう。正を守って過ちを出さないのは、この徳性がもとより彼の身に在るからです。
義曰:夫居無妄之時,必有至正之德,則可以免咎。今九四以陽居陰,以位言之,未居其正也;然而以剛健而履以柔順之位,是尚謙也。如此,則是可守其正道而得免其咎也。何則?蓋已本有剛明之才,今雖履不正,然以尚謙,故可以從正而免咎。「象曰:固有之也」者,言九四以剛直免咎,蓋於己之德性素有之,故曰「固有之」也。
胡瑗が解釈します。このような時代に身を処しては、必ず極めて端正な徳性を有してこそ、過失を免れられます。九四は陽爻が陰位に居り、単に「爻位」――すなわち一爻の処する位次およびその陰陽が位次と相配するか――に就いて言えば、正位に居していません。しかし剛健の資質をもって柔順の位置に安処するのは、まさに謙退を崇ぶことを表します。このようにして、正道を守って過失を免れることができます。なぜなら、もとより剛強明達の才幹を具え、今、爻位は正しくなくとも、謙退を崇ぶがゆえに、なお正道に従い差錯を出さずにおくことができるからです。《小象伝》の「固有之也」というのは、九四が剛強正直によって過失を免れるのは、この徳性がもとより彼の素から所有するものだから、本より具備すると言うのです。
九五:無妄之疾,勿藥有喜。象曰:無妄之藥,不可試也。
九五の爻辞にいう。これは端なくして来た小病であり、薬を服するに及ばず、自ら痊癒して喜慶があります。《小象伝》の解釈にいう。この自分で招いたのではない病に対処するには、薬は軽々しく試すべきではありません。
義曰:藥所以疏決壅滯、攻治其疾者也。今九五以剛明之德居至尊之位,下有六二柔順之臣為己之輔,共致無妄之治,則君臣之間無不正,朝廷之上無不治,萬民無不安。若其間一有邪佞之幹紀,及邊鄙有小小之冦,皆非己之所招,亦不足興兵撓眾以動中原,但在得其人,則自然可平矣。如有小小之疾,不須用藥以攻治之,但保安其身,則疾自愈矣;若復以毒藥攻之,則是自取傷敗耳。如秦漢之君,竆兵黷武,長征遠伐,以至反被其害也。故無妄之時有其疾,不試其藥,則自獲其安而有喜也。
胡瑗が解釈します。薬は壅塞を疏通し疾病を攻治するために用いるものです。九五は剛強明察の徳性をもって至尊の位に居り、下には六二のような柔順の臣子が輔佐し、君臣同心して虚妄なき治世を成就します。それゆえ君臣の間に端正でないものはなく、朝廷の上に治まらないものはなく、万民に安まないものはありません。この時、たとい偶に奸邪の小人が法紀に触れたり、辺境に小股の寇盗が現れたりしても、皆君主が自ら招いたのではなく、大挙して兵を興し民衆を労して中原を攪動するに及ばず、ただ適切な人を用いれば自然に平定できます。これは人が偶に小病を感じるようなもので、猛薬を用いて攻治するに及ばず、ただ身体を保养すれば病は自然に癒えます。もし返って毒薬を取って攻めれば、それは自ら損傷を求めるものです。秦朝・漢朝の或る君主の窮兵黷武や長途の遠征は、結果として返ってその害を受けました。まさにこのような例です。だからこのような時代にこのような小さな病に遇えば、軽々しく薬を試みず、自然に安寧を得て喜慶があるのです。
上九:無妄,行有眚,無攸利。象曰:無妄之行,窮之災也。
上九の爻辞にいう。虚妄を容れない時代に処してなお一意に妄行すれば、災禍を招き、何の利もありません。《小象伝》の解釈にいう。このような妄行が災を招くのは、すでに全卦の尽頭に至り、窮極して生じる禍患だからです。
義曰:無妄之世,無一民一物不以正相守而不敢為非妄。今上九居卦之極,在無位之地,失中正之道,於無妄之時為眾之所不容,行則有災,復何所利?
胡瑗が解釈します。虚妄なき世道においては、一人の百姓・一件の事物として各々その本分を守り、敢えて虚妄しないものはありません。上九は全卦の最上端に処し、職位の言うべきところのない地であり、また中に居り正を守る原則を失い、このような時代に衆人の容れるところとなりません。一挙動あれば災を招き、何の利がありましょうか。
大畜 乾下艮上
大畜:利貞。不家食,吉。利涉大川。
《大畜》卦の卦辞にいう。正道を守持するに利があります。賢者は家に留まって自ら衣食を謀らず、出仕して朝廷に禄を受けるのは吉祥です。この時また大きな江河を渡るに利があります。すなわち重大な艱険を渡ることです。
義曰:按《序卦》云「有無妄然後可畜,故受之以大畜」。夫君子之人既能復其性、明其心,不為非妄而從於正道,然後可以大有所畜止於邪曲之人也。然小畜則巽在上、乾在下,巽為陰,其性柔順,故不能畜之於始而終止之,故為小畜之象;大畜則艮在上、乾在下,艮為陽,其性正靜,故能止畜於始而終有天衢之亨,是為大畜之卦也。
胡瑗が解釈します。《序卦伝》によれば、まず虚妄なきがあって後に蓄積を語るべきです。だから《无妄》の後に《大畜》が続きます。君子はまず本性に復り本心を澄明にし、虚妄の事をせず正道に従って、後に大いに蓄積することができ、かつ心術邪僻な人を制止できます。再び両卦の分別を見ると、《小畜》は巽が上・乾が下にあり、巽は陰に属し、性質は柔順です。だから事の起頭において約束を加え、最後に至って勉めて止めることができず、それゆえ《小畜》の象に過ぎません。《大畜》は艮が上・乾が下にあり、艮は陽に属し、性質は端正沉静です。だから事の起頭において約束し、最後に上九「天衢亨通」の境地に達します。これを《大畜》と言います。
「利貞」者,夫乾者剛健君父之象,夫以君雖尊,不能無邪曲之慾,而臣下能止畜之者,必有大正之德,然後可以輔歸於正道也。「不家食吉」者,夫人君之治天下,必有貴爵重祿養於賢者,使天下之賢皆進於朝廷,受祿於國而不食於家,故邪欲不行而正道日興,以樹成天下之治而獲其吉也。「利涉大川」者,人君既得天下大正之人進輔於已,而止畜已之邪欲,如此則固可以成天下之治,雖有大險大難亦得以共濟之也。
卦辞の「利貞」というのは、下卦乾が剛健の君主と父を象徴するからです。君主は尊貴でも、邪曲な私欲を免れられません。臣下は君主の私欲を約束するには、自分が大公至正の徳性を具備しなければならず、その後に君主を輔助して正道に帰らせることができます。「不家食吉」と言うのは、君主が天下を治めるに、必ず尊貴の爵位・優厚の俸禄を用いて賢才を供養し、天下の賢者が皆朝廷に入り、国家の俸禄によって生活し、家にあって自ら衣食を謀らないようにするからです。このようにすれば君主の私欲は行き通らず、正道は日々興盛し、天下の治績は樹立します。だから吉祥です。「利渉大川」と言うのは、君主がすでに天下の大公至正の人が来て輔佐するのを得、己のために私欲を約束させれば、天下の治を成就するに足り、たとい極大の凶険艱難に遇っても、君臣同心して渡ることができるからです。
彖曰:大畜,剛健篤實輝光,日新其德。剛上而尚賢,能止健,大正也。「不家食吉」,養賢也。「利涉大川」,應乎天也。
《彖伝》にいう。《大畜》卦は、下卦乾は剛健、上卦艮は篤実、二者が相合して光輝が煥発し、徳性は日々新たになります。陽剛が上位に居って賢者を尊崇し、剛健の君主を制止できるのは、大公至正の表れです。卦辞の「不家食吉」は賢才を供養することを講じ、「利渉大川」は上下が相応じて乾天の道に順合するからです。
義曰:因二體以釋大畜之名。剛健謂乾有剛健之德,篤實謂艮有篤實之德。言所以能大畜者,由君有剛健之德以接於下,臣有篤實之德以輔於上,君臣之間皆有如此之德,故其心志相同,道又相協。既能相交,則上雖有邪偽之心,亦莫由而發。夫如是,故正道日以行,治道日以廣,輝耀光明而其德日以増新也。
胡瑗が解釈します。《彖伝》は上下両卦の卦徳に就いて「大畜」という卦名を解釈しています。「剛健」は乾が剛健の徳性を有することを指し、「篤実」は艮が篤厚踏実の徳性を有することを指します。大いに蓄止できる所以は、君主に剛健の徳性があって下属を接納し、臣子に篤実の徳性があって君上を輔佐し、君臣双方が共にこのような徳性を具備するため、心志が同じく道路が合します。君臣がすでに相互に交通できれば、君主にたとい邪僻虚偽の念頭があっても、発作する由がなくなります。正にこのため、正道は日々推行し、治国の道は日々拡展し、光輝は照耀し、徳性も日々増長更新します。
「剛上而尚賢」者,剛,艮也,蓋艮有剛陽之德。夫乾為至剛,本居於上,今反居下,是猶人君有至尊之勢、至嚴之威,而能崇尚有德及禮下賢人,使之畜己之邪欲,成己之治道,所以師尚而貴寵之也。故孟子曰:「湯之於伊尹,學焉而後臣之,故不勞而王;桓公之於管仲,學焉而後臣之,故不勞而霸。」然觀孟子之意,言人君之於臣有大正大賢之道,必當尊寵而禮下之,不以為臣而師事之,然後可以輔於己而歸正道也。
「剛上而尚賢」この一句の「剛」は上卦艮を指します。艮に陽剛の徳性があるからです。乾はもともと最も剛で、理から言えば上位に居るべきですが、今返って下卦に処しています。これはすなわち君主が至高の権勢・極厳の威望を握有しながら、徳ある人を推崇し、礼をもって賢者に相待ち、彼らに己の私欲を約束させ、己の治国の道を成就させるようなものです。だから賢者に対して師長として尊び、格外に貴重寵信します。孟子はこのために言いました。商湯は伊尹に対し、まず彼に就いて学んで後に彼を臣とし、だから力を費やさずに王業を成就しました。斉桓公は管仲に対し、亦まず彼に就いて学んで後に彼を臣とし、だから力を費やさずに覇業を成就しました。孟子のこの言の用意を体会するに、君主が大公至正・大賢の徳を具備する臣子に遇えば、必ず尊崇寵信し、己を屈して礼をもって相待ち、彼を普通の臣属とせず、師として奉るべきです。このようにしてはじめて輔佐を得て正道に帰ります。
「能止健大正」者,健謂乾。夫人君有威嚴之勢,而臣能止之,必有大正之道則可也。是故漢武不冠不見汲黯,夫以汲黯之才,但一直臣耳,然尚畏憚之如此,則其大正至賢之臣,其君之畏敬可知矣。「不家食吉,養賢也」者,人君旣禮下於賢而祿養之,使賢者皆進而願立於其朝,以輔翼於君,而止畜君之邪欲,以贊成其治道也。「利涉大川,應乎天也」者,應謂六四、六五之應於乾之初九、九二,猶君能接於臣,臣又應於君,君臣之間道義相同,一志而共濟天下之難也。
「能止健、大正也」の「健」は乾卦が象徴する君主を指します。君主は威厳の権勢を擁し、臣子が彼を制止するには、自ら大公至正の道を秉持しなければなりません。だから漢武帝は帽子をきちんと戴かなければ汲黯に接見しようとしませんでした。汲黯の才具をもってすれば、ただの耿直な臣子に過ぎないのに、武帝ですらこのように彼を忌憚しました。ならば真の大公至正・極賢明の臣子に対しては、君主の敬畏はいかばかりか、また以て知るべきです。「不家食吉、養賢也」というのは、君主がすでに己を屈して礼をもって賢を待ち、また俸禄を用いて彼らを供養し、賢者が皆朝廷に入り、己の側に立って君主を輔翼し、君主の私欲を約束し、治国の道を成就するのを助けることを言います。「利渉大川、応乎天也」の「応」は、上卦の六四・六五がそれぞれ下卦乾の初九・九二と陰陽相応することを指し、君主が臣子を接納し得、臣子がまた君主に回応し得、君臣の間に道義が一致し心志が合一し、共同して天下の艱難を渡るようなものです。
象曰:天在山中,大畜。君子以多識前言往行,以畜其德。
《大象伝》にいう。天が山の中に含蓄されている、これが《大畜》の象です。君子はこれに取法し、広く前代聖賢の言論と事跡を記取して、己の徳性を蓄養します。
義曰:至髙至大者天也,而物不可畜,今山能包蘊之,故假象得大畜之義也。君子觀此之象,而多識前聖之言之行,以自蘊畜其己之德也。何則?君子之人雖有五常之性,苟不該博古道,亦不能成之,是必多聞博識,然後道業可以成也。夫以堯、舜、禹大聖人而稽古,孔子習於周公,是雖有聖人之資,未有不學而能至也。
胡瑗が解釈します。最高最大なのは天を超えるものはなく、もとこれを容納できる物はありません。今、山は天をその中に包蘊することができます。だからこの卦象を借りて大いに蓄積する意を表します。君子はこの卦象を観察し、すなわち広く前代聖人の言論と行事を記取して、己の徳性を蓄養します。なぜなら、君子は天生に仁・義・礼・智・信の五種の常德を具備するとはいえ、もし古人の道理に博通しなければ、これらの徳性も成就しません。必ず見聞が広博で学識が豊富であってこそ、徳業は成就できます。堯・舜・禹のような大聖人ですら古代の典章を考察し、孔子もまた周公の典制を研習しました。見るべきは、たとい聖人の天資があっても、学習を経ずに自然に達するものはないということです。
初九:有厲,利己。象曰:有厲利己,不犯災也。
初九の爻辞にいう。危険があり、止まるのが宜しい。《小象伝》の解釈にいう。危険があって止まるのが宜しいのは、災禍に触れないためです。
義曰:夫乾,君之象也。以君之至尊,有天下之勢,必不能無邪欲侈縱之心;有邪欲侈縱而不戒之,則必至危厲。故《書》曰:「欲敗度,縱敗禮,以速戾於厥躬。」是言縱慾之事不可不戒。今初有剛明之才,而邪欲之情慾縱,是有危厲也。
胡瑗が解釈します。乾は君主の象徴です。君主は至尊の位に居り、天下を支配する権勢を掌握すれば、私欲放縦の念頭を生じることを免れられません。私欲放縦があって警戒を加えなければ、必ず危険の地步に至ります。だから《尚書》にいう。欲を縦にすれば法度を敗壊し、肆を放てば礼制を敗壊し、これはすなわち速やかに罪咎を己の身に招くことです。これはまさに私欲を放縦する事は警戒せざるべからずということです。今、初九は剛強明達の才幹を具備し、しかも私欲の情がまさに放縦しようとしています。だから爻辞に「有厲」と言い、すなわち危険があるのです。
「利己」者,已止也。言初九之剛將欲行,而上有六四為之正應,是大正之臣處君之左右,以止畜君之邪欲,故雖有剛欲驕侈之心,不得以萌以騁,使其所行之事皆從於正道,如是則無所不利。「象曰:有厲利己,不犯災也」者,言始雖有厲,而得大正之臣以止畜之,使己之邪欲不行而從於正,故不至犯於災害之事,而反從於吉也。
爻辞の言う「利已」の「已」はすなわち止むるの意です。初九の陽剛はまさに発動しようとし、しかも上に六四があって彼と陰陽正応します。これはすなわち大公至正の臣子が君主の左右に守り、彼のために私欲を止めることです。だから初九は剛強驕縦の念頭があっても、萌発馳騁する由なく、一切の挙動はただ正道に従って走るのみです。このようにすれば自然に順利でないことはありません。《小象伝》の「有厲利已、不犯災也」というのは、初めに危険があっても、大公至正の臣子を得て約束を加え、己の私欲を行き通らせず正道に転向させれば、災を招き禍を惹く事を闖下すに至らず、返って吉祥に向かうということです。
九二:輿說輹。象曰:輿說輹,中無尤也。
九二の爻辞にいう。車は車軸上の伏兔を卸落して、走ることができません。《小象伝》の解釈にいう。車の伏兔を卸して前行しないのは、九二が中に居って過失がないからです。
義曰:輹,輪輹也。九二亦以剛明之質,又居卦之中,是人君有剛欲之心欲上行,而初已止畜之,又上應於大正之臣為之輔佐,故二能恐懼戒愼,其剛欲之心已止而不敢行,如車輿之說其輪輹而不能進也。「象曰:輿說輹,中無尤也」者,言二雖有剛欲之情,而已得大正之臣止畜之,且已本有剛明之才,能自思省於已,故由其中而無有尤過也。然則大凡人君不能無邪欲,但患其諂佞之臣逢迎其惡,導贊其非,則終不能反之於善。今初曰「有厲利己」,二曰「輿說輹」,是得其良臣而能反於善者也。
胡瑗が解釈します。「輹」はすなわち車輪上の車軸と車廂を連結する伏兔です。九二も同じく剛強明達の資質を具備し、また下卦の中位に処り、君主が剛強の欲念を生じて上に向かって行動しようとするのを代表します。但し初九のあの一歩はすでに止められ、九二はまた上に六五この大公至正の臣子に応じて輔佐となります。だから九二は畏懼を心に存し謹慎自持でき、剛強の欲念は止まって敢えて発動せず、車が伏兔を卸して前進できないようなものです。《小象伝》の「輿説輹、中无尤也」というのは、九二は剛強の欲念があっても、すでに大公至正の臣子を得て約束を加え、しかも自身はもと剛明の才智を有し、躬を返りて自省できます。だから内心の自覚より出て過失がないと言うのです。これより見るべきは、君主は大抵私欲を免れ難く、恐るべきは諂媚奸佞の臣子が彼の悪念頭に迎合し、彼を慫慂して悪事をさせれば、再び善道に帰るに及ばないということです。今、初爻に「有厲利已」と講じ、二爻に「輿説輹」と講ずるのは、まさに好臣子を得て善に返帰できる写照です。
上九:良馬逐,利艱貞,曰閒輿衛,利有攸往。象曰:利有攸往,上合志也。
この一條の爻辞にいう。良馬のように馳逐するのは、艱難のうちに正を守るに利があります。平日より車駕と護衛という行事の憑借を熟習すべく、このようにして往くところあるに利があります。《小象伝》の解釈にいう。往くところあるに利があるのは、上位の者と心志が合するからです。胡瑗の下文が釈する所に按ずれば、此処の標目は「上九」と刻されているものの、実際に講じるのは九三の一爻です。
義曰:夫初欲上進,以其得大正之臣居於左右以止畜之,至於九二,其邪惡已不行,故此九三則言進退皆合於正道,以至凡所行之事無所不可,如馴良之馬馳逐於大道之上也。「利艱貞」者,言九三所為之事雖皆合於正道,然必常得大正之臣以居於左右而艱難守正,乃可以獲吉也。
胡瑗が解釈します。初九はもと上に向かって進取しようとしましたが、大公至正の臣子を得て左右に守り約束を加えたため、九二に至っては邪僻の欲念はすでに行き通りません。だからこの九三に至っては、彼は進んでも退いても皆正道に合し、凡そ行う事に可行でないものはない、馴良の駿馬が大道上に歩を放って馳駆するようなものだと言います。「利艱貞」に至っては、九三のなす事は皆正道に合するとはいえ、なお必ず常に大公至正の臣子が身辺にあって、彼をして艱難困苦のうちに正道を堅守させ、乃ち吉祥を獲得できるということです。
「曰閒輿衛,利有攸往」者,衛,侍從也,皆所以為行道之具也。言旣有賢正之臣以輔於君,而又能艱難守正,猶恐所為之事或有過失,故曰閒習其行道之具,使無有過差而一歸於正,故所行無不利也。疏謂「雖曰有人閒閡車輿」之意,非也。「象曰:利有攸往,上合志也」者,言此所以無往不利,由上九大賢之臣以至正之道贊輔於已,而能崇敬禮下之,其心志相合,道又相符契故也。
「曰閑輿衛、利有攸往」の「衛」は侍従護衛です。車輿と同じく、皆出行して事を弁ずるに用いる器具と人手です。これは言います。すでに賢良端正の臣子があって君主を輔佐し、君主もまた艱難のうちに正を守れるが、なお弁ずる事に閃失があることを患います。だから平日よりこれら行事の憑借を熟習し、一切に偏差なく皆正道に帰させます。それゆえ往って何事をしても順利です。旧疏はこの一句を「人が車を阻攔するとはいえ」と解しますが、これは誤りです。《小象伝》の「利有攸往、上合志也」というのは、往かないなく利がある所以は、上九この大賢の臣が至極端正な道理を用いて君主を賛助輔佐し、君主もまた彼を尊崇し己を屈して礼をもって相待ち、双方心志が合し、行う道も彼此契合することを言います。
六四:童牛之牿,元吉。象曰:六四元吉,有喜也。
六四の爻辞にいう。まだ角の生えない小牛に防触の横木を加えるのは、大いに吉祥です。《小象伝》の解釈にいう。六四が元吉たる所以は、君臣の間に喜ぶべき事があるからです。
義曰:童牛者,犢牛而無角者也。六四居艮之始,以陰居陰,居得其正,而下有初九之剛為己之應,而初居乾之體,是君有剛志而欲上行,已以大正之道居其左右以畜止之。然初九又有至剛之才、至明之性,而能服其義,故六四得以正道而止畜之,猶無角之牛而又制之於牢牿,言其易也。
胡瑗が解釈します。「童牛」はまだ角の生えない小牛です。六四は上卦艮の起頭に処り、陰爻で陰位に居り、位置は端正で、下に初九の陽剛と相応します。初九は乾体に属し、君主の剛強の意志がまさに上に発動しようとするのを代表し、しかも六四は大公至正の道をもって君主の左右に守り約束を加えます。好ましいのは初九もまた極剛強の才幹・極明達の心性を具備し、道理に服膺できることです。だから六四は正道をもってこれを止めることができ、もと角のない小牛に、また横木を套して管束を加えるように、制止するのが甚だ容易であることを形容しています。
「元吉」者,言四既以大正之道使其君邪欲不行,故正道日舉而得其元大之吉也。「象曰:六四元吉,有喜也」者,言臣旣能制君之邪欲,君又樂從之而不行,故上下相得,交相喜悅也。故齊景公從晏子之言而大悅,孟子稱其詩曰「畜君何尤,畜君者好君也」,言景公欲騁遊樂而晏子以正道止之,是有愛君之心,故君臣相悅而無過也。
爻辞の「元吉」というのは、六四が大公至正の道を用いて君主の私欲を行き通らせず、正道は日々張挙するからです。だから最大の吉祥を得ます。《小象伝》の「六四元吉、有喜也」というのは、臣子がすでに君主の私欲を制約でき、君主もまた楽しく聴従して再び放縦しないので、上下は相処融洽し、彼此皆喜悦を感じるということです。だから斉景公は晏子の勧諫に聴従して大いに喜びました。孟子は当時の詩句を引いて言います。君主を約束するのに何の責むべきことがあろうか。君主を約束するのは、正に君主を愛することです。景公はもと思いのまま遊出して楽を取ろうとしましたが、晏子は正道をもって彼を勧止しました。これは君主を愛護する心から出たものです。だから君臣は相悦びて過失がありません。
六五:豶豕之牙,吉。象曰:六五之吉,有慶也。
六五の爻辞にいう。すでに去勢した雄豚を木桩に繫ぐのは吉祥です。《小象伝》の解釈にいう。六五が吉たる所以は、福慶が随いて来るからです。
義曰:豶豕者,豭豕而見豶者也。牙,牙杙也,所以繫物也。六五居艮之體,有大中之德、柔順之質,而應於九二。九二居乾之體,有其剛欲,而又有六五為大正之臣居輔左右,故二亦有大中之才、剛明之性,能服道知義,禮下於賢,其剛欲不行而從於正道,故六五畜止之易,如豶豕之牙也。夫豕者,蹢躅躁動之物,難於制畜者也,今見豶而又繫之牙杙之上,是其易制也。
胡瑗が解釈します。「豮豕」は去勢された後の雄豚です。「牙」はすなわち牲口を繫ぐ木桩です。六五は上卦艮体に処り、中に居り大を守る徳性と柔順の資質を具備し、下卦の九二と相応します。九二は乾体に属し、もと剛強の欲念を有します。但し六五この大公至正の臣子があって旁で輔佐するので、九二も自ら中に居り大を守る才幹と剛明の心性を具備し、道理に服膺し義理を明らかにし、賢者に対し己を屈して礼を尽くし、剛強の欲念は行き通らず正道に転向します。それゆえ六五はこれを約束するのが非常に容易です。一頭の去勢した雄豚に対するように、これを木桩に繫げばよいのです。豚はもと躁動不安であちこちに乱竄し管束し難い牲口ですが、今すでに去勢され、また木桩に繫がれれば、管うるのは自然容易です。
「吉」者,言君之邪欲旣不能行,是吉之道也。然六四言「元吉」而此但言「吉」者,蓋初九邪欲萌而六四能制之,夫居事之始至難者也,而四能畜之,是以獲元大之吉;至於九二,則是其邪欲已止而不行,六五但安然以正道而輔之,故但言其吉,蓋其止之又易也。
爻辞の「吉」というのは、君主の私欲がすでに行き通らず、これ自体がすなわち吉祥の道だからです。但し六四が言うのは「元吉」で、此処にはただ「吉」と言うのみです。その原因は、初九の時に私欲が剛き萌動したところを六四が即ちこれを制し得たことにあり、事の起頭の段階で手を動かすのは最も難しいのです。六四はこれを為し得たので、得たのは最大の吉です。九二に至っては、私欲はすでに止息して再び発動せず、六五はただ安穏として正道をもって輔助を加えるのみです。だからただ「吉」と言うのみです。この時制止するのはさらに容易だからです。
「象曰:六五之吉,有慶也」者,言四元吉而有喜,此但吉而言有慶者,蓋六四是事之始,其君之剛欲將萌而能畜之,故但有喜而已,蓋未知其久長之效也;至此六五,則是其邪欲已盡不行,故其正道日舉,而君至於無為,大興天下之治,不惟有喜,而至於有福慶也。
《小象伝》に「六五之吉、有慶也」とあります。六四は大吉で「有喜」と言い、此処にはただ「吉」と言うのに「有慶」と言います。その原因は、六四は事の起頭に処り、君主の剛強の欲念がまさに萌動しようとするのを制したので、ただ一樁の喜事と算するのみで、長遠の成效はまだ見え難いからです。六五に至っては、君主の私欲はすでに完全に止息して再び発動せず、正道は日々張挙し、君主は無為而治の境界に達し、天下の治績は大いに興盛します。ならばただ一樁の喜事ではなく、後世に延及する福慶です。
上九:何天之衢,亨。象曰:何天之衢,道大行也。
上九の爻辞にいう。なんと開闊な天上の通衢であろうか、亨通して阻礙がありません。《小象伝》の解釈にいう。いわゆる天上の通衢とは、正道が大いに暢行することを言います。
義曰:按小畜以巽體居乾之上,故不能止畜於其始,而上九止極有旣雨之象;此大畜以艮體處乾上,故能止畜於始,初曰「有厲利己」,二曰「輿說輹」,三曰「良馬逐」,四曰「童牛之牿」,五曰「豶豕之牙」,至此上九,其正道已成而有天衢之亨,言其大正之道大行於天下,如天之有衢路,坦然可以通之。且經文有「何」字,推尋其義,殊無所適,蓋傳寫者因象辭有之,故遂加之也。「象曰:何天之衢,道大行也」者,「何」者,設問之辭,言上九何以得天之衢亨?蓋以其正道之大行通達於天下也。
胡瑗が解釈します。《小畜》は巽体が乾の上に圧するので、起頭において約束を加えることができず、上九に至って止まる極処ではじめて「既雨」の象を現します。《大畜》はすなわち艮体が乾の上に圧するので、始めから約束することができます。初爻に「有厲利已」と講じ、二爻に「輿説輹」と講じ、三爻に「良馬逐」と講じ、四爻に「童牛之牿」と講じ、五爻に「豮豕之牙」と講じ、一路して上九に至り、正道はすでに成就し、それゆえ天衢のような亨通があり、大公至正の道が天下に暢行することを言います。天上に一条の大道があって、坦々蕩々として通行できるようなものです。経文中のあの「何」の字に至っては、反復してその意を推求しても、実に安放することができません。大抵は抄写の人が《小象伝》のうちにこの字があるので、一併に経文のうちに添え入れたのでしょう。《小象伝》の「何天之衢、道大行也」の此処の「何」は設問の語気で、意思はこう言います。上九は何を凭りて天衢のような亨通を得るのか。正にその正道が大いに暢行して天下に通達するからです。
頤 震下艮上
頤:貞吉。觀頤,自求口實。
《頤》卦の卦辞にいう。養育の道は正を守れば吉祥です。人がどのように人を養うかを観察し、また自分は何によって口腹を充実し自身を保养するかを反省すべきです。
義曰:按《序卦》云「頤,養也」,蓋旣止畜於邪欲,必正道以養之也,故大畜然後受之以頤。然得謂之頤者,蓋二陽居其外,四陰居於內,陽為實,陰為虛,外實而內虛,口頷之象,頤養之義也。「貞吉」者,言所養得其正則獲吉也。「觀頤」者,言觀它人之所養,能得正道則已法而效之,若不得其正道則已革而去之。「自求口實」者,此觀己之所養也,口實是養身之具,故當常自求觀己之所養而從於正道也。
胡瑗が解釈します。《序卦伝》によれば、「頤」はすなわち養です。すでに私欲を約束できれば、必ず正道を用いてこれを涵養すべきです。だから《大畜》の後に《頤》卦が続きます。なぜ「頤」と言うのでしょうか。この卦は上下両爻が陽、中間四爻が陰で、陽は実・陰は虚、外は実で内は空、まさに口腔と下颔の形です。すなわち頤養の意を取ったのです。卦辞の「貞吉」は、養う内容が正道に合すれば吉を得ることを言います。「観頤」は、人がどのように人を養うかを観察することを言います。彼が正道に合すれば、己は彼を效法し、正道に合さなければ、己はそれらの毛病を改め摒弃します。「自求口実」は、すなわち返って己の養う物を観ることです。口中の食物は身を養う憑借なので、人は常に自己を検省し、己の養うものが何であるかを見て、かつこれを正道に合わせるべきです。
彖曰:頤貞吉,養正則吉也。觀頤,觀其所養也;自求口實,觀其自養也。天地養萬物,聖人養賢以及萬民,頤之時大矣哉!
《彖伝》にいう。《頤》卦「貞吉」は、養う所が正道に合するからこそ吉祥です。「観頤」は、一人の人が他人を養育する方式を観察することです。「自求口実」は、一人の人が自身を保养する方式を観察することです。天地は万物を養育し、聖人はまず賢才を養い、再び賢才から万民に推及します。頤養の時の意義は、実に甚だ重大です。
義曰:言人之所養惟在於正。故上以仁義之道養於下,使生靈遂性,予天下之人以安;在下者必勤身竭力以養其上。故君能以仁義養於民,則謂之聖君;臣能以忠信奉養其上,則謂之賢臣;民能厚衣食以養其家,則謂之良民;士能充五常以養其身,則謂之君子。是所養皆得其正,則獲吉也。
胡瑗が解釈します。人の養う所の関鍵はただ一つの「正」の字にあります。だから上位に居る者は仁義の道を用いて下民を養育し、百姓に各々その性を遂げさせ、天下人に安定を与えます。下位に居る者は勤労尽力して君上を奉養します。それゆえ君主が仁義を用いて百姓を養育できれば聖君と称せられ、臣子が忠信を用いて君上を奉養できれば賢臣と称せられ、百姓が豊足の衣食によって一家を养活できれば良民と称せられ、士人が仁・義・礼・智・信の五常を以て自身を充養できれば君子と称せられます。養う所が皆正道に合すれば、自然に吉祥を獲得します。
「觀頤,觀其所養也」者,言觀人所養得其正,則君子取以為法;不得其正則禍害生,故君子取以為鑑也。「自求口實,觀其自養」者,言君子之人既能觀人之所養,又復觀己之所養,若皆得其正,則無不得其安也。
「観頤、観其所養也」というのは、他人の養育する方式を観察することを言います。正道に合する者は、君子は取って榜样とし、正道に合せず禍害を招致する者は、君子は取って前車之鑑とします。「自求口実、観其自養」は、君子がすでに他人の養育する方式を観察でき、また返って己の自身を保养する方式を検視することを言います。もし両方面が皆正道に合すれば、安寧を得ないことはありません。
「天地養萬物」者,此以下又廣明頤養之義。言天地以陰陽二氣流佈於四時,發而為日月風霆,散而為雨露霜雪,使蠢動萬類皆遂其性而安其所,此天地所以能養於萬物者也。「聖人養賢以及萬民」者,言聖人法天地所養之道而頤養天下之民。然四海之廣,一人不可以獨治,教化不可以遍及,擇天下之賢於眾人者,為公為卿,為守為宰,班祿以養之,使其宣君之教化,行君之仁政,代君司牧,所以養天下之民也,言聖人之有天下必先養賢然後及民也。「頤之時大矣哉」者,言頤之時大,將以使上下內外大小所養皆得其正,故先聖重嘆美之。
「天地養万物」この一句以下は、またさらに進んで頤養の道理を申明します。天地は陰陽二気を春夏秋冬の四時の中に布散し、顕現するのは日月と風雷、散落するのは雨露霜雪で、一切の蠕動生長する物類が皆その本性を順遂し処る所に安んずるようにします。これがすなわち天地が万物を養育できる道理です。「聖人養賢以及万民」は、聖人が天地の万物を養育する方式に效法して天下の百姓を頤養することを言います。但し四海はこのように広大で、一人で独自に治理することはできず、教化もまた親身で及ぼすことはできません。それゆえ衆人の中から天下の賢者を挑選し出し、彼らに三公・九卿・郡守・県宰を担任させ、俸禄を頒給して彼らを供養し、彼らに君主の教化を宣揚し、君主の仁政を推行し、君主に代わって百姓を管理させ、以て天下の民を養育します。これはすなわち、聖人が天下を擁有すれば、必ずまず賢才を養い、後に恩沢が万民に推及するということです。「頤之時大矣哉」は、頤養の時は意義重大であると言うのです。上下・内外・大小の各方面の養う所を皆正道に合わせることを要します。だから先の聖人は再三これを讃嘆称美しました。
象曰:山下有雷,頤。君子以慎言語,節飲食。
《大象伝》にいう。山の下に雷の声が響く、これが《頤》卦の象です。君子はこれに取法し、言話を謹慎し、飲食に節があります。
義曰:上艮為止,下震為動,上止下動,是頤頷之象也。君子觀此之象,先慎其言語,節其飲食,以贍養其身也。夫言語由口而出,不慎則榮辱隨之;飲食從口而入,不節則患害隨之。故君子必當慎重其言語而不妄發,以養其德;節止其飲食,使皆得其宜,以養其身。如是,身所以安,道德所以成也。
胡瑗が解釈します。上卦艮の性質は静止、下卦震の性質は運動で、上は動かず下は動く。まさに人が咀嚼する時に上顎は動かず下颔は開合する様子です。だから取って頤颔の象とします。君子はこの卦象を観察し、まず己の言語を謹慎し、己の飲食を節制して、身体を保养します。知るべきは、言語は口から出て、謹慎しなければ栄耀あるいは耻辱がすぐ随いて来ること、飲食は口から入って、節制しなければ疾病禍患がすぐ随いて来ることです。だから君子は必ず言辞を慎重にし、軽々しく話を発せず、以て己の徳性を涵養し、飲食を節制して各々その宜しきを得させ、以て己の身体を保养します。このようにすれば、身体は安康を得、道徳は成就を得ます。
初九:舍爾靈龜,觀我朶頤,凶。象曰:觀我朶頤,亦不足貴也。
初九の爻辞にいう。自分のあの吉凶を占知できる神亀を捨て置いて、却って他人が大いに朵頤するのを見て涎を垂らさんとする。凶です。《小象伝》の解釈にいう。他人の飲食を眺めて饞涎を動かそうとする、このやり方は実に看重するに足りません。
義曰:龜所以知人之吉凶,猶人之明智也。凡賢人君子居於卑下,或貧賤而不得其所養者,必須韜藏仁義,卷懐道德,俟其時,需其命,不躁求妄進,然後可以自得其所養也。故《禮》曰「儒有席上之珍以待聘」,又孟子曰「天有爵,刖人爵從之」,是君子有道蘊於身而能俟時須命,自然得其所養也。
胡瑗が解釈します。亀は人の吉凶を占知できます。人の身の上の明智に譬えます。凡そ賢人君子が卑下の位置に処るか、あるいは貧賤で暫く供養を得られない時は、必ず仁義を收藏し、道徳を懐に卷裹し、時機を等待し運命を聴候し、急躁に進を求めず胡乱に鑚営せず、その後に己によって応有の供養を得ます。だから《礼記》に言います。儒者は席上の珍宝のような才徳を身に懐き、人の来聘を等待します。孟子もまた言います。人はまず天の賦与する爵位があり、すなわち仁義忠信であり、人間の爵位は後に随いて来ます。これら皆君子が道を自身に蕴藏し、時機を等待し天命を聴候でき、自然に応有の供養を得ることを言います。
今初九有剛明之才,足以自養其正,然以居震動之初,故不能守己之道而躁求妄進,舍己之明智而觀它人之所養,若它人之居崇髙富貴,而已乃朶動其頤,是凶之道也。「象曰:觀我朶頤,亦不足貴」者,言君子無祿而富,無爵而貴,以其道在已也。今初九有其道而不能自守以待其時,有明智而不能自保以俟其養,為天下之人所賤,故曰「亦不足貴」也。
今、初九は剛強明達の才幹を具備し、もともと正道によって自らを養うに足りるのですが、震卦の躁動する最下位に処しているため、自分の原則を守ることができず、急躁に進を求め、自身の明智を抛棄して他人の享用を眺め、他人が尊崇富貴の身にあるのを見て、自分は饞れて頬が動くほどです。これが凶の道です。《小象伝》の「観我朵頤、亦不足貴」というのは、君子は俸禄がなくても自ら富みを覚え、爵位がなくても自ら尊きを覚えるのは、道が自分の身にあるからです。今、初九は道がありながら自らを守って時機を待つことができず、明智がありながら自らを保って応有の供養を待つことができず、それゆえ天下人に軽んじられます。だから実に看重するに足りないと言うのです。
六二:顛頤,拂經于丘頤,征凶。象曰:六二征凶,行失類也。
六二の爻辞にいう。顛倒して下に向かって養を求め、常理に背き、高い丘の上に走って養を求める。このように前行すれば凶です。《小象伝》の解釈にいう。六二の前行が必ず凶なのは、その行為が同類の守るべき常道に背いたからです。
義曰:夫自上而反下謂之顛。夫為下者勤身竭力以奉於上,此其常道也。今六二無正應而下近初九之剛,故因而反養於初,自上而養於下,故曰「顛頤」。且為下不能以道養於上而反養於初,是拂違其常道,如履於丘墟不平之地而為養也,故曰「拂經于丘頤」。居下不養於上而養於下,則是拂違常道,以此而行,凶之至矣。「象曰:六二征凶,行失類也」者,夫居上養下,在下養上,此常道也,今二反養於下,是所行失其類也。
胡瑗が解釈します。上から返って下に向かうのを「顛」と言います。臣下たる者が勤労尽力して君上を奉養する、これが常道です。今、六二にはそれと相応する正応の爻がなく、下の初九の陽剛に緊く隣接しています。隣り合う両爻が近く相親しむのを易例では「比」と言います。そこで返って初九に養を求めるのです。本は上に向かうべきなのに下に転じたので「顛頤」と言います。しかも下位の身でありながら正道をもって君上を奉養できず、返って初九に依附するのは、常道に背くことであり、丘陵の荒地のような高低不平のところに立って生計を求めるようなものです。だから「拂経于丘頤」と言います。下位に居りながら君上を奉養せず返って更に下の者に養を求めるのは、常道に背くことであり、このように行えば凶険が極まります。《小象伝》の「六二征凶、行失類也」というのは、上位に居る者が下民を養育し、下位に居る者が君上を奉養する、これが常道だからです。今、六二は返って下に養を求めたので、その行為が応有の類属を失ったと言うのです。
六三:拂頤貞凶,十年勿用,無攸利。象曰:十年勿用,道大悖也。
六三の爻辞にいう。頤養の道に背けば、正道に照らして凶です。十年の久しきにわたっても用いることができず、何事をしても利がありません。《小象伝》の解釈にいう。十年も任用できないのは、頤養の道に大いに背いたからです。
義曰:拂,亦違也。夫所養之道得其正則獲吉,故彖所謂「養正則吉」也。今六三以陰居陽,是履不得其位,行不得其正,正旣失之,是拂違所養之道也,故以正道言之,是以凶也。「十年勿用,無攸利」者,十者數之極也。夫以不正之道,居於上則不能以仁義之道愛養於人,居於下則不能以忠信之道奉養於君,如此而行,雖極十年之間亦不可用矣,是以所行所為皆無所利也。
胡瑗が解釈します。「拂」もまた背くの意です。養育の道は正に合してはじめて吉を得ます。だから《彖伝》に「養正則吉」と言います。今、六三は陰爻でありながら第三という陽位を占め、「爻位」が当たらず、行事もそれに随って端正ではありません。端正がすでに失われたのは、頤養の道に背いたに等しく、だから正道の角度から量れば凶です。「十年勿用、无攸利」の「十」は数目の極点で、数は一から十まで数えれば窮まるので、時間の久しいことのこれ以上ないことを形容します。一人の人が不正の作風を抱いて、上位に居れば仁義の道をもって百姓を愛護養育することができず、下位に居れば忠信の道をもって君主を奉養することができません。このように行えば、たとい整整十年を過ごしてもなお任用に堪えず、だから彼の一挙一動は利を得られません。
「象曰:十年勿用,道大悖也」者,言君子之人於所養之道皆得其正,則建諸天地而不悖,質諸鬼神而無疑,百世以俟聖人而不惑。今六三不能修養己之德,而以不正為養之道,是其大違悖於所養之道也。
《小象伝》の「十年勿用、道大悖也」というのは、君子が頤養の道において事事正に合すれば、それを天地の間に立てても相違せず、それを鬼神に質証しても疑いなく、百代の後に聖人が出て印証しても疑いを存さないということです。今、六三は自らの徳性を修養することができず、返って不正当な做法を養育の道としたので、これは大いに頤養の正道に背いたのです。
六四:顛頤吉,虎視眈眈,其欲逐逐,無咎。象曰:顛頤之吉,上施光也。
六四の爻辞にいう。上より自ら下に居る者を養育するのは吉祥です。目光は虎のように威厳をもって逼視し、供給はまた連綿として続くので、過ちがありません。《小象伝》の解釈にいう。この自上より下を養うが吉なのは、上に居る者の施す恩沢が広大だからです。
義曰:六二居下不養於上而養於下,故進則凶也。今六四處於上體,是居人上也,以陰居陰,履得其正,下應於初九之陽,是養於下者也,旣居上位而又能養下,是得其吉也。「虎視眈眈,其欲逐逐,無咎」者,言虎,暴猛之物也,其視眈眈然,言威嚴之至也。夫居上者以正而養於下,則下無不得所養;下旣得所養,若無所節制,則必傷於寛裕而眾將放恣,故用威嚴以濟之,若恩威並立,使民懐德而畏威也。逐逐,相繼不絶之貌,言居上之人旣養於下,則必隨其人之慾,使之逐逐然而不絶,此乃全其吉而無有咎害也。「象曰:顛頤之吉,上施光也」者,言六四居於上位而能盡其道以養於下,是其施澤之光大也。
胡瑗が解釈します。六二は下位の身で、君上を奉養せず返って下に養を求めたので、一歩前に行けば凶です。今、六四は上卦に処し、衆人の上に居る者です。陰爻で陰位に居り、位置は端正で、下に初九の陽剛と相応し、まさに自上より下位の者を養育するので、上位に居りながら能く下を養い、だから吉を得ます。「虎視眈眈、其欲逐逐、无咎」に至っては、虎は兇猛の野獣で、その目光が炯炯として逼視するさまは、威厳の極まりを形容します。上位に居る人が正道をもって下民を養育すれば、下民に供養を得ない者はありません。但し下民がすでに供養を得て、もし節制が少しもなければ、失として寛きに過ぎ、衆人は放縦恣肆することになります。だから威厳を用いて調剤し、恩徳と威厳を併立させ、百姓に恩徳を感念させかつ威厳を畏れさせるべきです。「逐逐」は連綿として絶えないさまで、上位に居る人が下民を養育しようとする以上、必ず彼らの需求に順応し、供給を連綿として絶やさなければならず、こうしてはじめて吉祥を保全して過ち災害のないことを言います。《小象伝》の「顛頤之吉、上施光也」というのは、六四が上位に居りながら力を尽くして正道をもって下民を養育でき、その施す恩沢が広大光明であると見えるということです。
六五:拂經,居貞吉,不可涉大川。象曰:居貞之吉,順以從上也。
六五の爻辞にいう。常理に背いてはいますが、安処して正を守れば吉祥です。ただ大きな江河を渉り重大な艱険を担うことはできません。《小象伝》の解釈にいう。安処して正を守るのが吉なのは、柔順に上九に依り従うことができるからです。
義曰:凡為養之之道,當守以正則可也。今六五乃以陰柔之質居於陽之位,是拂亂其頤之義也。「經」,言「經」字之誤也,豈有居至尊而乃拂亂其常道之甚哉?但以其少不得於正,故唯失其養之道耳。「居貞吉,不可涉大川」者,言六五失其正,故至於拂違其頤養之義,今若能居守之以正道,則可以得其吉也。雖以居守其正道而得吉,然本有失,是未可以濟於險難也。
胡瑗が解釈します。凡そ養育の道は、一つの「正」の字を守りさえすればよいのです。今、六五は陰柔の資質をもって陽剛の位に居り、これは頤養の本義を掻き乱すものです。爻辞の「経」の字に至っては、胡瑗は伝写の誤りと考えます。至尊の位に居りながら、常道をこの地步まで甚だしく悖乱するものがあろうはずがありません。ただそれがわずかに正に合わなかったので、養育の道において失当があったに過ぎません。「居貞吉、不可渉大川」というのは、六五が正を失ったので、頤養の本義に背くに至ったのです。今、もし安処して動かず正道を堅守できれば、なお吉祥を得ることができます。ただ正を守って吉を得るとはいえ、畢竟その身に欠缺があるので、まだこれを持って大険大難に応ずることはできません。
上九:由頤,厲吉,利涉大川。象曰:由頤厲吉,大有慶也。
上九の爻辞にいう。天下が皆彼に依って養育を得ます。戒懼厳厲を保てば吉で、かつ大きな江河を渉り重大な艱険を担当するに利があります。《小象伝》の解釈にいう。衆人が彼によって養を得て戒懼して吉を得るのは、大いに福慶があるからです。
義曰:此一爻以剛明之質居一卦之最上,雖非至尊之位,然下四陰不能自養,故必皆由於已而後得其養也。「厲吉」者,上以剛明之才為眾陰之主,眾皆由已而後得其養,若不濟之以威嚴,則必有所瀆也,故當臨之以威厲,則得其吉。「利涉大川」者,言上九旣以仁義之道以養於下,下由之而後得所安,而已又能濟之威嚴,則是恩威並立,而天下之人皆樂歸之,故雖有大險大難亦可以濟之也。「象曰:由頤厲吉,大有慶也」者,言上九居其上而下皆由之得其養,為眾之所服,是大有福慶之事也。
胡瑗が解釈します。上九この一爻は剛強明達の資質をもって全卦の最上端に処し、至尊の君位ではありませんが、下の四つの陰爻は皆自養の能力がなく、必ず皆彼に依ってはじめて供養を得られます。だから爻辞はこれを「由頤」と称します。全卦の人が皆彼を経由して後に養を得るのです。「厲吉」と言うのは、上九が剛明の才幹を凭りに衆陰の主宰となり、皆彼に依ってはじめて食を得るからです。この時もし威厳をもって輔えなければ、必ず軽慢無礼な者が出ます。だから「厲」はここでは危険ではなく、厳正で苟もなく、威厳の姿態をもって衆人に臨御してこそ吉を得られます。「利渉大川」と言うのは、上九がすでに仁義の道をもって下民を養育し、下民は彼に依って安頓を得、彼はまた威厳を配して、恩徳と威厳を併立させることができ、天下人が皆楽しく帰附するので、たとい極大の凶険艱難に遇っても、衆人を率いて渡り切ることができるからです。《小象伝》の「由頤厲吉、大有慶也」というのは、上九が上位に居り、下の人が皆彼に依って供養を得、それゆえ衆人に悦服されるので、これは大いに福慶ある事です。
大過 巽下兌上
大過:棟撓,利有攸往,亨。
《大過》卦の卦辞にいう。棟梁が曲がって垂れ下がる。この時、往くところあるに利し、亨通を得られます。
義曰:按《序卦》云「不養則不可動,故受之以大過」。蓋聖賢之人仁義道德素有以積習之,而蘊畜其心,然後擴而充之天下,以救天下之衰弊,此所以次於頤。然謂之大過者,言聖賢之人有大才大德而過越於常分,以正天下之衰弊,故謂之大過也。「棟撓」者,言大過之時政教陵遲,紀綱衰壊,本末皆弱,若大廈之將顛而樑棟不能支持,故致傾撓。「利有攸往亨」者,聖賢之人有大才大智,當此之時則過越常分而拯天下之衰弊,以此而往,則天下皆獲其利,獲其利則得其亨通。
胡瑗が解釈します。《序卦伝》によれば、涵養を加えなければ行動することができません。だから《頤》の後に《大過》が続きます。聖賢の人は平日より仁義道徳を積累研習し、心中に蘊蓄し、その後にこれを天下に推広拡充して、天下の衰敗を挽救するのに用います。これがこの卦が《頤》の後に列する所以です。なぜ「大過」と言うのでしょうか。聖賢の人が大才大德を具備し、行事が尋常の本分を超越して、以て天下の衰敗を匡正するので、「大過」と言います。「棟撓」は、この時に政令教化が日に日に頽敗し、法紀綱常が衰壊し、根本と末梢が共に軟弱無力で、高樓が將に傾かんとして梁柱が支えきれず、だから彎折して垂れ下がるということです。「利有攸往亨」は、聖賢の人に大才大智があって、このような時に処して常分を超越して天下の衰弊を拯救しなければならず、このようにすれば天下は皆利益を得られ、利益を得れば亨通を得るということです。
象曰:大過,大者過也。棟撓,本末弱也。剛過而中,巽而說行,利有攸往,乃亨。大過之時大矣哉!
此処に引くは実は《彖伝》です。いわゆる《大過》とは、陽の大なる者が常分を超過することを指します。「棟撓」は、初・上の両爻が根本と末梢の位置に処していながら皆柔弱の陰爻だからです。陽剛は常分を超越しながらなお中道を守り、行事は謙遜でかつ人を喜ばせることができるので、往くところあるに利し、亨通を得られます。大過の時の意義は、実に甚だ重大です。文義に按ずれば、原刻の此処の標目は「象曰」と作していますが、当に「彖曰」の誤りでしょう。
義曰:言聖賢之人有大才大德,故能過行其事而拯天下之衰弊,是大過之時唯大者之人乃能過分以成天下之大功也。若才德賢智之偏則不可,況無才德乎?「棟撓本末弱」者,此言二陰居其上下,陰體柔弱,是猶內外皆小人而朝廷紀綱敗壊,若大廈將顛而樑棟已摧,本末皆傾撓也。
胡瑗が解釈します。聖賢の人は大才大德を具備するので、常規を超越して行事し、天下の衰敗を挽救できます。これはすなわち、このような時代には才徳の宏大な人のみが本分を超越して天下の大功を成就できるということです。もし才徳智慧が一隅に偏するだけなら、この担子を担うことができません。まして根本に才徳のない人はなおさらです。「棟撓、本末弱也」は、初六と上六の二つの陰爻が全卦の最下と最上に分処し、陰柔で力がなく、朝廷の内外に小人が当道し綱紀が敗壊しているようなもので、高樓が將に傾かんとして梁柱がすでに折れ、根基と頂端が一緒に垮塌し落ちるようなものです。
「剛過而中」者,此指九二而言也。夫以陽居陽,守常之道也,今以陽而居陰,是過越於常分也。如聖賢之人有大剛明之才而超邁古今,過行其事而又不失其中,故能復正天下之弊,扶救天下之衰。若當此之時,有其才德而或不能過分行之,則不能除天下之弊而立天下之功也。
「剛過而中」は九二に就いて言います。陽爻が陽位に居るのは常規を守る做法です。今、九二は陽爻をもって陰位に居り、これは尋常の本分を超越したのです。これは聖賢の人が極めて剛強明達の才幹を有し、気概は古今を超越し、事を弁ずるに常規を突破することを敢えてし、同時に中道を失わないようなものです。だから天下の積弊を重新匡正し、天下の衰頽を扶救できます。もしこのような時代に身を処しながら、才徳はあるのに常規を越出して行事することを敢えてしなければ、天下の弊病を除き去ることも、天下の功業を建てることもできません。
「巽而說行,利有攸往,乃亨」者,下順上說,言聖賢君子拯大過之時,以順而說天下之心而行之。故湯始徵葛,東征西夷怨,南征北狄怨,曰「奚為後我」,是皆應天順人而行,乃得天下之悅從,故所往皆利而無不亨通也。「大過之時大矣哉」者,言君子挺不世之才,駕非常之德,必欲拯天下之衰弱,出生民於水火者,必得其時則可以行之也。若有其德而無其時,亦無能為也,故先聖重嘆美之。
「巽而説行、利有攸往、乃亨」は、下卦巽が柔順で上卦兌が喜悦だからです。聖賢君子が衰世を挽救する時は、天下の人心に順応し悦ばせて後に行動しなければならないと言うのです。だから商湯は最初に葛国を討伐する時、東に征伐すれば西の部族が埋怨し、南に征伐すれば北の部族が埋怨し、皆なぜ我らを後にするのかと言いました。これは皆上に天意に応え下に人心に順って行動したので、天下人の歓欣帰附を得たのです。だから至る所、順利でないことなく、亨通でないことはありません。「大過之時大矣哉」は、君子が曠世稀に有る才幹・尋常を超える德行を懐き、一心に天下の衰弱を拯救し百姓を水火より救い出そうとしても、必ず合適な時機に遇わなければ施展できないということです。もし德行はあっても時機がなければ、同じく一事も成しません。だから先の聖人は再三これを讃嘆称美しました。
象曰:澤滅木,大過。君子以獨立不懼,遯世無悶。
《大象伝》にいう。沼沢の水が樹木を滅没する、これが《大過》の象です。君子はこれに取法し、独自に挺立して恐れることなく、たとい世を避けて隠居しても苦悶を覚えません。
義曰:夫澤本卑,木本髙,今澤反居木之上,是卑者踰於髙、下者踰於上,大過之象也。君子之人當是時而能越常分,推仁義不忍之心,獨立特行,挺然而無所懼憚,不顧險難,不畏小人,如此則可以救天下之衰弱,立天下之事業也。當是時苟不得已而不可為,當韜光遯跡,養晦仁義,以道自樂,不與世俗混於衰弊之中而無所憂悶也。然則聖賢之人所謂遯者,非謂入於林幽谷,但不使名跡少露於人而反貽其害耳。
胡瑗が解釈します。沼沢はもと低い所にあるべきで、樹木はもと高く生えるべきです。今、沼沢が返って樹木の上にまで滅み、これは低いが高いを越え、下のが上のを越えたので、まさに「大過」の象です。君子がこのような時代に処して、常規を超越し、仁義不忍の心を推行し、特立独行し、挺然として恐れることなく、艱険を顧みず、小人を恐れず、このようにすれば天下の衰弱を挽救し、天下の事業を建立できます。もし時勢が実に許可せず、有する所為がなければ、当に鋒鋩を収斂し行跡を隠し、仁義を暗処に涵養し、道を以て自ら楽しみ、世俗に随ってともに衰敗に沈淪せず、心中もこれによって憂悶しません。見るべし、聖賢の言う隠遁は、必ずしも山林深谷に隠れ込まなければならないのではなく、ただ自分の名声行跡を人前に少しも暴露させず、以て返って禍害を招かないようにするだけです。
初六:藉用白茅,無咎。象曰:藉用白茅,柔在下也。
初六の爻辞にいう。潔白の茅草を以て襯墊とすれば、過ちがありません。《小象伝》の解釈にいう。白茅を以て襯墊とするは、柔軟の物を下に墊くの意を取ったのです。
義曰:初六居卦之初,為事之始也。夫為事之始,不可輕易,必須恭慎,然後可以免咎,況居大過之時,政教陵遲,紀綱隳壊,而聖賢之人有大才德欲往而拯之,是其事至重,功業至大,尤不易於有為,必當過分而慎重然後可也。若一失其措,則禍不旋踵而至矣。
胡瑗が解釈します。初六は全卦の最下の一つの陰爻で、柔弱にして事の起頭に当たります。事の起頭を為すには軽率随便であってはならず、必ず恭敬謹慎であってこそ過失を免れられます。ましてこのような衰世に当たり、政令教化が日に日に頽敗し、法紀綱常が崩壊し、聖賢の人が大才大德を懐いて出て挽救しようとするのは、この事の分量は極めて重く功業は極めて大で、手を動かすのは特に容易ではなく、必ず平常よりさらに鄭重に事を為さなければなりません。一旦措置が失当ならば、禍患は転眼に至ります。
故《繫辭》曰:「初六,藉用白茅,無咎。子曰:苟錯諸地而可矣,藉之用茅,何咎之有?慎之至也。」蓋凡物置之於地,固得其安矣,而又以潔白之茅藉之,是愼重之至也。如聖賢拯天下之大過,苟於事始慎之如此,則可以立天下之大功,興天下之大利,又何咎之有耶?「象曰:藉用白茅,柔在下也」者,初六以陰居卦之初,是以柔而在下,蓋君子過行其事而慎重之至,此以柔潔之茅藉之於下,斯免咎矣。
だから《繫辞伝》はこの一爻を引いて言います。「初六、藉用白茅、无咎」。孔子は解釈して言います。物を直接地に置いてももともと行けるのに、さらに茅草を墊く、どこに過失があろうか。これは謹慎の極まりです。凡そ物を地に置くのは、もとすでに穏当ですが、なお潔白の茅草を用いて墊くのは、まさに鄭重の極まりです。聖賢が天下の大弊を挽救しようとするに、もし事の起頭においてこのように謹慎できれば、天下の大功を建立し天下の大利を興すことができ、またどこに過失があろうか。《小象伝》の「藉用白茅、柔在下也」というのは、初六が陰爻をもって全卦の最下に処し、まさに柔軟の物が底下に墊かれたさまです。君子が常規を超越して大事を弁じて鄭重の極まりに至るのは、柔軟潔浄の茅草を下に墊くがごとく、このようにすれば過失を免れます。
九二:枯楊生稊,老夫得其女妻,無不利。象曰:老夫女妻,過以相與也。
九二の爻辞にいう。枯れた楊樹がまた嫩芽を生じ、年老いた男子が年少の妻を娶る。不利なことはありません。《小象伝》の解釈にいう。老夫が少妻に配るは、双方が常規を超出して互いに結合することです。
義曰:稊者,楊之秀也。此以陽居陰,是君子之人越其常分而過行其事者也。夫大過之時,聖賢君子能過行其事,以剛明之才、勤健之德,立天下之功業,使陵遲者得以興起之,隳壊者得以振舉之,故如枯槁之楊復生秀美之稊,衰老之夫而得少懦之女,復有生息之象也。「無不利」者,言聖賢之人過其常分以行事,使衰者復興,亡者復存,是所行無不得其利也。「象曰:老夫女妻,過以相與也」者,以老夫而得女妻,則有生息之漸;以女妻而得老夫,則有老成之漸,是皆過以相與者也。
胡瑗が解釈します。「稊」は楊樹の新たに抽き出る嫩芽です。九二は陽爻をもって陰位に居り、まさに君子が常規を超出し本分を突破して事を弁ずるさまです。このような時代に、聖賢君子は常規を越出して行事でき、剛強明達の才幹・勤勉强健の徳性を凭りに、天下のために功業を建立し、頽敗したものを重新興起させ、崩壊したものを重新振作させます。だから枯槁の楊樹がまた秀美の新芽を抽き、衰老の男子がまた年少柔弱の女子を娶るがごとく、重新に生育繁衍の気象が有ります。「无不利」と言うのは、聖賢の人が常分を超越して事をなし、衰落したものを重新振興させ、將に亡びんとするものを重新保全するので、一挙一動に利を得ないものはないということです。《小象伝》の「老夫女妻、過以相与也」というのは、老夫が少妻を得れば生育の可能が有り、少妻が老夫を得れば老成持重の依靠が有る――双方は皆常規を越出して彼此に成全するということです。
九三:棟撓,凶。象曰:棟撓之凶,不可以有輔也。
九三の爻辞にいう。棟梁が彎折する、凶です。《小象伝》の解釈にいう。棟梁が彎折して凶なのは、このような人が君主に輔助を提供できないからです。
義曰:大過之時,君子有為之際,故若過其分而行則可以立天下之功,若但守常之人,則未見其能成天下之事業也。九二能過分行之,故所行皆利;此九三有剛明之才德,而乃以陽居陽,則是守常之人,不能過行其事,如有才而不能施用,有德而不能操致,獨用匹夫之見而繫上六之應,使其政教愈敗,綱紀愈頹,若大廈之梁傾撓而不能扶持,是凶之道也。「象曰:棟撓之凶,不可以有輔也」者,夫天之生聖賢,將使拯天下之危難,濟天下之生靈,立其事業也。今九三乃為守常之人,有才而不能用,是不可以有輔於大過之君也。
胡瑗が解釈します。このような時代はまさに君子が大有作為する時機です。だから常分を超出して事をなし得る者は、天下のために功を建てられます。もし只の墨守常規の人なら、彼が天下の事業を成就するのを見たことがありません。九二は常分を超出して行事できるので、処々に順利です。この九三は剛強明達の才徳はあるものの、陽爻が陽位に居り、墨守常規の人に属し、常規を越出して事を弁ずることを敢えてしません。これは才幹はあるのに使い出せず、徳性はあるのに取り出せず、ただ一己の見を凭りに行事し、また上六のあの私人的な相応に牽挂しているに等しく、結果は政教がいよいよ敗壊し、綱紀がいよいよ頽廃し、高樓の梁柱がすでに彎折して撑持できないがごとく、これが凶の道です。《小象伝》の「棟撓之凶、不可以有輔也」というのは、上天が聖賢を生み出すのは、もと彼らをして天下の危難を拯救し、天下の百姓を周済し、一番の事業を建立せしめんがためです。今、九三は只の墨守常規の人で、才幹はあるのに使い出せません。これでは衰世に身を処する君主に何の輔助も提供できません。
九四:棟隆,吉,有它吝。象曰:棟隆之吉,不撓乎下也。
九四の爻辞にいう。棟梁が隆起して挺なり、吉祥です。但しもし別の心思牽挂があれば、憾惜が有ります。《小象伝》の解釈にいう。棟梁が挺起して吉なのは、それが下に向かって彎折しないからです。
義曰:夫大過之時,是本末衰弱之世,唯聖賢出乎其類,過行其事而拯濟之。今九四以陽居陰,是能過其位分以拯天下之弊,亦如大廈將傾而得良匠扶持之,使其樑棟隆起而得全安也。蓋衰亂之世,旣拯民出於塗炭,然後獲其亨通而得吉也。
胡瑗が解釈します。このような時代は一つの根本と末梢が共に衰弱した時代で、聖賢が抜萃出類し、常規を超越して事を弁じてこそ、これを挽救できます。今、九四は陽爻をもって陰位に居り、まさに自分の位分を超出して天下の積弊を救治し得る人です。高樓が將に傾倒せんとするに好工匠に遇って扶持を加え、梁柱を重新挺起させて安然恙なきがごときです。衰乱の世道のうちにおいては、まず百姓を水深火熱の中より救い出して、後に亨通し吉を得るを語るべきです。
「有它吝」者,九四之應在初六,若聖賢之人慾興起天下之治,必須至公至平,用心不偏,獨力特行,挺然無所畏憚,使天下無一物不獲其賜,如此則可以興滯補弊,扶衰拯弱,而立功業於天下。若一有它志而繫於私應,則亦鄙吝之道也。「象曰:棟隆之吉,不撓乎下也」者,言九四雖下有初六之應,而已以剛明之才終不私累於已,是不撓於下,故獲吉。
「有它吝」は九四の応ずる所が下の初六だからです。聖賢の人がもし天下の治績を振興しようとすれば、必ず極めて公正持平で、用心に毫も偏私なく、独力で担当し特立独行し、挺然として恐れることなく、天下に一物として彼の恩惠を得ないものがないようにしなければなりません。こうしてはじめて停滞を振起し、缺失を彌補し、衰弱を扶助し、危亡を拯救し、天下のために功業を建立できます。もし一旦別の念を生じて私人的な応援に牽挂すれば、それは狭隘可鄙の路数に陥ります。《小象伝》の「棟隆之吉、不撓乎下也」というのは、九四は下に初六がそれと相応するとはいえ、剛強明達の才幹を凭りに、終に私情に己を拖累させず、だから下に向かって彎折せず、それゆえ吉を得るということです。
九五:枯楊生華,老婦得其士夫,無咎無譽。象曰:枯楊生華,何可久也?老婦士夫,亦可醜也。
九五の爻辞にいう。枯れた楊樹が花を開き、年老いた婦人が年少の丈夫に嫁ぐ。過ちはなく、称誉もありません。《小象伝》の解釈にいう。枯楊が花を開く、どうして長久であり得ようか。老婦が少夫に配るも、また一件の見苦しい事です。
義曰:聖賢之人居至尊之位,有大中之道,當衰弱之世,必須過越以行事,則可以拯救於時也。今九五以剛陽處於至尊,是居可致之位,操可致之資,是可以振綱紀於廢壊也。今反不能過越其分,而但固守已任,是亦守常之人也。以守常之人而拯天下之衰弊,故如枯朽之楊生其葩華易落之物,不若九二生稊之茂實;老婦得其士夫,無所補助,不能滋息,不若老夫之得其女妻也。然以陽居陽,當至尊之位,但得其無咎而已,然不能過越以行事,是以無休美之譽。
胡瑗が解釈します。聖賢の人が至尊の位に居り、中に居り大を守る原則を秉持し、衰弱の時代に処しては、必ず常規を超越して行事してこそ時を救えます。今、九五は陽剛をもって至尊の位に居り、身は事を弁じ得る位置に在り、手は事を弁じ得る資本を握っていると謂うべく、もともと崩壊した綱紀を重新振作するに足ります。しかしそれは返って本分を超出することを肯んぜず、ただ現成の職分を死守するのみ、これもまた墨守常規の人です。墨守常規の人を以て天下の衰敗を挽救するので、枯朽の楊樹が凋落し易い花を幾朵か開くがごとく、九二の抽き出した新芽のように茂盛結実するには及びません。老婦が少夫に嫁ぐがごときも、家業に何の補益もなく、また生育繁衍できず、老夫が少妻を娶るに及びません。但しそれは畢竟陽爻をもって陽位に居り、至尊の位に当たるので、ただ過ちなきに落着するのみです。而も常規を超越して行事できないので、何の美好な称誉も得られません。
「象曰:枯楊生華,何可久也」者,言五當大過之時自守已分,若枯朽之楊生葩花易落之物,其榮茂不可得久也。「老婦士夫,亦可醜也」者,言衰老之婦得其士夫,無所補助,又不能生息,適足以鄙丑者也。
《小象伝》の「枯楊生華、何可久也」というのは、九五が衰敗の世に身を当たりながら只己の本分を守るに過ぎず、枯朽の楊樹が落ち易い花を幾朵か開くがごときで、見るに回春のようですが、実は一陣の風に耐えず、その繁盛は久しく維持できません。「老婦士夫、亦可醜也」と言うのは、衰老の婦人が年若い丈夫に嫁ぐのは、何の手伝いもできず、また児女を生み育てることもできず、ただ見苦しく顕れるのみだということです。
上六:過涉滅頂,凶,無咎。象曰:過涉之凶,不可咎也。
上六の爻辞にいう。無理に水を渉って、水が頭頂を過ぎて淹れる、凶です。但しこれによって彼を責めることはできません。《小象伝》の解釈にいう。冒険して水を渉って凶に遭うは、これを責備を加えるべからざるなり。
義曰:以陰柔之質居上卦之極,當本末衰弱之世,而已雖有仁義不忍之心,憫生靈之塗炭,悼紀綱之廢墜,然而其體本柔弱,則是才小德薄之人,終不能濟天下之難,猶如渉險之人,其志雖欲終濟,其力薄而微弱,以至滅沒其首,是凶之道也。滅頂猶言涉難之也。「無咎」者,言上六有是心而欲濟天下之衰弱,然其才力寡薄,不能終濟,以至滅頂,是不可以咎責之也。「象曰:過涉之凶,不可咎也」者,志在拯難而雖至於滅頂,故聖人於此憫之,蓋此上六慾立天下之功業,何可咎責之也。
胡瑗が解釈します。上六は陰柔の資質をもって上卦の頂端に処し、まさに根本と末梢が共に衰弱した時代に当たります。それは仁義不忍の心を懐き、百姓が水火に陥るを憐憫し、綱紀が廃弛して地に墜ちるを痛惜しますが、本体の質は柔弱で、才幹短小・徳性単薄の人に属し、終に天下の危難を拯救する担子を担い起こせません。これは水を渉り険を渡る人が、心中では必ず渡り切ろうと思いながら、力は単薄微弱で、結果は頭頂まで水に淹れられるがごとき、これが凶の道です。いわゆる「滅頂」は、まさに彼が危難のうちに陥ったを形容します。爻辞はまた「无咎」と言うのは、上六がこの心を存して天下を衰弱より救おうとしたが、ただ才力があまりに単薄で、終始するまで持ち堪えることができず、以て滅頂に至ったのは、これを以て彼を責めるべからずということです。《小象伝》の「過渉之凶、不可咎也」というのは、彼は危難を拯救するを志とし、たとい滅頂の地步に落ちても、聖人は此処において彼に同情しています。上六はもと天下のために功業を建立しようと欲したのであって、どうして責備を加えることができましょうか。
坎 坎下坎上
習坎:有孚,維心亨,行有尚。
《習坎》卦の卦辞にいう。内心に誠信を懐き、それゆえ心志が亨通します。このようにして行動すれば、崇尚を受けます。
義曰:按《序卦》云「物不可以終過,故受之以坎」,言君子之人所行必貴得其中,不可大過,大過則必有坎陷,故坎次於大過也。然此卦是伏羲所畫之卦,在八純之數,其七卦皆一字而名,獨此加「習」字者何也?蓋乾主於健,坤主於順,若是之類率皆一字可以盡其義,而此卦上下皆險,以是為險難重迭之際,君子之人當此重險之世,欲行事於天下,必當預積習之,然後可以濟其險阻;若不能預習之,則才小力薄,致滅其身,故聖人加「習」字者此也。
胡瑗が解釈します。《序卦伝》によれば、事物はずっと超過し続けることはできません。だから《大過》の後に《坎》が続きます。意は君子の行事は中道に合することを貴び、一味に過度であってはならず、過度ならば必ず坑陷に跌け込むということです。だから《坎》は《大過》の後に列します。この一卦は伏羲の画いた八つの純卦の一で、其余の七卦は皆一つの字を用いて命名するのに、唯この一卦は一つの「習」の字を加えます。なぜでしょうか。乾は剛健を主り、坤は柔順を主り、この類は皆一つの字を用いて卦義を説き尽くします。而もこの一卦は上下とも坎険で、険難が重々畳畳たる時を代表します。君子がこのような双重険境の時代に身を処して天下に作為しようと欲すれば、必ず事先に反復演練熟習して、後に険阻を渡ることができます。若し預め熟習することができず、才薄力弱ならば、返って性命を送り失います。聖人が「習」の字を加えたのは、用意がまさに此処に在ります。
「有孚」者,孚,由中之信也。夫水之性,決之則流,防之則止,此水之信也。如君子之人知幾達理,行於險難,有至誠無不通者,以至誠無不通,若水流而坎險皆可以平之也。「維心亨」者,坎卦上下之中皆有剛明之德,是水之性至明而無所不通,如君子中有剛明之德,曉察險阻之事而便習之,所行不違於中,思慮不逾其志,如此則事無不獲其濟。
卦辞の「有孚」の「孚」は、心の底より発する誠信です。水の本性は、缺口を掘開けばそれは流れ、堤防を築けばそれは停まる、これが水の信実です。君子が事機を明察し事理を通達し、険難の中を行き、一片の至誠を凭りに打通できない所がないがごとし。至誠ありて通じない所なければ、水が一路流れ過ぎて、凡そ坑坎険阻は皆それに填平されるがごとし。「維心亨」と言うのは、坎卦の上下二つの単卦の中位が皆陽爻で、剛強明達の徳性を具備し、まさに水性が極めて清明で通じない所なきがごとし。君子の内心がこのような剛明の徳性を具備し、険阻の実情を看清し且つ平日より演練純熟し、行う所は中道に違背せず、思う所は本志を越出せず、このように事をなせば成功しないことはありません。
「行有尚」者,夫水之性,凡坎險之處無不流而至之,故能平其險難而潤澤萬物,為時之所尚也。若君子之人當險難之時,力能扶持之,蓋由以仁義之道、才智之美,上而朝廷有其德,下而萬物被其澤,亦如水之無不潤而為時所尊尚也。
「行有尚」と言うのは、「尚」は崇尚推重の意です。水の本性は凡そ坑坎険阻ある所は流れ過ぎないことなく、だから険難を填平し万物を滋潤でき、それゆえ当世に推崇されます。君子もまたこのようです。険難の時に挺身して大局を扶持でき、凭る所は仁義の道と才智の美で、上に向かっては朝廷に彼の德行を蒙受せしめ、下に向かっては万物に彼の恩沢を承受せしめ、まさに水のように滋潤しない所なし。だからまた当世に尊崇されます。
彖曰:習坎,重險也。水流而不盈,行險而不失其信。維心亨,乃以剛中也。行有尚,往有功也。天險不可升也,地險山川丘陵也,王公設險以守其國,險之時用大矣哉!
《彖伝》にいう。《習坎》とは、重々畳畳の険阻です。水は停まらず流れて未だ一処に積満せず、険処を行きても自らの信実を失いません。「維心亨」は、陽剛が上下卦の中位に居るからです。「行有尚」は、往けば功を建てるからです。天の険は高く攀じ難いに在り、地の険は山川丘陵に在り、王公は則ち険阻を設置して自らの国家を守衛します。険というものは、時に因りて用い、その作用は実に大です。
義曰:夫坎,險也,陷也。此卦上下皆坎,是重險之象也,亦言聖賢之人慾致天下之事業,惟坎險之事最難,則必素習之,然後可以拯濟其事也,故曰「習坎,重險也」。「水流而不盈,行險而不失其信」者,夫水之流者,盈於一坎而又之一坎,無有盈滿而不流者,若險峻之處則決然而往,無所凝滯,是其信也。猶君子之人當險難之世,奮然不顧其身,竭力盡誠往而拯其難,無有凝滯,是猶水之流而不失其信也。
胡瑗が解釈します。坎の意は険であり、陷です。この一卦は上下とも坎なので、重険の象です。聖賢の人が天下の事業を成就しようとするに、最も対付し難いは険難の事より過ぐるなく、必ず平日より演練熟習して後に事を救い得る。だから《彖伝》に「習坎、重険也」と言います。「水流而不盈、行険而不失其信」は、水流は常に一つの坑坎を灌満すれば便ちまた次の坑坎に向かって流れ、積満して停まり行かないことはなく、陡峻の所に遇えばさらに决然として奔瀉し、毫も遅疑しません。これがその信実です。これは君子が険難の世道に処し、奮然として自らの安危を顧みず、全力を竭くし全副の誠意を拿出して危難を拯救し、毫も遅疑しないがごとく、水が一路奔流してその信実を失わないがごとしです。
「維心亨,乃以剛中」者,此卦以陽居中,是有剛明之德而行於險難之中,故無有不通也。「行有尚,往有功」者,言水之性流於下而潤澤萬物,是有生育之功,為時之尚;君子之人素能習其坎難之事,是以往則有其成功也。
「維心亨、乃以剛中」は、この一卦の上下二つの単卦が皆陽爻を以て中位に居り、剛強明達の徳性を懐いて険難の中を行くを代表し、だから打通できないことがありません。「行有尚、往有功」は、水の本性は低き処に向かって流れて万物を滋潤し、生養化育の功有りて、それゆえ当世に推崇されるということです。君子は平日より険難に応ずるの本事を演練熟習したので、一旦往いて行動すれば便ち成功できます。
「天險不可升」者,此以下廣明險之義。言天之崇髙極遠,不可階梯而升,其神明之道不可測度,故能保其崇髙。「地險山川丘陵」者,言地有髙山大川、髙丘峻陵,以包藏萬物而不可踰越,故物得其保全也。「王公設險以守其國」者,言王公法天地之險,而扼衝要之地,據形勢之以建其國,髙城池外為之固,堅甲利兵內為之戒,嚴刑法以除奸,飭教化以厲俗,如此所以保國家之大而固其基業之久也。「險之時用大矣哉」者,言預能習坎險之事,及是時用其道以濟之也。
「天険不可升」以下は、さらに進んで「険」の意義を申明します。天は崇高遼遠で、梯子を架けて爬り上ることができず、その神妙の運行の道も測度できず、だから自らの崇高を保つことができます。「地険山川丘陵」は、大地上に高山大河・高丘峻嶺があって、万物をその中に包蔵して随意に跨越されないので、万物は保全を得ます。「王公設険以守其国」は、王公が天地の険を設ける道理に效法し、交通の要衝を扼守し、地形に憑藉して都邑を建立し、外には高城深池を以て屏障とし、内には堅甲利兵を以て戒備とし、厳明の刑法を用いて奸邪を鏟除し、整飭の教化を用いて風俗を砥礪し――こうしてはじめて国家の宏大な規模を保ち、基業の長久を穏固にできます。「険之時用大矣哉」は、平日に能く険難に応付するの本領を演練熟習して、時に到りてこの套の弁法を用いて難関を渡ることを言います。
象曰:水洊至,習坎。君子以常德行,習教事。
《大象伝》にいう。水は一波接一波として涌き来る、これが《習坎》の象です。君子はこれに取法し、自らの德行を恒久に変らざらしめ、且つ反復して民衆を教化するの事を演練します。
初六:習坎,入于坎窞,凶。象曰:習坎入坎,失道凶也。
初六の爻辞にいう。重々の険陷の中に身を処し、返って坑中の坑に落ち込む、凶です。《小象伝》の解釈にいう。重険の中に処してまた坑に掉込むは、正道を迷失して凶を招いたからです。
義曰:窞者,坎中之坎也。大凡居險難之世,必有剛明之德而素習其事,然後其道可行於天下。今初六以陰柔居坎險之始,而上又無其應援,是其卑而不能自奮,柔而不能自立,位卑身弱,又不能素習其坎險之事,以至復入於險之處,涉其難愈,凶之道也。「象曰:習坎入坎,失道凶也」者,言初六之柔弱不能自立,以之治一身則一身不治,以之治一國則一國不治,以之治天下則失治天下之道,是其懦弱失道之甚,愈往則凶愈也。
胡瑗が解釈します。「窞」は坑坎の裏に套しているさらに深い坑です。凡そ険難の時代に身を処しては、必ず剛強明達の徳性を具備し、平日また演練熟習して険に応ずるの本事を備えてこそ、自らの主張を天下に推行できます。今、初六は陰柔の質を以て坎険の最下に処し、上にまた相応する援手がなく、だからそれは位が卑く力なく奮発できず、質が柔く自立できません。地位は低く身子は弱く、また平日に険難に応付するの事を演習しておらず、結果は一歩一歩さらに深い険処に陷り込み、ますます陷るが深し、これが凶の道です。《小象伝》の「習坎入坎、失道凶也」は、初六が柔弱して自立できないことを言います。この副の样子を拿って自身を治理せば、自身は治まらず、一国を治理せば一国は治まらず、天下を治理せば天下を治理するの正道を丟掉了します。これは懦弱して道を失うの極まりで、ますます前に行けば、凶険はますます深しです。
九二:坎有險,求小得。象曰:求小得,未出中也。
九二の爻辞にいう。身は坑坎の中に在りて険情はなお在り、求むる所はただ小さく得るのみです。《小象伝》の解釈にいう。求むる所がただ小さく得るのみは、まだ険境の中間を走出でていないからです。
義曰:夫聖賢之人有剛明之才德,又加之以大中之道,乗時藉勢,其道足行於天下也。今九二雖有剛明之德,而居二陰之間,不遭其時,不得其位,其道不得行於天下,在於坎難之中,必有危險之事也。「求小得」者,夫君子有才懐德,得時居位,行其道於天下,無所求而不得;今九二雖有才德,然不得其時與位,而又未出於險中,是以所求止小得而已。
胡瑗が解釈します。聖賢の人は剛強明達の才徳を具備し、これに中に居り大を守るの原則を加え、若し時機に順応し形勢に憑藉すれば、彼の主張は天下に推行するに足ります。今、九二は剛明の徳性はあるものの、初六と六三の二つの陰爻の間に夾まれ、好い時に赶えず、また相応する地位を得ず、主張は天下に推行されず、人はなお坎険の中に陷って、必然に危険の事に遇います。「求小得」と言うのは、君子に才幹あり徳性を懐き、若しまた時機に赶え身はその位に居って、主張を天下に推行するならば、あれは何を求めても何を得るということです。今、九二は縦に才徳あっても、時機と位置が皆合せず、またまだ険境を脱出していないので、求むる所有りても過ぎず小さく得るのみです。
六三:來之坎坎,險且枕,入于坎窞,勿用。象曰:來之坎坎,終無功也。
六三の爻辞にいう。進んでも坑、退いても坑、処境はすでに険にしてただ勉强に険処に枕靠着するのみ、終に坑中の坑に落ち込む、この時有する所為すべからず。《小象伝》の解釈にいう。来るも往くも皆坑坎、最終には何の成效もないでしょう。
義曰:夫有剛明之才德而履於中正,則庶可拯其險難也。今六三居不得中,履復失正,而又介重坎之間,若來居於位則未出於坎,若往之於上則復有其坎,是其往來之間皆其坎險也。「險且枕」者,蓋身在於坎而下乘九二之剛,是旣險而又且枕於險也。「入于坎窞勿用」者,言六三以其不中不正,身在於險而又枕於險,以此而往則愈入於難之也,入於難之人是終不可以有用也。「象曰:終無功也」者,言此六三欲用之以治險難,則無有其成功也。
胡瑗が解釈します。剛強明達の才徳を具備し、また能く中に居り正を守ってこそ、勉强して険難を挽救しに行けます。今、六三はすでに中位に在らず、処する位置も端正でなく、また上下両重の坎険の間に夾まれています。退き返って原位に待てば、なお坑坎を出でず、上に一歩行けば、前はまた坑坎です。だからそれは一来一往、処処に皆険です。「険且枕」と言うのは、それは身は坎の中に在り、下にまた九二の陽剛の上に騎圧しているからです。易例は「承乗」を講じ、陰爻が陽爻の上に居るを「乗」と言い、陽爻の下に居るを「承」と言い、乗剛は逆・承剛は順です。六三はすでに険の中に在りて、また剛爻に乗り、坑の上に枕靠着するに等しいです。「入于坎窞、勿用」と言うのは、六三はすでに中にあらずまた正にあらず、人は険の中に在りてまた険に枕き、このようにして走下去すれば只だますます深く陷るのみ、すでに危難に陷った人は、終に用いるに派さないということです。《小象伝》の「終无功也」は、六三を用いて険難を治理せんと欲するも、あれは成效があることがないであろうということです。
六四:樽酒簋貳,用缶,納約自牖,終無咎。象曰:樽酒簋貳,剛柔際也。
六四の爻辞にいう。一樽の薄酒・二簋の飯食を、瓦缶のような素朴な器皿に盛り、この簡約の誠意を窓口より遞り入れる、最終に過ちありません。《小象伝》の解釈にいう。一樽の酒二簋の飯のごとき簡朴の相待は、まさに陽剛と陰柔の交接相親の表れです。
義曰:言六四出於下卦而居上卦之始,以陰居陰,是履得其正,上又近九五之君,九五又無應,故盡心而委任之,上下相交,君臣相接,故上無猜忌之心,下無疑貳之志,故其相待之物不假外飾,雖以一樽之酒、貳簋之食,又以瓦缶質素之器,納其至約於戶牖之間,以此相待,亦終無其悔咎也。蓋至誠相通,心志相交,故不假飾於外物,蓋牖者所以通幽而達明也。「象曰:剛柔際也」者,謂君臣之道相交際也。
胡瑗が解釈します。六四はすでに下卦を脱出して上卦の起頭に処し、陰爻を以て陰位に居り、処する位置は端正で、上にまた九五この君主に緊隣します。九五は別の相応する爻がなく、だから六四に対して心を尽くして信任します。上下は相互に交通し、君臣は彼此に接納し、それゆえ上に在る者に猜忌の心なく、下に在る者に二心なく、それによって彼此相待の礼物は外表の装点に頼らず、たとい只だ一樽の酒・二簋の飯にて、さらに瓦缶のような朴素の器皿を用いて盛り、この極簡の心意を窓口より遞り入れるとも、このように相待すれば終に悔恨過失ありません。双方が至誠を以て相通じ心志が相接するがゆえに、外物を用いて修飾するを要せず、窓戸の作用は、もと幽暗処を光明に通じせしむるなり。《小象伝》の「剛柔際也」は、指す所はまさに君臣の道が彼此交接相親するなり。
九五:坎不盈,祗旣平,無咎。象曰:坎不盈,中未大也。
九五の爻辞にいう。坑坎はまだ填満せず、険処が填平されるを待てば、過ちありません。《小象伝》の解釈にいう。坑坎がまだ填満せざるは、居中の徳がまだ充分に光大していないからです。
義曰:九五當坎之時,居至尊之位,有剛明之德、大中之道,然而猶居上坎之中,未出險難,是坎險未盈者也。「祗」,辭也。若坎險旣平,則是出於險難,故曰「無咎」。「象曰:坎不盈,中未大也」者,言五在坎之中流之未盈滿,喻君之道未盡,得其勢未能大亨通也。
胡瑗が解釈します。九五は身は険陷の時に処し、至尊の位に居り、剛強明達の徳性と中に居り大を守るの原則を具備しますが、それは畢竟まだ上卦坎の中間に在り、未だ険難を脱出せず、だから坑坎はまだ填満していないと言います。爻辞の裏の「祗」は只だ語助詞です。険処が填平されるを待てば、意味する所はすでに険難を走出でた、だから過ちなしと言います。《小象伝》の「坎不盈、中未大也」は、九五がまだ坎水の中間に処して水勢が未だ積満せず、君主の治道がまだ尽善を為さず、そ位そ勢を得ていると雖も、なお大いに亨通する能わざるを比喻します。
上六:係用徽纆,寘于叢棘,三歲不得,凶。象曰:上六失道,凶三歲也。
上六の爻辞にいう。繩索を用いて捆縛し、荊棘の囲み成す牢獄の裏に関押し、三年の久しきにわたっても出て来られず、凶です。《小象伝》の解釈にいう。上六は正道を迷失し、だから三年の久しきの凶厄を遭受しなければならないのです。
義曰:上六處兩坎之上,險惡之極者也。是險惡而不悛,如何處之?宜繫之以徽纆之索,置之於叢棘之下,使之思其過,至於三年天道小變之時,苟不改其惡,是終不能改,然後刑之,此凶之道也。
胡瑗が解釈します。上六は両重の坎険の最上端に処し、険悪の極点に至った人です。すでに険悪にして悔改めようとせず、彼をどう処置すべきでしょうか。当に繩索を用いて彼を捆り起こし、荊棘の囲み成す牢獄に関め入れ、彼に自らの過失を反省させ、三年に至りて天道が一小変するの時、もし彼がなお悪行を改めなければ、則ち終に改められないもので、後に彼に対して刑を用いる――これまさに凶の道です。
「象曰:上六失道,凶三歲也」者,夫君子之人在平夷之地能思其過,如顏氏「不遠復,無祗悔」;小人之情則險惡,教化不能導之,乃置之牢獄三歲而使省其過,是其失道之人也。故《周禮》司圜掌收教罷民,凡害人者弗使冠飾而加明刑焉,任之以事而收教之,能改者上罪三年而舍,中罪二年而舍,下罪一年而舍;其不能改而出圜土者殺,雖出,三年不齒,此之謂也。
《小象伝》の「上六失道、凶三歳也」。君子は平安順遂の処境の裏においても自らの過錯を反省し、顔回のように遠からず出でて便ち回頭し、それによって悔に至らず、小人の性情は則ち険悪で、教化の引導が動かず、好し他は彼を牢獄に関めて三年、彼を逼って自らの過失を省察せしむる、これがいわゆる正道を迷失した人です。だから《周礼》の記載に、司圜この官は収管してそれらの不良の民を教化するを掌り、凡そ人を害する者は、彼に装飾の冠を戴くを許さず、而も彼に罪状を標明する刑具を加え、彼に活を派して並びに教管を加え、悔改むる能くする者は、重罪は三年関満して釈放し、中等罪は二年にして釈放し、軽罪は一年にして釈放し、それらの悔改めようとせずして擅自に圜土牢獄を逃出ずる者は則ち処死し、便ち刑満して出るとも、三年の内に平民の数に列入せず――言う所はまさにこの道理です。
離 離下離上
離:利貞,亨。畜牝牛,吉。
《離》卦の卦辞にいう。正道を守持するに利があり、それゆえ亨通します。雌牛のような至柔至順の品性を畜養するのは吉祥です。
義曰:按《序卦》云「坎者,陷也,陷必有所麗,故受之以離」,蓋言險難之後必須附文明之人,然後得其安也。離者,麗也,日也,文明也,人君之象也,兩日相併,聖明相繼之義也。「利貞亨」者,言聖賢之君繼世以有天下,必皆以正道而為治,然後天下獲其利而得亨通矣。故古之堯老而舜繼,舜老而禹繼,禹老而啟繼,是其聖賢之君皆以正道相繼而無不得其亨通。又若下之者麗於上,上之者麗於下,皆以正道,然後可盡得其亨通矣。
胡瑗が解釈します。《序卦伝》によれば、坎は陥落で、陥落した後は必ず附麗依托する所がなければなりません。だから《坎》の後に《離》が続きます。意は険難を経た後に、必ず文明の人に依附して後に安定を得るということです。「離」には依附の義があり、また太陽を指し、また文明を指し、君主の象徴でもあります。二つの離卦が重なったのは、二輪の太陽が並んだもので、聖明の君主が一代接一代である意を取りました。「利貞亨」と言うのは、聖賢の君が世代相承して天下を有するに、必ず皆正道をもって治理し、後に天下人が利益を得、政局が亨通を得るということです。だから古に堯は年老いて舜が位を接ぎ、舜は年老いて禹が位を接ぎ、禹は年老いて啓が位を接ぎ、これらの聖賢の君は皆正道をもって相承し、亨通しないことはありませんでした。さらに、下位の者が上位の者に依附し、上位の者もまた下位の者に依托し、双方が共に正道に循ってこそ、完全に亨通を獲得できます。
「畜牝牛吉」者,牛卽柔順之物,所以任重而致遠也;牝者又柔之謂也,則是牛而又牝,言至柔至順之故也。蓋聖賢之人繼世以治天下,其所畜之臣必須有遠大之才,堪任國家之事,有柔順之德,不奪君之權,使之上則盡忠於國,下則竭誠於民,如此故能成天下之治,相繼不絶也,若周之周公、湯之伊尹、漢之平勃是也。
「畜牝牛吉」と言うのは、牛はもと柔順の牲口で、重きを負い遠きに行くことができるからです。「牝」はまた雌性・柔弱の意で、牛でしかも雌牛、至極柔和順従を形容します。聖賢の君が世代相承して天下を治めるに、畜養任用する臣子は必ず才具が遠大で、国家の大事を担うに足り、同時に柔順の徳性を具備し、君主の権柄を侵奪しないものでなければなりません。彼らに上に対しては国家に忠誠を尽くさせ、下に対しては百姓に誠意を尽くさせます。こうしてはじめて天下の治績を成就し、一代接一代として中断しません。周朝の周公、商湯の伊尹、漢朝の陳平と周勃のごときが、このような人です。
彖曰:離,麗也。日月麗乎天,百榖草木麗乎土,重明以麗乎正,乃化成天下。柔麗乎中正,故亨,是以畜牝牛吉也。
《彖伝》にいう。離とはすなわち依附です。日月は天に依附し、百穀草木は地に依附します。両重の光明が正道に依附し、それによって教化し天下を成就できます。柔順の者が中正の位に依附し、だから亨通し、それゆえ雌牛のような柔順の徳を畜養するのが吉祥だと言います。
義曰:此言離者,麗著之義也,故因而廣明離之義。日月所以常明,晝夜不息,幽隠之間無所不燭者,蓋其上麗著於天故也;百榖草木所以春生夏長、秋成冬收,小大髙下無不遂其宜者,蓋其下麗著於土故也。「重明以麗乎正,乃化成天下」者,言上下重離,兩日之象,是聖賢以柔順之道相繼而明,而又附麗於正道而行,使其教化流行,德澤洋溢,如是故能化成天下之俗也。
胡瑗が解釈します。ここで「離」は附着の意と言い、それによって勢いに随ってその義理を申明します。日月が恒久に光明で、昼夜停まらず、幽暗隠蔽の処にも照らさない所がないのは、それらが上に向かって天に附着するからです。百穀草木が春に萌生し夏に生長し秋に成熟し冬に收藏し、大小高低を問わず各々その宜しきを得るのは、それらが下に向かって地に附着するからです。「重明以麗乎正、乃化成天下」は、上下が皆離卦で、二輪の太陽の形象であり、聖賢の君が柔順の道をもって一代接一代と光明を放ち、しかも依附する所が正道であることを代表し、それによって教化は流布し、徳沢は充盈し、だから教化して天下の風俗を成就できます。
「柔麗乎中正,故亨」,謂二五也,言上下皆以柔順之道而麗著於中正之位,是其君臣皆以柔順而居中正,以成天下之治而獲其亨也。然而聖賢之君,其所畜之人有遠大之才、有重厚之德,使之竭誠盡節,如此故能亨繼世以有天下,為萬世之福,故曰「是以畜牝牛吉也」。
「柔麗乎中正、故亨」は六二と六五の二つの陰爻を指し、上下卦が皆柔順の道をもって中に居り正を得る位置に附着し、君と臣が共に柔順の徳を凭りに中に居り正を守るので、それによって天下の治績を成就し亨通を獲得するということです。さらに、聖賢の君が畜養任用する人は、才具が遠大で徳性が厚重で、彼らに忠誠を竭くし節操を恪守させるので、亨通して一代一代天下を承継し、万世の福気となることができます。それゆえ《彖伝》に「是以畜牝牛吉也」と言います。
象曰:明兩作,離。大人以繼明照于四方。
《大象伝》にいう。光明が二度升る、これが《離》卦の象です。大人はこれに取法し、相継ぎ絶えない光明を以て四方に照臨します。
義曰:上下二離,是兩明也,兩日重光臨照不絶之象也。大人者,言大才大德之人,以其文明柔順之道相繼以有天下,而臨照于四方,幽隱無所不燭,其光明相繼綿綿而不絶也。
胡瑗が解釈します。上下二つの離卦は、すなわち両重の光明で、二輪の太陽の光輝が重畳して照耀し、連綿として絶えない景象です。いわゆる「大人」は、才徳の宏大な人を指し、彼らは文明柔順の道を凭りに一代接一代と天下を有し、光輝は四方に照臨し、幽暗隠蔽の角落にも照らさない所がなく、その光明は相承して絶えず、綿延として絶えません。
初九:履錯然,敬之,無咎。象曰:履錯之敬,以辟咎也。
初九の爻辞にいう。歩みが交錯し挙止が戒慎のさまで、恭敬の心を以て自ら持すれば、過ちがありません。《小象伝》の解釈にいう。歩み始める時のあの戒慎恭敬は、まさに過失を避けるために用いるのです。
義曰:錯然者,敬之之貌也。言此初九居離之初,如日之初生,未明照於天下,若繼嗣之君於事之初,則當常錯然警懼,以進德修業,上副祖宗之託,下慰生民之望,所以得免其咎。「象曰:履錯之敬,以辟咎也」者,言居事之初不能修省恭謹,則未免其咎。
胡瑗が解釈します。「錯然」は恭敬戒慎のさまです。初九は離卦の最下位に処し、太陽が剛く升ったばかりで、まだ天下を照らし明るくできないがごとく、また即位の新君が剛く政事を接手したばかりで、当に時時警惕戒懼し、以て徳性を増進し事業を修習し、上に向かっては祖宗の重託に背かず、下に向かっては百姓の期望を撫慰し、それによって過失を免れることができます。《小象伝》の「履錯之敬、以辟咎也」は、反対に言えば、事の起頭の時においてもし自らを省察し恭敬謹慎できなければ、過失を免れられないということです。
六二:黃離,元吉。象曰:黃離元吉,得中道也。
六二の爻辞にいう。中和の色である黄色を依附する所とすれば、大いに吉祥です。《小象伝》の解釈にいう。黄色に附麗して大吉なのは、居中の道を得たからです。
義曰:六二居下卦之中,以陰居陰,是旣中且正,如日之中,朝廷明盛,行政施令,為皇極之化,故有元大之吉。「象曰:得中道也」者,蓋黃者,中也,以其有中正文明之德,此所以自然得其元吉。
胡瑗が解釈します。六二は下卦の中位に処し、陰爻を以て陰位に居り、すでに中に居りまた正に当たり、太陽が正中に升ったがごとく、朝廷は清明興盛で、政令を頒布し、大中至正に合する教化を施行するので、最大の吉祥が有ります。《小象伝》の「得中道也」は、黄色は五色のうち中央の色に属し、まさに「中」を代表し、六二は居中守正・文采光明の徳性を具備するので、自然に最大の吉祥を獲得するということです。
九三:日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。象曰:日昃之離,何可久也?
九三の爻辞にいう。太陽がすでに偏西した附麗の象。この時もし瓦缶を敲いて歌い自娯し、晚年を安享できなければ、只だ年老衰邁の悲嘆が残るのみ、凶です。《小象伝》の解釈にいう。日がすでに偏西した光景、どうしてまた長久であり得ましょうか。
義曰:九三過離之中,如日之昃,其光有所虧也。若人之年已衰耋,必當求其代則可也:在家則致家事於其子,在朝則致朝事於其臣,以安神養志也,然後得其吉。今三不能鼔缶而歌以養衰老,則至於教化陵遲,萬事隳壊,是以有大耋之諮嗟,凶之道也。若堯之耄期倦於勤,以舜代之;舜之耄期倦於勤,以禹代之,故得教化大行,致太平之久,所以免大耋之嗟矣。「象曰:何可久也」者,言日之既昃,不久而傾,若人之年已衰老,不能鼔缶自樂以安神養志,使教化陵遲,是何可以長久也。
胡瑗が解釈します。九三は下卦離の中位を越え、太陽がすでに西に斜め、光芒が欠け始めたがごとしです。人は年老力衰の時に至れば、人を找んで接替させるべきです。家では家務を子に交し、朝廷では政務を臣下に交して、精神を安頓し心志を頤養して、後に吉祥を得ます。今、九三は缶を敲いて歌い、晚年を安度できず、それゆえ政令教化は日に日に頽敗し、万事は崩壊し、それによって只だ年老衰邁の悲嘆が残るのみ、これが凶の道です。反対に見れば、堯は耄耋の年に至りて勤労政務を厭い、舜に接替させ、舜は耄耋の年に至りて勤労政務を厭い、禹に接替させました。だから教化は大いに暢行し、太平は長久に維持され、年老いて依るべなきの嘆息を免れました。《小象伝》の「何可久也」は、太陽がすでに西に斜めた以上、久しからずして落ちるということです。人がもし年すでに衰老して、なお缶を敲いて自娯し神を安んじ志を養うことができず、返って教化を日に日に頽敗せしむれば、このような局面がどうして長久であり得ましょうか。
九四:突如其來如,焚如,死如,棄如。象曰:突如其來如,無所容也。
九四の爻辞にいう。来勢が突兀として、火焰の上炎するがごとく焚焼し、殺身に遭うがごとく死去し、丢棄されるがごとく人に唾棄されます。《小象伝》の解釈にいう。来ることこのように突兀たるは、天下に彼の容身する所がないからです。
義曰:九四已出於下卦而在上卦之初,如日之已沒而再出,突然而明,是猶以其非道遽然而進,且切近至尊大臣之位,其身不正,恃其權位,乃欲炎於上,故至焚如;然失其為臣之道,逼君之位,如是則死之亦宜,故言死如;若然,人神所共棄,天下之所不容,故曰棄如。
胡瑗が解釈します。九四はすでに下卦を脱出して上卦の起頭に処し、太陽が落ちた後にまた突然冒き出で、猛然として光を放つがごとく、これは譬えば人の正道に循わずして骤然として上位に上るようなものです。それはまた至尊の君位に緊く挨り、大臣の位置に処し、自身は正からず、権位に仗恃し、竟に君主の上に凌駕せんと欲し、気焰は上に炎え、だから「焚如」と言います。しかしそれは臣子たるの本分を失い、君主の位に逼犯し、殺身の禍に落ちるもまた応すべし、だから「死如」と言います。この地步に至っては、人と神が皆彼を唾棄し、天下に彼の容身する処なし、だから「棄如」と言います。
六五:出涕沱若,戚嗟若,吉。象曰:六五之吉,離王公也。
六五の爻辞にいう。涙は雨のごとく下り、憂傷して嘆息する、吉祥です。《小象伝》の解釈にいう。六五が吉たる所以は、それが王公の位に依附しているからです。
義曰:六五為離明之主,然以柔弱之質居於至尊,下為九四強臣之所逼,至於出涕沱若,而又憂戚嗟傷,言慎之至也,以其憂懼如是之至,然後得其吉也。「象曰:六五之吉,離王公」者,雖為強臣所逼,然居於至尊,麗著於王公之位,天下之所順,又能憂傷之至,故獲其吉。
胡瑗が解釈します。六五は《離》卦光明の主爻ですが、それは柔弱の資質を以て至尊の位に居り、下にまた九四この強横の大臣に逼迫され、以て涙下すること雨のごとく、なお憂傷嘆息を満懐し、それの謹慎なること極まりを形容します。正に憂懼がこの程度に至るがゆえに、後に吉祥を得ます。《小象伝》の「六五之吉、離王公也」は、それは強臣に逼られると雖も、畢竟身は至尊に居り、王公の位置に依托し、天下人が皆それに順服し、これに加えてまた憂懼する能く此に至る、だから吉祥を獲得するということです。
上九:王用出征,有嘉折首,獲匪其醜,無咎。象曰:王用出征,以正邦也。
上九の爻辞にいう。君王は兵を出して征討し、嘉すべき戦功有り――只だ首悪を誅殺し、俘獲するはそれらの附従の衆人にあらず、それによって過ちなし。《小象伝》の解釈にいう。君王の兵を出して征討するは、目的は邦国を端正するに在り。
義曰:丑,眾也。上九亦如三過其中,是政教已衰,故有四夷侵侮、諸侯背叛之事,王於是以兵征之。徵者,正也,徵於四夷所以正華夷之體,徵於諸侯所以正君臣之義,誅其元惡,弔民伐罪而已,故折其首惡,匪及其眾,則有嘉美而無悔咎。「象曰:王用出征,以正邦也」者,言王之用以出征,以正萬民之法,君則君,臣則臣,邦國從而正矣。
胡瑗が解釈します。爻辞の裏の「丑」は衆人・随従の意です。上九は九三と同じく本卦の中位を越え、政令教化がすでに衰敗したを表示し、それによって四方外族の侵扰欺凌・諸侯の背叛の事が現れ、君王はそれによって兵を出して征討します。「征」はすなわち「正」です。四方外族を征討するは、華夏と外族の名分体統を端正するためです。諸侯を征討するは、君臣の名分義理を端正するためです。做法は只だ首悪を誅除し百姓を撫慰して有罪の人を討伐するのみです。だから只だ首悪を斬り従衆に牽連せず、嘉すべき功績有りて悔恨過失なし。《小象伝》の「王用出征、以正邦也」は、君王の兵を出して征討する所以は、万民を統御するの法度を端正するためで、君たる者をして君たらしめ、臣たる者をして臣たらしめ、邦国もまたそれに随って端正に帰すということです。
咸 艮下兌上
咸:亨,利貞,取女吉。
《咸》卦。亨通し、正道を守持するに利し、女子を娶りて妻とすれば吉祥を獲得します。「元亨利貞」は《周易》卦辞中の最も常見の一組の断語で、この卦は只だ「亨利貞」の三字を言います。「亨」は両情が感通して阻隔なきを指し、「利貞」は利が正道を守持するに在るを指し、「取」は此処では「娶」に通じます。
義曰:夫有天地萬物、男女夫婦、君臣上下,莫不有感之道,然後得其理。故聖人作《易》,以通神明之徳,以類萬物之情,分乾、坤、坎、離為上經,取咸、恆、既濟、未濟為下經,以盡天道人事之理。咸,感也,天地之大經、夫婦之大倫,故為下經之首也。
胡瑗が解説します。天地と万物、男女と夫婦、君臣と上下、一つとして彼此感応の道理の存在しないものはなく、唯だ感応が貫通して、各々の分際条理が乃ち成立します。だから聖人は《周易》を作り、それを用いて神明の徳性を会通し、それを用いて万物の実情を比擬しました。《乾》《坤》《坎》《離》を分列して上経の綱領とし、《咸》《恒》《既済》《未済》を取りて下経の綱領とし、以て天道と人事の全部の道理を窮め尽くします。「咸」はすなわち感応で、それは天地運行の大綱常であると同時に、夫婦結合の大倫理でもあり、だから下経の起頭に排されました。
亨利貞者,言天地不交則萬物無以化生,男女不感則人倫之道廢,是皆有感而後亨也。然既交感,不可邪諂,必利以正道,則盡感之義,故曰亨利貞也。取女吉者,言感之為道莫速於男女,男女相感然後萬物化生。故此卦上兊而下艮,在《說卦》云:艮三索而得男,故謂之少男;兊三索而得女,故謂之少女。言以少男取於少女,則人倫正而天地之義畢,故咸之道利取女吉也。
卦辞の「亨、利貞」は、天地の二気が交合しなければ、万物は化育生成する由なく、男女の間が相感応しなければ、人倫の道は廃弛することを言うのです。見るべし、凡事は皆先ず感応有りて、後に亨通を語るべし。しかしすでに彼此交感である以上、邪僻諂媚の手段を用いて相手に討好してはならず、必ず正道を以て相処してはじめて利有り、このようにしてはじめて感応の本義を窮め尽くしたと算し得、だから卦辞に「亨利貞」と言います。卦辞はまた「取女吉」と言うのは、感応の道は男女の間より来る速きはなく、男女が相互に感応して、後に万物が乃ち化生を得ます。だからこの一卦は上体が兊(沢)・下体が艮(山)です。《説卦伝》に言う。艮は乾坤が交索して三次に得るの男卦、だから「少男」と称し、兊は交索して三次に得るの女卦、だから「少女」と称します。少男を以て少女を迎娶すれば、人倫は端正し、天地生生の義もまた完備します。だから《咸》卦の道は女を娶るを吉とします。
彖曰:咸,感也。柔上而剛下,二氣感應以相與,止而說,男下女,是以亨利貞,取女吉也。天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平。觀其所感,而天地萬物之情可見矣。
《彖伝》にいう。咸はすなわち感応です。柔爻は上に居り剛爻は下に処す――「剛柔」は《周易》が陽爻と陰爻、および剛健と柔順の二種の性質を指称するのに用いる術語です――陰陽二気が彼此感応して相互に親与します。下卦艮の「卦徳」(一卦の象徴する徳性)は静止、上卦兊の卦徳は欣悦で、男方が主動して女方の下に屈居する、だから亨通し正を守るに利し女を娶りて吉を得ると言います。天地は交感して万物は乃ち化育生長し、聖人は天下人の心を感動して天下は和平に帰します。それらの感応する所の道理を観察すれば、天地万物の実情は皆能く看清されます。
義曰:夫柔者,子也,臣也,婦也,女也,至賤也;剛者,父也,君也,夫也,男也,至貴也。貴上賤下,人之常道也,人之交感之義也。夫女守正靜,男以禮下之,則夫婦道成而父子之親可見也;如賢者懐道義,君以禮下之,則君臣之義行而上下之禮興也。或賢者以道自處,君不能以禮下之,則君臣之分廢矣;是女守而男不以禮下之,則夫婦之道亦罔克成也。
胡瑗が解説します。いわゆる「柔」とは、子を指し、臣を指し、婦を指し、女を指し、尊卑序列の中に於いて最も卑の一端に処します。いわゆる「剛」とは、父を指し、君を指し、夫を指し、男を指し、最も尊の一端に処します。尊貴の者は上に居り卑下の者は下に在る、これは人世の常行の規矩であり、また人と人の交相感応する時の応有の分際です。女方は身を守り端正安静、男方は礼節を以て主動して己を屈して相就すれば、夫婦の道は成立し、父子の間の親情もまたこれによって顕現します。同じく、賢者は道義を懐いて自守し、国君は礼節を以て己を屈して相求めれば、君臣の名分は乃ち推行を得、上下の間の礼制もまたこれに随って興起します。もし賢者は道を以て自守するも、国君が礼を以て己を屈して相待つを肯んぜざれば、君臣の名分は廃弛します。これはまさに女方は正を守ると雖も、男方が礼を以て下に就くを肯んぜざれば、夫婦の道は同じく成就する能わざるがごとしです。
何則?天以髙而自處其上,地以卑而自處其下,天不降氣於下,則地氣無由而升,如是則陰陽之道無以變,萬物四時無以成也。夫天地尚爾,況於人乎!故感道貴以尊先卑,男下女,故曰咸感也。柔上而剛下,二氣感應以相與,至取女吉也,悉如前義。
なぜこのように言うのでしょうか。天は高遠を凭りに自ら上に処し、地は卑下を凭りに自ら下に処します。もし天が陽気を下に降らすを肯んぜざれば、地気もまた上に升る由なく、ならば陰陽交替の道は運転する能わず、万物と四時もまた生成する由ありません。天地ですらこのように俯就して相交わるを要す、まして人と人の間においてをや。だから感応の道は尊者が先ず卑者に向かって俯就するを貴び、男方が主動して女方の下に屈居する、それゆえ《彖伝》に「咸、感也」と言います。「柔上而剛下、二気感応以相与」以下「取女吉也」に至るまでのこれら几句は、含義は皆前に講じた所と相同じです。
天地感而萬物化生者,此言天氣降於下,地氣升於上,二氣升降而交通,則萬物以生以育而各遂性命,是知交感本自然之理,故無所不生,無所不成也。聖人感人心而天下和平者,言聖人享天下之貴勢,藉天下之重器,而天下之人均感恱而化之者,是必推誠信之道,使其仁義教化藏人之肌膚,淪人之骨髓,然後感恱於心而歸之也。是非由勞神役思,諄諄然取其心而求感之也。
《彖伝》の「天地感而万物化生」は、天の陽気は下降し地の陰気は上昇し、二気は一升一降して彼此貫通し、万物はそれによって生長養育を得て、各々自らの性命を完成することを講じます。これより知るべし、交感はもともと自然然而の道理で、だから生から生ぜざる能わざるもなく、成せざる能わざるもなし。《彖伝》はまた「聖人感人心而天下和平」と言うのは、聖人は身は天下の最も尊貴の地位に居り、天下の最も重要の権柄を執掌し、而も天下人は皆彼に感動喜悦し彼の教化を受くるは、これ必ず彼が誠信の道を推行し、仁義教化を人の肌膚に滲み入らしめ人の骨髓に浸み入らしめて、後に人心が乃ち由衷より喜悦して彼に帰附するがゆえです。これ決して神を労し思を苦しめ、絮絮叨叨として人心を籠絡し、強いて別人の己に感応するを求めるにあらず。
咸,感也。卦不名感而名咸者,聖人不以心求感於人,而人自感之,亦如天地二氣自然交通而萬物化生也。觀其所感,而天地萬物之情可見矣者,天地交感然後萬物生,男女交感然後天下化,凡此類是天地萬物之情狀,因其所感而可見也。
「咸」はすなわち感応です。この一卦は直接《感》と呼ばずして《咸》と呼ばれるは、聖人は刻意して心を用いて別人の己に感応するを謀らず、而も人は自然に彼に感動されるからです。「咸」の字はもと普遍にして心なく遍及するの義有り、まさに意ありて感を求めるの「感」の字と相対します。これは天地陰陽二気が自然に交通して万物がそれに随って化生するがごとし。《彖伝》の末句「観其所感、而天地万物之情可見矣」は、天地が交感して後に万物は化生し、男女が交感して後に天下は乃ち教化を得、凡そこの類に属する現象は、皆天地万物の真実の情状であり、それらの感応する所の道理に順って之を見れば、皆明白に見ることができます。
象曰:山上有澤,咸。君子以虛受人。
《大象伝》にいう。山の上に沼沢有り、沢水は下に滲みて山を潤し、山気は上に通じて沢に達す、これが《咸》卦の象です。君子はこの一卦象に取法し、虚懐若谷の態度を用いて他人を接納します。
義曰:按《左傳》云:澤竭則山崩。是澤之氣通於山,則萬物得其濡潤而遂其生成,此相感之義也。故君子法此山澤通氣之象,必虛其心,推其誠,以仁義之道行之於身而加之於人,則天下之人自然感恱而歸慕之也。是非假役役以求人之感也,故曰君子以虛受人。
胡瑗が解説します。《左伝》の裏に「沢竭れば則ち山崩る」と記載し、沼沢が枯竭すれば、山もまたこれに随って崩塌します。見るべし、沢中の水気は山と相通じて、万物は乃ち滋潤を得て生長を完成す、これまさに彼此感応の意義です。だから君子はこの山沢通気の卦象に取法し、必ず自らの心懐を虚空にし、自らの誠意を推出し、仁義の道を先ず自身に落実し、再び他人に推及せば、ならば天下人は自然に感動喜悦して傾心して帰附します。これは奔走鑚営し汲汲として別人の感応を求取するにあらず、だから《大象伝》に「君子以虚受人」と言います。
初六:咸其拇。象曰:咸其拇,志在外也。
初六の爻辞にいう。感応は只だ足の大拇趾に到達します。《小象伝》にいう。感応が只だ大拇趾に及ぶは、それの心志が卦外の相応する爻に繋がっているからです。いわゆる「爻位」は、六爻が下より上に至るの位次を指し、初爻は最下に居り、まさに人身の最下の足趾に対応します。
義曰:夫感之為義貴於深,當以聖賢之道,施為仁義之教、禮樂之化,以漸以摩,使之入人之肌膚,藏民之骨髓,然後天下之人皆合心畢慮,感恱於上也。上下交相感恱,是由感之道深故也。今咸其拇,夫拇者,足之趾,不能自動者也。蓋初六居艮之始,處卦之下,不能自有所動,是所感止及於趾,感之道不深而淺末者也,故曰咸其拇也。象曰志在外也者,言初六之應在於九四,是其所感之道不及於他,而志在於應四而已,志在外也。
胡瑗が解説します。感応この一事は、貴ぶべき所は深く入るに在ります。当に聖賢の道を用いて仁義の教誨・礼楽の化育を推行し、一点ずつ浸潤し、一層ずつ磨砺して、それを人の肌膚に滲み入らしめ、百姓の骨髓に蔵入せしめ、後に天下人は乃ち同心竭慮して、由衷より上に在る者に感悦すべきです。上下が彼此に感悦し得るは、まさに感応の道が深きに足るがゆえです。今、爻辞は只だ「咸其拇」と言う――「拇」は足の大趾で、本身は自主に活動する能わず。初六は下卦艮の起始・全卦の最下位に処し、自ら動作有る所由なく、だから感応は僅僅に脚趾に到達し、これは感応が深からずして浅末に流れるの表れ、それによって「咸其拇」と言います。《小象伝》の「志在外也」は、初六の「応」爻は九四に在り――いわゆる「応」は、初と四・二と五・三と上の三組の爻位の間の一陰一陽の呼応関係を指す――その感応は別人に触れ及ぶ能わず、心志は只だ九四との相応に放たるるのみ、だから心志は外に在りと言います。
六二:咸其腓,凶,居吉。象曰:雖凶居吉,順不害也。
六二の爻辞にいう。感応は腿肚に到達し、凶険有り、安居して位を守れば吉を得ます。《小象伝》にいう。凶険有りと雖も安居して吉を得るは、正道に順従すれば害を受けないからです。
義曰:腓者,拇之上、股之下,躁動之物也。夫感恱之道,根諸至誠可也。今六二居下卦之中,始能離初之拇,不以至誠感人而務在躁動,是不能使天下之人自然而感,如足之腓躁動不常,速凶之道也。居吉者,言六二居中得正,夫能以道自處,不務躁動以求感於人,但居其所,推至誠以及人,則天下之人自然感而歸之,故曰居吉也。象曰雖凶居吉,順不害也者,言六二所感之道雖未能深感人心而有凶,然若以道自處則得其吉,是能順於道而不至有害者也。
胡瑗が解説します。「腓」は腿肚で、位置は脚拇趾の上・大腿の下に在り、身上の最も躁動し易い部位です。感応喜悦の道は、本は至誠に扎根せねばなりません。今、六二は下卦の中位に処し、剛く初六のあの脚趾の層次を脱離し得たが、至誠を用いて人を感動せず、只だ一味に躁動して進を求め、このようでは天下人をして自然然而に感動せしめる能わず、まさに腿肚のように動いて停まらず反復無常で、凶険を招致するの路子です。爻辞はまた「居吉」と言うは、六二は下卦の中に居りてまた位に当たる――これ即ち《周易》の言う所の「中正」、中に居りて偏らず、位に当たりて失わず――若し正道を以て自処し、急いで躁動して人の感応を求めず、只だ本位を安守し、至誠を他人に推及せば、天下人は自然に感動して帰附し、だから安居して吉を得ると言います。《小象伝》の「雖凶居吉、順不害也」は、六二の感応の道はなお人心に深入するに足らず、それによって凶有りと雖も、但し正道を以て自守すれば即ち吉を得、これは能く道理に順従し、それによって害を受けずに至るということです。
九三:咸其股,執其隨,往吝。象曰:咸其股,亦不處也;志在隨人,所執下也。
九三の爻辞にいう。感応は大腿に到達し、持守する所は只だ人に随って動くのみ、このように往けば困頓悔恨有り。《小象伝》にいう。感応が大腿に到るも、また安居自守する能わざるなり。心志を他人に追随するに放てば、持守する所は実に太く卑下なり。
義曰:股者,上體之下、下體之上,隨足而動者也。九三以剛處下卦之上,而應在上六,但志於隨人,故若股之為物,不能自主,足動則動,足止則止,是其志淺末者也。執其隨者,言九三不能以道自處,徒欲觀人之顏色,察人之辭意,以為感恱之道,是所執之志在於隨人而已。以此而往,鄙吝之道,故曰執其隨往吝也。象曰志在隨人,所執下也者,言九三之志止務隨人以求感恱,不能髙尚其為,是所執卑下也。
胡瑗が解説します。「股」は大腿で、上半身の下・下半身の上に処り、脚の移動に跟う部位です。九三は陽剛の爻を以て下卦の最上位に居り、上六と相応すれども、心思は却って只だ他人に追随するに在り、だから大腿のように自主する能わず、脚動けばそれ乃ち動き、脚停まればそれ乃ち停まる、見るべしその志向は浅薄にして末流なり。爻辞の「執其随」は、九三は正道を凭りに自立する能わず、只だ他人の臉色を察し、他人の話意を揣摩せんと欲し、これを以て他人に感応するの手段となす、見るべしその秉持する所の心志は無非人に随って俯仰するなり。このようにして走下去すれば、鄙陋困窘の路子、だから「執其随、往吝」と言います。《小象伝》の「志在随人、所執下也」は、九三の心志は只だ一味に人に随って歓心を得るを知るのみ、自らの作為を高尚の層次に提げ上げる能わず、だからその持守する所は太く卑下なりと言います。
九四:貞吉,悔亡,憧憧往來,朋從爾思。象曰:貞吉悔亡,未感害也;憧憧往來,未光大也。
九四の爻辞にいう。正を守れば吉祥を得、悔恨は消亡す。心神定まらずに来回奔走すれば、只だ自らの同党の者が汝の心思に順って前来り帰附せん。《小象伝》にいう。正を守りて吉を得悔恨消亡すは、行う所の感応がなお為害する地步に到達していないからです。心神定まらずに来回奔走すれば、その道がなお光明広大に足らざるを説明す。
義曰:九四居股之上、處脢之下,心之象也。夫感之道,所利者正。今九四以陽居陰,失其正道,本有悔也;然猶能履尚謙沖,若守之以正,則吉可獲而悔可亡也。憧憧者,往來不絶之貌也。以天下之大、生靈之眾,不可家至戶曉,在聖人推至誠之道、仁義之化以廣洽之,則自然感恱而歸之,是聖人感人之心必在虛己之心也。今九四憧憧然往來,勞苦其思慮而求人之恱,但顧已之私應,不能感於天下,惟已之朋黨則從爾之思慮而歸之,是不能盡感之道也,故曰憧憧往來,朋從爾思也。
胡瑗が解説します。九四の位置は大腿の上・背脊肉の下に在り、まさに心の所在、だから心を取りて象とします。感応の道は、最も利あるは正を守るなり。今、九四は陽爻を以て陰位に居り、当位の正を失い、本来は悔恨有り。但しそれはなお謙虚冲和の態度を践行し得、正を以て之を守れば、吉祥は取得すべく、悔恨もまた消除すべし。「憧憧」は往来絶えず心神揺動のさまを形容す。天下の大・百姓の多を以て、挨家挨戸に説明しに行くこと不可能、聖人は只だ至誠の道を推行し、仁義教化を以て普遍に浸潤せば、人々は自然に感悦して帰附す、見るべし聖人の人心を感動するは、関鍵は自らの心を虚空にするに在り。今、九四は却って心神寧らずに来回奔走し、苦苦として心思を費尽して人の歓喜を討い、眼裏は只だ自らのあの相応する私交を顧るのみ、天下を感動する能わず。只だ自らの朋党の者が汝の心思に順って帰附して来るのみ、これは感応の道を窮め尽くさず、だから「憧憧往来、朋従爾思」と言います。
象曰貞吉悔亡,未感害也者,言能守正得吉,是所感未至於害也。憧憧往來,未光大也者,按《繫辭》曰:天下何思何慮?天下同歸而殊塗,一致而百慮,天下何思何慮?日往則月來,月往則日來,日月相推而明生焉;寒往則暑來,暑往則寒來,寒暑相推而歲成焉。往者屈也,來者伸也,屈伸相感而利生焉。尺蠖之屈,以求信也;龍蛇之蟄,以存身也。精義入神,以致用也;利用安身,以崇徳也。過此以往,未之或知也,窮神知化,徳之盛也。今九四不能虛心以感於人,乃憧憧以求之,是其道未光大也。
《小象伝》の「貞吉悔亡、未感害也」は、能く正を守れば即ち吉を得、見るべしその行う所の感応はまだ禍害を造成する地步に到らずということです。「憧憧往来、未光大也」に至っては、《繫辞伝》の一段の話を参看すべし。天下に何の思慮する可き有らんや。天下万物は殊途にして同帰し、百般の計慮にして理は一に帰す、天下に何の思慮する可き有らんや。太陽落ちれば月亮は即ち升り、月亮落ちれば太陽は即ち升り、日月は互相に推移して光明は生ず。寒去れば暑来たり、暑去れば寒来たり、寒暑は互相に推移して一年は生成す。去るは収縮、来るは伸展、一屈一伸は互相に感応して利益は生ず。尺蠖虫は先ず身を蜷曲するは、以て前に伸展せんがためなり。竜蛇は冬眠蟄伏するは、以て身体を保全せんがためなり。義理を精研して神妙に入るに至るは、以て実際に致用せんがためなり。その道を善用して己身を安頓するは、以て徳性を尊崇せんがためなり。この一層を超出して上れば、則ち人の尽く知る能くする所にあらず。神妙を窮究し変化を洞悉するは、あれは徳性の最も盛大なる境界なり。今、九四は虚心を以て別人を感動する能わず、返って心神寧らず四処に求取す、見るべしその道はなお光明広大に足らず。
九五:咸其脢,無悔。象曰:咸其脢,志末也。
九五の爻辞にいう。感応は背脊上の肉に到達し、悔恨なし。《小象伝》にいう。感応が只だ背脊肉に到るは、その心志が末梢上に停留するを説明す。
義曰:脢者,心之上、口之下。夫居至尊之位,必須謙沖,禮下於臣民,擴仁義之道,使教化行於天下,徳教深被於四海,則天下之人自然感恱於上。今九五以陽居陽,不能禮下於臣民,以尊而自恃,以貴而自驕,不能盡感恱於天下者也。夫以心感物猶未為得,況過於心之上乎?其不盡感之道明矣。無悔者,以其居中得正,處於尊位,猶可以無悔也。象曰咸其脢,志末也者,夫為感之主而不能盡感之道,其存志淺末可知也。
胡瑗が解説します。「脢」は背脊上の肉で、位置は心の上・口の下に在り。身は最も尊貴の位に居る人は、必ず謙虚冲和にして、礼節を以て己を屈して臣下と百姓に対待し、仁義の道を推広し、教化を天下に通行せしめ徳教を深々として四海に覆被せしめ、このようにすれば天下人は自然に心裏より上に在る者に感悦す。今、九五は陽爻を以て陽位に居り、剛上に剛を加え、礼を以て己を屈して臣民に対待するを肯んぜず、地位の尊貴に仗って自負し、身份の顕赫に憑って驕慢し、それによって天下人をして尽く感悦せしむる能わず。心を用いて外物を感動する尚且つ未だ必ずしも為し得ず、ましてその感応する部位はなお心の上方に在り心より離るる遠きをや。それは感応の道を窮め尽くさざる、甚だ明白なり。爻辞の「无悔」は、それは上卦の中に居りてまた位に当たり、身は尊位に処すれば、だからなお悔恨なき能うなり。《小象伝》の「咸其脢、志末也」は、身は一卦の感応の主と為りて、却って感応の道を窮め尽くす能わず、その存心の浅薄末流は亦以て知るべきなり。
上六:咸其輔、頰、舌。象曰:咸其輔、頰、舌,滕口說也。
上六の爻辞にいう。感応は只だ牙床・面頬と舌頭上に在り。《小象伝》にいう。感応が只だ牙床・面頬・舌頭に在るは、過ぎず口舌を鼓動して誇誇其談するのみなり。
義曰:輔者,口輔也。上六處一卦之終,以人體言之,輔頰之象也。言上六不能施仁義至誠之道,自然感恱於天下,徒戚施面柔,以甘言美辭求感於人,是所感在於口輔,故曰咸其輔、頰、舌也。象曰滕口說也者,言不能感人以至誠,但滕口頰以語言求感而已。
胡瑗が解説します。「輔」は即ち口旁の牙床骨なり。上六は全卦の最上・最末に処り、人身を以て比擬すれば、まさに牙床と面頬の部位なり。これは上六が仁義至誠の道を施行し、天下人をして自然に感悦せしむる能わず、只会低声下気・満臉媚色をなして、甜言蜜語を用いて別人の感応を博取するに過ぎず、その感応は僅かに一张の嘴に止まる、だから「咸其輔・頬・舌」と言うなり。《小象伝》の「滕口説也」――「滕」は張揚・放縦の意――は、それは至誠を以て別人を打動する能わず、只会口舌を鼓動し・言語を拿って人の感応を求むるのみなりを言うなり。
恒 巽下震上
恆:亨,無咎,利貞,利有攸往。
《恒》卦。亨通し、過ちなきこと有り、正道を守持するに利し、往くところあるに利し。「恒」は即ち恒久にして変らざるなり。
義曰:《序卦》云:夫婦之道不可不久,故受之以恆。恆,常久也。言男下於女,故能成夫婦之道;夫婦之道既成,則能成家。君下於臣,故能成君臣之道;君臣之道既成,則能成國。國家既成,不可不久,故受之以恆也。然謂之恆者,巽為長女,震為長男,二長相與,故恆久不息以成家也。然咸以二少、恆以二長者,蓋始則所感之道貴於速,故以二少言之;男女既別,夫婦既成,則不可不久,故以長言之,取長久之義,故曰恆也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》に言う。夫婦の相処するの道は長久ならざるべからず、だから《咸》卦の後に接ぐるは《恒》卦なり。「恒」は即ち恒常久遠なり。前一卦は男方が女方の下に屈居するを講じ、だから夫婦の道を成就し得、夫婦の道すでに成立すれば、即ち一箇の家を成就し得。同じく、国君は己を屈して礼を以て臣子に下待し、だから君臣の道を成就し得、君臣の道すでに成立すれば、即ち一箇の国を成就し得。家と国すでに建立せらるれば、長久に維持せざるべからず、だから接ぎ来るは《恒》卦なり。これを「恒」と称するに至っては、下卦巽は長女と為り上卦震は長男と為るがゆえに、二箇の年長の者が結合し、だから能く恒久に息まず家室を成就し得るがゆえなり。《咸》卦は少男少女二箇の年少の者を取り、《恒》卦は長男長女二箇の年長の者を取るは、起初の相感の時は迅速なるを貴ぶがゆえに、年少の者を以て言うなり。男女の名分すでに定まり夫婦すでに成立するに及んでは、長久ならざるべからず、だから改めて年長の者を以て言い、取る所は長久の義、それによって《恒》と呼ぶなり。
亨無咎者,言夫婦之道、君臣之義既皆久而不變以至於亨,既獲其亨,何咎之有。利貞者,夫常久之道所利者貞,久而不貞與不久同也。夫婦既久,欲成一家之事者不可不貞;君臣既久,欲成天下之治亦不可不貞。夫婦君臣無所不正,則常久之道成矣。
卦辞の「亨、无咎」は、夫婦の道・君臣の義が皆能く長久に保持して改変せず、それによって亨通に達するを言うなり。すでに亨通せらるれば、また何の過错あらんや。「利貞」と言うは、恒久の道の最も利あるは正を守るなり。長久にして正を守らざれば、長久なる能わざると同じなり。夫婦の相処すでに長久なれば、一家の事を弁好せんと欲すれば正ならざるべからず。君臣の相処すでに長久なれば、天下の治を成就せんと欲すれば亦正ならざるべからず。夫婦の間・君臣の間に一処として正ならざるなければ、恒久の道は成立すなり。
利有攸往者,言人之所守能至誠不息,執節不變,積日累月,積月成歲,以至終而復始,無有窮已,則無所往而不利。是故為君子,為學能常久而不已,則可至於賢聖;為君臣,為治能常久而不變,則可以施仁義禮樂以化成天下。故行之一身,行之一家,行之一國,以至行之天下,均能不變所守,則其道大成;道既大成,則所往何不利之有。
卦辞の「利有攸往」は、人の持守する所が若し至誠より出でて間断せず、節操を執守して改変せず、日は月を積み月は年を積み、終りて復た始まり窮尽なきに至るまでなれば、則ち何処に至るも不利なきなりと言うなり。だから言う。身は君子たりて、学問を為すこと能く長久に停まらざれば、即ち賢人聖人の境地に達すべし。身は人臣たりて、政事を治理すること能く長久に変らざれば、即ち仁義礼楽を施行して天下を化育すべし。それゆえこの道理は一身に施行し、一家に施行し、一国に施行し、以至天下に施行し、但し皆能く持守する所を改変せざれば、その道は大功告成す。道すでに大成せば、往く所に又何の不利あらんや。
彖曰:恆,久也。剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔皆應,恆。恆亨無咎利貞,久於其道也。天地之道,恆久而不已也。利有攸往,終則有始也。日月得天而能久照,四時變化而能久成,聖人久於其道而天下化成。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣。
《彖伝》にいう。恒は即ち長久なり。剛爻は上に在り柔爻は下に在り、上震は雷と為り下巽は風と為り、雷と風は相互に助長す。下卦巽の卦徳は順、上卦震の卦徳は動、理に順いて行動す。全卦六爻は剛柔両両相応ず――これ即ち《恒》なり。卦辞の「恒、亨、无咎、利貞」は、能く長久に自らの正道を守住するがゆえなり。天地運行の道は、即ち恒久にして停息せざるなり。「利有攸往」と言うは、一段の終結する処はまさに新たな一段の開始なればなり。日月は天に依附し、だから能く長久に照耀す。四時は不断に変化し、だから能く長久に万物を生成す。聖人は長久にその道を守住し、天下は自然に化育成有り。それらの恒守する所を観察すれば、天地万物の実情は看清すべきなり。
義曰:震上為剛,至貴也;巽下為柔,至賤也。貴賤有別,尊卑有序,而常道已成。言之一家,則男正位乎外,女正位乎內;言之一國,則君以尊而位乎上,臣以卑而處其下。內外上下之分定,故國家之道成矣。雷風相與者,夫雷得風則益威,風得雷則愈盛,二者相資,故能助天地生成之功也。以人事言之,則猶夫婦相與而人倫正,君臣相與而教化成,蓋取其相資益而成長久之道也。
胡瑗が解説します。上卦震は剛に属し、最も尊貴の一方を代表す。下卦巽は柔に属し、最も卑下の一方を代表す。貴賤に分別有り尊卑に次序有れば、恒常の道はすでに確立せり。一箇の家に就いて言えば、男子は外に在りて外事の正位を把住し、女子は内に在りて内事の正位を把住す。一箇の国に就いて言えば、国君は尊位を凭りに上に居り、臣子は卑位を以て下に処す。内外上下の名分一旦確定すれば、家国の道は成立す。「雷風相与」に至っては、雷は風の鼓蕩を得て更に威勢有り、風は雷の震動を得て更に強盛なり、両者は互いに憑藉と為す、だから能く天地の万物を生成するの功を輔助す。人事を拿って言えば、譬えば夫婦は相互に扶持して人倫は端正し、君臣は相互に配合して教化は成就す、取る所はまさに彼此に資助増益し、従而長久の道を成就するの意なり。
巽而動者,此解二卦之體也。上體震,震為動;下體巽,巽為順。以巽而動,是猶夫義而婦聽,君義而臣忠,常久不已,以成其道也。剛柔皆應恆者,蓋此卦剛柔皆相應而不失其常,亦猶婦事夫、臣事君,皆常久不易之道也。
「巽而動」この一句は、上下二箇の卦体を解釈するなり。上体は震、震の卦徳は動、下体は巽、巽の卦徳は順なり。道理に順いて行動すれば、譬えば丈夫は義に合し妻子は聴従を肯んじ、国君は義に合し臣子は忠誠を尽くし、長久に断絶せず、従而恒久の道を成就す。「剛柔皆応、恒」は、この一卦は初と四、二と五、三と上、剛柔の六爻は両両相応してその常軌を失わず、亦譬えば妻子の丈夫に事え、臣子の君主に事うるがごとく、皆恒久にして変らざるの道理なり。
恆亨無咎利貞,久於其道也者,此言凡人之作為皆能至誠不息,悠久其道,則得亨、無咎、利貞之三徳也。天地之道,恆久而不已也者,夫天以髙明運行升降,晝夜未嘗休息;地以博厚容載萬物,亦未嘗休息。天地之道,運行容載久而不變,故且髙且大也。利有攸往,終則有始也者,義見前。
《彖伝》の「恒亨无咎利貞、久于其道也」は、凡人の所作所為が若し皆至誠より出でて間断せず、自らの道を悠遠長久に守れば、即ち亨通を獲得し・過错なく・正を守るに利しの三様の徳性を得るを言うなり。「天地之道、恒久而不已也」と言うは、天はその高遠光明を以て運行升降し、昼夜曽て停歇せず、地はその広博深厚を以て万物を承載し、亦曽て停歇せざるがゆえなり。天地の運行と承載は長久にして変らず、だからすでに高く且つ大なり。「利有攸往、終則有始也」に至っては、含義はすでに前の卦辞の解釈に見ゆなり。
日月得天而能久照,四時變化而能久成者,夫日往則月來,月往則日來,日月往來而能臨照天下之物,無論鉅細而皆燭之,蓋由所麗在天,故能久明而無有過差也。天地之大,陰陽之運在於四時,故春以生之,夏以長之,秋以成之,冬以終之,或代或謝,周而復始,故能生育萬物以成歲功,久而不易也。故曰日月得天而能久照,四時變化而能久成矣。
《彖伝》の「日月得天而能久照、四時変化而能久成」。太陽落ちれば月亮は即ち升り、月亮落ちれば太陽は即ち升り、日月は一往一来して能く天下万物に照臨し、巨細を論わず皆照らし到るは、これそれらの依附する所は天なれば、だから能く長久に光明にして毫も差錯なきなり。天地このように広大にして、陰陽の気の運転は即ち四時の中に体現せらる。春天はそれを生発し、夏天はそれを長養し、秋天はそれを成熟せしめ、冬天はそれを収蔵終結せしめ、一箇が一箇に接替し一箇が一箇に凋謝し、周而復始し、だから能く万物を生育し一年の功用を完成し、長久にして改変せざるなり。それゆえ言う、日月は天に依附するがゆえに能く久照し、四時は不断に変化するがゆえに能く久成すと。
聖人久於其道而天下化成者,夫天地至大,日月運焉,四時行焉,久而不變,故照臨四方,生育萬物,久而不易,無有窮已也。聖人有天下之大,居天下之尊,發政施仁,亦必久於其道,然後賞罰有常,號令有信,天下之人莫不仰而歸之,以成其風化,故曰聖人久於其道而天下化成也。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣者,夫日月臨照,四時變化,萬物代謝,皆久於其道,無有窮已,則天地萬物之情常久而可見。
《彖伝》の「聖人久于其道而天下化成」。天地は至为广大、日月はその中に運行し、四時はその中に推移し、長久にして改変せず、だから能く四方に照臨し・万物を生育し、歴久にして易えず窮尽なきなり。聖人は天下の大を擁有し身は天下の至尊の位に居り、政令を発布し仁徳を施行すれども、亦必ず長久に自らの道を守住して、後に賞罰は乃ち常規有り号令は乃ち信用有り、天下人は無くして仰慕して彼に帰附し、従而一代の風俗教化を成就す、だから聖人は長久にその道を守って天下化育成有りと言うなり。「観其所恒、而天地万物之情可見矣」に至っては、日月の照臨・四時の変化・万物の新陳代謝は、皆長久に各々の常道を守りて窮尽なし、ならば天地万物の恒常にして変らざるの実情は、亦即ちこれによって見るべきなり。
象曰:雷風,恆。君子以立不易方。
《大象伝》にいう。雷と風は相薄く相助く、これ《恒》卦の象なり。君子はこれに取法し、一旦自らの立身の道を確立すれば方向を改変せざるなり。「方」は此処では遵循する所の道を指すなり。
義曰:震陽為雷,巽陰為風,陰陽相合,雷風相資,生成萬物,久而不已,以成其道也。故君子觀雷風之象,所作所為由中而不易其道,故能常久而成天下之治,行天下之道,無施而不可。方猶道也,言其所立不離於道也。
胡瑗が解説します。震は陽に属し、雷を象徴す。巽は陰に属し、風を象徴す。陰陽は彼此に契合し、雷風は互相に憑藉し、万物を生成し、長久に停まらず、従而それらの道を成就す。だから君子は雷風の象を観察し、一切の作為は皆内心の中道より出でて原則を改易せず、それによって能く長久に堅持し、天下の治理を成就し天下の大道を推行し、施用する所に至れば何処に至るも行き通るなり。「方」は即ち道の意、君子の確立する所の立身の処は道を離れざるを言うなり。
初六:浚恆,貞凶,無攸利。象曰:浚恆之凶,始求深也。
初六の爻辞にいう。始めより深く恒久の効を挖求すれば、便ち正を守るも凶険有り、何の利益もなし。《小象伝》にいう。深く恒久を求むるの凶有る所以は、剛く歩を起こすの時に於いて求むること深きに過ぐればなり。
義曰:浚,深也。天下之事必皆有漸,在乎積日累久而後能成其功。是故為學既久,則道業可成,聖賢可到;為治既久,則教化可行,堯舜可至;為朋友既久,則契合愈深;為君臣既久,則諫從言聽而膏澤下於民。若是之類,莫不由積日累久而後至,固非驟而及也。
胡瑗が解説します。「浚」は深く挖り深く求むるの意なり。天下の事情には皆一箇の漸進の過程有り、全て日積月累に在りて、後に乃ちその功效を成就すべし。だから学問を為すの日子久しければ、道徳学业は成就すべく、聖賢の境地は到達すべし。政事を治理するの日子久しければ、教化は推行すべく、堯舜の治は企及すべし。朋友を交わるの日子久しければ、情意は越々発りて投合す。君臣の相処するの日子久しければ、進諫は採納を得・言語は聴従を得、恩沢は即ち百姓の身上に下達し得。これらの類は、無くして日積月累に憑りて到達せざるなし、本来は一下子に弁到する能くするにあらず。
今此初六居下卦之初,為事之始,責其長久之道、永逺之效,是猶為學之始欲亟至於周孔,為治之始欲化及於堯舜,為朋友之始欲契合之深,為君臣之始欲道之大行,是不能積久其事而求常道之深,故於貞正之道見其凶也。無攸利者,言居事之始欲深於常道,以此而往必無所利,孔子曰欲速則不達是也。
今、初六は下卦の最初・事情の開端に処しながら、却って馬上に恒久の道を拿出し長遠の効を見んことを求む。これは譬えば剛く読書を開始すれば即ち立刻に周公・孔子に赶がんと欲し、剛く政を理するを開始すれば即ち立刻に堯舜の地步に教化せんと欲し、剛く朋友を結交すれば即ち情投意合して極深に至らんと欲し、剛く臣子を為れば即ち自らの主張を全面に推行せしめんと欲するがごとし――これは事情を長久に積累せしむるを肯んぜず、返って一上来すれば即ち深く恒常の道を求むるなり。だから便ち正を守るの道上に在りても凶を顕出すなり。爻辞の「无攸利」は、事情の開端に処して即ち恒久の道を求めて極深に至らんと欲するに言うに言うなり。このようにして走下去すれば必ず何の好処もなし、孔子の「欲速則不達」は、まさにこの意なり。
九二:悔亡。象曰:九二悔亡,能久中也。
九二の爻辞にいう。悔恨は消えます。《小象伝》にいう。九二の悔恨が消える所以は、それが長久に中道を守住できるからです。
義曰:夫天下之道得其大中,則萬世所不能變易。今九二以陽居陰,是失正而本有悔也;然以居下卦之中,其所行無過無不及,使賢者可俯就之,不肖者可企及之,如此是得天下之常道而萬世所矜式也,又何悔之不亡。象曰九二悔亡,能久中也者,言九二以陽剛之徳而能居下卦之中,是久於中道而無所變易,故悔亡也。
胡瑗が解説します。天下の道理は大中至正に合すれば、千秋万代も改易できないものです。今、九二は陽爻を以て陰位に居り、本は当位の正を失って悔いあるべきですが、しかし下卦の中位に処し、行事は過ぎることなく及ばないこともなく、賢能の者は身を俯せて就き来ることができ、不才の者も踵を上げて企及することができます。これで天下の恒常の道を得、万世も取法すべき準則となり、何の悔恨が消えないことがありましょうか。《小象伝》の「九二悔亡、能久中也」は、九二が陽剛の徳性を凭りに下卦の中に居ることができ、長久に中道を守って毫も動揺しないので、悔恨が消えるということです。
九三:不恆其徳,或承之羞,貞吝。象曰:不恆其徳,無所容也。
九三の爻辞にいう。恒久に自らの徳行を保持できなければ、羞辱を招くことがあり、たとい正を守っても困窘を免れません。《小象伝》にいう。恒久に徳行を保持できなければ、どこへ行っても容身する所がありません。
義曰:夫尊卑貴賤、內外上下不失其本分,則可以為常久之道。今九三居上六柔弱之下,是卑者先於尊、賤者先於貴,不常之人也。或承之羞者,言尊不尊、卑不卑,內外混淆,貴賤汨亂,此則羞辱之事隨之也。貞吝者,言徳既無常,其於永久貞正之道誠足鄙吝也。象曰不恆其徳,無所容也者,言九三既失其常久之道,則所往皆不容也。故孔子曰:人而無恆,不可以作巫醫。巫醫鄙賤之徒也,其無常徳者尚不可為,況其它乎?是則於所處固無容也。
胡瑗が解説します。尊卑貴賤・内外上下が各々その本分を失わないこと、はじめて恒久の道と成れます。今、九三は上六この柔弱の爻の下に居り、卑者が尊者の前に抢え、賤者が貴者の前に抢える、反復無常の人に属します。爻辞の「或承之羞」は、尊者が尊者らしくなく卑者が卑者らしくなく、内外は混雑し貴賤は錯乱し、羞辱の事は自然に随って来るということです。「貞吝」と言うのは、徳行がすでに反復無常である以上、あの恒久貞正の道に照らせば、実に鄙陋可羞です。《小象伝》の「不恒其徳、无所容也」は、九三がすでに恒久の道を丟掉した以上、どこへ行っても容納されないということです。だから孔子は言いました。人はもし恒心がなければ、巫医をも為ることができないと。巫医はもと低賤の行当で、恒常の徳行のない人が尚且つ為ることができないのに、まして別の事においてをや。見るべし、この種の人は自らの処する位置上において本より容身する術がありません。
九四:田無禽。象曰:久非其位,安得禽也。
九四の爻辞にいう。田猟するも獲物を打ち得ません。《小象伝》にいう。長久に自らの位にあらざるに処すれば、どうして獲物を得られましょうか。
義曰:田,獵也。凡禽獸可擒者,通謂之禽。夫常久之道必本於中正,今九四以陽居陰,是不正也;位不及中,是不中也。不中不正,不常之人也。以不常之人而居大臣之位,是無徳忝位者也。至於為治,則教化不能行;至於撫民,則膏澤不能下,是猶田獵而無禽可獲也。象曰久非其位,安得禽也者,言九四於常久之時處非其位,猶田獵而無禽,必無所得也。
胡瑗が解説します。「田」はすなわち打猟です。凡そ捕獲すべき禽獣は通じて「禽」と称します。恒久の道は必ず中正を以て根本とします。今、九四は陽爻を以て陰位に居り、位に当たらず、だから正ならず。その位次はまた上卦の中位に在らず、だから中ならず。中にあらず正にあらずして、まさに反復無常の人です。このような反復無常の人に大臣の位を占拠させるは、すなわち徳なくしてその位を窃拠するなり。政事を治理するに至っては、教化は推行できず、百姓を安撫するに至っては、恩沢もまた下達できません。これはまさに出かけて打猟するも一無所獲のごとし。《小象伝》の「久非其位、安得禽也」は、九四が恒久を講求するの時に於いて長久に占うべからざるの位置を占うるを言い、田猟して獲物なきがごとく、必ず一無所得なり。
六五:恆其徳,貞。婦人吉,夫子凶。象曰:婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。
六五の爻辞にいう。恒久に自らの徳行を保持し、固守して変えず。これは婦人にとっては吉、男子にとっては凶です。《小象伝》にいう。婦人が固守して吉を得るは、彼女が一に従って終えるからです。男子は当に義に依りて事情を裁断すべく、もし婦人のように一味に順従すれば凶険有り。
義曰:貞,貞固也。《文言》曰:貞固足以幹事,是也。夫為天子之尊,有四海之廣,民物之繁,必使仁義教化流於天下,不可執一道、守一方,必也臨事制宜,隨時應變,則無施不可也。今六五居至尊之位,以柔弱不正之資,私一已之應,是固執常徳,不使流通於天下也。
胡瑗が解説します。「貞」は此処では堅固守持の意で、《乾卦・文言伝》に「貞固足以幹事」と言うは、まさにこれを講じます。身は天子の尊を為り、四海の広・百姓万物の繁多を擁有するに、必ず仁義教化を天下に流布せしめ、死守して一種の弁法・固執して一つの方向に偏してはならず、一定して事に臨みて合宜なる処置を拿捏し、時勢に随って霊活に応変してこそ、何処にも施行すべく。今、六五は身は至尊の位に居りながら、柔弱不正の資質を凭りに、偏私して只だ自らと相応するあの一爻を顧るのみ、これは死に一成不変の徳行を抱き、それを天下に流通せしめるを肯んぜざるなり。
婦人吉,夫子凶者,婦人處閨門之內,守一而已可也;夫子處閨門之外,則必臨事應變,大有所為可也。今六五執守一徳,不能大有所為,但繫私應,是以此道施之婦人則吉,而施之夫子則凶也。象曰夫子制義,從婦凶也者,婦人之事,固執其正,繫於一人則吉也;夫子則當制義,而不可泥於一也。若夫子從婦人之道,不能以義制事,則凶之道也。夫以夫子不能制義尚以為凶,況尊為天子、有四海之大者乎?凶可知也。
爻辞の「婦人吉、夫子凶」。婦人は身は内室の中に処し、只だ専一の節を守れば足るなり。男子は身は門戸の外に処し、必ず事に臨みて応変し、大有作為せねばなりません。今、六五は死に一成不変の徳行を守り、大有作為する能わず、只だ自らと私に相呼応するあの一爻に牽繋するのみ、だからこの做法を婦人の身上に用いれば吉、男子の身上に用いれば則ち凶なり。《小象伝》の「夫子制義、従婦凶也」は、婦人の事は、その正を堅守し一人に専繋すれば即ち吉、男子は則ち当に義に依りて裁断し、一端に拘泥すべからず。もし男子が婦人の路数を照搬し、義を用いて事情を処置する能わざれば、則ち取凶の道なり。一箇の普通の男子が義に依りて裁断する能わざる尚かつ凶と算す、まして尊として天子・四海の大を坐擁する人においてをや。凶険は知り得べきなり。
上六:振恆,凶。象曰:振恆在上,大無功也。
上六の爻辞にいう。躁動して已まず恒久を求むれば、凶険有り。《小象伝》にいう。身は最上位に在りてなおこのように躁動して恒を求むは、終に何の功效も有らざらん。
義曰:振,動也。謂君子可動則動,可進則進,可靜則靜,可退則退,動靜進退皆不失正,則聖人之道畢矣。今上六處恆之上,居震之極,是深求妄動之人也。以深求妄動,必不明進退動靜之理,若以此而往,凶之道也。象曰振恆在上,大無功也者,言動靜既不適時,而進退失常,於道既凶,又何功之有。
胡瑗が解説します。「振」は即ち動なり。君子は動くべき時に動き、進むべき時に進み、静かなるべき時に静かにし、退くべき時に退き、動静進退に皆その正を失わざれば、聖人の道は亦完備するなりと言うなり。今、上六は《恒》卦の最上位に処し、また上卦震動の極に居り、まさに一味に深求して妄動する人なり。すでに深求妄動せば、必ず進退動静の道理を明白にせず、このようにして走下去すれば、即ち取凶の道なり。《小象伝》の「振恒在上、大无功也」は、動と静がすでに時宜に合せず、進と退がまた常軌を失せば、道理の上においてすでに凶なり、また何の功效を談ずべきあらんや。
遯 艮下乾上
遯:亨,小利貞。
《遯》卦。亨通し、稍稍として正道を守持するに利し。「遯」は「遁」に同じ、即ち退避隠遁なり。
義曰:按《序卦》云:物不可以久居其所,故受之以遯。遯者,退也。言天時人事,盛久必衰,進久必退,存久必亡,自然之理也。此卦所以名遯者,蓋二陰浸長,進得其位,以剝群陽,是小人道長、君子道消之時也。故君子當此之時,則晦跡潛光,懐仁卷義,以道自容,不使小人得窺其所為,所謂遯也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》に言う。事物は長久に原処に停留する能わず、だから《恒》卦の後に接ぐるは《遯》卦なり。「遯」は即ち退避なり。これは天時と人事に言うに、興盛久しければ必然に衰落し、前進久しければ必然に後退し、存続久しければ必然に消亡す、これ自然の理なり。この一卦の《遯》と称する所以は、下の二箇の陰爻が漸次生長して、進んで下卦の位置を占住し、上の衆陽爻を侵剥し始む、まさに小人の道は日に盛ん君子の道は日に消ゆるの時なればなり。だから君子はこの種の時に処して、行跡を隠蔵し光芒を収斂し、仁を心裏に懐き義を卷蔵し、道を凭りに自ら安頓し、小人に自らの作為を窺見せしめざる、これを退避と呼ぶなり。
遯亨者,由遯而後亨也。夫君子時有通塞,道無損益,故孟子曰:雖大行不加焉,雖窮居不損焉,分定故也。是君子所得在內,所志在道,道充乎內則無所不通。得其位則行道於天下,非其時則修身見乎世,故遯之時必晦跡潛光,以逺小人之害,則已之道自得其亨通也。
卦辞の「遯、亨」は、先ず退避して後に亨通を得るがゆえなり。君子の時運には通有り塞有れども、彼の道はこれによって増減せず、だから《孟子》に言う。たとい大道が天下に通行するも、君子はこれによって何かを增添せず、たとい窮居陋巷するも、これによって何かを減損せず――本分はすでに早く定まれるがゆえなり。見るべし、君子の得る所は内心に在り、志向する所は道に在り、道は内心に充実すれば、行き通らざるなきなり。合適なる地位に遇えば即ち道を天下に推行し、その時に逢わざれば即ち自身を修養して世に立身す。だから退避の時に於いては、必ず行跡を隠蔵し光芒を収斂し、以て小人の加害を遠離せば、このように自らの道は自然に亨通するなり。
小利貞者,夫《否》之卦三陽在上,三陰浸長於下,君臣隔絶之時,故卦辭言否之匪人,不利君子貞。《剝》之卦五陰盛長,一陽在上,故曰勿用有攸往。是否、剝之時全不可以有用。至此遯,二陰在下,四陽在上,君子之道猶小可行,故曰小利貞。
卦辞の「小利貞」。《否》卦は三箇の陽爻は上に在り三箇の陰爻は下に在りて漸次生長す、まさに君臣隔絶して通して通ぜざるの時、だからその卦辞に「否之匪人、不利君子貞」と言い、《剥》卦は五箇の陰爻は盛長し只だ一箇の陽爻を最上に残す、だから「勿用有攸往」と言うなり。見るべし、《否》《剥》のごとき時に処しては、完全に有する所為すべからず。この《遯》卦に至っては、只だ二箇の陰爻が下に在り、なお四箇の陽爻が上に在り、君子の道は多少なお行き通る一点有り、だから「小利貞」と言う、即ち稍稍正を守るに利し。
彖曰:遯亨,遯而亨也。剛當位而應,與時行也。小利貞,浸而長也。遯之時義大矣哉!
《彖伝》にいう。《遯》卦の亨通するは、退避して後に亨通するがゆえなり。九五この剛爻は尊位に居りて位に当たり、また六二と相応じ、時勢に随って行動し得るなり。「小利貞」と言うは、陰気がまさに漸次生長するがゆえなり。退避の時の含む所の時機と義理は、実に太く重大なりや。
義曰:遯而亨也者,言因遯而得亨也。剛當位而應,與時行也者,剛謂九五也,應謂六二也。九五以陽居中,是剛明中正之君子,然而下應於六二之小人者,蓋君子之道無固無必,可遯則遯。此六二之為小人,然能以中順之道附結於已,不須遯也,故與之應。是君子之心通變,能與天時俱行,故可止則止,可行則行。若仲尼皇皇於衰周,孟子歴遊於戰國,是皆欲已道之行,故小人有能以道附結於已者亦不拒也。
胡瑗が解説します。「遯而亨也」は、退避するがゆえに亨通を得るを言うなり。「剛当位而応、与時行也」のうち、「剛」は九五を指し、「応」は六二を指すなり。九五は陽爻を以て上卦中位に居り、剛健明達・中正不偏の君子なり。それは却って下に向かって六二この陰爻と相応ずるは、君子の道は固執せず武断せず、退避すべき時に乃ち退避するがゆえなり。六二は小人の類に属すと雖も、但し中正柔順の態度を用いて己に依附結交し来る能くすれば、則ち退避するに及ばず、だからそれと相応ず。見るべし、君子の心思は能く権に通じ変に達し、能く天時と一同に行動し、それによって停まるべきに停まり行くべきに行くなり。孔子が衰乱の周末に奔走して息まざり、孟子が戦国の各地に周游して用を求めたるがごとく、皆自らの道の能く推行せんを希望するなり。だからそれらの正当なる方式を肯んじて己に依附結交し来る小人に対しても、亦一概に拒絶せざるなり。
小利貞,浸而長也者,言君子所以不得大有為於世,而惟小利於貞者,蓋以下之群陰浸長而小人之黨漸盛也。遯之時義大矣哉者,遯之道,不可遯而遯,則道不可行;可遯而不遯,則必罹小人之害。是必隨時適變,可遯而遯可也。惟明智之人為能居之,其時義至大,故先聖重嘆美之。
「小利貞、浸而長也」は、君子の世に於いて大有作為する能わず只だ稍稍正を守るに利する所以は、下面のそれらの陰爻がまさに漸次生長し、小人の党羽が日に漸く興盛なるがゆえなりと言うなり。「遯之時義大矣哉」は、退避の道に言う。退避すべからざるに退避すれば、自らの道は推行する術なく、退避すべきに退避せざれば、必ず小人の加害を遭受す。だから必ず時勢に随って変通し、退避すべき時に乃ち退避す。明智の人のみが処置を当に得る能く、こ中間の時機と義理は極めて重大なり、だから先聖は一再これを讃嘆す。
象曰:天下有山,遯。君子以逺小人,不惡而嚴。
《大象伝》にいう。天の下に山有り、山は高峻と雖も終に天を凌駕する能わず、これ《遯》卦の象なり。君子はこれに取法して小人を遠離す。疾言厲色を用いて彼らを憎悪せず、自身は却って自然に一種の人をして侵犯を敢えてせしめざるの威厳を保有す。
義曰:乾上,天也;艮下,山也。山雖髙峻,亦不能陵於天,故假象得遯之義也,猶君子逺遯,小人不能加害也。夫君子之道得行,則小人必見誅逐放斥而不得行於朝廷之上;苟君子之道不得行,則必逺避小人而全身逺害也。然今居遯之時,若漠然無畏而以嚴厲加於小人而欲亟斥之,則必反罹害於己。雖然,亦不可枉尺直尋,依違苟從以求自免,但不加害於小人,常使已自有威嚴,使小人不敢侵害於已可也。
胡瑗が解説します。上卦乾は天、下卦艮は山なり。山は再高峻たりとも、天の上に凌駕する能わず、だからこの卦象を借りて退避の含義を取る、譬えば君子が遠々しく退避すれば、小人は便ち加害する由なきがごとし。君子の道の能く推行する時は、小人は必然に誅除・放逐・斥退せられ、朝廷上に於いて勢を得る能わず。一旦君子の道の行き通らざれば、必ず遠々しく小人を避け、自身を保全して禍害を遠離せねばならず。しかし退避の時に処して、若し毫も戒懼なく、一味に厳厲の手段を用いて小人に対付し、立刻に彼らを赶走せんと欲すれば、返って必ず自らに禍害を招くなり。話は雖も然り、亦尺を委屈して八尺の伸展を求むる能わず、含糊敷衍・苟且順従に憑りて自保を求むる能わず。只だ主动去りて小人を加害せざるを要し、同時に始終として自らに一份の威厳を保有せしめ、小人をして敢えて己を侵害せしめざれば、これ足るなり。
初六:遯尾,厲,勿用有攸往。象曰:遯尾之厲,不往何災也。
初六の爻辞にいう。退避する時に最後に落ちた、危険有り、往くところあるに宜しからず。《小象伝》にいう。最後に落ちて退避するの危険、只だ再び前に往かざれば、又何の災禍あらんや。
義曰:遯之時貴於先也。尾者,處於後也。凡卦以上體為外,以下體為內。今此卦二陰在內,小人得位而君子在野之象也。初六處卦之內,最居卦下,是眾賢皆遯而已獨在後,是不能先時而遯,至此始欲亟逺小人,則必反為小人之所制,是有危厲也。勿用有攸往也者,言當是時,惟宜依違自守,危行言孫,檢身修已,以逺小人之害可也,故聖人於此戒之。象曰遯尾之厲,不往何災也者,言既居遯之後,有危厲之事,果能依違自守,不復更有所往,何災之及也。
胡瑗が解説します。退避の時は、先んずるを貴ぶなり。「尾」は即ち後頭に落ちるなり。凡そ一卦は、皆上体を以て外と為し下体を以て内と為す。この一卦は二箇の陰爻は内卦に在り、まさに小人が位を得て君子は在野の象なり。初六は内卦に処し、また全卦の最下に居り、衆賢人が皆すでに退避して唯だ自ら最後に落ちたに等しく、すでに早めに退避する能わざれば、この時に至りて乃ち急いで小人を遠離せんと欲すれども、返って必ず小人に挟制せらる、だから危険有りなり。爻辞の「勿用有攸往」は、この種の時に於いては、只だ含蓄自守に適し、行事を端正にし言語を謙遜にし、自身を検点し自らを修養し、以て小人の加害を遠離すれば、だから聖人は此処に於いて告誡を加うなり。《小象伝》の「遯尾之厲、不往何災也」は、すでに退避の後面に落ちた以上、本より危厲の事有りと雖も、但し真に能く含蓄自守し再び行動有ることなければ、又何の災禍の降臨せんや。
六二:執之用黃牛之革,莫之勝說。象曰:執用黃牛,固志也。
六二の爻辞にいう。黄牛の皮の製する繩索を用いて彼を捆り住めば、誰も挣脱する法なし。《小象伝》にいう。黄牛の皮を用いて捆縛するは、以て彼の心志を堅定せんがためなり。「説」は此処では「脱」に通じ、即ち挣脱なり。
義曰:黃者,中也;牛者,柔順之物也。六二雖居群陽之中,在小人之黨,然居中履正,有中正柔順之徳,達於事理,以上有剛明中正君子為己之應,故已用此中正柔順之道往固執之,不使逺遯於已,故曰執之用黃牛也。
胡瑗が解説します。「黄」は五色の中にして、中道を象徴す。「牛」は性情柔順の牲畜なり。六二は身は衆陽の間に処し小人の一党に属すと雖も、却って下卦中位に居りてまた位に当たり、中正柔順の徳性を具備し事理に通達す。これに加えて上に九五この剛健明達・中正不偏の君子有りて自らと相応ずれば、だからそれはこの中正柔順の態度を用いて相手を挽留し、相手をして遠々しく自らを避けしめず、それによって「執之用黄牛」と言うなり。
莫之勝說者,夫賢人君子於道無所固必,但以仁義為心而已。今已能以中順之道往固執之,則九五以何辭勝辯而可遯哉?然此句上之革二字乃羨文也。《革》之初有鞏用黃牛之革,故此誤有之也,推求無義可通。注謂革者固也,此臆為之說爾。象曰執用黃牛,固志也者,言用大中正順之道,使賢者不逺於己,所以固賢者之志也。
「莫之勝説」は、賢人君子は出処進退に対して己見を固執せず、只だ仁義を以て心を存するのみなりと言うなり。今、六二は中正柔順の態度を用いて挽留し得れば、九五はなお何の話を拿って弁駁し、なおどうして退避し得られんや。但し胡瑗は以為す、この一句の上面の「之革」の二箇の字は多出の衍文で、爻辞は本は「執之用黄牛」と作るべし。《革》卦の初九に「鞏用黄牛之革」の一句有り、此処は大抵それの影響を受けて誤加せられたるならん、文義に就きて推求するも講通せず。旧注は「革」を「固」と解するも、あれは過ぎず空に造り出したる説法のみなり。《小象伝》の「執用黄牛、固志也」は、大中至正・柔順不違の態度を用いて、賢者をして自らを遠離せんと肯んぜしめ、従而賢者の出仕行道の心志を堅定するを言うなり。
九三:係遯,有疾厲,畜臣妾吉。象曰:係遯之厲,有疾憊也;畜臣妾吉,不可大事也。
九三の爻辞にいう。退避する時に牽繋せられ、疾患危険有り。それを用いて奴僕婢妾を畜養すれば則ち吉なり。《小象伝》にいう。退避に牽繋を受くるの危険は、病有りて困頓疲憊なり。奴僕婢妾を畜養して吉を得る能くと雖も、却って以て大事を弁ずべからず。
義曰:為遯之道,在乎逺去小人則吉。今九三居內卦之上,切比六二之陰,不能超然逺遯,是有繫於小人也。有疾厲者,夫小人之心常以疾君子為心,而又畏君子之刑戮,故一得其志則首欲害之。今九三既為六二所繫而不能逺去,是有疾病而危厲者也。
胡瑗が解説します。退避の道は、小人を遠離して乃ち吉を得るに在り。今、九三は内卦の最上位に居り、六二この陰爻に緊く挨る――上下相隣の両爻の関係を「比」と呼び、其中下爻の上爻を托奉するを「承」と言い上爻の下爻を凌圧するを「乗」と言い、合して「承乗」と称す――それによって超然として遠避する能わず、これ即ち小人に牽繋せられたるなり。爻辞の「有疾厲」。小人の心裏は常に君子を憎恨するの念頭を存し、同時にまた君子の彼に対して刑罰誅戮を施加せんを害怕し、だから一旦志を得れば、頭一件の事は即ち君子を加害するなり。今、九三はすでに六二に牽繋せられて遠離する能わず、まさに身に疾患を有し処境危険なり。
畜臣妾吉者,言九三既不能逺小人而不可逺遯,然後以畜群小臣妾之道即得其吉。蓋臣妾至賤者也,可以逺則逺之,可以近則近之,如此則吉可獲也。象曰畜臣妾吉,不可大事也者,言九三雖以臣妾而畜群小人而獲吉,然但施於此事則可也;如其立天下之大道,臨天下之大事,則不可以有與也。
爻辞の「畜臣妾吉」は、九三すでに小人を遠離する能わずまた遠々しく退避する法なければ、則ち一歩を退き、奴僕婢妾を畜養するがごとき弁法を用いてこの群の小人に対待せば、乃ち吉を得べしと言うなり。奴僕婢妾は最も低賤、疏遠すべくすれば疏遠し親近すべき時に乃ち親近し、このようにすれば吉祥は取得すべきなり。《小象伝》の「畜臣妾吉、不可大事也」は、九三は小人を奴婢として豢養に倚って吉を獲ると雖も、但しこの弁法は只だこの類の小事上に用いうるのみ、天下の大道を確立し・天下の大事を担当するに至っては、それに倚りて参与する能わずを言うなり。
九四:好遯,君子吉,小人否。象曰:君子好遯,小人否也。
九四の爻辞にいう。心裏に退避を楽しむ、君子はこのようにすれば吉、小人は却って為る能わず。《小象伝》にいう。君子は能く退避を楽しむ、小人は則ち能わず。
義曰:好者,中心之所欲也。九四處外卦之初,離內卦之陰,當此之際,志欲遯而難制,奮然而好遯者也。蓋君子之人以君民為心,得其位則可以致君澤民,躋天下於平治;若其小人道長、不可有為之時,則必知幾達理,不為世俗所誘,不為貧賤所動,超然逺遯以避其難而須其時也。
胡瑗が解説します。「好」は心の底より発する願望なり。九四は外卦の起頭に処し、すでに内卦のあの二箇の陰爻を脱離せり、正にこの時に当たり、退避の意願は強烈にして按捺する能わず、奮然として退避を楽しむ人なり。君子の心裏に装する所は輔君安民なり。相応する位置を得れば、即ち君主を輔佐し百姓に沢を施し、天下を太平の軌道に推上すべし。一旦小人の道の日に盛ん・有する所為能わざるの時に碰上せば、必ず能く幾微を察覚し事理を通達し、世俗風気に引誘せられず、貧賤処境に動揺せられず、超然として遠々しく退避して禍難を躱開し、静待して時機の到来を俟つなり。
是以《乾》之《文言》曰:遯世無悶。《中庸》曰:君子之道費而隠。故小人則不然,惟富貴是欲,惟貧賤是恥,不知廉隅,不顧禮義,苟一失位,則蹙然溢於面目而不能自勝。故《太玄》充之首曰:君子得位則昌,失位則良;小人得位則橫,失位則喪。當此之時,小人必不能遯,故曰君子吉,小人否也。
だから《乾卦・文言伝》に「遯世无悶」と言うは、世を避けて隠居して心中煩悶せざるを指し、《中庸》に「君子之道費而隠」と言うは、君子の道は広大にしてまた深藏して露われざるを指すなり。小人は則ちこのようにはあらず。一心に富貴を想うのみ、一味に貧賤を以て恥と為し、廉恥棱角を知らず、礼義分寸を顧みず、一旦官位を失去すれば、あの副の局促難堪の神色は臉上に写満し、自らも控制する能わず。だから揚雄の《太玄》の「充」の首に言う。君子は位を得れば昌盛し、位を失うも依然として賢良なり。小人は位を得れば驕横し、位を失えば頽喪す。退避の時に処して、小人は必ず退避する能わず、だから君子は吉・小人は行わざると言うなり。
九五:嘉遯,貞吉。象曰:嘉遯貞吉,以正志也。
九五の爻辞にいう。美善の方式を以て退避し、正を守りて吉を得る。《小象伝》にいう。美善の退避・正を守りて吉を得るは、これを借りて相手の心志を端正したがゆえなり。
義曰:君子之道,毋固毋必,彼能以善加於己,己志可通,己道可行,斯受之矣。今九五下應於二,二雖在小人之中,然能以中順之道來固於己,己則從之;若小人虧於中順,己可超然而遯也。如此者,蓋君子知時達變,可行則行,可止則止,以嘉美之道而遯者也。
胡瑗が解説します。君子の世を処るは固執せず武断せず。相手が若し善意を拿って己に対待し、己の志向を通達せしめ・己の道を推行せしめ得れば、則ち彼を接受す。今、九五は下に向かって六二と相応じ、六二は身は小人の列に在りと雖も、却って中正柔順の態度を用いて己を挽留し来る能くすれば、己は即ちそれに順従す。もし相手が中正柔順の上に於いて亏欠有らば、己は便ち超然として退避すべし。能くこのように為し得るは、君子は時勢を知暁し権変を通達し、行くべきに行き止まるべきに止まれば、これは美善の道を用いて退避を処理する人なり。
貞吉者,言五既應於二,二雖以中順之道固於己,然亦不可屈己之貞,戚施面柔以恱小人,當執至正之道,然後可以獲吉也。象曰嘉遯貞吉,以正志也者,言二以中順之道來固於五,五必以貞之道待於二者,所以正二之志也。
爻辞の「貞吉」は、九五すでに六二と相応ずれば、六二は中正柔順の態度を用いて己を挽留すと雖も、己もまた正を守るの節を委屈して、低声下気・諂媚陪笑して小人に討好してはならず、当に最も正当なる道を執守して、後に乃ち吉祥を獲得すべしと言うなり。《小象伝》の「嘉遯貞吉、以正志也」は、六二が中正柔順の態度を用いて九五を挽留し来るに、九五は必ず正を守るの道を用いて六二に対待して、為す所はまさに六二の心志を端正するに在りと言うなり。
上九:肥遯,無不利。象曰:肥遯無不利,無所疑也。
上九の爻辞にいう。寛裕従容として退避す、不利なきことなし。《小象伝》にいう。従容として退避して不利なきことなきは、心中に毫も遅疑顧慮なければなり。
義曰:肥遯者,優饒充裕之謂也。上九處一卦之上,是超然逺遯,不應繫於小人,其憂患不能累於己,綽綽然有餘裕,凡往而無所不利,又何疑之有。
胡瑗が解説します。いわゆる「肥遯」は、寛綽にして余裕有り従容として迫らざるのさまを指すなり。上九は全卦の最上位に処し、能く超然として遠避し、小人に牽繋せられずに至らず、憂患もまた自らを拖累するに及らず、寛々綽々として余る所を留め、何処に至るも不利なく、又何の疑慮すべきあらんや。
大壮 乾下震上
大壯:利貞。
《大壮》卦。正道を守持するに利し。「大壮」は陽剛の盛大にして強壮なるを指す。
義曰:按《序卦》云:物不可以終遯,故受之以大壯。蓋言遯者,二陰浸長於內,四陽陵剝於外,是小人道長、君子道消也。然小人之道雖長,終不能久,而必為君子之所剝,此大壯所以次於遯也。大壯者,二月仲春之時,四陽長於內,二陰消於外,君子道長、小人道消也。君子之道既長,則能興天下之治,除天下之害,生育天下之民物,以至其道大行而盛壯也,故曰大壯。
胡瑗が解説します。《序卦伝》に言う。事物は永遠に退避の状態に処する能わず、だから《遯》卦の後に接ぐるは《大壮》卦なり。《遯》卦は二箇の陰爻は内卦に漸次生長し四箇の陽爻は逼られて外卦に在り、まさに小人の道は日に盛ん君子の道は日に消ゆるの局面なり。しかし小人の道は一時生長すと雖も、終に持久する能わず、必ず君子に剥除せられん、これ即ち《大壮》の《遯》の後に緊接するの縁故なり。いわゆる《大壮》は、配する所は農暦二月仲春の時、四箇の陽爻は内卦に生長し二箇の陰爻は外卦に消退し、君子の道の生長・小人の道の消退の時なり。君子の道すでに生長せば、即ち天下の治理を振興し・天下の禍害を除去し・天下の百姓と万物を養育し、大道通行して盛大強壮に至る、だから《大壮》と呼ぶなり。
然以天下之廣、生靈之眾,一賢不可獨治,故必群賢進於朝廷,則可大行其道。是以聖人設為學校,教育天下之材,然後登之朝廷之上,任之以天下之事,故事無不濟而至於盛大也。利貞者,君子之道既已盛大,則必以正而處之乃利也。若壯而不正,則陽過於暴,是故壯必正而後可也。
しかし天下このように広大・百姓このように众多にして、一箇の賢人は独力に治理する不可能、だから必ず众多の賢者をして一同に朝廷に進入せしめ、乃ち大規模に其道を推行し得べし。それゆえ聖人は学校を設立し、天下の人材を教育し、後に彼らを朝廷の上に提拔し、天下の事を以て托付すれば、事に弁成せざるなく、終に盛大に至るなり。卦辞の「利貞」は、君子の道すでに盛大なれば、必ず正道を用いてこれを処置して乃ち利有るがゆえなり。もし強壮にして端正ならざれば、陽剛は過分にして暴戻に流れん、だから強壮の後に必ず正を守るを要すなり。
彖曰:大壯,大者壯也。剛以動,故壯。大壯利貞,大者正也。正大而天地之情可見矣。
《彖伝》にいう。大壮は、即ち陽の大なる者の強壮なり。下卦乾は剛健・上卦震は震動、剛健を凭りに行動す、だから強壮なり。「大壮利貞」と言うは、陽の大なる者は必ず端正たるべきがゆえなり。能くまた正にして大なれば、天地の実情も亦即ち看清すべきなり。
義曰:夫陽為大,陰為小。今四陽盛長,二陰將消,是大者壯也。以人事言之,則是小人之道既以消,君子之道得以壯,是亦大者壯也。剛以動故壯者,言乾下剛也,震上動也。夫君子將興天下之利、除天下之害,則必動而有剛明之才可也。若有剛明之才,守正靜而不動,何所施用哉?故剛以動,則其道盛大而強壯也。
胡瑗が解説します。陽は「大」と称し陰は「小」と称す。今、四箇の陽爻は盛長し二箇の陰爻は將に消退せんとす、これ即ち大なる者の強壮なり。人事を拿って言えば、即ち小人の道はすでに消退し君子の道は壮盛を得、同じく大なる者の強壮なり。「剛以動故壮」は、下卦乾の卦徳は剛健・上卦震の卦徳は行動なりと言うなり。君子は天下の利益を興起し天下の禍害を除去せんと欲すれば、必ず剛健明達の才幹を有しまた行動に付诸するを肯んずるを要すなり。若し只だ剛明の才有りて、一味に安静を守りて行動せざれば、あの才幹は何処に用い得られんや。だから剛健にしてまた能く行動すれば、その道は乃ち盛大強壮なり。
大壯利貞,大者正也者,言陽長而陰退,若君子之道盛大而強壯,則所利在於正也。故大壯之時,惟此大才大徳之人則能以正道而行也。正大而天地之情可見矣者,夫天地之運行晝夜不息,此則剛健正大而然也。以人事言之,則聖賢之道亦如天地之生成而無有偏私。是觀聖賢正大之道,則可以見天地之情矣。
「大壮利貞、大者正也」は、陽気は生長して陰気は退去し、君子の道が盛大強壮なるの際に、最も利あるは一箇の「正」の字に在りと言うなり。だから大壮の時に処して、只だそれらの大才大德の人の、乃ち正路に依循して行く能くすなり。「正大而天地之情可見矣」は、天地の運行は昼夜停まらず、正にその剛健・端正にして広大なるがゆえに能く此のごとしと言うなり。人事を拿って言えば、聖賢の道も亦天地の万物を生成するがごとく、毫も偏私なきなり。だから聖賢のあの種の端正広大の道を観察すれば、即ち天地の実情を見るべきなり。
象曰:雷在天上,大壯。君子以非禮弗履。
《大象伝》にいう。雷は天の上方に響き、声威は極めて盛んなり、これ《大壮》卦の象なり。君子はこれに取法す。凡そ礼に合せざるの事は、一概に為さざるなり。
義曰:雷者威動之物,而又行於天上,則其勢愈盛,是大壯之象也。君子之人有此大壯之徳,則必恭慎和順,外執以謙而內秉其直,非禮之事不敢履,非禮之言不敢言,動作出處周旋之間皆合於禮,然後可見君子之壯也。
胡瑗が解説します。雷はもと威猛震動の物、また天の上方に行えば、声勢は更に盛大なり、これまさに《大壮》の卦象なり。君子はこの種の盛大強壮の徳性を具備せば、一定に恭敬謹慎にして平和柔順、外に対しては謙退を持守し、内に於いては正直を秉持し、礼に合せざるの事は為すを敢えてせず、礼に合せざるの話は説くを敢えてせず、挙止・進退・待人接物の間に皆礼に合して、こようて乃ち君子の強壮を見出すを得べきなり。
若小人則不然,已有剛壯之徳,必不能慎密於內,以至發之於外而終為驕恣縱肆,恃強作威,表裡皆見,故終不能保其全徳也,是有壯而不能終其壯者也。惟君子則能外執以謙,內秉以直,故人莫得而窺測,其道久而愈光也。
小人は則ちこのようにはあらず。一旦剛強壮盛の資本有れば、必ず内心に於いて謹慎収斂する能わず、外に発泄するを致し、終に変じて驕横放縦・勢に仗って威を逞くと為り、裏裏外外に皆人に看穿せらる、だから終に完整の徳行を保住する能わず――これ即ち強壮有りと雖も強壮を終底まで保持する能わざるの人なり。唯だ君子のみ能く外に対して謙退を持守し内に於いて正直を秉持し、それによって別人は彼の深浅を窺測する由なく、彼の道も亦越久く越々光大するなり。
初九:壯于趾,征凶,有孚。象曰:壯于趾,其孚窮也。
初九の爻辞にいう。強壮は只だ脚趾上に表現せられ、冒進すれば凶有り、これは確定して疑いなきなり。《小象伝》にいう。強壮が只だ脚趾上に在るは、确信してそれが終に困窮に陥らんとす可きなり。
義曰:趾,足也。夫壯之道,必須以順為履。今初九居一卦之下,最處事始,位之卑者也。為壯之始,處位之卑,不能謙順而行,且躁妄而動,以至陵犯於物,不知其止,以此而往,凶之道也。有孚者,言以此強壯之道不能謙順行之,是信有此凶咎必然之理也。象曰壯于趾,其孚窮也者,言居事始而慕躁進,是往則必有其凶,而信至於窮困者也。
胡瑗が解説します。「趾」は即ち脚なり。強壮の道は、必ず柔順を以て立足の根本と為さねばならず。今、初九は全卦の最下に居り、事情の剛く起頭の位置に処り、地位の最も卑しき一爻なり。身は強壮の起点に在りてまた卑位に処し、謙遜柔順に行事するを肯んぜず、返って急躁に妄動して、他人を冒犯して停まるを知らざるに至り、このようにして走下去すれば、即ち取凶の道なり。爻辞の「有孚」は、この種の強壮を凭りにして謙順に施行する能わざれば、ならばこの凶険と過咎は確実に必然に来たるべきを言うなり。《小象伝》の「壮于趾、其孚窮也」は、身は事情の初めに在りて一味に躁進を貪求すれば、前往すれば必ず凶有り、且つ确信して困窮の地步に落ちんとす可きを言うなり。
九二:貞吉。象曰:九二貞吉,以中也。
九二の爻辞にいう。正を守りて吉を得る。《小象伝》にいう。九二は正を守りて吉を得る、それは下卦の中位に居るがゆえなり。
義曰:凡卦爻有陰陽,居失其位,未有不凶者也。大壯之時,是君子之道強大而盛壯,聖人以其既壯且大,不可怙其剛威,以陽居陰則皆獲吉。故今九二以陽居陰,能履尚謙順,而又行不失中,是君子得其為正之道,不自滿盈,不自強恃,能全其美,如是故獲正中之吉也。
胡瑗が解説します。一般に言えば、卦中の爻は陰陽を分かち、若し居る所の位が自身の陰陽と合せざれば、凶ならざるは少なし。しかし大壮の時に於いては、君子の道は正に強大盛壮なり、聖人はそれがすでに壮にして大なるを考慮し、剛猛の威勢に仗恃すべからざれば、だからこの一卦の裏に於いては、陽爻の陰位に居るは返って皆吉を獲得し得べきなり。それゆえ九二は陽爻を以て陰位に居り、能く謙遜柔順を践行し、行事はまた中道を失わず、これは君子が正道を持守するの門径を得たるなり。自ら満足せず自ら足れりとせず、強を逞し自ら恃まず、能く自らの美徳を保全し、だから中正の吉を獲得すなり。
象曰九二貞吉,以中也者,言九二所以得正之吉者,以其履得其中,所以無過無不及,動靜皆入於中道而得其禮也。故若人臣一命而傴,再命而僂,三命循牆而走,愈尊而愈謙,益盛而益戒,是能盡為壯之道而得其中也。
《小象伝》の「九二貞吉、以中也」は、九二の正を守るの吉を得る所以は、それの処する所はまさに中位に在れば、それによって過ぎることなく及ばないこともなく、一動一静に皆中道に合乎して礼節を失わずを言うなり。《左伝》の記する所の正考父のごとき臣子のごとく。第一次に命を受ければ即ち躬身し、第二次に命を受ければ即ち弯腰し、第三次に命を受ければ即ち墻根に貼って快步して行き、官は越々尊く人は越々謙にし、位は越々盛んに心は越々戒懼す――これまさに能く強壮の道を窮め尽くしてまた中道を守住するの人なり。
九三:小人用壯,君子用罔,貞厲。羝羊觸藩,羸其角。象曰:小人用壯,君子罔也。
九三の爻辞にいう。小人は一味に強壮を使用し、君子は却って棄置して用いず、たとい正を守るも危険有り。公羊は角を用いて籬笆に触れんとして、結果は角を纏住せらる。《小象伝》にいう。小人は強壮を使用す、君子は則ち用いず。
義曰:凡居壯之時,謙則得其道。今九三處下卦之上,當乾健之極,以陽居陽,是強壯不謙之人也。以小人乗此,則必恃剛強,陵犯於人,雖至壯極而不已,是用壯者也。君子則不然,但固守謙順,雖壯而不自矜,雖大而不自伐,惟欲道行而致之於君,加之於民而已,故君子當此則罔而不用其壯也。
胡瑗が解説します。凡そ強壮の時に処しては、謙退して乃ち正道を得たと算す。今、九三は下卦の最上位に処し、まさに乾の剛健が極点に到達し、また陽爻を以て陽位に居り、強壮にして謙遜せざるの人なり。小人は一旦この位置を占めれば、必ず剛強に倚仗して他人を欺凌冒犯し、壮に極点に至るも罷休を肯んぜず、これ即ち「用壮」なり。君子は却ってこのようにはあらず、只だ牢く謙遜柔順を守住す。強壮と雖も自ら誇耀せず、盛大と雖も自ら功に居らず、一心に只だ道を推行し出すを想い、上以て君主を輔佐し下以て百姓に施及するのみなり。だから君子はこの種の時に処して、即ち強壮を一辺に擱きて去りて使用せざるなり。
貞厲者,言小人不能用謙於大壯,進而不知退於正道,是有危厲也。羝羊觸藩,羸其角者,羊者剛狠之物,羝者狠而又狠者也。小人居強壯之時,動則過中,進則不顧,是猶剛狠之羊,雖藩籬在前,亦觸突而進,以至反羸其角,進退不能,凶之道也。如小人慾掩害君子,終不能為君子之累,而反自及其身也。
爻辞の「貞厲」は、小人が大壮の時に謙を用いるを肯んぜず、一味に前進して正道の上に於いて収斂するを知らざれば、だから危険有りを言うなり。「羝羊触藩、羸其角」と言う。羊はもと剛烈執拗の牲畜、公羊は更に執拗の中の執拗なり。小人は強壮の時に処して、一動すれば中道を越え、一進すれば後果を顧みず、まさにあの頭の剛烈の羊のごとく、籬笆の前に挡なるを明知するも、なお衝撞して前に頂き、結果は返って角を纏住せられ、進むも能わず退くも能わず、これ取凶の道なり。これは譬えば小人が君子を暗算陷害せんと欲するも、終に君子を拖累する能わず、返って禍事を自らの身上に落とすがごとし。
九四:貞吉,悔亡,藩決不羸,壯于大輿之輹。象曰:藩決不羸,尚往也。
九四の爻辞にいう。正を守りて吉を得、悔恨は消え、籬笆は衝開せられて角は再び纏住せられず、強壮は大車の車軸下のあの堅固なる伏兔のごとし。《小象伝》にいう。籬笆開けて角は纏住せられず、だからなお継続して前往すべきなり。
義曰:九四有剛陽之才徳而居陰柔之位,是亦尚謙者也。然其位過中,本亦有悔,今若守之以正,又謙以濟之,則獲吉而悔亡也。藩決不羸者,夫處大壯之時,既能守剛明謙順之徳,則眾歸之而物所不拒,以此而往,何不利之有?故雖有險阻在前,亦濟而通矣,若羊之進,雖有藩籬在前,亦開決而無羸繫之患也。壯于大輿之輹者,大輿者,任重致逺之象也。壯於輪輻,是以之致逺則可以行道,所往無不利也。
胡瑗が解説します。九四は陽剛の才幹徳性を具備するも、陰柔の位に居り、同じく謙退を崇尚するの一爻なり。但しその位次はすでに下卦の中を越え、本来も亦悔有るべし。今、若し正を以て之を守り、再び謙遜を用いて補救せば、即ち吉を獲得して悔恨を消亡せしむべし。「藩決不羸」と言う。大壮の時に処して、すでに剛健明達にしてまた謙遜柔順の徳性を守住し得れば、衆人は便ち皆来たりて帰附し、外物もまた阻拒を加えず、このようにして前往せば、又何の不利あらんや。だから縦に険阻の前に挡る有るも、同じく能く渡過して暢通し、羊の前に往くがごとく、籬笆の当前有ると雖も、能くこれを衝開して纏住せられずに至らざらん。「壮于大輿之輹」と言う。大車は重物を承載し遠路を行走するの象徴、強壮の処が車輪車軸上に落ちれば、ならばそれを用いて遠路を走れば大道を推行し得、何処に去るも不利なきなり。
象曰藩決不羸,尚往也者,此聖人立象垂訓,使人居大壯之時必以謙退為先。故君子之事父,雖剛明之才、正直之徳可以納父於無過而克其家,亦必以柔和之容、婉順之貌。父有一過,則必婉容以諫之,諫之不從而又諫之,又不從則號泣而隨之。如是則父反而思之,必遷於善也。臣之事君亦然,但內持剛徳,外示謙容,則所往無有不利也。
《小象伝》の「藩決不羸、尚往也」は、これは聖人が卦象を設立し訓誡を垂示して、人をして大壮の時に一定に謙退を第一位に擺かしむるなり。だから君子の父に事うるに、縦に剛健明達の才幹・正直不阿の徳性有りて、以て父をして過失を犯さざらしめ家を治理して好くするに足ると雖も、必ず柔和の神色・婉順の態度を擺出せねばならず。父に一処の過失有れば、一定に和顔悦色を以て勧諫し、勧諫の接受を得ざれば再び勧め、再び接受せられざれば即ち哭きて彼に跟従す。このようにすれば父は回頭して一想起して、必ず改めて善道に従わん。臣子の君主に事うるも亦同じ道理なり。内裏には剛正の徳を持守し、外表には謙遜の容を顕出せば、ならば何処に至るも不利なきなり。
六五:喪羊于易,無悔。象曰:喪羊于易,位不當也。
六五の爻辞にいう。平易の処に於いて羊のごとき剛狠を失掉し、悔恨なし。《小象伝》にいう。平易の処に於いて羊性を失掉するは、居る所の位が自身と相称せざるがゆえなり。
義曰:羊本剛狠之物。夫居大壯之時,以陽居陰則得謙之道,故可獲吉;若以陽居陽,然雖得位,猶恐謙而有咎,況以陰居陽,則其傲狠而招禍可知也。今六五乃是以陰居陽,又處至尊之位,則是好剛之甚,以至反失之於容易之地。羊性羝,言其剛也。無悔者,以其居至尊之位,能喪其剛狠之道,故得無悔也。
胡瑗が解説します。羊はもと剛烈執拗の牲畜なり。大壮の時に処して、陽爻を以て陰位に居れば即ち謙退の道を得たり、だから吉を獲得し得べし。若し陽爻を以て陽位に居れば、位に当たると説くと雖も、なお謙退の上に於いて亏欠を生じて過咎を生み出さんを怕る。まして陰爻を以て陽位に居るにおいてをや、あの種の外強中干の傲慢執拗の禍患を招来するは、以て想見すべきなり。今、六五はまさに陰爻を以て陽位に居り、また身は至尊の位に処し、剛強を逞くするを好むの極点に至りて、以て返って最も平易の地方に於いて手を失せしむるなり。羊性の公羊に似たるを言うは、講ずる所はまさにその剛なり。爻辞の「无悔」は、それは身は至尊の位に居りて、終にあの份の剛狠を丟掉する能くすれば、だから悔恨なき能くするなり。
上六:羝羊觸藩,不能退,不能遂,無攸利,艱則吉。象曰:不能退,不能遂,不詳也;艱則吉,咎不長也。
上六の爻辞にいう。公羊が籬笆を頂撞し、退くも退き戻ることができず、進むも進み通ることができず、何の利益もありません。能く艱難の中に自らを守れば吉なり。《小象伝》にいう。退けず進まずは、事先に審慎に打量しなかったがゆえなり。艱難に自守して吉を得るは、過咎が長久せざるがゆえなり。
義曰:上六處一卦之上,居震動之極,是躁動強壯之過甚者也。過而不知所止,猶羝羊之進,不顧藩籬之在前,以至羸礙其角而不能措也。不能退,不能遂,無攸利者,既壯動而不止,則是不知進退存亡之道,以至欲退而不能退,欲進而不能進,則進退皆無所利也。艱則吉者,言能艱難自守,則可以獲吉也。
胡瑗が解説します。上六は全卦の最上位に処し、また上卦の震動の極点に居り、躁動強壮が過分の地步に至ったものです。過分にしてまた何処に收住するかを知らざれば、あの頭の公羊が前に頂撞して、籬笆の前に挡るを管せず、結果は角が纏住せられ・あそこに卡じて動弹できざるがごとし。爻辞の「不能退、不能遂、无攸利」。すでに一味に強壮躁動して停まらざれば、即ち進退存亡の道理を懂得せず、退かんと欲して退き戻る能わず・進まんと欲して進み成らざるに至り、進退の両路に皆利と言うべきなきなり。「艱則吉」と言うは、能く艱難困頓の中に自らを守住すれば、即ち吉を得べきと言うなり。
象曰不能退,不能遂,不詳也者,夫君子之進,必量時度勢,可以有為而進之,則無累也;若小人之進,必不能量時度勢,不詳其事而驟行,以至進退不能也。艱則吉,咎不長也者,言雖不詳其事而躁進妄動,以至不能退、不能遂,今若能艱難自守,則其咎禍不久而可解也。
《小象伝》の「不能退、不能遂、不詳也」。君子の前進せんとするに、必ず先ず時機を估量し形勢を審度し、有する所為すべきを確認して乃ち前に走る、これで拖累有ることなきなり。小人の前進せんとするに、必ず時機形勢を估量するを肯んぜず、事情は未だ審慎に打量せざるに貿然として行動し、以て進退両難に陥るに至るなり。「艱則吉、咎不長也」と言うは、当初は事情を看清する能わずして躁進妄動し、退き戻る能わず・進み成らざるの地步に落ちたと雖も、今ただ能く艱難の中に自守せば、ならば過咎と禍患は久しく引きずらず、化解すべきなりと言うなり。
晋 坤下離上
晉:康侯用錫馬蕃庶,晝日三接。
《晋》卦。安国の侯は大量の車馬を賜与せられ、一日の内に三度君主の接見を受く。「晋」は上進・晋陞の意なり。
義曰:按《序卦》云:物不可以終壯,故受之以晉。晉者,進也。蓋言物之壯而不已,則必至於見挫,必以柔順之道上進也。然此卦坤在離下,猶日出地上,以順而進,至於大明,故曰晉也。康,美也。錫馬,言賞賜之重也,《曲禮》所謂三賜不及車馬是也。蕃,盛也;庶,眾也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》に言う。事物は永遠に強壮して下去する能わず、だから《大壮》卦の後に接ぐるは《晋》卦なり。「晋」は即ち前進・上昇なり。これは事物が一味に強壮して止まるを知らざれば、必ず挫折を遭うべし、だから応に改めて柔順の道を用いて上に進取すべきを言うなり。この一卦は坤は離の下面に在り、譬えば太陽が地面より昇起して、柔順を凭りに上進し、大放光明に至る、だから《晋》と呼ぶなり。「康」は美好なり。「錫馬」は賞賜の厚重なるを指す――《礼記・曲礼》の言う所の「三賜不及車馬」、見るべし馬を賜うは極めて重き恩典なり。「蕃」は盛、「庶」は多なり。
言此卦以三陰上進而至於明顯,如賢人君子以柔順之道上進於君,致之祿位而行道於天下,有康美之徳著之於君。既有康美之徳,君則厚加寵錫,故其馬蕃盛而眾多,以至晝日之間三接見之,以諮天下之事也。是凡人臣之進,必有道義之實、功業之美,然後登於朝廷之上,則道可行,身可顯。如不才不徳、無功無業、妄求寵幸者,不有人禍,必有天殃,故君子不可以不慎也。
この一卦は三箇の陰爻が上に向かって進取して終に世に顕明するは、譬えば賢人君子が柔順の道を凭りに君主に上進し、俸禄官位を取得して道を天下に推行し、美好の徳行を君主の面前に顕現するがごとし。すでにこのように美好の徳行有れば、君主は自然に厚く恩寵賞賜を加う、だから彼に賜うの馬匹は众多にして、甚だしきは一日の内に三次召見し、彼に向かって天下の大事を咨詢するなり。見るべし、凡そ臣子を為る者の上進を求むるは、必ず道義の実質・功業の美績を有し、後に乃ち朝廷に登る、これで道は乃ち行き通り身は乃ち顕出すなり。それらの才無くまた徳無く・功無くまた業無くして妄に寵幸を邀取せんとする人に至っては、人禍を遭わざるも、必ず天殃有らん、だから君子は謹慎せざるべからざるなり。
彖曰:晉,進也。明出地上,順而麗乎大明,柔進而上行,是以康侯用錫馬蕃庶,晝日三接也。
《彖伝》にいう。晋は、即ち前進なり。光明は地面より昇起す。下卦坤は柔順にして、上卦離この大光明に依附す。柔爻は上進して上に向かって行走す、だから安国の侯は众多の車馬を賜与せられ・一日の内に三度接見を受くと言うなり。
義曰:此卦名晉者,是大賢君子以功以徳上進於君也。明出地上者,此以二體言之也。坤下,地也;離上,明也。若明出於地,則升進而臨照天下,萬民皆瞻仰,如賢人君子出於微賤,升進而立於朝廷之上,致君澤民,使天下皆仰觀之也。順而麗乎大明者,言日之出於地,順麗乎天,故其明所以久也,猶賢者以柔順之道而進輔於大明之君,故其道可以行也。
胡瑗が解説します。この一卦の《晋》と称する所以は、大賢君子が功業と徳行を凭りに君主に上進するがゆえなり。「明出地上」は上下の両箇の卦体に就きて言う。下卦坤は地、上卦離は光明なり。光明は地面より昇起すれば、即ち上に向かって昇騰して天下を照臨し、万民は皆仰ぎて観看す。これまさに賢人君子が微賤より起ち、一歩一歩上昇して朝廷に立ち、君主を輔佐し百姓に沢を施し、天下の人をして皆彼を仰望せしむるがごとし。「順而麗乎大明」は、太陽が地面より昇起したる後に勢に順って天に依附し、だからその光明は乃ち持久し得べしと言うなり。これ即ち譬えば賢者が柔順の道を用いて進んで光明偉大の君主を輔佐し、それによって彼の道は乃ち行き通るを得べきがごとし。
柔進而上行者,夫君子之在上,必須有至明之徳,以旌別賢不肖而黜陟之也。苟上不明,使賢不肖混淆,則賢者必退避不樂於仕矣。是必君有至明之徳,使賢者持人臣之節、柔順之道附於君,而其道上行也。既能以賢明之徳出於下,柔之道行於上,故可以受寵優之厚,故曰是以康侯用錫馬蕃庶,賞之重也;晝日之間凡三接之,待之厚也。
「柔進而上行」と言う。上位に居る君主は必ず極めて明察の徳性を有し、乃ち賢と不肖を分辨し出す能く、貶黜あるいは提拔を加え得べきなり。仮に上に在る者が明ならず、賢者と不肖者を混雑して分別し難くせば、賢者は必ず退避して出仕するを願わざらん。だから必ず君主が極めて明察の徳性を具備し、賢者をして能く人臣の名節を守り・柔順の道を以て君主に依附せしめ、彼の道は乃ち上に向かって通行し得べきなり。賢者はすでに能く賢明の徳性を以て下より顕露し出ずる能くし、柔順の道はまた上に於いて施行を得れば、それによって優厚の恩寵を承受すべきなり。だから「康侯用錫馬蕃庶」と言うは、賞賜の重きを講ずるなり。一日の内に三次彼を接見するは、待遇の厚きを講ずるなり。
象曰:明出地上,晉。君子以自昭明徳。
《大象伝》にいう。光明は地面より昇起す、これ即ち《晋》卦の象なり。君子はこれに取法し、自ら去りて自身の光明の徳性を彰顯す。
義曰:言賢人君子法此之象,是以進修其徳,博學、審問、明辨、篤行,然后位朝廷之上,使仁義施於天下,功業垂於後世,以自昭顯其至明之徳也。
胡瑗が解説します。これは賢人君子がこの一卦象に取法し、それによって不断に自らの徳行を進修す――《中庸》の講ずるがごときあのように広博に学び・詳細に問い・清楚に辨え・切実に行い――後に乃ち朝廷の上に立身し、仁義を天下に施行せしめ、功業を後代に流伝せしめ、従而自らあの份の極めて光明の徳性を彰顯すると言うなり。
初六:晉如摧如,貞吉。罔孚,裕無咎。象曰:晉如摧如,獨行正也;裕無咎,未受命也。
初六の爻辞にいう。上進せんと欲するも壓抑せられ、正を守れば則ち吉なり。なお信任を得るに至らざれば、能く寛裕として自ら処れば過咎なきなり。《小象伝》にいう。上進せんと欲するも壓抑せらる、唯だ正道を走るを堅持す。寛裕として自ら処りて過咎なきは、未だ君命を接受せざるがゆえなり。
義曰:摧,抑也。初六處晉之始,有心乎晉者也,然居下卦之下,處眾陰之末,猶君子道未得行、志未得伸,於始進之時必見摧抑者也,故曰晉如摧如也。貞吉者,言君子既進而有所摧抑,固不可躁求妄動以覬君上之信,固當守之以正,則可以獲吉也。孟子曰:鄉為身死而不受,今為宮室之美而為之;鄉為身死而不受,今為妻妾之奉而為之;鄉為身死而不受,今為所識窮乏者得我而為之,是亦不可以已乎?此之謂失其本心。蓋戒其不可徇情而苟幸,言進退當以其道也。
胡瑗が解説します。「摧」は壓抑なり。初六は《晋》卦の起頭に処し、進を求むる心有るの人なり。しかしそれは下卦の最下・衆陰爻の末尾に居り、まさに君子の道はなお行き通らず・志向はなお伸展し開かず、剛く起步して進を求むるの時に必ず壓抑を遭うべし、だから「晋如摧如」と言うなり。爻辞の「貞吉」は、君子すでに進を求むるも壓抑を受くれば、絶対に急躁妄動して僥倖に君主の信任を博取し去るべからず、本当に正を以て之を守り、これで乃ち吉を獲得すべきを言うなり。《孟子》に言う。昔日は寧ろ死するも肯んじて接受せざりし物を、今は華美の房屋のために之を接受す。昔日は寧ろ死するも肯んじて接受せざりしを、今は妻妾の侍奉のために之を接受す。昔日は寧ろ死するも肯んじて接受せざりしを、今は相識の窮人をして己に感激せしめんがために之を接受す――これ豈に停まるべからざるか。これを自らの本心を喪失せりと呼ぶなり。胡瑗がこの段の話を引用するは、まさに人を告誡して私情に曲従して僥倖を求むべからず、進退は皆正道に依循すべきを言うなり。
罔孚裕無咎者,夫初六處於最下,位卑言輕,上未信於其君,下未澤於其民,事未施於當世,道未行於天下。苟如是,固不可隕穫己志,而當綽綽然寛裕樂道,不自諮嗟怨憤,而不失其本心,如此則乃可免其悔咎也。象曰晉如摧如,獨行正也者,夫君子於求進之初,其位卑言輕而有所摧抑,然不自為損,以道自處,蓋其所守獨在於正也。裕無咎,未受命也者,言處於卑下而自寛裕者,是未受君之命也。
「罔孚、裕无咎」と言う。初六は最下位に処し、地位は卑微・説話に分量なく、上に対してはなお君主の信任を得るに至らず、下に対してはなお恩沢の百姓に及ぶことなく、事功はなお当世に施行せられず、道はなお天下に通行せられず。処境このようであれば、本より単気沮喪して自ら其の志を毀るべからず、而も応に寛々綽々として其の道に安んじ其中に楽しみ、自ら怨み自ら艾せず・憤懣不平せず、従而自らの本心を失掉せざるべし。能くこのようであれば、乃ち悔恨と過咎を免去すべきなり。《小象伝》の「晋如摧如、独行正也」は、君子は進を求むるの初めに於いて、位は卑く言は軽くして壓抑を受くるも、却ってこれによって自ら作践せず、仍として正道を以て自ら処る、彼の持守する所は唯だ一箇の「正」の字のみなればなりと言うなり。「裕无咎、未受命也」と言うは、卑下の位に処して能く自ら寛裕を求むるは、まさに彼が未だ君主の任命を接受せず・未だ官守の責なきがゆえなり。
六二:晉如愁如,貞吉。受茲介福于其王母。象曰:受茲介福,以中正也。
六二の爻辞にいう。上進せんと欲するも憂愁に満ち、正を守れば則ち吉なり。將に王母よりこの大福を領受せんとす。《小象伝》にいう。能くこの大福を領受するは、それは中に居りてまた位に当たればなり。
義曰:夫晉之為言,以之一身是進用其道,以之一時是進用其君。愁,憂也。六二以陰居陰,履得其正,然處內卦之中,未見君之所信,道未能行,是以進而有憂愁也。然君子之心不以一身一家為累,動其心必以君民為志,雖進焉未見信於君而有憂,然亦不可隕穫躁動,常以正道而行,則得其吉也。
胡瑗が解説します。いわゆる「晋」は、自身に落として言えば自らの道を推行し出すなり、時世に落として言えば自らの君主の上進を輔助するなり。「愁」は即ち憂なり。六二は陰爻を以て陰位に居り、処する所の位置は正当なり。しかしそれは内卦の中に処して、なお君主の信任を得るに至らず、道もまた施行し開かれず、だから上進の中に在りと雖も憂愁を懐くなり。但し君子の心思は一身一家に牽累せられず、凡そ彼の心思に触動する所は、必ず君主と百姓を以て念と為す。進身の後に未だ君に信を取らずして憂有ると雖も、亦これによって単気して妄動すべからず、只だ常に正道に依りて行えば、即ち吉を得べきなり。
受茲介福于其王母者,王母,內之貴者也。夫六二處中居內,以位言之,至卑之象;以時言之,至暗之象。處是時則當懐道畜義,居仁守正,以自寛裕;居是位則當隨事制宜,臨機應變,使無不通濟,則必受其逺大之福,通於王母至深至密之地。蓋由至誠而行,自暗而受其介福,若鳴鶴在陰,其子和之是也。象曰受茲介福,以中正也者,六二雖未見君之信任,蓋以中正之道而行,雖天地鬼神無不佑之,以至闇然而受其介福也。
「受茲介福于其王母」と言う。「王母」は内宮中の最も尊貴の人を指すなり。六二は内卦の中位に処し、位次に就きて言えば、最も卑下の象なり。時勢に就きて言えば、最も幽暗の象なり。このようの時勢に処すれば、即ち応に道を懐抱し義を蓄養し、仁に安んじて其の正を守り、寛々綽々として自ら処るべし。このようの位次に居れば、即ち応に事に随って合宜の弁法を拿捏し機に臨みて応変し、処処皆行き通らしむべし、これで必ずあの份の深遠重大の福沢を得、一直に王母の居る所のあの最も深く最も密なるの処に通ずべきなり。これは至誠を凭りに行えば、幽暗の中に在りと雖も亦能く大福を承受するがゆえにして、まさに《繋辞伝》の言う所の「鳴鶴在陰、其子和之」――鶴は隠蔽の処に在りて鳴けば、同類は自然に応和す――のごとし。《小象伝》の「受茲介福、以中正也」は、六二はなお君主の信任を得る能わざると雖も、但し中正の道に依りて行うがゆえに、天地鬼神をして佑助せざるなきに至らしめ、それによって声息を動かさざるの間に就きてこの份の大福を承受せりと言うなり。
六三:眾允,悔亡。象曰:眾允之志,上行也。
六三の爻辞にいう。衆人の信任を得、悔恨は消失す。《小象伝》にいう。衆人の信任する所のあの份の心志は、上に向かって行進せんと欲するなり。
義曰:允,信也。夫六三以陰居陽,過於六二,不中不正之位,其本有悔也。然而居下卦之上,為眾陰之長,三陰同心上進而為其先,是道義可以行於時,事業可以致其用,故眾陰同心見信而上行,其悔可以亡也。象曰眾允之志,上行也者,言居晉之時,眾陰皆欲上行而已處其先,是為眾所信、同志而進也。
胡瑗が解説します。「允」は信任なり。六三は陰爻を以て陽位に居り、六二の中位を越過し、中ならずまた正ならざるの位置上に処し、本來は悔有るなり。しかしそれは下卦の最上に居り、衆陰爻の領頭者と成り、三箇の陰爻は同心して上に向かって進取してそれに由って帯頭せらる、見るべしその道義は能く当時に行われ事業は能く用上に派せられ、だから衆陰は同心にそれを信任して一同に上行し、それの悔恨は即ち消失すべきなり。《小象伝》の「衆允之志、上行也」は、上進の時に処して、衆陰爻は皆上に向かって走らんと欲し、而自らは最前頭に立つ、それによって大家に信任せられ志同じく道合じて一同に前進すを言うなり。
九四:晉如鼫鼠,貞厲。象曰:鼫鼠貞厲,位不當也。
九四の爻辞にいう。上進のさまは一隻の碩鼠に似て、たとい正を守るも危険なり。《小象伝》にいう。碩鼠のごとくして危険有るは、居る所の位が当ならざるがゆえなり。
義曰:鼫鼠者,田中食稻粱、貪殘剝刻之物也。當晉之時,眾君子以柔順之道上進於君,九四以陽居陰,不正而進者也。既以不正而進,上又切近於君,是當尊大之位,附上罔下,刻剝天下之民,蠱壊天下之事,如鼫鼠然,無益於民,但傷殘於物,故天下賤之,如鼫鼠然也。以此而往,則必讒諂佞媚,苟取於君上,是於正道危厲也。
胡瑗が解説します。「鼫鼠」は田裏に於いて稲谷を偷吃する大老鼠、貪婪残害・盤剥啃噬するの物なり。上進の時に処して、众多の君子は皆柔順の道を用いて君主に進身す、九四は却って陽爻を以て陰位に居り、正当ならざる方式を以て進を求むるなり。すでに正当ならざる方式を以て進を求め、位置はまた緊く君主に挨れば、即ち尊大の位を占うるに等しく、上に対しては依附討好し・下に対しては欺瞞蒙蔽し、天下の百姓を盤剥し・天下の政事を敗壞す、まさに碩鼠のごとし。百姓に対して毫も益処なく、只だ万物を損害するを会するのみ、だから天下の人は彼を鄙視し、彼を碩鼠と看作す。このようにして走下去せば、必ず讒を進め媚を献じて苟且に君上に取悦するに倚らん、これ正道の上に於いて見れば即ち危険なり。
六五:悔亡,失得勿恤,往吉,無不利。象曰:失得勿恤,往有慶也。
六五の爻辞にいう。悔恨は消失し、得失は皆憂慮するに及ばず、前往すれば則ち吉、不利なきことなし。《小象伝》にいう。得失は憂慮するに及ばず、前往すれば喜慶有らん。
義曰:六五履不得正,有悔者也。然處至尊之位,居離明之中,能擴大明之道,旌別眾賢而信任之,眾賢者類進而輔己,故其悔所以亡也。失得勿恤,往吉無不利者,夫以天下之廣、萬幾之細,其間未必不無一失。今六五既能旌任賢者,賢者皆進而輔之,故其政教無有不舉。若萬物之中苟有失得,亦不必憂恤之也。夫既是失得皆不須憂恤,則是所往無有不吉不利者也。象曰失得勿恤,往有慶也者,言六五所以失得勿恤者,蓋由其能任賢者,使賢人進輔於己,故其教化舉行,仁義興作,以此而往,故不惟止獲其吉,而又且有美慶之事也。
胡瑗が解説します。六五の処する所の位は当ならず、本は悔有るなり。しかしそれは身は至尊の位に居り、また上卦離の中位に処し、能く光明の道を拡充し開き、众多の賢者を表彰分辨して信任を加え、衆賢は於是乎接連して進用して自らを輔佐す、だからその悔恨は乃ち消失すなり。「失得勿恤、往吉、无不利」と言う。天下このように広大・政務このように繁細にして、其の間は一點の差失を出さざるを免れ難し。今、六五すでに能く賢者を表彰任用すれば、賢者は皆進用して彼を輔佐し、政令教化は便ち弁成せざるなきなり。ならば万事の中にたとい偶有りて得失有るも、亦それに就きて憂慮するに及ばず。すでに得失皆憂慮するに及ばざれば、則ち何処に至るも不吉不利なきなり。《小象伝》の「失得勿恤、往有慶也」は、六五の能く得失を心上に放ざらざる所以は、全く彼が能く賢者を任用し・賢人をして進んで自らを輔佐せしむるに在り、それによって教化は推行を得・仁義は興起を得、このようにして走下去せば、但だ吉祥を獲得するのみならず、而且にまた慶賀すべきの美事有らんと言うなり。
上九:晉其角,維用伐邑,厲吉,無咎,貞吝。象曰:維用伐邑,道未光也。
上九の爻辞にいう。上進は獣角の頂端に到り、只だ以て自らの封邑を討伐するに用いるべし。危険を経歴して後に吉を得、過咎なし、但したとい正を守るも羞を免れ難し。《小象伝》にいう。只だ以て封邑を討伐するに用いるは、それの道がなお光るに足らざるを説明す。
義曰:角者,最極之象也。夫上九處進之極,過明之中,已在角而猶進,故曰進其角。惟用伐邑者,在角猶進,過亢不已,不能端拱無為,物皆不服,必須攻伐其邑,然後服之,故曰惟用伐邑也。厲吉無咎貞吝者,兵者凶器,伐而服其物,是由危乃得吉,則無咎,以此雖正,亦已賤矣。象曰惟用伐邑,道未光也者,用伐乃服,雖得之,其道未光也。
胡瑗が解説します。「角」は最も高く最も末の象なり。上九は上進の極点に処し、また上卦離の中位を越過し、すでに角上に到ったるもなお前に向かって進まんとす、だから角上に進んだと言うなり。「惟用伐邑」と言う。すでに角上に在りてなお再び進まんと欲するは、亢盛に過ぎて停まるを肯んぜず、能く端拱無為に安守する能わず、衆人は皆服せず、好む好まざるにかかわらず去りて自らの封邑を攻打し、後に乃ち彼らをして順服せしむ、だから只だ以て封邑を討伐するに用いると言うなり。「厲吉、无咎、貞吝」と言う。兵器は凶険の物、討伐に倚りて乃ち人をして順服せしむ、これは先ず危険を歴て後に吉を得、それによって過咎なしと算すべし。但しこの種の弁法を用いるは、たとい正に合するとも、すでに卑下の一層に落ちたり。《小象伝》の「惟用伐邑、道未光也」は、討伐を動用して乃ち人をして順服せしむべしと言うに至っては、目的は達到したりと雖も、彼の道は終に光るに足らざるなり。
明夷 離下坤上
明夷:利艱貞。
《明夷》卦。艱難の中に正道を守持するに利し。「明夷」の「夷」は損傷、光明の損傷を受くるを指す。
義曰:按《序卦》云:晉必有所傷,故受之以明夷。夷者,傷也。晉卦是明出地上而升於天,明照於天下,然晉極必衰,故明反入於地中,是明有所傷也。以人事言之,則猶君子之始進於朝廷之上,佐君澤民,立功立事於天下,然至於荒耄之年,精力倦怠,是宜以功成事立而退,全身致政,求其安息,則其明終始無有所傷也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》に言う。上進は尽頭に到れば必ず損傷する所有り、だから《晋》卦の後に接ぐるは《明夷》卦なり。「夷」は即ち損傷なり。《晋》卦は光明が地面より昇起して・天に上昇し・天下を照耀する。しかし上進の極点に到れば必ず転じて衰える、だから光明は返って地中に落入す、これ即ち光明が損傷を受けたるなり。人事を拿って言えば、譬えば君子が当初は朝廷に進身し、君主を輔佐し百姓に沢を施し、天下に於いて功業を建立したるがごとし。但し昏老の年に到れば、精力は疲怠し、即ち応に功成事立に乗じて引退し、己身を保全し政務を交還し、安息を求得し、これで彼の一生の光明は始終損傷を受けずに終るなり。
若功成年耄,復進而不已,則必有所傷也。惟聖人為能終始一徳,如周公佐周是也。凡下於聖人者,至於耄年,宜知退其身而不可終於求進也,此聖人所以著萬世君臣之戒也。利艱貞者,夫明夷之世,則是君子之明已有所傷,而小人在上便巧得志。君子處此之時,固當艱難守正,不使小人之能窺測,則可以免其患害也。
もし功業はすでに成り年歳はすでに老いたるも、なお一味に前に向かって進みて停まるを肯んぜざれば、必ず損傷を受くべし。唯だ聖人のみ能く自始至終同一種の徳行を保持し、周公の周室を輔佐せしが即ち此のごとし。凡そ境界が聖人の下に在るの人は、老邁の年に到れば、即ち身を抽きて退くを懂得すべく、一直に進を求めて到底すべからず――これまさに聖人が万世の君臣のために立下せる鑑戒なり。卦辞の「利艱貞」。光明受傷の時世に処して、君子の明智はすでに損を受け、而も小人は上に在り、投機取巧して勢を得。君子はこの種の時に身を処すれば、本当に艱難の中に正道を守持し、小人をして自らの底細を窺探し出さしめざれば、これで乃ち禍患傷害を免除すべきなり。
彖曰:明入地中,明夷。內文明而外柔順,以蒙大難,文王以之。利艱貞,晦其明也。內難而能正其志,箕子以之。
《彖伝》にいう。光明は地中に落入す、これ即ち《明夷》なり。内裏は文釆光明にして外表は柔順、それによって能く大難を承受す、周文王はまさにこのように為せるなり。「利艱貞」と言うは、自らの光明を隠藏せんと欲するなり。身は至親の間の患難に処してなお能く自らの心志を端正す、箕子はまさにこのように為せるなり。
義曰:明入地中,明夷者,此釋明夷之義也。內文明而外柔順者,此以二體言之。下卦是內,離為文明;上卦是外,坤為柔順。君子之人,能內守文明之道,外修柔順之徳,當明夷之世,蒙冒大難而不為小人所賊害,若古之人有行之者,文王是也。
胡瑗が解説します。「明入地中、明夷」は、これは卦名の含義を解釈す。「内文明而外柔順」は、上下の両箇の卦体に就きて言う。下卦を内と為して、離の卦徳は文釆光明なり。上卦を外と為して、坤の卦徳は柔順なり。君子は能く内に於いて文明の道を守住し、外に於いて柔順の徳を修養し、光明受傷の時世に処して、大難を承受すと雖も亦小人に残害せられざるなり。古人の中に真にこの一點を為し到ったるは、即ち周文王なり。
文王當紂之亂世,眾小人在紂之左右前後,讒諛佞幸,皆欲害於君子;而文王居為西伯,三分天下有其二,終能外執柔順之徳,內晦文明之道,雖小人眾多,終不能窺見其所為,故免其禍患也。《表記》曰:文王有君民之大徳,有事君之小心。故雖蒙大難而終無所傷也。
文王は商紂の乱世に生れ、众多の小人は紂王の身辺に環繞し、讒を進め媚を献じ・巧言を以て寵を取り、箇箇皆君子を加害せんと欲す。文王は身は西伯を為り、天下の三分はすでに其の二を得たるも、始終として外に於いて柔順の徳を持守し・内に於いて文明の道を隠藏する能くし。小人は多しと雖も、終に彼が何を為すかを窺探し出す能わず、だから禍患を躱過せり。《礼記・表記》に言う。文王はすでに百姓を統御するの大徳を有し、また君主に事奉するの小心謹慎を有せり。だから彼は身に大難を遭うと雖も、最終に並びに傷害を受けざりき。
利艱貞,晦其明也。內難而能正其志,箕子以之。言內難者,親之至也。夫明夷之世,闇主在上,人臣有處夫至親之地而終不見害者,若箕子是也。箕子之於紂,以位言之,父師也;以親言之,庶兄也。以庶兄之親而居父師之位,是處至親之地,所謂內難者也。然左右前後讒佞諂媚,皆欲害之,而箕子獨能蒙冒之以正其志,蓋由內能全晦其明,不使有所暴之於外,而小人不能窺見也。
「利艱貞、晦其明也。内難而能正其志、箕子以之」。いわゆる「内難」は、身は至親の間の患難に処するを指すなり。光明受傷の時世に於いて、昏君は上に在り、臣子を為る者は君主と最も親近の地位に処して始終として害を遭わざりしは、箕子は即ちこのようの一位なり。箕子は紂王に対して、官位に就きて言えば父師、親屬に就きて言えば庶兄なり。庶兄の至親の身份を以て父師の職を担任す、まさに身は至親の地に処し、即ちいわゆる「内難」なり。しかし紂王の身辺の讒佞諂媚の徒は、箇箇皆彼を害せんと欲すれども、箕子は却って独り能く承受して下りて自らの心志を端正す、これは彼が内に於いて能く明智を完全に收藏して、それを外に顕露せしめざれば、それによって小人は窺見する由なきがゆえなり。
象曰:明入地中,明夷。君子以蒞眾,用晦而明。
《大象伝》にいう。光明は地中に落入す、これ即ち《明夷》卦の象なり。君子はこれに取法して衆人を治理す。表面上は鋒芒を収斂し、内裏は却って明察して秋毫に及ぶなり。
義曰:君子法此之象而臨蒞於眾,則當內晦其明,外示以柔也。何則?蓋君子性無不明,事無不通,好善而嫉惡,苟不慎密而宣之於外,則小人見已之明,詐善而罔於己,己何由而知之?如是則為小人之所窺測,而必罹小人之害也。是以君子務全其道,黙運其明,則物不能蔽欺;外示柔,則不傷其苛察。如此始可蒞眾也。
胡瑗が解説します。君子はこの一卦象に取法して去りて衆人を治理せば、即ち応に内に於いて自らの明察を収斂し、外に於いて柔和を顕出すべし。何を以てか。君子の天性は明白ならざるなく・事情は通暁せざるなく、善を喜愛し惡を憎悪す。若し謹慎収斂せざれば、返ってこの一切を外に張揚す、小人はなたの明察を看清し去れば、即ち好人に偽装してなたを欺瞞し来らん、なたはまた何処より察覚し出づべきや。これ一たび然れば即ち小人に底細を摸清せられ、必ず小人の加害を遭受せん。だから君子は務めて自らの道を保全し、暗中に於いて自らの明察を運用すれば、外物は即ち彼を蒙蔽欺騙する能わず。外表は柔和を顕出せば、即ち過分の苛察を以て人を傷つくるに至らず。これを為し到れば、乃ち去りて衆人を治理すべきなり。
初九:明夷于飛,垂其翼。君子于行,三日不食,有攸往,主人有言。象曰:君子于行,義不食也。
初九の爻辞にいう。光明受傷の時は鳥の高く飛ぶがごとく、収斂して翅膀を下垂す。君子は路上に奔走し、三日は食に顧みる暇なし。往くところ有れば、彼を收留する主人はなお閑話を説かん。《小象伝》にいう。君子は路上に奔走す、道義に按ずれば彼は食に顧みる暇なきなり。
義曰:明夷于飛,垂其翼者,言明夷之時,小人得志,皆欲殘害君子。初九處卦之下,猶患難之始也,然明夷之主在於上,初最逺之。君子有剛明之徳,能韜光晦跡,不為小人之窺見,若鳥之髙飛而又垂斂其翼,是超然不可得而見之也。
胡瑗が解説します。「明夷于飛、垂其翼」と言うは、光明受傷の時に於いて、小人は紛紛として志を得、皆君子を残害せんと欲すを指すなり。初九は全卦の最下に処し、まさに患難は剛く起頭せり。而もこの一卦の光明を傷害するの主爻は最上の上六に在り、初九はそれを離るること最も遠し。君子は剛健明達の徳性を具備し、能く光芒を収斂し蹤跡を隠匿し、小人をして窺見せしめず、鳥の高く飛び起きてまた翅膀を収攏し下垂するがごとく、超然として遠く去り、人をして再び見る能わざらしむるなり。
君子于行,三日不食者,言君子能先幾知變,以小人得志,慮其加害於己,欲超然逺遁,心急於行,故至三日之間不遑暇食也。有攸往,主人有言者,言當明夷之時,愚民盲俗,不悉君子之心,見君子遯去之速,以至三日不食而有所往者,雖至親之人為己之主,亦皆有猜貳之心、誹謗之言也。象曰君子于行,義不食也者,言君子不苟遯去,必見小人之害,故行而不食者,於義有所不可也。
「君子于行、三日不食」と言うは、君子は能く事情の剛く苗头を露するの時に就きて変故を察覚し得るを言うなり。眼看して小人は志を得れば、彼らの己を加害せんを擔心し、超然として遠々しく逃開せんと欲し、心裏は路上を急ぎ、だから一連三日も飯を食うの空を騰出する能わず。「有攸往、主人有言」と言うは、光明受傷の時に於いては、愚昧の百姓・盲従の世俗は君子の心思を了解せず、君子の逃ぐることこのように快く・三日飯を食わずして路を赶きて去るを見れば、たとい彼を收留するの至親の主人なるも、亦皆心に猜疑を生じ・些かの誹謗の話を説き出さん。《小象伝》の「君子于行、義不食也」は、君子は若し早めに避走せざれば、必ず小人の毒手に遭わん、だから彼は一路奔走して食に顧みる能わず。若し安坐して食を進めば、道義の上においては説き去るべからざるなり。
六二:明夷,夷于左股,用拯馬壯,吉。象曰:六二之吉,順以則也。
六二の爻辞にいう。光明受傷の時、傷は左腿に在り。一匹の壮馬に倚りて自らを救助して身を脱し、吉を得る。《小象伝》にいう。六二の吉なる所以は、それはすでに柔順にしてまた行事に法度有るがゆえなり。
義曰:夫人之股肱,右者為便,左者為輕。六二履得中道,至於有位,漸近明夷之主,故必小有所傷,但傷左股至輕之處也。用拯馬壯吉者,言君子既於明夷之時小有所傷,若不速務遁去,則必見害愈深,故當決然拯其壯馬而行,外順小人而使不能見其所為,然後可以獲吉也。象曰六二之吉,順以則也者,六二以陰處陰,至順者也,而又處中行正,是動有法則者也。既順而又有法則,故小人終不能害之,以至得吉。故文王見囚於羑里,終能脫禍解難以全其身也。
胡瑗が解説します。人の四肢は、右辺は使うに方便、左辺は相対的に次要なり。六二は中道を践行してまた其の位有り、漸次上面のあの位の傷明の主に靠近す、だから必ず小さく損傷を受くべし、但し傷は只だ左腿この最も要ならざるの地方のみなり。「用拯馬壮、吉」と言うは、君子は光明受傷の時に於いてすでに略々損傷を受けたれば、若し赶紧に設法して身を脱せざれば、必ず害せられること更に深からん、だから応に当機立断し、あの匹の壮馬を借りて赶紧に走り、表面上は小人に順え、彼らをして自らの真実の作為を看出せしめず、後に乃ち吉を得べきを言うなり。《小象伝》の「六二之吉、順以則也」。六二は陰爻を以て陰位に居り、最も柔順なり。同時にまた中に居りて行事は正を得、見るべしそれの挙動は法度有るなり。すでに柔順にしてまた法度有れば、だから小人は終にそれを害する能わず、それによって吉を得るなり。当年文王は羑里に囚禁せられ、最後に能く禍を脱し難を解き自身を保全せしは、まさにこの道理なり。
九三:明夷于南狩,得其大首,不可疾貞。象曰:南狩之志,乃大得也。
九三の爻辞にいう。光明受傷の時に南方に向かって出猟征討し、元凶首惡を擒獲せり。但し急ぎ過ぎて強行に匡正すべからず。《小象伝》にいう。南征の心志は、大いに実現し得たりと算すべきなり。
義曰:南者,至明之地;狩者,獵之名;大首者,元惡也。九三居離之極,有至明之性;以陽居陽,有至剛之徳。夫以剛明大正之徳,居明夷之時,闇主在上,殘虐生靈,塗炭天下,不忍坐視,故不得已往而征之,以蘇民於水火,救民於溝壑,故如獵狩之事,但取其害於民者誅之耳。孟子曰:誅其君而吊其民,若時雨降,民大恱。又曰:武王伐殷,謂其民曰:無畏,寜爾也,非敵百姓也。若崩厥角稽首。征之為言,正也,是但誅其首惡而已。
胡瑗が解説します。「南」は最も光明の方位、「狩」は打猟の名目、「大首」は元凶首惡を指すなり。九三は下卦離の頂端に処し、極めて明察の秉性を具有す。また陽爻を以て陽位に居り、極めて剛健の徳性を具有す。剛明中正の徳性を凭りに、光明受傷の時世に処して、昏君は上に在りて生靈を残害し・天下の人をして水深火熱に陥らしめ、実に坐視するに忍びず、それによって已むを得ず去りて征討し、百姓を水火の中より救活し・溝壑の中より拯出せん。だからこれは打猟のごとし。只だそれらの百姓を残害する者を除掉するのみなり。《孟子》に言う。彼らの暴君を誅除して彼らの百姓を撫慰すれば、及時雨の落下するがごとく、百姓は大いに歓悦す。又言う。武王は殷商を討伐し、殷地の百姓に対して言うに、害怕する勿れ、我は来たりてなたらを安定するなり、並びに百姓と敵を為すにあらずと。百姓は於是乎山の崩るるがごとく地に叩頭す。「征」この字の意思は即ち「正」なり、見るべし只だ首惡を誅除するのみなり。
不可疾貞者,夫聖賢之所以往伐首惡者,將以正天下之民也。其惡既除,其民始蘇,固不可加之暴猛峻之嚴刑以益苦之也。何則?夫民之被害既已久矣,染惡亦已深矣,故非亟而可拯也。必須化之以漸,撫之以慈,與之解其倒懸,然後以漸而正之可也。故孟子曰:簞食壺漿以迎王師,此無他,避水火也;如水益深,如火益熱,亦運而已矣。是正天下於虐暴之後,不可亟欲成俗也。象曰南狩之志,乃大得也者,言聖賢之人以至明之道往伐其元惡者,所以救民而正天下。今既獲之,則已之志大有所得也。
「不可疾貞」と言う。聖賢の去りて首惡を討伐する所以は、天下の百姓を端正せんがためなり。首惡はすでに除掉せられ、百姓は剛く気を緩め得たれば、即ち絶対に再び凶猛厳酷の刑罰を施加して彼らの苦楚を加重すべからず。何を以てか。百姓の害を受くることすでに久しく、沾染の惡習も亦すでに深し、それによって一下子に拯救し来る能くするにあらざればなり。必ず一點一點に彼らを教化し、慈愛を以て彼らを撫恤し、彼らのために倒懸の苦を解き、後に再び逐歩に正道に引上せば乃ち可なり。だから《孟子》に言う。百姓は竹筐を以て飯を盛り・壺を以て湯を盛りて王師を迎接す、別の縁故なし、只だ水火の苦を逃開せんと想うのみなり。若し新しく来たるの水は更に深く・火は更に熱くせば、ならば彼らも亦不過是れ転じて別処に投ずるのみなり。見るべし、暴虐の後に於いて天下を匡正するに、急ぎて一下子に良好の風俗を造成すべからざるなり。《小象伝》の「南狩之志、乃大得也」は、聖賢は最も光明の道を用いて元凶を討伐し、為す所は百姓を拯救し・天下を端正するに在り、今すでに首惡を擒獲せれば、自らの心志は便ち大いに実現せりと言うなり。
六四:入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。象曰:入于左腹,獲心意也。
六四の爻辞にいう。左辺の腹心の地に钻入り、あの位の傷明の主の心思を摸透し、なおそれを門庭の外に張揚す。《小象伝》にいう。左腹に钻入るは、君主の心意を摸到せるなり。
義曰:凡手足以右為便,心腹之間以左為順。六四以陰居陰,履得其位,上近明夷之主,是小人而得志者也。夫以小人得志,又附於昬闇之主,以甘言美色、柔邪佞媚,從君之情,迎君之慾,納之於惡,依違曲順,入于左腹之間,復得明夷之主之心也。左腹言能順於心也。
胡瑗が解説します。手足に就きて言えば右辺を以て便利と為し、心腹の間に就きて言えば則ち左辺を以て順適と為す。六四は陰爻を以て陰位に居り、処する所の位は正当、上に向かってまたあの位の傷明の主に貼近す、まさに小人得志の寫照なり。小人は一旦志を得れば、また昏暗の君主の身辺に依附して、甜言蜜語・和悦の臉色を用いて、柔媚邪佞に君主の性情に迎合し・君主の欲望に逢迎し、彼を惡の一路に推向せん。一味に含糊順従し・曲意奉承して、これに就きて君主の腹心の間に钻入り、進んでこの位の傷明の主の心思を摸透せり。いわゆる「左腹」は、説く所はまさに彼が能く君主の心意に順うなり。
于出門庭者,言小人之輔闇主,內既迎逢其惡,外又不能慎密固蔽之。君未有一過,則揚之為大過;君未有纖惡,則宣之為大惡,以至騰播天下,罪形萬世,皆小人之所致也,若崇侯、飛廉、惡來之類是也。門庭者,言宣露於外也。
「于出門庭」と言うは、小人は昏君を輔佐し、内に対してはすでに一味に彼の惡に逢迎し、外に対してはまた謹慎に守密し彼のために掩護遮蓋する能わざるを言うなり。君主は本より何の過失もなきを、彼は偏に張揚して大過失と為す。君主は本より一絲の惡行もなきを、彼は偏に宣揚して大惡行と為す。以て天下に傳遍し・罪名は万世に坐実するに至る、これ皆小人が一手に造成せるなり、崇侯虎・飛廉・惡来のあの一類の人は便ち此のごとし。いわゆる「門庭」は、この一切を外に張揚泄露せしめたるを言うなり。
六五:箕子之明夷,利貞。象曰:箕子之貞,明不可息也。
六五の爻辞にいう。箕子のごとく光明受傷の時に処すれば、正道を守持するに利し。《小象伝》にいう。箕子の正を守るは、彼の内心の光明をして熄滅せざらしむるなり。
義曰:明夷之主在於上六,則左右前後皆小人矣。惟六五以柔順之道處得其中,非小人之謂也,推象意以求之,則箕子之道矣,故聖人特以箕子明此爻也。何則?箕子當紂之時,尊為父師,親為庶兄,是至近至親之位也。然紂之左右前後皆小人,而箕子之道不得行,是明有所傷也。然當是時,箕子能自晦其明,自蒙其徳,雖在紂之近密而終無所害,以至佯狂為奴以全其身,是所利者惟能自晦而居正也。象曰箕子之貞,明不可息也者,以箕子切近於紂而終不為其所害者,蓋由能以正道自守,故其明不可得息也。
胡瑗が解説します。この一卦の光明を傷害するの主爻は上六、ならばその前後左右に環繞する者は皆小人なり。唯だ六五は柔順の道を以て上卦の中位に処し、小人の一類に属せず。卦象の用意を推尋して求索すれば、まさに箕子の処世の道に合し、だから聖人は特に箕子を用いてこの一爻を説明す。何を以てか。箕子は紂王の世に於いて、爵位を論ずれば父師、親屬を論ずれば庶兄、最も親近の地位上に処せり。しかし紂王の身辺の前後左右は皆小人、箕子の主張は行き通らず、これ即ち光明が損傷を受けたるなり。しかしあのようの時に於いて、箕子は能く自ら明智を隠藏し・自ら徳行を遮掩し、身は紂王の最も貼近の圏子裏に処すと雖も、終に害を受けず、甚だしきは瘋を装いて奴隷と為りて自身を保全せり。見るべし、彼の得る所の好処は、全く能く自我に韜晦してまた正道を守住するに在るなり。《小象伝》の「箕子之貞、明不可息也」は、箕子は緊く紂王に挨るも終に彼に害せられず、まさに能く正道を以て自守すれば、だから彼の内心の光明は始終として熄滅せざるなり。
上六:不明晦。初登于天,後入于地。象曰:初登于天,照四國也;後入于地,失則也。
上六の爻辞にいう。但だ明ならざるのみならず、返って昏暗なり。初めは天上に昇り、後に地下に落入す。《小象伝》にいう。初めは天上に昇るは、本は四方の国を照耀すべきなり。後に地下に落入するは、君たるの法度を喪失せるなり。
義曰:不明晦者,言上六處群陰之上,居一卦之極,明夷之主也。不能以明徳臨照天下,而左右前後信任小人,自致陰闇柔弱,不有其明,故云不明晦也。初登于天者,夫天尊且髙,人君之位也。此上六以繼世而立於人君之位,為天下之主,故云初登于天也。後入于地者,夫既居人君之位,為天下之所瞻仰,則當大明以臨照天下,今反昬闇暝昧,放恣殘賊而不用其明,是入於地也。象曰後入于地,失則也者,言上六失為君之法則,不能明照天下,而終於昬闇,貽祖宗之羞也。
胡瑗が解説します。「不明晦」と言うは、上六は衆陰爻の上・全卦の最高処に処し、まさにこの一卦の光明を傷害するの主爻を指すなり。それは能く光明の徳性を以て天下を照臨せず、返って身辺の前後に於いて一味に小人を信任し、自らは暗陰柔弱と為りて応有の明察を失去せり、だから明ならずして昏暗なりと言うなり。「初登于天」と言う。天はすでに尊貴にしてまた高遠、君主の位を象徴す。上六は世系を継承して君位に登り・天下の主と為れるなり、だから初めは天上に昇ると言うなり。「後入于地」と言う。すでに身は君位に居り・天下の人に仰望せられれば、即ち応に大光明を以て天下を照臨すべし。今は返って昏聵糊塗にして・残虐を放縦して其の明を用いず、これ即ち地下に落入するに等しきなり。《小象伝》の「後入于地、失則也」は、上六は君たるの法度を喪失し、能く光明を以て天下を照耀せず、最終に昏暗に陥り、祖宗のために羞辱を留下せるを言うなり。
家人 離下巽上
家人:利女貞。
《家人》の一卦は、下卦を離と為し上卦を巽と為し、講ずる所は治家の道なり。卦辞にいう。家人の道は、女子の能く正固を守持するを以て利と為す。「貞」は正にして固守するの意、主婦の婦職に安んじて其の正を失わざるを指す。一家の内は主婦が先ず端正して、父子兄弟の次序は乃ち立ち起るを得、だから「利女貞」と言うなり。
義曰:按《序卦》云「傷於外者必反於家」,故受之以《家人》。言人之有所傷於外,則必反於內以求其安,故《家人》所以次於《明夷》也。然此謂之家人者,蓋聖人以此為治家之法也。利女貞者,夫家人之道以女正為始。何則?夫女子之性柔弱無常而好惡隨人,故凡君子欲治其家,必正其身以正其女,以正其閨閫之內,父子之列、尊卑長幼之序各得其正。家既正,然後施之為治天下皆可得而正也。故《大學》曰「欲治其國先齊其家」,然則治家之道在女正為始也。
《序卦伝》に言う。外に於いて傷害を受けたる人は必ず家中に帰らん、だから《明夷》の後に接ぐるは《家人》なり。人は外に於いて挫傷を遭受せば、一定に家内に返りて安頓を尋求す、これ即ち《家人》卦の《明夷》卦の後面に排列せらるるの縁故なり。この一卦の「家人」と取名する所以は、聖人がこれを借りて治家の法度を建立せんと欲するがゆえなり。「利女貞」に至っては、治家の道は女子の端正より做起すべきを言うなり。何を以てか。女子の性情は柔弱にして定准なく、好悪は人に随って転移し易し、だから君子は一家を治め好かんと欲すれば、必ず先ず自身を端正し、再び自身より去りて妻女を端正し、進んで内室門戸の内の一切を端正し、父子の行列・尊卑長幼の次序を皆各々其の正に帰せしむべし。家中は一たび正しくなれば、再びこの套の弁法を推行し開きて去りて天下を治理せば、天下も亦即ち皆正に帰すべきなり。だから《大学》に「自らの国を治め好かんと欲すれば、先ず自らの家を斉にし好くせよ」と言う。見るべし、治家の道は、女子の正を守るを以て起点と為すなり。
彖曰:家人,女正位乎內,男正位乎外。男女正,天地之大義也。家人有嚴君焉,父母之謂也。父父,子子,兄兄,弟弟,夫夫,婦婦,而家道正。正家而天下定矣。
《彖伝》は《家人》卦を解釈して言う。女子は端正に内室の位置を守住し、男子は端正に外事の位置を守住す。男女は各々自らの位置を擺正す、これまさに天地の間の最大の倫理法則なり。一家の中にも亦威厳の君長有り、指す所は即ち父母なり。父を為るは父に似、子を為るは子に似、兄を為るは兄に似、弟を為るは弟に似、夫を為るは夫に似、妻を為るは妻に似て、家道は即ち端正す。家は一たび端正なれば、天下も亦即ち随って安定す。
義曰:女正位乎內者,謂六二也。六二以柔順之質處內卦之中,若貞正之婦治閨門之內也。然婦人之道不可預聞外事,但以致整於內而已,故《書》曰「牝雞無晨,牝雞之晨,惟家之索」,故女必正位乎內也。男正位乎外者,謂九五也。九五以剛明之徳處外卦之中,是男子以義治外,其父子有禮,兄弟有序,尊卑上下各正其位也。然以義制事則不可從於婦人,故《恆》卦曰「夫子制義,從婦凶也」。
「女正位乎内」は六二この一爻を指す。《周易》の講ずる「爻位」は、一卦六画の自下而上の位次を指す。初・三・五は陽位、二・四・六は陰位。陰爻は陰位に居り・陽爻は陽位に居るを得正と叫び、第二位あるいは第五位に居るを得中と叫び、二者を兼備すれば便ち「中正」なり。六二はまさに陰爻が陰位に居りて、また下卦(内卦)の中位に処し、柔順にして其の正を失わず、譬えば一位の正を守る主婦の内室を治理するがごとし。但し婦人の職分は外面の政事を過問するに宜しからず、只だ家内を整治して井井條條たらしめれば足るなり。だから《尚書・牧誓》に「母鶏は応に晨を司るべからず、母鶏は一旦鳴きて暁を報ずれば、この家は即ち敗落せん」と言う、見るべし女子は必ず端正に内位を守住すべきなり。「男正位乎外」は九五この一爻を指す。九五は陽爻が陽位に居り、上卦(外卦)の中位に処し、剛健明察の品德を具備し、譬えば男子が道義を以て外面の事務を処理し、父子の間に礼有り・兄弟の間に序有り・上下尊卑が各々其の位に安んずるがごとし。すでに道義を用いて事情を裁断せんとすれば、一味に婦人に聴従する能わず、だから《恒》卦の六五の《象伝》に「男子は応に道義に依りて事情を裁断すべく、一味に婦人に順従すれば即ち凶険有り」と言うなり。
所謂男女正,天地之大義也者,夫天以至剛之徳、至尊之體處於上,地以至柔之徳、至卑之質位乎下,此天地自然之常分也。以人言之,女正位乎內,男正位乎外,男女之位正,是得天地之大義也。
「男女正、天地之大義也」と言うに至っては、天は最も剛健の品德・最も尊貴の形体を以て上方に居り、地は最も柔順の品德・最も卑下の質性を以て下方に処す、これは天地の自ら然りとして然るの固定名分なればなり。いわゆる「剛柔」は、《周易》の裏において即ち陽と陰の両種の性質。剛は動を主として尊に居り、柔は静を主として卑に居る。人事を拿りて対照すれば、女子は端正に内位を守住し、男子は端正に外位を守住し、男女は各々其の位に安んじて相僭越せず、これ即ち天地の間の最大の倫理法則に合上するなり。
家人有嚴君焉,父母之謂也者,夫君總生殺之權,操富貴之柄,四海之內莫不畏懼群而歸之,故謂之君。若父母之尊,則一家之事皆主焉,故不可專任其慈而無所斷制,必又加之以威嚴,董之以禮節,使一家之內有畏懼之心,如君之尊而又如君之嚴,則家道可以成也。
「家人有厳君焉、父母之謂也」と言うは、国君は手に生殺の権柄を握り、富貴の賞予を掌管し、四海の内に彼を敬畏せず成群に彼に帰附せざるの人なし、だから彼を君と称するがゆえなり。父母は一家の中の尊位も亦まさに此のごとし。全家の事は皆彼らに由りて主を為す、それによって一味に放任慈愛して毫も裁断なき能わず、必ず再び威厳を加え、礼節を以て督責約束し、一家の内をして人人敬畏の心を存せしむべし。すでに国君のごとき尊位有りて、また国君のごとき威厳有れば、家道は乃ち真に立ち起るを得べきなり。
父父子子、兄兄弟弟、夫夫婦婦而家道正,正家而天下定矣者,夫為父有父道,為子有子道,以至兄弟夫婦各有其道,是以父盡其嚴,子盡其孝,兄盡其友,弟盡其恭,夫盡其義,婦盡其順,如此則家道正矣。家道既正,天下斯定矣。故堯,聖人也,先親九族然後平章百姓;文王亦聖人也,先刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦。是君子之治天下必先正家,正家而天下定矣。
「父父子子、兄兄弟弟、夫夫婦婦而家道正、正家而天下定矣」と言うは、父を為るに父を為るの道理有り、子を為るに子を為るの道理有り、推して兄弟夫婦に及ぶも亦各々各々の道理有るがゆえなり。父は威厳を尽くし、子は孝順を尽くし、兄は友愛を尽くし、弟は恭敬を尽くし、夫は道義を尽くし、妻は柔順を尽くす、これで家道は即ち端正す。家道は一たび正しくなれば、天下は自然に安定す。だから堯は聖人にして、《尚書・堯典》は彼が先ず九族を親睦し、後に乃ち百官を辨明し・万邦を協和せるを記載す。文王も亦聖人にして、《詩経・大雅・思斉》は彼が先ず妻子のために表率を做出し、再び推して兄弟に及び、進んで以て封国を治理せるを言う。見るべし、君子の天下を治理するは一定に先ず自らの家を端正し、家は一たび端正なれば、天下も亦即ち安定すなり。
象曰:風自火出,家人。君子以言有物而行有恆。
《大象伝》にいう。風は火の裏より生出す、これ即ち《家人》卦の取象――離を火と為して内に在り・巽を風と為して外に在り、火は盛んにして後に風生ず、まさに家内は先ず修明し・教化は再び内より推して外に及ぶがごとし。君子はこの一卦象に取法し、説話は必ず実在の内容有り、行事は必ず恒常の準則有るべし。
義曰:風自火出,家人者,王通謂「明內而齊外」,有家人之象是也。物,事也。君子觀此之象,治其家使言有其事,行有其常,一言一行無有妄動,此治家之本在於正身也,故《孟子》曰「身不行道,不行於妻子」是也。
「風自火出、家人」は、隋代の大儒王通はそれを「先ず内に於いて修明し・再び外に向かって斉整する」と解釈し、まさに家人の取象に合す。「物」は此処では即ち事・即ち実在の内容なり。君子はこの一卦象を観察し、家を治むるに便ち自らの説く毎句の話に皆事実の根拠を有せしめ、為す毎件の事に皆常法を循るべきを有せしめ、一言一行に皆敢えて軽率に妄動せず、治家の根本は即ち自身を端正するに在るがゆえなり。だから《孟子・尽心下》に「自身が道に依りて行わざれば、妻子児女をも使い動かす能わず」と言う、講ずる所はまさにこの道理なり。
初九:閒有家,悔亡。象曰:閒有家,志未變也。
初九の爻辞にいう。家道の初めて立つの時に就きて防禁を設下すれば、悔恨は自ら消失せん。《小象伝》の解釈。いわゆる「閑有家」は、一家の人の心志が未だ壊れ変らざるの時に乗じて先ず防範を加えんと欲するなり。「閑」は本は門中の木欄を指し、引申して防禁・約束と為す。
義曰:閒者,寛而防之之謂也。凡人之情,愛之極則無疑,親之至則無防,故君子之人治其家,必當思慮未及於邪、耳目未接於私之時,預為之防,曲為之備。不然,使醜惡已彰、奸邪已萌而始為之防,是非家人之罪,乃已陷家人於有過之地也。今初九以陽居陽,處一卦之初,是治家之始,有剛明之徳而能于思慮未動、私邪未萌之前以為之防,故悔亡也。象曰閒有家志未變也者,夫君子防閒其家,待奸邪而後防之,惡彰而後治之,則無及矣。必於家人志慮未變之前豫防閒之,則所謂治家之道也。
「閑」は寛緩従容として防範を加えるの意なり。人の常情は、愛すること極めれば便ち再び猜疑せず、親しむこと極めれば便ち再び防備を設けず、だから君子の家を治むるに、一定に家人の心思が未だ邪僻に滑向せず・耳目が未だ私欲に沾染せざるの時に乗じて、預め防線を設下し、周密に準備を為し好くせねばならず。否らば醜惡がすでに顕露し奸邪がすでに萌発して乃ち去りて防範すれば、則ちそれは家人の罪過にあらず、而も自ら家人を過失有るの地步に推到せるなり。初九は陽爻が陽位に居りて、また全卦の最下・治家の開端に処し、剛健明察の品德を具備し、能く心思未だ動かず・私邪未だ萌えざるの前に先ず防禁を立つ、だから悔恨が消失すると言うなり。《小象伝》の「志未変也」は、まさに君子が一家を防範するに、若し奸邪が出現して乃ち防ぎ・罪惡が顕露して乃ち治めば、即ち及ばざるなり。必ず家人の心志が尚かつ改変せざるの前に預め防閑せば、これ乃ち治家の道と呼ぶがゆえなり。
六二:無攸遂,在中饋,貞吉。象曰:六二之吉,順以巽也。
六二の爻辞にいう。自ら主張を作して成就し去るべきの事なきことなし、只だ家中に於いて飲食祭祀を操持し、正を守れば即ち吉祥なり。《小象伝》の解釈。六二の吉祥なる所以は、それはすでに柔順にしてまた謙遜にして、能く上位の命を承奉するがゆえなり。「遂」は専断独行を指し、「中饋」は家中の飲食供奉の事を指す。
義曰:遂者,專也。夫婦人之事雖治於閨門之內,皆稟命而行也。今六二以陰居陰,處內卦之中,履得其正,是婦人之得正者也,但處於內而無所自專,故云無攸遂也。在中饋貞吉者,夫自古以來,上至天子之后妃,下逮庶人之妻妾,其所職之事不過於奉祭祀、饋飲食而已。故《禮》后有瑤爵之獻、奠盎之事,《詩》有《關雎》《采蘩》,皆后夫人之職也。六二處內任婦職而無所專,所主在於饋食而已,職此而又處其正,故得吉也。象曰六二之吉順以巽也者,言六二所以得吉者,以居中履正,順而且巽,上能稟九五之命也。
「遂」は即ち専断なり。婦人の事務は内室の中に於いて処理するなりと雖も、亦皆家長の命を禀承して行うなり。六二は陰爻が陰位に居りて、また下卦の中位に処し、踏む所の位はすでに中にして且つ正、まさに婦人が其の正を得たるのさまなり。只だ身は内室に処して自ら主張を作する能わざるがゆえに、だから「无攸遂」と言うなり。「在中饋、貞吉」に至っては、自古より、上は天子の后妃より下は平民の妻妾に至るまで、担う所の職事は不過是れ祖先を奉祀し・飲食を供備するのみなり。だから《礼記》の載する所の王后に瑶爵を献じ・盎斉を設くるの事有り、《詩経》に《周南・関雎》《召南・采蘩》の篇有り、写す所は皆后妃夫人の職分なり。六二は内位に安処し・婦人の職を担いて権を擅にせず、主管する所は只だ飲食供奉のみ、この職分を尽くしてまた能く正を守り、だから吉を得るなり。《小象伝》の「順以巽也」は、六二が吉を得るの縁故は中に居りて正を守り、すでに柔順にしてまた謙遜にして、能く上に九五の命令を承うるに在るを講ずるなり。
九三:家人嗃嗃,悔厲吉;婦子嘻嘻,終吝。象曰:家人嗃嗃,未失也;婦子嘻嘻,失家節也。
九三の爻辞にいう。家を治むること厳厲に過ぐれば、家人は愁苦し怨嘆す、悔恨有ると雖も・危険を歴ると雖も、結果は仍として吉祥なり。若し妻子児女を任憑して嬉笑して度なからしめば、最終に必ず羞吝難堪に至らん。《小象伝》の解釈。家人の愁苦怨嘆するは、なお治家の道を失せりと算せず。妻子児女の嬉笑して度なきは、即ち一家の規矩を丟掉せるなり。「嗃嗃」は厳厲を形容し、「嘻嘻」は嬉笑を形容し、「吝」は日に漸く鄙陋難堪を指す。
義曰:嗃嗃,過嚴之貌也;嘻嘻,和樂之貌也。夫治家之道不可專任其慈,雖至過嚴,終亦無所傷矣。今九三以陽居陽,有剛明至正之徳,居下卦之上,為一家之主者也。故為家之主若嗃嗃然嚴肅,使家人內外上下皆有畏懼之心,故雖有悔吝之事、危厲之道,亦得吉也。
「嗃嗃」は管束の厳厲に過ぐるのさまを形容し、「嘻嘻」は嬉笑逸楽のさまを形容す。家を治むるに一味に慈愛に依靠する能わず、たとい厳厲の頭を過ぐるも、終に根本を傷つくる能わず。九三は陽爻が陽位に居りて、剛健明察・極めて端正の品德を具備し、また下卦の最上の一爻に処し、まさに一家の主の位置なり。身は一家の主を為りて厳粛の人をして愁嘆せしむるの地步に至るも、家中の内外上下をして敬畏の心を存せしむれば、だからたとい些かの悔恨の事を招来し・危険の辺縁を走るも、最後はなお吉を得るなり。
婦子嘻嘻終吝者,夫婦子,人之所愛也。若為一家之主而私於所愛,不能嚴正其治,使婦子嘻嘻然和樂,則奸惡由此而萌矣。夫如是,至於終竟必有鄙吝之道也。象曰未失也者,言雖嗃嗃嚴厲,未失治家之道也。失家節也者,若婦子嘻嘻而和樂,是失其治家之節也。
「婦子嘻嘻、終吝」と言うは、妻子児女は本は人の最も疼愛する対象なればなり。若し身は一家の主を為りて所愛に偏私し、能く厳正に管教を施行せず、妻子児女を任憑して嬉笑して度なからしめば、邪悪は便ち此に由りて滋生せん。このように下去せば、到頭来れば必ず鄙陋難堪の地步に落ちん。《小象伝》の「未失也」は、たとい厳厲の人をして愁嘆せしむるに至るも、並びに治家の正道を丟掉せざるを講ずるなり。「失家節也」と言うは、一旦妻子児女をして嬉笑逸楽せしめば、即ち一家の応有の節度を丟掉するに等しきを講ずるなり。
六四:富家,大吉。象曰:富家大吉,順在位也。
六四の爻辞にいう。家庭をして富足せしめば、大いなる吉祥なり。《小象伝》の解釈。富家して大吉なるは、六四が柔順にしてまた応有の位置上に安処するがゆえなり。六四は陰爻が陰位に居りて、得正に属し、また上卦の下に在り、大臣の位なり。
義曰:夫初九既以剛明之徳居卦之初,能防微杜漸,使閨門之內不接於私邪,得正家之初也。六二又能以柔順之體居服勤之職,九三又能過嚴以畏懼其家人,是家道已成。至六四居大臣之位,是君子既正已之家,至此則佐君以正天下之家,故有君之爵祿之富以富其家而得其大吉也。象曰富家大吉順在位也者,六四家道已成之後,當大臣之位,上近於君,是順在其位,以治家之道移於國也,故《孝經》曰「居家理故治可移於國」也。
初九は剛健明察の品德を以て全卦の始めに処し、能く微に防ぎ漸に杜じて、内室をして私邪に沾染せしめざる、これは家道を端正するの開端なり。六二はまた柔順の質を以て操労侍奉の職分を担起し、九三はまた厳厲を以て家人をして心に敬畏を存せしむ。此処に到りて、家道はすでに建成せり。六四に到りては、身は大臣の位に居り、君子は先ず自らの家を端正し、此の時に便ち君主を輔佐して去りて天下の人の家を端正し、それによって君主の賜与するの爵位俸禄の富を享有して自家を富足せしめ、大吉を得るなり。《小象伝》の「順在位也」は、六四が家道すでに成りたる後に大臣を担任し、上面にまた君位に貼近し、柔順に自らの位置上に安処し、家を治むるの弁法を国を治むるの上に移用するを講ずるなり。だから《孝経・広揚名章》に「家に於いて能く家を治理して好くすれば、この份の治理の能は乃ち国家の上に移用すべきなり」と言うなり。
九五:王假有家,勿恤,吉。象曰:王假有家,交相愛也。
九五の爻辞にいう。君王は治家の道を天下の家に推極す、憂慮するに及ばず、自然に吉祥なり。《小象伝》の解釈。君王が治家の道を推極するは、天下の人をして彼此相親愛せしむるなり。「假」は此処では至る・推極するの意、「恤」は憂慮なり。
義曰:九五以剛明中正之徳居於君位,是謂王者能假此治家之道以治於天下者也。故先正其家,使閨門之內莫不一於正,正家而天下定,是為君者以此道而行,則不必憂恤而自得其吉也。象曰王假有家交相愛也者,言聖人能推恩愛於天下之家,父父子子、兄兄弟弟、夫夫婦婦,各以和順之道交相愛樂也。
九五は剛健明察にしてまた中に居りて正を得るの品德を具備し、君位の上に坐す、だから君王は能くこの套の治家の道を推広し開きて去りて天下を治理すと言うなり。彼は先ず自らの家を端正し、内室の上下をして一処も正に帰せざるなからしめ、家正しくして後に天下安定す。君主を為る者は此に照らして行えば、即ち憂心操労するに及ばずして自然に吉を獲得す。爻辞中の「假」はまさに憑借・推極の義。家を治むると天下を治むるは本は一箇の道理、家法は内室に於いて立ち得れば、邦国に推すも亦立ち得べきなり。《小象伝》の「交相爱也」は、聖人は能く恩愛を天下の毎一箇の家庭に推及し、父は慈に子は孝に・兄は友に弟は恭に・夫は義に婦は順にして、人人皆和順の道を以て彼此に親愛し相楽しむを講ずる、刑罰に倚りて駆使するにあらざるなり。
上九:有孚威如,終吉。象曰:威如之吉,反身之謂也。
上九の爻辞にいう。心中に誠信を懐きて外表は威厳にして畏るべし、最終に吉祥なり。《小象伝》の解釈。威厳にして畏るべくして吉を得るは、説く所は先ず反りて自身を端正するなり。「孚」は心の底より発するの誠信を指す。
義曰:孚者,由中之信;威,謂威嚴可畏。上九以剛明之才居家人之極,當家道之成,是能先正其身,發其信於中,而外兼之以威嚴,終成家道,使閨門之內肅然有序而畏敬之,故獲其吉也。象曰威如之吉反身之謂也者,言上九所以有威信而使人畏敬之者,蓋能先修其身而後加於人也。
「孚」は心の底より発するの誠信、「威」は威厳にして人をして敬畏せしむるを指す。上九は剛健明察の才を以て《家人》卦の最上位に処し、まさに家道成就の時に当たり、能く先ず自身を端正し、誠信を心裏より発し出し、外面にまた威厳を以て輔い、終に家道を成就し、内室の中をして整粛して序有り・人人敬畏せしむれば、だから吉祥を獲得す。《小象伝》の「反身之謂也」は、上九のすでに威信を有してまた能く人をして敬畏せしむる所以は、全く彼が先ず自身を修好せしめ、後に乃ち別人に施加するに在るを講ずるなり。
睽 兌下離上
睽:小事吉。
《睽》卦は下卦を兊(兌)と為し・上卦を離と為し、「睽」は乖违背離の意なり。卦辞にいう。乖違の時勢の裏に於いては、唯だ小事のみが乃ち吉を得べきなり。これは人心が離散し、大事は合力して為すに由なく、能く細小の処の和順を守住せば即ち不錯と算すればなり。
義曰:按《序卦》云「家道窮必乖」,故受之以《睽》。睽者,乖也,言家人之道既窮極,則必至於睽異而離散也。小事吉者,夫睽乖之時,上下之情既異,內外之志既乖,天下之人其心皆不同,於時雖有大才大徳之人,亦不能大有所為也。何則?夫君子之道,必將大有為則須上下協心,眾賢同力,無有異志,故發之天下而功業被於世也。今既睽乖,故但小事則可以得吉也。
《序卦伝》に言う。家道は尽頭に走れば必然に乖離す、だから《家人》の後に《睽》を接ぐ。「睽」は即ち乖違、治家の道が一旦窮極すれば、必然に彼此背離し各自離散に走向するを言うなり。いわゆる「小事吉」は、乖違の時に於いては、君臣上下の情意はすでに隔閡し・内外朝野の心志はすでに背離し・天下の人の心思は彼此相同ならざるがゆえなり。この種の時勢の裏においては、たとい大才大德の人有るも、大なる作為有る法なし。何を以てか。君子は大なる事業を成就せんと欲すれば、必ず上下同心・众多の賢者は合力し・異志なきを要し、これで天下に施行して、功業は乃ち世に覆被し得べきなり。今すでに人心は乖離せば、ならば只だ些かの小事を為してなお吉利を得べきのみなり。
彖曰:睽,火動而上,澤動而下;二女同居,其志不同行。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉。天地睽而其事同也,男女睽而其志通也,萬物睽而其事類也。睽之時用大矣哉!
《彖伝》の解釈にいう。《睽》卦は上離は火を為して、火性は上に向かって燃動し、下兊は沢を為して、沢水は下に向かって流動し、両者は各々一方に奔る。離は中女・兊は少女、両箇の女子は一処に同住すれども、將来は各々嫁を為して人に従い、心志は並びに同帰せず。下体は和悦にして上体の光明に依附し、柔爻は上行して尊位に居り、すでに中位を得てまた剛爻と相呼応す、だから小事は吉を獲得すべきなり。天と地は乖隔なれども、万物を生養するの事業は却って相同なり。男と女は乖別なれども、結合して家を成すの心志は却って相通ず。万物の品類は乖異なれども、生に趨き死を避くるの情態は却って同類なり。乖違の時の用処は、真に大いなること甚だしきなりや。
義曰:睽,火動而上,澤動而下者,此釋所以得睽之名也。火本炎上,澤本潤下,水火相資,然後能成功而利萬物也。今乃火動於上,水又動於下,水火不相資,是有睽乖之義也。二女同居,其志不同行者,離為中女,兊為少女,女子之生長必從人,此天理之常也。今二女同居,必有從人之志,是其志不同行,亦睽異之義也。
「火動而上、沢動而下」は、この一卦が何を以て「睽」と呼ぶかを解釈す。火の本性は上に向かって燃焼し、沢水の本性は下に向かって浸潤し、水火は互相に憑借し彼此に調剤して、乃ち功用を成就して万物に利益す。今、火は只管上に向かって動き、水は只管下に向かって動き、両者は互相に憑借せず、これ即ち乖违背離の意味有るなり。「二女同居、其志不同行」は、離卦は中女を象徴し・兊卦は少女を象徴するがゆえなり。女子は長ずれば総に嫁いで人に従う、これ常理なり。両箇の女子は一屋に同住して、各々各々の帰宿の念有り、心志は自然に同路ならず、これも亦乖離の意なり。
說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉者,言暌之時所以得小事之吉者,下以兊說而上以離之大明,猶君子以說順之道而附於大明之人,而又以柔進居至尊之位,所行所為正合於中道,無過無不及,又且下應於九二剛明之臣。夫如是,故小事所以得其吉也。
「説而麗乎明、柔進而上行、得中而応乎剛、是以小事吉」は、乖違の世に於いてなお小事の上に於いて吉を得るの道理を講ずるなり。此処に用うるは「卦徳」、即ち上下両体の各々の性情。下体兊は和悦、上体離は光明。これ譬えば君子が和悦順従の態度を以て去りて一位の明察の君主に依附するがごとし。これに加えて六五は柔爻を以て上行して至尊の位に居り、一挙一動に皆中道に合して、過分ならず亦不及ならず。また下に向かって九二この剛健明察の臣子と相「応」ず――《周易》の言う所の「応」は、初と四・二と五・三と上のこの三組の位次上に於いて陰陽は相配して彼此に呼応するを指すなり。このようの条件有れば、だから小事は能く吉を獲得すなり。
天地睽而其事同也者,此以下廣明睽之義也。言睽之道有自然而合者,若天以髙而處上,地以卑而處下,是睽也,然而陰陽之氣交則生成之事同也,故曰天地暌而其事同也。男位乎外,女位乎內,是睽也,然而相資而成一門之治,則是其志通也,故曰男女睽而其志通也。萬物眾多,品類不同,是睽也,然而好生惡死,樂安懼危,則是其事類也,故曰萬物睽而其事類也。睽之時用大矣哉者,睽乖之世小人眾多,然順時而動者惟大才大徳之人能之,故先聖於此重嘆美之也。
「天地睽而其事同也」以下より、更に進んで乖違の中に自ら相合の処有るを闡明す。天は高く上に在り・地は低く下に在り、位置は乖隔なり。しかし陰陽の二気は一たび交感すれば、万物を化育するの事業は却って完全に一致す、だから天地は乖なりと雖も其の事は相同なりと言うなり。男子は外を主とし・女子は内を主とし、分位は乖別なり。しかし彼此に憑借して共同に一家の治理を成就すれば、心志は便ち相通ず、だから男女は乖なりと雖も其の志は相通ずと言うなり。万物は数量众多・品類各異にして、形態は乖異なり。しかし生を好み死を惡み・安穏を楽しみ危険を畏懼するの情状は、却って同一類なり、だから万物は乖なりと雖も其の事は同類なりと言うなり。「睽之時用大矣哉」に至っては、乖違の世は小人众多にして、能く時勢に順応して動き・離乱の中に於いて人心を收拾するは、唯だ大才大德の人のみが弁じ到るを得れば、だから先聖は此処に於いて再三これを讃嘆す。
象曰:上火下澤,睽。君子以同而異。
《大象伝》にいう。上体は火・下体は沢、火は昇り水は降る、これ即ち《睽》卦の取象なり。君子は此に取法し、人と和同に相処するの同時に、仍として自らの苟合を肯んぜざるの独立操守を保有す。
義曰:火在上,澤在下,二者不相資,故有睽乖之象。夫睽異之時,小人眾多,皆欲加害於君子,故君子與之和同,然外雖和同,內之所存則異也。
火は上に在りて炎上し、沢は下に在りて潤降し、両者は互相に憑借せず、だから乖違の象有るなり。乖離の時勢の裏においては、小人は数を為して众多にして、皆君子を加害せんと欲す、それによって君子は表面上は彼らと和同に相処して、対立を激化し去らず。但し外表は随和すると雖も、内心の守る所の操持は彼らと截然として不同なり。これ即ち「同而異」の分寸なり。
初九:悔亡。喪馬勿逐,自復。見惡人,無咎。象曰:見惡人,以辟咎也。
初九の爻辞にいう。悔恨は消失す。馬を喪失するも逐うに及ばず、それは自ら帰り来らん。凶悪の人に見えば、過咎有ることなからん。《小象伝》の解釈。凶悪の人に見ゆる所以は、眼前の災禍を避けんがためなり。「辟」は「避」に通ず。
義曰:初九居一卦之下,當睽乖之時,上無其應,本有悔者也。然而九四亦無正應,故與初心志相合,逺而相得,其悔所以亡也。喪馬勿逐自復者,馬者至彰顯之物,當睽之時,人心既已乖離,雖喪失彰顯之物,必無有私匿之者,故雖勿逐當自復也。
初九は全卦の最下位に処し、また乖違の時に遇い、上面にそれと相応ずるの爻なし、本來は悔恨有るべきなり。しかし九四も亦同じく正応なし、両爻は同病して相憐れみ心志は相合し、相隔たること遥遠なりと雖も彼此に投契し、悔恨は此に因りて消失す。いわゆる「喪馬勿逐、自復」は、馬は極めて顕眼の大牲口なればなり。乖離の時に当たりて人心はすでに各々相顧みず、たといこのようの顕眼の物を丟失するも、亦人の私に藏匿する者有らざらん、だから去りて逐うに及ばず、それは自然に帰り来らん。
見惡人無咎者,夫險惡之人,其用心皆欲陷害於君子,況睽乖之時小人熾盛,苟不和同而接見,必罹其所害,故見之乃無咎也。象曰見惡人以辟咎也者,夫君子進用於朝,道行天下,則斥逐小人無所畏忌;時既睽乖,雖其惡人亦禮下而接見之,所以避一時之咎也。
「見悪人、无咎」と言うは、陰険凶悪の徒は心を存して皆君子を陥害せんと欲す、まして乖違の時に於いては小人の気焔は正に盛んなればなり。若し彼らと表面上相処するを肯んぜず・接見を拒絶すれば、必然に彼らの毒手を招来せん、だから肯んじて一見すれば返って過咎なきなり。《小象伝》の「以辟咎也」は、君子は若し朝廷に於いて位を得・道は天下に行われれば、自然に小人を斥退して顧忌する所なかるべしと講ずるなり。今、時勢は乖離し、たとい凶悪の人なるも亦礼を以て相待し・見ること一面せん、為す所は眼下のこの一時の禍患を避くるに在りなり。
九二:遇主于巷,無咎。象曰:遇主于巷,未失道也。
九二の爻辞にいう。小巷の裏に於いて君主と相遇う、過咎なし。《小象伝》の解釈。小巷に於いて相遇うは、並びに君子の道を失掉せざるなり。「主」は九二の応ずる所の六五の君を指し、「巷」は曲折して狭窄の小道なり。
義曰:巷者,委曲不正之道也。君子當治平之世,斥逐小人,則可坦然由正道而行;若睽乖之時,人心不同,群小黨盛,皆欲加害於君子,故此九二與五為應,以五為主,不敢顯然相遇於明坦之途,顯然遇之則為小人之所害,但遇之於委曲隘狹之道,乃得無咎。象曰遇主于巷未失道也者,蓋睽之時不可顯然而行,雖由委曲隘狹之巷而得遇於主,亦未失君子之道也。
「巷」は曲折にして正ならざるの小路を指す。君子は太平の世に生れれば、小人を斥退して、坦然として大道上を走るべし。しかし乖違の時に遇上すれば、人心は各々異なり、小人は党を結び勢盛んにして、皆君子を加害せんと欲す。九二と六五は本は相応ずるの一対、六五を以て自らの君主と為すも、敢えて公然と光天化日の大道上に於いて相会せず――公然として相会せば即ち小人に中傷せられん――只だ曲折狭窄の小路上に於いて相見ゆる能くするのみ、これで乃ち過咎なきなり。《小象伝》の「未失道也」は、乖違の時は張揚して行事するに宜しからず、たとい曲折狭窄の小巷を経由して去りて君主に見ゆるも、亦並びに君子の守るべきの正道を丟掉せざるを講ずるなり。留意すべきは、小巷を走るは只だ形跡上の迂回して禍を避くるのみにして、君臣相合する所の憑るは仍として正応の道なり。若しこれを進身を求めて道を枉げて逢迎すると読成せば、即ちこの一爻を誤解せるなり。
六三:見輿曵,其牛掣,其人天且劓,無初有終。象曰:見輿曵,位不當也;無初有終,遇剛也。
六三の爻辞にいう。眼看して車子は拖住せられ、車を拉くの牛は牽掣せられ、車を赶くの人はなお髡髪と割鼻の刑を遭受す。初めは順ならず、最終は却って好結果有り。《小象伝》の解釈。車は拖住せらるるは、六三の処する所の爻位が当ならざるがゆえなり(陰爻が陽位に居る)。初めは順ならずして最終に成る有るは、終に剛健明察の上九に遇上するがゆえなり。
義曰:輿,所以載物而行也。六三以陰居陽,履失其正,上有上九之剛為己之應,己得往而應之;然睽異之時,履於不正,則上下皆欲害之,故若其輿為人之牽曵,其牛為人之拘掣也。其人天且劓者,天當作而字,古文相類,後人傳寫之誤也。然謂而者,在漢法有罪髠其髮曰而;又《周禮》梓人為筍簴作而,亦謂髠其髮也。其人即謂九二九四也,以六三履非其正,皆欲害之,故或來髠其髮,或來劓割其鼻也。
「輿」は即ち物を載せて行走するの車子なり。六三は陰爻なるも却って陽位に居り、踏む所の位置は正を失せり、上面に上九この一剛爻有りて其の正応と為し、本來は前往して相応ずべきなり。但し乖違の世に於いてまた立身正ならず、上下の人は皆それを加害せんと欲すれば、だから車子の人に拖住せられ・牛の人に牽掣せらるるがごとく、寸步も行くこと難し。「其人天且劓」に至っては、胡瑗は以為す、「天」の字は応に「而」の字と作るべく、古文の両字は形近くして、後人の伝抄の誤なり。「而」は漢代の刑法中に於いては鬚髪を剃去するの刑罰を指し、犯罪者の髪を剃るを「而」と呼び、《周礼・考工記》の梓人が鐘磬を懸挂するの笋簴を制作すれば、其の上に刻むの獣形も亦「而」の字を用い、同じく毛髪を剃去するを指すなり。「其人」は指す所は即ち九二と九四のこの両爻。六三は立身正ならざれば、両爻は皆それを害せんと欲し、於是乎一箇は来たりて其の頭髪を剃り、一箇は来たりて其の鼻を割るなり。
無初有終者,六三本以正應於上九,以其履不得正,故小人皆來害之。上九既見六三為小人之所害,故亦疑之,不與六三之從已,是無初也。然六三本以至誠而應上九,初雖不與之應,然其有剛明果斷之才,故終則明知六三之誠而與之應,是有終也。象曰無初有終遇剛也者,言初為上之見疑,然終則知已之誠而與之應,是六三所遇得剛明之人也。
いわゆる「无初有終」は、六三は本來上九と正応を結成すれども、只だ立身正ならざれば、小人は皆来たりて加害すを言うなり。上九は六三が小人に糾纏せらるるを見て、亦それに対して疑心を起し、六三の帰附を接受するを肯んぜず、これ即ち「无初」――起頭は順ならず。しかし六三は本は至誠の心を以て去りて上九に応ずるなり、初めは拒絶せらるると雖も、但し上九は剛健明察・果断に事を決するの才具を具備し、最終に六三の誠意を看清してそれと相応ず、これ即ち「有終」――終に好結果有るなり。《小象伝》の「遇剛也」は、六三は初めは上九に猜疑せられ、到後に上九はそれの誠心を明白にしてこれと相合す、見るべし六三の遇う所は一位の剛強明察の人なり。
九四:睽孤,遇元夫,交孚,厲無咎。象曰:交孚無咎,志行也。
九四の爻辞にいう。乖違の世に於いて孤立して援なきも、却って志同道合の善士に遇上し、彼此に誠信を以て相交る。危険の境地に処すと雖も、却って過咎なきなり。《小象伝》の解釈。誠信を以て相交りて過咎なきは、心中に存する所の志向が施行を得たるがゆえなり。「元夫」は初九を指し、「孚」は誠信なり。
義曰:九四當睽乖之世而無應獨立,是睽之孤者也。元夫,謂初九也。初九以剛明之才處下卦之下而無正應,今九四亦無正應,是其心志相同,體類相契而為配偶也。交孚者,九四初九既不以正而合,是必傾至誠至信以交相待也。厲無咎者,九四雖與初以信相交,然彼此皆不正,故須必常若危厲,則可以免其咎悔也。象曰交孚無咎志行也者,夫當睽乖之時,果無應則所存之志不得行矣,今四乃與初以道相應,是其志得行也。
九四は乖違の世に生れて正応なく、孤零零として独立す、だから「睽孤」と叫ぶなり。「元夫」の指す所は初九なり。初九は剛健明察の才を以て下卦の最下位に処し、亦正応なし。九四も亦同じく正応なし、両者は心志相同・類性相契して、於是乎配偶のごときの同道を結成せり。いわゆる「交孚」は、九四と初九は本は正応の礼に按じて配合せらるるにあらず、只だ至誠至信を傾尽して彼此に相待する能くするのみなり。いわゆる「厲无咎」は、九四は初九と誠信を以て相交ると雖も、但し両爻は各自立身して皆端正と算せず、だから必ず時時に危境に臨むがごとく・戒懼して懈らざれば、乃ち咎悔を免去し得べきなり。《小象伝》の「志行也」は、乖違の時に若し当に応援なければ、胸中の志は施展する由なしと講ずるなり。今、九四は初九と道に依りて相応ずれば、志向は便ち推行を得たるなり。
六五:悔亡,厥宗噬膚,往何咎。象曰:厥宗噬膚,往有慶也。
六五の爻辞にいう。悔恨は消失し、自家の宗党は柔嫩の皮肉を咬開するがごとく轻易に阻碍を清除す、前往して何の過咎あらんや。《小象伝》の解釈。宗党は柔肤を咬くがごとく梗阻を除去す、前往すれば必ず喜慶有らん。「厥宗」は六五と相応ずるの九二を指し、「噬肤」は為すこと極めて容易なるを比喻す。
義曰:六五以陰居陽,履於不正,本有悔者也,然居至尊之位而下應九二之剛陽,故其悔所以亡也。厥宗噬膚者,宗謂九二也。九二既為已之正應,則是已之宗黨也;膚者,柔脆之物,易於噬齧者也。九二本以正而應己,然當睽乖之時,眾皆來肆害於己,故九二之宗排斥此陰邪不正之小人,使之不為害,是易於噬柔脆之物也。
六五は陰爻が陽位に居りて、立身は本は端正と算せず、理に照らせば悔恨有るべし。しかしそれは身は至尊の君位に処し、下面にまた九二この一剛陽の爻と相応ずれば、だから悔恨は消失を得たるなり。いわゆる「厥宗噬肤」。「宗」の指す所は九二。九二はすでに六五の正応なれば、即ちその同宗の党羽に等しきなり。「肤」は柔軟脆嫩の物、咬み起るに毫も力を費さず。九二は本は端正の道を以て上に六五に応ずるも、乖違の時は众多の小人は皆来たりて肆意に君に加害せん。於是乎九二この位の宗党は出面してそれらの陰邪不正の小人を排斥し、彼らをして君を害する能わざらしむ、為し起れば即ち一塊の嫩肉を咬開するがごとく容易なり。
往何咎者,言九二既以至誠來應於己,己往而應之,又何咎哉。象曰厥宗噬膚往有慶也者,言六五之應既在九二,而為小人之間廁,故九二終能噬齧之,不妨己之路,若往而應之,則不惟相合,而又有喜慶之事也。
「往何咎」と言うは、九二すでに至誠の心を以て上に応合し来れば、六五は前往してそれと会合するに、なお何の過咎あらんやと講ずるなり。《小象伝》の「往有慶也」は、六五の正応は本は九二に在り、中間は却って小人に插足阻隔せられ。九二は終にこれらの梗阻を咬穿して除去し、君王が自らと会合するの道路を妨礙せず。六五は前往して相応ずれば、但だ君臣が能く志を合すのみならず、なお可喜可慶の結果を帯来せんと講ずるなり。
上九:睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪冦婚媾,往遇雨則吉。象曰:遇雨之吉,群疑亡也。
上九の爻辞にいう。乖違は極処に到りて孤立し、一頭の污泥を背に満てる猪を見、また一車子の鬼を見る。先ず弓を張りて射んと欲し、随って後に弓を放下す。来たるは並びに強盗にあらず、而も求婚の親家なり。前往して和潤の雨に遇上せば、即ち吉祥なり。《小象伝》の解釈。雨に遇いて吉を得るは、種種の猜疑が皆消散するがゆえなり。「説」は此処では「脱」と読み、卸下・放下なり。
義曰:四以無正應而曰睽孤,今上九處卦之終,是睽乖之極者也。睽乖之極,雖有其道亦不能通,故亦曰睽孤。豕本不潔之物,而又負其泥塗,是穢之甚者也。言六三為己之正應,而在九二九四之間,故已之視乎六三必有猜貳之心、狐疑之惑,若視豕之負塗然,穢惡之甚也。
九四は正応なきがゆえに「睽孤」と称せられ。上九は全卦の末尾に処し、乖違は極点に到り、たとい相応ずるの爻有るも亦通達する法なし、だから同じく「睽孤」と称す。猪は本来即ち不潔の物、まして背上にまた污泥を沾満せば、あれは髒れること極点に到れり。これは六三が本は上九の正応なりと雖も、却って九二・九四の両箇の陽爻の間に夾るを言うなり。上九は六三を見て、心裏は必ず猜忌両端・狐疑不定の念頭を生出し、即ち一頭の污泥を背負うの猪を見るがごとく、それを汚穢不堪と覚ゆるなり。
載鬼一車者,鬼者虛無而不可見也,車之所不可載者也。今上九見六三在九二九四之間,故疑其穢惡,若見一車之鬼,是其造虛成實,以無為有,妄偽之甚也。先張之弧者,言六三本為己之應,今既廁於二陽之間,故上反疑之,張其弧矢欲以攻之也。
「載鬼一車」と言うは、鬼は虚無縹緲にして・見えも触れもせず、本来即ち車子の能く装载するの物にあらざればなり。上九は六三が九二・九四の間に夾るを見て、便ちそれを汚穢不正と疑心し、満満たる一車の鬼を見るがごとし――これは虚幻を事実と当成し・なきのを有ると説成す、猜忌は荒謬の極点に到れり。「先張之弧」と言うは、六三は本は上九の正応なりと雖も、今は両箇の陽爻の中間に夾り、上九は返ってそれに対して疑心を起し、弓箭を張開してそれを射んと欲すを講ずるなり。
後說之弧者,上卦為離,離為火,火性至明,上九處離之極,明之至者也;下卦為兊,兊為水,水性至潔,六三處兊之極,至潔者也。六三本以至誠來應於己,為小人之所廁,至於致疑,然上九以至明之性,故終能察六三之至清而審其至誠,遂說去其弧而與之會合也。
「後説之弧」と言うは、上卦は離にして、離は火を象徴し、火性は最も明亮、上九はまた離体の頂端に処し、明察の極処に到れるなり。下卦は兊にして、兊は水を象徴し、水性は最も潔浄、六三は兊体の頂端に処し、潔浄の極処に到れるなり。六三は原本至誠の心を以て前来して相応ずれども、只だ小人に中間に插たれて猜疑を招致せり。上九はすでに極めて明察の本性有れば、終に六三の清白を看清し・其の誠意を審明し、於是乎弓箭を卸下し、それと会合す。
匪冦婚媾者,六三本以正道應己,然以二陽所間,故不得會合,今既察明六三之情偽,是雖讒言不能間之而終得會合也。往遇雨則吉者,雨者陰陽之和也,今上九之陽合於六三之陰,則是和而得吉也。象曰遇雨之吉群疑亡也者,言上九始以小人之讒間六三,故疑之而不與之應,然上九有剛明之徳,知六三以至誠而來應,遂不疑而與之會遇和合,是群疑亡也。
「匪冦婚媾」と言うは、六三は本は正道を以て来たりて上九と相応ずれども、只だ両箇の陽爻に隔断せられて会合する能わざるがゆえなり。今、上九はすでに六三が真誠なるや虚偽なるやを看清せれば、便ち讒言なるも亦彼らを離間する能わず、最終に結合を得たるなり。「往遇雨則吉」と言うは、雨は陰陽が交感して和合するの産物なればなり。上九の陽と六三の陰と相合すれば、まさに陰陽調和して吉を得るの象徴なり。《小象伝》の「羣疑亡也」は、上九は初めは小人の讒言を聴信して六三を疏远し、それによって猜疑して相応ずるを肯んぜざりしを講ずるなり。但し上九は剛健明察の品德を具備し、終に六三が至誠を以て帰するを明白にし、於是乎疑慮を打消してそれと相会して和合す、種種の猜疑は此に就きて煙消雲散せり。
蹇 艮下坎上
蹇:利西南,不利東北;利見大人,貞吉。
《蹇》卦は下卦を艮と為し・上卦を坎と為し、「蹇」は行走艱難・時局多難の意なり。卦辞にいう。西南方に往くは利有り、東北方に往くは不利なり。大德大才の人に見ゆるに宜しく、正道を守持すれば即ち吉祥なり。西南は坤に属し、平曠にして養育するの地なり。東北は艮に属し、山高くして路険なるの地なり。
義曰:按《序卦》云「乖必有難」,故受之以《蹇》。蹇者,難也,言睽乖之時,上下離異,人心不同,必有蹇難,此《蹇》之所以次於《睽》也。利西南者,西南坤位也,坤者致養之地,廣大寛平,生育之所也。夫當蹇難之世,生靈不得其安,民物不遂其所,人人思治之時也;若聖賢之人治天下之蹇,則置民於寛廣生育之域,然後得其安而至於太平也。
《序卦伝》に言う。乖離の後に必ず患難有り、だから《睽》の後に《蹇》を接ぐ。「蹇」は即ち艱難。乖違の時は上下彼此に背離し・人心は各々相同ならず、必然に険艱困厄を生出す、これ即ち《蹇》卦の《睽》卦の後面に排列せらるるの縁故なり。いわゆる「利西南」は、西南は後天八卦の中に於いて坤位に属し、坤は化育長養の地・広大平坦にして、万物生長の所在なればなり。艱難の世に当たりて、百姓は安寧を得ず、人と物は皆各々其の所に安んずる能わず、人人は皆人の来たりて局面を收拾せんを盼望す。若し聖賢の人有りて来たりて天下の艱難を治理せば、即ち応に百姓を寛広にして能く生養するの地方に安置して去り、後に乃ち彼らをして安頓し下り・進んで太平に走向せしむべきなり。
不利東北者,東北艮位也,艮為山,山者險阻不通之地也。若聖賢之人出民於險阻而置之安平,則是治蹇之道也;若復納諸險阻之地,則其民愈困而其道愈窮,故利西南而不利東北也。利見大人者,言蹇之時欲治天下之險、釋天下之難,必利見其大才大徳之人也。貞吉者,蹇難之作,由上下人心乖異不正而然,今濟天下於無事,則必本諸大正之道,然後乃吉也。
いわゆる「不利東北」は、東北は艮位に属し、艮は山を象徴し、山は険阻にして行くこと難く・道路は通ぜざるの処なればなり。聖賢は百姓を険阻の中より帯出し、平坦安穏の地方に安置し、これ乃ち艱難を解救するの弁法なり。若し返ってまた彼らを険阻の地に塞回せば、百姓は只だ更に困頓し、出路も亦愈々窮絶せん、だから西南に利して東北に利ならずと言うなり。いわゆる「利見大人」は、艱難の時に於いて天下の険阻を平治し・天下の困厄を解き開かんと欲すれば、必ず大才大德の人の出来せば乃ち可なりを言うなり。いわゆる「貞吉」は、艱難の産生は本より上下の人心の乖離不正に源するがゆえなり。今、天下を拯救して平安無事に到らしめんと欲すれば、必ず大中至正の道を以て根本と為して、これで乃ち吉を得べきなり。
彖曰:蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉!蹇利西南,往得中也;不利東北,其道窮也。利見大人,往有功也;當位貞吉,以正邦也。蹇之時用大矣哉!
《彖伝》の解釈にいう。《蹇》は即ち艱難、坎険は前面に横たわる。険阻を見て能く停まりて進まざる、これ乃ち明智なりや。「蹇利西南」は、あそこに前往すれば中道に合乎を得べきがゆえなり。「不利東北」は、あの路は尽頭に走れば即ち窮尽するがゆえなり。「利見大人」は、前往して投奔すれば便ち功業を建立し得べきがゆえなり。「当位貞吉」は、各爻は各々其の位に安んじ・正道を守持して、足りて邦国を端正するがゆえなり。艱難の時の功用は、真に大いなること甚だしきなりや。
義曰:此因二體以釋其義也。坎為險在上,故曰險在前也。見險而能止,知矣哉者,坎為險,艮為止,見險在前,止而不進,是其知也。蹇利西南往得中者,西南寛廣生育之地,民在蹇難,置之此則得其安居而各遂其所,是往而得其中道者也。不利東北其道窮也者,東北險阻之地,民在蹇難,復置之此則其民愈蹇,是其道之窮也。
この一段は上下両体に就きて卦義を解釈す。坎は険陥を象徴して上体に居る、だから険阻は前面に横たわると言うなり。「見険而能止、知矣哉」は、坎を険と為し・艮を止と為すがゆえなり。険阻の当前を見て能く停住して冒進せざる、これ即ち明智なり。「蹇利西南、往得中也」は、西南は寛広にして能く生養するの地方、百姓はまさに艱難の中に陥れり、彼らをあそこに安置せば、即ち能く安居して各々其の願いを遂げ、これ便ち前往して中道に合乎するなりと言うなり。「不利東北、其道窮也」は、東北は険阻の地、百姓はまさに艱難の中に陥れり、再び彼らをあそこに放れば、只だ愈々困蹇するのみ、この路は即ち走絶したるなりと言うなり。
利見大人往有功也者,夫大人與天地合徳,日月共明,有仁義之心,經綸之志,民被塗炭,往而見之,共以解其蹇難,致其安平,則是往而有功也。當位貞吉以正邦也者,謂五得其君之正,二得其臣之正,各當位而守正,故能正邦也。蹇之時用大矣哉者,蓋蹇之時必得大才大徳之人,然後可以解天下之蹇,故先聖於此重嘆美之也。
「利見大人、往有功也」は、大人の徳行は天地と相合し、光明は日月と並び明るく、仁義の心と天下を経緯するの志向を懐抱す。百姓はまさに水深火熱に陥れり、前去して彼に投奔し、共同にこの場の艱難を解き開き、天下を安寧太平に帰せしむれば、これ即ち前往して能く功を建つるなり。「当位貞吉、以正邦也」は、九五は君主を為るの正位を得、六二は臣子を為るの正位を得、各自位に当たりて正道を守持すれば、だから能く邦国を端正すを言うなり。「蹇之時用大矣哉」は、艱難の時は必ず大才大德の人を得て、後に乃ち天下の困局を解き開く可能あれば、だから先聖は此処に於いて再三これを讃嘆す。
象曰:山上有水,蹇。君子以反身修徳。
《大象伝》にいう。山の上にまた水有り、山高くして水険しく・層層に阻隔す、これ即ち《蹇》卦の取象なり。君子は此に取法し、困厄に遇いて外に向かって埋怨せず、而も回頭して来たりて自身を省察し・自らの徳行を修養す。
義曰:山者,險阻之物,水流於險阻之上,其勢必不能通,是蹇之象也。君子以反身修徳者,言君子罹此蹇難,不怨天,不尤人,但反己之身,修飭其徳而已。《孟子》曰「愛人不親反其仁,治人不治反其智,禮人不答反其敬」,此之謂也。
山は本來即ち険阻の物、水はまたこの険阻の上に流れれば、水勢は必然に暢通する法なし、これまさに艱難の象徴なり。君子の「反身修徳」と言うは、君子がこのようの困厄に遭遇して、すでに上天を埋怨せず、亦別人を責怪せず、只だ反躬自省して自らの徳行を整飭するのみなりと講ずるなり。《孟子・離婁上》に「人を愛護するも人は親近せざれば、即ち自らの仁を反省し、人を治理するも治理して好くならざれば、即ち自らの智を反省し、礼を以て人に待するも人は回応せざれば、即ち自らの敬を反省す」と言う、講ずる所はまさにこの意思なり。
初六:往蹇來譽。象曰:往蹇來譽,宜待也。
初六の爻辞にいう。前往すれば則ち艱難に遇い、退き戻れば則ち美誉を得る。《小象伝》の解釈。前往して艱難にして退き戻りて誉を得るは、此の時は応に時機を等待すべければなり。「来」は此処では返回・退守して本位に在るの意なり。
義曰:夫蹇難之世,坎險在前,君子居之,必量時度勢而進,以自保其明。今初六居卦之始,在險難之初,若不顧其危,沖冒而進,則蹇難愈甚;若翻然知幾,觀時可否,可退則退,復其所處,不陷躁失,則保全其道,得其嘉美之譽,故往蹇來譽。象曰往蹇來譽宜待也者,言君子當蹇難之初,險阻在前,未可以進,宜退而自處,以待其時也。
艱難の世に於いては、坎険は前面に横たわり、君子は身は其中に処し、一定に時勢を衡量して再び進退を決定し、以て自らの明智を保全せねばならず。初六は全卦の起頭に処し、まさに険難は剛く起るの時に当たる。若し危険を顧みず貿然として衝上せば、困厄は只だ更に深からん。若し能く猛然として苗头を察覚し、時機の可行不可を看清し、退くべきに退きて、自ら本来の位置に帰到り、躁進して拠を失うの過失に落入せざれば、ならば正道を保全し、美好の声譽を贏得す、だから「往蹇来誉」と言うなり。《小象伝》の「宜待也」は、君子は艱難の初起・険阻の当前に当たるの際に前進すべからず、応に退守して自ら処り、静候して為すべきの時を俟つを講ずるなり。
六二:王臣蹇蹇,匪躬之故。象曰:王臣蹇蹇,終無尤也。
六二の爻辞にいう。君王の臣子は艱難の中に一再に難を犯して行く、並びに自ら一身の故のためならず。《小象伝》の解釈。王臣は難を冒して進みて、終に過失有ることなからん。「匪」は即ち非、「躬」は自身なり。
義曰:蹇難之時,人人皆有所患而不可動,故初則往蹇來譽,三則往蹇來反,四則往蹇來連,獨此六二云王臣蹇蹇者,蓋以其處人臣之位,履中居正,上應於九五之君,而君在蹇難之中,必盡忠竭力,奮死不顧,雖重險在前,亦沖冒而往也。
艱難の世は人人皆顧慮を有して敢えて軽動せず、だから初六は「往蹇来誉」と言い、九三は「往蹇来反」と言い、六四は「往蹇来連」と言い、皆退守なり。唯だ六二は「王臣蹇蹇」と言い、一味に前に向かう、これは六二が身は臣子の位に処し、すでに下卦の中位に居りてまた陰爻が陰位に居り、中正を兼備し、上に向かってまた九五の君と相応ずるがゆえなり。君主はまさに艱難の中に陥れり、臣子を為る者は必ず忠を尽くし力を竭し、身を奮い顧みず、縦に重重の険阻が前面に横たわるも、亦険を冒して前往せねばならず。
匪躬之故者,六二所以冒犯險難而進者,非其一身之故,蓋上以為君,下以為民,救天下之蹇也。象曰王臣蹇蹇終無尤也者,凡為人臣,苟不盡忠竭節,見危授命,則有不忠之罪;今六二既能盡忠竭節,不恤其身以救天下之蹇,故終無尤也。
「匪躬之故」と言うは、六二の険難を冒して前進する所以は、並びに自らのために打算するにあらず、而も上は君主のため・下は百姓のため、天下の困厄を解救せんと欲するなりと講ずるなり。《小象伝》の「終无尤也」は、凡そ臣子を為る者は、若し忠を尽くし節を守り・危難の関頭に於いて性命を献出する能わざれば、即ち不忠の罪名を担ぐと講ずるなり。六二はすでに能く忠節を竭尽し、自身の安危を顧惜せず去りて天下の難を解救すれば、だから終に責怪を招来せざるなり。
九三:往蹇來反。象曰:往蹇來反,內喜之也。
九三の爻辞にいう。前往すれば則ち艱難に遇い、本位に返回せば便ち安頓を得る。《小象伝》の解釈。往けば艱難・返れば安頓、下面の両爻は皆その回帰のために歓喜するがゆえなり。「内」は下卦の初六と六二を指す。
義曰:九三以陽剛之徳居下卦之上,為初六六二之所恃也。然而險難在前,往則愈蹇,若君子之人能知時之不可行、度勢之不可用,反而自處以守其正,則得其所安,故曰往蹇來反也。象曰往蹇來反內喜之也者,既退而反居其本位,則不惟己獲其安,兼下之二爻皆得其所恃,安止而不犯於難,是內有喜恱之事也。
九三は陽剛の品德を以て下卦の最上の一爻に居り、初六・六二の両箇の陰爻の依靠する所の対象なり。しかし険難は即ち前頭に在り、前進は只だ更に困ならん。若し君子が能く時機の行くべからざるを明白にし・形勢の用うべからざるを估量し、身を返して退守して其の正を固持せば、即ち安頓を得べし、だから「往蹇来反」と言うなり。爻辞裏の「反」は即ち本位に返回す、「往」と相対して、並びに退缩して難を畏るるにあらざるなり。《小象伝》の「内喜之也」は、九三すでに自ら本来の位置に退回せば、但だ自身が安を得るのみならず、下面の両爻にも連なりて皆依靠を保住し、安然として止步して去りて険難を触犯せざれば、だから「内」――亦すなわち下卦の初六と六二――には皆可喜可悦の事有るを講ずるなり。
六四:往蹇來連。象曰:往蹇來連,當位實也。
六四の爻辞にいう。前往すれば則ち艱難に遇い、退き戻れば則ち下面の諸爻と牽連して相守る。《小象伝》の解釈。往けば難・来れば連、六四の処する所の位は恰当にして、また能く陽剛の実に親附するがゆえなり。「連」は牽連・結伴の義なり。
義曰:連者,牽連之謂也。六四以陰居陰,得正者也,然而蹇難之世,坎險在前,冒昧而進,愈必有難而入於深險;若能知時之不可行,退而牽連下之三爻,止而自守,則得其安也。註疏讀連字從上聲,言四往來進退之間皆有蹇難而不利。夫蹇之時,其險在前,故君子止而不往,若退而守,不務其進,則復何蹇難之有?此註疏之失也。象曰往蹇來連當位實也者,言四以陰居陰,得正當位者也。陽為實,今四連下之陽,是當位而附得其實也。
「連」は牽連して結伴するの意なり。六四は陰爻が陰位に居りて、得正に属す。但し艱難の世に於いては、坎険は前面に横たわり、冒失に前進は只だ陥ること更に深からん。若し能く時機の行くべからざるを明白にし、退き戻りて下面の三爻と聯結して一処に成り、止步して自守せば、即ち安穏を得べし。旧有の《周易正義》は「連」の字を上声と読作し、六四が来々往々・進退の間に皆艱難有りて利を得ざると解成せり。其の実、艱難の時は険阻は前に在りて、君子は本より応に止まりて往かざるべし。すでに退守して前進を謀らざれば、また何処に何の艱難あらんや。これは《正義》の解錯せるなり。《小象伝》の「当位実也」は、六四は陰爻を以て陰位に居り、正を得て位に当たるを講ずるなり。陽は充実を為し、六四は下に向かって九三の陽に聯結す、まさに位に当たりて充実可靠の一方に依附し到れり。
九五:大蹇朋來。象曰:大蹇朋來,以中節也。
九五の爻辞にいう。身は大難の中に処して、同心の朋友は前来して相助す。《小象伝》の解釈。大難にして朋来たるは、君臣の双方は皆中道の節操を守住する能くするがゆえなり。「朋」は九五と相応ずるの六二を指す。
義曰:五居蹇難之世而處坎險之中,是蹇之大者也,有若天下未安、人民未治之時也。而九五居中履正,能任六二之臣,二又得人臣之正,故盡心竭力以輔於己,是其朋來也,如湯之救夏而得伊尹、武王救商而得呂望之類也。象曰大蹇朋來以中節也者,言五以剛中得人君之節,二以柔中得人臣之節,是君臣之間皆能以中節也。
九五は艱難の世に生れ、また正に坎険の中央に処し、困厄の最も深重なるの一爻、譬えば天下は未だ安定せず・百姓は未だ治理せられざるの時のごとし。但し九五は上卦中位に居りて立身は端正にして、能く六二この位の臣子を信任す。六二もまた人臣たるの正道を守住し、だから心を尽くし力を竭して来たりて君王を輔佐す、これ即ち「朋来」なり。商湯が夏末の乱を解救して伊尹を得、周武王が商紂を討伐して呂望を得たるがごとし。《小象伝》の「以中節也」は、九五は陽剛を以て中に居りて、人君の応有の節操に合し、六二は柔順を以て中に居りて、人臣の応有の節操に合し、君臣の双方は皆中道の分寸を守住する能くするを講ずるなり。
上六:往蹇來碩,吉,利見大人。象曰:往蹇來碩,志在內也;利見大人,以從貴也。
上六の爻辞にいう。前往すれば則ち艱難に遇い、退き戻れば則ち碩大の収穫有り、吉祥、大德大才の人に見ゆるに宜しからん。《小象伝》の解釈。往けば難・来れば碩、それの心志は内卦に係るがゆえなり。大人に見ゆるに利するは、それの追随する所は尊貴の人なればなり。「碩」は大にして豊厚なり。
義曰:上六處蹇之極,居一卦之外,難將終者也。夫險極必平,難極必安,當此之時不可復有所往,若往則益蹇,反而退居其位,下應九三以守碩大之徳,則得其吉道,故曰往蹇來碩吉也。利見大人者,言險難將終,但能附麗賢明大才大徳之人,則可以逺出險難而持久於治,不須復有所往也。象曰往蹇來碩志在內也者,言上所以來則有碩大之徳者,蓋志應在內卦之九三也。利見大人以從貴也者,陽爻至尊貴者也,今上六能利見大才大徳之人以終其難,是從者貴也。
上六は《蹇》卦の最上位に処し、一卦の外に居り、艱難は將に過去せんとするの時なり。険は極処に到れば必ず転じて平坦と為り、難は極処に到れば必ず転じて安寧と為る。此の時は応に再び前往する所有るべからず、前往は只だ更に困ならん。退き戻りて本位に安居し、下に向かって九三と相応じ、碩大豊厚の徳行を守住せば、即ち吉祥の路上に走上するに如かず、だから「往蹇来碩、吉」と言うなり。いわゆる「利見大人」は、険難將に尽きんとするの際に、只だ能く賢明にして大才大德の人に依附せば、即ち険難を遠離し・長久に治世を維持して、必ずしも再び別に往く所有るに及ばざるを講ずるなり。《小象伝》の「志在内也」は、上六が退き戻れば便ち碩大の徳有るの縁故は、其の心志が内卦の九三に係るに在るを講ずるなり。「以从貴也」と言うは、陽爻は最も尊貴なればなり。上六は能く大才大德の人に親近してこの場の艱難を結束すれば、だからそれの追随する所はまさに尊貴の一方なり。
解 坎下震上
解:利西南,無所往,其來復吉;有攸往,夙吉。
《解》卦は下卦を坎と為し・上卦を震と為し、「解」は患難の消散・緊張の緩解の意なり。卦辞にいう。西南方に往くは利有り。若し去るべからざらざるの地方なければ、原処に帰到りて安守すれば即ち吉祥なり。若し確実に去りて処置すべきの事有れば、早めに去りて弁ずれば即ち吉祥なり。「夙」は及早く・快を趁るなり。
義曰:按《序卦》云「物不可以終難」,故受之以《解》。解者,緩也,言天下之民不可使終受其難,必有聖賢之人往以濟之,故《解》之所以次於《蹇》也。利西南者,西南寛廣生成之地也。夫聖賢之人解天下之患難,除生民之疚疾,必須發仁義之道,躋之寛平之所,使皆遂其生成,然後利也。不言不利東北者,東北險阻之地,解之時聖人止務散釋天下之難,不復更有險阻,故不言東北也。
《序卦伝》に言う。事物は永遠に艱難の裏に困る能わず、だから《蹇》の後に《解》を接ぐ。「解」は即ち舒緩。天下の百姓は彼らをして一直に難を受けしむる能わず、必然に聖賢の出来して救助有るを要す、これ即ち《解》卦の《蹇》卦の後面に排列せらるるの縁故なり。いわゆる「利西南」は、西南は坤に属し、寛広にして能く万物を長養するの地方なればなり。聖賢は天下の禍患を解き開き・百姓の病痛を除去せんと欲すれば、必ず仁義の道を推行し、彼らを寛平の処に提携して去り、人人をして皆生長安頓し得せしむ、これで乃ち利有ると算すべきなり。卦辞は再び「不利東北」と言わざるは、東北は険阻の地なればなり。難を解くの時に到りては、聖人は一心に只だ天下の困厄を化解するに在り、眼前にすでに再び言うべきの険阻なし、だから必ずしも再び東北を提せずなり。
無所往其來復吉者,夫聖賢所以有所往者,蓋以天下之民在於患難,故欲拯而濟之也。今天下之患難既解,若復有所往,則是煩擾其民而事愈瀆亂,自取其弊敗之道,若《屯》之彖言「勿用有攸往」是也,但來而復其所,有獲其吉也。有攸往夙吉者,言聖賢積心處慮,恥一物之失所,今難解之時,天下之民雖已權安,然其間有所未濟,亦當趨往而解之,以速為尚,則可得而吉也。
「无所往、其来復吉」と言うは、聖賢の奔走有為を要する所以は、本より天下の百姓が患難の中に陥れるに由りて、去りて彼らを拯救せんと欲すればなり。今、患難はすでに化解せられ、若しなお不断に挙動有らんと要すれば、則ち百姓を攪擾するに成り、事情は返って愈々乱れを弄し、自ら敗壞を招来す、まさに《屯》卦の彖辞の言う所の「前往する所有る勿れ」のごとし。此の時は只だ原処に退回して安守せば、即ち吉を得べきなり。「有攸往、夙吉」と言うは、聖賢は心を存し意を用いて、一人一物の其の所を得ざる有るを以て恥と為すがゆえなり。今、難はすでに解けりと雖も、天下の百姓は暫時安定すと雖も、其中に仍として未だ救済に至らざるの地方有れば、亦応に赶て行きて化解し、迅速を以て上と為して、これで乃ち吉を得べきなり。
彖曰:解,險以動,動而免乎險,解。解利西南,往得眾也;其來復吉,乃得中也;有攸往夙吉,往有功也。天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲拆。解之時大矣哉!
《彖伝》の解釈にいう。《解》卦は下坎は険を為し・上震は動を為し、険境に処して能く奮動し、一動すれば便ち険陥を脱出す、これ即ち「解」なり。「解利西南」は、あそこに前往すれば衆人の帰心を得べきがゆえなり。「其来復吉」は、退回して安守して乃ち中道に合乎するがゆえなり。「有攸往夙吉」は、及早に前往すれば便ち功效を建立し得べきがゆえなり。天地の気は舒解し開けば、雷声と雨水は随って発す。雷雨は一たび作れば、百果草木は皆殻を破りて芽を抽す。難を解くの時の意義は、真に大いなること甚だしきなりや。
義曰:坎為險,震為動,動於險之外,是聖賢之人動而能拯天下之險,使皆出於難也,故曰解險以動,動而免乎險,解也。解利西南往得眾也者,言聖賢既以仁義之道除釋民之患難,而置之於寛廣生育之地,使各得其所,以此而行,則必得天下之眾心也。
坎は険陥を象徴し、震は奮動を象徴し、坎険の外に於いて震動す、まさに聖賢が挺身して動き、能く天下を険境の中より拯救し出して、人人をして苦難を脱離せしむる能くするを表示す、だから「険以動、動而免乎険、解」と言うなり。《蹇》卦は艮止は坎険の下に在りて、険を見て止まる。《解》卦は却って震動は坎険の上に在りて、動きて険を出ず、両卦の分別は即ち此処に在り。「解利西南、往得衆也」は、聖賢はすでに仁義の道を用いて百姓の患難を解除し、また彼らを寛広にして能く生養するの地方に安置し、各々其の所を得せしむれば、このように施行せば、必然に天下衆人の心を贏得せんと言うなり。
其來復吉乃得中也者,夫天下之難既解,若復有所往,則瀆亂已甚之道也,若不往而煩擾其民,守其止靜,則得中也。有攸往夙吉往有功也者,言患難既解之後,或天下之民有未得其所者,聖賢之人不可遲緩,必汲汲而拯之,言速則有功也。
「其来復吉、乃得中也」は、天下の困難はすでに解き開けり、若し再び一味に挙動有らば、即ち事情を混乱不堪に攪じるなりと言うなり。若し出でて行きて百姓を騒擾せず、静定を守住せば、乃ち中道に合乎すると算すべきなり。「有攸往夙吉、往有功也」は、患難解除の後に、もしなお百姓の安頓し好くせられざる者有らば、聖賢は即ち遅疑拖延すべからず、必ず急切に前去して拯救せねばならずと言うなり。爻辞裏の「夙」はまさに早を趁るの義。愈々快く手を動かせば、愈々能く実効を収むる能くす。これは前の一句の「无所往」と矛盾せず――事なき時は静を守り、事有る時は早を赶る、分寸は皆一箇の「時」の字上に在るなり。
天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲拆者,夫天在上,地在下,氣不交則雷雨不作而萬物不生,故天以陽氣降於下,地以陰氣升於上,陰陽相蒸,剛柔始交,則必有屯難。屯難既解,故鼓之為雷,蒸之為雨,雷雨盈滿,則百果草木皆敷甲而拆,以至句者、萌者、動者、植者,皆乘時而獲其亨通矣。
「天地解而雷雨作、雷雨作而百果草木皆甲拆」と言うは、天は上に在り・地は下に在り、二気は相交ぜざれば雷雨は興らず・万物は生は生ぜざればなり。だから天は陽気を降下せしめ、地は陰気を昇上せしめ、陰陽は互相に蒸騰し、剛柔は始めて交合し、其の間は必然に一段の鬱結して通じ難きの階段を経歴す。この段の鬱結が一旦舒解すれば、鼓蕩して出ずるは即ち雷と為り、蒸騰して出ずるは即ち雨と為る。雷雨は充沛すれば、百果草木は便ち皆外殻を撑開し・芽を抽して綻裂す。以て蜷曲する者・初萌する者・能動する者・根を扎るるの各類の生物に至るまで、皆この時節に乗じて通暢の生長を獲得す。
解之時大矣哉者,按諸卦或言時義,或言時用,而此止言時者,蓋難解之時無不釋,故止言時耳。若《蹇》之時用,是天下在於蹇而始將治之,故必有所用,是以言用也。又《遯》卦言時義之類,是皆義有所存之時,故言義也。此卦於義、用並無所取,故不言也。
「解之時大矣哉」この句の讃嘆に至っては、胡瑗は指出す。《周易》の各卦の讃語は、有るは「時義」と言い・有るは「時用」と言う、此処は却って只だ「時」と言うのみ。難を解くの時は天下に釈せざるなければ、単に一箇の「時」の字を説くに足れればなり。《蹇》卦の「時用」と言うがごときは、あれは天下がまさに艱難に陥れり・才に治理に着手せんと欲し、必ず施用する所有るを要すれば、だから「用」の字を標出す。《遯》卦の一類の「時義」と言うは、あれは其中に別に辨明を要するの義理有れば、だから「義」の字を標出す。《解》卦は「義」と「用」の両方面に於いて皆別に取意を立てず、それによって皆提せざるなり。
象曰:雷雨作,解。君子以赦過宥罪。
《大象伝》にいう。雷は動き雨は降り、鬱結は舒解す、これ即ち《解》卦の取象なり。君子は此に取法し、人の過失を赦免し・人の罪愆を寛宥す。「宥」は寛に従りて処置するなり。
義曰:雷雨既作,則蟄蟲昭蘇,草木甲拆,解之義也。天下之民方此難解之時,始出於塗炭,其有過惡,遷善逺罪,蓋舊染汙俗,化上薄惡之政而然也,故君子之人當此之時,有過者赦之,有罪者宥之,使之改過自新,遷善逺罪,蓋難解之道也。
雷雨は一たび発せば、蛰伏の虫豸は蘇醒し、草木は殻を破りて芽を抽す、これまさに「解」の意義なり。天下の百姓はこの患難の初めて解けたるの際に、才に水深火熱の中より走出し来れるなり。彼らの此の前の過錯惡行は、本は旧日の敗壞風気に沾染し・上面の刻薄暴虐の政令に濡化せられて乃ち造成せられたるなり。だから君子はこの時に於いて、過失有るの人に対しては赦免を予以し・罪愆有るの人に対しては寛宥を予以し、彼らをして改過自新し・善に向かい罪を遠くせしむ、これまさに苦難を化解するの応有の弁法なり。
初六:無咎。象曰:剛柔之際,義無咎也。
初六の爻辞は只だ言う。過咎なし。《小象伝》の解釈。剛爻と柔爻は交接して相配す、義理に按ずれば自然に過咎なきなり。「際」は交接会合なり。
義曰:夫民在患難,非聖賢則不能濟,然濟民之難務在於速,不可使之久困也,故卦言有攸往夙吉,彖曰往有功也,是濟難在於速也。今初六居卦之下,當解之初,天下之難盡已解釋,而無有所咎矣。象曰剛柔之際義無咎也者,九四剛也,初六柔也,剛柔交際,同心以解天下之難,其義自然無咎矣。以時言之,則患難初解,亨通將至,其義必無咎悔也。
百姓は患難の裏に陥り、聖賢なくんば救済する法なし。而も百姓を救済するの関鍵は快に在り、彼らをして長久に困頓せしむる能わず。だから卦辞は「有攸往、夙吉」と言い、《彖伝》は「往有功也」と言う、皆難を解くは迅速を貴ぶを講解するなり。初六は全卦の最下に処し、まさに難を解くの初めに当たり、天下の困厄はすでに全部化開せり、それによって何の過咎有ることなからん。《小象伝》の「剛柔之際、義无咎也」。九四は剛爻・初六は柔爻、両者は交接して相配し・同心協力して去りて天下の難を解き開けば、理に按ずれば自然に過咎なきなり。時勢に就きて言えば、患難は剛く解除せられ・亨通は將に到来せんとす、道理の上より講ずるも亦必定に咎悔有ることなからん。
九二:田獲三狐,得黃矢,貞吉。象曰:九二貞吉,得中道也。
九二の爻辞にいう。打猟して三隻の狐狸を捕獲し、また黄色の箭矢を得、正を守れば即ち吉祥なり。《小象伝》の解釈。九二は正を守りて吉なるは、それは中道を得たるがゆえなり。「田」は田猟、黄は中央の色、矢は其の正直を取るなり。
義曰:田,獵也。狐者,隠伏多疑之獸也。三者,言其象也。蹇難初解,民心尚疑,猶恐未脫於難而又入於蹇,故君子當行其教化,革其殘暴之政,易服色,改正朔,以新天下之耳目,使民心無所疑矣,如以田獵而獲三狐,猶言群疑亡也。黃,中也;矢,直也。言九二又得大中之道、剛直之徳,行天下之正道而得其吉也。
「田」は即ち田猟なり。狐狸は躲々蔵々して疑心の極めて重き野獣なり。「三」と言うは只だ象に就きて数を取るのみ、其の多きを形容す。艱難の剛く解けたる時に、百姓の心裏はなお満たるに疑慮を以てし、唯だ恐れるは未だ苦難を脱離せずしてまた重ねて困境に陥らんを。だから君子は応に教化を推行し・残暴の政令を革除し、服色を更換し・暦法を改定して、天下の人をして耳目を一新せしめ・民心をして再び猜疑せざらしむべし。これは打猟して三隻の狐狸を捕獲するに猶ほし、亦すなわち《睽》卦の上九の言う所の「羣疑亡也」なり。「黄」は中央の色、中に居るを代表す。「矢」は箭、正直を代表す。これは九二がまた大中の道と剛直の徳を具備し、天下の正道を推行し、それによって吉を得るを言うなり。
六三:負且乘,致冦至,貞吝。象曰:負且乘,亦可醜也;自我致戎,又誰咎也。
六三の爻辞にいう。行囊を背負うの人は却って大車に坐上す、強盗を招来す、たとい正を守るも羞吝を免れ難し。《小象伝》の解釈。背負する者にして車に乗るは、本身即ち可恥なり。禍乱は自ら招来せる、また誰を怪すべきや。背負は僕役の事、乗車は貴人の器、二者は相称せざるなり。
義曰:負者,小人之事;乘者,君子之器。陽至貴,君子也;陰至賤,小人也。今六三陰居陽,是小人而乘君子之器也。夫昏亂之朝,庸主在上,則賢不肖混淆,故君子之位而為小人所乘。今蹇難既解,君臣上下各從其正,而六三乃以不正之質居至貴之地,是小人在君子之位也,則天下之所不容,斯人之所眾棄也,故致冦盜之至,為害於已而奪取之也。然而小人得在髙位者,蓋在上之人慢其名器,不辨賢否而與之,以至為眾人所奪,而致寇戎之所害也。
東西を背負するは僕役小人の差事、車輿に乗坐するは貴人君子の器用なり。陽爻は最も尊貴、君子を象徴す。陰爻は最も卑賤、小人を象徴す。六三は陰爻なるも却って陽位に居り、まさに小人が君子の車に坐上せるなり。昏乱の朝廷の裏においては、庸碌の主は上に在り、賢と不肖は混雑して分別せられず、だから君子の位子は小人に占去せらる。今、艱難はすでに化解せられ、君臣上下は各々其の正に帰せり、六三は却って不端正の資質を以て尊貴の位を占踞す、これ即ち小人が君子の位を窃踞し、天下の容るる所と為さず・衆人の共に棄つる所と為り、それによって強盗を招来し、己に加害して併せて彼の占むる所の物を奪去せん。小人が何を以て高位に爬到し得るに至っては、則ち在上者が名分器物を軽慢するがゆえなり――いわゆる「名器」は、即ち爵位名号と車服礼器、朝廷の以て尊卑を標示するの憑据なり――賢愚を辨せずして随に人に授与し、以て衆人に奪去せられ・兵戎の禍を招来するに至る。見るべし、禍根は但だ六三自身に在るのみならず、亦位を授くる者の失察に在るなり。
象曰負且乘亦可醜也者,言小人在位,是可醜惡之也,故《孟子》曰「不仁而在髙位,是播其惡於眾」也。自我致戎又誰咎也者,言小人不度已徳,不量已勢,而竊居君子之位,所以致戎冦之來也。若以一郡一邑言之,則為致冦;若以天下言之,則為致戎。且冦戎皆自已招,又何咎於人哉。故《繫辭》曰「負也者,小人之事也;乘也者,君子之器也。小人而乘君子之器,盜思奪之矣;上慢下暴,盜思伐之矣。慢藏誨盜,冶容誨淫。《易》曰『負且乘,致冦至』,盜之招也」。
《小象伝》の「亦可醜也」は、小人は高位を窃踞す、本身即ち醜惡可鄙の事と講ずるなり。だから《孟子・離婁上》に「不仁の人が身は高位に居るは、其の惡行を衆人に播散するに等しきなり」と言う。「自我致戎、又誰咎也」と言うは、小人は自らの徳行を衡量せず・自らの勢位を估量せず、却って君子の位を窃居す、それによって兵戎盗賊を招来すと講ずるなり。一郡一邑に就きて言えば、招来する所は盗匪なり。天下に就きて言えば、招来する所は即ち兵禍なり。而も盗匪ならんと兵禍ならんとを問わず、皆自ら招惹せる、また誰を責怪するを得べきや。だから《繋辞伝》に言う。背負は小人の差事、車輿は君子の器用なり。小人は君子の車に坐せば、盗賊は即ち来たりて奪搶せんと想う。上に在る者は軽慢にして、下に在る者は暴横なれば、盗賊は即ち来たりて討伐せんと想う。財物を收藏するに马虎なれば、人に偷を教えるに等しきなり。妖冶に打扮せば、人に淫を招くに等しきなり。《易経》に「負且乗、致冦至」と言うは、まさに自ら盗賊を招来せるなり。
九四:解而拇,朋至斯孚。象曰:解而拇,未當位也。
九四の爻辞にいう。なたの脚趾上に黏附するの物を解脱し掉せば、朋友は前来して相与し、彼此に誠信を以て相待せん。《小象伝》の解釈。脚趾の累を解き去るを要するは、九四の処する所の位置は本は当ならざるがゆえなり。「而」は此処では「なた」、「拇」は脚の大趾、黏附して去らざるの六三を比喻す。
義曰:拇者,足指之大者也,謂六三居四之下,上無應而附於四,有足指之象也。九四正應在初,是其朋也,既繫於六三,必忘於初,則初亦忘之矣。今既解去六三而專應於初六,則至而信矣,故解而拇,朋至斯孚。象曰解而拇未當位也者,夫以至尊而為天下之主,則可包含荒穢而容天下之民物也,今九四不當至尊之位,故不可繫於他類,而必解去之,則其朋黨至而信矣。
「拇」は脚上の大趾なり。此処に指すは六三が九四の下に処し、自身に相応ずるの爻なくして九四に攀附す、まさに脚上に貼り付くの大趾のごとし。九四の真の正応は初六に在り、初六は乃ち其の同伴なり。一旦六三に纏住せられれば、必然に初六を疏忘し、初六も亦即ちそれを撇下す。今、六三を解脱し開き、専心に初六と相応ずれば、初六は自然に到来して誠信を以て相与す、だから「解而拇、朋至斯孚」と言うなり。《小象伝》の「未当位也」は、若し身は至尊に居りて天下の主と為れば、倒れても駁雑を包容し・兼ねて天下の人物を容納すべしと講ずるなり。九四は至尊の位に在らざれば、即ち相干ならざるの一類に牽繋すべからず、必ず解脱し開きて、これで同道の朋は乃ち到来して彼此に信を取るべきなり。
六五:君子維有解,吉,有孚于小人。象曰:君子有解,小人退也。
六五の爻辞にいう。君子は終に解脱有る能くし、吉祥、而且に能く小人に於いて信を取る。《小象伝》の解釈。君子は解脱有れば、小人は便ち自ら退去せん。「維」は語助の詞、「孚」は此処では人をして信服せしむるを指す。
義曰:六五以大中之道位上卦之中,下應九二剛明之君子,以君子之道既行,是能解天下之難而得其吉也。孚于小人者,夫君子當解難之時,必能進用賢者,黜退小人,以成其治,治道既行,則小人自然望風而信服,退藏竄伏,以避君子之誅也。象曰君子有解小人退也者,君子之道既行於上,以解天下之難,則豈患小人哉,必自然信之使退也。
六五は陰爻なりと雖も、却って大中の道を以て上卦の中位に居り、下に向かって九二この位の剛健明察の君子と相応ず。君子の道はすでに推行せられれば、便ち能く天下の困難を解き開きて吉祥を獲得す。いわゆる「大中」は、即ち過ならず不及ならず・恰当合宜の処事の分寸なり。いわゆる「有孚于小人」は、君子は難を解くの時に当たりて、必ず賢才を進用し・小人を罷退して、以て治世の功を成就せんと言うなり。治道は一旦通行せば、小人は自然に風を望みて服し、退蔵して躲避し、以て君子の懲処を免れん。《小象伝》の「小人退也」は、君子の道はすでに上位に於いて推行せられ、以て天下の難を解き開けば、なお何の小人を怕れるあらんや。彼らは必然に自ら信服して退走せんと講ずるなり。
上六:公用射隼于髙墉之上,獲之,無不利。象曰:公用射隼,以解悖也。
上六の爻辞にいう。王公は高墻の上に於いてあの隻の鷲鳥を射る、一挙に射中す、不利なきことなし。《小象伝》の解釈。王公が隼を射るは、悖乱を解除せんがためなり。「隼」は凶猛の鷲鳥、「墉」は高墻なり。
義曰:隼者,擊搏貪殘之禽也;髙墉,非隼之所居也。六三以柔懦不正之體居下卦之上,是竊國家之名器,當君子之大位,猶貪殘之隼而居髙墉之上也。今上六處解之時,居動之極,是君子之人藏器於身而不妄動者也,故能射去此不正之小人,使不得居髙位而竊名器,如射隼于髙墉之上也。
隼は獲物を搏撃し・貪婪凶残の鷲鳥なり。高墻は本は隼の棲息すべきの地方にあらず。六三は柔弱不正の資質を以て下卦の上位を占住し、国家の名分と器物を窃取し・君子の高位を占むるに等しく、まさに一隻の貪残の鷲鳥が高墻の上に蹲るがごとし。上六は難を解くの時に処し、また震動の体の頂端に居り、まさにあの種の才器を身上に蔵して軽挙妄動せざるの君子なり。だから能く一挙にこの不正の小人を射掉して、彼をして再び高位を占踞し・名器を窃据する能わざらしむれば、即ち高墻上に於いてあの隻の隼を射下すに等しきなり。
獲之無不利者,以小人而當君子之位,以此而獲之,何不利之有。故《繫辭》曰「隼者,禽也;弓矢者,器也;射之者,人也。君子藏器於身,待時而動,何不利之有?動而不括,是以出而有獲,語成器而動者也」。
「獲之、无不利」と言うは、小人を以て君子の位を窃据せば、このようの手段を用いて彼を拿下するに、また何の不利と言うべきあらんや。だから《繋辞伝》に言う。隼は鳥禽、弓矢は器具、それを射るは人なり。君子は才器を自身に蔵して、時機を待って後に行動すれば、何処に何の不利有るかせんや。行動し起れば毫も阻滞なく、それによって一たび手を出せば即ち獲る所有り、説く所はまさに器具がすでに完備して後に乃ち行動するの道理なり。
損 兌下艮上
損:有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。
《損》卦は下卦を兊(兌)と為し・上卦を艮と為し、講ずる所は在下者を減損して在上者を增益するなり。卦辞にいう。民を取るに誠信有れば、大いなる吉祥、過咎有ることなからん、長久に守持すべく、前往して事を弁ずるに利有り。何を以て祭祀するか。二簋の薄食も亦足りて奉献すべきなり。「元吉」の「元」は大、即ち大吉なり。「簋」は黍稷を盛るの礼器、「二簋」は祭品の極めて倹薄なるを形容す。
義曰:此損卦謂損下以益上,損民益君之象也。然上之損下不可太過,必須合於中正,則民皆勤身竭力,樂輸於上。有孚者,言上之取於民必當以信立之,限極取之有時,用之以制,取信於民,其民皆信奉於上,則獲元大之吉而無咎悔矣。
《損》卦の講ずる所は在下のを減損して在上のを增益する、亦すなわち民に取りて君に奉ずるの象徴なり。但し在上者が下に向かって征取するは太過すべからず、必ず中正の分寸に合乎して、百姓は乃ち勤労して力を尽くし、上に向かって納を楽しむべきなり。いわゆる「有孚」は、君上は百姓に向かって征取するに、一定に誠信を用いて制度を確立せねばならず。額度を限定し・時に按じて徴収し・用度に節有りて、民に信を取せば、百姓は皆信服して君上を擁戴し、即ち大吉を獲得して悔咎を留めざらん。
苟或暴政橫賦,臨之不以道,取之不以信,使其民仰不能以事父母,俯不能以畜妻子,凶年樂歲殫財竭力,奉國不暇,如此則怨結於下,災見於上,而其咎悔可知矣。故古之什一,為萬世中正常行之法,所謂長久貞正而大吉無咎者也。既有其孚,又守以正,則所往無不利矣。
もし暴政を施行し・横に賦税を徴し、百姓を治理するに正道に依らず、財物を征取するに信用を講ぜざれば、百姓をして上は父母を奉養する能わず・下は妻児を養活する能わざらしめ、荒年ならんと豊年ならんとを問わず皆家財を耗尽し・気力を竭尽せしめ、官府を供奉するも尚かつ及ばざらん。ならば怨恨は即ち下面に於いて鬱結し、災異は即ち上面に於いて顕現し、其中の咎害悔恨は想知すべきなり。だから古代の十分に一を抽つるの税法は、万世通行の中正常法、まさに卦辞の言う所の長久に守持すべく・大吉にして過咎なきの道理なり。すでに誠信有りて、また能く正を守れば、ならば何を為すも不利有ることなからん。
曷之用,二簋可用享者,此言在上之人既能示民以信,取民有制,使上足其用,下不匱財,如此則復將何所為?故雖二簋至約之物,亦可用之以享於鬼神也。《左傳》曰「苟有明信,澗溪沼沚之毛,蘋蘩薀藻之菜,筐筥錡釜之器,潢汙行潦之水,可薦於鬼神,可羞於王公」是也。言損道既以至誠至信而行,雖用二簋,可以享於鬼神,不待其豐備也。
「曷之用。二簋可用享」と言うは、在上者はすでに能く誠信を以て人に示し・征取に制度有りて、朝廷の用度をして充足せしめ・百姓の財力をして匱せざらしむれば、ならばなお再び何を為すを要せんや。だからたとい只だ二簋のごとき極めて倹薄の祭品を用いるも、同じく能く鬼神に奉献すべきなり。《左伝・隠公三年》に言う。只だ明白の誠信有らば、山澗溪沼の裏の野草、苹・蘩・薀藻の一類の水菜、筐・筥・錡・釜の一類の粗器、路辺の積水溝の裏の水、皆鬼神に荐献すべく、皆王公に進献すべきなり。これ即ち減損の道はすでに至誠至信を以て推行せば、たとい只だ二簋の薄を用いるも亦鬼神を享祀し得、並びに祭品の豊盛斉備を要せざるを言うなり。
彖曰:損,損下益上,其道上行。損而有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。二簋應有時,損剛益柔有時,損益盈虛,與時偕行。
《彖伝》の解釈にいう。《損》は下面を減損して上面を增益す、この路は上に向かって通行す。減損して能く誠信を守れば、即ち大吉・過咎なし・長久に守持すべく・前往に利有り。何を以て祭祀するか。二簋の薄食は足りて奉献すべきなり。但し二簋の薄は自ら其の適用の時有り、剛爻を減損して柔爻を增益するも亦自ら其の時機有り。減損と増益・盈満と空虚は、皆時勢に随って一同に推移すべきなり。
義曰:艮上而止,兊下而說。夫損民益君,必上有節止,絶無名之求,則下皆樂輸,以說順之道而上行也,故曰損下益上,其道上行也。損而有孚元吉無咎可貞利有攸往者,言貢賦之入皆有常制,不失其信則可也;苟什一之外不以孚信,動有妄求,是過損於下而取怨於民也。故必有孚信之道,獲元大之吉,免其悔吝,然後可以常行,利有所往也。
上卦艮の卦徳は止、下卦兊の卦徳は悦なり。民を取りて君に奉ずるに、必ず上面に節制有りて停止し、一切の名目なきの索求を杜絶して、下面は乃ち納を楽しみ、和悦順従の態度を以て上に向かって輸送せん、だから「損下益上、其道上行」と言うなり。「損而有孚、元吉、无咎、可貞、利有攸往」と言うは、賦税の徴収は皆固定の制度有りて、民に信を失せざれば即ち可なりと講ずるなり。もし十分に一を抽つるの外に於いて誠信を講ぜず、動輙妄に索求を加えば、則ちそれは過分に下民を損害して怨恨を招致するなり。だから必ず誠信の道を秉持して、乃ち大吉を獲得し・悔吝を免除し、後に乃ちこの套の弁法は長久に推行すべく・何を為すも利有るべきなり。
曷之用二簋可用享,二簋應有時者,言至約之物不可以常行,可儉則儉,可豐則豐,所應皆有時也。亦如損民應上,雖不可過,然亦必視歲之豐凶而輕重之,則自然國用以羨而民力不困也。損剛益柔有時者,此謂損初九九二之剛,益六四六五之柔,亦有其時,不可以常行,可以損則損,可以益則益也。
「曷之用。二簋可用享。二簋応有時」と言うは、極めて倹薄の祭品は常法と当作する能わず、倹省すべき時は即ち倹省し、豊厚すべき時は即ち豊厚にし、各々其の適用の時有るを講ずるなり。これも亦民を取りて上に奉ずるに猶ほし。過分すべからずと雖も、但し同じく年成の豊歉を見て徴収の軽重を決定せねばならず、これで国家の用度は自然に余有りて、而も民力は亦困竭するに至らざるなり。「損剛益柔有時」と言うは、指す所は初九・九二の陽剛を減損して去りて六四・六五の陰柔を增益す、これも亦同じく其の時機有りて、一概に長行する能わず。減損すべき時は即ち減損し、増益すべき時は即ち増益す。
損益盈虛與時偕行者,言不可長損於彼而益於此,盈於此而虛於彼,凡損益盈虛之道皆與時而行也。故《孟子》曰「治地莫善於助,莫不善於貢。貢者,校數歳之中以為常」,此之謂也。
「損益盈虚、与時偕行」と言うは、永遠にあの一辺を損り・この一辺を益して、この辺をして総に盈満ならしめ・あの辺をして総に空虚ならしむべからざるを講ずるなり。凡そ減損・増益・充盈・虧虚の道理は、皆時勢の変化に随って推行すべきなり。だから《孟子・滕文公上》に言う。田賦を治理するの弁法は、助法より好きなし・貢法より糟きなし。いわゆる貢法は、若干年の收成の平均数を比較して固定の税額と為定す(豊年は多く取らず・荒年も亦照收す、故に為害は最も甚し)。講ずる所はまさにこの意思なり。
象曰:山下有澤,損。君子以懲忿窒欲。
《大象伝》にいう。山下に沢有り、沢水は山根を浸蝕し、下を損りて上を益す、これ即ち《損》卦の取象なり。君子は此に取法し、自らの忿怒を懲戒し・自らの私欲を堵塞す。「懲」は警戒、「窒」は堵住なり。
義曰:按《左傳》曰「川竭則山崩」,是言山澤之氣相通,故得以生於萬物也。今澤在山下,是損澤益山、損下益上之象也。君子觀此之象,可損之事在於忿欲:有忿則懲戒之,有欲則窒塞之,可損之善莫善於此。何則?自非聖人,不能無忿爭之心、嗜慾之事,自君子而下則時有之,固宜損之也。
《左伝・僖公十五年》に「河川は枯竭すれば、山は即ち崩塌せん」と言う、見るべし山と沢の気脈は相通ずれば、それによって能く万物を化育す。今、沢は山下に在り、まさに沢を損りて山を益し・下面を減損して上面を增益するの象徴なり。君子はこの一卦象を観察し、人の身上に於いて最も減損すべきは忿怒と嗜欲に如かざるなしと以為す。忿怒有れば即ち懲戒を加え、嗜欲有れば即ち堵塞を加え、減損すべきの事情の裏に於いてこれより値して手を下すべきなし。何を以てか。聖人にあらざるを除いては、誰も忿争の心・嗜欲の事を免るる能わず。君子より往下して、人人は時時に皆有り、本来即ち減損すべきなり。
初九:已事遄往,無咎,酌損之。象曰:已事遄往,上合志也。
初九の爻辞にいう。手頭の事を弁了せば即ち赶紧に前往して上に奉ず、過咎有ることなからん、但し斟酌して減損すべし。《小象伝》の解釈。事を弁了して赶快に前往するは、上位者の心意と相合するがゆえなり。「遄」は迅速、「酌」は分寸を斟酌するなり。
義曰:初九居一卦之下,處損之初,民之象也。夫民之為職,固當給衣食以奉養其上者也。事,謂耕穫之事也,言耕穫之事既已,則速往以奉於上,乃得免其咎也。酌損之者,言上之損下、下之奉上,必皆斟酌其宜,使合中道。故民之於私,上有父母之養,下有妻子之畜,而又有州閭鄉黨冠昏喪祭之用,不可盡竭其所有以輸於上,自取不足之患,必斟酌其宜,合於中道則可也。象曰已事遄往上合志也者,夫上之志所須在於民,民之志在奉其上,今初九能己自已之事,遄速斟酌而往奉之,則是合上之志矣。
初九は全卦の最下に処し、まさに減損の初めに当たり、在下の百姓を象徴す。百姓の本分は、本より衣食を供給して在上者を奉養するなり。「事」は耕種収穫の事を指す。庄稼は収め了れば、即ち赶紧に送りて上に奉げば、これで乃ち過咎を免るべきなり。「酌損之」と言うは、上面は下に向かって減損し・下面は上に向かって奉献す、皆必ず斟酌して合宜にして、それを中道に合乎せしむるを講ずるなり。百姓の自家に亦開銷有り。上は父母を奉養し・下は妻児を撫育し、なお州・閭・郷・党のこれらの隣里編制の間に於いて往来するの冠礼・婚礼・丧事・祭祀の用度有り(周制は二十五家を閭と為し・五百家を党と為す、皆聚居して互助するの単位)、家産を全数掏空して官府に繳げ、自らに匱乏の患を招来すべからず。必ず斟酌して宜を得・中道に合乎して乃ち可なり。《小象伝》の「上合志也」は、上面の指望する所は百姓に在り、百姓の心願は上面を奉養するに在るを講ずるなり。今、初九は能く先ず自家の事を了結し、再び迅速にして分寸有りて前去して上に奉げば、これ即ち上位者の心意と相合せるなり。
九二:利貞,征凶,弗損益之。象曰:九二利貞,中以為志也。
九二の爻辞にいう。正を守るに宜しく、前往すれば則ち凶険有り、再び自らを減損して去りて上面を增益せず。《小象伝》の解釈。九二が正を守るに宜しきは、それは中道を以て自らの志向と当作するがゆえなり。「征」は前行なり。
義曰:夫損下益上,必須斟酌其宜,使合於中正者也。夫什一者,天下之中正也,過之則桀,殺之則貊,皆不得其中也。初已損之以益其上,至二復損,則損之太過,利在乎守正而已。征凶者,言若損之不已,復往而奉於上,則凶之道也。弗損益之者,言不可更損己以奉於上,當反求上之所益則可也。象曰九二利貞中以為志也者,言損上益下、損下益上皆不可過,宜必以大中之道而行,今初已損而奉於上,至二則不可更有所損,是以中道為志也。
下面を減損して上面を增益するに、必ず斟酌して当を得て、それを中正に合乎せしめねばならず。十分に一を抽つるは天下の中正の法。それを超過すれば即ち夏桀のごとき暴斂と為り、それを減少すればまた北方の貊人のごとき寡取と為り、両頭は皆中を失せり。初九はすでに自らを減損して上に奉げり、九二に到りて再び減損すれば、即ち損ること太過なり、だから利有るは只だ正を守るに在り。「征凶」と言うは、若し一味に減損して止まらず、また前去して上に奉献せば、則ちそれは凶を招くの道なりと講ずるなり。「弗損益之」と言うは、応に再び自らを減損して去りて上に奉ぐべからず、返って応に上面の下面に対するの增益を求取して乃ち対なりと講ずるなり。《小象伝》の「中以為志也」は、上面を減損して下面を增益すると雖も・下面を減損して上面を增益すると雖も、皆過分する能わず、必ず大中の道に依りて行わねばならずと講ずるなり。初九はすでに減損して上に奉げたれば、九二に到りては即ち応に再び減損する所有るべからず、これ即ち中道を志向と立作するなり。
六三:三人行,則損一人;一人行,則得其友。象曰:一人行,三則疑也。
六三の爻辞にいう。三箇の人は同行すれば、即ち一人を減去すべし。一箇の人は独行すれば、返って伴侶を得べし。《小象伝》の解釈。一人独行して乃ち好し、三人同去すれば即ち猜疑を招致せん。此処に講ずる所は相応は専一を貴ぶなり。
義曰:夫天地君臣夫婦之道,若専一相應,則其志純,其道固也。今六三之陰上應於上九之陽,若己與六四六五二爻同往而應之,則反損上九之一人;若己獨往而應之,自得其友矣。故《繫辭》云「天下百慮而一致,殊塗而同歸」,是言凡事在於一致,則其道純而無駁也。象曰一人行三則疑也者,言六三獨往應上九,則其志和同而無所間矣;若三人往之,則上九必有疑惑之志,慮其有害於己也。
天地・君臣・夫婦の間の道理は、若し能く専一に相応ずれば、心志は即ち純粋にして、関係は即ち牢固なり。六三この一陰爻は上に向かって上九の陽と相応ず。若しそれが六四・六五の両爻を拉きて一同に前往して応を求めば、返って上九この一箇の人を損掉せしめん。若しそれが独自に前往して相応ずれば、自然に伴侶を得たるなり。だから《繋辞下伝》に「天下の思慮は紛紜にして一致に帰し、道路は不同なれども終点は相同なり」と言う、凡そ事は専一を貴び、専一なれば則ち其の道は純粋にして駁雑ならずを講ずるなり。この一爻は表面は減損を講ずれども、実は相応は一対一を貴ぶを講ずるなり。多ければ則ち相疑い、少なければ則ち相得るなり。《小象伝》の「三則疑也」は、六三は独自に前往して上九と相応ずれば、心志は和同して毫も隔閡なしと講ずるなり。若し三爻は一斉に涌き去れば、上九は必然に心に疑慮を生じ、彼らが自らに対して不利ならんを擔心せん。
六四:損其疾,使遄有喜,無咎。象曰:損其疾,亦可喜也。
六四の爻辞にいう。自身の毛病を除去せば、動作は迅速にして喜慶有り、過咎有ることなからん。《小象伝》の解釈。能く毛病を除去するは、本身即ち可喜の事なり。「疾」は此処ではすでに人身の病を指し、亦国家と百姓の身上の禍害を指すなり。
義曰:遄,速也。夫為人上者,不可過取天下之財以困斯民。今六四一爻當大臣之位,切近於至尊,故當盡忠於國,不可復往損於民,但民有疾則去之,有患則損之,如此所以為天下之利而副人臣之職也。使遄有喜者,六四既為大臣,其責甚重,若有一小人在位,為國家之害、良民之蠧,則當損去之而務在於速,不可使之滋蔓,如此則有喜恱之事而獲無咎矣。象曰損其疾亦可喜也者,言為人臣之職,若能秉忠直而損國家之疾,除民物之害而使之獲安,是可喜之事也。
「遄」は即ち快なり。上に在る者を為るに、過度に天下の財物を捜刮して百姓を困窘せしむべからず。六四この一爻は大臣の位に処し、至尊の君位に緊く挨る、それによって応に国に忠を尽くし、応に再び去りて百姓を損害すべからず。只だ百姓に病痛有るの時に彼らの為に除去し、禍患有るの時に彼らの為に減損するのみ。このように為すは乃ち天下の利、亦乃ち臣子の職分と称すべきなり。「使遄有喜」と言うは、六四はすでに身は大臣を為れば、責任は極めて重し。一旦小人の官位を窃踞する者有れば、国家の害・良民の蠹と為れば、即ち応に彼を除掉すべく、而且に迅速を貴び、彼をして蔓延して坐大せしむべからず。これで便ち可喜の事有りて過咎を免るべきなり。《小象伝》の「亦可喜也」は、人臣たるの職分は、若し能く忠直を秉持して去りて国家の病害を除去し・百姓を残害するの禍根を掃清して彼らをして安寧を得せしめば、これ自然に欣喜すべきの事なりと講ずるなり。
六五:或益之十朋之龜,弗克違,元吉。象曰:六五元吉,自上佑也。
六五の爻辞にいう。人の価値十朋の宝亀を送り来たりて相助する有り、推辞する能わず、大いなる吉祥なり。《小象伝》の解釈。六五の大吉なる所以は、上天の佑助を得るがゆえなり。「朋」は古代の貨貝の計数単位、「十朋之亀」は極めて貴重の大宝亀を指し、此処では天下の賢才と智謀を比喻す。
義曰:龜者,決疑之物,以喻人之才智也。朋,黨也;十朋,眾也。夫損下之道不可過苦,惟在位聖賢之人不以為常,但其用之有制耳。今六五以柔順居艮止之中而位至尊,下又應九二剛明之臣,已能虛心而接納之,又弗損於下,是故天下賢明才智之人皆盡其謀慮,竭其志策,來益於己也。
亀甲は以て疑难を決断するの物、此処では以て人の才智を比喻す。「朋」は朋類党与を指し、「十朋」は其の众多を言うなり。下面を減損するの弁法は太く苛刻なるべからず、唯だ位に在るの聖賢のみが重斂を常法と為さず、用度は自ら節制有るなり。六五は柔順の質を以て艮体の中位に居りて至尊の位に処し、下面にまた九二この位の剛健明察の臣子と相応ず。それはすでに能く虚心に容納し、又去りて下民を捜刮せざれば、だから天下の賢明にして才智有るの人は皆自らの謀慮を尽献し・自らの方略を竭尽し、前来して彼に增益せん。
弗克違元吉者,夫好賢而不能用,則與不好同;用之不能從,則亦與不用同。故好賢者必用其才,而又聽其言,此其任人之道也。今六五能虛己以接納賢者而信任之,又且不違其言,不逆其諫,使天下才智之人得盡其善、竭其能而奉於上,是以獲元大盡善盡美之吉也。象曰六五元吉自上佑也者,六五以柔居尊,任用賢知之臣,聽其謀,從其諫,故得眾賢之歸而得元大之吉,自上而下無不佑之也。
「弗克違、元吉」と言うは、賢才を喜好するも任用する能わざれば、喜好せざると両様なきがごとし。任用するも聴従するを肯んぜざれば、亦用いざると両様なきがごとし。だから真に賢を好むの人は、一定にすでに其の才を用い・また其の言を聴き、これ乃ち人を用うるの道なり。六五は能く己を虚にして賢者を容納して信任を加え、また彼らの言論に違逆せず・彼らの諫諍を拒絶せず、天下の才智有るの人をして皆其の善を尽くし・其の能を竭して奉献して上に於かしむれば、それによって尽善尽美の大吉を獲得す。《小象伝》の「自上佑也」は、六五は柔順を以て尊位に居り、賢明智慧の臣子を任用し、彼らの謀画を采納し・彼らの規諫を聴従すれば、だから衆賢は心を帰して大吉を得、上より下に至るまで彼を佑助せざるなきを講ずるなり。
上九:弗損益之,無咎,貞吉,利有攸往,得臣無家。象曰:弗損益之,大得志也。
上九の爻辞にいう。再び下面を減損せず、返って下面を增益す、過咎なし、正を守りて吉祥、前往に利有り、得る所の臣民は多く彼此の家門を分かたざるに至る。《小象伝》の解釈。損せずして益するは、心志の大いに施行せらるるなり。「得臣无家」は天下の帰心・遠近は一家のごとしを形容す。
義曰:大凡居上者不可常損下以益己。今上九居損之極,在艮之終,更無損下之道,是以施仁義之術,生成天下,以益天下之民,如此則得其無咎,以貞獲吉,既獲其吉,則所往何不利哉。得臣無家者,夫蚩蚩之民愚無所知,若在上者益之以道,則歡心而歸之。今上九既不損而反益之,則天下之民皆臣服而歸之,逺近無有疎間,天下為一家,故曰無家。象曰弗損益之大得志也者,言上九居上體之極而反益於下,則是天下之民無不臣服,而已之志大得行於天下也。
大凡上位に在るの人は、長期に下面を減損して来たりて自らを增益すべからず。上九は《損》卦の極点・艮体の末端に処し、すでに再び下に向かって減損するの道理なし、於是乎仁義の術を施行し、天下を養育し、以て天下の百姓を增益す。これで便ち過咎なし、正を守りて吉を得。すでに吉を得れば、ならば何処に往くも不利有ることなからん。「得臣无家」と言うは、渾朴無知の百姓は本来懵懂無識にして、在上者が若し正道を以て彼らを增益せば、彼らは即ち歓欣して帰附せんがゆえなり。上九はすでに再び減損せずして返って百姓を增益せば、天下の人は便ち皆臣服して心を帰し、遠近の間に隔閡疏離なく、普天の下は一家のごとく、だから「无家」と言うなり。《小象伝》の「大得志也」は、上九は上体の頂端に処して却って下に向かって恵を施せば、於是乎天下の百姓は臣服せざるなく、彼自身の志向も亦天下に於いて大いに施行し開けりと講ずるなり。
益 震下巽上
益:利有攸往,利涉大川。
《益》卦は下卦を震と為し・上卦を巽と為し、「益」は在上者を減損して在下者を增益するなり。卦辞にいう。前往して事を弁ずるに利有り、大江大河を渡越するも亦利有り。上位者は肯んじて下に恵を施せば、人心は帰附し、縦に険阻有るも亦闖き過ぐる能くす。
義曰:按《序卦》云「損而不己必益」,故受之以《益》。蓋言凡物之理,盛極必衰,損久必益。益者,損上以益下,損君以益民,明聖人之志在於民也。然損下益上則謂之損者,蓋既損民之財,又損君之徳也;損上益下則謂之益者,蓋既益民之財,而又益君之徳也。
《序卦伝》に言う。減損して止まざれば必然に転じて増益と為る、だから《損》の後に《益》を接ぐ。これは事物の常理を講ずるなり。興盛は極点に到れば必然に転じて衰え、減損は久しければ必然に転じて益す。「益」の含義は上面を減損して下面を增益し・君主を減損して百姓を增益す、見るべし聖人の用心は百姓の身上に放たるるを。何を以て下面を減損して上面を增益すれば即ち「損」と呼ぶか。あのように為せばすでに百姓の銭財を損耗し・亦君主の徳行を損傷するがゆえなり。何を以て上面を減損して下面を增益すれば返って「益」と呼ぶか。あのように為せばすでに百姓の銭財を增益し・亦君主の徳行を增益するがゆえなり。
然上之益下,非謂耕而食之,蠶而衣之。以天下之廣,生靈之眾,苟家至戶到,人人給之,則雖至愚固知不可也,故博施濟眾,堯舜其猶病諸。蓋居人上者,為之求賢,或為農官,或興水利,勸其力穡,使遊手之民敦本而棄末;又為之擇守令,宣行教化,興利除害,以益其民。是皆因其所利而利之,因其可益而益之,故非損於上,乃能益於下也。
但し在上者の百姓を增益するは、並びに君主が親ら田を耕して人に吃を供し・蚕を養いて人に穿を供すると説くにあらざるなり。天下はこのように広大・生民はこのように众多にして、若し挨家挨戸に去りて接済を発放せんと要せば、即ち再び愚鈍の人なるも亦弁じ到る能わざるを知る、だから《論語・雍也》に広く恩惠を施し衆人を周済するは、堯舜をも難しと感ずと言うなり。真正の弁法は、上位に居る者は百姓のために賢才を延攬し、あるいは農を掌るの官職を設立し、あるいは水利を興修し、彼らを鼓勧して耕作に努力せしめ、手を游き身を閑かすの人をして本業に回帰して末技を舎掉せしむ。また彼らのために好き郡守県令を挑選し、教化を宣揚推行し、利有るの事を興弁し・害有るの弊を革除し、これらを用いて百姓を增益す。これらは皆百姓の本有の利処に順ってそれを成全し・増益すべきの地方に順ってそれを增益する、だから並びに真に上面の何をも損耗せざるに、却って能く実実在在に下面を增益す。
利有攸往者,夫上之益下,是損有餘而補不足,故得天下之心,既得天下之歡心,則何往而不利哉。然《損》則云有孚元吉無咎可貞,然後曰利有攸往,此則直云利有攸往者,蓋損之時是損於民,必使天下信之,然後有元大之吉而無咎,以為長久貞正之道,故始得利有攸往;此則損上益下,得天下之歡心,無所往而不利也。利涉大川者,夫君能以仁義之道益於下,下受其賜,則捐軀而報於上,効命以助其君,雖有大險大難,皆可以濟涉之也。
「利有攸往」と言うは、在上者は在下者を增益するは、多余のを減去して不够のを補足するに等しく、それによって天下の人心を贏得すがゆえなり。すでに天下の人の歓心を得れば、ならば何処に去るか順利ならざる有らんや。値して注意すべきは、《損》卦は先ず「有孚、元吉、无咎、可貞」と説いて、後に乃ち「利有攸往」と説く、此処は却って直接に「利有攸往」と説く。これは《損》卦の時は百姓に向かって征取するなれば、必ず先ず天下の人をして信服せしめて、乃ち大吉无咎を談じ・長久の正を守るの道と算し、後に乃ち前往して有為すべきがゆえなり。而も《益》卦は上面を減損して下面を增益し、本より天下の歓心を得、だから往かんとして利ならざるなきなり。「利渉大川」と言うは、君主は能く仁義の道を以て下に恵を施せば、下面の人は恩賜を受け、即ち生を舎げて以て在上者に報効し・命を拚して去りて自らの君主を幇助せん。これで縦に天大の険阻艱難有るも、皆能く渡越して過去す。
彖曰:益,損上益下,民說無疆;自上下下,其道大光。利有攸往,中正有慶;利涉大川,木道乃行。益動而巽,日進無疆;天施地生,其益無方。凡益之道,與時偕行。
《彖伝》の解釈にいう。《益》は上面を減損して下面を增益す、百姓は喜悅して辺際なからん。恩沢は上より下へ下民に施及す、この路は広大にして光明なり。「利有攸往」は、君臣は皆中に居りて正を守りて福慶有るがゆえなり。「利渉大川」は、巽は木を為し・舟楫を制すべく、船を行うの道は此に由りて通行を得べきがゆえなり。《益》卦は下震は動を為し・上巽は順を為し、動いて能く順なれば、徳業は日に進みて止境なからん。天は陽気を施降し・地は万物を生成す、この種の增益は四方に普及して限隔する所なからん。凡そ益を施すの道は、皆時勢に随って一同に推移すべきなり。
義曰:損上益下者,此謂損九五而益六二也。夫陽本實而有餘,陰為虛而不足,今以九五之有餘益六二之不足,使民各安其業,皆被其澤,如此則得天下之歡心,民從之無有疆畔也。自上下下其道大光者,夫損下而益上則損上之徳,今上能自損以益其下,利益之事自上而流佈於下,故其道廣大而光明也。
「損上益下」は、指す所は九五を減損して六二を增益す。陽爻は本は充実にして余有り、陰爻は則ち虛虧にして足らざるなり。今、九五の多く出たるを拿りて六二の足らざるを補い、百姓をして各々本業に安んじ・人人恩沢を蒙受せしめば、これで便ち天下の人の歓心を贏得し、百姓の帰附し起るに辺界と言うべきなからん。「自上下下、其道大光」は、下面を減損して上面を增益すれば、返って上位者の徳行を損傷せんと言うなり。今、上位者は能く自我に減損して来たりて下民を增益せば、利益の事は上面より下面に流布す、だからこの路は乃ち広大にして光明なり。
利有攸往中正有慶者,夫九五以陽位乎上,中正之君也;六二以陰居下,中正之臣也。君臣之間皆以中正之道下益於民,以此故獲福慶之事也。利涉大川木道乃行者,上巽為木,下震為動,故以木為舟楫,動則能涉大川也。猶人能盡仁義行於上,動而為民之益,民既受其益,則莫不盡其心思輔於上,故雖大險大難無不濟矣。
「利有攸往、中正有慶」は、九五は陽爻を以て上卦中位に居り、中正の君主なり。六二は陰爻を以て下卦中位に居り、中正の臣子なり。君臣の双方は皆中正の道を以て下に向かって民に恵を施せば、それによって福慶を獲得すと言うなり。「利渉大川、木道乃行」は、上卦巽は木を象徴し、下卦震は動を象徴し、木は舟楫を制成し、一動すれば便ち能く大河を渡ると言うなり。これ譬えば在上者が能く仁義の道を尽くして、一たび挙動有るは皆百姓のために利を謀るがごとし。百姓はすでに其の益を受ければ、心を尽くし力を尽くして在上者を輔佐せざるなく、だから縦に天大の険阻艱難有るも亦渡り過ぐる能わざるなきなり。
益動而巽日進無疆者,此以二體言之。夫行益之道,居上者能動而上順天意,下順民心,則徳之進而無有疆極也。天施地生其益無方者,夫天損一元之氣以益於地,為萬物之始;地承天之氣以生成萬物之形。其利益之道,至公而不私,至正而不邪,至廣至大而無有方極,亦若聖賢以仁義利益天下之民而無有偏黨私邪,其道廣大而無有窮己也。
「益動而巽、日進无疆」は、上下両体に就きて講ずるなり。益を施すの道を推行して、在上者は一たび挙動有れば、上は能く天意に順応し・下は能く民心に順応すれば、ならば徳業の進展は止境なからん。「天施地生、其益无方」は、天は自らの一元の気を減損して地に施降し、万物の開端と為る。地は天の気を承受して、万物の形体を化育し出す。この種の益を施すの道は、極めて公正にして毫も偏私なく・極めて端正にして毫も邪曲なく・極めて広大にして方所の限隔なからん。まさに聖賢が仁義を以て天下の百姓に恵を施すがごとく、袒党附に偏るなく・私心邪念なからん、この路は広大にして窮尽なからん。
凡益之道與時偕行者,夫行益之道不可以常行,可損則損,可益則益。何則?天以一氣降於地以施生萬物,若常使益之,則萬物滿而過亢也,是必有事而損之;君子以仁義寛愛而恤於下,若常益之,則在下者亦生驕亢而不知自損。是故先聖於此戒之,言凡為益之道,必與時而偕行也。
「凡益之道、与時偕行」は、益を施すの道は一味に長行して変らざる能わず、減損すべき時は即ち減損し・増益すべき時は即ち増益すべきを講ずるなり。何を以てか。天は一元の気を地上に降して万物を化生せしむるに、若し一味に停まらずして增益して下去せば、万物は即ち盈満して亢盛に過ぎん、あの時は必ず作為有りて以て減損を加えねばならず。君子は仁義寛厚を以て下民を愛護体恤するに、若し一味に停まらずして增益せば、在下者も亦骄慢亢傲を滋生して自ら節制するを知らざらん。だから先聖は此処に於いて告誡を加えて、凡そ益を施すの道は、一定に時勢に随って一同に推移すべきを言うなり。
象曰:風雷,益。君子以見善則遷,有過則改。
《大象伝》にいう。上に風有り・下に雷有り、風雷は相激して声勢は互いに増す、これ即ち《益》卦の取象なり。君子は此に取法し、善行を見れば即ち迁移して去りて仿效し、自ら過錯有るを発見すれば即ち立刻に改正す。
義曰:夫風得雷則威益彰,雷得風則聲益逺,是相益之象也。君子法此益象,見人有善則遷而從之,知己有過則改而正之。夫日遷一小善,積而不已,則大善著矣;曰改一小過,改而不倦,則大過除矣。蓋益之大莫過於遷善改過也,故孔子曰「聞義不能徙,不善不能改,是吾憂也」。
風は雷を借りて、威勢は更に顕赫なり。雷は風を借りて、声音は更に遠く伝わる。これまさに彼此に增益するの象徴なり。君子はこの取象に效法し、別人に善行有るを見れば即ち靠りて去りて仿效し、自ら過失有るを知れば即ち改正して来たる。毎日一箇の小さなる善事に迁就し、日積月累して停歇せざれば、大なる善徳は即ち顕著なり。毎日一箇の小さなる過失を改掉し、改めて倦まざれば、大なる過錯は即ち消除せん。だから言うに、最大の増益は向善して過を改むるに如かざるなしと。孔子は《論語・述而》の裏に「為すべきの道義の事を聞きて亦随いて之を為す能わず、不善有りて亦改正する能わざれば、即ち我が憂うる所なり」と言う、まさに此の意なり。
初九:利用為大作,元吉,無咎。象曰:元吉無咎,下不厚事也。
初九の爻辞にいう。大なる作為有るに宜しく、唯だ大吉のみ過咎なき能くするなり。《小象伝》の解釈。必ず大吉を要して乃ち過咎なきは、下位に居るの人は本より重大の事を承当すべからざるがゆえなり。「大作」は大事を興挙するを指し、「厚事」は重大の事任なり。
義曰:初九以剛陽之力,震動之始,是志於有為而欲興益於天下者也。然興益之道,必須居位得勢而後行之有餘。今初九雖有剛明興益之心,而位卑勢寡,非可致之地,又況當益道之初,有謀始之責,至難至重,故須所為大吉,然後免咎,故曰利用為大作,元吉無咎也。象曰元吉無咎下不厚事也者,夫大有所為以益天下,必須履貴勢、操重權,乃能當之;至於位卑勢寡之人,則不可僭有所興。今初九實以剛陽之才利於大作,然初本卑下,不當厚事,故須萬舉萬全,至於大吉,然後無咎也。
初九は陽剛の力を以て震体の発動の起点に処し、志有りて作為し・天下の為に利を興かんと欲するの人なり。しかし利益の事を興挙せんと欲するに、必ず身は其の位に居り・手は其の勢を握りて、為し起れば乃ち游刃有余なり。初九は剛健明察・天下に於いて利を興すの心願有ると雖も、却って位分は卑微・勢力は単薄、能く大事を弁成するの地位にあらず。ましてまた正に益を施すの道の開端に当たりて、開局を謀画するの責任を肩負し、極めて艱難にして重大なり。だから彼は必ず事情を尽善大吉の地步に弁じ到りて、乃ち過咎を免除し得べし、故に爻辞は「利用為大作、元吉、无咎」と言うなり。《小象伝》の「下不厚事也」は、大いに作為有りて天下を增益せんと欲すれば、必ず身は尊貴の勢に踞り・重大の権を執掌して乃ち承当し起り得べしと講ずるなり。位卑く勢弱きの人に至っては、即ち応に分を越えて去りて大事を興挙すべからず。初九は確実に陽剛の才有り・一番の大作為に適合すと雖も、但し彼は本は最下位に在りて、重任を承当すべからず、だから必ず毎一歩に皆万无一失にして大吉に為し到りて、後に乃ち過咎なきなり。
六二:或益之十朋之龜,弗克違,永貞吉。王用享于帝,吉。象曰:或益之,自外來也。
六二の爻辞にいう。人の価値十朋の宝亀を送り来たりて相助する有り、推辞する能わず、長久に正を守れば即ち吉祥なり。君王はこのようの誠心を用いて上帝を祭享するも、亦吉祥なり。《小象伝》の解釈。いわゆる人の相助する有るは、指す所は助力が外面より来たるなり。此処の宝亀は仍として天下の賢智の人の献上するの謀略を比喻す。
義曰:六二以柔順之徳履得中正,居受益之地,上應於九五剛明之君,而已能盡人臣之節以事之,無有偏黨奸邪之行,無蔽塞賢者之心,是以天下明智之人各欲獻其謀慮而來益於已,故曰或益之。十朋之龜弗克違者,夫以天下之人樂告以善道,而已又能以中庸和柔之徳聽信之,弗有違戾也。
六二は柔順の品德を以て立身してすでに中にして且つ正、まさに增益を承受するの位置上に処し、上に向かって九五この位の剛健明察の君主と相応じ、自らまた能く人臣の節操を尽くして去りて彼に事奉し、袒して党を結ぶ・奸邪不正の行為なく、亦賢者の言を進むるを蒙蔽阻塞するの用心なし。それによって天下の明智の士は皆自らの謀慮を献上して前来して彼に增益せんと願う、だから「或益之」と言うなり。「十朋之亀、弗克違」と言うは、天下の人は皆好き弁法を彼に告げんと楽しみ、而も彼はまた能く中庸和順の徳性を以て聴信采納し、違逆抗拒を加えざるがゆえなり。
永貞吉者,按《損》之六五言十朋之龜弗克違元吉者,蓋《損》之六五居得其正,為損之主,是以天下賢智歸之而獲元大之吉。今六二在於下卦,居人臣之位,受天下賢智之歸,其勢至重,一失其正,必侵君之權,其為禍不細矣,故當永守正道,盡人臣之節,率其眾賢皆盡忠竭力以事其君,則得其吉也。王用享于帝吉者,王者能任賢受益而弗違,又能永正,以此之道享于帝而得吉,況其為臣能盡忠竭力以事其君,則其吉可知矣。象曰或益之自外來也者,六二居中得正,又能盡人臣之忠義以事其君,故賢智之人皆自外來而益之也。
「永貞吉」と言うは、《損》卦の六五と対看すべきなり。《損》卦の六五も亦「十朋之亀、弗克違」と講ずるも、却って直接に「元吉」と言う、あれは《損》卦の六五は尊位に居りて其の正を得、全卦の主なれば、だから天下の賢智の士は彼に帰附して大吉を獲得せるがゆえなり。今、《益》卦の六二は身は下卦に在り、処する所は人臣の位にして、却って天下の賢智の士の帰附を承受す、声勢は極めて重し。一旦正道を失せば、必然に君主の権柄を侵奪し、招来するの禍患は即ち不小ならん。だから彼は応に長久に正道を守住し・人臣の節操を尽くし、衆賢を率領して一斉に忠を尽くし力を竭して去りて君主に事奉して、これで乃ち吉を得べきなり。「王用享于帝、吉」と言うは、君王は能く賢才を任用し・增益を接受して違拗せず、また能く長久に正を守りて、このようの誠心を以て上帝を祭享して吉を得るを講ずるなり。まして身は臣子を為る者が能く忠を尽くし力を竭して君主に事奉すれば、あの吉祥は更に説くに及ばざるなり。《小象伝》の「自外来也」は、六二は中に居りて正を守り、また能く人臣の忠義を尽くして君主に事奉せば、だから賢智の人は皆外面より赶来して彼に增益すを講ずるなり���
六三:益之用凶事,無咎。有孚中行,告公用圭。象曰:益用凶事,固有之也。
六三の爻辞にいう。增益の挙を災を救い難を恤うるの上に用いれば、過咎有ることなからん。心に誠信を存し・行事は中道に合し、玉圭を執りて去りて王公に禀告す。《小象伝》の解釈。增益を凶荒の事に用いるは、六三が本来即ち有るべきの心腸なり。「圭」は玉製の信符、「凶事」は災荒疾疫の一類の禍難を指す。
義曰:凡君子之人,不在其位不謀其政;若居其位,當其任,則可以有為於時。今此六三以陰居陽,位非其正而過於中道,欲施益於下,非所當也。然所益之事若民之凶荒疾苦、札瘥患難,則已不顧一身,奮然往而益之,則可以得其無咎也。有孚中行者,言六三雖益以凶事,然亦當以由中之信,合於中道而行,然後可也。
君子の常規はあの位子上に在らざれば即ちあの份の政事を謀画せず。若し身は其の位に居り・其の任を担当せば、乃ち当時に於いて作為有るべきなり。六三は陰爻が陽位に居りて、位置は本は端正ならず、また中道を超過し、本来はそれに輪りて去りて下に恵を施すに及ばざるなり。しかし増益せんと欲する所が若し百姓の遭遇するの凶年荒歉・疾病困苦・瘟疫夭亡の此の類の患難なれば、ならば応に自身の安危を顧みず、奮然として前往して救助して、此のようて乃ち過咎を免るべきなり。「有孚中行」と言うは、六三はたとい災を救うの事を借りて来たりて增益を行うも、亦仍として心の底より発するの誠信を憑り・中道に合乎するの分寸に依りて為して、後に乃ち行き通るを得べきを講ずるなり。
告公用圭者,圭,符瑞也,所以執而為信。言六三既以由中之信而行,執其符瑞以告於公,而明其所益之事。若漢武之時,河內失火,凡爇千餘家,帝遣汲黯往視之,黯曰此不足為患;時河內之民值歲凶疾苦計萬數,黯遂矯命發廩以救之,民由是活。及歸朝,乃請矯制之罪,帝遂賢而釋之,是乃非其位、越其職以濟凶荒之事。象曰益用凶事固有之也者,言六三雖居非其位,然其救民安國之心固有之也。
「告公用圭」と言う。「圭」は玉製の符信瑞節、手裏に執りて以て憑証と為す。これは六三がすでに内心の誠信を憑りに行事せば、即ち手に符信を執りて去りて王公に禀告し、自らの施益せんと欲するの事由を説明するを講ずるなり。漢武帝の時に河内郡が火を失し、一千余家を焼燬し、武帝は汲黯を派して前去して查看せしめたるがごとし。汲黯は回奏してこの場の火災は憂慮するに値せずと言い、而も当時河内の百姓はまさに荒年を遭い、飢病困苦の者は万を以て計れば、於是乎彼は詔命を假托して官倉を打開して賑済し、百姓は此に因りて活けり。朝に回りて後、彼は主動に自らの詔令を假伝せるの罪を治せんを請求す、武帝は返って彼を賢能と以為して彼を赦免せり。これまさに身は其の位に在らず・本職を越出して去りて凶荒を救助するの例子なり。《小象伝》の「固有之也」は、六三は居る所の位は正ならずと雖も、民を救い国を安んずるのあの份の心腸は却ってそれの本来即ち有る所なりと講ずるなり。
六四:中行,告公從,利用為依遷國。象曰:告公從,以益志也。
六四の爻辞にいう。行事は中道に合し、王公に禀告すれば便ち准許されて依从せられ、応にこの種の信任を憑借して去りて国都を迁移するがごときの大事を弁ずべし。《小象伝》の解釈。王公に禀告して准許を獲るは、それは一心に天下を增益するを以て志と為すがゆえなり。「依」は依从・憑借なり。
義曰:六四以陰居陰,履得其正,上近於五,下應於初,在益之時,是能盡心竭力,上以益於君,下以益於民,告其所以為益之道也。夫既能上益於君,下益於民,以此告於公,則無有不從也。利用為依遷國者,夫天下之大莫大於遷國,今以六四居得正位,行得大任,能致君澤民,故雖遷國之大,皆依從而利用之,則其小者從可知也。象曰告公從以益志也者,言六四能恢有為之道以益天下,使君尊民富,各得其所,是非以一身一家為念,所志者惟益於上下而已。
六四は陰爻が陰位に居りて、立身は端正、上面は九五に緊く挨り、下面は初九と相応ず。まさに益を施すの時に当たりて、能く心を尽くし力を竭し、上は君主のために益を謀り・下は百姓のために益を謀り、併せて自らの主張する所の益を施すの弁法を上に禀告す。すでに確実に上は君に益し・下は民に益すを為し到れば、これらを拿りて去りて王公に禀告すれば、采納せられざるなきなり。「利用為依遷国」と言うは、天下の大事は国都を迁移するより大なるなければなり。六四はすでに正位に居りて・また大任を担いて、能く君徳を輔成し・沢は百姓に被れば、だから国を遷するがごときの大事をも皆依从采用を得、あれらの較小の事は更に説くに及ばざるなり。《小象伝》の「以益志也」は、六四は能く有為の道を拡充し開きて天下を增益し、君主をして尊顕せしめ・百姓をして富足せしめ、人人各々其の所を得せしむるを講ずるなり。彼の心裏に想う所は並びに自ら一身一家にあらず、立つる所の志向は只だ上下に於いて皆增益を得るに在るなり。
九五:有孚惠心,勿問,元吉。有孚惠我徳。象曰:有孚惠心,勿問之矣;惠我徳,大得志也。
九五の爻辞にいう。誠信にして恵を施すの心を懐き、占問するに及ばずして即ち大吉を知る。百姓も亦誠信を以て我が恩徳を感念せん。《小象伝》の解釈。すでに誠信にして恵を施すの心有れば、即ち再び問うに及ばず。百姓が我が恩徳を感念するは、心志の大いに実現せらるるなり。「恵心」は心の底より発するの民を恵むの意を指す。
義曰:九五以剛明果斷之徳處至尊之位,下應六二賢明之臣,是能以由中之信興利於民也。惠心者,夫天下之廣,生靈之眾,聖人在上,非可以家撫而戶養之也,蓋所惠者惠於心而已。天下民之溫飽,非待王者耕而食之、織而衣之也,但勸之教之,通商惠工而已,如此則是王者惠心之謂也,《論語》所謂「因民所利而利之,惠而不費」者是也。
九五は剛健明察・果断に事を決するの品德を以て至尊の位に居り、下に向かって六二この位の賢明の臣と相応じ、能く心の底より発するの誠信を憑りに百姓のために利を興す。いわゆる「恵心」は、天下はこのように広闊・生民はこのように众多にして、聖人は上に在りて、挨家に撫恤し・逐戸に供養するは可能にあらざればなり。彼の施す所の恩惠は、落実の処は只だ一片の民を恵むの心に在るのみなり。天下の百姓の温飽は、並びに君王が親ら耕種して来たりて喂養し・親ら紡織して来たりて穿衣するに靠らず、只だ彼らを勧勉し・彼らを教導し、商旅を疏通し・工匠を便利せば足るなり。これ即ちいわゆる君王の民を恵むの心なり。《論語・堯曰》の言う所の「百姓の能く利を得るの地方に順って去りて彼らを成全し、民に恵を施して自らは耗費するに及ばず」とは、講ずる所はまさにこのなり。
勿問元吉者,言九五既以仁義之心惠及於天下,則不待問而自獲元大之吉也。有孚惠我徳者,夫民無常懐,仁則懐之,故《書》曰「撫我則後,虐我則讎」,今九五能以由中之信接於眾,故天下之民亦惠信九五之徳也。象曰惠我徳大得志也者,言九五能興益之道以利於民,則其志大有所得也。
「勿問、元吉」と言うは、九五はすでに仁義の心を以て恩惠を天下に推及せば、ならば即ち再び去りて占問するに及ばず、自然に大吉を獲得すと講ずるなり。「有孚恵我徳」と言うは、百姓の帰心は並びに常主なし、誰か仁政を施せば彼らは即ち誰に帰向すがゆえなり。だから《尚書・泰誓》に「我らを安撫するは即ち君主、我らを虐待するは即ち仇敵なり」と言う。今、九五は能く心の底より発するの誠信を以て衆人に対待せば、天下の百姓も亦即ち誠心を以て九五の恩徳を感念して信服す。《小象伝》の「大得志也」は、九五は能く益を施すの道を推行して来たりて百姓のために福を造れば、彼の志向は便ち大いに実現せりと講ずるなり。
上九:莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。象曰:莫益之,偏辭也;或擊之,自外來也。
上九の爻辞にいう。人の来たりて彼を增益するなく、返って人の来たりて彼を攻撃する有り。心を立つるに恒常なく、凶険なり。《小象伝》の解釈。人の彼を增益するなしと言うは、彼の話は全て自らの一頭に偏向するがゆえなり。人の彼を攻撃する有りと言うは、禍患は外面より門に找うて来たるがゆえなり。
義曰:上九居卦之上,處益之極,不通時變,不度人情,是其求益於人無厭者也,故莫有益之者;求益於己,侵剝於下,故或有擊之者。立心勿恆凶者,無厭之求以速禍患,是立心無常之人,凶之道也。象曰莫益之偏辭也者,言上九求益於己,非有以益於人,是偏辭以求益也。或擊之自外來也者,六二上九皆言自外來也。六二居中守正,其益在君民,故明智之人皆自外來而益之;上九居益之極,求益於己,不知其益人,立心勿恆,故人或自外來而擊之也。
上九は全卦の最上・益を施すの道の尽頭に処し、すでに時勢の変化を通暁せず、亦人情の向背を体察せず、一味に別人に向かって好処を索取して永遠に満足せず、だから人の肯んじて来たりて彼を增益するなし。彼は只だ自らのために利を求めて顧み、下に向かって侵奪剥削す、だから返って人の来たりて彼を攻撃する有るなり。「立心勿恒、凶」と言うは、貪求は厭くことなく只だ禍患の頭に臨むを加速するのみ、この種の心を立つるに定准なきの人は、走る所はまさに凶を招くの路なりと講ずるなり。《小象伝》の「偏辞也」は、上九は只だ自らのために益を求むるを知りて、従来何をも拿りて去りて別人を增益せざりしを講ずるなり、彼の説法は全て自らの一頭に偏向するの求取の辞なり。「或撃之、自外来也」と言うは、六二を拿りて対照すべきなり。この両爻は皆「自外来」と説到す。六二は中に居りて正を守り、增益する所は君主と百姓なれば、だから明智の士は皆外面より赶来して彼に增益す。上九は益を施すの極点に処して、只だ自らの益を得るを求めて、去りて別人を增益するを懂得せず、心を立つるにまた反復無常なれば、だから外面に便ち人の赶来して彼を攻撃する有るなり。
夬 乾下兌上
夬:揚于王庭,孚號有厲,告自邑,不利即戎,利有攸往。
《夬》卦の卦辞にいう。君王の朝堂上に於いて公開に小人の罪状を揭示すべきなり。誠信を以て号令を発布し、同時に心は危惧を存すべきなり。先ず自らの封邑に向かって宣告し、応に即座に武力を動用して去りて征討せざるに宜しく、これで乃ち前往して作為有るに利すべきなり。
義曰:夬,決也。《序卦》云:益而不已必決,故受之以夬。以天道言之,則夏之三月,五陽盛長以剝削一陰之時也。以人事言之,則是聖人在上,群賢並進,協心宣力,以眾君子決去一小人之象也。揚于王庭者,夫君子道長則小人道消,小人道長則君子道消,此必然之理也。凡群小得志,君子之人若不能潛光晦跡,欲以直道顯然而行,則反為小人之所害矣。今夬決之時,則是眾賢盛長,小人消剝,故可以顯然揚于王庭而決去之也。
胡瑗が解説します。夬は即ち決断・清除なり。《序卦伝》に言う。増益して止まざれば、必然に決断する所有るを要す、だから《益》卦の後に《夬》卦を接上す。天道に就きて言えば、《夬》卦の六箇の「爻位」(一卦の自下而上の六層の位次、初・二・三・四・五・上と称す)の中の下面の五位は皆陽爻にして、唯だ最上の一位は陰爻なり、まさに夏暦三月の陽気の極盛にして・最後の一分の陰気を剥蝕して尽くさんとするの時令に合す。人事に就きて言えば、則ち聖人は上位に在り・衆賢は一同に進用し・心を斉え力を竭して、共同に一箇の小人を清除するの景象なり。いわゆる「揚于王庭」は、君子の道は増長すれば、小人の道は即ち消退し、小人の道は増長すれば、君子の道は即ち消退す、これ必然の理なればなり。凡そ群小の志を得るの時は、君子は若し能く光芒を斂蔵し・行跡を隠晦せざれば、硬く正道を公開に推行して、返って小人に陥害せられん。今、まさに小人を決除するの時に当たりて、衆賢は盛長し・小人は消損すれば、だから能く公開に朝堂上に於いて掲発して彼を清除す。
孚號有厲者,君子之道既盛,必須信賞必罰,決然示其號令,使天下之人皆信服而從之也。有厲者,厲,危也。夫以眾賢聚於朝廷,布宣號令,決去小人,然亦不可放心肆意而遂以為安,故當肅肅祇懼而自為危厲則可矣。
いわゆる「孚号有厲」。君子の道はすでに興盛なれば、必ず賞罰は分明・説て到れば做到して、果断に号令を公布し、天下の人をして皆信服して跟从せしめねばならず。「有厲」の「厲」に至っては、危惧の意なり。衆賢は朝廷の上に聚集して、号令を宣布し・小人を清除するも、亦已むを得ず此に就きて心意を放縦して・此より高枕無憂すべきと以為すべからず、而も応に厳粛恭敬を保持し・心に警惕を懐き、自ら自らに一份の危機感を留めて、これで乃ち可なり。
告自邑者,夫發號施令,雖當夬決之時君子道盛,亦不可驟然以威勢加於天下,故宜告自已之一邑,使一邑之人信服之,然後告及於天下,所謂自內及外、由邇及逺也。不利即戎者,然當此之時,更不可恃其剛壯,長征逺討,荼苦生靈,以速危敗。若昔唐之太宗,可謂英主矣,然而享治既久,則恃其剛威以有髙麗、百濟之徵,至今稱之終累聖明之徳也。利有攸往者,夫夬決之時,一陰乗陵於眾陽之上,而又勢微力弱,下之五陽共進而決去之,是君子之道坦然而行,無所往而不利也。
いわゆる「告自邑」。号を発し令を施すに、たといまさに小人を決除し・君子の道の興盛するの時に当たるも、亦已むを得ず骤然として威勢を整个の天下に施加すべからず、だから応に先ず自らの管轄する所の一箇の封邑に向かって宣告し、此の一邑の人をして先ず信服せしめ、後に再び天下に推広す、これ即ち内より外へ・近より遠に及ぶの次序なり。いわゆる「不利即戎」。此の時に於いては更に自らの剛強壮盛に倚仗して、長途の遠征を発動して百姓を受苦せしめ、従而危亡敗壞を加速すべからず。従前の唐太宗のごときは、英明の主と算すべきなりと雖も、但し天下の太平は日久しく、彼は便ち剛強威力に倚仗して高麗・百済を征伐するの挙有りき、今日に至るまで人々が此の事を提起すれば、終にそれは彼の聖明の徳を拖累せりと認為す。いわゆる「利有攸往」。小人を決除するの時に当たりて、あの一箇の陰爻はたとい衆陽の上に凌駕するも、却って勢は孤に力は弱く、下面の五箇の陽爻は一同に上進してそれを清除す、これ即ち君子の道は暢通して阻むなく推行して、何処に走るも不利なきことなきなり。
彖曰:夬,決也,剛決柔也。健而說,決而和。揚于王庭,柔乘五剛也。孚號有厲,其危乃光也。告自邑,不利即戎,所尚乃窮也。利有攸往,剛長乃終也。
《彖伝》にいう。夬は、即ち決断清除、陽剛が陰柔を決除するなり。下卦は剛健にして上卦は和悦、決断を施行して却能く和順を保持す。「揚于王庭」は、一箇の陰爻が五箇の陽爻の上に凌駕するがゆえなり。「孚号有厲」は、心に危惧を存せば、君子の道は乃ち光大すべきを言うなり。「告自邑、不利即戎」は、若し武力を崇尚すれば、路は即ち尽頭に走到るを言うなり。「利有攸往」は、陽剛は生長して底に到れば、事情は乃ち円満に収結すべきを言うなり。
義曰:剛決柔者,言以五陽而決一柔,猶眾君子去一小人也。健而說,決而和者,此以二體言之,下乾為健,上兊為說,以健而決,以說而和。蓋君子所行必得其中,剛不至暴,柔不至懦,故雖夬決之時,用剛以決小人,則亦必以和而濟之。
胡瑗が解説します。「剛決柔」は、五箇の陽爻を用いて一箇の陰爻を決除するを言い、譬えば衆君子が一箇の小人を清除するがごとし。「健而説、決而和」は、上下の両箇の卦体に就きて言う。下卦は乾にして、其の「卦徳」(一卦の象徴する所の性情品格)は剛健を為す。上卦は兌にして、其の卦徳は和悦を為す。剛健を憑りに決断し去りて、和悦を憑りに調和す。君子の行事は必ず中道に合乎するを要し、「剛柔」の此の両種の性質は各々其の宜を得――剛は粗暴と変ずるに至らず・柔は懦弱に流るるに至らず――がゆえなり。だからたとい小人を決除するの時に於いても、剛強を用いて去りて小人を清除するも、亦一定に和順を以て調剤するを要すなり。
揚于王庭,柔乘五剛也者,言君子之命令所以顯然不憚宣揚于王庭者,蓋以一柔而乘陵五剛,一小人而乘陵五君子,是以公行決去而無有畏懼也。孚號有厲,其危乃光也者,言君子當此得時得位、號令必行之際,更能兢兢危厲,審克而舉,則其道益光也。
「揚于王庭、柔乗五剛」は、君子の命令の能く公開に発布し・毫も忌惮なく朝堂に宣揚する所以は、上六此の一箇の陰爻が五箇の陽爻の頭上に「乗」るがゆえなり――陰爻は陽爻の上に居るを「乗」と叫び・陽爻の下に居るを「承」と叫び・合して「承乗」と称す――一箇の小人が五位の君子の頭上に騎るに等しき、だから公然に彼を清除して畏懼する所なきを言うなり。「孚号有厲、其危乃光」は、君子はまさに時を得・位を得・号令は必ず推行し得べきの時に当たりて、なお能く小心翼々として・心に危惧を存し・審察明白して後に行動せば、ならば彼の道は更に光大するを言うなり。
告自邑,不利即戎,所尚乃窮也者,言發號施令,先告自已之一邑,使一邑之人信服之,然後告及天下,則天下無不信服也。苟若恃其剛壯,玩兵黷武,侵伐不戢,則自取窮凶之道也。利有攸往,剛長乃終也者,言君子之道所以坦然得行者,蓋由五剛盛長、一陰消剝之故也,是君子之道大成,終美於此也。
「告自邑、不利即戎、所尚乃窮」は、号を発し令を施すに先ず自らの封邑に向かって宣告して、此の一邑の人をして心に悦び誠に服せしめ、後に再び天下に推及せば、天下に信服せざるなきを言うなり。「所尚」の指す所は崇尚し倚重する所の手段。若し剛強壮盛に倚仗して、兵事を玩弄し・兵を窮め武を黷し、攻伐は止息なければ、則ちそれは自ら窮途凶険の路に走上するなり。「利有攸往、剛長乃終」は、君子の道の能く坦然として推行する所以は、五箇の陽爻が盛大に生長し・あの一箇の陰爻が逐漸に消退するの縁故に由るを言うなり。陽は長じて極処に到り・陰は消えて尽頭に到る、これまさに君子の道の大功告成し・美満を以て収場するの処なり。
象曰:澤上於天,夬。君子以施祿及下,居徳則忌。
《象伝》にいう。兌沢は乾天の上に昇る、これ即ち《夬》卦の卦象なり。君子はこれに取法し、俸禄恩惠を下面の人に施予す。自身は徳に安処すれば、即ち禁令を申明し得べきなり。
義曰:夫至髙者天也,潤物者澤也。今澤升於天,是必決然流霈於下也,故君子觀此之象,則施其祿惠以及於下。居徳則忌者,此則字當作明字,輔嗣之說亦曰居徳以明禁,蓋傳寫之誤耳。忌,則禁忌之義也。
胡瑗が解説します。最も高きは天、万物を滋潤するは沢なり。今、沢気は天上に昇れば、必定に傾瀉して下り・化して大雨と為りて普く地に施せん、だから君子はこの卦象を観察して、即ち俸禄恩惠を下面の人の身上に施行す。「居徳則忌」の一句に至っては、其中の「則」の字は応に「明」の字と作るべし。王弼(字は輔嗣)の解説も亦「居徳以明禁」と写作す、見るべし今本は「則」と作るは不過是れ伝抄の誤なり。「忌」は即ち禁令・禁忌の意なり。
夫已正則可以責人之邪,已是則可以責人之非。今夬決之世,君必先以仁義之徳自居於身,而後可以明其禁忌以示天下,使天下皆知其禁,有不服從者,然後決然可以刑加之也。不然,不先示以禁忌,則孔子所謂不教而誅也。
自ら端正して、乃ち別人の邪僻を責備すべし。自ら正確して、乃ち別人の過失を糾正すべし。小人を決除するの時代に当たりて、君主は必ず先ず仁義の徳を以て立身して、後に乃ち禁令を申明して天下に昭示し、天下の人をして皆禁令の所在を知らしめ、肯んじて服从せざる有れば、此に乃ち断然として彼に刑罰を施加すべきなり。然らざれば、先ず禁令を公布し出さずして即ち刑を動かせば、則ちそれは孔子が《論語・堯曰》の中に於いて批評する所の教誨を加えずして誅殺を加うるなり。
初九:壯于前趾,往不勝為咎。象曰:不勝而往,咎也。
初九の爻辞にいう。脚趾は先んじて強を逞くし、貿然として前往して能く勝たざれば、即ち過咎有らん。《象伝》にいう。能く勝たざるを明知してなお前往するは、これ乃ち過咎なり。
義曰:初九當一卦之下,故有足趾之象。夫夬之時,小人乘陵於上,而初九以剛明之才欲往決去上六之小人,故曰壯于前趾。往不勝為咎者,夫夬之時雖君子之道長,然而欲往決勝其小人,必須量敵而後進,慮勝而後會,可進則進,決然而發,萬舉萬全矣。若夫不度己力,不察彼勢,躁急而往,則反受其害,故曰往不勝為咎。象曰不勝而往咎也者,伕力既不勝於小人,乃決然不顧而往,則必為小人之所害而有咎也。
胡瑗が解説します。初九は一卦の最下に処すれば、だから脚趾を取りて象と為す。小人を決除するの時に当たりて、小人は上に凌駕し、而も初九は剛強明察の才幹を憑りに前往して上六あの小人を清除せんと欲すれば、だから「壮于前趾」と言うなり。いわゆる「往不勝為咎」。小人を決除するの時は、君子の道は増長中なりと雖も、但し前往して小人に戦勝せんと欲すれば、必ず先ず相手を估量して後に兵を進め・先ず勝を取るの道を謀画して後に交鋒し、進むべき時に乃ち進み、一旦発動すれば即ち干脆果断にして、これで乃ち万无失を得べきなり。若し自らの力量を衡量せず・相手の形勢を考察せず、急躁に冒進せば、返って其の害を遭わん、だから「往不勝為咎」と言うなり。《象伝》の「不勝而往、咎也」は、力量はすでに小人に敵する能わざるに、却って仍として一切を顧みずして前往せば、ならば必ず小人に害せられて過咎を招致せんと言うなり。
九二:惕號,莫夜有戎,勿恤。象曰:有戎勿恤,得中道也。
九二の爻辞にいう。警惕して呼号して戒備すれば、たとい傍晚夜間に兵戎の事を発生するも、亦憂慮するに及ばず。《象伝》にいう。兵戎の事有りて憂慮するに及ばざるは、九二が下卦中位に居りて、行事は中道に合乎するがゆえなり。
義曰:九二以剛健居一卦之中,則能決然而往,排去小人,不為慉縮而不進也。故雖有驚惕號呼,莫夜之間而有兵戎之事,然亦不煩憂恤之也。象曰有戎勿恤得中道也者,言九二以剛健之徳決去柔邪之小人,而又所行所為之道無過無不及,皆得大中之道,又何所恤也。
胡瑗が解説します。九二は剛健の質を以て下卦の中位に居り、それによって能く断然として前進し・小人を排除し、退缩して前ならざらん。だから縦に惊恐呼号有るも、縦に傍晚夜間に兵戎の変を発生するも、亦それのための憂慮するに及ばず。《象伝》の「有戎勿恤、得中道也」は、九二は剛健の徳を憑りに柔邪の小人を決除し、而且に為す所は過分ならず亦不及ならず、皆大中の道に合乎す――いわゆる「中正」は、即ち爻は二・五の中位に居るを「中」と為し・陽爻は陽位に居り陰爻は陰位に居るを「正」と為す――を言うなり。すでに此のごとくなれば、また何の憂慮すべきあらんや。
九三:壯于頄,有凶。君子夬夬,獨行遇雨,若濡有慍,無咎。象曰:君子夬夬,終無咎也。
九三の爻辞にいう。剛強は頬骨上に表現せられ、凶険有り。君子は若し能く果決して再び果決せば、たとい独自に前行して雨に遇い・身上は沾湿せられて怨怒を招来するも、亦過咎なきなり。《象伝》にいう。君子は果決して再び果決す、終に過咎有ることなからん。
義曰:此一爻有錯倒之文,當曰壯于頄有凶,獨行遇雨若濡有慍,君子夬夬無咎。何則?三應於上,上為陰柔被決之小人,夫既應於小人,為小人之所汙辱,則何得無咎哉。又象曰君子夬夬終無咎也,以此固知夬夬而後無咎也。
胡瑗が解説します。この一爻の文字は前後に顛倒するの処有りて、応に「壮于頄、有凶。独行遇雨、若濡有慍。君子夬夬、无咎」と読作すべし。何を以てか。九三は上六と相「応」ず――初と四・二と五・三と上、陰陽は相対して彼此に感通するを、応と叫ぶ――而も上六はまさにあの陰柔の・清除せられんとするの小人なり。すでに小人と相応ずれば、小人に玷辱せられ、どうして能く過咎なからんや。まして《象伝》は「君子夬夬、終无咎也」と言う、此に由りてまさに断定すべし。必ず果決して再び果決して、後に乃ち過咎なしを談じ上ぐべきなり。
頄者,面之骨,謂上六也。上六處一卦之上,故有面頄之象。夫剝之卦五陰長而一陽在上,猶五小人而剝一君子,六三於小人之中獨能上應君子而不為剝削之道,故曰剝之無咎。此卦五陽進而決一陰,是五君子而決一小人也,獨九三不與眾君子同心決去小人而反私應之,是壯于頄凶之道也。
「頄」は面頬上の頬骨、此処では上六を指す。上六は一卦の最上に処すれば、だから面頬を取りて象と為す。《剥》卦は五箇の陰爻は生長し・一箇の陽爻は最上に居りて、譬えば五箇の小人が一位の君子を剥蝕するがごとし。あの卦中の六三は衆小人の当中に於いて偏に能く上に向かって君子と相応じ、剥蝕の事に参与せず、だから爻辞はそれを「剥之无咎」と説く。本卦は則ち五箇の陽爻は上進して一箇の陰爻を決除す、五位の君子が一箇の小人を清除するに等しき。偏に九三は衆君子と心を同じくして去りて小人を清除せず、返ってあの小人と私相に感応す、これまさに「壮于頄」の凶険の道なり。
獨行遇雨若濡有慍君子夬夬無咎者,夫雨者,陰陽和合之所致也。眾賢方共決上六之一小人,而三獨應之,而其志和合,故曰獨行遇雨。夫小人之性,近之則不孫,逺之則怨。今夬決之時,君子得志,而反為小人之所汙辱,是獨遇雨而濡潤其身,且有慍怒也。夬夬者,敢決之辭也。惟君子之人,性明而志果,居九三之位,不為應之所撓,奮然決之,乃得無咎也。象曰君子夬夬終無咎也者,言九三終能抱公卻私,與君子之眾同徳合義以決去小人,則無過咎之累也。
いわゆる「独行遇雨、若濡有慍、君子夬夬、无咎」。雨は陰陽二気の交合して乃ち下り来るを得べきなり。衆賢はまさに一同に上六此の一箇の小人を清除せんと欲すれども、唯だ九三はそれと相応じ・心志はそれと投合す、だから「独行遇雨」と言うなり。小人の性情は、彼を親近せば即ち放肆して恭ならず、彼を疏遠せば即ち心に怨恨を生ず、これは《論語・陽貨》が早くに説き過ぎたるなり。今、まさに小人を決除するの時に当たりて、君子は本已に志を得たるに、却って小人に玷辱せらる、これは即ち独自に雨に遇いて身上を淋湿せられ、なお一肚の怨気を惹上するに猶ほし。「夬夬」は敢えて決断するの意なり。唯だあの種の秉性明達・意志果断の君子の、九三の位置上に処して、それと相応ずるの小人に牽擾せられず、奮然としてそれを清除して、乃ち過咎なき能くするなり。《象伝》の「君子夬夬、終无咎也」は、九三は最終に能く公心を秉持し・私情を摒棄して、衆君子と徳を同じく義を同じくして小人を清除すれば、即ち過咎の拖累有ることなからんと言うなり。
九四:臀無膚,其行次且,牽羊悔亡,聞言不信。象曰:其行次且,位不當也。聞言不信,聰不明也。
九四の爻辞にいう。臀部は傷を受けて完好の皮肉なく、行走し起れども踟蹰して前ならず。若し能く羊群を牽引して随行せば、悔恨は即ち消失せん。但し此の番の話を聞くも肯んじて信て信ぜざるなり。《象伝》にいう。行走して踟して踟蹰して前ならざるは、九四の居る所の位置が恰当ならざるがゆえなり。話を聞きて信ぜざるは、彼の聴聞は並びに明白ならざるがゆえなり。
義曰:次且者,其行不安之貌也。眾君子皆欲上進以決去小人,九四以不正之質獨當其路,為眾賢之所傷,而不得安行也。牽羊悔亡也者,羊者剛性之物,謂九三也,言九四若能牽連九三之剛,與眾賢協心盡力上決於小人,則其悔可亡也。聞言不信者,九四雖牽連於九三而其悔得亡,然九四之性本以剛強而自任,故雖聞其言亦不信之也。象曰聞言不信聰不明也者,言九四所以聞言不信者,以視聽之間有所不明也。
胡瑗が解説します。「次且」は行走の安穏ならざるのさまなり。衆君子は皆上に向かって前進して去りて小人を清除せんと欲すれども、九四は却って位に当たらざるの資質を以て独自に彼らの路上に挡り、それによって衆賢に傷せられ、安穏に前行する法なし。いわゆる「牽羊悔亡」。羊は性情剛強の動物、此処では九三を指す。意思は九四が若し能く九三の剛強の力を牽引して、衆賢と心を斉え力を竭して上に向かって小人を清除せば、ならば彼の悔恨は即ち消失すべきなり。いわゆる「聞言不信」。九四はたとい九三を牽連して上げて悔恨を消失せしむるも、但し彼の本性は一向に剛強自負なれば、だからたとい此の番の勧告を聴取するも肯んじて信ぜざるなり。《象伝》の「聞言不信、聡不明也」は、九四の話を聞きて信ぜざる所以は、彼の耳目見聞の間に明察せざるの処有るがゆえなりと言うなり。
九五:莧陸夬夬,中行無咎。象曰:中行無咎,中未光也。
九五の爻辞にいう。莧陸の此の柔脆の草を清除するがごとく果決して再び果決に、中道に依りて行えば、過咎なし。《象伝》にいう。中道に依りて行いて過咎なきは、只だ九五の中道は未だ光大する能わざるなり。
義曰:莧陸,草之柔脆者也。九五居至尊之位,以天下之威而躬親決上六之一小人,則決之甚易,若去莧陸之草也。中行無咎者,九五既能決去小人而以中行得無咎者何也?夫為君之道,必得天下之賢而任使之,賢人眾多,則自能決去小人,故不勞已力,可以安而無為。今九五以萬乘之威而躬決小人,是由不能任天下之賢而用之也,若能以大中之道而行,則方得無咎也。象曰中行無咎中未光也者,言居至尊而親決小人,雖得中正,未足謂之光大也。
胡瑗が解説します。莧陸は一種の柔嫩脆弱の草なり。九五は最も尊貴の君位に居り、整个の天下の威勢を以て親ら去りて上六此の一箇の小人を清除す、清除し起れば極めて容易にして、即ち莧陸の草を拔掉するがごとし。いわゆる「中行无咎」。九五はすでに能く小人を清除する能くすれば、何を以てなお中道に依りて行うに靠りて乃ち過咎なきを得べきや。君主を為るの道理は、天下の賢才を羅致して任用を加うるに在り。賢人は多ければ、自然に能く小人を清除し、君主は便ち親ら神を労するに及ばず、安然として無為なるべきなり。今、九五は万乗の君の威勢を憑りに親ら去りて小人を清除す、まさに彼が能く天下の賢才を任用する能わざるを説明す。若し能く大中の道に依りて行事せば、此に乃ち過咎なしを談じ上ぐべきなり。《象伝》の「中行无咎、中未光也」は、身は至尊に居りて親ら去りて一箇の小人を清除するは、たといなお中正を守住せりと算するも、却って光大と称するに足らざるを言うなり。
上六:無號,終有凶。象曰:無號之凶,終不可長也。
上六の爻辞にいう。再び哭喊呼号するに及ばず、終に凶険を免るべからざらん。《象伝》にいう。呼号するも亦済まざるの凶険は、この種の局面が終に長久に維持する能わざるを説明す。
義曰:上六以陰柔小人之質,當夬決之時,居眾賢之上,而貪其榮寵,戀其祿位,不能退避君子,而又乘陵於上,卒為君子之所誅。故雖號呼於天,亦終不免其凶咎,故先聖戒之,言無用號呼,亦不能逃其誅而免凶也。象曰無號之凶終不可長也者,上六當夬決之世,而居眾賢之上,是其勢微力弱,必為眾賢之所誅,是不可以長久也。
胡瑗が解説します。上六は陰柔小人の資質を以て、まさに小人を決除するの時に当たりて、却って衆賢の上に高居し、栄寵を貪図し・禄位を留恋し、君子のために路を譲るを肯んぜず、なお衆陽の上に凌駕せんと欲すれば、最終に必ず君子に誅除せられん。だからたとい天に向かって哭喊呼号するも、終に凶険災禍を免るべからず。それによって古聖人は此処に於いて告誡を加えて、哭喊呼号は毫も用処なく、亦誅除せらるるを逃れ得ず・凶険を免れ得ざるを言うなり。《象伝》の「无号之凶、終不可長也」は、上六は小人を決除するの時代に処して、却って衆賢の上に盤踞し、勢力は単薄・力量は微弱にして、必定に衆賢に誅除せられん、この種の局面は長久なる可能なしと言うなり。
姤 巽下乾上
姤:女壯,勿用取女。
《姤》卦の卦辞にいう。一箇の陰爻は下より生ず、譬えば女子が剛壮に過ぐるがごとく、応にこのようの女子を娶りて妻と為すべからざるなり。
義曰:按《序卦》云:夬者決也,決必有所遇,故受之以姤。姤者,遇也。夫群陽並進以決小人,小人既去,則聖賢之人得其相遇也。然謂之姤者,蓋以陰而遇於陽,以柔而遇於剛也。以人事言之,則是臣遇於君,君遇於臣也,以至貴賤尊卑、少長師友之間,皆得其遇也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》に拠れば、夬は決断清除の意、決断有れば必然に遭遇する所有り、だから《夬》卦の後に《姤》卦を接上す。姤は、即ち相遇うなり。衆陽は一斉に上進して去りて小人を清除し、小人はすでに除かるれば、聖賢の人は便ち彼此に相遇を得たるなり。但し「姤」と呼ぶ所以は、それは陰を以て陽に遇い・柔を以て剛に遇うの象を取ればなり。人事より言えば、即ち臣子は明君に遇い・君主は賢臣に遇うなり。推して広くすれば、貴と賤・尊と卑・年長と年少・老師と朋友の間に於いても、亦各々其の相遇うの道有るなり。
女壯者,此指初六而言也,以其以一陰而遇五剛,是女之壯者也。勿用取女者,女之為道,固當婉娩柔順,從一而終;臣之為道,必盡心竭力以事其上。今初六乃以一陰而遇五陽,是剛壯不正不順之女,故聖人於此戒之,言不可取,猶不忠不一之臣不可用也。
いわゆる「女壮」は、初六此の一爻に就きて言う。それは一箇の陰爻を以て去りて上面の五箇の陽爻と相遇う、まさに女子の過分に強壮なるのさまなり。いわゆる「勿用取女」。女子の正道は、本当に温婉柔順・一に従って終るべきなり。臣子の正道も、必ず心を尽くし力を竭して去りて君上に事奉せねばならず。今、初六は却って孤单の一箇の陰爻を以て同時に五箇の陽爻に遇上す、一箇の剛強不正・肯んじて柔順せざるの女子なり、だから聖人は此に於いて告誡を加えて、このようの女子は娶るべからず――譬えば忠貞ならず・専一ならざるの臣子は任用すべからざるがごとし――を言うなり。
彖曰:姤,遇也,柔遇剛也。勿用取女,不可與長也。天地相遇,品物咸章也。剛遇中正,天下大行也。姤之時義大矣哉。
《彖伝》にいう。姤は、即ち相遇、陰柔が陽剛に遇上するなり。「勿用取女」は、このようの女子はそれと長久に相処する能わざるがゆえなり。天地の二気は彼此に相遇して、万物は乃ち皆顕明昭著なり。陽剛は中に居りて正を守るの位置に遇上して、教化は乃ち天下に通行すべきなり。《姤》卦の講ずる所の時機と義理は、真に重大なりや。
義曰:柔遇剛也者,言初六以一陰而遇五剛也。以人事言之,則是以卑而遇於尊,以賤而遇於貴,君臣上下、朋友夫婦之間皆得其姤遇者也。勿用取女不可與長也者,夫以不正不順之女用於閨門,則不能成其室;不正不順之臣用於朝廷,則不能盡忠而害天下。今初六之陰不能專一其行,以剛壯而遇於眾陽,是不可與之永長以相處、終始以相保也,故曰不可與長也。
胡瑗が解説します。「柔遇剛」は、初六は一箇の陰爻を以て去りて五箇の陽爻に遇上するを言うなり。人事より講ずれば、即ち卑者を以て尊者に遇い・賤者を以て貴者に遇うなり。君臣と上下の間・朋友と夫婦の間に於いても、亦各々各々の相遇うの道有るなり。いわゆる「勿用取女、不可与長」。端正ならず・柔順ならざるの女子を家門の内に用いれば、即ち一箇の家を成就する能わず。端正ならず・柔順ならざるの臣子を朝廷の上に用いれば、即ち忠を尽くす能わず、返って天下を禍害せん。今、初六此の陰爻は能く専一に自守せず、剛強の一身を憑りに去りて众多の陽爻に遇上す、このようの人はそれと長久に相処し・頭より尾に至るまで彼此に保全する能わざるなり、だから「不可与長」と言うなり。
天地相遇品物咸章也者,此以下廣明姤之義也。天以一陽之氣降於地,地以一陰之氣承於天,天地之氣相遇,故萬物發生而章明也。故君臣相遇則能成天下之治,夫婦相遇則能成閨門之事,師友相遇則能成其道業也。
「天地相遇、品物咸章」、此以下は更に進んで《姤》卦の相遇の意義を闡明す。天は一分の陽気を地上に降し、地は一分の陰気を天に上承し、天地の気は交相に遇合し、だから万物は萌生して生長して顕明昭著なり。それによって君臣は相遇えば即ち天下の治理を成就し、夫婦は相遇えば即ち家門の内の事務を成就し、師友は相遇えば即ち各自の学問と事業を成就すべきなり。
剛遇中正天下大行也者,凡人有剛明之徳而不遇中正之位,則不能行其道;有中正之位而無剛明之徳,則不能稱其任。今九五既有剛明之徳,又居中正之位,故能大行教化於天下而盡姤遇之道者也。
「剛遇中正、天下大行」は、一箇の人は縦に剛強明察の徳行有るも、却って中に居りて正を守るの位置に遇上せざれば、即ち彼の主張を推行する法なしと言うなり。返って言えば、中正の位を占据するも剛強明察の徳行なければ、亦あの份の責任を担当し起る能わず。今、九五はすでに剛明の徳を具備し、また上卦中位に居りて陽爻を以て陽位に居り、徳と位とは相配すれば、だから能く教化を天下に大行し・相遇の道を極致に発揮すべきなり。
姤之時義大矣哉者,夫姤遇之道,患不得其時,得其時患不得其義,既得其時又得其義,然又患不能久之也。故君臣相遇不久則不能治天下,夫婦相遇不久則不能治閨門,朋友相遇不久則不能成道業。是姤之時與義至大至難,故先聖於此重嘆美之也。
「姤之時義大矣哉」は、相遇の道は、最も怕るるは合適の時機に遇わざるに在りと言うなり。時機有れば、また怕るるは義理に合せざるに在り。すでに其の時を得て其の義を得れば、なお怕るるは能く長久に維持して下去る能わざるに在り。だから君臣は相遇えども能く長久ならざれば、即ち天下を治理して好くする能わず。夫婦は相遇えども能く長久ならざれば、即ち家門を治理して好くする能わず。朋友は相遇えども能く長久ならざれば、即ち共同の道業を成就する能わず。見るべし、《姤》卦の講ずる所の時機と義理はすでに極めて重大にしてまた極めて得難ければ、だから古聖人は此処に於いて反復してこれを讃嘆す。
象曰:天下有風,姤。后以施命誥四方。
《象伝》にいう。乾天の下に巽風の吹拂有り、これ即ち《姤》卦の卦象なり。君主はこれに取法し、政令を頒布して四方に詔告す。
義曰:風之行於天下,以發生萬物,則物無不相遇而得其生成,此姤之象也。後者,天子諸侯之通稱。夫天子之治天下、諸侯之治一國,皆當法姤之象,發施仁義之教命以詔告於四方之民,則四方之民莫不順從而恱服也。
胡瑗が解説します。風は天下に吹行して、以て万物を催発せしむれば、万物は風と相遇して生長成就を得ざるなきなり、これ即ち《姤》卦の取象なり。爻辞裏の「后」は、天子と諸侯の通称なり。天子は天下を治理し・諸侯は一国を治理するに、皆応に《姤》卦の象に效法して、仁義に合乎するの政教命令を頒布し、四方の百姓に詔告せば、ならば四方の百姓は順従して心に悦び誠に服せざるなからん。
初六:繫于金柅,貞吉。有攸往,見凶。羸豕孚蹢躅。象曰:繫于金柅,柔道牽也。
初六の爻辞にいう。車輪の堅固の金屬止輪器に拴住せらるるがごとく本分に安守して、正道を守持すれば即ち吉利なり。若し別に往く所有れば、即ち凶険に遇わん。あの瘦弱の母猪は、果真に躁動して安んぜず・来りて回りて踢踏す。《象伝》にいう。金柅に繫ぐるは、陰柔の道は必ず牽繫する所有るを要すと言うなり。
義曰:金者,堅剛之物;柅者,車輪之下制車之行,是制動之器,謂九二也。初六居姤之始,以一陰而上承於五陽,是剛壯不正之女也。然上有九二最近於己,九二有堅剛之徳,能制物之動,今初六若能繫之而不躁求妄動,正一而不遷,則得其吉也。
胡瑗が解説します。「金」は堅硬剛強の物。「柅」は車輪の下面に安放して以て車子の行進を止住するに用うる、一種の制動の器械、此処では九二を指す。初六は《姤》卦の開端に処し、一箇の陰爻を以て上に向かって五箇の陽爻を承接す、一箇の剛強にして端正ならざるの女子なり。しかし其の上面に緊く挨る所の九二はそれを離るること最も近し――爻と爻と相隣して並列するを「比」と叫ぶ――九二は堅剛の徳を具備し、能く事物の妄動を制止す。今、初六が若し能くそれに繫附して躁進妄求せず・専一にして迁移せざれば、即ち吉利を獲得すべきなり。
然初繫於二,本非其正,然姤遇之時,人無常親,有賢者則可以附合,不顧正應而繫之也。故初六若能專一守正以繫於二,則可以獲吉矣。有攸往見凶者,初六既不能順從於九四之正應而繫於九二,則當專一守正可以獲安;若苟有所往而妄動,則是凶之道也。
但し初六が九二に繫附するは、本来は正配の道に合せざるなりと雖も、但し相遇の時に於いては、人と人の間に固定して変らざるの親附の対象なし、賢者に遇えば即ち依附して結合すべく、必ずしも正応に拘泥して彼に繫附するに及ばざるなり。だから初六が若し能く専一に正を守りて九二に繫附せば、即ち吉利を獲得すべきなり。いわゆる「有攸往、見凶」。初六はすでに去りて九四此の正応に順従せずして、九二に繫附せれば、ならば応に専一に正を守りて、方に安寧を獲得すべし。若しなお別に往く所有りて・軽挙妄動せば、則ちそれは凶を招くの道なり。
羸豕孚蹢躅者,羸豕,牝豕也,淫壯之甚者也;蹢躅,躁動之貌。言初六既以一陰而上承於五陽,又不能專一守正,躁動而欲有所往,是若羸豕淫躁之甚者也。象曰繫于金柅柔道牽也者,夫陰柔之體不能自立,必牽繫於剛明之人乃可也。今初六以陰而繫於九二之陽,是陰道之牽也。
いわゆる「羸豕孚蹢躅」。羸豕は即ち母猪、淫躁強壮の極点に到れるの物なり。蹢躅は躁動して安んぜざるのさまなり。意思は初六はすでに一箇の陰爻を以て上に向かって五箇の陽爻を承接するも、又能く専一に正を守らず、躁動して往く所有らんと欲すれば、即ちあの頭の淫躁の極に到れる母猪のごとし。《象伝》の「繋于金柅、柔道牽也」は、陰柔の物は能く自立せず、必ず剛強明察の人の身上に牽繫して乃ち可なりと言うなり。今、初六は陰爻を以て九二の陽爻に繫附す、まさに陰柔の道の牽繫する所有るなり。
九二:包有魚,無咎,不利賓。象曰:包有魚,義不及賓也。
九二の爻辞にいう。厨房の裏に魚有り、過咎なし、但し応にそれを用いて賓客を宴請すべからざるなり。《象伝》にいう。厨房の裏に魚有れば、道義の上より講ずれば、なおそれを用いて賓客を招待するに輪らざるなり。
義曰:魚,陰物也,謂初六也。夫姤遇之時,君臣上下、貴賤尊卑各以正道交相際接,然後事克濟矣。今初六之陰來附於己,非已所召,已得初六之陰,如庖廚之有魚然。無咎者,初之應本在四,而已擅之,是有咎也;以初之來非已所召,近而相得,可以無咎也。
胡瑗が解説します。魚は陰に属し、此処では初六を指す。相遇の時に当たりて、君臣上下・貴賤尊卑は各々正道に依りて彼此に交接して、事情は乃ち弁じ成るを得べきなり。今、初六此の陰爻は主動に来たりて九二に依附す、並びに九二の招引して来たるにあらず。九二は初六を得たるは、即ち厨房の裏に一条の魚有るがごとし。いわゆる「无咎」。初六の正応は本来九四に在りて、九二は却ってそれを独占せり、理に照らせば過咎有るなりと雖も、但し初六は自ら門に找うて来たるがゆえ、並びに九二の招引にあらず、両者は相隣して彼此に投合せれば、だから過咎なきべきなり。
不利賓者,夫饗賓當以其正,今九二所得之魚非其正也。初本九四之民,今附於己,是擅有他人之民;擅有他人之民而與人,是義之所不可也,故象曰義不及賓也。
いわゆる「不利賓」。賓客を宴請するは応に来路正当の物を用いるべきなりと雖も、今、九二の得たる此の条の魚は来路は並びに正当ならざるなり。初六は本は九四の治下の百姓にして、今、却って九二に依附せり、九二が私自に別人の百姓を占有するに等しき。私自に別人の百姓を占有して、なおそれを拿りて去りて他人に饋贈せば、これは道義の上に於いて行き通る能わず、だから《象伝》は「義不及賓」と言うなり。
九三:臀無膚,其行次且,厲,無大咎。象曰:其行次且,行未牽也。
九三の爻辞にいう。臀部は傷を受けて完好の皮肉なく、行走し起れども踟蹰して前ならず。危惧の心を保持せば、即ち大なる過咎有ることなからん。《象伝》にいう。行走して踟蹰して前ならざるは、九三が衆陽を牽引して同行する能わざりしがゆえなり。
義曰:夫姤遇之時,君臣上下、尊卑貴賤皆得其遇,然後有所濟矣。今九三上無所應,下無所繫,是不得相遇之道也。然姤之時,下之君子欲上進,而已當其路,又乘九二之剛,必見所傷而不得其安行,故曰其行次且。厲無大咎者,言九三雖為下之所傷,而以陽居陽,所履得正,處非有妄,若能常自危厲而周防警戒,則咎亦無大矣。象曰其行次且行未牽也者,言九三不能牽連眾陽而獨當上進之路,所以次且而不安也。
胡瑗が解説します。相遇の時は、君臣上下・尊卑貴賤は皆各々其の遇合を得て、事情は乃ち弁じ成るを得べきなり。今、九三は上に向かって相応ずるの爻なく、下に向かっても繫附すべきの爻なし、これ即ち相遇の道を得ざるなり。而且に相遇の時に於いて、下面の君子は上に向かって前進せんと欲すれども、九三は却って彼らの路上に挡り、同時にそれはまた九二の陽剛の上に騎れば、必定に傷せられて安穏に前行する能わざらん、だから「其行次且」と言うなり。いわゆる「厲、无大咎」は、九三はたとい下面の爻に傷せらるるも、但しそれは陽爻を以て陽位に居りて、処する所の位置は端正、行事は並びに虚妄なく、若し能く常に自警自惧し・周密に防備せば、ならば過咎も亦大ならざらんと言うなり。《象伝》の「其行次且、行未牽也」は、九三は能く衆陽を牽引して一同に前行する能わず、独自に上進の路口に挡れば、だから乃ち踟蹰して安んぜざるを言うなり。
九四:包無魚,起凶。象曰:無魚之凶,逺民也。
九四の爻辞にいう。厨房の裏に魚なし、一旦事を興せば即ち凶険有らん。《象伝》にいう。魚なきの凶険は、九四が本より自らに属するの百姓に疏逺せるに由るなり。
義曰:魚亦謂初也。夫姤之卦,以一陰而遇五陽,則淫壯甚矣。然初六既以躁妄之情與二相得,而失四之應,是猶二庖有魚而四反無之也。起凶者,夫姤遇之時,必得天下臣民,然後有所輔助而動作不失其正也。今九四以不中不正之身居上卦之下,雖有初六之正應,而反為九二之所繫,則是君無其臣、國無其民,動而有凶也。
胡瑗が解説します。此処の魚は同じく初六を指す。《姤》卦は一箇の陰爻を以て五箇の陽爻に遇上す、淫躁強壮の極点に到れり。しかるに初六はすでに躁動妄進の心思を憑りに九二と投合せば、即ち九四との正応を丟掉せり、これ即ち九二の厨房の裏に魚有りて、而も九四の厨房は返って空空如也なるに猶ほし。いわゆる「起凶」。相遇の時は、必ず先ず天下の臣子と百姓を得て、後に行動し起れば乃ち人の輔助有りて其の正を失せざらん。今、九四はすでに中に居らず亦位に当たらざるの身分を以て上卦の最下に処し、たとい初六有りて其の正応と為すも、却って九二に繫住せらる、これ即ち君主に臣子なき・国家に百姓なきに等しく、一たび挙動有れば即ち凶を遭わんと欲すなり。
故孟子曰:得道者多助,失道者寡助,多助之至,天下順之;寡助之至,親戚畔之。今九四居不得正,履失其中,是寡助之人也。象曰無魚之凶逺民也者,夫民惟邦本,本固邦寧。初為九四之民而繫於二,九四不得有之,是逺於民也。
だから《孟子・公孫丑下》に言う。道義に合乎するの人は彼を助くる者多く、道義に背離するの人は彼を助くる者少なし。彼を助くる者は多きの極点に到れば、天下は皆彼に順従す。彼を助くる者は少なきの極点に到れば、親戚をも彼を背叛せん。今、九四の居る所の位置はすでに端正ならず、行う所も亦中道を失せり、まさにあの種の寡助の人なり。《象伝》の「无魚之凶、逺民也」――《尚書・五子之歌》は「民惟邦本、本固邦寧」と講じ、百姓は国家の根本、根本は穏固して国家は乃ち安寧なりと。初六は本は九四の百姓なるに、却って九二に繫附せり、九四は能くそれを擁有する能わず、これ即ち百姓に疏逺せるなり。
九五:以杞包瓜,含章,有隕自天。象曰:九五含章,中正也。有隕自天,志不舍命也。
九五の爻辞にいう。高大の杞樹を用いて瓜蔓を庇覆し、内に美徳を含んで外露せざれば、終に陨落して自ら天降る所有らん。《象伝》にいう。九五は美徳を含蓄するは、それは中に居りて正を守るがゆえなり。陨落して自ら天降る所有るは、それの心志は終始として上天の授くる所の使命を放棄するを肯んぜざるを言うなり。
義曰:杞者,杞梓之材,木之秀者也。言此一爻有剛明之才、中正之徳,居至尊之位,為姤之主,而不遇其應。雖有眾陽在下來助於己,然在下者各固其位,但如延蔓相纒,終無所益,是猶杞秀之材雖甚盛茂,而為瓜之延蔓纒繞之,適足為美材之累。
胡瑗が解説します。杞は杞・梓の一類の良材、樹木の中の最も挺秀なるなり。これは九五此の一爻が剛強明察の才幹・中に居りて正を守るの徳行を具備し、最も尊貴の君位に処し、《姤》卦の主爻にして、却ってそれと相応ずるの爻に遇わざるを言うなり。たとい下面に众多の陽爻の前来して自らを幇助する有るも、但しこれらの在下者は各自に其の位を固守して、不過藤蔓のごとく纏繞して上るのみ、終に何の実益なからん。これ譬えば杞樹のごときの良材は、縦に枝葉の極めて茂盛なるも、却って瓜の藤蔓に層に層層に纏繞せられ、返って美材の拖累と為れるがごとし。
含章有隕自天者,以已有剛明之才,居至尊之位,而下無賢明之輔,是以終日之間焦心勞思以求天下之賢。蓋自念有倡而無和,有令而無從,有仁義不能施於天下,有禮樂不能宣佈於四方,於是但含蓄章美之徳以待天下之賢,是以盡其至誠,不舍其命以求天下之賢。言天若隕墜我之命則已,若天未隕墜其命,則我求之不已,天必生賢明之臣以為己之輔佐、為己之應援,故曰有隕自天,明九五求臣之切也。
いわゆる「含章、有隕自天」。九五は自身に剛明の才幹有りて、至尊の君位に居れども、しかし下面に賢明の輔佐なければ、それによって整天として心を焦し思を苦しめ、四処に天下の賢才を訪求す。彼は心裏に想う。自ら倡導有るも応和する人なく、号令有るも跟从する人なく、仁義を懐くも天下に施行する能わず、礼楽を備ふるも四方に宣布する能わずと。於是乎只だ美好の徳行を内に含蓄して、天下の賢才の出現を等待するに如かず。彼は此に因りて至誠を竭尽して、絶に上天の授くる所の使命を放棄せずして去りて賢才を訪求す。意思は言う。上天が若し我が天命を收回せんと欲せば、則ち罷めん。若し上天がなお天命を收回せざれば、則ち我は賢を求めて止まざらん、上天は必定に賢明の臣を降生して来たりて我が輔佐を為し・我が援応を為さしめんと。だから「有隕自天」と言う、まさに九五の賢を求むるの心の迫切を表明す。
象曰九五含章中正也者,按坤之六三曰含章可貞,或從王事,彼以其為臣之道,言其在下而含蓄章美之徳,待其君而後發;此云含章,君之道也。九五居中正之位,亦含蓄章美之徳,而無中正之臣以輔己而宣發之,故守其中正之位,待其得賢而後已。
《象伝》の「九五含章、中正也」。《坤》卦の六三の爻辞は「含章可貞、或従王事」と言う、あれは則ち臣たるの道に就きて言うなりと雖も、臣子は下位に処して美徳を含蓄し、君主の召用を待って後に乃ち発揮し出さんを要すと説く。此処の「含章」の講ずる所は却って君たるの道なり。九五は中正の位に居り、同じく美好の徳行を含蓄すれども、只だ中正の臣子の来たりて自らを輔助し・此の份の徳行を宣揚発揮し出さんとするなければ、だから只だ中正の位を守住して、一直に賢才を訪得するを待って乃ち肯んじて罷むるなり。
有隕自天志不舍命也者,言此九五之君求賢之切,若天不隕墜我之命,則我之志不舍其求賢之命矣。故古之髙宗諒闇三年,其惟不言,恭黙思道,至於夢寐之間,孜孜求賢以得傅說,置之為相。又周之世宗,以朝廷左右雖有百官而無中正之臣,故孜孜求賢以得王樸,任之為臣,以建太平之策。以此見自古聖人治天下求賢之心乾乾不已也。
いわゆる「有隕自天、志不舎命」は、九五此の位の君主の賢を求むるの心は極めて迫切なりと言うなり。只だ上天は我が天命を收回せざれば、我が賢を求むるの志向は即ち絶に放棄せざるなり。だから古代の殷高宗武丁は居喪三年として号令を発せず、恭敬沈黙して治道を思索し、以て夢寐の中に於いて賢人の形象を見るに至り、孜孜不倦として訪求し、終に傅説を找到し、彼を任命して宰相と為せり。又如後周世宗のごときも、朝廷の左右は百官俱全すと雖も、却って中正にして可靠の臣子なきを眼見して、於是乎孜孜として賢を求め、王朴を得、彼を任用して臣と為し、自らのために天下を平定するの方略を制定せしめり。此に由りて見るべし、自古の聖明の君の天下を治理するに、あの份の賢を求むるの心は総に勤勉して息まざるなりと。
上九:姤其角,吝,無咎。象曰:姤其角,上窮吝也。
上九の爻辞にいう。角上に於いて人と相遇えば、些かの困窘有れども、但し過咎なし。《象伝》にいう。角上に於いて相遇うは、上九が一卦の頂端に処して、すでに窮尽の地に到れるがゆえ、だから困窘するなり。
義曰:角者,物之最上窮極之處也。按此上九居一卦之極,在無位之地,當姤之時,上無所遇,下無所應,如至於角,窮盡而無所容也。吝無咎者,以其居窮極無位之地,上無所容,是自取鄙吝,又何咎於人哉,故曰無咎。象曰姤其角上窮吝也者,言上九不能自量其時而進至於角,是窮吝之道也。
胡瑗が解説します。角は一件の物の最上端・最も窮尽の部位なり。上九は一卦の頂点に処し、職位なきの地方に居りて。まさに相遇の時に当たりて、それは上に向かって遇うべき人なく、下に向かっても相応ずるの爻なし、即ち角尖上に走到りて、窮尽して容身する処なきがごとし。いわゆる「吝、无咎」。それは自ら窮極して位なきの地に処して、上面は容身する処なし、此の份の困窘は自ら招来せる、また誰を怪罪するを得べきや、だから過咎なしと言うなり。《象伝》の「姤其角、上窮吝也」は、上九は能く自ら時勢を估量せず、一味に前進して角尖に至るまで、これまさに自ら困窘に陥るの道なりと言うなり。
萃 坤下兌上
萃:亨,王假有廟,利見大人,亨,利貞。用大牲吉,利有攸往。
《萃》卦の卦辞にいう。会聚の時、道路は通達す。君王は宗廟に来たりて祭を致す。大德大才の人に見ゆるに宜しく、それによって亨通す。但し必ず正道を守持して乃ち利有るべきなり。牛羊のごときの大牲を用いて献祭せば、吉利なり。往く所有るに宜しきなり。此処の「利貞」は、「元亨利貞」の四徳の中の後の両項――「元」は万物の創始の大徳、「亨」は通達して阻むなし、「利」は万物をして各々其の宜を得せしむ、「貞」は正固を守持する――なり。
義曰:按《序卦》云:物相遇而後聚,故受之以萃。萃者,聚也。蓋言聖賢既相姤遇,則天下之人得以會聚,故以萃次於姤也。然萃所以得亨者,蓋君臣相遇,民物和會,當此之時,其道得以大通,其志得以上行,故萃亨者此也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》に拠れば、万物は彼此に相遇して後に聚集すれば、だから《姤》卦の後に《萃》卦を接上す。萃は、即ち聚集なり。これは聖賢はすでに彼此に遇合せれば、天下の人は会聚して一処を得べきを言い、だから《萃》を《姤》の後面に排す。「萃、亨」の亨通する所以に至っては、君臣は相遇い・百姓万物は和洽して会合せば、此のようの時に於いて、君主の道は広汎に通行を得・臣民の志は上に向かって申達を得べきがゆえ、卦辞の「萃、亨」と言うはまさに此の意思なり。
王假有廟者,廟貌也,言聚先祖之神,故謂之廟。何則?夫人之生,則精神萃之於身;及其死也,魂氣歸於天,形魄歸於地。於此時也,孝子慈孫雖有求見之志而不能見其容貌,雖有虔奉之心而不得為之奉養。
いわゆる「王假有廟」。廟は即ち容貌の「貌」、それは先祖の神霊を聚集するがゆえに、だから廟と称す。何を以て此のように言うか。人は生きる時、精神は此の身体上に聚集す。死せるを待っては、魂気は昇って天に帰し・形魄は降って地に帰す。あの時に到りては、孝子賢孫は縦に一面を見んと欲するの心願有るも、亦先人の容貌を見る能わず。縦に虔誠に奉養するの心意有るも、亦彼らのために奉養の礼を尽くすに従るなきなり。
是故聖人觀萃之卦,假其萃聚之道,設為廟祧,以萃祖宗之精神於其間,以奉四時之祭,以盡孝子之心,而施教於天下,使天下之人當此萃聚之時皆知尊事其祖先也,故萃聚之道莫大於此。
それによって聖人は《萃》卦を観察し、それが会聚するの道理を借用して、宗廟祧廟を設立し、祖宗の精神を其の中に聚集し、春夏秋冬の四時に按じて祭祀を挙行し、此を以て孝子の心願を満足せしめ、同時に教化を天下に施行して、天下の人をして此の会聚の時代に於いて皆自らの祖先を尊奉するを懂得せしむ。だから言うに、会聚の道はこれより重大なるなしと。
利見大人亨者,夫小民蚩蚩,不能自立,是必得大有才徳之人,以仁義之道生成之,然後得其所亨。今萃聚之世,民物和會,故當利見大有才徳之人,然後民得以亨通矣。利貞者,君之所以得民、民之所以從君,必須利在於正道。苟居上者不以正道而治之,則民始雖眾多而聚,終亦離叛矣,是萃之道所利者惟在於正。
いわゆる「利見大人、亨」。普通の百姓は渾渾噩噩にして、能く自ら立ち起る能わず、必ず大有才徳の人の仁義の道を用いて彼らを養育成全するを得て、後に乃ち通達順遂すべきなり。今、まさに会聚の時代に当たりて、百姓と万物は和洽して会合すれば、だから応に大有才徳の人に見ゆべく、百姓は乃ち此に因りて亨通すべきなり。いわゆる「利貞」。君主は以て民心を得・百姓は以て君主に帰附する所は、皆必ず正道を以て利の所在と為すべし。たとい上位に居るの人が正道を用いて去りて治理せざれば、ならば百姓は起初はたとい人数の众多・聚り合うるも、最終に還是離散して背叛せん。見るべし、《萃》卦の講ずる所の「利」は、只だ一箇の「正」の字上に落着す。
用大牲吉者,夫君之所有天下者,蓋由功業被於民而為天之所眷佑者也。故孟子曰:天與賢則與賢,天與子則與子。是則為人上者撫有萃聚之世,皆由天所付與之也。故王者當此萬物萃聚之世,必用其碩大之牲為之享祀,以答天所貺之命,故得其吉也。利有攸往者,萃聚之世,君臣會聚,天下和同,故聖賢君子必當往而康濟之,使天下大得其亨通矣。
いわゆる「用大牲吉」。君主の天下を擁有する所以は、彼の功業は百姓に遍及し、それによって上天の眷顧庇佑を得ればなり。だから《孟子・萬章上》に言う。上天は天下を賢者に交せば、即ち賢者に伝え、上天は天下を児子に交せば、即ち児子に伝うと。見るべし、君主を為るの人の能く此のようの会聚の時代を統領するは、皆上天の授与する所なりと。それによって君王は万物の会聚するの時代に処して、必ず肥碩の牛羊を用いて祭享を挙行し、以て上天の賜う所の天命を報答して、だから能く吉利を獲得す。いわゆる「利有攸往」。会聚の時代は、君臣は一堂に聚集し・天下は和洽して心を同じくせば、だから聖賢君子は理応に前往して抱負を施展し・天下を安定救助して、天下をして大いに亨通を得せしむべきなり。
彖曰:萃,聚也,順以說,剛中而應,故聚也。王假有廟,致孝享也。利見大人亨,聚以正也。用大牲吉,利有攸往,順天命也。觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。
《彖伝》にいう。萃は、即ち聚集なり。下卦は柔順にして上卦は和悦、九五は陽剛にして中に居りて六二と相応ずれば、だから能く聚集す。「王假有廟」は、祖先に対するの孝敬と祭享を表達す。「利見大人亨」は、聚集は正道に依循するを要すと言うなり。「用大牲吉、利有攸往」は、上天の意旨に順承するなり。万物の聚集するの情形を観察すれば、天地万物の実情は即ち見清すべきなり。
義曰:萃訓即聚也,言天下君臣民物會聚之時也。順以說者,此就二體以言之,下坤為順,上兊為說,是聖人在上能以仁義之道順民之慾、說民之心,使群民亦以順說而相合也。
胡瑗が解説します。萃の字の訓解は即ち聚集、天下の君臣・百姓・万物が会聚して一処にするの時を指す。いわゆる「順以説」は、上下の両箇の卦体に就きて言うなり。下卦は坤にして、其の卦徳は柔順を為す。上卦は兌にして、其の卦徳は和悦を為す。これは聖人は上位に在りて、能く仁義の道を用いて百姓の願望に順応し・百姓の心を取悦せしめ、衆百姓をして亦順従和悦の心を以て彼と相合せしむるを言うなり。
剛中而應故聚也者,此指九五六二而言。蓋五以剛徳居中,為萃之主,下應六二柔正之臣,是君臣之間倡而和、令而行、同徳而治者也。夫既順而說,又剛而中,有此四徳之備,然後天下之民因得而聚矣。
「剛中而応、故聚也」、これは九五と六二の両爻を指して言うなり。九五は陽剛の徳を以て上卦中位に居り、《萃》卦の主爻にして、下に向かって六二此の柔順にして正を守るの臣子と相応ず、まさに君唱え臣和え・君令え臣行え・君臣は徳を同じくして共治する天下の局面なり。すでに柔順にしてまた和悦、すでに剛強にしてまた中に居り、順・説・剛・中の此の四種の徳性を具備して、後に乃ち天下の百姓は此に因りて聚攏して来たるなり。
王假有廟致孝享也者,言王者假立廟貌,以聚先祖之精神,以修四時之祭,以盡孝子之心,而示教於天下,使皆能明享親之禮也。利見大人聚以正也者,言當此萃聚之時,必須得大有才徳之人以正道治之,則天下可得而久大矣。
「王假有廟、致孝享也」は、君王は宗廟の形制を立起するを借りて、先祖の精神を其の中に聚攏し、春夏秋冬の四時に按じて祭祀を修挙し、此を以て孝子の心意を尽くし、併せて此の份の教化を天下に昭示して、人人をして皆祭享する両親の礼節を明白せしむるを言うなり。「利見大人、聚以正也」は、まさに会聚の時に当たりて、必ず大有才徳の人を得て、正道を用いて此の聚合し起れるの天下を治理して、天下は乃ちすでに長久にしてまた広大なるべきを言うなり。
用大牲吉利有攸往順天命也者,夫君者,天之所以命也,故代天理物,以仁義之道生成天下之民,使天下之民皆受其賜而會聚於時,則王者用大牲之禮答天之意,以順承天之所命也。然利有攸往而言順天命者,夫王者既代天理物,則必往而康濟之,所以順上天付與之命也。
「用大牲吉、利有攸往、順天命也」。君主は上天の任命する所なれば、だから上天に代わりて万物を治理し・仁義の道を用いて天下の百姓を養育成全して、天下の百姓をして皆彼の恩賜を蒙受して此の時代に於いて会聚し起らしむるを要す。於是乎君王は便ち大牲を献ずるの祭礼を用いて上天の心意に回報し、以て上天の授くる所の使命に順承す。「利有攸往」も亦「順天命」に帰するに至っては、君王はすでに上天に代わりて万物を治理せば、即ち必定に前往して天下を安定救助せねばならざれば、これまさに上天の交付する所の使命に順承するなり。
觀其所聚而天地萬物之情可見矣者,此廣明萃聚之義也。夫天本居上,地本在下,及其陰陽相交,萬物發生而萃聚,此天地聚會之情也。至於昆蟲草木,亦各從其類,故《繫辭》曰:方以類聚,物以群分,是也。今此君臣民物各相萃聚之世,聖人觀此萃聚之道,則可以見天地萬物之情狀矣。
「観其所聚、而天地万物之情可見矣」、これは更に進んで会聚の意義を闡発す。天は本来上に在り・地は本来下に在り、陰陽の二気は交感して、万物は萌生して生長して聚集し起るを待てば、これ即ち天地の会聚するの実情なり。昆虫草木に至っても、亦各自に類に依りて相従す、だから《周易・繋辞上》に「方以類聚、物以羣分」と言う、講ずる所はまさに此の道理なり。今、君臣・百姓・万物の各自に相聚るの時代に処して、聖人は此の会聚の道を観察して、即ち天地万物の真実の情状を看見すべきなり。
象曰:澤上於地,萃。君子以除戎器,戒不虞。
《象伝》にいう。兌沢は坤地の上に高く出づ、これ即ち《萃》卦の卦象なり。君子はこれに取法し、兵器を收藏整治して、意料の外の変故に戒備す。
義曰:上兊為澤,下坤為地,澤者水之所聚,今澤處地之上,是萃聚之義也。除,去也。言君子之人當此萃聚之世,民既和說,海內晏然,於是之時不可復用其兵,是必韜藏其弓矢,偃息其戈矛,以示天下不復用兵也。故昔者武王翦商之後,載櫜弓矢,倒載干戈,歸馬於華山之陽,放牛於桃林之野,是所謂除去戎器者也。
胡瑗が解説します。上卦兌は沢を為し・下卦坤は地を為す。沢は水の汇聚するの地方、今、沢は地の上に処すれば、これ即ち会聚の意なり。「除」は去除・收起の意なり。これは君子は此のようの会聚の時代に処して、百姓はすでに和睦して悦服し・四海の内は安寧して事なし、此の時は已むを得ず再び兵戈を動用すべからず、必ず弓箭を袋子の裏に収め進み・戈矛を放倒して歇息し、此を以て天下に向かって再び兵を用いざるを表明すを言うなり。だから従前の周武王は商を滅ぼして後、弓箭を櫜袋に装進し・干戈を倒転して收起し、戦馬をして華山の南に帰らしめ・牛を桃林の野に放せり、これ即ち《象伝》の言う所の兵器を收起するなり。
然天下雖安,忘戰必危,故雖萃聚之世,民已和會,然不可不有所備。蓋事久則弊,隆極必替,故聖人於是時亦常因民之隙訓習師旅,以為國備而戒不虞。至如堯舜商周之時,可謂極治矣,然猶立司馬、司徒、司空、司冦之職以訓習兵戎。以是觀之,雖在萃聚之世、至平之時,亦當戒於不虞,此乃聖人安不忘危、存不忘亡之道也。
但し天下はたとい安定すと雖も、戦備を忘れれば必定に危険なり、だからたとい会聚の時代・百姓はすでに和洽して会合せりと雖も、亦防備なき能わざるなり。事情は久しければ即ち弊を生じ、興盛は極点に到れば必然に衰替す、だから聖人は此のようの時に於いても、亦常に農事の空隙に趁って軍隊を訓練して、国家の防備と作為し、以て意外の変に戒惧す。堯・舜及び商・周の時代のごときは、治理を極致に到れりと言うべきなりと雖も、却って仍として司馬・司徒・司空・司寇の等の職官を設立して来たりて兵事を操練せり。此に由りて見れば、たとい会聚の世・太平の極の時に処するも、亦応に意外に戒備すべく、これまさに聖人の安定の時に危難を忘れず・生存の時に覆亡を忘れざるの道理なり。
初六:有孚不終,乃亂乃萃。若號,一握為笑。勿恤,往無咎。象曰:乃亂乃萃,其志亂也。
初六の爻辞にいう。起初は誠信有るも能く到厎に保持せず、於是乎心志は迷乱し、而も終に会聚を得たり。たとい一時に号咷哭泣するも、转眼の間にまた転じて歓笑と為る。憂慮するに及ばず、前往すれば過咎有ることなからん。《象伝》にいう。心志は迷乱して而も終に会聚を得たるは、それの心志は一度に擾乱せられたるがゆえなり。
義曰:孚,信也。按此初六居萃聚之世,上應於九四,是以始初則以至信相待,欲相萃聚。然而六三以不正之身居其間,上無其應,又最比於四,遂招誣謗之言以間於己,是以初雖始有誠信以待於四,今既為小人之所間,則初六誠信之心不得其終也。
胡瑗が解説します。「孚」は即ち誠信なり。初六は会聚の時代に処し、上に向かって九四と相応ずれば、だから一开始に双方は至誠を以て相待して、聚合して一処に到らんと欲す。しかるに六三は位置不正の身分を以て中間に夾り、それは自ら上に向かって相応ずるの爻なく、また九四と挨ること最も近し、於是乎誣蔑毀謗の言を散布して来たりて初六と九四とを離間せん。それによって初六は起初はたとい誠信の心有りて去りて九四に対待するも、今、すでに小人に中より挑撥せられれば、此の份の誠信の心は便ち能く到厎に保持する能わざるなり。
乃亂乃萃者,謂六三既為間於初六,不得與四相從,是以初六心志必為惑亂也,故曰乃亂。然且當萃聚之世,是上下皆相求萃聚之際,初雖心志惑亂,終得其萃,故曰乃萃。
いわゆる「乃乱乃萃」。六三はすでに中より初六を離間して、それをして九四に跟随する能わざらしめば、初六の心志は必然にそれのために迷乱せん、だから「乃乱」と言うなり。但し畢竟はまさに会聚の時代に当たりて、上下は皆互いに聚合を寻求すれば、初六はたとい心志は一度に迷乱せるも、最終に還是九四と聚合する能くす、だから「乃萃」と言うなり。
若號一握為笑者,號謂號咷也,一握謂掌握之間至淺末者也。萃聚之世,必上下相求和會然後必有所濟。然此初雖與四為正應,然為六三小人之所間,廁於其間以疎隔於初,使不得與四萃聚,故始則有號咷之怨。然四雖為三之所間隔於己,而本與初為應,故亦不至於深久,雖初始則號咷,然終得與四為之萃聚而有歡笑也。
いわゆる「若号、一握為笑」。「号」は号咷大哭、「一握」は不過一掌の間を説く、極めて其の短暫軽微を言う、哭と笑は转眼すれば便ち換り過ぐるなり。会聚の時代は、必ず上下が互相に合を求めて、事情は乃ち弁じ成るを得べきなり。初六はたとい九四と正応なりと雖も、却って六三此の小人に中間に夾られて離間を加えられ、横に插し進みてそれを九四と隔開して、それをして九四と会聚する能わざらしむれば、だから起初に号咷悲怨有るなり。但し九四はたとい六三に中間に隔てらるるも、本来は初六と相応ずるの一対なれば、だから此の種の隔閡も亦太く久しく拖ることなからん。初六は起初はたとい号咷せるも、最終に還是九四と会聚して転じて歓笑と為る能くす。
勿恤往無咎者,夫君子為小人之所疾害,小人為君子之所決去,此理之常也。今初為六三小人之疎間於己,為之讒謗,然君子之心何必憂恤,但執其正道,以至誠公直而行,往求於四之應,則必無咎矣。
いわゆる「勿恤、往无咎」。君子は小人に嫉恨陥害せられ、小人は君子に決然として清除せらる、これ本は世間の常理、必ずしも此に因りて驚怪するに及ばざるなり。今、初六は六三此の小人に中より離間せられ、また讒言毀謗に遭うるも、然而君子は心裏に何ぞ必ずしも此のために憂慮せんや。只だ正道を堅守し、至誠にして公正坦直の態度を以て行事し、徑直に前往して九四此の正応を寻求せば、即ち必定に過咎有ることなからん。
六二:引吉,無咎,孚乃利用禴。象曰:引吉無咎,中未變也。
六二の爻辞にいう。引薦せられて進めば則ち吉利、過咎なし。内心に誠信有れば、たとい只だ微薄の禴祭を用いるも亦合宜なり。《象伝》にいう。引薦せられて進みて吉利にして過咎なきは、六二の中を守るの操守は終始として改変せざるがゆえなり。
義曰:君子之進,不可自媒以苟媚其君而幸其時之寵榮也。是故君子懐忠信以待舉,力行以待取,是君子凡所進用必須有道,待上之聘求然後往,則得盡進身之道也。今六二以陰居陰,履得其中,又上應九五中正之君,然亦必待其君援引於己,然後往之,此所以得吉而無咎也。
胡瑗が解説します。君子の進用は、已むを得ず自ら推銷し・君主に討好するに靠りて僥幸に一時の寵栄を取得すべからず。だから君子は忠信を懐抱して挙薦を等待し、力を勉めて踐行して錄用を等待す。君子は凡そ出仕任職するは皆必ず道に合乎して、君上の聘請征召を待って後に乃ち前往して、これで乃ち進身の道を尽到したると算すべきなり。今、六二は陰爻を以て陰位に居り、処する所も亦下卦の中を得、上に向かっても尚九五この位の中正の君と相応ず。たとい此のごとくなるも、それは必ず君主の主動に来たりて自らを援引するを待って、後に乃ち身を動かして前往して、これまさにそれの能く吉を獲得して過咎なきの原因なり。
孚乃利用禴者,孚,信也;禴,薄祭也。夫君子之進,必在乎誠信相交、心志相接,然後其道可以大行也。今當萃聚之時,君臣之間誠信既著,心志既通,則可以不煩外飾,其道得行矣。若夫君臣之間誠信未著、心志未通而欲其道之大行,則孔子所謂未信而諫則以為謗己者也。蓋君臣相應則道可大行,孚信中立則雖禴之薄祭亦可通於神明也。
いわゆる「孚乃利用禴」。「孚」は誠信、「禴」は簡薄の祭祀なり。君子の進用は、一定に誠信に相交り・心志は相通ずるの基礎上に建立して、後に乃ち彼の主張は世に大行し得べきなり。今、まさに会聚の時に当たりて、君臣の間は誠信はすでに顕著・心志はすでに貫通せれば、即ち已むを得ず再び外在の修飾を煩労すべからず、主張は自然に行き通るなり。たとい君臣の間の誠信は未だ顕著ならず・心志は未だ貫通せざるに、即ち自らの主張を世に大行せんと欲せば、則ち孔子の言う所のあの種の情形と為る。未だ信任を取得せざるに去りて進諫せば、君主は只だなたが彼を毀謗すると以為せん(語は《論語・子張》に見る)。大凡君臣は彼此に感応せば、道は即ち大行し得べし。誠信は心中に立てば、ならばたとい禴のごときの簡薄の祭祀なるも、亦照じて能く神明に感通すべきなり。
象曰引吉無咎中未變也者,言六二之所以待君之見引而後進者,蓋守中正之道而不變,不為富貴貧賤之所移,待求而進,是志未有變也。
《象伝》の「引吉无咎、中未変也」は、六二の君主の来たりて引薦して後に乃ち前進するを要する所以は、それは中正の道を守住して改変せず、富貴ならんと貧賤ならんとに動揺せられず、征聘を待って乃ち出仕すれば、これはそれの心志は終始として変ぜざりしを説明すと言うなり。
六三:萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。象曰:往無咎,上巽也。
六三の爻辞にいう。聚合せんと欲するも聚るを成さず、只だ声を連ねて嘆息するのみ、何の利益と言うべきもなし。前往すれば則ち過咎有ることなからん、只だ稍かの困窘有るのみ。《象伝》にいう。前往して過咎なきは、上六は陰柔巽順にして、肯んじてそれを容納するがゆえなり。
義曰:如,語辭也。六三以陰居陽,位不正也;居下卦之上,不中也。以不中不正之身居於萃聚之世,上無其應,而欲親比於四,然四本與初為正應,是以不納於已。既不見納,是以嗟諮怨望,復何所利哉。
胡瑗が解説します。「如」は語助詞なり。六三は陰爻を以て陽位に居りて、位置は端正ならず。また下卦の最上に処して、中位に居らず。此のようのすでに中に居らず亦位に当たらざるの身分を以て会聚の時代に処し、上に向かって相応ずるの爻なければ、便ち九四に親近依附せんと欲す。しかるに九四は本来初六と正応なれば、それによって肯んじてそれを容納せざるなり。すでに容納せられざれば、六三は只だ嗟嘆埋怨するに如かず、また何の利益と言うべきあらんや。
往無咎小吝者,萃聚之世,上下相求以成萃聚,然後事有所成。今此六三雖無正應而四又不見納,然當是萃聚之時,舍其四之陽,以類求類,則往而應於上六亦免其咎。然小有鄙吝者,蓋上六亦陰,以陰求陰,所以小吝而已。象曰往無咎上巽也者,言六三舍九四而往應於上,必無咎也。何則?蓋上六以陰爻在上,陰為巽順,必下接於己也。
いわゆる「往无咎、小吝」。会聚の時代は、上下は互いに寻求して以て聚合を成就して、事情は乃ち弁じ成るを得べきなり。今、六三はすでに正応なく、九四も亦肯んじてそれを容納せず。但しまさに会聚の時に当たりて、それは九四此の陽爻を舎開きて、転じて同類を以て相求め、前往して上六と呼応して、亦能く過咎を免るべきなり。なお稍かの困窘有る所以は、上六は同じく陰爻、陰を以て陰を求むれば、終に正配と算せざるがゆえ、だから只だ小小の困窘のみなり。《象伝》の「往无咎、上巽也」は、六三は九四を舎棄して前往して上六に応合すれば必定に過咎なからんと言うなり。何を以てか。上六は陰爻を以て最上位に処して、陰の性情は本より柔順にして、一定会に下に向かって自らを容納せんがゆえなり。
九四:大吉,無咎。象曰:大吉無咎,位不當也。
九四の爻辞にいう。大いなる吉利を為し到りて要し、乃ち過咎なき能くするなり。《象伝》にいう。必ず大吉を要して乃ち過咎なきは、九四の居る所の位置は本来即ち恰当ならざるがゆえなり。
義曰:萃聚之世,眾陰皆欲萃於君,而四以陽居陰,在上卦之下,不中不正,而當眾陰之路,是必有擅民之疑、奪權之嫌。故須內抱剛明之徳,外盡忠順之道,使其事為大吉,然後可以免咎,故曰大吉無咎。
胡瑗が解説します。会聚の時代に於いて、众多の陰爻は皆君主のあそこに聚集して去らんと欲すれども、而も九四は陽爻を以て陰位に居り、上卦の最下に処し、すでに中に居らず亦位に当たらず、偏にまた衆陰の上行の路口上に挡れば、これ即ち必然に私自に百姓を籠絡するの猜疑・君権を侵奪するの嫌隙を招来せん。だからそれは必ず内に於いて剛強明察の徳行を懐抱し・外に於いて忠誠順従の本分を尽くして、自らの為す所の事情を大いなる吉利に為し、後に乃ち過咎を免るべきなり、だから爻辞は「大吉、无咎」と言うなり。
九五:萃有位,無咎,匪孚,元永貞,悔亡。象曰:萃有位,志未光也。
九五の爻辞にいう。会聚の時に処して君位を据有せば、過咎なし。只だなお天下に於いて信を取る能わざると雖も、但し只だ長久に大善正固の徳を堅守すれば、悔恨は即ち消失せん。《象伝》にいう。会聚の時はたとい君位を据有すると雖も、それの心志は未だ光大せざるを説明す。
義曰:萃聚之世,天下之民皆遇聚歸於上。今五有剛明之才,居至尊之位,當是時,下有九四不正之臣據群陰歸已之路而固塞之,是使眾民皆歸於四而不歸於五,故五所存者位與號耳。無咎者,以五雖有權臣在下侵權奪勢,然本有剛明之才、中正之徳,但其道不得以大行,亦可以自得無咎也。
胡瑗が解説します。会聚の時代に於いて、天下の百姓は皆応に聚集して君主の身上に帰附すべきなり。今、九五は剛強明察の才幹を具備し、至尊の君位に居れども。しかし此の時に於いて、下面に九四此の位置不正の臣子有りて衆陰の君主に帰附するの通道を占据着して併せてそれを堵死して、衆百姓をして皆九四に帰附して九五に帰附せざらしむれば、だから九五の保有する所は、不過一箇の君位と一箇の名号のみなり。いわゆる「无咎」。九五はたとい権臣の下に在りて権勢を侵奪する有るも、但し彼は本来剛明の才幹・中正の徳行を具備し、只だ主張は能く天下に大行せざるのみにして、仍として自守して過咎なきべきなり。
匪孚元永貞悔亡者,言五雖有侵權之臣而使已之威賞號令不行於天下,而不為天下之所信,苟能自守永長貞正之徳,無私無陂,久而不變,則可以悔亡。象曰萃有位志未光也者,言五雖有其位而其道不得以大行,而教化號令不能以及於天下,不為天下之所信,是其志未甚光大也。
いわゆる「匪孚、元永貞、悔亡」は、九五はたとい権を侵する臣有るに因りて、自らの威厳賞罰・号令政教を天下に通行する能わざらしめ、それによって天下の人の信服を得る能わずと言うなり。但し只だ能く自ら長久の貞正の徳行を守住して、偏私する所なく・偏斜する所なく、久しきを歴て改変せざれば、悔恨は即ち消失すべきなり。《象伝》の「萃有位、志未光也」は、九五はたとい君位を占するも、主張は却って能く大行せず・教化号令は能く天下に推及せず、天下の人の信任を得る能わざれば、見るべし彼の心志はなお十分の光大を談じ上ぐる能わざるを言うなり。
上六:齎諮涕洟,無咎。象曰:齎諮涕洟,未安上也。
上六の爻辞にいう。唉声嘆気し、涕涙は交流すれども、但し過咎なし。《象伝》にいう。唉声嘆気し・涕涙交流するは、上六が最上位に居りて並びに安穏ならざるがゆえなり。
義曰:齎諮者,嗟嘆之貌。出自目曰涕,出自鼻曰洟。上六居卦之極,上進無所往,引退無所適,當萃之時而又下無其應,是以嗟嘆而涕洟以求其萃聚也。然則得無咎者,蓋六三以不正之身在下卦之上,亦無其應,是以與上以類求類,此所以無咎也。象曰齎諮涕洟未安上也者,言上六所以齎諮涕洟者,以不得其所而不安其居也。
胡瑗が解説します。「賚咨」は嘆息するのさま。眼睛の裏より流出するを涕と叫び・鼻子の裏より流出するを洟と叫ぶ。上六は一卦の頂端に処し、上に往けば再び去るべきの地方なく、後に退くも帰るべきの去処なし。まさに会聚の時に当たりて、下に向かってまた相応ずるの爻なければ、だから只だ唉声嘆気し・涕涙交流して聚合を寻求するのみ。すでに此のごとくなれば、何を以てなお過咎なしと言うか。六三は位置不正の身分を以て下卦の最上に処して、同じく相応ずるの爻なければ、於是乎上六はそれと同類を以て相求めて、これ即ち過咎なきの縁由なり。《象伝》の「賚咨涕洟、未安上也」は、上六の唉声嘆気し・涕涙交流する所以は、それは合適の位置を得ずして、上面に於いて待つること並びに安穏ならざるがゆえなりと言うなり。
升 巽下坤上
升:元亨,用見大人,勿恤,南征吉。
《升》卦の卦辞にいう。上昇の時は大いに亨通す。大德大才の人に見えんに宜しく、憂慮するに及ばず。南方に向かって前行すれば吉利なり。此処の「元亨」は、即ち「元亨利貞」の四徳の中の前の両徳。「元」は万物の創始の大徳、「亨」は通達して阻むなし。
義曰:按《序卦》云:聚而上者謂之升,故受之以升。言物之眾萃,自少而聚之於多,自下而至於髙,以升於上,故以此升次於萃也。然曰元亨者,言聖賢之人升於上位,必須有元大始生之徳以生成天下之民物,又有大亨之徳以通濟天下之事,然後得盡所以升上之道也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》に拠れば、聚集して後に再び上に往けば即ち升と叫ぶ、だから《萃》卦の後に《升》卦を接上す。これは万物は众多に会聚し起りて、少より積みて多と成り・低より高に升りて、それによって上に向かって昇進すれば、だから《升》を《萃》の後面に排すと言うなり。「元亨」と言うに至っては、聖賢の人は上位に升到し、必ず「元」の此の種の万物を化生するの博大の徳を具備して、以て天下の百姓と万物を養育成全し、また「亨」の此の種の通達の徳を具備して、以て天下の事務を疏通成就して、後に乃ち上昇の道を尽到したると算すべきを指す。
用見大人勿恤者,夫君子之升進,雖有是大生大通之徳,然不可孑然而獨往,必須用見大有才徳之人以依附之,然後升其髙位而不至於危,可以永保其祿位,復何有所憂恤哉。
いわゆる「用見大人、勿恤」。君子の上昇進取は、たとい万物を化生し・天下に通達するの徳行を具備するも、却って已むを得ず孤零零として独自に前行すべからず、必ずあれらの大有才徳の人に見えて去りて彼らに依附して、後に乃ち高位に升上して陥危に陥らざるに至らず、能く長久に自らの禄位を保住して、これでまた何の憂慮すべきあらんや。
南征吉者,按此一卦,上坤,坤為西南之卦;下巽,巽為東南之卦,上下皆是南方之位,故曰南征。夫聖賢之人居升進之時,必附麗南方離明之主,又取其往就南方長養寛平之地以生成天下,則所行之道無不通濟,故可以獲其吉也。
いわゆる「南征吉」。此の一卦は上体は坤にして、坤は方位上に於いて西南に属す。下体は巽にして、巽は東南に属す。上下の両体は皆南方の位に帰すれば、だから「南征」と言うなり。聖賢の人は上昇進取の時に処して、必ず南方のあの位の離火のごとき光明の君主に依附して、同時にまた其の前往する所の南方のあの片の温暖寛和・生長養育に宜しきの土地を取りて、以て天下を養育成全せば、ならば推行する所の道は行き通らざるなきなり、だから能く吉利を獲得す。
彖曰:柔以時升,巽而順,剛中而應,是以大亨。用見大人勿恤,有慶也。南征吉,志行也。
《彖伝》にいう。陰柔は時機に順応して上昇し、下卦は巽遜にして上卦は柔順、九二は陽剛にして中に居りて併せて六五と相応ずれば、だから大いに亨通す。「用見大人勿恤」は、此のように為せば福慶有らんと言うなり。「南征吉」は、心志は推行を得たるを言うなり。
義曰:柔以時升者,此釋卦名之義也。巽在下,坤在上,二卦之體皆主柔順,而又三陰在上,得時而進,亦猶賢人君子執柔順之道,以其時之可進而進,是得其升進之義也。
胡瑗が解説します。「柔以時升」、これは卦名の含義を解釈す。巽は下に在り・坤は上に在り、両箇の卦体は皆柔順を以て主と為す。而且に上卦の三箇の陰爻は上方に居りて、時機に順応して前進す、これ譬えば賢人君子が柔順の道を秉持して、進取すべきの時機に趁って進取するがごとく、まさに上昇進取の意義に合乎す。
巽而順剛中而應是以大亨者,此又以二體兼九二六五以釋元亨之義。下體巽也,上體順也,剛中,九二也,應謂六五也。夫君子必不可全任巽順之徳,若全任之則失於懦,是必內有剛明之才,外有柔順之行,使剛不過亢,柔不至懦,而所為所行之事皆得其中正。
「巽而順、剛中而応、是以大亨」、此処はまた上下の両箇の卦体を用い、九二・六五の両爻を加上して、卦辞の「元亨」の含義を解釈す。下体は巽にして、巽遜の義を取る。上体は坤にして、柔順の義を取る。「剛中」は九二を指し、「応」はそれと相応ずるの六五を指す。君子は決して完全に巽遜柔順の徳行に依頼すべからず、若し完全にそれに依頼せば、即ち懦弱に流れ入らん。必ず内に剛強明察の才幹有り・外に柔順謙和の挙止有りて、剛強をして亢厲に過分ならざらしめ・柔順をして懦弱に流れ入らざらしめ、為す所は皆中正に合乎すべきなり。
然而外既有柔順之徳,內有剛明之才,苟或上無其應,則亦不可得而升進,故今又應於六五中正之君。是當此之時,君子皆得其升進之道,以元大始生之徳通濟於天下,是以大亨也。南征吉志行也者,言君子之進,既附麗其大人,又即其南方生養寛平之地以生成於天下,是所立之志、所行之道皆得以大行矣。
然而外に於いて縦に柔順の徳有り・内に於いて縦に剛明の才有るも、たとい上面にそれと相応ずるの爻なければ、亦照じて上昇進取する法なし。だから此処はまた特意に九二が六五この位の中正の君と相応ずるを指出す。まさに此のようの時に当たりて、君子は皆上昇進取の路徑を得、万物を創始するの博大の徳を用いて天下に於いて通達成就すれば、それによって大いに亨通す。「南征吉、志行也」は、君子の進取は、すでに大德の人に依附し、また南方のあの片の生長養育・寛和平坦の土地に走向して去りて天下を養育せば、於是乎彼の立つる所の志向・行う所の道路は皆能く大いに推行し開くべきを言うなり。
象曰:地中生木,升。君子以順徳,積小以髙大。
《象伝》にいう。地中に樹木を生ず、これ即ち《升》卦の卦象なり。君子はこれに取法し、徳性に順循して、細小を積累して以て高大を成就す。
義曰:坤為地,巽為木。夫木之生資於地,始自芽櫱,至把握,積久以至合抱,是升進之象也。君子觀此象,執柔順之徳,常積善道,不矜細行,以日繼月,以月繼時,以時繼歲,至終身久而不變,積小善以至大善,由小賢以至大賢,由大賢以至於聖,皆從微而至著,由小以至大,故曰積小以髙大也。
胡瑗が解説します。坤は地、巽は木なり。樹木の生長は土地に依托して、起初は只だ一顆の芽苗、長じて一握の粗さと為り、累積して久しく終に合抱の大樹と為る、これ即ち上昇進取の景象なり。君子はこの卦象を観察し、柔順の徳行を秉持して、常に善道を積累し、細小の行為を軽視せず。一日より累積して一月と成り、一月より累積して一季と成り、一季より累積して一年と成り、終身に至るまで長久に変らざるに至る。小善を積累して以て大善を成就し、小賢より大賢と為り、大賢より聖人と為る。これらは皆細微の処より逐漸に顕著と為り・小の処より逐漸に大と為るなり、だから「積小以髙大」と言うなり。
初六:允升,大吉。象曰:允升大吉,上合志也。
初六の爻辞にいう。衆人は信従して一同に上昇す、大いなる吉利なり。《象伝》にいう。信従して上昇して大吉なるは、それは上面の九二と心志が合するがゆえなり。
義曰:允,信也,率從之稱也。夫升進之時,君子所志在於乘時以升進於其位而行其道也。今初居巽之體,處升進之始,雖無其應,然於九二同心合志以進於位,為眾賢之先倡,故賢人君子皆信而率從之以進於上。君子之人既得升進,則其道得以行,其志得以伸,其澤可以福於生靈,其功業可以被於天下,故吉之大者此也。
胡瑗が解説します。「允」は信従の意、亦相率いて跟从するの称呼なり。上昇進取の時に当たりて、君子の志向は時機に趁って相応ずるの位置上に升到して自らの道を推行するに在り。今、初六は巽体の中に処し、上昇の開端に居り、それと相応ずるの爻なしと雖も、却能く九二と心を同じく志を同じくして一起に其の位を進取し、衆賢の中の率先して倡導する人と為れば、だから賢人君子は皆それに信服し・相率いてそれに跟从して一同に上に向かうなり。君子はすでに上昇進取を得たれば、彼の道は即ち能く推行され、彼の志向は即ち能く伸展され、彼の恩沢は能く百姓に福を造り、彼の功業は能く天下に遍及すべし、だからこれは最大の吉利なり。
象曰允升大吉上合志也者,初六當升進之時,為升進之始,雖上無應,然與九二中正之賢合志而進,使眾人亦率從於已而升進,故得大吉也。
《象伝》の「允升大吉、上合志也」は、初六は上昇進取の時代に処し、上昇の起点に居り、上面にそれと相応ずるの爻なしと雖も、却能く九二この位の中正の賢者と志を同じく道を同じくして・一同に進取して、衆人をして亦相率いて自らに跟从して一同に上昇せしめれば、だから大きい吉利を獲得すと言うなり。
九二:孚乃利用禴,無咎。象曰:九二之孚,有喜也。
九二の爻辞にいう。内心に誠信有れば、たとい只だ微薄の禴祭を用いるも亦合宜、過咎なし。《象伝》にいう。九二の此の份の誠信は、喜慶を帯来せん。
義曰:孚,由中之信也;禴,春之薄祭也。九二以剛陽之徳處下卦之中,而體居其巽,是其剛不過亢,柔不至弱,執大中巽順而升者也。而又上應六五之君,以柔順而接納於已,是升而得其時、得其道者也,以至於所行之道、所為之事無不合於中。
胡瑗が解説します。「孚」は心の底より発するの誠信。「禴」は春に挙行するの簡薄の祭祀なり。九二は陽剛の徳を以て下卦の中位に処し、而も居る所の卦体はまた巽なれば、だから其の剛強は亢厲に過分ならず、柔順も亦軟弱に至らず、大中の道を秉持し・巽遜柔順の姿態を以て上昇するの人なり。加上それが上に向かって六五この位の君主と相応じ、六五も亦柔順の態度を以て自らを容納すれば、見るべしそれの上昇は其の時を得・其の道を得て、以て推行する所の道・為す所の事、中道に合乎せざるなきなり。
夫君既以柔順而接納於下,則下得盡其由中之信、至誠之道以事其君。若然,以至信至誠而事其君,則不假外物,不須外貌,而君自然信任矣,亦若誠信立於中,雖薄禴之祭亦可以通於鬼神也。
君主はすでに柔順の態度を以て下面の臣子を容納すれば、臣子は便ち心の底より発するの誠信・至誠の道理を完全に君主に事奉するの上に用いる能くす。果して能く至信至誠を以て君主に事奉せば、ならば外在的の物品に借助するに及ばず、亦外表の儀容を講究するに及ばず、君主は自然に彼を信任せん。これも亦即ち誠信が内心に確立せば、ならばたとい禴のごときの簡薄の祭祀なるも、亦照じて能く鬼神に感通するがごとし。
左傳所謂:苟有明信,雖澗溪沼沚之毛,蘋蘩薀藻之菜,筐筥錡釡之器,潢汙行潦之水,可以薦於鬼神,可以羞於王公,是也。無咎者,九二以至誠之道奉於君而君任信之,則是諫行言聽,膏澤下於民,以此為臣,何咎之有。象曰九二之孚有喜也者,夫君臣相信以成天下之事,以立太平之功,是有喜慶之美也。
これ即ち《左伝・隠公三年》の言う所。只だ明白にして欺かざるの誠信有らば、ならばたとい山澗溪流・沼沢小洲の上に采り来れるの野草、苹・蘩・蕰藻の一類の水菜、筐・筥・錡・釜の一類の粗陋の器皿、積水窪地と路辺流潦の裏より舀り来れるの水なるも、亦以て鬼神に進献し・王公に進奉するに用いるべきなり。いわゆる「无咎」。九二は至誠の道を以て君主に奉事し、君主も亦彼を信任し、於是乎彼の諫言は采納せられ・彼の話は聴従せられ、恩沢はそれによって百姓に下達す。このようにして臣子を為れば、また何の過咎と言うべきあらんや。《象伝》の「九二之孚、有喜也」は、君臣は彼此に信任して天下の事を成就し・太平の功を建立すれば、これは可喜可慶の美事なりと言うなり。
九三:升虛邑。象曰:升虛邑,無所疑也。
九三の爻辞にいう。上昇は即ち一座の空にして阻攔なきの城邑に進入するがごとし。《象伝》にいう。上昇して空邑に入るがごとしは、前路に疑慮阻碍すべき何もなきを言うなり。
義曰:九三以陽居陽,履正者也,而又有上六以為之應,進不為小人之所阻礙,退不為時之所凝滯,而上六又為之引道,上下相順,無有疑間,以是而升於君子之位,若升虛邑然,復何所疑哉。
胡瑗が解説します。九三は陽爻を以て陽位に居り、処する所の位置は端正、また上六と相応ずる有り。前進は小人に阻挡せられず、後退も亦時勢に滞留せられず、而も上六はなおそれのために前面に於いて路を引き、上下は彼此に順応して、何の猜疑隔閡もなし。此のようの条件を憑りに君子の応有の位置上に升到すれば、即ち一座の空蕩蕩として人の拦阻なきの城邑に走進するがごとく、また何の疑慮すべきあらんや。
六四:王用亨于岐山,吉,無咎。象曰:王用亨于岐山,順事也。
六四の爻辞にいう。君王は岐山に於いて祭享を挙行す、吉利、過咎なし。《象伝》にいう。君王が岐山に於いて祭享を挙行するは、これは柔順に上に事えるの事なり。
義曰:王即文王也,岐山,文王所治之地也。夫升進之道貴於柔順,今此六四以陰居陰,履得其正,上比於六五,是進得其位者也。然比於六五柔弱之君,又下乘眾陽剛強之臣,六四執柔順之道,率其剛強之臣以事其君,故有文王之象。
胡瑗が解説します。此処の「王」は周文王を指し、岐山は文王の治理する所の地方なり。上昇進取の道は柔順を以て貴と為す。今、六四は陰爻を以て陰位に居り、処する所の位置は端正、上に向かってまた六五と緊く隣りて比し、進取して当たるべき其の位を得るなり。但しそれの緊く隣る所の六五は柔弱の君主、それはまた下に向かって众多の陽剛強悍の臣子の上に凌駕す。六四は柔順の道を秉持して、これらの剛強の臣子を率領して去りて君主に事奉すれば、だから文王の気象有るなり。
昔商紂在上,文王為西伯,治於岐山之邑。當此之時,文王有聖人之才,無聖人之位,而以仁義之道生成其一國,至如耕者九一,罪人不孥,仕者世祿,關譏而不徵,市而不稅,發政施仁必先於窮民,是以岐山之民皆得亨通,故歸者如歸父母。當是之際,文王升進之道愈盛,故曰王用亨于岐山也。
従前、商紂王は位に在り、文王は身は西伯を為り、岐山此の一片の封邑を治理せり。あの時、文王は聖人の才徳有るも聖人の名位なし、只だ能く仁義の道を以て自らの此の一国の百姓を養育成全するのみ。《孟子・梁恵王下》は文王の岐を治むるの政事を記載す。田を耕すの人は只だ九分に一の税を抽て、罪を犯すの人は妻児に牽連せず、官を為るの人は世代に俸禄を享有し、関卡は只だ稽查して税を徵せず、集市は只だ登記して税を抽てず、政令を発布し・仁政を施行するは必ず先ず窮苦の百姓を照顧す。それによって岐山の百姓は皆通達順遂を得、彼に帰附するの人は即ち自らの父母に帰向するがごとし。此の時に到りて、文王の上昇進取の勢は愈々興盛なり、だから「王用亨于岐山」と言うなり。
吉無咎者,文王以仁義居人臣之位,升進之道固已盛矣,天下之心固已歸矣。如是則幾於侵君之權、擅君之民,苟不以柔順之節奉於上,則臣子之分虧而凶咎必至矣。故文王能盡臣子之道,執柔順之節,率天下之民以服事於紂,故得吉而無咎矣。象曰王用亨于岐山順事也者,言文王治岐山之地,三分天下有其二,且盡率其民以服事於紂,不失臣子柔順之道,是至順之事也。
いわゆる「吉、无咎」。文王は仁義の徳を以て臣子の位置上に処し、上昇進取の勢は本已に極盛、天下の人心は本已に彼に帰附せり。此の地步に到りては、即ち君主の権柄を侵奪し・君主の百姓を私占するに近乎し。若し柔順の節操を用いて去りて君上に奉事せざれば、ならば臣子の本分は即ち虧損し、凶険災禍は必定に随って至らん。だから文王は能く臣子の道を尽くし、柔順の節操を秉持して、天下の百姓を率領して去りて紂王に服事して、それによって吉利を得て過咎なし。《象伝》の「王用亨于岐山、順事也」は、文王は岐山の一帯を治理して、天下三分はすでに其の二を占むるも、却って仍として全力を挙げて百姓を率いて紂王に服事し、臣子の柔順の道を失わざるを言い、これは最も柔順の事なり。
六五:貞吉,升階。象曰:貞吉升階,大得志也。
六五の爻辞にいう。正道を守持すれば則ち吉利、階級を拾い登るがごとく尊位に登上す。《象伝》にいう。正を守りて吉利・級を拾いて升るは、心志の大いに得る所有るを言うなり。
義曰:階是尊者所居之地。六五以陰居陽,本失其正者也,然升進之道貴於柔順。今六五有柔順之道,居得其中,是有大中之徳者也,而又下有九二剛明中正之臣為之輔佐。然所為之事患在於不正,若能守之以正,則可以獲吉而當至尊之位也。象曰大得志也者,若能守至正以居其位,而治天下之民使皆受其賜,則己之志大有所得也。
胡瑗が解説します。「階」は尊貴者の居る所の台階の地なり。六五は陰爻を以て陽位に居りて、本来は失位不正。但し上昇進取の道は柔順を以て貴と為し、今、六五は柔順の道を具備し、また上卦の中位に居りて、大中の徳有るなり。而且に下面に還有九二この位の剛強明察・中に居りて正を守るの臣子が彼に輔佐を為す有り。只だそれの為す所の事情は、隠患はまさに端正ならざるに在り、若し能く正道を以て自守せば、即ち吉利を獲得して至尊の位に穏居すべし。《象伝》の「大得志也」は、若し能く至正の道を守住して来たりて其の位に居り、天下の百姓を治理して人人をして皆彼の恩賜を蒙受せしめば、ならば自らの心志は即ち大いに得る所有るを言うなり。
上六:升,利于不息之貞。象曰:冥升在上,消不富也。
上六の爻辞にいう。一味に上昇し、肯んじて止息せざるの勢頭を正を守るの上に収斂するに宜しきなり。《象伝》にいう。昏昧に一味に上昇して最高処に居るは、只だ自らを消減損するのみ、再び富盛を求むる能わず。
義曰:冥者,冥昧也。夫升進之道至於五位,大中之極也。惟聖賢之人則不為情所遷,不為情所誘,進退存亡皆得其正,可以進則進,可以退則退,可以止則止。今此上六,其性冥冥然無所知,但知進而不知退,知存而不知亡,升而不已,過於至尊之位,失其大中之道而至於亢極,故曰冥升也。
胡瑗が解説します。「冥」は即ち昏昧にして明白ならざるなり。上昇進取の道は第五爻に走り到りて、すでに大中の道の頂点なり。唯だ聖賢の人のみが能く情緒に牽動せられず・私情に引誘せられず、進退存亡は皆正道に合乎す。進むべきは即ち進み、退くべきは即ち退き、停るべきは即ち停る。今、この上六は、秉性は昏昏然として一無所知、只だ前進を知りて後退を知らず、只だ保存を知りて覆亡有るを知らず、一味に上昇して肯んじて停止せず、至尊の君位を越過して、大中の道を失掉して亢極の地步に走到れば、だから《象伝》はそれを「冥升」と称す。
利于不息之貞者,息,長息也。言雖冥昧不知其己,以至於上,若能知升而可以已,知進而可以退,謙虛消損,不務長息,以正自守,則猶可獲其吉也。象曰冥升在上消不富也者,言上六既不達存亡之幾,以至於上位,固當消虛自損,不為尊大,以自至於富盛也。
いわゆる「利于不息之貞」。「息」は増長滋長の意なり。上六はたとい昏昧にして停止を知らず・一直に最高処に升到するも、但し若し能く一定程度に升到すれば即ち停下すべき・一定程度に前進すれば即ち後退すべきを懂得し、謙虚退譲して・自らを削減して、再び一味に増長を求めず、而も正道を以て自守せば、ならば仍として吉利を獲得すべきを言うなり。《象伝》の「冥升在上、消不富也」は、上六はすでに存亡の関鍵を明白にせず、一直に最上の位に升到せば、本より応に自らを収斂謙虚・自身を削損して、再び尊大に自居せず、以て自らを極盛にして継ぐ難きの地步に推到するを免るべきを言うなり。
困 坎下兌上
困:亨,貞,大人吉,無咎,有言不信。
《困》卦の卦辞にいう。身は困窮に処すれども能く亨通す。正道を守持して、大德の人は吉利、過咎なし。只だ此の時は縦に善言有るも人に信ぜられざるなり。
義曰:按《序卦》云:升而不已必困,故受之以困。言升進之道不可過極,過極則窮困從而至矣。至如天之道,升而不已,必至過亢之悔;地之道,升而不已,必至龍戰之災。以天地之道至大,尚有困極,況於人乎。以人事言之,是君子之人不得其位,不逢其時,其道不能行於天下,而身至於窮困,故曰困。
胡瑗が解説します。《序卦伝》に拠れば、上昇して止まざれば必然に困窮に陥入す、だから《升》卦の後に《困》卦を接上す。これは上昇進取の道は極点に過分すべからず、頭を過ぎれば、困窮は即ち随って至るを言うなり。天道のごとくも、上昇して止まざれば、必定に《乾》卦上九の「亢龍有悔」のごときの悔恨を招来し、地道も、上昇して止まざれば、必定に《坤》卦上六の「龍戦于野」のごときの災禍を招来す。天地の道は何等か広大なりや、尚且つ困窮の極の時有り、まして人においてをや。人事に就きて言えば、即ち君子は相応ずるの位置を得ず・合適の時機に遇わず、主張は能く天下に推行せられず、自身は窮困に陥入すれば、だから《困》と叫ぶなり。
然得亨者,言君子之道,身雖困窮而道自亨。何則?夫君子之人以仁義道徳充積於中,不為窮達富貴患難以動其心,是身雖處困而其道自得以亨通。故孟子曰:君子所性,雖大行不加焉,雖窮居不損焉,此之謂也。
卦辞の「亨」と言うに至っては、君子の道を講ずるなり。身はたとい困窮に陥れるも、彼の守る所の道は自然に通達す。何を以てか。君子は仁義道徳を内心に充実積蓄して、困厄ならんと顕達ならんと・富貴ならんと患難ならんとに因りて心志を動揺せざれば、だから身はたとい困に処するも、其の道は却って自ら能く亨通す。だから《孟子・尽心上》に言う。君子の秉受する所の本性は、たとい天下に大行するも亦此に因りて何をも増加せず、たとい陋巷に窮居するも亦此に因りて何をも減損せず――説く所はまさに此の道理なり。
貞大人吉無咎者,貞,正也。言小人居窮困之時,憂愁迫蹙,奸邪竊亂,無所不至,則其為禍也不可勝道矣。惟君子處於窮困,則能以聖賢之道自為之樂,又能取正於大有徳之人以為法則,故所行無不得其道,所以獲吉而無咎矣。
いわゆる「貞、大人吉、无咎」。「貞」は即ち端正なり。小人は窮困の時に処すれば、憂愁焦躁して・局促して安んぜず、於是乎奸邪して乱を作し・偷窃して上に犯し、何の事も為し出す能くし、造成するの禍害は説くも尽きざるなり。唯だ君子は身は窮困に処して、能く聖賢の道を以て自ら楽しみを得、また能く大有徳行の人に向かって法を取り正を求め、彼らを以て準則と為れば、だから一挙一動は道に合乎せざるなく、それによって吉利を獲得して過咎なし。
有言不信者,夫聖賢之人居得其位,行得其道,不令而民自信,不言而民自從,其勢固然也。至於窮困之時,不得其位,不能行其道,雖有言可以為天下法,而終不見信於人,亦勢然也。
いわゆる「有言不信」。聖賢の人は若し応有の位置に居りて・能く自らの道を推行せば、ならば令を下すに及ばず百姓は自然に信服し、口を開くに及ばず百姓は自然に跟从す、形勢は本来即ち此のごとくなり。窮困の時に到りては、位置を得ず・能く自らの道を推行せざれば、縦然に説き出す所の話は以て天下の法則と作るべきなるも、最終に人に信ぜられざるなり、これも亦形勢の然らしむるなり。
何則?夫惟聖知聖,惟賢知賢,是君子當窮困之時,豈能以言語見信於小人哉。故孔子,聖人也;孟子,賢人也。困於衰周之時,雖歴聘於諸國,人皆謂之迂闊,是有言而人終不見信之也。
何を以てか。唯だ聖人のみが能く聖人を懂得し、唯だ賢人のみが能く賢人を懂得す。君子は窮困の時に処して、何処に能く言語に靠りて小人に於いて信を取らんや。だから孔子は聖人・孟子は賢人にして、彼らは皆周室の衰微するの年代に困頓せり、たとい列国を遍游し・四処に应聘して游説するも、世人は皆彼らの主張は迂闊にして実際に切らざると言う――これまさに話を説き出して人が終に肯んじて信て信ぜざるの例子なり。
彖曰:困,剛揜也。險以說,困而不失其所亨,其惟君子乎。貞大人吉,以剛中也。有言不信,尚口乃窮也。
《彖伝》にいう。困は、陽剛が陰柔に遮蔽せらるるなり。下卦は険陥にして上卦は和悦、困境に身を処して其の亨通の道を失わざるは、これ大概は君子のみが為し得べきか。「貞、大人吉」は、九二・九五は陽剛にして中に居るがゆえなり。「有言不信」は、此の時に一味に口舌の弁を逞くせば、路は返って尽頭に走到るを言うなり。
義曰:剛揜也者,此釋困卦之義也。坎為陽,兊為陰,陽為剛,君子之象;陰為柔,小人之象。夫剛體本居於上,柔體本居於下,猶君子居上位以治於下,小人居下位以奉於上。今困之卦,陽居下,陰居上,是剛為柔所揜,君子為小人所蔽,困之象也。
胡瑗が解説します。「剛揜也」、これは《困》卦の卦名の含義を解釈す。坎は陽に属し・兌は陰に属す。陽は即ち剛、君子の象徴なり。陰は即ち柔、小人の象徴なり。常理に按ずれば、剛健の一体は本応に上に居りて、柔弱の一体は本応に下に居りて、まさに君子は上位に居りて来たりて下面を治理し・小人は下位に居りて来たりて上面に奉事するがごとし。今、《困》卦は却って陽体は下に在り・陰体は上に在り、これ即ち陽剛は陰柔に遮蔽せられ・君子は小人に蒙蔽せられ、まさに困頓の景象なり。
險以說困而不失其所亨其惟君子乎者,此以二體言之。下坎為險,上兊為說,言君子雖居窮困險難之時,而能以聖人之道自說樂之,則處險而不改其說,是於困而不失其所以亨通之道,非君子其能與於此。
「険以説、困而不失其所亨、其惟君子乎」、これは上下の両箇の卦体に就きて言うなり。下卦坎の卦徳は険陥、上卦兌の卦徳は和悦なり。意思は君子は縦然に身は困窮険難の時に処するも、仍として能く聖人の道を以て自ら楽しみを得れば、則ちそれは身は険中に在りて其の悦楽を改めず、亦すなわちたとい困頓に陥れるも其の亨通の道を失わざるなり。この境界は君子にあらざれば、誰が能く為し得べきや。
貞大人吉以剛中也者,即九二九五也。言二五皆有剛明之徳,而又得其中,是大有賢徳之人也,故君子居此困窮之時,必當持正此大有徳之人也。有言不信尚口乃窮也者,君子當是窮困之際,道不得行,言不見信,苟尚口頰,徒益至於窮困也。
「貞、大人吉、以剛中也」は、説く所は即ち九二・九五の両爻なり。二・五は皆剛強明察の徳行を具備し、而且に分かちて下卦・上卦の中位に居りて、大有賢徳の人なり。だから君子は此のようの困窮の時に処して、必ず正道を守住し、これらの大有徳行の人に取法すべきなり。「有言不信、尚口乃窮也」は、君子はまさに窮困の際に当たりて、道は行き通らず・話も亦信ぜられず、若しなお一味に口舌の利を逞くせば、只だ更に快く自らを困境に逼入するのみを言うなり。
象曰:澤無水,困。君子以致命遂志。
《象伝》にいう。沢の中に水なし、これ即ち《困》卦の卦象なり。君子はこれに取法し、たとい性命を舎棄するも亦自らの志向を実現せん。
義曰:兊為澤,坎為水。夫水本聚於澤上而浸潤萬物,今水反在澤下,是萬物不被其潤澤,猶君子之人所以居大位而澤天下之民,今反在困窮之地,是其道不及於天下,此困之象也。
胡瑗が解説します。兌は沢、坎は水なり。水は本応に沢の中に汇聚して万物を滋潤すべきなりに、今、水は返って沢の下面に漏り去れり、万物は便ち其の滋潤を得ず。これ譬えば君子は本応に身は高位に居りて恩沢して天下の百姓に及ぶべきなりに、今、返って困窮の地に処して、彼の道は天下に行き到らず、これまさに《困》卦の取る所の景象なり。
君子以致命遂志者,命謂天之所命也,致謂極盡之義。言君子有仁義之道蘊諸其身,固當居大位、處重權,施其事業於天下以澤萬民則宜矣。今居於窮困之間,使其道不得以行,是事非已招,咎非己致,匪人力所為,蓋天命之使然也。然而君子之心自達於性命之理,不以困躓易其操,不以貧賤變其節,恬然自樂以遂其志也。
いわゆる「君子以致命遂志」。「命」は上天の授くる所の命を指し、「致」は極尽・豁出去的の意なり。これは君子は仁義の道を自身に蘊蔵して、本応に身は高位に居り・重権を手握して、事業を天下に施行して以て万民に恩沢するを合宜と算すべきなりと言うなり。今、却って窮困の中に処して、自らの道をして推行する能わざらしむ。此の事は自らの招来するにあらず、此の份の咎累も亦自らの造成するにあらず、人力の左右する能く所にあらず、実在は天命がそれを此のごとくせしむるなり。然而君子の心は自ら能く性と命の道理を通達して、困頓顛躓に因りて操守を改変せず、貧賤に因りて節概を改変せず、安然として自ら楽しんで去りて自らの志向を実現す。
初六:臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。象曰:入于幽谷,幽不明也。
初六の爻辞にいう。臀部は枯樹桩に硌せられて難受を受け、幽深の山谷に落ちて、三年は皆人に見えず。《象伝》にいう。幽深の山谷に落ちたるは、あそこは幽暗にして明亮ならざるがゆえなり。
義曰:臀者,最處卑下之物也;株木者,枯老朽槁之木。初六居困之始,在陂險之下,其體陰柔不能自濟。雖上有九四為之應,然為二所間隔,又有六三上無其應,下比於四,初以三專侵已之正應,是以已欲上進而不得,又最在於下,是猶困於枯槁之木,更無生長繁盛之意也。
胡瑗が解説します。「臀」は人の身上の最も下面に処するの部位。「株木」は枯老朽爛の樹桩なり。初六は《困》卦の開端に処し、険陥の体の最下面に位置して、本身は陰柔、自らを救うの力量なし。たとい上面有九四がそれと相応ずるも、却って九二に中間に隔てられ。また六三有りて、それは自ら上面に相応ずるの爻なく、却って下に向かって九四に緊く挨る、初六はそれによって六三が独占して併せて自らの正応を侵奪せりと認定す。於是乎それは上に向かって進取せんと欲するも能く得ず、加上また全卦の最底層に処すれば、即ち一段の枯朽の樹桩上に被困するがごとく、再び生長繁盛の指望なし。
入于幽谷者,初既居窮困之下,不能自濟,進不得已之應,如入於幽暗深谷之中而無所明顯也。三歲不覿者,此爻窮困已甚,雖有四之正應而為二三之所間,使不得進,而又在於下體,難於上進,至於三歲之間亦未得與四相見。象曰入于幽谷幽不明也者,初最居下,如困於幽暗深谷之中,無所明顯也。
いわゆる「入于幽谷」。初六はすでに困窮の最底層に処して、自らを救うに力なく、前進するも又自らと相応ずるの九四に够り着かざれば、即ち幽暗の深谷の裏に掉进するがごとく、一切は看るに分明ならず。いわゆる「三歳不覿」。此の一爻は困窮はすでに甚深、たとい九四此の正応有るも、却って九二・六三に中より阻隔せられて、それをして前進する能わざらしむ。ましてまたそれは身は下卦に処して、上に向かって進取するは本より艱難にして、以て三年の久しきも九四と相見る能わざるに至る。《象伝》の「入于幽谷、幽不明也」は、初六は全卦の最下面に処して、即ち幽暗の深谷の中に被困するがごとく、何も看り清楚する能わざるを言うなり。
九二:困于酒食,朱紱方來,利用亨祀,征凶,無咎。象曰:困于酒食,中有慶也。
九二の爻辞にいう。過盛の酒食に困るる所為る。天子の朱色蔽膝は將に賜り来たらんとす。祭享を挙行するに宜しきなり。出征すれば則ち凶険有れども、但し過咎なし。《象伝》にいう。酒食に困るるは、九二は中に居りて喜慶の將に至らんとする有るがゆえなり。
義曰:凡居窮困之時,必有剛明之才,然後能濟於世。今九二以剛陽之質處下卦之中,有剛明之徳,是能自濟者也。既有剛明之徳而能自濟,則眾皆歸之;歸之者眾,則所奉者厚,故困于酒食,饜飫之象也。
胡瑗が解説します。凡そ窮困の時に処するは、必ず剛強明察の才幹有りて、後に乃ち世に於いて益有るべきなり。今、九二は陽剛の質を以て下卦の中位に処し、剛明の徳を具備して、能く自ら拯済するの人なり。すでに剛明の徳有りて而又能く自らを救えば、衆人は便ち皆来たりて彼に帰附す。帰附するの人は多ければ、彼に供奉するの酒食は即ち豊厚にして、だから「困于酒食」と言う、これは喫飲して飽に過ぎて・返って豊足に困るるの景象なり。
朱紱方來者,朱紱,天子之服,天子純朱紱;方,將也。言九二既有剛明之才、大中之徳,為眾人所歸,則天子必委任之。既委任之,則降體貌以禮之,厚恩命以尊寵之,是天子寵命將至,故曰朱紱方來。
いわゆる「朱紱方来」。「朱紱」は天子の服飾、天子の用うる所は純朱色の蔽膝なり。「方」は將にの意なり。これは九二はすでに剛明の才幹・大中の徳行有りて、衆人に帰附せらるる所為れば、天子は必定に彼を委任せんと言うなり。すでに彼を委任せば、即ち尊を屈して礼を以て相待し、優厚の恩命を給して以て彼を尊崇寵信せん。これは天子の寵命は將に到来せんとするなり、だから「朱紱方来」と言うなり。
利用享祀者,凡易中言享祀之類,皆謂以至誠上通於神明。九二既為眾人所歸,又為天子所任,則必能進其至誠,率天下之人以奉於上,如享祀之時竭誠以通於神明也。
いわゆる「利用享祀」。凡そ《周易》の裏に享祀の一類の話を講じ到るは、皆至誠の心を以て上に向かって神明に感通するを指す。九二はすでに衆人に帰附せらるる所為りて、また天子に任用せられれば、即ち必定に自らの至誠を拿出して、天下の人を率領して一同に君上に奉事せん、即ち祭享を挙行するの時に誠意を竭尽して去りて神明に感通するがごとく。
征凶無咎者,以此九二其勢已尊,其權已重,其寵已隆,人臣之分盡於此矣。若不知止而復求其進,凶禍必至矣。夫凶禍之來,皆已所招,非他人所致,復何咎於人哉,此亦戒之之意也。象曰困于酒食中有慶也者,言九二有剛明之徳,居得其位,而為天子所任,得行其道於天下,而有喜慶之事也。
いわゆる「征凶、无咎」。此の地步に到りては、九二の地位はすでに尊顕・権柄はすでに重大・恩寵はすでに隆盛、臣子を為るの本分は此に到りて即ち頂なり。若し可而止むるを知らず、還要継続して進を求めば、凶険禍患は必定に来臨せん。而も此の種の凶禍の到来は、全て自らの招引する所為りて、別人の造成するにあらず、また誰を怪罪するを得べきや――爻辞は此のように言うは、亦告誡の意なり。《象伝》の「困于酒食、中有慶也」は、九二は剛明の徳を具備し、居る所の位は当を得、また天子に任用せられて、能く天下に於いて自らの道を推行せば、それによって可喜可慶の事有るを言うなり。
六三:困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。象曰:據于蒺藜,乘剛也。入于其宮,不見其妻,不祥也。
六三の爻辞にいう。頑石に去路を挡せられ、蒺藜の上に坐卧し、自らの家に帰到るも妻子に見えず、凶険なり。《象伝》にいう。蒺藜の上に坐卧するは、それは陽剛の上に凌駕するがゆえなり。家に帰りて妻子に見えざるは、不吉利の征兆なり。
義曰:石者,堅頑之物也;蒺藜者,草之有刺者也。大凡居困之際,必有剛明中正之徳,乃能自濟。今此六三以陰柔之質處於陽位,是履不得其正;過於六二,是行不得其中。以不中不正之身妄據崇髙之位,上無其應,當困之時,上進則有九四之剛陽以隔塞其路,故曰困于石。
胡瑗が解説します。「石」は堅硬頑固の物。「蒺藜」は尖刺を長たるの草なり。大凡困頓の時に処するは、必ず剛強明察・中に居りて正を守るの徳行を具備して、乃ち能く自らを拯救すべし。今、六三は陰柔の質を以て陽位上に処して、処する所は並びに端正ならず。また六二を越過して下卦最上に居りて、行事は並びに中に居らず。此のようのすでに中に居らず亦位に当たらざるの身分を以て、妄りに高顕の位を占踞し、上面にまたそれと相応ずるの爻なし。まさに困頓の時に当たりて、それは上に向かって進取せんと欲すれども、前面には九四の陽剛が去路を堵住すれば、だから「困于石」と言うなり。
下而欲守其位,則乘於九二之剛。夫九二以中正之才為己所乘陵,則反害於己,故曰據于蒺藜,是進退皆不得其安也。入于其宮不見其妻凶者,言三以柔順不正之質,進既不得行道,退又不獲所安,上又無正應以為己輔,是其窮困至極,則雖至親之人尚不可得而見之,是猶入其宮而不見其妻,此凶之道也。
退き下りて自らの位置を守住せんと欲すれども、脚下にまた九二の陽剛の上に踩む。九二は本は中正の才を具備するの人、今、六三に其の上に凌駕せられて、返って必然に六三を傷害せん、だから「据于蒺藜」と言う――進むも亦非なり・退くも亦非なり、全く安身の処なし。いわゆる「入于其宮、不見其妻、凶」。六三は柔弱にして端正ならざるの資質を以て、前進はすでに能く其の道を推行せず、後退も又得るに安頓なく、上面に還有正応の自らの援助と為すべきなければ、見るべしそれは窮の極に困れたるを。此の地步に到りては、最も親近の人をも見る能わざるに至る、即ち自らの家門に走進して妻子に見えざるがごとく、これまさに凶を招くの道なり。
故先聖亦係此爻曰:非所困而困焉,名必辱;非所據而據焉,身必危。既辱且危,死期將至,妻其可得見耶。象曰據于蒺藜乘剛也者,言六三所以據于蒺藜者,蓋乘九二之剛也。不祥者,祥,善也,以不見其妻而罹其凶,是豈為祥善者哉。
だから古聖人は《繋辞下》の裏に於いても此の一爻に就きて説き過ぎたり。困るべからざるの地方にして却って自ら其の中に陥れば、名声は必定に辱を受けん。占踞すべからざるの位置にして却って硬く占踞せば、身家は必定に危殆ならん。すでに辱を受けまた危殆なれば、死期は即ち將に到らんとす、妻子は何処に還有見るを得べきや。《象伝》の「据于蒺藜、乗剛也」は、六三の蒺藜上に坐するがごときの所以は、まさにそれは九二の陽剛の上に凌駕するがゆえなり。「不祥」の「祥」に至っては、善好の意なり。妻子に見えずして凶険に遭遇するは、これ何処に善好と称すべきや。
九四:來徐徐,困于金車,吝,有終。象曰:來徐徐,志在下也。雖不當位,有與也。
九四の爻辞にいう。前来する時は緩歩迟疑し、堅固の金車に困るる所為る、些かの困窘有れども、但し終に結果有らん。《象伝》にいう。前来は緩慢なるは、それの心志は下面の初六に係るがゆえなり。たとい居る所の位は恰当ならざるも、却って終に相応じ相与するの伴侶有り。
義曰:徐徐者,舒緩不敢決進也。金者,堅剛之物;車者,至剛載物而行者也,謂九二也。按此九四爻以陽居陰,居非其位,當困之時與初為正應。然九二在下,上無其應,欲其比之,固塞已路,使不得以相會遇,是以九四不可決然而行,但徐徐然舒緩而圖之也。
胡瑗が解説します。「徐徐」は舒緩迟疑にして敢えて断然として前進せざるのさまなり。「金」は堅硬剛強の物、「車」は極めて堅固にして能く物を載せて行くの物、此処では皆九二を指す。九四此の一爻は陽爻を以て陰位に居りて、居る所は並びに位に当たらず。まさに困頓の時に当たりて、それは初六と一対の正応なり。しかるに九二は下面に在りて、自らは上頭に相応ずるの爻なくして、即ち初六をして来たりてそれに親附せしめんと欲して、於是乎九四の去路を堵死して、九四と初六をして相会する能わざらしむ。それによって九四は能く断然として前行せず、只だ緩慢従容として慢慢に謀画するに如かず。
吝,鄙吝也,以已有正應而為二所固塞,是鄙吝之道也。有終者,九四既履非其正,為二之所間隔,然當困之時,上下相求,雖為二所隔,而初六本與己為應,但緩而圖之,則初六終與己為之應也。
「吝」は困窘鄙塞の意なり。自らは明明と正応有るに、却って九二に堵住せられれば、これ即ち困窘の道なり。いわゆる「有終」。九四はたとい居る所の位は端正ならず・また九二に中より阻隔せらるるも、但しまさに困頓の時に当たりて、上下は彼此に寻求す。たとい九二に隔て開けらるるも、初六は本来即ち自らと相応ずれば、只だ緩々として圖謀せば、初六は終究に自らと応合せん。
象曰來徐徐志在下者,徐徐而來,蓋本與初為正應,是志在於下也。雖不當位有與也者,以陽居陰,不當位者也,然初六之陰本已之正應,既為正應,雖見隔於九二,亦終有相與之道也。
《象伝》の「来徐徐、志在下也」は、九四は緩歩して来たるは、原因はそれは本より初六と正応にして、心志は下面に係るに在るを言うなり。「雖不当位、有与也」は、九四は陽爻を以て陰位に居りて、居る所は確実に位に当たらずと言うなり。然而初六此の陰爻は本来即ち其の正応、すでに正応なれば、縦然に九二に中より阻隔せらるるも、最終にも亦総に彼此に結合するの路子有るなり。
九五:劓刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。象曰:劓刖,志未得也。乃徐有說,以中直也。利用祭祀,受福也。
九五の爻辞にいう。鼻を割き足を断ずの重刑を動用す、返って赤紱を身着せるの諸侯に困るる所為る。只だ慢慢に来たれば、即ち喜悦有らん、祭祀を挙行するに宜しきなり。《象伝》にいう。重刑を動用するは、心志は還有実現せられざるを説明す。慢慢に来たれば乃ち喜悦有るは、九五は中に居りて行事は正直なるがゆえなり。祭祀を挙行するに宜しきは、此のように能く福佑を承受するを言うなり。
義曰:劓者,割鼻之刑也;刖者,斷足之刑也;赤紱者,諸侯之服也。按《毛詩·車攻》篇云:赤紱金舄,會同有繹,是言諸侯來朝用此赤紱也。
胡瑗が解説します。「劓」は鼻子を割掉するの刑罰、「刖」は脚を砍断するの刑罰、「赤紱」は諸侯の服飾なり。《毛詩・小雅・車攻》篇に拠れば「赤紱金舄、会同有繹」と言う、講ずる所はまさに諸侯の前来して朝会するの時に此の種の赤色蔽膝・金飾の鞋を穿戴するを言い、見るべし赤紱は諸侯の標志なり。
此五所以言劓刖困于赤紱者,言五居困之時,眾所不附,為困之主,困之極者也。夫居困之時,眾所不附,當寛其慈惠,以仁義之道居已以下於人,則人皆樂而歸之。今不能寛其慈惠,反以剛壯之道、刑罰之威以服其人,使民畏而從之,欲天下諸侯皆從於己,然後以威力服之,非心服也,故人必不從,反為諸侯之所困也。
九五此の一爻の「劓刖、困于赤紱」と言う所以は、九五は困頓の時に処して、衆人は皆肯んじて帰附せず、それは自らまさに困局を造成するの主爻にして、亦困頓の最も深きのあの一爻なり。困頓の時に処して衆人は肯んじて帰附せざれば、本応に仁慈恩惠を放寛し、仁義の道を以て自処して謙下して人を待てば、ならば人人は皆意に樂しみて彼に帰附せん。今、それは肯んじて慈恵を放寛せず、返って剛強の手段・刑罰の威勢を用いて去りて衆人を圧服して、百姓をして畏懼に因りて服从せしめんとす。天下の諸侯をして皆自らに順従せしめんと欲するも、却って威力に靠りて圧服する、並びに心服にあらず。だから人々は必定に肯んじて順従せず、返ってこれらの諸侯に困るる所為るなり。
乃徐有說者,言九五本居得其中,又履得其正,雖始失於威暴而為人所不從,若能徐徐緩而圖之,施徳布惠,則人必感恱而從矣。然亦利用祭祀者,言九五緩而圖之以有感恱之道,必須盡其至誠以接天下,猶祭祀之時盡其至誠以通於鬼神也。
いわゆる「乃徐有説」。九五は本来上卦中位に居り、処する所も亦端正、たとい一开始に威圧暴烈に失して人に順従せられざるも、但し只だ能く慢慢として従容に圖謀し、徳政を施行し・恩惠を散布せば、人々は必定に感動喜悦して彼に跟从せん。「利用祭祀」と還説くに至っては、九五は緩々に圖謀して・人心を感動するの効果を取得せんと欲すれば、必ず十足の誠意を拿出して去りて天下の人を待たねばならざるを言い、まさに祭祀の時に至誠を竭尽して去りて鬼神に感通するがごとし。
然二雲利用享祀,五雲利用祭祀者,蓋至誠至信其禮則一,但九二人臣之位,九五人君之位,居君臣之分、尊卑之差,豈可無別,故二曰亨祀,五曰祭祀也。象曰劓刖志未得也者,言五專尚劓刖威服於人,而人心將不樂從,故其志未有所得也。
九二は「利用享祀」と説きて九五は「利用祭祀」と説くに至っては、至誠至信を竭尽する此の一点上に於いて両者の礼意は本より一様なるがゆえなり。只だ九二は人臣の位に処し・九五は人君の位に処し、君と臣の名分・尊と卑の差等はあそこに摆れり、どうして能く分別なからんや。だから九二は「享祀」を用い・九五は「祭祀」を用うるなり。《象伝》の「劓刖、志未得也」は、九五は一味に鼻を割き足を断ずの重刑を崇尚して去りて人を威圧せば、人心は將に意に樂しみて服从せざらんとすれば、だから彼の心志は能く実現する有るに及ばざりしを言うなり。
乃徐有說以中直也者,言五所以緩而圖之有感恱之道者,由已居得其中,行得其直故也。利用祭祀受福也者,九五若能盡其至誠以接於下,猶祭祀以受福也。
「乃徐有説、以中直也」は、九五の緩々に圖謀して人心を感動するの効果を收到する能くする所以は、それは自身は中位に居り・行事は正直なるの縁故に由るを言うなり。「利用祭祀、受福也」は、九五は若し能く全副の至誠を拿出して去りて下面の人を対待せば、即ち祭祀して神明の福佑を承受するがごとくを言うなり。
上六:困于葛藟,于臲卼,曰動悔有悔,征吉。象曰:困于葛藟,未當也。動悔有悔,吉行也。
上六の爻辞にいう。葛藤に纏住せられ、揺揺として安からざるの地方に処し、心裏は一動すれば即ち悔有らんを盤算す。まさに悔有るを知るに因りて、出行して返って吉利なり。《象伝》にいう。葛藤に纏困せらるるは、処する所の位置は本より恰当ならざるがゆえなり。明知して一動に悔有るも仍として行動すれば、前行して返って吉を獲す。
義曰:葛藟者,蔓生之藤;臲卼者,不安之地也。言上以柔弱之質,下無其應,居於卦外極困之地,不能自濟,是以困於繞,不得所安,困之甚者也。
胡瑗が解説します。「葛藟」は蔓生の藤条、「臲卼」は揺晃して安からざるの処境なり。これは上六は柔弱の資質を以て、下に向かって相応ずるの爻なく、一卦の外・困頓の極点に到れるの地方に処し、自らを救うに力なければ、それによって藤蔓のごときの牽繞に困られて、安身の処を得ざるを言い、困頓の最も深きの一爻なり。
曰者,思謀之辭。凡吉凶悔吝生乎動者也,上六既處極困,則思謀其身,處度其事,動必有悔吝。既動而有悔,必當冒難而往以求其變通,不顧險難,決然而往,則可獲其吉矣。
爻辞中の「曰」の字は、心中に盤算思量するの意なり。《繋辞下》に言う。吉・凶・悔・吝は皆行動より産生すと。上六はすでに極困に身を処せば、即ち自らのために謀画して・事情に対して估量を作出せねばならず、明知して一たび挙動有れば必定に悔恨困窘を帯来す。しかるにすでに一動すれば即ち悔有れば、ならば更に応に艱難を冒して前往して、去りて転機と変通を寻求すべし。険阻を顧みず、断然として前行せば、即ち吉利を獲得すべきなり。
象曰困于葛藟未當也者,上六居困極之地,非所當居而已居之,所以有繞之困也。動悔有悔吉行也者,上六既居難中,不可不動,必冒難而行,則獲其吉也。
《象伝》の「困于葛藟、未当也」は、上六は困頓の至極の地方に処して、本応にあそこに待つべからざるに偏にあそこに待てば、だから乃ち藤蔓纏繞のごときの困擾有るを言うなり。「動悔有悔、吉行也」は、上六はすでに身は艱難の中に陥れれば、即ち行動する所有らざる能わざるを言うなり。只だ肯んじて艱難を冒して前行せば、即ち吉利を獲得すべきなり。
井 巽下坎上
井:改邑不改井,無喪無得,往來井井。汔至,亦未繘井,羸其瓶,凶。
《井》卦の卦辞にいう。都邑は遷移改換すべきにして、水井は遷移改換する能わざるなり。井水は天天に汲取するも亦枯竭せず、長久に汲まざるも亦満溢せず、喪失と説くに及ばず、亦増得と説くに及ばざるなり。来往の人は皆此の口の井上に到りて水を取る、井は終始として還是あの一口の井なり。しかるに水はすでに井口を出るに提到せりと雖も、汲縄は却って未だ完全に井外に提出せられず、返って水瓶を绊住して傾覆せしめれば、これ即ち凶険なり。
義曰:按《序卦》云「困乎上者必反下」,故受之以《井》。蓋言君子之人升進不已,則必至於窮困;既困於上,則必反而歸於下,此《井》所以次於《困》也。改邑不改井者,邑者,都邑,人民之所聚居也;井者,是居其地而不可遷改也。夫都邑,民所居也,則可以遷;井之為徳,則不可遷。夫邑之名猶君子之身,井之義猶君子之徳。君子之身可貴可賤,可富可貧,可生可殺;君子之道則不可為富貴貧賤生死所加損。
胡瑗が解説します。《序卦伝》は「困乎上者必反下」と講じ、上位に在りて困を受くるの人は必定に下面に退回せねばならず、だから《困》卦の後に接くるは《井》卦なり。これは君子は停らず上に向かって昇進して、終に窮困に遇うるを言い、上面に於いてすでに困を受くれば、即ち必然に下位に返回す、これ即ち《井》の《困》の後面に排せらるるの縁故なり。いわゆる「改邑不改井」。「邑」は百姓の聚居するの都城市鎮、「井」は則ちあの片の土地に凿かれて・搬走する法なきの物なり。都邑は只だ百姓の居住の処、遷き去るべく。水井の品格は却って遷き去る能わず。都邑の名は譬えば君子の身軀、水井の義は譬えば君子の徳行。君子其の人は貴く可なり賤く可なり・富む可なり貧する可なり・生く可なり殺す可なりなるも、君子の守る所の道は却って富貴貧賤生死に因りて絲毫の増損有ることなからん。
無喪無得者,夫井之淵源,終日汲之而不為之喪失,雖終歲不汲亦不至於盈滿。猶君子積其徳於身,至於用與不用,乃君民之幸與不幸耳,於君子之身何所損益哉!往來井井者,井所以汲水濟於時也,往者取其井,來者亦取其井,往來之人莫不資其養、蒙其利也。猶君子之徳,所居之處逺邇之人皆受其賜,以至鰥寡孤獨、昆蟲草木無不被其澤也。
いわゆる「无喪无得」は、井の源頭は深逺にして、整天に汲取するも亦減少枯竭せず、整年に汲まざるも亦満溢して出でざるを言うなり。これ譬えば君子は徳行を自身に積蓄して、最終の用いると用いざるとに至っては、只だ君主と百姓の幸と不幸のみ、君子の自身に対してまた何の増損あらんや。いわゆる「往来井井」、井の用処は人に汲水を供し・当世を救済するに在り。去る人は此の井に於いて水を取り、来る人も亦此の井に於いて水を取り、往来の人は皆それに靠りて養活せられ・其の好処を蒙受せざるなきなり。これ即ち君子の徳行のごとし、彼の居る所の処は、遠近の人は皆彼の恩賜を受け、以て鳏夫・寡婦・孤児・子なきの老人に至り、乃至昆虫草木に至るまで、彼の潤沢を蒙受せざるなきなり。
汔至亦未繘井羸其瓶凶者,汔猶幾也,將至之謂也;繘者,汲水之綆也;羸者,綰絆之謂;瓶者,汲水之器。凡井之有濟人之功,今水將至而綆未出於井,則羸其瓶而傾覆之,其澤不能及於人,凶之道也。猶君子以道徳仁義正身履行,本欲以濟眾也,必須致於有位,使其澤及於民物,則功必有成也;而反有至中道而自傾覆其徳,則澤反不能施天下,亦凶之道也。
「汔至、亦未繘井、羸其瓶、凶」に至っては。「汔」は「几」に等しく、將に到達せんとするの意。「繘」は汲水に用うるの繩索。「羸」は纏繞して绊住す。「瓶」は水を打つるの器皿なり。井は本より衆人を救済するの功用有りて、今、水はすでに井口に提到せりと雖も、汲縄は却って還有井外に提出せられず、返って水瓶を绊住してそれを傾覆せしめば、井の潤沢は便ち人に惠及する能わざらん、これ即ち凶険の道なり。これ譬えば君子は道徳仁義を以て自身を端正し・学ぶ所を踐行し、本意は衆人を救済せんと欲するに在るに、ならば必ず身は其の位に居るを為し到りて、恩沢を百姓万物の身上に落とせしめて、功業は乃ち能く真に成就せん。若し返って半途に走り到りて自ら其の徳行を傾覆せば、恩沢は便ち天下に施す能わざらん、同じく凶険の道なり。
彖曰:巽乎水而上水,井。井養而不窮也。改邑不改井,乃以剛中也。汔至亦未繘井,未有功也。羸其瓶,是以凶也。
《彖伝》にいう。巽木は水中に深入して水を提挙して上げ来る、これ即ち《井》卦なり。井は能く衆人を養育して永遠に窮尽なからん。「改邑不改井」は、九二・九五が「剛中」の徳を具有するがゆえなり――「剛」は陽爻を指し・「中」は上下卦の中間に処するの「爻位」を指し・合して即ち剛健にして中を守り偏らざるなり。「汔至亦未繘井」は、水を汲みて人を済うるの功效は還有成就せられざるを言うなり。「羸其瓶」、だから乃ち凶険に落得す。
義曰:此先以二體明井之義也。坎為水,巽為木,又為入,木能入水而舉上其水,井之象也。井養而不窮者,夫井泉源之所聚,往者來者皆取以為養而無有窮盡也。改邑不改井乃以剛中也者,言都邑之人居可以遷,井者掘地為之不可以遷。猶君子身可以窮達,徳不可以移易,若是惟二五能之。二五以剛中之徳,則不為富貴貧賤生死之所移,其徳至造次顛沛之間未始變其道,如井之不遷也。汔至亦未繘井未有功也者,言水汔至而綆未出於井,其功未濟於人也。羸其瓶是以凶也者,所汲之綆既未出於井,而又羸綰其瓶以傾覆其水,如君子不能濟人,而又傾敗其仁義,中道而止,是凶道也。
胡瑗が解説します。《彖伝》は先ず上下両卦の卦体を用いて《井》の取義を説明す。下卦坎は水を為し・上卦巽は木を為し、巽はまた「入」の義有り、木器は能く水中に深入して水を提挙して上げ来る、これまさに水井の形象なり。いわゆる「井養而不窮」は、井は泉源の汇聚するの処、去る人来る人は皆其の中より水を取りて養生して、永遠に枯竭せざるを言うなり。いわゆる「改邑不改井、乃以剛中也」は、都邑は人の居住する所にして遷き去るべく、井は地を掘りて成るにして遷き去る法なきを言うなり。これ譬えば君子の身は窮困すべくも顕達すべくも、徳行は却って改易すべからざるなり、此の一点を為し得べきは唯だ九二・九五の両爻のみ。此の両爻は剛健にして中を守るの徳を以て、富貴・貧賤・生死に動揺せられず、たとい倉促失意・顛沛流離の際に処するも亦曽て其の道を改変せず、まさに井の遷移すべからざるがごとし。いわゆる「汔至亦未繘井、未有功也」は、水はたとい井口に提到せりと雖も、汲縄は未だ井外に出でざれば、人を救済するの功效は併せて成就せられざるを言うなり。いわゆる「羸其瓶、是以凶也」は、汲縄はすでに未だ井に出でず、また水瓶を绊住して井水を傾覆せしめば、即ち君子の能く他人を救済せざるに、返って自らの仁義を敗壞して、半途にして廃止す、これ即ち凶険の道なりと言うなり。
象曰:木上有水,井。君子以勞民勸相。
《象伝》にいう。木器の上に水を載す、これ即ち《井》卦の卦象なり。君子は此の一象に取法し、自らの百姓を慰労安撫し、併せて彼らを勉勵扶助す。
義曰:巽為木,坎為水,木能入水而舉上其水以濟於人,有井之象。君子法此井象,以勞來安恤其民而勸相之。勸者,舉天下之賢才,黜天下之不肖,興庠序之教化,施禮樂之道,以勸天下之人,使皆知遷善而逺罪也。相,助也,謂勸農、輕徭薄斂、節儉國用,所以助其生也。既勞以安之,又勸相以助其生,是以仁義之道被於民,得井之義也。
胡瑗が解説します。巽は木・坎は水、木器は能く水に入りて水を提げ上げて衆人を救済すれば、だから水井の象有るなり。君子は此の一井象に效法し、慰労・招徠・安頓・体恤の方式を用いて百姓に対待し、併せて彼らを勉勵扶助す。いわゆる「勧」は、天下の賢才を提拔し・天下の不肖の徒を罷黜し、学校の教化を興弁し・礼楽の道を推行して、これらを用いて天下の人を勉勵して、彼らをして皆善に向かい罪を遠くするを懂得せしむるなり。いわゆる「相」は即ち輔助、農桑を勧課し・徭役賦斂を軽減し・国家の用度を節省して、以て百姓の謀生を幇助するを指す。すでに慰労を用いて彼らを安定せしめ、また勉勵扶助を用いて彼らの過活を幇すれば、仁義の道は即ち百姓に普及す、これまさに《井》卦の義に合乎す。
初六:井泥不食,舊井無禽。象曰:井泥不食,下也;舊井無禽,時舍也。
初六の爻辞にいう。井裏は満たるに污泥を以てし、水は飲用する能わず。廃棄して已久しきの旧井は、禽鳥をも来たらざらん。《象伝》にいう。「井泥不食」は、それは最下の位置に処するがゆえなり。「旧井无禽」は、それは当時の人に棄置して顧みられざるを言うなり。
義曰:泥者,水之滓穢也。初六以陰柔之質滓穢沈滯,居一卦之下,上無其應,其功不能及於上,是井之滓穢沈滯至於為人之所不食也。舊井者,久廢之井也;禽者,至賤之物也。久廢滓穢沈滯,雖至賤之禽猶不向之,則人不食可知矣。以人事言之,猶人不能修潔其已,不能日新其徳,不務升進而自處於卑下之位,為人所不與也。象曰井泥不食下也者,下謂處於卑下,功不及於物也。時舍者,蓋利不被於人,故為時人之所共棄舍也。
胡瑗が解説します。「泥」は水中の渣滓汚穢なり。初六は陰柔の質を以て下に沈滞し、全卦の最底層に居り、上面にまたそれと相「応」ずるの爻なし――「応」は初と四・二と五・三と上の一陰一陽の彼此に呼応するを指す――それによって功用は上面に達する能わず、まさに井水の汚濁沈滞・人の肯んじて飲むなきのさまなり。「旧井」は荒廃して已久しきの井、「禽」は最も卑賤の動物なり。井は久しく廃れて渣滓は沈滞し、禽鳥をも肯んじて靠近せざれば、人の肯んじて飲用するは想知すべきなり。人事に就きて言えば、譬えば一人の修潔して自身を修め・日に其の徳を新たにし・上進を求めて卑位に甘居する能わざるに因りて、それによって人の許賛するなきがごとし。《象伝》の「井泥不食、下也」、「下」は卑下の地に処するを指し、功用は外物に及ぶ能わざるなり。「時舎」と言うは、其の好処は人に惠及する能わざれば、だから当時の人に一同に棄置せらるるがゆえなり。
九二:井谷射鮒,甕敝漏。象曰:井谷射鮒,無與也。
九二の爻辞にいう。井水は溪谷のごとく下に向かって渗流し、小魚の身上に浇る。水を汲むの瓦瓮は破敝して、水は下面より漏走す。《象伝》にいう。「井谷射鮒」は、それは上面に相応援するの人なきがゆえなり。
義曰:谷者,溪谷也;鮒即鮒魚也,積穢之所生;甕者,停水之器。凡井之道,所以汲取以濟於物。今九二處下卦之中,上無其應而下比於初,猶溪之水下注射於積穢之物,又如甕之敝敗,其水下漏,是皆言其功不能上濟於物也。以人事言之,君子之人有仁義之術,可以濟於天下,為生民之福,而潛身晦跡以自卑下,不務升進以行其道,其澤不能及於物,以是天下之所共不與者也。
胡瑗が解説します。「谷」は溪谷、「鮒」は即ち鯽魚の一類の小魚、汚穢の積水の裏に生じ、「瓮」は水を盛るの器皿なり。井の功用は本より水を汲み上げて万物を救済するに在り。今、九二は下卦の中位に処し、上面に相応ずるの爻なく、却って下に向かって初六と相「比」す――「比」は相隣の両爻が緊く挨りて親附するを指す――即ち溪水の下に向かって汚穢の小魚の身上に浇注するがごとく、又如瓦瓮の破損して水は底下より漏走するがごとく、説く所は皆其の功用が能く上に向かって万物を救済する能わざるなり。人事に就きて言えば、君子は仁義の本領を懐きて、本より天下を救済し・百姓に福を造るべきに、却って身を隠し跡を晦めて自ら卑下に甘んじ、進を求めて以て其の道を推行するを肯んぜざれば、恩沢は便ち外物の身上に到る能わず、それによって天下の人の許賛を得る能わざるなり。
九三:井渫不食,為我心惻,可用汲,王明並受其福。象曰:井渫不食,行惻也;求王明,受福也。
九三の爻辞にいう。井水はすでに淘洗して清潔なれども、却って人の来たりて飲用するなし、我が心中をして憂傷せしむ。此の井は実は汲取すべきにして、若し君王は明察して任用せば、君臣上下は即ち能く共同に福沢を蒙受せん。《象伝》にいう。「井渫不食」は、其の道の施行を得ざるを為して憂傷するなり。「求王明」は、君王の明察を希求して、天下をして同じく福慶を受けしめんと欲するなり。
義曰:渫者,清潔之貌,言九三以陽爻居陽,履得其正,有剛明之才而在下體,如井之清潔而不為人之所食,亦若君子有仁義之術,不為時君之所用。惻者,憂惻也。言君子所憂者,非憂其一身貧賤,憂其君不堯舜,憂其民不仁壽,故其中心惻然,蓋以其道徳仁義不見用於上,其澤不能及於天下也。且井之清潔,可用取汲而濟於物;君子有道徳,可以升進而濟天下之民。然所患者,上無明君以察己之道徳。若王者有至聖聰明之資,能察己之道徳以升進於位而任用之,使其道行於天下,致君於堯舜,躋民於仁壽,則君臣上下罔不賴其徳而受其福慶也。
胡瑗が解説します。「渫」は淘洗して清潔なるのさまなり。九三は陽爻を以て陽位に居り、処する所の「爻位」は端正――陽爻は陽位に居り・陰爻は陰位に居るを「得正」と叫ぶ――剛健明達の才有りて仍として下卦に在るは、即ち井水はすでに淘洗して清潔なれども人の来たりて飲むなきがごとし。又如君子の仁義の本領を懐くるも、却って当世の君主に任用せられざるがごとし。「恻」は憂傷なり。君子の憂うる所は自らの貧賤にあらず、而も憂うるは君主の能く堯舜のごときの聖王と為る能わざるを・憂うるは百姓の能く仁厚長寿を安享する能わざるを、だから内心は恻然たり。彼の道徳仁義は在上者に採用せられず、恩沢は便ち天下に遍及する能わざるなり。まして井はすでに清潔なれば、本来即ち汲取して来たりて万物を救済すべく。君子はすでに道徳有れば、本来即ち升進して来たりて百姓を救済すべく。憂患する所は只だ上面に自らの徳行を鑑察する能くするの明君なきのみ。たとい君王に至聖聡明の資質有りて、能く彼の道徳を看出して相応ずるの位置上に提拔して任用を加え、彼の道を天下に推行せしめ、君主を堯舜に輔佐して成し・百姓を仁厚長寿の境に提升到せしめば、ならば君臣上下は彼の徳行に倚頼して共に福慶を受けざるなからん。
象曰井渫不食行惻也者,行者,所行之道也,蓋君子有致君經世之才,今反不用,則智謀不補於君,膏澤不下於民,故所以憂惻其道不行於時也。受福者,是君子必求明王以務升進於上,使其道大行於天下,則天下之人皆受其福慶也。
《象伝》の「井渫不食、行恻也」、此処の「行」は推行する所の道を指す。君子は本より君主を輔佐し・世事を経理するの才幹有りて、今、却って起用せられざれば、智謀は君主に補益する能わず、恩沢も亦百姓の身上に降る能わず、だから自らの道の当世に行わるる能わざるを為して憂傷す。「受福」に至っては、君子は必ず明王を寻求し・力求して上位に升進して、自らの道を天下に大行せしむるを要すを言い、あのようであれば天下の人は皆能く彼の帯来するの福慶を蒙受すべきなり。
六四:井甃無咎。象曰:井甃無咎,修井也。
六四の爻辞にいう。磚石を用いて井壁を修砌すれば、過咎有ることなからん。《象伝》にいう。「井甃无咎」は、それはまさに此の口の井を整治修補するがゆえなり。
義曰:甃者,以砌累而修補者也。按此一爻以陰居陰,處得其正,能自修飾,使其泉源清潔為人所食,亦猶君子修潔其行,有仁義之道可以濟於天下。然位不得中,尚未汲以濟於人,是君子雖未見用,亦可自守其正而獲無咎也。
胡瑗が解説します。「甃」は磚石を用いて塁砌して来たりて井壁を修補するなり。此の一爻は陰爻を以て陰位に居り、処する所は正を得て、能く自我に整飭修治して、井の泉源をして清潔にして人に飲用を供せしむ。これ即ち君子の自らの操行を修潔して・仁義の道を懐き、本より天下を救済すべくするがごとし。只だ其の爻位は中に居らず、還有汲取せられて以て人を済うるの時に到らざれば、見るべし君子はたとい未だ起用せられずと雖も、亦仍として能く正道を自守して過咎有ることなからん。
九五:井洌,寒泉食。象曰:寒泉之食,中正也。
九五の爻辞にいう。井水は清澈にして、あの清涼の泉水は以て人に飲用を供すべし。《象伝》にいう。清泉は能く人に飲用を供するは、九五はすでに中位に居りてまた正位に当たるがゆえなり。
義曰:洌者,清潔之貌。按此一爻以陽居陽,處得其正,以剛居中,清潔其行,是猶井之有寒泉清潔不撓,為時人所汲而食之。以人事言之,是聖賢之人居至尊之位,有剛明中正之徳,有仁義之道,可以為天下之法則,可以生成天下之民,以至往者來者皆得而濟之也,故若井洌寒泉,為時人之所共食也。
胡瑗が解説します。「洌」は清澈潔浄のさまなり。此の一爻は陽爻を以て陽位に居り、処する所は正を得、また剛健の質を以て上卦中位に居り、操行は清潔にして、まさに井中の寒泉の澄澈にして攪濁せられざるがごとく、当時の人に汲取されて飲用せらる。人事に就きて言えば、これは聖賢の人は身は至尊の位に居り、剛健明達にして「中正」の徳を具備す――中に居りて而又正を得るを、だから中正と叫ぶ――兼ねて仁義の道有りて、以て天下の準則と為すべく、以て天下の百姓を養育すべく、以て往来の人は皆彼の救済を得る能くすべし、だから清澈の井水寒泉のごとく、当時の人に共に飲まるるなり。
上六:井收勿幕,有孚元吉。象曰:元吉在上,大成也。
上六の爻辞にいう。井はすでに修治完成せり、蓋子を用いてそれを遮住する勿れ。人に於いて信を取る能くせば、即ち大吉を獲得せん。《象伝》にいう。大吉は上位に出現するは、井道は此処に到りてすでに大功告成せるがゆえなり。
義曰:收者,物之收成也;幕者,蓋幕也。夫井之道,以汲上濟人為功。今上六以陰居陰而處一卦之上,井道之大成者也,猶賢人君子修仁蘊義,沛然發施天下而福蒼生,是君子之道大成也。勿幕者,上六井道既成,則當使天下之人往者來者汲之以得濟養,故不可獨擅其利而蓋幕之也;亦猶君子徳行既成,則當發施於天下,使天下之人皆受其賜,故不可遁于山林而獨善其身,亦不可吝嗇所為而不施發也。有孚元吉者,夫井道大成則天下得汲其惠,君子道成則天下得受其賜,故為天下之人所信;既能取信於天下,所以獲元大之吉也。
胡瑗が解説します。「収」は事物の収穫成就、此処では井はすでに淘治修砌し完畢せるを指す。「幕」は覆蓋遮住なり。井の功用は水を汲み上げて人を救済するに在り。今、上六は陰爻を以て陰位に居りて全卦の最上に処し、まさに井道の大功告成するの時、譬えば賢人君子の仁徳を修養し・義理を蘊蓄して、充沛して天下に施行して蒼生に福を造るは、これは君子の道の大成なり。いわゆる「勿幕」は、上六の井道はすでに成就せれば、即ち天下往来の人をして皆其の中より水を汲みて養育を得せしむべく、其の好処を独占して蓋を加えて遮住すべからざるを言うなり。又譬えば君子の徳行はすでに成就せれば、即ち天下に施行して、天下の人をして皆彼の恩賜を受けしむべく、隠遁して山林に入りて只だ自らの潔好を顧みるべからず――《孟子》の言う所の「独善其身」は、此の時に到りては便ち取るに足らざるなり――亦自らの能く所を吝惜して施予するを肯んぜざるべからざるなり。いわゆる「有孚元吉」は、井道は大成すれば則ち天下は皆能く其の恵沢を汲取し、君子の道は成れば則ち天下は皆能く彼の恩賜を受け、それによって天下の人に信服せらるるを言うなり。すでに天下に於いて信を取る能くせば、だから最大の吉祥を獲得す。
革 離下兌上
革:已日乃孚,元亨利貞,悔亡。
《革》卦の卦辞にいう。事情の弁成せるのあの日に到りて、百姓は乃ち真心より信服す。此の卦は「元亨利貞」の四徳を具備す――元は創始・亨は通達・利は和宜・貞は正固――それによって悔恨は消亡す。
義曰:按《序卦》云「井道不可不革」,故受之以《革》。凡井之經久必有壊敗,故當淘治穢滓以革易其故,使之鼎新,此《革》所以次於《井》。革者,變革之義也。夫天下暴亂,人民塗炭,是必有大聖之興起,拯治天下,革天下之命令,使天下皆得其寧也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》は「井道不可不革」と講じ、だから《井》の後に《革》を接ぐ。水井は用うること久しければ必有損壞敗漏、污泥穢物を淘き去り・其の原有の旧样を革除して、それを焕然一新せしむるを要す、これ即ち《革》の《井》の後面に排せらるるの縁故なり。「革」は即ち変革改易なり。天下は一旦暴虐動乱して・百姓は水深火熱に陷れば、必定に大聖人の興起有りて、天下を拯救整治し・天下の政令を変革して、天下をして皆安寧を得せしむべきなり。
已日乃孚者,已日則事已成之日,孚,信也。夫愚民知久陷於塗炭,雖聖人興起,亦未知聖人之所為,猶恐未免於難,故須聖人丁寧誥戒,使民審知,然後改正朔,易服色,殊徽號,制作禮樂,一新民之耳目,使天下之人皆出孚信於上,故即日不孚,至於已日乃孚。
いわゆる「已日乃孚」。「已日」は事情はすでに弁成せるのあの日、「孚」は信服なり。愚昧の百姓は自ら知るは長久に水火の中に陷れりと雖も、可もして聖人が興起するも、彼らは聖人が何を為さんと欲するかを明白せず、仍として災難を逃出す能わざらんを怕れば、だから聖人は必ず反復して叮嚀告誡して、百姓をして明白せしめて、後に暦法歳首を改定し・車服顔色を更換し・朝廷の徽号を別立し・礼楽を重新に制作して、百姓をして耳目を一新せしめれば、天下の人は乃ち皆在上者に対して信服を生出す。だから事を起すの当日は百姓は還有信服せず、事成の日に到りて方に信服するなり。
元亨利貞悔亡者,元亨利貞,天地生成之四徳,在聖人為仁義禮智。言聖人為革之道至難,必有是仁義禮智之四徳以生成天下之民物,然後合徳於天地,而可以無悔吝之道。苟於四徳有所不備,則將自取悔吝者也。
いわゆる「元亨利貞、悔亡」。元・亨・利・貞は天地が万物を生養成就するの四種の徳性、聖人の身上に落つれば即ち仁・義・礼・智なり。これは聖人の変革を推行するは極めて艱難にして、必ず仁義礼智の四徳を具備して、以て天下の百姓万物を生養成就して、後に乃ち天地の徳と相合して、乃ち悔恨遺憾なきを為し到り得べきを言うなり。若し此の四徳は一樣の完備せざる有れば、便ち自ら悔恨を招来せん。
彖曰:革,水火相息,二女同居,其志不相得,曰革。已日乃孚,革而信之。文明以說,大亨以正,革而當,其悔乃亡。天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人。革之時大矣哉!
《彖伝》にいう。《革》卦は、水と火とは互相に熄灭し、两箇の女子は一処に同住して心志は各々相投せざれば、だから「革」と叫ぶ。「已日乃孚」は、変革の後に百姓は乃ち信従するを言うなり。下卦離の「卦徳」は文明、上卦兌の卦徳は欣悦――卦徳は即ち一卦の象徴する所の品性――文明を憑りに人をして欣悦せしめ、大いに亨通して而又正を守り、変革は当を得て、悔恨は於是乎消亡す。天地は更替変革して乃ち四時を成就し、商湯・周武は天命を革除して、上は天道に順い下は民心に応ず。変革の時機の意義は真に重大なりや。
義曰:水火相息者,息,滅也。下離為火,上兊為澤。夫水本積於澤中,火本炎上,水火之性本不相得,水遇火而消,火遇水而滅,是水火之性自然相息滅也。二女同居其志不相得曰革者,此困二體以言之,離為中女,兊為少女,言女子之生雖同其居,其志各有適人之道,是其志自然不相得,革之義也。
胡瑗が解説します。「水火相息」の「息」は熄灭なり。下卦離は火を為し・上卦兌は沢を為す。水は本来沢の中に積聚し・火は本来上に向かって燃焼す、水火の性質は本より相容れざるなり。水は火に碰上れば即ち焼き乾かされ・火は水に碰上れば即ち浇き滅ぼさる、これは水火の本性は自然に互相に熄灭するなり。「二女同居、其志不相得、曰革」に至っては、これは上下の両箇の卦体に就きて言うなり。離は中女・兌は少女、两箇の女子はたとい一家に同住するも、各自は却って皆人有りてに出嫁するの打算有りて、心志は自然に相投する能わず、これ即ち「革」の意なり。
已日乃孚革而信之者,夫民性之愚,久處暴虐,雖聖人興起以仁義之道生成之,始皆出於塗炭,然民尚未信聖人,故當已事之日,乃新更制作,改變號令,使決然無疑,皆相信而從也。文明以說大亨以正革而當其悔乃亡者,文明,離象也;說,兊象也;大亨以正,四徳畧舉之也。言聖人既變暴亂之事於天下,遂以文章光明之道感恱於民,又有元亨利貞之四徳以為革之道,拯天下之難,興天下之治,皆順於道而當其理,故其悔乃亡也。
いわゆる「已日乃孚、革而信之」。百姓の天性は愚昧にして、長久に暴虐の下に処して、たとい聖人が興起して・仁義の道を用いて彼らを生養するも、起初は彼らを水火の中より救い出すの時に、百姓は還有必ずしも聖人を相信せざるなり。だから事情の弁成せるのあの日に到りて、重新に制度を訂立し・号令を改換して、人心をして毫も遅疑せざらしめて、乃ち皆信服して跟从す。いわゆる「文明以説、大亨以正、革而当、其悔乃亡」。「文明」は離卦の象、「説」は兌卦の象、「大亨以正」は則ち元亨利貞の四徳を簡略に挙出せるなり。これは聖人はすでに天下の暴乱を革除せれば、即ち文采光明の道を用いて去りて百姓を感動し取悦して、また元亨利貞の四徳を以て変革の準則と作為して、天下の危難を拯救し・天下の治世を興起して、件件は皆道に順い理に合乎せば、だから悔恨は乃ち消亡を得たるを言うなり。
天地革而四時成者,此以下廣明革之義也。夫天地之道,寒暑相易,陰陽相蕩,故四時順其序而成其歲功也。湯武革命順乎天而應乎人者,夫桀紂之時,天下暴亂,民墜塗炭,湯武憫生靈不獲其所,於是興師振旅,放桀伐紂以革其弊,上以順於天,下以應於民,此湯武興治補弊,救民於水火,為王者能濟事之大者也。革之時大矣哉者,夫革變之時,是則革故從新,除苛解擾,一新民之耳目,以變時之號令,拯天下塗炭之民而納之安泰之域,其道至大,其事至深,非大有聖徳之人則不可為,故先聖所以重嘆之也。
いわゆる「天地革而四時成」、此処より往下は推して広く変革の意義を説明す。天地運行の道は、寒来暑往して互相に更替し、陰気陽気は互相に激蕩すれば、だから春夏秋冬は依次に行われて、一年の収成を成就す。いわゆる「湯武革命、順乎天而応乎人」。夏桀・商紂は位に在るの時、天下は暴虐動乱して・百姓は水火に墜入せり、湯武は蒼生の其の所を得所を得ざるを憐憫して、於是乎兵を興し旅を整えて、夏桀を流放し・商紂を討伐して、以て当時の弊政を革除せり。上は天道に合し・下は民心に合す。これは湯武が治を興し弊を補い・民を水火より救う、王者にして能く成就するの最大の事業なり。いわゆる「革之時大矣哉」。変革の時は、旧を革除し・新に跟従し、苛政を除去し・紛擾を解開して、百姓をして耳目を一新せしめ・当時の号令を改変して、水火に陷れるの天下の百姓を拯救し出して、太平安泰の境地に安放す。この路は極めて宏大・此の事は極めて深重にして、徳行の至聖の人にあらざれば即ち為し来る能わざれば、だから先聖は乃ちそれに対して再三讃嘆す。
象曰:澤中有火,革。君子以治厯明時。
《象伝》にいう。沢水の中は火を含む、これ即ち《革》卦の卦象なり。君子は此の象に取法し、来たりて暦法を推治し・時令を明辨す。
義曰:水火之性不相得,故有革之象也。君子觀此革易之象,以治其厯而明其時。蓋天地之大不可以形究,是故君子因為之厯數,以推測其妙用,究極其躔次,考步其陰陽寒暑、日月星辰、風雨晦明,以察天時之早晚,以觀四時之代謝,所以明示於天下,使天下之四民因其時而興功業,皆不失其早晚,此王者治國之大法也。
胡瑗が解説します。水と火の性質は互いに相容れざれば、だから変革の象有るなり。君子は此の変革改易の卦象を観察して、以て暦法を推治し・時令を明辨す。天地は此のごとく広大にして、肉眼形体に靠りて窮究する能わず、だから君子はそれのために暦数を制定して、以て天地の神妙なる作用を推測し、日月星辰の運行するの度次を窮究し、陰陽寒暑・日月星辰・風雨陰晴の変化を考察推歩して、此を以て天時の早晚を察知し・四季の更替を観察して、後に明白に天下に公布して、士農工商の四民をして各々時令に按じて事業を興弁して、皆農時の早晚を錯過せざらしむ。これは王者の国家を治理するの大法なり。
初九:鞏用黃牛之革。象曰:鞏用黃牛,不可以有為也。
初九の爻辞にいう。応に黄牛皮を用いて捆縛するがごときの牢固に固結すべし。《象伝》にいう。「鞏用黄牛」は、此の時は還有已むを得ず大なる作為有るべからざるを言うなり。
義曰:鞏者,固也;黃者,中也;牛者,至順之物也。夫革之道不可驟有所為,必須以仁義之道漸被於民,以大中之道固結於下,使民心信確順從於己,然後可以大有為而行變革之事也。今此初九居卦之始,在革之初,故不可驟然有所為,是必先以大中之道、至順之徳以固於民,使民固信於己,順而從之,然後可以為其改革更變之事也。象曰鞏用黃牛不可以有為也者,凡革之道必須徳澤被於民已日,然後可以革之也,民固即日而未孚,可遽革之乎?故但可固守中順而結之,未可大有所為。
胡瑗が解説します。「鞏」は捆縛して牢固、「黄」は五色の中の土色、中を守りて偏らざるを代表し、「牛」は最も柔順の牲畜、牛皮はまた堅靱にして裂け難し。変革の道は骤然として手を動かす能わず、必ず先ず仁義の道を用いて慢慢に百姓を浸潤し・中を守りて偏らざるの道を用いて下面の人心を牢牢に結住して、百姓をして真心より自らを信任し・順从せしめて、後に乃ち大いに作為有りて・去りて変革の事を為すべきなり。今、初九は全卦の開頭・変革の起始に処せば、だから已むを得ず貿然として行動すべからず、必ず先ず中を守るの道と極めて柔順の徳行を以て民心を固結して、百姓をして堅定に自らを信任し・順服跟从せしめ、之後に乃ち着手して改革更張すべきなり。《象伝》の「鞏用黄牛、不可以有為也」は、変革の道は必ず恩徳の百姓に沢被するが事成の日に到るを待って、乃ち推行すべくを言うなり。百姓は起事の当日は本来還有信服せざれば、どうして能く倉促に変革せんや。だから此の時は只だ能く中道柔順を固守して去りて人心を団結するのみ、還有已むを得ず大なる挙動有るべからず、只だ時機の成熟を待つべきなり。
六二:已日乃革之,征吉無咎。象曰:已日革之,行有嘉也。
六二の爻辞にいう。事成の日に到りて乃ち手を動かして変革す、前往して行動すれば即ち吉祥、過咎有ることなからん。《象伝》にいう。事成の日に乃ち変革するは、行う所は皆美善の事なり。
義曰:初九在革之始,不可驟然有所為,是必先以大中之道固信於民,使民信之,然後為變革之事。今此六二以陰居陰,處得其中,又得其正,而又處離明之中,能以大中之道變革於民,民既信之,所以得為革之事,故曰已日乃革之。征吉無咎者,徵,行也。言二既居離明之中,能以大中之道革變於民,夫以是而行,則得其吉,又何咎之有。象曰已日革之行有嘉也者,夫以離明之中行大中之道以變革於天下,而民悉信之,是所行皆嘉美之事而得其吉也。
胡瑗が解説します。初九は変革の起始に処して、能く貿然として行動せず、必ず先ず中を守るの道を用いて百姓をして自らを堅信せしめて、百姓は信じて、後に乃ち変革の事を為すべきなり。今、六二は陰爻を以て陰位に居り、すでに中位を得てまた正位を得、併せて下卦離の正中に処す――離の卦徳は文明、だから下文は常にそれを「離明」と称す――能く中を守るの道を用いて百姓に対して変革を施行す。百姓はすでに信服せれば、それは乃ち着手して変革を得たるなり、だから「已日乃革之」と言うなり。いわゆる「征吉无咎」、「征」は即ち前往して行動す。六二はすでに離明の中に居りて、能く中を守るの道を以て百姓を変革すれば、此のように照らして去りて行動すれば即ち吉祥を得、還有又何の過咎有らんや。《象伝》の「已日革之、行有嘉也」は、離卦の光明を憑りに・中を守るの道を行いて去りて天下を変革せば、百姓は全て信服して、行う所は自然に皆美善の事なり、それによって吉祥を獲得すと言うなり。
九三:征凶,貞厲,革言三就,有孚。象曰:革言三就,又何之矣。
九三の爻辞にいう。貿然として前往すれば則ち凶険有り、正道を守るも亦仍として危厲有り。変革の議は三度に成就して、衆人は誠信有りて相従す。《象伝》にいう。変革の議はすでに三度に成就せり、還有又何処に往かんと欲するや。
義曰:今觀此爻經文有所倒錯,止依此文以解之則義無所當,蓋當先雲革言三就有孚,後則曰征凶貞厲。何以明之?按此九三以陽居陽,處得其正,又在下卦之上,處離明之極。蓋離為火,火性炎上,上是兊,兊為澤為水,水火之性本不相得,所以得變革之象也。今九三既處離明之極,體性炎上,時為革道,故上之三爻必須從而成就之,其順從皆有誠實也。猶聖人以離明之道變革所為,除去天下之暴,為眾人之所信從。
胡瑗が解説します。今、此の爻の経文の次序を看れば顛倒錯乱有りて、只だ現存の文字に依りて去りて解すれば、義理は便ち着落なからん。応に先ず「革言三就、有孚」と説き、再び「征凶、貞厲」と説くべし――先ず変革の議はすでに三度に談成し・衆人は誠信に相従するを講じ、再び此の時は已むを得ず再び往く所有るべからざるを講じて、文義は乃ち順い下るを得べきなり。何を以て見えんや。此の爻は陽爻を以て陽位に居り、処する所は正を得、また下卦の最上に在りて、離卦の光明の頂点に処す。離は火を為し、火性は上に向かって燃焼す。上卦は兌、兌は沢を為し水を為し、水火の性は本より相容れざれば、それによって乃ち変革の象有るなり。今、九三はすでに離明の極点に処して、体性は炎上し、まさに変革の時に当たれば、だから上面の三爻は必定にそれに跟从して其の事を促成して、彼らの順従は皆真誠より出づるなり。これ譬えば聖人は離明の道を憑りに去りて変革して革すべき所を革して、天下の暴虐を除掉して、それによって衆人に信服し跟从せらるるがごとし。
征凶貞厲者,言九三既能革變其民,天下之民既信而順,不可更有所征行,但守至正之道,則可以盡變革之義也;若復有所往,必罹其凶,而於正道言之,是有危厲者也。象曰革言三就又何之矣者,之,即往也,天下之民既已革而順從,當是時也,復何所往哉。
いわゆる「征凶、貞厲」は、九三はすでに百姓を変革して、天下の人も亦皆信服順従せれば、即ち応に再び別の挙動有るべからざるを言うなり。只だ極正の道を守住せば、即ち能く変革の意義を尽くし為すべし。たといなお別に往く所有らんと要せば、必定に凶険を招来せん。たとい守正の角度より講ずるも、亦是れ危険有るなり。《象伝》の「革言三就、又何之矣」、「之」は即ち前往。天下の百姓はすでに変革せられて順従せれば、此の時に於いて、還有又何処に往かんと欲するや。
九四:悔亡,有孚,改命吉。象曰:改命之吉,信志也。
九四の爻辞にいう。悔恨は消亡し、誠信有りて在りて、天命政令を改変すれば即ち吉祥なり。《象伝》にいう。命を改めて吉を得るは、それの心志は人に信従せらるるがゆえなり。
義曰:九四居非其正,本有悔者也,然以陽居陰,非居剛亢,而又在上卦之下,當恱順之體,下承於火,火性炎上,而九四能承其炎而變革前政之非,故得悔亡也。夫九四既非其正,然則水火之際,居變革之間,能承此命,以仁改暴,以治易亂,盡其至誠之心以改革其前非,是以獲吉也。象曰改命之吉信志也者,言九四在澤之初,居於水火之際,而居非其正,若能盡其至誠承此改革之命令,變其已往之非,信志而行,無疑忌之心,則獲其吉也可知矣。
胡瑗が解説します。九四は陽爻を以て陰位に居りて、位は正に当たらず、本応に悔有るべきなりと雖も、但しまさに陽を以て陰に居れば、剛強亢厲に至らず、また上卦の最下に在りて、兌卦の欣悦柔順の体に属し、下に向かって離火を「承」ぐ――下爻は上爻を托挙するを「承」と叫び・上爻は下爻の上に圧るを「乗」と叫ぶ――火性は上に向かって燃焼し、九四は能く此の股の勢頭を承接して前朝政事の過失を変革せば、だから悔恨は消亡す。九四はたとい位に当たらずと雖も、却ってまさに水火交接・変革進行の当口に処して、能く此の変革の命を承受して、仁政を用いて暴政を改掉し・治世を用いて乱世を取代して、自らの至誠の心を尽くして去りて従前の錯誤を改正せば、それによって吉祥を獲得す。《象伝》の「改命之吉、信志也」は、九四は沢体の初・水火交接の地に処して、位はたとい正ならざるも、只だ能く其の至誠を尽くして此の改革の命令を承受し、以往の過失を改掉して、心志を人に見信せられて後に行動し、猜疑顧忌を存せざれば、ならば吉祥を獲得するは便ち想知すべきなりと言うなり。
九五:大人虎變,未占有孚。象曰:大人虎變,其文炳也。
九五の爻辞にいう。大人の変革は猛虎の毛を換るるがごとく、紋采は焕然たり。占問するに及ばず、人々は自然に信服せん。《象伝》にいう。大人は虎のごとく変革するは、彼の文采は光明显赫なるがゆえなり。
義曰:大人者,即大有才徳之人也;虎者,攫搏之物而威稜可畏,又有文采顯明著於外者也。九五以陽居陽,處得其位,在上卦之中,履其至尊,為變革之主,又有剛明之才,以革去天下之暴亂,以鼎新天下之號令,新民視聽,威徳兼行,為天下之所信,逺近皆畏而革其非僻之心,能使朝廷之間君臣上下皆有肅雍文章光明之美以發於外,猶虎之有文采炳然著於外,又有威稜使皆威信之,是若非大徳大才之人,則曷致於此。
胡瑗が解説します。「大人」は即ち才徳の極めて大なるの人。虎は搏撃の猛獣、威勢は凛然として畏るべく、身上にまた鮮明の花紋有りて外に顕露す。九五は陽爻を以て陽位に居り、処する所は当を得、また上卦中位に在りて、至尊の位置上に踏み居りて、変革を主持するの人なり。彼は剛健明達の才有りて、以て天下の暴乱を革除し・天下の号令を鼎新し・百姓の耳目を更新して、威厳と恩徳とは一同に施行して、天下の人に信服せられ、遠近の人は皆心に敬畏を存して自らの邪僻の念頭を革掉す。彼は能く朝廷の上に於いて君臣尊卑をして皆顕れるに肅穆和洽・文采光明の美盛の気象を出さしめ・外に発露して、即ち虎の身上の花紋の炳然として見ゆるがごとく、また威稜有りて人をして畏れ且つ信せしむ。若し大德大才の人にあらざれば、どうして能く此の一歩に為し到らんや。
未占有孚者,言九五以大中之道威信於天下,以革去當時之弊亂,使民信而從之,不待占筮而自信矣。象曰大人虎變其文炳也者,言聖人革去天下之弊,使朝廷君臣上下皆有文采,又使逺者近者望而畏之,如虎之文炳然而盛也。
いわゆる「未占有孚」は、九五は中を守るの道を憑りに天下に於いて威信を樹立して、当時の弊政乱象を革除して、百姓をして信服して跟从せしめれば、卜筮して吉凶を問うに用いず、人心は自然に即ち帰信するを言うなり。《象伝》の「大人虎変、其文炳也」は、聖人は天下の積弊を革除して、朝廷上の君臣尊卑をして皆文采を顕出せしめ、また遠近の人をして望見すれば即ち心に敬畏を生ぜしめば、まさに虎の花紋の炳然として盛美なるがごとしと言うなり。
上六:君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。象曰:君子豹變,其文蔚也;小人革面,順以從君也。
上六の爻辞にいう。君子の変革は豹の新毛に換るがごとし、小人は則ち只だ面貌を改換するのみ。此の時に貿然として前往すれば凶険有り、安居して正を守れば乃ち吉祥なり。《象伝》にいう。君子は豹のごとく変革するは、其の文采は蔚然として観るべきなり。小人は面貌を改換するは、順服して君上に聴从するなり。
義曰:夫為革之道,必須以孚信固結於民,故九五之爻為革之先倡,以革變其天下之暴亂,有才有位,文章顯著而又可畏也。今上六體是陰爻,過於九五而革道已成,且在上卦之極,履非首倡,又承水火變革之終,是臣民之位也。既在臣民之位,則當盡其至正之道以輔從於九五,則得為革之義。使君子居之於此位,則能輔於五,亦能同為變革於天下,雖使文章光顯亦不及於五,不可謂之虎變,但謂豹變而已,言其變革之文蔚然,其文采威稜次於虎者也。
胡瑗が解説します。変革の道を推行するに、必ず誠信を用いて民心を牢牢に結住せねばならず、だから九五此の一爻は変革の首倡者にして、それを用いて天下の暴乱を革除す。それはすでに才幹有りてまた高位有りて、文采は顕著にして人をして敬畏せしむ。今、上六は本身は陰爻にして、位次は九五を越過して変革の道はすでに完成せり、また上卦の頂端に処して、並びに首倡の人にあらず、只だ水火の変革の收尾を承接する、臣民の位置に属す。すでに身は臣民の位に処せば、即ち応に其の極正の道を尽くして去りて九五を輔助順从して、これで乃ち変革の道理に合乎すべきなり。若し是れ君子の此の位置に居れば、即ち能く九五を輔佐して、同じく天下を変革するに参与す。只だ彼の文采光華は九五に比ぶ能わず、「虎変」と叫ぶ能わずして、只だ「豹変」と叫ぶべく、彼の変革の文采は蔚然として観るべきを言うなり、其の紋理と威勢は虎に次ぐのみなり。
小人革面者,以君子居之則能豹變,以小人居之則必包藏狠戾之心,但飾其外文,柔順其道以從於上,故曰小人革面。征凶居貞吉者,徵,行也。言上六在卦之極,過於九五,蓋在臣民之位,當輔從於君,不可更有所往;若以臣民而行,則必有猜疑之禍,是有凶之道也;苟能居是位而守其正,則得其吉。象曰君子豹變其文蔚也者,言君子居此位輔從於五,共為變革,雖有文采但不及於虎,止可如豹文之蔚然,亦著見於外也。順以從君者,言小人但變革其外貌,以順從於上而已。
いわゆる「小人革面」は、此の位置は君子に由りて占めらるれば、即ち能く豹のごとく新たなる文采を変出せんと言うなり。若し小人に由りて占めらるれば、彼は心裏に必ず凶狠乖戻を蔵して、只だ外表を修飾して一番を為して、柔順の様子を做出して在上者に順从すれば、だから「小人革面」と言うなり。いわゆる「征凶、居貞吉」、「征」は即ち前往して行動す。上六は全卦の頂端に処して、位次は九五を越過し、本は臣民の位に在りて、理当に君上を輔助順从して、応に再び行動する所有るべからず。若し臣民の身份を以て擅自に行動せば、必定に猜忌せらるるの禍患を招来す、これ即ち凶険の道なり。たとい此の位に安処して正道を守住せば、即ち能く吉を得べし。《象伝》の「君子豹変、其文蔚也」は、君子は此の位に居りて九五を輔佐順从して、一同に変革を推行して、たとい文采有るも虎に比ぶ能わざれば、只だ能く豹紋のごとく蔚然として、同じく外に顕露するを言うなり。「順以従君」に至っては、小人は不過外貌を改換して来たりて在上者に順从するのみを言うなり。
鼎 巽下離上
鼎:元吉,亨。
《鼎》卦の卦辞にいう。故を革め新を取りて尽善尽美と為れば、それによって元大の吉祥を獲得し、其の道は此に由りて亨通す。
義曰:按《序卦》云「革物莫若鼎」,故受之以《鼎》。鼎者,變生為熟、革故取新之謂也。言聖賢之人凡欲革天下之弊亂,必須改正朔,易服色,殊徽號,變禮樂,以新天下之視聽,故必法制齊明,得其盡善盡美,然後獲元大之吉,其道是以亨通也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》は「革物莫若鼎」――物性を改変するは鼎に若くなし――と講じ、だから《革》の後に《鼎》を接ぐ。「鼎」は生を熟に煮る、即ち旧物を革除し・新物を取用するの意なり。これは聖賢は凡そ天下の弊政禍乱を革除せんと要するに、必ず暦法歳首を改定し・車服顔色を更換し・徽号を別立し・礼楽を変更して、天下の人の視聴を焕然一新せしむべくを言うなり。それによって法度制度は必ず整斉厳明にして、尽善尽美を為し到りて、後に乃ち元大の吉を獲得して、其の道も亦此に由りて亨通すべきなり。
彖曰:鼎,象也。以木巽火,亨飪也。聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。
《彖伝》にいう。《鼎》卦は、鼎此の件の器物に取象す。木柴を火中に順送入すれば、これ即ち食物を烹煮す。聖人は牲物を烹煮して以て上帝を祭享し、また大規模に烹煮して以て聖賢を供養す。謙順を以て人を待てば、それによって耳は聡く目は明るし。柔順の六五は上進して尊位に居り、すでに中位を得て、また下に向かって剛健の九二と相応ずれば、だから大いに亨通す。
義曰:鼎者,鑄金所為而有法象者也。以木巽火亨飪者,此因二體以解鼎卦之象。下巽,巽為風;上離,離為火。以木以風而入於火,故有亨飪之象,此鼎之用也。聖人亨以享上帝者,此以下廣明鼎卦之義。言鼎之所以用者,由木入火而成也,故聖人亨之,可以享祀於上帝也。
胡瑗が解説します。鼎は金屬を用いて鋳成して・法定の形制を帯びるの器物なり。いわゆる「以木巽火、亨飪也」、これは上下の二体を用いて《鼎》卦の象を解釈す。下卦は巽、巽は風を為し・木を為す。上卦は離、離は火を為す。木材と風とは一同に火中に送入せば、だから烹煮の形象有るなり、これ即ち鼎の用途なり。いわゆる「聖人亨以享上帝」、此処より往下は推して広く《鼎》卦の意義を説明す。鼎の能く作用を起す所以は、木は火中に入りて食物を煮熟するに靠れば、だから聖人は祭品を烹煮して、以て上帝を祭祀するに用いるべきなり。
而大亨以養聖賢者,言聖人大亨以養天下之賢,使賢聖盡得其養。然此所以言大亨者,以天下之大,四海之廣,非一聖一賢之所能致,又非一耳一目之所能察,故聖人分其爵祿,大其優寵,以廣求天下之聖賢,使皆得己之養,為養之大莫大於此,故曰大亨。
いわゆる「而大亨以養聖賢」は、聖人は大規模に烹煮して天下の賢者を供養して、賢人聖者をして皆奉養を得せしむるを言うなり。此処の「大亨」と言う所以は、天下は此のように広大・四海は此のように遼闊にして、一聖一賢の成就する能く所にあらず、亦一耳一目の察尽する能く所にあらざればなり。だから聖人は爵位俸禄を分出し・優待寵遇を加厚して、以て広く天下の聖賢を求取して、彼らをして皆自らの供養を得せしむ。供養の大はこれより大なるなければ、だから「大亨」と叫ぶなり。
巽而耳目聰明者,言聖人既盡養天下之賢,又當以巽順之道下接之,是以天下之賢者皆樂其所養,盡其謀慮,竭其忠信,以輔於君,以共成其政,故得其天下之耳為己耳,天下之目為己目,以成己之聰明。柔進而上行得中而應乎剛是以元亨者,此指六五而言也。夫五以柔順之道進而居至尊之位,又在上體之中,是所為之事得其中,而又下應九二剛明之臣,是聖賢相得,君臣相會,故能鼎新制作,革去弊亂,天下之事無不得其大通,故曰是以元亨。
いわゆる「巽而耳目聡明」は、聖人はすでに力を尽くして天下の賢者を供養せり、還応に謙遜柔順の道を用いて身を屈して彼らを接納すべくを言うなり。於是乎天下の賢者は皆受くる所の奉養に安んじ、其の謀略思慮を尽くし・其の忠誠信実を竭して、来たりて君主を輔佐して、共同に政事を成就す。此のようであれば君主は便ち能く天下の人の耳朵を以て自らの耳朵と作為し・天下の人の眼睛を以て自らの眼睛と作為して、従而に自らの聡明を成就す。いわゆる「柔進而上行、得中而応乎剛、是以元亨」、これは六五の一爻を指して言うなり。六五は柔順の道を以て上進して至尊の位に居り、また上卦の中間に処せば、だから行事は皆中道に合乎す。再び下に向かって剛健明達の九二の臣と相応ずれば、これ即ち聖君と賢臣とは相投・君臣は相遇うなり。それによって能く法度を鼎新し・弊乱を革去して、天下の事は大いに通達せざるなければ、だから「是以元亨」と言うなり。
象曰:木上有火,鼎。君子以正位凝命。
《象伝》にいう。木上に火を燃す、これ即ち《鼎》卦の卦象なり。君子は此の象に取法し、自らの名位を端正し、自らの政令を凝聚成就す。
義曰:凝,成也。言君子之人觀此木火亨飪之象,凡欲鼎新法令、革民弊亂、以新天下耳目者,必先正其至尊之位,定其尊卑之分,以凝成其命令,而新其法制。
胡瑗が解説します。「凝」は凝聚成就なり。君子は此の木は燃え火は食を烹るの卦象を観察して、凡そ法令を鼎新し・百姓の弊乱を革除し・天下の人をして耳目を一新せしめんと欲するは、必ず先ず自らの至尊の名位を端正し、尊卑上下の名分を定下して、後に乃ち能く政令を凝聚落実し・法度制度を更新すべし――名位は正ならざれば、号令は便ち凝定するに従るなきなり。
初六:鼎顛趾,利出否,得妾以其子,無咎。象曰:鼎顛趾,未悖也;利出否,以從貴也。
初六の爻辞にいう。鼎足は傾倒翻転し、裏面の敗壞の物を倒出するに利有り。妾を娶りて、彼女は児子を生下せりに因りて、だから過咎なし。《象伝》にいう。鼎足は傾倒するも、並びに常理に違逆せず。穢物を倒出するに利有るは、尊貴に跟从せんがためなり。
義曰:夫陽以生物為實,陰以剝物為虛,鼎之為器,上虛而下實者也。初六以陰柔之質而處一卦之下,是鼎器反上實而下虛也。既上實而下虛,遂至鼎顛趾也。利出否者,夫否者,否惡不善之物也,鼎雖顛趾,然利於出否去穢以納新也。
胡瑗が解説します。陽は能く万物を生養すれば、だから実を為す。陰は万物を剥落すれば、だから虚を為す。鼎此の種の器皿は、本応に上面は空虚にして下面は充実すべきなり。初六は陰柔の質にして却って全卦の最下面に処すれば、鼎器の返って上は実にして下は虚に等しき。上実下虚なれば、鼎は自然に即ち鼎足を翻倒せん。いわゆる「利出否」、「否」は敗壞不善の物。鼎はたとい鼎足を翻倒せりと雖も、却って正に此を借りて敗壞汚穢の物を倒出して、新たなるを装進すべく好し。
得妾以其子無咎者,夫妾者,至賤者也,以至賤而為尊者之配,升於貴位而為正室,所以反得無咎者,以其有子故也。有子何也?以其子能荷先祖之業,承宗廟之重,故得無咎,則《公羊》所謂「子以母貴,母以子貴」者,此其義也。其意若君子承弊亂之後,思欲鼎新天下之事,其所為雖有小害,然利於覆去否穢,建立新法,以新天下之耳目,終立天下之大功,所以得其無咎。象曰鼎顛趾未悖者,夫鼎雖顛覆,然能覆去否穢以納其新,是其道未至於悖逆也。利出否以從貴者,夫既以顛出否穢以納其新,又以妾為室而無咎,以子之貴故也。
いわゆる「得妾以其子、无咎」。妾は身份の最も卑賤なるにして、最も卑賤の身份を以て尊者の配偶と為りて、貴位に升到して正室と為れるに、返って過咎なき所以は、彼女が児子を生みしがゆえなり。児子有りてまたどうかせんや。此の児子は能く先祖の家業を担起し・宗廟祭祀の重任を承当する能くすれば、だから過咎なし。《公羊伝》の言う所の「子以母貴、母以子貴」は、講ずる所はまさに此の道理なり。其の用意は、君子は弊政乱局を接手して後、天下の事務を鼎新せんと欲するに、為す所はたとい一点の損害を帯来するも、却って汚穢を傾去し・新たなる法度を建立して、天下の人をして耳目を一新せしめて、最終に天下の大功を成就するに利有れば、だから能く過咎なきなり。《象伝》の「鼎顛趾、未悖也」は、鼎はたとい翻倒せりと雖も、却能く此を借りて汚穢を傾去して新物を装入せば、此の路は並びに違逆の地步に走到るなきを言うなり。「利出否、以従貴也」と言うは、すでに汚穢を傾倒排出して以て新を納め、また妾を正室と立てて過を致さざるは、皆児子の尊貴を憑るがゆえなり。
九二:鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。象曰:鼎有實,慎所之也;我仇有疾,終無尤也。
九二の爻辞にいう。鼎中は実物を盛れり、我が匹配する者は疾患有りて、能く我に靠近せず、吉祥なり。《象伝》にいう。鼎中はすでに実物有れば、自らの去向を謹慎すべきなり。我が匹配する者は疾患有れば、終に過失有ることなからん。
義曰:九二以剛陽之質處鼎之中,是鼎有實物之象也。夫鼎之實必有齊量,不可以盈溢,若遇其盈溢,則有覆餗之凶。君子之人雖有才徳,亦有分量,若職事過其才分,則有隳官之謗矣。仇即謂五也,疾謂三與四也,言二雖應於五,然以三四間隔其路,使其君不得以他職事即加於己,故己既得盡其才以事於上而無隳官之咎,所以獲吉。蓋有實之鼎不可復有所增,才任已極,不可復有所加故也。
胡瑗が解説します。九二は剛健陽質を以て鼎腹の中に処し、まさに鼎中に実物を盛れるの象なり。鼎の裏の装う所は必ず定量有りて、満溢すべからず。一旦満溢せば、即ち鼎中の食物を傾覆するの凶険有り。君子はたとい才幹徳行有るも、才分も亦自ら限度有りて、若し担負するの職事は其の才分に超過せば、即ち官守を敗壞するの譏議を招来せん。「仇」は六五を指し、「疾」は三・四の两爻を指す。九二はたとい六五と相応ずるも、却って三・四の两爻に路を隔断せられて、君主をして再び別の職事を自らの身上に加える能わざらしむ。それによって自らは其の長ずる所を尽くして去りて在上者に事奉するを得、官守を敗壞するの過錯を落下せざれば、だから吉祥を獲得す。これはすでに装満せるの鼎は再び物を添うる能わず、才幹と任う所とはすでに極処に到りて、再び加うるべからざるがゆえなり。
象曰鼎有實慎所之也者,言人才有大小,若才不甚大而加其煩任重職,則必有凶敗之至,故宜慎其所之,不可妄其所行也。我仇有疾終無尤也者,言我之仇雖為二陽所間而不能復加事於己,則我終免曠官之尤悔矣。
《象伝》の「鼎有実、慎所之也」は、人の才幹は大有り小有りて、若し才幹は併せて甚だ大ならざるに繁重の任務と要職を給えば、必定に凶険敗壞を招致せば、だから応に自らの往かんとする所の地方を謹慎して、妄りに行動すべからざるを言うなり。「我仇有疾、終无尤也」と言うは、我が匹配する者はたとい三・四の两箇の陽爻に隔断せらるるも、再び事情を我が身上に加うる能わざれば、ならば我は終に尸位素餐の過失と悔恨を免去するを言うなり。
九三:鼎耳革,其行塞,雉膏不食,方雨虧悔,終吉。象曰:鼎耳革,失其義也。
九三の爻辞にいう。鼎耳は様を変えたり、鼎を抬くの路は堵住せられて、肥美の野鶏肉は喫うに及ばず。陰陽は調和して雨を降らすに到れば、悔恨は便ち減損して、最終に吉祥を獲得せん。《象伝》にいう。鼎耳は様を変えたるは、鼎耳の本応に虚空なるべきの意義を失せり。
義曰:九三以陽居陽,自實也,居下卦之上,有耳之象也。夫鼎之耳虛之,所以容鉉也,今革易其常道以實其耳,不能受鉉者也。鉉而不受,鼎斯不舉矣,是其行之所以窒塞也。夫鼎而不舉,行而窒塞,雖有雉膏甘美之食,焉得而食哉!若君子之人以剛亢自處,不能容受天下之賢,故其行所以窒塞也。夫既不能容受天下之賢,雖天下有善謨善慮,亦不可得而用矣。
胡瑗が解説します。九三は陽爻を以て陽位に居り、本身は充実にして、下卦の最上に処して、鼎耳の形象有り。鼎耳の中空に要する所以は、鼎を抬くの横杠を容納せんがためなり。今、九三は鼎耳の応有の常道を改変して耳孔を塞実せば、即ち横杠を接納する法なし。横杠は挿し入る能わざれば、鼎は便ち抬き起る能わず、これ即ち其の前行の受阻するの縁故なり。鼎は抬き動かず・路は堵塞せられれば、縦然に野鶏肉のごときの甘美の食物有るも、またどうして喫い到る能くせんや。これ譬えば君子は剛強高亢を以て自居して、能く天下の賢才を容納接受せず、だから行事は処処に窒礙す。すでに能く天下の賢才を容納せざれば、ならばたとい天下に好きの謀画・好きの思慮有るも、彼は亦取りて用うるに従るなきなり。
方雨虧悔終吉者,夫雨者,陰陽相和而然也,若能改革前非,去其剛亢,上以交於君,下以來於賢,則得虧損其悔而終獲其吉矣。象曰鼎耳革失其義者,言鼎必虛耳以待鉉而舉之,今以陽居陽而自實,是失其為鼎耳之義也。
いわゆる「方雨虧悔、終吉」。雨は陰陽の相調和して降下せらるるなり。九三は若し能く従前の過失を改掉し・自らの剛強高亢を去掉して、上に向かって君主と交接し・下に向かって賢才を招来せば、即ち能く悔恨を減損して最終に吉祥を獲得せん。《象伝》の「鼎耳革、失其義也」は、鼎は必ず耳孔をして中空せしめて、乃ち能く横杠をして挿入してそれを抬き起せしむるを待てばなりを言うなり。今、九三は陽爻を以て陽位に居りて自身は充実せば、これ即ち鼎耳と為るの意義を失せるなり。
九四:鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。象曰:覆公餗,信如何也。
九四の爻辞にいう。鼎は足を折断して、王公の美食を傾覆して、鼎身は湯汁に沾汚せられ、凶険なり。《象伝》にいう。王公の美食を傾覆したるは、実在は奈何する能わざるなり。
義曰:九四居上卦之下,鼎足之象也。餗者,鼎之美實;渥者,沾濡之貌。夫鼎足所以上承於鼎,以受其美實,今九四以陽居陰,居非其位,不正者也。以不正之質,是不能上承於鼎,斷折其足,傾覆公家之美實,不惟傾覆美實,而又有沾濡其形體之凶。若人臣智小徳薄而切進於君,當人主大任,荷國家重責,則必曠敗其職而傾覆公家之事,不獨傾覆公家之事,而又有刑戮及身受汙辱之禍,凶之道也。象曰覆公餗信如何者,言禍及身,信無可奈何也。故先聖特繫此爻曰:徳薄而位尊,智小而謀大,力小而任重,鮮不及矣。言不勝其任也。
胡瑗が解説します。九四は上卦の最下面に処して、鼎足の形象なり。「餗」は鼎中の美味、「渥」は湯汁に沾湿せらるるのさまなり。鼎足の作用は上に向かって鼎身を托住して、裏面の美食を承受すべく好し。今、九四は陽爻を以て陰位に居り、処する所は其の位に当たらず、これは不正なり。此の不正の質を憑りて、それは上面の鼎を托住する能わざれば、於是乎鼎足を折断して、公家の美食を傾覆せり。只だ美食を傾覆するのみならず、還落得鼎身の湯汁に沾汚せらるるの凶険に至る。これ譬えば人臣は智慧は浅小・徳行は浅薄にして却って急切に君に求進して、君主の大任を担当し・国家の重責を背負せば、必定に職守を曠廃して公家の事を傾覆せん。只だ公家の事を傾覆するのみならず、還会刑戮を身上に加えられ・汚辱を蒙受するの禍患を招来す、これは凶険の道なり。《象伝》の「覆公餗、信如何也」は、災禍は自らの身上に落ちて、実在は奈何する能わざるを言うなり。だから先聖は特意に此の一爻の下に辞を系して言う。徳行は浅薄にして却って身は尊位に居り、智慧は浅小にして却って大事を謀画し、力量は微小にして却って重任を担負すれば、禍に遭わざるは稀なりと。これはそれは自らの職任を担当し起る能わざるを言うなり。
六五:鼎黃耳金鉉,利貞。象曰:鼎黃耳,中以為實也。
六五の爻辞にいう。鼎は黄色の耳・金屬の横杠を配し、正を守るに利有り。《象伝》にいう。鼎は黄耳有るは、六五は中を守るの徳を以て自らを充実するがゆえなり。
義曰:黃者,中之象;金者,至剛之物;鉉,所以貫鼎耳而舉之,謂九二也。言六五以陰柔之質居大中之位,能謙虛以下接於九二之剛,猶鼎虛其耳以待其鉉而舉,故今得金鉉貫其中而舉之,以成鼎之道也。以人事言之,則是君虛謙而不自髙亢,下接於天下賢明之臣,使下之賢相率而歸以輔於己。
胡瑗が解説します。黄は中に居るの色、中を守るの象徴を為す。金は最も剛硬の物質。「鉉」は鼎耳を穿りて鼎を抬き起すの横杠、此処では九二を指す。六五は陰柔の質を以て上卦中位に居り、能く謙虚に身を屈して九二の剛健を接納して、即ち鼎は耳孔を虚空せしめて、横杠の来たりてそれを抬くを待つがごとし。だから今、能く金鉉の其の中を貫穿して鼎を挙起するを得て、鼎の功用を成就す。人事に就きて言えば、これ即ち君主は虚心謙下にして・自ら高亢に居らず、下に向かって天下の賢明なるの臣子を接納して、下面の賢者をして相継いで帰附して来たりて自らを輔佐せしむるなり。
利貞者,以六五雖有大中之道以下接於臣,然以陰居陽,履非其正,而九二以陽居陰,亦非其正也。以不正之道相親比,則不能無悔,故聖人於此深戒之,言利在其至正之道,然後可以獲其吉也。象曰鼎黃耳中以為實者,言五以陰柔之質本非其實,而能虛中以納物,行大中之道以為其實也。
いわゆる「利貞」。六五はたとい中を守るの道有りて去りて下面の臣子を接納するも、しかるにそれは陰爻を以て陽位に居りて、処する所は並びに正に当たらず。九二は陽爻を以て陰位に居り、同じく正に当たらず。两箇の皆正に当たらざるの爻は彼此に親比すれば、即ち悔有るを免れ難し、だから聖人は此処に於いて鄭重に告誡して、好処は極正の道を堅守するに在り、此のようで乃ち能く吉祥を獲得すべきなりと説く。《象伝》の「鼎黄耳、中以為実也」は、六五は陰柔の質を以て本来は充実と算すべからざるも、但しそれは能く虚心中空にして外物を容納して、中を守るの道を奉行して、即ち此の箇を以て自らの充実と為すを言うなり。
上九:鼎玉鉉,大吉,無不利。象曰:玉鉉在上,剛柔節也。
上九の爻辞にいう。鼎は玉製の横杠を配し、大いに吉祥、不利なきことなし。《象伝》にいう。玉鉉は上位に居るは、「剛柔」は相済して各々其の節度を得たるなり。
義曰:玉者,有堅剛之質而其色溫潤。上九以陽居一卦之上,處鼎道之成,眾爻皆履剛,而此一爻獨履六五之柔,是剛柔相濟而有玉鉉舉鼎之象。以人事言之,是為人臣者有剛柔之徳,致君於堯舜三代之治,成太平之化,故能獲其大吉而無所不利也。
胡瑗が解説します。玉の質地は堅硬剛強にして、色沢は却って温和潤沢なり。上九は陽爻を以て全卦の最上に居り、まさに鼎道の成就するの時に当たり。衆爻の踏む所は皆剛爻にして、唯だ此の一爻は六五の柔爻の上に踏み居れば、それによって是れ剛と柔とが互相に調済して、玉鉉の鼎を挙ぐるの形象有り――「剛」は陽爻の剛健を指し・「柔」は陰爻の柔順を指す。人事に就きて言えば、これは臣子を為るは兼ねて剛柔の两種の徳行有りて、君主を堯舜三代のごときの治世に輔佐して成して、太平の教化を成就せば、だから能く大吉を得て往く所不利なきなり。
象曰玉鉉在上剛柔節者,上九以剛陽之爻履六五柔順之質,剛而不至於暴,柔而不至於懦,故所以致君於無為,皆剛柔得其中節者也。然六五言金鉉而上九言玉鉉者,夫玉之性剛柔全也,上九體陽而履柔,剛柔全也,故曰玉鉉。六五以陰而乘陽,差失其正,其徳未備,故曰金鉉。
《象伝》の「玉鉉在上、剛柔節也」は、上九は剛健の陽爻を以て六五の柔順の質の上面に踏み居り、剛強にして暴烈に流れず・柔順にして怯懦に流れず、だから能く君主を輔佐して無為而治に達するを言うなり、これは皆剛柔が各々其の恰当の節度を得たるの縁故なり。六五は「金鉉」と説きて上九は「玉鉉」と説くに至っては、玉の性質は兼ねて剛柔を備えればなり。上九は本身は陽爻にして却って柔爻の上に踏み居りて、剛柔は两全せば、だから「玉鉉」と叫ぶ。六五は陰爻にして却って陽爻の上に「乗」りて、稍稍其の正を失して、徳行は還有完備ならざれば、だから只だ「金鉉」と叫ぶなり。
震 震下震上
震:亨。震來虩虩,笑言啞啞。震驚百里,不喪匕鬯。
《震》卦の卦辞にいう。亨通す。雷震の到来するの時は人人は驚懼戦慄し、事後は却って能く談笑自若す。雷声は百里の逺を驚動すれども、祭を主るの人は却って祭品を舀うの匕・香酒を盛るの鬯をも曽て失手して掉落せず。
義曰:按《序卦》云「主器者莫若長子」,故受之以《震》。震,動也。蓋言鼎者,國家之重器;震者,長子之象。按《說卦》又云「震一索而得男」,故謂之長男,此震者坤一索之卦也,故有長男之象。言正嫡之子可繼先祖之業,奉宗廟之祭,能主國家之重器也,此《震》所以次於《鼎》也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》は「主器者莫若長子」――宗廟の重器を掌管するの人は嫡長子より合適なるは莫し――と講じ、だから《鼎》の後に《震》を接ぐ。「震」は即ち動なり。鼎は国家の重器にして、震は則ち長子の象徴なり。《説卦伝》はまた「震一索而得男」と言う、だから震を長男と称す。震は坤卦の初次に求索して男を得たるの卦、故に長男の象有り。これは嫡長子は能く先祖の基業を継承し・宗廟の祭祀を主持し・国家の重器を執掌するを言い、これ即ち《震》の《鼎》の後面に排せらるるの縁故なり。
亨者,震為雷,雷者盛陽之氣,居於地下而出於地上,故動則有威。既動而有威,則勾者出,萌者達,蟄者伸,枯者榮,天下萬物昆蟲草木之類無不震動而亨通。以人事言之,則是聖賢君子一動,而天下之民無遠近小大,無鰥寡孤獨,皆被其徳澤而各遂其所。若君子之人一動而不能法震雷,使萬物得其亨通,則不能成動之道,是動之妄者為也。故聖人特於此言震亨者,所以為動者之法也。
いわゆる「亨」。震は雷を象徴し、雷は旺盛の陽気、地下に伏して地上に発すれば、だから一動するは即ち威勢を帯ぶ。すでに動きて威有れば、蜷曲の芽は便ち土より鑽出し・萌発の苗は便ち舒展して開き・蟄伏の虫は便ち蘇醒伸展し・枯槁の木は便ち重新に繁栄して、天下の万物は以て昆虫草木に至るまで震動せられて通達せざるなきなり。人事に就きて言えば、即ち聖賢君子は一たび挙動有れば、天下の百姓は遠近大小を論わず・鳏夫・寡婦・孤児ならんと子なきの老人ならんとを論わず、皆彼の徳沢を蒙受して各自に心願を遂ぐるなり。たとい君子は一たび挙動有るも能く震雷に效法して・万物をして各々其の通を得せしめざれば、即ち能く「動」の正道を成就せず、あれは妄動なり。だから聖人は特意に此処に於いて「震亨」と説くは、まさに一切の行動するの人のために法則を立下せんと欲するなり。
震來虩虩者,虩者,蠅虎之蟲也,藏牕壁中蠕然而動。言威震之來,則人為之戰兢懼不能自安,如蠅虎蠕然而動。然則重言虩虩者,恐懼之至也。笑言啞啞者,啞啞則和樂之貌。言始以威剛,旣能戰慄不敢為妄,故動有法則而不陷於刑戮,雖有威剛之嚴而不加於己,故始雖有恐懼之憂,終有笑言之樂。
いわゆる「震来虩虩」。「虩」は蠅虎此の種の小虫、窗縫墻壁の裏に蔵れて蠕蠕として動す。雷威の到来するの時は、人は便ち戦慄惶恐して・自ら安んずる法なしにして、即ち蠅虎のごとく蠕動して停まらざるなり。重畳して「虩虩」の二字を用うる所以は、恐懼の極点に到れるを形容するなり。いわゆる「笑言唖唖」。「唖唖」は和悦歓楽のさまなり。起初は威厳剛猛に因りて戦慄して、敢えて胡作非為せざれば、だから挙動は皆法度有りて、刑罰に陷入するに至らず。威厳剛猛はたとい在るも、却って自らの身上に加うる能わざらん。それによって起初はたとい恐懼の憂有るも、最終に却って談笑の楽有るなり。
震驚百里不喪匕鬯者,百里即雷聲之所及也。匕者,宗廟之器,以棘木為之,似畢而無兩岐,所以舉鼎之實而升於爼也。鬯者,以鬱金草和酒而有芬芳調鬯之氣。言震有長子之象,大而繼天子以臨天下,小而繼諸侯以臨一國,是必有威徳以及遠,使民心知有所歸,則威震之道全,而可以主宗廟之祭而不喪匕鬯也。
いわゆる「震驚百里、不喪匕鬯」。百里は即ち雷声の伝わる能く所の範囲なり。「匕」は宗廟の裏の礼器、酸棗木を用いて做成して、形状は畢器に象るも両箇の岔頭なしにして、以て鼎中の祭肉を挑起して俎上に放るに用う。「鬯」は鬱金草を用いて調和せるの酒、芬芳調暢の香気を発散す。震はすでに長子の象徴有れば、大は則ち天子を継いで天下に君臨し・小は則ち諸侯を継いで一国を治理す。此のようの人は必ず威厳徳行有りて四方に遠播して、民心をして帰向する所有るを知らしめて、威震の道は乃ち完備と算し、乃ち能く宗廟の祭祀を主持して匕鬯を失手して掉落するに至らざるべきなり。
彖曰:震,亨。震來虩虩,恐致福也。笑言啞啞,後有則也。震驚百里,驚遠而懼邇也。出可以守宗廟社稷,以為祭主也。
《彖伝》にいう。《震》卦は亨通す。「震来虩虩」は、恐懼を知りて乃ち能く福慶を招来するがゆえなり。「笑言唖唖」は、此の後の行事は皆法度有るがゆえなり。「震驚百里」は、遠処の人は驚を受け・近処の人は戒懼するを言うなり。此のようの長子は出づれば、即ち能く宗廟社稷を守護して、祭祀の主人と為すべし。
義曰:震亨者,言震雷不動則萬物不通,聖人不動則天下不亨。恐致福者,言震雷之來能戰慄恐懼以自修省,則不陷於禍害而終致福慶之事。後有則者,言既恐懼而致其福,則是不為非妄之行,而動有所法則,致有笑言啞啞之樂也。
胡瑗が解説します。いわゆる「震亨」は、震雷は発動せざれば、万物は能く通達せず・聖人は挙動する所有らざれば、天下は能く亨通せざるを言うなり。いわゆる「恐致福」は、雷威の到来するの時に能く戦慄恐懼して・此を借りて自ら修省せば、即ち禍害に陷入せず、最終に福慶の事を招来するを言うなり。いわゆる「後有則」は、すでに恐懼に因りて福慶を招来せば、便ち再び胡乱に妄為せず、挙動は皆法度の循べき有りて、それによって談笑歓楽の局面有るに至るを言うなり。
震驚百里驚遠而懼邇也出可以守宗廟社稷以為祭主者,言長子既有威徳以及於人,則遠者無不驚恐,近者無不戒懼,是以民心莫不趨向而樂從之,故出可以繼祖考之業,奉宗廟社稷之祭而為之主,無喪失其匕鬯者矣。
いわゆる「震驚百里、驚逺而懼邇也、出可以守宗廟社稷、以為祭主也」は、長子はすでに威厳徳行有りて人に施及せば、遠処の人は驚動せざるなく・近処の人は戒懼せざるなければ、それによって民心は彼に向かい・意に樂しみて彼に跟从せざるなきなり。だから彼は一たび出でずれば即ち能く祖父輩の基業を継承して、宗廟社稷の祭祀を主持して主祭の人と為りて、其の匕鬯を失掉せざるなり。
象曰:洊雷,震。君子以恐懼修省。
《象伝》にいう。雷声は接続して断えず、これ即ち《震》卦の卦象なり。君子は此の象に取法し、心に恐懼を存して自身を修養し・言行を反省す。
義曰:雷者,天之威也;洊者,因仍之謂也。以上體是雷,下體亦雷,則是天威重仍而至也,則萬物莫不震憡而獲其亨。君子觀此震雷之象,以驚恐戒懼修飭其身,省察其行,以全身遠害,則身不陷於過惡,刑戮所不及也。
胡瑗が解説します。雷は上天の威厳、「洊」は接続して相因るの意なり。上卦は雷・下卦も亦雷なれば、見るべし天威は一重に接いて一重に降下して、万物は震動驚懼を受けて此に由りて通達を獲得せざるなきなり。君子は此の震雷の象を観察して、驚恐戒懼の心を以て自身を整飭し・言行を省察して、以て己身を保全し・禍害を遠くするを求むるなり。此のようであれば身は即ち過失罪悪に陷入せず、刑罰殺戮も亦彼の身上に加うる能わざらん。
初九:震來虩虩,後笑言啞啞,吉。象曰:震來虩虩,恐致福也;笑言啞啞,後有則也。
初九の爻辞にいう。雷震の到来するの時は驚懼戦慄し、此の後は能く談笑自如す、吉祥なり。《象伝》にいう。雷震が到来して驚懼するは、恐懼は能く福慶を招来するがゆえなり。此の後は談笑自如するは、行事はすでに法度有るがゆえなり。
義曰:來者,自外之辭。夫剛威之行,所以驚懼奸偽,懲戒邪惡。初九有剛明之德而居震動之始,是不敢為非而內無所慊,故剛威自外而來,本非己所招致。然己不能無恐懼之心,既能虩虩然恐懼,則其身益修而其行益明,不敢為妄,則禍患必不能及於己,而終獲笑言之吉矣。
胡瑗が解説します。「来」の字は外面より来たるを表示す。剛猛威厳の施行は、以て奸偽を震攝し・邪悪を懲戒するに用うるなり。初九は剛健明達の徳行有りて震動の開端に処し、本身は敢えて悪事を為さず・心裏も亦亏欠なければ、だから剛威は外面より降臨するは、元来自らの招来するにあらざるなり。しかるに彼は仍として畏懼の心なき能わず。すでに能く戦戦兢兢として恐懼せば、ならば身を修むるは更に厳謹・行事は更に清明にして、敢えて妄為せざれば、禍患は必定に自らに波及する能わず、最終に談笑自如の吉祥を獲得す。
六二:震來厲,億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。象曰:震來厲,乘剛也。
六二の爻辞にいう。雷震は襲来して危険有りて、巨額の財貨を損失し、九重の高き山陵の上に攀登せり。追尋するに及ばず、七天の内に自然に復得せん。《象伝》にいう。雷震は襲来して危険有るは、六二は剛爻の上に凌駕するがゆえなり。
義曰:來者,亦自外之辭。六二以陰柔之質居下卦之中,是履得其正,行得其中,既有中正柔順之德,是不為非妄也,故雖剛威之來,亦非己所招致,故曰震來也。然而厲者,蓋初九為震之主,而已以陰柔之質下乘陵之,故其身必有危厲也。十萬曰億,貝者,寳之謂也,言當威震之時而乘震動之主,則其身危厲而所喪失者多,故曰億喪貝也。
胡瑗が解説します。「来」の字は同じく外面より来たるを表示す。六二は陰柔の質を以て下卦の中位に居り、処する所は正を得・行う所は中を守りて、すでに中正柔順の徳有れば、即ち胡乱に妄為せざらん。だから剛威はたとい降臨するも、亦非自らの招来するにあらざれば、それによって「震来」と説く。しかるに仍として危厲有るは、初九は全卦の下に在るの陽爻・震動の主爻にして、而も六二は陰柔の質を以て上面より其の頭上に凌駕するがゆえなり。「億」は十万此の数目、「貝」は上古に貨幣と作為せるの宝物、此処では泛しく財貨を指す。威震の時に当たりて却って震動の主の上面に乗れば、自身は便ち危険に処して、喪失する所の財貨も亦極めて多ければ、だから「億喪貝」と言うなり。
躋于九陵者,躋,升也;陵,險阻之地也;九陵言至髙也。不惟多有所喪失,而又超履髙險,升於九陵之上。然則雖有喪貝躋陵之事,然以本有中正柔順之德,不須馳逐追取,七日之間自然得之,言始雖有失而終有所得也。
いわゆる「躋于九陵」。「躋」は登る、「陵」は険阻の高地、「九陵」は高き極点に到れるを言うなり。六二は只だ多くを損失するのみならず、還要険阻高処を越過して・九重の山陵の上に登上せねばならず。たとい財貨を喪失し・高陵に攀登するこれらの遭遇有るも、但しそれは本より中正柔順の徳有れば、奔走追尋するに用いず、七天の内に自然に失して復得す――これは起初はたとい失う所有るも、最終に仍として得る所有るを言うなり。
六三:震蘇蘇,震行無眚。象曰:震蘇蘇,位不當也。
六三の爻辞にいう。雷震の下に驚懼不安なれども、但し震動の中に前行すれば災禍有ることなからん。《象伝》にいう。雷震の下に驚懼不安なるは、其の処する所の爻位は恰当ならざるがゆえなり。
義曰:蘇蘇者,震恐之貌。凡剛威之行,所以警其邪偽而戒其奸惡,故初九有剛明之徳,六二有中正之道,雖則威震之來非已所招,故曰震來。今此六三以陰居陽,履非其正而為髙亢者也,既履非正而又髙亢,則是邪惡之人也,其威震之來乃已所招,故不曰來。夫以不正之行當威震之時,故蘇蘇然恐懼之也。行無眚者,言六三雖以不中不正之行,而下巽於六二之柔,上奉於九四之剛,於理為順,故雖震威之行可以免其禍患,而災眚不及於己矣。
胡瑗が解説します。「蘇蘇」は震を受けて恐懼するのさまなり。剛威の施行は、本は以て邪僻虚偽を警醒し・奸険凶悪を懲戒するに用うるなり。初九は剛健明達の徳有り・六二は中正の道有りて、威震はたとい降臨するも、皆彼ら自らの招来するにあらず、だから爻辞は「震来」と説く。今、六三は陰爻を以て陽位に居りて、処する所は正に当たらず而又高亢自大す。すでに正に当たらず而又高亢なれば、則ちそれは邪悪の人にして、威震の来るはまさに彼自らの招致するなり、だから爻辞は「来」と説かず。不正の行為を以て威震の時に碰上れば、それによって乃ち驚懼不安なり。いわゆる「行无眚」は、六三はたとい行事はすでに中に居らず亦正に当たらずと雖も、但しそれは下に向かって柔順に六二の柔に随従し・上に向かってまた九四の剛に奉承して、情理の上に於いては順と算すれば、だからたとい震威の中に行動するも、亦能く禍患を免れ・災殃は自らに波及する能わざらんを言うなり。
九四:震遂泥。象曰:震遂泥,未光也。
九四の爻辞にいう。雷震は此処に到れば便ち泥淖に陥入して通達する能わず。《象伝》にいう。雷震は泥淖に陥るは、其の道は還有光大ならざるを言うなり。
義曰:泥者,泥滯不通之辭也。居人上者必當有剛威之徳,又有至正之道以安於下,則下之人相率而從之。今九四以剛陽之質為眾陰之主,居非其位,履失其正,雖有剛威,不能亨通於群下,以是而言,於己道未甚光大也。
胡瑗が解説します。「泥」は滞陥して通ぜざるの説法なり。人の上に居るは、必ず剛健威厳の徳有りて、また極正の道有りて来たりて下面の人を安定せしめて、下面の人は乃ち相継いで彼に跟从せん。今、九四は剛陽の質を以て众多の陰爻の主宰と為れるに、居る所は其の位に非ず・履む所は其の正を失す。たとい剛威有るも、却って能く众多の下属の中に於いて阻なく通行する能わず。このように照らして言えば、それは自らの道は還有十分の光大と談ずるに及ばざるなり。
六五:震往來厲,億無喪,有事。象曰:震往來厲,危行也;其事在中,大無喪也。
六五の爻辞にいう。雷震の中に、来去は皆危険有り。但し巨大の損失有ることなからず、還能く作為する所有らん。《象伝》にいう。来去は皆危険有るは、危難の中に行事するなり。其の弁ずる所の事は中道に合乎せば、だから大なる損失なし。
義曰:六五以陰柔之質為一卦之主,進則上無所應,退則下乗九四剛威之臣,往來之間皆有危厲。十萬曰億,言六二處下卦之中,亦乗於初九之剛,故居不得安而大有所喪,是以稱億喪貝。今六五為一卦之主,雖下乗九四之剛,然履得大中之位,行得大中之道,雖往來之間時有危厲,亦不能大有所喪也。
胡瑗が解説します。六五は陰柔の質を以て全卦の主爻と為りて、前に向かって進めば則ち上面に相応ずるの爻なく・後に向かって退けば則ち下面に九四此の位の剛威の臣を「乗」じて、来去の間は皆危険有り。「億」は十万なり。六二は下卦の中位に処して、同じく初九の剛爻の上に乗れば、故に居処は安んぜずして喪う所は甚だ多ければ、爻辞は乃ち「億喪貝」と説く。今、六五は身は一卦の主を為りて、たとい下に向かって九四の剛を乗ずるも、却って上卦の中位に踏み居りて・行うは中を守るの道なれば、だから来去の間はたとい時に危険有るも、亦大なる損失有るに至らざるなり。
有事者,夫當威震之世,下有剛權不正之臣,若専無為而治,則不足拯天下之難,救天下之弊,固當有為獨任以權天下可也。象曰震往來厲危行也者,言六五居至尊而乗剛,故往來之間皆危厲而行也。其事在中大無喪者,言處得其位,合於中道,雖興起大事,亦無所喪失也。
いわゆる「有事」。まさに威震動蕩の世に当たりて、下面に権柄を握持して正を守らざるの強臣有れば、若し一味に無為而治を主張せば、即ち天下の危難を拯救し・天下の積弊を革除するに足らず。此の時は本より応に作為する所有りて・独りで権柄を当りて以て天下の事を処置して乃ち可なり。《象伝》の「震往来厲、危行也」は、六五は身は至尊に居りて却って剛爻の上に乗れば、だから来去の間は皆危険の中に行事するなりと言うなり。「其事在中、大无喪也」と言うは、其の処する所の位置は当を得・中道に合乎せば、たとい大事を興弁するも、亦何の損失有ることなからんを言うなり。
上六:震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎。婚媾有言。象曰:震索索,中未得也;雖凶無咎,畏鄰戒也。
上六の爻辞にいう。雷震の下に心中は瑟瑟として発抖し・両眼は驚惶して四顧す。此の時に前往すれば凶険有り。雷震は自らの身上に打ち到らずして、而も隣近の人の身上に打ち到れば、それによって過咎なし、只だ婚姻親家の間は難免に閑話有るなり。《象伝》にいう。心中は瑟瑟として発抖するは、中位を得ざるがゆえなり。たとい凶険有るも過咎なきは、隣人の震を受くるを看て戒懼する所を知るがゆえなり。
義曰:索索者,中恐懼之謂也;矍矍者,視驚聳之貌也。上六以陰柔之質居威震之極,履不得大中之位,故當威剛之來,索索然恐懼,矍矍然驚聳也。征凶者,言居威震之極而又無大中之徳,則當固守常分,庶免凶咎,苟復有所往,是凶之道也。
胡瑗が解説します。「索索」は内心の恐懼、「矍矍」は眼神の驚惶聳動するのさまなり。上六は陰柔の質を以て威震の頂点に処し、踏む所も又中に居るの位にあらざれば、だから剛猛威勢の一来すれば、心裏は瑟瑟として発抖し・眼中は驚惶して四顧す。いわゆる「征凶」は、身は威震の極処に処して而又中を守るの徳なければ、即ち応に牢牢に自らの本分を守住して、乃ち凶咎を免去するの望有らんと言うなり。若し還要行動する所有れば、あれは便ち凶を招くの道なり。
震不于其躬于其鄰無咎者,夫九四為剛威之主而處上卦之下,上六居一卦之極而在無位之地,逺於九四,故九四之剛威不能及己之身。雖不及其身而及其鄰,謂五犯九四之剛,有往來之厲,則己能觀此鄰戒以自修省其身,整治其行,故得無咎也。
いわゆる「震不于其躬、于其鄰、无咎」。九四は剛威の主爻にして上卦の最下面に処し、上六は全卦の頂端に居りて・身は職位なきの地方に在りて、九四に離るるは甚だ逺ければ、だから九四の剛威は自らの身上に傷き到る能わざるなり。たとい自らに傷き到る能わざるも、却って隣近の爻に傷き到れり――六五が九四の剛を冒犯して・それによって来去皆危の厲有るを指す。上六は能く隣人の此の番の教訓を看て而自ら修省し・自らの行為を整飭せば、だから能く過咎なきなり。
婚媾有言者,上六處不得位,履不得中,雖婚媾至親之人,亦不能免讒間之言。象曰震索索中未得者,言上六所以索索然恐懼,以履不得中故也。雖凶無咎畏鄰戒者,言雖有凶而能免其咎,以其能觀戒於五而畏慎其所行,故咎可以免也。
いわゆる「婚媾有言」。上六は処する所は其の位に当たらず・踏む所も又中に居らざれば、たとい親を結ぶの至親の人なるも、亦讒毁離間の閑話を免れ難し。《象伝》の「震索索、中未得也」は、上六の瑟瑟として発抖するの所以は、まさにそれは中位に踏み到るなきがゆえなり。「雖凶无咎、畏鄰戒也」と言うは、たとい凶険有るも却能く過咎を免去するは、それは能く六五の身上より警戒を看て而己が行う所を謹慎するがゆえに、だから過咎は免除を得たるなり。
艮 艮下艮上
艮其背,不獲其身;行其庭,不見其人。無咎。
《艮》卦の卦辞にいう。背に止まりて、自らの身体を見ず。自らの庭院を走り過ぐるも、亦庭中の人を見ず。このようであれば過咎有ることなからん。
義曰:按《序卦》云「物不可以終動,止之」,故受之以《艮》。艮者,止也。蓋言人之動靜各有其時,若動而不已,必有悔吝生,故以《艮》次於《震》,所以為世動靜之戒也。夫艮者,山之象,山為地之鎮,安止而不動,故為止之象。背者,目所不見之所也,言艮止之道必止於未萌之前。若夫聖人之治天下,將禁民之邪,制民之慾,節民之情,止民之事,必於其利害未作,嗜慾未形,未為外物之所遷,而其心未動之前,先正其心而不陷於邪惡,若止之於背之後,目所不覩而不見其身也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》は「物不可以終動、止之」――万物は能く永遠に動き下るべからず・制止を加えるを要す――と講じ、だから《震》の後に《艮》を接ぐ。「艮」は即ち停止なり。人の動と静とは各々其の時機有りて、若し動きて停まらざれば、必定に悔恨憾惜を生出せば、だから《艮》を《震》の後面に排して、以て世人のために動静の鑑戒を立下す。艮は山に取象し、山は大地の鎮石、安然として静止して移動せざれば、だから「止」の象徴なり。「背」は眼睛の看る能わざるの地方、止の道理は必ず念頭の未だ萌発せざるの前に止まるを要すを言うなり。聖人の天下を治理するに至っては、百姓の邪を禁し・百姓の欲を制し・百姓の情を節し・百姓の妄挙を止むるに、必ず利害の未だ発生せざる・嗜欲の未だ成形せざる・心の未だ外物に牽き走らされざる・未だ念を起さざるの時に趁りて、先ず彼らの心を端正して、彼らをして邪悪に陷入せざらしめよ。譬えば「止」を背後に安放するがごとく、眼睛は看る能わざれば、亦即ち自らの身体を見ざるに至るなり。
行其庭不見其人,夫庭者,指淺近之處而言之也,行於淺近而猶不見其人者,蓋止得其道,各守其所而有定分,不相揉雜故也。古之聖人之治天下也,其在建官分職,各有所責,若習禮者専掌於禮,習樂者専掌於樂,習兵者専掌於兵,習者専掌於刑,各守其職而不相干也。
いわゆる「行其庭、不見其人」。「庭」は甚だ近きの地方を指し、此のごとく近きの地方を走りて却って仍として人を見ざるは、並びに真に空して人なきにあらずして、而も各々の人の「止」は皆法度に合乎して・各自に自らの崗位を守りて一定の分際有りて、彼此に相混雑せず・互いに照面せざるがゆえなり。古代の聖人は天下を治理して、官を設け職を分かつ上に於いて各々の人をして各々職責有らしめよ。礼を学ぶは専ら礼を管し・楽を学ぶは専ら楽を管し・兵を学ぶは専ら軍事を管し・刑を学ぶは専ら刑法を管して、各々其の職を守りて互いに干涉せざるなり。
又如天下之民,為士者止於為士,為農者止於為農,為工者止於為工,為商者止於為商,是亦各有定分,不相揉雜,處不易業而守其常,故如行於淺近一庭之間而不見其人,是其各有所止而不相雜亂也。無咎者,言能止其事於未萌之前,使官民各得其止靜,不相揉亂,故無咎也。
再如天下の百姓は、士を為るは即ち士の本分を守着し・農を務むるは即ち農の本分を守着し・工を為るは即ち工の本分を守着し・商を経営するは即ち商の本分を守着して、同じく各々一定の分際有りて、彼此に相混雑せず、其の中に安処して行業を改めずして其の常道を守るなり。だから即ち一箇の小小の庭院此のごとく近きの地方を走るも、却って人有るを見ざるがごとく、まさに各自は止まる所有りて相雑乱せざるなり。「无咎」に至っては、能く事情を念頭の未だ萌えざるの前に止めて、官吏と百姓とをして各自に自らの静止本分を得・互いに攪乱せざらしむるを言い、だから過咎なし。
彖曰:艮,止也。時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。艮其止,止其所也。上下敵應,不相與也,是以不獲其身,行其庭不見其人,無咎也。
《彖伝》にいう。《艮》は即ち停止なり。止まるべきの時は則ち止まり・行くべきの時は則ち行きて、動と静とは皆時機を錯過せざれば、此のようの道は乃ち光明なり。「艮其止」は、其の止まるべき所の地方に止まるなり。上下の各爻は两两として敵対して相応せず・彼此に相亲与せざれば、だから自らの身体を見ず・庭院を走り過ぐるも亦庭中の人を見ざるを言い、それによって過咎なし。
義曰:艮者,山之象也,山為止靜,故曰艮止也。時止則止時行則行動靜不失其時其道光明者,大凡動靜必有其時,若其時可以止,則當止而不可動;若其時可以行,則當行而不可止。可行者,若上有其君,下有其民,若退止而不進,則君民無以自濟,故聖人特於此言聖賢之道當觀其時之可否而進退之。若行而不失其動之時,止而不失其靜之時,行止動靜皆得其時,則其道光大而明顯。
胡瑗が解説します。艮は山に取象し、山は静止して動かざれば、だから「艮、止也」と言うなり。いわゆる「時止則止、時行則行、動静不失其時、其道光明」。凡そ動と静とは皆各々其の時機有り。たとい時機は以て止まるべければ、即ち応に止まりて妄動すべからず。たとい時機は以て行くべければ、即ち応に行きて停住すべからず。いわゆる行くべきは、上に君主有り・下に百姓有りて、此の時に若し退止して進まざれば、君民は便ち済を得るに従なきを言うなり。だから聖人は特意に此処に於いて指出す。聖賢の道は時機の允許するか否かを看て以て進退を決定す。若し出でて行事するは動くべきの時機を錯過せず・退きて静処するは静なるべきの時機を錯過せざれば、行・止・動・静は様様に皆時に合乎せば、ならば其の道は即ち宏大にして光明显著ならん。
故孟子曰「孔子聖之時者」,言孔子之道,可以行則行,可以止則止,可以速則速,可以乆則乆,惟觀其時而察其道之可否而已。然則時行時止所以為萬世動靜之戒,不於震卦言而於艮始言之者,蓋震為雷,雷有時而靜;艮為山,山一定而不動。恐後之人法此止靜之道,不復求於進用,使天下之人無所濟,故特於此言之,以為動靜之戒也。
だから《孟子》は「孔子、聖之時者也」と説くは、孔子の道を言うなり。以て出仕すべければ即ち出仕し・以て止住すべければ即ち止住し、快くすべきは即ち快くし・久留すべきは即ち久留して、只だ時機を看て而自らの道は行き通るべきか否かを考察するのみなり。すでに「時行時止」は万世の動静の鑑戒なれば、何を以て《震》卦の裏に講ぜざるに、偏に《艮》卦に到りて乃ち講じ始むるや。震は雷にして、雷は時には亦安静し下ること有るがゆえなり。艮は山にして、山は一旦定住せば便ち再び移動せざるなり。聖人は後人の此の止静の道に效法して・此より再び進用を謀求せずして・天下の人をして救済を得ざらしむるを怕れて、だから特意に此処に於いて点明して、以て動静の鑑戒と為るなり。
艮其止止其所也,不言背而言止者,蓋背者目所不見所止之處也,言艮其止者,能止於未萌,得止之所也。上下敵應不相與者,言上下六爻各相亢敵而情不相與,是各止其所之象也。既能止於未萌之時,而又能使上下各相守其分而不雜揉,故總舉彖辭而結之也。
いわゆる「艮其止、止其所也」。《彖伝》は「背」と説かずして「止」と説くは、「背」はまさに眼睛の見る能わざる・止まるべき所の地方なるがゆえなり。「艮其止」と言うは、能く念頭の未だ萌えざるの時に止まりて、恰好に止まるべきの位置を得たるなり。いわゆる「上下敵応、不相与也」は、上下の六爻は两两として相互に抗衡して情意は並びに相通ぜざるを言い、まさに各自は本位に止まるの形象なり。すでに能く未萌の時に止まり、また能く上下をして各々本分を守りて相混雑せざらしむれば、だから《彖伝》は総括して卦辞に依りて結を作るなり。
象曰:兼山,艮。君子以思不出其位。
《象伝》にいう。两座の山は重畳して一起に在り、これ即ち《艮》卦の卦象なり。君子は此の象に取法し、思慮は自らの職位を越出せざるなり。
義曰:言君子觀此兼山止靜之象,凡所思謀,當専於所職,不可越出其位而妄有所思也。
胡瑗が解説します。两山は相重ねて各々其の所に止まるは、まさに各々本位を守るの象なり。君子は此の重山静止の卦象を看て、凡そ思考謀画する所有れば、皆応に自らの分内の職守に専注して、本位を越過して胡乱に想うべからざるの事を想うべからざるなり。
初六:艮其趾,無咎,利永貞。象曰:艮其趾,未失正也。
初六の爻辞にいう。脚趾を止めて、過咎有ることなからず、長久に正を守るに利有り。《象伝》にいう。脚趾を止むるは、それは還有正道を失わざるを言うなり。
義曰:趾者,足趾之謂也。初六居卦之始,在事之初,最處於下,是猶足趾也。夫足之趾本亦能動,有其時,時止則止,時行則行,動靜不失其正,所以得其無咎。然止物於其始,必須永長守其志正而行之,故曰利貞。象曰艮其趾未失正者,言初六居卦之下而能止事於未萌,所以未失其正也。
胡瑗が解説します。「趾」は即ち脚趾なり。初六は全卦の開頭・事情の起始に処し、位置は最も下に靠りて、まさに人の脚趾に象る。脚趾は本来も亦活動する能くするに、只だ動作は自ら其の時有るなり。止まるべきは即ち止まり・行くべきは即ち行きて、動静は其の正を失わざれば、だから能く過咎なきなり。しかるに要は事情の最初に於いてそれを止むるに、必ず長久に端正の心志を守住して行わねばならず、だから「利永貞」と言うなり。《象伝》の「艮其趾、未失正也」は、初六は全卦の下に居りて、能く事情を念頭の未だ萌えざるの時に止めれば、それによって其の正を失掉せざるを言うなり。
六二:艮其腓,不拯其隨,其心不快。象曰:不拯其隨,未退聽也。
六二の爻辞にいう。小腿肚を止むるも、却って它の只だ足に随いて動くの処境を救う能わざれば、心裏はそれによって痛快ならず。《象伝》にいう。其の随動の処境を救う能わざるは、事情はすでに発動して・退回して静止の安排に聴従するに及ばざるがゆえなり。
義曰:腓者,足之腨腸也。按此一卦不以爻之陰陽、位之貴賤尊卑而言,但取人之一身之象以明其義,故初六居一卦之最下,其象為趾;六二處初之上,故為腓之象。夫腓之為物,不能自動,隨足而已,是足動則動,足止則止。今足既已動而欲止其腓,必不可得而止也,是不能自拯救其失,但隨物而動也。亦如凡人不能制事於初,及事已動,利害已作,嗜慾已萌,欲強制之,終不得而止也。然雖強止之,則不能稱已之慾,是欲止之心不獲其快也。象曰不拯其隨未退聽者,言不能制之於初始,及事已作,雖欲止之,必未能於其所處而聽其止靜之事也。
胡瑗が解説します。「腓」は小腿肚の上の肉なり。此の一卦は爻の陰陽・位の貴賤尊卑に按じて講ぜず、只だ人身の各部位の形象を取りて来たりて其の義を闡明す。だから初六は全卦の最下に処して、脚趾を象徴し・六二は初六の上に在りて、即ち小腿肚を象徴す。小腿肚此の物は能く自ら動かず、只だ能く脚に随いて走るのみ。脚は動けばそれは即ち動き・脚は停まればそれは即ち停まる。今、脚はすでに歩み出せりと雖も、却って小腿肚をして停住せしめんと欲するは、断然に停住する能わざれば、見るべしそれは自らの失誤を救う能わざるを・只だ能く別処に跟いて動くのみなり。これも亦人の能く事情の剛に頭を起すの時に節制を加えずして、事情はすでに発動し・利害はすでに産生し・嗜欲はすでに萌生して後に、再び強行に制止せんと想うは、終に止むる能わざるがごとし。たとい勉強に止むるも、亦能く自らの原先の心願に称合せざれば、だからあの停まらんと欲するの心は併せて痛快ならざるなり。《象伝》の「不拯其随、未退聴也」は、能く最初に於いて節制を加えずして、事情はすでに発生して後に、縦然に止めんと想うも、亦必定に法なく自らの処する所の地位上に於いてそれをして静に退聴せしむるなりと言うなり。
九三:艮其限,列其夤,厲熏心。象曰:艮其限,危熏心也。
九三の爻辞にいう。腰身上下の相分かるるの界処を止めて、脊背上の肌肉を撕裂して、危険は火のごとく其の心を熏灼す。《象伝》にいう。界限の処に止まるは、危険は彼の心を熏灼するなり。
義曰:限者,人之身上下分隔之際也;夤者,脊膂之肉也。九三居上卦之下、下卦之上,於人之身體,是猶分限之際也。夫身之中亦不能自動,惟下之有所動則從而動之,上之有所動亦從而動之,如上下已動而欲艮止其身之中,則必分列其脊之肉矣。此言人不能制其事於始,又不能成其事於終,措置之間不得其道,而欲止於中道,則進退不可而致蠱敗其事,故有危厲之苦而熏灼其心也。
胡瑗が解説します。「限」は人身の上下を分隔するの界限の処、「夤」は脊梁の上の肌肉なり。九三は上卦の最下・下卦の最上に処して、人身に対応すれば、まさに上下の分界するの地方なり。人身の中段は自らは能く動かず、只だ下面は動けばそれは即ち跟いて動き・上面は動けばそれも亦跟いて動くのみ。若し上下はすでに皆動き起せりと雖も、却って偏に身体の中段を止住せんと欲せば、必定に脊背上の肉を撕裂せん。これは一人はすでに能く事情の頭を起すの時に節制を加えず・又能く事情を最後の成功に為し到る能わざるに、措置の間にまた正確の弁法を找ら出す能わざるに、却って半路の上に於いて停まらんと欲すれば、則ち進むも能わず・退くも能わず、終に事情を敗壞するに至れば、だから危厲の苦楚有りて其の心を熏灼すと言うなり。
六四:艮其身,無咎。象曰:艮其身,止諸躬也。
六四の爻辞にいう。自らの身躯を止めて、過咎有ることなからん。《象伝》にいう。身躯を止むるは、「止」を自らの身上に落実するなり。
義曰:身者,是人之一身也。夫人之體,統而言之則謂之一身,手足謂之四肢;分而言之,則腰足而上亦謂之身。今此六四出下體之上,在上體之下,處夤限之間,是身之象也。夫人患不能自止其身,今六四能止之得其道,使四肢不妄動,故如人之靜止得其道,制御得其術,防過得其要,不為外物之所遷,不為貧賤之所移,不為富貴之所易,故無咎也。
胡瑗が解説します。「身」は即ち人の整箇の身躯なり。人の形体は総じて言えば一身と叫ばれ・手脚は四肢と叫ばる。分かちて言えば、腰より以上の部分も亦身と叫ばる。今、六四は下卦の上に越出して・上卦の下に居りて、まさに脊肉と界限の間に処せば、だから身躯の形象なり。人の憂患する所は自らの此の箇の身子を管住する能わざるなり。今、六四は能くそれを止めて而且に法度に合乎して、四肢をして乱動せざらしむ。これ譬えば一人は静止して法を得・控制して術を得・過失を防範するは要領を抓住して、外物に牽き走らされず・貧賤に因りて節を改めず・富貴に因りて心を変えず――まさに《孟子》の言う所の大丈夫の「富貴不能淫、貧賤不能移」の意なり――だから過咎なし。
六五:艮其輔,言有序,悔亾。象曰:艮其輔,以中正也。
六五の爻辞にいう。自らの口頬を管住して、説話は条理次序有れば、悔恨は消亡す。《象伝》にいう。能く口頬を管住するは、六五は中を守るの徳を具備するがゆえなり。
義曰:輔者,車頰也。六五居上卦之中,以人身言之,有口輔之象。夫口頰者,所以主言語之所出,若其妄動則有過失,其為咎也不細。故先聖繫辭曰:君子居其室,出其言善,則千里之外應之;出其言不善,則千里之外違之,況其邇者乎!言行,君子之樞機,樞機之發,榮辱之主也。是言語不可不慎也。
胡瑗が解説します。「輔」は本は車の頬木を指す。六五は上卦の中位に居りて、人身を以て比擬すれば、即ち口頬の形象有るなり。口頬は言語の出入を主管し、一旦妄動すれば即ち差錯を出して、招来するの過咎は小ならず。だから先聖は《繋辞伝》の裏に言う。君子は自らの屋裏に住して、説き出すの話は好ければ、千里の外の人は皆彼に響応し・説き出すの話は好からざれば、千里の外の人は皆彼に違背して、まして近処の人においてをや。言語行為は君子の関鍵樞紐にして、樞紐は一たび発動すれば、榮辱は即ちそれに由りて決定す。見るべし説話は謹慎せざるべからざるなり。
今六五能正其口輔,使不妄發,其言皆有倫類次序,故禍不召而悔可亡矣,則所謂言滿天下無口過者也。象曰艮其輔以中正者,此爻居非其正,然位得其中,是有大中之徳,而能正其口輔,使口不妄發。孔子曰「有徳者必有言」是也。
今、六五は能く自らの口頬を端正して、それをして軽易に発言せざらしめて、説く所の話は皆条理次序有れば、だから禍患は招かずして自ら去りて、悔恨も亦消亡す、まさにいわゆる「言満天下无口過」の人なり。《象伝》の「艮其輔、以中正也」。此の一爻の居る所は並びに正に当たらざるも、但し位置は中を得れば、見るべしそれは中を守るの徳有りて、それによって能く自らの口頬を端正して、嘴をして乱に話を説かざらしむ。孔子の「有徳者必有言」と講ずるは、説く所は此の道理なり。
上九:敦艮,吉。象曰:敦艮之吉,以厚終也。
上九の爻辞にいう。敦厚の徳を以て止を守れば、吉祥なり。《象伝》にいう。敦厚に止を守るの吉の所以は、それは篤厚の品德を以て善く終るがゆえなり。
義曰:艮者,山之象,為地之鎮,有博厚之徳。上九處艮之極,有敦厚之道而自止,使邪欲不能汨,利害不能侵,死生富貴不能易,如此可以獲其吉。象曰敦艮之吉以厚終者,以敦厚之德為艮止之事,得其艮道之終也。
胡瑗が解説します。艮は山に取象し、山は大地の鎮石、広博深厚の徳性を具有す。上九は艮卦の頂点に処して、敦厚の道を憑りに自らを止住して、邪欲をして彼を攪乱する能わざらしめ・利害をして彼を侵蝕する能わざらしめ・生死富貴も亦彼を動揺する能わざらしむ。このようであれば便ち吉祥を獲得すべし。《象伝》の「敦艮之吉、以厚終也」は、彼は敦厚の徳を以て止を守るの事を為して、それによって艮止の道に善終するを言うなり。
漸 艮下巽上
漸:女歸吉,利貞。
《漸》卦の卦辞にいう。女子の嫁ぐは循序に循りて行えば則ち吉祥、正道を守持するに利有り。
義曰:按《序卦》云「物不可以終止」,故受之以《漸》。漸,進也。夫艮卦之上下二體皆艮止之象,夫専務艮止而不求進,則失其動靜之中道,非仁義之人所存心也。此卦上體是巽,下體是艮,是內有艮靜之心,外有巽順之徳,故能務於漸進,此君子之所為也,故《漸》所以次於《艮》。然謂之漸者,謂自下以升於髙,自小積於大,自近及於遠,安然而行,不務速進,故曰漸。
胡瑗が解説します。《序卦伝》は「物不可以終止」――事物は能く一直に停まりて動かざるべからず――と講じ、だから《艮》の後に《漸》を接ぐ。「漸」は即ち前進なり。《艮》卦の上下両体は皆艮にして、皆静止の象なり。若し一味に静を守りて動かずして前進を謀求せざれば、即ち動静の間の中道を失掉して、これは仁義を懐抱するの人の応に存心する所にあらざるなり。此の一卦の上体は巽・下体は艮にして、内裏は艮の静定の心有り・外面は巽の柔順の徳有れば、だから能く専ら循序渐进に務む、これまさに君子の為す所にして、それによって《漸》は《艮》の後面に排せらる。「漸」と叫ぶ所以は、低処より高処に升到し・小処より大処に積み・近処より逺処に推して、安穏に走りて速成を求めざるを言い、だから「漸」と称す。
女歸吉利貞者,天下萬事莫不有漸,然於女子猶須有漸,何則?夫女子處於閨門之內,以待媒妁之言、聘問之禮,然後往之;若非媒妁之言、聘問之禮而往者,則是淫醜之女也,故父母惡之,鄉人賤之,天下丑之。是其為女者,必須男子之家問名、納采、請期,以至於親迎,其禮畢備,然後乃成其禮而正夫婦之道,所以獲吉也。
いわゆる「女帰吉、利貞」。天下の万事は循序渐进を講ぜざるなきにして、而も女子の嫁ぐ此の件事の上に於いては尤も循序を須要す。何を以てか。女子は閨門の内に安処して、媒人の伝話・聘問の成礼を待って、後に乃ち嫁ぎ往く能くす。若し是れ媒妁の言・聘問の礼なきにして自ら前往せば、則ちそれは淫乱醜悪の女子にして、父母は彼女を厭悪し・郷人は彼女を軽賤し・天下の人は皆彼女を以て醜と為す。だから女子を為るは、必ず男家の依次に問名・納采・請期を行い過ぐるを待ちて、親迎に到るまで、礼数は斉備して、乃ち婚禮を成就して夫婦の道を端正したりと算して、それによって吉祥を獲得す。
然女者,臣之象也,事君之道也。夫君子之人處窮賤,不可以干時邀君急於求進;處於下位者,不可諂諛佞媚以希髙位。在於窮賤者,必力行強學,待君之聘召,然後可進於朝;居於下位者,必潔身正志,為下所尊,為上所信任,然後升進入大位,皆由漸而致之,乃獲其吉也。利貞者,若女子之歸於其夫,能守至正之道,則可以正一家;君子之事於其君,能守至正之道,則可以正天下。至於天下皆能守正,則可不失其道而獲吉也。
しかるに女子は亦臣子の象徴にして、講ずる所はまさに君主に事奉するの道なり。君子は身は窮困卑賤の時に処して、時勢を干求し・君主に迎合して急に進を求むるべからず。身は下位に在るの時は、諂媚逢迎して去りて高位を希求すべからず。窮賤の中に処するは、必ず力を行い勤く学んで、君主の聘請徵召を待ちて、後に乃ち朝廷に進入すべく。身は下位に居るは、必ず身を潔くし自ら好くして・志向を端正して、下面の人に尊重せられ・上面の人に信任せられて、後に乃ち高位に升到す――これらは皆循序渐进に靠りて乃ち到達する能くして、乃ち吉祥を獲得する能くす。いわゆる「利貞」。女子は丈夫に嫁いで、能く極正の道を守住せば、即ち能く一家を端正し・君子は君主に事奉して、能く極正の道を守住せば、即ち能く天下を端正すべし。天下の人が皆能く正を守るに到れば、即ち正道を失掉せずして吉祥を獲得せん。
彖曰:漸之進也,女歸吉也。進得位,往有功也。進以正,可以正邦也。其位,剛得中也。止而巽,動不窮也。
《彖伝》にいう。《漸》の講ずる所は循序に循りて進むなり、だから女子の嫁ぐは吉を得。前進して各々其の位を得れば、前往すれば即ち功業を建立する能くす。正道を以て前進すれば、即ち能く邦国を端正すべし。其の位は、剛爻は中位に居るなり。内裏は静止して外表は柔順なれば、だから行動は窮困に陷入せざるなり。
義曰:漸之進也女歸吉也者,此釋所以為漸之名也。之,往也。漸者,謂積漸而之往於所進之地也,故君子之人亦必潔身修徳,積漸而升進之也。女歸吉者,言女子能以禮為漸而歸於男,臣能以道為漸進於其君,斯獲吉也。
胡瑗が解説します。いわゆる「漸之進也、女帰吉也」、これは此の卦の何を以て「漸」と名づくるかを解釈す。「之」は即ち往くなり。「漸」は積累漸進して走り到りて自らの進み到るべきの地位に至る、だから君子も亦必ず身を潔くし自ら好くして・徳行を修養して、一点点の積累に靠りて上に向かって升進すべきなり。いわゆる「女帰吉」は、女子は能く礼に依りて一歩一歩に男方に嫁ぎ・臣子は能く道に依りて一歩一歩に君主に進用せられて、此のようで乃ち能く吉祥を獲得するを言うなり。
進得位往有功者,此指六二九三六四九五四爻而言也。言四爻皆進得其位,則所往無不有功。若進於一邑,則功被於一邑;進於一郡,則功被於一郡;進以輔佐於天子,則功被於天下。是君子所進得其正道,則往有功也。
いわゆる「進得位、往有功也」、これは六二・九三・六四・九五此の四爻を指して言うなり。四爻は前進して皆恰当の位置を得れば、ならば到る所は功業を建立せざるなく。進みて一邑を治理せば、功徳は便ち一邑に遍及し・進みて一郡を治理せば、功徳は便ち一郡に遍及し・進みて天子を輔佐せば、功徳は便ち天下に遍及す。見るべし君子は只だ走る所の路は正道であれば、前往すれば即ち功業有るなり。
進以正可以正邦也,此亦指四爻而言。六四六二以陰居陰,九三九五以陽居陽,是皆進得其正。君子之人進得其正,則立於朝廷,處於列位,其道徳惠澤可以福天下之民,而正天下之邦國也。其位剛得中者,此因九五而言之。九五以剛明之德,又處大中之位,夫有剛明中正之徳,處於至尊之位,亦由漸而進也。
いわゆる「進以正、可以正邦也」、同じく此の四爻を指して言うなり。六四・六二は陰爻を以て陰位に居り・九三・九五は陽爻を以て陽位に居りて、皆是れ前進して各々其の正を得るなり。君子は前進して処する所は正を得れば、ならば朝廷に立身して・班行に位列して、彼の道徳恩沢は即ち能く天下の百姓に福を造り・天下の邦国を端正すべし。いわゆる「其位、剛得中也」、これは九五に就きて言うなり。九五は剛健明達の徳有りて、また上卦の中位に処す。剛明中正の徳を具備して至尊の位に居るは、同じく循序渐进に靠りて得来せるなり。
止而巽動不窮者,此因二體而言之。外體是巽,內體是艮。夫內無止靜之心而務於躁進,外無柔順之徳而尚於剛暴,以是求進,動必窮困。內既有止靜之道,外又有巽順之徳,以是漸進,則動獲其利而無困窮矣。
いわゆる「止而巽、動不窮也」、これは上下両体に就きて言うなり。外卦は巽・内卦は艮なり。内裏に静定の心なきにして只だ躁進を求め・外表に柔順の徳なきにして剛強暴烈を崇尚して、此のようの態度を用いて上進を求めば、一動すれば必定に窮困に陷入せん。今、内はすでに静定の道有り・外はまた柔順の徳有りて、此の箇を憑りに循序に循りて進めば、ならば一動するは即ち能く利益を獲得して困窘せざらん。
象曰:山上有木,漸。君子以居賢徳善俗。
《象伝》にいう。山上に樹木を長ず、これ即ち《漸》卦の卦象なり。君子は此の象に取法し、賢徳の人と淳善の風俗の中に安居す。
義曰:巽為木,艮為山,木生山上,日久歲深,自萌芽至於把握,漸至髙大,而又依于山,是漸得其道,此漸之象也。君子之人法此漸進之象,必居賢徳善俗之間,以務進其道。必居賢善之間者,夫有賢善之人動不離道,如居其間,日漸月摩,出入動作皆由正道,不入於邪,雖甚愚闇者亦可以造於君子之域,使其子子孫孫積漸陶染而進歸於善也。孟子之母為子三徙其鄰,卒使其子為萬世亞聖之賢,蓋其擇賢善之力也。故君子之人,其所積習,其所居處,必得其賢善之人,然後漸而習,積而久之,皆至賢至善之人也。
胡瑗が解説します。巽は木・艮は山、樹木は山上に長じて、年深く日久しく、萌芽より一把の握るべきに長じて、漸漸に高大を長じ得て、また終始として山に依托せば、これ即ち循序に循りて其の道を得る、まさに《漸》卦の象なり。君子は此の漸進の象に效法して、必定に賢徳の人と淳善の風俗の間に安居して、以て自らの道を推進せんと求む。何を以て必ず賢善の人の中間に住むを要するや。賢善の人は一挙一動は正道を離れざれば、彼らの中間に住して、日に漸め月に摩して、出入行事は皆正道に循りて、邪僻に誤入せざるがゆえなり。たとい極めて愚昧昏暗の人なるも、亦能く君子の境地に進みて、還能く子孫をして一点点に陶冶浸染を受けて善に帰せしむ。孟子の母は児子のために三たび其の鄰を遷して、終に児子をして万世の景仰するの亜聖と為らしめたるは、靠る所はまさに賢善を擇取するの力量なり。だから君子の平日の積習する所・居処する所は、必ず賢善の人を得ねばならず。このように漸漸に熏習して・日に積み月に累れば、即ち皆至賢至善の人と為るなり。
初六:鴻漸于干,小子厲,有言,無咎。象曰:小子之厲,義無咎也。
初六の爻辞にいう。鴻雁は漸漸に水辺に飛到し、年少位卑の人は危険有りて、閑言を招来せんと雖も、但し過咎なし。《象伝》にいう。年少位卑の者の危険は、道理の上より言えば過咎有ることなからざるなり。
義曰:乾者,水之際也。《伐檀》之詩曰「坎坎伐檀兮,寘之河之幹兮」,是乾者水際也。鴻者,水禽也。按此《漸》之一卦皆以鴻為象者,蓋鴻之禽一舉可至千里,然始舉必有漸,故聖人特取鴻為漸之象也。今初六居一卦之下,居漸之初,是猶鴻之始舉漸至於水之際。以人事言之,是士之進始於細微,君子之進始於卑下之位也。
胡瑗が解説します。「干」は水辺なり。《詩経・魏風・伐檀》に「坎坎伐檀兮、寘之河之干兮」と言う、砍下せるの檀木は即ち河岸の上に放れば、見るべし「干」は即ち水辺なり。「鴻」は水鳥なり。《漸》此の一卦は通篇に皆鴻雁を用いて象と為すは、鴻雁は一飛すれば即ち千里に達すべくして、然而起飛の初も亦必定に一步步に来るがゆえに、だから聖人は特意に鴻雁を取りて以て「漸」の形象と為すなり。今、初六は全卦の最下・漸進の開端に処して、まさに鴻雁の剛に起飛して慢慢に水辺に落るがごとし。人事に就きて言えば、これは士人の進用は細微の処より起步し・君子の升進は卑下の位置より開始するなり。
小子厲有言無咎者,厲,危也。夫君子之進,小人之所忌也。今初六之進尚為卑下,其道未見信於時,其徳澤未及於人,故小人之心皆欲起而害之。然終不能為君子之害,但有誹謗之言而已,終獲其無咎。象曰小子之厲義無咎者,言君子之進本以其漸,雖為小人之所危厲,然於義自可無咎。
いわゆる「小子厲、有言、无咎」。「厲」は危険なり。君子の升進は、本は小人の忌恨する所なり。今、初六の升進の地位は還有甚だ低くて、彼の道は未だ当世に於いて信を取らず・彼の徳沢も亦還有別人に惠及せざれば、だから小人は心裏に皆手を動かして加害せんと想う。しかるに彼らは終究に君子を傷害する能わざれば、不過是れ些かの毀謗の話のみにして、君子は最終に還是過咎なきなり。《象伝》の「小子之厲、義无咎也」は、君子の升進は本来即ち循序に循りて来るにして、たとい小人に危害せらるるも、道理に就きて言えば自然に過咎有ることなからざるを言うなり。
六二:鴻漸于盤,飲食衎衎,吉。象曰:飲食衎衎,不素飽也。
六二の爻辞にいう。鴻雁は漸漸に平穏の磐石上に飛到し、飲食は豊足にして和楽融融たり、吉祥なり。《象伝》にいう。飲食は和楽なるも、並びに白白に飽食を享受するにあらざるなり。
義曰:盤者,山石之安也。言六二以陰居陰,以柔順之徳漸得其位,而又處得其中,上應於五,為五之所信任,為眾人之所歸,是漸而得信,居得其所安,若鴻之漸漸至於盤也。飲食衎衎吉者,衎衎,和樂之貌,言六二既得眾心所歸,又為九五所任,故得飲食豐備,其和樂衎衎然,是以獲其吉。
胡瑗が解説します。「盤」は山石の安穏の処なり。六二は陰爻を以て陰位に居り、柔順の徳を以て漸に其の位を得て、また下卦の中位に処す。上に向かって九五此の位の君位の爻と一陰一陽にして相応じて、それによって九五に信任せられ・衆人に帰附せらる。これは漸進して信任を獲得して・居る所は安穏にして、即ち鴻雁の慢慢に磐石上に飛落るがごとし。いわゆる「飲食衎衎、吉」。「衎衎」は和悦歓楽のさまなり。六二はすでに衆人の帰心を得・また九五に任用せられれば、だから能く豊足斉備の俸禄飲食を享有して、一片の和楽融融にして、それによって吉祥を獲得す。
象曰飲食衎衎不素飽者,素,空也。言六二為下所歸,為上所任,是上有忠義以輔其君,下有德澤以被其民,故其所獲飲食之樂皆得其道,非徒空受其飽樂而已。《伐檀》之詩曰「彼君子兮,不素飱兮」,此之謂也。
《象伝》の「飲食衎衎、不素飽也」、「素」は空・白白の意なり。六二は下面の人に帰附せられ・上面の君主に任用せられれば、見るべし彼は上は忠義の心有りて君主を輔佐し・下は恩徳恵沢有りて百姓に施及せば、だから彼の享する所の飲食の楽は皆道理に合乎して、併せて白く此の份の飽足安楽を受くるにあらざるなり。《詩経・伐檀》の「彼君子兮、不素飱兮」は、講ずる所はまさに此の意思なり。
九三:鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶,利禦寇。象曰:夫征不復,離群醜也;婦孕不育,失其道也;利用禦寇,順相保也。
九三の爻辞にいう。鴻雁は漸漸に高平の陸地に飛到し、丈夫は出行して一去して回らず・妻子は身ごもるも能く生育せず、凶険、只だ盗寇を抵御するに利有るのみ。《象伝》にいう。丈夫は一去して回らざるは、自らの同類を離れたるなり。妻子は孕みて育たざるは、夫婦の道を失掉せるなり。盗寇を抵御するに利有るは、彼此に和順にして相保つがゆえなり。
義曰:地之髙平者謂之陸,言九三居下卦之上,漸至於髙位,猶鴻之漸至於髙平之地也。夫征不復者,夫謂三也,上無其應,下又無輔,而切近於四,四亦無應,近而相得,故三樂從於邪配,是其夫征往而不復反。夫既不反,則其婦亦不能守正,故有孕而不育之事,以至於凶也。
胡瑗が解説します。地勢は高くして平坦なるを「陸」と叫ぶ。九三は下卦の最上に処して、漸漸に高位に升到して、即ち鴻雁の慢慢に高平の地面上に飛到するがごとし。いわゆる「夫征不復」。「夫」は即ち九三を指す。それは上に相応ずるの爻なく・下に輔助なくして、却って六四に緊く挨る。六四も亦正応なきにして、两爻は相近して投合せば、だから九三は此の不正当の配偶に依従するを樂しみて、まさに丈夫の一去して返らざるなり。丈夫はすでに返らざれば、妻子も亦正道を守住する能わずして、於是乎身ごもりて能く生育せざるの事有りて、終に凶険に至る。
利用禦寇者,言三既往不復,樂於邪配,其情意相得而莫能間,故可以御衛其外來之寇。然於君臣之道、夫婦之禮已為乖戾,故但可禦寇而得為利矣。象曰夫征不復離群醜者,言九三居下體之上而樂於邪配,離去群類,不復反其家矣。婦孕不育失其道者,夫既征而不復,則其婦亦有邪欲之事,以至孕而不育,是大失夫婦之道也。利用禦寇順相保者,三與四樂為邪配,其情相得,和順以相保,故可以御其寇難也。
いわゆる「利用御寇」は、九三はすでに一去して返らざるにして邪配に依従するを樂しめば、两下は情意は相投して離間するに従なければ、だから能く外来の盗寇を抵御するを言うなり。只だ君臣の道・夫婦の礼の上に於いてはすでに乖違せれば、だから只だ御寇の一事の上に於いては還算に利有るのみ。《象伝》の「夫征不復、離羣醜也」は、九三は下卦の最上に処して邪配を樂しみて、自らの同類を離れて、再び自らの家に返回せざるを言うなり。「婦孕不育、失其道也」と言うは、丈夫はすでに出行して帰らざれば、妻子も亦邪僻の念頭を生出して、以て身ごもりて能く生育せざるに至れば、これは大大に夫婦の道を失掉せるを言うなり。「利用御寇、順相保也」と言うは、九三と六四とは邪配を結成するを樂しみて、情意は相投して、和順に互相に保全せば、だから能く盗寇の難を抵御するを言うなり。
六四:鴻漸于木,或得其桷,無咎。象曰:或得其桷,順以巽也。
六四の爻辞にいう。鴻雁は漸漸に樹木の上に飛上し、或いは平直の枝幹を得て身を棲するを得ん、過咎なし。《象伝》にいう。能く平直の枝幹を得るは、それは柔和にして謙順なるがゆえなり。
義曰:木又髙於陸也,言此一爻漸進至於上卦,其位漸髙。然則鴻者水禽也,今漸於木,非其所也。言四進無正應而下比於三,三亦無正應,樂於邪配,亦非其所也。桷者,榱椽之屬也。言六四以陰居陰,本得其正,雖比於三有邪配之事,然三亦無正應,近而相得,情意相合,可以相輔佐而樂得其所,猶得修長勁直之木,可以安棲,不至於失所而可以無咎也。象曰或得其桷順以巽也者,所以得桷而安棲者,蓋其不尚剛暴,而能盡和順柔巽之徳故也。
胡瑗が解説します。樹木はまた陸地より更に高し、此の一爻は漸進して上卦に到りて、位置は愈々高し。しかるに鴻雁は水鳥にして、今、樹上に飛到すれば、本は其の待つべきの地方にあらざるなり。これは六四は上進して正応なきにして、下に向かって九三に親比し、九三も亦同じく正応なきにして邪配を樂しめば、亦非其の待つべきの地方にあらざるを言うなり。「桷」は屋椽の一類の平直の木条なり。六四は陰爻を以て陰位に居りて、本来は正を得たるなりと雖も。たとい九三と親比して邪配の嫌有るも、但し九三も亦正応なきにして、两爻は相近して投合し・情意は契洽して、能く互相に輔助して各々其の所に安んずべく、即ち修長挺直の樹枝を得て能く安穏に棲息して・其の所を失うに至らざるがごとく、それによって過咎なし。《象伝》の「或得其桷、順以巽也」、其の能く平直の枝幹を得て安然として棲息する所以は、まさにそれは剛強暴烈を崇尚せずして、能く和順柔巽の徳性を尽顕するがゆえなり。
九五:鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。象曰:終莫之勝吉,得所願也。
九五の爻辞にいう。鴻雁は漸漸に高大の山陵に飛上し、妻子は三年も曽て身ごもらずと雖も、但し最終に能く彼らを阻挡する者なく、吉祥なり。《象伝》にいう。最終に能く彼らを阻挡する者なくして吉を得るは、願いのごとくを得るがゆえなり。
義曰:大阜曰陵,是岡阜最髙者,又髙於木。九五漸得位至於上體,是猶鴻之漸於髙阜之上也。婦謂六二也,言五與二為應,而三四為邪配之事間隔於其間,塞已之路,使不得往而相從,以成生育之功也。然五與二本為正應,皆有中正之徳,誠以相待,其心志不怠,雖三四邪僻之人慾間其路,然而終不能勝之也。象曰終莫之勝吉得所願者,言九三六四終不能為之間隔,則五與二心志相從而得所願也。
胡瑗が解説します。大なる土山を「陵」と叫ぶ、是れ岡阜の中の最も高きにして、樹木よりも高し。九五は一步步に上卦に升到して其の位を得れば、まさに鴻雁の漸漸に高阜の頂に飛上するがごとし。「婦」は六二を指す。九五と六二とは本は正応の一対なれども、しかるに九三・六四は邪配を結成して中間に横たわりて、通路を堵住して、両者をして往来相従して以て生育の功を成する能わざらしめれば、だから爻辞は「婦三歳不孕」と説く。しかるに五と二とは本は正応にして、皆中正の徳有りて、誠を以て相待し・心志は懈らず。縦然に三・四のあのようの邪僻の人は彼らの路を隔断せんと想うも、終究にも亦彼らに圧し過ぐる能わざるなり。《象伝》の「終莫之勝吉、得所願也」は、九三・六四は終究に彼らを隔て断つ能わざれば、ならば九五と六二とは心志は相従して、亦即ち願いのごとくを得たるを言うなり。
上九:鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。象曰:其羽可用為儀吉,不可亂也。
上九の爻辞にいう。鴻雁は漸漸に高処に飛到し、其の羽毛は以て礼儀の装飾と為すべく、吉祥なり。《象伝》にいう。羽毛は以て儀飾と為して吉を獲ずるは、其の操守は攪乱すべからざるがゆえなり。
義曰:按此《漸》卦始於微而至於大,由於下而升於髙,故此一卦皆以鴻漸為象:初則漸於乾,二則漸於盤,三則漸于陸,四則漸於木,五則漸於陵。至此上九復言陸者,按諸家之說,以謂上九九三皆處一卦之上,故皆言陸,陸者髙之頂也。
胡瑗が解説します。《漸》卦は細微よりして広大に至り・低処よりして高処に升れば、だから整卦に皆鴻雁の漸飛を用いて象と為す。初六は水辺に飛到し・六二は磐石に飛到し・九三は陸地に飛到し・六四は樹上に飛到し・九五は山陵に飛到す。上九に到れば却って又一箇の「陸」の字を出現して、九三と重復す。各家の説法は、上九と九三とは分かちて上卦・下卦の最上位に処せば、だから皆「陸」と説きて、而も「陸」を解して高処の頂端と為す。
徧觀經文,又無髙頂曰陸之文,且陸者,地之髙平者也;陵者,大阜也,又安有地而反髙于山阜者哉?子夏之說亦然,其義未通。陸氏之說言髙過即反下,故上九處至極之地反為陸也。按《漸》卦自下而漸於上,自微而至於髙大,且陵者未為極髙之地,豈有反下之義哉?
しかるに遍く経文を観るに、併せて高処の頂端を「陸」と叫ぶの文字なし。まして「陸」は地面上の高くして平坦の地方・「陵」は大なる土山にして、何処に平地が返って山阜より高きの道理有らんや。子夏の説法も亦是れ此の路にして、義理は講じ通らざるなり。陸氏の説法は、高き極処に到れば便ち返って下に向かう、だから上九は最高の地に処して返って「陸」と説き成す。しかるに《漸》卦は自ら下よりして漸々に上に向かい・自ら細微よりして高大に至るにして、况且「陵」は還算に最高の地と称すに及ばず、何有る此処に到りて返って下に向かうの道理あらんや。
今考於經文,陸字當為逵字,蓋典籍傳文字體相類而録之誤也。逵者,雲路也,言鴻之飛髙至於雲路,其羽翎毛質可以為表儀,亦猶賢人君子自下位而登公輔之列,功業隆盛,崇髙逺大,可以為天下之儀表,故獲吉也。按輔嗣之意,亦解為雲路之義,言雖進處髙潔不累於職,峩峩清遠,若止在髙平之陸,安得有髙潔峩峩清遠之象哉?以此推之,是傳録之際誤書此逵為陸字也明矣。象曰其羽可用為儀吉不可亂者,言聖賢君子之心,不為外物所動,不為情慾所遷,故能積累其善,以至德業髙大而不可亂也。
今、経文を拿て来たりて考訂すれば、「陸」の字は応に「逵」の字なるべく、大概は典籍の伝抄の時に字形は相近して以て誤を致せり。「逵」は雲中の通路なり。鴻雁は高飛して直に雲路の上に到りて、其の翎羽毛質は以て礼儀の表飾を做成すべくを言うなり。これ譬えば賢人君子は低位より一步步に三公宰輔の列に登上して、功業は隆盛・崇高逺大にして、以て天下の人の仪表と為すべきがごとく、だから吉祥を獲得す。王弼の意思を看れば、亦是れ雲路と解す。彼は賢者はたとい高潔の地に進居するも職務に牽累せられず・巍然として高聳して清逺にして出塵すと説く――若し只だ高平の陸地上に停在するのみなれば、何処に高潔巍然・清逺出塵の気象と談ずるに及ばんや。此に由りて推斷すれば、显然に是れ伝抄の際に「逵」を「陸」と誤写せるなり。《象伝》の「其羽可用為儀吉、不可乱也」は、聖賢君子の心は外物に動揺せられず・情欲に牽移せられざれば、だから能く一点点に善行を積累して、徳業の高大にして攪乱すべからざるに到るを言うなり。
帰妹 兌下震上
歸妹,征凶,無攸利。
《帰妹》卦の卦辞にいう。随嫁の妹妹・侄女の身分を以て夫家に嫁いで、若し本分に安んぜずして一意に前に向かって進を争えば、即ち凶険を招致して、何の一処の利益を得べきもなきなり。
義曰:按《序卦》云「進必有所歸」,故受之以《歸妹》。大凡人事,其進必有所歸;若進而無所歸,則是於進之義失其道矣。然則所謂歸妹者,謂侄娣從女兄而適於人,故謂之歸妹。夫人之不孝,無後為大。其諸侯守宗廟社稷之大,其事尤重,故聖人制禮,使一娶九女,廣其繼嗣,生生不絶,永可以守宗廟社稷之祀而不廢也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》の「進必有所帰」の説法に依れば、事物は前に向かって推進して後に必定に帰宿有るを、だから《漸》卦の後に接きて《帰妹》を排す。凡そ人間の事は、前に往き走れば必ず安頓の去処有るを要す。只だ前進を知りて帰るべきの処なければ、即ち「進」此の件事の上に於いて正道を失掉す。いわゆる「帰妹」は、陪嫁の侄女と妹妹との嫡姐に随いて一同に夫家に嫁ぐを指す。古人は不孝の中に於いて後嗣なきを以て最も厳重と為し、而も諸侯は世代に宗廟社稷を守住して、子嗣を伝続するの一事は更に緊要なれば、だから聖人は婚禮を制定して、諸侯をして一次に九位の女子を娶り帰らしめて、子嗣の來源を拓き広げて、生養は断絶せず、能く長久に宗廟社稷の祭祀を守住して中廃するに至らざらしむるなり。
故娶一而二往從之,為左右媵,各有侄娣,同姓者九人。必須同姓,所以親親相睦,絶爭妬之心,是以聖人重之。因震兌之象以明其義:震為長男,兌為少女,以少女從於長男,非其所配也;非其配而從之者,則是侄娣而從於女兄適人之義也。征凶無攸利者,此言侄娣雖從於人,然上有女兄為之正配,當退守其分。苟非其位而有征進,則是侵女兄之權,奪女兄之寵,欲以下而陵於上,以卑而侵於尊,以庶而亂於嫡,是凶之道,必無所利也。
だから諸侯は正式に一位の正妻を迎娶して、別に两箇の同姓の国は女を送りて陪嫁して、左媵・右媵と称す。正妻と両媵とはまた各自に侄女・妹妹を帯びて随行して、合し起せば共は九人なり。必ず同姓なるべしと規定する所以は、血親の間をして彼此に親愛和睦せしめて、寵を争い嫉妬するの心を杜絶せんと欲すればなり、聖人はまさに此に因りて此の套の礼制を看重す。胡瑗はまた上震下兌の卦象に就きて来たりて卦義を闡明す。震は長男を象徴し・兌は少女を象徴して、少女を以て去りて長男に追随するは、本来即ち彼女と相配するの対象にあらざるなり。すでに正配にあらずして仍として之に随いて出嫁せば、あれはまさに侄娣の嫡姐に跟いて人に嫁ぐの意なり。卦辞の「征凶、无攸利」は、侄娣はたとい同じく夫家に嫁入るも、但し上頭に還有嫡姐が正妻と作り居れば、彼女らは理当に自らの名分を退守すべくを言うなり。たとい本位に安んぜずして前に向かって進を争えば、則ちそれは嫡姐の権柄を侵奪し・嫡姐の寵愛を搶き走る、下を以て上に凌ぎ・卑を以て尊を侵し・庶を以て嫡を乱る、これまさに凶を招くの道にして、必然に一に利する所なきなり。
彖曰:歸妹,天地之大義也。天地不交而萬物不興,歸妹,人之終始也。說以動,所歸妹也。征凶,位不當也。無攸利,柔乘剛也。
《彖伝》にいう。帰妹の礼は、体現する所は天地の間の最も重大の道理なり。天地の二気は若し交感せざれば、万物は即ち興起するに従なし。男女の婚配・侄娣の随嫁は、まさに人類の生命の終結と延続とに関係す。下卦兌は喜悦を主り・上卦震は行動を主りて、喜悦に因りて行動すれば、嫁出す所はまさに妹なり。卦辞の「征凶」と言うは、各爻の処する所の位次は並びに相当ならざるがゆえなり。「无攸利」と言うは、陰柔は陽剛の上に凌駕するがゆえなり。
義曰:此廣言天地之道,以明歸妹之義也。夫天地之道,陽氣下降,陰氣上升,陰陽交通,二氣相感,然後萬物生。若其二氣不相交感,則萬物孰由興發而生成也?故古者諸侯一娶九女,所以廣繼嗣而承守宗廟社稷之祀;若其婚姻之禮廢,不廣其繼嗣,則其社稷之祀、宗廟之奉絶而無守,是猶天地不交則萬物不能興也。
胡瑗が解説します。此の一段は天地運行の大道より推して広く発揮して、以て《帰妹》一卦の意義を闡明す。天地の法則は、陽気は自ら上よりして下降し・陰気は自ら下よりして上升し、陰陽は彼此に貫通して・两種の気は互相に感応して、後に万物は乃ち化生を得たるなり。たとい此の两種の気は互いに交感せざれば、万物はまた何を憑りに興起して長成せんや。だから古時の諸侯は一次に九位の女子を娶り帰るは、まさに子嗣を広開して・宗廟社稷の祭祀を承担し守住するを好しと為るがためなり。たとい婚姻の礼は荒廃して・子嗣の來源を拓き広げるに往かざれば、ならば社稷の祭祀・宗廟の奉養は即ち断絶して承守する人なからん、これ譬えば天地の二気は交わらざれば、万物は便ち興発するに従なきがごとし。
歸妹人之終始者,言人凡有生則有死,有盛則有衰。諸侯一娶九女,正室死則右媵繼之,以至左媵及侄娣繼之不絶,所以廣其嗣息而承其祖先之業,是歸妹者人之終始者也。說以動所歸妹者,此因二體以釋歸妹之義。上體震,震為動;下體兌,兌為說。兌為少女而從於震之長男,非其所說者,今動而得說者,蓋其所歸嫁侄娣以從於女兄之故也。
《彖伝》は帰妹は人の終始に関ると説くは、人は生有れば必ず死有り・興盛有れば必ず衰微有るを言うなり。諸侯は一次に九女を娶るは、正妻は去世せば便ち右媵に由りて接続し、再び下に往きて左媵および侄娣に由りて依次に接続して断絶せず、以て子孫を広開し・祖先の基業を承接すれば、だから帰妹は人倫の終結と開始とに関係すると説く。「説以動、所帰妹也」に至っては、上下の两箇の単卦の性情に就きて来たりて卦義を解釈す。いわゆる「卦徳」は、即ち一卦の代表する所の性情と作用なり。上卦は震、震の卦徳は動を為し・下卦は兌、兌の卦徳は悦を為す。兌は少女にして震の長男に追随するは、本は彼女の喜悦する所の対象にあらざるに、今、却って能く一面に行動して一面に喜悦するは、まさに嫁ぐ所は侄娣にして・嫡姐に随いて一同に門を過ぐるの縁故なるがゆえなり。
征凶位不當者,謂九四、九二皆以陽居陰,六三、六五以陰居陽,是位不當也。夫以侄娣而從於女兄,是不當其正位;既不當其正位而妄有征進,則奪寵侵權,凶之道也。無攸利柔乗剛者,蓋六三之柔乗九二之剛,六五之柔乗九四之剛。言柔乗剛者,是卑陵於尊,庶亂於嫡,必不利矣。
「征凶、位不当也」と説くは、九四・九二の两爻は皆陽爻を以て陰位に居り・六三・六五の两爻は皆陰爻を以て陽位に居るを指し、此れ即ち「爻位」の当たらざると叫ぶなり。いわゆる爻位は、一爻の六箇の位次の中に処する所の位置、および其の陰陽属性と此の位次とは相合するか否かを指す。侄娣は嫡姐に跟いて人に嫁ぐは、本来即ち正妻の名位の上に立たざるなり。すでに正位に在らざるに、却又胡乱に前に向かって進を争えば、即ち寵を奪い権を侵す、これは凶を招くの道なり。「无攸利、柔乗剛也」と説くは、六三此の一陰爻は九二の陽爻の上に凌駕し・六五此の一陰爻は九四の陽爻の上に凌駕するがゆえなり。「剛柔」は陽爻と陰爻の代称。陰爻は陽爻の上面に圧るを「乗」と叫び・緊接して陽爻の下面に在るを「承」と叫び、合して「承乗」と称す。陰柔を以て陽剛に乗ずるは、即ち卑者は尊者に凌駕し・庶妾は嫡妻を扰乱して、必定に利有ることなからん。
象曰:澤上有雷,歸妹。君子以永終知敝。
《象伝》にいう。沼沢の上に雷声を響かす、これ即ち《帰妹》卦の取象なり。君子は此に由りて領悟す。事を弁ずるは着眼して長久の結局に於いてし・併せて預め一套の制度は末流に到りて終に出現するの弊敗を看清すべきなり。
義曰:澤上有雷,所以鼓動萬物以廣生成之功,有歸妹之象,故聖人名為歸妹,一娶九女之道,使其永久繼嗣而無絶。君子之人觀此歸妹之象,必當察其事之永乆,法之終末必有敝壞,當預防之可也。
胡瑗が解説します。沼沢の上に雷有りて、雷声は万物を鼓動して、化育生成の功をして推し広げるを得せしめば、まさに帰妹の象徴に合乎せり、だから聖人は此の一卦に名を帰妹と取るなり。一次に九女を娶り帰るの制度は、即ち子嗣をして長久に延続して断絶せざらしめんと欲するなり。君子は此の卦象を観察して、必ず一件の事は能く長久に維持するか否かを考察して・併せて明白にするは任何の一套の法度も末流に到れば皆敗壞を出現して・応に預め防範を加えるべきなり。
初九:歸妹以娣,跛能履,征吉。象曰:歸妹以娣,以恆也。跛能履吉,相承也。
初九の爻辞にいう。随嫁の妹妹の身分を以て出嫁するは、即ち跛脚の人の仍として能く走路するがごとく、此のように前行すれば是れ吉利なり。《象伝》にいう。娣の身分を以て随嫁するは、これは人倫の中の恒久にして変らざるの道理なり。跛脚にして仍として能く行走して吉を獲ずるは、彼女は能く安心して上の人に承事するがゆえなり。
義曰:女子少者曰娣。初九處一卦之始,最近卑下之地,是侄娣從於女兄以適於人,而能自處卑下,盡其卑順之道以承其上,而得侄娣之道,故曰歸妹以娣也。跛者,足之偏也,猶侄娣者非其正配,然而從女兄以適於人,能盡其道以配君子而廣其孕嗣以成其家,猶足之雖偏而能履地而行,不至於廢也。既能盡其侄娣之道,守卑順之質,以是而往事於君子,則獲其吉也。象曰歸妹以娣以恆者,言女弟以從於女兄而適人者,人倫之常也。跛能履吉相承也者,言能盡其柔順承事於上,以承其家,吉之道也。
胡瑗が解説します。女子の中の年紀の較小なるを「娣」と叫ぶ。初九は全卦の開頭に処して、位置は最も下に靠り・最も卑微にして、まさに侄娣の嫡姐に跟従して夫家に嫁ぐを象徴して、而も能く卑下の位に安処して、力を尽くして謙卑柔順の道を守住して来たりて上面の人に奉事して、それによって侄娣の応有の分際に合乎せば、だから爻辞は「帰妹以娣」と説く。「跛」は脚に偏残有る、譬えば侄娣は併せて正妻にあらざるなり。しかるに彼女は嫡姐に随いて人に嫁いで、能く自らの本分を尽くして丈夫を輔助し・子嗣を繁衍し・家室を成就すれば、即ち脚はたとい偏残なるも仍として能く地を踏みて行走して・廃棄せられて用いられざるに至らざるがごとし。すでに能く侄娣の道を尽くし・謙卑柔順の本質を守住して、此のようの態度を用いて去りて丈夫に侍奉すれば、自然に吉祥を獲得す。《象伝》の「帰妹以娣、以恒也」は、妹妹は嫡姐に随いて出嫁するは、これは人倫の常道なりを言うなり。「跛能履吉、相承也」と言うは、彼女は能く柔順の徳を尽くして上の人に承事して、従而に家室を撑持し起すを言い、これ即ち吉を獲るの道なり。
九二:眇能視,利幽人之貞。象曰:利幽人之貞,未變常也。
九二の爻辞にいう。一隻の眼睛に毛病有るの人は仍として能く看見す、宜しく幽居して静を守るの人のごとく正道を固守すべし。《象伝》にいう。幽静の人の貞正を守るに宜しきは、彼女は併せて恒常の道を改変せざるがゆえなり。
義曰:眇者,目之偏也。九二以陽居陰,履非其正,亦猶侄娣從於女兄非正室之象也。然而能盡卑下之節以承於上,而配君子,廣其繼嗣,猶目之偏亦不廢於視也。利幽人之貞者,言九二雖履非其正,然上有六五之應;雖上有其應,而為侄娣者不可越其位分而上進,如其妄求上進,則奪女兄之權,故當退處其位分,守其幽靜之道而不變,故獲其利。象曰利幽人之貞未變常者,言侄娣所以從女兄而適人,必居幽靜守正以事君子,此道之常也。九二雖有其應,不妄求進,盡至正之道,是未變其常也。
胡瑗が解説します。「眇」は一隻の眼睛に偏残有るなり。九二は陽爻を以て陰位に居りて、処する所は併せて正に合乎せず――陽爻は陽位に居り・陰爻は陰位に居るを乃ち「正」と叫び・上下卦の中間の一爻に居るを「中」と叫び・両者は兼備すれば便ち「中正」と称す。これまさに侄娣の嫡姐に随いて出嫁して正妻にあらざるの形象に象る。しかるに彼女は能く謙卑の節を尽くして来たりて上面の人に奉事し・丈夫を輔佐して・子嗣を広延すれば、即ち眼睛はたとい偏残なるも亦観看を妨げざるがごとし。「利幽人之貞」と説くは、九二はたとい処する所は正ならざるも、上面に却って六五とそれと相「応」ずる有り。いわゆる応は、初と四・二と五・三と上の此の三組の位次の間の一陰一陽の彼此に呼応するの関係を指す。たとい上に呼応有るも、但し身は侄娣を為れば已むを得ず自らの名分を越過して上に向かって進を争うべからず、若し妄りに上進を求めば、即ち嫡姐の権柄を奪去せん、だから応に本分を退守して・幽静自処を堅持して改変せざれば、それによって乃ち利益を獲得す。《象伝》の「利幽人之貞、未変常也」は、侄娣は嫡姐に随いて人に嫁ぐに、必ず幽静自守して・正を持して以て丈夫に事えて、これは恒常の道なりを言うなり。九二はたとい呼応有るも妄りに前進を求めずして、至正の道を尽くせば、まさに常道を改変せざるなり。
六三:歸妹以須,反歸以娣。象曰:歸妹以須,未當也。
六三の爻辞にいう。出嫁の妹妹は還須等待して、時候の到るを待ちて再び回頭して以て娣の身分を以て出嫁せん。《象伝》にいう。出嫁して須要等待するは、眼下は還有適当の時候に到らざるがゆえなり。
義曰:須,待也。六三以陰柔之質居剛陽之位,是履非其正也,猶侄娣之從於女兄,其年尚幼,未可以適人,必待年於父母之國,待其長大,然後復歸君子之家以為侄娣。故《春秋》隱二年書伯姬歸於紀,至七年書叔姬歸於紀。伯、叔者,長幼之稱,則叔姬者伯姬之侄娣也。當二年伯姬歸紀之時,其年尚幼少,故待年於魯國,至七年乃始歸於紀,是侄娣有待年之義也。象曰歸妹以須未當者,是言侄娣有幼少未當歸人,必待年於父母之國也。
胡瑗が解説します。「須」は即ち等待なり。六三は陰柔の資質を以て陽剛の位次を占踞して、処する所は正に合乎せず、譬えば侄娣は本応に嫡姐に随いて出嫁すべきに、しかるに年紀は還小にして、能く人に嫁がざれば、只だ父母の国に留りて年齢の合宜を待ちて、長大して後に乃ち夫家に到りて侄娣を充当するに如かざるがごとし。だから《春秋》の隠公二年は伯姬の紀国に嫁往するを記載し、隠公七年に到りて又叔姬の紀国に嫁往するを記載す。伯・叔は排行長幼の称呼にして、見るべし叔姬は即ち伯姬の侄娣なり。隠公二年に伯姬は紀国に出嫁するの時、叔姬は年紀は還小なれば、それによって魯国に留りて成年を等待して、七年に直到りて乃ち紀国に嫁到れり、これ即ち侄娣に「待年」の礼有るの実例なり。《象伝》の「帰妹以須、未当也」は、まさに侄娣は年紀は幼小にして、還有嫁ぐの時候に到らざれば、必ず父母の国に於いて成年を待つべきを言うなり。
九四:歸妹愆期,遲歸有時。象曰:愆期之志,有待而行也。
九四の爻辞にいう。出嫁の日子は原定の期限を拖過せり、晚めに出嫁するは自ら其の合適の時機有るなり。《象伝》にいう。婚期を延誤するの心意は、等待する所有りて後に乃ち行動するなり。
義曰:愆,過也。九四以陽居陰,處非正位,猶女子雖備侄娣之數以適於人,過期而未往。雖過期未往,然而以剛陽之質居陰柔之位,不為躁進,有柔順之徳,以其年尚幼,未可以往,故待其禮之全備,俟其年之長大,然後歸於君子,斯得其時也。遲,亦待也。象曰愆期之志有待而行者,言九四居其陰位,有柔順之徳,不務剛躁,是志有所待而行也。
胡瑗が解説します。「愆」は即ち超過なり。九四は陽爻を以て陰位に処して、正位に居らず、譬えば女子はすでに侄娣の数に列入して・応に人に随嫁すべきに、却って婚期を過ぎて還有前往せざるがごとし。たとい期を過ぎて未だ嫁がざるも、但し彼女は陽剛の資質を以て陰柔の位に居りて、肯んじて躁急冒進せずして、柔順の徳を具備す。年紀は還小にして能く出嫁せざるがゆえに、だから礼数の完備・年歳の長成を待ちて、後に乃ち夫家に帰して、此のようで乃ち時宜に合乎すと算す。「遅」も亦等待の意なり。《象伝》の「愆期之志、有待而行也」は、九四は陰位に居りて、柔順の徳を具備して、剛強急躁を逞くせずして、心志は等待する所有りて後に行動するを言うなり。
六五:帝乙歸妹,其君之袂不如其娣之袂良,月幾望,吉。象曰:帝乙歸妹,不如其娣之袂良也。其位在中,以貴行也。
六五の爻辞にいう。商王帝乙は妹妹を嫁出し、あの正室を為るの衣袖の装飾は返って陪嫁の娣の華美に比ぶに及ばず、月亮は將に圓れんとして未だ満たざる、吉利なり。《象伝》にいう。帝乙は妹を嫁すに、正室の衣飾は其の娣の美好に及ばず。六五は上卦の中位に処するは、尊貴の身分を以て行事するなり。
義曰:帝乙者,商之賢王也。言六五以陰柔之質居上卦之中,是猶帝乙之王所歸之妹也。然按《泰》之六五言帝乙歸妹,此亦言之者,蓋帝乙是商之賢王,於時最能盡婚姻之禮,周之去商尤近,知其最詳,故聖人特取帝乙為言以明其義也。
胡瑗が解説します。帝乙は商代の一位の賢明の君王なり。六五は陰柔の資質を以て上卦の中位に居れば、即ち帝乙の嫁出せるのあの位の妹妹に譬ゆ。《泰》卦の六五も亦「帝乙帰妹」を講じ到りて、此処に又一次提起するは、帝乙は商代の賢王にして、当時に於いて最も能く婚姻の礼を行い周全せしむるがゆえなり。周朝は商代に距離すること甚だ近くして、これらの礼制に対して知るは最も詳細なれば、だから聖人は特意に帝乙を挙げて例と為して来たりて卦義を闡明す。
其君之袂不如其娣之袂良者,蓋君者,正室之小君也。故《衛詩·鶉之奔奔》之篇曰:「鶉之奔奔,鵲之疆疆,人之無良,我以為君。」君者指宣姜而言之,是正室得稱為君也。袂謂衣袖,所以為禮容也。良,善也。
「其君之袂不如其娣之袂良」と説く、其の中の「君」は正室を指し、亦即ち諸侯夫人の称する所の「小君」なり。だから《詩経》の衛地の詩の《鶉之奔奔》の一篇は写して曰く。鵪鶉は双双として相随い・喜鵲は対対として群を成し、あの人の品行は併せて美好ならざるに、我は却って還得彼女を把して国の君夫人と為さざるを得ずと。詩の裏の「君」はまさに衛国の宣姜を指せば、見るべし正妻は以て君と称すべきなり。「袂」は衣袖を指し、是れ礼儀容飾を顕示するの部位なり。「良」は即ち美好なり。
言侄娣本卑賤之位,今六五居極貴之地,是正室已死而侄娣繼為正室,有柔順之德,能盡婦道以配於君子,雖其正室之徳亦不如侄娣之容禮最備而善良也。月幾望者,望為月十五盈滿之時也。月者,陰道婦妾之象也。言六五雖得繼為正室,處至貴之地,然不可時有驕盈之志,當常執柔順之道,但如月之幾近於望,不至盈滿,則獲其吉。象曰其位在中以貴行者,六五以其處上卦之中,履至尊之位,是侄娣至此得繼其嫡而為正室,以配於上,是以賤從貴而行也。
これは侄娣は本は卑賤の地位に処するに、今、六五は却って極めて尊貴の位に居れば、見るべし是れ正妻はすでに去世して、侄娣に由りて接続して正室と為れるを言うなり。彼女は柔順の徳を具備して、能く婦と為るの道を尽くして来たりて丈夫を輔佐すれば、たとい原来の正妻の徳行なるも、亦此の位の侄娣の儀容礼節の最も周備にして美好なるに比ぶに及ばざるなり。「月幾望」の「望」は、每月十五の月亮の圓満するの時なり。月亮は陰に属し、是れ婦人妾媵の象徴なり。これは六五はたとい接続して正室と為り・至尊の地に処するを得たるも、却って已むを得ず驕矜自満の念頭有るべからず、応に終始として柔順の道を守住して、只だ月亮の満圓に接近して極盈の程度に到らざるがごとく、此のようで乃ち能く吉を獲るべきを言うなり。《象伝》の「其位在中、以貴行也」は、六五は上卦の中位に処し・至尊の位に居りて、侄娣は此処に到りて接続して嫡妻と為るを得て正室と為りて、上の丈夫に配合するを言い、これは卑賤の身に由りて尊貴に随従して行事するなり。
上六:女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。象曰:上六無實,承虛筐也。
上六の爻辞にいう。女子の捧着するの竹筐の裏は空して一物なし・男子は羊を宰するも血を見ず、一処の利有るはなきなり。《象伝》にいう。上六は一無所有、捧ぐるは一隻の空筐なり。
義曰:筐,竹器也。大凡女子承其筐篚,必有物以實之;士之刲羊,必有其血,此事之常也。亦猶侄娣之適於人,進必有所遇,退必有所繫,此亦女子之常也。今上六處一卦之上,居窮極之地,進則無所往,退則無所應,進退之間皆無所得,如女子之承筐而無其實,士之刲羊而無其血,進退失所,若以此而行,何有所利哉?象曰上六無實承虛筐者,上六位至窮極,進退無所適,猶女徒承虛筐而無其實也。
胡瑗が解説します。「筐」は竹編の器具なり。凡そ女子は筐篚を捧げて祭祀に参与するは、裏面に必定に祭品を盛有り。男子は羊牲を宰殺すれば、必定に血を見る、これは常理なり。これも亦譬えば侄娣は夫家に嫁いで、前に進めば必定に遇合する所有り・退処すれば必定に依托する所有る、これも亦女子の常態なり。今、上六は全卦の最上に処して、窮尽の極点に到れるの地方に居りて、前に往けば往くべきの処なく・後に退けばまたそれと呼応するの爻なく、進退の間は一の得る所なければ、即ち女子は筐を捧げて筐中は空空・男子は羊を宰して血を見ざるがごとく、進退は皆帰宿を失掉せり。このように照らして行事せば、何処に還会何の利益の言うべき有らんや。《象伝》の「上六无実、承虚筐也」は、上六の位次はすでに窮尽の極に到りて、進退は皆往くべきの処なきを言い、即ち女子は白白に一隻の空筐を捧げて裏頭は何もなきがごとし。
豊 離下震上
豐:亨。王假之,勿憂,宜日中。
《豊》卦の卦辞にいう。豊大の時は以て亨通すべし。君王は能く此のごときの盛大の境地に到達せば、即ち憂慮するに及ばず、只だ太陽の正中に行き到るがごときの普く四方を照らせば便ち好し。
義曰:按《序卦》云「得其所歸者必大」,故受之以《豐》。言凡得其所歸者,其道必至盛大,故以豐次於歸妹。然則豐者,王者富有天下,生聚繁夥,民物眾多,是天下眾大之時也,故謂之豐。既富有天下以至豐盛之極,是其道大通矣。
胡瑗が解説します。《序卦伝》の「得其所帰者必大」の説法に依れば、凡そ帰宿を得たるの事物有れば、其の道は必定に盛大に走向すれば、だから《豊》卦は《帰妹》の後に排せらる。いわゆる豊は、君王は天下に富有して・人口は繁衍聚集して・百姓と物産とは皆極めて多くて、まさに天下の人衆物盛の時なれば、それによって豊と叫ぶなり。すでに天下に富有して豊盛の頂点に達せば、ならば其の行う所の道は自然に大いに通達す。
王假之者,凡有聖人之徳,有仁義之道,苟不得其時,不得其位,則無興天下之勢,無居天下之資,是則雖有仁義之道,安能有所為哉?故聖人必假此豐盛之時,發號施令則民易以從,行賞用罰則民易以服,以至制禮作樂,施發教化,可以大行於天下也。
「王假之」と説き到るは、一人は縦然に聖人の徳行を具備し・仁義の道を抱持するも、若し生れて時に逢わずして・また相応ずるの地位を得ざれば、則ちすでに天下を振興するの形勢なく・亦據りて天下を治理するの憑藉なし。このようにてはたとい仁義の道を懐くるも、又能く何の事を為成さんや。だから聖人は必ず豊盛の時機を憑藉せねばならざるを言うなり。政令を発布すれば、百姓は即ち聴从し易く・賞罰を施行すれば、百姓は即ち信服し易く・進みて礼を制し楽を作りて・教化を推行すれば、皆能く天下に於いて大規模に施行すべきなり。
勿憂宜日中者,夫天下至廣,有教化之所不能及者,有一物不得其所者,是王者之所憂也。今戒之勿憂者,日中則宜也。蓋言日未中之時,則其明未盛;日之過中,則其明將衰;惟是日中正之時,則徧照天下,無纎悉幽隱不被其光輝。聖人雖富有天下,必須仁義道徳徧及於天下,使無一民一物不被其澤,不被其燭,如此可以勿憂恤也。
「勿憂、宜日中」と説き到るは、天下は極めて広大にして、総に教化の到る能わざるの地方有りて、亦某の一樣の人や物が各々其の所を得る能わざる有らん、これまさに君王の憂慮する所なり。今、卦辞は却って彼に憂慮するに及ばざるを叫ぶは、太陽の正中に当たるがごときを為し到れば即ち合宜なるがゆえなり。太陽は還有正中に升り到らざれば、光明は即ち盛ならざるに足らず。一たび正中を過ぎれば、光明は即ち衰減せんとす。唯だ正中の中天に当たるの時刻のみが、能く遍く天下を照らして、再び細微幽暗の角落も亦其の光輝を受けざるなきなり。聖人はたとい天下に富有するも、亦必ず仁義道徳を天下に遍及せしめて、一箇の百姓・一件の事物をも恩沢を得ざる・光明を照らされざるなからしめて、此のようで乃ち憂愁せざるべきなり。
彖曰:豐,大也。明以動,故豐。王假之,尚大也。勿憂宜日中,宜照天下也。日中則昃,月盈則食,天地盈虛,與時消息,而況於人乎?況於鬼神乎?
《彖伝》にいう。豊は、即ち盛大なり。内に光明を懐いて外に能く行動せば、だから豊と叫ぶ。君王は此の種の境地に達するは、盛大を崇尚するがゆえなり。憂慮するに及ばずして日の正中に象るに宜しきは、普く天下を照らすべきを言うなり。しかるに太陽は一たび正中に到れば即ち偏斜し・月亮は一たび圓満すれば即ち虧蝕す。天地の間の盈満と空虚とは、皆時序に随い退して消え長ず、まして人においてをや、まして鬼神においてをや。
義曰:言聖人廣有四海萬類,是豐盈盛大之時也。明以動故豐者,此因二體以明豐卦之義。上體震,震為雷;下體離,離為火。雷主動,火主明。聖人當豐盛之時,以至明之徳而動,則其徳敎仁義大被於天下,故此所以致豐大之極也。
胡瑗が解説します。これは聖人は四海を広有して・万類は帰附して、まさに豊盈盛大の時なりと講ずるなり。「明以動故豊」と説くは、上下両卦の卦徳に就きて来たりて《豊》卦の意義を闡明す。上卦は震、震は雷を象徴し・下卦は離、離は火を象徴す。雷は発動を主り・火は光明を主る。聖人は豊盛の時に処して、極めて明察の徳行を憑りて後に行動すれば、彼の徳教と仁義とは即ち能く天下に広被して、これで乃ち豊大の極致を造成す。
王假之尚大者,夫有聖人之徳,雖居豐盛則不能加益,雖貧賤則不能虧損。此言尚大者,蓋其得天下之勢,則仁義道德可以大行於天下,而成光大明盛之業,固非假以自大其已而己。勿憂宜日中宜照天下者,言日之中正,則天下萬物無所不照;王者之道能徧通天下,使遠近幽隱無所不燭,如日之中,乃可以勿用憂恤也。
「王假之、尚大也」と説く。聖人の徳行は本身は併せて豊盛に身を処するに因りて增添せず、亦貧賤に身を処するに因りて減損せざるなり。此処の崇尚盛大と説く所以は、彼は一旦天下の形勢を掌握せば、仁義道徳は便ち能く天下に大行して、光明盛大の功業を成就して、決して是れ豊盛を借りて自らを抬高するのみにあらざるがゆえなり。「勿憂宜日中、宜照天下也」と説くは、太陽は正中に行き到れば、天下の万物は照らされざるなくを言うなり。君王の道は能く天下に遍通して、遠近幽隠の処をして光明に覆被せられざるなからしめば、即ち太陽の正中に当たるがごとく、これで乃ち憂愁せざるべきなり。
日中則昃、月盈則食、天地盈虛、與時消息、而況於人乎、況於鬼神乎者,言凡當盛大之時,過必有衰,是故聖人於此豐大之時以切戒之。言日之過中則必傾昃,月三五而盈,過盈則必虧;天地之道,以陰陽二氣互相推蕩於其間,則有時而消虛,有時而長息,盈虛消息皆於時而行。以天地日月之大尚且如是,況人之小者、鬼神之邇者乎?故於此特戒之,使君子之人安不忘危,存不忘亡,豐盈之時不忘其衰微之際,增修其徳,謹慎其行,然後可以免喪亡傾覆之事也。
「日中則昃、月盈則食、天地盈虚、与時消息、而况于人乎、况于鬼神乎」に至っては、凡そ盛大の時に処するは、頭を過ぎれば必定に衰に轉ずを言い、だから聖人は此の豊大の際に鄭重に告誡す。太陽は一たび正中を過ぎれば必然に西に斜け・月亮は十五に到りて圓満して、圓満を過ぎれば必然に虧缺す。天地の法則は、陰陽二気は其の間に於いて互相に推移激蕩して、それによって時には消退虧虚し・時には増長充盈して、盈虚消長は全て時序に随いて運行す。天地日月の此のごときの広大の存在を以てすら尚且つ此のごとし、まして渺小の人・切近の鬼神においてをや。だから特意に此処に於いて告誡して、君子をして安定の時に危難を忘れず・生存の時に覆亡を忘れず・豊盈の時に処して日后の衰微の境地を忘れず、進みて徳行を修養し・行事を謹慎して、後に乃ち喪亡傾覆の禍患を免るべからしむるなり。
象曰:雷電皆至,豐。君子以折獄致刑。
《象伝》にいう。雷と電とは一同に到来す、これ即ち《豊》卦の取象なり。君子はこれに取法し、以て訟案を判断し・刑罰を施行す。
義曰:雷電者,皆陰陽二氣相擊而成也。夫雷電皆至於天下,使天下萬物莫不興起而成豐大,是豐之象也。君子之人觀此象而折斷其獄訟,致用其刑罰。然必法此雷電者,蓋獄訟之情巧偽萬狀,若有威無明則傷於暴,有明無威則傷於懦,故必明與威兼用之,則獄可折而刑可致矣。
胡瑗が解説します。雷と電とは皆陰陽二気の互相に撞撃して生成せらるるなり。雷電は一斉に天下に降臨して、天下の万物をして振起して豊大を成就せざるなからしめば、これ即ち豊の卦象なり。君子は此の象を観察して、以て訟案を判決し・刑罰を施用す。必ず雷電に取法するを要する所以は、訟獄の実情は巧詐万変なるがゆえなり。只だ威厳有りて明察なければ、即ち暴虐に失し・只だ明察有りて威厳なければ、即ち軟弱に失す。だから必ず明と威とを兼用して、案件は乃ち判じ清楚して・刑罰は乃ち施じ恰当すべきなり。
初九:遇其配主,雖旬無咎,往有尚。象曰:雖旬無咎,過旬災也。
初九の爻辞にいう。自らと相配するの主に遇上し、たとい身は数のすでに盈満するの時に処するも、亦過咎有ることなからず、前往すれば人の推崇を受けん。《象伝》にいう。たとい盈満の数に当たるも過咎を致さざるは、一旦此の限度を超過せば便ち災禍有らん。
義曰:配主謂九四也。夫豐盛之時,必須上下之間皆有光明盛大之徳以相敷暢,然後可得豐盛之道。今初以剛陽之徳上應於四,四亦有剛陽之徳,是上下之間皆有剛陽之徳,光明盛大之道,其徳相合配,故致其豐盛,是初遇其四之配主也。
胡瑗が解説します。いわゆる「配主」は、九四を指す。豊盛の時に処するは、必ず上下の間に皆光明盛大の徳行を具備して・彼此に敷布暢達して、後に乃ち豊盛の道を成就する能くす。今、初九は陽剛の徳を以て上に向かって九四と呼応し、九四も亦陽剛の徳を具備すれば、これ即ち上下は皆陽剛の徳有り・皆光明盛大の道を走る、二者は徳行は相合相配して、それによって豊盛の局面を造成せば、だから初九は九四此の配主に遇い到れりと説く。
雖旬無咎者,旬者十日也,謂數之盈滿也。言初與四皆有剛陽之徳而上下相信,是由君聖臣賢,其德相符。今以其發揚光明之徳徧於天下,是雖居其盈滿盛火之時,可以享豐盛而無咎也。往有尚者,言既上下之間皆有光明之徳,以此而往則行有所尚也。象曰雖旬無咎過旬災者,言上下俱有明盛光大之德,故雖居豐盈之時可以無咎;若不能守光明之道而過於盈滿,則必有傾覆之災也。
「雖旬无咎」と説く。「旬」は本は十天を指し、此処では以て数目のすでに盈満せるを表示す。初九と九四とは皆陽剛の徳を具備して上下は彼此に信任して、譬えば君主は聖明・臣子は賢能にして、徳行は互相に符合するがごとくを言うなり。今、光明を発揚するの徳行を憑りに天下に普及せば、だからたとい身は盈満至盛の時に処するも、仍として能く豊盛を享有して過咎を致さざるなり。「往有尚」と説くは、すでに上下は皆光明の徳有れば、此のように照らして前行すれば、為す所の行為は便ち推崇を受けんを言うなり。《象伝》の「雖旬无咎、過旬災也」は、上下は皆明盛光大の徳行有れば、だからたとい豊盈の時に処するも亦過咎有ることなからんを言うなり。但し若し能く光明の道を守住せずして盈満の限度を超出せば、即ち必定に傾覆の災禍を招来せん。
六二:豐其蔀,日中見斗,往得疑疾,有孚發若,吉。象曰:有孚發若,信以發志也。
六二の爻辞にいう。豊盛にする所は却って光明を遮蔽するの席幕、正午の時分に返って北斗を看見す。此のように前往すれば猜疑と禍害を招来せん。若し能く誠信を懐いて心意を発抒し出せば、則ち吉利なり。《象伝》にいう。誠信を懐いて発抒し出すは、誠信を用いて去りて衆人の心志を啓発するなり。
義曰:蔀者,掩蔽闇昧之物。凡豐大之時,必上下之間皆有明徳,不可少有闇昧,然後可以發暢於天下也。今六二以陰柔之質而上應於六五,五又是陰昧之人,是於豐大之時,所豐者不能光大,而乃豐於闇昧之物也。
胡瑗が解説します。「蔀」は光線を遮蔽して・昏暗を造成するの物なり。凡そ豊大の時に処するは、必ず上下の間に皆光明の徳有りて・稍も昏昧すべからずして、後に乃ち光明を天下に発揚する能くす。今、六二は陰柔の資質を以て上に向かって六五と呼応し、六五も又陰暗不明の人にして、これ即ち豊大の時に於いて、豊盛にする所の物は能く光大せず、返って遮蔽光明の物事の上に豊盛にするなり。
日中見斗者,斗星之名也,日昏方見,闇昧之極也。夫日之正中,其光輝徧及天下,無所不燭;豐盛之時,上下之間皆有光明之徳,則可以徧及於天下,無有不被其澤。今二居豐之時,所應皆闇昧之道,則是猶日之正中反見其斗星也。六二既是闇昧之道,則必不能相取信,若有所往,則相疑而致疾害也。
「日中見斗」と説く。斗は星宿の名称、天色は昏黒の時に乃ち看る能くすれば、見るべし昏暗は極点に到れり。太陽は正中に行き到れば、光輝は天下に遍及して照らざるの処なし。豊盛の時は、上下は皆光明の徳有れば、恩沢は即ち能く天下に遍及して、得ざる者なからん。今、六二は身は豊時に処して、呼応する所は却って皆昏昧の道にして、これ譬えば正午の時分に返って北斗を看見するがごとし。六二はすでに昏昧の道を走れば、即ち必然に能く別人の信任を取得せざらん。若し前往する所有れば、便ち互相に猜疑して禍害を招致せん。
有孚發若吉者,言六二雖以陰柔之質,無光明之徳,然位下卦之中,是有中正之道。苟能盡其至誠之心,由中之言以發天下之心志,以接天下之人,使之皆逹其聰明,莫不發其志意以親信之,如是上下相交而取信,則蒙者反而為明,疑者得以相信,則可以獲吉矣。
「有孚発若、吉」と説く。六二はたとい陰柔を以て質と為して・光明の徳行なきも、但しそれは下卦の中位に居りて、中正の道を具備す。たとい能く至誠の心を竭尽して・心の底より発するの言語を用いて去りて天下の人の心志を啓発し・天下の人を接引して、彼らの耳目をして皆通達聡明と為らしめ・人人は心志を振起して来たりて親近信任せしめば、此のように上下は交接して彼此に信を取りて、昏蒙の人は返って明白と為り・猜疑の人も亦互いに信任を得たれば、即ち能く吉祥を獲得すべし。
九三:豐其沛,日中見沬,折其右肱,無咎。象曰:豐其沛,不可大事也。折其右肱,終不可用也。
九三の爻辞にいう。豊盛にする所は光を遮るの旗幔、正午の時分に返って細微の小星を看見す。自らの右臂を折断するも、但し過咎なし。《象伝》にいう。豊盛にする所は只だ旗幔なれば、見るべし能く大事を承担せざるなり。右臂を折断したるは、終に能く任用する所有ることなからん。
義曰:沛者,繫於旗竿旌旗之垂也,所以掩蔽光明之物。沬者,星之微小也。九三雖以陽居陽,處得其正,有剛陽之質,然居離卦之位,處文明之衰,所應在於上六,上六又無光明之德,居豐之時不能光明盛大其道,是所豐者惟掩蔽光明之物也。
胡瑗が解説します。「沛」は旗竿に系いて下垂るの旌旗、遮蔽光明の物に属す。「沬」は細微暗小の星なり。九三はたとい陽爻を以て陽位に居りて・処する所は正を得て・陽剛の質を具有するも、但しそれは身は離卦の中に在りて、まさに文明の將に衰えんとするの際に当たりて、呼応する所は上六にして、而も上六も又光明の徳なし。豊時に処して能く自らの道を光明盛大せしめざれば、だから其の豊盛にする所は只だ遮蔽光明の物のみなり。
日中見沬者,夫斗者星之大,沬者星之微。六二雖亦闇昧,然猶有中正之徳,未甚至於全暗,故曰日中見斗。今九三居文明之極,其明已衰,而又所應者亦陰昧之人,是闇昧之極,猶日中反見其微星也。折其右肱者,夫手之便者在右而已,若右肱折,則左雖存亦不足適用也。言三居離明之衰,又所應皆無光明之道,雖以陽居陽,亦不能用成其事也。無咎者,九三本有光明之徳可以顯用,今處於衰暗之地,皆已自為之,不可以咎責於人也。象曰豐其沛不可大事者,凡欲立天下之治,成大事大功,必上下有光明之徳可也,今三已闇昧之甚,是不可大有為於事也。
「日中見沬」と説く。斗は較大の星・沬は極めて微小の星なり。六二はたとい亦昏昧なるも、却って還有中正の徳を保有して、全然の黑暗に至らざれば、だから只だ正午に北斗を看ると説く。今、九三は文明の尽頭に処して、光明はすでに衰退し・応ずる所も又陰暗の人にして、昏昧は極点に到れば、即ち正午に返って微星を看見するがごとし。「折其右肱」と説く。人手の霊便なるは右辺に在りて、右臂は一旦折断せば、左臂はたとい在るも亦使用するに足らざるなり。これは九三は離卦の光明衰微の時に処して、応ずる所も又皆光明の道なきにして、たとい陽爻を以て陽位に居るも、亦施展して事功を成就する法なきを言うなり。「无咎」と説くは、九三は本来光明の徳を具有して・顕揚任用すべきに、今、衰暗の地に落到したるは、全て自らの造成するにして、能く別人に帰咎責怪する能わざるがゆえなり。《象伝》の「豊其沛、不可大事也」。凡そ天下の治績を建立し・大事大功を成就せんと想うは、必ず上下は皆光明の徳有りて乃ち可なり。今、九三はすでに昏昧は甚だ太きれば、だから事功の上に於いて大いに作為有るは不可能なり。
九四:豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。象曰:豐其蔀,位不當也。日中見斗,幽不明也。遇其夷主,吉行也。
九四の爻辞にいう。豊盛にする所は光を遮るの席幕、正午に返って北斗を看見す。自らと同類の主に遇上す、吉利なり。《象伝》にいう。豊盛にする所は只だ席幕なるは、処する所の位次は相当ならざるがゆえなり。正午に北斗を看るは、幽暗にして明らかならざるなり。同類の主に遇いて吉を獲ずるは、終に能く行動する所有るに至れるなり。
義曰:蔀者,蔽障之物。言九四有剛陽之德,居陰柔之位,是當豐盛之時而反居於闇昧之地,故亦曰豐其蔀也。日中見斗者,夫居豐之時,當有光明盛大之徳,如日之中正無不照臨;今九四反以剛明之質處闇昧之地,是猶日中之見斗星,闇昧之至也。
胡瑗が解説します。「蔀」は光線を遮擋するの物なり。九四は陽剛の徳を具備して却って陰柔の位に居りて、まさに豊盛の時に当たりて返って昏暗の地方に処せば、だから亦「豊其蔀」と説く。「日中見斗」と説く。豊時に処するは、本応に光明盛大の徳行を具備して・太陽の正中に当たるがごときの照らざる所なかるべきに、今、九四は返って剛健明察の資質を以て昏暗の地に処せば、即ち正午に北斗を看見するがごとく、昏暗は極点に到れり。
夷主謂初九也。言四雖居陰暗之位,然本有剛明之質,而又應在初九,初亦有剛明之質,德與己同,故謂之夷主也。是上下之際交相發明,申暢其光明之徳以被天下,而獲其吉也。象曰日中見斗幽不明也者,言本有剛明之質而自處幽暗之地,不能發其光明之道。遇其夷主吉行也者,雖居陰暗而遇得初九剛明之夷主以相輔佐,而發明盛大之道,是得吉而行者也。
いわゆる「夷主」は、初九を指す。九四はたとい身は陰暗の位に居るも、本来は却って剛健明察の資質を具有して、而且に初九と相応じ、初九は同じく剛明の質を具有して・徳行はそれと相同じければ、だから夷主と称す、亦即ち同類の主なり。於是乎上下の間は互相に彰顕発明して、光明の徳を申展暢達して天下を覆被せば、それによって吉祥を獲得す。《象伝》の「日中見斗、幽不明也」は、本は剛明の質有るに、却って自ら幽暗の地に処して、能く光明の道を発揮する能わざるを言うなり。「遇其夷主、吉行也」と言うは、たとい身は陰暗に居るも、却って初九此の位の剛明の同類の主の来たりて輔佐するに遇いて、従而に盛大の道を彰明して、だから能く吉を得て行動する所有るを言うなり。
六五:來章,有慶譽,吉。象曰:六五之吉,有慶也。
六五の爻辞にいう。文采光明の賢才を招来せば、即ち福慶と美譽有り、吉利なり。《象伝》にいう。六五の吉を得るの所以は、慶賀すべきの事有るがゆえなり。
義曰:章,明也。六是陰柔之質,五是剛陽之位,以陰柔之質而來居陽剛,是自能為章美光大之道,以發揚明德於天下,故有慶善之事、嘉美之譽而獲吉也。
胡瑗が解説します。「章」は即ち明なり。六は陰柔の資質を代表し・五は陽剛の位次を代表す。陰柔の質を以て来たりて陽剛の位に居れば、それは自身は能く文采光美の道を成就して・光明の徳行を天下に発揚するを説明せば、だから慶賀すべきの善事有り・美好の声譽有りて、それによって吉祥を獲得す。
上六:豐其屋,蔀其家,窺其戸,闃其無人,三歲不覿,凶。象曰:豐其屋,天際翔也。窺其戸,闃其無人,自藏也。
上六の爻辞にいう。屋宇を造りて極めて高大ならしめながら、却って家門を遮蔽して起す。門縫より裏に向かって窺看すれば、寂静にして一箇の人影をも見ず、三年は皆人に見えず、凶険なり。《象伝》にいう。屋宇を造りて極大ならしむるは、天辺に飛翔するがごときの高逺なり。其の門戸を窺看して寂として一人なきは、自ら光明を蔵れ起せるなり。
義曰:屋者,人之所蔽蓋其身也,今豐盛之終,是闇昧之極也。家者,人所密而自藏也,又蔀掩之,亦謂闇昧之甚也。上六以陰柔之質居一卦之極,不得其中而過於豐盛之道,其暗至甚,猶屋本蓋而復豐盛之,家本深藏而又掩蔽之,是闇昧之極者也。
胡瑗が解説します。屋子は人の以て自身を遮蔽するに用うるにして、今、豊盛の終点に処して、まさに昏昧の極点に到れり。家は人の隠密自蔵の地方、再び遮蔽掩盖を加えれば、亦昏昧の太に過ぎたるを説明す。上六は陰柔の質を以て全卦の頂端に居りて、能く中を守らずして豊盛の道を過度に追求せば、だから昏暗は至極なり。譬えば屋子は本来即ち遮蓋の物にして、還要それを造り更に高大ならしめんと欲し・家は本来即ち深藏の処にして、還要再び遮掩を加えんと欲す。これまさに昏昧の極点に到れるのさまなり。
闃者,寂然而無所覩也。言上六陰暗之極,猶屋之豐、家之蔀,雖窺視其戸,寂然無所覩而不見其人,雖三歲之間亦無所覿,此凶之道也。象曰豐其屋天際翔也者,言上六之爻過於中道而闇昧之極,始飛於天際,上而無所歸。自藏者,言以至窺視其戶,寂然而無所覩,是自藏其光明而不能發揚之也。
「闃」は寂静にして何も看る能わざるなり。これは上六は陰暗は極処に到りて、即ち屋宇の高大・家門の遮蔽のごとく、たとい門縫の裏より窺看するも、亦静にして任何の物をも看えず・一箇の人をも見ず、三年の間は同じく何も看る能わざれば、これは凶険の道なり。《象伝》の「豊其屋、天際翔也」は、上六此の一爻は中道を超出して昏昧は至極にして、竟に天辺に飛到するがごとく、高々として上に居りて帰宿するの処なきを言うなり。「自蔵也」と言うは、以て其の門戸を窺看するに、寂静にして毫も見る所なきは、まさに自ら光明を蔵れ起して能く発揚する能わざるなり。
旅 艮下離上
旅:小亨,旅貞吉。
《旅》卦の卦辞にいう。外に客居するは只だ小さく亨通するのみ、羈旅の人は旅途中の応有の正道を守住して乃ち吉利なるべきなり。
義曰:按《序卦》云「窮大者必失其居」,故受之以《旅》。言凡人居於豐大之時,恃其盛大,多過於中道,而不知守常,以盈滿自取傾覆喪亡之事,致其身窮困,反居於外,故旅所以次於豐。旅者,羈旅之義,言人寄身於他國,托居於外,故謂之旅。
胡瑗が解説します。《序卦伝》の「窮大者必失其居」の説法に依れば、盛大を尽頭に追求するの人は一定会して安居の所を失うれば、だから《豊》卦の後に接きて《旅》卦を排す。人は豊大の時に処して、往往に興盛を倚仗して・行事は中道を超過して・又能く常法を守住するを懂得せざれば、盈満に因りて自ら傾覆喪亡の禍事を招来して、自身を窮困に弄して・返って外に流落せば、だから旅卦は豊卦の後に排せらる。いわゆる旅は、即ち羈旅の意なり。人は身子を別の邦国に寄放して、暫く外地に托居せば、それによって旅と称す。
小亨者,按《雜卦》云「親寡旅也」。言人自居於家、居於國,則親黨助己者眾,故其道得以大行,其志得以大通;今居旅寄身托跡於他國,親戚輔己者少,其道不得以大行,其志不得以大通,故曰小亨。旅貞吉者,夫人居旅之時,親己者寡,不可恃其大正之道居於人上,但居旅不失為旅正則吉矣。
「小亨」と説き到るは、《雑卦伝》は「親寡、旅也」と講じ、旅卦の特徴はまさに親近の人の稀少なるなり。人は自らの家裏に待ち・本国に待てば、親族党羽の自らを幇助するの人は多ければ、それによって彼の主張は能く大行し・彼の志向は能く大通す。今、他郷に客居して、別国に身を寄せ跡を托せば、親戚故旧の能く自らを扶助するは少なければ、主張は即ち大行する法なく・志向も亦大通する法なければ、だから只だ小亨と説く。「旅貞吉」と説き到るは、人は羈旅の時に処して、自らを親近するの人は本より少なければ、能く自らの守る所の大中至正の道を仗りて即ち人の上に凌駕すべからず、只だ外に客居して旅人の応守の正道を失掉せざれば、即ち吉利ならん。
彖曰:旅,小亨,柔得中乎外而順乎剛,止而麗乎明,是以小亨,旅貞吉也。旅之時義大矣哉!
《彖伝》にいう。旅卦は只だ小さく亨通する能くするは、陰柔者は外卦に於いて中位を得て而又陽剛に順従し、内は能く安止して外は能く光明に附麗すれば、だから小さく亨通して、羈旅は正を守りて乃ち吉を得たるなり。羈旅此の一卦の包含する所の時勢と義理とは、実在は重大なりや。
義曰:柔得中乎外者,指六五也;順乎剛者,指上九也。言六五以柔順之質居於外,又有大中之道,而居旅之時託身於外,是能執柔順大中之徳以順從於上九之剛,是以卑而事尊,以下而事上,故能安其所而不失正也。
胡瑗が解説します。いわゆる「柔得中乎外」は、六五を指し・いわゆる「順乎剛」は、上九を指す。六五は柔順の資質を以て外卦に処して、また中位に居りて大中の道を具備し、まさに羈旅の時に当たりて身子を外に安頓して、能く柔順にして偏らざるの徳行を守住して去りて上九の陽剛に順従すれば、これ即ち卑下の身を以て尊貴に侍奉し・在下の位を以て在上に侍奉して、だから能く処する所に安んじて正道を失わざるなり。
止而麗乎明是以小亨旅貞吉者,此因二體以言之。下體艮,艮為止;上體離,離為明。言居旅之時託身於他國,親己者寡,必須求賢明之人以附麗之。既順於剛,不紊其道,不悖於理,又附得賢明之人,是以小有亨通而得旅之正吉也。
「止而麗乎明、是以小亨、旅貞吉」と説くは、これは上下両卦の卦徳に就きて講ずるなり。下卦は艮、艮の卦徳は静止を為し・上卦は離、離の卦徳は光明を為す。他国に客居するの時は、自らを親近するの人は稀少にして、必ず賢明の人を寻求して去りて依附せねばならず。すでに能く陽剛に順従して・自らの原則を打乱せず・事理に違背せず、また賢明の人に依附し上れば、だから能く小さく亨通して、併せて羈旅は正を守るの吉を獲得す。
至如仲尼,大聖也,有聖人之徳,有大中之道,不得其時,不得其位,皇皇歴聘於諸國,能盡其順以事其君,又盡順以輔其人。有顏讎由、蘧伯玉為之主,是皆當時之賢者,能附麗之。至於遊、夏、顏、閔七十子之徒,三千之眾,是時皆托跡於外而隨大聖人為之依歸。
即ち孔子の此のごときの大聖人なるも、聖人の徳行と大中の道とを具備するも、却って生れて時に逢わずして・応有の職位を得ざれば、只だ惶惶として奔走して、諸国を遍訪して仕を求めるに如かざりし。彼は能く力を尽くして柔順に所到の国の君主に侍奉し・また力を尽くして柔順にあそこの人を輔助す。当年に彼は衛国に於いて顔讐由・蘧伯玉を以て寄居の主人と為せり、これらは皆当時の賢者にして、孔子はまさに彼らに依附せるなり。子游・子夏・顔回・閔子騫等の七十位の高足、および三千弟子の衆に至っては、あの時も亦皆身を外に托して、此の位の大聖人に追随して帰依と為せるなり。
是大聖大賢之人不得其位,不逢其時,托寄於他國,皆必盡其柔順以奉其在上,而又得大賢大聖之人以為其主,乃可以獲吉也。旅之時義大矣哉者,寄旅於他國,托跡於外,處之最難,於道尤重,故聖人於此嘆美之,惟大聖大賢之人可以為之也。
見るべしたとい大聖大賢なるも、一旦職位を得ざりて・時機に遇わざりて他国に身を寄せば、亦皆必ず其の柔順を尽くして去りて在上の人に奉事して、同時に又要能く大賢大聖の一類の人を找見して以て依托の主人と為し、此のようで乃ち能く吉祥を獲得すべきなり。《彖伝》の「旅之時義大矣哉」と感嘆するは、別国に寄居して・外に身を托するは、処境は最も艱難にして、道理の上に於いてまた格外に要緊なれば、だから聖人は此処に於いて讃嘆を加うるなり。唯だ大聖大賢の人のみが為し到る能くす。
象曰:山上有火,旅。君子以明慎用刑而不留獄。
《象伝》にいう。山上に火を燃す、これ即ち《旅》卦の取象なり。君子はこれに取法し、刑を用うるに既に明察にして又審慎にして、併せて案件を積圧滞留せしめざるなり。
義曰:火性炎上,而火在山上,燎於物,其勢不能久留,是旅之象。君子觀此象,當明慎用其刑罰而無留滯其獄。何則?夫刑者,斷人肌膚,傷人骨髓,死者不可復生,斷者不可復續,故君子當明顯審慎而用刑罰,辨其情偽,正其枉直,使無至於失法;又不可重傷其民,使繫獄者無至於留滯也。
胡瑗が解説します。火の本性は上に向かって燃焼して、火は山上に於いて草木を蔓延焚焼して、あの勢頭は法なく長久に停留せば、まさに羈旅の形象に合乎す。君子は此の卦象を観察して、応に明察審慎に刑罰を施用して、訟案をして拖延積圧せざらしめよ。何を以てか。刑罰は人の肌膚を割断し・人の骨髓を傷害せんと要するにして、死せるは能く復活せず・断れたるは能く重続せざれば、だから君子は必ず明白顕豁にして而又周密謹慎に刑を用いて、案情の真偽を辨清し・是非曲直を判明して、法度を失うに至らざらしめよ。同時に亦已むを得ず一再に百姓を傷害すべからずして、在押の人をして長期に獄中に滞留せざらしむるを要す。
初六:旅瑣瑣,斯其所取災。象曰:旅瑣瑣,志窮災也。
初六の爻辞にいう。外に客居して行事は瑣碎猥屑なるは、これ即ち彼自ら災禍を招来するの原因なり。《象伝》にいう。羈旅にして瑣碎猥屑なるは、心志は窮困にして乃ち災禍を招来す。
義曰:瑣瑣者,細碎煩屑之謂也。夫羈旅之道雖尚柔順,然亦不可過。今此初六以柔順之質居一卦之下,是自處卑賤之地,而為貧賤所動其心,故為猥細瑣屑之事,苟容於人,苟合於世。斯,此也。言既失其居,托跡於他國,而為瑣屑之行如此,則人皆賤之,眾皆棄之,是自取災咎之道。象曰旅瑣瑣志窮災者,言初六居旅之時而為卑賤動其心,其道不通,其志窮困,是以取災也。
胡瑗が解説します。「瑣瑣」は細碎煩雑猥屑を形容す。羈旅の道はたとい柔順を崇尚するも、但し柔順も亦已むを得ず過分すべからず。今、初六は柔順の資質を以て全卦の最下に処して、是れ自らを卑賤の地位に安置して、心思も又被動せられて貧賤境遇に牽動せられて、それによって種種の猥瑣細碎の事を做出して、一味に別人に遷就し・苟且に世俗に附和す。「斯」は即ち「此」なり。これは彼はすでに安居の所を失いて・別国に身を托して、行為も又瑣碎して此の地步に到れば、ならば人人は皆彼を軽賤し・衆人は皆彼を拋棄す、これまさに自ら災を招き禍を惹くの路子なり。《象伝》の「旅瑣瑣、志窮災也」は、初六は羈旅の時に処して、卑賤に因りて心志を動揺して、路子は行き通らず・志向は窮困に陥れれば、だから災禍を招来すと言うなり。
六二:旅即次,懷其資,得童僕貞。象曰:得童僕貞,終無尤也。
六二の爻辞にいう。外に客居して能く合適の旅舎に住進して、身上に盤纏を帯びて、還得忠実可靠の僮僕を得たり。《象伝》にいう。忠貞の僮僕を得たるは、終に過失と憂患有ることなからん。
義曰:即,就也;次,舍也;資,貨也。言羇旅之道既尚其柔順,而六二以陰居陰,履得其正,而處下卦之中,是羇旅之時託身寄跡於他國,而能盡柔順之質,得中正之道:柔而不失其中,順而不失其正,在上位而不至驕,在下位而不至慢,為眾所與。如此,是於羇旅之時能即就其次舍以安身,懷蓄資貨以厚備,不失其所之謂也。童僕者,盡其至順以事其主也,是得此至順之正道也。
胡瑗が解説します。「即」は就近して前往し、「次」は止宿の旅舎、「資」は財貨盤纏なり。羈旅の道は本より柔順を崇尚して、而も六二は陰爻を以て陰位に居り、処する所は正を得、また下卦の中位に処して、まさに他国に客居するの時に能く柔順の質を尽くし・又中正の道に合乎す。柔和にして分寸を失わず・恭順にして正直を失わず・上位に処して驕慢に至らず・下位に処して怠惰に至らざれば、それによって衆人の許賛を受く。此のようのごとくであれば、彼は羈旅の時に便ち能く就近して旅舎に住進して自身を安頓し・財貨を儲備して以て充裕を求む、これ即ち自らの応有の位置を失わざると叫ぶなり。いわゆる「童僕」は、僮僕は能く最も柔順の心を尽くして主人に侍奉するを指し、六二も亦まさに此の種の至順の正道を得たるなり。
象曰得童僕貞終無尤者,夫聖賢君子之人必有剛正之徳,然後可以免其尤患。今二所以能免者,蓋古之人可以屈身而伸道,不可以屈道以伸身。今旅之時失其所居,是其道不得以通,而二能盡柔順中正之道,故尤患所以無也。
《象伝》の「得童僕貞、終无尤也」。一般に説けば、聖賢君子は必ず剛強正直の徳行を具備して、乃ち能く過失と禍患を免るべきなり。今、六二は陰柔の爻にして却って亦能く禍を免るるは、古人の原則は寧ろ自らの身を委屈して以て道義を伸張すべく、道義を委屈して以て自身を抬高すべからざるがゆえなり。羈旅の時はすでに安居の所を失いて、其の道は自然に行き通らざるに、而も六二は能く柔順中正の道を極致に為し到れば、だから過失と禍患とは皆彼の身上に臨到せざらん。
九三:旅焚其次,喪其童僕,貞厲。象曰:旅焚其次,亦以傷矣。以旅與下,其義喪也。
九三の爻辞にいう。外に客居して、住む所の旅舎は焼毀せられ、また僮僕を失掉せり、たとい自守するも危険なり。《象伝》にいう。羈旅の中に自らの居所を焼くは、実在は傷痛に値うなり。旅人の身分を以て却って去りて在下の人に交結するは、道理に照らせば即ち喪失する所有るべきなり。
義曰:居旅之時必尚柔順之道,今九三以陽居陽,處下卦之上,是務剛亢者也。夫託身寄跡於外,是失其居而志不通矣,而三反為剛亢之行,則眾所不與,故其次舍必見焚燬而不得安居也。
胡瑗が解説します。羈旅の時に処するは必ず柔順の道を崇尚せねばならず、今、九三は陽爻を以て陽位に居り、また下卦の頂端に処して、是れ一味に強を逞うし高亢の人なり。外に身を寄せ跡を托するは、本来即ちすでに安居の所を失掉して・心志は通達し難きに、九三は返って剛強高亢の挙動を做出せば、於是乎衆人は皆肯んじて彼に親附せず、だから其の住む所の旅舎は必定に焚毀に遭いて安んじて居る法なきなり。
九三既為剛亢之行,為眾所不與,而上又無應,進退皆失其所,以下近於六二欲親比之,是始務剛亢而後失其所欲,求於上又失其童僕事主柔順之正道,是為旅而焚其次舍,喪失柔順之道,則眾人所共疾之,危厲之道也。象曰旅焚其次亦以傷矣者,言居旅之道已失其所而復焚其次舍,是亦可傷悼矣。其義喪者,以旅之道而反與於下,自取喪亡也。
九三はすでに挙動は剛強高亢にして、衆人は皆親附せず・上に向かってまたそれと呼応するの爻なければ、進退は皆依靠を失掉せり。それは下に向かって六二に緊く挨りて、六二と相「比」せんと欲す――いわゆる比は、相隣の両爻の彼此に親近依附するの関係を指す――しかるに先前は一味に強を逞うして、結果は此の点の願望をも落空せしめたり。上に向かって求むる所有りて着落なく、また僮僕の主人に侍奉するのあの種の柔順の正道を丟掉して、於是乎外に客居して旅舎を焼掉し・柔順の道を喪失するの局面と為りて、衆人は共同に彼を厭悪す、これは危険の道なり。《象伝》の「旅焚其次、亦以傷矣」は、外に客居するは本已に帰宿を失いて、また自らの居所を焼掉せり、実在は人をして傷痛せしむるを言うなり。「其義喪也」と言うは、旅人の身分を以て返って去りて在下の人に結交するは、自ら喪亡を招来するに等しきを指す。
九四:旅于處,得其資斧,我心不快。象曰:旅于處,未得位也。得其資斧,心未快也。
九四の爻辞にいう。外に客居して総算に歇脚の地方を得たり、亦財銭と利斧とを得たれども、我心は却って併せて痛快ならず。《象伝》にいう。旅途中に歇脚の処有るは、還有相称の位次を得ざるがゆえなり。財銭利斧を得たれども、心裏は仍として痛快ならざるなり。
義曰:處者,止息之地也;資,貨也;斧,斷也。言四以剛陽之質居於陰位,是有柔順之節,居剛而不為亢者也。處上卦之下,盡謙順之道,故旅之時可以得其止處者而不失其所也。然猶不及六二有大中之徳,故安然就其居之次,故此但得止息之地也。
胡瑗が解説します。「処」は歇息停留の地方、「資」は財貨、「斧」は決断の義を取るなり。九四は陽剛の資質を以て陰位に居れば、それは柔順の節度有るを説明して、たとい陽剛に属するも亦高亢に流れざるなり。それは上卦の最下に処して、能く謙遜柔順の道を做足せば、だから客居の時に歇脚の処を找到して無所帰依に至らざるなり。不過それは畢竟に六二の中に居りて大中の徳有るに比ぶに及ばず、六二は以て安穏にして自らの旅舎に住進すべく、九四は則ち只だ能く一箇の暫時に止息するの地方を得るのみなり。
得其資斧者,四雖未得其位,然能盡其柔順之道,不為髙亢之行,故可以安處而得其資貨,又有剛明之徳可以自斷也。其心不快者,言雖得其止息資貨,然所居不得其中,未得其位,則進退動止不遂其心志。象曰旅于處未得位也者,言四雖得止息之處,亦未得其位也。心未快者,雖得其資貨而能斷,然未得其位,未遂其志,故心所以未快也。
「得其資斧」と説く。九四はたとい相称の位次を取得せざるも、却って能く柔順の道を尽くして、高亢自大の挙動を為さざれば、だから能く身を安んじて財貨を獲得して、同時に又剛強明察の徳行を具備して、事に遇えば自ら決断する能くす。「我心不快」と説く。たとい歇息の地と財銭とを得たるも、但し居る所の処は中位に在らず・位次も亦相称ならざれば、進退行止は即ち能く称心如意せざるなり。《象伝》の「旅于処、未得位也」は、九四はたとい止息の所有るも、終究に応有の位次を得ざるを言うなり。「心未快也」と言うは、彼はたとい財貨有りて又能く決断するも、却って始終として位は当たらず・志は遂げざれば、それによって心裏は総に痛快ならざるを言うなり。
六五:射雉一矢亡,終以譽命。象曰:終以譽命,上逮也。
六五の爻辞にいう。山鶏を射て一支の箭を射失すれども、最終に却って美譽と榮顕の任命とを獲得せん。《象伝》にいう。最終に美譽と任命とを獲得するは、上面の人は彼に対して惠及する所有るがゆえなり。
義曰:此一爻以陰柔之質居上卦之中,有大中之道、巽順之德,而居於羇旅,所謂柔得中乎外而順乎剛者也。且雖有柔順中正之徳,然寄身托跡於外,方知其所親比者寡,而未嘗固必其所求,不必志其所得,猶人之射雉,但以一矢而射之,其得失未可知也。然其執節守道,不為困窮貧賤之所動,而秉其中正柔順之徳,雖一時至於亾矢而不得,亦終有可嘉美之譽、尊顯之命而隨之。
胡瑗が解説します。此の一爻は陰柔の資質を以て上卦の中位に居り、大中の道と謙遜柔順の徳行とを具備して、而又羈旅の中に処するは、まさに《彖伝》の言う所の「柔得中乎外而順乎剛」のあの一爻なり。それはたとい柔順中正の徳有るも、しかるに外に身を寄せ跡を托して、乃ち能く自らを親近依附するの人の極少なるを知りて、それによって従来に所欲を強求せず・亦必ず得る所有るを執着せずして、即ち人の山鶏を射るは、只だ一箭を発して、手に得るか否かは本より預料し難きがごとし。しかるに彼は節操を持守して・困窘貧賤に因りて心志を動揺せず・始終として中正柔順の徳行を秉持せば、たとい一時に箭を射失して一の獲る所なきも、最終に仍として称美すべきの声誉と尊貴顕達の任命とが随いて来たる所有らん。
故孔子羇旅於周末,歴聘於諸國,亦未嘗必有所求,故有行可之仕,有際可之仕,有公養之仕。行可之仕者,言但於時可以庶幾行道則從之;際可之仕者,言但以其君交際之得其道則從之;公養之仕者,言於其國養待之得其禮則從之。
だから孔子は周朝の末年に列国に客游して・諸侯を遍訪するも、亦曽て何をも強求せざりし。《孟子》は彼の出仕するは三種の情形有るを記す。一は「見行可之仕」・二は「際可之仕」・三は「公養之仕」なり。いわゆる見行可之仕は、只だ当時に還有大道を推行するの指望有れば、彼は即ち应聘するを言うなり。いわゆる際可之仕は、只だあの位の国君は彼と交往するは礼数に合乎せば、彼は即ち应聘するを言うなり。いわゆる公養之仕は、只だあの箇の国家は客を奉養待遇するは礼制に合乎せば、彼は即ち应聘するを言うなり。
是其歴聘天下而未嘗固必其所求,然而所居之國必與聞其政。故子禽問於子貢曰:「夫子至於是邦也,必聞其政,求之與?抑與之與?」子貢曰:「夫子溫良恭儉讓以得之。夫子之求之也,其諸異乎人之求之與?」是言孔子有此盛徳,而於羇旅動止得其中,不固必其所求,而自以為嘉美之譽、尊顯之命也。象曰終以譽命上逮也者,上言上九也。六五為羇旅之人而能盡柔順之節以奉於上,故為上所信而有尊顯之命及之也。逮,即及也。
見るべし孔子は天下を遍訪して従来に強求せざるに、然而一国に到る毎に、必定に能く其の国の政事を参与聴聞す。だから《論語》は子禽の子貢に問うを記載す。先生は一箇の国家に到る毎に、一定にあそこの政事を聴き得るは、それは彼自らの求め来れるか、還是人家の主動に彼に告げたるかと。子貢は回答して曰く。先生は温和・善良・恭敬・倹朴・謙譲此の五種の徳行を靠りて得来せるなり。先生の求取するの方式は、大概は別人の求取するの方式と一樣ならざらんと。これ即ち孔子は此のごときの盛大の徳行有れば、だから羈旅の中に於いて一挙一動は皆中道に合乎して、何をも強求せずして、美好の声誉と尊顕の任命とは自然に彼に帰するを言うなり。《象伝》の「終以譽命、上逮也」、此の「上」は上九を指す。六五は身は羈旅の人を為りて能く柔順の節を尽くして去りて在上者に奉事せば、それによって上位者に信任せられて、尊顕の任命は便ち彼に惠及す。「逮」は即ち及・到達なり。
上九:鳥焚其巢,旅人先笑後號咷,喪牛于易,凶。象曰:以旅在上,其義焚也。喪牛于易,終莫之聞也。
上九の爻辞にいう。鳥巣は火に焼毀せられ、客居の人は先には歓笑して後には声を放ちて号哭す。平易の処に於いて牛を丟失せり、凶険なり。《象伝》にいう。旅人の身分を以て人の上に高居するは、理に照らせば即ち焚を遭うべきなり。平易の処に於いて牛を丟うは、到頭に人の肯んじて此の事を彼に告げるもなきなり。
義曰:巢者,鳥之所居,最在於上也。夫羇旅之道貴在謙下柔順,而上九以剛陽之質處上卦之極,無巽順之道而為髙亢之行。行於羇旅,所親比者寡少,而反為髙亢居眾人之上,則眾人之所共疾而欲害之。既眾人慾害之,則必失其所居而不得其安,如鳥之巢而見焚也。
胡瑗が解説します。巣は鳥の棲息するの地方、位置は最高処に在り。羈旅の道の最も貴ぶべきは謙卑柔順にして、而も上九は陽剛の資質を以て上卦の頂端に処して、謙遜柔順の道なきにして、行為は高亢自大す。外に客居するは、本来即ち能く自らを親近依附するの人は少なきに、彼は返って高傲に衆人の上に凌駕して、於是乎衆人は一同に彼を厭悪して・彼を加害せんと想う。衆人はすでに彼を加害せんと想えば、彼は必定に居所を失いて安身を得ざるに至る、即ち鳥巣の火に焼掉せらるるがごとし。
旅人先笑後號咷者,言旅之時托跡於外而得處眾人之上髙顯之位,則自為尊貴之極,故其心自喜而先笑;至於為眾人之所疾,以及焚巢喪位而不得安居,故後號咷也。喪牛于易凶者,牛者至順之物,言上九以剛陽而居卦之極,自為髙亢之行,而喪失其柔順之道於平易之間,故有凶也。
「旅人先笑後号咷」と説く。外に客居して却って居然に衆人の上の顕赫の位置に占到して、自ら以て尊貴は極点に到れりと為して、だから心中に窃喜して先に大笑す。衆人に厭悪せらるるに到りて、以て巣は焚かれ・位は奪はれて安んじて居る法なければ、於是乎後に声を放ちて号哭す。「喪牛于易、凶」と説く。牛は最も柔順の牲畜にして、これは上九は陽剛を以て一卦の頂端に居りて、自ら高亢の行を作して、平平常にして毫も設防なきの間に於いて自らの柔順の徳を丟掉せるを言い、だから凶険有るなり。
象曰以旅在上其義焚也,以旅居人之上,於義自當焚也,又況恃剛亢之質以處之者哉!喪牛于易終莫之聞也者,言處髙亢之地而身無巽順之道,雖有過惡之事而人無敢言之者,故曰莫之聞,而至於焚巢後號咷之凶也。
《象伝》の「以旅在上、其義焚也」。旅居者の身分を以て人の上に高踞するは、理に按じて本来即ち焚を遭うべきに、まして還有剛強高亢の性子を倚仗して来たりて自処するにおいてをや。「喪牛于易、終莫之聞也」と言うは、彼は高亢の地位に処して自身は毫も謙遜柔順の道なければ、たとい過失悪行有るも、亦人の敢えて彼に向かって進言するなければ、だから「莫之聞」と説き、終に巣は焚かれ・事後に号哭するの凶険の下場に落到するを言うなり。
巽 巽下巽上
巽:小亨,利有攸往,利見大人。
《巽》卦の卦辞にいう。謙遜順従は只だ小さく亨通する能くするのみ、前往する所有るに宜しく、徳位有るの大人に見え往くに宜しきなり。
義曰:按《序卦》云「旅而無所容,故受之以巽」。巽者,入也。蓋言凡人之為羇旅,託身於外,比己者寡,若不巽順則無所入,是必有巽順之德,然後有所入。然謂巽者,以其巽體是風。夫風者,然無狀,不知所至之地,無所不入,故曰巽。
胡瑗が解説します。《序卦伝》の「旅而无所容、故受之以巽」の説法に依れば、外に客居するの人は容身の処なければ、だから《旅》卦の後に接きて《巽》卦を排す。巽の意思は進入なり。これは人は羈旅の客と為りて・外に身を托して、能く自らを親近するの人は甚だ少なければ、若し謙遜順従せざれば、即ち容身進入すべきの地方なからんを言うなり。必ず先ず謙順の徳有りて、後に乃ち進入し得べきなり。巽と称作する所以は、巽此の一卦の卦体は風を象徴すればなり。風此の種の物は固定の形状なく・亦それは何処に吹き到らんとするかを知らざるに、却って孔なきに入らざるなければ、だから巽と叫ぶなり。
小亨者,夫立大事、立大功、欲成天下之業者,必須有剛健之徳、果斷之心,勇於所行,然後有所立,其志得以大通,其道得以大行。今此巽卦全用巽順,有傷於柔懦,其道不得以大行也,故但小亨而已。
「小亨」と説き到るは。凡そ大事業を建立し・大功勲を成就し・天下の大業を完成せんと想うの人は、必ず剛強健動の徳行と果敢決断の心志とを具備して・勇んで行動に付して、後に乃ち樹立する所有りて・志向は乃ち能く大いに通達し・主張は乃ち能く広く施行すべきなり。今、巽卦は全て謙遜順従に靠りて、柔弱怯懦に流るるを免れざれば、主張は能く世に大行する法なし、だから只だ小さく亨通するのみと説くなり。
利有攸往者,夫人剛健果決之性,或傷於暴而過於中道,則所往之地必無所措置,必無所詳審,是以必無所利矣。今此巽卦能用巽順,則是所往當獲所利也。利見大人者,夫人以柔順之道,雖為能順於人而有利攸往,然其全用柔順則失於太弱而不能自斷,故必利見大有徳之人以斷決之,使一歸於中正也。
「利有攸往」と説き到るは、人は若し一味に剛強果決せば、暴躁に流れて中道を超出し易ければ、ならば何処に到るも安排は恰当ならず・考慮は周到ならざれば、それによって必然に利の言うべきなきなり。今、巽卦は謙遜順従を運用するを懂得すれば、だから前往すれば即ち利益を獲得する能くす。「利見大人」と説き到るは、人は柔順の道を憑りてたとい能く他人に順応して・前往すれば利有るも、しかるに完全に柔順に依頼すれば即ち太も軟弱に失して・事に遇えば能く自ら決断せざれば、だから必ず徳行の崇高なるの大人に見え往きて、彼に由りて自らのために裁断を替して、一切をして中正に帰せしむるを要す。
彖曰:重巽以申命,剛巽乎中正而志行,柔皆順乎剛,是以小亨,利有攸往,利見大人。
《彖伝》にいう。上下両卦は皆巽にして、反復して政令を申明するを象徴す。陽剛者は能く謙順にして而又中正の位に居れば、それによって心志は施行を得たるなり。两箇の陰柔の爻は皆陽剛に順従す。だから能く小さく亨通して、前往する所有るに宜しく・徳位有るの大人に見ゆるに宜しきなり。
義曰:重巽以申命者,此明巽之義也。言上下二體皆為巽體,故曰重巽。聖人法此重巽之道以申行命令,不可止利於一身、便於一方,必順天下之心,合天下之慾,若風之所行,天下萬物至纎至悉莫不被之也。
胡瑗が解説します。いわゆる「重巽以申命」は、巽卦の意義を闡明するに在り。上下の两箇の単卦は皆巽なれば、だから重巽と称す。聖人は此の種の一再に謙順するの道理に取法して来たりて政令を反復申明す。政令は已むを得ず只だ自ら一人に対して利有り・只だ某の一方をして便利ならしむるべからずして、必ず天下の人の心願に順応し・天下の人の期望に合乎して、風の吹き過ぐる所の地方のごとく、天下の万物はどのように細微瑣屑なるを論わず、其の覆被を受けざる一樣なからしむべきなり。
剛巽乎中正而志行者,此指九五而言也。夫九五以剛陽之質處巽之體,又居上卦之中,以陽居陽,履得其中正之位,居於至尊而又巽順,所行得其中,所履得其正,則其志大行,其發號施令則天下之人無不順者也。柔皆順乎剛者,柔謂初六、六四也,皆以柔順之質處巽體之下,而皆上順於剛陽之爻,是以下而奉乎上,以卑而奉乎尊也。
「剛巽乎中正而志行」と説くは、これは九五を指して言うなり。九五は陽剛の資質を以て巽卦の中に処して、また上卦の中位に居り、陽爻を以て陽位に居りて、踏む所はまさに中正の位なり。身は至尊の位に在りて而又能く謙遜順従して、行事は中道に合乎し・居る所は正道に合乎せば、それによって心志は能く大行して、一旦号令を発布すれば、天下の人は順従せざるなきなり。「柔皆順乎剛」と説く、此処の柔は初六と六四とを指し、两爻は皆柔順の資質を以て各自のあの一箇の巽体の最下に処して、而も上に向かって陽剛の爻に順従すれば、これ即ち在下者を以て在上者に奉事し・卑者を以て尊者に奉事するなり。
是以小亨利有攸往利見大人者,言上有柔順之徳而順於眾,復引此彖辭而結之也。言九五以剛而居於巽體之中,初六、六四能執柔順之道以下而奉於上,全任柔順,不能大有所為,是以得其小亨,而所往之地、所入之處皆有所合。然其性巽順而傷於過柔,所申之命令、所行之事不能大有所成,是必利見大有徳之人以果斷而決白之,然後所申之命令、所行之事施之於人莫有不順之者,如風之及於物罔有不入者也。
「是以小亨、利有攸往、利見大人」と説くは、在上者は柔順の徳を具備して能く衆人に順応するがゆえに、《彖伝》は於是乎重新に卦辞を引用して来たりて総結を作るなり。これは九五は陽剛を以て巽体の中位に居り、初六・六四は則ち柔順の道を守住して、下に在りて上に奉事するを言うなり。全然に柔順に依頼すれば、即ち能く大いに作為有る能わざれば、だから只だ小さく亨通を得るのみ、不過往く所の処・進む所の門は還算に合い来るなり。しかるに其の性情は謙順にして過柔に失して、申明する所の政令・推行する所の事情は能く大なる成就有る能わざれば、それによって必ず徳行の崇高なるの大人に見えて、彼に由りて果断に裁決辨明して、後に申明する所の政令・推行する所の事情は人の身上に施加せられて、乃ち順従せざる者なからん、即ち風の万物の上に吹き到るは、透入する能わざる一処なきがごとし。
象曰:隨風,巽。君子以申命行事。
《象伝》にいう。風は相継いで起きて、一陣に接いて一陣、これ即ち《巽》卦の取象なり。君子はこれに取法して来たりて政令を反復申明し・政事を推行す。
義曰:隨,順也。夫巽之體上下皆巽,如風之入物,無所不至,無所不順,故曰隨風巽。君子法此巽風之象,以申其命、行其事於天下,無有不至而無有不順者也。
胡瑗が解説します。「随」は即ち順なり。巽卦の卦体は上下は皆巽にして、好像に風の万物に吹入るは、到らざるの処なく・順わざるの処なきがごとければ、だから「随風、巽」と言うなり。君子は此の種の巽風の形象に取法して、政令を申明し・政事を天下に推行せば、即ち能く到らざる一処なからざるを為し到りて、亦順服せざる一処なからん。
初六:進退,利武人之貞。象曰:進退,志疑也。利武人之貞,志治也。
初六の爻辞にいう。進むも亦非なり・退くも亦非なり、宜しく勇武の人のごとく正道を固守すべし。《象伝》にいう。忽ち進み忽ち退くは、心志は疑惑して定まらざるなり。武人の貞正に取法するに宜しきは、心志を整治端正せんと要するなり。
義曰:此一爻以陰柔之質居巽之體,在一卦之下,是至卑者也。既處於卑而又上承於眾剛,則是柔弱怯懦,遲疑猶豫,不能自決,而或進或退,無所定也。武人者,剛武之士也。言凡人有剛則必濟之以柔,有柔則必濟之以剛,使剛柔之道皆得其中,然後事可以成,道可以行。
胡瑗が解説します。此の一爻は陰柔の資質を以て巽卦の中に処して、また全卦の最下に在りて、是れ最も卑微なるなり。すでに身は卑下に処して、上面に又要众多の陽爻を承接すれば、於是乎柔弱怯懦・迟疑猶豫と顕れて、能く自ら主意を拿らず、一忽れに進まんと想い・一忽れに退かんと想いて、主張を拿定する能わざるなり。いわゆる「武人」は、剛強勇武の人なり。凡そ人は若し性情は剛強なれば、必ず柔和を用いて来たりて調剤せねばならず。若し性情は柔和なれば、必ず剛強を用いて来たりて補足して、剛と柔とをして皆恰好其の処に到らしめて、後に事情は乃ち為し成るを得て・主張は乃ち行き通るべきなり。
今初六以陰柔之質,復在一卦之下,又居巽體,是全用柔巽者也。既全用柔巽,是以有進退之疑,故利在武人之正,用其剛健之德、果敢之志,勇於行事,使所行之事、所施之道剛柔相濟,皆得其中,然後可獲其吉也。象曰利武人之貞志治也者,夫既柔弱怯懦而不能自決,則於身亦不能自治;既不能自治,安能治於人哉?故必用其剛武之徳相濟而行,則可以治正其志而及於人也。
今、初六は陰柔を以て質と為して、また全卦の最下に処し、還有身は巽体の中に在りて、是れ完完全全に只だ柔順を用うるの一爻なり。まさに全て柔順を用うるに因りて、乃ち進退不定の疑惑有るに至れり、だから利有るの弁法は武人の正道に取法するなり。剛強健動の徳行・果敢決断の意志を拿出して・勇んで事を弁じて、弁ずる所の事・行う所の道をして剛柔は互相に調剤して・皆中道に合乎せしめば、此のようで乃ち能く吉祥を獲得すべきなり。《象伝》の「利武人之貞、志治也」。すでに柔弱怯懦して能く自ら決断せざるに到れば、ならば自身をも管好する能わざらん。自身をも管好する能わざれば、またどうして去りて別人を治理せんや。だから必ず剛強勇武の徳行を用いて来たりて調剤して後に行動して、乃ち能く自らの心志を整治端正して、進みて人に推及すべきなり。
九二:巽在床下,用史巫紛若,吉,無咎。象曰:紛若之吉,得中也。
九二の爻辞にいう。謙卑して床下に伏するの地步に到るは、若し以て神明に事奉して・祝史と巫覡とを請じて紛紛として福を降らせば、則ち吉利、過咎有ることなからん。《象伝》にいう。福祉の紛紛として至るの吉祥は、九二は中に居りて其の分寸を得たるがゆえなり。
義曰:床者,卑猥之地。蓋此一爻本有剛陽之質而居於巽體,又處陰柔之位,是其謙巽過甚而所行於卑猥之地,不得其中道者也。用史巫紛若吉者,言此爻巽順過甚,以甚巽而施之於身、接之於人,則事必不立;而施於事神,則可以無咎。
胡瑗が解説します。床下は卑賤委瑣の地方なり。此の一爻は本は陽剛の資質を具有するに、却って身は巽体の中に在りて、また陰柔の位に処せば、それによって謙卑するは頭を過ぎて、行事は卑瑣の境地に落到して、中道に合乎せざるなり。「用史巫紛若、吉」と説くは、此の一爻は謙順は過度なるを言うなり。此の種の過分の謙卑を拿りて自らの身上に用い・人と交接するの上に用いれば、事情は一定に弁じ成る能わざらん。但し若し以て神明に事奉するの上に用いれば、即ち過咎有ることなからん。
史巫者,史即祝史也,巫即巫覡之人,皆所以道人之言以告於鬼神,而復道鬼神之意以達於人者也。言九二既巽順過極,失於中道,惟是用以事鬼神則可也。夫事鬼神者必盡其至誠,巽其言辭,以使精誠上通,則明靈降監,福祉來應,紛然眾多,以獲其吉而無咎也。象曰紛若之吉得中也者,言本以剛健之徳而反居陰柔之位,是失其中道,然施之以事鬼神,則得其中矣。
いわゆる「史巫」。史は即ち祝祷を掌管するの祝史、巫は即ち男女の巫覡にして、彼らは皆人の話を鬼神に転達し・また鬼神の意思を人に伝達するを負責す。これは九二は謙順はすでに頭を過ぎて・中道を失掉して、只だ以て鬼神に事奉して乃ち恰当なるを言うなり。鬼神に事奉するの人は必ず至誠を竭尽して・言辞を恭順に説き到りて、一片の精誠を神明に上達せしめて、於是乎神霊は降臨して鑑察して、福気は一件に接いて一件に回応して、紛紛として来たれば、それによって吉祥を獲得して過咎なし。《象伝》の「紛若之吉、得中也」は、九二は本は剛健の徳を以てするに却って陰柔の位に居れば、これは本は中道を失掉するなりを言うなり。しかるに此の份の過分の恭順を鬼神に事奉するの上に用到すれば、返って恰好其の処に到るなり。
九三:頻巽,吝。象曰:頻巽之吝,志窮也。
九三の爻辞にいう。眉頭を皺めて勉強に謙順するは、人をして惋惜せしむ。《象伝》にいう。勉強に謙順して可惜なるは、心志はすでに路を走り尽くしたるがゆえなり。
義曰:頻者,頻蹙憂愁之貌。九三以剛陽之質又處剛陽之位,復在一卦之上,是其全剛亢而不能巽者也,居巽之時失其謙巽之道矣。然而上為六四之所憑陵,下乘九二之剛,然九二雖是剛徳,蓋居於陰位,亦得巽順之道。今九三則是上承六四,下乗九二,勢不自得,是以舍其剛亢之道,不得已而為柔巽,屈其心志,憂愁然不得已而為之,非出於至誠,如是亦可鄙吝者也。
胡瑗が解説します。「頻」は眉を皺めて愁を発するのさまなり。九三は陽剛の資質を以て又陽剛の位次を占踞して、還有下卦の頂端に処して、是れ完全に剛強高亢にして・能く謙順せざるの一爻にして、身は巽卦の時に処するに、却って謙遜の道理を丟掉せり。しかるに其の上面は六四に圧制せられ・下面にまた九二の陽剛の上に騎れば、九二はたとい陽剛の徳に属するも、却って陰位に居るに因りて、同じく謙順の道を得着せり。今、九三は上は六四を承接し・下はまた九二を凌乗して、形勢の上に於いて処処に自在ならざれば、於是乎只だ剛強高亢の作風を放棄して、已むを得ず柔順の様子を装出して、自らの心志を委屈して、愁眉苦臉に勉強して之を為す、併せて真誠より出づるにあらざるなり。此のようの謙順は、亦即ち鄙薄惋惜するに値うなり。
六四:悔亡,田獲三品。象曰:田獲三品,有功也。
六四の爻辞にいう。悔恨は消失し、田獵は三類の獵物を獲得せん。《象伝》にいう。田獵は三類の獵物を獲得するは、功労有るを説明す。
義曰:六四以陰居陰而又居巽之體,亦謙巽過甚,而又行不得其中,是以有悔也。然以陰居陰本得其正,而上承九五之君,竭其志誠,盡其巽順以奉其上,故得悔亡。且孔子曰「事君盡禮,人以為諂也」,言人之事君其柔巽過甚而見疑,然不可以見疑而變其志,當盡其巽順之節,不失其為臣之道以奉於上。
胡瑗が解説します。六四は陰爻を以て陰位に居り、また身は巽体の中に在りて、同じく謙卑するは太に過ぎて、而且に行事は中道に合乎せざれば、だから本来は悔恨有るなり。不過それは陰を以て陰に居りて、本来即ち其の正を得、また上に向かって九五の君に承事して、誠心を竭尽して・恭順を極処に為し到りて来たりて君上に奉事せば、それによって悔恨は消失す。孔子は《論語》の裏に「事君尽礼、人以為諂也」と説き過ぎたり、意思は臣子は君主に事奉して若し恭順するは過分に到れば、即ち人に疑うるは諂媚と為さるるを。しかるに能く人に猜疑せらるるに因りて自らの志節を改変すべからずして、仍として応に恭順の分寸を尽くして・臣と為るの道を失掉せずして来たりて君上に奉事すべきなり。
承流宣化,奉君之威權,行君之事,所行必有成功,是猶田獵之時而獲其禽獸以充三品之用。三品即一為乾豆,二為賓客,三為充君之庖是也。象曰田獲三品有功也者,言六四雖始有悔,然能竭其巽順以承事於君,則所行之事必有成功,如田獲三品之禽也。蓋大臣之事君,若不以恭巽至正之道而尚於諂詖佞媚之行,則不可免其誅戮之禍,況於悔乎?於此盡其巽順而不失其正,則可以悔亡而有其功也。
君上の教化を承接して併せて宣布を加え・君主の威権を奉行して・君主の政事を弁理して、作り起せば必定に成效有りて、これ譬えば田獵の時に禽獣を獵得して、以て三種の用途を供すべきがごとし。いわゆる三品は、第一等は干肉を制成して宗廟の祭祀を供し・第二等は以て賓客を招待し・第三等は君主の厨房を充実す。《象伝》の「田獲三品、有功也」は、六四は起初はたとい悔恨有るも、但し能く恭順を竭尽して去りて君主に承事せば、弁ずる所の事は即ち必定に成效有るを言い、譬えば田獵は三類の獵物を獲得するがごとし。大臣は君主に事奉して、若し恭順至正の路子を走らざれば、返って諂媚巧言・邪佞取寵の行徑を崇尚せば、ならば誅戮の禍をも躲掉する能わざらん、まして只だ悔恨のみにおいてをや。此処に於いて能く其の恭順を尽くして而又其の正を失わざれば、即ち能く悔恨を消掉して併せて功労を立下すべきなり。
九五:貞吉,悔亡,無不利,無初有終,先庚三日,後庚三日,吉。象曰:九五之吉,位正中也。
九五の爻辞にいう。正を守れば則ち吉、悔恨は消失して、不利なきことなし。起初は順わざるも最終に好きの結果有り。庚日の前の三天に於いて預め申明し・庚日の後の三天に於いて再三に叮嘱すれば、吉利なり。《象伝》にいう。九五の吉を得るの所以は、処する所の位次はすでに正にして又中なるがゆえなり。
義曰:言九五處人君之位,為巽之主,當以謙順之德下接於臣。今五以剛陽之質復處剛陽之位,失於太剛,無柔順之道,所以有悔也。然以居中正之位,有剛明之才,而不失其治天下之道,故獲吉而悔亡;既獲吉而悔亡,則所往無不利矣。無初有終者,言五始以剛強之道,無巽順之徳以接於下,不能感悅於人心,所以無初也;然而有剛明中正之德,得所以治天下之道,故有終也。
胡瑗が解説します。九五は身は君主の位に居りて、是れ巽卦の主爻、本応に謙遜柔順の徳行を以て下に向かって臣子を接納すべきなり。今、九五は陽剛の質を以て又陽剛の位に処して、過剛強に失して、柔順の道を缺少せば、だから悔恨有らん。しかるにそれは中正の位に居りて、剛強明察の才幹を具備して、天下を治理するの正道を失掉せざれば、それによって吉祥を獲得して悔恨は消失す。すでに吉を得て又悔なければ、ならば何を為すも不利なきことならん。「无初有終」と説くは、九五は起初は剛強の道を憑りて行事して、謙順の徳なきにして去りて下属を接納して、能く人心を感動取悦せざれば、だから開頭は順わざるを言うなり。但し彼は終究に剛明中正の徳行を具備して、天下を治理するの正道を掌握せれば、だから結局は好きなり。
先庚三日後庚三日吉者,凡《易》中言庚甲者,皆十日之名,取申令之義也。甲於五行為木,於四時為春,仁恩之道也,蓋蠱者承衰亂之後,聖人當以仁恩之令拯濟之,故曰先甲後甲。庚者於五行為金,於四時為秋,金主斷割,秋主嚴厲,此巽為風之象,無所不入,主人君之號令。
「先庚三日、後庚三日、吉」と説く。《周易》の中に凡そ庚日・甲日に提到するは、皆十天干の中の日子の名称にして、取る所は反復して政令を申明するの意なり。甲は五行に於いて木に属し・四季に於いて春に属して、仁愛恩沢の道を代表す。《蠱》卦は衰敗混乱の後に承接して、聖人は応に仁愛恩沢の政令を用いて去りてそれを救治すべければ、だからあそこは「先甲三日、後甲三日」と説く。庚は五行に於いて金に属し・四季に於いて秋に属して、金は断割を主り・秋は厳厲を主る。而も巽卦は風を取りて象と為し、風は孔なきに入らざるなければ、まさに君主の号令を主管す。
言五處人君之位,其發號施令在於當,其賞罰在乎信,使善者知勸,惡者知懼。然賞罰號令之出,將使天下之人皆服從之,固不可驟然而行,故先三日以申諭之,後三日以丁寧之,使民知其號令之必行、賞罰之必信,有所戒懼,則天下大治而吉矣。象曰九五之吉位正中也者,五所以獲吉者,蓋行得其中,履得其正,而不失治天下之道也。
九五は身は君位に居りて、号令を発し施令するは恰当を貴び、賞を行い罰を施すは守信を貴びて、善を為るの人をして勉励を受くるを知らしめ・悪を為るの人をして畏懼する所有るを知らしむべきなり。不過賞罰号令は一旦発出せられて、天下の人をして皆服从せしめんと要するに、本来即ち能く突然に施行する能わざれば、だから庚日の前の三天に於いて先に申明暁諭を行い・庚日の後の三天に於いて再び叮咛を加えて、百姓をして号令は必定に執行され・賞罰は必定に兌現せらるるを明白せしめて、心に戒懼を存せしめれば、天下は即ち大治して吉祥ならん。《象伝》の「九五之吉、位正中也」、九五の吉を獲ずるの所以は、行事は中道に合乎し・処する所は正道に合乎して、天下を治理するの根本を失掉せざるがゆえなり。
上九:巽在床下,喪其資斧,貞凶。象曰:巽在床下,上窮也。喪其資斧,正乎凶也。
上九の爻辞にいう。謙卑して床下に伏するの地步に到りて、財銭と利斧とを丟掉せり、此を守りて変わらざれば則ち凶なり。《象伝》にいう。謙卑して床下に伏するは、上位に処して而已に窮尽に到れるがゆえなり。財銭利斧を丟掉したるは、まさに凶険の在る所なり。
義曰:床下者,卑猥之地也。言上九本有剛明之質,而居重巽之極,處無位之地,是所行謙巽亦過甚而至於卑猥者也。喪其資斧貞凶者,資,貨也,人之才也;斧,斤也,善於斷割。言上九所以至於卑猥者,蓋處無位之地,無剛明之才,又不能斷割以自決其事,故於貞道凶者也。象曰巽在床下上窮也者,處巽之極,其道窮困,以至卑猥也。正乎凶者,上九本有剛明之徳可以自斷,而反處一卦之極無位之地,是失斷割之才於正道而凶也。
胡瑗が解説します。床下は卑賤委瑣の所在なり。上九は本来剛強明察の資質を具有するに、却って重巽の頂点に居りて、職位なきの地方に処せば、それによって彼の謙卑も亦頭を過ぎて、卑瑣の地步に落到せり。「喪其資斧、貞凶」と説く。「資」は財貨、譬えば人の才具。「斧」は斧頭、善く決断するの義を取るなり。上九の卑瑣に淪落したる所以は、身は无位の地に処して、剛明の才の用うべきなく・又能く果断に自らの事を作主する能わざれば、だから正を守るに就きて言えば返って凶険と為るなり。《象伝》の「巽在床下、上窮也」は、彼は巽卦の尽頭に処して、路子はすでに窮困に走り到りて、以て卑瑣に流るるに致れるを言うなり。「正乎凶也」と言うは、上九は本は剛明の徳有りて以て自ら決断すべきに、却って返って一卦の極端・无位の地に処して、決断の才幹を丟掉するに等しく、正道の上に於いて返って凶を招くを言うなり。
兊下兊上
兌:亨,利貞。
《兌》卦の卦辞に曰く:喜悦の道は亨通し、正固を守るのに宜しい。《周易》の断卦には常に「元亨利貞」の四字を用いる。元は創始、亨は通達、利は合宜、貞は守正を指す。兌卦はその中の亨と利貞の二項のみを取る。
義曰:按《序卦》云「入而後說之,故受之以兊」。言人能以柔順之道入於人,則人皆說之,故次於巽。然謂之兌者,其象為澤,其性為悅,所以為天下說之之法也。然澤者,水之所聚而滋息萬物,以為生成之功,使之皆得滋養而說懌也。
胡瑗の解釈:《序卦伝》に「入って後にこれを説(よろこ)ぶ、故に兊をもってこれを受く」とある。人が柔順の道をもって人の心に入ることができれば、人は皆これを悦ぶ。故に《巽》に次ぐ。これを兌と謂うのは、その象が沢であり、その性が悦であるからで、まさに天下を悦ばせる法を示すものである。沢とは水の集まり、万物を滋息させて生成の功を成し、万物を皆滋養を得て悦怿(よろこ)ばしめるものである。
然不謂說而謂之兊者,蓋聖賢之人將欲感天下之心,必當以仁義之道、恩恵之事,固不可以言語口舌而為說,故去其言而為兊也。亨者,言聖賢發仁施恵,布徳澤以說天下之人,使天下之人皆感說之,故得其亨通也。
「説」と書かず「兊」とするのは、聖賢が天下の心を感動させようとするには、必ず仁義の道と恩恵の事をもってすべきであって、決して言語口説をもって悦ばせてはならないからである。故に「説」の言偏を去って「兊」とした。「亨」とは、聖賢が仁を発し恵を施し、徳沢を布いて天下の人を悦ばせ、天下の人を皆感悦させるから、亨通を得るのである。
利貞者,夫感說之道多失於邪,若小人之人止以淫聲媚色、雕牆峻宇、流連荒亡以說於心,巧言令色、柔佞邪諂以苟容於人,如此皆所以喪身敗徳,以至亡家失天下,是說非正然也。故聖賢之人施其感說之道皆本於至正,則無所不利也。
「利貞」とは:人を悦ばせる道はしばしば邪に失する。小人はただ淫声・媚色・雕牆峻宇・流連荒亡をもって心を悦ばせ、巧言令色・柔佞邪諂をもって人に容れられようとする。このようなものは皆身を喪い徳を敗り、家を亡ぼし天下を失うに至るものであって、この悦びは正しきにあらざるものである。故に聖賢の人が感悦の道を施すには皆至正を本とすれば、利あらざることなし。
彖曰:兌,說也。剛中而柔外,說以利貞,是以順乎天而應乎人。說以先民,民忘其勞;說以犯難,民忘其死。說之大,民勸矣哉!
《彖伝》に曰く:兌とは悦びである。剛が中に居り柔が外にあり、悦びの道をもって利貞とする。故に上は天に順い、下は人に応ずる。悦びをもって民に先んずれば、民はその労を忘れ、悦びをもって民を犯難(死難)せしめれば、民はその死を忘れる。悦びの功用が大きいゆえに、民は励まされるのである。
義曰:剛中而柔外說以利貞者,言此卦內二爻為剛,外爻為柔。言所以感說人者,當內有其剛,外示以柔。然而止有剛則至暴,而無以感說天下之心,故當外示之以柔。內既剛,外復柔,以此說人,則人皆說而歸之,是得其正而無所不利也。
胡瑗の解釈:「剛中而柔外、説以利貞」とは、この卦の各単卦において下の二爻が陽剛で、最上の一爻が陰柔であることをいう。人を感悦させる方法は、内に剛強の操守を有し、外に柔和の姿を現すべきである。もし剛強のみであれば、暴烈に失して天下の心を打つことができない。故に外は柔和を現さなければならない。内は剛強、外は柔和、この方式をもって人を感悦させれば、人々は皆心悦誠服して帰附し、これが正道を得て利あらざることなし。
是以順乎天而應乎人者,夫天之體之徳運動而不已,是至剛者也;及其降氣以生成萬物,則至柔而不失其柔也。人之情莫不好安逸而惡危亡,說仁義而懼鄙吝。今聖賢之人內有剛眀之徳而外示柔順之道,施其仁義,發其恩恵,以說於天下,是上能順乎天之心,而下能應乎人之情也。
「是以順乎天而応乎人」と言うのは:天の本体と徳性の運行は止まず、至って剛健である。それが気化を降らせて万物を生成するに及んでは、また極めて柔和で終始柔和を失わない。人の常情として、安逸を好んで危亡を悪み、仁義を好んで鄙陋吝嗇を惧れない者はない。いま聖賢は内に剛強明察の徳を具え、外に柔順の姿を現し、仁義を施行し恩恵を広く布いて天下を悦ばせる。これがすなわち上は天の意に順い、下は人の性情に応ずることである。
說以先民民忘其勞者,民之情皆欲安而惡勞,若聖賢之人將欲役使之,必當發其仁義恩恵感說之,則民從其役使而忘勞苦之心也。夫就死者,人之所難也,聖賢先能發仁義徳澤,然後使之冒犯大難,至於死地,則民亦說樂而從之,無有怨也。說之大民勸矣哉者,夫施說之道固非小小之事可以感懐天下之心,必須有仁義徳澤以遍施天下,使民雖從其勞役、犯其死難皆無怨心,況乎納之以善,教民固勸而說從之矣。
「説以先民、民忘其労」と言うのは:百姓の本性は皆安逸を欲して労苦を厭う。聖賢が彼らを役使しようとするには、必ず先に仁義恩恵を施行して感動・感悦させなければならない。そうすれば百姓は駆使に従って労苦を忘れる。死に赴くことは、さらに人が最も為し難いことである。聖賢は先に仁義徳沢を施し、その後に百姓を大難に冒させ死地に赴かせても、百姓は心から甘んじて従い、怨言を抱かない。「説之大、民勧矣哉」と言うのは:感悦の道を施行するには、もともと小さな恩恵だけでは天下の人心を打てない。必ず仁義徳沢を天下に遍く施し、百姓が労役を負い死難を冒しても怨恨の心を持たないようにしなければならない。まして善道をもって彼らを導けば、百姓は自らさらに奮勉して欣然と従う。
象曰:麗澤,兌。君子以朋友講習。
《象伝》に曰く:二つの沢が連なり潤し合う。これが《兌》卦の取象である。君子はこれに法って、朋友とともに学問を講論し切磋して習う。
義曰:上下二體皆兌,是二澤相麗也。夫水之聚於一澤之中,則能滋息萬物而使之皆得其說懌,而況二澤相麗,是其說之大者也。君子觀是象,凡施說之道必當施之於大而至於久遠。若小人惟以淺近為說,以快己之慾,然至於久逺則不能無厭倦之心,厭倦既生,至喪身亡家敗國失天下皆由於此。
胡瑗の解釈:上下二つの単卦が共に兌であって、まさに二つの沢が連なり相依る形である。水が一つの沢に集まっても、なお万物を滋養繁育し皆に潤沢を得させて悦ばせることができる。いわんや両沢が連なり互いに灌注すれば、その悦びはいよいよ宏大である。君子はこの卦象を観て、およそ取悦の道を施行するには、必ず大きな処に落とし、かつ長久に続けられなければならないと悟る。小人はただ浅近なものをもって楽しみとし、ただ一身の欲望を満たすことを求める。日が長くなれば、厭倦の心を生じないことはなく、厭倦が一旦生じれば、身を喪い家を亡ぼし国を敗り天下を失うこと皆これより生ずる。
故君子之人當說其大者,惟朋友講習。蓋朋友之道同心同徳,其志氣相契,所講者聖人之道徳,所習者聖賢之事業,日聞其所不聞,日見其所不見,使道徳事業愈久而愈新,皆無其厭倦之心,是為說之道莫重於此也。
故に君子は宏大な事をもって楽しみとすべきであり、それは朋友とともに講論・演習することである。朋友の道は同心同徳・志趣相投を貴びとする。講論するのは聖人の道徳であり、研習するのは聖賢の事業である。日々に未だ聞かざる道理を聞き、日々に未だ見ざる事理を見て、道徳学問と事業をいよいよ久しくいよいよ新しくし、それによって終始厭倦の心を生じない。これを見れば取悦の道は、これより重きものはない。
初九:和兌,吉。象曰:和兊之吉,行未疑也。
初九の爻辞に曰く:中和の道をもって人を悦ばせる。吉。《象伝》に曰く:和悦して吉を得るのは、その行いに疑わしきところがないからである。
義曰:和謂中和也。夫兌者,西方之卦也,以四時言之則為秋,秋所以成萬物,萬物皆說而成也。君子之人在上,以義制天下之民,使之感說而歸之,故當廣發其中和之教,所應不繫於一,無心於物而使之自然感說而從之,則不失其兌之義也。
胡瑗の解釈:「和」とは中正平和を指す。兌は八卦の方位において西方の卦に属し、四季に配すれば秋である。秋は万物成熟の季節で、万物は皆欣然として成就する。君子が上位に居り、道義をもって天下の百姓を節制し、彼らを心悦誠服させて帰附させる。故に中正平和の教化を広く推行し、照応する所はある一人に偏り係らず、外物に私心を存せず、百姓をして自ずから喜悦・柔順せしめる。これこそ兌卦の本義を失わない道である。
今初九居兌之始,是能剛中而柔外以施其說也。何則?蓋以其有剛明之才,故曰剛中;體夫兌說,故曰柔外。夫內既剛,外又柔,是能以中和之道說天下之人,心無所繫,故得天下之歡心而獲其吉者也。象曰和兌之吉行未疑也者,初九能以中和之道,上不繫應而行不在私,故以此而施說於人,則人皆說而從之,復何所疑哉?
いま初九は兌卦の開端に処し、まさに内剛外柔をもって感悦の道を施行できる。何をもってそう言うか。それは剛強明察の才干を有するから「剛在內」と称し、また兌卦喜悦の性情を禀るから「柔在外」と称する。内は剛強、外は柔和であれば、中正平和の道をもって天下の人を悦ばせることができ、心中に私情を掛けない。それによって天下の人の歓心を得て吉祥を獲る。《象伝》の「和兌之吉、行未疑也」は、初九が中和の道をもって行い、上は応爻に係らず、行いも私心より出ず、この態度をもって人を感悦させれば、人人は皆これを喜び従う。何の疑うべきことがあろうか。
九二:孚兌,吉,悔亡。象曰:孚兌之吉,信志也。
九二の爻辞に曰く:誠信をもって人を悦ばせる。吉。悔恨は消える。《象伝》に曰く:誠信をもって人に悦ばれ吉を得るのは、その心志が真実に信じられるからである。
義曰:此爻以陽居陰,履非其正,本有悔者也。然以剛居中,是其有至信發之於中而施說於人,不為邪僻,不為非妄,使天下之人皆必信之,以至歡心而歸一,獲其吉,是得其所以為說之道,悔遂亡矣。象曰孚兌之吉信志也者,能以由中之信發於己之志而施說於天下,天下之人莫不說而歸之。
胡瑗の解釈:この爻は陽爻をもって陰位に居り、処する所が正に合わないから、本来悔恨がある。しかし陽剛をもって下卦の中位に居り、心の内より発する至誠信実があることを示す。この誠信をもって人を感悦させ、邪僻をせず妄行をなさず、天下の人を必ず彼を信じるに至らしめ、衆人が斉しく歓悦して帰附するに至り、よって吉祥を獲る。これが人に悦ばれる正道を掌握したのであり、悔恨はここに消える。《象伝》の「孚兌之吉、信志也」は、心の内より発する誠信を己の志向と化し、もって天下を感悦させれば、天下の人は悦ばずして帰附せざる者なし、ということである。
六三:來兌,凶。象曰:來兌之凶,位不當也。
六三の爻辞に曰く:自ら門に来て人に喜ばれようとする。凶。《象伝》に曰く:来て悦を求めて凶となるのは、処する位次が当たらないからである。
義曰:夫感說之道,必須至公至正,無所偏繫,使天下之人自然而說之則可也,固不可以言語口舌柔邪以苟取於人而求其說。今六三當施說之世,以陰居陽,又在一卦之上,是履不得中,行不得正,以不中不正之道,是欲以柔邪諂佞、姑息苟且以來天下之說。雖天下之民一時歡心而說從之,終無其道以久說斯民,以是施說,非凶而何?
胡瑗の解釈:感悦の道は必ず極めて公平・極めて端正で、いずれか一方に偏袒・依附せず、天下の人に自ずから喜悦せしめてこそ行い得る。決して口舌言辞・柔媚邪佞をもって人に媚び、強いて人の歓心を換えてはならない。いま六三は感悦を施行する時代に身を処しながら、陰爻をもって陽位に居り、また下卦の頂端に処する。処する所は中位にあらず、行いも正道に合わない。このような中にも正にもあらざる路数をもって、柔媚諂佞・姑息苟且によって天下の人の喜びを招こうとする。たとえ天下の百姓が一時喜んで従っても、ついには長く百姓を悦ばせうる正道を持たない。この方式をもって感悦を施行して、凶ならずして何であろう。
九四:商兌未寧,介疾有喜。象曰:九四之喜,有慶也。
九四の爻辞に曰く:人に悦ばれるべきか否かを反復して權衡し、心が安らかでない。為害する者を隔絶できれば、喜慶がある。《象伝》に曰く:九四に喜ある所以は、この事が慶賀に値するからである。
義曰:商謂商議裁制也;寧,安也;介,隔也;疾謂六三也。九四以剛明之資居上卦之下,切近九五之君,是居得大位與持重權者也。既為權位之臣,則邪媚之人皆欲以甘言巧語、柔佞之道以苟說於己,將以希進用之地。然小人之徒止欲榮進一身而已,若使進而有位,則上必為害於君,下必為害於民,君民之間皆被其疾害。
胡瑗の解釈:「商」は商議裁断の意、「寧」は安、「介」は隔絶、「疾」は六三を指す。九四は剛強明察の資質をもって上卦の最下に居り、九五の君に緊接し、要職に居り重権を握る大臣である。権を掌る重臣たる以上、邪佞諂媚の人は皆甜言巧語・柔媚奉承の手段をもって彼に媚び、これによって晋身の路を得ようとする。しかし小人の輩はただ一身の栄顕を求めるのみで、一旦進用せしめて位を得れば、上は必ず君主を害し、下は必ず百姓を禍し、君と民の両頭が皆彼らの毒害を受ける。
是則九四既有權位,人求說已,及已之說人,皆當商議裁制其所說之義,則不失其正。然既商議裁制,則旦夕憂慮,常恐小人之進,故未能斯須遑安也。介疾有喜者,六三既以柔邪欲說於己,欲圖進其身,苟進之則為君民之害矣,故九四則當施剛眀之徳以裁制而介隔杜絶之。
それゆえ九四はすでに権位に居る以上、他人が来て媚びるにせよ、自ら人を悦ばせるにせよ、皆その中の分寸を仔細に權衡裁断しなければならず、そうして初めて正道を失わない。しかし常に權衡裁断せねばならぬ以上、早晚憂心し、常に小人が入り込むことを怕れて、片時も安閑を得ない。「介疾有喜」と言うのは:六三は柔媚邪佞をもって彼に媚び、己を抬挙せんことを図っている。一旦六三を上らせれば、君と民の禍害となる。故に九四は剛強明察の徳を発して裁断し、六三を隔て、塞ぎ止めるべきである。
既能介隔六三之小人,則天下之賢者得以進,天下之民皆得其安,上以致國於太平,下以納民於富壽之域,是有其喜慶者也。象曰九四之喜有慶也者,九四所以有喜者,葢由能介隔六三諂佞之小人使不得進,所以杜君民之害,使賢者得路以施仁義於天下,獲其福慶之事也。
すでに六三のごとき小人を外に隔絶できれば、天下の賢才は進用を得、天下の百姓も皆安居し、上は国家を太平に致し、下は百姓を富寿の境地に入らしめる。これがすなわち慶幸に値する喜事である。《象伝》の「九四之喜、有慶也」は、九四に喜ある所以は、六三この諂佞小人を隔絶して進用せしめず、もって君民を危害する禍根を塞ぎ、賢者に行くべき路を通じ、仁義を天下に施行するから、この福慶を獲るのである。
九五:孚于剝,有厲。象曰:孚于剝,位正當也。
九五の爻辞に曰く:剥奪侵害を専らとする者に信任を委ねれば、危険がある。《象伝》に曰く:剥害の人を信任して危険があるのは、九五の処する位置がまさにその責に当たるからである。
義曰:孚,信也;剝,刻也。夫聖賢之人皆以仁義為先,若使之進於有位,則上可以致君於無過之地,下可以躋民於富壽之域,使天下罔有一民一物不得其所而不被其福慶也,此聖賢之所用心也。小人則不然,外以柔邪諂佞,內以貪殘狠毒為心,若使之見用,於上必為亂於君,於下必為害於民,以至天下皆被其剝刻。
胡瑗の解釈:「孚」は信任、「剥」は剥削苛刻である。聖賢の人は一律に仁義を首位に置く。もし彼らを進用して位を得せれば、上は君主を過失なき境地に処らせ、下は百姓を富寿の境地に登らせ、天下に一人の百姓・一件の事物も安頓を得ず福沢を享けざることなからしめる。これがまさに聖賢の用心である。小人はそうではない。外は柔媚諂佞、内は貪婪残忍狠毒。一旦任用されれば、上は必ず君主を撹乱し、下は必ず百姓を禍し、天下の人を皆その盤剥苛待を受けしめるに至る。
然則為天下者欲治於民,莫若以至誠委任天下之賢,使推其仁義之心以布澤流恵,則天下不勞而治矣。今九五以剛明中正之徳居至尊之位,為兌之主,是有可致之資。既有其資,則當信任其賢明有徳之人以輔助於己,故天下皆被其賜矣。
これを観れば、天下を治める者が百姓を治めようとする最善の法は、至誠の心をもって天下の賢才に委任し、彼らに仁義の心を推广させ、恩沢を布施せしめることに過ぎない。そうすれば天下は力を費やさずして治まる。いま九五は剛強明察・中正不偏の徳行をもって至尊の位に居り、兌卦の主爻であって、治世を成就する資質を具えている。すでにこのような資質があるからには、賢明有徳の人を信任して自らを輔佐せしめ、天下の人才に皆その恩賜を蒙らしめるべきである。
且五雖本應於九二,九二有剛正之徳,而已不能盡柔巽以任用之,反比於上六邪佞不正之臣,是所信者剝刻之小人也。既信剝刻之小人,則賢者退而朝廷昏亂,紀綱廢弛,以至害於國而及乎天下,是其危厲之甚也。象曰孚于剝位正當也者,此聖人戒之之辭也,言九五居可致之位,操可致之資,反委任上六柔邪之小人以剝刻君子,自取危厲,故於此切戒之,責於五也。
しかも九五は本来九二と相応ずる。九二は剛強端正の徳行を具えるが、九五は自ら姿態を低くして彼を任用せず、かえって緊隣する上六と親しい。上六は邪佞不正の臣であって、彼の信任する所はまさにあの盤剥苛刻の小人であることが見て取れる。すでに盤剥苛刻の小人を信任すれば、賢者は退隠して朝廷は昏乱し、綱紀法度は鬆弛敗壊し、国家を禍して天下に波及するに至る。危険は実に甚だしい。《象伝》の「孚于剥、位正当也」は、これは聖人の告誡の言である。九五は治世を成就し得る位置に居り、治世を成就し得る資質を握りながら、かえって上六のような柔媚邪僻の小人を委任して君子を剥害せしむる。これは自ら危険を招くに等しい。故にここに厳しく告誡し、責任を九五の身に帰する。
上六:引兌。象曰:上六引兊,未光也。
上六の爻辞に曰く:衆人を牽引して来て己に喜ばせる。《象伝》に曰く:上六がひたすら牽引して悦を求めるのは、その道が光大でないからである。
義曰:引者,牽引之辭也。言上六以陰柔居一卦之極,當無位之地,故欲以柔邪不正之道苟且以牽引天下之民,欲使盡歸說於已。象曰上六引兌未光也者,夫施說之道一失其正,則皆為私邪而不可行,況其以柔佞欲苟說於人乎?今上六既然,故雖得人之說,其道亦未足為光大也。
胡瑗の解釈:「引」は牽引拉攏の意。上六は陰柔の質をもって全卦の頂端に処し、ちょうど職位なき所に当たる。故に柔媚邪僻の不正の道をもって苟且に天下の百姓を拉攏し、皆帰附して己を喜ばせようとする。《象伝》の「上六引兌、未光也」:感悦の道を施行するに、一旦純正を失えば、皆私心邪念に淪して行い通せない。いわんや柔媚諂佞をもって強いて人の歓心を討うをや。いま上六はまさにこのような者であるから、たとえ一時人の喜びを得ても、その道は光明博大と言うに足らない。
坎下巽上
渙:亨。王假有廟,利涉大川,利貞。
《渙》卦:亨通。君王が自ら宗廟に臨んで祖先を祭祀する。大河を渡るに宜しく、正道を守持するに宜しい。「假」はここでは到達・親臨の意。「利渉大川」は《周易》に常用される断語で、険難を冒して大事を成就し得ることを喩える。「貞」は正を守り移らないことを指す。
義曰:按《序卦》云「說而後散之,故受之以渙」。渙,散也,離也,釋也。言人樂極則憂,歡極則悲,歡樂之極,久而不已,以至離散,故渙次於兌。然渙者,是人心睽離、上下違散之謂也。亨者,言上下所以渙散,故民所以睽離,蓋由道有所壅塞,志有所不通,是以渙散。故君子當此之時,必以權變之術、剛眀之徳,釋去民之險難,以和眾情,以導眾志,使皆得萃聚而至於亨通,故曰渙亨也。
胡瑗の釈義:《序卦伝》に曰く、人心はまず喜悦があり、喜悦が極に至れば転じて渙散となる。故に《兌》卦の後に《渙》卦が続く。「渙」の字は三層の意を含む:散開、分離、解除。人情は常に楽しみ極まれば憂を生じ、歓び極まれば悲を生ず。歓楽が久しく続き収斂を知らなければ、ついに必ず離散に向かう。故に《渙》卦は《兌》卦の後に列する。ただしこの卦の言う渙散は、特に人心が互いに猜忌背離し、上下君臣が互いに違逆して散乱する局面を指す。卦辞の「亨」は補救に就いて言うのである:上下の渙散・百姓の相互背離の所以は、政令道路が壅塞し、上下の心志が相通じないことに根源がある。故に君子はこのような時に処して、必ず通権達変の手段を運用し、剛強明断の徳行に憑って、百姓のために険阻危難を解除し、衆人の情緒を調和し、衆人の意志を疏導して、渙散の人心を再び聚めて、ついに亨通に向かわせる。故に卦辞に「渙、亨」と言う。
王假有廟者,言人精氣體魄,萃則生,散則死。精氣散之於天則為神,體魄歸之於地則為鬼,冥然倀倀然,幽邈而不知所之。為人子者,思欲追念其容貌,竭心以奉養,雖有悽愴之懐,不可得而見之。故先王因此渙散之義,思欲萃聚其親之神靈,故假立其廟,以狀先祖之容貌。於是四時追感,設為祭祀之禮以薦享之,所以表追念悽愴之心。而又燔燎羶薌以達諸陽,酌鬱鬯芬香之酒沃之於地以達諸陰,所以盡孝子思親之志,教天下追思奉先之道也。
卦辞の「王假有廟」は、人の生死聚散から説き起こす。人の身の精気と形体は、聚合すればすなわち生、離散すればすなわち死。精気は升散して天に至り神となり、形体骨肉は帰蔵して地下に入り鬼となる。一片の幽冥恍惚・茫然依り処なしであって、深遠にして何処へ往ったか知れない。子女として父母の音容笑貌を追念し、心力を竭くして彼らを奉養したいと思っても、たとえ凄涼悲愴の情を満腔に抱いても、再び親人に見ることはできない。故に古代の聖王はこの層の渙散の理に就いて、すでに散去した親の神霊を再び聚めようと欲し、ここに宗廟を建立し、廟貌をもって先祖の形容を模擬した。一年四季、時令に随って追慕の感を生じ、祭祀の礼儀を制定して供奉を進献し、これによってその追念の凄愴の心を表する。祭祀の時にはまた牲脂を焚いて香気を上騰させ、陽に属する神を感通し、欝金香草を掺した鬯酒を斟んで地に灌ぎ、芬芳を下渗させて、陰に属する魄を感通する。このようにして、孝子の両親を思念する心愿を尽くすとともに、天下の人に祖先を追思し先人を奉事する道理を教えもするのである。
利涉大川者,大川險阻之謂也。夫渙散之時,民心違離,上下相戾,必不能涉其大川。是故聖賢君子必起而濟之,雖甚大險,必往救其生靈,不可懼其患難。是利在涉此大川,以拯天下渙散,使皆萃聚,不至離散而各得其濟也。所以能然者,蓋巽體屬木,涉於川而無沉溺之患,故古之聖人刳木為舟,剡木為楫,舟楫之利以濟不通,是巽木能涉於水也。猶聖人有才智而又有剛健之徳,能拯民之患難,無有不濟者也。利貞者,言離散之時,不以正道而拯濟之,則人心愈肆,而邪僻之事從而至矣。故聖賢之人當此之際,利守正道,則可萃天下之民也。
卦辞の「利渉大川」。「大川」は険阻艱難の代称である。人心が渙散するとき、百姓は互いに背離し、上下は彼此抵触し、本来この大河を渡り得ない。まさにこのが故に、聖賢君子は必ず挺身して出て救済しなければならない。たとえ険難が極めて大きくとも、必ず往きて蒼生を拯救し、事を怕れて退縮してはならない。故に利はまさに敢えてこの大河を渡ることに在る――これをもって天下の渙散を挽救し、離散の人心を再び聚合せしめ、四分五裂に至らず、人人皆救助を得せしめる。このようにできた所以は、本卦の上体が巽であり、巽は五行において木に属し、木は水上に浮かんで沉溺しないからである。故に上古の聖人は整木を刳り空にして船を作り、木を削って楫を作り、舟楫の利に憑って本来到り得ぬ所を溝通した。これがまさに巽木が水に行くを得る取象である。これは聖人が才智を有し、また剛強篤実の徳行を有し、百姓の患難を拯救して救い得ざるなきことを喩える。卦辞にまた「利貞」と言う:人心離散の際、もし正道をもって救わなければ、百姓はただいよいよ放縱となり、邪僻不正の事がこれに随って来る。故に聖賢はこのような時に、利は正道を守るに在り、ただこのようにしてのみ天下の百姓を再び聚め得る。
彖曰:渙,亨,剛來而不窮,柔得位乎外而上同。王假有廟,王乃在中也。利涉大川,乗木有功也。
《彖伝》に曰く:《渙》卦が亨通する所以は、剛爻が来て下卦の中に居り困窮に陥らず、柔爻が外卦で正当の位置を得、かつ上の九五と同心だからである。「王假有廟」とは、君王の心がまさに中道に在ることを言う。「利渉大川」とは、木船に乗って前行して初めて功効を建て得ることを言う。
義曰:剛來而不窮者,此言九二有剛陽之徳,來居坎險之中,而上無所應,然已有剛眀之才,終不陷身於窮困也。柔得位乎外而上同者,此言六四以陰居陰,居得其正,而在上卦之下,是位乎外也。既居外卦之下,下無其應,然上比九五之君,九五亦無應,故與之志合而相得,同心戮力,上與五同渙散天下之難,萃聚天下之民而濟之也。
胡瑗の釈義:「剛来而不窮」とは、九二のこの爻を指す。九二は剛健陽明の徳性を具え、下卦坎険の正中に来て、上には相応ずる爻がない――《周易》において初と四、二と五、三と上の陰陽相対を「応」と言う。しかしそれ自身に剛強明断の才があり、ついに己を困窮に陥れることはない。「柔得位乎外而上同」とは、六四を指す。六四は陰爻をもって陰位に居り、処する所得正し、また上卦の最下の一爻にある。故に「位乎外」と言う。それは外卦の下に居り、下には相応ずる爻がないが、上は九五の君に緊接する――この種の相隣相亲を「比」と言う――そして九五も同様に応なく、ここに君臣の心志が相合し彼此投契し、同心合力して、ともに天下の危難を渙解し天下の百姓を聚合してこれを救済に往く。
王假有廟王乃在中也者,言人體魄既散,幽陰而難見,是故王者假立此廟,以萃其容貌,四時祭祀,以表悽愴之心。然而立其廟宇,設其祭祀,追思念舊,不可以瀆,不可以疏,是王者教人之孝,亦在中道者也。利涉大川乗木有功也者,言川者水之聚,濟之以舟楫。今下體坎,坎為水,故為川;上體巽為木,故為舟。繫辭曰:刳木為舟,剡木為楫。是唯舟楫為能利涉大川。猶聖賢當此渙散之時,必須冒涉險難,使渙散者皆萃聚之,故往則有功也。
「王假有廟、王乃在中也」のこの一句は、人は死ねば形体骨肉はすでに散去し、幽隠にして見難い。故に君王は宗廟を建立し、先祖の容貌を廟貌の中に聚め、四時節に按じて祭祀し、もって追思の悲愴の情を表する。しかし廟宇を立て祭祀を設け故旧を追念するこの事は、過度に頻繁にして褻瀆に流れてもならず、過度に稀疏にして冷淡に近くなってもならない。君王が天下の人を教えて孝を行わせるも、同様に不偏不倚の「中道」に落とさねばならない。「利渉大川、乗木有功也」のこの一句は、河川は水の汇聚して成るもので、これを渡るには船と楫に頼らねばならない。此卦の下体は坎、坎の取象は水。故に「川」と言う。上体は巽、巽の取象は木。木は以て船を造り得る。故に「舟」と言う。《繋辞伝》の「刳木為舟、剡木為楫」は、まさに船楫のみが順利に大河を渡り得ることを説明する。これは聖賢が人心渙散の時に処して、必ず風険を冒してこの険難を渉り、離散の人心を再び聚合せしめるゆえに、一往して前進すれば功効を建て得ることを喩える。
象曰:風行水上,渙。先王以享于帝立廟。
《大象伝》に曰く:風が水面の上を行き吹けば、水波はこれに随って四散する。これが《渙》卦の取象である。先王はこの卦象に法って、祭天の礼をもって上帝を奉享し、かつ宗廟を建立して祖先を祭祀した。
義曰:夫風行水上,渙然而散,是得渙之象也。帝即天帝也。以形言之謂之天,以氣言之謂之陰陽,以主宰言之謂之帝。言先王當此渙散之時,設其郊祀,備其物儀,薦享於天地,以報成功也。立廟者,言萃聚先祖之精神,立為廟貌,四時祭之,以表悽愴之心,奉先之道也。
胡瑗の釈義:風が水面上を行けば、水は渙然として散開する。これがまさに《渙》卦の卦象に合う。「帝」とはすなわち天帝である:形体より言えばこれを天と言い、気化より言えばこれを陰陽と言い、万物を主宰するこの一面より言えばこれを帝と言う。ここでは先王が人心渙散の時に処して、郊外祭天の大典を挙行し、祭品儀節を備斉し、天地に供奉を進献し、もって天地の万物を成就する功に報いることを言う。「立廟」に至っては、先祖の精神を聚め、廟貌の像を立て、四時節に按じて祭祀し、もってその凄愴の追思の情を表することを言う。これがすなわち先人を奉事する正道である。
初六:用拯馬壯,吉。象曰:初六之吉,順也。
初六:拯救に用いる馬が強壮有力。吉祥。《小象伝》に曰く:初六が吉祥なる所以は、柔順をもって行事し得るからである。
義曰:夫渙散之時,人民既違散,上下既乖離,救之緩則情偽交作,奸邪並起,無所不至,事難濟矣。今此初六以陰柔之質,居一卦之下,又在渙散之始,是往而拯之不可後時,固當用剛壯之馬,急於解民之難,使得萃而不散,吉之道也。象曰初六之吉順也者,言當此渙散之時,固不可以剛暴拯濟之,苟尚剛暴,則民愈怨而心愈離。今初九既以陰柔居於卦下,而復在事初,能執柔順之道以拯濟之,故得其吉也。
胡瑗の釈義:人心渙散の時、百姓はすでに離散し、上下はすでに乖違している。救援が一たび遅れれば、真情仮意は皆出て来て、奸邪の徒が紛紛と興起し、何事も為し出し、局面は収拾し難くなる。初六は陰柔の資質をもって全卦の最下の一位に居り、また渙散がちょうど開始する際に正当する。見れば往きて救助するに決して時機を失ってはならず、強壮の馬匹を駆使して、前に先んじて百姓の危難を解除し、人心を聚合を得て四散に至らしめざるを理とする。これがすなわち吉を獲る道である。《小象伝》の「初六之吉、順也」は、渙散の際には本来剛猛暴烈の手段をもって救うことができない。一旦剛暴を崇尚すれば、百姓はただいよいよ怨恨を増し、人心はいよいよ遠く離れる。いまこの爻は陰柔の質をもって全卦の下に居り、また事情の開端に処し、柔順の道を守って救助を施行し得る。故に吉祥を得る。
九二:渙奔其機,悔亡。象曰:渙奔其機,得願也。
九二:渙散の中において、憑倚すべき几案の旁に奔赴する。悔恨消える。《小象伝》に曰く:その倚靠すべき処に奔赴するのは、心中の願望を遂げたからである。
義曰:機者,人所倚憑,謂初六也。此九二當渙散之時,以陽居陰,失正者也;上又無應,是無同心同徳合契之人也。既無合契之人,居又失正,是有悔者也。然而初亦無應,能知事始,用拯濟之馬以救天下之渙。今二若能奔從於初,則是得其所憑倚之地也。既得其所憑倚,則可以同謀合慮,以拯當時之難,使天下得其萃聚;天下既以萃聚,則其悔得以亡矣。象曰渙奔其機得願也者,言二當渙散之時,上無其應,道不得行,志不得伸,其身不能有所濟。既能奔從於初,與之共謀為慮,同心協志而有所憑依,則是得中心之所願也。
胡瑗の釈義:「机」は人の倚靠する几案で、ここでは初六を指す。九二は渙散の時に処し、陽爻をもって陰位に居り、失正に属する。上には相応ずる爻がなく、身辺に同心同徳・意気相投の人がないに等しい。投契の人なく、処する所も位に当たらなければ、本来悔恨があるべきである。しかし初六も同様に応なく、事情が剛く起頭する時に手を動かし、強壮の馬を駆使して天下の渙散を救うことを知る。九二がもし初六に奔りてこれと相就けば、すなわち憑倚すべき落脚の処を得たに等しい。この依靠があれば、両爻は便ち共同に謀劃し合力思慮して、当面の危難を救い、天下の人心を再び聚合せしめ得る。人心一たび聚まれば、その悔恨は自ずから消える。《小象伝》の「渙奔其机、得願也」は、九二が渙散の時に処して、上に相応ずる爻なく、主張は推行せず、志向は伸展せず、己一己の力に憑って何も救い得ない。初六に奔ってこれと相就き、両爻が一同に謀劃思慮し、同心協力して依靠を有すれば、これこそその心中真の願望を遂げたと言うべきである。
六三:渙其躬,無悔。象曰:渙其躬,志在外也。
六三:自身の禍患を渙解する。悔恨なし。《小象伝》に曰く:その自身を渙解するのは、その心志が外卦の上九の身に係るからである。
義曰:夫有才者或無位,有位者或無才,或位崇而徳薄,志大而位小,皆不足以有為也。今六三以陰居陽,履非其正,當渙散之時,其徳不能安天下之眾,其才不能釋天下之難,在險之終,有悔者也。然而上有上九居一卦之極,有剛眀之才,以己為正應。既以己為正應,是以不能固其所守,往從於上。然雖不能大濟天下之事,亦可以釋一身之患而無悔吝也。象曰渙其躬志在外也者,言三雖居非其位,而得上九為之正應,往以從之,思展其志於天下國家也。
胡瑗の釈義:世の中には才干ある人が往々に地位なく、地位ある人が往々に才干ない。職位甚だ高くして徳行浅薄な者、志向甚だ大きくして職位甚だ低き者もあり、これらは皆作為するに足らない。六三は陰爻をもって陽位に居り、処する所正ならず。この渙散の時に当たり、その徳行は天下の衆人を安定せず、その才能は天下の危難を解除せず、しかも坎険の末尾に身を処す。本来悔恨あるべきである。しかし上九は全卦の頂端に居り、剛強明断の才を具え、また六三を正応とする。まさに上にこのような一つの正応があるが故に、六三は己の本位を守り得ず、便ち往きて上九に追随する。このようになれば、それは天下を救済する大事を成就し得ないといえども、自身の禍患を解除して悔恨遺憾なきに足る。《小象伝》の「渙其躬、志在外也」は、六三は居る所の位が正当でないといえども、上九がその正応としてあり、ここに往きて追随し、上九を藉りて抱負を天下国家に施展せんことを指望する。
六四:渙其群,元吉。渙有丘,匪夷所思。象曰:渙其群元吉,光大也。
六四:結党の羣を渙解する。大いに吉祥。渙散の中において、高低不平の土丘に身を置くが如く、それは尋常の人の設想し得る所ではない。《小象伝》に曰く:朋党を渙解して大吉なるのは、その徳行が光明盛大だからである。
義曰:群,眾也。天下之渙起於眾心乖離,人自為群。六四上承九五,當濟渙之任,而居陰得正,下無私應,是大臣秉大公之道以濟天下之渙,且又得君以行其志。內掌國之機務,外宣君之徳意,使天下之黨盡散,則天下之危以濟,天下之難以解,天下之心不至於乖離而皆得以萃聚,上下悉有所歸。有此之功,故得盡善元大之吉也。
胡瑗の釈義:「羣」とはすなわち衆。天下の渙散する所以は、人心の乖違背離・各自党派を結成することに起こる。六四は下において九五の君を承奉し――下爻が上爻を托挙するを「承」と言い、上爻が下爻を圧臨するを「乗」と言う――渙散を救治する責任を担い、また陰爻をもって陰位に居りて正を得、下に偏私の相応ずる爻がない。これがまさに大臣が大公の道を秉持して天下の渙散を救い、しかも上に君主の信任を得て、己の主張を推行し得るものである。それは内に国家の機要政務を掌り、外に君主の徳意を宣布し、天下の朋党を全部散解せしめる。このようになれば天下の危局は救済を得、天下の患難は化解を得、人心は再び乖離せずして聚合し、上上下下皆帰属を有する。このような功労があるから、尽善至大の吉祥を得る。
渙有丘匪夷所思者,夫為人臣者當尊其君,為人子者當尊其父,然後君父臣子之道正矣。丘者,臲卼不平之地。今六四上奉九五之君,下為百官之長,當天下渙散乖離之際,其承君之命令,宣君之徳澤,以釋天下之難,一責於己,是其權既重,其職匪易,故六四常終日乾乾,終夜惕惕,竭其臣節,能自臲卼,不敢少安,而亦未嘗敢平其思慮也。象曰渙其群元吉光大也者,言渙散之時,上下乖離,六四獨能執柔順之道以事其君,使天下之眾不至離散,如是於臣子之道,得其光明盛大者也。
「渙有丘、匪夷所思」のこの一句:臣子たる者は君主を尊奉すべく、子女たる者は父親を尊奉すべく、君父臣子の間の名分が初めて正しく置かれる。「丘」は高低不平にして人をして立足安穩ならしめざる処である。六四は上に九五の君を奉事し、下に百官の長たりて身を為し、ちょうど天下渙散乖離の際に当たり、君主の命令を承接し、君主の恩沢を宣布し、天下の危難を化解すること、皆がその一人の身に圧される。権柄既に重く、職任また難し。故に六四は整日整日勤勉不懈、整夜整夜警惕不安にして、人臣の節操を尽くし、己を始終その安穩ならざる状態に処らしむるを寧うし、一刻の苟安を敢えてせず、また心を平に放つを敢えてしない。《小象伝》の「渙其羣元吉、光大也」は、人心渙散・上下乖離の時に、唯独り六四のみが柔順の道を守って君主に事奉し、天下の衆人を離散に至らしめない。こうすれば、臣を為し子を為す分際において、光明にして盛大を成し遂げたと言う。
九五:渙汗其大號,渙王居,無咎。象曰:王居無咎,正位也。
九五:汗を発するが如く重大の号令を発布し、渙散の中において君王はその位に安居する。過ちなし。《小象伝》に曰く:君王がその位に安居して過ちなきは、処する所の位置が端正だからである。
義曰:汗者,膚腠之所出,出則宣人之壅滯,愈人之疾,然且一出而不可反。猶上有教令,釋天下之難,使天下各得其所者。今此九五居至尊之位,為渙散之主,居得其正,履得其中,能出其號令,布其徳澤,宣天下壅滯,發天下湮鬱,使一令之出而不復反,一號之施而不復更,善者賞之,惡者罰之,使天下之人皆信於上,咸有所歸,是如汗之不反者也。
胡瑗の釈義:汗は皮膚の纹理の中より透け出て、一たび汗が出れば人身の壅塞が疏通し、病もこれに随って痊愈する。しかも汗は一旦発せられれば收回を得ない。これはまさに君上が教令を頒下し、天下のために危難を化解し、人人を各々その所を得せしめるに譬ゆ。九五は至尊の位に居り、渙散の局を主持する者であって、居る所の位は端正、行う所は「中」に合う。すなわち上卦の中に処りて過不及なし。それは号令を発布し恩沢を施布し、天下の壅塞を疏通し、天下の鬱結を抒解し得る。一道の命令を発すれば再び收回せず、一次の号召を施行すれば再び更改せず、善は賞を加え、悪は罰を加え、天下の人を皆君上に信服せしめ、人人帰属あるが如くする。これは汗が出て返らざるが如し。
渙王居無咎者,言九五既居尊位,為渙散之主,當是時上能自正其位,下能任六四之臣,宣號令,布徳澤,釋天下之大難,正天下之廣居,輔王者之尊位,使天下之人皆知上有眀君,下有賢臣,無渙散之難,民得安堵,天下合洽,則九五之君所以居位而無悔咎矣。象曰王居無咎正位也者,言九五居至尊之位,任賢明之臣,萃天下之民而免悔者,由所居之得正故也。
「渙王居、无咎」のこの一句は、九五はすでに尊位に居り渙散を救治する主人となった以上、この時それは上に己の位分を端正し、下に六四のような臣子を任用し得る。六四によりて号令を宣布し恩沢を施布せしめ、天下の大難を化解し、天下この广厦を正し、君王の尊位を輔助する。このようになれば、天下の人は皆上に明君・下に賢臣あることを知り、渙散の患は再び存せず、百姓は安居を得、天下は和洽融洽し、九五この君主は自ずから位に居りて悔恨過咎なし。《小象伝》の「王居无咎、正位也」は、九五は至尊の位に身を処し、賢明の臣子を任用し、天下の百姓を再び聚合して悔恨を免れしむる。原因はまさにその居る所の位置が端正合宜なることに在る。
上九:渙其血去逖出,無咎。象曰:渙其血,逺害也。
上九:渙散の中において流血の傷を免れ、遥かに険地を走出す。過ちなし。《小象伝》に曰く:流血の傷を免れるのは、禍害から遠く離れたからである。
義曰:逖者,逺也。夫天下渙散之時,上下乖違,情偽叢生,利害紛起,必有所傷也。今此上九居上卦之極,處無位之地,能全其身,獨逺其難,不與眾競,故渙其血去也。逖出無咎者,言既居卦極而無位,是能獨逺於難,所以無咎也。象曰渙其血逺害也者,既獨居上卦之上,是最逺於患害也。
胡瑗の釈義:「逖」とはすなわち遠。天下渙散の時、上下は互いに乖違し、真情仮意は叢生し、利害の糾葛は紛起し、必ず傷害を受ける者あり。上九は上卦の頂端に居り、職位なき所に処し、自身を保全し得、独りあの禍難を遠離し、衆人と争競せず。故に「渙其血去」と言い、流血の傷を渙解し去ったのである。「逖出、无咎」に至っては、それはすでに一卦の極位に処りて職守なく、まさに独り危難を遠離し得る。故に過咎あらざる。《小象伝》の「渙其血、遠害也」とは、すなわちそれは独り上卦の上に居り、禍患より距離最も遠い。
兊下坎上
節:亨。苦節不可貞。
《節》卦:亨通。ただし節制が度を過ぎて苦しく堪え難い「苦節」は、以て長久に守持する常法と為すことはできない。卦名の「節」は、竹に節あり・事々に分限あるの義を取る。
義曰:按《序卦》云「物不可以終離,故受之以節」。言凡物不可使之終有離散,故必節制之。然謂之節者,葢節之道在於人之一身,則言語、飲食、心意、思慮、出處、進退,以至嗜慾皆有所節,使父子有禮,上下有等,男女有別,尊卑有序,長幼有倫,夫婦有制,內外有分,皆有所節。至於一國以及天下,用度、禮樂、刑政、賞罰、號令、宮室、旌旗、車輿、服器,以至稅賦徭役以其時,賢不肖各有所處,士農工商各守其業,富貴貧賤各當其分。如此之類,舉而言之,是修身、齊家、治國、正天下皆有所節,故謂之節。然其得亨者何?蓋人之修身以至治天下皆有所節,則所往之地、所為之事無不獲亨通也。
胡瑗の釈義:《序卦伝》に「物は以て終に離るべからず、故にこれを節をもって受く」とある。意味は万物は一直に離散し続けてはならず、故に必ず節制を加えなければならない。《節》卦はこの故に《渙》卦の後に列する。「節」と称する所以:節制の道が一人の身に落ちれば、言語・飲食・心思・謀慮・出仕と退隠・前進と後退、各種の嗜好欲望に至るまで、様様皆分寸がある。人倫に落ちれば、父子の間に礼あり、上下の間に等級あり、男女の間に分別あり、尊卑の間に次序あり、長幼の間に倫次あり、夫妻の間に節制あり、内外の間に界限あり、様様皆分寸がある。一国に推广し天下に至れば、用度開支・礼楽制度・刑罰政令・賞功罰過・号令文告・宮室営造・旌旗儀仗・車馬服器、賦税の征收・徭役の征発が農時に按じて行われるに至るまで、賢者と不肖者は各々その位に就き、士農工商は各々本業を守り、富貴貧賤は各々その分に安んず。この類の事情を合わせて言えば、すなわち修身・斉家・治国・平定天下に節度ある分限なからざるなし。故にこれを「節」と言う。然らばそれは何に憑って亨通するか。修身より天下を治めるに至るまで件件皆節度あれば、至る所・為す事に通暢せざるなし。
苦節不可貞。苦者,人之所難嗜者也,猶味之苦也。夫節之道不可過,過則人不樂從。以其一身一家,節過則猶無大害;若於治天下人民之眾而節之太甚,則必不樂從。是故聖人預為之備,曲為之防,酌中立法,使其車輿、器用、宮室、旌旗、衣服制度皆有其節,一合於中正。苟苦之,則天下未易治也。
卦辞に「苦節不可貞」と言う。「苦」は人の受け難く愛好し難いもので、味が苦を発するが如し。節制の道は度を過ごしてはならず、一たび過ごせば人は跟従を楽しまない。もし一身一家に関わるのみならば、節制過分でも大害を醸すに至らない。しかし天下億万の百姓を治めて節制が余りに狠ければ、百姓は必ず服従を肯んじない。故に聖人は事に先んじて準備があり、処処彼らのために防を設け、斟酌折中をもって法を立て、車馬・器用・宮室・旌旗・衣服等各項の制度に皆一定の限度を持たせ、一律に「中正」に合せしむる――偏らず倚らず、また端正にして邪なからず。もし節制を一件の苦事と変えれば、天下は治め易くない。
且如賦稅之設,非欲聚斂其財貨,厚取於民以自足已,蓋有郊廟之祀、賓客之供、兵儲之備,此為國者不可廢也,是以不得已而取之。取之必有中道,故中者天下之通制。取之過甚,則在下者財匱而不能給;取之薄,則在上者用度不足。是以量時之豐約,酌民之厚薄,使天下之人樂從而易於輸納,可謂得節之道也。故夏后氏五十而貢,殷人七十而助,周人百畝而徹,皆什一法而得天下之中。
賦税を以て言えば、賦税を設立するは財貨を搜刮し民に厚く取りて君主自身を満足せしめんがためではなく、郊天祭祖の典礼・賓客を招待する開銷・軍需儲備の費用が皆治国に廃棄すべからざるものだからで、故に已むを得ずして百姓に征收する。征收は必ず折中の標準があらねばならず、故に「中」こそ天下通行の制度である。取ること余りに重ければ、下の百姓は財力枯竭して供給し上げられず、取ること余りに軽ければ、上の国用はまた足らず。故に年成の豊歉を衡量し民力の厚薄を斟酌して、天下の人を服従を楽しみ繳納を易くせしめてこそ、節制の道を得たと言える。故に夏代は五十亩に按じて「貢」法を行い、商代は七十亩に按じて「助」法を行い、周代は百亩に按じて「徹」法を行い、皆十分抽一の税率であって、まさに天下の「中」に合う。
彖曰:節,亨,剛柔分而剛得中。苦節不可貞,其道窮也。說以行險,當位以節,中正以通。天地節而四時成,節以制度,不傷財,不害民。
《彖伝》に曰く:《節》卦が亨通する所以は、剛爻と柔爻が上下に分処し、剛爻がまた中位に居るからである。「苦節不可貞」とは、このように走下去れば路は行き絶えることを言う。下卦の兌は喜悦、上卦の坎は険陥で、喜悦を帯びて険難の中を行くことを得る。九五の居る所の位は正当で、よって節制を主持し得る。中に居り正を守るから、通行无碍を得る。天地に節度あり、ここに四時は依次して成る。聖人はこれに依って制度を制定すれば、財用を損傷せず、百姓を傷害しない。
義曰:此因二體以明節亨之義。上坎為陽,陽為剛;下兊為陰,陰為柔。剛得中者,九二九五之爻也。夫節所以得亨者,陽本在上,今處於上;陰本在下,今居於下,是君臣上下各有分也,故曰剛柔分也。剛得中者,言九二九五以剛陽之質居剛陽之位,又居得其中,履得其正,當節之時能為節制之道,使天下皆得中制,是以亨通也。若節不可貞其道窮也者,夫節之道不可過,過則不能緣人之情而眾不樂從,是不可久行於世而為萬代通行之法,窮困之道也。
胡瑗の釈義:ここでは上下二つの卦体に就いて《節》卦の亨通の道理を闡明する。上卦の坎は陽に属し、陽の性質は剛。下卦の兌は陰に属し、陰の性質は柔。所謂「剛柔」は、もと陰陽二種の爻の性情を指し、陽爻は剛健、陰爻は柔順。所謂「剛得中」は、九二・九五の両爻を指す。節制が亨通し得る所以は、陽は本来上にあるべく、いま果たして上体に処り、陰は本来下にあるべく、いま果たして下体に居り、君臣上下各々名分あるからである。故に《彖伝》に「剛柔分」と言う。所謂「剛得中」は、九二・九五が剛陽の資質をもって剛陽の爻位に居り、また皆上下卦の中間に処り、行事端正だからである。節制の時に当たり節制の道を施行し得、天下を皆適中の法度を得せしむる。故に亨通。「苦節不可貞、其道窮也」に至っては、節制は度を過ごしてはならず、度を過ごせば人情に順応し得ず、衆人は服従を楽しまない。このような弁法は長く世間に行い万代通行の法則と為ることはできず、ただ一条の走投無路の路子である。
說以行險者,上坎為險,下兌為說,是說而能行於險也。蓋言聖人緣人之情,酌中以為通制,當節之時雖有險阻,能以說順行,則人亦樂從之也。當位以節者,言九五有剛眀之徳,居至尊之位,為節之主,是所居當其位而能酌民情為之節制也。中正以通者,此又言九五居中履正,所為節制得其中,又得其正。得其中則無過與不及之事,得其正則不入於私邪,是中正所為之道可以通行萬世,使天下得盡所以為節制之義也。
「説以行険」とは、上卦坎の「卦徳」が険陥、下卦兌の卦徳が喜悦であることを言う――所謂卦徳とは、毎一卦が代表する性情と作用である――合わせれば喜悦を帯びて険難の中を行くこととなる。これは聖人が人の常情に順い、斟酌折中して通行の制度と定めることを言う。節制の時に当たり前に険阻があるといえども、和悦柔順の姿態をもって推行し得れば、人もまた従うを楽しむ。「当位以節」とは、九五が剛強明断の徳行を具え、至尊の位に身を居り、節制を主持する人であって、居る所の位は正当、よって民情を斟酌して節度を制定し得る。「中正以通」はまた九五に就いて言う:それは中に居り正を守り、立つる所の節度は既に中に合い、また正に合う。中に合えば過分と不及の毛病なく、正に合えば私心邪念に落ちない。このような中正の做法は万世に通行し得、天下の人を節制の意義を充分に実現せしめ得る。
天地節而四時成,節以制度,不傷財,不害民者,此已下廣眀節之道也。夫天地之道,陰陽之序,以生以成,皆有所節。至如生成之終,則有風雨霜雪以殺之;殺之既終,復以春陽為發生之始。是天地之道始始終終,陰陽相蕩,寒暑往來,不失其序,所以能生成萬物,此天地盡其為節之道也。聖人法天地之道為之節制,設其禮法,各有常分,以至取予無不得其中,如是而行,自然財不傷而民不害也。
「天地節而四時成、節以制度、不傷財、不害民」のこの数句以下は、さらに節制の道を申説する。天地運行の法則・陰陽交替の次序は、生発より成熟に至るまで、一処として節度なきなし。生長成熟が尽頭に走るに及べば、便ち風雨霜雪が来りて万物を肅殺す。肅殺完畢すれば、また春の陽気をもって新たな一輪の生発の開端と為す。天地の道はこのように一始一終循環已まず、陰陽は互いに激盪し、寒来暑往は従来次序を錯乱せず。故に万物を生養成就し得る――これがすなわち天地が節制の道を極致に致したものである。聖人は天地の道に效法して節度を制定し、礼法を設立し、各項事務に皆固定の分限を持たせ、取予の間に至るまでその適中を得ざるなし。このように施行すれば、自ずから財用を損耗せず、百姓を傷害しない。
象曰:澤上有水,節。君子以制數度,議徳行。
《大象伝》に曰く:沢の上に水あり。水は沢岸の約束を受けて泛濫せず。これが《節》卦の取象である。君子はこれに法って、名分等第と度量制度を制定し、人の徳行の高下を評議する。
義曰:夫水之性,決之於江河,其性沛然順於下,莫之與御。今水在澤中,則不能順往而流,故有節制之象。數者,名數也;度者,制度也。言君子之人法此節之象,定其名數,立其制度,使禮樂之道、度量之分無得過差,盡合於中也。議徳行者,夫人本五常而生,其性有全有偏。唯聖人受性之全,賢人則才智有所偏。是以當節之時,必量其才之大小,隨其徳之優劣以任用之,大才者置之大位,小才者置之小位。若其無徳無行,則沒身而不用。
胡瑗の釈義:水の本性は、一旦決口して江河に流入すれば、浩浩荡荡一直に低き処に奔瀉し、誰もそれを攔えられない。いま水は沢の中に蓄えられれば、任意に流走することができず、ここに節制の意象を有する。「数」は名分等第を指し、「度」は制度法式を指す。これは君子が《節》卦の象に效法し、名分等第を確定し、制度法式を建立し、礼楽の規矩・度量の分際を皆偏差を出さず、全部適中に合せしむることを言う。「議徳行」に至っては:人は仁義礼智信五常の性を禀受して生まれ、禀得するものに完全なるもあり偏缺するもあり。ただ聖人のみが受くる所の性が完満无缺で、賢人の才智は偏至を免れない。故に節制の時に当たり、必ずその才干の大小を衡量し、その徳行の優劣に依って任用する:大才は大位に安置し、小才は小位に安置する。もし徳なく行もなければ、すなわちその一生を終えて任用しない。
初九:不出戶庭,無咎。象曰:不出戶庭,知通塞也。
初九:内室の門庭を走出さず。過ちなし。《小象伝》に曰く:戸庭を出ないのは、いつ通すべきかいつ塞ぐべきかを知るからである。
義曰:戶者,門之內、牖之間也。夫人之情,莫不欲安逸而惡節制之為禁。此節者,節人之邪情,約人之私慾,遏人之非,絶人之偽。然而節情約欲、遏非絶偽,人莫不惡之。然當節制之始,典章未備,法度未詳,必當慎宻之,不可洩機於人。苟所行不宻,則必為人所窺而敗壊成事,如是則法未出而奸生,令未下而詐起,必不可以節制之也。今初九履下卦之下,居節制之初,是謀事之始,故當慎其幾宻,不使宣露於人,使天下之人由之而不知之,而情偽不作,巧詐不生,則是能慎其幾宻,不出戶庭之間,所以成節制之道而無咎矣。
胡瑗の釈義:「戸」は房門以内・窓牖の間のあの最も内側の処を指す。人の常情として安逸を貪り節制約束を悪まざるなし。所謂節とは、人の邪僻の情を節制し、人の私欲を約束し、人の過失を遏止し、人の虚偽を杜绝する。しかし情を節し欲を約し、非を遏し偽を絶するこれらの事は、人人皆好まない。しかも節制が剛く推行を開始する時、典章はいまだ斉備せず、法度はいまだ周詳ならず、必ず謹慎保密して、機要を人に泄露せしめてはならない。もし為す事が厳密ならざれば、必ず人に窺探されて大事を壞す:法令いまだ頒布せざるに奸邪はすでに滋生し、命令いまだ下達せざるに詐偽はすでに興起し、節制は自ずから推行し下らない。初九は下卦の最下の一爻を踩み、節制の開端に処し、まさに事情を謀劃する起頭である。故に機密を謹守し、それを外泄せしめず、天下の人を只管照し行わしめて其中の原委を知らしめざるべきである。こうすれば真情仮意は乱を作さず、機巧詐偽は滋生しない。能くこのように機密を慎守し、戸庭を足一歩出ざれば、節制の道は成就する。故に過咎なし。
象曰不出戶庭知通塞也者,言初九居事之始,所以不出戶庭者,非是藏其幾宻,慎其法制,不宣佈於天下,葢當節制之初,典章法度未甚大備,不可以宣露於人,是能知其時可以通則通之,可以塞則塞之,通塞不失其宜也。故繫辭曰:亂之所生,則言語以為階。君不宻則失臣,臣不宻則失身,幾事不宻則害成。言大凡幾宻之事,必當慎之。苟宣露於人,則君失臣,臣失身,以至天下皆失其節,如是則不能免於咎也。
《小象伝》の「不出戸庭、知通塞也」は、初九が事情の開端に処り、それが戸庭を出ないのは、一味に機密を蔵起し法制を看緊して永遠に天下に公布しないのではない。実は節制の初は典章法度がいまだ甚だ不完備で、早過ぎて外泄し得ないからである。それは能く時勢を審度する:通行すべき時には便ち通行し、封閉すべき時には便ち封閉し、通と塞と皆その宜を失わない。故に《繋辞伝》に曰く:禍乱の産生は、往々言語を階梯と為す。君主が慎密ならざれば臣子を失い、臣子が慎密ならざれば自身を喪い、機要の事が慎密ならざれば禍害を招致す。これはおよそ機要に属する事は皆謹慎を要し、一旦外人に向かって張揚すれば、君主は便ち臣子を失い、臣子は便ち自身を喪い、天下に至って皆節度を失い、災咎を免れない。
九二:不出門庭,凶。象曰:不出門庭凶,失時極也。
九二:大門の庭院を走出さず。凶険あり。《小象伝》に曰く:門庭を出ずして凶を招くのは、時機を失すること極に至るからである。
義曰:在外謂之門。大凡居事之始,節人之情偽,必當慎重而幾宻之。故初九在卦之始,處節之初,典章未備,法度未完,故幾密而不宣露於人,是以不出戶庭也。今此九二居卦之中,是典章已備,法度已立,必當宣佈於天下,以制節於人情,使其奸偽不敢萌,巧詐不得作,天下之人皆合於中制可也。今有可致之資而反不出門庭之間,使制度不立,上下無別,以至天下之人皆亂其常,則是恣人之情,縱人之慾,速凶之道也。象曰不出門庭失時極也者,言九二居得其中而法制已成,當行而不行,當施而不施,使天下之人情偽交作而上下無等,節制之道不出門庭之間,失時而不宣佈,以至窮極亦不能行,凶其宐矣。
胡瑗の釈義:外に朝するあの一道を「門」と言い、戸は内にあり門は外にある。およそ事情の開端に在って人心の真偽を節制するには、皆慎重に密を守らねばならない。故に初九は卦の起頭・節制の初期に処り、典章いまだ斉備せず法度いまだ完成せざるが故に、隠秘にして外泄せず、故に「不出戸庭」と言う。いま九二は下卦の中に居り、典章はすでに斉備し法度はすでに確立している。すなわち天下に公布し、これをもって人情を節制し、奸偽を萌芽を敢えてせず、巧詐を発作する由なからしめ、天下の人を皆適中の法度に帰せしむべきである。これが初めて正しい。しかしそれは明明行う条件を有しながら、かえって門庭を一歩出るを肯んぜず、制度を立てられず上下に分別なく、天下の人の綱常を大乱せしめる。これは人の私情を放任し人の欲望を縦容するに等しく、凶険を招致する做法である。《小象伝》の「不出門庭凶、失時極也」は、九二は位に居りて中を得て法制はすでに成れども、推行すべきに推行せず、施布すべきに施布せず、天下の真情仮意を一斉に発作せしめ上下に等級なからしむ。節制の道は門庭の内に関され、時機を錯過して宣布せず、局面が窮極するまで施行し得ない。凶に遭うは理の当然である。
六三:不節若,則嗟若,無咎。象曰:不節之嗟,又誰咎也。
六三:節制を加えなければ、ただ唉声嘆気するのみ、他人を怪むべからず。《小象伝》に曰く:節制せずして招来した嗟嘆、また誰を怪まん。
義曰:若者,語辭也。夫為節之道,必須先正其身,然後可以正人。身既正,則天下孰不從之。今六三以陰居陽,是為不正;在下卦之上,是為不中。既失其中,又非其正,且在卦之上,是居眾人之上者也。夫居眾人之上,必也賞必信,罰必當,正身立法度,平典章,宣政教,以節天下之人,則奸偽不作,巧詐不生,而人自信從之矣。今反不能自正其身,又不能節制其人,是雖有嚴刑峻法,人亦不從,故反自生嗟怨之聲,如是必不可為節制之主也。無咎,葢三以不正之身居眾人之上,不能節制,以至嗟若之凶,皆已自為之,又何咎於人哉?故象曰又誰咎也。
胡瑗の釈義:「若」は語気詞で、本身に実義なし。節制の道を施行するには、必ず先に自己を端正し、然る後に他人を端正し得る。自身既に正ければ、天下に誰か服従せざらん。六三は陰爻をもって陽位に居り、故に正ならず。下卦の最上の一爻に処り、故に中ならず。既にその中を失い、また正に当たらず、しかも身は下卦の上にあり、衆人の上に居る人である。およそ衆人の上に居る者は、必ず賞賜は信用を講じ刑罰は分寸に合い、自身を端正し法度を確立し典章を厘平し政教を宣布し、これらをもって天下の人を節制せねばならず、さらば奸偽は興起せず巧詐は滋生せず、人は自ずから信服跟従する。いまそれは自己さえ端正し得ず、また他人を節制し得ない。こうすれば、たとえ厳刑峻法あっても、人は服従を肯んぜず、ここにかえって自己に嘆息怨恨の声音を生じさせる。見ればそれは絶対に節制を主持する人と為り得ない。爻辞に却って「无咎」と言うのは、六三が不正の身をもって衆人の上に居り、節制成らずして唉声嘆気の凶境に落ちたのは、全て自己の造成したもので、また誰に帰咎し得ようか。故に《小象伝》に「又誰咎也」と言う。
六四:安節,亨。象曰:安節之亨,承上道也。
六四:安然として節制の中を行く。亨通。《小象伝》に曰く:安然として節を守り亨通するのは、上に君主の道を承けるからである。
義曰:按此爻居上卦之下,近九五之尊,而又以陰居陰,履得其正,上承其君,下率其民,以柔正之道,上以節君之情,制君之慾,防君之邪僻,致君於正;又能宣君之令,布君之徳,以去天下人之邪偽,禁天下人之非僻,使天下之人一歸於正,而得節制之道。是由以柔正自正其身,以至正君率民,安然而行其節制,故所往無不得其亨通也。象曰安節之亨承上道者,言六四以柔正之道自正其身,上承於君以行節制,所以率天下之人得以亨通,是承君上之道也。
胡瑗の釈義:この爻は上卦の最下の一位に処り、九五の尊位に靠近し、また陰爻をもって陰位に居り、居る所端正である。それは上に君主を承奉し、下に百姓を統率し、柔順守正の道に憑り、対上は君主の情緒を節制し君主の欲望を約束し君主が邪路を走るを防止して、君主を正道に引き導き、対下はまた君主の命令を宣布し君主の徳沢を施布し、天下の人の邪偽を除去し天下の人の非僻を禁絶し、人人を皆正道に帰せしめ、節制の道はこれに由って確立する。これは先ず柔順守正をもって自身を端正し、進んで君主を端正し百姓を統率し、安安穩穩に節制を推行する。故に何を為しても亨通せざるなし。《小象伝》の「安節之亨、承上道也」は、六四が柔順守正の道をもって自身を端正し、上に向かって君主を承奉して節制を施行する。故に天下の人を率領して一同に亨通に走向せしめ得る。これがまさに君上に承事する正道である。
九五:甘節,吉,往有尚。象曰:甘節之吉,居位中也。
九五:節制が甘美可口。吉祥。往前推行すれば必ず尊崇を受ける。《小象伝》に曰く:甘美の節が吉祥なる所以は、その居る位が中を得るからである。
義曰:甘者,味之甘,人所嗜也。夫節之道,是節人之情,防人之慾,人之所惡也。今九五以陽居陽,處得其正,又居上卦之中,履至尊之位,為節制之主。當節之時,能以中正為之節制,無過無不及,施於當世,則天下之人無尊卑長幼上下,以至於遠近幽隱,皆悅然樂而從之,是九五為節之道使人樂從,如嗜甘味也,所以得其吉矣。往有尚者,五以中正之道為節制之法,可以為世世之通行,而天下之民皆樂從之,是五有所往,則為人尊上者也。
胡瑗の釈義:「甘」は甘甜の味道で、人人皆食を愛する。しかし節制の道は人の性情を節制し人の欲望を防堵するもので、本来人人の悪む所である。九五は陽爻をもって陽位に居り、処する所端正、また上卦の中位に居り、至尊の位に登臨し、節制を主持する人である。節制の時に当たり、それは不偏不倚・端正無私の原則をもって節度を立て、過分にも不及にもあらず、当世に推行すれば、ここに天下の人は尊卑長幼上下を分かたず、遠方偏僻・幽隠不顕の処に至るまで、個個皆欣然として楽従する。これがすなわち九五の立てた節制の道が人に遵従を楽しませ、甜味を愛食するが如く、故に吉祥を得る。「往有尚」に至っては、九五は中正の道をもって立てて節制の法と為し、世世代代通行し得、天下の百姓は皆服従を楽しむ。故に九五は何処へ往いても、人に上に尊崇される。
象曰甘節之吉居位中也者,言聖人通其情,故能達節;常人違其情,故多苟節。夫能通天下之情,不違其理,守大中之節,不失其時,以此而行,則合聖人中正之道。今五居至尊之位,在上卦之中,是能正其身而為節制之主,使天下之人皆尊尚而從之,是居位中正之故也。
《小象伝》の「甘節之吉、居位中也」は、聖人は人情に通達し得るから、立て出す節度もまた通達可行で、常人は人情に違背するから、定め出す節度は多半勉强敷衍である。能く天下の人の情実を通暁して事理に違背せず、大中至正の節度を守って時機を錯過せず、このようにして做けば、聖人の中正の道に合する。九五は至尊の位に身を居り、また上卦の中間にあり、能く自身を端正して節制を主持する人と為り、天下の人を皆彼を尊崇し彼に跟従せしむる。まさにその居る所の位が既に中にして且つ正なるが故である。
上六:苦節,貞凶,悔亡。象曰:苦節貞凶,其道窮也。
上六:節制が余りに苦く、一味に守持し続ければ凶険あり。ただし悔恨は消失し得る。《小象伝》に曰く:苦節して固守すれば凶なるのは、この路はすでに尽頭に走ったからである。
義曰:夫節制之道,貴乎中正,則人樂從之。今上六過於九五,是居不得中者也,所為節制之道皆過於中,是人所厭苦之也。以正道言之,則已凶矣,故曰貞凶。然悔亡者,夫節制有苦於天下,則害其事;今上六居無位之地,但行於一已而自節,苦於一身,則可以悔亾。故孔子曰:禮與其奢也寧儉,喪與其易也甯戚。是言凡過節於一身,則可以無悔也。象曰苦節貞凶其道窮也者,以陰柔之質居節制之極,所為失中正之道,而天下之人厭苦之,是過為節制之道,以至窮極也。
胡瑗の釈義:節制の道は中正を貴びとし、中正であればこそ人に遵従を楽しませ得る。上六の位置は九五を越過し、居位中を得ずに属する。その立つる所の節度は処処過分で、故に人の厭苦する所と為る。正道をもって衡量すれば、これはすでに凶である。故に爻辞に「貞凶」と言う。「悔亡」と言うに至っては:節制がもし天下の人を苦しめれば、事を壞す。しかし上六は職位なき所に処り、ただ節制を自己一身に施行し、苦しめるはその一人である。さらば悔恨はかえって消失し得る。故に孔子に曰く:礼を行うには奢侈するよりも儉朴するが如かず、喪に居るには儀節を周備するよりも内心哀戚するが如かず。これはすなわち、およそ過分の節制を自己一身に加えるは、悔恨なきを得ると言う。《小象伝》の「苦節貞凶、其道窮也」は、上六が陰柔の質をもって節制の極端に処り、為す所は中正の道に背離し、天下の人は皆それを苦と嫌う。これは節制が頭を過ごして、絶路に走るに至ったものである。
兌下巽上
中孚:豚魚吉,利涉大川,利貞。
《中孚》卦:誠信が広く被り、小豚や魚のような微賤の生物もその恵を受ける。吉祥。大河を渡るに宜しく、正道を守持するに宜しい。卦名の「中孚」――「孚」とはすなわち誠信で、信は心中より生発する。故に中孚と言う。
義曰:按《序卦》云「節而信之,故受之以中孚」。言聖賢之人為節之道,必當以信而行之,使乆而不變,可以為萬世之法,故以中孚次於節。謂之中孚者,孚,信也,信由中出,故曰中孚。葢二陰居中,是虛中而發誠信於內,出之於性;孚信既發於中,施之於外,則天下必信之矣。豚魚吉者,豚是獸之至微者也,魚是蟲之至隱者也。夫聖賢之人所立正教,必須信於天下,使天下之人皆順從之,以至至微至隱之物皆亦被其信。是故聖王作為節制,斧斤不時不入山林,數罟不入汙池,昆蟲未蟄不以火田。如是之類,是皆取之以時,用之有節,使至微至隱之物皆遂其生而涵濡其性。豚魚無識之物,猶且被澤而不妄有所傷,則有識之類其蒙信也可知矣,故曰吉。
胡瑗の釈義:《序卦伝》に「節してこれを信ず、故に中孚をもって受く」とある。意味は聖賢が節度を訂立するには、必ず誠信に憑って推行し、それを長久に変わらずして万世の法と為さねばならない。故に《中孚》卦は《節》卦の後に接する。「中孚」と称する所以:「孚」とはすなわち信で、信は内心より生出する。故に中孚と名づく。此卦は六三・六四の二つの陰爻が当中に居り、まさに内裏虚空を表示し、誠信を心底より発出し、本性より出ずる。誠信は既に内心より発すれば、再びこれを外に施行せば、天下の人は必ず信服する。卦辞に「豚魚吉」と言う:豚は獣類中最も微小なり、魚は虫類中最も隠蔽なり。聖賢の立つる正教は必ず天下に信を取らねばならず、天下の人を皆順従せしめ、最も微小最も隠蔽なる生物も一併にこの誠信に沐浴せしめる。故に聖王は節度を制定する:時令に至らざれば、斧斤は山林に入り砍伐を得ず、細密の漁網は池塘に下るを得ず、虫類いまだ蟄伏せざれば、火を放ち田を焼くを許さず。この類の規定は、皆時令に按じて索取し節度を有して使用し、最も微小最も隠蔽なる生物を皆順遂に生長せしめ本性を涵養せしめる。豚と魚のような無知の物ですらなお恩沢を受けて妄殺を遭わざれば、知覚ある人類がこの誠信を蒙受するは推して知るべし。故に「吉」と言う。
利涉大川者,川者險難之地,大則有兵革之事,小則有宼盜之虞,於天則水旱蟲蝗,於人則死亾疾疫,險難之事也。夫節制之道行於世,必以至信及於天下,不遺微小,則天下相信,戚疎相睦,聖人以此極濟天下之難,何所不利哉?若不以至信及於上下,苟涉大難,必有阻溺。此中孚之徳猶已及於豚魚,則天下之人無不信服,上下和同,物情不違,故涉於大難無不利矣。利貞者,夫信而不正,不若不信,故聖賢所節制,必須不偏不黨,至誠不息,不為邪欲所勝,則天下皆信其上,是所利在於正也。
卦辞に「利渉大川」と言う:「川」は艱険危難の地を代表する――大なれば兵戈戦乱、小なれば盗賊侵擾、天時上に表れれば水旱蝗災、人事上に表れれば死亡疫病、皆険難に属す。節制の道を世間に行わんとすれば、必ず至誠の信を天下に遍及せしめ、微賤の物も遺漏せざらしめ、さらば天下の人は彼此互信し、親しきも疏きも皆和睦し得る。聖人はこの一点に憑って天下の大難を救済せば、何の順利ならざるがあらん。もし至誠の信をもって上下を貫通し得ざれば、一旦真に険を渉り難を犯せば、必ず阻まれ沉溺する。いま《中孚》の徳行は豚魚にも感化し及んだ。天下の人は自ずから信服せざるなく、上下は和同し、物情は相違逆せず。故に大難を渡渉して順利ならざるなし。「利貞」に至っては:誠信ありて正道に合わざるは、誠信なきに如かず。故に聖賢の立つる節度は、必ず偏私せず結党せず、至誠にして永く間断せず、邪僻の欲望に圧倒されざらしめ、こうすれば天下の人は初めて君上を信任し、利はまさに一個の「正」の字に落ちる。
彖曰:中孚,柔在內而剛得中,說而巽,孚乃化邦也。豚魚吉,信及豚魚也。利涉大川,乗木舟虛也。中孚以利貞,乃應乎天也。
《彖伝》に曰く:《中孚》卦は柔爻が内に居り剛爻が中位を得、下卦は和悦にして上卦は遜順、誠信はここに邦国を感化し得る。「豚魚吉」とは、誠信が豚魚にも感通し及ぶことを言う。「利渉大川」とは、中間虚空の木船に乗って河を渡ることを言う。「中孚以利貞」とは、こうして初めて天道に相応ずることを言う。
義曰:柔在內者,謂六三六四也。言三四以柔順處中,而四陽居外,二陰既處其中,則是虛其中也。言誠信之道發於中,行於外,使天下之人皆信之,故曰柔在內也。剛得中者,謂九二九五也,二爻皆以剛居中而得正。夫剛而不中不正,則為私為暴,不可信於天下,故剛以得中為貴也。
胡瑗の釈義:「柔在內」とは、六三・六四の両爻を指す。三・四は柔順の質をもって全卦の当中に処り、四個の陽爻は上下両端に分居し、二個の陰爻は既に中に居れば、卦体の中間はすなわち空である。これは誠信の道が心中より生発し外に施行して、天下の人を皆信服せしめることを言う。故に《彖伝》に「柔在內」と言う。「剛得中」とは、九二・九五の両爻を指し、この両爻は皆剛陽の質をもって上下卦の中位に居りて各々その正を得る。剛強にして中に正ならざれば、偏私と暴虐と変化し、天下に信を取り得ない。故に剛爻は中を得るを以て貴しと為す。
說而巽孚乃化邦者,言此卦下體為兌,兌為說,上體巽,巽為風,是九五能以風教權變,孚信於天下,則天下之人說順而信矣。左氏曰:小信未孚,神弗福也。夫聖賢之人不可為小小之信,必當立其大信,使天下之人皆孚信之。上既以由中之信發之於中,施之於外,無偏黨私曲,皆合於中,則天下之人皆化上之信,奸偽不作,巧詐不興,亦以至誠至信奉於上,故曰乃化邦也。
「説而巽、孚乃化邦」のこの一句は、此卦の下体は兌、兌の卦徳は喜悦、上体は巽、巽の取象は風であることを言う。九五は風行草偃の如き教化と通権達変の手段に憑り、誠信を天下に施及すれば、天下の人は便ち欣悦柔順して彼を信ずる。《左伝》が曹劌の言を記するに曰く:小恩小信は未だ神明に信を取る能わず、神明は福を降さず。見れば聖賢は小信小恵を為すのみならず、必ず大きな信用を樹立して天下の人を皆信服せしめなければならない。君上は既に内心より発する誠信を外に施行し、偏私結党・曲意徇情なく、一切中道に合すれば、さらば天下の人は皆この誠信に感化され、奸偽は再び興起せず、巧詐は再び滋生せず、亦至誠至信をもって君上に奉事す。故に「乃化邦也」と言う。
豚魚吉信及豚魚者,言豚魚所以得吉者,蓋由孚信之所及至廣至遠,取之有時,用之有節,不傷其性,以至至微至隱皆被其徳,故小雅魚麗之詩,蓋言萬物眾多也。利涉大川乘木舟虛者,下兌為澤,澤者水也;上巽為木,木在水上,舟之象也。夫大川之深,至險至浚,若以舟楫濟之而居於其中,所涉無不濟矣。是猶在上者能以節制之道、由中之信,施為號令風教於天下,使天下之人上下以信相接,何所不從哉?若國有大患,人有大難,則可以使同心戮力,以順從於君而共拯之,無危險而不獲其濟。
「豚魚吉、信及豚魚也」のこの一句は、豚魚が吉を得る所以は、誠信の及ぶ所が極めて広く極めて遠いからである:時令に按じて索取し節度を有して使用し、彼らの天性を傷害せず、最も微小最も隠蔽なる生物にもこの徳沢を蒙受せしむ。故に《詩経・小雅》の《魚麗》の一篇は、まさに物産豊盛・万物繁多を歌詠する。「利渉大川、乗木舟虚也」:下卦の兌は沢、沢はすなわち水。上卦の巽は木、木は水上に浮かび、まさに船の形象である。大河は水深く、極険極幽。もし船楫をもって渡り人は船中に坐せば、渡り得ざるなし。これは在上位者が節制の道・内心より発する誠信を以て、天下に号令を発布し教化を推行し、天下上下を誠信を以て相待せしめれば、また誰か聴従せざらんを譬える。一旦国に大患・人に大難あれば、衆人を同心合力して君主に順従し一斉に挽救に往かしめ得、再び危険あっても救い成らざるなし。
中孚以利貞乃應孚天者,夫天之道無所不正,無所不信,故冬至則陽氣應之,夏至則陰氣應之,寒暑代謝,日月往來,皆無毫釐之差。是天地陰陽、寒暑晝夜、日月皆有其信而不失其正,是天之不言而能信萬物者也。今聖賢之人能推由中之信,無偏黨之邪,以取信於天下,使天下皆信之,是應乎天也。
「中孚以利貞、乃応乎天也」のこの一句は、天道は処として正ならず信を守らざるなし。故に冬至一至れば陽気は便ち時に応じて生じ、夏至一至れば陰気は便ち時に応じて起こり、寒暑は交替し日月は往来し、絲毫の差錯なし。見れば天地陰陽・寒暑昼夜・日升月落は皆その信実ありてその正を失わない。これがすなわち上天が一言を発せずして万物に信を取り得る所以である。いま聖賢は内心より発する誠信を推广し、偏私結党の邪念なく、これをもって天下に信を取り、天下の人を皆彼を信じせしむれば、これがすなわち天道に相応ずる。
象曰:澤上有風,中孚。君子以議獄緩死。
《大象伝》に曰く:沢の上に風吹き過ぐれば、水面に応ぜざるなし。これが《中孚》卦の取象である。君子はこれに法って、訟獄を慎重に審議し、死刑を寛緩する。
義曰:澤與風皆生成之道也。夫風行澤上,物無不從,猶君子之人以由中之信施乎外,無所不及,無所不順也。議獄緩死者,君子觀是之象,以謂獄者繫獄之人就苦,而告之以所死者不可復生,必推由中之誠,原議冤枉,察其真偽,求其曲直,以緩恕其死,則可以盡其至信之道也。
胡瑗の釈義:沢と風とは皆万物を生養成就する力量に属す。風が沢の上を行けば、万物に応ぜざるなし。君子が内心より発する誠信を外に施行して、至らざるなく順わざるなきに譬ゆ。「議獄緩死」に至っては:君子はこの卦象を観察して、牢獄の中の囚犯が苦を受けているを思い、人は一旦処死せられれば再び活き返ること能わざるを思う。故に必ず内心の誠意を推出し、冤屈の有無を重新審核し、供詞の真偽を考察し、是非曲直を追究して、以てその死罪を寛緩赦免する。このように為し得れば、至誠の信の道理を尽くしたと言える。
初九:虞吉,有它不燕。象曰:初九虞吉,志未變也。
初九:予め揣度して後に行う。吉祥。たとえ別の対象が前来りて誘引しても、それと安享歓楽しない。《小象伝》に曰く:初九が揣度して吉を得るのは、その心志が始終改変しないからである。
義曰:虞,度也;燕,樂也。此居兌之始,上有六四為之正應,然中有九二六三間隔已之應,是以初九能度四之正應,裁量其情以孚信於己,不為二三間隔而變其志,自能虞度,終以至誠待之,故得吉也。有它不燕者,初既以四為正應,雖有二三間之,而能虞度之,以謂縱有它來從己者,己亦執心不變,不與之為燕樂也。象曰虞吉志未變者,此一爻居事之始,在兌之初,其志専一,與四為應,其志終不變易矣。
胡瑗の釈義:「虞」は揣度、「燕」は安楽である。初九は下卦兌の開端に処り、上に六四がその正応と為る。しかし中間に九二と六三が隔たり、それと正応とを阻斷している。故に初九は能く六四この正応を揣度し、相手方の情実が真に誠信を以て己に待すかを衡量し、二・三の両爻の阻隔に因って心志を改変しない。まさに揣度に善く、始終至誠を以て相待するが故に、吉祥を獲る。「有它不燕」に至っては:初九は既に六四を正応と為す。二・三に阻隔されるといえども、能く仔細に掂量し、たとえ別の爻が前来りて己に投拠しても、己は心を守り変わらず、彼らと一道に歓楽を尋ね作らないと認定す。《小象伝》の「初九虞吉、志未変也」は、この爻は事情の開端・兌体の起始に処り、心志は専一にして、ただ六四と相応じ、始終更改しない。
九二:鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡之。象曰:其子和之,中心願也。
九二:鶴は背陰の幽暗の処に鳴き、その同類は声に応じて相和す。我に美好の爵禄あり、願わくは爾と共に分かち享けん。《小象伝》に曰く:同類が声に応じ相和するのは、内心より発する意願である。
義曰:夫信出於中,雖天地亦可以充塞;苟無信實,雖無識之物亦不已從。今九二以剛陽之徳居兌之體,在中孚之中而有由中之信以及於下,上無其應,無所私繫,在三四重陰之下,處幽暗之中而不失其信,是以聲聞於外,至於天下同類之人以孚信應之,若鳴鶴之在陰而其子自然應和。我有好爵吾與爾靡之者,言聖賢之人既以誠信達於天下,上下自然以誠信相交,故與之其天爵,共天祿,而無所離間靡散也。言我有美好之爵,與爾共散之也,蓋至誠所感,上下和悅之至也。象曰其子和之中心願者,言誠信之人願與同類相應,今得誠信而應之,是中心之所願也。
胡瑗の釈義:誠信は心裏より発出すれば、天地の間にも充満し得る。もし信実なければ、知覚なきものすら跟従を肯んぜない。九二は剛陽の徳を以て兌体に処り、《中孚》卦の中位に居り、内心より発する誠信を下面に施及す。それは上に相応ずる爻なく、故に私情の牽係を受けず、身は六三・六四の両重陰爻の下に在り幽暗の中に処るといえども、その信を失わず。故に声名は外面に伝わり、天下のそれと同類の人は皆誠信を以て来りて応ず。まさに鶴が幽暗の処に鳴きて同類が自ずから応和するが如し。「我有好爵、吾与爾靡之」とは、聖賢は既に誠信を以て天下に通達せば、上下は自ずから誠信を以て相交り、ここに天賦の爵位と俸禄を拿出して人と分かち享け、彼此離間渙散を生ぜざるを言う。すなわち言う:我に美好の爵禄あり、願わくは你と一同に分かち享けん。これがまさに至誠の感じる所で、上下和悦極に至る。《小象伝》の「其子和之、中心願也」は、誠信を講ずる人は本来同類と呼応せんことを願う。いま真に誠信を得て相応和せば、これがすなわちその心裏最も深き願望である。
六三:得敵,或鼓或罷,或泣或歌。象曰:或鼓或罷,位不當也。
六三:対手に碰上すれば、一時は鼓を擂りて進攻し、一時は疲憊して兵を収め、一時は哭泣し、一時は唱歌す。《小象伝》に曰く:忽ち進攻し忽ち兵を罷むるのは、処する爻位が正当でないからである。
義曰:六三以陰居陽,履非其正,小人者也;切近於四,四以陰居陰,君子者也。夫小人而近君子,則必陷於君子,是以六三得其所敵,故曰得敵。既敵必戰,則或鼓而進,故曰或鼔。然小人雖欲害君子,君子執正道而無所變易,非小人之所能勝,則反自罷敝,故曰或罷。且小人既不克勝而得罪於君子,則懼其侵奪,故曰或泣。然君子守己薄責,不為區區之行,不屑屑與小人校計,則小人獲存而得出於憂懼之地,反有所喜,故曰或歌。以是見六三不中不正,所為失道,而強弱憂喜之無常也,故象曰位不當也。
胡瑗の釈義:六三は陰爻を以て陽位に居り、処する所正ならず、小人の類に属す。それは六四に緊挨す。六四は陰爻を以て陰位に居り、君子の類に属す。小人が君子に靠近せば、必ず君子の手裏に栽す。故に六三は己の対手に碰上し、爻辞に「得敵」と言う。既に対手と為れば交戦を免れず、ここに鼓を擂りて進攻す。故に「或鼓」と言う。しかし小人は君子を加害せんと欲するといえども、君子は正道を守り毫も動揺せず、小人の戦勝し得る所にあらず。小人はかえって己を疲憊不堪に弄得する。故に「或罷」と言う。小人は既に鬥い勝てず、またすでに君子を得罪したれば、報復侵奪に遭うを害怕す。故に「或泣」と言う。しかし君子は己に厳しく人に責むるに寛く、瑣碎計較の事を為さず、小人と算賬するを屑としない。小人はここに保全を得て憂懼の処境を走出し、かえって歓喜を起こす。故に「或歌」と言う。これに由って見れば六三は中にも正にもあらざりて、行事は正道を失し、初めて時に強く時に弱く、忽ち憂い忽ち喜び、反復无常と為る。故に《小象伝》に「位不当也」と言う。
六四:月幾望,馬匹亡,無咎。象曰:馬匹亡,絶類上也。
六四:月は満盈に接近し、成対の馬匹は走失す。過ちなし。《小象伝》に曰く:馬匹が走失するのは、同類の牽扯を断絶して上に九五に追随するからである。
義曰:月者,陰之體;望者,光魄盈滿與日相望之時也。此一卦惟六三六四以陰柔居於內,而六三以其不正,故為小人也。六四以陰柔之質居巽順之體,居得其正,奉九五之君,能布徳教以孚萬邦,得臣道之正也,如月之近望,光輝明盛,徧照天下。然懼招君父之疑,常自戒慎,不自滿假,故曰幾望也。
胡瑗の釈義:月は陰の形体、「望」は月光が円満にして太陽と遥遥相対するあの日を指す。全卦にただ六三・六四の二個の陰爻のみ内部に居り、六三は処する所正ならざるが故に小人と算す。六四は陰柔の質を以て巽順の卦体の裏に処り、居る所正を得、九五の君に奉事し、徳教を施布して万邦に信を取り、臣を為す正道を得る。まさに月が満望に臨近する時、光華は明亮盛大にして、遍く天下を照らすが如し。しかしそれはまた君父の猜疑を招来するを怕れ、故に時時自我警戒して、自満自大を敢えてせず。故に「幾望」と言い、ただ満月に接近して十足円満に至らず。
馬匹亡無咎者,匹謂匹耦群類也。夫君子守其道徳,以務遠者大者,不與小人校分毫之利害。若以君子而與小人校其區區屑屑,則賢不肖混淆,而君子小人無間,以至患害所及。今六四雖為六三所侵,來與己爭,然己得其正,犯而不校,是以絶其群類,上承於五,固守其分,養成至徳,故獲無咎也。象曰馬匹亡絶類上也者,言匹馬而亡,是獨行也,能下絶六三之類,上順九五之尊,是自能以正道上應於五也。
「馬匹亡、无咎」のこの一句:「匹」は配対の同伴・同類を指す。君子は己の道徳を守り、長遠宏大の事に専心し、小人と分毫得失を計較しない。もし君子が偏に小人と斤々計較してあの瑣屑の事を争えば、賢と不肖と混雑分かたず、君子と小人とに界限なくなり、禍患もまたこれに随って来る。いま六四は六三に侵擾され前来りてそれと争奪するといえども、六四自身は位に居りて正を得、冒犯されても計較せず、故に同類との牽扯を断絶し、上に向かって九五を承奉し、本分を牢牢に守り、極高の徳行に涵養成す。故に過咎なし。《小象伝》の「馬匹亡、絶類上也」は、成対の馬は走失して独行を余儀なくされる。まさにそれは能く下に六三この一類の牽連を断絶し、上に向かって九五の尊位に柔順し、正道に憑って九五と相応ずることを表示す。
九五:有孚攣如,無咎。象曰:有孚攣如,位正當也。
九五:誠信を懐きて人心を緊く維係す。過ちなし。《小象伝》に曰く:誠信を以て天下を維係するのは、その居る爻位が端正得当なるからである。
義曰:攣者,牽攣之謂也。此九五居至尊之位,履正處中也。夫居尊而有中正之徳,是有至誠至信之心,發之於內而交於下,以攣天下之心,使天下之人皆以誠信奉於上,上下內外皆以誠信相通,是得為君之道而獲吉,復何咎之有?
胡瑗の釈義:「攣」は牽係維係の意。九五は至尊の位に身を居り、行事は端正にしてまた上卦の中に処る。尊位に居りてまた中正の徳行を具えるは、一片の至誠至信の心ありて、内心より発出して下面の人と交接し、これを以て天下の人心を牽住し、天下の人を皆誠信を以て君上に奉事せしめ、上下内外は全て誠信に憑って相通ず。これがすなわち君主を為す正道で、故に吉祥を獲る。また何の過咎かあらん。
上九:翰音登于天,貞凶。象曰:翰音登于天,何可長也。
上九:高飛の鳥の鳴声は直ちに雲天に上る。ただその声を聞いてその実を見ず。固守し続ければ凶険あり。《小象伝》に曰く:虚声が天に上達す。このような情形は何ぞ長久を得ん。
義曰:翰者,鳥羽之髙飛也。此上九在一卦之上,居窮極之地,是其誠不能自內而出,無純誠之心、篤實之道,徒務其虛聲外飾,以矯偽為尚,如鳥之飛登於天,邈然不見其形,杳然莫覩其跡,徒聞其虛聲而已。貞凶者,君子之人所為所作,必皆本其純誠篤實光大以感於人,而人亦以誠實奉之,此君子之謂也。今乃居無實之地,任無誠之聲,以正道觀之,可謂凶矣,故曰貞凶。象曰何可長者,言上九徒以虛聲外飾驕於人,殊無純誠篤實之行,以此而往,愈久愈凶,故聖人戒之曰何可長如此,蓋欲人改過反誠,以信實為本也。
胡瑗の釈義:「翰」は鳥が羽翼を張りて高飛するを指す。上九は全卦の最上の一爻・窮極の地に処り、それはその誠意が内心より生発したにあらざるを説明す。純粋の誠心なく篤実の作風なく、ただ一味に虚名と表面文飾を追求し、矯揉作偽を以て本事と為す。まさに鳥が高天に飛び上り、渺遠にして形体を見えず、杳然として蹤跡を尋ね得ず、人々の聞く所はただ一片の空声のみであるが如し。所謂「貞凶」:君子の一挙一動は、必ず純誠篤実・光明正大を本として人を感動せしめ、人もまた誠実を以て彼に報いる。これを初めて君子と言う。いま上九は毫も実徳なき地に立ち、一個の空洞無誠の名声に憑って行事す。正道に按って見れば以て凶と言い得る。故に「貞凶」と言う。《小象伝》の「何可長也」は、上九はただ虚声粉飾に頼って人に誇耀し、全く純誠篤実の品行なく、このように下去れば、時間は愈久しく凶険は愈深し。故に聖人は警誡してこのようでは何ぞ長久を得んと言う。本意は人に改過して誠実に回帰せしめ、信実を以て根本と為さしめんと欲するに在る。
艮下震上
小過:亨,利貞,可小事,不可大事。飛鳥遺之音,不宐上宐下,大吉。
《小過》卦:亨通。正道を守持するに宜しい。小事を為すは可、大事を為すは不可。飛鳥は空を掠めて鳴声を遺すのみ。上に高飛ぶに宜からず下に栖止するに宜し。大いに吉祥。卦名の「小過」は、小さな処で稍稍過越し、略略常規を超出することを指す。
義曰:按《序卦》云「有其信者必行之,故受之以小過」。言聖賢君子有由中之信、至誠之道,則不以小人之所疑謗而不行,固當發之於外,以拯天下之失,矯天下之弊,使至平治而後已,故以此次於中孚。然謂之小過者,葢大過以四陽居內,二陰在外,本末皆弱,上下皆微,故聖賢之人以大才大徳過越常分,以救天下之大難。今此小過以四陰在外,二陽居內,是綱紀未甚隳壊,天下之事少有差忒,故聖賢之人小小過行其事以矯正之,故若喪過乎哀,用過乎儉,是皆小有所過也。
胡瑗の釈義:《序卦伝》に「其の信有る者は必ずこれを行う、故に小過を以て受く」とある。意味は聖賢君子は既に内心より発する誠信と至誠の道あれば、小人の猜疑毀謗に因って実行せざることなく、必ずそれを外面に発揮し、天下の過失を挽救し、天下の弊病を矯正し、天下太平に至るまで罷まない。故に《小過》卦は《中孚》卦の後に列する。何故に「小過」と言うかに至っては:《大過》卦は四個の陽爻が内に居り二個の陰爻が外にあり、首尾は皆虚弱・上下は皆単薄。故に聖賢は大才大徳に憑って常規を超越して天下の大難を挽救せねばならぬ。しかしこの卦《小過》は四個の陰爻が外にあり二個の陽爻が内にあり、国家の綱紀はいまだ大壞せず、天下の事はただ略有差错あるのみを説明す。故に聖賢はただ小さな処で稍稍過越して以て矯正を加えればよい。喪に居るに哀傷を過し、用度上に節儉を過するが如きは、皆小さく過越有るに属す。
亨者,夫聖賢之君既推至誠之道,過行小事以矯一時之失,則天下之人一歸於大中之道而得亨通也。天下皆奢矣,嗇儉一已以矯之者,晏子一狐裘而三十年是也;天下皆薄於喪也,哀毀一身以矯之者,會子水漿不入於口者七日是也。葢人情已弊,矯而行之,所以勸進於中道也。利貞者,夫小過之時非常行之時也,苟不以至正之道推至誠之心,則入於詭譎誕妄,天下不能信服之矣,故當率己以正,然後利也。
卦辞に「亨」と言う:聖賢の君は既に至誠の道を推行し、また小事上に稍稍過分一点を以て一時の偏失を矯正せば、天下の人は皆大中至正の道に帰向して亨通を得る。譬如天下が競りて奢侈すれば、自己一人は儉省吝嗇して以てこれを矯正する。斉相晏嬰は一件の狐裘を三十年穿したが、まさにこのような例である。天下の人は喪事を為すに皆草率なれば、自己一人は哀毁尽礼して以てこれを矯正する。曽子は喪に居るに七天水漿を口に入れず。まさにこのような例である。人情は既に敗壞したれば、枉を矯める弁法を以て做るは、まさに衆人を勧勉して中道に引進せしめんがためである。「利貞」に至っては:小過の時は尋常行事の時にあらず。もし至正の道を以て至誠の心を推行せざれば、詭詐荒誕に流れ、天下の人は信服しない。故に必ず先ず正道を以て自己を約束し、然る後に利有る。
可小事不可大事者,夫當小過之時,本末未至甚弱,政教未至甚頹,天下之事小有所差,君子固當過越而行其小小之事,以矯世勵俗,使復趨大中之道可也。如當是時不能附順人情,而反大過其事,不近於民,則所為迂遠,民無所濟矣。飛鳥遺之音者,夫鳥之飛騰於空虛,但聞其音而不見其跡,謂如君子過越中道,矯正天下之弊,但使民由之而不使知之也。
「可小事、不可大事」のこの一句:小過の時に処して、国家の本末はいまだ極度に衰弱せず、政令教化はいまだ徹底に頽敗せず、天下の事はただ略有偏差するのみ。君子は自ずから略作過越してあの小事を為し、以て世風を矯正し習俗を激励し、人心を重新大中の道に趨向せしめれば、このようで足る。もしこの時に人情に順応し得ず、かえって大事上に大いに過越を加え、百姓を脱離せば、さらば為す所は迂濶疏远にして、百姓は実恵を得ない。「飛鳥遺之音」のこの一句:鳥は空中に飛び、人はただその叫声を聞き得てその蹤跡を見えず。これは君子が常道を稍稍越出して天下の弊病を矯正し、ただ百姓に照し做らしめて、彼らに其中の縁由を知らしめざるに譬ゆ。
不宐上宐下大吉者,夫鳥之飛翔,雖不見其跡,然又不可大過而愈上,若愈上而不已,則愈窮而不得其所歸,故當下而附於物,則得其所棲止也。猶君子當小過之世,乗時藉位,矯過常分以正當時,不可大越其事,逺於人情,必當附近民心,約附所為,然後獲吉也。
「不宜上宜下、大吉」のこの一句:鳥は空中に飛翔すれども、蹤跡を見えずといえども、また過分に高き処に向かって飛ぶべからず。愈飛び愈高くして停下を肯んぜば、ただ愈益走投無路と為り、帰宿を尋ね得ない。故に下に向かって物上に依附して、初めて栖息の所を得るべし。これは君子が小過の世に処り、時機に乗じ職位に憑藉して、常規を稍稍越出して当時の風気を匡正するも、事情を為し過ごして人情を遠離してはならない。必ず民心に貼近し、己の作為を収斂して民情と相合せしめ、然る後に吉祥を獲るを得るを譬える。
彖曰:小過,小者過而亨也。過以利貞,與時行也。柔得中,是以小事吉也;剛失位而不中,是以不可大事也。有飛鳥之象焉,飛鳥遺之音,不宐上宐下大吉,上逆而下順也。
《彖伝》に曰く:《小過》卦は小さな方面で稍稍過越有りて亨通を得る。過越してもなお正を守るに宜しきは、時勢に順応して行うからである。柔爻は中位に居る。故に小事を為せば吉祥。剛爻は位を失いまた中に居らず。故に大事を為すべからず。此卦は飛鳥の形象あり。飛鳥は鳴声を遺し、上に宜からず下に宜しきは大いに吉祥。上に向かうは逆、下に向かうは順だからである。
義曰:夫小過之時,天下之時小有過失,君子思欲拯濟之,不可大過其分,但以小者之事過而行之,以矯一時之弊,然後得亨也。過以利貞與時行也者,夫君子所為觀時而動:時之大弊,則大過其分而行;時之小弊,則小過其分而行,約民中道,驅而納之,隨事制宐,適權應變,一皆必出於正,故曰過以利貞與時行也。
胡瑗の釈義:小過の時に処して、天下の時勢はただ小さな過失あるのみ。君子は往きて救助せんと欲しても、己の本分を大幅に超出し得ず、ただ小事上に稍稍過越し、以て一時の弊病を矯正して、こうして初めて亨通し得る。所謂「過以利貞、与時行也」:君子が事を為すには常に時勢を観察して動く――時勢の弊病大なれば、便ち常分を大幅に超出して做り、時勢の弊病小なれば、便ち常分を小幅に超出して做る。それは百姓を中道上に約束し、駆趕引導して正軌に帰入せしめ、事情に随って合宜の弁法を制定し、權衡変通・隨機応変する。しかしこの一切は必ず正道より出づるを要す。故に「過以利貞、与時行也」と言う。
柔得中是以小事吉者,夫大過二五皆以陽居中,故曰可行大事;今小過二五皆以柔居中,故不可大有所為,但小有過為之事則吉也。剛失位而不中是以不可大事者,夫成大事、立大功,必有剛明之才居於內,柔順之道行於外可也。今三四雖有剛明之才徳,而居失其位,行不得中,故不可以行其大事,惟小事過可也。
「柔得中、是以小事吉」のこの一句:《大過》卦の二・五両爻は皆陽爻を以て中に居る。故に大事を為し得ると言う。いま《小過》卦の二・五両爻は皆柔爻を以て中に居る。故に大いに作為し得ず、ただ小事上に稍作過越して初めて吉を得る。「剛失位而不中、是以不可大事」のこの一句:大事を成就し大功を建立するには、必ず剛強明断の才ありて内に坐鎮し、同時に柔順の道を以て外に施行して初めて可。いま九三・九四は剛強明断の才徳あるといえども、居る所は位を失い行事はその中を得ず。故に大事を為しに往くべからず、ただ小事上に略作過越するを得るのみ。
有飛鳥之象焉者,按小過之卦自中孚而來,有飛鳥之象者,蓋中孚之卦四陽在外,二陰在內,內虛而外實,故上有飛鳥翰音之言;今小過四陰在外,二陽在內,是內實外虛,故有飛鳥之象也。飛鳥遺之音不宐上宐下大吉上逆而下順者,言飛鳥翔空,無所依著,愈上則愈窮,是上則逆也;下附物則身可安,是下則順也。猶君子之人過行其事,以矯世勵俗,欲民易從,必下附人情,亦宐下而不宐上也。
「有飛鳥之象焉」のこの一句:《小過》卦は《中孚》卦より変じて来た。それに飛鳥の象ある所以は、《中孚》卦は四個の陽爻が外にあり二個の陰爻が内にあり、内裏空虚にして外面充実す。故にあの卦の上九は初めて「翰音登于天」の言あり。いま《小過》は四個の陰爻が外にあり二個の陽爻が内にあり、内裏充実にして外面空虚で、まさに鳥身が中に居りて两翼が張開するが如し。故に飛鳥の象あり。「飛鳥遺之音、不宜上宜下、大吉、上逆而下順」のこの一句は、飛鳥が空中に翱翔し、依托する所なく、愈上に飛べば愈走投無路と為る。故に上に向かうは逆。下に向かって物体上に依附せば、身子は初めて安穩を得る。故に下に向かうは順。これは君子が常規を稍稍過越して事を做るは、世風を矯正し習俗を激励せんが為であるを譬え、百姓に跟従を容易くせしめんと欲せば、必ず下に向かって人情に貼近し、同様に宜下にして宜上ならざる。
象曰:山上有雷,小過。君子以行過乎恭,喪過乎哀,用過乎儉。
《大象伝》に曰く:山上に雷声响る――雷は本地中より発するに、いま却って山上に响く。位置は略略常軌を越出す。これが《小過》卦の取象である。君子はこれに法って、挙止上は恭敬を過し、喪に居るには哀戚を過し、用度上は節儉を過す。
義曰:夫雷者出於地,今反在山之上,是小過之象也。君子當天下小有差弊之時,將以矯世勵俗,驅合於大中之道,是以過行小事於身,使天下之人觀而化之。故若天下之人有所行過差而失於傲慢,君子則過恭以矯之;若天下之人居喪過差而失於率易,君子則過哀以矯之;若天下之人用度過差而失於奢侈,君子則過儉以矯之。是皆君子之人過為小事,以矯天下之大中也。
胡瑗の釈義:雷は本来地下より発出するに、いま却って山頭の上に响く。これがすなわち小さく過越有る象である。君子は天下に略有偏差流弊ある時に処り、世風を矯正し習俗を激励し、衆人を駆趕して大中の道に帰合せしめんと欲し、故に先ず自己の身上に小事を過分一点に做らしめ、天下の人に看て感化を受けしむ。故に:もし天下の人の挙止に偏差あって傲慢に流れれば、君子は格外の恭敬を以てこれを矯正し、もし天下の人が喪事を為すに偏差あって草率軽忽に流れれば、君子は格外の哀戚を以てこれを矯正し、もし天下の人の開銷に偏差あって奢侈に流れれば、君子は格外の儉朴を以てこれを矯正す。これらは皆君子が小事上に有意に過一点に做り、以て天下の人を中道に拉回せしめんが為である。
初六:飛鳥以凶。象曰:飛鳥以凶,不可如何也。
初六:飛鳥が一味に高飛んで以て凶険を招致するが如し。《小象伝》に曰く:飛鳥が高飛して凶を招く。事があの一步に至ればすでに如何ともし難し。
義曰:小過之時,是君子過行小事,以矯一時之失,正當時之弊,眾所不為而已獨為之,皆在於身,故取飛鳥之象以明之。今初六一爻雖以柔而居下卦之下,然所應在四,故如飛鳥之愈上而無所附著,是以凶也。何則?蓋小過之時不宐上,君子必須應機適變,隨事制宐,附近於人情而後可也。若其所行太過,所為己甚,雖位在下而志愈上,故獲凶也。象曰飛鳥以凶不可如何者,初六雖在下,而已升至窮極而無所容,以罹其凶,將可奈何哉?故曰不可如何也。
胡瑗の釈義:小過の時、君子は小事上に稍稍過越し、以て一時の偏失を矯正し当下の弊病を糾正す。衆人の為すを肯んぜざる事を唯独り一人が為し、一切を自己一身に担う。故に飛鳥の象を藉りて説明す。初六のこの爻は柔弱の質を以て下卦の最下の一位に居るといえども、その応ずる所は九四で、心思は一味に上に向かう。ここに飛鳥の愈飛び愈高くして依托する処なきが如し。故に凶あり。何故か。小過の時は本来上に向かうに宜からず、君子は必ず隨機応変し、事情に按じて合宜の弁法を制定し、人情に貼近して初めて可。もし行事を余りに過ごし為し過火せば、身は下位に処るといえども、心志は一味に上に攀す。故に凶険を招来す。《小象伝》の「飛鳥以凶、不可如何也」は、初六は下位に在るといえども、すでに窮極の処に升到して容身する処なく、故に凶に遭う。あの時に至ってまた何を為し得よう。故に「不可如何」と言う。
六二:過其祖,遇其妣,不及其君,遇其臣,無咎。象曰:不及其君,臣不可過也。
六二:祖父を越過して祖母に遇上し、君主に及ばずしてただ臣子と相遇する。過ちなし。《小象伝》に曰く:君主に及ばざるは、臣子を為す者が君上を逾越すべからざるからである。
義曰:祖,始也;妣,在內也;君,六五也;臣,六二也。夫小過之君子不可大有所為,但小過而合其宐,欲矯正天下,使一歸於中耳。今六二已過於初,以柔順處於內,故曰過其祖遇其妣也。不及其君遇其臣無咎者,小過之世不可為己甚之事,事為己甚則有僭逼之嫌,而罹其上逆之凶。葢二在其下,比於初則為過,比於五則為不及。今不敢過越其君以行事,正得為臣之體,是所遇得其分,故無咎也。象曰不及其君臣不可過者,為臣之分,則必奉君之職而行臣之事,不敢及於君,蓋為臣之道不可過越也。
胡瑗の釈義:「祖」は開端を指し、「妣」は内部に処るを指し、「君」は六五を指し、「臣」は六二を指す。小過の時の君子は大いに作為すべからず、ただ稍作過越して時宜に合い、これを藉りて天下を矯正し、人心を一同に中道に帰せしめんと欲するのみ。六二はすでに初六を越過し、また柔順の質を以て内卦に安処す。故に「過其祖、遇其妣」と言う。「不及其君、遇其臣、无咎」のこの一句:小過の世は火を過ごす事を為し得ず、事が一たび火を過ごせば僭越逼上の嫌疑あり、以下犯上の凶禍を招来す。六二は下位に身を居り、初六に比ぶれば過越を算し、六五に比ぶれば及ばざるを則す。いまそれは君主を越過して行事するを敢えてせず、まさに臣を為す体統に合し、遇う所の分際は恰如其分。故に過咎なし。《小象伝》の「不及其君、臣不可過也」は、臣子を為す本分は、必ず君主の交付する職責を奉行し臣子の為すべき事を為し、君主の頭上に僭越するを敢えてしない。臣を為す道は本来越分を許さざるが故である。
九三:弗過防之,從或戕之,凶。象曰:從或戕之,凶如何也。
九三:小人を加意防範せず、かえって往きてそれに順従せば、戕害を遭うこと有り。凶険あり。《小象伝》に曰く:小人に順従して戕害される。あのような凶険はまた何を為し得よう。
義曰:小過之時,蓋君子行大事以矯正天下,不使小人得過也。今九三雖處剛陽之位,有明斷之質,然反不能過防上六之小人而使之得過。夫既使小人得過,理已乖矣,而況復從而應之乎?應之則為小人之戕害必矣。且小人之心常欲陷害君子,惟君子預自防閒,不使近於已,則得御小人之術。今三為小人所戕,蓋不能預防,以至優柔不斷,是凶禍之來皆自取之也。象曰從或戕之凶如何者,言既為小人所戕而致凶,將如之何哉?是不能過防之使然也。
胡瑗の釈義:小過の時、君子は本来大きな処で天下を矯正し、小人に越軌の機会を得せしめざるべきである。いま九三は剛陽の位を占め明断の資質を具えるといえども、かえって上六あの小人を加意防範し得ず、それが越軌するを聴任す。小人に得逞せしむる以上、道理上にすでに乖謬あれば、いわんやまた往きて順従しそれと相応ずるをや。一たび相応じれば、小人に戕害されるは必然である。いわんや小人の心裏は常に君子を陷害せんと想い、唯独り君子が事先に自我設防し、小人に己に接近せしめざるが、初めて小人を駕馭する弁法を掌握したと算す。いま九三は小人に害される所は、まさに予め防備し得ず、以て優柔寡斷に致る。あの凶禍は完全に自己の招来したものである。《小象伝》の「従或戕之、凶如何也」は、既に小人に戕害されて凶険を招致したれば、またそれを以て何を為し得よう。これは皆加意防範し得ざるが造成したものである。
九四:無咎,弗過遇之,往厲必戒,勿用永貞。象曰:弗過遇之,位不當也;往厲必戒,終不可長也。
九四:過ちなし。過頭の挙を為さずして恰恰相合す。再び往前走れば危険あり。必ず戒懼し、この做法を以て永久不変の常道と為すべからず。《小象伝》に曰く:過分ならずして恰能相遇するは、その居る所の位が当たらざるからである。前往は危険ありて必ず戒懼せよ、ついに長くこのようではいられないと言う。
義曰:小過之時不宐上宐下,則得其道也。今九四雖位上卦之下,而應於初六,是能下附人情,故得無咎也。弗過遇之者,言小過之時,事小有差,君子宐過行而矯正之,乃權時之宐也。今四以陽居陰,雖不得正,是能過行其事而不至已甚,而下附人情,使天下之愚不肖皆可企而及之,是弗為過甚而遇得其道也。往厲必戒勿用永貞者,言小過之事切近人情,但矯正風俗而已,是不可往而過也。若往而不已,將致危厲之災,必須戒慎之,不可用此為永長貞正之道,此蓋聖人戒慎丁寧之辭也。
胡瑗の釈義:小過の時は上に向かうに宜からず下に向かうに宜し。こうして初めて正道に合す。九四は位は上卦の最下の一爻に在るといえども、初六と相応じ、それは能く下に向かって人情に貼近することを説明す。故に過咎なし。「弗過遇之」のこの一句は、小過の時は事情に略有偏差あり、君子は稍作過越して矯正を加うべく、これは時勢を權衡する合宜の挙である。九四は陽爻を以て陰位に居り、正位に当たらざるといえども、能く稍稍過越して事を為して火を過ごすに至らず、同時に下に向かって人情に貼近し、天下の愚鈍不肖の人を皆脚跟を踮げて趕得上せしむる。これがすなわち過頭の事を為さずして恰恰正道に合する。「往厲必戒、勿用永貞」のこの一句は、小過の事は人情に貼近し、過ぎず風俗を矯正する一たびのみで、一直に前に向かって過越し続けてはならない。もし一味前行して止を知らざれば、危険の災禍を招来す。故に必ず戒懼謹慎し、あの弁法を以て長久不変の正道と為すべからず。これは聖人が反復して叮嚀告誡する言である。
六五:密雲不雨,自我西郊,公弋取彼在穴。象曰:密雲不雨,已上也。
六五:濃雲は密布しても下雨せず。雲気は我ら西辺の郊野より来る。王公は糸繩を係えた箭を以て洞穴の裏に蔵る獲物を射取す。《小象伝》に曰く:濃雲が雨せざるは、陽気がすでに下に止まるからである。
義曰:小過之時,小者過也。六五以陰居陽,履於至尊,是小者過而得中,小過之主也。然以柔居剛,又履至尊之位,是陰雖極而徳未盛,其惠未行,故不能為雨澤施於下,但為西郊密雲而已。何則?夫雨者,陽氣上騰,陰能固止之,則相蒸薄而為雨。今陽艮止於下,不升而交於陰,則陰氣雖強盛於上,而無陽以通,是以不能為雨,而云徒宻結於西郊也。西郊謂陰之正位也。
胡瑗の釈義:小過の時は、小さき一方が稍有過越する。六五は陰爻を以て陽位に居り、至尊の位に登臨し、まさに小者が過越してまた中を守るを得、小過の局を主持する人と為る。しかしそれは柔爻を以て剛位に居り、また至尊の位を占める。陰気はすでに極盛に至るといえども、徳沢はいまだ豊厚ならず、恩惠はいまだ施行せずを説明す。故に雨沢を降らせて下面を潤沢し得ず、ただ西郊に一片の濃雲を結成するのみ。何故か。雨を下すには陽気の上升を要し、陰気はそれを固結留住し、両気が相蒸相迫して初めて雨と成る。いま陽気は下卦艮に下に止められて、升りて上って陰気と交合し得ざれば、さらば陰気は上に在りて強盛なれども、これと溝通する陽気なく、故に雨を下し成らず。雲はただ白白に西郊に密結するのみ。所謂西郊とは、すなわち陰気の居る所の正位である。
公弋取彼在穴,言六五之陰極盛,故稱公也。弋者,所以射髙也;穴者,所以隱伏而在下也。公以弋繳而取穴中之物,猶聖賢雖過行其事,意在矯下也。然五以柔而處至尊之位,無剛陽之徳,故止可為公之事也。象曰宻雲不雨已上者,上當為止,傳寫之誤,言陽氣已止於下故不雨也。豈有陰盛於上,陽止而不雨哉?蓋陽艮止於下,所以不雨也。
「公弋取彼在穴」とは、六五の陰気はすでに極盛、故にそれを「公」と称す。「弋」は糸繩を帯びた箭を以て高処の飛鳥を射取すること、「穴」は則ち低処に隠伏する洞窟である。王公が弋射の繳箭を以て洞穴中の獲物を取るは、聖賢が事を為すを稍稍過分にすといえども、本意は下面の人を矯正するに在るに譬ゆ。ただし六五は柔爻を以て至尊の位に処り、剛陽の徳性を缺少す。故にただ公侯一級の事を為し得るのみ。《小象伝》の「密雲不雨、已上也」――この「上」の字は「止」と作るべく、伝抄の誤である。意味は陽気はすでに下に止まる。故に雨を下し得ない。豈に陰気が上に在りて強盛・陽気が停住しても降雨し得るの道理あらんや。まさに陽気が艮卦に下に止められたるが故に、初めて雨を下し成らざる。
上六:弗遇過之,飛鳥離之,凶,是謂災眚。象曰:弗遇過之,已亢也。
上六:相合を肯んぜず一味に過越し、飛鳥が羅網に撞き当たるが如し。凶険。これを天災人禍と言う。《小象伝》に曰く:相合を肯んぜず一味に過越するは、それがすでに高亢極に至ったからである。
義曰:上六一爻過而不已,不知所止,是亢極之甚而無所遇也。若鳥之髙翔,不知所止,上而愈無所適,以至窮極而離於凶禍,不能反於下以圖其所安。猶人之過而不已,不近人情,亢已而行,故外來之災、自招之眚皆有之也。
胡瑗の釈義:上六のこの爻は過越して罷めるを肯んぜず、何処に停まるかを知らず、高亢極に至って誰とも合わない。まさに鳥が一味に高飛んで停歇を知らず、愈上に往けば愈往く可き所なく、ついに絶境に走って凶禍に陥り、再び下面に帰って安身の所を謀ることを得ない。これは人が頭を過ごしてもなお手を收めず、全く人の常情を顧みず、ただ高傲に一意孤行するに譬ゆ。故に外来の天災と自己の招致した人禍と、两样皆その身に落ちる。
離下坎上
既濟:亨小,利貞,初吉終亂。
《既済》卦:細小の処に至るまで皆亨通す。正道を守持するに宜しい。初めは吉祥、末に至っては却って乱を生ず。卦名の「既済」は、すでに渡り済み・事がすでに成功を告げたの意である。
義曰:按《序卦》云「有過物者必濟,故受之以既濟」。既,盡也。言聖賢君子能過行其事,以矯天下之失,使天下生靈皆濟於治,無所不通,此既濟所以次小過也。然既濟者,是聖賢功業已成,教化已行,徳澤已著,人情已安,倉廩衣食皆已實足,君臣上下皆已和正,軍旅皆已修練,四夷皆已賓服,無一民一物不得其所,以至至纎至悉皆得通濟,故曰既濟也。
胡瑗の釈義:《序卦伝》に「物を過する者は必ず済る、故に既済を以て受く」とある。「既」は完尽の意。これは聖賢君子が能く常規を稍稍過越して事を為し、天下の偏失を矯正し、天下の蒼生を皆太平の境に渡らせ、通ぜざる処なからしむれば、故に《既済》卦は《小過》卦の後に列する。所謂既済とは、聖賢の功業がすでに建成し、教化がすでに推行し、徳沢がすでに彰顯し、民情がすでに安定し、倉庫の糧食衣物は皆すでに充足し、君臣上下は皆すでに和睦端正し、軍隊は皆すでに訓練完備し、四方の外族は皆すでに帰服し、一人の百姓・一件の事物も各々その所を得ざるなく、最も細微・最も瑣屑の処に至るまで皆成全を得るを指す。故にこれを「既済」と言う。
亨小者,傳寫之誤。按彖曰小者亨也,此當曰小亨,蓋言既濟之時,朝廷已盡正,教化已盡行,故上下遠近、纎悉微隱至小之物皆得其所濟而亨通,況其大者乎。利貞者,言天下既濟之後,或不守之以正道,則逸豫怠惰之心生,而放恣邪惡之事形,以至罹於凶禍矣,故必長守正道,則無所不利也。
卦辞の「亨小」の二字は伝抄の時に顛倒したものである。《彖伝》の「小者亨也」に拠れば、此処は「小亨」と作るべきである。意味は既済の時は朝廷がすでに完全に端正し、教化がすでに徹底に推行され、故に上下遠近・細微瑣屑・隠晦不顕の至小の物も皆成全を得て亨通す。いわんやあの大きなものをや。「利貞」に至っては:天下の大功が告成した後、もし正道を以てそれを守らなければ、安逸懈怠の念が滋生し、放縦邪悪の事が冒頭し、ついに凶禍に陥る。故に必ず長く正道を守ってこそ、往きて利あらざることなし。
初吉終亂者,初謂天下之始治。夫天下既治,惟君子為能兢兢慎持,惟恐有失,故其始則吉也。及其傳之子孫,流之後裔,則事或乆而多弊,治或永而多闕,以至逸豫怠惰,居安而不思危,居存而不思亾,不念祖宗之重器,以至顛敗覆隕,皆由此漸,是其終則亂也。
「初吉終乱」のこの一句:「初」は天下が剛く治平した時を指す。天下は既に治平したれば、ただ君子のみが能く戦戦兢兢として小心に維持し、ただ一点の差錯が出ることを恐れる。故に初めは吉である。基業が子孫に伝わり後代に遺るに及べば、事は年深日久となりて毛病が漸く多くなり、治世は維持する愈長ければ缺漏も愈多く、ここに安逸懈怠し、安穩の中に処りて危険を想わず、生存の中に処りて滅亡を想わず、祖宗の伝えた社稷の重器を顧念せず、ついに傾覆敗亡す。これらは皆一点一点積累して来たものである。故に末に至って乱れる。
至如周治於文武成康之初,而亂於昭穆之後;漢治於髙祖文景之初,而亂於武元之後。以是知創業之主,蓋得於憂勤,故多吉;守成之君,蓋生於康樂,故多忽。聖人特於此言之者,將以為萬世守成之戒,使之居安慮危,在治思亂,而豫為之備,不使至於傾危也。
譬如周朝は文王・武王・成王・康王の初は治世で、昭王・穆王以後に至って乱れた。漢朝は高祖・文帝・景帝の初は治世で、武帝・元帝以後に至っても乱れた。これに由って知るべし:基業を開創する君主は大抵憂患勤労より出ず。故に多吉。成業を守る君主は大抵安楽の中に生長す。故に多く疏忽す。聖人は特にここでこの一層を点出するは、これを以て万世守成する者の鑑戒と為し、彼らをして安穩に身を処して危険を顧慮し、治世に正に当たって禍乱を想い、予め防備を為し、傾覆危亡の地步に走らざらしめんがためである。
彖曰:既濟亨,小者亨也。利貞,剛柔正而位當也。初吉,柔得中也。終止則亂,其道窮也。
《彖伝》に曰く:《既済》卦が亨通する所以は、細小の物に連れて皆亨通したからである。「利貞」は、剛爻柔爻が各々その正を得て居る所の位が妥当だからである。「初吉」は、柔爻が中位に居るからである。末に至ってもし停滯すれば便ち乱を生ず。それはその路がすでに尽頭に走ったからである。
義曰:既濟者,天下之物無不濟也。雖物之至微至細者,亦皆遂其所,則大者可知矣。如行葦之詩,仁及草木。夫草木無知之物,仁尚及之,他則不言而喻矣。以此知聖賢功業已成,徳澤已流,人情皆得其安,而教化大行矣。利貞剛柔正而位當者,言六二六四以陰居陰,九三九五以陽居陽,皆得其正,施之人事,則是君子小人各得其分,貴賤長幼各得其序,君君臣臣,父父子子,夫夫婦婦,兄兄弟弟,各得其所,則中國為中國,夷狄為夷狄,不相揉亂,而天下萬事無所不濟,無所不利也。
胡瑗の釈義:既済とは、天下の万物に一様として成全されざるなきを言う。最も微小最も細碎のものですら安頓妥当を得れば、さらば大きなものは自ずから言うまでもない。譬如《詩経・大雅》の《行葦》の一篇は、仁愛の心が路辺の芦葦にも及ぶほどである。草木は知覚なきもので、仁愛がなおそれに施及する以上、其余は言わずして明らかである。これに由って聖賢の功業はすでに建成し、徳沢はすでに流布し、民情は皆安定し、教化は大いに流行することを知るべし。「利貞、剛柔正而位当也」のこの一句は、六二・六四が陰爻を以て陰位に居り、九三・九五が陽爻を以て陽位に居り、皆各々その正を得ることを言う。人事に落とせば、便ち君子と小人が各々本分に安んじ、貴賤長幼が各々次序あり、君は君道を尽くし臣は臣道を尽くし、父は父らしく子は子らしく、夫は夫らしく婦は婦らしく、兄は兄らしく弟は弟らしく、人人各々その所を得る。ここに中原は中原、四夷は四夷、彼此は相混雑擾乱せず、天下万事は成らざるなく利ならざるなし。
初吉柔得中也者,謂六二也。言既濟之時,天下之民物、國家之教化無所不濟,蓋在上者有中正之道、文明之徳,然後能致也。六二以陰居陰,不失其正,在下卦之中,居離明之體,是得寛柔中正文明之道以濟天下,故曰吉也。終止則亂其道窮也者,夫民生於憂勤而死於安樂。天下乆治,則人苟其安,萬務易墮,禍患不警,故持盈守成之道,當須至兢至慎,然後可以乆濟。苟止於逸樂,不自省懼,以為終安,亂斯至矣,故曰終止則亂其道窮也,此聖人深戒之辭。
「初吉、柔得中也」のこの一句は、六二を指す。既済の時、天下の百姓万物・国家の教化に一つとして成全されざるなきは、上の位に在る人が中正の道と文明の徳を具備し、然る後に初めて行い得たからである。六二は陰爻を以て陰位に居り、その正を失わず、また下卦の中間に処り身は離火光明の卦体の中に在る。まさに寛柔中正・文明和順の道を得て以て天下を成済する。故に「吉」と言う。「終止則乱、其道窮也」のこの一句:百姓は憂患勤労の中にあって生存を得、安逸享楽の中にあって衰亡に走向す。天下が太平久しければ、人は苟且に安を偸み、万般の事務は容易に廃弛し、禍患に対しても再び警覚しない。故に盈満を保持し成業を守る道理は、必ず極めて兢兢業業・極めて謹慎であってこそ、長くこの成功を保ち得る。もしこのまま安逸享楽の裏に停まり、自己反省戒懼せず、以て一直に安穩し下去り得ると為さば、禍乱は馬上に来る。故に「終止則乱、其道窮也」と言う。これは聖人の深切に告誡する言である。
象曰:水在火上,既濟。君子以思患而豫防之。
《大象伝》に曰く:水は火の上に在り、水火は相済して以て炊爨の功を成し得る。これが《既済》卦の取象である。君子はこれに法って、予め発生し得べき禍患を想い事先に防備を加える。
義曰:坎上為水,離下為火,水火之性不相入,然相資而成功,有烹飪之利以濟於用,故得既濟之象也。君子以思患而豫防之者,既濟之時,天下既以治安,君子宜深思遠慮,豫為之防,曲為之備,居安思危,居存思亡,動作語黙皆常戒慎,則可以久於既濟矣。
胡瑗の釈義:上卦の坎は水、下卦の離は火。水と火の性質は本来互いに相容れないが、彼此に憑藉して初めて事を成し得る。釜は上にあり火は下にあれば、便ち飲食を烹煮する利ありて人の使用に供せられる。故に「既済」の象を取る。「君子以思患而豫防之」に至っては:既済の時は天下がすでに安定し、君子は當に深思遠慮し、予め防を設け、処処後手を備え、安穩の中に処りて危険を想い、生存の中に処りて滅亡を想い、一挙一動・一言一黙に皆常に戒懼を存すべきである。こうしてこそ已成の局面を長久に保持し得る。
初九:曵其輪,濡其尾,無咎。象曰:曵其輪,義無咎也。
初九:車輪を曳きて吃力に前行し、尾巴を沾湿せり。過ちなし。《小象伝》に曰く:車輪を曳きて険を渉り行くは、道理に按って過咎あるべからず。
義曰:夫既濟由未濟而來,初九居一卦之始,是天下之未濟而險難之未平也。聖賢處此之時,當此之責,則焦勞思慮,經營心志,欲濟天下之患難,使至於安平,是以不顧險難之在前,沖冒而往,欲行之速,故至於搖曵其輪,濡潤其尾。雖然曵輪濡尾,其心無他,蓋能憂天下之憂,欲濟天下之患難而已,故雖深冒於難,終得無咎也。象曰曵其輪義無咎者,言初九以剛健之徳居既濟之初,盡心竭力,不顧險難,但以既濟為心,故至於搖曵其輪,濡潤其尾,如是則於義自然無咎矣。
胡瑗の釈義:《既済》は《未済》より転じて来た。初九は全卦の開端に処り、まさに天下がいまだ難関を渡らず険難がいまだ平定せぬ時である。聖賢はこのような時に処りこの份の責任を担えば、便ち焦心労思・殫精竭慮して、一心に天下の患難を救わんと想い、それを安寧太平に帰せしめんとする。故に眼前の険阻を顧みず、険を冒して前に闖み、早く趕到せんことを恨不得して、車輪の拖曳顛簸・尾巴の水に浸るるに至る。拖輪湿尾と言うといえども、彼の心裏に別の念頭なく、ただ天下の人の憂うる所を憂え、天下の患難を解救せんと想うのみ。故にたとえ深く険境に渉入しても、最終に過咎なし。《小象伝》の「曳其輪、義无咎也」は、初九が剛健の徳性に憑って既済の開端に処り、心を尽くし力を竭くし、険難を顧みず、一心にただ天下を渡し去らんと想って、初めて車輪拖曳・尾巴浸湿の地步に弄到した。こうして為せば、道理より言えば自ずから過咎あるべからず。
六二:婦喪其茀,勿逐,七日得。象曰:七日得,以中道也。
六二:婦人が車上の首飾蔽簾を遺失す。追尋するに及ばず。七天の内に自ずから失い復た得る。《小象伝》に曰く:七天の内に失い復た得るは、彼女が中道を守るからである。
義曰:六二當既濟之時,處下卦之內,婦之象也。茀者,首飾也,婦之有茀,所以為容也。按初爻則天下未甚濟,至二則險阻已平,治道已成,萬事莫不盡濟。然此爻介於初九九三之間,而又以柔弱之質,故必為他人之所侵。然六二能執中道,持正不變,所應専在九五,而志不可奪,故所喪者但喪其首飾也。
胡瑗の釈義:六二は既済の時に処り、下卦の内部に居り、取象は婦人と為す。「茀」は首飾の類の装飾で、婦人はそれを戴きて、以て儀容を修飾するを用とす。初爻に按って見れば、天下はいまだ完全に難関を渡らず。第二爻に到れば、険阻はすでに平定し、治道はすでに建成し、万事に成らざるなし。しかしこの爻は初九と九三の二個の陽爻の間に夾まれ、本身また柔弱の質。故に人に侵擾されるを免れない。幸いに六二は能く中道を守り正を持して変わらず、相応ずる所は専ら九五一爻に在り、心志は動揺すべからず。故にその損失する所は過ぎず頭上の首飾のみである。
勿逐七日得者,夫既濟之時,天下之民大和,雖有邪佞之人處於其間,終亦不容之也。故六二始雖喪茀,然已能執正不回,則不待捕逐,凡七日之問自得之矣。是猶天下新治,民已見太平,紀綱未墮,上下方盛,當此之時,雖有小人敢行侵侮,亦不能貽害,但如婦喪其茀,雖小有所失,不乆之間亦當自復,故曰勿逐七日得。象曰七日得以中道者,言六二喪茀所以勿逐七日得之者,由其有文明陰柔之徳,得中正之道故也。
「勿逐、七日得」のこの一句:既済の時は天下の百姓は一片和洽で、たとえ邪佞小人が其間に混迹しても、ついに彼を容れられない。故に六二は起初首飾を丢了するといえども、能く正を守り回頭せず、追捕捜索に用いず、七天の内に自ずから找り返される。これは天下が剛く治平し、百姓がすでに太平の景象を見、綱紀はいまだ敗壞せず、上下が正に興盛の時に当たるに譬ゆ。この時たとえ小人が敢えて侵擾欺侮しても、何らの禍害も造成せず、過ぎず婦人が首飾を丢了するが如く、小小の損失あるも、不久の間に自ずから回復する。故に「勿逐、七日得」と言う。《小象伝》の「七日得、以中道也」は、六二が首飾を丢了しても追尋するに及ばず七日に自ずから得るは、彼女が文明柔順の徳性を具備し、中正の道に合するが故である。
九三:髙宗伐鬼方,三年克之,小人勿用。象曰:三年克之,憊也。
九三:商朝の高宗は兵を出して鬼方を討伐し、三年を打って初めてそれを克き攻めた。小人を任用すべからず。《小象伝》に曰く:三年して初めて克き攻める。見ればすでに疲憊不堪である。
義曰:髙宗,商之賢王也;鬼方,遠方也。九三處下卦之上,當離明之極。離為日,日之過中,明則衰矣。施之人事,猶人君不能持盈,以傾覆祖先之業而至於衰亂也。然當是時,必有聖賢之君恢復先王之業而起中興之治,故聖人取髙宗以明之。
胡瑗の釈義:高宗は商朝の賢明の君主、鬼方は辺遠の国を指す。九三は下卦の最上の一爻に処り、正に離火光明の頂点に当たる。離の取象は太陽で、太陽は一たび正午を過ごせば光明は便ち衰減する。人事に落とせば、好比君主が盈満の局面を保ち得ず、祖先の基業を傾覆せしめ、衰敗混乱に至るに如し。しかしあの時に到れば、必定聖賢の君が出て先王の基業を恢復し中興の治を開創する。故に聖人は商高宗を挙げてこの層の道理を説明す。
言昔商運之衰,禮樂廢絕,王道衰微,綱紀將頹,逮乎髙宗,能興復商家之衰運,纘成基業,以致太平之治。然必伐鬼方者,蓋衰亂之後必有幽遠不賓之人,故當用師伐罪,以安定其民。然威服之道不可速成,故須三年然後克勝之也。小人勿用者,夫復太平之功,必用賢明之士,然後功業有所濟矣。況中興之際,其勢衰弱,君子居之,其力猶憊,況用小人乎?是愈益於亂也,故戒之勿用此小人也。
これは従前商朝の国運が衰落し、礼楽は荒廃断絶し、王道は日益衰微し、綱紀は眼見で塌せんとした。高宗が即位するに及んで、初めて商家衰落の気運を重新振起し、祖宗の基業を継承し完成して、太平の治を達成した。彼が必ず鬼方を討伐した所以は、衰乱の後には総じて僻遠の地方の人が帰服を肯んぜざるものあるが故に、故に兵を出して有罪者を討伐し、以て当地の百姓を安定せしめんとした。しかし威勢に憑って人を畏服せしめるこの事は急ぐべからず。故に三年を打って初めて勝利を得る。「小人勿用」のこの一句:太平の功業を恢復するには、必ず賢明の士を任用してこそ、功業は指望あり。いわんや中興の際は国勢が本来衰弱で、君子を来て担当せしめてもなお累得筋疲力盡する。いわんや小人を任用するをや。それはただ乱局を愈加重篤せしめるのみ。故にこのような小人を任用するなかれと告誡す。
六四:繻有衣袽,終日戒。象曰:終日戒,有所疑也。
六四:華美の衣裳の裏にすでに破絮を蔵し、故に終日警惕戒備す。《小象伝》に曰く:終日警惕戒備するは、心裏に疑慮憂患を存するからである。
義曰:繻者,盛美之服也;袽者,衣之破敝也。今六四以陰柔之質,居得其正,當既濟之時,居坎險之地,是猶繻有袽也。夫九三當衰亂之後,而復能以剛明之道起中興之治;此六四當已治之時,當其教化之流行,仁義之洽浹,無所不濟之時也。若人君不得持盈守成,而逸豫怠惰,則傾覆之患復至矣。如盛美之繻服,久而必有弊敗,故居上者處至盛之時,知其必有傾覆在後,故當終日之間兢兢戒慎,常以弊敗為慮,則可以永安泰而有盤石之固也,故聖人於此戒之也。象曰終日戒有所疑者,言六四雖居坎險之下,而能終日戒慎如此者,蓋能通天下之志,欲成天下之務,必有先見之幾,察事於未兆,故當自疑,恐其事久必壞,治乆必亂,安久必危故也。
胡瑗の釈義:「繻」は華美盛裝の衣服、「袽」は破舊敗壞の布絮。六四は陰柔の質を以て位に居りて正を得、既済の時に処するも、身は坎険の地に在り、正に華服の中にすでに破絮を蔵するが如し。九三は衰乱の後に在ってなお剛強明断の道に憑って中興の治を興起し得た。しかし六四の処する所は天下がすでに治平の時で、教化は正に流行し、仁義はすでに人心に浸潤し、一処として成全されざるなし。しかし君主がもしこの盈満の成業を守り得ず、かえって安逸懈怠に流れれば、傾覆の禍患は便ち重来する。まさに再び華美なる衣裳も、穿くこと久しければ必定破敗するが如し。故に上位に身を居る者は極盛の時に、後に必ず傾覆の危あることを知り、故に整日整日兢兢戒懼し、常に敗壞を心上に放ち、こうしてこそ長く安泰を保ち磐石の如く穩かならしめ得る。聖人はまさにここで告誡を発する。《小象伝》の「終日戒、有所疑也」は、六四は坎険の下に処るといえども能く終日戒慎してこの地步に至る。彼女が天下の人の心志を通暁し天下の事業を成就せんと想えば、必ず先見の洞察力を有し、事にまだ征兆なき時に察覚し出さねばならぬ。故にそれは常に疑慮を存し、ただ事が久しければ必ず壞れ、治世が久しければ必ず乱れ、安穩が久しければ必ず危うきを恐れる。
九五:東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭實受其福。象曰:東鄰殺牛,不如西鄰之時也;實受其福,吉大來也。
九五:東辺の隣国は牛を宰りて盛祭するも、西辺の隣国のあの簡薄の禴祭にして真に神明の福佑を承受するに及ばず。《小象伝》に曰く:東隣が牛を殺すは、西隣の祭が時に合うに如かず。真に福佑を受くるは、吉慶がまさに大いに来らんとするからである。
義曰:此一爻聖人湥切戒慎之辭。東鄰西鄰者,取文王與紂之事也。紂居東都,故言東鄰;文王居岐山,故言西鄰。紂君也,文王臣也,何以東西言之?蓋紂繼世有天下而暴虐無道,邦國凌遲,所存者位號也;文王身雖為臣,而功徳已被天下,故三分天下有其二以歸之,是有君民之徳,故以鄰國稱之也。
胡瑗の釈義:この爻は聖人の深切に告誡する言である。所謂東隣・西隣は、周文王と商紂王の故事を取る。紂王は東方に都を建てた。故に東隣と称す。文王は西辺の岐山に居った。故に西隣と称す。紂は君、文王は臣。何故に東西両隣を以て併称するか。紂王は祖業を承襲し天下を擁するも、暴虐無道にして国勢は一天天衰敗し、剩る所はただ一個の君主の名号のみ。文王は身分は臣子なれども、功業徳沢はすでに天下に遍及し、故に三分天下に彼は两分を占めて天下は心を帰す。これがすなわち彼は実際に君臨百姓の徳行を具備した。故に両人を対等の隣国として称説す。
夫牛者,祭之豐也;禴者,祭之薄也。言紂雖在上,以豐盛之祭殺大牢以享於鬼神,然無至誠馨徳充塞於前,故神亦不享;文王雖以薄約之祭薦於鬼神,然有至誠馨香之德,神則享之,蓋以誠實受福也。以是觀之,人君在徳不在物,鬼神享徳不享味也。象曰東鄰殺牛不如西鄰之時者,祭不以時而瀆其神,雖豐不享;祭得其時,雖甚薄約,福斯受矣。是以商紂雖盡物,不如文王之得時也。實受其福吉大來也者,言以至誠而享其福祿,則不惟慶及一時之身,且將延及其來繫,故吉大來也。
牛は祭品中最も豊厚なり、禴祭は則ち最も簡薄の祭祀である。これは紂王は君位に高居し最も豊盛の太牢の礼を以て鬼神を祭享するも、眼前に一片至誠芬芳の徳行が其間に充塞せず。故に神明は享用しない。文王は簡薄の祭品を以て鬼神に進献するも、至誠馨香の徳行を懐けば、神明は便ち享用する――見れば福を受くるは誠実に靠る。これに由って見れば、君主を為すの關鍵は徳行に在って祭品に在らず、鬼神の享用する所は徳行であって滋味にあらず。《小象伝》の「東隣殺牛、不如西隣之時也」は、祭祀が時節に按せずして神明を褻瀆すれば、再び豊盛なりとも神は享けず、祭祀が時節に合すれば、再び簡薄なりとも福を受け得ることを言う。故に商紂は祭品を極致に備えるも、かえって文王の祭がその時を得るに如かず。「実受其福、吉大来也」は、至誠に憑って福禄を享有せば、さらば福慶はただ自身一世に及ぶのみならず、まだその後世子孫に延及す。故に吉慶大大に到来すと言う。
上六:濡其首,厲。象曰:濡其首厲,何可乆也。
上六:頭に連れて皆水に浸る。危険あり。《小象伝》に曰く:頭に連れて皆浸湿して危険に陥る。このような局面は何ぞ長久を得ん。
義曰:物盛則衰,治極必亂,理之常也。上六處既濟之終,位在一卦之外,以柔乘剛,居物之上,其道窮極,至於衰亂也,故天下之事傾敗而不能支,如涉險而濡溺其首,是危厲之極也。皆由治不思亂,安不慮危,以至窮極而反於未濟也。象曰濡其首厲何可久者,言上六當既濟之終,反於未濟,至於濡沒其首,危亡不遠,故當翻然而警,惕然而改,何可乆如此乎?故曰何可久也。
胡瑗の釈義:事物は興盛が頭に至れば便ち衰敗し、治世は極点に到れば必然に乱を生ず。これは常理である。上六は既済の末尾に処り、位置は一卦の外に在り、柔爻を以て剛爻の上に凌駕す――陰爻が陽爻の上頭に壓するを「乗」と言う――萬物の上に高踞し、その路はすでに尽頭に走り、ここに衰乱に転向す。故に天下の事は傾覆敗壞して支撑し得ず、まさに水に渉るに頭に連れて皆淹没せるが如く、危険極点に到る。これ一切は皆治世に処りて乱を想わず、安穩に処りて危険を顧慮せず、以て窮極して重新「未済」の局面に落回るに由る。《小象伝》の「濡其首厲、何可久也」は、上六は既済の終点に処りて未済に返回し、頭に連れて皆浸没する地步に落ち、危亡はすでに遠からず。故に當に猛然警醒・惕然悔改して、何ぞ一直にこのよう下去り得んや。故に「何可久也」と言う。
坎下離上
未濟,亨。小狐汔濟,濡其尾,無攸利。
《未済》卦の卦辞に曰く:事がいまだ辦成せず天下がいまだ治好せぬ局面の中に処りても、依然として亨通に走向し得る。まさに一匹の小狐が水を渉り河を渡り、眼見で岸に到らんとするも、尾巴を水の裏に浸し、結果として何の好処も得ないが如し。「済」の本義は河を渡ることで、引伸して成事・救助と為す。「未済」とはすなわちいまだ彼岸に渡らざること。「亨」は「元亨利貞」四徳の一で、通達順暢を指す。「汔」は将に近づく・幾の意。卦辞は小狐の渡河功敗垂成を以て比として、人を提醒す:才力が単薄なのに硬く大事を承擔すれば、往々に最後の一步に失敗す。
義曰:按《序卦》云:「物不可窮也,故受之以未濟終焉。」葢言既濟之後,在上者不能持盈守成,以至窮極而無所通濟,故以此次於既濟也。此卦自既濟上六而來,明天下之事既濟之後,治平已久,人心怠忽,恃安而不思其危,恃治而不思其亂,逸樂不已,亂所由生,是以濡其首,反既濟而為未濟也。謂之未濟者,是天下法度敗壞,教化不興,故曰未濟。
胡瑗の解釈:《序卦》に講じて曰く、万物の発展は終点に停まり得ない。故に《既済》の後に《未済》を接ぎ、これを以て六十四卦を收束す。これは天下大治の後、上位に居る者がもし已有の成果を守り得ざれば、事は尽頭に走りて壅塞不通と為る。故に《未済》を《既済》の後面に排す。本卦は《既済》の上六一爻より変化して来た。天下の事が辦成した後、太平の日子が久しく過ごせば、人心は便ち鬆懈す:眼前の安穩に仗りて潜在の危険を想わず、眼前の有序に仗りて将来の動乱を防備せず、安逸享楽に節制なく、禍乱は便ちここより滋生し、ここに渡河の狐狸が頭に連れて皆浸湿せるが如く、治平已成より翻転して一事无成と為る。所謂未済とは、すなわち国家の法度が敗壞し教化が推行し得ぬ局面である。故にこれを未済と言う。
亨者,聖賢君子當是時,欲復有所濟,使民心之安、教化之興,宜以仁義之道拯救之。是必先正其身,然後正朝廷;朝廷正,然後正天下。必使天下人民事物各得其濟,而獲亨通也。
卦辞が亨通に説到するは、聖賢君子がこのような局面の下に処り、重新挽回あらんと欲し、百姓の心を安定せしめ教化を重新興起せしめんとすれば、當に仁義の道を以て天下を救治すべきである。この事には先後の次序あり:必ず先ず自己の身心言行を端正し、然る後に初めて朝廷を端正するに談じ得。朝廷の風気が端正せば、然る後に初めて整個の天下を端正し得。必定天下の百姓と萬事萬物を各々救助を得せしめてこそ、こうして初めて通達順暢の結果を獲得し得る。
小狐汔濟,濡其尾,無攸利者,汔者,幾也。狐之性善涉水者也,然以小者渡之,雖幾至於濟,然勢力微小,必至濡溺其尾也。以人事言之,猶天下未濟,欲興太平之功,欲拯天下之難,必藉大才大徳聖賢之人,與之戮力同心,一志畢慮,不顧險阻之在前,奮然往而濟之,則可以立大勲,圖大業,拔天下於困厄,出天下於水火也。苟以小才小徳、位卑勢寡之人當之,欲濟天下之險阻,是猶小狐之涉淵水,雖僅至於濟,不免濡溺,無所利於拯難也。
小狐狸が岸に快く到るも尾巴を浸し一獲なしのこの一句に至っては、其中の「汔」は将に近づくの意。狐狸の本性は水を渉るに善いが、年幼体小の狐狸を河を渡らしめれば、たとえ岸に靠まらんとするも、力気が余りに弱いが故に、終竟尾巴を水中に浸没せしめる。人事を以て対照すれば:天下いまだ治好せざる時、太平の功を興起し天下の患難を拯救せんと想えば、必ず才力宏大・徳行深厚の聖賢之士に依靠し、彼らと同心協力し、心志を専一にし思慮を竭くし、前面に艱険阻碍が横たわるに因って退縮せず、奮発して前に向かい事を做し成さねばならず、こうして初めて大功勲を建立し大事業を謀成し、天下を困厄の中より拔出し、百姓を水火の裏より救出し得る。もし才力浅薄・徳行不足・地位卑下・勢単力孤の人に換えて承擔せしめて、天下の険阻を渡らんと欲せば、それは小狐狸が深水を渉ると同様に、たとえ勉强して対岸に快く到るも、水に淹没せらるるを免れず、救難に対して毫も用処なし。
彖曰:未濟亨,柔得中也。小狐汔濟,未出中也。濡其尾無攸利,不續終也。雖不當位,剛柔應也。
《彖伝》の解釈に曰く:《未済》が亨通し得る所以は、六五この一柔爻が上卦の中位に居り、中を守る位置を取得したからである。小狐狸が渡り去らんとするも、それがいまだ下卦坎水この険境の中間を走出せざるが故と言う。尾巴を浸し好処なしと言うは、力気が接続し上げず、最後まで堅持し得ざるが故である。六爻は皆位に当たらざるといえども、上下両卦の剛爻と柔爻と彼此相「応」じ、依然として為し得べき処あり。此処の「応」とは、初と四、二と五、三と上の間の一陰一陽が互いに呼応する関係を指す。
義曰:柔謂六五也。言未濟之所由來者,以居上者所為有過,不得中道,所以然也。今六五能以柔順之質,履大中之位,委任九二剛明之臣,與之同心竭力,共濟天下之事,所以獲其亨通也。小狐汔濟,未出中也者,下坎為險,以狐之小者往涉於水,其力微弱,未必能濟;猶以小才涼徳之人慾濟險涉難,必不能出險難之中矣。
胡瑗の解釈:《彖伝》の講ずる柔爻は、六五を指す。天下が一事无成の地步に落到した所以は、上位に居る人の行事に過失あり、不偏不倚の中道を守らなかったが故に、この結果を造成した。いま六五は能く柔順の品質を以て、上卦の正中この尊にして中を得る位置に居り、政事を九二この剛強明察の臣子に託付し、君臣同心竭力して、一斉に天下の事務を挽救す。故に亨通を得る。小狐狸が渡り去らんとするもいまだ険境の中間を走出せずと言うに至っては、下卦の坎が険陥を象徴し、一隻の弱小の狐狸を水を渉らしめれば、力量微薄にして必ずしも渡り得ず。これは好比才力浅く徳行薄き人が険を渉り難を救わんと欲すれば、必定険難の包囲を走出し得ざるが如し。
濡其尾無攸利,不續終者,小狐之涉水,雖幾及其濟,然以力弱不能自奮,故致濡尾,不能終濟也。亦如人之濟難,其勢弱,其才薄,終無餘力以拯民於塗炭,不能卒有所成,故曰不續終也。雖不當位,剛柔應者,言九二、九四以陽居陰,六三、六五以陰居陽,所處皆不當位。位雖不當,然上下二體剛柔相應,施之人事,猶君臣同心戮力而相應,則可以共濟天下也。
尾巴を浸し好処なしと言うは、力気が最後まで接続し得ざるが故:小狐狸が水を渡るに、一点差で岸に到るといえども、力弱くして再び奮起し得ざるが故に、尾巴は水に浸湿せられ、終竟渡り完る能わず。これもまた人が難を救うに、声勢本来弱く、才具本来薄く、最後に余力なくして百姓を水深火熱の中より救出し得ず、事を辦成せざるに如し。故に力気が終点まで接続せずと言う。爻位は当たらずといえども剛柔相応ずと言うに至っては、九二・九四の両個の陽爻が却って偶数の陰位に居り、六三・六五の両個の陰爻が却って奇数の陽位に居り、処する位置は皆本分に合わず。これがすなわち「爻位」の当たる当たらざるの講法である。位置は当たらざるといえども、上下両卦の間の剛爻と柔爻は一一呼応す。人事に放てば、まさに君主と臣子が同心合力し彼此配合すれば、さらば依然として共同に天下を挽救し得るが如し。
象曰:火在水上,未濟。君子以慎辨物居方。
《大象伝》に曰く:離火は上に在り坎水は下に在り、火焰は上に向かって升り水流は下に向かって走り、両者は背道而馳して互いに成就し得ず。これが《未済》の象である。君子はこの卦象を見れば、便ち謹慎に事物の類別を分辨し、毎一樣の物・毎一人を皆それが処すべき位置上に安放せしめるべし。
義曰:夫水火相資,然後能濟於物,故曰既濟。今此二體火上水下,火自炎上,水自就下,水火相戾而不能相資,是以有未濟之象。君子因此之象,則當精審其事,明辨於物,使各居其方,皆遂其所,則賢為賢,愚為愚,貴貴賤賤,法度昭明,各安其分,不相踰越,蓋取諸水下火上之義也。
胡瑗の解釈:水と火とは本来互いに憑藉して初めて事物を成就し得る。水は上に在り火は下に在り、水は火に煮られて功用を生出せば、それがすなわち《既済》。いまこの一卦の上体は離火、下体は坎水で、火性は自然に上升し水性は自然に下流し、両者は相互に背離し、誰も誰を幇けられない。故に一事未成の卦象を呈す。君子はこの象に法れば、便ち當に細致に政務を審察し、清楚に人と物の品類を分辨し、彼らを各々あるべき方位に安処せしめ各々自身の価値を実現せしむべし:賢能の人は賢能の位置に放ち、愚鈍の人はそれと相称する処に安放し、尊貴者は尊貴の礼を受け、卑下者は卑下の分を守り、法度は清晰明白にして、人人は本分を安守し、互いに僭越しない。これがまさに水が下に在り火が上に在るこの一卦象の裏より領会し出た道理である。
初六:濡其尾,吝。象曰:濡其尾,亦不知極也。
初六の爻辞に曰く:河を渡るに尾巴を浸湿せり。これは人をして羞惜せしむるものである。《小象伝》の解釈に曰く:尾巴を浸湿する所以は、また事の分際と限度を明白せざるに由る。
義曰:欲濟天下之險難,拔生靈於水火者,非大才大徳之君子有可致之資、可致之勢,固不能也。今初六以柔弱之質,居一卦之下,處坎險之底,且欲拯天下之難,除天下之害,謂不量力,不度徳,反自取禍於躬,以至濡溺其尾也。夫以薄才當未濟之時,求安其身猶未知其可也,況欲濟天下乎?故彖曰小狐汔濟,濡其尾,言力不能濟,反自罹其害,誠可鄙吝也。象曰濡其尾,亦不知極者,言初所以濡溺其尾,蓋不量已才分,而不知道之極也。
胡瑗の解釈:天下の艱難険阻を渡り、百姓を水火の中より救出せんとすれば、もし才力宏大・徳行深厚の君子にあらずして、事を成すに足る資質と憑藉し得べき形勢を具備せざれば、本来行い得ない。いま初六は柔弱の資質を以て全卦の最下面に処り、また坎険の最底層に在り、却って天下の患難を拯救し天下の禍害を剷除せんと欲す。これを自らの力量を衡量せず自らの徳行を估量せざると言い、かえって自身に災禍を招来し、渡河の狐狸の如く尾巴を浸湿するに至る。このような単薄の才具を憑って一事未成の時に処り、自身を保全するですら必ずしも行い得ず。いわんや天下を救うをや。故に《彖伝》に小狐狸が岸に快く到るも尾巴を浸すと言うは、まさに力量が事を成すに足らず、かえって自己に禍害を招来すを言う。実に人をして惋惜羞慙せしむ。《小象伝》に尾巴を浸すは限度を知らざると言うのは、初六が水の裏に陥る所以は、まさに自己の才分を掂量せず、事理にその辺界あるを懂得せざるが故である。
九二:曵其輪,貞吉。象曰:九二貞吉,中以行正也。
九二の爻辞に曰く:車輪を拖住して急進せしめざるが如く自我節制し、正道を守持すれば吉祥。《小象伝》の解釈に曰く:九二が正を守りて吉なる所以は、それが下卦の中位に居り、中を守る道に憑って正道を践行し得るからである。
義曰:夫欲泰天下之否,解天下之蹇,非剛明才徳之君子未知其可也。今九二以剛明之才徳,居大中之位,雖未出於坎險,然所應在五,五又以柔順之道信任於己,與已同心戮力,往拯天下之危,經綸當世之治,以勞賚安定天下之民,雖搖曵其輪,盡力而退,固無咎也。貞吉者,為其以陽居陰,所處非正,然已有濟難之力,苟能用大中之道,由大正而行,則吉可知矣。象曰九二貞吉,中以行正者,言二本非正,以其有正中之徳,可以行正道而獲吉也。
胡瑗の解釈:天下の閉塞を打通し天下の困頓を解開せんとすれば、剛強明達・才徳兼備の君子にあらざれば辦成せざる。いま九二は剛明の才徳を以て下卦の中位に居り、いまだ坎険を脱離せざるといえども、その上に相応ずるは六五で、六五はまた能く柔順の態度を以て彼を信任し、彼と同心協力して、一同に天下の危局を拯救し当世の治理を籌劃し、慰労賞賜を以て天下の百姓を安定す。こうすれば、たとえ車輪を拖くが如く緩行し力気を竭くした後に退譲あるも、過咎あらざる。爻辞に正を守りて吉を得ると言うは、九二が陽爻を以て陰位に居り、処する所は併せ位に当たらざるが故である。しかし彼はすでに難を救う力量を具備し、ただ不偏不倚の中道を用い、大公至正の路子に循って做せば、吉祥は想い知るべし。《小象伝》に九二が正を守りて吉・中を以て正を行うと言うのは、九二は本来位置正ならざるも、中を守り正を持する徳行に憑って、依然として正道を推行して吉祥を獲得し得ることを言う。
六三:未濟,征凶,利涉大川。象曰:未濟征凶,位不當也。
六三の爻辞に曰く:事いまだ辦成せず、この時に贸然として前進すれば凶険あり。しかし大河大川を渉越すればかえって利あり。《小象伝》の解釈に曰く:未成の時に前進して凶険あるは、六三の処する位置が恰も当たらず、それは陰爻なのに陽位を占拠したからである。
義曰:六三以陰居陽,又在坎險之極,是不正懦弱之人也。以不正懦弱之人身在坎險,欲拯天下之患難,濟天下之未濟,如之何其可乎?身且不正,反欲進救天下,是窮凶之道也。然雲利涉大川者,蓋六三下近九二剛明中正之人,上比九四興衰撥亂之臣,處二四之間而能依附之,則可以獲安,而不至溺身於險難,故曰利涉大川也。
胡瑗の解釈:六三は陰爻なのに陽位を占拠し、また坎険の最上端に処り、立身正ならずしてまた懦弱の人を代表す。このような人は自己がなお険境の裏に陥りながら、天下の患難を拯救し天下の未成の局を扭转せんと欲す。何ぞ行い得んや。自身すら端正せざるに、かえって頭を出して天下を救わんとするは、これは自己を絶境に逼入する做法である。爻辞にまた大川を渉越して利ありと言うに至っては、六三が下に往きて九二この剛強明察・中を守り正を持する人に緊挨し、上に往きてまた九四この能く衰を振い弊を起こし乱を撥き正に反る大臣に「比」近するが故である。「比」とは相隣する両爻の間に親近依附する関係を指す。六三は二と四の間に夾まれて彼らに依靠するを懂得せば、便ち平安を求め得、自己を険難の中に淹没せしめざるに至る。故に大川を渉越するは利あると言う。
九四:貞吉,悔亾。震用伐鬼方,三年有賞于大國。象曰:貞吉悔亡,志行也。
九四の爻辞に曰く:正道を守持すれば吉祥、悔恨は消失す。威勢に憑って遠方の鬼方の国を征伐し、三年を用いて初めて成功し、功に因って大国に封賞を受く。《小象伝》の解釈に曰く:正を守りて吉を得悔恨消失するは、九四の難を救う志向が実行に付し得るからである。「鬼方」は商周時期の西北方の方国の名称である。
義曰:九四出坎險之中,居離之位,是有剛陽之才。然以陽居陰,所履不正,是以有悔。苟能守正,而上承六五之君,竭力盡心,以附順於上,以興天下之衰,則悔可亡,故曰貞吉悔亡。
胡瑗の解釈:九四はすでに坎険を走出し、上卦離明の範囲に進入し、彼が剛健陽剛の才干を具備することを説明す。しかし彼は陽爻を以て陰位に居り、立身の処は併せ端正ならず。故に悔恨を免れない。ただ正道を守り得て、上に向かって六五の君を承奉し、心力を竭くして順従し君上を輔佐し、以て天下の衰敗の勢を振興せば、悔恨は便ち消除し得る。故に爻辞に正を守り吉祥・悔恨消亡すと言う。此処の「承」とは、下面の爻が上面の爻を承奉するを指し、《周易》が爻際関係を講ずる固定の説法である。
震用伐鬼方,三年有賞于大國者,震謂威震也。當未濟之世,風俗久漓,典章久墜,紀綱乆闕,而九四有剛明之才,又居離明之位,是能用其威震,興師動眾,亦須三年然後有功,使復於既濟。故聖人重其酬功報勞,以大國而賞之,所以寵其成績也。然按既濟之卦,在九三亦言伐鬼方而曰髙宗,此但言震用者,蓋既濟九三有中興之象,此九四則興衰之臣也。象曰貞吉悔亡,志行也者,言九四已出險難,志欲安濟於天下,故能以剛明之才徳、大正之道,施行其救難之志也。
威勢に憑って鬼方を征伐し三年の後大国に賞を受くと言うに至っては、此処の「震」は威勢震懾の意である。天下未治の時代に処り、風俗は澆薄すでに久しく、典章制度は荒廃すでに久しく、綱紀は鬆弛すでに久しい。しかし九四は剛強明達の才干あり、また離卦光明の位に身を処す。故に威勢に憑藉して兵を興し衆を動かし得るも、三年を花上げて初めて成效を見、天下を重新治平已成の状態に帰せしめ得る。故に聖人は格外に彼の功労への酬報を看重し、大国を封賞して以て褒奨し、以てその功績への恩寵を顯示す。ただし《既済》卦に対照すれば、あそこの九三爻も鬼方を征伐を講じ、かつ殷高宗武丁であると点明す。此処はただ威勢に憑ると言うのみで君主の名を挙げないのは、《既済》の九三には中興の君の意象ありて、ここの九四はただ衰を振い弊を起こす臣子だからである。《小象伝》に正を守りて吉を得悔恨消失するは志向が行い得と言うのは、九四はすでに険難を脱出し、一心に天下を安定し拯救せんと想うが故に、能く剛明の才徳・大公至正の路数を以て、難を救う志愿を真に実施に付し得ることを言う。
六五:貞吉,無悔。君子之光,有孚,吉。象曰:君子之光,其暉吉也。
六五の爻辞に曰く:正道を守持すれば則ち吉祥、悔恨なし。これは君子の徳行の光輝で、内心また誠信あり、故に吉祥。《小象伝》の解釈に曰く:君子の光輝とは、まさにあの外に向かって照耀する光暉が吉祥を帯来するものである。「孚」は誠信・人をして信服せしむるの意。
義曰:六五以柔順位於至尊,未濟之主也。然以陰居陽,本亦有悔,故必守正然後得吉而無悔也。君子之光也者,以柔順文明之道,所行得中,且下應九二剛明之臣,與之同心戮力,一志畢慮,與天下興利除害,致天下於既濟,是君子光顯之徳也。有孚吉者,言六五以柔順之質,委任九二剛明之臣,與之共治天下,當絶疑忌之心,以信相待,則興治之功畢而終獲其吉也。象曰君子之光,其暉吉者,六五之君能以柔接物,以信遇臣,興天下之治,是君子光暉之用無所不至,而獲其吉也。
胡瑗の解釈:六五は柔順の品質を以て最も尊貴の君位に居り、天下未治の時の主政者である。しかしそれは陰爻にして陽位に処り、本来また悔恨あり。故に必ず正道を守って、然る後に初めて吉を得て悔なからしめ得る。所謂君子の光輝とは、六五が柔順にして文明の方式を以て行事し、挙措は中道に合し、また下に向かって九二この剛明の臣と相呼応し、君臣同心協力・心志を専一にし思慮を竭くして、天下のために有利の事を興辦し有害の事を除去し、天下を未成の局より治平已成の境地に帰せしむる。これがすなわち君子の光明显耀の徳行である。誠信を懐きて故に吉祥と言うは、六五が柔順の資質に憑り、政務を九二この剛明の臣に託付し、彼と共同に天下を治理すれば、便ち當に猜忌の心を断絶し、誠信を以て相待すべきである。こうすれば治世を振興する功業は初めて完成し、最終に吉祥を獲得する。《小象伝》に君子之光其暉吉と言うは、六五この君主は能く柔和を以て人に待し誠信を以て臣下に対待し、天下の治理を興起し、君子光輝の作用は至らざる所なく、故に吉祥を獲得する。
上九:有孚于飲酒,無咎。濡其首,有孚失是。象曰:飲酒濡首,亦不知節也。
上九の爻辞に曰く:誠信を以て相待して飲宴の楽を安享すれば、過咎あらざる。しかしもし其中に沉溺して頭に連れて皆浸湿せば、あの份の誠信はすなわち錯った処に用いた。《小象伝》の解釈に曰く:飲酒して頭頂を浸すに至るは、また節制を懂得せざるに由る。
義曰:夫六五柔順之主,能下接九二剛明之臣,使既濟之道已成,至於上九,則綱紀已振,教化已洽,法令已備,故已可以無為而治,不勞聰明,委信於臣,而飲食宴樂以相和悅,所以無咎也。濡其首,有孚失是者,夫安不可恃,樂不可極,任臣不可以不察,如是則有苟簡敗壞浸潤之禍,至於濡溺其首,蓋失其所信之道,取不節之嗟,故曰有孚失是,此聖人深戒之辭也。
胡瑗の解釈:六五は柔順の君主で、能く下に向かって九二この剛明の臣を延納し、治平の功を完成を得せしむ。上九のこの爻に到れば、綱紀はすでに振作し、教化はすでに普及し、法令はすでに完備し、故に君主は清靜無為を以て治理し得、耳目心思を費尽すに及ばず、事を臣下に信託し、臣下と飲食宴楽し彼此和悦す。故に過咎なし。頭を浸湿し誠信が錯った処に用いられたと言うに至っては、安定は一味に倚仗すべからず、歓楽は極処に走るべからず、臣子を任用するも察験を加えずにすべからずと講ずる。否らば便ち苟且草率・政事敗壞・讒言漸漬の類の禍患あり、渡河の人が頭に連れて皆水の裏に淹没せるが如きに至る。これがすなわち信任を錯った対象に放ち、節制を知らざるの嘆惜を招来す。故に誠信が錯った処に用いられたと言う。これは聖人が深く後人に告誡する言である。
繋辞上
周易言繋辭者,按周易始於伏羲,畫為八卦;至於文王,定為六爻,演為六十四卦,又作卦下之彖辭以解釋一卦之義,曲盡天地之道,總包萬事之冝;而又周公作其爻辭,以釋逐爻之義。然而聖人作卦,其道至大,以至纎至悉之事無不備載。雖有爻彖之辭以解釋之,然其辭義深逺,其理精微,至淵至奧,不可以易曉,則於常常之人固難知矣。是故孔子復作十翼以釋之,欲使後世之人可以達聖人之淵奧,知聖人之行事也。
《周易》の裏に何故《繋辞》この一篇あるか。《周易》の成書過程を考察すれば:それは伏羲より起こり、伏羲が八卦を画き出した。周文王に至りて、毎卦を六爻と確定し、八卦を両々相重ねて推演して六十四卦と成し、また卦名の下に繋げた彖辞を書きて一卦の大義を解釈し、天地運行の道理を曲尽無遺に講じ、人間万事のあるべき分寸を皆その内に包挙した。此後周公が再び爻辞を作り、逐爻に毎一爻の意義を解釈した。しかし聖人の立てた卦は、道理極めて宏大にして、最も細微・最も瑣屑の事情に至るまで載録せざるなし。爻辞・彖辞を以て解説を加えるといえども、これらの文辞の意思は深遠にして義理は精細幽微、深邃極点に至り、容易に読み懂がたく、尋常の人に対して本来通暁し難い。故に孔子はまた「十翼」を作って以てそれを疏解し、後代の人をして聖人の思想の深処に通達し、聖人の教を立て事を行うの用意を明白せしめんと欲した。
所謂十翼之名者,曰上彖、下彖、大象、小象、文言、上繋、下繋、說卦、序卦、雜卦。凡此十翼,以釋六十四卦之義。上下彖以解文王卦下之辭,大象以釋一卦之名義,小象分於六爻之下以解周公之爻辭,文言以文釋乾坤二卦之理,此繋辭以統言天地之淵奧、人事之終始,說卦以陳說八卦之徳業,序卦以序六十四之次敘,雜卦以辨眾卦之錯雜。
所謂「十翼」の名目は、上彖・下彖・大象・小象・文言・上繋・下繋・説卦・序卦・雑卦のこの十篇である。彼らは皆六十四卦の大義を闡釈するを用とす:上彖・下彖は文王が卦名の下に書いた彖辞を解説し、《大象》は毎一卦の命名と取象の義を解釈し、《小象》は六爻の下に分列して周公の作った爻辞を解説し、《文言》は専ら《乾》《坤》の両卦の義理を推闡し、眼下のこの篇《繋辞》は則ち総括して天地の深奥の理と人事の始末を講じ、《説卦》は八卦各自の徳性と功用を陳述し、《序卦》は六十四卦の排列の先後次第を説明し、《雑卦》は衆卦が両々相対し錯綜交雑する関係を辨析す。
此上繋是夫子十翼之中第六翼,自天尊地卑而下至篇末,分十一章,各列於後,今隨文而解之。然按先儒周氏云:上繋辭凡十二章,自天尊地卑為一章,聖人設卦觀象為二章,彖者言乎其象為第三章,精氣為物為第四章,顯諸仁藏諸用為第五章,聖人有以見天下之為第六章,初六藉用白茅為第七章,大衍之數為第八章,子曰知變化之道為第九章,天一地二為第十章,是故易有聖人為第十一章,子曰書不盡言為第十二章。
この篇《繋辞上》は孔子の十翼の当中の第六翼である。「天尊地卑」の一句より往下篇末に至るまで、十一章に分かつべく、下文は逐章に排列し、経文に随って一段一段解説す。ただし前代の学者周氏の説法に拠れば、《繋辞上》は一共に十二章に分かる:「天尊地卑」を以て起こりて第一章と為し、「聖人設卦観象」を第二章と為し、「彖者言乎其象」を第三章と為し、「精気為物」を第四章と為し、「顕諸仁蔵諸用」を第五章と為し、「聖人有以見天下之賾」を第六章と為し、「初六藉用白茅」を第七章と為し、「大衍之数」を第八章と為し、「子曰知変化之道」を第九章と為し、「天一地二」を第十章と為し、「是故易有聖人之道四焉」を第十一章と為し、「子曰書不尽言」を第十二章と為す。
虞飜分一章,以大衍之數並知變化之道共為一章取之。然分義之段數未盡意,隨文而別解之。然繋辭有二說,是聖人繋屬其辭於爻卦之下,故此篇第六章云繋辭焉以斷其吉凶,第十二章云繋辭焉以盡其言。是繋者,取其繋屬其辭於卦下,故謂之繋辭也。
三国時の虞翻は則ち一章を少分し、「大衍之数」と「知変化之道」とを合併して一章と成して処理した。これらの分章の弁法は義理上に皆透徹に講じ得ていない。故に此処は旧例に拘らず、経文に随って別に解説を作る。《繋辞》この篇名に至っては、前人に二種の講法あり、実は皆聖人が解説の文辞を卦爻の下に繋挂するこの事を言う。故に本篇の第六章に文辞を繋上文して以て吉凶を判断すと言い、第十二章に文辞を繋上文して以て話を講じ尽くすと言う。見れば「繋」はまさに文辞を卦の下に繋属するこの層の意思を取る。故にこの一篇を便ち《繋辞》と叫ぶ。
繋辞上・第一章 天尊地卑
天尊地卑,乾坤定矣。
経文に曰く:天は上に在りて尊く、地は下に在りて卑し。乾坤両卦の位置は便ちこれに由って確定し下る。乾は純陽を代表し、天に取象す。坤は純陰を代表し、地に取象す。天地の上下の分位が一旦分明せば、整部《周易》の依托する乾坤の框架も便ちこれに随って成立す。
義曰:此言天地之道者也。自此「乾坤定矣」而下,至「天下之理得而成位乎其中矣」為一章,以釋聖人法天地之義也。夫易之所始,始於天地。天地之判,混元廓開,而萬物之情皆生於其間。既萬物之情皆生於其間,是故聖人仰以觀於天文,俯以察於地理,於是畫為八卦,以類萬物之情,以盡天地之道、人事之理,以盡乾坤水火風雷山澤之象,是易之卦始於天地者也。
胡瑗の解釈:この一句の講ずるは天地運行の道理である。「乾坤定矣」以下より、「天下之理得而成位乎其中矣」に至るまで、合して一章と為し、以て聖人が天地に取法する用意を闡明す。《周易》の起点は便ち天地に在る。天地が分判し混沌元気が廓然開闢した後、万物の種種の情状は皆この中間より生発し出る。既に万物の情が皆天地の間に生ずれば、聖人はここに頭を抬げて日月星辰の天文を観察し、頭を低くして山川原野の地理を考察し、これに拠って八卦を画き出し、それらを以て万物の情状を帰類し、天地運行の規律と人間事務の条理を皆概括し入れ、乾天・坤地・坎水・離火・巽風・震雷・艮山・兌沢のこの八種の物象を皆其の中に收攝す。これはすなわち、《周易》の卦は天地より起頭することを言う。
然則天尊地卑者何也?夫天是純陽之氣,積於上而為尊;地以積陰之氣,居於下而為卑。剛陽居上而有尊髙之象,柔陰居下而有卑下之分。二氣始交,分為剛柔,是以交錯以至生成萬物、覆載萬物,大無不包,細無不有其形狀。故天地為乾坤之象,乾坤為天地之用。天地尊卑既分,則乾坤之位因而可以制定也。然則首言天地尊卑者,葢萬事之理、萬品之類皆自乾坤為始,故先言天地尊卑也。
然らば何故に天尊して地卑すると言うか。天は純陽の気に由って上に積聚す。故に尊と為す。地は純陰の気に由って下に積聚す。故に卑と為す。剛健の陽気は上に居りて、便ち崇高の象を顯出す。柔順の陰気は下に居りて、便ち卑抑の分を顯出す。陰陽二気が開始して交感し、「剛柔」両種の性質を分出す――剛は陽の強健有力を指し、柔は陰の順承包容を指す――ここに彼此交錯して、万物を生成し万物を承載覆蓋し、大は包まざるなく、細は一切の形状皆その中より具備す。故に天地は乾坤の取る所の象で、乾坤は天地の作用の落実である。天地の尊卑は既に划分せば、乾坤の位置も便ちこれに随って確定す。開篇に何故に先ず天地の尊卑を講ずるかに至っては、万事の道理・万類の品物は皆乾坤を起点と為すが故に、故に先ず天地の尊卑より説起す。
卑髙以陳,貴賤位矣。
経文に曰く:低下と崇高の位置が一経陳列分明せば、尊貴と卑賎の等級も便ちこれに随って確立す。
義曰:卑者,謂地體卑下;高者,謂天體高上。夫天地卑高既定,則人事萬物之情皆在其中。故六十四卦、三百八十四爻各有貴賤高卑之位,是以君臣、父子、夫婦、長幼皆有其分位矣。若卑不處卑,高不處高,上下錯亂,則貴賤尊卑、君臣父子夫婦長幼不得其序。夫如是,無髙卑之分位矣。故此貴賤之分,皆自髙卑之位既陳,然後從而定矣。
胡瑗の解釈:所謂卑とは、地の形体が下方に処るを指す。所謂高とは、天の形体が上方に処るを指す。天地の高下が一経確定せば、人間事務と万物の種種の情状は便ち皆この格局の裏に包含される。故に六十四卦・三百八十四爻は各自皆尊貴卑賎・居高居下の位置を有し、君と臣・父と子・丈夫と妻子・年長と年幼はこれに因って各々自己の名分位置を有す。もし下位にあるべき者が下位に安んぜず、上位にあるべき者が上位に居らず、上下顛倒錯乱せば、さらば貴賎尊卑の秩序・君臣父子夫妻長幼の次第は便ち皆乱れる。真にあの一步に到れば、高下の分も便ち名存実亡と為る。故に貴賎の分別は、皆高下の位置が先行して陳列した後に、初めて跟って確立し起こるのである。
動靜有常,剛柔斷矣。
経文に曰く:運動と静止は各々固定の常規を有し、剛と柔の分別も便ち判定し得る。
義曰:夫天以剛陽居於上則為動,地以柔陰居於下則為靜。天地之道,生成萬物各有常度:動而有常則為剛,靜而有常則為柔。動靜既有常分,生成各有常理,則剛柔可以斷矣。以人事言之,夫君以剛徳居於上為動,臣以柔道居於下為靜。君出其令而臣行之,臣納其善而君聽之,君臣動靜既有常理,則剛柔之分可以斷矣。若動而不常,則剛道不成;靜而不常,則柔道不立。夫如是,則剛柔不可以斷定也。然則此經雖論天地之性,然亦兼總萬物之動靜也。
胡瑗の解釈:天は剛健の陽気を以て上に居り、運行不息を表現し、動に属す。地は柔順の陰気を以て下に居り、安然として承載を表現し、静に属す。天地が万物を生養するに、各々固定の法度あり:動にして常規あるは剛に帰し、静にして常規あるは柔に帰す。動と静は既に各々常態あれば、生養成物も各々常理ありて、剛と柔の界限は自ずから分かれて清し。人事を以て対照すれば:君主は剛健の徳を以て上位に居り、動に属す。臣子は柔順の道を以て下位に居り、静に属す。君主は政令を発布し臣子は往きて執行し、臣子は善言を進献し君主は能く聴納す。君臣の間は動静各々常理ありて、剛柔の分際も便ち判然として弁え得。かえって動にして常規なければ、剛の一面は便ち立ち上がらず、静にして常規なければ、柔の一面も従って成立せず。あの時に到れば剛柔は便ち判定し得ざる。見ればこの一句は天地の性質を論ずるに在るといえども、同時に万物の動静の理をも総括した。
方以類聚,物以群分,吉凶生矣。
経文に曰く:人は各々その志向社会路数に按って聚りて同類と成し、物は各々その族群に按って分かれて不同の類別と成す。吉と凶とは便ちここより産生出る。
義曰:此已下言聖人法天地之象也。方者,道也。天君子之人同道而齊術,道同於已者則相推而類聚之。君子則以君子為朋偶,小人則以小人為類黨;為士者則以士為同道,為濃者則以農為族黨,為工者則以工為同道,為商者則以商為類聚,是皆以同道為之共處,各隨其類族矣。物以群分者,上既言君子小人各從其類,此又言萬品之物亦各以其群類而為黨也。至如飛者則以飛者為群,走者則以走者為群,以至昆蟲草木巖穴之物,各從其群,各從其分也。
胡瑗の解釈:ここより始めて聖人が天地の象に取法することを講ず。「方」は此処にてはすなわち道路・路数の意。君子の人は道相同じく術相斉しく、およそ自己と路数相同なるは、便ち互相引薦して聚りて一類と成す。君子は君子を以て朋友同伴と為し、小人は則ち小人と結んで党羽と為す。読書して士と為るは士人を以て同道と為し、農を務むるは農人を以て族群と為し、工を為すは工匠を以て同道と為し、商を経るは商人を以て同類と為す。これらは皆路数相同なるが故に共に一処に処り、各自自己の属する類別に跟従す。万物が族群に按って分かると言うに至っては、上文は既に君子小人は各々その類に随うを講じ、此処は再び万類の物も各々族群に按って一党を結成することを講ず:飛ぶ能くするは飛ぶ能くする者と同群し、走る能くするは走る能くする者と同群し、昆虫・草木・穴居の物に至るまで、もまた各々その群に帰り各々その分を守る。士・農・工・商の所謂四民は、各々各の行當と交游あり。まさに人が類を以て相聚るが人事上に落ちた具体の樣子である。
吉凶生矣者,夫上言方以類聚,物以群分,此言吉凶生矣者何哉?夫吉凶生於異類,善惡由夫影響。同逍齊術者則為吉,非其類者則為凶。若君子同於君子之人則吉,小人入於君子之黨則凶,是吉凶之道生於非類。無所分別,若平其所趣則凶,是以生焉;若順其所同則吉,是以生焉。是吉凶之道生於非類者也。
吉凶ここより産出すと説到すれば:上文は既に人は路数を以て相聚り物は族群を以て相分かると講じたれば、此処に何故に接続して吉凶が便ち生出したと言うか。吉凶はまさに異類相処の中より産生するが故で、善と悪とは形と影・声と響の如く彼此相随う。路数相同・方法一致のが一処に湊れば便ち吉で、本不同類のを硬く湊り合わせれば便ち凶である。譬如君子と君子と相聚れば便ち吉、小人が君子の隊伍の裏に混進すれば便ち凶。見れば吉凶の理は同類なるか否かの上に生ず。もし毫も分別なく、趨向不同の人事を拉平混同せば、凶は便ちここより生ず。もし彼此相同の路数に順って結合せば、吉も便ちここより生ず。故に言う、吉凶の道はまさに同類なるか否かのこの一点より産生出る。
在天成象,在地成形,變化見矣。
経文に曰く:天上に在りて凝聚して日月星辰の如き物象と成り、地上に在りて凝聚して山川草木の如き形体と成す。変化の道理は便ち顕現し出る。
義曰:象謂日月星辰也,形謂山川草木也。夫天以剛陽之氣居於上而生物,地以柔陰之氣在於下而承天。在於天者則為日月星辰之象,在於地者則為草木山川之形,是天地之道、生成之理自然而然也。變化見矣者,上既言在天成象,在地成形,此復言變化見矣者何哉?葢天地之道、生成之理,有全體而化者,有久大而化者,有驟然而化者,千變萬化皆有形象,而人莫能究其實,但知其自然而然也。
胡瑗の解釈:所謂象とは、日月星辰を指す。所謂形とは、山川草木を指す。天は剛健の陽気を以て上に居りて万物を生発し、地は柔順の陰気を以て下に居りて天施を承接す。天上に落ちるは、日月星辰の象と成り、地上に落ちるは、草木山川の形と成る。これがすなわち天地運行・生養成物の道理で、本来この如く、安排を假らず。変化ここより顕現すと言うに至っては、上文は既に天上は象を成し地上は形を成すと講じたれば、此処に何故にまだ一句変化顕現を補うか。天地運行・生養成物の道理には、整体が一斉に転化するあり、歷時長久にして後にその広大を成すあり、また転眼の間に骤然変異するあり、千変万化皆見るべき形迹を留めるも、人はその背後の実情を窮究し得ず、ただそれが本来この如くなるを知るのみ。
是故剛柔相摩,八卦相蕩。
経文に曰く:故に剛爻と柔爻とは互相摩擦切磨し、八卦は彼此推移激蕩す。
義曰:此已下明天地陰陽相推蕩之事也。夫天本在上,地本在下,及夫天氣下降,地氣上騰,陽極則變而為陰,陰極則反而為陽。陽剛而陰柔,陰消而陽伏,剛柔互相切摩,更相變化,然後萬物之理得矣。夫八卦之始,本於天地剛柔二體,法於陰陽,剛則為陽爻,柔則為陰位,爻位相錯雜,然後以成八卦,推蕩於天地之間。若十一月一陽生而推去一陰,五月一陰生而推去一陽,是八卦相推蕩於天地之間,所以成於六十四卦也。
胡瑗の解釈:ここより起こりて、講ずるは天地陰陽が互相推移激蕩する事である。天は本来上に在り、地は本来下に在る。天気が下降し地気が上升するに及べば、陽気は極点に到れば便ち転じて陰と為り、陰気は極点に到れば便ち返りて陽と成る。陽性は剛健・陰性は柔順で、陰気が消退する時は陽気は潜伏し、剛と柔とは彼此摩蕩し、交替変化して、万物の道理は初めてここより成立す。八卦の来源は、天地剛柔のこの両種の基本体性に本とし、陰陽に取法す:剛は画きて陽爻と成し、柔は占めて陰位と為し、爻と位とは交錯配合して、ここに八卦を形成し、天地の間に在りて反復推蕩す。譬如夏暦十一月の冬至は一陽が初生して一分の陰気を推退すれば、それがすなわち《復》卦の陽気回還の象である。五月の夏至は一陰が初生して一分の陽気を推退すれば、それがすなわち《姤》卦の陰気始生の象である。八卦は便ちこのように天地の間に互相推蕩して、ここに演じて六十四卦と成る。
鼓之以雷霆,潤之以風雨。
経文に曰く:雷霆を以て万物を鼓動し、風雨を以て万物を滋潤す。
義曰:鼓者,動也。雷者,陰陽二氣相激搏則其聲為雷;霆者,怒雷則謂之霆。風所以生萬物,雨所以潤動植也。此至一寒一暑,重明上文變化見矣及剛柔相摩、八卦相蕩之事也。夫天地二氣相蕩而成八卦之象,相推而成萬事之理,又鼓之以震雷離電,滋潤以巽風坎雨,使天下之物無不遂其性者,天地之道也。然而風亦言其潤者,葢風者是生成之氣,能滋生於萬物,故亦言其潤也。
胡瑗の解釈:「鼓」とはすなわち鼓動・発動。所謂雷とは、陰陽二気が互相激撞する時に発出する声响である。所謂霆とは、雷声が暴烈なる時の称呼である。風は以て万物を生発し、雨は以て動物と植物を滋潤す。この一句より下文の寒暑往来を講ずるに至るまで、皆再び上文の説く所の変化顕現・剛柔摩蕩・八卦推移のこの几件の事を申明するに過ぎない。天地二気は互相激蕩して以て八卦の象を形成し、互相推移して以て万事の理を成就す。再用びて震卦の雷・離卦の電を以てそれを鼓動し、巽卦の風・坎卦の雨を以てそれを滋潤し、天下の万物を各々その性を遂げざるなからしむれば、これがすなわち天地の道である。風にも連れて滋潤と説成すに至っては、風は本来生養の気で、能く万物を滋生し得るが故に、故に同様に潤の字を以てそれを講ず。
日月運行,一寒一暑。
経文に曰く:太陽と月亮とは循環運行し、ここに寒往暑来・四季交替あり。
義曰:日者,太陽之精;月者,太陰之精。寒者是純陰之氣,暑者是純陽之氣也。夫天地之道生成萬物,既鼓動以雷霆,又滋潤以風雨,以日而煦育之,以月而照臨之。及夫日月運行,以成晝夜,以成寒暑之候,以盡生成之功者,天地之道也。然而直云震巽離坎,不云乾坤艮兊者,葢乾坤之道上下備言,艮兊非鼓動運行之體,故不言之。其實亦雷電風雨出於山澤,故亦兼包其義焉。
胡瑗の解釈:太陽は至陽の気の精華で、月亮は至陰の気の精華である。寒は純陰の気、暑は純陽の気。天地が万物を生養するに、既に雷霆を以てそれを鼓動し、また風雨を以てそれを滋潤し、太陽の暖気を以てそれを煦育し、月亮の清光を以てそれを照臨す。日月が循環運行するに及び、白天と黑夜を形成し、寒来暑往の節候を形成して、生養の功を円満に做し到れば、これがすなわち天地の道である。経文はただ震・巽・離・坎の四卦を提げて乾・坤・艮・兌を提げずに至っては、乾坤の道は上文に天尊地卑を講ずる時にすでに完整に説過し、艮山・兌沢は本来鼓動運行の主体にあらざれば、故に列出しなかった。実は雷電風雨もまた山沢の間より生発す。故に艮兌の意思はすでに一併に其の裏頭に包含せり。
乾道成男,坤道成女。
経文に曰く:乾の法則は陽剛の一方を成就し、坤の法則は陰柔の一方を成就す。
義曰:道者,自然而生也,此言乾坤之道也。夫天以純陽在上,故為乾;地以純陰在下,故為坤。乾主乎剛健,坤主夫柔順。乾自然而為男,則為君、為父、為長、為上;坤自然而為女,則為臣、為子、為婦、為少。乾居於上則為尊,坤居於下則為卑,二氣交感以生萬物,故有男女之象。然則坤必言成者,葢乾因陰而得為男,坤因陽而得為女,故言成也。
胡瑗の解釈:此処の「道」は、自然として生成するを指し、説くは乾坤両卦の本性である。天は純陽の気を以て上に居る。故に乾と称す。地は純陰の気を以て下に居る。故に坤と称す。乾は剛健を主と為し、坤は柔順を主と為す。これがすなわち所謂「卦徳」、すなわち一卦の代表する根本性情である。乾は自然として陽剛の一方と成り、ここに引伸して君と為り父と為り長と為り上と為る。坤は自然として陰柔の一方と成り、ここに引伸して臣と為り子と為り妻と為り幼と為る。乾は上に居りて尊と為り、坤は下に居りて卑と為り、両種の気は互相交感して以て万物を生出す。故に男女の象あり。両句皆一個の「成」の字を用いるに至っては、乾は陰の配合に憑藉して初めてその男と為り得、坤は陽の感応に憑藉して初めてその女と為り得るが故に、故に「成」と言う。
乾知大始。
経文に曰く:乾は万物創生の開端を主宰す。乾は天の功用で、万物いまだ成形せざる以前に、それはすでに生発の機を統攝す。
義曰:大始者,是陰陽始判、萬物未生之時也。乾者,天之用也。夫乾以天陽之氣在於上,故萬物莫不始其氣而生,莫不假其氣而成。得其生者,春英夏華,秋實冬藏;承其氣而成者,則胎生卵化,蠕飛動躍。是乾知大始,起於無形而入於有形也。
胡瑗の解釈:所謂大始とは、陰陽が剛く分判し万物がいまだ生出せざるあの段階を指す。乾とは、天の功用である。乾は上天の陽気を以て上位に居る。故に万物は一様としてこの股の気に憑って初めて生長を開始せざるなく、一様としてこの股の気を借りて初めて成形を得せざるなし。この気を得て生ずるは、草木は便ち春天に抽芽し夏天に開花し秋天に結実し冬天に収蔵す。この気を承けて成形するは、便ち胎生あり卵化あり、蠕動あり飛翔あり行走あり跳躍あり。これがすなわち乾の主宰する万物の開端:無形の処より発動し、進んで有形の境に進入す。
坤作成物。
経文に曰く:坤は乾の施予を承接し、万物を制作して形と成す。地は純陰の気を以て天施を承載し、万物の形体质地は皆ここに落成す。
義曰:坤者,是地之形也;物者,萬品之物也。夫地以純陰之氣在於下,上承於天陽之氣以生萬物,無所不載,無所不育,是乾始於無形而坤能載之,以作成萬物之形狀也。然乾言知、坤言作者,蓋乾之生物起於無形,未有營作;坤能承於天氣已成之物,事可營為,故乾言知而坤言作也。
胡瑗の解釈:坤は地の形体を指し、物は世間各類の事物を指す。地は純陰の気を以て下方に処り、上に向かって天の陽気を承接して以て万物を生養す。承載せざるなく化育せざるなし。これがまさに乾が無形の処より開端して、坤は能くそれを承接し下して、制作して万物の具体の形状と為す。乾は一個の知の字を用い坤は一個の作の字を用いるに至っては、乾の万物を生養するは無形より起こり、まだ経営制作に談じ及ばず。坤は則ち上天の気がすでに発動した成果を承接し、実事ありて経営操作し得るが故である。故に乾は知と言い、坤は作と言う。
乾以易知,坤以簡能。
経文に曰く:乾は平易の方式を以て万物の開端を主宰し、坤は簡約の方式を以て万物の功能を成就す。
義曰:夫乾之生物,本於一氣,其道簡略,不言而四時自行,不勞而萬物自遂,是自然而然者也。坤以簡能者,夫坤之生物,假天之氣,其道亦簡略,其用省黙而已,不假煩勞而物自生,不假施為而物自遂,是自然而然者也。
胡瑗の解釈:乾は万物を生養するに、一股权の元気に本とし、その路数は極めて簡略である:一言を発せずして四季は自然に運転し、気力を費やさずして万物は自然にその生長を遂げ、一切は本来この如し。坤が簡約を以て能を見ると言うは、坤の万物を生養するに上天の気に憑藉を要し、その路数は同様に簡略にして、作用は過ぎず省事にして沉默するのみである:大費周章するに及ばずして万物は自然に生出し、刻意に施為するに及ばずして万物は自然に長成し、もまた本来この如し。
然則乾言易知、坤言簡能者何也?蓋乾體在上,坤道在下,萬物始於無形,而乾能知其時,下降而生之;坤道在於下,而能承陽之氣,以作成萬物之形狀,其道凝靜,不須煩勞,故乾言易知,坤言簡能也。若夫生成之道於物艱難,則不為易知;若於事煩勞,則不為簡能也。
然らば何故に乾は平易を以て知を主とし坤は簡約を以て能を見るを以て講ずるか。乾体は上に居り坤道は下に居るが故である:万物は無形の処より開始し、乾は能くあの時機を把握し、陽気を下降せしめてそれらを生発せしむ。坤は下方に処り、能く陽気を承接し、万物の形体を制作し出し、その路数は凝定安靜にして、繁重労作を須としない。故に乾は平易にして知を主とすると言い、坤は簡約にして能く成すと言う。かえって言えば、もし生養成物の過程が万物に対して艱澀難為ならば、便ち平易と称し得ず。もし事を做り起すに煩瑣労頓ならば、便ち簡約と称し得ず。
易則易知,簡則易從。
経文に曰く:平易なれば、別人は理解し親近し易し。簡約なれば、別人は跟従し奉行し易し。
義曰:此復說上乾以易知也。夫天之道,寂然不見其用,杳然而不知其為,及夫四時之代謝,萬物之生殺,不待煩勞而自然者也。夫人君居兆民之上,為生靈之主,天下之事固不可以一言而盡也,然而必當法此乾道簡易之徳,以總萬事之要目,則天下之道亦自然簡易而知也。
胡瑗の解釈:これは再び上文の乾が平易を以て知を主とする道理を申説す。天道は寂静無声にして、それが何の作用を起こすかを看出せず。幽遠難測にして、またそれが究竟何を做したかを知らず。しかし四季は自然に更替し、万物は自然に生長凋落し、皆繁労を須とせずして自然に成る。人君は万民の上に高居し、天下生霊の主宰で、天下の事は当然一句の話に講じ完るべからず。しかし彼は必ず乾道この平易の徳に效法し、万事の綱要を抓住して以て全局を統攝せねばならず、さらば天下を治理する路数も便ち自然に簡明知可と変成す。
簡則易從者,復解上坤以簡能也。夫地以純陰之氣上承於天以生萬物,不在煩勞而自然簡易,天下之物各遂其性者也。夫為臣之道,為國家之樑棟,作士民之冠冕,必當法此地道之簡易,承君之命,宣君之化,敷布於天下,簡其萬事之要,則天下可易從矣。
簡約なれば便ち跟従され易しと言うは、これは再び上文の坤が簡約を以て能を見るの意思を解釈す。地は純陰の気を以て上に向かって天気を承接して以て万物を生養するに、繁労に靠らずして自然簡約にして、天下の物は各自その本性を遂ぐ。臣子を為すの道理も同様である:身は国家の棟梁・士民の表率たりて、必ず地道の簡約に效法し、君主の命令を承接し、君主の教化を宣揚し、それを天下に布施して、ただ万事の要領を抓住せば、こうすれば天下の人は跟って奉行し易し。
易知則有親,易從則有功。
経文に曰く:平易にして知るべければ、人は親近を楽しむ。簡約にして従うべければ、事は容易に成效を見る。
義曰:此二句論聖賢法此乾坤簡易之理也。親者,親比也。言聖人法此天道,簡其萬事之要,不假繁冗,屑屑於治體,惟在廣其仁義生成之道,以及於天下,昭蘇萬有,養育萬民。夫如是,則天下之人皆悅而親比之也。易從則有功者,言人臣之道法此地道,奉君之命,行君之事,不在繁冗,使天下之人於事易從,不在冗屑,而其功易成也。
胡瑗の解釈:この両句は聖賢が乾坤の簡易の理に取法することを講ずる。「親」とはすなわち親近依附。意味は聖人は天道に效法し、ただ万事の綱領を抓住し、繁瑣冗雑を搞さず、また治理の枝節の上に斤々計較せず、ただ仁義生養の道を推广開来し、天下に遍及し、万物を重新生機を獲せしめ、百姓を養育を得せしむるを求めるのみ。このように做れば、天下の人は自ずから皆心悦誠服して彼に親近依附す。簡約易従なれば便ち功を見易しと言うは、臣を為すの道が地道に效法することを講ず:君主の命令を奉行し、君主の交代した事を辦理し、繁冗を搞せず、天下の人を事を做起して跟従し易くせしめ、瑣碎に糾纏せざれば、功業は自ずから成就し易し。
有親則可久。
経文に曰く:衆人の親近帰附を得れば、事業は便ち長久に維持し下去り得る。
義曰:此二句論人法乾坤久而益大也。物既和親,無相殘害,故可久也。言聖人既能法天之生物,順其萬物之情,成其至道之要,施之無窮,傳之萬世,天下之人既親比之,久而不朽,此聖人之道至大者也。
胡瑗の解釈:この両句は人が乾坤に效法するは、愈久しく愈益その広大を見るを講ず。万物は既に彼此和睦親近し、互相残さず。故に長久を得る。意味は聖人は既に能く上天に效法して万物を生養し、万物本来の情性に順応し、大道の綱要を成就し、施行すれば窮尽なく、伝流し下去れば万代に及べる。天下の人は既に彼に親近帰附せば、この份の事業は歷久にして不朽壞す。これがまさに聖人の道の最も宏大なる処である。
有功則可大。
経文に曰く:事を辦するに成效あれば、功業は便ち逐步に累積して壮大に趨り得る。
義曰:事業有功,則積漸可大。此言為臣之道,既能法地之道,承事其君,以成其功業,至大至廣,使人易從。
胡瑗の解釈:事業は一旦成效あれば、便ち一点一点積累して宏大に趨り得る。これは臣を為すの道を講ず:既に能く地道に效法し、恭謹に君主に侍奉し、従って自己の功業を成就し、それを極めて宏大・極めて広寛と為し、もまた天下の人を追随奉行し易からしむ。
可久則賢人之徳。
経文に曰く:能く歷久衰えざるは、賢人の内在的徳行に属す。
義曰:夫天之所以覆而不知所以覆之義,地之所以載而不知所以載之理,浩浩然其神之所為者,天地之功也。聖人顯諸仁,藏諸用,若日月之照臨而不知照臨之跡者,聖人之功也。然聖人之操心積慮,法天地簡易之徳,以生養天下,使天下之人不可名狀,以成其徳也。
胡瑗の解釈:天は万物を覆蓋すれども、人はそれが何に憑って覆蓋するかを説き出せず。地は万物を承載すれども、人もそれが何に憑って承載するかを講じ清めず。あの浩大無辺にして神妙より出ずる作為は、すなわち天地の功用である。聖人は仁愛を顕現し出し、功用を潜蔵し、まさに日月が大地を照臨するに、人はその照臨の痕迹を看えざるが如く、これがすなわち聖人の功用である。しかして聖人は心を用い籌慮し、天地の平易簡約の徳性に效法して以て天下を生養し、天下の人をしてその恩沢を受けてもそれが究竟何であるかを説き出さざらしむれば、これがまさに彼が自身の徳行を成就する方式である。
可大則賢人之業。
経文に曰く:能く四方に広被するは、賢人の外顕の事業に属す。
義曰:此言賢人之分,則見所為之跡也。夫為臣之道,既能法地之簡易,以成久大之功業,垂之萬世而不朽,此賢人之業也。然則此聖人言徳,為臣者言業,何也?葢聖人代天理物,法天行事,施其徳澤以滋生於天下,順其物情,以至昆蟲草木皆蒙其澤,無所不燭,故其功不可以形狀,如天之無不覆,如地之無不載,故稱曰徳。
胡瑗の解釈:この一句は賢人の分位を講じ、彼の為す所の事は迹ありて尋ね得る。臣を為すの道は、既に能く地道の簡約に效法し、長久宏大の功業を成就し、万代に伝流しても磨滅せざれば、これがすなわち賢人の事業である。然らば何故に聖人に講じ到れば便ち徳の字を用い、臣子に講じ到れば便ち業の字を用いるか。聖人は上天に代替して万物を治理し、上天に效法して行事し、恩沢を天下に施し、万物の情性に順応し、昆虫草木に連れてもその潤沢を蒙受し、一処として照らさざるなからしむるが故である。その功用は故に具体の形状を以て描摹し得ず、まさに天に覆わざるなく地に承らざるなきが如し。故にこれを徳と称す。
為臣之道,法地之理,以承君之命,行君之事,執其柔順之道,順從於人,以成其功。然出一令,行一事,皆稟君上之命而可以形狀,故謂之業也。然此不言聖人而言賢人者,何也?此聖人垂教之法也。言賢人亦可以法天之簡易而行事,以生成於天下。恐後世之人止謂聖人可以法天之行事,故不言聖人而言賢人也。且賢人尚可法之,則聖人固可知也。
臣を為すの道に至っては、地の道理に效法し、君主の命令を承接し、君主の交付した事を辦理し、柔順の態度を秉持し、人に順従して以て功労を成就す。しかし彼は毎一道の命令を発し毎一件の事を辦するに、皆君上の旨意より出で、皆具体の形迹ありて指認し得る。故にこれを業と称す。然らば此処に何故に聖人を挙げずして賢人を挙ぐるか。これは聖人の教法を垂示する用意である:賢人も同様に天道の簡易に效法して行事し、従って天下を生養し得るを表明せんと欲す。彼は後世の人がただ唯だ聖人のみが上天に效法して行事するに配すと為すを慮り、故に特意に賢人を説きて聖人を説かざる。既に賢人に連れても皆能く天道に取法し得れば、聖人は就更に言うを待たず。
易簡而天下之理得矣。
経文に曰く:平易簡約のこの一原則を把握すれば、天下の道理も便ち皆手中に掌握し到る。
義曰:言聖人既能從其簡易,不在煩勞,發號施令,廣佈徳澤,以成天下之功,使天下之人、天下之物長幼上下、尊卑貴賤各得其分。如此,則天下無為而治,聖人之理得矣。
胡瑗の解釈:聖人は既に能く平易簡約の路子に順って来り、繁労の上に力を用いず、号令を発し恩沢を広施して、従って天下の功業を成就し、天下の人と物を、長幼上下・尊卑貴賎を問わず各々本分に安んぜしむ。この一步に做し到れば、天下は刻意に施為せずして自ずから安定し、聖人の掌握せんと欲する道理も便ち手に到る。
天下之理得而成位乎其中矣。
経文に曰く:天下の道理は既に掌握せば、人も便ち能く天地の間に在りて自己の位置を確立し起る。
義曰:言聖人既能順其簡易之道,順其萬事之理,使君臣父子夫婦長幼各得其序,則天地之位皆由此矣。
胡瑗の解釈:聖人は既に能く平易簡約の道に順い、万事本有の条理に順応し、君臣・父子・夫妻・長幼を各々あるべき次序に安んぜしむれば、さらば天地の間の尊卑上下の位置は、便ち皆この一点に由って確立し起る。
繋辞上・第二章 聖人設卦観象
聖人設卦觀象。
経文に曰く:聖人は卦体を創設し、これを以て天地万物の形象を観察す。これは六十四卦の由来を講ずる:聖人は観察して得た天地人物の象を凝聚して卦と成し、人をして卦象の上より事理を看出し得せしむ。
義曰:此已下至自天佑之為一章。上既言易之所起始於乾坤,故首言天地之道。然天地始判而萬物之情已在其間,故易之所始因萬物之情而作,故曰易始於天地。此又言聖人設六十四卦之事。夫天地既判而萬物之情已見於其間,是故聖人仰則觀象於天,俯則觀法於地,揆人事之理,盡萬物之情,乾坤水火風雷山澤之象,設為六十四卦,以通天地鬼神之情狀,以為萬世之法也。
胡瑗の解釈:ここより往下、「自天佑之、吉无不利」に至るまで、合して一章と為す。上一章は既に《周易》が乾坤に起源するを講じたれば、故に先ず天地の道より説起す。天地が剛く一たび分判せば、万物の情状は便ちすでに其間に存在す。故に《周易》の創作はまさに万物の情に依拠して来る。故に《周易》は天地に始まると言う。本章は接続して聖人が六十四卦を創設するこの事を講ず。天地は既に分判せば、万物の情状は皆天地の間に顕現す。ここに聖人は頭を抬げて天上の物象を観察し、頭を低くして地上の法則を考察し、人事の条理を推求し、万物の情状を窮尽し、乾天坤地・坎水離火・巽風震雷・艮山兌沢のこれらの物象を組織し起し、設立して六十四卦と成し、これを以て天地鬼神の種種の情形を貫通し、万世通行の法則と為す。
繋辭焉而明吉凶。
経文に曰く:卦爻の下に解説の文辞を繋げ、これを以て吉凶を指明す。
義曰:六十四卦既設,其道至大,其理至深,聖人若不繋之以辭,散於諸爻之下,則後世之人不能曉聖人設卦之意也。然則卦爻之中,有剛有柔,分陰分陽,陰陽相推蕩於其間,則有凶有吉,有失有得,故六爻之下皆繋屬其辭:得其正者則其辭吉,失其處者則其辭凶。
胡瑗の解釈:六十四卦は既に設立せば、其中の道理は極めて宏大・極めて精深である。聖人はもしそれらに文辞を繋げず各爻の下に分列せざれば、後世の人は聖人の卦を立てた用意を明白し得ざる。卦爻の中に、剛爻あり柔爻あり、陽と陰とに分属し、陰陽は其間に在りて互相推移激蕩し、ここに凶あり吉あり失あり得あり。故に毎一爻の下に皆相応の文辞を繋ぐ:位置が得当にして正道に合するは、文辞を便ち吉と写成し、処置が失当なるは、文辞を便ち凶と写成す。
剛柔相推而生變化。
経文に曰く:剛爻と柔爻とは互相推移し、ここに種種の変化を産生出す。
義曰:此已下言天地人事之理也。夫天地既判,剛柔二氣互相推蕩以生成萬物:有全體而化者,有漸而化者,有胎而生者,有卵而化者,千變萬化,自然而然,皆由剛柔之氣互相推蕩以成變化也。如乾之初九交於坤之初六,其卦為震。
胡瑗の解釈:ここより起こりて天地と人事の道理を講ず。天地は既に分判し、剛柔二気は互相推移激蕩して以て万物を生養す:整体が一斉に転化するあり、漸次演変するあり、胎生あり、卵化あり、千変万化して本来この如く、皆剛柔の気が彼此推蕩して形成した変化である。譬如乾卦の初九と坤卦の初六とを互換すれば:坤卦は本来三爻皆陰で、最下の一爻を乾の陽爻に換えれば、便ち一陽が下に在り二陰が上に在る震卦と成る。これがまさに剛爻柔爻が彼此推移して以て新たな卦を生出す最も直接の例である。
是故吉凶者,失得之象也。
経文に曰く:故に卦爻辞の中の講ずる吉と凶とは、まさに事の辦成と辦砸・得る所有ると失う所有るの標記である。辞旨が吉利なるは、処する所が道に合して得る所有るを表示す。辞旨が凶険なるは、処する所が道に背いて失う所有るを表示す。
義曰:此總明諸卦象不同之事也。夫吉凶生於非類,悔吝生於動靜,故六十四卦、三百八十四爻,有剛有柔,有正有不正。若辭之吉者,是得之象也;辭之凶者,是失之象也。合於道而不失其正者為吉,不合於道、悖於其理者為凶,是吉凶者失得之象也。
胡瑗の解釈:これは総括して各卦の取象が不同なる道理を説明す。吉凶は不同類の人事が湊り合わさる中より産生し、悔恨と羞惜とは挙動と静守の間より産生す。故に六十四卦・三百八十四爻に、剛あり柔あり、当位なるもあり不当位なるもあり。およそ文辞が吉と言うは、すなわち得る所有るの象である。文辞が凶と言うは、すなわち失う所有るの象である。正道に合して本分を失わざるを吉と算し、道に合わず事理に違背するを凶と算す。故に吉凶はまさに得失の標記と言う。
然觀六十四卦之中言吉凶者,義有數等:或吉凶之事據文可知,或不須明言吉凶而吉凶自見。若乾之九五飛龍在天,尋文考義,是吉可知也,故不須云吉也;若剝之不利攸徃,離之九四突如其來如、焚如、死如之屬,據其文辭,其凶可見,故不言凶也。
ただし六十四卦の裏に吉凶を講ずる処を考察すれば、用法に好几種あり:あるは吉凶が便ち辞面の上に擺れ、文字を看れば便ち知れる。あるは吉凶を点明せざるも吉凶は自ずから見え得る。譬如乾卦の九五に龍が天上に飛ぶと言えば、字面に順って義理を推求すれば、吉祥は言わずして喩える。故に更に一個の吉の字を写すに及ばず。又如剥卦に往く所有るに利あらずと言い、離卦の九四に来勢突兀・焚如・死如の類と言うが如きは、文辞に憑って便ち凶険を看出し得。故にもまた凶の字を点出せず。
亦有爻處吉凶之際,吉凶未定,行善則吉,行惡則凶。若乾之九三君子終日乾乾,夕惕若厲無咎;若屯之六二屯如邅如,乗馬班如,匪冦婚媾,女子貞不字,十年乃字,是吉凶未定,故不言吉凶也。
もまたある爻はまさに吉と凶の交界の上に処り、結果はいまだ定局せず、善を行えば便ち吉、悪を行えば便ち凶。譬如乾卦の九三に君子は整日勤勉不懈し夜に至ってもなお戒懼警惕し、危地に処るも過咎あらざると言い、又如屯卦の六二に前行艱難・徘徊不進・馬に騎る隊伍は原地を盤旋し、来る者は強盗にあらずして求婚の人で、女子は正を守りて嫁を許さず、十年を過ごして初めて成婚すと言う。これらは皆吉凶未定の情形である。故に爻辞に明しく吉凶を説かざる。
有直言吉者,若坤之六五黃裳元吉,以陰居尊,嫌其不吉,故直言其吉;有直言其凶者,若剝之初六剝床以足,蔑貞凶。若有一卦之內,或有一爻之中,得失相形,須言吉凶:若大過九三棟橈凶,九四棟隆吉,是一卦相形也;屯之九五屯其膏,小貞吉,大貞凶,是一爻相形也。亦有一事相形,終始有異,若訟卦有孚窒惕,中吉終凶。有有咎而能改之者,若豫之上六曰冥豫成,有渝無咎。
もまた直接に吉と写明するあり。譬如坤卦の六五に黄色の下裳は大いに吉利と言うが如し:六五は陰爻なのに尊位に居り、人をしてそれが不吉なるを疑心せしめ易し。故に乾脆に吉と点明す。もまた直接に凶と写明するあり。譬如剥卦の初六に牀脚を剥蝕し正道を滅棄して故に凶ありと言う。まだ一卦の内に在り・或いは一爻の中に在りて、得と失と彼此対照すれば、便ち必ず分かちて吉凶を説き出さねばならず:大過卦の九三に棟梁が弯曲して凶あり・九四に棟梁が隆起して吉と為すと言うが如きは、これは同一卦の裏に両爻が相対照するもの。屯卦の九五に恩沢は壅塞して下達し難く、小事は正を守れば吉・大事は正を守れば凶と言うが如きは、これは同一爻の裏に両種の情形が相対照するもの。まだ同一の事にして始末不同なるに因って結果に別あるあり。訟卦に心裏に誠信を懐くも壅塞せられて戒懼を存し、中途はまだ吉利と算するも、最後に到っては却って転じて凶と為ると言うが如し。もまた本已有の過咎ありて改正し得るあり。豫卦の上六に逸楽に沉溺して已成事実と為るも、能く及時に変改すれば災禍を招来せざると言うが如し。
悔吝者,憂虞之象也。
経文に曰く:悔恨と羞惜とは、内心の憂懼戒備の標記である。
義曰:事之小小己過,其意有可追悔者曰悔;事之小,可為鄙吝者曰吝。夫人始於得失微小之事,雖不至於大咎,然亦當憂虞思慮之,不可謂之微小不思之。故事之小者必至於大,惡之漸者必至於著,惡積而不可掩、罪大而不可解者,皆自細微以成之也。故易中所言吉凶者是得失之象,言悔吝者是憂虞之象也。
胡瑗の解釈:自己の犯下した小小の過失に、心裏にまだ追回補救し得ると覚えるを、「悔」と言う。事は小さいといえども、做出して来れば人をして難看羞慙と覚えしむるを、「吝」と言う。人の失誤は総じて細小の得失より開始す。まだ大禍を醸成するに至らずといえども、もまた當に心に憂懼を存し反復思量し、それが細小なるに因って心上に放らざるべからず。小事は必定大事を積成し、悪念は漸漸滋長して必定悪行を顕露すが故である。罪悪が堆積して掩蓋し住めず、罪過が重大にして従って開脱する処なき地步に至るに至っては、一つとして細微の処より一步步に造成せざるなし。故に《周易》の裏に吉凶を講ずるは、得と失の標記であり、悔吝を講ずるは、則ち憂懼戒備の標記である。
變化者,進退之象也。
経文に曰く:変と化とは、事物の前進と後退の標記である。
義曰:夫物之生,有全體而化者,有漸而變者,此皆是進退之象也。夫進退之象,有盛衰之理,生死之道,吉凶之驗,皆自於盛衰。故來則為盛,徃則為衰。故六爻之中有剛有柔,或從始而上進,或居終而倒退,徃來不窮,互相推蕩,以成進退之象也。若乾之上九言亢龍有悔,復之初九言不逺復,無祗悔,元吉。
胡瑗の解釈:万物の生成に、整体が一斉に転化するあり、逐漸に推移演変するあり、これらは皆進退の象に属す。進退の象の裏には盛衰の道理・生死の規律を含み、しかして吉凶の応験も皆盛衰に根源す。気機が到来する時は盛と為し、気機が退去する時は衰と為す。故に六爻の中に剛あり柔あり、あるは起始の処より上に向かって進取し、あるは終点に到ってかえって回落し、来来去去に窮尽なく、彼此推移激蕩して、従って進退の象を構成す。譬如乾卦の上九に龍が飛ぶこと過度高ければ便ち悔恨ありと言い、復卦の初九に走ること遠からずして便ち正路に返回し、大きな悔恨あるに至らず、最も吉利と言うが如し。
剛柔者,晝夜之象也。
経文に曰く:剛と柔とは、白昼と黑夜の標記である。
義曰:夫聖人設卦,分其剛柔,以明人事之要,以盡萬物之宜。剛則為陽,為明,為晝;柔則為陰,為幽,為夜。剛柔相推,以成晝夜幽明之理、變通之道,以成吉凶悔吝憂虞之象也,故總言之也。
胡瑗の解釈:聖人は卦体を創設し、剛爻と柔爻とを分出し、以て人事の要領を闡明し、万物のあるべき分寸を窮尽す。剛は陽に属し、光明を象徴し、白昼を象徴す。柔は陰に属し、幽暗を象徴し、黑夜を象徴す。剛柔は互相推移して、昼夜明暗の規律と変通不居の道理を構成し、もまた吉・凶・悔・吝のこれらの憂懼警戒の標記を構成す。故に此処は合わせて講ず。
然推觀其上文,始總言繋辭焉而明吉凶,剛柔相推而生變化,此又別言吉凶者失得之象,悔吝者憂虞之象,變化者進退之象,剛柔者晝夜之象者,何也?蓋吉凶悔吝、失得晝夜之象,皆由剛柔相推蕩而致者。故得失有重輕,變化有小大,合之則同,分之則異。故始雲剛柔相推而生變化,不云晝夜者,是總變化而言也。
再び上文の次序を推究すれば:起初はただ籠統に文辞を繋上文して以て吉凶を指明し剛柔互いに推して以て変化を生ずと言い、此処に却又分かちて吉凶は得失の象・悔吝は憂虞の象・変化は進退の象・剛柔は昼夜の象と言うは、これは何を為すか。吉凶悔吝および得失昼夜のこれらの象は、皆剛柔が互相推蕩して来るが故である。ただ得と失とに軽重の別あり、変と化とに大小の分あり、合わせて看れば一回事で、拆開して看ればまた各々分際あり。故に前面に剛柔相推して以て変化を生ずと講ずる時に昼夜を提げざるは、あそこは変化の二字を以てそれらを全部総括し進んだが故である。
上文云吉凶者失得之象,下文又云悔吝者憂虞之象者,蓋吉凶之事皆由得失而成,得失之本皆由悔吝而成,悔吝之本皆由憂虞而有也。
上文に吉凶は得失の標記と言い、下文にまた悔吝は憂虞の標記と言うは、これは吉凶の類の結局は皆得失に由って造成され、しかして得失の根子はまた皆悔と吝の上に在り、悔と吝の根子は、則ち人心中に憂懼戒惕を存するか否かに在るが故である。
六爻之動,三極之道也。
経文に曰く:六爻の変動は、天・地・人の三方面が各々極処に推到する道理を体現す。
此復明變化進退之義也。夫易卦之中則有六爻,故下二爻以象地,中二爻以象人,上二爻以象天,是六爻之中,三才之道畢矣。然六爻之道,有變有動,有凶有吉,有得有失,若動而合於道則為吉,動而悖於事則為凶。是六爻之動,互相推蕩,則是天地人三才窮極之事,故有吉凶悔吝、得失變化之道也。
これは再び変化進退の意思を闡明す。一個の易卦に六爻あり、下面の両爻は地に取象し、中間の両爻は人に取象し、上面の両爻は天に取象す。故に六爻の中に天地人「三才」の道はすでに完備す。しかして六爻の運行に変あり動あり、凶あり吉あり、得あり失あり:動にして正道に合せば便ち吉、動にして事理に背離せば便ち凶。六爻がこのように彼此推移激蕩するは、まさに天地人の三方面が極処に推到して呈現する種種の情形である。故に初めて吉凶悔吝・得失変化のこれらの道理あり。所謂「三極」とは、すなわち天・地・人のこの三層各自の終極の理である。六爻は毎一回動く毎に、この三層は皆同時に牽動せられる。
是故君子所居而安者,易之序也。
経文に曰く:故に君子は何の境地に身を処するも皆能く安然として自ら守る。靠るは《周易》の揭示する秩序に通暁するにある。
自此已下言君子觀聖人設卦作易之意,以為修身之法也。夫易卦之中,有凶有吉,有否有泰,有悔有吝,有變有化,有得有失,有剛有柔。夫君子之人,觀此剛柔變化、吉凶得失、悔吝憂虞之象,知其易之以序,以修其身,以行其事,以之居處進退,不惟尊卑貴賤貧困之間,皆得以安止也。
ここより以下は、君子が聖人の卦を設け《易》を作した用意を体察し、それを以て自身を修養する法則と為すことを講ずる。易卦の中に、凶あり吉あり、閉塞あり通泰あり、悔あり吝あり、変あり化あり、得あり失あり、剛あり柔あり。君子はこれらの剛柔変化・吉凶得失・悔吝憂懼の物象を観察し、《周易》の揭示する秩序を明白にし、これに拠って身心を修養し事務を処理し、自己の出処進退を安排す。こうすれば、尊位に身を居するも卑位に居るも、富貴に処るも貧困に処るも、皆能く安然として自ら守る。所謂《周易》の次序とは、まさにそれの安排するこの一套の時と位の先後層級を指し、君子はこれに拠って進むべきか退くべきか・顕れるべきか隠れるべきかを判断す。
至如乾之初九言潛龍勿用,是言君子之人可隠則當隠也;九二則言見龍在田,是言君子之人可進則當進之。又如居泰之時,則君子可引類而進於朝;居否之世,則有否塞不通之象;居於家人,則行治家之法;居旅之時,則為行旅之事。如此之類,皆是用得其時,不失其道,不惟尊卑貴賤貧困窮極,安處進退之間皆可行之,是易之序也。
譬如乾卦初九に潜伏の龍は暫く施用せずと言うは、君子が隠退すべき時に當に隠退すべきを講ず。九二に龍はすでに田野の上に出現すと言うは、君子が出仕すべき時に當に進用すべきを講ず。又如泰卦の如き上下交通の時代に身を処すれば、君子は便ち同道の人を引薦して一同に朝廷に進入し得。否卦の如き閉塞の時世に身を処すれば、上下不通の形勢を認清せねばならず、家人卦の示す情境に処すれば、家を治める弁法を施行し、旅卦の示す情境に処すれば、旅居在外の事を辦し好し。これらの類は、皆その時を用い得てその道を失わざる。故に尊卑貴賎・困頓極処を論わず、安身と進退の間に皆行うべき路あり。これがすなわち《周易》の示す次序である。
所樂而玩者,爻之辭也。
経文に曰く:君子が楽しみて反復玩味する所は、六爻の文辞である。
義曰:夫君子之人既能知易之以序,以為居處之術,又當樂玩其六爻之辭。夫六爻之辭,有凶有吉,有否有泰,有得有失,皆隨時而變通。是故君子之人必當愛樂而躭玩之:見其善則思齊其事,見其惡則思懼而改,趣其治而去其亂,向其安而舍其危,以至吉凶之事、悔吝之道,至纖至悉,無不備於爻辭之間,故君子所樂而玩者爻之辭也。
胡瑗の解釈:君子は既に《周易》の示す秩序を懂得し、それを以て立身処世の方法と為せば、便ち還って応に六爻の文辞を喜愛し玩味すべし。六爻の辞は、凶あり吉あり、閉塞あり通泰あり、得あり失あり、皆時勢に随って変通す。故に君子は必定に喜愛の情を帯びて沈潜玩索せねばならず:善を見れば便ちそれに向かって斉しくならんと想い、悪を見れば便ち心に警惕を生じて自己を改正し、治理に趨向して禍乱を遠ざけ、安穩に走向して危険を舎棄す。吉凶の種種の情形・悔吝の種種の道理に至るまで、再び細微・再び瑣屑なりとも、皆完備に爻辞の中に含まる。故に君子の楽しみて玩味する所は、まさに爻辞である。
是故君子居則觀其象而玩其辭。
経文に曰く:故に君子は平居無事の時、便ち卦象を観察し卦爻の辞を玩味す。
義曰:夫爻卦之間,有凶有吉,有失有得。君子之人故當居處之間,觀其設卦之象,明其萬事之理,以躭樂六爻之辭,以知事之吉凶,明其事之得失,以至死生之道、變通之理,則無咎過之事。
胡瑗の解釈:卦爻の間に凶あり吉あり・失あり得あるが故に、君子は平居無事の時、便ち聖人の設けた卦象を観察し、万事の条理を弄清し、六爻の文辞を沈潜品味し、その中より事の吉凶を知り事の得失を明白にし、一直に生死の道理・変通の法則にまで推究す。平日裏にこれらを看透せば、事に臨みて行動して初めて差錯を出さざる。
動則觀其變而玩其占。
経文に曰く:一旦挙動する所有れば、便ち爻の変動を観察し占問の示す所を玩味す。
義曰:夫易以變而為占,自六爻之中皆變而為占,故古者取其蓍草之數,隨其變而占之,以明休咎之事,以究鬼神之奧。故君子若觀此六爻之變,凡於動靜興作之間,必知其休咎之驗矣。
胡瑗の解釈:《周易》は爻の変動に靠って占を起こす。六爻の中の毎一爻の変動は皆これに拠って占算し得。故に古人は蓍草の根数を取り、得た所の変爻に按って推占し、これを以て禍福を辨明し、これを以て鬼神幽微の道理を探究す。故に君子はもし六爻の変動を体察し得れば、およそ挙動と静守・事を興すと為すとの間に在りて、必定に能く予め吉凶の応験を知る。
是以自天佑之,吉無不利。
経文に曰く:故に上天は彼を保佑し、吉祥にして利ならざることなし。
義曰:言君子之人既能居則觀其辭,動則玩其占,以奉順易象,則身無有凶害。如此,則自上天之所佑助,鬼神之所協吉,何所不利也。
胡瑗の解釈:君子は既に能く平居の時に卦爻の辞を観玩し、挙動の時に占問の示す所を体察し、一挙一動皆易象に順応せば、さらば自身は凶険禍害を招来せざる。この一步に做し到れば、自ずから上天の佑助・鬼神の相助を得て吉祥に帰す。まだ何の事か利ならざるあらんや。
繋辞上・第三章 彖者言乎象
彖者,言乎象者也。
経文に曰く:彖辞とは、一卦の整体の形象に就いて言を立てたものである。
義曰:疏以為自此至死生之說為一章,則非也。今觀其文辭,當從辭也者各指其所之為一段;自易與天地凖而下,至盛徳大業為一章,是也。彖者言乎象者也,自此以下至辭也者各指其所之為一章。
胡瑗の解釈:旧有の疏解はここより「死生之説」に至るまでを一章に划成したが、正しくない。いまこの段の文字の脈絡を看れば、當に「辞也者各指其所之」に断ちて一節と為すべし。「易与天地准」以下より、「盛徳大業」に至るまで、別に一章を立て、これが初めて妥当である。故に「彖者言乎象者也」以下より、「辞也者各指其所之」に至るまでを、合して一章と為す。
上章既言吉凶悔吝、聖人設卦繋辭之義,細意未盡,此復言文王作彖,分於諸卦之下,以釋一卦之義。雖然有周公爻辭散於諸爻之下,然文王之彖其義淵深,孔子復作彖辭以解之。彖者,總論一卦之象,如乾之彖元亨利貞曰大哉乾元,坤元亨曰至哉坤元,屯元亨曰屯剛柔始交而難生,蒙亨曰蒙山下有險,是皆解一卦之辭也,故曰象者言乎其象也。
上一章は既に吉凶悔吝および聖人が卦を設け辞を繋げた用意を講じたるも、細処はまだ説き尽くしていない。此処に再び文王が彖辞を作り各卦の下に分繋して、以て一卦の大義を闡釈することを講ず。別に周公の爻辞が各爻の下に分列するといえども、文王の彖辞は義理深邃。故に孔子はまた《彖伝》を作って以てそれを解説す。彖辞は一卦の象を総論する:譬如《乾》卦の彖辞に元亨利貞を講ずれば、《彖伝》は便ち大いなるかな乾の元始の徳と言い、《坤》卦に元亨を講ずれば、便ち至極なるかな坤の元始の徳と言い、《屯》卦に元亨を講ずれば、便ち屯は剛柔が初めて交合して以て艱難を生出すと言い、《蒙》卦に亨を講ずれば、便ち蒙は山下に険阻あると言う。これらは皆一卦整体を解釈する文辞である。故に彖は一卦の象に就いて言を立てたものと言う。
爻者,言乎變者也。
経文に曰く:爻辞とは、爻位の変動に就いて言を立てたものである。
義曰:夫六爻之設,內外二體,有變有動,有凶有吉,各隨時而變改之。然文王之作彖辭以釋一卦之象,然其義亦有未盡,周公復作爻辭散於諸爻之下,總人事之要道,明萬事之吉凶,隨其爻而通變之,各順其用。
胡瑗の解釈:六爻の設立は内卦・外卦の両体に分かれ、その間に変あり動あり、凶あり吉あり、各自時勢に随って改変す。文王が彖辞を写したは以て一卦の整体の象を解釈するに用いたるも、意思はなお尽くさざる処あり。故に周公はまた爻辞を作り、各爻の下に分列し、人事の要領を総括し、万事の吉凶を指明し、毎一爻に順ってその変化を講じ通し、各爻をして皆各々その用を得せしむ。
吉凶者,言乎其失得也。
経文に曰く:吉と凶とは、事の失と得に就いて言を立てたものである。
義曰:夫爻象之設,有凶有吉,有剛有柔。若陽居陰位則不得其正,或陰居陽位則或失其常,或近而不相得,或逺而有所比。合於道者則吉,乖於道者則凶,故吉凶之端、失得之義盡在於爻辭之間矣,上文吉凶者失得之象也。
胡瑗の解釈:爻象の設立に、凶あり吉あり、剛あり柔あり。陽爻が陰位に居れば便ちその正を得ず、陰爻が陽位に居れば便ちその常度を失い得。あるは両爻が相隣するも彼此投合せず、あるは相隔たること較遠きも却って親附の誼あり。およそ正道に合するは便ち吉、正道に違背するは便ち凶。故に吉凶の端倪・得失の義理は、全て爻辞の中に体現せらる。これがまさに上文の説く所の吉凶は得失の象なるの意思である。
悔吝者,言乎其小疵也。
経文に曰く:悔と吝とは、人事上のあの細小の毛病に就いて言を立てたものである。
義曰:疵者,病也。夫人禍發於細,奸生於隱暗。事有至小而可以追悔者,行有至微而可以鄙吝者,故當憂慮而戒慎之。夫小惡不改,以至於大惡;小善不積,以至於大凶,至乎鄙吝之道,皆由微小而生也。故君子之人觀此爻象之辭,則知動靜之理:積其小善以成於大善,積其小惡以至於大惡,舍其失而處其得,悖其凶而從其吉,故悔吝之來皆由微小而至矣。
胡瑗の解釈:「疵」とはすなわち毛病。人の禍患は細微の処より萌発し、奸邪は隠蔽の処に滋生す。ある事は極めて細小なれども、すでに人をして追悔せしむるに足り、ある挙動は極めて軽微なれども、すでに人をして羞慙せしむるに足る。故に必ず心に憂慮を存し時時戒慎せねばならず。小さな過悪は改正せざれば、大悪を積成し、小さな善行は積累せざれば、終竟大凶を招致す。およそ羞慚難看の地步に落到するは、皆細微の処より生出したものである。故に君子はこれらの爻辞象辞を看到すれば、便ち挙動と静守の道理を懂得す:小善を積累して以て大善を成就し、小悪を警惕して以て大悪を醸成するを免れ、失うべき一面を舎開いて得る能くする一面に立ち、凶険を背離して吉祥に趨向す。見れば悔と吝の到来は、皆微小の処より一点一点累積して成ったものである。
無咎者,善補過也。
経文に曰く:所謂過咎なしとは、人が善く自己の過失を弥補することを指す。
義曰:夫人所以有咎者,蓋由操心積慮,過為其事,小惡不改以成乎大惡,小過不防以至乎大過,所以有咎,如噬嗑上九屨校滅趾之類是也。此言無咎者,蓋言人之有失者善能自改之,故六爻之中有能改過而無咎者,若豫之上六曰冥豫成,有渝無咎;隨之初九曰官有渝,貞吉,從正則吉也。
胡瑗の解釈:人が咎害を招来する所以は、用心が度を過ごし行事が失当で、小悪は改めるを肯んぜずして大悪を積み、小過は防ぐを去らずして大過を醸成するが故に、これに因って初めて災禍あり。噬嗑卦の講ずる足枷を戴きて脚趾を傷つくるが如きは、便ちこの一類に属す。此処に過咎なしと言うは、人に過失あって善く自己改正するを講ず。故に六爻の当中に便ち能く過を改めて災禍を免れる例あり:豫卦の上六に逸楽に沉溺して已成事実と為るも、能く変改すれば禍を招くに至らざると言い、随卦の初九に事を主る人に変更する所有り、正を守れば吉と言う。意思は正道に順従すれば吉利なり。
是故列貴賤者存乎位。
経文に曰く:故に尊貴と卑賎とを排列し出さんには、關鍵は爻の処する位次に在る。
義曰:位者,即六爻之位。夫一卦之中凡有六爻,分其上下,有尊有卑,有小有大。若九五則言君位,九三則言臣位,是尊卑大小各有其分,則貴賤之位從而定矣。
胡瑗の解釈:此処の位とは、すなわち六爻各自の処する位次である。一卦に共有六爻あり、上下を分出し、尊あり卑あり、小あり大あり。六爻は下より上に自って依次に初・二・三・四・五・上と叫ばれ、位次は愈上に靠るほど愈尊貴なり。譬如九五の講ずるは君主の位、九三の講ずるは臣下の位。尊卑大小は各々名分あり、貴賎の等級も便ちこれに随って確定し下る。
齊小大者存乎卦。
経文に曰く:事の小と大を衡量せんには、關鍵は値する所が哪一卦かに在る。
義曰:夫陽主剛明而有生成之徳,故其徳大;陰主柔順而有消剝之行,故其徳小。故六十四卦皆本陰陽剛柔之理以定其位也,故有大有小,君子必當明辨之。至如乾之與坤,泰之與否,損之與益,小過與大過,既濟與未濟,是皆所用不同,有小有大,各隨時而用之也。
胡瑗の解釈:陽は剛健明察を主と為し、生養成物の徳性を具有す。故にその徳は大と算す。陰は柔順を主と為し、消損剥落の作用を帯びる。故にその徳は小と算す。六十四卦は皆陰陽剛柔の道理に依拠して以て爻位を確定す。因って卦に大あり小あり、君子は必ず分別清楚せねばならず。譬如《乾》と《坤》、《泰》と《否》、《損》と《益》、《小過》と《大過》、《既済》と《未済》、それら各自の用処は併せ相同じからず、小あり大あり、時勢に随って取用せんことを要す。
辨吉凶者存乎辭。
経文に曰く:吉凶を辨明せんには、關鍵は卦爻の下に繋ぐ所の文辞に在る。
義曰:辭者,卦爻之下所繋之言辭也。夫六十四卦,有陽居陽位、陰居陰位,有以陽居陰位者,有以陰居陽位者,有以臣居君位者,有以君居臣位者,如此之爻位多矣。聖人若不繋之辭,則凶吉無由見矣。
胡瑗の解釈:所謂辞とは、すなわち卦爻の下に繋げた解説の文字である。六十四卦の裏に、陽爻が陽位に居り陰爻が陰位に居るあり、陽爻が陰位に居るあり、陰爻が陽位に居るあり、臣下の才を以て君位を占拠するあり、また君主の尊を以て臣位に屈処するあり、この一類の爻位の情形は非常に多し。聖人はもしそれらに文辞を繋げざれば、吉凶は従って顕現するなし。
至如比之六二居得其正,則其辭曰比之自內,貞吉;小畜之初九以陽居陽,則其辭曰復自道,何其咎,吉;隨之九四以陽居陰,則其辭曰隨有獲,貞凶;觀之初六以陰居陽,則其辭曰童觀,小人無咎,君子吝;噬嗑之上九以陽居陰,曰何校滅耳,凶。是吉凶之文皆在於所繋之辭也,君子之人若明辨吉凶之事,觀其辭則可知矣。
譬如比卦の六二は位に居りて正を得れば、爻辞は便ち内部より人に親附し正を守りて吉と言う。小畜卦の初九は陽爻を以て陽位に居れば、爻辞は便ち自己本来の正路に返回すれば、何ぞ過咎あらん、吉と言う。随卦の九四は陽爻を以て陰位に居れば、爻辞は便ち人に随従して獲る所有るも、一味に常を守ればかえって凶ありと言う。観卦の初六は陰爻を以て陽位に居れば、爻辞は便ち孩童の如く浅近に観看すれば、小人に在りては過咎と算せず君子に在りては却って羞慚と言う。噬嗑卦の上九は陽爻を以て陰位に居れば、爻辞は便ち重枷を肩負して以て耳部に傷及ぶ、凶と言う。見れば吉凶の説明は皆繋ぐ所の文辞の裏に落ちる。君子はもし吉凶の事を辨明せんと欲せば、爻辞を看れば便ち知る能し。
憂悔吝者存乎介。
経文に曰く:悔と吝の形成する前に於いて心に憂懼を懐かんには、關鍵は事の剛く頭を露すあの一糸の苗头の上に在る。
義曰:介者,纎介也;悔吝者,小疵病也。夫人小惡不改以成於大惡,小疵不補以成於大疵。勿謂小善無益而不為,勿謂小惡無傷而弗去,及夫惡積而不可揜,罪大而不可觧,以至何校滅耳,喪身夷族,然後悔之,亦其晚矣。故聖人凡小疵病鄙吝之事必先憂虞之,所以獲其無咎也。然則萬事之理皆始自纖芥,故聖人豫防之,故坤卦曰履霜堅氷者,則聖人教人防微杜漸之深戒也。
胡瑗の解釈:「介」とは極めて細微の一点の苗头で、悔と吝とは則ち細小の毛病である。人はもし小悪を改めざれば、便ち大悪を積成し、小さな瑕疵は補わざれば、便ち大きな瑕疵と変成す。小小の善事は益なしと以て做すを肯んぜず、また小小の悪行は大体を傷なしと以て去除せざるべからず。罪悪が堆積して掩蓋し住めず、罪過が重大にして従って開脱する処なき、重枷を肩負し耳部に傷及び身死に族滅する地步に落到するに及べば、あの時再び后悔するも便ち已に晚し。故に聖人は如何なる細小の毛病と難看の挙動にも対して、皆予め憂慮防範を加え、こうして初めて差錯を出さざるを保住し得る。見れば万事の道理は皆毫末より起こる。故に聖人は予め防備せんことを要す。坤卦の初六に薄霜を踏めば便ち堅氷の将に至らんを想到すべしと言うは、まさに聖人が人に微を防ぎ漸を杜ぐるを教える深切の告誡である。
震無咎者存乎悔。
経文に曰く:一挙一動皆過錯を出さざる能しとは、關鍵は及時に悔改するを懂得するに在る。
義曰:震者,動也;悔者,過也。夫人所以舉動而無咎者,蓋有剛明之才,有至正之徳,知其吉凶之道,明其得失之跡,事之小疵者預憂虞之,事之將失者心改悔之,所以舉動而無咎者,蓋存乎悔也。
胡瑗の解釈:「震」は挙動、「悔」は過失を察覚して改めんを思う。人が挙動し起りて過咎に致らざる所以は、彼が剛強明達の才干と極めて端正の徳行を具備し、吉凶の道理を懂得し、得失の迹象を看清するが故である:事に細小の毛病あれば便ち予め憂慮防範し、事が偏差を出さんとする時は便ち心裏に於いて及時に改悔す。故に挙動に差錯を出さざるは、關鍵はまさに一個の悔の字の上に落ちる。
是故卦有小大,辭有險易。
経文に曰く:故に卦に小あり大あり、卦爻の辞にもまた険艱の有り平易の有り。
義曰:其道光明則謂之大,其道消散謂之小。夫六十四卦之設,有大有小,有通有塞,故六爻之中有變有動,有險有易。若履得其正,居得其中,行事無過,則卦爻之下亦有和易之辭;若履非其正,居非其位,行事失其中,則卦爻之下亦有險難之文。至如居之時則言君子道長,居否之時則言君子道消,明夷之時則言明有所傷,大壯之時則言大者壯也。以至吉凶悔吝,善與不善,惡與不惡,卦爻之下各繋其辭以明之,故上文所謂齊小大者存乎卦者是也。
胡瑗の解釈:一卦の道が光明暢達すれば便ち大と称し、一卦の道が消損渙散すれば便ち小と称す。六十四卦の設立に、大あり小あり、通暢あり閉塞あり。故に六爻の中に変あり動あり、険艱あり平易あり。もし立身端正・位に居りて中を得・行事に過差なければ、卦爻の下に繋ぐ所は便ち和順平易の話である。もし立身正ならず・居る所位に非ず・行事は中道に偏離せば、卦爻の下に繋ぐ所は便ち艱難険阻の話である。譬如通泰の時に処すれば、便ち君子の道は日漸に生長すと言い、否閉の時に処すれば、便ち君子の道は逐步に消退すと言い、明夷の時に処すれば、便ち光明は損傷を受くと言い、大壮の時に処すれば、便ち陽剛の一方は正に壮盛に当たると言う。吉と凶・悔と吝・善と不善・悪与不悪に至るまで、卦爻の下に皆各々文辞を繋げて以て説明す。これがまさに上文の説く所の小大を衡量するは卦を看るの意思である。
辭也者,各指其所之。
経文に曰く:卦爻の辞は、各自それの帰趨する所のあの事を指向す。
義曰:言六十四卦所繋之辭,各指事而言也。至如適於泰卦,則其辭和易;適於蹇卦,則其辭艱險;適於謙卦,則其辭巽順;適於離卦,則其辭文明。是各指其事之所變而言也。
胡瑗の解釈:六十四卦の繋ぐ所の文辞は、皆各自の具体の事に針対して講ずる。譬如《泰》卦に帰すれば、それは天地交通の象を取り、辞気は便ち和順平易である。《蹇》卦に帰すれば、それは路を行きて険に遇うの象を取り、辞気は便ち艱難阻澁である。《謙》卦に帰すれば、それは高山が地下に蔵るの象を取り、辞気は便ち謙遜柔順である。《離》卦に帰すれば、それは火光附麗の象を取り、辞気は便ち文采煥発である。これがすなわち各自変ずる所の事を指して以て言を立てる。
繋辞上・第四章 易与天地凖
易與天地凖。
経文に曰く:《周易》の道理は天地と相当し、以て天地と彼此比照し得べし。
義曰:自此已下至鼔萬物而不與聖人同憂、盛徳大業至矣哉為一章。上既言卦爻辭理之義,此又廣明易道深逺,可以與天地相叅凖也。夫天地之道,福善禍滛,善者則佑助之,惡者則傾覆之,以至生成萬品之物,皆以簡易之道自然而然也。
胡瑗の解釈:ここより以下、「鼓万物而不与聖人同憂」と「盛徳大業至矣哉」に至るまで、合して一章と為す。上文は既に卦爻文辞義理の種種を講じたれば、此処に再び広く《周易》の道の深遠博大を闡明し、以て天地と互相参照比擬し得べし。天地運行の道理は、福を善良に賜い禍を淫邪に降らす:善に向かうは便ち彼を佑助し、悪を為すは便ち彼を傾覆す。乃至生養成就する万類の物も、皆平易簡約の方式を用い、自然而然に完成す。
夫易之道本始於天地,故六十四卦、三百八十四爻,所以統三才而妙萬物也。故爻之善者則其辭善,爻之惡者則其辭惡,得其正者則其辭吉,失其正者則其辭凶,以至總包萬事之理,皆以簡易之道自然而然也。是大易之道之可以凖擬於天地也,至乾以健而法天,坤以順而法地之類是也。
《周易》の道は本来天地より発源す。故に六十四卦・三百八十四爻は初めて天地人三才を統攝し、万物の精微を窮尽し得る。故に爻位の良善なるは、その文辞は便ち善であり、爻位の不善なるは、その文辞は便ち悪であり、位に居りて正を得るは、文辞は便ち吉であり、その正位を失うは、文辞は便ち凶である。乃至万事の道理を皆包挙して遺すなく、同様に平易簡約の道に憑って自然に成る。これがすなわち《周易》の道の天地と比擬し得べき処である。譬如乾は剛健を以て天に取法し坤は柔順を以て地に取法するは、皆この一類に属す。
故能彌綸天地之道。
経文に曰く:故に《周易》は能く縫合補斉し経理貫串して天地間の一切の道理を尽くす。
義曰:彌者,縫也;綸者,經也。言易道妙包含萬象,知鬼神之情狀,明人事之終始,上可以彌縫補合於天道,下可以經綸牽合於地理,無所不載,無所不備者也。
胡瑗の解釈:「弥」は縫合、「綸」は経理編織。意思は《周易》の道は精妙にして、万般の物象を包含し、能く鬼神の種種の情形を知り、能く人事の始末を明らかにす。上に往きては天道を縫合補足し、下に往きては地理を経理貫串し、承載せざるなく完備せざるなし。
仰以觀於天文,俯以察於地理。
経文に曰く:頭を抬げて天上の文彩を観察し、頭を低くして地上の紋理を考察す。
義曰:天文者,則是日月星辰佈設懸象成文章,故稱文也;地理者,則謂山川原隰高卑上下各有條理,繁盛於地,故稱理也。夫易之本始,始於天地,聖人仰以觀於天文,俯以察於地理,揆萬物之情,盡人事之理,以至纎至悉,無所不包,無所不備,是易之道也。
胡瑗の解釈:所謂天文とは、日月星辰が羅布懸挂し、交錯して文彩ある図様と成る。故に文と称す。所謂地理とは、山嶺河川・高原と低湿の地が各々高下上下の条貫あり、繁密に地面上に鋪展す。故に理と称す。《周易》の根源は便ち天地に在る。聖人は頭を抬げて天上の文彩を観察し、頭を低くして地上の条理を考察し、万物の情状を推求し、人事の道理を窮尽し、細は極処に至り詳は極処に至り、包まざるなく備わらざるなし。これがすなわち《周易》の道である。
是故知幽明之故,原始反終,故知死生之說。
経文に曰く:故に能く幽隠と顕明の縁由を通暁す。事物の開端を推究し、再び回頭してその終結を考察せば、故に能く生と死の道理を通暁す。
義曰:幽者,無形之謂也;明者,有形之義也。明則為晝為陽,幽則為夜為陰。夫聖人之作易,本凖擬於天地,下總括於事物,鬼神之情狀、吉凶之萌兆、陰陽之運動、幽明之義理,莫不統包於其間矣。原始反終,故知死生之說者,夫易道深逺,知幽明之故,以原究事物之終始,反覆天人之本末、萬物之榮枯、四時之變化、吉凶之兆、動靜之理,以至死生之說,莫不知之。
胡瑗の解釈:所謂幽とは、形迹なくして見るべき一面を指す。所謂明とは、形ありて睹るべき一面を指す。明の一面は白昼に属し陽に属し、幽の一面は黑夜に属し陰に属す。聖人が《周易》を作るは、上に向かって天地に比擬し、下に向かって萬事萬物を総括す:鬼神の情状・吉凶の萌芽征兆・陰陽の運行・幽明の義理、一様としてその中に統攝されざるなし。開端を推原し終結を回顧して故に生死を通暁すと言うに至っては、《周易》の道の深遠にして、能く幽明の縁由を通暁し、これに拠って事物の始末を推究し、反復して天と人の本末・万物の栄枯・四季の変化・吉凶の先兆・動静の道理を考察し、一直に生死の説法に至るまで、能く心に了然せざるなきを講ず。
精氣為物,逰魂為變。
経文に曰く:陰陽精霊の気が聚合して起れば便ち有形の物を形成し、魂気が游散して形体を離れれば便ち変化を生ず。
義曰:精氣者,則為陰陽精靈之氣也,氤氳積聚而為萬物也。游魂者,伸為物之積聚,歸為分散之時,則謂游魂。夫天地之道,陰陽之精氣萃聚而生萬物;於萬物之間,受陰陽之精氣而靈者則為人。人受陰陽之精氣,萃之於身,則有耳目口鼻、心知髮膚而為之體魄也;合於人身則謂之魂,故口能言,目能視,耳能聽,心能思慮,則謂之神;故用思慮心知才能,則謂之變。得精氣之多者則為神,得精氣之少者則為魄。
胡瑗の解釈:所謂精気とは、すなわち陰陽の当中の精霊のあの部分の気で、氤氳交融し積聚し起って以て万物を形成す。所謂游魂とは、気が伸展し開けば便ち凝りて事物と成り、収斂して回去すれば便ち消散の時に到り、あの時に便ち游魂と称す。天地の道は、陰陽の精気が聚合して以て万物を生出す。万物の中に在りて、陰陽精気を禀受して霊性を具有するは、便ち人である。人は陰陽精気を禀受し、身上に汇聚して、ここに耳目口鼻・心思知覚・毛髪肌膚あり、形体魄質を構成す。この股の気が人の身に合すれば便ちこれを魂と叫び、故に口は能く説話し眼は能く看見し耳は能く聴聞し心は能く思慮す。この一層は便ち神と称し、能く思慮・心知と才能を運用すれば、便ち変と称す。精気を禀受すること多きは神と成り、精気を禀受すること少なきは魄と成る。
及夫思慮既久,精神已倦,心知已勞,髮膚漸衰,用之太過,及其死也,體魄降於地,骨肉斃於下,精神散之於天則為神,體魄散之於下則為鬼,是天地之精氣萃聚於人身則為精神體魄矣。故左氏載子產之言曰:心之精爽,是謂魂魄,魂魄去之,何以能久?是言凡人得精氣之多者為神,受精氣之少者為魄。神魄萃之於身,久而必去,則精氣歸於天則為神,骨肉斃於下,散而無所之則為鬼。
思慮を用いること久しきに及べば、精神はすでに疲倦し、心思はすでに労損し、須髪肌膚は漸漸衰敗し、耗用は度を過ごす。人の死する時に到れば、形骸魄質は地下に降落し、骨肉は土中に朽壞し、しかして精神の気は飘散して天に帰し、便ち神と成る。形魄は地下に散落すれば、便ち鬼と成る。見れば天地の精気は人の身に汇聚して、便ち精神と形魄とに表現す。故に《左伝》に鄭国の子産の話を記載して曰く:心の霊明の気を魂魄と叫び、魂魄は一旦離去せば、人は何ぞ還って長久に活着し得んや。これはすなわち、およそ人は精気を禀受すること多きは神と成り、精気を禀受すること少なきは魄と成るを言う。神と魄とが身に聚れば、日子久しければ必然に離散す:精気は上天に回帰すれば便ち神、骨肉は地下に朽壞し消散して帰する所なければ便ち鬼。
又禮記祭義曰:氣也者,神之盛也;魄也者,鬼之盛也;合鬼與神,教之至也。眾生必死,死必歸土,此之謂鬼;骨肉斃於下,陰於野土,其氣發揚於上為昭明、焄蒿、悽愴,此百物之精也,神之著也。是言人之生則精氣聚而為神,死則骨肉散而為鬼,而精魂改變,去形離體,則為變化之道也。
《礼記・祭義》にまた曰く:気とは、神の盛大の表現である。魄とは、鬼の盛大の表現である。鬼と神とを合わせて致祭するは、教化の極致である。衆生は皆一死を免れず、死の後は必定土中に帰入す。これを便ち鬼と言う。骨肉は地下に朽壞し、郊野の泥土の裏に隠没すれども、その気は却って上に向かって発散し、光明昭著の状・蒸騰の気息と人をして肃然凄惻せしむる感受を顯為す。これは万物精華の所在で、もまた神の顕現である。これらの話の説くは:人は活着する時は精気が聚合して以て神と為り、死の後は骨肉が消散して以て鬼と為る。精魂はここに改易変換し形骸を脱出す。これがすなわち所謂「変」の道理である。
是故知鬼神之情狀。
経文に曰く:故に能く鬼神の実情と状貌を知る。
義曰:鬼神者,不疾而行,不言而信,視之弗見,聽之弗聞者,鬼神之道也。夫鬼神之道,本諸精氣體魄聚之而生,亦由骨肉體魄散之而有,冥冥然不知其所在。聖人以其為無則曰不仁,以其為有則曰不知,其有形狀可覩哉?然此言知其形狀者,蓋言易道至大,通於天地,達於幽明,不惟幽隠章顯之間而易道可以見矣。
胡瑗の解釈:鬼神は疾行せずして自然に速至し、発話せずして自然に応験し、それを看れば見えず、それを聴けば聞こえず。これがすなわち鬼神の道である。鬼神の道は、精気と形魄の聚合に本として生じ、もまた骨肉形魄の消散に随って存在す。幽冥恍惚にして、誰もそれが究竟何処に在るかを説き清め得ない。聖人はもしそれが無いと断定せば、便ち不仁厚に流れ、もしそれが有ると断定せば、あれはまた不明智と顯れ、それは何処に真に形状ありて見え得べきか。此処に却ってその情状を知る能しと言うは、《周易》の道が極めて宏大にして、上は天地に通じ、下は幽明に達し、ただ幽隠と彰顯の間に在るのみならず、およそ見るべき処あるは、《周易》の道は皆能く照見するが故である。
與天地相似,故不違。
経文に曰く:《周易》の道は天地と相似たり。故に天地と相違背せず。
義曰:此已下言易道廣大,盡生死之理、幽明之故也。夫天地之道,春生夏長,秋殺冬藏,包含萬彚,無小無大,高者下者,飛者走者,莫不生育之,故不可以一言而盡也。夫大易之道,陽剛陰柔,窮幽極逺,總括萬事,從無入有,至纎至悉,莫不總明之,故不可一言而盡也。
胡瑗の解釈:ここより以下、《周易》の道の広大にして、能く生死の道理と幽明の縁由を窮尽することを講ず。天地の道は、春天に生発し夏天に長養し秋天に粛殺し冬天に収蔵し、万類を包容す:大小を論わず、居高居下を論わず、飛ぶ能くするか走る能くするかを論わず、一様としてその生育を受けざるなし。故に一句の話に講じ完る能わざるなり。《周易》の道も同様である:陽剛陰柔を以て綱と為し、幽微を窮究し遠処に推及し、万事を総括し、無形より有形に推向し、細密周詳にして極点に至り、一様としてその照明を受けざるなし。故に同様に一句の話に講じ完る能わざるなり。
推其本原,大易之道皆聖人窮神盡性而作也。上則凖擬於天地,下則包言於人物,前乎天地則其道不過,後乎天地則其道不異,中於天地之間則其道若合符契而無違越,是易之道與天地相似者也。
その本源を追溯すれば、《周易》の道は皆聖人が神妙を窮究し物性を洞尽した後に写成したものである。上に往きては天地に比擬し、下に往きては人と万物を包挙す。天地の先に置けば、その道理は頭を過ごさず。天地の後に置けば、その道理も走様せず。天地の間に放てば、その道理は便ち符節の两半の相合するが如く厳糸合縫にして、毫も違逆なし。これがすなわち《周易》の道の天地と相似たるの意思である。
知周乎萬物而道濟天下,故不過。
経文に曰く:聖人の智慧は万物に遍及し、彼の道は天下を救助するに足る。故に過差せざるなり。
義曰:聖人無物不知,是知周也;天下皆養,是道濟天下也;萬事皆得其宜,是不過也。夫聖人以仁知之徳,才能思慮周及萬物,至於纎介之類皆蒙被之;又以仁義施及天下,使萬品之物、天下之人皆得其所,皆獲其濟,而又所行之事合於大中,無過無不及之事。
胡瑗の解釈:聖人は一様の事物として知暁せざるなし。これがすなわち智慧の周遍。天下人は皆養育を得る。これがすなわち彼の道の天下を救済したる。万事は皆各々その宜しきを得る。これがすなわち過差を出さざるなり。聖人は仁と智の徳性に憑り、才力と思慮とが万物に遍及し、細きこと毫芒の如きものに連れても皆その覆被を受く。また仁義を天下に推行し、万類の物・天下の人をして各々その所を得各々救助を獲せしむ。しかして彼の行う所の事は皆不偏不倚の中道に合乎し、既に過分ならず、亦た不及なし。
旁行而不流。
経文に曰く:聖人の道は四面八方に推行すれども、偏邪放荡に流れざるなり。
義曰:夫聖人中天下而立,正南面而居,拂其己之私邪,去其已之阿黨,所行之事中立而不倚,正行而不邪,以天下為一家,以萬民為一情,凡所動作莫不會合大中之道而行之。此言旁行而不流者,蓋言聖人非善於一身,以至正之徳上符於天,下合於地,中合於人,無私無枉,無所不契,雖旁行於天下之間,亦無私邪淫過流蕩之事,所以然者,蓋至公至正而致然也。
胡瑗の解釈:聖人は天下の中央に立身し、端正して面南して治め、自己の私心邪念を拂除し、自己の偏袒結党を去掉す。為す所の事は中正独立にして一方に偏倚せず、行為は端正にして邪路に趨らず。天下を看て一家と為し、万民を視て一体と為す。およそ挙動有れば、中正の道に合乎せざるなくして後に施行す。此処に旁行して放荡せずと言うは、聖人の善は自身に止まらざるを講ず:彼は極端正の徳行を以て、上に向かって天道に符合し、下に向かって地理に契合し、中に居りて人心に合し、偏私なく枉曲なく、処として相契合せざるなし。たとい教化が天下各处に旁及するも、偏私邪僻・縦逸放荡の事あらざるなり。能くこの如くなる所以は、まさに彼が極めて公正無私なるが故である。
樂天知命,故不憂。
経文に曰く:天道に順従するを楽しみ自身の命分を通暁すれば、故に内心は憂愁せず。
義曰:順天施化是樂天,識物始終是知命。夫聖人順天施化,識物始終,以其不可改者天命也,由是推測天道以知己命,至於富貴壽考、貧賤夭折皆繋於天,是以心無憂恤。雖在貧賤亦不為險詖之行,雖在富貴不為奢侈之心。
胡瑗の解釈:上天に順応して教化を推行するは、便ち「楽天」である。万物の始終を洞悉するは、便ち「知命」である。聖人は天道に順応して教化を推行し、万物の始終を洞悉す。彼が其中の更改すべからざるあの一部分がまさに天命なるを明白にするが故に、ここに天道より自己の命分を推測し出す:富貴長寿なりとも、貧賎早夭なりとも、皆天に繋がる。故に心裏に憂懼を生ぜず。たとい貧賎に身を処するも、険悪偏邪の事を做さず。たとい富貴に身を居するも、奢侈放縦の念頭を起こさず。
故孟子曰:莫之為而為者天也,莫之致而至者命也。是言人之性命之理、死生之道皆本於天,固無可奈何。然則富貴稟於天,死生繋乎命,既無可奈何,則宜順從於天道,樂天而知命,原始而思終,安靜而居,則無憂恤也。
故に《孟子》に曰く:之を為す者なくして自然に成し為るは、それは天である。之を招致する者なくして自然に到来するは、それは命である。これは人の性命の理・生死の道は皆上天に本とし、本来奈何し得べからざるを講ず。既に富貴は天より禀受し生死は命数に繋がり、人力は従って更改するなく、さらば便ち當に天道に順従し、天意を承受するを楽しみて命分を通暁し、事情の開端を推究してその結局を思慮し、安静自守して日子を過ごさば、こうすれば便ち憂愁あらざるなり。
安土敦乎仁,故能愛。
経文に曰く:自己の処する境地に安んじ、敦厚に仁徳を践行すれば、故に能く他人他物を愛護す。
義曰:安者,靜也;愛者,養也。夫聖人稟天地之全性,五常之道皆出於中,天下有一物不被其賜者,若已內於溝壑。由是推己之性以觀天下之性,推己之仁以安天下之物,使天下之人、萬品之物皆安土而定居矣。人能安土,物既遂性,則父母兄弟親疎上下逓相親睦,而敦仁愛之心矣。
胡瑗の解釈:「安」は安静自守、「愛」は養育。聖人は天地の完整の本性を禀受し、仁義礼智信の五常の道は皆彼の内心より発す。天下にただ一様のものあって未だその恩惠を蒙受せざれば、彼は便ち像是自己が人を沟壑の裏に推し進めたると覚える。故に彼は自己の本性を推拡して以て天下人の本性を体察し、自己の仁心を推拡して以て天下の万物を安頓し、天下の人と万類の物とを皆能く処する所の土地に安居せしむ。人は能く土に安んじ、物は能く性を遂ぐれば、さらば父母兄弟・親近疏遠・上上下下は便ち彼此和睦して相処し、仁愛の心も亦たこれに随って敦厚に起る。
範圍天地之化而不過。
経文に曰く:聖人は天地の化育を一定の法度模範の中に納め、而も逾越失当に至らざるなり。
義曰:範謂模也,圍謂周也,過者違也。夫聖人粹天地之靈,中天地而立,觀天地之性然後正己之性,觀天地之情然後正己之情,凡所行事皆模範於天地陰陽之端。至如樹木以時伐,禽獸以時殺,春夏則生育之,秋冬則肅殺之,使物遂其性,民安其所,是範圍天地之化而無過越也。
胡瑗の解釈:「範」は模型、「囲」は周匝籠罩、「過」は違逆越軌。聖人は天地の霊秀を汇聚し、天地の間に立身す:天地の性質を観察し、然る後に自己の性を端正し、天地の情状を観察し、然る後に自己の情を端正す。およそ行う所の事は、皆天地陰陽の端緒を以て模範と為す。譬如樹木を砍伐するは時節に按り、禽獣を捕殺するは時令に合し、春夏は便ちその生育に順い、秋冬は便ちその粛殺に順い、万物を各々本性を遂げ百姓を各々その所に安んぜしむ。これがすなわち天地の化育を法度に納めて越軌に致らざるなり。
曲成萬物而不遺。
経文に曰く:聖人は委曲周至に万物を成就し、一様として遺漏せざるなし。
義曰:曲者,曲屈委細而成就萬物也;遺者,棄也。夫聖人宅天下之廣居,司萬物之性命,模範天地以施化,輔相天地以保民,雖事物之微、昆蟲之細,亦皆以仁信屈曲而成就之。至如綱罟以時,不麛不卵,是皆物之微細而不遺棄也。
胡瑗の解釈:「曲」は委曲周詳にして入微に体贴して万物を成全す。「遺」は遺棄。聖人は天下最も広寛の位置上に安居し、万物の性命を掌管し、天地を以て模範と為して以て教化を施行し、天地を輔助して以て百姓を保全す。たとい極細微の事物・極弱小の昆虫なるも、彼も皆仁厚誠信の心を以て委曲周到にそれらを成全す。譬如網を撒きて捕捞するは時令に合乎し、幼獣を猟取せず鳥卵を掏取せざるが如きは、これらは皆極細微の物で、聖人もまた遺棄を肯んぜざるなり。
通乎晝夜之道而知。
経文に曰く:昼夜幽明交替の道理を通暁し、因って知らざる所なし。
義曰:通者,無所不通之謂也。書則為明為陽也,夜則為幽為陰也。夫聖人得天之正性,秀出於人,上與天地合其徳,與日月合其明,通曉陰陽之宜,黙運鬼神之奧,雖晝夜之道、幽明之理,無所不知,無所不曉。至如寒暑之代謝、星晷之相旋、陰陽之晦明、風雨之悽暴,未有不先知之矣。自此已上皆言神之所為、精氣為物逰魂為變之事,聖人能極神盡慮,推幽測隠,無所不知也。
胡瑗の解釈:「通」は通ぜざる所なきの意思。白天は明に属し陽に属し、夜里は幽に属し陰に属す。聖人は上天の純正の性を禀得し、才徳は常人を超出し、上に向かっては天地の徳性と相合し、日月の光明と相合し、陰陽の間のあるべき分寸を通暁し、黙黙に鬼神幽深の道理を運用す。たとい昼夜交替の道・幽明変化の理なるも、知らざる一様なく明らかならざる一様なし。譬如寒暑の更替・星辰日影の旋転・陰陽の晦暗と晴明・風雨の凄清と暴烈、能く予め知暁せざる一様なし。以上のこれらが講ずるは皆神妙の力の作為、および精気が聚りて万物を成し魂気が游散して変化を生ずるこの一類の事である。聖人は能く神明を窮尽し思慮を竭尽し、幽微を推求し隠晦を測度し、因って知らざる所なし。
故神無方而易無體。
経文に曰く:故に神妙の力に固定の方所なく、《周易》の道にも固定の形体なし。
義曰:神者,陰陽不測,幽微不可以測度,故曰神;無方者,不見所處,運動不息,是無方也。易者,即周易也;無體者,唯變所適,徃來不窮,是無體也。夫天地之道妙用無門,鬼神之道寂然無跡,春生夏長,藏徃知來,故不可以方隅而論之。夫大易之道總括天地,包含萬象,惟變所適,道無常用,既不可以象類索,又不可以形器求,是亦不可以定體而論之也。是大易之道與天地之道相凖,如鬼神之妙用也。
胡瑗の解釈:所謂神とは、陰陽変化の推測し難く幽深細微にして度量する従なきを指す。故に神と称す。所謂无方とは、それの固定に停まる所を看出せず、運行は停まず。故に方所なし。易とは、すなわち《周易》。所謂无体とは、それはただ変化に跟って走り、来来去去に窮尽なし。故に固定形体なし。天地の道は妙用無窮にして門径に循る可きなく、鬼神の道は寂静無声にして痕迹を留めず、春天に生発し夏天に長養し、過往を収蔵して未来を預知す。故に某一の方位角落を拿って以てそれを限定し得ない。《周易》の道は天地を総括し万象を包含し、ただ変化に随って以て変化し、用法は一成不変の有るなし。既に某一類の物象に靠って搜求し得ず、もまた有形の器物に憑って把捉し得ず、同様に固定の形体を以て討論し得ない。見れば《周易》の道は天地の道とまさに相当し、便ち鬼神の如く妙用無方なり。
一陰一陽之謂道。
経文に曰く:一陰一陽が交替推移し彼此を用と為す。これを便ち道と叫ぶ。
義曰:道者,自然之謂也。以數言之則謂之一,以體言之則謂之無,以開物通務言之則謂之通,以微妙不測言之則謂之神,以應機變化則謂之易,總五常言之則謂之道也。
胡瑗の解釈:所謂道とは、すなわち本来この如くにして安排を假らざる。数目の上より言えば、それを「一」と叫ぶ。本体の上より言えば、それを「無」と叫ぶ。万物を開啓し事務を貫通する上より言えば、それを「通」と叫ぶ。精微難測の上より言えば、それを「神」と叫ぶ。随機応変の上より言えば、それを「易」と叫ぶ。仁義礼智信の五常を合わせて講ずれば、それを便ち「道」と叫ぶ。
上既言天地之神、大易之道窮變盡神,妙用無方,不可以方隅形體而求之,此又言天地生成之道。夫獨陽不能自生,獨陰不能自成,是必陰陽相須,然後可以生成萬物。故於冬至之日,陽氣下施,散而為春夏,以生成萬物,以至洪者纎者、髙者下者皆遂其生,以盈滿於天地之間。然萬物既生,不可不成之,故於夏至之日,陰氣下施,散而為秋冬,以成就萬物,以至洪者纎者、髙者下者皆遂其性,以成就於天地之間。是一陰一陽互相推蕩,天覆而地載,日照而月臨,所以謂之道也。
上文は既に天地の神妙・《周易》の道が変化と神機を窮尽し、妙用は方所に拘らず、方位形体に憑って尋求し得ざるを講じたれば、此処に再び天地の生養成物の道理を講ず。単に陽のみ有れば自ら生発し得ず、単に陰のみ有れば自ら成就し得ず。必定陰陽が互相憑藉して、然る後に初めて生養し併せて万物を成就し得。故に冬至のこの一天に到れば、陽気は開始して下降施布し、散开して以て春夏と成り、以て万物を生養し、粗大の・細小の・居高の・処下のに至るまで皆各々その生を遂げ、天地の間に充満す。しかし万物は既に生出せば、それらを成熟せしめざるべからず。故に夏至のこの一天に到れば、陰気は開始して下降施布し、散开して以て秋冬と成り、以て万物を成就し、粗大の・細小の・居高の・処下のに至るまで皆各々その性を遂げ、天地の間に在りて自己を完成す。一陰一陽がこのように互相推移激蕩し、天は覆蓋し地は承載し、太陽は照耀し月亮は臨照す。これを便ち道と叫ぶ。
繼之者善也。
経文に曰く:能くこの一陰一陽の道を承接しそれを延續し下去るは、便ち善である。
義曰:夫天地之道、陰陽之功生成萬物,千變萬化以盈滿於天地之間,使高者得其髙之分,卑者得其卑之理。聖人得天地之全性,繼天地生成之功,以仁愛天下之物,以義宜天下之眾,使居上者不陵於下,在下者不過其分,是聖人繼天養物之功以為善行也。故乾卦曰元者善之長,是言天以一元之氣為眾善之長,聖人繼其元善之功以理於物也。
胡瑗の解釈:天地の道・陰陽の功は万物を生養し、千変万化して天地の間に充満し、高に処るを各々その居高の分位を得せしめ、下に処るを各々その居下の道理に安んぜしむ。聖人は天地の完整の本性を禀得し、天地の生養成物の功用を承継す:仁を以て天下の万物を愛護し、義を以て天下の衆人を規範し、上位に在るをして下面の人を欺凌せざらしめ、下位に在るをして自己の本分を越出せざらしむ。これがすなわち聖人が上天の万物を養育する功を承継して成就する善行である。故に《乾》卦の《文言》に「元」は衆善の首と言う。意思は上天は一元の気を以て一切の善の開端と為し、聖人はこの元始の善の功用を承継し、これを以て万物を治理す。
成之者性也。
経文に曰く:能くこの一陰一陽の道を自身の上に成就し出すは、便ち性である。
義曰:性者,天所稟之性也。天地之性寂然不動,不知所以然而然者,天地之性也。然而元善之氣受之於人,皆有善性,至明而不昏,至正而不邪,至公而不私。聖人得天地之全性,純而不雜,剛而不暴,喜則與天下共喜,怒則與天下共怒,以仁愛天下之人,以義宜天下之物,繼天下之善性以成就己之性。既成就己之性,又成就萬物之性;既成就萬物之性,則於天地之性可參矣。是能繼天地之善者,人之性也。
胡瑗の解釈:所謂性とは、上天の賦与する本性である。天地の性は寂然として動かず、それが何を為すか此の如しと説き出せずして自然此の如し。これがすなわち天地の性である。しかしてあの元始の善気は一旦人に禀受せられれば、人人は便ち皆善の本性を有す:極明澈にして昏昧ならず、極端正にして邪僻ならず、極公正にして偏私ならず。聖人は天地の完整の本性を禀得し、純粋にして駁雑ならず、剛健にして暴戻ならず、歓喜すれば便ち天下人と同じく喜び、憤怒すれば便ち天下人と同じく怒る。仁を以て天下の人を愛し、義を以て天下の物を安頓し、天下共有の善性を承継して以て自己の性を成就す。既に自己の性を成就し、又去って万物の性を成就す。既に万物の性を成就せば、便ち天地と並列して三と為り得。故に言う、能く天地の善を承継するは、まさに人の本性である。
仁者見之謂之仁,知者見之謂之知。
経文に曰く:仁厚の人はこの道を看れば、便ちそれを仁と称す。明智の人はこの道を看れば、便ちそれを智と称す。
義曰:夫聖人得天性之全,故五常之道無所不備;賢人得天性之偏,故五常之道多所不備,或厚於仁而薄於義,或厚於禮而薄於信,是五常之性故不能如聖人之兼也。
胡瑗の解釈:聖人は天性の全体を禀得せば、故に仁義礼智信の五常の道は一として備わらざるなし。賢人はただ天性の一偏を禀得せば、故に五常の道に多く欠缺あり:あるは仁厚にして義足らず、あるは礼を重んじて信足らず。まさに禀受する所の五常の性に偏至する所有るが故に、初めて聖人の如く兼備し得ざる。
夫大易之道,卦於伏羲,重於文王,爻辭於周公,是三聖人垂萬世法則之書,其間寫天地水火風雷山澤之象,本凖擬於天地,統鬼神之妙用,惟變所適,量時制宜,故不可一義而求之也。若仁者見之則知聖人之仁,知者見之則知聖人之知,是各資其分而已矣。
《周易》の道は、卦画は伏羲より出で、重卦は文王に成り、爻辞は周公に作さる。これら三位の聖人が万世に留めた法則の書である。書中に天地・水火・風雷・山沢の物象を描摹するは、本来天地に比擬して作し、鬼神の妙用を統攝し、ただ変化に随って以て変化し、時勢を権衡し事に因って宜しきを制す。故にただ一種の意思を以て解を求むべからず。仁厚の人はそれを読めば、看る所は聖人の仁である。明智の人はそれを読めば、看る所は聖人の智である。これは過ぎず各人が自己の禀分に憑って領会するのみである。
百姓日用而不知,故君子之道鮮矣。
経文に曰く:老百姓は天天皆この道を用うるも、自己がそれを用うるを知らず。故に真に君子の道を体会し得る人は便ち甚だ少なし。
義曰:夫聖人得天地之正性,繼天地之行事,故無所不知,無所不明。賢人得天地之偏,又可以仰及於聖人之行事,然聖人之道至深至奧,賢人尚可以偏窺之;至於天下百姓常常之人,得天性之少者,故不可以明聖人所行之事。
胡瑗の解釈:聖人は天地の純正の本性を禀得し、天地の作為を承継す。故に知らざる所なく明らかならざる所なし。賢人はただ天地の性の一偏を禀得すれども、なお還って仰望し聖人の行事に企及し得。聖人の道は極深極奥にして、賢人は尚且つただ一個の側面より窺見するのみ。天下の尋常の百姓に至っては、禀受する天性は更に少なく、故に聖人の行う所の事を明白にすること無し:彼らは天天この套の道理の帯来する好処を承受するも、其中の所以然を講じ出せざるなり。
夫大易之道載聖人之行事,包乾坤之生育、鬼神之妙用、人道之終始,無不備於其間。聖人體其用,成其功業,發見於天下,則天下之人咸戴而行之,莫知所以然而然也。然而聖人君子雖能體易道以為用,觀易道以施化,然能悟君子之道者亦鮮矣。
《周易》の道は聖人の行事を記載し、乾坤生養の功能・鬼神の妙用・人道の始終を包含し、一様としてその中に完備に含まらざるなし。聖人はその功用を体察し、自己の功業を成就し、天下に顕現せば、天下人は便ち皆擁戴し遵行するも、何を為すか此の如くなるを説き出せざるなり。しかるに、聖人君子は虽《周易》の道を体会し得て以て運用し、《周易》の道を観察して以て教化を推行する能くするも、真に君子の道を領悟し得る人は、畢竟還って甚だ少なし。
顯諸仁,藏諸用。
経文に曰く:仁愛を外に顕現し、功用を内に潜蔵す。
義曰:上言神之所為,此論易道之大與神功不異也。顯諸仁者,言道之為體,顯見仁功,衣被萬物,是其顯也;藏諸用者,謂潛藏功用,不使物知,是藏諸用也。夫天地之道,乾剛坤柔,日臨月照,春生夏長,秋殺冬藏,使萬物綿綿而不絶者,天地生成之仁也,然不知天地生成之用也。
胡瑗の解釈:上文は神妙の力の作為を講じ、此処は則ち《周易》の道の宏大とあの神妙の功と併せて二致なきを論ず。所謂顕諸仁とは、道は本体として、仁愛の功效を顕現し出し、万物を覆被す。これはそれの顕露する一面である。所謂蔵諸用とは、それは功用を潜蔵し、万物をして察覚せしめず。これはそれの隠蔵する一面である。天地の道は、乾剛坤柔にして、日月は輪流に照臨し、春生夏長・秋殺冬蔵して、万物を綿延絶えざらしむ。これは天地の生養の仁である。しかし人々は天地が究竟如何にこの份の功用を施展するかを知らざるなり。
夫聖人之道,恩涵澤浸,政漸仁煦,薄賦輕役,恤孤軫貧,使百姓安其土而不遷,勸其功而樂事者,聖人生成之仁也,然不知聖人生成之用也。夫大易之道,寂然不見其體,杳然不見其形,以之悅懌生民,功業萬世,施為徳澤,則可以衣被萬物,是顯諸仁也;及夫推究原本,測度云為,不見其跡,是藏諸用也。是大易之與天地鬼神無以異也。
聖人の道も亦たこの如し:恩徳は人心に浸潤し、政令は平緩にして仁意は温煦し、賦税を軽減し徭役を少徴し、孤弱を撫恤し貧苦を体念し、百姓を本土に安居せしめて流徙するを須とせず、彼らを勉励して本業に勤しみ任事を楽しましむ。これは聖人の万民を生養する仁である。しかし人々は同様に聖人が究竟如何にこの份の功用を施展するかを知らざるなり。《周易》の道は、寂静にして本体を看えず、幽渺にして形状を看えず。これを以て百姓を歓悦せしめ、万世の功業を成就し、恩沢を施行せば、便ち万物を覆被するに足る。これがすなわち仁を顕現し出す。しかして人がその根本を追究しその作為を揣度する時には、却って痕迹を找い出せざる。これがすなわち功用を潜蔵す。見れば《周易》と天地鬼神とは併せて両様あることなし。
鼔萬物而不與聖人同憂。
経文に曰く:天地は万物を鼓動して生長せしむるも、聖人の如く万物のために擔憂せざるなり。
義曰:夫天地之道,以時而生,以時而殺,雷霆以鼔動之,風雨以滋潤之,使萬物洪者纎者、髙者下者皆遂其性。或萬物之中有夭折暴亡、凶荒札瘥者,皆任自然之理,不能憂恤之。
胡瑗の解釈:天地の道は、時令に按って生発し、時令に按って粛殺す。雷霆を以て万物を鼓動し、風雨を以て万物を滋潤し、万物を粗大細小・居高居下を問わず各々本性を遂げしむ。万物の中にもし夭折・暴亡・災荒・疫病の一類の事出現せば、天地は一概に自然の理に聴任し、併せてそれらのために憂慮撫恤せざるなり。
夫聖人代天牧民,繼天之善,以仁義之道生成於天下,物之夭折暴亡、凶荒札瘥者,常如己內於溝壑之中。是天地之道但能鼔舞於萬物,而不能憂恤於萬物也;聖人能生成於萬物,又能憂恤於萬民也。惜乎聖人所不得者,天地之權也。故大易之道載天地生成之理,而不能與聖人同憂也。老子曰:天地之道,氣猶槖鑰,以萬物為芻狗者,此也。
聖人は則ち上天に代替して百姓を治理し、上天の善意を承継し、仁義の道を以て天下を生養す。一旦人の夭折暴亡・災荒疫病に遭遇する有れば、彼は総じて像是自己が人を沟壑の裏に推し進めたると覚える。見れば天地の道はただ万物を鼓動する能くするのみ、而も万物のために憂慮せざるなり。聖人は既能く万物を生養し、又能く万民のために憂慮撫恤す。可惜聖人の欠缺する所は、天地の如き権能である。故に《周易》の道は天地の生養成物の道理を載録するといえども、聖人の如く憂患の心を懐く能わざるなり。《老子》に曰く:天地の間、その股の気は風箱の如く鼓蕩して停まず、而も天地は万物を看て祭祀に用いる草扎の狗と為し、その自生自滅に任す。講ずるはまさにこの意思である。
繋辞上・盛徳大業至矣哉
盛徳大業至矣哉。
天地が万物を生養する徳性は極めて充盛にして、聖人の成就する功業は極めて広大なり。真に頂点に到れりや。此処の「盛徳」は生生不熄・日日更新の徳性を指し、「大業」は天下に富有し備わらざるなき功業を指す。
義曰:此已下至「陰陽不測之謂神」為一章,此是十翼之中第五章。今註疏之說皆以謂「顯諸仁,藏諸用」而下至「道義之門」為一章。今觀「顯諸仁,藏諸用,鼔萬物而不與聖人同憂」三句,皆言上文天地不測之事,故自此「盛徳」已下至「陰陽不測之謂神」為一章;自「夫易廣矣大矣」而下至「易簡之善」為一章。
胡瑗按:ここより往下、「陰陽不測之謂神」の一句に至るまで、當に合して一章と為すべし。それは《易伝》十翼の裏の《繋辞上》の第五章である。当時通行の注疏本は皆「顕諸仁、蔵諸用」以下より一直に「道義之門」に至るまでを一章に划成す。しかし細看すれば「顕諸仁、蔵諸用、鼓万物而不与聖人同憂」のこの三句は、講ずる皆上文の説く所の天地化育の測度し得べからざる事で、語意は依然として上一章に属す。故に當に「盛徳」のこの一句より往下、「陰陽不測之謂神」に至るまでを一章と算すべし。再び「夫易広矣大矣」より往下、「易簡之善」に至るまでを別に一章と算す。
「盛德大業至矣哉」者:夫天地之道,無所不生,無所不育,以生成之功言之,其徳至廣而其功至大也。聖人法天之用,廣生成之道,萬物由之而通,政教由之而理,而又作工巧以便器用,立商賈以通有無,為之綱罟則以畋以漁,為之耒耜則以耘以耨,天下之人至於昆蟲草木,無不被其賜者,是聖人充盛之徳、廣大之業至極矣哉。然必云「盛徳大業」者,蓋施於行則為徳,行於事則為業也。
「盛徳大業至矣哉」のこの一句を解釈す:天地運行の法則は、一物としてそれに由って生出せざるなく、一物としてそれに由って養育せざるなし。単に化生成就の功效に就いて言えば、その徳性は一切に広被し、その功用は達せざる所なし。聖人は上天の作用に取法し、この種の生養成就の道を推广す:万物はそれに靠って暢遂を得、政令教化はそれに靠って整治を得。また各種の精巧の器具を制作して民用を便にし、商貿を設立して有無を互通せしむ。網罟を造り出せば、人々は便ち猟し魚を捕える能し。耒耜を造り出せば、人々は便ち耕耘し草を除く能し。天下の人、乃至昆虫草木、恩沢を受けざるなし。これがすなわち聖人の充盛の徳性・広大の功業がすでに極致に到達せるなり。何故に必ず「盛徳」と「大業」の両項を分説するかに至っては、同一の事にして、自身の修為に落実すれば便ちそれを「徳」と叫び、具体の事功に推行すれば便ちそれを「業」と叫ぶが故である。
富有之謂大業。
有らざる所なく充実盈満す。これを便ち「大業」と叫ぶ。
義曰:自此已下覆說「大業」「盛徳」,因廣明《易》與乾坤之事。夫天之生物盈滿於天地之間,則謂之富;聖人法天之行事,布其徳澤,施其教化,竭天下之財用,聚天下之民物,以為之富有,富有天下,措當世於不拔,故謂之大業也。
この一句より往下は、回頭して前文の「大業」と「盛徳」とを分かちて申説し、併せてこれに借りて広く《周易》および乾坤両卦の道理を闡明す。上天は万物を化生し、天地の間に充塞す。この種の有らざる所なきを便ち「富」と叫ぶ。聖人は上天に效法して以て政事を処理す:恩沢を布施し、教化を推行し、天下の財貨物力を皆調動し起し、天下の人民物産を皆聚合し起し、国家を臻らせて富有に至らしむ。整個の天下に富有し、又能く当世を牢不可拔の基業の上に安放す。故にこれを「大業」と称す。
日新之謂盛徳。
一天に比べて一天更新し永く停滯せず。これを便ち「盛徳」と叫ぶ。
義曰:夫天地之道,日往月來,陰極陽生,四時更變,寒暑相推,一日復一日,其徳愈新,以至生成萬物,日日而盛大。聖人法此天地之道,増修其徳,持循政教,適時之變,量事制宜,使其徳日日盛大。
天地運行の法則は:太陽は落下し月亮は升起し、陰気は極処に到れば陽気は便ち生発し、四季は輪番に交替し、寒暑は互相推移し、一天は一天に接続し、その徳性は不断に更新し、因って万物を化生成就し、一天に比べて一天盛大なり。聖人は天地のこの条の法則に效法し、不断に自己の徳行を修養増進し、政令教化を堅持し調整し、時勢の変化に順応し、事情の軽重を衡量して合宜の措施を制定し、自己の徳性をも一天に比べて一天盛大ならしむ。
生生之謂易。
生じて又生じ化育断えず。これを便ち「易」と叫ぶ。
義曰:生生者,陰生陽,陽生陰也。天地之道、聖人之徳,以富有言之則謂之大業,以日新言之則謂之盛徳,而又生成之道,變化死生,生而復死,死而復生,使萬物綿綿而不絶者,天地聖人之徳業也。
所謂「生生」とは、陰気が陽気を生出し、陽気がまた陰気を生出し、循環して相生することを言う。天地の法則・聖人の徳性は、有らざる所なきのこの一面より言えば便ち「大業」と叫び、日日更新のこの一面より言えば便ち「盛徳」と叫ぶ。しかしてそれの化生成就の作用は、又生死の変化に表現す――生じて又死し、死して又生じ、万物を代代相続き綿延絶えざらしむ。これがまさに天地と聖人と共有の徳と業である。
夫大《易》之道,盡七九八六之數,寫天地水火雷風山澤之象,總陰陽生殺之理,包人事萬物之宜,變而必通,終而復始,隨時之變,因事制宜,凖擬天地之間,則其功不異,是生生相續而不絶也。
《周易》のこの套の道理は、少陽七・老陽九・少陰八・老陰六のこの四種の揲蓍の得る所の数を窮尽し、天・地・水・火・雷・風・山・沢の八種の物象を摹写し出し、陰陽生長粛殺の原理を総括し、人事と万物の各自適宜の分寸を涵蓋す。それは変化の後は必定通達し、終結の後は重新開始し、時勢に随って変通し、事情に因って合宜の法を制定す。これを以て天地の間の運行に比擬すれば、功效は天地と毫も二致なし――これがすなわち生じて又生じ相続きて断絶せざるなり。
成象之謂乾。
天地間の剛健の物象を化成す。これを便ち「乾」と叫ぶ。
義曰:乾者,健也。夫天以一元之氣,仰而望之,其色蒼蒼然,下周於地,其狀如倚杵。南樞入地三十六度,北樞出地三十六度,一書一夜凡行九十餘萬里,自古至今未嘗有毫釐之差忒,亦未嘗有分毫之不及,以至生成萬物,皆以乾健而神其用,以成就萬物之形狀。非剛健之功則不能如是也,故伏羲始畫乾卦,皆取健用為象也。
「乾」の意思はすなわち剛健。天は一团の浑然の元気に由って構成され、頭を抬げて望去れば一片の蒼蒼の色で、下に向かって大地を環繞し、形状は好像一根の斜倚の木杵の如し:南天極は地平線以下に没入して三十六度、北天極は地平線以上に高出して三十六度、一昼一夜に九十多万里を運転す。古より今に至るまで、その運行は曽て丝毫の偏差有ることなく、もまた曽て分毫の遅滞有ることなく。万物を化生成就するに至るまで、皆この股の剛健の力に憑って神妙に作用を発揮し、従って万物の形体様貌を造就す。若し剛健の功能に非ざれば、絶にこの如くなる能わざりしなり。故に伏羲が最初に乾卦を画く時、取ったはまさに剛健のこの一層の作用を以て象を立てたのである。
效法之謂坤。
上天に效法して生育を承載す。これを便ち「坤」と叫ぶ。
義曰:坤者,順也。夫坤地之道,承天之氣而始終萬物,無所不載,無所不生,皆效天而生育之,故伏羲畫坤之卦,亦皆取效坤順之義而名曰坤。然則必言「成象之謂乾,效法之謂坤」者,蓋萬物之生必由天道剛健,然後成其形象;地道柔順,必得陽氣,然後順其物理。以人事言之,乾則為君之象,坤則言臣之道,天下之事非君不能立,庶政之設非臣不能行也。
「坤」の意思はすなわち柔順。大地の道は、上天の気を承接して以て始を成し終を成して万物を養育し、一物としてその承載を受けざるなく、一物としてそれに由って生出せざるなし。全て皆上天に效法して以て化育す。故に伏羲が坤卦を画く時、もまたこの種の效法順承の義を取り、命名して「坤」と為す。何故に必ず「成象之謂乾、效法之謂坤」を分説するかに至っては、万物の産生は、必ず先ず天道の剛健有りて、初めて形体物象を凝成し得。而して地道は柔順にして、もまた必ず陽気を得て、初めて万物の理を順遂し得。若し人事を拿って比配せば、乾は便ち君主の象徴、坤は便ち臣下の職分:天下の大事は、君主なくんば従って確立するなし。各種の政務は、臣下なくんば従って推行するなし。
極數知來之謂占。
蓍策の数を窮究して以て未来を預知す。これを便ち「占」と叫ぶ。
義曰:夫大《易》之道,總包天地,動賾鬼神,天下之事不言而自知,吉凶之道未萌而先見,皆聖人以蓍象之數占其事物之理,逆知來事之意,考其行事之驗,以成其文也。故下文所謂「將有為也,問焉而以言,其受命也如響」,此之謂也。
《周易》のこの套の道理は、天地を整個包挙して其の内に入れ、幽深難見の処と鬼神の作用とに感通し得、天下の事は开口せずして自然に明了し、吉凶の走向はまだ萌芽せざるに先に看見し得。これらは皆聖人が蓍草と卦象の得る所の数に憑り、事物の内在の道理を占測し、予め将来の動向を推知し、再び実際の行事の応験を核対し、これらを写して卦爻辞と成したものである。故に下文に「将に為す所有らんとして、蓍亀に発問して以て言辞を求教すれば、それは詢問を接受して回声の如く立刻に応答す」と言う。指すはまさにこの事である。
通變之謂事。
変化を通暁して勢いに順って推行す。これを便ち「事」と叫ぶ。
義曰:夫暑徃則寒來,陽生則陰伏,物之所以理,事之所以通,生而後滋,周而復始,皆自於變化之力也。故黃帝通其變,使民不倦,神而化之,使民宜之,《易》窮則變,變則通,通則久,是皆自通變之道,然後成天下之事也。
暑気は過去せば寒気は便ち来り、陽気は生発すれば陰気は便ち潜伏す。万物が各々その理を得る所以、事情が通行し得る所以、生出した後また不断に滋長し、一周は結束して又重新開始するは、これらは皆変化の力量より出ず。故に《繋辞下》に黄帝の「通其変、使民不倦、神而化之、使民宜之」を講ず――彼は事物の変化を会通し、百姓をして困頓を感ぜしめず、神妙の方式を以て潜移默化し、百姓をして各々その宜しきを得せしむ。また《周易》の道理は窮尽の処に走れば便ち変じ、変ずれば便ち通達し、通達すれば便ち長久し得と言う。これらは皆先に通変の道を掌握して、然る後に初めて天下の事功を成就し得る。
陰陽不測之謂神。
陰陽往来の作用は深微にして測度し難し。これを便ち「神」と叫ぶ。
義曰:夫萬物之生,皆由天地陰陽之功以生成之。然生成之道,周而復始,極而復生,不言而信,不疾而行,以至變化之理及究其生育之形,不可得而知也。
万物の産生は、皆天地陰陽の功用に靠って化生成就す。しかしこの種の化生の道は、一周は結束して又重新開始し、極処に走って又重新萌生す。それは一言を発せずして万物は自然に信従し、それが急促奔走するを見ずして到らざる処なし。其中の変化の原理、および万物の成形の過程を推究するに至っては、人は終竟完全に知暁し得ない――この種の深微莫测を、便ち「神」と叫ぶ。
繋辞上・夫易広矣大矣
夫《易》廣矣大矣。
《周易》の涵蓋する所の道理は、既に広博無辺にして、又宏大無極なり。
義曰:自此已下至「易簡之善配至徳」為一章,此十翼之中第六章,贊明大《易》之道至廣而至大也。夫《易》變化極於四達,是「廣」矣;窮於上天,是「大」矣。故下文云「廣大配天地」是也。
胡瑗按:ここより往下、「易簡之善配至徳」の一句に至るまで止まるは、合して一章と為し、十翼中の《繋辞上》の第六章で、以て《周易》の道の既に広博にして又宏大なるを讃美闡明す。《周易》の講ずる変化は、四方に向かって伸展して尽頭に至る。これを「広」と叫ぶ。上に向かって追究して蒼天に至る。これを「大」と叫ぶ。故に下文に「広大配天地」と言うは、まさにこの意である。
以言乎逺則不御。
遙遠の一面に就いて言えば、《周易》の道は推行し開けば阻当せらるる能わず。
義曰:逺者,四逺之外而不御止也。夫大《易》之道至廣而至大,極天地之淵蘊,盡人事之終始,推於天下則天下之事無不備,施之萬世則萬世之事皆可知,窮於四逺則四逺之處不能以御也。
所謂「遠」とは、四方極遠の外に推到しても、また何らそれを拦住し得るなし。《周易》の道は既に広博にして又宏大なり:それは天地の深蔵の奥藴を窮極し、人事の始末を窮尽す。それを天下に推行せば、天下の事は一件としてその涵蓋を受けざるなし。それを万世に施用せば、万世の事は皆それに由って推知し得。一直に四方の尽頭に推到すれば、あの極遠の処もまたそれを阻当し得ざるなり。
以言乎邇則靜而正。
切近の一面に就いて言えば、《周易》の道は沈静無声にして端正偏らず。
義曰:邇謂近也。夫邇近之地,目所可覩,耳所可聞,思慮之所可及之處也。故大《易》之道雖於邇近之間窮理盡性,耳目之所覩,思慮之所及,寂然不見其形,杳然不見其跡,雖邪僻之不能幹,至於幽,至於靜,黙然而得其正者,大《易》之道也。
「邇」とはすなわち近。所謂切近の処とは、眼睛の見得・耳朵の聴得・心思の想得到の範囲である。《周易》の道はたといこのような切近の範囲内に在りて物理を窮究し本性を尽顕するも、しかし耳目の見る所・心思の及ぶ所に就いて看れば、それは寂然無声にして形体を看えず、杳然として尋ね難く踪迹を看えず。縦に邪僻不正の东西あれどもそれを侵擾し得ざるなり。それは極幽の処に深蔵し、極静の処に安定し、黙然無言にして自然に正道に合す――これがすなわち《周易》の道である。
以言乎天地之間則備矣。
整個の天地の間に就いて言えば、《周易》の道は備わらざる所なし。
義曰:言大《易》之道至廣而至大:以言乎遐逺之間,則不可御止;以言乎邇近之處,則其道靜黙;以言乎天地變化之道,則無所不備矣。
これは《周易》の道の既に広博にして又宏大なるを言う:遙遠の一面より看れば、それは推行し開けば阻当する従なし。切近の一面より看れば、それは沈静無声にして存在す。天地間一切の変化の角度より看れば、それは一様として具備せざるなし。
夫乾其靜也専。
乾は静止の時に在りて、専一凝定にして散漫せず。
義曰:乾者,天之用也。夫乾之體至剛至健,一晝一夜凡行九十餘萬里,其剛健之徳也如此。夫然而生育之時,雖純陰用事而坤道承陽之氣以發生萬物,雖當純陰用事之時,而陽氣凝然靜黙,任其専一之道以生於物也。
「乾」とは上天の作用を指す。乾の本体は極めて剛强健動にして、一昼一夜に九十多万里を運行す。その剛健の徳性は便ちこの如し。しかし万物を化育する過程の中に在りて、時としてまさに純陰が令を当たる時有りては、坤道が陽気を承接して以て万物を発生す。たとい純陰が令を当たる時に処するも、陽気もなお依然として凝聚不動・沈静無声にして、それの専一不二の本性を保持し、これを以て万物を生養す。
其動也直。
乾は一旦発動すれば、便ち径直偏らず正大にして歪斜せず。
義曰:直謂正直也。言乾之用,雖未生萬物之時,其靜也専,及其陽氣下降於地以生萬物,其運轉則四時不忒,寒暑無差,剛而得正。
「直」とはすなわち正直。これは乾の作用を言う:まだ万物を生養せざる時に在りて、それは安靜にして専一である。陽気が大地に下降し万物を生養し始むるに及べば、その運転は四季を差錯せしめず寒暑を偏失せしめず、剛健にして而も中正を失わず。
是以大生焉。
まさにこのが故に、乾は初めて広大に万物を生成し得る。
義曰:言天地之道,以其専一至靜之徳運動而不失其正,是以能大生於萬物也。
これは天地の道が、専一にして極静の徳性に憑って発動運行し、又始終中正を失わざるが故に、初めて宏大に万物を生養し得るを言う。
夫坤其靜也翕。
坤は静止の時に在りて、収斂閉合して外に露せず。
義曰:翕者,斂也。夫坤之道凝然在下,承天陽之氣以生於萬物,當陽氣未降之時,則翕斂其氣,閉藏其用也。
「翕」とはすなわち収斂。坤道は凝定して下位に処り、上天の陽気を承接して以て万物を生養す。陽気がまだ下降せざる時に当たっては、それは便ち自己の気を収攏し起し、作用を封蔵して用いず。
其動也闢,是以廣生焉。
坤は一旦発動すれば、便ち開張舒展し、故に能く広被して万物を生育す。
義曰:夫坤之道凝然在下,翕斂其氣,閉藏其用而不動,及其陽氣下降之時,開闢其用,承陽之氣以生於物,是以其生育之道至廣而無限極也。
坤道は下に凝定し、先ずは自己の気を収斂し自己の功用を封蔵して発動せず。陽気の下降する時に及んで、それは初めて自己の功用を開張し、陽気を承接して以て万物を生養す。故にそれの化育する範囲は極めて広大にして、辺際の言うべきなし。
廣大配天地。
《周易》の広博宏大は、以て天地と相配し得べし。
義曰:此已下申明大《易》之道也。言大《易》之道至廣而至大,無所不包,無所不備,上可以配之於天,下可以周之於地,其道至深而至逺也。
ここより往下は、進んで《周易》の道を申説す。《周易》の道は既に広博にして又宏大にして、包み含まざるなく具備せざるなし。上に向かっては蒼天と相匹配し得、下に向かっては整個の大地に周遍し、その義理は極めて深邃・極めて悠遠である。
變通配四時。
《周易》の変化通達は、以て四季と相配し得べし。
義曰:夫《易》之道至幽至賾,惟變所適,生而不絶,周而復始,變通之道無所常定,亦可以配於四時。至如乾坤之道、生殺之理:春則生之,生之不已必夏長之,長之不已必秋成之,成之不已必冬乾之。是四時生殺皆有其時而變通,《易》有變通之理,所以配於四時也。
《周易》の道は極めて幽深・極めて繁賾にして、ただ変化に随って以て合宜の処に走向す。それは化生断えず周して復た始まり、その変通の法に固定不変の常規なし。故に四時と相配し得べし。乾坤の道・生長と粛殺の原理を就拿て言えば:春天は万物を萌生せしめ、萌生やまざれば夏天に至って必然にそれを生長せしめ、生長やまざれば秋天に至って必然にそれを結実せしめ、結実やまざれば冬天に至って必然にそれを干枯収蔵せしむ。見れば四季の生養と粛殺は各々その時序ありて又互相推移変通す。《周易》も同様に変通の理あり。故にそれを拿って四時と相配す。
陰陽之義配日月。
《周易》中の陰陽相対の義理は、以て日月と相配し得べし。
義曰:夫《易》之中有陰陽,猶乾坤之有日月。夫日者是至陽之精,照於晝而為明;月者是至陰之精,照於夜而為明。故大《易》之道,變通之理有剛有柔,有陰有陽,猶乾坤之有日月,運其寒暑以成晝夜。
《周易》の裏に陰と陽と有るは、便ち乾坤の間に太陽と月亮と有るが如し。太陽は至陽の気の凝り成る精華で、白昼を照耀して以て光明と為る。月亮は至陰の気の凝り成る精華で、黑夜を照耀して以て光明と為る。故に《周易》の道は、その変通の原理に剛あり柔あり・陰あり陽あり、まさに乾坤の間に日月両曜ありて、寒暑往来を推動して以て昼夜交替を形成するが如し。
易簡之善配至徳。
《周易》の平易簡約この一長処は、以て天地の最高の徳性と相配し得べし。
義曰:夫大《易》之道,包含萬象,至纎至悉,無所不載,然而其道簡易,不尚煩勞,可以配天地之至徳也。
《周易》の道は万象を包羅し、細致入微にして載せざる所なし。しかしその法則は却って平易簡約にして、繁瑣労費を崇尚せず。まさにこのが故に、初めて天地のあの自然而然・労せずして成る最高の徳性と相配し得べし。
繋辞上・子曰易其至矣乎
子曰:《易》其至矣乎!
孔子曰く:《周易》の講ずる道理は、大概すでに極致に到達せりや。
義曰:此已下至「成性存存,道義之門」為一章,此讚美《易》道至大至廣也。
胡瑗按:ここより往下、「成性存存、道義之門」の一句に至るまで止まるは、合して一章と為し、《周易》の道の既に宏大にして又広博なるを讃美す。
夫《易》,聖人所以崇徳而廣業也。
《周易》とは、聖人が以て自己の徳性を推崇提昇し自己の功業を拡大する憑藉である。
義曰:夫大《易》之道至廣而至極,上可以括天之髙明,下可以包地之博厚,聖人用之,可以增崇其至徳,廣大其功業也。
《周易》の道は既に広博にして又極致に達す:上に向かっては能く蒼天の高遠光明を囊括し、下に向かっては能く大地の深厚広博を包容す。聖人はそれを運用せば、便ち不断に自己の徳性の境界を抬高し、不断に自己の事功の規模を拡展し得。
知崇禮卑。
智慧は天の如く高遠なるべく、礼节は地の如く卑下なるべし。
義曰:夫萬物之理、萬事之原,不能出於聖人之知;然聖人之知必由禮而修飾之。故知崇則如天之高,至貴而人莫能及;故禮卑如地之下,至而人不能出。是至崇者不能及於知之髙,至卑者不能出於禮之用也。
万物の道理・万事の根源は、皆聖人の智慧の外に跳出す能わず。しかし聖人の智慧は、又必ず礼に靠って以て約束修飾を加えねばならず。故に智慧の高きは、便ち天の如く高く攀づべからず、尊貴にして企及し得る人なし。礼节の卑きは、便ち地の如く最下に処り、鋪展してその範囲を走出し得る人なし。これはすなわち言う:再び高きものも聖人の智慧より高からず、再び低きものも礼の作用を逃出で得ず。
崇效天,卑法地。
高き一面は天に取法し、卑き一面は地に取法す。
義曰:言聖人之知崇而上效於天,禮卑而下法於地。知以幽逺為上,則為崇;禮以卑退為本,故為卑也。
これは聖人の智慧は高遠にして上に向かって天に取法し、聖人の礼节は謙卑にして下に向かって地に取法するを言う。智慧は深幽悠遠を以て上乘と為す。故に「崇」と称す。礼节は謙卑退譲を以て根本と為す。故に「卑」と称す。
天地設位,而《易》行乎其中矣。
天は上に在り地は下に在り、位置は一旦確立せば、《周易》の道理は便ちこの上下の間に在りて運行不息す。
義曰:夫天以純陽之氣積於上,地以柔陰之氣積於下。天地初判,二位既設,則大《易》之位、萬物之情以行於天地之間矣。
天は純陽の気に由って上に積聚し、地は柔陰の気に由って下に積聚す。天地が剛く分判し開け、上下両個の位次が一経確立せば、《周易》の講ずる爻位の法則と万物の実情は、便ち天地の間に在りて運行し起る。
成性存存,道義之門。
本性を成就して万物の性を長存絶えざらしむれば、これがすなわち道義の由って出入する門戸である。
義曰:性者,天所稟之性也。存存者,不絶之貎也。夫人稟天地之善性,至明而不昏,至正而不邪,至公而不私。若能觀天之性而成就己之性,則可以生成於天下,以盡萬物之性,使萬物之性存存而不絶,而道義之門自此塗而出也。
「性」は上天が人に賦与する本性を指す。「存存」は接続不断・始終保存する樣子。人の禀受する所の天地の善性は、本来極めて清明にして昏昧ならず、極めて端正にして邪僻ならず、極めて公正にして偏私ならず。もし能く上天の賦する所の性を観察し、従って自己の本性を成就せば、便ち能く天下を生養し、万物各自の本性を窮尽し、万物の性を接続保存して断絶せざらしむ。道義の門戸も、便ちこの条の路上より敞開す。
若夫不能觀天之性以正己之性,則於邪佞而放僻之事從而至矣。如是,則不能成其道義之門,不能開通其物。故此大《易》之道凖擬於天地,至公至正,無私無曲,成其治性之道存存而不絶,成其道義之門,為人之所出入而取法也。
かえって言えば、もし能く上天の賦する所の性を観察して以て自己の本性を端正せざれば、さらば奸邪諂佞・放縦乖僻の事は便ち接踵而至する。こうなれば、道義の門戸は便ち建成し得ず、万物もまた開導貫通せられ得ざるなり。故に《周易》の道は天地を以て準則と為す:極公正・極端正にして、偏私なく曲折なし。それはあの套の本性を修治する方法を成就し、それを接続絶えざらしめ、便ち道義の門戸を建成し、人の出入取法に供す。
繋辞上・聖人有以見天下之賾
聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜。
聖人は弁法有りて天下万物の幽深難明の実情を窺見し、ここに卦爻を以てそれらの形貌情状を比擬し、卦象を以て各自の宜しき所の分際を象徴す。
義曰:自此已下至「負且乗,致寇至,盜之招也」為一章。注以謂至「其臭如蘭」,則非也。上既言《易》道變化神理不測,此又明聖人見天下之賾,以成萬物之形象也。賾者,幽賾也,人之難見者也。
胡瑗按:ここより往下、「負且乘、致寇至、盗之招也」の一句に至るまで止まるは、合して一章と為す。旧注はこの一章を「其臭如蘭」に至るまでに断つるは、正しくない。上文はすでに《周易》の変化神妙・義理難測を講じたれば、此処は進んで聖人が如何に天下の幽微の実情を窺見し、従って万物の形貌卦象を造り出すかを説明す。所謂「賾」とは、すなわち幽深繁雑の処で、人の容易に看清し得ざるものである。
言聖人推測天下之幽賾,以擬度萬事之理,以凖擬萬物之形容,以象萬物之所宜,使皆各得其宜,各順其性。至如剛之理則擬乾之形容,柔之理則擬坤之形容,艮之性則言其止,震之性則言其動,陽物則言其剛,陰物則言其柔。若泰卦則言泰之形容,象其泰之物宜;若否卦則言否之形容,象其否之物宜。其六十四卦之中皆有所象矣。
これは聖人が天下の幽深難明の処を推究測度し、以て万事の道理を揣度し、以て万物の形貌を比擬し、以て万物各自適宜の分際を象徴し、それらを皆各々その所を得各々その性に順わしむるを言う。譬如剛強の一類に属する道理は、便ち乾の形貌を以て比擬し、柔順の一類に属する道理は、便ち坤の形貌を以て比擬す。艮の性質は静止なれば、便ちその止を講じ、震の性質は振動なれば、便ちその動を講ず。陽に属する事物は便ちその剛を講じ、陰に属する事物は便ちその柔を講ず。《泰》卦の如きは、便ち通泰の情状を描摹し、通泰の時の宜しき所の事を象徴す。《否》卦の如きは、便ち閉塞の情状を描摹し、閉塞の時の宜しき所の事を象徴す。六十四卦の当中、毎一卦皆各々象る所有り。
是故謂之象。
故にこの一套を把って「象」と叫ぶ。
義曰:此已上結成卦象之義也。夫言聖人因擬度萬物之形容,以象萬物之所宜,是故謂之象。象者,即文王所作彖辭,以明一卦之象也,則謂之象。然六十四卦之中皆謂之象,故前章云「卦者,言乎其象也」。是言聖人因推測天下之理,以明萬物之宜,故謂之象也。
以上は卦象の意義を收結す。説く所は聖人が万物の形貌を揣度し万物の宜しき所を象徴する做法に依るが故に、それを「象」と称す。此処の「象」は、文王の作った彖辞を指し、以て一卦整体の象を説明す。故に「象」と称す。而して六十四卦の毎一卦は皆象と称し得。故に前面の一章に「卦とは、一卦の象に就いて説を立てる」と言う。見ればこれは聖人が天下の理を推究するに憑って以て万物の宜しき所を闡明するを言う。故にこれを「象」と叫ぶ。
聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮。
聖人は弁法有りて天下万事の変動を看清し、ここに其中の会合貫通の処を観察し、これに拠って常法と礼制を推行す。
義曰:動謂變動也,會,合也,通謂通變也。言聖人觀此諸卦爻之變動,明其吉凶得失之要,以觀天地萬物會合變通之事,其有合於理、通於道者,則為之常禮而行之;其有悖於理、違於道者,則舍而去之。是聖人明六十四卦動靜之理、變通之事,合其典禮者也。
「動」は変動を指し、「会」は会合、「通」は変通を指す。これは聖人が各卦各爻の変動を観察し、其中の吉凶得失の關鍵を弄清し、これに拠って天地万物の会合と変通の種種の情形を考察することを言う:およそ義理に合乎し正道に通ずるは、便ちそれを常行の礼法と定めて以て推行し、およそ義理に違背し正道に偏離するは、便ちそれを舎棄して用いず。これがすなわち聖人が六十四卦の動静の原理・変通の情形を明白にし、従ってそれを典章礼制と相合せしむるなり。
繋辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。
卦爻の下面に文辞を繋げて以て吉凶を判定す。故にこの一套を把って「爻」と叫ぶ。
義曰:夫六十四卦有剛有柔,有變有動,會合於典禮者則為吉,不會合於典禮者則為凶,然而其義幽微,常常之人不能明曉耳。是以聖人於諸卦諸爻之下各繋屬其文辭以解釋之:若陽居陰位則言其吉,若陰居陽位則言其凶;或近而相得則言其吉,或逺而不相比則言其凶;或居泰之時而行君子之事則吉,或居夬之時而行剛壯之道則凶。
六十四卦の中に剛爻あり柔爻あり、変あり動あり:能く典章礼制と相合するは便ち吉、相合し得ざるは便ち凶。しかしこの層の意思は幽深細微にして、尋常の人は看明白し得ざるなり。故に聖人は各卦各爻の下に、分かちて文辞を繋げて以てそれを解釈す:陽爻が陰位に居れば便ちそれを吉と言い、陰爻が陽位に居れば便ちそれを凶と言い、両爻が相隣して彼此投合すれば便ちそれを吉と言い、両爻が相遠にして比附する従なければ便ちそれを凶と言い、《泰》卦通泰の時に処りて君子の為すべき事を做せば便ち吉、《夬》卦決断の時に処りて一味に剛猛の道を用いれば便ち凶。
是皆觀天下之變動,合剛柔之常理,而繋屬其辭,以斷定其吉凶之效也,是故謂之爻。爻者,效也,效諸物之變動,明萬事之常理,得其正者為吉,失其位者為凶,是吉凶之效自爻之動靜而見也。故上章云「爻者,言乎變者也」。
これらは皆聖人が天下の変動を観察し、剛柔消長の常理に配合し、従って文辞を繋げ、以て吉凶の応験を断定したもの。故にこれを「爻」と称す。「爻」の意思はすなわち「効」、即ち仿効:事物の変動を仿効し、万事の常理を闡明し、その正位を得るは便ち吉、その位次を失うは便ち凶。見れば吉凶の応験は、まさに爻の動静の上より顕現し出る。故に前面の一章に「爻とは、変動に就いて説を立てる」と言う。
言天下之至賾而不可惡也。
《周易》は天下最も幽深繁雑の実情を道尽すれども、人をして厭悪の心を生ぜしめざるなり。
義曰:此覆說上文聖人見天下之賾也。夫小人之性為讒為諂,常有害君子之心。然君子之人凡所作事,使小人不得間而窺,不得伺而疑,故所行之事坦然而行,小人不能以惡忌也。
これは回頭して上文の「聖人見天下之賾」を申説す。小人の本性は讒言を進めるを好み諂媚を行うを好み、常に君子を加害する心思を存す。しかし君子の事を做すは、総じて小人をして窺探する縫隙を抓得ず、猜疑する破綻を找得ざらしむ。故に彼の行う所の事は坦坦蕩蕩に推行し、小人も便ち従って彼を憎恨忌恨するなし。
故大《易》之道,廣之如地,高之如天,君子小人之道無不備載於其間。然雖有黜小人之辭,然無心専在於小人,但人事得失皆備言之,故雖小人之心亦不能惡大《易》之道也。
同様に、《周易》の道は大地の如く広博にして蒼天の如く高遠にして、君子の道と小人の道と完備に其中に記載せざるなし。それは虽小人を斥退する辞句有るも、併せて存心に専門に小人を針對するに非ず、ただ人事の得失を一一説き尽くすのみ。故にたとい小人の心理なるも、もまた《周易》の道を憎悪するとは説き上がらざるなり。
言天下之至動而不可亂也。
《周易》は天下最も紛繁の変動を道尽すれども、攪乱せらるることなし。
義曰:此覆說上文聖人見天下之動也。夫天下之動,吉凶是非、奸邪情偽莫不錯雜於其間,既奸邪情偽錯雜於其間,則天下從而亂矣。今此大《易》之道亦無心於聖人,惟天地之通變、人事之終始有會合於典禮者則為吉,悖亂於常道者則為凶,其文皆散在諸爻之下,以明變動之理,雖小人之情偽亦不能錯雜而紛亂之。
これは回頭して上文の「聖人見天下之動」を申説す。天下の一切の変動の中に、吉と凶・是と非・奸邪と虚偽、交錯混雑せざるなし。既に奸邪虚偽が其間に混雑せば、天下も便ちこれに随って混乱す。しかし《周易》の道は併せて聖人の一方に偏向せず、それはただ:およそ天地の変通・人事の始末、およそ典章礼制に合するは便ち吉と断じ、およそ常道に違背するは便ち凶と断ず。これらの判断の文辞は分散して各爻の下に繋がれ、以て変動の道理を闡明す。故にたとい小人のあの虚偽の伎倆なるも、もまたそれを攪り乱す能わざるなり。
擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化。
先ず反復比擬斟酌して然る後に口を開き、先ず仔細議論権衡して然る後に行動す。こういう擬と議とに靠って、初めて事物の変化を成就し得。
義曰:「擬之而後言」者,此覆說上文「天下之至賾而不可惡」也;「議之而後動」者,此覆說上文「天下之至動而不可亂」也。言聖人觀天下之運動,明人事之得失,一言之出必深思逺慮然後行之。
「擬之而后言」とは、回頭して上文の講ずる所の「天下之至賾而不可悪」を申説す。「議之而后動」とは、回頭して上文の講ずる所の「天下之至動而不可乱」を申説す。意思は:聖人は天下の運行変動を観察し、人事の成敗得失を弄清し、およそ一言を出すに、必定深思遠慮の後に初めて実行に付す。
何哉?蓋言之有善有不善,若擬而出之,則其言必善;若不擬而出之,則其言或有不善。必須擬而出之,則言滿天下無口過,故云。夫人動靜之間亦須合於道,若議論而動之,則無悔吝矣;若不議論而動之,則悔吝有時而至焉;若議而動之,雖行滿天下,亦無怨惡也。
何を為すか。話に説き妥当なる有り、もまた説き不妥当なる有るが故である。比擬斟酌を経て然る後に口を出せば、話は必定妥当なり。比擬を経ずして脱口而出すれば、話は便ち不妥なり得。必ず斟酌の後に初めて説きて、こうして初めて言論が天下に伝遍しても口舌の失なからしめ得。故に経文は初めてこのように講ず。人もまた一動一静の間に必ず道に合せねばならず:先ず議論権衡を経て然る後に行動せば、便ち悔恨と遺憾あらざるなり。議論を経ずして贸然に行動せば、悔恨遺憾は遅早必ず上門して来る。もし能く議して後に動けば、たとい行迹が天下に遍及するも、怨恨を招来せざるなり。
若能言動之間,擬之而後為,議之而後行,則深思逺慮久而必精,則可以通天下之變化,為天下之法則者也。
もし言語と行動の間に於いて、皆能く先ず比擬斟酌して然る後に去做し、先ず議論権衡して然る後に去行せば、さらば深思遠慮は久しくなるに及んで必定精熟し、便ち天下の一切の変化を会通し得、天下人の共同に遵循する法則と成り得。
「鳴鶴在陰,其子和之;我有好爵,吾與爾靡之。」
《中孚》九二の爻辞に曰く:仙鶴が山北の幽暗の処に鳴く、その雛鶴は遠処に在りて声に随って応和す。我に一杯の好酒あり、願わくは汝と共同に分饗せん。
義曰:上既言擬議於善則善應之,擬議於惡則惡應之,是猶鳴鶴之在陰,其同類者必相應之也。夫「鳴鶴在陰」者,此《中孚》之卦九二之爻辭也。夫《中孚》之九二上應於九五,當《中孚》之時,二五以至誠相應,用心不私,然雖為六三六四以陰柔間廁於其間,進無所適,退無所遇,二五雖不得相,然至誠相待,終得其應,此《中孚》之時卦象之如此也,是猶鳴鶴之在幽陰之中而聲聞於外,其子從而和之也。
上文は既に言う、およそ事は比擬議論を経て善に趨れば、善の回応は便ち到来し、比擬議論して悪に趨れば、悪の回応も亦た到来す。これは好比仙鶴が幽暗の処に在りて鳴けば、同類は必然に声に応じて相和す。引く所の「鳴鶴在陰」は、《中孚》卦九二の爻辞である。《中孚》九二は上に向かって九五と相応じ、中孚の時に処り、二と五とは至誠を以て彼此感応し、用心は毫も私曲なし。虽六三・六四の両個の陰爻が中間に夾まりて阻隔し、九二をして進めば往くべき処なく退けば遇うべき人なく、二と五とは一時直接相接し得ざるも、しかし至誠相待に憑って、最終には依然として呼応を得る。これがすなわち中孚の時の卦象の顕示する情形で、まさに仙鶴が幽暗の中に在りて鳴きて声音は外面に伝わり、その雛鶴は便ち声に随って応和するが如し。
「我有好爵,吾與爾靡之」者,亦是言至誠相待之故也。夫美好之爵,不自獨有,宜與爾同類之人共分而靡之,是言結之深,用心不私,至公至正也。然此引而證之者,葢明聖人之言行當擬議而行之,言之善者則善者應之,言之惡者則惡者應之。
「我有好爵、吾与爾靡之」とは、同様に至誠を以て相待することを講ず。美好の酒爵を独自占有せず、理応に汝この同類の人と共同に分饗すべし。これは彼此結交の深く、用心に毫も私意なく、極めて公正無偏なるを言う。孔子がこの両句を引いて以て証と為すは、聖人の言語行為は當に先ず比擬議論を経て再び施行すべきを説明せんと欲するがためである:説く所の話が善なれば、善の回応は便ち来り、説く所の話が悪なれば、悪の回応も便ち来る。
子曰:「君子居其室,出其言善,則千里之外應之,況其邇者乎?」
孔子曰く:君子は自己の屋裏に安居して、説き出す話が美善なれば、千里の外の人も皆彼に響応す。いわんや近旁の人をや。
義曰:此孔子因言聖人之言,出於其近以行於逺,出於其內以及於外,出於其身以行於人也。故君子之人凡居其室,出一善言,可以為天下之法,可以興天下之利,雖千里之逺而人皆從之,況於邇近之人乎?
これは孔子がこれに借りて説明する:聖人の言論は、近処より発出して遠方に流行し、内室より発出して外界に波及し、自身より発出して他人に施行す。故に君子は屋中に安居して、ただ一句の美善の話を説き出せば、便ち天下の取法する準則と為り得、天下の利益を興起し得。縦に千里遠隔なるも、人々も皆彼に追随す。いわんや身辺近処の人をや。
「居其室,出其言不善,則千里之外違之,況其邇者乎?」
「君子は屋中に安居して、説き出す話が美善ならざれば、千里の外の人も皆彼を背離す。いわんや近旁の人をや。」
義曰:言君子之人凡居其室,出一言不善,則不可為天下之法,不能除天下之害,不能興天下之利,則千里之人皆違而不從之,況邇近乎?
これは君子が屋中に安居して、ただ一句の不美善の話を説き出せば、便ち天下の取法する準則と為り得ず、天下のために禍害を除去し得ず、天下のために利益を興起し得ざるを言う。さらば千里の外に遠在の人も皆背離して彼に追随せず。いわんや身辺近処の人をや。
「言出乎身,加乎民;行發乎邇,見乎逺。言行,君子之樞機。」
「話は自身より説き出せば、便ち百姓に加わる。行為は近処より発動せば、便ち遠方に顕現す。言と行とは、君子の最も關鍵の枢紐と機括である。」
義曰:樞者,戶樞,司其通塞之道;機者,弩牙,主其矢之中否也。夫言戶樞之發,或明或暗,主其通塞之道;弩牙之發,或中或否,主其發矢之中,猶君子之人言行有善有不善者也。
「枢」は門軸で、門戸の開合通塞を掌管す。「機」は弩機の上の牙で、射出す箭の中る中らざるを決定す。門軸が一転すれば、或いは室内を明亮せしめ或いは室内を昏暗せしめ、通と塞とを掌管す。弩牙が一発すれば、或いは射中し或いは射中せず、箭矢の命中し得否を決定す。これはまさに君子の言行に比ゆ。美善なる有り不美善なる有るが如し。
夫君子之言行,出之於身,行之於外,自邇而及逺,由中而及外。若發而為善,則天下從而法則之;若發而不善,則天下從而違去之。是言行之出為命為令,有得有失,若尸樞之主通塞,猶弩牙之有中否,中則為天下之榮,否則為天下之辱,是言行者君子之樞機也。
君子の言行は、自身より発出し、外界に施行し、近処より推及して遠方に及び、内心より推及して外物に及ぶ。発出して来るが美善なれば、天下人は便ち跟って取法す。発出して来るが不美善なれば、天下人は便ち跟って背離す。見れば言行は一旦口を出れば便ち政命号令と成り、其中に得有り失有り、便ち門軸が開と合を掌管するが如く、弩牙が中と不中を決定するが如し:中れば便ち天下の栄耀、中らざれば便ち天下の耻辱である。故に言う、言行は君子の枢紐と機括なりと。
「樞機之發,榮辱之主也。」
「枢紐機括は一経発動せば、栄耀或いは耻辱は便ちここに由って決定す。」
義曰:言行者本由君子之出,發之中與不中,是榮辱之主也。
言と行とは本来皆君子が自己に発出す。発出の後の合宜なるか否かは、まさに栄耀と耻辱の決定因素である。
「言行,君子之所以動天地也,可不慎乎?」
「言と行とは、君子が以て天地を感動するもの。何ぞ慎重ならざるを得んや。」
義曰:夫君子之言行有善有不善,必當思慮之。若思之不精,慮之不深,則言之不善矣,善與不善皆動之於天地也。故《書》曰「天聰明自我民聰明,天明威自我民明威」,言天體雖髙而下聽於卑矣。
君子の言行に美善なる有り不美善なる有るが故に、故に必ず仔細に思量せねばならず。もし思考精ならず考慮深からざれば、説き出す話は便ち不妥当なるなり。而して妥当か否かを論わず、皆天地を感動す。故に《尚書・皋陶謨》に曰く:「上天の視聴は、我が百姓の視聴を通じて以て体現せらる。上天の賞罰威厳も、亦た我が百姓の褒貶を通じて以て体現せらる。」これはすなわち言う、天体は虽高高在上なれども、却って身を俯せて下面の卑微の民意を傾聴す。
夫君子之言善,則為號令以除天下之害,以興天下之利,天下之人和樂而從之。民既和之,則善聲動於天;善聲動於天,則上天降其福。若言之不善,不能興天下之利,不能除天下之害,則天下之人嗟怨而不從之;天下之人既嗟怨而不從之,則怨氣瀆於天;怨氣瀆於天,則上天降之以禍。是君子之言行出則動乎天地,必當精心而致思之,可不戒慎乎?
君子はもし言語美善なれば、便ち化して政令と為りて天下の禍害を去除し天下の利益を興起し得、天下人は便ち和睦歓悦して彼に追随す。百姓は既に和悦せば、美善の声は便ち上に感じて天に達し、美善の声が上に天に感ぜば、上天は便ち福祥を降下す。これに反せば、もし言語不美善なれば、既不能く天下の利を興さず、又天下の害を除く能わず、天下人は便ち嘆息怨恨して追随を肯んぜざるなり。天下人は既に嘆息怨恨して追随せざれば、怨気は便ち上に衝して天に達し、怨気が上に天に衝せば、上天は便ち災禍を降下す。見れば君子の言行は一旦発出せば便ち天地を感動す。必ず専心致志に反復思量し、何ぞ戒懼謹慎ならざるを得んや。
「同人先號咷而後笑。」
《同人》九五の爻辞に曰く:人と和同する過程の中に、先ずは声を放ちて痛哭し、後に却って転じて歓笑と為る。
義曰:此是《同人》九五之辭。言《同人》之九五下應於六二,然有九三九四為己之寇難,六二以至誠相待,雖為三四寇難,終得為正應也。然此引之者,凡《易》之辭有理義未盡者,孔子復引而明之。言《同人》之九五始為三四寇難,不得與二為應,是先號咷也;然二五至誠相應,終得遇,是後笑也。故因此言行陳其至誠之道,故引以為義也。
これは《同人》卦九五の爻辞である。九五は下に向かって六二と相応ずるも、九三・九四が中間に横たわりて、その阻難と成る。六二は至誠を以て相待し、虽三・四に阻まるるも、終竟は正応を成就す。孔子がこの一句を引くは、《周易》の辞句は時として義理が未だ説き尽くさざる有るに因り、彼は便ち再び引き出して以て闡明を加える。九五は起初三・四に阻まれて、六二と相応じ得ざる。これがすなわち「先号咷」。後に二と五とが至誠を以て相応じ、ついに会合す。これがすなわち「后笑」。故に孔子は言行を講ずるに借りて、以て至誠の道を陳述し、初めてこの句の爻辞を引いて以て義理を発明す。
子曰:「君子之道,或出或處。」
孔子曰く:君子の立身処世の道は、或いは出仕して事を任じ、或いは退隠して自ら守る。
義曰:夫君子之人懷才抱道,有經邦濟世之才,若遇其時、遇其君,則進登王者之朝以濟天下之民,故曰或出;若不遭其時、不遇其君,則守其至正之道,待時而動,故曰或處。
君子は才干と道術を懐蔵し、国を治め世を救う能力を具備す:もし合適の時勢に碰上し合適の君主に遇合せば、便ち王者の朝堂に進入し、去って天下の百姓を救助す。これがすなわち「或出」。もし合適の時勢に碰上せず合適の君主に遇合せざれば、便ち極端正の原則を固守し、時機を等待して再び行動す。これがすなわち「或処」。
「或黙或語。」
「或いは沈黙して言わず、或いは口を開きて発言す。」
義曰:夫君子之人凡居於室,不可以妄語,但寂然不言,黙然不語;或當可言之時,必精思而慎慮之,然後可言也。夫如是,雖言滿天下無口過,行滿天下無怨惡,使天下之人莫不恱而從之,而其心一歸於大中之道也。
君子は家中に平居して随口乱説すべからず、ただ安靜に声を出さず沈黙に議論を発せず。話すべき時に到れば、もまた必定先ず精細思考・審慎権衡して、然る後に初めて口を開く。能くこの如くなれば、たとい言論が天下に伝遍するも口舌の失あらざらんとし、行迹が天下に遍及するも怨恨を招来せざらんとし、天下人をして心悦誠服して追随せざるなからしめ、而して人心も亦た一斉に不偏不倚の中正の道に帰向せしむ。
然則君子之人,同類相應,同心相得,不必同其道然後言之。至如禹稷事於堯朝,憂天下之飢如己之飢,憂天下之溺如己之溺;又顏子一簞食,一瓢飲,在陋巷,人不堪其憂,孟子謂禹稷顏回同道;又如箕子佯狂殷紂,子去之,比干諫而死,是皆其心異而其道同也。惟君子之言必當擬而後言,議而後動,則語黙出處自然合於道矣。
ただし君子の間は、同類は自然に相応じ、同心は自然に相契し、併せて完全相同の路子を走らねば初めて一致と談じ上げるに非ず。譬如大禹と后稷とが尭の朝廷に任事するに、天下人の飢餓を擔憂するは自己の飢餓の如く、天下人の溺水を擔憂するは自己の溺水の如し。而して顔回は一竹筐の飯・一瓢の水、陋巷の裏に住して、別人はあの份の清苦に受け堪えず、彼は却って安然として自ら楽しむ――孟子はこれに因って禹・稷と顔回とは同一条の道を走ると言う。又如箕子は殷紂の世に在りて瘋癲を仮装し、微子は出走を選擇し、比干は進諫して殺せられ、三人の做法は各々異なるも守る所の道は相同じ。ただ君子が説話に先ず比擬を経て行動に先ず議論を経れば、さらば或いは語り或いは黙し、或いは出で或いは処り、自然に皆能く道に合す。
「二人同心,其利斷金。」
「両個人の心意相同なれば、あの份の鋒利は金属を斬断するに足る。」
義曰:金者,至堅之物也。夫君子之人推誠以待物,則物以至誠待於己,凡是同心同類之人皆感悅而從之,不必求同於己之道者,但其心一同則可也。至如二人同心,合謀共慮,成天下之能事,雖至纎至悉之利,亦可以斷截堅剛之金,是同心之人至利者也。
金は最も堅硬の东西である。君子は誠心を以て外物に対待せば、外物も便ち至誠を以て彼に回報し、およそ同心同類の人は皆感動喜悦して帰附す。併せて別人が自己と同一条の路を走るを強求するを須とせず、ただ心意一致せば便ち足る。譬如両個人の心意相同にして、共同に謀劃・共同に思慮して、天下の難事を成就す。あの份の合力は、縦に極細微極精密の鋒刃の利なるも、もまた堅硬の金属を斬断するに足る。見れば同心の人は、その力量は最も鋭利なり。
「同心之言,其臭如蘭。」
「同心の人の説き出す話は、気味芬芳にして蘭草に好像たり。」
義曰:臭者,香氣也;蘭者,香草也。言君子之人既能同心同徳,合謀共慮,吐言發語有馨香之臭氣,如芝蘭之馥郁芬芳,以達於天地之間也。
「臭」は此処に於いては気味・香気を指し、「蘭」は香草である。これは君子は既能く同心同徳し、共同に謀劃・共同に思慮すれば、さらば口を開きて説く所の話は便ち馨香の気を帯び、好像芝蘭の如く濃郁芬芳にして、一直に天地の間にまで飘散すを言う。
「初六,藉用白茅,無咎。」子曰:「苟錯諸地而可矣,藉之用茅,何咎之有?慎之至也。」
《大過》初六の爻辞に曰く:潔白の茅草を以て襯墊と為せば、過咎あらざるなり。孔子曰く:本来东西を直接地上に放てばも亦た可なり。還って茅草を用いて墊せば、何ぞ過咎有らんや。これは謹慎極点に到る。
義曰:自此已下當連上文為一章,註疏以此為第七章之始,非也,當連上文。則是此是《大過》初六之爻辭也。夫《大過》之時,政教陵遲,紀綱廢墜,上下失道,本末衰弱,惟是有大才徳之人過越常分以拯救之。然聖賢之人雖過越常分以拯救天下之事,然居事之始,不可不慎重之,苟不能慎重之,則害於成事而以災其身。
胡瑗按:ここより往下は當に上文に接続し、同じく一章に属すべし。注疏本はここを以て第七章の開頭と為すは、正しくない。當に上文に連ねて読むべし。この一句は《大過》卦初六の爻辞である。大過の時に処り、政令教化は衰敗し、綱紀法度は廃弛し、上下は皆正道を偏離し、根本と枝末とが一同に衰弱し、ただ才徳卓異の人のみが能く常規を超越して以て挽救す。しかし聖賢は即便に常規を超越して天下の事を挽救するも、事の剛く起頭する段階に処りて、格外慎重ならざるべからず。倘若慎重に能わざれば、便ち事の成功を妨害し、かえって自身に災禍を招来す。
夫置器於地,必安全而無傾覆之事,今置器於地,又以潔白之茅薦藉之,是過慎之至也。既過慎之,則安全而無傾覆也。故孔子因論君子擬議其言行,故以此明慎事之始,如置器於地,又藉以白茅,是慎之至也,何咎之有乎?
器物を地上に放れば、本来穏妥にして傾覆せざるなり。いま地上に放ち、還って潔白の茅草を用いて下面に墊す。これは過分に謹慎して極点に到る。既にこの如く謹慎なれば、自ずから穏妥にして傾覆せざるなり。故に孔子は君子の言行に対して先ず比擬議論を加えねばならぬを談論した後に、便ちこの句の爻辞を用いて以て事を做す起頭の時に謹慎すべきを説明す:器物を地上に放ち、還って白茅を墊上げるは、まさに謹慎極点に到る。何ぞ過咎有らんや。
「夫茅之為物薄,而用可重也。慎斯術也以徃,其無所失矣。」
「茅草この东西は本身軽賎なれども、その用途は却って甚だ貴重なり得。こういう謹慎の弁法を一直に推行し下去れば、便ち閃失有るべからざるなり。」
義曰:夫茅之為物雖柔弱菲薄,然祭祀之時必取而為用,以薦藉宗廟之靈,雖為物甚微,然有潔白柔順之質,其用也重矣。聖人因其慎事之始,又取茅之所用之重,以明慎重之術,以此而徃,則無所失。且天過之事尚且如此,況於小小之事乎?
茅草は虽柔弱軽賎なれども、しかし祭祀を挙行する時は必定にそれを取りて以て使用し、それを以て宗廟神霊に供奉する祭品を襯墊す。それは物件として極めて微小なるも、却って潔白柔順の品質を具有し、因って用途は十分貴重なり。聖人は事を做す起頭に謹慎を須とするこの一層に就き、又茅草の用途貴重なるこの一層を取りて、以て慎重に事を行う方法を闡明す:この様に照らして推行し下去れば、便ち閃失あらざるなり。《大過》の如き常規を超越する大事に連れても尚且つ此の如し。いわんやあの細小の事情をや。
「勞謙,君子有終,吉。」
《謙》卦九三の爻辞に曰く:勤労にして而又謙退し、君子は能く善始善終し、吉祥なり。
義曰:此是《謙》卦九三之爻辭也。夫《謙》之九三以陽居陽,在下卦之上,以位言之則居得其正,以身言之則在人臣之極位,上奉於君,下在百官之上,其責至重,其職非輕。是以上則勞謙以事於君,下則勞謙以接於人,不以勤勞為慮,常惟曠官之責。夫如是,是「勞謙君子有終」者也。
これは《謙》卦九三の爻辞である。九三は陽爻を以て陽位に居り、下卦の最上の一爻に処す:爻位に就いて言えば、それは居りてその正を得。身份に就いて言えば、それはすでに人臣の最高の位に居り、上に向かって君主に侍奉し、下に向かって百官の首に位居し、責任は極めて重く職分は軽からず。故に彼は上に向かって勤労謙退を以て君主に侍奉し、下に向かって勤労謙退を以て衆人を接待し、従来労苦を心上に放たず、念々擔心する所はただ尸位素餐・職守に負くのみ。能くこの如くなれば、便ち「労謙、君子有終」なり。
然則必言「君子之終」者何也?夫小人之性亦有謙順之時,然其心易變,朝行而夕改,不能終始而行之。唯其君子之人,慎始至終,有其本末,故云君子終吉也。
然らば何故に必ず「君子有終」を説かねばならぬか。小人の本性も亦た謙恭柔順の時有るが故に、ただ彼は心思が翻覆し易く、早上還ってこのように做し、晚上便ち改むる。始より終に至るまで一貫に堅持し得ざるが故である。唯だ君子のみ、起頭より謹慎して、一直に最後まで貫徹し、本末俱全す。故に君子は初めて終に吉祥を獲得し得と言う。
在古之時,惟周公可以當也。夫周公是文王之子,武王之弟,成王之叔。當周之時而相武王伐紂,一戎衣而天下定。迨夫成王幼弱,己居三公之責,攝天子之位,握天下之重,權位非不尊也,權非不重也,天下非不歸也,而周公盡人臣之忠節,竭人臣之思慮以事於沖君,復制禮作樂,朝諸侯於明堂,天下臣民陶然而歸之。
古人の中に在りては、ただ周公のみがこの句に当たるに足る。周公は文王の児子・武王の弟弟・成王の叔父である。周朝の初創の時、彼は武王を輔佐して商紂を討伐し、一挙に兵を興せば便ち天下を平定した。成王の年幼力弱に到れば、彼は三公の職に身を居り、天子の位を代行し、天下の大権を掌握す:地位を論ずれば尊ならざると謂うべからず、権柄を論ずれば重ならざると謂うべからず、人心を論ずれば彼に帰附せざると謂うべからず。しかし周公は仍旧人臣の忠誠気節を尽くし、人臣の深謀遠慮を竭くし、去って年幼の君主に侍奉した。又礼楽を制作し、明堂の上に在りて諸侯の朝見を接受し、天下の臣民は皆欣然として心を帰した。
然周公之心猶且吐哺握髮以下白屋之士,上盡忠節以奉於君,下盡謙恭以下於人,自古至今未有如周公之徳者也。
しかし周公の心思は仍旧:飯を食らうに口中の食物を吐き出し、頭を洗うに湿髪を握って便ち出でて賓客を接待し、謙卑にあの出身寒微の士人を礼遇した。上に対しては忠誠気節を竭尽して君主に侍奉し、下に対しては極尽謙恭して人の後に居るを甘んじた。古より今に至るまで、誰の徳行も周公に比得るなし。
子曰:「勞而不伐,有功而不徳,厚之至也。」
孔子曰く:勤労にして而自ら誇らず、功有りて而自ら其徳に居らざるは、これは敦厚極点に到る。
義曰:此孔子因言君子勞謙以成功業,又不自矜伐其功、逞已之徳、稱為己善者也。在古之時,惟夏禹可以當也。夫夏禹事於堯舜之朝,洪水滔天,浩浩懐山襄陵,下民昏墊,天下之人物幾魚鱉矣。
これは孔子がこれに借りて説明する:君子は勤労謙退を以て功業を成就するも、自ら功労を誇らず徳行を炫耀せず、好処を自己の頭上に算入せず。古人の中に在りては、ただ夏禹のみが当たるに足る。夏禹は尭・舜の朝廷に在りて任職する時、洪水は滔天して、浩浩蕩蕩として山陵を包囲し丘阜を漫過し、下界の百姓は其中に陷溺し、天下の人は幾ほど皆魚鼈と変成せんとした。
而禹獨以聖人之徳,盡已之力,竭己之謀慮,周行天下,疏河決導,尋源分派,以通水之性,成其功業,天下之人得免魚鱉之患,此禹功之最大者也。自古至今,天下莫有及禹之功者也。
唯だ大禹のみが聖人の徳行に憑り、自己の力気を用い尽くし、自己の謀慮を竭尽し、天下を遍走し、河道を疏濬し壅塞を開決し、水源を探尋し支流を分導し、水性をして暢通を得せしめ、従ってこの番の功業を成就し、天下人をして初めて魚鼈の患に淪るを免れしめた。これは大禹の功績中最も大なる一件である。古より今に至るまで、天下に誰の功労も大禹に趕上せざるなし。
然禹不自以為功,故舜舉之曰:「汝惟不伐,天下莫與汝爭功;汝惟不矜,天下莫與汝爭能。」是大禹不自矜伐其功徳也,此是徳厚至極者也。
しかし大禹は併せて自ら功有りと認為せざるなり。故に舜は彼を称許して曰く:「まさに汝が誇耀せざるが故に、天下に人の汝と功を争うなし。まさに汝が自負せざるが故に、天下に人の汝と能を争うなし。」これの説くはまさに大禹が自らその功徳を誇耀自負せざるなり。これがすなわち敦厚極点に到る。
「語以其功下人者也。」
「これは彼が自己の功労に憑って却って愈益謙卑に人の下に居るを言う。」
義曰:上既言「勞謙君子有終」、「有功而不徳」,故此大《易》之道語說《謙》卦之九三,能以謙順之功卑下於人者也。
上文はすでに「労謙、君子有終」と「有功而不徳」を講じたれば、故に此処の《周易》はまさに《謙》卦九三この一爻を説く所である:彼は能く謙恭柔順の作為に憑って、自己を別人の下に放つ。
「徳言盛,禮言恭。」
「徳性に就いて言えば充盛を要求し、礼节に就いて言えば恭敬を要求す。」
義曰:夫君子之徳以盛為本,苟不盛大之,則不足以為徳,故「徳言盛」者,取其日新之謂也。「禮言恭」者,夫君子之行禮必以謙順為本,以恭敬為先,苟不能恭敬而行之,亦不足謂之禮,故「禮言恭」者,取其恭順之謂也。
君子の徳性は充盛を以て根本と為す。もし盛大に起り得ざれば、便ち徳と称するに足らず。故に「徳言盛」と言う。取る所はまさに前文の「日新之謂盛徳」のあの層の意思である。「礼言恭」に至っては、君子が礼を行うは必定に謙遜柔順を以て根本と為し恭敬を以て先務と為すが故に、もし恭敬に做し到らざれば、もまた礼と称するに足らず。故に「礼言恭」と言う。取る所はまさに恭順のこの層の意思である。
「謙也者,致恭以存其位者也。」
「所謂謙とは、すなわち恭敬を極尽して以て自己の位置を保住す。」
義曰:夫君子之人在人臣之極位,處百官之上,必當盡恭順之節以事於君,懷恭順之誠以接於下,然後可以存乎其位也。若居人臣之極位,在百官之上,不能盡恭順之節以事於君,不能懷恭順之誠以接於下,則不能保其祿位也,必須致恭然後可存其位也。
君子は既に人臣の最高の位に居り百官の上に身を処せば、便ち必ず恭順の礼节を極尽して以て君主に侍奉し、恭順の誠意を懐いて以て属下を接待し、こうして初めて自己の位置を保住し得。これに反せば、人臣の極位に身を居り百官の上に位するも、能く恭順の節を以て君主に侍奉せず、能く恭順の誠を以て属下を接待せざれば、便ち自己の爵禄職位を保ち住めざるなり。故に必ず恭敬を極尽して、然る後に初めてこの位置を守住し得。
「亢龍有悔。」子曰:「貴而無位,髙而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。」
《乾》卦上九の爻辞に曰く:龍の飛ぶこと過度高ければ、悔恨有らん。孔子の解釈に曰く:彼は身份尊貴にして実際の爵位なく、地位高聳にして百姓の帰附なく、賢人は虽下位に在るも来りて彼を輔佐せず。故に一たび挙動有れば便ち悔恨を帯来す。
義曰:上既明謙徳保位,此明無謙則有悔也,故引《乾》卦上九之辭以證之。夫《乾》之上九處一卦之極,過於九五,在窮極之地,是知進而不知退,知存而不知亡也。夫君子之人若能居富貴之位,不自髙亢,執其謙順,則可保其位而獲吉也;若不能謙順,是為亢龍之悔咎矣。
上文はすでに謙徳を以て職位を保住するを闡明したれば、此処は則ち謙ならざれば便ち悔恨を招致するを説明す。故に《乾》卦上九の爻辞を引いて以て印証す。《乾》卦上九は全卦の最上端に処り、すでに九五を超過し、窮尽至極の地に落ち、ただ前進を知りて退譲を知らず、ただ保全を知りて敗亡を知らざる処境である。君子はもし富貴の位に身を居りて自高自大せず、謙恭柔順を堅守せば、便ち位置を保住して吉祥を獲得し得。もし謙順に做し到らざれば、さらば便ち「亢龍」の如き悔恨と災咎と成る。
子曰「貴而無位,髙而無民」者,夫人君之位止於九五,今上九之爻過於九五,失其中道而在窮極之地,是天下之民不與也,故云「貴而無位,髙而無民」者。夫欲率天下之民,莫非有才有位然後可以無悔,今上九已過中道,越於九五,雖居徳位之尊,奈何天下之民皆歸於九五,上九之爻則是髙而無民也。
孔子の「貴而无位、高而无民」と言うは、君主の位次はただ九五に至るまで止まるが故である。いま上九この一爻はすでに九五を超過し、中に居る正道を失い、窮極の地に落ち、天下の百姓は併せて彼を擁戴せざるなり。故に初めて彼が尊貴にして実位なく高聳にして民衆なしと言う。天下の百姓を統率せんと想えば、必ず才干有りて又名位有りて、初めて悔恨を免れ得。而して上九はすでに中道を越過し九五を超出し、虽名分上は依然尊位に居るも、奈何天下の百姓は皆九五に帰向すれば、上九この一爻は自然に便ち高高と上に在りて百姓なしなり。
「賢人在下位而無輔,是以動而有悔也」者,夫天下之賢,患乎不用;既得其用,患乎不才;既有其才,患乎無君;既有其君,即盡忠竭節以事之。今上九之爻過於九五,在窮極無位之地,則是無權之人也。雖天下賢才至眾,但甘於藜藿,處於蒿萊,不輔於上九過亢之人也,是以上九動靜之間,必須有其悔吝也。
「賢人在下位而无輔、是以動而有悔」に至っては、天下の賢者が、起初は任用せられざるを擔心し、任用せられれば、又自己の才具足らざるを擔心し、才具有れば、又明君に遇合せざるを擔心し、一旦明君に遇合せば、便ち忠誠気節を竭尽して去って彼に侍奉するを言う。いま上九この一爻は九五を超過し、窮極にして実位なき処に処り、実際上は権柄なき人である。天下の賢才は虽多しとも、却って寧ろ粗劣の野菜を甘食し荒草の間に隠居して、もまた上九この種の過度高亢の人を輔佐し往くを肯んぜざるなり。故に上九は動くも静まるも論わず、皆悔恨と遺憾を帯来するを免れざるなり。
「不出戶庭,無咎。」
《節》卦初九の爻辞に曰く:自家の門庭を走出せざれば、便ち過咎あらざるなり。
義曰:此《節》卦初九之爻辭也。上既言《乾》之上九不知進退,恃其崇髙之位,生其驕亢之心,以至其道窮極,動有悔吝,此又言聖賢語黙之間必當周宻,故引此《節》卦初九之辭以證之。
これは《節》卦初九の爻辞である。上文はすでに《乾》卦上九の進退を知らざるを講じ、自己の崇高の地位に倚仗して以て驕縦高亢の心を生出し、以て窮途末路に走り至り、一動すれば便ち悔恨有る。此処は進んで聖賢が开口と沈黙の間に於いて必ず周厳縝密せねばならぬを講ず。故に《節》卦初九の爻辞を引いて以て印証す。
夫節之為道,節人之情,防人之慾,禁民之非,止民之偽,天下之所惡聞、人情之所不願者也。凡君子之人為節之道,必當慎重而周宻,不可使人窺覩。若一漏洩其幾,則人之情偽奸詐萬狀叢然而生,壞於成事。如是,則法出而奸生,令下而詐起耳。故君子凡節天下,不可不周宻之,苟能周宻慎重,不露其芒角,使小人不得間而窺,則可免其過咎矣。
節制の道とは、人の情感を節制し人の欲望を防範し百姓の非法の挙を禁絶し百姓の虚偽の行を遏止するは、本来天下人の聴き愛さざる所・人情の情願せざる所の事である。故に君子が節制の道を推行するには、必ず慎重にして周密にして、人をして底細を窺探せしめ得ざらしめねばならず。一旦其中の機要を泄露せば、人々の種種の虚偽奸詐の手段は便ち紛紛として冒出し起りて、已成の事を敗壞し掉す。あのようになれば、法令は剛く頒布せば奸弊は便ち産生し、命令は剛く下達せば欺詐は便ち興起す。故に君子はおよそ天下を節制せんと要すれば、周密に做し到らざるべからず。もし能く周密慎重にして鋒芒棱角を露さず、小人をして窺探する縫隙を抓得ざらしめば、便ち過咎を免れ得。
子曰:「亂之所生也,則言語以為階。」
孔子曰く:禍乱の産生は、往々に言語を拿って階梯と為して一步步に攀爬上る。
義曰:階者,梯階,人之所履也。夫亂之所生也,皆言語以為之梯階。夫君子之人排斥奸邪,創立制度,必當慎其言語,苟言之不慎,則亂之所由矣,是故亂之生皆自言語以為之梯階也。
「階」とはすなわち梯級で、人が一步步に踏上ぐる东西である。禍乱が産生する所以は、皆言語を把って上に攀爬する梯級と為したものである。君子は奸邪を排斥し制度を創立せんと要すれば、必ず自己の言語を謹慎せねばならず。一旦説話不慎なれば、便ち禍乱の由来と成る。故に言う、禍乱の産生は皆言語を以て梯級と為すと。
「君不宻則失臣。」
「君主は能く密を守らざれば、便ち臣子を失去す。」
義曰:夫為臣之道,盡忠竭節以諌於君,成興天下之利,或除天下之害,或斥言奸邪,或指陳僭忒。與君同謀共慮,君不能慎宻,彰露其事,為眾所共聞,則人生嫉妬之心,以至失臣之身也。
臣子を為す本分は、忠誠気節を竭尽して君主に向かって進諫するにある:或いは天下の利益を成就興起し、或いは天下の禍害を除去し、或いは当に面して奸邪の人を斥責し、或いは僭越失度の事を指陳す。臣子は既に君主と共同に謀劃すれば、君主はもし能く慎重に保密せずして、事を張揚し出して衆人皆に知らしめれば、別人は便ち嫉恨の心を生出し、最終にこの位の臣子の性命に連れても皆失い掉らん。
「臣不宻則失身。」
「臣子は能く密を守らざれば、便ち自身に賠上す。」
義曰:夫人慾興天下之利,除天下之害,成一時之功,為萬世之法,以鼎新天下之法制者,必當慎其幾,藏其宻也。苟言行之有虧失,聞之於外,為人之所疾害,則是自害失其身也。
一個人が天下の利益を興起し天下の禍害を除去し、一時の功業を成就し万世の法度を樹立し、従って天下の法制を革新せんと欲せば、便ち必ず其中の機要を謹慎対待し、機密を蔵好せねばならず。倘若言語行事の上に疏漏有りて、外面に聴き去られ、別人の忌恨陷害に遭えば、あれは便ち自己が自己を害し性命を賠上するなり。
「幾事不宻則害成,是以君子慎宻而不出也。」
「機要の事は能く保密せざれば、禍害は便ち形成す。故に君子は機密を慎守して軽易に泄露せざるなり。」
義曰:言君子之人幾宻之事不可不慎。苟一漏洩其幾,為小人之所窺覩,則奸邪互生,情偽交作,害廢於成事,敗壞於法制,如是則天下從而亂矣。是以君子凡立成事、謀議奸邪,不可不為之慎宻,是以君子慎宻而不出也。
これは君子が機要隠秘の事に対して謹慎ならざるべからざるを言う。一旦機要を泄露せば、小人に窺見せられて、奸邪は便ち交相滋生し、虚偽は便ち一斉に興起し、已成の事は破壊廃棄せられ、既定の法制は敗壊毀損せられ、こうすれば天下も便ちこれに随って混乱す。故に君子はおよそ事功を建立し奸邪に対付せんを謀議せんと要すれば、皆慎密に做し到らざるべからず。故に君子は機密を慎守して軽易に口を出さざるなりと言う。
子曰:「作《易》者,其知盜乎?」
孔子曰く:《周易》を撰作した人は、大概盗賊が如何に招来せらるるかを懂得せりや。
義曰:此又言人之愛惡相攻、逺近相取、盛衰相變、情偽相易、釁隙相乗而成寇盜之事,故孔子因言《易》中知寇盜之事乎,故發而問之曰「作《易》者其知盜乎」。
此処に又人間の愛と悪とが互相攻撃し、遠と近とが互相取予し、盛と衰とが互相転変し、真情と虚偽とが互相替換し、嫌隙は人に虚に乗じ入れられて、ここに盗寇の事を醸成するを講ず。故に孔子はこれに借りて《周易》の裏にはすでに寇盗の産生する道理を懂得すと言い、便ち発問して曰く:「《周易》を撰作した人は、大概盗賊が如何に招来せらるるかを懂得せりや。」
《易》曰:「負且乗,致寇至。」
《周易・解》卦六三の爻辞に曰く:本当に东西を背負すべき人が却って大車に坐上して、強盗を招得して前に至らしむ。
義曰:此《解》卦六三之辭也。夫解難之時,承蹇難之後,君子有才有位者則可以釋天下之難。六三之爻以陰柔之質居於陽位,以位言之則不中也,以身言之則不正也。夫以陰柔不中不正之小人而居君子之位,行其諂佞之行,荼毒良民,不可以久居其位,必為盜之所奪,人之所不與焉,故曰「負且乗,致寇至」。
これは《解》卦六三の爻辞である。危難を解除する時に処り、《蹇》卦艱険の後に緊接すれば、君子はもし既に才干有りて又名位有れば、便ち天下のために患難を解開し得。而して六三この一爻は陰柔の資質を以て陽位に居る:爻位を論ずればそれは中に居らず、自身を論ずればそれは正に当たらず。このような陰柔にして又中ならず正ならざる小人を以て君子の位を占拠し、諂媚奸佞の事を行い、善良の百姓を荼毒すれば、能く長久に位置を保住し得べからず。必定に強盗に奪い去られ、もまた衆人の擁護を得ざるなり。故に「負且乘、致寇至」と言う。
「負也者,小人之事也;乗也者,君子之器也。小人而乗君子之器,盜思奪之矣。」
「东西を背負するは、小人の干る差事である。車馬に乘坐するは、君子の使用する器具である。小人が却って君子の車に坐上すれば、強盗は便ち搶奪の念頭を動かす。」
義曰:負者,是負擔之小人;乗者,君子所乗之車也。夫人臣之位,佐君澤民,須賢者居之,則天下之人受其賜,而太平之功可致矣。夫君子之器必君子居之,若以負擔之小人而乗君子之器,不惟天下之所厭棄,抑亦為寇盜之所爭奪也。
「負」とは肩に挑め背に扛ぐ下等人を指す。「乗」とは君子の乗る所の車子を指す。臣子の職位は君主を輔佐し百姓に惠を施すにあり、必ず賢者に来て担任せしめてこそ、天下人は初めてその恩沢を受け得、太平の功業は初めて達成し得べし。君子の用うる器物は、必ず君子に来て使用せしめねばならず。もし一個の肩挑背扛の小人をして君子の車に坐上せしめば、あれはただ天下人のために厭棄せらるるのみならず、もまた必然に盗寇の争奪を招来す。
「上慢下暴,盜思伐之矣。」
「上位に居る人が驕慢に下を待し施政暴虐なれば、強盗は便ち彼を討伐する念頭を動かす。」
義曰:夫小人居君子之位,驕慢在下之人,暴虐為政,不唯盜之所奪,抑亦為盜之侵伐矣。然則居人臣之位,處百官之上,必當任賢使能以居其位。今小人居君子之位,此蓋在上之人不能選賢任能,遂使小人乗時得勢而至於髙位,非小人之然也,蓋在上者選之不精也。
小人が君子の位を占拠し、下面の人に対して驕横傲慢し、施政は残暴狠毒なれば、さらばただ強盗に位置を奪い去らるるのみならず、還って強盗の攻伐を招来す。既にこの如しなれば、およそ臣子の位に居り百官の上に位するは、便ち必ず賢能の士を任用して以てその職に充任せしめねばならず。いま小人は竟に君子の位を占拠す。これは実際上は上位に在る者が能く賢を選び能を任ぜざるにして、初めて小人をして機に乗じて勢を得せしめて高位に攀爬上らしめた。併せて小人が自己にこの本事有るに非ず、上面の挑選が精審ならざるが故である。
「慢藏誨盜。」
「財物を収蔵するに馬虎随便なれば、盗賊を教唆するに等し。」
義曰:夫爵祿之位、寳器之物,必當慎而藏之。苟不能自寶藏之,常守不謹,則是教誨竊盜之人以取之,是自己之招也,非盜賊之然也。
爵位俸禄この類の名分、珍宝器物この類の財貨は、皆必ず謹慎に収蔵守護せねばならず。倘若それらを宝贝と為して好く蔵せず、平日の看守また不厳密なれば、あれは便ち窃賊に来て拿るを教唆するに等し。これは自己の招来したもので、併せて盗賊の一方の過錯に非ず。
「冶容誨滛。」
「容貌を打扮するに妖冶なれば、淫邪を教唆するに等し。」
義曰:冶者,天冶也。夫強暴之男不能侵人之正女,今女子不能內守閨門之行,反自妖冶其容,妝麗其色,使外人之窺覩而生不軌滛欲之心,是敎誨滛者使侵於己也。此蓋非外物之然,蓋己身之不正所招也。
「冶」とはすなわち妖艶粧飾。強横凶暴の男子は、本来正を守る女子を侵犯し得ざるなり。いま女子は能く家中に在りて閨門のあるべき操行を守住せず、かえって容貌を打扮して妖艶と為し、姿色を修飾して艶麗と為し、外人をして看見して以て越軌の淫邪の念頭を生出せしむれば、これは便ち淫邪の人に来て自己を侵犯するを教唆するに等し。これは併せて外物の造成したに非ず、自身の不端正の招来したものである。
至如小人在位,不能慎守其身,貪殘荼毒,恃其崇髙,耽其驕慢,以至為寇之所奪,亦由已之所招也,故復引《易》「負且乗」雲。
同様に、小人が高位を竊拠し、能く自身を謹慎守住せず、貪婪残暴にして生民を荼毒し、自己の地位崇高に倚仗し、驕横傲慢に沉溺して、以て寇盗に一切を奪い去らるるに至るも、これも亦た自己の招来したものである。故に孔子は再び一度《周易》の「負且乘」あの句の話を引いて以て收束す。
《易》曰:「負且乗,致寇至。」盜之招也。
《周易》に曰く:「本当に东西を背負すべき人が却って大車に坐上して、強盗を招得して前に至らしむ。」これがまさに自己が盗賊を招来したものである。
義曰:言小人乗君子之位,必為盜之所奪者,蓋由己身不正而然也。然則上文首尾皆稱「《易》曰負且乗」者,蓋欲人慎重其事,故再言之。
これは小人が君子の位置を竊拠すれば、必定強盗に奪い去らるるを言う。原因は便ち自身の不端正に在る。こういう一段の首尾両処に皆「《易》曰負且乘」を称引するに至っては、人々をしてこの件の事に対して格外慎重ならしめんがための要するに因り、故に特意に一遍重複した。
〇義曰:按此一章有脫落之處,亦有倒錯之文。何以知之?按下文云「子曰:知變化之道,其知神之所為乎」,下文又不言變化之道;又一章言「天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十」,下文又不言天地之事;「大衍之數五十有五」而經文止言四十有九。以此推之,則此文倒錯而脫漏矣。
胡瑗按:この一章を考察するに、脱落する所あり、もまた次序顛倒の文字あり。何を憑って知るや。下文に曰く「孔子曰く、変化の道を知る者は、大概すなわち神の為す所を知るならんや」、しかし続いて接しては併せて変化の道を講ぜず。別に一処ありて「天一地二、天三地四、天五地六、天七地八、天九地十」を講じ、続いて接しても亦た天地の数の事を講ぜず。而して大衍の数は本応に五十五なるべきに、経文はただ四十九に講じるのみ。これに由って推断すれば、この段の文字は必定に顛倒錯置と脱漏と有るなり。
今當先言「子曰:知變化之道者,其知神之所為乎」,次言「天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十」,又次言「天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四,凡三百有六十,當期之日。二篇之策萬有一千五百二十,當萬物之數也」。
我が見る所に依れば、正しい次序は當にこの如くなるべし:先ず「孔子曰く、変化の道を知る者は、大概すなわち神の為す所を知るならんや」と説き、続いて「天数一、地数二、天数三、地数四、天数五、地数六、天数七、地数八、天数九、地数十」と接し、再び続いて「天数有五個あり、地数有五個あり、五個の位次は両々相配して各々匹合有り。天数は合計二十五、地数は合計三十、天地の数は總共五十五、まさにこれに憑って変化を成就し鬼神の妙を運行す。乾卦六爻の蓍策は共に二百一十六、坤卦六爻の蓍策は共に一百四十四、合して三百六十、まさに一年の天数に相当す。上下両篇の蓍策は合計一万一千五百二十、まさに万物の数に相当す」と接す。
次言「大衍之數五十有五,其用四十有九。分而為二以象兩,掛一以象三,揲之以四以象四時,歸竒於扐以象閏,五歳再閏,故再扐而後掛。是故四營而成《易》,十有八變而成卦,八卦而小成,引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。顯道神徳行,是故可與酬酢,可與佑神矣」。
然る後に初めて「大衍の数は五十五、実際に動用するは四十九根。それを両把に分けて以て天地両儀を象徴し、其中より一根を抽き出して掛け起して以て三才を象徴し、每四根に一数して以て四時を象徴し、数余る零頭を指間に夾えて以て閏月を象徴す。五年の中に両次の閏有り。故に両次余りを帰した後に再び掛ぐ。故に四道の程序が一次の演変を完成し、十八次の変化が一卦を完成す。八卦を画き成せば便ち小成。再びそれを引申推衍し、類に随って増長せば、天下の一切の事理は便ち包羅して遺すなし。それは道理を彰显し徳行を神妙にす。故に既に人と応答酬対し得、もまた神明の作用を輔助し得」と説く。
繋辞上・子曰知変化之道者其知神之所為乎
〇子曰:「知變化之道者,其知神之所為乎?」
孔子曰く:変化の道を懂得する人は、大概すなわち「神」の作為を懂得せんか。此処の「神」は鬼神に非ず、陰陽変化のあの自然而然・測度する従なき力量を指す。
義曰:此言大《易》之道知變化之理,知神所為也。夫天地生成之道,變化萬品,春生夏長,秋殺冬藏,自然而然,莫知其變化神用之理,故大《易》之道知其變化之理,其知神之所為乎。
これは《周易》の道が能く変化の原理を通曉し、因って「神」の作為を通曉するを言う。天地の化生成就の法則は、万千の品類を変化し出す:春天に萌生し、夏天に生長し、秋天に粛殺し、冬天に収蔵す。一切は自然而然にして、其中の変化と神妙作用の道理を説き清める人なし。故に言う、能く《周易》の変化の理を通曉する人は、便ち「神」の作為を懂得したりと。
天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。
一は天数、二は地数、三は天数、四は地数、五は天数、六は地数、七は天数、八は地数、九は天数、十は地数。奇数は天に属し、偶数は地に属し、十個の数は正好両列に分かつ。
義曰:此言天地生成之數也。夫天以一生水,生數一;地以二生火,生數二;天以三生木,生數三;地以四生金,生數四;天以五生土,生數五。此是天地之生數也。如是則陰無匹,陽無耦,故地以六成水,故成數六;天以七成火,故成數七;地以八成木,成數八;天以九成金,成數九;地以十成土,成數十。陰陽有匹而物乃成,故謂之成數也。
此処に講ずるは天地の化生成物の数目である。天は一を以て水を生出す。故に水の生数は一。地は二を以て火を生出す。故に火の生数は二。天は三を以て木を生出す。生数は三。地は四を以て金を生出す。生数は四。天は五を以て土を生出す。生数は五。この五個はすなわち天地の「生数」。しかしただ生数のみ有れば、陰に配偶なく陽にも匹対なし。故に又地が六を以て水を成就する有り。水の成数は便ち六。天が七を以て火を成就す。成数は七。地が八を以て木を成就す。成数は八。天が九を以て金を成就す。成数は九。地が十を以て土を成就す。成数は十。陰と陽と各々配偶有りて、物は初めて真に成形す。故にこの五個を「成数」と叫ぶ。
然數之所起,本起於陰陽。陰陽徃來見於日道:十一月冬至日南極,陽來而陰徃,冬水位也,以一陽生為水數;五月夏至日北極,陰進而陽退,夏火位也,當以一陰生為火數,陰不名竒,數必以耦,故以二陰生為火數也。
これらの数の来源に至っては、本は陰陽に出ず。陰陽の往来は、太陽の運行の軌道の上に表現す:十一月の冬至に、太陽は南行して極点に到り、陽気は始めて回り来りて陰気は退去し、冬天は五行の中に水に属す。この時一陽初生す。故に水の数は一。五月の夏至に、太陽は北行して極点に到り、陰気は始めて進み入りて陽気は退去し、夏天は五行の中に火に属し、本当に一陰の初生を以て火の数と為すべきも、しかし陰は奇数を以て命名せず、その数は必定に偶を取る。故に二を取って以て火の数と為す。
自冬至以及夏至當為陽來,正月為春,木位也,三陽已生,故為木數;夏至以及冬至當為陰進,八月為秋,秋金位也,四陰已生,故四為金數;三月,春之季,季土位也,五陽以生,故五為土數。此其生數之由也,故五行始於水而終於土者,此也。
冬至より夏至に至るこの半年は陽気の漸来なり:正月は春に属し、五行の中に木に属す。この時すでに三陽を生出す。故に三は木の数。夏至より冬至に至るこの半年は陰気の漸進なり:八月は秋に属し、五行の中に金に属す。この時すでに四陰を生出す。故に四は金の数。三月は春季の末月で、四季の末は皆土に帰す。この時すでに五陽を生出す。故に五は土の数。これがすなわち五種の生数の由来で、まさに五行の何を為すか水より始まり土に至って終わる所以の故である。
然則天是純陽,故為竒而稱九;地是純陰,故為偶而稱十。是竒偶之數以分陰陽之象,故陽數竒者,一三五七九是也;陰數偶者,二四六八十是也。故天地竒偶之大數,總而言之五十有五,陽數竒故其數二十有五,陰數偶故其數三十。
天は純陽。故に奇数を用い、最も大なる奇数は九。地は純陰。故に偶数を用い、最も大なる偶数は十。奇と偶とこの両類の数は、正好以て陰陽両種の物象を分別す:陽に属する奇数は一・三・五・七・九、陰に属する偶数は二・四・六・八・十。故に天地奇偶両類の数目を合せて共に五十五:陽数は奇、合計二十五、陰数は偶、合計三十。
是以天一加天三是四,四又加其天五是九,九又加其天七是十六,十六又加其天九是二十五數也。地數自二者,自二加其地四是六,六又加其地六是十二,十二又加其地八是二十,二十又加其地十是地數三十也。
具体的の推算はこの如し:天数は一より起り、一加三して四を得、四加五して九を得、九加七して十六を得、十六加九して二十五を得、これがすなわち天数の総和。地数は二より起り、二加四して六を得、六加六して十二を得、十二加八して二十を得、二十加十して三十を得、これがすなわち地数の総和。
是以天地之數五十有五,以成變化之道,以盡生成之數,所以成天下之務。故天之數合而成二十有五,地之數合而三十。自天一至五是天之五數,自地二至十是地之五數也,故言天數五,地數五。
故に天地の数は總共五十五、それを以て変化の道を成就し、それを以て化生成物の数を窮尽し、従って天下の一切の事務を辦成す。天数を相加すれば二十五を得、地数を相加すれば三十を得。天一・天三・天五・天七・天九この一列より看れば、天に五個の数有り。地二・地四・地六・地八・地十この一列より看れば、地も亦た五個の数有り――故に経文に「天数五、地数五」と説く。
天數五,地數五,五位相得而各有合。
天数に五個有り、地数に五個有り、五個の位次は両々相配し、各々皆匹合有り。
義曰:自天一合於地之六為水,自地二合於天之七為火,自天三合於地之八為木,自地四合於天之九為金,自天五合於地之十為土,是五位相得而各有合者也。
天一は地六と相配して、合して水を成す。地二は天七と相配して、合して火を成す。天三は地八と相配して、合して木を成す。地四は天九と相配して、合して金を成す。天五は地十と相配して、合して土を成す。これがすなわち五個の位次は両々相配し各々匹合有りの意思。
天數二十有五。
天数の総和は二十五。
義曰:言天之數竒,自一三五七九合為二十五也。
これは天に属するは皆奇数なりと言う。一・三・五・七・九を加え起せば、共に二十五を得。
地數三十。
地数の総和は三十。
義曰:言地數偶,自二四六八十合而為三十也。
これは地に属するは皆偶数なりと言う。二・四・六・八・十を加え起せば、共に三十を得。
凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。
天地の数を合せて共に五十五、まさにこれに憑って万物の変化を成就し、鬼神の如く幽微なる作用を運行す。
義曰:此已下聖人因其揲蓍以考天地幽賾之事,明其天地萬物之理,故以蓍草之數占之,以明陰陽之用也。言天地之數自二十五至三十,總而合之則有五十五數,以成陰陽竒耦之數,成其變化之道、萬品之數,而行乎鬼神之幽賾者也。
ここより往下は、聖人が蓍草を数うる弁法に憑って天地間の幽深難明の事を考察し、天地万物の道理を闡明するを言う。故に蓍草の数を以て占問し、以て陰陽の作用を顕明す。天地の数は、天を二十五と為し地を三十と為し、両者を合計せば便ち五十五。これに憑って陰陽奇偶の数を構成し、変化の道と万物品類の数を成就し、従って鬼神のあの如く幽深莫测の境地に運行す。
乾之策二百一十有六。
乾卦六爻の含む所の蓍策総数は二百一十六。
義曰:夫乾坤二卦,陰陽之象。陽爻竒,故一爻有三十六策;陰爻偶,故一爻有二十四策。自乾坤而下凡三百八十四爻,陰陽之數相半,故陽爻一百九十二,陰爻亦一百九十二,總而言之有三百八十四爻。故乾為老陽,一爻有三十六策,二爻是七十二策,三爻是一百單八策,四爻是一百四十四策,五爻是一百八十策,六爻是二百一十有六策也。
乾坤両卦は陰陽の代表である。陽爻は奇に属し、一爻は三十六根の蓍策を含む。陰爻は偶に属し、一爻は二十四根の蓍策を含む。乾坤両卦より往下せば、六十四卦は共に三百八十四爻有り、陰陽は各々一半を占め、故に陽爻は一百九十二、陰爻も亦た一百九十二、合せて三百八十四爻。乾卦六爻は純に老陽なり:一爻は三十六策、両爻は七十二策、三爻は一百八策、四爻は一百四十四策、五爻は一百八十策、六爻は便ち二百一十六策。
坤之策百四十有四。
坤卦六爻の含む所の蓍策総数は一百四十四。
義曰:夫坤爻偶,故一爻有二十四策,二爻有四十八策,三爻有七十二策,四爻有九十六策,五爻有一百二十策,六爻有一百四十四策。是乾坤之十二爻竒偶之策總而言之有三百六十,是故聖人因其乾坤竒偶之數,成為一歳凡三百六十日也。
坤卦六爻は皆陰爻にして偶に属す。故に每爻は二十四策を含む:両爻は四十八策、三爻は七十二策、四爻は九十六策、五爻は一百二十策、六爻を合せれば便ち一百四十四策。このよう、乾坤両卦十二爻の奇偶の策を相加せば、總共正好三百六十。故に聖人は便ち乾坤の奇偶の数に依拠して、一年を三百六十日と定めた。
凡三百有六十,當期之日。
乾坤両卦の蓍策は合計三百六十、まさに一整年の天数に相当す。
義曰:夫乾坤之策凡三百有六十,聖人因之以成為一歳,一歳之內凡三百有六十日。然天之有三百六十五度四分度之一,故月行速,一月一周天;日行遲,一歳一周天。若以全數言之,則一歳三百六十日餘其六度。
乾坤の蓍策は合計三百六十、聖人はこれに拠って一年を定め出し、一年の内に共に三百六十日。しかし周天は実に三百六十五又四分の一度有り:月亮は走ること速く、一個月に天を一周し、太陽は走ること慢く、一年に初めて天を一周す。もし整数を取って言えば、一年三百六十日の外に、還って六度を多出す。
又一歳有六小月,三年之中餘三十六日,故為一閏。一閏之中又餘六日,又於五年之中積其二十四日,合前六日成三十日,又為一閏,是五歳再閏也。此言「期之日」,為一歳之期也。
また一年の中に六個の小月有り、每月各々一日を少し、三年下来すれば便ち三十六日を多出す。故に一個の閏月を設けるを要す。この閏月を設け過ぎた後に還って六日を余下す。再び第五年に到れば、又二十四日を累積し出し、先前のあの六日と合して三十日と成す。ここに又一個の閏月を設く――これがすなわち五年の中に両次閏するを要す。経文の説く所の「期之日」とは、一整年の周期を指す。
二篇之策,萬有一千五百二十,當萬物之數也。
《周易》上下両篇の含む所の蓍策総数は一万一千五百二十、まさに万物の数に相当す。
義曰:二篇者,言乾坤上下之二篇也。夫伏羲畫八卦已後,文王重為六十四,以其《易》道廣大,卦義淵深,乾坤能始生萬物,故以乾坤為上經之首,以坎離而終之,故為上篇之終;自咸恆明人事之大,故為下篇之首,以既濟未濟而終之,故為下篇之終。
「二篇」は乾坤を以て領き起る上経と下経との両篇を指す。伏犠が八卦を画き出した後に、文王はそれを重畳して以て六十四卦と為した。《周易》の道の広大・卦義の深邃に因り、而して乾坤は能く万物を生育し始む。故に乾・坤両卦を以て上経の開端と為し、坎・離両卦を以て上経の結尾と為す。下経は則ち《咸》《恒》より講じ起す。夫婦の道は人事の大端なるに因り、故に下経の開端と為し、而して《既濟》《未濟》両卦を以て下経の結尾と為す。
凡此上下二篇有三百八十四爻,陰陽之數各半,故乾之爻一百九十二,坤之爻亦一百九十二。凡陽爻三十六策,十爻是三百六十策,一百爻是三千六百策,二百爻是七千二百策,卻於二百爻中退八爻,三八二十四,除卻二百四十策,又六八四十八,又除四十八策,是乾之爻一百九十二爻,都總策數是六千九百一十二策。
上下両篇は共に三百八十四爻有り、陰陽は各々一半を占め、故に陽爻は一百九十二、陰爻も亦た一百九十二。陽爻は每爻三十六策:十爻は便ち三百六十策、一百爻は便ち三千六百策、二百爻は便ち七千二百策。しかし実際にはただ一百九十二爻のみ、二百爻の裏より八爻を減去せねばならず――三八は二十四、先ず二百四十策を減去し、又六八は四十八、再び四十八策を減去す。このよう、一百九十二個の陽爻の策数は総計六千九百一十二。
陰爻亦一百九十二爻,毎一爻策數是二十四策,十爻是二百四十策,一百爻是二千四百策,二百爻是四千八百,卻於二百爻內除了八爻,二八一十六,是一百六十策,又四八三十二,又除三十二策,內有一百九十二爻,都總策數是四千六百八策也。
陰爻も亦た一百九十二個、每爻は二十四策:十爻は二百四十策、一百爻は二千四百策、二百爻は四千八百策。同様に二百爻の裏より八爻を減去せねばならず――二八は十六、先ず一百六十策を減去し、又四八は三十二、再び三十二策を減去す。このよう、一百九十二個の陰爻の策数は総計四千六百八。
以乾之六千九百一十二策,合坤之四千六百八策,都合為一萬一千五百二十策,以象萬物之數矣。然則陰陽奇耦之數,其中有萬、有千、有百、有十,故可以極天下之務,成天下之事,夫萬物之數無所不備矣。
陽爻の一方の六千九百一十二策と、陰爻の一方の四千六百八策とを相加せば、共に一万一千五百二十策を得、以て万物の数を象徴す。見れば陰陽奇偶の策数の中に、万位・千位・百位・十位は一応俱全なり。故に能く天下の事務を窮尽し天下の事情を辦成し、万物の数は其中に於いて備えざる所なし。
然此皆是老陰老陽之數也,而乾坤之間亦有少陰少陽之數也。故少陽之數七,四七二十八,是少陽之數也;少陰之數八,故四八三十二,是少陰之數也。
ただし以上の算うる所は皆老陰老陽の策数で、而して乾坤の間には還って少陰少陽の策数有り。少陽の数は七、四乗七して二十八を得。故に少陽の一爻は二十八策。少陰の数は八、四乗八して三十二を得。故に少陰の一爻は三十二策。
自二十八至十爻二百八十,一百爻是二千八百,二百爻是五千六百策,又於二百爻內除八爻,二八一十六,一百六十,又八八六十四,是六十四策,除了二百二十四策,內有五千三百七十六。
少陽の每爻二十八策を以て計算すれば:十爻は二百八十策、一百爻は二千八百策、二百爻は五千六百策。再び二百爻の中より八爻を減去す――二八は十六にして一百六十策を得、八八は六十四にして六十四策を得、共に二百二十四策を減去す。剩下の一百九十二個の少陽爻は、策数は五千三百七十六。
少陰之數三百二十。爻三百二十,一百爻三千二百,二百爻六千四百,卻於二百爻內除了八爻,三八二十四,二百四十,又二八一十六,一十六策,內有六千一百四十四。
再び少陰を算えば:每爻は三十二策、十爻は合計三百二十策、一百爻は三千二百策、二百爻は六千四百策。同様に二百爻の中より八爻を減去す――三八は二十四にして二百四十策を得、二八は十六にして十六策を得、共に二百五十六策を減去す。剩下の一百九十二個の少陰爻は、策数は六千一百四十四。
共計少陰少陽之數一萬一千五百二十,當萬物之數,是少陰少陽與老陰老陽其數皆一也。此不言少陰少陽,止言老陰老陽者,蓋《易》以變為占,言其變則神其用,舉其大則明其小。
少陰の六千一百四十四に少陽の五千三百七十六を加上せば、合計同様に一万一千五百二十、もまたまさに万物の数に相当す。見れば少陰少陽と老陰老陽とは、総策数は完全一致す。経文の提げず少陰少陽してただ老陰老陽を講ずる所以は、《周易》は変爻を以て断占するに因る:変爻を講じて、初めてそれの作用の神妙を顕し出し得。其中の大なる一頭を擧出せば、小なる一頭は自然に便ち明白す。
蓋老陰老陽、少陰少陽,其數皆一,亦有萬一千五百二十,當萬物之數,故但言老陰老陽,而少陰少陽從可知矣。然必曰老陽、老陰、少陽、少陰者,蓋陽以老為尊,陰以少為貴。
老陰老陽と少陰少陽とは、総数は既に一様なれば、同様に一万一千五百二十、同様に万物の数に相当す。故に経文はただ老陰老陽を講じ、少陰少陽は此の類に依って推せば便ち知り得。なぜ必ず老陽・老陰・少陽・少陰これらの名目を分け出すかに至っては、陽のこの一辺に在りては老を以て尊と為し、陰のこの一辺に在りては少を以て貴と為すに因る。
大衍之數五十,其用四十有九。
大規模に天地の数を推演するに憑藉する蓍草は五十根、実際に動用するは四十九根。
義曰:按此大衍之數當有五十有五,何以明之?按上文言「天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十」,是天數二十有五,地數三十,總而五十有五也。今經文但言五十者,蓋簡編脫漏矣。
胡瑗按:此処の大衍の数は當に五十五なるべし。何を憑ってこのように説くや。上文は既に「天一地二、天三地四、天五地六、天七地八、天九地十」を講じ、天数は合計二十五、地数は合計三十、總共五十五。いま経文はただ五十を説くは、応に竹簡編冊の脱漏の致す所有るべし。
然則天地生成之道始於太極,是故聖人因其天地生成之道自然之理,積其成數,總而五十有五,以明天地之大法。今註疏之說但言其用五十,殊不知天地生成之數,上言「天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十」之數,上文既言五十有五之數,豈得止言五十哉?此註疏之非也。
天地の化生成物の道は、「太極」に起始す。すなわち天地未だ分かれざる前のあの渾然一体の本原である。故に聖人は天地化生の自然而然の道理に依りて、各個の成数を累積し起して、合して五十五と為し、以て天地の根本法法則を顕明す。当今の注疏の説法はただ五十を用いるを講ずるのみ、天地化生の数を明白せず:上文は既に「天一地二」より「天九地十」に至るまで列出有して、すでに総数は五十五なるを説明したれば、怎で能くただ五十を説くのみや。これは注疏の錯誤である。
歴代以來言之者甚眾:京房則五十者,謂十日、十二辰、二十八宿也,凡五十,其一不用者,天之生氣將欲以虛來實,故用四十九焉;馬季長云,《易》有太極,是北辰也,太極生兩儀,兩儀生日月,日月生四時,四時生五行,五行生十二月,十二月生二十四氣,北辰居位不動,其餘四十九轉運而用也。
歴代にこの一句を解説する人は甚だ多し。京房は認めて曰く、五十とは十天干・十二地支・二十八宿を指し、合せて正好五十。其中に一根を留めて用いざるは、上天の生気は虚位に靠って以て実有を招引するを要するに因る。故にただ四十九を用う。馬融(字は季長)は則ち曰く:《周易》に「太極」有り、太極とはすなわち北極星。太極は両儀を生出し、両儀は日月を生出し、日月は四季を生出し、四季は五行を生出し、五行は十二月を生出し、十二月は二十四節気を生出す。北極星は位に居りて動かず、その余の四十九根は初めて周転運用す。
荀爽則曰,卦各有六爻,六八四十八,加乾坤二用,凡有五十,乾初九「潛龍勿用」,故用四十九也;鄭康成則曰,天地之數五十有五之數,五十有五者,其六以象六畫之數,故減之,用四十九;王弼則曰,演天地之數,所頼者五十,其一不用者,以其虛無非所用也;子夏則曰,其一不用者,太極也,無可名之,謂之太極。
荀爽は曰く:八卦は各々六爻有り、六八は四十八、再び乾卦の「用九」・坤卦の「用六」両条を加上せば、共に五十。而して乾卦初九に「潜龍勿用」と説く。故に実際にはただ四十九を用う。鄭玄(字は康成)は曰く:天地の数は五十五、其中に六根を留出して以て一卦六画を象徴す。故に六を減去して、ただ四十九を用う。王弼は曰く:天地の数を推演するに、憑藉する所は五十、一根を留めて用いざるは、それは虚無を代表して、本より使用の列に在らざるに因る。《子夏易傳》は則ち曰く:あの一根の用いざるはすなわち「太極」、それは命名する従なきに因り、好しなく太極と叫ぶ。
此皆殊無所據,獨鄭康成、姚信、董過三人皆言天地之數五十有五,然而又不知四十九之用。今註疏之說但言聖人推測天地之數止用五十,非數而數以之通,不用而用以之成,又言虛一以象虛無之氣,此皆近於荘老空空之說,以惑後世。
これらの説法は皆確鑿の依拠を缺乏す。ただ鄭玄・姚信・董遇の三家のみ皆天地の数は五十五なりと主張するも、しかし彼らは又実際に用うるは四十九なる所以を説き清め得ざるなり。当今の注疏の説法は、ただ聖人が天地の数を推測してただ五十を取るを講じ、還って「それ本身は数に非ざるも、却ってそれに憑って数を通行せしむ。それ本身は動用せざるも、却ってそれに憑って功用を完成せしむ」と説き、又一根を虚置して以て虚無の気を象徴すと説く――これらは皆莊子・老子のあの套の空虚の談に近く、ただ後世を迷惑するのみ。
今止取五十有五之數,以其上文既言天數二十五、地數三十,是天地生成之數自然之理,萬有一千五百二十陰陽竒耦之數,天下人事之理、萬事之情、萬品之物,無不總此生成自然之數。
いま我はただ五十五この数を取る。上文は既に天数二十五・地数三十を説明したれば、これは天地の化生成物の自然而然の道理なるに因る。而して一万一千五百二十この陰陽奇偶の策数も、もまた天下の人事の規律・万事の情状・万物の品類を涵盖し、一樣としてこの套の自然生成の数の裏に總括せざるなし。
然而其所頼者四十有九,何則?夫天數二十五,地數三十,是老陰老陽之數也。以數言之,陰數多於陽數,而陰者是臣之象也,陽者是君之象也。今地數三十,陰之盛於陽,臣之盛於君,子盛於父,卑盛於尊,此至逆之象也。
然らば実際に憑藉する所は何を為すか四十九なるや。天数二十五・地数三十は、これは老陰老陽の数目である。単に数字に就いて看れば、陰数は陽数に多き。而して陰は臣下を象徴し、陽は君主を象徴す。いま地数は三十、陰は却って陽に勝過すれば、臣が君を圧過し子が父を圧過し卑が尊を圧過するに等し。これは極めて悖逆の象である。
是故聖人因其天地生成之數自然之理,酌其老陰老陽之數,以其陰不可過於陽,臣不可盛於君,故於地數三十之中去其六策,又合於坤之一策二十四,遂以地數以卑為尊,故去其六數,止以二十四合於天數二十五,共為四十九數,取其陰下於陽、臣下於君、子下於父、卑下於尊,此是至順之道也,故其用四十有九,然後可以神其用矣。
故に聖人は天地化生の数の自然の道理に依拠して、老陰老陽の数目を斟酌す:既に陰は陽を超過すべからず、臣は君を圧過すべからざれば、便ち地数三十の裏に於いて六を減去して、それを正好坤卦一爻の二十四策に合せしむ。ここに地数は便ち謙卑自處を以て尊貴と為す。あの六を減去した後に、ただ二十四を用いて天数二十五と相合し、共に四十九と成す。こう取る所は陰は陽の下に居り臣は君の下に居り子は父の下に居り卑は尊の下に居るの義で、極めて和順の道理である。故に実際には四十九根を動用して、然る後に初めて蓍占の作用を神妙ならしめ得。
分而為二以象兩,掛一以象三,揲之以四以象四時。
四十九根の蓍草を手に随って両把に分け、以て天地「両儀」を象徴す。再び其中より一根を抽き出して夾え起し、天地人「三才」を象徴す。然る後に每四根を一組として数え過ぎ、春夏秋冬の四時を象徴す。
義曰:夫大衍之數始本五十有五,然其所頼者四十有九。然四十九數未分之時則為一,以象太極天地未判之際;次分而為兩,以象陰陽分剖之理,於左手則為陽,於右手則為陰。
大衍の数は本来五十五、而して実際に憑藉するは四十九。この四十九根は未だ分けざる時に渾然として一にして、以て「太極」を象徴す――天地未だ分判せざるあの状態。続いてそれを両把に分け、陰陽の剖判の道理を象徴す:左手の持つ所は陽を代表し、右手の持つ所は陰を代表す。
然陰陽既分而人事未備,又於左手之中掛其一於小指之間,以象三才,言天地人事萬品之類皆備於其間。又揲數之以象四時者,又以左右手握之,四數之,以象天之有春夏秋冬四時運轉、寒暑徃來不絶之義也。
陰陽は虽すでに分かれたるも、人この一一維は還って未だ安置せざれば、ここに又左手のあの把の裏より一根を抽き出して、小指の間に夾えて、以て「三才」を象徴し、天地人及び万事万物の品類の皆其中に斉備するを表示す。「揲之以四」に至っては、左右両手の握る所の蓍草を每四根一組として数え過ぐるを把って、以て上天に春夏秋冬の四季の運転・寒来暑往の永く停息せざる有るの意思を象徴す。
歸竒於扐以象閏,五歳再閏,故再扐而後掛。
数え剩下る零頭を手指の縫の裏に夾えて、以て閏月を象徴す。五年の中に両次閏するを要す。故に両次余りを帰した後に再び一を掛ぐを要す。
義曰:言既揲數之,其有餘者則歸之於左手所掛一之處,以象其閏。然則天之有三百六十五度四分度之一,日行遲,一歳一周天;月行速,一月一周天。以全數言之,則日一年行三百六十度,餘有六度。
これは四根一組として数え了えた後に、剩下る零頭は便ち左手の先前の一を掛けた処に帰攏して、以て閏月を象徴するを言う。周天は共に三百六十五又四分の一度有り:太陽は走ること慢く、一年に天を一周し、月亮は走ること速く、一個月に天を一周す。もし整数に按って計算せば、太陽は一年に三百六十度を行じ、還って六度を多出す。
是故聖人因此大衍天地生成之數,推測幽隠,以其揲蓍之數四數之,其有歸餘殘竒之數,則歸於所掛小指之間,以象其閏。既取歸餘殘竒之數以象其閏,然於二年之中為閏,又其數未備;於三年之中為一閏,又其數出剩,遂於五年□閏,則其數始足。
故に聖人は大衍この套の天地生成の数に依拠して以て幽隠の事を推測す:蓍草を以て四根一組として数え、およそ数え剩下る零頭は、便ち小指の夾える所に帰攏し、それを以て閏月を象徴す。既に零余の数を以て閏を象徴せば、さらば両年に便ち一閏を置き、日数は還って足らず。三年に一閏を置けば、又略して多余有り。ここに第五年に到りて再び一閏を置き、日数は初めて恰好補足す。
故一歳之間所剰六度,又有六小月,是十二日也,三年之中凡三十六日,故閏一月;又剰六日,遂於五年之中積為二十四日,加此六日即為三十日,故五年□閏也。
具体的に説けば:一年の中に六度を多出し、又六個の小月は各々一日を少し、合計十二日。三年下来共に三十六日。故に一個の閏月(三十日)を置く。閏を置きた後に還って六日を剩下す。第五年に到れば、又二十四日を累積し出し、先前の剩した六日を加上せば、正好三十日。故に第五年に再び一閏を置く。
然揲蓍之數歸餘殘竒,零止有一二三為殘竒。今註疏之說以謂四為殘竒,則非也。且四四數之是全數也,若以全數為殘竒,則無所據,但止有一二三為殘竒也。若無餘,則再扐而後掛之,然後見成閏積分之數也。
蓍草を数うる時の零余に至っては、その零頭はただ一・二・三この三種のみ可能なり。当今の注疏は四も亦た零余と算うと説くは、あれは正しくない:四根一組として数え下去れば、四の本身は正に一整組なり。整組を把って零余と為すは毫も根拠なし。故に零余はただ一・二・三のみ。もし最後に数えて零余なからば、便ち再び一度帰余を作して然る後に一を掛げ直し、こうして初めて累積して閏と成る数目を顕し出し得。
然謂「再扐而後掛」者,蓋上言「歸竒於扐以象閏,五歲再閏,故再扐而掛之」是也。
所謂「再扐而后掛」とは、すなわち上文の説く所:零余を指間に夾えて以て閏月を象徴し、五年の中に両次閏するを要するに因り、故に両次の帰余を経た後に再び一を掛げ直すを要す。
是故四營而成《易》。
故に四道の程序を経て、初めて一次の演変を完成す。
義曰:「是故」者,連上文也。四營者,則謂四度經營而成變易也。四營者,則謂上「揲之以四以象四時,歸竒於扐以象閏,五歳再閏,故再扐而後掛」是也,凡此四度經營,然後成其變易之道。
「是故」両字は上文を承接して説く所である。所謂「四営」とは、すなわち四道の經営操作を経て初めて一次の変化を完成するを要す。この四道の操作とは、上文の講ずる所の蓍を分けて両把と成し・一を掛げて三才を象し・每四根に一数して四時を象し・零余を指間に夾えて閏月を象する(五年両閏に因って須く両次帰余の後に再掛するを要す)この一整套の手続を指す。每この四道の程序を走完すれば、一次の変易の道は初めて吿に完成す。
十有八變而成卦。
十八次の変化を経て、初めて一卦を形成す。
義曰:凡言一爻,凡三度揲之,則為一爻;一卦六爻,三六一十八,是十有八變而成一卦也。
每一爻を求得するに、三次の揲蓍を須要して初めて定まる。一卦に六爻有り、三乗六して十八に等し。故に十八次の変化を経て初めて一卦を形成すと言う。
八卦而小成。
八卦を画き成せば、便ち初步に完備と算す。
義曰:言伏羲所畫八卦,乾、坤、艮、巽、震、離、坎、兌是也。八卦既立,寫其天地水火山澤風雷之象;水火山澤風雷之象既立,是以健、順、動、止、明、入、陷、說之性畢備,此八卦之小成者也。
これは伏犠の画いた所の八卦、すなわち乾・坤・艮・巽・震・離・坎・兌を言う。八卦は一経確立せば、便ち天・地・水・火・山・澤・風・雷これらの物象を摹写し出す。これらの物象は既に確立せば、ここに剛健(乾)・柔順(坤)・振動(震)・静止(艮)・光明(離)・潜入(巽)・陷険(坎)・和悦(兌)この八種の性情も便ち一一具備す。これがすなわち八卦の「小成」。
引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。
八卦に引申推衍を加え、同類の事物に遇えば便ち類に随って拡展せば、天下の一切の做し得べき事は便ち皆其中に包羅す。
義曰:言文王因此八卦小成之後,遂引伸八卦為六十四卦,又因其事物萬品之類而増長之。若觸剛之事類,以次増長其剛;若觸柔之事類,以次増長其柔。是以天地之性、萬物之理、天下之情偽、萬物之本,至纎至悉,天下之能事無不畢載於其間。
これは文王が八卦小成の基礎の上に、八卦を引申重畳して以て六十四卦と為し、又万事万物の種類に依って不断に拡充するを言う。剛の一類に属する事に碰上せば、便ち順次にそれの剛の一面を拡展し、柔の一類に属する事に碰上せば、便ち順次にそれの柔の一面を拡展す。ここに天地の性情・万物の道理・天下の真情と虚偽・万物の根本、無論如何に細微詳盡なるも、天下の一切の做し得べき事は其中に完備に載録せざるなし。
顯道神徳行。
それは幽微の道理を彰显し、もまた人の徳行を神妙莫测ならしむ。
義曰:上既言天地之數,天下之能事畢載於《易》,故可以顯明其萬物之理、萬事之情,原其所由,不知所以然而然,又可以神其徳行,莫見其跡也。
上文は既に天地の数・天下の一切の能事を講明して皆完備に《周易》の中に載録するを明らかにしたれば、故にそれは能く万物の道理・万事の情状を彰显し、その然る所以を追溯す。虽人は何を為すか此の如くなるを説き出し得ざるも、事は却って自然此の如し。それは又能く人の徳行を神妙莫测ならしめ、人をして其中の踪跡を看見せしめざるなり。
是故可與酬酢,可與佑神矣。
故にそれは以て人と応答酬対し得、もまた神明の作用を輔助し得。
義曰:酬酢者,謂報答之辭也。言《易》之道既言天地幽賾之事,又顯明萬事之理,又以蓍數明其吉凶之事,知其未來,明其已徃,使人占兆之,知其吉凶之驗,使人從善而去惡,從吉而背凶,若響之應聲而應對之也。
「酬酢」とは賓主往来応答の言辞を指す。これは《周易》の道は既に天地間の幽深難見の事を講明し、又万事の道理を彰显し、還って蓍草の数を以て吉凶の在所を指出すを言う:将来を預知し既往を明察し、人をして占問を通じて以て吉凶の応験を看到せしめ、従って悪を棄て善に従い吉に趨り凶を避けしむ。それの人への応答は、便ち回声の声音に応和するが如く即時にして準確なり。
可與佑神者,言《易》道既言吉凶之事,使人占之,從吉而懼凶,是可以佑明神之徳而行事者也。
所謂「可与佑神」とは、《周易》の道は既に吉凶の事を講明し、人をして占問を通じて以て吉利に趨向し凶険を警懼せしむれば、これは便ち神明の徳化を輔助し、人に拠って行事せしむるに等し。
繋辞上・易有聖人之道四焉
易有聖人之道四焉。
《周易》この部の書の裏に、聖人が後人に留めた四条の門径を含有す。所謂「聖人之道四焉」とは、《易》を以て言を立て、《易》を以て行動を決定し、《易》を以て器物を制作し、《易》を以て卜筮して疑を問うこの四種の用法を指す。
義曰:此已下至「易有聖人之道四焉,此之謂也」為一章。言大易之道探賾索隠以成其道,故所用之道有四焉。
胡瑗解説:この一句より起りて、一直に下文の「子曰、易有聖人之道四焉者、此之謂也」に至るまで止まり、合して一章と為す。この一章の講ずるは、《周易》の義理は能く最も幽深繁雑の地方に深入して以て探尋し、能く最も隠微不顕の道理を捜求し出し、こういう份の功夫に憑って初めてそれ自己の一套の法則を成就したり。まさにこのが故に、この套の法則の裏より派生し出して人の取用に供し得べき門径は一共に四条有る。
以言者尚其辭。
およそ《周易》に憑って議論を発し言説を立てんと要する人は、最も看重するは卦辞爻辞これらの文字である。
義曰:言則謂大易之中所述之言辭也。言聖人探賾索隠作為大易,聖人之情顯見於言辭之間,故君子之人慾觀大易之意,必觀聖人諸卦爻所繋屬之文辭,見聖人之情意也。
胡瑗解説:此処の説く「言」とは、《周易》の裏に記録し下げたあの文辞を指す。聖人は幽深を探究し隠微を捜求して、因って《周易》を制作した。彼の心裏に後人に吿げんと欲する意思は、全て明明白白にこれらの文辞の裏頭に顕露す。故に学ぶことに志有る人は《周易》の旨趣を弄清せんと想えば、必定に聖人が六十四卦・三百八十四爻の底下に繋げた卦辞と爻辞とを細読して、これらの話の裏より聖人の真正の心意を看出さねばならず。
以動者尚其變。
およそ《周易》に憑って自己の行止挙動を決定せんと要する人は、最も看重するは卦爻の変動である。
義曰:動則謂諸卦諸爻也,變,動也。言聖人仰觀俯察作為大易,設為六十四卦,其爻有得位者,有失位者,有變有動,有正有不正,有中有不中,有應有不應者,是諸卦之爻有變動者也。既有變動,則吉凶悔吝生乎動矣。有動而悖於理者則凶,有動而合於道者則吉。是故君子之人凡欲知其吉凶悔吝存亡之幾,必先觀其諸卦諸爻之變動,然後可以知吉凶之事、悔吝之虞、變通之理,然後趨其善而背其惡,向其吉而避其凶,所以致身於無過也。
胡瑗解説:此処の説く「動」とは、各卦各爻を指す。「変」とは、もまた変動の意思である。聖人は頭を抬げて天象を観察し頭を低めて地理を察看し、これに拠って《周易》を制作し、布列して六十四卦と成した。卦裏の每一爻は、或いは居位して當を得、或いは居位して當を失い、変有り動有り、中正なる有り不中正なる有り、当位居中の有り居中せざる有り、上下の間に相応ずる有り相応応ぜざる有り――これがすなわち各卦の爻の皆変動の中に処るを言う。既に変動有れば、さらば吉・凶・悔・吝この四種の結果は皆変動の裏より生出す:行動が事理に違背するは、結果は便ち凶。行動が正道に合乎するは、結果は便ち吉。故に徳行有る人はおよそ自己の吉凶悔吝・存亡成敗の苗头を預先に知らんと想えば、必定に先ず各卦各爻の変動を看清し、こうして初めて哪些の事が吉し哪些の事が凶し、何処に懊悔と羞吝の隠憂有り、変通は応に如何に着手すべきを明白し得。明白した後に便ち善の一面に趨向して悪の一面に背離し、吉利に奔って凶険を躲開し、こうして初めて自己をして立身処世して過錯を出さざらしめ得。
以制器者尚其象。
およそ《周易》に憑って器物を創制せんと要する人は、最も看重するは卦の取る所の形象である。
義曰:象則謂大易之中聖人所設六十四卦之法象也。至如伏羲作結繩而為網罟,蓋取諸離;神農作耒耜取諸益;宮室取大壯;弧矢取諸睽。如此之類,皆是尚其法象也。故君子欲觀制器之用,必觀聖人設卦制器之法象也。
胡瑗解説:此処の説く「象」とは、《周易》の中に聖人の設立した所の六十四卦あの一套の效法に供し得べき形象を指す。例えば伏伏犠が繩子を結して網罟と為して以て魚を捕え獣を猟するに用いたは、《離》卦の附麗相網の意思に取法したもの。神農が耒耜この類の農具を制作したは、《益》卦の民に増益する意思に取法したもの。宮室を建造するに《大壯》卦の高大穩固に取法し、弓箭を制作するに《睽》卦の乖離相制に取法した。此の類の如し、皆卦象に取法して以て器物を造る。故に志有る人は器物制作の道理を弄明白せんと要せば、一定得に聖人の設卦立象・依象造器のあの一套の法則を看ねばならず。
以卜筮者尚其占。
およそ亀卜蓍筮を以て事を問わんと要する人は、最も看重するは占問の得る所の結果である。
義曰:筮則謂蓍策龜兆之占筮也。夫凡人之生,必有疑貳之事、得失之理,不得以前知,是故聖人作為大易,設為六十四卦,有變通之理,有吉凶之驗。以其凡人不能無疑、不能無吉凶,然吉凶之道雖聖人有所不知。聖人既有所不知,必謀之於鬼神,以明得失吉凶之事。然鬼神之道至幽至隠,不可以形覩,不可以象窺,然莫知其所與人有異。然聖人必謀之者,是故假其至誠,取其蓍龜之數,審之於天地之數,明諸卦諸爻變動之理,以明過去未來之事,則必以卜筮占策,然後可以前知矣。
胡瑗解説:此処の説く「筮」とは、蓍草の茎数を以て演算し亀甲の裂紋を以て断験するあの一套の占問の法を指す。人が世上に活るに、拿主意を定め得ざる事・得失の道理を看清し得ざるに遇うを免れず、事先に結果を知ること無法なり。故に聖人は初めて《周易》を制作し、六十四卦を布設し、其中に既に変化通達の義理有り、もまた吉凶応験の憑拠有り。普通人は疑惑なきべからず、もまた吉凶に遇上せざるべからざるに因り、而して吉凶の道理は聖人に連れても亦有る弄明白せざる時。聖人は既に弄明白せざる所有れば、便ち必定に鬼神に向かって求教して、好く得失吉凶を弄清せんことを要す。しかし鬼神の道は極めて幽暗隠微にして、形体を看るべからず、もまた形象を窺い出すべからず。人はそれが究竟人と如何なる不同有るかを知る従なし。聖人の仍ほそれに向かって求教せんとする所以は、弁法は便ち自己の一片の至誠の心に憑って、蓍草と亀甲の顕示する数目を取用し、天地の数を拿って以てそれを核験し、各卦各爻の変動の道理を弄清し、従って過去已成の事と将来未至の事とを照見す。このようになれば、便ち卜筮演策に靠らざるべからず。それに靠って初めて預先に結果を知り得。
是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如響。
故に徳行有る人は將に作為有らんとし將に行動有らんとする時、先ず《周易》に向かって占問し、疑難を把ってそれに聴かせ説く。それは問う所に回答し指示を給出し、便ち回声の声音に応和するが如く、問うに随って答え、一点も含糊せず。
義曰:言君子之人既能觀此四者之事,凡有所施為,凡有所行徃,必先問焉而以言,考其蓍龜之靈、占筮之策、通變之理、吉凶之道,然後其受命也如響之應聲,無有逺近幽深。
胡瑗解説:徳行有る人は既に上面の説く所の辞・変・象・占この四件の事に留意するを懂得せば、さらばおよそ一件事を做し一趟に出行せんと要すれば、必定に先ず疑難を《易》に向かって説明して以て占問し、蓍草亀甲の顕す所の霊験・演筮の得る所の策数・変化通達の道理と吉凶の在所を考察し、然る後にそれの給出する答復は便ち回声の喊声に応和するが如く乾脆にして、無論問う所の事の遠処近処・幽微か深奧かなるも、皆答え上げ得。
遂知來物。
ここに便ち將に発生せんとする事情を預先に知り得。
義曰:言此大易之道告示於人,無有遐逺邇近幽深宻之間,皆前知其吉凶禍福之驗,天地陰陽之理,將來之事、已徃之失,皆前知矣。
胡瑗解説:《周易》の道は人に向かって開示し、無論問う所の事情の遥遠なるか切近なるか、幽隱なるか深密なるか、それは皆能く預先に吉凶禍福の験証を顕出す。天地陰陽変化の道理・将来還って到来せざる事・過去すでに犯下した過失、それを通じて皆能く事先に知暁し得。
非天下之至精,其孰能與於此。
天下最も精微の道理に非ざれば、還って何のこの地步に達し得べきものか。
義曰:言大易之道,若非至極精妙、通達天下,其孰能與於此哉。
胡瑗解説:《周易》の道はもし精微奧妙して極点に到り普天之下に通達するに非ざれば、還って何の东西がこの一步に做し到り得べきや。
參伍以變,錯綜其數。
三と五の如き数目を以て交互推演して以て変化を求め、それらを交錯綜合して運算す。
義曰:參則謂三也,伍則謂伍也。言天一之數有三有五,至如天之一下交於地之六生水,地之十上交於天之五生土,是天地之數三五通變,上下錯雜綜統,以成萬物之數。
胡瑗解説:「参」とはすなわち三、「伍」とはすなわち五。これは天地生数の裏に既に三有りもまた五有るを言う:譬如天数一は下に向かって地数六と交合して以て水を生出し、地数十は上に向かって天数五と交合して以て土を生出す。見れば天地の数はすなわち三と五の如く彼此往来変通するに靠り、上下交錯・總攬綜合して、初めて万物各自の数目を生成したり。
通其變,遂成天地之文。
これらの変化を貫通して、ここに天地間の紛然交錯の紋理を形成す。
義曰:言天地陰陽之道、通變之理、化裁之跡,老陰老陽之數交而相雜,以成天地之文,若剛柔晝夜之道、寒暑徃來之功、青赤交雜之類。二百一十有六以定乾之老陽之象,一百四十四策以定坤之老陰之象,如此之類,他皆可知也。
胡瑗解説:天地陰陽の運行・変通の義理・裁成化育の痕跡は、皆老陰と老陽とこの両種の数が交互錯雑して、初めて天地間の紋理を織り成したり。好比剛と柔と相対し・白天と黑夜と相替わり・寒暑往来相推し・青色と赤色と交織するこの一類の現象の如し。具体的に数の上に就けば:乾卦六爻は全て老陽と為し、每爻は三十六策、合計二百一十六策、この数は便ち乾の老陽の象を定下す。坤卦六爻は全て老陰と為し、每爻は二十四策、合計一百四十四策、この数は便ち坤の老陰の象を定下す。一を擧げて三に反すれば、その余の道理は皆此に照らして推知し得。
極其數,遂定天下之象。
これらの数を推演して尽頭に至れば、ここに天下万事万物の形象を断定したり。
義曰:言聖人窮極天下之數、陰陽之策、萬事之理、纎介之微,然後可以定天下之法象也。
胡瑗解説:聖人は天下の所有の数目・陰陽両類の蓍策の策数・万事万物の道理を、一直に極細極微の地步にまで推究して、こうして初めて天下の取法に供し得べき種種の形象を確定し出し得たり。
非天下之至變,其孰能與於此。
天下最も能く変化を窮尽する道理に非ざれば、還って何のこの一步に達し得べきものか。
義曰:言大易之道極窮天地之數,以成天下之法象。若非天下至變至通之道,其曷能與於此哉。
胡瑗解説:《周易》の道は天地の数を推究して尽頭に到り、これに拠って天下の取法に供し得べき形象を造り出したり。もし天下最も変化に善く最も能く通達するあの道理に非ざれば、又何処にこの一步に做し到り得べきや。
易無思也,無為也,寂然不動,感而遂通天下之故。
《周易》は自身に思慮なく、もまた刻意に造作せず、静かにあの処に擺りて一動せず。一旦人の誠心に感発せられれば、便ち随に天下一切の事情の来龍去脈を貫通す。
義曰:言大易之道能極盡天下之數,極盡天下之事,然而易之道不假思慮,任用自然;不須經營,任用自動。寂然不見其跡,黙然不見其形。若聖人以至誠之心感而行之,則通變之理、萬事之宜自然而達矣。
胡瑗解説:《周易》の道は能く天下の数目・天下の事情を皆窮究して底に到るも、それ自身は併せて何の思慮を動用せず、一切は自然に聴憑す。もまた必ずしも刻意に經営安排せず、一切は自動に聴憑す。それは安靜にして痕跡を看るべからず、沈黙にして形跡を顕し出すべからず。ただ聖人が至誠の心を拿って去ってそれを感通しそれに依って行事せば、さらば変通の道理・万事を處置する分寸は、自然に便ち皆通達す。
非天下之至神,其孰能與於此。
天下最も神妙莫测の道理に非ざれば、還って何のこの一步に達し得べきものか。
義曰:夫非忘象者則無以制象,非遺數者無以極數。至精者無筮策而不可亂,至變者體一而無不周,至神者寂然而無不應,斯蓋功用之母、象數所由立也。言大易之道若非道極妙、變化如神、極深研幾、探賾索隱,其孰與於此哉。
胡瑗解説:能く形象を忘掉せざる人は、便ち形象を駕馭する無法なり。能く数目を撇開せざる人は、便ち数目を窮尽する無法なり。精微して極点に到るは、蓍策を用いて数えずとも錯乱せざるなり。変化して極点に到るは、本体はただ一個にして周遍せざる処なし。神妙して極点に到るは、寂然として動かずとも感応せざる処なし。この三樣はまさに一切の功用の母体にして、もまた卦象と数目の成立し得る根由である。《周易》の道はもし妙して極処に到り変化して神の如く幽深处を推究して底に到り隠微处を捜求し出すに非ざれば、又誰かそれに及ぶに足らんや。
夫易,聖人之所以極深而研幾也。
《周易》とは、聖人が以て幽深の理を窮究し細微の苗头を研尋する憑藉である。
義曰:此以下又明聖人作易之道,極窮幽隱,識照幾先,而作其易者也。深者,則謂未有其理、未見其形而聖人極深其用者也;幾則謂有其理未形,則謂之幾也。言聖人作易,以極其有理未形之幾也。
胡瑗解説:ここより往下は、又聖人の《易》を作る用心を説明す:彼は幽隠の処を窮究して底に到り、事情の苗头の未だ顕露せざる前に就已に看清して、ここに《易》を作り成したり。所謂深とは、道理未だ成形せず形跡未だ顕現せず、而して聖人は已にそれの作用を推究して極処に到るを指す。所謂幾とは、道理は已に有りて尚未だ成形せず、こういう將に露せんとして未だ露せざる苗头を便ち幾と叫ぶ。これがすなわち聖人が《易》を作るは、まさにあの理有りて未だ成形せざる苗头を窮尽せんと欲するなり。
唯深也,故能通天下之志。
まさに《易》は能く幽深を窮究するに因って、故に能く天下人の心志を貫通す。
義曰:夫人之深,未有其理,未有其形,而又天下之心億兆其心,而聖人以己之深可以通天下之志,何也?蓋天下之心雖億兆之心,而聖人以己之心可以見天下之心,以己之志可以見天下之志。何則?夫人情莫不欲飽暖而惡其飢寒,人情莫不欲壽考而惡其短折,人情莫不欲富貴而惡其貧賤,人情莫不欲安平而惡其勞苦。是故聖人以己之心推天下之心,億兆之眾深情厚貎皆可以見矣。雖億兆之心至多而難見,而聖人但以一己之心、一身之勞逸,雖未見其理、未顯其形,則天下之心自然而見矣。
胡瑗解説:所謂幽深とは、道理未だ成形せず形跡未だ顕現せざるなり。いわんや天下人の心思は千万億の多き有るをや。聖人は自己一個人の深察に憑って、怎で能く天下人の心志を貫通せんや。道理は在りて曰く:天下の心思は虽億万種有るも、聖人は却って能く自己の心を以て去って天下人の心を照見し、自己の志向を以て去って天下人の志向を照見す。何を為すか。人之常情、飽食暖衣せんと想って饑寒を厭悪せざるなし、長寿せんと想って夭折を厭悪せざるなし、富貴せんと想って貧賤を厭悪せざるなし、安穩太平せんと想って労苦を厭悪せざるなし。故に聖人は自己の心を拿って去って天下人の心を推想せば、千万人の心底の真情と表面の厚飾と、便ち皆看出し得。人心は虽多き察し尽くし難きも、聖人はただ自己のこの一顆の心・自身の労と逸とに就着いて以て体会せば、たとい道理未だ成形せず形跡未だ顕現せざるも、天下人の心も便ち自然に照見す。
唯幾也,故能成天下之務。
まさに《易》は能く苗头を研尋するに因って、故に能く天下の事務を辦成す。
義曰:幾者,是有理未形之謂也。夫君子之人慾極天下之務,必先博學之,審問之,慎思之,明辨之,篤行之。既能如是,則雖天下之務、萬事之微盡可見矣,所謂知至知終者是也。
胡瑗解説:所謂「幾」とは、すなわち道理は已に存在して還って未だ成形せざるなり。徳行有る人は天下の事務を辦して尽善に到らんと想えば、必定に先ず広博に学び・詳細に問い・謹慎に思い・清楚に辨え・踏実に行うこの五条に做し到らねばならず。これは《礼記・中庸》に見ゆ。能くこの一步に做し到れば、さらば天下の事務・万事の細微の処は便ち皆看明白す。すなわち《乾》卦文言の説く所の知至知終なり。
唯神也,故不疾而速,不行而至。
まさに《易》は神妙莫测なるに因って、故に催趕するを用いずして自然迅速に、走動するを用いずして自然到達す。
義曰:夫大易之道極深研幾,無思無為,寂然不動,能通天下之志,能定天下之務,是其功如神,不疾而速,不行而至者也。
胡瑗解説:《周易》の道は幽深处を窮究して底に到り苗头を研尋し出し、自身は無思無為・寂然不動にして、しかし能く天下人の心志を貫通し、能く天下の事務を辦定す。こういう功效は神明に如同じく、催促するを用いずして就已に快く、走動するを用いずして就已に到る。
子曰:易有聖人之道四焉者,此之謂也。
孔子曰く:所謂《周易》の中に聖人の四条の門径を含有するとは、講ずる所はすなわち上面のこれらの内容である。
義曰:此又言大易能通微妙,以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占,故天下之能事畢矣。然則首尾俱言聖人之道四者,蓋為此一章之中所陳者三事:一曰非天下之至精,二曰非天下之至變,三曰非天下之至神。皆是廣言大易之道,然三事之中亦不出於聖人之道四,故首尾總而結之也。
胡瑗解説:此処に再び一度《周易》の能く精微を貫通するを講ず:言を立てる人はそれの文辞を看重し、行動する人はそれの変化を看重し、器を造る人はそれの卦象を看重し、卜筮する人はそれの占断を看重し、天下の做し得べき事はこのに到れば便ち斉備す。この一章の開頭と結尾とに皆「聖人之道四」を提ぐるは、章中に陳述する所有るは一共に三件事なるに因る:一は「非天下之至精」、二は「非天下之至変」、三は「非天下之至神」。この三句は皆大処より《周易》の道を講ずるも、而して三件事も又皆上面のあの四条の門径を跳出し得ざるなり。故に首尾に同一句の話を以て總括して結と為す。
繋辞上・夫易何為者也
子曰:夫易何為者也?
孔子は発問して曰く:《周易》この部の書は究竟何を為す用なるや。
義曰:自此以下至「民咸用之謂之神」為一章。此十翼之中第十。子曰夫易何為者,此蓋孔子嘆大易之道其功深賾,故假設此發問之辭以問之,曰夫易者何為者也。
胡瑗解説:ここより起りて、一直に下文の「民咸用之謂之神」に至るまで止まり、合して一章と為し、《十翼》の中に在りて第十に排す。「子曰、夫易何為者」この一句は、孔子が《周易》の道の功用深遠難測なるを讃歎し、因って故意に一句の問話を設けて以て発端と為し、説く:《易》この部の書は到底何を為すかと。
夫易開物成務,冒天下之道,如斯而已者也。
《周易》この部の書は、以て万物の心志を開通し天下の事務を成就し天下一切の道理を覆蓋するに用い、此の如く而已。
義曰:此夫子自釋易之體用也。開者,通也;冒者,覆也。言大易之道其功宏博,能開通於萬物之志,成就夫天下之務,覆冒夫天下之物也。至如泰卦則言財成之義,履卦則言履素之宜,革卦則言治厯之事,鼎則言鼎新之,旅則言無敢折獄,遯則言遯尾之厲,大壯則言君子用罔,乾卦則言亢龍有悔者。如此之類,是皆開通萬物之志,成就天下之務,覆冒天下之道。如斯之道,則大易之體用也,故云如斯而已。
胡瑗解説:これは孔子が自ら《易》の本体と功用とを解釈す。「開」とはすなわち開通、「冒」とはすなわち覆蓋。《周易》の道は功效宏大広博にして、能く万物の心志を開通し、天下の事務を成就し、天下の万物を覆蓋す。譬如《泰》卦は天地の道を裁成する分寸を講じ、《履》卦は本分を安守して行う合宜を講じ、《革》卦は暦法を修治し四時を明辨するを講じ、《鼎》卦は故を革め新を取るを講じ、《旅》卦は敢えて獄訟に滞留せざるを講じ、《遯》卦は退避して人の後に落るは危険有るを講じ、《大壯》卦は君子は強を逞しゅうして壯を用いざるを講じ、《乾》卦は飛ぶこと過度高き龍は必ず悔恨有るを講ず。此の類の如し、皆万物の心志を開通し・天下の事務を成就し・天下の正道を覆蓋するに在るなり。こういう道理の如きは、まさに《周易》の本体と功用なり。故に「如斯而已」と言う。
是故聖人以通天下之志。
故に聖人は《周易》に憑って以て天下人の心志を貫通す。
義曰:夫大易之道其功廣大,是故聖人以此之故以通達天下之志者也。然則天下之人心志至眾至繁,而聖人以大易之道以通天下之志者何也?蓋聖人有深幾之見,極未形之理,以已之心可以見天下之心,以已之志可以見天下之志。雖天下之人心志至眾至繁,然聖人以已之幾深度人之情偽利害,極未形之理,可以見天下之志者也。
胡瑗解説:《周易》の道は功效広大なれば、故に聖人はまさにそれに憑って以て天下人の心志を通達す。しかし天下人の心思はあの様に繁多なるに、聖人は竟に能く《周易》の道に憑って一一に貫通す。これは何の縁故なるや。聖人は苗头を洞察する深見有りて、能く未だ成形せざる道理を推究して底に到り、ここに自己の心を用いて便ち天下人の心を照見し、自己の志向を用いて便ち天下人の志向を照見するに因る。天下人の心志は縦に繁多なれども、聖人は自己のこの份の微を見て著を知る本事に憑って、深深に人情の真偽と利害の在所とを揣度し、未だ成形せざる道理を推究して底に到れば、便ち天下人の心志を照見したり。
以定天下之業。
《周易》を以て天下の功業を奠定す。
義曰:言聖人以此大易之故,極其幽深,研幾,成天下之務,冒天下之道,以定天下之功業也。
胡瑗解説:聖人は《周易》に憑って、幽深の理を窮究して底に到り、細微の苗头を研尋し出して、因って天下の事務を成就し天下の正道を覆蓋し、最終に天下の功業を奠定したり。
以斷天下之疑。
《周易》を以て天下人の疑難を決断す。
義曰:言大易之道通於人事。一卦六爻,有得位失位者,然吉凶悔吝雖聖人亦有所不知,於人事之間不能無疑。是故聖人雖以其蓍策占筮之,然亦不能無疑惑之心,而又謀之於鬼神,謀之於天地,以成其卦爻,又於卦爻之下繋屬其文辭,以決斷天下之疑也。至如乾之初九言潛龍勿用,離之六四言突如其來,如此是斷其疑也。
胡瑗解説:《周易》の道は人事に貫通す。一卦六爻に、或いは居位して當を得、或いは居位して當を失い、而して其中の吉凶悔吝は聖人に連れても亦有る尽知し得ざる所、人事の中に身を処して難く疑を生ぜず。故に聖人は虽すでに蓍策を以て占筮し了りたるも、心裏に仍ほ全く疑慮なからしめ得ず、ここに又鬼神に向かって求問し天地に向かって証を取り、これに拠って卦と爻とを定成し、再び卦爻の底下に文辞を繋げて、以て天下人の疑難を決断す。譬如《乾》卦初九に潜伏の龍は暫く施用せずと説き、《離》卦六四に火勢は突如として来ると説く、こういう類の辞句はすなわち人の為に疑を断ずるものなり。
是故蓍之徳圓而神。
故に蓍草の徳性は円転流通にして神妙難測なり。
義曰:夫蓍策之數未占已前,其吉凶悔吝人皆不可見,無有窮極,無有定止,其通變之道、天地之宜,其用如神,運而不窮,周流通暢也。
胡瑗解説:蓍策の数目は未だ卦を起し占問せざる前に在りては、吉凶悔吝は誰も看出し得ず、既に窮尽なく、もまた定準なし。それの変通の路数・天地に契合する分寸は、用うれば神明に如同じく、運転不息・周流暢達なり。
卦之徳方以知。
卦の徳性は則ち方正有定にして能く明察なり。
義曰:言蓍策之數未占之時雖其用如神,其吉凶悔吝周流通變,運而不窮;及其揲蓍之後布成其卦,卦有六爻,卦爻之下有得位、有失位、有中、有正、有凶、有吉、有悔吝,皆繋屬而不可變動,故言方以知者,是知其過去未來之事,極其未形之理,其情偽利害盡可見矣。然則必言蓍徳圓而神、卦徳方以知者,蓋神以知來,是來無方也;知以藏徃,是徃有常也。物既有常,猶方之有止;數無常體,猶圓之不窮。故蓍之變通則無窮,神之象也;卦觧爻分有定體,知之象也。知可以識前言徃行,神可以逆知將來,故蓍以圓象神,卦以方象知也。
胡瑗解説:蓍策の数目は卦を起せざる時に在りては、用うるに固然として神の如く、吉凶悔吝は流動不定・変化無窮なり。「揲蓍」し完えたに至れば、すなわち蓍草を反復分数し四根一組として数え過ぎ、爻数を求め出し排布して卦と成した後に、一卦六爻に、爻下に位を得る有り・位を失う有り、中に居る有り・正を得る有り、凶有り・吉有り・悔吝を帯ぶ有り、全て固定してあの処に繋属して再び変動し得べからず。故に卦徳は方正にして能く明察と言う:それは過去と将来の事を明察し、未だ成形せざる道理を推して極処に到り、人情の真偽・事勢の利害は全て看見し得。何故に必ず蓍徳は円にして神・卦徳は方にして知と説かねばならぬかに至っては、神は以て将来を預知するに用い、将来の事は定向なきに因る。智は以て既往を収蔵するに用い、既往の事は已に常軌有るに因る。事物は既に常軌有れば、便ち方形に棱有り止有るが如し。数に固定の形体なければ、便ち円形に転動して窮まらざるが如し。故に蓍の変通に止境なく、まさに神の形象なり。卦は一分解すれば爻は一分定して便ち固定の形体有り、まさに智の形象なり。智は能く従前の言論行事を記取し、神は能く将来を預先料る。故に円を以て蓍の神を象徴し、方を以て卦の智を象徴す。
六爻之義易以貢。
六爻の含む所の意義は、《周易》は文辞を以て一一に人に吿知す。
義曰:貢者,告也。言聖人因蓍策之數以佈設六十四卦,卦有六爻,以盡萬物之理。然爻有應有不應,有正有不正,其間吉凶悔吝皆不能告諭於人,故大易之道極未形之理,知過去將來之事,故六爻之下皆繋屬文辭,以貢告於人也。至如比之初六言吉,大過上九言凶,如此之類,是皆告於人,使人從善而去惡,從吉而去凶也。
胡瑗解説:「貢」とはすなわち吿知。聖人は蓍策の数目に依って六十四卦を布設し、每卦六爻、以て万物の理を窮尽す。しかし爻と爻との間に相応ずる有り・相応・相応ぜざる有り、当位有り・不当位有り、其中の吉凶悔吝は単に爻位を看るのみでは人に聴かせ講ずる無法なり。故に《周易》の道は未だ成形せざる道理を推して極処に到り、過去将来の事を皆照見せんを要し、ここに六爻の下に皆文辞を繋げて、以て世人に吿知す。譬如《比》卦初六に吉と説き、《大過》上九に凶と説く、こういう類の辞句は皆人に吿げるものなり。好く人をして善に跟従し悪を離れ、吉に趨向し凶を避けしめんがためなり。
聖人以此洗心。
聖人はこの部の《周易》に靠って以て自己の心を洗滌す。
義曰:夫大易之道至公至正,極天地之理,盡人事之宜,其吉凶悔吝皆繋屬於諸卦爻之下,聖人觀之,可以洗盪其心。至如萬物有疑則卜之,是洗盪其疑心;行善則吉,行惡則凶,是洗盪其噁心也。既洗盪己之心,然後可以洗盪萬物之心也。
胡瑗解説:《周易》の道は極めて公正にして、天地の理を推究して尽頭に到り、人事の分寸を講じて周全し、吉凶悔吝は皆各卦各爻の下に繋がれ、聖人は一看すれば便ちそれに借りて心を洗い淨め得。譬如事に遇いて疑有れば便ち去って卜問す。これは心中の疑慮を洗去するなり。善を行えば吉を得悪を行えば凶を得るを懂得するは、これは心中の悪念を洗去するなり。先ず自己の心を洗い淨めて、然る後に初めて天下人の心を洗滌すると談じ上げ得。
退藏於宻。
用い了えた後に便ち収斂して退回し、神妙を隠密不露の地方に蔵す。
義曰:言此大易之道索隱窮神,能盪滌萬民之心,雖有吉凶悔吝之變、仁義之術,而人不知自用,是其功如神之藏宻也。故上文所謂顯諸仁、藏諸用者,此也。
胡瑗解説:《周易》の道は隠微を捜求し神妙を窮究し、能く万民の心を洗滌して乾淨ならしむ。それは虽吉凶悔吝の種種の変化と仁義を施行する種種の法門とを含むも、百姓は天天にそれを用いながら自ら知らず。これがまさにそれの功用が神妙にして深蔵して露さざるなり。上文の説く所の仁徳を顕露し出し功用を隠蔵し起るは、講ずる所はすなわちこのである。
吉凶與民同患。
それは吉凶禍福を百姓の憂患と一緒に擔う。
義曰:夫人之生,愚夫愚婦者甚眾,其性昏蒙,憧憧然不知所以然而然,舉動之間雖有凶咎悔吝之事而不知自止。是故聖人以此大易之故,明示其吉凶憂患,使趣其善者舍其惡,向其吉者背其凶,是大易之道與民同憂患也。
胡瑗解説:世上の見識浅陋の男男女女は極めて多く、心性は昏昧にして、来来往往として忙碌やまず、事情が何を為すかこのようになるか自己も説き清め得ず。挙動の間に明明すでに凶咎悔吝を招来しても、還って脚を収住めるを知らず。故に聖人は《周易》に憑って、吉凶と憂患とを明明白白に彼らに指し看せ、彼らをして善の一面に奔りて悪の一面を丢開し、吉利に趨向して凶険に背離せしむ。これがすなわち《周易》の道が百姓と同じく憂患を擔うなり。
神以知來。
神妙の一面に憑って、將に到来せんとする事を預知す。
義曰:言大易之道知其未來之事,明其未形之理,故其用如神也。
胡瑗解説:《周易》の道は能く未だ発生せざる事を知り、能く還って未だ成形せざる理を照亮す。故にそれの作用は神明に如同じ。
知以藏徃。
明智の一面に憑って、すでに過去した事を収蔵す。
義曰:言此大易之道因蓍之策知其過去已形之理,其妙皆知之也。然則必言知來藏徃者,蓋蓍定數於始,於卦為來;卦成象於終,於蓍為徃。
胡瑗解説:《周易》の道は蓍策の数目に依って、能く過去すでに成形した道理を知り、其中の奧妙は了然せざるなし。知来と蔵往とを分け開けて説く所以は、蓍草が卦を起す初めに於いて先ず数目を定め出し、卦に対して言えばそれは将来に属し、卦は演算の終了に於いて初めて卦象を結成し、蓍に対して言えばそれは已成過去なりに因る。
其孰能與於此哉!古之聰明叡知、神武而不殺者夫。
還って誰かこの地步に達することを得んや。大概ただ古時のあの耳聡目明・思慮通達にして、威武は神の如くも殺伐を動用せざる人のみあらん。
義曰:言大易之道神以知來,知以藏徃,非此之故,其孰能與於此哉?惟是古者聰明叡知之人可以與之。耳無所不聞,故曰聰;目無所不見,故曰明;思無所不通,故曰叡;才無所不及,故曰知。言惟是聰明叡知之人有文有武,既能察微,又有剛斷,故於大易之間卦爻之下各隨動靜,神其吉凶之事,明其威福之理,示人以信,則人自然而威服之。至如弧矢取諸睽,刑罰取諸噬嗑,如此之類,皆是神其威武,不用刑殺而天下自然威服也。
胡瑗解説:《周易》の道は神妙に憑って将来を預知し、明智に憑って既往を収蔵す。もしそれに靠るに非ざれば、還って誰かこの一步に做し到り得んや。もまたただ古代のあの聰明叡智の人のみが配得上る。耳に聴こえざるなければ、故に聡と叫ぶ。目に見えざるなければ、故に明と叫ぶ。思慮に想い通ぜざるなければ、故に叡と叫ぶ。才能に及ばざるなければ、故に知と叫ぶ。これは言う、唯だこういう等の聰明叡智の人のみ、既に文徳有りて又武略有り、既能く細微を察知し、又能く剛毅に決断す。故に《周易》の裏に於いて、彼らは卦爻の動静に随って、吉凶の事を説いて神妙と為し、威罰と福賞の道理を講じて分明と為し、誠信を拿って人に示せば、人は自然に便ち敬畏して順服す。譬如弓箭を制作して《睽》卦に取法し、刑罰を設立して《噬嗑》卦に取法する、こういう類は皆威武を用いて神妙と為し、必ずしも真に刑殺を動かさずして、天下は自然に畏服す。
是以明於天之道,而察於民之故,是興神物以前民用。
故に彼らは上天の運行する規律を通曉し、又百姓の生活する実情を体察し、ここに蓍草と亀甲こういう類の神霊の物を興起し、百姓の動用する前に搶じて彼らの為に方向を指点す。
義曰:言聰明睿知之人既能神其威武而不殺,是以大明天地陰陽變化之道,大察天下情偽利害之故,又以神靈之物明其吉凶之驗,以前萬民之用,至於未來之事皆繋屬其辭,使人通曉之,趣其善而去其惡者也。
胡瑗解説:聰明叡智の人は既能く威武を用いて神妙にして殺伐を動かざれば、ここに便ち能く大大に天地陰陽変化の規律を照明し、深深に天下の人情真偽と利害の実情を察知す。又蓍亀こういう類の神霊の物に借りて吉凶の応験を顕出し、万民の手を動かす前に搶じて彼らの為に路を指す。将来未だ発生せざる事に連れても、亦た皆文辞を繋げ上げて、人をして一看すれば便ち懂得せしめ、好く善に趨向し悪を丢開せしめんとす。
聖人以此齋戒。
聖人はこの部の《周易》に靠って以て身心を潔淨し戒慎して患を防ぐ。
義曰:洗心則謂之齋,防患則謂之戒。言聖人以此大易之道齋心防戒其患害之事,使憂虞悔吝不能及於己,至幽至微之處皆得以先知也。
胡瑗解説:心を洗い淨めるを斎と叫び、禍患を防住するを戒と叫ぶ。聖人は《周易》の道に憑って心地を潔淨し災害を戒備して、憂慮と悔吝とを自己の身に挨り着かざらしめ、最も幽隱細微の地方に連れても、亦た皆能く預先に知暁す。
以神明其徳夫。
併せて自己の徳行を神妙にして昌明ならしむ。
義曰:言聖人既能以大易之道齋戒而防患,又能觀易道幽深,以神明其徳,使天下之人不知所以然而然也。
胡瑗解説:聖人は既能く《周易》の道に憑って身心を潔淨し患を未然に防ぐに、又能く《易》道の幽深を体察して、自己の徳行を神妙昌明ならしめ、天下人をして彼の教化を受けて、却ってこの変化が怎で来たるを説き出し得ざらしむ。
是故闔戶謂之坤。
故に門を関して把るは、これを便ち坤と叫ぶ。
義曰:此以下又廣明大易自乾坤而來也。夫坤者陰也,主夫地。然坤之道主夫生成萬物,若陽降其氣,則坤能成而生之;若陽氣不降,則地道闔閉,主其収藏,如戶之閉也。
胡瑗解説:ここより往下は、又進んで《周易》の全てが乾坤より生出することを説明す。坤は陰に属し、大地を主管す。坤の職分は万物を生成するに在り:陽気が下降する時は、坤は便ちそれを承接し、万物を生養して成形せしむ。陽気が下降せざる時は、地道は便ち閉合し起りて、転じて収蔵を主管す。便ち門の関じるが如し。
闢戶謂之乾。
門を打開するは、これを便ち乾と叫ぶ。
義曰:乾者陽也,主夫天。夫天陽之氣下生萬物,使萬品之物皆遂其生者,是乾為開闢之端,如戸之開通者也。然則先言坤而後言乾者,蓋凡物先藏而後出,故先言坤而後言乾也。
胡瑗解説:乾は陽に属し、上天を主管す。天の陽気は下に向かって万物を生養し、各類の生物を皆自己の生機に遂げせしむれば、これがすなわち乾が開啓の一端を擔當し、門の打開せらるるが如く暢通なり。何を為すか先ず坤を説き後に乾を説くに至っては、万物は総じて先ず蔵せられて而して後に初めて長じ出るに因る。故に先ず坤を講じて而して後に乾を講ず。
一闔一闢謂之變。
一関一開は交替して進行す。これを便ち変と叫ぶ。
義曰:言陰主其閉闔,又主其収藏;陽主其開闢,又主其施散。是一闔一闢以成變化之道,春生夏長秋成冬乾者也。
胡瑗解説:陰は閉合を主管し、又収蔵を主管す。陽は開啓を主管し、又発散を主管す。一合一開は交替して往复し、便ち変化の道を成就し、時令に落れば便ち春天に生発し・夏天に長養し・秋天に成熟し・冬天に干枯す。
徃來不窮謂之通。
来来去去として窮尽なし。これを便ち通と叫ぶ。
義曰:言天地之道、生成之理,徃來之間循環不絶,周而復始,無有窮極,常自通流,是謂之通也。
胡瑗解説:天地の運行・生成の道理は、一来一往の間に在りて循環断えず、周して復た始まり、尽頭なく、永遠に自ら流転す。これを便ち通と叫ぶ。
見乃謂之象。
顕現し出るあの一步は、便ち象と叫ぶ。
義曰:言天地之道、陰陽之功生而不已,自十一月建子陽氣下復,至於丑寅之位,萬物顯見於世,有其形狀,故謂之象也。
胡瑗解説:天地の道・陰陽の功は生生して已まず。十一月建子の月より陽気は下より回復し、丑月・寅月の位次に到れば、万物は便ち一一に世に顕現し、看るべき形状有り。故に象と叫ぶ。
形乃謂之器。
形体を結成するあの一步は、便ち器と叫ぶ。
義曰:言天地之道生成不已,故萬物始有其形,形之不已,乃可成於器用。是故聖人因此大易六十四卦之形象,凡創制器用,必觀其形象,為之凖範,然後成其法式也。
胡瑗解説:天地は万物を生成して停まず、万物はここに形体有り。形体は不断に充実して、初めて用有る器物を做し成り得。故に聖人は《周易》六十四卦の形象に憑って、およそ器用を創制せんと要すれば、必定先ず卦象を看清して、それを把って準則と為し、然る後に初めて制作の法式を定め出す。
制而用之謂之法。
器を裁制して拿って来て施用するは、これを便ち法と叫ぶ。
義曰:言聖人裁制其物,凡所施用,垂為範模,後世以之為法式也。至如宮室取大壯,網罟取諸離,書契取諸夬,弧矢取諸睽,如此之類,皆是聖人制成器用,為後世之法。
胡瑗解説:聖人は器物を裁制し、およそ造り出して施行使用するは、皆留め伝えて以て模範と為し、後代は便ちそれに照らって法式と為す。譬如宮室を建造して《大壯》に取法し、繩を結して網罟と為して《離》に取法し、木を刻んで事を記する書契は《夬》に取法し、弓箭を制作して《睽》に取法す。こういう類は皆聖人が器用を造成し、後代の為に法則を立下る。
利用出入,民咸用之謂之神。
器物は便利にして、出で入りして合用せざるなし。百姓は人人皆それを用いながら然る所以を説き出し得ず。これを便ち神と叫ぶ。
義曰:言聖人既制器用,或出於此,或入於此,使天下之人用之皆得其利。天下之人既皆得其利,是聖人之妙用如神,而人不知所以然而然也。
胡瑗解説:聖人は既に器用を造り出せば、或いはここより出で或いはここより入りて、天下人のそれを使用するに便利を得ざるなし。天下人は既に皆便利を得れば、見れば聖人の妙用は神明に如同じく、人々はそれに照らって做すれども其中の縁故を説き出し得ざるなり。
繋辞上・易有大極是生両儀
是故易有大極,是生兩儀。
故に《周易》の裏に一個の「太極」有り、すなわち天地未だ分かれざる前の渾然一体の本原。太極に由って「両儀」を生出す。すなわち天と地。
義曰:此以下至「自天佑之,吉無不利」為一章。易有太極者,言大易之道始於太極。太極者,是天地未判、混元未分之時,故曰太極。言太極既分,陰陽之氣輕而清者為天,重而濁者為地,是大極既分,遂生為天地,謂之兩儀。
胡瑗解説:ここより起りて、下文の「自天佑之、吉无不利」に至るまで止まり、合して一章と為す。所謂易有太極とは、《周易》の道は太極に起始するを言う。太極とは、天地が還って未だ分判せず元気が還って渾然として未だ散ぜざるあの階段を指す。故にそれを太極と称す。太極は一旦分かれ開けば、陰陽二気はこれに随って立つ:軽く清きは上昇して天と成り、重く濁れるは下沉して地と成る。太極は既に分判せば、便ち天と地とを生出し、これら両樣を便ち両儀と叫ぶ。
兩儀生四象。
天地この両儀は、再生じて「四象」を出す。胡瑗は下文に於いて木・金・水・火の四者を以てそれを解釈す。
義曰:言天地之道、陰陽之氣自然而然生成四象。四象者,即木金水火是也。故上文謂天一下配地六生水,地二上配天七生火,如此之類,是天地陰陽自然相配,生成金木水火之象。然此止言四象而不言土者,蓋天地既判,生為五行,然二氣既分,則自然生而為木金氷火,則地之道本於土而成,但言四象,則土從可知矣。
胡瑗解説:天地の運行・陰陽二気の往来は、自然而然に四象を生成す。此処の説く四象とは、すなわち木・金・水・火。故に上文に天数一は下に在りて地数六と相配して以て水を生じ、地数二は上に在りて天数七と相配して以て火を生ずと説く、こういう類は皆天地陰陽の自然相配して、金木水火の象を生成す。此処にただ四象を講じて土を提げざるに至っては、天地は既に分判せば、生ずる所は本は五行なるに因る。しかし二気は一分かれれば、自然に先ず木金水火を生出し、而して地道は元々便ち土に靠って初めて成立す。故にただ四象を説き、土は自然に便ち其中に包含せらる。
四象生八卦。
四象は再生じて八卦を出す。
義曰:言水火木金互相生成而成八卦。至如水生於坎,火生於離,金生於兌,木生於巽,土生於艮,如此之類,是四象五行之所生也。是故伏羲因此五行所生,畫為八卦也。
胡瑗解説:水火木金は彼此生成して、ここに八卦を結成す。譬如水は《坎》に帰属し、火は《離》に帰属し、金は《兌》に帰属し、木は《巽》に帰属し、土は《艮》に帰属す。こういう類は皆四象五行の生出した所である。故に伏犠は便ち五行の生ずる所に依って、八卦を画き成したり。
八卦定吉凶。
八卦は以て吉凶を判定するに用い。
義曰:言伏羲既畫八卦之後,又繋屬其爻辭於諸爻之下,明吉凶之變。凡事之得者為吉,事之失者為凶,言於得失之間以成吉凶之事,使人退省其身,日修其徳,趨其吉而悖其惡,從其善而去其凶也。
胡瑗解説:伏犠が八卦を画き成した後に、又在各爻の下に爻辞を繋げ、吉凶の変化を講明した。およそ事情を做し対れば便ち吉と算し、做し錯えば便ち凶と算す。便ちこの得失の間に於いて吉凶を定め出して、好く人をして退回して自身を省察せしめ、天天に徳行を修養し、吉利に趨向して邪悪を背棄し、善に跟従して凶険を離れしめんとす。
吉凶生大業。
吉凶の判別は、人間の大功業を生出す。
義曰:夫吉凶之兆也,皆在於六十四卦爻位之中,得其正者為吉,失其位者為凶。聖人又繋屬其辭以明吉凶之驗,使人知自修省。人既知自修省,則能保守其分位,以成其大業,故大業之成必自吉凶而生矣。
胡瑗解説:吉凶の徴兆は皆六十四卦の爻位の中に在り:居位して正を得るは便ち吉、居位して當を失うは便ち凶。聖人は又文辞を繋げて以て吉凶の応験を講明し、人をして自我省察を懂得せしむ。人は既に自我省察を懂得せば、便ち能く自己の名分と地位とを守住し得、従って一番の大事業を成就す。故に大業の成就は、必定に吉凶を辨明するより来る。
是故法象莫大乎天地。
故に效法に供し得べき形象は、天地より大なるはなし。
義曰:法象則謂吉凶之理、得失之跡也。夫天地之大、萬物之理,皆由二體互相推蕩而生也。至於髙者有其分,下者有其理,善者福之,惡者禍之,此常理也。聖人仰觀俯察為之法象,善者賞之,惡者罰之,然其功其理皆本始於天地,故云莫大乎天地。
胡瑗解説:此処の説く法象とは、吉凶の道理・得失の痕跡を指す。天地はこのよう広大にして万物はこのよう條理有るは、全是天地この両個の本体が互相推蕩して生出したるに靠る。上に在るは自ら上に在る名分有り、下に在るは自ら下に在る道理有り、善を行うは福を得、悪を作るは禍を招くは、これは恒常の理なり。聖人は頭を抬げて天を観察し頭を低めて地を察看し、これに拠って效法し得べき形象を立下る:善を行うは便ち彼を賞し、悪を作るは便ち彼を罰す。この一番の功用と道理は、根子は皆天地に在り。故に天地より大なるなしと言う。
變通莫大乎四時。
変化通達の表現は、四季より顕著なるはなし。
義曰:言天地之道、陰陽之氣、變通之道、生成之功,春秋冬夏生而不已,是以成之,成之不已又殺之,殺之不已又生之。是其天地之氣生殺之功,千變萬化,皆由四時之氣推蕩而成也。
胡瑗解説:天地の運行・陰陽の気化・変通の道理・生成の功効は、春夏秋冬の裏に在りて生生して已まず:先ず万物を成就し起して、成就やまず又粛殺を加え、粛殺やまず又重新に生養す。天地の気この一套の生有り殺有るの功用は、千変万化して、全是四時の気の推移激蕩に凭って成る。
縣象著明莫大乎日月。
天上に高懸し光明显著の物象は、太陽と月亮より大なるはなし。
義曰:言天地之道布懸其法象,星辰其於著明、運行不息、無所不照者,莫大乎日月也。
胡瑗解説:天地は種種の效法し得べき形象を上に高懸し、星辰は固然として亦た明亮なるも、しかし光照顕著・運行不停・照らさざる処なしを論ずれば、便ち日月より大なるはなし。
崇髙莫大乎富貴。
地位の尊崇隆高は、富貴より甚なるはなし。
義曰:上既言天地之道、陰陽之理、變通之事、日月之明,此後言以富貴而繼屬之者何也?蓋聖人非以恃其崇髙,極侈其位,誇恃其富貴。是故天地之道但能生成萬物,不能生成天下之人,是故君子有大才大徳,凡居崇髙極盛之位,代天理物,能以仁義敎化生成天下之人。若無富貴之位,則其功不能以及於天下也。是故其所以重富貴者,非重其位也,蓋重其行道於天下。故下繋曰聖人之大寳曰位,是言聖賢所保重者曰位,惟在行道而已,故以富貴次於天地日月之後也。
胡瑗解説:上文は既に天地の道・陰陽の理・変通の事・日月の明を講じ過ぎたれば、接下して却って富貴を拿って後面に接続するは、これは何の縁故なるや。併せて聖人が地位の崇高に仗恃し極力に自己の位子を鋪張し自己の富貴を誇耀するに非ず。縁故は在りて曰く:天地の道はただ能く万物を生成するのみ、しかし天下の人を教養する能わず。故に大才大徳の君子有りて、一旦崇高極盛の位子に居れば、上天に代わって万物を治理し、便ち能く仁義教化を以て天下の人を生養す。倘若富貴の位子なからば、彼の功業は便ち天下に及ばざるなり。故に富貴を看重する所以は、併せてあの位子本身を看重するに非ず、それに借りて以て正道を天下に推行するを看重するなり。故に《繋辞下》に「聖人之大寶曰位」と説くは、まさに聖賢の珍視する所のあの位子は、価値はただ能く道を行うに在るのみと言う。もまたまさにこのが故に、初めて富貴を天地・日月の後に排して講ず。
備物致用,立成器以為天下利,莫大乎聖人。
各種の物資を備辦しそれらの用途を発揮し、器械を創立して做り成して以て天下に造福するは、この方面に於いて聖人の貢獻より大なるはなし。
義曰:備物致用者,備天下之物,致天下之用也。立成器者,則謂建立成就天下之器用,以便於天下也。凡能便利天下者,無出於聖人也。聖人則無所不通,故能成天下之利也。至如包羲氏結繩為網罟,以佃以漁;神農斵木為耜,揉木為耒,耒耨之利以敎天下;又如木為剡木為矢,矢之利以威天下;又如黃帝刳木為舟,剡木為楫,舟楫之利以濟不通;又如宮室取大壯,掘地為臼,斷木為杵,臼杵之利萬民以濟。如此之類,皆是備物致天下之用,立器為天下之利也。
胡瑗解説:所謂備物致用とは、すなわち天下の物資を備辦し天下の用途を発揮す。所謂立成器とは、すなわち天下の用い得べき器械を建立して做り成して、好く天下の人をして便ならしめんとす。およそ天下に便利を帯来し得るは、聖人を超過するはなし。聖人は通ぜざる所なく、故に能く天下の利益を成就す。譬如伏犠は繩子を把って結して網罟と為し、以て猟し魚を捕うに用い、神農は木を砍削して耜を做り木を揉み曲げて耒を做り、耕耘の利を以て天下を教導す。又如木を削って箭矢を做り成し、弓矢の利に靠って天下を威懾す。又如黃帝は木を挖き空めて船を做り木を削って桨を做り、舟楫の利に靠って原先到り得ざる所を溝通す。又如宮室を建造して《大壯》卦に取法し、地を挖って臼と成し木を断って杵と為し、米を舂く利に靠って万民を救済す。こういう類は皆物資を備辦して以て天下の用に供し、器械を創制して以て天下に利す。
故唐元次山曰:吾人之苦兮山幽幽,網罟設兮山不幽;吾人之苦兮水深深,網罟設兮水不深。是言聖人凡所創立其器,雖山川滄海之深逺,而聖人所作其器,無逺無近,無幽無深,皆得其利。故水之深而網罟不深,山之幽而網罟不幽,其功如是之廣,而人用之皆得其利也,非聖人孰能如此哉。
胡瑗は接いて引証す:唐代の元結は曾て言ったり、百姓の苦処は山の太く幽深なるに在り、しかし網罟は一张設せば、山も便ち幽深と算えざるなり。百姓の苦処は水の太く深遠なるに在り、しかし網罟は一张設せば、水も便ち深しと算えざるなり。これは聖人が每一件の器物を創制する毎に、縦に山川滄海の如き幽深遼遠の地方に面對するも、彼の造る所の器物も遠近を分けず幽深を論ぜず、処処皆能く便利を取得するを言う。故に水は虽深しとも、網罟有れば便ちその深を覚えず。山は虽幽なれども、網罟有れば便ちその幽を覚えず。功用がこの地步に広大なれば、人人それを用いて皆能く利を得。もし聖人に非ざれば、誰かこのようを做し到り得んや。
探賾索隱,鉤深致逺,以定天下之吉凶,成天下之亹亹者,莫大乎蓍龜。
繁雑を探究し隠微を捜求し、深处を鉤取し出し遠处を招引し来りて、それに憑って天下の吉凶を断定し天下人を促成して勤勉不懈ならしむるは、この方面に於いて蓍草と亀甲より管用なるはなし。
義曰:探謂探尋,賾謂幽隱難見之處。言至幽至逺、至隱至近之處,鉤深極逺之事,天地幽隱之處,過去未來之吉凶,惟是聖人以卜筮之占皆得以知之也。若事得於道者為吉,失於理者為凶,以其吉凶之事告示於人,使人趨善從吉,去惡避凶,雖愚者昧者皆勉勉而知勸。夫如是定天下之吉凶、成天下之亹亹者,皆由蓍龜之占筮也。
胡瑗解説:「探」とはすなわち探尋、「賾」とは幽深隠微・看見し難き地方を指す。これは言う:最も幽暗最も遥遠・最も隠蔽も亦た最も切近の所在、あの鉤取深处・窮極遠方せざれば初めて弄明白し得べからざる事、天地間の隠蔵して露せざる処、および過去と将来の吉凶は、ただ聖人が卜筮占問に憑って、初めて全て能く知暁し得。事情が正道に合乎するは便ち吉、事理に違背するは便ち凶。この吉凶を把って明白に世人に吿げて、人をして善に趨向し吉に跟従し、悪を丢開し凶を躲開せしめば、たとい愚昧の人なるも亦た皆能く勉力して向上し勧勉を受け得。こういう様に天下の吉凶を断定し天下人を促成して勤勉して倦まざらしむるは、靠る所は全是蓍草と亀甲の占筮である。
是故天生神物,聖人則之。
故に上天は蓍草・亀甲こういう類の神霊の物を生出せば、聖人は便ちそれらを取って以て法則と為す。
義曰:神物者,則謂神靈之物,蓍龜是也。灼龜以為卜,揲蓍以為筮。言天之所生者蓍龜之靈,知人之休咎,明人之得失,是故聖人取之為法則,考人之行事也。
胡瑗解説:所謂神物とは、神霊の物を指す。すなわち蓍草と亀甲。亀甲を燒灼して裂紋を看るを卜と叫び、手で蓍草を分数して爻数を求むるを筮と叫ぶ。これは上天の生ずる所の蓍亀は自ら霊性有りて、能く人の吉凶禍福を知り、能く人の得失を照見すを言う。故に聖人は取り来りて以て法則と當て、それを以て人の所作所為を考察す。
天地變化,聖人效之。
天地は不断に変化し、聖人は便ちそれを仿効す。
義曰:言天地之道、陰陽之氣、生殺之理,春生夏長,四時代謝,千變萬化,聖人效法之:當賞則賞之,當刑則刑之;事之久者必改其弊,器之泥者必革其新,是聖人法效天地之變化也。若據疏說以為賞以春夏、刑以秋冬,則非也。
胡瑗解説:天地の運行・陰陽の気化・生殺の道理、春生夏長・四季更替、千変万化すれば、聖人は一一に仿効を加える:賞すべきは便ち賞し、罰すべきは便ち罰す。一件の制度は推行久しくして弊病を生出せば、必定に更改を加える。一樣の器物は用い滞塞不便なれば、必定に革新を加える。これがすなわち聖人が天地の変化を効法するなり。旧疏がそれを賞賜は応に春夏に放ち刑罰は応に秋冬に放つべしと講じたるに至っては、さらば便ち説き錯えたり。
天垂象,見吉凶,聖人象之。
上天は物象を垂示し、其中より吉凶を顕出せば、聖人は便ち象を取りてそれを効法す。
義曰:言天之垂象以示人之吉凶,若陰陽之慘舒、日星之災變、風雨之不節、霜雪之不時,如此之類,皆是天垂象以示於人。聖人必當象之,或祥之來則象其吉,災之來則應以凶,或修其徳而平其政也。
胡瑗解説:上天は物象を垂示して、以て人に吉凶を吿ぐ。譬如陰陽の気は或いは惨烈或いは舒和し、日月星辰に災異変故出現し、風雨は節令に合せず、霜雪は時候に按らず。こういう類は皆上天が象を垂れて人に看す。聖人は必定にそれに取法せねばならず:祥瑞が来れば便ちそれを把って吉の徴兆と為し、災異が来れば便ち凶を以て対応し、或いは自身を反省し徳行を修養して、政事を整治して平順ならしむ。
河出圖,洛出書,聖人則之。
黃河に龍図出現し、洛水に亀書出現す。これは便ち「河図洛書」この両樣の祥瑞、聖人はそれらを取って以て法則と為す。
義曰:按此河圗是天之大瑞也。若聖人在上,至徳動於天地,天下之人和洽,則和氣充塞於天地之間,則河出圗、洛出書,以為瑞應之驗也。是故聖人所以法則之者,蓋法其時而行事,故曰聖人則之也。
胡瑗解説:河図は上天の降下する大祥瑞である。もし聖人位に在れば、極高の徳行は天地を感動し、天下人は和睦融洽して、さらば祥和の気は便ち天地の間に充満して、ここに黃河に龍図出現し洛水に亀書出現して、祥瑞応験の憑拠と為す。聖人のそれを取って法則と為す所以は、こういう太平の時世に取法して以て行事するなり。故に「聖人則之」と言う。
然按諸儒之說,以謂河圗洛書出見於世,伏羲因得之而畫成八卦,感上天之美應者也。且上古洪荒之世,典章法度未立,伏羲以聖人之才徳居位,是以經綸天地,畫成八卦,以為萬世之法則。若河圗洛書未出見之時,伏羲亦當畫為八卦以為後世之法。且河圖洛書是天之大瑞,若果河圖洛書已有八卦,則八卦不當言伏羲所畫也。又按洛書賜禹,是亦八卦更有聖人所畫矣。
胡瑗は随に辨正す:歴來の諸家の説法は、河図洛書が世に出現し、伏犠がそれらを得て初めて八卦を画き成したり、上天の美好の回応に感応したりと認為す。しかし上古洪荒の世に、典章法度は皆還って未だ建立せざりき。伏犠は聖人の才徳に憑って君位に居り、因って天地を経緯し八卦を画き成し、立てて以て万世の法則と為したり。たとい河図洛書が出現せざりしも、伏犠は照樣に八卦を画出して後世に留めたらん。いわんや河図洛書は上天の大祥瑞にして、倘若図書の上に原本就已に八卦有らば、さらば八卦は応に伏犠の画いたと説くべからざるなり。更に説けば洛書は上天が大禹に賜いたもの、もしあの上にも亦た已に八卦有らば、豈に別に聖人が八卦を画き過ぎたりと成らんや。
且按下繋曰:古者包羲氏之王天下,仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文,近取諸身,逺取諸物,於是始作八卦,以通神明之德,以類萬物之情。此八卦自是伏羲觀天地、取諸物而畫成八卦也,又豈得謂伏羲感河圖洛書而畫八卦哉?若果河圖洛書已有,則孔子不當言伏羲仰觀俯察而成八卦也。
胡瑗は再び経を引いて証と為す:《繋辞下》に説く、古時に包羲氏は天下を統治し、頭を抬げて天上の物象を観察し、頭を低めて地上の法則を観察し、鳥獣の身上の紋理を観察し、近処には自己の身体に取法し、遠処には万物に取法して、ここに初めて八卦を創作し、以て神明の徳性を貫通し、以て万物の情状を帰類したりと。見れば八卦は本來便ち伏犠が天地を観察し万物に象を取って画き成したもの、怎で能く伏犠が河図洛書に感応して初めて八卦を画出したと説かんや。倘若図書の上に真に已に八卦有らば、孔子は応に伏犠が仰觀俯察して初めて八卦を作成したと説くべからざるなり。
又如孔子曰:鳳鳥不至,河不出圖,吾已矣夫。是孔子因其鳳鳥而為書也。又曰:龜龍在郊藪,河出圖,洛出書。是亦因龜麟而至矣。此蓋孔子言麟鳳者,天之瑞物難見者也。若聖人在上,錫五福於人,庶政行於國,和氣充塞於天地,則河圖洛書□麟龍鳳出,為瑞應之驗,是以聖人法則其時以行其事也,故云聖人則之。今鄭康成以春秋緯云河圖有九篇、洛書有二篇,孔安國以為河圖為八卦、洛書有九疇,皆失之矣。
胡瑗は又旁証を擧ぐ:孔子は説き過ぎたり、鳳鳥は飛来せず、黃河は図を出さず、我のこの一生は大概すでに了えたならんと。これは孔子が鳳鳥を河図に連れて一緒に説いたもの。彼は又説く、亀龍は郊野水沢に出現し、黃河は図を出し洛水は書を出す、これも亦た亀と麟とを連れて一併に説いたもの。見れば孔子の説く所の麟・鳳は、皆上天の祥瑞の物で、本來便ち見るを得難し。もし聖人位に在りて、五福を把って百姓に賜い、各項の政事を國中に推行して當を得れば、祥和の気は天地に充満して、さらば河図・洛書と麟・龍・鳳とは便ち皆出現して、祥瑞応験の憑拠と為さん。聖人はまさにこういう時世に取法して以て行事す。故に「聖人則之」と言う。いま鄭康成は《春秋緯》に依拠して河図に九篇有り洛書に二篇有りと説き、孔安國は河図は便ち八卦・洛書は便ち《洪範》九疇と認為するに至っては、これらの説法は皆講じ錯えたり。
易有四象,所以示也。
《周易》は四種の象を具備す。以て人に向かって義理を顕示するに用いるなり。
義曰:按此四象有二說。一說以謂天地自然相配,水火金木以為之象,所以示也。又一說:吉凶者失得之象也,悔吝者憂虞之象也,變化者進退之象也,剛柔者晝夜之象也。是言大易之道有此四象,所以示人之吉凶。疏荘氏謂六十四卦之中有實象、有假象、有義象、有用象,則非也。又何氏以為天生神物聖人則之、天地變化聖人效之、天垂象見吉凶聖人象之、河出圗洛出書聖人則之,亦非也。
胡瑗解説:此処の四象に両種の講法有り。一種の説法は天地が自然相配して、水・火・金・木を把って四象と為し、それらを以て人に向かって顕示すと認為す。另一種の説法は:吉と凶とは、得失の象なり。悔と吝とは、憂慮の象なり。変と化とは、進退の象なり。剛と柔とは、昼夜の象なり。これは《周易》の道はこの四種の象を具備して、以て吉凶を把って人に指示するを言う。旧疏の引く所の莊氏に至っては、六十四卦の中に実象・假象・義象・用象の四類有りと認為するは、あれは正しくない。何氏は上文の「天生神物、聖人則之」「天地変化、聖人效之」「天垂象、見吉凶、聖人象之」「河出図、洛出書、聖人則之」この四句を把って四象と當てるは、同様に正しくない。
繋辭焉,所以告也。
卦爻の下に文辞を繋げるは、以て世人に吿知するに用いるなり。
義曰:上既言天生神物聖人則之,天地變化聖人效之,天垂象見吉凶聖人象之,河出圗洛出書聖人則之,易有四象所以示人之吉凶。此言又繋屬其辭,明其得失,所以貢告於人,使人知憂患之慮也。
胡瑗解説:上文はすでに上天が神物を生出して聖人が法を取り・天地が変化を発生して聖人が仿効し・上天が象を垂れて吉凶を顕出して聖人が象を取り・黃河が図を出し洛水が書を出して聖人が則を取り、および《易》に四象有りて以て吉凶を把って人に顕示することを講じ過ぎたり。この一句が説くは、聖人は又卦爻の下に文辞を繋げ、得失の在所を講明して、以て世人に吿知し、人をして憂患に対して一分の警惕を存せしむるを懂得せしむ。
定之以吉凶,所以斷也。
再び吉凶を以てそれを断定するは、人の為に疑難を決断せんがためなり。
義曰:言既繋屬其辭以明得失,又定其吉凶之驗,以斷天下之疑惑,使人知其象,趨其吉而背其凶也。
胡瑗解説:既に文辞を繋げて以て得失を講明し、又吉凶の応験を定下して、以て天下人の疑惑を決断し、人をして卦象を看清して、吉利に趨向して凶険に背離せしむ。
易曰:自天佑之,吉無不利。
《周易》に曰く:上天のあの処より保佑を得て、吉利にして順遂せざるなし。
義曰:此大有上九之爻辭也。言易有四象所以示也,繋辭焉所以告也,又定之以吉凶所以斷也,言天下之人既知其吉凶之驗、禍福之理,又引此大有上九之爻辭以證之。言大有上九居大有之世,天下富盛,諸爻皆乗於剛,已獨下乗於陰六五,有厥孚交如之吉,已獨乗之,是以得自天佑之吉無不利也,此大有之時如此也。
胡瑗解説:これは《大有》卦上九の爻辞である。上文は《易》に四象有りて以て顕示し、文辞を繋げて以て吿知し、又吉凶を以て定めて以て決断するを説く。天下人は既に吉凶の応験・禍福の道理を明白せば、ここに又《大有》上九の爻辞を引いて以て印証す。《大有》上九は大有富盛の時世に処り、天下は豊足して、その余の各爻は皆剛爻の上に凌駕し、唯だそれのみが下に向かって陰柔の六五に凌乗す。六五は誠信相交の吉慶有りて、唯だ上九のみがそれと相接す。故に能く上天の保佑を得、吉利にして順遂せざる所なし。《大有》この時世の情形は便ち此の如し。
子曰:佑者,助也。天之所助者,順也;人之所助者,信也。履信思乎順,人以尚賢也,是以自天佑之,吉無不利也。
孔子曰く:佑とは、すなわち幇助。上天の幇助する所は、天道に順応する人。衆人の幇助する所は、誠信を講ずる人。誠信を踐行して念々として天道に順応するを忘れざれば、人々はこれに因って賢徳を推重す。故に能く上天の保佑を得、吉利にして順遂せざるなし。
義曰:此孔子解釋之辭也。言大有上九所以得自天佑之者,蓋由己以陽承於六五柔順之君。天之所以佑之者,助其順也;人之所以助之者,信也。言六五居中有信於天下,而上九承之,是履其信也。既已履信,則天下之人亦助以信也。既履其順,又履其信,則是崇尚賢徳矣。夫既為崇尚賢徳之人,則上天之所佑助,鬼神之所協吉,天下之人皆所信助,夫如是何所不利哉。
胡瑗解説:これは孔子が爻辞を解釈する話である。《大有》上九の能く上天の保佑を得る所以は、それが陽剛の身を以て六五この位の柔順の君に承奉するに因る。上天のそれを保佑する所以は、それの天道に順応するを幇助するなり。衆人のそれを幇助する所以は、それに誠信有るに因る。六五は中位に居りて天下に信を取り、上九はそれと相接すれば、これがすなわち誠信を踐行す。既に誠信を踐行せば、天下人も便ち誠信を拿って彼を幇助す。既に順道を踐行し、又誠信を踐行すれば、あれは便ち賢徳を崇尚す。既に賢徳を崇尚する人なれば、上天は便ち彼を保佑し、鬼神は便ち彼に吉慶を給い、天下人は皆信任して彼を幇助す。この様の如くなれば、還って何の順遂せざる有らんや。
繋辞上・書不尽言言不尽意
子曰:書不盡言,言不盡意。然則聖人之意,其不可見乎?
孔子曰く:文字は説かんとする話を写し尽くさず、話も亦た心裏の意思を説き尽くさず。既にこの然なれば、聖人の心意は豈に看る従なからんや。
義曰:自此以下至「黙而成之」,是夫子總言大易之道,當連上文為一章。書不盡言者,言聖人之言出則為天下之則、為天下之令,然於簡牘之中所載,必不能盡聖人之言也。言不盡意者,言聖人之意思慮宏達,無逺無近,無幽無隱,故三百八十四爻之間雖皆聖人之言,必不能盡其聖人之意也。如是則書不盡言,言不盡意,於聖人之意其不可見乎?此孔子嘆美聖人之言、聖人之意幽深宏逺,不可以見之耶,故假發問之辭疑而問之。
胡瑗解説:ここより起りて、一直に下文の「黙而成之」に至るまで止まるは、孔子が總論する《周易》の道にして、當に上文に連ねて合して一章と為すべし。所謂書不尽言とは、聖人の話は一たび口を出れば便ち天下の準則・天下の号令と成るも、しかし竹簡帛書の上に記し下げ得るは、必定に聖人の話を写し尽くし得ざるを言う。所謂言不尽意とは、聖人の心意思慮は宏大通達にして、遠近を分けず幽隱を論ぜず、故に三百八十四爻の辞句は虽皆聖人の口より出ずるも、もまた必定に聖人の心意を道尽し得ざるなり。既に文字は言語を写し尽くさず言語は心意を説き尽くさざれば、さらば聖人の心意は豈に看見し得ざらんや。これは孔子が聖人の言語と心意の幽深宏遠なるを讃歎し、難道便ち真に窺見する従なからんやと、因って故意に一句の疑問を設下して以て発端と為す。
子曰:聖人立象以盡意。
孔子曰く:聖人は卦象を設立し、それを以て心意を表達し窮む。
義曰:此夫子釋聖人之意有可見之理也。言聖人之言書不能盡其言,言又不能盡其意,惟是大易之道六十四卦之中可以明之。至如天之道以乾為名,取其天體剛健、生成不息;地之道以坤為名,取其地體柔順、能承順於天。是聖人設乾坤之象以盡聖人之意,宏功妙用惟乾坤之象可以盡之。
胡瑗解説:これは孔子が聖人の心意は実に看見し得べき門路有るを解釈す。聖人の話は、文字は記し尽くし得ず。話本身は、又心意を説き尽くし得ず。唯だ《周易》の道・六十四卦の中に於いて初めて能くそれを講明し得。譬如天道は乾を以て命名し、取る所は天体の剛健・生養不息。地道は坤を以て命名し、取る所は地体の柔順・能く上天に承奉順從す。これがすなわち聖人が乾坤両象を設立して以て自己の心意を窮尽す:あの份の宏大の功業と神妙の作用は、ただ乾坤の象のみが盛り下げ得。
設卦以盡情偽。
六十四卦を布設して、以て人情の真と假とを窮尽す。
義曰:言聖人之言出則為天下之則,然既言不能盡意,又立象以盡意。既立物之形象以盡其意,又觀萬物之象、萬事之理、天下得失之跡,設為其卦,以盡人之情偽,以盡物之得失也。
胡瑗解説:聖人の話は一たび口を出れば便ち天下の準則と成るも、しかし話は既に心意を説き尽くし得ざれば、便ち再び卦象を立てて以て補足す。既に物象を立下して以て心意を表達し、又進んで万物の形象・万事の道理・天下の得失の痕跡を観察し、これに拠って卦を布設し成し、それを以て人情の真偽を窮尽し、事物の得失を窮尽す。
繋辭焉以盡其言。
卦爻の下に文辞を繋げて、以て説かんとする話を説き尽くすに用い。
義曰:言聖人雖立象以盡其意,設卦以盡其情偽,又於三百八十四爻之下有得位失位者,有正有不正者,皆繋屬其辭,散於卦爻之下,以盡其言,使人通曉其意也。
胡瑗解説:聖人は虽已に象を立てて以て心意を表達し卦を設けて以て真偽を窮尽せども、又三百八十四爻の下に、就きて其中の居位して當を得ると當を失うと・中正なると不中正なると、一一に文辞を繋げ、散布して各卦各爻の底下に在りて、以て話を説き尽くし、人をして其中の用意を明白せしむ。
變而通之以盡利。
時に随って変化してそれを通達せしめ、以て利益を発揮して尽頭に到らしむ。
義曰:夫萬事之理、萬物之情,若無其通變之道,以至窮極,必至於敗壊也。惟是聖人立象以盡意,設卦以盡情偽,繋辭焉以盡其言,而又裁制創立,千變萬化,隨時措置,立成其事,無有壅滯,量時制宜,變而通之,以盡天下之利也。
胡瑗解説:万事の道理・万物の実情は、もし一条の変通の路子なからば、走り尽頭に到れば必定敗壞す。唯だ聖人のみが既に象を立てて以て意を尽くし卦を設けて以て情偽を尽くし辞を繋げて以て言を尽くすに、又能く裁断創制し、千変万化して、時勢に随って以て安排を加え、事情を把って辦成して壅塞を留めず、時勢を估量して合宜の弁法を定め出し、変じて之を通じ、従って天下の利益を把って発揮して尽頭に到らしむ。
鼓之舞之以盡神。
天下人を鼓動振作して、以て神妙の功用を発揮して尽頭に到らしむ。
義曰:此總結立象盡意、設卦盡情、繋辭盡言之意。言聖人以其仁義之道以盡天下之情偽,以說天下之心,又鼔發之,致天下舞樂之。然則鼓舞何以為發樂之義?蓋聖人以仁義之道、敎化之術漸染於天下之人,天下之人雖然無所知識,然被上之敎化,其心康樂,不知手之舞之、足之蹈之也。既不知手之舞之、足之蹈之,自不知聖人之道所以然而然,是聖人之道漸染於人如神之功。
胡瑗解説:これは上面の立象尽意・設卦尽情・繋辞尽言の幾層の意思を總結す。聖人は仁義の道を以て天下人の情の真偽を窮尽し、天下人をして心裏喜悦せしめ、又彼らを鼓動振發して、天下人をして歓欣舞楽せしむ。然らば鼓舞は何を為すか便ち歓楽に発為するに等しいや。聖人が仁義の道・教化の術を拿って一点一点に天下人を浸潤するに因り、天下人は虽併せて多少の見識有るに非ざるも、却って上位者の教化の裏に在りて心境は安楽にして、知らず覚えず手は便ち舞い起り足は便ち踏み起る。既に自己の手舞足蹈するも自ら知らざれば、当然更に聖人の道が何を為すか此の如くなるを説き出し得ざるなり。見れば聖人の道は人心を浸潤し、功効は神明に如同じ。
乾坤其易之縕邪。
乾と坤とは、大概《周易》の其中に蘊蔵する根源ならんか。
義曰:上既言聖人立象盡意,此又言大易之道本始於天地。縕者,藏縕也。言天地初判之時,而大易之道已縕藏於天地之間;然天地之道、萬物之形象、萬事之理皆藏縕於大易之道,是大易之道本始於乾坤,故乾坤為大易縕積之根源也。
胡瑗解説:上文は已に聖人が象を立てて以て意を尽くすを講じ、此処に又《周易》の道は天地に本源するを説く。「縕」とはすなわち蘊蔵の意思。天地が剛く分判する時に、《周易》の道は就已に天地の間に蘊蔵す。而して天地の運行・万物の形象・万事の道理も、亦た皆《周易》の道の裏頭に蘊蔵す。見れば《周易》の道は乾坤に本源す。故に乾坤はまさに《周易》の蘊積する根源なり。
乾坤成列,而易立乎其中矣。
乾坤両卦は一経排定して成列せば、《周易》の義理は便ち其中に立つ。
義曰:言天地設立陰陽之端,萬物之理,萬事之情,以至寒暑徃來、四時代謝、日月運行,皆由乾坤之所生。然乾坤既設,而大易之道、變通之理以立乎中矣,是大易之道本始於天地也。
胡瑗解説:天地は一経設立せば、陰陽の端緒・万物の道理・万事の実情、以至寒来暑往・四季更替・日月運行は、全是乾坤の生出したもの。乾坤は既に設立せば、《周易》の道と変通の義理とは便ち其中に立つ。見れば《周易》の道は天地に本源す。
乾坤毀,則無以見易;易不可見,則乾坤或幾乎息矣。
乾坤はもし毁棄せられれば、便ち《周易》を看る従なし。《周易》は看見せざれば、乾坤の生化も便ち差不多停息せんとす。
義曰:言大易之道皆本起於乾坤,凡是天地之道、萬物之理、變化之道皆在大易之中。至如乾生三男,坤生三女,而為八卦,變而相重為六十四,分為三百八十四爻,易之根源皆自乾坤而來,故乾坤成而易道變化建立乎其中矣。若乾坤毀棄,則無以見易之用;夫易既毀,則無以見乾坤之用;如是則乾坤或幾乎息矣。
胡瑗解説:《周易》の道は全都乾坤に発端し、およそ天地の運行・万物の道理・変化の法則に属するは、皆《周易》の中に在り。譬如乾は震・坎・艮の三個の男卦を生出し、坤は巽・離・兌の三個の女卦を生出して、合して八卦と成す。八卦は両々相重して変じて六十四卦と為り、分かれば則ち三百八十四爻。《易》の根源は全て乾坤より来る。故に乾坤は一成れば、《易》道の変化は便ち其中に建立す。倘若乾坤が毁棄せられれば、便ち《易》の功用を看る従なし。《易》は一旦毁棄せられれば、もまた乾坤の功用を看る従なし。こう下去れば、乾坤の生化は差不多便ち停息せんとす。
是故形而上者謂之道。
故に形体の上・尚未だ形跡に落成せざるあの一層に在るを、道と叫ぶ。
義曰:言天之道始於無形而終於有形,皆由道之所生。道者,人可以為之法,由而通之,謂之道。前乎天地則混於元氣,散乎方隅則潛於象類,浩然而不局於器用,推於天下則無所不通,舉而措之則曲盡其變,茲乃道之本也,然始於無形而終於有形也。
胡瑗解説:天道は無形より開始し、有形に到りて吿終す。全是道の生出したもの。所謂道とは、人がそれを把って法則と當てそれに順って走り通じ得べき东西なるに因り、故に道と称す。それは天地の生成する前に在りて、元気の中に混同す。四方角落に散布せば、便ち各類の物象の裏面に潜蔵す。それは浩大にして具体の器物に局限せられず、天下に推行せば則ち通ぜざる処なく、拿って来て施用せば則ち曲折周到に種種の変化を窮尽す。これが初めて道の根本、それは無形に由って起頭して有形を以て收束す。
形而下者謂之器。
形体に落成して拿って来て使用し得べきあの一層を、器と叫ぶ。
義曰:器者是有形之實。言天始於無形而生於有形,故形於下者則為其器。器者則為有形之用,但可止一而用之也。故在形之外者謂之道,在形之內者謂之器也。
胡瑗解説:器とは、有形の実物である。天は無形より開始して以て有形を生出す。故に形体以下に落るは便ち器と成る。器は有形の物の功用にして、ただ一樣の事情の上に限定して使用するのみ能くす。故に形体の外に在るを道と叫び、形体の内に在るを器と叫ぶ。
化而裁之謂之變。
化育を加え而又裁断制約すれば、これを便ち変と叫ぶ。
義曰:言聖人因其無形之道、有形之器,推而化之,裁制創立,設為仁義敎化,以至凡所器用以利天下,無有窮極,無有凝滯,故謂之變。
胡瑗解説:聖人はあの無形の道と有形の器とに憑って、推衍化育・裁断創制を加え、仁義教化を定め出し、以至一切器物の使用も、皆拿って来て天下に造福し、窮尽なく滞塞なし。故に変と叫ぶ。
推而行之謂之通。
それを把って推廣施行し開去れば、これを便ち通と叫ぶ。
義曰:言聖人因其天地陰陽之道,思之於心,縕之為事業,推而行之,無有壅滯,皆得其亨,故謂之通。
胡瑗解説:聖人は天地陰陽の道に依って、心裏に反復思量して、一番の事業に蘊蓄し成し、再び推廣施行し出去れば、処処阻塞なく、樣樣皆亨順を得。故に通と叫ぶ。
舉而措之天下之民謂之事業。
それを把って来て天下百姓の身上に安放するは、これを便ち事業と叫ぶ。
義曰:言聖人因其變通之道,措置其用,施之於天下,各從其時,以成天下之功業也。
胡瑗解説:聖人は変通の道に依って、それの功用を把って安排し下去し、天下に施行して、各々当時の情勢に順応し、従って天下の功業を成就す。
是故夫象,聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象。
故に象に説き到れば:聖人は天下万物の繁雑紛紜を看見して、便ちそれらの形貌を比擬し出し、各物の相宜の樣子を摹写した。故にそれを把って象と叫ぶ。
義曰:此以下皆覆言上文聖人立象以盡意、設卦以盡情偽、繋辭以盡其言,明言以為教化之術也。象者,萬物之形象也。言聖人推其天地之理、萬物之形容,以象萬物之宜,故謂之象也。至如乾為龍之象,坤為地之象,離為日之象,艮為山之象,如此之類,皆是推廣形容而為之也。
胡瑗解説:ここより往下は、皆回頭して上文の説く所の立象以尽意・設卦以尽情偽・繋辞以尽其言を復述して、これらがまさに教化を施行する手段なるを説明す。象とは、すなわち万物の形象。聖人は天地の道理・万物の形貌を推究して、以て万物各自相宜の樣子を摹写す。故に象と叫ぶ。譬如乾は龍の象を取り、坤は地の象を取り、離は日の象を取り、艮は山の象を取る。こういう類は皆形貌を把って推廣を加えて設立したもの。
聖人有以見天下之動,而觀其通,以行其典禮,繋辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。
聖人は天下万事の変動を看見して、便ち其中の会通の処を観察し、これに拠って常典礼法を推行し、又文辞を繋げて以て吉凶を断定す。故にそれを把って爻と叫ぶ。
義曰:言聖人以見天下之變動,觀萬物之形容,有會合通變之道,以行典常之禮,又於諸卦之下繋屬其文辭,有合於道則為吉,有悖於理則為凶,以定其吉凶得失之理以示於人,故謂之爻也。爻者,效此者也。
胡瑗解説:聖人は天下の変動を看到し、万物の形貌を観察し、其中より会合貫通の路数を理出し、これに拠って常典礼法を推行す。又在各卦の下に文辞を繋げ:正道に合乎するは便ち吉と断じ、事理に違背するは便ち凶と断じて、以て吉凶得失の道理を定め出して併せて人に昭示す。故に爻と叫ぶ。所謂爻とは、すなわちこれらの変動を効法する意思。
極天下之賾者存乎卦。
天下の繁雑を窮究して底に到らんと要するは、靠る所は卦なり。
義曰:言聖人窮極天下之幽賾、萬物之情偽,以存諸卦之中,使人觀之以為法則也。
胡瑗解説:聖人は天下の幽深繁雑の処・万物の真偽の情を窮究して底に到り、全て各卦の中に存放して、人をしてそれを観看しそれを把って法則と當てしむ。
鼔天下之動者存乎辭。
天下人を鼓動して行動し起らしめんと要するは、靠る所は文辞なり。
義曰:鼓謂發揚天下之動,有得有失,有吉有凶,存於爻辭之間,使人觀之知其吉凶之如此也。
胡瑗解説:鼓とは、すなわち天下の変動を把って発揚し出す。変動の中に得有り失有り・吉有り凶有りて、皆爻辞の裏頭に存放す。人をして一看すれば便ち吉凶は元來此の如くなるを知らしむ。
化而裁之存乎變。
万物を化育して而又裁断を加うるは、關鍵は一個の変の字に在り。
義曰:言聖人觀此萬事之理、萬物之情、天地之道、日月之經,創制裁度,立成其器,施為仁義道徳,千變萬化以及於天下,故存乎變也。
胡瑗解説:聖人は万事の道理・万物の実情・天地の運行・日月の常軌を観察して、これに拠って制度を創制裁度し、器物を做り成し、仁義道徳を施行して、千変万化に天下に推及す。故に關鍵は変に在りと言う。
推而行之存乎通。
それを把って推廣施行し開去るは、關鍵は一個の通の字に在り。
義曰:言聖人觀此大易變化之道,推而行之,隨時措置,無有窮極,無有凝滯,故存乎通也。
胡瑗解説:聖人は《周易》の変化の道を観察して、それを把って推廣施行し、時勢に随って以て安排を加え、窮尽なく滞塞なし。故に關鍵は通に在りと言う。
神而明之存乎其人。
それを把って運用して神妙にして昌明ならしめ得否は、便ち如何なる樣の人なるかを看ねばならず。
義曰:言聖人既能極天下之賾存乎卦,鼔天下之動存乎辭,化而裁之存乎變,推而行之存乎通,以成其易。若章顯其功,則其用如神。仁者見之謂之仁,知者見之謂之知,無有窮極,是存乎其人矣。
胡瑗解説:聖人は既能く天下の繁雑を卦の裏に窮究し、天下の変動を爻辞の裏に鼓動し、化育裁断は変に在り、推廣施行は通に在り、従って《周易》を成就せば、もしこの份の功用を把って彰显し出さんと要せば、用うれば便ち神明に如同じ:仁厚の人はそれを看見すれば便ち仁と説き、明智の人はそれを看見すれば便ち智と説き、窮尽なし――これは便ち全てそれを運用する如何なる人なるかを看るなり。
黙而成之,不言而信,存乎徳行。
声を出さず響かずして事情を把って辦成し、口を開かずして用いずして人は自ら信服す。これは平日の徳行に靠らねばならず。
義曰:徳行者,則謂聖人素蓄其徳業行實也。言聖人素積其徳,素蓄其行,內存忠恕,外有全徳,如此則黙而成之,雖不言而人自信從之。故中庸曰:不怒而民威之如鈇鉞者也。此蓋素蘊徳行之如此也。
胡瑗解説:所謂徳行とは、聖人の平素に積蓄する徳業と切実の操行を指す。聖人は平日に徳を積累し行を蓄養して、内裏に忠恕を存し、外面に完満の徳を具備すれば、こうすれば便ち能く声を出さず響かずして事を把って辦成し、虽口を開かずとも人は自然に信従す。故に《礼記・中庸》に説く、怒を発せずして百姓は彼を敬畏し、斧鉞を看見するより還って厲害なりと。これがまさに平素に徳行を蘊蓄して初めて有る効果なり。
繋辞下
義曰:此十翼之中第七翼也。然按上繫下繫之說,先儒議者多矣。何氏則曰:上篇明無,故曰易有太極;下篇明故,曰知其神。或曰上篇論易之大理,下篇論易之小理,皆失之。葢以簡編重大,故分為上繫下繫也。
胡瑗解説:これは《十翼》の中の第七翼である。上繋・下繋が何を為すか篇を分かつに至っては、前代の学者の議論は甚だ多し。何氏は上篇は「無」を闡明し、故に初めて「易有太極」の話有り、下篇は「故」を闡明し、故に初めて「知其神」の話有りと説く。もある人は上篇は《易》の大道理を討論し、下篇は《易》の小道理を討論すと言う。これらの説法は皆正しくない。篇を分かつ縁故は、ただ竹簡の成編が太多く太重きなるに因るのみ。故に初めて上繋・下繋の両篇に分かち作る。
繋辞下・八卦成列象在其中矣
八卦成列,象在其中矣。
八卦は一経排列して序と成せば、天地万物の形象は便ち皆其中に含まる。
義曰:自此已下至「禁民為非曰義」為一章。言伏羲始畫八卦,取天地水火山澤風雷之象,畫為乾坤艮巽震離坎兊之卦。八卦既成列,而天地萬物之象莫不在於八卦之中也。
胡瑗解説:ここより起りて、下文の「禁民為非曰義」に至るまで止まり、合して一章と為す。伏犠は最初に八卦を画き出し、天・地・水・火・山・澤・風・雷この八樣の物象を取り、画き成して乾・坤・艮・巽・震・離・坎・兌の八個の卦と為した。八卦は既に排列して序と成れば、天地万物の形象は一樣としてこの八個の卦の裏に包含せざるなし。
因而重之,爻在其中矣。
八卦を把って両々相重して以て六十四卦と成せば、六爻の変化は便ち其中に含まる。
義曰:夫伏羲始畫八卦,以盡天地水火風雷山澤之象。然於萬物之情、萬事之理,在伏羲之時,世質民淳,情偽未遷,利害未作,雖八卦之設三畫,可以盡人事之宜。迨乎後世,民欲叢生,巧妄交作,則八卦不能盡吉凶之變。文王囚於羑里,極天地之淵蘊,明人事之終始,是以取伏羲所畫之八卦,因其數而重為六十四卦,分為三百八十四爻,以盡天地之賾、人事之理。有得有失,有吉有凶,有應有不應,有正有邪,有利有害,盡在此卦爻之中。
胡瑗解説:伏犠は当初八卦を画くは、天・地・水・火・風・雷・山・澤の形象を窮尽せんと要したもの。万物の実情・万事の道理に至っては、伏犠のあの時代に在りては、世風は質朴・民心は淳厚にして、真偽は還って未だ変乱せず、利害は還って未だ興起せざりき。故に八卦はただ三画を用いて便ち人事の分寸を概括するに足れたり。後世に等到すれば、人の欲望は叢生し、機巧虚妄は交相発作して、八卦は便ち吉凶の変化を説き尽くし得ざるに至った。文王は羑里に囚禁せられ、天地の深处の蘊蔵を推究して底に到り、人事の始末を看て分明と為し、ここに伏犠の画いた所の八卦を取り、その数目に依って相重して以て六十四卦と成し、分かちて以て三百八十四爻と為し、以て天地の繁雑と人事の道理とを窮尽す。得有り失有り・吉有り凶有り・相応有り不相応有り・正有り邪有り・利有り害有りて、全都これらの卦爻の中に装わる。
然則爻者,效也,使後世之人效而法之。故卦爻之中有情偽之理,有是非之道,有變通之常,有動靜之事,有剛柔之限,凡人觀其爻,則知其效法此象而行事也。然重卦之說,先儒議者多矣:或曰伏羲所重,或曰神農所重,或曰夏禹所重,皆失之。葢見下文包犧氏之王天下,作結繩而為網罟,葢取諸離;神農氏作斵木為耜,楺木為耒,耒耨之利以教天下,葢取諸益;又因尚書之文有洛書禹之言,故有此說。殊不知繫辭是仲尼所作,葢仲尼因其聖人制立器用以取合於聖人之卦:以其結繩為網罟,葢合徳於離卦,取其有附麗之義;因其耒耜有益於人,葢合徳於益卦,以其有相資益之義。先儒不究原本,故疑而有此說也。
胡瑗は接いて説く:所謂爻とは、すなわち効法で、後世の人をしてそれに照らって去って仿効せしめんと要するなり。故に卦爻の中に真偽の道理有り・是非の準則有り・変通の常軌有り・動静の事宜有り・剛柔の界限有り。人は一たび爻を看れば、便ち応にこの象を効法して去って行事すべきを知る。重卦は究竟誰の為す所なるかに至っては、前代の学者は議論紛紛たり:或る人は伏犠の重ねたと言い、或る人は神農の重ねたと言い、或る人は夏禹の重ねたと言い、皆講じ錯えたり。彼らは下文に包犠氏が天下を統治し、繩を結して網罟を做り成し、《離》卦に取法し、神農氏は木を砍って耜を做り木を揉んで耒を做り、耕耘の利を以て天下を教導し、《益》卦に取法したと説くを看到したが故に、又因って《尚書》の裏に洛書と大禹の話有るが故に、因ってこれらの説法を生出したり。殊に知らず《繋辞》は孔子の作った所にして、孔子は不過聖人が器物を創制した事を拿って去って相合する卦に比配するのみ:繩を結して網罟と為すは、《離》卦の徳と相合し、それに附麗相網の意思有るを取るなり。耒耜は人に益有るは、《益》卦の徳と相合し、それに互相資助増益の意思有るを取るなり。前代の学者は本源を追究せざれば、故に初めて疑惑して以てこれらの説法を生出したり。
且六十四卦既是伏羲神農所重,則文王何心哉?不然,何以仲尼曰易之興也其於中古乎,作易者其有憂患乎?且伏羲之時又非中古,神農之時又非憂患,推此以言文王重卦之心又可見也。
胡瑗は再び論断を作す:假如六十四卦が真に伏犠・神農の重ね成したものならば、さらば文王は還って何の心思を費さんや。不然なれば、孔子は何を為すか《易》の興起は大概中古の世に在り、《易》を作った人は怕らく心に憂患を懐けりやと説くや。伏犠の時代は中古と算えられず、神農の時代も亦た憂患と談じ上げられず。これに由って推論すれば、文王の重卦する苦心も便ち看清し得るなり。
剛柔相推,變在其中矣。
剛爻と柔爻とが互相推移せば、変化は便ち其中に含まる。
義曰:剛者陽也,柔者陰也。夫六十四卦之中,卦有六爻,陽為剛,陰為柔,陽主其生,陰主其殺,故剛柔之位則有變有通、有動有靜。故事之久靜則動,物之久動則靜,動靜之道則有變有通。是故聖人因其剛柔二氣互相推蕩於六爻之間,然後成其生養之道也,故上繋曰剛柔相推而生變化者是也。然則不言陰陽相推而止言剛柔者,葢陰陽者天地之氣,剛柔者是陰陽之體,言剛柔則陰陽之功可見矣。
胡瑗解説:剛とはすなわち陽、柔とはすなわち陰。六十四卦は每卦六爻にして、陽爻は剛と為り、陰爻は柔と為る。陽は生養を主とし、陰は粛殺を主とす。故に剛柔の処する所の位置に変有り通有り・動有り静有り:事情は静まること久しければ便ち動くを要し、物件は動くこと久しければ便ち静まるを要し、動静の間は自然に変有り通有り。故に聖人は剛柔二気の六爻の間に於いて互相推蕩するに依って、然る後に生養の道を成就す。故に《繋辞上》に剛柔相推して以て変化を生ずと説くは、まさにこの意思である。此処に陰陽相推と説かずしてただ剛柔を説くに至っては、陰陽の指すは天地の気にして、剛柔の指すは陰陽の形体なるに因る。剛柔を説けば、陰陽の功用も便ち看出し得るなり。
繫辭焉而命之,動在其中矣。
卦爻の下に文辞を繋げてそれに判語を下せば、行動の準則は便ち其中に含まる。
義曰:言聖人既因剛柔二氣互相推蕩而為生成之道,又恐後世之人難曉,故於諸卦諸爻之下各繫屬其文辭,以明得失之道、吉凶之變、情偽之端、萬事之理,使人觀其得則可以知其失,趨其吉則可以明其凶,逆順之道、動靜之理,在所命之辭皆可見矣。
胡瑗解説:聖人は既に剛柔二気の互相推蕩に依って生成の道を立て起せば、又後世の人が領会し難からんを怕れて、故に各卦各爻の下に分かちて文辞を繋げ、以て得失の道理・吉凶の変化・真偽の端倪・万事の條理を講明す。人は某一爻の得る所を看到すれば、便ち能くそれの失う所を推知し、それの吉に趨向するを懂得せば、便ち能くそれの凶を看清す。逆と順の道理・動と静の分寸は、全てこれらの判語の裏に顕現す。
吉凶悔吝者,生乎動者也。
吉・凶・悔・吝この四種の結果は、皆行動の裏より生出したるものなり。
義曰:夫六十四卦有六爻,有吉有凶,有悔有吝,皆由爻位之動者也。若動而合於理則為吉,動而昧於道則為凶。有事之小可以追悔者,有事之萌兆可以鄙吝者,皆繋在於卦爻之變動也。是故聖人因卦爻之變動,明人事之大體,推其情偽之端,明其得失之跡,使人觀之不失於動靜之道也。
胡瑗解説:六十四卦は每卦六爻にして、吉有り凶有り・悔有り吝有りて、全て爻位の変動に由って来る。行動が事理に合乎せば便ち吉、行動が正道に昧えば便ち凶。或る事は過失が還って小さくして追悔するに及び、或る事は剛く苗头を露せば就已に可鄙可惜なり:これらは皆卦爻の変動の上に繋がる。故に聖人は卦爻の変動に就着いて、人事の大体を講明し、真偽の端倪を推究し、得失の痕跡を点出して、人をして看了して以て動静の間に於いて分寸を失わざらんとせしむ。
剛柔者,立本者也。
剛と柔とは、以て根本を確立するに用いるなり。
義曰:言伏羲始畫八卦,始窮變於天地陰陽之理,以成剛柔之道,以為萬事之大本,以成天下之大法,天下之人皆本此以為法則也。故六十四卦之所本、君臣父子之所法,皆由此剛柔之象為之根本者也。至如剛定體為乾,柔定體為坤,陽卦兩陰而一陽,陰卦兩陽而一陰,是立其卦本而不遺也。
胡瑗解説:伏犠は最初に八卦を画くに、一開始に便ち天地陰陽の理の変化を推究して底に到り、従って剛柔の道を立成して、以て万事の大根本・天下的大法則と為し、天下人は皆それを把って準繩と當てる。故に六十四卦の依拠・君臣父子の相処する法則は、全て剛柔の象を以て根本と為す。譬如純剛を把って乾の本体と定め、純柔を把って坤の本体と定め、陽卦は両陰一陽、陰卦は両陽一陰:これは便ち毎一卦の根本を把って立定して以て遺漏なからしめたり。
變通者,趣時者也。
変化通達は、当下の時勢に趨合せんがためなり。
義曰:凡六十四卦,卦有六爻,一卦之體象其一時,一爻之義象其一人,六爻之道上下相應而成變通,所以趣就一時者也。至如屯之卦言天下屯難之時,故其卦體以象其屯。故初六居卦之始,當屯難之時,而盤桓利居正、利建侯,以蘇息天下之人。至於六二言女子貞不字,言女子守正應於九五,雖為初九九六寇難,然専應於五不改其節。至於六四乗馬班如,退守其正,待時而行。如此之類,是皆一卦則言其一時,其諸爻各言其一人,以趣就其時也。然則君子之人凡所動作,必従其時,不失其中,故中庸曰君子而時中,是言君子之人動作之間皆従其時也。
胡瑗解説:六十四卦は每卦六爻にして、一卦の整体は一種の時勢を象徴し、一爻の意義は一類の人を象徴す。六爻の上下が相応じて以て変通を形成するは、まさにあの一時の形勢に趨合せんがためなり。譬如《屯》卦の講ずるは天下の艱難初創の時、故に卦体は屯難に象を取る:初九は一卦の開頭に処り、まさに屯難の際に當りて、因って徘徊して進まず、正道を守持するに宜しく・諸侯を分封するに宜しく、好く天下人をして休養を得せしめんとす。六二に到れば、女子が貞を守りて嫁せざるを説くは、意思は女子が貞正を固守して上に九五に応じ、虽初九の一方の寇難に遭遇するも、仍ほ専一に九五に応合して、自己の節操を改めざるなり。六四に到れば、馬に乗りて徘徊して前に進まざるを説くは、あれは退いて正道を守り時機を等待して而して後に行ずるなり。こういう類は皆一卦は一種の時勢を講じ、各爻は分かちて一類の人を講じて、以てあの個の時勢に趨合するなり。故に徳行有る人はおよそ挙動有れば、必定に時勢に順って中道を失わず。《礼記・中庸》に君子にして時中すと説くは、まさに君子の一挙一動が皆時勢に随順するを言う。
吉凶者,貞勝者也。
吉と凶との較量は、終究正を守る一方が勝を取る。
義曰:貞者,正也。夫有動者則未免乎累,殉吉者則未免乎凶,盡通之變而不累于吉凶者,其唯貞勝者。故六十四卦之內,人事之端、情偽之作、吉凶之驗,無不備載於其間。若爻位之吉,又能行其大正之道,則其事愈吉;若居爻位之凶,而能行大正之道,則其事不至於凶。惟是貞正之道,則能勝於凶吉也。
胡瑗解説:貞とはすなわち正。およそ挙動有る人は、牽累を受くるを免れず。一味に吉利を追逐する人も、もまた凶険に撞上るを免れず。能く変通を窮尽して吉凶に牽累せられざるは、ただ正を守る人のみ。六十四卦の内に、人事の端倪・真偽の発作・吉凶の応験は、完備に其間に記載せざるなし。倘若吉利の爻位に身を処して、又能く大中至正の道を推行せば、事情は便ち愈発吉利なり。倘若凶険の爻位に身を処して、却って能く大中至正の道を推行せば、事情も亦た凶と変るに至らざるなり。見れば唯だ貞正の道のみが、初めて吉凶の擺布に勝ち得過ぐるなり。
天地之道,貞觀者也。
天地の道は、正を守るを以て人に示し天下の仰望に供す。
義曰:觀者,為天下之所仰觀,則謂之觀。夫天本在上,地本在下,天地之性本不相得,及夫天以純陽之氣降於下,地以純陰之氣騰於上,二氣上下交相通感,然後以成生長之道。是天地之道、生成之理皆本正一,故為物之仰觀者也。
胡瑗解説:所謂觀とは、天下人に仰望せらるるに因り、因って觀と称す。天は本來上に在り、地は本來下に在り、天と地との性質は本來相合せず。天が純陽の気を以て下降し地が純陰の気を以て上騰するに等到りて、二気は上下して交相感通し、これが初めて生長の道を成就したり。見れば天地の道・生成の理は、皆一個の正の字に本ず。故に初めて万物の仰望する對象と成るなり。
日月之道,貞明者也。
日月の道は、正を守るを以て恒久に光明なり。
義曰:夫日為陽徳,月為陰精,運行四時,晝夜不息者,日月之明也。然而往來不停,照臨下土,不混其光者,葢各得貞一而明有所一也。
胡瑗解説:太陽は陽の徳性、月亮は陰の精華である。それらは四季に運行して昼夜停まず、これがすなわち日月の光明である。しかしそれらは来来去去に従来停歇せず、大地を照臨して各々その光は併せて相混ぜざるは、各々あの份の専一を守住したるに因り、光明も便ち定準有るを得たり。
天下之動,貞夫一者也。
天下一切の行動は、最終には皆一個の「一」に帰正せねばならず。
義曰:夫少者多之所貴,寡者眾之所宗,故天下之情偽、人事之動靜,皆歸一而後可正也。然則天下之廣周於萬里,人心至眾,萬孔千狀,執一何由而治哉?葢萬化一術也,天下一統也。若以至正之道、純一之徳而治之,則天下自然而治矣;若不以純一之徳而治之,則天下自然而睽乖矣。故王輔嗣嘗曰:夫眾不能治眾,治眾者至寡者也;夫動不能制動,制動者貞夫一者也。是天下之動必由寡之所治,貞其一而已。
胡瑗解説:少なるは多の看重せらる所為り、寡なるは衆の帰宗せらる所為り。故に天下の真偽・人事の動静は、皆一の上に帰して初めて端正し得。しかし天下は広袤にして方圓万里、人心も又極めて衆多にして千孔万状なれば、ただ一個の「一」を守るのみでは、何を憑って治め得んや。千変万化はただ一套の道理にして、天下も亦たただ一個の統緒なるに因る。もし最も中正の道・純一の徳を拿って去って治理せば、天下は自然に安定す。もし純一の徳を拿って去って治理せざれば、天下は自然に乖離す。故に王弼は曾て言ったり:衆多は能く衆多を治理せず、能く衆多を治するは必ずあの至少の一個なり。動は能く動を制止せず、能く動を制止するはまさにあの「一」を守定するなりと。見れば天下の行動は、必定にあの至少者に由って統攝せられ、その専一を守住する而已なり。
夫乾確然示人易矣。
乾は剛健堅定の樣子を以て、人に向かって平易を顕示す。
義曰:此又言天得一之道也。確者,則謂剛健者也。夫乾以剛健之徳運行不息,生成萬物,示人以和易,由其得一之故也。故無為而物成,不言而時化,是示人易也。
胡瑗解説:此処に又天があの「一」を獲得する道理を講ず。「確」の指すは剛健。乾は剛健の徳に憑って運行して停まず、万物を生養して、人に向かって和順平易を顕示す。まさにそれが専一を守住したるに因る。故に作為する所なくして万物は自ら成り、一言を発せずして時序は自ら化す。これがすなわち人に向かって平易を顕示す。
夫坤隤然示人簡矣。
坤は柔順低伏の樣子を以て、人に向かって簡約を顕示す。
義曰:隤然則謂柔順者也,此言地之得一也。夫坤之道以柔順之徳承天之氣,生成萬物,不煩而物成,不勞而物遂者,亦由其得一故也。故不須經營而萬品自化,是示人簡也。若乾不得専一之道,或有隤然,則不能示人易矣;若坤不得専一之道,或有確然,則不能示人簡矣。且以乾坤之道、生成之理,確然隤然示人易簡,況為天下之君者哉?夫尊為聖人,必法此乾之剛健之徳,生成天下,不至於煩勞,則天下従而治矣;夫為人臣者,必法此坤之柔順之徳,承君之命,行君之事,則天下不勞而治矣。若為君為臣能法易簡之道,則天下國家可正也。
胡瑗解説:「隤然」の指すは柔順。此処に講ずるは地があの「一」を獲得す。坤の道は柔順の徳を以て天気を承接して万物を生養し、煩擾せずして万物は自ら成り、労動せずして万物は自ら遂げるも、もまたそれが専一を守住したるに因る。故に刻意に經営するを用いずして、万類は自然に化育す。これがすなわち人に向かって簡約を顕示す。假如乾が専一を守住し得ざれば、反って幾分の柔弱を帯びて、便ち平易を顕し出し得ず。假如坤が専一を守住し得ざれば、反って幾分の剛強を帯びて、便ち簡約を顕し出し得ず。乾坤の道・生成の理は尚且つ剛健柔順を用いて人に向かって易と簡とを顕示するを要す。いわんや天下の君と為る人に身を為るをや。聖人の位に尊居するは、必ず乾の剛健の徳を効法して、天下を生養して煩労に陥らざれば、天下は便ち順従して安定す。人臣と為るに身するは、必ず坤の柔順の徳を効法して、君命を承接し君事を辦理せば、天下は便ち労せずして治まる。君を為す・臣を為す皆能く易簡の道を効法せば、天下国家は便ち端正し得べし。
爻也者,效此者也。
所謂爻とは、すなわちこれらの変動を効法するものなり。
義曰:夫六十四卦分三百八十四爻,有動有靜,有邪有正,有凶有吉,有是有非,故通變之道皆在諸爻之中,為人之所效法也,故所謂爻者,效物之變動者也。
胡瑗解説:六十四卦は分成して三百八十四爻と為り、其中に動有り静有り・邪有り正有り・凶有り吉有り・是有り非有り。変通の道理は全てこれらの爻の裏頭に在りて、人に取りて效法するに供す。故に所謂爻とは、すなわち事物の変動を効法する意思である。
象也者,像此者也。
所謂象とは、すなわちこれらの物形を摹像するものなり。
義曰:夫六十四卦之象,皆法於天地水火風雷山澤之象也。如乾以天為象,坤以地為象,艮以山為象,坎以水為象,如此之類,是皆象其卦之所本之像也,注所謂象此物之形狀也。
胡瑗解説:六十四卦の卦象は、皆天・地・水・火・風・雷・山・澤これらの物象に取法す。譬如乾は天を以て象と為し、坤は地を以て象と為し、艮は山を以て象と為し、坎は水を以て象と為す。こういう類は皆各卦の本ずる所のあの物象を摹写する。旧注の説く所は、すなわちこれらの事物の形状を摹像するなり。
爻象動乎內,吉凶見乎外。
爻象は卦内に於いて発動せば、吉凶は便ち卦外に顕現す。
義曰:夫六十四卦之象、三百八十四爻,爻象之間有正有不正,有應有不應,有善有不善,有吉有不吉,若爻象之發動於一卦之內,則吉凶之事顯見於一卦之外也。
胡瑗解説:六十四卦の卦象・三百八十四条の爻は、爻象の間に当位の有り不当位の有り・相応の有り不相応の有り・善の有り不善の有り・吉の有り不吉の有り。一旦爻象が一卦の内に於いて発動せば、吉凶の事は便ちこの一卦の外に顕露す。
功業見乎變。
功業は変通の中に成就す。
義曰:言聖人用此大易之道,觀其卦爻之變動,可行則行,可止則止,推而求之,以立成天下之功業,以通天下之心志。
胡瑗解説:聖人は《周易》の道を運用し、卦爻の変動を観察す:行動すべければ便ち行動し、停止に當るべければ便ち停止す。この路に順って推求し下去って、従って天下の功業を建立し、天下人の心志を貫通す。
聖人之情見乎辭。
聖人の心意は、卦爻の文辞の裏に顕現す。
義曰:辭者,則爻象之辭也。夫六十四卦之中有情偽之端、得失之理,其吉凶悔吝皆在爻辭之間,欲知聖人設卦之情意者,觀其爻象之辭則可見矣。至如乾之初九言潛龍勿用,則聖人勿用之情可知矣;比卦上六曰比之無首凶,則聖人無首之情可見矣。如此之類,皆在爻辭間可見矣。
胡瑗解説:此処の説く辞とは、すなわち爻象の辞。六十四卦の中に真偽の端倪・得失の道理有りて、其中の吉凶悔吝は皆爻辞の裏頭に在り。聖人の卦を設ける用心を知らんと欲せば、爻象の辞を看れば便ち看出し得るなり。譬如《乾》卦初九に潜伏の龍は暫く施用せざると説けば、聖人の暫く動かざるを主張する心意は便ち清楚なり。《比》卦上六に親附して領頭する人なければ凶なりと説けば、聖人の無首に對する看法も便ち看出し得るなり。こういう類は皆能く爻辞の裏に見到るなり。
天地之大徳曰生。
天地の最大の徳性は、万物を生養すると叫ぶ。
義曰:夫天地之大徳者,惟是陰陽二氣上下相交,生成萬物,周而復始,無有限極,故其徳常大。若生之不常,運之有極,則所生之道不廣也。
胡瑗解説:天地の最大の徳は、陰陽二気の上下が相交わりて万物を生養し、周して復た始まり、辺際なきに在り。故にこの份の徳は初めて恒久広大なり。假如生養が持久し得ず運行に尽頭有らば、さらばそれの生養し得る所の範囲は便ち広からざるなり。
聖人之大寶曰位。
聖人の最も珍貴なる宝物は、君位と叫ぶ。
義曰:寶者,愛也;位者,所守之位也。夫聖人之大寳者,惟在其位。然則聖人之大寶何以在乎位?葢聖人之有才徳,若無其位,則其功不能及於天下;若有其至尊至寳之位,則其功可以及於天下,無有逺近皆被其澤,皆被其功徳也。是故聖人重徳行道於民,故大寶其位也。
胡瑗解説:宝とはすなわち珍愛、位とはすなわち拠守する所の名位。聖人の最も珍貴なる东西はただ彼の位子に在るのみ。然らば聖人の大宝は何を為すか位に在るや。聖人は縱に才有り徳有るも、もし位子なからば、功業は便ち天下に及ばざるに因る。もし至尊至貴の位子有らば、功業は便ち能く天下に推及して、遠近を論ぜず皆彼の恩沢を受け彼の功徳を蒙る。故に聖人は徳行を看重して百姓の中間に於いて正道を推行し、因って位子を把って大宝と看做す。
何以守位曰仁。
何を靠ってこの位子を守住せんや。仁愛に靠る。
義曰:言聖人既有才徳,又能大寶其位,何以守其位哉?必須法天元之徳,以仁愛之道生成於天下,使天下之人皆被己之仁徳,然後父子有禮,上下相親也。
胡瑗解説:聖人は既に才有り徳有りて、又把って位子を大宝と當てれば、さらば何を靠ってそれを守住せんや。必ず上天の万物を始生する徳性を効法して、仁愛の道を用いて天下を生養し、天下人をして皆自己の仁徳を蒙受せしめて、然る後に父子の間に礼有り、上下の間に相親有らん。
何以聚人曰財。
何を靠って人を聚攏せんや。財貨に靠る。
義曰:夫聖人何以萃聚於人哉?必曰財而已。財者,使衣食豐足,用度常備,仰有所奉,俯有所畜,則天下有戴君之心。若其衣食不足,用度不備,則不能萃於天下之民。是故古之聖人修其水火金木土五行之事,正徳利用厚生,使天下之人各得其所,如是則父子兄弟遞相親睦矣。至於為農者勤於耕,為商者勤於貨,為工者勤於器,如此之類,則可以保六親。六親既相保,則親族內外自相親愛,如是是聚人曰財也。
胡瑗解説:聖人は何を靠って人を聚め攏め来らんや。ただ財貨に靠るのみ能くす。所謂財とは、便ち百姓をして衣食豊足・用度常備ならしめ、向上に力量有りて父母を奉養し、向下に余力有りて妻児を畜養せしめ、こうすれば天下人は初めて君主を擁戴する心を生出し得。もし衣食不足・用度不齊なれば、便ち天下の百姓を聚め住め得ず。故に古時の聖人は水・火・金・木・土の五行の事を整治し、徳行を端正し器用を便利し民生を厚養して、天下人をして各々その所を得しむ。こう一来れば、父子兄弟は便ち能く互相親睦す。務農するは耕種に勤しみ、經商するは貨殖に勤しみ、做工するは器物に勤しむるに至っては、こういう類は皆能く六親を保全す。六親は既能く相保せば、親族の内外は自然に相親相愛す。これがすなわち所謂聚人は財に靠るなり。
理財正辭,禁民為非曰義。
財貨を治理し号令を端正し、百姓が悪事を為すを禁止すれば、これを便ち義と叫ぶ。
義曰:言聖人既能守位以仁,又能聚人以財,使天下父子各有所養,各得其所。然而貨財之道必主於均平,使多者不得積其私,少者皆得盡其養;又須與正其辭,為之節制,以禁民之有非僻者,使皆合於義而得其宜矣。然則所謂義者,葢裁制合宜之謂義也。
胡瑗解説:聖人は既能く仁を用いて位子を守住し、又能く財を用いて人心を聚攏して、天下の父子をして各々供養有り各々その所を得しむ。しかし財貨を經理する道は、必ず均平を以て主と為して、多きをして私利を積攢し得ざらしめ、少なきも亦た皆能く奉養を維持せしめねばならず。この外に還って彼らの為に政令辞命を端正し、節制を定下して、以て百姓が邪僻の事を做出すを禁止し、一切をして義に合し各々その宜を得しめねばならず。然らば所謂義は究竟何なるか。裁断処置して恰當合宜なるを得るを、便ち義と叫ぶ。
繋辞下・制器尚象章(古者包犠氏之王天下也)
古者包犧氏之王天下也,仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文與地之宜,近取諸身,逺取諸物。
上古の時代、包犠氏(すなわち伏犠)が天下の王と為りし時、頭を抬げれば便ち日月星辰が天上に呈する種種の景象を観察し、頭を低めれば便ち山川草木が大地上に顕示する種種の法則を考察した。彼は還って飛禽走獣の身上の斑紋羽色、および各処の水土の適宜に生長する物類を観察した。近処には便ち人の自身の形体に取法し、遠処には便ち天地間の万物に取法したり。
義曰:自此已下至「葢取諸夬」為一章。言包犧氏以聖人之才徳以王天下,為天下之主。然於上古洪荒之世,典章法度未立,而包犧氏仰則觀象於天,俯則觀法於地,既觀察天地之象,又觀鳥獸之文與地之宜,以畫成其八卦也。
胡瑗解説:ここより往下は、「葢取諸夬」の一句に至るまで止まり、合して一章と為す。包犠氏は聖人の才徳に憑って天下を統治し、万民の主と為ったり。しかし上古洪荒の初辟に、典章法度は皆還って未だ建立せざりき。ここに彼は仰いで天象を觀察し俯して地理を察看し、既に天地の呈する形象を看て、又鳥獣の紋理と各地の水土の宜しき所とを看て、これに拠って「八卦」を画き成した――三画の符号を用いて天・地・雷・風・水・火・山・澤の八類の基本物象を統括したり。
然則上既言觀法於地,下又言與地之宜;既言觀鳥獸之文,下又言逺取諸物者,何哉?葢上文言仰則觀象於天、俯則觀法於地者,葢是伏羲始觀象之初也。此又言鳥獸之文者,葢東方之宿則為蒼龍,南方之宿則為朱鳥,西方之宿則為白虎,北方之宿則為龜蛇。如此之類,是伏羲仰觀天之垂象之宿、鳥獸之文,又觀其地之動植山川丘陵之象、萬物所生之宜。
上文は既に「俯則觀法于地」と説いたれば、下文は何を為すか又「与地之宜」と説くや。既に「觀鳥獣之文」と説いたれば、下文は何を為すか又「逺取諸物」と説くや。これは上文の講ずる所の頭を抬げて天象を觀察し頭を低めて地理を察看するは、伏犠の最初に開始して物象を観察する階段を説くに因る。此処に再び「鳥獣之文」を提ぐるは、二十八宿が四方に分布して連綴し成る形象を指す――東方七宿は連ね起れば一条の蒼龍に象り、南方七宿は一隻の朱鳥に象り、西方七宿は一頭の白虎に象り、北方七宿は亀と蛇と相纒えるに象る。こういう類の如く、皆伏犠が頭を抬げて天上の垂示する星宿の象・鳥獣の紋を観看し、又頭を低めて地上の動物植物の生息・山川丘陵の形勢、および各種の物類の適宜に生成する条件を観看したるなり。
既觀天之垂象之文,又觀地之所生之宜,然後近取諸身者,至如乾為首,坤為腹,震為足,艮為手,又近取人之一身,其有思慮口鼻之屬。如此之類,是近取諸身也。既近取諸身,又逺取諸萬物之象,若乾為龍、坤為馬、山澤風雷之類是也。
既に天上の垂示する星象紋理を観察し、又地上の万物の適宜に生長する情形を観察せば、接いて便是ち「近取諸身」なり。譬如乾は人の頭に象を取り、坤は人の腹に象を取り、震は人の足に象を取り、艮は人の手に象を取る。再び人のこの一身に就いて論ずれば、還って思慮と口鼻こういう類の官能有り。およそこの類に属するは、皆近きに就いて自身に取法すと叫ばる。既に近く諸を身に取り、又遠く万物の象を取る、例如乾は象を取りて龍と為し、坤は象を取りて馬と為し、および山・澤・風・雷これらの物象は、皆遠く諸を物に取るに属す。
於是始作八卦。義曰:作者,起也。言伏羲因此天地萬物之象,然後興起八卦,以象動植之宜也。以通神明之徳。義曰:神明即謂天地之道、陰陽之運、變通不測之宜、吉凶未兆之事,如此之類,則謂之神明,是八卦通此神明之徳也。以類萬物之情。義曰:夫萬物之情狀至繁至眾,故不可得而知之也。聖人作此八卦,取其天地水火山澤風雷之象,以類聚萬品之情偽,皆可見也。
経文に「于是始作八卦」と説く。胡瑗解説:「作」とはすなわち興起の意思で、伏犠が天地万物の形象に依拠して、進んで八卦を創立し、以て動物植物の各々その宜を得る道理を象徴するに用いたるを言う。経文に又「以通神明之徳」と説く。胡瑗解説:所謂「神明」とは、天地運行の規律・陰陽消長の運転・変化通達して測度する従なき機宜・吉凶の還って未だ徴兆を顕露せざる事情を指し、およそこの類に属するは皆神明と称さる。八卦はまさに能くこの種の神妙莫测の徳を貫通するものなり。経文は再び「以類万物之情」と説く。胡瑗解説:万物の情状は極めて繁多にして、本來一一に認識する能わざるなり。聖人は八卦を創制して、天・地・水・火・山・澤・風・雷の八種の物象を取用して以て綱領と為し、万類の事物の真情と偽飾とを分門別類に帰攏し起して、ここに皆分明に看るを得たり。
作結繩而為罔罟,以佃以漁。義曰:網罟者,取魚獸之物也。言伏羲既畫八卦以通神明之徳,以類萬物之情,以至天地之始終、人事之淵蘊,無不畢備於其間。然而於人事之間未有所食之物,是故伏羲又結繩以為網罟,以佃以漁,使人取其魚獸以為所養。
経文に「作結繩而為罔罟、以佃以漁」と説く。胡瑗解説:網罟とはすなわち魚類と禽獣とを捕捉する器具。これは伏犠が八卦を画き成した後に、已に能く神妙莫测の徳を貫通し、能く万物の情状を帰類し、乃至天地の始終・人事の深微の底蘊も、完備に八卦の中に包含せざるなしと言う。しかし具体の民生日用の上に於いては、人々は還って未だ可靠の食物來源有らざりき。故に伏犠は又繩索を把って編結して羅網と漁網と為し、人をしてそれを拿って山林の裏に猟し水沢の裏に魚を捕え、魚類禽獣を取得して以て自己を供養せしめたり。
葢取諸離。義曰:葢者,疑之之辭也。離者,麗也。言山之髙而禽鳥麗之,水之深而魚鱉麗之,然則山之髙、水之深而人莫能及之,而聖人創立其事,結繩而為網罟,使人用之,雖禽鳥居山之髙、魚鱉居水之深,皆得而取之,是使人麗而用之也。然謂之葢者,即疑之辭也。言聖人創立其事,不必觀此卦而成之,葢聖人作事立器,自然符合於此之卦象也,非準擬此卦然後成之,故曰葢取諸離。
経文に「葢取諸離」と説く。胡瑗解説:「葢」は推測を表示し敢えて確指せざる語気詞。「離」の意思は附麗・依附。山は高峻なれば、飛鳥は便ち山上に依附す。水は深広なれば、魚鼈は便ち水中に依附す。しかし山はあのよう高く水はあのよう深くして、人は本來及び着かざるなり。聖人はこの法を創制して、繩子を把って結して網罟と為して人々に交給して使用せしめれば、ここにたとい鳥は高山に棲み魚鼈は深水に蔵るるも、亦た皆能く捕取して手に到る――これがすなわち人をして依附の理に順って以て万物を取用せしむるなり。何を為すか「葢」この推測の辞を用いるに至っては:聖人の器物を創制するは、併せて先ずこの一卦を看て初めて做り成したるに非ず、事を為し器を立つるが自然に卦象と相合して、併せて卦象に比照して初めて制作出し来れるに非ざるに因る。故にただ「大概是《離》卦に取法する」と説くのみ。後人は本章の卦象に依って器物を創制する十三条を把って、合して「制器尚象」と称したり。
包犧氏沒,神農氏作,斵木為耜,楺木為耒,耒耨之利,以教天下,葢取諸益。
包犠氏は去世した後に、神農氏は興起した。彼は木料を砍削して犁頭の「耜」を做り成し、木材を弯揉して犁柄の「耒」を做り成し、耒耜耕耘の便利を把って天下の人に教えた。これは大概《益》卦の道理に取法したるなり。
義曰:言包犧氏既沒之後,又有神農氏以聖人之才興起於世。以其人既得其網罟以佃以漁,然而未有飲食之道,神農氏是以樸斵其木以為之耜。耜者,博五寸,其首有華觜,以為耕作之用。又揉其曲木,其曲有鉤,以為之耒。耒耨之利以教於天下之人,使四時耕作之,種其禾黍之利,以為飲食之養。葢取諸益,益者,取其有益於人,為萬世之利也。
胡瑗解説:包犠氏が去世した後に、又有神農氏が聖人の才具に憑って世に興起したり。あの時に人々は虽已に網罟有りて以て猟し魚を捕え得べきも、却って還って未だ穩定の農耕飲食の道有らざりき。故に神農氏は粗粗木材を砍削して以て耜を做ったり。耜とはすなわち犁頭にして、寛さ五寸、前端に尖鋭の刃口有りて、土を翻して耕作する用に供す。彼は又把って弯曲の木料を揉制して成形し、弯処に鉤を帯びて、以て耒を做り成したり。すなわち犁柄。神農氏は耒耜耕耘除草の便利を把って天下人に教え、百姓をして四季に依って時に按って耕作せしめ、禾稻黍稷を播種してその利を収めて、以て飲食の供養と為さしめたり。故に「葢取諸益」と説く――《益》卦の名を益と為す所以は、取る所はまさに人に益有り、能く万世の長久の利と為り得る意思なり。
日中為市,致天下之民,聚天下之貨,交易而退,各得其所,葢取諸噬嗑。
正午の時分に集市を開設し、天下の百姓を招来し、天下の貨物を聚集して、彼此交換した後に各自散去して、人人皆自己の需要する东西を得たり。これは大概《噬嗑》卦の道理に取法したるなり。
義曰:言於日中為其市,以貿遷於貨財,以萃聚於天下之人,使皆貿易之相交。民之無者従而有之,民之有者従而散施之。既貨財交易,貿遷有無,天下之民各得其所,各得其宜,故曰市也。然必取於日中者,葢日之早而逺者必不能及,若日之晚而又失其時,必於日中之時,取其逺近之人皆得以及矣,故於日中為市也。然則葢取噬嗑者,以其噬嗑之卦上體是離,下體是震,震動於下,離明於上,是下動而上明,聚之則為之市也。又頥中有物曰噬嗑,凡頥中有剛梗之物,必囓而去之也,然後得其通而物有所合也。
胡瑗解説:正午に集市を設立するは、以て貨物銭財を流通し、四方の人衆を聚集し、大家をして彼此交易せしめんがためなり。百姓は何を缺くれば、便ち交易を通じて何を得。百姓は多余有れば、も亦た交易を通じて別人に散給す。貨財は既能く交換し、有無は既能く互通すれば、天下の人は便ち各自に所需を得、各自に心称い宜し。故に「市」と叫ぶ。何を為すか必定に正午を選ぶに要するに至っては、市を開くこと太早ければ、住むこと遠き人は趕き到り得ず。市を開くこと太晚ければ、又時辰を誤るに因る。ただ正午この時刻を取れば、遠近の人は初めて皆趕き到るに及ぶ。故に日中に市を開く。大概《噬嗑》に取法すると説くに至っては、噬嗑卦は上卦は離・下卦は震なるに因る:震は下に在りて動を主とし、離は上に在りて明を主とすれば、まさに下面に人が来来往往に活動し上面に日光が昭明に照臨する景象にして、聚合し起れば便ち集市と成る。再び者、口腔の中に东西を含着するを便ち噬嗑と叫び、およそ口中に堅硬にして嚼み難き梗阻の物を含着すれば、必ず咬み断ち除去して初めて通暢し、上下は初めて咬合し得――市易の道も亦た此の如し、中間の梗阻を除去して初めて物と物とが交合し成り得るなり。
神農氏沒,黃帝、堯、舜氏作,通其變,使民不倦。義曰:夫法之久則必弊,弊則物有所不通,法既不通,則人情多至怠情而有厭倦之心。是故神農既沒之後,復有黃帝以聖人之才徳繼世而興起,能通人事之理。以其伏羲既結繩而為網罟,而斵木為耜,楺木為耒,又聚天下之民財以交易之為之市,然事之久必有其弊壊,故黃帝能通其變化而裁之,引而伸之,隨其物之變通,因其時而更造之,以為萬世之法,使民宜之,皆得其利用。民既得其利用,則無怠倦之心也。
経文に「神農氏没、黃帝堯舜氏作、通其変使民不倦」と説く。胡瑗解説:一種の制度は行うこと久しければ必定に弊病を生出し、弊病有れば事情は便ち行き通らざるなり。制度は既に通ぜざれば、人心は多半懈怠して、厭煩倦怠の情緒を生出す。故に神農氏が去世した後に、又黃帝有りて聖人の才徳に憑って接続して起り、能く人事の道理を通曉したり。伏犠は早已に繩を結して網罟を做り成し、神農氏は又木を砍って耜と為し木を揉んで耒と為し、還って天下の財貨を聚集して集市を開設して以て交易したり。しかし任何の事も行うこと既に久しければ必ず弊壊を生ず。故に黃帝は能く其中の変化を貫通して以て裁断を加え、旧法を引申拡展し、事物の変化に順って以て変通し、時勢の不同に依って以て重新に創制し、それをして万世通行の法度と成らしめ、百姓をして用いて合宜ならしめ、人人皆実際の便利を得しめたり。百姓は既に便利を得れば、自然に便ち懈怠厭倦の心思なからん。
神而化之,使民宜之。義曰:神而化之,使民宜之者,言天下之民既得其利用,則不知聖人之制作所以然而然也。既不知所以然而然,則所作為用皆得其宜也。易窮則變,變則通,通則久。義曰:言黃帝既能通其變使民不倦,神而化之使民宜之,如此者,葢得大易通變之道也。夫大易之道,窮極而復變,變極而必通,天地生成之道、人事終始之理,無有限極,周而復始,無有窮際,可以永久為萬世通行之法也。
経文に「神而化之、使民宜之」と説く。胡瑗解説:所謂神妙に百姓を化育し百姓をして用いて宜しからしむとは、天下の人が既に器物制度の便利を得て、却って併せて聖人の創制が怎樣に成就したるを覚察せず、ただ本來便ち応に此の如くなるべしと覚えるを言う。既に其中に人為の痕跡有るを覚えざれば、さらば一切の施為運用も便ち自然而然に各々その宜を得るなり。経文に又「易窮則変、変則通、通則久」と説く。胡瑗解説:黃帝は既能く旧法を変通して百姓をして倦怠を生ぜざらしめ、又能く神妙に化育して百姓をして用いて宜しからしむれば、これがまさに《周易》の通変の大道を掌握したるなり。《易》の道理は:尽頭に走り到れば便ち転変し、転変して極処に到れば必然に通達す。天地の万物を生成する規律・人事の始有り終有るの條理は、皆辺際なく、循環往复して窮尽有るなし。故に能く長久に万世通行の法則と為り得。
是以自天佑之,吉無不利。義曰:言黃帝之法如此,為萬世久行之道,則自天而下至於鬼神皆佑助之。在鬼神尚且佑助,況於天下之人乎?鬼神人民既以佑助,則盡善盡美之功所往之處,何所不利哉?故引易文而證之。
経文に「是以自天佑之、吉无不利」と説く。胡瑗解説:黃帝の立てた所の法度は既に万世通行の大道と成れば、さらば上は蒼天より下は鬼神に至るまで皆彼を保佑せん。鬼神に連れて尚且つ相助けん。いわんや天下の人をや。鬼神と百姓とは既に皆相助けば、この尽く善尽く美の功業は無論推行して何の処に到るとも、還って何の順利せざる有らんや。故に孔子は《大有》上九の「自天佑之、吉无不利」の爻辞を引いて以て印証す。
黃帝、堯、舜垂衣裳而天下治,葢取諸乾坤。義曰:自此已下凡有九事,皆黃帝堯舜因象而立制也。夫上古之時,世質民淳,民皆敦樸,則上如槁枝,下如野鹿,則上下自然而正矣。迨黃帝堯舜之世,垂衣裳而天下治,以其乾有剛陽之徳在於上,故為尊;坤有柔陰之徳在於下,故為卑。爰作衣裳,以分尊卑上下貴賤之等,此葢取乾坤之象也。然則黃帝堯舜連言之者,葢衣裳之起始於黃帝,成於堯舜之時,故以黃帝堯舜而通言之也。
経文に「黃帝堯舜垂衣裳而天下治、葢取諸乾坤」と説く。胡瑗解説:ここより往下は共に九件の事有りて、皆黃帝・堯・舜が卦象に依照して建立した制度である。上古の時に、世風は質朴・民情は淳厚にして、人人は敦厚老実にして、上位に在るは枯枝の如く朴素にして飾るなく、下に在るは野鹿の如く各々その性に安んじ、上下の間は自然而然に便ち端正にして邪なし。黃帝・堯・舜の時代に到れば、ただ衣裳を垂れて拱すのみにして、天下は便ち治理好了なり。これは乾が剛健陽明の徳を具有して上に居れば、故に尊貴を象徴し、坤が柔順陰静の徳を具有して下に居れば、故に卑下を象徴するに因る。ここに上衣下裳を制作して、以て尊卑・上下・貴賤の等級を区別す。これは大概乾坤両卦の卦象に取法したるなり。何を為すか黃帝を堯舜と連ねて一緒に説くに至っては、衣裳の制度は黃帝に起始し、堯舜の時代に到りて初めて最終に完備したるに因る。故に合して通称す。
刳木為舟,剡木為楫,舟楫之利,以濟不通,致逺以利天下,葢取諸渙。
樹幹を把って空を掏いて以て船を做り、木料を削制して以て桨を做り、船と桨の便利に憑って、原先通行し得ざる水面を渡り、能く遥遠の地方に到達して以て天下に造福す。これは大概《涣》卦の道理に取法したるなり。
義曰:刳者,謂刳木之中,虛其中以為舟也,以濟於水,使人乗載之,以濟不通,免其沈溺之患也。剡木為楫者,又剡削其木以為舟之用也。凡人有川險之深而不可以涉之,而黃帝能刳木之中為舟,又剡削其木為楫,以濟川險之患,使人乗之皆得以濟,致逺之處皆得以利。葢取諸渙者,葢渙之卦上是巽,下是坎,巽為木,坎為水,故其彖辭曰「利涉大川,乗木有功也」,是言巽木為舟,有涉川之象也。又曰渙者,散也,能散釋其民難,令為舟以濟於天下,使人免其沈覆之患,故此亦得變通之一端也。
胡瑗解説:「刳」とは便ち木頭の中間を挖き空めて、それを中空にして以て船身と為し、以て水を渡り、人をしてその上面に乗坐せしめ、原先通ぜざる水面を渡りて、沉溺の禍患を免去せしむるなり。「剡木為楫」とは、再び木料を削制して以て桨と為し、行船の用に供す。およそ深険の江河に遇上れば、人力は渡り渉る能わず、黃帝は便ち樹幹を挖き空めて船を造り、又木を削って桨と為して、河を渡る危難を解除し、人をしてそれに乗って皆能く渡り過ぐせしめ、再び遠き地方も皆能く到達して以て利を獲得せしむ。大概《涣》卦に取法すると説くに至っては、涣卦は上卦は巽・下卦は坎にして、巽の物象は木・坎の物象は水なるに因る。故に《涣》卦の彖辞に「利渉大川、乗木有功」と説くは、まさに巽木を做り成して船と為し、大河を渡越する象徴を具有するを言う。另外「涣」は又涣散・消釈の意思有りて、能く百姓の患難を消解して、彼らに教えて船を造り天下を渡済せしめ、人をして覆没沉溺の憂を免れせしむ。故にこれも亦た変通の道の一端なり。
服牛乗馬,引重致逺,以利天下,葢取諸隨。義曰:夫物之重者,人力不能及之;地之逺者,人力不能至之。是故聖人服習其牛,調習其馬,使重者得以及之,逺者得以至之。然則牛馬本無知之物,而聖人能馴服之,使其至重之物亦得以行之,至逺之地亦得以至之。重者引之,逺者利之,天下之人皆得其利,葢取諸隨也。然則隨者,是動作必隨於人,以之逺則亦隨於人,以之近則亦隨於人,是動作所在皆隨於人也。
経文に「服牛乗馬、引重致逺、以利天下、葢取諸随」と説く。胡瑗解説:過ぎて沉重の东西は、人力に靠って搬動し得ず。過ぎて遥遠の路程は、人力に靠って走り到り得ず。故に聖人は牛を馴服し馬を調教して、沉重の物をして運送を得せしめ、遥遠の地をして抵達を得せしめたり。牛馬は本來知識なき畜類なるに、聖人は却って能くそれらを馴服し来りて、極重の貨物をも亦た能く運び走らしめ、極遠の地方をも亦た能く到達せしむ。重きはそれを用いて拉し、遠きはそれを用いて送れば、天下の人は皆これに因って便利を得。故に大概《随》卦に取法すと説く。所謂「随」とは、すなわち随順の意思:牛馬の一挙一動は皆人に随順して、それを叫んで遠路を走らせば、それは便ち人に随って遠路を走り、それを叫んで近路を走らせば、それは便ち人に随って近路を走り、およそ行動有れば、人の駆使調遣に聴憑せざるなし。
重門擊柝,以待暴客,葢取諸豫。義曰:夫治平之世,不能無奸宄之人,是故聖人用其兩木相擊,昏夜之間擊其聲以為之警備,使其奸人暴客不能踰越也。然而必取諸豫者,葢豫者,樂也。按豫卦「雷出地奮,豫」,言雷自地奮出以發生萬物,物既生,各遂其安,故曰豫樂也。此重門擊柝以待暴客而云葢取諸豫者,葢言凡人居治平之時,外既有警備,則奸人不能犯;奸人既不能犯,則在內者自然安矣。
経文に「重門撃柝、以待暴客、葢取諸豫」と説く。胡瑗解説:太平治世も亦た奸を為し科を犯す人なきは不可能なり。故に聖人は層層の門戸を設置し、又両塊の木頭を用いて互相敲撃す――これがすなわち夜を巡り更を打つ木梆――昏夜の裏に於いて声響を敲き出して以て戒備と為し、奸徒強盗をして牆を越えて入る能わざらしむ。何を為すか必定に《豫》卦に取法するに至っては、「豫」は安楽の意思なるに因る。《豫》卦の大象辞に「雷出地奮、豫」と説くは、春雷が地中より奮然として発出し、万物を催生すを言う。万物は既に生長せば、各自にその所に安んず。故に豫楽と叫ぶ。此処に重門を設け木柝を撃ちて以て強暴の客を防備して豫に取法すと説くは、講ずる所は:人は太平の時に処りて、外面は既に戒備有れば、奸人は便ち侵犯する能わず。奸人は既に侵犯する能わざれば、裏面に住む人は自然に安楽にして虞れなきなり。
木為杵,掘地為臼,臼杵之利,萬民以濟,葢取諸小過。義曰:言聖人既能教民以粒食五穀,然又不能精治其五穀以為飲食之養,是故後世聖人復其木為杵,又掘其地為臼,以其臼杵之利以精治其五穀。夫既精治其五穀,則天下之萬民皆得以濟,故取諸小過焉。然則必取小過者,葢小過之卦,聖賢之人過為其事以矯過於人。今此杵臼而取小過者,葢聖人既教人粒食以自養,又教人精治其五穀,是小有過為其事故也。
経文に「断木為杵、掘地為臼、臼杵之利、万民以済、葢取諸小過」と説く。胡瑗解説:聖人は虽已に百姓に教えて五谷を以て食と為さしめたれども、然而還って能く谷物を舂治して精細として以て飲食の養に供する能わざりき。故に後世の聖人は又木を取って以て杵を做り、地を挖って以て臼を做り、杵臼の舂擣の便利に憑って、五谷を把って舂いて精細と為したり。谷物は既に精治を経れば、天下万民は便ち皆接済を得。故に《小過》卦に取法すと説く。何を為すか必定に小過を取るに至っては、小過卦の講ずるは聖賢が稍稍常度を超出して一件事を為し、略々過分の作為を用いて以て世人の不足を矯正するに因る。如今杵臼は小過に取法すと説くは、まさに聖人が既に人に教えて谷物を以て食と為して以て自養せしめ、又進んで人に教えて谷物を把って舂治して精細と為さしむるに因る。これは已に尋常の外に於いて稍稍多做一步したる縁故なり。
弦木為弧,剡木為矢,弧矢之利,以威天下,葢取諸睽。義曰:夫治平之世,不能無奸暴之人;堯舜之代,不能無逆命之人。是故聖人雖立刑罰之事以懲戒之,然其間亦有不庭不軌之人,非刑罰之威可以懲也。是故復以弦繫於木上以為弧,弧者即弓也。既以弦於木為弓,又剡削其木,取其矯厲,故為矢以中於人。弧矢既成,以威中於不庭不軌之人;威既中於不庭不軌之人,則天下之奸暴者皆畏而懼矣。
経文に「弦木為弧、剡木為矢、弧矢之利、以威天下、葢取諸睽」と説く。胡瑗解説:太平の世も奸邪凶暴の人なきは不可能なり、堯・舜の時代に連れても亦た命令に違抗する人なきは不可能なり。故に聖人は虽刑罰を設立して以て彼らを懲戒するも、其間に仍ほ肯んじて朝せず法度を守らざる人有りて、刑罰の威力の懲治し得る所に非ざるなり。ここに又把って弦を木の上に繃えて以て弧を做り成したり。弧とはすなわち弓。既に弦を把って木の上に繋げて以て弓を做り成せば、又木材を削制して、それの挺直強勁の性質を取って、以て箭を做り成して以て對方を射中す。弓箭は做り成した後に、それの威力を用いてあの朝覲に来らず法度を循守せざる人に射向けば、威力は既にこれらの人の身上に加えられて、天下の奸凶暴虐の徒も便ち皆畏懼収斂したり。
然蓋取諸睽者,蓋睽者,離也,言人心之乖離者必用弧矢以威之。至如蠻夷之人,當奉於中國,反抗衡於中國,有離叛之心;又如諸侯當尊奉於王者,今不能貢賦,反有倍於王者之心;又如奸猾之俗,不能歸奉於上,反有離二之心。如此之人,聖人因其有睽離之心,故制弧矢以威服之,故云蓋取諸睽也。
何を為すか大概《睽》卦に取法すと説くに至っては、「睽」とは便ち乖離背棄の意思にして、およそ人心の背離するは、必ず弓箭の威力を用いて去って鎮服せねばならざるを言う。譬如四方の蠻夷は本應中原王朝を尊奉すべきに、却って反って中原と分庭抗礼して、叛離の心を懐く。又如諸侯は本應天子を尊奉すべきに、如今は肯んじて貢賦を納めず、反って君王を背棄する念頭を生出す。再如奸詐狡猾の風俗は、肯んじて君上に帰順せずして、反って二心離贰有り。こういう類の人に對しては、聖人はまさに彼らの乖離背棄の心思に就着いて、初めて弓箭を制作して以て彼らを威懾降服す。故に「大概睽卦に取法す」と説く。
然則弧矢、杵臼、服牛乘馬、舟楫皆云利者,此葢器物有益於人,故稱利也。然重門擊柝不言所利者,蓋擊柝之事止以御暴客,是亦利之異名也。垂衣裳不言利,此亦隨便立義,故云天下治,治亦利也。此皆義便而言,故不可一例取也。
こう看来れば、弓箭・杵臼・服牛乗馬・舟楫の幾条は皆「利」に説き到るは、これらの器物は確実に人に益有るに因る。故にそれを利と称す。重門撃柝の一条は利を提げずは、撃柝はただ以て強暴の客を防御するに用い、防御本身も便ち利の別名なるに因る。垂衣裳の一条も亦た利を提げずは、あれは文に随って義を立てて、ただ「天下治」を説くのみ――天下は治まること好し、も便ち利なり。これらは皆文義に順って方便に措辞するにして、能く同一の格式を拿って去って死板に要求すべからず。
上古穴居而野處,後世聖人易之以宮室,上棟下宇,以待風雨,蓋取諸大壯。
上古の人は洞穴を挖って居住し、野外に於いて露宿した。後世の聖人はこの種の情形を把って改換して以て房屋と為し、上面に棟梁を架起し、下面に檐を出して宇と成して、以て風雨を抵当す。これは大概《大壮》卦の道理に取法したるなり。
義曰:夫上古之時未有宮室,當此之時,人但冬則居營窟,夏則居層巢,人既安居,然於風雨之時無可御止。是故後世聖人易之以宮室,上隆其棟,下為之宇,以待風雨,有所棲止,故取諸大壯也。然必取諸大壯者,以其制度宏壯,有便於人,故取大壯也。
胡瑗解説:上古の時代は還って未だ房屋有らざりき。あの時の人は冬天に土を掘って囲い成した地穴の裏に住み、夏天に樹の上に搭げ起した層疊の巢架に住んだり。人は虽安身の処有るを得たれども、風を刮ぎ雨を降らすに遇えば却って遮擋する従なし。故に後世の聖人はそれを把って改換して以て房屋と為し、上面に高く棟梁を起し、下面に檐宇を伸出して、以て風雨を抵御し、人をして安穩の栖身の所有らしむ。故に《大壮》卦に取法すと説く。何を為すか必定に大壮を取るに至っては、宮室の規制が宏大壮偉にして、又人に便利なるに因る。故に「大壮」の名を取る。
古之葬者,厚衣之以薪,葬之中野,不封不樹,喪期無數,後世聖人易之以棺槨,蓋取諸大過。
古時に死者を埋葬するに、ただ厚厚の柴草を用いて死体を把って裹起るのみにして、荒野の中に葬り、既に土を堆って墳を成さず、亦た樹を種えて以て標記を為さず、服喪の期限は更に定数なし。後世の聖人はこの種の做法を把って改換して以て棺槨を用いて殯殮す。これは大概《大過》卦の道理に取法したるなり。
義曰:夫上古之時,凡人之死不能蔽其尸,但厚衣之以薪,及塟之中野之間,又不能封土為墳,是不封也;又不能種樹為別,是不樹也。及其哀慼又無時而止,但哭除則止,喪之期制又無其日月之限,是無數也。其於死者知耶不知耶?是故後世聖人以木合為之棺槨以庇其尸,又封其土以為之墳,又種其樹以為之別,又立五服之制、三年之喪,使其哀慼有時者也。
胡瑗解説:上古の時に、人は死せば尸身を遮蔽する东西なく、ただ厚厚の柴草を用いて裹住して、荒郊野地の間に葬るのみ。も又会して土を堆って墳頭を做り成さず、これがすなわち「不封」。も又会して樹を栽えて以て標識と為さず、これがすなわち「不樹」。哀傷悼念に至っては、更に終止する時候有らず、哭して一場過ぎれば也就罷了にして、服喪の期限は明確の月日の規定なく、これがすなわち「喪期无数」。こうして死者に對待するは、究竟算して死生の義を懂得するか、還って懂得せざるか。故に後世の聖人は木板を用いて合拼して以て内棺外槨を制成して以て尸身を庇護し、又土を堆って以て墳丘を做り成し、又樹を栽えて以て標記と為し、還って「五服」の喪服等差と三年の喪の定制を制定して、人の哀戚をして一定の期限有らしめたり。
然則葢取諸大過者,原大過之卦,是聖人大有所為,過越常分以拯救天下,則為之大過。今此人之死不能蔽其尸而取此大過者,何也?葢聖人重人之生、孝子哀慼之情,以其人之生必有其死。葢死者是人之終,人之既終,孝子之大事,重其死者人之大事,故過為棺槨以庇其尸,又封土以為之墳,種樹以為之別,立其五服之制,又立饗祀之禮,其事過越至大,故取諸大過也。
大概《大過》卦に取法すと説くに至っては、大過卦の本義を推究すれば、聖人が大作為有りて、尋常本分を超越して去って天下を拯救するを、これが初めて大過と叫ばるるなり。如今人は死せば尸体に連れても遮蔽し得ざるに、何を為すか大過に取法せんや。これは聖人が人の生命を看重し、亦た孝子の哀痛の心情を体諒するに因る:人は既に生有れば、必定に死有り。死は人生の終結にして、父母は既に終了せば、喪事を辦好するは便ち孝子の最も重大の事情なり。死者を看重するは、まさに人生の大事なり。故に聖人は初めて格外に用心して棺槨を制作して以て遺体を庇護し、又土を堆って墳を成し、樹を栽えて以て記と為し、五服の喪服等差を制定し、還って祭祀饗献の礼儀を建立したり。这件事は做ること尋常を超出し隆重に至極せれば、故に《大過》に取法すと説く。
上古結繩而治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸夬。
上古の時代は繩結を打つに靠って以て事を記して治理したり。後世の聖人はそれを把って改換して以て文字と契券と為したり。百官はこれに憑って政務を処理し、万民の情実はこれに憑って察知を得たり。これは大概《夬》卦の道理に取法したるなり。
義曰:夫上古之時,世質民淳,情偽未遷,凡人有事必結其繩而取信。若有大事,則結之以大繩;若有小事,則結之以小繩。迨及後世,情偽已遷,利害漸作,巧詐萬狀,不可以救正之。是故後世聖人易之以文書,成之以契券。文書所以取其信驗,契券所以取其要約。文書既立,契券既明,則百官之事皆得其治,萬民之情皆得以察。然而蓋取諸夬者,蓋夬者,決也,能明決其事,驗人之情偽以決之,自此而後,民之利病、事之奸詐不可以隠也。
胡瑗解説:上古の時に、世風は質朴・民情は淳厚にして、真心と虚偽とは還って未だ分化せず、人々はおよそ事情有れば、便ち一個の繩結を打って以て憑信と為したり:大事なれば便ち一個の大結を結び、小事なれば便ち一個の小結を結ぶ。後世に到れば、人心の真偽は已に変り、利害の争奪は漸々興起し、機巧詐偽は層出して窮まらず、再びもや繩結を靠って以て匡正する能わざるに至った。故に後世の聖人はそれを把って改換して以て文書と為し、又契券を以て輔佐す。文書は以て憑信査験を取得するに用い、契券は以て約定條款を訂立するに用いる。文書は既に確立し契券は既に分明なれば、百官の政務は便ち皆治理して井井有條を得、万民の実情も亦た皆察知して遺なきを得。大概《夬》卦に取法すと説くに至っては、「夬」は決断の意思なるに因る:能く明白に事情を決断して、人心の真偽を験明して以て裁決を加う。従此以後、百姓の利病・事情の奸詐は、便ち再びもや隠瞞して住む能わざるなり。
繋辞下・易者象也章(是故易者象也)
是故易者象也。義曰:自此已下至「小人之道」為一章。夫大易之道皆本諸萬物之形象而成,至如乾為龍、坤為馬、艮為山、兌為澤,如此之類,皆是本於物象也。象也者,像也。義曰:言聖人立六十四卦之象,皆因其物像而名也,至如兼山艮、麗澤兌、巽為木、坎為水、離為火,如此之類,皆是本諸象也。彖者,材也。義曰:彖者,即六十四卦下彖辭也,如「乾,元亨利貞」,「坤,元亨,利牝馬之貞」,此類皆聖人設其彖辭,以象一卦之材徳而成之也。
経文に「是故易者象也」と説く。胡瑗解説:ここより往下は「小人之道」の一句に至るまで止まり、合して一章と為す。《周易》の道理は、皆万物の形象に依拠して建立し起したるもの。譬如乾は象を取りて龍と為し、坤は象を取りて馬と為し、艮は象を取りて山と為し、兌は象を取りて澤と為す。およそこの類に属するは、皆物象に本ず。経文に又「象也者、像也」と説く。胡瑗解説:聖人の立てた所の六十四卦の卦象は、皆物の形貌に照って以て命名したるもの。譬如艮卦は両山相重して「兼山」と称し、兌卦は両澤相連なりて「麗澤」と称し、巽の物象は木、坎の物象は水、離の物象は火。およそこの類に属するは、皆物象に本ず。経文は再び「彖者、材也」と説く。胡瑗解説:「彖」とはすなわち六十四卦の卦名の下に繋がる彖辞。例如「乾、元亨利貞」、「坤、元亨、利牝馬之貞」、こういう類は皆聖人が彖辞を設立して、以て一卦の具有する材質と徳性とを概括して写し成したるものなり。
爻也者,效天下之動者也。義曰:夫六十四卦,一卦則象其一時,一爻則象其一人。然而爻有變動,位有得失,變而合於道者為得,動而乖於理者為失。人事之情偽、物理之是非,皆在六爻之中,所以象天下之動,使人效法之也。
経文に「爻也者、效天下之動者也」と説く。胡瑗解説:六十四卦の中に、一卦は一段の時勢を象徴し、一爻はこの段の時勢の裏に処る一人を象徴す。然而爻に変動有りて、爻位に得當と不得當と有り:変動して正道に合するを「得」と叫び、行動して事理に背離するを「失」と叫ぶ。人事上の真誠と虚偽・事物上の是と非とは、全都六爻の内に包含さる。故に爻は以て天下万事万物の運動変化を摹擬し、好く人をして取りて効法效仿せしむるに用いるなりと説く。
是故吉凶生而悔吝著也。義曰:夫六十四卦之爻,有得位、有失位者,有凶、有吉者,皆繫於爻之動靜也。若動得其道則吉,動失其道則凶。然動靜之間,有可追悔者,有可鄙吝者。若能慎於動靜,則凶害不生矣;若不能慎於動靜,則凶咎著焉。是吉凶悔吝著見於外,皆繫於爻之變動也,故上文所謂「吉凶悔吝生乎動」者也。
経文に「是故吉凶生而悔吝着也」と説く。胡瑗解説:六十四卦の各爻は、或るは居位得當し或るは居位失當し、或るは凶を呈し或るは吉を呈す。これは皆爻の一動一静に取决す。行動が正道に合すれば便ち吉、行動が正道に背離すれば便ち凶。而して動静の間に於いて、或る結果は人をして事後に追悔せしめ、或る結果は人をして羞愧惋惜せしむ。もし能く挙止の上に於いて謹慎ならば、凶険禍害は便ち発生せざるなり。もし能く謹慎せざれば、凶咎は便ち顕露し出るなり。見れば吉・凶・悔・吝が外に顕現するは、全都爻の変動に繋がる。故に上文は初めて「吉凶悔吝生乎動」と説く。
陽卦多陰。義曰:陽者即剛也,陰者即柔也。夫八卦之設,有純陽之卦,有純陰之卦,有一卦有二陽者,有一卦有二陰者。至如坎之一卦,上下二陰而一陽在其中矣;艮之一卦,一陽在上而二陰在其下矣;震之一卦,二陰在上而一陽在其下矣,是陽卦多陰也。
経文に「陽卦多陰」と説く。胡瑗解説:陽とはすなわち剛、陰とはすなわち柔。八卦の設立に、純陽の卦(乾)有り、純陰の卦(坤)有り、一卦の中に両個の陽爻を含む有り、一卦の中に両個の陰爻を含む有り。譬如坎卦は、上下両爻は陰にして一個の陽爻は中に居る。艮卦は、一個の陽爻は上に在りて両個の陰爻は下に在る。震卦は、両個の陰爻は上に在りて一個の陽爻は下に在る。この三卦は皆あの一個の陽爻を以て主と為し、陰爻は反って居多を占む。故に「陽卦多陰」と説く。
陰卦多陽。義曰:夫八卦之中有陰卦而多陽者,至如離之卦,二陽在外,一陰在內矣;兌之一卦,一陰在上而二陽在下矣;巽之一卦,二陽在上而一陰在下,是陰卦多陽也。其故何也。義曰:此是孔子疑問之辭也。言陽卦多陰、陰卦多陽,其故果如何多也。
経文に「陰卦多陽」と説く。胡瑗解説:八卦の中にも亦た陰に属して陽爻が反って多き有り。譬如離卦は、両個の陽爻は外に在りて一個の陰爻は内に居る。兌卦は、一個の陰爻は上に在りて両個の陽爻は下に在る。巽卦は、両個の陽爻は上に在りて一個の陰爻は下に在る。この三卦は皆あの一個の陰爻を以て主と為し、陽爻は反って居多を占む。故に「陰卦多陽」と説く。経文は接いて「其故何也」と問う。胡瑗解説:これは孔子の問を設ける話――陽卦は偏偏として陰爻多く陰卦は偏偏として陽爻多きは、究竟何の縁故なるか。
陽卦竒,陰卦偶。義曰:此是孔子復陳陽卦多陰、陰卦多陽各有本末也。言陽卦所以多陰者,葢陽卦純一,故多竒也;陰卦多陽者,蓋陰卦純二,故多偶也。是故聖人因其竒偶之數,所以如此也。其徳行何也。義曰:此孔子又發問之辭,言陽卦所以多竒、陰卦所以多偶,其於徳行果如何哉。
経文に「陽卦竒、陰卦偶」と説く。胡瑗解説:これは孔子が再一次陽卦の多陰・陰卦の多陽は各々その本末縁由有るを申説す。陽卦の陰爻多き所以は、陽卦は一個の陽爻を以て主と為し、その数は純に一にして、一は奇数なれば、故に「竒」と称す。陰卦の陽爻多き所以は、陰卦の主とする所の陽爻は成双にして、その数は二にして、二は偶数なれば、故に「偶」と称す。聖人はまさに奇数と偶数の分別に依って、初めてこうして安排したるなり。経文は又「其徳行何也」と問う。胡瑗解説:これは孔子が再次発問す――陽卦は奇を取り陰卦は偶を取るは、徳行の上に落れば又応に怎で講ずべきか。
陽一君而二民,君子之道也。義曰:此是孔子又自釋陽卦竒、陰卦偶之所由也。言陽之卦是君,陰之卦是民。一陽在上則眾陰歸之,一君在上則二民歸之,猶天下一統,眾歸於一主,則成邦國之道,是至治之本,此是君子之道者也。
経文に「陽一君而二民、君子之道也」と説く。胡瑗解説:これは孔子が又自行に陽卦の奇為・陰卦の偶為の縁由を解釈す。陽爻は君主を象徴し、陰爻は臣民を象徴す。一個の陽爻は上に居りて、衆多の陰爻は皆それに帰附す。一位の君主は上に在りて、両個の百姓は皆彼に帰附す。好比天下は一尊に統一し、万衆は一位の君主に帰向すれば、これは便ち邦国の正道を成全して、天下大治の根本なり。故にこれを君子の道と説く。
陰二君而一民,小人之道也。義曰:言陰者是小人之象也。夫二陰在上而一陽歸之,是由二君在上而在下之人無所的従。在下之人既無所的従,則天下不能統一。如此則乖邦國之道,是致亂之本,此是小人之道也。
経文に「陰二君而一民、小人之道也」と説く。胡瑗解説:陰は小人の象徴である。両個の陰爻は上に居りてただ一個の陽爻のみ来りて帰附すれば、これは便ち両位の君主が併立して上に在りて、底下の人は究竟誰に帰向すべきかを知らざるに如同じ。底下の人は既に適従する所なければ、天下は便ち統一する能わず。こう一来れば便ち邦国の正道に違背して、禍乱を招致する根源なり。故にこれを小人の道と説く。
繋辞下・憧憧往来章(易曰憧憧往来朋従爾思)
易曰:「憧憧往來,朋従爾思。」義曰:自此已下至「徳之盛也」為一段。「憧憧往來,朋従爾思」者,此是咸卦九四之爻辭。凡易卦中有義理深逺、卦爻之內未能盡其義者,孔子特引於此而明之。言天地之道、生成之理,不能感於物,蓋物自然而咸感之;聖人之道亦不求感於人,蓋但任仁義之道以行於世,則天下之人自然而歸之。今九四以陽居陰位,是不正也。當咸感之時,以不正之身,不能任以仁義之道以感於人,反自思慮其朋以求所感,故所感之道不廣,但其憧憧然朋従爾思之,惟是己之朋黨者則感之也。
《周易》に「憧憧往来、朋従爾思」と説く。胡瑗解説:ここより往下は「徳之盛也」の一句に至るまで、合して一段と為す。「憧憧往来、朋従爾思」は《咸》卦九四の爻辞である。およそ《易》卦の中に於いて義理深遠にして、本卦本爻の裏に於いて還って能く意思を講き透かし得ざるは、孔子は皆特意に此処に引き来りて以て闡明を加う。これは言う:天地の大道・万物を化生する道理は、併せて刻意に去って万物を感動せざるに、万物は却って自然而然にそれに感通を受く。聖人の道も亦た刻意に去って人を感動せずして、ただ一味に仁義の道を秉持して世に推行するのみにして、天下の人は自然に便ち帰附す。如今九四は陽爻を以て陰位に居るは、不当位なり。まさに天下相感の時に當りて、彼は不当位の身を以て、能く仁義の道を秉持して去って衆人を感動する能わずして、反って心心念念に自己のあの一伙の人を盤算して、其中より感応を求め得んを指望す。故に彼の感通する範囲は極めて狭窄にして――ただ心神不定に往来奔忙し、念々として朋党を忘れず、もまたただ自己のこの一小撮の同党のみが初めて彼に響応する而已なり。
子曰:「天下何思何慮?天下同歸而殊塗。」義曰:此孔子自釋九四之辭。言天下之大、萬宇之廣,為感之道,聖人未嘗思之,但任其仁義之道以感於天下,則天下雖廣而人自感悅而隨之,故云同歸而殊塗。一致而百慮。義曰:言人之百慮雖然煩多,及其歸也,終歸於一致也。天下何思何慮。義曰:此重言之者,言聖人凡有天下之眾,為感之道不在思慮以感於人,如是則所感之道至廣也。
孔子曰く:「天下何思何慮。天下同帰而殊涂。」胡瑗解説:これは孔子が自己に九四の爻辞を解釈す。天下は此の如く大にして、宇内は此の如く広し。感通の道に講じ到れば、聖人は従来心機を用いて去って籌画せずして、ただ仁義の道を秉持して去って天下を感化するのみ。天下は虽広しとも、人々は自ら会して心説誠服して彼に随従せん。故に人々の走る所の道路は各々相同じからざるも、最終には却って同一個の地方に帰ると説く。経文に又「一致而百慮」と説く。胡瑗解説:人の思慮は虽紛繁衆多なるも、帰結し起るに等到れば、終究同一個の道理に帰す。経文は再び「天下何思何慮」と説く。胡瑗解説:この句は一遍重複す。聖人が天下の衆を統領して人心を感化するは併せて心思を費尽して去って經営するに靠らざるを言う。まさに刻意せざるに因って、感通する所の範囲は初めて最も広大なり。
日往則月來,月往則日來,日月相推而明生焉。義曰:此已下又明天地之道、陰陽之端、人事之理、萬物之情亦自然而然也。言日往則月來,月往則日來,日月之道互相推蕩於天地之間,而晝夜之道自然明矣。然則日月之道不求照耀於人,而天下之人物自然感日月之照臨也。
経文に「日往則月来、月往則日来、日月相推而明生焉」と説く。胡瑗解説:ここより往下は、又天地の規律・陰陽の端緒・人事の條理・万物の情状も、亦た皆自然而然にして造作を須みざるを説明す。太陽は西に沉めば月亮は便ち升起し、月亮は西に沉めば太陽は便ち升起す。日月の運行は天地の間に於いて彼此推移激蕩して、昼夜光明の道理は自然而然に便ち顕現し出る。見れば日月は併せて刻意に誰を照耀せんと要せざるに、而して天下の人と物とは却って自然に日月の照臨を承受す。
寒往則暑來,暑往則寒來,寒暑相推而歲成焉。義曰:夫天地之道,晝則為陽,夜則為陰,以陰陽之道互相推蕩而成寒暑,寒暑之道互相推蕩而成歲功。然則寒暑之道非自求成其歲功,葢歲功自然而隨於寒暑也。
経文に「寒往則暑来、暑往則寒来、寒暑相推而歳成焉」と説く。胡瑗解説:天地運行の規律は、白昼は陽に属し、夜晚は陰に属し、陰と陽とは彼此推移激蕩して以て寒来暑往を形成し、寒と暑とは彼此推移激蕩して以て一年の収成を成就す。見れば寒暑は併せて自己が去って一年の農功を成就せんとするに非ずして、一年の農功は自然に寒暑の更替に随って以て完成するなり。
往者屈也,來者信也,屈信相感而利生焉。義曰:此一節又明萬事之理亦皆本於自然而然也。屈者,去也;信者,進也。往者既去,來者求進,屈信之間而利害生焉,是利害自然而生於屈信也。
経文に「往者屈也、来者信也、屈信相感而利生焉」と説く。胡瑗解説:この一節は又世間万事の道理も、亦た皆自然而然に本ずるを説明す。「屈」とはすなわち退去、「信」とはすなわち伸展前進。過去したは既に退去し、将来のは正要に伸進せんとす。一屈一伸の間に、利と害とは便ち産生す。見れば利害は自然而然に屈伸交替の中より生出するなり。
尺蠖之屈,以求信也;龍蛇之蟄,以存身也。義曰:夫尺蠖之屈,雖一本於天賦,然而凡於動靜之間,非自樂也,蓋所以求其信也。龍蛇之蟄,潛其所處,蓋所以求其安身也。
経文に「尺蠖之屈、以求信也。龍蛇之蟄、以存身也」と説く。胡瑗解説:尺蠖この種の虫子は爬行する時に身子を把って拱起収縮す。虽天生の本能に出ずるも、しかしそれが一屈一伸の際に於いては、併せて蜷曲を以て楽しみと為すに非ずして、下一步に能く伸展し出去らんがためなり。龍蛇は冬天に到れば蟄伏し起て、幽深の処に潜蔵するも、もまた以て性命を保全し安穩を求得せんがためなり。
精義入神,以致用也。義曰:夫人得天性之自然,稟五常之至正,然而有服君子之事者,有服小人之事者,何也?蓋曰操心積慮,學而致諸善,不學而致諸不善也。惟是聖人得天地之全性,凡所動作,精思逺慮,以合於義,以通神妙,及發於外也,可以措天下之用,興天下之利也。至如網罟取諸離、書契取諸夬、宮室取諸大壯,凡百所為之事有利用於民者,皆由聖人精義入神然後能也。
経文に「精義入神、以致用也」と説く。胡瑗解説:人は皆自然の天性を禀受して、仁・義・礼・智・信この「五常」の純正の質を具備す。然而或る人は君子の事を為し或る人は小人の事を為すは、これは何を為すか。關鍵は用心と積累とに在り:肯んじて学ぶは便ち善に趨向し、肯んじて学ばざるは便ち不善に流る。唯だ聖人のみが天地の完備の本性を得て、およそ挙動有れば、皆能く精細に思索し深遠に考慮して、それをして義理に合せしめ、神妙の境に通達せしむ。外に発するに等到れば、便ち能く天下の用い得べき制度に落実し成りて、天下の公利を興起す。譬如網罟は《離》に取法し・書契は《夬》に取法し・宮室は《大壮》に取法する、およそ種種民生日用に利有る作為は、皆聖人の「精義入神」――義理を把って研究して精微に到りて神妙に入る――然る後に初めて做り出し得たるものなり。
利用安身,以崇徳也。義曰:言聖人既能精義入神以致天下之用,又能宴樂以安其神,飲食以養其體,居富貴而不自充詘,在貧賤而不自隕穫,如此則安於身而崇大其徳業也。過此以往,未之或知也。義曰:言聖人舍其精義入神以致用、利用安身以崇徳,舍此二道而往,則雖聖人亦不能知之也。窮神知化,徳之盛也。義曰:言聖人既能精義入神、利用安身,如是則可以窮極鬼神之情狀,通曉變化之終始,此是徳之至盛者也。
経文に「利用安身、以崇徳也」と説く。胡瑗解説:聖人は既能く義理を研精して神に入る地步に到りて以て天下の実用を成就し、又能く安閑自楽を以て精神を安頓し、飲食調養を以て身体を保养し、富貴に身を処して自満自驕せず、貧賤に身を処して自暴自棄せず。こうすれば便ち身心安泰にして、而して徳業は日益に崇高広大なり。経文に又「過此以往、未之或知也」と説く。胡瑗解説:聖人は「精義入神以致用」と「利用安身以崇徳」とのこの両条の路を除きて、再び外に向かって推求せば、たとい聖人なるも亦た知暁する従なし。経文は再び「窮神知化、徳之盛也」と説く。胡瑗解説:聖人は既能く義理を精研して神妙に入り、又能く万物を利用して自身を安頓せば、此の如くすれば便ち能く鬼神幽微の情状を窮尽し、万物変化の始終を通暁す。これがすなわち徳行が極盛の境界に達するなり。
繋辞下・困于石章(易曰困于石据于蒺藜)
易曰:「困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。」義曰:此是困卦六三之辭也。言六三之爻以陰居陽位,是不正也;在下卦之上,是不中也。夫君子之人凡欲求進,必須俟其時。今此六三居困之時,其性動而欲上進,是故為九四之所止,故困于石也。既上不能進,復退其居,又下乗九二之剛,故曰據于蒺藜。上既無所進,下既無所適,是猶入于其宮,不見其妻,凶之道也。夫妻者,至親之人,亦不可得而見之,況於他人乎?
《周易》に「困于石、据于蒺藜、入于其宮、不見其妻、凶」と説く。胡瑗解説:これは《困》卦六三の爻辞である。六三この一爻は陰爻を以て陽位に居るは、不当位なり。それは下卦の最上一爻に処りて、亦た中位に居らず。君子は上進せんと欲せば、必ず時機を等待せねばならず。如今六三は困窮の時に処りて、性情は躁動して急いで上に向かって進を求むるに、却って九四に去路を挡住せらる。故に「困于石」と説く、大石頭に阻住せらるるが如し。上に往かば既に進み入り得ず、只好く原処に退回せんとすれども、然而その下面は又九二の陽剛を騎圧す。故に「据于蒺藜」と説く、刺を帯びた蒺藜の上に坐するが如し。上進は路なく退処は地なければ、これは便ち自己の家裏に帰到りて妻子に連れても見着かざるに比す。凶険の道なり。妻子は最も親近の人にして尚且つ見るに到らず。いわんや旁人をや。
子曰:「非所困而困焉,名必辱。」義曰:此已下是孔子之辭。言此六三所以困于石者,非是所困而困焉。葢六三居困之時,躁而求進,為九四之所止。然君子之名必求榮,今為九四所困,是其名必辱也。非所據而據焉,身必危。義曰:夫君子之人,進必以道,動必合義,不惟澤天下之人,又且先安其身而不陷於過惡也。今六三既下乗九二之剛,為九二之所據,為九四之所止,是必不能安全其身,而自必自至於危厲也。既辱且危,死期將至,妻其可得見邪?義曰:言六三既非所困而困,非所據而據,既辱且危,是不知死期將至也。既死期將至,雖屬至親之人,必不可得而見也。
孔子曰く:「非所困而困焉、名必辱。」胡瑗解説:ここより往下は孔子の話である。六三の「困于石」なる所以は、本來応にそれを困住すべからざる东西に困住せられたるなり。六三は困窮の時に処りて、性情は躁急して強いて上進を求めたるに、結果九四に阻止せらる。君子は身を立つるに、名声は総じて栄顕を求む。如今九四に困せられれば、名声は必定に辱を受く。経文に又「非所据而据焉、身必危」と説く。胡瑗解説:君子の上進は必ず正道に依り、行動は必ず義理に合して、但だ天下人に恵を施すを要するのみならず、還って先ず自身を安頓し好て、自己をして過失罪悪に陥入せざらしめねばならず。如今六三は下面に九二の陽剛を騎圧して、九二に拒まれ、又被って九四に阻まれて、必定に自身を保全し得ず、自然而然に危厲を招来す。経文は再び「既辱且危、死期将至、妻其可得見邪」と説く。胡瑗解説:六三は既に応にそれを困すべからざる东西に困せられ、又応に占拠すべからざる位置を占了して、名は既に辱を受け身は又危に渉るに、却って還って死期の將に頭に臨まんを覚察せず。死期は既に臨近せば、たとい最も親近の人なるも、亦た必定に見るに到らざるなり。
易曰:「公用射隼于髙墉之上,獲之,無不利。」義曰:此是解卦上九之辭也。隼者,貪殘之禽也;墉者,牆也。言解難之時,而六三以陰柔不正之身居於下卦之上,是不正之小人也。夫居解之時而以小人居君子之位,是猶貪殘之禽居於墉牆之上,必為人之所射而獲之。既射而獲之,則何所不利哉?
《周易》に「公用射隼于髙墉之上、獲之、无不利」と説く。胡瑗解説:これは《解》卦上九の爻辞である。「隼」は一種の貪婪凶残の猛禽、「墉」とはすなわち城牆。患難を解除する時に當りて、六三は陰柔不当位の身を以て下卦の上に居るは、まさに一個の正道を守らざる小人なり。難を解く時に処りて小人をして君子の位置を占め占めせしむるは、好比貪残の鷹隼が高牆の上に盤踞するが如く、必定に人の一箭に射落し擒獲せられん。既に射中擒獲せれば、還って何の順利せざる有らんや。
子曰:「隼者,禽也;弓矢者,器也;射之者,人也。」義曰:夫弓矢之事,皆是威天下之器、除天下之害者也。今君子之人慾去貪殘之禽,必以弓矢而射去之然後可也。君子蔵器於身,待時而動,何不利之有?義曰:言君子之人凡去小人,必須有其才、有其徳、有其時、有其位,然後可以有所施為,有所動作也。若無才徳,無時位,欲去非類之人,必自取敗亡之道。是故君子之人必當蔵畜其器,韜光其業於身,待其時而動之,則所往必有所獲也。
孔子曰く:「隼者、禽也。弓矢者、器也。射之者、人也。」胡瑗解説:弓箭こういう類の东西は、皆以て天下を威懾し天下の禍害を除去する器具である。如今君子はあの貪残の猛禽を除掉せんと要せば、必ず弓箭を用いてそれを射落して初めて行く。経文に又「君子蔵器于身、待時而動、何不利之有」と説く。胡瑗解説:君子は小人を鏟除せんと要せば、必ず才能有り・徳行有り・時機有り・職位有りて、然る後に初めて能く作為有り行動有るを得。倘若既に才徳なく、又時機地位なくして、却ってあの異己の徒を除掉せんと想えば、必定是ち自取敗亡なり。故に聖人は応に本領を把って身に蓄蔵し、才業を把って収斂して露さず、時機の来るを等到して再び行動すれば、さらば無論何を為すとも必定に収獲有らん。
動而不括,是以出而有獲,語成器而動者也。義曰:括者,結也。夫君子之人凡能畜積其徳,韜蔵其器,則無有括結凝滯之事,如是則沛然莫之能御也。以至凡有所施為、有所動作,必有所獲,所在必有所成功,是語成其器而動者也。
経文に「動而不括、是以出而有獲、語成器而動者也」と説く。胡瑗解説:「括」は結扎・阻滞の意思である。君子はもし能く自己の徳行を積蓄し、自己の才具を収蔵せば、行動し起れば便ち牽絆阻塞なく、あれは便ち江河の堤を決し下るが如く沛然として、誰もそれを挡住する能わざるなり。以至およそ作為有り行動有れば、必定に収獲有りて、無論何の処に到るとも必定に一番の事功を成就す――これがまさに所謂器具は已に完備して然る後に初めて行動するなり。
子曰:「小人不恥不仁,不畏不義。」義曰:此已下又言小人之道也。夫小人之性不常,亦不知仁義,不知亷恥,不以刑法威之,則不畏不義。是故古者聖人設其鞭樸之事、刑法之威者,蓋為小人不恥不仁,所以設之,使知畏而為義也。
孔子曰く:「小人不恥不仁、不畏不義。」胡瑗解説:ここより往下は又小人の道を講ず。小人の性情は反復不定にして、既に仁義を懂得せず、も亦た廉恥を知らず。もし刑法を用いて彼を威懾せざれば、彼は便ち不義の事を為すを怕れざるなり。故に古時に聖人は鞭打杖責の責罰と刑法の威厳とを設立したるは、まさに小人が不仁の事を做出して羞恥を覚えざるに因りて、初めて已まずしてこれらを設立し、彼をして心に畏懼を存して肯んじて義を行わしめんとしたるなり。
不見利不勸。義曰:言小人之心専在於利,凡事不見其利,則不知有所勸勉也。是故聖人立為市,使得交相貿易;立農桑,使得互相耕養,而有所勸也。不威不懲。義曰:夫小人以小善為無益而弗為也,以小惡為無傷而弗去也,但恣縦其心,而放僻邪侈之事無不至矣。若不以刑而懲之,則不知懲戒者也。
経文に「不見利不勧」と説く。胡瑗解説:小人の心思は全て利益の上に放たれて、凡事に於いて好処を看見せざれば、便ち肯んじて自我勉励せざるなり。故に聖人は集市を設立して、人々をして能く互相買売せしめ、農桑の政を設立して、人々をして能く耕織して互養せしむ――皆実在の好処を拿って来て以て彼らを勧勉するなり。経文に又「不威不懲」と説く。胡瑗解説:小人は総じて小小の善事は何の益処もなしと為して以て肯んじて為さず、又以て小小の悪事は何の妨害もなしと為して以て肯んじて除去せず、ただ一味に自己の心意を放縦して、ここに邪僻放蕩・奢侈无度の事情は為さざるなし。もし刑罰を用いて彼を懲治せざれば、彼は便ち引いて以て戒めと為すを懂得せざるなり。
小懲而大誡,此小人之福也。義曰:言君子之人既以刑懲於小人,亦非君子之素心也,蓋為小人不恥之故也。然雖小有所懲,而若能戒懼不為大惡,此亦小人之福也。易曰:「屨校滅趾,無咎」,此之謂也。義曰:此是噬嗑初九之爻辭也。夫噬嗑之卦,是先王用刑以去剛梗之俗。今此初九居卦之初,是受刑之始也。然居受刑之始,其罪未至大,其惡未甚著,故但屨校其足,滅沒其趾,而能改之,所以無咎。今此小人若小懲而能戒慎之,則其罪亦不至於大,此是小人之福,故引此噬嗑之初九而證之,故曰此之謂也。
経文に「小懲而大誡、此小人之福也」と説く。胡瑗解説:君子が刑罰を用いて小人を懲治するは、本來君子の本心に非ず、実在は小人が不仁の事を為して羞恥を知らざるに因って、初めて已まずして此の如くするなり。然而虽ただ小懲罰を受けたるも、もし能くこれに因って警惕畏懼して再び大悪を為さざれば、これも亦た算して小人の福気なり。経文に又「易曰:屨校滅趾、无咎、此之謂也」と説く。胡瑗解説:これは《噬嗑》卦初九の爻辞である。噬嗑一卦は、先王が刑罰を動用して以て頑梗にして治め難き風俗を革除するを講ず。初九は一卦の開端に処りて、剛く刑を受け開始する階段なり。既に刑を受くる初めに処れば、罪過は還って算して大ならず、悪行は還って顕著ならず。故にただ彼に足枷を套上して脚指を傷没せしむれば、彼は便ち能く改過す。故に過錯なし。如今小人はもし小懲に因って警惕を知れば、罪過も便ち大に鬧るに至らざるなり。これがまさに小人の福気なり。故に孔子は噬嗑初九の爻辞を引いて以て印証し、「此之謂也」と説く。
善不積不足以成名,惡不積不足以滅身。義曰:言凡人若能積小善以至於大善,積之不已,以至著見於外,則可以成萬世之名也。若小善不積,則不能以成其名也。若以小惡為無傷而弗去,及小惡積之已久,反成大惡,及其著見於外,不惟受戮,亦致滅沒其身也。
経文に「善不積不足以成名、悪不積不足以滅身」と説く。胡瑗解説:人はもし能く小さき善行を積累して、積みて大善と成るに到り、積みて止まず、以至外に顕現すれば、便ち能く万世に流伝する美名を成就す。もし小善に連れても肯んじて積累せざれば、便ち名声を成就する従なし。反って言えば、もし以て小悪は大雅を傷めなしと為して以て肯んじて除去せざれば、小悪が積りて久しきに等到りて、反って大悪を醸成す。それが外に顕露するを等れば、但だ刑戮を受くるを要するのみならず、還って会して自己の性命を断送せん。
小人以小善為無益而弗為也。義曰:夫小人之性,以小善不能益於身,是以因因循循,至於老耄不能修飾而不為,以致喪身取咎,自取滅亡之道也。以小惡為無傷而弗去也。義曰:言小人以惡為無傷,積小惡以至大惡,従至著,日復一日,不能悛改而弗去,以至惡大罪也。
経文に「小人以小善為无益而弗為也」と説く。胡瑗解説:小人の心性は、総じて覚えて小小の善事は自己に對して何の好処もなしと為して、ここに因循苟且して、一直に年老力衰するに拖到しても、仍舊として肯んじて修身自飭せず肯んじて去って為さずして、結果身を喪い禍を惹きて、自ら取りて滅亡する路に走上る。経文に又「以小悪為无傷而弗去也」と説く。胡瑗解説:小人は以て点の小悪を為すは何の妨害もなしと為して、ここに小悪は越え積りて越多く、終に大悪を醸成す。隠微に由って以至顕著に至り、一天接いて一天として、始終肯んじて悔改除去せずして、以至悪は大に罪は深し。
故惡積而不可掩,罪大而不可解。義曰:言小人既不能積其小善,反自為其小惡,小惡之積久而不已,及夫惡大而彰顯於外,不能以掩閉;罪大而及於身,不可以解脫。如是則滅身受戮也宜矣。易曰:「何校滅耳,凶。」義曰:此是噬嗑上九爻辭也。言初九居受刑之始,而屨校其足,其罪亦未甚大;至此上九居受刑之終,不能悛改其惡,但以小惡為無傷,以至惡積罪深,而其身受戮,滅沒其耳,何校其首,此是大凶之道也。
経文に「故悪積而不可掩、罪大而不可解」と説く。胡瑗解説:小人は既に肯んじて小善を積累せずして、反って自己で去って小悪を為す。小悪は積りて久しくして止まず、悪行が大にして外に顕露するに等到れば、便ち再びもや遮掩して住む能わず。罪過は大にして自己の身上に落れば、便ち再びもや開脱し得ざるなり。この一步に到れば、身は死し刑を受くるも亦た理所当然なり。経文に又「易曰:何校滅耳、凶」と説く。胡瑗解説:これは《噬嗑》卦上九の爻辞である。初九は刑を受くる開端に処りて、ただ彼に足枷を套上するのみにして、罪過は還って算して重ならず。上九に到れば、刑を受くる最後の階段に処りて、仍ほ肯んじて自己の悪行を悔改せずして、ただ点の小悪は大雅を傷めなしと當作して、以致悪積り罪深くして、最終に身は刑戮を受く:頸の上に重枷を荷って、一直に圧して耳を没すに至る。これは大凶の道なり。
子曰:「危者,安其位者也。」義曰:夫君子之人所以危者,蓋由安然居位,恃其泰不為之備,恃其安不知其亂,以至泰久必否,安久必亂,所以致其不安而社稷之危也。若能居安慮危,居治思亂,然後可以保其位而不失也。
孔子曰く:「危者、安其位者也。」胡瑗解説:君子の危険を招致する所以は、往往安々穏々として位子を占着して、眼前の通泰に仗って以て防備を加えず、眼前の平安に仗って以て禍乱有らんを想到せざるに因る。以至通泰すること久しきを得れば必然に閉塞に転じ、安寧すること久しきを得れば必然に禍乱を生出して、ここに身位は保たれずして社稷は危殆なり。もし能く安逸に身を処して危難を思慮し、治世に身を処して禍乱を想到せば、然る後に初めて以て自己の位置を守住して喪失に至らざるを得。
亡者,保其存者也。義曰:夫人之所以亡者,蓋由恃其安不思其危,恃其存不思其亡,任其放僻邪侈之事,所以致其身之危亡、基業之隕墜也。若能常自深思逺慮,不為奢侈之行,則可以保其存而不亡也。亂者,有其治者也。義曰:言人居安平之時,但恃其天下之治,不能思慮存亡之機,不能憂恤天下之人,恣其驕盈之志,不知亂之所生也。
経文に「亡者、保其存者也」と説く。胡瑗解説:人の敗亡する所以は、往往眼前の安穩に仗って以て危難を想到せず、眼前の保全に仗って以て覆亡を想到せず、一味に邪僻奢侈の行為を放縦して、ここに自身の危亡・基業の崩塌を招来す。もし能く常常に深思遠慮して、奢靡越分の事を為さざれば、便ち以て現有の一切を保住して敗亡に至らざるを得。経文に又「乱者、有其治者也」と説く。胡瑗解説:人は安定太平の時に処りて、ただ天下の已に治理して好なるに仗って、存亡の關鍵の在所を想到せずして、も亦た肯んじて天下の百姓を体恤せず、自己の驕矜自満の心志を放縦して、全然として禍乱はまさにここより生出するを覚えざるなり。
是故君子安而不忘危。義曰:言君子之人若能居於安平之時,常自戒慎,恐有傾危之事,則可以獲吉也。存而不忘亡。義曰:言居平易之時,能常思其危亡之事,所以保其存而不亡也。治而不忘亂。義曰:言居治平之時,當自恐懼修省,鑑其前車之覆,則無禍亂之事也。是以身安而國家可保也。義曰:言君子之人既能安而不忘其危,存而不忘其亾,治而不忘其亂,夫如是,其身可以安,其國家社稷可以永保也。
経文に「是故君子安而不忘危」と説く。胡瑗解説:君子は安定太平の時に処りて、もし能く常常に自我警戒謹慎して、惟だ傾覆危亡の事の発生せんことを恐れれば、便ち以て吉祥を獲得す。経文に又「存而不忘亡」と説く。胡瑗解説:平順無事の時に処りて、能く常常に危亡の可能を想到するは、まさにこの一点に靠って初めて現有の局面を保住して覆滅に至らざるを保ち得るなり。経文に又「治而不忘乱」と説く。胡瑗解説:治平の時に処りて、応當に自己の心に戒懼を存して修身反省して、前車の傾覆を以て鑑と為せば、便ち禍乱の発生有らざらん。経文は再び「是以身安而国家可保也」と説く。胡瑗解説:君子は既能く安にして危を忘れず存にして亡を忘れず治にして乱を忘れざれば、こう一来れば、自身は以て安穏を得、国家社稷も亦た以て長久に保全す。
易曰:「其亡其亡,繋于苞桑。」義曰:此是否卦九五之爻辭也。言當否塞之時,小人在下皆失其道,獨九五能休去天下之否,常思其社稷之危亡,言我其亡乎,我其亡乎,是猶繋其社稷于苞桑之上者也。桑者,即是其根深固而不拔;苞者,即是叢生之類。言九五既居否塞之時,能休去天下之否,常自思慮戒懼,是猶繋其社稷于苞桑之上,而其根深固不可以拔也。
《周易》に「其亡其亡、繋于苞桑」と説く。胡瑗解説:これは《否》卦九五の爻辞である。天下の閉塞不通の時に當りて、小人は下位に在りて全都正道を背離するに、唯だ九五のみが能く天下の否塞を止息して、常常に社稷の危亡を憂念して、口裏に「我將に亡びんとす、我將に亡びんとす」を念ずれば、これは便ち国家を把って牢牢に成叢の桑根の上に繋げるに好比す。桑の特点は根の扎ること深くして牢固にして拔き起し易からざるなり。「苞」とは則ち叢生して簇と成る樣子。九五は否塞の世に処りて、能く天下の閉塞を止息し、又時々に深思戒懼すれば、便ち社稷を把って叢生の桑根の上に繋げるに如同じく、根深くして蒂固く、誰もそれを拔いて動かす能わざるなり。
子曰:「徳薄而位尊。」義曰:夫居君子之位,必有才有徳,然後可以居也。若才之薄、徳之寡而居於尊貴之位,必不可也。知小而謀大。義曰:言人之才知之小,反欲謀國家之大事,是必不可也。然居幽闇之時,尚不免其誅戮,而況居於明盛之時,其有不受君之誅戮者鮮矣,是小知者不可謀國家之大事也。力小而任重,鮮不及矣。義曰:夫小力之才,必當任其輕小之用;若任以國家之重器,其勝任者亦鮮矣。
孔子曰く:「徳薄而位尊。」胡瑗解説:君子の高位を占拠するは、必ず才能有り徳行有りて、然る後に初めて配得上るを得。もし才具浅薄・徳行寡少にして却って尊貴の位置上に坐せば、あれは断断として行けざるなり。経文に又「知小而謀大」と説く。胡瑗解説:一個の人は才識短浅にして、却って偏に去って国家の大事を謀划せんとするは、これも亦た断断として行けざるなり。たとい政治昏暗の時代に処るとも、尚且つ誅戮せらるるを免れず。いわんや政治清明興盛の時代に処るをや。能く君主の誅戮を受けざるは実在很少なり――見れば識見短浅の人は去って国家大事を謀るべからざるなり。経文は再び「力小而任重、鮮不及矣」と説く。胡瑗解説:能力小さき人は、ただ応當に軽小の職任を擔當すべし。もし国家の重器を把って彼に交付せば、能く勝任するは実在太少なり。
易曰:「鼎折足,履公餗,其形渥,凶」,言不勝其任也。義曰:此是鼎卦九四之爻辭。言九四以陽居陰位,是不正也。夫以不正之身居於大臣之位,而才力之不勝其職,是猶鼎之折足而傾覆公家之美實,而又且汙染其鼎也。然則君子之人凡居髙位,必須有其才、有其徳,然後可以稱國家之大任也。若無才無徳而居大位,是猶鼎之九四以不才之身而居國家之重位,而傾覆公家之美實,敗壊國家之綱紀,是大凶之道也。如此之人,所謂不勝其任也。然則謂之言不勝其任者,此是孔子引此鼎卦之辭,以釋徳薄位尊、知小謀大、力小任重之人,故以此爻而結言之。
《周易》に「鼎折足、覆公餗、其形渥、凶」と説くは、講ずる所は才力が職任を擔い起せざるなり。胡瑗解説:これは《鼎》卦九四の爻辞である。九四は陽爻を以て陰位に居るは、不当位なり。一個の不当位の身を以て大臣の職位を占着して、才力は又この份の職守を擔い起せざれば、便ち鼎が足を折断して、君家の美味佳肴を把って一地方に傾倒し、還って鼎身を汚髒するが如し。故に君子はおよそ高位に身居すれば、必ず才能有り徳行有りて、然る後に初めて国家の重任に配得上るを得。もし既に才なく又徳なくして大位に居れば、便ち鼎卦の九四が不成材の身を以て国家の要職を占着して、公家の美実を傾覆し、国家の綱紀を敗壊するが如し。これは大凶の道なり。こういう様の人は、まさに所謂職任を擔い起せざる人なり。末句の「言不勝其任也」に至っては、孔子が鼎卦の爻辞を引用して、以て徳薄くして位尊し・識小さくして謀大きし・力小さくして任重しのこの三種の人を解釈するに因る。故にこの一爻を用いて以て総結と作す。
子曰:「知其神乎?君子上交不諂,下交不瀆,其知乎?」義曰:此一節是孔子釋豫卦六二之辭。子曰知其神乎者,者是有理之形之謂也,神者妙無方之謂也。夫君子之人有先之識,深思逺慮,凡有所施為,必能極未形之理、未萌之兆者也。既未形之理、未萌之兆皆先知之,是其知如神之妙用而通於靈也。
孔子曰く:「知其神乎。君子上交不諂、下交不瀆、其知乎。」胡瑗解説:この一節は孔子が《豫》卦六二の爻辞を解釈する話である。所謂「知其神乎」とは、事理は已に苗头有りて形跡は尚未だ顕露せざるを説く。これを端倪と叫ぶ。「神」とは則ち妙用無方にして捉摸する従なきを指す。君子は先見の明有りて、深思遠慮して、およそ作為有れば、必ず能くあの還って未だ成形せざる道理・還って未だ萌発せざる徴兆を窮究す。既に未だ成形せざる道理・未だ萌発せざる徴兆を皆能く預先に知れば、見れば彼の智識は神の妙用に如同じくして、霊明に通ずるなり。
君子上交不諂者,夫常常之人凡於有權位之人,則必行苟諛佞媚,甘言巧語以求其說,以求其進。是故君子之人知其諂諛佞媚之道不可以求進,是以守其正,自潔其身,切問近思,博聞強識,待時而動,不以邪佞之道以求其進,不以甘言巧語以說其上也。
所謂「君子上交不諂」:尋常の人は一たび権有り位有る人に遇えば、必定に曲意奉承・諂媚討好して、甜言蜜語を用いて去って對方の歓心を博取して、好く自己の升進を換取せんとす。君子は谄媚阿諛に靠っては真の上進を求め来らる能わざるを懂得して、故に彼は正道を持守して身を潔くして自好して、懇切に発問し近きに就いて思索して、広聞博記して、時機を等待して而して後に行動して、絶えて邪佞の手段を用いて去って進身を謀求せず、も亦た絶えて甜言巧語を用いて去って上司に討好せざるなり。
下交不瀆其知乎者,夫常常之人凡見其下交之人,必以強暴之性、苟悅之道以瀆亂於下。是故君子之人凡居上位,雖於下交,亦以中正之道、至正之徳以待於下,未嘗敢以柔邪苟媚之道以瀆亂於下者也。言如此之人,既上交不諂,下交不瀆,又極於未形之理、未萌之兆,是知之人也。
所謂「下交不瀆、其知乎」:尋常の人は一たび地位が自己より低き人を見れば、必定に強横の脾気を拿出すか、或いは苟且取悦の手段を用いて、去って下属を軽慢擾乱す。君子は上位に居りて、たとい在下者と交往するとも、も亦た中正の道・純正の徳を用いて彼らに對待して、従来敢えて柔佞苟媚の手段を用いて去って下属を褻慢せざるなり。こういう様の人の如く、上に向かって交往して諂媚せず、下に向かって交往して軽慢せず、又能く尚未だ成形せざる事理・尚未だ萌発せざる徴兆を窮究すれば、これが初めて真に智識有る人なり。
者,動之,吉之先見者也。義曰:言人知其有理未形之事,極其禍福萌兆之來,則於動靜之間戒其小之事。動得其道則吉,動失其道則凶,是以従其吉而背其凶,去無道而就有道,是者吉之先見者也。君子見而作,不俟終日。義曰:君子之人既知未形之理,慎其小之事,夫如是,則吉凶之變不俟終日之間而可以明見矣。
経文に「者、動之、吉之先見者也」と説く。胡瑗解説:人はもし能くあの道理は已に具わりて形跡は未だ顕れざる事を察知して、禍福徴兆の到来を窮究せば、便ち会して一動一静の間に於いて細微の処に對して戒心有らん。行動が正道に合すれば便ち吉、行動が正道に背離すれば便ち凶。故に吉の一面に順って走りて凶の一面を避け、無道を離れて有道に帰向す――これがすなわち事情が還ってただ苗头なる時に於いて、先ず吉の在所する地方を看見したるなり。経文に又「君子見而作、不俟終日」と説く。胡瑗解説:君子は既にあの尚未だ成形せざる道理を洞察し、又能く細微の処に於いて謹慎なれば、此の如く一来すれば、吉凶の変化は一整天を等待するを用いずして、就已に分明に看るを得たり。
易曰:「介于石,不終日,貞吉。介如石焉,寧用終日,斷可識矣。」義曰:此是豫卦六二之爻辭也。言豫之時,九四以剛陽之徳居上卦之下,是居人臣之極位者也。夫居人臣之重位,必為在下之所歸向,是故初六以陰柔之質居豫之初,為九四之正應。當豫之時,不能守其正道,但以柔邪諂媚以說於上,以求其進,故為九四之所見従,但有聲名虛譽以聞於外。然既有聲名傳聞於外,是虛譽也,故其爻辭曰「鳴豫,凶」。
《周易》に「介于石、不終日、貞吉。介如石焉、寧用終日、断可識矣」と説く。胡瑗解説:これは《豫》卦六二の爻辞である。豫楽の世に於いて、九四は剛健陽明の徳を以て上卦の最下一爻に居るは、まさに位は人臣に極まる地位なり。人臣の重位に身居すれば、必然に下面の衆人の帰附する對象と成る。故に初六は陰柔の質を以て豫卦の開端に処りて、九四と正しく相応す。豫楽の時に當りて、初六は能く正道を守住せずして、ただ柔媚諂佞を用いて去って上面に討好するを知り、これに借りて以て升進を謀求して、因って九四に接納せられ、ここに外面には便ち一片の名声有るを得たり。然而この声名は外に傳揚するは、不過虚誉なれば、故にその爻辞は「鳴豫、凶」と説く――一味に鳴叫して自己の得意を炫耀するは、凶なり。
至於六三比於九四,居豫之時,在下卦之上,履非其位,上承於九四,亦以柔邪諂媚之道以悅於九四,故其爻辭曰「盱豫,悔」。惟此六二以陰居陰,居得其正,不為富貴以易其志,不為貧賤以易其心,堅然守一介之節,確然守不變之心,履得其中,居得其正。雖下比於初六,亦未嘗敢以非道而褻瀆;雖近於九四,亦未嘗敢以柔順而苟求,但堅執其心,不苟其進,故其心如石之堅,不能變動,不待終日而獲其貞吉。
再び六三を看れば、それは九四に緊挨し、豫楽の時に処りて、下卦の最上一爻に居りて、占む所の位置は本來その分に當らずして、上に向かって九四を承奉して、も亦た柔媚諂佞の手段を用いて去って九四に討好す。故にその爻辞は「盱豫、悔」と説く――眼を睁き大きくして上面を巴望して以て豫楽を求取するは、終帰に後悔せんとす。唯だこの六二のみ、陰爻を以て陰位に居りて、位置は正當なり:富貴に因って志向を改変せず、貧賤に因って心意を動揺せず、堅定にあの一点の耿介の節操を守住して、確然として不変の本心を守住して、行事は中を得居位は正を得たり。それの下面は虽初六に緊隣するも、却って従来敢えて不正当の方式を用いてそれと親暱せず。上面は虽九四に靠近するも、も亦た従来敢えて柔順曲従の姿態を用いて去って苟求せずして、ただ牢牢に本心を把持して、肯んじて苟且に進を求めざるなり。故にそれの心は石頭の如く堅定にして動揺すべからずして、一整天を等待するを用いずして就守正の吉を獲得したり。
然則六二既能上交不諂,下交不瀆,動靜之間,之事未嘗不知之;既之事未嘗不知之,則吉凶之來又寧用於終日之間而可見矣,此是知之人也。若見事於己萌之後,則是不知也。然則「介如石焉,寧用終日可識矣」者,此是夫子解釋六二之爻辭也,言六二有如此之美,故仲尼稱美之也。
こう看来れば、六二は既能く上に向かって交往して諂媚せず、下に向かって交往して軽慢せずして、一動一静の間に於いて、およそ細微の端倪は覚察せざるなし。既に細微の端倪は覚察せざるなければ、さらば吉凶の到来に、又何を須みて一整天を等待して初めて看出し得んや。これが初めて真に智識有る人なり。倘若事情の已に萌発顕露した後を等待して初めて看見せば、さらば便ち智識有ると算えられざるなり。「介如石焉、寧用終日可識矣」この一句に至っては、孔子が六二の爻辞を解釈する話にして、意思は六二にこういう様の美好の徳操有れば、故に孔子は特地にそれを称讃したるなり。
繋辞下・知微知彰章(君子知微知彰)
君子知微知彰。義曰:此已下至「無祗悔元吉」為一節,以解復卦初九之辭也。言君子之人凡所施為動作之間,必慎其小之事。夫者亦是之事,有理未形者也。唯君子之人凡所動靜,凡有思慮,吉凶之兆、禍福之理未萌之前而已知之。既知之,則舍其凶而趨其吉,此是知也。既知其逆知禍福,雖有其理未有其形,更不可使彰露顯然而著聞於外,如此是知彰也。
経文に「君子知微知彰」と説く。胡瑗解説:ここより往下は「无祗悔元吉」に至るまで止まって一節と為し、以て《復》卦初九の爻辞を解釈す。君子は一挙一動の間に於いて、必定に細微の処に對して戒心有り。所謂端倪とは、すなわちあの道理は已に具備して形跡は尚未だ顕露せざる事。唯だ君子のみが一動一静の際・およそ思慮有る時に於いて、吉凶の徴兆・禍福の道理が尚未だ萌発せざる前に就已に察知す。既に察知せば、便ち凶の一面を舍て開きて吉の一面に趨向す。これを「知微」と叫ぶ。あの幽微にして未だ顕れざる苗头を知るなり。既に苗头を知れば、能く預先に禍福を推知すれば、さらば虽道理は已に具わりて形跡は未だ成らざるも、も亦た切にそれを張揚顕露せしめ傳聞して外に在らしむべからず。これを「知彰」と叫ぶ。
知柔知剛,萬夫之望。義曰:夫事之萌漸,必始於柔小;得失之理亦自於,以至凡百之事,皆是自小而至大,自柔而至於剛也。是故君子之人極未形之理,既知其本,又知其末,本末之間不使吉凶之道形著於外。夫如是,則可以為萬夫之所瞻望、天下之所仰賴也。
経文に「知柔知剛、万夫之望」と説く。胡瑗解説:事情の萌発滋長は、必定に柔弱細小の処より開端す。得失の道理も亦たここより起頭す。以至種種の事情は、小に由って大と変り・柔に由って剛と変らざるはなし。故に君子は能くあの尚未だ成形せざる道理を窮究して、既にそれの根本を知り、又それの末梢を知って、本末の間に於いて吉凶の機兆を外に顕露せしめず。能くこの一步を做し到れば、便ち以て万人の瞻仰する所・天下の倚頼する所の人と成り得。
子曰:「顏氏之子,其殆庶乎!有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。」義曰:此孔子言知、知彰、知柔知剛也,自古已來惟顏子一人而已,其庶可以近之。夫顏氏之子者,即孔門之髙弟、亞聖之上賢,能知禍福之萌、吉凶之兆,有不善未嘗不知,有一惡未嘗不悟,及其知也便従而改之,未嘗復行於事業。故孔子曰「有顏回者好學,不遷怒,不貳過,不幸短命死矣」,是言顏子能修其身,能深其慮,凡有吉凶不善之事未嘗不知,既知之亦未嘗復行,故唯顏子庶可以近乎。
孔子曰く:「顔氏之子、其殆庶幾乎。有不善未嘗不知、知之未嘗復行也。」胡瑗解説:これは孔子が知微・知彰・知柔知剛の境界を談論するに、自來古より唯だ顔回一人のみにして、差不多それに夠い上ぐ。「顔氏之子」とはすなわち孔門の高足・聖人に次ぐ大賢なり:彼は能く禍福の萌芽・吉凶の徴兆を察知し、好からざる念頭有れば未だ嘗て自覚せざるなし、一点の過悪有れば未だ嘗て省悟せざるなし。一旦省悟すれば、立刻に改正して、絶えて行事の上に於いて再び第二回を犯さず。故に孔子は《論語》の裏に「有顔回者好学、不遷怒、不貳過、不幸短命死矣」と説くは、まさに顔回が能く自身を修養し、能く深思熟慮して、およそ吉凶善悪の事有れば覚察せざるなし、覚察した後も亦た絶えて覆辙を重蹈せざるを言う。故にただ顔回のみが差不多この境界に接近す。
易曰:「不逺復,無祇悔,元吉。」義曰:此是復卦初九之爻辭。夫復之初九以陽之徳居復之初,當群陰用事之時,獨以一陽而反於地下,以萌生萬物,是復之初九而來復之速者也。亦猶賢人君子得天之性,凡思慮之間亦有不善之事,則能早辨之,明其心,復其性,使過惡不形於外,所行之事皆合於中道。自古聖賢之中,惟顏氏之子知有不善未嘗不速改之,以復於善道,故三千徒中惟此顏子一人而已,故孔子特稱舉之,曰「不逺復,無祗悔」者,惟顏子一人而已。
《周易》に「不逺復、无祇悔、元吉」と説く。胡瑗解説:これは《復》卦初九の爻辞である。復卦初九は陽剛の徳を以て復卦の最初一爻に処り、まさに衆陰が事を掌る時に當りて、独りこの一個の陽爻有りて地下に回返して、従って万物を萌生す。見れば復卦初九は回頭すること極めて快きなり。これは便ち賢人君子が上天の本性を秉受して、思慮の中に偶爾にも不善の念頭を生出し出すも、却って能く及早に辨明して、自己の心を澄清して、自己の本性を回復して、過失罪悪をして外に顕露するに至らざらしめ、行う所の事は皆中正の道に合乎するに比す。自來古よりの聖賢の中に、唯だ顔回のみが一たび不善有るを發覚すれば便ち立刻に改掉して、従って善道の上に回復し来る。故に孔門三千弟子の中にただ彼一人のみが做し到るを得たり。故に孔子は特地に彼を挙げ出したり。所謂「不逺復、无祗悔」とは、走り出去ること遠からずして便ち返回して、因って大きの悔恨なし。も亦たただ顔回一人のみが當て起るを得。
繋辞下・天地絪縕章(天地絪縕万物化醇)
天地絪縕,萬物化醇。義曰:此已下至「言致一也」,解損卦六三之爻辭。絪縕者,蓋熏蒸之貎。夫天地之道、陰陽之氣,二氣相熏蒸而成交感之象,是以萬物皆得以亨通也。男女構精,萬物化生。義曰:言男女相構和,而萬品之物亦得以變化而生也。
経文に「天地絪縕、万物化醇」と説く。胡瑗解説:ここより往下は「言致一也」に至るまで止まるは、《損》卦六三の爻辞を解釈するなり。「絪縕」は二気が交融して蒸騰する樣子を形容す。天地運行の規律・陰陽両種の気は、彼此蒸騰交融して以て相互感通の景象と成る。故に万物は皆醇厚亨通を得るを以てす。経文に又「男女構精、万物化生」と説く。胡瑗解説:男女両性は交合して、万類の生物も亦た便ちこれに随って変化して生長し出る。
易曰:「三人行則損一人,一人行則得其友」,言致一也。義曰:此損卦六三之辭也。夫損之時,損下以益於上,損民以益於君。今此六三、六四、六五以三陰上進,歸於上九之陽,是其志不能醇一也,必損於上九之陽者也。然則天地之道皆尚於醇一,故一陰一陽之謂道,男女相遇亦在於醇一。今若以三陰上進,必損上九之陽;若但六三獨往之,則得正應之道,然後得其友也。
《周易》に「三人行則損一人、一人行則得其友」と説くは、講ずる所は専一に帰するなり。胡瑗解説:これは《損》卦六三の爻辞である。損の時に処るは、下面を損減して以て上面を補益し、百姓を損減して以て君主を補益するなり。如今六三・六四・六五この三個の陰爻は一斉に上に向かって進取して、皆去って上九あの個の陽爻に帰附す。見ればそれらの心志は能く純一せずして、勢い必ず上九の陽を損減せん。天地の道は向來純一を崇尚す。故に一陰一陽が交替往来すれば便ち道なりと説く。男女の相配も亦た一對一の専一に貴しとす。如今もし三個の陰爻が一同に上進せば、必定要ず上九の陽を損減せん。もしただ六三に由って単独に前往せば、便ち正しく相応ずる道理に合して、然る後に初めて自己の伴侶を得るを得。
子曰:「君子安其身而後動。」義曰:自此已下至「立心勿恆凶」,解益卦上九之爻也。君子安其身而後動者,言君子之人凡欲動作施為,必先安其身。若身不安,則行事之失是必。凡所施為必先安靜其身,然後動作施於行事,則無有所失者也。
孔子曰く:「君子安其身而後動。」胡瑗解説:ここより往下は「立心勿恒凶」に至るまで止まるは、《益》卦上九の爻辞を解釈するなり。所謂君子は先ず自身を安頓し好て然る後に初めて行動するとは、君子がおよそ挙動有らんと要し作為有らんと要すれば、必先ず自身を安穩せしむるを言う。もし自身が尚且つ安穩ならざれば、事を辦し起れば必定に差錯を出さん。およそ施為有る所は、一定に先ず身心を把って安定し下りて、然る後に再び手を動かして去って做せば、こうすれば便ち失誤有ることなからん。
易其心而後語。義曰:言君子之人凡欲形於語黙,必先平易其心,安靜其志,深其思慮,然後形於言語。夫如是,則言無可擇,所出皆中於節,所行皆合於道也。定其交而後求。義曰:言君子之人凡欲求進,必須先定其交,觀其人之可否,量其人之賢愚,可與之求則求之,不可與之求則退之。其或不觀人之可否,不量人之賢愚,不素定其交分,躁而求之,則自取窮辱之事。
経文に「易其心而後語」と説く。胡瑗解説:君子はおよそ口を開いて話を説くか或いは沈黙して言わざらんと要すれば、必先ず自己の心気を平和ならしめ、志意を安定して、思慮を深遠にして、然る後に初めて言語に発為す。こう一来れば、説き出す話は便ち挑剔すべき所なく、口を出れば皆分寸に合乎し、行う所も亦た皆正道に合乎す。経文に又「定其交而後求」と説く。胡瑗解説:君子はおよそ上進を謀求せんと要すれば、必ず先ず交往の對象を把って定下せねばならず:この人が可靠なるか否かを看て、この人が賢なるか愚なるかを掂量す。彼に向かって求め得べきは便ち求め、彼に向かって求め得べからざれば便ち退き開く。倘若既に對方の可靠なるか否かを看ず、も亦た對方の賢愚を掂量せず、平素も又交情の分際を定下せずして、ただ一味に急躁に去って求めれば、あれは便ち自ら討りて困辱するなり。
君子修此三者,故全也。義曰:言君子若能安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求,能修此三者,故所行之事得其全者也。危以動則民不與也。義曰:言君子之人若不能安其身而以危而動,必為民之弗與也。此復解上三者之事也。
経文に「君子修此三者、故全也」と説く。胡瑗解説:君子はもし能く先ず身を安んじて而して後に行動し・先ず心を平らげて而して後に言を発し・先ず交を定めて而して後に助を求むるを做し到りて、この三件の事を把って皆修養して家に到れば、做す所の事情は自然に便ち周全にして缺なからん。経文に又「危以動則民不与也」と説く。胡瑗解説:君子は倘若能く先ず自身を安頓せずして、却って処境危殆の時に於いて冒然に行動せば、百姓は必定に肯んじて彼に附従せざるなり。これ以下は回頭して分かちて上面のあの三件の事を解説す。
懼以語則民不應也。義曰:言君子之人若於言語之間不能安易其心、深思逺慮,反自以言語之間自恐自懼,所出之言必為民之所弗應也。無交而求則民不與也,莫之與則傷之者至矣。義曰:言君子之人若不能先定其求、素結其分,妄而求之,必為人之所不與也。既為人之所不與,則傷害之事従而至矣。
経文に「懼以語則民不応也」と説く。胡瑗解説:君子は言談の際に於いて、もし能く心気を把って安定平和ならしめ深思遠慮せずして、反って口を開く時に自己で惶恐畏懼せば、さらば説き出し来る話は、百姓は必定に肯んじて響応せざるなり。経文に又「无交而求則民不与也、莫之与則傷之者至矣」と説く。胡瑗解説:君子はもし曾て先ず求むる所の對象を定下せず、平素も亦た交情を結び下さずして、ただ冒失に去って求めれば、必定に別人の支持を得る能わざるなり。既に人の支持無ければ、傷害の事情も便ち接蹱して至るなり。
易曰:「莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。」義曰:此是益之上九之辭也。當益之時,損上以益於下,損君以益於民。今此上九當益之時,反自求於下,既求於下,心又無厭,故為人之所不與也。故云莫益之,或擊之者,言不惟所求之人不與,抑亦為人之所擊棄也。既為人之所擊棄,如此者,蓋是立心勿恆、所求無益之故也。
《周易》に「莫益之、或撃之、立心勿恒、凶」と説く。胡瑗解説:これは《益》卦上九の爻辞である。益の時に処るは、本應上面を損減して以て下面を補益し、君主を損減して以て百姓を補益すべし。如今上九はまさに益の時に當りて、反って下面に向かって索取す。既に下に向かって索取して、貪心も又満足の時候なし。故に衆人の支持を得る能わず。故に「莫益之、或撃之」と説く:但だ彼に索求せられたる人が肯んじて彼に給えざるのみならず、反って還って人の攻撃唾棄を遭わん。人の攻撃唾棄せらるる地步に落到する所以は、まさに彼が心を立てて能く持久して常を守らず、求むる所も又人に於いて益なき縁故なり。
繋辞下・乾坤易之門章(子曰乾坤其易之門邪)
子曰:「乾坤其易之門邪?」義曰:此已下至「其當衰世之意邪」為一章。言天地初判,乾坤已有形狀,而大易亦已行於其中矣。是故大易之道、變化之理,皆由乾坤而出,是以聖人跡乾坤而成諸卦之名,是乾坤者其為易之門戶也。
孔子曰く:「乾坤其易之門邪。」胡瑗解説:ここより往下は「其當衰世之意邪」に至るまで止まり、合して一章と為す。天地が剛く分判する時に、乾と坤とは就已に形体有りて、而して《易》の道理も亦た早已に其中に於いて運行す。故に《周易》の大道・変化の規律は、全都乾坤両卦より流出す。聖人はまさに乾坤の蹤跡に循って以てその余の各卦の名義を定め出したり。見れば乾坤は便ち《易》に入る門戸なり。
乾陽物也,坤陰物也,陰陽合徳而剛柔有體。義曰:言乾體剛健,為陽物也;坤體柔順,為陰物也。是以陰陽二氣上下相配合,而成生育萬物之道。若乾坤上下不相配合,則萬物不生;故陰陽相配合則萬物得以生,萬物得以生則其剛柔之體、上下之象自然而成也。
経文に「乾陽物也、坤陰物也、陰陽合徳而剛柔有体」と説く。胡瑗解説:乾の本体は剛健にして、陽類の物に属す。坤の本体は柔順にして、陰類の物に属す。故に陰陽二気は上下して相互配合して、万物を化育する道理を成就したり。假使乾坤の上下が互に配合せざれば、万物は便ち生長する能わざらん。まさに陰陽が彼此配合するに因って、万物は初めて以て生長を得。万物は既に以て生長を得れば、さらば剛と柔の形体・上と下の位象も便ち自然而然に形成したるなり。
以體天地之撰。義曰:撰者,數也。言陰陽相配合而生萬物,自然而成剛柔之體,以是而分陰陽竒耦之數,由此而成也。以通神明之徳。義曰:神明之徳者,即為妙用無窮,不可測度也。今此大易之道、變化之理、生成之道,可以通於神明之徳,窮於萬事之理也。
経文に「以体天地之撰」と説く。胡瑗解説:「撰」は数目の意思である。陰陽が相互配合して以て万物を化生し、自然に剛と柔の形体を形成せば、これに拠って陰と陽・奇数と偶数の分別を分出すれば、天地の数は便ち此の如くに成立したるなり。経文に又「以通神明之徳」と説く。胡瑗解説:所謂神明の徳とは、すなわち妙用無窮にして測度する従なし。《周易》の大道・変化の條理・万物を生成する法則は、能くこの種の神妙莫测の徳を貫通して、天下万事の道理を窮尽す。
其稱名也雜而不越。義曰:言大易之道,其爻卦錯雜,物理煩碎,其稱名也雜然,雜而各有倫理,不相干亂,不相踰越也。於稽其類,其衰世之意邪。義曰:稽,考也;類,物類也。言上古之時,世質民淳,情偽未作,典章法度未立,伏羲畫為八卦,以為萬世之法。歴夏及商,世漸澆漓,民欲叢生,是故文王以伏羲所畫之八卦重為六十四卦,盡其天地人事之道、變通之理、吉凶悔吝之由,無不盡載於諸卦諸爻之間。然稽考其義類,其皆因衰世之意邪。
経文に「其称名也雑而不越」と説く。胡瑗解説:《周易》の道理は、卦と爻と交錯紛雑して、物象事理は繁碎にして、標擧する所の名目も亦た龐雑に顕れる。しかし虽龐雑なるも、却って各々その條理有りて、彼此相扰乱せず相僭越せず。経文に又「于稽其類、其衰世之意邪」と説く。胡瑗解説:「稽」は考察、「類」は物類である。上古の時代に世風は質朴・民情は淳厚にして、真情と虚偽とは還って未だ分化せず、典章法度も亦た還って未だ建立せざりき。伏犠は八卦を画き出して、以て万世の法則と為したり。夏代を経歴して商代に到りて、世風は漸々澆薄して、人の欲望は叢生す。故に周文王は伏犠の画いた所の八卦を把って重疊して以て六十四卦と為し、天地の道・人事の理・変通の則・吉凶悔吝の由来を把って、完備に各卦各爻の中に載せざるなし。然而これらの卦爻の義類を考察すれば、大概皆身に衰乱の世に処して発したる憂思なるに因らんか。
繋辞下・彰往察来章(夫易彰往而察来)
夫易彰往而察來,而微顯闡幽。義曰:自此已下至「以明得失之報」為一章。夫大易之道至深至粹,明其吉凶之理、得失之跡,彰明已往未來之事,皆由易道可明也。既彰明已往未來之事,至於小幽闇之理、凡事不可以明者,亦皆由此易道而顯闡之,故曰顯闡幽。
経文に「夫易彰往而察来、而微顕闡幽」と説く。胡瑗解説:ここより往下は「以明得失之報」に至るまで止まり、合して一章と為す。《周易》の道理は極めて精深純粹にして、能く吉凶の義理・得失の跡象を闡明す。およそ已往を彰显し未来を洞察する事情は、皆《易》道に憑って弄明白にし得。既能く過去と未来の事を彰明せば、さらばあの細微幽暗の道理・種種の容易に看清し難き事情に至っても、亦た皆《易》道に靠ってそれらを把って顕發闡揚し出す。故に「顕闡幽」と説く。
開而當名辨物,正言斷辭則備矣。義曰:開謂開釋爻象,各當諸卦之名;辨其事物之理,正謂正其聖人之言,斷定其吉凶悔吝之事,皆繋屬之爻辭,無所不備矣。其稱名也小,其取類也大。義曰:言諸卦之名皆取其類而稱之,至如乾則稱龍,坤則稱馬。然則龍與馬皆天下之一物耳,雖稱名也小,然其取類也至大,故於人事則為君臣父子夫婦兄弟長幼之道、天地之理、陰陽之端,無不備於此矣。
経文に「開而当名辨物、正言断辞則備矣」と説く。胡瑗解説:「開」は爻と象とを開示解説して、それをして各々諸卦の名義に切合せしむるなり。「辨物」は事物の道理を辨明す。「正言」は聖人の立てた所の言辞を端正す。「断辞」は吉凶悔吝の結果を判定す。これらは皆爻辞の中に繋属して、備わらざる所なし。経文に又「其称名也小、其取類也大」と説く。胡瑗解説:各卦の名目は皆同類の物に就いて立てたるもの。譬如乾は就いて龍と称し、坤は就いて馬と称す。龍と馬とは不過天下の一件の具体の物にして、名目は虽小しとも、それの帰納する所の品類は却って極めて大なり。故に人事の上に推せば、便ち君臣・父子・夫婦・兄弟・長幼の相処する道と成り、乃至天地の法則・陰陽の端緒も、完備に其中に包含せざるなし。
其逺其辭文。義曰:者,意也。言其易之至近至逺,其理雖委曲,然於其辭則有文采,不尚質樸者也。至如「龍戰于野」,是近明龍戰之事,逺明陰陽鬬爭之理,是其逺也;又如坤言「黃裳元吉」,不直言居中得位,乃言黃裳者,是其辭文也。
経文に「其旨逺其辞文」と説く。胡瑗解説:「旨」とはすなわち意涵。《易》の意旨は或いは近く或いは遠く、道理は虽曲折委婉なるも、措辞は却って文采に富有して、朴質を尚ばず。譬如《坤》卦上六に「龍戦于野」と説くは、近く看れば龍の相争闘を講じ、遠く看れば則ち陰陽交争の理を闡明す。これは便ち意旨の深遠なり。又如《坤》卦六五に「黃裳元吉」と説くは、直に中に居り位を得ると説かずして、偏に黃裳(黃は中央の色・裳は下体の服)に借りて以て表達す。これは便ち辞句に文采有るなり。
其言曲而中。義曰:言變化無恆,不可為體例,其言必隨物之屈曲而各中其理。其事肆而隠。義曰:肆者,陳列也。言易之所載之事於爻象之間,雖其文皆陳列其事,然其義幽隠,不可驟然而曉之。
経文に「其言曲而中」と説く。胡瑗解説:万物の変化に定準なくして、能く一套の固定の格式を立成する能わざれば、故に《易》の措辞は必定に事物の曲折起伏に随って各々その理に切中す。経文に又「其事肆而隠」と説く。胡瑗解説:「肆」は鋪陳羅列の意思である。《易》の記載する所の事情は皆爻辞と卦象の間に擺せられて、文字の上は虽事情を一一に陳列し出すも、それの義蘊は却って幽深隠微にして、一下子に領会し得るに非ざるなり。
因貳以濟民行,以明失得之報。義曰:貳則謂吉凶二理也。言得失之理、吉凶之道,二者之理以濟萬民之行事。然萬事之理,有得位得正者為吉,有失位不得正者為凶。失則有凶報,正則有善應,因此二者之理以濟民之行事,以明得失之報,使人趨其吉而背其凶,向其善而違其惡也。
経文に「因貳以済民行、以明失得之報」と説く。胡瑗解説:「貳」は吉と凶この両種の道理を指す。得と失の義理・吉と凶の法則は、この両方面は正好以て万民を幇助して日常行事を処理せしむに用いるなり。万事の道理は:居位して當を得行事して正を守るは便ち吉、居位して當を失い行事して正ならざるは便ち凶。正を失えば便ち凶の報応有り、正を守れば便ち善の感応有り。吉凶この両方面の道理に憑って以て百姓の行事を幇助し、以て得失に各々報応有るを昭示して、人をして吉の一面に趨向して凶の一面を避け、善に走向して悪を離れしむ。
繋辞下・易之興于中古章(九卦三陳)
易之興也,其於中古乎?作易者其有憂患乎?義曰:自此已下至「巽以行權」為一章。夫易之起始於伏羲上古之時,世質民淳,情偽未形,巧妄未作,世凝然而不撓。當此之時,雖八卦亦盡萬事之情。歴夏及商,至於桀紂暗君在上,情偽漸遷,巧妄已作,澆浮崇尚,不可勝說。文王罹於憂患之中,有聖人之才,上懼君之見去,下慮民之情偽,是以取伏羲所畫之八卦重為六十四卦,以盡天地之淵蘊,以明人事之終始。至於吉凶之道、得失之理、憂虞之象、悔吝之事,無不備載於其間,使人知其吉而背其凶,向其善而舍其惡,以為萬世之法,使人防患於未萌也。
経文に「易之興也、其于中古乎。作易者其有憂患乎」と説く。胡瑗解説:ここより往下は「巽以行権」に至るまで止まり、合して一章と為す。《易》の興起は、最早く伏犠あの上古の時代に在り:あの時に世風は質朴・民情は淳厚にして、真情と虚偽とは還って未だ分化せず、機巧妄誕は還って未だ生出せず、世道は凝定して攪擾を受けざりき。あの様の時代に在りては、単に八卦に憑るのみにしても亦た以て万事の情状を窮尽するに足れたり。夏代を経歴して商代に到り、直至桀・紂こういう昏暗の君主が上に在るに至れば、人心の真偽は漸々変遷し、機巧妄誕は已に興起し、浮薄の風気は反って推崇を受け、種種の流弊は説くも説き尽くし得ざりき。周文王は身に憂患の中に陥りて、又聖人の才具を具備して、上に對しては君主に見棄せられんを憂懼し、下に對しては民情の詐偽を憂慮して、ここに伏犠の画いた所の八卦を取って重疊して以て六十四卦と成し、以て天地の深奥の底蘊を窮尽し、人事の始終を闡明したり。吉凶の法則・得失の道理・憂懼の徴象・悔吝の情事に至っては、完備に其中に載せざるなし。人をして吉に趨向して凶に背離し、善に趨向して悪を舍弃するを知らしめ、万世通行の法則と成して、人をして禍患の還って未だ萌発せざる時に就先ず防備を加えしむ。
是故履,徳之基也。義曰:此已下九卦是修身防患之術也。然則六十四卦皆是防患之術,何以特取此九卦者?蓋此九卦最是修徳之基,為人事之先,故特陳此九卦也。履者,禮也,言人踐行其禮,敬事於上,不失其尊卑之分,如此是履徳之基也。
経文に「是故履、徳之基也」と説く。胡瑗解説:ここより往下に列する所の九卦は、皆自身を修養し禍患を預防する方法である。既に六十四卦は皆患を防ぐ術なれば、何を為すか単単にこの九卦を挑き出すや。これはこの九卦が最も徳を修める根基にして、人を為り事を処する頭一件の要務なるに因る。故に特地にそれらを把って陳列し出す。「履」とはすなわち礼で、人が礼法を踐履して、恭敬に上位に在る者に侍奉して、尊卑の分際を逾越せざるを言う。能く此の如くなれば、礼は便ち徳行の根基と成る。
謙,徳之柄也。義曰:柄者,人之所以操持也。夫人雖有爵祿之分、崇髙之位,若無謙順之徳,恃其驕盈,必至於傾失。是故君子之人若能居爵祿之位,必當持謙順之徳,則雖危而不失,雖髙而不危,如此是謙徳之柄也。
経文に「謙、徳之柄也」と説く。胡瑗解説:「柄」は人の手裏に握持する把手である。人は縱に爵位俸禄の名分・崇高顕赫の地位有るも、倘若謙虚柔順の徳行なからば、ただ驕矜自満に仗って、必定に傾覆喪失の地步に落到せん。故に君子はもし爵禄有る位置に身居せば、一定要ず謙順の徳を守住せねばならず。こうすれば便ち虽危境に処るも喪失に至らず、虽高位に居るも危殆に至らざるなり。能く此の如くなれば、謙は便ち徳行の把柄と成る。
復,徳之本也。義曰:言君子之人若能復其性,明其心,至於思慮之間有不善之事必先改之,如此是復其性為徳之根本也。恆,徳之固也。義曰:言為徳之時常能執守,終始不變,如此則其徳固,故恆卦為徳之堅固也。
経文に「復、徳之本也」と説く。胡瑗解説:君子はもし能く自己の本性を回復して、自己の本心を澄明にして、以至思慮の間に一たび不善の念頭有れば便ち先行に改掉せば、能く此の如く本性を回復すれば、便ち徳行の根本なり。経文に又「恒、徳之固也」と説く。胡瑗解説:徳を修める時に、能く始終として執守して移易せず、始有り終有りて改変せざれば、徳行は自然に穩固なり。故に《恒》卦は徳行の堅固を象徴す。
損,徳之修也。義曰:言君子之人若能謙損以自増新,降損其志,此是修身之本也。益,徳之裕也。義曰:裕者,寛大也。言人凡所作事能利益於人,日新一日,則其徳寛裕而有所包容也。困,徳之辨也。義曰:言君子之人居於治平之時,恣其安逸之性,多不知艱險之事;惟是居困否之時,備歴艱苦,知其君子小人之道,然後能明辨困否之事者也。
経文に「損、徳之修也」と説く。胡瑗解説:君子はもし能く謙退自抑して、減損に借りて以て自己を日日に更新せしめ、自己の心志を壓低せば、これは便ち身を修める根本なり。経文に又「益、徳之裕也」と説く。胡瑗解説:「裕」は寛綽博大である。人はおよそ所作所為が皆能く他人に益有れば、一天より一天に新たの長進有りて、徳行は自然に寛綽博大にして能く万物を容納す。経文に又「困、徳之辨也」と説く。胡瑗解説:君子は太平の世に処りて、往往に自己の安逸の性情を放任して、多半として艱難険阻が怎の回事なるかを懂得せざるなり。唯だ困頓閉塞の時に身を処して、艱辛を歴尽して、初めて君子と小人と各々怎の様の路数なるかを辨え清め得て、然る後に初めて能く困頓の中の種種の情事を明辨し得。
井,徳之地也。義曰:夫君子之身可貴可賤、可貧可富,而其志不可易,其心不可變,其徳不可改,猶井之居地不可遷改也。巽,徳之制也。義曰:夫愚民之性蚩然而無所識,其非闢奸偽無所不至矣。是故聖人必行號令以示其法制,然行號令之始,必以權變之術而巽入於人心,然後民可制也。此已上九卦,各與徳為用也。
経文に「井、徳之地也」と説く。胡瑗解説:君子この一身は、以て尊貴とも為し以て卑賤とも為し、以て貧窮とも為し以て富有とも為すべきも、しかし彼の志向は更易すべからず、彼の心志は動揺すべからず、彼の徳行は改変すべからず。便ち水井が一処の土地上に固定して、遷移する能わざるが如し。経文に又「巽、徳之制也」と説く。胡瑗解説:愚昧の百姓の性情は懵懂無知にして、邪僻奸偽の事は為さざるなし。故に聖人は必定に号令を頒行して以て法度を昭示す。然而号令を推行する初めに於いては、必ず権宜変通の手段を用い、柔順に人心に滲入して、然る後に百姓は初めて以て約束整治し得べし。以上のこの九卦は、各自に皆徳行と相為表裏して以て功用を発生す。
履和而至。義曰:此已下又復明九卦之徳也。履者,禮也。言人有恭敬之徳,有剛直之行,必須與人和同,既與人和同,則可以至於道也。謙尊而光。義曰:夫人有其才、有其徳,雖在崇髙之勢,必須謙恭以自卑,謙遜以接下,如是則徳益大而身益光也。
経文に「履和而至」と説く。胡瑗解説:ここより往下は又一次この九卦の具有する徳性を申明す。「履」とはすなわち礼。人は恭敬の品德・剛直の操行有りて、還って必ず能く人と和睦して相処せねばならず。既能く人と和睦せば、便ち以て道に抵達し得。経文に又「謙尊而光」と説く。胡瑗解説:人は虽才能・徳行有るも、たとい崇高顕赫の勢に身処するとも、必ず謙恭して自ら卑下に居り、謙遜して下属を接待せねばならず。こう一来れば、徳行は愈発広大にして、自身も亦た愈発光輝す。
復小而辨於物。義曰:物者,萬物之理也。言人於性之初、吉凶未形之時,始於為小之事,有其不善便従而改之,使無能為之咎也。恆雜而不厭。義曰:言君子之人能守其常道,不改其操,不變其節,雖錯雜混處於小人之間,亦其心不厭倦於事。
経文に「復小而辨于物」と説く。胡瑗解説:「物」は万物の道理を指す。人は本性の初動・吉凶の還って未だ成形せざる時に於いては、事情は尚ほ細小の開端に在りて、一たび不善有れば便ち随に改掉して、それをして禍患を醸成する能わざらしむ。経文に又「恒雑而不厭」と説く。胡瑗解説:君子は能く恒常の道を守住して、自己の操守を改めず、自己の節概を変えず。縱に錯雑に小人の中間に混処するも、心裏は守る所の事に對して厭倦を生出せざるなり。
損先難而後易。義曰:言凡人若不能謙損於己,反欲他人謙損而奉於己,則失為人之道。是故君子之人必須先減損其身,謙讓其己,以及於他人,是損己以益於下,損身以尊於人,是先難也。及其性既復,行既成,所言皆合於道,所行皆中於禮,不失其法度,是後易也。
経文に「損先難而後易」と説く。胡瑗解説:人はもし肯んじて謙退自損せずして、反って別人をして謙卑退譲して以て自己を奉承せしめんと要せば、あれは便ち人を為る道理を失掉したり。故に君子は必ず先ず自己を減損して、自己に對して謙譲退抑して、再び他人に推及せねばならず:自己を損して以て下面の人を補益し、自己を屈して以て別人を尊崇す――この一步は「先難」なり。本性の已に復帰し徳行の已に養成するに等到れば、説き出す話は皆正道に合乎し、做し出す事は皆礼節に中りて、法度を逾越せざれば、これは便ち「後易」なり。
益長裕而不設。義曰:言君子之人先求仁義以益於身,身既益,則其仁義之道可以推及於天下。然其仁義既及於物,則可長裕於天下,因其所利而利之,不待先為施設而行之,而天下之人自有其餘者也。
経文に「益長裕而不設」と説く。胡瑗解説:君子は先ず仁義を追求して以て自身を充実す。自身は既に充実せば、仁義の道は便ち以て天下に推廣し得。仁義は既に万物に恵及せば、便ち能く天下に於いて長久に寛裕充盈す:人々の本來の便利に順って以て彼らをして利を得せしめ、預先に擺布安排する何かを用いずして、天下の人は自然而然に便ち富余有るを得たり。
困窮而通。義曰:言君子之人雖居困窮之時,身即困窮,而其道得以亨通也。井居其所而遷。義曰:言井之道居其所不可以遷改,而其澤可以遷施於人,猶君子之徳固不可遷易、不可變改,而其道可以濟人。巽稱而隠。義曰:巽者是聖人之權也。言聖人以權變之術行其號令,以及於天下,而人不知所以然而然也。
経文に「困窮而通」と説く。胡瑗解説:君子は虽困頓窮窘の時に身を処するも、人は虽困窮なるも、彼の守る所の道は依然として亨通して阻なからん。経文に又「井居其所而遷」と説く。胡瑗解説:井の特性は一処に固定して挪動する能わざるに、然而それの泉水は却って能く流布し出去て以て衆人を潤沢す。便ち君子の徳行本身は堅定にして遷移すべからず改易すべからざるも、而して彼の道は却って能く推廣し出去て以て別人を救助するが如し。経文に又「巽称而隠」と説く。胡瑗解説:「巽」の講ずるは聖人の権変である。聖人は権宜変通の手段を用いて号令を推行して、天下に遍及するに、百姓は却って何を為すか此の如くなるを知らずして、ただ本應此の如しと覚えるのみなり。
履以和行。義曰:言凡人有剛直之性、溫良之行,必以禮而和之,故論語曰「禮之用,和為貴」者是也。謙以制禮。義曰:言人性能謙順自卑尊人,則可以裁制其禮法而行之也。復以自知。義曰:言人既於事小之初知其不善而能改過,是自知也。
経文に「履以和行」と説く。胡瑗解説:人は剛直の性情・温和善良の挙止有りて、還って必ず礼を用いて以て調和を加えねばならず。故に《論語》に「礼之用、和為貴」と説くは、まさにこの意思なり。経文に又「謙以制礼」と説く。胡瑗解説:人の性情はもし能く謙遜柔順にして自ら卑下に処りて別人を尊重せば、便ち能く礼法を裁定して併せてそれに照って施行し得。経文に又「復以自知」と説く。胡瑗解説:人は事情が還ってただ細小の開端なる時に於いて、就其中の不善を察覚して能く改過するは、これがすなわち自知なり。
恆以一徳。義曰:言人能守其常道,不變其節,終始不移,雖居富貴而不自恃,雖居貧賤而不自移,是純一其徳者也。損以逺害。義曰:言人能自降損其身,謙沖其徳,以尊於人,則無患害之事也。益以興利。義曰:言人能以仁義之道自益於身,又益於他人,因其所利而利之也。
経文に「恒以一徳」と説く。胡瑗解説:人は能く恒常の道を守住して、自己の節操を改変せず、自始至終に動揺せざれば、富貴に身を処して自恃驕矜せず、貧賤に身を処して初衷を改変せざれば、これがすなわち徳行を把って純一に帰するなり。経文に又「損以逺害」と説く。胡瑗解説:人は能く自己で屈抑退譲して、謙虚冲和を以て自処し、尊崇を把って別人に譲れば、便ち禍患を招来せざらん。経文に又「益以興利」と説く。胡瑗解説:人は能く仁義の道を用いて自身を充実し、又推して去って別人を補益して、人々の本來の便利に順って以て彼らをして利を得せしむ。
困以寡怨。義曰:言人居困窮之時,守節不移,上不怨天,下不尤人,但守其正而已。井以辨義。義曰:言井之道居其地而不移,其濟天下之義,故於井之道可以明辨其義也。巽以行權。義曰:權者,反經而合道也。言聖人凡發號施令,則以巽順之徳而行之,以順其物性,以洽於人心也,既能順時,故能行權也。
経文に「困以寡怨」と説く。胡瑗解説:人は困頓窮窘の時に処りて、仍ほ能く節を守りて移らずして、上に對して天命を埋怨せず、下に對して旁人を責怪せずして、ただ自己の正道を守住する而已なり。経文に又「井以辨義」と説く。胡瑗解説:井は一処に固定して遷移せざるに、却って天下を潤沢する義分有り。故に井の道理の上より、「義」を把って分辨し清め得べし。経文は再び「巽以行権」と説く。胡瑗解説:所謂「権」とは、常法を変通して仍旧として大道に合乎するを言う。聖人はおよそ号令を発し令を施すに、皆巽順柔和の徳行を用いて以て推行して、以て事物の本性に順応し、以て人心に浹洽す。既能く時勢に順応せば、故に初めて能く権変の道を行い得。
繋辞下・易之為書也不可逺章
易之為書也不可逺。義曰:自此已下至「道不虛行」為一節。言大易之道,其為書言天地陰陽之事、吉凶之理、萬事之情偽、人事之終始,無不備載於其間。然於人之行事也,不可逺之,故上文謂「吉凶悔吝生乎動」。是故君子所居而安者,易之序也;所樂而玩者,爻之辭也。君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占。是言易之為書也不可逺也。若一逺之,則是吉凶悔吝所生者也。
《繋辞下》に説く:《周易》この部の書は、人は一刻もそれを疏遠する能わざるなり。胡瑗解釋:この句より下文の「道不虚行」に至るまでを一節と為す。《周易》の記載する所は、天地間の陰陽二気の運行・吉凶禍福の道理・万事の真情と虚偽の分別・人事の開端より結局に到る全過程なり。完備に収録せざる一なし。既に此の如く周備なれば、人は事を処する時に便ちそれを把って一旁に丢く能わず。故に前文に吉凶悔吝は皆人の挙動の中より生出すと説く。故に君子は平居に能く身を安んずるは、憑る所は《周易》の排定した卦爻の次第なり。楽しんで玩味する所は、各爻の繋げた所の爻辞なり。静処する時は卦爻の象を観察して文辞を玩味し、行動する時は爻位の変を観察して占問の結果を玩味す。これがすなわち《周易》は遠離すべからざるを説く。一旦それを把って抛き開けば、挙動は準則を失いて、吉凶悔吝は便ちこれに随って生ず。
為道也屢遷。義曰:屢者,數也。言易之為道,效法陰陽,其變化之理、爻象之間,數有遷易也。變動不居。義曰:言六爻之位互相更變,無有定止,或陰居陽位,或陽居陰位,是變動不居也。周流六虛。義曰:言一卦六爻,有陰有陽,上下周徧,互相更易,在於六位之間也。上下無常。義曰:言六爻之位,位無常定,或上或下也。若九月剝卦一陽在上,十一月一陽在下復是也。剛柔相易。義曰:言六爻之位交相錯雜,或剛或柔,剛柔之道互相推蕩於其間,或陽易陰位,或陰易陽位是也。
経文に《周易》は一種の道理と為して、屢々遷移するを説く。胡瑗解釋:「屢」とはすなわち頻頻・多次。《周易》は陰陽二気を効法して、その変化の理は卦爻物象の間に落れば、便ち一次次の遷移改易と表現す。経文に又「変動不居」と説く:六爻の処する位は互相更換して、固定して停駐する時候なし。或る時は陰爻が陽位を占住し、或る時は陽爻が陰位を占住す。経文に又「周流六虚」と説く:「六虚」は一卦の下より上に向かう六個の爻位を指し、位置本身は空にして、陰陽の来りて充填するを等待す。六爻は陰有り陽有りて、上下して周遍に流転し互相替換して、皆この六位の間に於いて進行す。経文に又「上下无常」と説く:爻位に固定の常態なくして、同一種の爻は上とも為り下とも為り得。譬如九月に配當する《剝》卦は、ただ一個の陽爻が孤懸して最上に在るのみ。十一月に配當する《復》卦に到れば、あの一個の陽爻は便ち転じて最下に到る。経文に又「剛柔相易」と説く:六爻の位は交錯混雑して、或いは剛或いは柔にして、両種の勢力は互相推移激蕩す:或る時は陽爻が陰位に換り、或る時は陰爻が陽位に換る。
不可為典要。義曰:言大易之中,剛柔二氣既互相推蕩於六爻之間,則不可為常典,不可為要約,隨時所變而已故也。唯變所適。義曰:言隨其六爻之變動,以適萬事之用也。其出入以度。義曰:言大易之道,六爻之位周流六虛,上下無常,剛柔相易,不可為常典,不可為要約。既上下無常,不可為典要,然其或出或入,或居或處,皆不失其法度,皆不失其倫理。若明以處暗,豐不至奢,是皆出入以度者也。
経文に《周易》は「不可為典要」を説く。胡瑗解釋:《周易》の中の剛柔二気は既に六爻の間に於いて互相推移激蕩すれば、人は能く某一条の定式を把って万世不移の常法と立て為す能わず、も亦たそれを把って一成不変の死條款に約定する能わず。それは不過時機に随って以て変化する而已なるに因る。経文は接いて「唯変所適」と説く:ただ六爻の変動に順って、去って万事万物の実際需要に適応するのみ能くす。経文に又「其出入以度」と説く:《周易》の道理は、六爻の位は六個の空位の間に周流して、上下に定所有なく、剛爻柔爻は互いに交換して、既に能く常法に立て為す能わず、も亦た定條に約成する能わず。然而尽管上下无常にして執定すべからざるも、それは無論出ずるとも入るとも・居るとも処るとも、皆法度を丢掉せず、も亦た倫理に違背せざるなり。譬如《明夷》卦は人に教えて昏暗の世に身を処してその明を収斂し智を以て自全せしめ、《豊》卦は人に教えて虽盛大の時に當るも奢侈に流れざらしむ。これらは皆一出一入が皆法度に合乎する例子なり。
外內使知懼。義曰:言大易之道,明其吉凶之理、得失之道,以至過去未來之事,朕兆之間使人自內自外觀此大易之道,皆知戒懼而不敢為非僻之事,明其用舍,則趨其吉而背其凶也。又明於憂患與故。義曰:言此大易之道,不惟言天地陰陽之理,亦言人之憂患之事,使人明曉之,不敢為非也。無有師保,如臨父母。義曰:言大易之道,其卦爻之辭言其萬事之理、吉凶之朕兆,其教人也,雖無師保之嚴,如有師保之教也。如臨父母者,自上而下為之臨,言大易之道其示人也,雖無父母之教,如臨父母之慈,使人一歸於善道也。
経文に《周易》は人をして内外皆戒惧を知らしむと説く。胡瑗解釋:《周易》の道理は吉凶の義理・得失の分寸を講明して、連れて已に過去したと尚未だ到来せざる事も、皆能く細微の徴兆の裏に顕露し出して、人をして無論内心に自省するとも外事を観察するとも、《周易》を読了すれば皆警惕畏懼を懂得して、敢えて邪僻不正の事を為さざらしむ。何れか當に用い何れか當に舍つべきを懂得して、ここに吉利に趨向して凶険を避く。経文に又「又明于憂患与故」と説く:《周易》はただ天地陰陽の物理を講ずるのみならず、も亦た人世の憂患の由来を講じて、人をして心裏明白にして、敢えて胡作非為せざらしむ。経文は再び「无有師保、如臨父母」と説く:《周易》の卦辞爻辞は万事の道理と吉凶の先兆を講清して、それが人を教導する時に、虽身辺に併せて師保の如き厳厲の人が管束するに在らざるも、却って師保が教誨する有るが如同じ。所謂「師保」とは、古代に専門に君王貴族の子弟を教導輔導する官。至于「如臨父母」に至っては、「臨」は上より下に向かって照看する。《周易》が人に向かって義理を昭示する時に、虽父母が耳辺に於いて叮嚀するに在らざるも、却って父母が慈愛に看顧するが如くして、人をして一心に正道に帰向せしむ。
初率其辭而揆其方。義曰:率,循也;揆,度也;方,道也。言人初能率循大易之文辭,則可以揆其大易之道,而知典常之理,明其義之所歸也。既有典常。義曰:言人既能率循其大易之文辭,則知變化之理、典常之道也。苟非其人,道不虛行。義曰:言人既能率循大易之文辭,又揆度其道,知其常典,是易之道得行於世。然大易之文皆聖人所用之道,若非通聖之人,則不能曉達易之道理,則大易之道不虛行也。
経文に「初率其辞而揆其方」と説く。胡瑗解釋:「率」は遵循、「揆」は揣度、「方」はすなわち道。人は起初にもし能く《周易》の文辞に順って去って読めば、便ち能く文辞に由って《周易》の義理を揣度し出して、従って其中の恒常不変の法則を懂得し、それの宗旨が究竟何の処に落つるを明白す。経文は接いて「既有典常」と説く:人は既に能く《周易》の文辞を遵循せば、便ち能く同時に両面を掌握して、一面は変化の道理、一面は常住不移の準則。経文は最後に「苟非其人、道不虚行」と説く:人は既能く《周易》の文辞を遵循し、又能くそれの義理を揣度しその常法を把握せば、《周易》の道は初めて真に世間に於いて通行し起る。然而《周易》の文辞の載する所は全是聖人の施用する大道にして、もし能く聖意を通達する人に非ざれば、便ち其中の道理を読み透かし得ざるなり。話を換えて言えば、この道理は憑空に自ら流伝する能わずして、総じて合適の人が来りてそれを承擔するを等待せねばならず。
繋辞下・原始要終章
易之為書也,原始要終以為質也。義曰:自此已下至「觀其彖辭則思過半矣」為一章。質,體也。言大易之道,其為書也,不獨明人之得失之理、憂患之事,而又原其萬事之始,要其萬物之終。至如乾之初九曰「潛龍勿用」,上九曰「亢龍有悔」;坤之初六曰「履霜」,上六曰「龍戰于野」:此是原始要終之大本也。既原始要終,則窮其大本,以為大易之體質,以成諸卦之用也。
《繋辞下》に説く:《周易》この部の書は、事物の起点を推究し事物の終点を帰結して、この個を用いて以てそれの本体と為す。胡瑗解釋:この句より「觀其彖辞則思過半矣」に至るまでを一章と為す。「質」とはすなわち本体。《周易》はただ人事得失の理・憂患の由来を講明するのみならず、還って万事の開端を追溯し万物の結局を帰結せんと要す。譬如《乾》卦初九に「潜龍勿用」と説くは、龍の水底に潜み時機未だ到らずして施展すべからざるを講ず。上九に「亢龍有悔」と説くは、飛ぶこと太く高ければ必ず悔恨を生ずを講ず。又如《坤》卦初六に「履霜」と説くは、脚下に薄霜を踩到れば便ち堅氷の將に至らんを想到すべきを講ず。上六に「龍戦于野」と説くは、陰気の盛極して陽と相争うを講ず。この一頭一尾の對照は、まさに開端を推原し終局を帰結する根本なり。既能く此の如くなれば、便ちこの根本を窮究して、それを把って《周易》の本体と立て為して、各卦の功用は皆これに由って成立す。
六爻相雜,唯其時物也。義曰:言一卦之中,六爻之位剛柔上下交相錯雜,唯其時物之事、得失之理,皆隨其時事而言之。若屯之初九言「盤桓利居貞」,六二言「屯如邅如」,如此之類,是隨其時而言之,其諸卦諸爻皆由此而可明也。
経文に「六爻相雑、唯其時物也」と説く。胡瑗解釋:一卦の内に六爻は剛有り柔有り・上有り下有りて、交錯混雑す。每爻の對応する所の時機・事物およびその得失の理は、皆処する所の時勢に随って判定して、能く一概に論ずべからず。譬如《屯》卦初九に「盤桓、利居貞」と説くは、初生の艱難徘徊して、正を守りて動かざるに宜しきを講ず。六二に「屯如邅如」と説くは、進退両難・迂回して前せざるを講ず。この類の如き爻辞は、皆各自に當る所の時勢に随って言を立てたるもの。この一点を明白せば、その余の各卦各爻の意思も、便ち皆能く此に依って類推して以て通暁し得るなり。
其初難知,其上易知,本末也。初辭擬之,卒成之終。義曰:言一卦之始,始於細,雖一卦之大義、吉凶之理、情偽之端皆始於初始之間,然其爻象未備,萬事之理雖有其理、雖有其意,然於人事未能顯見矣,是難知也。其上易知者,上則謂上卦之上也。言一卦之事,雖有其理,在於初爻則其道難見,至於上九之時,其下五爻皆佈列其位,剛柔之體、得失之理、吉凶之道,有正有不正者可見矣,是其道已成,其理已定,其爻象以正也,是易知矣。
経文に説く:一卦の最下一爻は看清し難く、最上一爻は看清し易し。これは本と末の分別なり。初爻の爻辞はただ擬議の詞にして、終爻に到りて初めて事情を把って做し成ると算す。胡瑗解釋:一卦の起点は細微に起りて、虽全卦の大義・吉凶の道理・真偽の端倪を説くも、皆最初のこの一爻に発端するも、しかし此の時に整卦の爻象は還って未だ排布して斉全せず、道理は虽已に内含し意思是虽已に具備するも、実際の人事の上に落れば還って形跡を看出し得ず。故に知り難しと説く。上爻は看清し易しと説くに至っては、この「上」の指すは上卦の最上面あの一爻。一卦の講ずる所の事は、道理は虽早已に存在するも、然而初爻の階段に在りては還って顕現し難し。上九の時に等到れば、底下の五爻は都已に各々その位に就りて排列停當し、剛爻柔爻の体勢・得と失の分寸・吉と凶の走向、何れか当位何れか不当位は、一望して知る。此の時に全卦の路数は已に走り尽くし、義理は已に定局し、爻象も亦た已に擺正せり。故に看清し易しと説く。
本末也者,言大易之道既原其始,又要其終,原其始終則知本末,是初難見則為本,終易知則為末,已下終始之間,本末可見也。初擬其辭者,言六爻之位、剛柔之體,始雖擬度其萬事之宜、萬物之理而成其辭,是始於而至於著者也。卒成之終者,言至終之時,卦之上是卒成之時者也。夫卒成之時,而其象以分,卦體以定,而吉凶悔吝之道皆可見矣,是事之卒了成就皆在於上也。
所謂「本末」とは、《周易》は既要に事情の起頭を推原し、又要に事情の収梢を帰結するを説く。能く起頭と収梢とを皆看清せば、本と末とは自然に分明なり。初爻は幽微にして見難きは、あれは根本なり。終爻は顕豁にして知り易きは、あれは末梢なり。以下およそ終と始に講じ到れば、本末の分際は皆此に照らって以て辨認し得べし。所謂「初擬其辞」とは、六個の爻位・剛柔両種の体勢は、最初の階段に於いてただ先ず万事の合宜の処・万物の所以然の理を揣度して、これに拠って爻辞を擬出し来るを言う。これは隠微に由って一步步に顕著に走向する過程なり。所謂「卒成之終」とは、終了の時に到る、すなわち一卦の最上あの一爻に於いて、事情は初めて完成を吿ぐるを言う。この時候に到れば、卦象は已に分辨して清楚にして、卦体は已に定型して、吉・凶・悔・吝の各路数は全都顕露し出る。見れば一件事の最終の了結と成就とは、皆上爻の此処に落つるなり。
若夫雜物撰徳,辨是與非,則非其中爻不備。義曰:此又言六爻之義。六爻之位、上下之體交相錯綜,雜聚天下之物,撰數聖人之徳,辨定是之與非,則非中爻而不可明也。中爻者,則六二、六五、九二、九五是也。夫得之與失、正之與邪,惟在二五之爻可明矣。故初則不及其中,三則又過於中;過於中者,則凶危之道有時而至矣;不及中者,悔吝之事亦有時而至矣。唯在二五之爻,居得其中,履得其正,雖有其失,必不至於大咎也。
経文に説く:種種の事物を把って匯聚して以て陳述し、聖人の徳行を把って鋪敘し出し、是と非とを判定し清めんと要せば、中間のあの幾爻を離れれば便ち完備する能わざるなり。胡瑗解釋:此処に又六爻の義理を申説す。六個の爻位・上下両卦の体勢は彼此交錯綜合して、天下の万物を把って一緒に匯聚し、聖人の徳行を把って一一に陳列し、再び来りて何れを為すか是何れを為すか非を判定すれば、これらはもし中爻に靠らざれば便ち説き明白にし得ざるなり。所謂「中爻」とは、すなわち下卦の中に居る六二・九二と上卦の中に居る六五・九五。得と失・正と邪の分際は、ただ二・五この両個の位置の上に於いて初めて看分明し得べし。初爻は位置太く低くして、中に及ばず。三爻は位置偏に高くして、又中を越過す。中位を越過するは、凶険危亡は或る時に便ち門を上げて来る。中位に及ばざるは、悔恨憾惜の事も亦た発生を免れ難し。唯だ二・五両爻のみ、居る所は正當に上下卦の中位に在りて、行う所は又正道に合乎して、縱に偶に失誤有るも、も亦た一定に大禍を招来せざらん。
至如乾之九二曰「利見大人」,九五曰「飛龍在天,利見大人」;又坤之六二曰「直方大」,六五曰「黃裳元吉」:是皆中爻可以辨攝一卦之是非也。然則一卦六爻各主其物、各主其事,惟是中爻即可明辨其得失也。噫,亦要存亡吉凶,則居可知矣,知者觀其彖辭,則思過半矣。義曰:噫者,嘆美之辭也。言凡欲知其存之與亡、凶之與吉,則其在中之一爻所居之位則可知矣。若失其中,則是凶而不知其吉、亡而不知其存,如此是大凶之道也。惟欲知吉凶存亡,但觀中爻所居之位則可知矣。
例如《乾》卦九二の爻辞に「利見大人」と説き、九五の爻辞に「飛龍在天、利見大人」と説き、《坤》卦六二の爻辞に「直方大」と説き、六五の爻辞に「黃裳元吉」と説く。この幾条は皆中位に居りて、も亦た皆吉辞なり。見れば中爻は能く全卦の是非を統攝して併せて判別し得るなり。一卦の六爻は各々に一類の物・一件の事を主管す。然而ただ中爻を抓住すれば、一卦の得失は便ち辨え清楚を得。経文は接いて説く:噫、もし存亡吉凶を考究せんと要せば、安坐して動かずして便ち知暁し得。智慧有る人はただ卦下の彖辞を看れば、心中の思う所は已に半数を過ぐ。胡瑗解釋:「噫」は讃歎の語気詞。およそ一件事の是存是亡・是凶是吉を知らんと欲せば、ただ中に居るあの一爻の処する位置を看れば便ち以て判定し得。もし中位を離れば、便ち凶に遇うとも其中の尚ほ転吉の機有るを知らず、亡に臨むとも其中の尚ほ存し得べき路有るを知らず。これが初めて真の大凶の道なり。故に吉凶存亡を知らんと要せば、ただ須く中爻の居る所の位を察看すれば即可なり。
知者觀其彖辭則思過半矣者,言大易之道,一卦之理以至萬事之端,皆在於卦下所屬之彖辭。然彖辭之間雖未能盡萬事之理、一卦之情偽,然知者觀其彖辭,則一卦之大義、吉凶之理,思慮之間已知一卦之本末,已過半矣。然則謂之彖者,則如乾則言「元亨利貞」,坤則言「元亨,利牝馬之貞」,如此之類皆是卦下之彖辭。若聰明賢智之人觀之,則一卦之理已過半矣。
所謂智慧有る人はただ彖辞を看れば便ちその半を思過するとは、《周易》の道理は、一卦の義理より万事の端緒に到るまで、皆卦下に繋がる彖辞の裏に凝聚するを説く。彖辞は一卦の总体の吉凶を断定する話にして、文字は簡約にして、固然として万事の道理・一卦の真偽を皆説き尽くすは不可能なり。しかし明智の人は一たび彖辞を読めば、一卦の大義と吉凶の走向は、思量の間に於いて就已にこの一卦の本末を把握して、得る所は已に一半を超過したり。何を為すか彖辞と叫ぶに至っては、例如《乾》卦の下面に「元亨利貞」と写し、《坤》卦の下面に「元亨、利牝馬之貞」と写す。こういう類の卦名の下に繋がる断語は、皆彖辞なり。聰明賢達の人は一たびこの幾個の字を看れば、全卦の義理は便ち已に大半を領会したり。
繋辞下・二与四同功而異位章
二與四同功而異位,其善不同,二多譽,四多懼,近也。義曰:自此已下至「其剛勝邪」為一章。言六十四卦之中,一卦六爻,六爻之內,惟二與四皆是陰位而得其位者,故當以陰爻而居之,是同其陰功也。然而異位者,言二則在下卦之中,四則在上卦之下,是異位也。其善不同者,言二居下卦之中,是居得其中,行得其順,不失其中正之道,故其善也大矣;四居上卦之下,失其中道,故其善與二不同也。
《繋辞下》に説く:第二爻と第四爻とは功用相同じくして位置不同く、好処も亦た一樣ならず。二爻は多く称誉を得、四爻は多く畏懼有り。それは君位に離るること太く近きに因る。胡瑗解釋:この一句より起りて、下文の「其剛勝邪」に至るまで止まるを一章と為す。六十四卦は每卦六爻にして、其中の第二と第四とは皆陰位に属し、爻位の常規に按れば応當に陰爻に由って占拠せられ、就きてこの一点を説けば、二と四との承擔する所の陰柔の功は相同ず。しかしそれらの位置は併せて一樣ならず:二は下卦の正中に在り、四は上卦の最下に在る。故に位置不同と説く。好処不同に至っては、二は下卦の中に居りて位置は中を得て、行事は柔順にして中正の道に違背せざるに因る。故にそれの好処は甚だ大なり。四は上卦の下に居りて、已に中位を偏離したれば、故にそれの好処は便ち二と相比し得ざるなり。
二多譽者,譽者謂嘉美之譽也。言二居中而不失其正,又所行之事無過無不及,故有嘉美之譽以傳聞於外也。四多懼者,言六四居上卦之下,上比於五,是至尊之位也;下在九三之上,是權臣之上也。上則逼近於君,下則逼近於臣,故當恐懼之,是四多所懼也,故言四多懼也。
二爻は多く称誉を得ると説くに、この「誉」の指すは美好の名声である。二爻は下卦の中位に居りてその正を失わずして、辦する事は既に過頭せず亦た欠缺せず、恰好に好処に到れば、故に美名を贏得して、外に向かって傳揚し去る。四爻は多く畏懼有りと説くは、六四が上卦の最下の位置に処るに因る:上に往かば第五爻に緊挨して、あれは至尊の君位。下に往かば又九三の上に壓して、而して三爻はまさに実権を掌握する大臣の位。こう一来れば、四爻は上面に於いて君主に逼近し、下面に於いて又権臣に逼近して、処境は局促にして、稍有不愼なれば便ち禍患を招かん。故にそれは常に恐懼の心を懐く。これがすなわち四爻の多惧なる縁故なり。
柔之為道,不利逺者,其要無咎,其用柔中也。義曰:此覆解上「四多懼」之意也。夫獨陰不立,必須比附於陽,則其功可以成;若逺於陽,則其道不能利。若欲要其無咎,必須用其柔中之道則可也;若非居得其中,履得其正,則必有咎也。
経文に説く:柔順は一種の処世の道と為して、離るること遠ければ便ち利あらず。それの關鍵は過錯を出さざるに在りて、靠る所は柔を用いて以て中を守るなり。胡瑗解釋:この幾句は回頭して上文の四爻多惧の道理を申説す。単に陰柔の一方に靠るのみでは立脚し得ずして、必ず陽剛に依附して初めて功業は乃ち成就し得。もし陽剛に遠離せば、柔道は便ち利を得る従なし。過錯を出さず禍災を招かざるを做し到らんと要想せば、必ず柔順を運用して而又中を持する方法を行いて初めて可なり。倘若居る所は中位に在らず行う所は正道に合せざれば、あれは便ち一定に過咎有らん。
三與五同功而異位,三多凶,五多功,貴賤之等也,其柔危,其剛勝邪。義曰:言九三與九五皆是陽位,故其功同也。然而三在下卦之上,五在上卦之中,是異位也。三多凶者,三在下卦之極,失於中道,故多凶咎之事。五多功者,五在上卦之中,而有人君之位,其功徳可以被於天下,為天下之所歸向,是多功也。五為貴,三為賤,是貴賤之等也。五與三俱是陽位,若以剛陽居之,則克勝其任;若以柔陰居之,則失其所處,而必至於傾危也。
《繋辞下》に説く:第三爻と第五爻とは功用相同じくして位置不同し。三爻は多く凶険に遇い、五爻は多く功業を建つ。これは貴賤の等級の造成する差別なり。柔爻を以てそれに居れば則ち危殆にして、剛爻を以てそれに居れば初めて勝任し得べしや。胡瑗解釋:九三と九五とは皆陽位に属し、就きてこの一点を説けばそれらの承擔する剛健の功は相同ず。しかし三は下卦の最上に在り、五は上卦の正中に在りて、位置は併せて一樣ならず。三爻は多凶と説くは、それが下卦の頂端に処りて、已に中道を越出したるに因る。故に凶険咎害の事は多し。五爻は多功と説くは、それが上卦の中に居りて、又正當に君主の位に當りて、功業徳沢は能く天下に遍及して、天下人の帰向する所と為るに因る。故に功績は顕著なり。五は尊貴の位、三は卑下の位。これがすなわち貴賤の等級なり。五と三とは既に皆陽位なれば、剛健の陽爻を用いて去って占拠すれば、便ちこの位置を擔當し起り得。もし陰柔の爻を用いて去って占拠せば、便ち位置の性質と合せずして、処境は當を失して、終究には傾覆危亡の地步に走り到らん。
繋辞下・広大悉備章
易之為書也,廣大悉備,有天道焉,有人道焉,有地道焉。義曰:自此以下至「吉凶生焉」為一章。言大易之道至廣至大,無不悉備於其間也。有天道人地道道者,言伏羲始畫八卦,以三爻為一卦,故上一爻以象天,中一爻以象人,下一爻以象地。三爻既立,則天地人之事、萬物之理,無不備載於其間也。
《繋辞下》に説く:《周易》この部の書は広博宏大にして備わらざる所なし。裏面に天の道理有り、人の道理有り、も亦た地の道理有り。胡瑗解釋:この句より「吉凶生焉」に至るまでを一章と為す。《周易》の道は極めて広く極めて大にして、天地人の三方面の事は備わらざる一なし。所謂兼ねて天道・人道・地道を含むとは、伏犠が最初に「八卦」を画き出したる、すなわち乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌この八個の基本卦を言う。毎一卦は三画すなわち三爻を用いて組成す。三爻は上より下に向かって各々象する所有り:上爻は天を象り、中爻は人を象り、下爻は地を象る。三爻の架子は一たび立てば、天地人の事と万物の理とは便ち皆能く容納し進るを得。
兼三才而兩之,故六。六者非它也,三才之道也。義曰:言伏羲畫卦,始以三爻為一卦,天地之事、萬物之理無不畢備。後世聖人又従而兩之,為二體,兩而為六爻,故上二爻以象天,中二爻以象人,下二爻以象地。所以六之者非他也,蓋象三才之道也。
経文に説く:天地人の三者を把って合起して再び各々一倍を加うれば、故に一卦は六画なり。この六は別のに非ずして、まさに天地人三才の道の展開なり。胡瑗解釋:伏犠の卦を画くに、起初はただ三爻を用いて一卦を成し、天地の事・万物の理は已に大体斉備せり。後世の聖人は又把って三爻の卦を重疊し起して、一卦を分かち作って上下両個の卦体と為し、両個の三爻は相加して便ち六爻と成る。ここに上二爻は天を象り、中二爻は人を象り、下二爻は地を象る。六画を用うるに併せて別の縁故なくして、ただ三才をして各々両爻を占めしめ、三才の道を把って鋪陳して更に充分ならしめんがためのみなり。
道有變動,故曰爻。義曰:言六爻之內有變有動,動而合於道者為吉,動而悖於理者為凶,變動之間必合於道也,故曰爻。爻有等,故曰物。義曰:物者,類也。言六爻之位有陰有陽,有貴有賤,有等有差。至如乾之爻稱龍,故為陽物;坤之爻稱馬,故為陰物。如此之類,故曰物也。
経文に説く:道に変化流動有れば、故にそれを爻と称す。胡瑗解釋:一卦の六爻の内に変有り動有りて、動いて正道に合乎すれば便ち吉利にして、動いて事理に違背すれば便ち凶険なり。見れば変動の際は総じて以て道に合するを準と為す。故にこの変動の符号を把って爻と叫ぶ。経文に又説く:爻に等第有れば、故にそれを物と称す。胡瑗解釋:此処の「物」はすなわち類別。六個の爻位に陰有り陽有り・尊有り卑有りて、等級は参差して斉からず。譬如《乾》卦の各爻は龍を取って以て象を立て、龍は陽に属すれば、故に陽類の物なり。《坤》卦の爻辞は牝馬を取って以て象を立て、馬は順にして陰に属すれば、故に陰類の物なり。およそ此の種種は類に按って帰属す。故にそれを物と叫ぶ。
物相雜,故曰文。義曰:言萬物之類皆在六爻之間,六爻之間有陰有陽,有柔有剛,互相錯雜而成文章,以顯著於外也。文不當,故吉凶生焉。義曰:言剛柔錯雜而成文章,若文妨於事,則有凶有吉,有邪有正;若文當其事,則吉凶不生。若不當位,則遺於道者為凶,順於理者為吉,吉凶之道皆生於文不當矣。
経文に説く:各類の物象は互相交錯すれば、故にそれを文と称す。胡瑗解釋:万物の種類は皆六爻の間に匯集して、六爻の間に陰有り陽有り・柔有り剛有りて、彼此交錯穿插して、便ち花紋の一般の條理を織り成して、外に顕現す。これを便ち文と叫ぶ。経文に又説く:文に不當の処有れば、吉凶は便ちこれに由って産生す。胡瑗解釋:剛爻柔爻は交錯して以て條理と成る。もしこの條理が処する所の事情と相妨碍せば、便ち凶有り吉有り・邪有り正有りの分別有り。もし條理が恰好に事情と相称せば、吉凶の問題は根本に発生せざるなり。所謂不当とは、爻がその応に居るべき位に居らざるを指す:正道に背離するは便ち凶、事理に順乎するは便ち吉。見れば吉凶の産生する所以は、皆この文理の不相当の上に出るなり。
繋辞下・易之興也章
易之興也,其當殷之末世、周之盛徳邪?當文王與紂之事邪?義曰:自此以下至「易之道也」為一段,明易之興起在紂之末世者也。夫大易之道始於伏羲,仰觀俯察而成八卦,以為萬世之法,以盡天下之事。然而寫其乾坤健順之性、天地之大象、人事之大紀,無不畢備於其間。
《繋辞下》に説く:《周易》の興起は、大概まさに殷商の衰亡の末年・周家の徳業の方盛の時に當るか。大概まさに文王と紂王とあの一段の君臣の事に當るか。胡瑗解釋:この一句より起りて、下文の「易之道也」に至るまで止まるを一段と為し、《周易》の興起が就紂王の在位する末世に在るを説明す。《周易》の道理は最早く伏犠に発端して、彼は頭を抬げて天象を観察し身を俯して地理を察看して、従って八卦を画き成し、立てて以て万世通行の法則と為して、以て天下の事情を窮尽す。八卦は既に成れば、乾の剛健・坤の柔順こういう類の本性・天地間の大物象、および人世間の重大の綱紀は、一樣として完備に其中に写し込めざるなし。
是以歴夏及商,至於桀紂之世,民欲叢生,巧詐互起,左右前後皆非正人端士,小人在朝,君子在野,天下紛然不可以整之。文王有大聖人之才,罹於憂患之中,極天地之淵蘊,極天下之能事,民之情偽、吉凶之理無不備載於其間,故曰易。是易之興也,其當殷之末世焉。
伏犠の卦を画いた後より夏代を経歴して商代に到り、桀・紂こういう暴君の當政する時に到れば、百姓の貪欲は紛紛として滋長し、機巧詐偽は此起彼伏して、君主の身辺の前後左右に正直端方の士一個なく、小人は朝堂を竊据し、君子は退いて草野に処りて、天下は一団に乱れて、整治する能わざりき。文王は身に大聖人の才徳を負うに、却って憂患の中に陥りて羑里に囚せられたり。彼は患難の裏に於いて天地の深蔵する義蘊を窮究し、天下の能有る事変を窮究して、百姓の真情と詐偽・事理の吉凶得失を把って、一一に完備に卦爻の中に写し進めたり。これがすなわち《周易》。故に《周易》の興起は、まさに殷商の末世に當ると説く。
是故其辭危。義曰:言文王演其大易之道,因其桀紂之君無道在上,故使天下之人思慮之間奸偽互起,以至天下大亂。文王罹於憂患之中,作為大易,盡萬民之情偽,極天下之險阻,以至憂患之事,無不備言於諸卦之下,是其辭危也。然則卦下之辭至簡至約,然有四徳者,有一徳者,有三徳者,如此之類推究卦義,是其辭危也。
経文に説く:故に《周易》の文辞は危惧の意を帯ぶ。胡瑗解釋:文王が《周易》の道を推演するに、まさに桀・紂こういう類の無道の君が高居してその上に在るに碰上りて、弄りて天下の人心思の中に奸巧詐偽は層出して窮まらず、終に大亂に至る。文王は身に憂患に陥りて《周易》を作りて、万民の真情と虚偽とを把って写し尽くし、天下の艱険阻厄を把って写し尽くし、種種の憂患の事に連れても亦た完備に各卦の下に繋げざるなし。故に彼の文辞は総じて一股の戒惧の味道を透かす。再び卦下の彖辞を看れば、文字は極めて簡省なるに、然而或る卦は元・亨・利・貞の四徳俱全を標出し、或る卦はただ一徳を標出し、或る卦は三徳を標出して、多寡は斉からず。この様の如く字斟句酌に推敲して卦義するは、まさに辞を立てる者の時時に危惧の心を懐くを見出すなり。
危者使平,易者使傾。義曰:言易之道,六爻之位有凶有吉,有得有失,皆在爻辭之間。若人觀此大易之道,見其凶事,能小心畏慎者,則危者使之平易,其文辭亦言其平易;若人觀此大易之道,見其吉事而慢易者,則易者使之傾喪,則其所繫之辭亦言其凶,是使人舍凶従吉,趨善背惡也。
経文に説く:心に危惧を懐く人は、《周易》は彼をして平安に転向せしむ。掉以轻心する人は、《周易》は彼をして傾覆に帰せしむ。胡瑗解釋:《周易》の道理は、六爻の位置に凶有り吉有り・得有り失有りて、全都爻辞の裏面に落つる。人は《周易》を読みて、爻辞の示す所の凶険を見て能く小心戒惧せば、原本危殆の処境は反って扭転されて平順と為り、繋ぐ所の辞も亦たこれに随って平安を説く。爻辞の示す所の吉利を見て便ち軽慢懈怠せば、原本安穩の処境は反って傾覆喪敗して、繋ぐ所の辞も亦たこれに随って凶険を説く。一正一反は、まさに人をして凶険を舍弃して吉利に跟従し、善道に趨向して邪悪を背離せしめんと要するなり。
其道甚大。義曰:言此大易之道,示人之吉凶,明人之情偽,其為道至廣而甚大也。百物不廢。義曰:言大易之道無所不包,至纎至悉之事、百種之物皆無有廢棄,如泰卦曰「包荒,用馮河,不遐遺」者是也。懼以終始,其要無咎,此之謂易之道也。義曰:言大易之道,若人觀其六爻之位、吉凶之理,若能觀其始而知懼,慎其終而思戒,終始之間極其思慮,常自戒慎,如此則要其無咎,此是大易之道也。
経文に説く:それの道理は極めて宏大なり。胡瑗解釋:《周易》は人に向かって吉凶を昭示して、人心の真偽を辨明す。一種の道理と為して、それの覆盖面は極めて広闊宏大なり。経文に又説く:百物不廃。胡瑗解釋:《周易》の道は包む所なくして、再び細微・再び瑣屑の事、各色各様の物類も、一樣としてそれに遺棄せられて外に在るなし。譬如《泰》卦九二の爻辞に「包荒、用馮河、不遐遺」と説くは、講ずる所はまさに気度の広寛にして、荒穢の処に連れても能く包容し、徒歩で河を渉るこういう莽撞の人に連れても能く任用し、疏遠の者も亦た遺漏せざるなり。経文は最後に説く:頭より尾に到るまで皆戒惧の心を存して、求むる所は過錯を出さざるなり。これを便ち《周易》の道と叫ぶ。胡瑗解釋:人は六爻の位置と吉凶の道理とを観察して、もし能く事情の開端する時に就畏懼を知り、事情の終了する時に仍ほ謹慎自警して、自始至終に反復思量して常に戒惕を存せば、こうすれば便ち能く過咎を招かざるを求得す。これがすなわち《周易》が人に教える根本の道理なり。
繋辞下・乾至健坤至順章
夫乾,天下之至健也,徳行恆易以知險;夫坤,天下之至順也,徳行恆簡以知阻。義曰:自此以下至篇末為一章,總明健順之美,兼明易道愛惡相攻之事。夫乾天下之至健也,乾有剛健之徳,以一元之氣下生萬物,故徳行常易,不至於煩勞而知艱險之事。夫坤天下之至順也,承天之氣,以時而生成萬物,故徳行常簡,不至於煩勞而知艱阻之事。以天地之道至健至順,簡易之徳、生成之理自然,不言而四時成,不勞而萬物得,而知險阻之事,其生成之理故可知矣。
《繋辞下》に説く:乾は天下の最も剛健なるにして、それの徳行は永遠に平易にして、因って能く険処を洞察す。坤は天下の最も柔順なるにして、それの徳行は永遠に簡約にして、因って能く阻処を洞察す。胡瑗解釋:この一句より起りて全篇の結束に到るまでを一章と為し、總じて剛健と柔順の美を説いて、同時に《周易》の揭示する愛憎相攻して以て吉凶を生ずる道理を講明す。乾は天下の最も剛健なるにして、それは剛健の徳を具備して、一元の気に憑って上より下に向かって万物を化生す。故にそれの徳行は総じて平易にして、周折を費尽するを必せずして能く艱険の事を洞悉す。坤は天下の最も柔順なるにして、それは天の気化を承接して、四時の次序に按って万物を生養成就す。故にそれの徳行は総じて簡約にして、周折を費尽するを必せずして能く阻厄の事を洞悉す。天地の道は一至健一至順にして、簡易の徳と生成の理とは皆自然に出ず。号を発し令を施すを必せずして四季は自ら成り、心を労し力を費すを必せずして万物は各々その所を得。まさにそれらが此の如く自然無為なるに因って、およそ険阻の事・生養の理は、反って皆それらの照察の中に在るなり。
能說諸心,能研諸侯之慮。義曰:按此「能研諸侯之慮」,其「侯之」二字蓋是後人習慣其言而傳寫之誤也。若順其文而言之,則「能研諸侯之慮」於義無取,當言「能研諸慮」也。言聖人作此大易之道,能自悅美其心,又能研究人之思慮,使其情偽之道不作,憂虞之理不生也。註疏之說皆失之矣。
経文に説く:能く人の心をして喜悦せしめ、能く種種の思慮を精研す。胡瑗解釋:現今の本子は「能研諸侯之慮」と作りて、其中の「侯之」両個の字は、大概後人が「諸侯」この詞を説き慣れて、抄冩する時に順手に添え進めたる訛誤ならん。もし字面に照って「能く諸侯の思慮を研ず」と読み作せば、義理の上に於いて講じ通らず。本來応當に「能研諸慮」と作るべし。この両句が説くは、聖人が《周易》の道を創制するに、一方面は能く自己の心を怡悦暢美せしめ、一方面は又能く人心の種種の思慮を把って研究して透徹せしめ、虚情假意をして萌生する従なからしめ、憂疑顧慮も亦た産生するに至らざらしむるを言う。前人の注疏はこの一句の上に於ける講法は、皆説き対えざりき。
定天下之吉凶,成天下之亹亹者。義曰:言聖人作易,既能悅懌諸心,又能研精諸慮,又定天下之吉凶:有得其理者為吉,失其理者為凶。既定吉凶於諸卦爻之中,則成天下之亹亹者,使人勉勉而従善,不陷於邪佞也。
経文に説く:《周易》は天下の吉凶を断定して、天下の勤勉不倦の人を成就す。胡瑗解釋:聖人は《周易》を創制して、既能く人心を怡悦せしめ、又能く人の思慮を研精して、還って天下の為に吉凶を判定す:事理に合乎するは吉と断じ、事理に背離するは凶と断ず。吉凶は既に各卦各爻の中に定まれば、天下人は便ち準繩有るを得て、ここにあの勤勉不懈の人を成就して、彼らをして向善に努力して奸邪諂佞に陥らざらしむ。「亹亹」は勤勉不倦の樣子を形容す。
是故變化云為,吉事有祥。義曰:言大易之道有變有化,有施有為,若合於道則吉,違於道則凶,若行得其吉,則有嘉美之祥而應之也。象事知器,占事知來。義曰:言人觀此大易之象,則知作器之方;觀其占策之數,則知未來之事,是大易之中總此諸徳者也。天地設位,聖人成能。義曰:言天地設其上下之位而生成萬物,聖人由是乗天地之正以生成天下,以成就天地生成之功者也。如泰卦所謂「財成天地之道,輔相天地之宜」是也。
経文に説く:故に変化と言行の間に、吉利の事は先ず徴兆有り。胡瑗解釋:《周易》の講ずる所の道理は、変有り化有り・施行有り作為有りて、およそ正道に合乎するは便ち吉、正道に違背するは便ち凶。人はもし事を行いてその吉を得れば、自ら会して美好の徴兆有りて来りて応験せん。経文に又説く:象を観れば以て器を制する法を知り、筮を占えば以て未来を預知し得。胡瑗解釋:人は《周易》の卦象を観察すれば、便ち能く器物を制作する方法を悟出し、蓍策の数目を推算すれば、便ち能く將に発生せんとする事を預知し得。これらの本領は皆《周易》の中に匯総す。経文に又説く:天地は上下の位置を設立して、聖人は其中の功能を成就す。胡瑗解釋:天地は各々上下の位に就いて以て万物を生養せば、聖人は便ち天地の正道に順って去って天下を生養して、従って天地の化育の功を把って真に完成す。便ち《泰》卦《象傳》の説く所の「財成天地之道、輔相天地之宜」、天地の道を裁節調剤し天地の宜を輔助配合するは、まさにこの意思なり。
人謀鬼謀,百姓與能。義曰:言聖人凡欲施為、凡所舉動之時,必先與眾謀其得失之理,謀之卿士,謀及庶人,詢及眾庶,謀及鬼神,以明其得失,以別其吉凶。然而鬼神之道至幽至隠,不可以形見,而聖人與之為謀者,蓋聖人取其卜筮之兆、占蓍之策,以考於天地鬼神,然後思慮之間不煩憂戚,決然而行之。又與百姓參合而行,則得其吉而不凶,向其善而獲福。夫如是,則天下之百姓樂推而與之。百姓既與之能,則不勞探賾而吉凶自見,不役思慮而得失自明,以至萬物之情偽自然而見矣。
経文に説く:既に人と商量し、又鬼神と商量して、百姓も亦たその能に参与す。胡瑗解釋:聖人はおよそ施行有らんと要し挙動有らんと要すれば、必先ず衆人と其中の得失を商議す:先ず卿士大臣に問い、再び普通百姓に問い到りて、広汎に衆人の意見を徴詢して、還って鬼神に問い要して、以て得失を弄清し吉凶を分辨す。鬼神の道は極めて幽深隠微にして、能く形跡を以て見到る能わざるに、聖人の能くそれと商議する所以は、彼が卜筮の顕す所の兆紋・揲蓍の得る所の策数に借助して、拿って去って天地鬼神と相印証するに因る。こう一来れば、心裏は便ち再びもや憂疑に糾纏せられずして、以て決然として行動し得。再びこの結果を把って百姓の意向と相参合して而して後に施行せば、自然に吉を得て凶を避け善に向かいて福を獲す。この一步を做し到れば、天下の百姓は便ち彼を推戴することを楽しみて以て才能を把って彼に貢獻せん。百姓は既に肯んじて力を出せば、君主は便ち力を費して去って隠微を捜求するを必せずして吉凶は自然に顕現し、苦苦に思索するを必せずして得失は自然に分明にして、直至万物の真情と虚偽に到るも、も亦た皆自然而然に呈露し出るなり。
八卦以象告。義曰:言伏羲所畫八卦,寫其天地水火風雷山澤之象,凡吉凶之事皆以象告於人,知其吉而背其凶也。爻彖以情言。義曰:此又明卦爻剛柔變動、情偽相感之事也。言伏羲畫八卦之後,文王重為六十四卦,爻為三百八十四爻,又於諸卦之下繫屬之彖辭,以明險阻之事、得失之理、憂虞之端,皆以人之情偽而言之也。
経文に説く:八卦は物象を用いて以て人に吿ぐ。胡瑗解釋:伏犠の画いた所の八卦は、摹写する所は天・地・水・火・風・雷・山・澤この八種の物象。およそ吉凶の事は、皆これらの物象に借りて人に向かって昭示して、人をして吉処を認清して凶処を避くるを明らしむ。経文に又説く:爻辞と彖辞とは則ち人情を以て言を立つ。胡瑗解釋:この一句は又卦爻の剛柔変動・真情と虚偽の彼此感応する道理を申説す。伏犠が八卦を画き出した後に、文王はそれらを把って両々相重して、以て六十四卦と為して、共に三百八十四爻、又在每卦の下に彖辞を繋げて、以て艱険阻厄の事・得失取舍の理・憂疑顧慮の端を講明す。これらの内容は、全都人心の真情と虚偽とに就いて以て説を立てたるものなり。
剛柔雜居而吉凶可見矣。義曰:言六爻之內有剛有柔,剛柔之位上下錯雜,有得有失,有正有不正,得於理者為吉,逆於理者為凶,吉凶之道自然可見矣。變動以利言。義曰:言六爻之內有變有動,皆以利告於人,使人由而勸之,以盡天下之利,以利天下之物也。吉凶以情遷。義曰:言大易之道,爻象之內有變有動,有凶有吉,動而合於道則吉,變而失其理則凶。然則吉凶之道、變動之理,皆由人之情偽遷移者也。
経文に説く:剛爻柔爻は一卦の中に雑処すれば、吉凶は便ち看出し得るなり。胡瑗解釋:六爻の内に剛有り柔有りて、剛位柔位は上下交錯して、因って得有り失有り・当位有り不当位有り。事理に合乎するは便ち吉、事理に違逆するは便ち凶にして、吉凶の走向は自然に顕現す。経文に又説く:変動は利害に就いて以て言を立つるなり。胡瑗解釋:六爻の内に変有り動有りて、皆利の在所を把って人に吿げて、人をしてそれに依循して勉力して做さしめ、従って天下の利を窮尽して、以て天下万物を利益す。経文に又説く:吉凶は人情に随って遷移す。胡瑗解釈:《周易》の道理は、爻象の内に変有り動有り・凶有り吉有りて、動いて正道に合乎せば便ち吉、変じてその條理を失えば便ち凶。見れば吉凶の帰属・変動の走向は、根底に帰り底に到って皆人心の真誠と虚偽とに随って転移するなり。
是故愛惡相攻而吉凶生。義曰:言吉凶所生,皆由人之情性有所貪愛,有所忿憎,兩有所攻,或愛攻於惡,或惡攻於愛,是吉凶之道由此生矣。逺近相取而悔吝生。義曰:逺謂內外兩卦上下相應之類也,近謂爻位相比近也。言六爻之內,有近而相得者,有近而不相得者,有逺而有應者,有逺而無應者。逺而有應、近而相得則為吉,逺而無應、近而不相得則為悔吝,悔吝之道皆由逺近相資取而生也。
経文に説く:故に愛と憎とが互相攻奪すれば、吉凶は便ち産生す。胡瑗解釋:吉凶の産生する所以は、皆人の性情の裏に貪愛する所有り忿恨する所有るに因りて、両種の情緒は互相攻奪す:或る時は愛が憎を壓倒し、或る時は憎が愛を壓倒して、吉凶の分野は便ちこの一進一退の間に於いて形成す。経文に又説く:遠と近とが互相取資すれば、悔吝は便ち産生す。胡瑗解釋:所謂「遠」とは、内卦と外卦の上下両爻の相応ずるあの種の関係を指し、如初と四・二と五・三と上。所謂「近」とは、爻位の彼此緊挨着して相比するを指す。六爻の内に、相鄰して彼此投合する有り、相鄰して却って彼此投合せざる有り、相隔りて正応有る有り、も亦た相隔りて正応なき有り。相隔りて応有り・相鄰して投合するは、便ち吉に帰す。相隔りて応なし・相鄰して投合せざるは、便ち悔恨と憾惜に落入す。見れば悔吝は皆遠近の彼此取資する関係の中より生出したるなり。
情偽相感而利害生。義曰:言人之情實感物而動,得其理則為利;人之虛偽感物而動,失其理則為害。情者則情實也,偽者則虛偽也,是情偽相感而利害生於其間者也。既利害生於情偽之間,則吉凶之事由此而至矣。凡易之情,近而不相得則凶。義曰:言大易之道,六爻之情,有近而相得者則吉,有近而不相得則凶,故吉凶之道生於爻位之間也。
経文に説く:真情と虚偽とが互相感応すれば、利と害とは便ち産生す。胡瑗解釋:人は真実の心意を以て外物を感応して行動して、事理に合乎せば、結果は便ち利と成為す。人は虚假期の心意を以て外物を感応して行動して、事理に背離せば、結果は便ち害と成為す。所謂「情」は真実の心意を指し、「偽」は虚假期の做作を指して、真偽は交相感応して、利害は便ち其間に産生す。利害は既に真偽の間に生ぜれば、吉凶の事は自然に亦たこれに随って来る。経文に又説く:大凡《周易》の写す所の人情は、相鄰して彼此投合せざれば便ち凶に帰す。胡瑗解釋:《周易》の示す所の六爻の間の情態は、緊挨着して互相投合する有るは、あれは吉なり。緊挨着して却って互相排斥する有るは、あれは便ち凶なり。故に吉凶の道理は、就爻と爻との位置関係の裏に生出するなり。
或害之,悔且吝。義曰:夫凶咎之道亦有輕重,人之情偽亦有淺深,雖爻位相近,亦有不相得者,然不至於大咎,或有害之者,或有可悔之者,或有可鄙吝之者,如此雖有失,必不至於大咎也。將叛者其辭慚。義曰:言人之情或有叛違於己者,則其辭不同,位雖相親,而其容常有慚赧之色,其辭不以實告於人也。
経文に説く:或いは侵害有る所は、便ち悔恨と憾惜とを招来す。胡瑗解釋:凶険咎害は本來軽重の別有りて、人心の真偽も亦た深浅の分有り。爻位は虽相鄰するも彼此投合せざるに、然而未必に便ち大禍を醸成す:或いはただ侵損を受くるのみ、或いはただ心に悔恨を生ずるに落るのみ、或いはただ人に鄙薄せらるるに落るのみ。こうすれば虽失誤有るも、終究に大きの禍患を招来するに至らざるなり。経文に又説く:將に背叛せんとする人は、話を説くに愧色を帯ぶ。胡瑗解釋:人情の中にもし人の已に自己を背離する心を存する有れば、彼の言辞は便ち平日と不同して、地位の上は虽仍舊として親近なるも、臉上は却って常に羞慚して発紅の神色を掛けて、説き出す話も亦た肯んじて実情を以て相吿せざるなり。
中心疑者其辭枝。義曰:言人中心之間有所疑惑,則言辭各異,其心不定,其辭一出,紛然有異,若樹之有枝葉紛然盛多者也。吉人之辭寡。義曰:言吉善之人其辭寡少,不在言語,但黙而成之,安而行之者也。躁人之辭多。義曰:言剛躁之人其辭繁多,不假思慮而言辭紛亂而出者也。
経文に説く:心裏に疑惑を存する人は、話を説くに枝蔓分岔す。胡瑗解釋:人心の中は一旦疑惑有れば、言辞は便ち前後一せずして、心は既に主意を拿定せざれば、話は一たび口を出れば便ち紛乱して歧出して、好比樹の上の枝葉の橫生して繁密雑乱するが如し。経文に又説く:吉善の人は話少なし。胡瑗解釋:吉祥善良の人は言語簡省にして、彼は功夫を口舌の上に用いずして、ただ默默として事を把って做し成り、安穩踏実に去って実行す。経文に又説く:性情躁急の人は話多し。胡瑗解釋:剛愎躁進の人は言辞繁複にして、思量を経ずして、話は便ち紛紛乱乱に涌き出ずるなり。
誣善之人其辭游。義曰:言誣罔善人之人,其心矯詐,其言虛誕,架虛為實,従無入有,自然其言辭遊蕩虛浮者也。失其守者其辭屈。義曰:言人居失其時,失其所守,不遂其志,志無所伸,必其辭屈撓者也。凡此六事,皆大易之中六爻之位述此之意者也。
経文に説く:善人を誣陷する人は、話を説くに游移不定なり。胡瑗解釋:善良の人を誣蔑するあの種の人は、心地は矯飾奸詐にして、言語は虚妄荒誕にして、憑空の事を把って実有と説成し、無の中より有を生出して、故に彼の話は必然に浮泛游移して、実処を抓住し得ざるなり。経文に又説く:操守を喪失した人は、話を説くに理屈詞窮す。胡瑗解釋:人はもし処する所がその時に逢わずして、又自己の応に守るべき節操を丢掉せば、志向は実現する能わず抱負は伸展する従なければ、説き出す話は一定に屈曲軟弱にして支撑し起り得ざるなり。以上の六種の言辞情状は、皆《周易》が六爻の位置関係に借りて以てこの一層の意思を陳述するなり。
説卦
義曰:夫周易說卦者,此是孔子第八翼也。以其伏羲畫八卦之後,文王重為六十四,復作爻彖之辭,以明卦爻之義,然其理或有未盡之事,孔子又作此說卦,以陳說諸卦之情偽、爻彖之義理,故謂之說卦。昔者聖人之作易也,幽贊於神明而生蓍。義曰:言昔者聖人之作為大易之道,以盡天地之理、人事之要,又通明贊助於鬼神,以生用蓍之法,然後揲蓍以求其萬物之數者也。
胡瑗解釋:《周易》の裏の《説卦》は、孔子の作った十翼の中の第八篇である。伏犠が八卦を画き出した後に、文王は八卦を把って両々相重して以て六十四卦と成し、又彖辞・爻辞を写し下して以て卦爻の意義を闡明したり。然而其中の義理は仍ほ尽きざる処有りて、孔子はここに再びこの篇の《説卦》を作りて、各卦の表す所の実情虚象・彖辞爻辞の義理を把って一一に陳説し出したり。故に《説卦》と名づく。《説卦》の開篇に説く:従前に聖人は《周易》を創作するに、暗中に神明の賛助を得て、因って蓍占の法を産生したりと。胡瑗解釋:従前に聖人が《周易》の道を創制するは、天地の道理・人事の要領を把って全都窮尽せんと要したるなり。彼は又能く鬼神の幽微の力を通達して併せて借助して、これに由って蓍草を用いて卦を起す方法を産生して、然る後に蓍草を分揲するに靠って以て万物の数を推求したり。
參天兩地而倚數。義曰:言聖人既畫成八卦,作為大易,上準擬於天地,下幽贊於神明,是以生其用蓍之法,以揲求天地之數。是以參天兩地而倚數者,因其天地生成之數以分陰陽竒偶之數也。生數則以一三為天之生數,二四為地之生數;因其天地之生數,又有七九八六之數以為天地之成數。然後分天地竒偶、老陰老陽、少陰少陽之數,自此而立矣。
《説卦》に説く:天数三・地数二を取って以て数を立つる依拠と為す。胡瑗解釋:聖人は既に八卦を画き成し《周易》を創制して、上は天地に取法し、下は神明に暗合して、因って蓍を用いる法を産生して、蓍草を分揲するに靠って以て天地の数を推求す。所謂「参天両地而倚数」とは、すなわち天地の万物を生成する数目に依拠して、以て陰陽奇偶の両類の数を区分す。生数の一層は、一と三とを以て天の生数と為すは、それが奇なるに因る。二と四とを以て地の生数と為すは、それが偶なるに因る。生数の上に於いて再び各々五を加えれば、便ち七・九・八・六を得。これらは天地の成数なり。この套の数有れば、天と地・奇と偶の分別、および老陰・老陽・少陰・少陽の四種の爻象の對応する所の六・九・八・七の数は、便ち従此に確立したるなり。
觀變於陰陽而立卦。義曰:言聖人因其天地生成之數,分其竒偶之象,是以觀其竒偶之數、陰陽變動之理,而立成一卦者也。發揮於剛柔而生爻。義曰:言聖人既能參天兩地而倚數,又觀陰陽之變動而立成一卦,又察其變化之道、得失之理,發越揮散剛柔之體,互相資取而生於六爻也。
《説卦》に説く:陰陽の変化を観察して以て卦を確立す。胡瑗解釋:聖人は天地生成の数に依拠して、奇と偶の両類の形象を分出して、ここに奇偶の数の組合と陰陽消長の道理とを察看して、これに拠って一卦を立成す。《説卦》に又説く:剛柔を把って鋪展し開けて以て爻を生出す。胡瑗解釋:聖人は既能く天三地二を以て依拠と為して数を立出し、又能く陰陽の変動を観察して以て一卦を立成し、進んで再び変化の規律・得失の分際を考察して、剛爻と柔爻の体勢を把って鋪陳発揮し出して、それらをして彼此憑藉取資せしめれば、ここに一卦の六爻を生成したり。
和順於道徳而理於義。義曰:言八卦之位、大易之道,上以通於天地,下又和合參順聖人之道徳,又窮極萬物之象、人事之義理,以成變化之道者也。窮理盡性以至於命。義曰:言大易之道,爻象之設,上既通於天地,下又贊於鬼神,又發揮剛柔之體而分其爻,又和順聖人之道徳而理於義,又窮極萬物之理,以盡萬物之性,以至於命者也。命者,則謂長短凶折夭亾之類是也。
《説卦》に説く:道徳と相和順して、以て事理をして各々その宜を得しむ。胡瑗解釋:八卦の位次・《周易》の義理は、上に向かって天地に貫通し、下に向かって又能く聖人の道徳と相合相順して、併せて万物の形象と人事の道理とを窮究して、従って変化の道を成就す。《説卦》に又説く:事理を窮究し本性を尽顕して、直至天命を通暁するに到る。胡瑗解釋:《周易》の道は、爻と象の設立の上に於いて、上に向かって天地を貫通し、下に向かって鬼神の助を得て、再把って剛柔の体勢を鋪展し開けて以て各爻を分出し、再び聖人の道徳と相和順して以て事理をして各々その宜に安んぜしめ、再び万物の理を窮究して以て万物の性を尽くして、最終に「命」の上に帰結す。所謂命とは、寿数の長短・遭遇の凶折と早死こういう類の人の自己の安排に由らざる事を指す。
然則大易之道皆能盡萬物之性,又能盡人之性者,蓋性者皆天所稟受之善性者也。若能守己之性,不陷於邪佞,則其命可以知矣;若人不能守己之性,而放僻邪侈,無所不至,則其命不能固矣。是故大易之道,爻象之間有變有動,皆所以盡人之性命者,使人觀之則趨吉背凶、向善改惡也。
《周易》の道は既能く万物の本性を窮尽し、又能く人の本性を窮尽するは、これは所謂本性は、皆上天の賦与する善の本質なるに因る。人はもし能く自己の本性を守住して、奸邪諂佞に堕入せざれば、さらば彼の命数は如何なるも亦た便ち以て推知し得べし。人はもし本性を守住し得ざれば、放縦乖僻・奢邪妄行して、何事も做し出し得べからざるなければ、さらば彼の命数は便ち保全する能わざるなり。まさに此の如くなるに因って、《周易》の道は爻と象の間に種種の変動を設下して、全是人の性と命とを窮尽せんがためして、人をして一たび読了すれば便ち吉利に趨向し凶険を避け、善道に走向して悪行を改掉するを知らしむ。
説卦・順性命之理章
昔者聖人之作易也,將以順性命之理。義曰:自此已下至「六位而成章」為一章,以明卦爻之意也。言古者聖人所以畫為八卦、作為大易者,蓋以上順天地之命,下順萬物之性。既能順天地萬物生成之性命,則其言吉凶之道、情偽之理,無不備載於其間也。
《説卦》に説く:従前に聖人は《周易》を創作するは、性と命の道理に順応せんと要したるなり。胡瑗解釋:この一句より起りて、下文の「六位而成章」に至るまで止まるを一章と為して、以て卦爻の用意を闡明す。古時の聖人の八卦を画き出し《周易》を創制したる所以は、上に向かっては天地の賦与する命に順応せんと要し、下に向かっては万物各自の性に順応せんと要するに因る。既能く天地万物の生養化育の性と命とに順応せば、さらば彼の講ずる所の吉凶の道・真偽の理も、便ち一樣として完備に《周易》の裏面に記載せざるなきなり。
是以立天之道曰陰與陽,立地之道曰柔與剛。義曰:言大易之道既以盡天地萬物生成之性命,是以立天之道曰陰與陽。其地能承受天之氣而生成萬物,是以立地之道曰柔與剛,言其天地陰陽剛柔二氣上下交感而成剛柔之理也。立人之道曰仁與義。義曰:天地既立,則人生於其間。人既生於其問,則立仁義之道以本於人。仁者,博愛之謂仁也;義者,行而宜之,合於道則謂義。又因其人而立仁義之道,以生成於天下也。
《説卦》に説く:故に天の法則を確立するを陰と陽と叫び、地の法則を確立するを柔と剛と叫ぶ。胡瑗解釋:《周易》の道は既に天地万物の生養する性命を窮尽せんと要すれば、故に天に就いて言えば、それの法則は陰と陽とに概括さる。地は能く天の降す所の気を承受して以て万物を生養すれば、故就地に就いて言えば、それの法則は柔と剛とに概括さる。これは天地の間の陰陽二気が上下して交感して、地に落れば便ち剛柔の形質に凝成するを言う。《説卦》に又説く:人の法則を確立するを仁と義と叫ぶ。胡瑗解釋:天地は既に立てば、人は便ち天地の間に生ず。人は既に其中に生ぜば、便ち人の為に仁義の道を確立して以て立身の本と為さねばならず。仁とは、広博に人を愛するなり。義とは、事を行いてその宜を得るにして、およそ正道に合乎するを便ち義と叫ぶ。聖人は又人の実情に依って仁義の道を立下して、それを用いて以て天下を化育成就す。
兼三才而兩之,故易六畫而成卦。義曰:言伏羲既畫八卦之後,但以三爻為一卦,故上一爻以象天,中一爻以象人,下一爻以象地,以盡三才之道。後世聖人因而兼之,重其三才之道,兼而兩之,以六畫而成一卦,故上二爻以象天,中二爻以象人,下二爻以象地,六爻既備,以成一卦之理。
《説卦》に説く:天地人の三者を把って合起して再び一倍を加うれば、故に《周易》は六画を以て一卦を組成す。胡瑗解釋:伏犠が八卦を画き成した後に、一卦はただ三爻を用い、最上一爻は天を象り、中間一爻は人を象り、最下一爻は地を象りて、この三爻を用いて天地人三才の道を把って説き尽くしたり。後世の聖人はこの基礎の上に於いて合併を加えて、三才の道を把って一層を重疊して、各々両爻を占めしめ、ここに六画を用いて一卦を組成す:上面両爻は天を象り、中間両爻は人を象り、下面両爻は地を象る。六爻は斉備して、一卦の義理は初めて完整と算す。
分陰分陽,迭用柔剛,故易六位而成章。義曰:既以六畫而成卦,又以一三五為陽位,二四六為陰位,分為陰陽之道,陰則為柔,陽則為剛。因其六爻之位,分其陰陽之象,用其剛柔之理,交相錯雜,或升或降,故此大易之道六爻之間上下變動而成其文章者也。
《説卦》に説く:陰位陽位を分出して、交替して柔爻剛爻を使用すれば、故に《周易》は六位を以て文采條理を構成す。胡瑗解釋:既に六画を用いて一卦を組成せば、又規定して下より数え起して第一・三・五を陽位と為し、第二・四・六を陰位と為して、これに由って陰陽両道を分出す:陰に属するは柔を取り、陽に属するは剛を取る。六個の爻位に依って陰陽の形象を分派し、剛柔の義理を運用して、それらをして交錯穿插して時に升り時に降りせしめれば、《周易》の六爻の間の上下変動は、便ち花紋の如き條理を織り成したるなり。
説卦・天地定位章
天地定位,山澤通氣,雷風相薄,水火不相射,八卦相錯,數往者順,知來者逆。義曰:此一章言伏羲畫卦之始,始因天地定位之後作為八卦。故因天地之道畫為乾坤之象,取山之象為艮,澤之象為兌,雷之象為震,風之象為巽,水之象為坎,火之象為離。因天地定位之後,取此山澤雷風水火之象,畫為八卦,以盡萬物之理、萬事之情。
《説卦》に説く:天地は上下に位置を定住し、山と澤とは气息相通じ、雷と風とは互相激蕩し、水と火とは併せて相滅せずして、八卦は彼此交錯す。已往の事を推数するは順って来り、未来の事を預知するは逆って去る。胡瑗解釋:この一章は伏犠の卦を画く初めを講ず。彼は天地上下の位を看定した後に初めて八卦を作り、故に先ず天地の道に依って乾・坤の象を画出し、再び山を取って艮と立て、澤を取って兌と立て、雷を取って震と立て、風を取って巽と立て、水を取って坎と立て、火を取って離と立てたり。この種の自然物の上より形象を撷取して来りて以て卦体を配定する做法を、「取象」と叫ぶ。天地の位は既に定まり、又山澤雷風水火の象を取って、一併に画き成して八卦と為して、以て万物の理・万事の情を窮尽す。本章の排する所の乾南坤北・離東坎西の序は、後人はこれを「先天」八卦と称して、事物未だ分かれざる前の本然の次第を指す。
後世聖人觀其天地生成之體,又艮有止靜之徳,澤有潤物之性,山澤之象其氣可以相通。又因雷之能震動萬物,風之能發生萬物,又取雷風之象能相擊搏以生萬物。又觀水火之性不相資射,言水之性其性溼而潤下,火之性其性燥而炎上,因其水火之性不相資射,以成八卦之象,互相變動,互相錯雜,以推測其物理,以稽考其人之情偽。
後世の聖人は天地の万物を生養する形体を観察して、又艮の象る所の山に静止安定の徳有るを見、兌の象る所の澤に万物を滋潤する性有るを見て、山は高く澤は下りて、二者の气息は恰好に往来相通じ得べし。又因って雷は能く万物を震動し風は能く万物を催生するに因りて、便ち雷風の象を取って、それらの互相拍撃搏動して以て万物を生發するを看る。又水火両種の性質は併せて彼此吞滅せざるを観察す:水性は潮湿にして下に向かって浸潤し、火性は乾燥にして上に向かって升騰して、各々その道を行いて互に相滅せず。聖人はこれらの性質に依拠して配成して八卦の象と為して、それらをして互相変動し互相交錯せしめて、以て万物の物理を推求し、人心の真情と虚偽とを考察す。
分其竒偶之數,人之過去未來之事,若數其已往之事,則以順而數之,言其易知也;若數其未來之事,則以逆而數之,言其難知也。是故聖人因此大易之象,逆人之吉凶之兆,皆以逆數之術,以前萬民之用,使人知其吉而背其凶也。是故易逆數也。義曰:言此大易之道,八卦之理交相錯雜,以盡吉凶,然而皆逆知來事,以前萬民之用也。
再び奇数と偶数とを分出して、以て人事の已往と将来とを推算す。已に過去した事を推算するは、便ち時間に順って下に向かって数えるは、あれは知り易きに因る。尚未だ到来せざる事を推算するは、便ち時間に逆って往回に推するは、あれは知り難きに因る。故に聖人は《周易》の卦象に憑藉して、預先に人事の吉凶の徴兆を推求して、用うる所は皆逆推の術にして、万民の行動の前に走在って彼らの為に路を指さんがためなり。《説卦》は因って断言す:《周易》は一門の逆推の学問なり。胡瑗解釋:《周易》の道は、八卦の義理は彼此交錯して、吉凶を把って説き尽くす。而してそれの用力する処は、全て時間に逆って将来の事を預知するに在りて、好く百姓の行動の先に搶じて彼らの為に路を指さんがためなり。
雷以動之。義曰:此一節總明八卦養物之功也。風以散之。義曰:言雷能鼓動萬物,風能散育萬物也。雨以潤之。義曰:潤,滋也,萬物之生非雨而不潤也。日以晅之。義曰:既雨以潤之,又日以乾晅之。艮以止之。義曰:艮以止靜之徳,止於萬物而不使過其分也。兌以說之。義曰:兌能和說萬物,使之成就也。乾以君之。義曰:乾以剛健君臨於物也。坤以藏之。義曰:坤以柔順能含藏於物也。此八卦交相錯雜,然後能成於物也。
《説卦》に説く:雷は来りて万物を震動す。胡瑗解釋:この一節は總じて八卦の万物を養育する功用を説く。経文に風は来りて万物を吹散すと説く。これは雷は能く万物を鼓動してそれをして奮起せしめ、風は能く気機を散布して以て万物を養育するを言う。経文に雨は来りて万物を滋潤すと説く。「潤」とはすなわち滋養にして、万物の萌生はもし雨水なからば便ち潤沢を得ざるなり。経文に日は来りて万物を晒暖すと説く。既に雨水を用いて潤沢せば、又要に日光を用いて烘晒してそれをして乾爽せしめねばならず。経文に艮は来りて万物を止住すと説く。艮は静止安定の徳を具して、能く万物を約束して、それらをして各自の分限を越出せざらしむ。経文に兌は来りて万物をして欣悦せしむと説く。兌は能く和悦の気を以て万物を感化して、それらをして各自成就せしむ。経文に乾は来りて万物を統領すと説く。乾は剛健の徳を以て衆物に君臨す。経文に坤は来りて万物を収蔵すと説く。坤は柔順の徳を以て衆物を含容収蔵す。この八種の作用は交錯配合して、然る後に万物は初めて以て生成を得。
説卦・帝出乎震章
帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。義曰:帝者,生物之宗,以尊而言之則謂之帝,此復言八卦之用也。言帝之始生萬物,必自震而始;潔齊萬物,則在乎巽;令萬物相見而繁盛,必在乎離;致役萬物,則在乎坤;和說萬物,必在乎兌;陰陽相戰,必在乎乾;受賜萬物,則在乎坎;能成萬物,則在乎艮者也。
《説卦》に説く:天帝の生養の功は震より開始し、巽に到りて斉整し、離に到りて相見し、坤に到りて役使の労を尽くし、兌に到りて欣悦し、乾に到りて交戦し、坎に到りて慰労し、艮に到りて吿成す。胡瑗解釋:「帝」は万物を生養する主宰を指して、それが至尊なるに因って帝と称す。この一段は再び功用の一面より八卦を講ず。天帝の万物を生養するは、必ず震より歩を起し、万物をして潔淨斉整せしむるは、巽の上に落つ。万物をして彼此顕現して繁盛せしむるは、離の上に落つ。万物を役使して各々その力を出さしむるは、坤の上に落つ。万物をして和悦せしむるは、兌の上に落つ。陰陽の交争は、乾の上に落つ。万物の沢を受けて歇息を得るは、坎の上に落つ。万物をして最終に成就せしむるは、艮の上に落つ。この節の講ずる所の震東・離南・兌西・坎北の序は、前章と不同して、後人はこれを「後天」八卦と称して、四時の流転・万物の生長収蔵する実際の次第を説く。
萬物出乎震,震東方也。齊乎巽,巽東南也。齊也者,言萬物之潔齊也。離也者明也,萬物皆相見,南方之卦也,聖人南面而聴天下,嚮明而治,蓋取諸此也。義曰:言萬物出乎震,震東方者,以震是東方之卦,斗杓指東為春主生,故萬物皆由震而出也。齊乎巽者,以巽是東南之卦,斗杓指東南之時,萬物潔齊而不相瀆亂也。離者明也,以離是南方之卦,萬物盛大必假離而臨照之,故萬物相見必自離而後可明也。然而聖人之治天下,必法此離為日之象,以明天下之事,取其明無所不矚之義也。
《説卦》に説く:万物は震より生出し、震は東方に属す。巽に到りて斉整し、巽は東南に属す。所謂斉とは、万物の潔淨整飭するを言う。離とはすなわち明にして、万物は此処に到れば皆彼此顕現して、それは南方の卦なり。聖人は南面に向かいて天下を聴治して、光明に面向して施政するは、大概就きて此に取法するなり。胡瑗解釋:万物は震に出でて震は東方に属すと説くは、震は東方の卦なるに因る。北斗の斗柄が東方を指向すれば便ち春天にして、春は生發を主とすれば、故に万物は皆震に由って萌出す。この種の八卦を把って東西南北に配る做法を、「方位」を定むと叫ぶ。巽に到りて斉整すると説き到れば、巽は東南の卦なるに因る。斗柄が東南を指向する時に、万物は長じて潔淨斉整にして相雑乱せず。離はすなわち明と説くは、離は南方の卦なるに因る。万物は盛大に長ぜんと要せば、必ず離火の明の照臨に借らねばならず。故に万物は彼此顕現して、必定要ず離位の後に到りて初めて明朗す。而して聖人の天下を治理するは、必定に離の象る所の太陽を効法して、それを用いて以て天下の事を照明して、取る所はまさに光明遍照・見る所なきなしの意思なり。
坤也者地也,萬物皆致養焉,故曰致役乎坤。兌,正秋也,萬物之所說也,故曰說言乎兌。戰乎乾,乾西北之卦也,言陰陽相薄也。坎者水也,正北方之卦也,勞卦也,萬物之所歸也,故曰勞乎坎。艮,東北之卦也,萬物之所成終而所成始也,故曰成言乎艮。
《説卦》に説く:坤とはすなわち地にして、万物は皆それに靠って以て養育を得。故に役使の功は坤に帰すと説く。兌はまさに秋季に當りて、万物の欣悦する時節なり。故に欣悦の情は兌に帰すと説く。乾に於いて交戦すと説くは、乾は西北の卦に属して、講ずる所は陰気陽気が此処に於いて相迫相薄するなり。坎とはすなわち水にして、正北方の卦なり、も亦た慰労の卦なり。万物は此処に到れば各々帰宿有り。故に慰労の功は坎に帰すと説く。艮は東北の卦に属して、万物は此処に於いて既に上一轮の終結を完成し、又此処に於いて下一轮の開端を開啓す。故に成就の功は艮に帰すと説く。
義曰:坤者地也,以地能生養萬物,是有勞役之事,故曰致役乎坤。兌者說也,萬物說兌必在於秋,故兌為正秋之卦也。然不言方而言秋者,以兌說萬物非止於一方,故言秋也。戰乎乾者,以乾是純陽之卦,主於西北,西是陰地而乾居之,是有陰陽相薄之義,故曰戰乎乾。
胡瑗解釋:坤とはすなわち地にして、地は能く万物を生養して、其中に操労服役の辛苦を包含す。故に役使の功は坤に帰すと説く。兌の意思是欣悦にして、万物が兌に因って欣悦するは必定に秋天に在り。故に兌はまさに秋季に當る卦なり。此処は別処の如く方位を標出せずして単に秋季を説くは、兌の万物をして欣悦せしむるは併せて西方一隅に限らざるに因る。故に改めて時令を用いて以て説く。乾に於いて交戦すと説くに至っては、乾は純陽の卦にして、西北方位を主管するに因る。西方は本來陰の地界に属するに、却って純陽の乾に由ってその上に居れば、陰陽両気は此処に於いて相逼相迫す。故に乾に於いて交戦すと説く。
坎者水也,北方之卦也,上下皆坎,有水之象焉。水行不舍晝夜,所以為勞。萬物之生非水而不滋益,故曰萬物之所歸也。艮者東北之卦也,萬物之所成終、萬品之所成始,皆由艮以本之,其位在丑寅,故曰東北之卦也。
坎とはすなわち水にして、北方の卦なり。この一卦は上下両体は皆坎にして、まさに水の形象を顕出す。水は昼夜に奔流して停まず。故にそれを取って以て労苦の卦と為す。万物の生長は水を離れば便ち滋養を得ざるなり。故に万物は此処に到れば各々帰宿有りと説く。艮は東北の卦にして、万物は此処に於いて上一轮の生長を結束し、又此処に於いて下一轮の萌發を開始して、一終一始は皆艮を以て根本と為す。就きて十二地支の配する所の方位を説けば、艮位は丑と寅の間に居りて、まさに正北と正東の交に在る。故にそれを東北の卦と称す。
説卦・神也者妙万物章
神也者,妙萬物而為言者也。義曰:此已下一節,明八卦生成之用也。言八卦運動,交相錯雜,以妙萬物,然而求其真宰之用,無有逺近,不知所以然而然,是其用如神也。然則謂之神者,以其無形無狀,人之所不見者也。
《説卦》に説く:所謂神とは、就きてそれが万物をして変化莫测ならしむるこの一点に於いて言を立つるなり。胡瑗解釋:ここより以下の一節は、八卦の万物を生養成就する功用を説明す。八卦は運転して息まず彼此交錯して、万物をして変化して神妙にして測り難からしむ。しかし究竟誰が主宰するかを追問せんと要せば、あの主宰は無論遠近とも蹤跡を尋ね到り得ずして、人はただ事情の自然而然に此の如くなるを見るに、却って所以然を説き出し得ず。この種の作用は便ち神に近乎し。それを神と称する所以は、それは形体なく形状なくして、人眼の見る能わざる所なるに因る。
動萬物者莫疾乎雷,撓萬物者莫疾乎風,燥萬物者莫熯乎火,說萬物者莫說乎澤,潤萬物者莫潤乎水,終萬物始萬物者莫盛乎艮。故水火相逮,雷風不相悖,山澤通氣,然後能變化既成萬物也。義曰:動者,鼓動也,言鼓動萬物莫疾乎雷。震者雷之象,故不言震而言雷也。撓散萬物者莫疾乎風,風者巽之象。乾燥萬物莫熯乎火,火者離之象也。兌說萬物莫說乎澤,兌者澤之象也。滋潤萬物莫潤乎水,水者坎之象也。終始萬物者莫盛乎艮,艮者止之象也。
《説卦》に説く:万物を鼓動するに雷より迅疾なるはなし、万物を揺撼するに風より迅疾なるはなし、万物を烘干するに火より熾熱なるはなし、万物を取悦するに澤より和暢なるはなし、万物を滋潤するに水より沾溉なるはなし、万物を終結して又万物を開啓するに艮より完備なるはなし。故に水と火とは互相接続し、雷と風とは互に相違逆せず、山と澤とは气息相通じて、然る後に初めて能く変化流転して万物を成就す。胡瑗解釋:「動」とはすなわち鼓動にして、万物を鼓動するに雷より快きはなし。震卦の取る所はまさに雷象なれば、故に此処に震を説かずして直に雷を説く。万物を揺撼吹散するに風より快きはなし、風は巽卦の取る所の象なり。万物を烘烤乾燥するに火より烈しきはなし、火は離卦の取る所の象なり。万物をして和悦せしむるに澤より勝るはなし、澤は兌卦の取る所の象なり。万物を滋養潤沢するに水より沾溉なるはなし、水は坎卦の取る所の象なり。万物を終結して併せて万物を開啓するに艮より周備なるはなし、艮の取る所は静止の象なり。
水火之性雖不相入,然而相逮,有相資之理;雷風相薄而不相悖逆,山澤相懸而能通氣。夫如是,然後能成變化之道、生成之理也。然則艮不言山而言艮者,以其動撓燥潤之功是雷風水火之性,至於終始萬物之義,于山為,故言艮而不言山也。然而雷風相薄而不言相逆者,蓋雷風若相悖逆,則生物之理息,故言相薄而不言悖逆也。
水と火の性質は虽彼此相容れざるも、却って能く前後接続して、其中に自ら互相憑藉の理有り。雷と風とは互相激蕩して併せて彼此違背せず。山は高く澤は低くして形勢は懸隔するも、气息は却って能く往来相通ず。唯だ此の如くなるのみ、初めて能く変化の道と生養の理とを成就す。前面の幾句は皆物象を挙ぐるに至っては、独り艮は山を説かずして艮を説くは、鼓動・揺撼・烘干・滋潤この幾樣の功用は、本來雷・風・水・火の本性なるに因る。而して万物を終結して又万物を開啓するこの一層の意思は、単に一個の山の字を用いては承擔し起り得ざれば、故に寧ろ卦名の艮を挙げて山象を挙げざるなり。この句の原文は似有脱字せんも、然而その意は推し得べし。雷風は相薄すると説いて相逆を説かざるに至っては、雷風はもし真に彼此違逆せば、万物を生養する理は便ち断絶するに因る。故にただ相激蕩を説いて、相違背を説かざるなり。
説卦・八卦取象章
乾,健也;坤,順也;震,動也;巽,入也;坎,陷也;離,麗也;艮,止也;兌,說也。義曰:此一節說八卦名訓也。乾象天,運行不息,故為健;坤象地,能承順事,故為順;震象雷,能奮動萬物,故為動;巽象風,無所不入,故為入;坎象水,水居險陷,故為陷;離象火,能著於物,故為麗;艮象山,山有止靜之徳,故為止;兌象澤,能澤潤萬物,故為說也。
《説卦》に説く:乾は剛健、坤は柔順、震は奮動、巽は入、坎は陷、離は附麗、艮は静止、兌は欣悦なり。胡瑗解釋:この一節の講ずるは八卦の名称の訓釈、すなわち毎一卦の基本性格なり。乾は天に象を取るは、天体は運行して永遠に停息せざれば、故にそれを剛健と定む。坤は地に象を取るは、地は能く天の施与を承受して順従すれば、故にそれを柔順と定む。震は雷に象を取るは、雷は能く万物を振奮すれば、故にそれを奮動と定む。巽は風に象を取るは、風は孔なく入らざるなければ、故にそれを入と定む。坎は水に象を取るは、水は総じて低窪険陷の処に流向すれば、故にそれを陷と定む。離は火に象を取るは、火は必ず別の东西の上に附着して初めて燃焼し得れば、故にそれを附麗と定む。艮は山に象を取るは、山は静止安定の徳有れば、故にそれを止と定む。兌は澤に象を取るは、澤水は能く万物を滋潤すれば、故にそれを欣悦と定む。
乾為馬,坤為牛,震為龍,巽為雞,坎為豕,離為雉,艮為狗,兌為羊。義曰:此一節說八卦畜獸之象也,所謂逺取諸物者此也。乾為馬,健速之物也;坤為牛,至順能任重也;震為龍,潛動而變於陰也;巽為雞,體多陽,輕舉之物,主於下也;坎為豕,豕主汙溼,故為豕也;離為雉,有文章也;艮為狗,狗能善守禁止外人,故為狗;兌為羊,外柔而不害物也。
《説卦》に説く:乾は馬に象を取り、坤は牛に象を取り、震は龍に象を取り、巽は鶏に象を取り、坎は猪に象を取り、離は雉に象を取り、艮は狗に象を取り、兌は羊に象を取る。胡瑗解釋:この一節は八卦の牲畜禽獣の上に於ける取象を講じ、すなわち《繋辞》の説く所の身外の物より象を取る一路なり。乾は馬に配るは、馬の剛健にして奔走迅速なるを取る。坤は牛に配るは、牛の馴順にして能く重を負い、坤の柔順にして物を載するに合するを取る。震は龍に配るは、龍の水に潜んで能く奮起変化し、震の一陽が二陰の下に動くと相応ずるを取る。巽は鶏に配るは、鶏の体は陽気偏に多く身軽く飛ぶを善くすれども終に地に在るを主と為し、恰も巽風の上より下に入るが如きを取る。坎は猪に配るは、猪の汚湿の地に居るを喜び、坎の水性と相類するを取る。離は雉に配るは、野鶏の羽毛に文采有りて、離の光明に合するを取る。艮は狗に配るは、狗の善く門戸を守り外人を攔阻して、艮の止に合するを取る。兌は羊に配るは、羊の外柔にして物を傷めずして、兌の和悦に合するを取る。
乾為首,坤為腹,震為足,巽為股,坎為耳,離為目,艮為手,兌為口。義曰:此一節說八卦人身之象也,所謂近取諸身者此也。乾尊在上,故為首;坤能包容萬物,故為腹;震動在下,故為足;巽順於人,故為股;坎陽明在內,故為耳;離陽明在外,故為目;艮能止靜其物,故為手;兌能和說於人,故為口。
《説卦》に説く:乾は頭に象を取り、坤は腹に象を取り、震は足に象を取り、巽は大腿に象を取り、坎は耳に象を取り、離は目に象を取り、艮は手に象を取り、兌は口に象を取る。胡瑗解釋:この一節は八卦の人身各部位の上に於ける取象を講じ、すなわち《繋辞》の説く所の近きに就いて自身より象を取る一路なり。乾は尊貴にして最上に居れば、故に頭に配る。坤は能く万物を包容承載すれば、故に腹に配る。震は動を主と為して位は下に在れば、故に足に配る。巽は性は柔順にして人に随って俯仰すれば、故に大腿に配る。坎の一陽は明にして両陰の中に蔵れて、聴覚が内に在るが如同じければ、故に耳に配る。離の一陰は中に居りて両陽は外に在りて、明亮は外に顕れれば、故に目に配る。艮は能く事物をして静止せしめ、手は能く东西を按住すれば、故に手に配る。兌は能く和悦にして人を接し、言語は口より出ずれば、故に口に配る。
乾,天也,故稱乎父;坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男;巽一索而得女,故謂之長女;坎再索而得男,故謂之中男;離再索而得女,故謂之中女;艮三索而得男,故謂之少男;兌三索而得女,故謂之少女。
《説卦》に説く:乾とはすなわち天なれば、故にそれを父と称す。坤とはすなわち地なれば、故にそれを母と称す。震は第一次求索して以て男を得れば、故に長男と叫ぶ。巽は第一次求索して以て女を得れば、故に長女と叫ぶ。坎は第二次求索して以て男を得れば、故に中男と叫ぶ。離は第二次求索して以て女を得れば、故に中女と叫ぶ。艮は第三次求索して以て男を得れば、故に少男と叫ぶ。兌は第三次求索して以て女を得れば、故に少女と叫ぶ。これは便ち八卦を把って父母と六個の子女の一家人に排成したるなり。
義曰:此一節明乾坤六子父母之道也。索者,求也。乾為天,父之道也;坤為地,母之道也。二氣相求勝而男女生也,得父氣者為男,得母氣者為女。乾初求於坤而得長男曰震,乾生於坤也;坤之初求於乾而得長女曰巽,坤生於乾也;乾之再配於坤得中男曰坎,坤再配於乾得中女曰離;乾三配於坤得少男曰艮,坤三配於乾得少女曰兌。二氣相推,八卦著矣,男女之道備矣,天下之情見矣。
胡瑗解釋:この一節は乾坤が六卦を生出して父母の子女を生養するが如き道理を講ず。「索」とはすなわち求取。乾は天を代表して、父親の一路なり。坤は地を代表して、母親の一路なり。陰陽二気は互相求取して此消彼長して、男女は便ちこれに由って産生す:父気を得るは男卦と成り、母気を得るは女卦と成る。乾は第一次に坤に求めて、坤体の最下に於いて一陽を換入れて、長男震を得るは、乾気が坤体に生ずるなり。坤は第一次に乾に求めて、乾体の最下に於いて一陰を換入れて、長女巽を得る。乾は第二次に坤に配して、一陽は中位に落ちて、中男坎を得る。坤は第二次に乾に配して、一陰は中位に落ちて、中女離を得る。乾は第三次に坤に配して、一陽は上位に落ちて、少男艮を得る。坤は第三次に乾に配して、一陰は上位に落ちて、少女兌を得る。二気は此の如く互相推移して、八卦体系は完整に顕現し、男女相生の道は説き全うして、天下の情はここに歴歴として見るべし。
説卦・広明卦象章
乾為天,為圜,為君,為父,為玉,為金,為寒,為冰,為大赤,為良馬,為老馬,為瘠馬,為駁馬,為木果。義曰:此已下廣明卦象之義也。乾為天者,此廣明乾之象也。乾為天,剛健不息,萬物之宗也;為圜,周萬物也;為君為父,有尊嚴之道也;為金為玉,性堅剛也;為寒為冰,氣凝嚴也;為大赤,老陽之色也;為良馬,行健也;為老馬,行健之久也;為瘠馬,無其膚,其骨堅也;為駁馬,堅猛之至也;為木果,老而為實,生之本也。
《説卦》は乾卦の象る所の物を列挙す:天・円形・君主・父親・玉・金・寒・氷・大紅色・良馬・老馬・瘦馬・雑色馬・樹上の果実。胡瑗解釋:ここより往下は詳しく各卦の取象を申説す。乾は天に配るは、天は剛健にして運行し永遠に停息せず、万物の宗主なるに因る。円形に配るは、天体は渾円にして、周遍に万物を籠罩するに因る。君主と父親に配るは、二者は皆尊貴威厳の身分有るに因る。金と玉に配るは、金玉は質地堅硬剛固にして、乾の剛健に合乎するに因る。寒と氷に配るは、乾は西北方を主と為して、その気は凝聚して厳冽なるに因る。大紅色に配るは、紅は老陽の色にして、乾は純陽の卦なるに因る。良馬に配るは、それの奔走強健を取る。老馬に配るは、それの強健已に久しく経歴長遠を取る。瘦馬に配るは、それの皮肉は豊ならずして骨力堅硬を取る。雑色馬に配るは、それの性情堅忍猛烈して極処に到るを取る。樹上の果実に配るは、果実は草木の成熟して老に到りて結成するにして、又是ち下一轮の生長の根本にして、まさに乾の万物の始と為る意思に合するに因る。
坤為地,為母,為布,為釜,為吝嗇,為均,為子母牛,為大輿,為文,為眾,為柄,其於地也為黒。義曰:此一節明坤之象也。坤為地,能生育萬物,故為母;為布,取其廣載也;為釡,取其化生成熟也;為吝嗇,取其生物不移也;為均,取其均平也;為子母牛,取其生育之順也;為大輿,取其能載萬物也;為文,取其色雜也;為眾,取其載物不一也;為柄,取其生物之本也;其於地也為黒,取其極陰之色也。
《説卦》は坤卦の象る所の物を列挙す:地・母親・布帛・鍋釜・吝嗇・均平・母子牛・大車・文采・衆多・柄把。就きて土地に於いて言えば則ち黒色なり。胡瑗解釋:この一節は坤卦の取象を申説す。坤は地に配るは、地は能く万物を生育すれば、故に又母親に配る。布帛に配るは、布幅の広寛にして以て鋪き開けて承載し得べきを取る。鍋釜に配るは、それの能く生を煮熟するを取って、坤の化育成物を象徴す。吝嗇に配るは、地は万物を生養するも却って守持して軽易に移易せざるを取る。均平に配るは、大地の平鋪一片にして偏私する所なきを取る。母子相随う牛に配るは、それの生育する時の柔順を取る。大車に配るは、それの能く万物を装載するを取る。文采に配るは、地上の物色雑陳にして斑駁として観るべきを取る。衆多に配るは、それの承載する东西の品類一ならざるを取る。柄把に配るは、それは万物の生長の依託する所の根本にして、器物に柄有りて執るべきが如同じきを取る。就きて土地の顔色に於いて言えば則ち黒色に配るに至っては、黒は陰の極処に到る色にして、坤は純陰の卦なるを取る。
震為雷,為龍,為玄黃,為旉,為大塗,為長子,為決躁,為蒼筤竹,為萑葦;其於馬也,為善鳴,為馵足,為作足,為的顙;其於稼也,為反生;其究為健,為蕃鮮。義曰:此一節廣明震之象也。為雷,能震於物也;為龍,陰中之畜也;為玄黃,取其蒼雜之色也;為旉,取其敷布而生也;為大塗,取其剛動而上柔,萬物之出也;為長子,以其為初求也;為決躁,以其剛性之甚也;為蒼筤竹,取其堅貞而上虛也;為萑葦,以其類而列也。
《説卦》は震卦の象る所の物を列挙す:雷・龍・青黄相雑の色・花萼の舒放・大路・長子・決断躁急・青嫩の竹・芦荻。就きて馬に於いて言えば、嘶鳴を善くする馬・後左足白の馬・四足皆白の馬・額上に白斑有る馬。就きて庄稼に於いて言えば、種子の甲を反して出ずる。推究して極処に到れば則ち転じて剛健と為り、繁茂鮮活と為る。胡瑗解釋:この一節は詳しく震卦の取象を説く。雷に配るは、雷は能く万物を震動するに因る。龍に配るは、龍は陰処に潜蔵する動物にして、震の一陽が二陰の下に動くと相合するに因る。青黄相雑の色に配るは、草木の初生する時の蒼翠の中に黄を帯ぶる雑色を取る。花萼の舒放に配るは、春気の敷布して万物の萌生するを取る。大路に配るは、震卦の一剛が下に在りて奮動し上面両柔は虚にして開通して、大道の敞開して万物をして涌出せしむるが如きを取る。長子に配るは、震は乾坤の第一次求索の得る所なるに因る。決断躁急に配るは、それの剛健の性子の過ぎて急切なるに因る。青嫩の竹に配るは、竹身の堅韌挺直にして上部中空なるを取る。芦荻に配るは、それの同類叢聚にして成片に排列するを取る。
其於馬也,為善鳴,取其象雷聲之逺聞也;為馵足,取其剛在下也;為作足,取其一動也;為的顙,取其陽下應於上也。其於稼也為反生,取其反甲而出也。其究為健,取其剛行也;為蕃鮮,取其蕃育之盛也。
就きて馬この一類を説けば:善く鳴く馬に配るは、馬鳴の雷声の如く遠聞するを取る。後左足の白を帯ぶる馬に配るは、白の下に顕れて震の一陽の下に在るに合するを取る。四足の併せて起る馬に配るは、一動けば便ち四蹄斉く奔るを取る。額上に白斑を帯ぶる馬に配るは、陽明の色が下より上に応ずるを取る。就きて庄稼を説けば、種子の甲を反し倒生するに配るは、谷種の発芽する時に外殻を頂破して出ずるを取って、まさに震雷の蟄を啓する象なり。推究して極処に到れば転じて剛健と為るは、それの剛直にして前に向かうを取る。繁茂鮮活に配るは、春気の化育して万物の生長茂盛するを取る。
巽為木,為風,為長女,為繩直,為工,為白,為長,為髙,為進退,為不果,為臭;其於人也,為寡髮,為廣顙,為多白眼,為近利市三倍;其究為躁卦。義曰:此一節廣明巽之象也。為木,取其可揉而順也;為風,取其陽在上也;為長女,取其初求也;為繩直,取其齊一也;為工,取其能揉物為器也;為白,取其能潔於物也。
《説卦》は巽卦の象る所の物を列挙す:木・風・長女・繩墨の筆直・工匠・白色・長・高・進退不定・不果決・気味。就きて人に於いて言えば、頭髪稀少・額頭寛闊・眼白偏多・利を逐うに近くして三倍の息を獲る。推究して極処に到れば則ち躁急の卦と成る。胡瑗解釋:この一節は詳しく巽卦の取象を説く。木に配るは、樹木の以て弯曲揉制し得べきにして柔順にして命を聴くを取る。風に配るは、巽卦の両陽が上に在り一陰は下に伏するを取って、風の上に於いて行う象なり。長女に配るは、巽は坤の第一次に乾に求めて得る所なるに因る。繩墨の筆直に配るは、繩墨は一拉すれば便ち斉整画一なるを取る。工匠に配るは、匠人の能く材料を把って揉曲して器と成すを取る。白色に配るは、風の能く吹拂滌蕩して物をして潔淨ならしむるを取る。
為長,取其風行之逺也;為髙,取其風性髙逺也;為進退,取其隨物之上下也;為不果,取其能樂於物也;為廣顙,取其有容也;為多白眼,取其色多白也;為近利,取其躁人之情多近利也;市三倍,取其生物之盛也;為躁卦,取勢躁急也。
長に配るは、風行の路程の遠きを取る。高に配るは、風性の高遠にして能く極処に升到るを取る。進退不定に配るは、風の物勢に随って忽ち上り忽ち下りて定向なきを取る。不果決に配るは、それの一味に物に順い遷就を楽しみて決断を下し得ざるを取る。額頭寛闊に配るは、寛額に容量有りて巽の寛和に合するを取る。眼白偏多に配るは、あの一片の白色を取って、巽の白と為ると同一路なり。財利に趨近するに配るは、躁急の人は多く汲汲として近利するを取る。買売して三倍の息を獲るに配るは、生物の繁盛を取って、引申して獲利豊厚と為す。末に巽は推究して極処に到れば躁卦と成ると言うは、風勢の疾行する急迫の劲头を取る。
坎為水,為溝瀆,為隠伏,為矯輮,為弓輪;其於人也,為加憂,為心病,為耳痛,為血卦,為赤;其於馬也,為美脊,為亟心,為下首,為薄蹄,為曳;其於輿也,為多眚,為通,為月,為盜;其於木也,為堅多心。義曰:此一節廣明坎象也。為水,取其北方也;為溝瀆,取其水行無不通也;為隠伏,取其水行地中也;為矯輮,取其曲直得所也;為弓輪,取其激矢運行;其於人為加憂,取其險難也;為心病,取剛在中也;為耳痛,取其主聴也;為血卦,取其水行地中也;為赤,取其血色也。
《説卦》は坎卦の象る所の物を列挙す:水・溝渠・隠伏・矯直と揉曲・弓と車輪。就きて人に於いて言えば、憂慮身に加わる・心病・耳痛・血に属する卦・紅色。就きて馬に於いて言えば、脊背漂亮の馬・性子急の馬・垂頭の馬・蹄薄の馬・拖沓して行き難き馬。就きて車に於いて言えば、多災障・通行・月・盗賊。就きて樹木に於いて言えば、堅硬にして髓心多し。胡瑗解釋:この一節は詳しく坎卦の取象を説く。水に配るは、坎は北方を主と為して北方は水に属するに因る。溝渠に配るは、水の一路流れ去って通ぜざる所なきを取る。隠伏に配るは、水の地下に潜行して形跡を見えざるを取る。矯直揉曲に配るは、水の或いは直或いは曲とも皆能く各々その宜に安んずるを取る。弓と車輪に配るは、弓の能く箭矢を激発し輪の能く運転前行するを取って、皆曲の中に勁を帯ぶる物なり。就きて人に於いて言えば憂慮に配るは、坎は険難と為して人は険に臨めば則ち憂うを取る。心病に配るは、坎の一陽が両陰の中に陷りて、胸中に鬱結するが如きを取る。耳痛に配るは、坎は人身に於いて聴覚を主と為すを取る。血に属する卦に配るは、水の地中に行うが血の身中に行うが如きを取る。紅色に配るは、血の顔色を取る。
其於馬也,為美脊,取其陽在中也;為亟心,取其急也;為下首,取其水流向下也;為薄蹄,取其水流行也;為曳,取其行地也。其於輿也,為多眚,取其重載也;為通,取其水行也;為月,取其水之明也;為盜,取其潛行也。其於木也,為堅多心,取其剛在內也。
就きて馬この一類を説けば:脊背漂亮の馬に配るは、坎の一陽が中に居りて馬脊の挺起して中に在るが如きを取る。性急の馬に配るは、水流の湍急なるを取る。垂頭の馬に配るは、水の総じて下に向かって流るるを取る。蹄薄の馬に配るは、水流の行いて停まずして蹄薄ければ則ち奔走軽疾なるを取る。拖曳して行き難き馬に配るは、水の地に貼って流るるを取る。就きて車を説けば:多災障に配るは、重載は事を出し易くして坎の険陷に合するを取る。通行に配るは、水流の通ぜざる所なきを取る。月に配るは、月光の水の如く清冷にして、且つ月は陰に属して夜を主と為すを取る。盗賊に配るは、水の暗中に渗行して盗賊の蹤を潜むるが如きを取る。就きて樹木を説けば、堅硬にして髓心多きに配るは、坎の一陽剛が内に在りて木心の堅実なるが如きを取る。
離為火,為日,為電,為中女,為甲冑,為戈兵;其於人也,為大腹;為乾卦,為鱉,為蟹,為蠃,為蚌,為龜;其於木也,為科上槁。義曰:此一節廣明離之象也。為火,取南方也;為日,取火精也;為電,取有明也;為中女,取再求也;為甲冑,取剛在外也;為戈兵,取外剛利也。其於人也為大腹,取其陰在內也;為乾卦,取其日所烜也;為鱉、為蟹、為蠃、為蚌、為龜,皆取剛在外也;其於木也為科上槁,取其陰在中而空也。
《説卦》は離卦の象る所の物を列挙す:火・太陽・閃電・中女・鎧甲頭盔・戈矛兵器。就きて人に於いて言えば、大腹。又是ち乾燥の卦と為り、鼈・蟹・螺・蚌・亀と為る。就きて樹木に於いて言えば、中空にして上端枯槁す。胡瑗解釋:この一節は詳しく離卦の取象を説く。火に配るは、離は南方を主と為して南方は火に属するに因る。太陽に配るは、日は火の精華なるを取る。閃電に配るは、電光に明亮の義有るを取る。中女に配るは、離は坤の第二次に乾に求めて得る所なるに因る。鎧甲頭盔に配るは、離卦の両陽が外に在り一陰は中に居りて、堅甲の身外に護るが如きを取る。戈矛兵器に配るは、兵刃の外面剛硬鋒利にして、同じく外剛中虚の象なるを取る。就きて人に於いて言えば大腹に配るは、一陰の虚にして中間に在りて腹中空闊なるが如きを取る。乾燥の卦に配るは、日光の曝晒して物をして乾爽ならしむるを取る。鼈・蟹・螺・蚌・亀に配るは、これらは皆外殻堅硬にして内裏柔軟のものにして、皆剛の外に在る形象を取る。就きて樹木を説けば中空にして上端枯槁するに配るは、一陰が中に居りて木心虚空にして上頭は便ち干枯するを取る。
艮為山,為徑路,為小石,為門闕,為果蓏,為閽寺,為指,為狗,為鼠,為黔喙之屬;其於木也,為堅多節。義曰:此一節廣明艮之象也。為山,取其靜而不動也;為徑路,取其可上而行中也;為小石,取其陽堅也;為門闕,取其止出入也;為果蓏,取其陽在上也;為閽寺,取其禁止也;為止,取其止物也;為狗為鼠,取其止人也;為黔喙之屬,取其剛喙而能喙物也;其於木也為堅多節,取其陽生也。
《説卦》は艮卦の象る所の物を列挙す:山・小路・小石頭・門と闕・樹上の果と地上の瓜・門を守る閽人と内廷の寺人・手指・狗・鼠・黒嘴の猛禽走獣こういう類。就きて樹木に於いて言えば、堅硬にして多節。胡瑗解釋:この一節は詳しく艮卦の取象を説く。山に配るは、山の静止して動かざるを取る。小路に配るは、山間に径有りて以て級を拾いて上行して中途に通到り得べきを取る。小石頭に配るは、艮の一陽が上に在りて質地堅硬なるを取る。門と闕に配るは、門闕の能く出入を攔住してまさに艮の止に合するを取る。果と瓜に配るは、艮の一陽が上に在り二陰は下に在りて、果実の枝頭に結ぶるが如きを取る。閽人寺人に配るは、彼らの職守は便ち門を把って閑人を禁止するを取る。止に配ると説くに至っては、それの能く外物をして停住せしむるを取る。狗と鼠に配るは、狗の能く来人を止住し鼠の能く伏蔵して動かざるを取る。黒嘴の猛禽走獣に配るは、それらの喙硬にして力有りて能く东西を啄食するを取る。就きて樹木を説けば堅硬多節に配るは、陽気の結聚して以て節疤を生成するを取る。
兌為澤,為少女,為巫,為口舌,為毀折,為附決;其於地也,為剛滷;為妾,為羊。義曰:此一節廣明兌之象也。為澤,取潤下也;為少女,取三索也;為巫,取其順也;為口舌,取其能口說人也;為毀折,取其缺於上也;為附決,取柔附上非所麗也;其於地也為剛滷,取其下堅而上潤也;為妾,取其少女也;為羊,取其中壯而外順也。
《説卦》は兌卦の象る所の物を列挙す:澤・少女・巫祝・口舌・毀壊折断・附着して而して後に决裂す。就きて土地に於いて言えば、堅硬の鹽鹼地。又是ち妾と為り、羊と為る。胡瑗解釋:この一節は詳しく兌卦の取象を説く。澤に配るは、澤水の滋潤にして低き処に流向するを取る。少女に配るは、兌は坤の第三次に乾に求めて得る所なるに因る。巫祝に配るは、巫者の柔順を以て神明に事奉して人意を傳達するを取る。口舌に配るは、兌の上一陰が口を開きて能く言語を以て人を説くを取る。毀壊折断に配るは、兌の上は一画を缺きて物の頂上より折損するが如きを取る。附着して而して後に决裂するに配るは、一陰の柔が両陽の上に附して、本來當に附すべき所に非ざれば、終須に分離せねばならざるを取る。就きて土地を説けば鹽鹼地に配るは、澤底の堅硬にして上に水を積して浸潤し、久しければ則ち鹵を泛すを取る。妾に配るは、兌は本來少女にして、妾はすなわち女子の下に居る者なり。羊に配るは、羊の内壮にして外順にして、兌の二陽が内に在り一陰が外に在るに合するを取る。
序卦
義曰:夫序卦者,所以序說六十四卦之義也。按文王既繇六十四卦,分為上下二篇,其先後之次,其理未見,在於常常之人故難曉矣。孔子就上下二篇,各序其相次之義,以序說六十四卦之本,因以發明大易之淵蘊,故謂之序卦。自乾坤而下至於既濟未濟,皆言相受之理也。
胡瑗の解釈:《序卦》の一篇は、六十四卦の配列の義理を順に説き明かすためのものである。文王が六十四卦に卦辞を付したのち、それらを上下二篇に分けたが、各卦が先後相承する次第の理は明示されず、尋常の人には悟りがたかった。そこで孔子は上下二篇に即して、卦と卦とが相次ぐ意図をそれぞれ並べ立て、六十四卦の次序に根拠を与え、これによって『周易』に秘められた深い義蘊を闡き明かした。だからこの篇を《序卦》という。《乾》《坤》より下、《既済》《未済》に至るまで、篇を通じて言うのは、前の卦がいかに後の卦を引き出し、後の卦がいかに前の卦を承けるかという理である。
有天地然後萬物生焉,盈天地之間者唯萬物,故受之以屯,屯者盈也。義曰:夫乾卦是伏羲所畫八純之卦,乾者天之用也,生成之祖宗也,萬物之生必自乾而始,故乾為六十四卦之首也。然而獨陽不生,獨陰不成,陽不得陰,不能成生物之道;天不降,地無以為育物之理。故有天然後有地,地者載萬物之本也。坤者地之用也,坤能順承於天,以生成萬品之物,故以坤次於乾也。故乾坤者,天地之用,萬事之本始者也。然天地之生萬物,必須屯難然後成也,故草木之生莩甲之時,必先屯難而後至於盛大,盈滿於天地之間也,故屯卦所以次於乾坤也。
《序卦》に曰く:天地があって、それから万物が生まれる。天地の間に盈ち満ちるのは万物だけだから、次いで《屯》卦をもって受ける。屯は盈の義である。胡瑗の解釈:《乾》卦は伏羲が画いた八つの純卦の一つで、乾は天の功用を表し、万物を生養する総ての根源であり、万物の発生は必ず乾から始まる。だから乾は六十四卦の首に据えられる。しかし陽だけでは生まず、陰だけでは成らない。陽が陰の配合を得なければ、万物を化生する道を成就できず、天が気を降ろさなければ、地も万物を育てる理を展開できない。だから天があって、それから地があり、地は万物を載せる根本である。《坤》卦は地の功用を表し、坤は柔順に天の施与を承けて、もって万品の物を生養する。ゆえに《坤》は《乾》に次ぐ。乾坤の二卦は天地の功用であり、万事の始まりである。そして天地が万物を生養するには、必ず先に艱難困頓を経て初めて成就する。草木が芽吹き莩甲(ふこう)する時、必ずまず土中で屈曲・苦闘し、それから盛大に成長して天地の間に盈満する。だから《屯》卦は《乾》《坤》の次に配されるのである。
屯者物之始生也,物生必蒙,故受之以蒙,蒙者蒙也,物之稺也。物稺不可不養也,故受之以需,需者飲食之道也。飲食必有訟,故受之以訟。訟必有眾起,故受之以師,師者眾也。眾必有所比,故受之以比,比者比也。比必有所畜,故受之以小畜。物畜然後有禮,故受之以履。
《序卦》に曰く:屯は万物が初めて生ずる時である。物は生ずれば必ず蒙昧で開けないから、《蒙》卦をもって受ける。蒙とは蒙昧で、事物の幼稚なあり方を言う。幼稚であれば養わないわけにいかないから、《需》卦をもって受ける。需は飲食供養の道を説く。飲食の利があれば必ず争いが起きるから、《訟》卦をもって受ける。争訟が起きれば必ず衆が集まって争うから、《師》卦をもって受ける。師とは衆である。衆が集まれば必ず親附・依託する所があるから、《比》卦をもって受ける。比とは親しく相扶えることである。親比すれば必ず蓄え集める所があるから、《小畜》卦をもって受ける。物が蓄えられて後に礼の節制を要するから、《履》卦をもって受ける。
義曰:夫物既屯難而生,未至於盛大,故必蒙然而盤屈,盤屈不已,然後盛大,故以蒙卦次於屯也。然物生蒙昧,若不滋潤之以成生養之道,則不能成也,故以需卦次於蒙也。然而需者養也,飲食之道也,飲食之道養而不已,必有其爭訟之事,故以訟卦次於需也。然而爭訟不已,物情乖離,必有行師用兵之事,故以師卦次於訟也。行師不已,必須親比,故以比卦次於師也。然而親比之道貴於得正,既得其正,必有所畜,故以小畜次於比也。物既畜聚,必須合禮,故以履卦次於小畜也。
胡瑗の解釈:万物は艱難のうちに生まれ、まだ盛大に至らないから、必ず蒙昧として蟠屈の状態にある。蟠屈して止まず、それから盛大に向かう。ゆえに《蒙》卦を《屯》の次に置く。事物は生まれて蒙昧なら、滋潤を加えて生養の道を成さなければ成長できない。ゆえに《需》卦を《蒙》の次に置く。しかるに需とは養であり、飲食の道である。飲食の供養が止まず、人がそれぞれその欲する所を求めれば、必ず争訟の事が生ずる。ゆえに《訟》卦を《需》の次に置く。争訟が止まなければ人心が乖背し離れ、必ず兵を興し衆を動かすに至る。ゆえに《師》卦を《訟》の次に置く。兵を用いることは長く続かず、衆人は終に彼此親附しなければならない。ゆえに《比》卦を《師》の次に置く。そして親附の道は正を得ることを貴ぶ。正を得れば自ずと蓄える所がある。ゆえに《小畜》を《比》の次に置く。財物がすでに蓄積すれば、必ず礼をもってこれを約束しなければならない。ゆえに《履》卦を《小畜》の次に置く。
履而泰然後安,故受之以泰,泰者通也。物不可以終通,故受之以否。物不可以終否,故受之以同人。義曰:能行禮者其身必安,故以泰卦次於履也。安之既久,必有其否,故以否卦次於泰卦也。然而否之既久,其道必亨,必須和同,故以同人之卦次於否卦也。
《序卦》に曰く:礼を践んで後に泰平となり、泰平になって後に安んずる。ゆえに《泰》卦をもって受ける。泰とは通達である。事物は終始通達し続けることはできないから、《否》卦をもって受ける。また終始閉塞し続けることもできないから、《同人》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:礼に依って行える者はその身必ず安し。だから《泰》を《履》の次に置く。安んじること既に久しければ、必ずその否塞が生ずる。だから《否》を《泰》の次に置く。否塞が既に久しければ、その道は必ず亨る。亨るには人心の和同によらなければならない。だから《同人》の卦を《否》卦の次に置く。
與人同者,物必歸焉,故受之以大有。有大者不可以盈,故受之以謙。有大而能謙必豫,故受之以豫。義曰:既與人同,眾物必歸,必須大有其眾,故以大有次於同人也。既大有其眾,不可剛暴,必須謙順,故以謙卦次於大有也。然而既大有天下之眾,又能謙順,則人必悅豫而隨之,故以豫卦次於謙也。
《序卦》に曰く:人と同じくする者には、物が必ず帰する。ゆえに《大有》をもって受ける。大いに有する者は盈満してはならない。ゆえに《謙》卦をもって受ける。大いに有して能く謙れば、必ず悦豫する。ゆえに《豫》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:既に人と和同すれば、衆物は自ずと帰附し、遂に擁する人衆が極めて広大となる。だから《大有》を《同人》の次に置く。既に多くの帰附する人を擁したなら、剛愎・暴戻であってはならず、必ず謙遜・柔順でなければならない。だから《謙》卦を《大有》の次に置く。天下の衆を有し、また謙順をもって人に接すれば、人心は必ず歓悦して喜んで随う。だから《豫》卦を《謙》の次に置く。
豫必有隨,故受之以隨。以喜隨人者必有事,故受之以蠱,蠱者事也。有事而後可大,故受之以臨。義曰:天下既悅豫,則人樂然而隨之,故以隨卦次於豫也。然而以喜隨人,久而必極,必敗於成事,故以蠱卦次於隨卦也。事既已久敗,必須有才徳之人以臨治之,故以臨卦次於蠱也。
《序卦》に曰く:悦豫すれば必ず随う者がある。ゆえに《随》卦をもって受ける。喜びをもって人に随う者には必ず事が生ずる。ゆえに《蠱》卦をもって受ける。蠱とは事である。事あって後に大いなる可し。ゆえに《臨》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:天下が既に悦豫すれば、人心は自ずと楽しんで従う。だから《随》を《豫》の次に置く。ただ嬉しさだけで人に随うと、日久しくすれば必ず極に至り、成し遂げた事をも敗壊する。だから《蠱》を《随》の次に置く。「蠱」は器皿を久しく置いて虫が生じ敗れるの義を取る。事が積み久しくして既に敗れれば、必ず才徳の士が出てこれを整治しなければならない。だから《臨》を《蠱》の次に置く。
臨者大也,物大然後可觀,故受之以觀。可觀而後有所合,故受之以噬嗑。義曰:臨人之道必在中正,中正必有可觀,故以觀卦次於臨也。觀民之道必以徳化,徳化既行,必須去其剛梗之物,故以噬嗑次於觀也。嗑者合也,物不可以苟合而已,故受之以賁,賁者飾也。義曰:物既相合,必須修飾於外,故以賁卦次於噬嗑也。致飾然後亨則盡矣,故受之以剝。義曰:物既文飾,久而必敝,故以剝卦次於賁也。
《序卦》に曰く:臨とは大である。物が大きくなって後に観る可きがある。ゆえに《観》卦をもって受ける。観る可きがあって後に合う所有り。ゆえに《噬嗑》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:上に居って下に臨む道は中正を持守しなければならない。中正あれば必ず観る可きがある。だから《観》を《臨》の次に置く。民を観化する道は徳の感化によらなければならない。徳化が既に行われれば、強梗に服さない者を除かねばならない。口中で咬み合わせて梗塞する物を断ち去るがごとし。だから《噬嗑》を《観》の次に置く。《序卦》に曰く:嗑とは合である。物は苟且に合うだけではいけない。ゆえに《賁》卦をもって受ける。賁とは文飾である。胡瑗の解釈:事物が既に相合すれば、外に修飾を要する。だから《賁》を《噬嗑》の次に置く。《序卦》にまた曰く:文飾を極めて後に亨るなら、道は尽きる。ゆえに《剥》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:ひたすら文飾を講究すれば、日久しくして必ず破敝する。だから《剥》を《賁》の次に置く。
剝者剝也,物不可以終盡,剝窮上反下,故受之以復。復則不妄矣,故受之以無妄。有無妄然後可畜,故受之以大畜。物畜然後可養,故受之以頤,頤者養也。不養則不可動,故受之以大過。義曰:物不可終剝,必復其性,故以復卦次於剝也。既復其性,必有由中之信以行於己,故以無妄次於復也。物既無妄,必有可畜,故以大畜次於無妄也。物既大畜,必有所養之道,故以頤卦次於大畜也。養之必以其道,苟失其節,必致於大過,故以大過次於頤卦也。
《序卦》に曰く:剥とは剥落である。物は終りまで尽きることはない。剥落が上に窮まれば反って下に返る。ゆえに《復》卦をもって受ける。復すれば妄りでなくなる。ゆえに《无妄》卦をもって受ける。无妄あって後に蓄える可し。ゆえに《大畜》卦をもって受ける。物を畜して後に養う可し。ゆえに《頤》卦をもって受ける。頤とは養である。養わなければ動くべからず。ゆえに《大過》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:物は剥落し続けることはなく、剥が極に至れば必ずその本来の性に復る。だから《復》を《剥》の次に置く。性が既に復れば、内心に自ずと真実无偽の誠信が生じ、これをもって身を立て事を行う。だから《无妄》を《復》の次に置く。既に真実で欺かなければ、自ずと蓄積する所能る。だから《大畜》を《无妄》の次に置く。既に大いに蓄積すれば、養育の道を要する。だから《頤》を《大畜》の次に置く。養育は必ず法度に合わなければならず、節制を失えば過ぎるに至る。だから《大過》を《頤》卦の次に置く。
物不可以終過,故受之以坎,坎者陷也。義曰:物既大過,必至險陷,故以坎卦次於大過也。陷必有所麗,故受之以離,離者麗也。義曰:險難既久,必須明徳之人以治之,故以離卦次於坎也。自此以上凡三十卦為上經,統言天地之道,故以坎離而終之,其實三才之道皆備矣。蓋咸恆首明人事,夫子以丁寧而說之,後人以簡編重大而分之也。
《序卦》に曰く:物は終りまで過ぎることはできない。ゆえに《坎》卦をもって受ける。坎とは陥穽である。胡瑗の解釈:既に大いに過ぎれば、必ず険陥に至る。だから《坎》を《大過》の次に置く。《序卦》にまた曰く:陥ちれば必ず附麗する所有り。ゆえに《離》卦をもって受ける。離とは附麗である。胡瑗の解釈:険難が既に久しければ、徳行の明徳ある人が出てこれを治めなければならない。だから《離》を《坎》の次に置く。《乾》から《離》まで凡そ三十卦を合わせて上経とし、総じて天地の道を言う。ゆえに坎離水火をもって結びとする。実は三才の道は上経に備わっている。下経は《咸》《恒》をもって始め、人事を重んずる。孔子が《序卦》のうちで丁寧に反覆して説いたのである。上下二篇に分けたのは、後人が竹簡の篇幅が重すぎるためにした区分である。
序卦・下経
有天地然後有萬物,有萬物然後有男女,有男女然後有夫婦,有夫婦然後有父子,有父子然後有君臣,有君臣然後有上下,有上下然後禮義有所錯。義曰:自此以下凡三十四卦,咸恆首明夫婦之道,人倫之本,故為下經之首也。有天地然後有萬物者,此廣明夫婦之道必自陰陽為本始也。夫天地交錯而生萬物,而有男女;男女既成,則有夫婦;夫婦既正,則有父子;父子既立,則有君臣;君臣既正,則有上下;既有上下,則禮義之道有所注錯。此正天下、治邦國、人倫之大本也。
《序卦》に曰く:天地あって後に万物あり、万物あって後に男女あり、男女あって後に夫婦あり、夫婦あって後に父子あり、父子あって後に君臣あり、君臣あって後に上下あり、上下あって後に礼義の措く所有り。胡瑗の解釈:ここより下、凡そ三十四卦を下経とする。冒頭の《咸》《恒》二卦が説くのは夫婦の道であり、それは人倫の根本であるから、下経の首に据える。天地あって後に万物ありというのは、まさに夫婦の道が必ず陰陽を本源とすることを明かすのである。天地の二気が交感して万物を化生し、これによって男女がある。男女が既に成れば夫婦を結ぶ。夫婦の倫が既に正しければ父子がある。父子の倫が既に立てば君臣がある。君臣の分が既に正しければ尊卑・上下がある。上下の次第があれば、礼義の道に安置する所がある。これが天下を正し、邦国を治め、人倫を繋ぐ根本である。
夫婦之道不可以不久也,故受之以恆,恆者久也。物不可以久居其所,故受之以遯,遯者退也。義曰:夫咸者,感也。艮體在下,兌體在上,艮為少男,兌為少女,以少男下於少女,以成夫婦之道,以成咸感之象,此萬世不易之法也。然而咸道貴速,故以二少而言之。夫婦之道不可不久,以須常久然後可以成室家之道也,故以恆卦次於咸也。物既常久,必至退遯,故以遯卦次於恆也。
《序卦》に曰く:夫婦の道は久しくあらざるべからず。ゆえに《恒》卦をもって受ける。恒とは久である。物はその所に久しく居るべからず。ゆえに《遯》卦をもって受ける。遯とは退くである。胡瑗の解釈:咸とは感応である。《咸》卦は艮が下にあり兑が上にある。艮は少男、兑は少女であり、少男が自ら少女の下に屈して、これによって夫婦の道を成し、両情相感の象を構成する。これは万世不易の理である。而るに感応は速やかで真摯なるを貴ぶ。ゆえに特に少男・少女を取って説を立てる。少年男女の相感は最も純摯で切迫するからである。夫婦の道は久しくあらざるべからず、必ず持久し得て、それから家室の道が成立する。だから《恒》を《咸》の次に置く。物が既に一つの状態を長く保てば、勢い退避に転ずる。だから《遯》を《恒》の次に置く。
物不可以終遯,故受之以大壯。義曰:物不可以終遯而退處之,必須用剛壯之道以出其所處也,不動則不能出,故以大壯次於遯也。物不可以終壯,故受之以晉,晉者進也。義曰:物既大壯,動而出乎遯,必須進之,故以晉卦次於大壯也。
《序卦》に曰く:物は終りまで遯るべからず。ゆえに《大壮》をもって受ける。胡瑗の解釈:人は永遠に退避・隠処しているわけにはいかず、総じて剛健・強盛の法をもってその処する困難から出なければならない。奮起して動かなければ出られない。だから《大壮》を《遯》の次に置く。《序卦》にまた曰く:物は終りまで壮なべからず。ゆえに《晋》卦をもって受ける。晋とは進である。胡瑗の解釈:既に剛壮となり、奮起して退避の境地を脱したなら、続いて前進して取らねばならない。だから《晋》を《大壮》の次に置く。
進必有所傷,故受之以明夷。義曰:物不可以久進,進之不已,必為人之所不與;人既不與,必有所傷,故以明夷卦次於晉也。夷者傷也,傷於外者必反其家,故受之以家人。義曰:傷於外者必反於家,故以家人之卦次於明夷也。家道窮必乖,故受之以睽。義曰:夫治家之道必須嚴正然後無咎,苟失嚴正,則其道必乖,故以睽卦次於家人也。
《序卦》に曰く:進めば必ず傷つく所有り。ゆえに《明夷》をもって受ける。胡瑗の解釈:物は長く進み止まないことはできない。進取して歇まることを知らなければ、必ず衆人に容れられない。衆人が既に相助けなければ、自身は損傷を受ける。だから《明夷》を《晋》の次に置く。《序卦》に曰く:夷とは傷である。外で傷を受けた者は必ずその家に返る。ゆえに《家人》をもって受ける。胡瑗の解釈:外で傷つけば家に退き返る。だから《家人》を《明夷》の次に置く。《序卦》にまた曰く:家道が窮すれば必ず乖れる。ゆえに《睽》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:家を治める道は厳しく端正でなければならず、それでこそ咎がない。ひとたび厳正を失えば、家中の道は必ず乖戾して心が離れる。だから《睽》を《家人》の次に置く。
睽者乖也,乖必有難,故受之以蹇。義曰:物既乖離,必成蹇難之事,故以蹇卦次於睽也。蹇者難也,物不可以終難,故受之以解,解者緩也。緩必有所失,故受之以損。損而不已必益,故受之以益。益而不已必決,故受之以夬。義曰:物不可以久難,必須解而散之,故以解卦次於蹇也。解人之難,必有所損,故以損卦次於解也。損之不已,必須益之,故以益卦次於損也。益之不已,必須決去之,故以夬卦次於益也。
《序卦》に曰く:睽とは乖である。乖れれば必ず難が生ずる。ゆえに《蹇》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:人情が既に乖離すれば、必ず艱難・険阻の事を醸成する。だから《蹇》を《睽》の次に置く。《序卦》に曰く:蹇とは難である。物は終りまで難なるべからず。ゆえに《解》卦をもって受ける。解とは緩である。緩やかになれば必ず失う所有り。ゆえに《損》卦をもって受ける。損して止まなければ必ず益す。ゆえに《益》卦をもって受ける。益して止まなければ必ず決する。ゆえに《夬》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:物は長く艱難の中に困っていることはできず、必ず纾解・疏散を図らなければならない。だから《解》を《蹇》の次に置く。人の患難を纾解すれば、己は必ず耗損する所有る。だから《損》を《解》の次に置く。ひたすら減損してはいけない。転じて補益しなければならない。だから《益》を《損》の次に置く。ひたすら增益してもいけない。積み満ちれば決して去らなければならない。だから《夬》を《益》の次に置く。
夬者決也,決必有所遇,故受之以姤。義曰:剛決之道必須以正,既以正而決之,則君子有所喜遇也,故以姤卦次於夬也。姤者遇也,物相遇而後聚,故受之以萃,萃者聚也。聚而上者謂之升,故受之以升。升而不已必困,故受之以困。困乎上者必反下,故受之以井。井道不可不革,故受之以革。義曰:君子既有所遇,則萬物莫不萃聚之,故以萃卦次於姤也。既萃之上,必須升進,故以升卦次於萃也。升而不已,其道必困,故以困卦次於升也。升之既久,必反於下,故以井卦次於困也。井道既得其所,不可不革治之,故以革卦次於井也。
《序卦》に曰く:夬とは決である。決して去れば必ず遇合する所有り。ゆえに《姤》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:剛をもって邪悪を決去するには、正道に依らなければならない。既に正を守って決すれば、君子は自ずと喜ぶべき遇合を得る。だから《姤》を《夬》の次に置く。《序卦》に曰く:姤とは遇である。物は相遇いて後に聚まる。ゆえに《萃》卦をもって受ける。萃とは聚である。聚まって上るを升と謂う。ゆえに《升》卦をもって受ける。升りて止まなければ必ず困む。ゆえに《困》卦をもって受ける。上に困む者は必ず下に反る。ゆえに《井》卦をもって受ける。井の道は革めざるべからず。ゆえに《革》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:君子が既に遇合する所有れば、万物は彼の身辺に聚まらないものはない。だから《萃》を《姤》の次に置く。聚集が既に成れば、進んで上に升進しなければならない。だから《升》を《萃》の次に置く。上って止まることを知らなければ、その路数は必ず困窮に至る。だから《困》を《升》の次に置く。上ること既に久しければ、終に下に落ち返り、水が落ちて井に汲まれるがごとし。だから《井》を《困》の次に置く。井が既に所を得て置き停えられても、日が経てば淤積して、改めて疏浚・改造せざるを得ない。だから《革》を《井》の次に置く。
革物者莫若鼎,故受之以鼎。義曰:革之必得其道,有鼎新之義焉,故以鼎卦次於革也。主器者莫若長子,故受之以震,震者動也。物不可以終動,止之,故受之以艮,艮者止也。物不可以終止,故受之以漸,漸者進也。進必有所歸,故受之以歸妹。得其所歸者必大,故受之以豐,豐者大也。窮大者必失其居,故受之以旅。旅而無所容,故受之以巽。
《序卦》に曰く:物を革めるに鼎の如くはない。ゆえに《鼎》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:変革がその道を得れば、自ずと故を革め新を取る意がある。鼎はまさに烹煮して新たに成す器である。だから《鼎》を《革》の次に置く。《序卦》に曰く:器を主るに長子の如くはない。ゆえに《震》卦をもって受ける。震とは動である。物は終りまで動くべからず、これを止める。ゆえに《艮》卦をもって受ける。艮とは止である。物は終りまで止まるべからず。ゆえに《漸》卦をもって受ける。漸とは進である。進めば必ず帰する所有り。ゆえに《帰妹》をもって受ける。帰する所を得る者は必ず大いなり。ゆえに《豊》卦をもって受ける。豊とは大である。大に窮まる者は必ずその居を失う。ゆえに《旅》卦をもって受ける。旅して容れる所なければ、《巽》卦をもって受ける。
義曰:物既鼎新,凡所主者莫非長子,故以震卦次於鼎也。物不可以終動,動必有所止,故以艮卦次於震也。止物必有所漸,故以漸卦次於艮也。漸必有所歸,故以歸妹次於漸也。物既歸之,可以致天下於豐大,故以豐卦次於歸妹也。時既豐大,或有所過失而為旅,故以旅卦次於豐也。既居為旅,不可以剛強,必須巽順,故以巽卦次於旅也。
胡瑗の解釈:事物が既に故を革め鼎を新たにしたなら、宗廟の祭器を承け家國の大事を主る者は長子以外にない。震はまさに長男の卦である。だから《震》を《鼎》の次に置く。物はいつまでも動蕩していられず、動きが一定の時に至れば止まらねばならない。だから《艮》を《震》の次に置く。物を止めるにも循序漸進を要し、驟かに止めてはならない。だから《漸》を《艮》の次に置く。漸進には総じて帰宿があり、女子が漸々行って終に夫家に帰するがごとし。だから《帰妹》を《漸》の次に置く。衆物が既に帰附すれば、天下を豊大に致すことができる。だから《豊》を《帰妹》の次に置く。豊盛の時、人はしばしば過失によって外に流落して羈旅となる。だから《旅》を《豊》の次に置く。既に羈旅に処すれば、剛を逞しくできず、必ず謙遜・順従しなければならない。だから《巽》を《旅》の次に置く。
巽者入也,入而後說之,故受之以兌,兌者說也。說而後散之,故受之以渙。義曰:人既巽順,物亦和說,故以兌卦次於巽也。說之既久,不可偏繫,必須散之,故以渙卦次於兌也。渙者離也。義曰:物既渙散,必致於乖離也。物不可以終離,故受之以節。義曰:物不可以終離,必須有止節之道也,故以節卦次於渙也。
《序卦》に曰く:巽とは入である。入って後にこれを説(よろこ)ばしめる。ゆえに《兌》卦をもって受ける。兌とは説である。説ばせて後にこれを散ず。ゆえに《涣》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:人が既に巽順なれば、外物もまた彼と和悦して処する。だから《兌》を《巽》の次に置く。欣悦の日が久しければ、人心を偏して一処に係恋させてはならず、必ずこれを疏散しなければならない。だから《涣》を《兌》の次に置く。《序卦》にまた曰く:涣とは離である。胡瑗の解釈:事物が既に涣散すれば、必ず乖離に至る。《序卦》に曰く:物は終りまで離るべからず。ゆえに《節》卦をもって受ける。胡瑗の解釈:離散に止境なしとしてはならず、必ず節制・約束の道をもって収束しなければならない。だから《節》を《涣》の次に置く。
節而信之,故受之以中孚。義曰:為節之道,必須由中之信以符合之,故以中孚次於節也。有其信者必行之,故受之以小過。義曰:孚信之道,或失其正,或過越其事,必須小有所過,故以小過之卦次於中孚也。
《序卦》に曰く:節してこれを信ぜしめる。ゆえに《中孚》をもって受ける。胡瑗の解釈:節制の道を行うには、必ず内心の誠信をもってこれに符合しなければならない。さもなくば外の約束に過ぎない。だから《中孚》を《節》の次に置く。「中孚」とは内心の誠信が信符のごとく合することである。《序卦》にまた曰く:信ある者は必ずこれを行う。ゆえに《小過》をもって受ける。胡瑗の解釈:誠信の道の施行には、或いは正当を離れ、或いは分を越えることがあって、略々過越を免れない。だから《小過》を《中孚》の次に置く。
有過物者必濟,故受之以既濟。義曰:事既過越,凡矯過者必附人而行之,既附人而行之,則有所濟,故以既濟之卦次於小過也。物不可窮也,故受之以未濟終焉。義曰:物既得所濟,或居安不能慮危,故以未濟之卦次於既濟也。
《序卦》に曰く:物に過ぐる者は必ず済る。ゆえに《既済》をもって受ける。胡瑗の解釈:事が既に略々過越したなら、凡そ過を矯める者は総じて衆人の力に依ってこれを推行しなければならない。衆に依って行い得れば、事は済るを得る。だから《既済》を《小過》の次に置く。《序卦》にまた曰く:物は窮まるべからず。ゆえに《未済》をもって終りとする。胡瑗の解釈:事は成し遂げられても、人は常に安に居って危を慮らず、成功のうちに未成の機が伏在する。だから《未済》を《既済》の次に置く。
然觀六十四卦,始於乾坤,終於未濟者,以其乾坤是生成之宗,故為六十四卦之首也。必以未濟而終之者,以其常人之性多失成事,或居安不能慮危,居存不能思亡,以至自取其咎,故以未濟而終之也,此聖人垂教之深也。
さて六十四卦を通覧するに、《乾》《坤》に始まり《未済》に終わる。《乾》《坤》をもって端緒とするのは、乾坤が万物を生養する総根源であり、理の当然として六十四卦の首に列するからである。必ず《未済》をもって収めるのは、尋常の人の性情が事が成り終わった後に懈怠に失するものが多く、安らかな時に危険を思い及ばず、存続する時に覆亡を考えず、終に自ら禍患を招くからである。ゆえにいまだ完成していない一卦をもって結びとし、人事に終りがなく戒惧が少しも懈ってはならないことを人々に諭す。聖人が教えを立てた用意の深さは、まさにここにある。
雑卦
義曰:夫《周易》所以言雜卦者,葢孔子取其六十四卦之中人所常行之事,交相錯雜以陳其義也。以其事無常定,物無常體,可以施則施之,可以止則止之,故揉雜諸卦之義以為行事之本,故謂之雜卦也。此十翼之中第十翼也。
胡瑗の解説:『周易』が別に《雑卦》の一篇を立てたのは、孔子が六十四卦のうちから人が日常繰り返し遇う情事を取り出し、それらを二つずつ交錯・混雑させて並べ、この並べ方を借りて各卦の義理を敷き陳したからである。人事に一成不変の定局はなく、物象に固定の形体もない。推行すべき時は推行し、停止すべき時は停止する。孔子はこうして衆卦の意義を揉み合わせ錯雑に一処に置き、身を立て事を行う根本とした。この篇もまた《雑卦》と名を得た。それは孔子が経を解した「十翼」のうち第十に次ぐ、最も末の一篇である。
乾剛坤柔,比樂師憂。義曰:夫乾用剛健,必以柔順而資之,故曰乾剛坤柔。夫親比之道貴於和順,和順則人心樂,樂得其道則正,樂失其道則憂,必致於行師動眾也。臨觀之義,或與或求。義曰:夫防民之道貴於中正,既中且正,則可以風化於天下;既可以風化於天下,則為下之所相與,或為下之來求也。
《雑卦》に曰く:乾は剛を主とし、坤は柔を主とする。比は和楽、師は憂労である。胡瑗の解釈:乾卦が施すのは剛健であるが、必ず柔順に依って補助・滋養しなければならない。ゆえに乾剛坤柔という。「比」は親附・輔佐の道であり、上下の和順を貴ぶ。和順なれば人心は歓楽する。この歓楽が正道に合ってこそ正しいのであって、ひとたび正道を失えば憂患に転じ、終に師を興し衆を動かす戦事を招く。これが師卦の憂である。又曰く:臨卦と観卦の意義は、一つは施与、一つは求取にある。胡瑗の解釈:民を防ぎ治める道は中正を貴ぶ。中にして正ならば、教化をもって天下に風行させることができる。教化が既に天下に風行すれば、下に在る者は自ずと親附して相与し、或いは転じて上に向かって請求する所がある。
屯見而不失其居。義曰:夫屯難之世,是君子經綸之時,必須利建侯以安天下,使天下之人皆安其居,不失其所,此則是君子治屯之事也。蒙雜而著。義曰:夫蒙昧之人未知所著,必求賢者以發明之。然而既得賢者以發明之,則無所錯雜而自然著見也。
《雑卦》に曰く:屯卦は既に外に顕れたれど、その安居の所を失わず。胡瑗の解釈:屯は艱難・初創の世であり、まさに君子が経営・治理し、綱紀を整うべき時である。必ず卦辞の言う如く「利建侯」(侯を建てるに利あり)、賢能を封建して天下を安んじ、天下の人をして皆その居に安んじ依る所を失わせないようにする。これが君子が屯を治める事である。又曰く:蒙卦は錯雑に見えても、終に顕明し得る。胡瑗の解釈:蒙昧の人は自ら何を明らかにすべきかを知らず、必ず賢明の師を求めて啓発・開導を得なければならない。既に賢者の啓発を得れば、心中はもはや紛雑・錯乱せず、道理は自ずと彰顕する。
震,起也;艮,止也;損益,盛衰之始也。義曰:震,東北之卦,能起生萬物也。艮有止靜之徳,故為止。損益之道與時偕行,可損則損之,可益則益之,故曰盛衰之始也。大畜,時也。義曰:夫物既無妄,天下之人所共信,故為大畜之時也。然大畜其道必須以正,然後畜其物也,是因其時而畜之也。無妄,災也。義曰:夫無妄之時,天下之所共信,人心之所樂與,若以不信之人廁於其間,則自取其災也。
《雑卦》に曰く:震は起動、艮は静止である。損卦と益卦は盛衰転換の端緒である。胡瑗の解釈:震は東北の方位に居り、万物を鼓動・生発させることができる。ゆえに起という。艮は静止・安定の徳性を具える。ゆえに止という。損と益の道は時勢に偕行し、減損すべき時は減損し、增益すべき時は增益する。この一減一増がまさに盛より衰へ、衰より盛へ転ずる起点である。又曰く:大畜卦が説くのは時機である。胡瑗の解釈:万物が既に真実不虚に帰し、天下の人に共に信頼されてこそ、大畜卦の言う畜養・積聚の時となる。ただし大畜の道は必ず正を守らなければならず、それからこそ万物を畜養できる。これが時に順応して畜聚するということである。又曰く:无妄卦が説くのは災禍である。胡瑗の解釈:无妄の時に処しては、天下の人は互いに誠信をもって相待ち、人心も親しく相与することを楽しむ。この時、もし信義を講じない人がその間に雑じれば、その災禍は彼自身が招いたものである。
萃聚而升不來也。義曰:夫萃聚之時,天下之所和洽也,故能聚。聚之不已,其道必上進可也;若進不由其道則凶,進得其道不還可也。謙輕而豫怠也。義曰:夫謙恭之道不自尊大,是謙輕也;然而為逸豫之道,又自怠也。噬嗑,食也;賁,無色也。義曰:夫雷電相合,如口頤之中齧去其剛梗之物也,故言食也。夫山火之賁貴其文飾,但合於中而已,不在煩多之色,是無所定也。
《雑卦》に曰く:萃卦は聚合、升卦は上進して回返せざるである。胡瑗の解釈:萃卦が処するのは天下が和洽・融洽の時であり、だから人物が聚まることができる。聚合して止まなければ、その勢いは必ず上に升進する。これは可行である。ただし上進が正道に由らなければ凶があり、正道に循って進み一往直前して回頭しなければ、初めて妥当之と言える。又曰く:謙卦は自ら軽んじ、豫卦は怠惰である。胡瑗の解釈:謙恭の道は自ら尊大せざるに在る。これが「謙軽」である。安逸・享楽の道に至っては、これを行い過度なれば自ら懈怠に陥る。又曰く:噬嗑は咀嚼して食すること、賁卦は重彩を施さざるである。胡瑗の解釈:噬嗑卦は雷電が交合し、口腔の上下顎がその中の堅く梗塞する物を咬み断つに似る。ゆえに食という。山下に火ある賁卦は文采・修飾を重んずるが、ただ中道に合するに止めるを求め、色彩の繁多・富麗には在らない。ゆえに固定の色なしという。
兌見而巽伏也。義曰:夫為兌說之道,必貴其顯見,顯見於外,合於正則吉也。夫巽順之道貴其卑伏,若不能卑伏,則非為行巽之道也。隨,無故也;蠱則飭也。義曰:夫隨時之義不在於有故,可行則行之,可止則止之,故云無故也。夫蠱敗之事必須整飭之,然後事有濟也。
《雑卦》に曰く:兌卦は外に顕れ、巽卦は下に伏す。胡瑗の解釈:兌卦の和悦の道を施すには、最も喜悦を顕わにすることを貴ぶ。外に顕れてまた正道に合してこそ、吉を得られる。巽卦は柔順を説き、謙卑に俯伏することを貴ぶ。謙卑に俯伏し得なければ、巽卦の道を行うとは言えない。又曰く:随卦は固執する所なく、蠱卦は整治を要する。胡瑗の解釈:時に随って動く意義は、旧例・成規に拘泥せざるに在る。行うべければ行い、止まるべければ止まる。ゆえに「无故」という。蠱卦の対応する敗壊の事に至っては、必ず整頓・修治しなければならず、そうしてこそ事は成し遂げられる。
剝,爛也;復,反也;晉,晝也;明夷,誅也。義曰:夫五陰一陽,小人剝君子之象也,眾陰消萬物之義也,故云爛。夫五陰在上,一陽在下,是陽氣反覆之時也。夫晉者,日出地上為陽,陽為晝,故曰晝也。夫明入地中,明有所傷,必有誅傷之事。井通而困相遇也。義曰:夫井以濟人為徳,故曰通也。夫物既久困,必須所遇有賢徳之人以出之也。咸,速也。義曰:夫夫婦之道貴於得正,兌為少女,艮為少男,以少男下於少女,是貴速也,故有咸之象也。
《雑卦》に曰く:剥卦は剥落・腐爛、復卦は陽気の回返、晋卦は白昼、明夷卦は誅傷を被るである。胡瑗の解釈:剥卦は五陰が下に歩々進逼して一陽が上に孤悬し、小人が君子を剥蝕する卦象であり、また衆陰が万物を消磨する義である。ゆえに爛という。復卦は五陰が上に居り一陽が下に生ず。まさに陽気が再び回返する時節である。晋卦は火地晋で、太陽が地面より升り出て陽に属し、陽は白昼を主る。ゆえに昼という。明夷卦は地火明夷で、光明が地中に沈み、光明が既に損を受ければ、必ず誅戮・傷害の事がある。又曰く:井卦は暢通、困卦は相遇うである。胡瑗の解釈:水井は衆人を潤済するを徳とする。ゆえに通という。人がひとたび久しく困頓すれば、必ず賢徳の人に遇って自らを抜擢してもらわなければならない。又曰く:咸卦が説くのは迅速である。胡瑗の解釈:夫妻の道は各々その正を得るを貴ぶ。咸卦は上が兌で少女、下が艮で少男であり、少男が自ら少女の下に降りて合を求める。感応の来るが速い。ゆえに速を貴ぶという。これが咸卦の交感の卦象である。
恆,久也;渙,離也;節,止也;解,緩也;蹇,難也;睽,外也。義曰:夫婦之道貴於長久,故曰久也。渙散之久,物必乖離也。物不可以久離,必須節止之。解緩者,言天下蹇難解而緩散之。蹇者,山上有水,故曰難也。睽者,乖也,物既乖離,必居於外也。家人,內也;否泰,反其類也;大壯則止,遯則退也。義曰:夫家人之道必處於內也。夫天氣下降,地氣上騰,泰之象也;天氣在上,地氣在下,否之象也,是否泰二卦反其類也。雷在天上,大壯之道,物不可終壯,則必止遯之乃可也。
《雑卦》に曰く:恒卦は長久、涣卦は離散、節卦は節制、解卦は舒緩、蹇卦は艱難、睽卦は外離である。胡瑗の解釈:夫妻が相処する道は長く続き得るを貴ぶ。ゆえに恒卦は久を説く。涣散の局面が長く続けば、人と物は必ず彼此乖違・離析する。事物を長く離析させてはならず、必ず節卦の節制をもって約束し停止させなければならない。解緩と言うのは、天下の蹇難が化解を得て、緊張の局面がこれに随って舒緩・消散することである。蹇卦は水が山上に積み、行路が艱険で通じ難い。ゆえに難という。睽は乖違の意であり、人物が既に乖違・離析すれば、自ずと各々外に居る。又曰く:家人卦は内を主とし、否卦と泰卦は性質が相反し、大壮は停止を知るべく、遯卦は退避すべきである。胡瑗の解釈:家を治める道は必ず内部に立足しなければならない。天の陽気が下に降り地の陰気が上に騰り、二気が交感する。これが泰卦の象である。天気が上に浮び地気が下に沈み、両者相交わらない。これが否卦の象である。否泰二卦がまさに反って一類となることが見える。大壮卦は雷が天上に震動し、声勢が極めて盛んである。しかし物はいつまでも壮盛ではいられず、壮が極に至れば止まるべく、転じて遯卦の如く退避・隠蔵してこそ可なるのである。
大有,眾也;同人,親也;革,去故也;鼎,取新也;小過,過也;中孚,信也。義曰:夫火在天上,明有所矚,故可大有天下之眾也。與人同者必親也。革,去其故舊者也。鼎有自新之義也。小過者,人情小有過差也。中孚者,有孚信及於天下也。豐,多故也;親寡,旅也。義曰:豐言盛大,髙者懼危,滿者懼溢,故多憂也。親者寡少,故曰旅也。離上而坎下也。義曰:離為日,故宜在上也;坎為水,故宜在下也。
《雑卦》に曰く:大有卦は衆多、同人卦は親近、革卦は故を去り、鼎卦は新を取り、小過卦は稍々過失あり、中孚卦は誠信である。胡瑗の解釈:大有卦は火が天上にあって、光明が普く照らして見えないものなし。ゆえに天下の衆を有することができる。人と心を同じくする者は、彼此必ず親しい。革卦が説くのは陳旧・積弊を革除することであり、鼎卦は烹煮して新たに成り自ら新しくする意を含む。小過が言うのは人情上に僅かに偏差・過誤があること、中孚が言うのは内心の誠信が天下に及び得ることである。又曰く:豊卦は憂患多し、親しい者が稀少なのが旅卦である。胡瑗の解釈:豊は盛大を言うが、高きに立つ者は傾危を懼れ、満ちる者は溢出を懼れる。ゆえに盛大のうちにかえって憂慮が多い。旅人は外にあって親故が稀少である。ゆえに旅という。又曰く:離卦は上にあり、坎卦は下にある。胡瑗の解釈:離は太陽を象徴し、太陽は理の当然として高く上に懸かる。坎は水を象徴し、水は理の当然として低く下に流れる。
小畜,寡也。義曰:小畜者,言風行天上,不能徧及於物,故曰寡也。履,不處也。義曰:履以謙為本,隨人而行,故不可定處也。需,不進也。義曰:需者,養也,但待其時而養焉,故曰不進也。訟,不親也;大過,顛也。義曰:天水相違,訟之道也,故曰不親。不親者,不相親洽也。大過者,上下相陵,本末顛錯,故曰顛也。
《雑卦》に曰く:小畜卦が畜聚するのは少ない。胡瑗の解釈:小畜は風が天上に行くのであり、風は吹き動かせども万物に遍く及ぶことができない。ゆえに畜聚が稀少であるという。又曰く:履卦は一処に留まらない。胡瑗の解釈:履卦は謙退を本とし、人に随って行く。ゆえに定まって某処に留まることができない。又曰く:需卦は前進しない。胡瑗の解釈:需は涵養を待つ意であり、ただ時機の熟するを待って自らを蓄養する。ゆえに進まないという。又曰く:訟卦は相親しまず、大過卦は顛倒である。胡瑗の解釈:訟卦は天が上にあり水が下にあり、天は升り水は降る。両者は相背く。まさに争訟の道である。ゆえに不親という。不親とは彼此が親しく洽れ合うことができないことである。大過卦は陽剛が過盛で、上下が互相に陵轢し、本末・軽重が錯乱して倒置される。ゆえに顛という。
姤,遇也,柔遇剛也;漸,女歸待男行也。義曰:姤者,遇也,天下遇之時,柔遇剛也。漸者,進也,男女之行必以漸而進之,然後成其夫婦之道也。頤,養正也。義曰:山下有雷,為頤之象,故曰養也,養其正則吉。既濟,定也。義曰:言水火相濟,君臣相得,是天下大治、物性大定之時也。
《雑卦》に曰く:姤卦は相遇、柔が来て剛に遇うである。漸卦は女子の嫁ぎを説き、男方が礼に依って迎えに来るを待って初めて身を動かす。胡瑗の解釈:姤とは遇合であり、天下の人が相遇う時、まさに一陰の柔が上りて五陽の剛に遇う。漸は漸進の意であり、男女の交際は必ず次序に循って一歩一歩推進し、それから夫婦の道を成就し得る。又曰く:頤卦はその正道を養うである。胡瑗の解釈:頤卦は山下に雷あり、頤養の卦象である。ゆえに養という。養う所が正道であれば、吉を得ることができる。又曰く:既済卦は安定である。胡瑗の解釈:既済は水火が相互に済助し、君臣が彼此相得する。まさに天下が大いに治まり、万物が各々その性に安んずる時である。
歸妹,女之終也。義曰:夫女者有適人之義,若従男得其道以成夫婦,此則是女之終者也。未濟,男之窮也。義曰:夫男子之道多失於怠事,故居安不能慮危,以成其未濟,是自取窮之道也。夬,決也,剛決柔也,君子道長,小人道憂也。義曰:夫五陽一陰,是五剛而決一柔也,五君子而決一小人也,故君子之道得以長,小人之道所以憂也。此十翼之中,惟《文言》繫在乾坤之卦內,更不必詳解之。
《雑卦》に曰く:帰妹卦は女子の帰宿である。胡瑗の解釈:女子は生まれて嫁ぎ人に従う名分がある。もし男方に従い、正当の礼法に循って夫婦を結べば、これが女子の一生の帰結する所である。又曰く:未済卦は男子の困窮である。胡瑗の解釈:男子が世に処する毛病は、多く懈怠して事を誤るに出る。安逸に身を置けば予め危難を慮ることができず、遂に事が有始无終で済を成さない地に落ちる。これは自ら招いた困窮の道である。又曰く:夬卦は決断、剛が柔を決去し、君子の道は日増しに生長し、小人の道は憂懼に陥る。胡瑗の解釈:夬卦は五陽が下にあり一陰が上に居る。これは五爻の剛陽が共に一爻の柔陰を決し、すなわち五人の君子が力を合わせて一人の小人を裁決する。ゆえに君子の道は増長を得、小人の道はこれによって憂懼する。「十翼」のうちに至っては、ただ《文言》の一篇のみが乾・坤の二卦の内に附系する。前に既に講じたので、ここでは再び詳しく解説する必要がない。
