Libo

周易新讲义

宋 · 耿南仲

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

離卦(離下離上、原書卦辞彖辞阙有り)

易経易学典籍

術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。

四庫全書総目提要

宋耿南仲撰。南仲字希道,開封人。靖康間以資政殿大學士籤書樞密院,與吳幵沮戰守之說,力主割地。南渡後遷謫以終。事蹟具《宋史》本傳。是書舊本或題《進周易解義》,疑為侍欽宗於東宮時經進之本。前有南仲《自序》曰:“易之道有要,在無咎而已。要在無咎者何,善補過之謂也。”又曰:“拂乎人情,是為小過,拂乎天道,是為大過。”

この書は宋の耿南仲(こうなんちゅう)の撰である。耿南仲は字を希道といい、開封の人。靖康年間、資政殿大学士として枢密院事を簽書し、呉幵とともに抗戦固守の主張を阻み、ひたすら割地による講和を主張した。宋室が南に渡った後、貶谪されて流され、そのまま没した。事蹟は『宋史』本伝に詳しい。この書の旧本には『進周易解義』と題するものがあり、おそらく欽宗がまだ太子で、彼が東宮に侍講した際に進呈した本であろう。巻頭の耿南仲『自序』にいう——「易の道には要がある。ただ咎なきにあるのみ。要が咎なきにあるとは何か。よく過ちを補うことである」と。またいう——「人情に背く、これを小過という。天道に背く、これを大過という」と。

南仲是說,蓋推衍尼山“無大過”之旨。然孔子作《文言傳》,稱“知進退存亡而不失其正”,作《象傳》稱“雲雷屯,君子以經綸。”行止斷以天理,所以教占者之守道;艱險濟以人事,所以教占者以盡道。其曰“無大過”者,蓋論是非,非論禍福也。如僅以“無咎”為主,則聖賢何異於黃老?僅曰“無拂天道”,則唐六臣輩亦將謂之知運數哉?南仲畏戰主和,依違遷就,即此苟求“無咎”與“無拂天道”之說有以中之。是則經術之偏,禍延國事者也。然大致因象詮理,隨事示戒,亦往往切實有裨,究勝於高語玄虛,推演奇偶,晦蝕作《易》之本者。節取所長可矣。

耿南仲のこの言は、おそらく孔子(尼山は孔子の出生地)の「大過なきを得ん」との旨を推し広げたものである。しかし孔子は『文言伝』を作って「進退存亡を知ってその正を失わぬ」と言い、『象伝』を作って「雲雷は屯(ちゅん)、君子もって経綸す」と言った。行くか止まるかを天理で裁断するのは、占う者に道を守らせるためであり、険阻を人事で渡らせるのは、占う者に道を尽くさせるためである。孔子の「大過なし」というのは、是非を論じたのであって、禍福を論じたのではない。もし「咎なし」だけを根本の旨とするなら、聖賢は黄老の清浄無為の徒と何の区別があろうか。「天道に背かぬ」だけを言うなら、唐末に朱温の簒奪を助けた六臣の輩も、数を知る者と言えてしまうではないか。耿南仲は戦いを畏れて和を主張し、曖昧に迁就したが、まさにこの「咎なし」と「天道に背かず」を苟且に求める説に急所を射抜かれたのである。これは経術の解釈が偏り、禍が国事に及んだ例である。ただし全体としては卦象に依って義理を詮釋し、事に随って戒めを示し、往々にして切実で益があり、玄虚を高談し奇偶の数だけを推演して、かえって『易』を作った本意を晦ませた著作には優る。その長所を採ればよい。

周易新講義 巻第一

乾卦(乾下乾上)

宋耿南仲撰。乾下乾上。乾:元、亨、利、貞。天地者,形也;陰陽者,氣也。即天地之形、陰陽之氣,而宻為鼓舞於其間,使其形有闔闢、氣有噓吹,以成變化之功者,乾坤是也。故天地譬則形體,乾坤譬則精神矣。夫易無體也,無體則無岀無蔵。無出無蔵,其所以藏,以乾坤為之蘊而已;其所以出,以乾坤為之門而已。故卦始於乾坤。而乾者,道也;元亨利貞者,徳也。蓋立天之道曰陰與陽,有少陽,有老陽,有少陰,有老陰。少陽之純於春為元,老陽之熙於夏為亨,少陰之斂於秋為利,老陰之凝於冬為貞。萬物之為元也,資氣而已;其於亨則流形焉;至於利則質成焉。氣、形、質,其終復歸根者,貞也。元亨利貞,在天為春夏秋冬之時,在人為仁義禮智之性。

宋の耿南仲の撰。『乾』卦は下体も乾、上体も乾で、六爻すべて純陽である。卦辞にいう——「乾、元・亨・利・貞」と。天と地とは有形の躯殻をいい、陰と陽とは無形の気をいう。天地という形体、陰陽という気につき、そこに密かに鼓舞運転して、形体に開闔を、気に噓吹をあらしめ、変化の功を成すものが、乾と坤である。ゆえに天地は人の形体に譬え、乾坤は人の精神に譬える。『易』には定まった形体がなく、形体がなければ「出」も「蔵」もない。出も蔵もない以上、その蔵する所以は乾坤をもって蘊蓄の所とし、その出る所以は乾坤をもって出入の門とするにすぎない。ゆえに六十四卦は『乾』『坤』から始まる。「乾」とは道のことで、「元亨利貞」とは徳のことである。天の法則を立てるのを「陰」と「陽」といい、陰陽の中に少陽・老陽・少陰・老陰の四つがある。少陽の純なる気が春に行われるのが「元」、老陽の熾盛の気が夏に行われるのが「亨」、少陰の収斂の気が秋に行われるのが「利」、老陰の凝固の気が冬に行われるのが「貞」である。万物が「元」の段階にあるときは、ただ気を稟受するのみ。「亨」の段階では流布して形を成し、「利」の段階では質体が成る。気・形・質の三者が終わりに本根に帰するのが「貞」である。ゆえに元亨利貞の四徳は、天においては春夏秋冬の四時として現れ、人においては仁・義・礼・智の四性として現れる。

初九:潛龍勿用。易為六爻,以初、上原其本末,而中爻以二、三、四、五乘之。言初以有終也,言上以有下也。初終言乎其時,上下言乎其位;以二三四五乘之,則言乎其數。數有衍耗,位有常忒,而時又為消息盈虛於其間,此六爻之變所以不窮也。龍,天類也,飛躍而親上者也,其所以潛,則非若馬之以維縶而不得逞也,時焉而已。時不可以有為,則雖有飛躍之才,斯亦勿用而已。

初九の爻辞にいう——「潜龍、用いる勿れ」。『易』は六爻で卦を成し、最下の「初」爻と最上の「上」爻で物事の本末を推原し、中の二・三・四・五の四爻をもって累加して推し広げる。「初」と言うのは「終」が対にあるからで、「上」と言うのは「下」が対にあるからである。「初」と「終」は時間の前後について言い、「上」と「下」は爻位の高低について言う。二・三・四・五で累加するのは数について言うことである。数には衍増も耗減もあり、位には常態も失序もあり、時はまたその間に消長・盈虚し続ける。これが六爻の変化が窮まらない所以である。龍は天の類に属し、飛躍して上に親しむ者である。その潜む所以は、馬が繋がれて志を遂げられないのとは違い、ただ時が至らないだけである。時が有為を許さなければ、飛躍の才があっても、ただ用いないのみである。

九二:見龍在田,利見大人。非徒處也,且藏於深渺之謂潛;非徒出也,有以自昭之謂見。龍之潛也,是以能得其身之所利;今見而在地,豈其身之所利哉?乃人之所利,故稱為田焉,田者人之所利也。乾之稱龍,況聖人也。聖人雖處人所利之時,而利不在已,然而亦有利焉,見大人其所利也。利見大人,非為可以利吾身、利吾家也,為其可以得志而成天下之大利耳。

九二の爻辞にいう——「龍田に見る、大人を見るに利し」。「潜」とはただ安んじて処ることではなく、深く幽渺のところに蔵れることをいう。「見(あらわ)る」とはただ出ることではなく、自ら昭かにする所があることをいう。龍が潜む時は、ゆえに身の利を得られた。いま現れて地上にあれば、これは身の利であろうか。他人の利となる所なので、爻辞はこれを「田」と称する——田はまさに人が利を取る所である。『乾』卦が龍に譬えるのは、聖人に比するものである。聖人は利が他人に帰する時に処って、利は己にないが、しかしやはり利がある——「大人を見る」ことそのものが彼の利である。「大人を見るに利し」とは、己の身や家の利を図れるからではなく、この遇合によって志を得て、天下の大利を成せるからである。

九三:君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎。九三之義,可進而至,可止而終,進止之間,一毫之差不容也,可謂危矣。君子所宜進徳修業之時,於是終日乾乾、夕惕若也。知終日乾乾、夕猶惕若,則雖危無咎矣。君子朝以聽政,晝以待問,夕以修令,夜以安身,自朝至夕皆君子所有事也。至於夜,則君子不以憂勤故撓焉,何則?以夜氣近本故也。孟子謂夜氣不足以存,惡?本也,故於惕若稱夕而已。

九三の爻辞にいう——「君子は終日乾乾(けんけん)として、夕に惕(てき)たるが若く、厲(あやう)けれど咎なし」。九三の爻の義は、進んで至ることもでき、止まって終わることもでき、進止の間に一毛の差も許さない、危ういと言うべきである。これはまさに君子が徳を進め業を修めるべき時で、ゆえに終日乾乾、夕に惕るのである。終日乾乾として夕なお惕るを知れば、危うくとも咎はない。君子は朝に政を聴き、昼に問いに待ち、夕に令を修め、夜に身を安んずる。朝から夕まで君子の為すべき事がある。夜に至っては、君子は憂勤のゆえに心を撓めない。何となれば、夜気は人の本根に近いからである。孟子は夜気が存するに足らなければ人の本根を害すると言った。ゆえに爻辞は「惕る」を「夕」までしか言わず、夜まで言わないのである。

九四:或躍在淵,無咎。九陽也,主健,故言或躍;四陰也,主退,故言在淵。進退合乎天時,故無咎。潛、見、躍、飛皆言龍,而九三則以君子言之,九四則以或躍在淵言之,獨不言龍,何也?龍,君徳也。九三雖有可至之道,然有可終之義;九四雖有或躍之勢,然有在淵之理,未純君徳也,故不稱龍焉。就是二者言之,則九四干道革矣,有必飛之勢,無或終之義,雖未終乎為君之事備,猶舜之居攝之時也,故以龍言焉,或躍在淵豈非龍事乎?乃若初九、九二之言龍,則遠君而旡嫌,且言在下,不害有君徳也。

九四の爻辞にいう——「あるいは躍り、淵に在り、咎なし」。「九」は陽で健を主るから「あるいは躍る」と言い、「四」は陰位で退を主るから「淵に在り」と言う。進退ともに天時に合うから咎なし。潜・見・躍・飛の四態は本来すべて龍に譬えるが、九三は「君子」で言い、九四は「あるいは躍り淵に在り」で言い、ひとり龍を言わないのはなぜか。龍は人君の徳を象るからである。九三には至るべき道があるが止まって終わる義もあり、九四には躍り上がる勢いがあるが淵に在る理もあり、いずれも純然たる君徳ではないから、龍と称さない。この二爻を比べれば、九四はすでに乾道が革まる時で、必ず飛ばざるを得ない勢いがあり、途中で終わる義はない。君となる事実はまだ備わらないが、舜が天子の政を摂した時期に似る。ゆえになお龍で言える——「あるいは躍り淵に在り」は龍の行事ではないか。初九・九二に龍と言うのは、君位から遠く僭越の嫌いがなく、しかも下位にあると明言するから、君徳を具えていても妨げないのである。

九五:飛龍在天,利見大人。位以上為過,而以下為順,天徳不可為首,故以下為順而稱飛龍焉。在天不可以階而升也,必曰飛;飛而升然後可至,是故匹夫而有天下,徳必若舜、禹而後可也。惟君非臣不治,惟臣非君不伸,然則二五之相利見,其勢然也。九二出潛而見,則有欲上之意;九五飛而不亢,則有欲下之意,蓋大人相利見者也。

九五の爻辞にいう——「飛龍天に在り、大人を見るに利し」。爻位について言えば、九五を越えて上に行くのは過分で、下に居るのが和順である。天徳は先んじて首とならざるべからず、ゆえに下に居るを順として「飛龍」と称する。「天に在り」の位は階段を一級ずつ登って得られるものではないから、必ず「飛」と言う。飛び昇ってこそ至れるのであり、ゆえに匹夫が天下を有するには、徳が必ず舜・禹のようでなければならない。君は臣なければ治まらず、臣は君なければ志を伸べられない。然れば九二と九五が互いに「利見」するのは勢いの必然である。九二が潜より出でて現れれば、上に求め合いたい意があり、九五が飛びて亢に至らなければ、下に延攬したい意がある——これが大人同志が見えて互いに利する所以である。

上九:亢龍有悔。用九:見群龍無首,吉。陰陽之運,積息而成盈,盈則反消;積消而成虛,虛則反息。此自然之機,而天且不違,而上九知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知?,是乃所以自悔也。悔吝,小疵也;吉?則大矣。上九雖窮上,然未反下,反下而二陰生焉始有?,若臨所謂至于八月有?,蓋言二陰之遯也。

上九の爻辞にいう——「亢龍、悔いあり」。用九の辞にいう——「群龍に首なきを見る、吉」。陰陽の運行は、息長を積んで盈満となり、盈れば反って消え、消を積んで虚となり、虚すれば反って息する。これは自然の枢機で、天もこれに違わないのに、上九は進を知って退を知らず、存を知って亡を知らず、得を知って失を知らない。これが自ら悔いを招く所以である。「悔」と「吝」は小疵で、「吉」と「凶」が大関節である。上九は最上に窮まったが、まだ下に反してはいない。反して下れば、二番目の陰爻が生じて初めて凶がある。『臨』卦の「八月に至れば凶あれ」と言うのは、二陰が成って『遯』卦の勢いとなることを言うのである。

然則上九特有悔而已。悔既小疵,又有悔之辭,則變而趨吉也,是以貴夫用九。上遯九者,陽數善變,用九則退而能下,見群龍不自為首矣。不為首則不止悔亡而更吉也,以其知幾故也。為臣則欲致一,故渙其群則吉;欲承上,故比之無首則?。君則異於是,見群龍旡首則吉矣。

然れば上九はただ悔いがあるのみである。「悔」は小疵でありながら爻辞に悔いありと明言する以上、悔いによって変じて吉に趨く。ゆえに『乾』卦はとくに「用九」を貴ぶ。上九が退避すれば、「九」の陽数はもともと変化を善とし、用九とは退きて下に居れることで、群龍を見て自ら首と為さない。首と為さなければ、悔いが亡ぶのみならず、かえって吉となる。幾微を察するを知るがゆえである。臣たる者は一致の効忠を求めるから、『涣』卦に朋党の私を散ずれば吉と言い、上に承るを求めるから、『比』卦に親びて首なければ凶と言う。君たる者はこれと異なり、群龍が先んじて首とならぬを見れば吉である。

彖曰:大哉乾元,萬物資始,乃統天。雲行雨施,品物流形。大明終始,六位時成,時乘六龍以御天。乾道變化,各正性命,保合大和,乃利貞。首出庶物,萬國咸寜。聖人之作易,仰以觀乎象,俯以察乎情,而天人之理備矣。繋辭曰:彖者,言乎象者也。又曰:爻以情言。言乎象,又以情言,則易備於俯仰之間。故觀其彖辭則思過半,過半則未及盡者,以言象而未及器,言器而未及情,言情而未及文也。

『彖伝』にいう——「大いなるかな乾元、万物これに資りて始まる、乃ち天を統べる。雲行き雨施(ほどこ)して、品物流れて形を成す。大明終始し、六位時に成り、時に六龍に乗りて天を御す。乾道変化して、各その性命を正しくし、大和を保合して、乃ち利貞。首として庶物より出で、万国咸く寧し」と。聖人が『易』を作るにあたり、仰いで象を観、俯して情を察して、天人の理が備わった。『繋辞伝』にいう——「彖とは象を言うものである」と。またいう——「爻は情をもって言う」と。象を言い、また情をもって言えば、『易』は俯仰の間に備わる。ゆえに一卦の彖辞を観れば思考は半ばを過ぎる。半ばを過ぎてなお尽きないのは、象を言って器に及ばず、器を言って情に及ばず、情を言って文に及ばないからである。

大哉乾乎,言乾之大也;大哉乾元,則言元而已。元亨利貞四者皆大,蓋四者更相用事,用事者主之則大矣,特言萬物之資始,故曰大哉乾元而已。乾知大始,而元者又四徳之始,故萬物於此資始焉。資始者,孕精於窈?之初而未有形也。乾元為萬物資始,如元首之在上,故能統天者,?眾體而舉於上也。此舉彼從,無事乎擾擾,故云行雨施未甞雕刻,而品物流形焉;大明終始不必敘正,而六位時成焉;又能時乘六龍以御天也。

「大いなるかな乾」と言うのは乾の全体の大を讃えるので、「大いなるかな乾元」と言うのはただ「元」の一徳について言うのである。元・亨・利・貞の四徳はいずれも大と称し得る。四者が更に相い当たって事を用い、用事する者が主となれば大となるからである。ここでは万物がこれに資りて始まることだけを言うから、「大いなるかな乾元」とだけ言うのである。『繋辞』に「乾は大いなる始めを知る」とあり、「元」はまた四徳の始めであるから、万物はここに於て始まりを資る。資始とは、窈冥の初めに精を孕んでまだ形なきをいう。乾元が万物の資始となるのは、元首が体の最上に居るが如し。ゆえに天を統べる者とは、衆体を統べて上に挙ぐることをいう。ここが挙げれば彼が従い、擾擾の事なくして、雲行き雨施してかつて雕刻せずして品物流れて形を成し、大明終始して必ずしも叙正せずして六位時に成り、また時に六龍に乗りて天を御するのである。

執八統以馭萬民,則民雖眾多而其分不可亂;乘六龍以御天,則天雖變化而其終始不可亂也。萬物自資始而至流形,則有始有終矣;有始有終,則物各成物,而六爻自初而至上亦若此而已,故大明終始,六位之爻所以時成也。

『周礼』に八統を執りて万民を御すると言えば、民は衆多でもその分は乱れない。六龍に乗りて天を御すれば、天は変化してもその終始は乱れない。万物は資始から流形に至れば始あり終ありとなり、始あり終ありあれば物おのおの物を成し、六爻が初より上に至るもただこれに若きのみ。ゆえに「大明終始」と言い、六位の爻が時に成る所以である。

然動物之終始,首尾是也;植物之終始,本標是也。如動物之有首尾、植物之有本標,則始不可以為終,終不可以為始矣。而乾則不然,終而復始,不窮如環也,故既言六位之定列,又言六龍之變焉。龍之在天,其消息盈虛,其進有序,其行有節,而天弗能違,此乾元所以御天也;六龍之在人,其潛見躍飛,其進有序,其行有節,而天亦弗能違,此聖人所以御天也。

しかし動物の終始は首尾であり、植物の終始は本標である。動物に首尾があり植物に本標があるように、始を終と為すことはできず、終を始と為すこともできない。乾はしかし然らず、終わりてまた始まり、環のごとく窮まらない。ゆえに『彖伝』は六位の定列を言い、また六龍の変化をも言う。龍が天に在りて、その消長盈虚、進に序あり行に節ありて、天もこれに違えない。これが乾元の天を御する所以である。六龍が人にあっては、潜・見・躍・飛、その進に序あり行に節ありて、天もまた違えない。これが聖人の天を御する所以である。

乘六龍以御天,則乾道之變化兆矣。乾道之變化,異乎人事之云為。人事之云為,則以言諭、力致,所以正物,非物自正也;乾道變化,則無言諭力致之事,宜運於自然而萬物之性命各正矣。且比夫天下之物,擾而正之,則各安其地莫知正處,各甘其食莫知正味,將以孰為正哉?用各隨其分,則物物有正處,物物有正味,長短小大各遂其宜,所謂各正性命也。

六龍に乗りて天を御すれば、乾道の変化が兆す。乾道の変化は人事の云為と異なる。人事の云為は言をもって諭し力をもって致し、もって物を正すが、物が自ら正すのではない。乾道の変化は言諭力致の事がなく、ただ自然に運んで、万物の性命がおのおの正しきを得る。さらに天下の物に比すれば、これを擾して正さんとすれば、おのおのその地に安んじて正しき処を知らず、おのおのその食を甘んじて正しき味を知らず、将に何をもって正と為さんか。おのおのその分に随わせれば、物々に正しき処があり、物々に正しき味があり、長短小大おのおのその宜しきを遂ぐる。これを「各その性命を正しくす」という。

各正性命,則物殊稟。雖物殊稟,然而一陶乎太和之中,無外是者焉。蓋通於天地是謂太和,散於萬物是謂委和,委和之與太和,甞通流而無間,故人一體之盈虛甞通於天地也。惟萬物自委和人而不能保合,故不能與天地同流而壅塞生焉。保和,所謂保汝之保,蓋盛徳者人之所保也,太和者物之所保也。知保於太和而不離,則札瘥疵癘不生,而物各適其性,可不謂利貞者哉?功歸於利貞,此乾所以首出庶物之上,而使萬物咸寜也。首出庶物當言萬物咸寜,而言萬國,何也?乾道即君道也。上以天位言,下以人事言,蓋互見也,猶所謂乾以君言也。

各その性命を正しくすれば、物の稟受は殊なる。稟受は殊なれど、皆「太和」の気中に陶铸されて、この外に出る者なし。天地に通ずるを「太和」といい、万物に散ずるを「委和」という。委和と太和とは、つねに通流して間なし。ゆえに人の一体の盈虚もつねに天地に通ず。ただ万物は委和を分けて人となってより保合すること能わず、ゆえに天地と同じく流るること能わずして壅塞生ず。「保合」の保とは『尚書』「汝を保て」の保で、盛徳は人の保つ所、太和は物の保つ所である。太和に保たれて離れざるを知れば、札瘥疵癘生ぜずして物おのおのその性に适う。これを利貞と謂わずして何とかせん。功は利貞に帰する。これが乾の庶物の上に首出でて、万物をして咸く寧ならしめる所以である。「首出庶物」と言う以上「万物咸寧」と言うべき所を「万国」と言うのはなぜか。乾道はすなわち君道だからである。上は天位をもって言い、下は人事をもって言う。互いに見えるのである。いわゆる「乾は君をもって言う」に同じ。

象曰:天行健,君子以自強不息。經曰:立象以盡意。又曰:象事知器。由象以觀妙,則可以知意;由象以觀?,則可以知器。隨其所觀之淺深而已。夫易者,象而已,故卦亦象也,所謂八卦以象告是也;亦象也,所謂彖者言乎象者也;爻亦象也,如潛龍、履霜之類是也。若夫合此二體,正名天地雷風水火山澤者也,其為象則惟天行健、地勢坤之類而已,故特比類以為象稱焉。

『大象伝』にいう——「天行健なり、君子もって自ら強めて息まず」。『繋辞伝』にいう——「象を立てて意を尽くす」と。またいう——「事に象て器を知る」と。象によりて妙を観れば意を知るべく、象によりて粗跡を観れば器を知るべし。観る者の浅深に随うのみ。『易』とは結局「象」である。卦も象なり——いわゆる八卦は象をもって告ぐ。彖辞も象なり——いわゆる彖は象を言う。爻辞も象なり——潜龍・履霜の類これである。上下二体を合わせて、正式に天地雷風水火山沢と名づけるものは、その象る所はただ「天行健」「地勢坤」の類のみ。ゆえに『大象』はとくに類を比して象を立てて称するのである。

君子之於天,無所不法,法之以為修身之要者,健而已。故七徳之中獨法其健,且力分之外不可強,欲強則雖勇於必用,且拂而逆理矣。彼君子之自強,法天之行健而已,則其強非力分之外也;非力分之外,故能乆而不息也。魏氏之卒年闕,東野之馬三日而失者,以求之力分之外故也。其強在力分之內而猶息,則志不篤而已,是以君子惡乎畫也。

君子の天に対しては、法らざる所なし。その法りて修身の要と為すは、ただ「健」のみである。ゆえに天の衆徳の中にひとりその健を法る。しかも力分の外は強うべからず、強うせんとすれば勇んで必ず用うとも、且つ拂い理に逆う。君子の自強は、ただ天の行健を法るのみ。然ればその強は力分の外にあらず。力分の外にあらざれば、ゆえに久しくして息まず。魏の武卒が遂に竭し、東野稷の馬が三日にして斃れたるは、力分の外に求めたればなり。反していえば、強さが本分の内にありてなお息むは、志の篤からざるのみ。ゆえに君子は画りて自ら限り半ばに止まるを悪む。

潛龍勿用,陽在下也。見龍在田,徳施普也。終日乾乾,反復道也。或躍在淵,進無咎也。飛龍在天,大人造也。亢龍有悔,盈不可乆也。用九,天徳不可為首也。龍者,變化有為之才也,所以勿用,在下故也。曰陽在下者,蓋以龍之飛潛升降本乎自然之機,非樂潛而惡飛也。徳施普與徳博而化異:徳施普,言徳澤也,利而大;徳博而化,言徳風也,有易俗之道焉。田者利養之地,故言徳施而已;後言龍徳而正中,故言徳博而化。

『小象伝』にいう——「『潜龍用いる勿れ』は、陽が下位に在ればなり。『龍田に見る』は、徳沢施布の普きなり。『終日乾乾』は、反復して正道を行くなり。『あるいは躍り淵に在り』は、進んで咎なきなり。『飛龍天に在り』は、大人の興作あるなり。『亢龍悔あり』は、盈満の久しからざるなり。『用九』は、天徳は先んじて首と為るべからざるなり」と。龍とは変化し有為し得る才具である。用いる勿れの所以は、下位に在るがゆえのみ。「陽在下」と言うは、龍の飛・潜・升・降が自然の枢機に本づき、潜を楽しみ飛を悪むにあらざればなり。「徳施普」と『文言』の「徳博にして化す」とは異なる。「徳施普」は徳沢恩恵を言い、利が大なり。「徳博にして化す」は徳の教化風のごときを言い、俗を易える道あり。「田」は人の利養を取る地なれば、ここではただ徳沢施布を言うのみ。後に九二の「龍徳にして正中」を言うとき、初めて徳博にして化すを言うのである。

旋而未至為反,已至為復。九三之為爻,知至而至之,則三為未至;知終而終之,則三為已至,稱反覆焉。若反為道、復為非,則君子去復而取反可也,無為終日乾乾而至於夕惕也。進而可與幾,止而可與存義,反覆莫非道也,是以君子去取之際,慎思而審擇之,至是形勞而心惕也。

身を轉じて未だ至らざるを「反」といい、已に至るを「復」という。九三の爻について言えば、「至る所を知りて之に至る」なら九三は未至であり、「終る所を知りて之に終る」なら九三は已至である。ゆえに『小象』はこれを「反復」と称す。もし反が道に合し復が非なら、君子は復を去りて反を取ればよく、終日乾乾として夕惕に至るまでもない。しかるに「進」の時は人と幾微を察するに与かり、「止」の時は人と義を守るに与かる。反も復も正道を離れず。ゆえに君子は去取の際、慎んで思い審らかに択び、この地に至れば、自然と形労わり心惕るのである。

九四干道以革,有必進之理矣。其所以在淵,非特退也,以退為進耳。以退為進而不鋭於進,所以進而無咎也。物以類則相召,然不屈體以交物,則未有能召其類者,故亢龍在上,則知賢人無輔也,況大人乎?飛龍順下,則大人造焉,況賢人乎?經曰:天地盈虛,與時消息。蓋盈則與時消而反於虛,虛則與時息而復乎盈,盈虛相尋,間不容髮,何可乆也?而上九知進不知退,知存不知亡,所以有悔也。天位則首出庶物矣,徳不可為首。天位不可為首則失己,天徳不可為首則失人。

九四は乾道革まるの段階に至り、必ず進まざるを得ざる理あり。その淵に在る所以は、ただ退くにあらず、退をもって進と為すのみ。退をもって進と為して進に鋭ならず、ゆえに進んで咎なし。物は類なれば相召す。しかし体を屈して物に交わらざれば、その類を召し得る者未だ有らず。ゆえに上九「亢龍」が上に踞れば、賢人の輔けざるを知る。況んや大人をや。九五「飛龍」が順に下に謙れば、大人も之が為に興る。況んや賢人をや。『周易・豊卦・彖伝』にいう——「天地盈虚、時と消長す」と。盈れば時と消えて虚に反り、虚すれば時と息して盈に復る。盈虚相尋ね、間に髪を容れず、何ぞ久しきを得んや。而上九は進を知りて退を知らず、存を知りて亡を知らず、ゆえに悔いあり。天位に居れば本より庶物の上に出づるも、徳は先んじて首と為るべからず。天位に於て先んじて首と為さんとすれば己を失い、天徳に於て先んじて首と為さんとすれば人を失う。

乾卦・文言

文言曰:元者,善之長也;亨者,嘉之?也;利者,義之和也;貞者,事之幹也。君子體仁足以長人,嘉會足以合禮,利物足以和義,貞固足以幹事。君子行此四徳者,故曰乾:元、亨、利、貞。孟子曰:說詩者不以文害辭,不以辭害志。蓋道志而為辭,修辭而為文也。然則聖人之於易,既繋之辭而又有文言者,辭以盡言,文以盡辭也。諸卦皆以辭盡言,而乾坤又以文盡辭者也。乾坤,易之蘊,不如是不足以闡幽而發微也。

『文言伝』にいう——「元とは善の長なり。亨とは嘉の会なり。利とは義の和なり。貞とは事の幹なり。君子、仁を体して以て人を長とするに足り、嘉を会して以て礼に合するに足り、物を利して以て義を和するに足り、貞に固くして以て事を幹とするに足る。君子この四徳を行う、故に曰く、乾、元・亨・利・貞と」と。孟子にいう——「詩を説く者は文をもって辞を害せず、辞をもって志を害せず」と。大抵まず心志あり、發して辞と為り、辞を修飾して文と為る。然れば聖人の『易』に於ける、既に辞を繫げてまた『文言』を作るは、辞は言を尽くし、文は辞の尽くせざるを尽くさんが為である。諸卦はみな辞をもって言を尽くすが、乾坤のみまた文をもって辞を尽くす。乾坤は『易』の蘊の在る所、かくせずんば幽を闡き微を發するに足らず。

元亨利貞,在人莫非善也,而元為人之尊爵也,故曰元者善之長也。人者,天地之徳,陰陽之交,鬼神之?,五行之秀氣。然則天地之大美、萬物之眾盛,廣大兼有於所性之中矣。其或?於中,或散於外,在其心之亨塞而已。其心亨,則眾美?而為充實之美;其心塞,則眾美散而為罔生之民。孟子有泉逹之喻,而又有茅塞之況者,蓋欲亨其心也,故曰亨嘉之?也。

元・亨・利・貞は人に在って善ならざるはなく、「元」は人の最尊き爵(仁)なり。ゆえに「元は善の長なり」と言う。人とは天地の徳の凝聚、陰陽二気の交会、鬼神の会合、五行の秀気なり。然れば天地の大美、万物の衆盛は、広大にして兼ねて人の性の中に備わる。これらの美質は或いは中に聚まり或いは外に散ず。ただこの心の亨るか塞がるかにあるのみ。心亨れば衆美聚まりて充実の美と為り、心塞がれば衆美散じて徒に生くる凡民と為る。孟子に泉水の達するの喩あり、また茅の路を塞ぐの況あり。まさにこの心を亨らせんと欲するなり。ゆえに「亨は嘉の会なり」と言う。

仁圓而義方,故守義者常執而不奪,介而不通,有殺身者焉。知屈信相感之理,則可謂有利,而其為義也和矣,故曰利者義之和也。物之生有華藻,有質乾。質乾譬則性也,華藻譬則事也;華藻之本於質乾,猶事之本於性者也。貞者性也,故貞者事之幹也。

仁は円にして義は方なり。ゆえに義を守る者はつねに執りて奪われず、介然として通ぜず、身を殺す者さえある。屈伸相感ずるの理を知らば、利あると謂うべく、そしてその義を行うや和なる。ゆえに「利は義の和なり」と言う。物の生ずるや華藻あり質幹あり。質幹は譬すれば性なり、華藻は譬すれば事なり。華藻が質幹に本づくは、事が性に本づくがごとし。「貞」とはすなわち性なり。ゆえに「貞は事の幹なり」と言う。

元者善之長也,故君子體仁足以長人。體不備,君子謂之不成人。體者,言其體而已。蓋仁數之多,溫良者仁之本,敬慎者仁之地,寛者仁之作,遜接者仁之能。取數之多,無不備,乃謂之體仁。體仁則在上而人不惡,在前而物不害,故足以長人也。

「元は善の長なり」、ゆえに君子は仁を体して以て人を長とするに足る。体備わらざれば、君子これを「人を成さず」と謂う。ここに「体仁」の体とは、身体全体の完備について言う。仁の含む条目は多し——温良は仁の本、敬慎は仁の扎根する地、寛は仁の発作、遜接は仁の才能。この諸条目を取りて備わらざるなくんば、乃ちこれを体仁と謂う。体仁すれば上に居りて人悪まず、前に行きて物害せず。ゆえに人を長とするに足る。

何謂嘉?足以合禮?傳曰:動容周旋中禮,盛徳之至也。夫眾美?於一身而充實,則徳可謂盛矣,動而與合,則弸中而彪外耳,故曰嘉?足以合禮。何謂利物足以和義?義者,天下之制也;所以制者,所以制物者也。或行儉以節,或用健以夬者,皆義也。以利物之徳而行制物之義,則行儉以節而不失其說,用健以夬而不失其和;既使勞而不怨,又使死而不怨焉,故曰利物足以和義。

何谓「嘉を会して以て礼に合するに足る」。『孟子』にいう——「動容周旋して礼に中るは盛徳の至りなり」と。衆美が一身に会して充実せば、徳は盛と謂うべし。動けば自ずと礼に合す、いわゆる中に弸りて外に彪るのみ。ゆえに「嘉会は以て礼に合するに足る」と言う。何谓「物を利して以て義を和するに足る」。義とは天下の裁断の准則なり。裁断とは物を裁断する所以なり。或いは倹を以て節し、或いは健を以て夬(決)すは、皆義なり。物を利するの徳を以て物を制するの義を行えば、倹を以て節して民の悦を失わず、健を以て夬して情の和を失わず。労せしめて怨ぜず、死せしめて怨ぜず。ゆえに「利物は以て義を和するに足る」と言う。

何謂貞固足以幹事?經以蠱為事,以事易壊故也。事易壞而性不變,故稱貞固焉。惟不壞者,乃以為易壞者之幹。觀物之華藻質乾則知之矣,故曰貞固足以幹事。元亨利貞則仁義禮智也。上言體仁、合禮、和義而不言智,何也?智於五行為水,水性隱伏,故人之用智常於沉潛不測之間,此所以不言智之意與?

何谓「貞に固くして以て事を幹とするに足る」。『周易』は『蠱』卦を以て「事」と為す。事の壊れ易きが故なり。事は壊れ易くして性は変わらず、ゆえに「貞固」と称す。ただ壊れざる者のみ、乃ち壊れ易き者の幹と為る。草木の華藻と質幹とを観ればこの理を知る。ゆえに「貞固は以て事を幹とするに足る」と言う。元亨利貞はすなわち仁義礼智なり。上に体仁・合礼・和義を言いて智を言わざるは何ぞや。智は五行に於て水なり。水性は隠伏す。ゆえに人の智を用うるや、つねに沈潜にして測り難きの間に在り。これが「智」を明言せざるの意なるべし。

君子行此四徳者,故曰乾元亨利貞,何謂也?傳曰:天地有大美而不言。夫元亨利貞之四徳,蓋乾之大徳也。有大美而不言,則元亨利貞之名有不著矣。惟君子法天而行此四徳者可見也,則元亨利貞之名由徳而著,故以謂君子行此四徳者,故曰乾元亨利貞也。

「君子この四徳を行う、故に曰く乾元亨利貞」とは何谓ぞや。『荘子』にいう——「天地に大美ありて言わず」と。元亨利貞の四徳は本より乾の大徳なり。大美ありて言わざれば、元亨利貞の名は著る所なし。ただ君子天に法りてこの四徳を行えば人の見る所あり、然るに元亨利貞の名は徳に由りて著る。ゆえに「君子この四徳を行う、故に曰く乾元亨利貞」と謂うのである。

初九曰:潛龍勿用,何謂也?子曰:龍徳而隱者也。不易乎世,不成乎名,遯世無悶,不見是而無悶,樂則行之,憂則違之,確乎其不可?,潛龍也。聖人外化而內不化,以飛躍之才屈而從之,是外化也;不易乎世,是內不化也。九二之稱善世,蓋聖人之見也。其未見而潛,則不易乎世,不為世所易,而俗之所好已獨損之,俗之所嫉已獨取之,是以與之易寡,而不成乎名焉。

初九に「潜龍用いる勿れ」と曰くは何谓ぞや。子曰く——「龍徳にして隠るる者なり。世に易らず、名を成さず、世を遯れて悶えず、是と見られずして悶えず。楽しければ之を行い、憂うれば之に違う。確乎として其の拔くべからざる、潜龍なり」と。聖人は外は化して内は化せず。飛躍の才を以て屈して之に従うは外化なり。世に易らざるは内不化なり。九二の「善世」に称するは聖人の已に世に見えるを言う。未だ見えずして潜むときは、すなわち世に易らず、世に易られず、俗の好む所を己独り損ない、俗の嫉む所を己独り取る。是を以て之と合するや寡く、名を成さず。

聖人不以善世為有徳,故善世而不伐;不以遯世為有?,故遯世而無悶。不成乎名,則無譽而已;不見是,則有毀之者焉。有毀之者而無悶,何也?蓋聖人未出而善世,則所謂世者,汙世而已。不見是於汙世,則必與汙世違者;不見非於汙世,則必與汙世合者。與汙世合而不見非,乃所以為非;與汙世違而不見是,乃所以為是也,又何悶之有哉?

聖人は善世を以て徳を有すと為さず。ゆえに善世にして伐らず。遯世を以て損を有すと為さず。ゆえに遯世にして悶えず。名を成さざれば、ただ誉なきのみ。是と見られざれば、毁る者有らん。毁る者ありて悶えざるは何ぞや。蓋し聖人未だ出でて善世せざれば、いわゆる世とは汚世のみ。汚世に是と見られざれば、必ず汚世と違う者。汚世に非と見られざれば、必ず汚世と合する者。汚世と合して非と見られざるは、乃ち非を為す所以。汚世と違いて是と見られざるは、乃ち是を為す所以。又何の悶えか有らんや。

聖人逹則憂以天下,樂以天下;其窮也,憂樂狥我而已,故樂則行之,憂則違之。所謂獨居而樂,獨思而憂,是憂樂行違不以天下而狥我,則非其心不違矣。夫口可教而使言黙,形可劫而使屈伸,惟心不可使易意。然則紛紛者,又惡足?其心之所不為者哉?故曰確乎其不可?,潛龍也。

聖人は達すれば天下を以て憂え、天下を以て楽しむ。その窮するや、憂楽はただ我に徇うのみ。ゆえに楽しければ之を行い、憂うれば之に違う。いわゆる独り居りて楽しみ、独り思いて憂うるは、憂楽行違が天下を以てせず我に徇うを言う。其心に合わざる事は概ね之に違う。口は教えて言黙せしむべく、形は劫して屈伸せしむべし。ただ心は意を易えせしむべからず。然れば紛紛たる外力は、又惡ぞ其心の為さざる所を拔くに足らんや。故に曰く「確乎として其の拔くべからざる、潜龍なり」と。

九二曰:見龍在田,利見大人,何謂也?子曰:龍徳而正中者也。庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,徳博而化。易曰:見龍在田,利見大人,君徳也。聖人以中正為徳,以變化為道。在上如龍之在天,則變化代興;在下如龍之在田,則正中是守而已,故曰龍徳而正中也。言正則無擇,行中則無爽,以中正達於言行,故庸言信、庸行謹也。言行必稱庸者,以龍徳故也。

九二に「龍田に見る、大人を見るに利し」と曰くは何谓ぞや。子曰く——「龍徳にして正中の位に居る者なり。庸言は之を信じ、庸行は之を謹み、邪を閑し誠を存す。善世にして伐らず、徳博くして化す。易に曰く『龍田に見る、大人を見るに利し』、君徳なり」と。聖人は中正を以て徳と為し、変化を以て道と為す。上に在るや龍の天に在るが如ければ、変化代興す。下に在るや龍の田に在るが如ければ、正中を守るのみ。ゆえに「龍徳にして正中」と曰く。言正なれば択ぶなく、行中なれば爽れず。中正を以て言行に達する。ゆえに庸言信、庸行謹なり。言行必ず庸を称するは、龍徳の故を以てなり。

夫言行,君子之所以動天地也。言行所以能動天地,以發於至誠而已,繋辭言於中孚九二者為此也。然則庸言雖信、庸行雖謹,又必閒邪存其誠、善世而不伐者也。必閒邪存誠者,猶育獸之驅豺狼、育魚之祭猵獺也。言行發至誠而天地為動,而況於人乎?故繼之以善世之功,革惡俗以為羙俗,化悍民以為逸民也,其功亦大矣。而聖人之心以為教化者吾所職也,善世則吾職當治耳,何足矜哉?是以不伐也。聖人之徳,潛則淵泉如淵,見則溥博如天,不可窮也,故九二曰徳博而化也。

夫れ言行とは、君子の天地を動かす所以なり。言行の天地を動かし得る所以は、至誠より發するを以てのみ。『繋辞伝』が『中孚』九二の下に繫ぐるはこの為なり。然れば庸言已に信なり庸行已に謹なりとも、又必ず邪を閑し誠を存し、善世にして伐らざる者なり。必ず邪を閑し誠を存する者とは、猶ほ禽獣を育つるに豺狼を駆り、魚を育つるに猵獺を祭るがごとし。言行至誠より發して天地の為に動かる。況んや人をや。ゆえに之に継ぎて善世の功を言う。悪俗を革めて美俗と為し、悍民を化して逸民と為す。その功亦た大なり。而るに聖人の心は以為らく、教化は吾が職なり、善世は吾が職の治むべきのみ。何ぞ矜るに足らんや。是を以て伐らず。聖人の徳は、潜めば淵泉の如く淵々として、見えば溥博として天の如く、窮むべからず。ゆえに九二に「徳博くして化す」と曰く。

九三曰:君子終日乾乾,夕惕若厲無咎,何謂也?子曰:君子進徳修業。忠信所以進徳也,修辭立其誠所以居業也。知至至之,可與幾也;知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。君子之於徳業,不待至於九三九四而後進且修也。以謂九三有可終之理,九四有或躍之勢,則尤宜修人事以副天命之時,故以進徳修業稱焉。

九三に「君子終日乾乾、夕惕若厲无咎」と曰くは何谓ぞや。子曰く——「君子徳を進め業を修む。忠信は徳を進むる所以なり。辞を修め其の誠を立つるは業を居る所以なり。至るを知りて之に至るは、与に幾を言うべきなり。終るを知りて之に終るは、与に義を存すべきなり。是の故に上位に居りて驕らず、下位に在りて憂えず。故に乾乾として其の時に因りて惕れ、危うしと雖も咎なし」と。君子の徳業に於けるは、九三九四に至るを待ちて後進め且つ修むるにあらず。ここに特に言う所以は、九三に就きて終るべき理あり、九四に或いは躍るの勢いあれば、尤も人事を修めて天命の時に副うべき時。ゆえに進徳修業を以て之を称す。

忠者,不欺之謂;信者,不疑之謂。不欺則有充塞之實,不疑則居之安矣,所以能進徳。傳曰:言以出信。又曰:文以足言。然則信待言而後出,言待文而後足也,故君子欲立其誠,則其於辭也必加修焉。修辭而誠立,斯可以為忠信,故曰修辭立其誠。

忠とは欺かざるの謂、信とは疑わせざるの謂。欺かざれば充塞の実有り、疑わせざれば之に居りて安し。徳を進むる所以なり。『左伝』にいう——「言は以て信を出だす」と。又曰く——「文は以て言に足る」と。然れば信は言を待ちて後出で、言は文を待ちて後足る。ゆえに君子其の誠を立てんと欲せば、其の辞に於て必ず修を加う。辞を修めて誠立ち、斯に以て忠信と為すべし。ゆえに「辞を修め其の誠を立つ」と曰く。

凡物立之則見,化之則隱。立其誠於民上若標表,然後使民觀而化,斯可以居業矣。蓋馬駭輿,君子不安輿;庶人駭政,則君子不安政。不安政,非所以居業也,故必立其誠使民信之,而無危疑之心,則無駭政之病,然後能居業也。

凡そ物は之を立つれば見え、之を化すれば隠る。其の誠を民の上に立つること標表の若くして、後民をして観て化せしむ。斯に以て業を居るべし。蓋し馬が輿を駭かせば君子輿に安んぜず、庶人が政を駭かせば君子政に安んぜず。政に安んぜざるは業を居る所以にあらず。ゆえに必ず其の誠を立てて民をして之を信ぜしめ、危疑の心なくんば、政を駭かすの病なし。然る後に能く業を居る。

知九三之可至而至之,則先見者也,故可與幾;知九三之可終而終之,則守固者也,故可與存義。居上而驕則必暇逸,而乾乾則是居上不驕也。在下不憂則惕非因時也,不樂居卑耳;今因其時而惕,則是在下位而不憂也。安其危則冝有咎,乾夕惕則非安其危者也,焉得有咎哉?故曰雖危無咎。

九三が上達すべきを知りて果たして上達するは、先見ある者なり。ゆえに与に幾を言うべし。九三が終るべきを知りて果たして終るは、守り固き者なり。ゆえに与に義を存すべし。上に居りて驕らば必ず暇逸なり。而るに乾乾たり、是れ上に居りて驕らざるなり。下に在りて憂えざれば、惕るは時に因るにあらず、ただ卑に居るを楽しまざるのみ。今その時に因りて惕る、是れ下位に在りて憂えざるなり。其の危うきに安んずれば咎あるべし。乾夕惕れば即ち其の危うきに安んずる者にあらず。焉んぞ咎を得んや。故曰く、危うしと雖も咎なし。

九四曰:或躍在淵,無咎,何謂也?子曰:上下無常,非為邪也;進退無恆,非離群也。君子進徳修業,欲及時也,故無咎。六爻或稱六位,或稱六龍。位則有上下,龍有進退,故於是言上下,又言進退也。九四上不在天,下不在田,是上下無常也;或躍而進,或退而在淵,是進退無常也。上下宜有定處,今上下無常,則疑於為邪者也;進退宜有常度,今進退無常,則疑於離群者也。

九四に「あるいは躍り淵に在り、咎なし」と曰くは何谓ぞや。子曰く——「上下常なく、邪を為すにあらず。進退恒なく、群を離るるにあらず。君子徳を進め業を修むるは、時に及ばんと欲すればなり。ゆえに咎なし」と。六爻は或いは六位と称し、或いは六龍と称す。位と言えば上下あり、龍と言えば進退あり。ゆえにここに上下を言い、また進退を言う。九四は上は天にあらず、下は田にあらず。是れ上下常なきなり。或いは躍りて進み、或いは退いて淵に在る。是れ進退常なきなり。上下は定処あるべきに、今上下常なければ、邪を為すに疑われん。進退は常度あるべきに、今進退常なければ、群を離るるに疑われん。

所以上下無常而非為邪於身,進退無常而非離群於人者,以君子進徳修業不失時故也。九三進徳修業,九四又申言,猶書所謂申勸寧王之徳是也。上帝勸文王之徳舊矣,至其將集大命,又申勸之,與此合矣。傳曰:聖人非能違時,時至則能弗失也。時至而徳之不進、業之不修,失機?矣,得旡咎哉?故君子進徳修業欲及時也,故無咎。

上下常なくして身に邪を為さず、進退常なくして人に群を離れざる所以は、君子が徳を進め業を修めて時を失わざればなり。九三に進徳修業を言い、九四にまた申し言うは、猶ほ『書』のいわゆる寧王の徳を申勧するに同じ。上帝が文王の徳を勧むること旧し。その大命を集めんとするに至り、また申し勧む。これと合す。『伝』に曰く——「聖人はよく時に違う能わず、時至れば能く失わざるのみ」と。時至りて徳の進まざる、業の修まらざれば、機を失して咎あらん。咎なからんや。ゆえに君子徳を進め業を修むるは時に及ばんと欲す。故に咎なし。

九五曰:飛龍在天,利見大人,何謂也?子曰:同聲相應,同氣相求,水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎,聖人作而萬物覩。本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。聖人所至必以類至者,固非利誘而勢驅之,亦非出於招來扳舉之力也,其感召出於自然,故於二五之相利見,以聲氣、水火、雲龍、風虎自然之象言焉。

九五に「飛龍天に在り、大人を見るに利し」と曰くは何谓ぞや。子曰く——「同じ声は相応じ、同じ気は相求む。水は湿に流れ、火は燥に就き、雲は龍に従い、風は虎に従う。聖人作(おこ)れば万物覩(み)る。天に本づく者は上に親しみ、地に本づく者は下に親しむ。則ち各其の類に従う」と。聖人の至る所は必ず類をもって至る。固より利をもって誘い勢をもって駆るにあらず、また招来扳挙の力に出ずるにあらず。その感召は自然に出づ。ゆえに二五の相利見に、声気・水火・雲・雲龍・風虎の自然の象をもって言う。

同聲相應,非若言之刼而至也;水流溼,自上而流下也;火就燥,自下而就上也;雲從龍,自下從上也;風從虎,自上流下也,而上下之變相利見也。夫聖人之作,如揭日月,其誰不覩哉?九二作而天下文明,九五作而位乎天徳,則萬物所同覩也。

「同じ声は相応ず」は、言をもって劫して至るが若きにあらず。「水は湿に流る」は、上より下に流るるなり。「火は燥に就く」は、下より上に就くなり。「雲は龍に従う」は、下より上に従うなり。「風は虎に従う」は、上より下に流るるなり。而るに上下の変、相利見するなり。夫れ聖人の作は、日月を掲ぐるが如し。其の誰か覩ざらんや。九二作れば天下文明なり。九五作れば天徳に位す。則ち万物の同じく覩る所なり。

覩之則從而親之,必其本同然後親焉。萬物之生,有上首者,有下首者,此其本固不同矣。人亦若是,本乎天者親上,本乎地者親下。眾人之相求,本乎下者也;聖人之相求,本乎上者也。其曰本乎天者親上,非必二從五也,五之從二亦是也。孟子曰:聖人之於天道。凡以天道相親者,皆本乎天者而親上者也,非必以其位之上下也。

之を覩れば従いて之に親しむ。必ず其の本同じくして後親しまん。万物の生ずるや、上に首を持つ者有り、下に首を持つ者有り。此れ其の本固より同じからず。人も亦た是の若し。天に本づく者は上に親しみ、地に本づく者は下に親しむ。衆人の相求むるは下に本づく者なり。聖人の相求むるは上に本づく者なり。其の「天に本づく者は上に親しむ」と曰くは、必ずしも二の五に従うにあらず。五の二に従うも亦是なり。孟子に曰く「聖人の天道に於けるや」と。凡そ天道をもって相親しむ者は、皆天に本づく者にして上に親しむ者なり。必ずしも其の位の上下を以てせず。

上九曰:亢龍有悔,何謂也?子曰:貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。九五位乎天徳矣,而上九過之,是貴而無位也。九五則大人造也,大人造則是天下之父,歸之民則子來矣,而上九過之,是高而無民也。天位失而不存,民散而不保,雖有強力孰能輔哉?是以賢人在下位而兀輔也。夫賢者為之輔,則雖渉難可也,故大畜尚賢止健,則利渉大川;今賢人在下位而無輔,則動而有悔,不亦宜乎?

上九に「亢龍悔あり」と曰くは何谓ぞや。子曰く——「貴けれども位なく、高けれども民なく、賢人下位に在りて輔なし。是を以て動けば悔有り」と。九五は天徳に位す。而上九は之に過ぎる。是れ貴けれども位なきなり。九五は大人の造なり。大人造れば即ち天下の父なり。帰する民は子の来るが如し。而上九は之に過ぐる。是れ高けれども民なきなり。天位失いて存せず、民散じて保たざれば、強力有りと雖も孰れか輔けんや。是を以て賢人下位に在りて輔なきなり。夫れ賢者之が輔と為れば、難を渉ると雖も可なり。ゆえに『大畜』は賢を尚び健を止めて、大川を渉るに利しと曰う。今賢人下位に在りて輔なければ、動けば悔有り。亦た宜しきにあらずや。

潛龍勿用,下也;見龍在田,時也;終日乾乾,行事也;或躍在淵,自試也;飛龍在天,上治也;亢龍有悔,窮之災也;乾元用九,天下治也。此釋初九九二,其終與井卦初六之象同。井之初六曰:井泥不食,下也;舊井無禽,時舍也。此曰:潛龍勿用,下也;見龍在田,時舎也。其辭雖同,其志則異,不當以辭害志也。

『文言』第三節に曰く——「『潜龍用いる勿れ』は下に在ればなり。『龍田に見る』は時の然らしむるなり。『終日乾乾』は事を行うなり。『あるいは躍り淵に在り』は自ら試みるなり。『飛龍天に在り』は上に居りて治むるなり。『亢龍悔あり』は窮の招く災なり。『乾元用九』は天下治まるなり」と。ここに初九・九二を釈する、其の終りの措辞は『井』卦初六の『小象』と同じ。『井』の初六に曰く——「井泥食せられず、下に在ればなり。旧井禽なし、時に舎かれたればなり」と。此れに曰く——「潜龍用いる勿れ、下に在ればなり。龍田に見る、時に舎かれたるなり」と。其の辞同じきと雖も其の志は異なり。辞を以て志を害すべからず。

井之所以不食,以其下也;龍之所以勿用,亦以其下也。然以井之稱下則語其性,潛龍稱下以時勢然也。井之無禽則時舍也,龍之在田亦時舍之。然而井之時舎則語其徳,見龍時舍則見天命然也。所謂時舍者,歌謳獄訟不歸而已。又九五在上,萬物覩焉,則九二雖有君徳,歌謳獄訟不歸矣,謂之時舎不亦宜乎?

井の食せられざる所以は其の下に在るを以てなり。龍の用いられざる所以も亦た其の下に在るを以てなり。然れども井の下と称するは其の性を語り、潜龍の下と称するは時勢の然らしむるなり。井の禽なきは時に舎かれたり、龍の田に在るも亦た時に舎かれたるなり。然れども井の時舎は其の徳を語り、見龍の時舎は天命の然るを見るなり。いわゆる時舎とは、歌謳・獄訟の帰せざるのみ(『孟子』が舜・禹の受禅を説くに用いる)。況んや九五上に居りて万物之を覩る。則ち九二君徳ありと雖も、歌謳獄訟帰せず。之を時舎と謂う亦た宜しきにあらずや。

終日乾乾,必有事焉,非徒勞也,故曰行事也。或躍在淵以自試,非果或也,故曰自試也。上治者,居上以治也。天曰災,人曰眚。天道虧盈,而上九時而盈之,則災斯至矣,故曰窮之災也。經曰:終止則亂。又曰:窮則變,變則通。失終則亂,窮而變通,理之自然也,故乾元用九,天下治也。用九言變也,傳曰九變也,復變而屬一,此之謂也。

「終日乾乾」は、必ず専務する事あり。徒らに労するにあらず。故に曰く行事なり。「あるいは躍り淵に在り」は以て自ら試む、果たして或にあらず。故に曰く自試なり。「上治」とは上に居りて治むるなり。天の降すを災と曰い、人の為すを眚と曰う。天道は盈を虧く。而上九其の時に之を盈たす。則ち災斯に至る。故に曰く窮の災なり。『繋辞伝』に曰く——「終りて止まれば則ち乱る」と。又曰く——「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」と。終を失えば乱れ、窮して変通ずるは理の自然なり。故に乾元用九、天下治まるなり。「用九」は変を言う。『伝』に曰く「九は変なり、変じて復た一に属す」、此れ之を謂う。

潛龍勿用,陽氣潛藏;見龍在田,天下文明;終日乾乾,與時偕行;或躍在淵,乾道乃革;飛龍在天,乃位乎天徳;亢龍有悔,與時偕極;乾元用九,乃見天則。此潛龍勿用下也,至乾元用九天下治也,輔嗣謂以天氣明之,其說是也。稽之於人事而人事同,驗之於天氣而天氣同,此聖人之出處所以天人弗能違也。以其利澤萬物則為龍,以其發育萬物則為陽氣。

『文言』第四節に曰く——「『潜龍用いる勿れ』は陽気潜蔵なり。『龍田に見る』は天下文明なり。『終日乾乾』は時と偕に行くなり。『あるいは躍り淵に在り』は乾道乃ち革まるなり。『飛龍天に在り』は乃ち天徳に位するなり。『亢龍悔あり』は時と偕に極まるなり。『乾元用九』は乃ち天則を見るなり」と。この「潜龍用いる勿れ、下に在ればなり」より「乾元用九、天下治まるなり」に至る一節を、王弼(字は輔嗣)は天地の気を以て明らかにする、と為す。其の説是なり。之を人事に稽えれば人事同じく、之を天気に験すれば天気同じ。此れ聖人の出処、天人の能く違わざる所以なり。其の万物を利沢するを以てすれば則ち龍と為り、其の万物を発育するを以てすれば則ち陽気と為る。

初九在下,則陽氣潛藏之時也。物合則成體,散則成章,見龍在田而天下文明,則散而成章之謂也。聖人樂天則不動其心,所以終日乾乾者,與時偕行而已。九四去下卦而與上同體,故曰乾道乃革。九五尊位大中也,故曰乃位乎天徳。不曰天位而曰天徳者,天之徳惟九五為能備也。且天之徳高明溥博,變化不測,豈人臣而能體哉?

初九下に在れば、則ち陽気潜蔵の時なり。物合すれば則ち体を成し、散ずれば則ち章を成す。龍田に見えて天下文明なれば、則ち散じて章を成すの謂なり。聖人は天を楽しみて其心動かず。終日乾乾たる所以は、時と偕に行くのみ。九四は下卦を去りて上と体を同じくす。故曰く乾道乃ち革まるなり。九五は尊位大中なり。故曰く乃ち天徳に位するなり。天位と曰わずして天徳と曰う者は、天の徳はただ九五のみ能く備うればなり。且つ天の徳は高明溥博、変化測られず。豈に人臣の能く体せんや。

於九四稱乾道,於九五稱天徳者,四欲躍上,故以極高明者稱之;五欲飛而下,故以道中庸者稱之也。上九與時偕極之時,至是而不知極,猶進而不已,悔斯至矣。聖人與時偕極,故窮而變者,乾元用九是也。知是則繼如有終而有始,其序不可違也,當不識不知以順之,故曰乃見天則也。

九四に於て乾道と称し、九五に於て天徳と称する者は、四は上に躍らんと欲すれば、故に極めて高明なる者を以て之を称し、五は飛びて下に居らんと欲すれば、故に中庸を道る者を以て之を称するなり。上九は時と偕に極まるの時なり。是に至りて極まるを知らず、猶ほ進みて已まざれば、悔斯に至る。聖人は時と偕に極まる。故に窮して変ずる者は、乾元用九これなり。是を知れば則ち継ぎて終ありて始あるを知り、其の序は違うべからず。識らず知らずして之に順うべし。故曰く乃ち天則を見るなり。

乾元者,始而亨者也;利貞者,性情也。乾始能以羙利利天下,不言所利,大矣哉。大哉乾乎,剛健中正,純粹精也;六爻發揮,旁通情也;時乘六龍,以御天也;雲行雨施,天下平也。元者萬物之所流形,是則物始而亨矣。始之使受命,亨之使流形,又制之以利貞之性情焉,則乾之造乾既是矣,此為以美利利天下也。

『文言』第五節に曰く——「乾元とは始めて亨通するなり。利貞とは性情なり。乾は始めるや能く美利を以て天下を利し、其の利する所を言わず。大きなりかな。大きなりかな乾、剛健中正にして純粋精なり。六爻の発揮は情に旁通するなり。時に六龍に乗るは以て天を御するなり。雲行き雨施するは天下平らかなるなり」と。「元」は万物の流形する所なり。是れ則ち物始めて亨す。之を始めて命を受けしめ、之を亨せしめて形を流れ、又以て利貞の性情を以て之を制す。則ち乾の造乾は既に是なり。此れを以て美利を以て天下を利するなり。

性貞而情利,二者交相養。情不利則性亦不貞,性不貞則情亦失其故。以利對情而言,地之於萬物,生載其形而已;天之於萬物,生翼其性情而已。受命賦形而賦之性情,則乾之所以兼此,其利所以為大,不可名言也。

性は貞にして情は利なり。二者交々相養う。情利ならざれば性も亦た貞ならず、性貞ならざれば情も亦た其の故を失う。利を以て情に対して言えば、地の万物に於けるは其の形を生載するのみ。天の万物に於けるは其の性情を生翼するのみ。命を受け形を賦りて之に性情を賦う。則ち乾の此れを兼ぬる所以、其の利の大と為る所以、名言すべからず。

剛健中正純粹精,此乾之徳也。以其剛也,故為玉為金;以其健也,故為良馬為老馬為駁馬。陰陽之交為沖氣,則其中也;陰陽之辨有定位,則其正也。兩物不雜為純,一物之雜為駁,不純不駁則精。天一物也,其道有陰陽,是以一物之雜也,疑於雜而不粹也;其交氣於坤,是兩物之疑於雜而不純也。其純而不雜、粹而不交者,謂其得一以清故也。純而後粹,粹而後精,精則入神矣,斯徳之盛也。

剛・健・中・正・純・粋・精は、此れ乾の徳なり。其の剛なるを以て、故に玉と為り金と為る。其の健なるを以て、故に良馬と為り老馬と為り駁馬と為る。陰陽の交わるを冲気と為すは則ち其の中なり。陰陽の辨えて定位有るは則ち其の正なり。両物雑わらざるを純と為し、一物の雑を駁と為し、純ならず駁ならざるを精と為す。天は一物なり。其の道は陰陽有り。是を以て一物の雑なり、雑にして粋ならざるに疑わしむ。其の坤と気を交わるは、両物の雑にして純ならざるに疑わしむ。其の純にして雑わらず、粋にして交わらざる者は、其の一を得て清きを謂うなり。純にして後粋、粋にして後精。精れば則ち神に入る。斯れ徳の盛んなり。

夫天地之精與萬物之情通,故其所感、所乆、所聚,而天地萬物之情同見焉。爻之發揮旁通情者,以天地之精與物之情本通故也。乾之為乾,語其徳則大徳咸備,其下足以旁通情也,其上足以御天。雲行雨施,則其利澤均平而無彼疆爾界,此乾之所以惟天為大而孔子嘆之也。

夫れ天地の精は万物の情と通ず。故に其の感ずる所、其の久しき所、其の聚まる所に、天地万物の情同じく見るなり。爻の発揮して情に旁通する者は、天地の精と物の情と本より通ずるを以てなり。乾の乾と為るや、其の徳を語れば大徳咸く備わり、其の下は情に旁通するに足り、其の上は天を御するに足る。雲行き雨施すれば則ち其の利沢均平にして彼疆爾界なし。此れ乾の惟だ天の大なる所以にして、孔子の之を嘆ずる所なり。

君子以成徳為行,日可見之行也。潛之為言也,而未見,行而未成,是以君子弗用也。內充實而外光輝者,明中而外也。君子之徳成而無虧,蓋所謂充實而成者也,故以為行則有光輝之徳,日可見之行。當此之時乃亦用其光,則孔子之用灼然矣,非所以為潛也。故當而未見,行而未成,君子亦弗用也。

『文言』第六節に曰く——「君子は徳を成すを以て行と為す。日々見るべきの行なり。潜と言うは、未だ見えず、行ありて未だ成らざるなり。是を以て君子用いざるなり」と。内に充実して外光輝あるは、中に明らかにして外に發するなり。君子の徳成りて虧なく、蓋しいわゆる充実して成る者なり。故に以て行と為せば光輝の徳あり、日々見るべきの行なり。此の時に当りて乃ち其の光を用いんとせば、則ち孔子の用は灼然たらん。潜と為す所以にあらず。故に当りて未だ見えず、行ありて未だ成らざれば、君子亦た用いざるなり。

君子學以聚之,問以辨之,寛以居之,仁以行之。易曰:見龍在田,利見大人,君徳也。聚者,積小之名,君子之學也。天地萬物之理、古今治亂之變,無不旁搜而逺取者,所以聚之也。聚之則聞見多矣,聞而不集其善、多見不識其真,則徒自惑耳,故問以辨之。

『文言』に曰く——「君子は学を以て之を聚め、問を以て之を辨え、寛を以て之に居り、仁を以て之を行う。易に曰く『龍田に見る、大人を見るに利し』、君徳なり」と。「聚」とは小を積むの名なり、君子の学なり。天地万物の理、古今治乱の変、旁ら搜りて遠く取らざるなし。之を聚むる所以なり。之を聚めば則ち聞見多し。聞きて其の善を集めず、多く見て其の真を識らざれば、徒らに自ら惑うのみ。故に問を以て之を辨る。

九二有學問之象者,以君徳而處下體,有資納於物之意焉。學問,修性者也;寛仁,則其性得矣。寛以居之者,謂九二衍在中,而無九三之憂,無九四之疑,上不為文武之汲汲,下不為仲尼之皇皇,而居有餘也。仁以行之,龍有利澤之材,而田為利養之所,以利澤之材而居利養之所,則仁之及物深也。

九二に学問の象ある者は、君徳を以て下体に処るを以てなり。物に資り納るるの意あり。学問は性を修むる者なり。寛仁は則ち其の性を得たるなり。「寛を以て之に居る」とは、九二衍として中に在り、九三の憂なく、九四の疑なく、上は文武の汲汲たるを為さず、下は仲尼の皇皇たるを為さず、居りて余あり。「仁を以て之を行う」は、龍に利沢の材ありて、田は利養の所なり。利沢の材を以て利養の所に居れば、則ち仁の物に及ぶや深し。

九三重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。九四重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故或之。或之者,疑之也,故無咎。九三九四皆以剛復剛,是以重剛也;三過、四不及,是以不中也。其材重剛而不中,則動必為非常之事矣。九三上不在天下不在田而勢將至矣,九四又不中,勢尤廹也,此九三所以懼而九四所以惑也。

『文言』に曰く——「九三は剛を重ねて中ならず、上は天にあらず下は田にあらず。故に乾乾として其の時に因りて惕れ、危うしと雖も咎なし。九四は剛を重ねて中ならず、上は天にあらず下は田にあらず、中は人にあらず。故に或と曰う。或とは疑うなり。故に咎なし」と。九三九四は皆剛を以て剛に復す。是を以て剛を重ぬるなり。三は過ぎ、四は及ばず。是を以て中ならざるなり。其の材剛を重ねて中ならざれば、動けば必ず非常の事を為さん。九三は上は天にあらず下は田にあらずして勢い将に至らんとす。九四は又中ならず、勢い尤も廹る。此れ九三の懼るる所以にして、九四の惑える所以なり。

勇者不懼,於其不足懼可也;如其可懼,則雖聖人之大勇,猶將有所懼焉,九三之惕是也。知者不惑,於其不足惑可也;如其可惑,雖聖人之大知,猶將惑焉,九四之或是也。王通曰:天下皆憂,吾獨不憂乎?天下皆疑,吾獨不疑乎?

勇者は懼れずと曰うは、其の懼るに足らざるに於て可なり。其の懼るべきに如かば、聖人の大勇と雖も、猶ほ懼るる所有らん。九三の惕是なり。知者は惑わずと曰うは、其の惑うに足らざるに於て可なり。其の惑うべきに如かば、聖人の大知と雖も、猶ほ惑う有らん。九四の或是なり。王通に曰く——「天下皆な憂う、吾独り憂えざらんや。天下皆な疑う、吾独り疑わざらんや」と。

夫大人者,與天地合其徳,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉?,先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?天地,陰陽之形;日月,陰陽之精;四時,陰陽之序;鬼神,陰陽之靈。四者不離乎陰陽,不離乎道。夫人能體道,則與天地合徳、日月合明、四時合序、鬼神合吉?矣。

『文言』に曰く——「夫れ大人とは、天地と其の徳を合し、日月と其の明を合し、四時と其の序を合し、鬼神と其の吉凶を合す。天に先んじて天違わず、天に後れて天時を奉ず。天且つ違わず、而して況んや人をや。況んや鬼神をや」と。天地は陰陽の形、日月は陰陽の精、四時は陰陽の序、鬼神は陰、鬼神は陰陽の霊。四者は陰陽を離れず、道を離れず。夫れ人能く道を体せば、則ち天地と徳を合し、日月と明を合し、四時と序を合し、鬼神と其の吉凶を合せん。

天地合徳,故無不覆幬,無不持載,且生育長養有大徳焉,鼔舞動化有妙徳焉。與日月合明,故知彰也,猶曰之昱乎晝;知?也,猶月之昱乎夜。與四時合其序,故其進退有度;與鬼神合其吉?,故其賞罰無私焉。

天地と徳を合すれば、故に覆帱せざるなく、持載せざるなく、且つ生育長養に大徳有り、鼓舞動化に妙徳有り。日月と明を合すれば、故に彰るを知る、猶ほ日の昼に昱るが如し。幽を知る、猶ほ月の夜に昱るが如し。四時と其の序を合すれば、故に其の進退に度有り。鬼神と其の吉凶を合すれば、故に其の賞罰に私なし。

九二亦大人也,未足言此,何也?九二臣也,非位之大,故不足以合天地之徳;非宜照天下,故不足以合日月之明;不得兼進退,故不足以合四時之序;不得擅威福,故不足以合鬼神之吉?,此所以獨言九五也。天法道,故以道先天而天弗違焉;以身狥道,則後天而奉天時焉。天且弗違,此大人之在上所以能馭也,故曰況於人乎。

九二も亦た大人なり。未だ此れを言うに足らざるは何ぞや。九二は臣なり。位の大ならざれば、故に天地の徳を合するに足らず。宜しく天下を照すべからざれば、故に日月の明を合するに足らず。進退を兼ぬるを得ざれば、故に四時の序を合するに足らず。威福を擅にするを得ざれば、故に鬼神の吉凶を合するに足らず。此れ独り九五を言う所以なり。天は道に法る。故に道を以て天に先んじて天違わず。身を以て道に徇えば、則ち天に後れて天時を奉ず。天且つ違わず。此れ大人の上に在るの能く御する所以なり。故曰く況んや人をやと。

亢之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知?,其惟聖人乎?知進退存亡而不失其正者,其惟聖人乎?進退者,其時也;存亡者,其人也。身退而其位存,遂以為有得;身退而其位亡,遂以為有?,此人情之常也。聖人乘天下之變,與之俱逝而無所槩於其心,是以無?,而進退存亡不失其正也。

『文言』に曰く——「亢と言うは、進を知りて退を知らず、存を知りて亡を知らず、得を知りて喪を知らざるなり。其れ惟だ聖人か。進退存亡を知りて其の正を失わざる者、其れ惟だ聖人か」と。進退とは其の時なり。存亡とは其の人なり。身退いて其の位存せば、遂に以て得有りと為し、身退いて其の位亡せば、遂に以て喪有りと為す。此れ人情の常なり。聖人は天下の変に乗り、之と倶に逝きて其心に槩する所なし。是を以て喪なくして、進退存亡其の正を失わざるなり。

坤卦(坤下坤上)

坤下坤上。坤:元亨,利牝馬之貞。君子有攸往,先迷後得主,利。西南得朋,東北?朋,安貞吉。曰:至哉坤元,萬物資生,乃順承天。坤厚載物,徳合無疆;含光大,品物咸亨。牝馬地類,行地無疆,柔順利貞。君子攸行,先迷失道,後順得常。西南得朋,乃與類行;東北?朋,乃終有慶。安貞之吉,應地無疆。

『坤』卦は下体も坤、上体も坤で、六爻すべて純陰である。卦辞にいう——「坤、元亨、牝馬の貞に利し。君子往く所有り、先んずれば迷い、後るれば主を得る、利し。西南は朋を得、東北は朋を喪う。安く貞なれば吉」と。『彖伝』にいう——「至れるかな坤元、万物これに資りて生ず、乃ち順に天を承く。坤厚くして物を載せ、徳合して疆(かぎり)なし。弘を含みて光なりて大きし、品物咸く亨る。牝馬は地の類にして、地を行くこと疆なし。柔順にして貞に利し。君子の攸行、先んずれば道を迷い、後るれば順にて常を得る。西南は朋を得るは、乃ち類と行くなり。東北は朋を喪うは、乃ち終に慶有るなり。安貞の吉は、地の疆なきに応ずるなり」と。

坤之為道,妻道也,臣道也,賢人之分也。妻道不出於閫,臣道不出於位,賢人之分亦有宮庭壇宇以守之而不敢踰也,則坤之為義蓋有方矣,異乎神之無方也。故乾不言所利,坤則利牝馬之貞。夫馬之為物,視龍為順,視牛為健,蓋其才健至順者也。臣之道不欲健勝順,故利在牝馬,健不勝其順者也。

坤の道と為るは、妻道なり、臣道なり、賢人の分なり。妻道は閫(きひき)より出でず、臣道は位より出でず。賢人の分も亦た宮庭壇宇有りて之を守りて踰えんことを敢えてせず。則ち坤の義と為るは蓋し方有り。神の方なきに異なり。故に乾は其の利する所を言わず、坤は則ち牝馬の貞に利しと曰う。夫れ馬の物と為るは、龍に視れば順にして、牛に視れば健なり。蓋し其の才健にして至順なる者なり。臣の道は健の順に勝たんことを欲せず。故に利は牝馬に在り。健其の順に勝たざる者なり。

然而健不勝順,則患其柔從而無立志,是以有攸往必君子而後可也。君子於仁也柔,於義也剛,而健順兩進故也。乾為馬,而坤之貞亦為馬,其象上同於乾,故有先迷之理焉;然其馬牝馬也,故有後得主之道焉。乾言進退存亡而不言得?,以聖人無得亦無?故也;聖人有?,故利西南得朋、東北?朋矣。然以得朋為得、以?朋為?,則異乎眾人之得?也。安貞,猶所謂安汝止也;地無以寧將恐發,故欲安貞也。

然れども健の順に勝たざれば、則ち其の柔従にして立志なきを患う。是を以て往く所有れば必ず君子にして后可なり。君子は仁に於て柔にして、義に於て剛なり。健順両進するが故なり。乾は馬と為りて、坤の貞も亦た馬と為る。其の象は上に於て乾と同じ。故に先んずれば迷うの理有り。然れども其の馬は牝馬なり。故に後るれば主を得るの道有り。乾は進退存亡を言いて得失を言わざるは、聖人に得なく喪も無きを以てなり。聖人に喪有り。故に西南は朋を得、東北は朋を喪うと曰う。然れども朋を得るを以て得と為し、朋を喪うを以て喪と為すは、則ち衆人の得失に異なり。安貞とは猶ほいわゆる汝の止まる所に安んずるなり(『尚書』)。地寧なき以ては将に発せんと恐る。故に安貞を欲す(『老子』)。

凡物雜乎芒芴之間,必變而有氣,氣變而有形,形變而有生。然則所以資始者,資之於氣變之先;所以資生者,資之於形變之後。此乾知大始、坤作成物之意也。乃順承天者,自生生而繼之之為順,自下而承之之為承。坤之為牛者,順也;其為輿者,承也。

凡そ物は芒芴の間に雑わる、必ず変じて気有り、気変じて形有り、形変じて生有り。然れば則ち資始の所以は、気変の先に之に資り、資生の所以は、形変の後に之に資る。此れ「乾は大いなる始めを知り、坤は物を作し成す」の意なり。乃ち順に天を承くとは、生生自らして之に継ぐを順と為し、下よりして之に承ぐを承と為す。坤の牛と為る者は順なり、其の輿と為る者は承なり。

坤厚載物,徳合無疆,言坤之徳又足以合其無疆之行,猶所謂踐形者也。坤有無疆之形,又有無疆之徳以合之,此所以能持載,亦所以能廣大也。含者,傳所謂地魄營者是也;宏者,傳所謂地載神氣者是也。魄營則萬物之?歸,載神氣則萬物之流形。自含而宏,則是納而後施、養而後動也,此其業所以光大,故曰含宏光大。品物流形者,乾之亨是也;坤則亨品物之情而已,故曰品物咸亨也。

「坤厚くして物を載せ、徳合して疆なし」とは、坤の徳また其の疆なきの行を合するに足るを言う。猶ほいわゆる形を践むる者なり。坤は疆なきの形有り、又疆なきの徳有りて之に合す。此れ能く持載する所以にして、亦た能く広大なる所以なり。「含」とは伝のいわゆる地は魄を営むなり。「宏」とは伝のいわゆる地は神気を載するなり。魄営めば則ち万物の帰する所あり。神気を載すれば則ち万物の流形なり。含よりして宏に至るは、則ち納れて後施し、養いて後動くなり。此れ其の業の光大なる所以。故曰く含宏光大なり。「品物流形」は乾の亨これなり。坤は則ち品物の情を亨らしむるのみ。故曰く品物咸く亨るなり。

坤之利不在龍者,龍不足乎順,且非地利故也;又不在牛者,牛不足乎健,行地無疆故也。其順為地類,其健足以行地無疆者,非馬而何?故曰牝馬地類,行地無疆也。柔順其易入於邪,柔順而不入於邪者,君子之所行也,故曰柔順利貞,君子攸行也。

坤の利は龍に在らざるは、龍は順に足らず、且つ地利にあらざればなり。又牛に在らざるは、牛は健に足らず、地を行くこと疆なきに足らざればなり。其の順なるは地の類にして、其の健なるは地を行くこと疆なきに足る者は、馬に非ずして何ぞ。故曰く牝馬は地の類にして、地を行くこと疆なしと。柔順は其れ邪に入り易し。柔順にして邪に入らざる者は、君子の行う所なり。故曰く柔順にして貞に利し、君子の攸行なり。

以聖人而為君,則天可先也,亦可後也;以賢人而為臣,則君不可先也,可後而已,故曰先迷失道、後順得常者,則君在道、臣謹法故也。西南者,坤方也,坤之在西南則得其類行也。馬與類行者,猶否之初六以其彚征吉,未必稱行其道也。傳曰:定公然後能應。故必安貞然後應地無疆焉。不能貞而為事,則不終朝而力屈矣,安能應地無疆乎?傳曰:其用心不勞,其應物無疆。與此同意。

聖人を以て君と為れば、則ち先んずべく亦た後るべし。賢人を以て臣と為れば、則ち君に先んずべからず、後るのみ。故曰く先んずれば道を迷い、後るれば順にて常を得る者は、則ち君は道に在り、臣は法を謹むが故なり。西南は坤の方なり。坤の西南に在れば則ち其の類行を得るなり。馬の類と行く者は、猶ほ『否』の初六の其の彙を以て征けば吉なるが如し。未だ必ずしも其の道を行うと称せず。伝に曰く——「定まりて後に能く応ず」と。故に必ず安貞にして後に地の疆なきに応ず。貞ならずして事を為さば、則ち終朝せずして力屈す。安んぞ能く地の疆なきに応ぜんや。伝に曰く——「其の心を用うるに労せず、其の物に応ずるに疆なし」と。此れと意同じ。

象曰:地勢坤,君子以厚徳載物。地盤而向乎上,勢至順也,故曰地勢坤。君子以厚徳者,所謂人法地故也。水之積不厚,則不能負舟;風之積不厚,則不能負天。君子所以負天下之至重而不輸載者,亦惟厚徳而已。

『大象伝』に曰く——「地の勢い坤、君子もって厚徳にして物を載す」と。地は盤踞して上に向かう、勢い至順なり。故曰く地勢坤なり。君子の厚徳を以てするは、いわゆる人は地に法るが故なり。水の積厚からざれば則ち舟を負う能わず、風の積厚からざれば則ち天を負う能わず。君子の天下の至重を負いて輸載せざる所以は、亦た惟だ厚徳のみ。

初六:霜堅氷至。象曰:霜堅氷,陰始凝也;馴致其道,至堅氷也。初六陰始凝而為霜,霜則甚微而易散;霜積乆而為氷,氷則甚堅而難泮,此戒夫陰長也。夫霜之與氷,與秋冬又為序,理必至者也。小人之長而不知懲其微,則勢必至,亦若此而已。夫乾為龍而坤之極亦為龍,乾為氷而坤之究亦為氷,由馴至其道耳。

初六の爻辞に曰く——「霜(を履めば)堅氷至る」と。『小象伝』に曰く——「霜堅氷は、陰始めて凝るなり。馴らして其の道を致せば、堅氷に至るなり」と。初六は陰始めて凝りて霜と為る。霜は則ち甚だ微にして散じ易し。霜積みて久しければ氷と為る。氷は則ち甚だ堅にして泮し難し。此れ夫れ陰の長ずるを戒むるなり。夫れ霜と氷とは、又秋冬と序を為す、理の必ず至る者なり。小人の長じて其の微を懲らすを知らざれば、則ち勢い必ず至る。亦た此の若きのみ。夫れ乾は龍と為る。而して坤の極まるも亦た龍と為る。乾は氷と為る。而して坤の究まるも亦た氷と為る。馴らして其の道に至るのみ。

六二:直方大,不習無不利。象曰:六二之動,直以方也;不習無不利,地道光也。柔順則疑於不直,然而六二中也,中則不,故能直;順則疑於不方,然六二正則不變,故能方。夫坤之於方也,物性長非所斷,短非所續;甲者坼非固剖之,屈者伸非固揠之,是乃所以為直也。

六二の爻辞に曰く——「直く方く大きく、習わずして利あらざるなし」と。『小象伝』に曰く——「六二の動は、直にして方なり。習わずして利あらざるなきは、地道の光なり」と。柔順なれば則ち直ならざるに疑わしむ。然れども六二は中なり。中なれば偏らず。故能く直なり。順なれば則ち方ならざるに疑わしむ。然れども六二は正なり、正なれば変わらず。故能く方なり。夫れ坤の方に於けるは、物の性、長きは断る所にあらず、短きは続ぐ所にあらず。甲ある者は坼(さ)く、固めて之を剖らず。屈する者は伸ぶ、固めて之を拔かず。是れ乃ち直と為る所以なり。

火可滅而不可使之間,氷可涸而不可使之炎,駢者齧之則泣,枝者齕之則啼,是乃所以為方也。直方故能大。若夫生萬物而不以直,成萬物而不以方,則拂性而迷理,焉能大哉?能生萬物不私而知其直,成萬物不易而知其方,則是方因動而後見,故曰六二之動,直以方也。

火は滅すべくして寒ならしむべからず、氷は涸るべくして炎ならしむべからず。駢る者は之を齧れば泣き、枝ある者は之を龁(かじ)れば啼く。是れ乃ち方と為る所以なり。直方なれば故能く大なり。若し夫れ万物を生じて直を以てせず、万物を成して方を以てせざらば、則ち性に拂いて理を迷う。焉んぞ能く大ならんや。能く万物を生じて私なくして其の直を知り、万物を成して易えずして其の方を知る。則ち是れ方は動に因りて後に見る。故曰く六二の動、直にして方なり。

古者深衣,則負直而抱方,則是君子動容不離乎直方之間矣。習之後利,道之常也;不習無不利,地道之光也。未能則學,已能則習,先學而後習,故乾言學,坤言習。乾,聖人之分也,而曰學,以謂聖雖絶學,有中才焉,有與同也;坤,賢人之分也,而曰不習者,以謂賢雖務學,有良能焉,不必習也。

古の深衣は、則ち直を負いて方を抱く。則ち君子の動容は直方の間を離れず。習うて後利あるは道の常なり。習わずして利あらざるなきは地道の光なり。未だ能わざれば則ち学び、已に能くせば則ち習う。学びて後に習う。故に乾は学を言い、坤は習を言う。乾は聖人の分なり。而して学と曰うは、聖は学を絶すと雖も、中才の者有り、之と同じ有るを謂うなり。坤は賢人の分なり。而して不習と曰うは、賢は学を務むと雖も、良能の者有り、必ずしも習わざるを謂うなり。

六三:含章可貞,或從王事,無成有終。象曰:含章可貞,以時發也;或從王事,知光大也。芾之色,君則以朱,臣則以赤;君以含藏為道,臣以佈散為道也。君以含藏為道,故姤之九五含章,可貞則有隕自天,象也,中正也;臣以佈散為道,故坤之六三則曰可貞而已。含章而不發,則臣之分為貞矣;然而正君之道為未貞也,欲其以時發也。

六三の爻辞に曰く——「章を含みて貞なるべし。或いは王事に従いて、成るなく終あり」と。『小象伝』に曰く——「章を含みて貞なるべしとは、時を以て發するなり。或いは王事に従うとは、知の光大なり」と。芾(蔽膝)の色は、君は則ち朱を以てし、臣は則ち赤を以てす。君は含蔵を以て道と為し、臣は布散を以て道と為す。君は含蔵を以て道と為す。故に『姤』の九五に章を含むと曰う。貞なるべければ則ち天より陨る有り。象なり、中正なり。臣は布散を以て道と為す。故に『坤』の六三は則ち貞なるべしと曰うのみ。章を含みて發せざれば、則ち臣の分は貞なり。然れども君を正すの道は未だ貞ならず。其の時を以て發せんことを欲するなり。

或從王事者,無遂事之謂也。不敢執一而東西南北惟命之從,是以稱也。人之有智,不必自照而後光大也,能為而能不為,乃所以為光大,故不敢遂事而為光大焉。無成有終,則以謂君造始、臣代終,君臣之大分故也;臣欲有成,則先迷失道矣。

「或いは王事に従う」とは、事を独りで遂げることを敢えてせざるの謂なり。一を執ることを敢えてせず、東西南北ただ命に従うのみ。是を以て『小象』之を称す。人の智有るや、必ずしも自ら照らして後光大ならず。能く為して能く為さざるは、乃ち光大と為る所以なり。故に事を遂ぐるを敢えてせずして光大と為る。「成るなく終あり」とは、君は始めを造し臣は代わりて終る、君臣の大分の故を以て謂うなり。臣成るを欲せば、則ち先んじて道を迷うなり。

六四:括囊,無咎無譽。象曰:括囊無咎,慎不害也。坤之靜也翕,動也闢,其翕闢惟時而已。六四當天地之閉,是以體坤之翕而括囊焉,括囊則無咎亦旡譽矣。若夫括不以時,則為素;雖足以避一時之患,未免乎君子之咎也;雖足以要一時之譽,未免乎君子之誚也,烏能無咎哉?

六四の爻辞に曰く——「嚢を括(くく)る、咎なく誉なし」と。『小象伝』に曰く——「嚢を括れば咎なしとは、慎しめば害なきなり」と。坤は静なれば翕(あつま)り、動けば辟(ひら)く。其の翕辟はただ時のみ。六四は天地の閉づるに当る。是を以て坤の翕を体して嚢を括る。嚢を括れば咎もなく誉もなし。若し夫れ時を以てせずして括るは、則ち素隐の類なり。一時の患を避くるに足ると雖も、君子の咎を免れず。一時の誉を要するに足ると雖も、君子の誚(そし)りを免れず。烏(あん)ぞ能く咎なからんや。

六五:黃裳元吉。象曰:黃裳元吉,文在中也。坤之色以黒為正,以黃為美。服之制,上為衣,下為裳。色之見於外也為黃,非若括囊者也;位之正乎下也為裳,非若龍戰者也,是以元吉也。文在中者,即後之所謂美在中者也。人者,陰陽之交、五行之秀氣,則文固在其中矣,加磨琢焉使其成章,然後美在其中矣。所以先文而後言羙也,羙然後致用,六以大終,本諸此而已矣。

六五の爻辞に曰く——「黄裳(こうしょう)、元吉」と。『小象伝』に曰く——「黄裳元吉とは、文中に在るなり」と。坤の色は黒を以て正と為し、黄を以て美と為す。服の制は上を衣と為し、下を裳と為す。色の外に見るや黄と為すは、嚢を括る者の若きにあらず。位の下に正するや裳と為すは、龍戦う者の若きにあらず。是を以て元吉なり。文中に在るとは、即ち後のいわゆる美中に在るなり。人とは陰陽の交、五行の秀気。則ち文固より其の中に在り。加えて磨琢して其の章を成さしめて、然る後に美其の中に在るなり。先ず文を言いて後に美を言う所以。美然る後に用に致す。六は大を以て終る、本づく所此れに在り。

上六:龍戰于野,其血黃。象曰:龍戰于野,其道窮也。用六:利永貞。象曰:用六永貞,以大終也。陰與陽同稱龍,陽與陰同稱血,則以陰盛而敵陽、微而傷,陰陽皆窮矣,故曰其道窮也。用九者,非至於亢而後用九,以謂用九則無是亢也;用六者,非至於戰而後用六,以謂用六則旡是戰也。蓋六者陰之中數,用中而能永貞,則六五之元吉不難至矣;用中而不能期月守,則非所謂永貞也。上六之戰,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,故曰非永貞不可也。

上六の爻辞に曰く——「龍野に戦う、其の血玄黄」と。『小象伝』に曰く——「龍野に戦うは、其の道窮まるなり」と。用六の辞に曰く——「永貞に利し」と。『小象伝』に曰く——「用六永貞とは、大を以て終るなり」と。陰は陽と同じく龍と称し、陽は陰と同じく血と称するは、則ち陰盛んにして陽に敵し、陽微にして傷つく、陰陽皆窮まればなり。故曰く其の道窮まるなり。用九とは、亢に至りて後に九を用うにあらず、九を用うれば則ち是の亢なきを謂うなり。用六とは、戦に至りて後に六を用うにあらず、六を用うれば則ち是の戦なきを謂うなり。蓋し六とは陰の中数なり。中を用いて能く永貞なれば、則ち六五の元吉至るに難からず。中を用いて期月守る能わざれば、則ちいわゆる永貞にあらず。上六の戦は、一朝一夕の故にあらず。其の由りて来るや漸なり。故曰く永貞ならざるべからず。

坤卦・文言

文言曰:坤至柔而動也剛,至靜而徳方,後得主而有常,含萬物而化光。坤道其順乎,承天而時行。乾剛也,有時乎柔;然坤之為柔,則至柔矣。乾動也,有時乎靜;然坤之為靜,則至靜矣,故此稱至柔至靜焉。坤至柔,然其動也剛,若氣湊於下而萬物生,不可御者,是其動而剛也。雖至柔而動則剛,雖動而其歸則靜,故言之以至靜焉。

『文言伝』に曰く——「坤は至柔にして動くや剛なり。至静にして徳方なり。後るれば主を得て常有り。万物を含みて化光す。坤道其れ順なるかな。天を承けて時に行く」と。乾は剛なり、時に柔有り。然れども坤の柔と為るは、則ち至柔なり。乾は動なり、時に静有り。然れども坤の静と為るは、則ち至静なり。故に此れを至柔至静と称す。坤至柔なり。然れども其の動くや剛なり。気の下に湊りて万物生ずるが若く、御るべからざるは是れ其の動きて剛なり。至柔と雖も動けば剛、動くと雖も其の帰すれば静。故に之を至静を以て言うなり。

前曰六二之動,直方也,則是動而後方可見也;今曰至靜而徳方,然則坤之動靜皆可見矣。於靜而正稱徳者,其性故也;於動而方稱義者,其行故也。行以柔,而動既剛而靜,則其剛不失於方,此所以後得主而有常、含萬物而化光也。

前に「六二の動、直にして方なり」と曰うは、則ち動きて後に方の見るべきなり。今「至静にして徳方」と曰う。然れば則ち坤の動静皆な見るべし。静に於て正を徳と称するは、其の性の故なり。動に於て方を義と称するは、其の行の故なり。行を以て柔にして、動けば既に剛にして静なれば、則ち其の剛は方に失わず。此れ後るれば主を得て常有り、万物を含みて化光する所以なり。

蓋至柔至靜者,後主之道也;雖有時而剛動而終始不違乎至靜,則是有常者也。至柔至靜,含萬物之道也;雖有時乎剛動,而終不違乎柔靜,所以化光也。若柔而不能動,如疲懦動無能為之人,雖足以含受於物,又安能化光也哉?坤以安貞為徳,則其行非其性然也,柔承天而時行耳,此坤道所以為順,故曰坤道其順乎,承天而時行。

蓋し至柔至静とは、後るるの道なり。時に剛動有ると雖も、終始至静に違わざれば、則ち是れ常有る者なり。至柔至静は、万物を含むの道なり。時に剛動有ると雖も、終に柔静に違わず。化光する所以なり。若し柔にして動く能わざれば、疲懦にして動けば為す能わざるの人の如し。物を含受するに足ると雖も、又安んぞ能く化光せんや。坤は安貞を以て徳と為す。則ち其の行は其の性にあらず、柔にて天を承けて時に行くのみ。此れ坤道の順と為る所以。故曰く坤道其れ順なるかな、天を承けて時に行くと。

積善之家必有餘慶,積不善之家必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辨之不早辨也。易曰:履霜堅氷至,蓋言順也。自上制下則其勢易,自下制上則其勢難,故必積而後至焉。積而至,猶萌櫱之長,不見其進而忽焉而已高大矣,是在辨之早也。

『文言』に曰く——「善を積むの家は必ず余慶有り、不善を積むの家は必ず余殃有り。臣其の君を弑し、子其の父を弑するは、一朝一夕の故にあらず。其の由りて来るや漸なり。辨じて早く辨辨ぜざるに由るなり。易に曰く『霜を履めば堅氷至る』、蓋し順を言うなり」と。上より下を制すれば則ち其の勢い易く、下より上を制すれば則ち其の勢い難し。故に必ず積みて後に至る。積みて至るは、猶ほ萌櫱の長ずるが如く、其の進むを見ずして忽ち已に高大なり。是れ辨むるの早きに在り。

大抵善者不求人知,不善者又深自闔藏而不欲人之知也,則辨之扵早,非觀象知器者孰能與於此哉?眾人之性,從善如登,從惡如傾;小人之從惡,則其順如傾,非有以逆其順,則其勢彌大,沛然莫之能御矣,故曰履霜堅氷至,蓋言順也。

大抵善者は人の知るを求めず、不善者は又深く自ら闔蔵して人の知るを欲せず。則ち之を早きに辨ずるは、象を観て器を知る者に非ずして孰れか此れに与からんや。衆人の性は、善に従うや登るが如く、悪に従うや傾ぐが如し。小人の悪に従うや、則ち其の順傾ぐるが如し。以て其の順に逆らう者有らざれば、則ち其の勢い弥々大なり、沛然として之を御する能わず。故曰く霜を履めば堅氷至る、蓋し順を言うなり。

直其正也,方其義也,君子敬以直內,義以方外,敬義立而徳不孤。直方大,不習無不利,則不疑其所行也。直其正也,言直出於其正也;方其義也,言方出於其義也。蓋直雖善矣,而有所謂直而肆,其出於正則直而不肆矣;方雖善也,而有所謂方而礙,出於義則方而不礙矣。

「直は其の正なり、方は其の義なり。君子は敬を以て内を直にし、義を以て外を方にす。敬義立ちて徳孤ならず。直方大、習わずして利あらざるなしとは、則ち其の行う所を疑わざるなり」と。直其の正なりとは、直其の正より出づるを言うなり。方其の義なりとは、方其の義より出づるを言うなり。蓋し直は善と雖も、いわゆる直にして肆なる者有り。其の正より出づれば則ち直にして肆ならず。方は善と雖も、いわゆる方にして礙なる者有り。義より出づれば則ち方にして礙ならず。

上言直其正,下言敬以直內,何也?正言性,敬言徳,其實一也。君子敬以直內,義以方外,敬義兩立而徳不孤,是所以為大也。夫事出於習,則行不能無疑;不習無不利,則左右周旋無往而不可,何疑之有哉?故曰不疑其所行也。

上に「直其の正」と言い、下に「敬を以て内を直にす」と言うは何ぞや。正は性を言い、敬は徳を言う。其の実は一なり。君子は敬を以て内を直にし、義を以て外を方にし、敬義両立ちて徳孤ならず。是れ大と為る所以なり。夫れ事習より出づれば、則ち行疑わざる能わず。習わずして利あらざるなければ、則ち左右周旋往きて可ならざるなし。何の疑い之有らんや。故曰く其の行う所を疑わざるなり。

陰雖有美,含之以從王事,弗敢成也。地道也,妻道也,臣道也;地道無成而代有終也。括囊,則與天地俱閉而不發也;含章非不發也,特以時發而已。不然,則是包羞而已,何足貴哉?故曰弗敢成也。弗敢者,於分有所不敢,非其才有所不能也。

「陰は美有ると雖も、之を含みて以て王事に従い、敢えて成さざるなり。地道なり、妻道なり、臣道なり。地道は成すなくして代わりて終有るなり」と。「嚢を括る」は則ち天地と倶に閉じて發せざるなり。「章を含む」は發せざるにあらず、特に時を以て發するのみ。然らざれば則ち『否』のいわゆる羞を包むのみ。何ぞ貴ぶに足らんや。故曰く敢えて成さざるなり。敢えてせずとは、分に於て敢えてせざる有り、其の才の能わざる有るにあらず。

天地變化,草木蕃;天地閉,賢人隱。易曰:括囊無咎無譽,蓋言謹也。通於天地者,徳也;行於萬物者,道也。賢者放徳而行,循道而趨,則其與天地萬物同流乎消息盈虛之變矣,故天地變化草木蕃則賢人見,天地閉草木雕則賢人。然則賢人之見,通乎天地,應乎萬物,固為謹也。蓋括囊非賢人之爻,以天地萬物猶然,顧不得不括耳,此所以有天地草木之稱也。前言慎,後言謹,慎在心,謹在行。

『文言』に曰く——「天地変化すれば草木蕃(しげ)る。天地閉づれば賢人隠る。易に曰く『嚢を括れば咎なく誉なし』、蓋し謹を言うなり」と。天地に通ずるは徳なり。万物に行わるるは道なり。賢者徳を放(したが)えて行い、道に循いて趨かば、則ち其の天地万物と倶に消息盈虚の変に流るるなり。故に天地変化して草木蕃れば則ち賢人見る、天地閉じて草木雕れば則ち賢人隠る。然れば則ち賢人の見るるは、天地に通じ、万物に応ず。固より謹を為すなり。蓋し嚢を括るは賢人の爻に非ざるも、天地万物猶ほ然り。顧みて括らざるを得ざるのみ。此れ天地草木の称有る所以なり。前に慎を言い、後に謹を言う。慎は心に在り、謹は行に在り。

君子黃中通理,正位居體,美在其中,而暢於四支,發於事業,美之至也。黃中通理,釋爻所謂黃也;正位居體,釋爻所謂裳也。蓋中者,是兩端之所合、四旁之所?,故欲通上下而無不偏、通四方而無不者,莫若中,是以謂黃中通理。君正位乎上則體安於上,臣正位乎下則體安於下;六五猶黃裳之在下,此善正位以安居其體矣,故曰正位居體。

『文言』に曰く——「君子は黄中して理に通じ、位を正して体に居る。美其の中に在りて、四肢に暢び、事業に發す。美の至りなり」と。黄中して理に通ずるは、爻のいわゆる黄を釋す。位を正して体に居るは、爻のいわゆる裳を釋す。蓋し中とは両端の合する所、四方の会する所なり。故に上下に通じて偏らざるなく、四方に通じて至らざるなからんと欲せば、中に若くは莫し。是を以て黄中して理に通ずと謂う。君は位を上に正すれば則ち体上に安んじ、臣は位を下に正すれば則ち体下に安んず。六五は猶ほ黄裳の下に在るが如し。此れ善く位を正して其の体を安んずるなり。故曰く位を正して体に居る。

黃者,羙善之見乎外也;其見乎外必有諸中,故曰美在其中而暢於四肢,發於事業也。且玉在山而木潤,淵生珠而雀不枯,其美在其中而暢於四肢者,亦若是而已。孟子所謂晬然見於面、盎於背、施於四體,而荀子以容止不枯為君子,詩以赫如渥赭為碩人,蓋徳之潤身固如此也。

黄とは美善の外に見るるなり。其の外に見るるは必ず中に諸(これ)有る。故曰く美其の中に在りて四肢に暢び、事業に發すと。且つ玉山に在りて木潤い、淵珠を生じて岸の草木枯れず。其の美中に在りて四肢に暢ぶる者も、亦た是の若きのみ。孟子のいわゆる晬然として面に見え、背に盎げ、四体に施る、荀子の容止枯れざるを以て君子と為し、詩の赫として渥赭の如くを以て碩人と為すは、蓋し徳の身を潤すは固より此の如し。

暢於四肢則成已者足矣,發於事業又所以成物也。上以美政,下以美俗,此之謂發於事業。發於事業,非特充實於其心,又充實於天下,是為美之至也。美在其中,暢於四支而不發於事業,是猶羙玊而藏於垢石也,孰知其美哉?羙之於中未見於四支,而強欲發於事業,則是丑人而欲効顰於西子也,烏見其美哉?故必美在其中而暢於四支、發於事業,始得為羙之至也。

四肢に暢ぶれば則ち己を成す者足る。事業に發するは又物を成す所以なり。上は政を以て美と為し、下は俗を以て美と為す。此れを事業に發すと謂う。事業に發するは、特に其の心に充実するのみならず、又天下に充実す。是れを美の至りと為す。美其の中に在りて、四肢に暢びて事業に發せざれば、是れ猶ほ美玉の垢石に蔵るるが如し。孰れか其の美を知らんや。美の中に於て未だ四肢に見えざるに、強いて事業に發せんと欲せば、則ち是れ醜人にして西子の顰に傚わんと欲するなり。烏ぞ其の美を見んや。故に必ず美其の中に在りて四肢に暢び、事業に發して、始めて美の至りを得るなり。

陰疑於陽必戰,為其嫌於無陽也,故稱龍焉;猶未離其類也,故稱血焉。夫黃者,天地之雜也。天而地黃,天之色以為正,其盛也為赤;地之色以黒為正,其盛也為黃。稱天而地黃,則是陽微而陰盛也。且赤與黒為,而赤者陽之盛也,黒者陰之正色,兩者合而為,為天之正色,則陽得兼陰,在陽宜盛、陰宜微也。天而地黃,義見於是也。

『文言』に曰く——「陰陽に疑わるれば必ず戦う、其の陽なきに嫌うが故なり。故に龍と称す。猶ほ未だ其の類を離れざれば、故に血と称す」と。夫れ玄黄とは天地の雑なり。天玄にして地黄。天の色は玄を以て正と為し、其の盛んなるや赤と為る。地の色は黒を以て正と為し、其の盛んなるや黄と為る。天玄にして地黄と称すれば、則ち是れ陽微にして陰盛んなり。且つ赤と黒と相配ずれば、赤は陽の盛ん、黒は陰の正色。両者合して天の正色と為れば、則ち陽は陰を兼ぬるを得、陽は宜しく盛ん、陰は宜しく微なるべし。天玄にして地黄、義是に於て見るなり。

周易新講義 巻第二

屯卦(震下坎上)

震下坎上。屯:元亨利貞,勿用有攸往,利建侯。曰:屯,剛柔始交而難生,動乎險中,大亨貞。雷雨之動滿盈,天造草昧,宜建侯而不寧。觧之初六曰:剛柔之際,義無咎也。剛上而柔下,各正其分,以禮際之焉,故無咎也。屯之下體震,而震則柔上而剛下,既非感應以相與之道,又坎在始交而難生,是乃所以為屯也。

『屯』卦は下体が震、上体が坎。卦辞に曰く——「屯、元亨利貞、往く所有るを用いる勿れ、侯を建つるに利し」と。『彖伝』に曰く——「屯とは剛柔始めて交わりて難生ず。険の中に動く。大亨貞なり。雷雨の動満盈す。天の造草昧、侯を建てて寧からざるべし」と。『解』の初六の『小象』に曰く——「剛柔の際、義咎なきなり」と。剛上にして柔下に、各其の分を正しくし、礼を以て之に際す。故に咎なし。『屯』の下体は震なり。而して震は則ち柔上にして剛下なり。既に感应相与の道にあらず、又坎は始交に在りて難生ず。是れ乃ち屯と為る所以なり。

然有必觧之道,故序卦曰:屯者,物之始生也。物之始生雖屯,終必條逹而極於高大,是以知屯有必觧之道也。屯有必觧之道,故聖人動乎險中而有為焉。聖人以拯患濟難之才而乘必觧之勢,則天下之險迎刄而觧矣,所以大亨貞也。

然れども必ず解かるるの道有り。故に『序卦伝』に曰く——「屯とは物の始生なり」と。物の始生は屯難と雖も、終に必ず条達して高大に極まる。是を以て屯に必ず解かるるの道有るを知る。屯に必ず解かるるの道有れば、故に聖人険の中に動きて為す所有り。聖人患を拯い難を済うの才を以て必ず解かるるの勢いに乗ずれば、則ち天下の険は刃を迎えて解かん。大亨貞と為る所以なり。

雷雨之動滿盈,言所以勿用往之意也。以為雷雨之動既以滿盈,則將溢而動矣,勿用有攸往可也。蓋震為決躁之性而在乎險中,則疑若犯險而有行,故有勿用往之戒焉。然勿用往豈無為哉?造始而已。天之造始,草而未齊,昧而未明;若夫使萬事整治而不草、群情昭著而不昧,則宜建侯而不寧焉。

「雷雨の動満盈す」とは、往く所有るを用いざるの意を言うなり。以為らく雷雨の動既に満盈せば、則ち将に溢れて動かんとす。往く所有るを用いざるべきなり。蓋し震は決躁の性有りて険の中に在れば、則ち険を犯して行かんと疑わる。故に往く勿れの戒め有り。然れども往くを用いざるは豈に為すことなからんや。造始するのみ。天の造始は草にして未だ斉(ととの)わず、昧にして未だ明ならず。若し夫れ万事をして整治して草ならざらしめ、群情をして昭著にして昧ならざらしめんとせば、則ち宜しく侯を建てて寧からざるべし。

建侯雖臣也,然其勞臣民有君道焉,則是有為而亦有所謂旡為也。雖有為而亦有所謂無為者,蓋屯之義,以天地則雷雨之動,以萬物則物之始生。雷雨自然之動,特可化之而已;萬物自然之生,特可輔之而已,不可一於有為以拂乎自然之宜也,故雖有所建,而所建亦有無為之君道也。象曰:雲雷屯,君子以經綸。經綸者,蓋若治絲然,分而理之則治,繚而棼之則亂。君子之有為於此以成觧也,豈有他哉?因其固然,技經肯綮之未嘗,而天下之難自劃然而已觧矣,此經綸之意也。

侯を建つるは臣と雖も、然れども其の臣民を労うに君道有り。則ち是れ為有りて亦たいわゆる無為有るなり。為有りて亦たいわゆる無為有る者は、蓋し屯の義は、天地を以てすれば則ち雷雨の動、万物を以てすれば則ち物の始生なり。雷雨は自然の動、特に之を化すべきのみ。万物は自然の生、特に之を輔くべきのみ。一に有為して自然の宜に拂うべからず。故に建つる所有ると雖も、而して建つる所も亦た無為の君道有り。『大象伝』に曰く——「雲雷屯、君子もって経綸す」と。経綸とは蓋し糸を治むるが若し。分りて之を理すれば則ち治まり、繚りて之を棼すれば則ち乱る。君子の此れに於て為有りて解を成すや、豈に他か有らんや。其の固然に因り、技経肯綮の未甞(すすが)ざれば、而して天下の難自ら画然として已に解かん。此れ経綸の意なり。

初九:盤桓,利居貞,利建侯。象曰:雖盤桓,志行正也;以貴下賤,大得民也。以卦言之,則初九以震在下,故動而未進,有盤桓之象;以義言之,則聖人廹而後動,不得已而後起,故稱盤桓焉。天地之觧萬物也以雷雨,雷雨之動或退而驟,則不能終朝而其科不盈。然則康屯之所主,以其動盤桓者,亦猶震動之雨施之祁祁。上下旡常則為有邪之嫌,今初九盤桓,則亦有蹢躅之嫌焉;其以剛動而志行正地者,非蹢躅之比也。民非後罔克胥匡以生,方屯之時,上之分屯亂而罔克胥匡以生,則人求主之時也;而初九能以貴下賤,則民之歸之猶水就下,故曰以貴下賤,大得民也。

初九の爻辞に曰く——「磐桓(ばんかん)す、貞に居るに利し、侯を建つるに利し」と。『小象伝』に曰く——「磐桓すと雖も、志行正なり。貴を以て賤に下る、大いに民を得るなり」と。卦を以て言えば、則ち初九は震を以て下に在り。故に動きて未だ進まず、磐桓の象有り。義を以て言えば、則ち聖人は廹られて後に動き、已むを得ずして後に起つ。故に磐桓と称す。天地の万物を解くや雷雨を以てす。雷雨の動或いは退いて驟(にわ)かなれば、則ち終朝能わずして其の科盈たず。然れば則ち屯を康らぐるの主は、其の動の磐桓たるを以てなり。亦た猶ほ震動の雨施の祁祁(しずしず)たるが如し。上下常なければ則ち邪有るの嫌いあり。今初九磐桓すれば、則ち亦た蹢躅の嫌い有らん。其の剛にして動き志行正に其の地を得る者は、蹢躅の比にあらず。民は后(君)なければ胥(あい)匡(たす)けて生くる能わず。屯の時に方り、上の分屯乱して胥匡けて生くる能わざれば、則ち人の主を求むるの時なり。而して初九能く貴を以て賤に下れば、則ち民の之に帰するや水の下に就くが如し。故曰く貴を以て賤に下る、大いに民を得るなり。

六二:屯如邅如,乘馬班如,匪冦婚媾,女子貞不字,十年乃字。象曰:六二之難,乘剛也;十年乃字,反常也。志在於應五者,乘馬而欲行;難在於廹也,故班如而有待。二欲應五而初九為之偪,若為冦者也,而初九之情求合而已,故曰匪冦?媾。夫?媾者,人之至情,初九以?媾求二而已。以女子柔弱之才能不字者,凢以正故也。夫屯有必觧之道,以靜正待之,十年斯反矣,故曰十年乃字,反常也。

六二の爻辞に曰く——「屯如邅如(ちゃくてん)、馬に乗りて班如(はんじょ)たり。寇にあらず婚媾なり。女子貞にして字せず、十年にして乃ち字す」と。『小象伝』に曰く——「六二の難は、剛に乗ればなり。十年にして乃ち字すとは、常に反るなり」と。志は五に応ずるに在る者は、馬に乗りて行かんと欲す。難は廹らるるに在る。故に班如にして待つ有り。二は五に応ぜんと欲して初九之が偪(せま)りを為す。寇の若き者なり。而して初九の情は合を求むるのみ。故曰く寇にあらず婚媾なり。夫れ婚媾とは人の至情なり。初九は婚媾を以て二に求むるのみ。女子柔弱の才を以て能く字せざる者は、凡そ正以るが故なり。夫れ屯は必ず解かるるの道有り。静正を以て之を待てば、十年斯に反る。故曰く十年にして乃ち字す、常に反るなり。

六三:即鹿無虞,惟入于林中,君子幾不如舍,往吝。象曰:即鹿旡虞,以從禽也;君子舍之,往吝窮也。上六遠在一卦之外而不可即,猶野物之善走者也,故稱鹿焉;上體坎也,幽險也,故稱林焉。屯難,人求其主之時,然欲不度而即上六,是猶即鹿旡虞,惟入於幽險之中而已。若然,則屯雖求主之時,殆不如舍之愈也。其稱君子也,以謂體決躁之性、居動之極,此以六居三,非守常者,非君子不能舎也;不舎而往,則雖君子不能無吝窮。

六三の爻辞に曰く——「鹿に即(ちかづ)きて虞(おおさか)なければ、惟だ林中に入る。君子は幾を見て舎くるに如かず、往けば吝なり」と。『小象伝』に曰く——「鹿に即きて虞なきは、禽に従うを以てなり。君子之を舎くるは、往けば吝にして窮まるなり」と。上六は遠く一卦の外に在りて即くべからず。猶ほ野物の善く走る者なり。故に鹿と称す。上体は坎なり、幽険なり。故に林と称す。屯難は人の其の主を求むるの時なり。然れども度せずして上六に即かんと欲するは、是れ猶ほ鹿に即きて虞なし、惟だ幽険の中に入るのみ。若し然れば則ち屯は主を求むる時と雖も、殆ど之を舎くるに愈(まさ)るなり。其の君子と称するは、決躁の性を体し動の極に居るを以て、此れ六を以て三に居る、常を守る者にあらず。君子にあらざれば能く舎けず。舎けずして往けば、則ち君子と雖も吝窮なき能わず。

六四:乘馬班如,求?媾,往吉無不利。象曰:求而往,明也。臣之於君,聘而後往,往而相親,有?媾之道焉。六四雖體趨下之性,然柔而正也,故乘馬班如,待求而後往。求而後往,則去就之義明矣。蓋求而不往謂之固,不求而往謂之躁,非所謂明也。且求而不往,則利止於一身;不求而往,則?害隨之,吉無不利其可得乎?

六四の爻辞に曰く——「馬に乗りて班如たり、婚媾を求め、往けば吉にして利あらざるなし」と。『小象伝』に曰く——「求めて往くは、明なり」と。臣の君に於けるは、聘(へい)ありて後に往き、往きて相親しむ。婚媾の道有るなり。六四は下に趨くの性を体すと雖も、然れども柔にして正なり。故に馬に乗りて班如たり、求を待ちて後に往く。求めて後に往けば、則ち去就の義明なり。蓋し求めて往かざるを固と謂い、求めずして往くを躁と謂う。いわゆる明にあらず。且つ求めて往かざれば、則ち利一身に止まる。求めずして往けば、則ち害之に随う。吉にして利あらざるなし、其れ得べけんや。

九五:屯其膏,小貞吉,大貞?。象曰:屯其膏,施未光也。觧之所以為觧者,以雷雨溢而作也;雷雨博施,草木廣生。今屯其膏,則豈足以康屯如而為觧?出納之吝謂之有司,故小者以為貞則吉,大若以為貞則?。方屯之時,尤不可以屯其膏也,?不亦宜乎?

九五の爻辞に曰く——「其の膏(こう=恩沢)を屯す。小に貞れば吉、大に貞れば凶」と。『小象伝』に曰く——「其の膏を屯すとは、施の未だ光ならざるなり」と。屯の解と為る所以は、雷雨溢れて作るを以てなり。雷雨博く施して草木広く生ず。今其の膏を屯せば、則ち豈に屯を康らげて解と為すに足らんや。出納を吝むを有司と謂う。故に小なる者は以て貞と為せば則ち吉、大なる者は以て貞と為せば則ち凶。屯の時に方り、尤も其の膏を屯すべからず。凶亦た宜しきにあらずや。

上六:乘馬班如,泣血漣如。象曰:泣血漣如,何可長也?六二之乘馬班如,其勢不得不待也;六四之乘馬班如,於義不得不待也。上六可以出險矣,非其勢不得不待者也;九五非應,非於義不得不待者也,而猶乘馬班如,宜其憂傷而至於泣血也。

上六の爻辞に曰く——「馬に乗りて班如たり、血を泣きて漣如(れんじょ)たり」と。『小象伝』に曰く——「血を泣きて漣如たり、何ぞ長からんや」と。六二の馬に乗りて班如たるは、其の勢い待たざるを得ざるなり。六四の馬に乗りて班如たるは、義に於て待たざるを得ざるなり。上六は以て険を出づべし。其の勢い待たざるを得ざるにあらず。九五は応にあらず、義に於て待たざるを得ざるにあらず。而して猶ほ馬に乗りて班如たり。宜しく憂傷して泣血に至るべし。

蒙卦(坎下艮上)

坎下艮上。蒙:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告。利貞。曰:蒙,山下有險,險而止,蒙。蒙亨,以亨行時中也。匪我求童蒙,童蒙求我,志應也。初筮告,以剛中也。再三瀆,瀆則不告,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。

『蒙』卦は下体が坎、上体が艮。卦辞に曰く——「蒙、亨。我童蒙を求むるにあらず、童蒙我を求むるなり。初めて筮すれば告ぐ、再び三びすれば瀆(けが)す、瀆せば則ち告げず。貞に利し」と。『彖伝』に曰く——「蒙とは山下に険有り、険にして止まる、蒙なり。蒙亨とは、亨を以て時中に行うなり。我童蒙を求むるにあらず、童蒙我を求むるとは、志応ずるなり。初めて筮すれば告ぐは、剛中を以てなり。再び三びすれば瀆す、瀆せば則ち告げずとは、蒙を瀆すなり。蒙を以て正を養うは、聖の功なり」と。

險以遠之為善,故險在前則止,止則不犯險者也;險在中則貴動,動則免乎險者也。?之為卦,險在下可以動矣,而猶止,非其勢不可,智不足也,故於卦為蒙。蒙有亨之道焉。蓋人之性至明,始有蒙之故不得明,猶鑑明而塵蒙之也。塵雖蒙之,鑑之明故在也,拭焉而明覆其初矣。人之蒙亦若是,故蒙有亨之道焉。

険は之を遠ざくるを善と為す。故に険前に在れば則ち止まる。止まれば則ち険を犯さざる者なり。険中に在れば則ち動を貴ぶ。動けば則ち険を免るる者なり。『蒙』の卦と為るは、険下に在りて以て動くべし。而して猶ほ止まるは、其の勢いの可ならざるにあらず、智足らざればなり。故に卦に於て蒙と為る。蒙は亨の道有るなり。蓋し人の性は至明なり。始め蒙の故有りて明を得ざるは、猶ほ鑑明にして塵之を蒙うが如し。塵之を蒙うと雖も、鑑の明は故(もと)より在り。拭いて明其の初に復る。人の蒙も亦た是の若し。故に蒙は亨の道有るなり。

蒙有亨之道,而九二以剛中亨蒙之道行焉。有剛中亨蒙之道,又有巽順求亨之時,此蒙之所以亨也。時中雲者,與時適當,不先時亦不後時也。九二屈而在下,疑若求童蒙者,然九二剛中也,故曰匪我求童蒙;六五尊而在上,疑若不求我者,然六五順以巽也,故曰童蒙求我。

蒙は亨の道有り。而して九二は剛中を以て蒙を亨するの道を行う。剛中にして蒙を亨するの道有り、又巽順にして亨を求むるの時有り。此れ蒙の亨する所以なり。時中と云うは、時と適に当り、時に先んぜず亦た時に後れざるなり。九二は屈して下に在り、童蒙を求むるに疑わるる若し。然れども九二剛中なり。故曰く我童蒙を求むるにあらず。六五は尊にして上に在り、我を求めざるに疑わるる若し。然れども六五は順にして巽なり。故曰く童蒙我を求むるなり。

志應雲者,以誠應而無乎爾之謂也。學者占中否於教者,猶之筮。貴不瀆,故曰精以卜筮,神動其變。初筮則其志一,故告焉。待初筮而後告者,剛也;得初筮則告之者,中也。再三則瀆而志不一,故不告焉,以惑而告之,其惑滋甚故也。

志応ずると云うは、誠を以て応じて尔(そこ)なきの謂なり。学ぶ者は教うる者に中否を占う、之を筮の如し。瀆さざるを貴ぶ。故曰く精を以て卜筮すれば、神其の変を動かす。初めて筮すれば則ち其の志一なり。故に告ぐ。初筮を待ちて後に告ぐるは剛なり。初筮を得れば之を告ぐるは中なり。再び三びすれば則ち瀆にして志一ならず。故に告げず。惑いて之を告ぐれば、其の惑い滋々甚しきが故なり。

蒙者,蓋若童蒙然,不知所如往,此易於養正也。其所以養正而不入於邪者,此則聖人亨蒙之功也。蓋求我而應之、筮我而告之,恐其瀆蒙則不告焉;如是則蒙者由之養正,非聖人之功而誰與?書曰:聖時風若。又曰:蒙恆風若。聖與蒙反者也,非聖人不能使蒙養正矣。

蒙とは蓋し童蒙の若く、往く所を知らず。此れ正を養い易し。其の正を養いて邪に入らざる所以は、此れ則ち聖人の蒙を亨するの功なり。蓋し我を求めて之に応じ、我に筮して之に告ぐ。其の蒙を瀆さんを恐れば則ち告げず。是の如くなれば則ち蒙者之に由りて正を養う。聖人の功に非ずして誰とかせん。『書』に曰く——「聖は時風に若し」と。又曰く——「蒙は恒風に若し」と。聖と蒙とは反する者なり。聖人にあらざれば蒙をして正を養わしむる能わず。

象曰:山下出泉,蒙,君子以果行育徳。蒙者,物之穉也。物穉不可不養,而泉者養源於山者也。養源於山,故其出不窮,流於川瀆而放於海。君子之果行育徳,當若此而已。以成徳為行,此由中出,教者之事也;以果行育徳,此自外出,學者之事也。學務時敏,厥修乃來;行之不果,非所以育徳也。

『大象伝』に曰く——「山下に泉出づ、蒙。君子もって行を果して徳を育つ」と。蒙とは物の穉(おさな)きなり。物穉ければ養わざるべからず。而して泉とは山に源を養う者なり。山に源を養う。故に其の出づるや窮まらず、川瀆に流れて海に放(いた)る。君子の行を果して徳を育つるは、此の若く当に然るべきのみ。『乾』の『文言』に「徳を成すを以て行と為す」は、此れ中より出づ。教うる者の事なり。行を果して徳を育つるは、此れ外より出づ。学ぶ者の事なり。学は時敏を務め、厥(そ)の修は乃ち来たる。行うこと果ならざれば、徳を育つる所以にあらず。

初六:發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。象曰:利用刑人,以正法也。隙之見小,有物蒙之也;為發其蒙之者,則所見大矣,初六發蒙其義如此。發蒙,使之見善也;利用刑人,使之遠惡也。傳曰:時過而後學,則勤而難成。然則發蒙宜在初六之時矣。又曰:小懲而大戒,小人之福也。然則刑人亦宜初六之時矣。用說桎梏以往,小人不懲,其惡滋蔓而難圖也,故吝。

初六の爻辞に曰く——「蒙を發す、人を刑するに用いるに利し、桎梏(しっこく)を説(と)きて以て往けば吝なり」と。『小象伝』に曰く——「人を刑するに用いるに利しとは、以て法を正しくするなり」と。隙の見るや小なり、物之を蒙う者有ればなり。其の蒙う者を發かば、則ち見る所大ならん。初六の蒙を發するの義此の如し。蒙を發するとは、善を見しむるなり。人を刑するに用いるに利しとは、悪を遠ざけしむるなり。『礼記・学記』に曰く——「時過ぎて後に学ばば、則ち勤めて成り難し」と。然れば則ち蒙を發するは宜しく初六の時に在るべし。又曰く——「小さく懲らして大いに戒むるは、小人の福なり」と。然れば則ち人を刑するも亦た宜しく初六の時に在るべし。桎梏を説きて以て往くを用うは、小人懲られざれば、其の悪滋蔓して図り難し。故に吝なり。

九二:包蒙吉,納婦吉,子克家。象曰:子克家,剛柔接也。以義則發蒙,以恩則包蒙,蓋家道也。堯典於九族不言平章者,家道貴包,蒙恩也。納婦,禮也,六五以柔應之,而九二有男下女之道,故納婦吉。包蒙納婦,旡不吉於家者也。克之為言,公勝私也。公勝私用,是義勝恩,以六五以父而用柔,而九二以子用剛故也,故曰子克家,剛柔接也。六三:勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利。象曰:勿用取女,行不順也。以順為正者,婦道也。六三舎其正應,見九二非禮之金夫而不有躬,其行不順,故稱女焉。九二納婦吉,以所納者順也;然則行不順之女宜勿用取矣。

九二の爻辞に曰く——「蒙を包むれば吉、婦を納るれば吉、子家に克(あた)う」と。『小象伝』に曰く——「子家に克うとは、剛柔接するなり」と。義を以てすれば則ち蒙を發し、恩を以てすれば則ち蒙を包む。蓋し家道なり。『尭典』の九族に於て平章を言わざるは、家道は包を貴ぶ、恩を蒙ればなり。婦を納るは礼なり。六五は柔を以て之に応じ、而して九二は男の女に下るの道有り。故に婦を納るれば吉。蒙を包み婦を納るるは、家に於て吉ならざるなし。克と言うは、公私に勝つなり。公勝てば私用う、是れ義恩に勝つなり。六五は父を以て柔を用い、而して九二は子を以て剛を用うるが故なり。故曰く子家に克う、剛柔接するなり。六三の爻辞に曰く——「女を取るを用いる勿れ。金夫を見て躬(み)有らず、利する攸(ところ)なし」と。『小象伝』に曰く——「女を取るを用いる勿れとは、行い順ならざるなり」と。順を以て正と為すは婦道なり。六三は其の正応を舎け、九二の礼に非ざる金夫を見て躬有らず。其の行い順ならず。故に女と称す。九二の婦を納るれば吉なるは、納る所の者順なるを以てなり。然れば則ち行い順ならざるの女は宜しく取るを用いるべからず。

六四:困蒙,吝。象曰:困蒙之吝,獨遠實也。知得困蒙,則旡知而已,故吝。夫得君子者,悔斯光,窒斯通;困蒙之吝,以不得君子而親炙之耳,故曰獨遠實也。教者為實,學者為虛。實固有以分人,虛固有以受道。六五:童蒙吉。象曰:童蒙之吉,順以巽也。禮恭然後可與言道之方,辭順然後可與言道之理,色從然後可與言道之致,故學問之道非順以巽,則教者不告也。順則於理為順,而巽又有柔損之意焉。六五晦也,以晦求明,於理為順;六五尊也,以尊求卑,則於道為巽。上九:擊蒙,不利為冦,利御冦。象曰:利用御冦,上下順也。蒙之初則蒙之而已,蒙之極則頑固矣,非擊之不可判也。上九以剛過擊蒙,故有為冦之道;為冦則逆上下之願而御之者至,故曰不利為冦,利御冦也。

六四の爻辞に曰く——「蒙に困む、吝なり」と。『小象伝』に曰く——「困蒙の吝は、独り実を遠ざくるなり」と。己の困蒙を知りて、則ち知なきのみ。故に吝なり。夫れ君子を得る者は、悔斯に光、窒斯に通ず。困蒙の吝は、君子を得て親炙せざるを以てなり。故曰く独り実を遠ざくるなり。教うる者は実と為し、学ぶ者は虚と為す。実は固より人に分つ有り、虚は固より道を受くる有り。六五の爻辞に曰く——「童蒙吉」と。『小象伝』に曰く——「童蒙の吉は、順にして巽なり」と。礼恭ならば然る後に与に道の方を言うべく、辞順ならば然る後に与に道の理を言うべく、色従えば然る後に与に道の致を言うべし。故に学問の道は順にして巽にあらざれば、則ち教うる者告げざるなり。順は理に於て順と為し、巽は又柔損の意有るなり。六五は晦なり。晦を以て明を求むるは、理に於て順と為す。六五は尊なり。尊を以て卑を求むれば、則ち道に於て巽と為す。上九の爻辞に曰く——「蒙を撃つ、寇を為すに利あらず、寇を御ぐに利し」と。『小象伝』に曰く——「寇を御ぐに利しとは、上下順なり」と。蒙の初は則ち蒙るのみ。蒙の極は則ち頑固なり。之を撃たざれば判たるべからず。上九は剛過を以て蒙を撃つ。故に寇を為すの道有り。寇を為さば則ち上下の願いに逆い、之を御ぐ者至る。故曰く寇を為すに利あらず、寇を御ぐに利しと。

需卦(乾下坎上)

乾下坎上。需:有孚,光亨貞吉,利渉大川。曰:需,須也,險在前也。剛健而不?,其義不困窮矣。需有孚,光亨貞吉,位乎天位,以正中也。利渉大川,往有功也。需之為卦,險在前也;險在前則宜不進以待矣,而乾有知險之徳,能不進以待者也,故於卦為需。

『需』卦は下体が乾、上体が坎。卦辞に言う、「需、孚有りて、光亨し貞吉、大川を渉るに利し」と。『彖伝』に言う、「需とは須(ま)つなり、険は前にあり。剛健にして陥らず、其の義困窮せざるなり。『需孚有り光亨貞吉』とは、九五が天位に在りて正中なり。『大川を渉るに利し』とは、往けば功有るなり」と。『需』の卦たる、険が前に在るなり。険が前に在れば宜しく進まずして待つべし。而るに乾は険を識るの徳あり、能く進まずして待つ者なり。故に卦に於て需と為す。

卦而動乎險中者,以濟難之任在我,不得不動故也;有見險而止者,以濟難之任不在我,義可以止故也。需之成卦,九五以中需物,物之才在上,則在下者無俟乎動也,又不可以止也。有待而後進,則無躁動之嫌焉,是以須也。

卦にして険中に動く者有りは、難を済すの任が我に在り、動かざるを得ざる故なり。険を見て止まる者有りは、難を済すの任が我に在らず、義止まる可き故なり。需の成卦は、九五が中を以て物を需(ま)ち、物を済すの才が上に在れば、則ち下に在る者は動くを俟たず、又止まる可からず。待つ有りて後に進めば、則ち躁動の嫌无きなり。是の以て須なり。

剛健而不?,非剛健之才不可?也,以能須故不?耳。使其不知險而犯焉,則雖有剛健之才,能不?乎險者?剛健之才而?乎險,不能無困窮;雖不?於險而非有剛健之才,則亦無以自逹而困窮至矣。故惟剛健而不?於險,其義為不困窮也。

「剛健にして陥らず」とは、剛健の才有れば陥らざるに非ず、能く須(ま)つを以て陥らざるのみ。使い険を知らずして之を犯せば、則ち剛健の才有りと雖も、能く険に陥らざらんや?剛健の才にして険に陥れば、困窮无き能わず。険に陥らざると雖も剛健の才有るに非ざれば、則ち亦た自ら達するに以てなし、而して困窮至れり。故に惟れ剛健にして険に陥らざる、其の義困窮せざるを為すなり。

需有孚光亨貞吉,位乎天位,以正中也者,言聖人在上而需天下也。其需天下也,不正而偏、不中而?,則不足以平施而用物,故惟中正而後需道孚於天下而光亨貞吉也。利渉大川,往有功也者,言不以剛健自任,知險而需,則始可以渉難而有功也。

「需孚有り光亨貞吉、天位に位り、正中を以てなり」とは、聖人上に在りて天下を需(ま)つを言うなり。其の天下を需つや、正しからずして偏、中ならずして側なれば、則ち以て平施し物を用ふるに足らず。故に惟れ正中にして後、需の道天下に孚(まこと)あらん光亨貞吉なり。「大川を渉るに利し、往けば功有り」とは、剛健を以て自ら任とせず、険を知りて需つれば、則ち始めて以て難を渉りて功有るべきなり。

象曰:雲上於天,需,君子以飲食宴樂。雨之所潤者草木而已,而草木之生,人取以養焉,則是雨之所潤者狹而其功實廣也。飲食宴樂者,忠臣嘉賓所與親者也;而忠臣嘉賓所與親者,民偕以養焉,則是飲食宴樂雖所及者近,而其功實遠也。不然,則聖人之所及天下,豈止及乎所親者哉?

『象』に曰く、雲天に上る、需、君子飲食宴楽を以てすと。雨の潤す所は草木のみ、而して草木の生、人取之を以て養う。是れ則ち雨の潤す所は狭くして其の功実に広し。飲食宴楽とは、忠臣嘉宾の与に親しむ所なり。而して忠臣嘉宾の与に親しむ所、民偕に以て養わる。是れ則ち飲食宴楽、及ぶ所は近しと雖も其の功実に遠し。然らざれば、則ち聖人の天下に及ぶ所、豈に止まりて親しむ所に及ばんや?

初九:需于郊,利用恆,無咎。象曰:需于郊,不犯難行也;利用恆無咎,未失常也。險可以觧,則雖動乎險中可也;險不可以觧,則俟之不厭矣,而初九最遠乎險,故須於郊。郊者,遠於有事之地也。以郊為遠乎險,則是有事之地為險也。蓋大道甚夷,離道而有事,則夷且險矣。今夫為國家者,居必設險以為固,動必行險以為戒,則是國者險之所在也,故易以郊為遠險之地焉。夫逺於險而未甞犯,則不知險之為害也;又以剛動之才處於下,則疑其不能固志,故利用恆無咎也。

初九の爻辞に言う、「郊に需(ま)つ、恒を用るに利し、咎无し」と。『小象伝』に言う、「郊に需つは、難を犯して行かざるなり。恒を用るに利し咎无きは、常を失わざるなり」と。険解くべくば、則ち険中に動くと雖も可なり。険解くべからざれば、則ち之を俟ちて厭かざるなり。而して初九最も険に遠し、故に郊に須(ま)つ。郊とは、事有るの地に遠きなり。郊を以て険に遠しと為すは、則ち事有るの地を険と為すなり。蓋し大道甚だ夷(たいら)にして、道を離れて事有れば、則ち夷にして且つ険なり。今夫れ国を為る者、居れば必ず険を設けて以て固と為し、動けば必ず険を行きて以て戒と為す。是れ則ち国は険の在所なり。故に易は郊を以て険に遠きの地と為すなり。夫れ険に遠くして未だ嘗て犯さざれば、則ち険の害たるを知らず。又剛動の才を以て下に処れば、則ち其の志を固くする能わざるを疑う。故に恒を用るに利し咎无きなり。

九二:需于沙,小有言,終吉。象曰:需于沙,衍在中也;雖小有言,以吉終也。稱需于郊,則是以國為險也;需于沙,則是以川為險也。人心尤險於川,則是險之在人者尤宜遠之也,故於遠險者稱郊,而於近之者稱沙,於迫之者稱泥焉。乾之九二稱寛以居之,履之九二稱履道坦坦,則是寛衍而夷易者莫如二之中也,故曰需于沙,衍在中也。以近於險,故小有言;然而寛衍在中,未嘗廹險,故以吉終焉。

九二の爻辞に言う、「沙に需(ま)つ、小さく言有り、終に吉」と。『小象伝』に言う、「沙に需つは、衍(やす)らかに中に在るなり。小さく言有りと雖も、吉を以て終るなり」と。郊に需つと称すれば、則ち是れ国を以て険と為すなり。沙に需つは、則ち是れ川を以て険と為すなり。人心は川より尤も険し。是れ則ち険の人に在る者は尤も之に遠きべし。故に険に遠き者には郊と称し、之に近き者には沙と称し、之に迫る者には泥と称すなり。乾の九二は寛を以て之に居ると称し、履の九二は道を履む坦坦と称す。是れ則ち寛衍にして夷易なるは二の中に如くは莫し。故曰く、沙に需つ、衍は中に在りと。険に近きを以て、故に小さく言有り。然れども寛衍中に在りて、未だ嘗て険に迫らず。故に吉を以て終るなり。

九三:需于泥,致?至。象曰:需于泥,災在外也;自我致冦,敬慎不敗也。九三廹險,故需于泥。致冦至者,非其道有以招之也,苐不能遠之,故冦至耳;觧之六三,則有道以招之而冦至也。需之九三以敬慎,故不敗;觧之六三暴慢,故咎歸焉。

九三の爻辞に言う、「泥に需(ま)つ、寇を致す」と。『小象伝』に言う、「泥に需つは、災外に在るなり。我より寇を致す、敬慎にして敗れざるなり」と。九三険に迫る、故に泥に需つ。寇を致す至る者は、其の道之を招く有るに非ざるなり。第に能く之に遠ざからざるが故に、寇至るのみ。解の六三は、則ち道之を招く有りて寇至るなり。需の九三は敬慎を以てす、故に敗れず。解の六三は暴慢なり、故に咎之に帰す。

六四:需于血,出自穴。象曰:需于血,順以聽也。陰陽之分,各襲其情則不至見傷焉,各履其位則不至扵自失。惟陽在下而欲上,陰在上而阻下,故見傷而需於;自失而出自穴也。陰見傷則不順以聽矣。

六四の爻辞に言う、「血に需(ま)つ、穴より出ず」と。『小象伝』に言う、「血に需つは、順にして聴くなり」と。陰陽の分、各々其の情に襲(つ)けば則ち傷を見るに至らず。各々其の位に履めば則ち自ら失うに至らず。惟れ陽下に在りて上らんと欲し、陰上に在りて下を阻む。故に傷を見て血に需ち、自ら失いて穴より出づるなり。陰傷を見れば則ち順にして聴かざるなり。

九五:需于酒食,貞吉。象曰:酒食貞吉,以中正也。雲上於天,則所需方在上而未下也,故言飲食宴樂者,所需方及朋友故舊、兄弟甥舅、忠臣嘉賓,而未及民也;需于酒食,則及民矣。蓋凢民莫不有酒食之養,但不得與人君宴樂耳。今九五獨言酒食而不言宴樂,是以知其及民也。

九五の爻辞に言う、「酒食に需(ま)つ、貞吉」と。『小象伝』に言う、「酒食貞吉は、中正を以てなり」と。雲天に上れば、則ち需たる所方に上に在りて未だ下らず。故に飲食宴楽を言う者、需たる所は方に朋友故旧・兄弟甥舅・忠臣嘉宾に及びて、未だ民に及ばざるなり。酒食に需つは、則ち民に及べり。蓋し凡そ民は酒食の養有らざるは莫し。但だ人君と宴楽するを得ざるのみ。今九五独り酒食を言いて宴楽を言わざるは、是れ以て其の民に及ぶを知るなり。

蓋中正盛徳,九五尊位,故能需於天下之求,無不厭足其分。傳曰:聖人之道,猶中衢而置罇焉。蓋需于酒食之謂也。酒以合歡,所謂孫者,得需於酒之道而已;食以致養,所謂由頤者,得需於食之道而已,非尊位大中弗能兼也。

蓋し中正は盛徳、九五は尊位。故に能く天下の求に需ちて、其の分を厭足せざる无し。伝に曰く、聖人の道は、猶ほ中衢に罇を置くが如しと。蓋し酒食に需つを謂うなり。酒は以て歓を合わす、所謂孫(謙遜)の者は、酒に需つの道を得るのみ。食は以て養を致す、所謂由頤の者は、食に需つの道を得るのみ。尊位大中に非ざれば兼ぬる能わざるなり。

上六:入于穴,有不速之客三人來,敬之終吉。象曰:不速之客來,敬之終吉,雖不當位,未大失也。六四非眾剛之主也,剛來而拒之,故出自穴;上六眾剛之主也,剛來而受之,故入于穴。賓有服意,客則適道也,乾剛上進,非賓也,客而已,苟以敬待之,則終吉,豈至於大失也?九三雖冦至,猶以敬慎而待之而得不敗,況三陽為客非寇乎?以敬得吉宜矣。

上六の爻辞に言う、「穴に入る、速(まね)かざるの客三人之來有り、之を敬して終に吉」と。『小象伝』に言う、「不速の客來りて之を敬し終に吉、位に当らざると雖も、未だ大いに失わざるなり」と。六四は衆剛の主に非ず、剛來りて之を拒ぐ、故に穴より出づ。上六は衆剛の主なり、剛來りて之を受く、故に穴に入る。賓は服意有り、客は則ち道に適(ゆ)くなり。乾剛上進す、賓に非ず、客のみ。苟も敬を以て之を待てば、則ち終に吉、豈に大いに失うに至らんや。九三寇至ると雖も、猶ほ敬慎を以て之を待ちて敗れざるを得たり。況んや三陽客を為して寇に非ざるをや。敬を以て吉を得る宜しきなり。

訟卦(坎下乾上)

坎下乾上。訟:有孚窒,惕中吉,終?。利見大人,不利渉大川。彖曰:訟,上剛下險,險而健,訟。訟有孚窒,惕中吉,剛來而得中也。終?,訟不可成也。利見大人,尚中正也。不利渉大川,入于淵也。訟之為卦,險者欲?,健者欲決,其情相攻而不相入,此所以為訟。而訟貴有孚而見窒,則可訟;然君子之至誠,則宜不可檢者也,今猶可檢,則吾之誠未至歟?是以惕而不終訟也。

『訟』卦は下体が坎、上体が乾。卦辞に言う、「訟、孚有りて窒(ふさ)がる、愓(つつし)みて中なるは吉、終わるは凶。大人を見るに利し、大川を渉るに利からず」と。『彖伝』に言う、「訟、上剛にして下険、険にして健、訟なり。訟孚有りて窒がる、愓みて中なるは吉、剛來りて中を得るなり。終わるは凶、訟は成す可からざるなり。大人を見るに利しは、中正を尚ぶなり。大川を渉るに利からずは、淵に入るなり」と。訟の卦たる、険なる者は人を陥れんと欲し、健なる者は決せんと欲し、其の情相攻めて相入らず。此れ訟と為す所以なり。而して訟は孚有りて窒がるるを見るを貴ぶ、則ち訟ふべし。然れども君子の至誠は、則ち宜しく検すべからざる者なり。今猶ほ検す可し、則ち吾が誠未だ至らざるか。是の以て愓みて訟を終えざるなり。

窒惕中吉,九二之才也;乃若上九,則窮剛於上,是以窮其訟者也,故終?。訟必有聽之之主,以中正為尚也。蓋兩造之訟,聽之不中而不正而偏,則愛惡不得其平,故曰利見大人,尚中正也。渉難必有烝徒之助,雖有烝徒之助而不同心協力,亦不可以渉。訟方違行,非同心協力之時也,渉難奚可哉?故曰不利渉大川,入于淵也。

「窒がる愓み中なるは吉」は、九二の才なり。乃ち上九の若きは、則ち剛を上に窮め、是の以て其の訟を窮むる者なり。故に終わるは凶。訟必ず之を聴くの主有り、中正を以て尚と為すなり。蓋し両造の訟、之を聴くに中ならず正しからずして偏れば、則ち愛悪其の平を得ず。故曰く、大人を見るに利し、中正を尚ぶなりと。難を渉るには必ず烝徒(しゅうと、衆人)の助有り。烝徒の助有ると雖も同心協力せざれば、亦た以て渉る可からず。訟方に行い違う、同心協力の時に非ず。難を渉る奚ぞ可ならんや。故曰く、大川を渉るに利からず、淵に入るなりと。

象曰:天與水違行,訟,君子以作事謀始。一卦之象凢數物,若坎為水又為雨,離為火又為日,是聖人之於大象取其一而遺其它者,各象其類而已。故上剛下險,險而健,訟之才既成,則於二體取天與水為象焉。坎為水又為雨,取水而不取雨,則以雨者陰陽之和,非訟之義故也。

『象』に曰く、天と水と行い違う、訟、君子事を作すに始めを謀るを以てすと。一卦の象は凡そ数物あり。坎を水と為し又雨と為し、離を火と為し又日と為すが若きは、是れ聖人の大象に於て其の一を取りて其の他を遺つる者、各々其の類に象るのみ。故に上剛下険、険にして健、訟の才既に成れば、則ち二体に於て天と水とを取りて象と為すなり。坎を水と為し又雨と為す、水を取りて雨を取らざるは、則ち雨は陰陽の和、訟の義に非ざるが故なり。

猶之同人也,柔得位得中而應乎乾,文明以健,同人之才既成,則取天與火為象焉。離為火,亦為日,有取火而不取於日,則錯行非同人之義故也。作事謀始,所以致無訟之道也。始乎治猶卒乎亂,況始之不謀而求其終之無訟乎?

猶ほ之れ同人の如し。柔位を得中を得て乾に応ず、文明にして健なり。同人の才既に成れば、則ち天と火とを取りて象と為すなり。離は火と為し、亦た日と為す。火を取りて日を取らざる有りは、則ち錯行は同人の義に非ざるが故なり。事を作すに始めを謀るは、訟无きの道を致す所以なり。始めに治めて猶ほ卒に乱るるや、況んや始め之を謀らずして其の終の訟无きを求めんや。

初六:不永所事,小有言,終吉。象曰:不永所事,訟不可長也;雖小有言,其辯明也。彼險而此健,所以為訟;如彼險而此以柔也,且在訟初,則雖不能無訟,亦不永所事,小有言而已。其有言也,乃六四以剛犯初,而其曲在四,其辨自明,是以終吉也。

初六の爻辞に言う、「其の事を永くせず、小さく言有り、終に吉」と。『小象伝』に言う、「其の事を永くせずは、訟長くすべからざるなり。小さく言有りと雖も、其の辨明らかなり」と。彼は険にして此は健、訟と為す所以なり。彼険にして此は柔を以てするが如く、且つ訟初に在れば、則ち訟无き能わざると雖も、亦た其の事を永くせず、小さく言有るのみ。其の言有るや、乃ち六四剛を以て初を犯すを以てなり。而して其の曲は四に在り、其の辨自ずから明らかなり。是の以て終に吉なり。

九二:不克訟,歸而逋,其邑人三百戶,無眚。象曰:不克訟,歸逋竄也;自下訟上,患至掇也。下宜聽上而不可以訟上,自下訟上則犯義矣,宜其不克也。二為主於內而二陰附之,三百戶之邑也。往訟不克,乃歸而有其邑,則眚且至矣。何則?下之所以敢訟上者,以附之者眾也;往訟不克,復歸而有其輔已之眾,則上之勢求艾,必求其根穴而窮剗之矣,故必逃其固有存之邑,不敢據而後無眚也。

九二の爻辞に言う、「訟に克たず、帰りて逋(のが)る、其の邑人三百戸、眚(わざわい)无し」と。『小象伝』に言う、「訟に克たずは、帰り逋れ竄(かく)るなり。下より上を訟えば、患至りて掇(ひろ)うなり」と。下は宜しく上に聴くべくして以て上を訟ふ可からず。下より上を訟えば則ち義を犯す、其の克たざる宜しきなり。二は内に主と為りて二陰之に附(つ)く、三百戸の邑なり。往きて訟に克たず、乃ち帰りて其の邑を有せば、則ち眚且(ま)さに至らん。何ぞや。下の敢えて上を訟ふ所以の者は、之に附く者の衆(おお)きを以てなり。往きて訟に克たず、復た帰りて己を輔くの衆を有せば、則ち上の勢い之を芟(き)らんことを求め、必ず其の根穴を求めて之を窮め剗(けず)らん。故に必ず其の固より存(も)つの邑を逃れ、敢えて拠(よ)らずして後眚无きなり。

六三:食舊徳,貞厲終吉,或從王事,無成。象曰:食舊徳,從上吉也。徳也者,保其所有而已,六三之食舊徳是也。謂之徳者,以心不能不得,故思從上以保之也。夫失得勿恤則往吉無不利,今心得其舊徳而思保之,則從上而已,非所謂從道不從君也,故曰或從王事無成。

六三の爻辞に言う、「旧徳を食(やしな)う、貞厲にして終に吉。或いは王事に従う、成す无し」と。『小象伝』に言う、「旧徳を食うは、上に従いて吉なり」と。徳とは、其の所有を保つのみ、六三の旧徳を食う是れなり。之を徳と謂うは、心能く得ざるを以て、故に上に従いて之を保たんことを思うなり。夫れ失得恤(うれ)えざれば則ち往きて吉利ならざる无し。今心其の旧徳を得て之を保たんことを思えば、則ち上に従うのみ。所謂道に従い君に従わずに非ず。故曰く、或いは王事に従う、成す无しと。

九四:不克訟,復即命渝,安貞吉。象曰:復即命渝,安貞不失也。九二不克訟,以下犯上,其勢不克也;九四不克訟,以剛反柔,其義不克也。其義而即聽者之命,變其貞而安貞,則其吉宜也。訟不至於用師也,同人之九四用師尚弗克攻,然且反則而吉,而況不克訟而復命者乎?

九四の爻辞に言う、「訟に克たず、復り即(つ)きて命渝(か)え、貞に安んじて吉」と。『小象伝』に言う、「復り即きて命渝え貞に安んずは、失わざるなり」と。九二訟に克たざるは、下を以て上を犯す、其の勢い克たざるなり。九四訟に克たざるは、剛を以て柔に反る、其の義克たざるなり。其の義にして聴く者の命に即き、其の貞を変えて貞に安んずれば、則ち其の吉宜しきなり。訟は師を用うるに至らず。同人の九四師を用いて尚ほ攻に克たず、然れど且つ則に反りて吉なり。而況んや訟に克たずして命に復る者をや。

九五:訟元吉。象曰:訟元吉,以中正也。建中則不可?,守正則不可掇。有欲?其所建而掇其所守,則大人有所不受而訟矣。以脂從人,趨取無訟,茲固足以示謹;然中不得建而?,正不得守而掇,則吾之大節?焉,何元吉之得乎?此大人所以有訟也。

九五の爻辞に言う、「訟元吉」と。『小象伝』に言う、「訟元吉は、中正を以てなり」と。中を建つれば則ち撼(うご)かす可からず、正を守れば則ち奪う可からず。其の建つる所を撼かし其の守る所を奪わんと欲する有れば、則ち大人受けざる所有りて訟う。脂(あぶ)らなるを以て人に従い、趨(はし)りて訟无きを取るは、兹(こ)れ固より以て謹を示すに足る。然れども中建るを得ずして撼き、正守るを得ずして奪われれば、則ち吾が大節喪(うしな)わる。何ぞ元吉の得んや。此れ大人の訟有る所以なり。

上九:或錫之鞶帶,終朝三褫之。象曰:以訟受服,亦不足敬也。好違而尚鄰,固足以人之與;然其與之者,非剛而有立也,乃柔從鞶帶者而已。夫以中直相與,則其利斷金,人莫能間;彼柔從若鞶帶者,何往而不為順哉?雖或與之,其志不一而人易以奪,故曰或錫之鞶帶,終朝三褫之。夫以訟得其所與者,柔從易奪之人,至於終朝三褫之,亦何足敬哉?

上九の爻辞に言う、「或いは之に鞶帯(ぱんたい、命服の大帯)を錫(たま)う、終朝にして三たび之を褫(うば)う」と。『小象伝』に言う、「訟を以て服を受くは、亦た敬うに足らざるなり」と。違うを好みて鄰に尚ぶは、固より以て人の与(したが)うを得るに足る。然れど其の之に与する者は、剛にして立つ有るに非ず、乃ち柔従の鞶帯たる者のみ。夫れ中直を以て相与すれば、則ち其の利は金を断ち、人之を間(へだ)つ能わず。彼の柔従鞶帯の若き者、何れか往きて順と為らざらん。或いは之に与すと雖も、其の志一ならずして人以て奪い易し。故曰く、或いは之に鞶帯を錫う、終朝にして三たび之を褫うと。夫れ訟を以て其の与する所を得る者、柔従奪い易きの人、終朝三たび之を褫うに至る。亦た何ぞ敬うに足らんや。

師卦(坎下坤上)

坎下坤上。師:貞,丈人吉,無咎。曰:師,眾也;貞,正也。能以眾正,可以王矣。剛中而應,行險而順,以此毒天下而民從之,吉又何咎矣。師之成卦,以行險而順也。軍制自五而積之,至於師則至眾矣。眾而無正則亂,故必丈人而後吉無咎焉。丈人者,其為長度越於尋常者也。蓋不能度越於尋常,則亦眾人而已,安能正眾哉?能為眾正者,將也。傳曰:師能左右之曰以。能以眾正,則能將之謂也,故曰能以眾正,可以王矣。

『師』卦は下体が坎、上体が坤。卦辞に言う、「師、貞、丈人(じょうじん)吉、咎无し」と。『彖伝』に言う、「師とは衆なり、貞とは正なり。能く衆を以て正しくせば、以て王たる可し。剛中にして応有り、険を行きて順なり、此れを以て天下を毒(やまな)して民之に従う、吉又何の咎か有らん」と。師の成卦は、険を行きて順を以てなり。軍制は五より之を積み、師に至りて則ち至衆なり。衆にして正无ければ則ち乱る。故に必ず丈人有りて後吉咎无きなり。丈人とは、其の長さ度越して尋常に越ゆる者なり。蓋し度越して尋常に越ゆる能わざれば、則ち亦た衆人のみ。安んぞ能く衆を正しくせんや。能く衆を正しくする者は将なり。伝に曰く、師能く之を左右するを以て曰すと。能く衆を以て正しくすれば、則ち能く将たるの謂なり。故曰く、能く衆を以て正しくせば、以て王たる可しと。

剛中而應,帥師之才也;行險而順,行師之道也。帥師而不剛,則是以羊將狼,不可也;剛而不中,是以狼將羊,不可也。雖剛中而上不應,亦不能行焉,故帥師之才,剛中而應然後善也。兵?器,戰危事,雖武王不保其必克,此天下之至險也。行險而天下是奉,以除民害,則是行險而順也。險而順,則師之所加若時雨降而民悅矣,故曰以此毒天下而民從之也。師之行險以除民害,猶醫之用毒以攻人疾,故曰以此毒天下。其曰無咎者,治天下至於用師,則其吉足以補過也。

「剛中にして応有り」は、師を帥(ひき)うるの才なり。「険を行きて順」は、師を行うの道なり。師を帥うるに剛ならざれば、則ち是れ羊を以て狼を将たるなり、可ならず。剛にして中ならざれば、是れ狼を以て羊を将たるなり、可ならず。剛中なりと雖も上応じざれば、亦た能く行う能わず。故に師を帥うるの才、剛中にして応有りて然る後善し。兵は凶器、戦は危事、武王と雖も其の必ず克たんを保せず。此れ天下の至険なり。険を行きて天下是を奉ずるは、以て民の害を除かんが為なり。是れ則ち険を行きて順なり。険にして順なれば、則ち師の加うる所は時雨の降るが若くして民悦ぶ。故曰く、此れを以て天下を毒して民之に従うなりと。師の険を行きて以て民の害を除くは、猶ほ医の毒を用いて以て人の疾を攻むるが如し。故曰く、此れを以て天下を毒すと。其の咎无しと曰う者は、天下を治めて師を用うるに至れば、則ち其の吉は以て過を補うに足るなり。

象曰:地中有水,師,君子以容民畜眾。地之於水,能包容而畜止之,此師之象也,故君子以容民畜眾。容民者,民歸之斯多助矣;畜眾則眾聽焉,斯益辦矣,是乃所以為師也。荀子曰:善附民者,乃善用兵者也。此之謂也。且容民畜眾而師成焉,則舉而措之,乃可以去傷民而除亂眾矣。去傷民所以容民,除亂眾所以畜眾也。

『象』に曰く、地中に水有り、師、君子民を容れ衆を畜(やしな)うを以てすと。地の水に於けるや、能く包容して之を畜止す。此れ師の象なり。故に君子民を容れ衆を畜うを以てす。民を容るる者は、民之に帰す、斯に助け多し。衆を畜えば則ち衆聴く、斯に益々(いちじる)く辨(は)つ。是れ乃ち師を為す所以なり。荀子に曰く、善く民に附(つ)く者は、乃ち善く兵を用うる者なりと。此れの謂なり。且つ民を容れ衆を畜いて師成れば、則ち挙げて之を措(お)き、乃ち以て民を傷るを去り乱衆を除くべし。民を傷るを去るは民を容るる所以なり、乱衆を除くは衆を畜う所以なり。

初六:師出以律,否臧?。象曰:師出以律,失律?也。以不必必之,故多兵。今其至於用兵,則是常以不必必之也;以不必必之而至於用兵,猶且必其勝而往焉,則是重造兵也。故聖人於用師之初,不敢自必其勝負,吹律以聽焉。太史公曰:六律為五事根本,其於兵械之興也,望敵而知吉?,聞聲而較勝負。故周官太師吹同律以聽軍聲,苟為失律,雖臧?,蓋幸之,不可以為常也。

初六の爻辞に言う、「師出ずるに律を以てす、否(あ)しければ臧(よ)きと雖も凶」と。『小象伝』に言う、「師出ずるに律を以てす、律を失えば凶なり」と。必ならざるを以て之を必とす、故に兵多し。今其れ兵を用うるに至れば、則ち常に必ならざるを以て之を必とするなり。必ならざるを以て之を必として兵を用うるに至り、猶ほ且つ其の勝たんを必として往かんとすれば、則ち重ねて兵を造るなり。故に聖人は師を用うるの初めに於て、敢えて自ら其の勝負を必とせず、律を吹きて以て聴く。太史公に曰く、六律は五事の根本、其れ兵械の興るに於て、敵を望みて吉凶を知り、声を聞きて勝負を較(くら)ぶと。故に周官の太師は同律を吹きて以て軍声を聴く。苟も律を失わば、臧きと雖も凶なり。蓋し之を幸とす、以て常と為すべからざるなり。

九二:在師中吉,無咎,王三錫命。象曰:在師中吉,承天寵也;王三錫命,懷萬邦也。師以行險,九二中險而居焉,在師中者也。一柔一剛,仁勇兼具,下尊之也為丈人,上親之也猶長子,故吉無咎。用師至於吉無咎,則天下之難平,王可以錫命懷諸侯矣。三者,眾辭也。故聖人於賞則勸,於刑則畏。惟畏刑,故殺伐欲其約,所謂王用出征,有嘉折首,匪其醜者是也;惟勸善,故錫予則欲其博,所謂王三錫命是也。

九二の爻辞に言う、「師の中に在りて吉、咎无し、王三たび命を錫(たま)う」と。『小象伝』に言う、「師の中に在りて吉は、天の寵を承くるなり。王三たび命を錫うは、万邦を懐(なつ)けるなり」と。師は険を行くを以てす。九二は中険にして之に居る、師の中に在る者なり。一柔一剛、仁勇兼ね備わり、下は之を尊びて丈人と為し、上は之を親しみて長子の若し。故に吉咎无し。師を用いて吉咎无きに至れば、則ち天下の難平らぐ、王以て命を錫い諸侯を懐ける可し。三とは、衆(おお)きの辞なり。故に聖人は賞に於ては勧め、刑に於ては畏れらる。惟れ刑を畏るるが故に、殺伐は其の約ならんことを欲す。所謂王用いて出(い)でて征し、嘉美の首を折る有り、其の醜(つれ)に匪(あら)ざる者是れなり。惟れ善を勧むるが故に、錫予は則ち其の博きを欲す。所謂王三たび命を錫う是れなり。

六三:師或輿尸,?。象曰:師或輿尸,大無功也。虎豹便?,熊羆多力,然而人食其肉而席其革,以不能通其智而一其力故也。師貞夫一,則眾不能獨進,亦不能獨退,與虎豹熊羆異焉。以六三帥師,則是主之不一也;師或至於不一之主,則凶之道,豈有功乎?

六三の爻辞に言う、「師或いは尸を輿(くるまにの)せて凶」と。『小象伝』に言う、「師或いは尸を輿すは、大いに功无きなり」と。虎豹は便捷、熊羆は力多し。然れども人其の肉を食らい其の革を席と為すは、能く其の智を通じ其の力を一にする能わざるを以てなり。師は貞にして夫れ一なれば、則ち衆独り進む能わず、亦た独り退く能わず。虎豹熊羆と異なり。六三を以て師を帥うれば、則ち是れ主の一ならざるなり。師或いは一ならざるの主に至れば、則ち凶の道、豈に功有らんや。

六四:師左次,無咎。象曰:左次無咎,未失常也。師左次無咎,猶所謂井甃無咎也。井以動出為功,今乃靜正於修井,則可以無咎矣。師亦不貴夫乆於靜,乆於靜則頓兵老師,非所謂拙速也;今左而不為乆處,則可以無咎矣。

六四の爻辞に言う、「師左次(たど)り、咎无し」と。『小象伝』に言う、「左次咎无きは、常を失わざるなり」と。師左次咎无きは、猶ほ所謂井甃(せいしゅく、井戸を甃める)咎无きの若し。井は動き出づるを以て功と為す。今乃ち静正にして井を修むれば、則ち以て咎无きべし。師亦た静に久しきを貴ばず。静に久しければ則ち兵を頓(にぶ)らし師を老いらす。所謂拙速に非ず。今左にして久しく処らざれば、則ち以て咎无きべし。

六五:田有禽,利執言,無咎,長子帥師,弟子輿尸。象曰:長子帥師,以中行也;弟子輿尸,使不當也。行險而順,則雖毒天下而民從之。六五體順,故田有禽。天子討而不伐,故利執言,則師出有名矣。執言以討,則有奉吾辭以往者,長子可也,弟子凶也;長子一人,則弟子者眾故也。長子謂九二,弟子謂六三。

六五の爻辞に言う、「田に禽有り、言を執るに利し、咎无し、長子師を帥う、弟子尸を輿す」と。『小象伝』に言う、「長子師を帥うるは、中を以て行くなり。弟子尸を輿すは、使い当たらざるなり」と。険を行きて順なれば、則ち天下を毒すと雖も民之に従う。六五は順を体す。故に田に禽有り。天子は討して伐たず。故に言を執るに利し、則ち師出ずるに名有り。言を執りて以て討たば、則ち吾が辞を奉じて往く者有り。長子は可なり、弟子は凶なり。長子は一人、則ち弟子は者衆なればなり。長子は九二を謂い、弟子は六三を謂う。

上六:大君有命,開國承家,小人勿用。象曰:大君有命,以正功也;小人勿用,必亂邦也。慶賞刑威曰君。師出有功則既成矣,開國承家,賞亦重矣,於是稱大君焉。開國承家,則猶武成之終而分土列爵也。夫君子小人並用,惟師為然:君子則用智,小人則用力,此其功也;君子則開國承家,小人則勿用,惡小人之亂邦也。

上六の爻辞に言う、「大君命有り、国を開き家を承け、小人用うる勿(なか)れ」と。『小象伝』に言う、「大君命有りは、以て功を正しくするなり。小人用うる勿れは、必ず邦を乱るなり」と。慶賞刑威を曰う君なり。師出でて功有れば則ち既に成れり。国を開き家を承け、賞亦た重し。是に於て大君と称す。国を開き家を承けば、則ち猶ほ武成の終りにして土を分け爵を列ぬるが如し。夫れ君子小人并せ用うるは、惟れ師を然りと為す。君子は則ち智を用い、小人は則ち力を用う。此れ其の功なり。君子は則ち国を開き家を承け、小人は則ち用うる勿れ、小人の邦を乱るを悪(にく)むなり。

比卦(坤下坎上)

坤下坎上。比:吉。原筮元永貞,無咎。不寜方來,後夫?。彖曰:比,吉也;比,輔也,下順從也。原筮元永貞無咎,以剛中也。不寧方來,上下應也。後夫?,其道窮也。比之為卦,以二體則水與地比,以六爻則五陰比一陽。夫秦之所以亡,以孤立於天下而無或比之故也。今陽得尊位大中,有克比之徳,其吉不亦宜乎?

『比』卦は下体が坤、上体が坎。卦辞に言う、「比、吉。原(よ)く筮(め)せば元永貞、咎无し。寧(やす)からざる方来る、後れ來る夫(ひと)凶」と。『彖伝』に言う、「比は吉なり。比は輔なり、下順従すなり。原く筮せば元永貞咎无きは、剛中を以てなり。寧からざる方来るは、上下応ずるなり。後れ來る夫凶は、其の道窮まるなり」と。比の卦たる、二体を以てすれば水と地と比(した)し、六爻を以てすれば五陰一陽に比す。夫れ秦の亡ぶ所以は、天下に孤立して比する者或有らざるが故なり。今陽は尊位大中を得て、克く比するの徳有り。其の吉亦た宜しきならずや。

比,輔也者,言臣鄰;比之下順從者,言民庶則順從而已。其曰下雲者,臣鄰則有或尊,而民無尊也,故曰下焉。比吉也,比輔也,下順從也,言為人之所比者也;原筮元永貞,言比乎人者也。原筮者,釋所比不可以不審也。夫道足乎已而為人之所比,則歸斯受之而已,不擇可也;道不足以比乎人,方賴人以為飬,則一失所比,必有?之悔,可不原筮乎?

「比は輔なり」とは、臣隣を言う。比の下順従する者は、民庶は則ち順従するのみを言う。其の下と云う者は、臣隣は則ち或いは尊き者有り、而して民は尊き无きなり。故曰く下なりと。「比吉なり、比輔なり、下順従すなり」は、人の比する所と為るを言う。「原筮元永貞」は、人に比するを言う。原筮とは、比する所は審らかならざるべからざるを釈(と)くなり。夫れ道己に足りて人の比する所と為れば、則ち帰して之を受くるのみ、択ばずして可なり。道人に比するに足らざれば、方に人を頼りて以て養と為す。則ち一旦(たん)比する所を失えば、必ず凶の悔有り。原筮せずんば可ならんや。

原筮而得元永貞之人,則其仁足依,亦且乆要而不忘,足以無咎也。不寧方來,以上下應,故勿亟而來也。夫君臣上下同心同徳,和一而無間,則危而求安者何所歸走哉?不寧之異方然且來比,而上六實同體,有為婦道而後其夫,失陰陽和?,則冝也。

原筮して元永貞の人を得れば、則ち其の仁依るに足り、亦た且つ久要(きゅうよう)して忘れず、以て咎无きに足るなり。寧からざる方来るは、上下応ずるを以てなり。故に亟(いそ)がずして来るなり。夫れ君臣上下同心同徳、和して一なりて間无ければ、則ち危うくして安を求むる者何れか走り帰する所あらんや。寧ならざるの異方然りと雖も且つ來りて比す。而して上六実に同体にして、婦道を為して其の夫に後るる者有り。陰陽の和を失えば、則ち凶なり宜しきなり。

象曰:地上有水,比,先王以建萬國,親諸侯。比者,親也。以四海之遠而比乎一人,則形隔勢絶,難於為比,於是建萬國,使民各親其君焉。民各親於君而不歸於其極,則其異政之國未可謂克比也,於是先王以親諸侯。先王與諸侯親,而使諸侯與萬民親,則九州島斯共貫矣。

『象』に曰く、地上に水有り、比、先王以て万国を建て諸侯に親しむと。比とは親しきなり。四海の遠きを以て一人に比せんとすれば、則ち形隔たり勢い絶え、比と為すに難し。是に於て万国を建て、民をして各々其の君に親しましむ。民各々君に親しみて其の極に帰せざれば、則ち其の異政の国は未だ克く比すと謂うべからず。是に於て先王以て諸侯に親しむ。先王諸侯と親しみて、諸侯をして万民と親しましめば、則ち九州斯に共に貫(つらぬ)かる。

初六:有孚比之,無咎;有孚盈缶,終來有他吉。象曰:比之初六,有他吉也。闕。有孚比之,言比孚人也;有孚盈缶,終來有他吉,言為人之所比也。水猶可以忠信誠身親之,而況於人乎?故孚比之則無咎。誠有所居,以類至,故有孚盈缶,終來有他吉也。

初六の爻辞に言う、「孚有りて之に比す、咎无し。孚缶に盈(み)つ、終に來りて他吉有り」と。『小象伝』に言う、「比の初六、他吉有るなり」と。(原書此処に闕文あり。)「孚有りて之に比す」は、孚有りて人に比すを言う。「孚缶に盈ち終に來りて他吉有り」は、人の比する所と為るを言う。水は猶ほ以て忠信身を誠にして之に親しむ可し。而況んや人に於てをや。故に孚有りて之に比すれば則ち咎无し。誠居る所有りて以て類至る。故に孚缶に盈ち終に來りて他吉有るなり。

缶之為器,其中虛者也。以虛受故受而不著,以虛應故應而不藏。人之心若是,惟去物之塞而有孚以盈之,則終來有他吉矣。雖然,有人者累,故中孚之初九有他而不燕焉。其有他而吉者,其相親比之道時有在初六而已,故曰比之初六,有他吉也。

缶の器たる、其の中虚なる者なり。虚を以て受くれば故に受けて著(つ)かず、虚を以て応ずれば故に応じて蔵せず。人の心是くの若し。惟れ物の塞(ふさ)ぐを去りて孚を以て之を盈(み)たさば、則ち終に來りて他吉有らん。然りと雖も、人有る者は累(おも)りなり。故に中孚の初九、他有りて燕(やす)からざるなり。其の他有りて吉なる者は、其の相親比の道時に初六に在るのみ。故曰く、比の初六、他吉有るなりと。

六二:比之自內,貞吉。象曰:比之自內,不自失也。其人可比而不比,則為失人;其人不可比而比之,則為失己。九五有剛中之徳,其人可比,而六二能比之,雖離內而比外、舎近而取逺,不為自失矣,故曰比之自內,不自失也。

六二の爻辞に言う、「内より之に比す、貞吉」と。『小象伝』に言う、「内より之に比すは、自ら失わざるなり」と。其の人比すべくして比せざれば、則ち人を失うを為す。其の人比すべからざるにして之に比せば、則ち己を失うを為す。九五剛中の徳有り、其の人比すべし。而して六二能く之に比す、内を離れて外に比し近を舎てて遠を取ると雖も、自ら失と為さざるなり。故曰く、内より之に比す、自ら失わざるなりと。

六三:比之匪人。象曰:比之匪人,不亦傷乎?惡木垂陰,志士猶不息也,況匪其人而比之乎?匪其人而比之,相推入禍門也。六四:外比之,貞吉。象曰:外比於賢,以從上也。六四雖舎正應而比九五,然剛柔正而位當,故貞吉。其曰外比於賢者,蓋賢者所持惟義,言六四之於九五乃義之與比,而九五之於六四亦非不義而得義眾也,以其舎正應而從義,故稱賢焉。

六三の爻辞に言う、「其の人に匪(あら)ざるに比す」と。『小象伝』に言う、「其の人に匪ざるに比す、亦た傷まざらんや」と。悪木の垂るる陰、志士も猶ほ息(やす)まず。況んや其の人に匪ざるに之を比せんや。其の人に匪ざるに之を比すは、相推して禍門に入るなり。六四の爻辞に言う、「外之に比す、貞吉」と。『小象伝』に言う、「外賢に比すは、以て上に従うなり」と。六四正應を舎てて九五に比すと雖も、然れども剛柔正にして位当り。故に貞吉。其の外賢に比すと曰う者は、蓋し賢者の持する所は惟れ義なり。六四の九五に於けるは乃ち義の与に比して、九五の六四に於けるも亦た義に非ざるに非ざる、義衆を得るを以てなり。其の正應を舎てて義に従うを以て、故に賢と称すなり。

九五:顯比,王用三驅,失前禽,邑人不誡,吉。象曰:顯比之吉,位正中也;舎逆取順,失前禽也;邑人不誡,上使中也。比與周反者也,然盡比之道則周在其中,此九五所以能使五陰皆比而為顯比也。傳曰:使天下莫不順比服從,文王之事也。王者所以使天下順比服從,豈若四面之羅使民不得遁而致此哉?亦用三驅、舎逆取順而已。惟舎逆取順,是以失前禽也。禽有可擒之道而失之,非不能也,舎逆取順而已。邑之寡弱且不誡而安,則其安可知矣,此不寧之方所以來也。

九五の爻辞に言う、「顕比(けんぴ)、王三駆を用いて前禽を失う、邑人誡(いまし)めず、吉」と。『小象伝』に言う、「顕比の吉は、位正中なり。逆を舎て順を取れば、前禽を失うなり。邑人誡めずは、上の使う中なり」と。比と周とは反る者なり。然れども比の道を尽くせば則ち周其中に在り。此れ九五の五陰をして皆比せしめて顕比と為る所以なり。伝に曰く、天下に順比服従せざるは莫きなり、文王の事なりと。王者の天下をして順比服従せしむる所以、豈に四面の羅の如く民をして遁れざらしめて此れを致さんや。亦た三駆を用い逆を舎て順を取るのみ。惟れ逆を舎て順を取る、是の以て前禽を失うなり。禽擒(と)る可きの道有りて之を失うは、能わざるに非ず、逆を舎て順を取るのみ。邑の寡弱且つ誡めずして安んずれば、則ち其の安き知るべし。此れ寧ならざるの方の來る所以なり。

上六:比之無首,?。象曰:比之無首,旡所終也。聖人能使天下為一家、中國為一人。既以為一家矣,而上六後焉,是後夫也,夫其可後乎?既以為一人矣,而上六乘焉,是無首也,首其可無乎?夫猶可後,首不可無。蓋?者,言乎其象者也,言象而無其形,故以其?之緩而未及於身者言之。

上六の爻辞に言う、「之に比するに首无し、凶」と。『小象伝』に言う、「之に比するに首无きは、終る所无きなり」と。聖人は能く天下をして一家と為し、中国をして一人と為す。既に一家と為しを以て、而して上六後るるは、是れ後れ來る夫(ひと)なり。夫(か)れ其れ後るべけんや。既に一人と為しを以て、而して上六乗ずるは、是れ首无きなり。首其れ无くべけんや。夫(か)れ猶ほ後る可し、首无くすべからず。蓋し凶とは、其の象に言う者なり。象を言いて其の形有らざるを以て、故に其の凶の緩にして未だ身に及ばざる者を以て之を言うなり。

小畜卦(乾下巽上)

乾下巽上。小畜:亨。宻雲不雨,自我西郊。曰:小畜,柔得位而上下應之,曰小畜。健而巽,剛中而志行,乃亨。宻雲不雨,尚往也;自我西郊,施未行也。小畜,臣畜君也。臣之畜君,不得位則勢不得行,上下不應則眾莫能助。

『小畜』卦は下体が乾、上体が巽。卦辞に言う、「小畜、亨。密云雨降らず、我が西郊より」と。『彖伝』に言う、「小畜は、柔位を得て上下之に応ずる、小畜と曰う。健にして巽(そん、謙遜)、剛中にして志行われ、乃ち亨。密云雨降らずは、尚ほ往くなり。我が西郊よりは、施し未だ行われざるなり」と。小畜とは、臣の君を畜(とど)むるなり。臣の君を畜むるに、位を得ざれば則ち勢い行うるを得ず、上下応応ぜざれば則ち衆助くる能わざるなり。

蓋位不在極而匡弼不當諌而輙諫之,則為犯分,故不得位則不可畜也。一齊人教之,眾楚人咻之,則齊語不可得,故上下不應不可畜也。柔得位而上下應之為小畜者,如此而已。柔者,六四之材也。才雖柔而其動剛健,不剛健則脂從上而已,非所以為畜也。然健而不巽,剛而過中,則有犯上之事而志不行;志不行而不可謂亨也,故曰健而巽,剛中而志行,乃亨也。

蓋し位極に在らずして匡弼(きょうひつ)に当らず、諫むべからざるに輙(すなわ)ち之を諫めば、則ち分を犯すを為す。故に位を得ざれば則ち畜むべからざるなり。一の斉人之を教え、衆の楚人之を咻(かまびす)くば、則ち斉語得べからず。故に上下応ぜざれば畜むべからざるなり。柔位を得て上下之に応ずるを小畜と為す者、此くの如くのみ。柔とは、六四の材なり。才柔なりと雖も而して其の動剛健なり。剛健ならざれば則ち脂従にて上に従うのみ、畜と為す所以に非ず。然れども健にして巽ならず、剛にして中を過ぐれば、則ち上を犯すの事有りて志行われず。志行われざれば以て亨と謂うべからざるなり。故曰く、健にして巽、剛中にして志行われ、乃ち亨なりと。

君辨言而善足也,非和也;獻可替否,其和也。故畜若和,為有雨之象,雨者陰陽和也。然猶宻雲而不雨者,以六四陰雖盛多,而交際未及中故也。自我西郊者,以六居而求離其所故也。象曰:風行天上,小畜,君子以懿文徳。以臣畜君,其勢為難,可以暴為之乎?巽為之畜矣。荀子曰:若養赤子,若養餒人。言不可以暴為也,故君子於小畜懿文徳而已。懿,言浸以光大,不為暴也。

君の言を辨じて善きに足るは、和に非ず。可を献(すす)め否を替(か)うるは、其れ和なり。故に畜むるに和の若くば、雨有るの象と為る。雨とは陰陽の和なり。然れども猶ほ密云にして雨降らざるは、六四の陰盛んに多しと雖も、而して交際未だ中に及ばざるが故なり。我が西郊よりとは、六居るを以て而して其の所を離れんと求むるが故なり。『象』に曰く、風天上を行く、小畜、君子文徳を懿(よ)くするを以てすと。臣を以て君を畜むるは、其の勢い難し。以て暴を為すべけんや。巽は之を畜むるを為すなり。荀子に曰く、赤子を養うが若く、餒(う)えたる人を養うが若しと。暴を以て為すべからざるを言うなり。故に君子は小畜に於て文徳を懿くするのみ。懿とは、浸(ひた)し以て光大、暴を為さざるを言うなり。

初九:復自道,何其咎,吉。象曰:復自道,其義吉也。引其君當於道者,臣之職;然而彰其引之之跡,則有掠美之嫌,不如勿彰之為義也。今曰吉,引君之跡不彰故也。夫君唱而臣和,君行而臣隨,君臣之義也;今引其君使復,則君臣之義不為無傷,惟不見所以引之跡,是以於君臣之義旡傷而吉也。

初九の爻辞に言う、「道自り(より)復る、何の咎か有らん、吉」と。『小象伝』に言う、「道自り復るは、其の義吉なり」と。其の君を引きて道に当らしむるは、臣の職なり。然れども其の引く之の迹を彰かすは、則ち美を掠(かす)めるの嫌有り、彰かさざるを義と為すに如かず。今吉と曰うは、君を引くの迹彰かさざる故なり。夫れ君唱(とな)えて臣和し、君行きて臣随うは、君臣の義なり。今其の君を引きて復らしめば、則ち君臣の義傷无きと為さざるなり。惟れ引く所以の迹を見ざれば、是の以て君臣の義に於て傷无くして吉なり。

九二:牽復,吉。象曰:牽復在中,亦不自失也。適堯舜文王者為正道,非堯舜文王者為他道。正、他之間不知謹,則舎正而適他矣;乃挽而回之,不至乎遂往而反,此牽復之說也。然謂之牽,則既有牽之之跡矣;有牽之之跡,則於唱和隨行之義傷矣。苐以牽而能復,又且在中,得不自失而已。荀況所謂以得君而復之道者也。

九二の爻辞に言う、「牽(ひ)きて復る、吉」と。『小象伝』に言う、「牽きて復りて中に在れば、亦た自ら失わざるなり」と。堯舜文王に適(ゆ)くを正道と為し、堯舜文王に非ざるを他道と為す。正と他との間に謹むを知らざれば、則ち正を舎てて他に適く。乃ち挽(ひ)きて之を回(ま)わし、遂に往きて反るに至らず。此れ牽復の説なり。然れども之を牽と謂えば、則ち既に之を牽くの迹有り。之を牽くの迹有れば、則ち唱和随行の義に於て傷有り。第に牽きて能く復るを以て、又且つ中に在り、自ら失わざるを得るのみ。荀況の所謂君を得て以て之を復らすの道の者なり。

九三:輿說輻,夫妻反目。象曰:夫妻反目,不能正窒也。初九所畜者既柔,而其柔又正,且畜之於初焉,是以其義吉也;九二所畜者雖剛,而剛得中,且畜之於中焉,是以不自失也;九三所畜者剛過,畜之則上有所不受而下之志不行矣,故有輿脫輻之象焉。輿載上者也,以剛中則牽之於前亦可也,以剛過則載之於下猶不可也。畜矣,將以為和,故有夫婦之道;失其和,則有夫婦反目之象。稱妻者,言夫婦不順也,荀況所謂諫非而怒之者也。

九三の爻辞に言う、「輿(くるま)輻(ふく)を説(と)く、夫妻目を反(そむ)く」と。『小象伝』に言う、「夫妻目を反くは、能く窒(とど)め正しくせざるなり」と。初九の畜むる所は既に柔にして、而して其の柔又正しく、且つ之を初めに畜む。是の以て其の義吉なり。九二の畜むる所は剛なりと雖も、而して剛中を得、且つ之を中に畜む。是の以て自ら失わざるなり。九三の畜むる所は剛過ぐれば、之を畜めば上受けざる所有りて下の志行われず。故に輿輻を説くの象有り。輿は上を載する者なり。剛中を以てすれば則ち之を前に牽くも亦た可なり。剛過ぐるを以てすれば則ち之を下に載すも猶ほ可ならず。畜みて、将に和を為さんとす、故に夫婦の道有り。其の和を失えば、則ち夫婦目を反くの象有り。妻と称するは、夫婦順ならざるを言う。荀況の所謂非を諫めて之を怒らしむる者なり。

六四:有孚血去惕出,無咎。象曰:有孚惕出,上合志也。六四柔而能畜,以有為之助者也。莫或助之而以柔當三陽之進,則無不傷矣,故稱血焉。惕出而與上合志,斯可以畜,故曰有孚惕出,上合志也。九五:有孚攣如,富以其鄰。象曰:有孚攣如,不獨富也。交如者,兩相交也;攣如則眾矣,故富以其鄰,鄰亦眾意也。蓋以臣畜君,非合眾力不能,故曰有孚攣如,不獨富也。富,臣得君也;澤加於民而可大之業成焉,是所以富也。

六四の爻辞に言う、「孚有りて血去り愓出づ、咎无し」と。『小象伝』に言う、「孚有りて愓出づるは、上と志を合わすなり」と。六四は柔にして能く畜む、有りて之を助くる者を以てなり。或いは之を助くるは莫く、柔を以て三陽の進に当れば、則ち傷ざる无し。故に血と称す。愓出でて上と志を合わせば、斯に以て畜む可し。故曰く、孚有りて愓出づるは、上と志を合わすなりと。九五の爻辞に言う、「孚攣(れん)たり、富其の鄰を以てす」と。『小象伝』に言う、「孚攣たりは、独り富まざるなり」と。交如とは、両なりて相交るなり。攣如は則ち衆(しゅう)なり。故に富其の鄰を以てす、鄰亦た衆の意なり。蓋し臣を以て君を畜むるは、衆力を合わせざれば能わず。故曰く、孚攣たりは、独り富まざるなりと。富とは、臣君を得るなり。沢民に加えて大にすべきの業成らんとす、是れ富と為す所以なり。

上九:既雨既處,尚徳載,婦貞厲,月?望,君子征?。象曰:既雨既處,徳積載也;君子征?,有所疑也。上九畜道成之時也,故言既處者,畜成而功已濟也。其功已濟,於是既處而復往所載義也。如此則其載上非尚力者也,尚徳載者也。雖尚徳載,然謂之載,則乘者無為也,東西南北惟載者之從耳。婦道如是則厲矣,故曰婦貞厲。

上九の爻辞に言う、「既に雨降り既に処(やす)む、徳を載するを尚ぶ、婦貞厲、月幾(ほぼ)望(まん)たり、君子征せば凶」と。『小象伝』に言う、「既に雨降り既に処むは、徳積みて載すなり。君子征せば凶は、疑う所有るなり」と。上九は畜の道成るの時なり。故に既に処むと言う者は、畜成りて功已(すで)に済れたり。其の功已に済れり、是に於て既に処みて復た往きて載する所の義なり。此くの如くすれば則ち其の上を載するは力を尚ぶ者に非ず、徳を載するを尚ぶ者なり。徳を載するを尚ぶと雖も、然れども之を載と謂えば、則ち乗ずる者は為す无し。東西南北惟れ載する者の従うのみ。婦道此くの如し、則ち厲(あやう)きなり。故曰く、婦貞厲なりと。

月?望者,言陰盛也。君臣之分,君行先,臣從後。豐之初九所以雖旬無咎者,以在下而已;位極上九以畜為事,則雖?望猶不可,況旬乎??望而征,求其明亢而與旬焉,則終其魄而已。時乃天道,君子能違天乎?故曰君子征?,有所疑也。

「月幾望」とは、陰盛んなるを言うなり。君臣の分は、君行き先んじ、臣従い後る。豊の初九の旬(じゅん、相当)に雖も咎无き所以の者は、下に在るを以てのみ。位上九に極まりて畜を事と為せば、則ち幾望に雖も猶ほ可ならず、況んや旬をや。幾望にして征せば、其の明亢(こう)を求めて旬に与(あずか)らんとすれば、則ち其の魄を終えるのみ。時は乃ち天道、君子能く天に違わんや。故曰く、君子征せば凶、疑う所有るなりと。

履卦(兌下乾上)

兌下乾上。履虎尾,不咥人,亨。曰:履,柔履剛也,說而應乎乾,是以履虎尾不咥人,亨。剛中正,履帝位而不疚,光明也。老子曰:善行者旡轍跡。聖人之遊人間世,不欲其有轍跡;有轍跡,所謂畫地而趨也,畫地而趨,亦已殆矣。而履者,跡所出也,是以聖人之於履,常若履虎尾然也;然能以說應之,是以亨焉。

『履』卦は下体が兌、上体が乾。卦辞に言う、「虎の尾を履(ふ)む、人を咥(くら)わず、亨」と。『彖伝』に言う、「履とは、柔剛を履むなり。説(よろこ)びて乾に応ず、是の以て虎の尾を履みて人を咥わず、亨なり。剛中正、帝位を履みて疚(やま)しからず、光明なり」と。老子に曰く、善く行く者は轍迹无しと。聖人の人間世に遊ぶや、其の轍迹有らんことを欲せず。轍迹有れば、所謂地を画して趨(はし)るなり。地を画して趨るは、亦た已(はなは)だ殆(あや)うし。而して履とは、迹の出づる所なり。是の以て聖人の履に於けるや、常に虎の尾を履むが若き然り。然れども能く説を以て之に応ず、是の以て亨なり。

乾健而不可犯,虎之象也。履而不見咥者,為其以柔履剛而應乎乾,所以亨也。聖人之所謂說者,非務可人心而為柔從也。以卦考之,聖人之所謂說者,剛中而柔外,所謂內直而外曲者也。其說不如是,則為顛、為躓、為傾、為失,何能亨哉?

乾は健にして犯すべからず、虎の象なり。履みて咥われざるを見る者は、其れ柔を以て剛を履みて乾に応ずるを為す、亨を為す所以なり。聖人の所謂説とは、務めて人の心に可なりと為して柔従と為るに非ず。卦を以て之を考えば、聖人の所謂説とは、剛中にして柔外、所謂内直にして外曲なる者なり。其の説此くの如くならざれば、則ち顛(たお)れと為り、躓(つまづ)きと為り、傾(かたむ)きと為り、失と為る。何ぞ能く亨ならんや。

在下以柔履正,則和說而能以履位矣。上雖宜以剛健,然不可過而恃乎已,當以中正而符乎剛柔之節也,故曰剛巽乎中正而志行。九四以柔麗乎中正,故亨;剛以中順為節,則小人不得為之疾矣。小人之於人,猶耳之有充、目之有翳,雖有光明之資,亦為之蔽矣;不疚於小人,則光明自若也。履非特貴賤履位矣,君子小人各履位,故其言及此。

下に在りて柔を以て正を履めば、則ち和説して以て位を履む能し。上は宜しく剛健を以てすべしと雖も、然れども過ぎて己に恃(たの)むべからず。当に中正を以て剛柔の節に符すべし。故曰く、剛中正に巽りて志行わると。九四柔を以て中正に麗(つ)く、故に亨。剛中順を以て節と為せば、則ち小人為すの疾たるを得ざるなり。小人の人に於けるや、猶ほ耳の充(ふさ)ぐ有り、目の翳(かげり)有るが如し。光明の資有ると雖も、亦た之が為に蔽わる。小人に疚しからざれば、則ち光明自若なり。履は特に貴賤位を履むのみならず、君子小人各々位を履む。故に其の言此に及ぶ。

象曰:上天下澤,履,君子以辯上下,定民志。聖人弱其志,故善下;眾人強其志,故好陵也。非辯上下以定之,則志莫定矣。天地尊卑,是以辯上下,而象有取於上天下澤者,澤有說意,使民說於下,志所定也。初九:素履,往無咎。象曰:素履之往,獨行願也。近君而不得中,則有愬愬之懼;其失位在下,則為素履而已。夫履不處也,雖旡與為偶,亦獨行其願;不如是,則素者也,非素履也。

『象』に曰く、上天に下沢、履、君子以て上下を辨じ、民の志を定むと。聖人は其の志を弱(よわ)め、故に善く下る。衆人は其の志を強(つよ)め、故に陵(しの)ぐを好む。上下を辨じて以て之を定めざれば、則ち志定まる莫し。天地は尊卑、是の以て上下を辨ず。而して象の上天下沢に取る有りは、沢は説の意有り、民をして下に説びて、志の定まる所なり。初九の爻辞に言う、「素履(そり)に往けば咎无し」と。『小象伝』に言う、「素履の往くは、独り其の願いを行うなり」と。君に近くして中を得ざれば、則ち愬愬(せきせき、恐れ)の懼れ有り。其の位を失い下に在れば、則ち素履を為すのみ。夫れ履は処(とど)まらざるなり。与(とも)に偶(つれ)なす是无しと雖も、亦た独り其の願いを行う。此くの如くならざれば、則ち素なる者なり、素履に非ざるなり。

九二:履道坦坦,幽人貞吉。象曰:幽人貞吉,中不自亂也。近君而不得中,則有愬愬之懼;九二遠於君而又得中也,故曰履道坦坦,言安行而不為險之所?,前不得阻之所礙也。理人之道,散而成章,則能使天下文明焉;合而成體,則非徒天下之無文也,吾亦將素履;亦非徒天下之不明也,吾亦且為幽人。貞吉者,以中不自亂,無遜言屈身之事故也。

九二の爻辞に言う、「道を履む坦坦(たんたん)、幽人貞吉」と。『小象伝』に言う、「幽人貞吉は、中自ら乱れざるなり」と。君に近くして中を得ざれば、則ち愬愬の懼れ有り。九二は君に遠くして又中を得るなり。故曰く道を履む坦坦と。安んじて行きて険の窮(せま)る所と為らず、前阻る所の碍(さえ)るを得ざるを言うなり。人を理(おさ)むるの道は、散りて章と成れば、則ち能く天下を文明せしむ。合わりて体と成れば、則ち徒らに天下の文无きのみならず、吾亦た将に素履せん。亦非た天下の明らかならざるのみならず、吾亦た且(まさ)に幽人と為らんとす。貞吉とは、中自ら乱れざるを以てなり。遜(へりくだ)る言屈(かが)む身の事故无きなり。

六三:眇能視,跛能履,履虎尾咥人,?,武人為于大君。象曰:眇能視,不足以有明也;跛能履,不足以與行也;咥人之?,位不當也;武人為于大君,志剛也。視欲正,視而不正則眇者也;行欲中,行而不中則跛者也。故歸妹之九二則為眇能視,初九之不中則為跛能履;履之六三既不正又且不中,故眇能視、跛能履兼焉。

六三の爻辞に言う、「眇(すがめ)にして能く視、跛(あしなえ)にして能く履む、虎の尾を履みて人を咥う、凶、武人大君を為(つく)らんとす」と。『小象伝』に言う、「眇にして能く視は、以て明有るに足らざるなり。跛にして能く履むは、以て行くに与(あずか)るに足らざるなり。人を咥うの凶は、位当たらざるなり。武人大君を為らんとすは、志剛なるなり」と。視は正しきを欲す、視て正しからざれば則ち眇なる者なり。行は中を欲す、行きて中ならざれば則ち跛なる者なり。故に帰妹の九二は則ち眇にして能く視、初九の中ならざるは則ち跛にして能く履む。履の六三は既に正しからず又且つ中ならず。故に眇にして能く視、跛にして能く履むを兼ぬ。

九二幽人則不自明而已,眇能視則不足以有明也;初九獨行願則無與行而已,跛能履則不足以與行也。不足以有明,則見險不察矣;不足以與行,則避難不速矣,是以履虎尾遇咥人之?也。其明不足以見微,其行不足以經逺,志剛而已耳,是武人為于大君而不足言?,則以武人者行事於?者也,豈復以?害為恤哉?

九二の幽人は則ち自ら明らかにせざるのみ、眇にして能く視は則ち以て明有るに足らざるなり。初九の独り願いを行うは則ち与に行く无きのみ、跛にして能く履むは則ち以て行くに与るに足らざるなり。以て明有るに足らざれば、則ち険を見て察せざるなり。以て行くに与るに足らざれば、則ち難を避くるに速ならざるなり。是の以て虎の尾を履みて人を咥うの凶に遇うなり。其の明以て微を見るに足らず、其の行以て遠を経(おさ)むるに足らず、志剛なるのみ、是れ武人大君を為らんとして言うに足らざる凶なり。則ち武人たる者は凶に於て事を行う者なり。豈に復た凶害を以て恤(うれ)えと為さんや。

九四:履虎尾,愬愬終吉。象曰:愬愬終吉,志行也。九四處乾體之末,履虎尾者也。虎至暴而不可犯,然應之以說而得亨,履之能懼而終吉,是說之道無往而不入,懼之道無往而不克也。九五:夬履,貞厲。象曰:夬履貞厲,位正當也。夬之所以決者,以柔上乘而不履位也;今剛柔履位,則旡所事決矣,而九五猶以夬履,是於貞為厲也。厲不至於?也:六三之?,以位不當;九五之厲而已,以位正當也。蓋履者以柔履、以說應,而九五以剛決,其有咥人之?也;惟位正當,是以有厲也。

九四の爻辞に言う、「虎の尾を履む、愬愬として終に吉」と。『小象伝』に言う、「愬愬として終に吉は、志行わるるなり」と。九四は乾体の末に処る、虎の尾を履む者なり。虎至暴にして犯すべからず、然れども之に応ずるに説を以てして亨を得る。履みて能く懼れて終に吉は、是れ説の道往きて入らざる无く、懼れの道往きて克たざる无きなり。九五の爻辞に言う、「夬履(かいり)、貞厲」と。『小象伝』に言う、「夬履貞厲は、位正当なり」と。夬の決する所以の者は、柔上に乗じて位を履まざるを以てなり。今剛柔位を履めば、則ち決を事とする所无きなり。而して九五猶ほ夬履を以てす、是れ貞に於て厲を為すなり。厲は凶に至らざるなり。六三の凶は、位当たらざるを以てなり。九五の厲のみは、位正当なるを以てなり。蓋し履とは柔を以て履み、説を以て応ず。而して九五剛を以て決す、其れ人を咥うの凶有るなり。惟れ位正当、是の以て厲有るなり。

上九:視履考祥,其旋元吉。象曰:元吉在上,大有慶也。上九履道成矣,聖人之於成也,欲履省焉,故視履考祥。祥在天者也,以言考祥,則以謂履在下而應在上,不可不戒懼也。夫履者,跡之所出,惡跡愈走,不如反?以息跡,是以其旋元吉,而象以謂大有慶也。

上九の爻辞に言う、「履みを視て祥(しるし)を考え、其れ旋(めぐ)りて元吉」と。『小象伝』に言う、「元吉上に在りは、大いに慶有るなり」と。上九は履道成れり。聖人の成に於けるや、履みて省(かえり)みんことを欲す。故に履みを視て祥を考う。祥は天に在る者なり。祥を考うを以て言えば、則ち履は下に在りて応は上に在り、戒懼せざるべからずと謂うなり。夫れ履とは、迹の出づる所なり。迹を悪(にく)みて走るに愈(いよいよ)するは、陰に反りて以て迹を息(や)むに如かず。是の以て其れ旋りて元吉、而して象以て大いに慶有りと謂うなり。

泰卦(乾下坤上)

乾下坤上。泰:小往大來,吉亨。曰:泰,小往大來,吉亨,則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也;內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人,君子道長,小人道消也。往者屈也,來者伸也。大者來而伸,則天下浸以昌;小者來而伸,則天下浸以微。所以成否泰,在大者小者相與往來之間而已。小者往而後大者來,猶遏惡而揚善也。在天而為盈虛消息,在人而為興衰治亂,不離一氣陶運之間而已。

『泰』卦は下体が乾、上体が坤。卦辞に言う、「泰、小往き大來る、吉亨」と。『彖伝』に言う、「泰、小往き大來る、吉亨は、則ち天地交わりて万物通ずるなり、上下交わりて其の志同じきなり。内陽にして外陰、内健にして外順、内君子にして外小人、君子の道長(の)び、小人の道消ゆるなり」と。往く者は屈なり、來る者は伸なり。大なる者來りて伸ぶれば、則ち天下浸(ひた)し以て昌(さか)ゆ。小なる者來りて伸ぶれば、則ち天下浸し以て微(すぼ)む。否泰を成す所以は、大者小者相与に往来するの間に在るのみ。小者往きて後大者來るは、猶ほ悪を遏(とど)めて善を揚ぐるが如し。天に在りては盈虚消息と為り、人に在りては興衰治乱と為る。一気の陶運の間を離れざるのみ。

故言天地交,又言上下交。上下交,以人事言也。天地交而其氣通,然後萬物通焉;上下交而其志同,然後天下之志同焉。於天地不言其氣而直曰萬物,同於上下止言其志不曰天下同,斯以天之所交者氣也,言天地交則其氣以通矣,是以不言其氣,言萬物也。

故に天地交わるを言い、又上下交わるを言う。上下交わるは、人事を以て言うなり。天地交わりて其の気通じ、然る後に万物通ず。上下交わりて其の志同じく、然る後に天下の志同じ。天地に於て其の気を言わずして直ちに万物と曰い、上下に於て止まりて其の志を言いて天下同と曰わざるは、斯に天の交わる所は気なればなり。天地交わるを言えば則ち其の気以て通ぜり。是の以て其の気を言わず、万物を言うなり。

至於人,則有其體雖交而志不利者,若所謂友而不心是也。志不同而求天下之同,蓋不可得;志同則天下同可知矣,是以言其志而不言天下也。內陽而外陰,言萬物所以通;內健而外順,言志之所以同也。蓋內陽以化育於下,外陰以生滋於上,則萬物成,故知內陽而外陰,言萬物之所以通也。內健然後能用君子,不如是則浩然有歸志,豈能奪其志與同哉?故知內健而外順,言其志之所以同也。

人に至りては、則ち其の体交わると雖も而して志利(よ)ろしからざる者有り。所謂友にして心ならざる是れの若し。志同じからずして天下の同じきを求むるは、蓋し得べからず。志同じければ則ち天下同じき知るべし。是の以て其の志を言いて天下を言わざるなり。内陽にして外陰は、万物の通ずる所以を言う。内健にして外順は、志の同じき所以を言うなり。蓋し内陽は以て下に化育し、外陰は以て上に生滋せば、則ち万物成る。故に内陽にして外陰、万物の通ずる所以を言うを知るなり。内健にして然る後に能く君子を用う。此くの如くならざれば則ち浩然として帰るの志有り。豈に能く其の志を奪いて同じからしめんや。故に内健にして外順、其の志の同じき所以を言うを知るなり。

內健而外順,則君子內矣;君子內則小人外,故先言內君子而後言外小人。舜選於眾,舉皋陶而後不仁者遠,此內君子而外小人之序也。內君子故君子道長,外小人故小人道消。長如草木之長,不見其益而乆之則大矣;消如氷雪之消,不見其損,少頃則亡矣,此聖人所以慎微也。

内健にして外順なれば、則ち君子内なり。君子内なれば則ち小人外なり。故に先ず内君子を言いて然る後に外小人を言う。舜衆に選び、皐陶を挙げて然る後に不仁の者遠ざかる。此れ内君子にして外小人の序なり。内君子なるが故に君子の道長び、外小人なるが故に小人の道消ゆ。長ぶるは草木の長ぶるが如く、其の益するを見ずして久しくすれば則ち大なり。消ゆるは氷雪の消ゆるが如く、其の損するを見ず、少頃(しばら)くして則ち亡ぶ。此れ聖人の微を慎む所以なり。

象曰:天地交,泰,后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。天地之道不必寒暑之運也,凢為盈虛於一體之中者,即天地之道也;天地之宜不必百物之成也,凢為儀則於一性之內者,即天地之宜也。凢為盈虛於一體之中者,聖人裁成之,不使其過,所以不乖其委和;凢為儀則於一性之內者,聖人輔相之,所以不悖乎其委順,此後所以左右民之功也。

『象』に曰く、天地交わる、泰、后(きみ)財成(さいせい)して天地の道、輔相(ほそう)して天地の宜なり、以て民を左右すと。天地の道は必ずしも寒暑の運ならず。凡そ一体の中に盈虚を為す者は、即ち天地の道なり。天地の宜は必ずしも百物の成ならず。凡そ一性の内に儀則を為す者は、即ち天地の宜なり。凡そ一体の中に盈虚を為す者は、聖人之を裁成して其の過ぐるを使わざる、其の和を委(ゆだ)ぬるに乖(そむ)かざる所以なり。凡そ一性の内に儀則を為す者は、聖人之を輔相し、其の順を委ぬるに悖(もと)らざる所以なり。此れ后の民を左右するの功なり。

夫民受氣於天地之中,則或偏於左而毗陽,或偏於右而毗陰,後左右之,使由中而已。於泰言此何也?泰者,眾賢進之時也,眾賢進乃左右民。舜曰:予欲左右民汝翼。然則為股肱以左右民者,眾賢而已耳。

夫れ民は天地の中に気を受くれば、則ち或いは左に偏して陽に毗(たす)け、或いは右に偏して陰に毗く。后之を左右す、中に由(よ)らしむるのみ。泰に於て此れを言うは何ぞや。泰とは、衆賢進むの時なり。衆賢進みて乃ち民を左右す。舜に曰く、予民を左右せんことを欲す、汝翼(たす)けよと。然らば則ち股肱を為して以て民を左右する者は、衆賢のみ。

初九:?茅茹,以其彚,征吉。象曰:?茅征吉,志在外也。初九,以其時則小往大來,以其君則內健外順,此君子所以引類而進也。茅之為物可用事神,?之則以其茹舉,君子以類進之象也。君子以類進,則協眾力以御神器,合眾智以經國體,而天下安乎泰矣。

初九の爻辞に言う、「茅(かや)を抜(ぬ)くに茹(ね)を以てし、其の彙(るい、類)を以てす、征けば吉」と。『小象伝』に言う、「茅を抜きて征けば吉は、志外に在るなり」と。初九は、其の時を以てすれば則ち小往き大來り、其の君を以てすれば則ち内健外順。此れ君子の類を引きて進む所以なり。茅の物たるや、以て神に事(つか)う可し。之を抜けば則ち其の茹を以て挙がる、君子類を以て進むの象なり。君子類を以て進めば、則ち衆力を協(あわ)せて以て神器を御し、衆智を合わせて以て国体を経(おさ)め、而して天下泰に安んず。

九二:包荒,用馮河,不遐遺,朋亡,得尚于中行。象曰:包荒,得尚于中行,以光大也。荒者,行不治者也;蒙者,才不明者也。治蒙之所先者行,而不責才,故曰包蒙。何則?跅之士,聖人猶將御之以為用故也。夫事君以身,不若事君以人;然天下之人,行治而才中者豈易得哉?行不治而荒者包之而不遺,才不中而馮河者用之而不舎,則行治而才中斯烝然來矣。

九二の爻辞に言う、「荒(あ)れたるを包み、河を馮(と)ふるを用い、遐(とお)きを遺(す)てず、朋亡(な)く、中行に尚(あ)うを得る」と。『小象伝』に言う、「荒れたるを包み中行に尚うを得るは、以て光大なり」と。荒とは、行い治めざる者なり。蒙とは、才明らかならざる者なり。蒙を治むるの先とする所は行にして才を責めず。故曰く包蒙と。何ぞや。跅(せき、不覊)の士、聖人も猶ほ之を御して以て用と為さんとすればなり。夫れ身を以て君に事うるは、人を以て君に事うるに如かず。然れども天下の人、行い治まりて才中なる者は豈に得易けんや。行い治まらずして荒れたる者は之を包みて遺てず、才中ならずして河を馮ふる者は之を用いて舎てざれば、則ち行い治まりて才中なるは斯に烝(あつ)まりて來る。

包荒用馮河,而又不遺逺、不眤邇,此所以得尚于中行之君也。孔子得顏淵而門人益親,為天下者亦必得人如顏淵者為之和集君子而附之,然後天下可為也,其人則九二是也。未仕則欲彚征,故於初九言之;已仕則欲朋亡,故於九二言之。

荒れたるを包み河を馮ふるを用い、而又遠きを遺てず迩(ちか)きを暱(な)れず、此れ中行の君に尚うを得る所以なり。孔子顔淵を得て門人益々親しむ。天下を為す者も亦た必ず顔淵の如き人を得て之が為に君子を和集して之に附(つ)かしめ、然る後に天下為す可し。其の人は則ち九二是れなり。未だ仕えざれば則ち彙の征くを欲す、故に初九に於て之を言う。已に仕えれば則ち朋の亡くせんを欲す、故に九二に於て之を言う。

九三:無平不陂,無徃不復,艱貞無咎,勿恤其孚,于食有福。象曰:無徃不復,天地際也。上下交而其志同,則厥孚亦交矣。今平者將陂、往者將復,則或有異志而孚不足之時也。然君子為可信而已,豈求人之必信也哉?故曰勿恤其孚,則不枉已以顧望同其上矣,是乃所以孚而于食有福也。

九三の爻辞に言う、「平にして陂(かたむ)かざる无く、往きて復らざる无し、艱(かた)く貞にして咎无し、其の孚を恤(うれ)う勿(なか)れ、食に於て福有り」と。『小象伝』に言う、「往きて復らざる无しは、天地の際(きわ)なり」と。上下交わりて其の志同じければ、則ち厥(そ)の孚も亦た交わるなり。今平なる者は将に陂かんとし、往く者は将に復らんとすれば、則ち或いは志を異にして孚足らざるの時なり。然れども君子は信ずべきを為すのみ、豈に人の必ず信ぜんを求めんや。故曰く其の孚を恤う勿れと。則ち己を枉(ま)げて以て其の上に顧望同じからざるなり。是れ乃ち孚を為す所以にして食に於て福有るなり。

六四:翩翩不富以其鄰,不戒以孚。象曰:翩翩不富,皆失實也;不戒以孚,中心願也。君子所以去之而飛者,以君不能下之而已;苟為下之,則亦赴之惟恐其不疾、從之惟恐其不先矣。詩曰:翩翩者騅,烝然來思。蓋翩翩不富以其鄰之謂也。

六四の爻辞に言う、「翩翩(へんぺん)として富まず其の鄰を以てす、誡めずして孚を以てす」と。『小象伝』に言う、「翩翩として富まざるは、皆実を失うなり。誡めずして孚を以てすは、中心の願いなり」と。君子の之を去りて飛ぶ所以の者は、君能く之を下(げ)せざるを以てのみ。苟も之を下せば、則ち亦た之に赴くに其の疾(と)からざるを惟恐(おそ)れ、之に従うに其の先んぜざるを惟恐る。『詩』に曰く、翩翩たるは騅(すい)なり、烝然として來り思(おも)うと。蓋し翩翩として富まず其の鄰を以てすの謂なり。

翩翩不富以其鄰,猶所謂彚征也。未在位也,故言彚;已在位也,故言鄰,在位而言鄰,謂臣鄰也。動而之外也,故言徵;動而趨於下,故言翩翩,亦各有所當也。陰道常乏,陽道常健,故陰得陽而後實;三陰在上,皆失實者也,皆失實則其求陽也,不戒而孚矣。

翩翩として富まず其の鄰を以てすは、猶ほ所謂彙征の若し。未だ位に在らざるなり、故に彙と言う。已に位に在るなり、故に鄰と言う。位に在りて鄰と言うは、臣鄰を謂うなり。動きて之(こ)に外すれば、故に征と言う。動きて下に趨(か)れば、故に翩翩と言う。亦た各々当たる所有り。陰道は常に乏(とぼ)しく、陽道は常に健なり。故に陰は陽を得て然る後に実(みち)る。三陰上に在り、皆実を失う者なり。皆実を失えば則ち其の陽を求むるや、誡めずして孚なり。

六五:帝乙歸妹,以祉元吉。象曰:以祉元吉,中以行願也。帝乙歸妹,言至尊以柔接下也。夫天下安平而至於泰,則非禍難之可虞也,非患賢才之不足也,又非其微弱而不能自振也,乃能屈其至尊以至柔接下,則亦中以行願而已,冝其元吉也。

六五の爻辞に言う、「帝乙妹を帰(とつ)がす、祉(さいわい)を以て元吉」と。『小象伝』に言う、「祉を以て元吉は、中以て願いを行うなり」と。帝乙妹を帰がすは、至尊にして柔を以て下に接するを言う。夫れ天下安平にして泰に至れば、則ち禍難の虞(おそ)るべきに非ず、賢才の足らざるを患うるに非ず、又其れ微弱にして能く自ら振(おこ)わざるに非ず。乃ち能く其の至尊を屈(かが)めて至柔を以て下に接すれば、則ち亦た中以て願いを行うのみ。其の元吉宜しきなり。

上六:城復于隍,勿用師,自邑告命,貞吝。象曰:城復于隍,其命亂也。否之時,上下不交而天下旡邦;天下旡,則旡以為藩翰屏蔽者矣,城復于隍之象也。城復于隍,則眾不為用,故勿用師;如是則小者擅命矣,故曰自邑告命,貞吝。

上六の爻辞に言う、「城隍(かう、乾濠)に復(かえ)る、師を用うる勿れ、邑自り命を告ぐ、貞吝」と。『小象伝』に言う、「城隍に復るは、其の命乱るるなり」と。否の時は、上下交わらずして天下邦无し。天下无ければ、則ち藩翰屏蔽を為す所以无きなり。城隍に復るの象なり。城隍に復れば、則ち衆為(め)に用いられず。故に師を用うる勿れ。此くの如くすれば則ち小者命を擅(ほしいまま)にす。故曰く、邑自り命を告ぐ、貞吝なりと。

否卦(坤下乾上)

坤下乾上。否之匪人,不利君子貞,大往小來。曰:否之匪人,不利君子貞,大往小來,則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下旡也;內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子,小人道長,君子道消也。經曰:天地變化,草木蕃;天地閉,賢人隱。然則賢人之見,猶草木之盛衰,隨流於天地而已。由是觀之,天下之否,賢人何預焉?天實為之耳,故曰否之匪人也。

『否』卦は下体が坤、上体が乾。卦辞に言う、「否の人に匪(あら)ざるは、君子の貞に利あらず、大往き小來る」と。『彖伝』に言う、「否の人に匪ざるは、君子の貞に利あらず、大往き小來るは、則ち天地交わらずして万物通ぜざるなり、上下交わらずして天下邦无きなり。内陰にして外陽、内柔にして外剛、内小人にして外君子、小人の道長び、君子の道消ゆるなり」と。経に曰く、天地変化して草木蕃(しげ)り、天地閉(と)ざれば賢人隠ると。然らば則ち賢人の見るや、猶ほ草木の盛衰の如く、天地に随流するのみ。是より之を観れば、天下の否は賢人何の預(あずか)るか有らん。天実に之を為すのみ。故曰く、否の人に匪ざるなりと。

夫文明以健、中正而應者,君子之貞也。方否之時,小人道長,且欲文明乎,則私邪者惡焉;且欲中正乎,則私邪者疾焉,是以不利君子貞也。維不利君子貞,故大者不容而徃,小者馴致而來。其曰天下無邦者,言其無邦而可為用,猶所謂城復于隍也。

夫れ文明にして健、中正にして応ずる者は、君子の貞なり。方(まさ)に否の時、小人の道長び、且つ文明せんと欲すれば、則ち私邪の者之を悪(にく)まん。且つ中正せんと欲すれば、則ち私邪の者之を疾(や)まん。是の以て君子の貞に利あらざるなり。惟れ君子の貞に利あらざるが故に、大者容れられずして往き、小者馴致して來る。其の天下邦无しと曰う者は、其の邦无くして用と為すべきを言う。猶ほ所謂城隍に復るが如し。

內陰而本衰矣,外陽而末大矣,本衰而末大,此物之所以僵且斃也。內柔則其於用人亦不我力矣,外剛則其於接人視我邁邁矣。如是則小人內而君子外,是以小人道長而君子道消也。象曰:天地不交,否,君子以儉徳避難,不可榮以祿。天地閉則賢人亦隱焉,故嗇其智慮,秘其聰明,不欲泛應而博用也,期於避難而已。夫忠信重祿之時,則榮以祿,所以昭吾之忠信也,又何嫌焉?乃若貪汙取富,則榮以祿非義榮也,是以君子惡之也。

内陰にして本衰え、外陽にして末大なり。本衰えて末大なれば、此れ物の僵(たお)れ且つ斃(たお)るる所以なり。内柔なれば則ち其れ人を用うるに於て亦た我力(つと)めず、外剛なれば則ち其れ人に接するに於て我を視る迈々(まいまい、矜りて顧みざるさま)なり。此くの如くすれば則ち小人内にして君子外なり。是の以て小人の道長びて君子の道消ゆるなり。『象』に曰く、天地交わらず、否、君子徳を倹(つま)しくして以て難を避け、禄を以て栄(さかえ)るべからざるなりと。天地閉ざれば則ち賢人も亦た隠る。故に其の智慮を嗇(と)め、其の聡明を秘め、泛(ひろ)く応じ博く用うるを欲せず、難を避くるに期するのみ。夫れ忠信禄を重んずるの時は、則ち禄を以て栄える、吾が忠信を昭(あき)らかにする所以なり。又何の嫌か有らん。乃ち貪汚にして富を取るの若きは、則ち禄を以て栄えるは義の栄に非ず。是の以て君子之を悪むなり。

初六:?茅茹,以其彚,貞吉亨。象曰:?茅貞吉,志在君也。初六者,賢人退處之時,乃曰?茅茹,何也?庸君之於賢,非不欲引之,引之非我力而已;賢者亦非不欲以類進,惡不由其道而已。惟其如此,故賢者以其類而守正也,吉亨不亦宜乎?泰之時君子內矣,君子雖在內而志在天下,故曰志在外也;否之時君子外矣,君子雖在外而志乎朝,故曰志在君也。

初六の爻辞に言う、「茅を抜くに茹を以てし、其の彙を以てす、貞吉亨」と。『小象伝』に言う、「茅を抜きて貞吉は、志君に在るなり」と。初六とは、賢人退き処るの時なり。乃ち茅を抜くに茹を以てすと曰うは何ぞや。庸君の賢に於けるや、之を引かんと欲せざるに非ず、之を引くは我力に非ざるのみ。賢者も亦た類を以て進まんと欲せざるに非ず、其の道に由(よ)らざるを悪むのみ。惟れ其れ此くの如し。故に賢者其の類を以て正を守るなり。吉亨亦た宜しきならずや。泰の時は君子内なり。君子内に在ると雖も而して志天下に在り。故曰く志外に在るなりと。否の時は君子外なり。君子外に在ると雖も而して志朝(ちょう)に在り。故曰く志君に在るなりと。

六二:包承,小人吉,大人否亨。象曰:大人否亨,不亂群也。小人之在下也,君子不得遯,則包之斯可矣;小人之在上也,君子未能決,則承之斯可矣。雖然,此不免乎亂群也。乃若大人,則足以格君心之非而否亨焉,以其上應休否之君,足以有為故也。

六二の爻辞に言う、「包み承(う)く、小人吉、大人否(と)ざされて亨」と。『小象伝』に言う、「大人否ざされて亨は、群を乱さざるなり」と。小人の下に在るや、君子遯(のが)るるを得ざれば、則ち之を包む斯に可なり。小人の上に在るや、君子未だ決する能わざれば、則ち之を承く斯に可なり。然りと雖も、此れ群を乱るるを免(まぬか)れざるなり。乃ち大人の若きは、則ち以て君心の非を格(ただ)して否ざされて亨するに足る。其の否を休むるの君に上応じて、以て為す有るに足るを以てなり。

六三:包羞。象曰:包羞,位不當也。泰至於九三,則將復於否矣;否至於六三,則將復於泰矣。方天地之閉,則君子自可也;今將復於泰矣,而猶包焉,是可羞也。羞則不特無譽,且有毀之者至矣。

六三の爻辞に言う、「羞(は)づるを包む」と。『小象伝』に言う、「羞づるを包むは、位当たらざるなり」と。泰九三に至れば、則ち将に否に復らんとす。否六三に至れば、則ち将に泰に復らんとす。方に天地の閉閉ざる、則ち君子自ら可なり。今将に泰に復らんとし、而して猶ほ之を包めば、是れ羞づべきなり。羞づれば則ち特に誉无きのみならず、且つ之を毀(そし)る者至らん。

九四:有命無咎,疇離祉。象曰:有命無咎,志行也。九四才有餘而位近君,可以行其志之時也。然否之時,小者常擅命矣;五方休否,則不可以無命而行,無命而行則是小者復擅命如否之時矣。以此比乎休否之君,則其身之不免,況有祉以及疇乎?故有命然後無咎,無咎然後疇離祉也。

九四の爻辞に言う、「命有りて咎无し、疇(ともがら)祉に離(かか)る」と。『小象伝』に言う、「命有りて咎无きは、志行わるるなり」と。九四は才有余にして位君に近し、以て其の志を行う可きの時なり。然れども否の時は、小者常に命を擅(ほしいまま)にす。五方に否を休むれば、則ち以て命无くして行うべからず。命无くして行えば則ち是れ小者復た命を擅にして否の時の如し。此を以て否を休むるの君に比せば、則ち其の身の免れざる、況んや祉有りて以て疇に及ぼさんや。故に命有りて然る後に咎无く、咎无く然る後に疇祉に離るなり。

九五:休否,大人吉,其亡其亡,繋于苞桑。象曰:大人之吉,位正當也。休如休王之休,休否則復王而為泰矣。非以其道御者也,孰能使人之休王繫乎我哉?故曰休否,大人吉。雖然,休王之理相為倚伏,豈可遇其存以為亡哉?惟不忘亡乃所以存而不亡,故曰其亡其亡,繫于苞桑。象曰位正當也,以謂雖有大人之才,非得大中至正之位,則亦不能有為而休否矣。

九五の爻辞に言う、「否を休(や)む、大人吉、其れ亡びなん其れ亡びなん、苞桑(ほうそう、叢生の桑)に繫(かか)る」と。『小象伝』に言う、「大人の吉は、位正当なり」と。休は休王(きゅうおう、気運の旺んなる)の休の如し。否休めば則ち復た王して泰と為らん。其の道を以て御する者に非ざれば、孰(たれ)か能く人の王を休めて我に繫げしめんや。故曰く、否を休む、大人吉なりと。然りと雖も、休王の理は相倚伏(いふく)す。豈に其の存に遇うて以て亡びざらんと為さんや。惟れ亡びを忘れざれば乃ち存して亡びざる所以なり。故曰く、其れ亡びなん其れ亡びなん、苞桑に繫ると。『象』に曰く位正当なり、以て大人の才有ると雖も、大中至正の位を得ざれば、則ち亦た能く為す有りて否を休むる能わざるを謂うなり。

上九:傾否,先否後喜。象曰:否終則傾,何可長也。滿而必傾者,物之理也。夫否匪,則其傾亦匪人也,君子宜旡憂喜於其間矣。然旡否則君子不與執御同其憂,至其傾也,則與天下共喜焉,與先號咷而後笑異矣。

上九の爻辞に言う、「否を傾(かたむ)く、先ず否して後に喜ぶ」と。『小象伝』に言う、「否終れば則ち傾く、何ぞ長からんや」と。満ちて必ず傾くは、物の理なり。夫れ否は人に匪ざれば、則ち其の傾くも亦た人に匪ざるなり。君子宜しく其の間に於て憂喜无きべし。然れども否ざれざれば則ち君子御を執ると其の憂を同じくせず、其の傾くに至りては、則ち天下と喜びを共にす。先ず号咷して後に笑うと異なり。

周易新講義 巻第三

同人卦(離下乾上)

離下乾上。同人于野,亨,利渉大川,利君子貞。曰:同人,柔得位得中而應乎乾,曰同人。同人曰:同人于野,亨,利渉大川,乾行也。文明以健,中正而應,君子正也,唯君子為能通天下之志。得位而不尊,得中而不大,且應乎乾而非上下應之也,則同人而已。

『同人』卦は下体が離、上体が乾。卦辞に言う、「野に人と同ず、亨、大川を渉るに利し、君子の貞に利し」と。『彖伝』に言う、「同人は、柔位を得中を得て乾に応ず、同人と曰う。同人に曰く、野に人と同ず、亨、大川を渉るに利しは、乾の行なり。文明にして健、中正にして応ずるは、君子の正なり。惟れ君子を以て能く天下の志を通ず」と。位を得て尊ならず、中を得て大ならず、且つ乾に応ずるも上下之に応ずるに非ず。則ち同人のみ。

雖然,不得位則是無獻子之家者也,不得中則是無顏般之徳也,又好違而不應,則雖欲同乎人得乎哉?是以得位得中而應乎乾,然後為同人也。傳曰:自其同而視之者,萬物皆一也。知萬物之為一,則吾誰與為親哉?無不見之斯可矣,故曰同人于野亨。野則無適也,無莫也,廣廣乎無不備也。詩曰:渒彼涇舟,烝徒楫之。言渉險之待眾也。同人于野則眾無不同,於是乎可以渉險,故曰利渉大川。

然りと雖も、位を得ざれば則ち是れ献子(けんし)の家无き者なり、中を得ざれば則ち是れ顔般(がんぱん)の徳无きなり。又違うを好みて応ぜざれば、則ち人に同じからんと欲すと雖も得んや。是の以て位を得中を得て乾に応じて、然る後に同人と為るなり。伝に曰く、其の同なるより之を視れば、万物皆一なりと。万物の一たるを知れば、則ち吾誰と親しむを為さんや。之を見る无き斯に可なり。故曰く、野に人と同じて亨なりと。野は則ち適(かたよ)り无く、慕(した)う无く、広々として備わらざる无し。『詩』に曰く、渒(べい)たる彼の涇(けい)の舟、烝徒之を楫(か)すと。険を渉るの衆を待つを言うなり。野に人と同ずれば則ち衆同じからざる无し。是に於て以て険を渉る可し。故曰く、大川を渉るに利しと。

夫同人于野,則大小不間於異體;利渉大川,則南北不患乎異心。是謂不同同之,不同同之則大矣,故言同人曰以別之,言所謂同人者義盡於此矣。乃若文明以健、中正而應,則君子而已。蓋文明者,禮也,燦然與物接者也,健則能違焉;中正者,徳也,介然與物辨者也,應則能從焉。與物接而能違焉,與物辨而能從焉,此君子之所以不可得而踈,又不可得而親。然有違有從,則與夫同人于野而小大不間於異體、利渉大川而南北不患乎異心者,固有間矣。

夫れ野に人と同ずれば、則ち大小異体を以て間(へだ)たらず。大川を渉るに利すれば、則ち南北異心を患えず。是れ同じからざるを同じくすを謂う。同じからざるを同じくすれば則ち大なり。故に同人に曰うを言いて以て之を別(わか)つ。所謂同人とは義此れに尽くるを言うなり。乃ち文明にして健、中正にして応ずるの若きは、則ち君子のみ。蓋し文明とは礼なり、燦然として物に接する者なり、健なれば則ち能く違わん。中正とは徳なり、介然として物に辨ずる者なり、応ずれば則ち能く従わん。物に接して能く違い、物に辨じて能く従う。此れ君子の踈(うと)むべからざるを得ず、又親しむべからざるを得ざる所以なり。然れども違い有り従い有れば、則ち夫の野に人と同じて大小異体を以て間たらず、大川を渉るに利して南北異心を患えざる者と、固より間有り。

然違而知從,從而知違,同於道而已,是乃所以通天下之志也。詩曰:既見君子,我心冩兮。非能通天下之志,何能一見而冩人之心哉?象曰:天與火,同人,君子以類族辯物。天道上行而火炎上,所以為同人。天道徧覆,於族旡分也,於物無擇也;火性明察,君子於是以類族辨物也。族之不類、物之不辯,皆比而同之,則何異乎墨子之尚同哉?亦不能與同矣。

然れども違いて従うを知り、従いて違うを知るは、道に同じくするのみ。是れ乃ち天下の志を通ずる所以なり。『詩』に曰く、既に君子を見る、我心冩(すさ)び兮(せん)と。能く天下の志を通ずるに非ざれば、何ぞ能く一見して人の心を冩ばしめんや。『象』に曰く、天と火、同人、君子以て族を類じ物を辨ずと。天道は上行し火は炎上す、同人を為す所以なり。天道は徧(あまね)く覆う、族に於て分无く、物に於て択(えら)び无し。火性は明察なり。君子是に於て以て族を類じ物を辨ず。族の類せず、物の辨ぜず、皆比して之を同じくせば、則ち何ぞ墨子の尚同に異ならんや。亦た与に同ずる能わざるなり。

初九:同人于門,無咎。象曰:出門同人,又誰咎也。大有、大畜則人應乎我,同人則我應人。人應乎我,則雖不出戶而戶外之已滿矣;我應乎人,則欲不出可乎?故初九同人于門,然後無咎也。六二:同人于宗,吝。象曰:同人于宗,吝道也。宗者,所以類族者也。象言類族,則使萬物百族各類於宗,所以群天下之物則然也;乃若所以處已,則人苟有合志同方、營道同術者,皆可與同人矣,又奚擇其宗哉?此同人于宗所以為吝也。

初九の爻辞に言う、「門に人と同ず、咎无し」と。『小象伝』に言う、「門を出でて人と同ずれば、又誰か咎めんや」と。大有、大畜は則ち人我に応ず、同人は則ち我人に応ず。人我に応ずれば、則ち戸を出でざると雖も戸外之已に満てり。我人に応ずれば、則ち出でざらんと欲す可けんや。故に初九門に人と同じて、然る後に咎无きなり。六二の爻辞に言う、「宗に人と同ず、吝」と。『小象伝』に言う、「宗に人と同ずは、吝の道なり」と。宗とは、族を類する所以なり。『象』に族を類ずと言えば、則ち万物百族をして各々宗に類せしめ、天下の物を群する所以則ち然り。乃ち己を処る所以の若きは、則ち人苟も合志同方、営道同術有らば、皆与に同人と為す可し。又奚ぞ其の宗を択ばんや。此れ宗に人と同ずるの吝を為す所以なり。

九三:伏戎于莽,升其高陵,三歳不興。象曰:伏戎于莽,敵剛也;三歳不興,安行也。火形銳上而性炎上,九三實體之,故有伏戎于莽與升高陵之象焉。然三軍可奪帥也,匹夫不可奪志也。六二雖匹夫,有其志不奪;九三雖伏戎,而帥可奪。如是則不敵逺矣,是以伏戎于莽,不敢直鼓而前也。伏戎于莽,知其不可而不得不伏也;升其高陵,俟其小而或可升也。惟義之不勝,是以三歲不興焉。

九三の爻辞に言う、「戎(つわもの)を莽(くさ)に伏せ、其の高陵に升る、三歳興(おこ)らず」と。『小象伝』に言う、「戎を莽に伏すは、剛に敵するなり。三歳興らずは、安んじて行うなり」と。火形は上に鋭くして性炎上す。九三実に之を体す。故に戎を莽に伏せると高陵に升るの象有り。然れども三軍は帥を奪う可く、匹夫は志を奪うべからず。六二匹夫なりと雖も、其の志有りて奪われず。九三伏戎すと雖も、而して帥奪う可し。此くの如くすれば則ち敵せざる遠し。是の以て戎を莽に伏せ、敢えて直ちに鼓して前(すす)まざるなり。戎を莽に伏すは、其の可ならざるを知りて伏せざるを得ざるなり。其の高陵に升るは、其の小さくならんを俟ちて或いは升る可きなり。惟れ義の勝たざるを以て、是の以て三歳興らざるなり。

九四:乘其墉,弗克攻,吉。象曰:乘其墉,義弗克也;其吉則困而反則也。九四之反則,非特以處柔平而已,亦其犯義之未甚,而其?得反之也。蓋乘其墉,其亢不至於升高陵,且又無伏戎之事,故得反則也。彼九三之為不義,至於伏戎于莾、升其高陵,則雖欲自反無由矣。

九四の爻辞に言う、「其の墉(よう、城壁)に乗ず、攻に克たず、吉」と。『小象伝』に言う、「其の墉に乗ずは、義克たざるなり。其の吉は則ち困して則に反るなり」と。九四の則に反るは、特に柔平に処るを以てのみならず、亦た其の義を犯すの未だ甚だしからざる、而して其の則に反るを得るなり。蓋し其の墉に乗ずれば、其の亢(たかぶ)る高陵に升るに至らず、且つ又伏戎の事无し。故に則に反るを得るなり。彼の九三の不義たる、戎を莽に伏せ其の高陵に升るに至れば、則ち自ら反らんと欲すと雖も由(よ)る无きなり。

九五:同人,先號咷而後笑,大師克相遇。象曰:同人之先,以中直也;大師相遇,言相剋也。二之與四合並其?以攻五,所以為大。傳曰:同與相愛,同取相疾;同病相愛,同壯相疾;同道相愛,同藝相疾。二之與四皆欲爭五,可謂同取相疾;一則升高陵,一則乘其墉,可謂同壯相疾矣。而二之與五乃以中直相與,則是同道,同道則相愛者也。彼以同壯麗之焉,日相離疾;此以同道損之焉,日相親愛,則大師有克五之勢而可憂,然以義克之而後笑矣。

九五の爻辞に言う、「同人、先ず号咷(ごうとう)して後に笑う、大師克(か)ちて相遇う」と。『小象伝』に言う、「同人の先んずるは、中直を以てなり。大師相遇うは、相克うを言うなり」と。二と四と并せて其の凶を合わせて以て五を攻む、大と為す所以なり。伝に曰く、同じく与えば相爱し、同じく取れば相疾(や)み、同じく病めば相爱し、同じく壮なれば相疾み、同じく道なれば相爱し、同じく芸(わざ)なれば相疾むと。二と四と皆五を争わんと欲す、同取相疾と謂う可し。一は則ち高陵に升り、一は則ち其の墉に乗ず、同壮相疾と謂う可し。而して二と五とは乃ち中直を以て相与すれば、則ち是れ同道、同道なれば則ち相爱する者なり。彼は同壮を以て之を麗(つ)けば、日に相離疾す。此は同道を以て之を損ぜば、日に相親愛す。則ち大師五を克つの勢い有りて憂う可しと雖も、然れども義を以て之を克ちて後に笑うなり。

上九:同人于郊,無悔。象曰:同人于郊,志未得也。通天下之志,乃同人之志也;今獨遠於有事之地,所以為志未得。然與夫求其志至於奔營憊而弗克而反者,尚得為無悔乎?

上九の爻辞に言う、「郊に人と同ず、悔い无し」と。『小象伝』に言う、「郊に人と同ずるは、志未だ得ざるなり」と。天下の志を通ずるは、乃ち同人の志なり。今独り事有るの地に遠し、志未だ得ざるを為す所以なり。然れども夫の其の志を求めて奔営(ほんえい)憊(つか)れて克たずして反るに至る者と、尚ほ悔い无きと為るを得んや。

大有卦(乾下離上)

乾下離上。大有:元亨。象曰:大有,柔得尊位大中,而上下應之,曰大有。其徳剛健而文明,應乎天而時行,是以元亨。天下大器也,不可以小道治,小力持也,必有大人相與輔相之,然後能勿失也,故天下貴其有大焉。畜則宜以剛,有則宜以柔;得尊位大中而上下應之,所以為大有。

『大有』卦は下体が乾、上体が離。卦辞に言う、「大有、元亨」と。『彖伝』に言う、「大有は、柔尊位大中を得て、而して上下之に応ず、大有と曰う。其の徳剛健にして文明、天に応じて時行す、是の以て元亨なり」と。天下は大器なり。以て小道を以て治め、小力を以て持つ可からず。必ず大人有りて相与に之を輔相し、然る後に能く失わざるなり。故に天下其の大有るを貴ぶ。畜むは則ち宜しく剛を以てすべく、有るは宜しく柔を以てすべし。尊位大中を得て上下之に応ずる、大有を為す所以なり。

彼得尊位矣,而曰上下應之者,謂其為賓師者也。其徳剛健,則與執我仇讎、亦不我力者異矣;其徳文明,則與君臣上下動無禮文者異矣。聖人所以能有大,不過如是而已。謂之文明者,其文炳,則文之明者也;其文蔚,其文萃,則文之不明者也。然文至於成章則旡不明矣,故章為文章之章,又為章明之章也,易之稱文明可以類推矣。

彼尊位を得るや、而して上下之に応ずと曰う者は、其の賓師と為る者を謂うなり。其の徳剛健なれば、則ち我仇讐を執りて、亦た我力せざる者と異なり。其の徳文明なれば、則ち君臣上下動いて礼文无き者と異なり。聖人の能く大有る所以、過ごず此くの如くのみ。之を文明と謂う者は、其の文炳(へい)なれば、則ち文の明なる者なり。其の文蔚(い)なり、其の文萃(あつ)まれば、則ち文の明ならざる者なり。然れども文章と成るに至れば則ち明ならざる无し。故に章は文章の章と為り、又章明の章と為る。易の文明と称するは以て類推すべし。

其徳剛健而文明,固足以有大矣;有大而不能用,元亨亦不可得也。夫聖人所以有大,雖曰剛健而文明以致之,其實天以休命命之耳,夢帝賚予良弼是也。應天所以命之意而時行焉,則元亨矣。大畜所謂應乎天,與此同意。

其の徳剛健にして文明、固より以て大有るに足る。大有りて能く用いざれば、元亨も亦た得べからざるなり。夫れ聖人の大有る所以は、剛健にして文明を以て之を致すと曰うと雖も、其の実天の休命を以て之に命ずるのみ。帝良弼を賚(たま)わり予(よ)うを夢みる是れなり。天の命ずる所以の意に応じて時に行わば、則ち元亨なり。大畜の所謂天に応ずとは、此と意同じきなり。

象曰:火在天上,大有,君子以遏惡揚善,順天休命。火在天上,聖人高其目以視逺之象;高其目以視逺,則善惡見矣,其於遏惡揚善也何有?遏惡揚善,豈聖人作好惡於其間哉?順天休命而已。天之休命遏惡而揚善,人之大情好善而惡惡;順乎天之休命,則順乎人之大情也。

『象』に曰く、火天上に在り、大有、君子以て悪を遏(とど)め善を揚(あ)げ、天の休命に順うと。火天上に在りは、聖人其の目を高くして以て遠を視るの象なり。其の目を高くして以て遠を視れば、則ち善悪見ゆ。其れ悪を遏め善を揚ぐるに於て何ぞ有らん。悪を遏め善を揚ぐるは、豈に聖人其の間に好悪を作さんや。天の休命に順うのみ。天の休命は悪を遏めて善を揚げ、人の大情は善を好みて悪を悪む。天の休命に順えば、則ち人の大情に順うなり。

初九:無交害,匪咎,艱則無咎。象曰:大有初九,無交害也。內有可交之徳而無交焉,必外無可交之人也;外有可交之人而無交焉,必在已無可交之徳也。大有尚賢之世,非天下無可交之人,於是時而獨無交焉,則於可交之徳為有害矣。然而體乾之徳而非有咎也,故匪咎者,疑乎有咎,猶疑為冦而稱匪冦也。知難則至無咎矣。

初九の爻辞に言う、「交わる害无し、咎に匪(あら)ず、艱(かた)しとすれば則ち咎无し」と。『小象伝』に言う、「大有の初九、交わる害无きなり」と。内交わる可きの徳有りて交わる无きは、必ず外交わる可きの人无きなり。外交わる可きの人有りて交わる无きは、必ず己に在りて交わる可きの徳无きなり。大有は賢を尚ぶの世なり、天下交わる可きの人无きに非ず。是の時に於て独り交わる无ければ、則ち交わる可きの徳に於て害有るを為す。然れども乾の徳を体して咎有るに非ざるなり。故に咎に匪ずは、咎有るを疑う。猶ほ寇と疑いて匪寇と称するが如し。難しと知れば則ち咎无きに至るなり。

九二:大車以載,有攸往,無咎。象曰:大車以載,積中不敗也。車之為器,輪圓而輿方,轅縱而衡橫;備圓方縱橫之車而又大焉,則尤足以任重而致逺者也。君子仁圓而義方,且有縱橫之才智,任重而不覆,致遠而不敗,大車之象也。如是而上應六五之君,則有攸往又何咎哉?

九二の爻辞に言う、「大車を以て載す、往く所有り、咎无し」と。『小象伝』に言う、「大車を以て載すは、中に積みて敗(やぶ)れざるなり」と。車の器たるや、輪円にして輿方、轅(ながえ)縦にして衡横なり。円方縦横の車を備えて又大なれば、則ち尤も以て重きを任じて遠を致すに足る。君子仁円にして義方、且つ縦横の才智有り。重きを任じて覆(くつがえ)らず、遠を致して敗れず、大車の象なり。此くの如くして上六五の君に応ずれば、則ち往く所有りて又何の咎か有らん。

九三:公用亨于天子,小人弗克。象曰:公用亨于天子,小人害也。聖人之用小人,則貫魚以宮人寵,不使之升降自如也;用君子則使升降自如而不制焉,是之謂亨。若非處賓師之盛位,則無是也。公用亨于天子,亦以處盛位而已;乃若小人而使亨,則是遂其欲而無不為矣,故曰小人弗克也。

九三の爻辞に言う、「公用いて天子に亨(こう)す、小人克たず」と。『小象伝』に言う、「公用いて天子に亨す、小人は害なり」と。聖人の小人を用うるは、則ち魚を貫きて以て宮人を寵(ちょう)すが如く、之をして昇降自如ならしめざるなり。君子を用うれば則ち昇降自如にして制せず。是れを亨と謂う。賓師の盛位に処るに非ざれば、則ち是れ无し。公用いて天子に亨すは、亦た盛位に処るを以てのみ。乃ち小人の若きをして亨せしめば、則ち是れ其の欲を遂げて為さざる无きなり。故曰く、小人克たずなりと。

九四:匪其彭,無咎。象曰:匪其彭無咎,明辯晳也。九四處盛位則宜公而無私,故五等之爵尊者稱公。荀子曰:不下比以閉上,不上同以疾下,可謂公矣。以不下比為公,則九四不比乎下、亨于天子之臣,得以處盛位之宜矣,非其明辨晳不足以與此。

九四の爻辞に言う、「其の彭(はん、盛ん)に匪ざれ、咎无し」と。『小象伝』に言う、「其の彭に匪ざれ咎无きは、明く辨晢(べんせつ)なるなり」と。九四盛位に処れば則ち宜しく公にして私无きべし。故に五等の爵尊者は公と称す。荀子に曰く、下に比して以て上を閉(へい)せず、上に同じて以て下を疾(や)まず、公と謂う可しと。下に比せざるを以て公と為せば、則ち九四下に比せず、天子の臣に亨して、盛位に処るの宜を得るなり。其の明く辨晢に非ざれば以て此に与(あずか)るに足らざるなり。

六五:厥孚交如,威如吉。象曰:厥孚交如,信以發志也;威如之吉,易而無備也。誠者,合內外之道也,故曰厥孚交如。交如者,合內外之道也。誠信生神,神則不怒而威,故厥孚交如則威如隨之也。象言信以發志者,志之所潛深矣,明信以發志,則能以赤心置人腹中,是乃所以交如也。易而無備者,以謂道徳之威既暢於天下,則阻法度以為威無所事也。

六五の爻辞に言う、「厥(そ)の孚交如(こうじょ)たり、威如(いじょ)たりて吉」と。『小象伝』に言う、「厥の孚交如たりは、信以て志を発するなり。威如の吉は、易(やす)くして備无きなり」と。誠とは、内外を合わすの道なり。故曰く厥の孚交如たりと。交如とは、内外を合わすの道なり。誠信は神を生じ、神なれば則ち怒らずして威有り。故に厥の孚交如たれば則ち威如之に随う。象に信以て志を発すると言う者は、志の潜む所深し。明信を以て志を発すれば、則ち能く赤心を以て人の腹中に置く。是れ乃ち交如を為す所以なり。易くして備无きは、以て道徳の威既に天下に暢(の)びれば、則ち法度を阻(たの)んで以て威と為す事する所无きを謂うなり。

上九:自天佑之,吉無不利。象曰:大有上吉,自天佑也。信務以復其言,思順務以和其行,此則獨善其身,未足以致天佑也。信而於任賢不貮,思順而於從善如流,施信順於尚賢,如是則於天之休命不逆,是以自天佑之。夫聖人尚賢者,以道之所在故上之,非將以邀福於天也,自天佑之耳。

上九の爻辞に言う、「天自(よ)り之を祐(たす)く、吉利ならざる无し」と。『小象伝』に言う、「大有上に吉は、天自り之を祐くなり」と。信は務めて以て其の言に復り、順を思いて務めて以て其の行に和すは、此れ則ち独善其身、未だ以て天の祐を致すに足らざるなり。信にして任賢に於て貮(ふた)ごころならず、順を思いて従善に於て流るるが如く、信順を尚賢に施せば、此くの如くすれば則ち天の休命に於て逆らわず。是の以て天自り之を祐く。夫れ聖人の賢を尚ぶ者は、道の在る所以を以て之を上と為す、将に天に福を邀(むか)えんとするに非ず、天自り之を祐くるのみ。

謙卦(艮下坤上)

艮下坤上。謙:亨,君子有終。彖曰:謙亨,天道下濟而光明,地道卑而上行。天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙尊而光,卑而不可踰,君子之終也。柔有常勝之道也,及以馳騁天下之至堅,無往而不利,此謙之所以亨也。

『謙』卦は下体が艮、上体が坤。卦辞に言う、「謙、亨、君子終り有り」と。『彖伝』に言う、「謙亨は、天道下済(かさい)して光明、地道卑(ひく)くして上行す。天道盈(み)たるを損いて謙を益(ます)し、地道盈たるを変えて謙に流る。鬼神盈たるを害して謙を福し、人道盈たるを悪(にく)みて謙を好む。謙尊くして光、卑くして踰(こ)ゆべからず、君子の終りなり」と。柔は常に勝つの道有り、天下の至堅を以て馳騁(ちてい)し、往きて利あらざる无し。此れ謙の亨する所以なり。

夫天之有光,托於物而後見,故天下濟也,其道乃光;坤含萬物也,其化乃光。天道下濟而光明,則堯允恭而光被四表是也;地道卑而上行,則舜之溫恭而元徳升聞是也。夫沖而不盈、謙而不亢,道之體也。是道也,逹乎高深,通乎幽遠,無不在焉。故盈而不沖,天之所虧,地之所變,神害之而人亦惡焉;謙而不亢,則天之所益,地之所流,神福之而人亦好焉。天地之大、?神之幽,與夫人事之眾,莫不歸徳于謙,則謙之於天下旡不勝矣。

夫れ天の光有るは、物に托して然る後に見ゆ。故に天下済えば、其の道乃ち光なり。坤万物を含むや、其の化乃ち光なり。天道下済して光明は、則ち堯允恭(いんきょう)にして光四表に被(およ)ぶ是れなり。地道卑くして上行は、則ち舜の温恭にして元徳升り聞こゆ是れなり。夫れ冲(うつろ)にして盈ちず、謙にして亢(たかぶ)らざるは、道の体なり。是の道なり、高深に達し、幽遠に通じ、在らざる无し。故に盈ちて冲ならざれば、天の損く所、地の変ずる所、神之を害して人も亦た之を悪まん。謙にして亢ならざれば、則ち天の益す所、地の流るる所、神之を福して人も亦た之を好まん。天地の大、鬼神の幽、与(およ)び人事の衆、謙に徳を帰せざるは莫し。則ち謙の天下に於て勝たざる无きなり。

故施於尊則有光,施於卑則不可踰焉。二典於堯言克遜,於舜則不言,蓋天子之尊則遜足以稱,微則遜不足道也,故謙於尊言光、卑言不可踰而已,亦猶是也。有成位而不謙,其終必危;有天徳而不謙,其終必?。然則謙者,君子之所有終之道也。

故に尊に施せば則ち光有り、卑に施せば則ち踰ゆべからざるなり。二典は堯に於て克く遜(ゆず)るを言い、舜に於ては則ち言わず。蓋し天子の尊なれば則ち遜以て称するに足り、微なれば則ち遜道(い)うに足らざるなり。故に謙は尊に於て光を言い、卑に於て踰ゆべからずと言うのみ、亦た猶ほ是くの如し。成位有りて謙ならざれば、其の終り必ず危うし。天徳有りて謙ならざれば、其の終り必ず凶。然らば則ち謙とは、君子の終り有る所以の道なり。

象曰:地中有山,謙,君子以裒多益寡,稱物平施。經曰:徳言盛,禮言恭。內之篤實也如山,則徳盛矣;外之卑順也如地,則禮恭矣。徳盛禮恭,然後謙體具。蓋徳不盛則有狎侮之心,禮不恭則有驕亢之容,皆非所以為謙故也。

『象』に曰く、地中に山有り、謙、君子以て多きを裒(ほう)し寡きを益し、物を称(はか)りて施を平らかにすと。経に曰く、徳は盛を言い、礼は恭を言うと。内の篤実なるや山の如くあれば、則ち徳盛んなり。外の卑順なるや地の如くあれば、則ち礼恭なり。徳盛んにして礼恭、然る後に謙の体具(そな)わる。蓋し徳盛んならざれば則ち狎侮(こうぶ)の心有り、礼恭ならざれば則ち驕亢(きょうこう)の容有り。皆謙を為す所以に非ざるが故なり。

夫多者乆而益,寡者浸而亡,物之常理也。乃若用謙,則多者非徒不溢也,且可以裒焉;寡者非徒不亡也,且得以益焉。多寡雲者,時之與物、功之與能皆是也。雖然,謙之所施又不可以不稱也,物又不可以不平施。荀子曰:賢者就而敬之,不肖者踈而敬之,其敬一也,其情二也。其情二,所謂稱物;其敬一,所謂平施。

夫れ多き者は久しくして益し、寡き者は浸(ひた)しして亡ぶ、物の常理なり。乃ち謙を用うるの若きは、則ち多き者は徒らに溢(あふ)れざるのみならず、且つ以て裒む可し。寡き者は徒らに亡びざるのみならず、且つ以て益すを得ん。多寡と云う者は、時と物と、功と能と、皆是れなり。然りと雖も、謙の施す所は又物を称らざるべからざるなり。又物施を平らかならざるべからざるなり。荀子に曰く、賢者は就(ち)かづきて之を敬し、不肖の者は踈(うと)めて之を敬す。其の敬一なり、其の情二なりと。其の情二とは、所謂物を称るなり。其の敬一とは、所謂施を平らかにするなり。

初六:謙謙君子,用渉大川吉。象曰:謙謙君子,卑以自牧也。或以徳下人,或以功下人,乃所謂謙也;非有徳也,非有功也,是宜為人下,非謙意也。初六以盛徳下人,非宜為人下者,於是稱君子為謙謙;因其可以渉難而有功,故曰用渉大川吉。牧,如牧人之牧,順其性故也。順其性故其徳盛,制其徳故其禮恭。

初六の爻辞に言う、「謙謙たる君子、用いて大川を渉れば吉」と。『小象伝』に言う、「謙謙たる君子は、卑を以て自ら牧(ぼく)するなり」と。或いは徳を以て人に下り、或いは功を以て人に下る、乃ち謙を謂うなり。徳有るに非ざれば、功有るに非ざれば、是れ宜しく人の下と為る、謙の意に非ざるなり。初六盛徳を以て人に下る、宜しく人の下と為る者に非ず。是に於て君子を称して謙謙と為す。其の以て難を渉りて功有る可きに因(よ)りて、故曰く、用いて大川を渉れば吉なりと。牧は、牧人の牧の如し、其の性に順うが故なり。其の性に順うが故に其の徳盛んなり。其の徳を制すが故に其の礼恭なり。

六二:鳴謙,貞吉。象曰:鳴謙貞吉,中心得也。鳴者,感以來其應者也,鳴鶴在陰、其子和之是也。二之與三,剛上柔下,於分為正,而九三方以剛下人,感之無不應矣,是以貞吉,而象曰中心之得也。

六二の爻辞に言う、「謙を鳴(めい)す、貞吉」と。『小象伝』に言う、「謙を鳴す貞吉は、中心得る所なり」と。鳴とは、感じて以て其の応を來す者なり。鶴陰に鳴きて其の子之に和する是れなり。二と三とは、剛上に柔下、分に於て正し。而して九三方に剛を以て人に下る、之を感ずれば応応ぜざる无し。是の以て貞吉、而して象に中心の得なりと曰うなり。

九三:勞謙,君子有終吉。象曰:勞謙君子,萬民服也。初六以謙也,故渉難而有功,然而未及中,則亦未有功焉;九三過中,則既渉難而有功矣。夫功亦有不勞而成者,功成於勞則其力尤為可矜矣,九三不矜而謙,是乃所以能有終也。老子曰:功成不居,夫唯不居,是以不去。此有終之道也。人道也,人道惡盈好謙,勞而謙則萬民服矣。

九三の爻辞に言う、「労(ろう)有りて謙の君子、終り有りて吉」と。『小象伝』に言う、「労有りて謙の君子は、万民服するなり」と。初六は謙を以てす、故に難を渉りて功有り。然れども未だ中に及ばざれば、則ち亦た未だ功有らざるなり。九三は中を過ぐ、則ち既に難を渉りて功有るなり。夫れ功にも亦た労せずして成る者有り。功労に成れば則ち其の力尤も矜(ほこ)るべし。九三矜らずして謙なり。是れ乃ち終り有るを得る所以なり。老子に曰く、功成りて居らず、夫れ惟れ居らず、是の以て去らずと。此れ終り有るの道なり。人道なり、人道は盈たるを悪み謙を好む。労して謙なれば則ち万民服す。

六四:無不利,撝謙。象曰:無不利撝謙,不違則也。則略而法詳,法容有變,則無變焉。故終始有常敘而不可違、上下有常分而不可亂者,則也。乃見天則,言其協終始之序也;困而反則、順以則,言其上下之分也。今九三以剛在下而六四以柔乘之,疑若違上下之法則矣;撝去三之乗已,則於則不違焉。

六四の爻辞に言う、「利ならざる无し、撝(き)して謙す」と。『小象伝』に言う、「利ならざる无く撝して謙すは、則に違わざるなり」と。則は略にして法は詳なり。法は変有るを容れ、則は変无きなり。故に終始常叙有りて違う可からず、上下常分有りて乱る可からざるは、則なり。乃ち天則を見るは、其の終始の序に協するを言うなり。困みて則に反り、順にして則なりは、其の上下の分を言うなり。今九三剛を以て下に在り、六四柔を以て之に乗ず。疑うらくは若く上下の法則に違うとす。三の己に乗ずるを撝(は)らえば、則ち則に於て違わざるなり。

六五:不富以其鄰,利用侵伐,無不利。象曰:利用侵伐,征不服也。富相十則役,相萬則僕,物之理也。今六五不富而能用其鄰者,以人道好謙,得尊位大中而謙,則尤人之所好故也。能用其鄰則多助矣,又六二有造兵之釁,是以利用侵伐無不利也。

六五の爻辞に言う、「富まず其の鄰を以てす、侵伐するに利を用う、利ならざる无し」と。『小象伝』に言う、「侵伐するに利を用うは、服せざるを征するなり」と。富相十なれば則ち役せらる、相万なれば則ち僕(やつがれ)たる、物の理なり。今六五富まずして能く其の鄰を用うる者は、人道謙を好むを以て、尊位大中を得て謙なれば、則ち尤も人の好む所なるが故なり。能く其の鄰を用うれば則ち助け多し。又六二兵を造(おこ)すの釁(きずな)有り。是の以て侵伐するに利を用い利ならざる无きなり。

上六:鳴謙,利用行師,征邑國。象曰:鳴謙,志未得也;可用行師,征邑國也。上六感九三而求其應者也,故曰鳴謙。大抵感人心而求其應者,求近則其勢易,應逺則其勢難。六二之感九五,則其勢易,感之旡不應矣,故中心得;上六之感九三,則三上而不應,故志未得也。九三之不應,其罪可征也;然九三得民,有邑國之象,非以眾勝之則不可征,故利用行師征邑國也。彼六五不得用眾,直侵其國;此伐其人者,以得尊位大中,能以其鄰,且所征者六二之正也。

上六の爻辞に言う、「謙を鳴す、師を行うに利を用う、邑国を征す」と。『小象伝』に言う、「謙を鳴すは、志未だ得ざるなり。以て師を行う可しは、邑国を征するなり」と。上六は九三を感じて其の応を求むる者なり。故曰く謙を鳴すと。大抵人心を感じて其の応を求むる者は、求むるに近ければ則ち其の勢い易く、応遠ければ則ち其の勢い難し。六二の九五を感ずるや、則ち其の勢い易し、之を感じて応応ぜざる无し。故に中心得るなり。上六の九三を感ずるや、則ち三上にして応ぜず。故に志未だ得ざるなり。九三の応ぜざるは、其の罪征すべし。然れども九三民を得、邑国の象有り、衆を以て之を勝たざれば則ち征すべからず。故に師を行い邑国を征するに利を用うるなり。彼の六五は衆を用うるを得ず、直ちに其の国を侵す。此れ其の人を伐つ者は、尊位大中を得て、能く其の鄰を以てす、且つ征する所は六二の正なり。

豫卦(坤下震上)

坤下震上。豫:利建侯行師。曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎?天地以順動,故日月不過而四時不忒;聖人以順動,則刑罰清而民服。豫之時義大矣哉。豫者,與物通之時也。建侯宜與物通,故孟子言置君則必曰謀於燕眾;行師亦與物通,故孟子言伐燕則必曰取之而燕民悅則取之。聖人所以與物通,亦順以動而已,譬川流而不逆行,則浩然通諸海矣。

『豫』卦は下体が坤、上体が震。卦辞に言う、「豫、侯を建て師を行うに利し」と。『彖伝』に言う、「豫は、剛応じて志行われ、順にして動く、豫なり。豫順にして動けば、故に天地之に如(し)く、而況んや侯を建て師を行うをや。天地順にして動けば、故に日月過(あやま)たずして四時忒(たが)わず。聖人順にして動けば、則ち刑罰清くして民服す。豫の時義大なるかな」と。豫とは、物と通ずるの時なり。侯を建つるに宜しく物と通ずべし。故に孟子君を置くを言えば則ち必ず燕衆に謀ると曰う。師を行うも亦た物と通ずべし。故に孟子燕を伐つを言えば則ち必ず之を取りて燕民悦べば則ち之を取ると曰う。聖人の物と通ずる所以は、亦た順にして動くのみ。譬えば川流れて逆行せざれば、則ち浩然として海に通ずるなり。

蓋群一物性類,以理因而循之,則雖天地不能違。何則?天亦以易因性,地亦以簡循理故也。天地以順動,則自然之理,故日月行其紀而不過,四時協其序而不忒;聖人以順動,則大正之理,故刑罰清而民服。

蓋し群一物性を類して、理を以て因りて之に循えば、則ち天地と雖も違う能わず。何ぞや。天も亦た易を以て性に因り、地も亦た簡を以て理に循うが故なり。天地順にして動けば、則ち自然の理なり。故に日月其の紀を行きて過たず、四時其の序に協して忒わず。聖人順にして動けば、則ち大正の理なり。故に刑罰清くして民服す。

夫刑罰者,矯拂人而制之者也,且不煩濫而民服,則禮樂政教之以順導人者可知矣,彼聖人何往而非順動哉?建侯所以興天下之同利,行師所謂憂以天下者也;刑罰所以去天下之同害,作樂所謂樂以天下者也。雷在地中而為復,復則辨於物矣;雷出地奮為豫,豫者眾人熙熙如登春?之時。方是時,視濁水迷於清淵,有至於豫者,豈觀象而見所謂非豫之幾哉?非與日月合其明者,孰能與此?故曰豫之時義大矣哉。

夫れ刑罰とは、人を矯拂(きょうふつ)して之を制する者なり。且つ煩濫(はんらん)せずして民服せば、則ち礼楽政教の順を以て人を導く者知るべし。彼の聖人何れか往きて順動に非ざらんや。侯を建つるは天下の同利を興す所以なり、師を行うは所謂天下を以て憂うる者なり。刑罰は天下の同害を去る所以なり、楽を作るは所謂天下を以て楽しむ者なり。雷地中に在りて復と為る、復は則ち物を辨ず。雷地を出でて奮(ふる)い豫と為る、豫とは衆人熙熙(きき)として春台に登るが如きの時なり。方に是の時、濁水を視て清淵に迷う、豫に至る者有り。豈に象を観て所謂豫に非ざるの幾(き)を見んや。日月と其の明を合わせざれば、孰か能く此に与(あずか)らん。故曰く、豫の時義大なるかなと。

象曰:雷出地奮,豫,先王以作樂崇徳,殷薦之上帝,以配祖考。雷出地奮,聖人與物之象也。眾人熙熙,我何為而不樂?於是作樂焉。其作樂也,乃所以崇徳焉,與夫熙熙而遂至於失性者異矣。能昭天地化育之功者莫如雷,能崇聖人化養之徳者莫如樂。傳曰:樂隆而徳尊。作樂崇徳之謂也。作樂以崇徳,故盛薦之上帝則天神降焉,以配祖考則與詩有瞽所謂作樂合於祖同意。

『象』に曰く、雷地を出でて奮う、豫、先王以て楽を作り徳を崇(たっと)び、殷(いん)として之を上帝に薦(すす)め、以て祖考に配すと。雷地を出でて奮うは、聖人物と通ずるの象なり。衆人熙熙とす、我何の為に楽しまざらん。是に於て楽を作る。其の楽を作るや、乃ち徳を崇ぶ所以なり。夫の熙熙として遂に性を失うに至る者と異なり。能く天地化育の功を昭かにするは雷に如くは莫く、能く聖人化養の徳を崇ぶは楽に如くは莫し。伝に曰く、楽隆(りゅう)なれば徳尊しと。楽を作り徳を崇ぶの謂なり。楽を作りて以て徳を崇ぶ、故に盛んに之を上帝に薦めば則ち天神降り、以て祖考に配せば則ち詩の有瞽(ゆうこ)の所謂楽を作りて祖に合するは意同じきなり。

初六:鳴豫,?。象曰:初六鳴豫,志窮?也。聖人之於豫,若雷出地奮然,則豫非不鳴以感物也,但其鳴當其時而不妄耳。初六於位為下,於時為初,乃欲鳴而感物為豫,是乃不可,故曰鳴豫?,而孔子曰初六鳴豫,志窮?也。

初六の爻辞に言う、「豫を鳴す、凶」と。『小象伝』に言う、「初六豫を鳴すは、志窮まりて凶なり」と。聖人の豫に於けるや、雷地を出でて奮然たるが若ければ、則ち豫は鳴りて以て物を感ぜざるに非ず、但だ其の鳴るや其の時に当りて妄(みだ)りならざるのみ。初六は位に於て下、時に於て初なり。乃ち鳴りて物を感じて豫と為さんと欲す、是れ乃ち可ならず。故曰く、豫を鳴すは凶、而して孔子に曰く、初六豫を鳴すは志窮まりて凶なりと。

六二:介于石,不終日,貞吉。象曰:不終日貞吉,以中正也。刳舟剡楫取諸渙,服牛乘馬取諸隨,繼之以重門擊柝取諸豫者,以川塗通則暴客至故也。非徒治天下為然,一身亦若是而已。開貞兊以與物通,則?亦隨至,是宜觀柔而蚤正以待之也。

六二の爻辞に言う、「石に介(かた)くす、終日せず、貞吉」と。『小象伝』に言う、「終日せず貞吉は、中正を以てなり」と。舟を刳(く)り楫(かじ)を剡(けず)るは渙に取り、牛に服し馬に乗るは随に取り、之に継ぎて重門撃柝(ちょうもんげきたく)は豫に取る者は、川涂通ぜば則ち暴客至るが故なり。徒らに天下を治むるを然りと為すのみならず、一身も亦た是くの若くのみ。貞兌を開きて以て物と通ずれば、則ち凶も亦た随い至る。是れ宜しく柔を観て蚤(はや)く正しくして以て之を待つべし。

六二蓋與於此。方天下交通成和之時,物之逐動如雷出奮然,而獨介于石焉,此善觀象者也。介于石,言見之先也;終日,言避之速也。見之先而避之速,吉不亦宜乎?六三:盱豫,悔遲有悔。象曰:盱豫有悔,位不當也。不謟然後可以上交,今且盱矣,則是顧望其上者也;又且遲之,則候伺其上者也,豈所謂不謟者乎?此則盱豫悔,而遲亦有悔也。

六二は蓋し此に与るなり。方に天下交通和を成すの時、物の動に逐(お)うは雷の出でて奮然たるが如く、而して独り石に介す。此れ象を観るに善き者なり。石に介すとは、之を見るに先んずるを言う。終日せずとは、之を避くるに速なるを言う。之を見るに先んじて之を避くるに速ければ、吉亦た宜しきならずや。六三の爻辞に言う、「盱(こ、目を上げて望む)して豫す、悔い遅れば悔い有り」と。『小象伝』に言う、「盱して豫す悔い有りは、位当たらざるなり」と。諂(へつら)わざれば然る後に以て上交わる可し。今且つ盱す、則ち是れ其の上を顧望する者なり。又且つ之を遅くすれば、則ち其の上を候伺する者なり。豈に所謂諂わざる者や。此れ則ち盱して豫すれば悔い、而して遅くするも亦た悔い有るなり。

九四:由豫,大有得,勿疑朋盍簮。象曰:由豫,大有得,志大行也。九四體震而為之主者也。以象言,則萬物莫不由雷以豫;以爻言之,則陰莫不由陽以豫,是以大有得也。大有得而勿疑,乃能協眾力以安其上,猶簮之總眾髮以安其首;若自疑則眾疑而暌矣,未聞以疑事有功也。

九四の爻辞に言う、「豫に由(よ)る、大いに得有り、疑う勿れ、朋盍(あつ)まり簪(しん)す」と。『小象伝』に言う、「豫に由る、大いに得有りは、志大いに行わるるなり」と。九四は震を体して之が主と為る者なり。象を以て言えば、則ち万物雷に由りて豫せざるは莫し。爻を以て言えば、則ち陰陽に由りて豫せざるは莫し。是の以て大いに得有るなり。大いに得有りて疑わざれば、乃ち能く衆力を協(あわ)せて以て其の上を安んず。猶ほ簪の衆髪を総(か)めて以て其の首を安んずるが如し。若し自ら疑えば則ち衆疑いて暌(たが)う。未だ聞かず疑を以て事功有るを。

六五:貞疾,恆不死。象曰:六五貞疾,乘剛也;恆不死,中未亡也。六五之疾,以乘剛而至於貞。彼四牡項領,則不能無亡矣;九四務在協眾以安其上,非項領之牡也,疾常不死不亦冝乎?上六:?豫成,有渝無咎。象曰:?豫在上,何可長也。六二知?,蓋??之中獨見曉焉者也;上六不知幾者,?豫而已。雖?者明之藏也,知生於??之中而有渝焉,則無咎矣。

六五の爻辞に言う、「貞疾(ていしつ)にして恒に死せず」と。『小象伝』に言う、「六五貞疾は、剛に乗ずるなり。恒に死せずは、中未だ亡びざるなり」と。六五の疾は、剛に乗じて貞に至るを以てなり。彼の四牡項領(こうりょう、首筋強直)たれば、則ち亡びざる能わざるなり。九四務めて衆を協せて以て其の上を安んずるに在り、項領の牡に非ず。疾常に死せざる亦た宜しきならずや。上六の爻辞に言う、「冥(めい)豫成る、渝(か)わる有りて咎无し」と。『小象伝』に言う、「冥豫上に在りは、何ぞ長からんや」と。六二知るは、蓋し冥冥の中に独り暁(あきら)かを見る者なり。上六幾(き)を知らざる者は、冥豫のみ。冥なる者は明の蔵(かく)るる所なりと雖も、冥冥の中に知生じて渝わる有れば、則ち咎无きなり。

随卦(震下兌上)

震下兌上。隨:元亨利貞,無咎。曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞無咎,而天下隨時。隨時之義大矣哉。聖人之道至於兼忘,又使天下兼我,則民交放於道術之中行,不知所之矣。則使天下隨之,若子之從父、弟之從兄,豈無勉為仁以要人、揚行以悅眾乎?

『随』卦は下体が震、上体が兌。卦辞に言う、「随、元亨利貞、咎无し」と。『彖伝』に言う、「随は、剛來りて柔に下(くだ)り、動きて説(よろこ)ぶ、随なり。大亨貞にして咎无く、而して天下時に随う。随時の義大なるかな」と。聖人の道兼忘(けんぼう、互いに忘れ合う)に至りて、又天下をして我を兼ぬれしめば、則ち民交り放(ほう)れて道術の中に行き、之(ゆ)く所を知らず。則ち天下をして之に随わしめば、子の父に従い、弟の兄に従うが若く、豈に勉めて仁を為して以て人を要(もと)め、行を揚げて以て衆を悦ばす无からんや。

以剛柔言之,剛上而柔下,則剛柔尊卑之常也;剛自外而為主於內,則剛柔屈伸之宜也。今剛不處上而來,又來而不為主,取下柔而已,則是反尊卑之常、反屈伸之宜矣。自二體言之,止而說者,聖人所以感物之道也;動而健者,天所以命物之道也。今不止而動、而健取說而已,則是不感物於自然、不應天之無妄矣,是以不免為仁以要人、揚行以說眾者也,是以不能無咎矣,以大亨貞而後可以無咎。

剛柔を以て之を言えば、剛上にして柔下は、則ち剛柔尊卑の常なり。剛自り外より來りて内に主と為れば、則ち剛柔屈伸の宜なり。今剛は上に処らずして來り、又來りて主と為らず、柔に下るを取るのみ。則ち是れ尊卑の常に反り、屈伸の宜に反るなり。二体自り之を言えば、止まりて説ぶは、聖人の物を感ずる所以の道なり。動きて健なるは、天の物に命ずる所以の道なり。今止まらずして動き、健にして説ぶを取るのみ。則ち是れ物を自然に感ぜず、天の妄(あだ)ならざるに応に応ぜざるなり。是の以て免れずして仁を為して以て人を要め、行を揚げて以て衆を説ばす者なり。是の以て咎无き能わず、大亨貞にして然る後に以て咎无きべし。

天下之所隨者聖人,聖人之所隨者時也。聖人之所隨時,則莫非時也;失所隨之序者不足,而義甚?,非與日月合其臨照之明、與四時合其消息之序者,不足以與此。象曰:澤中有雷,隨,君子以嚮晦入宴息。治則進,亂則退,此隨時之大者也;春而作,秋而息,又以之明而動、晦而休,則其小者也。小者猶隨之而不違,則大者可知矣。明而動、晦而休,莫非隨也,而獨言嚮晦入宴息,則以謂知隨則無故也。

天下の随う所は聖人、聖人の随う所は時なり。聖人の随う所は時、則ち時に非ざるは莫し。随う所の序を失う者は足らず、而して義甚だ凶。日月と其の臨照の明を合わせ、四時と其の消息の序を合わせざる者は、以て此に与るに足らざるなり。『象』に曰く、沢中に雷有り、随、君子以て晦(くれ)に向かい入りて宴息(あんそく)すと。治まれば則ち進み、乱るれば則ち退く、此れ随時の大なる者なり。春にして作(おこ)り、秋にして息(やす)む、又以て明にして動き、晦にして休めば、則ち其の小なる者なり。小なる者は猶ほ之に随いて違わざれば、則ち大なる者知るべし。明にして動き、晦にして休むは、随に非ざるは莫し。而して独り晦に向かい入りて宴息すと言うは、則ち随を知れば則ち故(ことさ)らにせずと謂うを以てなり。

初九:官有渝,貞吉,出門交有功。象曰:官有渝,從正吉也;出門交有功,不失也。法而不議,則法之所以不至者必廢;職而不通,則職之所不及者必墜,故欲有渝。渝而失正,則巧佞亂官宜矣,故正然後吉。夫官者,有分職自守而已矣,奚其交?然欲有次,不可以無交。先王以天地名官,天地交而萬物通,則官固不可以無交矣,故曰人道交而功動成。交之出門而往從之,則其交也親,故出門交有功不失也。

初九の爻辞に言う、「官渝(か)わる有り、貞吉、門を出でて交われば功有り」と。『小象伝』に言う、「官渝わる有りは、正に従いて吉なり。門を出でて交われば功有りは、失わざるなり」と。法にして議せざれば、則ち法の至らざる所以は必ず廃す。職にして通ぜざれば、則ち職の及ばざる所は必ず墜(おと)す。故に渝わる有るを欲す。渝わりて正を失わば、則ち巧佞(こうねい)官を乱る宜しきなり。故に正にして然る後に吉なり。夫れ官とは、分職自ら守る有るのみ、奚(なん)ぞ其の交わらん。然れども次有らんと欲せば、以て交わる无くべからず。先王天地を以て官に名づく、天地交わりて万物通ずれば、則ち官固より交わる无くべからざるなり。故曰く、人道交わりて功動(おこ)りて成ると。之を交わるに門を出でて往き之に従えば、則ち其の交わるや親し。故に門を出でて交われば功有りて失わざるなり。

六二:係小子,失丈夫。象曰:係小子,弗兼與也。剛足以自亡也,徒以隨時故來而下柔,則其於人也隨之而已,非繫也。柔不足以自立而隨人,則非徒隨之,亦且繫屬之而不能違矣,故六三、六二、上六皆稱繫焉。係小子失丈夫,失所繫也。蓋以陰居陰,則不足於明,又不足於斷;不足於斷,故不能違近而趨遠;不足於明,故兩者之間不知擇所繫焉。

六二の爻辞に言う、「小子(しょうし、初九)に繋(かか)り、丈夫(じょうふ、九五)を失う」と。『小象伝』に言う、「小子に繋るは、兼ねて与(あずか)らざるなり」と。剛は以て自ら存するに足る。徒らに時に随うが故に來りて柔に下れば、則ち其れ人に於ては之に随うのみ、繫に非ざるなり。柔は以て自ら立つに足らずして人に随えば、則ち徒らに之に随うのみならず、亦た且つ之に繫属して能く違わざるなり。故に六三、六二、上六皆繫と称す。小子に繫りて丈夫を失うは、繫る所を失うなり。蓋し陰を以て陰に居れば、則ち明に足らず、又断に足らず。断に足らざれば、故に能く近きを違いて遠きに趨(はし)らず。明に足らざれば、故に両者の間に於て繫る所を択ぶを知らざるなり。

六三:係丈夫,失小子,隨有求得,利居貞。象曰:係丈夫,志舍下也。初九之於九四,於他卦為不應也,今則交焉;六二之於九五,於他卦為應也,今則失焉。以謂不應宜交,則六三之與上六不應也,何其不交也?以為應失,則六三與上六非應也,何其亦失也?為其近邪,則初九之於九四非逺也。然則非以近,亦非以逺;以應,亦非以不應,各從其所欲隨而已,是乃所以為天下隨時,非大人不能明擇之也。

六三の爻辞に言う、「丈夫に繋り、小子を失う、随うに求めて得る有り、貞に居るに利し」と。『小象伝』に言う、「丈夫に繫るは、志下を舎てるなり」と。初九の九四に於けるや、他卦に於て応於て応ぜざるなり、今は則ち交わる。六二の九五に於けるや、他卦に於て応ずるなり、今は則ち失う。応ぜず宜しく交わるべしと謂わば、則ち六三の上六と応ぜざるや、何ぞ其れ交わらざるや。応じて失うと為せば、則ち六三と上六とは応に非ざる、何ぞ其れ亦た失うや。其の近きを為せば、則ち初九の九四に於けるや遠きに非ず。然らば則ち近きを以てせず、亦非た遠きを以てす。応を以てす、亦非た応ぜざるを以てす。各々其の随わんと欲する所に従うのみ。是れ乃ち天下の時に随う所以なり。大人に非ざれば能く之を択ぶを明らかにせざるなり。

係丈夫失小子,言得所繫也。係丈夫為得所繫,故隨有求得;隨有求得,則又可知矣,故利貞。九四:隨有貞?,有孚在道以明,何咎。象曰:隨有,其義?也;有孚在道,明功也。隨時之義,不必陰隨陽,而陽亦隨陰;然以陽隨陰,雖足以有,然亦貞?焉。雖然,陽之隨陰,孚足以守道,非不能自立而依勢乎人者也;明足以趨時,非不能自昭而依乎人者也,以從初而已,何咎之有?

丈夫に繋りて小子を失うは、繫る所を得るを言うなり。丈夫に繫るを得る繫る所と為す、故に随うに求めて得る有り。随うに求めて得る有れば、則ち又知る可きなり。故に貞に利し。九四の爻辞に言う、「随うに獲る有り、貞にしても凶、孚有りて道に在りて以て明ならば、何の咎か有らん」と。『小象伝』に言う、「随うに獲る有りは、其の義凶なり。孚有りて道に在りは、功を明らかにするなり」と。随時の義は、必ずしも陰の陽に随うならず、而して陽も亦た陰に随う。然れども陽を以て陰に随うは、以て有るに足ると雖も、然れども亦た貞にしても凶なり。然りと雖も、陽の陰に随うは、孚以て道を守るに足り、能く自ら立たずして人の勢いに依る者に非ざるなり。明以て時に趨くに足り、能く自ら昭かならずして人に依る者に非ざるなり。以て初に従うのみ、何の咎か有らん。

九五:孚于嘉,吉。象曰:孚于嘉吉,位正中也。君之所期於臣者,嘉徳而已,故能入告嘉猷,出建嘉績,為上成假樂之嘉焉。九五孚于嘉徳而隨之,吉不亦宜乎?六二柔順中正,蓋有嘉績者也。

九五の爻辞に言う、「嘉に孚す、吉」と。『小象伝』に言う、「嘉に孚して吉は、位正中なり」と。君の臣に期する所は、嘉徳のみ。故に能く入りて嘉猷(かゆう、良謀)を告げ、出でて嘉績(かせき、良功)を建て、上の為に假楽(かがく、詩篇名)の嘉を成す。九五嘉徳に孚して之に随う、吉亦た宜しきならずや。六二柔順中正、蓋し嘉績有る者なり。

上六:拘係之,乃從維之,王用亨于西山。象曰:拘係之,上窮也。天下之未隨,則繫之未可也;天下皆隨而獨有不隨者焉,故可拘係之。拘係之,則上窮之勢不能無從矣;雖從之非心也,以徳維其心,則中心悅而誠服,文王所以亨于西山,用此道也。

上六の爻辞に言う、「拘繫(こうけい)して之に従う、乃ち維(い)して之を繫(かか)る、王用いて西山に亨(こう)す」と。『小象伝』に言う、「拘繫するは、上窮まれるなり」と。天下の未だ随わざるは、則ち之を繫ぐは未だ可ならざるなり。天下皆随いて独り随わざる者有れば、故に拘繫する可し。拘繫すれば、則ち上窮まれるの勢い従わざる能わず。之に従うと雖も心に非ざるなり。徳を以て其の心を維せば、則ち中心悦びて誠服す。文王の西山に亨する所以は、此の道を用うるなり。

蠱卦(巽下艮上)

巽下艮上。蠱:元亨,利渉大川,先甲三日,後甲三日。曰:蠱,剛上而柔下,巽而止,蠱。蠱元亨而天下治也。利渉大川,往有事也。先甲三日,後甲三日,終則有始,天行也。萬世無者道而已,事則有弊之所由然,以剛上而柔下、巽而止故也。蓋剛上而柔下,雷風相與,巽而動,乃能乆;今巽而止,則不可乆而蠱弊生矣。然窮而變,變而通,通而乆矣,是以蠱弊之既生,則欲治之也。傳曰:道猶金石,一調不更;事猶琴瑟,每終改調。此之謂也。

『蠱』卦は下体が巽、上体が艮。卦辞に言う、「蠱、元亨、大川を渉るに利し、甲に先んずる三日、甲に後るる三日」と。『彖伝』に言う、「蠱は、剛上にして柔下、巽りて止まる、蠱なり。蠱元亨にして天下治まるなり。大川を渉るに利しは、往きて事有るなり。甲に先んずる三日、甲に後るる三日は、終われば則ち始まり有り、天の行なり」と。万世弊(やぶ)るる无きは道のみ。事は則ち弊の由(よ)る然る者有り。剛上にして柔下、巽りて止まるを以てなり。蓋し剛上にして柔下、雷風相与にし、巽りて動けば、乃ち能く久し。今巽りて止まれば、則ち久しき可からずして蠱弊生ず。然れども窮まりて変じ、変じて通じ、通じて久し。是の以て蠱弊の既に生ぜれば、則ち之を治めんと欲するなり。伝に曰く、道は猶ほ金石、一調更(か)えず。事は猶ほ琴瑟、毎(ごと)に終わりて調を改むと。此れの謂なり。

天下之勢,有亂乃有治,故乾元用九而天下治,蠱元亨而天下治,以有亂故有去亂而治之者也。蠱以止而生,則不可復止;又巽者木道也,以渉難則蠱飭矣,故曰利渉大川也。有事然後有功,蠱則飭樂而已,不足以言功,故曰往有事也。先甲三日者,原弊之所由以生也;後甲三日者,恐神竒之復化為臭腐也。蓋終則有始,時乃天行,則所以圖之,不可不要其終而原其始也。

天下の勢いは、乱有りて乃ち治有り。故に乾元九を用いて天下治まり、蠱元亨にして天下治まる。乱有るを以て、故に乱を去りて之を治むる者有るなり。蠱は止まるを以て生ずれば、則ち復た止まる可からず。又巽は木の道なり、以て難を渉れば則ち蠱飭(ととの)えらる。故曰く、大川を渉るに利しなりと。事有りて然る後に功有り。蠱は則ち楽を飭うのみ、以て功を言うに足らず。故曰く、往きて事有るなりと。甲に先んずる三日とは、弊の生ずる由を原(もと)むるなり。甲に後るる三日とは、神奇の復た臭腐と化するを恐るるなり。蓋し終われば則ち始まり有り、時は乃ち天の行なり。則ち之を図る所以は、其の終りを要(かな)めて其の始めを原めざるべからざるなり。

象曰:山下有風,蠱,君子以振民育徳。徳則日新,事則日故;雖然,以日新之徳推之於事,則事亦新而不故矣。故必有以搖盪其民,如風之落山,以育其徳,則蠱之不飭而自去矣。事,末也,聖人所以圖之於其本而已,故於是育徳焉。

『象』に曰く、山下に風有り、蠱、君子以て民を振(おこ)し徳を育すと。徳は則ち日に新たに、事は則ち日に故(ふる)し。然りと雖も、日新の徳を以て之を事に推せば、則ち事も亦た新たにして故ならず。故に必ず以て其の民を揺蕩(ようとう)する有り、風の山を落(おと)すが如く、以て其の徳を育せば、則ち蠱の飭えざる而自ら去るなり。事は末なり。聖人其の本に於て之を図る所以のみ。故に是に於て徳を育するなり。

初六:幹父之蠱,有子考,無咎,厲終吉。象曰:幹父之蠱,意承考也。家人之道,恩勝於義,故常於巽止而蠱弊之生尤甚於國,此六爻之所以皆言幹父之蠱也。幹父之蠱,則其治可移於官而乾國矣。經曰:貞者,事之幹也。事待乾而後立,故蠱皆曰乾焉。

初六の爻辞に言う、「父の蠱を干(ほ)す、子有りて考(おも)う咎无し、厲(あや)うきも終に吉」と。『小象伝』に言う、「父の蠱を干すは、意考を承くるなり」と。家人の道は、恩義に勝(まさ)る。故に常に巽止に於て蠱弊の生ずるは国より尤も甚(はなはだ)し。此れ六爻の皆父の蠱を干すと言う所以なり。父の蠱を干せば、則ち其の治官に移して国を干す可し。経に曰く、貞とは事の干なりと。事干を待ちて然る後に立つ。故に蠱は皆干と曰うなり。

孟子不順乎親,不可以為子。今曰有子,為其巽順幹父之蠱也。以巽順而幹蠱,而所承非成徳之父,則其非道亦從矣。今九二以剛中首事,得其所以為父,故稱考焉;初六以巽順承之,得其所以為子,故稱子。雖其所以無咎焉,厲而終吉也。

孟子親に順わざれば、以て子と為すべからずと曰う。今子有りと曰うは、其の巽順を以て父の蠱を干すが為なり。巽順を以て蠱を干し、而して承くる所は成徳の父に非に非ざれば、則ち其の道に非ざるも亦た従わん。今九二剛中を以て事を首(お)とす、其の父と為る所以を得。故に考と称す。初六巽順を以て之を承く、其の子と為る所以を得。故に子と称す。其の咎无き所以と雖も、厲うきも終に吉なり。

九二:幹母之蠱,不可貞。象曰:幹母之蠱,得中道也。初六之所承者九二,而三、四、五所承者上九也,故稱乎父;九二之所承者六五也,故稱乎母。子也巽乎內而止乎外,陰陽大分也,故不可以為貞;然非失其所居而然也,以幹蠱而已,又皆得中道,是以悔吝不至。

九二の爻辞に言う、「母の蠱を干す、貞にすべからず」と。『小象伝』に言う、「母の蠱を干すは、中道を得るなり」と。初六の承くる所は九二、而して三、四、五の承くる所は上九なり。故に父と称す。九二の承くる所は六五なり。故に母と称す。子は内に巽りて外に止まる、陰陽の大分なり。故に以て貞と為すべからず。然れども其の居る所を失うに非ざるなり。以て蠱を干すのみ、又皆中道を得。是の以て悔吝至らざるなり。

九三:幹父之蠱,小有悔,無大咎。象曰:幹父之蠱,終無咎也。九二剛中而初六以柔巽從之,乃其宜也;上九剛過而九三以剛過應之,亦其宜也。然子道貴順,今以剛過,則父子之恩傷矣,故小有悔。然從義不從父,是乃所以義其父也,故無大咎焉。小有悔而已,則固無大悔矣;無大咎,則猶小有咎焉。而象曰終無咎,以始則傷恩而終於義故也。

九三の爻辞に言う、「父の蠱を干す、小さく悔い有り、大きな咎无し」と。『小象伝』に言う、「父の蠱を干すは、終に咎无きなり」と。九二剛中にして初六柔巽を以て之に従うは、乃ち其の宜なり。上九剛過ぐるにして九三剛過ぐるを以て之に応ずるは、亦た其の宜なり。然れども子道は順を貴ぶ。今剛過ぐるを以てすれば、則ち父子の恩傷つく。故に小さく悔い有り。然れども義に従いて父に従わざれば、是れ乃ち其の父を義とする所以なり。故に大きな咎无きなり。小さく悔い有るのみ、則ち固より大きな悔い无し。大きな咎无し、則ち猶ほ小さく咎有るなり。而して象に終に咎无しと曰うは、始めは則ち恩を傷うて終に義なるを以てなり。

六四:裕父之蠱,往見吝。象曰:父之蠱,往未得也。巽而止,蠱之所以生也,剛所以飭不宜矣,而六四以柔父之蠱,所以往見吝也,而未得乎親。父之於子,尊賢而下無能;今父之蠱而不能飭,宜其未得也。

六四の爻辞に言う、「父の蠱を裕(ゆる)やかにす、往けば吝を見ん」と。『小象伝』に言う、「父の蠱は、往けば未だ得ざるなり」と。巽りて止まるは、蠱の生ずる所以なり。剛の飭うる宜しからざる所以なり。而して六四柔を以て父の蠱とす、往けば吝を見る所以なり。而して親に得る能わざるなり。父の子に於けるや、賢を尊して能无きを下す。今父の蠱にして能く飭えざれば、其の未だ得ざる宜しきなり。

六五:幹父之蠱,用譽。象曰:幹父用譽,承以徳也。六五所承者剛中之父,則巽順以從之可也。父若以剛過,則子道難矣。蓋以剛過則傷恩,故九三有小悔之辭焉;以柔正裕之則害義,故六四則有往見吝之辭焉。若剛不至於害義,卒歸於有譽者,六五是也,此所謂克諧以孝也。

六五の爻辞に言う、「父の蠱を干す、誉(ほまれ)を用う」と。『小象伝』に言う、「父を干し誉を用うるは、徳を以て承くるなり」と。六五の承くる所は剛中の父なれば、則ち巽順を以て之に従う可し。父若し剛過ぐれば、則ち子道難し。蓋し剛過ぐれば則ち恩を傷う、故に九三小さく悔い有りの辞有り。柔正にして之を裕やかにすれば則ち義を害す、故に六四は則ち往けば吝を見るの辞有り。若し剛にして義を害するに至らず、卒(つい)に誉有るに帰する者は、六五是れなり。此れ所謂克く諧(かな)うを以て孝なり。

瞽瞍之頑,則剛過之父也,而四嶽以烝烝乂不格奸稱之於堯前者,亦舜能幹父用譽故耳。其曰承以徳,何也?惟徳足以諧頑嚚,其能用譽亦以徳而已。此爻惟大舜足以當之。若武王能廣文王之聲,則文王有聲而武王廣之耳,此則父子之懿,剛之父如初六吉也。

瞽瞍(こそう)の頑(ぐ)たるは、則ち剛過ぐるの父なり。而して四岳烝烝(じょうじょう)として乂(やす)んじて姦(かん)に格(いた)らざるを以て之を堯の前に称する者は、亦た舜の能く父を干し誉を用うるが故のみ。其の徳を以て承くると曰うは何ぞや。惟れ徳以て頑嚚(がんぎん)を諧うに足り、其の能く誉を用うるも亦た徳を以てのみ。此の爻は惟れ大舜以て之に当るに足る。若し武王能く文王の声を広むれば、則ち文王声有りて武王之を広ぐるのみ。此れ則ち父子の懿(うるわ)しきなり。剛の父は初六の如くなれば吉なり。

上九:不事王侯,高尚其事。象曰:不事王侯,志可則也。經曰:蠱者,事也。以謂徳則常新而事則有蠱也。以蠱生於事,復有事以乾之,則有事亦將蠱矣。自道觀之,則是以水救水,名之曰益多,此蠱之終所以貴夫不事王侯、高尚其事也。事至於王而貴者為公,事至於侯而貴者為卿;求事王而不賓,則求事於侯,此求富而不恥執鞭之為也。既不事王,亦不事侯,高尚其事而小天下,此其志固不可奪矣,是以可則也。賁終白賁,蠱終於不事王侯,則此反素而守靜也。

上九の爻辞に言う、「王侯に事(つか)えず、其の事を高尚(こうしょう)にす」と。『小象伝』に言う、「王侯に事えずは、志則(のっと)る可きなり」と。経に曰く、蠱とは事なりと。徳は則ち常に新たにして事は則ち蠱有るを謂うなり。蠱事に生ずるを以て、復た事有りて之を干せば、則ち事有るも亦た将に蠱せんとす。道自り之を観れば、則ち是れ水を以て水を救う、之を益(ます)多きと名づく。此れ蠱の終りの夫の王侯に事えず、其の事を高尚にするを貴ぶ所以なり。事王に至りて貴き者は公と為り、事侯に至りて貴き者は卿と為る。王に事うるを求めて賓と為らざれば、則ち侯に事うるを求む。此れ富を求めて鞭を執るを為すを恥じざるの為なり。既に王に事えず、亦た侯に事えず、其の事を高尚にして天下を小なりとす。此れ其の志固より奪う可からざるなり。是の以て則る可きなり。賁(ひ)終わりて白賁(はくひ)、蠱終わりて王侯に事えざれば、則ち此れ素に反りて静を守るなり。

臨卦(兌下坤上)

兌下坤上。臨:元亨利貞,至于八月有?。曰:臨,剛浸而長,說而順,剛中而應,大亨以正,天之道也。至于八月有?,消不乆也。上者以高而臨下,大者以道長而臨小,此臨之義也。夫君子之長、小人之消也,長乘夫陰陽之機而不能自止也,故其道之長猶草木之長,氣湊於下而視之不見,其蠕蠕以進而乆之則高大矣。然則君子之長,亦何事於躁進哉?浸之長斯可矣。

『臨』卦は下体が兌、上体が坤。卦辞に言う、「臨、元亨利貞、八月に至りて凶有り」と。『彖伝』に言う、「臨は、剛浸(ひた)しにして長び、説びて順、剛中にして応有り、大亨正を以てす、天の道なり。八月に至りて凶有りは、消えて久しからざるなり」と。上なる者は高きを以て下に臨み、大なる者は道の長びを以て小に臨む。此れ臨の義なり。夫れ君子の長び、小人の消ゆるや、長びは夫の陰陽の機(き)に乗じて自ら止まる能わず。故に其の道の長びは草木の長びるが如し。気下に凑(あつ)まりて之を視れば見えず、其れ蠕蠕(ぜんぜん)として進みて久しければ則ち高大なり。然らば則ち君子の長びは、亦た何ぞ躁進に事せんや。浸し之を長ばしむる斯に可なり。

其消若氷雪之消,陽鑠於上,則視之不見,其駸駸以退而乆之則渙釋矣。然則彼小人之消,何事以威武臨之哉?說而順斯可矣。其自進也浸而長,其臨人也說而順,又其才剛中而應於上,是乃所以大亨以正也。

其の消ゆるは氷雪の消ゆるが若し。陽上に鎔(と)かされれば、則ち之を視れど見えず、其れ駸駸(しんしん)として退きて久しければ則ち渙釈(かんしゃく)す。然らば則ち彼の小人の消ゆるは、何ぞ威武を以て之に臨まんや。説びて順なり斯に可なり。其の自ら進むや浸にして長び、其の人に臨むや説びて順なり。又其の才剛中にして上に応ず。是れ乃ち大亨正を以てする所以なり。

君子屈而小人伸,不可謂亨;君子外小人內,不可謂正。今君子伸而小人屈則亨矣,君子內而小人外則正矣。亨之與正,既見於人事,時乃天道,故曰大亨以正,天之道也。既曰天道,則消息旡常,而正有復為竒,善有復為妖,故曰至于八月有?。夫亨之與正必曰天道,何謂也?蓋君子所求亨者,求亨其心而已;所求正者,求正其身而已。若夫其道亨、其位正,則君子歸之天道而不求,此所以道言天道也。

君子屈して小人伸ぶれば、亨と謂う可からず。君子外にして小人内なれば、正と謂う可からず。今君子伸びて小人屈せば則ち亨なり、君子内にして小人外なれば則ち正なり。亨と正と、既に人事に見ゆ、時は乃ち天道なり。故曰く、大亨正を以てす、天の道なりと。既に天道と曰えば、則ち消息常无し。而して正有りて復た奇(き)と為り、善有りて復た妖(よう)と為る。故曰く、八月に至りて凶有りと。夫れ亨と正と必ず天道と曰うは何を謂うか。蓋し君子の亨を求むる所は、其の心を亨らかにするを求むるのみ。正を求むる所は、其の身を正しくするを求むるのみ。若し夫の其の道亨り、其の位正しければ、則ち君子之を天道に帰して求めず。此れ道に天道を言う所以なり。

象曰:澤上有地,臨,君子以教思無窮,容保民無疆。於卦考之,觀之道尊而臨之道親。尊可以教敬,親可以教愛;且可以臨民而民莫不戴之為重,可以觀民而民以榮觀者,莫若教也,故臨觀皆以教言焉。

『象』に曰く、沢の上に地有り、臨、君子以て教え思う窮(きわ)まる无く、民を容れ保する疆(はて)无きなりと。卦に於て之を考えれば、観の道は尊くして臨の道は親し。尊きは以て敬を教う可く、親しきは以て愛を教う可し。且つ以て民に臨みて民戴く之を重と為さざる莫く、以て民を観(のぞ)みて民観を以て栄と為すは、教に若くは莫し。故に臨観皆教を以て言うなり。

然觀之為教以順為主,故以省方觀民;臨之為教以厚為主。教思無窮,以謂厚者,性之徳也,修率性之道以為教,則其教無窮,何則?性不壞而道無弊也。苟有窮,則隘與不恭在所尚矣。容民無疆故遠者來,保民無疆故近者悅,以此厚徳臨下之道也。

然れども観の教と為るは順を以て主と為す、故に以て方を省(み)て民を観す。臨の教と為るは厚を以て主と為す。教え思う窮まる无きは、以て厚とは性の徳なるを謂うなり。性に率(したが)うの道を修めて以て教と為せば、則ち其の教窮まる无し。何ぞや。性壊(やぶ)れずして道弊(へい)无きなり。苟も窮まる有れば、則ち隘(あい)と恭ならざると尚(とうと)ぶ所に在らん。民を容るる疆无きが故に遠き者來り、民を保する疆无きが故に近き者悦ぶ。此れ厚徳を以て下に臨むの道なり。

初九:咸臨,貞吉。象曰:咸臨貞吉,志行正也。初九、九二皆以陽下陰,有男下女之義,故皆咸臨。然初九未得,則君子之道未得也,特志行正而已;乃若九二未順命,則不特志行正,而見於事矣。

初九の爻辞に言う、「咸(みな)臨む、貞吉」と。『小象伝』に言う、「咸臨む貞吉は、志の行正しきなり」と。初九、九二皆陽を以て陰に下る、男の女に下るの義有り。故に皆咸臨む。然れども初九未だ得ざれば、則ち君子の道未だ得ざるなり、特に志の行正しきのみ。乃ち九二未だ命に順わざるの若きは、則ち特に志の行正しきのみならず、事に見ゆるなり。

九二:咸臨,吉無不利。象曰:咸臨吉無不利,未順命也。柔長則變剛,剛長則變柔;九二之於六五,蓋以道而感變之者也。六五且又順受而不懼,所以吉無不利,而象所謂未順命也。革之九四言改命,臨之九二言未順命,其實一也。革之九四在上近君者也,故曰改命;臨之九二在下遠君者也,故曰未順命。蓋君命善,則左右之臣潤色之而已;君命不善,則左右之臣有正教之使善,然後布之天下,九四所以言改命也。此則命未下也,命既下而不以善,則逺之臣非能之也,有所謂未順而已。

九二の爻辞に言う、「咸臨む、吉利ならざる无し」と。『小象伝』に言う、「咸臨む吉利ならざる无きは、未だ命に順わざるなり」と。柔長べば則ち剛に変わり、剛長べば則ち柔に変わる。九二の六五に於けるや、蓋し道を以て之を感変する者なり。六五且つ又順受して懼れず、吉利ならざる无き所以なり。而して象の所謂未だ命に順わざるなり。革の九四は命を改むるを言い、臨の九二は未だ命に順わざるを言う。其の実一なり。革の九四は上に在りて君に近き者なり、故曰く命を改むと。臨の九二は下に在りて君に遠き者なり、故曰く未だ命に順わずと。蓋し君命善なれば、則ち左右の臣之を潤色するのみ。君命善ならざれば、則ち左右の臣正教之をして善ならしめて然る後に之を天下に布(し)く有り。九四の命を改むるを言う所以なり。此れ則ち命未だ下らざるなり。命既に下りて善を以てせざれば、則ち遠きの臣能くするに非ざるなり。所謂未だ順わざる有るのみ。

六三:甘臨,無攸利,既憂之,無咎。象曰:甘臨,位不當也;既憂之,咎不長也。夫道淡乎其無味者也,舍此或苦或甘,皆非道之長也,故苦節不可貞、甘臨無攸利。夫甘者人之所說,以君子之難說,非卦之能入也;以是臨浸長之剛,又奚可哉?知其不可而憂之,則無咎矣。無咎者,補過也。夕惕若無咎,以懼而補其過者也;既憂之無咎,以憂而補其過者也。

六三の爻辞に言う、「甘く臨む、利する所无し、既に之を憂うれば、咎无し」と。『小象伝』に言う、「甘く臨むは、位当たらざるなり。既に之を憂うは、咎長からざるなり」と。夫れ道は淡乎として味无き者なり。此れを舎てて或いは苦、或いは甘、皆道の長ずる所に非ざるなり。故に苦節は貞にすべからず、甘く臨むは利する所无し。夫れ甘は人の説(よろこ)ぶ所なり。君子の説び難きを以てすれば、卦の能く入る所に非ざるなり。是を以て浸長の剛に臨まん、又奚ぞ可ならんや。其の可ならざるを知りて之を憂えば、則ち咎无きなり。咎无きとは、過を補うなり。夕に愓(つつし)みて咎无き若くは、懼れを以て其の過を補う者なり。既に之を憂う咎无きは、憂えを以て其の過を補う者なり。

六四:至臨,無咎。象曰:至臨無咎,位當也。浸長之剛,以大臨小,以信臨屈,將成其上浸而之剛,在上者固不能不巽順臨之矣。然其巽順不出乎正,則雖甘不說也;其巽順出乎正,則雖不甘亦悅也。六四則巽順之出於正者,是能至誠順乎剛者也,何咎之有哉?故曰至臨無咎。

六四の爻辞に言う、「至りて臨む、咎无し」と。『小象伝』に言う、「至りて臨む咎无きは、位当たるなり」と。浸長の剛は、大を以て小に臨み、信を以て屈に臨む。将に其の浸にして上るの剛を成さんとす。上に在る者は固より巽順を以て之に臨まざる能わざるなり。然れども其の巽順正に出でざれば、則ち甘なりと雖も説ばざるなり。其の巽順正に出ずれば、則ち甘ならずと雖も亦た悦ばるるなり。六四は則ち巽順の正に出ずる者なり。是れ能く至誠を以て剛に順う者なり。何の咎か有らん。故曰く、至りて臨む咎无しと。

六五:知臨,大君之宜,吉。象曰:大君之宜,行中之謂也。傳曰:投隙抵時,屬乎知。所貴乎知者,謂其善抵時也。方君子道上有向乎?,而六五能以柔順以臨之,不抑其進,此善抵者也,故曰知臨。君者,賞罰之所自出,制天下短長之命,而不患乎剛之不足,而所以不足者柔也;大君而能用柔,則得所宜矣,故曰知臨,大君之宜。象曰行中者,剛而能柔,則剛柔之中也。

六五の爻辞に言う、「知を以て臨む、大君の宜、吉」と。『小象伝』に言う、「大君の宜は、中を行うの謂なり」と。伝に曰く、隙(げき)を投じ時を抵(あ)てんとは、知に属すと。知を貴ぶ所以の者は、其の善く時を抵するを謂うなり。方に君子の道上向(のぼ)って凶に向かう有りて、而して六五能く柔順を以て之に臨み、其の進を抑(おさ)えざる、此れ善く抵する者なり。故曰く知を以て臨むと。君とは、賞罰の出づる所なり、天下短長の命を制す。而して剛の足らざるを患えず、而して足らざる所以の者は柔なり。大君にして能く柔を用いれば、則ち其の宜を得るなり。故曰く、知を以て臨む、大君の宜なりと。象に行中と曰う者は、剛にして能く柔なれば、則ち剛柔の中なり。

上六:敦臨,吉無咎。象曰:敦臨之吉,志在內也。上六長人之長者,通乎長厚之長者,長厚乃能長人故也。敦又厚之至,則寛裕溫柔足以有臨矣,君子所以處上而人皆重者,為是故也。

上六の爻辞に言う、「敦(とう)く臨む、吉咎无し」と。『小象伝』に言う、「敦く臨むの吉は、志内に在るなり」と。上六は人の長たるの長なる者、長厚の長に通ず。長厚は乃ち能く人を長とするが故なり。敦は又厚の至なり。則ち寛裕温柔以て臨む有るに足る。君子の上に処りて人皆之を重んずる所以は、此れを為すが故なり。

観卦(坤下巽上)

坤下巽上。觀:盥而不薦,有孚顒若。曰:大觀在上,順而巽,中正以觀天下。觀,盥而不薦,有孚顒若,下觀而化也。觀天之神道而四時不忒,聖人以神道設教而天下服矣。於卦為觀者,顯此道以示天下,而大者輝光之才也,上者高明之位也;以輝光之才處高明之位,則小而在下者斯仰上矣,故於卦為觀。觀者,顯此道以示天下而天下觀之以化也。

『観』卦は下体が坤、上体が巽。卦辞に言う、「観は、盥(かん、手を洗う)して薦(すす)めざれども、孚有りて顒顒(ぎょうぎょう)たり」と。『彖伝』に言う、「大観上に在り、順にして巽、中正を以て天下を観す。観は盥して薦めざれども孚有りて顒顒たりは、下観て化すなり。天の神道を観て四時忒(たが)わず、聖人神道を以て教を設けて天下服す」と。卦に於て観と為るは、此の道を顕(あきらか)にして以て天下に示すなり。而大とは輝光の才なり、上とは高明の位なり。輝光の才を以て高明の位に処れば、則ち小にして下に在る者は斯に上を仰ぐ。故に卦に於て観と為す。観とは、此の道を顕にして以て天下に示し、而して天下之を観て以て化するなり。

夫化之可以成也,觀感而已。以龜之相顧、鳩之相視而化,則聖人之於為天下,固可使觀而化也。將使之觀而化,則何俟乎鉗鍵而驅率之哉?順而巽以輔其自然斯可矣。順而巽者,道也;中正者,徳也。

夫れ化の以て成る可きは、観感のみ。亀の相顧み、鳩(はと)の相視て化するを以てすれば、則ち聖人の天下を為するに於て、固より観て化する可し。将に観て化せしめんとすれば、則ち何ぞ鉗鍵(けんけん、かんぬき)を俟ちて之を駆率せんや。順にして巽にして以て其の自然を輔(たす)く斯に可なり。順にして巽とは道なり、中正とは徳なり。

所貴乎極者,謂其可以取中也;所貴乎表者,謂其可以取正也。以中正觀天下,是猶建極立表於民上耳,其孰有不屬目哉?夫順而巽,則不拂萬物之自然而為偽;中正,則不其身、不迃其心而為偽,亦不為邪,則誠之所存。以誠存,則不待有物以彰之然後見其敬矣。

極を貴ぶ所以の者は、其れ以て中を取る可きを謂うなり。表を貴ぶ所以の者は、其れ以て正を取る可きを謂うなり。中正を以て天下を観すは、是れ猶ほ民の上に極を建て表を立つるのみ。其れ孰(たれ)か目を属(しょく)せざる有らんや。夫れ順にして巽なれば、則ち万物の自然に拂(さから)わずして偽と為らず。中正なれば、則ち其の身を飾(かざ)らず、其の心を迃(う)えずして偽と為らず、亦た邪と為らず。則ち誠の存する所なり。誠を以て存せば、則ち物有りて之を彰かにするを待ちて然る後に其の敬を見るに及ばざるなり。

孔子曰:為禮不敬,吾何以觀之哉?是則可觀者莫如敬也。又曰:禘自既灌而往者,吾不欲觀之矣。盥又先乎灌,其敬尤為足觀,豈待夫薦而後見哉?故曰盥而不薦,足以自敬而不待薦,則觀之者有孚矣。

孔子に曰く、礼を為して敬せざれば、吾何を以て之を観んやと。是れ則ち観る可きは敬に如くは莫きなり。又曰く、禘(てい)既に灌(かん)したるより往(す)ぎる者は、吾之を観んことを欲せずと。盥は又灌に先んず。其の敬尤も観るに足る。豈に夫の薦めを待ちて然る後に見んや。故曰く、盥して薦めざるなりと。以て自ら敬するに足りて薦めを待たざれば、則ち之を観る者孚有るなり。

夫人之心火也,人貌木也,人之心見於貌,猶火之見於木,故內有孚則外見於貌,顒然而靜專也。貞觀者,天地之所以觀萬物也;大觀者,聖人之所以觀天地。故曰觀天之神道而四時不忒,言天有以觀萬物而聖人有以觀之也;又曰聖人以神道設教而天下服矣,言聖人有以觀天下而天下觀之也。

夫れ人の心は火なり、人の貌は木なり。人の心は貌に見ゆるは、猶ほ火の木に見ゆるが如し。故に内孚有れば則ち外貌に見ゆ。顒然として静専なり。貞観とは、天地の万物を観る所以なり。大観とは、聖人の天地を観る所以なり。故曰く、天の神道を観て四時忒わず、天万物を観る有るを以てして聖人有りて之を観るを言うなり。又曰く、聖人神道を以て教を設けて天下服す、聖人有りて天下を観るを以てして天下之を観るを言うなり。

四時有神道,有法。先後之可循、往反之可期,明法也;不知披拂主張之為誰者,神道也。於其神道觀之而不助,則其明法協紀而不忒矣,故曰觀天之神道而四時不忒矣。天之神道,則觀而不助可也;所以教天下,則不能無助矣,故曰神道設教。以神道設教,則行積於此而民得於彼,天下不知其所以然而然矣。

四時に神道有り、法有り。先後の循(したが)う可き、往反の期する可きは、明法なり。披拂(ひふつ)主張するを誰かと為すを知らざるは、神道なり。其の神道に於て之を観て助けざれば、則ち其の明法紀に協して忒わざるなり。故曰く、天の神道を観て四時忒わずと。天の神道は、則ち観て助けざる可し。天下を教うる所以は、則ち助け无き能わざるなり。故曰く、神道教を設くと。神道を以て教を設ければ、則ち行此に積みて民彼に得る、天下其の然る所以を知らずして然るなり。

象曰:風行地上,觀,先王以省方觀民設教。五方之民各有性也,非特五方之民各有性,五土之民亦各有宜。先王之教,將使剛柔緩急各得其性,而和味衣服利用便器各得其宜,於是省方觀民,然後設教焉,此順巽之道也。

『象』に曰く、風地上を行く、観、先王以て方を省み民を観て教を設くと。五方の民各々性有り。特に五方の民各々性有るのみならず、五土の民も亦た各々宜有り。先王の教は、将に剛柔緩急をして各々其の性を得せしめ、而して和味衣服利用便器をして各々其の宜を得せしめんとす。是に於て方を省み民を観て、然る後に教を設く。此れ順巽の道なり。

初六:童觀,小人無咎,君子吝。象曰:初六童觀,小人道也。童,無知也,無與也。小人而有知則必為盜,有與則必為黨;無知無與,乃是小人之福也,故曰童觀,小人無咎。若夫君子,則明哲之貴,不貴夫庸行翳路也,安得旡知乎?徳不孤,必有鄰,安得無與乎?故曰君子吝。

初六の爻辞に言う、「童観(どうかん)、小人は咎无し、君子は吝」と。『小象伝』に言う、「初六童観は、小人の道なり」と。童とは、知无きなり、与(あずか)る无きなり。小人にして知有れば則ち必ず盗と為り、与る有れば則ち必ず党と為る。知无く与る无きは、乃ち小人の福なり。故曰く、童観、小人は咎无しと。若し夫れ君子は、則ち明哲の貴を貴び、夫の庸行翳路(えいろ、蔽いふさぐ道)を貴ばざるなり。安んぞ知无きを得んや。徳孤ならず、必ず鄰有り。安んぞ与る无きを得んや。故曰く、君子は吝なりと。

六二:窺觀,利女貞。象曰:窺觀女貞,亦可醜也。聖人仰則觀天,俯則觀民;觀天則所見大,觀民則所見博。今六二獨見其應,是乃為窺觀,則觀小而狹矣,是則可醜也。於女貞則有從一之徳,故利。

六二の爻辞に言う、「窺(き)して観る、女の貞に利し」と。『小象伝』に言う、「窺して観る女の貞は、亦た醜(はづ)べきなり」と。聖人は仰げば則ち天を観、俯せば則ち民を観す。天を観れば則ち見る所大なり、民を観れば則ち見る所博し。今六二独り其の応を見る、是れ乃ち窺観と為る。則ち観る小にして狭し。是れ則ち醜ずべきなり。女の貞に於ては則ち一に従うの徳有り。故に利し。

六三:觀我生進退。象曰:觀我生進退,未失道也。生,謂動出於我者。草木之生所以盛衰美惡之不同,皆係其本而已;聖人君子所以動出乎身者不同,亦其所養有淺深故也。六三之材,雖其生不如聖人之道沛然有餘,然量進退未失道也。荀卿曰:忠臣誠然後能受職,所以為不窮也。其六三之謂乎?

六三の爻辞に言う、「我が生を観て進退す」と。『小象伝』に言う、「我が生を観て進退すは、未だ道を失わざるなり」と。生とは、動きて我より出づるを謂う。草木の生の盛衰美悪の同じからざる所以は、皆其の本に係(かか)るのみ。聖人君子の動きて身より出づる所の同じからざる所以は、亦た其の養う所の浅深有るが故なり。六三の材は、其の生聖人の道の沛然(はいぜん)として余有るに如かずと雖も、然れども進退を量(はか)りて未だ道を失わざるなり。荀卿に曰く、忠臣は誠にして然る後に能く職を受く、窮まらざるを為す所以なりと。其れ六三の謂か。

六四:觀國之光,利用賓于王。象曰:觀國之光,尚賓也。君子之道,深其根而時養之,則其生也足以窮大極高,有進而已無退也;若其身之進退,則觀乎時而已,故曰觀國之光。九五得尊位大中,以大觀在上,國之光者也。巽為進退、為不果,而未純為臣,故曰賓。然進退不果,而上非有王徳之君足以廸知而忱恂,則疑其晉逼而害之矣,非賓之利也。九五王也,故六四利用賓焉。

六四の爻辞に言う、「国の光を観る、王に賓たるに利を用う」と。『小象伝』に言う、「国の光を観るは、賓を尚ぶなり」と。君子の道は、其の根を深くして時に之を養えば、則ち其の生は以て大を窮め高を極むるに足り、進有るのみにして退无し。若し其の身の進退は、則ち時を観るのみ。故曰く、国の光を観ると。九五は尊位大中を得て、大観を以て上に在り、国の光なる者なり。巽は進退を為し、果ならざるを為す。而して未だ純に臣と為らざる、故に賓と曰う。然れども進退果ならず、而して上王徳の君有りて以て人の智を迪(みちび)き忱恂(しんじゅん)に足るに非ざれば、則ち其の晋(しん、すす)み逼(せま)りて之を害すを疑う。賓の利に非ざるなり。九五は王なり。故に六四王に賓たるに利を用うるなり。

九五:觀我生,君子旡咎。象曰:觀我生,觀民也。在下者常失於好進,好進則誘於前而不復顧矣;在上者常失於好勝,好勝則過在身而不能自檢矣。六三觀我生,則非在上不能自明也,在下觀我生也,此猶有折足之懼而不敢必承也;在上者而觀我生,則非盛徳孰能若是?於是稱君子焉。六三進退未過,未有以施於民,其觀我生則觀諸已而已;九五既以加施於民,則我生宜觀焉,所謂當於民鑑,視民知治也。

九五の爻辞に言う、「我が生を観る、君子咎无し」と。『小象伝』に言う、「我が生を観るは、民を観るなり」と。下に在る者は常に進むを好むに失す。進むを好めば則ち前に誘われて復た顧みざるなり。上に在る者は常に勝たんを好むに失す。勝たんを好めば則ち過は身に在りて能く自ら検(あらため)ざるなり。六三我が生を観るは、則ち上に在りて能く自ら明らかにせざるに非ざるなり。下に在りて我が生を観るなり。此れ猶ほ足を折るの懼れ有りて敢えて必ず承(う)けんとせざるなり。上に在る者にして我が生を観れば、則ち盛徳に非ざれば孰か能く是くの若くせん。是に於て君子と称す。六三進退未だ過ぎず、未だ以て民に施す有らざるなり。其の我が生を観るは則ち諸(これ)を己に観るのみ。九五既に以て民に施すに加われば、則ち我が生宜しく之を観るべし。所謂当に民を以て鑑(かがみ)と為し、民を視て治を知るべきなり。

上九:觀其生,君子無咎。象曰:觀其生,志未平也。上九處一卦之外,無與乎天下者也。無與乎天下,則吾何蹶厥生哉?觀其生而已。觀九五之生,則其君可知矣;觀九三之生,則其臣可知矣。

上九の爻辞に言う、「其の生を観る、君子咎无し」と。『小象伝』に言う、「其の生を観るは、志未だ平らかならざるなり」と。上九は一卦の外に処る、天下に与(あずか)る无き者なり。天下に与る无ければ、則ち吾何ぞ其の生を蹶(たお)れ厥(やぶ)れせんや。其の生を観るのみ。九五の生を観れば、則ち其の君知る可し。九三の生を観れば、則ち其の臣知る可し。

噬嗑卦(震下離上)

震下離上。噬嗑:亨,利用獄。曰:頤中有物,曰噬嗑。噬嗑而亨,剛柔分,動而明,雷電合而章,柔得中而上行,雖不當位,利用獄也。上下剛而中虛,上止而下動,頤之象也;九四以剛虛在中,頤中有物之象也。

『噬嗑(ぜいこう)』卦は下体が震、上体が離。卦辞に言う、「噬嗑、亨、獄を用うるに利し」と。『彖伝』に言う、「頤(えら)の中に物有り、噬嗑と曰う。噬嗑して亨は、剛柔分かれ、動きて明なり、雷電合わりて章(あき)らかなり、柔中を得て上行す。位に当らざると雖も、獄を用うるに利し」と。上下剛にして中虚、上止まりて下動くは、頤の象なり。九四剛を以て中に虚なりは、頤の中に物有るの象なり。

頤所以養百體也,物有間之,則害其所以為養,故必噬而嗑,則有閒者除而上下通,得所以自養矣,故曰噬嗑而亨。然則噬嗑者,用刑之卦也。用刑之道,不剛則無斷制之義,不柔則無矜恤之仁;有剛有柔,又必平而不偏,然後為善。剛柔分,言平而無偏勝也。

頤は百体を養う所以なり。物之を間(はさ)む有れば、則ち其の養と為す所以を害す。故に必ず噬(か)みて嗑(あ)う。則ち間む者除かれて上下通じ、自ら養う所以を得るなり。故曰く、噬嗑して亨なりと。然らば則ち噬嗑とは、刑を用うるの卦なり。刑を用うるの道は、剛ならざれば則ち断制の义无く、柔ならざれば則ち矜恤(きょうじゅつ、あわれみいたわる)の仁无し。剛有り柔有り、又必ず平にして偏(かたよ)らざれば、然る後に善と為る。剛柔分かるは、平にして偏勝无きを言うなり。

雖然,不動不足以發滯伏,不明不足以燭闇昧,故必動而明。夫五刑五用,將天討而已,則其動必如雷,其明必如電,然後乃可,故曰雷電合而章。夫不取於日而取於電者,電見於陰而人畏之,用刑之道也。

然りと雖も、動かざれば以て滞伏(たいふく)を発するに足らず、明ならざれば以て暗昧を烛(てら)すに足らず。故に必ず動きて明なり。夫れ五刑五用は、将に天討のみ。則ち其の動きは必ず雷の如く、其の明は必ず電の如く、然る後に乃ち可なり。故曰く、雷電合わりて章らかなりと。夫れ日に取らずして電に取る者は、電は陰に見えて人之を畏る。刑を用うるの道なり。

剛柔言分,雷電言合,以謂剛則用於未得其情之先,柔則用於已得其情之後;用剛則不能兼柔,用柔則不能兼剛,故言分也。若夫動與明,則不可以相離,相離則不可以成章,故言合也。以二體,則剛柔分、動而明、雷電合而章;以六五,則柔中而上行。如此,則雖不當位,利用獄矣。

剛柔は分を言い、雷電は合を言う。以て剛は則ち未だ其の情を得るの先に用い、柔は則ち已に其の情を得るの後に用うるを謂うなり。剛を用いれば則ち能く柔を兼ぬる能わず、柔を用いれば則ち能く剛を兼ぬる能わず。故に分と言うなり。若し夫れ動と明とは、則ち以て相離(はな)るべからず。相離れば則ち以て章を成すべからず。故に合と言うなり。二体を以てすれば、則ち剛柔分かれ、動きて明なり、雷電合わりて章らかなり。六五を以てすれば、則ち柔中にして上行す。此くの如くすれば、則ち位に当らざると雖も、獄を用うるに利し。

夫其動也如雷,其明也如電,則赫赫厥聲,濯濯厥靈,固足以震耀天下,不止利用獄而已,惟方不當位,故利用獄而已。不曰用刑而曰用獄者,惟刑至於用甲兵,六五利用者小刑而已,故曰獄也。

夫れ其の動きや雷の如く、其の明や電の如くなれば、則ち赫赫(かっかく)たり其の声、濯濯(たくたく)たり其の霊。固より以て天下を震耀するに足る。止まらずして獄を用うるに利するのみならず、惟れ方に位に当らざるが故に獄を用うるに利するのみ。刑を用うと曰わずして獄を用うと曰うは、惟れ刑は甲兵を用うるに至る。六五の利を用うるは小刑のみ。故曰く獄なりと。

象曰:雷電,噬嗑,先王以明罰勅法。禮禁於未然之前,法施於已然之後,然後懲之於小而可使無惡,於是先王以明罰勅法,而人知之不可玩矣。蓋罰之不順人,則以小惡為無傷,馴致於大惡而不悛,雖勅法有不能勝,非所以勅法也。

『象』に曰く、雷電、噬嗑、先王以て罰を明らかにし法を勅(ただ)すと。礼は未然の前に禁じ、法は已然の後に施す。然る後に之を小に懲(こら)して以て悪无からしむ可し。是に於て先王以て罰を明らかにし法を勅す。而して人之を玩(もてあそ)ぶ可からざるを知る。蓋し罰の人に順わざるは、則ち小悪を以て傷无きと為し、馴致して大悪にして悛(あらた)めず。勅法有ると雖も能く勝たざるなり。勅法を為す所以に非ざるなり。

初九:屨校滅趾,無咎。象曰:屨校滅趾,不行也。小人之為不善,非能以類進也,而惟上之人無懲之,然後馴致其道,大惡成焉。蒙曰:用脫桎梏,以往吝。剝曰:剝床以足,蔑貞?。然則屨校滅趾,懲不善於初,不亦宜乎?成周之時,萬民之有罪雖未麗乎法者,以桎梏而坐諸嘉石,則所以懲小人宜早辨矣。滅之者,絶之道也。傳曰:去惡莫如盡。故稱滅焉。

初九の爻辞に言う、「校(こう、枷)を屨(く)して趾(あし)を滅す、咎无し」と。『小象伝』に言う、「校を屨して趾を滅すは、行わしめざるなり」と。小人の不善を為すや、能く類を以て進むに非ざるなり。而して惟れ上の人之を懲す无きは、然る後に其の道に馴致し、大悪成る。蒙に曰く、桎梏(しっこく)を脱(と)くを用う、往くは吝と。剥に曰く、床を足を以て剥(は)ぐ、貞を蔑(ないがし)ろにすれば凶と。然らば則ち校を屨して趾を滅すは、不善を初めに懲するなり。亦た宜しきならずや。成周の時、万民の罪有るは未だ法に麗(かか)らざると雖も、桎梏を以て嘉石に坐(すわ)らしむ。則ち小人を懲する宜しく蚤(はや)く辨ぜる所以なり。之を滅するは、絶つの道なり。伝に曰く、悪を去るは尽くすに如くは莫しと。故に滅と称す。

六二:噬膚滅鼻,無咎。象曰:噬膚滅鼻,乘剛也。噬嗑六爻,初九、上九受刑者也,中四爻皆用刑者也。其所以然者何也?蓋刑之所起,原於小人;用極至於殘殺者,亦以其小人惡積而罪大故也。若夫居中用刑,則君子而已,此六爻之義所以異也。膚柔脆而易噬者也,六二柔中而能資初九之剛,所以利用刑,猶噬膚也。夫六二既刑初九而反資初九之剛,何也?夫噬嗑,食也,食之堅則噬之,既噬則資以為養矣;君子之噬小人亦若此,豈有棄物也哉?

六二の爻辞に言う、「膚(はだえ)を噬みて鼻を滅す、咎无し」と。『小象伝』に言う、「膚を噬みて鼻を滅すは、剛に乗ずるなり」と。噬嗑六爻は、初九、上九は刑を受くる者なり、中四爻は皆刑を用うる者なり。其の然る所以の者何ぞや。蓋し刑の起る所は、小人に原(もと)づく。極を用いて残殺に至る者も、亦た其の小人悪積みて罪大なるを以てなり。若し夫れ中に居りて刑を用うるは、則ち君子のみ。此れ六爻の義の異なる所以なり。膚は柔脆(じゅうぜい)にして噬み易き者なり。六二柔中にして能く初九の剛を資(たす)けと為す。刑を用うるに利する所以は、猶ほ膚を噬むが如し。夫れ六二既に初九に刑して反りて初九の剛を資けと為すは何ぞや。夫れ噬嗑とは食なり。食の堅ければ則ち之を噬み、既に噬めば則ち資けて以て養と為す。君子の小人を噬むも亦た此くの若し。豈に棄物有らんや。

六三:噬臘肉,遇毒,小吝,無咎。象曰:遇毒,位不當也。用刑之道,必有其才,又有其位,然後乃可。徒有其位而才不足,則是士師不能治事也;有其才而位不當,則是代士師殺人也。然是二者,位不當猶愈乎才不足;才不足則刑不中,刑不中則大不服矣。此六三所謂噬臘遇毒,不得噬乾胏也。臘之難噬而又遇毒,以譬刑小人之不服也。臘肉有養人之道,不得其養而遇其毒,固吝也;有其位、代司殺者,又見應於上,是以小吝無咎也。

六三の爻辞に言う、「腊肉(せきにく、干し肉)を噬みて毒に遇う、小さく吝、咎无し」と。『小象伝』に言う、「毒に遇うは、位当たらざるなり」と。刑を用うるの道は、必ず其の才有り、又其の位有りて、然る後に乃ち可なり。徒らに其の位有りて才足らざれば、則ち是れ士師事を治むる能わざるなり。其の才有りて位当たらざれば、則ち是れ士師に代わりて人を殺すなり。然れども是の二者は、位当たらざるは猶ほ才足らざるに愈(まさ)る。才足らざれば則ち刑中(あた)らず、刑中らざれば則ち大いに服せざるなり。此れ六三の所謂腊を噬みて毒に遇う、干胏(かんし、骨付き干し肉)を噬むを得ざるなり。腊の噬み難くして又毒に遇うは、以て小人の服せざるに譬(たと)うなり。腊肉は人を養うの道有り。其の養を得ずして其の毒に遇うは、固より吝なり。其の位有りて司殺する者に代わり、又上に応じるを見る。是の以て小さく吝咎无きなり。

九四:噬乾胏,得金矢,利艱貞吉。象曰:利艱貞吉,未光也。此所謂有其才而位不當者也。有其才,故易於六三之噬臘;位不當,故難乎六五之噬乾焉。九四與六五皆稱金,而九四得金矢、六五得黃金,何也?六五君也,制刑者也;九四臣也,用刑者也。制刑付之臣,用刑加之民,其事雖殊,其欲剛而通乎變則一而已。

九四の爻辞に言う、「干胏を噬みて金矢を得る、艱貞に利して吉」と。『小象伝』に言う、「艱貞に利して吉は、未だ光ならざるなり」と。此れ所謂其の才有りて位当たらざる者なり。其の才有れば、故に六三の腊を噬むより易し。位当たらざれば、故に六五の干を噬むより難し。九四と六五と皆金と称す。而して九四は金矢を得、六五は黄金を得るは何ぞや。六五は君なり、刑を制する者なり。九四は臣なり、刑を用うる者なり。刑を制して之を臣に付け、刑を用いて之を民に加う。其の事殊(こと)なると雖も、其の剛にして変に通ずるを欲するは一のみ。

夫刑,義徳也,剛也。制刑者通乎變,故法令之所設者當焉;用刑者通乎變,故金矢之所施者當焉,是以皆稱金也。至於中之見乎色,則制者之所貴,故六五稱黃,黃者中之見乎色也;矢者,臣而利乎行者也,用刑之所貴,故九四稱矢,矢者直而利乎行也。蓋制刑之初,則欲揆人之情、合時之變,不可過輕,不可過重,正諸中而已;至於用刑則不然,舉夫曲直而推之而已,是以不同也。

夫れ刑は、義の徳なり、剛なり。刑を制する者は変に通ず、故に法令の設くる所は当たるなり。刑を用うる者は変に通ず、故に金矢の施す所は当たるなり。是の以て皆金と称す。中の色に見ゆるに至りては、則ち制する者の貴ぶ所なり。故に六五は黄と称す。黄とは中の色に見ゆる者なり。矢とは、臣にして行に利する者なり、刑を用うるの貴ぶ所なり。故に九四は矢と称す。矢とは直にして行に利する者なり。蓋し刑を制するの初めは、則ち人の情を揆(はか)り、時の変に合わんことを欲し、軽きに過ぐべからず、重きに過ぐべからず、諸を中に正すのみ。刑を用うるに至りては則ち然らず。夫の曲直を挙げて之を推すのみ。是の以て同じからざるなり。

六五:噬乾,得黃金,貞厲,無咎。象曰:貞厲無咎,得當也。六五得尊位大中,不能以道化天下期於無刑,而猶用噬,所以為噬乾肉而難於噬膚,雖貞而厲也。然小人有為間之罪可除,而我之除間之刑得當,故雖厲亦無咎焉。

六五の爻辞に言う、「干を噬みて黄金を得る、貞厲にして咎无し」と。『小象伝』に言う、「貞厲にして咎无きは、当たるを得るなり」と。六五は尊位大中を得る、能く道を以て天下を化して刑无きに期する能わざるに非ず、而して猶ほ噬を用う。干肉を噬むと為して膚を噬むより難しと為す所以なり。貞にして厲しと雖も、然れども小人間を為すの罪有りて除く可し、而して我の間を除くの刑当たるを得。故に厲しと雖も亦た咎无きなり。

上九:何校滅耳,?。象曰:何校滅耳,聰不明也。夫刑有金有木,而木又有校;今初九上九止稱校而已,何也?噬嗑之道,始將勅法,非致刑之時,故稱校焉。金義木仁,而校又非若金之傷也,仁故也。

上九の爻辞に言う、「校を何(か)いて耳を滅す、凶」と。『小象伝』に言う、「校を何いて耳を滅すは、聡明ならざるなり」と。夫れ刑に金有り木在り、而して木に又校有り。今初九上九止まりて校と称すのみ、何ぞや。噬嗑の道は、始め将に法を勅さんとす、刑を致すの時に非ざるなり。故に校と称す。金は義にして木は仁なり。而して校は又金の傷つくるの若きに非ざるなり。仁なるが故なり。

賁卦(離下艮上)

離下艮上。賁:亨,小利有攸往。彖曰:賁亨,柔來而文剛,故亨;分剛上而文柔,故小利有攸往。天文也,文明以止,人文也。觀乎天文以察時變,觀乎人文以化成天下。經曰:物相雜,故曰文。卦之所以為賁,以柔來而文剛、分剛上而文柔,物相雜也。夫立天之道曰陰與陽,立地之道曰柔與剛,立人之道曰仁與義。陰與陽,天之所以為文也;柔與剛,地之所以為文也;仁與義,人之所以為文也。

『賁』卦は下体が離、上体が艮。卦辞に言う、「賁、亨、小さく往く所有るに利し」と。『彖伝』に言う、「賁亨は、柔來りて剛を文(あや)す、故に亨。剛を分かちて上りて柔を文す、故に小さく往く所有るに利し。天文なり、文明にして止まる、人文なり。天文を観て以て時の変を察し、人文を観て以て天下を化成す」と。経に曰く、物相雑(ま)じる、故に文と曰うと。卦の賁と為る所以は、柔來りて剛を文し、剛を分かちて上りて柔を文するを以てなり。物相雑るなり。夫れ天の道を立てるを陰と陽と曰い、地の道を立てるを柔と剛と曰い、人の道を立てるを仁と義と曰う。陰と陽とは、天の文と為る所以なり。柔と剛とは、地の文と為る所以なり。仁と義とは、人の文と為る所以なり。

今賁之成卦,獨以剛柔為言者,剛柔地道,而坤介於西南,於色為章而文,說卦曰坤為文,然則道其文之著者乎?所以賁有取於剛柔也。雖稱地之剛柔,則與天之文、與人之文舉矣,是以下文稱觀乎天文、觀乎人文也。

今賁の成卦、独り剛柔を以て言う者は、剛柔は地の道、而して坤西南に介(かい)す。色に於て章(あや)にして文なり。説卦に曰く、坤は文と為すと。然らば則ち道其の文の著(あきら)かなる者か。賁の剛柔に取る有る所以なり。地の剛柔を称すと雖も、則ち天の文と、人の文と挙げたり。是の以て下文に天文を観ると称し、人文を観ると称すなり。

賁之所以亨,以柔來而文剛也;所以小利有攸往,以分剛上而文柔也。柔來文剛者,本乎剛而又之柔也,在人則是存高明敦大之才而能自損者也,是以亨也;分剛上而文柔者,不中柔而文之以剛也,在人則是懦弱罷軟之才而能自強者也,是以小利有攸往而已。

賁の亨する所以は、柔來りて剛を文するを以てなり。小さく往く所有るに利する所以は、剛を分かちて上りて柔を文するを以てなり。柔來りて剛を文するは、剛に本づいて又之を柔と為すなり。人に在りては則ち高明敦大の才を存して能く自ら損する者なり。是の以て亨なり。剛を分かちて上りて柔を文するは、中ならず柔にして之を剛を以て文するなり。人に在りては則ち懦弱罷軟(だじゃくはんなん、なよなよとして弱き)の才にして能く自ら強うる者なり。是の以て小さく往く所有るに利するのみ。

柔來而文剛,六二之謂也,六二柔者也;分剛上而文柔,上九之謂也,上九剛過者也。蓋本剛而文之過柔,則其柔不必過也,中斯可矣;本乎柔而文之以剛,則剛中不足也,必過而後可也,是以不同也。柔稱來、剛稱上者,何也?往者屈也,來者伸也;柔之文剛也為亨,則是來而信也,故來。剛之文柔雖不足為亨,然亦小利有攸往,非往而屈也,是以變往而稱上也,上六者所謂抗之以高志也。

「柔來りて剛を文する」は、六二の謂なり。六二は柔なる者なり。「剛を分かちて上りて柔を文する」は、上九の謂なり。上九は剛過ぐる者なり。蓋し本(もと)剛にして文するに過柔を以てせば、則ち其の柔必ずしも過ぎず、中斯に可なり。本柔にして之を文するに剛を以てせば、則ち剛中足らざるなり、必ず過ぎて然る後に可なり。是の以て同じからざるなり。柔は來と称し、剛は上と称すは何ぞや。往けるは屈なり、來るは伸なり。柔の剛を文するや亨と為るは、則ち來りて信(の)べるなり。故に來と曰う。剛の柔を文するは以て亨と為るに足らずと雖も、然れども亦た小さく往く所有るに利し、往きて屈するに非ざるなり。是の以て往を変じて上と称す。上六とは所謂之を抗(あ)げるに高志を以てすなり。

剛柔相雜,不違乎自然之文,此天文也。至於人文,則於自然之文不能旡違,至或過而滅質者有矣,是以文明以止,然後為人文也。禮之有元酒,太樂之有朱?越,蓋施止於文明之間也。繫辭曰:通其變,遂成天地之文。賁曰:觀乎天文以察時變。其不同何也?變所以成文,文成而變見,是故通變足以成文,觀文足以察變也。能察時變,然後能觀人文。彼三代之禮不相襲,蓋察乎時變而然也。人固有自然之文,?而愛親、長而敬兄皆是也;因其文而章明之、潤色之,則天下之化旡為而成矣,故曰觀乎人文以化成天下也。

剛柔相雑(ま)じるは、自然の文に違わず、此れ天文なり。人文に至りては、則ち自然の文に於て違う无き能わざるなり。至りて或いは過ぎて質を滅する者有り。是の以て文明にして止まりて、然る後に人文と為るなり。礼の元酒有る、太楽の朱絃疏越(しゅげんそえつ)有るは、蓋し文明の間に止を施すなり。系辞に曰く、其の変を通じて、遂に天地の文を成すと。賁に曰く、天文を観て以て時の変を察すと。其の同じからざるは何ぞや。変は文を成す所以なり、文成りて変見ゆ。是の故に変を通ずるは以て文を成すに足り、文を観るは以て変を察するに足るなり。能く時の変を察して、然る後に能く人文を観る。彼の三代の礼の相襲(つ)がざるは、蓋し時の変を察して然るなり。人固より自然の文有り。幼(おさな)くして親を愛し、長じて兄を敬うは皆是れなり。其の文に因りて之を章明にし、之を潤色せば、則ち天下の化為す无くして成る。故曰く、人文を観て以て天下を化成すと。

象曰:山下有火,賁,君子以明庶政,無敢折獄。政以養民為本,以明為文。以養民為本,有山之象;以明為文,有火之象,故山下有火則稱庶政焉,而政明之為貴。周以夏掌政,義取明也。庶政明,則物以區處、事以條利而不至於爭;其有爭,則是庶政之未明也,是以君子務明庶政也。至於獄,則無敢折也。且賁非以賁也,老氏謂兵若羙之是樂殺人;今獄而施賁,無乃為樂殺人者也?

『象』に曰く、山下に火有り、賁、君子以て庶政を明らかにし、敢えて獄を折(さば)かざるなりと。政は民を養うを以て本と為し、明らかなるを以て文と為す。民を養うを以て本と為すは、山の象有り。明らかなるを以て文と為すは、火の象有り。故に山下に火有れば則ち庶政と称す。而して政の明らかなるを貴びと為す。周は夏を以て政を掌(つかさど)る、義は明を取るなり。庶政明なれば、則ち物以て区処(くしょ)し、事以て条利(じょうり、すじみちたりて利する)して争に至らざるなり。其の争有れば、則ち是れ庶政の未だ明ならざるなり。是の以て君子務めて庶政を明らかにするなり。獄に至りては、則ち敢えて之を折(さば)かざるなり。且つ賁は以て賁とするに非ざるなり。老氏は兵(つわもの)若しこれを美(ほ)めれば則ち是れ人を殺すを楽しむと謂う。今獄にして賁を施せば、乃ち人を殺すを楽しむ者と為さざらんや。

初九:賁其趾,舎車而徒。象曰:舎車而徒,義弗乘也。趾在下而能行者也。所以自飾莫若乎義,而義路也,由義路而行,賁其趾之象也。苟由義路而行,則義在乎勞,不舎勞而取逸;義在於遠,不舎遠而取近矣,故六二虛中有車之象,欲以載初,而初舎之弗乘也。六二:賁其須。象曰:賁其須,與上興也。以柔飾上者,須也。六二柔不自立,麗九三而飾之,湏之象也。然賁以剛柔相雜,義雖不能自立而飾物,亦未有咎也;雖未有咎,與上興而已,吉亦不足道也。

初九の爻辞に言う、「其の趾(あし)を賁(かざ)り、車を舎てて徒(かち)す」と。『小象伝』に言う、「車を舎てて徒すは、義に於て乗らざるなり」と。趾は下に在りて能く行く者なり。自ら飾る所以は義に若くは莫し。而して義は路なり。義の路に由りて行けば、賁其の趾の象なり。苟も義の路に由りて行けば、則ち義は労に在り、労を舎てて逸を取らず。義は遠に在り、遠を舎てて近を取らざるなり。故に六二虚中にして車の象有り、欲す以て初を載せんとするも、而して初之を舎てて乗らざるなり。六二の爻辞に言う、「其の須(ひげ)を賁る」と。『小象伝』に言う、「其の須を賁るは、上と与(とも)に興るなり」と。柔を以て上を飾るは、須なり。六二柔自ら立たず、九三に麗(つ)いて之を飾る、須の象なり。然れども賁は剛柔相雑るを以てす。義自ら立つ能わずして物を飾ると雖も、亦た未だ咎有らざるなり。未だ咎有らずと雖も、上と与に興るのみ。吉も亦た道うに足らざるなり。

九三:賁如濡如,永貞吉。象曰:永貞之吉,終莫之陵也。賁如,自飾也;濡如,二飾之也。凡言濡,皆相與於不足,非相忘於有餘,猶所謂相濡以沬者也,豈若渙其群者哉?故夬之遇雨若濡則有慍之者,賁之賁如濡如則有陵之者。惟能永貞,不至乎勢傾而絶、利窮而散,是吉而莫之陵也。

九三の爻辞に言う、「賁如(ひじょ)濡如(じゅじょ)たり、永く貞にして吉」と。『小象伝』に言う、「永貞の吉は、終に之を陵(おか)す莫きなり」と。賁如とは、自ら飾るなり。濡如とは、二之を飾るなり。凡そ濡と言うは、皆足らざるに相与(あずか)る、足れるに於て相忘るるに非ず。猶ほ所謂沫(あわ)を以て相濡(うるお)す者の若し。豈に其の群を渙(さん)ずる者の若ならんや。故に夬(かい)の雨に遇えば濡の若くして慍(うら)む者有り、賁の賁如濡如には陵する者有り。惟れ能く永く貞にして、勢い傾きて絶たるに至らず、利窮まりて散ずるに至らざれば、是れ吉にして之を陵する莫きなり。

六四:賁如皤如,白馬翰如,匪冦婚媾。象曰:六四當位疑也,匪冦婚媾,終無尤也。自飾以正,故曰賁如;未受飾於物,故曰皤如。能自飾於正,則雖未受飾於物,將有飾之者矣,故曰白馬翰如。初九以剛在下,未受飾於物而動以趨上,白馬翰如之象也。然六四當位,非知變者,故初九之來則疑其為冦;然非冦也,婚媾而已。冦相賊也,婚媾相親也,固亦異矣;今疑若是,則疑之惑也甚矣。

六四の爻辞に言う、「賁如皤如(はじょ、白きさま)、白馬翰如(かんじょ、飛ぶが如く)たり、寇(あだ)に非ず婚媾(こんこう)なり」と。『小象伝』に言う、「六四位に当たるも疑うなり。寇に非ず婚媾は、終に尤(とが)无きなり」と。自ら飾るに正を以てす、故曰く賁如。未だ物に飾るを受けざれば、故曰く皤如。能く自ら飾るに正を以てすれば、則ち未だ物に飾るを受けざると雖も、将に之を飾る者有らんとす。故曰く白馬翰如と。初九剛を以て下に在り、未だ物に飾るを受けずして動きて以て上に趨る、白馬翰如の象なり。然れども六四位に当たる、変を知る者に非ざるなり。故に初九の來れば則ち其の寇なるを疑う。然れども寇に非ず、婚媾のみ。寇は相賊(そこな)う、婚媾は相親しむ。固より亦た異なり。今疑うこと是の若くは、則ち疑うことの惑いや甚だしきなり。

六五:賁于丘園,束帛戔戔,吝終吉。象曰:六五之吉,有喜也。丘園,生財者也;束帛,用財者也。於生財則致益,於用財則致損,強本而節用者也。蓋六五之才,內陽外陰,陽為實也,陰為虛為損,有強本節用之象焉。夫賁,致飾之卦也,致飾則侈靡所由生,故六五有賁于丘園、束帛戔戔之辭焉。然束帛,物以為禮也,將為禮而戔戔,則吝道也;以其能強本而非墨子之私憂,故終吉。象曰六五之吉有喜也,為其非私憂天下之不足也。

六五の爻辞に言う、「丘園に賁り、束帛戋戋(せんせん、少なきさま)、吝も終に吉」と。『小象伝』に言う、「六五の吉は、喜び有るなり」と。丘園とは、財を生ずる者なり。束帛とは、財を用うる者なり。財を生ずるに於ては益に致(いた)り、財を用うるに於ては損に致る、本を強めて用を節する者なり。蓋し六五の才は、内陽外陰、陽は実と為る、陰は虚と為り損と為る。本を強めて用を節するの象有るなり。夫れ賁とは、飾に致るの卦なり。飾に致れば則ち侈靡(しび)の生ずる由なり。故に六五丘園に賁り、束帛戋戋の辞有るなり。然れども束帛は、物を以て礼と為るなり。将に礼を為さんとして戋戋たれば、則ち吝の道なり。其の能く本を強めて墨子の私憂に非ざるを以て、故に終に吉なり。象に曰く六五の吉喜び有りとは、其の私に天下の足らざるを憂うるに非ざるを為すが故なり。

上九:白賁,無咎。象曰:白賁無咎,上得志也。傳曰:色者,白立而五色成焉。五色成於白,故賁之上九為白賁,所謂文明以止也。聖人之於人,所以藩飾之旡所不至,要其歸使之日用飲食而已,此終於白賁之意也。白者,性之質也,未染於物之時。白賁,或賁物之賁而終也,能明白太素則清淵不迷矣。既雕既琢,還反於樸,即此意也。

上九の爻辞に言う、「白賁、咎无し」と。『小象伝』に言う、「白賁咎无きは、上志を得るなり」と。伝に曰く、色とは、白立ちて五色成ると。五色は白に成る。故に賁の上九は白賁と為る。所謂文明にして止まるなり。聖人の人に於けるや、藩飾(はんしょく、かざりたてる)するの至らざる所无し。其の帰を要するに之を日用飲食せしむるのみ。此れ終に白賁と為るの意なり。白とは、性の質なり、未だ物に染まるの時なり。白賁とは、或いは物を賁るの賁にして終るなり。能く太素を明らかにすれば則ち清淵迷わざるなり。既に彫(ほ)り既に琢(みが)きて、還りて朴に反るは、即ち此の意なり。

剥卦(坤下艮上)

坤下艮上。剝:不利有攸往。曰:剝,剝也,柔變剛也。不利有攸往,小人長也。順而止之,觀象也;君子尚消息盈虛,天行也。剝,陰剝陽而至爛也。魚爛不可復全,則君子之於剝,止焉以俟可也;有攸往,則適足以招揭致害,不可以逃矣,故曰不利有攸往。

『剥』卦は下体が坤、上体が艮。卦辞に言う、「剥、往く所有るに利しからず」と。『彖伝』に言う、「剥とは剥ぐなり、柔剛に変わるなり。往く所有るに利しからざるは、小人長びるなり。順にして之を止むるは、象を観るなり。君子消息盈虚を尚ぶ、天の行なり」と。剥とは、陰陽を剥ぎて爛(ただ)るるに至るなり。魚爛るれば復た全きべからず。則ち君子の剥に於けるや、止まりて以て可なるを俟つ可し。往く所有れば、則ち適(まさ)に以て害を招き致すに足り、以て逃ぐべからざるなり。故曰く、往く所有るに利しからずと。

夬則曰剛決柔,剝曰柔變剛,何謂也?夬,人事也;變,天道也。君子之於小人,直以人事決之耳;小人則其人事不足以勝君子,蓋以天道之逆而徐徐以變之耳,故曰柔變剛也。剛之長至於五剛,其長猶未變也,且健以決柔而為剛矣;柔之長至於五柔,則其長為已極,乃將順而止之,不使至上行,此進陽退陰之義也。

夬は則ち剛柔を決(さ)くと曰い、剥は柔剛に変わると曰うは、何を謂うか。夬とは人事なり、変とは天道なり。君子の小人に於けるや、直ちに人事を以て之を決(さ)くのみ。小人は則ち其の人事君子に勝るに足らざるなり。蓋し天道の逆を以てして徐徐に以て之を変ずるのみ。故曰く、柔剛に変わるなりと。剛の長び五剛に至るは、其の長び猶ほ未だ変わらざるなり。且つ健にして以て柔を決して剛と為るなり。柔の長び五柔に至れば、則ち其の長び已に極まると為す。乃ち将に順にして之を止め、上に行かしめざらんとす。此れ陽を進め陰を退くるの義なり。

蓋五剛猶盛而一陰始生,則逆而制之可也,姤之繫金柅是也;五剛已盛而一柔未去,則健以決之可也,夬之揚于王庭是也。若乃五柔已盛,則逆而制之不可也,健而決之亦不可也,順以止之斯可矣。所以順而止,為其有可止之象也,故曰順而止之,觀象也。

蓋し五剛猶ほ盛んにして一陰始めて生ずれば、則ち逆らいて之を制する可し。姤(こう)の金柅(きんじ、車止め)に繋ぐ是れなり。五剛已に盛んにして一柔未だ去らざれば、則ち健にして以て之を決する可し。夬の王庭に揚げる是れなり。若し乃ち五柔已に盛んなれば、則ち逆らいて之を制する可からず、健にして之を決するも亦た可からず。順にして之を止むる斯に可なり。順にして之を止むる所以は、其の止む可きの象有るを為すが故なり。故曰く、順にして之を止むるは、象を観るなりと。

所謂象也者,消息盈虛之象,則小人之威知其可以順而去矣。蓋消必有息,盈必有虛;以消則必有息,以盈則必有虛,則陽有來復、陰有退聽之理,順是而止之,則於天豈曰違之哉?象曰:山附於地,剝,上以厚下安宅。山附於地,則下厚而上安也,君子於是以厚安宅。下之不厚而自安於上,則是處焚薪之上、坐漏船之中,雖火未燃、水未及溺,固不可以為安矣。

所謂象とは、消息盈虚の象なり。則ち小人の威は以て順にして去る可きを知るなり。蓋し消には必ず息有り、盈には必ず虚有り。消を以てすれば則ち必ず息有り、盈を以てすれば則ち必ず虚有れば、則ち陽は來復有り、陰は退聴するの理有り。是を順うて之を止めば、則ち天に於て豈に之に違うと曰わんや。『象』に曰く、山地に附(ふ)す、剥、上以て下を厚くし宅(おも)を安んずと。山地に附せば、則ち下厚くして上安し。君子是に於て以て厚く宅を安んず。下の厚からざるにして自ら上に安んずれば、則ち是れ焚薪(ふんしん)の上に処り、漏船の中に坐するなり。火未だ燃えず、水未だ溺(おぼ)るに及ばずと雖も、固より以て安しと為すべからざるなり。

初六:剝床以足,蔑貞?。象曰:剝床以足,以滅下也。床與輿,皆人之所恃以為安者也,而床則以夜息,輿則晝行。夜者陰盛之時,晝者陽復之時,於其方剝則稱床,於上九而復則稱輿,辭各有所稱也。剝床以足,才滅下而已;於是時,上有以貞之,則不能馴致而為剝矣;惟上無陽應故?,既?,故曰剝床以足,蔑貞?。

初六の爻辞に言う、「床を足を以て剥ぐ、貞を蔑(ないがしろ)にすれば凶」と。『小象伝』に言う、「床を足を以て剥ぐは、下を滅するを以てなり」と。床と輿(くるま)とは、皆人の恃(たの)みて以て安んずる者なり。而して床は則ち夜に息(やす)み、輿は則ち昼に行く。夜とは陰盛んの時なり、昼とは陽復するの時なり。其の方に剥するに於ては則ち床と称し、上九に於て復すれば則ち輿と称す。辞各々称する所有り。「床を足を以て剥ぐ」は、才(わず)かに下を滅するのみ。是の時に於て、上之を貞にする有れば、則ち能く馴致して剥と為らざるなり。惟れ上陽の応无きが故に凶。既に凶なれば、故曰く、床を足を以て剥ぐ、貞を蔑にすれば凶なりと。

六二:剝床以辨,蔑貞?。象曰:剝床以辨,未有與也。辨進於足矣,君子之不得安宅甚矣,猶曰貞凶,何也?二陰尚微,未至於不利君子貞也;君子雖欲正之,末如之何矣。至若一陰始生,則可以有魚包之也;二陰浸長,則以臣妾畜之也;過此以往,其凶必矣,不特亦滅趾也。君子之勝小人,猶水勝火;然小人已盛而君子之道微,則是一輿薪之火,杯水不足勝也。

六二の爻辞に言う、「床を辨(べん、床の框)を以て剥ぐ、貞を蔑にすれば凶」と。『小象伝』に言う、「床を辨を以て剥ぐは、未だ与(あずか)る有らざるなり」と。辨は足に進む。君子の宅を安んずるを得ざるや甚だしきなり。猶ほ貞凶と曰うは何ぞや。二陰尚ほ微なり、未だ君子の貞に利しからざるに至らざるなり。君子之を正さんと欲すと雖も、之を如何せんも末(まっ)きなり。至若(しにゃく)一陰始めて生ずれば、則ち以て魚有りて包(つつ)むべし。二陰浸(ひた)り長べば、則ち以て臣妾(しんしょう)を畜(やしな)うべし。此れを過ぎて以て往かば、其の凶必ずなり。特に亦た趾を滅するのみならず。君子の小人に勝つは、猶ほ水の火に勝つが若し。然れども小人已に盛んにして君子の道微なれば、則ち是れ一輿の薪の火なり、杯水以て勝るに足らざるなり。

六三:剝之,無咎。象曰:剝之無咎,失上下也。所剝者,君子也;剝之者,小人也。小人得無咎者,以失其上下之朋類而應陽故也,此所以有與也。六二未有與則?,六三有與,則小人之所以為小人,惟其異類移之耳,所謂相柅而入禍門者也;然其自脫於群邪之中而與君子,何咎之有哉?

六三の爻辞に言う、「之を剥ぐ、咎无し」と。『小象伝』に言う、「之を剥ぐ咎无きは、上下を失うなり」と。剥がる所は君子なり、剥ぐ者は小人なり。小人咎无きを得る者は、其の上下の朋類を失いて陽に応ずるを以てなり。此れ与る有る所以なり。六二未だ与る有らざれば則ち凶。六三与る有れば、則ち小人の小人と為る所以は、惟れ其の異類之を移すのみ。所謂相柅(とど)めて禍門に入る者なり。然れども其の自ら群邪の中より脱して君子と与すれば、何の咎か有らんや。

六四:剝床以膚,凶。象曰:剝床以膚,切近災也。剝床以足、以辨,則危之而已;剝床以膚,於是傷之矣,所謂?糠及米者也。於陰之方生與其浸長之時,不能有以正之,使至於切近,則君子之勢弱而易傷,不足以自捍禦矣,於是稱膚焉。

六四の爻辞に言う、「床を膚(はだ)を以て剥ぐ、凶」と。『小象伝』に言う、「床を膚を以て剥ぐは、災いに切(せま)り近きなり」と。床を足を以て、辨を以て剥ぐれば、則ち之を危うくするのみ。床を膚を以て剥ぐれば、是に於て之を傷つくるなり。所謂糠(ぬか)を簸(ひ)りて米に及ぶ者なり。陰の方に生ずると其の浸り長ぶの時に於て、以て之を正す有る能わずして、切近に至らしめば、則ち君子の勢い弱くして傷つき易し、以て自ら捍御(かんぎょ)するに足らざるなり。是に於て膚と称するなり。

六五:貫魚以宮人寵,無不利。象曰:以宮人寵,終無尤也。小人能以利養君子,然御得其道則潛退而不為用,魚之象也。六五得尊位大中,資為於上九以制眾陰,順序而承之,貫魚象也。夫群小之在下,君子豈比而誅之哉?亦御之以道,使其若貫魚然,則不至於亂而反為吾利矣。

六五の爻辞に言う、「魚を貫(つら)ねて宮人(きゅうじん)を以て寵(ちょう)せしむ、利ならざる无し」と。『小象伝』に言う、「宮人を以て寵せしむるは、終に尤(とが)无きなり」と。小人能く利を以て君子を養う。然れども之を御するに其道を得れば、則ち潜み退きて用と為らざるなり。魚の象なり。六五は尊位大中を得て、上九に資(たす)けられて以て衆陰を制す。順序にして之を承く、貫魚の象なり。夫れ群小の下に在るは、君子豈に比(なら)べて之を誅(ちゅう)せんや。亦た之を御するに道を以てし、其れを貫魚の然らしめば、則ち乱るるに至らずして反りて吾が利と為るなり。

且以貫魚之道施宮人寵,使其順從而不得有為,則無不利矣。詩言為龍為光,所謂為龍,言使之升降自如、不見制畜也,此則待君子之道也;若夫待小人與宮人之道,則若貫魚可也,為龍則害莫大焉,故曰貫魚以宮人寵無不利,而象曰終無尤也。

且つ貫魚の道を以て宮人の寵に施し、其れを順従せしめて有為を得さしめざれば、則ち利ならざる无し。詩に為(な)る龍為る光と言う。所謂為る龍とは、之を昇降自如(しじよ)せしめて制畜(せいちく)を見ざるを言うなり。此れ則ち君子を待つの道なり。若し夫れ小人と宮人を待つの道は、則ち貫魚の若く斯に可なり。為る龍と為せば則ち害大なる莫し。故曰く、貫魚宮人を以て寵せしむ、利ならざる无しと。而して象に曰く、終に尤无きなりと。

上九:碩果不食,君子得輿,小人剝廬。象曰:君子得輿,民所載也;小人剝廬,終不可用也。離以柔麗,故稱百糓;觧以剛動,故稱百草。上九以剛在上而不剝於陰,則又碩果而不食者也。夫小人能載君子,亦能從君子;於其方剝,則覆君子而乘上;於其已復,則載君子而在下。上九剝窮上而徑反下也,於是君子得輿焉。大君子善帡幪其下,猶之廬也,而小人乃反剝之,則是自剝其廬也;自剝其廬,亦以愚甚,何可用哉?

上九の爻辞に言う、「碩果(せきか)食(く)われず、君子輿を得、小人廬(ろ)を剥ぐ」と。『小象伝』に言う、「君子輿を得るは、民の載せる所なり。小人廬を剥ぐは、終に用うべからざるなり」と。離は柔を以て麗(つ)く、故に百穀と称す。解は剛を以て動く、故に百草と称す。上九剛を以て上に在りて陰に剥がれざれば、則ち又碩果にして食われざる者なり。夫れ小人能く君子を載せ、亦能く君子に従う。其の方に剥するに於ては、則ち君子を覆して上に乗ず。其の已に復するに於ては、則ち君子を載せて下に在り。上九は剥上に窮まりて徑(すなお)に下に反るなり。是に於て君子輿を得るなり。大いなる君子は善く其の下を帡幪(へいほう、おおいかぶせる)す。猶ほ廬の之(ごと)きなり。而して小人乃ち反りて之を剥ぐは、則ち是れ自ら其の廬を剥ぐなり。自ら其の廬を剥ぐは、亦た愚甚だしきを以てす。何ぞ用うべからんや。

周易新講義卷第四

復卦(震下坤上)

震下坤上。復:亨。出入無疾,朋來無咎,反復其道,七日來復,利有攸往。彖曰:復亨,剛反,動而以順行,是以出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復,天行也。利有攸往,剛長也。復,其見天地之心乎。

『復』卦は下体が震、上体が坤。卦辞に言う、「復、亨。出入疾无し、朋來りて咎无し、其の道を反復して七日にして來復す、往く所有るに利し」と。『彖伝』に言う、「復亨は、剛反るなり、動きて以て順に行けば、是の以て出入疾无く、朋來りて咎无し。其の道を反復して七日にして來復すは、天の行なり。往く所有るに利しは、剛長ぶるなり。復は、其れ天地の心を見るか」と。

復之為卦,以六爻言之,與姤反者也;以二體言之,與豫反者也。雷在地中為復,雷出地奮為豫。豫者,眾人熈熈如春臺之時,方是時疑若亨也,而其究則為塞,所謂伸道致屈也;復者,歸根復命之時,疑若塞也,而其究則為亨,所謂屈道致伸也,故曰復亨,而豫則不言亨焉。

復の卦と為るは、六爻を以て之を言えば、姤と反る者なり。二体を以て之を言えば、豫と反る者なり。雷地中に在りて復と為り、雷地を出でて奮いて豫と為る。豫とは、衆人熈熈(きき)として春台の如きの時なり。方に是の時、疑うらくは若く亨なりとす。而して其の究(きわ)むれば則ち塞(ふさ)がると為る。所謂伸の道屈を致すなり。復とは、根に帰り命に復るの時なり。疑うらくは若く塞がるとす。而して其の究むれば則ち亨と為る。所謂屈の道伸を致すなり。故曰く復亨と。而して豫は則ち亨を言わざるなり。

剛反,動而以順行,言循乎自然之機而無所拂也。夫惟若是,故出無疾,言自外來而無疾也;入無疾,言自內往而無疾也,謂利用出入無有括礙之也。復非獨陽復,而陰亦復其所,故曰朋來,言陰之朋來也。陰反其所,非出而乾陽,故陽得無疾;陽反其所,不致阻陰,故得無咎。

剛反る、動きて以て順に行くは、自然の機に循(したが)うて拂(さから)う所无きを言うなり。夫れ惟れ是くの若ければ、故に出でて疾无し、自ら外より來りて疾无きを言うなり。入りて疾无し、自ら内より往きて疾无きを言うなり。出入に疾无きは、利用出入括碍(かつがい、さえぎり)する所有るに非ざるを謂うなり。復は独り陽復るに非ず、而して陰も亦た其の所に復る。故曰く朋來ると。陰の朋來るを言うなり。陰其の所に反る、出でて陽に干(あた)えず。故に陽疾无きを得。陽其の所に反る、陰を阻(はば)むるを致(いた)さざるなり。故に咎无きを得るなり。

未至為反,已至為復。反復其道,七日來復,此天行也。聖人之於卦,於臨必曰八月有凶,於復必曰七日來復,何也?非獨於復原始而臨要終也,道之消長有數存焉於其間。知此,則道之消也不足憂,道之長也不足喜,其出不利而其入不懼矣。

未だ至らざるを反と為し、已に至るを復と為す。其の道を反復して七日にして來復す、此れ天の行なり。聖人の卦に於けるや、臨に於て必ず八月に凶有りと曰い、復に於て必ず七日にして來復すと曰うは何ぞや。独り復に於て始めを原め、臨に於て終りを要するに非ざるなり。道の消長は数其の間に在りて存ずるなり。此れを知れば、則ち道の消ゆるは憂うるに足らず、道の長ぶるは喜ぶに足らず。其の出不利なれば其の入懼れざるなり。

剝之不利有攸往則稱小人壯,復之利有攸往則稱小人消;剝不利有攸往則稱小人長,復之利有攸往則稱剛長,何謂也?言小人則如戒之君子,言剛知小人之為柔。然而剛柔雲者,天地之道也;君子小人云者,人事也。天地之道,屈伸相感,利在其中,雖五陰長而為剝,是猶日往而月來、暑往而寒來,非不利也;其有不利,則人事而已。故於其不利有攸往則以人事言,於其利有攸往以天地之道言之也。

剥の往く所有るに利しからざれば則ち小人壮んなりと称し、復の往く所有るに利すれば則ち小人消ゆと称す。剥の往く所有るに利しからざれば則ち小人長ぶと称し、復の往く所有るに利すれば則ち剛長ぶと称すは、何を謂うか。小人と言えば則ち君子に戒むるが如し。剛と言えば小人の柔と為るを知るなり。然れども剛柔と云うは、天地の道なり。君子小人と云うは、人事なり。天地の道は、屈伸相感じて利其の中に在り。五陰長びて剥と為ると雖も、是れ猶ほ日往きて月來り、暑往きて寒來るが若し。不利に非ざるなり。其の不利有れば、則ち人事のみ。故に其の往く所有るに利しからざるに於ては則ち人事を以て言い、其の往く所有るに利するに於ては天地の道を以て之を言うなり。

復之見天地之心,何也?其往、其復,皆足以見天地之心,而於復言此,何也?復者,一陽始生,正北方也。北方水也,於情為恐;而南方火也,於情為喜。往而喜、復而恐,物之情也;於物之為恐且順之焉,則其見天地之心莫此為著矣。

復の天地の心を見るは、何ぞや。其の往、其の復、皆以て天地の心を見るに足る。而して復に於て此れを言うは何ぞや。復とは、一陽始めて生ず、正(まさ)に北方なり。北方は水なり、情に於て恐(おそ)れと為る。而して南方は火なり、情に於て喜びと為る。往きて喜び、復りて恐るるは、物の情なり。物の恐れと為るに於て且つ之に順えば、則ち其の天地の心を見る此に著(あきら)かなるは莫きなり。

象曰:雷在地中,復,先王以至日閉闗,商旅不行,后不省方。復者,陰陽各復其所,故先王以閉闗、商旅不行,以應陰之復也;后不省方,以應陽之委也。故省方觀民則稱先王,於不省方則稱後。後與有司反者也,有司則勞而後則逸,於其有不省方也,稱後宜矣。

『象』に曰く、雷地中に在り、復、先王以て至日に關を閉ぢ、商旅行われず、后方を省(み)ずと。復とは、陰陽各々其の所に復るなり。故に先王以て關を閉閉ぢ、商旅行われざるは、以て陰の復に応ずるなり。后方を省ずるは、以て陽の委(い、たなおろし)に応ずるなり。故に方を省み民を観れば則ち先王と称し、方を省ぜざるに於ては則ち后(きみ)と称す。后は有司と反る者なり。有司は則ち労して后は則ち逸(いつ)す。其の方を省ぜざる有るに於ては、后と称する宜しきなり。

初九:不逺復,無祗悔,元吉。象曰:不逺之復,以修身也。天地之道,一往一復,則人亦不能無往復也。然往則離本,復則反本,是以復之為貴,而尤貴其復之早也。初九復之早者,故曰不逺復。然而聖人之為道,復非修身,往非殉物,與時偕行而已矣;初九雖復之不逺,然克己而復,非所謂與時偕行者也,故於地道則無悔焉,於知幾之神則不為無小疵矣,故曰無祗悔元吉。

初九の爻辞に言う、「遠からずして復る、悔に祗(いた)る无し、元吉」と。『小象伝』に言う、「遠からざるの復は、以て身を修むるなり」と。天地の道は、一往一復す。則ち人も亦た往復有る能わざるなり。然れども往けば則ち本を離れ、復れば則ち本に反る。是の以て復の貴と為る所なり。而して尤も其の復の早きを貴ぶ。初九は復の早き者なり。故曰く、遠からずして復ると。然れども聖人の道と為るは、復は身を修めるに非ず、往は物に殉(じゅん)ずるに非ず、時と偕に行くのみ。初九復の遠からずと雖も、然れども己に克ちて復るは、所謂時と偕に行く者に非ざるなり。故に地道に於ては則ち悔无く、幾を知るの神に於ては則ち小疵(しょうし)无しと為さざるなり。故曰く、悔に祗る无し、元吉なりと。

六二:休復,吉。象曰:休復之吉,以下仁也。依於仁為休,六二依初九之仁而下焉,復之休者也。夫仁,天之尊爵也,不可不下也。六三:頻復,厲無咎。象曰:頻復之厲,義無咎也。六三既復而過中矣,於是時將以自克而求復,則是失之於嬉逰之日而事之於奔競之時也,彼又烏能無頻乎哉?且火於情為喜,水於情為恐,則火馳而喜、淵靜而恐,復之情也,則六三之頻宜。雖然,危道也;雖危而無咎者,以其猶復,義無咎也。

六二の爻辞に言う、「休(よ)き復、吉」と。『小象伝』に言う、「休復の吉は、仁に下るを以てなり」と。仁に依るを休と為す。六二は初九の仁に依りて下に在り、復の休なる者なり。夫れ仁とは、天の尊爵(そんしゃく)なり、下らざるべからざるなり。六三の爻辞に言う、「頻(しき)りに復る、厲(あや)うきも咎无し」と。『小象伝』に言う、「頻復の厲は、義咎无きなり」と。六三既に復りて中を過ぐ。是の時に於て将に自ら克ちて復を求めんとせば、則ち是れ嬉遊の日に之を失い、奔競(ほんきょう)の時に之を事(つか)うなり。彼れ又烏(なん)ぞ能く頻りならざらんや。且つ火は情に於て喜びと為り、水は情に於て恐れと為る。則ち火馳(は)せて喜び、淵静にして恐るるは、復の情なり。則ち六三の頻なる宜しきなり。然りと雖も、危き道なり。危しと雖も咎无き者は、其の猶ほ復るを以て、義咎无きなり。

六四:中行獨復。象曰:中行獨復,以從道也。六四居四陰之中而能復,此不與天下皆往而能獨復者也,萬物並作吾以觀其復之謂也。象謂之從道,從道於初九也。六二謂之下仁,六四謂之從道,蓋初九不逺之復以修身也;修身以道,修道以仁,能修身則道與仁具矣。以六二之親也,則曰下仁;以六四之逺也,則曰從道,各從其類也。

六四の爻辞に言う、「中を行きて独り復る」と。『小象伝』に言う、「中を行きて独り復るは、以て道に従うなり」と。六四は四陰の中に居りて能く復る。此れ天下と皆往かずして能く独り復る者なり。万物並(あらた)に作(おこ)りて吾以て其の復を観るの謂なり。象之を道に従うと謂うは、初九に於て道に従うなり。六二の仁に下ると謂う、六四の道に従うと謂うは、蓋し初九し初九遠からざるの復は以て身を修むるなり。身を修むるに道を以てし、道を修むるに仁を以てす。能く身を修めれば則ち道と仁と具(そな)わるなり。六二の親しきを以ては、則ち仁に下ると曰う。六四の遠きを以ては、則ち道に従うと曰う。各々其の類に従うなり。

六五:敦復,無悔。象曰:敦復無悔,中以自考也。六五居大中之位,非失其所受於天地者也;非失其所受於天地而復焉,則是消息盈虛與時偕復而已矣,是乃所以為敦復也。夫早復謂之重積徳,重積徳則固乃厚矣;消息盈虛與復,則又厚之至也,故稱敦焉。敦復則出吉凶之表,而萬變不能為之疵,非獨無祗悔而已。

六五の爻辞に言う、「敦(とう)く復る、悔无し」と。『小象伝』に言う、「敦く復る悔无きは、中以て自ら考(かんが)うるなり」と。六五は大中の位に居る。其の天地に受くる所を失うに非ざるなり。其の天地に受くる所を失うに非ずして復れば、則ち是れ消息盈虚時と偕に復るのみ。是れ乃ち敦復と為る所以なり。夫れ早く復るを重積徳(ちょうせきとく)と謂う。重積徳は則ち固(もと)より乃ち厚きなり。消息盈虚復と与すれば、則ち又厚の至なり。故に敦と称す。敦復は則ち吉凶の表(おもて)に出で、而して万変能く之が疵(きず)と為らざるなり。独り悔に祗る无きのみならず。

象曰中以自考,何謂也?言能自考,則非資於人若下仁從道者也,又非克己若修身者也,成乎自然而已,是乃所以為敦也。上六:迷復,凶,有災眚,用行師終有大敗,以其國君凶,至于十年不克征。象曰:迷復之凶,反君道也。復貴早者也,迷而後復,其凶必矣。天曰災,人曰眚;迷而後復,違天人之道,故曰有災眚。以此行師,是謂窮兵;兵猶火也,弗戢將自焚也,故用行師終有大敗。行師而以其國君主之,則事之尤大者,不可甚矣。至于十年不克征,以其迷也,故如此其久也;猶知復焉,過十年則克徵矣。夫冕之制,後昂而前俛,衣亦上而下纁,蓋所貴在此不在彼也。今迷而後復,則反君道也,故曰迷復之凶,反君道也。

象に中以て自ら考うると曰うは、何を謂うか。能く自ら考うるを言う。則ち人に資(たす)けらるるに非ず、仁に下り道に従うの若くならず。又己に克つに非ず、身を修むるの若くならず。自然に成るのみ。是れ乃ち敦と為る所以なり。上六の爻辞に言う、「迷いて復る、凶、災眚(さいせい)有り、以て師を行えば終に大敗有り、其の国君を以て凶、十年に至りて克く征せず」と。『小象伝』に言う、「迷復の凶は、君道に反るなり」と。復は早きを貴ぶ者なり。迷いて後に復るは、其の凶必ずなり。天に曰く災、人に曰く眚。迷いて後に復るは、天人の道に違う。故曰く、災眚有りと。此れを以て師を行えば、是れを窮兵(きゅうへい)と謂う。兵は猶ほ火の若し、戢(おさ)めずば将に自ら焚かれんとす。故に以て師を行えば終に大敗有り。師を行いて其の国君を以て之を主(つかさど)れば、則ち事の尤も大なる者なり。甚だしき可からざるなり。十年に至りて克く征せざるは、其の迷えるを以てす。故に此くの如く其の久しきなり。猶ほ復るを知れば、十年を過ぐれば則ち克く征するなり。夫れ冕(べん)の制は、后(きみ)昂(あが)りて前俛(ふ)す。衣も亦た上にして下に纁(くん、浅緋)。蓋し貴ぶ所は此に在りて彼に在らざるなり。今迷いて後に復れば、則ち君道に反る。故曰く、迷復の凶は、君道に反るなりと。

无妄卦(震下乾上)

震下乾上。無妄:元亨利貞,其匪正有眚,不利有攸往。彖曰:無妄,剛自外來而為主於內,動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也。其匪正有眚,不利有攸往,無妄之往何之矣?天命不佑,行矣哉。序卦曰:復則不妄。蓋誘於物而自內出,則賓以從物,無往而不妄;遺物而自外來,則有主於中而性之貴得矣,故無妄之成卦,在剛自外來而為主於內也。

『无妄』卦は下体が震、上体が乾。卦辞に言う、「无妄、元亨利貞、其れ正に匪(あら)ざれば眚(あやま)ち有り、往く所有るに利しからず」と。『彖伝』に言う、「无妄は、剛自り外より來りて内に主と為り、動きて健なり、剛中にして応有り、大亨以て正なり、天の命なり。其れ正に匪ざれば眚ち有り、往く所有るに利しからざるは、无妄の往くは何に之(ゆ)かんや。天命佑(たす)けず、行かんや」と。序卦に曰く、復は則ち妄ならずと。蓋し物に誘われて自り内より出づれば、則ち賓にして以て物に従い、往かずして妄ならざるは无し。物を遺(す)てて自り外より來れば、則ち中に主有りて性の貴を得るなり。故に无妄の成卦は、剛自り外より來りて内に主と為るに在るなり。

剛自外來而為主,既不妄矣,是故動而健。何則?乗流而下者易以至,背風而馳者易以逺;今因性循理而不妄,是亦乗流而下、背風而馳之類也,其勢可勝御哉?既動而健矣,又九五之才剛中而應。夫剛不及中則易入為邪,剛過中則謂誠者所居以類至也。夫如是,則大亨以正矣。

剛自り外より來りて主と為るは、既に妄ならざるなり。是の故に動きて健なり。何ぞや。流に乗りて下る者は以て至るに易く、風に背きて馳る者は以て遠きに易し。今性に因り理に循いて妄ならざれば、是れ亦た流に乗りて下り、風に背きて馳るの類なり。其の勢い御(ふせ)ぐべからんや。既に動きて健なれば、又九五の才剛中にして応有り。夫れ剛中に及ばざれば則ち邪に入るに易し。剛中に過ぐれば則ち誠を謂う者の居る所以類至るなり。夫れ是くの如くなれば、則ち大亨以て正なり。

其畜諸中也,剛自外來而為主於內;其發於外也,動而健;其在天下皆有應無違,則雷之發於地中而行天下、以動化萬物,不過如此。然則剛自外來而為主於內、動而健、剛中而應,以致大亨以正,是天命非人為也。

其の中に畜(たくわ)うるは、剛自り外より來りて内に主と為る。其の外に発するは、動きて健なり。其の天下に在りては皆応有りて違う无し。則ち雷の地中に発して天下を行き、以て万物を動かし化するは、此くの如くに過ぎざるなり。然らば則ち剛自り外より來りて内に主と為り、動きて健なり、剛中にして応有り、以て大亨正を致すは、是れ天命にして人為に非ざるなり。

其匪正有眚,何也?目之虛也,不能受播糠之眯;耳之虛也,不能受聚蚊之蚋,凡以至理之中不受外也。今以匪正而容乎無咎之間,是播糠聚蚊之說也,故其匪正有眚。且無妄之世,雖以無妄行者猶有疑於其妄而或繫之,況以匪正行者乎?故曰不利有攸往,象曰無妄之往何之矣,天命不佑行矣哉。

其れ正に匪ざれば眚ち有りは、何ぞや。目の虚は、播糠(はこう、ぬかをまきあげる)の眯(まい)るを受くる能わず。耳の虚は、聚蚊(しゅうぶん)の蚋(ぜい)を受くる能わず。凡そ至理の中は外を受けざるを以てなり。今匪正を以て咎无きの間に容(い)れんは、是れ播糠聚蚊の説なり。故に其れ正に匪ざれば眚ち有り。且つ无妄の世は、无妄を以て行く者と雖も猶ほ其の妄に疑う有りて或いは之を繋(かか)らしむ。況んや匪正を以て行く者をや。故曰く、往く所有るに利しからずと。象に曰く、无妄の往くは何に之かんや、天命佑けず行かんやと。

象曰:天下雷行,物與無妄,先王以茂對時育萬物。雷在地中,以至地奮而行天下,皆有節焉,未嘗妄也。惟未嘗妄,故能感物而物應之;物之所以感,以乗理應時而不能違也。雷之動息以時,故物以時應而不能違。然則先王又烏能違時而求物之裕,若揠苗者哉?於是先王以茂對時育萬物。謂之茂對,則以四時之中,其氣機蒸濡而不測之變不與焉,則論其育之之法,不為不茂矣。

『象』に曰く、天下雷行く、物无妄に与(あずか)る、先王以て茂く時に対して万物を育すと。雷地中に在り、以て地を奮(ふる)い出でて天下を行くは、皆節有りて未だ嘗て妄ならざるなり。惟れ未だ嘗て妄ならざれば、故に能く物を感じて物之に応ず。物の感ずる所以は、理に乗じ時に応じて能く違わざるを以てなり。雷の動き息み時を以てすれば、故に物時に応じて能く違わざるなり。然らば則ち先王又烏ぞ能く時に違いて物の裕(ゆた)かを求めん、苗を揠(あ)ぐる者の若くせんや。是に於て先王以て茂く時に対して万物を育す。之を茂対と謂うは、則ち四時の中は、其の気機蒸濡(じょうじゅ、むしむしうるおす)して測るべからざる変は与らざるなり。則ち其の育の法を論ずれば、茂からざると為さざるなり。

初九:無妄,往吉。象曰:無妄之往,得志也。雜卦曰:震,起也;艮,止也。艮陽在上,為得其所故止;震陽在下,未得其所而止,未得其所而起,此理之常也。則初九以剛在下而往,亦理之常,豈曰妄哉?故曰無妄往吉也。

初九の爻辞に言う、「妄无し、往きて吉」と。『小象伝』に言う、「妄无きの往くは、志を得るなり」と。雑卦に曰く、震とは起るなり、艮とは止まるなりと。艮の陽は上に在り、其の所を得るを為すが故に止まる。震の陽は下に在り、未だ其の所を得ざれば止まるべからず、未だ其の所を得ざれば起つ。此れ理の常なり。則ち初九剛を以て下に在りて往くは、亦た理の常なり。豈に妄と曰わんや。故曰く、妄无く往きて吉なりと。

六二:不耕穫,不菑畬,則利有攸往。象曰:不耕穫,未富也。唱者,君之分;隨者,臣之分。六二執柔處中,隨而不唱,得臣之分者,故為不耕穫、不菑畬。不耕而獲,言終其功也;不菑而畬,言因其業也。六二體震之性,志於往而近妄者也;惟不耕而獲、不菑而畬,然後利有攸往,言其動如此,不為妄也。

六二の爻辞に言う、「耕さずして獲(と)らず、菑(し)らずして畬(よ)らざれば、則ち往く所有るに利し」と。『小象伝』に言う、「耕さずして獲らずは、未だ富まざるなり」と。唱ふるは君の分、随うは臣の分なり。六二柔を執りて中に処り、随いて唱えざるは、臣の分を得る者なり。故に耕さずして獲らず、菑らずして畬らずと為る。耕さずして獲るは、其の功を終わるを言う。菑らずして畬るは、其の業に因るを言う。六二は震の性を体(たい)し、志往くに在りて妄に近き者なり。惟れ耕さずして獲らず、菑らずして畬らずして、然る後に往く所有るに利し。其の動き此くの如くにして、妄と為らざるを言うなり。

六三:無妄之災,或繋之牛,行人之得,邑人之災。象曰:行人得牛,邑人災也。以柔應剛,其志不妄者也,而九四以剛阻其前,無妄之災也。匪正則稱眚,言人自為之也;無妄則稱災,言天實為之也。柔之為物,順者也;為順,故物或之然,言三之得九四之災也。蓋六三之行不妄,九四疑而繫之,乃所以為無妄,故曰行人之得,邑人災也。

六三の爻辞に言う、「妄无きの災、或いは之を牛に繋ぐ、行人の得、邑人の災」と。『小象伝』に言う、「行人牛を得るは、邑人の災なり」と。柔を以て剛に応ずるは、其の志妄ならざる者なり。而して九四剛を以て其の前に阻む、妄无きの災なり。正に匪ざれば則ち眚(あやま)ちと称す、人自ら為すを言うなり。妄ならざれば則ち災と称す、天実に之を為すを言うなり。柔の物と為るは、順なる者なり。順と為る、故に物或いは之然り。三の九四の災を得るを言うなり。蓋し六三の行妄ならず、九四疑いて之を繋ぐ。乃ち妄无きと為す所以なり。故曰く、行人の得、邑人の災なりと。

九四:可貞,無咎。象曰:可貞無咎,固有之也。其才、其位適當而不偏勝,乃所謂正也。不得不正,則才勝於位猶之可也,位勝其才則不可;九四才勝其位者也,故曰可正。而無咎者,為其足以固其位,與折足覆餗者異矣。

九四の爻辞に言う、「貞にすべし、咎无し」と。『小象伝』に言う、「貞にすべく咎无きは、固有りて之を有するなり」と。其の才、其の位当り適して偏勝(かたよ)らざるは、乃ち所謂正なり。得て正ならざれば、則ち才位に勝るは猶ほ之可なり、位其の才に勝れば則ち可ならず。九四才其の位に勝る者なり。故曰く可正なりと。而して咎无き者は、其の其の位を固くするに足るを為すなり。足を折り餗(そく)を覆す者と異なり。

九五:無妄之疾,勿藥有喜。象曰:無妄之藥,不可試也。易乗則為疾,然九五剛健中正,位乎天徳,與豫六五異矣,則其為疾可勿藥也。勿藥則有喜。蓋以謂蔽之所以為妄,譬諸飲藥以加疾也;非妄也,疑其為妄而繫之;以非疾也,疑於為疾而藥之,妄也。

九五の爻辞に言う、「妄无きの疾、薬する勿れ、喜び有り」と。『小象伝』に言う、「妄无きの薬は、試すべからざるなり」と。易(あなど)られ乗ぜられれば則ち疾と為る。然れども九五剛健中正、位乎天徳の位に在り、豫の六五と異なり。則ち其の疾と為るは勿薬すべし。薬せざれば則ち喜び有り。蓋し蔽の妄と為す所以を以て謂うは、譬えば薬を飲みて以て疾に加わるが如し。妄に非ざるなり、其の妄と疑いて之を繋ぐ。疾に非ざるを以てすれば、疾と為すと疑いて之を薬す、妄なり。

夫眾有之芸芸,迷者以為貞也,悟者以為妄也。以為貞者固非,以為妄者亦未是也。老氏曰:滌際元覽,至理則無一疵矣。若觀一疵而攻之,則是妄。上九:無妄,行有眚,無攸利。象曰:無妄之行,窮之災也。在下而未得其所則動,在上而已得其所則止,此理之常也。今上九懼乾而猶上行,是不知常而妄作者也,宜其有眚而無攸利也。

夫れ衆有の芸芸(うんうん)たるは、迷える者以て貞と為し、悟れる者以て妄と為す。貞と為す者は固より非なり、妄と為す者も亦た未だ是ならざるなり。老氏に曰く、際を滌(あら)いて元観(げんかん)すれば、至理に至れば則ち一疵无きなりと。若し一疵を観て之を攻むれば、則ち是れ妄なり。上九の爻辞に言う、「妄无し、行けば眚ち有り、利する所无し」と。『小象伝』に言う、「妄无きの行は、窮まりの災なり」と。下に在りて未だ其の所を得ざれば則ち動き、上に在りて已に其の所を得れば則ち止まる。此れ理の常なり。今上九乾に懼れて猶ほ上に行くは、是れ常を知らずして妄作する者なり。其の眚ち有りて利する所无き宜しきなり。

大畜卦(乾下艮上)

乾下艮上。大畜:利貞,不家食吉,利渉大川。彖曰:大畜,剛健篤實輝光,日新其徳。剛上而尚賢,能止健,大正也。不家食吉,養賢也。利渉大川,應乎天也。大畜,畜賢之卦也。能畜徳然後畜賢,故先曰剛健篤實輝光日新其徳,言畜徳也;次曰剛上而尚賢,能止健,大正,言畜賢也。

『大畜』卦は下体が乾、上体が艮。卦辞に言う、「大畜、貞に利し、家に食(く)らわざれば吉、大川を渉るに利し」と。『彖伝』に言う、「大畜は、剛健篤実輝光、其の徳を日に新たにす。剛上にして賢を尚び、能く健を止む、大正なり。家に食らわざれば吉は、賢を養うなり。大川を渉るに利しは、天に応ずるなり」と。大畜とは、賢を畜するの卦なり。能く徳を畜して然る後に賢を畜す。故に先に曰く、剛健篤実輝光、其の徳を日に新たにす、徳を畜するを言うなり。次に曰く、剛上にして賢を尚び、能く健を止む、大正、賢を畜するを言うなり。

人之生也,自其赤子含徳已厚矣,惟柔而不能有己也,順而不違物也,故萬物之來,得以搖動而攓取之,於是向之所畜蕩然一散,空空如也。聖人不然,立其大者以剛健,惟剛健故能積而篤實;其發外而為光輝,而其為光輝非若火然薪盡而滅也,足以日新其徳矣。

人の生や、其の赤子より徳を含む已に厚し。惟れ柔にして能く己有る能わず、順にして物に違わず。故に万物の來れば、以て之を揺動して攓取(けんしゅ)るを得。是に於て向の畜う所は蕩然として一散し、空空然たり。聖人は然らず。其の大なる者を立てるに剛健を以てす。惟れ剛健なるが故に能く積みて篤実と為る。其の外に発して輝光と為る。而して其の輝光と為るは火の然(も)えて薪尽きて滅するの若きに非ざるなり。以て其の徳を日に新たにするに足るなり。

日新其徳,故徳日新。徳已新者,徳成之終也;日新其徳者,畜徳之始也。畜徳至於輝光日新其徳,則賢者能者瞿瞿而向之,若輝之類明大矣,於是可以尚賢而止健也。謂之剛上者,上九之謂也。育賢宜以柔,畜賢宜以剛也。尚賢故賢者在位,止健故能者在職;尚賢止健,大者之正也。

其の徳を日に新たにすれば、故に徳日に新たなり。徳已に新たなるは、徳の成るの終なり。其の徳を日に新たにするは、徳を畜するの始めなり。徳を畜するは輝光其の徳を日に新たにするに至れば、則ち賢者能者瞿瞿(くく)として之に向かう。輝の明に類する若く大なり。是に於て以て賢を尚びて健を止む可し。之を剛上と謂うは、上九の謂なり。賢を育するは宜しく柔を以てすべく、賢を畜するは宜しく剛を以てすべし。賢を尚ぶが故に賢者位に在り、健を止むが故に能者職に在り。賢を尚び健を止むは、大なる者の正なり。

賢者能者有養之道,故詩以況嘉魚甘瓠焉。誠能尚賢使能,則天下不待家食而人被其養矣,故曰不家食吉,養賢也。夫涉險犯難,莫利乎能在職;眾助莫盛乎此,故有利涉大川。然則曰應乎天,何也?得人則得天,且既賚以涉難之良弼矣,內之扶之涉難,所以應天也。

賢者能者に養うの道有り。故に詩以て嘉魚甘瓠(かこ)に況(たと)うるなり。誠に能く賢を尚び能を使わば、則ち天下家食を待たずして人其の養いを被(こうむ)る。故曰く、家に食らわざれば吉、賢を養うなりと。夫れ険を渉り難を犯すは、能の職に在るに利するは莫し。衆助(しゅうじょ)は此れに盛んなるは莫し。故に大川を渉るに利し有り。然らば則ち天に応ずると曰うは何ぞや。人を得れば則ち天を得る。且つ既に渉難の良弼(りょうひつ)を以て賚(たま)わらば、内に之を扶(たす)けて難を渉るは、天に応ずる所以なり。

象曰:天在山中,大畜,君子以多識前言往行,以畜其徳。聖人之畜徳也求諸已,所謂剛健篤實輝光日新其徳是也;君子之畜徳也資乎人,所謂多識前言往行是也。有徳必有言,然則前言,徳在中矣;君子成徳為行,然則往行,徳在中矣,故君子之畜徳莫良乎前言往行也。然而前言悉皆徳言也,往行未必皆徳行也,在夫多見而識之;識之,則不逆於所聞矣。

『象』に曰く、天山の中に在り、大畜、君子以て前言往行を多く識(し)りて、以て其の徳を畜すと。聖人の徳を畜するや諸を己に求む。所謂剛健篤実輝光其の徳を日に新たにす是れなり。君子の徳を畜するや人に資(たす)けらる。所謂前言往行を多く識る是れなり。徳有れば必ず言有り。然らば則ち前言は、徳中に在り。君子成徳は行と為る。然らば則ち往行は、徳中に在り。故に君子の徳を畜するは前言往行に良きは莫し。然れども前言は悉く皆徳の言なり。往行は必ずしも皆徳の行ならざるなり。夫れ多く見て之を識るに在り。之を識れば、則ち聞く所に逆わざるなり。

初九:有厲利己。象曰:有厲利己,不犯災也。大畜之時,賢者在所尚,健者在所止。三陽以健進,皆在所止,而初九尤其健之始也。凡事於其正始則常嚴,故初九有厲利己,然後不犯災。所謂己者,謹其分守而不敢進越之謂也。

初九の爻辞に言う、「厲(あやう)し有り、己(や)むに利し」と。『小象伝』に言う、「厲し有り己むに利しは、災いに犯さざるなり」と。大畜の時は、賢者は尚ぶ所に在り、健なる者は止む所に在り。三陽健を以て進む、皆止む所に在り。而して初九は尤も其の健の始めなり。凡事其の正始に於ては則ち常に厳なり。故に初九厲し有り己むに利し、然る後に災いに犯さざるなり。所謂己とは、其の分守を謹して敢えて進み越えざるの謂なり。

九二:輿說輹。象曰:輿說輹,中無尤也。大有以柔有也,故九二大車以載,有攸往無咎;大畜以剛畜也,故九二輿說輹。為臣之道,欲方以載其上、圓以行乎下,故當取象於車焉。大畜之時,方且正君臣之分,取載其上而已,無事乎圓以行於下也,故稱輿焉。輿之所脫輹,以分守之至嚴,未可越而進也。

九二の爻辞に言う、「輿(こし)輹(ふく、車の伏兎)を説(だつ、ぬ)く」と。『小象伝』に言う、「輿輹を説くは、中にして尤(とが)无きなり」と。大有は柔を以て有る、故に九二大車以て載(の)せ、往く所有りて咎无し。大畜は剛を以て畜す、故に九二輿輹を説く。臣と為るの道は、方(ほう)にして以て其の上を載せ、円(えん)にして以て其の下に行うを欲す。故に当に車に取象すべし。大畜の時は、方に且つ君臣の分を正しくせんとす。其の上を載するを取るのみ、円にして以て下に行うに事(つか)うる无し。故に輿と称す。輿の輹を脱する所以は、分守の至厳を以て、未だ越えて進む可からざるなり。

九三:良馬逐,利艱貞,曰閒輿衛,利有攸往。象曰:利有攸往,上合志也。畜至於九三,則君臣之際志交而情通,畜道於是亨矣,故曰良馬逐,言三陽之並進也。方輿脫輹則知艱,及良馬逐則易之,人情之常也;天不假易,故曰利艱貞。又當戒習所以載其上而衛其亨之事,故曰閒衛。

九三の爻辞に言う、「良馬逐(お)う、艱貞に利し、曰く閑(かん、まな)び輿衛す、往く所有るに利し」と。『小象伝』に言う、「往く所有るに利しは、上志に合うなり」と。畜九三に至れば、則ち君臣の際志交わりて情通ず。畜道是に於て亨なり。故曰く良馬逐うと。三陽の並進を言うなり。方に輿輹を脱せば則ち艱を知り、良馬逐うに及べば則ち之を易(あなど)る、人情の常なり。天易を仮(か)さざるなり。故曰く艱貞に利しと。又当に習うべし其の上を載する所以と其の亨を衛るの事と。故曰く閑衛と。

夫方以載上之義,於其脫輹之時固不廢矣;衛其身之智,於其利已之時固不廢矣,非至良馬逐而始為之也,至是又習復而已。語曰:學而時習之。由始而習之於復也。夫利其身而忘其君,不若利其君而忘其身;利其君而忘其身,又不若方以載乎君而周衛其身之為兼得也,故稱輿衛焉。如是然後利有攸往,一有偏廢,則有攸往不利也。

夫れ方にして上を載するの義は、其の輹を脱するの時に於て固より廃せざるなり。其の身を衛るの智は、其の己むに利するの時に於て固より廃せざるなり。良馬逐うに至りて始めて之を為すに非ざるなり。是に至りて又習復(しゅうふく)するのみ。語に曰く、学びて時に之を習うと。始めより之を習い、復(かさ)ねるに於て也。夫れ其の身に利して其の君を忘るるは、其の君に利して其の身を忘るるに若かず。其の君に利して其の身を忘るるは、又方にして以て君に載りて周(あまね)く其の身を衛るの兼ね得ると為すに若かず。故に輿衛と称す。是くの如くして然る後に往く所有るに利し。一たび偏廃有れば、則ち往く所有るに利しからざるなり。

六四:童牛之牿,元吉。象曰:六四元吉,有喜也。下卦受畜者也,上卦皆畜其下者也,雖六四之柔,亦足以畜其下者,有分義故也。童牛,私慾不行而順者;牿,角械也。牛雖順物,其角猶剛,今且牿之,則剛又不用矣,此順之至也,燮友柔克,此之謂也。

六四の爻辞に言う、「童牛(どうぎゅう)の牿(こく、角につける横木)、元吉」と。『小象伝』に言う、「六四元吉は、喜び有るなり」と。下卦は畜を受くる者なり、上卦は皆其の下を畜する者なり。六四の柔と雖も、亦た以て其の下を畜するに足る、分義有るが故なり。童牛とは、私欲行われずして順なる者なり。牿とは、角の械(かせ)なり。牛順なる物と雖も、其の角は猶ほ剛なり。今且つ之を牿せば、則ち剛又不用となり。此れ順の至なり。燮(うるわ)しき友柔克(な)る、此れの謂なり。

六五:豶豕之牙,吉。象曰:六五之吉,有慶也。豶豕,不純乎陽矣,其能制物而物不敢犯者,以有牙也,所謂平康正直者也。六四、六五皆取其私慾不行然後能畜,徳既厚者何也?惟私慾不行然後能畜,既徳厚則無所事剛而不犯,所以取象如此也。六四有喜而已,六五有慶,則四方來賀之謂也。

六五の爻辞に言う、「豮豕(ふんし、去勢した豚)の牙、吉」と。『小象伝』に言う、「六五の吉は、慶(よろこ)び有るなり」と。豮豕とは、陽に純ならざるなり。其の能く物を制して物敢えて犯さざる者は、牙有るを以てなり。所謂平康正直(へいこうせいちょく)の者なり。六四、六五皆其の私欲行われざる然る後に能く畜するを取る。徳既に厚き者は何ぞや。惟れ私欲行われざる然る後に能く畜す。既に徳厚ければ則ち剛を事とする所无くして犯されざるなり。取象此くの如くする所以なり。六四喜び有るのみ、六五慶び有れば、則ち四方來り賀(が)するの謂なり。

上九:何天之衢,亨。象曰:何天之衢,道大行也。天衢,賢者之所由以天上達者也,畜道成則天衢以亨焉。大畜者,君臣相遇之時;君臣相遇而畜道大成,然後能使天衢亨,則賢才無不違矣。所以致此,則上九之福,故曰何天之衢亨也。

上九の爻辞に言う、「天の衢(く、大路)を何(こ)なす、亨」と。『小象伝』に言う、「天の衢を何なすは、道大いに行わるるなり」と。天衢とは、賢者の由りて以て天に上達する所なり。畜道成れば則ち天衢以て亨るなり。大畜とは、君臣相遇の時なり。君臣相遇いて畜道大いに成れば、然る後に能く天衢を亨らかにしむれば、則ち賢才違わざる无きなり。此れを致す所以は、則ち上九の福なり。故曰く、天の衢を何なす、亨なりと。

頤卦(震下艮上)

震下艮上。頥:貞吉,觀頥,自求口實。象曰:頥貞吉,養正則吉也。觀頥,觀其所養也;自求口實,觀其自養也。天地養萬物,聖人養賢以及萬民,頥之時大矣哉。頥之成卦,上止而下動,其中虛焉,頥之象也。草木之養枝葉者在其本,人之養百體者在其頥,故頥,養也。

『頤(い)』卦は下体が震、上体が艮。卦辞に言う、「頤、貞吉、頤を観る、自ら口実(こうじつ)を求む」と。『彖伝』に言う、「頤貞吉は、養正しければ則ち吉なり。頤を観るは、其の養う所を観るなり。自ら口実を求むるは、其の自養するを観るなり。天地万物を養い、聖人賢を養いて以て万民に及ぶ、頤の時大なるかな」と。頤の成卦は、上止まりて下動く、其の中虚なり、頤の象なり。草木の枝葉を養うは其の本に在り、人の百体を養うは其の頤に在り。故に頤とは養いなり。

所養正,則擴而充之無往而不正矣;所養邪,則擴而充之無不為邪,故養正則吉也。自養者也,然後可以觀人之所養與其自養,蓋取人必以身故也。人之所養有賢否,所養正則人賢可知矣,所謂不知其君視其臣是也;人之自養有邪正,自養正則施於人可知矣,所謂察其所安、人焉廋哉是也。

養う所正しければ、則ち拡げて之を充むれば往きて正ならざる无し。養う所邪なれば、則ち拡げて之を充むれば邪と為らざる无し。故に養正しければ則ち吉なり。自ら養う者なり、然る後に以て人の養う所と其の自養するを観る可し。蓋し人を取るは必ず身を以てするが故なり。人の養う所有るは賢否(けんぴ)有り。養う所正しければ則ち人の賢なる知る可し。所謂其の君を知らざれば其の臣を視る是れなり。人の自養所有るは邪正有り。自養正しければ則ち人に施す知る可し。所謂其の安んずる所を察すれば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや是れなり。

夫子以寡慾養心,以直養氣,其自養亦大矣;不觀其養氣與心之大,而觀其自求口實,何也?人之所以忘其大體,善以從事於口體之養;口體求不失義,則其大體可知矣,是以觀其自求口實,則足以知其自養也。

夫子欲を寡(すく)なくして以て心を養い、直を以て気を養うと為す。其の自養するも亦た大なり。其の気と心を養うの大を観ずして、其の自ら口実を求むるを観るは何ぞや。人の其の大体を忘るる所以は、善く口体の養に事(つか)うるを以てなり。口体の求失わざれば義に失わざれば、則ち其の大体知る可し。是の以て其の自ら口実を求むるを観れば、則ち以て其の自養するを知るに足るなり。

其曰自求,何謂也?蓋有與人求者,如冉子為子華請粟之類是也。為人求則雖請益而無嫌,而使自求,如是則汙矣,故觀人之廉貪,必以觀其自求口實也。君子自養斯可矣,必觀人之所養與自養,何也?蓋養道貴充者也。養既貴充,則一身之肥不如天下之肥為充之至也;欲天下之肥,勢不能人人食之,則必本乎養賢,而養賢以知人為始,是以必觀人之所養與自養,然後知賢而養賢以及萬民也。

其の自ら求むと曰うは何を謂うか。蓋し人と為に求むる者有り。冉子子華の為に粟(ぞく)を請うの類是れなり。人の為に求めれば則ち益を請うと雖も嫌(いぎ)无し。而して自ら求めしむれば、是くの如くなれば則ち汚(けが)るるなり。故に人の廉貪を観るは、必ず以て其の自ら口実を求むるを観るなり。君子自養すれば斯に可なり。必ず人の養う所と自養するを観るは何ぞや。蓋し養の道は充(あ)たるを貴ぶ者なり。養既に充たるを貴べば、則ち一身の肥(こ)ゆるは天下の肥ゆるに充の至と為すに如かず。天下の肥ゆるを欲せば、勢い能く人々に之を食(しょく)せしめざるなり。則ち必ず賢を養うに本づき、而して賢を養うは人を知るを以て始めと為す。是の以て必ず人の養う所と自養するを観て、然る後に賢を知りて賢を養いて以て万民に及ぶなり。

天地在六子以養萬物,聖人養賢以及萬民。外天地無為也,無為者不嫌於自在,故不言六子而直曰養萬物;聖人有為也,有為者嫌於自用,故養賢以及萬民焉。飬賢以及萬民而致天下之肥,非大人不足以與此,故頥之時大矣哉。

天地は六子(りくし)に在りて以て万物を養い、聖人は賢を養いて以て万民に及ぶ。天地は外れて為す无し、為す无きは自在を嫌(いぎ)とせざるなり。故に六子を言わずして直ちに万物を養うと曰う。聖人は為す有り、為す有るは自用を嫌うなり。故に賢を養いて以て万民に及ぶなり。賢を養いて以て万民に及びて天下の肥ゆるを致すは、大人に非ざれば以て此に与るに足らず。故に頤の時大なるかな。

象曰:山下有雷,頥,君子以慎言語,節飲食。山也者,附萬物之成形於外者也;雷也者,作萬物之生氣於內者也。所以養物,二者為盛,有頥之義焉。言語不慎則招外患,飲食不節則起內患,所以自養也。言語之不輕也如山,飲食之有節也如雷,視其後者而鞭之,則自養之道盡矣。

『象』に曰く、山下に雷有り、頤、君子以て言語を慎しみ、飲食を節すと。山とは、万物の成形を外に附する者なり。雷とは、万物の生気を内に作(おこ)す者なり。物を養う所以は、二者を盛んと為す。頤の義有るなり。言語慎しまざれば則ち外患を招き、飲食節せざれば則ち内患を起す。自ら養う所以なり。言語の軽(かろ)からざるや山の如く、飲食の節有るや雷の如く、其の後れるを視て之を鞭(むちう)てば、則ち自養の道尽くるなり。

初九:舍爾靈,觀我朶頥,凶。象曰:觀我朶頥,亦不足貴也。初九以剛明之才而在沉潛之地,靈之象也,君自養如靈龜則足矣,故莊子有曳尾於塗中之辭焉。初九不善自養,乃躁動而求養於人,故曰舍爾靈,觀我朶頥。夫靈善潛而不志於義,乃躁動而求養於人,朶頥而食斯賤矣。有靈之徳,則求口實無嫌也;舍靈之徳而觀朶頥,則不可也。舍己之靈而曰爾,觀人之朶頥而曰我,蓋不知物我之辨有如此也。

初九の爻辞に言う、「爾(なんぢ)の霊(れい、神亀)を舎て、我が朶頤(だい、あごを動かして食うさま)を観る、凶」と。『小象伝』に言う、「我が朶頤を観るは、亦た貴ぶに足らざるなり」と。初九剛明の才を以てして沉潜の地に在り、霊の象なり。君自ら養うは霊亀の如くなれば則ち足る。故に荀子涂中に尾を曳(ひ)くの辞有るなり。初九善く自養せず、乃ち躁動して人に養いを求む。故曰く、爾の霊を舎て、我が朶頤を観ると。夫れ霊は善く潜むも、志義に在らず、乃ち躁動して人に養いを求めば、朶頤して食えば斯に賤(いや)しきなり。霊の徳有れば、則ち口実を求むるに嫌无し。霊の徳を舎てて朶頤を観れば、則ち可ならず。己の霊を舎てて爾と曰い、人の朶頤を観て我と曰うは、蓋し物我の辨を知らざること此くの如く有るなり。

六二:顛頥,拂經,於丘頥,征凶。象曰:六二征凶,行失類也。以上養下謂之顛頥,六二之養初九,頥顛也;然二猶未離乎下體也,未離乎下體而養下,則亂頥之經矣。蓋在上者養、在下者受養於上,此頥之經故也。山,善養物者也;丘雖不足於山之徳,然亦不待下之養。六五,養道之不足者也,而往養焉,則是於丘頥者;於頥則征而凶矣。

六二の爻辞に言う、「頤を顛(てん)す、経に拂(そむ)く、丘頤に於て征せば凶」と。『小象伝』に言う、「六二征せば凶は、行きて類を失うなり」と。上以て下を養うを頤を顛すと謂う。六二の初九を養うは、頤顛なり。然れども二は猶ほ未だ下体を離れざるなり。未だ下体を離れずして下を養えば、則ち頤の経を乱る。蓋し上に在る者は養い、下に在る者は上に養わるを受く。此れ頤の経なるが故なり。山とは、善く物を養う者なり。丘は山の徳に足らずと雖も、然れども亦た下の養いを待たざるなり。六五は養道の足らざる者なり。而して往きて之を養えば、則ち是れ丘頤に於ける者なり。頤に於ては則ち征せば凶なり。

蓋六五從上九之養,不待六二也。如人君而受教者也,自有師傅與左右輔弼之臣,彼踈逖小臣惟祇若王明而已;亦欲有教焉,則失類而凶矣。失類而凶,言不足以得友也。

蓋し六五は上九の養いに従う、六二を待たざるなり。人君にして教えを受くる者の如し。自ら師傅と左右輔弼の臣有り。彼の疏逖(そてき)の小臣は惟れ王明に祇若(しじゃく、うやうやしくしたがう)るのみ。亦た教え有らんと欲せば、則ち類を失いて凶なり。類を失いて凶は、以て友を得るに足らざるを言うなり。

六三:拂頥,貞凶,十年勿用,無攸利。象曰:十年勿用,道大悖也。民不正,不能以自養也;又由上九以養,不能有所養也,則順之道喪矣,不止失上下之經而已,故曰拂頥。拂頥凶可知矣。觀其自養則不正,觀其所養又無有以資養於人也,則又何有足用之時?故曰十年勿用而無攸利。所以過十年而用者,以其知變而上有應故也。

六三の爻辞に言う、「頤に拂く、貞にして凶、十年用いる勿れ、利する所无し」と。『小象伝』に言う、「十年用いる勿れは、道大いに悖(もと)るなり」と。民正ならず、以て自ら養う能わざるなり。又上九に由りて養う、以て養う所有る能わざるなり。則ち順の道喪(うしな)わる、止まらずして上下の経を失うのみならず。故曰く、頤に拂くと。頤に拂くは凶知る可し。其の自養するを観れば則ち正ならず、其の養う所を観れば又以て人に資養する有る无し。則ち又何ぞ用うに足るの時有らんや。故曰く、十年用いる勿れにして利する所无しと。十年を過ぎて用いる所以は、其の変を知りて上応有るを以てなり。

六四:顛頥,吉,虎視眈眈,其欲逐逐,無咎。象曰:顛頥之吉,上施光也。自養正然後有所養,六二、六四皆自養焉能有所養者也;然六二未離乎下,而六四則在上矣,故六二不如六四顛頥而吉也。大扺自養正則於朶頥不觀,其自視正矣;自視正,故視則有威,如虎之眈眈然也。其欲逐逐,言不充其欲者也。虎亦食物者也,今曰其欲逐逐,則是有虎視威而元虎之貪也。夫自覧英華於外而懐歆羨之心,則徇物而喪矣;今其視眈眈,目不榮於紛華,其欲逐逐,心不主於歆羨,自養如此,宜無咎矣。

六四の爻辞に言う、「頤を顛す、吉、虎耽耽(たんたん)として視、其の欲逐逐(ちくちく)たり、咎无し」と。『小象伝』に言う、「頤を顛すの吉は、上施光なり」と。自養正しければ然る後に養う所有り。六二、六四皆自養して焉(そ)れ養う所有る能くする者なり。然れども六二は未だ下を離れず、而して六四は則ち上に在り。故に六二は六四の頤を顛して吉に如かざるなり。大抵自養正しければ則ち朶頤に於て観ず、其の自ら視る正し。自ら視る正しければ、故に視れば則ち威有り、虎の耽耽然たるが如し。其の欲逐逐は、其の欲を充(あ)てざるを言うなり。虎も亦た物を食らう者なり。今其の欲逐逐と曰うは、則ち是れ虎の視威有りて元(げん)虎の貪无きなり。夫れ自ら英華を外に覧て歆羨(きんせん)の心を懐けば、則ち物に徇(したが)い喪(うしな)わる。今其の視耽耽として、目紛華に栄(えい)せず、其の欲逐逐として、心歆羨に主と為らず。自養此くの如くなれば、宜しく咎无きべし。

六五:拂經,居貞吉,不可涉大川。象曰:居貞之吉,順以從上也。在上宜能養下者也,陰道常乏,不能有所養而從上九之養,拂乎經矣。六二、六五皆拂經而無凶,何也?君子所貴自養而已,自養者正中,雖不能有所養,於所養之經拂,未有害也,是以不言凶咎也。惟有所養則輔之者眾,然後可動;今不能有所養,則不可以動,是以利居而不可以涉大川也。

六五の爻辞に言う、「経に拂く、貞に居りて吉、大川を渉るべからず」と。『小象伝』に言う、「貞に居るの吉は、順にして上に従うを以てなり」と。上に在りては宜しく能く下を養うべき者なり。陰の道は常に乏し。能く養う所有らずして上九の養いに従えば、経に拂く。六二、六五皆経に拂きて凶无しは何ぞや。君子自養を貴ぶ所のみ。自養する者は正中なり。能く養う所有らずと雖も、養う所の経に拂くは、未だ害有らざるなり。是の以て凶咎を言わざるなり。惟れ養う所有れば則ち之を輔くる者衆し、然る後に動く可し。今能く養う所有らざれば、則ち以て動くべからず。是の以て居るに利して以て大川を渉るべからざるなり。

上九:由頥,厲吉,利涉大川。象曰:由頥厲吉,大有慶也。由頥,六五以下皆由我養也。以道養天下,乃居尊位大中者之事,而以上九為之則厲矣;其所以吉者,澤被生民故也,此周公之事也。由頥則得眾助,故利涉大川,與六五異矣。

上九の爻辞に言う、「頤に由(よ)る、厲して吉、大川を渉るに利し」と。『小象伝』に言う、「頤に由る厲吉は、大いに慶有るなり」と。頤に由るとは、六五以下皆我に由りて養わるなり。道を以て天下を養うは、乃ち尊位大中に居る者の事なり。而して上九以て之を為せば則ち厲し。其の吉なる所以は、沢生民に被(およ)ぶが故なり。此れ周公の事なり。頤に由れば則ち衆の助けを得。故に大川を渉るに利し。六五と異なり。

大過卦(巽下兌上)

巽下兌上。大過:棟橈,利有攸往,亨。彖曰:大過,大者過也。棟橈,本末弱也。剛過而中,巽而說行,利有攸往,乃亨。大過之時大矣哉。眾足以過寡,得位足以勝失位,得道足以勝失道;四陽眾矣,又得位中,則大者過矣,故為大過。

『大過』卦は下体が巽、上体が兌。卦辞に言う、「大過、棟橈(とうぎょう、たわ)む、往く所有るに利し、亨」と。『彖伝』に言う、「大過は、大なる者過ぐるなり。棟橈むは、本末弱きなり。剛過ぎて中にして、巽りて説びて行けば、往く所有るに利して乃ち亨なり。大過の時大なるかな」と。衆以て寡に過ぐるに足り、位を得る以て位を失うに勝るに足り、道を得る以て道を失うに勝るに足り。四陽衆し、又得て位中に在れば、則ち大なる者過ぐるなり。故に大過と為る。

雖然,大者過則必有為非常之事以立非常之功,豈聖人之心也哉?特以棟橈而已。且負眾榱以庇下者,棟也;今本末皆弱,其為棟也橈,則所以庇者將傾,大者安得不過哉?然過而不剛,則無獨立不懼之勇;過而不中,則有過涉滅頂之害,故曰剛過而中。

然りと雖も、大なる者過ぐれば則ち必ず非常の事を為して以て非常の功を立つ有り。豈に聖人の心ならんや。特に棟橈むを以てのみ。且つ衆榱(しゅうすい)を負いで以て下を庇(ひ)う者は、棟なり。今本末皆弱ければ、其れ棟と為るは橈む。則ち庇う所以将に傾かんとす。大なる者安んぞ過ぐるを得ざらんや。然れども過も過ぎて剛ならざれば、則ち独立懼れざるの勇无し。過ぎて中ならざれば、則ち渉りて頂を滅するの害有り。故曰く、剛過ぎて中なりと。

而又內伏行以巽而藏用,外見以說而顯諸仁。如此則利有攸往,利有攸往則藏弱者扶、衰者拯,而棟復隆矣,是以亨也。大過之時,非大者不足以有為也,故曰大過之時大矣哉。

而又内伏行に巽りて以て用を蔵(かく)し、外見に説びて以て諸を仁に顕(あら)わす。此くの如くなれば則ち往く所有るに利し。往く所有るに利すれば則ち弱きを蔵する者扶(たす)け、衰える者拯(すく)う。而して棟復た隆んなり。是の以て亨なり。大過の時は、大なる者に非ざれば以て為す有るに足らず。故曰く、大過の時大なるかなと。

象曰:澤滅木,大過,君子以獨立不懼,遯世無悶。獨立不懼、遯世無悶,二者皆君子之所以大過人者也。夫上有棟橈之勢未易救也,前有滅頂之害未易往也,君子乃獨立不懼,所以大過人者也。棟之橈也,民將失其庇焉;棟可隆也,君子不得有為於遯世焉,是則可悶也,乃謷然而不悶,是亦所以大過人者也。

『象』に曰く、沢木を滅す、大過、君子以て独立懼れず、世を遯(のが)れて悶(もん)无きなりと。独立懼れず、世を遯れて悶无きは、二者皆君子の以て人に大いに過ぐる所以なり。夫れ上棟橈むの勢い有りて未だ救うに易からざるなり。前頂を滅するの害有りて未だ往くに易からざるなり。君子乃ち独立懼れず。以て人に大いに過ぐる所以なり。棟の橈むや、民将に其の庇を失わんとす。棟隆んべきや、君子遯世に於て為す有るを得ざるなり。是れ則ち悶む可し。乃ち謷然(ごうぜん)として悶めず。是れ亦た以て人に大いに過ぐる所以なり。

初六:藉用白茅,無咎。象曰:藉用白茅,柔在下也。天下之勢,有可以為,有不可以為者,君子亦末如之何矣,所謂木顛於一繩所維是也。其可以為者,又須所處之地、所資之才兼得而後可。上六之才不足者也,初六則位不足也。君子進而有為,則可使棟橈成強直之勢;退而無為,則若白茅之無咎。當澤滅木之世,得平地以自措則斯安矣,又藉之以柔,何咎之有?

初六の爻辞に言う、「白茅(はくぼう)を藉(し)いて用う、咎无し」と。『小象伝』に言う、「白茅を藉いて用うるは、柔下に在るなり」と。天下の勢いは、以て為す可き有り、以て為す可からざる者有り。君子も亦た之を如何せんも末(まっ)きなり。所謂木の一繩に維(い)するに於て顛(たお)るる是れなり。其の以て為す可きは、又其の処る所の地、其の資る所の才を兼ね得て然る後に可なり。上六は才足らざる者なり、初六は則ち位足らざるなり。君子進みて為す有れば、則ち棟橈みて強直の勢いを成さしむ可し。退きて為す无ければ、則ち白茅の咎无きの若し。沢の木を滅するの世に当りて、平地を得て以て自ら措(お)けば則ち斯に安し。又之を藉くるに柔を以てせば、何の咎か有らんや。

九二:枯楊生稊,老夫得其女妻,無不利。象曰:老夫女妻,過以相與也。大過之象,或為枯楊,或為棟橈。橈則易拯,枯楊則難生;易棟橈而成棟隆者,人事也;枯楊之生稊,天理也。才有餘,則雖天理之難致者可以為;其才否,則雖人事之易拯者猶無補也,是以其象不同也。

九二の爻辞に言う、「枯楊稊(てい、新芽)を生ず、老夫其の女妻(じょさい)を得る、利ならざる无し」と。『小象伝』に言う、「老夫女妻は、過ぎて以て相与(あずか)るなり」と。大過の象は、或いは枯楊と為り、或いは棟橈と為る。橈は則ち拯(すく)うに易く、枯楊は則ち生じ難し。棟橈を易(か)えて棟隆を成すは、人事なり。枯楊の稊を生ずるは、天理なり。才余有れば、則ち天理の致し難き者と雖も以て為す可し。其の才否(いな)なれば、則ち人事の拯い易き者と雖も猶ほ補う无きなり。是の以て其の象同じからざるなり。

稊者,楊秀者也,弱不能遽強,蓋有漸焉,故有生稊之象。其所以生稊,以九二剛過而中故也。故九二之遇初六,老夫女妻之象也,過以相與而不相陵,是以無不利。如女承筐無實、士刲羊無血,若是則無攸利矣。

「稊」とは、楊の秀(ほ)なり。弱きは遽(にわ)かに強く能わず、蓋し漸有るなり。故に稊を生ずるの象有り。其の稊を生ずる所以は、九二剛過ぎて中なるを以てなり。故に九二の初六に遇うは、老夫女妻の象なり。過ぎて以て相与して相陵(おか)さざれば、是の以て利ならざる无し。女筐(かたみ)を承けて実无く、士羊を刲(けい)して血无きの若くなれば、則ち利する所无きなり。

九三:棟橈,凶。象曰:棟橈之凶,不可以有輔也。大過之世,剛過而中,然後足以輔世而成棟橈之功;九三不能過小者而又不中,則不足以輔世,故棟橈凶則傾矣。九四:棟隆,吉,有它吝。象曰:棟隆之吉,不橈乎下也。大過之所以亨,以剛過而中也;然與其不過,寜若不中。九三、九四皆不中者也,九三不過故棟橈,九四剛過故棟隆。九四雖不足以為亨而有吝,然與九三異矣。四猶應初,疑於有它;志在大過,不牽於小者,則不橈乎下矣。

九三の爻辞に言う、「棟橈む、凶」と。『小象伝』に言う、「棟橈むの凶は、以て輔有るべからざるなり」と。大過の世は、剛過ぎて中にして、然る後に以て世を輔けて棟橈むの功を成すに足る。九三能く小なる者に過ぎずして又中ならざれば、則ち以て世を輔くるに足らず。故に棟橈み凶なれば則ち傾く。九四の爻辞に言う、「棟隆(りゅう)ん、吉、他吝有り」と。『小象伝』に言う、「棟隆んの吉は、下に橈(たわ)めざるなり」と。大過の亨する所以は、剛過ぎて中なるを以てなり。然れども其の過ぎざるに与(より)は、寧(むし)ろ中ならざらんとす。九三、九四皆中ならざる者なり。九三過ぎざるが故に棟橈み、九四剛過ぐるが故に棟隆ん。九四以て亨と為すに足らずして吝有ると雖も、然れども九三と異なり。四は猶ほ初に応ず、他を疑うなり。志大過に在りて小なる者に牽(かん)せられざれば、則ち下に橈めざるなり。

九五:枯楊生華,老婦得其士夫,無咎無譽。象曰:枯楊生華,何可久也;老婦士夫,亦可醜也。生稊則長為條肄而終成壯實之才矣,生華則為一時之觀美而不可以久者也。九五剛中,故於衰弱之世能有所生;然而不過,則所生者華而已矣。上六之視九五,老婦士夫之象也。夫士夫之丑,則中制也;老夫女妻於制為反矣,是則可醜也。剛中有可制之資,是以無咎;然所生不可不久也,而其配亦可醜也,則亦安能有譽哉?

九五の爻辞に言う、「枯楊華を生ず、老婦其の士夫を得る、咎无し誉无し」と。『小象伝』に言う、「枯楊華を生ずは、何ぞ久しからんや。老婦士夫は、亦た醜(はづ)べきなり」と。稊を生ずれば則ち長じて条肄(じょうい、枝を伸ばす)と為りて終に壮実の才を成す。華を生ずれば則ち一時の観美にして以て久しきべからざる者なり。九五剛中、故に衰弱の世に於て能く生ずる所有り。然れども過ぎざれば、則ち其の生ずる所は華のみ。上六の九五を視るは、老婦士夫の象なり。夫れ士夫の醜は、則ち中の制なり。老夫女妻は制に於て反すと為る。是れ則ち醜ずべきなり。剛中に制する可きの資有り、是の以て咎无し。然れども其の生ずる所久しからざるべからず、而して其の配も亦た醜ずべきなり。則ち亦た安んぞ能く誉有らんや。

上六:過涉滅頂,凶,無咎。象曰:過涉之凶,不可咎也。滅木之澤瀰漫甚矣,而過涉焉,至於滅頂則又可知矣。夫不剛則無可涉之才,不中則無知節之徳;徒任智而往,不量其力,又奚可哉?然雖志在濟時,非喜功也,殺身成仁,何可咎也?

上六の爻辞に言う、「過ぎて渉りて頂を滅す、凶、咎无し」と。『小象伝』に言う、「過ぎて渉るの凶は、以て咎むべからざるなり」と。木を滅するの沢は瀰漫(びまん)として甚だし。而して過ぎて渉れば、頂を滅するに至れば則ち又知る可し。夫れ剛ならざれば則ち渉る可きの才无く、中ならざれば則ち節を知るの徳无し。徒らに智を任(まか)せて往きて、其の力を量(はか)らざれば、又奚ぞ可ならんや。然れども志時を済(すく)うに在ると雖も、功を喜ぶに非ざるなり。身を殺して仁を成すは、何ぞ咎むべからんや。

習坎卦(坎下坎上)

坎下坎上。習坎:有孚,維心亨,行有尚。彖曰:習坎,重險也。水流而不盈,行險而不失其信。維心亨,乃以剛中也;行有尚,往有功也。天險不可升也,地險山川丘陵也,王公設險以守其國,險之時用大矣哉。

『習坎』卦は下体が坎、上体が坎。卦辞に言う、「習坎、孚有り、心を維(これ)亨(ひら)く、行けば尚(たか)び有り」と。『彖伝』に言う、「習坎は、重険(ちょうけん)なり。水流れて盈(み)たず、険を行きて其の信を失わず。心を維るは、乃ち剛中を以てなり。行けば尚び有りは、往きて功有るなり。天の険は升(のぼ)る可からず、地の険は山川丘陵なり、王公険を設けて以て其の国を守る、険の時用大なるかな」と。

離,麗也,以陰言也,而重明者以陽言也;坎陷,以陽言也,而重險者以陰言也。上而重險,陽在其中,動而不能出,水流而不盈之象也。盈而不溢,則不能出險矣;雖不能出險,而其歸必中、其趨必下,則足以行險而不失其信也。

離とは、麗(つ)くなり、陰を以て言う。而して重明とは陽を以て言う。坎は陥(かん、おちい)る、陽を以て言う。而して重険とは陰を以て言う。上にして重険、陽其の中に在り、動きて能く出でざるは、水流れて盈たざるの象なり。盈りて溢(あふ)れざれば、則ち能く険を出でざるなり。能く険を出でざると雖も、而して其の帰は必ず中、其の趨(むか)うは必ず下なれば、則ち以て険を行きて其の信を失わざるに足るなり。

二五以剛居中,維心亨者也。夫居重險之中,動則括,往則礙,其道不可謂亨也,維心亨而已。夫茅塞其心則自困者也,非以處險也;困於心、衡於慮,則以處險也,非自困者也。然處險難之中,遂困心而衡慮,則亦內之未明而已;若清在中,則雖遇險難其心常亨,何困心衡慮之有哉?

二五剛を以て中に居るは、心を維る者なり。夫れ重険の中に居れば、動けば則ち括(くる)まれ、往けば則ち碍(さえ)らる。其の道亨と謂う可からざるなり。心を維るのみ。夫れ茅(かや)其の心を塞(ふさ)げば則ち自ら困む者なり、以て険に処るに非ざるなり。心に困み慮(りょ)に衡(せきとどめら)るれば、則ち以て険に処るなり、自ら困む者に非ざるなり。然れども険難の中に処りて、遂に心に困み慮に衡(せきとどめら)るれば、則ち亦た内の未だ明ならざるのみ。若し清中に在れば、則ち険難に遇うと雖も其の心常に亨る。何の困心衡慮か有らんや。

以在險中,故往則有尚,行則出險故也,故誕先登於岸,言安身而後動也。行而出險,先登於岸,然後可以有為而建功,故曰行有尚,往有功也。聖人雖求出險,未嘗不設險,非如小人之陷物也,天地之理然也。不可升者,天險也;山川丘陵者,地險也,則王公安得無險哉?且貴者人之所妬,富者人之所爭;今處王公之貴而有土地之富,則是居人之所妬、聚人之所爭,不可不設險以自固也。阻法度之威,使人不得而踰焉,此天險也;髙城深塹,此地險也。然是險也,守之以道則易以興,守不以道則易以亡,善用險而興者,其為大人乎。

以て険中に在れば、故に往けば則ち尚び有り、行けば則ち険を出ずるが故なり。故に誕(あ)に岸に先に登ると曰うは、身を安んじて然る後に動くを言うなり。行きて険を出で、岸に先に登りて、然る後に以て為す有りて功を建つ可し。故曰く、行けば尚び有り、往きて功有るなりと。聖人険を出でんことを求むと雖も、未だ嘗て険を設けざるに非ず、小人の物を陥(おとしい)れるに如かざるなり。天地の理然り。升る可からざるは、天の険なり。山川丘陵は、地の険なり。則ち王公安んぞ険无きを得んや。且つ貴きは人の妬(ねた)む所、富むは人の争う所なり。今王公の貴に処りて土地の富有れば、則ち是れ人の妬む所に居り、人の争う所を聚む。以て険を設けて自ら固くせざるべからざるなり。法度の威を阻(さえぎ)りて、人をして逾(こ)えんこと能わざらしむ、此れ天の険なり。高城深塹(こうじょうしんざん)、此れ地の険なり。然れども是の険は、道を以て之を守れば則ち以て興るに易く、道を以てせずして之を守れば則ち以て亡ぶに易し。善く険を用いて興る者は、其れ大人なるか。

象曰:水洊至,習坎,君子以常徳行,習教事。行險者,武事也,所謂事者蓋武事也,不教民戰是謂棄之,故稱武事焉。詩曰:有常徳以立武事。先常徳而後立武,蓋不如是,則有因怒興事、踴躍用兵者矣。

『象』に曰く、水洊(し)く至る、習坎、君子以て徳行を常にし、教事を習うと。険を行くは、武事なり。所謂事とは蓋し武事なり。民を教えて戦わしめざるは是れ之を棄つると謂う。故に武事と称す。詩に曰く、常徳有りて以て武事を立つと。先に常徳にして然る後に武を立つ。蓋し是くの如くせざれば、則ち怒に因りて事を興し、踊躍(ようやく)として兵を用うる者有らん。

初六:習坎,入于坎窞,凶。象曰:習坎入坎,失道凶也。君子亦有時而居險,然不終為險所陷也,其卒動而免乎險矣;王公亦有時而設險,然不終以險自恃也,其卒易而無備矣。初六習坎入坎,則是居險而終陷、設險而終恃也,凶可知矣。

初六の爻辞に言う、「習坎、坎窞(かんたん)に入る、凶」と。『小象伝』に言う、「習坎坎に入るは、道を失いて凶なり」と。君子も亦た時有りて険に居る。然れども終に険の為に陥れられざるなり。其の卒は動きて険を免るなり。王公も亦た時有りて険を設く。然れども終に険を以て自ら恃(たの)むに非ざるなり。其の卒は易(やす)らかにして備无し。初六習坎坎に入れば、則ち是れ険に居りて終に陥れられ、険を設けて終に之を恃むなり。凶知る可し。

離卦(離下離上、原書卦辞彖辞阙有り)

闕。為其鑿也。荀子曰:元師無法而智,則必為盜矣。智者,君子之所貴也,而有至於鑿、甚有至於為盜者,以不麗乎正故也。重明以麗乎正,則若禹之行水,因性循理而無察察之政焉,乃所以化成天下也。

(缺文)。其れ鑿(さく、うがつ)なるを為すなり。荀子に曰く、師元(もと)法无くして智あれば、則ち必ず盗と為ると。智とは、君子の貴ぶ所なり。而して鑿に至る有り、甚(はなはだ)しきは盗と為るに至る者有るは、正に麗(つ)かざるを以てなり。重明以て正に麗れば、則ち禹の水を行(ゆ)くが若し、性に因り理に循いて察察(さつさつ)の政无きなり。乃ち天下を化成する所以なり。

中正者,剛柔之節也。剛巽乎中正而志行,剛得其節也;柔麗乎中正故亨,柔得其節也。柔得中正之節,故畜牝牛吉焉。夫牝牛,順之至也;所養以至順而不本乎中正,則入於邪,未見其吉也。象曰:明兩作,離,大人以繼明照于四方。日月兩作而繼照,大人與日月合其明,故能以繼明照于四方,堯舜之重華、文武之重光則其事也。

中正とは、剛柔の節なり。剛中正に巽(そん)りて志行わるるは、剛其の節を得るなり。柔中正に麗れば故に亨るは、柔其の節を得るなり。柔中正の節を得れば、故に牝牛(ひんぎゅう、雌牛)を畜(か)えば吉なり。夫れ牝牛とは、順の至なり。養う所以順の至にして中正に本づかざれば、則ち邪に入る。未だ其の吉を見ざるなり。『象』に曰く、明両(ふたつ)として作(おこ)る、離、大人以て明を継ぎて四方に照らすと。日月両として作りて継ぎて照らせば、大人日月と其の明を合わせて、故に能く明を継ぎて四方に照らす。堯舜の重華(ちょうか)、文武の重光(ちょうこう)は則ち其の事なり。

初九:履錯然,敬之無咎。象曰:履錯之敬,以辟咎也。六二以柔履下之象也,文明在中,履之錯然者也。人以柔中為徳,而其接物又有錯然之文,此人之所以共敬之也;人共敬之而已獨犯焉,則咎斯至矣。初體炎上之性,戒在犯二;能敬而不犯,則咎可無矣,故元咎。

初九の爻辞に言う、「履(ふ)む錯然(さくぜん)たり、之を敬して咎无し」と。『小象伝』に言う、「錯然の敬は、以て咎を辟(よ)くるなり」と。六二は柔を以て下に履むの象なり。文明中に在りて、履む錯然たる者なり。人柔中を以て徳と為し、而して其の物に接するも又錯然の文有る。此れ人の共に之を敬する所以なり。人共に之を敬して己独り之を犯せば、則ち咎斯に至る。初炎上の性を体す。戒るるは二を犯すに在り。能く敬して犯さざれば、則ち咎无き可し。故に元咎なり。

六二:黃離,元吉。象曰:黃離元吉,得中道也。賢者過之,不肖者不及;知者過之,愚者不及,其失道均也。由能勇而不能怯,賢者過之也;賜能辯而不能訥,智者過之也。六二有柔嘉之徳、文明之才,賢且智矣,而能守中,黃離之象也。書曰:節性惟日其邁。六二可謂知節性矣,其吉不亦宜乎?

六二の爻辞に言う、「黄離、元吉」と。『小象伝』に言う、「黄離元吉は、中道を得るなり」と。賢者は之を過ぎ、不肖者は之に及ばず。知者は之を過ぎ、愚者は之に及ばず。其の道を失う均しきなり。由(ゆう)は能く勇にして能く怯(おじけづ)かざるは、賢者之を過ぐるなり。賜(し)は能く弁にして能く訥(とつ)ならざるは、智者之を過ぐるなり。六二柔嘉(じゅうか)の徳、文明の才有り、賢且つ智なり。而して能く中を守る、黄離の象なり。書に曰く、性を節するは惟れ日に其れ邁(ゆ)かんと。六二は謂う可し性を節するを知ると。其の吉亦た宜しきならずや。

九三:日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。象曰:日昃之離,何可久也。日中必昃,理之必然者也;君子與時消息,則不以息而喜,不以消而憂,故曰日昃之離,不鼓缶而歌,與時消也。必曰鼓缶者,為其能與時消息,則為圓虛以應故也。苟固其位而不知鼓缶而歌,則日方中昃之時,未至於老而惟憂用老矣,是以大耋興嗟而凶也。傳曰:物壯則老,是謂非道,非道於己。苟知樂道,則安有大耊之嗟哉?

九三の爻辞に言う、「日昃(じっそく)の離、缶(ふ)を鼓(こ)して歌わざれば、則ち大耋(たいてつ)の嗟(あ)けり、凶」と。『小象伝』に言う、「日昃の離は、何ぞ久しからんや」と。日中は必ず昃(かたむ)く、理の必然なり。君子時と消息すれば、則ち息を以て喜ばず、消を以て憂えず。故曰く、日昃の離、缶を鼓して歌わざれば、時と消ゆるなりと。必ず缶を鼓すと曰うは、其の能く時と消息するを為すが故なり。則ち円虚(えんきょ)として応と為るが故なり。苟も其の位を固くして缶を鼓して歌うを知らざれば、則ち日方に中昃するの時、未だ老に至らずして惟れ憂い老を用うるなり。是の以て大耋嗟を興して凶なり。伝に曰く、物壮なれば則ち老ゆ、是れを道に非ざると謂う、道に非ずして己に非ざるなりと。苟も道を楽しむを知れば、安んぞ大耋の嗟有らんや。

九四:突如其來如,焚如死如棄如。象曰:突如其來如,無所容也。夫徳盛者其體尊,位髙者其勢利,非物之所能犯也;犯之則如觸石按角而退且傷矣。六二在下猶當敬之而不可犯,又況六五得尊位大中者,其不可犯甚矣。而九四體炎上之性,突如犯之;犯之則其勢不能克,則退反矣,故曰突如其來如。夫無禮於君,天下所為共疾也;既困而來,乗九三之剛,則宜其焚如以至於死且棄而不收矣。

九四の爻辞に言う、「突如(とつじょ)と其の來る、焚如(ふんじょ)と死如(しじょ)と棄如(きじょ)と」と。『小象伝』に言う、「突如と其の來るは、容(い)るる所无きなり」と。夫れ徳盛んなる者は其の体尊し、位高きは其の勢い利し。物の能く犯す所に非ざるなり。之を犯せば則ち石に触れ角を按(おさ)えて退き且つ傷つく。六二は下に在りて猶ほ之を敬すべくして犯すべからず、又況んや六五尊位大中を得る者、其の犯すべからざるや甚だしきなり。而して九四炎上の性を体して、突如として之を犯す。之を犯せば則ち其の勢い能く克(か)たざれば、則ち退いて反る。故曰く、突如と其の來ると。夫れ君に礼无きは、天下の共に疾(にく)む所と為すなり。既に困みて來り、九三の剛に乗ぜば、則ち其の焚如にして死に至り且つ棄てられて収められざる宜しきなり。

六五:出涕沱若,戚嗟若,吉。象曰:六五之吉,離王公也。六五以柔居中而四犯之,力不足以折衝暴,故出涕沱若、戚嗟若也。出涕沱若,憂見於容也;戚嗟若,憂見於聲也。六五離王公之位,人之愛戴惟舊,而至誠之憂見於聲容,足以感人心而天下罔不為用矣,是以突如者終不能犯而吉也。如其失位,號令不行於眾,則雖憂而不免,故六五之吉,離王公也。

六五の爻辞に言う、「涕(なみだ)を出でて沱若(だじゃく、雨のごとく)、戚嗟若(せきさじゃく)たり、吉」と。『小象伝』に言う、「六五の吉は、王公に麗るなり」と。六五柔を以て中に居りて四之を犯す。力以て暴を折冲(せっしょう)するに足らざれば、故に涕を出でて沱若とし、戚嗟若たり。涕を出でて沱若とは、憂い容に見ゆるなり。戚嗟若とは、憂い声に見ゆるなり。六五王公の位に麗る、人の愛戴するや惟れ旧(ふる)し。而して至誠の憂い声容に見ゆれば、以て人心を感じて天下之を為すに用いざるは罔(な)し。是の以て突如とする者は終に能く犯す能わざるにして吉なり。其の位を失わば如(し)くは、号令衆に行われざれば、則ち憂うと雖も免れざるなり。故に六五の吉は、王公に麗るなり。

上九:王用出征,有嘉折首,獲匪其醜,無咎。象曰:王用出征,以正邦也。日月麗乎天,百穀草木麗乎土,群黎百姓麗於王;有王徳,宜天下之所麗,而人有不麗者,此用出征之時也。

上九の爻辞に言う、「王用いて出征す、嘉(よ)し有りて首を折(せっ)す、其の醜(しゅう、たぐい)に匪ざるを獲る、咎无し」と。『小象伝』に言う、「王用いて出征するは、以て邦を正すなり」と。日月は天に麗り、百穀草木は土に麗り、群黎百姓は王に麗る。王徳有れば、宜しく天下の麗る所と為す。而して人麗らざる者有れば、此れ出征するの時なり。

咸卦(艮下兌上、原書卦辞彖辞阙有り)

故於說之道有不盡焉,是以觀其所感,則闕。天也,萬物之情灼然可見矣。屈伸相感而利害生焉,此天地之情也;情偽相感而利害生焉,此萬物之情也。象曰:山上有澤,咸,君子以虛受人。山澤者,通氣之物也,山上有澤,則是其氣交也,故其象為咸。夫山有聳上之成形,澤有鍾下之定位,而能相感者,以其有所謂虛而已,故君子以虛受人,則如橐之應氣,入則鳴,不入則止矣。其曰受人者,以其受於此而已,則止而說之之意也。

故に説(よろこ)びの道に於て尽くせざる有るなり。是の以て其の感ずる所を観れば、則ち阙(けつ)す。天なり、万物の情灼然(しゃくぜん)として見る可し。屈伸相感じて利害生ず、此れ天地の情なり。情偽相感じて利害生ず、此れ万物の情なり。『象』に曰く、山上に沢有り、咸、君子以て虚を以て人を受くと。山沢とは、気を通ずるの物なり。山上に沢有れば、則ち是れ其の気交わるなり。故に其の象は咸と為る。夫れ山は聳(そび)ゆる上の成形有り、沢は鍾(あつ)まる下の定位有り。而して能く相感ずるは、其の所謂虚有るを以てのみ。故に君子以て虚を以て人を受くれば、則ち橐(たく、ふいご)の気に応ずるが如く、入れば則ち鳴り、入らざれば則ち止まる。其の人を受くと曰うは、其の此に於て受くるのみ、則ち止まりて之を説ぶの意なり。

初六:咸其拇。象曰:咸其拇,志在外也。拇在上而無能為者也,有之可以為完,無之未有害於行者也;其才如此而悔吝不至者,以在下非任責之地故也。六二:咸其腓,凶,居吉。象曰:雖凶居吉,順不害也。六二居下體之中,動而隨上者也。夫陰陽合徳,燥溼相蒸,無根而芝菌生、不班而蠐螬育是也;化自生,無或使之,是以咸之所以貴止而說也。今六二動以隨上,義與咸反,凶可知矣;然六二守靜處中,能居者也,居則順於理不害矣。

初六の爻辞に言う、「其の拇(おやゆび)に咸ず」と。『小象伝』に言う、「其の拇に咸ずるは、志外に在るなり」と。拇は上に在りて能く為す无き者なり。之有れば以て完(まっと)うと為すべく、之无ければ未だ行に害有らざるなり。其の才此くの如くにして悔吝至らざるは、下に在りて任責の地に非ざるを以てなり。六二の爻辞に言う、「其の腓(ひ、ふくらはぎ)に咸ず、凶、居れば吉」と。『小象伝』に言う、「凶と雖も居れば吉は、順にして害无きなり」と。六二は下体の中に居る、動きて上に随う者なり。夫れ陰陽徳を合わせ、燥湿相蒸(む)す。根无くして芝菌(しきん)生じ、班(なら)ばずして蠐螬(せいそう)育つ是れなり。化自ら生ず、之を使する或いは无し。是の以て咸の止まりて説ぶを貴ぶ所以なり。今六二動きて以て上に随うは、義咸と反す。凶知る可し。然れども六二静を守り中に処りて能く居る者なり。居れば則ち理に順して害无きなり。

九三:咸其股,執其隨,往吝。象曰:咸其股,亦不處也;志在隨人,所執下也。股在下體之上,隨上以動者也;然則股之視腓,亦不處者也。然六二不處而隨,知變而無所執也;九三則過中而之外,執其隨而不變者也。執其隨以動說為道,正與咸反,是以往吝也;以六二居吉,則九三往吝可知矣。感之者為主,應之者為隨;今執其隨,則所執者下也。執下而無害,唯初六可也;九三既居下體之上而過中矣,吝不亦宜乎?

九三の爻辞に言う、「其の股(もも)に咸ず、其の随を執る、往けば吝」と。『小象伝』に言う、「其の股に咸ずるは、亦た処らざるなり。志人に随うに在り、執る所は下なり」と。股は下体の上に在り、上に随いて動く者なり。然らば則ち股の腓を視るも、亦た処らざる者なり。然れども六二処らずして随うは、変を知りて執る所无きなり。九三は則ち中を過ぎて外に之く、其の随を執りて変わらざる者なり。其の随を執りて動説を以て道と為すは、正に咸に反す。是の以て往けば吝なり。六二の居れば吉を以てすれば、則ち九三の往けば吝なる知る可し。之を感ずる者は主と為り、之に応ずる者は随と為る。今其の随を執れば、則ち執る所は下なり。下を執りて害无きは、唯れ初六のみ可なり。九三既に下体の上に居りて中を過ぐれば、吝亦た宜しきならずや。

九四:貞吉悔亡,憧憧往來,朋從爾思。象曰:貞吉悔亡,未感害也;憧憧往來,未光大也。夫情偽相感也,以情感則生利,以偽感則生害。九四之與初六不失正應,則非以偽相感也,是以未感害也。九四不固其位,而兌體悅物之性,則其在二陽之間不能自主,故憧憧往必來也。九三九五皆非其應,往不可以得五,來不可以得三,所以憧憧乎其間耳。

九四の爻辞に言う、「貞吉悔亡ぶ、憧憧(しょうしょう)として往来す、朋爾(なんぢ)が思に従う」と。『小象伝』に言う、「貞吉悔亡ぶは、未だ害を感感ぜざるなり。憧憧として往来すは、未だ光大ならざるなり」と。夫れ情偽相感ずるや、情を以て感ずれば則ち利を生じ、偽を以て感ずれば則ち害を生ず。九四の初六と正応を失わざれば、則ち偽を以て相感ずるに非ざるなり。是の以て未だ害を感ぜざるなり。九四其の位を固くせず、而して兌体物を説ぶの性あれば、則ち其の二陽の間に在りて自ら主(つかさど)る能わず。故に憧憧として往きて必ず來る。九三九五皆非なり其の応なり。往きて以て五を得べからず、來りて以て三を得べからず。其の間に憧憧乎とするのみ。

咸以止而說為善,憧憧往來,則豈光大之道哉?雖憧憧往來無有一得,然其感物而來應之心可謂至矣,是亦初六之朋從爾思而已。聖人感人心而天下和平,豈朋從爾思哉?九五:咸其脢,無悔。象曰:咸其脢,志末也。脢在心之上、口之下,其感物之不以心,又不以言也。夫有心則其感物也狹,有言則其感物也狹;外守中正之徳,無言思之累,如天地之感乎萬物,死生出乎自然,何悔之有哉?其曰志末,為其於物無擇也;使知其大小本末而擇,則有心矣。

咸は止まりて説ぶを以て善と為す。憧憧として往来すれば、則ち豈に光大の道ならんや。憧憧として往来して一得有る无しと雖も、然れども其の物を感じて來り応ぜんとする心は至と謂う可し。是れ亦た初六の朋爾が思に従うのみ。聖人人心を感じて天下和平す、豈に朋爾が思に従わんや。九五の爻辞に言う、「其の脢(ばい、背の肉)に咸ず、悔无し」と。『小象伝』に言う、「其の脢に咸ずるは、志末なり」と。脢は心の上、口の下に在り、其の物を感ずる心を以てせず、又言を以てせざるなり。夫れ心有れば則ち其の物を感ずるや狭し、言有れば則ち其の物を感ずるや狭し。外に中正の徳を守り、言思の累无し。天地の万物を感ずるが如く、死生自然より出づ。何の悔か有らんや。其の志末と曰うは、其れ物に於て択ぶ无きを為すなり。其の大小本末を知りて択べば、則ち心有らん。

上六:咸其輔頰舌。象曰:咸其輔頰舌,滕口說也。此感物之以言也。夫莫嚴乎上令,有時乎不從者,人心之不可以令服也;莫巧乎說辭,說辭有時乎不入者,物理不可以辭奪也。上令猶有不從,巧辭猶有不入,又況乎譊譊者乎?言之不可用以感物也如此,則上六咸其輔頰舌,但騰口說而已。

上六の爻辞に言う、「其の輔頬舌(きょうだくぜつ、ほお・あご・舌)に咸ず」と。『小象伝』に言う、「其の輔頬舌に咸ずるは、口説を滕(かた)るのみ」と。此れ物を感ずるに言を以てするなり。夫れ上の令に厳(きび)しきは莫し、時有りて従わざる者は、人心の以て令に服すべからざるなり。説辞に巧なるは莫し、説辞時有りて入らざる者は、物理の以て辞に奪うべからざるなり。上の令は猶ほ従わざる有り、巧辞は猶ほ入らざる有り、又況んや譊譊(ごうごう)たる者をや。言の以て物を感ずるに用いべからざること此くの如し。則ち上六の其の輔頬舌に咸ずるは、但だ口説を騰るのみ。

恒卦(巽下震上)

巽下震上。恆:亨,無咎,利貞,利有攸往。彖曰:恆,久也。剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔皆應,恆。恆亨無咎利貞,久於其道也;天地之道,恆久而不已也。利有攸往,終則有始也。日月得天而能久照,四時變化而能久成,聖人久於其道而天下化成;觀其所恆,而天地萬物之情可見矣。

『恒』卦は下体が巽、上体が震。卦辞に言う、「恒、亨、咎无し、貞に利し、往く所有るに利し」と。『彖伝』に言う、「恒とは、久しきなり。剛上にして柔下、雷風相与にし、巽りて動き、剛柔皆応ず、恒なり。恒亨咎无く貞に利しは、其の道に久しきなり。天地の道は、恒久にして已(や)まざるなり。往く所有るに利しは、終われば則ち始まり有るなり。日月天を得て能く久しく照り、四時変化して能く久しく成す、聖人其の道に久しくして天下化成す。其の恒する所を観て、天地万物の情見る可し」と。

剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔皆應,此恆之所以為常也。夫柔上而剛下,雷風相薄,剛以動而柔之不應,是有時而然也,非常也。蓋剛上柔下而位定,剛柔相與而氣通,巽而動則理順,剛柔皆應則情和,所以能久也。

剛上にして柔下、雷風相与にし、巽りて動き、剛柔皆応ず、此れ恒の常と為る所以なり。夫れ柔上にして剛下、雷風相薄(はく)め、剛以て動きて柔之に応ぜず、是れ時有りて然るなり、常に非ざるなり。蓋し剛上柔下にして位定まり、剛柔相与にして気通じ、巽りて動けば則ち理順なり、剛柔皆応ずれば則ち情和す。久しき能くする所以なり。

夫物不可以久居其所,則當未為無咎,惟久於其道,是以亨無咎而利正也。天地之道,常久而不已者也;所以常久而不已,非一定而不變之謂也,亦運動變化終則有始而已,故曰利有攸往,終則有始也。

夫れ物其の所に久しく居るべからざれば、則ち当に未だ咎无きと為すべからず。惟れ其の道に久しければ、是の以て亨咎无く正に利するなり。天地の道は、常久にして已まざる者なり。常久にして已まざる所以は、一定にして変わらざるの謂に非ざるなり。亦た運動変化終われば則ち始まり有るのみ。故曰く、往く所有るに利し、終われば則ち始まり有りと。

夫日月得天能久照,四時變化能久成,聖人久於其道亦若此而已。故體道之經猶日月也,應世之權猶四時也,是以久於其道而天下化成矣。且鐫金礱石,久而後成,固其所也。天地萬物之情所久不同:天地長久而不已,萬物盛衰之不窮,而萬物之小年大年各安其分而不相?;又有所久中者,有久非其位者,其不同如此,故曰觀其所常,而天地萬物之情可見矣。

夫れ日月天を得て能く久しく照り、四時変化して能く久しく成す、聖人其の道に久しくするも亦た此くの若くのみ。故に道の経(かた)を体するは猶ほ日月なり、世に応ずるの権(かり)は猶ほ四時なり。是の以て其の道に久しくして天下化成す。且つ金を鐫(ほ)り石を礱(と)ぐは、久しくして然る後に成る、固より其の所なり。天地万物の情の久しき所は同じからず。天地は長久にして已まず、万物は盛衰の窮まらず、而して万物の小年大年各々其の分に安んじて相害せず。又久しく中なる所有り、久しく其の位に非ざる者有り。其の不同此くの如し。故曰く、其の常する所を観て、天地万物の情見る可しと。

象曰:雷風,恆,君子以立不易方。惟道為無方,於徳則有方,故傳或稱仁方,或稱義方焉。立其仁義之方而或易,則必一出一入,塗巷之人也,安可以為常?聖人不然,體日月之運行、四時之變化,則方圓無常,以和為量矣,是以又惡其執方也。

『象』に曰く、雷風、恒、君子以て立ちて方を易(か)えずと。惟れ道は方无きを為す。徳に於ては則ち方有り。故に伝或いは仁方と称し、或いは義方と称す。其の仁義の方を立てて或いは易(か)えば、則ち必ず一出一入する、涂巷(とこう)の人なり。安んぞ以て常と為すべからんや。聖人は然らず。日月の運行、四時の変化を体すれば、則ち方円常无く、和を以て量(はか)りと為す。是の以て又其の方を執るを悪(にく)むなり。

初六:浚恆,貞凶,無攸利。象曰:浚恆之凶,始求深也。古者君臣朋友之際,未嘗不相求以竭誠盡節,至有相要以死者,然則求人非不可以深也;惟情意之未通、恩信之未結而遽求焉,則人之所不堪也。初六之求深矣在於此,是以貞凶無攸利也。

初六の爻辞に言う、「浚(しゅん)して恒とす、貞凶、利する所无し」と。『小象伝』に言う、「浚恒の凶は、始めに深くを求むるなり」と。古者君臣朋友の際は、未だ嘗て相求めて誠を竭くし節を尽くすに非ざらざるなり。至りて死を以て相要(やく)する者有り。然らば則ち人を求むるは以て深くすべからざるに非ざるなり。惟れ情意の未だ通ぜず、恩信の未だ結ばざるにして遽(にわ)かに之を求めば、則ち人の堪えざる所なり。初六の求むる深きは此に在るを以て、是の以て貞凶利する所无きなり。

九二:悔亡。象曰:九二悔亡,能久中也。君子亦有時而過,亦有時而不及,所以應變則然也;其卒歸宿之地則中而已,則是中者可久之地也。二能久中,得其所久,其悔亡也。

九二の爻辞に言う、「悔亡ぶ」と。『小象伝』に言う、「九二悔亡ぶは、能く中に久しきなり」と。君子も亦た時有りて過ぎ、亦た時有りて及ばず。変に応ずる所以然るなり。其の卒帰宿するの地は則ち中のみ。則ち是れ中は久しき可きの地なり。二能く中に久しきは、其の久しき所を得る。其の悔亡ぶなり。

九三:不恆其徳,或承之羞,貞吝。象曰:不恆其徳,無所容也。常其徳,則其守道也固,其進道也篤。彼不常之人,其有聞也若存若亡,其有行也一出一入,雖得之必失之矣。夫衣服不貳、從容有常,則為萬民之望;既不常其徳,則萬民何望焉?承之者羞,理亦宜也。近而承之者羞,則逺者無不棄,故曰無所容也。

九三の爻辞に言う、「其の徳を恒にせず、或いは之を羞(はぢ)と承(う)く、貞吝」と。『小象伝』に言う、「其の徳を恒にせざれば、容(い)るる所无きなり」と。其の徳を常にせば、則ち其の道を守るや固く、其の道に進むや篤し。彼の常ならざるの人は、其の聞く有るや若く存し若く亡し、其の行う有るや一出一入す。之を得ると雖も必ず之を失う。夫れ衣服二(ふた)つならず、従容常有れば、則ち万民の望と為る。既に其の徳を常にせざれば、則ち万民何を望まん。之を承くる者は羞とする、理も亦た宜なり。近くして之を承くる者は羞とすれば、則ち遠き者は棄てざる无し。故曰く、容るる所无きなりと。

九四:田無禽。象曰:久非其位,安得禽也。田者,興事之大者也;禽,可獲之物也。大事興而不得可獲之物,以久非其位故也。君子安其身而後動,是以動而有獲矣;久非其位,則身且危而不安,何從而得禽哉?

九四の爻辞に言う、「田(でん、かり)禽(とり)无し」と。『小象伝』に言う、「久しく其の位に非ざれば、安んぞ禽を得んや」と。田とは、事を興すの大なる者なり。禽とは、獲る可きの物なり。大事興して獲る可きの物を得ざるは、久しく其の位に非ざるを以てなり。君子其の身を安んじて然る後に動く、是の以て動きて獲る有るなり。久しく其の位に非ざれば、則ち身且つ危うくして安んぜず、何の従りて禽を得んや。

六五:恆其徳貞,婦人吉,夫子凶。象曰:婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。孔子曰:善人吾不得而見之矣,得見有恆者斯可矣。然則有常者,蓋善人之次也,其視君子與聖人蓋逺矣。聖人地而惟常是人,則以之言夫子,則以之分有宜不。上六:振恆,凶。象曰:振恆在上,大無功也。物不可以終止,故既濟終上,則其振常凶。夫動惟厥時乃有功,振以

六五の爻辞に言う、「其の徳貞を恒にす、婦人は吉、夫子は凶」と。『小象伝』に言う、「婦人貞吉は、一に従いて終るなり。夫子義を制す、婦に従えば凶なり」と。孔子に曰く、善人吾得て之を見ず、恒有る者を見れば斯に可なりと。然らば則ち常有るは、蓋し善人の次なり。其の君子と聖人とを視るは蓋し遠し。聖人は地にして惟れ常是れ人なり。則ち以て夫子を言うは、則ち以て分宜ならざる有り。上六の爻辞に言う、「振(ふる)い恒とす、凶」と。『小象伝』に言う、「振恒上に在りは、大いに功无きなり」と。物以て終止すべからざるなり。故に既済終わりて上、則ち其の振常凶。夫れ動惟れ其の時にして乃ち功有り、振を以て(原書此れより文字残阙)

周易新講義卷第五

遯卦(艮下乾上)

艮下乾上。遯:亨,小利貞。彖曰:遯亨,遯而亨也。剛當位而應,與時行也。小利貞,浸而長也。遯之時義大矣哉。陰陽之運,其來不可御,其去不可止,故君子之方興,小人未嘗不欲抑而卒不能抑也;小人之方長亦然。履霜之戒、金柅之辭,皆所以抑小人也,其卒不能抑,故至於遯。

『遯(とん)』卦は下体が艮、上体が乾。卦辞に言う、「遯、亨、小貞に利し」と。『彖伝』に言う、「遯亨は、遯れて亨なり。剛位に当りて応じ、時と行くなり。小貞に利しは、浸(し)みて長ずるなり。遯の時義大なるかな」と。陰陽の運は、其の來るや御(ふせ)ぐべからず、其の去るや止むべからず。故に君子の方に興るは、小人未だ嘗て抑えんと欲して卒に能く抑えざらざるなり。小人の方に長ずるも亦然り。履霜(りそう)の戒め、金柅(きんじ)の辞は、皆小人を抑える所以なり。其の卒能く抑えず、故に遯に至る。

夫陰之初生已不能抑,而至於遯則復何所能抑?故至於遯而退,則小人之害去,是以小亨也。剛當位而應,言九五也;當位且有應,自人事觀之,猶足以有為也。君子知陰陽之機不可以力御,於是乎遯,與夫小人失位而無應然後知去者異乎。

夫れ陰の初めて生ずる已に能く抑えざるなり。而して遯に至れば則ち復た何の抑える所能か有らん。故に遯に至りて退けば、則ち小人の害去る。是の以て小亨なり。剛位に当りて応ずとは、九五を言うなり。位に当り且つ応有れば、人事より観るに、猶ほ以て為す有るに足る。君子陰陽の機の以て力御すべからざるを知りて、是に於て遯る。小人の位を失いて応无くして然る後に去るを知る者と異なるなり。

小利貞,未至乎不利君子貞也;至於不利君子貞然後退,則亦晚矣。夫當位而應猶足以有為也,方浸而長,小人猶未大熾,則可撲滅也,君子已浩然而去,則非明足以見機、勇足以有?者不能為此,故曰遯之時義大矣哉。

「小貞に利し」は、未だ「君子の貞に利ならず」に至らざるなり。「君子の貞に利ならず」に至りて然る後に退けば、則ち亦た晩(おそ)し。夫れ位に当りて応有れば猶ほ以て為す有るに足る。方に浸みて長ず、小人猶ほ未だ大いに熾(さかん)ならざれば、則ち撲滅す可し。君子已に浩然として去れば、則ち明にて機を見るに足り、勇にて有断するに足らざるに非ざれば此れを為す能わず。故曰く、遯の時義大なるかなと。

象曰:天下有山,遯,君子以逺小人,不惡而嚴。山聳而上陵天之髙,非山之所能陵也,小人不足以陵君子之象。小人固不足以陵君子,則君子之於小人,逺之而勿近而已,何惡之有哉?中雖不惡,而不可以不嚴。蓋小人近之則不遜,而逺之則怨;不惡則怨無自起而不至於遘閔,嚴則不遜無自至而不至於受侮也。

『象』に曰く、天下に山有り、遯、君子以て小人を遠ざけ、悪(にく)まずして厳なりと。山聳(そび)えて上に陵(しの)ぐ天の高きは、山の能く陵ぐ所に非ざるなり。小人以て君子に陵ぐに足らざるの象なり。小人固より以て君子に陵ぐに足らざれば、則ち君子の小人に於ては、之を遠ざけて近づくる勿れのみ。何の悪か有らん。中悪まざると雖も、而して厳ならざるべからず。蓋し小人は近づけば則ち遜(そん)ならず、而して之を遠ざければ則ち怨(うら)む。悪まざれば則ち怨起る自由(よ)り无くして遘閔(こうびん)に至らず。厳なれば則ち遜ならざる至る自由り无くして侮を受くるに至らざるなり。

初六:遯尾厲,勿用有攸往。象曰:遯尾之厲,不往何災也。二陰方生,未至於為否,而君子之遯則貴乎早者也。智者皆遯而獨為尾,有亂群之嫌,遘閔受侮之道,初六所以厲也。然遯既不先,至於為尾,則勿用有攸往可也。何則?智雖見之不先,勇雖去之不速,而於仁也柔,然怨之不至,則群乎小人之間無害,故曰遯尾厲,不往何災也。

初六の爻辞に言う、「遯尾(び)厲(あやう)し、往く所有るを用る勿れ」と。『小象伝』に言う、「遯尾の厲しきは、往かざれば何の災いか有らん」と。二陰方に生ず、未だ否に至らず。而して君子の遯は則ち早きを貴ぶ者なり。智者皆遯れて独り尾と為るは、群を乱るの嫌(いぎ)有り、遘閔(こうびん)侮を受くるの道なり。初六の厲しき所以なり。然れども遯既に先ならず、尾と為るに至れば、則ち往く所有るを用る勿れは可なり。何となれば、智見る先ならずと雖も、勇去る速ならずと雖も、而して仁に於て柔なり。然れども怨の至らざれば、則ち小人の間に群して害无し。故曰く、遯尾厲し、往かざれば何の災いか有らんと。

六二:執之用黃牛之革,莫之勝說。象曰:執用黃牛,固志也。君子建非常之功,或以剛過;至於當遯,則順斯可矣。然猶未離乎內,猶與小人處也,中或怵而為倚,順或誘而為邪,亦持志之不固而已。君子以中順自守,如革之柔而堅也,則憂患不至而所樂全矣,故曰莫之勝說。

六二の爻辞に言う、「之を執るに黄牛の革を以てす、之を勝(あ)げて説(だつ)く莫し」と。『小象伝』に言う、「黄牛を執るに用うは、志を固くするなり」と。君子非常の功を建つ、或いは剛過ぎて以てす。遯に当るに至れば、則ち順のみ可なり。然れども猶ほ未だ内を離れず、猶ほ小人と処る。中或いは怵(そそ)られて倚(かたよ)りと為り、順或いは誘われて邪と為る。亦た志を持するの固からざるのみ。君子中順を以て自ら守れば、革の柔にして堅きが如し。則ち憂患至らずして楽しむ所全し。故曰く、之を勝げて説く莫しと。

九三:係遯,有疾厲,畜臣妾吉。象曰:係遯之厲,有疾憊也;畜臣妾吉,不可大事也。天下之物,有之則累;君子視天下無一物之可認而有也,則能灑然而無累,而去就之間如虛舟飄葉,無所倚著。苟有所繫,其能若是哉?此九三所以係遯,所以疾憊也。以其為主於內而二陰承之,故畜臣妾吉。夫道之不行,雖子弟有萬鍾之養,孟子不為也;則疾憊之不免而惟臣妾之畜,且謂君子願之乎?故曰畜臣妾吉,不可大事也。

九三の爻辞に言う、「遯を繋ぐ、疾厲し有り、臣妾(しんしょう)を畜(か)えば吉」と。『小象伝』に言う、「遯を繋ぐの厲しきは、疾惫(べい)有るなり。臣妾を畜えば吉は、以て大事を為すべからざるなり」と。天下の物は、之を有れば則ち累なり。君子天下を視るに一物の認む可くして有する无し。則ち能く洒然として累无し。而して去就の間虚舟飄葉(きょしゅうひょうよう)の如く、倚着する所无し。苟も繋ぐ所有れば、其れ能く是の若くせんや。此れ九三の遯を繋ぐ所以、疾惫する所以なり。其の内に主と為りて二陰之を承(う)くを以て、故に臣妾を畜えば吉なり。夫れ道の行われざるは、子弟万鍾の養有ると雖も、孟子為さざるなり。則ち疾惫の免がれざるにして惟れ臣妾の畜を思うは、且つ君子之を願うと謂うか。故曰く、臣妾を畜えば吉、以て大事を為すべからざるなりと。

九四:好遯,君子吉,小人否。象曰:君子好遯,小人否也。係遯以跡言,好遯以心言也。有繫之跡則不成為遯,有好之心則不害為遯,蓋跡無所繫則雖好遯無傷也。孟子之去齊,三宿而出晝,以其有好也,蓋卒浩然而去,何繫之有哉?然好遯惟君子能之,小人則否,小人智不足以有明、勇不足以有?故也。

九四の爻辞に言う、「遯を好(こうの)む、君子は吉、小人は否(いな)なり」と。『小象伝』に言う、「君子遯を好むは、小人否なり」と。遯を繋ぐは迹を以て言い、遯を好むは心を以て言うなり。之を繋ぐの迹有れば則ち遯と為り成さず。之を好むの心有れば則ち遯と為るに害无し。蓋し迹繋ぐ所无ければ則ち遯を好むと雖も傷无きなり。孟子の斉を去るや、三宿して昼を出づ。其の好有るを以てなり。蓋し卒に浩然として去る。何の繋か有らんや。然れども遯を好むは惟れ君子能く之を為す。小人は則ち否なり。小人智以て明有るに足らず、勇以て断有るに足らざるが故なり。

九五:嘉遯,貞吉。象曰:嘉遯貞吉,以正志也。嘉者,美之至也,遯如九五無以加矣。蓋在下如初,則不免以卑遜全身;如六二,則不免以中順固志;惟九五剛健中正,不自屈而為卑遜,不少貶而為中順,又當位而應,可以無阻,遯之善者也,故象曰正志。正志者,自守我志,非若六二之固志、懼為小人之傾奪也。

九五の爻辞に言う、「遯を嘉(か)す、貞吉」と。『小象伝』に言う、「遯を嘉す貞吉は、以て志を正すなり」と。嘉とは、美の至なり。遯九五の如くなれば以て加うる无きなり。蓋し下に在りて初の如くなれば、則ち免がれずして以て卑遜身を全うす。六二の如くなれば、則ち免がれずして以て中順志を固くす。惟れ九五剛健中正にして、自ら屈せずして卑遜と為り、少(しょう)しも貶(おと)さずして中順と為る。又位に当りて応じ、以て阻(そ)げる无き可し。遯の善なる者なり。故に象に曰く正志と。正志とは、自ら我が志を守る、六二の志を固くするの若くに非ず、小人の傾奪を懼るるなり。

上九:肥遯,無不利。象曰:肥遯無不利,無所疑也。陽饒陰乏,陽故得陰而損。小人之於君子也,既欲沮喪其道,又欲戕賊其身,為損如此,故二九超然處外,不內應於小人,則為肥焉,亦猶剝上九之碩果也。然肥遯者,山林閒曠之人;如嘉遯,則非孔孟不足以當之。

上九の爻辞に言う、「遯を肥(ひ)す、利ならざる无し」と。『小象伝』に言う、「遯を肥す利ならざる无しは、疑う所无きなり」と。陽饒(ゆた)かにして陰乏し。陽故に陰を得て損す。小人の君子に於ては、既に其の道を沮喪(そそう)せんと欲し、又其の身を戕賊(しょうぞく)せんと欲す。損と為る此くの如し。故に二九超然として外に処り、内に小人に応応ぜざれば、則ち肥と為る。亦た猶ほ剥上九の碩果(せっか)の若し。然れども遯を肥すは、山林閑旷(かんこう)の人なり。遯を嘉すが如くなれば、則ち孔孟に非ざれば以て之に当るに足らず。

大壮卦(乾下震上)

乾下震上。大壯:利貞。彖曰:大壯,大者壯也,剛以動故壯。大壯利貞,大者正也;正大而天地之情可見矣。陰陽之分,雖陽大而陰小,其實迭為消長,故三陰在上、三陽在下,雖謂之小往而大來,然亦陽陰平分而不相勝耳。

『大壮』卦は下体が乾、上体が震。卦辞に言う、「大壮、貞に利し」と。『彖伝』に言う、「大壮は、大なる者壮なり。剛以て動きて故に壮なり。大壮貞に利しは、大なる者正なり。正大にして天地の情見る可し」と。陰陽の分は、陽大にして陰小と雖も、其の実迭(かわ)りて消長と為る。故に三陰上に在り、三陽下に在り、之を小往大來と謂うと雖も、然れども亦た陽陰平分して相勝たざるのみ。

三陽未為壯,及四陽長然後為壯焉。自人事言之,君子之壯,取足以勝小人、不可陵而已,無事乎過也。用壯而過怒,以勇氣慿陵乎物,則剛必折、鋭必挫,是所以貴乎正也。壯故能極其大而有輝光,正故能保其大而無挫折也。

三陽は未だ壮と為さず、四陽の長に及びて然る後に壮と為る。人事より之を言えば、君子の壮は、以て小人に勝つに足り、以て陵(しの)ぐべからざるに足るのみ、過ぎるに事(つか)うる无し。壮を用いて過怒(かど)し、勇気を以て慿陵(ひょうりょう)物に及ぼせば、則ち剛は必ず折れ、鋭は必ず挫(くじ)かる。是れ正を貴ぶ所以なり。壮なるが故に能く其の大を極めて輝光有り、正なるが故に能く其の大を保ちて挫折无きなり。

正大,謂正其大,使大者不失正,是所謂貞也,正直是也。正大惟天地之情為然,萬物不與焉。萬物之情,壯必至於老,是謂非道;天地之情惟正大,是以不至於老而能長久也。象曰:雷在天上,大壯,君子以非禮弗履。禮者,順天地之理而公者也,故有之則安,無之則危;順之則成,逆之則敗,然天下之壯莫如禮也。君子所以能壯而勝小人,亦非禮勿履而已。非禮勿履,故橫逆之來若羊觸藩,至則羸矣,魯秉周禮而齊不敢伐,為是故也。

「正大」とは、其の大を正し、大なる者其の正を失わざらしむ、是れ所謂貞なり、正直是れなり。正大は惟れ天地の情にして然るなり。万物は与(あずか)らざるなり。万物の情は、壮は必ず老に至る、是れを非道と謂う。天地の情は惟れ正大なり、是の以て老に至らずして能く長久なり。『象』に曰く、雷天上に在り、大壮、君子以て礼に非ざれば履(ふ)まざるなりと。礼とは、天地の理に順い而して公なる者なり。故に之有れば則ち安く、之无ければ則ち危うし。之に順えば則ち成り、之に逆えば則ち敗る。然れども天下の壮は礼に如くは莫し。君子の能く壮にして小人に勝つ所以は、亦た礼に非ざれば履まざるのみ。礼に非ざれば履まざれば、故に横逆(おうぎゃく)の來るは羊の藩(はん、さかき)に触るるが若く、至れば則ち羸(るい、からまる)る。魯周礼を秉(と)りて斉敢えて伐たざるは、是の故を為すなり。

初九:壯于趾,征凶有孚。象曰:壯于趾,其孚窮也。趾在下,以健行者也。初九在下而無應乎上,乃欲恃其健而行焉,征則凶矣。蓋大壯貴止,止非不貴,用壯止乃所以為壯也;使用壯而不止,至於挫且折,豈所以為壯哉?今初九以其才之能行也而征,不知止,宜其凶也。雖征凶,不害其為行之才,故稱有孚焉。

初九の爻辞に言う、「趾(あし)に壮んなり、征せば凶孚有り」と。『小象伝』に言う、「趾に壮んなるは、其の孚窮まるなり」と。趾は下に在り、以て健行する者なり。初九下に在りて上に応ずる无し、乃ち其の健を恃(たの)みて行かんと欲す。征せば則ち凶なり。蓋し大壮は止まるを貴ぶ。止まるは貴ばざるに非ざるなり、壮を用いるは乃ち壮と為す所以なり。壮を用いて止まらざるを使(も)せば、挫し且つ折るるに至れば、豈に壮と為す所以ならんや。今初九其の才の能く行くを以て征す、止まるを知らず。其の凶なる宜しきなり。征せば凶と雖も、其の行の才と為るに害无し。故に孚有りと称す。

九二:貞吉。象曰:九二貞吉,以中也。九二以剛不失中,此壯而知止者也。剛不可以持者也,過剛則必折;中則善生,我所以待物也有則,而物之所以勝我者益寡,是以守壯宜以道而不可過也。

九二の爻辞に言う、「貞吉」と。『小象伝』に言う、「九二貞吉は、以て中なり」と。九二剛を以て中を失わざるは、此れ壮にして止まるを知る者なり。剛は以て持つ可き者に非ざるなり。剛を過ぐれば則ち必ず折る。中なれば則ち善を生ず。我の以て物を待つや則有りて、而して物の以て我に勝つ所以は益々寡し。是の以て壮を守るは宜しく道を以てすべくして過ぐべからざるなり。

九三:小人用壯,君子用罔,貞厲,羝羊觸藩,羸其角。象曰:小人用壯,君子罔也。九三之視初九,得其位應,可以有為矣;然九二以剛處中而貞吉,九四以履柔而悔亡,今九三皆反之,茲壯也祇所以為羸也。故雖得位而有應,而小人處之則用罔也。傳曰:罔者,有之舍也。以謂恃壯而壯其中,是以稱罔也。羊,狠物也;羝羊,狠之至也。藩,所以限內外,禮之象也;恃剛狠犯禮,未有能前者,故有羸其角之象焉。

九三の爻辞に言う、「小人は壮を用い、君子は罔(もう、なし)を用いる、貞厲し、羝羊(ていよう)藩に触れて、其の角を羸(るい)す」と。『小象伝』に言う、「小人は壮を用い、君子は罔なり」と。九三の初九を視るは、其の位応を得る、以て為す有る可し。然れども九二剛を以て中に処りて貞吉、九四柔を履みて悔亡ぶ。今九三皆之に反す。兹の壮は祇(ただ)以て羸と為る所以なり。故に位を得て応有ると雖も、而して小人之に処れば則ち罔を用うるなり。伝に曰く、罔とは、有の舎(す)てなりと。壮を恃みて其の中を壮と為すを以て、是の以て罔と称す。羊とは、狠(あら)き物なり。羝羊とは、狠の至なり。藩とは、内外を限る所以、礼の象なり。剛狠を恃みて礼に犯すは、未だ能く前する者有らざるなり。故に其の角を羸するの象有るなり。

九四:貞吉悔亡,藩決不羸,壯于大輿之腹。象曰:藩決不羸,尚往也。九四以陽居陰。以陽居陰,在居位非正,然或不同,有反是而為正者,若九四是也。九四以陽居陰,壯而思柔,得大者之正,是以貞吉悔亡也。

九四の爻辞に言う、「貞吉悔亡ぶ、藩決(けつ)して羸せず、大輿の腹に壮んなり」と。『小象伝』に言う、「藩決して羸せずは、尚ほ往くなり」と。九四陽を以て陰に居る。陽を以て陰に居るは、居位に於て正に非ず。然れども或いは同じからず、反す是れにして正と為る者有り、九四の若き是れなり。九四陽を以て陰に居る、壮にして柔を思う、大なる者の正を得る。是の以て貞吉悔亡ぶなり。

藩者,為阻於前者也。夫物焉能為阻哉?自為阻爾。九三處壯則觸之而藩益堅,四處柔則不觸而藩自決;不觸而決,何羸之有哉?壯于大輿之腹,言遂得載上而行也;其載上也壯,則任重致逺而不敗矣。君子不用壯,而此稱壯者,君子之壯不施於陵下、不施乎犯上,而特施於載上,則其為壯異乎小人之壯也。

藩とは、前に阻(そ)ぐ者と為るなり。夫れ物焉(いずく)んぞ能く阻と為らんや。自ら阻と為るのみ。九三壮に処れば則ち之に触れて藩益々堅し。四柔に処れば則ち触れずして藩自ら決(さ)ける。触れずして決けば、何の羸か有らんや。大輿の腹に壮んなるは、遂に上を載せて行くを得るを言うなり。其の上を載するや壮なれば、則ち任を重くし遠きに致して敗れざるなり。君子壮を用いず、而して此れ壮と称するは、君子の壮は下を陵ぐに施さず、上に犯すに施さず、而して特に上を載するに施す。則ち其の壮と為るは小人の壮に異なるなり。

六五:喪羊于易,無悔。象曰:喪羊于易,位不當也。六五以柔處中,去強狠而不用,喪羊者也。雖乗九四之剛,而九四乃順而載上,非犯上者,則是易而無難也。人常以處難而不得,故折節矯情而為柔順以求免於時;今六五去狠於易而無難之形,非性仁者孰能與此哉?

六五の爻辞に言う、「易(やす)きに羊を喪(うしな)う、悔无し」と。『小象伝』に言う、「易きに羊を喪うは、位当らざるなり」と。六五柔を以て中に処り、強狠を去りて用いず、羊を喪う者なり。九四の剛に乗ずると雖も、而して九四は乃ち順にして上を載する、上に犯す者に非ざるなり。則ち是れ易にして難无きなり。人常に難に処りて得ざるを以て、故に節を折り情を矯(た)めて柔順と為りて以て時に免がれんことを求む。今六五易きに於て狠を去りて難の形无きは、性仁なるに非ざれば孰(たれ)か能く此に与らんや。

上六:羝羊觸藩,不能退,不能遂,無攸利,艱則吉。象曰:不能退,不能遂,不詳也;艱則吉,咎不長也。上六動以趍應,而九四為阻於其前,羝羊觸藩之象也。不能退,其動之性則然也;不能遂,其觸上之性則然也。不俟藩之自決而觸以求進,何能遂哉?性不能遂而理或可遂,則進猶有利也;既不能遂又不能退,故無攸利。而震性善變,而上又窮則變之時,知難而退焉,則咎不可長也。

上六の爻辞に言う、「羝羊藩に触れて、能く退かず、能く遂げず、利する所无し、艱(かん)すれば則ち吉」と。『小象伝』に言う、「能く退かず能く遂げずは、詳(つまび)らかならざるなり。艱すれば則ち吉は、咎長からざるなり」と。上六動きて以て応に趨(はし)る、而して九四其の前に阻と為る。羝羊藩に触るるの象なり。能く退かざるは、其の動の性然るなり。能く遂げざるは、其の上に触るるの性然るなり。藩の自ら決するを俟(ま)たずして触れて以て進を求めば、何ぞ能く遂げんや。性能く遂げざるも理或いは遂ぐ可ければ、則ち進めば猶ほ利有り。既に能く遂げずして又能く退かざれば、故に利する所无し。而して震の性善く変じ、而して上又窮まれば則ち変ずるの時なり。難を知りて退けば、則ち咎長からざる可し。

晋卦(坤下離上)

坤下離上。晉:康侯用錫馬蕃庻,晝日三接。彖曰:晉,進也,明出地上,順而麗乎大明,柔進而上行,是以康侯用錫馬蕃庻,晝日三接也。君與臣同徳者也,其所異者分位耳,故日者君之象,臣亦為日;惟中天則為君,出地上則為臣焉。明出地上,則溫厚之氣、臨照之光不足以徧天下,是其所以為臣之象也。

『晋(しん)』卦は下体が坤、上体が離。卦辞に言う、「晋、康侯用(もっ)て馬を錫(し)して蕃庶(はんしょ)たらしめ、昼日三たび接せらる」と。『彖伝』に言う、「晋とは、進むなり。明地の上に出で、順にして大明に麗(つ)き、柔進みて上に行く。是の以て康侯用て馬を錫して蕃庶たらしめ、昼日三たび接せらるなり」と。君と臣は徳を同じくする者なり。其の異なる所は分位のみ。故に日とは君の象、臣も亦た日と為る。惟れ中天に在れば則ち君と為り、地の上に出でれば則ち臣と為る。明地の上に出でれば、則ち温厚の気、臨照の光以て天下に遍(あまね)からざるに足らず。是れ其の臣と為るの象なる所以なり。

荀子曰:事聖君有聽從無諫爭。然則麗乎大明宜以順為道也。孟子曰:其進鋭者其退速。然則進而上行以柔為道也。麗乎大明以順為道,則媚於天子而所錫之禮蕃矣;進而上行以柔為進,近天子之光而所接之時數矣,故曰康侯用錫馬蕃庶,晝日三接也。

荀子に曰く、聖君に事(つか)うるは聴従有りて諫爭(かんそう)无しと。然らば則ち大明に麗るは宜しく順を以て道とすべし。孟子に曰く、其の進むや鋭きは其の退くや速きと。然らば則ち進みて上に行くは柔を以て道とすべし。大明に麗りて順を以て道と為せば、則ち天子に媚(こ)びて錫う所の礼蕃し。進みて上に行くは柔を以て進と為せば、天子の光に近づきて接する所の時数(しばしば)なり。故曰く、康侯用て馬を錫して蕃庶たらしめ、昼日三たび接せらるなりと。

康侯反不寧侯,以順麗有康侯之象焉;晝日不亢乎中也,以柔進而有晝日之象焉。且夫日之行也微矣,且不亢乎中,則是柔進而上行者也。象曰:明出地上,晉,君子以自昭明徳。自昭者,不待上之明揚而自顯其徳也。蓋闇闇在上,雖明揚而君子亦自晦焉,所以逺害也;明明在上,雖明揚不加而君子亦自昭焉,將以行其道也。晉之所麗者大明之君,是以不待上之明揚而自昭也,如文王有明徳而二老相率而歸,何待幣聘之至其所哉?

康侯は寧侯に反す。順麗を以て康侯の象有るなり。昼日は中に亢(こう)せず、柔進を以て昼日の象有るなり。且つ夫れ日の行くや微なり、且つ中に亢せざれば、則ち是れ柔進みて上に行く者なり。『象』に曰く、明地の上に出ず、晋、君子以て自ら明徳を昭(あき)らかにすと。自ら昭らかにするとは、上の明揚を待たずして自ら其の徳を顕(あら)わすなり。蓋し闇闇(あんあん)上に在れば、明揚すと雖も君子も亦た自ら晦(くら)くす。以て害を遠ざくる所以なり。明明上に在れば、明揚加わらざると雖も君子も亦た自ら昭かにす。将に其の道を行わんとするなり。晋の麗る所は大明の君なり。是の以て上の明揚を待たずして自ら昭かにするなり。文王明徳有りて二老相率(ひき)いて帰するが如く、何ぞ币聘(へいへい)の其の所に至るを待たんや。

初六:晉如摧如,貞吉,罔孚,裕無咎。象曰:晉如摧如,獨行正也;裕無咎,未受命也。晉如,進也,以有應也;摧如,退也,以柔在下也。晉如日之進,緩也;摧如物之摧,其退速也。蓋初六未得位也,故可行則行,可止則止,惟義所在,是以貞吉也。

初六の爻辞に言う、「晋如(しんじょ)摧如(さいじょ)たり、貞吉、孚罔(な)し、裕(ゆう)として咎无し」と。『小象伝』に言う、「晋如摧如とは、独行正なり。裕として咎无きは、未だ命を受けざるなり」と。晋如とは、進むなり、応有るを以てなり。摧如とは、退くなり、柔下に在るを以てなり。晋如は日の進むが如く、緩(おそ)し。摧如は物の摧(くだ)かるるが如く、其の退くや速し。蓋し初六未だ位を得ざるなり。故に行く可ければ則ち行き、止まる可ければ則ち止まる。惟れ義の在る所。是の以て貞吉なり。

罔孚者,莫或信之也。孟子之進有疑其乾澤者,孔子之退有疑其為肉者,君子之所為眾人固不識也,宜其罔孚也。裕無咎者,言其無官守、無言責,進退綽綽然有餘裕也。獨行正者,志不在乎正人也;志在正人,則有進而已,伊尹之治亦進、亂亦進是也。

孚罔しとは、之を信ずる或いは莫(な)きなり。孟子の進むや其の沢に干(かん)すと疑う者有り、孔子の退くや其れ肉を為すと疑う者有り。君子の為す所は衆人固より識らざるなり。其の孚罔き宜しきなり。裕として咎无きとは、其の官守无く、言責无く、進退綽綽(しゃくしゃく)然として余裕有るを言うなり。独行正とは、志正人に在らざるなり。志正人に在れば、則ち進む有るのみ。伊尹の治も亦た進み、乱も亦た進む是れなり。

六二:晉如愁如,貞吉,受茲介福于其王母。象曰:受茲介福,以中正也。初六未得位,故進退裕如;若六二則得位也。得位而無應,則志不上行;未可以正君,未可以正君則澤不下流,未可以濟民。夫立乎人之本朝而道不行若此,則君子所以愁如也。

六二の爻辞に言う、「晋如愁如(しゅうじょ)たり、貞吉、兹(こ)の介福(かいふく)を其の王母に受く」と。『小象伝』に言う、「兹の介福を受くるは、以て中正なり」と。初六は未だ位を得ざれば、故に進退裕如(ゆうじょ)なり。六二の若くなれば則ち位を得るなり。位を得て応无ければ、則ち志上に行かず。未だ以て君を正す可からず。未だ以て君を正す可からざれば則ち沢下に流れず。未だ以て民を済(すく)う可からず。夫れ人の本朝に立ちて道行われざること此くの若くなれば、則ち君子の愁如たる所以なり。

所以正者,愁不在已而在君與民也。不期乎上應,不求乎眾允,惟中正是守而已,為是故神明斯福之矣,故受茲介福于其王母。王母,幽而尊者也,六五之象也。六三:眾允,悔亡。象曰:眾允之志,上行也。晉之六三,則君子之道既已積於中而暢乎外矣,誠信達乎上心,功業著於民望,是以眾允之,而與初六之罔孚者異矣。初六則在人者不能無疑,六二則在我者不能無憂,六三無疑與憂也,有上行而已,故曰眾允之志尚行也。

正する所以は、愁己に在らずして君と民とに在るなり。上応に期(き)せず、衆允に求めず、惟れ中正是れ守るのみ。是の故を為す神明斯に之を福す。故に兹の介福を其の王母に受く。王母とは、幽にして尊き者、六五の象なり。六三の爻辞に言う、「衆允(しゅういん)す、悔亡ぶ」と。『小象伝』に言う、「衆允の志は、上に行くなり」と。晋の六三は、則ち君子の道既に已に中に積みて外に暢(の)びる。誠信上心に達し、功業民望に著(あら)わる。是の以て衆之を允(ゆる)す。而して初六の孚罔き者と異なるなり。初六は則ち人に在る者疑う能わざる无し、六二は則ち我に在る者憂う能わざる无し、六三は疑と憂と无きなり。上に行く有るのみ。故曰く、衆允の志尚ほ行くなりと。

九四:晉如鼫鼠,貞厲。象曰:鼫鼠貞厲,位不當也。進之為道,順麗以柔進,故無貪位慕祿之失;今四剛動而炎上,則順麗柔進之道亡矣,故貪而畏人,碩鼠然也。君子之心,有如六二之憂民而已,不如九四之畏人也。

九四の爻辞に言う、「晋如鼫鼠(せきそ)の如し、貞厲し」と。『小象伝』に言う、「鼫鼠貞厲しは、位当らざるなり」と。進むの道と為るは、順麗にして柔進み、故に位を貪り禄を慕うの失无し。今四剛動きて炎上せば、則ち順麗柔進の道亡ぶ。故に貪にして人を畏る、碩鼠然たり。君子の心は、六二の民を憂うるの如く有るのみ。九四の人を畏るるの如くならず。

六五:悔亡,失得勿恤,往吉無不利。象曰:失得勿恤,往有慶也。君子之在下,進退無常,惟義所在而已,初六是也;君子之在上,失得勿恤,惟命是聴而已,六五是也。夫進而至於六五,則志行矣,業既成矣;則當此之時,使失位而去,則亦可以奉身而退之時也;使得位而處,則天下之幸也。

六五の爻辞に言う、「悔亡ぶ、失得恤(うれ)うる勿れ、往きて吉利ならざる无し」と。『小象伝』に言う、「失得恤うる勿れは、往きて慶有るなり」と。君子の下に在るや、進退常无し、惟れ義の在る所のみ、初六是れなり。君子の上に在るや、失得恤うる勿れ、惟れ命是れ聴くのみ、六五是れなり。夫れ進みて六五に至れば、則ち志行われ、業既に成る。則ち此の時に当りて、位を失いて去らば使(も)せば、則ち亦た以て身を奉じて退く可きの時なり。位を得て処らば得せば、則ち天下の幸なり。

然則失得之間為天下重輕,而重輕不在乎我;其在我者,又失得之間進退兩安於義,何恤之有哉?道之未行,則如六二之愁如可也;道之既行,則失位得位宜勿恤矣。失得勿恤,則直道而行,不為自安之計,是以吉無不利也。

然らば則ち失得の間天下を重輕と為す。而して重輕は我に在らず。其の我に在るは、又失得の間進退義に両(ふた)つ安んず。何の恤か有らんや。道の未だ行われざれば、則ち六二の愁如の如くして可なり。道の既に行われれば、則ち失位得位は宜しく恤うる勿かるべし。失得恤うる勿ければ、則ち直道にして行い、自ら安んずるの計を為さず。是の以て吉利ならざる无きなり。

上九:晉其角,維用伐邑,厲吉無咎,貞吝。象曰:維用伐邑,道未光也。角者,剛而可以勝物者也。有可以勝物之剛,下有不應之罪可伐,又其所伐惟邑而已,至小以弱也,宜其伐之雖厲而吉且無咎也。然晉以柔進為善,今以窮之剛黷於用武,而所伐至小以弱,於是為未光,是以貞吝也。

上九の爻辞に言う、「其の角に晋む、惟れ邑を伐つに用い、厲し吉利咎无し、貞吝」と。『小象伝』に言う、「惟れ邑を伐つに用いるは、道未だ光ならざるなり」と。角とは、剛にして以て物に勝つ可き者なり。以て物に勝つ可きの剛有り、下応ぜざるの罪伐つ可き有り、又其の伐つ所は惟れ邑のみ、小に至りて以て弱し。其れ之を伐つは厲しと雖も吉にして且つ咎无き宜しきなり。然れども晋は柔進を以て善と為す。今窮の剛を以て武を用うるに黷(けが)れて、而して伐つ所小に至りて以て弱し。是に於て未だ光ならずと為す。是の以て貞吝なり。

明夷卦(離下坤上)

離下坤上。明夷:利艱貞。彖曰:明入地中,明夷。內文明而外柔順,以蒙大難,文王以之。利艱貞,晦其明也;內難而能正其志,箕子以之。明入地中,則明益虧而暗益進,明夷之象也。君子消息盈虛,與時偕行,則其出地上、入地中猶日而已矣。於是內文明而外柔順:內文明則與物無際矣,外柔順則與物無迕矣,若物奚為而見傷哉?

『明夷(めいい)』卦は下体が離、上体が坤。卦辞に言う、「明夷、艱貞に利し」と。『彖伝』に言う、「明地の中に入る、明夷なり。内文明にして外柔顺、以て大難を蒙(こうむ)る、文王之を以てす。艱貞に利しは、其の明を晦(くら)まするなり。内難にして能く其の志を正しくす、箕子之を以てす」と。明地の中に入れば、則ち明益々虧(か)けて暗益々進む、明夷の象なり。君子消息盈虚、時と偕に行けば、則ち其の地の上に出で、地の中に入るは猶ほ日のみ。是に於て内文明にして外柔顺。内文明なれば則ち物と際(きわ)无し、外柔顺なれば則ち物と迕(さから)う无し。物奚(なに)を為して傷を見んや。

然內文明乃所以成大明,外柔順乃所以開大武,故文王以之犯難而不懼,其卒顯於西土也。至箕子與暗同體,所謂內難也,故當晦其明而已,深自韜匿,使物不得而見也,箕子之狂是也。能晦其明,然後內難而能正其志;不如是,不死則去,而箕子之志不得正矣。

然れども内文明は乃ち大明を成す所以、外柔顺は乃ち大武を開く所以なり。故に文王之を以て難に犯して懼れず、其の卒西土に顕(あら)わる。箕子の暗と同体に至れば、所謂内難なり。故に其の明を晦まするのみ当に、深く自ら韬匿(とうとく)して、物をして得て見えしめざるなり。箕子の狂是れなり。能く其の明を晦ませば、然る後に内難にして能く其の志を正しくす。是くの如くせざれば、死せざれば則ち去る。而して箕子の志正しきを得ざるなり。

象曰:明入地中,明夷,君子以蒞眾用晦而明。君子蒞眾用晦而明,非處明夷之勢則然也,君子視明夷之象,明入地中而終將出於地上,是以用晦而明,以為蒞眾之道焉。大抵下之應上,則貴有所輸誠,不可以用晦,用晦則上何望焉?此君子所以自昭明徳也。上之待下,貴有所資納,不可以用明,用明則人莫告矣,此蒞眾所以用晦而明也。

『象』に曰く、明地の中に入る、明夷、君子以て衆に莅(のぞ)むに晦を用いて明とすと。君子衆に莅むに晦を用いて明とすは、明夷の勢いに処るに非ざれば則ち然るなり。君子明夷の象を視るに、明地の中に入りて終に将に地の上に出づべし。是の以て晦を用いて明とす、以て衆に莅むの道と為すなり。大抵下の上に応ずるは、則ち輸誠所有るを貴ぶ、以て晦を用いべからず。晦を用いれば則ち上何を望まん。此れ君子の自ら明徳を昭らかにする所以なり。上の下を待つは、資納所有るを貴ぶ、以て明を用いべからず。明を用いれば則ち人告ぐる莫し。此れ衆に莅むの晦を用いて明とする所以なり。

初九:明夷于飛,垂其翼,君子于行,三日不食,有攸往,主人有言。象曰:君子于行,義不食也。未嘗灼而不敢握火者,見其有所暖也;未嘗傷而不敢握刄者,見其有所害也。明夷之主在上,初九去之逺矣,而於飛垂其翼、于行三日不食,其避之如此之速者,亦懲其所謂害者也。

初九の爻辞に言う、「明夷飛びに於て、其の翼を垂(た)る、君子行くに於て、三日食わず、往く所有り、主人言有り」と。『小象伝』に言う、「君子行くに於ては、義食わざるなり」と。未だ嘗て灼(や)けずして火を握るを敢えてせざるは、其の暖かなる所有るを見るなり。未だ嘗て傷つかずして刄(は)を握るを敢えてせざるは、其の害所有るを見るなり。明夷の主は上に在り、初九之を去るや遠し。而して飛びに於て其の翼を垂る、行くに於て三日食わず、其の之を避くるや此くの如く速きは、亦た其の所謂害を懲(こ)らすなり。

既無文王蒙難之勢,又非箕子內難之地,則可以去矣;既去則義宜速矣。然初九體炎上之性,則有攸徃者也;有攸徃則內難,故主人宜見賓禮而且有言,況其它乎?六二:明夷,夷于左股,用拯馬壯,吉。象曰:六二之吉,順以則也。六二輔九三而行,則下體之輔也,有股之象焉;處明夷之世,則夷于左股者也。夫君子之見夷於世也,非其身之見殘也,君子有保身之智焉,其所謂傷者,其下道而已。苟得所輔,則道傷復全而其壯莫可御矣,故曰用拯馬壯吉。

既に文王難を蒙るの勢い无く、又箕子内難の地に非ざれば、則ち以て去る可し。既に去れば則ち義宜しく速かなるべし。然れども初九炎上の性を体すれば、則ち往く所有る者なり。往く所有れば則ち内難。故に主人宜しく賓礼を見えて且つ言有る、況んや其の他をや。六二の爻辞に言う、「明夷、左股に夷(やぶ)る、拯(すく)うに用いて馬壮なり、吉」と。『小象伝』に言う、「六二の吉は、順にして則なり」と。六二九三を輔けて行けば、則ち下体の輔なり、股の象有るなり。明夷の世に処れば、則ち左股に夷る者なり。夫れ君子の世に夷られるや、其の身の残(やぶ)られるを見るに非ざるなり。君子身を保つの智有るなり。其の所謂傷は、其の道の下(お)るのみ。苟も輔く所を得れば、則ち道傷つきて復た全くして其の壮御ぐ可き莫し。故曰く、拯うに用いて馬壮なり吉と。

九三蒙難而動,未離乎地類,則馬之象也;六二輔之,則拯馬者也。六二之於九三非其正應,疑於不順而違則也;彼剛上柔下、中正以相與,則豈不順而違則哉?其事閎天、太顛之徒也。

九三難を蒙りて動く、未だ地類を離れざれば、則ち馬の象なり。六二之を輔けば、則ち拯馬なり。六二の九三に於ては其の正応に非ざるなり、順ならずして則に違うを疑うなり。彼剛上柔下、中正を以て相与せば、則ち豈に順ならずして則に違わんや。其の事は閎天(こうてん)、太顛(たいてん)の徒なり。

九三:明夷于南狩,得其大首,不可疾貞。象曰:南狩之志,乃大得也。九三居下體之極,大有為,得明夷之魁也,故曰明夷于南狩,得其大首,其事則文王之事也,所謂以蒙大難者也。夫文王小心順事者也,其曰南狩,何也?大明之徳自我而顯,大武之事自我而開,謂之南狩不亦宜乎?不可疾貞者,以明除暗猶晝夜,進退其行也,若詩稱匪棘其欲,不可疾之謂也。

九三の爻辞に言う、「明夷南狩(なんしゅ)に於て、其の大首を得る、疾(はや)く貞とすべからず」と。『小象伝』に言う、「南狩の志は、乃ち大いに得るなり」と。九三下体の極に居り、大いに為す有りて、明夷の魁(かい)を得る。故曰く、明夷南狩に於て、其の大首を得ると。其の事は則ち文王の事なり、所謂以て大難を蒙る者なり。夫れ文王は小心順事する者なり。其の南狩と曰うは何ぞや。大明の徳我に顕(あら)われ、大武の事我に開くを以て、之を南狩と謂うは亦た宜しきならずや。疾く貞とすべからずとは、明を以て暗を除くは猶ほ昼夜の如く、進退其の行なり。詩の棘(とげ)其の欲に匪ざるを称するが若く、疾くすべからざるの謂なり。

六四:入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。象曰:入于左腹,獲心意也。左腹虛而納物,九三之象也,六四於此焉而入于左腹者也。夫六二為左股,於九三以其同體者也;六四於九三非同體而稱左腹者,心徳之同雖疎而親,微子去商而歸周是也。然入左腹,明夷之心而已,非若箕子之能正其志也。

六四の爻辞に言う、「左腹に入り、明夷の心を獲る、門庭を出ずに於て」と。『小象伝』に言う、「左腹に入るは、心意を獲るなり」と。左腹は虚にして物を納る、九三の象なり。六四此に於て左腹に入る者なり。夫れ六二を左股と為すは、九三に於て其の同体なりを以てなり。六四は九三に於て同体に非ずして左腹と称するは、心徳の同じき疎(そ)なりと雖も親しきを以て、微子の商を去りて周に帰する是れなり。然れども左腹に入るは、明夷の心のみ、箕子の能く其の志を正しくするに如かざるなり。

蓋微子之去,豈其志哉?所以處心於明夷之世然耳,故象又曰獲心意也,言箕子隨所感觸而生也。出於門庭者,去之商室也。以商為室宇之託而稱門庭,以周為同體之親而稱左腹,則君子之仁可知也矣。

蓋し微子の去るや、豈に其の志ならんや。以て心を明夷の世に処する然るのみ。故に象に又曰く心意を獲ると、箕子の感ずる所に随いて生ずるを言うなり。門庭を出ずるは、之を商室に去るなり。商を以て室宇の託と為して門庭と称し、周を以て同体の親と為して左腹と称すれば、則ち君子の仁知る可きなり。

六五:箕子之明夷,利貞。象曰:箕子之貞,明不可息也。明夷六爻,以商周之際考之:初九之為太公、伯夷明矣,六二之為閎天、太顛明矣,九三之為文王明矣,六四之為微子。獨六五稱箕子,何也?為南狩之事與三協矣,而成南狩之功者,聖人之慚徳也;視天下之難不能拯濟,或垂其翼而避之,或出門庭而去之,亦非人臣之完節也。獨箕子既利且正,無慚徳而有完節,以是為成夫聖人之志也,故特稱焉。上六不稱者,則亦惡未斥之耳。

六五の爻辞に言う、「箕子の明夷、貞に利し」と。『小象伝』に言う、「箕子の貞は、明息(や)むべからざるなり」と。明夷の六爻は、商周の際を以て之を考うるに、初九の太公、伯夷と為るは明らかなり、六二の閎天、太顛と為るは明らかなり、九三の文王と為るは明らかなり、六四の微子と為るも然り。独り六五箕子と称するは何ぞや。南狩の事と為るは三と協うなり。而して南狩の功を成すは、聖人の慙徳(ざんとく)なり。天下の難を視て能く拯済(しょうせい)せざるを為す、或いは其の翼を垂れて之を避け、或いは門庭を出でて之を去るは、亦た人臣の完節(かんせつ)に非ざるなり。独り箕子既に利且つ正し、慙徳无くして完節有り。以て是れ聖人の志を成すと為る。故に特に之を称す。上六称さざるは、則ち亦た悪(にく)みて未だ之を斥(せき)せざるのみ。

上六:不明晦,初登于天,後入于地。象曰:初登于天,照四國也;後入于地,失則也。不明晦,非用晦也。初登于天,後入于地,言崇髙不可不保恃也。夫明足以保身者且夷見傷焉,則天下之人愚不足以保身者又可知矣。殘賊之加於天下如此,其不誅者鮮矣。

上六の爻辞に言う、「明ならず晦(くら)し、初め天に登り、後地に入る」と。『小象伝』に言う、「初め天に登るは、四国を照らすなり。後地に入るは、則を失うなり」と。明ならず晦しは、晦を用いるに非ざるなり。初め天に登り後地に入るは、崇高保恃(ほうじ)すべからざるを言うなり。夫れ明以て身を保つに足る者は且つ夷られて傷を見る。則ち天下の人愚にして以て身を保つに足らざるは又知る可し。残賊の天下に加うるや此くの如し。其の誅せられざるは鮮(すくな)し。

家人卦(離下巽上)

離下巽上。家人:利女貞。彖曰:家人,女正位乎內,男正位乎外,男女正,天地之大義也。家人有嚴君焉,父母之謂也。父父子子,兄兄弟弟,夫夫婦婦,而家道正,正家而天下定矣。男女莫非家人也,而其正自女始;女子之難養也,而正則家人無不正矣。

『家人』卦は下体が離、上体が巽。卦辞に言う、「家人、女貞に利し」と。『彖伝』に言う、「家人は、女内に位を正しくし、男外に位を正しくす。男女正しきは、天地の大義なり。家人厳君有る、父母の謂なり。父父子子、兄兄弟弟、夫夫婦婦、而して家道正し。家を正しくして天下定まる」と。男女は家人に非ざる莫し。而して其の正は女より始まる。女子の養い難きや、而して正しければ則ち家人正ならざる无きなり。

女正位乎內而無預乎閫外,男正位乎外而不牽乎閫內,則男女正。男女正乃天地之大義,此聖人制為禮文以別男女之分者,因天地之大義而已,非由聖人之創也。男雖正乎外,必有父為嚴君以率之;女雖正乎內,必有母為嚴君以率之,然後恩不至於勝義。而其義:為父者慈而教,為子者孝而箴,兄亦愛而友,弟亦敬而順,夫亦和而義,婦亦柔而正矣。如是則家道正焉。正家而天下定者,天下之本在是故也,刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦,此之謂也。

女内に位を正しくして阃外(こんがい)に預(あずか)らず、男外に位を正しくして阃内に牽(ひ)かれざれば、則ち男女正し。男女正しきは乃ち天地の大義なり。此れ聖人礼文を制して以て男女の分を別つ者、天地の大義に因るのみ、聖人の創に由るに非ざるなり。男外を正しゅうすると雖も、必ず父の厳君と為りて以て之を率いる有り。女内を正しゅうすると雖も、必ず母の厳君と為りて以て之を率いる有り。然る後に恩義に勝るに至らざるなり。而して其の義は、父と為るは慈にして教え、子と為るは孝にして箴(しん、いさめ)、兄は亦た愛にして友、弟は亦た敬にして順、夫は亦た和にして義、婦は亦た柔にして正し。是くの如くなれば則ち家道正し。家を正しくして天下定まるは、天下の本は是に在るが故なり。寡妻(かさい)に刑(かた)を示し、兄弟に至り、以て家邦に御するは、此れの謂なり。

象曰:風自火出,家人,君子以言有物而行有恆。風自火出,家人,王通以謂明內而齊外是也。君子之慾明內也,則以言行率之:言有物則無虛誕之言,行有常則無竒邪之行。蓋孔子之所期乎弟子者,謹而信也;言之無物,何為而信?行之不常,何為而謹?

『象』に曰く、風火より出づ、家人、君子以て言物有りて行恒有るなりと。風火より出づ、家人は、王通以て内を明かにして外を斉(ととの)うと謂う是れなり。君子の内を明かにせんと欲するや、則ち言行を以て之を率いる。言物有れば則ち虚誕の言无く、行常有れば則ち竒邪(きじゃ)の行无し。蓋し孔子の弟子に期する所は、謹にして信なり。言の物无きは、何を以て信ならんや。行の常ならざるは、何を以て謹ならんや。

初九:閒有家,悔亡。象曰:閒有家,志未變也。閒,如馬之有閒,懼奔逸也。初九家人之志未變,故宜閒有家;如其既變而後閒之,則是挽之於既奔,其力難矣。不閒為害義,且亦傷恩,故不若求其未變也。

初九の爻辞に言う、「家有りて閑(かん、せきとど)めらる、悔亡ぶ」と。『小象伝』に言う、「家有りて閑めらるるは、志未だ変わらざるなり」と。閑とは、馬の閑有るが如く、奔逸(ほんいつ)を懼るるなり。初九家人の志未だ変わらざれば、故に宜しく家有りて閑めらるべし。其の既に変わりて然る後に之を閑めれば、則ち是れ之を既に奔るに挽(ひ)き返すが如く、其の力難し。閑めざれば害義を為し、且つ亦た恩を傷つく。故に其の未だ変わらざるを求むるに若かざるなり。

六二:無攸遂,在中饋,貞吉。象曰:六二之吉,順以巽也。以巽為正者,妾婦之道,所謂無攸遂也;惟酒食是議,無父母貽罹,所謂在中饋也。無攸遂、在中饋,婦人之正也,如是而後為順以巽焉。順則理不逆而已;巽有屈伏之意,蓋女之卑也,其象為順,然妻齊也,其事夫則有屈伏之意也。

六二の爻辞に言う、「遂ぐる所无し、中饋(ちゅうき)に在り、貞吉」と。『小象伝』に言う、「六二の吉は、順にして巽(そん)なり」と。巽を以て正と為るは、妾婦の道、所謂遂ぐる所无きなり。惟れ酒食是れ議す、父母罹(り)を貽(おこ)す无し、所謂中饋に在るなり。遂ぐる所无し、中饋に在りは、婦人の正なり。是くの如くして然る後に順にして巽と為る。順は則ち理逆らわざるのみ。巽は屈伏の意有る、蓋し女の卑なるなり。其の象は順と為る。然れども妻は斉(ひと)しきなり、其の夫に事(つか)うるは則ち屈伏の意有るなり。

九三:家人嗃嗃,悔厲吉;婦子嘻嘻,終吝。象曰:家人嗃嗃,未失也;婦子嘻嘻,失家節也。父母謂之嚴君,長子謂之家督,則家人之道貴在乎用剛也,故九三家人嗃嗃,用剛之過,則雖悔厲而吉也。然剛太過至於賊恩,而婦子嘻嘻有嗟怨之聲焉,則失家之節,是以吝也。

九三の爻辞に言う、「家人嗃嗃(かくかく)たり、悔厲吉、婦子嘻嘻(きき)たり、終に吝」と。『小象伝』に言う、「家人嗃嗃たるは、未だ失わざるなり。婦子嘻嘻たるは、家の節を失うなり」と。父母を厳君と謂い、長子を家督と謂う。則ち家人の道は剛を用いるに貴ぶ所なり。故に九三家人嗃嗃たり、剛を用いるの過ぎれば、則ち悔厲と雖も吉なり。然れども剛太(はなは)だ過ぎて恩を賊(そこな)い、而して婦子嘻嘻たりて嗟怨(さえん)の声有らば、則ち家の節を失う。是の以て吝なり。

六四:富家,大吉。象曰:富家大吉,順在位也。修之家其徳乃裕,修之國其徳乃豐,修之天下其徳乃普。六四在位者也,惟家人之道修之國、修之天下,其徳豐以普也,故稱富焉。夫孝盡於事親而又推於事君,則其為孝也廣矣;弟盡於事兄,又推於事長,則其為悌也廣矣。其曰富家,不亦宜乎?故曰順在位也,自身而推之家,自家而推之國,其理為順故也。

六四の爻辞に言う、「家を富ましむ、大吉」と。『小象伝』に言う、「家を富ましむ大吉は、順位に在るなり」と。家に修むれば其の徳乃ち裕(ゆた)かなり、国に修むれば其の徳乃ち豊(ゆた)かなり、天下に修むれば其の徳乃ち普(あまね)し。六四は位に在る者なり。惟れ家人の道は国に修め、天下に修めれば、其の徳豊かにして普し。故に富と称す。夫れ孝親に事うるに尽くして又君に事うるに推せば、則ち其の孝と為るや広し。悌兄に事うるに尽くして又長に事うるに推せば、則ち其の悌と為るや広し。其の家を富ましむと曰うは、亦た宜しきならずや。故曰く、順位に在るなりと。身よりして家に推し、家よりして国に推す、其の理順と為るが故なり。

九五:王假有家,勿恤吉。象曰:王假有家,交相愛也。聖盡倫,王盡制,故有廟則假有廟,有家則假有家;蓋假家人之道如文王之盛,非聖人則不能,非王者則不得故也。其不得何也?蓋所謂假有家之道者,非徒吾家之父子兄弟夫婦各盡其道也,且能使天下父子兄弟夫婦者皆盡其道也,如是則非盡制之王孰能此哉?

九五の爻辞に言う、「王家有りて假(か)す、恤(うれ)うる勿れ吉」と。『小象伝』に言う、「王家有りて假すは、交(とも)に愛し合うなり」と。聖倫を尽くし、王制を尽くす。故に廟有れば則ち廟有りて假し、家有れば則ち家有りて假す。蓋し家人の道を文王の盛んなるが如く假するは、聖人に非ざれば能わず、王者に非ざれば得ざるが故なり。其の得ざるは何ぞや。蓋し所謂家有りて假するの道とは、徒らに吾が家の父子兄弟夫婦各々其の道を尽くすに非ざるなり。且つ能く天下の父子兄弟夫婦皆其の道を尽くさしむるなり。是くの如くなれば則ち制を尽くすの王に非ざれば孰か能く此れせんや。

上九:有孚威如,終吉。象曰:威如之吉,反身之謂也。有孚而威,出於徳也;威出於徳,則人畏之,是以吉也。大扺反身而誠則神矣,神則不怒而威,故不至嗃嗃,而又不失為嚴君之正,而家道成焉。

上九の爻辞に言う、「孚有り威如(いじょ)たり、終に吉」と。『小象伝』に言う、「威如の吉は、身に反るの謂なり」と。孚有りて威有るは、徳より出づ。威徳より出づれば、則ち人之を畏る。是の以て吉なり。大抵身に反りて誠なれば則ち神なり。神なれば則ち怒らずして威有り。故に嗃嗃に至らず、而又た厳君の正を失わず、而して家道成るなり。

睽卦(兌下離上)

兌下離上。睽:小事吉。彖曰:暌,火動而上,澤動而下,二女同居,其志不同行。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉。天地睽而其事同也,男女睽而其志通也,萬物睽而其事類也,睽之時用大矣哉。

『睽(けい)』卦は下体が兌、上体が離。卦辞に言う、「睽、小事吉」と。『彖伝』に言う、「睽は、火動きて上り、沢動きて下る、二女同居して、其の志同じく行われず。説びて明に麗り、柔進みて上に行き、中を得て剛に応ず、是の以て小事吉なり。天地睽れて其の事同じ、男女睽れて其の志通ず、万物睽れて其の事類(るい)す、睽の時用大なるかな」と。

火動而上,澤動而下,火與澤相違而不相遇,此睽之象也。故動而違行,然後為睽;如二女之有情,則不必違行也,則雖同行而暌矣。有違行而暌矣,有違行而暌者,有同居而暌者,則萬物之情舉矣。

火動きて上り、沢動きて下る、火と沢相違いて相遇わざる、此れ睽の象なり。故に動きて行を違えば、然る後に睽と為る。二女の情有るが如くなれば、則ち必ずしも行を違えざるなり。則ち同行すと雖も睽る。行を違いて睽る者有り、同居して睽る者有れば、則ち万物の情挙(あ)がるなり。

夫萬物暌離而不合,正大有為之時也。以卦之才,悅而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是宜小事而已。蓋麗乎物之所麗、應乎人而不為人之所應,其上行又以柔而已,故云然。然其所麗者明也,其所應者剛也,又進而行有得為之勢也,是以小事之俱能吉。

夫れ万物睽離して合わざるは、正大に為す有るの時なり。卦の才を以てすれば、説びて明に麗り、柔進みて上に行き、中を得て剛に応ず、是れ宜しく小事のみ。蓋し物の麗る所に麗り、人に応じて人に応ぜられざるは、其の上に行く又柔を以てするのみ。故に然りと云う。然れども其の麗る所は明なり、其の応ずる所は剛なり、又進みて行く為す有るの勢いを得る。是の以て小事の俱に能く吉なり。

一謂之同,兩謂之類。天地無心,?而為一,故曰其志通;萬物則象矣,故事則類也。天地終暌而不同,則陰陽不和而災生;男女終暌而不通,則婚媾不時而怨曠作;萬物終暌隔而不類,則相逮之功熄矣。若夫有為於天下,使交通而咸和、協比而為一,非大人曷能為此哉?故曰暌之時義大矣哉。

一を同と謂い、両を類と謂う。天地心无く、渾(こん)として一と為る。故曰く、其の志通ずと。万物は則ち象有る。故に事は則ち類なり。天地終に睽りて同じからざれば、則ち陰陽和せずして災生ず。男女終に睽りて通ぜざれば、則ち婚媾時ならずして怨旷(えんこう)作(おこ)る。万物終に睽隔して類せざれば、則ち相逮(およ)ぶの功熄(や)む。若し夫れ天下に為す有りて、交通して咸和し、協比して一と為らしめば、大人に非ざれば曷ぞ能く此れを為さんや。故曰く、睽の時義大なるかなと。

象曰:上火下澤,睽,君子以同而異。君子以同而異,而不害其為同。天地睽而其事同也,同乎為道而治有忠、質、文之異;同乎為聖而行有清、任、和之異。如是故足以酬酢萬變,不為執一而廢百也。

『象』に曰く、上火下沢、睽、君子以て同にして異なりと。君子同にして異なり、而して其の同と為るに害无し。天地睽れて其の事同じ、道を為るに同じくして治に忠、質、文の異有り。聖を為るに同じくして行に清、任、和の異有り。是くの如くなるが故に以て万変に酬酢(しゅうさく)するに足り、一を執りて百を廃すると為らざるなり。

初九:悔亡,喪馬勿逐自復,見惡人無咎。象曰:見惡人,以辟咎也。馬有健行之才者也。睽之時,進而上行,則雖柔而可以吉小事;初九窮而在下,雖健,喪其所以為健矣,故曰喪馬。夫物睽而求合則益疑,窮而求行則益躓,故勿逐;然相合者,物之情也,我不求而有待,則物豈舍我哉?故曰自復也。

初九の爻辞に言う、「悔亡ぶ、馬を喪うも逐(お)う勿れ、自ら復たる、悪人に見(あ)うも咎无し」。『小象伝』に言う、「悪人に見うは、以て咎を辟(よ)くるなり」と。馬は健行の才有る者なり。睽の時は、進みて上に行けば、則ち柔なりと雖も以て小事に吉ならしむ可し。初九窮まりて下に在れば、健なりと雖も、其の健と為る所以を喪う。故曰く馬を喪うと。夫れ物睽れて合を求むれば則ち益々疑い、窮まりて行を求むれば則ち益々躓(つまづ)く。故に逐う勿れ。然れども相合するは、物の情なり。我求めずして待つ有れば、則ち物豈に我を舎てんや。故曰く自ら復たると。

九二剛以乗已,惡人也,避而不見則疑梗生而患至,屈身而見之,所以避咎也。九二:遇主于巷,無咎。象曰:遇主于巷,未失道也。九二之應九五,過主于巷者也。物方睽乖而已獲應,則其獲若應邂逅然也,故曰遇焉。巷者,非道之常而亦可通於道,故曰遇主于巷,未失道也。

九二剛を以て己に乗ずるは、悪人なり。避けて見えざれば則ち疑梗(ぎこう)生じて患至る。身を屈して之に見う、以て咎を避くる所以なり。九二の爻辞に言う、「巷(こう)に主に遇(あ)う、咎无し」と。『小象伝』に言う、「巷に主に遇うは、未だ道を失わざるなり」と。九二の九五に応ずるは、巷に主に遇う者なり。物方に睽乖して已に応を獲れば、則ち其の獲る所は邂逅(かいこう)然たり。故曰く遇うと。巷とは、道の常に非ざるも亦た道に通ずる可し。故曰く、巷に主に遇う、未だ道を失わざるなりと。

六三:見輿曳,其牛掣,其人天且劓,無初有終。象曰:見輿曳,位不當也;無初有終,遇剛也。見輿曳,有為難於下者也;其牛掣,有為難於其前者也。輿方以載己者,牛順而引己者,乃為之難,何也?以所遇者睽故也。如賁初九舍車而徒,則載己者豈能為哉?

六三の爻辞に言う、「輿の曳(ひ)かるるを見、其の牛掣(せい、ひか)さる、其の人天(てん、額に墨刑)且つ劓(ぎ、鼻をそぐ)、初め无くして終わり有り」と。『小象伝』に言う、「輿の曳かるるを見るは、位当らざるなり。初め无くして終わり有るは、剛に遇うなり」と。輿の曳かるるを見るは、下に難を為す者有るなり。其の牛掣さるるは、其の前に難を為す者有るなり。輿は方に己を載する者、牛は順にして己を引く者なり。乃ち之が難を為すは何ぞや。遇う所の睽なるを以てなり。賁(ひ)の初九車を舎てて徒(かち)とするが如くなれば、則ち己を載する者豈に能く為さんや。

六三應在上九,有志於行者也;輿曳而牛掣,不得行焉,非其志也。上欲以其不行也而刑之,則我之所持以生者絶其通也,故曰其人天且劓。然所遇者上九之剛也,剛而克明而不蔽於其所感,剛?而不惑於初,然將有所合而無所疑,故曰無初有終,而象曰遇剛也。

六三の応は上九に在り、行かんと志す者有るなり。輿曳かれて牛掣さるれば、行くを得ざるなり、其の志に非ざるなり。上其の行かざるを以て之を刑せんと欲せば、則ち我の生を持する所以絶つ其の通なり。故曰く、其の人天且つ劓なりと。然れども遇う所は上九の剛なり。剛にして能く明らかにして其の感ずる所に蔽(おお)われず、剛にして果にして初に惑わざれば、然れども将に合する所有りて疑う所无きなり。故曰く、初め无くして終わり有りと。而して象に曰く剛に遇うなりと。

九四:睽孤,遇元夫,交孚,厲無咎。象曰:交孚無咎,志行也。九四無正應,與有應而未合者睽孤也。九四雖睽孤,然所遇者元夫也。以位稱則曰遇主,以徳稱則曰遇元夫,則仁智異矣。遇元夫而至誠相與,則雖孤寡助之危,何咎之有?

九四の爻辞に言う、「睽孤(こ)なり、元夫(げんぷ)に遇う、孚を交(か)わす、厲しきも咎无し」と。『小象伝』に言う、「孚を交わして咎无きは、志行わるるなり」と。九四正応无く、応有るも未だ合せざるは睽孤なり。九四睽孤と雖も、然れども遇う所は元夫なり。位を以て称せば則ち主に遇うと曰い、徳を以て称せば則ち元夫に遇うと曰う。則ち仁智異なり。元夫に遇うて至誠相与せば、則ち孤寡助けの危と雖も、何の咎か有らんや。

六五:悔亡,厥宗噬膚,往何咎。象曰:厥宗噬膚,往有慶也。九二於六五則稱主,主者尊之也,下之於上宜尊之者也;六五於九二則稱宗,宗者親之也,上之於下宜親之者也。六三以柔為物之間,其易噬猶之膚也;九二噬六三之間而求合於上,則其一志於承上者不疑也,六五宜屈體而往從之也,故曰厥宗噬膚,往何咎也。

六五の爻辞に言う、「悔亡ぶ、厥(そ)の宗(そう)膚(ふ)を噬(か)む、往きて何の咎か有らん」と。『小象伝』に言う、「厥の宗膚を噬むは、往きて慶有るなり」と。九二は六五に於て則ち主と称す、主とは之を尊ぶなり、下の上に於て宜しく之を尊ぶべき者なり。六五は九二に於て則ち宗と称す、宗とは之を親しむなり、上の下に於て宜しく之を親しむべき者なり。六三柔を以て物の間と為る、其の噬み易き猶ほ之膚なり。九二六三の間を噬みて上に合を求めば、則ち其の上を承くるに一志にして疑わざるなり。六五宜しく体を屈して往きて之に従うべし。故曰く、厥の宗膚を噬む、往きて何の咎か有らんと。

上九:睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪?婚媾,往遇雨則吉。象曰:遇雨之吉,群疑亡也。物之情,睽則疑,疑斯疾之矣。故九二之於六三,乃安而載之之輿也,而自上九視之則塗也;九四之於六三,乃順而引之之牛也,而自上九視之則鬼也,其疾之可謂至矣。

上九の爻辞に言う、「睽孤なり、豕(いのこ)の涂(どろ)を負うを見、鬼一車を載す、先づ之弧(こ)を張り、後に之弧を説(だつ、ぬ)く、寇に匪(あら)ず婚媾(こんこう)なり、往きて雨に遇えば則ち吉」と。『小象伝』に言う、「雨に遇うの吉は、群疑亡ぶなり」と。物の情は、睽れば則ち疑い、疑えば斯に之を疾(にく)む。故に九二の六三に於ては、乃ち安くして之を載するの輿なり。而して上九より之を視れば則ち涂なり。九四の六三に於ては、乃ち順にして之を引くの牛なり。而して上九より之を視れば則ち鬼なり。其の之を疾むや至と謂う可し。

然六三有趍下之性,以為如豕之負塗,理或有之;以為載一車,則無是道也。無是道而以為有是,則疑之甚故也。疑甚則怒而思攻之矣,故有張弧之辭焉。然上九之剛,非終惑之也,故曰後脫之弧;脫則知其匪?而婚媾之情通矣。其始也疑而疾之,又從而攻之,則已甚矣;雖脫弧而婚媾之情通,然非屈道以往,則六三之情未易得也,故曰往遇雨則吉。雨者,陰陽和而及於物也,不止婚媾而已。

然れども六三下に趨(はし)るの性有りて、以て豕の涂を負うが如きは、理或いは之有るなり。以て一車を載すれば、則ち是の道无きなり。是の道无くして以て是の有りと為せば、則ち之を疑うの甚(はなは)だしきが故なり。疑甚(はなは)だしければ則ち怒りて之を攻めんと思う。故に弧を張るの辞有るなり。然れども上九の剛は、終に之を惑わすに非ざるなり。故曰く、後に弧を脱(ぬ)くと。脱げば則ち其の寇に匪ざるを知りて婚媾の情通ず。其の始めや疑いて之を疾み、又従りて之を攻めば、則ち已に甚だし。弧を脱いて婚媾の情通ずと雖も、然れども道を屈して往くに非ざれば、則ち六三の情得易からざるなり。故曰く、往きて雨に遇えば則ち吉と。雨とは、陰陽和して物に及ぶなり。止まらず婚媾のみならず。

蹇卦(艮下坎上)

艮下坎上。蹇:利西南,不利東北,利見大人,貞吉。彖曰:蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉。蹇利西南,往得中也;不利東北,其道窮也。利見大人,往有功也;當位貞吉,以正邦也。蹇之時用大矣哉。

『蹇(けん)』卦は下体が艮、上体が坎。卦辞に言う、「蹇、西南に利し、東北に利ならず、大人を見るに利し、貞吉」と。『彖伝』に言う、「蹇とは、難なり、険前に在るなり。険を見て能く止まるは、知なるかな。蹇西南に利しは、往きて中を得るなり。東北に利ならずは、其の道窮まるなり。大人を見るに利しは、往きて功有るなり。位に当りて貞吉は、以て邦を正すなり。蹇の時用大なるかな」と。

天下之險,固有可平者,雖不可平,亦有犯之而不至於?者。至若險在前而不可平,又不可犯,雖有智亦末如之何而止,是乃所以蹇也。然則所貴乎智者,為其逺險而止也,非迫險而止之謂也;如迫險而止,則是愚而不知去耳,曷足以言智哉?

天下の険は、固より平(たい)らぐ可き有り。平らぐ可からざると雖も、亦た之を犯して凶に至らざる者有り。至る若し険前に在りて平らぐ可からず、又犯すべからざれば、智有ると雖も亦た之を如何せんも末きにして止まる。是れ乃ち蹇と為す所以なり。然らば則ち智を貴ぶ所は、其れ険を遠ざけて止まるを為すなり。険に迫りて止まるの謂に非ざるなり。険に迫りて止まるが如くなれば、則ち是れ愚にして去るを知らざるのみ。曷ぞ以て智を言うに足らんや。

故曰利西南,不利東北。蓋上卦之坎,正北方之卦,則是正北者乃險之所在也;下卦之艮,東北之卦也,迫險而知止者也。迫險而知止則其道窮,故不若東南之逺險而得中於利也。且去東北而之東南與正南,亦既逺矣,必曰西南,則是君子之避險不厭乎逺甚也。

故曰く、西南に利し、東北に利ならずと。蓋し上卦の坎は、正北方の卦、則ち是れ正北は乃ち険の在る所なり。下卦の艮は、東北の卦、険に迫りて止まるを知る者なり。険に迫りて止まるを知れば則ち其の道窮まる。故に東南の険を遠ざけて中を得るに利するに若かざるなり。且つ東北を去りて東南と正南とに之くも、亦た既に遠し。必ず西南と曰うは、則ち君子の険を避くるは遠きに厭(あ)かざる甚(はなは)だしきなり。

其曰得中者,安而無難然後能守中;若其于臲卼險難之際,則或過或不及,與時俛仰,亦以自完矣。利見大人,往有功也;當位正吉,以正邦也,此九五之才也。蓋所謂大人者,非止有知險之智,而又有平險之才焉,宜其為蹇難之時所利見也。

其の中を得ると曰うは、安くして難无き然る後に能く中を守るなり。其れ臲卼(げつげつ、ぐらつき)険難の際に於ては、則ち或いは過ぎ或いは及ばず、時と俛仰(ふぎょう)して、亦た以て自ら完(まっと)うするのみ。大人を見るに利し、往きて功有りとは、位に当りて正吉、以て邦を正す、此れ九五の才なり。蓋し所謂大人とは、止まらず険を知るの智有るのみならず、而又た険を平らぐの才有るなり。其れ蹇難の時の利見る所と為る宜しきなり。

功業者,見乎變者也,天下平而無故,則雖有大人之功業,何自而興哉?故曰利見大人,往有功也。有大人之才,又須當位有得為之勢,然後能正邦,故曰當位正吉,以正邦也。有大人然後有大人之功,以大人而當位然後能正邦,則在蹇之時而大有為者,豈小丈夫之事哉?故曰蹇之時用大矣哉。

功業とは、変に見ゆる者なり。天下平かにして故无ければ、則ち大人の功業有ると雖も、何の自りて興らんや。故曰く、大人を見るに利し、往きて功有りと。大人の才有りて、又須(しか)らく位に当りて為す有るの勢いを得て、然る後に能く邦を正しくす。故曰く、位に当りて正吉、以て邦を正すと。大人有りて然る後に大人の功有り、大人を以て位に当りて然る後に能く邦を正しくすれば、則ち蹇の時に在りて大いに為す有るは、豈に小丈夫の事ならんや。故曰く、蹇の時用大なるかなと。

象曰:山上有水,蹇,君子以反身修徳。蹇之成象,見險而能止,乃智者之事,故象辭亦無取乎正邦之功,而曰反身修徳,則亦見險而止之之類也。初六:往蹇來譽。象曰:往蹇來譽,宜待也。蹇之時以險在前,宜待而不宜往,故往則為蹇,來則有譽。夫譽不必興事造業而後能致也,識時之宜、知所以自保,則人斯歸之以智而有譽矣。

『象』に曰く、山上に水有り、蹇、君子以て身に反りて徳を修むと。蹇の象を成すは、険を見て能く止まる、乃ち智者の事なり。故に象辞も亦た邦を正すの功を取る无くして、身に反りて徳を修むと曰う。則ち亦た険を見て止まるの類なり。初六の爻辞に言う、「往けば蹇(けん)にして來れば誉(ほま)れ」と。『小象伝』に言う、「往けば蹇にして來れば誉れは、宜しく待つべきなり」と。蹇の時は険前に在るを以て、宜しく待つべくして往く宜しからず。故に往けば則ち蹇と為り、來れば則ち誉れ有り。夫れ誉れは必ずしも事を興し業を造して然る後に能く致すに非ざるなり。時の宜しきを識り、自ら保つ所以を知れば、則ち人斯に之に帰するに智を以てして誉れ有るなり。

六二:王臣蹇蹇,匪躬之故。象曰:王臣蹇蹇,終無尤也。九五王也,六二應之,王臣也。遇險之時,上下皆蹇,王臣之蹇蹇也;自為王臣,則國安與安、國危與危,安得自為私謀哉?故曰匪躬之故。如其躬之故而為自安之計,則不復蹇,則有其終尤;惟所以為蹇,故曰王臣蹇蹇,終無尤也。

六二の爻辞に言う、「王臣蹇蹇(けんけん)たり、躬(みずか)らの故に匪(あら)ず」と。『小象伝』に言う、「王臣蹇蹇たりは、終に尤(とが)无きなり」と。九五は王なり、六二之に応ずるは、王臣なり。険に遇うの時は、上下皆蹇なり。王臣の蹇蹇たるなり。自ら王臣と為れば、則ち国安ければ与(とも)に安く、国危うければ与に危うし。安んぞ自ら私謀を為すを得んや。故曰く、躬らの故に匪ずと。其の躬らの故の如くして自ら安んずるの計を為せば、則ち復た蹇ならず、則ち其の終尤有るなり。惟れ蹇と為す所以なり。故曰く、王臣蹇蹇たり、終に尤无きなりと。

九三:往蹇來反。象曰:往蹇來反,內喜之也。九三雖剛過,而體艮之止,則知往之蹇而來反者也。來反則為主於內,內之所待而喜之者也;然既以迫險,則先見之明為未足,是以不如初六之有譽也。六四:往蹇來連。象曰:往蹇來連,當位實也。往則犯難,故曰往蹇;來又乗剛,故曰來連。此前跋其胡,則往蹇來連非自取也,何凶之有?是以不言凶咎也。

九三の爻辞に言う、「往けば蹇にして來れば反(かえ)る」と。『小象伝』に言う、「往けば蹇にして來れば反るは、内之を喜ぶなり」と。九三剛過ぐると雖も、而して艮の止を体すれば、則ち往の蹇を知りて來り反る者なり。來り反れば則ち内に主と為る、内の待ちて之を喜ぶ者なり。然れども既に険に迫るを以てすれば、則ち先見の明は未だ足らず。是の以て初六の誉れ有るに如かざるなり。六四の爻辞に言う、「往けば蹇にして來れば連(つら)なる」と。『小象伝』に言う、「往けば蹇にして來れば連なるは、位に当りて実なり」と。往けば則ち難に犯す、故曰く往けば蹇と。來れば又剛に乗ず、故曰く來れば連と。此れ前に其の胡(こ)を跋(ふ)むれば、則ち往けば蹇にして來れば連は自ら取るに非ざるなり。何の凶か有らんや。是の以て凶咎を言わざるなり。

九五:大蹇朋來。象曰:大蹇朋來,以中節也。九五,大者之蹇也。大者之蹇,苟不失大中之位以節制天下,則朋來;朋來則拯之者眾而難散矣。中者其位也,節者其權也;居位而有其權,則何患哉?

九五の爻辞に言う、「大蹇朋來る」と。『小象伝』に言う、「大蹇朋來るは、以て中節なり」と。九五は、大なる者の蹇なり。大なる者の蹇は、苟も大中の位を失わずして以て天下を節制すれば、則ち朋來る。朋來れば則ち之を拯(すく)う者衆くして難散ず。中とは其の位なり、節とは其の権なり。位に居りて其の権有れば、則ち何の患(うれ)えか有らんや。

上六:往蹇來碩,吉,利見大人。象曰:往蹇來碩,志在內也;利見大人,以從貴也。六四乗九三之剛,九三非其君也,為難者也,故曰來連;上六來而乗九五之剛,九五蓋其君也,故曰來碩。臣之得為,則庇完其身而不為物剝,又得以擴充其志而不為物挫,是以為碩也。利見大人,為九五也;九五居大中以合天下而為朋來之主,則上六所以利見也。其曰從貴,何也?蹇之時名分亂矣,於是知從貴,則臣節為不失矣;不知從貴而惟強之從,則終隨以亡,非所謂利見也。

上六の爻辞に言う、「往けば蹇にして來れば碩(せき、おおき)し、吉、大人を見るに利し」と。『小象伝』に言う、「往けば蹇にして來れば碩しは、志内に在るなり。大人を見るに利しは、以て貴に従うなり」と。六四九三の剛に乗ず、九三其の君に非ざるなり、難を為す者なり。故曰く來れば連と。上六來りて九五の剛に乗ず、九五蓋し其の君なり。故曰く來れば碩と。臣の為すを得れば、則ち其の身を庇完(ひかん)して物に剥(はく)せられず、又得て其の志を拡充して物に挫(くじ)かれざるなり。是を以て碩と為す。大人を見るに利しは、九五と為すなり。九五大中に居りて天下を合わせて朋來の主と為れば、則ち上六の利見る所以なり。其の貴に従うと曰うは何ぞや。蹇の時は名分乱る。是に於て貴に従うを知れば、則ち臣節失わざるを為す。貴に従うを知らずして惟れ強に従うは、則ち終に随いて以て亡ぶ。所謂利見に非ざるなり。

解卦(坎下震上)

坎下震上。觧:利西南,元所往,其來復吉,有攸往夙吉。彖曰:觧,險以動,動而免乎險,觧。觧利西南,往得眾也;其來復吉,乃得中也;有攸往夙吉,往有功也。天地觧而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲坼,觧之時大矣哉。

『解』卦は下体が坎、上体が震。卦辞に言う、「解、西南に利し、往く所无ければ其の來り復(かえ)るに吉、往く所有れば夙(はや)く吉」と。『彖伝』に言う、「解とは、険にして動き、動きて険を免る、解なり。解西南に利しは、往きて衆を得るなり。其の來り復るに吉は、乃ち中を得るなり。往く所有れば夙く吉は、往きて功有るなり。天地解して雷雨作(おこ)る、雷雨作りて百果草木皆甲(こう)を坼(さ)く、解の時大なるかな」と。

動乎險中而免乎險而為觧。屯者其始也,觧者其終也。天下皆險,則聖人動乎險中;動乎險中,其卒免險,則天下之險亦從而觧矣。夫聖人動乎險中而求解,非止免一身之險,蓋將以平天下之險也,故貴得眾而利西南焉,西南坤之為眾故也。

険中に動きて険を免れて解と為る。屯とは其の始めなり、解とは其の終わりなり。天下皆険なれば、則ち聖人険中に動く。険中に動きて、其の卒険を免れば、則ち天下の険も亦た従りて解す。夫れ聖人険中に動きて解を求むるは、止まらず一身の険を免るるのみならず、蓋し将に天下の険を平らげんとするなり。故に衆を得るを貴びて西南に利す。西南は坤の衆と為るが故なり。

屯言勿用有攸往,觧言無所往,何也?雷雨動而為屯,作而為解,二屯一觧。猶雷雨動而作,則屯難有時而行之而已;屯惟宜動,勿用有攸往可也;解又既免,無所往可也。如草木節解、麋鹿角解,皆氣至而自然矣,是以無所往,其來復吉也。

屯は往く所有るを用る勿れと言い、解は往く所无しと言うは、何ぞや。雷雨動きて屯と為り、作りて解と為る、二つは屯一つは解なり。猶ほ雷雨動きて作れば、則ち屯難は時有りて之を行うのみ。屯は惟れ宜しく動くべく、往く所有るを用る勿れは可なり。解は又既に免る、往く所无きは可なり。草木の節解(せっかい)し、麋鹿(びろく)の角解するが如く、皆気至りて自然なり。是の以て往く所无く、其の來り復るに吉なり。

解動則必復,其情然也;緩則必失,其勢然也。既以緩而失,則不可緩而救;以緩而救,則不及事,故欲往而有功,在攸往之夙也。天地之解,怒氣激而為雷,和氣散而為雨,百果草木之微,甲者皆坼,其功可謂大矣。能解天下之難,亦若天地之解萬物,非大人孰能與乎此哉?故曰解之時義大矣哉。

解動けば則ち必ず復る、其の情然るなり。緩なれば則ち必ず失う、其の勢い然るなり。既に緩を以て失えば、則ち緩にして救う可からず。緩を以て救えば、則ち事に及ばず。故に往きて功有らんと欲するは、攸往の夙きに在るなり。天地の解は、怒気激して雷と為り、和気散じて雨と為る。百果草木の微、甲有る者皆坼(さ)く。其の功大と謂う可し。能く天下の難を解するは、亦た天地の万物を解するが若し。大人に非ざれば孰か能く此に与らんや。故曰く、解の時義大なるかなと。

象曰:雷雨作,解,君子以赦過宥罪。處亂而不改其度者,唯君子能之;使小人居屯難未解之時,其能不為非者寡矣。退而誅之,則更起天下之難,非所以為解也,故過者赦之、罪者宥之,然後應雷雨博施之象焉。

『象』に曰く、雷雨作る、解、君子以て過を赦し罪を宥(ゆう)すと。乱に処りて其の度を改めざる者は、唯れ君子能く之を為す。小人をして屯難未だ解せざるの時に居らしめば、其の能く非を為さざるは寡し。退きて之を誅せば、則ち更に天下の難を起す。解と為す所以に非ざるなり。故に過有る者は之を赦し、罪有る者は之を宥して、然る後に雷雨博施の象に応ずるなり。

初六:無咎。象曰:剛柔之際,義無咎也。屯之六二,所遇者屯也,而又乗剛,是以有難;解之初六,所遇者解也,又有應剛,是以無咎也。剛上柔下,相際以禮,咎何由而至哉?

初六の爻辞に言う、「咎无し」と。『小象伝』に言う、「剛柔の際は、義咎无きなり」と。屯の六二は、遇う所は屯なり、而又剛に乗ず。是の以て難有り。解の初六は、遇う所は解なり、又剛に応ずる有り。是の以て咎无きなり。剛上柔下、相際(あいせ)するに礼を以てせば、咎何の由りて至らんや。

九二:田獲三狐,得黃矢,貞吉。象曰:九二貞吉,得中道也。方解之初,眾莫知天命之有歸、人事之有在也,則疑所適從,有三狐之象焉。三,眾辭也;狐,疑物也。以湯王之舉,眾有舍我嗇事而割夏正之嫌,則解之眾疑可知矣。

九二の爻辞に言う、「田(でん、かり)三狐を獲る、黄矢を得る、貞吉」と。『小象伝』に言う、「九二貞吉は、中道を得るなり」と。方に解の初めは、衆未だ天命の帰有り、人事の在有るを知らず。則ち従う所を疑う、三狐の象有るなり。三とは、衆の辞なり。狐とは、疑うの物なり。湯王の挙(こ)を以てすれば、衆我が嗇事(しょくじ)を舎てて夏正を割かんとするの嫌有れば、則ち解の衆疑知る可し。

九二剛正而應,能大有為,以得群疑使之順服,則田獲三狐之象也。若然者,非示人以中、威物以直者不能至此。蓋以示人以中,則小者懐;威物以直,則大者畏。小者懐、大者畏,則群疑安所逃哉?故曰得黃者,示人以中也;矢,言威物以直也。

九二剛正にして応じ、能く大いに為す有り。以て群疑を得て之を順服せしめば、則ち田三狐を獲るの象なり。然る者は、人に中を示し、物を威するに直を以てするに非ざれば此に至る能わず。蓋し以て人に中を示せば、則ち小なる者懐(なつ)く。物を威するに直を以てせば、則ち大なる者畏る。小なる者懐き、大なる者畏れば、則ち群疑安んぞ逃るる所か。故曰く、黄を得るは、人に中を示すなり。矢は、物を威するに直を以てするを言うなり。

六三:負且乗,致?至,貞吝。象曰:負且乗,亦可醜也;自我致戎,又誰咎也。負者,小人之事也,謂六為之也;乗,君子之器也,謂三之為位也。以小人而乗君子之器,則居之不安,不能固有,是慢藏也;慢藏則益知其可奪矣。雖慢藏可奪,苟其上有庇、其下有助,則盜亦未至也。

六三の爻辞に言う、「負い且つ乗じ、寇(こう)を致す、貞吝」と。『小象伝』に言う、「負い且つ乗ずるは、亦た醜(はづ)べきなり。我より戎(じゅう)を致せば、又誰の咎か」と。負とは、小人の事なり、六が之を為すを謂うなり。乗とは、君子の器なり、三が位と為すを謂うなり。小人を以て君子の器に乗ずれば、則ち之に居りて安んぜず、能く固有らず。是れ慢蔵(まんぞう)なり。慢蔵すれば則ち益々其の奪う可きを知る。慢蔵奪う可きと雖も、苟も其の上庇(ひ)有り、其の下助け有れば、則ち盗も亦た未だ至らざるなり。

六三又上慢而下暴:上慢則上疾之,不為庇矣;下暴則下去之,不為助矣。如此,則非徒可奪,亦且可伐,此其所以致?之。奪,奪其物;伐,伐其人;象言致戎,又言伐其人也。九四:解而拇,朋至斯孚。象曰:解而拇,未當位也。拇在下而微者也,初六之象也;九四應在初六,解而拇之象也。解而拇,則所解狹矣;所解者狹,則所應者寡,故曰朋至斯孚。其朋信而已,則豈若有孚于小人者哉?雖然,九四未當位也,如其當位而所解若此,則吝矣,故不言悔吝,而象曰未當位也。

六三又上に慢りて下に暴なり。上に慢れば則ち上之を疾(にく)みて庇と為らず。下に暴なれば則ち下去りて助けと為らず。是くの如くなれば、則ち徒らに奪う可きのみならず、亦た且つ伐つ可し。此れ其の寇を致す所以なり。奪とは、其の物を奪うなり。伐とは、其の人を伐つなり。象に戎を致すと言い、又其の人を伐つと言うなり。九四の爻辞に言う、「而(なんぢ)が拇(おやゆび)を解け、朋至りて斯に孚(まこと)有り」と。『小象伝』に言う、「拇を解くは、未だ位に当らざるなり」と。拇は下に在りて微なる者、初六の象なり。九四初六に応ずるは、拇を解くの象なり。拇を解けば、則ち解く所狭し。解く所狭ければ、則ち応ずる所寡し。故曰く、朋至りて斯に孚有りと。其の朋信ずるのみ、則ち豈に小人に孚有る者の若くならんや。然りと雖も、九四未だ位に当らざるなり。其の位に当りて解く所此くの若くなれば如(し)くは、則ち吝なり。故に悔吝を言わずして、象に曰く未だ位に当らざるなりと。

六五:君子維有解,吉,有孚于小人。象曰:君子有解,小人退也。天地之解萬物,不擇物而解也,則君子之解天下,又焉可擇人而解哉?維有解而已。故有過者亦赦、有罪者亦宥,勿問其如何而一切解之,與之更始,則小人信其有愛人利物之心而退聴矣。若乃擇無過而後釋之、無罪而後原之,則小人自知其不免,難復作矣,非所以為解也。天地之解及草木,君子之解及小人。

六五の爻辞に言う、「君子維(こ)れ解有り、吉、小人に孚有り」と。『小象伝』に言う、「君子解有れば、小人退くなり」と。天地の万物を解するや、物を択ばずして解す。則ち君子の天下を解するも、又焉(いずく)んぞ人を択びて解する可からんや。維れ解有るのみ。故に過有る者も亦た赦し、罪有る者も亦た宥して、其の如何を問う勿れて一切之を解し、之と更始(こうし)せば、則ち小人其の人を愛し物を利するの心有るを信じて退きて聴(ゆる)す。若し乃ち无過を択びて然る後に之を釈(と)き、无罪して然る後に之を原(ゆる)せば、則ち小人自ら其の免がれざるを知りて、難復た作(おこ)る。解と為す所以に非ざるなり。天地の解は草木に及び、君子の解は小人に及ぶ。

上六:公用射隼于髙墉之上,獲之,無不利。象曰:公用射隼,以解悖也。公者,尊髙之位;隼者,貪殘之禽也;髙墉者,顯著之地也。上六處尊髙之位,勢可以有為矣;遇解之極,時可以為用。六三乃如貪悖之禽,止乎顯著之地,非所據而據焉,則射而獲之,何不利之有哉?即六三而言之,則以小人而乗君子之器者也;自上六視之,則以隼而在髙墉之上者也。所處非宜,在理則逆,則所謂悖也;上六射而獲之,則所解悖理而天下之大順成矣。

上六の爻辞に言う、「公隼(しゅん)を高墉(こうよう)の上に射るに用い、之を獲る、利ならざる无し」と。『小象伝』に言う、「公隼を射るに用うるは、以て悖(はい)を解すなり」と。公とは、尊高の位なり。隼とは、貪残の禽なり。高墉とは、顕著の地なり。上六尊高の位に処れば、勢い以て為す有る可し。解の極に遇うは、時以て用いる可し。六三は乃ち貪悖の禽の如く、顕著の地に止まり、拠る所に非ざるを拠(よ)れば、則ち射て之を獲る。何の利ならざるか有らんや。即ち六三より之を言えば、則ち小人を以て君子の器に乗ずる者なり。上六より之を視れば、則ち隼を以て高墉の上に在る者なり。処る所宜しきに非ざれば、理に在りて則ち逆なり。則ち所謂悖なり。上六射て之を獲れば、則ち解く所悖理にして天下の大順成るなり。

損卦(兌下艮上)

兌下艮上。損:有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。彖曰:損,損下益上,其道上行。損而有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。二簋應有時,損剛益柔有時,損益盈虛,與時偕行。

『損』卦は下体が兌、上体が艮。卦辞に言う、「損、孚有り、元吉、咎无し、貞に可し、往く所有るに利し。曷(なに)を之を用いん。二簋(にき、にこのき)以て享(きょう、まつ)る可し」と。『彖伝』に言う、「損は、下を損して上に益す、其の道上に行く。損して孚有れば、元吉、咎无し、貞に可し、往く所有るに利し。曷を之を用いん。二簋以て享る可し。二簋は時に応ずる有り、剛を損して柔に益すも時有り、損益盈虚、時と偕に行く」と。

損之為卦,下卦受損,上卦得益,則是損下而益上者也。損下而益上,非強本厚下之道,故於卦為損。夫財賦、力征,皆損下益上之事也。財賦有節而民信其非斂我也,力役有程而民信其非役我也,則損而有孚者也。損而有孚,則元吉無咎、可正而利有攸往矣。

損の卦と為るは、下卦損を受け、上卦益を得る。則ち是れ下を損して上に益する者なり。下を損して上に益するは、本を強くし下を厚くするの道に非ざるなり。故に卦に於て損と為る。夫れ財賦、力征(りきせい)は、皆下を損して上に益するの事なり。財賦節有りて民其の我を斂(あつ)めるに非ずと信じ、力役程有りて民其の我を役するに非ずと信ぜば、則ち損して孚有る者なり。損して孚有れば、則ち元吉咎无く、正にして往く所有るに利する可し。

何以知損有孚也?損之上體艮,艮,止也;其下體兌,兌,說也。上得益而知止,則其求於下不過矣;下受損而咸說,則其輸於上不倦矣。上止而下說,則損之有孚可知矣。曷之用?二簋可用享。以損下非厚下之道,故上於用財不敢厚,二簋可用享也。夫享禮以備物焉為盛者也,為其損下而取之為享,故宜備者亦捐之而用二簋焉。用二簋以應損下之宜,非常道也,故曰二簋以應損下之宜,非常道也,故曰二簋應有時。

何を以て損孚有るを知るや。損の上体は艮、艮とは止まるなり。其の下体は兌、兌とは説(よろこ)びなり。上益を得て止まるを知れば、則ち其の下に求むる過ぎざるなり。下損を受けて咸説べば、則ち其の上に輸(おさ)むる倦(う)まざるなり。上止まりて下説べば、則ち損の孚有る知る可し。曷を之を用いん。二簋以て享る可し。下を損するは下を厚くするの道に非ざるを以て、故に上用財に於て厚くするを敢えてせず、二簋以て享る可し。夫れ享礼は物を備うるを以て盛んと為す者なり。其れ下を損して之を取りて享と為るを為すが故に、宜しく備うべき者も亦た之を捐(す)てて二簋を用うるなり。二簋を用いて以て下を損するの宜しきに応ずるは、常道に非ざるなり。故曰く、二簋時に応ずる有りと。

剛者,上道也;柔者,下道也。上剛反不足,下剛乃有餘,損以益上之柔,亦有時而然也,故曰損剛益柔有時。損之不己則至於虛,益之不已則至於盈;然而損生於盈,益生於虛,相因於無窮,與時偕行而已,故曰損益盈虛與時行也。

剛とは、上の道なり。柔とは、下の道なり。上剛反(かえ)つて足らず、下剛乃ち余有り。損して以て上の柔に益すは、亦た時有りて然るなり。故曰く、剛を損して柔に益する時有りと。之を損して已まざれば則ち虚に至り、之を益して已まざれば則ち盈に至る。然れども損は盈に生じ、益は虚に生ず。無窮に相因(あいよ)りて、時と偕に行くのみ。故曰く、損益盈虚時と行くなりと。

象曰:山下有澤,損,君子以懲忿窒欲。山澤,通氣者也,以風日之過河猶有損,則山澤之通氣,焉得為無損哉?人之所損莫甚於忿欲:突而上陵,其忿如山;受而不厭,其虛如澤,損莫大焉。於是君子以懲忿窒欲;懲忿而不忮,窒慾而不求,則性質愈完而充實之美成矣。茲損也,祇其所以為益也。

『象』に曰く、山下に沢有り、損、君子以て忿(いか)りを懲(こ)らし欲を窒(ふさ)ぐと。山沢とは、気を通ずる者なり。風日の河を過ぐるに猶ほ損有るを以てすれば、則ち山沢の気を通ずるは、焉(いずく)んぞ損无きと為るを得んや。人の損する所は忿欲に甚だしきは莫し。突(とつ)として上に陵(しの)ぐ、其の忿山の如し。受けて厭(あ)かざる、其の虚沢の如し。損大なるは莫し。是に於て君子忿を懲らし欲を窒ぐ。忿を懲らして忮(し、は)からず、欲を窒いで求めざれば、則ち性質愈々完(まっと)うして充実の美成る。兹の損は、祇(ただ)其の益と為す所以なり。

初九:已事遄往,無咎,酌損之。象曰:已事遄往,尚合志也。曰愛君而欲益之,其誠則至矣;然道事而行,為之以遽,則有先迷之失,故必待其已事後往。已事而後往,則往雖遄無傷也。夫已事而後往,不失順承之義,則其往之遄,乃所以愛君也,何咎之有哉?酌損之者,懼其過也,以剛而遄往,故以過損為戒焉。尚合者,其愛君之心又不失事君之義,而六四亦能應而納之故也。

初九の爻辞に言う、「事已(や)みて遄(と)く往く、咎无し、酌(く)みて之を損す」と。『小象伝』に言う、「事已みて遄く往くは、尚ほ志に合うなり」と。曰く君を愛して之に益せんと欲すは、其の誠至るなり。然れども道事に順いて行う、之を為すに遽(にわ)かを以てせば、則ち先に迷うの失有り。故に必ず其の事已むを待ちて然る後に往く。事已みて然る後に往けば、則ち往きて遄しと雖も傷无し。夫れ事已みて然る後に往けば、順承の義を失わず。則ち其の往く遄きは、乃ち君を愛する所以なり。何の咎か有らんや。酌みて之を損するは、其の過ぎるを懼るるなり。剛を以て遄く往けば、故に過損を以て戒(いまし)むるなり。尚ほ合うとは、其の君を愛するの心又君に事うるの義を失わず、而して六四も亦た能く応じて納(い)るるが故なり。

九二:利貞,征凶,弗損益之。象曰:九二利貞,中以為志也。九二損益非常也,得中則可以止矣。九二益上而得中,故利正征凶;益上而得中,則無所事損也,將有益之者矣,故曰弗損益之。夫自損者人益之,自益者人損之,不期然矣。

九二の爻辞に言う、「貞に利し、征せば凶、損せずして之に益す」と。『小象伝』に言う、「九二貞に利しは、中を以て志と為すなり」と。九二損益は常に非ざるなり。中を得れば則ち以て止まる可し。九二上に益して中を得る、故に貞に利して征せば凶なり。上に益して中を得れば、則ち損を事とする所无し。将に之に益する者有らん。故曰く、損せずして之に益すと。夫れ自ら損するは人之に益し、自ら益するは人之を損す。期(き)せずして然るなり。

六三:三人行則損一人,一人行則得其友。象曰:一人行,三則疑也。道不貴多,多則疑雜;天地之合、君臣之交,所以貴夫致一也。六三志在益上者也,然為主於內而二陽從之以進,則有三人行之象焉。三人行則上疑於所與而其志不專,故六三有損焉;如其絶類離群而一人,則上之任賢不貳而下之得君亦專矣,然後可以修輔厥後而不疑,故曰得友也。

六三の爻辞に言う、「三人行けば則ち一人を損し、一人行けば則ち其の友を得る」と。『小象伝』に言う、「一人行けば、三なれば則ち疑うなり」と。道は多きを貴ばず、多ければ則ち疑雑す。天地の合、君臣の交は、致一(ちいつ)を貴ぶ所以なり。六三志上に益するに在る者なり。然れども内に主と為りて二陽之に従いて進めば、則ち三人行くの象有るなり。三人行けば則ち上与する所を疑いて其の志専ならず。故に六三損有るなり。其の類を絶ち群を離れて一人なれば如(し)くは、則ち上の賢を任ずるや貳(ふた)つならずして、下の君を得るも亦た専なり。然る後に以て其の后(きみ)を輔(たす)けて疑われざる可し。故曰く、友を得ると。

六四:損其疾,使遄有喜,無咎。象曰:損其疾,亦可喜也。物不得陰陽之中而所受皆偏者,皆疾也。偏乎陰則為愚,偏於陽則為躁;偏乎陰則損之宜以陽,偏乎陽則損之宜以陰。六四偏乎陰而能應陽以損其疾者也;然而陰之性緩,矯其性而使遄則有喜矣。六四之遄,非若初九之遄則其性也;六四之遄,乃使遄而非其性也。

六四の爻辞に言う、「其の疾を損して、遄くせしめて喜び有り、咎无し」と。『小象伝』に言う、「其の疾を損するは、亦た喜ぶ可きなり」と。物陰陽の中を得ずして受くる所皆偏なる者は、皆疾なり。陰に偏すれば則ち愚と為り、陽に偏すれば則ち躁(そう)と為る。陰に偏すれば則ち之を損するに宜しく陽を以てすべく、陽に偏すれば則ち之を損するに宜しく陰を以てすべし。六四陰に偏して能く陽に応じて其の疾を損する者なり。然れども陰の性は緩なり。其の性を矯(た)めて遄くせしめれば則ち喜び有るなり。六四の遄は、初九の遄の若くに非ざれば則ち其の性なり。六四の遄は、乃ち遄くせしむるにして其の性に非ざるなり。

六五:或益之十朋之,弗克違,元吉。象曰:六五元吉,自上佑也。六五居上而自損者也。九二居下而自損,物猶益之,又況居上而自損者乎?故曰或益之。或,言益之者眾也。不志於人養而曳尾於途中,則好違者也;六五居上而能自損,故使天下好違之人弗克違之,而聰明之才足以恂知休咎者皆為我用,且有十朋之多焉,則天下無遺賢、萬物無遺照矣,元吉不亦宜乎?有曰自天佑,有曰自上佑者,神祗祖考凡居上者皆佑,而不止謂天也。

六五の爻辞に言う、「或いは之に十朋(じっぽう、たから)の亀を益すも、克(よ)く違わず、元吉」と。『小象伝』に言う、「六五元吉は、上より祐(たす)けらるるなり」と。六五は上に居りて自ら損する者なり。九二下に居りて自ら損すれば、物猶ほ之に益す、又況んや上に居りて自ら損する者をや。故曰く、或いは之に益すと。或とは、之に益する者の衆きを言うなり。人養いを志とせずして途中に尾を曳(ひ)くは、則ち違うを好む者なり。六五上に居りて能く自ら損すれば、故に天下の違うを好むの人をして克く之に違わざらしめ、而して聡明の才以て休咎(きゅうきゅう)を恂知(しゅんち)するに足る者皆我が用と為り、且つ十朋の多有るなり。則ち天下に遺賢无く、万物に遺照(いしょう)无し。元吉亦た宜しきならずや。或いは曰く天祐するに由る、或いは曰く上祐するに由る者は、神祇祖考凡そ上に居る者皆祐する、而して止まらず天を謂うのみならず。

上九:弗損益之,無咎,貞吉,利有攸往,得臣無家。象曰:弗損益之,大得志也。上九為下而自損以益上,則戒於過,故九二曰弗損益之;為上而自損以益下,雖過可也,故上九曰弗損益之,而後曰無咎貞吉,皆在下不可過、在上可過之義也。蓋髙以下為基,下厚則上安焉,故上損可過而下損不可過也。上九自損以至於得益,則損之至矣,故得無家之臣焉。六二以應上,無家之臣也;允恭克遜而得過門之禹,蓋上九之謂也。

上九の爻辞に言う、「損せずして之に益す、咎无し、貞吉、往く所有るに利し、臣家无きを得る」と。『小象伝』に言う、「損せずして之に益すは、大いに志を得るなり」と。上九下と為りて自ら損して以て上に益せば、則ち過ぎるを戒む。故に九二に曰く損せずして之に益すと。上と為りて自ら損して以て下に益せば、過ぐると雖も可なり。故に上九に曰く損せずして之に益す、而して後に曰く咎无く貞吉と。皆下に在りては過ぐべからず、上に在りては過ぐべきの義なり。蓋し高は下を以て基と為す。下厚ければ則ち上安し。故に上の損は過ぐべくして下の損は過ぐべからざるなり。上九自ら損して以て益を得るに至れば、則ち損の至なり。故に家无きの臣を得るなり。六二以て上に応ずるは、家无きの臣なり。允恭克遜(いんきょうこくそん)にして門を過ぎるの禹を得るは、蓋し上九の謂なり。

益卦(震下巽上)

震下巽上。益:利有攸往,利涉大川。彖曰:益,損上益下,民說無疆;自上下下,其道大光。利有攸往,中正有慶;利涉大川,木道乃行。益動而巽,日進無疆;天施地生,其益無方。凡益之道,與時偕行。

『益』卦は下体が震、上体が巽。卦辞に言う、「益、往く所有るに利し、大川を渉るに利し」と。『彖伝』に言う、「益は、上を損して下に益す、民説びて疆(かぎ)り无し。上より下に下(くだ)る、其の道大いに光なり。往く所有るに利しは、中正にして慶有るなり。大川を渉るに利しは、木の道乃ち行くなり。益動きて巽(そん)る、日に進みて疆り无し。天施して地生ず、其の益方无し。凡そ益の道は、時と偕に行く」と。

益之為卦,上卦受損而下卦得益,損上益下,其本固,其下厚,故於卦為益。損上益下,散利以及下也;自上下下,屈己以下人也。散利以及下者,善政也,故民說無疆;屈已以下人者,盛徳也,故其道大光。

益の卦と為るは、上卦損を受けて下卦益を得る。上を損して下に益すは、其の本固く、其の下厚し。故に卦に於て益と為る。上を損して下に益すは、利を散じて以て下に及ぶなり。上より下に下るは、己を屈して以て人に下るなり。利を散じて以て下に及ぶは、善政なり。故に民説びて疆り无し。己を屈して以て人に下るは、盛徳なり。故に其の道大いに光なり。

以益為事而有攸往,無往而不利;然不中正,則有續為揠苗為害者,故利有攸往惟在中正有慶也。蓋益物而不失中正,非僅可以有攸往,且可以涉難,故曰利涉大川。以此涉川,則涉險不溺,得木之道也。

益を以て事と為して往く所有れば、往きて利ならざる无し。然れども中正ならざれば、則ち苗を揠(ひ)いて害と為る者続きて有らん。故に往く所有るに利するは惟れ中正にして慶有るに在るなり。蓋し物に益して中正を失わざれば、僅かに以て往く所有る可きのみならず、且つ以て難を渉る可し。故曰く、大川を渉るに利しと。此を以て川を渉れば、則ち険を渉りて溺(でき)せず、木の道を得るなり。

益動而巽,日進無疆,言自益也;天施地生,其益無方,言益物也。自益而能巽,不逆於理,則入理道有序,莫之能御,則終於窮髙極逺而測深厚矣,故益動而巽、日進無疆,為自盛也。天之施物也平,地之生物也博,兼容並包,無容私焉,其益可謂無方矣;聖人益物也亦若是而已。天施地生,其益無方,言益物也。

益動きて巽る、日に進みて疆り无しは、自ら益すを言うなり。天施して地生ず、其の益方无しは、物に益すを言うなり。自ら益して能く巽れば、理に逆わざれば、則ち理道に入るや序有り、之を御ぐ能くする莫し。則ち終に高を窮め遠きを極めて深厚を測る。故に益動きて巽る、日に進みて疆り无しは、自ら盛んと為るなり。天の物を施すや平(たい)らかなり、地の物を生ずるや博(ひろ)し。兼容并包、私を容(い)るる无し。其の益方无しと謂う可し。聖人の物に益するも亦た是の若くのみ。天施して地生ず、其の益方无しは、物に益すを言うなり。

夫道體無虧,不可戕割;物理自足,無有欠餘。今自益之無疆、為益物之無方,以其至理之當然也,與時偕行而已,故曰凡益之道,與時偕行。就益言之,則曰凡益之道與時偕行,不兼損者,所惡故也。益者所益也,損則求益,益不期損,故於損則曰損益盈虛與時偕行,兼益而言之;益曰凡益之道與時偕行,不兼損而言也。

夫れ道の体は亏(か)くる无く、戕割(しょうかつ)すべからず。物の理は自ら足(た)れる、欠余(けつよ)有る无し。今自ら益するの疆り无き、物に益するの方无きは、其の至理の当然を以て、時と偕に行くのみ。故曰く、凡そ益の道は、時と偕に行くと。益に就て之を言えば、則ち凡そ益の道時と偕に行くと曰いて、損を兼ねざるは、悪(にく)む所の故なり。益とは益する所なり。損は則ち益を求め、益は損を期せず。故に損に於ては則ち損益盈虚時と偕に行くと曰いて、益を兼ねて之を言う。益は凡そ益の道時と偕に行くと曰いて、損を兼ねずして言うなり。

象曰:風雷,益,君子以見善則遷,有過則改。雷以動之,風以散之,此造物之序也,故雷動風散為常,風又雷為益也。見善則遷,求益者也;有過則改,所以為益者也。徒遷善而不改過,則其益更損矣。

『象』に曰く、風雷、益、君子以て善を見れば則ち遷(うつ)り、過有れば則ち改むと。雷以て之を動かし、風以て之を散ず。此れ造物の序なり。故に雷動風散は常と為る。風又雷は益と為るなり。善を見れば則ち遷るは、益を求むる者なり。過有れば則ち改むは、益と為す所以なり。徒らに善に遷りて過を改めざれば、則ち其の益更(さら)に損と為る。

初九:利用為大作,元吉無咎。象曰:元吉無咎,下不厚事也。在上而大有為者,其勢易;位下而大有為者,其勢難,故在上則雖自任以天下之重可也,在下則不可,以下非厚事之地故也。下非厚事之地而作或利為大者,以其作皆愛人利物之事,又上巽而與故也。初九以益為事,六四巽而與己,故曰利用為大作也。起事,聖人之所難,又下非厚事之地,是以元吉然後無咎也。

初九の爻辞に言う、「大作(たいさ)を為すに用いて利し、元吉にして咎无し」と。『小象伝』に言う、「元吉にして咎无きは、下事を厚くせざるなり」と。上に在りて大いに為す有るは、其の勢い易し。位下に在りて大いに為す有るは、其の勢い難し。故に上に在れば則ち自ら任じて天下の重きを以てすと雖も可なり。下に在れば則ち可ならず、下事を厚くするの地に非ざるを以てなり。下事を厚くするの地に非ざるにして作或いは大を為すに利するは、其の作皆人を愛し物を利するの事にして、又上巽りて与(くみ)するを以てなり。初九益を以て事と為し、六四巽りて己に与す。故曰く、大作を為すに用いて利しと。事を起すは、聖人の難しとする所、又下事を厚くするの地に非ざるなり。是の以て元吉にして然る後に咎无きなり。

六二:或益之十朋之,弗克違,永貞吉,王用享于帝吉。象曰:或益之,自外來也。六二以損約而居得中,益者四面而至矣,故曰或益之。十朋之弗克違,則賢人益之至者也。眾人益之,未足以得天下;賢人益之,斯得天下,於是乎可以享帝,故曰王用享于帝吉,有然也。此以其物皆歸往而得,故稱王焉。

六二の爻辞に言う、「或いは之に十朋の亀を益すも、克く違わず、永く貞にして吉、王用いて帝に享りて吉」と。『小象伝』に言う、「或いは之に益すは、外より來るなり」と。六二損約を以て居りて中を得れば、益する者四面より至る。故曰く、或いは之に益すと。十朋之に克く違わざれば、則ち賢人の之に益するの至なり。衆人之に益すは、未だ以て天下を得るに足らず。賢人之に益すは、斯に天下を得る。是に於て以て帝に享る可し。故曰く、王用いて帝に享りて吉、然る有るなりと。此れ其の物皆往きて帰して得るを以て、故に王と称す。

六三:益之用凶事,無咎,有孚中行,告公用圭。象曰:益用凶事,固有之也。損益言道,貴在得中,不可偏也。六三志在益而自損之過中,不能無咎;惟用凶事得通變之宜,是以無咎也。蕃樂殺禮、衣大布之衣、大帛之冠,所謂凶事也。夫以益為事至於如此,則豈人之情也哉?疑於矯拂其情而為偽者也;惟有孚中行而非出於偽,又不至於過,故有成功而上善焉。

六三の爻辞に言う、「之に益するに凶事を用う、咎无し、孚有りて中行し、公に告ぐるに圭を用い」と。『小象伝』に言う、「凶事を益して用うるは、固より之を有するなり」と。損益道を言うは、中を得るを貴ぶ、偏す可からざるなり。六三志益すに在りて自ら損するの中を過ぐれば、咎无き能わず。惟れ凶事を用いて通変の宜しきを得る、是の以て咎无きなり。楽を蕃(ふさ)げて礼を殺(さ)し、大布の衣を衣(き)、大帛の冠を冠(かぶ)るは、所謂凶事なり。夫れ益を以て事と為すは此くの如くに至れば、則ち豈に人の情ならんや。其の情を矯拂(きょうふつ)して偽と為るを疑うなり。惟れ孚有りて中行して偽より出づるに非ず、又過ぐるに至らず。故に成功有りて上善なり。

夫自損之過則必至於失位,六三自損之過而用凶事,得通變之宜,是以不至失位,而象所以謂之固有之也。六四:中行告公從,利用為依遷國。象曰:告公從,以益志也。六三六四之稱中行,以其在中爻之中也。益貴在中,而四以中行,則何疑之有?告公從而已。六三六四皆處盛位而稱公,然三則告公用圭、四則告公從而已者,三逺君、四近君也。古之遷國必依大國以為之援,六四上比乎剛中之君,則可依之以遷國,故曰利用為依遷國。凡益之道與時偕行而不得已也,故雖遷國重事亦或為之,況其小小者也。

夫れ自ら損するの過ぎれば則ち必ず位を失うに至る。六三自ら損するの過ぎて凶事を用いれば、通変の宜しきを得る。是の以て位を失うに至らず。而して象の之を固より之を有すると謂う所以なり。六四の爻辞に言う、「中行して公に告げて従われ、依(よ)りて国を遷(うつ)すを為すに用いて利し」と。『小象伝』に言う、「公に告げて従わるるは、以て志を益するなり」と。六三六四の中行と称するは、其の中爻の中に在るを以てなり。益は中に在るを貴ぶ。而して四中行を以てせば、則ち何の疑いか有らんや。公に告げて従わるるのみ。六三六四皆盛位に処りて公と称す。然れども三は則ち公に告ぐるに圭を用い、四は則ち公に告げて従わるるのみなるは、三は君に遠く、四は君に近し。古の国を遷すは必ず大国に依りて以て之が援と為す。六四上に剛中の君に比(ひ)すれば、則ち以て之に依りて国を遷す可し。故曰く、依りて国を遷すを為すに用いて利しと。凡そ益の道は時と偕に行きて已むを得ざるなり。故に国を遷すの重事と雖も亦た或いは之を為す。況んや其の小小なるをや。

九五:有孚惠心,勿問元吉,有孚惠我徳。象曰:有孚惠心,勿問之矣;惠我徳,大得志也。國遷之益,益一國耳,此有域之者也。九五得尊位大中,兼覆天下,其益無方,不止一國,故有孚惠心,勿問元吉。夫有心者孰不來益哉?至誠益之,凡求益者益,而有勿問其如何,則天施地生不過如此,宜其元吉也。我至誠而惠物心,故物至誠而惠我徳,報施之自然也。歸美薦善,可謂惠我徳也;物惠我徳,則天下之徳皆歸焉,可謂大得志矣。

九五の爻辞に言う、「孚有りて心を恵(けい)す、問う勿れ元吉、孚有りて我が徳を恵す」と。『小象伝』に言う、「孚有りて心を恵すは、之を問う勿れ。我が徳を恵すは、大いに志を得るなり」と。国を遷すの益は、一国に益するのみ、此れ域(いき)有る者なり。九五尊位大中を得て、天下を兼覆(けんぷく)す。其の益方无く、一国に止まらず。故に孚有りて心を恵す、問う勿れ元吉。夫れ心有る者は孰か來りて益さざらんや。至誠之に益せば、凡そ益を求むる者は益して、而有其の如何を問う勿ければ、則ち天施地生も此くの如く過ぎず。其の元吉なる宜しきなり。我至誠にして物の心を恵すれば、故に物至誠にして我が徳を恵す。報施の自然なり。美を帰し善を薦(すす)むるは、我が徳を恵すと謂う可し。物我が徳を恵せば、則ち天下の徳皆焉(ここ)に帰す。大いに志を得ると謂う可し。

上九:莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。象曰:莫益之,偏辭也;或擊之,自外來也。上九處物上而求自益,故莫益之;非徒莫益,又或擊之,人道惡盈故也。二在下而自順,則或益之;上處極而日益,則或擊之,滿招損、謙得益之道也。至於或擊之,一心勿常猶凶,況久於此道乎?

上九の爻辞に言う、「之に益する莫く、或いは之を撃つ、心を立てて恒无し、凶」と。『小象伝』に言う、「之に益する莫きは、偏辞(へんじ)なり。或いは之を撃つは、外より來るなり」と。上九物の上に処りて自ら益を求むれば、故に之に益する莫し。徒らに益する莫きのみならず、又或いは之を撃つ。人の道盈(み)たるを悪(にく)むが故なり。二は下に在りて自ら順なれば、則ち或いは之に益す。上は極に処りて日に益せば、則ち或いは之を撃つ。満つれば損を招き、謙れば益を得るの道なり。或いは之を撃つに至れば、一心恒无きと雖も猶ほ凶なり。況んや久しく此の道に於てはをや。

象曰偏辭,何謂也?凡己欲益而益人,己欲厚而厚人,則不偏矣;損物以益己,其偏若是,宜其莫益之也。或益之、或擊之,皆曰自外來,何也?六二之自損,非求於益也;非求於益而益者至,則凡益者之來為自外矣。上九自益,不期乎擊也;不期擊而擊者至,則是擊者之來為自外矣。

象に偏辞と曰うは、何を謂うか。凡そ己益せんと欲して人に益し、己厚くせんと欲して人を厚くせば、則ち偏ならず。物を損して己に益するは、其の偏是の若し。其の之に益する莫き宜しきなり。或いは之に益し、或いは之を撃つ、皆外より來ると曰うは何ぞや。六二の自ら損するは、益を求めるに非ざるなり。益を求めずして益する者至れば、則ち凡そ益する者の來るは自外と為るなり。上九自ら益すは、撃たるるを期せざるなり。撃たるるを期せずして撃つ者至れば、則ち是れ撃つ者の來るは自外と為るなり。

周易新講義卷第六

夬卦(乾下兌上)

乾下兌上。夬:揚于王庭,孚號有厲,告自邑,不利即戎,利有攸往。彖曰:夬,決也,剛決柔也。健而說,決而和。揚于王庭,柔乗五剛也;孚號有厲,其危乃光也;告自邑,不利即戎,所尚乃窮也;利有攸往,剛長乃終也。

『夬(かい)』卦は下体が乾、上体が兌。卦辞に言う、「夬、王庭に揚(あ)ぐ、孚号(ふごう)して厲あり、邑(ゆう)より告ぐ、戎(じゅう)に即くに利ならず、往く所有るに利し」と。『彖伝』に言う、「夬とは、決なり、剛柔を決するなり。健にして説び、決して和す。王庭に揚ぐは、柔五剛に乗ずるなり。孚号して厲ありは、其の危き乃ち光なり。邑より告ぐ、戎に即くに利ならずは、尚(ほっ)する所乃ち窮まるなり。往く所有るに利しは、剛長じて乃ち終わるなり」と。

剝曰柔變剛,夬曰剛決柔,蓋小人之於君子,人事不足以勝之,特以時變之耳;君子之於小人,則人事足以勝之,且其勢順而易,若決水然,故曰夬,決也,剛決柔也。夬之才,健而說者也。健故能決,說故能和;以生道殺民,雖死不怨殺者,則決而和之謂也。

『剥』に曰く柔剛を変ずと、『夬』に曰く剛柔を決すと。蓋し小人の君子に於ては、人事以て之に勝つに足らず、特に時変を以てするのみ。君子の小人に於ては、則ち人事以て之に勝つに足り、且つ其の勢い順にして易し。水を決するが若し。故曰く、夬とは決なり、剛柔を決するなりと。夬の才は、健にして説ぶ者なり。健なるが故に能く決し、説ぶが故に能く和す。生の道を以て民を殺(さっ)するは、死すと雖も殺す者を怨(うら)みざるは、則ち決して和すの謂なり。

上六一柔而乗五剛之上,肆狠愎之性而為怙終惡首也,其罪盈極而眾著,故可揚于王庭,暴其罪狀而決之也。雖暴其罪於眾,未可以遽決,又必孚號以告之;彼安其危而不孚,然後決之,則君子之道光矣,故曰孚號有厲,其危乃光也。

上六一柔にして五剛の上に乗ずるは、狠愎(こんぴょく)の性を肆(ほしいまま)にして怙終(こしゅう)の悪首と為るなり。其の罪盈極して衆著(あらわ)なれば、故に王庭に揚げて其の罪状を暴(あば)きて之を決する可し。其の罪を衆に暴くと雖も、未だ遽(にわ)かに決する可からず。又必ず孚号して以て之に告ぐ。彼其の危きに安んじて孚ならざれば、然る後に之を決すれば、則ち君子の道光し。故曰く、孚号して厲あり、其の危き乃ち光なりと。

告自邑,言所使告命者不在大也;使大國告之,則是以威脅,非所謂孚號也。五剛既盛,一柔己窮,孚號告自邑,則足以致其來務矣,而猶即戎焉,則非即戎之利也。夫以全勝之剛決己窮之柔,以形勢強弱論之,未應即戎而不利也,其所謂不利者,剛乃窮矣。

邑より告ぐとは、使わしめて命を告ぐる者大に在らざるを言うなり。大国をして之に告がしめば、則ち是れ威を以て脅(おど)す、所謂孚号に非ざるなり。五剛既に盛ん、一柔己(すで)に窮まれば、孚号して邑より告げば、則ち以て其の來て務むるを致すに足る。而して猶ほ戎に即くは、則ち戎に即くの利に非ざるなり。夫れ全勝の剛を以て己に窮まるの柔を決するは、形勢強弱を以て之を論ずれば、未だ応に戎に即いて利ならざるに非ざるなり。其の利ならずと謂う所は、剛乃ち窮まるなり。

蓋戎事本非聖人之所尚,而今所尚在即戎,則必窮也。且蜂蠆有毒,困獸猶斗,庸詎知己窮之柔克之為易,而遂以為即戎之利哉?植徳莫如滋,去惡莫如盡。惟去惡之務盡也,故一柔窮而猶欲決也;惟植徳之慾滋也,故五剛已盛而猶利有往也。陰始凝而已戒,剛既盛而必終,則進陽退陰,聖人之意可見矣。

蓋し戎事は本より聖人の尚する所に非ず。而今尚する所戎に即くに在れば、則ち必ず窮まるなり。且つ蜂蠆(ほうたい)毒有り、困獣猶ほ闘う。庸(よう)いずくんぞ己に窮まるの柔の之に克(か)つや易しと知らん、而して遂に以て戎に即くの利と為さんや。徳を植うるは滋(しげ)くするに如くは莫し、悪を去るは尽くすに如くは莫し。惟れ悪を去るの尽くすを務めば、故に一柔窮まりて猶ほ決せんと欲す。惟れ徳を植うるの滋くせんと欲すれば、故に五剛已に盛んにして猶ほ往く有るに利す。陰始めて凝りて已に戒め、剛既に盛んにして必ず終われば、則ち陽を進め陰を退ける、聖人の意見る可し。

象曰:澤上於天,夬,君子以施祿及下,居徳則忌。一柔而能乗五剛,有怙終之惡,則去之亦未易也,必五剛協比而後能有功焉。然則決小人之功,乃眾人之所共致也;夫與眾同力而不與眾同徳,則眾人之所忌,故曰君子施祿及下,居徳則忌也。

『象』に曰く、沢天上に上(のぼ)る、夬、君子以て禄を施して下に及ぼす、徳に居れば則ち忌(い)むと。一柔にして能く五剛に乗ずるは、怙終の悪有れば、則ち之を去るも亦た未だ易からず。必ず五剛協比(きょうひ)して然る後に能く功有らん。然らば則ち小人を決するの功は、乃ち衆人の共に致す所なり。夫れ衆と力を同じくして衆と徳を同じくせざれば、則ち衆人の忌む所なり。故曰く、君子禄を施して下に及ぼす、徳に居れば則ち忌むと。

初九:壯于前趾,往不勝為咎。象曰:不勝而往,咎也。趾在下而行者也,初九有剛健上行之才,則壯于前趾者也。夫上六之罪雖著,有可決之勢,亦必位足以勝之然後可往;初九在下,則其咎必矣,故不勝而往咎也。

初九の爻辞に言う、「前趾(ぜんし)に壮んなり、往きて勝たざれば咎と為る」と。『小象伝』に言う、「勝たずして往くは、咎なり」と。趾は下に在りて行く者なり。初九剛健上行の才有れば、則ち前趾に壮んなる者なり。夫れ上六の罪著(あらわ)なりと雖も、決する可きの勢い有り、亦た必ず位以て之に勝つに足りて然る後に往く可し。初九下に在れば、則ち其の咎必至なり。故に勝たずして往くは咎なり。

九二:惕號,莫夜有戎,勿恤。象曰:有戎勿恤,得中道也。上六雖柔而逆乗五剛,其勢未易去也。五剛方以勝之為事,而九二反處柔焉,才力不足以勝之,故惕懼不已,又至於號也。如此則陰益盛,有莫夜之象焉;陰盛則害之所伏,故有戎。雖陰盛而有戎,然我得中道,非自我致戎,而又眾則方以決之為事,則可以勿恤矣,故曰有戎勿恤也。

九二の爻辞に言う、「惕号(てきごう)す、莫夜(ぼや)戎有りも、恤(うれ)うる勿れ」と。『小象伝』に言う、「戎有りて恤うる勿きは、中道を得るなり」と。上六柔なりと雖も逆に五剛に乗ずれば、其の勢い未だ去る易からず。五剛方に以て之に勝つを事と為す。而して九二反つて柔に処れば、才力以て之に勝つに足らず。故に惕(つつし)み懼(おそ)れ已まず、又号(ごう)するに至る。是くの如くなれば則ち陰益々盛ん、莫夜の象有るなり。陰盛んなれば則ち害の伏(ふく)する所、故に戎有り。陰盛んにして戎有ると雖も、然れども我中道を得て、我より戎を致すに非ず、而又衆は則ち方に以て之を決するを事と為す。則ち以て恤うる勿かる可し。故曰く、戎有りて恤うる勿れと。

九三:壯于頄,有凶,君子夬夬獨行,遇雨若濡,有慍,無咎。象曰:君子夬夬,終無咎也。九三剛亢外見,頄之象也。夫有可以勝陰之位,又有可以勝陰之時,則沈潛其剛有不克乎?九三未離下體,未有勝之之位;又方與為應,未有勝之之時;乃剛亢外見,失沈潛之理,此其所以有凶也。然三之有凶,在不知夬之道耳,其失不在夬也。君子知夬之道,則以必決為志,何凶之有哉?故曰君子夬夬。惟君子有必決,故雖獨行而與者和,有遇雨之象;其跡若汙而物或慍之,然終無咎也。

九三の爻辞に言う、「頄(きゅう、ほほ)に壮んなり、凶有り、君子夬夬として独り行く、雨に遇えば若(も)し濡れ、愠(うらみ)有るも、咎无し」と。『小象伝』に言う、「君子夬夬とは、終に咎无きなり」と。九三剛亢(こう)にして外に見ゆるは、頄の象なり。夫れ以て陰に勝つ可きの位有り、又以て陰に勝つ可きの時有れば、則ち其の剛を沈潜(ちんせん)せば克たざる有らんや。九三未だ下体を離れず、未だ之に勝つの位有らず。又方に之と応を為し、未だ之に勝つの時有らず。乃ち剛亢にして外に見ゆるは、沈潜の理を失う。此れ其の凶有る所以なり。然れども三の凶有るは、夬の道を知らざるに在るのみ。其の失は夬に在らず。君子夬の道を知れば、則ち必ず決するを以て志と為す。何の凶か有らんや。故曰く、君子夬夬と。惟れ君子必ず決する有るが故に、独り行くと雖も而して与する者和し、雨に遇うの象有り。其の迹(あと)汚(けが)るるが若くして物或いは之を愠(うら)む。然れども終に咎无きなり。

九四:臀無膚,其行次且,牽羊悔亡,聞言不信。象曰:其行次且,位不當也;聞言不信,聰不明也。初九則位不足勝陰者也,九二則才不足以勝陰者也,九三方且又與之為應而時未可者也。九四其位上達矣,語其才則既壯矣,又非若九三之勢當屑與之和;而乃居陰欲止,無往決意,則二陽並進而受侵於下,有臀無膚之象焉。受侵於下,則不得已而強行,強行非其志也,故曰其行次且。羊之為物,前其壯以獨者也;如牽以隨人而前其壯以獨,則雖其志猶為夬也,故曰牽羊悔亡。然九四居陰底滯而暗塞,則言不信者也;聞言不信,則不知牽羊之可以悔亡也。

九四の爻辞に言う、「臀(でん、しり)膚无き、其の行き次且(ししょ)たり、羊を牽(ひ)けば悔亡ぶ、言を聞きて信ぜず」と。『小象伝』に言う、「其の行き次且たるは、位当らざるなり。言を聞きて信ぜざるは、聴(ちょう)明ならざるなり」と。初九は則ち位以て陰に勝つに足らざる者なり。九二は則ち才以て陰に勝つに足らざる者なり。九三は方に且つ又之と応を為して時未だ可ならざる者なり。九四其の位上達す、其の才を語れば則ち既に壮んなり、又九三の勢い屑(いさぎよ)く之と和するに当るが若くに非ず。而して乃ち陰に居りて止まらんと欲し、往きて決するの意无ければ、則ち二陽并(あわ)せ進みて下に侵(おか)さるるを受く、臀膚无きの象有るなり。下に侵さるるを受ければ、則ち已むを得ずして強いて行く。強いて行くは其の志に非ざるなり。故曰く、其の行き次且たりと。羊の物と為るは、其の壮んなるを前(まえ)にして独りする者なり。牽きて以て人に随いて其の壮んなるを前にして独りせば如(し)くは、則ち其の志猶ほ夬と為る。故曰く、羊を牽けば悔亡ぶと。然れども九四陰に居りて底滞(ていたい)し暗塞(あんそく)すれば、則ち言信ぜざる者なり。言を聞きて信ぜざれば、則ち羊を牽くの以て悔亡ぶ可きを知らざるなり。

九五:莧陸夬夬,中行無咎。象曰:中行無咎,中未光也。莧,柔脆之物也;陸,髙平地也。上六之在前,猶柔脆易刈之莧在髙平易即之陸,無事乎專以剛決為志也,而九五純於用剛,以必決為事,故雖中行無咎而已,道未光也。舜選於眾,舉皋陶,不仁者逺矣,然則人君欲去不仁,無事乎夬也,舉賢而已。君以舉賢為心,臣以去惡為事,則君臣之分明矣。然則九五夬夬不可見者,君之分也;九三夬夬而可見者,臣之分也。

九五の爻辞に言う、「莧陸(かんりく)夬夬たり、中行して咎无し」と。『小象伝』に言う、「中行して咎无きは、中未だ光ならざるなり」と。莧とは、柔脆(じゅうぜい)の物なり。陸とは、高平の地なり。上六の前に在るや、猶ほ柔脆にして刈(か)り易きの莧の高平にして即(つ)き易きの陸に在るが如し。専ら剛決を以て志と為すを事とする无し。而して九五剛を用うるに純にして、必ず決するを以て事と為す。故に中行して咎无きのみ、道未だ光ならざるなり。舜衆に於て選び、皐陶(こうよう)を挙ぐれば、不仁なる者遠し。然らば則ち人君不仁を去らんと欲するは、夬を事とする无く、賢を挙ぐるのみ。君賢を挙ぐるを以て心と為し、臣悪を去るを以て事と為れば、則ち君臣の分明なり。然らば則ち九五の夬夬見る可からざるは、君の分なり。九三の夬夬にして見る可きは、臣の分なり。

上六:無號,終有凶。象曰:無號之凶,終不可長也。上六之罪極矣,然夬之道雖決而不失和;上六知號咷以憂,則君子猶將宥之,不至於誅也;惟安其危而無號焉,是以終有凶。夫陰之與陽,以進退相反,五陰既以變矣,而上六終恬不知憂,其可以長乎?故曰無號之凶,終不可長也。

上六の爻辞に言う、「号(ごう)无し、終に凶有り」と。『小象伝』に言う、「号无きの凶は、終に長かる可からざるなり」と。上六の罪極まるなり。然れども夬の道は決すと雖も和を失わず。上六号咷(ごうとう)して以て憂うを知れば、則ち君子猶ほ将に之を宥(ゆる)さんとす、誅するに至らざるなり。惟れ其の危きに安んじて号無ければ、是の以て終に凶有り。夫れ陰の陽と、進退を以て相反(あいそむ)く。五陰既に以て変われば、而して上六終に恬(てん)として憂を知らざれば、其れ長かる可けんや。故曰く、号无きの凶は、終に長かる可からざるなりと。

姤卦(巽下乾上)

巽下乾上。姤:女壯,勿用取女。彖曰:姤,遇也,柔遇剛也。勿用取女,不可與長也。天地相遇,品物咸章也;剛遇中正,天下大行也。姤之時義大矣哉。剛長則變柔,柔長則變剛,天地自然之理也。姤之為卦,柔出而遇剛,有變剛之志,則女之壯者也。於初九考之為豕之羸者,而今曰女壯,何也?柔出而遇剛,剛亦與遇,有婚媾之道焉,則是剛之於柔以妻畜之也。以妻畜之則為己壯,以豕交之則尚為羸;蓋以妻畜之,則小人得以媚上而浸長;豕變之,則小人祇自見賤而不得行,是羸壯不同也。

『姤(こう)』卦は下体が巽、上体が乾。卦辞に言う、「姤、女壮んなり、女を取(めと)るを用る勿れ」と。『彖伝』に言う、「姤とは、遇うなり、柔剛に遇うなり。女を取るを用る勿れは、与に長くすべからざるなり。天地相遇う、品物咸く章(あらわ)るなり。剛中正に遇えば、天下大行するなり。姤の時義大なるかな。剛長じて則ち柔を変え、柔長じて則ち剛を変ずるは、天地自然の理なり。姤の卦と為るは、柔出でて剛に遇う、剛を変えんの志有れば、則ち女の壮んなる者なり。初九に於て之を考うるは豕(いのこ)の羸(やつ)れたる者と為す、而今女壮んと曰うは何ぞや。柔出でて剛に遇えば、剛も亦た遇い与す。婚媾の道有るなり。則ち是れ剛の柔に於て以て妻と為して之を畜(やしな)うなり。以て妻と為して之を畜えば則ち己が為に壮んなり。以て豕に交われば則ち尚ほ羸れたり。蓋し以て妻と為して之を畜えば、則ち小人上を媚(こ)びて浸(しん)として長ずるを得。豕之を変ずれば、則ち小人祇(ただ)自ら賤(いや)しめられて行うるを得ず。是れ羸壮同じからざるなり。

女壯而有變之志,則終於反目,不可與長,故曰勿用取女,不可與長也。夫陰陽相遇,天地之理也。天道下濟,地道上行,兩者交通而成和,故品物咸章焉。使人道相遇亦若天地相遇,則功勲之所以成也。

女壮んにして変わらんの志有れば、則ち終に反目(はんもく)す。与に長くすべからず。故曰く、女を取るを用る勿れ、与に長くすべからざるなりと。夫れ陰陽相遇うは、天地の理なり。天道下に済(すく)い、地道上に行く。両者交通して和成る。故に品物咸く章る。人の道相遇うも亦た天地の相遇うが若くせば、則ち功勲の成る所以なり。

夫惟遇失其道,故陰益進而陽益退,而為遯、為否,至為剝也。九五之才,以剛遇柔而不失其正,得以杞包瓜之道,是以天下大行,亦猶天地相遇而品物咸章也。盡姤之義,惟與天地合徳合序然後能之,故曰姤之時義大矣哉。

夫れ惟れ遇うや其の道を失えば、故に陰益々進みて陽益々退きて、遯と為り、否(ひ)と為り、剥に至るなり。九五の才は、剛を以て柔に遇いて其の正を失わず、杞(き)を以て瓜(か)を包むの道を得る。是の以て天下大行す。亦た猶ほ天地相遇い品物咸く章るが如し。姤の義を尽くすは、惟れ天地と徳を合し序を合して然る後に能く之を為す。故曰く、姤の時義大なるかなと。

象曰:天下有風,姤,后以施命誥四方。天之於萬物至逺絶也,其所以姤之者風也;而後之於四方亦逺絶也,其所以姤之者命而已。天之為風,或為明庶之溫,或為廣莫之寒,要之在萬物者,神之所為也;後之為命,或為威責之令,或為文誥之詞,要之動四方者,誠之所為也。

『象』に曰く、天下に風有り、姤、后(こう)以て命を施し四方に誥(こう)すと。天の万物に於て至りて遠絶なり、其の以て姤するは風なり。而して后の四方に於ても亦た遠絶なり、其の以て姤するは命のみ。天の風と為るは、或いは明庶(めいしょ)の温、或いは広莫(こうばく)の寒。之を要するに万物に在るは、神の為す所なり。后の命と為るは、或いは威責(いせき)の令、或いは文誥(ぶんこう)の詞。之を要するに四方を動かすは、誠の為す所なり。

初六:繫于金柅,貞吉,有攸往見凶,羸豕孚蹢躅。象曰:繫于金柅,柔道牽也。初六柔方長也,於是時剛有以制之,使柔牽於剛而不得行,則不至於為遯矣,故繫于金柅貞吉。金柅者,制柔之物,九二之象也。無以制之而縱其有攸往,則小人道長而見凶矣。

初六の爻辞に言う、「金柅(きんじ、くるまどめ)に繋(つな)ぐ、貞吉、往く所有れば凶を見る、羸豕(るいし)孚(まこと)に蹢躅(てきちょく)す」と。『小象伝』に言う、「金柅に繋ぐは、柔の道牽(ひ)かるるなり」と。初六柔方に長ずるなり。是の時に於て剛以て之を制する有れば、柔をして剛に牽かれて行うるを得ざらしめれば、則ち遯と為るに至らず。故に金柅に繋ぎ貞吉。金柅とは、柔を制するの物、九二の象なり。以て之を制する无くして其の往く所有るを縦(ゆる)せば、則ち小人の道長じて凶を見るなり。

經曰:見乃謂之象。見凶,未罹乎凶而象凶也;所以未罹乎凶者,柔方長故也。豕者,養於人、見穢賤者也;方待養於人而見穢賤,且形尚羸而未壯,其志信也蹢躅而躁動矣,況其志於為壯乎?此小人之長所以不可不戒也。

経に曰く、見えば則ち之を象と謂うと。凶を見るは、未だ凶に罹(かか)らずして象凶なり。未だ凶に罹らざる所以は、柔方に長ずるが故なり。豕とは、人に養われて穢賤(わいせん)と見る者なり。方に人に養わるるを待ちて穢賤と見られ、且つ形尚ほ羸れて未だ壮んならず、其の志信(まこと)なりや蹢躅して躁動(そうどう)す。況んや其の壮んと為るを志とせんや。此れ小人の長ずるの戒めざる可からざる所以なり。

九二:包有魚,無咎,不利賓。象曰:包有魚,義不及賓也。小人養君子者也,制得其道則養君子,制失其道則遯而去矣。故初六小人也,有魚之象焉;九二以剛中乗初六,能包而有之也,包有魚者也。夫一民不可以有二君也,四自外來是二君也,故曰不利賓。其不利賓者,蓋義不及之,非擅為己之私分也。

九二の爻辞に言う、「包(ほう)魚有り、咎无し、賓に利ならず」と。『小象伝』に言う、「包魚有りは、義賓に及ばざるなり」と。小人は君子を養う者なり。制すること其の道を得れば則ち君子を養い、制すること其の道を失えば則ち遯げて去る。故に初六は小人なり、魚の象有るなり。九二剛中を以て初六に乗ずれば、能く包みて之を有する也。包魚有る者なり。夫れ一民以て二君有る可からざるなり。四外より來るは是れ二君なり。故曰く、賓に利ならずと。其の賓に利ならざるは、蓋し義之に及ばざるなり。己の私分と為すを擅(ほしいまま)にするに非ざるなり。

九三:臀無膚,其行次且,厲無大咎。象曰:其行次且,行未牽也。二方據初,義不及賓,而三乃乗之,固位而不去,有分民之嫌,是以見侵於二,有臀無膚之象焉。侵則其勢不得不行,雖行非其志也,故曰其行次且。雖曰有厲,然非牽於初而不行,故無大咎焉。

九三の爻辞に言う、「臀膚无き、其の行き次且たり、厲しきも大咎无し」と。『小象伝』に言う、「其の行き次且たるは、行きて未だ牽かれざるなり」と。二方に初に拠(よ)り、義賓に及ばざるにして、三乃ち之に乗ず。位を固くして去らず、民を分かつの嫌い有り。是の以て二に侵され、臀膚无きの象有るなり。侵されば則ち其の勢い行かざるを得ず。行くと雖も其の志に非ざるなり。故曰く、其の行き次且たりと。厲有りと曰うと雖も、然れども初に牽かれて行かざるに非ざれば、故に大咎无きなり。

九四:包無魚,起凶。象曰:無魚之凶,逺民也。貴以賤為本,髙以下為基,九四在上體,宜得民以為基,而逺於初六,不能自附於民,則髙終逺其民,道之宜也。然得右命之,是特可見於大人相與之際而已;若天地不仁,以萬物為蒭狗,方且與物忘,尚何汲汲於保而安、右而尊、命而正者哉?無民者也,用靜猶可,起則凶矣,故曰包無魚,起凶。

九四の爻辞に言う、「包魚无し、起(おこ)れば凶」と。『小象伝』に言う、「魚无きの凶は、民に遠きなり」と。貴は賤を以て本と為し、高は下を以て基と為す。九四上体に在り、宜しく民を得て以て基と為すべし。而して初六に遠く、能く自ら民に附(つ)かざれば、則ち高きは終に其の民に遠き、道の宜しきなり。然れども右(う)にして命するを得るは、是れ特に大人相与するの際に於て見る可きのみ。若し天地不仁にして万物を以て芻狗(すうく、わらのいぬ)と為さば、方に且つ物と忘れ与(とも)にす。尚ほ何ぞ汲々として保し安んじ、右し尊び、命し正すをや。民无き者なり。静なるを用いては猶ほ可なり。起れば則ち凶なり。故曰く、包魚无し、起れば凶と。

九五:以杞包瓜,含章,有隕自天。象曰:九五含章,中正也;有隕自天,志不舍命也。杞者,剛忍之物也,九二之象也;瓜者,柔脆之物也,初六之象也。人君之於小人,欲包而制之,亦在用賢而已。九五用之以包初,善用賢以畜民者也;有以杞包瓜,則我何為哉?含其章美而無所施矣。雖曰含章,然王言惟命,苟含章而廢出命,則臣下罔攸稟令矣,故又必有隕自天,光大而無私應然後乃可。九五含章而無應,疑於舍命而不能有隕自天者也。

九五の爻辞に言う、「杞(き)を以て瓜(か)を包む、章を含む、隕(お)つる有りて天より」と。『小象伝』に言う、「九五章を含むは、中正なり。隕つる有りて天よりは、志命を舎てざるなり」と。杞とは、剛忍(ごうにん)の物、九二の象なり。瓜とは、柔脆の物、初六の象なり。人君の小人に於て、包みて之を制せんと欲するは、亦た賢を用うるに在るのみ。九五之を用いて以て初を包むは、善く賢を用いて以て民を畜う者なり。杞を以て瓜を包む有れば、則ち我何を為さんや。其の章美を含んで施す所无きのみ。章を含むと曰うと雖も、然れども王言惟れ命なり。苟も章を含んで命を出だすを廃せば、則ち臣下禀令(ひんれい)する所罔(な)し。故に又必ず隕つる有りて天より、光大にして私なくして然る後に応じて乃ち可なり。九五章を含んで応无ければ、命を舎てて能く隕つる有りて天よりする能わざる者を疑うなり。

上九:姤其角,吝無咎。象曰:姤其角,上窮吝也。角者,亢上窮也。所遇之時至於上窮,而剛不知變,則吝道也;然猶有姤物之志,非離群者,是以無咎也。

上九の爻辞に言う、「其の角(つの)に姤(あ)う、吝なるも咎无し」と。『小象伝』に言う、「其の角に姤うは、上窮まりて吝なるなり」と。角とは、亢(たか)く上りて窮まるなり。遇う所の時上の窮まりに至りて、剛変わるを知らざれば、則ち吝の道なり。然れども猶ほ物に姤うの志有り、群を離るる者に非ざれば、是の以て咎无きなり。

萃卦(坤下兌上)

坤下兌上。萃:亨,王假有廟,利見大人,亨利貞,用大牲吉,利有攸往。彖曰:萃,聚也,順以說,剛中而應,故聚也。王假有廟,致孝享也;利見大人亨,聚以正也;用大牲吉,利有攸往,順天命也。觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。

『萃(すい)』卦は下体が坤、上体が兌。卦辞に言う、「萃、亨る、王廟に假(いた)る有り、大人を見るに利し、亨りて貞に利し、大牲を用いて吉、往く所有るに利し」と。『彖伝』に言う、「萃とは、聚(あつ)まるなり、順にして説び、剛中にして応ず、故に聚まるなり。王廟に假る有りは、孝享(こうきょう)を致すなり。大人を見るに利し亨るは、正を以て聚まるなり。大牲を用いて吉、往く所有るに利しは、天命に順うなり。其の聚まる所を観れば、天地万物の情見る可し」と。

順以說,剛中而應,此卦之所以亨也;萃所以亨也。天下之民,愛之則親,利之則至,致其所惡則散。今順以說之,則與之所欲而去其所惡也,民有不聚乎?雖聚而無剛中利眾之才,則終亦必離而已矣;九五又剛中,足以制眾而眾應之,是故萃而無攜貳之心焉。

順にして説び、剛中にして応ずるは、此れ卦の亨る所以なり、萃の亨る所以なり。天下の民は、之を愛せば則ち親しみ、之を利すれば則ち至り、其の悪(にく)む所を致せば則ち散ず。今順にして之を説ばしめれば、則ち之と其の欲する所を与えて其の悪む所を去るなり。民聚まらざる有らんや。聚まると雖も剛中衆を利するの才无ければ、則ち終に亦た必ず離るるのみ。九五又剛中にして、以て衆を制するに足りて衆之に応ず。是の故に萃にして携貳(けいじ)の心无きなり。

萃之時,以言乎人則四海之歡心得矣,以言乎物則九州島之美備矣,王者所以致孝享於是乎在,故曰王假有廟也。記曰:大孝不匱。又曰:博施備物,可謂不匱矣。欲盡其所以為孝,在博施備物;博施備物,非有王徳則不能,非有王位則不可。九五既有能為之徳,又有得為之位,所以盡有廟之道,而謂之致孝享也。

萃の時は、人を以て言えば則ち四海の歡心得る、物を以て言えば則ち九州の美備わる。王者の孝享を致す所以是に於て在るなり。故曰く、王廟に假る有りと。記に曰く、大孝は匱(つ)きざるなり。又曰く、博施備物は、匱きざると謂う可しと。其の孝と為る所以を尽くさんと欲するは、博施備物に在り。博施備物は、王の徳有るに非ざれば能わず、王の位有るに非ざれば可ならず。九五既に能く為すの徳有り、又得て之を為すの位有り。廟有るの道を尽くす所以なり。而して之を孝享を致すと謂うなり。

夫民不能自正也,必有表正者焉;上有表正,則下有所取正,雖眾而不亂,故曰利見大人亨,聚以正也。聖人之制禮興事必隨乎時,以時者天命之所在而不可違故也。方萃之時,物既阜矣,民既歸矣;物既阜,則是天俾聖人備禮之時,安得而儉也?於是乎用大牲。民既歸,則是天畀聖人以興事之時,安得而已也?於是乎有攸往,故曰用大牲吉,利有攸往,順天命也。

夫れ民能く自ら正しき能わず、必ず表正(ひょうせい)する者有るなり。上表正有れば、則ち下取正する所有り、衆なりと雖も乱れず。故曰く、大人を見るに利し亨る、正を以て聚まるなりと。聖人の礼を制し事を興すは必ず時に随う。時とは天命の在る所にして違う可からざるが故なり。方に萃の時は、物既に阜(ゆた)かなり、民既に帰す。物既に阜かなれば、則ち是れ天聖人をして礼を備うるの時に俾(しめ)す、安んぞ得て倹(けん)せんや。是に於て大牲を用う。民既に帰すれば、則ち是れ天聖人に事を興すの時を畀(あた)う、安んぞ得て已まんや。是に於て往く所有り。故曰く、大牲を用いて吉、往く所有るに利し、天命に順うなりと。

天地之聚以正,而非謂物之聚則有正有以正者;萬物之聚,有以正、有以不正,此方以類聚、吉凶之所以生也,故曰觀其聚而天地之情可見矣。象曰:澤上於地,萃,君子以除戎器,戒不虞。弧矢之用生於睽,睽之情疑阻而不親故也;今既萃聚,其情親矣,而猶除戎器者,以戒不虞也。水積則生根食之魚,土積則生自宂之獸;今物豐而眾,民所爭者聚矣,則不虞安可不戒哉?

天地の聚まるは正を以てす。而して物の聚まれば則ち正有り正を以てする者有りと謂うに非ざるなり。万物の聚まるは、以て正する有り、以て正ならざる有り。此れ方を以て類聚して吉凶の生ずる所以なり。故曰く、其の聚まるを観て天地の情見る可しと。『象』に曰く、沢地上に上る、萃、君子以て戎器(じゅうき)を除(ととの)え、不虞(ふぐ)を戒むと。弧矢の用は睽(けい)に生ず、睽の情疑阻(ぎそ)して親しまざるが故なり。今既に萃聚す、其の情親しけれども、而して猶ほ戎器を除うるは、以て不虞を戒むるなり。水積もれば則ち根を食うの魚を生じ、土積もれば則ち自ら穴(うが)つの獣を生ず。今物豊かにして衆なれば、民の争う所聚まる。則ち不虞安んぞ戒めざる可けんや。

初六:有孚不終,乃亂乃萃,若號,一握為笑,勿恤,往無咎。象曰:乃亂乃萃,其志亂也。久相待、逺相致、聞流言不信者,至誠相與者也;苟不出乎至誠,或有孚而不終,則亂乃萃矣。亂乃萃,則疑阻生焉,豈有相待相致之道哉?有孚不終,乃亂乃萃,其咎志在初,不在四也。以其乃亂乃萃而遂至於號,則所報甚小,一握貽笑矣;苟勿恤而往以終其孚,則往無不得,何咎之有哉?

初六の爻辞に言う、「孚有りて終わらず、乃ち乱れ乃ち萃す、若し号(ごう)せば、一握(いちあく)笑いと為る、恤うる勿れ、往けば咎无し」と。『小象伝』に言う、「乃ち乱れ乃ち萃するは、其の志乱るるなり」と。久しく相待ち、遠く相致し、流言を聞きて信ぜざる者は、至誠相与する者なり。苟も至誠より出でずして、或いは孚有りて終わらざれば、則ち乱れ乃ち萃す。乱れ乃ち萃すれば、則ち疑阻生ず。豈に相待ち相致するの道有らんや。孚有りて終わらず、乃ち乱れ乃ち萃するは、其の咎志は初に在りて四に在らざるなり。其の乃ち乱れ乃ち萃するを以て遂に号するに至れば、則ち報いる所甚だ小し、一握笑いを貽(のこ)す。苟も恤えずして往きて以て其の孚を終わらば、則ち往きて得ざる无し。何の咎か有らんや。

六二:引吉無咎,孚乃利用禴。象曰:引吉無咎,中未變也。桔槔,人之所引,非引人者,故俯仰不得罪於人。六二柔正自守,不求於五而五引之,故吉無咎;如此則可用薄祭以交於神,而況於人乎?蓋守中不變,非引人者,所謂靖恭爾位者也,神斯聽之,介爾景福矣,故曰孚乃利用禴也。

六二の爻辞に言う、「引きて吉咎无し、孚乃ち禴(やく、うすまつり)を用いて利し」と。『小象伝』に言う、「引きて吉咎无きは、中未だ変わらざるなり」と。桔槔(けっこう)は、人の引く所、人を引く者に非ず。故に俯仰人に罪を得ず。六二柔正自ら守る、五に求めずして五之を引く。故に吉咎无し。是くの如くなれば則ち以て薄祭を用いて神に交わる可し。況んや人に於てをや。蓋し中を守りて変わらず、人を引く者に非ざるは、所謂爾(なんぢ)が位に靖恭(せいきょう)する者なり。神斯に之を聴き、爾に景福を介(たす)く。故曰く、孚乃ち禴を用いて利しと。

六三:萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。象曰:往無咎,上巽也。六三比於九四而未萃者也。三之與四,雖有剛柔相與之道,然非正應,求之不得所欲也,故曰萃如嗟如無攸利。九五雖非正應,然得尊位大中,眾之所赴也;又巽而引納於物,則可以得志而無咎也;不若正應而得中行,故小吝。

六三の爻辞に言う、「萃如(すいじょ)たり嗟如(さじょ)たり、利する攸(ところ)无し、往けば咎无し、小さき吝」と。『小象伝』に言う、「往けば咎无きは、上巽(そん)なり」と。六三九四に比して未だ萃せざる者なり。三の四と、剛柔相与するの道有ると雖も、然れども正応に非ざれば、之を求めて其の欲する所を得ず。故曰く、萃如たり嗟如たり、利する攸无しと。九五正応に非ずと雖も、然れども尊位大中を得て、衆の赴く所なり。又巽りて物を引きて納るれば、則ち以て志を得て咎无き可し。正応を得て中行を得るに若かず、故に小さき吝なり。

九四:大吉無咎。象曰:大吉無咎,位不當也。九四不與非應,而惟初六之交;初六之乃亂乃萃,不在我也,是以大吉無咎也。使當位自處,無履柔損之道,則志亂之人未易交也,故曰大吉無咎,位不當也。

九四の爻辞に言う、「大吉にして咎无し」と。『小象伝』に言う、「大吉にして咎无きは、位当らざるなり」と。九四応に非ざると与せず、而して惟れ初六の交なり。初六の乃ち乱れ乃ち萃するは、我に在らず。是の以て大吉にして咎无きなり。位に当りて自ら処らしめ、柔を履(ふ)みて損するの道无ければ、則ち志乱るるの人未だ交わり易からず。故曰く、大吉にして咎无きは、位当らざるなりと。

九五:萃有位,無咎,匪孚,元永貞,悔亡。象曰:萃有位,志未光也。天下之來萃成王之孚,則宜不有其位以示吾心非富天下也,如是眾孚之矣;苟有其位,則其志未光,徒無咎而已,眾豈孚哉?能永正則亦可以為天下正,僅能悔亡耳;求以廣業而盡其所以為萃,則未也。

九五の爻辞に言う、「萃す位有り、咎无し、孚に匪(あら)ず、元(もと)より永く貞にすれば悔亡ぶ」と。『小象伝』に言う、「萃す位有りは、志未だ光ならざるなり」と。天下の萃に來るは王の孚を成す。則ち宜しく其の位を有せずして以て吾が心の天下を富と為すに非ざるを示すべし。是くの如くせば衆之を孚す。苟も其の位を有せば、則ち其の志未だ光ならず、徒らに咎无きのみ。衆豈に孚さんや。能く永く正しければ則ち亦た以て天下の正と為る可し、僅かに悔亡ぶのみ。以て業を広くして其の萃と為る所以を尽くさんことを求むれば、則ち未だなり。

上六:齎諮涕洟,無咎。象曰:齎諮涕洟,未安上也。人之在下,宜俟人引而不可以求,故初六之號、六三之嗟皆不可也;上齎諮不已,至涕洟而得無咎者,在上故也。且九五為萃之主而上六乗之,苟安於上而不以為憂,安得無咎也?

上六の爻辞に言う、「賚咨(せいし)涕洟(ていえい、なみだ)す、咎无し」と。『小象伝』に言う、「賚咨涕洟するは、未だ上に安んぜざるなり」と。人の下に在るは、宜しく人の引くを俟(ま)ちて以て求むべからず。故に初六の号、六三の嗟は皆可ならず。上賚咨已まず、涕洟に至りて咎无きを得るは、上に在るが故なり。且つ九五萃の主と為りて上六之に乗ず。苟も上に安んじて以て憂と為さざれば、安んぞ咎无きを得んや。

升卦(巽下坤上)

巽下坤上。升:元亨,用見大人,勿恤,南征吉。彖曰:柔以時升,巽而順,剛中而應,是以大亨。用見大人勿恤,有慶也;南征吉,志行也。剛上而柔下,剛柔之分也;柔而升於上,則時焉而已,故曰柔以時升。其升也,必有巽順之道、剛中之才,而又有見應上之時,然後升而亨。

『升(しょう)』卦は下体が巽、上体が坤。卦辞に言う、「升、元亨、大人を見るに用いて恤うる勿れ、南征吉」と。『彖伝』に言う、「柔時を以て升る、巽にして順、剛中にして応ず。是の以て大亨なり。大人を見るに用いて恤うる勿きは、慶有るなり。南征吉は、志行わるるなり。剛上にして柔下は、剛柔の分なり。柔にして上に升れば、則ち時のみ。故曰く、柔時を以て升ると。其の升るや、必ず巽順の道、剛中の才有りて、而又応じ見ゆるの上有れば、然る後に升りて亨る」と。

夫山殺瘦、澤増肥、水息淵、木消支者,物惡乎為上也。今柔以時升而無巽順之道,則其升為陵犯;無剛中之才,則其升為循縁。雖有巽順之道、剛中之才而不見應於上,則亦不能升,雖升而必困,故巽而順、剛中而應,是以大亨也。

夫れ山は殺(さ)して痩(や)せ、沢は増して肥(こ)え、水は淵に息(いき)づき、木は支(えだ)に消ゆる者は、物上に為るを悪(にく)むなり。今柔時を以て升るも巽順の道无ければ、則ち其の升るは陵犯(りょうはん)と為る。剛中の才无ければ、則ち其の升るは循縁(じゅんえん)と為る。巽順の道、剛中の才有ると雖も上に応じ見えざれば、則ち亦た能く升らず、升ると雖も必ず困む。故に巽にして順、剛中にして応ず、是の以て大亨なり。

升以進為事,而其才又柔順、上為志者也。以順上為志而不用見大人,則其失言亦將由之矣,其過行亦將隨之矣。用見大人,以順上為志,所謂事聖君有聽從無諫爭也,何疑之有哉?故曰用見大人勿恤,有慶也。

『升』は進むを以て事と為す。而して其の才又柔順にして、上に順うを志と為る者なり。上に順うを以て志と為して大人に見ゆるを用いざれば、則ち其の失言も亦た之に由らん、其の過行も亦た之に随わん。大人に見ゆるを用い、上に順うを以て志と為すは、所謂聖君に事うるに聴從有りて諫爭无きなり。何の疑いか有らんや。故曰く、大人に見ゆるを用いて恤うる勿れ、慶有るなりと。

南征吉,動而趍明也。君子靜則嚮晦,動則趍明;動不趍於明,則?行而已,往則觸機蹈穽,故必能南征然後吉也。象曰:地中生木,升,君子以順徳,積小以髙大。地中以順而進,自乎毫毛至於合抱,故順徳積小以成髙大。君子之進徳也,其學有時,其入有序;因其時,循其序,不躐等,不先時,優遊委蛇,循循以進,故能自可欲之善積至於不可知之神,莫之能御也。

南征吉とは、動きて明に趨(はし)るなり。君子静なれば則ち晦(くら)きに向い、動けば則ち明に趨る。動きて明に趨らざれば、則ち闇(あん)行のみ。往けば則ち機に触れ穽(せい、おとしあな)に蹈(ふ)む。故に必ず能く南征して然る後に吉なり。『象』に曰く、地中木を生ず、升、君子以て徳に順い、小を積みて以て高大と為すと。地中順を以て進む、毫毛よりして合抱(がっぽう)に至る。故に徳に順いて小を積みて以て高大を成す。君子の徳を進むるや、其の学時有り、其の入り序有り。其の時に因り、其の序に循(したが)い、等を躐(お)かず、時に先(さき)だたず、優游委蛇(ゆうゆういい)として、循循(じゅんじゅん)として以て進む。故に能く欲しき可きの善より積みて知る可からざるの神に至る、之を御ぐ能くする莫し。

初六:允升,大吉。象曰:允升大吉,上合志也。九二以剛中之才見應於上而升,升之有喜也;初六信而從以升,而見大人者也,蓋得所附,是以大吉也。九二:孚乃利用禴,無咎。象曰:九二之孚,有喜也。升自下而交於上,苟不出於至誠,未有能獲於上者。九二之孚,可用薄祭以交於鬼神,則其誠至矣,是以無咎,象曰謂之有喜也。蓋人神一道也,能事人然後能事神;九二孚乃利用禴,可謂能事神矣,於事人也何有?

初六の爻辞に言う、「允(まこと)に升る、大吉」と。『小象伝』に言う、「允に升りて大吉は、上志に合うなり」と。九二剛中の才を以て上に応じ見えて升るは、升るの喜び有るなり。初六信じて従いて以て升る、而して大人を見る者なり。蓋し附(よ)る所を得る、是の以て大吉なり。九二の爻辞に言う、「孚乃ち禴(やく)を用いて利し、咎无し」と。『小象伝』に言う、「九二の孚は、喜び有るなり」と。下より升りて上に交わるは、苟も至誠より出でずんば、未だ上に獲る能くする者有らざるなり。九二の孚は、以て薄祭を用いて鬼神に交わる可し。則ち其の誠至るなり。是の以て咎无し。象に曰く之を喜び有ると謂うなり。蓋し人神は一道なり。能く人に事えて然る後に能く神に事う。九二孚乃ち禴を用いて利するは、能く神に事うと謂う可し。人に事うるに於て何ぞ有らんや。

九三:升虛邑。象曰:升虛邑,無所疑也。此湯武之升也。才雖剛過而道不失順,天人其交歸矣,是以其升若升虛邑,前無為之難者也。邑之小固不足以阨其沖,而又虛焉,則其升甚易也。

九三の爻辞に言う、「虚邑(きょゆう)に升る」と。『小象伝』に言う、「虚邑に升るは、疑う所无きなり」と。此れ湯武の升るなり。才剛過ぐると雖も而して道順を失わず、天人其れ交(とも)に帰す。是の以て其の升るや虚邑に升るが若し。前之を難と為す者无きなり。邑の小なるは固より以て其の衝(しょう、とおり)を阨(あい)するに足らず、而又虚なれば、則ち其の升る甚だ易し。

六四:王用亨于岐山,吉無咎。象曰:王用亨于岐山,順事也。此文王之升也。下有所事,時未可以升,則順以事上,用是故能亨於所國之岐山焉。升之為道,視地中之木而已;木可以極髙大之理,然方起於毫末而求為髙大,則助長為害矣,故文王不得先時,而武王不能後時也。

六四の爻辞に言う、「王用いて岐山(きざん)に享(きょう)す、吉咎无し」と。『小象伝』に言う、「王用いて岐山に享するは、順事なり」と。此れ文王の升るなり。下事うる所有れば、時未だ以て升る可からず、則ち順にして以て上に事う。是を用るが故に能く其の国せる岐山に享するなり。升の道と為るは、地中の木を視るのみ。木以て高大の理を極むる可きと雖も、然れども方に毫末より起こりて高大と為らんことを求めば、則ち長を助けて害と為る。故に文王時に先だつを得ず、而して武王時に後(おく)るる能わざるなり。

六五:貞吉升階。象曰:貞吉升階,大得志也。階者,平易而有等,以漸升而得位者也。舜禹之事,聖人之所欲也;湯武之事,豈聖人之所欲哉?故升階為大得志焉。夫聖人之志必至於是而後為得志歟?孟子曰:中天下而立,定四海之民,君子樂之。樂之者,樂行道也,謂之大得志,亦以所樂在此耳。

六五の爻辞に言う、「貞吉階(かい)を升る」と。『小象伝』に言う、「貞吉階を升るは、大いに志を得るなり」と。階とは、平易にして等有り、漸(ようや)く升りて以て位を得る者なり。舜禹の事は、聖人の欲する所なり。湯武の事は、豈に聖人の欲する所ならんや。故に階を升るは大いに志を得ると為るなり。夫れ聖人の志必ず是に至りて然る後に志を得ると為すか。孟子に曰く、天下の中に立ち、四海の民を定むるは、君子之を楽しむと。之を楽しむとは、道を行うを楽しむなり。之を大いに志を得ると謂うは、亦た以て楽しむ所此に在るのみ。

上六:?升,利于不息之貞。象曰:?升在上,消不富也。升至於?則極矣,?而猶升,其升必困,此舜所以辭耄期也。若施於進徳則利,故利於不息之正;蓋進徳惡夫畫也,升不息則窮髙極逺而至深厚,終乎為聖人矣,利莫大焉。

上六の爻辞に言う、「冥(めい、くらき)にして升る、息(や)まざるの貞に利し」と。『小象伝』に言う、「冥にして升りて上に在るは、消えて富まざるなり」と。升りて冥に至れば則ち極まるなり。冥にして猶ほ升れば、其の升る必ず困む。此れ舜の耄期(もうき)を辞する所以なり。若し徳を進むるに施せば則ち利し。故に息まざるの正に利す。蓋し徳を進むるは画(かぎ)るを悪(にく)む。升りて息まざれば則ち高を窮め遠きを極めて深厚に至り、終に聖人と為る。利大なるは莫し。

困卦(坎下兌上)

坎下兌上。困:亨,貞,大人吉,無咎,有言不信。彖曰:困,剛揜也。險以說,困而不失其所亨,其唯君子乎。貞大人吉,以剛中也;有言不信,尚口乃窮也。二卦之剛皆揜於柔矣。剛有健行之才而無所施,此所以為困也。君子雖無所施,其無所不裕者固自若也;且危而遂顛、險而遂陷,則無事乎有徳矣,故險而說、困而不失其所亨,其唯君子乎。

『困(こん)』卦は下体が坎、上体が兌。卦辞に言う、「困、亨る、貞、大人吉、咎无し、言有りて信ぜられず」と。『彖伝』に言う、「困とは、剛揜(えん、おお)わるるなり。険にして説ぶ、困みて其の亨る所を失わずは、其れ唯れ君子か。貞にして大人吉は、剛中を以てなり。言有りて信ぜられずは、口を尚(ほっ)すれば乃ち窮まるなり。二卦の剛皆柔に揜わる。剛健行の才有りて施す所无し。此れ困と為る所以なり。君子施す所无しと雖も、其の裕(ゆた)かならざる无きは固より自若(じじゃく)なり。且つ危にして遂に顛(たお)れ、険にして遂に陥(お)ちいれば、則ち徳有るを事とする无し。故に険にして説び、困みて其の亨る所を失わずは、其れ唯れ君子か」と。

險者,人之所憂;而困者,動而見窒者也。今險以說,則是心有以自說而不以天下之憂為憂者也;困而不失其所亨,則是身有以自亨而不以天下之窒為窒者也,非君子而能若是乎?君子雖險以說,然陷於險而不得免者;雖困而不失其所亨,然揜於困而無所逃也。如是則逺害避咎之際,不能不失其正;能不失其正而履險居危如居安者,大人而已,故曰大人吉,以剛中也。剛則健行而不陷,中則強立而不倚,以此處困,故正不失也。

険とは、人の憂うる所なり。而して困とは、動きて窒(ふさ)ぐを見る者なり。今険にして説ぶは、則ち心以て自ら説ぶ所有りて、天下の憂を以て憂と為さざる者なり。困みて其の亨る所を失わずは、則ち身以て自ら亨る所有りて、天下の窒を以て窒と為さざる者なり。君子に非ざれば能く是の若くせんや。君子険にして説ぶと雖も、然れども険に陥りて免るるを得ざる者なり。困みて其の亨る所を失わずと雖も、然れども困に揜われて逃るる所无きなり。是くの如くなれば則ち害を遠ざけ咎を避くるの際に、失わざる能わざるは其の正なり。能く其の正を失わずして険を履み危に居るや安きに居るが如きは、大人のみ。故曰く、大人吉、剛中を以てなりと。剛は則ち健行して陥らず、中は則ち強立(きょうりつ)して倚(よ)らず。此を以て困に処れば、故に正失わざるなり。

兌為口舌而在上體,有尚口之象。且人之未信,則忠諫以為厲已,況群小之盛,欲揜君子,而欲以辨說自解乎?欲以辨說自解,益足以致困,故曰有言不信,尚口乃窮也。象曰:澤無水,困,君子以致命遂志。澤有水則足以及物,澤無水則非徒利不足以及物而已,且無以利其身,故其象則為困。君子之道足以通天地、亨萬物,而況其身乎?以君子而無所逃困,則命也,非力之能爭也,於是君子以致命遂志。致命而不致力,則志自遂矣,所以險以說、困而不失其亨也。

兌は口舌と為りて上体に在るは、口を尚ぶの象有るなり。且つ人の未だ信ぜざれば、則ち忠諫以て己を厲(やま)うと為す。況んや群小の盛ん、君子を揜わんと欲して、而して辨説を以て自ら解かんと欲するをや。辨説を以て自ら解かんと欲すれば、益々以て困を致すに足る。故曰く、言有りて信ぜられず、口を尚すれば乃ち窮まるなりと。『象』に曰く、沢水无し、困、君子以て命を致して志を遂ぐと。沢水有れば則ち以て物に及ぶに足る。沢水无ければ則ち徒らに利以て物に及ぶに足らざるのみならず、且つ以て其の身を利する无し。故に其の象は則ち困と為る。君子の道以て天地を通じ万物を亨らするに足る、而して況んや其の身をや。君子を以て困を逃るる所无ければ、則ち命なり、力の争う能くする所に非ざるなり。是に於て君子命を致して志を遂ぐ。命を致して力を致さざれば、則ち志自ら遂ぐ。険にして説び、困みて其の亨を失わざる所以なり。

初六:臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。象曰:入于幽谷,幽不明也。在下而無能為者,臀也,初六之象也。木有庇下之道,茂其枝葉;而徒有株焉,則不能庇其下矣。九四困於九二而不能庇初六,既無能為之才,而所應又無庇下之道,此非所困而困焉。處坎險之底而體暗下之性,則入于幽谷者也;進則困于株木而不見庇,退又入于幽谷而不得達,此困而失其所亨者也。是過三歲則必出而覿明也。

初六の爻辞に言う、「臀(しり)株木(しゅぼく)に困む、幽谷に入り、三歳覿(てき、あ)わず」と。『小象伝』に言う、「幽谷に入るは、幽にして明ならざるなり」と。下に在りて為す能くする无きは、臀なり、初六の象なり。木下を庇(ひ)うの道有り、其の枝葉を茂らせば。而して徒らに株有るのみなれば、則ち能く其の下を庇わず。九四九二に困みて初六を庇う能わず。既に為す能くするの才无く、而して応ずる所又下を庇うの道无し。此れ困る所に非ざるにして困めるなり。坎険の底に処りて暗下の性を体すれば、則ち幽谷に入る者なり。進めば則ち株木に困みて庇うを見ず、退けば又幽谷に入りて達するを得ず。此れ困みて其の亨る所を失う者なり。是れ三歳を過ごせば則ち必ず出でて明に覿わん。

九二:困于酒食,朱紱方來,利用亨祀,征凶,無咎。象曰:困于酒食,中有慶也。九五中正在上,有需于酒食之才,方困於劓刖,施不得以及下,而九二不得所需焉,則困于酒食者也。然九五乃徐有說,理不終困,方將來而應二,故曰朱紱方來。

九二の爻辞に言う、「酒食に困む、朱紱(しゅひつ)方に來る、亨祀(きょうし)を用いて利し、征せば凶、咎无し」と。『小象伝』に言う、「酒食に困むは、中慶有るなり」と。九五中正上に在るは、酒食に需(う)けるの才有り、方に劓刖(ぎげつ)に困みて、施し以て下に及ぶを得ず。而して九二其の需む所を得ざれば、則ち酒食に困む者なり。然れども九五乃ち徐(しず)かに説(よろこ)び有り、理終に困まらず、方に將に來りて二に応ぜんとす。故曰く、朱紱方に來ると。

朱紱者,天子之所以飾下者也。朱紱雖有飾下之象,異乎株木無庇下之才,然能飾乎身而無所加乎人,以其尚處困故也。亨祀者,人臣之所以事宗廟也;祭祀者,天子之所以事百神也。臣得君然後能保宗廟,故九二朱紱方來則利用亨祀也;君得臣然後能爭百神,故九五困於朱紱、乃徐有說,則利用祭祀也。

朱紱とは、天子の下を飾る所以なり。朱紱下を飾るの象有ると雖も、株木の下を庇うの才无きに異なり。然れども能く身を飾りて人に加うる所无きは、其の尚ほ困に処るを以てなり。亨祀とは、人臣の宗廟に事うる所以なり。祭祀とは、天子の百神に事うる所以なり。臣君を得て然る後に能く宗廟を保つ。故に九二朱紱方に來れば則ち亨祀を用いて利し。君臣を得て然る後に能く百神に争(あらが)う。故に九五朱紱に困み、乃ち徐かに説び有れば、則ち祭祀を用いて利し。

六三:困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。象曰:據于蒺藜,乗剛也;入于其宮,不見其妻,不祥也。石,止而不動,上六也;蒺藜,剛而善傷,九二也。且以困而視夫蹇與坎,難尤甚焉,則是困者難之極也。物極必反,故困不能久。若初六闇下,猶三歲不覿焉,是以得其所困與非所困而困,固有辨也。

六三の爻辞に言う、「石に困み、蒺藜(しつり、いばら)に拠(よ)る、其の宮に入りて、其の妻を見ず、凶」と。『小象伝』に言う、「蒺藜に拠るは、剛に乗ずるなり。其の宮に入りて其の妻を見ざるは、祥(さき、よ)からざるなり」と。石とは、止まりて動かず、上六なり。蒺藜とは、剛にして善(よ)く傷つく、九二なり。且つ困を以て夫れ蹇と坎とを視れば、難尤(いっそう)甚し。則ち是れ困とは難の極なり。物極まれば必ず反(かえ)る。故に困久しき能わず。若し初六暗下にして、猶ほ三歳覿わざれば、是の以て其の困る所を得ると困る所に非ざるにして困ると、固より辨有るなり。

困不足責也,所困也,以困之既終,則復得酒食之養也。乃若困于石,則非所困而困焉者也;以困之既終,則亦頑然不動,猶若困之初也。上既困于石,非所困而困;又據于蒺藜,非所據而據,名辱身危,自底於滅,不祥莫甚焉。妻固所有之妻,猶不見,況非其應乎?

困むは責むるに足らざるなり、困る所なり。困の既に終わるを以てすれば、則ち復た酒食の養いを得るなり。乃ち若し石に困めば、則ち困る所に非ざるにして困める者なり。困の既に終わるを以てすれば、則ち亦た頑(がん)として動かず、猶ほ困の初めの若し。上既に石に困むは、困る所に非ざるにして困む。又蒺藜に拠るは、拠る所に非ざるにして拠る。名辱められ身危うく、自ら滅に底(いた)る。祥からざるは甚だしきは莫し。妻は固より有する所の妻にして、猶ほ見えず。況んや其の応に非ざるをや。

九四:來徐徐,困于金車,吝,有終。象曰:來徐徐,志在下也;雖不當位,有與也。九四所志在應初,而九二為之難,不敢亟犯以進也,故曰來徐徐。蓋九二有朱紱方來之勢,而九五有乃徐有說之理,假少頃則二自應五,弗復為初九之難矣,九四所以來徐徐而俟之也。

九四の爻辞に言う、「來ること徐徐(じょじょ)たり、金車(きんしゃ)に困む、吝なるも終わり有り」と。『小象伝』に言う、「來ること徐徐たるは、志下に在るなり。位に当らずと雖も、与する有るなり」と。九四志初に応ずるに在るにして、而して九二之が難を為す。敢えて亟(すみや)かに犯して進まず。故曰く、來ること徐徐たりと。蓋し九二朱紱方に來るの勢い有り、而して九五乃ち徐かに説び有るの理有り。少頃を假(か)せば則ち二自ら五に応じ、復た初九の難と為らざるなり。九四の來ること徐徐として之を俟(ま)つ所以なり。

金車謂九二也。夫金剛而能變,能變明非牽於初者也;車方以載上,載上則非比下者也。九二之才如此,而四反畏之,徐徐不敢進,所以為吝也;所以有終者,為其有與,不終為物奪也。九五:劓則困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。象曰:劓刖,志未得也;乃徐有說,以中直也;利用祭祀,受福也。上見揜於柔而害其通,故稱劓;下見陵於剛而害其行,故稱刖。則赤紱者,人臣之所以飾下也,謂九二也;九二自賁其身,又且飾下而不應上,故曰困于赤紱也。

金車は九二を謂うなり。夫れ金は剛にして能く変ず、能く変ずれば則ち明らかに初に牽かるる者に非ざるなり。車は方に上を載するを以てす、上を載すれば則ち下に比(ひ)する者に非ざるなり。九二の才此くの如くにして、四反つて之を畏れ、徐徐として敢えて進まず。吝と為る所以なり。終わり有る所以は、其れ与する有るを為る、終に物に奪はれざるなり。九五の爻辞に言う、「劓刖(ぎげつ)して赤紱(せきひつ)に困む、乃ち徐かに説び有り、祭祀を用いて利し」と。『小象伝』に言う、「劓刖は、志未だ得ざるなり。乃ち徐かに説び有るは、中直(ちゅうちょく)を以てなり。祭祀を用いて利しは、福を受くるなり」と。上柔に揜われて其の通を害せらるを見る、故に劓と称す。下剛に陵(しの)がれて其の行を害せらるを見る、故に刖と称す。則ち赤紱とは、人臣の下を飾る所以、九二を謂うなり。九二自ら其の身を賁(かざ)り、又且つ下を飾りて上に応ぜず。故曰く、赤紱に困むと。

九五上見揜於柔、下見陵於剛,則與六三進而困于石、退而據于蒺藜亦無以異也;而九五乃徐有說者,以九五中直故也。蓋中立而不倚其身,直行而不迃其心,則雖不得乎明必得其幽,雖不利乎先必利乎後,此同人九五所以先號咷後笑,而困之九五所以乃徐有說也。有說則九二來應而得臣矣;得臣故利用祭祀。何則?尊上帝在乎籲俊故也;籲俊乃可以尊上帝,況百神乎?宜其祭祀而受福也。

九五上柔に揜わるるを見、下剛に陵がるるを見れば、則ち六三の進みて石に困み退きて蒺藜に拠ると亦た以て異なる无し。而して九五乃ち徐かに説び有るは、九五一中直を以てなり。蓋し中に立ちて其の身を倚らせず、直く行いて其の心を迂(う)えらせざれば、則ち明を得ざると雖も必ず其の幽を得、先を利せざると雖も必ず後を利す。此れ同人九五の先づ号咷し後に笑う所以、而して困の九五の乃ち徐かに説び有る所以なり。説び有れば則ち九二來りて応じて臣を得る。臣を得れば故に祭祀を用いて利し。何となれば、上帝を尊ぶは俊を吁(よ)ぶに在るが故なり。俊を吁ばば乃ち以て上帝を尊ぶ可し。況んや百神をや。其の祭祀して福を受くる宜しきなり。

上六:困于葛藟,于臲卼,曰動悔,有悔,征吉。象曰:困于葛藟,未當也;動悔有悔,吉行也。上六牽於初,困于葛藟者也;乗於五剛,困于臲卼者也。初柔不可牽,則逺之可也;五剛不可乗,則去之可也。此困之終,有自通之路,可以行而求吉之時;若自為謀曰動而有悔,則有悔必矣。其所以自謀如此而不礙於行者,以不豫決陰之性故也。

上六の爻辞に言う、「葛藟(かつるい、かずら)に困み、臲卼(げつげつ、ぐらつき)に於て、曰く動けば悔い、悔い有り、征せば吉」と。『小象伝』に言う、「葛藟に困むは、未だ当らざるなり。動けば悔い悔い有るは、吉は行くなり」と。上六初に牽かるるは、葛藟に困む者なり。五剛に乗ずるは、臲卼に困む者なり。初柔牽く可からざれば、則ち之を遠ざくる可なり。五剛乗ず可からざれば、則ち之を去る可なり。此れ困の終わり、自ら通ずるの路有り、以て行きて吉を求む可きの時なり。若し自ら謀りて曰く動けば悔い有らん、則ち悔い必ず有るなり。其の自ら謀る此くの如くにして行きて礙(さまた)げられざる所以は、以て陰の性を豫(あらかじ)め決せざるが故なり。

井卦(巽下坎上)

巽下坎上。井:改邑不改井,無喪無得,往來井井,汔至亦未繘井,羸其瓶,凶。彖曰:巽乎水而上水,井;井養而不窮也。改邑不改井,乃以剛中也;汔至亦未繘井,未有功也;羸其瓶,是以凶也。

『井(せい)』卦は下体が巽、上体が坎。卦辞に言う、「井、邑を改めて井を改めず、喪(うしな)う无く得无し、往來井井、汔(ほと)んど至るも亦た未だ井を繘(きつ、くみあ)げず、其の瓶(へい、つるべ)を羸(やぶ)る、凶」と。『彖伝』に言う、「水に巽(い)りて水を上げる、井、井養いて窮まらざるなり。邑を改めて井を改めざるは、乃ち剛中を以てなり。汔んど至るも亦た未だ井を繘げざるは、未だ功有らざるなり。其の瓶を羸るは、是の以て凶なり」と。

井之為卦,巽下而坎上,巽乎水而上水,卦之所以為井也。井譬則性也。君子學以修性,則巽乎水之象也;既盡性矣而推之以及物,則上水之象也。井之為卦,甃之渫之以養其源,則汲之而不窮;人之性知所以養之,則動而愈出,亦猶井而已矣,故井養而不窮也。

井の卦と為るは、巽下りて坎上る、水に巽りて水を上げるは、卦の井と為る所以なり。井は譬(たと)えば則ち性なり。君子学を以て性を修むるは、則ち水に巽るの象なり。既に性を尽くして之を推して以て物に及ぼすは、則ち水を上げるの象なり。井の物と為るは、之を甃(いしが)き之を渫(せつ、さら)えて以て其の源を養えば、則ち之を汲(く)みて窮まらず。人の性養う所以を知れば、則ち動きて愈々出づ、亦た猶ほ井のみ。故に井養いて窮まらざるなり。

養源於內而用之不窮,則眾共資之以為生、利之以為說,故邑可改也。遷都改邑,重事也;邑可改而井不可改者,立本之有地也。剛中者,天徳之盛也;天命之謂性,則剛中之徳固其所性之中矣,以是立本,故不可改,亦猶天之不可變也。

内に源を養いて之を用いて窮まらざれば、則ち衆共に之に資(よ)りて以て生と為し、之を利して以て説びと為す。故に邑改む可きなり。都を遷し邑を改むるは、重事なり。邑改む可きにして井改む可からざるは、本を立つるの地有るなり。剛中とは、天徳の盛んなり。天命の性と謂うは、則ち剛中の徳固より其の性の中なり。是を以て本を立つれば、故に改む可からず。亦た猶ほ天の変わる可からざるが如し。

傳曰:聖人外化而內不化。改邑,所謂外化也;不改井,所謂內不化也。外化所以趍時,內不化所以立本也。故徳之地而不可改,則孟子所謂分定是也。分定,則窮居不損,何喪之有?盛行不加,何得之有?故曰無喪無得也。無得喪於其心,故往者取之,來者取之,取舍不同而吾之為井一也,故曰往來井井。

伝に曰く、聖人外は化し而して内は化せずと。邑を改むるは、所謂外化すなり。井を改めざるは、所謂内化せざるなり。外化するは時に趨る所以、内化せざるは本を立つる所以なり。故に徳の地にして改む可からざれば、則ち孟子の謂う分定(ふんじょう)是れなり。分定なれば、則ち窮居も損なわず、何の喪うか有らんや。盛行も加わらず、何の得るか有らんや。故曰く、喪う无く得无しと。其の心に得喪无ければ、故に往く者之を取り、來る者之を取る。取舍同じからずして吾が井と為るや一なり。故曰く、往來井井と。

九二巽乎水而在中,汔至者也;然未出,則未繘井者也;無應乎上,則羸其瓶者也。井以上出為功,今未繘井而羸其瓶,是以凶也。象曰:木上有水,井,君子以勞民勸相。不改井者,言性也;井道不可不革者,言治性也。性治而後善,則必以五教率天下而性其逸惰之民,故曰勞民;民勞則善心生矣。然民之勞也,有欲為之志而無能為之才者有矣,有能為之才而無慾為之志者有矣。無慾為之志,則君子勸之,勸之則知勉矣;無能為之才,則君子相之,相則有成矣。

九二水に巽りて中に在るは、汔んど至る者なり。然れども未だ出でざれば、則ち未だ井を繘げざる者なり。上に応无ければ、則ち其の瓶を羸る者なり。井上に出づるを以て功と為す。今未だ井を繘げずして其の瓶を羸れば、是の以て凶なり。『象』に曰く、木上に水有り、井、君子以て民を労(ねぎら)い相(たす)くるを勧むと。井を改めざるは、性を言うなり。井道革(あらた)めざる可からざるは、性を治むるを言うなり。性治まりて然る後に善なれば、則ち必ず五教を以て天下を率いて其の逸惰(いつだ)の民を性と為す。故曰く、民を労うと。民労すれば則ち善心生ず。然れども民の労するや、之を為さんと欲するの志有りて之を為す能くするの才无き者有り、之を為す能くするの才有りて之を為さんと欲するの志无き者有り。之を為さんと欲するの志无ければ、則ち君子之を勧む、之を勧むれば則ち勉むるを知る。之を為す能くするの才无ければ、則ち君子之を相く、之を相くれば則ち成る有り。

初六:井泥不食,舊井無禽。象曰:井泥不食,下也;舊井無禽,時舍也。初六以陰在下而上無應以引之,井泥不食者也。禽之於井無澤,無禽向之則井道廢矣。然則其不食,非特不如九三之不食也,乃為時之所舍者也。

初六の爻辞に言う、「井泥(せいでい)食(く)われず、旧井禽无し」と。『小象伝』に言う、「井泥食われざるは、下なり。旧井禽无きは、時舎(す)てらるるなり」と。初六陰を以て下に在りて上之を引くに応无きは、井泥食われざる者なり。禽の井に於て沢无ければ、禽之に向わざれば則ち井道廃る。然らば則ち其の食われざるは、特に九三の食われざるに如かざるのみならず、乃ち時の舎てらるる所と為るなり。

夫井有不窮之用,可以應無方之求;苟不可以應無方之求,則是其養之未至也。故井道必期於食,食之然後井之功成焉。若夫既可食矣而不見食,則命也,吾無喪焉,九三之不食是矣。

夫れ井窮まらざるの用有り、以て方无きの求めに応ず可し。苟も以て方无きの求めに応ず可からざれば、則ち是れ其の養うの未だ至らざるなり。故に井道必ず食わるるに期す、食われて然る後に井の功成る。若し夫れ既に食う可きにして食われざれば、則ち命なり、吾喪う无きなり。九三の食われざる是れなり。

九二:井谷射鮒,甕敝漏。象曰:井谷射鮒,無與也。井谷者,旁出而下流者也;射鮒,小物在下者也。稱甕,則既汲而上矣;敝則漏,自上趍下而井之井亡焉。蓋中人者可導而在下者也;九二在中而不正,其自守不固矣。上有與以引之則上達,無與以引之則下達,故有谷射鮒魚、甕敝漏之象,而孔子謂之無與也。

九二の爻辞に言う、「井谷(せいこく)鮒(ふ)を射(よ)る、瓮(おう)敝(やぶ)れて漏る」と。『小象伝』に言う、「井谷鮒を射るは、与する无きなり」と。井谷とは、旁(かたわ)らより出でて下に流るる者なり。鮒を射るは、小物下に在る者なり。瓮と称すれば、則ち既に汲みて上る。敝れれば則ち漏る、上より下に趨りて井の井亡(な)くなるなり。蓋し中人は導く可きにして下に在る者なり。九二中に在りて正ならず、其の自ら守る固からず。上与する有りて以て之を引けば則ち上達す、与する无きて以て之を引かざれば則ち下達す。故に谷鮒魚を射、瓮敝れて漏るの象有り。而して孔子之を与する无しと謂うなり。

九三:井渫不食,為我心惻,可用汲,王明,並受其福。象曰:井渫不食,行惻也;求王明,受福也。九三陽也,故為井渫;下也,故為不食。井渫可食而不食,故或者為我心惻焉。人為我惻而我未嘗惻,所謂人不知而不慍,故可用汲也。若其不為人惻,則是所謂時者也,不可用汲也;雖為人惻而我亦自惻,則又非所謂無喪無得者也,亦不可用汲也。

九三の爻辞に言う、「井渫(せいせつ)して食われず、我が心を惻(そく)たらしむ、汲むに用う可し、王明なれば、并(とも)に其の福を受く」と。『小象伝』に言う、「井渫して食われざるは、行く者惻むなり。王明を求むるは、福を受くるなり」と。九三は陽なり、故に井渫と為る。下なり、故に食われずと為る。井渫して食う可きにして食われざれば、故に或いは我が心を惻たらしむる有るなり。人我を惻みて我未だ嘗て惻まざるは、所謂人知らずして慍(うら)みざるなり。故に汲むに用う可し。若し其の人に惻まれざれば、則ち是れ所謂時なり、汲むに用う可からざるなり。人に惻まるると雖も而我も亦た自ら惻めば、則ち又所謂喪う无く得无き者に非ざるなり、亦た汲むに用う可からざるなり。

有可用汲之才而王明焉,則已與王並受其福矣。蓋井渫而不食,則是不為時所知者也;王之不明而徇一時之好惡,則無由汲矣,故九三求王明,非明則不合也。君聖臣賢,天下之盛福,況君臣乎?並受其福明矣。

汲むに用う可きの才有りて王明なれば、則ち己と王并に其の福を受くるなり。蓋し井渫して食われざれば、則ち是れ時に知られざる者なり。王の明ならずして一時の好悪に徇(したが)わば、則ち汲むに由(よ)る无し。故に九三王明を求む、明に非ざれば則ち合わざるなり。君聖にして臣賢なれば、天下の盛福、況んや君臣をや。并に其の福を受くる明らかなり。

六四:井甃,無咎。象曰:井甃無咎,修井也。六四在上,宜以動出為功者也,而以陰居陰乃反靜焉;然靜而正,得修井之道,故無咎也。夫務在利人而以動出為事者,必其在我者既裕也;在我者未裕而務在利人,則其涸也可立而待也。六四知其不裕,靜而正以自修焉,則其靜也乃所以為動出者,何咎之有哉?

六四の爻辞に言う、「井甃(せいしゅう)す、咎无し」と。『小象伝』に言う、「井甃して咎无きは、井を修むるなり」と。六四上に在るは、宜しく動きて出づるを以て功と為すべき者なり。而して陰を以て陰に居れば乃ち反つて静なるなり。然れども静にして正しければ、井を修むるの道を得る、故に咎无きなり。夫れ務めて人を利して動きて出づるを以て事と為す者は、必ず其の我に在る者既に裕かなり。我に在る者未だ裕かならずして務めて人を利すれば、則ち其の涸(か)るるや立ちて待つ可し。六四其の裕かならざるを知りて、静にして正しきを以て自ら修むれば、則ち其の静なるや乃ち動きて出づる者と為す所以なり。何の咎か有らんや。

九五:井冽寒泉食。象曰:寒泉之食,中正也。冽之為言,清也。井渫者,渫而後清;井冽則自清也,故井渫譬其修性,井冽譬其盡性也。其井冽、其泉寒,又在上而食焉,此聖人盡已之性而推之以及物者也。象曰中正也:人之性本中正,然徒以失中而偏、失正而邪,故不善耳;聖人盡性豈有他哉?不失其所受之中正而已矣。

九五の爻辞に言う、「井冽(せいれつ、きよ)し寒泉食わる」と。『小象伝』に言う、「寒泉の食わるるは、中正なり」と。冽の言と為るは、清(きよ)しなり。井渫とは、渫えて然る後に清し。井冽は則ち自ら清し。故に井渫は其の性を修むるを譬え、井冽は其の性を尽くすを譬う。其の井冽け、其の泉寒し、又上に在りて食わる。此れ聖人己の性を尽くして之を推して以て物に及ぼす者なり。象に曰く中正なり。人の性本より中正なり、然れども徒らに中を失い偏(かたよ)り、正を失い邪(よこしま)なるを以て、故に善ならざるのみ。聖人の性を尽くすは豈に他有らんや。其の受くる所の中正を失わざるのみ。

上六:井收勿幕,有孚無吉。象曰:元吉在上,大成也。此井道之大成也。井道大成,宜以不窮之用應無方之求,故曰勿幕。陰之性,故有勿幕之戒焉。井道大成而幕,則是有周公之才之美而使吝也。

上六の爻辞に言う、「井收(おさ)めて幕(と)ざす勿れ、孚有りて元吉」と。『小象伝』に言う、「元吉上に在るは、大成(たいせい)なり」と。此れ井道の大成なり。井道大成すれば、宜しく窮まらざるの用を以て方无きの求めに応ずべし。故曰く、幕ざす勿れと。陰の性、故に幕ざす勿れの戒め有るなり。井道大成して幕せば、則ち是れ周公の才の美有りて吝(りん)ならしむる有るなり。

革卦(離下兌上)

離下兌上。革:已日乃孚,元亨利貞,悔亡。彖曰:革,水火相息,二女同居,其志不相得,曰革。已日乃孚,革而信之;文明以說,大亨以正;革而當,其悔乃亡。天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人,革之時大矣哉。

『革(かく)』卦は下体が離、上体が兌。卦辞に言う、「革、已日(いじつ)乃ち孚(まこと)なり、元亨利貞、悔亡ぶ」と。『彖伝』に言う、「革は、水火相息(そく)し、二女同居して、其の志相得ず、革と曰う。已日乃ち孚は、革して之を信ず。文明にして説び、大亨して正し。革して当れば、其の悔乃ち亡ぶ。天地革して四時成り、湯武革命し、天に順いて人に応ず。革の時大なるかな」と。

傳曰:因者,君之綱也。君以因為綱,則疑若廢革;然所謂革者,因在其中矣。蓋當其可革而革,則亦因之謂也。革不廢因,故因形者為化,存質者為革也;金之從革也,質存焉,楊子以革、化並言之是也。革之為道,可息則息之,如水火之相息;可服則服之,如二女不同居,蓋亦不廢因之謂也。

伝に曰く、因(いん)とは、君の綱なりと。君因を以て綱と為せば、則ち革を廃するが若く疑う。然れども所謂革とは、因其の中に在るなり。蓋し其の革すべきに当りて革すれば、則ち亦た因の謂なり。革因を廃せず。故に形に因る者は化と為り、質を存する者は革と為るなり。金の革に従うや、質存するなり。楊子革、化を并せて之を言うは是れなり。革の道と為るは、息すべければ則ち之を息し、水火の相息するが如し。服すべければ則ち之を服す、二女同居せざるが如し。蓋し亦た因を廃せざるの謂なり。

雖不廢因,然革生以為熟,革剛以為柔,革柔以為剛,既以為剛,既以去其故矣,則人為求舊之情不能無危疑而不安者。惟聖人盡革之道而功利見於世,是以已日乃孚也。文明故能革陋以為華,說故能革倦以為樂。文明者,禮也;說者,義也。以禮義為革,故能大亨以正,則革而當矣,是變亂之悔亡焉。

因を廃せずと雖も、然れども革は生を以て熟と為し、革は剛を以て柔と為し、革は柔を以て剛と為す。既に以て剛と為れば、既に以て其の故を去る。則ち人の旧を求むるの情危疑して安んぜざる者无き能わず。惟れ聖人革の道を尽くして功利世に見ゆる。是の以て已日乃ち孚なり。文明なるが故に能く陋(ろう)を革して華と為し、説ぶが故に能く倦(けん)を革して楽しみと為す。文明とは、礼なり。説びとは、義なり。礼義を以て革と為れば、故に能く大亨して正し。則ち革して当る、是れ乱を変ずるの悔亡ぶなり。

天地不革而四時不成,則湯武之於革命豈得已哉?順天應人而已。人之於天,逆之則凶;其於人也,違之則怒。不順乎天、不順乎人,固不可以立於世,何必聖人而然哉?其說以謂:心非貴黃屋而富天下也,順天而不敢逆也,應人而不敢違也。夫天命之難諶而知所以順之,人心之難察而知所以應之,此則非大人不足以與此。

天地革せざれば四時成らず。則ち湯武の革命に於て豈に已むを得んや。天に順い人に応ずるのみ。人の天に於ては、之に逆えば則ち凶。其れ人に於ては、之に違えば則ち怒る。天に順わず、人に順わざれば、固より以て世に立つ可からず。何必ぞしも聖人にして然らんや。其の説以て謂う、心は黄屋を貴び天下を富むに非ざるなり。天に順いて敢えて逆わず、人に応じて敢えて違わざるなり。夫れ天命の谌(たの)み難きを以て順う所以を知り、人心の察り難きを以て応ずる所以を知る。此れ則ち大人に非ざれば以て此に与(あずか)るに足らざるなり。

象曰:澤中有火,革,君子以治歴明時。天地革而四時成,其革也又有數存焉;治歴以推其數,而時之消息明矣,敬以授人,所以理天地而為革也。初九:鞏用黃牛之革。象曰:鞏用黃牛,不可以有為也。人之有文明之才而體炎上之性,則必喜以功業自見乎時,君子所欲也;然上無其應,不可以有為,則以中順自固其志,待上革而後可,不然,動而見括,無益於革也。

『象』に曰く、沢中に火有り、革、君子以て歴を治め時を明らかにすと。天地革して四時成る、其の革や又有た数存るなり。歴を治めて以て其の数を推せば、而して時の消息明らかなり。敬して以て人に授うるは、天地を理(おさ)めて革と為す所以なり。初九の爻辞に言う、「鞏(きょう、かた)むるに黄牛の革を用い」と。『小象伝』に言う、「鞏むるに黄牛を用うるは、以て為す有る可からざるなり」と。人文明の才有りて炎上の性を体すれば、則ち必ず喜んで功業を以て時に自ら見ゆる、君子の欲する所なり。然れども上其の応无ければ、以て為す有る可からず。則ち中順を以て其の志を自ら固くし、上の革するを待ちて然る後に可なり。然らざれば、動きて括(くつ、つつ)まるを見る。革に益无きなり。

六二:已日乃革之,征吉無咎。象曰:已日革之,行有嘉也。已日乃孚,言革之功;已日乃革,言革之事。革之功則君所專,革之事則臣所與;然而革之事反常而為經,非君之則不可以先事,故六二雖見應於上而有可為之勢,亦以已日然後革也。革道貴剛而二柔順,必徵然後吉無咎,徵者所謂跂而及之也。

六二の爻辞に言う、「已日(いじつ)乃ち之を革す、征せば吉咎无し」と。『小象伝』に言う、「已日之を革するは、行に嘉(よ)き有るなり」と。已日乃ち孚とは、革の功を言うなり。已日乃ち革すとは、革の事を言うなり。革の功は則ち君の専らにする所、革の事は則ち臣の与(あずか)る所。然れども革の事は常に反(かえ)りて経(きょう)と為る、君の則に非ざれば以て事に先だつ可からず。故に六二上に応じ見えて為す可きの勢い有ると雖も、亦た已日を以て然る後に革す。革道は剛を貴ぶ、而して二は柔順なり。必ず征して然る後に吉咎无し。征とは所謂跂(き、つまだ)ちて及ぶの謂なり。

九三:征凶,貞厲,革言三就,有孚。象曰:革言三就,又何之矣。剛過乎中,故征凶正厲;然剛不失正,以之革物,則物之從之者眾矣,故曰革言三就有孚。夫以言為革,未若不待言而革者;然人不可以言教令使,而今以言為革,物多從之,則必信有在於言前、誠有在於令外者也;不則徒以言為革,何足令哉?

九三の爻辞に言う、「征せば凶、貞厲(ていれい)、革言三就(さんしゅう)、孚有り」と。『小象伝』に言う、「革言三就とは、又何くに之(ゆ)かん」と。剛中を過ぐれば、故に征せば凶貞厲なり。然れども剛正を失わず、以て物を革すれば、則ち物の之に従う者衆し。故曰く、革言三就孚有りと。夫れ言を以て革と為すは、未だ言を待たずして革する者に若かず。然れども人は言教令(きょうりょう)を以て使う可からざるなり。而今言を以て革と為して、物多く之に従えば、則ち必ず信言の前に在り、誠令の外に在る者有るなり。不(ふ)なれば則ち徒らに言を以て革と為す、何ぞ以て令するに足らんや。

九四:悔亡,有孚改命,吉。象曰:改命之吉,信志也。九四雖不當位而無私與,故悔亡;悔亡則上信之矣,故有孚。夫自立於無過之地,上又至誠勿貳而與之,則非徒可以革下而已,上命之不善亦可以改矣。傳曰:從道不從君。此之謂也。所惡於革,而不當也;何嫌之有?是以君有革命、臣有改命而不疑也。

九四の爻辞に言う、「悔亡ぶ、孚有りて命を改む、吉」と。『小象伝』に言う、「命を改むるの吉は、志を信ぜらるるなり」と。九四位に当らずと雖も而して私(わたくし)与する无し。故に悔亡ぶ。悔亡べば則ち上之を信ず。故に孚有り。夫れ自ら過无きの地に立ち、上又至誠貳(ふた)つ无くして之と与せば、則ち徒らに以て下を革する可きのみならず、上命の善ならざるも亦た改む可し。伝に曰く、道に従いて君に従わずと。此れの謂なり。革に悪(にく)む所は、当らざるを以てなり。何の嫌いか有らんや。是の以て君革命有り、臣命を改むる有りて疑われざるなり。

九五:大人虎變,未占有孚。象曰:大人虎變,其文炳也。剛中,大人之才也;以剛革,有虎變之象焉。傳曰:通其變,遂成天地之文。大人從事於變,則天地之文成矣,是以其文炳然而盛也。大人之為革也,革不以言;不以言而以道,故天下自革也。革不以面而以心,是以其孚見於未占,不待已日也。已日乃孚,為革者之所同也;未占有孚,大人之所獨也。

九五の爻辞に言う、「大人虎変(こへん)す、未だ占わずして孚有り」と。『小象伝』に言う、「大人虎変するは、其の文炳(へい)たるなり」と。剛中とは、大人の才なり。剛を以て革すれば、虎変の象有るなり。伝に曰く、其の変に通じて、遂に天地の文を成すと。大人変に従事すれば、則ち天地の文成る。是の以て其の文炳として盛んなり。大人の革と為るや、革は言を以てせず。言を以てせずして道を以てすれば、故に天下自ら革す。革は面(おもて)を以てせずして心を以てすれば、是の以て其の孚未だ占わざるに見ゆ、已日を待たざるなり。已日乃ち孚は、革を為す者の同じくする所なり。未だ占わずして孚有りは、大人の独りする所なり。

上六:君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。象曰:君子豹變,其文蔚也;小人革面,順以從君也。上六,豹者,其文之蔚然而茂密者也。君子通變而成制作之文,其蔚宻矣,而不若大人之文明盛如虎也,故曰君子豹變矣。茂末則本衰,文盛則質喪;君子之文至於茂宻如豹,可謂盛矣,是以其化淺、其功顯,徒能使小人革面而非心服也。象曰順以從君者,以謂民之從君乃其分耳,非果迴心而向道也。

上六の爻辞に言う、「君子豹変(ひょうへん)す、小人面を革す、征せば凶、居りて貞吉」と。『小象伝』に言う、「君子豹変するは、其の文蔚(うつ)たるなり。小人面を革するは、順にして以て君に従うなり」と。上六は、豹とは、其の文の蔚として茂密(もみつ)なる者なり。君子変に通じて制作の文を成す、其の蔚密なり、而して大人の文明の盛んなること虎の如くに若かず。故曰く、君子豹変すと。末茂れば則ち本衰え、文盛んなれば則ち質喪(ほろ)ぶ。君子の文茂密なること豹の如くに至れば、盛んと謂う可し。是の以て其の化浅く、其の功顕(あらわ)る、徒らに能く小人面を革さしめて心服(しんぷく)に非ざるなり。象に曰く順にして以て君に従うは、以て民の君に従うは乃ち其の分のみ、果して心を回(めぐ)らして道に向うに非ざるを謂うなり。

鼎卦(かなえの卦・巽下離上)

巽下離上。鼎:元吉亨。彖曰:鼎,象也。以木巽火,亨飪也。聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。二體有以木巽火之象,此卦之所以為鼎也。鼎象也者,象未効乎法者也,有其兆而已。蓋鼎雖成象,必待木火然後成功,猶之聖人必待眾賢之輔然後成化養之功焉。

《鼎》卦の下卦は巽、上卦は離です。卦辞に「鼎、元いに吉にして亨る」とあります。《彖伝》には「鼎は、象を取った器である。木を火に入れ巽(したが)わせるは、烹煮である。聖人は烹煮して上帝を享(まつ)り、大いに烹煮して聖賢を養う。巽順にして耳目聡明にして、柔が進んで上に行き、中を得て剛に応ずる。これを以て元亨である」とあります。上下二体には「木を火に入れる」という象があり、これがこの卦が「鼎」と呼ばれる所以です。「鼎は象なり」とは、まだ象の域にあって成法としては効を現していない、兆しがあるだけだという意味です。鼎はすでに形象を備えていても、木と火を待ってはじめて功を成す。それはちょうど聖人が衆賢の補佐を待ってはじめて化育養人の功を成すのと同じです。

鼎之為卦,以爻觀之,既有鼎之象;以二體觀之,又以木有巽火之義,是有聖人之才而有功發其才者也,故其精意可以享上帝,其盛禮可以養聖賢也。傳曰:惟聖人為能享上帝。聖人所以能享上帝,非徒以精意而已,亦以其能籲俊而使之尊上帝也。傳曰:君之仁者善養士。人君所以能養士,非徒以備禮而已,亦以其專舉賢而使之恵疇也。

《鼎》という卦は、爻画から見ればすでに鼎の形象を備え、上下二体から見れば木を火に入れ従わせる意味を持ちます。すなわち聖人の才質を備え、かつその才を発揮する功がある卦です。だから、その精誠の意は上帝を享ることができ、その隆盛な礼は聖賢を養うことができるのです。《中庸》に「聖人のみ能く上帝を享る」とあります。聖人が上帝を享ることができるのは、ただ精誠の意によるだけでなく、俊傑を招き挙げて彼らにともに上帝を尊ばせるからです。伝文に「君が仁であれば士をよく養う」とあります。君主が士を養えるのは、ただ礼を備えているからだけでなく、ひたすら賢才を挙用して彼らに恩恵を衆に分け与えさせるからです。

鼎必待木巽火而後成烹飪之功,聖人必待賢佐然後能享上帝而養聖賢,是以鼎之所貴,在乎巽而耳目聰明、柔進而上行、得中而應乎剛也。蓋能巽而下賢,又聰而善聽、明而善視,且得中而應剛,非如違者。如此則於用賢之道盡矣,是以元亨也。

鼎は必ず木を火に入れてはじめて烹煮の功を成し、聖人は必ず賢佐を得てはじめて上帝を享り聖賢を養うことができます。ですから《鼎》卦が重んじるのは、まさに「巽順にして耳目聡明、柔進んで上行し、中を得て剛に応ずる」ことなのです。巽順にして己を屈して賢を下し、耳が聡くてよく聞き、目が明らかでよく見ることができ、かつ中を得て剛に応じる——背き好む者のようではありません。こうあれば賢を用いる道は尽きます。これが「元亨」です。

象曰:木上有火,鼎,君子以正位凝命。鼎則聖人之才,大方輔佐之功焉;言木上有火,所及輔佐也,故曰君子以正位凝命,言需賢以自輔如此也。位有上下,命有多寡,正位凝命,用賢有序矣。

《大象伝》に「木の上に火あるは鼎。君子は以て位を正しくし命を凝(こ)らす」とあります。「鼎」は聖人の才であり、その大成はおおむね補佐の功によります。「木の上に火」と言うのは頼る補佐を指します。だから「君子以て正位凝命」というのは、必ずこのように賢を求めて自らを助けさせるという意味です。位には上下があり、命には多少があります。位を正しくし命を凝らせば、賢を用いるに秩序があるのです。

初六:鼎顛趾,利出否,得妾以其子,無咎。象曰:鼎顛趾,未悖也;利出否,以從貴也。鼎下實也,而初六以虛在下,則鼎之顛趾也。鼎而顛趾以出否則利矣,不然則為覆餗矣。夫鼎以取新,必先出否,得超變之宜,故為未悖也。妾以其子有母道焉,宜其在上而今在下,是子貴而母賤,得妾以其子者也。出否以從貴,革故以取新,非知權不足以與此。

初六の爻辞に「鼎、趾(あし)を顛(さかさま)にす。否(おな)を出すに利あり。妾を得るにその子を以てす。咎(とが)なし」とあります。《小象伝》に「鼎趾を顛にすとは、未だ悖(もと)らざるなり。否を出すに利あるは、以て貴に従うなり」とあります。鼎の下部は実であるべきですが、初六は虚を以て下に居る。これが鼎の趾を顛にする象です。鼎の趾を顛にして穢(けが)れを出すなら利があります。そうでなければ鼎の食物を覆してしまいます。鼎は新しい物を取る器ですから、必ず先に古い穢を出さねばならない。変を超えた時宜を得ているので「未悖」と言うのです。妾がその子によって母の道を持つ——本来上に居るべきなのに今は下に居る。これは子が貴く母が賤いということで、「妾を得るにその子を以てす」です。穢を出して貴に従い、故を革めて新を取る——権変を知る者でなければこれに与ることはできません。

九二:鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。象曰:鼎有實,慎所之也;我仇有疾,終無尤也。井言性,故其出無窮;鼎言才,故所受者有量,過其量則覆餗矣。九二以陽居陰而在中,此鼎之有實而顛者也;適中,則其所之而不可以有它矣。我仇謂六五也;六五所應也而稱仇,以其來即則非嘉稱故也。六五困於九四之間,有疾者也;有疾而不能我即,則我之所受適當其可,是以終無尤也。

九二の爻辞に「鼎に実あり。我が仇(あだ)に疾(やまい)あり、我に即くこと能(あた)わず。吉」とあります。《小象伝》に「鼎に実あるは、往くところを慎しむなり。我が仇疾あるは、終に尤(とが)めなきなり」とあります。《井》卦は性を言いますから湧き出ること窮まりなく、《鼎》卦は才を言いますから受けるものに量があります。量を超えれば鼎を覆します。九二は陽爻を以て陰位に居り中にあります。これは鼎に実があって分量がちょうど良い象です。適中であれば、その往くところは他に枝を分かつことはありません。「我が仇」とは六五を指します。六五は本応じる者なのに「仇」と称するのは、相手が来て即く時に好ましい呼称ではないからです。六五は九四に梗(ふさ)げられて、疾ある者です。疾あって我に即くことができないなら、我が受けるところはちょうどその可なるところに当たります。これで「終に尤めなし」です。

九三:鼎耳革,其行塞,雉膏不食,方雨虧悔,終吉。象曰:鼎耳革,失其義也。九三所應在卦之外之象也,所應者為,則九三為鼎耳矣。以耳之於虛而受之,則足以舉鼎而行焉;今九三以陽處陽,實而不受,則鼎耳之義革矣。鼎耳革而無虛受之義,將錯諸地而無以自舉矣,是其行塞者也。如此則雖有文明膏澤之才,不用也,故曰不食。

九三の爻辞に「鼎の耳革(あらた)まり、その行い塞(ふさ)がる。雉膏(ちこう)食らわず。方(まさ)に雨、悔亏(へ)り、終に吉」とあります。《小象伝》に「鼎耳革まるは、その義を失うなり」とあります。九三の応じる所は卦の外にある象で、応じる者(上九)から見れば九三は鼎の耳です。耳が虚を以て受けるなら、鼎を挙げて行くに足ります。今九三は陽爻を以て陽位に処り、実にして受けないので、鼎耳の義が革まりました。鼎耳が革まり虚受の義がなければ、鼎は地に措(お)かれて自ら挙げることができません。これが「其行塞がる」です。このようであれば、文明膏沢の才があっても用いられません。だから「不食」と言います。

召而齊魯不能致者二人,蓋此類也。雖然,九三巽不失正也;巽非髙亢,而正非矯激也,不遇於今,不遇於後,故曰方雨。雨則陰陽和而雉膏食矣,故悔虧焉;然不能亡者,執一廢百,未可與權故也。保常守正,是以終吉也。

孟子が、斉・魯が礼を以て招聘しても致せなかった二人がいたと言ったのは、おそらくこの類でしょう。しかしながら、九三は本卦が巽に属してその正を失いません。巽順であれば高亢せず、正を守れば矯激しません。今は遇わなくても、後に遇わないとは限りません。だから「方(まさ)に雨」と言います。雨が降れば陰陽が和し雉膏を食らうことができ、悔いは減ります。しかし完全には消えないのは、一端を執して百を廃し、権に与ることができないからです。常を保ち正を守るので、「終に吉」なのです。

九四:鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。象曰:覆公餗,信如何也。鼎之所受適則有量,適中斯可矣;以九四實而不中,則是實有餘而量不足,故有折足之患焉。折足則覆餗,則其形渥矣。誠能孚然後敢受職,此臣之信如何哉?

九四の爻辞に「鼎、足を折り、公の餗(そく)を覆し、その形渥(あつ)し。凶」とあります。《小象伝》に「公の餗を覆すとは、信いかん」とあります。鼎の受ける所はその量に適えば足り、適中であればよいのです。九四は実にして中にあらず。これは実が余り量が足りないことなので、折足の患があります。足が折れれば餗を覆し、その形は渥くなります。誠に孚(まこと)あってこそ敢えて職を受ける——ここで言うのは臣の信がいかなるものかです。

六五:鼎黃耳金,利貞。象曰:鼎黃耳,中以為實也。六五居中而受九二者也,中而能有受,則鼎黃耳之象也;九二以剛中而應六五者也,剛而應之,耳之所受,則金之象也。虛中以資納於物而得金焉,則其行不塞,其應無方,享帝養賢之道於是極矣。

六五の爻辞に「鼎に黄耳金鉉(こうじきんげん)、貞に利し」とあります。《小象伝》に「鼎の黄耳は、中を以て実を為すなり」とあります。六五は中に居り九二を受ける者です。中にして能く受ける所があれば、これが「鼎の黄耳」の象です。九二は剛中を以て六五に応ずる者です。剛にして応ずる所は耳が受ける所、これが「金」の象です。虚中を以て物を資納して金を得れば、その行いは塞がらず、その応は方(かた)がなく、帝を享り賢を養う道はここに極まります。

上九:鼎玉,大吉,無不利。象曰:玉在上,剛柔節也。鼎者,才也;所以舉鼎則在,所以用才則在道。在鼎而無是,有才而未聞道也。而道體常而盡變:其盡變也如金,六五所謂金是也;其體常也如玉,上九所謂玉是也。金則剛柔無常,玉剛柔節矣。此利用之終而歸於崇徳也,大吉無不利宜矣。

上九の爻辞に「鼎の玉鉉(ぎょくげん)、大吉、利ならざるなし」とあります。《小象伝》に「玉鉉上に在るは、剛柔の節なり」とあります。鼎は才であり、鼎を挙げる所以は鉉にあり、才を用いる所以は道にあります。鼎があって鉉がなければ、才があって道を聞かぬが如しです。道の体は常にして変を尽くします。その変を尽くすは金の如く、六五の言う「金」がこれです。その体が常なのは玉の如く、上九の言う「玉」がこれです。金は剛柔常なく、玉は剛柔に節があります。これは「利用」の終わりにして徳を崇めるに帰するものです。「大吉、無不利」は当然です。

震卦(しんか・震下震上、原書はここで残欠)

震下震上。震:亨。震來虩虩,笑言啞啞,震驚百里,不喪匕鬯。彖曰:震亨。震來虩虩,恐致福也;笑言啞啞,後有則也。震驚百里,驚逺而懼邇也。出可以守宗廟社稷,以為祭主也。

《震》卦は下卦も震、上卦も震です。卦辞に「震、亨る。震の来るや虩虩(かくかく)、笑言哑哑(あくあく)。震は百里を驚かす、匕鬯(ひちょう)を喪(うしな)わず」とあります。《彖伝》に「震、亨る。震の来るや虩虩とは、恐れて福を致すなり。笑言哑哑とは、後に則あるなり。震は百里を驚かすとは、遠きを驚かし近きを懼(おそ)れしむるなり。出でて以て宗廟社稷を守り、祭主と為るべきなり」とあります。

上者,陽之所也,陽在下則起而之其所;起而之其所也以時焉,是以亨也。然吉凶悔吝生乎動,故人之情,動則恐,息則說;震所以為動,又為恐;而兌所以為息,又為說也。然動而知恐,乃所以為無恐也,故曰震來虩虩,恐致福也。

上位は陽の居るべき所です。陽が下にあれば起ち上がってその所に至ります。起ち上がってその所に至るのが時に合うので、亨るのです。しかし吉凶悔吝は動から生じます。人の情は、動けば恐れ、息えば説(よろこ)ぶものです。震が動であり恐である所以であり、兌が息であり説である所以です。しかし動いて恐れることを知れば、まさに恐れなき所以となります。だから「震の来るや虩虩、恐れて福を致す」と言います。

來,自反之辭也;欲起而無悔,必來而自省也,恐懼則致福也。故震來虩虩於其先,必笑言啞啞於其後。凡此者,常則不能違也。有則云者,詩所謂如幾如式者,言如其式所。

「来」は、身を反(かえ)り省みる言い方です。起ち上がって悔いを残さないようにするには、必ず帰りて自ら省察し、恐れ懼ることで福を致すのです。だから先に「震来虩虩」の戒懼があり、後に必ず「笑言哑哑」の余裕があります。これらはすべて常道にあることで、違うことはできません。《小象》の「則あり」というのは、《詩経》に言う「幾(き)の如く式(しき)の如し」、すなわち一挙一動がその法式に合うことです……(原書はここで残欠)

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