周易浅述
欽定四庫全書 経部一 周易浅述(易類)
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
欽定四庫全書 経部一 周易浅述(易類)
提要
臣等謹案,《周易淺述》八卷,國朝陳夢雷撰。夢雷字省齋,閩縣人。康熙庚戌進士,官翰林院編修。緣事謫戍。後蒙恩召還,校正銅板。復緣事謫戍。卒於戍所。是編成於康熙甲戌,乃其初赴尚陽堡時所作。大旨以朱子《本義》為主,而叅以王弼注、孔穎達疏、蘇軾傳、胡廣《大全》、來知德注。諸家所未及,及所見與《本義》互異者,則別抒己意以明之。蓋行篋乏書,故所據止此。
臣らは恭しく考証する。《周易浅述》は全八巻、本朝の陳夢雷が撰したものである。陳夢雷は字を省斎、福建・閩県の人で、康熙九年庚戌科の進士、官は翰林院編修に至った。のちに事件に連座して辺境への謫戍となり、その後皇恩を蒙って京に召還され、銅活字版書籍の校正に携わったが、再び事により謫戍となり、ついに戍所で亡くなった。この書は康熙三十三年甲戌に完成し、まさに彼が初めて尚陽堡に流された時期の著作である。全書の宗旨は朱熹の《周易本義》を主軸とし、併せて王弼の《周易注》、孔穎達の《周易正義》疏、蘇軾の《東坡易伝》、胡広の《周易大全》、来知徳の《周易集注》を参酌している。諸家の及ばなかった箇所や、自説が《本義》と食い違う箇所では、別に己の意見を述べて明らかにしている。おそらく行装の書物が乏しかったため、依拠した参考書はこの数種に限られたのであろう。
其凡例稱解易數千家,未能廣覽,道其實也。然其說,謂易之義蘊不出理數象占。顧數不可顯,理不可窮,故但寄之於象。知象則理數在其中,而占亦可即象而玩,故所解以明象為主。持論多切於人事,無一切言心言天支離幻冥之習。其詮理雖多尊朱子,而不取其卦變之說。取象雖兼採來氏,而不取其錯綜之論。亦頗能掃除轇轕。
彼は凡例の中で、従来《易》を解釈した者は数千家あり、自分は広く披覧できなかった、これは実情を述べたものである。ただし彼の主張は、《易》の義理の内実は「理」「数」「象」「占」の四つに尽きるというものであった。しかし「数」は直接顕すことができず、「理」も言い尽くすことはできないので、聖人はそれらを卦爻の「象」に託したのである。象を知れば理と数はその中にすべて含まれ、占断も象に即して玩味できる。ゆえに彼の注解は卦象を明らかにすることを主としている。立論は多く人事に切実で、ひたすら心や天を語って支離滅裂・虚玄杳冥に陥る風習がない。義理を説くにあたって朱熹を尊崇しつつ、朱熹の「卦変」の説は採らず、取象は来知徳を兼ね採りながら、来氏の「錯卦」「綜卦」の論は採らない――これもまた纏まりのない葛藤をよく掃除したものといえる。
惟卷末所附三十圖,乃其友楊道聲所作。穿鑿煩碎,實與夢雷書不相比附。以原本所載,且說易原有此一家,姑仍其舊存之,置諸不論不議可矣。乾隆四十六年九月恭校上。總篡官臣紀昀、臣陸錫熊、臣孫士毅。總校官臣陸費墀。
ただ巻末に附された三十図は、彼の友人・楊道声の作で、穿鑿附会・煩瑣細碎であり、実に陳夢雷の本書の趣旨とは相伴わない。しかし原本にすでに載っていたものであり、また《易》を解くには元来この一家の説もあるゆえ、しばらく旧来のままに存置し、別に論議しないこととする。乾隆四十六年九月、恭しく校訂して献上する。総纂官:臣・紀昀、臣・陸錫熊、臣・孫士毅。総校官:臣・陸費墀。
周易浅述凡例
一、易之為書,義蘊雖多,大抵理數象占四者盡之。有是理乃有是數,有是數即有是理。六經皆言理,獨易兼言數。顧數不可顯,理不可窮,故但寄之於象。夫子謂立象以盡意,而全彖六爻之傳皆稱象曰,則理數之備於彖可知。故今所註釋,多即其取象之由釋之。蓋知象則理數在其中。且可隨類旁通,不拘於一隅之見。不獨先儒精義可融洽,即時解所稱君臣政教,亦不妨借為設象之觀矣。
その一。《易》という書は、内容は多岐にわたるが、おおむね「理」「数」「象」「占」の四項で言い尽くせる。かかる理があるからかかる数があり、かかる数があるからかかる理がある。六経はいずれも理を説くが、《易》のみが数を兼ねて説く。しかし数は直接示すことができず、理も言い尽くせないため、象に託するほかなかった。孔子が「立象以尽意(象を立てて意を尽くす)」と言い、《彖伝》および六爻の伝文が「象曰」と称するのを見れば、理と数が彖辞の中に備わっていることが分かる。ゆえに本書の注釈は、多くその取象の由来に即して説明する。象を知れば理と数はその中にあるからである。しかも類に従って触類旁通でき、一隅の見に拘束されない。こうすれば前代の儒者の精義を会通できるのみならず、時下の講章が説く君臣・政教の類も、設象の一つの見方として借りても妨げない。
一、有象即有占。本義分龍馬日月之辭為象,吉凶悔吝之辭為占。然占即在象中。蓋龍馬日月之辭,象也,即占也。吉凶悔吝之辭,占也,亦卦爻中有此象也。繫辭傳謂居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占。然必平日審於象,既筮乃明於占。蓋觀象貴能變通,臨筮乃以我所問之事合之所占。自能分其義類,以定可否矣。
その二。象があれば占がある。朱熹の《本義》は龍・馬・日・月の類の辞を「象」に、吉・凶・悔・吝の類の辞を「占」に分けた。しかし占は実は象の中にある。龍・馬・日・月の辞は象であり、同時に占でもあり、吉・凶・悔・吝の辞は占でありながら、実は卦爻に本来そうした象があったからである。《繋辞伝》にいう――平居無事の時は卦象を観察して卦爻辞を玩味し、行動を起こそうとする時は爻変を観察して占断を玩味する。ただし平素から象を明確に審察しておいてこそ、筮占に臨んで占辞を了解できる。観象は変通できることを貴び、筮に臨んでは自らの問う事と占得した卦を合わせて観るので、自ずとそれがどの類の義理に属するかを弁別し、可行か不可かを判定できるのである。
一、是書雖參註疏大全及蘇氏來氏之解,而要以本義為主。亦有本義所云,大全中朱子又存疑義者。則本義尚有朱子未定之解,自宜叅之他家,以求其歸也。間有註疏大全所無,妄附臆見者,必明言與本義異同之故。非敢立異,正以心有未安,又不敢以己見托之先儒,故明言附一知半解,以待高明指摘耳。
その三。本書は王弼注・孔穎達疏・胡広《周易大全》および蘇軾・来知徳の説を参考としたが、主体はあくまで朱熹《本義》を準拠とする。《本義》が断語を下しながら、《大全》では朱熹が別に疑問を存している箇所もある。それは《本義》の中に朱熹自身も定説を得ていない解釈があることを示すので、当然に他説を参酌し、帰着する解を求めるべきである。たまに注疏にも《大全》にも触れられていない所へ私が僭越ながら臆測の見を附する場合は、必ず《本義》との異同の理由を明記した。これは敢えて新奇を標榜するのではなく、実に心に安んぜざる所があったからである。また己の見を前代の儒者に仮託することも敢えてせず、あくまで附した一知半解であると明らかに示して、高明の士の是正を待つのみである。
一、解易數千餘家,未能廣覽。來氏獨於取象最詳。然一卦之中內卦、外卦、二互卦、六爻變卦、變卦中互卦,取象已博。若再錯綜卦取象,亦太泛矣。愚意謂互變猶本卦也,錯綜則已屬意求之。如震為龍,乾亦言龍,正不必過拘也。
その四。《易》を解く者は数千余家あり、私は広く披覧できなかった。その中で来知徳一家のみが取象を最も詳備に説いた。しかし一卦の中にはすでに内卦・外卦・二つの互卦・六爻各々の変卦・および変卦中の互卦があり、取象は十分に広博である。これに「錯卦」「綜卦」を加えて取象するのは、あまりに氾濫に過ぎる。私の個見では、互体と爻変はなお本卦自身から生まれるものといえるが、錯卦・綜卦はすでに刻意して求めたものである。たとえば《震》卦が取象を龍とし、《乾》卦も龍を説くのは、本来その由来の何処からかにこだわり過ぎる必要はない。
一、易之有圖,原列於經首,蓋卦畫在未有經之先也。今所附楊子道聲圖說,則有先後天配合,及方圓卦分合之圖,多後人之論矣。不知圖者,固不得經之原。然不讀全經,亦未能究圖之蘊。故附圖說於後,使人先從誦讀,求其文義,然後探其本原也。
その五。《易》に図を配するのは、本来経文の前に置かれていた。卦画が経文より先に生まれたからである。今附する楊道声先生の図説には、先天・後天を互いに配合するものや方図・円図の分合の類があり、その多くはすでに後人の議論である。図を知らなければ経の本原に達しないのは当然だが、全経を通読しなければ図中の深い蘊奥を窮めることもできない。ゆえに図説を書末に附し、まず経文の諷読から入って文句の義理を得、それから本原を探究させることとした。
一、是書義蘊本之先儒,圖說本之楊子,間皆附以臆見。獨於卦變有疑。凡彖傳言卦變者,程傳本義多異同,朱子亦多存疑。三覆再三,究未得其不易之解。今凡彖傳言卦變者,俱照來氏綜卦言之,於理甚順。故闕卦變之圖,以待異日。
その六。本書の義理は前代の儒者に本づき、図説は楊道声先生に本づき、その間に私自身の臆見を挟んだ。ただ「卦変」一項のみは疑いを存する。《彖伝》に卦変を説く箇所は、程頤《伊川易伝》と朱熹《本義》とで多く食い違いがあり、朱熹自身も多く疑問を存している。私は反復して推し求めたが、ついに移し難い定解を得なかった。今は《彖伝》が卦変を説く箇所をすべて来知徳の「綜卦」によって講釈するのが理に最も順調である。ゆえに本書は卦変の図を欠き、後日の補作に俟つこととした。
一、易之為書,雖理數象占所包者廣,大旨無非扶陽而抑陰,隨時而守正。教人遷善改過,憂勤惕厲,以終其身。學易者苟不悟此,則詮理雖精,探數雖微,觀象雖審,決占雖神,總於身心無當。故所解多於前後總論一卦大意,及逐爻象傳之下,發明聖人言外示人大意。雖未敢謂神明默成之道盡是,然借一二言自儆身心,庶克道聽途說之咎雲。
その七。《易》という書は、理・数・象・占の包摂する範囲は広いが、その大旨はあくまで陽剛を扶け陰柔を抑え、時勢に順応して正道を守り、人に過ちを改め善に遷り・憂勤戒懼せしめて一生を全うさせることに尽きる。《易》を学ぶ者がこの一層を悟らなければ、理を講じて精を極め、数を探って微を尽くし、象を観て審を窮め、占を決して神を致しても、自己の身心にはついに落ち着く所がない。ゆえに本書の解説は、多く各卦の前後に一卦の大意を総論し、および逐爻の《象伝》の下に、聖人が言外に後人を指示する用意を闡発した。敢えて聖人の神明黙契・自然成徳の道理がすべてここに尽きるとは言わないが、一二の言葉を借りて自己の身心を警戒し、あるいは道聴塗説の過失を免れられることを願う。
周易浅述巻一 翰林院編修陳夢雷撰
昔者伏羲氏仰觀於天,俯察於地。近取諸身,遠取諸物。見天下萬有不齊之變,不外由太極而生陰陽。故畫一奇以象陽,畫一偶以象陰,而兩儀具。見一陰一陽有各生一陰一陽之象,故增二畫,而太陽太陰少陽少陰之四象成。疊之為三而三才既備,則天地雷風水火山澤之八卦列。謂之卦者,言懸卦物象以示於人也。八卦既成,則八卦皆可為太極。復生兩儀而十六,四象而三十二,八卦而六十四,而萬物之變盡於斯矣。
昔、伏羲氏は上を仰いで天象を観察し、俯して地理を察し、近くは人の身体に取り、遠くは万物に取った。彼は天下の千差万別の変化が、帰するところすべて「太極」から陰陽が生じるに外ならないことを見た。そこで断たない一画を画いて陽を象徴させ、中断した一画を画いて陰を象徴させ、「両儀」が備わった。また一陰一陽の上にそれぞれ更に一陰一陽を生じ得ることを見て、両儀の上に各々二画を増し、「太陽」「太陰」「少陽」「少陰」の四象が完成した。画を三重に重ねれば、天・地・人の「三才」の構えがすでに備わり、天・地・雷・風・水・火・山・沢の八つの卦象が排列された。これを「卦」と称するのは、物象を懸けて人に示すという意味である。八卦がすでに画かれ、各卦はそれぞれ一つの太極と見なせる。再び両儀を生じれば十六、再び四象を生じれば三十二、再び八卦を生じれば六十四となり、天下万物の変化はここに窮まる。
伏羲雖有六十四卦之畫,而未有文義。至文王始作彖辭,以斷一卦之吉凶。如乾之元亨利貞是也。周公始作爻辭,以占所動之爻之吉凶。如乾初九之潛龍勿用,九二之見龍在田、利見大人者是也。伏羲六十四卦,夏商相承用之,皆有其書。夏曰連山首艮,商曰歸藏首坤,至文王周公則首乾。連山歸藏不傳。今經則文王周公所作,故曰周易也。
伏羲は六十四卦の卦画を画いたが、まだ文字と義解はなかった。周文王に至って初めて「彖辞」を作り、一卦の吉凶を判断するのに用いた。たとえば《乾》卦の「元亨利貞」がそれである。周公に至って初めて「爻辞」を作り、変動した爻の吉凶を占断するのに用いた。たとえば《乾》卦初九の「潜龍勿用」、九二の「見龍在田、利見大人」がそれである。伏羲の六十四卦は夏・商の二代が相承して用い、各々成書があった。夏代のは《連山》といい《艮》卦を首とし、商代のは《帰蔵》といい《坤》卦を首とし、文王・周公に至って初めて《乾》卦を首とした。《連山》《帰蔵》はいずれも伝わらなかった。今日見る経文は文王・周公の作であるので、《周易》と呼ぶ。
易之為字,從日從月,陰陽具矣。易之為義有二。曰交易,陰陽寒暑上下四方之對待是也。曰變易,春夏秋冬循環往來是也。易分上下兩經。上經首乾坤而終坎離,下經首咸恆而終既濟未濟。意義所該者廣,圖說亦發明其略,非以簡帙重大而分也。孔子始作十翼。
「易」の字は、上半は「日」に従い下半は「月」に従い、陰陽がすでに字形に備わっている。「易」の義には二層ある。一つは「交易」で、陰と陽・寒と暑・上と下・四方が互いに対待し通じ合うこと。一つは「変易」で、春夏秋冬が循環往来すること。《易》は上下二経に分かれる。上経は《乾》《坤》で始まり《坎》《離》で収め、下経は《咸》《恒》で始まり《既済》《未済》で収める。この分篇に含まれる意義はかなり広く、書末の図説にもその大概を約略闡発しており、単に簡冊の分量が重いから二分したのではない。孔子に至って初めて「十翼」を作った。
上彖一,下彖二,上象三,下象四,上繫五,下繫六,文言七,說卦八,序卦九,雜卦十。周易上下二篇合孔子十翼凡十二篇。後人以彖傳象傳文言分入諸卦,而上下繫傳及說卦序卦雜卦附於下經之後。故曰易為四聖之書者,此也。
十翼の名目は、《彖伝》上を第一、《彖伝》下を第二、《象伝》上を第三、《象伝》下を第四、《繋辞伝》上を第五、《繋辞伝》下を第六、《文言》を第七、《説卦》を第八、《序卦》を第九、《雑卦》を第十とする。《周易》上下二篇に孔子の十翼を加え、全部で十二篇となる。後人は《彖伝》《象伝》《文言》を析いて各卦の下に分附し、《繋辞》上下伝および《説卦》《序卦》《雑卦》は下経の後に附した。《易》が伏羲・文王・周公・孔子の四聖の合成した書であるというのは、ここに由縁がある。
乾卦
乾。有天地而後萬物生焉。萬物莫尊乎天,周易所以首乾也。其象為天,其卦純陽。健而不息,故其象為天。統言其象占,則有大亨之道而利於正固。就其理析言之,則四德具焉。此全彖之大旨也。
《乾》卦。天地があってこそ万物が生じるが、万物のうち天ほど尊いものはない。《周易》が《乾》を全書の首に置く所以である。その卦象は天、その卦体は純陽である。剛健にして永久に止まないので、象を天に取る。総じてその象と占を言えば、大いに亨る道を具え、正固を守るに利ありであり、分けてその義理を剖析すれば「元」「亨」「利」「貞」の四徳がすべてその中に具わっている。これが全卦の彖辞の大旨である。
卦既純陽,變化不測,故六爻皆取象於龍。具龍德而在上,則居天位以應天,天子之事也。具龍德而在下,則盡天理以順天,學者之事也。生而知之,安而行之,潛見惕躍飛亢各隨其時者,聖人也。觀象玩辭,觀變玩占,固守其潛,積學待見,當惕而惕,當蹊而躍,飛則應時,亢不至悔者,君子也。此六爻之大旨也。
卦体は純陽ゆえ変化の測度が難しく、六爻はいずれも龍を象に取る。龍のような徳性を具えて上位に居れば、それは天子の位に身を置き上は天道に応じる、天子の事である。龍徳を具えて下位に居れば、それは己の受けた天理を尽くして天道に順う、学者の事である。生まれながらに知り、安んじて行い、潜・見・惕・躍・飛・亢が各々居る時に随って動く者は聖人である。卦象を観察して爻辞を玩味し、爻変を観察して占断を玩味し、潜蔵すべき時は潜蔵を堅く守り、学を積むべき時は静かに出現を待ち、戒懼すべき時は戒懼し、躍動すべき時は躍動し、飛騰はまさにその時に合い、亢極に至っても悔いを招かない者は君子である。これが六爻の大旨である。
乾。元亨利貞。三畫皆陽,其卦為乾,其象為天。乾者,健而不息之謂。天體純陽,健而無息。以形體言為天,以主宰言為帝,以性情言謂之乾。下三畫內卦也,上三畫外卦也。六畫皆陽,內外皆乾,乾之純,健之至也。元亨利貞,文王所繫之詞,以斷一卦之吉凶,所謂彖辭者也。元,大也。亨,通也。
《乾》:元・亨・利・貞。三画すべて陽爻であれば、この卦を《乾》といい、その象は天である。「乾」とは、剛健にして止まないという意である。天の本体は純陽で、剛健にして一刻の止息もない。形体に就いては「天」といい、主宰に就いては「帝」といい、性情に就いては「乾」という。下の三画は内卦、上の三画は外卦であり、六画すべて陽で内外ともに乾、これは陽の純粋・健の極致である。「元亨利貞」は文王が卦下に繋いだ辞で、一卦の吉凶を判断するためのもの、いわゆる「彖辞」である。「元」は大、「亨」は通である。
利,宜也。貞,正而固也。六奇純陽,有元氣渾淪無所不包,而發生暢茂,各得其宜,皆歸於至正之象。學易者筮得此卦而六爻不變,則占當得大通,而必利在正固,以保其終也。按,大全謂諸家解元亨利貞皆作四德,獨本義作占辭,然惟理如是,則數亦如是,見於象占亦如是。經言四德,就其理析言之也,本義則就其象斷其占,為體易者言之。其意亦並行不悖也。
「利」は適宜、「貞」は端正にして堅固である。六本の陽画は純陽の気であって、元気が渾然と一片に融け合い、包まない物のない、万物の発生が暢茂し各々その宜を得、最終に皆極正に帰る卦象がある。《易》を学ぶ者がこの卦を筮得して六爻いずれも変わらなければ、占断は大いに通達すべきであるが、必ず正を守り固くするに利あってこそ、その結末を保全できる。按に、胡広《周易大全》にいう――各家の「元亨利貞」の解釈は皆四徳と見なすが、朱熹《本義》のみが占辞と見なす。実は理がかくのごとくであれば、数もかくのごとくであり、象と占に表れるのも同様である。経文が四徳を説くのはその義理を分かち剖析するのであり、《本義》はその卦象に就いて占辞を断定したもので、《易》を実用する者のための説である。両家の用意は本来並行して相背かない。
初九。潛龍勿用。凡畫卦自下而上,故下爻為初。按,本義大全凡揲筮得三奇,則所餘三十六策,合四九之數為老陽。得二偶一奇,則所餘二十八策,合四七之數為少陽。老變而少不變,故陽爻稱九。按,來注引繫辭參天兩地而倚數。謂參天者,天之三位,天一天三天五也。兩地者,地之二位,地二地四也。
初九:潜龍勿用。およそ卦を画くは下から上へ画くので、最下の爻を「初」という。按に、朱熹《本義》と胡広《大全》にいう――蓍を揲えて爻を求め、三変がいずれも奇数を得れば残りの蓍策は三十六本、四乘九の数に合し「老陽」に属する。両偶一奇を得れば残りは二十八本、四乘七の数に合し「少陽」に属する。老陽は変じるべく少陽は変ぜず、ゆえに陽爻は一律に「九」と称する。また按に、来知徳の注は《繋辞伝》の「参天両地而倚数」を引いて解く。いわゆる「参天」とは天数の三つの位次、すなわち天一・天三・天五であり、いわゆる「両地」とは地数の二つの位次、すなわち地二・地四である。
倚者,依也。天一依天三,天三依天五而為九。所以陽皆言九。地二依地四而為六,所以陰皆言六。取生數不取成數,此說亦可參用。龍八十一鱗,九九之數。變化不測,純陽之物。故諸爻皆取象於龍。初陽在下,故有潛龍之象。此時未可有為,故有勿用之象。勿用雖戒占者之辭,實卦爻中有此象也。
いわゆる「倚」とは依託することである。天一は天三に依り、天三はまた天五に依り、累加して九を成すので、陽爻は皆「九」と称する。地二は地四に依って六を成すので、陰爻は皆「六」と称する。これは一から五の「生数」のみを取り、六から十の「成数」を取らない説で、この説も併せ参用できる。龍の身には八十一片の鱗があり、まさに九乘九の数であり、変化が測り難く純陽の物であるゆえ、六爻は皆龍に象を取る。初九は陽爻が最下に処するので「潜龍」の象があり、この時はまだ為す所がないので「勿用」の象がある。「勿用」は占者を誡める言葉ではあるが、実は卦爻の中に本来このような象があるのである。
九二。見龍在田。利見大人。二,自下而上第二爻也。後仿此。出潛離隱,故有見龍之象。澤能及物,猶田之得雨,耕穫有功,故有在田之象。雖非君位,而在下卦之中,有君之德,故有大人象。澤能及物,故有物所利見之象。占者得此,則利見此人。若占者有見龍之德,則可以得君行道,利見九五在上之大人矣。
九二:龍が田に現れ、大人に見るに利あり。「二」とは下から上へ数えた第二爻で、以下の各爻もこれに準じる。この爻はすでに潜伏を脱し隠れた処を離れたので、「見龍」(龍が姿を現した)の象がある。恩沢が万物に及び、ちょうど田が雨を得て耕作・収穫ともに功を奏するがごときゆえ、「在田」の象がある。九二は君位にないが、下卦の中位に処して君たる徳性を具えているので「大人」の象があり、恩沢が物に及ぶので衆人に喜んで見られる象がある。占者がこの爻を得れば、かかる大人に見るに利あり。もし占者自身が見龍の徳を具えていれば、君主の知遇を得て己の道を推行し、上位に居る九五の大人に見るに利がある。
九三。君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎。九,陽爻。三,陽位。在下卦之上,重剛而不中,乃危地也。六爻取象三才,則三為人位。故不取象於龍,而稱君子。處危地而以學問自修,君子之事,非可言龍也。三,下乾終而上乾繼,故其性體剛鍵,有朝乾乾自惕之象。若者,擬議之辭。三居下卦之終,故言終日。夕亦日之終也。
九三:君子は一日中勤勉して懈らず、夜に至ってもなお警惕し、処境は危険なれど過ちはない。「九」は陽爻を示し、「三」は陽位である。陽爻が陽位に居りしかも下卦の最上の爻に処し、剛に剛を重ねて中位にあらず――これは険地である。六爻は天・地・人の「三才」に象を取り、第三爻は人位に属するので、ここでは龍を象に取らず「君子」と称する――険地に身を置きながら学問をもって自らを修めるのが君子の分内の事であり、もはや龍で言うべきではない。第三爻はちょうど下卦の乾が終わり上卦の乾が続く境界に当たるので、その性体は剛健で、朝から晩まで勤勉して自ら警める象がある。「若」は擬議・推度を表す語助詞である。九三は下卦の末位に居るので「終日」といい、「夕」もまた一日の末尾である。
終日乾乾,自始至終,無日不戒懼也。夕又惕若,自晝至夜,無時不戒懼也。重剛不中,所處危地,有厲象。雖處危地,而剛健得正,自修不息,有雖危無咎之象。凡言無咎者,本皆可致咎,善處之,故咎可無也。程傳擬舜之玄德升聞,時解作相臣憂勤任重。不必泥。
「終日乾乾」とは、始めから終わりまで戒懼しない日がないということであり、「夕惕若」とは昼から夜まで戒懼しない刻がないということである。剛に剛を重ねて中にあらず、居る所はまた険地なので「厲」(危険)の象がある。険地に身を置きながら剛健にして正位を得、自修やまないので、危ういが咎なしの象がある。およそ《易》に「无咎」というのは、本来咎害を招きうる処境であり、ただ善く応対するがゆえに咎害が免れるのである。程頤《伊川易伝》はこの爻を、舜の潜徳が朝に上聞した時に比し、時下の講章は宰輔の大臣が憂労勤勉して重任を負うと解する。これらの比喩はいずれも死守する必要はない。
九四。或躍在淵,無咎。九陽四陰,在上卦之下,或者,疑而未定之辭。進退之際,無適無莫,無可不可。人不能測,故以或言之。淵者,上空下洞,深昧不測。龍之所棲也。淵雖卑于田,然田非龍所居。在田則下於地,淵正龍所從變化之處。
九四:あるいは躍り起き、あるいはなお淵に在り、咎なし。九は陽爻で四は陰位、また上卦の最下の爻に処する。「或」は遅疑未定を表す詞である。進と退の間にあって、ひたすら親附するでもなく、ひたすら排斥するでもなく、可といっても不可といってもよく、他人が測る由もないので「或」の字をもって言う。いわゆる「淵」とは、上は空濶にして下は幽深、昏冥にして測り難い水府で、まさに龍の棲息する所である。深淵は田よりもさらに低下だが、田は本来龍の居るべき所ではない。田に在れば地面の下に落ちたことになり、深淵こそまさに龍がこれに拠って変化し騰起する処である。
躍則已離於地而將向於天矣。九,陽動,故有躍象。四,陰虛,故有淵象。以陽居陰,居上之下。又變巽為進退為不果。有進退未定,可上可下,能隨時進退,則可無咎之象。乾至健知險,六爻皆不言吉。而險莫如三四,故善處之,僅可無咎而已。程傳擬舜之歷試諸艱,胡氏擬之儲貳。皆存而不可泥也。
一旦騰躍すれば、すでに地面を離れて天へ飛ぼうとする。九は陽で動を主るので「躍」の象があり、四は陰で虚を主るので「淵」の象がある。陽爻をもって陰位に居り、また上卦の最下に処し、加えてこの爻が変ずれば下卦は《巽》を成し、《巽》は《説卦》で進退と猶疑不果を主るので、進退未定・可上可下・時機に随って進退しゆえに咎を免れる象がある。《乾》卦は極めて剛健であり、まさに剛健ゆえに険難を知ることができるので、六爻は皆「吉」と言わない。そして険難は第三・第四の両爻を最も甚だしいとするので、善く自処しても「无咎」を為すに過ぎない。程頤《伊川易伝》はこの爻を舜が種々の艱難の試練を経たことに比し、胡広の一派は儲君太子に比する。これらの説は並存させてよいが、拘泥する必要はない。
九五。飛龍在天,利見大人。易卦皆以五為君位,以其居上卦之中也。上雖尊而過乎中,則擬之賓師矣。卦體純陽,剛健也。以陽居中,中正也。純陽居上之中而得正,有飛龍在天之象。居上之中,人所共仰,有利見大人之象。二與五皆剛健中正,而五居尊位。以聖人之德居天子之位,故萬人樂得而見之。即文言所謂聖人作而萬物覩也。然使有德位者占此,則所利見者九二在下之大人,如堯之得舜可也。
九五:龍が天に飛騰し、大人に見るに利あり。《易》の各卦は第五爻を君位とする。上卦の中位に居るからである。上九はさらに尊いが、すでに中位を越えたので、賓客・師傅の類の身分に比するほかない。《乾》の卦体は純陽なので剛健であり、陽爻をもって中位に居るので中正である。純陽の爻が上卦の中に居ってまた正位を得るゆえ「飛龍在天」の象があり、上卦の中位に処して衆人が共に仰ぐゆえ「利見大人」の象がある。九二と九五はいずれも剛健中正だが、九五はさらに尊位に居る――聖人の徳性をもって天子の位に坐るので、万民は皆彼に見るを楽しむ。すなわち《文言》にいう「聖人興りて万物瞻仰する」である。ただし、もしもとより徳と位を有する人がこの爻を占したなら、彼が見るに利ある相手は下位に居る九二のような大人であり、たとえば堯が舜を得たようなものである。
上九。亢龍有悔。上者,最上一爻之名。亢者,過於上而不能下。龍由潛而見而躍而飛,至秋分又蟄於淵,知進退者也。過此不蟄則亢矣。五者,位之極。中正者,得時之極。過此則為亢矣。陽極於上,有龍之過亢而動必有悔之象。唯聖人知進退存亡,乃可免也。凡言有者,非必然之辭。曰有悔,亦自有無悔之道可知。
上九:龍が高く昇り過ぎて悔いがあるであろう。「上」は最上の爻の名称である。「亢」は高く昇り過ぎて再び下りられないことである。龍は潜伏から出現へ、騰躍から飛翔へ、秋分に至ってまた深淵に蟄伏する――これは進退を知る者である。もし時を過ぎてもなお蟄伏しなければ「亢」となる。爻位に就いて言えば九五はすでに位次の極であり、時機に就いて言えば中正はすでに得時の極であり、この一歩を越えれば亢である。陽気は上爻に至って極に達したので、龍が高く昇り過ぎて一動すれば必ず悔恨を生じる象がある。ただ聖人のみが進と退・存と亡の分際を知ってこれを免れる。およそ《易》に「有」と言うのは必然にそうなるという断語ではなく、「有悔」と言えば、反して本来悔いに至らない道があることも分かる。
用九。見群龍無道,吉。九變而七不變。凡筮得陽爻皆用九,而獨乾稱用九。蓋他卦不純陽,獨乾之六爻皆變,則純陽為陰,所用皆九矣。人為勢位所移,為才氣所使,是為九所用,非能用九者。因時變化,無適無莫,故獨稱用九。坤之用六仿此。六爻皆動,有群龍象。陽皆變陰,不以剛為物。先剛而能柔,有群龍無首象。龍未嘗無首而首不可見,善藏其用者,吉之道也。六爻皆不言吉,獨此言吉,聖人不恃剛也如此。
用九:群龍が現れて首領と自らせず、吉。(底本はこの句を「无道」と作るが、注文と通行本は皆「无首」と作る。)老陽の九は変じて少陽の七は変ぜず。およそ筮占で陽爻を得れば皆「九」で称するのに、ただ《乾》卦のみが別に「用九」の一条を立てる。他の卦は純陽ではなく、《乾》卦のみが六爻全て変じ、純陽が全て陰に化するので、用いるのは全て九となるからである。人が権勢地位に引かれ、才気・脾性に駆られるのは、「九」に用いられるのであって「用九」できる者ではない。時機に随って変化し、親附に偏執せず排斥に偏執せずしてこそ「用九」と称するに足る。《坤》卦の「用六」もこれに準じる。六爻が全て動くので「群龍」の象があり、陽が全て陰に変じて剛強をもって物に当たらなくなり、本は剛強にして能く柔順に転ずるので「群龍无首」の象がある。龍は本当に頭がないのではなく、頭を蔵して見えないだけである――己の作用を善く収蔵することこそ吉を得る道である。《乾》卦の六爻は皆「吉」と言わないのに、ただここで吉と言うのは、聖人が剛強に倚らないことがここに至っていると見える。
乾卦彖伝
彖曰。大哉乾元,萬物資始,乃統天。彖即文王所繫元亨利貞之辭。彖曰以下謂之彖傳,孔子所以釋彖辭也。彖,獸名,豕形而有六牙。卦有六爻,彖則總六爻之義,故以為名焉。彖傳以天道明乾義,又析元亨利貞四德而言聖人之法天。此一節首釋元義也。
《彖伝》にいう。大いなるかな乾の元気、万物は皆これに依って始まり、これは天道全体を統領する。いわゆる「彖」とは文王が卦下に繋いだ「元亨利貞」の辞であり、「彖曰」以下を《彖伝》と称し、孔子が彖辞を解釈したものである。「彖」は本来獣の名で、形は猪に似て六枚の牙を持つ。一卦に六爻があり、彖辞は六爻の義理を総括するので、この字を借りて名づけた。《彖伝》は天道をもって《乾》卦の義理を闡明し、また「元亨利貞」の四徳を剖け分けて、聖人がいかに天に取法するかを説く。この節はまず「元」の字の義を釈する。
卦以陽為大,陰為小。六爻純陽,故曰大哉,讚歎之也。元字兼大始二義。大者,無所不包,物莫有外者。始者,無所不達,物莫有先者。元之為德不可見也。可見者,物之資始而已。天以生物為心,而物之生必有所始,乾元實能資之。既資以始,即資以終。自始而終,終而復始,皆一元生意貫徹其間,是能統乎天也。資始者,無物不有。統天者,無時不然。此乾元之所以大也。
《易》の例は陽を大とし陰を小とする。《乾》卦の六爻は純粋に陽なので「大哉」と言い、これは讃嘆の辞である。「元」の字は「大」と「始」の二層の意を兼ねる。「大」と言うのは包まないものがなく一物もその外にないからであり、「始」と言うのは到らない所がなく一物もそれに先んじないからである。元は一つの徳性としてそれ自体は見えず、見えるのは万物がこれに凭って開端するのみである。天は万物を生養するを心とし、万物の生には必ず開端があり、乾元が実にこの開端を供給した。開端を供給した以上、一路終結まで供給し、始から終へ、終の後また再び始まるまで、皆この同一の元気の生意が其間に貫き通る。ゆえに天を統領すると言える。「資始」とはこれに資始せられない物がないことであり、「統天」とは一刻もそうでない時がないことである――これが乾元の大たる所以である。
雲行雨施,品物流形。此釋乾之亨也。既資其始,自然亨通。元氣薰蒸,油然雲行。淋漓布獲,沛然雨施。資始之初,渾淪未辨,故曰萬物。此則形質可別,故曰品物。流者,川流不息。形者,明白不紊。所謂亨也。經未言亨字。然雲行雨施氣之亨,品物流形物之亨也。
雲気が運行し雨水が降れば、各種の物が流動して形を成す。この節は《乾》卦の「亨」を釈する。万物が乾元に凭って開端した以上、自然に亨通に向かう。元気が蒸騰鬱積すれば雲は自ずと行き、水気が淋漓遍満すれば雨は盛大に降る。資始の最初は一切が渾然として未分なので上文は「万物」と言い、ここに至ってはすでに形体の質が分弁できるので「品物」(分門別類の物)と言う。「流」は河水のごとく流れて息まず、「形」は各々分明にして錯乱しない。これがいわゆる「亨」である。経文自体に「亨」の字は現れないが、雲行雨施は気の亨通であり、品物流形は物の亨通である。
大明終始,六位時成,時乘六龍以御天。此言聖人體天之元亨也。始即元,終即貞。不貞無以為元,不終無以為始。故曰終始。來注以終為上爻,始為初爻,引繫辭原始要終。亦可兼用,蓋六爻即有元貞之義也。
始と終の道理を透徹に明らめれば、六つの爻位が各々その時に按じて成就し、聖人は時に順ってこの六条の龍を駕御して天道を統御する。これは聖人が天の「元亨」を体現することを説く。「始」はすなわち元、「終」はすなわち貞である。貞の収斂なくして再び元の開端はなく、終結なくして開始もないので、合わせて「終始」という。来知徳の注は「終」を上爻と解し「始」を初爻と解し、《繋辞伝》の「原始要終」を引いて拠り所とする。この説も兼用できる。六爻はもともと元と貞の意を含んでいるからである。
大明之者,深知其所以然之故也。六位即六爻潛見惕躍飛亢之位。位隨其時,皆有一定而不可易,故曰時成。成者,位自成。垂者,聖人垂之。既曰六位,又言六龍者。位有一定,因時變化,與之咸宜者,聖人也,故曰時垂六龍。
いわゆる「大明」とは、事がかくある所以の由縁を深く知ることである。「六位」とは六爻の潜・見・惕・躍・飛・亢の六つの位次である。位次は時機に随って定まり、各々固定して移し難い分際があるので「時成」という。「成」は位次が自ずと成就することであり、「乗」(本書は「垂」と作る)は聖人が自ら能動的にそれを駕御することである。上文はすでに「六位」と言い、ここでまた「六龍」と言うのは、位次は固定しているが、時機に随って変化し各時位と相宜しく合うことができる者は聖人のみなので、「時乗六龍」と言うのである。
不曰行天道,而曰御天者。與時偕宜,造化在我,猶控御之也。言聖人大明乾道之終始,見卦之六位各以時成,而能因時變化以合乎天,則聖人即天矣。六位已兼利貞,而謂聖人之元亨者。言其功業作用,未及其究竟也。
「行天道」と言わず「御天」と言うのは、聖人が時機と共に宜しさを得て、造化の権があたかも自らの手に操られているがごとく、車を駕し轡を控えるに似ているからである。これは言う――聖人が乾道の終と始を透徹に明らめ、一卦の六位が各々その時に按じて成就するのを看清し、しかも時機に随って変化して天に合うならば、聖人は天と合一したのである。六位はもともと「利」「貞」をも併せ含んでいるが、ここではなお聖人の体天の「元亨」に算入するのは、この句が説くのはなお彼の功業の施展作用であって、最後の帰宿にまだ及んでいないからである。
乾道變化,各正性命,保合太和,乃利貞。此釋利貞之義也。乾道即乾元之道。變者,化之漸。化者,變之成。萬物由變而化也。各正者,不相混淆,無偏也。物所受為性,天所賦為命。保者,存而不失。合者,聚而不散。太和,陰陽會合,沖和之氣也。
乾道が運転変化して、万物をして各々その本性と天命を正しくせしめ、至極の沖和の気を保守凝聚する。これが「利」と「貞」である。この節は「利貞」の義を釈する。「乾道」とは乾元の道である。「変」は漸じて化すること、「化」は変が成に至ることであり、万物は皆漸変を経て後に転化を完成する。「各正」とは彼此相混ざらず各々偏失なきことであり、物が禀受したものを「性」といい、天が賦与するものを「命」という。「保」は存して失わないこと、「合」は聚めて散らさないことであり、「太和」とは陰陽が交会融合して成る、あの冲虚和平の気である。
各正者,得於有生之初,萬物各具一元也。保合者,全於有生之後,萬物統會一元也。乾道由變而化,萬物華者向實,生理各足無偏,此利也。太和元氣,保全凝合,又含將來生意,此貞也。各正性命言理,而氣在其中。保合太和言氣,而理在其中。然皆元之所為,此元之所以統天也。
「各正」は生命あるの刻に得たもので、万物は各々一つの元を具足する。「保合」は生命ある後に保全されたもので、万物はまた共に同一の元に匯帰する。乾道は漸変によって転化を完成し、万物は開花から結実に向かい、各々の生理が充足して偏欠なき――これが「利」である。あの太和の元気が保全凝聚され、その中にまた将来再生発する生意を含む――これが「貞」である。「各正性命」は理の上から言うのであって気がその中にあり、「保合太和」は気の上から言うのであって理がその中にある。しかるにこれらは皆元の為す事であり、これこそ元が天を統領しうる所以である。
首出庶物,萬國咸寧。此言聖人體天之利貞也。首出庶物,聰明睿智出乎庶物之上。以君臨天下,猶乾道之變化也。乃恭已無為,而四海各遂其生,各復其性,猶萬物之各正性命而保合太和也。此聖人功業成就究竟,故謂之利貞。
聖人が衆人の上に超出して首位に居れば、天下万国は皆安寧を得る。これは聖人が天の「利貞」を体現することを説く。「首出庶物」とは、彼の聡明叡智が衆人の上に超出し、君主の身分をもって天下を治めることで、ちょうど乾道の運転変化のごとし。ここにおいて彼はただ恭敬に身を持するのみで事事に有為する必要はなく、四海の内の百姓は各々その生養を実現し各々その本性に回復する。ちょうど万物が各々性命を正しくし太和を保合するがごとし。これは聖人の功業の最終の成就なので、「利貞」と称するのである。
又按,古本大明終始節在利貞之下,首出庶物之前。則聖人體天之元亨,與體天之利貞,不必分屬,尤為渾融。大抵彖傳以乾備四德,而要以元氣流行無間,發生萬物。聖人備四德,亦體元出治,以致太平。此聖人得天位,行天道,致太平之占。而占者得之,亦隨其所處時位論之,不必拘也。
また按ずるに、古本《周易》は「大明終始」の一節を「乃利貞」の下・「首出庶物」の前に排す。そのような次序によれば、聖人が天の元亨を体現することと天の利貞を体現することは分割帰属する必要がなく、読んでさらに渾然融貫する。総じて言えば、《彖伝》は《乾》卦が四徳を具えると説き、帰結点は元気の流行に間断なく、以て万物を発生せしめるにあり、聖人が四徳を具えるのもまたこの元気を体察して出でて世を治め、以て太平を達成する。この一段が説くのは、聖人が天子の位を得て天道を施行し太平を成就する占象である。普通の占者がこの卦を得たなら、また自らの処する時と位に按じて論断すべきで、聖人に死に物狂いで当てはめる必要はない。
乾卦象伝
象曰。天行健。君子以自強不息。書不盡言,言不盡意,故聖人立象以盡意。卦之上下兩象,伏羲所取。六爻之象,周公所繫也。此節謂之大象,孔子作傳,以釋伏羲所取之象也。潛龍以下,謂之小象,孔子作傳,以釋周公所取之象也。
《象伝》にいう。天の運行は剛健にして已まず、君子はこれに取法して自ら奮発して永久に止息しない。文字は言おうとすることを尽くせず、話し言葉は心の意を尽くせないので、聖人は卦象を立てて意を周全に表した。一卦の上下二つの経卦の象は伏羲が取り、六爻各々の象は周公が繋げた。「天行健」の一節を「大象」と称し、孔子が作伝して伏羲の取った卦象を釈し、「潜龍勿用、陽在下也」以下を「小象」と称し、孔子が作伝して周公の取った爻象を釈した。
上下卦有重義,天則一而已。但言天之行,則今日一周,明日又一周,至健之象也。以,用也。君子體易而用之,常存天理。不以人慾害其天德之剛,則自強不息。若間以一念之私則息矣。凡大象之傳,皆夫子所自取,故與卦爻不相屬。行健者,在天之乾。不息者,在我之乾。上句以卦言,下句以人事言。他卦仿此。
他の卦は上下二経卦が相重なると「重」と言えるが、天は一つしかなく二重と言うべくもないので、ここではただ天の運行を言う。今日も一周を巡り明日もまた一周を巡る――これはまさに剛健の極点の象である。「以」は用いるの意。君子は《易》理を体察してこれを運用し、常に天理を心に存し、人欲に天賦の剛徳を損なわせず、ここにおいて自強不息できる。もし中間に一念の私心を挟めば、この健行の勢いは断たれる。およそ大象の伝文は皆孔子が自ら別に取った意なので、卦辞・爻辞と相連属しない。「行健」は天上の乾であり、「不息」は我が身上の乾である。上句は卦象に就いて言い、下句は人事に就いて言う。他の各卦の大象も皆これに準じて推す。
潛龍勿用,陽在下也。自此至用九,夫子小象之傳,以釋周公取象之意也。陽謂九。初爻在下,陽氣在下。君子處微,未可以有為也。聖人於乾之初,憂其在下。於坤之初,慮其始凝。已有扶陽抑陰之意。
「潜龍勿用」とは、陽気がなお下にあるからである。ここから「用九」の一段まで、皆孔子の作った小象伝で、周公が象を取った用意を釈する。「陽」とはすなわち九を指す。初爻は位が最下に居り、陽気がなお下位にあることを示す。君子はこの時処境微弱で、まだ為すべき所がない。聖人は《乾》卦の初爻に対し、その陽気がなお下にあることを憂い、《坤》卦の初爻に対してはその陰気が方に凝結し始めることを憂う――この一つの対照から、すでに陽剛を扶助し陰柔を抑制する用意が見える。
見龍在田,德施普也。德即剛健中正之德。二雖未得位,而德化足以及物,所施普矣。終日乾乾,反復道也。反覆,往來進退動止必合乎道也。下乾已盡,上乾復來。乾而復乾,無他途轍。猶云反反覆覆,只在這條路也。二德及於人。三惟道修於己,以所處危地也。
「見龍在田」とは、徳沢の施与がすでに普遍したことを言う。ここにいう「徳」とは剛健中正の徳である。九二はまだ君位を得ていないが、その徳化はすでに万物に影響を及ぼすに足り、施与する所は自ずと普遍する。「終日乾乾」とは、反復して道上を行くことを言う。いわゆる「反復」とは、往来・進退・動静が必ず道に合することである。下卦の乾がちょうど走り終われば上卦の乾がまた続いて来る。乾してまた乾し、別に第二条の径路はない。譬えていえば反反復復、始終ただこの一条の道上を行くのである。九二は徳沢を他人に施し及ぼし、九三はただ道理を自らの身に修養する。彼が処するのは険地だからである。
或躍在淵,進無咎也。量可而進,適其時則無咎。增一進字,以斷其疑也。飛龍在天,大人造也。造,作也。聖人興起,在天子位也。此釋飛龍在天。至同聲相應節,乃言利見大人。亢龍有悔,盈不可久也。乾之上九,陽之盈也。盈則必消不可久,致悔之由。人知其不可久,防於未亢之先,則有悔者無悔矣。防其亢者,復返於潛而已。
「或躍在淵」とは、進取して咎なきことを言う。可行を衡量してこそ前進し、その時に正しく合えば咎はない。爻辞は本来含糊に「或」と言うが、象伝は特意に「進」の一字を添えて、それが為に疑慮を判定したのである。「飛龍在天」とは大人の興起を言う。「造」とはすなわち興作で、聖人が奮起して天子の位に登ることを指す。この句は「飛龍在天」のみを釈し、「利見大人」に至っては《文言》の「同声相応」の節に至ってこそ講する。「亢龍有悔」とは盈満が久しくあらざるによる。《乾》卦の上九は陽気の盈満である。盈満は必ず消退を要し持久できず、まさにこれが悔恨を招く由縁である。人がその久しくあらざるを知り、まだ亢極しない前に防備を加えれば、本は悔いある者も悔いなしとなる。そして亢極を防ぐ法は、ただ再び「潜」に回帰するに過ぎない。
用九,天德不可為首也。天德即乾道。陽剛天德,不可為物先。群龍無首,用九之象。不可為首,為人之用九者言也。然惟其不可為首,所以能首出庶物。蓋乾本為萬物之所資始,已具首出之德。而物極必變,善體乾者,剛而能柔,謙卑遜順,不為天下先,故曰不可為首。非於乾有所不足也。
「用九」とは、天が賦した剛徳をもって衆物に先んじて頭となるべからずということである。「天徳」とはすなわち乾道である。陽剛は天賦の徳だが、これをもって先を争うべからず。「群龍无首」はまさに用九の卦象であり、「不可為首」はこの「九」を実際に運用する人に対して言うものである。しかるに彼が先を争って頭となることを肯んじないからこそ、かえって衆人に超出して首位に居ることができる。乾はもともと万物が凭って始まる根源であり、すでに「首出」の徳性を具えていることを知るべきである。ただ物は極まれば必ず反するので、乾道を善く体する者は、剛強にして能く柔順に転じ、謙卑退譲して天下の先となるを肯んじない。ゆえに「不可為首」という――これは乾自体に何か足りない所があると言うのではない。
乾卦文言
文言曰。元者,善之長也。亨者,嘉之會也。利者,義之和也。貞者,事之幹也。他卦彖象,作傳而已。獨乾坤為諸卦之父母,故夫子更設文言,以畫二卦之蘊。依文以言其理,故曰文言,又為有文之言詞也。此乃釋元亨利貞為四德者字也。字,夫子悠然有會於其妙而讚歎之,非詮解之詞。
《文言》にいう。元は衆善の首長であり、亨は衆美の聚会であり、利は義理の和洽であり、貞は事の主幹である。他の卦は孔子が《彖伝》《象伝》を作るのみで足したが、ただ《乾》《坤》の二卦は六十四卦の父母なので、孔子は別に《文言》を立ててこの二卦の底蘊を刻み出した。経文に依ってその道理を闡説するので「文言」と言い、また文采斐然たる言辞の意をも含む。この数句はまさに「元亨利貞」を四徳と釈する文字である。これらの文字は、孔子が悠然としてその中の妙処に会得し発した讃嘆であって、字ごとに訓詁する解説ではない。
元者,生物之始。天地之德,渾涵於此。於時為春,於人為仁。四時之運,皆此元氣周流。義禮智之善,皆從此生生,惻怛之心發端,故曰善之長也。亨者,生物之通。物至於此莫不嘉美。於時為夏,於人為禮。萬物至夏發生暢茂。一物如此,萬物無不如此。眾美之物無不會聚,故曰嘉之會也。
「元」は万物を生養する開端であり、天地の徳性が渾然としてここに包涵されている。時令に配すれば春であり、人心に配すれば「仁」である。四季の運行は全てこの元気が周流不息するに依り、義・礼・智の善端も皆ここから生々已まず、惻隠怛傷の心から発端する。ゆえに「善之長」(衆善の首領)という。「亨」は万物を生養する通達であり、万物はこの歩みに至って美しくないものがない。時令に配すれば夏であり、人事に配すれば「礼」である。万物は夏に至って生発暢茂し、一物がしかれば万物もしかならざるはなく、種種の美好の物は聚まらない所がない。ゆえに「嘉之会」(衆美の聚合)という。
利者,生物之遂。物各得宜,不相妨害。於時為秋,秋於人為義。秋氣嚴肅,義也。然無此氣,不能各遂其生。人人親其親長其長,義也。即此便和,所以為利。若不親其親而親他人之親,至於不和,又安有利。不於利上求利,義之和處便是利。蓋處置得宜,不逆於物,利莫大焉者也。
「利」は万物を生養する成遂であり、万物が各々適宜の分際を得て彼此相妨害しない。時令に配すれば秋であり、人事に配すれば「義」である。秋気は厳厳しく粛殺し、まさに義の姿である。しかしこの気がなければ、万物もまた各々その生を成遂できない。人々がおのが父母を親愛しおのが長上を尊敬する――これが義であり、こうなれば彼此は和洽するので「利」と称する。反して、おのが父母を親愛せずして他人の父母を親愛して人情不和に至れば、またどこに利があろう。見れば知るべし、「利」の上に利を求めるべからず――義がその和洽を得れば、それがすなわち利である。およそ処置が当を得て事物の情に違逆しなければ、これより大きな利はない。
貞者,生物之成。實理具備,隨在各足。於時為冬,於人為智。萬物至冬收斂完固,實理充足。故貞下起元,來歲復能發生。人之有知,見理既明。知而弗去,靈明內涵,萬變由我。猶木之有乾,枝葉從此以生也。此節發明乾之四德,天理之自然也。下節乃言君子體乾之學,人事之當然也。
「貞」は万物を生養する完成であり、真実の理が全く具備して随所に自足して欠けない。時令に配すれば冬であり、人事に配すれば「智」である。万物は冬に至って収斂堅固となり、真実の理が充盈飽満するので、「貞」は尽きてまた「元」を生じ、来年に再び発生しうる。人に智があれば理を見ることすでに明らかであり、明らかにした後にまた守って放さず、霊明を心に内蔵して千変万化は皆我に主あり――たとえば樹木に主幹があれば枝葉はここから生ずるがごとし。この節は《乾》卦の四徳を闡発して天理の自然たる様を説くのであり、次の節に至ってこそ君子が乾道を体察する学問を説き、人事上当然かくあるべき道理を説くのである。
君子體仁,足以長人。嘉會,足以合體。利物,足以和義。貞固,足以幹事。體仁,以身法天地生物之心。所存所發無不在是。全體皆仁,無一物不在所愛。有君長之道,故足以長人。嘉會,本義曰嘉其所會。謂眾美畢集,動容周旋,無不盡善。不失之過,不失之不及,故曰合禮。義,體嚴而用和。君子使天下君君臣臣父父子子,各得所利。情既相安,分乃不凟,故義無不和。貞固者,真知理之正而固守之。凡事從此立矣,故曰足以幹事。
君子が仁を自身に体すれば、衆人の首長と為るに足り、衆美を聚会せしめれば礼に合するに足り(底本の経文は「合体」と作るが、注文と通行本は「合礼」と作る)、万物をして各々その利を得せしめれば義理を和するに足り、正を守りて固ければ事を幹らげるに足る。いわゆる「体仁」とは、己の身心をもって天地の万物を生養する心に效法し、およそ心に存し外に発する所は皆この上にあり、身心全体が仁であって愛の範囲に入らない物がない――ここに君長たるの道理があるので、衆人の首長と為るに足る。いわゆる「嘉会」とは、朱熹《本義》は「その会する所を以て美と為す」と解す。すなわち衆美が斉しく集い、一挙一動・周旋応対に尽善ならざるなく、過分でも欠缺でもない。ゆえに礼に合するという。義というものは、本体は厳粛にして作用は和洽である。君子は天下の君をして君たらしめ、臣をして臣たらしめ、父をして父たらしめ、子をして子たらしめ、各々得るべき利を得せしめ、情分は既に相安らぎ名分はまた褻されず、ゆえに義は和洽せざるなし。いわゆる「貞固」とは、道理の正なるを真実に認清して牢牢と守ることである。凡事皆ここに由って根基を立定するので、事を幹らげるに足るという。
君子行此四德者,故曰乾,元亨利貞。天行健而四德備。君子亦體天之健以行四德。君子之乾也。四德,人所同具。唯君子能自強不息以法乎乾,乃能行之。故言元亨利貞,必先以乾也。自元者善之長至此,皆以申明彖傳之意。然下文申明彖傳皆係以子曰,此則否者。疑古人已有其辭,故左傳穆姜嘗稱引之,夫子亦有取焉者也。
君子はこの四つの徳を行う。ゆえに「乾:元亨利貞」という。天は運行剛健にして四徳斉しく備わり、君子もまた天の剛健を体察して四徳を行う。これが君子身上の乾である。四徳は人人が共に具えるが、ただ君子のみが自強息まずして乾に效法し、真に之を為すことができる。ゆえに「元亨利貞」を講ずるに前に必ず「乾」の一字を冠する。「元者善之長」からここまで、皆《彖伝》の意を申説するものである。ただ下文が《彖伝》を申説する各段は皆「子曰」を冠するのに、ただこの一段のみ冠しない。おそらく古人にすでにこの説法があったのであろう――《左伝》に魯の穆姜がかつてこれを引用したことがあり、孔子もまた採る所があっただけである。
初九曰,潛龍勿用,何謂也。龍德而隱者也。不易乎世,不成乎名。遯世無悶,不見是而無悶。樂則行之,憂則違之。確乎其不可拔,潛龍也。自此至乃見天則,夫子申言彖傳之意。而此節六爻設為問答之辭。龍德,聖人之德也。聖人神明不測,故曰龍德。
初九の爻辞に「潜龍勿用」とあるは何の謂いか。答えていう、これは龍のごとき徳性を有しながら隠居して出ざる人である。彼は世俗のために己を改易せず、名声の成就を求めない。世を避け隠居しても煩悶せず、人に是とされなくても煩悶しない。楽しむ所に合すれば行い、憂うべき所は避け、堅定にして動かし難い――これが潜龍である。ここから下文「乃見天則」まで、皆孔子が《彖伝》の意を申説するもので、この段は六爻に就いてそれぞれ一問一答の形式を設けた。いわゆる「龍徳」とは聖人の徳である。聖人は神妙にして測り難いので龍徳と称する。
初九陽在下,聖人之在側陋也。不易乎世,謂自守其道,不因世而變易。不成乎名,謂自晦其跡,不求其名之成。行與世違,遯世矣。而道足自樂,故無悶。已不求名,不見是於人矣。而心可自信,故無悶。時當可樂,則不私其有,以同乎人。時當可憂,則不失吾已,違而去之。憂與悶不同。為一身起見為悶,為天下起見為憂。
初九は陽爻が最下に居り、譬えれば聖人がなお卑微僻陋の中に処するがごとし。「不易乎世」とは、己の道を自ら守り、世俗の風気に因って改変しないことである。「不成乎名」とは、自ら形跡を隠晦にして名声の成就を求めないことである。行事が世俗と相違えばすなわち避世であるが、彼の道は自ら楽しむに足るので煩悶しない。自ら名を求めないので自然に人に是とされないが、彼の心は自ら信ずべきがあるのでやはり煩悶しない。時機が欣然たるに値すれば、彼は得る所を私有とせず衆人と共にこれを分享し、時機が憂うべきに値すれば、彼は自我を失わず避けて去る。「憂」と「悶」は同一の事でないことに注意すべきである。己の一身のために思うを悶といい、天下のために思うを憂という。
此六句皆言龍德確乎其不可拔,隱也。然確乃的確之確,非堅確之確,蓋非意專於退也。憂樂一隨乎時,行違一準乎道,非一己之私。所謂用舍無與於已,行藏安於所遇。富貴不淫,貧賤不移。所見真確者也。六爻皆以聖人言之,有隱顯而無淺深。
以上六句は皆龍徳の人が堅定にして動揺不可なりを説くので、すなわち「隠」の一面である。ただこの「確」は「的确」「真切」の確であって、「頑固執拗」の確ではない。彼は一心に退避のみを求めるのではないからである。彼の憂と楽は一櫻に時機に随い、行と避は一櫻に道を以て準とし、一己の私意がない。いわゆる用いられるか捨てられるかは己と関せず、出仕も隠退も遭遇する境況に安んじ、富貴も彼を放縦せしめず、貧賤も彼を改節せしめない――これは彼の見る道理が真切確実だからである。《乾》卦の六爻は皆聖人に就いて言うので、顕と隠の異なりがあるのみで、造詣の深淺の差別はない。
九二曰,見龍在田,利見大人,何謂也。子曰。龍德而正中者也。庸言之信,庸行之謹。閒邪存其誠,善世而不伐,德博而化。易曰,見龍在田,利見大人,君德也。正中,正當下卦之中也。蓋上下卦以二五為中也。德而曰龍,似神奇不可測矣,不知聖人只修其庸言庸行而已。庸常之言亦信,庸常之行亦謹。
九二の爻辞に「見龍在田、利見大人」とあるは何の謂いか。孔子がいう、これは龍徳を有して正中の位に居る人である。平常の言語も信実を講じ、平常の行為も謹慎を求める。邪念を防閑して内心の誠を保存し、一世に福をもたらしながら功を誇らず、徳沢広博にして人を感化しうる。《易》に「見龍在田、利見大人」というは、彼がすでに君主の徳を具えたことを言う。いわゆる「正中」とは、正に下卦の中位に当たること――上下二経卦はそれぞれ第二爻・第五爻を以て中とする。徳性を「龍」と称するのは、あたかも神奇にして測度し難いかのようだが、聖人の修める所は、ただ平常の言語と平常の行為に過ぎない――平常の言も句句信実であり、平常の事も事事謹慎なのである。
則無不信與謹,盛德之至矣。猶且閒邪存誠,猶詩所謂無斁亦保,雖無厭斁而常自保守也。邪自外入,故言閒。誠本我有,故言存。邪閒則誠自存。蓋妄去則真全,非別求所謂誠者而存之也。乾二畫實,故言誠。坤二畫虛,故言敬。誠敬者,聖學之源。見於乾卦坤卦,實天地自然之理也。
この歩みに至れば、信実ならざるなく謹慎ならざる所がなく、すでに盛徳の極致である。しかるに彼はなお邪念を防閑し誠意を保存する――まさに《詩経》にいう「无斁亦保」のごとく、厌倦懈怠せずともなお常に自ら持守する。邪念は外から侵入するものなので「閑」(防ぎ堵する)といい、誠は本来我が身に有るものなので「存」(守り存する)という。邪念が堵せられれば誠は自ずと保存される。虚妄が去れば真実が完整するのであって、別に「誠」というものを求めて存放するのではない。《乾》卦の陽画は実なので《乾》から「誠」を講じ、《坤》卦の陰画は虚なので《坤》から「敬」を講ずる。誠と敬は聖人之学の源頭で、それぞれ《乾》《坤》両卦に体現される――実に天地自然の理である。
去其不謹信之邪,存其謹信之誠。由是上可格君,下可善俗。則善不徒在一身,而及於一世矣。不見為己之善,而見為世人之善,何伐之有乎。善被於一世,德之博也。已既不伐,人亦不知其所以然。正己而物正,化也。自誠之純粹言之曰善,自其及人者言之曰德。二非五,未居之君之位,而正中已有君之德,故稱大人也。
あの謹慎ならず信実ならざる邪念を去り、あの謹慎信実の誠意を守れば、これに由って上は君主に感格し、下は風俗を改善して、ここにおいて善はただ自己一身に止まらず、時代全体に普及する。彼はこれを己の善と見ず世人共有の善と見るので、なんの自誇があろう。善沢が一世に被るは徳の広博であり、自ら功を誇らず、人もまた事のなぜ善くなるかを知らない――己を正しくして万物も随って正しくなる、これが「化」である。彼の内心の誠の純粋なる処から言えば「善」といい、それが旁人に推及する処から言えば「徳」という。九二は九五ではなく、まだ君位に坐していないが、正中に居ってすでに君主の徳を具えているので「大人」と称する。
九三曰,君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎,何謂也。子曰。君子進德修業。忠信,所以進德也。修辭立其誠,所以居業也。知至至之,可與幾也。知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂。故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。本義謂六爻者以聖人言之,有隱顯而無淺深。言所處時位有不同,非自初而上有積漸也。三爻爻辭稱君子,亦君子而求至於聖人者也。進德就存諸心言,修業就見諸事言。
九三の爻辞に「君子終日乾乾、夕惕若、厲无咎」とあるは何の謂いか。孔子がいう、君子は徳性を進め事業を修めている。忠実信実は徳性を進める所以であり、言辞を修飭してその誠を立てるは事業に安居する所以である。至るべき極処を知って果たして之に至れば、彼と共に幾微を談ずべし。終るべき帰宿を知って果たして之を成せば、彼と共に義理を存守すべし。ここに因って彼は上位に居て驕矜せず下位に処して憂懼せず、ゆえに勤勉して懈らず時機に随って戒惕し、処境は危険なれど過ちがない。朱熹《本義》にいう、六爻は皆聖人に就いて言い隠顕の別あるのみで深淺の分はない――意は処する時と位が異なるのであって、初爻から上へ逐級積累して進歩するのではない。第三爻の爻辞が「君子」と称するのも、まさに聖人の境地に達せんと努力する君子を指す。「進徳」は心に存養する上に就いて言い、「修業」は事に表現する上に就いて言う。
忠信,存諸心者無一念之不誠也。德欲進而不已。然使無真實之心,德安能進。故忠信,所以進德也。修辭立其誠,見於事者無一言之不實也。人之不實多在於言。若口不擇言,雖有忠信之心不能立。立其誠,即立此忠信。隨事檢點,不敢妄言。雖不言制行,而制行在其中矣。
いわゆる「忠信」とは、心に存するものに一つの念慮も真実ならざるがないことである。徳性は不断に進めるべきだが、假使真実の心がなければ徳はどうやって進み入ろう。ゆえに忠信は徳性を進める所以という。いわゆる「修辭立其誠」とは、事に表す所に一言も真実ならざるがないことである。人の真実ならざるは多く言語に出る。口を開いて言を択ばなければ、たとえ心に忠信があっても立脚しない。「立其誠」とはこの忠信を立てることである。事に遇うごとに随時点検し、みだりに言うことを敢えてしない――行為を約束することを直接講じてはいないが、行為の約束はすでにその中に含まれている。
業既言修,又言居者。修者治而弗怠,居者守而勿失。如屋之既修,居之乃為我有也。修辭立誠,業為我有,故曰所以居業也。忠信修辭,言所以進德修業之道。知至知終,又詳其始終用功之序。知至至之,進德之事。理無加於忠信,故曰至。至之,則進而不已也。誠偽微茫之判曰幾。與,許也。人惟所見未真,故不敢進。疑似之際,不能自主。
「業」を講ずるに、前は「修」と言いここはまた「居」と言うのは、「修」は整治して懈怠せず、「居」は守って失わざるによる。たとえば房屋がすでに修好されて、住み入ってこそ真に我の有と帰するがごとし。言辞を修飭し誠意を確立してこそ事業は我の有と為る。ゆえにこれを以て「居業」する所以という。忠信と修辭は徳性を進め事業を修治する方法を講じ、「知至」と「知終」はさらに進んで始から終まで功を用いる次第を詳説する。「知至至之」は進徳の事に属する。道理は忠信より高いものがないので「至」(極処)と称し、「至之」とは一路進取して止まらないことである。真と偽のあの一線極微細の分界を「幾」という。「可与」の「与」は許可の意である。人はしばしば見る所が真切ならざるがゆえに向前を敢えてせず、似是而非の関頭では自分の主を為すことができない。
知至則實見是非端的。知德之極至在是,而以實心必欲赴之。則凡意念所動,微茫之際,不差此幾之動,乃可許之,而德日進矣。知終終之,居業之事。萬事究竟歸於一誠,故為終。終之則居而不失也。事物有裁制之宜為義。義與幾非二。在心之初動為幾,然幾尚有善惡。所動皆善,見之於事,則為義矣。存之即居之也。
「知至」しうれば、是非の確実なる所在を真切に看清したことになる。徳の極処がここにあることを知り、ここにおいて一顆の真実の心をもって必ず奔赴する。このようであれば、およそ意念が一動するその極微細の処でも、この「幾」の萌動の上に岔れを走らせない。ゆえに「可与幾」といい、徳性もまた日々に精進する。「知終終之」は居業の事に属する。万事は最後に一つの「誠」の字に帰結するので「終」と称し、「終之」とはこれに安居して失わざることである。事物に裁断処置の宜しき分寸あるを「義」という。義と幾は両回事ではない。心中に剛く萌動する時を「幾」といい、しかし幾はなお善悪両種の可能を帯びる。萌動する所が全て善で、事に落實すれば「義」となる。ここにいう「存」とはすなわち「居」である。
人不知究竟所在,則不知所終。知之而不務至乎其極,雖所行偶有合宜,亦不能存。知終則深知萬事歸於一誠,而以修辭立誠終之。則凡事之裁制合宜而為義者皆無不存,而業自修矣。知開其始,行要其終。內實其心,外實其事。以此居上居下,安往不宜。所以終日乾乾,夕猶惕若,無一息之間也。三在內卦為上,合外卦為下。不驕不憂,所謂無咎,進德修業之效也。
人が最終の帰宿の所在を知らなければ、どこに終結すべきかを知らず、たとえ知っても功を下して極処に致すことを肯んぜざれば、為す所はたとえ偶々合宜しても守ること能わず。「知終」しうれば万事が皆一つの誠に帰ることを深切に明白にし、ここにおいて言辞の修飭・誠意の確立をもって収束して底に至る。こうすればおよそ裁断合宜して義と称すべき事は存せざるなく、事業は自ずと修治される。「知」はそれに頭を開き、「行」はそれに尾を守る。内は己の心を真実ならしめ、外は己の事を真実ならしむ。この一套に凭れば、上位に居るも下位に処るも、何処に至って合宜せざることがあろう。ゆえに彼は一日中勤勉して懈らず、夜に至ってもなお戒懼し、一刻の間断もない。九三は内卦の中では最上の爻だが、外卦と合わせて見ればまた下位に算入る。驕矜せず憂懼せずはすなわちいわゆる「无咎」で、まさに彼が徳性を進め事業を修治して収めた効功である。
九四曰,或躍在淵,無咎,何謂也。子曰,上下無常,非為邪也。進退無恆,非離群也。君子進德修業,欲及時也。故無咎。或之為言,可上可下可進可退。上下無常,疑為邪矣。然欲及時而上,故有時或下,非為邪枉也。進退無恆,疑於離群矣。然欲及時而進,故有時或退,非離群類也。四處危疑之地,進德修業與九三同。三因時,四欲及時。無常乃所以為常,無恆乃所以為恆,故無咎也。
九四の爻辞に「或躍在淵、无咎」とあるは何の謂いか。孔子がいう、忽ち上り忽ち下りして常規なきは、邪僻の事を為さんとするに非ず。忽ち進み忽ち退きして定則なきは、同類を離れんとするに非ず。君子が徳性を進め事業を修めるは、時機に追い付かんと欲するがゆえに咎なし。「或」の字は可上可下・可進可退を言う。忽上忽下して常規なきは人にその行為の邪僻を疑わせ易いが、彼はまさに時機に追い付いて向上せんと欲し、ある時はかえって下に向かう――これは邪枉ではない。忽進忽退して定則なきは人にその同類を離るるを疑わせ易いが、彼はまさに時機に追い付いて前進せんと欲し、ある時はかえって後退する――これは同類への背離ではない。九四が処するは危疑の地で、彼の徳性を進め事業を修めるは九三と同じである。九三は時機に順って戒懼し、九四は時機に追い付かんとして動を伺う。常なきに見えてまさに彼の常であり、恒なきに見えてまさに彼の恒である。ゆえに咎なし。
九五曰,飛龍在天,利見大人,何謂也。子曰。同聲相應,同氣相求。水流溼,火就燥。雲從龍,風從虎。聖人作而萬物覩。本乎天者親上,本乎地者親下。則各從其類也。此言凡物各從其類。聖人,人類之首,故為人所歸。以釋利見之義也。鶴鳴子和,雄嗚雌應,同聲相應也。取火於日,取水於月,同氣相求也。
九五の爻辞に「飛龍在天、利見大人」とあるは何の謂いか。孔子がいう、声気同じきは彼此相応じ、気類同じきは彼此相求む。水は低湿の処に流れ、火は乾燥の処に焼き向かう。雲は龍に随って生じ、風は虎に随って起こる。聖人が興起すれば万物は皆瞻仰に来る。本源が天より出ずるは上方に親しみ、本源が地より出ずるは下方に親しむ――要するに各々その同類に従う。この段は凡物が各々その類に従うを説く。聖人は人類中の首領なので衆人の帰向する所となる。この道理を以て「利見大人」の義を釈する。老鶴が鳴けば幼鶴が和し、雄鳥が啼けば雌鳥が答う――これが「同声相応」。陽燧を用いて太陽に向かい火を取り、方諸を用いて月亮に向かい水を取る――これが「同気相求」である。
下溼易潤,水先趨之。乾燥易焚,火先燃之。龍,陽物。薰蒸之氣為雲。虎,陰物。肅殺之氣為風。凡此皆以類相感者也。聖人,人類之首,故為人之利見亦然。作者首出於上,覩者下觀而化也。又以物之親上親下,以見人之於聖人亦然。本乎天,日月星辰輕清成象者皆親之。本乎地,蟲獸草木重濁成形者皆親之。蓋屬陽者從上,屬陰者從下也。類各有本,本各有親。聖人萬物一體,利見又何疑乎。
低窪潮湿の処は潤沢し易いので水はまずそこへ流れ、乾燥の物は点き易いので火はまずそこへ焼き着く。龍は陽に属する物で、その蒸騰し出る気は雲に化し、虎は陰に属する物で、その粛殺の気は風に化する。およそこれら種種は皆同類の間の彼此感応である。聖人は人類の首領なので衆人は彼に見るを楽しむ――道理は同じである。「作」は彼が率先して上に興起すること、「覿」(瞻仰)は衆人が下に仰観してその感化を受けることである。孔子はまた万物のあるいは上に親しみあるいは下に親しむを借りて、人の聖人に対するもまたかくのごとしを明らかにした。本源が天より出ずるは、日月星辰のごとき軽清にして象を成すもので、皆上方に親しみ、本源が地より出ずるは、虫獣草木のごとき重濁にして形を成すもので、皆下方に親しむ。陽に属するは上に従い、陰に属するは下に従うからである。物類は各々本原があり、本原は各々親しむ所有り。聖人と万物は本来一体である。さらば「利見大人」に何の疑いがあろうか。
上九曰,亢龍有悔,何謂也。子曰。貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。九為龍,貴矣。而陽不得陽位,位在於五,是無位也。上而亢,高矣。而純陽無陰,是無民也。九三之賢在下,而敵體不應,是無輔。是以動而有悔。然致悔在動。不動而復於潛,則悔可無矣。
上九の爻辞に「亢龍有悔」とあるは何の謂いか。孔子がいう、地位は尊貴だが実位なく、身は高処に居るが百姓なく、賢人は下位に居るが来って輔佐せず。ゆえに一動すれば悔恨がある。九は本来龍を象徴し、尊貴に足る。しかし上九は陽爻にして陽位を得ず――真の君位は第五爻にある――ゆえに「无位」という。それは高く最上に居って亢に至り、高しに足る。しかし全卦は純陽にして陰なく、陰こそ民衆を象徴するので「无民」という。九三のあの賢者は下に居るが、しかし両爻は同じく陽で勢い均しくして相応じないので「无輔」という。ここに因って一動すれば悔恨を生ず。ただ悔恨を招く鍵は「動」にある。ただ動かずして「潜」に回復すれば悔いは免れうる。
潛龍勿用,下也。陽在下也。釋潛龍以氣言,此釋勿用以人言。言在下未可用也。見龍在田,時舍也。舍作舍止之舍。見止在田,尚未大用。時舍者,暫止於此,勢非久安也。終日乾乾,行事也。進德修業,行所當行也。即行健不息之意。或躍在淵,自試也。自試,斟酌之意。試其時之可否而不輕進,非中無所主而漫以嘗試也。飛龍在天,治也。得位而行,居上以治下也。
「潜龍勿用」とは、身が下位に処するによる。前の小象に「陽在下也」とあるは「潜龍」を釈して気に就いて言い、ここに「下也」は「勿用」を釈して人に就いて言う。意は身が下位に居ればまだ任用さるべからざるを言う。「見龍在田」とは、時勢が彼を暫時停留せしむるによる。この「舎」は停舎の舎と読む。龍は現れて田間に停まるがまだ大いに用いられず、いわゆる「時舎」とは眼下に暫時ここに停まり、形勢は長く安処すべきに非ざるを言う。「終日乾乾」とは、なすべき事を行っていることである。徳性を進め事業を修めるは、すなわち分内に応当なる事を為すことで、まさに大象「行健不息」の意である。「或躍在淵」とは、自ら試みていることである。いわゆる「自試」とは斟酌掂量の意で、時機の可否を試みて軽率に前進せず、心中に主見なしに随に運に触れるのではない。「飛龍在天」とは、天下を治めていることである。相応の位を得てその道を施行し、上位に居って下を治める。
亢龍有悔,窮之災也。陰陽一氣無窮,而時位有窮。窮極則災生也。乾元用九,天下治也。言乾元用九,見與他卦不同。蓋一百九十二陽爻皆用九,各有所指。獨乾之用九為剛而能柔,人君治天下之道也。元者,仁也,足以長人者也。
「亢龍有悔」とは、窮尽に走り至って招いた災禍である。陰陽この一股の気は本身に窮尽がないが、具体の時と位には窮尽がある。窮極の処に至れば災禍が生ずる。「乾元用九、天下治也」――ここに特意「乾元用九」と言うは、他の卦と異なるを見るべし。六十四卦は共に百九十二根の陽爻があり、皆「九」で称して各々別に指す所有り。ただ《乾》卦の用九のみ、剛強にして能く柔順に転ずを講じ、これはまさに人君の天下を治むる方法である。「元」はすなわち仁で、衆人の首長と為るに足るあの徳性である。
人君體乾之元,用乾之九。至誠惻怛之意,行於剛果之中。寬猛得宜,天下自無不治矣。四德獨言元,元可包四德也。亢之後言元,貞下起元也。天下自無不治,一元之運,無為之化也。自潛龍勿用下也至此,申言象傳之意。
人君が乾の「元」を体察し乾の「九」を運用し、至誠惻隠の心意を剛断果決の作為の中に貫注させ、寛厚と厳猛の按配を当を得せしめれば、天下は自ずと治まらないことはない。四徳の中でただ「元」を挙げるのは、元が残りの三徳を統摂しうるからであり、「亢」を講じた後にまた「元」を挙げるのは、「貞下に元を起こす」――終わりてまた始まる――の意を取るからである。天下に自ずと治まらざるなしというのは、この一股の元気の運行が無作為にして自然に感化することを指す。「潜龍勿用、下也」からここまで、皆《象伝》の意を申説するものである。
潛龍勿用,陽氣潛藏。陽氣潛藏,君子亦當悔隱。初一潛而天下陽之屬皆宜潛也。曰下曰隱曰藏,反覆發明示人,不必強立分別。見龍在田,天下文明。文者,經緯成章。明者,光顯不昧。二雖不在上位,天下已被文明之化。如孔子是也。此爻變離,有文明象。
「潜龍勿用」とは、陽気がなお潜伏隠蔵しているによる。陽気がすでに潜蔵した以上、君子もまた収斂退隠すべきである。初爻が一たび潜めば、天下のおよそ陽に属するものは皆潜伏すべきである。前後三か所がそれぞれ「下」を言い「隠」を言い「蔵」を言うのは、ただ反復して申説し後人に啓示するのであって、強いて高下の差別を分かつ必要はない。「見龍在田」とは、天下がこれに由って文明となる。「文」とは縦横交錯して章法を成すこと、「明」とは光輝顕著にして昏昧ならざることである。九二は上位にないが、天下はすでに彼の文明教化の沾溉を受けた――たとえば孔子がまさにこれである。しかもこの爻が変ずれば下卦は《離》を成し、《離》は火と日を主る――まさに文明の象がある。
終日乾乾,與時偕行。兼無時不然,隨時加謹二意。天行健,無息時。與天時俱不息,法天之學也。時當危厲,理宜乾惕,處危之道也。或躍在淵,乾道乃革。離下內卦而上外卦。時當變革,勢不得輕。
「終日乾乾」とは、時機と偕に前行することである。この句は二層の意を兼ね含む。一つはそうでない時がないこと、一つは時勢に随って格別に意を加えて謹慎することである。天の運行は剛健にして一刻の止息なく、人が天時と偕に息まないは、天に效法する学である。そして処する時が正に危厲に当たれば、理に按じて勤勉戒懼すべきであり、これは険に処する法である。「或躍在淵」とは、乾道がここに至って変革を生ずる。九四は下の内卦を離れて上の外卦に升入し、時勢は正に変革に当たり、形勢の上で軽率の行動を容れない。
飛龍在天,乃位乎天德。六爻皆天德。而五乃天位,天德之得位者。唯有是德,乃宜居是位也。亢龍有悔,與時偕極。此窮極之極,非至極之謂也。時既極,而我不能變通,則與時運俱極,故言偕。偕極有悔,非德也。故初曰德之隱。二曰正中。三四曰進德。五曰天德。獨上不言德。知進退存亡之聖人,則雖偕極,而有窮變通久之道矣。
「飛龍在天」とは、位が天徳の上に居ることである。六爻の具えるは皆天徳だが、第五爻こそ天位である。ゆえに九五は天徳にしてまたその位を得た者である。ただかかる徳を具えてこそ、かかる位に坐るに配する。「亢龍有悔」とは、時勢と偕に極処に走り至ることである。この「極」は窮尽の極であって、尽善尽美の極ではない。時勢はすでに尽頭に至り、我は変通する能わず、時運に随いて共に尽頭に走り至る。ゆえに「偕」(ともに)という。時運に随って共に尽頭に至って悔いを生ずるは、これすなわち徳ではない。ゆえに初爻は「徳之隠」を講じ、二爻は「正中」を講じ、三爻・四爻は「進徳」を講じ、五爻は「天徳」を講じ、ただ上爻のみ徳に及ばない。進退存亡を知る聖人に至っては、たとえ時と偕に極まるとも、自ずと窮極すれば則ち変じ、変すれば則ち通じ、通ずれば則ち久しきの道がある。
乾元用九,乃見天則。則者,理之有節限而無過不及者也。剛柔適中,天之則也。用九剛而能柔,乃合乎天之則也。言用九而冠以乾元,有統天之德,而後九可用也。自潛龍勿用下也至此,皆反覆申言象傳之意。或言其時,或言其位,或言其用,不必強有所分。
「乾元用九」、ここにおいて天の法則を顕現する。いわゆる「則」とは、道理に節度界限があって過ぎも不及もないことである。剛と柔が恰好の処に当たる――これが天の法則である。用九は剛強にして能く柔順に転ず――まさに天の法則に合する。ここに「用九」を講じて前に「乾元」の二字を冠するのは、必ず先に天道を統領する元徳があってこそ、この「九」が用いられると言うのである。「潜龍勿用、下也」からここまで、皆反復して《象伝》の意を申説するものである。あるは時機に就いて言い、あるは位次に就いて言い、あるは功用に就いて言う。強いて帰類を划分する必要はない。
乾元者,始而亨者也。彼此至天下平也,又申彖傳之意。承上言乾元用九,又嘆乾元之妙。前以元亨利貞析為四德,至此又若以元亨利貞分言之,而統歸於一元。因贊乾德之妙,唯聖人能體元以法天也。他解有謂自此至天下平,申言乾元用九天下治者,非。
乾元というものは、万物を創始して之を亨通せしめる者である。ここから「天下平也」まで、また《彖伝》の意を申説する。上文の「乾元用九」を講ずるに承け、進んで乾元の精妙を讃嘆する。前は「元亨利貞」を剖分して四徳とし、ここに至ってまた元・亨・利・貞を分かち講ずるかのようであり、最後に却って総べて一つの「元」に帰結する。これは借此に乾徳の精妙を讃美し、ただ聖人のみがこの元を体察して天に效法しうるを明らかにする。別家にここから「天下平」まで皆「乾元用九、天下治」を申説するものと見る者があるが、それは誤りである。
蓋用九六爻皆變,取其剛而能柔。此言剛健中正,六爻發揮,則以純乾之德言之。蓋夫子因言乾元,因申彖傳未盡之意也。始即資始之始。而始則必亨。蓋有息則不能亨,不息則理勢必亨。增而字,有漸次而無斷續。天地生生之氣,自微而著。始而亨,則亨而利,利而貞,皆可知矣。
なぜなら「用九」は六爻全て変じることで、剛強にして能く柔順に転ずの意を取るのに対し、ここにいう「剛健中正」「六爻発揮」は純粋の乾徳本身に就いて講じるので、両者は同一の事ではない。これは孔子が乾元を講ずるに順って、《彖伝》の中に言い尽くさざる意を申説したものである。ここの「始」はすなわち《彖伝》「万物资始」の始で、一たび開始あれば必ず亨通する。中間に間断あれば通じえず、間断なければ理に按じ勢いに按じて必然に亨通するからである。文中に「而」の一字を加えるは、漸次推進して中断なきを表す。天地の生々已まざる気は、細微より顕著に至る。すでに「始」が「亨」に至りうるなら、亨より利、利より貞へも、皆推知しうる。
利貞者,性情也。收斂歸藏,乃見性情之實。元亨時,乾之發見。利貞則各有成就。如草木之種。春時發芽,夏則千枝萬葉。至秋漸收斂,冬乃堅實。前此發見時,共一性情。至此則各一性情,猶前言各正性命也。遡性之本言之,則曰性情。情又可發生,貞下又起元矣。
「利貞」が講ずるは性と情である。収斂して蔵に帰した後、性情の真実の面目が顕現する。元亨の段階は乾徳の外への発露であり、利貞の段階に至れば各々成就を得る。ちょうど草木の種子のごとく――春に芽を発し、夏に千枝万葉に成長し、秋に至って漸じて収斂し、冬に至ってこそ堅実に結する。先前発露の時、万物は同一の性情を共有し、この時に至っては各々一つの性情を成就する。すなわち前の《彖伝》にいう「各正性命」である。本性の根源に遡って言えば「性情」と称し、情はまた能く再び発動生長するので、貞が尽きた後にまた元を生ずる。
乾始能以美利利天下,不言所利大矣哉。乾始,乾元之始也。乾始之道,能使庶類生成,天下蒙其美利,能以美利利天下也。坤利牝馬,他卦利建侯,涉川,皆有所指。乾始無所不利,非可指名,故言利,不言所利也。乾之始即元而亨者,元可包亨也。利天下者,利不言所利者,貞不言貞者,利可包貞也。然乾始能以之,則亨利貞皆在元之中矣,故贊其大。
乾の創始は美好の利益を以て天下に施恵し得るのに、利する所の何処かを言わない――実に大いなるかな。「乾始」とは乾元の開端である。乾元の創始の道は衆類を生成せしめ、天下は皆その美好の利益を蒙受する――これが「以美利利天下」である。《坤》卦は「利牝馬之貞」といい、別の卦は「利建侯」「利渉大川」といい、皆各々具体の指す所有り。ただ乾の創始のみ利あらざるなく、指名して言うことができないので、ただ「利」を言って「所利」を言わない。乾の開端はすなわち「元而亨」であり、元が亨を統摂しうるを見るべし。「利天下」は利であり、「不言所利」は貞である。しかるにここはただ利を言って貞を言わず、利が貞を統摂しうるを見るべし。しかるにこれらは皆「乾始」に由って促される。さらば亨・利・貞は全て元の中に含まれ、ゆえにその大いなるを讃嘆する。
大哉乾乎。剛健中正,純粹精也。四德一元,元一乾也,故曰大哉乾乎。其體堅強,不可屈撓,剛也。其用循環,無少間斷,健也。其行若有所限,而無過不及,中也。其立君若有所專,而不偏不倚,正也。剛健之極,不雜於陰柔,純也。中正之極,不入於邪惡,粹也。純粹至於至極,無有形容,精也。乾屬剛,而又言中正者。蓋分乾坤而言,則有陰陽剛柔動靜之不同。自一元之氣周流無間之本體言之,則無所不包也。
大いなるかな乾よ。剛・健・中・正、純・粋・精。四徳は一つの元に帰し、元はまた一つの乾に帰す。ゆえに「大哉乾乎」という。その本体は堅強にして屈折し難し――これが「剛」。その作用は循環往復して一点の間断なし――これが「健」。その運行はあたかも界限あるがごとく、しかし過分でも欠缺でもない――これが「中」。その確立はあたかも専主あるがごとく、しかし偏袒も倚靠もしない――これが「正」。剛健が極処に至って陰柔を雑進せず――これが「純」。中正が極処に至って邪悪に落ちず――これが「粋」。純粋が極点に至って形容する由なし――これが「精」。乾は本は剛に属すのに、ここではまた「中正」を言う。その所以は、乾坤を分かち講じてこそ陰陽・剛柔・動静の分別があり、もしあの一股の元気の周流無間の本体に就いて言えば、それは包まない所がないからである。
六爻發揮,旁通情也。乾德之精,不容言矣。可言者其情耳。故聖人以六爻發揮,曲盡其情,而乾之道在易矣。時垂六龍,以御天也。雲行雨施,天下平也。六爻曲盡易之道,而唯九五有德位之大人能體備乎乾之蘊,故獨以有天下之聖人言之。六龍即六爻。時垂句增也字,與上不同。上重垂龍,此重御天。言垂龍者將以御天也。六爻不外一時。聖人以時垂此六龍,將以御天下也。
六爻は鋪展され、各側面から乾徳の情を通達する。乾徳の精微は本来言語で尽くせず、言えるのはそれが表現した情状だけである。ゆえに聖人は六爻を借りて鋪陳発揮し、この情状を曲折に写し尽くし、ここにおいて乾道は皆《易》の中にある。「時乗六龍、以御天也。雲行雨施、天下平也。」六爻は《易》道を写し尽くしたが、ただ九五のあの徳あり位ある大人のみが乾の底蘊を完整に体現しうるので、ここは単に天下を有する聖人に就いて言う。「六龍」はすなわち六爻である。「時乗六龍」のこの句は《彖伝》の原句より「也」の一字多く、上文と別あり。上文は「乗龍」に側重し、ここは「御天」に側重する。意は六龍を駕御するは以て天下を統御せんがためである。六爻は総じて一つの「時」の字を出ず、聖人が時に按じてこの六条の龍を駕御するは、まさに以て天下を統御せんと欲するのである。
雲行雨施,就聖人言之。政教如雲之行。德澤如雨之施,天下自無不平也。御天而云行雨施,聖人之以美利利天下也。天下皆平,聖人之不言所利也。至此而乾之道在聖人矣。又按,彖以元亨利貞言乾,文言即以元亨利貞屬之君子。乾之德在君子躬行之中也。彖以雲行雨施言乾,文言即以屬之聖人。乾之功即在聖人運用之內也。此天人之合。君子自強不息以法乎天,不可以已也。
「雲行雨施」ここは聖人に就いて言う。政令教化は雲のごとく運行し、徳沢恩惠は雨のごとく降下し、天下は自ずと太平ならざるなし。天下を統御して能く雲行雨施するは、まさに聖人の「以美利利天下」であり、天下が皆太平するは、まさに聖人の「不言所利」である。ここに至って乾道は聖人の身に落實した。また按ずるに、《彖伝》は「元亨利貞」を以て乾を講じ、《文言》は「元亨利貞」を君子の身に帰属する――乾徳はまさに君子の親身の践行の中にあるを見るべし。《彖伝》は「雲行雨施」を以て乾を講じ、《文言》はこれを聖人の身に帰属する――乾の功用はまさに聖人の運用の内にあるを見るべし。これはまさに天と人の合一である。君子が自強不息して天に效法するは、一刻も止めることができないのである。
君子以成德為行,日可見之行也。潛之為言也,隱而未見,行而未成。是以君子弗用也。德,得於心者也。行,見於事者也。日可見,猶指日可待之意。理得於心,可以見之行事矣。但當隱而未見之時,德雖可行,而時位未能成其所行。君子知其時位之未可,是以弗用。此以下又申象傳未盡之意。
君子がすでに成就した徳性を取って行動に付するは、すなわち毎日見るべき行為である。そして「潜」の字の意は、隠蔵してまだ顕現せず、行う所有りて未だ成就せざるなり。ゆえに君子は暫時施用しない。「徳」は心に得るもの、「行」は事に見るものである。「日可見」とは猶ほ指を拱して待つべしと言うがごとし。道理はすでに心に得、本来事に行い見るべきものだが、ただ正に隠伏未顕の時に当たり、徳は施行すべきものでも、時機と位置はまだ彼の作為を成就するに足らない。君子は時位がなお許さざるを明白にし、ゆえに施用し去らない。ここ以下、また《象伝》の言い尽くさざる意を申説する。
君子學以聚之,問以辨之,寬以居之,仁以行之。易曰,見龍在田,利見大人,君德也。九二有正中之龍德。然所以成德者,亦由學問之功。之,指正中之理。言理之得於天者,雖我所固有,然散見於事物,不學則聞見者寡,無以聚於吾心也。聚矣而不問,則不知所擇。
君子は学習を以てそれを積聚し、請教を以てそれを辨明し、寛裕を以てそれを涵養し、仁愛を以てそれを践行する。《易》に「見龍在田、利見大人」というは、これ君主の徳である。九二は居中得正の龍徳を具え、しかし彼がこの徳を成就した所以も、やはり学と問の工夫に依る。この四句の中の「之」は、あの居中得正の道理を指す。意は言う――天に得た道理は本は我の固有だが、種種の事物の上に散布顕現し、学ばざれば見聞が少なく、それらを我心に汇聚することができない。汇聚したが請教せざれば、また如何に取捨すべきかを知らない。
故問所以辨其是非同異也。聚矣辨矣,狹隘其心,則此理非我有。故必有涵養寬裕之意,優遊厭飫,勿忘勿助,而所聚所辨者,庶融會貫通,與心為一矣。至於仁者,吾心之全德,即天之元。吾之所學所問者此也。既聚既辨之後,既居於心,即見之於行事。亦猶天之行健,無或一息之間。則莫非天理,無一毫私慾之間。而乾元之德全。雖未居君之位,而已具君之德矣。
ゆえに「問」は以て其中の是非と異同を辨明する所以である。すでに聚集しすでに辨明したが、もし心地が褊狭局促ならば、この道理はやはり我のものとは算されない。ゆえに必ず涵養寛裕の意があって、従容自得・玩味飽足して、忘れることもなく揠苗助長することもなければ、聚め辨めた所のものこそ融貫会通して我の心と一片に合する望みがある。「仁」に至っては、あれは我が心中の完整の徳、すなわち天の「元」であり、我が学び問う所はまさにこれである。すでに聚めすでに辨めた後、すでに心に安居したら、行事に落實すべきである。これもまた天の運行剛健にして一刻の間断なきがごとく、ここにおいて為す所は一つとして天理ならざるなく、一絲一毫の私欲も其間に夾雑せず、乾元の徳はここに完備を告げる。九二はまだ君位に坐していないが、すでに君主の徳を具えている。
九三,重剛而不中。上不在天,下不在田。故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。重剛,陽爻位也。按,來注三居下卦之上,四居上卦之下,以剛按剛,故皆曰重。此解亦可參。不中,非二五也。不在天,非上之中。不在田,非下之中。時本可危,因時而惕以防危,故雖危無咎。
九三は陽爻が陽位に居って剛に剛を加え、また中にあらず。上は天位に及ばず、下は田位を離れられない。ゆえにただ勤勉して懈らず、時勢に随って戒懼し、危険ありとも咎なし。いわゆる「重剛」とは陽爻がまた陽位に居るを指す。按に、来知徳の注にいう――第三爻は下卦の上にあり、第四爻は上卦の下にあり、いずれも剛爻が剛爻に緊挨着くので両爻とも「重」という。この一解も参考すべし。「不中」とはそれが第二爻・第五爻でないこと、「不在天」とは上卦の中位に居らざること、「不在田」とは下卦の中位にも居らざることである。処する時は本来危険があり、時勢に順って戒懼して危険に防備すれば、ゆえに危ういが咎なし。
九四,重剛不中。上不在天,下不在田,中不在人。故或之。或之者,疑之也。故無咎。重字衍。三四皆人位,而四居人之上而近君,故曰不在人。重剛不中之中,二五之中也。中不在人之中,六爻中間之中也。下以二為中,三則過。上以五為中,四則不及。過則憂,不及則疑。然憂所當憂,卒於無憂。疑所當疑,卒於無疑。故皆可以無咎。
九四は剛にして中に居らず。上は天位に及ばず、下は田位を離れられず、中に居るが人位にあらず。ゆえに「或」の字を以てこれを言う。「或」の字を用いるは、すなわち疑い未だ定まらざるを表す。ここに因って咎なし。(陳氏按:ここの「重」の字は衍文である。九四は陽爻の陰位に居るので重剛と算されない。)第三・第四の両爻は皆人位に属し、第四爻は人位の上に居ってまた君位に逼近するので「不在人」という。「重剛不中」の「中」は二・五の両中位を指し、「中不在人」の「中」は六爻当中の中間地帯を指す。下卦は第二爻を以て中とし、第三爻はすなわち超過する。上卦は第五爻を以て中とし、第四爻はすなわちまだ及ばない。超過すれば憂懼を生じ、不及は疑慮を生ずる。しかるに憂える所はまさに憂うべき所であり、最終にかえって憂いなし。疑う所はまさに疑うべき所であり、最終にかえって疑いなし。ゆえに両爻とも无咎たりうる。
夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶。先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎,況於鬼神乎。前同聲相應節言利見之意。此專就大人言,而利見之意在其中。九五之為大人,大以道也。天地者,道之原。大人無私,以道為體,則合於天地易簡之德矣。天地之有象,而照臨者為日月,循序而運行者為四時,屈伸往來生成萬物者為鬼神。名雖殊,道則一也。
いわゆる大人とは、その徳性は天地と相合し、その光明は日月と相合し、その条理は四時と相合し、その吉凶は鬼神と相合する。彼が天時の先に行えば天は彼に違わず、彼が天時の後に行えばまた天時を恭奉して行う。天でさえなお彼に違わない。いわんや人に於いてをや、いわんや鬼神に於いてをや。前の「同声相応」の節は「利見」の意を講じ、この節は専ら「大人」本身に就いて言うので、「利見」の意はその中に含まれる。九五が大人と称する所以は、その大なるが道にあるによる。天地は道の本原であり、大人は私心なく道を以て己の本体と為すので、天地のあの平易簡約の徳性と相合する。天地の間に顕現して象と為るもの――万物を照臨するは日月、依次運行するは四時、屈伸往来して万物を生成するは鬼神。名称は同じからざれど、その道理は同一である。
大人既與天地合德,故其明目達聰合乎日月之照臨,刑賞慘舒合乎四時之代禪,遏揚彰癉合乎鬼神之福善禍淫。先天弗違,如先王未有之禮可以義起。蓋雖天之所未有,而吾意默與道契,雖天不能違也。後天奉時,如天秩天序天理所有,吾奉而行之耳。蓋人與天地鬼神本無二理,特蔽於有我之私而不能相通。大人與道為一,即與天為一,原無彼此先後之可言。其曰先天後天者,亦極言或先或後,皆與天合也。
大人はすでに天地と徳を合するので、その耳は聡く目は明らかに四方を洞察して、まさに日月の照臨に合し、刑罰と賞賜・厳酷と寛舒は、まさに四時の更替に合し、抑制または表彰・善行の彰顕または悪行の懲戒は、まさに鬼神の善に福を降し淫に禍を降すに合する。いわゆる「先天而天弗違」とは、たとえば前代の君王がかつて有さなかった礼制を、後人が義理に按じて創立するがごとき。これは天の未だかつて有さざる所だが、我が心意は暗暗のうちに道と相契するので、天もまた違わない。いわゆる「後天而奉天時」とは、たとえば上天の既定の等秩・次序・常理は本来有り、我はただこれを奉行するのみである。人と天地鬼神は本来両套の道理なく、ただ「有我」の私心に蒙蔽されて相通じえぬことを知るべし。大人は道と合して一を為し、すなわち天と合して一を為す。本来彼此先後はない。ここに「先天」「後天」と言うも、ただ先に在れ後に在れ、皆天と相合するを極言するに過ぎない。
亢之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。進退以身言。窮上反下,退矣。存亡以位言。過五居上,亡矣。得喪以物言。無輔無民,喪矣。是之謂亢,所以動而有悔。其唯聖人乎。知進退存亡而不失其正者,其唯聖人乎。
「亢」の字の意は、ただ前進を知って後退を知らず、ただ存続を知って消亡を知らず、ただ獲得を知って喪失を知らざることである。進退は自身に就いて言う。最上頭に走り至れば下に返回すべき、それが退である。存亡は爻位に就いて言う。第五爻を越えて上爻に居れば位はなし、それが亡である。得喪は外物に就いて言う。輔佐する人なく統べる民なし、それが喪である。これを「亢」といい、ゆえに一動すれば悔恨がある。「おそらく聖人のみか!進退存亡を知ってまたその正道を失わざる者は、おそらく聖人のみか!」
知進退存亡,則無得喪矣,故不復言得喪。不失其正,處之以道,非計私以避害也。正即貞也。乾元歸於一貞,聖人法天體元歸於一正。隨其時,不失其正,非聖人不能也,故再言其唯聖人乎。此卦六爻,周公皆取象於龍,夫子文言皆屬之於聖。非聖人固不能體天,然易非專為聖人言也。
進退存亡を知れば、得喪に及ぶ所なし。ゆえに下句は「得喪」を再び提げない。「不失其正」とは、正道を以て自処するのであって、私利を盤算して禍害を躲避するのではない。この「正」はすなわち「貞」である。乾元は最終に一つの「貞」に帰結し、聖人は天に效法し元を体察して、最終に一つの「正」に帰結する。異なる時機に随って始終その正を失わざるは、聖人に非ずんば能わず。ゆえに孔子は「其唯聖人乎」を両度繰り返して言った。この一卦の六爻は、周公は皆龍に象を取り、孔子の《文言》は皆聖人の身に帰属した。誠に聖人に非ずんば天道を完全に体現しえざれど、《易》は専ら聖人一人のために言うものではない。
自天子以至於庶人,自聖賢以至於愚不肖,皆可觀象玩辭,觀變玩占,而以聖人為法耳。蓋人生天地之間,吉凶悔吝無一息之停,聖人隨其時所值,而皆有以處之,使得其正。此不獨乾卦之義,而實全易之義。易之所以開物成務,聖人所以為天下後世法者,此也。
上は天子より、下は平民に至り、聖賢から愚昧不肖の人に至るまで、皆卦象を観察して爻辞を玩味し、爻変を観察して占断を玩味し、聖人を以て效法の榜様と為すことができる。人生は天地の間にあり、吉・凶・悔・吝は一刻も停歇しない。聖人は遭遇する時勢に随って、皆安顿自処する一套の办法を有し、己をしてその正を失わしめない。これは《乾》卦一卦のみの義理でなく、実に全《易》の義理である。《易》の能く民智を開通し事業を成就する所以、聖人の能く天下後世のために法則を立つる所以は、ここに由縁がある。
坤卦
坤。歸藏首坤,其義未知所取。周易以坤繼乾,以地承天,萬物之父母也。全卦以柔順得正為地道臣道妻道之宜。六爻唯二五言吉利,而五不如二之正。他則皆有扶陽抑陰之微旨焉。坤卦之大略也。
《坤》卦。商代の《帰蔵》は《坤》を首卦としたが、その安排の用意はすでに考知すべくもない。《周易》は《坤》を《乾》の後に接し、地が天を承受する意を取る――天地こそまさに万物の父母である。全卦は柔順にして正を守るを主とし、これがこそ地たるの道・臣たるの道・妻たるの道の分際に合すると見なす。六爻の中で六二と六五のみが吉利を説き、しかも六五は正を守る上でなお六二に及ばない。残りの各爻は皆陽剛を扶助し陰柔を抑制する深意を含む。これが《坤》卦の大概である。
坤。元亨。利牝馬之貞。君子有攸往。先迷後得主。利。西南得朋。東北喪朋。安貞吉。三偶為陰,其卦為坤,其象為地。陰之成形,莫大乎地。地勢卑順,故名為坤。六畫皆陰,內外皆坤。陰之純,順之至也。純陰至順,一承乎陽。循物無違,居心順應。理無不通,故占亦可大亨。然必守此順德,久而不變,故曰利牝馬之貞。
《坤》:大いに亨通し、牝馬のごとく正固を守持するに利あり。君子往く所有り、先んずれば道に迷い、後れて従えば主あるを得て利あり。西南方に往けば朋類を得、東北方に往けば朋類を喪う。正道に安んずれば吉。三画が皆断けた偶画なれば陰であり、この卦を《坤》といい、その象は地である。陰が凝聚して形を成す物に、地より大きいものはない。地勢は卑下にして柔順なので「坤」と名づける。六画全て陰で内外両卦とも坤――これは陰の純粋・順の極致である。純陰にして至順、ひたすら陽剛を承奉し、事物に順って違逆せず、存心が一概に順応するので、道理は通達せざるなく、ゆえに占断もまた大いに亨通しうる。ただしこの柔順の徳を守り、長久にして改変せざるべし。ゆえに「利牝馬之貞」という。
牝馬,柔順而健行者。馬為乾象。曰牝馬,明配乾也。陽得其全,陰得其半。以柔順得正為利,則其他有所不利矣。陽先陰後。君子占比,欲有所往,率先首事,必至於迷。居後順從,乃得其當。故曰先迷後得。主利,本義謂陽主義而陰主利。大全謂占此卦便主利此事,非坤道主利萬物也。時解皆從之。今按,蘇傳來注皆以後得主為句。謂陽為陰主,乾為坤主。居後從乾,得其所主,所以為利也。此雖與本義不合,然觀後文言後得主而有常句,似非遺去利字,且於理義甚順,宜存之。
牝馬は柔順にして能く健行する牲畜である。馬は本来《乾》の取象だが、ここに「牝馬」と言うは、まさにそれが乾に配合するものであることを表明する。陽はその全を得て、陰はその半を得るのみ。ゆえに《坤》はただ柔順に正を守るを利とし、他の方面は利あらざる所がある。陽が先に在り陰が後に在る。君子がこの卦を占得して往く所を得んとすれば、先んじて頭となって事を行えば必ず迷惑に陥り、後に居って順从してこそ当を得る。ゆえに「先迷後得」という。「主利」の二字は、朱熹《本義》は陽は義を主り陰は利を主ると見なし、胡広《大全》はこの卦を占得すればこの事に利を得るを以て主とするのであって、坤道が万物を利するを主とするのではないとし、時下の講章は皆この説に依る。今按ずるに、蘇軾《東坡易伝》と来知徳の注はいずれも「後得主」を一句に断じ、陽は陰の主・乾は坤の主と見なす。後に居って乾に随従すれば己の依る主を見出し、ここに因ってこそ利がある。この説は《本義》の断句と合わないが、後文《文言》に「後得主而有常」の一句があるのを見れば、どうやら「利」の字を漏らしたのではなく、しかも義理の上で甚だ順当なので、この説を存すべきである。
西南,陰方。東北,陽方。西南致養之地,與坤同道,故得朋。東北反乎西南,故喪朋。陰體柔而躁,妄作以求全,則非矣。必安於正乃吉,故曰安貞吉。蓋陰之德減於陽之半。故體乾之君子,可先亦可後。而體坤之君子,但為後不可為先。所遇雖得喪之不同,而要以安於正則吉,此地道臣道妻道也。
西南は陰に属する方位、東北は陽に属する方位である。西南は万物が養育を受ける地で坤と同道なので「得朋」といい、東北は西南と相反するので「喪朋」という。陰の体質は柔弱にして躁動し易い。もし妄りに作為して周全を求めれば誤りである。必ず正道に安処してこそ吉祥。ゆえに「安貞吉」という。陰の徳性は陽の半分に過ぎないので、乾道を体現する君子は先も可後も可だが、坤道を体現する君子は後にのみあって先んずること能わず。遭遇する情形は得朋と喪朋の異なりがあるが、帰する所は正道に安んずるを以て吉とする――これが地たるの道・臣たるの道・妻たるの道である。
此三句本義解如此,時解皆從之。今按,蘇傳及來注皆謂文王圓圖,西南、兌離巽三女所居,坤之朋也。東北,震坎艮三男所居,非朋也。陰以從陽為正,去其三女之朋,求主於東北,則為安貞之吉矣。此雖與本義悖,而說可存。
以上三句は、朱熹《本義》がかく解し、時下の講章も皆これに依る。今按ずるに、蘇軾《東坡易伝》と来知徳の注はいずれも文王の後天八卦円図に依って説を立てる。西南の一带は《兌》《離》《巽》の三つの女卦の居る処で坤の同類に属し、すなわちいわゆる「朋」。東北の一带は《震》《坎》《艮》の三つの男卦の居る処で、同類ではない。陰は陽に順从するを正道とするので、西南のあの三女の朋を捨て、転じて東北に赴いて己の依る主を求めてこそ、「安貞之吉」と成りうる。この説は《本義》と相抵触するが、並存させてもよい。
坤卦彖伝
彖曰。至哉坤元,萬物資生,乃順承天。此以地道明坤之義,而首言元也。至,極也。乾曰大,無所不包也。坤曰至,無所不盡也。乾之大無方。坤則未離乎方也,故但曰至。元非別有一元。乾施坤受,一氣而已。資始者有其氣,資生則有其形。然非坤自為,順天氣而承之以生。不先不後,所以為至也。
《彖伝》にいう。極まれるかな坤の元気、万物はこれに依りて生長し、これは順って天を承ける。この節は地道を以て《坤》卦の義理を闡明し、まず「元」の字を釈する。「至」は極の意である。《乾》に「大哉」と言うは包まない所なし、《坤》に「至哉」と言うは尽きない所なし。乾の大は一定の方所なく、坤はなお方所の限りを脱していないので、ただ「至」と言う。坤元は別に元あるのではない。乾が施与し坤が承受し、本来同じ一股の気である。「資始」は万物が乾より気を得ること、「資生」は万物が坤より形を得ることである。しかるにこれも坤の自作主張ではなく、天の気に順ってこれを承接し生成するのである。先んじもせず後れもしない。ゆえに「至」と称す。
坤厚載物,德合無疆。含弘光大,品物咸亨。此言亨也。坤之德厚,持載萬物,合於乾之無疆。無疆即乾之不息也。不息則可久,無疆則可大矣。其靜也翕,故曰含弘。含言無所不容,弘言無所不有。其動也闢,故曰光大。光言無所不著,大言無所不被。所以德合無疆。而品物之流形者,咸暢茂條達,無不亨矣。
坤は厚く重くして万物を承載し、その徳性は乾の無辺無際に合し、含容宏富・光明広大にして、各種の物はこれに由って亨通する。この節は「亨」を講ずる。坤の徳性は深厚にして万物を持載しうるゆえ、乾の無辺無際に合する。いわゆる「无疆」とは、乾の息まざることである。息まざるゆえ能く長久であり、辺際なきゆえ能く広大である。坤は静なれば収斂閉合するので「含弘」という――「含」は容れないものなし、「弘」は有らないものなし。坤は動けば張開敞放するので「光大」という――「光」は顕著ならないものなし、「大」は覆被しないものなし。このようであるゆえ、その徳性は乾の无疆に合し、各種流動して形を成す物は皆暢茂舒展して亨通せざるなし。
牝馬地類,行地無疆。柔順利貞,君子攸行。此言利貞也。馬,乾象。而曰地類者,馬行地之物,牝則陰之類也。行地無疆,則順而健矣。地承天施,柔順也。生物有終,利貞也。坤之德如此,君子所行如之,則有先迷後得之慶矣。
牝馬は地の類に属する牲畜で、大地の上を奔行して辺際なし。柔順にして正を守るに利ありは、まさに君子の遵行すべき所である。この節は「利貞」を講ずる。馬は本来《乾》の取象だが、ここでそれを地の類に属すと言うのは、馬は地上を行く牲畜であり、牝馬はまた陰の類に属するからである。能く大地の上を奔行して辺際なしは、すなわち柔順にしてまた強健である。大地は上天の施与を承接する――これが柔順。万物を生養して各々終成あらしむる――これが利貞。坤の徳性はかくのごとく、君子の所作所為もまたこのようにして行えば、「先迷後得」の吉慶がある。
先迷失道,後順得常。西南得朋,乃與類行。東北喪朋,乃終有慶。居先則迷惑而失坤之道,居後則順利而得地之常。西南,與陰之類行,故得朋。東北,非其類,故喪朋。然反而與類行,亦終有得朋之慶矣。本義所解如此。程傳謂東北從陽,成生物之功,曰有慶。蘇傳來注同之。今按,獨陰不生,從陽有慶為是。
先んじて前に搶せば道路を迷失し、後に随いて順从してこそ常理を得る。西南に往きて朋類を得るは同類と同行すること、東北に往きて朋類を喪うも最終にはなお喜慶がある。先に居れば迷惑して坤道を失い、後に居れば順遂して地道の常軌を得る。西南は陰の同類と同行するので得朋し、東北はその同類でないので喪朋する――しかし回頭してなお同類と同行すれば、最終にもまた得朋の喜慶がある。朱熹《本義》はかく解する。程頤《伊川易伝》は東北が陽剛に順从し、以て万物を生養する功を成就するゆえ「有慶」というと見なし、蘇軾《東坡易伝》と来知徳の注は皆程説に賛同する。今按ずるに、陰のみでは万物を生育できない。やはり「陽剛に順从してこそ喜慶あり」の一解が勝れる。
安貞之吉,應地無疆。安而且貞,地之德也。彖有三無疆。德合無疆,坤配乾之無疆。行地無疆,坤之德無疆也。應地無疆,人法地之無疆也。無疆本天德。唯地能合天之無疆,則地亦無疆。君子能法地之無疆,君子亦無疆。君子法地,地法天,一天德之無疆已矣。
「安貞」の吉祥たる所以は、それが大地の無辺無際に相応ずるによる。安処にしてまた正を守るは、まさに地の徳性である。《坤》卦《彖伝》に三つの「无疆」が現れる。「徳合无疆」は坤が乾の无疆に配合すること、「行地无疆」は坤自身の徳性の无疆、「応地无疆」は人が地に效法する无疆である。无疆は本来天の徳性であり、ただ地のみが天の无疆と相合しうるので、地もまた无疆である。君子が地の无疆に效法しうるので、君子もまた无疆である。君子は地に效法し、地は天に效法し、帰根結底ただ同一の天徳の无疆に過ぎない。
坤卦象伝と爻辞
象曰。地勢坤。君子以厚德載物。天以氣運故曰行,地以形載故曰勢。上下卦皆地,然其象一而已,故不言重,而但言其勢之順。蓋地非以平為順。高下相因,正見其順也。高下相因無窮。地勢之順,以地德之厚也。厚,故萬物皆載焉。君子以之法地德之厚,而民物皆在所載矣。至乾之大象不言乾而言健,地則不言順而言坤,朱子謂用字偶有不同,不必穿鑿。
《象伝》にいう。大地の形勢はすなわち坤であり、君子はこれに取法して、深厚の徳性を以て万物を承載する。天は気に依って運転するので「行」といい、地は形に依って承載するので「勢」という。上下両卦とも地だが、地の象は一つのみなので「重」と言わず、ただその形勢の柔順を言う。地は平坦を以て順とするのではないことを知るべし。高と低が彼此相因相続するは、まさにその順を顕出し、この高低相因は窮尽がない。地勢の柔順たる所以は、地徳が深厚による。ただ深厚ゆえに万物は皆これに承載される。君子はこれに由って地徳の厚重に效法し、ここにおいて百姓と万物は皆その承載の範囲の内にある。《乾》の大象が「乾」と言わず「健」と言い、《坤》の大象は「順」と言わず「坤」と言うに至っては、朱熹はただ用字が偶然異なるのみで、穿鑿附会する要なしと見なす。
初六。履霜堅冰至。陰爻言六者,凡揲筮得三偶,則所餘二十四策,合四六之數為老陰。得二奇一偶,則所餘三十二策,合四八之數為少陰。老變而少不變,故陰爻稱六。又按,兩地之義合河圖,地二地四而為六。取地之生數,不取成數,則亦為六也。
初六:足が薄霜を踏めば、堅氷がまもなく至ることを知る。陰爻が「六」と称する所以は、揲蓍して爻を求める時、三変が皆偶数を得れば残りの蓍策は二十四本で四乘六の数に合し「老陰」に属し、両奇一偶を得れば残りは三十二本で四乘八の数に合し「少陰」に属する。老陰は変じて少陰は変ぜないので、陰爻は一律に「六」と称する。また按ずるに、前に講じた「両地」の義はまさに《河図》に合する――地二に地四を加えればちょうど六である。これもまた地の「生数」のみを取り「成数」を取らず、算して同じく六となる。
霜,一陰之象。冰,六陰之象。霜,陰氣所結,其勢猶微,及其既盛,則水凍而為冰。初陰有霜象,六陰有冰象,陰有冰象。陰爻雖始生於下,其端甚微,而其勢必盛。故聖人示人以戒辭,當履霜則知堅冰之將至也。蓋陰陽,造化之本,不能相無。而消長有常,亦非人所能損益。然其類則陽生陰殺,陽善陰惡,陽君子而陰小人。故聖人於易,每致扶陽抑陰之旨,亦參贊天地之微權也。
霜は一根の陰爻の象、氷は六根の陰爻が俱全した象である。霜は陰気の凝結して成るものでその勢いはなお微弱である。陰気の盛極に至れば水は凍結して氷となる。ゆえに初六の一陰が下にあるは霜の象、全卦の六陰が俱備するは氷の象で、陰気がその歩みまで積まれば結氷の象がある。陰爻は最下から剛く生じ出たばかりで苗頭は極めて細微だが、その勢いは必ずますます盛んとなる。ゆえに聖人は告誡の辞句を以て人に提示する――足下が薄霜に踏み当たれば、堅氷がまもなく来ると知るべしと。陰と陽を言えば、本来造化の根本で誰も彼も欠くべからず、しかもそれらの消退と生長は自ら常軌があり、人力の増減すべき所でもない。しかし類別に按じて分ければ、陽は生を主り陰は殺を主り、陽は善を為し陰は悪を為し、陽は君子を代表し陰は小人を代表する。ゆえに聖人は《易》の中で屢々陽剛を扶助し陰柔を抑制する宗旨を表し、これもまた天地の化育に参賛する時に用いる一点の微妙なる権衡である。
象曰。履霜堅冰,陰始凝也。馴致其道,至堅冰也。本義謂魏志作初六履霜,當從之。馴,順習也。道,即小人道長之道。經言堅冰至,要其終也。象傳至堅冰,原其始也。當其履霜,不過陰之始凝耳。乃至於堅冰,則惟其因循順習以致之耳。戒占者當豫防,不可自我致之也。始於微而終於著,陰陽均也。而陰之為物,弱而易入。易以陷入,故戒其馴習而致之。即子產水弱民玩之意。
《象伝》にいう。足が薄霜を踏んで堅氷の至るを知るは、陰気が凝結し始めたるなり。これに順って一歩一歩積習して下りゆけば、堅氷の地歩に至る。朱熹《本義》にいう、《三国志・魏志》がこの文を引いて「初六履霜」と作り(「堅氷」の二字なし)、これに従うべきである。「馴」は順って習染するの意、「道」はすなわち「小人之道日長」のあの道である。経文が「堅氷至」と言うは結局に着目し、《象伝》が「至堅氷」と言うは起因に着目する。彼が剛く薄霜に踏み当たった時は、ただ陰気が凝結し始めたに過ぎない。竟に堅氷に結するに至るは、ただ一路因循して順習したが招いたのである。これは占者に預めて防備すべしを告誡し、自ら一歩一歩それを招来してはならぬとするものである。事は微小に起こり顕著に終わる――陰陽ともに然り。ただ陰というものは柔弱にして侵入し易く、人もまた不知不覚のうちに陥り易いので、特意に順習してそれを養い成すなかれと告誡する。まさに《左伝》に子産がいう「水は柔弱、百姓はこれを軽慢す」とし、却ってその害を蒙るの意である。
六二。直方大。不習無不利。乾五爻皆取象,獨九三指其性體剛健者言之。坤五爻皆取象,獨六二指其性體柔順者言之。初三五柔順而不正,非陰位也。四上柔順而不中,非上下卦之中也。唯六二柔順而中正,得坤道之純者也。
六二:正直・方正・盛大にして、刻意して学ばずとも利あらざるなし。《乾》卦は五爻が皆物象を取って言うが、ただ九三のみが直接その性体の剛健を指出し、《坤》卦もまた五爻が象を取るが、ただ六二のみが直接その性体の柔順を指出する。初六・六三・六五は柔順だが正位を得ず――初・三・五は陽位であって陰位に非ず。六四・上六は柔順だが中に居らず――いずれも上下卦の中位にあらざるによる。ただ六二のみが柔順にしてまた居中得正し、坤道の純粋を完整に得た一爻である。
正則無私曲而內直,中則無偏黨而外方。內直外方,其德自然盛大。不假修習,而自無不利也。不揉而直,不矩而方,不廓而大,故曰不習。不待學習,自然直方大,故曰無不利。蓋習而利,則利止於所習矣。唯不習,故無不利。言以乾之德為德也。乾,其動也直,坤亦直。乾圓而坤則方。乾不息而坤德合無疆,則與乾並大矣。占者有是德,則其占如是。初六占在象中,此則象在占中。
正位を得れば私心曲意なく、ここに因って内心は正直である。中位に居れば偏袒結党なく、ここに因って外表は方正である。内は直に外は方なれば、徳性は自ずと盛大で、刻意の修習を借りずとも自ずと利あらざるなし。矯揉を用いずして笔直であり、規矩量画を用いずして方正であり、拡充を用いずして広大である。ゆえに「不習」という。学習を待たずして自然に直・方・大を為すので、「无不利」という。もし学習に依ってこそ利を得るなら、その利は所学のあの一点に限られる。正に学ぶべからざるがゆえに利あらざるなし。これは六二が乾の徳性を己の徳性と為すを言う。《繋辞伝》は乾を「其動也直」といい、坤もここで直を講じ、乾は円にして坤は方、乾は運行息まずして坤の徳性は乾の無辺無際に合す。さらば乾と同じく広大である。占者がかかる徳性を具えれば、占断もまたかくのごとし。初六のあの爻は占断が卦象の中に含まれ、この爻は卦象が占断の中に含まれる。
象曰。六二之動,直以方也。不習無不利,地道光也。地之直方,於其動觀之,即生物之無屈撓。見其直,即賦形之無變易。見其方,蓋唯承天而動故也。直方則大也,故不言大。地道之光,自然而然。無所勉強,不可揜蔽也。
《象伝》にいう。六二の動作は正直にして方正であり、学ばずして利あらざるなしは、地道の光明である。地の正直と方正はその動作の上から見るべし。それが万物を生養して毫も屈撓曲折なきに由ってその「直」が見え、万物に形体を賦与して一定にして変易なきに由ってその「方」が見える。これは皆それがただ天を順承して動くによる。すでに直にして且つ方なれば、自ずと大である。ゆえに《象伝》は「大」を再提しない。地道の光明は自然而然であって一絲の勉強もなく、またそれを遮蔽しうるものもない。
六三。含章可貞。或從王事。無成有終。坤為吝嗇又為文。六三陰居陽位,剛柔相雜,內含章美之象。體純陰,可貞以守之象。居下卦之上,有位者也。有或出而從王事,不終含藏之象。三居下卦之終,有終之象。三居陽不正,故不曰貞曰可貞。不欲輕進,故曰或。不敢造始,故曰從。人臣之道,凡事不最居其成功,唯奉事以守終,故曰無成有終也。本義謂始雖無成,後必有終,意似不同。然全卦有先迷後得之象,而三爻多凶。凡占者得此,即如所占可也。
六三:文采を含蔵して正を守りうる。あるいは出でて君王の政務に従い、首功に居らずしてよい結末を得る。《説卦》は坤を吝嗇としまた文采とす。六三は陰爻を以て陽位に居り、剛柔相互に夾雑して文采の美を内含する象あり。卦体は純陰にして守正自持すべき象あり。また下卦の最上の爻に居るは職位ある人なので、あるいは出でて王事に従い、始終含蔵して露さざるにあらざる象あり。六三は下卦の末位に処するので「有終」の象あり。それは陰爻を以て陽位に居り正を得ないので、直ちに「貞」と言わずただ「可貞」と言い、軽率に前進を肯んぜないので「或」といい、自ら事端を開創するを敢えてしないので「従」という。人臣たるの道理は、凡事成功をまず己の頭上に帰せず、ただ職事を奉行して結末を守ること。ゆえに「无成有終」という。朱熹《本義》は初め成就なきも後日必ず終成あると解し、用意はこれと異なるようだが、全卦は本来「先迷後得」の象があり、第三爻はまた多く凶険なので、およそ占者がこの爻を得れば自らの占う事に照じて断ずれば、それでよい。
象曰。含章可貞,以時發也。或從王事,知光大也。處下之道,必能含其美,乃為得正。然義所當為,則以時而發,非有所隱而不盡也。或從王事,乃能無成有終,以其知之光大故也。蓋天下唯能含者乃能發。圭角淺露,不可有為矣。唯知光大者乃能含。闇昧不明,妄自炫耀矣。大知光明者不事匿名晦跡,而驕矜不形。涵養深沉者不用見事風生,而事業自遠。此即象傳所謂含弘光大也。
《象伝》にいう。文采を含蔵して正を守りうるは、時機の成熟を待ってこそ発露せんとするなり。あるいは出でて君王の政務に従うは、その見識が光明博大なるによる。下位に処する道理は、必ず己の美質を含蔵しうるにしてこそ正を得たりと算す。しかし道義上なすべき事は、時機に順って発露するべきであって、一味に隠蔵して力を尽くさざるに非ず。「或従王事」しながらなお首功に居らず好結末を得うる所以は、まさにその見識の光明博大による。天下はただ能く含蔵する人のみが真に発露しうることを知るべし。鋒芒を畢露し浅薄に外顕する人は、事を成し得ない。また見識光明博大の人のみが含蔵し得て、昏昧不明の人はただ胡乱に炫耀するのみである。見識大にして心地光明の人は、刻意に姓を埋め名を隠し蹤跡を蔵するのではないが、驕矜の色は自ずと外に形れず。涵養深沈の人は、事に遇うごとに張揚造勢するを要せずして、事業は自ずと長遠に為しうる。これもまたすなわち《彖伝》にいう「含弘光大」である。
六四。括囊。無咎無譽。陰虛能受,故坤有囊象。重陰凝閉,有括囊之象。三以陰居陽,猶或可出。四以陰居陰,逼近於君,唯有謹密晦藏而已。不但言語之簡然,凡一切動止皆然。如此則無僨事之咎,亦無成事之譽。蓋四近君,譽則逼上,譽即咎之招。無咎者,以無譽也。求譽,則不能括囊矣。
六四:口袋を括り結ぶがごとく口を閉じて露さず、過ちなく、称誉もなし。陰は空虚にして物を容納しうるので坤に口袋の象あり。六四は陰に陰を加え、凝滞閉塞するので口袋を括る象あり。六三は陰爻を以て陽位に居り、なおあるいは出でて事を為しうる。六四は陰爻を以て陰位に居りまた君位に緊挨着するので、ただ謹慎細密・韜光隠晦の一途のみである。これは言語の上の簡省のみではない。およそ一切の挙動進止は皆かくあるべし。こうすれば、事を敗る過ちもなく、事を成す称誉もない。六四は君位に逼近するので、美誉あればすなわち君上を圧逼し、美誉はまさに罪咎を招く由頭となる。それが「无咎」たる所以は、まさにその「无誉」にある。もし一心に誉を求めれば、口袋を括ること能わず。
象曰。括囊無咎,慎不害也。
《象伝》にいう。口袋を括るがごとく緘黙して密を守りて咎なきは、謹慎なるがゆえに禍害を招かざるなり。これは六四の「无咎」たる所以が全て一つの「慎」の字にあるを言う。身は君位に逼近する嫌疑の地に処し、言語行止を皆収束すれば、禍害は自ずと彼を傷え得ない。
能慎,則不害也。君子當否塞之時,不求有功,當思遠害。
謹慎に収斂しうれば、禍害を招かざるなり。君子が天地閉塞・上下不通の時に処しては、功業を建立せんと指すべからず、ただ如何に禍患を遠ざけるかを思うべきである。これはまさに六四の「括囊」――口袋を括り結び、一言一行も外に露さず――が「无咎」たる由縁である。
六五:黃裳,元吉。黃,中色,地之色也;裳,下飾,坤為裳也。然不於二言之,獨於五言之者,蓋六二陰而在下,柔順中正,自然無不利。六五以陰居尊,必中順之德充於內而見於外,乃得大善之吉,否則凶矣。程傳以羿、莽、武氏臣妾居尊位者言之,先儒或病其拘。蓋卦本臣道妻道,而五居尊位。然易之為占皆因人立教。為臣妾者得此,則宜忠信卑順,以盡其道;為君得此,則宜居中謙遜,以下賢也。
六五:黄色の下裳、大いに吉祥。「黄」は五色中の中央の色であり、また大地の色である。「裳」は下身に着る服飾であり、《坤》は地であり順であるので「裳」の象を取る。中色をなぜ六二に安んぜず、偏えに六五に安んずるか。六二は陰爻を以て下卦に居り柔順中正で臣位に安んじ、本は往く所利あらざるなし。六五は陰柔の質を以て至尊の位を占住するので、必ず「中」「順」の徳を内に充実し外に顕発せしめてこそ、大善の吉に配しうる。さもなくばすなわち凶である。《程伝》は后羿・王莽・武則天のごとき臣妾の身を以て尊位を窃拠した人を以てこの爻を講じ、後儒は程頤が拘泥して説くを嫌う。陳夢雷は程頤のために分弁する――《坤》の講ずるは本は臣道・妻道であり、六五は偏えに尊に居るので、程説は自ら落着する所有り。ただ《易》の占辞は人に因って教を立つ。身が臣妾たる者がこの爻を占得すれば、当に忠信卑順を以てその分を尽くすべし。身が君主たる者がこの爻を占得すれば、当に中を守り謙遜を以て賢に礼し士に下るべし。
象曰:黃裳元吉,文在中也。坤為文,又居五之中。文生於相錯,陰陽專一則無文。陰有陽德,則黃中之文充於中而見諸外也。
《象伝》にいう。「黄裳元吉」は、文采が中位に蘊含するによる。《坤》卦は本身「文」に取象し、六五はまた正に上卦の中位に処す。文采は陰陽交錯に由ってこそ生ずるもので、もし純陰純陽・単一にして雑らなければ、文采というべくもない。六五は陰爻だが陽剛の徳を含有し、陰陽交錯して、ここにおいてあの居中にして外に露さざる黄色の文采が内に充満し、自然に外に顕現する。
上六:龍戰于野,其血玄黃。陰宜從陽者也。純陰在上,盛於陽矣,故與陽皆有龍象。盛則必爭,故有戰象。上動不已,進至於外,故有戰于野之象。陰雖極盛,豈能獨傷陽哉,故有兩敗俱傷之象。氣陽血陰,陽衰於陰,故與陰皆有血象。象如此,不言凶而凶可知矣。乾上但言亢,而坤則言戰者,蓋陰陽不可相無,然乾尊則無對待,坤卑而盛極,必至侵傷也。初曰堅冰至者,防龍戰之禍於始;上曰龍戰野,則著堅冰之禍於終也。餘意文言詳之。
上六:龍が郊野で交戦し、流れ出る血は青黒と土黄の相雑である。陰は本来陽に順从すべきだが、今《坤》の六爻は純陰で上六はまた最上に居り、陰気は盛んにして陽と相抗しうるに至るので、陽と同じく「龍」の象を取る。すでに盛んにして陽と相敵すれば勢い必ず争うので「戦」の象あり。上六は動して止まず、一直に卦外に進むので「戦于野」の象あり。陰は極めて盛んだが、豈に単面に陽を傷りて自ら毫髪の損なきを得んや。ゆえに両敗倶傷の象あり。気は陽に属し血は陰に属し、この時陽はすでに陰の中に衰竭したので、陰と同じくまた「血」の象を取る。象すでにかくのごとく、爻辞は明かに「凶」を言わざれど、凶は知るべし。《乾》の上九はただ「亢」と言い、《坤》の上六は却って「戦」と言う。由縁は――陰陽は誰も彼も相手なくしてありえず、ただ《乾》は尊位に居りこれと対待する者なきゆえ亢極のみを言い、《坤》は本は卑下にしてまた極点に盛んなるがゆえに必ず陽を侵犯傷害せんとする。初六が「履霜堅氷至」と言うは、開頭に於いて龍戦の禍を防提し、上六が「龍戦于野」と言うは、結尾に於いて当初履霜の後果を坐実する。残りの意は《文言》にさらに詳しく講す。
象曰:龍戰于野,其道窮也。陰盛窮極,勢必爭而傷也。然道豈驟窮,由初之馴致也。
《象伝》にいう。「龍戦于野」とは、陰柔の道がすでに尽頭に走り至ったによる。陰気は盛極に至り退く路なく、勢い必ず陽と相争い両方傷を受ける。ただ陰道は驟然に窮尽に至ったのではなく、初六「履霜」から一歩一歩順って積み累ねて来たものである――「馴致」はまさに順習して漸進する意である。
用六:利永貞。坤之用六,以凡筮得陰爻六變而八不變也。然凡陰爻皆用六。獨坤以純陰而皆變為陽,則得稱用六也。陰柔不能固守,變而為陽,則能永貞矣。
用六:長久に正を守るに利あり。《坤》卦が別に「用六」の一条を立てる所以は、筮法において老陰の数六は変じ少陰の数八は変ぜず、占筮は変爻を取るゆえ、およそ陰爻に遇えば皆「六」と称する。すでに各卦の陰爻が皆「六」なら、なぜただ《坤》のみ「用六」と称しうるか。《坤》は純陰で、六爻が全て変ずれば全体が《乾》を成す――これでこそ「用六」の名に当たる。陰柔の本性は守れず、一たび変じて陽となり剛健の質を得てこそ、長久に正を守りうる。
不牽於私慾,不惑於常變,固守其順,所以利也。坤本有元亨,此獨言永貞者,蓋乾以元資始,坤以貞大終。六爻皆變,則其德減半,故不言元亨也。前言安貞之德,而此言永貞者,蓋安者順而不動,永者健而不息。變而為乾,故言永也。乾吉在於無首,坤利在於永貞。蓋以剛健居人之首,則物之所不與也;以柔順而為不正,則佞邪之道也。乾變坤,剛而能柔;坤變乾,雖柔必強。變化氣質之道,陽本先於陰,而陽之極不為首;陰本小於陽,而陰之極以大終。審時觀變之學也。
私欲に牽動されず、常態と変故に迷惑されず、牢牢と柔順の徳を守る――これが「利」の所在である。《坤》の卦辞は本来「元亨利貞」の四徳があるのに、「用六」ここではなぜ「永貞」のみを言うか。「元」は《乾》が万物を資始する徳であり、《坤》は「貞」に依って万物の終を成全する。六爻が全て変じた後は坤徳はすでに半を失うので、「元亨」は再提しない。卦辞は先に「安貞」と言ったが、ここでは「永貞」と言う。その分別は――「安」は順にして動かざる、「永」は健にして息まざる。六爻がすでに《乾》に変じて乾健の性を得たので、「永」に改めたのである。《乾》の吉は「用九」の「无首」にあり、《坤》の利は「用六」の「永貞」にある。剛健の質を以て衆人の首に搶せんずれば、衆人は帰附を肯んぜず、柔順の質を以て正ならざる事を行えば、奸佞邪僻の道となる。《乾》が《坤》に変ずるは剛にして能く柔であり、《坤》が《乾》に変ずるは柔なれど必ず強である。これはまさに気質を変化する功夫である。陽は本は陰に先んじ、陽は極処に至って首と為るを肯んぜず、陰は本は陽より小なれど、陰は極処に至って能く大きな終を成就する。これは一門の時を審らかにし変を観る学である。
象曰:用六永貞,以大終也。陰小陽大,先陰而後陽,始小而終大也。小者,小人之道;大者,君子之道。美其善變也。
《象伝》にいう。「用六永貞」とは、それが「大」を以て収結するによる。陰は小・陽は大であり、《坤》の六爻は陰より陽に変ずる。これは先小後大・小に始まり大に終わるである。「小」は小人の道を指し、「大」は君子の道を指す。小より大に転ずは、すなわち小人の道より君子の道に転入することである。《象伝》がかく言うは、《坤》の善く変化するを称美する。
坤卦・文言
文言曰:坤至柔而動也剛,至靜而德方。此釋牝馬之貞也。動者,生物所動之機;德者,生物所得之質。坤不專成,本至柔也,而承天發生,勃不可禦,動之剛也;坤不造始,本至靜也,而生物賦形,一定不易,德之方也。乾剛健而中正,所以為大;坤柔靜中有剛方,所以為至。不必於柔靜之外別求剛方也。
《文言》にいう。坤は極めて柔だが、一たび動けば剛である。坤は極めて静だが、その徳性は方正である。これは卦辞「牝馬之貞」を釈す。「動」とは万物が生発する時に推動するあの机括を指し、「徳」とは万物がこれに由って禀得するあの質地を指す。坤は独立して万物を成就せず、本来至柔である。しかし天気を承奉して生機を発動し、勃発の勢いは挡えども挡え難い――これが柔中の動が実に剛たる所以。坤は端始を開創せず、本来至静である。しかし万物を生養し形体を賦与し、一物一形は固定して移らない――これが静中の徳が実に方たる所以。《乾》は剛健にしてまた中正なので「大」と称し、《坤》は柔静の中に自ら剛と方を含むので「至」と称す。見れば剛方はまさに柔静の裏頭にあり、柔静を離れて別に剛方を求める要はない。
後得主而有常。按,本義主下當有利字,即彖傳後順得常之意。今按,蘇來二說,後乎乾,得乾為之主,坤道之常也。觀其文勢,主下無利字為是。
《文言》にいう。後に居ってこそ主る所を得、ここに因って常あり。陳夢雷按:朱熹《本義》は「主」の字の下にさらに「利」の字あるべしと見なし、「後得主利」と作して、正に《彖伝》「後順得常」の意に合す。今按ずるに蘇軾《東坡易伝》と来知徳《周易集注》の両家の説では、「後」は坤が乾の後に居るを指し、ここに因って乾を得てその主と為す――これがこそ坤道の常軌である。この一句の文気に就いて言えば、「主」の字の下に「利」の字を加えぬがさらに順なので、陳夢雷はここに於いて《本義》に従わない。
含萬物而化光。復明亨義。即彖傳含弘光大之意。靜翕則含生意於中,動則有闢光輝也。
《文言》にいう。坤は万物を含容し、化育の功は広大である。この一句は再び卦辞「亨」の意を申明するもので、すなわち《彖伝》「含弘光大」が説く所である。坤は静の時は収斂閉合して生意を含蓄し、動の時は張開発散して化育の功が光輝を顕す。「翕」は合、「闢」は開である。
坤道其順乎,承天而時行。承天之健,順天之時以行。即彖傳順承天之意。自坤至柔至此,皆以申言彖傳之意。
《文言》にいう。坤道はおそらく一つの「順」の字であろう。それは上天を承奉し時に依って行う。いわゆる「承天而時行」とは、坤が乾天の剛健の気を承受し、また天時の節候に順って施行すること。すなわち《彖伝》「順承天」の意である。上文「坤至柔而動也剛」から一路ここまで、皆逐句《彖伝》の意旨を申説するものである。
積善之家,必有餘慶;積不善之家,必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辨之不早辨也。易曰:履霜堅冰至,蓋言順也。順,本義作慎。凡事皆由積漸所致,宜辨之於微而加慎也。或曰順即馴,即馴致其道,言因循以致之也,更通。
《文言》にいう。善行を積累する家には、必ず余る福慶が後人に遺され、悪行を積累する家には、必ず余る禍殃が後人に遺される。臣子が国君を弑し、兒子が父を弑するは、皆一朝一夕の間に成るに非ず。その来路は一点ずつ積累し、壊れる所以は早く辨察せざるに在る。《易》に「履霜堅氷至」というは、講ずる所はまさにこの「順」の字である。陳夢雷が指出する――この「順」の字、朱熹《本義》は「慎」と作し、《本義》に照らして読めば、凡事皆漸積に由って成るから、苗頭が細微な時に辨明して加倍謹慎すべしという意である。またある人は「順」はすなわち「馴」で、《象伝》「馴致其道」の「馴」と同義であり、因循順遂して逐步に造成するを指す――この一解はさらに講じ通ずるので、陳夢雷はこれを取る。
直其正也,方其義也。君子敬以直內,義以方外,敬義立而德不孤。直方大,不習無不利,則不疑其所行也。何以謂直?言其心之本體無邪,正也。何以謂方?言其心之妙用合宜,義也。此六二直方之所由名也。下則言求直方之功。君子惟主敬,則其內自直。兢兢業業,主一無適,一私不擾,直矣。惟守義,則其外自方。凡所施行,因時制宜,一定不易,方矣。敬義既立,事君則忠,事親則悅,交友則順,所謂不孤。至此,不期大而自大矣。蘇氏謂直內方外,如碩(蘇氏易傳「碩」作「名」)師良友之在吾側,是以特立而不孤也。此說較勝。
《文言》にいう。「直」は心体の正、「方」は行事の宜である。君子は「敬」を以て内心を正直ならしめ、「義」を以て外事を方正ならしむ。敬と義が一旦立住すれば、徳は孤ならず。いわゆる「直方大、不習无不利」とは、彼が己の行う事に対しもはや疑惑を有さざるを言う。なぜ「直」と言うか。心の本体に邪曲なき、それがすなわち「正」。なぜ「方」と言うか。心の妙用に合宜せざるなき、それがすなわち「義」。これが六二の爻辞が「直方」と名を取る由来である。以下は直方を求め得る功夫を講ずる。君子はただ敬を以て主と為せば内心自ずと正直である――戦戦兢兢、専一にして旁騖せず、一点の私念も擾り入れない――これが「直」。ただ義を守れば外事は自ずと方正である――およそ施行する所有れば時に因って宜を制し、一たび裁定すれば移易しない――これが「方」。敬と義が皆立住すれば、君に事えれば忠、親に事えれば悦、友に交われば順――これが「徳不孤」。この地歩に至れば、刻意に大を求めずして自ずと大である。蘇軾は「直内方外」を解して、それはあたかも大師良友が常に身辺に在るがごとしとし、ゆえに特立して孤ならずとす(《蘇氏易伝》ここの「碩」の字は「名」と作し、すなわち「名師良友」)。陳夢雷は蘇説が旧解に勝ると見なす。
凡事必有所疑,故習而後利。體全用備如此,無施不可。坦然行之而無疑,復何假於習乎。乾於二言誠,於二言敬。乾於二言仁,坤於二言義。先儒以誠敬屬乾坤,仁義分陰陽,蓋本於此。
凡事がまず演習を要する所以は、心中にまだ疑惑を存するによる。一旦体全用備してこの地歩に至れば、施行し得ないことなく、坦然として為して毫も疑慮なく、またなぜ演習を假借せんや。これが「不習无不利」である。陳夢雷はまた一層の対応を拈出する。《乾》は九二に於いて「誠」を言い、《坤》は六二に於いて「敬」を言う。《乾》は九二に於いて「仁」を言い、《坤》は六二に於いて「義」を言う。後儒が「誠」「敬」を乾坤に分属させ、「仁」「義」を陽陰に分属させた根拠は、まさにここにある。
陰雖有美,含之。以從王事,弗敢成也。地道也,妻道也,臣道也。地道無成,而代有終也。三以陰居陽,雖有美而含之。非其才有所不足,分有所不敢也,以從王事,不敢專其成功。蓋以地成天,即以妻承夫、以臣從君之道也。地道不敢專成功,不過代天而終所未終,況妻道臣道乎。以數言之,天數終於九,亦以地十終之。
《文言》にいう。陰は美徳ありと雖も、それを含蓄して王事を奉行するに用い、その成に自居するを敢えてしない。これは地の道・妻の道・臣の道である。地道は成功に自居するを敢えてせず、ただ天に代わって天の未了の事を收尾するのみ。陳夢雷が解する――六三は陰爻を以て陽位に居り、美質ありながら含蔵を知るのは、その才具の足らざるに非ず、名分上敢えてしないのである。これを以て王事を奉行すれば、成功を独占するを敢えてしない。地が天の事業を成就するは、すなわち妻が夫を承奉し臣が君に従順する道理である。地道ですらなお成功を独占するを敢えてせず、不過天の未終の事を代わって終成するのみ。いわんや妻道・臣道をや。さらに数の上から見れば、天数は九を以て終とするが、九の後はなお地数の十に依って収結する――これもまたまさに「代有終」の意である。
天地變化,草木蕃。天地閉,賢人隱。易曰:括囊,無咎無譽,蓋言謹也。天地二句引起下文之辭。天地交感,則變化萬物,雖草木亦蕃;若重陰閉塞,雖賢人亦隱。初言慎,母縱夫微陰之長也;四言謹,母衒於重陰時也。
《文言》にいう。天地の気が交感変化すれば草木は繁盛し、天地の気が閉塞不通なれば賢人は隠退する。《易》に「括囊、无咎无誉」というは、講ずる所はまさに一つの「謹」の字である。陳夢雷が指出する――「天地変化」「天地閉」の二句は、下文の話頭を引起するものである。天地が交感すれば万物を化生し、草木さえ茂盛する。もし重陰閉塞して交わらなければ、賢人もまた隠蔵するほかない。初六が「慎」と言うは、あの一点の微陰の滋長を放縦するなかれと叮嘱し、六四が「謹」と言うは、重陰が令を当てる時に己を炫耀するなかれと叮嘱する。「母」はここに於いて「毋」と通じ、禁止の辞である。
君子黃中通理。此釋黃字之義,中德在內。曲鬯旁通,無私慾之滯塞;條理分明,無私慾之混淆。中德在內不可見,即通理二字形容其蘊,所謂文在中也。本爻既變,坎為通通(「通通」疑為「中通」)之象;本爻未變,坤為文理之象。
《文言》にいう。君子は黄中の徳を有して文理に通達する。これは爻辞「黄」の字の義を釈し、中正の徳が内に蘊含することを指す。いわゆる「通」とは曲折に暢達し旁通して礙なく、私欲の堵塞なきこと。いわゆる「理」とは条理分明にして私欲の攪乱なきこと。中徳は内に蔵して本来見えないので、「通理」の二字を以てその内蘊を形容する。すなわち《象伝》にいう「文在中」である。象の上から言えば、六五一たび変ずれば上卦は坎を成し、坎は「通」の象あり(ここの「通通」の二字、疑わしくは「中通」と作るべし。坎は中通なり)。六五変ぜず、本卦は坤で、坤は文理の象あり。
正位居體。此釋裳字之義。雖在尊位,而居下體。美在其中,而暢於四支。發於事業,美之至也。德之美者既在其中,由是暢於四支,而和順在一身。發於事業,而順治者在天下。內外融貫,乃為美之至。此讚歎之,以見元吉之故。
《文言》にいう。正位に居って下体に処す。これは爻辞「裳」の字の義を釈す。六五は尊位に居りながら、なお柔順を以て自処し、衣裳が下身に在るがごとし。《文言》またいう。美は内に蘊含して四肢に暢達し、事業に発用する――これは美の極処である。徳の美はすでに心中に蓄え、これに由って四肢に暢達すれば、一身の挙止は和順ならざるなく、事業に発用すれば天下は順治を得る。内と外が融貫して一を為す――これをこそ「美之至」と言う。《文言》がかく讃嘆するは、まさに六五の「元吉」たる所以の由縁を点出するのである。
陰疑於陽必戰。為其嫌於無陽也,故稱龍焉。猶未離其類也,故稱血焉。夫玄黃者,天地之雜也,天玄而地黃。三雖有美含之,猶知有陽也。上則均敵,無小大之差,疑於陽矣,其勢必戰。十月純陰,古人稱曰陽月,亦以天道不可一日無陽。故稱龍於盛陰之時,以存陽也。氣陽血陰,未離乎陰,故曰類。玄黃,天地之正色,言陰陽皆傷也。全卦唯二五居中,為坤德之美。二居中得正,故不習而利。
《文言》にいう。陰が盛んにして陽と匹敵するに至れば、必ず交戦する。人がこの時すでに陽なしと誤認するを怕れるゆえ、特意に「龍」と称し、またそれが畢竟陰の族類を脱していないゆえ、また「血」と称す。「玄黄」に至っては、天地の二色の相雑で、天色は玄にして地色は黄である。陳夢雷が解する――六三は美ありながら含蔵し、なお上頭に陽あるを知る。上六はすでに陽と勢均力敵し、大小分かれず、陽と匹敵してその勢い戦わざるを得ない。十月は純陰の月だが、古人は偏えにこれを「陽月」と呼ぶ。これもまた天道に一日も陽なかるべからざるによる。ゆえに陰気最盛の時に特意に「龍」と称するは、まさに陽のために一線の生機を留める。気は陽に属し血は陰に属し、上六は終究陰を離れていないので「未離其類」という。玄と黄は本来天地各々の正色だが、今混雑して一となるは、陰陽両方とも傷を受けたと言う。全卦を通観すれば、六二・六五のみが中に居り、最もよく坤徳の美を体現する。六二は中に居ってまた正を得たので「不習无不利」である。
五以柔中居尊,必中順而吉。三以陰居陽,貴乎含。四以陰居陰,在乎括。初勢猶微,宜辨於始。上勢已極,必凶於終矣。蓋陰陽二氣,天地不能相無。而因時有扶陽抑陰之妙,又聖人裁成輔相之功,所以參贊天地者也。
六五は柔順にして中に居りまた尊位に処すので、必ず中正柔順にしてこそ吉を得る。六三は陰爻を以て陽位に居り、貴ぶべき所は一つの「含」の字にある。六四は陰爻を以て陰位に居り、着力すべき所は一つの「括」の字にある。初六は陰勢なお微なので起頭に於いて辨明すべく、上六は陰勢すでに極なので結局は必ず凶である。要するに陰陽この両股の気は天地の間に於いて誰も彼も欠くべからず。ただ時勢に随って異なり、その中に自ずと陽を扶助し陰を抑制する妙用作りあり、加えて聖人の裁節成就・輔助調理の功あれば、人は天地の化育に参賛することを得る。これが《坤》卦六爻の通体の大旨である。
屯卦
屯卦,震下坎上。震一陰動於二陰之下,故其德為動,其象為雷;坎一陽陷於二陰之間,故其德為陷為險,其象為雲為雨為水。有天地,而後萬物生焉。屯者,難也。物之始生,鬱結未通,故其為字,象草穿地始出未申。此屯所以次乾坤之後也。其卦以震遇坎,乾坤始交而遇坎陷,故其名為屯也。六爻二陽四陰。凡卦爻中陰陽以少者為主,故二陽為四陰之主。然五坎體,陷而失勢;初震體,動而得時。屯難之世,陽剛善下,可以有為,故初為全卦之主也。五但小貞吉而已。餘四爻皆因初起義:四應初則往吉,三不應初則往吝,二乘初則不進,上遠初則道窮。此全卦六爻之大略也。
《屯》卦は、下卦が震・上卦が坎である。震は一陽が二陰の下に動く(原文は「一陰」と作るが刊本の誤りとすべし)ので、卦徳は「動」、卦象は雷である。坎は一陽が二陰の間に陥るので、卦徳は「陥」にして「険」、卦象は雲・雨・水である。天地あってこそ万物が生まれる。「屯」の意は難である。万物が剛く生まる時は鬱結して未だ通ぜず、ゆえに「屯」の字形は草芽が土を穿って出でて未だ舒展せざるに象る。これが《屯》が《乾》《坤》に緊接する由縁である。卦体に就いて言えば、震が坎に遇い、乾坤が剛く交合して坎陥に碰当するので「屯」と名づく。六爻は二陽四陰である。およそ卦中の陰陽両方は、少なき方を以て主と為すので、二つの陽爻が四つの陰爻の主である。ただ九五は身が坎体に在り、険中に陥りて勢を失い、初九は身が震体に在り、能く動いてまた時を得る。屯難の世に当たり、陽剛にして己を屈して人に下るを肯んずればこそ為す所有り。ゆえに初九は全卦の主であり、九五は「小貞吉」に過ぎない。残り四爻は皆初九との関係に就いて義を立つ。六四は初九と相応ずるので「往吉」、六三は初九と応なきので「往吝」、六二は初九の上に乘るので前進し得ず、上六は初九より最も遠いので「其道窮」。これが全卦六爻の大概である。
屯:元亨利貞。勿用有攸往,利建侯。乾坤始交而遇險陷,世界草昧之時。震動在下,坎險在上。在險中有震動之才,可以大亨。但出險有機,利於守正,未可妄進。震性好動,故戒以勿輕往也。三四五互為艮止,勿用攸往之象。震一君二民,又為長子,震驚百里,有侯象。初九陽居陰下,為成卦之主,是以賢下人,得民而可君,故利於建侯。筮立君者遇之則吉也。蓋盈天地之間者萬物,萬物以人為首,人道以君為尊。草昧之時,震動出險,立君得正,乃以繼天立極。此屯所以具四德而繼乾坤也。
《屯》の卦辞:大いに亨通、正を守るに利あり。往く所あらべからず、諸侯を封建するに利あり。乾坤が剛く交合して険陥に遇う――まさに天地が草創蒙昧の時である。震動は下にあり、坎険は上にある。身が険中に在りて震動の才あるゆえ大いに亨るべし。ただ険を脱するは時機を待つべく、ただ正を守るに宜しく妄進すべからず。震の性は動を好むので、特意に「勿用有攸往」を告誡する。卦象から見れば、三・四・五の爻は互体して艮を成し、艮は止である――まさに「勿用攸往」の象。震は一陽二陰で一君二民の象であり、また長子である。《震》の卦辞に「震驚百里」あり、皆諸侯の象を含む。初九は陽爻を以て陰爻の下に居り、この卦を生成する主爻で、能く賢者の身を以て人の下に屈居し、民心を得れば君と為りうる。ゆえに「利建侯」。立君の事を占問してこの卦に遇えば吉。天地の間に充塞するは万物であり、万物は人を以て首と為し、人道はまた君を以て尊と為す。草昧の時に於いて、震動して険を出で、君を立てまたその正を得てこそ、天道を承継し人極を確立すると談じうる。これが《屯》が元亨利貞の四徳を具えて《乾》《坤》に緊接する由縁である。
彖曰:屯,剛柔始交而難生。乾坤之後,一索得震為始交,再索得坎為難生。此正昏冥雜亂之時,此以二體釋屯之名義也。
《彖伝》にいう。《屯》とは、剛柔二気が始めて交合し艱難がこれに随って生ずること。陳夢雷が解する――《乾》《坤》の後、乾坤が初めて交索して震を得る。これが「剛柔始交」である。再び交索して坎を得、坎は険である。これが「難生」である。この時はまさに昏暗混乱の際に当たる。この一句は震・坎の二つの卦体を以て《屯》の卦名の義を釈する。
動乎險中,大亨貞。動乎險中,未遽出險。震體能動,故可大亨;坎在險中,故宜正。自此以下釋元亨利貞,皆不言四德,用文王本意。此以二體之德釋卦辭也。
《彖伝》にいう。険の中に在りて能く動き、ここに因って大いに亨通し正を守るに宜し。いわゆる「動乎険中」とは、能く動くがまだ直ちに険を出でざるを言う。震体は能く動くので大亨しうる。坎はなお険中に在るので正を守るに宜し。ここ以下「元亨利貞」を釈するは、皆それらを《乾》卦のごとき四種の徳性として講じず、文王が卦辞を作した本意を取る。すなわち「大亨にして正に利あり」である。この一句は震動・坎険の二つの卦徳を以て卦辞を釈する。
雷雨之動滿盈,天造草昧,宜建侯而不寧。此以二體之象釋卦辭也。雷,震象;雨,坎象。物之生未有不待雷雨者,然必霽而後見其功。當其方動,充滿凟亂,不知所從,則氣運鬱塞之時也。孔子即此以言世道,言此乃天造之草昧。草者,如草不齊,震為蕃草之象;昧者,如天未明,坎為月,天尚未明,又坎水外暗內明,亦昧之象。此時,天使之然,如天所造。天下未定,名分未明,雜亂晦冥之際,宜立君以統治之。然君初立,治理猶疎,日夜不遑寧處,乃可成撥亂反正之功。如更始既立,日夜縱情聲色,非不寧者矣。蓋惟侯心不寧,方可求天下之寧也。
《彖伝》にいう。雷雨の鼓動は天地に充満し、上天は草昧の世を造り出す。この時は諸侯を建てるに宜しく安逸すべからず。この一句は震・坎の二つの卦象を以て卦辞を釈する。雷は震の象、雨は坎の象。万物の生長は雷雨に依らないものなく、しかし必ず雨過天晴を待ってこそ功効が見出だされる。正に雷雨が発動する際に当たっては、ただ満天の混乱を見て何に適従するかを知らず。あれはまさに気運の鬱結阻塞の時である。孔子はこれを借りて世道を講じ、これはすなわち上天の造り出した草昧の世という。「草」は草叢のごとく参差不斉なる――震は繁草の象あり。「昧」は天のまだ亮せざるがごとき――坎は月で、天色未だ明らかならず、加えて坎水は外暗く内明るい。これもまた「昧」の象。このような局面は天意の致す所で、天の造設するがごとし。天下未だ定まらず名分未だ明らかならず、正に雑乱晦暗の際に当たり、君を立てて統摂治理すべし。しかし国君は剛く立ち、治理はなお粗疏で、必ず日夜安処するを敢えてせずしてこそ、撥乱反正の功を成しうる。更始帝劉玄が一たび登位すれば日夜声色に縦情したがごときは、これは「不寧」ではない。諸侯の心が安寧を得ざることあってこそ、天下の安寧を求め来るべしと知るべし。
自屯卦以下,彖傳皆先釋卦之名義,後釋卦辭。而釋卦辭又各有所取,或卦體,或卦象,或卦德,或卦變,而彖之旨盡矣。此皆先儒所未及。說似拘,而分疏清析,不可易也。
陳夢雷はここに於いて全書の一条の通例を点出する。《屯》卦以下、《彖伝》は皆まず卦名の義を釈し、然る後に卦辞を釈す。そして卦辞を釈するにまた各々取る所有り。あるは卦体に就いて言い、あるは卦象に就いて言い、あるは卦徳に就いて言い、あるは卦変に就いて言う。《彖伝》の用意は尽くここに在る。この一条は前代の儒者の講じなかった所である。このような講法は拘泥に見えるが、分疏は清楚明白にして更改すべからず。
象曰:雲雷,屯。君子以經綸。坎不言水而言云者,在雷之上,鬱而未通,雨而未成也。坎在震下,則為雷雨之解矣。彖言雷雨,象言雲雷;彖言其動,象著其體也。經綸,治絲之事。君子治世,猶治亂絲,解其紛結。經者,理其緒而分之,猶雷自斂而發;綸者,比其類而合之,猶云自散而聚。屯難之世,人皆惶懼沮喪,不知正君子經綸之時也。
《象伝》にいう。雷の上に雲――これが《屯》である。君子はこれに取法して天下を経綸する。ここで坎が「水」と言わず「雲」というのは、坎が震の上にあって鬱結して未だ通ぜず、雨を欲して未だ雨を成さざるによる。もし坎が震の下にあれば、それは《解》卦の「雷雨作」となる。《彖伝》は「雷雨」と言い、《象伝》は「雲雷」という。《彖伝》が講ずるはその動、《象伝》が顕すはその体である。「経綸」は本来蚕糸を整治する事である。君子が天下を治めるは、あたかも一団の乱糸を整理するがごとく、その糾結を解く要がある。「経」は糸緒を理出して分かつ――雷が収斂より出るに比す。「綸」は類に按じて比し合わせる――雲が散漫より聚集するに比す。屯難の世に当たり、人人は惶恐沮喪するが、これがまさに君子の経綸の才を施展する時であることを知らない。
初九:磐桓,利居貞,利建侯。磐桓,難進之貌。陽剛動體,才足濟屯。但初在下無勢,應四柔無援,當險陷之交,故有磐桓之象。然陽居陽位為得正,故利於居貞。又初,成卦之主,以陽下陰,為民所歸,有君之象,故占者如是,則利建以為侯。此爻為卦之主,大意與彖同。磐桓即勿用有攸往,利居貞即利貞。利建侯雖同,而合全卦言之,則侯指人;自初爻言之,則侯指己。占者得之,則隨所處以為占,不必泥也。
初九:徘徊して進み難く、安居して正を守るに利あり、諸侯を封建するに利あり。「磐桓」は進み難い様子である。初九は陽剛の爻でまた震の動体の中にあって、才具は屯を済すに足る。ただ全卦の最下に居って権勢なく、応ずる所の六四はまた陰柔で助けにならず、かつ正に険陥の交接の処に当たるので、徘徊して進み難い象がある。しかし陽爻を以て陽位に居るは正を得たものなので、安居して正を守るに利あり。さらに初九はこの卦を生成した主爻で、陽を以て陰の下に屈居し、民衆の帰附する所と為り、君たるの象がある。ゆえに占者がかくのごとく自処すれば、それを立てて諸侯と為すに利あり。この爻はすでに全卦の主なので、大意は卦辞と同じく、「磐桓」はすなわち卦辞の「勿用有攸往」、「利居貞」はすなわち卦辞の「利貞」、「利建侯」はさらに字句全く同じ。ただ全卦に合わせて言えば、建つる所の「侯」は他人を指し、単に初九のこの一爻に就いて言えば、建つる所の「侯」は自己を指す。占者がこの爻を得たら、己の処する地位に随って断ずべし。拘執して一辺に偏すべからず。
象曰:雖磐桓,志行正也;以貴下賤,大得民也。磐桓,非晏安棄務,志在行正也。正為濟屯之本,居之將以行之也。陽貴陰賤,初爻陽在陰下。屯難之世,人皆思主。貴能為賤下,所以大得民心,可以為君也。
《象伝》にいう。徘徊して進み難いと雖も、志向は正道を推行せんとするにあり。尊貴の身を以て卑賤の下に屈居すれば、ここに因って大いに民心を得る。いわゆる「磐桓」とは、苟安して閑を偸み職事を抛くことではなく、志が正道を推行せんとするに在る。「正」は屯を済す根本で、眼下安居して正を守るは、まさに将来これを推行せんがためである。陽は貴・陰は賤、初九は陽爻にして衆陰の下に処す。屯難の世に当たり、人人は帰主のあらんを盼む。身分尊貴にして卑賤の下に屈居するを肯んずれば、ゆえに能く大いに民心を得て君主たりうる。
六二:屯如邅如,乘馬班如,匪寇婚媾,女子貞不字,十年乃字。屯如以時言,鬱塞而未通也;邅如以遇屯之時者言,遲迴而未進也。班,分佈不進之貌。震於馬為足為作足,班如之象。女子許嫁,笄而字。六二變兌為少女,女子之象。三四五互為艮止,不字之象。三三四互為坤,坤數十,十年之象。六二陰柔中正,上應於五,然以乘初之剛,故為所難而邅回不進。然初非為寇也,乃求與已為婚媾耳。但二與五為正應,二貞於五,異於五者皆寇矣,焉知其德哉,故守正而不之許。至於十年,則妄求者去,正應者合,數窮理極而可許,故不字於初,終字於五也。爻象如此,占者得之,則宜如是。
六二:屯難にして徘徊し、馬に乘るも盤旋して前せず。来たるは強寇に非ず、婚を求める者である。女子は正を守って嫁ぐを肯んぜず、十年を過して乃ち嫁ぐ。「屯如」は時勢に就いて言う――鬱結阻塞して通ぜざるを指す。「邅如」は屯時に処する人に就いて言う――遅疑して回旋して前進せざるを指す。「班」は散開して前せざる様子である。震は馬象の上に於いて「足」と「作足」を取る――まさに盤旋して前せざる象。女子は聘を受けて嫁を許し、及笄すれば字を取る。ゆえに「字」はすなわち嫁を許すこと。六二一たび変ずれば下卦は兌を成し、兌は少女――「女子」の象。三・四・五の爻は互体して艮を為し、艮は止――「不字」の象。二・三・四の爻は互体して坤を為し、坤の数は十――「十年」の象。六二は陰柔にして中に居って正を得、上は九五と相応ずるが、ただ初九の陽剛の上に乘り、初九に困られて、こそ遅回して進まぬ。しかし初九は強寇を為しに来たのではなく、ただ彼女と婚を成さんことを求めに来たに過ぎない。ただ六二と九五とこそ正応で、六二は九五に対し貞を守る。九五の外は皆寇と算す。いずこに往きて对方の德行の如何を分辨せんや。ゆえに正を守って応えない。十年に至りて、妄求の者は退去し、正応の者は相合し、気数は窮尽し事理は到頭して、ここに於いて嫁を許すべし。ゆえに初九に字せず、最終に九五に字する。爻象すでにこの如し。占者この爻を得れば、行事もまたこのごとく照らすべし。
蓋全卦雖以屯初為主,而各爻又各以所處之位論其吉凶。唯二乘初剛,故為所難;二之質柔,故受人所制;欲應五不得,故屯邅不字;所應者正,故終有可字之時也。易爻有己正,而他爻視之為邪者;有己凶,而他爻得之為吉者。屯之初,正也,而二視之,則為寇;旅之上,凶也,而五承之,則有譽命。蓋皆以所處之時位論之,不可泥也。
知るべし。全卦は《屯》の初九を以て主爻と為すと雖も、各爻はまた各々己の処する位子に按じて吉凶を論ず。ただ六二は初九の陽剛の上に乘るゆえ、それに困らる。六二は資質柔弱なゆえ、人の牽制を受く。九五に応ぜんと欲するも応ぜざるゆえ、屯難徘徊して嫁を肯んぜず。しかしその応ずる所の九五は正応なゆえ、終究嫁ぎうる一日あり。《易》の爻例の中に、己本来正にして別の爻がそれを看れば邪と為るものあり、己本来凶にして別の爻がそれに碰えば反って吉を得るものあり。《屯》の初九は本は正爻だが、六二がそれを看れば「寇」となる。《旅》卦の上九は本は凶爻だが、六五がそれを承奉すれば「誉命」を得る。これらは皆各爻の処する時と位に就いて論断するもので、一死もして一端に執るべからず。
象曰:六二之難,乘剛也;十年乃字,反常也。乘剛,居初之上,為初所迫,失其常也。然理之所在,十年必反。守正不變,不悖常矣。終獲正應,復其常也。
《象伝》にいう。六二の艱難は、それが陽剛の上に乘るによる。「十年乃字」は、それが終に常道に帰るを言う。いわゆる「乘剛」とは、六二が初九の上に居って初九に逼迫され、ここに因って常態を失う。しかし天理の在る所、十年の後は必ず回転する。それは正を守って改めず、本来常道に背離しなかった。最後に九五の正応と結合するは、すなわち常道を恢復したのである。
六三:即鹿無虞,惟入于林中。君子幾,不如舍,往吝。六三,下卦六陰而居三之陽位,以求上六,不安於陰,而又貪求陽。不中不正,無正應而妄行,取困者也。鹿,陽物;虞,虞人;無虞,無應也。陽在五而不在上,求陽不獲,即鹿無虞之象。林,陰象,在六二六四之間,入于林中之象。卦下體震,動也;互體有艮,止也。聖人於其震之動,庶幾其艮之止,曰君子見幾,不如舍去。若往逐不舍,心致羞吝矣。
六三:野鹿を追逐するも虞人の引路なく、ただ林子に一頭鑽り込むのみ。君子は苗頭を見て舎てて追わざるに如かず。再び追い下げれば憾惜あらん。六三は下卦の陰爻にして第三の陽位を占め、上に向かって上六に応を求め、己の陰柔に安んぜず、また陽剛を貪求する。それは中に居らずまた正を得ず、正応なくして妄りに行動する――自ら困厄を取る。「鹿」は陽物、「虞」は山沢を掌り田獵のために引路する虞人、「无虞」はすなわち応なし。陽爻は九五に在って上六に在らず、六三が上に向かって陽を求めて求め得ざる――まさに「即鹿无虞」の象。「林」は陰象に属し、六三は六二・六四の両陰の間に挟まる――まさに「入于林中」の象。この卦の下体は震、震は動。互体の中に艮あり、艮は止。聖人はそれが震動する当口に於いて、それに艮止の功夫を用いうるを望み、ゆえに君子はすでに苗頭を看出したれば舎てるに如かずと言う。もし一味に追逐して罷手を肯んぜざれば、心中終に羞吝を招来せん。
象曰:即鹿無虞,以從禽也;君子舍之,往吝窮也。妄動由於多欲。無虞而即鹿,以有貪禽之心。君子見幾則必舍。若往,則羞吝而至困窮矣。經曰不如舍,辨之明也;傳曰舍之,去之決也。
《象伝》にいう。鹿を追うも虞人の引路なきは、一心に禽を逐うによる。君子がそれを舎てるは、再び前に往けば羞吝して困窮するによる。妄動の根子は欲望の多きに在り。虞人なくしてなお鹿を追うは、まさに心中に貪禽の念を存する。君子は一たび苗頭を見れば必ず舎てる。もしなお前往せば、羞吝を招来して困窮に至る。爻辞が「不如舎」と言うは、辨え明らかなるを重んずる。《象伝》が「舎之」と言うは、去り果決なるを重んずる。
六四:乘馬班如,求婚媾,往吉無不利。坎為下首薄蹄之馬。陰柔居屯,不能上進,故有乘馬班如之象。然初九守正於下,以應於己,故初來求四,四往應之,則吉也。本義謂下求婚媾,蓋以初求四為以陽求陰。往者,適人之意也。時解以四近五為大臣,初剛為賢,四求賢輔君,乃以濟屯。然以陰求陽,有害婚媾之義。且初為卦主,有可君之德,如湯之於伊尹,昭烈之於孔明,皆以君下臣,以求濟屯。然後往而應之,正不必復言輔五。又剛柔相濟,亦以濟屯,亦不必專以則為濟屯之賢也。
六四:馬に乘りて盤旋して前せざるは、婚を求めに行くのである。前往せば吉にして利ならざるなし。坎は馬象の上に於いて「下首」「薄蹄」の馬を取る。六四は陰柔にして身が屯難に処し、上に向かって前進し得ないので「乘馬班如」の象あり。しかし初九は下に在って正を守り、正に六四と相応ずる。ゆえに初九が前來して六四を求め、六四が前往して彼に応ずれば吉。朱熹《本義》はこれを「下求婚媾」という――すなわち初九が陽を以て来りて六四の陰を求めること。「往」は女子が人に嫁ぐの意である。当時通行の解法は、六四は九五に近く大臣であり、初九は陽剛で賢者であり、六四が賢を求めて君を輔けてこそ屯を済すに好しとす。陳夢雷はこの一説を取らない。一に、もし六四が陰を以て初九の陽を求めに行くと言えば、「婚媾」の男が女を求める本義を妨げる。二に、初九は本来全卦の主で、君たりうる徳性を具える――商湯の伊尹に於ける、昭烈帝劉備の諸葛亮に於けるがごとく、皆君主の尊を以て臣下に屈就して屯を済すを求め、然る後に六四が前往して相応ずる。本は再び九五を輔佐するに扯り至る要はない。いわんや剛柔相済はそれ自体すでに屯を済すに足る。初九を単に君を輔け屯を済す賢臣と看る要もなし。
象曰:求而往,明也。初來求我而後往應,非明理知幾者不能。觀象傳意,更與本義合。
《象伝》にいう。人が来りて求めて後に我乃ち前往するは、これ明智である。初九が前來して我を求めるを待ち、然る後に我が往きて相応ずる――事理を明白にし几微を見る能き者でなければ為し得ない。《象伝》のこの層の意を看れば、さらに朱熹《本義》の初九が来りて六四を求める講法と相合す。見れば《本義》は時解に勝る。
九五:屯其膏,小貞吉,大貞凶。九五雖以陽剛中正居尊位,然當屯之時,陷於險中。六二雖為正應,而陰柔才弱不足以濟。初九為眾所歸,則人心已他屬。坎體雖有膏潤,而不得施,故為屯其膏之象。以處小事,則守正猶可獲吉;以處大事,則雖正亦凶矣。初與五皆陽,而五以中居尊,反遜於初者:初在下而動,為眾所歸,時之方來者也;五在上而陷於險,人心他屬,時之已去者也。六爻獨二五言屯者:二在下而柔,遇時之屯者也;五在上,以剛而陷於柔,自屯者也。守貞不字,無濟變之才;屯膏吝賞,非大君之道。皆不能濟屯者也。
九五:膏沢は壅積して下に施す能わず。小事に処して正を守れば吉、大事に処すれば正と雖も凶。九五は陽剛中正を以て尊位に居るが、身は屯難の時に当たり坎険の中に陥る。六二はその正応なれど陰柔にして才が弱く助けにならず、初九はまた衆人の帰附する所と為り、人心はすでに他処に帰す。坎体は本来膏潤の象あるが施展し出だせない。ゆえに「屯其膏」の象あり。このような処境を以て小事を弁ずれば正を守ってなお吉を得る。大事を弁ずれば正を守ると雖も凶。初九と九五は同じく陽爻で、九五はなお中に居って尊に処すが、反って初九に如かない。その縁故は――初九は下に在って能く動き衆の帰する所と為る、時運正に来たる方である。九五は上に在って険に陥り人心は他に属す、時運すでに去った方である。六爻の中に六二と九五のみが「屯」を言う。六二は下に在って柔弱、屯時に碰うたのである。九五は上に在り剛爻を以て衆柔の中に陥る、自ら造成した屯である。六二は貞を守って字せず、欠く所は変に応じ難を済す才。九五は膏沢壅積して封賞に吝か、失う所は人君の道。両者とも屯を済す能わざるなり。
象曰:屯其膏,施未光也。光,陽德也。陷於二陰之間,人君澤不下及,所施未光大也。
《象伝》にいう。「屯其膏」とは、恩沢の施行がまだ広大なる能わざるを言う。「光」は陽の徳性である。九五は六四・上六の両陰爻の間に夾陥せられ、人君たるの恩沢は民間に下らない。ゆえにその施予はまだ広大に至らざると言う。
上六:乘馬班如,泣血漣如。坎為血卦又為水,有泣血漣如之象。陰柔無應,處屯之終,進無所之,唯有憂懼,遂至於泣血漣如而已。
上六:馬に乘りて盤旋して前せず、哭いて血涙漣漣たり。坎は《説卦》に於いて「血卦」と称し、また水と為す。ゆえに「泣血漣如」の象あり。上六は陰柔にして応援する所なく、また屯難の最後の一歩に処す。前に往くべき路なく、ただ憂愁恐懼あるのみで、終に血涙漣漣の地歩に落ちる。
象曰:泣血漣如,何可長也。屯難窮極,莫知所為,顛沛如此,何能久乎。全卦當屯難之世,居上陷險,而下方震動。陽剛奮發而能下人,則可以為君;柔順待求而應,則可以為輔;居上而澤不下究,則僅可小安;居下而應遠被迫,則但當守正。若貪慾妄行,勢必取困;窮極憂懼,理難久長。知此,可以處世變矣。
《象伝》にいう。血涙漣漣、このような情形はどうして長く保たれんや。屯難が尽頭に至り、人は如何にせんかを知らず、顛沛困頓してこの地歩に至れば、いずこに撑えて久しからんや。全卦を通観すれば、正に屯難の世に当たり、上位に居る者は険中に陥り、下は正に震動する。陽剛奮発にしてまた己を屈して人に下るを肯んずる者は君主たりうる――これは初九。柔順にして人の来りて求めるを待って後に相応ずる者は輔佐たりうる――これは六四。上位に居って恩沢が民間に下らざる者は小安を求むるのみ――これは九五。下位に居って正応が遠くまた人に逼迫される者はただ正を守るべし――これは六二。もし貪欲に妄行せば勢い自ら困厄を取る――これは六三。窮困して極点に至りて憂懼あるのみ、理に按じても長からざるべし――これは上六。これらを懂得すれば、世道の変故に応付しうる。
蒙卦
蒙卦,下坎上艮。艮一陽止於二陰之上,故其德為止,其象為山。坎為水為險。內既險陷不安,外又行之不可,蒙之象也。水,必行之物,遇山而止,莫知所之,亦蒙之象。蒙次於屯。蓋屯者物之始生,物生必蒙。蒙者,物之穉。蒙昧未明,蒙所以次屯也。乾坤之後,屯主在震之初九,蒙主在坎之九二,此長子代父、長兄次弟之象。艮為少男,方有待於開發者也。此屯蒙次乾坤之義也。又屯之建侯,有君道焉;蒙之養正,有師道焉。天地既位,君師乃立。此又乾坤屯蒙之序也。
《蒙》卦は、下卦が坎・上卦が艮である。艮は一陽が二陰の上に止まるので、卦徳は「止」、卦象は山である。坎は水・険。内はすでに険陥にして安からず、外はまた出て行き得ない――これが「蒙」の象。水は本来流れざるべからざる物で、山に遇えば挡かれ、何処に往くべきかを知らない――これもまた「蒙」の象。《蒙》は《屯》の後に緊接する。《屯》は万物の初生を講じ、物は一たび生まれれば必ず蒙昧。「蒙」はすなわち万物の幼稚状態で、昏蒙にして未だ明らかならず。ゆえに《蒙》は《屯》の後に排す。《乾》《坤》の後、《屯》の主爻は震の初九に在り、《蒙》の主爻は坎の九二に在る――これは長子が父に代わり長兄が幼弟を帯びる象。艮は少男で、まさに開発を待つ一輩である。これが《屯》《蒙》が《乾》《坤》に緊接する道理である。さらに《屯》は建侯を講じ、その中に君たるの道あり。《蒙》は養正を講じ、その中に師たるの道あり。天地すでに位を定め、君と師はここに随って立つ。これもまた《乾》《坤》《屯》《蒙》四卦の次序の用意である。
六爻二陽四陰,亦以陽爻為主。然九二剛而得中,故能為蒙之主;上九過剛不中,則但可擊蒙禦寇而已。上下四陰爻皆因二以起義:五應二,則為童蒙之吉;初承二,則為發蒙之利;四遠二不明,則為困蒙之吝;三乘二不順,則不以蒙待之,故獨此爻不言蒙。此六爻之大略也。
六爻は二陽四陰で、また陽爻を以て主と為す。ただ九二は剛健にして中に居るので《蒙》卦の主たりうる。上九は剛硬に過ぎてまた中に居らないので、ただ「撃蒙」「禦寇」するのみ。上下四つの陰爻は皆九二との関係に就いて義を立つ。六五は九二と相応ずるので「童蒙」の吉。初六は九二に承接するので「發蒙」の利。六四は九二より遠くて開明を得ないので「困蒙」の吝。六三は九二の上に乘って順従しないので、蒙昧を以てそれを待たない。ゆえに六爻の中にただこの一爻のみが「蒙」の字を提げない。これが六爻の大概である。
蒙:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三凟,凟則不告。利貞。物生之初,蒙昧不明,然蒙者不終於蒙,則有亨道;而卦之九二以剛居中,與六五陰陽相應,能發人之蒙,亦有亨道也。我,指二;童蒙,幼穉而蒙昧,謂五也。禮無往教,故非我往求童蒙,必待童蒙之求我也。其所以必待童蒙之求我者,何也?凡求教者,必其心精專而吾之言易入,故童蒙來求我則告之。若再三,則以我求蒙為褻凟;凟則雖告之無當,與不告同矣。凡若此者,蓋以蒙者為物所蔽,其中之正未亡也。俟其求發而告之,使歸於正,所以利也。若求蒙至再三褻凟,彼終不得其正,何利何亨之有乎。
《蒙》の卦辞:亨通。我があの蒙昧の童子を求むるに非ず、蒙昧の童子が我を求むるにあり。初めて筮を問えばそれに告げ、再三に問えば軽慢、軽慢なればもはや告げず。正を守るに利あり。万物の初生の時は蒙昧にして明らかならず。ただ蒙昧の人は一生蒙昧に止まることなく、ゆえに亨通の道あり。いわんやこの卦は九二が陽剛を以て中に居り、六五と陰陽相応じ、能く人の蒙昧を啓発する――これもまた亨通の道。「我」は九二を指し、「童蒙」は幼稚にして蒙昧の六五を指す。礼に按じて、教者は自ら門に登って教えに行かない。ゆえに我が童蒙を求むるに非ず、必ず童蒙の我を求むるを待つ。なぜ必ず彼の来りて求むるを待つか。およそ自ら教を求める者は心思必ず専一で、我が言は聴き入れ易い。ゆえに童蒙が我を求めれば我はそれに告げる。もし彼が問いまた問いて再三に至れば、それは我が往きて彼の受教を求めると為り、一種の凟慢である。すでに凟慢なれば、告げると雖も受用せず、告げざると同じ。かく立教する所以は、蒙昧の人はただ外物に蒙蔽せられたので、彼の心中のあの一点の正性は喪失していない。彼自ら発を求むる時を待って告げ、彼をして正に帰せしむ――これが「利貞」の道理。もし求教すでに再三凟慢に至れば、彼は終にあの「正」を得ず、なお何の利を談じ何の亨を言わんや。
本義以初筮再筮為喻言,初筮指問者之精專,凟指問者之煩凟。於理固順,但易皆取象,不必作喻言。觀彖傳以剛中及凟蒙二語,似非指問者言。來注以初筮指二,再三指三四,說又近鑿。今按,蒙有九二之發蒙,則不終於蒙,有亨象。二不求五而五求二,有不求童蒙、童蒙求我之象。坎一陽為內卦,初筮所得,初筮告之象。艮一陽止於上,再三則不告之象。九居二,六居五,似非正矣,然二以剛中為正,五以應二為正,利貞之象。
朱熹《本義》は「初筮」「再三」を比喻として講じ、「初筮」は問う人の心思専一を形容し、「凟」は問う人の絮煩凟慢を形容するとす。このように道理を講ずれば固より順だが、《易》は処処皆取象で、比喻と看る要はない。再び《彖伝》が「以剛中也」「凟蒙也」の二句を以てこの両処を釈するを看れば、問う人を指して言うではないようである。来知徳《周易集注》は則ち「初筮」を九二に指し、「再三」を六三六四に指すが、講法はまた穿凿に近い。陳夢雷自身の看法は――《蒙》卦に九二の能く蒙を発するあり、蒙は終身蒙昧に至らず――これは「亨」の象。九二は六五を求めずして六五が九二を求むる――これは「匪我求童蒙、童蒙求我」の象。坎の一陽は内卦に在りて初次の揲筮の所得――これは「初筮告」の象。艮の一陽は上に止まる――これは「再三凟、凟則不告」の象。九が二位に居り六が五位に居るは、位に当たらざるに見えるが、九二は剛を以て中を得て正と為し、六五は下にて九二に応じて正と為す――これが「利貞」の象である。
彖曰:蒙,山下有險,險而止,蒙。山下有險,上峻而難升,下險而莫測,以卦象釋蒙之義也。內險則危殆不安,外止則窒礙難往,以卦德釋蒙之義也。
《彖伝》にいう。《蒙》とは、山下に険あり。険に遇いて歩を止む、ゆえに蒙と言う。いわゆる「山下有険」とは、上頭の山勢が険峻にして攀登し難く、下頭の坎水が幽険にして深く測るべからず――これは卦象を以て「蒙」の義を釈す。「険而止」に至っては、内卦が坎で険に処すれば危殆にして安からず、外卦が艮で止に遇えば窒礙にして行い難し――これは卦徳を以て「蒙」の義を釈す。同じ一句にして象・徳の両層を拆出す――正に《彖伝》の卦名を釈するに各々取る所有るを見る。
蒙,亨,以亨行時中也。匪我求童蒙、童蒙求我,志應也。初筮告,以剛中也。再三凟、凟則不告,凟蒙也。蒙以養正,聖功也。此以卦之體釋卦辭也。卦以九二當發蒙之任者。以亨行時中,謂九二以可亨之道,發人之蒙,所行皆得其時之中也。時者,當其可之謂。五之志未與二應而告之,非時也;再三而凟,亦非時也;蒙當養正,過此而後養,亦非時也。故下文皆言行時中之事。
《彖伝》にいう。《蒙》の亨たる所以は、それが亨通の道を以て「時中」を行うによる。「我が童蒙を求むるに非ず、童蒙が我を求むる」は、両者の心志の相応ずること。「初筮告」は、九二が陽剛にして中を得るによる。「再三凟、凟則不告」は、それが蒙者を凟慢すればに至るによる。蒙昧の未だ鑿かれざる時に趁いてその正性を涵養するは、聖人を造就する功夫である。この一段は卦体を以て卦辞を釈す。全卦は九二を以て発蒙の任を担当する。いわゆる「以亨行時中」とは、九二が亨を致しうる弁法を以て他人の蒙昧を開発し、行う所皆その時に恰しきを言う。「時」はすなわち「正当其可」の意。六五の心志がまだ九二と相応せざるに急いで彼に告げるは時に非ず、再三に問いてすでに凟慢を成せばなお告げるも時に非ず、蒙昧は本来その未鑿に趁いてその正を養うべきに、ここを過ぎて再来養うも同じく時に非ず。ゆえに下文が説く所は皆「行時中」の事である。
二不求五,而五求二,志自相應也。初筮得九二,以剛居中,故告之,有節也。凟蒙則與不告同,以蒙不可凟也。人皆學為聖人,而聖學不外於養正。人惟當蒙之時,因時而告,則有以養之使正,即為作聖之功。甚言蒙之不可不養,而養之必以時,乃亨也。
九二は六五を求めずして、六五が九二を求むる。両者の心志は自然に相応ず――これは「志応」を解す。初次の揲筮で九二を得、九二は陽剛を以て中位に居るので彼に告げ、しかも告ぐるに節制あり――これは「以剛中也」を解す。凟慢に問うはあれ告げざると同じ、蒙昧の事は最も凟慢を禁じ得ないによる――これは「凟蒙」を解す。人人は皆聖人を学ばんとす。しかるに聖人の学は涵養正性の外に出でず。人はただ蒙昧未だ鑿かれざる時に趁いて時に因って教を施してこそ、彼を養い得て正に帰せしむ――これがまさに聖を作す功夫である。《彖伝》がかく言うは、極力して蒙の養わざるべからざるを強調し、しかも養うは必ず時に趁わざるべからず、かくしてこそ「亨」を談じうる。
象曰:山下出泉,蒙。君子以果行育德。泉,水之始出者。出而遇險,未有所之,故有(文瀾本「故有」作「故為」)蒙象。然泉之既出,勢有必行,君子體坎之剛中,以果決其行;水尚在山,涵蓄深沉,君子體艮之靜止,以養育其德。
《象伝》にいう。山下に泉水が涌出する――これが《蒙》である。君子はこれに取法して、果決に事を行い己の徳性を涵養する。「泉」は水の剛く流れ出た様子である。泉水は剛く出でて険阻に遇い、まだ何処に往くべきかを知らないので蒙昧の象あり(ここの「故有」は、文澜閣本は「故為」と作す)。しかし泉水はすでに涌出したれば勢い必ず前に流れんとす。君子は坎の剛中の性を体会して、行事の上に於いて果断決絶する。水はなお山中に蓄えられ涵蓄深沈。君子は艮の静止の性を体会して、これを以て徳性を涵養する。「果行」は坎に取り、「育徳」は艮に取る――一句の中に上下二体に分かち承く。
初六:發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。初六以陰居下,蒙之甚也。欲發其蒙,利用刑人,謂痛加懲責,使知敬學也;用說桎梏,謂暫去拘束,以待自新。坎為刑為桎梏,故有其象。然坎初變為兌,則為毀折,又有脫之之象。桎梏用之未刑,刑時未有不脫桎梏者。若既刑又桎梏,一住而不舍,拘束太苦,則失敷教在寬之義,必致羞吝矣。
初六:蒙昧を啓発し、刑罰を以て人を整治するに宜しく、またその桎梏を解脱するに宜し。一味にこの如くすれば憾惜あらん。初六は陰爻を以て全卦の最下に居る――蒙昧の極点である。その蒙昧を啓発するに「利用刑人」というは、痛く懲責を加えて彼に学業を敬重せしむを言う。「用説桎梏」というは、暫く拘束を解去して彼自ら改過自新するを待つを言う。坎は《説卦》に於いて刑・桎梏と為すのでこれらの象あり。しかも坎の初爻は一たび変ずれば兌を成し、兌は毀折で、また桎梏を解脱の象あり。当時の刑制に按じて、桎梏は刑を行う先に加えるもので、一たび行刑すれば桎梏を解かないものはない。もしすでに刑を用いまた長期に桎梏を加え、一味に扣留して放さず人を拘束して苦しからしむれば、「敷教在寛」の本意を失い、必ず羞吝を招来せん。
象曰:利用刑人,以正法也。發蒙之初,法不正則人玩。故懲戒之,以正教之之法,蓋明刑以弼教也。
《象伝》にいう。「利用刑人」とは、法度を端正するためである。蒙昧を啓発する開頭に於いて、法度もし立てて正からざれば、人は軽慢に玩忽する。ゆえに懲戒を加えて施教の法度を端正する。これはまさに《尚書・大禹謨》にいう「明于五刑、以弼五教」――刑罰を以て教化を輔助するのであって、刑罰を以て教化に代替するに非ず。
九二:包蒙吉,納婦吉,子克家。此一爻而具三象也。包蒙對上下四陰言,納婦克家皆對六五言。九二以陽剛統治群陰,當發蒙之任。然物性不齊,不可一概取必,唯剛而得中,故能有所包容而吉也。坎中陽而五陰,以陰應陽,二能納之,納婦之象也。五位尊,有父之象;二居下位而能任上事,又為子克家之象也。時解謂大臣能敷教以寬,以無負君之委任,善教之良臣,猶克家之肖子也,亦通。
九二:能く蒙昧を包容すれば吉、能く婦人を接納すれば吉、兒子は能く家業を担当する。この一爻の中に三重の象を含む。「包蒙」は上下四つの陰爻に対して言い、「納婦」「克家」は皆六五に対して言う。九二は陽剛を以て群陰を統領し発蒙の任を担当する。ただ衆人の資質は参差不斉で一概に強求して画一できない。ただそれが剛健にしてまた中を得るゆえ、包容する所有りて吉を得る。坎の中爻は陽、六五は陰。陰を以て陽に応ずるに、九二は能くそれを接納する――これが「納婦」の象。六五は尊位に居って父の象あり。九二は身が下位に在りながら上頭の事を担当しうる――これがまた「子克家」の象。当時通行の解法は、これを大臣が能く寛厚に教化を施行し国君の委任に辜かず、善く教を施す良臣はあたかも家業を撑え得る好兒子のごとしとする――この一説も講じ通ずる。
象曰:子克家,剛柔接也。程傳謂子而克治其家者,父之信任專也;二能主蒙之功者,五之信任專也。此重五之能接二也。本義但言指二五之應,謂剛柔往來相接也。二說本義為優,全卦不重在五也。
《象伝》にいう。「子克家」とは、剛柔両爻が相接するによる。程頤《伊川易伝》にいう。兒子が家を治め得るは父の信任が専一なるに由り、九二が発蒙の功を主持し得るは六五の信任が専一なるに由る――これは分量を六五が能く九二を接納する上に置く。朱熹《本義》は則ちただ九二と六五の相応を指し、剛柔の往来相接に過ぎぬと言う。両説を相比すれば、陳夢雷は《本義》を優と為す。その理由は、全卦の分量は本は六五の身に在らずして九二の身に在る。もし《程伝》に照らして講ぜば、反って主客を顛倒する。
六三:勿用取女,見金夫不有躬,無攸利。三變為巽為長女,有女象。九二陽剛得乾金之中爻,有金夫象。六而居三,陰柔而不中正,女之見有金之夫,而不有其躬以從之者也。取女得如是之人,何所利乎,故戒占者以勿取也。王注謂三應在上,有男女之義。
六三:このような女子を娶ること勿れ。彼女は有銭の男人を見れば己の身を自持し得ない。利処あらざるなり。六三一たび変ずれば下卦は巽を成し、巽は長女――ゆえに「女」の象あり。九二は陽剛でまた乾金の中爻を得――ゆえに「金夫」の象あり。六三は陰爻を以て三の陽位に居り、陰柔にしてまた中ならず正ならず――まさにあの有銭の男人を見れば自身を守れず、径直に跟って往く女子である。かかる人を娶って何の好処あらん。ゆえに占者に娶るなかれと告誡する。王弼《注》は則ち六三の正応は上九に在り、その間に自ら男女相応の義ありと言う。
三之動為女先求男,故有此象。不如大全合屯六二參觀,而以三趨二取象為優。蓋屯之六二,近初九之陽而正應在五,然震之性動而趨上,而所居又中正,故曰女子貞不字,十年乃字。蒙之六三,近九二之陽而正應在上,然坎之性陷而趨下,而所居又不中正,故曰見金夫不有躬。六五中正,故為可納之婦;三不中正,故為淫奔之女。六四質柔,雖困猶可教,故得稱為蒙;三狥欲趨利而忘身,併不得言蒙矣。故言勿用以拒之,亦不屑之教也。
王弼の説に依れば、六三が自ら動いて上九に応ずれば女が先に男を求めると成る。ゆえにこの象あり。陳夢雷は《周易大全》のごとく《屯》の六二を拿来して対看し、六三が九二に趨就するを以て取象するがより好しと見なす。その理由は――《屯》の六二は初九の陽に緊挨し正応は九五に在るが、震の性情は動いて上に向かい、六二の居る所はまた中正なので「女子貞不字、十年乃字」と言う。《蒙》の六三は九二の陽に緊挨し正応は上九に在るが、坎の性情は陥ちて下に趨り、六三の居る所はまた中ならず正ならないので「見金夫不有躬」と言う。同じく陽に近く応に遠いが、一つは守り得て一つは守り得ない。その分別は全く卦性と爻位に在る。六五は中正なので娶り入れうる婦人。六三は不中不正なので淫奔の女。六四は資質柔弱で困らると雖もなお教え得られるのでなおそれを「蒙」と称す。六三は欲に徇い利に趨って自身を忘れ、「蒙」とさえ算えない。ゆえに爻辞は「勿用取女」を以て彼女を拒絶する。これもまた孟子のいう「不屑之教」の一種の教法である。
象曰:勿用取女,行不順也。順亦作慎。按,程傳作邪僻不順,亦可。舍正應之夫而從金夫,是不順也。
《象伝》にいう。「勿用取女」とは、彼女の行為が順ならざるによる。「順」の字はある本では「慎」と作す。陳夢雷按:程頤《伊川易伝》はこれを邪僻にして順ならずと講ずるもまた通ずる。正応の夫上九を舎てて有銭の男人九二に跟従する――これが「不順」である。
六四:困蒙吝。六四以陰居陰,既遠於陽,無正應又在二陰之間,為困於蒙之象。蓋氯質既昏,錮蔽又甚,可羞吝之甚也。然能尊師取友,困而學之,猶或可免。終焉,則真吝矣。
六四:蒙昧に困らる。憾惜あり。六四は陰爻を以て陰位に居り、二つの陽爻のいずれからも遠く、正応なく、また六三・六五の両陰爻の間に挟まる。ゆえに蒙昧に困らる象。その気質は本はすでに昏昧(原文「氯」の字は「気」と作るべし)、外の錮蔽はまた重い。実に羞じ惜しむべき極点に至る。ただしそれがもし師を尊び友を取るを肯んじ、《論語》のいう「困而学之」のごときならば、この吝を免るる可性あり。もしこのまま一生を了結するならば、それこそ真の憾惜である。
象曰:困蒙之吝,獨遠實也。陽實陰虛。唯剛明有實德者能發蒙,四獨遠之。欲從九二則隔三,欲從上九則隔五。又乏正應。異於初與五也。言獨,使反而知恥也。
《象伝》にいう。「困蒙」に憾惜ある所以は、ただそれのみが実より遠ざかるによる。陽は実・陰は虚。ただ剛健明叡にして実徳を具える陽爻のみが蒙昧を啓発しうるのに、六四は偏えに最も遠く離れる。九二に従わんと欲すれば中間に六三を隔て、上九に従わんと欲すれば中間に六五を隔て、また倚りうる正応なし。これは初六が緊く九二を承け、六五が下にて九二に応ずると大いに異なる。《象伝》が特意に一つの「独」の字を用うるは、それに反躬自省して羞を知らしめんとするである。
六五:童蒙吉。艮為少男,有童象。所謂童蒙者,不失赤子之心,純一未發以聽於人,非幼穉之謂也。五以柔中居尊,下應九二,所謂童蒙求我,有可亨之道者,故吉。時解作幼主任賢,亦近之,勿拘。
六五:童子のごとく蒙昧にして教を受く、吉。艮は少男なので「童」の象あり。いわゆる「童蒙」とは赤子の心を失わず、純一にして未だ自ら聡明を作さず、人の言を聴くを肯んずるを指し、年紀の幼小を言うに非ず。六五は柔順を以て中に居り尊位に処し、下に向かって九二に応ず――まさに卦辞のいう「童蒙求我」で、亨を致しうる道を具備する。ゆえに吉。当時通行の解法は年幼の君主が能く賢臣を任用するを講ずるも相去遠からず。ただこの一層に拘死する要はない。
象曰:童蒙之吉,順以巽也。中爻為坤順,變則為巽。順以爻之柔言之,舍己從人,順也;巽以志之應言之,降志下求,巽也。
《象伝》にいう。「童蒙」の吉たる所以は、それが順にしてまた巽なるによる。象の上から言えば、二・三・四は互体して坤を為し坤は順。六五一たび変ずれば上卦は巽を成す。義の上から言えば、「順」は爻の柔質に就いて講ずる――己の成見を舎てて他人に聴従する、これが順。「巽」は心志の相応に就いて講ずる――身分を放低して下に向かって教を求む、これが巽。一つはその質を言い、一つはその志を言う。
上九:擊蒙,不利為寇,利禦寇。艮為手,有擊之象。以剛居上,治蒙過剛,有擊蒙之象。艮止於上,不利為寇之象;應爻坎為盜賊,利禦寇之象。本義取必太過,攻治太深,則必反為之害,是猶為寇者矣,故不利;惟捍其外誘,以全其真純,則雖過於嚴密,乃為得宜,猶禦寇者也,故利。全卦取象以誨人言,程傳以用兵言,唯本義謂凡事皆然,不止為誨人也,得周易立象以盡意之旨。占者隨事以思其義可也。今以此爻合之彖辭,卦中二陽爻。二,初筮之告者也。
上九:蒙昧者を撃つ。自ら強寇を為すは宜しからず、強寇を抵禦するは宜し。艮は手なので「撃」の象あり。上九は陽剛を以て最上に居り、蒙を治めるに剛猛に過ぎるので「撃蒙」の象あり。艮は上に止まる――「不利為寇」の象。応ずる所の六三は坎体に属し、坎は盗賊――「利禦寇」の象。朱熹《本義》にいう。求全責備して太過に、整治して深きに過ぎれば、反って对方を害する。それは自ら強寇を為すと同じなので「不利」。ただ彼のために外来の引誘を抵当して彼の天真純朴の本性を保全すれば、たとえ厳密が頭に過ぐると雖も、なお宜しきを得たと算す。あたかも強寇を抵禦するがごとし。ゆえに「利」。全卦の取象は従来は人を教える一面に就いて講じ、程頤《伊川易伝》は則ち用兵に就いて講ず。ただ《本義》のみが凡事皆この道理で人を教えるに限らないと言う。これこそ真に《周易》「立象以尽意」の宗旨を得た。占者は各々遇う所の事に随ってその義理を体味すればよい。今この一爻を以て卦辞に合わせて看れば、卦中の二つの陽爻で九二は「初筮告」のあの一つである。
上之擊蒙,近於再三之凟者也。敷教在寬,非徒取於擊者。然如三之縱慾忘身,猶之寇也。擊之,禦寇之道。若一概施之他爻則凟,是上自為寇矣,又何利乎。禦寇,貞也。為寇,則非貞矣。如此解,則與彖意更相發明。
上九の「撃蒙」は卦辞にいう「再三凟」のあの一頭に近い。教化を施行するは寛厚を貴ぶ。本は単に撃つを以て効を取るに非ず。しかし六三のごとき欲を縦にして自身を忘れる者は強寇と同じで、それを撃つはまさに「禦寇」の道。もしこの一套を一概に他の各爻の身上に施せば、それは褻慢となり、上九は自ら反って強寇を為す。なお何の利を言う所あらん。「禦寇」は正を守ること、「為寇」は正を守ることに非ず。このごとく解すれば、爻辞と卦辞の意は互いに発明してさらに明白となる。
象曰:利用禦寇,上下順也。上陽爻,擊蒙者;下四陰,皆蒙也。上之剛不為暴,止之順也;下得擊去其蒙,下之順也。全卦有作師之道。大抵正蒙者,貴有剛中之德,而有所包容,不必過暴以為之害,此二之包蒙所以吉;而止之擊蒙,但利於禦寇,不宜凟而至於為寇也。為蒙者,貴於柔順中正以聽於人,不宜自遠於剛明之德,尤不可縱慾以忘其身,此童蒙所以吉,困蒙所以吝,而見金夫不有躬者,併不得數於蒙也。
《象伝》にいう。「利用禦寇」とは、上下皆順なるによる。上九は陽爻で撃蒙する方。下面の四つの陰爻は皆蒙昧の方。上九は剛なれど暴を施さず――これは上頭が能く止まって順を得る。下面の几爻は撃たれて蒙昧を去るを得――これは下頭が教を受けて順を得る。全卦を通観すれば、人の師たるの道理を含む。大抵人の蒙昧を匡正する方は、剛にして中を得る徳あるを貴び、同時にまた能く包容して、過度に暴烈にして反って人を害する要なし――これが九二の「包蒙」の吉たる所以。しかるに上九の「撃蒙」はただ外寇を抵禦するに利あり、褻慢して自ら強寇となるべからず。蒙昧の方に処するに至っては、柔順中正にして人の指点を聴くを肯んずるを貴び、自ら剛明有徳の人に遠ざかるべからず、ことに欲を縦にして自身を忘るべからず。これが「童蒙」の吉たる所以、「困蒙」の吝たる所以。そしてあの「見金夫不有躬」の六三は、蒙昧の類にさえ算え入れられない。
初亦陰爻,宜言蒙而言發蒙之道宜痛懲而暫舍者,蓋亦因其材質之陰柔卑下,故正蒙之道宜如此。若能為五之童蒙,則刑可不用矣。六爻於正蒙之道,最為明白詳盡。然而聖人立象以盡意,不必專為一事而言。凡治己教人,一切應事接物,皆可推其意而悟之也。
初六も同じく陰爻で、本来は他の陰爻のごとくそれ自身の蒙を言うべきだが、爻辞はかえって発蒙の道は痛く懲責を加え暫く桎梏を解くべしと言う。これもまたそれが資質陰柔卑下で、それを匡正する弁法はかくあるのみによる。もしそれが六五のごとく「童蒙」たるを得ならば、刑罰は本は用いる所なし。《蒙》卦の六爻は蒙昧を匡正する道理を講じて最も明白詳尽である。しかし聖人の立象は意を尽くさんがためで、専ら某一件の事のために言うに非ず。およそ己を修治し人を教導し、ひいては一切の事に応じ物に接するも、皆この層の意を推衍して領悟する所有るべし。
需卦
需卦,下乾上坎。以卦象言,水在天上,未遽下地,必待陰陽之交,薰蒸而後成雨,需之象也。以卦德言,乾健坎險,以剛遇險,而不遽進以陷於險,需之義也。需次於蒙。按,序卦,蒙,物之穉也,物穉不可不養也,故受之以需。需者,飲食之道也。物之幼穉,必需飲食長養。雲上於天,有蒸潤之象。飲食所以潤益萬物,故需為飲食之道,所以次蒙也。卦之大意取須待之義,序卦取所需之大者耳。按,左傳云,需,事之賊,言猶豫不決之害事也。易需非不決之謂,見險而不動,能動而不輕動者也。
《需》卦は、下卦が乾・上卦が坎である。卦象に就いて言えば、水は天上に在ってまだ地面に落ちず、必ず陰陽二気の交合・蒸騰を待って後に雨を成す――これが「需」すなわち等待の象。卦徳に就いて言えば、乾は健にして坎は険。剛健の質を以て険陥に遇うも、急いで前進して険中に陥らない――これが「需」の義。《需》は《蒙》の後に排す。《序卦》に按じて、「蒙」は万物の幼稚状態で、幼稚なれば養わざるべからず。ゆえに次ぎは《需》。「需」は飲食の道である。万物は幼稚にして必ず飲食に依って長養せざるべからず。雲気が天に上升して蒸潤の象あり。飲食はまさに万物を滋潤長養するに用うる。ゆえに《需》は飲食の道と説かれ、ここに因って《蒙》に次ぐ。ただしこの卦の大意は本は「須待」の義に取る。《序卦》はただ須待する物の中の最も要緊なる飲食を拈出して言うのみ。また《左伝》に按じて「需、事之賊」というは、あれは猶豫不決が事を害するを講ずる。《易》のいう「需」は決断せざるに非ず、険を見て妄動せず、能く動くも軽く動かざるである。
內三爻以見險不輕進為需,外三爻以入險而待人以共進為需。六爻初九九五之吉不待言,餘四爻雖有悔吝,然終歸於吉。如二曰終吉,三曰敬慎不敗,蓋有剛健之德,而能相機度勢,從容少待,鮮有敗者。四曰順以聽,上曰敬之終吉,蓋雖入險中,而待陽剛之德以共進,故亦吉也。卦雖四陽二陰,然三陽不輕進,坎五居尊有孚。二陰非卦義所重,故不得為卦之主。
内卦の三爻は、険を見て軽進せざるを以て「需」と為す。外卦の三爻はすでに険中に入りて、他人と一同に前進するを待つを以て「需」と為す。六爻の中、初九・九五の吉は言うまでもなく、残り四爻は悔吝を帯ぶと雖も最終はなお吉に帰す。たとえば九二は「終吉」と言い、九三は「敬愼不敗」と言う。あれは剛健の徳ありてまた機に相机勢を度して従容に稍く待つがゆえに、敗すること少きによる。六四は「順以聴」と言い、上六は「敬之終吉」と言う。あれはすでに険中に陥りながら、剛健の徳ある人と一同に前進するを待つを肯んずるがゆえに、また吉。この卦は四陽二陰なれど、下の三陽は軽進を肯んぜず、坎の九五は尊に居って孚あり。二つの陰爻は卦義の重んずる所に非ず。ゆえに全卦の主と為り得ない。
需:有孚,光亨,貞吉,利涉大川。需坎水在前,乾健臨之,將涉水而不輕進之象,乃事所當待,非不當待而待者也。九五坎體中實,陽剛中正而居尊位,為有孚得正之象。三四五互為離,光明之象。坎為通,亨通之象。乾濟乎坎,有涉大川之象。乾陽在下,皆有所需;九五坎陽在上,又為眾所需。
《需》の卦辞:内に誠信を懐き、光明にして亨通、正を守れば吉、大河を渡るに利あり。《需》卦は坎水が前に在り、乾は剛健の体を以てそれに逼近する――まさに渉水せんとして軽進を肯んぜざる象。これは事情本は待つべきで、待つべからざるに故意に拖延するに非ず。九五は身が坎体に在り、坎の中爻は陽でその中充実し、また陽剛中正にして尊位に居るので「有孚」にして正を得た象。三・四・五の爻は互体して離を為し、離は明――「光」の象。坎は通――「亨」の象。乾は坎水を渡らんとす――「渉大川」の象。乾の三陽は下に在って各々待つ所有り。九五のこの坎中の陽は上に在って、また衆人の待つ対象である。
需之道貴於實心,又貴於實心,又貴於得正。人之需有出於不得已者,需而無實,無光而且亨之時。必實有有守能待之心,則無私計較而光明,不恤得失而亨通矣。然世有心雖誠實而處事,未正者。需而非正無吉,而且利之理,必所為皆合於義,不圖行險僥倖,則居常凡事皆吉,而濟險歷難亦利矣。蓋有孚以善其需,貞又所以善其孚。孚貞者,盡所需之道;光亨吉利,則得所需之效也。
等待の道は、一片の実心あるを貴び、ことに正を守り得るを貴ぶ(原文「又貴于実心」の四字は重出、刊本の衍文である)。人の等待に不得已より出ずるものあり。もし待つて実心なければ、すでに光明にしてまた亨通の時なし。必ず真に一副の守り得・待ち得る心腸あってこそ、私意の計較を為さずして胸次光明、得失を計較せずして事理亨通せん。しかし世の中にも心は誠実なれど事に処するは正ならざる人あり。等待して正に合せざれば、また吉にして利の道理なし。必ず作為する所皆義に合し、冒険僥幸を指望せざれば、平居の時は事事皆吉、険を渉り難を歴る時もまた利ならざるなし。要するに「有孚」は等待を好く為さしめ、「貞」はまた「有孚」を好く為さしむ。「孚」と「貞」は等待の道を尽くし、「光亨吉利」は則ち等待の効を得たるなり。
彖曰:需,須也,險在前也。剛健而不陷,其義不困窮矣。需者,須也。理勢所在,不得不待也。剛健者,多以輕躁而陷於險。剛健而能不陷,故善其不至困窮也。坎陷而云不陷何也?需然後進,所以不陷。不陷,則終能出險,故不因窮。乾三陽進而迫乎險,遇險而能需者也;坎一陽居中守正,處險而能需者也。遇險而能需,則不至犯險;處險而能需,則又將出險矣。故曰不陷。此以卦德釋卦名義也。
《彖伝》にいう。《需》はすなわち等待で、険が前頭に在るによる。剛健にして陥落せざれば、その義理は困窮に至らず。「需」はすなわち等待。事理と形勢がそこに擺されて、等ざる能わず。剛健の人は多半軽躁に因って険中に陥る。ここは剛健にして能く陥らないので、それを困窮に至らずと称許する。坎は本は陥なのに、なぜ反って「不陥」と言うか。それは等待して後に前進するゆえ陥らず、陥らざれば終究険を出でうるゆえ困窮に至らず(「不因窮」の「因」は「困」と作るべし)。乾の三陽は前進して険に逼近する――険に遇いて能く等待する者。坎の一陽は中に居って正を守る――険に処して能く等待する者。険に遇いて能く等待すれば険難を冒犯するに至らず、険に処して能く等待すればまさに険難を走出せん。ゆえに「不陥」という。この一段は卦徳を以て卦名の義理を釈す。
需、有孚、光亨、貞吉,位乎天位,以正中也。利涉大川,往有功也。正中與中正同,指五也。正則規模宏遠,無慾速之為;中則中心寧靜,無喜功之念。唯以中正居天位,故雖險在前,而終必克濟,非若蹇之見險而止;雖坎居上,而剛健不陷,非若困之剛揜。人知奮發者能有功,不知以剛健之德,能臨事而懼,從容整暇,氣定神全,不往則已,往必有功。此以卦象釋卦辭也。
《彖伝》にいう。《需》の「有孚、光亨、貞吉」は、九五が天位に居って正にして中を得るによる。「利渉大川」は、前往すれば必ず功あらんを言う。「正中」と「中正」は同義で、九五を指す。正なれば規模宏遠にして、あの急いで成を求める事を為さず。中なれば心裏寧静にして、事功を喜好する念頭なし。それが中正の徳を以て天位に居るがゆえに、険が前にありと雖も終究済渡しうる。《蹇》卦のごとく険を見れば歩を止むるに似ず。坎が上卦に在ると雖も剛健にして陥落せざるは、《困》卦のごとく陽剛が陰柔に掩蔽さるに似ず。人はただ奮発する人が能く功を立つるを知るも、剛健の徳を具備する人が、まさに事に臨んで戒懼を知り従容整暇・気定神全なるがゆえに、動かざれば已み動けば必ず功あるを知らない。この一段は卦象を以て卦辞を釈す。
象曰:雲上於天,需。君子以飲食宴樂。雲氣上蒸於天,必待陰陽之和而自成雨,無所作為也。事之當需者亦然。內有孚,外守正,但飲食宴樂,俟其自至。飲食以養其氣體,宴樂以和其心志。所謂居易以俟命,非若後世麴櫱之託、昏冥之逃者也。
《象伝》にいう。雲気が天に升る――これが《需》である。君子はこれに取法して飲食宴楽を以て自養する。雲気が天に上蒸して、必ず陰陽の調和を待って自ずと雨を成す。人は中間に於いて作為する所なし。事情が待つべき時もまたこのごとし。内に誠信を存し外に正道を守り、ただ飲食宴楽してそれが自ら来るを待つ。飲食は身体気血を養うに用い、宴楽は心志を和悦するに用う。これが《中庸》のいう「君子居易以俟命」である。これは後世のあの酒を借りて自託し昏醉を以て世事を逃避する做法ではない。
初九:需于郊,利用恆,無咎。郊,曠遠之地。用恆,守其常也。初遠於險,有需郊之象;而九陽剛居陽位,有恆於其所之象。同人于門於宗,而後於郊,處近而遠也;需由郊,而沙而泥,自遠而近也。既能需于郊,又戒以利用恆者,人需於始,或不能需於終,唯以義命自安,身既遠險,又心不妄動,乃無咎也。
初九:郊野に於いて待つ。常を守るに利あり、過なし。「郊」は空曠遼遠の地、「用恒」は己の常道を守住すること。初九は険より最も遠いので郊野に於いて待つ象あり。また陽爻を以て陽位に居り、恒にしてその処に守る象あり。ここは《同人》と対看すべし。《同人》は「于門」「于宗」よりして後に「于野」に至る――近きより遠きに推向する。《需》は則ち「郊」より「沙」より「泥」――遠きより近きに逼向する。すでに能く郊野に於いて等待しうるなら、なぜなお「利用恒」を告誡するか。人は起頭に於いて待ち得るも、未必最後まで待ち得ず。ただ義理天命に安んじ、身はすでに険地より遠離し心はまた妄動せざれば、こそ過なきを得る。
象曰:需于郊,不犯難行也;利用恆無咎,未失常也。險難由人自犯,於郊則不冒險而行矣。恆即彖之孚也貞也。貞者,乾之常。利用恆,未失處需之常道也。
《象伝》にいう。「需于郊」とは、険難を冒して行かざること。「利用恒无咎」とは、常道を失わざること。険難は多半人が自ら招惹する。すでに郊野に守住すれば、冒険して行うことなし。ここの「恒」はすなわち卦辞にいう「孚」と「貞」。「貞」は乾健の徳の常態である。いわゆる「利用恒」とは、まさにそれが「需」に処する時に守るべき常道を失わざるを言う。
九二:需于沙,小有言,終吉。水近則有沙,二近險,有需于沙之象。二三四互得兌為口舌,有言語相傷之象。剛中能需,有終吉之象。既近於險,雖未陷患害,群小從而訾議之。然言語之傷,災之小者。初以剛居剛,雖遠於陷,猶有戒辭;二以剛居柔,守中寬裕,故雖近險,可斷其終之吉也。爻多以相應為吉,此又不然者,見險在前,有待而進,故無取於相應也。
九二:沙灘の上に於いて待つ。稍く言語の中傷あるも、最終は吉利。水辺に挨近すれば沙あり。九二はすでに険に近いので「需于沙」の象あり。二・三・四の爻は互体して兌を成し、兌は口舌――ゆえに言語の相傷の象あり。それは剛健にして中を得て能く等待するので「終吉」の象あり。すでに険地に挨近したれば、禍患に陥るに未だ至らざると雖も、一班の小人は便ち議論詆毀に跟随する。ただ言語の傷害はただ小小の災に過ぎず。初九は剛爻を以て剛位に居り、陥険より遠離すと雖も、爻辞はなお一句の告誡を加う。九二は剛爻を以て柔位に居り、中を守って寛裕なので、険に近しと雖もなおそれが終に吉を得るを断定しうる。《易》の例は多く両爻相応ずるを以て吉と為すが、この爻は則ちこの一条を取らない。険はまさに前頭に在って、等待して後に進むを須るがゆえに、正応の有無を在乎しない。
象曰:需于沙,衍在中也;雖小有言,以吉終也。衍,寬也。以寬居中,不急於進。蓋剛居柔位,故謂剛為衍也。
《象伝》にいう。「需于沙」とは、それが寛裕にして中に居るによる。小小の言語の中傷ありと雖も、終究吉を以て収場す。「衍」は寛綽の意。寛綽の心地を以て中位に居り、急いで前進しない。それを「衍」と称する所以は、九二が剛爻にして柔位に居り、剛が柔に一たび調剤せられれば、便ち寛綽に顕れるによる。
九三:需于泥,致寇至。水涯有泥。三將陷於險,有需于泥之象。坎為盜賊,有寇之象。三過剛不中,有自我致寇之象。
九三:泥濘の中に於いて待つ。強寇の到来を招致す。水辺に泥あり。九三はまさに険中に陥らんとするので「需于泥」の象あり。坎は盗賊なので「寇」の象あり。九三は剛硬に過ぎてまた中に居らないので、自ら強寇を招来する象あり――寇の来る所以は、それ自らが惹くのである。
象曰:需于沙,災在外也;自我致寇,敬慎不敗也。外謂坎在外卦。謂之外,則禍不自已作。但以過則妄動,以近於險,則寇乃我致之也。然卦為需,能敬慎,猶可不至於敗。此則象中本無此意,本義所謂發明占外之占,使人之逼近於險者,思所以善處之道也。
《象伝》にいう。需于泥、災禍は外卦に在り。「自我致寇」は、ただ恭敬謹愼すれば失敗しない(原文ここは「需于沙」と作すが刊本が上一爻に沿うて誤れるもの)。いわゆる「外」とは、坎が外卦に在るを指す。災が外に在ると言うは、禍は本は自ら造出したものに非ずを言う。ただ九三が剛に過ぎて妄動し、また険地に逼近するゆえ、あの強寇こそ自ら招来したと算す。しかしこの卦は《需》で、能く恭敬謹愼すればなお敗に至らず。「敬愼不敗」のこの層の意は爻象の中に本来なく、朱熹《本義》のいう「占外之占を発明」すなわち爻辞の占断の外にさらに一層を点出して、険地に逼近する人をして善く処する道を想はしめるものである。
六四:需于血,出自穴。內卦三陽以見險不輕進為需。外卦入險矣,以待人共進為需。血者,殺傷之地;穴者,險陷之所。四入乎險,坎為血卦,故有需于血之象。然以陰居柔得正,初為正應,所居得正,又待正應之陽剛為援,可以不終陷於穴矣,故有出自穴之象。
六四:流血の地に於いて待つ。陥坑より出る能し。内卦の三つの陽爻は、険を見て軽進せざるを以て「需」と為す。外卦はすでに険に入り、人と一同に前進するを待つを以て「需」と為す。「血」は殺傷の地、「穴」は険陥の所。六四はすでに険中に入り、坎は《説卦》に於いて「血卦」と称すので「需于血」の象あり。しかしそれは陰爻を以て柔位に居って正を得、初九はまたその正応である。居る所すでに正にして、また能く正応の陽剛の援手に来るを待てば、終身坑に陥るに至らない。ゆえに「出自穴」の象あり。
象曰:需于血,順以聽也。陰柔入險中,疑不能出矣。然能順以聽初之陽剛,則不冒險以進,是以能出穴也。三能敬,則雖迫坎之險而不敗;四能順,則雖陷坎之險而得出。敬與順,固處險之道也。
《象伝》にいう。「需于血」とは、それが柔順にして聴従を肯んずるによる。陰柔の爻が険中に入るは、見れば出て来られないがごとし。しかしそれは能く柔順に初九の陽剛の指引に聴従し、冒険して冒進しない。ゆえに陥坑より出る能し。九三は能く「敬」するがゆえに、坎険に逼近すと雖も失敗に至らず。六四は能く「順」するがゆえに、坎険に陥ると雖も終に脱出しうる。見れば「敬」と「順」は本来険に処する両条の門路である。
九五:需于酒食,貞吉。坎有酒食之象。九五為需之主,以一陽處二陰之間,以待三陽同德之援,需于酒食之象。居中得正,三陽自來,陽彚進而陰退,則坎可平而險可夷,貞吉之象。人君位乎中正之天位,與天下相安於日用飲食之常,無為而治者也。然又必正乃吉,非可宴酣無度也。飲食男女,人之大欲存焉。屯蒙多言男女,需言飲食。蓋雲上於天,物資雨澤以為養;需于酒食,人亦藉飲食以為養故也。
九五:酒食の間に於いて従容に待つ。正を守れば吉。坎は酒食の象あり。九五は《需》卦の主で、一つの陽爻を以て六四・上六の両陰の間に処し、下面の三つの同徳の陽爻の援けに来るを待つ。ゆえに「需于酒食」の象あり。それは中に居って正を得、三陽は自ずと来る。陽類は相聚して進み陰は便ち退去すれば、坎水は平げられ険難は夷らげられうる。これが「貞吉」の象。人君たるは中正の天位に居り、天下人と日用飲食の寻常の中に於いて相安んじて事なし――まさに無為而治の気象である。しかしなお正を守ってこそ吉。宴飲して度なしとしてよいに非ず。「飲食男女、人之大欲存焉」。《屯》《蒙》の両卦は多く男女を講じ、《需》卦は飲食を講ず。雲が天に上れば万物は雨沢に依って長養せられ、「需于酒食」は人もまた飲食に依って長養せらるるによる。
象曰:酒食貞吉,以中正也。五居中得正,是以貞則吉也。
《象伝》にいう。「酒食貞吉」とは、九五が中にしてまた正なるによる。九五は上卦の中に居り、また陽爻を以て陽位に居る――すでに中を得また正を得。ゆえにただ正を守れば吉を得る。この一句はまさに爻辞の「貞」の字を卦体の「中正」の上に落とし込む。
上六:入于穴,有不速之客三人來,敬之,終吉。六居上,陰居險極,無所復需。變巽為入,有入穴之象。下應九三,而三下二陽連類並進,有不速之客三人來之象。居柔得正,以待陽剛,變巽亦為順,有敬之之象。然陰動於上,三陽至健知險,可以拯溺,待以共濟,亦將出險矣,故有終吉之象。
上六:陥坑に掉ち込む。三位の請わざる自ら来る客人が到来。それらを恭敬して待すれば最終は吉利。上六は陰爻を以て全卦の最上に居り、険の尽頭に処し、再び待つべきものなし。それが一たび変ずれば上卦は巽を成し、巽は入――ゆえに「入于穴」の象あり。それは下に向かって九三に応じ、しかも九三以下になお九二・初九の両陽爻が同類にして並進する――ゆえに「不速之客三人来」の象あり。それは柔を以て正位に居り、まさに陽剛の援に来るを待つ。変出した巽はまた順――ゆえに「敬之」の象あり。上六はただ陰爻が上に於いて動くに過ぎないが、三つの陽爻は極めて剛健にしてまた深く険難を知り、能く溺を救いに来る。ただ彼らと一同に険を済するを待てば、まさに険境を走出せんとす。ゆえに「終吉」の象あり。
象曰:不速之客來,敬之終吉,雖不當位,未大失也。六居上,陰之當位者,曰不當位,以應爻言。三與上正應,當位者也。今三陽同來而敬之,非其位,似有失矣。然入穴之時,三陽能援我,猶論位之當否而敬之,失權變矣。故初二雖不當位,亦敬以待之以出險,則亦未大失(文瀾本「未大失」作「未為大失」)也。
《象伝》にいう。請わざる自ら来る客人が到り、それらを恭敬して終に吉を得る。位に当たらざると雖も、大きな過失なし。上六は陰爻を以て上位に居り、本来位に当たるが、ここでは「不当位」と言う。これは応爻に就いて講ずる――九三と上六とこそ正応で位に当たる方。今三つの陽爻が一斉に来て、上六は一概に恭敬に相待する。その中の二つはその応位に非ず、失あるがごとく見える。しかし正に陥坑に掉ち込む時に当たり、三つの陽爻は皆援手しうる。もしなお位の当否を計較して乃ち敬するか否かを決するならば、それは権変を知らざるなり。ゆえに初九・九二は位に当たらざると雖も、上六は同様に恭敬に相待して、好んで彼らの力量を借りて険境を脱出する。かくすれば大きな過失と算えない(ここの「未大失」は文澜閣本では「未為大失」と作す)。
全卦以遇險不遽進為義。內卦乾健知險,有所須而不輕進。外卦坎險,待剛健之材以共濟險。九五孚貞,需之適當其時。其他或近或遠,要於須而不輕進。需于泥,已迫險矣,然能敬,猶不至敗;入穴,已陷險矣,然能敬,猶可終吉。敬者,處險之學。敬則無不貞,無不孚矣。此象傳又發彖外之旨也。
全卦を通観すれば、険に遇いて急進せざる義理を取る。内卦の乾は健にして険を知るゆえ待つ所有りて軽進せず、外卦の坎は険ゆえ剛健の才を待って一同に険を済す。九五はすでに孚にしてまた貞――これは等待して其の時に恰しきを得。残りの各爻はあるいは険に近くあるいは険に遠いが、要点は皆「等待して軽進せざる」の上に在る。九三「需于泥」はすでに険に逼近するも能く恭敬すればなお失敗に至らず。上六「入于穴」はすでに険に陥進するも能く恭敬すればなお終に吉を得うる。「敬」は険に処する一門の学問。能く敬すれば便ち正ならざるなく、また誠ならざるなし。《象伝》のこの層は、また《彖伝》の外に於いて別に発出した意旨である。
訟卦
訟卦,下坎上乾。以二象言之,天陽上行,水性就下,其行相違。以二體言之,上剛陵下,下險伺上,剛險相接。又以一人言,內險而外健;以二人言,此險而彼健,所以訟也。訟卦次需。按,序卦,飲食必有訟,故受之以訟。人所須者飲食,既有所須,訟端以起,訟所以次需也。
《訟》卦は、下卦が坎・上卦が乾である。二つの卦象の上から言えば、天の陽気は上に行き水の性質は下に流る。両者の行向は相違す。二つの卦体の上から言えば、上の乾剛は下面を欺凌し、下面の坎険は上面を窺伺す。剛と険が相接す。さらに一人の身上から言えば、内裏陰険にして外表剛強。二人の身上から言えば、こちらの方は陰険にして彼方は剛強。これらは皆「訟」の由来である。《訟》は《需》の後に排す。《序卦》に按じて、飲食の事あれば必ず争訟あり。ゆえに次ぎは《訟》。人の需求するは飲食で、すでに需求する所有れば、争端はここに由って起こる。ゆえに《訟》は《需》に次ぐ。
六爻不外彖傳訟不可成一言。九五居尊中正,為聽訟之主,故吉。餘五爻皆訟者。大抵剛者能訟,柔者不能訟。初與三柔,故皆終吉。二四上皆剛,而二與五對,顧勢不敵;四與初對,知理不可,亦以居柔,故得無眚而安貞也。獨上處卦之窮,三柔不敵,故雖暫勝而不足敬。此全卦六爻之大旨也。
六爻の義理は《彖伝》「訟不可成」の一句を出でず。九五は尊に居って中正、訟を聴き案を断ずる主人なので吉。残りの五爻は皆官司を打つ方である。大体剛爻は能く訟し柔爻は能く訟せず。初六と六三は柔なので皆「終吉」。九二・九四・上九は皆剛だが、九二が対するは九五で、勢力の敵し得ざるを看清し、九四が対するは初六で、道理の上に於いて訟うべからざるを明白し、またそれが居るは柔位なので、能く「无眚」にして「安貞」。ただ上九は全卦の窮極の地に処し、対する六三は柔弱にして抵挡し得ない。ゆえにそれは一時勝訴すと雖も人の敬重に値しない。これが全卦六爻の大旨である。
訟:有孚窒,惕中吉,終凶,利見大人,不利涉大川。天水違行,乾剛在上以制下,坎險在下以伺上。又為內險外健,己險彼健,皆訟之象。九二中實而沉二陰之中,上無應與,有有孚而見窒之象。坎卦為加憂,剛居二在下卦之中,為惕而得中之象。上九過剛,有終極其訟之象。九五剛健中正,有大人之象。三陽在坎上,以剛乘險,以實履陷,有不利涉大川之象。
《訟》の卦辞:内に誠信あれど堵塞せられ、心に警惕を懐き適中にして止まれば吉、官司を打ち尽くせば凶。大人を見るに利あり、大河を渡るは利ならず。天と水は行向相違し、乾剛は上に在って下面を壓制し、坎険は下に在って上面を窺伺す。かつ内険にして外健、自己は陰険にして对方は剛強――これらは皆「訟」の象。九二は中爻が陽にしてその中充実するも、初六・六三の両陰の中に沈陥し、上頭にはまた相応の爻なし。ゆえに「有孚」にして「窒」塞せらるる象あり。坎は《説卦》に於いて「加憂」で、陽剛は二に居って下卦の中に処するので「惕」にして中を得る象あり。上九は剛硬に過ぎて、官司を極処まで打つ象あり。九五は剛健中正で「大人」の象あり。乾の三陽は坎の上に壓し、剛を以て険に乘り実を以て陥に履む――ゆえに「不利渉大川」の象あり。
蓋訟非得已,必理直受誣,有孚見窒而後可。又必憂惕存心,適中即止,不可終極其訟以取凶。又利見中正之大人以取直,不可冒險以求勝。聖人慾人無訟,故不言元亨貞。言吉兼言凶,言利即言不利。蓋至於訟必無全吉,所以貴謀始以絕訟端也。此卦與需反對。與需卦皆言有孚,以中實皆同也。但坎在上則為光亨,坎在下則為窒惕。乾在坎下,剛健不陷,故利涉大川;乾在坎上,為健無所施,故涉川不利。
要するに官司は随便に打つべきに非ず。必ず自己が理直にして誣枉を蒙り、心中に誠信あれど堵塞せられ、然る後にこそ打ちうる。しかも必ず心に憂懼警惕を存して止むべきに適中し、官司を打ち尽くして凶を招くべからず。また中正の大人を見るに倚って公断を取得すべく、冒険して硬に勝を求めるべからず。聖人の本意は人をして訟を興さざらしめんとするにあり。ゆえにこの卦は「元」「亨」「貞」などの吉徳を言わず、「吉」と言えば連帯して「凶」を言い、「利」と言えば跟って「不利」を言う。一旦官司に鬧至れば、必ず十全の吉なきによる。ゆえに事を為すの初に於いて先に謀劃して訟端を断絶するを貴ぶ。この卦は《需》と互いに反対の卦で、両卦とも「有孚」と言う。坎中の爻が充実する点が相同じるによる。ただ坎が上卦に在れば「光亨」と成り、坎が下卦に在れば「窒」と「惕」と成る。乾が坎の下に在れば剛健にして陥落せざるゆえ《需》は「利渉大川」、乾が坎の上に在れば剛健の施展する処なしゆえ《訟》は渉川に利なし。
彖曰:訟,上剛下險,險而健,訟。此以卦德釋卦名義。訟、有孚窒、惕中吉,剛來而得中也。終凶,訟不可成也。利見大人,尚中正也。不利涉大川,入于淵也。剛來得中。按,本義以卦變言。易言卦變者始於此。自上而反下為來,自下而升上為往為進。此自遯卦艮體九三來而居二,在下卦之中也。今按,卦變之說,本於虞翻,先儒亦多異同,義多牽強,今俱以綜卦論之。
《彖伝》にいう。《訟》は上剛にして下険、すでに険にしてかつ健、ゆえに訟を成す。この一句は卦徳を以て卦名の義理を釈す。《彖伝》またいう。《訟》の「有孚窒、惕中吉」は、剛爻が来って中を得るによる。「終凶」は、官司は打ち尽くすべからざるによる。「利見大人」は、中正を崇尚するによる。「不利渉大川」は、それが深淵に掉ち込むによる。「剛来得中」に関して、朱熹《本義》は卦変を以て講ずる――《易》の中に卦変を講ずるはここより始まる。上より下に返るを「来」と言い、下より上に升るを「往」と言い「進」と言う。《本義》に照らせば、《訟》は《遯》卦艮体の九三が下りて来て二位に居り、まさに下卦の中に在る。陳夢雷は則ちいう。卦変の説は虞翻に源出し、前代の学者も各々一詞を執り、義理に牽強多し。ゆえに彼は一概に綜卦――卦体を上下翻転する――を以て講ずるに改む。
需訟相綜,需上之坎來居下卦。坎中剛居柔位,剛中為有孚。與五敵而不相應為窒。窒塞而坎體常懷惕懼之心,不過於訟為吉,皆以剛來而得中也。得中則吉,終之則凶,故以不可成戒之。此皆以綜卦言也。二得中,五居中得正。中則其心不偏,正則所斷合理,窒者可伸矣。此以卦體言之也。以乾剛臨坎水之上,欲訟以陷人,反自陷於淵。此以卦象言也。
《需》と《訟》は互いに綜卦である。《需》を上下翻転すれば、《需》上卦の坎は下卦に来りて《訟》を成す。坎の中爻は剛にして柔位に居る――剛にして中を得ればすなわち「有孚」。それは九五と勢均力敵にしてまた相応せず――すなわち「窒」。すでに窒塞せられ、しかも坎体は本来常に戒懼の心を懐き、官司を打ち過さないので吉――これらは皆「剛来得中」に由って来る。中を得れば吉、打ち尽くせば凶。ゆえに「訟不可成」を以て告誡する。以上は皆綜卦に就いて講ずる。再び卦体を看れば、九二は中を得、九五はすでに中に居ってまた正を得。中を得れば心裏偏せず、正を得れば判斷理に合し、堵塞せられた誠信は伸張しうる――これは卦体に就いて講ずる。最後に卦象を看れば、乾剛を以て坎水の上に壓し、本は官司に倚って人を陥れんと欲すれど、反って自ら深淵に掉ち込む――これは卦象に就いて講ずる。
象曰:天與水違行,訟。君子以作事謀始。天上水下,相背而行,所以致訟。違而後謀,則無及矣。欲絕訟端,必謀之於始。天為三才之始,水為五行之始。君子法之以謀始。又乾陽生於坎水,坎水生於天一。乾坎始本同氣,其後至於違行,有天淵之隔。故其幾之萌不可不謹。
《象伝》にいう。天と水は行向相違す――これが《訟》である。君子はこれに取法して、事を為すに開頭に於いて先に謀劃する。天は上に在り水は下に在り、彼此背道して行く。ここに因って争訟を招致す。すでに乖違して後に謀劃に赴けば、及ばざるなり。訟端を断絶せんと欲せば、必ず事情の開頭に於いて謀劃せざるべからず。天は天地人の三才の始、水は水火木金土の五行の始。君子はこれに取法する。ゆえに「謀始」。さらに乾陽は坎水より生じ、坎水はまた「天一」より生ず――《河図》に「天一生水」の説あり。見れば乾と坎は起初本は同一股の気で、後には竟に背道して行くに至り、天と深淵のごとく遠く隔たる。ゆえにあの一点の苗頭が剛く萌動する時、愼まざるべからざるなり。
初六:不永所事,小有言,終吉。好訟者多剛。初六質柔,不能與人訟者,故有不永所事之象。然不曰不永所訟,而曰所事者,訟端初起,猶冀其不成訟也。初變為兌,有小有言之象。此小有言與需不同:需二在人有言語之傷,此則在我有爭辨之語也。有事不永則易收,有言而小則易釋,所以終吉,以其質柔在下故也。
初六:この件の事を拖長せず、稍く口舌あるも最終は吉利。官司を好むは多半剛強の人である。初六は資質柔弱で、人と争訟し得る者に非ず。ゆえに「不永所事」の象あり。爻辞は「不永所訟」と言わずして「所事」と言うは、訟端がこそ剛く頭を起したに過ぎず、なおそれが官司に鬧成せざるを指望するによる。初六一たび変ずれば下卦は兌を成し、兌は口舌。ゆえに「小有言」の象あり。ここの「小有言」は《需》の九二と同じからず。《需》の九二は他人が自己に加える言語の中傷で、ここは則ち自己の方に几らかの争辨の辞あるのみ。事情は拖長せざれば収場し易く、口舌はただ小小なれば化解し易い。ゆえに「終吉」――帰根結底はそれが資質柔弱にしてまた下位に居るによる。
象曰:不永所事,訟不可長也;雖小有言,其辨明也。訟不可成,長則成矣。不可長,不欲其成也。小有言語,因辨得明,所以終吉也。
《象伝》にいう。「不永所事」とは、争訟は拖長すべからざるによる。小小の口舌ありと雖も、道理はここに因って辨明さる。官司は打ち成すべからず、一たび拖長すれば打ち成る。「不可長」と言うは、それが官司に鬧成せんことを希望せざるなり。ただ小小の几らかの言語あれば、反って辨解を借りて是非を弄明白にする。ゆえに最終に吉を得る。
九二:不克訟,歸而逋其邑人三百戶,無眚。九二陽剛為險之主,本欲訟者。然以剛居柔,得下之中,而九五陽剛居尊,勢不可敵,故有不克訟之象。坎為隱伏,有逃之象。坤為國土,二變坤有邑象。二三四互為離,離數三,三百戶之象。坎為眚,二變坤無眚之象。歸而逋二句,本義謂自處卑約以免災患,蓋邑過三百,非為竄也。
九二:官司は勝ち得ず、帰って躲蔵する。その采邑はただ三百戸の人家のみ、災患なし。九二は陽剛で坎険の主、本は官司を打たんと欲する者。しかしそれは剛爻を以て柔位に居り下卦の中を得、しかるに九五は陽剛にして尊位に居り、勢力の上に於いて敵し得ない。ゆえに「不克訟」の象あり。坎は隠伏なので逃匿の象あり。坤は国土で、九二一たび変ずれば下卦は坤を成すので「邑」の象あり。二・三・四の爻は互体して離を為し、離の数は三――ゆえに「三百戸」の象あり。坎は「眚」すなわち災で、九二が坤に変ずれば坎象は消失す――ゆえに「无眚」の象あり。「帰而逋其邑人三百戸」のこの両句、朱熹《本義》は自ら卑微簡約に処して災患を免除するを講ず――采邑もしなお三百戸を超過すれば逃窜して禍を避くると算えざるの意。
竄而據強,災未免也。退處卑小,故得無眚。按,此二句王注本義皆同。而於邑人句終覺牽強。今按,蘇氏作一句讀。逋其邑人三百戶者,猶曰亡其邑人三百戶去爾。失眾知懼,猶可少安,故曰無眚。蓋以下訟上而不勝,故其私邑之人亦懼而逋逃也。然居柔知儆,災眚或可免耳。此說較順。
《本義》の講法に照らせば、逃窜してなお強大の封邑に拠守すれば災禍は免れず、卑小の地に退居するがゆえに能く「无眚」なり。陳夢雷按:この両句、王弼《注》と朱熹《本義》は講法相同じるも、「邑人」の一句に落とし込めば總に牽強を覚ゆ。彼自身の看法は蘇軾がそれを一句として読むがより好しとす――「逋其邑人三百戸」、すなわち彼の三百戸の邑人が皆逃散したと言うに等しい。民衆を失いて怕を知れば、なお稍く安寧を得うる。ゆえに「无眚」。これは九二が下を以て上を犯して官司を打ちまた勝ち得ず、彼の私邑裏の人さえ嚇されて逃げ去ったによる。しかしそれは柔位に居って警惕を知るゆえ、災眚は或いはなお免れ得べし。この一説は文義の上に於いてさらに順なり。
象曰:不克訟,歸逋竄也;自下訟上,患至掇也。掇,拾取也。以下訟上,則禍患自取。邑人之逋,自掇之患也。
《象伝》にいう。「不克訟」とは、帰って躲蔵逃窜すること。下位を以て上位を告ぐれば、禍患は手を伸べて撿来るがごとし。「掇」は拾取の意。下を以て上を犯して官司を打てば、禍患は自ら招来する。邑人の逃散は、まさに彼自身の撿来した禍患である。
六三:食舊德,貞厲終吉,或從王事,無成。食舊德,如祖宗有世德,子孫得食其報之類。六三本陰也,變而為陽,則陰柔為舊德矣。然守其陰柔,不欲爭訟,故有食舊德之象。不改其素為貞。然所居剛位,故有貞厲之象。守舊居剛,雖見侵凌,終不罹禍,有終吉之象。然三雖不欲訟,而與上應。上九方剛,其勢必訟,故有或從王事之象。此與坤從王事無成有終不同。從王事,即訟事也。上位高,將訟之於天子也。無與毋同,作戒辭。訟不可成。即不得已而或至於從王之事,亦守舊以待,無使訟之成也。
六三:祖上の遺した旧徳を享用し、正を守って危懼を知れば最終は吉利。あるいは往きて王事に参与するも、それを做し成すこと勿れ。「食旧徳」は、たとえば祖宗に世代積下した德行あれば、子孫はその報応を享用し得るがごとし。六三は本は陰爻で、一たび変ずれば陽爻を成す。さればそれが原有の陰柔はすなわちそれの「旧徳」である。それはこの份の陰柔を守住して争訟を願わないので「食旧徳」の象あり。己の素來の様子を改変せざるはすなわち「貞」。しかしその居る所は剛位なので、また「貞厲」――正を守って危懼あり――の象あり。旧徳を守って剛位に身処すれば、人に侵凌せらると雖も、終に禍に遭うに至らない。ゆえに「終吉」の象あり。しかし六三は官司を打ちたくないと雖も、上九と相応ずる。上九は正に剛強に当たり、その勢い必ず訟を興す。ゆえに「或従王事」の象あり。ここの「或従王事、无成」は《坤》の六三「或従王事、无成有終」と同じからず。ここの「従王事」はすなわち訟事で、上九は位が高く、官司を天子の許まで打ち上げんとする。「无」は「毋」と通じ、告誡の辞である。官司は打ち成すべからず。たとえ不得已にしてこの王廷に告げる事に巻進せらるとも、旧徳を守って等待し、この官司を真に打ち成さしめること勿れ。
六爻獨三與上辭無訟字。然三主於讓,上主於爭。或從王事,不得已而訟者也。錫之鞶帶,則由訟而得也。此爻程傳本義蘇氏來注所解各不同。註疏雖對上九一爻言之,而意未盡。姑出臆見,以待就正。
六爻の中、ただ六三と上九の爻辞のみが「訟」の字を出さない。しかし六三の主意は「譲」に在り、上九の主意は「争」に在る。六三の「或従王事」は不得已にして訟事に巻入せられたもの。上九の「錫之鞶帯」は、あの身の命服は官司を勝ち取って得たもの。この一爻は程頤《伊川易伝》・朱熹《本義》・蘇軾《東坡易伝》・来知徳《周易集注》の解するところ各々相同じない。孔穎達《周易正義》は上九の一爻に対して講ずると雖も、意はまだ説き尽くさない。陳夢雷はここに於いて姑く己の臆見を写出して、方家の指正を俟つ。
象曰:食舊德,從上吉也。守其柔貞,以從上九,故得吉也。此亦與本義不同。
《象伝》にいう。「食旧徳」とは、上位に順従してこそ吉を得る。六三は己の柔順貞固の本分を守住し、ここに因って上九に順従する。ゆえに吉を得る。陳夢雷は指出する――かく《象伝》の「従上」を解するは、朱熹《本義》の講法ともまた同じからず。《本義》は「上」を泛く上に在る人と看る。ここは則ち上九に坐実する。
九四:不克訟,復即命,渝,安貞吉。即,就也。命,正理也。渝,變也。九四剛而不中,故有訟象。以其居柔,故又為不克而復就正理,能變易其心以安於正之象。占者如是則吉也。二與五訟,四與初訟,而皆曰不克者,二四皆以剛居柔也。然二以下訟上,不克者勢也;四以上訟下,不克者理也。九二坎體,其心本險,見勢之不敵而逃,無眚而已。九四乾體,其性至健,知理之不可而渝,故遂可獲吉。聖人不責人以無過,而望人改過。欲人審勢,尤欲人知命也如此。
九四:官司は勝ち得ず、回頭すれば正理に依り、初衷を改変して正を守るに安んずれば吉。「即」は就・依従、「命」は正理、「渝」は改変である。九四は陽剛にして中に居らないので訟を興す象あり。それが居るは柔位なので、また訟成らずして回頭し正理に依従し、能く本心を変易して正に安んずる象あり。占者もし能くこの如くなれば吉。九二は九五と争訟し、九四は初六と争訟す。両処とも「不克」と言うは、九二・九四がともに剛爻を以て柔位に居るによる。ただ九二は下を以て上を告ぐ――勝ち得ざるは形勢の容れざる。九四は上を以て下を告ぐ――勝ち得ざるは道理の許さざる。九二は坎体に属し心裏本来陰険、一たび勢力の敵し得ざるを見れば逃走し、ただ「无眚」を落とすのみ。九四は乾体に属し秉性極めて剛健、一たび道理の上に於いて訟うべからざるを明白すれば改変す。ゆえに竟に吉を獲う。聖人は人に過なきを苛求せず、ただ人の能く過を改むるを望む。人の形勢を看清すを望み、さらに人の正理を明白するを望む――用心はまさにここに在り。
象曰:復即命渝安貞,不失也。始不免於有失,能改則不失矣。
《象伝》にいう。回頭して正理に依従し初衷を改変して正を守るに安んずれば、失誤なし。九四は起初訟を興し、本来失を免れなかった。能く過を改めれば、すなわち失と算えない。《象伝》の一つの「不失」は、正にその好処が全く一つの「改」の字に落つを見る。
九五:訟,元吉。陽剛中正以居尊位,聽訟而得其平者也。占者遇之,孚窒者可伸矣,故為大善之吉也。然聖人貴無訟,乃以元吉與五何也。蓋上有中正聽訟之君,下乃有無訟之化。初之不永,三之無成,二四不克,即上亦終褫,以有五之中正故也。故曰利見大人也。朱子謂刑獄之官皆足以當之,不必專言人君。然五實君位,大抵必有德位之大人耳。
九五:訴訟を断決す、大いに吉祥。九五は陽剛中正を以て尊位に居り、訴訟を聴断してその公平を得る人である。占者がこの爻に遇えば、あの堵塞せられた誠信は伸張しうる。ゆえに大善の吉。しかし聖人は本は「无訟」を以て貴しと為す。なぜ反って「元吉」を九五に与えるか。上頭に中正にして訟を聴く君主あれば、下頭にこそ无訟の風気あり。初六は事を拖長せず、六三は官司を打ち成さず、九二・九四は皆「不克訟」、上九さえも終に褫奪せらる。全て九五の中正が上に在るによる。ゆえに卦辞は「利見大人」と言う。朱熹は刑獄を掌る官は皆この「大人」に当たると言い、専ら人君を指す要なしとす。ただ九五は畢竟君位で、大体とても徳と位を兼具する大人でなければ当たらない。
象曰:訟元吉,以中正也。中則聽不偏,正則斷合理。謂以九居五也。
《象伝》にいう。「訟元吉」とは、九五が中にしてまた正なるによる。中を得れば訟を聴く時いずれの一方にも偏袒せず、正を得れば判決の時事理に合す。いわゆる中正とは、陽爻九を以て五の尊位に居るを指す――上卦の中に居るは「中」、陽爻が陽位に居るは「正」。
上九:或錫之鞶帶,終朝三褫之。鞶帶,命服之飾。褫,奪也。乾為衣為圜,有帶象。上以剛居訟極,三柔而不抗,故能勝之,有錫命受服之象。曰或者,亦未必然之辭也。變兌為毀折,過剛不中,以訟得之,豈能安久,故又有終朝三褫之象。蓋好訟不已,以無理而取勝,其所得,終亦必失也。
上九:或いは一条の大帯を賞賜せらるるも、一朝の間に三たび奪い去らる。「鞶帯」は朝廷の命服の上の飾物、「褫」は奪取である。乾は衣・円環なので帯の象あり。上九は陽剛を以て争訟の極処に居り、対する六三は柔弱にして抵抗しないので、それは勝訴しうる。ここに因って命服を受賜する象あり。「或」と言うもまた「未必ずしもこの如し」の語気。上九一たび変ずれば上卦は兌を成し、兌は毀折。それは剛に過ぎて中に居らず、あの身の命服はまた官司を打って得たもの。いずこに坐して長久ならんや。ゆえにまた「終朝三褫」の象あり。要するに訟を好んで休まず、理なき手段に倚って勝を取れば、得た物は最終必ずなお失わん。
象曰:以訟受服,亦不足敬也。受服尚不足敬,況三褫隨之乎。甚言以愧之也。全卦以九五為聽訟之大人,餘皆訟者。聽訟者,欲其有中正之德,化天下於無訟。訟者,欲其有孚惕之心,不可成其訟。初三質柔而不欲成訟,四知理而不欲成訟,所以皆吉。二知勢而不敢成訟,所以無眚。獨上終訟,故雖訟而不足敬也。
《象伝》にいう。官司を打って得た命服は、また敬重に値しない。単に命服を受賜するだけでもなお敬重に足らず、いわんや後頭にまた「三褫」が跟うをや。《象伝》が言をこのように重くするは、彼に羞愧を知らしめんがため。全卦を通観すれば、九五を以て訟を聴く大人と為し、残りの各爻は皆官司を打つ方。訟を聴く者たるは、それに中正の徳あらんことを望み、天下を感化して无訟の地歩に至らしめんことを。訟する者たるは、それに誠信あって警惕を知る心あらんことを望み、官司を打ち成さざるを。初六・六三は資質柔弱にして官司を打ち成すを願わず、九四は道理を明白にして官司を打ち成すを願わないので皆吉を得。九二は形勢を看清して官司を打ち成すを敢えてしないので「无眚」を得。ただ上九は官司を打ち尽くしたので、訟に勝つと雖も敬重に値しない。
師卦
師,下坎上坤。二體為地中有水,聚眾之象。二卦之義,內險外順。險道而以順行,有師之義。六爻以一陽統眾陰,有大將率師之象。二剛居下,五柔居上任之,人君命將出師之象。故名為師。師次於訟。按《序卦》,訟必有眾起,故受之以師。師旅之興,由於有爭,所以次訟也。出師貴乎得正,而用將在乎得人。此全彖之大旨也。
《師》卦の下体は「坎」、上体は「坤」。両体を合わせて看れば、坤は地・坎は水。地中に水を蓄え、水は聚まりて散ぜず――まさに衆を聚むる象。両卦の卦徳に就いて看れば、内卦「坎」は険、外卦「坤」は順。走るは本は凶険の路なれど、柔順の徳を以て推行す――これは兵を興し師を行う道理に合す。六爻に就いて看れば、全卦に九二一つの陽爻が残り五陰を統率するのみ。あたかも一員の大将が三軍を統領するがごとし。九二は剛爻を以て下に居り、六五は柔爻を以て上に居って兵権をそれに交付す――またまさに人君が将に命じて師を出す象。ゆえにこの卦は「師」と名づく。《師》は《訟》卦の後に接す。《序卦伝》にいう。争訟一たび起これば、必ず衆人の聚集して応援あり。ゆえに《訟》の後に《師》を以て承ぐ。軍旅の興る所以は、根源は争闘あるに在り。これがそれが《訟》に次ぐ由縁である。出兵の最も要緊は名分の純正、用将の最も要緊は人選の得当――この両句がすなわち全卦卦辞の総綱である。
九二以陽剛在下卦之中,為老成之將。六五相應,為任將之君。三四亦皆將兵之臣。二以居中持重而吉。三以躁妄而凶。四以柔自守,僅可無咎。初為出師之始,貴其紀律之明。上為行師之終,尤欲論功行賞之當。蓋六爻而行師之道備矣。
九二は陽剛の質を以て下卦の中位に居り、老成持重の将帥。六五は上に在ってそれと相応じ、将帥を委任する君主。六三・六四もまた兵を帯びる臣子。九二は中に居るに因って能く持重するので吉を得。六三は躁進妄動するので凶を致す。六四は柔順を以て自ら守り、師を全うして退き、ただ過を出さざるを為し得るのみ。初六は師を出すの開端に処し、貴ぶべきは紀律の厳明。上六は師を行うの終結に処し、最も要緊は功を論じ賞を行うの得当。六爻は始より終に至りこのごとく排し下がれば、兵を行い師を用うる道理もまた完備して遺すなし。
又師與比反對,皆以一陽統眾陰,而義各有所取。蓋先王之制民,居則為比閭族黨,故比則眾在內,而一陽在上為之主,君象也。行則為伍兩卒旅,故師則眾在外,而一陽在下為之統,將帥象也。此又二卦取義之意也。
さらに《師》と《比》は上下翻転の「反対」の卦で、同じく一つの陽爻が五つの陰爻を統率するも、義を取るは各々側重あり。古代の先王は百姓を編制す――平居郷里に在れば「比」「閭」「族」「党」に編む。ゆえに《比》卦は五陰は内に在り、一陽は高く上位に居って衆人の主を為す――君主の象を取る。一旦出動して作戦すれば「伍」「両」「卒」「旅」に編む。ゆえに《師》卦は五陰は外に在り、一陽は下位に沈んで衆人の統率を為す――将帥の象を取る。これがまた両卦が分かれて義を取る用意の所在である。
師:貞,丈人吉,無咎。師,兵眾也。下坎上坤。以卦象言,地中水聚,猶師之聚。以卦德言,坎險坤順,古者寓兵於農,伏至險於大順,藏不測於至靜之中。卦唯九二一陽在下卦之中,為將之象。上下五陰從之,為眾之象。又九二以剛在下統眾,六五以柔在上而應之,為人君命將出師之象。
《師》の卦辞:正道を守持し、老成持重の長者に兵を統べしめてこそ吉、過咎なし。「師」はすなわち軍隊・衆人。この卦は下体「坎」・上体「坤」。卦象から言えば、地中に水を聚積し、あたかも軍隊が衆人を聚集するがごとし。卦徳から言えば、「坎」は険にして「坤」は順。古は兵を農の中に寄寓し、まさに極めて凶険の物を極めて柔順の形態の裏に潛伏し、測るべからざる殺機を極めて安静の日常の中に蔵する。この卦はただ九二一つの陽爻が下卦の中位に居るのみ――将帥の象。上下五つの陰爻は皆それに跟従する――士衆の象。さらに九二は陽剛を以て下に居って衆人を統率し、六五は陰柔を以て上に居ってそれと相応ず――まさに人君が将帥を任命し兵を発して出征する象。
貞,正也,所謂仁義之師、師出有名者也。丈人,老成持重、眾所畏服者也。言行師之道,當以貞為本。而用將,又必得老成持重之人,乃有全師戰勝之吉,無窮兵黷武之咎。言吉而又曰無咎者,蓋動眾而無功,罪也。有功而貽患,亦非善也。故必吉乃無咎,而吉又貴於無咎也。
「貞」はすなわち正、仁義の師・出兵に名義あって依るべきを指す。「丈人」は老成持重にして衆人の敬畏信服する所の長者を指す。これは言う――師を行うの道は、名分の純正を以て根本と為すべし。しかるに将帥を任用するは、また必ず老成持重の人を得ざるべからず。このようにしてこそ全軍を保全し敵に克ち勝を制する吉利ありて、兵を窮め武を黷すの禍患なし。すでに「吉」と言うた上、なぜなお「无咎」と言うか。師を興し衆を動かして毫も戦功なきは罪過。たとえ功ありて後患を遺すも好しと算えない。ゆえに必ず吉を得てこそ過咎なしと談じ得。しかるに「吉」の貴ぶべきは、まさにそれが過咎を免れ得るに在る。
彖曰:師,眾也;貞,正也。能以眾正,可以王矣。此以卦體釋師貞之義。以,能左右之也。坎以一陽而能統上下五陰,皆歸於正道,則順天應人,可以為王者之師矣。以之正則為王,微有不正則為霸。行一不義,殺一不辜,而得天下不為,所謂以眾正,而為王者之師也。
《彖伝》にいう。「師」はすなわち衆、「貞」はすなわち正。能く衆人を率いてそれを正道に帰せしめば、王業を成就しうる。この一節は「卦体」――すなわち一陽が五陰を統ぶ爻位の結構――を以て卦名「師」と卦辞「貞」を釈す。「以」は能く左右し駕馭するの意。坎の一つの陽爻が能く上下五つの陰爻を統領してそれらを全て正道に帰せしめば、それは上は天理に順い下は人心に応じ、王者の師と称するに足る。衆を用いて正に帰すはすなわち王道。稍く一点の正ならざるあれば霸道に落ちる。一件の不義の事を為し一人の無罪の人を殺して天下を取得しうると雖も、王者もなお為すを肯んぜず――これをこそ「以衆正」と言い、こそ王者の師と称するに配す。
剛中而應,行險而順,以此毒天下而民從之,吉又何咎矣。以卦體言之,九二剛中而六五應之。剛而得中,恩威並濟。五與為應,則君之信任專矣。以卦德言之,坎險坤順,雖行危道而順人心。以此興師,雖勞民傷財,不無毒於天下,而民悅而從,則有吉而無咎矣。此釋丈人吉無咎之義也。
《彖伝》は続けていう。陽剛は中に居って上に応援あり、行うは険道にして出ずるに柔順を以てす。この方式を以て天下をして一番の荼毒を受けしむるも百姓はなお旧来のごとく跟従す。すでに吉を得ればまたいずこに何の過咎あらん。卦体から言えば、九二は陽剛にして下卦の中に居り、六五は上に在ってそれと相応ず。剛にして中を得れば恩徳と威厳は並行して偏らず、六五は専らそれと応を為せば君主の信任は専一にして貳なし。卦徳から言えば、「坎」は険にして「坤」は順。走るは用兵のこの危道と雖も、人心に順って行う。このような方式を以て兵を興せば、縱に民を勞し財を傷うとも天下に対して毒害なしと言うべからざるも、百姓は心悦して追随する。されば吉ありて過咎なし。この一節が釈するはまさに卦辞「丈人吉、无咎」である。
象曰:地中有水,師。君子以容民畜眾。地中有水,有包容畜聚之象。古者兵出於民,容保其民,即以畜聚其眾。水不外於地,兵不外於民也。容民則無流民,畜眾則無叛眾。容之畜之於無事之時,而用之於有事之日。
《象伝》にいう。地中に水を含む――これが《師》卦。君子はこの象に取法して百姓を容納し衆人を蓄養する。地は能く水を包容し水は能く地中に聚まる。ゆえに包容蓄聚の象あり。古は兵源は百姓より出づ。能く己の百姓を容納保全すれば、すなわち己の士衆を蓄聚するに等しい。水は地の外に在らず、兵もまた民の外に在らず。能く百姓を容納すれば流離失所の游民なからん。能く士衆を蓄養すれば叛離の兵卒なからん。事なきの平时に於いてこれを容れこれを養えば、事あるの日に至ってこそ用い得る。
初六:師出以律,否臧凶。律即紀律。否臧謂不善,即無紀律之謂也。初,出師之始,出師之道當謹於始。以律則吉,不善則凶。蓋以初六才柔,故有否臧之戒。然以律不言吉,否臧則凶者,律令謹嚴,出師之常,勝負猶未可知。若失律,則凶立見矣。象曰:師出以律,失律凶也。按,《程傳》釋臧為勝,謂失律雖勝亦凶也。今按,《象傳》似竟以否臧為失律為是。
初六:兵を出すは号令紀律に倚る。紀律不善なれば凶。「律」はすなわち紀律。「否臧」は不善、すなわち紀律なし。初六は師を出すの開端に処す。師を出すの道は最も起頭に於いて謹愼すべし。紀律あれば吉、紀律不善なれば凶。初六は陰柔にして才が弱く、鬆散に失し易いので、特意に「否臧」のこの告誡を下す。しかし爻辞は「以律」に対して一つの「吉」の字を許さず、「否臧」に対しては直ちに「凶」と断ずる。これは号令厳明はただ師を出すの常規で、具備すと雖も未必勝つとは限らず勝敗はなお説き定められず、一旦紀律を失えば凶禍は立刻に来るによる。《象伝》にいう。兵を出すは紀律に倚る。紀律を失えば凶。按:《程伝》は「臧」を勝仗を打つと解し、失律は縱に僥幸に勝を得るもなお旧来凶なりの意。今看れば、なお《象伝》に依りて径直に「否臧」を「失律」と講ずるが較べて妥当。
九二:在師中,吉無咎,王三錫命。九二以剛居柔,在下卦之中,有在師中吉無咎之象。上應六五之柔,為君所寵任者也,有王三錫命之象。在師中吉無咎,竟作在師而得中,不必又云在師之中。蓋剛柔兼濟,故有克敵全師之吉,無躁妄逗撓之咎。此即彖之所謂丈人也。錫命至於三,言極其寵,故權無中制,所向得有功也。
九二:身が軍中に在りて能く中道を守る。吉利、過咎なし。君王は三たび冊命を頒下す。九二は陽剛の爻を以て陰柔の位に居り、また下卦の正中に処すので「在師中吉无咎」の象あり。それは上に六五の柔と相応じ、君主の寵信委任を受ける人。ゆえに「王三錫命」の象あり。「在師中吉无咎」の一句は、径直に「軍中に在りて能く中道を得」と読めば足り、再び「軍隊の当中に処す」と解する要はない。九二は剛柔兼済なので、敵に克ちまた全軍を保全する吉利あり、躁進妄動あるいは逗留して前せざるの過失なし。それはすなわち卦辞にいう「丈人」。冊命が連ねて三たび下るは、寵信の極処に至るを言う。ここに因って将は外に在りて朝廷の遥制を受けず、兵鋒の向かう所皆功を立つ。
象曰:在師中吉,承天寵也;王三錫命,懷萬邦也。爻就二之剛中得吉,兼由上之寵任言。《象傳》專重人君任將之道言。言二之中而得吉,以承天之寵故也。人君三錫命於將,亦非徒私於一將也。蓋將以綏懷萬邦,必專其事權,以責其成功也。
《象伝》にいう。「在師中吉」とは、君王の寵信を承受したによる。「王三錫命」とは、万邦を安撫懐柔するためである。爻辞は九二自身が剛にして中を得るがゆえに吉を獲るに就いて言い、同時に連帯して上の君主の寵信委任を言う。《象伝》は則ち専ら人君の将を任ずる道より立論す。それが九二の中を守って吉を得るを言うは、正に天子の寵信を承受したによる。人君が一再将帥に冊命するも、また単にある一位の将領に偏私するに非ず。冊命の用意は万邦を安撫懐柔するに在れば、すなわち必ず事権を専一に彼に交与し、然る後にこそ彼に成せ責成すること好し。
六三:師或輿尸,凶。六三眾陰在上,有積尸之象。坤為輿,坎為輪,有輿尸象。六三以陰居陽,不中不正,才弱志剛,輕躁以進,師徒覆敗,輿尸以歸也。此按,《本義》如此。又按,《程傳》《蘇傳》皆以輿為眾。尸,主也。小人掣肘,號令不一,必至敗也。今觀下文弟子輿尸,則程、蘇之說為順。象曰:師或輿尸,大無功也。本欲躁妄以圖功,而至於大無功,非徒小挫而已。
六三:軍隊は或いは車を以て屍首を載せて帰らん、凶。六三の上は衆陰重畳し屍首堆積の象あり。「坤」は車輿、「坎」は車輪、合わせて便ち屍を載せる象あり。六三は陰爻を以て陽位に居り、中に居らずまた正を得ず、才具柔弱にして心志刚躁。軽率冒進して、ここに全軍覆敗し、ただ車を以て死者を載せて帰る能きのみ――これは朱熹《本義》の講法に依る。また按じるに、《程伝》と蘇軾《蘇伝》はともに「輿」を「衆」と解し「尸」を「主」と解す。意は小人が旁より掣肘し人人争って主を為し、号令は統一し得ず必ず失敗す。下文六五爻の「弟子輿尸」に就いて看れば、程・蘇のこの一解はさらに順暢なので、陳夢雷は両説を並存して偏えに程・蘇を取る。《象伝》にいう。軍隊が或いは屍を載せて帰るは、大いに勞して功なきである。本は躁進冒険に倚って戦功を博取せんと欲すれど、結果は毫も功績なきに落ち、ただ一点の小挫折を受くるのみに非ず。
六四:師左次,無咎。軍尚右。左次,退舍也。陰柔不中而居陰得正,故有左次之象。全師以退,賢於六三,故無咎。象曰:左次無咎,未失常也。恐人以退為怯,故云。知難而退,師之常也。
六四:軍隊は左に退駐す、過咎なし。古は軍を行うに右方を以て尊・進と為す。ゆえに「左次」はすなわち兵を退いて駐扎する。六四は陰柔にして中位に居らないが、陰爻を以て陰位に居って正を得る。ゆえに「左次」の象あり。それは能く全軍を保全して後撤し、六三の軍を覆し屍を載するに比べて高明なること甚だしい。ゆえに過咎なし。《象伝》にいう。左に退駐して過咎なきは、用兵の常法に違背しなかったによる。これは人が撤退を怯懦と看るを怕れ、ゆえに特意に点明する――打ち勝てざるを知れば退下するは、本来用兵の常道であると。
六五:田有禽,利執言,無咎。長子帥師,弟子輿尸,貞凶。六五用師之主,柔順而中,不為兵端者也。然敵加於己,不得已而應之。應坎為豕,為田中有禽害稼之象。言,語辭。利於摶執之,無窮黷之咎也。長子,九二也。弟子,三四也。長子即丈人,自眾尊之曰丈人,自爻象之曰長子。二互三四為震,長子之象。五獨與二為應,故有使長子帥師之象。
六五:田に禽獣ありて害を為す、それを捕捉するに利あり、過咎なし。年長老成の人をして兵を統べしめてこそ行き通ず。もし年軽の子弟をして一同に插手せしめば、屍を載せて帰るに至らん。名義純正なると雖も凶。六五は用兵を主持する君主で、柔順にして上卦の中に居り、本は自ら戦端を挑発する人に非ず。ただ敵人が門に打ち込み来るに因り、不得已にして兵を起して戦に応ずるのみ。それが応ずる所の九二は「坎」に属し、坎は豕。ゆえに田中に禽獣あって庄稼を糟蹋する象を取る。「言」は句中の語助詞で実義なし。禽獣はすでに稼を害すれば、それを擒拿するに利あり。このようにすれば便ち兵を窮め武を黷すの過失なし。「長子」は九二を指し、「弟子」は六三・六四を指す。長子はすなわち卦辞裏の「丈人」。衆人がそれを尊崇する角度から言えば「丈人」と言い、爻象の上から言えば則ち「長子」と言う――九二が六三・六四と連なり互体して「震」を成し、震は長男。ゆえに長子の象あり。六五は独り九二と相応ず。ここに因って長子に兵を統べるを委任する象あり。
又因以戒之,言任將在審且專。設若任君子而使小人參,則使之輿尸以歸。出師之名義雖正,不免覆敗之辱矣。此彖既言貞,而又言必用丈人乃吉之意也。按,《本義》弟子輿尸句其解如此,未免弟子下費一轉折。不如程、蘇二傳,任長子而使眾弟子參之,雖正亦凶,於文義尤順也。
爻辞は随ってここを借りて一つの告誡を下す。将帥を任用するは審愼にして専一なるを貴ぶ。もし既に君子を任用し、また小人を派して旁より参与せしめば、屍を載せて帰るに弄到せん。師を出すの名義は縱に純正なるも、軍を覆し敗績する耻辱を免れない。これはまさに卦辞がすでに「貞」と言いまた必ず「丈人」を用いてこそ吉と言う用意である。按:《本義》の「弟子輿尸」の一句に対する解釈はすなわち上面のごとし。ただ「弟子」の二字の下は免れず多く一つの転折を遶らざれば講じ通じない。程頤・蘇軾両家の伝注の読法に如かず――すでに長子を任用し、また一班の弟子をして插手参与せしむれば、たとえ名義純正なるもなお旧来凶――このようにすれば文義の上に於いてさらに順暢。
象曰:長子帥師,以中行也;弟子輿尸,使不當也。長子所以可帥師者,以剛中之德行之也。弟子非不可使,使叅長子之權,則不當矣。眾之死生,國之存亡,在君之使,可不審哉。
《象伝》にいう。長子をして兵を統べしむるは、彼が能く中道を以て事を行うによる。弟子が屍を載せて帰るは、君主の派遣が恰当ならざるによる。長子の兵を統べうる所以は、まさに彼が剛健にして中を守る徳行を以て兵を帯びるによる。弟子は絶対に任用すべからざるに非ず、ただ彼らをして長子の兵権を分割せしむれば、それは遣る不当である。全軍将士の生死・整个国家の存亡は、皆君主の如何に人を遣るかに係る。どうして愼重ならざるべけんや。
上六:大君有命,開國承家,小人勿用。上,師之終,論功行賞之時。坤為土,有開國承家之象。陽大陰小,陰爻重疊,小人之象。變艮為止,勿用之象。按,《本義》,小人雖有功,不可使有國土,但優以金帛可也。蓋以兵多詭道,立功不必皆君子,故小人之賞雖不可無,而用之使有國有家則不可。此說雖順,然論功封爵土,必無但賞以金帛以金帛之理。不如來注以用為任之以政事為是。蓋小人功大開國,功小承家,使之享有爵土,不必任以政事。如光武雲臺之將,鄧禹、賈復外不任以政是也。
上六:天子は冊命を頒下す。功大なるは国を封じて諸侯と為し、功小なるは家を立てて大夫と為す。小人は任用すべからず。上六は《師》卦の終に処し、まさに功を論じ賞を行う時。「坤」は土地なので国を封じ家を立つる象あり。陽は大・陰は小。ここは陰爻重畳なるがゆえに小人の象。上六一たび変ずれば上卦は「艮」を成し、艮は止。ゆえに「勿用」の象あり。《本義》の講法に按じれば、小人は功ありと雖も、それに封地を有たしむべからず。ただ優に金帛を賞すれば足る。用兵は多く詭詐の道を行い、功を立つるは未必皆君子ならざるゆえ、小人の賞賜はなくすべからざるも、それに国有り家有らしむるは行けない。この説法は通順と雖も、しかしすでに功を論じて爵を封じ土を封ずれば、断じてただ金帛を以て打発する道理なし(底本この句「以金帛」の三字は重出)。来知徳の注が「用」を「任之以政事」と解するに如かず――小人は功大なれば照様に国を開き、功小なれば照様に家を承け、それに爵位土地を享有せしむるも、ただ政事をそれに交さざるのみ。漢光武帝の雲台のあの班の功臣のごとく、鄧禹・賈復などの少数の人を除き、一概に彼らを政務に参与せしめない。すなわちこの弁法である。
象曰:大君有命,以正功也;小人勿用,必亂邦也。論功行賞以正其功,君子小人皆在所錄也。但用之使豫國家之事,則邦必亂矣。出師本以綏懷萬邦,豈復容小人亂之哉。錫命於行師之始,專在丈人;有命於行師之終,戒在小人。用將不可不知人也。
《象伝》にいう。天子が冊命を頒下するは、各人の功労を核定するため。小人は任用すべからず、用いれば必ず邦国を敗壊するによる。功を論じ賞を行うは、各人の功労を評定して当を得んとする。君子も小人も皆録用の列に在る。ただもし小人をして国家の政事に参預せしめば、国家は必ず大乱せん。師を興し兵を出す本意は万邦を安撫懐柔するなり。どうして反って小人を容れてそれを攪乱せしめんや。師を行うの初の冊命は専ら「丈人」の身上に落ち、師を行うの末の詔命は則ち専ら小人に就いて警戒を下す。見れば将帥を任用するは、まず人を識るを能くせざるべからざるなり。
全卦於用師之道最為詳盡。王者之師在於得正,尤貴於擇人。專任君子而不以小人叅之,此人君御將之道也。行師者貴有剛中之德,而又得君之委任。師之出必紀律嚴明而後可以制勝。其或敵強我弱,則當知難而退,寧為四之左次,勿為三之輿尸,此為將之道也。至於論功行賞,則有開國承家茅土之封,而小人必不可豫家國之事。此聖人之垂戒深遠,非若後世權謀苟且之事。凡命將出師之道盡於斯矣。
全卦を通観すれば、用兵の道を講じて最も詳尽である。王者の師はまず名分の純正に在り、しかもことに人選を看重する。専一に君子を任用して小人を間に掺杂せしめない――これは人君が将帥を駕馭する道。兵を帯びる人は剛健にして中を守る徳を具備するを貴び、また君主の専一なる委任を得る能し。軍隊は一たび出動すれば、必ず紀律厳明にしてこそ勝を制しうる。万一敵強く我弱ければ、難を知って退くべし――六四のごとく退駐して一舎するを寧ろしても、六三のごとく軍を覆し屍を載するを為す勿れ――これが将たるの道。功を論じ賞を行うに至っては、功大なるは国を開き功小なるは家を承け、土を裂き爵を授くるの賞あり。しかるに小人は如何せんとも国家の大事に参預せしむべからず。聖人のここに於いて垂示する告誡は極めて深遠で、断じて後世のあの権謀苟且の做法のごときに非ず。およそ将に命じ師を出すの道理は、皆この一卦の中に尽きる。
周易浅述巻二 翰林院編修陳夢雷撰
比卦
比卦,下坤上坎。以二體言之,水之在地上,親切無間,有比之象。又卦以九五一陽為上下五陰所親附,亦比之義,故曰比也。比卦次師。按《序卦》,眾必有所比,故受之以比。人類既多,必相親附而後能安,比所以次師也。
《比》卦の下体は「坤」、上体は「坎」。上下両体に就いて言えば、水は地面の上に敷き、地と貼合して親切にして間なく、中間に一糸の縫隙を隔てない――これが「比」すなわち親近し相辅する象。さらに爻位より言えば、全卦は九五のこの一つの陽爻を以て上下五つの陰爻の親近し帰附する所と為す――またまさに「比」の意。ゆえに卦名を「比」という。《比》卦は《師》卦の後に排す。《序卦伝》に按じて、衆人が一処に聚まれば、必ず親附する所有る。ゆえに《師》の後に《比》を以て承ぐ。人が多くなれば、必ず彼此親近依附して後に能く安定する。これが《比》が《師》に次ぐ由縁である。
卦以九五為君象,陽剛中正,為眾所歸,相親相輔。但當自審於先,不可失之於後。此全彖之大旨也。六爻以五為比之王,五陰皆求比之。初以先而吉,上以後而凶。二以應五為自內,四以承五為外比,故皆吉。唯三失其所比,離五既遠,而應於無位之上,所以傷也。此六爻之大略也。
この卦は九五を以て君主の象と為す。陽剛にしてまた中に居って正を得、衆人は皆来りて帰附し、上下は相亲し相辅す。ただ人に帰附せんとするは、事の先に於いて对方を審察して清楚すべく、後頭に拖って乃ち帰附するべからず。この両層がすなわち全卦卦辞の総綱。六爻に就いて言えば、九五は衆人の比する所の君王で、五つの陰爻は皆求めて彼に親附せんとす。初六は最も早く帰附するに因って吉を得、上六は最も遅く帰附するに因って凶を致す。六二は九五と正応し、内卦より来りて親附す。六四は緊く九五を承け、外卦より来りて親附す。ゆえに皆吉。ただ六三のみがその親附すべき対象を失った――九五より既に遠く、応ずる所はまた上六のこの無位の爻。ゆえに傷害を受く。これが六爻の大概である。
比:吉。原筮元永貞,無咎。不寧方來,後夫凶。比,親輔也。卦以九五一陰為上下眾陰所歸,以一人而撫萬邦,以四海而仰一人,故有親輔而吉之象。原筮,再筮也。蒙卦坎一陽在下曰初筮,比坎一陽在上曰原筮。比本坤卦,以再筮得乾之五,具乾之與坤之永貞,故有原筮元永貞無咎之象。水性流動,終有所歸,有不寧方來之象。九五一陽已為眾所歸,上後來以陰變陽,兩雄不併棲,有後夫凶之象。
《比》の卦辞:吉。再度卜問して、ただ大善・長久・正固の徳を具備すれば、過咎なし。原本安定せざる四方の国も前来りて帰附し、来るの太く遅き人は則ち凶。「比」はすなわち親近輔助。この卦は九五のこの一爻を以て上下の衆陰の共同に帰向する所と為す(底本は「一陰」と作すが文義に依りて「一陽」と作るべし)。一人を以て万邦を安撫し、四海を以て共に一人を仰ぐ。ゆえに親附して吉を得る象あり。「原筮」はすなわち再筮。《蒙》卦の「坎」は一陽が下に在るので「初筮」と言い、《比》卦の「坎」は一陽が上に在るので「原筮」と言う。《比》は本は《坤》卦より変来し、再筮に因って乾の陽爻を得て第五位に入居す。ここに於いて乾の「元」と坤の「永貞」を兼具す(底本「具乾之与坤之永貞」の句、「乾之」の下に疑わしくは一つの「元」の字脱す)。ゆえに「原筮元永貞无咎」の象あり。水の性子は流動で、流れて最後に至れば総じて帰宿する所有る。ゆえに「不寧方来」の象あり。九五の一陽はすでに衆人の帰する所と為り、上六は後に到り、なお陰を以て陽に変じて主を争わんとす。両雄は同じ一処に棲む能わず。ゆえに「後夫凶」の象あり。
占者得此,則我當為人所親輔而吉。然人之歸我,歸於德也。必我有元善永長正固之德,然後可以當眾之歸而無咎。其未比於我而有所未安者,亦將來歸。若彼遲而後至,則此交已固,彼來已晚而得凶矣。
卦を占う人がこの一卦を得れば、すなわち自己が他人に親附せられ輔助せられて吉を獲る。しかし他人の我に帰するは、帰するは徳なり。必ず我自身が大善・長久・正固の徳を具備して後に、衆人の帰附を承受し得て過咎を出さない。あのまだ来りて我に親附せず心中なお不安ある者は、将来もまた前来りて帰附せん。もし彼が遅遅として乃ち到れば、その時我が方の交結はすでに穩固で、彼の来るの太く晚き、すなわち凶を得るに至る。
卦就人比我言之。《本義》謂我比人,以是反觀。然玩彖意,則比人之占已在其中。蓋卦以坎五為比之主,故我有元永貞之德,則人自當速比於我,而彼之後至者凶矣。若我無其德,則必求有是德者比之,我不可自取後夫之凶。蓋卦具此象,筮者各隨所問以為占,不可執一而論也。
この一卦は「他人が来りて我に親附す」の角度に立って説を立つ。朱熹《本義》は則ち「我が往きて他人に親附す」と解し、人をしてここに由って反って推想せしむ。ただ《彖伝》の語意を細玩すれば、「我が往きて他人に親附す」のこの一層の占義は実はすでに裏頭に含まれている。全卦はすでに上卦坎の九五を以て「比」の主と為せば、されば我もし「元」「永」「貞」の徳あれば、他人は自ずと早く来りて我に親附すべく、しかるにあの遅到するは凶。我もしこのような徳なからば、必ずこのような徳ある人を尋求して彼に親附すべし。切に自ら「後夫」の凶に落ちるべからず。要するに卦中はこの両面の象を兼具す。占筮する人は各々己の問う所の事に依って断ずべし。一死もして一辺に執って論ずべからず。
彖曰:比,吉也。《本義》謂三字皆衍。《大全》謂衍「也」字,今從之。
《彖伝》の開頭に「比、吉也」の三字あり。朱熹《本義》はこの三字は皆後人の誤増の衍文で本は有るべからずと見なす。《周易大全》は則ちただ一つの「也」の字が多衍したと見なし、《彖伝》の原文は「比、吉」の二字を以て句を成し、下面に再び「比、輔也」云云を接ぐべしとす。陳夢雷はここに於いて《大全》の説法に依従し、「比吉」を保留してあの「也」の字を删去す。
比,輔也,下順從也。比之所以吉者,以比有輔之義,臣下皆順從之,所以吉也。順者,情不容己。從者,分不可逃。謂陽居尊而陰在下也。此以卦體釋卦名及比吉之義。
《彖伝》にいう。「比」はすなわち輔助、下の衆陰は皆上の一陽に順従す。比卦の吉利たる所以は、正に「比」が親輔の意を含むによる――九五は陽剛にして尊位に居り、五つの陰爻は皆彼に順従し輔佐す。ゆえに吉利。いわゆる「順」とは、情感の上に自然に親附して按捺し得ざること。いわゆる「従」とは、名分の上に必ず服従すべく逃れる由なきこと。これが言うはまさに陽爻が高く尊位に居って衆陰が下面に処する格局。この一句は「卦体」すなわち一陽五陰の爻位の結構を以て、卦名「比」および比卦のなぜ吉利なるかを釈す。
原筮元永貞,無咎,以剛中也。不寧方來,上下應也。後夫凶,其道窮也。此亦以卦體釋卦辭也。剛謂五。以者,因也。因剛中則私無所留,所以為元。剛中則健而不息,所以為永。剛中則正固不偏,所以為貞。上下謂五陰。凡卦皆以剛柔兩爻相應,此則以五陰應五之一陽,又為一例。然師亦一陽五陰,以專以五為應者?師以君任將,則其任專。比以君臨下,則其分嚴也。
《彖伝》にいう。卦辞に「原筮元永貞、无咎」と講ずるは、九五が陽剛にして中に居るによる。「不寧方来」と講ずるは、上下の衆陰が皆来りて応和するによる。「後夫凶」と講ずるは、上六の道がすでに窮尽に走り至ったによる。この一節もまた卦体を以て卦辞を釈す。「剛」は九五を指し、「以」はすなわち因る。陽剛は中に居り、胸中に一点の私意を留めない。ゆえに「元」(大善)と称しうる。陽剛は中に居れば剛健して息まず。ゆえに「永」(長久)と称しうる。陽剛は中に居れば正を守り堅固にして偏斜せず。ゆえに「貞」(正固)と称しうる。「上下」は残りの五つの陰爻を指す。一般の卦は皆一剛一柔の両爻が相応ずるが、この卦は却て五つの陰爻が共同して九五の一つの陽爻に応和す――別に一例を成す。しかし《師》卦も同じく一陽五陰なのに、なぜそれはただ専ら六五の一爻を取って相応の爻と為すか。《師》は君主が兵権を将帥に託付して任命専一なので、ただ一爻のみ相応ず。《比》は君主が自ら天下の臣民に臨んで名分厳正なので、五陰は皆帰附せざるを得ない。
既曰上下應,又曰其道窮者。五陰皆有當應之道。獨上以一陰在最後,勢處於窮,所以凶也。乾上九曰窮之災,坤比上六皆曰道窮,皆以處上極窮故也。
《彖伝》はすでに「上下応」と言いまた「其道窮」と言う。看れば前後矛盾のごとし。其の実五つの陰爻は本来皆九五に応和する道理あるも、ただ上六は一つの陰爻を以て最末に処し、形勢すでに窮尽に到る。ゆえに凶と断ず。《乾》卦の上九は《文言》に「窮之災」と称す。《坤》卦の上六と《比》卦の上六は皆「其道窮」と言う。これらは皆一卦の最上位に居って極処に走り至りて退くべき路なきによる。
象曰:地上有水,比。先王以建萬國,親諸侯。水比於地,不容有間。先王畫疆分國[文瀾本“國”作“野”],使連屬相親。則諸侯知尊君親上,而天下從之矣。本義謂彖意人來比我,此取我往比人。然封建以治天下,使天下親於諸侯,即使諸侯親於天子,亦人來比我之意也。井田封建,先王治天下之大者也。於師得井田之法,使民自相合而無間。於比得封建之法,使君與民相合而無間。
《象伝》にいう。地面の上に水あり――これが《比》卦の象。先王はこれに取法して万国を分封し諸侯を親近す。水は地上に依附し緊貼して縫なく、一点の空隙を容れない。先王は疆界を劃定し邦国を分封し(文澜閣本ここは「国」の字を「野」と作す)、各国をして彼此連属し互相に親附せしむれば、諸侯は便ち君王を尊奉し上級を親近するを懂得し、天下もまたここに跟って帰服す。朱熹《本義》は《彖伝》が講ずるは他人が来りて我に親附すとし、ここ《象伝》が取るは我が往きて他人に親附すとする。其の実封建を推行して天下を治め、天下人をして諸侯に親附せしむれば、すなわち諸侯をして天子に親附せしむるに等しく、なお旧来他人の来りて我に親附する意。井田と封建は先王が天下を治むる最大の两件事。《師》卦より井田の法を得出し百姓をして自ら相聯合して間隙なからしめ、《比》卦より封建の法を得出し君と民を相合せしめて間隙なからしむ。
初六:有孚比之,無咎。有孚盈缶,終來有他吉。易六爻皆歸正應,獨比諸多皆以比五為義。他卦陽爻皆言有孚,此陰爻亦言有孚。程子所謂中實者信之質,中虛者信之本也。當比之始,虛中求比,意無他適,有有孚比之無咎之象。
初六の爻辞:心に誠信を懐きて親附に往けば、過咎なし。誠信充盈して瓦缶に装満するがごとくなれば、最終にまた意外の吉慶を招来せん。《周易》の六爻は一般に皆初四・二五・三上の正応を以て帰宿と為すが、ただ《比》卦の各爻は皆九五に親附するを以て義を立つ。別の卦はただ陽爻のみが「有孚」を講ずるが、この卦は陰爻もまた「有孚」を講ず。まさに程頤のいう所――爻画の中実(陽)は誠信の実質、爻画の中虚(陰)は誠信の本原。初六は親比の開端に処し、虚中の心を以て人の親附を求め別に他念なし。ゆえに「有孚比之、无咎」の象あり。
坤為土。缶,土器。以陰變陽,又為仰盂。坎水下流,初變為屯。屯者,盈也。有水流盈缶之象。不與五應,而終比於五,有終來有他吉之象。言凡比之初,貴乎有信,則可以無咎。若誠信之心既充,則在我無他向之心。不但無咎,終且有他吉之來也。時解就人臣始仕者言,亦不必拘。凡事君交友有所資於人,皆從其占也。
取象に就いて言えば、下卦の坤は土で、「缶」はまさに泥土を焼成した器皿。初六は陰より陽に変じ、卦画の上はまた一只の仰口の盆盂に象る。上卦の坎は水で、水性は下に流る。初爻一たび変ずれば全卦は《屯》を成し、「屯」は盈満の義あり。ゆえに水の流注して瓦缶に灌満する象あり。初六は本は九四と相応じて九五と相応ぜざるも、終に九五に帰附す。ゆえに「終来有他吉」の象あり。これは言う――およそ親附の初は、最も要緊は誠信あること。誠信あれば便ち過咎なきを得べし。もし誠信の心すでに充盈すれば、自己心裏もまた別に向往あらざるなり。過咎なきのみならず、最終にまた分外の吉慶の到来あり。当時の経を解する者はこの一爻を専ら臣子の初次出仕に指して講ずるも、実は拘泥する要はない。およそ君主に事奉し朋友を結交して人に求むる所有る者は、皆この一爻に照らして占断すべし。
象曰:比之初六,有他吉也。言他吉,即於其初而信之,不待其終而見之也。六二:比之自內,貞吉。內外卦之分始見於此。以二應五,故曰比之自內。謂之自內,則涵養有素。道可格君,學可匡時。非以名求,以偽應者也。柔順而中正,故曰貞吉。
《象伝》にいう。比卦の初六は、意外の吉慶あり。「他吉」と言うは、親附の初に於いてすでに人に取信し、最後を待って乃ち効験を見るを須とせざるを指す。六二の爻辞:内卦より九五に親附す。正を守って吉。内卦と外卦の分別は、この一爻に到ってこそ初めて顕出す。六二は内卦に居って上に向かって九五に応ず。ゆえに「比之自内」と言う。「自内」と言えば、便ち彼が平日涵養素ありを見る。守る所の道は足りて君主を匡正し、学ぶ所の術は足りて時局を救助す。名聲に倚って進を求め虚偽を以て逢迎する人に非ず。六二は柔順にしてまた中に居って正を得る。ゆえに「貞吉」と断ず。
象曰:比之自內,不自失也。陰柔恐自失其身,得正則不自失矣。已無所失,然後可以比人也。六三:比之匪人。六陰柔而居三,不中不正。承四乘二應上皆陰,所比皆非其人,不言凶而凶可知矣。
《象伝》にいう。内卦より親附するは、自己を失わざるなり。陰柔の才は最も自身の操守を失うを怕る。能く正を守れば便ち自失せず。自己まず失う所なくして後に、こそ他人に親附せんとするを談じ得る。六三の爻辞:親附する所は親附すべき人に非ず。六三は陰柔の質を以て第三位に居り、中に居らず、また陰を以て陽位に居って正ならず。それは上に六四を承け下に六二に乘り上に上六に応ず――三面皆陰爻で、親附する所は皆合適の対象に非ず。爻辞は明らかに「凶」と言わざると雖も、凶はすでに想うべく知らる。
象曰:比之匪人,不亦傷乎。比以求安也。上無首而三應之,所以傷也。承乘應皆陰。所應非人,尤重所應,如所事非人。所承所乘,如居之有鄰,學之有友,仕之有同寮皆是也。二、四皆吉,然皆陰爻,故統謂之匪人。
《象伝》にいう。親附すべからざる人に親附すれば、あに傷害を受けざらんや。人の親附せんとする所以は、本は安を求めんがため。今上六は「比之无首」、六三は偏えに往きてそれに応ず。ゆえに傷を受く。六三の承く所・乘る所・応ずる所は全て陰爻。その中に「応」が最も要緊で、事奉する所の人の不当に相当す。承く所・乘る所に至っては、則ち家に居れば鄰里あり、学を求むれば朋友あり、官を為れば同僚ありの類のごとし。六二・六四は本身皆吉を得るも、畢竟皆陰爻。ゆえにここは一併に「匪人」と称す。
六四:外比之,貞吉。以柔居柔,外比九五為得其正,吉之道也。初不係四而比五曰他。四不係初而比五曰外。二曰自內,有以心許國之意。四曰外比,有公爾忘私之意。陰柔近君近於媚,故皆戒以貞吉。
六四の爻辞:外に向かって九五に親附す。正を守って吉。六四は陰柔の質を以て陰位に居り、位を得て正し、上に向かって九五に親附す――正に道に合する吉利の路子。初六は正応の六四に牽繋せずして九五に親附に往き、爻辞は「他吉」と称す。六四は正応の初六に牽繋せずして九五に親附に往き、爻辞は「外比」と称す。六二は「自内」と言い、真心を以て国に許すの意味を含む。六四は「外比」と言い、公のために私を忘るるの意味を含む。陰柔の爻は君位に緊隣し、諂媚に流る易し。ゆえに両爻とも「貞吉」を以て告誡し、それらをして正道を守住せしむ。
象曰:外比於賢,以從上也。五以剛明中正之賢,又居君位。四外比之,豈徒以其賢哉。正以上下之分,有所必從,無所逃也。
《象伝》にいう。外に向かって賢者に親附するは、上位に在る人に順従するなり。九五は剛健明断・中正の賢者で、また君位に居る。六四が外に向かって彼に親附するは、あにただ彼が賢明なるがゆえのみならんや。さらに上下の名分がそこに擺されて、必ず服従すべく逃るる処なきによる。ここに「以従上」の三字を点出するは、まさに《比》卦の立義が私交に在らずして君臣の分際に在るを説明する。
九五:顯比。王用三驅,失前禽。邑人不誡,吉。五以一陽居尊,為眾陰所附,陽明光顯,有顯比之象。比為師之反。陽在上而統眾,有王用三驅之象。四陰皆順乎五。獨上背之,而五無容心,有失前禽之象。坤為土為邑為眾。五下四陰皆比,聽上之背去,邑人不誡之象。三驅宜從舊解,三度逐禽而射之也。
九五の爻辞:光明正大に天下に親附す。君王は田獵に「三駆」の礼を行い、前面より跑出した禽獣を放走し、自己の封邑裏の人にも戒備を加えず、吉利。九五は一つの陽爻を以て尊位に居り、衆陰の帰附する所と為る。陽徳は光明にして顕赫。ゆえに「顕比」の象あり。《比》卦は《師》卦の反覆の卦。《師》の一陽は下に在って将、《比》の一陽は上に在って君。陽爻は上に在って衆人を統率す。ゆえに「王用三駆」の象あり。四つの陰爻は皆九五に順従し、ただ上六のみ背離す。しかるに九五は並び介意せず。ゆえに「失前禽」の象あり。坤は土・邑・衆。九五の下の四陰は皆来りて親附し、上六の背離して去るを聴憑す――これがすなわち「邑人不誡」の象。「三駆」は旧注の解釈に依るべし。すなわち三度禽獣を駆逐してそれを射る。
失前禽者。古田獵之禮。置旃以為門,刈草以為圍。獵者三面合圍,開其前門。天子自門驅而入,車三發,徒三刺謂之三驅。禽獸由門而出者皆免,惟在圍之中者殺之。圍三面而空其門,所謂天子不合圍,開一面之綱者此也。從門出者為前,故曰失前禽也。王用三驅句,不過言天子之田。失前禽句,中自有三面不合圍之意。若以三驅為三面驅禽以待射,則非矣。
「失前禽」に説到するは、まず古代田獵の礼制を明白にせよ。旗幟を立てて門と為し、雑草を割除して獵場を囲む。獵者は三面合囲して独り前面の一門を敞開す。天子は門より車を駆りて入り、車上の射手は三たび矢を発し歩卒は三たび刺撃す――これを「三駆」と言う。禽獣が門口より跑出するは一概に放過し、ただ囲中に留まるを殺す。三面合囲して一門を空くるは、すなわちいわゆる天子は四面合囲せず網に一面を開く。門口より跑出するを「前」と算す。ゆえに「失前禽」と言う。「王用三駆」の一句は、不過天子の田獵の常礼を講ずるのみ。「失前禽」の一句の裏には、自ずと三面合囲せざる意を含む。もし「三駆」を三面より禽獣を駆赶来たらしめて射るを待つと講ぜば、それは講じ誤れるなり。
邑人不誡者,天子聽其去而不問。既無必得之心,則邑中之人亦無警備之意也。師比之五皆取禽象。然師之田有禽,害物之禽也。在師則執之,王者之義也。比之前禽,遠我之禽也。在比則失之,王者之仁也。然使邑人不喻上意,有唯恐失之之心,則禽無遺類,其仁不廣矣。故失前禽而邑人不誡,乃為吉也。此爻取象極得帝王之用心。蓋王者未嘗不欲萬國皆在綏懷之中,然惟順我撫而親之,其叛去者亦姑舍之。在內者安之,在外聽之。其心光明正大,在下亦相忘其化,王道所以隆也。
「邑人不誡」とは、天子が逃走する禽獣の離去を聴任して追問せざるを言う。上面すでに志在必得の心なければ、邑中の人もまた厳加戒備の念頭なし。《師》卦の六五と《比》卦の九五は皆禽獣を以て象と為すが、《師》卦のいう「田有禽」は庄稼を危害する禽獣を指し、《師》に於いてはそれを擒住する――これは王者の「義」。《比》卦のいう「前禽」は我より遠離して去る禽獣で、《比》に於いてはそれの逃失するに任す――これは王者の「仁」。もし邑人が君上の用意を体会し得ざれば、人人は走脱せんことを恐るる心思を生出し、されば禽獣は一只も剩えず、君王の仁徳は推広し開けない。ゆえに必ず「失前禽」にしてまた「邑人不誡」なればこそ吉利と算す。この一爻の取象は極めて能く帝王の用心を体会す。王者は未だ嘗て万邦の皆己の安撫懐柔の中に在らんことを希望せざることなきも、ただ我に順従するに対し撫育親近を加え、あの叛離して去るも姑く放過す。内に在るにはそれを安んぜしめ、外に在るにはその自便に聴く。君心は光明正大にして、下に在る人もまた知らず知らずの中に教化を受く。王道はここに因って隆盛す。
象曰:顯比之吉,位正中也。舍逆取順,失前禽也。邑人不誡,上使中也。位在正中,心無偏黨,比之所以顯而得吉也。舍逆取順者。古人之獵,喜其向我而縱,惡其背我而殺之,似縱其順而殺其逆。今藉以為喻。但取往者不追,來者不拒之意。故以向我出圍者為逆,以縱之為舍。以背我入圍者為順,以殺之為取。舍逆取去,取其順者。順逆兩忘,德怨不任也。上使中者。王心無取舍,邑人亦無得失。共化於中,若上使之也。
《象伝》にいう。「顕比」の吉たる所以は、九五が位に居ってすでに正にしてまた中なるによる。「舎逆取順」は、正に「失前禽」に対応す。「邑人不誡」は、君上が中道を以て彼らを駆使するなり。九五は位に居って中正、心中に偏私党附なし。ゆえに親附の道は光明顕豁にして吉を獲る。「舎逆取順」に至っては、古人の打獵はあの我が方に向かって跑来るを喜びてそれを放過し、あの我に背いて去るを悪みてそれを射殺す。見れば順者を放過し逆者を殺すがごとし。ここはただこの両字を借りて比喻と為し、「去る者は追わず来る者は拒まず」の意を取る。ゆえに我に朝いて囲場を冲出するを「逆」と算し、それを放し去るを「舎」と言い、我に背いて囲中に留まるを「順」と算し、それを殺すを「取」と言う。いわゆる「舎逆取順」とは、すなわちあの逆なるを舎去して、ただあの順なるを取るのみ。順と逆の両辺とも心に萦れず、恩徳と怨恨も皆身上に担わず。いわゆる「上使中」は、君王の心裏に取舍なければ邑人もまた得失の念なく、上下同じく中道に化せられ、あたかも君上が有意に彼らを駆使するがごとしを言う。
上六:比之無首,凶。按,王注云,乾剛惡首,比吉惡後。五君元首之象,上六居五之後,比之不先,無首之象。即卦所謂後夫凶者也。本義謂陰柔居上,無以比下,為無首之象。蓋以卦畫之序言之,則上為後而初為先。以上下之體言之,則上為首而初為足。其才既不足以高人而為人之首,又不能自卑以後人而失其首。二意亦相貫也。乾以純剛盡變為柔曰無首,比以陰居上亦曰無首。而吉凶各異者。乾之無首,剛而能柔,不為首者也,故吉。比之無首,陰柔不足為首者也,故凶。
上六の爻辞:親附するも頭首なし、凶。王弼の注に按じて言えば、《乾》卦は純剛にして先を争い首を為すを忌諱し、《比》卦は吉を以て主と為し人の後に落るを忌諱す。九五は君で元首の象あり。上六は九五の後に居って親附するに足るほど早からざれば、すなわち「无首」の象で、まさに卦辞のいう「後夫凶」。朱熹《本義》は則ちいう。上六は陰柔にして全卦の最上に居り、下面の人に親附する力なし。ゆえに「无首」の象。其の実卦画の先後の次序に按じて言えば、上は後にして初は先。上下の体位に按じて言えば、上は頭にして初は足。上六の才質はすでに衆人より高く出でて人の首領を為すに足らず、また自ら卑下に居り甘んじて人の後に居るを肯んぜない。結果は頭首さえも失掉した。両種の解釈は本は貫通しうる。《乾》卦は純剛にして六爻尽く柔に変じ、「群龍无首」と称す。《比》卦は陰を以て上に居り、また「无首」と称すも、吉凶は截然として相反す。これは《乾》の「无首」は剛にして能く柔・自願にして人の先に居らざるなので吉、《比》の「无首」は陰柔は本は首と為すに足らざるなので凶による。
象曰:比之無首,無所終也。其德不足以為首,則其效不能以有終矣。全卦以一陽統眾陰,有君臨萬邦之象。故五陰皆以比五為義,而不論爻位之相應。五為人所比。貴於顯,顯則正大光明。取內四陰之比,而舍上之後比,不以為嫌。餘五爻皆比人者。惡其後,後則無始無終。故三以應上而傷。初以能比於先而吉。二以中正內比。四以得正外比。故皆有貞吉之占也。卦爻大意,取象於事君交友。而得此卦者,亦隨事以為占,不必泥也。
《象伝》にいう。親附して頭首なければ、好き結末なし。徳行は首領たるに足らざれば、成效は自ずと善終し得ない。全卦は一つの陽爻を以て衆陰を統領し、万邦に君臨する象あり。ゆえに五つの陰爻は皆九五に親附するを以て義を立て、通常の爻位の相応に按じて論ぜない。九五は人に親附せらるる方で、貴ぶべき所は一つの「顕」の字に在り――光明正大。彼は内卦の四陰の帰附を接納し、上六の遅来の親附を舎去するも嫌と為さず。残りの五爻は皆往きて他人に親附する方で、最も忌諱するは落後。落後すれば始あって終なし。ゆえに六三は上に上六に応ずるに因って傷を受け、初六は能く先んじて親附するに因って吉を獲る。六二は中正の徳を以て内より親附し、六四は正を得る身を以て外に向かって親附す。ここに因って皆「貞吉」の占を得る。全卦の爻辞の大意は、君主に事奉し朋友を結交するに於いて象を取る。ただこの卦を占得した人は、なお問う所の事に随って灵活に占断すべし。一例を死守する要はない。
小畜卦
小畜。小畜,乾下巽上。巽一陰伏於二陽之下,故其德為巽為入,其象為木為風。畜,止之也。畜止剛鍵,莫如巽順。乾在上之物,乃居巽下,為巽所畜,故為畜也。然以陰畜陽,能係而不能固。以柔順柔其剛健,非能力止之也。所畜者小之義也。又卦唯六四一陰得位,上下五陽說之,皆為所畜。
《小畜》卦は、下卦が乾・上卦が巽である。巽は一つの陰爻が二つの陽爻の下に伏するので、その卦徳は「巽」すなわち順・入で、その卦象は木・風である。「畜」はすなわち止住すること。剛健の物を止住するに、柔順に比ぶる能く効的の法なし。乾は本来上位に居る物だが、今は巽の下に処して巽に蓄止せらる。ゆえに「畜」と言う。しかし陰を以て陽を止むるは、ただ牽系し得て拘禁して牢固にする能わず。柔順を以てその剛健を軟化するは、強力に倚って阻止するに非ず。ゆえに蓄止する分量は小さい。これが「小畜」の取義である。さらに全卦はただ六四一つの陰爻のみ位に当たって正を得、上下五つの陽爻は皆それに悦服し皆それに蓄止せらる(原文「剛鍵」はすなわち剛健)。
陰小陽大,以小畜大之義也。故為小畜。彖傳不及二體,但言六四畜諸陽,蓋舉其重言之也。小畜次比。按,序卦,比必有所畜,故受之以小畜。物相比附則為畜聚,又相親比則志相畜,小畜所以次比也。全彖內健外巽,二五剛中,其志得行,有可亨之道。然其畜未極,則施亦未行。占者得此,能亨而未可大有所為。此全彖之大旨也。
陰は小・陽は大。これは小なる者を以て大なる者を蓄止するの意。ゆえに卦名を「小畜」という。《彖伝》は上下両体の卦徳を提げず、ただ六四の一陰が衆陽を蓄止するを言う――最も要緊の一点を拈出して講ずる。《小畜》は《比》卦の後に排す。《序卦伝》に拠れば、相亲比すれば必ず蓄聚する所有り。ゆえに《比》卦の後に《小畜》を接ぐ。事物は彼此親附すれば便ち聚集し、人々は互相に親比すれば便ち心志に相約束あり。これが《小畜》が《比》に次ぐ由縁である。全卦に就いて看れば、内卦は剛健・外卦は巽順。九二と九五は皆陽剛を以て中に居り、心志は施行を得――亨通通りうる道あり。ただ蓄止はまだ極点に到らず、恩沢の施行もすなわち未だ展開せず。この卦を占得した人は、亨通し得るも、なお大いに作為すべからず。これが全卦卦辞の大旨。
六爻上三爻巽為畜者也,下三爻受畜者也。初與四為正應,二近初而剛中,故初復自道,而二亦以牽復而吉也。三近四而非正應,故為反目。四以一陰畜眾陽,在憂懼之中,故有孚而血去惕出也。五助四以畜乾,四得五為合志。五合志於四,為以鄰也。至上則畜極而成。然以陰畜陽,聖人憂之,故危詞示戒。此六爻之大略也。
六爻の分工に就いて言えば、上体巽の三爻は蓄止を施行する方、下体乾の三爻は蓄止せらるる方。初九は六四と正応で、九二は初九に緊隣してまた陽剛にして中に居る。ゆえに初九は能く「復自道」し、九二もまた初九に牽連して同返するに因って吉を獲る。九三は六四に緊隣すれど正応に非ず。ゆえに「夫妻反目」あり。六四は一陰を以て衆陽を蓄止し、身は憂懼の中に処す。ゆえに必ず心に誠信を存してこそ「血去惕出」しうる。九五は六四を助けて乾体を蓄止す。六四に於いては九五を得て「上合志」、九五に於いては六四と志を合して「富以其鄰」。上九に至れば、蓄止すでに極まって成を告ぐ。ただ畢竟陰を以て陽を蓄するなので、聖人はこれに憂い、危懼の辞を以て告誡する。これが六爻の大略である。
小畜:亨。密雲不雨,自我西郊。卦以巽陰畜乾陽,爻以一陰畜五陽,皆以小畜大,畜而不固,小畜之義也。以卦德言之,內健外巽。有可為之才。以卦體言之,二五皆以陽剛居中。有得為之勢。其道有可亨也。
《小畜》の卦辞:亨通。濃雲密布するも雨を降らず、雲気は我が西辺の郊野より飄来す。上下両体に就いて言えば、巽の陰柔を以て乾の陽剛を蓄止し、爻画に就いて言えば、一つの陰爻を以て五つの陽爻を蓄止す――皆小なる者を以て大なる者を蓄止するに属し、蓄え得るも蓄え牢固ならず。これがまさに「小畜」の意義。卦徳から看れば、内卦は剛健・外卦は巽順で、作為しうる才具あり。卦体から看れば、九二・九五は皆陽剛を以て中に居り、作為しうる形勢あり。ゆえにその路子は亨通しうると言う。
陰在天上,有云象。雲雖密而陽多,足以制之。又坎為雨。三四五互為離,坎之反也,故為不雨象。互體得兌為西方,有西郊象。四為主。四互成兌在外卦。又為巽風。雲氣雖密,遇巽風。雲自西而東,陰倡而陽不和,不能成雨。故有密雲不雨,自我西郊之象。
取象に就いて言えば、陰気が天上に升るは雲の象。雲は濃密なれど、卦中の陽爻は多く居りてそれを制住するに足る。坎は雨。この卦の三・四・五の三爻は互体して離を成し、離はまさに坎の反象。ゆえに「不雨」の象あり。互体はまた兌を得、兌の位は西方に在るので「西郊」の象あり。六四は全卦の主で、それが参与する互体は兌を成して位置は外卦に在り、外卦は本はまた巽で風。雲気は濃密なれど巽風に遇い、吹かれて西より東へ自ずと往く。陰気は先に倡し陽気はこれと応和せず、終に雨を結成しない。ゆえに「密雲不雨、自我西郊」の象あり。
占者得此,其道可亨,而不能大有所為。或以臣畜君。則臣道雖盛,未能得君以施其澤。或以小人畜君子。則雖受其拘縻,而守道不為所困。或以應事。則大事未有所成,而為小事所阻。不必執一以論也。本義以為文王與紂之事,似亦不必拘。
この卦を占得した人は、路子は亨通しうるも、大いに作為し得ない。もし臣子が君主を蓄止するに用いれば、臣道は興盛すと雖も、まだ君心を取得して恩沢を施展するに至らず。もし小人が君子を蓄止するに用いれば、君子は牽制籠絡を受くると雖も、なお正道を守住して困らるるを免れん。もし事務を応接するに用いれば、大事は一時成り難く、反って小事に阻碍せらる。一死もして一種の説法に執って論断する要はない。朱熹《本義》は「密雲不雨、自我西郊」を文王と紂王の間の事に講ずるが、看ればまた拘泥する要なし。
彖曰:小畜,柔得位而上下應之曰小畜。柔得位,六居四也。上下應,五陽也。卦為一陰,則四為主。故獨言其得位。四得位而不能大有所畜者,陰柔故也。此以卦體釋卦名義也。
《彖伝》にいう。《小畜》は、柔爻が位を得て上下の五陽が皆来りてそれと応和す。ゆえに「小畜」と言う。「柔得位」は、六四が陰爻を以て陰位に居るを指す。「上下応」は、残りの五つの陽爻を指す。全卦にただ一つの陰爻あり、六四は便ち成卦の主。ゆえに《彖伝》は単にそれの位を得るを言う。六四は位を得ると雖も、大いに蓄する能わず。まさにそれの本質は陰柔なるによる。この一句は卦体を以て卦名の義を釈す。
健而巽,剛中而志行,乃亨。剛健果決,則能秉正嫉邪。巽順舒徐,則非用壯用罔。五剛中正,二與合德。君子居中用事,正氣得伸,志可行也,乃亨。乃者,亦難之之詞。陽為陰畜,宜不亨矣。以健巽剛中志行,乃亨也。此以卦德卦體而言,見陽道猶可亨也。
《彖伝》にいう。内は剛健にして外は巽順、陽剛は中に居って心志は行い得――これにこそ亨通す。剛健にして果決なれば、正道を秉持し邪僻を痛恨しうる。巽順にして従容なれば、一味に強を逞し事を行いて忌憚なきに至らず。九五は陽剛中正、九二は彼と徳性相合し、君子は中に居って事を掌り、正気は伸張を得、心志は推行しうる。ゆえに「乃亨」と言う。「乃」の字は「容易ならず」の口気を帯ぶ。陽が陰に蓄止せらるれば、理に照らせば亨通せざるべし。ただ内健外巽・陽剛は中に居って志行するに因って、ここにこそ亨通す。この一節は卦徳と卦体を合わせて講じ、陽剛の道は畢竟なお亨通しうるを説明す。
密雲不雨,尚住也。自我西郊,施未行也。尚往,陽也。指二五兩陽而言。陽升而陰不能固止之,陽以得行為亨也。施未行,陰也。指六四一陰而言。陰不能固諸陽,未能鬱蒸成雨,所施未得行也。
《彖伝》にいう。「密雲不雨」は、陽気がなお上に向かって行くによる。「自我西郊」は、陰の施沢がまだ推行せざるによる(底本「尚住」は《彖伝》の通例に依りて「尚往」と読むべし)。「尚往」が言うは陽で、九二・九五の二つの陽爻を指す。陽気は上升し、陰爻はそれを牢牢と止住し得ない。陽は能く上行するを以て亨通と為す。「施未行」が言うは陰で、六四のこの一つの陰爻を指す。陰は衆陽を固定し得ざれば、すなわち蒸鬱して雨を成さず、その施沢はなお行い開けない。
然曰未行,則非終不行。上九既雨既處,則畜極而雨,陰施亦行矣。蓋上九論一爻之德,則有畜極而施之理。彖論全卦之體,則有密雲不雨之象。夫子彖傳於陽則曰志行,於陰則曰未行,則又扶陽仰陰之微旨也。
ただしすでに「未行」と言うからには、始終行わざるに非ず。上九の爻辞は「既雨既処」と講ず――まさに蓄止が極点に到れば便ち雨を降り起し、陰の施沢もすなわち推行し開ける。これは上九がただ一爻の徳性に就いて立論すれば、蓄極して施すの道理あり。《彖伝》は則ち全卦の卦体に就いて立論す。ゆえに「密雲不雨」の象を呈す。孔子が《彖伝》を作るに、陽に対しては「志行」と言い、陰に対しては「未行」と言う――この裏頭にはまた陽剛を扶助し陰柔を抑退する微意を蔵す。
象曰:風行天上,小畜。君子以懿文德。陰陽和,則畜極而為雨。陽氣盛而畜之不固,則散而為風。雨則澤施。風則號令雖布,所施猶未行。此風行天上,所以為小畜也。本義謂風有氣無質,能畜而不能久。蓋對大畜言之。謂山體剛而風質柔,然不必泥。懿,美也。大畜多識前言往行,所畜者大。道德經論之事也。小畜未能厚積遠施,所畜者小。但美其文德,如文章才藝之末而已。
《象伝》にいう。風が天上を行走する――これが《小畜》。君子はこれに取法して己の文采徳藝を美化する。陰陽が調和して蓄止が極点に至れば化して雨と為る。陽気が太く盛んにして蓄止牢固ならざれば、散開して風と為る。雨を降るは便ち恩沢の施行、風を起すは則ち号令すでに散布せられたるも実恵はまだ実処に落ちない――これが「風行天上」の「小畜」たる所以の道理。朱熹《本義》は風はただ気ありて形質なし、能く蓄止するも持久し得ないと言う。これは《大畜》に対して講ずる――意は《大畜》の上体は艮山で質地剛実、《小畜》の上体は巽風で質地柔虚――この層の分別もまた拘泥する要なし。「懿」は美好。《大畜》は「多識前言往行」を講じ、蓄する所は大なる者で道徳経綸のあの一類の事に属す。《小畜》はまだ厚く積んで遠く施す能わず、蓄する所は小なる者で、ただ己の文徳を美化し得るのみ、不過文章才藝の一類の末節のみ(底本「道徳経論」はすなわち道徳経綸)。
初九:復自道,何其咎。吉。下卦乾體純陽,本在上之物,故自下升上。曰復自道,言由其故道也。本義謂初九居下得正,前遠於陰。雖與四為正應,而能自守以正,不為所畜。故有進復自道之象。今時解皆從之,謂如君子不援小人以進也。
初九の爻辞:己の本来の路に循って返回す、何の過咎あらんや。吉利。下卦の乾体は純陽で、本来上位に居る物。ゆえに下より上に向かって升進するを要す。「復自道」と言うは、すなわちそれが固有の路に沿って行くこと。朱熹《本義》は、初九は最下に居って陽を以て陽に居り位を得て正を守り、前面は陰爻よりなお遠く、六四と正応なれど能く自らその正を守り、六四に蓄止せられない。ゆえに前進して己の道に循って返回する象ありとす。当時の経を解する者は皆この一説に依従し、君子が小人に攀附して上進を求めざるに比す。
然爻義雖取進復,全卦則取畜止。四以一陰畜眾陽,初適與應,自有畜象。但九居初,自處以正,而所應又正。雖為所畜而其進以道,則不受其拘縻。所以為小畜也。此與本義不為所畜意稍異,然於卦義為順。以人事言之,則如孔子之於季桓子。雖為所召而墮其都,亦復自道之義也。如此,則無咎而吉可必矣。象曰:復自道,其義吉也。吉斷以義,不待事後始知也。
ただ爻義は「前進して返る」を取ると雖も、全卦は「蓄止」を取る。六四は一陰を以て衆陽を蓄止し、初九は恰好それと相応ず。本来すでに蓄止せらるる象あり。ただ九は初位に居って自処正を得、応ずる所の六四もまた位に当たって正を得。蓄止せらると雖もその前進は正道に合すれば、それの牽制籠絡を受けない――これにこそ「小畜」を成す。この講法は《本義》「不為所畜」の意と略々出入あるも、全卦の「畜」を取る卦義に於いてさらに順暢。人事を以て比すれば、孔子の季桓子に対するがごとし。季氏の召に応じて出仕すと雖も、機に借りて三都を堕毀する政を推行す――これもまた「復自道」の意。能くこの如くなれば、過咎なくして吉を獲るは断定しうる。《象伝》にいう。本来の路に循って返回すれば、道理の上に於いて言えば吉である。吉凶は道理の上より判斷し、事の弁じ了るを待って乃ち知るを須としない。
九二:牽復吉。王注程傳皆以二五同志為牽復,本義以連初為牽復。今從本義。蓋五與四鄰,主畜者也,不得牽二。下卦三陽,同志上進者也。二漸近陰,似不能復矣。然以剛居中,故能與初九牽連而復。譬則君子同道彙征。亦吉道也。象曰:牽復在中,亦不自失也。初復自道,固不失已。二有剛中之德,亦可同道,不至自失也。
九二の爻辞:牽連せられて一同に返回す、吉利。王弼の注と程頤《程伝》はともに「牽復」を九二と九五の志同じくして相牽くと講じ、朱熹《本義》は則ち九二が初九に牽連して同返すると講ず。ここは《本義》に依従す。九五は六四と相隣し本は蓄止を主持する方で、反って九二を牽引する可しからず。しかるに下卦の三つの陽爻こそ志同道合して一斉に上進する。九二は漸く陰爻に挨近し、看れば帰り得ざるがごとし。しかしそれは陽剛を以て中に居るので、初九と牽連して一同に返回しうる。譬えて言えば、君子たちが同道して並進するがごとし。これもまた吉利の路子。《象伝》にいう。牽連して同返して中位に居るも、また自ら失わざるなり。初九の「復自道」は本来自己を失わず。九二は陽剛が中に居る徳性ありて、能くそれと道を同じくし自失に至らない。
九三:輿說輻,夫妻反目。按,來注,乾錯坤,有輿象。今按,坤為輿,取其能載。然乾亦可為輿,取其健行。如震為龍,乾亦為龍。不必從錯卦取象也。輻,車所以利輪之轉也。輻無脫理,必輪破轂裂而後可脫。
九三の爻辞:車は輻条を脱落し、夫妻は眼を翻して相視る。来知徳の注に按じて、乾の錯卦は坤で坤は輿。ここに因って車輿の象あり。今按ずるに、坤が輿たるはそれが能く承載するを取る。しかし乾もまた輿たりうる――それが健行して息まざるを取る。震が龍たる、乾もまた龍たりうるがごとし。必ずしも錯卦の上より象を取るを須としない。「輻」は車輪の上に輪を転動して霊便ならしむる輻条。輻条に自ら脱落する道理なし。必ず輪子が破れ車轂が裂けてこそ脱落せん。
三與四本非正應也,志從上進而迫近於陰。見制於四,為陰所畜,不能自進。互四得兌為毀折,有輿脫輻之象。以陽遇陰,受其畜而不能平。乾為夫。巽長女為妻。有夫妻象。互四兌又為口舌。互四五得離為目。有夫妻不和,反轉其目,不相對視之象。重剛非正,故不能如初之自道。不中,故不能如二之牽復。象曰:夫妻反目,不能正室也。夫不能正其室家,由自處不以道也。三剛而不中,四為卦主,自制於四。
九三と六四は本来正応に非ず。それは一心に上に向かって前進せんと欲すれど、陰爻に緊逼して六四に制せられ陰に蓄せられ、自ら前進し得ない。九三の参与する互体は兌を得、兌は毀折。ゆえに車輿が輻条を脱落する象あり。陽爻を以て陰爻に碰い、それに蓄止せられて心中平ならず。乾は夫、巽は長女で妻――ゆえに夫妻の象あり。互体の兌はまた口舌、三・四・五の互体は離を得て目――ここに夫妻不和にして眼を翻して互いに正視せざる象あり。九三は陽を以て陽に居り重剛にして正ならず。ゆえに初九のごとく「復自道」する能わず。また中位に居らないので、九二のごとく「牽復」する能わず。《象伝》にいう。夫妻反目とは、丈夫が能く己の家室を整粛し得ざるなり。丈夫が家室を管し得ざるは、自ら身を立てるに正道に合せざるに由る。九三は剛にして中ならず、六四はまた全卦の主。ゆえに反って六四に制せらる。
六四:有孚,血去惕出,無咎。外卦主為畜者,四又畜之主也。以一陰畜眾陽,本有傷害憂懼。以其柔順得正,虛中巽體,而五上二陽助之,有有孚之象。坎為血,又為加憂。四互三五為離。離,坎之反,有血去惕出之象。血去,身可無傷。惕出,心可無憂。得以無咎矣。占者必誠信感人,乃可遠害。若不然,則凶咎也。象曰:有孚惕出,上合志也。上合志,謂二陽與四同心畜乾也。
六四の爻辞:心に誠信を存すれば、血光の傷害は消去し恐懼の心情は解脱し、過咎なし。外卦は本は蓄止を主持する方で、六四はまた蓄止の主爻。一つの陰爻を以て衆陽を蓄止するは、本は傷害を受け憂懼を生ずるを免れない。ただそれが柔順にして位に当たって正を得、中虚にして巽体に属し、また九五・上九の両陽爻が旁より相助けるに因る。ゆえに「有孚」の象あり。坎は血でまた憂慮を主る。六四は三・五と互体して離を成し、離は坎の反象。ゆえに血光消去し憂懼解脱する象あり。血去れば身体は傷を受けず、惕出れば心裏は憂慮なし――これに過咎なきを得る。この爻を占得した人は、必ず誠信を以て人を感動してこそ禍害に遠離しうる。もしこの如く能わざれば、凶咎あらん。《象伝》にいう。心に誠信を存して恐懼解脱するは、上の陽爻がそれと心志相合するなり。いわゆる「上合志」は、九五・上九の両陽が六四と同心協力して乾体を蓄止するを言う。
九五:有孚攣如,富以其鄰。五上同為巽體,與四合志畜乾者也。而九五居中處尊,勢能有為以兼乎上下。四中虛,五中實,皆言有孚。中虛者,信之本。中實者,信之質也。攣與牽,皆有相連之義。二連初以上進,有牽引之象。五合四上以畜乾,非攣固不可。然唯五居尊,能使之攣如也。上比上,下比四,有鄰象。
九五の爻辞:心に誠信を存して牽系相連し、己の富有を以て鄰居を帯動す。九五と上九は同じく巽体に属し、皆六四と志を合して共同に乾体を蓄止す。しかるに九五は中に居って尊に処し、形勢の上に於いて作為しうるべく上下を兼顧しうる。六四は爻画の中虚、九五は爻画の中実。両爻とも「有孚」を講ず――中虚は誠信の本原、中実は誠信の実質。「攣」と「牽」は皆相連の意あり。九二が初九に牽連して上に向かって進むは牽引の象。九五が六四と上九を聯合して乾体を蓄止するは、彼らを緊緊と繋住せざるべからざるに非ず。ただ九五のみが身に尊位を居って、衆爻をして牽連して一のごとくならしめうる。九五は上に上九に鄰し下に六四に鄰す。ゆえに「鄰」の象あり。
四陰虛乏而五陽實,又巽為利市三倍,有富象。推其富以助六四而畜之,是為以其鄰之象。以陰畜陽,雖能有所畜,終非聖人之所與也。故初二皆有吉占,而四五則否。象曰:有孚攣如,不獨富也。言助四以畜乾也。
六四は陰爻で中虚にして空乏。九五は陽爻で中実にして充盈し、加えて巽に「利市三倍」の象あり。ゆえに九五に「富」の象あり。己の富有を鄰爻に推及して六四を助けて乾体を蓄止す――これが「以其鄰」の象。ただ陰を以て陽を蓄するは、蓄え得ると雖も終究聖人の称許する所に非ず。ゆえに初九・九二は皆吉占ありて、六四・九五は皆なし。《象伝》にいう。心に誠信を存して牽系相連するは、独りその富を享有せざるなり。これは九五が力量を六四に分与して一同に乾体を蓄止するを言う。
上九:既雨既處,尚德載。婦貞厲,月幾望。君子征凶。上九變巽為坎,為雨為月之象。畜極而成,陰陽和矣。不雨者既雨矣。尚往者既處矣。尚,尊之也。載,積而滿載也。猶詩言厥聲載路也。陰不盛不能畜陽。今既雨既處,由於尊尚陰德至於積滿而然也。婦德如此,雖正亦厲。蓋陰盛抗陽,如月之將望。君子不可以有行矣。婦雖貞亦厲,戒陰不得加陽。君子有征必凶,戒陽不可失道,以受制於陰也。
上九の爻辞:雨はすでに降り気はすでに安定した。これは陰徳を推崇して満盈に積んだ結果である。婦人はたとえ正を守るも危険あり、月はまさに円満せんとす。君子はこの時出行すれば必ず凶。上九一たび変ずれば巽は坎と成り、坎は雨・月。ゆえに雨と月の象あり。蓄止極点に到って成を告げ、陰陽は調和した。本は雨を降らざるが今は雨を降り起し、本は一直に上行したが今は止まって安処す。「尚」は推崇、「載」は積んで満々たる――《詩経》のいう「厥声載路」の「載」のごとし。陰気は盛ならざれば陽気を蓄止し得ない。今すでに雨を降りまた安処するは、正に陰徳を推崇して直ちに満盈に積んだに由る。婦人の徳行がこの地歩に到れば、たとえ正を守るも危険あり。陰が盛んにして陽と抗衡するがゆえに、あたかも月のまさに円満せんとするがごとし。君子はこの時便ち行動する所有るべからず。「婦雖貞亦厲」と言うは、陰が陽に凌駕するを許さざるを告誡し、「君子有征必凶」と言うは、陽が正道を失って反って陰に受制するべからざるを告誡する。
象曰:既雨既處,德積載也。君子征凶,也有所疑也。由積載而雨處,則陰之積當防其漸矣。巽為畜者,必有孚而後可畜。而乾上進者,必有疑而後免凶。蓋陰疑於陽必戰,有凶象。有所疑而豫制之,或可免於凶也。陽為君子。上與三應。上畜已極,三進不已。至於反目,所謂征凶也。
《象伝》にいう。雨が降り気が定まったは、陰徳の積満の由縁。君子の出行に凶あるは、疑忌する所有るによる(底本は「也有所疑也」と作すが一つの「也」の字を衍す)。積満に由って降雨安処に致るを由れば、陰気の累積は苗頭の上に於いて防備を加うべきを見る。巽体が蓄止者を為すは、必ず先に誠信あってこそ蓄え住し得。乾体の上進せんとするは、必ず先に疑慮を存してこそ凶を免れ得。陰気と陽が相持して互疑の地歩に至れば必ず交戦す。ゆえに凶象あり。先に戒心を存して預め提防を作れば、或いは凶を免れうる。陽は君子を代表し、上九は九三と相応ず。上九は蓄止すでに極点に到り、九三はなお進取して止まず、「夫妻反目」に至る――これがいわゆる「征凶」である。
全卦為小畜,其象不雨,故陽道可亨。上爻變為需,則云上於天而雨。則向之尚往者,至此而征凶矣。易之大旨扶陽抑陰,而此卦最重此意。乾受畜者,以尚往而不受所畜為善。故初得正應。而二以剛中。皆得吉占。獨三以不中而非正應,為反目。巽為畜者,以合志同力為善。然主畜者有防患之危,而僅免於咎。以鄰者有攣如之固,而未得吉占。
整个《小畜》卦は、取象は「不雨」なので陽剛の道はなお亨通しうる。上九一爻変ずれば全卦は《需》を成し、《需》の象は「雲上于天」にして終に雨を降す。されば先前一直に上行した陽は、ここに到って「征凶」せんとす。《周易》の大旨は陽剛を扶助し陰柔を抑退するに在り、この一卦は最もこの意を重んず。乾体は蓄止せらるる方で、能く上行を継続して蓄止を受けざるを以て好しと為す。ゆえに初九は正応ありて正を守り、九二は陽剛を以て中に居り、皆吉占を得る。ただ九三のみ中に居らずまた正応に非ず、「反目」に落つ。巽体は蓄止を施行する方で、志を合し力を同じくするを以て好しと為す。しかし蓄止を主持する六四は患を防ぐの危懼ありて、僅かに過咎を免るるのみ。富有を以て鄰爻を帯動する九五は、牽系穏固の効ありと雖も、また終に吉占を得ず。
至於畜極而成,猶云雖正亦厲。雖戒君子之徵,實畏陰德之盛也。占者得此,當各從其類以為占。大抵陽為君子為夫為大事為善,陰為臣為小人為妾婦為小事為惡。又論我之所處。主於畜人或受人所畜,隨事以求其吉凶,不可執一以論也。
上九の蓄止すでに極まって成を告げるに至っては、爻辞はなお「婦貞厲」と言う――たとえ正を守るも危険ありと。表面上は君子に行動する勿れを告誡し、実際上は陰徳の太く盛んなるを怕れる。この卦を占得した人は、己の属する一類に按じて占断すべし。大抵を言えば、陽は君子・丈夫・大事・善を代表し、陰は臣下・小人・妾婦・小事・悪を代表す。同時にまた己の処する位置を看て、自ら動いて他人を蓄止するか、あるいは他人に蓄止せらるるか。問う所の事に随ってその吉凶を求め、一種の説法を以て死に套す可からず。
又按,來注以五上二爻不宜作同力畜乾,宜作與陽同德。引陽尚往。蓋謂陽為君子,陰為小人。五上不宜佐小人以防君子。又以彖有剛中志行為陽之亨,故以德積載為載三陽俱上也。不知陽雖可亨而卦本取於畜,原不必拘君子小人之解。即以君子小人論之。小人之畜君子,非盡害之也,正欲引用之耳。如季桓子之於孔子,蔡京之於楊龜山。乃可為小畜,蓋牢籠羈縻之而已。君子雖為所引,不受其牢籠。故陽德猶可往,所以為小畜。
再按:来知徳の注は九五・上九の両爻を六四と同力して乾体を蓄止すると講ずべからずと見なし、陽と徳を同じくして陽爻を引導して継続して上行せしむと講ずべしとす。その理由は、陽は君子・陰は小人で、九五・上九は小人を助けて君子を防範するを当にせざるべし。また《彖伝》に「剛中而志行」ありて陽の亨通を講ずるゆえ、「徳積載」を三つの陽爻を載せて一斉に上行すると解す。これは看抜かざるなり――陽は亨通しうると雖も、この一卦は本は「蓄止」に義を取り、原は君子小人の分別に拘泥する要なし。たとえ君子小人に按じて論ずるも、小人が君子を蓄止するも、並び全て彼を害さんと欲するに非ず。往往にしてまさに彼を引出して己の為に用うるを欲す。季桓子の孔子に対する、蔡京の楊時に対するがごとく、こそ「小畜」と称しうる。不過彼を牢籠羈絆するのみ。君子は引用せらると雖も、彼の牢籠を受けない。ゆえに陽徳は依然として上行しうる――これをこそ「小畜」と言う。
彖就全卦言之,故以五為剛中志行。若單就五一爻而言,自宜主畜乾之說。蓋五變則為大畜。君子不家食,引正小人引用君子之時也。若上變為需,則畜極而陰已盛矣。故戒君子之往,非能載三陽以上也。
《彖伝》は全卦に就いて立論す。ゆえに九五を「剛中而志行」と説く。もし単に九五のこの一爻に就いて立論すれば、自ずとなお「乾体を蓄止を主持する」の講法を以て是と為すべし。九五一たび変ずれば全卦は《大畜》を成し、《大畜》は「不家食吉」を講じ、君子は出仕して禄を受く――まさに小人が君子を引用する時。上九一たび変じて《需》を成すに至っては、それは蓄止が極点に到り陰気すでに盛んの局面。ゆえに爻辞は君子に往くべからずを告誡するのであって、上九が能く三つの陽爻を載せて一同に上行すると言うに非ず。
履卦
履。履卦,下兌上乾。兌一陰見於二陽之上,其德為說,其象為澤。天在上而澤居下。上下之分,尊卑之義,理之常也,禮之本也,常履之道也。又內和悅而外尊嚴,禮之象也,故為履。履卦次小畜。按序卦,物畜然後有禮,故受之以履。物既畜聚,則有大小之別,高下之等,美惡之差,而禮起,履所以次小畜也。
《履》卦は、下卦が兌・上卦が乾である。兌は一つの陰爻が二つの陽爻の上に顕現する。その卦徳は「説」すなわち和悦、卦象は沢である。天は上に在り沢は下に在る――上下の名分・尊卑の道理は、本来天然の常理にして礼の根本、人の日常に践行する道である。さらに内は和悦にして外は尊厳――まさに礼の形象。ゆえに卦名を「履」という。《履》は《小畜》の後に排す。《序卦伝》に拠れば、万物は蓄聚して後に礼あり。ゆえに《小畜》の後に《履》を接ぐ。事物すでに蓄聚すれば、大小の別・高下の等・美悪の差あり、礼は便ちここに由って生ず。これが《履》が《小畜》に次ぐ由縁である。
人之所履,和悅卑遜。斯為有禮。全彖以和柔躡剛強之後,處危而不見傷。九五陽剛居尊,所履中正。其道光明,有亨之象。在上陽剛中正,在下和柔卑順,禮也。人之所履當如是也。此全彖之大旨也。又禮主謙柔。陽爻處陰位,謙也。故六爻以剛履柔者吉,以柔履剛者凶,以剛履剛者厲。初言往,上言旋,一進一反,有踐履之義。
人の践行する所は、和悦にして謙卑たるを要し――これをこそ礼ありと言う。全卦の卦辞に就いて看れば、和柔を以て剛強の後に跟い、危地に処するも傷害を受けず。九五は陽剛にして尊位に居り、行う所は中正、その道は光明。ゆえに亨通の象あり。上に在るは陽剛中正、下に在るは和柔卑順――これがすなわち礼。人の践行するはまさにこの如くあるべし。これが全卦卦辞の大旨。さらに礼は謙柔を以て主と為し、陽爻が陰位に処すればすなわち謙。ゆえに六爻に一つの通例あり――陽剛を以て柔位に居るは吉、陰柔を以て剛位に居るは凶、陽剛を以て剛位に居るは危。初九は「往」を講じ、上九は「旋」を講ず。一往一返、まさに「践履」の意に合す。
初陽履剛,以在下而無咎。九二之幽人,九四之愬愬,上九之考祥,皆以剛履柔。能行而不輕於行,所以吉也。六三之跛履,以柔履剛。不能行而強於行,所以凶也。九五之夬履,能行而決於行,所以厲也。此六爻之大略也。
初九は陽爻を以て陽位に居り、剛を以て剛を履む。ただ最下に処して人と争わざるに因って、過咎なし。九二の「幽人」・九四の「愬愬」・上九の「考祥」は、皆陽剛を以て陰位に居る――本は行動する能力ありて軽率に行動せざる。ゆえに吉利。六三の「跛能履」は、陰柔を以て陽位に居る――本は行動する能力なくして硬に行動せんと欲す。ゆえに凶険。九五の「夬履」は、行動する能力ありてまた決断に過ぐ。ゆえに危厲あり。これが六爻の大略である。
履虎尾,不咥人,亨。程傳以履為承藉之義。謂乾上而兌下,乾乘兌而兌承之也。本義以履為躡後之義。謂乾前而兌後,剛在前而兌以柔和踵其後也。今按,虎尾字則躡之意為是。
卦辞:老虎の尾を踩むも、老虎は人を咬まず、亨通。程頤《程伝》は「履」を承藉と講じ、すなわち下面に於いて承載す――乾は上・兌は下、乾は兌の上に乘りて兌はそれを承載す。朱熹《本義》は「履」を躡後と講じ、すなわち後に跟って踩む――乾は前・兌は後、剛強の者は前頭を走り、兌は柔和を以てその後に緊跟す。今按ずるに、すでに爻辞が「虎尾」の二字を用うれば、なお「躡後」の講法を以て是と為すべし。
乾剛強有虎象。兌以和躡之,有履虎尾不見傷之象。人之入世,多近危機。不為所傷,乃見所履以柔應剛。謙以自處,其道自亨。惟禮可以免禍也。按,來注以兌錯艮為虎象,遂以履作踐履之履。不知震為龍,乾亦為龍,取其陽也。艮為虎,乾亦為虎,取其剛也。若必作踐履,於彖傳履剛句不通矣。
乾は剛強なので虎の象あり。兌は和悦を以てその後に跟うので、虎尾を踩んで傷害を受けざる象あり。人が世間を行歩するは、常常危険に挨近す。能く傷害を受けざるは、まさにその行う所が柔を以て剛に応ずるを見る――謙遜に自処すれば路子は自ずと亨通す。ただ礼のみが人をして禍患を免れしめうる。按:来知徳の注は兌の錯卦艮を以て虎象と為し、ここに於いて「履」を践踏の「履」と講ず。彼は思い至らざるなり――震は龍、乾もまた龍たりうる、その陽を取る。艮は虎、乾もまた虎たりうる、その剛を取る。もし必ず践踏と講ぜば、されば《彖伝》「柔履剛也」の一句は便ち講じ通ぜざるなり。
彖曰:履,柔履剛也。以柔弱躡剛強之後,此以二體釋卦名義也。說而應乎乾,是以履虎尾,不咥人,亨。此以卦德釋彖辭也。以兌說應乎乾剛,則和而不激,順而不拂,可以亨矣。
《彖伝》にいう。《履》とは、柔が剛の後に跟って踩むこと。柔弱を以て剛強の後に躡る――これは上下二体を以て卦名の義を釈す。《彖伝》またいう。和悦を以て乾に応合すれば、ゆえに虎尾を踩んで虎は人を咬まず、亨通。これは卦徳を以て卦辞を釈す。兌の和悦を以て乾の剛健に応合すれば、能く温和にして激切せず、順従にして違逆せず。ここに因って亨通しうる。
剛中正,履帝位而不疚,光明也。上文釋彖已畢,此又專就九五一爻推廣其義。二三四互為離,有光明象。以剛居尊位而得正,所履之無咎者也。德盛輝光,功業顯著,豈不亨乎。此又發彖辭言外之意。
《彖伝》は続けていう。陽剛中正、帝王の位に踏みて心に愧なし、光明磊落たり。上面は卦辞を釈するをすでに了畢し、ここはまた専ら九五の一爻に就いてその義を推広す。二・三・四は互体して離を成し、離は火・日。ゆえに光明の象あり。九五は陽剛を以て尊位に居ってまた位に当たって正を得、行う所は過咎なし。徳行は盛大にして光輝は外に発し、功業は顕赫。どうして亨通せざるを得んや。この一句はまた卦辞の言外の意を発揮した。
象曰:上天下澤,履。君子以辨上下,定民志。立卦之義取乎踐履。人之所履禮而已矣。禮者,所以辨上下,定民志。古人位必稱德,終身居之,得其分而志安焉。位或未稱,則君進之。士修其學,學至而君求之,已無所慕也。農工商賈各勤其業,所享亦有定限,無所貪也。此上下之志定,而天下之治定也。後世位不稱德,則上下不辨。不辨則公卿妄意尊榮,士庶僥倖求利。分不明則志不定,治所以難也。此君子觀履之象而分別上下,使各當其分以定民志也。
《象伝》にいう。上面は天・下面は沢――これが《履》。君子はこれに取法して上下の名分を分辨し、百姓の心志を安定する。この一卦の立つる意義は「践履」に取る。しかるに人の践行するは不過礼のみ。礼はまさに上下を分辨し民志を安定するに用うる。古は官位は必ず徳行と相称し、終身その位に居り、各々本分を得て心志安定す。万一位が徳に称せざれば、君主は便ち彼を提拔す。士人は学問を修習し、学問は家に到れば、君主は自ずと来りて延請す。自己に羨慕すべきものなし。農・工・商は各々本業に勤しみ、享用もまた一定の限度あり、貪求すべきものなし。上下の心志安定せば、天下の治理もまた安定す。後世は官位と徳行と相称せざれば、上下の名分は便ち分辨する由なし。名分辨せざれば、公卿はさらに高き尊栄を妄想し、士人百姓は僥幸に利を求む。名分明ならざれば心志定まらず。天下の治め難き所以は、原因まさにここに在り。ゆえに君子は《履》卦の象を観察し、上下の等次を分別して人人をして各々本分に安んぜしめ、ここに由って民志を安定す。
初九:素履往,無咎。初九以陽在下,居履之初。未為物遷,率其素履以往。所謂素位而行。可無咎也。六爻皆以陽居陰為善。初雖陽位而在下,在下能安其素,不變所守,雖未得吉,咎可無矣。象曰:素履之往,獨行願也。初無應故曰獨。獨行其志願,不為紛華所奪。即所謂不願乎其外也。民有志,必辨分而始定。士有願,則能獨行其素矣。
初九の爻辞:本来の素朴の行を以て前往す、過咎なし。初九は陽爻を以て最下に居り、践履の始に処し、まだ外物に改変せられず、平素の操守に順って前行す――すなわち《中庸》にいう「素其位而行」。過咎なきを得べし。この卦の六爻は陽を以て陰位に居るを以て好しと為すが、初九は陽爻が陽位に居ると雖も、最下に処す。下に処して能く素朴に安んじ所守を改変せざれば、吉とはなお談ずるに足らざると雖も、過咎は總に免れ得べし。《象伝》にいう。素履して往くは、独り己の心願を践行するなり。初九は正応なし。ゆえに「独」と言う。独り志愿を践行して繁華に奪われざるは、すなわち《中庸》「不願乎其外」の意。百姓は心志ありて、必ず先に名分を分辨してこそ安定しうる。士人は志愿あれば、便ち独りその素朴の行を践行しうる。
九二:履道坦坦,幽人貞吉。二變震為大塗,履道坦坦之象。剛中在下,無應於上,幽獨守貞之象。人之所履,未有不合道而吉者。以剛居中,道也。剛而居柔,坦也。在下無應,幽也。坦則平易而無險阻,幽則恬靜而不炫耀。又幽獨之人,多賢者之過,坦坦則不索隱行怪以驚世駭俗,宜其貞吉矣。
九二の爻辞:走る所の路は平坦寛闊、幽居の人は正を守って吉。九二一たび変ずれば下卦は震を成し、震は大道。ゆえに「履道坦坦」の象あり。それは陽剛にして中に居って下卦に処し、上面に相応の爻なし。ゆえに幽居独处して正固を守持する象あり。人の行事は道に合せざるにして吉たりうるなし。陽剛を以て中位に居るはこれ「道」。陽剛にして柔位に居るはこれ「坦」。下に在って応なきはこれ「幽」。坦なれば平易にして険阻なし。幽なれば恬静にして炫耀せず。さらに幽居独处の人は往往にして賢者の過頭の毛病を犯す。しかるに「坦坦」はまさに彼が隠僻を探索し行為怪異にして世を驚かし俗を駭かさざるを表示す。ゆえに「貞吉」と断ずるは恰当なり。
以陽居陰,不得言正。而曰貞吉者,戒辭。恐其幽靜難久,剛化為柔,故戒以惟貞吉也。此卦二五皆剛中,二貞吉而五貞厲者。二以剛居柔,五以剛居剛也。以剛居柔,所履謙下,禮之本也。故六爻唯九二盡履之道。象曰:幽人貞吉,中不自亂也。二有中德,在幽而貞,外物不得而亂之也。
九二は陽爻を以て陰位に居る。本来「正」と言うべからざるも、爻辞はなお「貞吉」と言う。あれは告誡の辞――それが幽静にして持久し難く、剛強が漸く柔靡に化するを怕れ、ゆえにただ正を守ってこそ吉と告誡す。この卦の九二・九五は皆陽剛にして中に居るも、九二は「貞吉」を得て九五は卻て「貞厲」。分別はすなわち九二が陽剛を以て柔位に居り、九五が陽剛を以て剛位に居るに在る。剛を以て柔に居れば行う所は謙卑退譲――まさに礼の根本。ゆえに六爻の中にただ九二のみが最も能く践履の道を窮尽す。《象伝》にいう。幽人が正を守って吉は、心中に主ありて自ら乱らざるなり。九二は中に居る徳ありて、身は幽隠に処して能く正を守れば、外物は彼を擾乱し得ない。
六三:眇能視,跛能履。履虎尾,咥人凶。武人為于大君。視不正曰眇。行不中曰跛。六三互二四為離有目象。互四五為巽有股象。兌為毀折,有眇跛之象。逼近於乾,有履虎尾之象。獨與上應,履其尾而首應之,有咥人象。
六三の爻辞:一只眼の人は自ら能く看ると為し、瘸腿の人は自ら能く走ると為す。虎尾を踩んで虎に咬傷せらる、凶。武人は大君の事を僭行す。看るに端正ならざるを「眇」と言い、走るに端正ならざるを「跛」と言う。六三は二・四と互体して離を成し、離は目。ゆえに眼睛の象あり。四・五と互体して巽を成し、巽は股。ゆえに腿脚の象あり。しかるに兌はまた毀折――ここに独眼・瘸腿の象あり。六三は上体の乾に緊逼す。ゆえに虎尾を踩む象あり。それは単に上九と相応ず。脚は虎尾を踩みて虎頭はまさに回って来てそれに応ず。ゆえに咬まるる象あり。
陽主寬和,陰主肅殺。六三以一陰成卦之主,欲統五陽,又以兌陰變為陽為純乾,有武人為大君之象。六三不中不正,柔而志剛以履乾,必見傷害,故占為凶。又如剛武之人得志肆暴,必不能久也。
陽は寛厚和平を主り、陰は厳酷粛殺を主る。六三は一つの陰爻を以て成卦の主を為すも、五つの陽爻を統率せんと欲す。加えて兌の陰爻もし陽に変ずれば全卦は便ち純乾を成す。ゆえに「武人為于大君」――武夫が君主の事を僭行する象あり。六三は中に居らずまた位に当たらず、本質陰柔にして心志刚狠。硬に往きて乾体を踩まんとすれば、必ず傷害を招致す。ゆえに凶と占断す。これはまたあたかも剛猛の人が一旦志を得れば便ち暴虐を肆行し、必ず長久なり得ざるがごとし。
象曰:眇能視,不足以有明也。跛能履,不足以與行也。咥人之凶,位不當也。武人為于大君,志剛也。自以為能視,明實不足。自以為能履,行實不足。爻柔故不足,位剛故自以為能。不中不正,位之不當。以柔居三,其志務剛。皆凶道也。
《象伝》にいう。独眼は自ら能く看ると為すも、其の実目力は看清るに足らず。瘸腿は自ら能く走ると為すも、其の実脚力は遠行に足らず。虎に咬まるるの凶険は、居位の不当による。武人の君事を僭行するは、心志の剛狠による。自ら能く看ると為すも眼力は実に足らず、自ら能く走ると為すも脚力は実に足らず。爻質は陰柔なので能力は足らず、爻位は陽剛なので自ら能と為す。中に居らずまた位に当たらざればすなわち「位不当」。陰柔を以て第三の陽位に居り、心志は一味に剛を求む。これらは皆凶を招く路子である。
九四:履虎尾,愬愬終吉。愬愬,畏懼之意。九四亦以不中不正履九五之剛。然以剛居柔,故有履危知戒而終得吉之象。全卦以乾為虎,此爻又以五為虎。唯五以剛居剛也。卦彖爻之三言履虎尾,而吉凶不同者。全卦以和說履乾剛之後,故不咥人亨。三以柔居剛,故咥人而凶。四以剛居柔,故畏懼而吉也。二與四皆以剛居柔,而二有坦坦之安,四有之愬愬危者。二得中而四不得中也。
九四の爻辞:虎尾を踩み、戒懼して安からず、最終に吉を得る。「愬愬」は畏懼の様子。九四もまた中に居らず位に当たらざるも、九五の剛強の下を踩む。ただそれは陽剛を以て陰位に居るので、身は危地に処して警戒を知り終に吉を獲る象あり。全卦は乾体を以て虎と為すが、この一爻はまた単に九五を以て虎と為す。ただ九五のみが陽剛を以て陽位に居り剛に剛を加うるによる。卦辞と爻辞の三処に「履虎尾」を講じて吉凶は各々相同じない。全卦は和悦を以て乾剛の後に跟うので「不咥人、亨」。六三は陰柔を以て陽位に居るので咬まれて凶。九四は陽剛を以て陰位に居るので畏懼を知って吉。九二と九四は同じく剛を以て柔に居るも、九二には「坦坦」の安適ありて九四には卻て「愬愬」の危懼あり。分別は九二が中に居りて九四が中に居らざるに在る。
象曰:愬愬終吉,志行也。以剛居柔,謙志得行,所以終吉。志剛者不足與行,愬愬者其志得行,而人可審所履矣。時解以此爻作大臣畏慎,得君行志言。蓋初曰獨行,遠君也。四曰志行,近君也。柔順以事剛決之君,得行其志也。亦是,但不必拘。
《象伝》にいう。戒懼して終に吉を獲るは、心志の推行し得るによる。陽剛を以て柔位に居れば、謙退の志は推行し得。ゆえに終に吉を得る。上文六三の「志剛」の人は彼と同行するに足らざるに対し、ここの「愬愬」の人は反って心志の行い得るなり。人はここに由って自己が如何に身を立て事を行うべきかを審察しうる。当時の経を解する者はこの一爻を大臣が畏懼謹愼にして君主の信任を得て抱負を施行すと講ず。初九が「独行」と言うは君主より遠きに因り、九四が「志行」と言うは君主に近きに因り、柔順を以て剛断の君主に事奉するがゆえに能く己の志向を施行す。このように講ずるも通ずるも、ただ拘執する要はない。
九五:夬履,貞厲。九五以陽剛中正履帝位,而下以兌說應之。凡事必行,無所疑礙,故有夬決其履之象。然在上者純任其剛,在下者一主於悅。君驕臣諂之漸也,故雖貞亦厲。蓋在下者不患其不憂,患其不能樂。故二之履坦曰貞吉,喜之也。在上者不患其不樂。患其不能憂。故五之夬履曰貞厲,戒之也。
九五の爻辞:果決に事を行う。正を守るもなお危厲あり。九五は陽剛中正を以て帝位に踏み、下面にはまた兌の和悦が彼に応じ来る。凡事は弁ずればすなわち弁じ、毫も疑慮阻碍なし。ゆえに決断して行う象あり。しかし上に在るは一味にその剛強を任し、下に在るは一味に取悦を主とす――これはまさに君主の驕縦・臣下の諂媚の開端。ゆえにたとえ正を守るも危厲あり。大抵下位に在る人は、その憂懼せざるを怕れず、ただその安楽し得ざるを怕る。ゆえに九二の「履道坦坦」を「貞吉」と断ずるは彼を嘉許する。上位に在る人は、その安楽せざるを怕れず、ただその憂懼し得ざるを怕る。ゆえに九五の「夬履」を「貞厲」と断ずるは彼を警戒する。
然彖辭剛中正光明,而爻辭則厲,何也。蓋以全卦言。六爻未動,剛中正所以為善。此就九五一爻言之。且變乾為離,自恃其明,愈過於夬決。在本卦上決下說,變又上下成睽,此所以厲也。象曰:夬履貞厲,位正當也。以剛居五,正當尊位,傷於所恃故也。
然らば《彖伝》が九五を「剛中正」「光明」と称するに、爻辞は卻て「厲」と言うは、これは何によるか。《彖伝》は全卦に就いて立論するに由る――六爻の未だ動かざる時、陽剛中正は自然に好し。しかるに爻辞は単に九五の一爻に就いて立論す。況んやこの一爻が一たび変ずれば上体の乾は離を成し、離は明。自らその聡明を恃めば、いよいよ決断に過ぐ。本卦はすでに上は決断にして下は取悦、一たび変ずれば上下は《暌》を成して乖離相背す。これがすなわち危厲の由来。《象伝》にいう。夬履貞厲とは、居位の太く正当なるによる。陽剛を以て第五爻に居り、恰恰尊位に当たる。まさに倚仗する所有るに因って反ってその害を受く。
上九:視履考祥,其旋元吉。履上與小畜上皆不取本爻義。小畜取畜之極,從六四一陰來,以陰盛為凶。履取履之終,合諸爻而觀其始終,故以其旋為元吉。旋謂周旋無虧欠也。吉事有祥。祥非外來,視吾所履,則祥可考。若以此往,此旋皆無虧欠,則得大善之吉矣。
上九の爻辞:己の一生の践履を回看して、その中の征兆を考察す。もし周旋して往き返るとも亏欠なからば、すなわち大いに吉利。《履》卦の上九と《小畜》の上九は、皆本爻自身の義を取らない。《小畜》の上九は蓄止が極点に到るを取り、六四の一陰より生発出来し、陰盛を以て凶と為す。《履》卦の上九は践履が終点に到るを取り、全卦の各爻を合わせてその首尾を観察す。ゆえに「其旋」を以て「元吉」と為す。「旋」は周旋して進退とも亏欠なきこと。吉慶の事は自ずと征兆ありて、しかも征兆は外面より来るに非ず、己の行う所を回看すれば征兆は考知しうる。もしこのように往きこのように返るとも毫も亏欠なからば、大善の吉を得うる。
又按,來注以視履為句,其旋為句。言周旋中規,折旋中矩,則履之盡善者,可以大吉也。意同本義,而解旋字更順。象曰:元吉在上,大有慶也。人心難於有終。元吉在上,是所履至終大善,故福慶亦大也。全卦以履為禮,又取踐履為義。大抵危而能亨,乃見所履之善。剛而居柔,乃獲所履之吉。觀履之吉凶,而處世可悟矣。
また按ずるに、来知徳の注は「視履」を一句に断じ「其旋」を一句に断ず。意は周旋して円規に合し折旋して方矩に合せば、それはすなわち践履の至善で大吉しうる。これは《本義》と意相同じるも、「旋」の字に対する解釈はさらに順暢。《象伝》にいう。大吉は最上の爻に現るは、大きな福慶あるなり。人心は最も難きは始あって終あること。「元吉」が上爻に現るは、まさに践行する所が最後に至るまで尽く善なるを表示す。ゆえに福慶もまた大。全卦は「履」を以て礼と為し、また「践履」を取って義を立つ。大抵を言えば、危境に処して能く亨通してこそ、行う所の善なるを見、陽剛にして柔位に居ってこそ、行う所の吉を獲る。《履》卦六爻の吉凶を看れば、世に処するの道もまた領悟しうるべし。
泰卦
泰。泰卦,乾下坤上。內陽外陰,天地氯交,萬物生成。君子進用,世道方亨。故為泰。泰次於履。按,序卦,履而泰,然後安,故受之以泰。蓋履得其所,乃得安舒,履所以次之以泰也。泰以中為善。故二為輔泰之臣。
《泰》卦は、下卦が乾・上卦が坤である。内裏は陽・外面は陰、天地の二気は交感して万物はここに由って生成す。君子は進用を得、世道はまさに亨通す。ゆえに卦名を「泰」という。《泰》は《履》の後に排す。《序卦伝》に拠れば、践履して当を得て後に通泰し、通泰して後に安寧す。ゆえに《履》の後に《泰》を接ぐ。人は各々その安んずる位を得てこそ舒泰安適しうる。これが《履》の後に《泰》を接ぐ由縁である。《泰》卦は「中」を以て善と為す。ゆえに九二は泰を輔保する臣子である(底本「天地氯交」はすなわち天地気交)。
五為保泰之君。皆得吉占。初為君子進用之始。四則過中欲否之時矣。三為消長之會,猶可有為。上則極盛而衰,不免於吝矣。自有天地人物以來,蒙以教之,需以養之,訟以平之,師以衛之,比以附之,畜以聚之,履以辨之,而後得泰。乃過中而否之幾伏矣。甚矣,致泰之難,保泰之不易。雖曰天數,不可無人事也。
六五は泰運を保守する君主。この両爻は皆吉占を得る。初九は君子が進用を始むる時。六四はすでに中位を過して、まさに否に転ぜんとする時。九三は消長交替の関口に処し、なお作為する所有り。上六は則ちすでに極盛にして衰え、羞吝を免れない。天地人物ありてよりこのかた、《蒙》を以て彼らを教育し、《需》を以て彼らを養育し、《訟》を以て争端を平息し、《師》を以て彼らを保衛し、《比》を以て彼らを親附せしめ、《小畜》を以て彼らを聚集せしめ、《履》を以て上下を分辨し、然る後にこそ《泰》を得る。しかるに一たび中位を過ぐれば、否に転ずる苗頭は便ち潛伏して下る。見れば泰運を招致するの難・泰運を保守するの易ならざるを知るべし。雖もこの裏頭に天数あれど、人事の上の努力は一刻も缺少すべからず。
泰:小往大來,吉亨。泰,通也,天地交而二氣通,故為泰。內卦三陽,正月之卦也。陰小陽大。坤往居外,乾來居內。以綜卦言之,有小往大來之象。占者有陽剛之德,則吉而亨也。蓋坤本在下之物,自下而上故曰往。陽本在上之物,自外而內故曰來。往者去而來者當時用事,故為吉亨。
卦辞:《泰》は、小なるは外に往き大なるは内に来る。吉利亨通。「泰」はすなわち通。天地が交感して陰陽二気は通暢す。ゆえに「泰」と言う。内卦は三つの陽爻で、十二消息卦の中に於いて正月の卦に属す。陰は小・陽は大。坤は上に往きて外卦に居り、乾は下に来りて内卦に居る。綜卦の角度から看れば(《否》を倒転すれば便ち《泰》)、正に「小往大来」の象あり。この卦を占得して自身に陽剛の徳を具備する人は、便ち吉利亨通。坤は本は下に在る物で、今は下より升りて上に往く。ゆえに「往」と言う。陽は本は上に在る物で、今は外より内に入る。ゆえに「来」と言う。往くべきは往き、来るべきはまさに権を当て事を用う。ゆえに吉亨と断ず。
彖曰:小往大來吉亨,則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也。內陽而外陰,內鍵而外順,內君子而外小人。君子道長,小人道消也。天地高卑之形不可交而氣可交,交則萬物化生。君臣上下之分不可交而心可交,交則君臣同德。
《彖伝》にいう。「小往大来、吉亨」とは、すなわち天地が交感して万物通暢し、上下が交感して心志相同じること。内裏は陽・外面は陰、内裏は剛健・外面は柔順、内裏は君子・外面は小人。君子の道は日に漸く生長し、小人の道は日に漸く消退す。天と地は一は高く一は卑く、形体の上に於いては相交る法なく、しかるに二気は相交りうる。一たび交れば万物は化育して生ず。君と臣は一は上・一は下で、名分の上に於いては相混ずべからざるも、心意は相交りうる。一たび交れば君臣は同心同徳(底本「内鍵」はすなわち内健)。
陰陽以氣言,順健以德言。此二句,造化之小往大來也。君子小人以類言。此三句,人事之小往大來也。內外釋往來之義。陰陽、健順、君子小人,釋大小之義。蓋陰陽不能相無者,天地之氣。而欲天下皆君子而無小人者,聖人之心。泰否之機歸宿於君子小人之消長,主持世運者所當知也。然小人必不能盡去。但使君子居中,而制其命。小人在外,不為無措。君子之氣已伸,天下已泰矣。
陰陽は気に就いて言い、順健は徳に就いて言う。「天地交」「上下交」のこの両句が講ずるは造化の上の小往大来。君子小人は類に就いて言い、「内陽外陰」以下の三句が講ずるは人事の上の小往大来。「内」「外」の二字は「往来」の意を釈し、「陰陽」「健順」「君子小人」は「大小」の意を釈す。知るべし、陰と陽は彼此欠く能わず――これは天地の気の実情。しかるに天下をして全て君子にして小人なからしめんことを希望するは、これは聖人の心願。泰と否の関鍵は、君子小人の消長の上に帰結す。これは世運を主持する人の明白すべき所。しかし小人は必ず除尽し得べからず。ただ君子をして内に居って権柄を掌握せしめ、小人をして外に処して安置する所なきに至らざらしめれば、君子の気勢はすでに伸張し、天下もすなわち通泰す。
象曰:天地交,泰。后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。天地之道,以形氣全體言。財成,在在其過也。如氣化流行相續,聖人分之以春夏秋冬。地形廣邈交錯,聖人限之以東西南北之類是也。
《象伝》にいう。天地が交感す――これが《泰》。君主はこれに取法して、天地の道を裁節成就し、天地の宜を輔助賛化し、以て百姓を幫助す。「天地之道」は形と気の全体に就いて言う。「財成」はすなわち「裁成」――すなわちその過頭の処を裁抑する。たとえば気化は流行して綿綿断たざるを、聖人はそれを春夏秋冬に劃分し、地形は広遠交錯するを、聖人はそれを東西南北に限定す――皆この類に属す(底本「在在其過也」は「裁其過也」と作るべし)。
天地之宜,以時勢所適言。輔相,以補其不及也。如春生秋殺,聖人使春耕秋斂。高燥下溼,聖人使高黍下稻之類是也。裁成輔相,皆所以左右輔助乎民。自乾坤以後,陰陽各三十畫而為泰。而泰之陰陽各三,是泰由陰陽無過不及而成。故既泰之後,裁其過,補其不及,所以保泰也。
「天地之宜」は時勢の适宜する所に就いて言う。「輔相」はすなわちその足らざる処を補足する。たとえば春は生長・秋は粛殺を、聖人は便ち民に春耕秋收を教え、高き処は乾燥・低き処は潮湿を、聖人は便ち民に高地に黍を種え低地に稲を種るを教う――皆この類に属す。裁成も輔相も、皆百姓を扶助するがため。《乾》《坤》以下より依次数えて《泰》卦に至るまで、陰画陽画は各々三十を積む。しかるに《泰》卦自体はまた三陰三陽。見れば泰は陰陽の過不及なきに由って成る。ゆえにすでに通泰した後も、なおその過を裁抑しその不及を補足す――これがまさに泰運を保守する弁法。
初九:拔茅茹以其彚,征吉。乾初變巽,坤初變震,皆屬木。三陰三陽皆相連以上,故泰否初爻皆有拔茅茹之象。茹,根之牽連者。三陽在下,初動則相連以進。眾君子同德以升,泰運初開之時。占者有陽剛之德,則往而得吉矣。初曰以其彚。
初九の爻辞:茅草を拔起せば、根鬚は牽連して叢を成す。前往すれば吉利。乾の初爻は一たび変じて巽を成し、坤の初爻は一たび変じて震を成す。巽と震は皆木に属す。《泰》《否》の両卦は皆三陰三陽にして一気相連して上る。ゆえに両卦の初爻は皆「拔茅茹」の象あり。「茹」とは相互に牽連する根鬚を指す。三つの陽爻は下に在り、初爻が一たび動けば便ち牽連して一同に前進す。衆君子は徳を同じくして並び起つ――まさに泰運の初めて開くる時。この爻を占得して自身に陽剛の徳ある人は、前往すれば吉を得る。初九が言うは「以其彙」――すなわちその同類に憑る。
三陽欲進而以之者在初,君子與君子為類也。四曰以其鄰。三陰欲復而以之者在四,小人與小人為類也。初曰征吉,四則否者,易為君子謀也。象曰:拔茅征吉,志在外也。君子之志在天下,不為一身。故當泰之時,志欲上進也。
三つの陽爻は上進せんと欲し、しかるにそれらを帯動するは初九に在る。見れば君子と君子は結んで一類を成す。六四は「以其鄰」と言う。三つの陰爻は下返せんと欲し、しかるにそれらを帯動するは六四に在る。見れば小人と小人は結んで一類を成す。同じく同類を牽連するも、初九は「征吉」と断じられ六四はこのごとくならず。これは《周易》が總じて君子のために打算するによる。《象伝》にいう。茅草を拔起して前往して吉は、心志が外に在るなり。君子の志向は天下に在り、ただ自己一身のためのみならず。ゆえに泰運の時に当たり、一心に向上進取を想う。
九二:包荒,用馮河,不遐遺,朋亡,得尚于中行。卦內君子而外小人。三陰在外荒穢,小人之象。九二當保泰之任,有宜包容荒穢之象。以九合五,成坎河象。健臨之,有馮河之象。五陰在外,隔三與四,遐遠之象。二應之,不遺遐遠之象。三陽朋象。二居中不偏,上應乎五。專意事君,不立朋黨,有朋亡之象。
九二の爻辞:荒穢を包容し、敢えて徒歩して河を渉り、遠方の人を遺棄せず、朋党を結ばず、能く中に居って行う君主に配合す。この卦は内裏は君子・外面は小人。三つの陰爻は外に在り、一片の荒蕪汚穢――まさに小人の象。九二は泰運を保守する重任を担うので、荒穢を包容すべき象あり。九二と六五は相合して坎を成し、坎は水・大河。九二は乾体に属し、剛健に逼臨して過ぐ。ゆえに徒歩して河を渉る象あり。六五は外卦に在り、中間に九三と六四を隔つ――遥遠の象。九二はなお上にそれに応ず。ゆえに遠方を遺棄せざる象あり。三つの陽爻は同類――朋党の象。しかるに九二は中に居って偏せず、専心に上に六五に応じ一意に君主に事奉し、私党を樹立しない。ゆえに「朋亡」の象あり。
泰欲得中。二,大臣輔泰者,當使君子小人皆得其所。不能包荒,使小人無所容,則非中。然能包荒而無果斷,亦非中也。二以中上應乎五,有包容之德。以剛應柔,又有馮河之勇。遺棄疎遠,使小人不得效其力,固非中。然能不遺遠,而君子在近自成朋黨,亦非中也。
泰道は「中」を得るを貴ぶ。九二は泰を輔保する大臣で、君子小人をして各々その所を得せしむべし。もし荒穢を包容し得ざれば、小人をして安身する処なからしむ――それはすなわち中に非ず。しかしまたただ包容する能くするも果決なくば、同じく中に非ず。九二は中に居る徳を以て上に六五に応ず――これは包容の雅量あり。陽剛を以て陰柔に応ず――これはまた徒歩して河を渉るの果勇あり。疏遠の人を丟開して顧みず、彼らをして効力する由なからしむるは、固より中に非ず。しかしまた遠方を遺棄せざると雖も、身辺の君子をして自ら朋党を成すを聴任せば、同じく中に非ず。
二遠應乎五,遠人在所懷。居中不倚,近者亦無可暱。剛柔相濟,無偏無黨。合四者言之,合中行之道也。然二居中,固為中行。今曰尚,則中行又指五也。五之象曰中以行願。蓋泰欲得中,上有中行之君,下非有中行之臣,不能上輔乎五而保泰矣。故二曰尚,五曰歸,所謂上下交而志同。曰得尚,喜之之辭也。以陰爻言,五取小人。以位言,又取君。此又不可為典要者也。象曰:包荒,得尚于中行,以光大也。二變為離,有光大象。人惟心胸光明正大,故能兼容果斷,不至遺遠而暱近。獨言包荒,舉一以該其餘也。
九二は遠く六五に応じ、遠方の人は皆彼の懐抱の中に在る。中に居って偏せざれば、身辺の人もまた親昵する由なし。剛と柔は互相に調剤し、偏私せず党を結ばず。包荒・馮河・不遐遺・朋亡のこの四件を合わせて看れば、まさに「中行」の道に合す。ただ九二自身は中に居り、本来すでに中行なのに、爻辞は卻て「得尚」と言う。見れば「中行」はここに於いてまた六五を指す。六五の《象伝》に「中以行願」と言うは、まさにこの意。泰道は中を得るを貴び、上面に中道を行う君主あれば、下面にもし中道を行う臣子なからば、すなわち六五を輔佐して泰運を保住する能わず。ゆえに九二は「尚」と言い、六五は「帰」と言う――まさに《彖伝》のいわゆる「上下交而其志同」。「得尚」と言うは欣喜の口気。陰爻の属性に就いて言えば、六五は小人と算す。爻位に就いて言えば、それはまた君主。これもまた《周易》が死条例として套するべからざる処。《象伝》にいう。荒穢を包容して能く中行に配合するは、心地の光明正大なるによる。九二一たび変ずれば離を成し、離は明。ゆえに光明正大の象あり。人はただ心胸光明正大にしてこそ、すでに包容しまた果決にして、遠人を疏遠し近人を親昵するに至らざるを得。《象伝》が単に「包荒」の一句を挙ぐるは、その一を挙げてその余を概括する。
九三:無平不陂,無往不復,艱貞無咎,勿恤其孚,于食有福。九三將過於中,泰將極而否欲來之時也。陽居內為平,往外則為陂。陰出外為往,返內則為復。乾三朝乾夕惕,有艱貞象。變兌為口,食象。天下無常平而不陂者,無常往而不反者。唯艱危其思慮,正固其施為,則可以無咎。恤,憂也。孚,理之信然者也。食,享之也。
九三の爻辞:永遠に平坦にして傾斜せざるなく、一往して返回せざるなし。艱難の中に正を守れば過咎なし。この道理のために憂愁する要なし。俸禄を享用して自ずと福分あり。九三はまさに下卦の中を越えんとし、泰運は極点に快く至り否運まさに到来せんとする時。陽爻は内卦に居れば「平」と為し、外卦に往けば「陂」(傾斜)と成る。陰爻は外卦に出れば「往」と為し、内卦に返れば「復」と成る。乾卦の九三は本は「朝乾夕惕」の義あり。ゆえに「艱貞」の象あり。この爻一たび変ずれば下体は兌を成し、兌は口。ゆえに「食」の象あり。天下に永遠に平坦にして傾斜せざるなく、また一往して返回せざるなし。ただ思慮を艱危の上に放き施為を正固の上に守ってこそ、過咎なきを得べし。「恤」は憂慮、「孚」は道理の上に必然この如く確実に信ずべき、「食」は享用。
平陂往復,天運之必至而信然者也。若以此動其心,則不能艱貞矣。唯盡其處泰之道,而不以此為憂恤,則可以食享其福也。蓋平陂往復者,天運所不能無。艱貞勿恤者,人事所當自盡也。象曰:無往不復,天地際也。古本有無平不陂。天地際,謂陰陽交會消長之際也。
平にして後に陂、往にして後に復は、天運の必然に到来して確実に爽わざる事。もしこのために心志を動揺せば、艱難の中に正を守る能わざるなり。ただ己の泰に処する道を尽くし、それを心上に掛けて憂愁せざれば、福禄を安享しうる。要するに、平陂往复は天運の能く有ならざるべからざるなり。艱貞勿恤は人事の上に於いて自ら尽くすべきなり。《象伝》にいう。一往して返回せざるなしとは、これは天地交接の界限。古本はこの一句の上になお「无平不陂」の四字あり。「天地際」とは、陰陽交會・此消彼長の交界処を言う。
六四:翩翩不富以其鄰,不戒以孚。六四已過乎中,有泰極為否之漸。六四一陰既動,則五上二陰同類,有翩然而下,不約而同之象。陽實陰虛,故曰不富。鄰指五上。以,四以之也。小人合謀,自外而內。不待戒令,自然相信。君子所當戒也。陽之升曰拔茅。以自下而上,升之難也。陰之復曰翩翩。以自上而下,復之易也。
六四の爻辞:軽捷に飛落して下り、自ら富有せずとも能く鄰居を帯動し、約束せずとも彼此信従す。六四はすでに中位を越え、泰極まって否に転ずる苗頭。六四のこの一つの陰爻が一たび動けば、六五・上六の両個の同類の陰爻は便ち跟って来る。ゆえに翩然として下墜し約せずして同じくする象あり。陽爻は中実を富と為し、陰爻は中虚を富まざると為す。ゆえに「不富」と言う。「鄰」は六五と上六を指し、「以」は六四がそれらを帯動する。小人は合謀して外より内に侵入し、号令告誡を用いずして自ずと彼此信任す――これはまさに君子の警惕すべき所。陽爻の上升は「拔茅」と言う。下より上に向かうに因って升進艱難なり。陰爻の下返は「翩翩」と言う。上より下に向かうに因って墜落容易なり。
象曰:翩翩不富,皆失實也。不戒以孚,中心願也。失實謂陰虛也。以失實,恐不容於君子。欲傷正勢,必結於小人,乃中心所願也。六五:帝乙歸妹,以祉元吉。三四五互為雷,二三四互為澤,有歸妹象。史謂湯為天乙,左傳謂紂父帝乙。姑兩存之。程傳謂帝乙始制王姬下嫁之禮,本義謂帝乙歸妹時占得此爻。今從程傳。
《象伝》にいう。軽捷に下墜して富まざるは、皆中虚にして実を失うによる。約束せずとも信従するは、心裏が本来情願なるによる。「失実」は陰爻の中虚を指す。正に空虚にして実なきに因り、君子に容れられざるを怕れて正気の勢力を損害せんと欲すれば、必ず小人と党を結ぶ。これは本は彼らの心裏の情願する所。六五の爻辞:帝乙は少女を嫁し出だし、ここに因って福を得、大いに吉利。三・四・五は互体して震を成して雷、二・三・四は互体して兌を成して沢。雷上沢下はまさに《帰妹》。ゆえに「帰妹」の象あり。史書は商湯を「天乙」と称し、《左伝》は則ち紂王の父を「帝乙」と称す。両説は姑く並存す。程頤《程伝》は帝乙が始めて王家の女児が下嫁する礼制を制定したと見なし、朱熹《本義》は帝乙が妹を嫁する時にこの爻を占得したと見なす。ここは《程伝》に依従す。
蓋以陰居尊為泰之主,柔中虛已下應九二。以柔中之君,倚任剛明之臣,可以保泰獲福,有帝女之貴下從其夫而受福之象。全卦三陰皆為小人。以五一爻言之,則保泰之君。不可執一論也。象曰:以祉元吉,中以行願也。居中應二,行其志願,非勉強也。
六五が陰柔を以て尊位に居り《泰》卦の主たるに因り、柔順にして中に居り虚心にして自ら下りて九二に応ず。柔中の君主を以て剛健明察の臣子を倚重すれば、泰運を保住して福慶を獲得しうる。ゆえに帝王の女のごとき尊貴にして下嫁して夫に従い、ここに因って福を受くる象あり。全卦に就いて言えば三つの陰爻は皆小人と算す。ただ単に六五の一爻に就いて言えば、それは卻て泰を保する君主。見れば一種の説法を以て死に套すべからざるを知る。《象伝》にいう。ここに因って福を得て大吉は、中に居って己の心願を実現するなり。六五は中位に居って下に九二に応じ、己の志愿を推行す――並び勉強做作に非ず。
上六:城復于隍,勿用師。自邑告命,貞吝。坤土復反於下,有城復于隍之象。掘隍土積累以成城,如治道積累以成泰。及泰之終,將反於否如城土頹圯,復反於隍也。坤上為泰,坤下為否,以陰陽之氣言也。若言其質,則坤土本在下之物,在上有必頹之理。
上六の爻辞:城墻は倒塌して城壕の裏に帰る。軍隊を動用する勿れ。ただ己の封邑より政令を発布するのみ。たとえ正を守るも羞吝を免れ難し。坤は土で土はまた下面に返回す。ゆえに城墻が倒れて城壕に帰る象あり。壕溝裏の土を掘取して一層々堆積して城墻と為すは、あたかも治道が一点ずつ積累して泰運と成るがごとし。泰運が尽頭に走り至りてまさに否に転ぜんとすれば、あたかも城土の崩塌してまた壕溝の裏に帰るがごとし。坤が上に在れば《泰》、坤が下に在れば《否》。これは陰陽二気の升降に就いて言う。もしその形質に就いて言えば、坤土は本来下に在る物で、上面に居れば必然に傾頽の道理あり。
曰復者,反其初也。坤為眾,有師象。又為國土,有邑象。泰極而否,眾心已散,難以力爭。勞民傷財,必至散亂。窮守一邑,罪已下詔,收拾人心可也。然不能保邦未危,而播告之修不能及遠,雖正亦可羞矣。象曰:城復于隍,其命亂也。命,政令也。其命先亂,故至於否,不盡關天運也。告命,乃盡人事以治之,非付之不可為也。
「復」と言うは、それが最初の様子に帰る。坤は衆なので軍隊の象あり。坤はまた国土なので城邑の象あり。泰運は極点に到って否に転じ、衆人の心はすでに渙散して武力を以て挽回し難し。勉強に兵を用いればただ民を勞し財を傷い、終に潰乱に至るのみ。この時はただ一邑を困守し、詔を下して己を罪し、人心を收拾するが、なお行い得べしと算す。しかし畢竟国家の未だ危殆ならざる時に於いてそれを保全し得ず、今発布する政令はまた遠く伝わらず。たとえ守る所は正なれど、羞愧に足る。《象伝》にいう。城墻が壕溝に倒帰るは、政令すでに紊亂せり。「命」はすなわち政令。政令が先に乱れてこそ否塞を招致す。並び全て天運に関するに非ず。「自邑告命」は、まさに人事を尽くして補救するので、天に聴き命に由って為す可からざると認定するに非ず。
全卦以小往大來為義。故內三陽屬泰,外三陰屬否。初為泰運方開,君子並進。二為保泰之臣。三則陰陽消長之會也。四為過中將否之時。五為保泰之君。上則泰極為否之日也。泰以方中為幸,故二五皆能保泰。初陽始進則可幸。四陰方動則可憂。三陽已極則艱貞,猶可有為。上陰已復則命亂,已難於治。唯聖人保於方泰之時,而不敢自弛於泰極之日。雖天運有所必然,而人事無時不宜自盡也。
全卦は「小往大来」を以て義を立つ。ゆえに内卦の三陽は泰に属し、外卦の三陰は否に属す。初九は泰運の剛く開け君子並進の時。九二は泰を保する大臣。九三は陰陽消長交替の関口。六四は中位を過してまさに否に転ぜんとする時。六五は泰を保する君主。上六は則ち泰極まって否に転ずる日。泰は正に中位に当たるを以て慶賀すべきと為す。ゆえに九二・六五は皆泰運を保住しうる。初九は陽気剛く進みて慶賀に値し、六四は陰気こそ動きて憂慮すべく、九三は陽気すでに極まって能く艱難に正を守ればなお作為する所有り、上六は陰気すでに返下して政令紊亂せば治め難し。ただ聖人は正泰の時に於いて便ち意を加えて保守し、泰極の日に到るも敢えて自ら松懈せず。天運は固より必然この如くの一面あるも、人事は一刻も自ら力を尽くさざるべからざるなし。
否卦
否。否卦,坤下乾上,天地不交,萬物不通,隔絕閉塞,故為否。否卦次泰。按,序卦,物不可以終通,故受之以否。通極必塞,氣化之常,否所以次泰也。否與泰反。故全彖之辭皆與泰反,而六爻大意亦然。內三爻為否,而外三爻漸極而為泰。初為小人用事之始。二則小人得志之時。三則小人有知羞之意。四則否過中,有將泰之極。五則人君休否之事。而上則否傾為泰矣。天運無終泰,亦無終否。此天人所以常相勝,而主持世道者,當盡人事以迴天心也。
《否》卦は、下卦が坤・上卦が乾である。天地の二気は相交感せず、万物は通暢し得ず、彼此隔絶閉塞す。ゆえに卦名を「否」という。《否》は《泰》の後に排す。《序卦伝》に拠れば、万物は永遠に通暢する可しからず。ゆえに《泰》の後に《否》を接ぐ。通は極処に至れば必ず阻塞す。これは気化の常理。ゆえに《否》は《泰》に次ぐ。《否》は《泰》と正に相反する。ゆえに整个の卦辞は皆《泰》と相反し、六爻の大意もまたこのごとし。内卦の三爻は否、外卦の三爻は則ち漸く極点に到って泰に転ず。初六は小人が権を当て始むる時。六二は小人が志を得る時。六三は則ち小人すでに羞を知る意あり。九四は否運が中位を過してまさに泰に転ぜんとする時。九五は君主が否運を止息する事。上九に至れば否運は便ち傾覆して泰に転成す。天運に永遠の泰なくまた永遠の否なし。これはまさに天と人が常常に互相に制勝する道理。世道を主持する人は、人事を尽くして天心を挽回すべし。
否之匪人。不利君子貞。大往小來。否,閉塞也。三陰在內,七月之卦也。匪人,非人道也。天地交而萬物生,萬物唯人最靈。不交則不生,人道絕矣。其占不利於君子之正道。貞有何不利。但此時小人用事,不利於君子之貞。大往小來,謂陽生往居外,陰來居內也。泰先言小往大來。而後言吉亨。否先言不利君子貞,而後言大往小來。聖人以泰歸之天,否責之人也。
卦辞:否閉の世は人道を成さず、君子の正を守るに利ならず。大なるは外に往き小なるは内に来る。「否」はすなわち閉塞。三つの陰爻は内に在り、十二消息卦の中に於いて七月の卦に属す。「匪人」は人道を成さざるを言う。天地が交感して万物生成し、万物の中に人は最も霊秀。天地が交わらざれば万物は生ぜず、人道もすなわち断絶す。ゆえに君子の正道に利ならずと占断す。正を守る自体に何の不利あらん。ただこの時に小人が権を当てて、こそ君子の正を守るに不利なるのみ。「大往小来」とは、陽気が上に往きて外卦に居り、陰気が内に入って内卦に居るを言う。《泰》卦は先に「小往大来」と言いて後に「吉亨」と言い、《否》卦は卻て先に「不利君子貞」と言いて後に「大往小来」と言う。これは聖人が泰を天意に帰し、否を人事に咎帰するによる。
彖曰:否之匪人,不利君子貞,大往小來,則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下無邦也。內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子。小人道長,君子道消也。無邦,謂上下隔絕,雖有邦與無邦同也。陰陽以天道言,剛柔以地道言。君子小人以人道言。泰言健順,此言剛柔者。泰天地之氣交,故言其德。否氣既不交,則言其質而已。
《彖伝》にいう。否閉の世は人道を成さず、君子の正を守るに利ならず。大なるは外に往き小なるは内に来る。これはすなわち天地が相交わらずして万物通ぜず、上下が相交わらずして天下は邦国なきに等し。内裏は陰・外面は陽、内裏は柔弱・外面は剛強、内裏は小人・外面は君子。小人の道は日に漸く生長し、君子の道は日に漸く消退す。いわゆる「无邦」とは、上下隔絶して、邦国ありと雖も邦国なきと同じを言う。陰陽は天道に就いて言い、剛柔は地道に就いて言い、君子小人は人道に就いて言う。《泰》卦は「健順」を講じ、ここは卻て「剛柔」を講ず。分別は――《泰》は天地の気が相交るゆえその徳性に就いて言を立て、《否》は気すでに交わらざるゆえただその形質に就いて言を立てるのみ。
象曰:天地不交,否。君子以儉德辟難,不可榮以祿。收斂其德,不形於外,以免小人之忌。象坤陰之吝,收斂於內也。德既斂藏,人不知我,故不得以祿位榮之。象乾德之剛,遠避於外也。
《象伝》にいう。天地が相交わらず――これが《否》。君子はこれに取法して徳行を収斂して禍難を避け、禄位を以て栄と為すべからず。徳行を収斂して外に顕露せざるは、小人の忌恨を招くを免れんがため――これは下卦坤陰の吝嗇にして内に収斂するに象を取る。徳行すでに斂蔵せば、他人は我を了解せず、すなわち禄位を以て我を栄寵する法なし――これは上卦乾徳の剛健にして遥かに外に避けるに象を取る。
初六:拔茅茹以其彚,貞,吉亨。三陰在下,當否之時,小人連類而進,亦有拔茅茹以其彚之象。然初之惡未形,故許以貞則吉亨,欲其變為君子也。小人苟得,故戒之以貞也。然君子小人有何定名,能貞則君子矣。易為君子謀。否乃不利君子貞之時,乃戒小人以貞。為小人謀,正為君子謀也。
初六の爻辞:茅草を拔起せば根鬚は牽連して叢を成す。能く正を守れば吉利亨通。三つの陰爻は下に在り、正に否閉の時に当たり、小人は同類を牽連して一斉に上進す。ゆえにまた「拔茅茹以其彙」の象あり。ただ初六の悪はまだ顕露せざるゆえ、それに「正を守れば吉亨」と許すは、それが転変して君子と為らんを希望するなり。小人は苟且に求得するに慣れる。ゆえに特意に「貞」の字を以て告誡す。其の実君子小人にあに一成不変の名分あらんや。能く正を守ればすなわち君子。《周易》は一向に君子のために打算す。《否》はまさに「不利君子貞」の時なのに、ここは卻て「貞」を以て小人に告誡す。小人のために打算するも、まさに君子のために打算するなり。
象曰:拔茅貞吉,志在君也。泰初九應六四。六,陰也民也。初陽志在澤民,不獨善其身,故曰志在外。否初六應九四。九,陽也君也。初六志在愛君,不自植其黨,故曰志在君。小人以愛君為念,則不計其私,變為君子矣。大抵小人初進,猶有君國之念。其後乃患得患失之心日勝,彌縫奔競日工。故此爻為始進者戒之。小人君子之分,視其志而已。
《象伝》にいう。茅を拔いて正を守って吉を得るは、心志が君主の身上に在るなり。《泰》卦の初九は六四と相応ず。六は陰で民を代表し、初九の陽爻は志に恵を民に施すに在りて、独りその身を善くするを肯んぜざる。ゆえに「志在外」と言う。《否》卦の初六は九四と相応ず。九は陽で君を代表し、初六は志に君主を愛護するに在りて党羽を培植せず。ゆえに「志在君」と言う。小人もし君を愛するを念と為せば、私利を盤算せず、すなわち君子に変る。大抵小人は剛く進用せらるる時は、心裏になお幾分の君国の念を存す。後に到って患失患得の心思は一日強く一天に似、弥縫掩飾・奔走鑽営は一天精しく一天に似る。ゆえにこの一爻は剛く進用した人のために戒を立つ。小人と君子の分別は、ただその志向を看るのみ。
六二:包承。小人吉。大人否亨。否包承與泰包荒同。否對外卦三陽言。六二為得位之小人,有欲包羅群陽,而以承順取之之象。小人能如是在小人為吉道也。然大人處此,則當身安於否而道可亨。不可以彼包承於我,而失其所守,妄意出否以求亨也。
六二の爻辞:奉承を包罗す。小人は吉利。大人は否閉の中に身を処してその道は亨通す。《否》卦の「包承」は《泰》卦九二の「包荒」と同じ句法で、皆外卦の三陽に対して言う。六二は位に当たって中を得る小人で、衆陽を一一併に籠絡し承順を以て讨好して彼らを博取せんと欲する象あり。小人が能くこのように為せば、小人の自己に於いては吉利の路子。しかし大人がこのような境地に処すれば、否閉の身に安んじて己の道を亨通せしむべし。对方の我に対する包罗奉承のために、守る所を失い、否運を跳出して通達を求めんことを妄想すべからず。
初惡未形,故不曰小人。二則直以小人稱矣。初曰吉亨,猶望反否為泰。二則否亨,遂成否矣。小人不安於否,求亨何所不至。故否亨者,大人之事,非小人之所能也。象曰:大人否亨,不亂群也。三陰,小人之群也。大人妄意出否以求亨,則入於小人之群矣。身否道亨,乃不亂於其群也。
初六の悪はまだ成形せざるゆえ、爻辞はそれを「小人」と称せず。六二に至れば便ち径に「小人」と称す。初六は「吉亨」と言い、なお否を翻転して泰と為さんを指望す。六二は「否亨」と言い、否局は便ち坐実したと算す。小人は否閉に安んじる能わず、通達を求めて何事も出来る。ゆえに「身否而道亨」は大人の事で、小人の做し得る所に非ず。《象伝》にいう。大人は身否して道亨とは、小人と流を同じくせざるなり。三つの陰爻はすなわち小人の群。大人もし否運を跳出して通達を求めんと妄想せば、便ち小人の堆裏に落込む。身は否に困するも道は能く亨通すれば、こそあの一群と混雑せざると言う。
六三:包羞。以陰居陽,不中不正。欲包群陽,故有包羞之象。三,否之極,小人之在高位者。故亦欲包群陽。然二居柔,猶知承順乎君子。所居中正,故吉。三居剛,故不言承。所居不中正,則取羞而已。包承如彌子之於孔子,包羞則丁謂之拂須是也。三否已極矣。然世雖極亂,必無善類盡滅之理。
六三の爻辞:羞愧を包蔵す。六三は陰爻を以て陽位に居り、中に居らずまた位に当たらず、また衆陽を籠絡して来らんと欲す。ゆえに「包羞」の象あり。六三は内卦の極に処し、否運の頂点で、高位に身居する小人に属す。ゆえにまた衆陽を籠絡せんと欲す。しかし六二は柔位に居りて、なお君子に対し承順するを懂得し、かつ中に居って正を得。ゆえに吉と断ず。六三は剛位に居るので、爻辞は「承」と言わず、処する所はすでに中ならずまた正ならず、結果はただ自ら羞辱を取るのみ。「包承」は弥子瑕の孔子に対するがごとき巴結、「包羞」は則ち丁謂が上司に溜鬚するのあの一類のごとし。六三の時は否閉すでに極点に到る。しかし世道は乱れて極処に至ると雖も、また善類の斬尽殺絶せらるる道理は決してなし。
君子有否亨之道,小人亦不能盡肆其惡,猶有所包藏。且君子終有有命之時,小人亦不能無愧於心,故猶懷羞恥。以其惡未肆而知羞也,故不言凶咎之戒。象曰:包羞,位不當也。小人所以包而取羞者,豈心之所甘哉。但以不中不正,所處之位不當故耳。開小人以悔過也。
君子は自ずと身否して道亨の路子あり、小人もまた悪毒を全然に施展し出す能わず、總じてなお包蔵する所有り。況んや君子は終に天命の眷顾ある一天あり、小人の心裏もまた全然に愧疚なき能わず。ゆえになお羞恥を懐く。まさにその悪が未だ肆行せずしてまた羞愧を知るに因りて、爻辞は凶咎の告誡を加えない。《象伝》にいう。羞愧を包蔵するは、居位の不当なり。小人が衆陽を籠絡せんと欲して反って自ら羞辱を取る所以は、あに彼の心甘情願ならんや。ただ不中不正にして処する位置の恰当ならざるのみ。このように講ずるは、小人に悔過の余地を留むるなり。
九四:有命,無咎,疇離祉。程傳以命為君命,謂九四近君,凡事必由君命,以圖濟否也。本義以命為天命。泰極而否,否極泰來,天之所命,即泰三「平陂往復」之義也。今從本義為優。
九四の爻辞:命あるは上に在り、過咎あらず、同類は皆福沢に沾う。「有命」の一語は、程頤《伊川易伝》は君命と解し、九四は九五の君位に緊挨して、凡事皆君命を秉承して為してこそ、否閉の局を挽救するに談足ると言う。朱熹《周易本義》は則ち天命と解し、泰は極処に至れば便ち否に転じ、否は極処に至れば泰また回る。この一往一復は皆上天の定むる所で、《泰》卦九三の「无平不陂、无往不復」が講ずると同じ一つの道理。両説を相権すれば、ここは《本義》を採るを長と為す。本爻は通篇否泰運會の推移を説き、天に帰すは君命に拘定するよりさらに講じ通ず。
九四以陽居陰,不極其剛。否過中而將泰之時,有「有命自天,我不致咎,疇類三陽皆可獲福」之象。蓋否泰之運皆天命也。泰變否易,故於內卦言之;否轉為泰難,故於外卦言之。泰之三必無咎而後有福,否之四必無咎而後離祉。蓋乾坤交接之會,陰陽消長之際,必我自立於無過,而後可為福,而後可為疇類之福也。泰三「平陂往復」,冀其艱貞,勉君子也。
九四は陽爻を以て陰位に居り、剛にして剛に過ぎず。この時否運はすでに中点を過ぎ、まさに泰運に向かって転ず。ゆえに「命は上天より降り、我は過咎を招来するに至らず、同類の三つの陽爻は皆福を得」のごとき象あり。否と泰の運會は皆天命の主宰する所。泰より否に変るは容易なので、《泰》卦はこの層の意を内卦の九三に放ちて言う。否より泰に転ずるは艱難なので、《否》卦はこの層の意を外卦の九四に放ちて言う。《泰》卦の九三は必ず先ず過咎を出さざるを做到して後にこそ福あり。《否》卦の九四もまた必ず先ず過咎を出さざるを做到して後にこそ福沢に沾いうる。乾坤交接の関口・陰陽消長の当口は、必ず自己まず過咎なき地位の上に站穩して後にこそ福を談じ、またこそ同類に福を帯来するを談ずる。《泰》卦九三の「无平不陂、无往不復」は、人が艱難の中に正を守らんことを希望す――あれは君子を勉勵する言。
否四有命無咎,喜其獲祉,戒小人也。君子有命自天,當否有可亨之道,否極有泰來之祉。小人之慾包君子者,不誠可羞哉!彌子謂孔子主我,孔子亦曰有命,即此意也。象曰:有命無咎,志行也。有命自天又必無咎者,人與天合,轉否為泰之志始行也。
《否》卦九四の「有命、无咎」は、君子が福沢を得うるを欣喜し、同時にまた小人に対する告誡。君子は天命を身に在り、正に否閉の時に自ずと身困りて道亨の路子あり、否運は頭に到ればなお泰来の福分あり。あの一心に君子を籠絡包蔵せんと欲する小人は、あに真に羞むべからざらんや。《孟子・万章上》に記す――衛霊公の寵臣弥子瑕は子路に託して言を進め、孔子もし彼の家に住来を肯んずれば衛国の卿位は手に到らんと言う。孔子はただ一句「有命」と答う――まさにここの意。《象伝》にいう。天命ありて過咎あらざるは、否を転じて泰と為すの志向の施行し得るなり。命は天より降るありても、なお必ず自己が過咎を出さざるを要し、人事と天意と一処に合してこそ、否を転じて泰と為すの志向は始めて行い通ず。
九五:休否,大人吉。其亡其亡,繫于苞桑。九五陽剛中正以居尊位,能休時之否,大人之事。占此爻者,大人遇之則吉也。然方欲休之,否未盡傾,故必常存危亡之心,乃有苞桑之固。
九五の爻辞:否閉を停息せしむ。大人は吉利。心裏に常に「まさに覆亡せんとす、まさに覆亡せんとす」と念じてこそ、叢生の桑根に繫ぐがごとき牢固を得べし。九五は陽剛の徳を以て中に居って正を得て尊位に処し、能く当時の否閉を終止す――これは大人のみが做し成る事。この一爻を占うに、ただ大人が遇うのみ吉利。ただまさに否運を終止せんと欲する時は、否閉はまだ徹底に傾覆せざるゆえ、必ず常に危亡のまさに至らんとするの警惕を存してこそ、桑根の盤結のごとき穩固を得べし。
桑根深固。苞,叢生者,其固尤甚也。三四五互為巽木,苞桑象。巽又為繩,繫之之象。二五皆以大人言。二有德無位,故守其否而道亨;五有德有位,則能休時之否矣。二時方否,故與小人並言;五否已過,則大人獨居其位矣。然非有戒懼之心,不能為休否之事,未可盡聽之天也。
桑樹の根は深く扎して牢なり。「苞」は叢生して簇を成し、根鬚は交結して、さらに牢固なり。本卦の三・四・五の三爻は互体して巽を成し、巽は木。ゆえに「苞桑」の象あり。巽はまた繩索で、正に「繫」(繋縛)の象に合す。六二と九五はともに「大人」を以て説を立つ。六二は徳ありて位なし。ゆえにただ否閉を安守して己の道を通達せしむるのみ。九五は徳ありてまた位あり。便ち能く当時の否閉を終止す。六二の処する所は正に否閉の時に当たる。ゆえに爻辞は大人と小人を並挙す。九五の時は否はすでに過去り、大人は便ち独りその位を占む。しかし戒愼恐懼の心なくば、また否運を終止する事業を做し成す能わず。一切を天に推して安排せしむる能わず。
象曰:大人之吉,位正當也。唯有位故能休否。與二之大人否亨者,德同而位不同也。無位時不能否亨,得位未有能休否者。
《象伝》にいう。大人の吉利たる所以は、居する所の位置の正当なるによる。まさにこの尊位あるに因って、こそ否閉を終止し得。彼を六二のあの「身否而道亨」の大人と比べれば、両人の徳は相同じくして処する所の位は同じからず。一人が職位なき時に於いてもし否閉に身処して道は能く通達するを做し得ざれば、されば彼が位を得るを待つも、また従来否運を終止し得る者は誰もなし。
上九:傾否,先否後喜。以陽剛居否極,能傾時之否者也。不曰否傾而曰傾否,不恃天運而貴人事也。變兌為悅,有喜象。先否後喜,先有其亡之懼,則終有傾否之喜也。
上九の爻辞:否閉を傾覆せよ。先は閉塞、後は歡喜。上九は陽剛の才を以て否運の尽頭に処し、能く当時の否局を傾覆する人。爻辞は「否傾」と言わずして「傾否」と言うは、天運の自然に転好するに倚仗せずして、人の自ら為すを看重す――主動の一方は天に在らずして人に在るなり。上九一たび変ずれば上卦は兌を成し、兌は悦。ゆえに歡喜の象あり。「先否後喜」と言うは、先に九五のあの「其亡其亡」の憂懼あってこそ、最終に否局を傾覆するの喜慶あり。
象曰:否終則傾,何可長也。天下無終否之時,必有陽剛之才以傾之也。全卦以大往小來之義。內三陰皆屬否,外三陽則漸為泰。初小人之惡未形,猶可不至於否;二則小人得志,否之成;三則小人知羞,否之極矣;四之有命,否已過中,有欲泰之極;五之休否,則有轉泰之事;至傾否,則否極為泰矣。泰以三陰在外為小人,而六五居尊應二,又為保泰之主;否以三陰在內為小人,而六二中正,可言否亨之大人。則因爻起義,不可執一也。
《象伝》にいう。否閉は終点に到ればすなわち傾覆せん。あに長久すること能わんや。天下に永遠に閉塞の時なく、必ず陽剛の才ありて出でてそれを傾覆す。全卦は「大往小来」の意を取る。内卦の三つの陰爻は皆否に属し、外卦の三つの陽爻は則ち漸く泰に向かって転ず。初六の時は小人の悪はまだ顕形せず、なお否を成すに至らず。六二に至り小人は志を得て、否局は便ち形成を告ぐ。六三に至り小人は自ら羞愧を知り、否はすでに極点に到る。九四に至り天命の眷顾あり、否運は中点を過ぎてすでに泰に趨向する勢頭あり。九五に至り否閉を終止すれば、泰に転成する事功あり。上九に至り否局を傾覆すれば、否極まってすなわち泰と成る。《泰》卦は三つの陰爻を外に在るを以て小人と為すも、六五は尊位に居って下に九二に応じ、また泰運を保住する主爻。《否》卦は三つの陰爻を内に在るを以て小人と為すも、六二は中に居って正を守り、反って「身否而道亨」の大人と称しうる。見れば《易》を解するに爻に随って義を起すべく、一条の成例を死守する能わず。
同人卦
同人 同人,離下乾上。離一陰麗於二陽之間,其德為麗為文明,其象為火為日為電。天在上而火炎上,有同之象。上乾為天為君。下離六二一爻在離之中,居人之位。卦中上下五陽同欲二之一陰,而二五又以中正相應,有以天同人、以君同人之義,故曰同人。
《同人》卦は、離が下・乾が上。離は一つの陰爻が二つの陽爻の間に附麗し、その徳性は附麗・文明で、取象は火・日・電。天は上に在って火性は炎上し、両者は同じく上に趨す。ゆえに「同」の象あり。上卦の乾は天・君。下卦の離の六二の一爻は離体の中に居り、まさに三才の中の「人」の位置に当たる。全卦の上下五つの陽爻は皆六二のこの一つの陰爻と同じくせんと欲し、しかるに六二・九五はまた皆中に居って正を得上下相応じ、天を以て人と同じくし君を以て人と同じくするの意を含む。ゆえに卦名を「同人」という。
同人次否。按,序卦,物不可以終否,故受之以同人。天地不交則為否,上下相同則為同人。又世既否,必與人同力乃濟,同人所以次否也。同人取其大公,不欲其狹小。大公至正,乃可以有為。此全彖之大旨也。
《同人》卦は《否》卦の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、万物は一直に閉塞し下る可しからず。ゆえに《否》卦の後に《同人》卦を接上す。天地の気は相交通せざれば否を成し、上下彼此が认同すれば同人を成す。さらに世道すでに閉塞せば、必ず衆人と同心合力してこそ渡過しうる。これもまた《同人》が《否》卦に緊接する由縁。「同人」は大公を貴び、狭隘偏私に流るる能わず。ただ大公至正にしてこそ作為する所有り。これが全卦卦辞の大旨。
六爻雖以二為成卦之主,然以私繫而吝,反不如初之無私,猶無所咎也。三四與五爭二而不克同者,然三怯於力,不如四之反於理為得吉也。五雖為三四所隔,然終以正應而得同。上雖免於三四之爭,然以遠而終未遂同之志。合六爻而論之,欲與人同,貴於公正,又可見矣。
六爻の中は六二を以て成卦の主爻と為すと雖も、それは私相係応に因って一つの「吝」の字を得――反って初九の私心なき、なお過咎に至らざるに如かず。九三・九四は皆九五と六二を争奪して終に同じく成さず。九三は力量の敵せざるに懾えてこそ罷手し、九四が能く回頭して理に依って自反するに如かず。ゆえに九四は吉を得る。九五は三・四の両爻に中間に隔てらるると雖も、最終に六二との正応に憑って同じくなるを得た。上九は三・四と相争うの累を免去したと雖も、位置が太く遠きに因って終に同を求むる心願を遂げざるなり。六爻を合わせて通看すれば、人と同じくせんと欲するは公正を貴ぶ。この一点はさらに看えて清楚なり。
同人于野。亨。利涉大川。利君子貞。天火性同。二五中正德同。五陽喜陰情同。天與火,其性光明正大,其勢曠遠無私,有同人于野而得亨通之象。乾性健行,同則可以濟險,有利涉大川之象。內文明而外剛健,中正有應,君子之正道也。有利君子貞之象。
卦辞:曠野に於いて人と同じくすれば、亨通。大河を渡るに利し、君子の正を守るに利し。天と火は性質相同じく、六二と九五は皆中に居って正を得て徳行相同じく、五つの陽爻は皆あの一つの陰爻を喜びて情意相同じ。天と火は性質は光明正大、気勢は曠遠にして私なし。ゆえに曠野に於いて人と同じくしてここに因って亨通する象あり。乾の性質は剛健にして能く行い、人は能く同じくすれば便ち险難を共済しうる。ゆえに大河を渡るに利する象あり。内卦は文明にして外卦は剛健、六二九五は中に居って正を得てまた彼此相応ず。これはまさに君子の正道。ゆえに「利君子貞」の象あり。
同人于野,其同也大。利君子貞,其同也正。人能大同有亨之道,故大川可涉。然有所同大而未必正者矣,故又戒以正為本。占者能大公至正,則可亨而大有所為矣。
「同人于野」が言うは、同じくする所の範囲の広大なり。「利君子貞」が言うは、同じくする所の立場の純正なり。人は能く天下と大同すれば亨通の道あり。ゆえに大河さえも渡り得る。しかしまた同じくする所は広大なれど必ずしも純正ならざるあり。ゆえに卦辞はまた「正」を以て根本と為すを告誡す。この卦を占う人は、もし大公至正を做し得れば、便ち亨通して大いに作為しうる。
又按,夫子言君子周而不比,和而不同,卦名取比與同者何也。蓋比以一陽為眾陰所比。獨坎五一陽得正,故彖有元永貞。則其比所以為君子之周也。
また按ずるに、孔子はかつて「君子周而不比」「君子和而不同」と言いたり。すでに「比」と「同」は皆彼の貶する列に在れば、《周易》は何に因ってなおそれらを以て卦名と為すや。《比》卦は一つの陽爻が衆陰に親附せらるるなれど、ただ上卦坎体の九五のこの一陽は中に居って正を得る。ゆえに卦辞に「元永貞」の断語あり。このような「比」は、まさに孔子の言う所の君子の「周」――すなわち普遍に親和して党を結ばず。
同人以一陰為五陽所同。唯二五之應以正,故彖言利君子貞。其同所以為君子之和也。至兩卦六爻之中,兼正不正言之。唯正則為君子。此夫子贊易之外,又有周而不比、和而不同之說也。
《同人》卦は一つの陰爻が五つの陽爻に认同せらるるなれど、ただ六二と九五の相応は純正に出ず。ゆえに卦辞は「利君子貞」と言う。このような「同」は、まさに孔子の言う所の君子の「和」。この両卦の六爻の中に至っては、正を守ると正を守らざると兼ねて之あり。ただ正を守るのみが君子と算す。これすなわち孔子が《彖伝》《象伝》の裏に於いて《易》を賛するの外に、別に「周而不比」「和而不同」のこの番の議論ある由縁。
彖曰:同人,柔得位得中而應乎乾曰同人。柔謂六二。乾指五。此以卦體釋卦名義。同人[文瀾本“同人”作“同人曰”]。舊作衍文。來注謂敘述卦辭而釋之語氣,謂六二應乾,固名同人矣。然卦辭曰「同人于野,亨,利涉大川」者何也?起下「乾行」句為是。
《彖伝》にいう。同人とは、柔爻が位を得中を得て上に乾に応ず。ゆえに「同人」と言う。「柔」は六二を指し、「乾」は九五を指す。これは卦体より卦名の義を釈す。続けて経文にまた「同人」の二字現る(文澜閣本は「同人曰」と作す)。旧説はこの両字を伝写して重出の衍文と見なす。来知徳《周易集注》は則ち以て、これは先に卦辞を複述して後に解説を加うるの語気と為す。意は六二が上に乾体に応ずるは固より「同人」と言いうるも、然るに卦辞はまた「同人于野、亨、利渉大川」と言うは、これはまた何によるか――以て下文の「乾行也」の一句を引起す。来氏のこの説を以て是と為す。
同人于野,亨,利涉大川,乾行也。文明以健,中正而應,君子正也。唯君子為能通天下之志。乾行句,釋利涉大川之由。二為同人之主,應乾固亨矣。至於利涉大川,非二所能。乃乾以剛健之天德,同乎人以涉險,故曰乾行也。文明以健二句,合二體言之,釋利君子貞之意。內文明則能燭理,明乎大同之義。
《彖伝》は続けていう。「曠野に於いて人と同じくすれば亨通、大河を渡るに利し」とは、あれは乾の作為。文明にしてまた剛健、中に居って正を守って上下相応ず――これは君子の純正。ただ君子のみが能く天下人の心志を通達す。「乾行也」の一句は、「利渉大川」の由縁を釈す。六二は同人の一卦の主爻で乾体と相応ずれば、固より亨通す。ただ大河を渡るのごとき事は六二の担當し得る所に非ず、乾が剛健の天徳を以て人と同じくして共に険難を渉るに由る。ゆえに「乾行」と言う。「文明以健、中正而応」の両句は、上下両体を合わせて言い、「利君子貞」の用意を釈す。内卦は文明なれば、便ち事理を照見して大同の道理を明白す。
外剛健則能克己,盡乎大同之道。二五皆居中得正,內無私心而外合天德。凡此四者,皆君子之正道也。正者,人心所同。然君子唯以正,而天下之志已在吾心,所以利君子貞也。
外卦は剛健なれば、便ち己の私意を克除して大同の道を尽頭に做致しうる。六二・九五は皆中に居って正を得、内裏に私念なく外面は天徳に合す。文明・剛健・中正・有応のこの四様は、皆君子の正道。いわゆる「正」は、本来人人の心裏の共同に認可する所。君子はただ一味に正を守れば、天下人の心志は便ちすでに皆己の心中に在り。ゆえに「利君子貞」と言う。
象曰:天與火,同人。君子以類族辨物。天在上而火炎上,同而異,異而同也。類族者,天之生物各族殊分,法乾之無私者,於殊分之族,而類聚其所同,異中之同也。辨物者,火之所及,凡物畢照,法離之有辨者,於均照之物,而辨析其異,同中之異也。
《象伝》にいう。天と火は《同人》の象。君子はここに由って法を取り、同類の族群を帰併し、事物の差別を分辨す。天は上に在って火性は上に向かい、両者は同の中に異あり異の中に同あり。いわゆる「類族」とは、天は万物を生養して各個の族類は本は分殊なれど、君子は乾の無私を效法して、分殊の族類の裏に於いてそれらの相同じき処を歸聚して類を成す。これは異の中より同を看出す。いわゆる「辨物」とは、火光の到る所は万物として照見せざるなく、君子は離の能く辨するを效法して、同じく照見せらるる万物の中に於いてそれらの差異を分析す。これは同の中より異を看出す。
初九:同人于門,無咎。兩戶為門。初變艮為門,有門象。同於門外,雖非野之可比,然亦所同者廣而無私。同人之初,未有私主。以剛在下,上無繫應。占可無咎。
初九の爻辞:門外に出でて人と同じくすれば、過咎あらず。両扇の戸を合わせて「門」と言う。初九一たび変ずれば下卦は艮を成し、艮は門闕。ゆえに門の象あり。門外に於いて人と同じくするは、「同人于野」のごとき広遠には及ばざると雖も、同じくする所の範囲は寛広にして偏私なしと算す。同人の卦の開頭に処し、まだ私心に専主する対象なし。また陽剛を以て最下に居り、上面に相応する爻の牽係なし。この爻を占うれば、過咎あらざるを得べし。
象曰:出門同人,以誰咎也。門以內,家人也,於宗是也。門以外,天下之人也。雖未至於野,而非私暱矣。必出門而所同乃大,人自無咎之者。他卦又誰咎,有在我取禍無所歸咎者。此則謂其無私,人不得而咎之也。
《象伝》にいう。門を出でて人と同じくすれば、また誰か彼を咎めんや。門の以内は一家人で、六二の「同人于宗」はこの一類に属す。門の以外は則ち天下人。初九はまだ「野」のごとき広遠に至らざると雖も、すでに私に相亲昵するに非ず。必ず門を出でてこそ、同じくする所の範囲は広大と算し、他人は自ずと彼を責むべきなし。別の卦に「又誰咎」と言うは、多くは禍の自ら招来するを指し、旁人を怨むべからず。ここに「以誰咎」と言うは、則ち彼の心中に私なく、他人は彼を怪罪する由なきを言う。
六二:同人于宗,吝。宗,黨也。乾為諸卦之祖。離中變為乾,有同於宗之象。六二中正,有應於上。在一卦為同之主,宜得吉占。然同之道,貴乎大公。二既專有所應,則不能大同矣。又以陰從陽,臣妾順從之道也,故吝。易之悔自凶趨吉,吝則自吉趨凶。本以相應為善,反以過於私暱而得吝。蓋全卦取大同之義,於爻義又示阿黨之戒也。象曰:同人于宗,吝道也。狹而不公,有可吝之道也。
六二の爻辞:ただ本宗本党の内に於いて人と同じくすれば、惜しむべし。「宗」はすなわち党与・自家の一夥。乾は諸卦の祖で、離体の中爻が一たび変ずれば便ち乾を成す。ゆえに本宗と同じくする象あり。六二は中に居って正を得、上に九五の相応あり、全卦の中に於いてまた「同」の主爻。理に照らせば吉断を得べし。しかし相同じくする道は大公を貴ぶ。六二はすでに専ら応ずる所有れば、天下と大同するを做し得ない。況んやそれは陰柔を以て陽剛に順従するは、あれは臣妾の順従の路数。ゆえに「吝」と断ず。《周易》の「悔」は凶より転じて吉に向かい、「吝」は則ち吉より転じて凶に向かう。本来相応は好事と算すれど、反って私に相亲昵するに過ぎるに因って一つの「吝」の字に落つ。見れば全卦の取る所は大同の義理にして、爻義の上に於いてまた特意に結党偏私の告誡を点出す。《象伝》にいう。ただ本宗の内に於いて人と同じくするは、吝なるべきの道。範囲は狹窄にして大公する能わざれば、自ずと人をして惋惜せしむる路数を含む。
狹而不公,有可吝之道也。九三:伏戎于莽,升其高陵,三歲不興。離為戈兵,有戎象。二三四互為巽木,有莽象。二與五為正應。三剛而不中,欲同於二,懼五見攻,伏於下以伺五之隙,有伏戎于莽之象。三變陰互為(文瀾本「為」作「得」)艮,有高陵象。三居下卦之上,下窺二之動,有升其高陵之象。自三至上三爻,上無正應,有三歲不興之象。
上文を承けて六二を言う。それが同じくする所はただ近旁に在り、交往は狹窄にして天下に公にする能わず。ゆえに羞吝に値する一面あり。九三の爻辞にいう。甲兵を草莽の中に埋伏し、高き山陵に登って張望す。三年の久しきも敢えて兵を興さず。取象に就いて言えば、上卦の「離」は戈兵。ゆえに兵戎の象あり。二・三・四の爻は互いに「巽」を成し、巽は木。ゆえに草莽の象あり。六二と九五は本は一対の正応。九三は陽剛にして中位に居らず、一心に六二と同じくせんと欲するも、九五の来攻を怕れ、便ち下に潛伏して九五の空隙を窺伺す。これがすなわち「伏戎于莽」の象。九三もし陰爻に変ずれば互体は便ち「艮」を成し、艮は山。ゆえに高陵の象あり(ここの「為」の字、文澜本は「得」と作す)。九三は下卦の最上の位に居り、下に窺伺して六二の動静を伺う。ゆえに「升其高陵」の象あり。九三より上九に至るまで数えて共に三爻で、しかるに上九は九三と相応せず、外に援助なし。ゆえに「三歳不興」の象あり。
三欲同二,而二非正應,則理不直。五居尊位,勢又不敵,故三年之久不敢動。此強同而不得者也。象曰:伏戎于莽,敵剛也;三歲不興,安行也。敵剛指五。安行,言上無應必不可行,至於三歲之久,又安能行乎。
九三は六二と同じくせんと欲するも、六二は並びそれの正応に非ず。理に於いて本は直ならず。九五はまた尊位に居り、勢力もまた九三の敵し得る所に非ず。ゆえに三年の久しきに拖るもなお敢えて発動せず。これは強求して苟同するも終に得べからざるの一類。《象伝》にいう。甲兵を草莽の裏に埋伏するは、敵する所は剛強の九五なるによる。三年敢えて兵を興さざるは、どこを走行し得んやと言う。いわゆる「敵剛」とは、まさに九五を指す。いわゆる「安行」とは、上九が九三と相応せず、本来行うべき路なく、況んや三年の久しきに拖れば、またどうして行動し得んや。
九四:乘其墉,弗克攻,吉。四則不中正,欲同六二而為三所隔。自三欲下取二,故有乘墉以攻之象。然以剛居柔,知二非正應,故有自反不克攻之象。能改過可以得吉,則賢於三矣。蓋三伏於莽,自下而伺五也;四之乘墉,乘三以攻二也。三惡五之親二,故有犯上之心;四惡二之比三,故有陵下之志。然三以剛居剛,懼五之攻,屈於勢也;四以剛居柔,終不克攻,反於義也。反義,得吉道矣。此始強同而終能改過者也。
九四の爻辞にいう。あの城墻に登り乗るも、終に攻め過すことなし、吉。九四もまた不中不正にして、六二と同じくせんと欲するも、九三に中間に隔てらる。それは九三を越過して下に六二を奪取せんと欲す。ゆえに城墻に登りて進攻する象あり。しかしそれは陽剛を以て陰柔の位に居り、心裏に六二が自己の正応に非ざるを明白し、ここに於いて反躬自省して終に進攻せず。ゆえにまた「弗克攻」の象あり。能く過を改めれば吉を得べし。これはすなわち九三より高明なり。九三が兵を草莽に伏するは、下より九五を窺伺す。九四が城に登るは、九三を踏過して六二を攻むるなり。九三は九五が六二に親近するを恨むので、上を犯すの心あり。九四は六二が九三に親比するを恨むので、下を凌ぐの志あり。しかし九三は陽を以て陽に居りて、九五の来攻を怕るるは、形勢に屈服す。九四は陽を以て陰に居りて終に攻めざるは、義理の上に帰回す。義理に帰回すれば、すなわち吉を取るの道を得る。これは起初は強求して苟同し、最終に能く過を改むるの一類。
象曰:乘其墉,義弗克也;其吉,則困而反則也。已乘其墉,則力非不足也,斷以義而弗克攻耳。義者,天則不可逾。志欲攻而知義不可攻,困於心而反於法則,能改過者,所以吉也。與人同,善事也,乃三四皆有爭奪之象。四乘墉有其意,三伏莽則已見其形矣。四惡二三,所欲攻者臣;三敵五,則欲攻其君矣。涉世者不可不知。而三四有吉否之不同,又好剛強同者所宜戒也。
《象伝》にいう。城墻に登り乗るは、義理に就いて言えば攻むべからざるなり。それの吉たる所以は、心に困窘して法則に回帰したによる。すでに城墻に登り乗れば、見れば力量は並び足らざるに非ざるも、ただ義理を以て一断して往きて攻めざるのみ。いわゆる「義」とは、すなわち天然の法則で逾越すべからず。心裏は攻めんと欲するも明らかに義に於いて攻むべからずと知り、内心に困して法則に返帰す。能く過を改む。ゆえに吉を得る。人と同じくするは本は好事なれど、九三・九四は皆争奪の象あり。九四の墻に登るはただこの意図あるのみ。九三の兵を草莽に伏するは則ちすでに形跡を現出す。九四の恨む所は六二と九三で、攻めんと欲するはなお臣。九三は九五と敵を為せば、それはすなわちその君を攻めんと欲する。世に渉る人はこの分別を明白せざるべからず。しかるに九三・九四は一凶一吉にして大いに相同じからず。これもまた剛強を逞しくし強求して苟同する人の引いて以て戒と為すべき所。
九五:同人先號咷而後笑,大師克相遇。五剛中正,二柔中正,本正應也,而為三四所隔,不得其同。然正應者終不得而問也。隔於三四,號咷之象。五變為離,互三四又為兌說,又火無定體,故有先號咷而後笑之象。離為戈兵,有大師象。三四剛強,九五以陽剛之德勝之,故有大師以克之象。二五終為正應,相遇之象。
九五の爻辞にいう。人と同じくするに、先に痛哭号啕して後に歡笑す。大軍を動用して阻隔する者に戦勝してこそ、応ずる所の人と相遇す。九五は陽剛中正、六二は陰柔中正、本は一対の正応なれど、九三・九四に隔断せられて同じくする能わず。然るにこれ正応なれば、終に隔え断ち間離する能わず。三・四に隔たるるに因って、ゆえに号啕の象あり。九五一たび変ずれば則ち上体は離を成し、三・四の互体はまた兌を成し、兌は悦。況んや火は本は定体なし。ゆえに先に号啕して後に歡笑する象あり。離は戈兵。ゆえに大軍の象あり。九三・九四は剛強にして、九五は陽剛の徳を以てそれらに勝過す。ゆえに大軍を興して敵を克つ象あり。六二と九五は終にこれ正応。ゆえに相遇する象あり。
九五大君,三四以臣隔君,大逆也,故興大師以克強暴,而後遇正應也。然人君宜與天下相孚於大同,乃不免於先號後笑,用師以克,如敵國之爭,何也。蓋以全卦言之,以大同為亨;而就二五一爻言之,終未免於私吝,故不得言吉也。象曰:同人之先,以中直也;大師相遇,言相剋也。中,理直,故不勝其忿,先至於號咷也。直,即君子之正也。相遇必由於中直乃克,非至正,無以通天下之志也。
九五は一国の大君、九三・九四は臣下の身分を以て君臣を隔断するは大逆。ゆえに大軍を興して強暴を討平して後にこそ、正応と相遇す。ただ人君は本は天下人と大同に於いて相信すべし。今は竟も先に号啕し後に歡笑するを免れず、なお兵を用いて勝を取り、敵国の相争うがごとしは、これは何によるか。全卦に就いて言えば、天下の大同を以て亨通と為す。単に六二・九五のこの両爻に就いて言えば、終に偏私可吝を免れざるによる。ゆえに吉と断じ得ない。《象伝》にいう。同人の先に号啕する所以は、中に居って理直なるによる。大軍が相遇するとは、相戦いて後に能く克つを言う。「中」はすなわち理直。ゆえに憤懣を忍び得ずして、先に号啕に至る。「直」はすなわち君子の正。相遇すれば必ず中正理直に憑ってこそ勝ち得。極正の道に非ざれば、天下人の心志を貫通する法なし。
上九:同人于郊,無悔。乾有郊象。居外無應,去陰已遠,物莫與同,故有同人于郊之象。野遠而郊近。但野遠而郊近。但野乃大眾往來之道,無人不同;郊在郭外荒僻之處,無人可同也。然無所爭,可以無悔。象曰:同人于郊,志未得也。
上九の爻辞にいう。郊外に於いて人と同じくすれば、悔恨なし。上卦の乾は郊野の象あり。上九は卦の外に処して応爻なく、六二のこの一陰よりすでに遠く、それと同じくすべきものなし。ゆえに「同人于郊」の象あり。野は遠く郊は近し(底本ここは「野遠而郊近。但」の一句が重出す――当に刻本の衍文なるべし)。野は大衆の往来の通途で、人として同じくし得ざるなし。郊は外城の以外の荒僻処で、人として同じくすべきなし。しかしすでに争う所なければ、すなわち悔恨なきを得べし。《象伝》にいう。郊外に於いて人と同じくするは、心志まだ実現せざるなり。
爻曰無悔,以其無爭於人喜之;夫子則以不能同於人病之。唯君子能通天下之志,今無人可同,則於同人之志,亦未得遂也。易卦有以此爻為主,而吉凶與彖同者,如屯之初、比之五是也;有成卦在此爻而不得為主,吉凶與彖異者,則此卦之二五是也。
爻辞はただ悔恨なしと言うのみ――これはそれが人と争わざるに就いてそれに欣喜するなり。孔子が《象伝》を作るに、卻てそれが人と同じくする能わざるを以て病と為す。ただ君子のみが能く天下人の心志を貫通す。今は人に同じくする可きなからば、されば「同人」のこの件の事の心志の上に於いても、また実現し得る能くなきなり。《易》の中の卦は、ある一爻を以て主と為してこの一爻の吉凶が《彖辞》と一致するあり――例えば《屯》卦の初九・《比》卦の九五がすなわち是。また卦はこの一爻に由って成ると雖も、主爻を做し得ず、吉凶は反って《彖辞》と相異なるあり――本卦の六二・九五がすなわちこのごとし。
蓋論全卦,以五陽同一陰,又二五皆中正,故有曠遠無私之象。若就一爻論,則所應既專,在我有私暱之嫌,在人有忿爭之事矣。故二吝而五不免於號咷,三四皆爭,上以遠而忘志不遂,初亦以比二而僅免咎。六爻之義皆不及全彖之德。君子欲通天下之志,非大公至正不能也。
全卦に就いて論ずれば、五つの陽爻が一つの陰爻に同じくし、六二・九五はまた皆中正。ゆえに曠遠無私の象あり。もし単に一爻に就いて論ぜば、応ずる所がすでに專一なれば、自己に於いては偏私昵愛の嫌疑あり、他人に於いては忿争の事を生出す。ゆえに六二は吝あり、九五もまた号啕を免れず。九三・九四は皆争奪に在り、上九は太く遠きに因って心志は遂ぐを得ず、初九もまたただ六二に親比するに因ってこそ僅かに過咎を免る。六爻の義理は皆全《彖》の言う所の徳に趕かず。君子が天下人の心志を貫通せんと欲するは、至公至正に非ざれば做し得ない。
大有卦
大有。大有,乾下離上。火在天上,其明及遠,萬物畢照,有盛大豐有之象。又一陰居尊位,眾陽並應。易以陽為大有,所有者大之義,故曰大有。大有次同人。按,序卦:與人同者,物必歸焉,故受之以大有。眾物所歸,所有乃大,大有所以次同人也。小畜亦一陰五陽,而曰小,此則稱大者。
《大有》。大有卦は、下卦が乾・上卦が離である。火は天の上に在り、光明は極めて遠く照らし、万物として照らされざるなく、盛大豊有の象あり。また一つの陰爻が尊位に居り、衆陽は皆来りて相応ず。《易》は陽を以て大と為し、「大有」はすなわち所有する者の大なるの意。ゆえに卦名を「大有」という。《大有》は《同人》の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、能く人と同じくする者は、万物は必ず彼に帰附す。ゆえに接ぐるは《大有》。衆物の帰する所、所有は自ずと大。これが《大有》が《同人》に次ぐ道理。《小畜》もまた一陰五陰なれど「小」と称し、ここは卻て「大」と称す。その間に分別あり。
小畜陰居四,欲統諸陽,其勢逆;大有陰居五,則位尊,以統諸陽,則勢順。故小畜之亨,不在六四而在上下五陽;大有之元亨,不在上下五陽而六五。五以柔居尊,而為上下所應,合全卦又有內剛健外文明之德,自可大亨,此全彖之大旨也。六爻皆從五起義:初遠五而有艱,二應五而無咎,三以公而亨於五,四以謙而能承五,上以近五而獲天祐。此六爻之大略也。
《小畜》の陰爻は第四位に居りて衆陽を統率せんと欲す。その勢は逆なり。《大有》の陰爻は第五位に居り、位すでに尊貴なれば、以て衆陽を統率すればその勢は便ち順。ゆえに《小畜》の亨通は六四に在らずして上下の五つの陽爻に在り。《大有》の元亨は卻て上下の五陽に在らずして六五に在る。六五は陰柔を以て尊位に居って上下の応ずる所と為り、全卦を合わせて看ればまた内卦は剛健・外卦は文明の徳あり。自ずと大亨しうる。これが全《彖》の大旨。六爻は皆六五より義を取る。初九は六五より遠くして艱難あり、九二は上に六五に応じて過咎なし、九三は公侯の身分を以て六五に献享し、六四は謙抑を以て能く六五を承奉し、上九は六五に親近するに因って天祐を獲得す。これが六爻の大略。
大有:元亨。大有,所有之大也。火在天上,無所不照。一陰居尊得中,五陽宗之。乾健離明,居尊應天,尊位能柔,物情所與。諸爻之有,皆六五之有,豈不大哉。所有者大,則其亨亦大矣,皆治世極盛之象也。
《大有》の卦辞:大いに亨通す。「大有」はすなわち所有する者の大。火は天の上に在りて照らさざる所なし。一つの陰爻は尊位に居って中を得、五つの陽爻は皆それを尊奉す。内卦の乾は健、外卦の離は明、尊位に居って上に天道に応ず。尊位に処して能く柔順――まさに人情の楽しんで帰附する所。各爻の所有は皆六五の所有。あに大ならざらんや。所有するすでに大なれば、その亨通もまた大。これらは皆治世の極盛の気象。
彖曰:大有,柔得尊位大中而上下應之曰大有。同人大有,一柔五剛均也。柔在下,曰得位、得中、曰應乎乾而為同人,我同乎彼,卑附於尊之辭也;柔在上,曰尊位、曰大中、曰上下應而為大有,我有其大,上統乎下之義也。此以卦體釋卦名義也。
《彖伝》にいう。大有とは、陰柔が尊位を得、大にして中に居り、上下は皆来りてそれに応ず。ゆえに大有と言う。《同人》と《大有》は同じく一柔五剛、この一点は両卦相等し。柔爻が下卦に在れば、則ちそれを「得位」「得中」「応乎乾」と言いて《同人》を成す。あれは我が往きて彼と同じくし、卑者が尊者に依附するの説法。柔爻が上卦に在れば、則ちそれを「尊位」「大中」「上下応」と言いて《大有》を成す。あれは我がその大を擁有し、上に在って下を統轄するの意。この一節は卦体を以て卦名の義を釈す。
其德剛健而文明,應乎天而時行,是以元亨。上節自柔得尊位以下,專主六五一爻以論人君之位,能有眾陽之大;自其德剛健以下,兼上下兩體以論人君之德,能致元亨之治也。內剛健則克勝其私,外文明則灼見其理。上下應之者,眾陽應乎六五也;應天時行者,五以柔應乾二之剛也。天之道不外乎時而已。憲天出治,順時而行,是以大亨也。
《彖伝》は続けていう。その徳は内は剛健にして外は文明、上に天道に応じて時に依って行う。ゆえに大亨。上の一節は「柔得尊位」以下、専ら六五の一爻に就いて人君の位を言い、能く衆陽の大を擁有する。「其徳剛健」以下は、則ち上下両体を兼ねて取って人君の徳を言い、能く元亨の治を招致する。内が剛健なれば、便ち己の私意を克制しうる。外が文明なれば、便ち事物の理を明察しうる。いわゆる「上下応之」とは、衆陽が皆六五に応ずること。いわゆる「応天時行」とは、六五が柔を以て乾体九二の剛に応ずること。天道は一つの「時」の字の外になし。天道を取法して政を施し、時に順って行う。ゆえに大いに亨通す。
象曰:火在天上,大有。君子以遏惡揚善,順天休命。凡物未見,則有無不可知。火在天上,無物不照,始見其有之大。所有既大,不可無以治之也。天命有善而無惡,君子於惡之未著者遏絕之,使不復作;善之隱者顯揚之,使樂於為。去惡歸善,所以順天休美之命也。謂之順者,天討有罪,吾遏之以天;天命有德,吾揚之以天,於我無與也。君子在上則以此治世,在下則以此治身,故本義云:反之於身,亦若是而已矣。
《大象伝》にいう。火は天の上に在り――大有の象。君子はここに因って悪を遏止し善を表彰し、上天の美好の命に順承す。およそ物の顕現なからざれば、その有無は知る由なし。火は天の上に在りて照らさざる物なく、こそ所有の大を見出す。所有すでに大なれば、治理の弁法なかるべからず。天命は善のみありて悪なし。君子は未だ顕著ならざる悪に対してはそれを遏絶して再び発作せしめず、隠微の善に対してはそれを表彰して人をして楽しんで為さしむ。悪を去り善に帰するは、まさに上天の美好の命に順承するなり。「順」と言う所以は、上天が罪あるを討伐すれば、我便ち天意を以て彼を遏止し、上天が徳あるを授命すれば、我便ち天意を以て彼を表彰す。その中に並び我が自己の一点の私意なし。君子は上位に在ればこの道理を以て世を治め、下位に在ればこの道理を以て身を治む。ゆえに《本義》にいう――反ってこれを己の身に施せば、また不過この如くのみ。
初九:無交害,匪咎,艱則無咎。害者,害我之大有也。富者怨之府,故當大有之時,最易有害。初居下位,凡民而享大有,家肥屋潤,人或害之。離為戈兵,又以離火克乾金,有惡人傷害之象。而初陽在下,上無繫應,未與物接,去離尚遠,未涉乎害,何咎之有。然自以為匪咎,而以易心處之,反有咎矣,故必艱難其志,慎終如始,乃得無咎。蓋匪咎者,此爻之義;艱則無咎,則處此爻之道也。
初九の爻辞にいう。交往の害なし。過咎に非ず、艱難を以て之に処すれば過咎なし。ここの「害」とは、我が大有を妨害するを指す。富は怨を招くの淵藪。ゆえに正に大有の時に当たり、最も害を招き易し。初九は下位に居り、平民を以て大有を享く。家は肥え屋は潤い、他人は便ち彼を害し来るを得べし。離は戈兵で、また離火は乾金を克つ――悪人の傷害する象あり。ただ初九は陽を以て下に居り、上面に相応する牽系なく、まだ外物と交接せず、上体の離火よりなお遠く、まだ禍害に渉及せず。何の過咎か言うべき。しかしもし自ら過なしと為して、軽忽の心を以て処置せば、反って過咎あらん。ゆえに必ずその志を艱難にして愼終如始としてこそ、過咎なきを得べし。「匪咎」はこの一爻の本身の義理。「艱則无咎」こそ、この一爻に処する方法。
象曰:大有初九,無交害也。交則有害。處卑無應,未有驕盈之失,得以無害故也。九二:大車以載,有攸往,無咎。坤為太(文瀾本「太」作「大」)輿。九二體乾而曰大車者,輿指軫之方而能載者言,車則以其全體而言。引之以馬之健,行之以輪之圜,皆乾象也。況九二以剛居柔,柔則其虛足以受,剛則其健足以行,有大車象。
《象伝》にいう。大有卦の初九は、交往の害なし。交往あれば便ち害あり。初九は卑位に処して応爻なく、驕盈の過失なし。ゆえに能く害なし。九二の爻辞にいう。大車を以て裝載し、往く所有りて過咎なし。坤は大輿(「太」の字、文澜本は「大」と作す)。九二は本は乾体なのに卻て「大車」と言うは、「輿」はただ車廂の方正にして能く物を載するに就いて言い、「車」は則ち整体に就いて言うに由る。健馬を以て牽引し、圓輪を以て行走するは、皆乾の象。況んや九二は陽剛を以て陰柔の位に居り、柔なれば則ち内虚にして受載に足り、剛なれば則ち強健にして行遠に足る。ゆえに大車の象あり。
上應乎五,載上之象。如是而有所往,可以無咎,可以任重而致遠也。不言吉者,處大有之時,任天下之重,分所當然,得以無咎而已。此大臣才德兼全,足以任重者也。象曰:大車以載,積中不敗也。車大足以任重,雖多積於中而車行不至於敗也。
九二は上に六五に応ず――まさに上に在る者を承載するの象。このようにして往く所有れば、過咎なきを得べく、任重くして遠きを致すを得べし。爻辞が「吉」と言わざるは、大有の時に処して天下の重任を担負するは本は分内の当然に由る。能く過咎なからばすなわち足る。これは才徳兼備して足りて重きを任ずる大臣。《象伝》にいう。大車を以て裝載するは、積む所は車中に在って傾敗に至らざるなり。車は大なれば則ち足りて重きを任じ、裝載多しと雖も車子の行走は傾敗に至らない。
九三:公用亨于天子,小人弗克。亨作享。按,本義作享獻之享,時解因之,取大臣獻替之義。今按,左傳卜偃戰克而王享之言,作宴享之享為優。三四五互兌為口,三變六為坎,有飲食象。九三居下之上剛而得正,有公侯之象。上有六五之居,虛中下賢,有亨于天子之象。然三變六為陰為小,又有小人弗克之象。占者得此,有剛正之德,則足以受天子之寵榮;若不然,則雖有享宴之榮,亦負素餐之愧也。此與本義稍殊,然於卦爻較切。
九三の爻辞にいう。公侯は天子に献享す。小人は担當し得ず。「亨」はここは「享」と読む。《本義》に按じて享献の享と解し、当時の講章はそれに沿い、大臣が可否を進献して君の失を匡救するの意を取る。今《左伝》に按ずるに卜偃の「戦克而王享之」の言を記す。宴享の享と解するがさらに好し。三・四・五の爻は互いに兌を成し、兌は口。九三が六に変ずれば則ち下体は坎を成し、飲食の象あり。九三は下卦の上に居り、剛にして正を得――公侯の象あり。上面に六五が位に在り、虚中にして礼賢下士す。ゆえに天子に献享する象あり。ただ九三一たび変じて六と為れば陰を成し小を成し、また小人が勝任し得ざる象あり。占者がこの爻を得れば、もし剛正の徳あれば足りて天子の寵栄を承受しうる。もし然らざれば、たとえ宴享の栄あるも、尸位素餐の慚愧を免れ難し。この一解は《本義》と稍や同じからざるも、本卦の爻象に於いてさらに貼切。
象曰:公用亨于天子,小人害也。小人妄叨君寵,反為害也。乾金三變為兌,亦金也,迫近離火,與初無交害者不同,故有害。九四:匪其彭,無咎。彭,鼓聲,以盛多之貌,即大有之大也。四變中互為震,震為鼓,有彭象。大有皆六五之有也,然以柔中居尊,而九四以剛近之,且居四陽之首,率諸陽以進,盛多蓋彭矣。近君,聲勢不宜太盛,唯以剛居柔,雖盛大而不有其大,故有匪其彭之象。占者如是,則無咎也。
《象伝》にいう。公侯が天子に献享するは、小人に対して言えば反って禍害を成す。小人は妄りに自ら君主の寵幸を窃取し、反って自己を害す。乾は金で、九三一たび変ずれば兌を成し、兌もまた金で、上体の離火に緊逼す――初九の「无交害」の処境と同じからず。ゆえに害あり。九四の爻辞にいう。自らあのごとき盛大に居らず、過咎なし。「彭」は鼓声で、以て盛多を形容す――すなわち「大有」の大。九四一たび変ずれば中互は震を成し、震は鼓。ゆえに彭の象あり。大有は本は皆六五の所有なれど、六五は柔中を以て尊位に居り、九四は卻て陽剛を以てそれに逼近し、また四つの陽爻の首に居って衆陽を率いて進む。声勢は謂うべく盛大にして鼓のごとし。君主に逼近するは、声勢は太く盛んなるべからず。ただ陽剛を以て陰柔の位に居り、盛大なれど自らその大に居らざれば、ゆえに「匪其彭」の象あり。占者が能くこの如くなれば、過咎なし。
象曰:匪其彭無咎,明辨皙也。四為離之初,有明皙之象。有盛大之勢,而無燭理之明,僭逼震主,則柔中之君有所不安矣。當大有之時,不自有其大,非明皙者不能,故曰明辨。辨其所居之地,乃別嫌多懼之地;辨其所遇之時,乃盛極將衰之時,凡事貶損以處之,斯皙然明理見幾者矣。
《象伝》にいう。自ら盛大に居らずして過咎なきは、事理を明辨して通達するなり。九四は離卦の初爻で明晰の象あり。もし徒に盛大の勢あるも、事理を洞照する明智なからば、僭越逼迫して君主を震動せば、されば柔中の君は便ち心中安からざるなり。正に大有の時に当たって自らその大に居らざるは、明智通達の人に非ざれば做し得ず。ゆえに「明辨」と言う。己の処する地位を辨清せば、あれは須らく嫌を避け懼れ多き地位。己の遇う所の時勢を辨清せば、あれは盛極まってまさに衰えんとする時勢。凡事皆自ら貶損して以て処置す――これがすなわち事理を明白し微を見て幾を知る人。
六五:厥孚交如,威如,吉。六五為大有之主,離體中虛,有厥孚之象;柔中以應九二,上下歸之,有交如之象;一變純乾,有威如之象。當大有之時,柔中居尊,上下孚信,然太柔,則人心玩矣,濟之以威,所以吉也。初曰交害,五曰交如者,臣有交則私,故害;君有交則虛,故吉也。三有戒辭,初二四僅得無咎,獨五言吉者,當大有之世,盡臣道之常,僅可免咎;而君能剛柔並用,使上下泰交,則可常保其大有矣,故曰吉。
六五の爻辞にいう。その誠信は上下を交孚せしめ、また威厳あり、吉。六五は大有の主で、離体は中虚にして孚信の象あり。柔中を以て上に九二に応じ、上下は皆それに帰附す――交孚の象あり。六五一たび変ずれば則ち純乾を成し、威厳の象あり。正に大有の時に当たり、柔中を以て尊位に居って上下彼此孚信す。しかし太く柔なれば人心は便ち軽慢す。威厳を以て補救す。ゆえに吉を得る。初九は「交害」と言い、六五は「交如」と言うは、臣下に私交あれば偏私を成すに因って害と為し、君上が人と相交るは虚中に出ずるに因って吉と為す。九三は戒辞あり、初九・九二・九四もまたただ過咎なきを得るのみ、独り六五のみが吉と言うは、正に大有の世に当たり、臣下は人臣の常道を尽くして僅かに過咎を免れうるのみ。しかるに人君は能く剛柔並用して上下を交泰せしめれば、長くその大有を保しうる。ゆえに吉と言う。
象曰:厥孚交如,信以發志也。一人之信,以發上下孚信之志,所謂上下交而其志同也。威如之吉,易而無備也。恐人心慢易,至於無備,故威不可無也。上九:自天祐之,吉無不利。
《象伝》にいう。その誠信が上下を交孚せしむるは、誠信を以て上下の心志を啓発するなり。一人の誠信は、上下の相孚の心志を啓発出す――すなわちいわゆる上下交而其志同。爻辞はまたいう。威厳の吉たる所以は、人の軽慢して全く戒備なきに至るを怕るるなり。ただ人心の慢易して全く戒備なきに至らんを恐る。ゆえに威厳は缺少すべからず。上九の爻辞にいう。上天より来りて彼を保祐す――吉にして利あらざるなし。
大有唯六五一陰,而上下五陽從之。上九能下從六五,以陽從陰,處盛時,居高位,享自然之福,有自天祐之之象。曰天祐、曰吉、曰無不利,其為福多矣。象及傳皆不言所以致福之由,故繫辭謂履信思順尚賢。蓋五之交孚,信之也,上能履之;謙退不居,思順也;志從於五,尚賢也。天助順,人助信,有自天祐之吉無不利之象。時解作人君信順下賢以保有。
《大有》はただ六五一つの陰爻のみあり、上下五つの陽爻は皆それに跟従す。上九は能く俯して六五に就き、陽を以て陰に従い、盛時に処して高位に居り、自然の福を享く。ゆえに「自天祐之」の象あり。天祐と言い吉と言い利あらざるなしと言う――福を得るは謂うべく多し。爻辞と《象伝》はともに福を致すの縁由を言わず。ゆえに《繫辞伝》は「履信」「思順」「尚賢」の三義を補出す。六五の交相孚信は信で、上九は能くそれを践行す。謙退にして自ら居らざるは思順。心志は六五に順従するは尚賢。天は順なる者を助け、人は信なる者を助く。ゆえに「自天祐之、吉无不利」の象あり。当時の講章は人君が信順礼賢を以て天下を保有するに解す。
照繫辭傳大意而歸重於君也。大全作功成身退之耆舊賓師,就六爻合論,對五而言之也。然皆不必拘,占者得之,亦隨其所處之位以為占。大抵有剛明之德,居崇高之位,得天之祐者,而以人事言之,唯履信思順尚賢則吉也。
あれは《繫辞伝》の大意に照らして重点を君主の身上に帰したなり。《周易大全》は則ち功成身退の元老賓師と解す――あれは六爻を合わせて通論して六五に対して言う。しかし両説とも拘執する要なく、占者がこの爻を得れば、またその自身の処する地位に随って断ず。大抵は剛明の徳ありて崇高の位に居って天の保祐を得る人。もし人事の上に就いて言えば、ただ履信・思順・尚賢のみが吉を得うる。
象曰:大有之吉,自天祐也。上居君上,有自天象。曰自天祐之,言其非倖致也。全卦為盛世至治之象,以六五之君為主。初之無交,盛世之逸民也;上之順五,功成身退之耆舊,或在賓師之位者也。中爻三位為臣,二大臣,當大有之任者也。
《象伝》にいう。大有の吉は、上天より来る保祐。上九は君位の上に居り、天より来るの象あり。「自天祐之」と言うは、この福は僥倖に得るに非ずを言う。全卦は盛世至治の気象で、六五のこの君主を主爻と為す。初九の「无交」は、盛世の中の隠逸の民。上九が六五に順従するは、功成身退の元老、あるいは賓師の位に処する人。中間の三爻は臣位で、その中の九二は大臣――まさに大有の任を担当する人。
三外臣也,以公侯而受寵者也,以不中,故有戒辭。四近臣也,近於君而自抑損者也,以剛居柔,臣道之宜,故與初同無咎。五以中虛之信,孚乎上下,又一變純乾,剛以濟之,上下交應,剛柔並用,君明臣良,故能長保其大有之盛治也。
九三は外臣で、公侯の身分を以て寵遇を承受す。中位に居らざるに因って、爻辞の裏に告誡を帯ぶ。六四は近臣で、君主に靠近して能く自ら抑損す。陽剛を以て陰柔の位に居るは、まさに臣道の宜しきに合す。ゆえに初九と同じく過咎なきを得る。六五は中虚の誠を以て上下に孚信し、また一たび変じて純乾を成し、剛を以てその柔を補済す。上下は交相感応し、剛柔並用して君明臣良。ゆえに能くこの大有の盛治を長保す。
謙卦
謙。謙卦,艮下坤上。內止外順,為謙之意;山高地卑,屈而處其下,為謙之象,故曰謙也。謙次大有。按,序卦:有大者不可以盈,故受之以謙。大則易於滿盈,道在謙損,謙所以次大有也。全彖極言謙德之亨。六爻雖以九三一陽為主,然內三爻皆吉,外三爻皆利,蓋靜則多吉,順則多利。六十四卦未有如謙之盡善者,君子可以知所處矣。
《謙》。謙卦は、下卦が艮・上卦が坤である。内卦は止まり外卦は順う――まさに謙の意。山は本は高く地は本は卑く、山は卻て身を屈して地の下に処す――まさに謙の象。ゆえに卦名を謙という。《謙》は《大有》の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、所有すでに大なれば自満すべからず。ゆえに接ぐるは《謙》。大なれば便ち満盈し易し。その道は謙退自損に在る。これが《謙》が《大有》に次ぐ道理。全篇の《彖辞》は極力して謙徳の亨通を称説す。六爻は九三のこの一陽を以て主と為すと雖も、しかし内卦の三爻は皆吉、外卦の三爻は皆利。艮体は静を主るに因って静なれば多く吉、坤徳は順を主るに因って順なれば多く利。六十四卦の中に《謙》のごとき尽く善なるなし。君子はこれを看て自処の道を知るべし。
謙:亨,君子有終。謙者,有而不居之義。止乎內而順乎外,山高而處乎地之下,皆有而不居者也。他卦或有待而亨,謙則即亨;他卦始亨而未易保其終,唯謙則始雖卑而終益尊,始雖晦而終益光。蓋謙者人情所樂與,故必亨;始雖不居,終有成就,故有終。
《謙》の卦辞:亨通、君子は好き結果あり。いわゆる「謙」とは、有りて自ら居らざるの意。内卦は止まり外卦は順い、山は高しと雖も地の下に処す――皆有りて自ら居らざるなり。別の卦は或いは待つ所有ってこそ亨通するも、《謙》は卻て当下に便ち亨す。別の卦は起初は亨通するも結局を保住し易からず、ただ《謙》は起初は卑下なれど後来は愈々尊貴、起初は晦暗なれど後来は愈々光大。謙は人情の楽しんで親附する所。ゆえに必ず亨通す。起初は自ら居らず最終に成就あり。ゆえに「有終」と言う。
艮終萬物,亦有有終之象。程傳謂小人雖暫謙,未必能久,唯君子終身不易,是謂謙之有終也;本義謂先屈而後伸,是謂亨之有終也。然二意宜兼。蓋君子唯始終能謙,所以始終能亨。若暫時勉為謙恭,偶然倖獲通泰,皆非君子也。
艮は万物を終結する義あり。ゆえにまた「有終」の象あり。《伊川易伝》は小人は能く一時は謙譲するも必ずしも持久し得ず、ただ君子のみが終身改らずと以て――これは「謙」の有終に就いて言う。《周易本義》は先に屈して後に伸ぶと以て――これは「亨」の有終に就いて言う。両家の意は兼ねて取るべし。君子はただ始終能く謙たるに因って、こそ始終能く亨たり。もしただ一時に勉强して謙恭を装出し、偶然僥倖して一つの通泰を得れば、あれは皆君子と算するに足らず。
彖曰:謙,亨,天道下濟而光明,地道卑而上行。天氣下降,以濟萬物,天之謙也;化育之功光明著見,則謙之亨也。地勢卑順,處物之下,地之謙也;其氣上行以交於天,則謙之亨也。天地猶不敢以自滿,況於人與鬼神乎。此以天地言謙之必亨。
《彖伝》にいう。謙の亨たる所以は、天道は下に向かって万物を済助して愈々光明を見、地道は卑に処してその気は上行するなり。天気は下降して万物を済助す――これは天の謙。化育の功は光明顕著――すなわち謙の亨。地勢は卑順にして万物の下に処す――これは地の謙。地気は上行して天に交わる――すなわち謙の亨。天地はなお敢えて自満せず。況んや人と鬼神とをや。この一節は天地を以て謙の必ず亨通するを説明す。
天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙尊而光,卑而不可踰,君子之終也。虧盈益謙以氣言,日中則昃,月滿則缺是也;變盈流謙以形言,高岸為谷,深谷為陵是也;害盈福謙以理言,滿則招損,謙則受益是也;惡盈好謙以情言,滿盈取忌,退巽見推是也。四者皆出於自然而非有心,故曰道也。蓋太極之中,本無一物,事業功勞,於我何有。天地生萬物而不言所利,此天地人鬼所以皆有取于謙也。
《彖伝》はまたいう。天道は盈満を亏損して謙退を増益し、地道は盈満を改易して謙退に流注し、鬼神は盈満を禍害して謙退に降福し、人道は盈満を厭悪して謙退を喜好す。謙たる者は尊位に居って徳は愈々光大し、卑位に処して人は能く越過し得ず。これがすなわち君子の好き結果。「亏盈益謙」は気に就いて言う――太陽は正中に至れば西に斜け、月は一たび満ちれば亏缺す。「変盈流謙」は形に就いて言う――高き岸は変じて深き谷と為り、深き谷は変じて丘陵と為る。「害盈福謙」は理に就いて言う――自満は損失を招来し、謙虚は増益を得。「悪盈好謙」は人情に就いて言う――満盈は忌恨を招き、退譲は推挙せらる。この四者は皆自然に出でて有意に造作するに非ず。ゆえにそれを「道」と称す。太極の中は本来一物もなし。事業功労は、我に於いて何の己の有と拠るべきあらん。天地は万物を生養して従来自らその利を言わず――これがまさに天・地・人・鬼の皆謙に取法する由縁。
然六爻皆以三為主。三居下卦之上,有尊象;光,艮體也。三居上卦之下,有卑象;不可踰,德莫之過也。蓋人居尊而不光者有矣,謙者處尊而能下人,其德愈光;人處卑則皆得而踰之,謙者處卑,所謂我自卑而人莫我高,又孰得而踰之。君子之終,言此所以為君子有終也。不於其終觀之,則爭而得、謙而失者,蓋有之矣,惟要於究竟,然後知謙之終必亨也。
しかし六爻は皆九三を以て主爻と為す。九三は下卦の最上の位に居り、尊の象あり。それを「光」と言うは、それが艮体に属するによる。九三はまたまさに上卦の下面に当たり、卑の象あり。「不可踰」と言うは、徳行がそれを越過し得るものなきによる。人が尊位に居って光大し得ざるはこれあるなり。謙たる者は尊位に処して能く己を屈して人に下れば、徳行は反って愈々発して光大す。人が卑位に処すれば人人皆彼を越過しうる。謙たる者は卑位に処し、いわゆる我が自ら卑下に居って人は我を圧低する能わず――また誰か彼を越過し得んや。「君子之終」とは、これがすなわち君子の好き結果を得る所以を言う。もし最後より看ざれば、されば争奪して得る所有り謙退して失う所有りの情形は、確かにまた之あり。ただ最終の究竟処に帰結して後にこそ、謙は到頭必ず亨通するを知る。
象曰:地中有山,謙。君子以裒多益寡,稱物平施。不言山在地中而言地中有山,言卑下之中蘊其崇高也。外卑下而內蘊崇高,謙之象也。山之在地,高者降而下,卑者升而上,一升一降,高卑適平矣。物之多者裒取而使之寡,猶降山之高使之卑也;寡者增益而使之多,猶升地之卑而使之高也。一裒一益,而多寡適平矣。
《大象伝》にいう。地の中に山あり――謙なり。君子はここに因って多きを取りて少なきを補い、事物を権衡して施与を均平ならしむ。「山在地中」と言わずして「地中有山」と言うは、卑下の中に崇高を蘊蔵するを言わんと欲するなり。外表は卑下にして内裏は崇高を蘊蔵す――まさに謙の象。山は地の中に処し、高きは降りて来て低きは升りて往き、一升一降して高低は恰好持平す。物の多きは取り出してそれを少なからしむ――あたかも山の高き処を降低して卑からしむるがごとし。少なきは増添してそれを多からしむ――あたかも地の低き処を升起して高からしむるがごとし。一取一添して多寡もまた恰好持平す。
稱物平施,謂稱物之多寡而損益之,然後所施均平,而多者不偏多,寡者不偏寡也。蓋謙之為名,生於過也,物過然後知有謙。謙者使物不過,期得中而已。聖人即謙之名,使一切返於中,善用謙者也。凡大象皆於卦外教人用易之理。裒多益寡稱物平施,俾小大長短各得其平,非君子謙德之象,乃君子治一世,使歸於謙之象也。
いわゆる「称物平施」とは、事物の多寡を権衡して増損を加えて後に施与が均平なるを言う。多きは多きに偏せず少なきは少なきに偏せず。謙のこの名目は、本は「過」あるに因って生ぜしめたるなり。事物に過分あって後にこそ、謙を要するを知る。謙は事物をして過分なからしめ、恰好に中を得るを求むるのみ。聖人は謙のこの名目に就着して、一切をして中道に回帰せしむ。これは善く謙を用うる人。およそ《大象》は皆卦義の外に於いて人に《易》理の運用を教う。多きを取りて少なきを補い権衡して均平に施与し、大小長短をして各々その平を得せしむ――これはすでに不過君子自身の謙徳の象のみならず、君子が一世を治理して天下をして皆謙に帰せしむる象。
初六:謙謙君子,用涉大川,吉。以柔處下,有謙而又謙之象。三四五互為震木,二三四互為坎水,木在水上,涉川之象。用涉與利涉稍殊,利涉者無往不利,用涉者涉川不可爭先。用謙謙之道以涉則吉。人當險難之時,非深自屈折不足以濟,故必用謙謙以涉也。
初六の爻辞にいう。謙にしてまた謙の君子は、この態度を以て大河を渡れば、吉。初六は陰柔を以て最下に処し、謙にしてまた謙の象あり。三・四・五の爻は互いに震を成し、震は木。二・三・四の爻は互いに坎を成し、坎は水。木は水の上――まさに河を渡るの象。「用渉」と「利渉」は稍や分別あり。「利渉」は往いて利あらざるなし、「用渉」は河を渡る時に先を争うべからず。謙にしてまた謙の態度を以て渡ってこそ吉を得。人は険難の時に当たり、深く自ら屈折せざれば足りて難を済ずる能わず。ゆえに必ず謙謙の道を以て渡るを要す。
全卦以三為主,故與彖同言君子。初亦得稱君子者,蓋三在下卦之上,有勞而謙,在上之君子,尊而光者也;初在下卦之下,謙而又謙,在下之君子,卑而不可踰者也。用以涉川,則雖濟患難可矣,況平居乎。占者有其德,則常變皆吉也。
全卦は九三を以て主爻と為す。ゆえに《彖辞》は君子と言い、この一爻もまた君子と言う。初六もまた君子と称しうるは、九三が下卦の上に在りて功労ありて能く謙たるは、上位に在る君子――すなわち《彖伝》のいう所の「尊而光」のあの一種。初六は下卦の下に在りて謙にしてまた謙は、下位に在る君子――すなわち「卑而不可踰」のあの一種。このような徳を以て河を渡れば、患難さえも渡り得る。況んや平居無事の時をや。占者がもしこのような徳あれば、されば常に処り変に処りても皆吉。
象曰:謙謙君子,卑以自牧也。牧,如牛羊使之馴服也。養德之地,未有不基於至卑者。養者至,則愈卑而不可踰矣。六二:鳴謙,貞吉。陰陽唱和為鳴。卦以三為主,三互四五為震,善鳴者也。易凡與震相應者皆言鳴,豫初、中孚二是也,故此卦二上皆言鳴謙。蓋三以勞而能謙。
《象伝》にいう。謙にしてまた謙の君子は、卑下を以て己を畜養するなり。「牧」は牛羊を牧放してそれを馴服せしむるがごとし。徳行を培养する地基は、極めて卑下の処に奠定せざるなし。畜養の工夫が家に到れば、愈々卑下にして愈々人に越過せらるる能わざるなり。六二の爻辞にいう。謙徳は外に鳴し、正を守れば則ち吉。陰陽が彼此唱和するを「鳴」と言う。本卦は九三を以て主と為し、九三と六四・六五は互いに震を成し、震は声を発するに善し。《易》の中におよそ震と相応ずる爻は皆「鳴」と言う――《豫》卦の初六・《中孚》卦の九二がすなわちこのごとし。ゆえに本卦の六二と上六は皆「鳴謙」と言う。これは九三が功労ありて能く謙たるによる。
故凡聞其風者皆相從於謙,和之而鳴。言論稱述,皆自處於卑下,所謂鳴其謙也。二與三比,柔順中正,謙出於性,故有貞吉之象。此爻本義謂以謙有聞,解鳴字亦可通。但此卦(文瀾本「卦」以下有「之義當」三字)以三為主,諸爻所解與三無涉,於取象又未見確解,意義稍淺。今按,蘇傳解之,覺於三爻意義融貫。
ゆえにおよそ九三の風範を聞く人は皆相従って謙に於いて、彼に応和して声を発す。彼らの言論称述は皆自己を卑下の地位に放つ――これがすなわちいわゆる己の謙を外に鳴らす。六二は九三と相隣し、柔順にしてまた中正、謙は本性に出ず。ゆえに正を守って吉を得る象あり。この一爻を《本義》は謙に因って声聞あるに解し、「鳴」の字をこのように講ずるもまた説き通ずるも、本卦はすでに九三を以て主と為す(文澜本は「卦」の字以下になお「之義当」の三字あり)以上、各爻の解釈もし九三と毫も相干らざれば、取象の上に於いてまた確解を見出さず、意は稍や浅きを嫌む。今蘇軾《東坡易伝》の解法に按ずるに、九三の一爻の意義と融貫する多しと覚ゆ。ゆえに蘇説を取る。
象曰:鳴謙貞吉,中心得也。二所居中正,謙本於中心所自得,非由勉強,正與上爻對。九三:勞謙,君子有終,吉。一陽居下之上,剛而得正,上下所歸,有勞而能謙者也。廉非難,勞而能謙為難。一陽為成卦之主,勞矣,乃不處上而處下,故有勞而能謙之象。上不疑而下不忌,自能保終而吉也。艮終萬物,三居艮之終,得其正位,故以彖辭君子有終歸之。
《象伝》にいう。鳴謙にして正を守って吉は、心中に自ずと得る所有るなり。六二の居する所は中正、その謙は内心の自然の所得に本づく。勉强して做し出すに非ず――まさに上六と対照を成す。九三の爻辞にいう。功労ありて能く謙たる君子は、好き結果ありて吉。一つの陽爻が下卦の上に居り、剛にして正を得、上下は皆それに帰附す。これは功労ありて能く謙たる人。廉潔は難しからず、功労ありてなお能く謙たるこそ難し。この一陽は成卦の主で、謂うべく功労ありと雖も、上位に居らずして下位に居る。ゆえに「労而能謙」の象あり。上面の人は猜疑せず下面の人は忌恨せず、自ずと能く結局を保全して吉を得る。艮は万物を終結する義あり、九三は艮体の終に居ってその正位を得る。ゆえに《彖辞》の「君子有終」の一句をその身上に帰す。
象曰:勞謙君子,萬民服也。卦中五陰有民象。非服其勞,服其勞而能謙。所謂汝惟不伐,天下莫與汝爭功。萬民服即有終也。六四:無不利,撝謙。柔而得正,上而能下,其占無不利矣。然功不及三而居其上,必當發揮其謙,以示不敢自安之意。蓋勞謙者雖無忮害之心,而在四則亦有自盡之道也。象曰:無不利撝謙,不違則也。理之當然,非過於法則也。
《象伝》にいう。功労ありて能く謙たる君子は、万民は皆帰服す。卦中の五つの陰爻は民衆の象あり。人々は並びその功労に服するに非ずして、その功労ありてなお能く謙たるに服す。まさに《尚書》にいう所――「なんぢただ自ら誇らざれば、天下に汝と功を争う人なし」。万民帰服す、すなわち「有終」。六四の爻辞にいう。利あらざるなし、謙徳を発揮せよ。六四は陰柔にして正位を得、上に居って能く己を屈して下に在る。占断は自ずと利あらざるなし。しかしその功労は九三に趕かずして九三の上に居れば、必ずその謙を発揮して以て敢えて自安せざるの意を表示すべし。九三の労謙は忌害の心なしと雖も、六四のここに於いてもまた自ずとその本分の道を尽くす所有り。《象伝》にいう。利あらざるなしにして謙徳を発揮するは、法則に違背せざるなり。これは本は理の当然と為す所で、並び過分に法則を拘守するに非ず。
六五:不富以其鄰,利用侵伐,無不利。陰柔,不富之象。以柔居尊,五謙皆為之用,不富而能以其鄰之象。坤為眾,五變互三為離為戈兵,又有行師之象。五君位。君德不必以謙見,且謙柔之過,或不能以自立矣,故不言謙。然不自用而用人,謙之大者。
六五の爻辞にいう。自ら富まずして能く鄰衆の相従を得、兵を出して討伐するに利し、利あらざるなし。六五は陰柔にして富まざるの象あり。陰柔を以て尊位に居り、其余の各爻の謙は皆それの用いる所と為る――まさに自ら富まずして能く鄰衆を得るの象。坤は衆で、六五一たび変ずれば則ち互体は離を成し、離は戈兵。ゆえにまた兵を出すの象あり。六五は君位。君徳は必ずしも謙を以て顕現を頼らず、しかも謙柔が太く過ぎれば、反って自ら立つ能わざるを得べし。ゆえに爻辞は「謙」の字を提げず。しかし自ら己の能を恃まずして能く人を用うるは、まさに最大の謙。
謙者不爭,然居君位而使人有不服,非稱物平施之謂矣。故為君,苟不自用而能用人,雖以之侵伐,亦無不利,蓋無害於為謙也。象曰:利用侵伐,征不服也。言其侵伐非得已,非外謙而內好勝也。
謙たる人は本は人と争わざるなれど、しかし身は君位に居って人に服せざる者あらしめば、それはすなわち「称物平施」に非ず。ゆえに君主を為すは、ただ自ら己の能を恃まずして能く人を用いれば、たとえそれを以て征伐するも利あらざるなし。これはその謙を妨げざるによる。《象伝》にいう。兵を出して討伐するに利するとは、あの服せざる人を討伐するを言う。これはその征伐が不得已に出づるを言い、並び外表は謙遜にして内心は勝を好むに非ず。
上六:鳴謙,利用行師,征邑國。上與三應,亦有鳴謙之象。坤為地為眾,有國邑征伐之象。僅可征己之邑國,不能如五之無不利也。象曰:鳴謙,志未得也;可用行師,征邑國也。
上六の爻辞にいう。謙徳は外に鳴り、兵を出すに利し、己の封邑の国を討伐す。上六は九三と相応じ、また鳴謙の象あり。坤は地・衆で、邦邑を征伐する象あり。それはただ己の封邑を討伐し得るのみ、六五のごとく利あらざるなき能わず。《象伝》にいう。鳴謙とは、心志まだ実現せざるなり。兵を出しうるも、ただ己の邑国を討伐するのみ。
二柔順中正故貞吉。上所居不中,特以與三應,故亦鳴其謙,謙之實有不足矣。謙實不足,故己之邑國或叛之。然上鳴在於謙,則叛者不利;叛者不利,則征之者利矣。以謙得人心,故利用行師。非五之位,故不能無不利;非二之中,故不能貞吉。是以鳴謙雖與二同,而未得遂其志也。
六二は柔順中正なので、正を守って吉。上六の居する所は中ならず、ただ九三と相応ずるに因ってこそ、また謙を外に鳴らすも、謙の実質は実は足らざる所有り。謙の実質は足らざれば、ゆえに己の邑国は或いは彼を背叛せん。しかし上六の鳴らす所は畢竟なお謙に在れば、されば背叛する人は理亏して利ならず。背叛する人は利ならざれば、往きて討伐する人は自ずと利あり。謙徳を以て人心を得。ゆえに兵を出すに利し。それは六五のごとき君位に非ざるゆえ、利あらざるなき能わず。また六二のごとき中に居るに非ざるゆえ、正を守って吉を得る能わず。ここに因ってその鳴謙は六二と相同じると雖も、心志は未だ実現し得ず。
全卦以九三一陽爻為主。而五陰所處,雖有尊卑廣狹常變之不同,而由艮體之靜,皆得吉占;由坤德之順,皆得利占。則甚矣,謙德之可貴也。
全卦は九三のこの一陽を以て主と為す。五つの陰爻の処する位置は、尊卑・広狭・常変の不同あれど、しかし艮体が静を主るに由って皆吉の占断を得、坤徳が順を主るに由って皆利の占断を得る。このように看れば、謙のこの一種の徳は、実に太も貴ぶべきなり。
豫卦
豫。豫卦,下坤上震。九四一陽為卦之主,上下群陰應之。內順外動,由順以動,無不和悅,有豫之義。又雷閉地中,動而出地,通暢和豫,豫之象也。豫卦次謙。按,序卦:有大而能謙必豫,故受之以豫。大而能謙,則有豫樂,豫所以次謙也。
《豫》。豫卦は、下卦が坤・上卦が震である。九四のこの一陽は全卦の主で、上下の衆陰は皆来りてそれに応ず。内卦は順にして外卦は動、順に由って動けば和悦せざるなし――これがすなわち「豫」の意。また雷気は地中に閉蔵し、一たび動いて地上に出でて通暢和楽――まさに豫の象。《豫》は《謙》の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、すでに大にしてまた能く謙なれば必ず和楽す。ゆえに接ぐるは《豫》。大にして能く謙なれば和楽あり。これが《豫》が《謙》に次ぐ道理。
然豫有三義,曰備豫、曰和豫、曰逸豫。知備豫,則和豫隨之;然和豫之過,則逸豫生矣。繫辭傳:重門擊檄柝以待暴客,蓋取諸豫,此備豫之意,彖象所未及也。然建侯行師,雖主人心和豫,而建藩禦侮,備豫之意隱寓其中矣。六爻唯九四之豫以和樂言,他則皆有心求豫,失豫之正而流於逸豫也。唯二以中正不溺於豫,然有先幾之識,則其知備豫可知。然則凡事宜豫而豫不可溺,此全卦之六爻之大旨也。
ただ「豫」に三層の意あり。一は預備の豫、二は和楽の豫、三は安逸の豫。預備を懂得すれば和楽は随って来る。しかし和楽が頭を過ぎれば安逸放縦が産生す。《繫辞伝》に戸を重ねて設け柝を撃ちて夜を巡り暴客を防備すると言うは、大概《豫》卦に象を取る――これは預備の意で、《彖伝》《象伝》はともに講じ到らず。しかし卦辞の「建侯行師」は人心の和楽を以て主と為すと雖も、その中に藩屏を建立し外侮を抵御するは、預備の意がすでに暗に裏面に含まる。六爻の中にただ九四の豫のみ和楽に就いて言う。其余の各爻は皆存心して豫を求め、豫の正を失して安逸放縦に流入す。ただ六二のみが中正を以て豫に沉溺せず、かつ幾に於いて先を見る識見あり。見ればそれは預備を懂得する。このように看れば、凡事は皆早く預備を作るべし。しかし和楽は沉溺すべからず。これがすなわち全卦六爻の大旨。
豫:利建侯行師。豫兼三義,本義但以和樂言之。蓋備豫者,所以致和樂之由;而逸豫者,又和樂之過。故正解專取和樂,蓋彖意尚未他及也。震動坤上,長子主器,有建國治民象;坤順震下,一陽統眾陰,有行師動眾象。屯有震無坤,故不及行師;謙有坤無震,故不及建侯;豫兼二卦,故有此象。建侯必百姓歸心,行師必三軍用命,人心和樂,則二者利矣。
《豫》の卦辞:諸侯を封建し兵を出して征伐するに利し。豫は三義を兼ね、《本義》はただ和楽の一義を取って講ず。預備は和楽を招致する由来にして、安逸放縦はまた和楽の過分に因る。ゆえに正面の解釈は専ら和楽を取り、《彖辞》の本意はまだその余に旁及せず。震は坤の上に動く――長子が祭器を主持する、建国して民を治むる象あり。坤順は震の下――一陽が衆陰を統率する、兵を出して衆を動かす象あり。《屯》卦は震ありて坤なし。ゆえに行師を提げず。《謙》卦は坤ありて震なし。ゆえに建侯を提げず。《豫》は二体を兼ね有す。ゆえに両象とも具備す。諸侯を封建するは必ず百姓の帰心を要し、兵を出して征伐するは必ず三軍の用命を要す。人心和楽してこそこの两件の事は利あり。
彖曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。九四一陽,上下應之,其志得行,此以卦體言其豫也;以坤遇震,為順以動,此以卦德言其所以致豫也。豫,順以動,故天地如之,而況建侯行師乎。順理以動,人心悅服,建侯天地而不悖可也。
《彖伝》にいう。豫とは、剛爻が衆の応を得て心志は行い得、順にして動く。ゆえに豫と為す。九四の一つの陽爻に上下の衆陰は皆来りてそれに応じ、その心志は施行を得る――これは卦体に就いて豫を言う。坤は震に遇うは順にして後に動く――これは卦徳に就いて豫を致すの縁由を言う。《彖伝》はまたいう。豫は順にして動く。ゆえに天地もまたこの如くなり。況んや諸侯を封建し兵を出して征伐するをや。道理に順って動けば人心は悦服し、以て諸侯を封建すれば、天地に質しするも違背に至らない。
天地以順動,故日月不過而四時不忒;聖人以順動,則刑罰清而民服。豫之時義大矣哉。日月之行,景長不過南陸,短不過北陸,故分至啟閉,不差其序,以順陰陽之氣而動也。刑必當罪,順乎民心,非一己喜怒之私,民所以服也。時義,此時之義也。此極言而贊其大,使人涵泳言中,而推其意於言外也。
《彖伝》にいう。天地は理に順って動く。ゆえに日月は運行して過差なくして四時は錯乱せず。聖人は理に順って動けば、則ち刑罰は清簡にして百姓は帰服す。豫の時義は真に大なり。日月の運行は、日影は最長も南陸を過ぎず、最短も北陸を過ぎず。ゆえに二分・二至と四立の啓閉は皆次序を錯乱せず。これは陰陽の気に順って動くなり。刑罰は必ず罪と相当にして民心に順い、一己の喜怒の私意に出でず――百姓の帰服する所以。いわゆる「時義」とは、すなわち此時此際の義理。これは極口に称説してその大を賛嘆し、人をしてこの一句の裏に於いて涵泳玩味して、その意を言外に推して往かしめんと欲する。
象曰:雷出地奮,豫。先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。陽閉地中,奮震出地,則通暢和豫矣。先王作樂,象雷之聲,又取其和之義。殷,盛也。樂無所不用,薦上帝,配以祖考,盛之至也。周祀稷於南郊,配以祖也;祀文王於明堂,配以考也。
《大象伝》にいう。雷は地中より出でて奮発す――豫なり。先王はここに因って楽章を制作して功徳を推崇し、隆盛に上帝に献荐し、また祖考を以て配享す。陽気は地中に閉蔵し、震動奮発して地上に出づれば、便ち通暢和楽す。先王が楽を作るは、雷の声音に象を取り、またその和順の意を取る。「殷」は盛大。楽は用いざる処なく、上帝に献荐しまた祖考を以て配享す――あれは隆盛の極点に到る。周人は南郊に天を祭りて后稷を以て配享す――あれは祖を以て配す。明堂に於いて文王を祭祀す――あれは考を以て配す。
初六:鳴豫,凶。陰柔在下,獨與四應。四震善鳴,欲與倡和,有鳴象。然四大臣近君,其志大行之時;初位卑,所居不中正,小人在下,上得強援,當時用事,不勝其豫,誇大自張,故有凶象。卦以樂豫為義,取眾心之樂也。六爻自四外皆自樂者,則逸豫之過矣,故有吉凶之異。初爻,謙上之反對,皆與震應,故皆以鳴言。然謙者卑下自處,以聞於人者,故猶有利;豫者妄自張大,因人為樂者,故凶。
初六の爻辞にいう。安楽を外に鳴らす――凶。初六は陰柔にして下位に居り、独り九四と相応ず。九四は震に属し、震は声を発するに善し。初六はそれと唱和せんと欲す。ゆえに「鳴」の象あり。しかし九四は君に近き大臣で、まさにその志の大行の時に当たる。初六は位は卑く居る所はまた不中不正――小人が下に在って上面に強援を得て、一時は意を得て事を用い、喜び自ら勝えず、誇大に自ら張る。ゆえに凶象あり。本卦は和楽を以て義と為し、取る所は衆人の心の皆楽なり。六爻の中に九四を除くの外は皆自ら楽を求む――それはすなわち安逸放縦の過分。ゆえに吉凶は各々相同じからず。初六のこの一爻は、まさに《謙》卦の上六を翻転した一爻。両爻とも震と相応ず。ゆえに皆「鳴」の字を用う。ただ謙たる者は自ら卑下に処して声は人に聞ゆ。ゆえになお利あり。豫たる者は妄りに自ら張大して別人に倚って楽を取る。ゆえに凶と為す。
象曰:初六鳴豫,志窮凶也。窮謂滿極。六二:介于石,不終日,貞吉。二三四互為艮,有石象;二變互三四為離,不終日而作之象。樂豫易以溺人,溺則憂矣。六爻獨二中而得正,自守之安靜,堅確如石。靜之至,故其思慮明審,不俟終日而見事理之幾微,是不溺於逸豫而知備豫者也。
《象伝》にいう。初六が安楽を外に鳴らすは、心志が満極まって凶を致すなり。「窮」はすなわち満ちて極処に到る。六二の爻辞にいう。耿介にして石のごとし、一日の終るを待たずして幾を見て作す。正を守って吉。二・三・四の爻は互いに艮を成し、艮は石――石の象あり。六二一たび変ずれば三・四は互いに離を成し、離は明――終日を待たずして動作する所有るの象あり。安楽は最も人を淹没し易く、一たび淹没せられれば便ち憂患を生ず。六爻の中にただ六二のみ中に居って正を得、自ら安静を守り、堅確にして石のごとし。静の極処に到れば、ゆえに思慮は明白審愼にして、一日の過了を待つを須とせずして事理の幾微を看出す。これは逸楽に沉溺せずして預備を懂得する人。
蓋此卦當逸豫,以無所繫應為善。初應四而三五比之,皆有係而溺於豫者,故為凶為悔為疾。二特立於眾陰之中,而無遲戀之意,故靜則如石之堅,動則有不終日之速,不失其正而得吉也。象曰:不終日貞吉,以中正也。中正者,處豫之道也。
この一卦は正に安逸の時に当たり、牽系応援なきを以て好しと為す。初六は上に九四に応じ、六三・六五はまた皆九四に親比す――皆牽系する所有りて豫に沉溺す。ゆえに分別して凶・悔・疾と断ず。ただ六二のみ衆陰の中に特立して遲疑留恋の意なし。ゆえに静まれば石の堅きがごとく、動けばまた終日を待たざるの迅速あり。正を失わずして吉を得る。《象伝》にいう。終日を待たずして正を守って吉を得るは、それが中正なるによる。中正はまさに豫に処するの道。
六三:盱豫,悔,遲有悔。盱,上視也。陰不中正而近於四,四為豫主,六三不中不正,希其逸樂而上視之,有盱豫致悔之象。故占者事當速悔,若悔之遲,必至於有悔也。三質柔而位剛,猶有能悔之象,故戒之,恐其悔之遲也。蓋盱豫者溺於逸豫,遲悔則又失於猶豫矣。聖人兩言悔,始則示人以致悔之端,終則勉人以悔過之勇也。
六三の爻辞にいう。眼を擡げて上望して楽を求むれば悔あり。悔すること遲ければ、なお悔あらん。「盱」は眼を擡げて上視すること。六三は陰柔にして不中不正にして九四に緊隣し、九四はまた豫の主爻。六三はすでに中ならずまた正ならずして、その逸楽を希図して眼を擡げて仰望す。ゆえに仰望して楽を求めて悔を招くの象あり。ここに因って占者は事に遇えば当に急いで悔改すべし。もし悔改すること遲ければ、必ず悔ありに落ちん。六三は質地柔にして位置は剛――なお悔改し得る象あり。ゆえにそれを告誡するは、その悔改するの太く遲からんを怕るるなり。仰望して楽を求むるは逸楽に沉溺するなり。悔改の太く遲きはまた猶豫不決に失す。聖人は两度「悔」と言う。前の一つは悔を招くの端倪を指出し、後の一つは人に悔過の勇気を拿出せんことを勉勵す。
象曰:盱豫有悔,位不當也。言所處不中正,與六二反也。九四:由豫,大有得,勿疑,朋盍簪。九四,卦所由以致豫者,眾陰應之,有大有得之象。以陽居陰,不能無疑,故戒之。德陽而位陰,故五陰亦有朋象。盍,合也;簪以貫髮者。
《象伝》にいう。仰望して楽を求めて悔あるは、処する所の位置の不当なるなり。これはその処する所が不中不正にして、まさに六二と相反するを言う。九四の爻辞にいう。全卦はそれに由って和楽を致し、大いに得る所有り。疑慮する勿れ。朋類は簪子が髪を貫くがごとく聚合して来らん。九四はまさに全卦の由って以て豫を致す一爻。衆陰は皆来りてそれに応ず――大いに得る所有るの象。ただそれは陽爻を以て陰位に居り、心中に疑慮なかるべからず。ゆえにそれを告誡す。その徳は陽にして位は陰。ゆえに五つの陰爻もまた朋類の象あり。「盍」は聚合、「簪」は以て頭髪を貫束するに用う。
一陽貫五陰之中,有以簪貫髮之象。四,大臣以陽剛任上事,致君澤民,合天下以為豫,大有得矣。又必開誠佈公,使朋類之賢俱進,合志和衷,則可常保其豫也。象曰:由豫大有得,志大行也。由已致天下於豫,可謂大行其志矣。
一つの陽爻が五つの陰爻の当中に貫穿するは、簪子を以て髪を貫くの象あり。九四は大臣で、陽剛を以て上に在る者の事を担当し、君徳を輔成して沢は百姓に及び、天下の力を合わせて以て和楽を致す。謂うべく大いに得る所有り。ただまた必ず誠を開き公を布きて、同類の賢者をして一斉に進用せしめ、同心同徳としてこそ、この份の和楽を長保しうる。《象伝》にいう。それに由って豫を致し大いに得る所有るは、心志の大いに施行せらるるなり。自己に由って天下をして皆和楽を得せしむるは、大いにその心志を施行したと言いうべし。
六五:貞疾,恆不死。貞疾猶言痼疾,不得言正,蓋六五非正也。三四五互為坎為心病,貞疾之象。當豫之時,以柔居尊,沈溺於豫,又乘九四之剛,事權歸四,眾心不附,處勢危矣。然以其得中,故又為恆不死之象。
六五の爻辞にいう。久しく治らざる病ありて、長久にして死せず。「貞疾」は猶ほ痼疾と言うがごとく、ここの「貞」は正と解すべからず。六五は本は正位に居らざるによる。三・四・五の爻は互いに坎を成し、坎は心病――まさに痼疾の象。正に豫の時に当たり、六五は柔を以て尊位に居り、安楽に沉溺し、また九四のこの剛爻の上に凌乗す。事権は九四に帰し、衆心は来りて帰附せず。処境は謂うべく危険。しかしそれが中に居るに因って、また長久にして死せざる象あり。
二五皆不言豫。六二貞吉,以中且正,當豫之時而不為豫者,所以吉也;六五貞疾,中而不正,當豫之時而不得豫者,雖未至於凶,亦僅矣。人生於憂患而死於安樂。以五之得中而僅得不死,則過中者,豈生道哉。以君象言之,周末之共主是也。使剛而不中,則魏之曹髦;柔而不中,則唐之僖昭矣。可不戒哉。
六二と六五はともに「豫」の字を提げず。六二は正を守って吉は、それがまた中にしてまた正、正に豫の時に当たって自己は往きて豫を求めざるによる。ゆえに吉。六五は痼疾あるは、中に居るも正を得ず、正に豫の時に当たって自己は豫を得ざるによる。凶に至らずと雖も、またただ勉强に保全するのみ。人は憂患に生まれて安楽に死す。六五の中に居るを以てなおただ死せざるを得るのみならば、されば中さえ過ぐる人は、どこにかなお生路あらん。もし君主の形象を以て言えば、周朝の末年に徒に虚名を擁する共主のごとし。仮使剛にして中ならざれば、曹魏の高貴郷公曹髦と成らん。柔にして中ならざれば、唐朝の僖宗・昭宗と成らん。能く引いて以て戒と為さざるべからんや。
象曰:六五貞疾,乘剛也;恆不死,中未亡也。乘剛,故權下移;得中,故位號猶可保也。上六:冥豫,成有渝,無咎。以陰柔居豫極,有昏冥於豫之象。然以其動體,又有事雖成而能有渝之象,能改過則可無咎矣,勉人以遷善也。又豫上六變則為晉,明出地上,不終昏冥,樂極哀生,有悔心之萌者,所以無咎也。然初鳴豫,即斷其凶,嚴於初以遏其惡也;上冥豫開之以無咎,恕於終以引其善也。
《象伝》にいう。六五に痼疾あるは、剛爻を凌乗するによる。長久にして死せざるは、中に居る徳まだ喪失せざるによる。剛爻を凌乗すれば、ゆえに権柄は下に移る。能く中に居れば、ゆえに名位はなお保住しうる。上六の爻辞にいう。昏昏然として安楽に沉迷す。事はすでに成ると雖も能く改変する所有れば、過咎なし。上六は陰柔を以て豫の極処に居り、安楽に昏迷する象あり。ただそれは震の動体に属し、また事はすでに成ると雖も能く改変する象あり。能く過を改むれば過咎なきを得べし。これは人に善に遷るを勉勵す。しかも《豫》の上六一たび変ずれば《晋》卦を成し、光明は地の上に出でて終に昏冥ならず。楽は極まって哀を生じ、悔心は萌動す。ゆえに過咎なきを得べし。しかし初六は一たび豫を鳴らせば、便ち凶と断定す。あれは開端の処に於いて厳に従して以てその悪を遏止す。上六は豫に昏冥するも、卻てそれに一条の无咎の路を與う。あれは結尾の処に於いて寛に従して以てその善を引導す。
象曰:冥豫在上,何可長也。豫至昏冥,不可久矣,言當速改也。全卦以九四一陽為主,與彖之樂豫同義,其他皆過於豫而至於逸豫者。爻之吉凶皆從四起義:二遠於四而中正,所以吉;上雖遠於四而處豫之極,又與四同震體,故為冥。
《象伝》にいう。安楽に昏迷して上位に居れば、あに能く長久ならんや。豫は昏冥の地歩に到れば、便ち長久する能わず。これは当に急いで改むべしを言う。全卦は九四の一陽を以て主と為し、《彖辞》の言う所の和楽と義を同じくす。其余の各爻は皆豫に過ぎて逸楽に流入する。各爻の吉凶は皆九四より義を取る。六二は九四より遠くしてまた中正。ゆえに吉。上六はまた九四より遠しと雖も、豫の極処に処してまた九四と同じく震体に属す。ゆえに昏冥と断ず。
初則應四而鳴豫者也;三以比四而盱豫者也;五又以乘四而溺於豫,究不得豫者也。總之,豫宜眾不宜私,故世道不可無豫,人心不可有豫。初凶而五疾,三悔而上渝。為國者當如四之勿疑,守己者則當如二之介石矣。
初六は上に九四に応じて豫を鳴らす。六三は九四に親比して仰望して楽を求む。六五はまた九四を凌乗するに因って豫に沉溺し、終に豫を得ず。要するに、豫は衆人の共有する所と為すべくして一己の私と為すに宜しからず。ゆえに世道は豫なかるべからず、人心は豫を存すべからず。初六は凶にして六五は病み、六三は悔いて上六は改む。国を治むる人は当に九四のごとく誠を開いて疑わざるべく、身を守る人は当に六二のごとく耿介にして石のごとくあるべし。
随卦
隨。隨卦,下震上兌,震動兌說,此動而彼說,隨之義也;以少女從長男,隨之象也。隨卦次豫。按,序卦:豫必有隨,故受之以隨。悅豫之極,物之所隨,隨所以次豫也。
《随》。随卦は、下卦が震・上卦が兌で、震は動を主り兌は悦を主る。こちらが一たび動けばかちらが便ち喜悦す――まさに「随」の意。また少女が長男に跟従す――まさに随の象。《随》は《豫》の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、和楽すれば必ず相随う人あり。ゆえに接ぐるは《随》。喜悦和楽は極処に到れば万物は来りて相随う。これが《随》が《豫》に次ぐ道理。
全彖以物隨為義,此感彼隨,可以大通,而要之於正,則隨人之意亦在其中矣。爻兼隨物為義,此動彼說而至於隨,易於自失其身。大抵陽爻則人隨我,陰爻則我隨人。而隨人者,宜隨上,不宜隨下,爻陰位剛者猶知所隨,此三隨四所以有得,二係初則失,上無所隨則不言隨也。居上者宜為人所隨,五君位為二所隨,故貞吉;四臣位為三所隨,故貞凶。初雖陽爻而在下,故不言隨言係,而言交。此六爻之大略也。
全篇の《彖辞》は「物来随我」を以て義と為す。こちらが感動すればかちらが相随い、大いに通達しうる。しかるに一つの「正」の字に帰結すれば、されば我が往きて人に随うの意もまたその中に含まる。爻辞は則ち「我去随物」を兼ねて義を取る。こちらが動いてかちらが悦んで随うに至るは、最も自身を迷失し易し。大体に陽爻は人の来りて我に随い、陰爻は我が往きて人に随う。しかるに往きて人に随うは、上に在るに随うべく下に在るに随うべからず。爻は陰にして位は剛なるは、なお随う所の当を得るを知る。ゆえに六三が九四に随えばこそ得る所有り、六二が初九に牽系すれば失う所有り、上六は更に随う可きなくして「随」の字を提げず。上位に居るは当に人の随う所と為るべし。九五は君位で六二の随う所と為る。ゆえに正を守って吉を得る。九四は臣位で六三の随う所と為る。ゆえに正なれども凶。初九は陽爻なれど下位に在る。ゆえに随と言わず係と言わずして「交」と言う。これが六爻の大略。
隨:元亨利貞,無咎。隨,從也,隨者,我有以致物,而物自隨乎我。故占當得大亨,然必利於正,乃得無咎;若不正,則雖亨而不免於咎矣。按,左傳穆姜之言,以隨四德與乾同,雖非本旨,然所論深合利貞無咎大意(文瀾本「意」作「義」)。諸卦中屯、臨、無妄、革皆言元亨利貞,獨隨係以無咎。蓋動而說,易至於不正而有咎,故示戒辭。
《随》の卦辞:大いに亨通、正を守るに利し、過咎なし。「随」はすなわち跟従。いわゆる随とは、我に足りて外物を招致する徳あれば、外物は自ずと来りて我に随う。ゆえに占断は当に大亨を得べし。しかし必ず正を守るに利在ってこそ過咎なきを得べし。もし正ならざれば、されば亨通すと雖もまた過咎を免れ難し。《左伝》の記する穆姜の言に按じて、《随》の四徳を《乾》と相同じく講ず。卦辞の本旨に非ずと雖も、しかし彼女の論ずる所は「利貞无咎」の大意と深く相契合す(「意」の字、文澜本は「義」と作す)。諸卦の中《屯》《臨》《无妄》《革》は皆「元亨利貞」と言うも、ただ《随》のみが下面に「无咎」の二字を綴る。これは動きて喜悦するは、正ならずして過咎ありに走り至り易きによる。ゆえに特地に戒辞を給出す。
彖曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。按,本義謂以卦變卦體釋卦名義,謂自困卦九來居初,自噬嗑九來居五,自未濟來兼此二變,皆剛來下柔也。今按,來注但以綜卦言之。隨蠱相綜,雜卦原對言之,隨以蠱之艮反兌居上,巽反震居下,是剛來下柔也。以後凡言卦變者,皆從綜卦。
《彖伝》にいう。随とは、剛爻が来りて柔爻の下に屈居し、動きて喜悦す。ゆえに随と為す。《本義》に按じて以て、これは卦変・卦体を以て卦名の義を釈すとす――《随》は《困》卦の九より来りて初位に居り、《噬嗑》の九より来りて五位に居り、《未済》より来ればこの両種の変化を兼ね有す。皆剛が来りて柔の下に居るなり。今来知徳の注に按ずるに、ただ綜卦を以て講ず。《随》と《蠱》は互いに綜卦を為し、《雑卦伝》は本は両卦を対挙す。《随》は《蠱》の上艮を翻転して兌を成して上に居り、下巽を翻転して震を成して下に居る。これがすなわち剛が来りて柔の下に居るなり。本書は以下およそ卦変を講ずるは、一概に綜卦に依って説を立つ。
大亨貞無咎,而天下隨時。王注、程傳皆作隨時,謂隨時得正,則天下皆隨其時也;本義作隨之,意尤順。蓋論全卦之義,重我有以致物之隨也。隨時之義大矣哉。依本義作隨之時義,尤順。
《彖伝》は続けていう。大亨にして正を守れば過咎なし。天下は皆時に随いて動く。王弼の注と《伊川易伝》はともに「随時」と読みて、時勢に随いて各々その正を得れば天下は皆その時に順随すと言う。《本義》は「随之」と読みて、語意はさらに順暢。ここに論ずる所は全卦の義で、重きは我に足りて外物を招致して来りて随わしむる徳に在るによる。《彖伝》はまた賛嘆していう。随時の意義は真に大なり。《本義》に依って「随之時義」と読むも、またさらに順暢。
象曰:澤中有雷,隨。君子以嚮晦入宴息。雷二月出地,八月入地,澤亦地也。又兌正秋,八月正兌之時,震下兌上,有雷入地中之象,君子取之。及向昏晦,則居內休息。造化有晝有夜,人生有作有息,人心有感有寂,有動有靜,此造化之自然,亦人事之當然也。
《大象伝》にいう。沢の中に雷あり――随なり。君子はここに因って天色が晚に向う時に屋に入りて休息す。雷は二月に地を出で八月に地に入る。沢はすなわちまた地。また兌は正秋に当たり、八月はまさに兌の時節。震は下・兌は上――雷が地中に入るの象あり。君子はそれに取法す。天色が昏暗に至れば、すなわち退きて室内に居って休息す。造化に白昼あり黑夜あり、人生に労作あり休息あり、人心に感通あり沉寂あり・動あり静あり。これは造化の自然にして、また人事の当然。
初九:官有渝,貞吉,出門交有功。初九以陽為震之主,有官守之象。居下無隨我者,剛體非隨人者,然初動體,則改其常矣,故為有渝之象。陽居陽位得正,有貞吉之象。前臨陰偶,二三四互為艮,有出門之象。與四同德,不言隨而言交,有交有功之象。
初九の爻辞にいう。主守する所に変動あり。正を守れば則ち吉。門を出でて交往すれば便ち功あり。初九は陽爻を以て震の主爻を作る――職守の象あり。それは最下に居り、人の来りてそれに随う者なし。それはまた剛体で、本は人に随うに非ず。しかし初九は動体に属し、すなわちその常態を改変す。ゆえに「有渝」の象あり。陽を以て陽位に居って正を得る。ゆえに正を守って吉を得る象あり。その前面は陰偶に臨み、二・三・四の爻は互いに艮を成し、艮は門闕――出門の象あり。それは九四と同じく陽徳。ゆえに「随」と言わずして「交」と言う――交往して功あるの象。
初九,卦之所以為隨者,雖人無隨我,我未隨人,而震動之體體已渝其常矣。然居正得吉,出門交四同德,不繫私暱,正不必言隨人,而自有功也。象曰:官有渝,從正吉也;出門交有功,不失也。交不失其正,則有功也。人雖未隨我,我亦不隨人,以陽剛得正故也。
初九は全卦の「随」を成す所以の一爻。人の来りてそれに随う者なしと雖も、それもまた往きて人に随わざるなれど、それは震動の体で、本体はすでに常態を改変した。しかしそれは正に居って吉を得、門を出でて同徳の九四と相交り、私昵の情に牽系せざる。正に往きて人に随うを言うを須とせず、自ずと便ち功あり。《象伝》にいう。主守する所に変動あるは、正道に跟従してこそ吉。門を出でて交往して功あるは、正を失わざるなり。交往してその正を失わざれば、便ち功あり。別人は来りて我に随わざると雖も、我もまた人に随わず――まさにそれが陽剛を以て正位を得るの由縁。
六二:係小子,失丈夫。初陽在下而近,以在下有小子象;五陽正應而遠,以君位有丈夫象。二與五正應,宜得所隨矣,然當隨之時,以陰爻陰位為過於柔,不能自守以待正應,而係於初,有係小子失丈夫之象。人隨我為隨,我隨人為係。
六二の爻辞にいう。小子に牽系して丈夫を失掉す。初九は陽爻で、下に在って六二と相近し、下に在るに因って「小子」の象あり。九五もまた陽爻で、六二の正応なれど離れて遠く、君位に居るに因って「丈夫」の象あり。六二と九五は本は正応で、理に当たって随ってその人を得べし。しかし正に随の時に当たり、それは陰爻を以て陰位に居り、未だ免れず過分に柔弱して、自ら守りて正応を待つ能わず、反って初九に牽系す。ゆえに小子に牽系し丈夫を失掉する象あり。別人が来りて我に随うを「随」と言い、我が往きて別人に随うを「係」と言う。
曰失,惜之也。象曰:係小子,弗兼與也。係此失彼,不能兼也。六三:係丈夫,失小子,隨有求得,利居貞。九四陽爻,亦有丈夫之象;小子亦謂初也。三近係四而遠於初,有係丈夫失小子之象。四陽當任,三則以陰隨之,有求而必得之象。
一つの「失」の字を言うは、それに替わって惋惜するなり。《象伝》にいう。小子に牽系するは、両辺を兼顧し得ざるなり。こちらに牽系すれば便ちかちらを失掉し、兼ね有する能わず。六三の爻辞にいう。丈夫に牽系して小子を失掉す。随って求むれば必ず得。安処して正を守るに利し。九四は陽爻で、また丈夫の象あり。「小子」は同じく初九を指す。六三は近くして九四に牽系し、初九より遠離す。ゆえに丈夫に牽系し小子を失掉する象あり。九四は陽剛を以て任に当たり、六三は陰柔を以て往きてそれに随う。ゆえに求めて必ず得る象あり。
三言係又言隨者,三有得,猶可言隨也。三不中正,宜失所隨矣,然以居剛稍知自主,勝於二之過柔,故猶知係四而不係初,而有得也。然六居三不正,九居四亦不正也,以不正相比,至於求而有得,不可言矣,故戒之居貞則利。初九以陽居陽,故得貞吉;六三以陰居陽,故示以居貞而不得言吉也。象曰:係丈夫,志舍下也。舍初之在下者也。
六三はすでに「係」と言いまた「随」と言うは、それに得る所有るに因って、なお随と言いうるなり。六三は不中不正にして本は随ってその人に非ざるべし。しかしそれは剛位に居りて、稍微自ら主するを知り、六二の過分の柔弱に勝る。ゆえになお九四に牽系して初九に牽系せざるを知り、ここに因って得る所有り。ただ六が三位に居るは不正、九が四位に居るもまた不正。両個の不正の爻が彼此相亲して、竟も求めて得る有りに至れば、それは言い難し。ゆえにそれに安処して正を守ってこそ利ありと告誡す。初九は陽を以て陽に居る。ゆえに正を守るの吉を得うる。六三は陰を以て陽に居る。ゆえにただそれに安処して正を守るを教えるのみで、吉と断じる能わず。《象伝》にいう。丈夫に牽系するは、心志が下面のを舎棄するなり。すなわち下に在る初九を舎棄す。
九四:隨有獲,貞凶,有孚在道以明,何咎。九四以剛居上之下,與五同德而三係之,有得人之隨之象;然勢陵於五,有雖正亦凶之象。變則為坎,有有孚之象;互三二為艮,有光明之象。
九四の爻辞にいう。随って獲る所有れば、正なれども凶。誠信ありて正道に合し、また能く明白に顕示せば、何の過咎かあらん。九四は陽剛を以て上卦の最下の位に居り、九五と同じく陽徳にして、しかるに六三はまた来りてそれに牽系す――人の相随うを得る象あり。しかしその声勢は九五に凌逼す。ゆえに正を守ると雖も凶を免れざる象あり。九四一たび変ずれば則ち坎を成し、坎は孚信――「有孚」の象あり。三・二は互いに艮を成し、光明の象あり。
卦中三陰三陽,陰宜隨陽。初以在下不足為人所隨,故但言交;四與五同德,故人隨之。然四大臣之位,上有剛德之君,雖君信民歸,隨皆有獲,然使恩威不自五出,雖正亦有震偪之凶矣。故必中有孚誠,動皆合道,使心跡光明,君民共諒,乃得無咎也。
卦中は三陰三陽で、陰は本は陽に随うべし。初九は下に在るに因って、人をして来りて随わしむるに足らず。ゆえにただ「交」と言う。九四は九五と同じく陽徳。ゆえに人ありて来りてそれに随う。しかし九四は大臣の位で、上面に剛徳の君あり。君主は信任し民衆は帰附して随処皆獲る所有ると雖も、ただ恩威が九五のあそこより発出するに非ざれば、それは自身正を守るも、また主を逼震するの凶あり。ゆえに必ず心中に誠信を懐き、挙動は皆正道に合して、その心跡を光明ならしめ、君主と百姓と皆能く諒解してこそ、過咎なきを得べし。
豫隨九四皆大臣之位,豫有得不言凶,而隨四之有獲言凶者。蓋豫卦一陽五陰,卦之所以隨者在四,五又以柔居其上,四志可行,故戒不在臣而在君,五之所以貞疾也;隨卦三陰三陽,卦能得隨之中正者在五,四偪於五而得人心,未必上安而下從之也,故戒不在君而在臣,四之所以貞凶也。然豫四曰勿疑,隨四曰有孚,居危疑之地,無論其吉與凶,宜以至誠自將則一也。
《豫》と《随》の九四は皆大臣の位に居る。《豫》の九四は大いに得る所有ると雖も凶と言わず、《随》の九四は獲る所有るに反って凶と言うは、これは何によるか。《豫》卦は一陽五陰で、全卦の豫を致す所以の関鍵は九四に在り、六五はまた柔弱を以てその上に居り、九四の心志は施行を得るによる。ゆえに戒辞は臣の身上に落ちずして君の身上に落つ――これがすなわち六五の「貞疾」たる所以。《随》卦は三陰三陽で、随の中正を得うるは九五に在り、九四は九五に逼近してまた人心を得――必ずしも上面は能く安んじ下面は能く従わず。ゆえに戒辞は君の身上に落ちずして臣の身上に落つ――これがすなわち九四の「貞凶」たる所以。しかし《豫》の九四は「勿疑」と言い、《随》の九四は「有孚」と言う。同じく危疑の地に処するは、断吉断凶を論ぜず、皆当に至誠を以て自守すべし。この一点は一致す。
象曰:隨有獲,其義凶也;有孚在道,明功也。有獲豈必皆凶,有致凶之理,故曰其義凶也。有孚在道,以有明哲之功也。爻曰以明,言以此明其心跡也;傳曰明功,言有明哲之功,則不為利慾所昏,而心跡自光明也。
《象伝》にいう。随って獲る所有るは、義理に就いて言えば凶。誠信ありて正道に合するは、明哲の功效。獲る所有るはあに必ず皆凶ならんや。ただ凶を招くの道理あるのみ。ゆえに「其義凶」と言う。誠信ありて正道に合するは、明哲の功あるに因る。爻辞に「以明」と言うは、このを以て己の心跡を表明するを言う。《象伝》に「明功」と言うは、明哲の功あれば、便ち利欲に蒙蔽せられず、心跡は自ずと光明す。
九五:孚于嘉,吉。九五陽剛中正,得眾爻之隨,隨之主也。然所應唯在中正之二,是信於善者也,故有孚于嘉之象,而占則吉也。四五皆以陽居三上二陰之中,陽內陰外,有中實之象,故皆曰孚。然四之孕,戒之也,欲其孚於五也。
九五の爻辞にいう。誠信を善に相與す――吉。九五は陽剛中正にして、衆爻の追随を得――随の主爻。その応ずる所はただ中正の六二に在る。これがすなわち善者に取信する。ゆえに「孚于嘉」の象ありて、占断は則ち吉。九四・九五は皆陽爻を以て六三・上六の両個の陰爻の間に処し、陽は内に在って陰は外に在る――中間充実の象あり。ゆえに両爻とも「孚」と言う。ただ九四のあそこの孚は(底本はこの字を「孕」と作す――当に「孚」の字の誤りなるべし)それに対する告誡で、それが九五に対して一片の誠信を存せんを希望す。
五之孚,喜之也,喜其孚於二也。大亨貞無咎而天下從之,五足當之矣。象曰:孚于嘉吉,位正中也。五與二皆正中,故謂孚于嘉也。然以二之正中,在五謂之嘉,在二反有失者。蓋隨之為義,貴我致人之隨,而不欲徒隨於人。隨人者有陽剛之德,猶可自主;若一於陰柔,則係於近而失正應之可隨者矣。故五孚於二,則有君臣同德之象;而二之係初,則有背公植黨之戒也。
九五の孚は、それに替わって欣喜し、それが能く六二と相孚するを喜ぶ。《彖辞》の言う所の大亨にして正を守って過咎なし・天下は皆彼に跟従すは、九五は足りて当たる。《象伝》にいう。誠信を善に相與して吉は、位に居って正にして中を得るによる。九五と六二は皆正中に居る。ゆえに「孚于嘉」と言う。しかし同じく六二の正中なれど、九五のあそこに於いては「嘉」と称し、六二の自身に於いては反って失う所有るは、これは何によるか。随の意義は、我が能く別人を招致して来りて随わしむるを貴び、ただ一味に往きて別人に随うを願わざるによる。往きて人に随う者もし陽剛の徳あれば、なお自ら主しうる。もし一味に陰柔なれば、便ち近旁に牽系してあの随うべき正応を失掉す。ゆえに九五と六二が相孚すれば、便ち君臣同徳の象あり。しかるに六二が初九に牽系すれば、便ち公に背いて党を結ぶの警戒を成す。
上六:拘係之,乃從維之,王用亨于西山。上六以柔居柔,處隨之極,有拘係又維之之象。兌為西為巫,二三四互為艮為山,一變純乾為王,有王亨于西山之象。程傳以王為太王,亨作亨通之亨,指太王遷岐之事,謂其得民心也;本義以亨為祭享之享。今從本義,而王宜作太王。
上六の爻辞にいう。彼を拘執して繋住し、随いてまた繩索を以て維絆を加う。王は西山に於いて祭享を挙行す。上六は柔爻を以て柔位に居り、随の極処に処し、すでに拘繋しまた維絆するの象あり。兌は西方・巫で、二・三・四の爻は互いに艮を成し、艮は山。上六一たび変ずれば則ち純乾を成し、乾は王。ゆえに王が西山に於いて祭享する象あり。《伊川易伝》は「王」を太王と看做し、「亨」を亨通の亨と読みて、太王が岐に遷るの事を指し、それがここに因って民心を得と言う。《本義》は則ち「亨」を祭享の享と読む。ここは《本義》に従って享と読み、しかるに「王」はなお宜しく程説に依って太王と作すべし。
蓋六爻之義,陰宜隨陽,下宜隨上。上勢居最上無所隨,而質柔又不足以致人之隨,居五之上而非天子之位,與三非正應而兩陰同德,有固結於幽陰之象。太王避狄,去豳遷岐,我非隨人,而人之隨我者亦未廣,然誠敬以享于山川,有固結維繫之意,人心從此而集,天命從此而基。占者得此,則其象亦如是也。
六爻の義例は――陰は陽に随うべく、下は上に随うべし。上六は最上に居りて、すでに更に随う可きなし。しかるにその質地柔弱にしてまた足らずして別人を招致して来りて随わしむる能わず。九五の上に処して天子の位に非ず、六三とすでに正応に非ずして両爻はまた同じく陰柔に属す。ゆえに幽陰に固結する象あり。太王は狄人を避けんがために、豳地を離れて岐山に遷る。彼は並び往きて別人に随うに非ずして、来りて彼に随う人も当時はなお広からざるなり。しかし誠敬を以て山川に祭享すれば、その中に自ずと人心を固結維繋するの意あり。人心はここより聚拢し、天命もまたここより奠基す。占者がこの一爻を得れば、その象もまたこの如し。
象曰:拘係之,上窮也。處隨之極故也。全卦物來隨我,我往隨物,皆貴於正。然此動彼說而至於隨,易於失身,尤以陽剛為貴。故諸爻吉凶得失別為一例,唯陽爻能為物所隨。五有陽剛之德,又居君位,當為物所隨者,故吉。四居三之上,有大臣之象,故三係之有得;而在四有偪五之嫌,竟受人之隨,則又不免於貞凶矣。
《象伝》にいう。彼を拘執して繋住するは、上六はすでに窮極の地に到るなり。これはそれが随の極処に処するによる。全卦は物の来りて我に随うを論ずると、我が往きて物に随うを論ずるとを問わず、皆「正」を以て貴しと為す。しかしこちらが一たび動きかちらが便ち悦んで随うに至るは、最も自身を迷失し易し。ゆえに尤も陽剛を以て貴しと為す。ここに因って各爻の吉凶得失は別に一套の義例を成す。ただ陽爻のみが能く別人に随わる。九五は陽剛の徳ありてまた君位に居り、正に人の随う所と為るべし。ゆえに吉。九四は六三の上に居り、大臣の象あり。ゆえに六三はそれに牽系して得る所有り。ただ九四の自身に於いては、卻て九五を逼迫するの嫌疑ありて、竟も別人の追随を承受すれば、便ち正なれども凶を免れず。
初雖陽爻,為隨之主而在下位,以在下則不應為人所隨。然以陽爻為隨之主,則不肯上係於人,又不能安靜以處,故不言隨不言係,而言交。陽居陽位,故交而有功也。
初九は陽爻なれど、下位に居る。すでに下位に居れば、便ち人の随う所と為るべからず。しかしそれは陽爻を以て随の主爻を為せば、便ち上に向かって別人に牽系するを肯んぜず、また安安静静として自処する能わず。ゆえに爻辞はすでに「随」と言わずまた「係」と言わずして「交」と言う。それは陽を以て陽位に居る。ゆえに交往して功あり。
三陰爻皆隨物者,則不言隨而言係。然隨居陰位者柔而無主,故二以舍五係初而失;陰居陽位稍知自立,故三以舍初係四而得。至上以隨之極,陰爻陰位,所應又陰,則固結之極,然不可以人道言矣,故為享於鬼神之象。蓋他卦六爻以相應為善,此則又貴其自處之能剛;他卦陰爻亦以得正為善,此則又不欲其過柔而失主。蓋當隨之時,義當如是。隨之喜剛,亦猶履之善柔,故曰觀彖辭則思過半矣。
三つの陰爻は皆往きて物に随う。ゆえに「随」と言わずして「係」と言う。ただ陰爻がまた陰位に居るは柔弱にして主張なし。ゆえに六二は九五を舎棄して初九に牽系して失あり。陰爻が陽位に居るは稍微能く自立す。ゆえに六三は初九を舎棄して九四に牽系して得あり。上六に至っては、随の極処に処して陰爻は陰位に居り、応ずる所はまた陰爻。それはすなわち固結の極点に到る。しかしすでに人事の道を以て講じ能わざるなり。ゆえに鬼神に祭享するの象を取る。別の卦の六爻は彼此相応ずるを以て好しと為すも、この一卦は卻てさらに自処して能く剛なるを看重す。別の卦の陰爻もまた正を得るを以て好しと為すも、この一卦は卻てまたそれが過分に柔弱して主張を没了せんを願わず。これは正に随の時に当たり、義理は本はこの如くあるべきによる。《随》卦は剛を喜ぶ。まさに《履》卦が柔を以て善と為すがごとし。ゆえに《繫辞伝》に《彖辞》を看れば便ち過半を思い知ると言う。
蠱卦
蠱。蠱卦,巽下艮上。按,左氏:風落山,女惑男。以長女下於少男,惑亂其情,蠱之象也。風遇山而回,物皆撓亂,亦有事之象。本義謂上苟止而下卑巽,彼此怠緩,積弊致蠱。謂之蠱者,壞極而有事也。文從蟲從皿。
《蠱》。蠱卦は、下卦が巽・上卦が艮である。《左伝》の説法に按じて、風は山上の草木を吹落し、女子は男子を迷惑す。長女を以て少男の下に屈居し、その情志を惑乱す――まさに蠱の象。風は山に遇いて回旋し、万物は皆攪乱せらる――また「有事」の象あり。《本義》にいう。上面は苟且に停止して下面は卑順柔巽、彼此因循怠緩して、弊を積んで蠱を成す。「蠱」と言う所以は、壊れて極処に至って為すべき事あるによる。この字の写法は虫に従い皿に従う。
聚蟲皿中,使自壞爛,蠱之義也。然卦中兼治蠱意,治蠱而曰蠱,猶治亂而曰亂也。蠱卦次隨。按,序卦:以喜隨人者必有事,故受之以蠱。喜悅隨人,過中失正,則蠱惑壞亂之事自此起,蠱所以次隨也。全彖謂蠱治則亂極復治,而治蠱之道,有取於更新丁寧,此全彖之大旨也。六爻五為治蠱之君,下四爻為治蠱之臣,而上則為事外之臣。事外者,理亂不關,故不言蠱。
虫を器皿の裏に聚めて、それらをして自ら相壊爛せしむる――これがすなわち蠱の字の意。しかし卦中は治蠱の意を兼ね含む。治蠱してなお「蠱」と言うは、あたかも乱を治めてなお「乱」と言うがごとし。《蠱》は《随》の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、喜悦を以て人に随う者は必ず事端を生出す。ゆえに接ぐるは《蠱》。喜悦に人に随い、中道を過して正を失えば、蠱惑壊乱の事は便ちここより起る。これが《蠱》が《随》に次ぐ道理。全篇の《彖辞》は蠱が治を得ればすなわち乱極まって復た治まるを言う。しかるに治蠱の道は、「更新」と「丁寧」の両層に義を取る。これが全《彖》の大旨。六爻の中は、九五は治蠱の君、下面の四爻は治蠱の臣、上九は則ち事外に身を置く臣。事外に身を置く人は、乱を治むることは彼と相干らず。ゆえに爻辞は蠱の字を提げず。
餘皆治蠱者。而蠱為前人已壞之緒,故又以子道言之。治蠱以剛柔相濟為善。初爻柔位剛故無咎,二爻剛位柔故得中,三爻位俱剛故有悔,四爻位俱柔故未得,五亦以爻柔位剛,居中有應,故用譽。而五之一爻,自處則為子,二視之為母,上視之又為君,則其取象屢遷,不可為典要者也。
其余の各爻は皆蠱を治むる人。しかるに蠱は前人のすでに敗壊した頭緒。ゆえにまた子が父業を承ぐの道理を以て講ず。蠱を治むるに剛柔相済するを以て好しと為す。初六は爻は柔にして位は剛。ゆえに過咎なし。九二は爻は剛にして位は柔。ゆえに中を得うる。九三は爻と位と皆剛。ゆえに悔あり。六四は爻と位と皆柔。ゆえに得る有る能わず。六五もまた爻は柔にして位は剛、中に居ってまた下応あり。ゆえに美譽を得うる。しかるに六五のこの一爻は、それが自処するに就いて言えば子、九二より看ればそれは母、上九より看ればそれはまた君。見れば取象は屢々変遷して一成不変の成法と為すべからず。
蠱:元亨,利涉大川,先甲三日,後甲三日。蠱,本義謂壞極而有事也。壞極為蠱,有事則兼治蠱意。亂極當治,有元亨象。治蠱必勇往以求必濟,中互震木在兌澤之上,有利涉大川象。
《蠱》の卦辞:大いに亨通、大河を渡るに利し。甲日の前三日、甲日の後三日。「蠱」は、《本義》にいう、壊れて極処に至って事あり。壊れて極処に至るを蠱と言い、「有事」と言えば則ち治蠱の意を兼ね含む。乱れて極処に至れば則ち治むべし。ゆえに元亨の象あり。蠱を治むるは必ず勇往して直ちに進みて必成を求めよ。卦中の互体は震で木、兌沢の上に在る――木が水上を行くの象。ゆえに大河を渡るに利しと言う。
然治蠱宜勇,亦須有道以治之。甲,日之始,事之端。先甲三日為辛,後甲三日為丁。前事已壞,取先甲三日之辛以更新之,不使至於大壞;後事方新,取後甲三日之丁以丁寧之,不使至於速壞。此治蠱而致亨之道也。
しかし治蠱は固より勇を要するも、またなお治むる弁法を須とす。「甲」は十日の始にして、また事情の開端。甲の前三日は辛日、甲の後三日は丁日。前面の事はすでに敗壊せば、すなわち甲前三日の「辛」を取り、それが「新」と音を同じくするに取りて、拠って更新して、それをして收拾し得べからざるに壊れ至らしめず。後面の事は剛く更新せば、すなわち甲後三日の「丁」を取り、それが「丁寧」と音を同じくするに取りて、反復叮嘱して、それをして速くまた壊れざらしむ。これがすなわち蠱を治めて亨を致すの弁法。
先甲後甲,按,本義及舊解皆同,於理固順,而蠱取甲,巽取庚,未見著落。來注照圓圖,但取艮巽二卦之義,亦未見的確。今按,蘇傳所解與本義異,而似可存。
「先甲」「後甲」に関しては、《本義》と旧注の講法に按じて皆一致し、道理の上に於いて固より順暢なれど、しかし《蠱》は何に因って甲を取り、《巽》は何に因って庚を取るかは、依然として落着なし。来知徳の注は先天の圓図に依りて、ただ艮・巽の両卦の義を取るも、また確当と見えず。今蘇軾《東坡易伝》の解説に按ずるに《本義》と同じからざるも、卻て並存しうるに似たり。
按,蘇傳:蠱之與巽,一也;上下相順與下順而上止為媮,一也。而巽之所以不為蠱者,有九五以乾之,而蠱無是也。故蠱之彖曰先甲三日、後甲三日、終則有始,而巽之九五曰無初有終、先庚三日、後庚三日、吉。陽生於子盡於巳,陰生於午盡於亥。陽為君子,君子為治。
《東坡易伝》に按じて言えば、《蠱》と《巽》は其の実一回事。上下が皆相順うは、下面は順従して上面は苟止してここに因って苟且偸安に流るると、また一回事。《巽》の蠱を成さざる所以は、それに九五ありて整治するに由り、しかるに《蠱》にこのような一爻なきによる。ゆえに《蠱》の《彖辞》は「先甲三日、後甲三日、終則有始」と言い、しかるに《巽》の九五の爻辞は「无初有終、先庚三日、後庚三日、吉」と言う。陽気は子に生じて巳に尽き、陰気は午に生じて亥に尽く。陽は君子を代表し、君子は世を治むるを主る。
陰為小人,小人為亂。夫一日十二乾,相值支五干六而後終(蘇氏易傳「終」作「復」),世未有不知者也。先甲三日、後甲三日,世所謂六甲也;先庚三日、後庚三日,世所謂六庚也。甲庚之先後,陰陽相反,故易取此以寄治亂之勢也。
陰は小人を代表し、小人は乱世を主る。一日の内の十二辰は十干と相値し、地支は五輪を排し満し天干は六輪を排し満して後に一周す(「終」の字、蘇氏《易伝》は「復」と作す)。これは世人の知らざるなし。「先甲三日、後甲三日」は、すなわち世俗のいう所の六甲。「先庚三日、後庚三日」は、すなわち世俗のいう所の六庚。甲と庚の先後の次序は陰陽が恰好相反す。ゆえに《易》はこのを取って以て治乱の趨勢を寄托す。
先甲三日,子戌申也,申盡於巳而陽盈,盈將生陰,治將生亂,故受之以後甲。後甲三日,午辰寅,寅盡於亥,然後陰極陽生。蠱無九五以乾之,則其治亂,皆極其自然之勢,勢窮而後變,故曰終則有始,天行也。
先甲三日は、甲子・甲戌・甲申。申より下に排して巳に尽くるは、まさに陽気の盈満の時。盈満すればすなわち陰を生じんとし、治世はすなわち乱を生じんとす。ゆえに接いで後甲を用う。後甲三日は、甲午・甲辰・甲寅。寅より下に排して亥に尽くり、然る後に陰極まって陽生ず。《蠱》卦は《巽》のごとき九五の整治あるなく、ゆえにその治と乱とは皆全く自然の勢に憑り、勢が窮まって然る後に変ず。ゆえに《彖伝》に「終則有始、天行也」と言う。
巽則不然,雖失之,後必有以起之,譬之於庚。先庚三日,午辰寅也;後庚三日,子戌申也。庚之所後,甲之所先,故先庚三日盡於亥,後庚三日盡於巳。先陰後陽,先亂後治,故曰無初有終,曰吉。不言於彖而言於九五,明此九五之功,非巽之功也。
《巽》卦は卻てこの如くならず。一時に失う所有ると雖も、後面に必ず振起する弁法あり。これはすなわち庚を以て比と作す。先庚三日は、午・辰・寅。後庚三日は、子・戌・申。庚の在する後段は、まさに甲の在する前段。ゆえに先庚三日は排して亥に尽くり、後庚三日は排して巳に尽くる。先に陰にして後に陽、先に乱にして後に治。ゆえに「无初有終」と言い、「吉」と言う。この話は《彖辞》の裏に放らずして九五の爻辞の裏に放つ。まさにこれが九五一爻の功労にして、巽体本身の功労に非ざるを表明す。
彖曰:蠱,剛上而柔下,巽而止,蠱。剛上柔下以卦體言,艮剛居上,巽柔居下也;以卦綜言,反隨之震上為艮,兌下為巽也。上太剛則情不下接,下太柔則情難上達,上下不交以致蠱也。巽而止以卦德言,則下卑巽而上苟止,皆積弊以致蠱者也。
《彖伝》にいう。蠱とは、剛爻が上に在って柔爻が下に在り、卑巽にしてまた苟止す。ゆえに蠱を成す。「剛上柔下」は卦体に就いて言う。艮の剛が上に居り巽の柔が下に居る。卦綜に就いて言えば、《随》卦を翻転す――《随》の上震は変じて艮を成し、下兌は変じて巽を成す。上面が太く剛なれば情意は便ち下に接するを肯んぜず、下面が太く柔なれば情意は便ち上に達し難し。上下は相交通せず、ここに因って蠱を致す。「巽而止」は卦徳に就いて言う。下面は卑順柔巽にして上面は苟且に停止す――皆積弊して蠱を致すの縁由。
蠱,元亨而天下治也。利涉大川,往有事也。先甲三日,後甲三日,終則有始,天行也。他解以巽而止為治蠱者,非。蓋下卑巽而上苟止,乃致蠱之由,非所以治蠱。治蠱意當於此節言之。既蠱又言元亨,亂極復治之象也。
《彖伝》にいう。蠱にして能く治めば、天下は便ち太平す。大河を渡るに利しとは、往きて為すべき事ありを言う。先甲三日・後甲三日、終わりて復た始まるは、これは天道の運行。別家は「巽而止」を治蠱の道に講ず――あれは是ならず。下面は卑順柔巽にして上面は苟且に停止す――あれはまさに蠱を致すの縁由で、以て蠱を治むるに用いるに非ず。治蠱の意は当にこの一節の裏に置いて講ずべし。すでに蠱壊せば、また元亨と言う――まさに乱極まって復た治まるの象。
曰往有事而不言有功者,當蠱之時,宜有事以濟險,不可以無事視之。若巽懦而止,則終蠱而不能元亨矣。甲者十日之始。亂之終,治之始,天運之行如是。治蠱者終前事,始後事,一番更新,一番丁寧,亦如天之行也。
ただ「往有事」と言うのみで「有功」と言わざるは、正に蠱の時に当たり、当に作為有って以て険難を済すべく、これを以て無事と看做すべからざるによる。もし一味に柔懦にして苟且に停止せば、便ち終に蠱壊して元亨し得ざるなり。「甲」は十日の始。乱の終結はすなわちまた治の開端。天運の運行はまさにこの如し。蠱を治むる人は前面の事を結束し後面の事を開創し、一番更新し一番叮嘱す――またまさに天道の運行のごとし。
象曰:山下有風,蠱。君子以振民育德。山下有風,物壞而有事矣。治己治人事之大者。風在內而能振動外物,則象之以振動其民;山在外而能涵育內氣,則象之以涵育其德。振者,作興人之善,新民之事;育者,培養己之善,明德之事。
《大象伝》にいう。山の下に風あり――蠱なり。君子はここに因って民衆を振作し徳行を培育す。山の下に風あり――万物は敗壊して為すべき事あり。己を治むると人を治むるとは、まさに事情の中の最大。風は内卦に在って能く外物を振動すれば、すなわち象を取ってその百姓を振動と為す。山は外卦に在って能く内気を涵育すれば、すなわち象を取って己の徳行を涵養と為す。「振」は衆人の善を興起する――新民の事に属す。「育」は己の善を培养する――明徳の事に属す。
易言育德,多取于山,故蒙亦言育德。而巽之申命行事,亦振民之意。當蠱之時,風俗敗壞,由民之不新;民之不新,由己德之不明。故必有以振作聳動其民,而在己宜進德不已。此皆所以治蠱也。
《易》の中に「育徳」を講ずるは、多く山に象を取る。ゆえに《蒙》卦の《大象》もまた育徳と言う。しかるに《巽》卦の言う所の命令を申布し政事を推行するは、すなわち民を振るの意。正に蠱の時に当たり、風俗敗壊するは、民衆が能く自新せざるに由る。民衆が能く自新せざるは、また己の徳の明ならざるに由る。ゆえに必ず弁法有ってその百姓を振作聳動すべし。しかるに己に於いては当に徳を進めて已まざるべし。これらは皆蠱を治むるの弁法。
初六:幹父之蠱,有子考無咎,厲終吉。乾,木之幹,枝葉所附以立者。以身任其事而不敢避,故曰乾。中互震木,下巽木,有乾之象。蠱之災非一日之故,必世而後見,故皆以父子言之,明父養其疾,至子而發也。子能幹之,克蓋前愆,則振飭而興起矣。
初六の爻辞にいう。父の遺した弊壊を整治す。このような子あれば、父は過咎なし。危厲あると雖も終に吉を得。「干」は樹の主干で、枝葉はそれに依附してこそ挺立し得る。自身を以てその事を担当して敢えて躲避せず。ゆえに「干」と言う。卦中の互体震は木、下卦巽もまた木――干の象あり。蠱壊の禍患は一日の造る所に非ず。必ず一代の人を経てこそ顕現す。ゆえに各爻は皆父子を以て言い、父の養成した病は子の手裏に到ってこそ発作するを表明す。子が能くそれを整治すれば、前人の過失を掩蓋して家業は便ち振飭して興起す。
初六以陰在下,所應又柔,似不足以治蠱者。然以其時言之,在蠱之初,蠱未深而事易濟,且質柔而位剛,故有子能治蠱,考得無咎之象。質柔位剛,子專父事,有厲象;知危而戒,終承己志,有終吉之象。象曰:幹父之蠱,意承考也。不承其事而承其意,所謂善繼人之志者也。
初六は陰爻を以て最下に居り、応ずる所の六四はまた柔爻。看れば足らずして蠱を治むる能わず。しかし時勢に就いて言えば、まさに蠱の開端に在り、蠱はなお深からずして事情は弁成し易し。況んやそれは質地柔にして位置は剛。ゆえに子は能く蠱を治め父は以て過咎なきを得るの象あり。質は柔にして位は剛――子として独り父の事を任ずれば、危厲の象あり。危険を知って戒懼して、終に父の心志を承継すれば、便ち終吉の象あり。《象伝》にいう。父の遺した弊壊を整治するは、心意の上に於いて父を承継するなり。その事を承継せずしてその心意を承継するは、まさにいわゆる善く先人の志を継承する人。
九二:幹母之蠱,不可貞。母指六五也。艮止於上,巽順於下,無為而尊於上者,父道也;服勞而順於下者,子道也。故五爻皆言幹父之蠱,取艮之上爻為父也。二獨與五應,五雖艮體而質柔,故有母象。在五自處亦為子,自二親五則為母。
九二の爻辞にいう。母の遺した弊壊を整治す。固執してその正を守るべからず。「母」は六五を指す。艮は上に止まり巽は下に順う。作為なくして尊く上位に居るは父道。服労操作して下に在って順うは子道。ゆえに其余の五爻は皆父蠱の整治を言う。あれは上卦艮の上爻を取って父と為す。ただ九二のみ六五と相応じ、六五は艮体に属するも質地柔弱。ゆえに母の象あり。六五が自処するに就いて言えばそれもまた子、九二より往きてそれに親近すれば便ち母と成る。
此又取象之變,不可為典要者也。九二剛中上應六五,有子幹母蠱則得中之象。以剛承柔而治其壞,故又戒以不可堅貞,言當巽以入之也。貞者事之幹,而曰不可貞,非不可正也,不可固執以為正也。
これはまた取象が処に随って変化して一成不変の成法と為すべからざるなり。九二は陽剛にして中に居りて上に六五に応ず――子が母の弊壊を整治して能く中を得るの象あり。それは陽剛を以て陰柔を承奉して敗壊を整治す。ゆえにまたそれに固執堅守すべからずと告誡するは、当に柔巽の態度を以て慢慢に打ち入るべしを言う。「貞」は本は事情の骨干。ここは卻て「不可貞」と言うは、正を守るべからずを言うに非ずして、己の見に固執して自ら以て正と為すべからずを言う。
母性多柔暗,以二之剛承(文瀾本「承」作「成」)五之柔,固守其正,或至傷恩害義,必巽以入之,乃得中也。若以君臣論,則周公之事成王,成王有過遇撻伯禽,亦此意也。象曰:幹母之蠱,得中道也。九二以剛居柔,在下卦之中,有中道之象。得中道而以柔濟剛,善於幹母之蠱者也。
母の性情は多半は柔弱昏昧。もし九二の剛を以て六五の柔を承奉すれば(「承」の字、文澜本は「成」と作す)、一味にその正を固守して固守すれば、或いは恩情を傷り義理を害せん。必ず柔巽の態度を以て打ち入ってこそ、中を得たと算す。もし君臣の関係を以て言えば、周公は成王を輔佐して、成王に過失ある時は便ち伯禽を責打して以て教を示す――またまさにこの意。《象伝》にいう。母の遺した弊壊を整治するは、中道を得るなり。九二は陽剛を以て陰柔の位に居り、また下卦の中に在る――中道の象あり。中道を得て柔を以て剛を済すは、まさに善く母蠱を整治する人。
九三:幹父之蠱,小有晦,無大咎。過則不中,故有小悔;巽體得正,故無大咎。象曰:幹父之蠱,終無咎也。爻言無大咎,宜不免於小咎,而傳謂終無咎者,幸之也。以九居三剛之至,君之諍臣,父之諍子,不使君父陷於不義者也。
九三の爻辞にいう。父の遺した弊壊を整治す。稍や悔恨あり、大きい過咎なし(爻辞の底本は「小有晦」と作し、通行本は「小有悔」と作す)。剛に過ぐれば便ち中ならず。ゆえに稍や悔あり。ただそれは巽体に属してまた正位を得る。ゆえに大きい過咎なし。《象伝》にいう。父の遺した弊壊を整治するは、終に過咎なきなり。爻辞はただ大きい過咎なしと言うのみ。見れば小き過咎を免れざるなり。しかるに《象伝》は卻て終に過咎なしと言う――あれはそれに替わって慶幸す。九を以て三に居るは剛の極処に到る。まさに君主の諍臣・父の諍子、君父をして不義に陥らしめざる人。
蓋幹蠱之道,以剛柔相濟為善。故初六六五之柔而居剛,九二之剛而居柔,皆可幹蠱。不則與其為六四之裕而吝,不若九三之悔而無咎。裕而吝者,由吉而趨凶;悔而無咎,則自凶而趨吉也。六四:裕父之蠱,往見吝。以陰居陰,不能有為,有寬裕以治蠱之象。如是則蠱將日深,往則見吝矣。蓋目前雖可苟安,如是以往,必致吝也。
蠱壊を整治するの道理は、剛柔相済するを以て好しと為す。ゆえに初六・六五は柔爻にして剛位に居り、九二は剛爻にして柔位に居る――皆蠱を干むべし。もし剛柔相済すること能わざれば、されば六四のごとく寛緩因循して吝を招くよりは、寧ろ九三のごとく悔ありて過咎なきに如かず。寛緩にして吝を招くは、吉より走りて凶に向う。悔ありて過咎なきは、凶より転じて吉に向う。六四の爻辞にいう。父の遺した弊壊を寛裕を以て対待す。往きて去れば便ち羞吝を見ん。六四は陰爻を以て陰位に居り、作為する能わず――寛裕因循して以て蠱を治むる象あり。この如く往けば蠱壊は一天ずつ加深し、往きて去れば必ず吝を見ん。眼前は苟安しうると雖も、このに照らして往けば終に羞吝を招来せん。
象曰:裕父之蠱,往未得也。目前以為得矣,循此以往,未為得也,欲人急於改圖也。六五:幹父之蠱,用譽。二以五為母,謂以柔居尊也。然五之上有上,則五又有子道,若繼世之君也。用譽,用陽剛之臣以致譽也。五柔中居尊,九二承之以德,能用陽剛之臣以幹父之蠱者,可以致聞譽矣。譬若周宣王之用仲山甫召穆公,能用良臣而幹蠱有譽者也。
《象伝》にいう。父の遺した弊壊を寛裕を以て対待するは、往きて得る所有る能わざるなり。眼前に自ら以て計を得たりと為すも、このに照らして往けば其の実並び得る所なし。これは人に急いで打算を改変せんことを要す。六五の爻辞にいう。父の遺した弊壊を整治して、ここに因って美譽を得。「用誉」とは、陽剛の臣を任用して美譽を招致すを言う。九二は六五を母と看做すは、それが柔を以て尊位に居るに就いて言う。しかし六五の上面になお上九あれば、されば六五はまた子道あり――あたかも先世を継承する君主のごとし。いわゆる「用誉」とは、陽剛の臣を任用して美譽を招致す。六五は柔中にして尊位に居り、九二は徳を以てそれを承奉す。能く陽剛の臣を任用して父輩の遺留した弊壊を整治せば、自ずと令聞美譽を得うる。あたかも周宣王が仲山甫・召穆公を任用したるがごとし――これは能く良臣を用いて蠱を干んで誉ある人。
象曰:幹父用譽,承以德也。二承以剛中之德,德在臣,譽在君,上下一德矣,故不見前人之蠱。上九:不事王侯,高尚其事。陽剛居上,在事之外,有不事王侯、高尚其事之象。初至五皆言蠱,此不言蠱者,上九蠱之終,事之壞者,六五干之已畢,則亂極而治之時矣。
《象伝》にいう。父蠱を整治して美譽を得るは、臣下が徳を以て彼を承奉するなり。九二は剛中の徳を以て上に在るを承奉す。徳は臣下に在り誉は君上に帰し、上下は同じく一徳。ゆえに前人の蠱壊は便ち見えず。上九の爻辞にいう。王侯に事奉せずして、己の守る所の事を高尚に看做す。上九は陽剛にして最上に居り、事外に身を置く――王侯に事奉せずその事を高尚にするの象あり。初爻より五爻まで皆蠱を言うも、この一爻は蠱を言わざるは、上九が蠱の終結に処するによる。敗壊の事はすでに六五に整治し畢りて、まさに乱極まって復た治まるの時候。
故不言蠱也。初至五皆言父子,不及君臣者,臣之事君,猶子事父母。當蠱之時,身在事中,必視國事如家事乃可,故言父子,而君臣之道在其中矣。上九言不事王侯,又不言父子者,於父母無可諉之事,無一日可離之時;君臣以義合者也,則當以其位與時論之。
ゆえに更に蠱を言わず。初爻より五爻まで皆父子を言って君臣に涉及せざるは、臣下が君主に事奉するは、あたかも子の父母に事奉するがごとく、正に蠱の時に当たり身は事の中に在れば、必ず国事を看做して家事と為してこそ可なるによる。ゆえに父子と言う。しかるに君臣の道は便ちその裏面に含まる。上九は王侯に事奉せずと言うも、卻てまた父子を言わざるは、父母に対しては推諉しうる事なく、また一日も離開しうるなし。君臣は卻て義を以て相合する。すなわち当に彼の処する地位と時勢に按じて論ずべし。
身在其位則盡力以乾,如子事父母,不以為汙;不在其位,則超然遠引,不事王侯,而不以為傲。時當艱難則鞠躬盡瘁,不避險患,不以為勞;世已昇平則功成身退,辭榮謝寵而不以為矯。上九者,無位之逸民,功成身退之耆舊也。
身はその位に在れば、便ち力を竭くして整治す――あたかも子の父母に事奉するがごとく、屈辱と覚えず。位に在らざれば、便ち超然として遠く引きて王侯に事奉せず――また傲慢と算せず。時勢が艱難なれば鞠躬尽瘁して険難を避けず――労苦と覚えず。世道はすでに太平なれば功成して身を退きて栄寵を辞去す――また矯情と算せず。上九のこの一爻は、まさに位なきの逸民・功成身退の元老。
象曰:不事王侯,志可則也。潔身高尚如子陵,功成身退如范蠡,其事高,其志可為法則矣。全卦名蠱而皆言治蠱。蠱之可亨,猶否極則泰,雖天運自然,而人事宜盡,所以有取於更新丁寧,以為致亨之道。家事國事皆有蠱,為子為臣無異道,總以剛柔相濟為善。然與其柔而致吝,又不若剛而免咎,聖人望人之意切矣。
《象伝》にいう。王侯に事奉せざるは、その心志は以て法則と為すべし。厳子陵のごとく身を潔くして自ら好み志趣高尚なる、范蠡のごとく功成して身を退く。彼らの行事は高潔にして彼らの心志は以て效法の準則と為すべし。全卦は蠱と名づくるも、通篇の講ずる所は卻て皆蠱を治むるなり。蠱の能く亨たる所以は、否極まって泰来るがごとし。天運の自然なれど、人事の上に於いては当に力を尽くすべし。ゆえに「更新」と「丁寧」に義を取りて、以て亨を致すの道と為す。家事・国事は皆蠱あること有り。子を為すと臣を為すの道理は並び両様なし。総じて剛柔相済するを以て好しと為す。しかしその柔緩にして吝を招くよりは、寧ろ剛強にして過咎を免るるに如かず。聖人が世人に期望する用意は、謂うべく懇切なり。
周易浅述 巻三
臨卦
臨。臨卦,兌下坤上。澤上有地,岸臨於水,相臨最切。又有進而侵凌之義,二陽侵其長以逼於陰,故曰臨也。臨卦次蠱。按,序卦:有事而後可大,故受之以臨。臨者,大也。可大之業,由事而生。二陽方長,陰小陽大,陽氣將盛,是謂可大,臨所以次蠱也。
《臨》。臨卦は、下卦が兌・上卦が坤である。沢の上に地あり。岸は水に緊接す――両者の相臨は最も切近。また進みて侵凌するの意を含む――二つの陽爻が侵長して上りて衆陰に逼向す。ゆえに卦名を臨という。《臨》は《蠱》の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、事あって後にこそその大を成しうる。ゆえに接ぐるは《臨》。臨はすなわち大なり。大いにすべき事業は事あるに由って生ず。この卦の両陽はまさに生長し、陰は小を為して陽は大を為す。陽気は将に盛大ならんとす――これを「可大」と言う。ゆえに《臨》は《蠱》に次ぐ。
全彖以陽長為亨,而以陰生為戒,亦扶陽抑陰之意。六爻以二陽偏臨四陰,二當任而初不當任,故以二為臨之主。上四陰皆受陽之臨者。三不中正,迫陽而應非正之上,故無利;四五皆應陽,上附五而厚於二,故皆吉也。而三曰甘臨,四至臨,五知臨,上敦臨,又有上臨下、柔凌剛之義。雜卦云:臨觀之義,或與或求,言彼此相與為臨也。
全篇の《彖辞》は陽の生長を以て亨通と為し、しかるに陰の滋生を以て戒懼と為す。亦た陽を扶け陰を抑るの意。六爻は二つの陽爻を以て偏に四つの陰爻に臨む。九二は任に当たりて初九はなお任に当たらず。ゆえに九二を以て臨の主爻と為す。上面の四つの陰爻は皆陽の臨む所を受く。六三は不中不正にして陽爻に逼近し、応ずる所の上六はまた正位に居らず。ゆえに利する所なし。六四・六五は皆下に陽爻に応じ、上六は六五に依附してまた九二を厚待す。ゆえに皆吉。しかるに六三は「甘臨」と言い、六四は「至臨」と言い、六五は「知臨」と言い、上六は「敦臨」と言う。その中にまた上に在る者の下に臨み・柔を以て剛を凌ぐの意を含む。《雑卦伝》にいう。臨と観の意義は、一は給与し一は求取す――これは彼此相與してこそ臨と言うを言う。
臨:元亨利貞,至于八月有凶。
《臨》の卦辞にいう。大いに亨通、正を守るに利し。八月に至れば、すなわち凶険有らん。
臨,《本義》謂進而凌逼於物。言凡逼近者為臨,不專居上臨下之意也。二陽侵長以逼於陰,故為臨。而卦中上下彼此又互有相臨之象。於一歲中為十二月之卦也。下說上順,九二剛中,上應六五,故占者大亨而利於正也。
「臨」の字の取義は、朱熹《周易本義》は前進して外物に凌逼するに解す。意はおよそ彼此逼近するは皆「臨」と言いうる。専ら上位に居る者が下位に俯臨するを指すに非ず。本卦は初九・九二の両個の陽爻が下より侵長して上面の四つの陰爻に逼近す。ゆえに卦名を「臨」と為す。しかるに卦中の上下各爻の彼此の間も、また互いに皆相臨の象を含む。一年の十二消息卦に配すれば、臨は夏暦十二月の卦。下卦兌は「悦」、上卦坤は「順」。九二は陽剛を以て下卦の中に居って「剛中」を得、上に向かってまた六五の柔中の君と正しく相応ず。ゆえにこの卦を占得する人は大いに亨通しうる。しかも正道を守持するに利し。
又按,元亨利貞者,乾道之變化。陽長之卦,獨臨與乾同者。易道貴中。二陽方主於中,乾之體用全備於此,故四德咸歸之也。八月有凶,戒辭。何氏以建子至建未為八月。褚氏以建寅至建酉為八月。孔氏據王注「小人道長,君子道消」,以建申為八月。按,《大全》不言建申。隆山李氏主建酉為觀卦,謂當自臨數,不當自復數也。《本義》主建未為遯卦,謂文王作卦時,只就周正紀之也。
再び按ずるに、「元亨利貞」は本は乾卦の四徳で、乾道変化の全体。陽気の漸長する諸卦の裏に、ただ臨卦のみが乾卦と同じく四徳俱全す。縁故は《易》道が「中」を以て貴しと為すに在る。臨卦の両個の陽爻はまさに下卦の中を主持し、乾の体と用とはここに於いてすでに全備す。ゆえに四徳は皆その身上に帰す。「八月有凶」は一句の告誡の辞。八月は究竟どの月を指すか、歴来の算法は一ならず。何妥は建子の月より建未の月に数えて八月と算し、褚仲都は建寅より建酉に数えて八月と算し、孔穎達は則ち王弼の注「小人道長、君子道消」に依りて、建申の月を以て八月と作す。ただ《周易大全》は並び建申の説なし。隆山李舜臣は建酉すなわち観卦を主張す。理由は当に臨卦本身より起数すべく、復卦より起数すべからずに在る。朱熹《本義》は建未すなわち遯卦を主張す。理由は文王が卦辞を作る時にただ周家の正朔に按じて月を紀するに在る。
今按,文王作卦在紂之時,未用周正,正朔之說可不必拘。以陰陽消長之數論之,當自復數至遯為是。蓋否卦陰陽各半,觀卦四陰勝陽,其凶不待言矣。今曰有凶者,亦將盛之辭也。於二陽方盛之時,即為二陰方盛之慮,聖人防微杜漸之意也。不然則凡陽盛之卦,八月皆有陰盛之時,何獨於臨言有凶哉。又按,復言亨而此言元亨,復不言利貞而此言利貞。蓋復初陽未盛,至臨則大矣。復陽之萌,無有不善;臨則陽盛,易於肆矣。此聖人所以於臨獨有戒辭也。
如今看れば、文王が演じて卦辞を繋げしは商紂の世に在りて、あの時は周家の正朔はまだ通行せず。ゆえに周正を拿って月を紀して推算する説法は拘執するを須とせず。もし単に陰陽消長の爻数の上より論ずれば、当に復卦の一陽の始生より数え起して、数えて遯卦の二陰のすでに生ぜしに至ってこそ是なり。数えて否卦の時は陰陽は各々半を占め、数えて観卦の時は四陰はすでに二陽に勝過す。あの時の凶険はすでに言うを須とせず。如今ただ「有凶」と言うは、まさに陰気が将に盛んにならんとして未だ大いに盛んならざる時の口気。二陽方に盛んの際に於いて、便ち二陰の将に盛んならんとするに替わって預め憂慮す――これがまさに聖人の微を防ぎ漸を杜ぐの用意。然らざれば、およそ陽盛の卦は、後の八箇月は皆陰盛の時に碰上せん。何に因って偏偏として臨卦に「有凶」と言うか。又按ずるに、復卦はただ「亨」と言ってここは「元亨」と言い、復卦は「利貞」と言わずしてここは「利貞」と言う。復卦の初生の一陽はなお微弱、臨卦に到れば便ち壮大す。復卦は陽気はようやく萌動して不善なし、臨卦は陽はすでに盛んにして放肆し易し。これがすなわち聖人の独り臨卦に戒辞を繋ぐる由縁。
彖曰:臨,剛浸而長。此以卦體釋卦名也。爻辭上下皆有相臨之意,此獨取以陽臨陰。「浸長」內兼二意:有漸長不驟之意,又有方來未艾之意。說而順,剛中而應。內卦說,則陽之進也不逼內,不激於意氣矣;外卦順,則陰之從也不逆外,皆中於機宜矣。此以卦德言卦之善也。九二剛中,在我有強毅之才;應五柔中,在上有知人之主。此以卦體言卦之善也。
《彖伝》にいう。臨とは、陽剛の漸々として浸潤生長するなり。これは卦体を以て卦名を釈す。爻辞の裏の上下各爻は皆彼此相臨の意を含むも、此処は卻て単に陽を以て陰に臨むの一義を取る。「浸長」の二字は両層の意を兼ね含む。一は逐漸に生長して急驟ならず、二は方に来りて未だ止まらず。《彖伝》はまたいう。和悦にして柔順、陽剛は中に居って上下は相応ず。内卦兌は悦なれば、されば陽の前進は内部に於いて相逼せず、意気に用事するに至らず。外卦坤は順なれば、されば陰の順従は外部に於いて違逆せず、処処皆事機に合す。これは卦徳の上よりこの卦の善を言う。九二は陽剛にして中を得――是れ我が这一方に強毅の才干あり。上に六五の柔中に応ず――是れ上に能く人を識り人を用うる君主あり。これは卦体の上よりこの卦の善を言う。
大亨以正,天之道也。剛長而說順,大亨也;剛中應柔中,以正也。剛長之時其善如此,以之臨人、臨事、臨天下,莫不大亨。而必以正者,天道宜然也。天道扶陽而抑陰,黜邪而崇正者也。至于八月有凶,消不久也。言二陽方盛之時,然至八月為遯,則陽之消亦不久矣。此雖天運之自然,而君子所當戒也。
《彖伝》にいう。大いに亨通してまた正道に守るは、これは上天の法則。陽剛は漸長して卦徳はまた和悦柔順。ゆえに「大亨」と言う。九二は剛中にして上に六五の柔中に応ず。ゆえに「以正」と言う。陽剛方に長する時、その美善はこの如し。これを拿って人に臨み・事に臨み・天下に臨めば、大いに亨通せざるなし。しかるに必ず正を守るを須とする所以は、天道が本はこの如くあるべきによる――天道は常に陽を扶助して陰を抑制し、邪僻を貶黜して中正を崇尚す。《彖伝》はまたいう。八月に至りて凶あるは、陽の消退はすでに遠からざるを言う。これは当に二陽方に盛んの時に言うも、しかし八月に到れば遯卦を成して、陽気の消退もまた久しからず。これは天運自然の循環なれど、卻てまさに君子の当に警戒すべき所。
象曰:澤上有地,臨。君子以教思無窮,容保民無疆。不曰「地下有澤」,而曰「澤上有地」,主澤之二陽而言也。地臨於澤,上臨下也。二者皆臨下之事。「教思無窮」,澤潤地之象也;「容保民無疆」,地容澤之象也。不徒曰「教」而曰「教思」,其意念如澤之深;不徒曰「保」而曰「容保」,其度量如地之廣。
《大象伝》にいう。沢の上に地あり――臨卦。君子はここに由って百姓を教化する心の無窮無尽なるを体会し、百姓を包容保養する度量の辺際なきを出す。「地下有沢」と言わずして「沢上有地」と言うは、沢中のあの両個の陽爻に主于って言う。地は沢に俯臨す――すなわち上を以て下に臨む。教化と保養のこの両件の事も、また皆下に臨むの事。「教思无窮」は、沢水が大地を滋潤する象を取る。「容保民无疆」は、大地が沼沢を容納する象を取る。単に「教」と言わずして「教思」と言うは、あの份の意念の深きこと沢のごときを形容す。単に「保」と言わずして「容保」と言うは、あの份の度量の広きこと地のごときを形容す。
初九:咸臨,貞吉。按,王注及《程傳》皆以「咸」作「感」之義,《本義》以「咸臨」作「徧臨」,謂以二陽徧臨四陰也。從王注、《程傳》為順,而「徧臨」意可兼。蓋「咸」者無心之感。二陽在上,無為而天下化,所以為觀;二陽在下,無心而天下應,所以為咸。初以正,二以中,我中正而天下自應,故皆曰「咸」。初二兩爻與四五正應,皆有咸臨之象。初以剛居初得正,有貞吉之象。四,大臣之位,無所感而臨,則不獲乎上。然自處不正,所應非正,亦枉道狥人者矣。唯剛而得正,所應又正,故曰「咸臨貞吉」也。
初九:感応の心を以て臨めば、正を守れば則ち吉。按ずるに、王弼の注と程頤《伊川易伝》はともに「咸」を「感」と解し、朱熹《本義》は則ち「咸臨」を「徧臨」に解して、両個の陽爻を以て普遍に四つの陰爻に臨むと言う。王注と《程伝》に依れば文義はさらに順、しかるに「徧臨」の一義もまた兼ねて取るべし。いわゆる「咸」とは、無心にして自然の感応。両陽が上に在って、作為する所なくして天下は自ずと化す――かれは便ち観卦。両陽が下に在って、無心にして天下は响応す――かれは便ち「咸」。初九は「正」に靠り、九二は「中」に靠る。我がここに中正あれば、天下は自ずと响应す。ゆえに両爻とも「咸」と言う。初九・九二と六四・六五は各々正応を成して、皆咸臨の象あり。初九は陽剛を以て初位に居って正を得る。ゆえに「貞吉」の象あり。六四は大臣の位で、もし毫も感応なくして来りて臨めば、便ち上面の信任を得ず。しかしもし自処正ならずして応ずる所もまた正ならざれば、あれもまた不過は道を屈して以て人に徇うのみ。ただ自己が剛にして正を得、応ずる所もまた正にしてこそ、ゆえに「咸臨貞吉」と言う。
象曰:咸臨貞吉,志行正也。自處以正,所應又正,則得以行其正道矣。時解以此爻作君子臨小人以正。陰雖小人,然爻中未有此象。九二:咸臨,吉無不利。二應於五,上有中正之君,既見信任,得行其志,故有吉無不利之象。此爻為臨之主。蓋陽在初猶微,至此乃盛。初之咸臨,謂與二協力以為臨也;二之咸臨,謂率初同往以為臨也。
《象伝》にいう。咸臨貞吉は、心志の施行が正道に合するによる。自処するに正を以てし、応ずる所もまた正なれば、便ちその正道を推行し得るなり。当時通行の解説はこの爻を君子が正道を以て小人に臨むに講ず。陰は固より小人に比しうるも、しかし爻中には並びこの一層の象なし。九二:感応の心を以て臨めば、吉祥にして利あらざるなし。九二は上に六五に応じ、上に中正の君あり。すでに信任を受けて、能く己の志向を施行す。ゆえに「吉无不利」の象あり。この爻は臨卦の主爻――陽は初位に在る時はなお微弱、九二に到ってこそ強盛と算す。初九が「咸臨」と言うは、九二と協力して共同に来りて臨むを言う。九二が「咸臨」と言うは、初九を率領して一同に往きて臨むを言う。
象曰:咸臨吉無不利,未順命也。九二以剛居柔,非苟且以取悅於上者,有「未順命」之象。五順體而二說之,疑以苟從取悅矣。然剛而得中,以此為五所信任,非苟將順君命以取容者也。《本義》於此爻傳云「未詳」。今從此解,得聖人教人以道事君之意,然爻中亦實有此象也。
《象伝》にいう。咸臨吉无不利は、並び一味に君命に順従するに非ざるによる。九二は陽剛を以て柔位に居り、苟且に君上に取悦する人に非ず。ゆえに「未順命」の象あり。六五は坤順の体にして九二はそれに対して和悦す。人をして彼は苟且に順従して歓心を討取するを疑わしめ易し。しかし九二は剛にして中を得、この一点を憑って六五に信任せらる。決して意を曲げて君命に将順して以て身を容るを求むる人に非ず。朱熹《本義》はこの爻の《象伝》の下にただ「未詳」と注す。如今は上面のこの一解を採用す。すでに聖人が人に正道を以て君に事えるを教うるの本意を得、しかるに爻象の中にもまた確かにこの一層の象あり。
六三:甘臨,無攸利,既憂之,無咎。卦以陰陽相臨為臨。三陰柔說體,逼近二陽,而與上非正應。坤土味甘,變兌為口舌,無實心相接,但以甘說臨人之象。不中不正,下乘二陽,上無正應,有「無攸利」之象。二陽上逼,互卦得震,有憂懼之象。一變為乾、為泰,有「無咎」之象。蓋在上以甘說臨人,固無所利,然知憂懼自改,則咎可無。若小人在上,知君子非可以甘言要結,能改過以合乎剛正,則咎自可無矣。象曰:甘臨,位不當也;既憂之,咎不長也。位不當,不中正也。始雖有咎而後可無,其咎不長也。
六三:甜言媚語を以て臨めば、利益ある所なし。すでにこの為に憂懼すれば、便ち過咎なきを得べし。この卦は陰陽の相臨を以て名を取って臨と為す。六三は陰柔にして兌悦の体に処し、下面の両個の陽爻に紧逼し、しかるに上六とはまた正応に非ず。坤は土、土の味は甘。六三一たび変ずれば則ち下卦は兌を成し、兌は口舌――誠意なくして人と相接せず、ただ甜言を以て人を悦ばす。これがすなわち「甘臨」の象。それはすでに中に居らずまた正を得ず、下に向かって両個の陽爻を乗凌し、上に向かって正応なし。ゆえに「无攸利」の象あり。両陽は下に在って逼し上がり、互体はまた震を得、震は動・驚懼。ゆえに憂懼の象あり。六三一たび変ずれば則ち下卦は乾を成し全卦は泰を成す。ゆえに「无咎」の象あり。大抵上位に在って甜言悦人を以て下に臨むは、本は毫も利益なし。ただもし憂懼を知って自ら改正せば、過咎は免除しうる。もし小人が上に在り、君子は甜言を靠って便ち籠絡し得るに非ずを明白し、能く過を改めて剛正の道に合せば、過咎は自ずと無かるべし。《象伝》にいう。甘臨は、爻位の不当なるによる。すでに憂懼せば、過咎は長久ならざるなり。いわゆる位不当とは、それがすでに中に居らずまた正を得ざるを指す。起初は過咎ありと雖も後来は免除しうる。ゆえに過咎は長久ならずと言う。
六四:至臨,無咎。以陰居陰,處得其位,與三之不當者異;下應初九,應得其正,與三之乘陽者異。又坤兌之交,地澤相比,相臨之切至者也。「至」非至極之謂,言誠意以相與也,故無咎。象曰:至臨無咎,位當也。言位之當,而正應之意在其中矣。
六四:極めて誠恳の態度を以て臨めば、過咎なし。六四は陰爻を以て陰位に居り、処する所は正を得――六三の位不当と同じからず。下に向かって初九に応じ、応ずる所もまたその正を得――六三の陽爻を乗凌するに同じからず。加えるにそれはまさに上坤と下兌の交接の処に当たり、地と沢とは緊貼相依――相臨の最も親切深至。「至」は至極の意に非ずして、誠意を以て人と相交るを言う。ゆえに過咎なし。《象伝》にいう。至臨无咎は、爻位の得当なるによる。ここはただ位置の得当を言うのみで、しかるに初九と正応する意はすでにその中に含まる。
六五:知臨,大君之宜,吉。五變坎為通,「知」之象。以柔居中,下應九二,不自用而用人,「知」之事也。自用其知者其知小,不自用而用人者其知大。以此臨下,乃大君之所宜,吉之道也。象曰:大君之宜,行中之謂也。中者,天理之當然,非出於矯飾也。
六五:明智を以て臨むは、まさに大君の宜しき所――吉祥。六五一たび変ずれば則ち上卦は坎を成し、坎は通達――「知」の象。それは陰柔を以て上卦の中に居り、下に向かって九二に応じ、自ら己の能を逞ばずして賢人を任用す――まさに「知」の実事。自らその智を用うる人は、智慧は反って小。自ら用いずして能く人を用うるは、智慧はこそ大。このような態度を以て下に臨むは、まさに大君の当に為すべき所――吉を獲るの道。《象伝》にいう。大君の宜とは、彼の行う所は中道なるを言う。いわゆる「中」とは、天理は本はこの如くあるべし。並び矯揉造作して装い出すに非ず。
上六:敦臨,吉無咎。上六居地之上畫,爻本坤土,又變艮土,有積累至於極厚之象。舊說以上最遠於陽,不敢以柔臨剛,厚之至也。以厚接物,未有不安者,故厚敦(文瀾本「厚敦」作「敦厚」)於臨,乃吉而無咎之道也。然按《象傳》「志在內」,則非不敢臨之意。按《蘇傳》:六五既已應九二矣,上六又從而附益之,謂之「敦臨」;復之六四已應初九矣,六五又從而附益之,謂之「敦復」。此說解「敦」字為切,言附五以加厚於二也。
上六:敦厚を以て臨めば、吉祥にして過咎なし。上六は上卦坤地の最上の一画に居り、爻は本は坤土に属し、変ずれば則ち艮を成し、艮もまた土――層層積累して極厚に至るの象あり。旧説は上六は陽より離るること最も遠く、敢えて柔を以て剛に臨まざると以て――これは厚の極点に到る。厚道を以て人を待ち物に接すれば、安穩ならざるなし。ゆえに敦厚にして往きて臨む(文澜本は「厚敦」を「敦厚」と作す)は、まさに吉を獲て咎なきの道。ただ《象伝》に按じて「志在内」と言うを見れば、並び敢えて臨まざるの意に非ざるを見るべし。再び蘇軾《東坡易伝》の説法に按ずるに、六五はすでに九二と相応じ、上六はまた跟って往きてそれを増益す――これを「敦臨」と言う。復卦の六四はすでに初九と相応じ、六五はまた跟って往きてそれを増益す――これを「敦復」と言う。この一説は「敦」の字を解するに最も貼切――これは六五に依附して以て九二に加厚するを言う。
象曰:敦臨之吉,志在內也。上六與九二非正應,而志在於九二之陽,附五以相臨,厚之至也。上以志在陽為吉,三以志在上而無利可知矣。卦義以陽臨陰,而六爻自三以上陰亦臨陽。陽氣方升,陽臨陰,在所宜,故皆吉。陰上陽下,雖有以上臨下之勢,而嫌其逼於陽,故獨於三爻無利。上以遠於陽而志在陽,反得吉。至四之無咎、五之吉,則又皆應於陽者。陽氣方盛,勢正上進,吉多凶少,聖人言外扶陽抑陰之意又可見矣。
《象伝》にいう。敦臨の吉たる所以は、心志は内卦の陽に繋るによる。上六と九二は並び正応に非ず、しかるに心志は卻て九二の陽に繋り、六五に依附して一同に来りて臨む――厚の極点に到る。上六は志が陽に在るに因って吉を得れば、されば六三は志が上六に在るに因って利する所なし――また想い知るべし。全卦の大義は陽を以て陰に臨むなれど、六爻の中に自ら六三より上は、陰もまた陽に臨むこと在り。陽気はまさに上昇し、陽が来りて陰に臨むは理の当然に応ず。ゆえに皆吉。陰は上に在って陽は下に在り、上を以て下に臨むの勢あると雖も、卻てそれが陽爻を逼迫するを嫌む。ゆえに独り六三のみ利する所なし。上六は陽より離るること最も遠きに因って反って志は陽に在り、倒れて吉を得たり。六四の无咎・六五の吉に至るも、また皆陽と相応ずるの由縁。陽気は正に盛んにしてその勢は正に上に向かって進む。ゆえに吉多く凶少なし――聖人の言外に於いて陽を扶け陰を抑るの用意は、ここに於いてまた見うべし。
観卦
觀卦,下坤上巽。風行地上,徧觸乎物,有自上觀下之義,則為去聲之觀;二陽在上,四陰所仰,有自下觀上之義,則為平聲之觀。全彖取以上示下之義,故卦名取去聲之觀也。觀卦次臨。按《序卦》:物大然後可觀,故受之以觀。觀所以次臨也。彖取上觀下之義。在上者致其潔清,不輕自用,民自信而仰之。此全彖之大旨也。
観卦は、下卦は坤、上卦は巽。風は地上に行きて、普遍に万物に触及す――上より下を観るの義を含む。この時「観」は去声に読み、「人に示す」の観。両個の陽爻は上に在って、下面の四つの陰爻に仰望せらる――下より上を観るの義を含む。この時「観」は平声に読み、「瞻仰」の観。全卦の《彖辞》は上を以て下に示すの義を取る。ゆえに卦名は去声の「観」に読む。観卦は臨卦の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、事物は盛大なる後にこそ観る可きあり。ゆえに臨卦の後に接ぐるは観卦。これがすなわち観の臨に次ぐ所以の故。《彖辞》は上に在る者が下に観せらるるの義を取る。上位に居る人は務めて己をして潔浄精誠ならしめ、軽易に自ら己の意を逞ばせず。百姓は自ずと信服して彼を仰望す。これが全卦《彖辞》の大旨。
六爻以四陰自下仰觀二陽。然上不得位,故以五為觀之主。而下四陰則近者吉而遠者凶。四觀光而三進退,二利女而初則吝矣。蓋臨卦二陽在下,進而凌陰,故陰欲遠陽;觀卦二陽在上,陰自下仰,故陰欲近陽。此又扶陽抑陰之微意也。
六爻に就いて言えば、四つの陰爻が下より仰観して上面の両個の陽爻を見る。ただ上九は君位に当たらず。ゆえに九五を以て一卦の主と為す。下面の四つの陰爻は則ち陽に離るること近きは吉、陽に離るること遠きは凶。六四は国の光を観るを得、六三はただ自ら進退を量るのみ、六二は僅かに女子の貞に利し、初六は便ち羞吝を免れず。大抵臨卦は両陽が下に在って前進して陰爻を凌逼す。ゆえに陰は陽を遠離せんと想う。観卦は両陽が上に在り、陰は下より仰望す。ゆえに陰は陽に親近せんと想う。この裏面にまた陽を扶け陰を抑るの深微なる用意を含む。
觀。盥而不薦,有孚顒若。觀者,以中正示人,為人所仰也。盥者,將祭而潔手。薦,奉酒食以祭也。顒若,尊敬之貌。盥者無不薦。盥時誠意精專,薦亦未至於懈。今雲盥而不薦者,風行地上,萬物肅清,然無形可見,有盥而不薦之象。然氣之所至,自然鼓動萬物,有孚而顒若之象。
観:祭祀の時にすでに手を洗浄し畢りて、まだ酒食を献上せざる、心中にすでに誠敬を充満して神情は肃然たり。いわゆる「観」とは、中正の徳を以て人に示し、人の仰望する所と為る。「盥」は将に祭祀を行わんとする前の手の潔。「薦」は酒食を奉上して以て祭る。「顒若」は尊敬の样子。盥礼を行い過ぐるは続いて献祭せざるなし。ただ盥手の時は誠意が最も精専にして、献祭の時もまた未だ必ずしも懈怠せざるなり。如今「盥而不薦」と言うは、風が地上に行きて万物はこれが為に肃然として清明なれど、しかし風の本身は形なくして見うべからず――まさに盥手の時に誠意すでに足りて未だ献祭に及ばざるの象のごとし。ただ風気の到る所は、自ずと万物を鼓動す――これまたまさに「有孚顒若」の象。
聖人潔清自治,恭己無為。不待政教號令之行,而群下信而仰之,莫不整肅。猶祭者方盥手於洗,誠意精專。不待牲牢酒食之陳,而精誠使人皆肅然生敬也。又按,大壯則取四陽之盛,觀則不言四陰之盛,反取二陽在上為四陰所仰,則又聖人扶陽抑陰之意也。
聖人は潔浄精誠を以て自ら治め、己を恭にして無為――必ずしも政令教条の一々に施行するを待たずして、臣民は自ずと信服仰望して整粛せざるなし。これはあたかも祭を主る人が剛く洗器の上に盥手して誠意精専なれば、牲牢酒食の陳列出るを待つを須とせずして、あの一片の精誠はすでに人をして肃然として敬を起さしむるがごとし。又按ずるに、大壮卦は四陽の盛を取って以て義を立つるも、観卦は卻て四陰の盛を言わずして、反って両陽が上に在って四陰に仰がるるを取る。これはまた聖人の陽を扶け陰を抑るの用意。
彖曰:大觀在上,順而巽中正,以觀天下。陽為大,故曰大觀。在上以位言。順巽中正以德言。中正指九五也。有位無德、有德無位,皆不足以觀天下。順則心於理無所乖,巽則事於理無所拂。具順巽之德(文瀾本「順巽之德」作「巽順之美德」),以我之中正,觀天下之不中正者。此節以卦體卦德釋名義也。觀,盥而不薦,有孚顒若,下觀而化也。非有意於感人,而觀者自化也。此釋卦辭也。
《彖伝》にいう。偉大なる観瞻は高く上に居り、柔順にして巽入・中正、これを以て天下に観示す。陽は大。ゆえに「大観」と言う。「在上」は爻位に就いて言い、「順巽中正」は徳行に就いて言う。中正は九五を指す。位ありて徳なく、徳ありて位なきは、皆足らずして天下に観示す。「順」は心の理に対して乖違なき、「巽」は事の理に対して拂逆なき。順と巽の徳行を具備して(文澜本は「順巽之徳」を「巽順之美徳」と作す)、我が中正を拿って、天下の不中不正の人を観照し往かん。この一節は卦体・卦徳を以て卦名の義を釈す。《彖伝》はまたいう。観の盥而不薦・有孚顒若とは、下面の人が観仰して自ずと化を受くるなり。並び有意に人を感動するを往かずして、観る人は自ずと便ち化す。この一節は卦辞を釈す。
觀天之神道,而四時不忒。聖人以神道設教,而天下服矣。神者,無形與聲,而妙不可測。天運自然,四時不忒。天之所以為觀,神道也。聖人亦不俟號令政教之煩,使天下自服。聖人之所以為觀,以天之神道設教也。不薦之孚,聖人之神道也。猶中庸之篤恭而天下平、上天之載無聲無臭也。此因卦辭而極言之。
《彖伝》にいう。上天の神道を観察すれば、四時は運行して毫も差忒なし。聖人はこの神道に依って教化を設立せば、天下は便ち自ずと帰服す。いわゆる「神」とは、无形無声にして妙にして測るべからず。天運は自然にして四時は差わず――天が万物に観仰せらるる所以は、靠る所はまさに神道。聖人もまた必ずしも号令政教に煩労せずして、能く天下をして自ら服せしむ――聖人が天下に観仰せらるる所以は、靠る所はまさに天の神道に取法して以て教を設くる。「不薦而有孚」は、すなわち聖人の神道。あたかも《中庸》の言う所の「篤恭而天下平」・「上天之載、無声無臭」のごとし。この一節は卦辞に就いて極処に推して以て言う。
象曰:風行地上,觀。先王以省方觀民設教。風行地上,徧觸萬物,有周觀之象。先王體之,省方以觀民風而設教。如「國奢示儉,國儉示禮」之類是也。坤為土,有土有民。省方觀民,坤之象。巽以申命,設教巽之象。
《大象伝》にいう。風は地上に行く――観卦。先王はここに由って四方を巡行し民風を観察して教化を設立することを体会す。風は地上に行きて普遍に万物に触及す――周遍して観察する象あり。先王はここに取法して、四方を巡視して以て民風を観察して後に教を設く。たとえば或る国の風気が奢侈なれば則ちそれに倫朴を以て示し、或る国の風気が倫に過ぐれば則ちそれに礼文を以て示すの類。坤は土で、土地あれば便ち人民あり。ゆえに「省方観民」は坤の象を取る。《巽卦大象》に「巽以申命」と言う。ゆえに「設教」は巽の象を取る。
初六:童觀,小人無咎,君子吝。卦以觀示為義,據九五為主也。爻以觀瞻為義,皆觀乎九五也。初六陽位而陰爻,陽則男而陰則稚,又居卦之下。如未有知識之童子,不能遠見,有童觀之象。小人無咎而君子則吝者。蓋下民日用而不知,乃其常也。君子不著不察,則可羞矣。象曰:初六童觀,小人道也。小人之常也。
初六:孩童のごとく看る――小人は過咎なし、君子は則ち羞すべし。この卦は「観示」の上より義を取り、九五を以て主と為す。六爻は則ち「観瞻」の上より義を取り、皆九五を仰観す。初六は陽位に居るも本身は陰爻――陽は男にして陰は幼稚、また全卦の最下に処す。あたかもまだ知識なき孩童のごとく遠処を見る能わず。ゆえに「童観」の象あり。小人は無咎にして君子は羞すべしは、百姓は天々この道理を用いて自ら知らざる――本は常態。君子がもしまた蒙昧不明にして省察する能わざれば、それは便ち羞すべし。《象伝》にいう。初六の童観は、あれは小人の道。意はこれはただ小人の常態のみ。
六二:闚觀,利女貞。六二質柔位陰,女子之象,自內窺外。雖與五為應,而為三四所隔。三四五互為艮,有自門內闚視、所見者小、不見其全之象。此女子之正道也。象曰:闚觀女貞,亦可醜也。在丈夫則可丑矣。
六二:門縫より窺看す――女子が正を守るに利し。六二は資質柔弱にしてまた陰位に居るは女子の象で、内より外に向かって窺視す。それは九五と相応ずると雖も、中間は卻て六三・六四に隔断せらる。三・四・五は互体して艮を成し、艮は門闕――門内より窺視して見る所は小にして全体を見る能わざるの象あり。これは女子に於いては卻てまさに正を守るの道。《象伝》にいう。闚観女貞は、またなお羞すべきなり。意は同じくこの見識もし男子の身上に出でば、便ち羞すべし。
六三:觀我生,進退。諸爻皆觀乎五,故三上不取相應之義。我生,我之所行也。六三隔四,不能觀國。居下之上,可進可退。故不觀九五,而觀己之所行,可否何如,以為進退,量己而後入官者也。他卦居中多吉,三不中多凶。此獨以觀之遠近取義,故四最善而三次之。象曰:觀我生進退,未失道也。進退合宜,未失其常道也。
六三:己の作為する所を観察し、これに拠って進退を決定す。諸爻は皆九五を仰観するを以て義を立つ。ゆえに六三と上九は彼此相応の義を取らず。「我生」はすなわち我が己の行為。六三と九五の間は六四に隔てられ、「観国」に及ばず。しかるにそれは下卦の上に居り、進むべく退くべし。ゆえに往きて九五を観ず、ただ己の行為の可と不可とを観て、これに拠って進退を決定す。これは先に己を衡量して後に出仕する人。別の卦の裏は中に居るは多く吉、三爻の不中は多く凶。此の卦は独り観の遠近を以て義を取る。ゆえに六四は最も好く六三はこれに次ぐ。《象伝》にいう。我生を観て進退するは、正道を失わざるなり。進退は各々その宜を得れば、便ち常道を失わず。
六四:觀國之光,利用賓于王。六四下互坤土,有國象。互五為艮,近陽爻,有光明象。五為君王象。四承五最近,而柔順得正,賓于王之象。其占利於朝覲仕進也。象曰:觀國之光,尚賓也。士不苟進,君以賓禮待臣,有非常之遇矣,故其志尚樂於進用也。
六四:一国の光華を観仰す――君王の賓客を為すに利し。六四の下面は互体して坤を成し、坤は土――邦国の象あり。三・四・五は互体して艮を成し、艮は陽爻に靠近す――光明の象あり。九五は則ち君王の象。六四は九五に緊承して最も親近、また柔順にして正を得。ゆえに「賓于王」の象あり。その占は君王に朝覲し出仕進用するに利し。《象伝》にいう。国の光を観るは、賓礼を崇尚するなり。士人は苟且に進を求むるを肯んぜず、君主は賓客の礼を以て臣に待つ――これは尋常ならざる遇合。ゆえにその心志は進用せらるるを楽しむ。
九五:觀我生,君子無咎。九五陽剛中正,以居尊位,下四陰仰而觀之,君子之道也。然必返而自觀我之所行,果合於君子,乃得無咎。蓋觀本四陰侵陽之卦,故有危詞。苟我之所行不足以觀示四方,反有咎矣。象曰:觀我生,觀民也。人君有臨民之責。而曰觀我生,非置民而不問也。王者通天下為一身。觀我所行之善否,即可以知民之善否矣。觀我,正所以觀民也。《本義》又當觀民德之善否。似作言外補意,稍緩。
九五:己の作為する所を観察し、もし君子の道に合せば便ち過咎なし。九五は陽剛中正にして尊位に居り、下面の四つの陰爻は皆彼を仰観す――これは君子の道。しかし必ず反って自ら我が行為を察して、果して君子に合してこそ、能く過咎なきを得。観卦は本は四陰が二陽に侵逼する卦に因って、ゆえに措辞は危懼を帯ぶ。仮使我が行為が足らずして四方に示範せざれば、反って過咎あらん。《象伝》にいう。我生を観るは、すなわち民を観るなり。人君は百姓を臨撫する責ありて、ここは卻て「観我生」と言うは、並び百姓を一辺に擱いて管せざるに非ず。王者は天下を以て一身と為し、我自己の行う所の善と不善とを看れば、便ち百姓の善と不善とを知りうる。我を観るはまさに民を観るの途徑。朱熹《本義》はまた「還当に民徳の善否を観察すべし」と言う――これは言外より一層の意を補出するに似たり、本文に比すれば稍や迂緩を嫌む。
上九:觀其生,君子無咎。上九以陽剛居尊位之上,亦為下所觀瞻,若賓師之位也。故亦當反觀己之所行,求免於咎也。曰其生者,上無位,不當事任。避九五,不得稱我也。象曰:觀其生,志未平也。自省其身,未得自安,故曰未平,不敢以不居其位而晏然不自省也。
上九:彼の作為する所を観察し、もし君子の道に合せば便ち過咎なし。上九は陽剛を以て尊位の上に居り、また下面に観瞻せらる――あたかも賓師の位のごとし。ゆえにまた当に反って己の行為を観して、以て過咎を免れんを求むべし。「其生」と言うて「我生」と言わざる所以は、上九に爵位なく、政事の任を担当せず、また九五を避けて自ら「我」と称し得ざるによる。《象伝》にいう。その生を観るは、心志まだ平安し得ざるを言う。己の身を自省して未だ安然たる能わず。ゆえに「未平」と言う――敢えて己のその位に居らざるに因って安然として省察を加えざらず。
觀為陰盛之卦。而九五陽剛得位,故有可以觀示下民之象。然高位為眾所仰,非可易居,而陰盛亦多戒懼,故五僅無咎而上志未平也。四陰觀在上之陽。位高則所觀者大,卑下則所觀者狹。此四觀光、三進退,而初二則羞吝也。
観卦は本は陰盛の卦なれど、しかるに九五は陽剛にして位を得。ゆえに以て下民に観示しうるの象あり。しかし高位は衆人の仰ぐ所にして、居るに易からず。加うるに陰盛の時は多く戒懼を須とす。ゆえに九五は僅かに「无咎」を得、上九もまたただ「志未平」。四つの陰爻は上に在る陽を仰観す。位高きは見る所は大、位卑きは見る所は狭。ゆえに六四は能く国の光を観、六三はただ自ら進退を量るのみ。しかるに初六・六二は便ち羞吝を免れず。
噬嗑卦
噬嗑,下震上離。噬,齧也。嗑,合也。口中有物間之,必齧而後合。卦上下兩陽而中虛,頤口之象。九四一陽間於其中,必齧之而後合,故為噬嗑。噬嗑次觀。按《序卦》:可觀而後有所合,故受之以噬嗑。嗑者,合也。既有可觀,然後有來合者,噬嗑所以次觀也。
噬嗑卦は、下卦は震、上卦は離。「噬」は咬むこと、「嗑」は合うこと。口の中に物ありて当中に梗げば、必ずそれを咬開いて後に上下は能く合攏す。この卦は上下の両爻は陽にして中間は空虚――まさに頤口の象。九四の一つの陽爻がその中に梗ぐ。必ずそれを咬断して後にこそ合す。ゆえに「噬嗑」と言う。噬嗑は観卦の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、観る可き処あって後にこそ会合する所あり。ゆえに観卦の後に接ぐるは噬嗑。「嗑」はすなわち合。すでに観る可き処あって然る後にこそ、前来して会合する人あり。これがすなわち噬嗑が観に次ぐ所以の故。
口有物間之,必噬而後合。天下有強梗讒邪間之,亦必治之以法而後治成。又火為明,雷為震,皆有當於治獄之道,故全卦皆以治獄之事言之。六爻則初上無位,為受刑之人;中四爻為用刑之官。大抵以爻位之剛柔論噬之難易,要歸於能謹。此全卦六爻之大略也。
口の中に物ありて梗げば、必ず咬開いて後に能く合す。天下に強横の徒と讒佞邪人とありて中より梗を作れば、また必ず法度を以て彼らを治掉して後に治道はこそ成る。加うるに離火は明察、震雷は威動――皆まさに刑獄を治理するの道に合す。ゆえに全卦は皆断獄の事を拿って講ず。六爻に就いて言えば、初九と上九は爵位なく、刑を受くる人。中間の四爻は刑を用うる官。大抵爻位の剛柔に按じて咬む物の難易を論じて、一つの「能く謹慎す」に帰結す。これが全卦六爻の大概。
噬嗑:亨,利用獄。上下兩陽而中虛,口之象。天下之物,中有所間則不通,齧之而合則通矣,故有亨象。此概論天下之事,用獄則噬嗑中之一事也。天地生物,有為造物之梗者,必用雷電擊搏之;聖人治天下,有為民之梗者,必用刑獄懲治之。上離電之明,所以察獄也;下震雷之威,所以決獄也。六五以柔居中,有威與明而得中者也,故有利用獄之象。又相噬以求合,教化之衰也,故但利用獄。
噬嗑:亨通、刑獄を用うるに利し。上下の両爻は陽にして中間は空虚――口の象。天下の事物は、中間に一たび阻隔あれば便ち通ぜず。咬開いてそれを合攏せしめれば便ち通ず。ゆえに亨通の象あり。これは天下の事に就いて総じて言う。刑獄を用うるは不過噬嗑の中の一件事のみ。天地は万物を生養して、造化に梗阻するに遇えば、必ず雷電を以て往きてそれを撃搏す。聖人は天下を治理して、百姓に梗害するに遇えば、必ず刑獄を以て往きて彼を懲治す。上卦離は電の明亮。ゆえに能く獄を察す。下卦震は雷の威猛。ゆえに能く獄を断ず。六五は陰柔を以て上卦の中に居り、威と明と兼備してまた中を得る。ゆえに「利用獄」の象あり。再び言うに、相咬してこそ合を求めうるは、本は教化の衰微の表現。ゆえにただ「利用獄」と言うのみで別のを言わず。
彖曰:頤中有物,曰噬嗑。上下兩陽頤象,中一陽有物象。此以卦體釋卦名義,所謂近取諸身者也。噬嗑而亨,剛柔分,動而明,雷電合而章。柔得中而上行,雖不當位,利用獄也。
《彖伝》にいう。頤口の中に物ありて梗ぐるを、噬嗑と言う。上下の両個の陽爻は頤口の象、中間の一つの陽爻は物の梗阻するの象。これは卦体を以て卦名の義を釈す。すなわち《繫辞伝》のいわゆる「近取諸身」。《彖伝》は続けていう。咬開いてここに因って亨通す。剛爻柔爻は均分し、下は動き上は明。雷と電とは相合して彰著す。柔爻は中を得て上行す。爻位は当ならずと雖も、卻て獄を用うるに利し。
噬之而嗑,乃得亨通。以治道論,寇盜作梗;以倫紀論,讒邪作梗。治而去之則合矣。彖傳增而字,所謂以卦名釋卦辭也。三陰三陽,剛柔均分,此以卦體釋卦辭也。下動而上明,言夫嗑以前,以噬而致亨;雷震電耀相須並見,曰合而章,言既噬之後,以嗑而致亨。所謂以卦德二象釋卦辭也。此以上皆釋噬嗑之亨也。
それを咬開いてこそ合攏して、ここに於いて亨通を得。治道に就いて言えば、寇盗が梗を作す。倫紀に就いて言えば、讒邪が梗を作す。それらを治理して除掉せば、天下は便ち合す。《彖伝》は卦辞に比して一つの「而」の字を多く出ず――これがすなわちいわゆる卦名を以て卦辞を釈す。三つの陰爻三つの陽爻、剛柔は平均に分布す――これは卦体を以て卦辞を釈す。下卦は震動して上卦は離明――これは「嗑」以前に於いて、「噬」に靠って亨を致すを言う。雷震と電耀とは互相依待して一斉に出現するを「合而章」と言う――これはすでに咬みたる後に於いて、「嗑」に靠って亨を致すを言う。これがすなわちいわゆる卦徳と二象とを以て卦辞を釈す。以上は皆噬嗑の亨たる所以を釈す。
柔得中句。《本義》謂爻變自益卦六四上行於五而得其中,然與得中上行不合。今依卦綜,賁之離二本得中,今上行於五,為是;以柔居五,為不當位。然剛柔相濟,治獄所宜,此以卦綜釋卦辭也。此二語釋利用獄也。
「柔得中而上行」の一句は、朱熹《周易本義》は爻変と言う――益卦の六四より上行して五位に到って中を得る。しかしこれは「得中上行」の文義と並び相合せず。如今卦綜に依って看れば、噬嗑と賁は互いに倒体を為し、賁卦の下離の六二は本は中に居るも、如今は倒転して上行して五位に到る――このように講じてこそ対なり。しかるに柔爻を以て五のこの陽位に居るは、まさに「不当位」。しかしこの如く剛柔相済すは、恰も獄を治むるの宜しき所。これは卦綜を以て卦辞を釈す。この両句は「利用獄」を釈す。
象曰:雷電噬嗑,先王以明罰勅法。雷電當作電雷。明者,辨別精審之意,象電之明,所以示民而使之知避也;勅者,整飭嚴整之意,象雷之威,所以防民而使之知畏也。罰者,一時所用之法;法者,平日所定之罰。明罰勅法猶不知戒,不得已乃有豐之折獄致刑。
《大象伝》にいう。雷電は交作す――噬嗑卦。先王はここに由って刑罰を昭明にし法令を整飭せんとするを体会す。「雷電」は上下卦位に照らして言えば「電雷」と作すべし。「明」は精細審愼を辨別するの意で、電の明亮に象を取りて、以て百姓に昭示して彼らに躲避を知らしむ。「勅」は整飭厳明の意で、雷の威猛に象を取りて、以て百姓を防範して彼らに畏懼を知らしむ。「罰」は一時の施用する法、「法」は平日の定下する罰。罰を明らかにし法を勅して後に百姓がなお警戒を知らざれば、こそ不得已にして豊卦の《大象》の言う所の「折獄致刑」あらん。
初九:履校滅趾,無咎。初上受刑之象,中四爻用刑之象。校,足械也。屨校者,校其足如納屨然。趾所以行,滅其趾,遮沒其趾使不得行,受刑之小者也。震為足,初應四;三四五互為坎為桎梏;初爻最下,故有屨校之象。震變坤,不見其足,滅趾之象。罪小而受薄刑,小懲可以大誡,故無咎也。象曰:履校滅趾,不行也。震主動,變坤則靜。不敢妄動,不進於惡矣。
初九:脚上に刑具を戴きて脚趾を遮没す――過咎なし。初九・上九は刑を受くるの象、中間の四爻は刑を用うるの象。「校」は脚上の刑具。「屨校」は刑具を脚に套して、鞋を穿くがごとし。脚趾は以て行走するに用う。「滅其趾」は彼の脚趾を遮没して彼をして行走し得ざらしむ――較輕の刑罰に属す。震は足で、初九は九四と相応ず。三・四・五は互体して坎を成し、坎は桎梏。初爻は最下に在る。ゆえに「屨校」の象あり。震は一たび変ずれば則ち坤を成し、足を見ざる――すなわち「滅趾」の象。罪過は小にして受くる所は輕刑。小さき懲戒を以て大きき警誡に換うべし。ゆえに過咎なし。《象伝》にいう。履校滅趾は、彼をして行走し得ざらしむるなり。震は動を以て主と為し、変じて坤を成せば便ち静。敢えて妄動せざれば、また悪に走り往くことを為さざるなり。
六二:噬膚滅鼻,無咎。中四爻言用刑之人,皆取食物為象。膚,豕腹下柔軟無骨之肉,噬而易嗑者;滅鼻,深入至沒其鼻也。六二陰柔中正,聽斷得理,噬之最易合者。二三四互艮為鼻,二變則為離,故有深沒其鼻之象。蓋以乘初之剛,以柔治剛,深痛治之,不至於有咎也。此解照《程傳》。按,《本義》謂傷滅其鼻,占者雖傷而終無咎;然噬膚無傷鼻之理,不如《程傳》之順。象曰:噬膚滅鼻,乘剛也。噬膚至於滅鼻,疑於深矣。所以無咎者,以乘剛故也。蓋在下有強梗之人,恐過柔以治之則廢,故深嚴而得宜,乃得其中也。
六二:柔軟の肉を咬みて、深入して鼻子を埋没す――過咎なし。中間の四爻は刑を用うる人を講じ、皆食物を拿って象を取る。「膚」は猪の腹下の柔軟にして骨なき肉で、一たび咬めば便ち開く。「滅鼻」は深入して鼻子を埋没す。六二は陰柔にして中正、聴断は理に合す――咬みて最も合し易き。二・三・四は互体して艮を成し、艮は鼻。六二一たび変ずれば則ち下卦は離を成す。ゆえに深深としてその鼻を埋没する象あり。これはそれが初九の陽剛の上に乘凌し、柔を以て剛を治むれば、必ず痛く懲治を加えてこそ、過咎に至らざるによる。この一解は程頤《伊川易伝》に依る。按ずるに、朱熹《本義》は己の鼻子を傷滅したと言い、占者は傷を受くるも終に咎なしとす。しかし柔軟の肉を咬みて鼻子に傷る道理なし――《程伝》の講ずるに如かず順なり。《象伝》にいう。噬膚滅鼻は、陽剛を乘凌するによる。柔軟の肉を咬みて竟も鼻子を埋没するに至るは、太く深きを嫌むに似たり。それがなお過咎なき所以は、まさにそれが剛爻の上に乘凌するによる。大抵下面に強横の人あれば、ただ過分に寛柔を以て彼を治めて反って事を壊らんを怕る。ゆえに深厳にしてまた宜を得――これこそ中道に合乎。
六三:噬臘肉,遇毒,小吝無咎。臘肉,小獸全體骨而乾之者,堅韌之物也。六三柔中有剛,有臘肉象。互坎,有遇毒象。六三陰柔不中正,治久年疑獄而人不服者也,故占小吝。然時當噬嗑,於義亦無咎也。象曰:遇毒,位不當也。以柔弱居剛強之位故也。
六三:風乾の臘肉を咬みて、毒味に碰上す――稍や羞吝あるも過咎なし。「臘肉」は小獣を骨に連ねて整只を風乾したる――堅韌の物。六三は陰柔の中に剛性を含む。ゆえに臘肉の象あり。それはまた互体の坎中に在り、坎は険陷。ゆえに毒に遇うの象あり。六三は陰柔にしてまた不中不正――積年の疑案を審理して人が服気せざる人。ゆえに占辞は「小吝」と言う。しかし正に噬嗑の時に当たれば、道理に就いて言えばまた過咎なし。《象伝》にいう。毒に遇うは、爻位の不当なるによる。これは柔弱の質を以て剛強の位に居るの由縁を言う。
九四:噬乾胏,得金矢,利艱貞吉。乾胏,肉之帶骨者,至堅而難噬者也。金矢,《本義》謂入鈞金束矢而後聽之。然《周禮》束矢鈞金,所以禁民訟獄,使瑣屑之事不敢妄興訟,非聽訟之正道也,不如《程傳》以金剛矢直為得治獄之宜。
九四:骨帯る乾肉を咬みて、金と矢とを得――艱難の中に於いて正を守って則ち吉に利し。「乾胏」は骨頭を帯ぶる肉で、最も堅硬にして咬み難し。「金矢」は、朱熹《本義》は《周礼》に依って鈞金・束矢を繳納して後に訟案を受理するを言う。しかし《周礼》の束矢・鈞金を納せしむる所以は、百姓の興訟を限制して瑣屑の事をして妄りに告らしめざる為で、並び聴訟本身の正道に非ず。程頤《伊川易伝》の「金」にその剛強を取り「矢」にその正直を取るに如かず――まさに獄を治むるの宜しきに合す。
九四離體,離為乾,乾胏之象。三四五互坎,坎得乾之中爻,有金象。坎又為矢,得金矢之象。九四以剛居柔,居大臣之位。所斷之獄,又非若膚臘之易者,必如金之剛則不撓,如矢之直則無私。然剛直非易行,恐瞻顧而不果矣,故必艱難正固則吉。象曰:利艱貞吉,未光也。離有光明之象。四離體而居下,大臣之位,不便威福自已。治此大獄,雖以剛直為主,未免艱難戒懼,故曰未光。
九四は離体に属し、離は乾燥。ゆえに乾胏の象あり。三・四・五は互体して坎を成し、坎は乾卦の中爻を承受して成る――金の象あり。坎はまた矢。ゆえに「得金矢」の象あり。九四は陽剛を以て柔位に居り、大臣の位に処し、その審断する案子はまた「膚」「臘」のごとき容易ならず。必ず金のごとく剛強にして不屈撓し、矢のごとく正直にして偏私なからんことを要す。しかし剛直は容易に施行し得ず。ただ前を瞻り後を顧みて果決し得ざるを怕る。ゆえに必ず艱難の中に於いて正固を堅守してこそ吉。《象伝》にいう。利艱貞吉は、まだ光大せざるを言う。離は光明の象あり。九四は離体に属するも上卦の下に居るは大臣の位で、自ら威福を専らにするに便ならず。このような大案を審理するに、剛直を以て主と為すと雖も、また艱難戒懼を免れず。ゆえに「未光」と言う。
六五:噬乾肉,得黃金,貞厲無咎。乾肉,難於膚而易於臘胏者也。六五君位。小事不至於君,故所噬非膚之易;君威無所不加,故不至如臘胏之難。黃金,《本義》謂指鈞金。蓋《周禮》小事束矢,大事鈞金。大臣大小兼聽,唯鈞金則以聞之君者也。今從《程傳》作剛中之德為優。
六五:風乾の肉を咬みて、黄金を得――正を守りて危懼を知れば便ち過咎なし。「乾肉」は「膚」に比して咬み難く、「臘」「胏」に比すれば容易。六五は君位。小事は君に上達せず。ゆえにその咬む所は「膚」のごとき容易に非ず。君威は加えざる所なし。ゆえにまた「臘」「胏」のごとき難に至らず。「黄金」は、朱熹《本義》は《周礼》の鈞金を指すと言う――《周礼》は小案に束矢を納め大案に鈞金を納むるを規定し、大臣は大小案件を兼聴し、ただ鈞金を納めたる大案のみが君に上聞す。如今はなお程頤《伊川易伝》に依って剛中の徳に解するを好しと為す。
離中變乾為金,黃金之象。蓋大臣貴其不撓,尤貴於無私;君則無可私矣,唯恐其優柔不斷而已。黃,中色;而金,剛德。六五柔順居尊,剛柔相濟,得其中矣。然刑者,聖人不得已而用之,不可無戒懼之心也,故雖貞亦厲,但於義則無咎也。
離卦の中爻は一たび変ずれば則ち乾を成し、乾は金。ゆえに黄金の象あり。大抵大臣は不屈撓するを貴び、尤も偏私なきを貴ぶ。君主は則ち本は偏私する可きなし。ただ彼が優柔にして決断し得ざるを怕るのみ。「黄」は居中の色、「金」は剛強の徳。六五は柔順にして尊位に居り、剛柔相済して、すでにその中道を得たり。しかし刑罰は聖人の不得已にして用うる所。戒懼の心なかるべからず。ゆえに正を守るもなお「厲」と言う。ただ道理の上に講じて過咎なきのみ。
五位與二同,而五能噬乾肉,二但能噬膚者,二以柔居柔而五以柔居剛,五之才勝乎二也。五之才與三同,而五得黃金,三不免遇毒者,三之柔不中,五之柔得中,五之位勝乎三之位也。六五之才之位勝二三,而爻辭但言無咎,不及九四之吉者,五之柔不如四之剛也。蓋九四以剛噬者,有司執法之公;六五以柔噬者,人君不忍之仁。然治獄本有司之事,而有司雖威照並行,必以剛直為主,故論治獄之道,必以九四為則也。
六五と六二は同じく柔爻にして中に居るも、しかるに六五は能く乾肉を咬み六二はただ柔膚を咬む能きは、六二は柔を以て柔位に居り六五は柔を以て剛位に居るに因って、六五の才具は六二に勝る。六五と六三は同じく柔爻なれど、しかるに六五は黄金を得て六三は毒に遇うを免れざるは、六三の柔は中に居らず六五の柔は中を得るに因って、六五の爻位は六三の爻位に勝る。六五は才と位と皆六二・六三に勝るも、しかるに爻辞はただ「无咎」と言うのみで、九四の「吉」に趕かざるは、六五の柔は九四の剛に如かざるによる。大抵九四は剛を以て往きて咬むは、有司が法を執るの公正。六五は柔を以て往きて咬むは、人君の忍びざるの仁心。しかし獄を治むるは本は有司の職事で、有司は威厳と明察と並行するを要すと雖も、終に剛直を以て主と為す。ゆえに獄を治むるの道を論ずれば、必ず九四を以て準則と為すべし。
象曰:貞厲無咎,得當也。得當,謂處剛而得中也。彖言不當位,以位言也;爻言得當,以事言也。四爻言吉而傳曰未光,五爻僅無咎而傳言得當者:九四臣位,必艱貞而後吉,權難自主,所以未光;五君位,用刑人無不服,而以艱貞危厲為心,蓋欽恤之道當然,故在五為得其當也。
《象伝》にいう。貞厲无咎は、処置の得当なるによる。いわゆる「得当」とは、柔爻を以て剛位に処してまた中を得るを指す。《彖伝》に「不当位」と言うは、爻位に就いて言う。爻の《象》に「得当」と言うは、事理に就いて言う。九四の爻辞に「吉」と言うも《象伝》は卻て「未光」と言い、六五は僅かに「无咎」と言うも《象伝》は反って「得当」と言う。縁故は――九四は臣位で、必ず艱難に正を守って後に吉を得、権柄は自ら主し難し。ゆえに「未光」と言う。六五は君位で、彼が刑を用うるは人の服せざるなし。卻てなお艱難に正を守り危懼戒愼を心と為す――これがまさに《尚書》の言う所の「欽哉欽哉、惟刑之恤」の道の本はこの如くあるべし。ゆえに六五に於いては処置の得当と算す。
上九:何校滅耳,凶。何,負也。本爻離為槁木。三四五互坎為耳為桎梏。坎耳在下,有何校而滅其耳之象。居卦之極,怙終不悛,罪之大者,故凶。象曰:何校滅耳,聰不明也。罪其聽之不聰,怙終而陷於大罪也。九未變為離之明,今變不成離,故不明也。
上九:肩上に枷板を負い耳朵を遮没す――凶険。「何」はすなわち負荷。この爻は離に属し、離は槁木。三・四・五は互体して坎を成し、坎は耳・桎梏。坎の耳象は下に在る。ゆえに枷を負いてその耳を遮没する象あり。彼は一卦の極に居り、悪を怙りて悛めず――罪大悪極の人。ゆえに凶。《象伝》にいう。何校滅耳は、聴覚の聡明ならざるなり。これは彼の聴聞の明ならざるを責め、悪を怙りて到頭して大罪に陥る。上九は変ぜざる時は離の明亮。如今は一たび変ずれば便ち離を成さず。ゆえに「不明」と言う。
全卦以物由噬而得合,莫甚於用獄以懲奸,故所論皆用獄之事。初上無位,為受刑之人。初過小而在下,為治獄之始;上惡極而怙終,為用刑之終。中四爻皆治獄之人,然卦才之剛柔不同,故所噬之難易亦異。
全卦は事物が咬開くに靠ってこそ会合を得るを講ず。しかるにその中の最も要緊は刑獄を以て姦悪を懲治するに過ぐるなし。ゆえに論ずる所は皆獄を断ずるの事。初九・上九は爵位なく、刑を受くる人。初九は罪過小にしてまた下位に在るは獄を治むるの開端。上九は悪極まりて終を怙りて改めざるは刑を用うるの終局。中間の四爻は皆獄を治むる人なれど、各爻の才質の剛柔は不同。ゆえに咬む物の難易もまた一様ならず。
六二以柔居柔故噬膚,最易者也。六五以柔居剛為得中者,故噬乾肉,然比膚則難矣。六三柔中有剛則噬臘肉,然比膚則難矣。六三柔中有剛則噬臘肉,比乾肉難矣。九四剛中有柔,則噬乾胏,噬之最難者也。難易雖有不同,而四艱貞、三亦遇毒,五貞厲、而二亦滅鼻,則治獄之道,期於敬謹一也。
六二は柔爻を以て柔位に居る。ゆえに咬む所は柔膚――最も容易。六五は柔爻を以て剛位に居って中を得る。ゆえに咬む所は乾肉――柔膚に比すれば便ち難し。六三は陰柔の中に剛を帯ぶ。ゆえに咬む所は臘肉――また柔膚に比して難し(底本はこの一句を連ねて両遍写して、後の一遍は「比乾肉難矣」と作す。意は臘肉の難はなお乾肉の上に在る)。九四は陽剛の中に柔を帯ぶ。ゆえに咬む所は骨を帯ぶ乾胏――最も咬み難し。難易は不同あると雖も、しかし九四は艱貞を要し六三もまた毒に遇い、六五は貞厲を要し六二もまた鼻を滅す。見れば獄を治むるの道は、帰趨は皆一つの「敬慎」の上に在り。
賁卦
賁卦,下離上艮。山下有火。山者,草木百物所聚,火照之其上,百物皆被光彩,有賁飾之象。又卦綜剛柔交錯,卦德文明以止,皆有賁飾之義,故為賁。賁次噬嗑。按《序卦》:嗑者,合也。物不可以苟合而已,故受之以賁。人物合聚,必有次序行列、威儀上下,而文飾生焉。賁所以次噬嗑也。
賁卦は、下卦は離、上卦は艮。山の下に火あり。山は草木百物の聚集する所で、火は下より照らし上ぐ。百物は皆光彩を蒙る――文飾の象あり。加うるにこの卦は卦綜より看れば剛柔交錯し、卦徳より看れば内は文明にして外は能く止む――皆文飾の義を含む。ゆえに卦名を「賁」と為す。賁は噬嗑の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、「嗑」はすなわち合。事物はただ苟且に凑合するのみにすべからず。ゆえに噬嗑の後に接ぐるは賁。人と物とすでに合聚すれば、必ず先後の次序・行列の班位・威儀上下の別あらんを要す。ここに於いて文飾は便ち産生す。これがすなわち賁が噬嗑に次ぐ所以の故。
賁雖尚文,必以質為本。凡事無本不立,無文不行,故全彖以賁有可亨之道。然本大而文小,故不過小利於所往。六爻初四以相應為賁,而二與三、五與上則以相比為賁。三爻在內者離體,則以文明為賁,故賁趾、賁須、濡如皆有所設飾;三爻在外者艮體,則又以篤實為賁,故皤如、丘園、白賁皆取於質素。
賁は文飾を崇尚すると雖も、卻て必ず質朴を以て根本と為さんことを要す。凡事は根本なくして立ち起る能わず、文飾なくして行き開く能わず。ゆえに全卦の《彖辞》は賁に以て亨通しうる道ありと言う。しかし本は大を為して文は小を為す。ゆえに不過「小利有所往」。六爻の中は、初九と六四とは相応を以て賁を成し、六二と九三・六五と上九とは則ち相比を以て賁を成す。内卦離体の三爻に在っては文明を以て賁と為す。ゆえに「賁其趾」「賁其須」「濡如」は皆設飾する所各々あり。外卦艮体の三爻に在っては則ち篤実を以て賁と為す。ゆえに「皤如」「丘園」「白賁」は皆質朴素浄に取る。
然內三爻雖以文明為賁,二之賁須既出於自然,初之舍車則取其高隱,三之濡如即戒其永貞。於賁飾之時,皆以不賁為賁。此又聖人返樸還淳之妙用、維持世道之深意。此六爻之大略也。
しかし内卦の三爻は文明を以て賁と為すと雖も、六二の「賁其須」は本は自然に出でて外加に非ず、初九の「捨車而徒」はその高潔自守を取り、九三の「濡如」はさらに彼に長久に正を守るを告誡す。見れば正に文飾の時に当たって、各爻は反って皆文飾を加えざるを以て文飾と為す。これはまた聖人の朴に返り淳に還るの妙用にして、世道人心を維持するの深意。これが六爻の大概。
賁:亨,小利有所往。賁,飾也。凡事無文不行,有賁之文,文以輔質,此賁所以亨。然文勝又恐滅質,內文明而艮止於外,收斂其文,不欲盡發,故小利有攸往。蓋凡事以本為大,而文則小也。又按,小利有攸往,固所利者小之意,亦有唯小則利之意。蓋陰小陽大,小利往而大不宜往矣。故以下六爻,陰爻皆宜動而陽爻多有戒辭。此又賁而剝之漸也。
賁:亨通、稍や往く所有るに利し。「賁」はすなわち文飾。凡事は文采なくして行き開く能わず。賁の文采あれば、文采を以て本質を輔助す――これが賁の亨通する所以。しかし文采が太く盛んなれば又その本質を淹没せんを怕る。この卦は内卦離は文明にして外卦艮は之を以て止住し、文采を収斂してそれをして情を尽して発露せしめず。ゆえにただ「小利有攸往」と言う――大抵凡事は本を以て大と為し、文はただ小のみ。又按ずるに、「小利有攸往」は固より利する所の小なるの意を含み、またその小なるがゆえにこそ利あるの意を含む。陰は小・陽は大。小なる者は往けば則ち利、大なる者は便ち往くに宜しからず。ゆえに下面の六爻は、陰爻は皆動くに宜しく陽爻は多く戒辞を帯ぶ。これはまたまさに賁より漸々として剥に走向するの兆候。
彖曰:賁,亨。亨字疑衍。柔來而文剛,故亨;分剛上而文柔,故小利有攸往。天文也。柔來二句以卦綜言。蓋噬嗑以初五兩爻為主爻,此二上兩爻為主爻。噬嗑五柔來為賁二,居初三兩剛之中,所謂黃離元吉、得中道者也,文在其中,是以謂之賁亨;噬嗑初上而為賁上,居四五兩爻之終,所謂敦良之吉、以厚終者也,文成其終,是以小利有攸往。
《彖伝》にいう。賁、亨。この「亨」の字は疑わしく衍文ならん。《彖伝》はまたいう。柔爻が来りて剛爻を文飾す。ゆえに亨通す。剛爻を分て上行して柔爻を文飾す。ゆえに小利して往く所有り――これは天の文采。「柔来」の両句は卦綜に就いて言う。噬嗑は初爻・五爻を以て主爻と為し、賁卦は則ち二爻・上爻を以て主爻と為す。噬嗑の六五は倒転して来りて賁の六二と為り、初九・九三の両個の剛爻の中に居る――まさに離卦の六二の「黄離元吉、得中道」の地位。文采はその中に存す。ゆえに「賁亨」と言う。噬嗑の初九は上行して賁の上九と為り、六四・六五の両爻の末に居る――まさに艮卦の上九の「敦艮之吉、以厚終」の地位(底本は「艮」を「良」と写す)。文采は終に成就す。ゆえに「小利有攸往」と言う。
柔來不言分,離反為離,中偶不動也;剛上言分者,震反為艮,下畫移居上畫也。天文也上有剛柔交錯四字。日月五星之運行,不過剛柔一往一來而已,故曰天文。文明以止,人文也。此以卦德言之。君臣父子夫婦兄弟朋友之間,燦然有禮以相接,文之明也;截然有分以相守,文之止也。
「柔来」と言うて「分」と言わざるは、噬嗑の離は倒転して来るもなお離で、中間のあの一偶画は並び挪動せざるによる。「剛上」と言うて一つの「分」の字を加うるは、噬嗑の震は倒転して艮を成し、最下の一画が最上の一画の位置に移ったによる。「天文也」の三字の上は本は「剛柔交錯」の四字あり。日月五星の運行は、不過剛柔の一往一来のみ。ゆえに「天文」と言う。《彖伝》はまたいう。文明にして節止する所有り――これは人の文采。この一節は卦徳に就いて言う。君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の間に、粲然として礼節ありて以て相接待す――これは文の「明」。截然として名分ありて以て相守持す――これは文の「止」。
觀乎天文,以察時變;觀乎人文,以化成天下。聖人觀日月之次、昏旦之星,以察四時寒署之變;觀於君臣父子之間,有禮有分,而導之以禮樂詩書,列之以來章服物,化舊為新而風俗成於天下。占此卦者雖小利於所往,而賁之為用又大如此。
《彖伝》にいう。天の文采を観察すれば、以て時序の変化を考察しうる。人の文采を観察すれば、以て化育して天下を成就しうる。聖人は日月の運行の次舍・黄昏清晨に見る所の星象を観察して、以て四時寒暑の変化を考察す。君臣父子の間に礼あり分あるを観察して、ここに於いて礼楽詩書を以て彼らを引導し、車服器物の等第を以て彼らを区別し、陳旧を化して新美と為して風俗は天下に成就す。この卦を占得する人はただ「小利于有所往」なると雖も、しかるに賁の功用は卻てまたこの如く大なり。
象曰:山下有火,賁。君子以明庶政,無敢折獄。山下有火,明不及遠。明庶政,事之小者,離明在內之象;折獄,事之大者,艮止於外之象。又山在上,法有所必守;火居下,明有所不矜。君子體此,於錢穀簿書之小,必精審之,以成文明之治;至折獄則無敢。無敢非不折也,蓋獄貴詳審得情。若自恃明察,深文緣飾,沒其實,是之謂敢。敢則民命不可問矣。
《大象伝》にいう。山の下に火あり――賁卦。君子はここに由って各項の政務を昭明にせんとするも、敢えて軽率に獄訟を断決せざるを体会す。山の下に火あり――光明は遠処に照らし到らず。「明庶政」は事の小なる者で、離明が内に在るの象を取る。「折獄」は事の大なる者で、艮止が外に在るの象を取る。さらに言えば山は上に在って法度に必ず堅守すべきあるを表示し、火は下に在って明察に恃むべからざるあるを表示す。君子はこの道理を体察して、銭粮簿冊の類の小事に対しては、必ず精細に審察して以て文明の治を成就す。断獄に至っては則ち「无敢」と言う。「无敢」は並び断ぜざるに非ず。ただ獄訟は詳審にしてその実情を得るを貴ぶによる。もし聡明を自恃して深文周納し文辞を粉飾して、実情を埋没せば、これこそ「敢」と言う。一旦「敢」なれば、百姓の性命は問うに堪えざるなり。
初九:賁其趾,舍車而徒。初在下為趾象。二三四互為坎為車象。初雖與四應而在最下,艮止於上,故以剛德明體自賁於下,為舍非道之車而安於徒步之象。蓋君子以義為榮,不以徒行為辱故也。初四相應,四求初為貴德,初求四則為趨勢,故以徒行為賁。壯初剛居剛而健體,故壯于趾;賁初剛居剛而明體,故賁其趾。車馬幣帛主於文飾,故賁六爻取象及之。象曰:舍車而徒,義弗乘也。君子取舍決於義,每於在下之時、發足之初觀之。徒義而車非義,故弗乘,非惡寶貴而逃之也。
初九:その脚趾を文飾して、車子を捨てて徒歩す。初九は最下に在るは脚趾の象。二・三・四は互体して坎を成し、坎は輿――車の象。初九は六四と相応ずると雖も最下に居り、また艮止が上に在って挡ぐ。ゆえにただ剛健の徳・文明の体を以て下に於いて自飾するのみ――捨て去りて道義に合せざる車して徒歩に安んずる象を成す。これは君子が義に合するを以て栄と為し、徒歩を以て恥辱と作さざるによる。初九は六四と相応ず。六四が来りて初九を求むるは、徳行を尊重す。初九が往きて六四を求めば、便ち勢権に趨附を成す。ゆえに寧ろ徒歩を以て文飾と為す。大壮卦の初九は剛を以て剛に居って乾健の体に属す。ゆえに「壮于趾」と言う。賁卦の初九は剛を以て剛に居って離明の体に属す。ゆえに「賁其趾」と言う。車馬幣帛は皆文飾に主于る物。ゆえに賁卦の六爻の取象は常にそれらに涉及す。《象伝》にいう。車を捨てて徒歩するは、道義の上に於いて言えば乗るべからざるなり。君子の取と舎とは義に決定し、往々として彼の身が下位に処し足を挙ぐるの初に於いて看うべし。徒歩は義に合して乗車は義に合せず。ゆえに乗らず。並び富貴を厭悪してそれを逃避するに非ず。
六二:賁其須。須鬚同。在頤曰須,在口曰髭,在頰曰髯。三至上有頤體。二在頤下,須之象。須亦人身之有文飾者,故以須言之。二以陰柔居中正,三以陽剛而得正,皆無應與。然須附頤以成其文,二爻相比以為賁者,故二附三而動,有賁須之象。蓋須生面美,非外飾者。六二柔麗乎中正,固有其美須之賁,非待於外也。然陰柔不能自動,必附麗於陽,如須雖美必附於頤。占者宜資人共濟,從上之陽剛而動,則可有為也。象曰:賁其須,與上興也。不能自興,隨上而動也。
六二:その鬍鬚を文飾す。「須」と「鬚」は同一の字。下巴に長ずるを「須」と言い、唇上に長ずるを「髭」と言い、両頬に長ずるを「髯」と言う。三爻より上爻まで頤(口腮)の体あり。六二は頤の下面に在る。ゆえに須の象。鬍鬚もまた人の身に文飾性を帯ぶる物。ゆえにそれを拿って言う。六二は陰柔を以て中に居って正を得、九三は陽剛を以て位を得――両爻とも相応の爻なし。しかし鬍鬚は須は頤に附着してこそその文采を成す。これ両爻はまさに相隣比附を以て賁を成す。ゆえに六二は九三に依附して動く――「賁其須」の象あり。大抵鬍鬚が生れ好ければ面貌はこそ美を顯す。あれは並び外加の装飾に非ず。六二は柔順にして中正の位に附麗す――本来便ち美須のごとき文采ありて、外面より来りて加うるを待つを須とせず。しかし陰柔は自ら発動する能わず。必ず陽に附麗せんことを要す。まさに鬍鬚は美なれどもまた必ず頤に附せざるべからざるがごとし。この爻を占得する人は、宜しく他人に借助して共にその事を成し、上面の陽剛に跟従して動けば、便ち作為する有りうべし。《象伝》にいう。その須を賁るは、上面に随いて一同に興起するなり。自ら興起する能わず、ただ上面に跟随して動く能きのみ。
九三:賁如濡如,永貞吉。三互坎一陽居二陰之間,得其賁而潤澤者也,故有濡如之象。然坎體有濡象,亦有陷溺之象。九三非不貞也,能永其貞而不溺於所安,則二陰於我有潤澤之濡,而我無陷溺之悔矣,故吉。此爻與二以相比為賁,然小利往,故二隨上而三則宜永貞也。象曰:永貞之吉,終莫之陵也。陵生於狎。以正自持,顰笑不假,誰能陵之。
九三:すでに文飾を得てまた潤沢を見る――長久に正を守れば則ち吉。九三は互体の坎中に処し、一つの陽爻が両個の陰爻の間に夾まる――すでに文飾を得てまた潤沢を受くる。ゆえに「濡如」の象あり。しかし坎体はすでに沾濡の象ありてまた陥溺の象あり。九三は並び不正に非ず。ただ能く長久にその正を守りて眼前の安適に沉溺せざれば、されば上下の両個の陰爻は我に対して便ちただ潤沢の濡のみで、我に陥溺の悔なし。ゆえに吉。この爻と六二とは相隣比附を以て賁を成す。ただすでに「小利有攸往」なるのみなれば、ゆえに六二は上に随いて動くべく、九三は則ち当に長久に正を守るべし。《象伝》にいう。永貞の吉たる所以は、終に彼を欺凌し得る人なきなり。欺凌は狎昵より産生す。正道を以て自ら持し、一颦一笑も皆軽易に人に假借せざれば、また誰か彼を欺凌し得んや。
六四:賁如皤如,白馬翰如,匪寇婚媾。皤,髮之白者。四變,互二三為巽為白;不變,互為坎為馬。四與初以相應為賁,乃為三所隔,心雖合而跡暌,不得所賁,為皤如之象。然本正應,不肯他從,往求之心如飛翰之疾,有白馬翰如之象。九三剛正,非為寇者也,乃求婚媾耳。
六四:文飾して一片素白、白馬は奔馳して飛ぶがごとし。来るは強寇に非ずして婚配を求むるなり。「皤」は頭髪の花白。六四もし変ずれば、則ち二・三とそれと互体して巽を成し、巽は白。変ぜざれば、則ち互体して坎を成し、坎は馬。六四と初九とは彼此相応を以て賁を成すも、卻て九三に中間に隔てられ、心は相合するも形跡は睽違して、要する所の文飾を得ず。ゆえに「皤如」の象。しかし本は正応で、改めて他人に従うを肯んぜず、往きて応を求むるの心は飛翰のごとく急。ゆえに「白馬翰如」の象あり。九三は陽剛にして正を得、並び来りて強寇を為すに非ず。ただ来りて婚配を求むるのみ。
此與屯六二相似。屯剛柔始交,賁剛柔相襍,皆有婚媾象。然屯之乘馬班如意甚緩,賁白馬翰如意獨急者:屯二以下求上,難進易退;賁四以上求下,虛己求助也。此爻與初以相應為賁,然小利往,故初賁趾而四則翰如也。象曰:六四當位,疑也;匪寇婚媾,終無尤也。四與初遠,為三所隔,所當之位有可疑也。然位雖近三,心實在初,守正不與,理直義勝,三不得而尤之也。
これは屯卦の六二と相似す。屯は剛柔の初交、賁は剛柔の雑錯。ゆえに皆婚媾の象あり。しかし屯卦の「乗馬班如」は意態甚だ緩、賁卦の「白馬翰如」は意態独り急。縁故は――屯卦の六二は下を以て上を求め、前進し難く退守し易し。賁卦の六四は上を以て下を求め、虚心して人の相助を求む。この爻と初九とは相応を以て賁を成す。ただすでに「小利有攸往」なるのみなれば、ゆえに初九はただその「賁趾」を守りて六四は卻て「翰如」のごとく急。《象伝》にいう。六四の当る所の位は、疑うべきあり。来るは強寇に非ずして婚配を求むるは、終に怨尤なきなり。六四と初九とは相隔ること甚だ遠く、また九四に隔断せらる。その処する位置は確かに疑うべきの処あり。しかし位置は九三に近きと雖も、心は卻て実は初九に在り、正を守って九三と苟合せず。理直にして義勝れば、九三もまたそれを怨尤する能わず。
六五:賁于丘園,束帛戔戔,吝終吉。六五柔中為賁之主。離之文明至艮而有所止,漸近敦本而尚實。上九艮體有丘象。五互三四震木有園象。五比上以成賁者,人君虛己以求山林隱逸之賢,故有不賁於朝市而賁于丘園之象。陰性吝嗇,淺小薄物可以自將,故有束帛戔戔之象。如此雖可羞吝,然禮奢寧儉,禮賢貴質實,不事虛文,故得終吉。蓋賁以文飾成卦,過則流於靡矣。自五與上皆有敦本返始之象。象曰:六五之吉,有喜也。方逐末之時,人君崇儉反本,人心世道之幸也。
六五:文飾は山丘園圃に及び、一束の帛は少なくてまた少なきを顯す――羞吝を覚ゆと雖も終に吉を得。六五は柔を以て中に居るは賁を成すの主爻。離の文明は艮に到れば止む所有りて、漸々として敦本に趨向して質実を崇尚す。上九は艮体に属し、山丘の象あり。六五は三・四と互体して震を成し、震は木――園圃の象あり。六五と上九とは相隣して賁を成す――あたかも人君が虚心して山林隠逸の賢人を求むるがごとし。ゆえに朝廷市井を文飾せずして丘園を文飾するに往くの象あり。陰の性情は吝嗇にして、ただ浅小微薄の礼物を拿出す能きのみ。ゆえに「束帛戔戔」の象あり。このように為すは可羞可吝なれど、しかし礼はその奢侈よりは倫朴に如かず、賢を礼し士に下るは質実を貴んで虚文に在らず。ゆえに終に吉を得。大抵賁卦は文飾を以て卦を成す。文飾が頭を過ぐれば便ち浮靡に流る。六五より上九に至るまで、皆本を敦くし始に返るの象あり。《象伝》にいう。六五の吉たる所以は、喜ぶべき処あるによる。正に挙世が末を逐うの時に当たり、人君は能く倫朴を崇尚して根本に回れば、これは人心世道の幸事。
上九:白賁,無咎。居賁之極,反本復於無色,有白賁之象。如此則善補過矣,故占為無咎。此爻與五相比以成賁。五君以束帛相加,上則遂其高隱之志。唯以樸質為本,唯小利往,故五可賁于丘園,而上但宜守其白賁也。象曰:白賁無咎,上得志也。居卦之上,在事之外。不假文飾而有自然之文,可謂優遊自得矣。以人事言,則六五以束帛聘,而上高尚自守以成其志,亦得志也。
上九:素白を以て飾と為す――過咎なし。上九は賁卦の極に居り、根本に返回して無色に復帰す。ゆえに「白賁」の象あり。このようになれば便ち過を補うに善し。ゆえに占は無咎。この爻と六五とは相隣して賁を成す。六五は君主の身分を以て束帛を用いて礼聘し、上九は則ちその高潔隠居の志を遂ぐるを得。すでにただ質朴を以て本と為し、またただ「小利有攸往」なれば、ゆえに六五は「賁于丘園」しうるも、上九はただ宜しくその「白賁」を守るべし。《象伝》にいう。白賁无咎は、上位に在って心志は遂げ得るなり。上九は一卦の上に居り、事務の外に超然として、文飾に借助せずして自ずと天然の文采あり――从容自得と言いうべし。人事に就いて言えば、則ち六五が束帛を以て相聘し、しかるに上九は高尚に自ら守りて以てその志を成全す――これはまた志を得たり。
全卦以賁飾為義。華美外飾,世趨所必至也。然無所止,則奢而至於偽。故文明而有所止,乃可以為賁也。內卦文明漸盛,故由趾而須。至於濡如則極矣故,戒以貞。文明而知永貞,則返本之漸也。故四之皤如猶求相應以成賁也。五之丘園則返樸,上之白賁則無色矣。由文返質,所謂有所止也。
全卦は文飾を以て義を立つ。華美の外飾は、本は世風の必然に趨向する所。しかしもし毫も節止なければ、便ち奢侈して虚偽の地歩に至る。ゆえに必ず文明にして止む所有ってこそ、賁と言いうべし。内卦の文明は漸盛。ゆえに「賁趾」より進みて「賁須」に至り、「濡如」に到れば便ち極処。ここに因って彼に正を守るを告誡す。文明にして長久に正を守るを懂得すれば、便ち本に返るの開端。ゆえに六四の「皤如」はなお正応を求めて以てその賁を成す。六五の「丘園」に到ればすでに朴に返り、上九の「白賁」は便ち全然無色。文より質に返るは、まさにいわゆる「有所止」。
六爻以三陰三陽剛柔交錯而為賁,如錦繍藻繪,間雜成章。凡物有以相應而成賁者,則初四是也;有相比而成賁者,則二三是也;有相比而漸歸淡樸以為賁者,則五上是也。蓋文質相須者,天地自然之數,賁之所以成卦。而質為本文為末,質為主文為輔,務使返樸還淳,則聖人所以繫之辭、而維持世道之心也。至於初應四而四翰如,二比三而二與上興,五比上而五賁丘園,三陰爻多利於往。此又陰盛之漸,所以賁之後為剝也。
六爻は三陰三陽の剛柔交錯を以て賁を成す。あたかも錦を織り繍を刺し彩絵藻飾して、交雑して文章を成すがごとし。およそ彼此相応を以て賁を成すは初九と六四。相隣比附を以て賁を成すは六二と九三。相隣比附を以て漸々として淡朴に帰して以て賁と為すは六五と上九。大抵文と質とは互相依待して、本は天地自然の数――賁卦はここに因って卦を成す。しかるに質は本・文は末、質は主・文は輔。務めて人をして朴に返り淳に還らしむ――これがまさに聖人がこの卦の爻辞を繋げて世道を維持するの苦心。初九が六四に応じて六四が「翰如」なる、六二が九三に比して六二が「与上興」なる、六五が上九に比して六五が「賁于丘園」なるに至るも、三つの陰爻は大多往くに利す。これはまた陰気の漸盛の兆候。ゆえに賁の後に接ぐるは便ち剥卦。
剥卦
剝卦,下坤上艮。山高於地而附著於地,有傾頹之象。又卦五陰自下漸長,消剝一陽,故為剝。剝卦次賁。按《序卦》:賁者,飾也。致飾然後亨則盡矣,故受之以剝。文飾之極,反而剝落,剝所以次賁也。
剥卦は、下卦は坤、上卦は艮。山は地より高く出ずると雖も、卻てまた地の上に附着す――傾頽崩落の象あり。加うるにこの卦は五つの陰爻が下より漸長して、僅かに存する一つの陽爻を消剥す。ゆえに卦名を「剥」と為す。剥卦は賁卦の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、「賁」はすなわち文飾。文飾を極力して後に亨通もまた窮尽す。ゆえに賁卦の後に接ぐるは剥。文飾は極処に到れば、反って剥落せんとす。これがすなわち剥が賁に次ぐ所以の故。
全彖取順時而止之義,故君子不可有所往。六爻以上九為主,故於上爻幸一陽之存。而下五爻,凡有與於陽者吉,無與於陽者凶。五以承陽故無不利。三以應陽故無咎。初二遠陽而剝未盡,故皆蔑貞凶。獨六四以迫於陽而剝極,故直言凶也。此全卦六爻之大略也。
全卦の《彖辞》は時勢に順応して止むの義を取る。ゆえに君子は往く所有るべからず。六爻は上九を以て主と為す。ゆえに上爻の上に於いてあの一つの陽爻がなお存留するを慶幸す。下面の五つの陰爻に至っては、およそ陽と関聯あれば便ち吉、陽と関聯なければ便ち凶。六五は陽爻に承接するに因って「无不利」、六三は上九と相応ずるに因って「无咎」、初六・六二は陽に離るること遠く剥勢は未だ窮尽せず。ゆえに皆「蔑貞凶」と言う。ただ六四のみは陽爻に逼近して剥の極処に到るに因って、径直に「凶」と言う。これが全卦六爻の大概。
剝:不利有攸往。剝,落也。五陰盛而一陽將消,九月之卦。陰盛陽衰,小人壯而君子病。又內坤而外艮止,有順時而止之象,故占者不利於有所往也。彖曰:剝,剝也,柔變剛也。自姤而遯否而觀而剝,皆以柔而變其剛。至此則欲以五陰變上之一陽也。此以卦體釋卦之名義也。
剥:往く所有るに利しからず。「剥」はすなわち剥落。五つの陰爻は方に盛んにして一つの陽爻は将に消尽せんとす――夏暦九月の卦。陰盛にして陽衰、小人は強壮にして君子は困病。加うるに内卦坤は順・外卦艮は止――時勢に順応して停止する象あり。ゆえに占者は往く所有るに利しからず。《彖伝》にいう。剥とは、すなわち剥落、柔が剛を改変するなり。姤卦の一陰の始生より、遯・否・観を歴て、一直に剥に至るまで、皆柔を以て剛を改変す。剥卦に到れば、便ち五つの陰爻を拿って最上のあの一つの陽爻を変掉せんとす。これは卦体を以て卦の名義を釈す。
不利有攸往,小人長也。順而止之,觀象也。君子尚消息盈虛,天行也。五陰剝陽,小人之長也,此以卦體言也。卦有順而止之象,君子觀之。陽消陰息,陰盈陽虛。天運之行如是,君子尚之。順時而止,所以合乎天之行也。知天行之方剝,則不至不量力以取禍。知剝之必有復,亦不至怨天尤人而變其所守矣。
《彖伝》にいう。往く所有るに利しからざるは、小人が増長するに在るによる。順応して停止するは、卦象を観察して得る所。君子は消息盈虚の道理を看重す。それは天の運行なるによる。五陰が陽を剥すは、すなわち小人の増長――これは卦体に就いて言う。この卦は順にして止むの象ありて、君子はその中より観取す。陽は消退し陰は生息し、陰はすでに盈満し陽はすでに亏虚す――天運の推行はすなわちこの如し。君子はそれを看重す。時勢に順応して停止するは、まさに天の運行に合乎せんが為。天運がまさに剥落するを知れば、便ち自ら量らずして禍を招くに至らず。剥が極まれば必ず復の来るあるを知れば、また便ち天を怨み人を尤めて己の守る所を改変するに至らず。
象曰:山附地上,剝。上以厚下安宅。山附於地,下基不厚則上不安,高者有剝落之象。為君子者,以此制田裡,教樹畜,以厚下民,即以自安其居也。卦以下剝上取義,小人剝君子,所以成剝也。象以上厚下取義,人君厚下民,所以治剝也。不以陰陽消長為論,而以上厚薄為言。於極危之卦,得極安之道。此聖人用卦之微權也。
《大象伝》にいう。山は地に附着す――剥卦。上位に在る人はここに由って下民を厚待し己の居所を安固にせんとするを体会す。山は地に附着して、下面の基礎が厚からざれば上面は安穩ならず、高処に便ち剥落の象あり。君子を為すはこれに拠って田地里居を規劃し民に樹木を種え畜牧するを教えて、以て下民を厚待す――すなわちまた己の居処をして安穩を得せしむるなり。この卦は下より上を剥すに義を取り、小人は君子を剥蝕す。ゆえにその剥を成す。《大象》は卻て上に在る者が下に在る者を厚待するに義を取り、人君は下民を厚待す。ゆえに能くその剥を治む。それは陰陽消長に就いて論を立てずして、上に在る者の下を待つ厚薄に就いて言を立つ。極めて危険の卦の裏に極めて安穩の道理を求め得る――これは聖人が卦象を運用するの微妙なる権衡。
初六:剝床以足,蔑貞凶。蔑,滅也。床者,人之所安其體,上實下虛。剝一陽下五陰,有床象。坤土艮山本至安,剝則危矣,故卦有剝床象。初在下有足象。剝自下起,侵蔑正道,其占凶也。方剝足而即言蔑貞,如履霜而知堅氷至也。象曰:剝床以足,以滅下也。侵滅正道,自下而上也。
初六:床を剥して先ず床脚に剥し到る。正道を滅絶す――凶険。「蔑」はすなわち滅。床は人が身体を安放する器具で、上面は実にして下面は虚。剥卦は一つの陽爻が上に在五つの陰爻が下に在る――まさに床の象あり。坤土艮山は本は最も安穩なれど、一たび剥蝕を経れば便ち危険。ゆえにこの卦は床を剥すの象あり。初六は最下に在る――床脚の象。剥蝕は下面より開始して、正道を侵滅す。その占は凶。ようやく床脚に剥し到れば便ち「蔑貞」と言う。まさに脚が霜に踏むれば便ち堅氷の将至るを知るがごとし。《象伝》にいう。床を剥して足を以てすは、下面より滅び起るなり。正道を侵滅するは、下より上に向かって一歩ずつ来る。
六二:剝床以辨,蔑貞凶。辨,床乾也,床身與足上下分辨之處也。二陰侵上,占與初同。象曰:剝床以辨,未有與也。二陰徒與未大盛,危之中有幸之之意。
六二:床を剥して床身と床脚との交界する処に剥し到る。正道を滅絶す――凶険。「辨」はすなわち床干、すなわち床身と床脚との上下の分界の処。二番目の陰爻はまた上に向かって一層侵進す。占辞は初六と相同じ。《象伝》にいう。床を剥して辨を以てすは、まだ同伴の相助なきによる。この時は陰爻の党羽はなお大いに盛んと算せず。危懼の中に一点の慶幸の意を含む。
六三:剝之無咎。眾陰方剝陽而三獨與上應,去邪黨而從正者也,咎可無矣。剝之三同復之四。復四與初應而不許以吉,剝三與上應而許以無咎,何也。復,君子之事,不言其吉,明道不計功者也。剝,小人之事,許以無咎,欲人遷善改過也。剝以近陽者為善,應陽者次之,故五利而此無咎。象曰:剝之無咎,失上下也。上下,四陰也。居四陰之中而獨與陽,所失者陰,其失也乃所以為得也。
六三:剥落の中に処して過咎なし。衆陰はまさに陽を剥するも、しかるに六三は独り上九と相応ず――邪党を離れて正道に順従する。ゆえに過咎は免除しうる。剥卦の六三と復卦の六四とは地位相当す。復卦の六四は初九と相応ずるも「吉」を許さず、剥卦の六三は上九と相応じて卻てそれに「无咎」を許すは、何の為ぞや。復は君子の事で、それに吉と言わざるは、「其道を明らかにして其功を計らず」の意を取る。剥は小人の事で、それに无咎を許すは、人の善に遷り過を改めんを希望す。剥卦は陽爻に靠近するを以て最善と為し、陽爻と相応ずるはこれに次ぐ。ゆえに六五は「利」と言いこの爻はただ「无咎」と言うのみ。《象伝》にいう。剥の无咎は、上下の同類を失掉するなり。「上下」は其余の四つの陰爻を指す。六三は四陰の中に居って独り陽爻に親附す。その失掉する所はただ陰党のみ。この失は、恰恰まさにその得なり。
六四:剝床以膚,凶。四在下卦之上,猶人臥處,有剝床及肌膚之象,故不復言蔑貞,而直凶也。象曰:剝床以膚,切近災也。陰禍已迫其身也。
六四:床を剥してすでに肌膚に剥し到る――凶険。六四は下卦の上に在り、まさに人が躺臥する部位に当たる――床を剥して肌膚に到るの象あり。ゆえに更に「蔑貞」と言わずして、径直に「凶」と言う。《象伝》にいう。床を剥して膚を以てすは、災禍はすでに身に切迫して逼近するなり。陰の禍害はすでに彼の身上に逼った。
六五:貫魚,以宮人寵,無不利。魚,陰物。宮人,陰之美,望寵於陽者也。五變巽,有魚象。巽為繩,貫之之象。以者,后妃以之也。六五柔中居尊,率群陰以從陽,故有后妃之象。卦德內順外止,猶后妃以宮人備數循序以進御於君,後德之美者也。
六五:一串の魚のごとくにして、宮人を率領して君王の寵幸を受く――利あらざるなし。魚は陰類の物。宮人は陰の中の美なる者で、陽の寵幸を得んを盼望す。六五一たび変ずれば則ち上卦は巽を成し、魚の象あり。巽はまた繩――それらを貫串する象。「以」は后妃が彼女らを帯領するの意。六五は柔を以て中に居って尊位に処し、衆陰を率領して往きて陽に順従す。ゆえに后妃の象あり。この卦の卦徳は内は順にして外は止――あたかも后妃が宮人を帯いて名位に按じて数を備え次序に依って君に進御するがごとし。后妃の徳の中の美なる者。
故占無不利。蓋剝至於五極矣,陰不可以再長,陽不可以終消也,故不取剝義。自初至四以陰剝陽,此則循序而以陰從陽。聖人示之戒。若曰,與其以坎剝陽而至凶,孰若以次從陽之無不利乎。故彖言不利有攸往,為君子謀也。此言無不利,為小人勉也。此聖人慾人悔過之心也。
ゆえに占は利あらざるなし。大抵剥は六五に到ればすでに極処。陰は更に長ずべからず、陽は終に消尽すべからず。ゆえにこの爻は剥落の義を取らず。初六より六四までは皆陰を以て陽を剥すも、ここに到っては卻て次序に依って陰を以て陽に従う。聖人はこれに借りて人に警戒を示す。あたかも言うがごとし――それに一味に陽爻を陥剥して終に凶に至らんよりは、何ぞ次序に依って陽に順従して一つの利あらざるなしを得るに如かんや。ゆえに《彖辞》に「不利有攸往」と言うは、あれは君子に替わって打算す。この爻に「无不利」と言うは、あれは小人を勉勵す。これがまさに聖人の人に悔過せんを希望する心腸。
然六三應上九而寧失群陰之心,六五率群陰而上求一陽之寵,則天道之不可一日無陽、世道之不可一日無君子也。又按,遯剝皆陰長之卦。遯陰微可制,故授權於陽,於九三曰畜臣妾吉,陽制陰之道也。剝陰盛難制矣,故示教於陰,於六五曰以宮人寵,陰人陽之道也。陰陽消長出於自然,爻中自有此象,而扶陽抑陰不可無人事之功,此聖人繫辭之深心也。
しかし六三は上九に応じて寧ろ衆陰の心を失掉し、六五は衆陰を率領して上に向かって一陽の寵を求む。見れば天道は一日も陽なかるべからず、世道は一日も君子なかるべからず。又按ずるに、遯卦と剥卦とは皆陰長の卦。遯卦は陰はなお微弱にして制服しうる。ゆえに権柄を陽に交して、九三に「畜臣妾吉」と言う――あれは陽が陰を制服する弁法。剥卦は陰はすでに強盛にして制服し難し。ゆえに転じて陰に対して教を施して、六五に「以宮人寵」と言う――あれは陰をして陽に帰入せしむる弁法。陰陽の消長は自然に出づるも、爻中は本は便ちこのような象あり。しかるに陽を扶け陰を抑るはまた人事の功夫なかるべからず。これがまさに聖人の辞を繋ぐるの深心。
象曰:以宮人寵,終無尤也。眾陰逼陽,疑有尤也。循序以從,尤終可無也。上九:碩果不食,君子得輿,小人剝廬。艮為果蓏。一陽獨存於上,如碩大之果不為人所食,獨留木末之象。
《象伝》にいう。宮人を以て寵せらるは、終に怨尤なきなり。衆陰は陽爻を逼迫す――本は当に怨尤あるべし。如今は能く次序に依って順従すれば、怨尤は終に免除しうる。上九:碩大の果子は喫されず。君子は車輿を得、小人は廬舍を剥ぐ。艮は果蓏。一つの陽爻が独り最上に存して、あたかも碩大の果実が人に摘食せられずして、独り樹梢に留まるの象。
果不食必爛,核墮地又復生仁。窮上反下,陽將復生也。坤為輿。五陰載上九之一陽,有君子得輿之象。上九變柔有小人象。一陽覆五陰有廬象,變偶則破敗矣,有剝廬象。一陽未盡猶可復生。君子得此,則為小人所載。小人居之,則剝極於上,自失所覆,如剝其廬。蓋君子能存陽德,能覆小人。小人陰屬,勢必欲害君子。然自古未有君子亡而小人能自容其身者。廬剝,則小人亦無所容矣。象如是,而占因君子小人而分也。
果子は喫せざれば必ず爛掉して、果核は地に落ちて重ねて果仁を生出す。これがすなわち上に窮極して下に返帰して、陽は将に重ねて生出せんとす。坤は輿で、五つの陰爻は上九のこの一つの陽爻を載承す――「君子得輿」の象あり。上九もし変じて柔爻と為れば便ち小人の象あり。一つの陽爻が五つの陰爻を覆蓋す――廬舍の象あり。一たび変じて偶画と為れば屋頂は便ち破敗す――便ち「剥廬」の象あり。一陽は未だ尽きざれば、なお復生しうる。君子がこの位置に処すれば、便ち小人に擁戴せらる。小人がそれを占拠すれば、便ち剥の極処に到って自ら遮蔽を失う――あたかも自家の房子を剥ぎ去るがごとし。大抵君子は能く陽徳を保存して能く小人を庇覆す。小人は陰に属してその勢は必ず君子を害せんとす。しかし古来自来君子が滅亡して小人がなお能くその身を自安するなし。廬舍は一たび剥がれば小人もまた容身する処なし。象はこの如くにして、占は則ち君子と小人とに因って両途に分かる。
象曰:君子得輿,民所載也。小人剝廬,終不可用也。民指眾陰。剝極思治。陽剛君子,民所共載。小人至此欲剝盡諸陽,不知其終不可用也。全卦當陰盛陽衰之時,故君子不利於所往。然能以陰承陽者無所不利,而應陽者亦得無咎,唯遠陽而剝陽者凶。雖聖人之戒辭,亦陰陽消長之定理也。
《象伝》にいう。君子が輿を得るは、百姓に擁戴せらるるなり。小人が廬を剥ぐは、終に任用すべからざるなり。「民」は衆陰を指す。剥の極処に到れば人心は治を思う。陽剛の君子はまさに百姓の共同に擁戴する所。小人はこの地歩に到ってなお衆陽を剥尽せんと想うも、卻て己が終に任用すべからざるを知らず。全卦は正に陰盛陽衰の時に当たる。ゆえに君子は往く所有るに利しからず。しかし能く陰を以て陽を承奉するは便ち利する所なし。陽と相応ずるもまた過咎なきを得。ただ陽を遠離してまた陽を剥するのみが凶。これは聖人の戒辞なれど、またまさに陰陽消長の定理。
復卦
復卦,下震上坤。一陽生於五陰之下,陰極而陽復。君子之道消而復長,有返於善之義,故為復。復卦次剝。按《序卦》:物不可以終盡,剝窮上反下,故受之以復。陽剝極於上,復生於下,復所以次剝也。
復卦は、下卦は震、上卦は坤。一つの陽爻が五つの陰爻の下に生ず――陰は極処に到って陽は帰って来た。君子の道は消退して後に重ねて生長す――善道に返回するの義を含む。ゆえに卦名を「復」と為す。復卦は剥卦の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、事物は終に窮尽すべからず。剥は上面に於いて窮極すれば便ち下面に返転す。ゆえに剥卦の後に接ぐるは復。陽は上面に於いて剥の極処に到って、また下面に於いて重ねて生出す。これがすなわち復が剥に次ぐ所以の故。
全彖以陽剛來反,理勢必亨。又震動坤順,所往皆利。天地以生物為心。天地之一陽初動,猶人善念之萌,聖人所最重。此全彖之大旨也。六爻以初爻為主,故凡有得於初陽者吉,無則否。二比初曰下仁,四應初曰從道,此皆得於陽者也。餘三皆無得於陽者。獨五以得中而無悔。三不中則頻失頻復而厲。上則去初最遠,居卦之窮,迷而不復,宜其凶也。此六爻之大略也。
全卦の《彖辞》は陽剛の回返に就いて説を立つ。理と勢との上より看れば必然に亨通す。加うるに内震は能く動き外坤は能く順う――往く所皆利。天地は万物を生養するを以て心と為す。天地間のこの一陽の初動は、あたかも人心の中の一念の善の萌発のごとし――聖人の最も看重する所。これが全卦《彖辞》の大旨。六爻は初九を以て主と為す。ゆえにおよそ初九のこの一陽より得る所有れば便ち吉、得る所なければ便ち吉ならず。六二は初九に緊隣す――《象伝》はそれを「下仁」と言う。六四は初九と相応ず――《象伝》はそれを「従道」と言う。これは皆陽より得る所有るなり。其余の三爻は皆陽より得る所なし。ただ六五のみ中に居るに因って「无悔」を得。六三は中に居らず、ゆえに屡々失い屡々復して危厲あり。上六は初九より離るること最も遠く、また一卦の窮極の地に処して、迷惑して回頭を知らず――凶険は応当なり。これが六爻の大概。
復:亨,出入無疾,朋來無咎,反復其道,七日來復,利有攸往。復,陽復生於下也。剝盡則為純坤,十月之卦。陽氯漸生,至十一月,一陽之體始成,其卦為復。陽往而復反有亨象。內震外坤,陽動於下,順而上行。反下為入,上行為出,皆以順行,有出入無疾之象。
復:亨通、出入して疾患なく、朋類前来して過咎なし。往復してその常道に循い、七日にして来復す。往く所有るに利し。「復」は陽が重ねて下面に生ずるなり。剥尽くれば便ち純坤を成す――夏暦十月の卦。陽気は漸々生発して、十一月に到りて一陽の体はこそ形成を告ぐ。その卦は復。陽は往いてまた返回す。ゆえに亨通の象あり。内卦震・外卦坤――陽は下に動いて勢に順って上に行く。下面に返るを「入」と言い、上に向かって行くを「出」と言う。出入は皆勢に順って行く。ゆえに「出入无疾」の象あり。
先出後入,於語順也。諸陽自此可亨,有朋類之來皆得無咎之象。又自五月姤卦一陰始生,至此七月而一陽來復,乃天運自然反覆之道。此時剛德既長,君子可以有為,故於占利有攸往也。不言月而言日,猶詩言一之日、二之日也。臨卦於陰之長則曰八月,欲陰長之緩也;此於陽之長則曰七日,欲陽之速也。又七為陽數,日為陽物,故於陽長之卦言之;八為陰數,月為陰物,故於陰長之卦言之。
先に「出」と言い後に「入」と言うは、ただ語気の順暢に就いて言う。衆陽はここより亨通しうる。ゆえに同類が前来して皆无咎を得るの象あり。また五月の姤卦の一陰の始生より算起して、この時に到りて七箇月を経て一陽は来復す――まさに天運自然の往復の常道。この時は陽剛の徳はすでに生長せば、君子は作為する有りうべし。ゆえに占辞は「利有攸往」と言う。「月」と言わずして「日」と言うは、あたかも《詩経・七月》の「一之日」「二之日」と言うがごとし。臨卦は陰の生長を講じて便ち「八月」と言う――陰の長くこと慢からんを希望す。ここは陽の生長を講じて便ち「七日」と言う――陽の長くこと速からんを希望す。さらに言えば七は陽数・日は陽物。ゆえに陽長の卦の上に用う。八は陰数・月は陰物。ゆえに陰長の卦の上に用う。
彖曰:復亨,剛反。剛德復反,有可亨也。動而以順行,是以出入無疾,朋來無咎。剝以順而止,復以順而行。道消之極,道長之初,未有不順而能免咎者。出入朋來,陽之動;無疾無咎,以順行故也。反復其道,七日來復,天行也。陰陽消長,天運之自然也。利有攸往,剛長也。既生則漸長,故利於往。自內出為往。動而順行以下,以卦德言;反復其道以下,以卦體言。
《彖伝》にいう。復して亨通するは、陽剛の返回するによる。陽剛の徳は重ねて返回す。ゆえに亨すべき理あり。《彖伝》はまたいう。動きて順道を以て推行す。ゆえに出入して疾患なく、朋類前来して過咎なし。剥卦は順にして止むを知り、復卦は順にして能く行く。道消は極点に到り道長は開端に在り――順ならずして過咎を免れ得るなし。「出入」「朋来」は陽の発動、「无疾」「无咎」は則ち順行するの由縁。《彖伝》はまたいう。往復してその常道に循い、七日にして来復するは、これは天の運行。陰陽の消長は本は天運の自然。《彖伝》はまたいう。往く所有るに利するは、陽剛が生長するに在るによる。すでに生出せば便ち漸々として長大す。ゆえに往くに利し。内より外に向かって去るを「往」と言う。「動而以順行」以下は卦徳に就いて言い、「反復其道」以下は卦体に就いて言う。
復其見天地之心乎。天地以生物為心。積陰之下,天地生物之心幾息。一陽來復,而天地之心可見。在人,則惡極而善念萌動之時也。先儒以靜為天地之心,《程傳》以動為天地之心。然陰陽分動靜善惡,不可太拘。蓋天地之氣,純陰寂靜之中未嘗無陽。然必一陽之動,而後生物之心可見。在人,則所動之念有善有惡,必其善端之動,乃可謂見天地之心也。
《彖伝》にいう。復卦より大概天地の物を生ずるの心を見るべからんや。天地は万物を生養するを以て心と為す。層心と為す。層層の陰気の下に於いて、天地の物を生ずるの心は幾ほど止息せり。一陽来復すれば、天地の心は便ち見うべし。人の身の上に言えば、すなわち悪の極処に到って善念の萌動する時。前代の儒者は「静」を以て天地の心と為し、程頤《伊川易伝》は則ち「動」を以て天地の心と為す。しかし陰陽を動静善悪に分派するは、太く拘泥し過ぐべからず。天地の気は、純陰寂静の中に於いて未だ嘗て陽なきに非ず。しかし必ず一陽の発動を待ってこそ、物を生ずるの心はこそ見うべし。人に於いては、その動く所の念頭は善あり悪あり。必ず善端の発動を待ってこそ、天地の心を見たりと言いうべし。
象曰:雷在地中,復。先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。閉關,休息安靜以養微陽也。在人心,則善端之萌甚微,亦必莊敬以養之,不然復亡之矣。卦辭言出入無疾,而象言閉關息事。蓋動者天地生物之心,而靜者聖人裁成之道也。
《大象伝》にいう。雷は地の中――復卦。先王はここに由って冬至のあの日に於いて関門を閉じ、商旅は外出せず、君主もまた四方を巡視せず。「閉関」は休息安靜して以てあの一点の微弱の陽気を涵養す。人心の上に言えば、善端は剛く萌発する時に極めて微弱にして、また必ず荘敬を以てそれを涵養せんことを要す。然らざれば便ちまた亡失せんとす。卦辞は「出入无疾」と言うも、《大象》は卻て関を閉ぢ事を息むと言う。これは――動は天地の物を生ずるの心、静は聖人の裁制輔成の道なるによる。
初九:不遠復,無只悔,元吉。一陽復生於下,復之生也。只,至也。居事之初,失之未遠,復於善而不至於悔,大善而吉之道也。人有過失,或至於微色發聲、困心衡慮。此則有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。象曰:不遠之復,以修身也。修身之道無他,知不善而速改而已。
初九:遠からずして回頭す――悔に至らず、大いに吉祥。一つの陽爻が下面に於いて重ねて生出す――まさに復卦の生機の在る所。「只」は「至」と講ず。彼は事情の開端に処し、失誤はなお遠からず。善道に回到して悔に至らず――これは大善にして吉の道。一般人は過失あれば、或いは顔色に形れ声音に発し、甚至りて心を困め慮を衡えてこそ覚悟するに至る。この爻は卻て不善あるは自ら知らざるなし。一たび知れば便ち更に為さず。《象伝》にいう。不遠の復は、以て身を修むるに用うるなり。身を修むるの道は別なし。すなわち不善を知れば便ち急いで改むるのみ。
六二:休復,吉。柔順中正,近於初九之仁人。能比而下之,取友以輔仁者。復之休美,吉之道也。象曰:休復之吉,以下仁也。克己復禮為仁。初,剛德之復仁者也。二能親而下之,故吉。
六二:美好に回頭す――吉祥。六二は柔順にして中に居って正を得、また初九のこの仁人に靠近す。能く彼に親附してその下に居るを甘んず――まさに《論語》の言う所の「以友輔仁」の人。これは復の中の美善にして、吉を獲るの道。《象伝》にいう。休復の吉たる所以は、能く己を屈して仁者の下に居るによる。「克己復礼」はすなわち仁。初九は陽剛の徳の回復にして、まさに仁者。六二は能く彼に親近してその下に居るを甘んず。ゆえに吉。
六三:頻復,厲無咎。不中不正,處動之極。復而不固,有頻失而頻復之象。頻失則厲,復則無咎。蓋三爻在上下進退之間。巽以柔為主。巽九三剛而不中以比柔,故頻巽而吝。復以剛為主。復三柔而不中以比柔而位剛,故頻得,雖厲而無咎。象曰:頻復之厲,義無咎也。得補過之義。
六三:屡々回頭す――危厲あるも過咎なし。六三はすでに中に居らずまた正を得ず、震動の極に処す。回頭して固守し得ず。ゆえに屡々失いまた屡々回復する象あり。屡々失えば便ち危厲、能く復せば便ち无咎。大抵三の爻はまさに上下進退の間に在る。巽卦は柔を以て主と為し、巽の九三は陽剛にして中に居らず、また下に柔に比す。ゆえに「頻巽」して羞吝。復卦は剛を以て主と為し、復の六三は柔を以て中に居らず、下に柔に比すると雖も陽剛の位に居る。ゆえに屡々得あり、危厲あると雖も過咎なし。《象伝》にいう。頻復の危厲は、道理に就いて言えば過咎なきなり。それが過を補うの義に合するによる。
六四:中行獨復。四在上下四陰之中,有中行之象。不比群陰而與初應,有與眾俱行、獨能從善之象。此時陽氣甚微,未足有為,故不言吉。然理所當然,吉凶非所論,吉凶非所論,所謂明其道不計其功者也。象曰:中行獨復,以從道也。以其從陽剛,君子之善道也。修身以道,修道以仁。仁與道,皆所以修身也。
六四:衆陰の当中を走りて独り回頭す。六四は上下四つの陰爻の正中に処す――「中行」の象あり。それは衆陰と親比せずして独り初九と相応ず――衆人と同行して独り善に従い得るの象あり。この時は陽気はなお微弱にして足らずして作為する有り。ゆえに爻辞は「吉」と言わず。しかしこれは道理の上に於いて当にこの如くあるべし。吉凶は論ずる列に在らず(底本はこの句を重ねて一遍出す)――すなわちいわゆる「其道を明らかにして其功を計らず」。《象伝》にいう。中行独復は、以て正道に順従するなり。それが陽剛に順従するは、あれは君子の善道。身を修むるに道に依りて行い、道を修むるに仁に依りて行う。仁と道とは、皆以て身を修むるに用う。
六五:敦復,無悔。坤土有敦厚之象。四以應初而復。五雖與初無應,然以柔中居尊,因四之獨復而能篤其行、厚其養,以復於善者,猶臨之有敦臨也,故可無悔。按,來注謂不遠復者,善心之萌;敦復者,善行之固。無只悔者,入德之事;無悔者,成德之事。是以五勝於初也。然初曰元吉,五僅曰無悔,不得以五勝初。竊意此乃困知勉行,所謂人一己百、人十己千,百倍其功者。能如是,悔亦可無也。
六五:敦厚に回頭す――悔恨なし。坤は土――敦厚の象あり。六四は初九と相応ずるに因って回復す。六五は初九と応与なしと雖も、しかし柔を以て中に居って尊位に処し、六四の独復に因って能くその行いを篤実にしその養いを深厚にして、ここに従って善道に回到す――あたかも臨卦に「敦臨」あるがごとし。ゆえに悔なきを得べし。按ずるに、来知徳の注にいう。「不遠復」は善心の萌発、「敦復」は善行の堅固。「无只悔」は徳に入るの事、「无悔」は徳を成すの事――ここに因って六五は初九に勝ると以てす。しかし初九は「元吉」と言い、六五は僅かに「无悔」と言うのみ。六五が初九に勝ると言い得べからず。我が私意は以てす――これは乃ち《中庸》の言う所の「困而知之、勉強而行之」の一路、すなわち「人一己百、人十己千」――百倍の功夫を下さんと要す。能くこのように為せば、悔もまた免れうべし。
象曰:敦復無悔,中以自考也。五居中,中即天地之心。考,成也,以中道自成也。二四待初而復,學知利行者也,故曰下仁曰從道。五與初非比非應而復,困知勉行者也,故曰自考。自即人一己百之意。蓋五本遠於陽,但以居中能順,困四自返,加厚其功,故能自成也。
《象伝》にいう。敦復无悔は、中道を以て自我成就するなり。六五は中に居る――「中」はすなわち天地の心。「考」は成就の意、すなわち中道を以て自ら成全す。六二・六四は初九に靠ってこそ回復す――「学而知之、利而行之」の一類に属す。ゆえに《象伝》はそれを「下仁」と言い「従道」と言う。六五は初九とすでに相隣に非ずまた相応に非ずして能く回復す――「困而知之、勉強而行之」の一類に属す。ゆえに「自考」と言う。この「自」の字はまさに「人一己百」の意。大抵六五は本は陽より遠く、ただ中に居って能く順い、また困勉して自ら返るに因って、倍に功夫を下す。ゆえに能く自我成就す。
上六:迷復,凶,有災眚。用行師,終有大敗,以其國君凶,至于十年不克征。上六以陰柔居復終。位高而無下仁之美,剛遠而失遷善之機,厚極而有難開之蔽,質柔而無改過之勇,無應而無從道之明,是終昏冥而不復者也。災自外來,眚自己作。坤先迷,今居其極,有迷復象。坤為土為眾,有行師象。在上近五,有以其國君象。地數十,有十年不克征之象。
上六:迷失して回頭を知らず――凶険。天災人禍あり。以て兵を出して作戦せば、終に大敗して、国君に連累して凶に遭い、以て十年も出征し得べからざるに至る。上六は陰柔を以て復卦の終に居る。位は高くして己を屈し仁に下るの美徳なく、陽剛より離るること太も遠くして善に遷るの機会を失い、厚の極点に到って反って啓開し難きの蒙蔽を成し、資質柔弱にして過を改むるの勇気なく、応与なくして道に従うの明識を欠乏す――これは終に昏昧にして回頭を知らざる人。「災」は外より来る、「眚」は自ら造成す。坤卦は本は「先迷」の説あり。上六はまた坤の極に居る。ゆえに「迷復」の象あり。坤は土・衆――兵を出すの象あり。それは上に在って九五の君位に逼近す――「以其国君」の象あり。地数は十――「十年不克征」の象あり。
象曰:迷復之凶,反君道也。陽剛在上,君之道。此剝之上九,所以為民所載也。復上反之,故以其國君凶也。全彖以氣數言。復有必亨之理。故出入可以無疾,朋來亦得無咎。所以然者,以七日赤數反覆之道,天運之自然也。六爻以人事言。
《象伝》にいう。迷復の凶たる所以は、君と為るの道に違反するなり。陽剛が上に居るはこそ君道――剥卦の上九はまさにここに因って百姓に擁戴せらる。復卦の上六は恰恰それと相反す。ゆえに「以其国君凶」と言う。全卦の《彖辞》は気数に就いて言う。復は必然に亨通する理あり。ゆえに出入して疾患なきを得べく、朋類前来してもまた過咎なきを得べし。そのこの如くなる所以は、七日往復の常道は乃ち天運の自然なるによる(底本は「七日赤数」と作す――「赤」は当に「之」の字の訛りなるべし)。六爻は則ち人事に就いて言う。
剛德為善端之復,質柔以從剛為貴,人事之當然也。故五之自考不如四之從道,四之從道不如二之下仁,二之下仁不如初之修身。三頻復雖危,猶知復也。上迷復反道,則災眚所必至矣。聖人示人以復善改過、取友修身之功,莫切於此。
陽剛の徳はすなわち善端の回復。しかるに資質柔弱なるは順従して陽剛に従うを以て貴しと為す――これは人事の上に於いて当にこの如くあるべし。ゆえに六五の「自考」は六四の「従道」に如かず、六四の「従道」は六二の「下仁」に如かず、六二の「下仁」はまた初九の「修身」に如かず。六三は屡々復すと雖も危厲あれど、究竟はなお回頭を知る。上六は迷いて復せず正道に違反せば、されば天災人禍は便ち必ず来らんとす。聖人が人に善道に回帰し過失を改正し友を擇び身を修むるの功夫を指点するは、この一卦より親切なるなし。
无妄卦
無妄,下震上乾。無妄者,實理自然之謂。震,動也。動以天為無妄,動以人則妄矣。無妄次復。按《序卦》:復則不妄矣,故受之以無妄。復者,反於道也。既復於道,合於正理而無妄矣。無妄所以次復也。
无妄卦は、下卦は震、上卦は乾。いわゆる「无妄」とは、真実の理が自然にして然ることを指す。震は動――天理に依って動けばすなわち无妄、人の私意に出でて動けば便ち妄を成す。无妄は復卦の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、能く正道に復帰すれば便ち虚妄なし。ゆえに復卦の後に接ぐるは无妄。「復」は正道に返回す。すでに正道に回到せば、正理に合すれば便ち妄なし。これがすなわち无妄が復に次ぐ所以の故。
全彖大亨而利於正,不正則所往不利。蓋正則合於無妄,不正則妄矣。六爻下三爻震體,時當動而動者,故動則應天。初之往吉,二之利往,三曰行人之得,皆動而無妄者也。上三爻乾體,時當靜而靜者,故動則拂天。四之可貞,五之勿樂,上之有眚,皆以不動為無妄者也。乾體非靜。但震動之時已過,則宜順乎天,不必復有所動耳。此六爻之大略也。
全卦の《彖辞》は大いに亨通して正を守るに利すると言い、正ならざれば則ち往く所は利あらず。正を守ってこそ无妄に合し、正ならざれば則ち妄なるによる。六爻の中は、下の三爻は震体に属し、まさに動くべきの時に当たって動く。ゆえに一たび動けば便ち天理に応合す。初九は「往吉」と言い、六二は「利有攸往」と言い、六三は「行人之得」と言う――皆動きて妄なし。上の三爻は乾体に属し、まさに静なるべきの時に当たって静す。ゆえに一たび動けば便ち天理に違逆す。九四は「可貞」と言い、九五は「勿薬」(底本は「勿楽」と作す)と言い、上九は「有眚」と言う――皆動かざるを以て无妄と為す。乾体は本は静に非ず。ただ震動の時はすでに過ぎ去れば、便ち当に天理に順い、更に動く所有るを須とせざるのみ。これが六爻の大概。
無妄:元亨利貞,其匪正有眚,不利有攸往。無妄,實理自然之謂。《史記》作無所期望而得,亦即自然之意,蓋有所期望皆妄也。天之化育萬物,生生不窮,各正其性命,本無妄也。下震上乾,動與天合,自可大亨,而必利於正固。若有不正即妄也,則有過眚而所往不利矣。吉凶悔吝生乎動,卦以震動為主,故聖人多戒辭。
无妄:大いに亨通して正を守るに利し。あの正を守らざれば便ち災眚ありて、往く所有るに利しからず。「无妄」は真実の理が自然にして然るの意。《史記》はそれを「期望する所なくして得」と講ず――すなわち自然の意。大凡期望する所有るは皆妄に属す。上天は万物を化育して生生窮まらず、万物をして各々その性命を正せしむ――本は便ち虚妄なし。この卦は下震上乾、動きて天と相合す――自然に大いに亨通しうる。しかし必ず正固に利せんことを要す。もし正ならざるあれば便ち妄。すれば便ち過失災眚ありて往く所は利あらざらん。吉凶悔吝は皆動より生ず。この卦は震動を以て主と為す。ゆえに聖人は多く告誡の辞を用う。
彖曰:無妄,剛自外來而為主於內,動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也。其匪正有眚,不利有攸往,無妄之往何之矣,天命不祐行矣哉。剛自外來而為主於內,以卦綜言也。大畜艮在外為主,今反為震為主於內,此卦之所以為無妄也。動健以下,一正一反。能如本卦之德動健,剛中而應,則以正合乎天命矣。若其不以正,則私意妄動,必不可行也。
《彖伝》にいう。无妄とは、陽剛は外より自ら来りて、内卦の主を成す。動きて剛健、陽剛は中に居って上下は相応ず。大いに亨通してまた正を守る――これは天の命令。あの正を守らざれば便ち災眚ありて、往く所有るに利しからず。无妄にしてなお往かんとすれば、能くどこに往かんや。天命は保祐を加えず、なお行き通るを得んや。「剛自外来而為主于内」は卦綜に就いて言う。大畜卦は艮が外に在って主と為り、如今は倒転して震が内に在って主と為る――これがまさにこの卦が无妄たる所以。「動而健」以下は、一正一反の両面に言う。能く本卦の徳の如く動きて剛健、剛中にして応あるは、則ち正を以て天命に合するなり。もし正を以てせざれば、便ち私意の妄動にして、一定に行き通らず。
震動乾健,以卦德言。九五剛中而應六二,以卦體言。天之命,天理之當然也。無妄之往何之,承上匪正言。無妄而不正,往復何所之乎。不正則逆天之命,天必不祐,其猶可行乎哉。
「震動乾健」は卦徳に就いて言い、「九五剛中而上応六二」は卦体に就いて言う。「天之命」はすなわち天理の本はこの如くあるべし。「无妄之往何之」の一句は、上文の「其匪正」を承接して言う。すでに无妄と名づけて卻てまた正を守らざれば、なおどこに往き得べきか。正ならざれば便ち天命に違逆し、天は必ず保祐を加えず。あればなお行き通るを得んや。
象曰:天下雷行,物與無妄。先王以茂對時,育萬物。天下雷行,震動發生。萬物各正其性命,物物與之以無妄也。先王法此,對其所育之時,養育人民。使昆蟲草木無不得宜,亦物物與之以無妄也。對時,如孟春犧牲毋用牝、斧斤以時入山林之類。茂者,盛大之意。無時不對,無時不育也。即盡人性、盡物性、贊化育之謂也。天下雷行,物物與以無妄。物物各具一性,物物一自然之天也。聖人因物之性以育萬物,使物物各得其天,聖人一自然之天也。
《大象伝》にいう。天下に雷声は運行して、万物は皆无妄の性を賦与せらる。先王はここに由って盛大に天時に順応して万物を養育せんとするを体会す。天下に雷行して震動して万物は発生す。万物は各々その性命を正す――これがすなわち天が无妄を一々として毎一の物に賦与するなり。先王はこれに取法して、各物の生育の時節に対して人民を養育し、昆虫草木をして各々その宜を得ざるなからしむ――これはまた无妄を一々として毎一の物に賦与するなり。いわゆる「对時」は、例えば《礼記・月令》の孟春の月は祭祀に母畜を用いず、斧斤は時節に按じてこそ山林に進むを准すの類。「茂」は盛大の意――一つの時節も順応せざるなく、一つの時節も養育せざるなし。これはすなわち《中庸》の言う所の人の性を尽し物の性を尽して天地の化育を賛するの意。天下に雷行して、物物は皆无妄を賦与せらる。物物は各々一种の本性を具え、物物は皆一つの自然の天。聖人は万物の本性に依循して万物を養育して、物物をして各々その天を得せしむれば、聖人自身もまた一つの自然の天なり。
初九:無妄往吉。初當位而動,為無妄之主。動之得正者也,何往非吉。按,他卦皆以應為吉。此則二應五、三應上,乃三有災、五有疾,而上不免於眚,獨初以無應而吉者。蓋卦名無妄,貴於無心。有心於應而往,則妄矣。震陽初動,誠一未分。剛實無私,動與天合。不必有應,而得無心之吉也。象曰:無妄之往,得志也。誠能動物,往無不通也。
初九:虚妄なく、往けば吉祥。初九は位に当たって動くは、无妄の卦の主爻。その動く所は皆正に合す。どこに往いて吉ならざるがあらんや。按ずるに、別の卦は皆応あるを以て吉と為すも、この卦は卻て六二は九五に応じ六三は上九に応じて、しかるに六三は災あり九五は疾あり上九もまた眚を免れず。ただ初九のみは相応の爻なきに因って反って吉を得。縁故は卦名が「无妄」――无心を貴ぶに在る。心ありて応を求めて往けば、あれは便ち妄を成す。震陽は初動して誠一にして未だ分かれず、剛実にして私意なし。一たび動けば便ち天と相合す。応あるを須とせずして、自然に无心の吉を得。《象伝》にいう。无妄の往は、心志の遂げ得るなり。誠意は能く外物に感動すれば、往けば便ち通通ぜざるなし。
六二:不耕穫,不菑畲,則利有攸往。耕,農之始。獲,其成也。田一歲曰菑,三歲曰畲。始耕終獲,先種後畲,此自然之常。今皆曰不,統付之無心也。或作不耕而自獲、不菑而自畲,或作不以耕而計獲、不以菑而計畲。唯《本義》謂四者俱無。不耕不菑,無所為於前;不獲不畲,無所冀於後也。蓋無妄之時,有所為所得付於兩忘,而自然如此者。
六二:収穫を為して耕さず、熟田を為して開荒せず――このようにしてこそ往く所有るに利し。「耕」は農事の開始、「獲」はその成就。田は開墾して一年を「菑」と言い、三年を「畬」と言う。先ず耕して後に獲、先ず下種して後に熟田を成す――これは自然の常理。如今は一概に「不」の字を加う――これ一切を无心に交付す。或る人は耕さずして自然に収穫あり開荒せずして自然に熟田と解し、或る人は耕種するに因って収穫を計らず開荒するに因って熟田を計らずと解す。ただ朱熹《本義》はこの四件の事は皆なしと言う――不耕・不菑は事前に営為する所なく、不獲・不畬は事後に指望する所なし。大抵正に无妄の時に当たって、為する所の作為と得る所とを両忘に付して、自然にこの如し。
互卦上巽下震,耕耨之象。震為未稼,收穫菑畲之象。六二柔順得中正,因時順理,而無私意期望之心,故有不耕穫、不菑畲之象。占者如是,則利於有所往矣。蓋假象之醉,不可以辭害意也。象曰:不耕穫,未富也。
この卦は互体して上巽下震――耕作耘耨の象あり。震はまた未成の禾稼――収穫と開荒治田との象あり。六二は柔順にして中に居って正を得、時勢と事理とに因順して、一点の私意期望の心なし。ゆえに「不耕獲・不菑畬」の象あり。占者はもし能くこの如くなれば、便ち往く所有るに利し。大抵これらは皆物象を假借して説を立つる辞句。辞面に拘執して本意を妨害すべからず。《象伝》にいう。耕して獲ざるは、並び富を求むるを為すに非ず。
未富,如非富天下之意,言非計其利而為之也。六三:無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。三變離,牛象。互巽為繩,艮為鼻,繫牛之象。震為大塗,中爻人位,行人之象。卦之無妄皆以正而亨,六三則不中不正矣,故有無妄致災之象。
六二の《象伝》の言う所の「未富」は、《孟子》の裏の「非富天下」の語意と相同じ。耕して収穫を図らず墾して熟田を図らざる人を言う――並び先ず好処を盤算してこそ手を動かして為すに非ず。六三の爻辞にいう。端なく災禍を招来す――或る人が牛を路傍に拴ぐるに、路人が手順に牽き去り、本地の居民は反ってここに因って受累す。先ず取象を看れば、六三は一たび動けば下卦の「震」は変じて「離」と為り、「離」は牛。互体の「巽」は繩索、「艮」は鼻――まさに鼻を穿ち牛を繋ぐの象。「震」は大路、三の爻はまた六爻の中の「人位」に当たる。ゆえに行路の人の象あり。全卦のいわゆる「无妄」は、皆正を守ってこそ亨通しうる。六三は卻てすでに中に居らず、また陰爻を以て陽位に居って位に当たらず。ゆえに並び妄動せざるに災禍を招来する象あり。
行人牽牛以去,居者反遭詰捕之擾,所謂無妄之災也。震主動,故去者猶可倖免,居者反以無妄致災。占者得此,以其行止分其吉凶也。象曰:行人得牛,邑人災也。得者有無妄之福,邑人有無妄之災。
路人は牛を牽いて去り、本地に留る人は反って官府の盤査追捕に擾されん。これがすなわちいわゆる「无妄之災」。下卦の「震」は動を以て性と為す。ゆえに走り去るあの人はなお僥倖に脱し得、留居して動かざる人は反って平白に殃に遭う。占筮してこの一爻に遇えば、便ち自己のこの時が「行」か「止」かを看て、これに拠って吉凶を分判す。《象伝》に「行人得牛、邑人災也」と言うは、牛を牽き去った人は一朌の意外の福を得、本邑の人は則ち一場の意外の禍を受く――同一の桩の事、得失は恰恰両頭に分かる。
九四:可貞,無咎。九居四非貞也,然陽剛乾體,不事應與,可以自守其正。不可以有為,亦不至於有咎也。蓋下卦震體,以動為無妄;四交乾,則動之時已過,以不動為無妄。可貞則不雜以妄矣。
九四の爻辞にいう。正固を守持すべく、過咎あることなし。爻位に就いて言えば、陽爻は四の位に居るは陰位で、本は「正」と算し得ず。しかしそれは陽剛の質にして上卦の「乾」体に属し、また攀附して相応の爻に就かず(初九は同じく陽爻でそれと並び相応せず)。ゆえに能く自らあの一朌の正を守住す。このような処境は作為する有るに宜しからず、しかしまた災咎を招来するに至らず。道理は――下卦は「震」で、行動に靠って「无妄」を体現す。四の爻に到ればすでに「乾」体に進入して、動くべきの時機は早くに過ぎ去り、便ち当に動かざるを以て「无妄」を体現すべし。守り得住れば、心の裏は便ち妄念を掺入せざるなり。
象曰:可貞無咎,固有之也。有猶守也。天命之正,人所固有。貞者,守其所固有也。九五:無妄之疾,勿藥有喜。五變,互三四為坎,有疾之象。互巽木、艮石,藥之象。乾剛中正,以居尊位。當無妄之時,容有非常意外之事,靜以待之則自消,如有疾勿藥而自愈也。
《象伝》に「可貞无咎、固有之也」と言う。ここの「有」の字は当に「守」と講ずべし。上天の賦与するあの一朌の正理は、本は人人に自具す。いわゆる「貞」は、すなわちこの本来の自具する物を守住するにして、並び外面に到りて別に一つの正を求むるに非ず。九五の爻辞にいう。端なく来る病は、薬を服せずして反って喜あり。取象の上では、九五は一たび変ずれば三・四の両爻と互いに「坎」を成し、「坎」は病痛の象。互体はまた「巽」木・「艮」石あり――草木金石の入薬の象。九五は陽剛中正にして君位に居り、まさに「无妄」の時に当たり、非常の意外の事に碰上するを免れ難し。ただ静々としてそれの過ぎ去るを待てば、自然に消解す――あたかも或る病は薬を喫せずして反って痊愈するがごとし。
象曰:無妄之藥,不可試也。無妄而試藥,反為妄矣,故不可。上九:無妄,行有眚,無攸利。上居乾之終,純乎天矣,無妄之至也。然卦當窮極,以九居上,其位不正,行則無利,即彖所謂匪正有眚、不利有攸往也。
《象伝》に「无妄之薬、不可試也」と言う。本は无妄なれど、卻て偏に薬を拿って往きて治せんと試む――この一試は本身便ち妄動を成す。ゆえに不可と言う。上九の爻辞にいう。无妄の極に処して、さらに前行すれば便ち災患ありて、好処あるなし。上九は「乾」体の最上の一爻に居り、純然として天理の流行――「无妄」の極処に到ると言いうべし。ただ一卦はここに走り到ればすでに窮極、また陽爻を以て上位に居って位に当たらず、更に動けば便ち利する所なし――まさに卦辞の《彖》の言う所の「其匪正有眚、不利有攸往」の意。
象曰:無妄之行,窮之災也。無妄宜可行,然時位窮極而行,則自為妄以取災也。全彖無妄二字義,兼《本義》實理自然與《史記》無所期望二意。無妄而出於正則利,不正則有眚。天下有無妄之福、無妄之禍,而自處不可不出於正也。六爻內三爻以動為正,故初往吉、二往利、三之行人亦得牛,皆有無妄之福也。外三爻以不動為正,故四可貞、五勿藥、上行則有眚。蓋雖有無妄之禍,而能靜守其正,則眚亦可無也。無妄之禍福聽於天,唯正則不失可亨之道,聖人示人切矣。
《象伝》に「无妄之行、窮之災也」と言う。理に照らせば「无妄」は行動しうべきなれど、時と位とすでに窮極してなお走らば、あれは便ち自ら妄を造出して禍を招く。全卦に就いて看れば、「无妄」の二字は兼ねて両層の意を含む。一は朱熹《周易本義》の講ずる所の「実理自然」――すなわち真実の理の本はこの如し。二は《史記》の記する所の「无妄」――事が預期に由らずして来るを指す。合せて言えば、无妄にして正に出づれば便ち利あり、正に出でざれば便ち災患あり。天下はすでに意外の福ありてまた意外の禍あり。しかるに人が自ら処するは正に出でざる能わず。六爻の中は、下卦の三爻は動を以て正と為す。ゆえに初九は往きて吉を得、六二は往きて利あり、六三のあの行路の人もまた牛を得――皆意外の福に属す。上卦の三爻は動かざるを以て正と為す。ゆえに九四はただ正を守るべきのみ、九五は服薬を須とせず、上九は一たび行けば便ち災患あり。見れば便ち意外の禍に碰上するも、ただ静かにその正を守れば、災患もまた無形に消しうる。禍福の来るは天に命を聴くも、ただ正を守ってこそあの可亨の路を失わざるなり――聖人のここの処に於いて人を教うるは、懇切の至りと謂うべし。
大畜卦
大畜,下乾上艮。天在山中,所畜者大,則有畜聚之義;乾健上進,為艮所止,則有畜止之義。以陰畜陽,所畜者小,則為小畜;以陽畜陽,畜之力大,則為大畜。大畜次無妄。按《序卦》:無妄然後可畜,故受之以大畜。物有其實,乃可畜聚,大畜所以次無妄也。
《大畜》卦は下卦は「乾」、上卦は「艮」。天は山の裏に含まる――蓄蔵する所は極めて宏大。これは「畜聚」の一義。「乾」の性は剛健にして上に向かって進まんと要するも、卻て「艮」に止住せらる――これは「畜止」の一義。《小畜》は一つの陰爻を以て衆陽を畜し、その畜むる力量は小。ゆえに「小」と称す。この卦は上の「艮」の陽を以て下の「乾」の陽を畜し、畜の力量は大。ゆえに「大」と称す。《大畜》は《无妄》の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、「无妄」のあの真実あって然る後にこそ蓄蓄積を談うべし。ゆえに接ぎて《大畜》を排す。事物は先ず真実の内容あらんを要してこそ蓄聚しうべし。これがすなわち《大畜》が《无妄》に承接するの道理。
全彖兼畜德、畜賢、畜健之意,總以見畜之大。六爻上三爻艮為畜者,下三爻乾受畜者。初受四之畜,故初有厲而四言牿牛也;二與五應,受五之畜,故二言說輹而五豶豕也。至三與上則合志上行,又畜極而通矣。此六爻之大略也。
卦辞の《彖》は兼ねて三層の「畜」の意を含む――己の徳を蓄養し、賢才を蓄養し、剛健を約束す。総じては要はこの「畜」の大なるを見出さんとす。六爻の分工は――上卦の三爻は「艮」に属し、畜止を施行するの一方。下卦の三爻は「乾」に属し、畜止せらるるの一方。初九は六四の畜止を受く。ゆえに初九は「有厲」と言い、六四は小牛に横木を加うと言う。九二は六五と相応じて六五の畜止を受く。ゆえに九二は車子が伏兎を卸下したと言い、六五は閹せし猪と言う。九三と上九とに到れば、両個の陽爻は同心一道に上行して、畜の極処に到って反って通達す。これがすなわち六爻の大致の条理。
大畜:利貞,不家食吉,利涉大川。大,陽也。以艮畜乾,畜之大者。內乾剛健,外艮篤實輝光,能日新其德,所畜者大矣。異端曲學,所畜多而不正者有矣,故利於貞。所畜既正,可以享天祿而有為於天下。在一身為畜德,在國為畜賢。故賢人有是德,則其占不畜於家而畜於朝,一身之吉,亦天下之吉也。互兌為口,在乾之上,食天祿之象。所畜既大,能應乎天,可以濟險;又互體震木在兌澤之上,如舟之行,乾健應之,故又有利涉大川之象,蓋畜極而通也。
卦辞にいう。《大畜》は正を守るに利し、家中に在って自食せずして出仕して禄を受けば則ち吉、大河を渡越するに宜し。いわゆる「大」とは、陽を指す。上卦の「艮」を以て下卦の「乾」を畜住するは、畜止の裏の最大なる。内卦「乾」は剛健にして息まず、外卦「艮」は篤実にして光輝を生ず――能く一天々としてその徳を更新す。蓄する所は自然に宏大。ただ異端邪説・偏曲の学もまた蓄積して多きを得るも正に合せざるあり。ゆえに卦辞は特意に「利貞」と言う。蓄する所すでに正なれば、便ち朝廷の俸禄を享受して天下に作為する有りうべし。一身の上に落れば徳を蓄むと言い、一国の上に落れば賢を蓄むと言う。ゆえに賢人はこのような徳を具備せば、この卦を占得すれば便ち家中に困守すべからずして、朝廷に於いて禄を受くべし。一人の吉は、すなわちまた天下の吉なり。取象の上では、互体の「兌」は口で、「乾」の上に居る――天禄を食むの象。蓄する所すでに大にしてまた上に向かって天に応ずれば、便ち以て険を済しうべし。さらに看れば互体の「震」木は「兌」沢の上に浮ぶ――あたかも舟が水面を行くがごとく、「乾」の剛健が下に於いてそれを推動す。ゆえにまた「利渉大川」の象あり――これがまさに畜の極処に到って反って通行阻るなし。
彖曰:大畜,剛健篤實輝光,日新其德。此以卦德釋卦名義也。在他卦艮但言止,此言篤實輝光者,艮止故能篤實,此艮一陽之所以能畜也。篤實自有輝光,蓋畜於中而見於外也。以乾體之剛健,無人慾之私;艮之篤實,無虛偽之飾。則闇然日章,自有輝光。畜之不已,其德必日新矣。彖畜字有三義:以蘊蓄言之,蓄德也;以畜養言之,畜賢也;以畜止言之,畜健也。此專言蘊蓄之義,下文乃以畜賢畜健言之。
《彖伝》にいう。《大畜》は剛健篤実にして光輝は外に顯れ、能くその徳を日新す。これは卦徳を用いて卦名の含義を釈す。別の卦の裏に於いて「艮」を講ずれば、ただ一つの「止」の字を言うのみ。ここは卻て「篤実輝光」と言うは、「艮」は能く止むるに因って、ゆえに内裏は厚実にして浮ならず――これがまさに「艮」の上のあの一つの陽爻が能く乾陽を畜住し得るの由縁。篤実は自然に光輝を生出す――裏に蓄むる物は、必ず外面に顕露せんと要するによる。「乾」体は剛健にして便ち人欲の私曲なし。「艮」体は篤実にして便ち虚偽の粉飾なし。このようになれば便ち《中庸》の言う所の「闇然而日章」の如く、光輝は自ずと生出せん。蓄養は停まらざれば、その徳は自然に一天新たに一天を過ぐ。《彖伝》の裏のこの「畜」の字は三層の意あり。積蓄に就いて言えば徳を蓄む、畜養に就いて言えば賢を養う、止住に就いて言えば剛健を約束す。この一句は専ら積蓄の一義を講じ、下文はこそ分かちて養賢・止健に就いて講ず。
剛上而尚賢,能止健,大正也。以卦綜言之,無妄下卦之震,上為大畜之艮,剛上也。以卦體言,六五居中,尊尚上九,所謂尚賢也。以卦德言,以艮之止,止乾之健,如禁強暴之類,所謂能止健也。不曰健而止,而曰能止健者,以乾之健受艮之止,卦之所以稱大畜也。大正,總承上以剛陽在上,尊尚賢德,能止至健,皆非大正不能,以釋利貞之義也。
《彖伝》は接ぎていう。陽剛は上に居って賢者を尊崇し、能く剛健を約束す――これは大にして正なり。卦「綜」(卦体を上下に顛倒す)に就いて言えば、《无妄》の下卦「震」は翻って来るはまさに《大畜》の上卦「艮」。ゆえに「剛上」と言う。卦体に就いて言えば、六五は柔を以て中位に居って能く上面の上九を尊崇す――これがすなわち「尚賢」。卦徳に就いて言えば、「艮」の止を用いて往きて「乾」の健を止住するは、あたかも強暴の徒を禁絶するがごとし――これがすなわち「能止健」。此処は「健而止」と言わずして偏に「能止健」と言うは、要は突出せんとす。「乾」のごとき剛健が竟も「艮」に止住し得らる――まさにここに因ってこそ「大畜」の名に当り得べし。末の句の「大正」は総じて上文を収む。陽剛は上に在り、賢徳を尊崇し、至健を止住す――この三件の事は大中至正の力量なかれば皆弁じ到らず。ゆえにそれを用いて卦辞の「利貞」を釈す。
不家食吉,養賢也。亦取尚賢之象。方陽剛在上,六五所尊之時,占者得之,宜食實祿於朝,所以不家食也。利涉大川,應乎天也。亦以卦體言。涉險非乾健不能,六五下應乎乾,故能涉川。天者,時而已矣。有蘊蓄之才,又有乾健之力,自可乘時濟險。
《彖伝》に「不家食吉、養賢也」と言う。これも同じく「尚賢」の象を取る。正に陽剛が上に居って六五に尊崇せらるるの時に当たり、占筮する人がそれに遇えば、便ち当に出仕して朝廷の実禄を領受すべく、自家のあの点の飯食を守るを須とせず。ゆえに「不家食」と言う。又「利渉大川、応乎天也」と言うは、これは卦体に就いて講ず。険を渡るに「乾」の剛健を離れれば便ち弁じ成さず。六五は上に在って下に「乾」体に応ず。ゆえに能く大川を渡る。ここの「天」は別の物に非ず、すなわち時機。すでに多年の藴蓄する才干あり、また乾健の息まざる力量あれば、自然に時に乗じて出でて険難を渡りうべし。
象曰:天在山中,大畜。君子以多識前言往行,以畜其德。天在山中,《本義》謂不必實有是事。然天包地外,地下有天,是即山中之天也。山中有天,所畜至大。君子以此多識前古之言、已往之行,以畜其德之大者。小畜言懿文德,不過文章才藝之末而已;此則就道德性命言之。
《大象伝》にいう。天は山の中に含まる――これは《大畜》の象。君子はここに由って広く前人の嘉言・往哲の懿行を記して、以て己の徳を蓄養す。「天在山中」に関しては、朱熹《周易本義》は当に実にその事有ると作して看るを須とせずと言う。ただ天は大地の外に包裹して、地の底下もまた天なり。あれは便ち山中の天。山の裏に天を含めば、蓄する所は自然に大にして以て復加するなし。君子はこれに取法して多く古人の言語行事を記取して、これを以てその大徳を蓄養す。《小畜》の《大象》はただ「懿文徳」と言う――不過文章才芸のこれらの末節の上に於いて功を用うるのみ。ここは則ち直ちに道徳性命の根本処に落つ――気象は大いに相同じからず。
初九:有厲利已。已,止也。乾之三陽為艮所止,初九為六四所止。若恃其陽剛而銳於進往,必有危,故利於止也。他卦取陰陽相應為吉,此取其能畜,故外卦以畜止為義,內卦以自止為義。獨三與上畜極而通,則不以止言也。以自止為義者以陰陽言,若君子之受畜於小人;以畜止為義者以上下言,若有位之禁止強暴。象曰:有厲利已,不犯災也。自止則不犯災。
初九の爻辞にいう。危険ありて、停まるに宜し。「已」はすなわち止住の意。「乾」の三つの陽爻は皆上卦の「艮」に止住せられ、初九は具体には六四に止住せらる。それはもし己の陽剛を仗りて急いで上進せば、必ず危あらん。ゆえに停住するを以て宜しと為す。別の卦は陰陽相応を以て吉と為すも、この卦は卻て「能畜」に取って義を立つ。ここに因って上卦の三爻は「別人を畜止す」を以て義と為し、下卦の三爻は「自己を止住す」を以て義と為す。ただ九三と上九のみは畜の極処に到って転じて通ず――便ち更に「止」を用いて講ぜず。いわゆる「自止」は陰陽関係に就いて言い、あたかも君子が小人に牽制せらるるがごとし。いわゆる「畜止」は上下関係に就いて言い、あたかも位に在る者が強暴を禁絶するがごとし。《象伝》に「有厲利已、不犯災也」と言う――自己は肯んじて止住せば、便ち災禍を触犯するに往かざるなり。
九二:輿說輹。輹,車傍橫木,行則縛,止則脫,暫止旋起之義。輹脫則車破敗,輹脫但不欲行而已。故小畜之脫輹在人,而大畜之脫輹在已。蓋九二亦為六五所畜,以其剛中,故能自止而不進。乾有輿象,互兌為毀折,故有脫輹之象。象曰:輿說輻,中無尤也。以其剛而得中,不至於過。
九二の爻辞にいう。車子は伏兎を卸下した。「輹」は車廂の底下に於いて車車軸を夾住する横木で、行車の時は綁え上げ、停車の時は卸下す――暫時停住して随時また起行しうるの義を取る。もし車輻が脱落せば、車は便ち報廃す。伏兎を卸下するは、ただ暫く走らんと打算せざるのみ。ゆえに《小畜》の裏の「説輹」は別人に迫られるに対して、《大畜》の裏の「説輹」は卻て自己の選択に出づ。九二は同じく六五の畜止を受くるも、それが陽剛にして中に居るに因って、ゆえに能く自ら止住して冒進せず。取象の上では、「乾」は車輿の象あり、互体の「兌」は毀折。ゆえに卸脱の象あり。《象伝》に「輿説輻、中无尤也」と言う――まさにそれが剛にして中を得、頭を過ぐるを為すに至らず。ゆえに過失と言うべきなし。
九三:良馬逐,利艱貞,曰閒輿衛,利有攸往。三以陽居健極,上以陽居畜極,畜極而通之時也。乾為良馬,與上之陽合志,三互震為作足之馬,故有良馬逐之象。然恐其過則銳進,故戒以利於艱貞,而日閒習其輿衛,則利有攸往也。輿者,任重之物;衛者,應變之具。乾有輿象,陰爻兩列在前有衛象。以人事言,君子不終家食,以一身任天下之重者,輿也;以一身應天下之變者,衛也。必多識前言往行之理,畜剛健篤實之德,以待時而動也。
九三の爻辞にいう。好馬は奔馳追逐す。艱難の中に於いて正を守るに宜しく、毎日車駕と護衛の事とを演習して、往けば利あり。九三は陽爻を以て下卦の剛健の極に居り、上九は陽爻を以て畜止の極に居る――まさに畜の尽頭に到って転じて通達する時。「乾」は良馬で、九三と上九とは同じく陽爻にして志向相合す。九三の在る所の互体「震」は「作足之馬」。ゆえに好馬の奔逐の象あり。ただそれが頭を過ぐして一味に猛進せんを怕る。ここに因ってそれに艱難の中に於いて正を守るに宜しきを告誡し、かつ天天として車輿と防衛とを演練せしむ。このようにして往けばこそ利あり。「輿」は重任を承載する物、「衛」は変故に応付するの憑借。取象の上では、「乾」は車輿、前面の両個の陰爻は並列して、あたかも護衛が環列するの象。人事に就いて言えば、君子はすでに終身家に在って自食するを肯んぜざれば、便ち一身を以て天下の重を担起せんを要す――これは「輿」。一身を以て天下の変に応付す――これは「衛」。この一歩を做到するに、必ず広く前言往行の道理を記し剛健篤実の徳を蓄養して、然る後に時機を待って動くことを要す。
象曰:利有攸往,上合志也。陽志上進,且畜已極,故上不下畜三而合志上進也。六四:童牛之牿,元吉。童牛,未角之稱;牿,施橫木於牛角以止觸者。六四變離,牛象;應初,童牛象;互震木,施木牛角,為牿之象。六四畜初,防之於始,禁惡於未形,為力則易,故有防牛觸於未角之象,其占為大善之吉也。
《象伝》に「利有攸往、上合志也」と言う。陽の本性は上に向かって進む。加うるに畜止はすでに極点に到る。ゆえに上九は更に下に向かって九三を畜住せずして、それと同心一道に上行す。六四の爻辞にいう。未だ角を長ぜざる小牛に横木を加う――大いに吉利。「童牛」は未だ角を生生ぜざる小牛を指し、「牿」は牛角に綁えてそれが抵触するを防ぐ横木。取象の上では、六四は一たび変ずれば上卦は「離」を成し、「離」は牛。それは初九と相応じ、初爻は最下に在る。ゆえに「童牛」。互体の「震」は木――木を牛角の上に加えれば、すなわち「牿」の象。六四は初九を畜止するに、事が剛く頭を起す時に於いて防住して、悪を未だ形を成さざるの前に禁絶す――用力少にして収効易し。ゆえに「牛の抵触を未だ角を生ぜざるの時に於いて防ぐ」を取って象と為し、占断は大善の吉。
象曰:六四元吉,有喜也。喜其不勞而無傷也。六五:豶豕之牙,吉。坎為豕,坎陽得乾之中畫,故有二亦有豕象。二之陽已長,而止之不若初之易矣。然五以柔中居尊,是以得其機而可制。如豕牙之猛利,制其牙則力勞,惟豶去其勢,則剛自止,故亦吉,但不如四之元吉耳。又按來注:天下無齧人之豕。引《埤雅》云:牙者,以杙繫豕也。此與童牛之牿同例。豶,走豕也。豶字與童字同,牙字與牿字同。互震木,有牙象;五變巽為繩,有繫象。此說亦可存。
《象伝》に「六四元吉、有喜也」と言う――喜ぶべきは気力を費やさずして傷害を免去するなり。六五の爻辞にいう。閹せし猪の牙――吉。取象の上では、「坎」は猪。しかるに「坎」の陽爻はまさに「乾」の中画より来る。ゆえに九二もまた猪の象を帯ぶ。九二の陽気はすでに長成して、それを止住せんとすれば初九を止住する如き容易ならず。ただ六五は柔順を以て中に居って尊位に処す。ゆえに能く関鍵を抓住して制服する弁法あり。譬えば猪の牙は凶猛鋒利にして、硬く往きてその牙を銼れば、力を費やして好を討たず。ただその勢を閹去してこそ、あの猛の勁は自然に消退す――ゆえにまた吉なれど、ただ六四の「元吉」に比ばざるのみ。又按ずるに来知徳の注解に別に一説あり――天下は本は人を咬む猪なし。彼は《埤雅》を引いて、「牙」は猪を拴ぐる木桩と言う。この講法は「童牛之牿」とまさに同じ句式。「豶」は走り動く猪を指し、「豶」の字は「童」の字に対応し、「牙」の字は「牿」の字に対応す。互体の「震」は木――木桩の象あり。六五は一たび変ずれば「巽」を成し、「巽」は繩――拴繋の象あり。この一説もまた並存して備考しうべし。
象曰:六五之吉,有慶也。制惡有道,則不至於決裂,天下之福慶也。上九:何天之衢,亨。何字,《程傳》謂衍文,《本義》謂何其通達之甚也,驚喜之詞,今從《本義》。艮為徑路,天之衢則大通矣。艮本畜乾,乃畜極而通,三陽上達,在卦之上,故有天衢之象。始抑而今乃大通,故若訝之喜之,其亨可知矣。
《象伝》に「六五之吉、有慶也」と言う――悪事を制服するに恰当の弁法あれば、両敗倶裂に鬧り到るに至らず。これは天下の福慶。上九の爻辞にいう。何等か寛濶なる天上の大道か――亨通。「何」の字に対して、程頤《伊川易伝》は多出した衍文と認め、朱熹《周易本義》は「何其に通達の甚しき」と認めて驚嘆の詞に属す。陳氏の此処は《本義》に依従す。取象の上では、「艮」は小路。しかるに「天之衢」は便ち四通八達の大道。「艮」は本は「乾」を畜住するなれど、如今は畜の極処に到って反って通ず――下面の三つの陽爻は一路上達して、また全卦の最上に居る。ゆえに天衢の象あり。起初は処処に圧抑せられ、この刻は忽然として大通す。ゆえに語気の裏はすでに驚訝ありてまた喜を帯ぶ。その亨通もまた言を俟たずして喻しうべし。
象曰:何天之衢,道大行也。賢路大開,君子之道可大行矣。全卦兼畜德、畜賢、畜健,六爻則專取畜止。受畜者當知自畜之道,主畜者貴有豫畜之功。至於畜極而通,則又理數之自然,不可強者也。然畜之所以大,恃艮上之一陽,乃四五陰爻有畜止之事,至上反不言畜者,蓋唯所畜者大,則所通者亦大。故小畜之上九,畜道之成,反有征凶之戒;而大畜之上九,畜道已散,反有大行之亨。又喜陽惡陰之微旨也。
《象伝》に「何天之衢、道大行也」と言う――賢を進むるの路は大開きて、君子の道は便ち能く世に広行しうべし。通じて全卦を観れば、卦辞は兼ねて蓄徳・養賢・止健の三義を含み、しかるに六爻は則ち専ら「畜止」の一義を取って説を立つ。畜止せらるるの一方は、自我収斂の道を懂得せんことを要す。畜止を主持するの一方は、能く預め功夫を下すを貴ぶ。畜の極点に到って転じて通達するに至っては、あれは理と数との自然にして、人力の強求して得来るに非ず。不過畜が「大」と称する所以は、「艮」の上のあの一つの陽爻に靠る。しかし真に畜止の事を做するは卻て六四・六五の両個の陰爻で、上九に到って反って更に「畜」を講ぜず――これは所畜のすでに大なれば、所通もまた便ち大なるによる。ゆえに《小畜》の上九は、畜道は剛く完成して、反って「征凶」の告誡あり。《大畜》の上九は、畜道はすでに解散して、反って「大行」の亨通あり。この裏面はまた《易》の陽を喜び陰を悪むの一層の微意を蔵す。
頤卦
頤卦,下震上艮。上下兩陽,中含四陰,上止下動,頤之象也。口所以飲食,故卦名頤,而取義於養。頤次大畜。按《序卦》:物畜然後可養,故受之以頤。物既畜聚,必有所以養之,頤所以次大畜也。全彖言養人自養皆歸於正,而極言養道之大。六爻下震動,多言求人之養,求養者多不正,故多凶;上良止,多言養人,養人者多得正,故多吉。此全卦六爻之大旨也。
《頤》卦は下卦は「震」、上卦は「艮」。上下に各々一つの陽爻ありて、中間に四つの陰爻を夾み、上面は静止して下面は活動す――あたかも人が咀嚼する時に上顎は動かず下顎は開合するの様子。口は以て飲食するに用う。ゆえに卦名を「頤」と言って、「養」に義を取る。《頤》は《大畜》の後に排す。《序卦伝》に按じて言えば、万物は蓄聚して然る後にこそ供養を談うべし。ゆえに接ぎて《頤》を排す。物はすでに蓄聚せば、便ち必ずそれを養うの弁法あらんを要す。これが便ち《頤》が《大畜》に承接するの道理。卦辞の《彖》は人を養うと自養と皆正に帰せんことを講じて、養道の大を極処に推す。六爻の中は、下卦「震」は動を主として、多く別人に向かって養を求むるを講ず。養を求むる人は多半正ならず。ゆえに多く凶。上卦「艮」は止を主として、多く人を養うを講ず。人を養う人は多半正を得。ゆえに多く吉。これがすなわち全卦六爻の大旨。
頤:貞吉,觀頤,自求口實。頤,口旁也。卦取頤之象,而口之食物,所以養也,故取養之義。頤中有物曰噬嗑,恐言其所養,故不取養義。頤中虛未受外物,則當擇其所養,唯正則吉也。觀頤,《本義》謂觀其所養之道,就養德言;自求口實,《本義》謂觀其所以養身之術,就養身言。觀其養德者,果出於聖賢而不入於他途;養身者,果合於理義而不害於飢渴,則得正而吉矣。今時解皆從之。
卦辞にいう。《頤》は正を守れば則ち吉。その養の道理を観察して、かつ自ら口の中の食物を求む。「頤」は本は面頬口旁を指す。この卦は口頬の象を取って、しかるに口は能く食を進む――まさに身を養うの具。ゆえに引申して「養」の義を取る。同じく上下の陽爻の中に陰爻を含むも、もし口の中に一横を多くして含物の状を成せば、あれは便ち《噬嗑》――それは嚼む所の物を側重するに因って、ゆえに「養」の義を取らず。《頤》は則ち口の中は虚空にして未だ外物を納入せず――まさにこの時に於いて養う所は何なるかを揀擇すべく、ただ正を得てこそ吉。「観頤」の一句は、朱熹《周易本義》は彼の養う所の道理を観察すと解す――養徳に就いて言う。「自求口実」は《本義》は彼の身を養うの弁法を観察すと解す――養身に就いて言う。彼の徳を養うを看て、是か真に聖賢の路に出でて歧途に落ちざるか。彼の身を養うを看て、是か真に理義に合して飢渇に害せらるるに至らざるか――この如くなれば便ち正を得て吉。当今通行の解説は皆この一路に依従す。
然按《正義》及《程傳》皆以為觀其養人及自養。今觀彖傳,語意近之,則所謂觀頤者,觀其所以養人,不可不得其道;所謂自求口實者,求其所以自養,不可徒狥其欲也。自養者小,養人者大,故彖傳極其義於天地聖人,則養人之義不可無。又自養有道,則不以口腹累其心志,雖言養身,而養德之意已在其中,不必以觀頤為養德也。
ただ按ずるに孔頴達《周易正義》と程頤《伊川易伝》とは、皆この両句を「彼が如何に人を養うかを観察す」と「彼が如何に自養するかを観察す」と解す。如今は《彖伝》の文句を核対すれば、語意はこの一説と更に接近す。されば「観頤」はすなわち彼の別人を養うの弁法を看る――道に合せざるべからず。「自求口実」はすなわち自養の道を求む――一味に自己の口腹の欲に順う能わず。自養は小事、人を養うは大事。ゆえに《彖伝》はこの層の意を一直に天地と聖人と身上に推す。見れば「養人」の一義はなかるべからず。さらに言えば自養にもし道あれば、便ち口腹をして心志を拖累せしめず。講ずる所は養身と雖も、養徳の意はすでにその中に含まる。必ずしも「観頤」を養徳に解せざるを得ざるを須とせず。これが便ち陳氏が《本義》を捨てて《正義》《程伝》を取るの理由。
彖曰:頤貞吉,養正則吉也。觀頤,觀其所養也;自求口實,觀其自養也。觀彖傳所養自養,作養人自養為是。君子在上足以養人,在下足以自養。卦中上下二陽為卦之主爻,所養指上九,自養指初九也。
《彖伝》にいう。《頤》は正を守れば則ち吉――養う所が正道に合せば則ち吉を言う。「観頤」は彼が養うは誰なるか如何に養うかを観察す。「自求口実」は彼が如何に自養するかを観察す。《彖伝》のこの両句の「所養」と「自養」との対挙より看れば、なお「養人」と「自養」とに解するを以て妥と為す。君子は上位に居れば足りて人を養い、下位に処すれば足りて自養す。卦中の上下の両個の陽爻は一卦の主爻。いわゆる「所養」は上九を指し、いわゆる「自養」は初九を指す。
天地養萬物,聖人養賢以及萬民,頤之時義大矣哉。此極言養道之大,皆得其正者也。天地之於萬物,無庸區別,陰陽運行而萬物各遂其生,一出於正而已。若不正,則二氣繆戾,何以養萬物乎。
《彖伝》は接ぎていう。天地は万物を養育し、聖人は賢才を養育して万民に推及す。《頤》卦の含む所の時と義とは真に大なり。これは養の道理を極処に推して、しかるにそれらは全くその正を得。天地の万物に対するは、何の親疎厚薄を分かつを用いず、陰陽は一往一来に運行して、万物は便ち各自その生長を遂ぐ。説き到れば不過一つの「正」の字。倘若正ならざれば、陰陽の二気は乖違錯乱して、また何を拿って往きて万物を養わんや。
聖人之養人,不能家賜而人益之也,必擇賢才,與共天祿,使之施澤於天下,是養賢以及萬民,亦一出於正而已。若不正,則賢人不在上位,澤何由下究乎。此極言養之大,故專就所養言之也。
聖人が人を養うに、家毎に賞賜し逐個に補助するは可能ならず。必ず賢才を選挙して彼らと朝廷の俸禄を共享して、彼らをして恩沢を天下に施行せしむ。これがすなわち「養賢以及万民」――同じく不過一つの「正」の字。倘若正ならざれば、賢人は便ち位の上に在らず、恩沢はまたどこより下に貫徹せんや。この一段は「養」を最大の処に推して言う。ゆえに専ら「養人」のこの一面に就いて言を立つ。
象曰:山下有雷,頤。君子以慎言語,節飲食。帝出乎震,萬物得養而生;成言乎艮,萬物得養而成,所以取於養也。言語飲食皆頤之動,慎之節之,法艮之止也。慎言語所以養德,節飲食所以養身。此則專就自養言之,已得其養,然後可以及人也。彖傳言養之大者,故極其所養,至於萬物天下;象傳言養之切者,故先其自養,而始於言語飲食,要皆出於正者也。
《大象伝》にいう。山の下に雷が響く――《頤》の象。君子はここに由って己の言語を謹愼し己の飲食を節制す。《説卦伝》は「帝出乎震」を講じて、万物は滋養を得て萌生し、「成言乎艮」を講じて、万物は滋養を得て成就す――両個の卦象を合せて正好「養」の義を取る。言語と飲食とは皆口頤の活動。能く謹愼し能く節制すれば、すなわち「艮」の止を效法す。言語を慎むは以て徳を養い、飲食を節するは以て身を養うに用う。この一段は専ら自養の一面に就いて言を立つ。自己は先ず養い得住して然る後にこそ別人に推及を談うべし。《彖伝》の講ずるは養の大なる者。ゆえに所養を一直に万物と天下とに推す。《大象伝》の講ずるは養の切なる者。ゆえに先ず自養を言い、しかも言語飲食のごとき貼身の処より入手す。根に帰り底に到れば、両辺とも正に出づるを要す。
初九:舍爾靈龜,觀我朵頤,凶。上宜養下,然陽又宜養陰。初陽在下,不能養人,故以自養言之。靈龜,不食之物;朵,動;朵頤,食物之貌。離體中虛為龜,全卦有靈龜象。我指四也。上三爻主養人者,初與四正應,宜待養於四,不宜凶者。然陰則待養,陽宜養人,初九陽剛在下,不能養人,猶當善於自養,乃以震體而上應六四之陰,有舍靈龜、觀於四而朵其頤、欲有所食之象。靈龜以氣自養,不求養於外,養之得正者也;朵頤則貪慾而易其清除摻,養不以正,宜其凶矣。
初九の爻辞にいう。汝の能く自養するの霊亀を捨てて、卻て我が大嚼するを盯視す――凶。位分に按じて、上位に居るは下位に居るを養うべし。陰陽に按じて、陽爻は陰爻を養うべし。初九は陽爻にして最下に処し、人を養うの地位なし。ゆえにただ自養に就いて講ずるのみ。「霊亀」は伝説中の気を吸して食を進まざる物。「朶」は動。「朶頤」はすなわち物を嚼むの様子。「離」体は中虚にして亀殻に象り、全卦は上下陽にして中間は空虚――まさに霊亀の象あり。爻辞の裏の「我」は六四を指す。上卦の三爻は人を養うを主とし、初九と六四とは正応。本は当に六四の来りてそれを養うを待つべく、理に照らせば凶なるべからず。しかし陰爻はこそ人の養うを須とし、陽爻は理当に人を養うべし。初九は陽剛にして下に居り、人を養う能わずと雖も、また当に自養に善すべし。如今はそれは「震」体に属して動くを好み、上に向かって六四のこの陰爻に応和す。ここに於いて「霊亀を捨掉して六四を盯住して口を張って食せんと欲する」の象あり。霊亀は元気に靠って自養して、外に向かって求めず――これは養いにその正を得。口を張って大嚼するは則ち貪欲に出でて、原本の清静の操守を皆換掉了す(この句は底本の文字に訛脱あり)――養いて正を以てせず、その凶たるを怪むなし。
象曰:觀我朵頤,亦不足貴也。陽剛以能養人為可貴,今乃不能自養,至為欲所累,不足貴也。六二:顛頤,拂經,于丘頤,征凶。上之養下,理之常經也。然陰不能自養,必欲從陽求養。今二求養於初,則顛倒而違於常理矣。上九最高,有丘象,二求養於上,則非正應,往必取凶矣。六二在他卦為柔順中正,在頤則為動於口體,上動於下,下動於初,皆自養之不以正者也。
《象伝》に「観我朶頤、亦不足貴也」と言う――陽剛の貴ぶべき所以は、能く人を養うに在る。如今は自養すら做得到らずして、反って欲望に拖累せらるれば、便ち看重するに値せず。六二の爻辞にいう。顛倒して養を求むは常理に違背す。高丘のあちらに転向して養を求めば、往けば則ち凶。上位の者は下位の者を養うは、これは常理常法。しかし陰爻は自養する能わず、総に陽爻に跟いて養を討らんを要す。如今は六二は下面の初九に向かって養を求めれば、便ち上下を顛倒して個を成して、常理に違す。上九は位置最も高くて、山丘の象あり。六二はさらに上九に向かって養を求めば、偏偏としてまたそれの正応に非ず。前去すれば必然に凶を取る。六二は別の卦の裏に於いては本は柔順中正の好爻と算すも、《頤》卦の裏に於いては卻て口腹の為に妄動するを成す。上に向かって上九に動き、下に向かって初九に動く――両頭とも自養にして正を以てせず。
象曰:六二征凶,行失類也。拂經之義易明,不必言矣。于丘頤乃曰征凶者,以上非正應,失其類也。《本義》兼初爻言之,似不必。六三:拂頤,貞凶,十年勿用,無攸利。三與上為正應,待養於上,得頤之貞者也。然自處不中不正,居動之極,是媚上以貪求而無厭者,拂頤之貞矣,其占必凶。互得坤,有十年之象。不中正而妄動,無所往而利者也。蓋全彖以正而吉,三不中正故凶。
《象伝》に「六二征凶、行失類也」と言う。「拂経」の常理に違背するあの層の意は本は明白にして、更に講ずるを須とせず。ここは単に「于丘頤」に就いて「征凶」と言うは、上九は並び六二の正応に非ず、往きてそれに投靠すれば便ち同類相従の道を失うによる。朱熹《周易本義》はこの句を初九に連ねて一併に解説す。看るに必ずしも須とせず。六三の爻辞にいう。養道に違背して、固守するも亦凶、十年の内は有為すべからず、好処あるなし。六三と上九とは正応にして、上九に靠って来りてそれを養うは、本は《頤》卦の正を守るの義に合す。ただそれの自ら処するはすでに中に居らずまた位に当たらず、まさに下卦「震」動の頂点上に踏みて、等しく上位に諂媚して貪求して厭くことなし――これは便ち《頤》の要求する正に違背す。占断は必ず凶。取象の上では、互体して「坤」を成し、「坤」の数は十――「十年」の象あり。すでに中正ならずしてまた妄動すれば、どこに走り到るも皆利あらざらん。総じて言えば卦辞は「正」を以て吉と為し、六三は不中不正。ゆえに凶。
象曰:十年勿用,道大悖也。不中正而妄動,大悖頤養之道也。六四:顛頤吉,虎視眈眈,其欲逐逐,無咎。上三爻皆以養人言之,而陰宜待養於陽,四與初又正應,故《程傳》《本義》皆謂此爻求養於下以養人者,時解從之,作大臣用賢以養民之義。然以虎視為四,則爻中未見養人及施下之象,於象傳上施之言不合。今從《蘇傳》,作以四養初為順。
《象伝》に「十年勿用、道大悖也」と言う――すでに中正ならずしてまた妄動するは、これは大いに頤養の道に違背す。六四の爻辞にいう。顛倒して養を求めて反って吉、虎のごとくにして盯視して移らず、欲望は接連として断えず――過咎なし。上卦の三爻は本は皆「養人」に就いて説を立つも、ただ陰爻は理当に陽爻の養う所を受くべく、何況んや六四と初九とはまた正応。ゆえに程頤《伊川易伝》と朱熹《周易本義》とは皆この一爻を「下に向かって初九に養を求めて、以て民を養う」と講ず――当今の解者もまたそれに跟ってこのように言い、大臣が賢才を任用して百姓を養うと講ず。しかしもし「虎視耽耽」の主語を六四に定めれば、爻辞の裏は便ち人を養い恩恵を下に施すの象を看出し得ず、また《象伝》の「上施光也」の話と対上せず。ゆえに陳氏の此処は改めて蘇軾《東坡易伝》に従い、それを六四が初九を養うと講じてこそ、文義はこそ順なり。
蓋上宜養下,陽宜養陰。以上下之位言之,二求養於初固顛頤;以陰陽之義言之,初求養於四亦顛頤也。但四居初之上,所處得正,又為正應。自初而言之,則初之見養於四為凶;自四而言之,則四之能養初九為吉。初九之剛,其視若虎之眈眈,不可馴也;六四順其所欲而致之,逐逐焉而來,不失以上養下之正,咎可無矣。綜卦本不宜取象,但自四視初,則震反為艮,故初有虎視之象。
大体に言えば、上に居るは下に居るを養うべく、陽に属するは陰に属するを養うべし。上下の位に就いて講ずれば、六二が初九に向かって養を求むるは固より「顛頤」。陰陽の義に就いて講ずれば、初九が六四に向かって養を求むるも同様に「顛頤」。ただ六四は初九の上に居り、処する所はまた位に当たり、かつ初九と正応を為す。初九の一辺より看れば、それは六四に養を受くるは凶――本は当に人を養うべく卻て反って往きて養を求む。六四の一辺より看れば、それは能く初九を養うは卻て吉。初九のあの陽剛の気は、眼神は老虎のごとく直ちに盯りて放さず、馴服し難し。六四はその欲望に順ってそれに供給すれば、それは便ち一趟接一趟として来る。しかるに六四は並び「以上養下」の正道を失掉せず。ゆえに過咎なきを得べし。例に按じて「綜卦」(卦体を倒して看る)は本は当に拿って取象に来るべからざるも、ただ六四より回頭して初九を看れば、下卦「震」は倒転してまさに「艮」、「艮」は虎。ゆえに初九はこそ虎視の象あり。
象曰:顛頤之吉,上施光也。按《蘇傳》謂六四於初為上,六四之所施,可謂光矣。今按施固在四,不妨兼上爻言之。蓋上爻,物所由以養,六四與上同體,四所以逐逐能繼者,亦賴與上同體,得以恩施及下也。以人事言,五,君也;上,相也;四則奉令行政之大臣,膏澤下於民者也。
《象伝》に「顛頤之吉、上施光也」と言う。蘇軾《東坡易伝》の講法に按じて、六四は初九に対して言えばすなわち「上」。六四の施与する所は、光大了りと言いうべし。如今看れば、施与は固より六四に在るも、卻て妨げずして上九を連ねて一併に言いうべし。上九は万物の頼って養を得るの源頭にして、六四は上九と同じく「艮」体に在る。六四の能く一趟趟に接済して断えざる所以は、まさに上九と同体するに靠って、こそ恩沢を下面に送到するを得。人事を以て比すれば――六五は君、上九は宰相、六四は則ち命を奉じて政を施すの大臣にして、恩沢を一路に輸送して百姓の身上に到る。
六五:拂經,居貞吉,不可涉大川。以上養下,常經也。六五以陰居尊,不能養人,反賴上九以為之養,拂於經矣。然居尊而能順陽剛之德以為養,又艮體之中,故有靜安於正而得吉之象。陰柔不可以大有所為,故又有不利涉大川之象。六二拂經而凶,此拂經而猶吉者:二動體,貪求於人以自養,則失正而凶;五止體,雖不能養人,而能用人以養人,則正矣,故吉。時解作君用賢養民,近之。象曰:居貞之吉,順以從上也。能從上九之賢,以養天下故也。
六五の爻辞にいう。常理に違背して、安居して正を守れば則ち吉、大河を渡越すべからず。上位は下位を養うは常理常法。六五は陰柔を以て君位に居るも人を養う能わずして、反って上九に靠ってそれに替わって天下を養わんを要す――これは便ち常法に違す。不過それは尊位に居ると雖も、卻て能く陽剛の徳に順従して以て養を行い、また「艮」体の中に処す。ゆえに安静にして正を守って吉を得るの象あり。陰柔は終に大いに作為する能わず。ゆえにまた大川を渉るに宜しからざるの象あり。同じく「拂経」なれど、六二は凶にして六五はなお吉――分別は。六二は「震」動の体に属し、貪求して別人の来りて自己を養うを求め、正を失う。ゆえに凶。六五は「艮」止の体に属し、自ら人を養う能わずと雖も、卻て能く賢者を任用して往きて人を養わしむ――これは便ち正に合す。ゆえに吉。当今の解者は君主が賢臣を任用して以て民を養うと説成す。本意と相近し。《象伝》に「居貞之吉、順以従上也」と言う――まさにそれが能く上九のこの賢者に順従して、彼の力を借りて以て天下を養うによる。
上九:由頤,厲吉,利涉大川。六五順上九以養人,是物由上九以養也,故曰由頤。然位高任重,易失之專,故必危厲而吉。五不利涉大川而上利者,五柔而上剛也。此居大臣之位而澤及天下,可以濟變者也。象曰:由頤厲吉,大有慶也。言天下被其澤也。全卦言自養養人,皆貴於得正。六爻以上下之勢言之,則在上宜養人,在下則不能,故上三爻多言養人,而下三爻多言自養。
上九の爻辞にいう。天下は彼に由って養を得、心に危惧を懐けば則ち吉、大河を渡越するに宜し。六五は上九に順従して以て天下を養い、万物は皆上九に由って養を得。ゆえに「由頤」と言う。しかし位は高く任は重くして、専断に流れ易し。ゆえに必ず常に危惧を存してこそ吉を得。六五は大川を渉るに宜しからずして上九は卻て宜し――分別は六五は陰柔にして上九は陽剛に在る。これは身に宰輔の位に居り、恩沢は天下に遍及して、能く変故を済度する人。《象伝》に「由頤厲吉、大有慶也」と言うは、天下は皆彼の恩沢を蒙受するを言う。通じて全卦を観れば、自養を講ずるも好し人を養うを講ずるも好し、皆正を得るを以て貴しと為す。六爻はもし上下の勢に按じて看れば、上に居るは人を養うべく、下に居るはこの朌の地位なし。ゆえに上卦の三爻は多く人を養うを講じ、下卦の三爻は多く自養を講ず。
以陰陽之分言之,則陽能為養,而陰待養於陽,故初上有養人之才,而中四爻皆有藉於初上。上九居上卦之上,又有陽剛之德,六五藉之以養天下者,故最吉。初九其位雖不能養人,其陽剛猶可以自養,乃動於四而自養,併失其正者也,故凶。四五雖不能養人,而能資人之養,又推以養人者也。
もし陰陽の分に按じて看れば、陽は能く養を施し、陰は陽に靠って養わるるを要す。ゆえに初九・上九の両爻は人を養うの才質を具備し、中間の四つの陰爻は皆この一頭一尾に倚仗せんことを要す。上九は上卦の上に居り、また陽剛の徳あり――六五はまさにそれを借重して以て天下を養う。ゆえに最も吉。初九は位置低くて人を養うの地位なしと雖も、その陽剛に凭れば原より自養しうべし。偏偏として六四に牽動せられて上に向かって養を求め、自養の正道を連れて一併に丟了す。ゆえに凶。六四・六五は自己は能く人を養う能わずと雖も、卻て能く別人の力を借りて養を得て、さらにこの朌の供養を推し出して別人を養う。
故雖未能如上之涉川,而皆有吉道。二三既待養於人,又急於求賢(文瀾本「賢」作「養」),則自養之大遠於正者也,故其凶又有甚於初矣。要之,自養得正,然後可以養人。君子必由慎言語、節飲食以為自養之功,極之至如天地之養萬物、聖人之養賢以及萬民,以盡所養之道,庶有得於頤卦之旨矣。
ゆえにそれらは上九のごとき能く大川を渡るに比ばずと雖も、卻て皆吉を得るの路数あり。六二・六三はすでに別人の来りて養うに靠らんを要し、また急々として四処に求索す(文瀾本は此処の「賢」の字を「養」と作す)――自養の道は「正」より離るること更に遠し。ゆえにそれらの凶は初九に比してなお重し。総じて之を言えば、先ず自養して正を得て、然る後にこそ人を養うを談うべし。君子は必ず言語を謹愼し飲食を節制するのこれらの切近の処より自養の功夫を做して、一路に推して天地の万物を養育し聖人の賢才を養育して万民に及ぶのごとき境地に到り、養う所の道を尽してこそ、算して真に《頤》卦の宗旨を領会したりと言う。
大過の卦
大過,下巽上兌。澤以潤木,乃至滅木,有大過之象。陽大陰小,中四陽極盛,初上二陰不能勝,大者過也,故名大過。大過次頤。按《序卦》:頤者,養也,不養則不可動,故受之以大過。凢物養成,而後所動者大,非常之事,大過於人,由於所養者大,大過所以次頤也。
《大過》の卦は下卦が「巽(そん)」、上卦が「兌(だ)」。沢の水は本来木を潤すものだが、今は木をすっかり水没させてしまい、「太過(やりすぎ)」の象を現している。陽は大、陰は小であり、中間の四つの陽爻がきわめて盛んで、最下と最上の二つの陰爻が受け止めきれず、「大」なるものが度を越したので、卦名を「大過」という。《大過》は《頤(い)》の後に置かれる。《序卦伝》によれば、「頤」とは養うことであり、養わなければ動くことができないので、続いて《大過》を配したのである。万物は養い成った後にこそ、動けば大きな気象をなす。非常の事業、常人をはるかに超える行いは、まさに日ごろの養いの大きさに由来する——これが《大過》が《頤》に承接する理である。
又六十四卦次序多由相綜,惟乾與坤錯,坎與離錯。此則澤風與山雷相錯,下經則以風澤與雷山相錯也。全彖以四陽雖過,而二五得中,內順外說,其道可行,故所往皆亨。六爻則以剛柔相濟者為善,而過剛過柔者皆凶。二四爻剛而位柔,故二利而四吉;初爻柔而位剛,故無咎;三五重剛而三又不中者也,故三凶而五丑;至上則以柔居柔,過於柔者也,故凶。大抵剛柔相濟,則有大過人之才,行大過人之事;否則過於剛、過於柔,皆失之於過者也。此全卦六爻之大旨也。
さらに、六十四卦の配列は多くが「綜」による——前の卦を上下に倒転させて後の卦とする。ただ《乾》と《坤》、《坎》と《離》だけは「錯」、すなわち六爻の陰陽がすべて変わる。ここも錯卦であって、沢風《大過》と山雷《頤》とが相錯し、下経では風沢《中孚》と雷山《小過》が相錯する。卦辞《彖》から見れば、四つの陽爻は過盛ではあるが、九二・九五がそれぞれ中位を得て、内卦「巽」は順、外卦「兌」は悦であり、その道は行いうるので、往くところすべて亨る。六爻から見れば、剛柔が互いに済い合うものを善とし、剛に過ぎるもの・柔に過ぎるものは皆凶である。九二・九四は陽爻が陰位に居るので、九二は利あり、九四は吉を得る。初六は陰爻が陽位に居るので咎なし。九三・九五はいずれも陽爻が陽位に居て剛を重ね、しかも九三は中にあらず、ゆえに九三は凶、九五は「丑(醜)」とされる。上六に至っては柔が柔に居り、柔に過ぎるものなので凶である。おおよそ剛柔相济(ごうじゅうあいたす)けてこそ、常人を超える才幹をもって常人を超える事業を行える。さもなければ、剛に過ぎ柔に過ぎ、いずれも「過」の字に失する。これが全卦六爻の大旨である。
大過:棟橈,利有攸往,亨。大,陽也。四陽居中過盛,故為大過,上下二陰不能勝。又卦之大象坎,坎為棟又為矯揉,故有棟橈之象。然二五得中,內巽外說,有可行之道,故所往皆亨也。既有棟橈之象,而又利於往而可亨者,有陽剛之才,則雖當甚危之時,無不可為之事,此所以大過乎人也。
卦辞にいう。《大過》は棟梁がたわむ。往くところあるに利あり、亨る。いわゆる「大」とは陽を指す。四つの陽爻が中に居って盛んに過ぎるので「大過」と名づけ、上下の二陰はそれを支えきれない。さらに全卦の大象を見れば「坎」となり、「坎」は棟梁の象であるとともに「矯揉」——木を曲げる——の象でもあるので、棟がたわむ象を現す。しかし九二・九五はそれぞれ中位を得て、内卦「巽」は順、外卦「兌」は悦であり、行うべき道があるので、往けば皆亨る。すでに棟梁のたわむ危象を現しながら、なお往くに利あり亨るべしというのは、人に陽剛の才があれば、たとえきわめて危ない時にあっても成せない事はない——これが人に大いに過ぎる所以である。
彖曰:大過,大者過也。謂陽過也。此以卦體釋卦名義也。棟橈,本末弱也。本謂初,末謂上,弱謂陰柔也。此又以卦體釋卦辭也。剛過而中,巽而說行,利有攸往,乃亨。以卦體言之,剛雖過而二五得中;以卦德言之,巽順而和悅以行。如此則不激於意氣,不拂於物情,調劑合宜,委曲盡善,所往皆利,乃可亨也。乃者,難之之辭。大過之時義大矣哉。以大過人之材,立非常之大事,創不世之大功,成絕俗之大德,唯其時為之。無其時,不可過;有其時無其才,不能過也。
《彖伝》にいう。《大過》とは「大」なるものが度を越したということで、陽の過盛を指す。これは卦体をもって卦名の義を釈したものである。さらに「棟橈、本末弱なり」とある。「本」は初六を指し、「末」は上六を指し、「弱」は両者がともに陰柔であることをいう——これもやはり卦体をもって卦辞を釈したものである。さらに「剛過して中、巽にして説(よろこ)び行う、攸(ゆく)ところあるに利あり、乃(すなわ)ち亨る」という。卦体からいえば、陽は過盛であっても九二・九五がそれぞれ中位に居る。卦徳からいえば、内卦「巽」は順从、外卦「兌」は和悦であり、これをもって事を行う。こうすれば一時の意気に衝動されることもなく、人情事理に逆らうこともなく、調剤が当を得て曲折周到、往くところ利なくはなく、はじめて亨通を得る。句中の「乃」の字は、容易ではなく一筋縄ではいかぬという語気を示す。末句「大過の時義大なるかな」は、常人をはるかに超える才具をもって、非常の大事を行い、世に並びなき大功を創り、俗を超える大徳を成す——すべて時機が許すかどうかにかかるということ。その時機がなければ過ぐべきではなく、時機があってもその才具がなければ過ぐこともならない。
象曰:澤滅木,大過。君子以獨立不懼,遯世無悶。澤以潤木,而今滅沒之,大過之象也。君子之行,不求同俗而求同理。天下非之而不顧,獨立不懼也;不求人知而求天知,舉世不知而不悔,遯世無悶也。此皆大過人之行也。
《大象伝》にいう。沢が木を滅(めっ)するは《大過》の象であり、君子はこれによりて独立独歩して惧れず、世に遯(とん)じて悶えない。沢は本来木を潤すべきところ、今はかえって木を水没させた——まさに「太過」の象である。君子の行いは、流俗と同じであることを求めず、ただ義理に合うことを求める。天下の人が皆これを非難しても顧みない——これが「独立して惧れず」。世人に知られることを求めず、ただ天に知られることを求め、举世(ぜんせい)が己を知らなくても悔いない——これが「遯世して悶えなし」。これらは皆、常人をはるかに超える操行である。
初六:藉用白茅,無咎。卦以棟橈為象,初則本之弱者,然但以棟橈為言,則天下事付之不可為矣,故又因爻取象。巽為木,有茅象;初在下,以柔承剛,有藉用白茅之象。初六以陰居陽,雖弱猶愈於上;又大過之初,居事之始,苟能過於謹慎,猶可自全。如木中剛本柔,苟錯於地,或致缺折,藉以白茅,庶幾無傷。以其能畏懼,故得無咎也。象曰:藉用白茅,柔在下也。下柔承剛,當過於慎也。
初六の爻辞にいう。白き茅を藉(し)いて用うれば、咎なし。全卦は棟梁のたわみをもって象を立てるが、初六はまさに「本」(根柢)の柔弱な一端である。ただ棟梁が折れんとするとばかりいえば、天下の事はすべて挽回不能となってしまうので、ここでは別に爻位について象を取る。「巽」は木であり、茅草の象がある。初六は最下にあり、柔順をもって上の剛を承える——白茅を下に敷いて藉とする象がある。初六は陰爻が陽位に居り、弱いながらもなお上六に勝る。まして《大過》の初めにあたり、事は始まったばかりで、謹慎が分に過ぎるほどであれば、なお自らを保全しうる。たとえば一段の材木が中は堅実でも根柢が柔脆なら、無造作に地に置けば欠け折れることがある。白茅を敷けば、おそらく傷つくに至らない。畏れることを知るがゆえに、咎なしとしうるのである。《象伝》に「白茅を藉きて用うは、柔下に在ればなり」という。柔順なる者が下にあって剛強を承けるのだから、もともと謹慎が分に過ぎるほどであるべきなのだ。
九二:枯楊生稊,老夫得其女妻,無不利。稊,根之榮於下者;女妻,年之少者。九二陽之過,有枯楊象;二三四互純乾,有老夫象;初陰在下,有女妻象。既處於陰,又與初比,得陰之滋,有稊根復秀、女妻得遂生育之象,其占無不利也。此剛資於柔以成務者也。象曰:老夫女妻,過以相與也。二剛之過,得初陰以相與,以成天下之事也。
九二の爻辞にいう。枯れた楊の根に新芽が生じ、年老いた男が年若い妻を娶る。利あらざるなし。「稊(てい)」とは根から萌し出る新しい枝であり、「女妻」とは年の若い妻をいう。九二は陽過の爻なので枯楊の象があり、二・三・四の三爻の互体が純然たる「乾」となり、「乾」は老なので老夫の象があり、初六は陰爻でその下に居るので少妻の象がある。九二は陽爻をもって陰位に処り、しかも初六と隣り比(くら)べて陰気の潤いを得る。ここに枯根が再び条を抽(ひ)き、少妻が生育しうる象があり、占断は利なきなしとする。これは剛強なる者が柔順を借りて事功を成す一例である。《象伝》に「老夫女妻は、過ぎて以て相与すればなり」という。九二は剛に過ぎたが、初六という陰爻を得てそれと相配したからこそ、天下の事を成就しえたのである。
九三:棟橈,凶。三四居卦之中,三又變坎,皆有棟象。全卦弱在初上,乃於三言棟橈者,蓋以剛居剛,又與上應,上以柔居柔,既不能勝,三過剛必折,是故橈者在三。此大臣之過於剛,而不勝其任者也。象曰:棟橈之凶,不可以有輔也。剛強之過,不能取於人,人亦不能輔之。
九三の爻辞にいう。棟がたわむ、凶。九三・九四は一卦の中間に居り、九三は一変すればまた「坎」となるので、両爻とも棟梁の象を帯びる。全卦の弱いところは本来初六と上六にあるのに、あえて九三に「棟橈」といったのは、九三が陽爻をもって陽位に居り剛に剛を加え、しかも上六と相応し、上六は陰爻をもって陰位に居て柔に柔を加え、根本からそれを支えられないからである。九三は剛に過ぎて必ず折れるので、たわみはまさに九三の身に落ちる。これは大臣が剛愎(ごうふく)に過ぎて、自らの担いを荷いきれないようなものである。《象伝》に「棟橈の凶は、以て輔あるべからざればなり」という。剛強に過ぎる者は、人の長を取ろうともせず、人もまた彼を輔ける術がない。
九四:棟隆,吉,有他,吝。九四在三之上,以剛居柔;上與初應,以柔居剛,剛柔相濟,以成天下之務者也,故其棟橈有隆起之象,而占則吉也。有他吝,反言以決之。謂當大過之時,必剛柔相濟,如四乃可;不然而或失之剛,或失之柔,皆吝道也。
九四の爻辞にいう。棟が隆(あが)る、吉。他あれば吝(りん)あり。九四は九三の上にあり、陽爻をもって陰位に居る。それは上に居て初六と相応し、初六もまた陰爻をもって陽位に処る。両辺の剛柔がちょうど互いに済い合い、まさに天下の事務を成就しうる組み合わせなので、本来たわむべき棟梁がかえって隆起の象を有し、占断は吉である。「他あれば吝」一句は、反面から言い切ったものである。すなわち《大過》の時にあっては、必ず剛柔相济わなければならず、九四のごとくであってこそよい。さもなければ剛に偏し柔に偏し、いずれも遺憾の途に赴く。
象曰:棟隆之吉,不橈乎下也。四以剛居柔,初亦以柔遇剛,則其下不致橈折矣。《本義》以應初為有他,以不繫於初為不撓。然細觀全卦,以陽之過而有棟橈之象,蓋凡物以過剛而遇過柔,必有橈折也。三四皆棟象,而三獨言橈,以三之過於剛也;初上本末皆弱,而上獨最凶,以上之過於柔也。三以應上得凶,則四以應初得吉可知矣,故不必以應初嫌也。
《象伝》に「棟隆の吉は、下に橈(たわ)まざればなり」という。九四は陽爻をもって陰位に居り、初六もまた陰爻をもって陽位に処ってこれに接するので、下は屈折に至らない。朱熹《周易本義》はしかし「有他」を初六との相応と解し、「不橈」を初六に牽係せぬことと解して、これと正反対である。だが全卦を細かく見れば、陽の過盛があるからこそ棟梁たわむの象がある。凡そ物は剛に過ぎて柔に過ぎるに遭えば、必ず折れる。九三・九四はともに棟梁の象を持つが、ただ九三のみ「橈」というのは、それが剛に過ぎるからである。初六と上六は頭と尾でともに弱いが、ただ上六が最も凶なのは、それが柔に過ぎるからである。九三が上六に応じて凶を得たなら、九四が初六に応じて吉を得るのは知るべし。ゆえに初六に応ずるを嫌うに及ばない。陳氏がここで《本義》を捨てて自ら一説を立てた理由は、まさにここにある。
九五:枯楊生華,老婦得其士夫,無咎無譽。九五亦陽之過,有枯楊象;陰爻在上,以五變為震,震為,有華生於枯楊之象。五陽爻,變為震,又少於上,有士夫象;比於上六,有為老婦所得之象。蓋陽爻為夫,陰爻為婦,又以爻之上下分老少,取象不可易也。陰雖過極,得陽不為無益,故亦無咎,蓋陰欲陽,非陽之咎也。然二之老夫女妻,以剛為主而柔輔之;五之老婦士夫,則以柔為主,而剛反輔之矣,何譽之有。
九五の爻辞にいう。枯れた楊が花を開き、年老いた婦が年若い夫を得る。咎なし、誉れなし。九五もまた陽過の爻なので枯楊の象がある。上六の陰爻がその上に圧しかかり、九五は一変して上卦が「震」となり、「震」は某物(ここ底本一字脱す)——ゆえに枯楊の上に花開く象がある。九五はもともと陽爻であり、「震」に変じてまた上六より年少なので「士夫」すなわち少年男子の象があり、上六に緊く隣るので老婦に得られる象がある。おおよそ陽爻は夫、陰爻は婦であり、さらに爻位の上下をもって老少を分かつ。この取象の筋立ては動かせない。陰は極まって過ぎてはいても、陽を得れば全く益なしとするわけではないので、なお「无咎」という——陰が陽を求めたのであって、陽の過ちではないからである。ただ九二の「老夫女妻」は剛を主として柔がこれを輔けるのであり、九五の「老婦士夫」は柔を主として剛がかえってこれを輔ける。これに何の称誉があろうか。
象曰:枯楊生華,何可久也;老婦士夫,亦可醜也。枯楊生華,旋即枯矣;老婦雖得士夫,安能成生育之功乎。上六:過涉滅頂,凶,無咎。兌為澤,涉水之象;一變為乾,為坎,又居最上,有過涉於水、滅沒其頂之象。其凶甚矣,而得無咎者,四陽方過盛,上以陰爻居位,陰不敵陽,自其分也。如棟之橈,必自其最弱之處橈折,理勢固然,無足怪者。以人事言之,則當大過之時,才弱不能自濟,然理窮勢極,殺身成仁,於義為無咎也。
《象伝》に「枯楊生華、何ぞ久しからん。老婦士夫、亦た丑(にく)むべきかな」という。枯木に花が開いても、転瞬のうちに枯死する。老婦はたとえ少年を嫁しても、どうして生育の功を成しえよう。上六の爻辞にいう。渡って渉(わた)り深く、頂(いただき)を滅する、凶なれど咎なし。取象では「兌」は沢で渉る象があり、上六は一変して上卦が「乾」となり、全体また「坎」に近く、加えて最上に居るので、渉り深すぎて頂まで水没する象がある。凶が極まりながら「无咎」というのは、四つの陽爻がまさに過盛で、上六は一つの陰爻をもってその上に居り、陰は陽に敵しない——もともと分として当然だからである。棟梁が折れんとするとき、必ず最も脆弱なところから折れる——理と勢がもともとかくのごときもので、怪しむに足らない。人事に就いていえば、《大過》の時にあって才力が单薄(たんぱく)で自らを救えない。しかし理は窮まり勢は尽きて、身を捨てて以て仁義を成すなら、道義の上では咎がない。
象曰:過涉之凶,不可咎也。事雖無濟,理勢當然,不可咎之也。全卦以陽過乎陰,取棟橈之象。大過不能無橈,卦中二五陽皆在中,故猶可亨。六爻皆欲其剛柔相濟,以適乎中,然後當大過之時,不至於有過。大抵剛中有柔、柔中有剛者吉,偏剛偏柔者凶;陽剛在上為主而陰柔輔之者宜,陰柔在上為主而陽剛輔者否。
《象伝》に「過渉の凶は、咎むべからざればなり」という。事は救い成せなかったが、理と勢がもともとかくべきものなので、もって彼を咎めることはできない。全卦を通観すれば、陽が陰に過ぎたので屋梁たわむの象を取る。「大過」と称する以上、たわまざるを得ない。幸いに卦中の九二・九五の二陽爻がともに中位に居るので、なお亨通しうる。六爻はいずれも剛柔が互いに調剤して中道に帰することを求める。こうして《大過》の時にあってこそ、ほんとうに「過ぎる」ことに至らない。おおよそをいえば、剛中に柔を含み柔中に剛を含むものは吉、剛に偏し柔に偏するものは凶。陽剛が上に居て主となり陰柔が傍から輔けるのは相宜しく、陰柔が上に居て主となり陽剛がかえって輔けるのは不可である。
初上本末皆弱,然上以柔居柔,又居最上,故凶;初以柔居剛,又所處下,故無咎。三四皆象於棟,然四以剛居柔,以居上而下取初之輔,故吉;三以剛居剛,以自下而附上之柔,故凶。五以剛居剛,又自下而上比於上,故丑;二以剛居柔,在上而取初之比,故利。人當大過之時,必以剛為主,以柔為輔,非剛無以任天下之重,非柔無以成天下之功。在下位,則當柔而能剛,敬以承(文瀾本「承」作「成」)上,庶幾白茅之義;身上上位,則當剛而能柔,求賢自輔,得棟隆之吉、老夫之利矣。若以剛居剛,反上附於陰,不凶必丑;若柔弱已極,而居最上,唯有取凶而已。
初六・上六は一つは本、一つは末で、ともに柔弱である。ただ上六は陰爻をもって陰位に居り、また全卦の最上に処るので凶。初六は陰爻をもって陽位に居り、また最下に処るので咎なし。九三・九四はともに棟梁の象を取るが、九四は陽爻をもって陰位に居り、上に居て下の初六を取って輔とするので吉。九三は陽爻をもって陽位に居り、下から上の柔に攀附するので凶。九五は陽爻をもって陽位に居り、また下から上の上六に緊く隣るので「丑むべし」。九二は陽爻をもって陰位に居り、上にあって初六を取って隣とするので利あり。人が《大過》の時に処するには、必ず剛を主とし柔を輔とせねばならない。剛なければ天下の重きを担えず、柔なければ天下の功を成せない。下位に身を置く者は柔にして能く剛であって、恭しく上に承事すべきである(文瀾本はここの「承」の字を「成」と作す)——おそらく「白茅を藉きて用う」の意に合う。上位に居る者は剛にして能く柔であって、賢者を訪ね求めて自らを輔けさせれば、「棟隆」の吉、「老夫女妻を得」の利を得ることができる。もし陽爻をもって陽位に居りながらかえって上の陰に依附するなら、凶ならずとも必ず丑むべきものとなる。もし柔弱すでに極まりてなお最上の位を占めるなら、凶を取る一途しかない。
坎の卦
坎卦,一陽陷於二陰之中,陽實陰虛,上下無據,為坎陷之義,故卦名坎。坎次大過。按《序卦》:物不可以終過,故受之以坎。坎者,陷也。理無過而不已,過極必陷,坎所以次大過也。坎為險陷,全彖取一陽在中,以為內實有常,剛中可以有功,時世有險而此心無險,故雖險而亨,此全卦之大旨也。
《坎(かん)》の卦は、一つの陽爻が二つの陰爻の中に陥(おちい)っている形である。陽は実、陰は虚で、上下ともに寄るところがなく、まさに「陥落」の義に合うので、卦名を「坎」という。《坎》は《大過》の後に置かれる。《序卦伝》によれば、事物はいつまでも「過ぎ」続けることはできないので、続いて《坎》を配した——「坎」とは陥ることである。理の上に過ぎて止まらぬものはなく、過ぎること極まれば必ず陥る。これが《坎》が《大過》を承接する理である。「坎」は険陥だが、卦辞《彖》はあえて中間の一陽爻について立説する。中間が実であるから、内に恒常の主宰がある。剛にして中を得れば功を立てうる。時勢は険しくてもこの心は険しくない。ゆえに険境に処りながらなお亨通しうる。これが全卦の大旨である。
六爻皆不言吉。二五雖剛中,而皆在險中,五得位而二不得位,故五既平而二僅小得也。四陰爻亦皆從陽爻起義,三四在陽爻之中,猶愈於初上在陽爻之外。三以失位乘陽而無功,四以得位承陽猶得無咎;若初上則在兩陽之外,初居險之下,而上居險之極,故凶為最甚。此六爻之大略也。
六爻に「吉」という爻は一つもない。九二・九五は剛にして中を得ているが、ともにまだ険の中に居る。九五は位に当たり九二は位に当たらないので、九五は険が「既に平かにならん」とし、九二はただ「小さく得る」とのみいう。四つの陰爻の取義もいずれも二つの陽爻から生発する。六三・六四は二陽の間に挟まり、初六・上六が二陽の外に居るよりはましである。六三は位を失い、しかも九二の上に凌ぎ乗るので功なし。六四は位に当たり、九五を承けるのでなお咎なしとしうる。初六・上六に至っては、ともに二陽の外に落ちる。初六は険の最下に居り、上六は険の極に処るので、凶が最も重い。これが六爻のおおよその条理である。
習坎:有孚,維心亨,行有尚。習,重習也;坎,險陷也,水象。陽陷陰中,外虛內實,險陷之象。此卦上下皆坎,是為重險,故言習。乾坤六爻同一爻,可不言習。坎卦序在六子之先,此言習,而他皆以重習起義可知矣。坎卦中實而水內明,有有孚心亨之象。世可險而心不可險,身可陷而心不可陷,誠信在中,則安於義命而不僥倖苟免;此心有主,不為利害所動而心亨矣。心亨則洞察時勢,取必於理,而行自必有功,此所以為處坎之道也。
卦辞にいう。重ね重ねの険陥の中に誠信を懐(いだ)き、この心のみが亨り、往けば嘉(よ)しとされるに足る。「習」とは重複・繰り返しの義、「坎」は険陥で水を象とする。陽が陰の中に陥り、外が虚で内が実——まさに険陥の象である。この卦は上下とも「坎」で、重ね合わさった険なので、わざわざ「習」の字を標した。《乾》《坤》の六爻は同一の爻画が上下に重なったもので、「習」という必要がない。《坎》は震・坎・艮・巽・離・兌という「六子」の中で最も先に立つので、ここで「習」の字を点出すれば、残りの重卦もすべてこの「重複」の義をもって理解できる。「坎」の中間の一爻は実であり、水が濁りながら内に自ら澄明なるがごとく、誠信が中に在りその心亨るの象がある。世道は険しくてよいが、人心は険しくあってはならない。身は陥ってよいが、心は陥ってはならない。誠信が中に存すれば、義命に安んじて僥幸(ぎょうこう)に脱することを求めない。この心に主宰があって利害に動かされなければ、心はおのずから亨る。心が亨れば時勢を洞察し、一切を理に決し、動けばおのずから功がある——これが険境に身を置く法である。
彖曰:習坎,重險也。危難洊至,險而又險也。此釋卦之名義。水流而不盈,行險而不失其信。水流足此通彼,無有盈溢,雖奔突險阻,專赴於壑,而不失不盈之信。蓋水性趨下,不盈即趨下也。此以卦象釋有孚之義也。
《彖伝》に「習坎は重険なり」という。危難が相次いで至り、険の上にまた険がある——これは卦名の義を釈したもの。さらに「水流れて盈(み)ちず、険を行いて其の信を失わず」という。水は流れてゆき、こちらを満たせばあちらに通じ、ついに積み満ちて溢れることがない。たとえ険阻の間を奔衝し、ひたすら低き沟壑(こうかく)へ赴いても、その「満ち溢れぬ」常信を失わない。水性はもともと下に趨(はし)るが、満ち溢れないことはまさにその一路下に趨る働きの現れである。これは卦象をもって卦辞「孚あり」の義を釈したもの。
維心亨,乃以剛中也;行有尚,往有功也。二五以剛在中,實心無累,何往不通。如是而行,必有功也。蓋坎以能行為功,若止而不行,則常在險中矣。天險不可升也,地險山川丘陵也,王公設險以守其國,險之時用大矣哉。
《彖伝》に「心を維(たも)ち亨るは、乃ち剛中を以てなり。行に尚(たっと)ぶところあり、往けば功あり」という。九二・九五は陽剛をもって中位に居り、心地誠実にして牽累(けんるい)なし——何処へ往こうと通じぬことがあろうか。このように行えば必ず功がある。「坎」に処るには能く行うことをもって功とするからで、もし立ち止まって行かなければ、永遠に険の中に陥ったままである。続いて「天の険は升るべからざるなり、地の険は山川丘陵なり。王公険を設けて以て其の国を守る。険の時用大なるかな」——文意は「険に処る」から一転して「険を用う」に及ぶ。
不可升,無形之險;山川丘陵,有形之險;王公因有形之險為無形之險,是謂人險。坎卦四陰二陽,二陽,中實之象,體水之德,為有孚心亨,處險之道也;四陰,險陷之象,因坎之形,而設險守國,用險之方也。往有功以上,皆言處險之道,此則言用險之方。
天高く攀(よ)じ登るべからざるは無形の険、山川丘陵は有形の険である。王公は有形の山川に憑り、さらに城池・関防・法度・号令を加えて、一種の無形の威懾(いしょう)を作り出す——これを人為の険という。《坎》の卦は四陰二陽で、二つの陽爻は中に充実する象であり、水の徳性を体して「孚あり心亨る」を成す——これが険に処る道。四つの陰爻は険陥の象であり、「坎」の形勢に依って険を設け国を守る——これが険を用うる方。《彖伝》は冒頭から「往けば功あり」まで、みな険に処る道を講し、この数句で始めて転じて険を用うる方を講する。
象曰:水洊至,習坎。君子以常德行,習教事。水流不已,以成大川;人學不已,以成大賢。君子於己之德,務於常久;於教人之事,務於熟習。初六:習坎,入于坎窞,凶。坎中小穴旁入者曰窞。以陰柔居重險之下,其陷益深,故其象占如此。
《大象伝》にいう。水が次から次へと湧き来るは《坎》の象であり、君子はこれによりて其の徳行を恒常にして輟(や)めず、教えを施す事を反復して熟させる。水は流れて止まないからこそ大川に匯(あつ)まり、人は学びて止まないからこそ大賢となる。君子は己の徳に対して恒久を務め、人を教える事に対して純熟を務める。初六の爻辞にいう。重ね重ねの険陥の中で、坑底の小穴に落ち込んだ——凶。坑坎の中の傍らに別に開けた小さな洞を「窞(たん)」という。初六は陰柔の質をもって重険の最下に居り、陥ること格別に深いので、その象と占断がこのようになる。
象曰:習坎入坎,失道凶也。深入於險,失出險之道也。有孚心亨,所謂道也。九二:坎有險,求小得。處重險之中,未能自出,故為有險之象;然剛而得中,故有求而小得之象。象曰:求小得,未出中也。雖有剛中之才,未能出坎中之險。
《象伝》に「習坎坎に入るは、道を失えば凶なり」という。これほど深く陥ったのは、険を脱する门路(もんろ)を失ったからである。卦辞のいう「孚あり心亨る」が、ここにいう「道」である。九二の爻辞にいう。坎の中になお険あり、求むるところ小さく得るのみ。九二は重険の中に処り、まだ自ら脱しえないので「険あり」の象である。しかし陽剛にして中位に居るので、また「求めて略々獲るところあり」の象がある。《象伝》に「小さく得るを求むは、未だ中より出でざればなり」という。剛にして中を得る才具はあるが、ついにまだ坎陥の中の険境を出ていないのだ。
六三:來之坎坎,險且枕,入于坎窞,勿用。陰柔不中正,而履重險之間,來往皆險,前險而後又枕於險之象。其陷益深,不可用也。初入于坎窞則曰凶,此曰勿用,初不可出,此猶可出也。象曰:來之坎坎,終無功也。未有出險之道。
六三の爻辞にいう。来るも坎々、去るも坎々、険にして且(か)つ枕(まくら)し、坎窞に入る——用うる勿(なか)れ。六三は陰柔にして中にも居らず位にも当たらず、ちょうど上下二重の険の境に踏み居り、来るも去るも険、前に険があり後ろにまた険を枕している。その陥ることさらに深いので、有為に及ばない。初六は「坎窞に入る」といって「凶」と断じたが、ここでは「用うる勿れ」という。分別のところは、初六は最底に陥って出られないのに対し、六三はまだ出る余地があることだ。《象伝》に「之を来るに坎々たるは、終に功なければなり」という。まだ険を脱する门路を見出していないからである。
六四:樽酒簋貳,用缶,納約自牖,終無咎。貳,副貳之意,益之也;牖,室之所由以明者。坎有酒食之象,四變互巽木,樽簋之象;互離中虛,有瓦缶及牖象。按《本義》,以樽盛酒,以簋盛食,復以瓦缶為副樽;按來注,一樽之酒,二簋之食,樂用瓦缶。
六四の爻辞にいう。一樽の酒、二簋(き)の飯、瓦器をもって盛り、牖(ゆう、窓)より簡約なる誠を納る——終に咎なし。「貳」は副・加えるの意、「牖」は屋が採光を藉る窓である。取象では「坎」に酒食の象があり、六四は一変して互体に「巽」木を成す——これは酒樽・飯簋の象。互体の「離」は中が虚で、瓦盆と窓戸の象がある。この句の読み方には二説ある。朱熹《周易本義》は、樽をもって酒を盛り、簋をもって飯を盛り、さらに瓦缶(がふ)を取って副樽とする、と読む。来知徳(らいちとく)の注は「一樽の酒、二簋の食」と読み、瓦缶を楽器として興を助けるものとする。
覺來注為順,且與象傳合。總言當險難之時,不事多儀而尚誠實也。自牖,言不由正道,因其所明者而進結之,蓋當艱險之時,不能直致,自間道以上達也。六四居大臣之位,處險之中,本其至誠,因君之所明者委曲獻納,則雖歷艱險而終得無咎也。
比べてみれば、来知徳の読み方のほうが順で、しかも《象伝》と合うように思われる。大意はいう。険難の時に正当しては、繁多な儀節を講せず、ただ一片の誠実を崇ぶ。「牖より自(よ)り」というのは、正門大道を通らず、相手の心のすでに明らかな点に就いて言を進め結納するということ。険難の際には直截に送り届けられないので、傍らの小路より通ずるほかない。六四は大臣の位に居って険中に処り、自らの一片の至誠に本づき、君主の心のすでに明らかなところに婉曲に献納する。こうすれば一路険難ではあっても、最終的になお咎なしとしうる。
象曰:樽酒簋貳,剛柔際也。《本義》謂無貳字。人情同樂則相猜,共患則相倚。四與五比,君臣相接,在險難之中,不事煩文,以誠相向可以上達,將出於險矣。九五:坎不盈,只既平,無咎。九五在坎之中,陰之下,有不盈之象。只,至也。以陽剛中正居尊位,上止一陰,勢將出險,有既平之象。不盈猶有險也,既平則無險矣。二居重險之中,故有險;五出重險之外,故既平。將出於險,可無咎矣。
《象伝》に「樽酒簋貳は、剛柔の際なり」という。朱熹《周易本義》はここに本来「貳」の字はないとする。人の常情は、ともに楽を享すれば互いに猜忌し、患難をともに処すればかえって互いに依る。六四と九五は緊く隣り、まさに君臣の相接する際である。険難の中にあって繁文縟節を講せず、誠をもって相待てば上達し、険境を脱せんとする目前に至る。九五の爻辞にいう。坎水はなお満ちず、岸と平らかになるに至る——咎なし。九五は坎中に身を置き、上にまた一つの陰爻が圧しかかるので「盈ちず」の象がある。「只」は「至」と訓ず。それは陽剛中正をもって尊位に居り、上には一つの陰爻のみ残り、勢いは間もなく険を出るので「既に平か」の象がある。水が満ちていないのは険がまだあることを示し、岸と平らかになれば険は消える。九二は重険の中に陥っているので「険あり」といい、九五はすでに重険の外にあるので「既に平か」という。間もなく険を出るのだから、おのずから咎なしとしうる。
象曰:坎不盈,中未大也。剛中居尊,宜濟天下之險,乃猶在坎中,有中德而未光大也。大有六五以柔居中乃曰大中,此以剛居中反曰未大者,大有柔能統剛,坎則剛猶陷於柔也。上六:係用徽纆,寘于叢棘,三歲不得,凶。
《象伝》に「坎盈ちざるは、中未だ大ならざればなり」という。九五は陽剛にして中に居り尊位に処るのだから、本来は天下の険を済度すべきところ、今は自らなお坎中にあり、中徳はあるが未だ光大していない。《大有》の六五は柔をもって中に居り、《彖伝》はかえってそれを「大中」と称した。ここでは剛をもって中に居るのに「未だ大ならず」という。その分別は、《大有》は柔が能く衆剛を統率するのに対し、《坎》は剛がなお柔の中に陥っているからである。上六の爻辞にいう。繩索をもって係縛(けいばく)し、棘(きょく)の叢(むら)がる牢獄に投じて、三年出られない——凶。
三股曰徽,兩股曰纆,皆索名。叢棘,獄牆所設。坎為刑獄,上變巽為繩,上六以陰柔居險極,故有此象。《周禮》司圜收教罷民,能改者三年而舍,其不能改而出圜土者殺。三歲不得,罪大不能改者也,占者得之,則不能出險可知。象曰:上六失道,凶三歲也。
三筋を搓(よ)った縄を「徽(き)」、二筋を搓ったものを「纆(ぼく)」という——いずれも繩索の名目である。「叢棘」は獄墙の外に植えた荆棘である。取象では「坎」は刑獄で、上六は一変して「巽」となり「巽」は縄。上六はまた陰柔をもって険の極に居るので、このような象がある。《周礼》によれば、司圜(しえん)の官は不良の民を収めて教化し、改悛しうる者は三年を満てて放免し、改悛せずして擅(ほしいまま)に圜土を逃げ出る者はこれを殺したという。ここに「三歳得ず」というのは、まさに罪が重く悔悛しようとしない類である。占筮でこの爻に遇えば、険を出られないことは推して知るべし。《象伝》はここに「上六道を失えるは、凶三歳なり」という。
三歲,久之極。所以至此者,失處險之道也。全卦二五中實,故有有孚心亨之象,然處險之道即在是矣,故六爻惟二五得有孚心亨之道。二在險下,但可小得;五在險上,則既平也(文瀾本「也」作「矣」)。初以最下而凶,上以險極而甚,三以處前後險之間而勿用,惟四際五,僅得無咎,然樽酒納約,亦得有孚心亨之義故也。
「三歳」とはその久しきを極言したもの。この地に至ったのは、険に処する道を失ったからである。全卦を通観すれば、九二・九五は中が充実しているので「孚あり心亨る」の象があり、険に処する法もまさにここにある。ゆえに六爻の中で九二・九五のみが「孚あり心亨る」の道を得ている。九二は険の下にあって小さく得るのみ、九五は険の上にあって険が「既に平かにならん」という(文瀾本はここの「也」の字を「矣」と作す)。初六は最下に居るがゆえに凶、上六は険の極に処るがゆえに凶さらに重く、六三は前後両険の間に挟まれているがゆえに有為に及ばない。ただ六四のみが九五に緊く隣り、ようやく「咎なし」を得る——それもまた一樽の酒をもって簡約に献納し、同じく「孚あり心亨る」の意に合うからである。
離の卦
離卦,一陰麗於上下之陽,有附麗之義;中虛有光明之義。離,麗也,明也。於象為火,體虛麗物而明者也;又為日,亦麗天而明者也,故卦名離。離卦次坎。按《序卦》:坎者,陷也,陷必有所麗,故受之以離。離者,麗也。陷於險難之中,必有所附麗,理之自然,離所以次坎也。
《離(り)》の卦は、一つの陰爻が上下二つの陽爻の間に附(つ)いている形で、「依附」の義があり、中間が虚でまた「光明」の義がある。ゆえに「離」の字は兼ねて二訓を含む。一は附麗(ふれい)、一は明である。物象としては火で、火は自ら実体がなく、他の物に附着してはじめて燃えて光を放つ。また日でもあり、日もまた天に附着して光を放つ。ゆえに卦名を「離」という。《離》は《坎》の後に置かれる。《序卦伝》によれば、「坎」とは陥ることであり、陥れば必ず依附するところがなければならないので、続いて《離》を配した。「離」とは附麗である。人は険難の中に陥れば、必ず凭依(ひょうい)を見つけなければならない——これは自然の理であり、ゆえに《離》は《坎》を承接する。
又按,上經終於離,下經終於既濟未濟。六十四卦以乾坤為首,而坎離居其中。蓋坎離二卦,天地之心也,造化之本也。天一生水,地二生火。坎藏天之陽中,受明為月;離麗地之陰中,含明為日。坎為水而司寒,離為火而司暑;坎為月而司夜,離為日而司晝。故先天之圖乾南坤北,後天則離南而坎北。
さらにいえば、上経は《離》をもって収め、下経は《既済》《未済》をもって収める。六十四卦は《乾》《坤》をもって首とし、《坎》《離》はちょうど全経の中間に落ちる。これは《坎》《離》の二卦が天地の心、造化の本であるからである。《河図》に「天一は水を生じ、地二は火を生ず」という。「坎」は天の陽の中に蔵(ひそ)み、日光を承けて月となる。「離」は地の陰の中に附し、光明を含んで日となる。「坎」は水にして寒を主どり、「離」は火にして暑を主どる。「坎」は月にして夜を主どり、「離」は日にして昼を主どる。ゆえに伏羲先天八卦図は「乾」を南、「坤」を北とし、文王後天八卦図は改めて「離」を南、「坎」を北とする。
坎離為乾坤之繼體,此上經終坎離、下經終既濟未濟之意。而道家亦以人身為小天地,以心腎分屬坎離,而其功用取於水火之既濟,蓋亦從易說而旁通之者也。全卦以柔順得正為吉,六爻以二陰爻為主,二中正而五非正,故不如二。其四陽爻則從陰爻起義(文瀾本「義」作「意」),初上在陰爻之外,勝於三四在陰爻之中。三日昃而四焚如,以在二五兩陰之內也;初能敬而上出征,以在二五兩陰之外也。蓋坎離二卦奇耦反對,故爻象之吉凶亦相反也。
《坎》《離》は《乾》《坤》の継続する体である——これが上経が《坎》《離》をもって収め、下経が《既済》《未済》をもって収める用意である。道家もまた人身を一つの小天地とし、心と腎をそれぞれ「離」「坎」に配属し、その修煉の功用は水火交融の「既済」に取る——これもまた《易》理より傍通して出た説である。全卦に就いて見れば、柔順にして正を得るを吉とする。六爻は二つの陰爻を主爻とし、六二は中に居りしかも位に当たり、六五は中に居るが位に当たらないので、六五は六二に及ばない。残りの四つの陽爻の取義は皆陰爻から生発する(文瀾本はここの「義」の字を「意」と作す)。初九・上九は陰爻の外にあり、九三・九四が陰爻の中に挟まるより勝る。九三は「日昃(ひかたむ)き」、九四は「焚如(ふんじょ)」である——それらが六二・六五の二陰に挟まれているからである。初九は能く「敬」を持し、上九は能く「出征」する——それらが六二・六五の二陰の外に居るからである。要するに《坎》《離》二卦の陽爻・陰爻の位置はちょうど顛倒し、ゆえに爻象の吉凶もちょうど相反する。
離:利貞,亨,畜牝牛,吉。離之為麗,猶亂之為治,以陰麗於陽也。物之所麗,貴乎得正,故正則有可亨之道也。又離得坤之中畫,牝牛皆取陰象。坤以全體配乾而行,故為牝馬之行;離以二五附乾而居,故當為牝牛之畜。蓋所麗得正則亨,又當柔順自處則吉也。坎離二卦爻畫反對,故其義其占皆相反。蓋坎之明在內,當以剛健行之於外;離之明在外,當以柔順養之於中。坎水潤下,愈下則陷,故以行為尚;離火炎上,愈上則焚,故以畜為吉也。
卦辞にいう。《離》は正を守るに利あり、亨る。牝牛を畜(やしな)えば吉。「離」は「附麗」と訓ず——ちょうど「乱」の字が「治」と訓じうるがごとき、反訓に属する。ここでは陰が陽に附着することを指す。凡そ物の依附する所は、最も肝要なのは依附の正しきこと、ゆえに正を守ってこそ亨るべき道がある。さらに取象を見れば、「離」の中間の一画は「坤」より来る——牝牛もまた陰柔の象を取る。「坤」は全卦体をもって「乾」に配して運行するので、《坤》の卦辞に「牝馬の貞」といい、その能く行くを取る。「離」は六二・六五の二陰をもって「乾」体に附着して安処するので、ここに「牝牛を畜う」といい、その能く養うを取る。要するに依附が正を得れば亨り、しかも柔順をもって自ら処るをもって吉とする。《坎》《離》二卦は爻画が彼此顛倒するので、卦義と占断もまた全然相反する。「坎」の光明は内に蔵するので、剛健をもって外に向かって行動すべし。「離」の光明は外に顕れるので、柔順をもって内に向かって涵養すべし。坎水は下に渗(し)み、下がるほどに陥るので「行」をもって尚べしとする。離火は上に騰り、上がるほどに焚くので「畜」をもって吉とする。
彖曰:離,麗也。日月麗乎天,百穀草木麗乎土,重明以麗乎正,乃化成天下。日月麗天,以氣麗氣而成明;百穀草木麗土,以麗形而成文。君臣上下皆有明德,而處於中正,則可以成天下文明之化。此皆以釋卦之名義也。柔麗乎中正,故亨,是畜牝牛吉也。二中正,五中而不正,中正,統言之。此以卦體釋卦辭也。
《彖伝》にいう。「離」とは麗(つ)くなり。日月は天に麗り、百穀草木は土に麗る。上下二重の光明がまた正道に麗り、ここに化育して天下を成就しうる。日月の天に附するは、気をもって気に附して光明を生ずる。百穀草木の土に附するは、形をもって形に附して文采を生ずる。君臣上下ともに光明の徳を有し、また皆中正の位に処れば、天下文明の教化を成就しうる。この数句は皆、卦名の義を釈するものである。さらに「柔中正に麗り、故に亨る、是れ牝牛を畜えば吉なり」という。実は六二は中にして且つ正、六五はただ中に居りて位に当たらず、ここに「中正」というのは、両爻を合わせて攏(あげて)言ったもの。この一句は卦体をもって卦辞を釈したものである。
象曰:明兩作,離。大人以繼明照于四方。明兩作,兩明相繼而起也。繼明,猶以聖繼聖也。前言重明,以上下言之,取象於君臣;此言兩作,以先後言之,取象於帝王之父子。若以人事言之,則日新又新、緝熙不已,繼明之義也;洞達事理、光被四表,照于四方之義也。
《大象伝》にいう。光明二度作(お)るは《離》の象であり、大人はこれによりて光明を代々相継がせ、四方に遍く照らす。「明両作」とは二重の光明が前後相継いで起こることをいう。「継明」はたとえば聖人をもって聖人に継ぐがごとし。前の《彖伝》のいう「重明」は上下に就いていうので、君と臣に取象した。ここにいう「両作」は先後に就いていうので、帝王の父と子に取象した。もし人事に落としていえば、日に新たにしてまた新た、光明息まず——《詩経》のいう「緝熙(しゅうき)」のごときは、すなわち「継明」の意である。事理に洞達して光輝が四海の外に及ぶは、すなわち「四方を照らす」の意である。
初九:履錯然,敬之無咎。剛明在下,其性炎上。剛則,明則察,二者襍於胸中,所履交錯之象。能敬則心有主,不至於錯,可以無咎矣。火在下而未上炎,猶有可制,雖戒占者之辭,亦其象然也。象曰:履錯之敬,以辟咎也。剛明而不妄動,咎可闢矣。
初九の爻辞にいう。行うところ紛雑に交錯し、能く敬を持すれば咎なし。初九は剛にして明、最下に処り、火性はまた上に騰るもの。剛なれば就き(ここ底本一字脱す)、明なれば察を好む。両様が胸中に雑りて、ここに行うところ紛錯の象あり。能く敬を持せば、心に主宰あって雑乱に至らず、咎なしとしうる。火は下に在ってまだ上に向かって燃えず、なお制服の余地あり。この言は占筮する者を誡(いまし)める辞ではあるが、実は爻象はもとよりかくのごとし。《象伝》に「錯を履むの敬は、咎を辟(さ)くるを以てなり」という。剛明にして妄動せざれば、咎は避けうるのだ。
六二:黃離,元吉。黃,中色,坤為黃,離中爻乃坤土,有黃象。柔麗乎中而得其正,以此事君,將順而能匡救;以此治民,渾厚而能精明。上可正君,下可成化,純臣之道,大善而吉之占也。象曰:黃離元吉,得中道也。言中而正在其中矣。
六二の爻辞にいう。黄色の附麗、元いに吉。黄は五色の中の中央の色で、「坤」は黄。「離」の中爻はもとより「坤」土より来るので、黄の象がある。六二は柔順にして中位に依附し、また其の正を得る。このような品格をもって君主に事(つか)えれば、能く其の美を順承し、能く其の失を匡正しうる。このような品格をもって百姓を治めれば、渾厚寛和にして、しかも精明苟且ならず。上は君を正し、下は教化を成就しうる——これは純臣の道なので、占断を大善にして吉とする。《象伝》に「黄離元吉は、中道を得ればなり」という。ただ「中」の一字を挙げたが、「正」はすでにその中に含まれている。
九三:日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。重離之間,前明將盡,有日昃之象。離中虛缶象,互五為兌口,歌與嗟之象。死生猶晝夜之常理,鼓缶而歌,安常以自樂可也;不然而徒以大耋為嗟,則窮蹙以死而已,故凶。蓋數之所至,當安於命也。象曰:日昃之離,何可久也。求人以繼其事,退處以休其身可也。
九三の爻辞にいう。日すでに西に斜む時の附麗、瓦盆を敲(たた)いて歌わざれば、すなわち年老い将に尽きんとする悲嘆を発する——凶。九三は上下二つの「離」の間に挟まれ、前の一重の光明は将に燃え尽きんとするので、太陽の西に斜む象がある。「離」は中が虚で瓦盆に似る。上に互いていて第五爻に至れば「兌」を成し、「兌」は口——ゆえに歌唱と嘆息の象がある。生死は昼夜の交替のごとく、もともと寻常の理である。盆を敲いて歌い、常理に安んじて自らその楽を得るは可なり。もし然らず、ただ一味に年老い将に尽きんとするを悲嘆するのみならば、それは困窘愁苦の中に死を待つだけで、ゆえに凶。気数がこの地に至れば、天命に安んずべきである。《象伝》に「日昃の離は、何ぞ久しからん」という。この時、人を求めて己の事業を継がせ、自ら退いて身心を安養する——これが妥当の法である。
九四:突如其來如,焚如,死如,棄如。前明盡而後明忽迫,有突如其來如之象;其炎正盛,焚如之象;履非其位,逼近至尊,勢不能終,死如之象;無應無承,眾無所容,棄如之象。象曰:突如其來如,無所容也。無所容總釋上文,舉突如句可該。
九四の爻辞にいう。突然として来る、焚くが如し、死するが如し、棄てられるが如し。前の一重の光明は剛(まさ)に滅び、後の一重の光明が忽然として逼(せま)り上がるので「突如其来」の象がある。その火勢まさに旺(さか)んなので「焚如」の象がある。それは陽爻をもって陰位に居り位に当たらず、しかも至尊の六五に緊く逼る——この勢いは好結末を有さず、ゆえに「死如」の象がある。上に応なく下に承けなく、衆人皆これを容れないので「棄如」の象がある。《象伝》に「突如其来如は、容(い)るる所なきなり」という。「容るる所なし」は上の数句を総解したもので、ただ「突如」の一句を挙げれば全爻を概括しうる。
六五:出涕沱若,戚嗟若,吉。以柔順剛,不得其正,而迫於上下之陽。互卦兌澤之流,兌口之開,故有出涕沱若、戚嗟若之象。然居尊位而知憂懼,故占得吉也。象曰:六五之吉,離王公也。居王公之位而知憂懼,故吉也。三前明將盡,則不宜為大耋之嗟;五柔中居尊,則宜以戚嗟自戒。
六五の爻辞にいう。涕泪滂沱(ぼうだ)と流れ、憂傷嘆息止まず——吉。六五は柔順の質をもって剛強の上に凌ぎ乗り、また位に当たらず、しかも上下二つの陽爻に逼られる。取象では、互体の「兌」は沢、沢水の流出はすなわち涕泪。「兌」はまた口、口の開くはすなわち嘆息。ゆえに涕泪滂沱・憂戚嘆息の象がある。しかしそれは尊位に身を居りて憂慮戒惧を知るので、占断に吉を得る。《象伝》に「六五の吉は、王公に離(つ)けばなり」という。王公の位に処りて憂惧を知るので吉。同じ嘆息でも、九三は前の一重の光明の将に尽きんとする時にあって、ただ年老い将に尽きんとするの悲嘆を作すべきでない。六五は柔順にして中に居り尊位に処るから、かえってまさに憂戚嘆息をもって自ら警(いまし)めるべき——両処の取義はちょうど相反する。
上九:王用出征,有嘉折首,獲其匪丑,無咎。離為甲冑戈兵,故有出征之象;上九為五所麗,有王用之之象。有嘉,言有嘉美之功;折首,但誅首惡也;獲匪其醜,言不及其徒眾也。陽剛在上,有出征有嘉之象;離為科上槁,折首之象;剛明在上,所照及遠,有折首不及其丑之象。如此則威震而刑不濫,何咎之有。
上九の爻辞にいう。君王これを用いて出征し、嘉美の功を立て、首悪を斬(き)り除き、俘獲する所は其の党類に非ず——咎なし。取象では「離」は甲冑戈兵で、ゆえに出征の象がある。上九は六五に依附せられるので「君王これを任用する」象がある。「嘉あり」は嘉美の戦功を立つことをいい、「首を折る」は首悪のみを誅すること、「其の丑(しゅう、類)に匪(あら)ずを獲る」は其の党徒に連累せぬことをいう。陽剛は全卦の上に居るので出征して功を立つ象がある。《説卦伝》に「離は科上槁(こうじょうこう)」という——樹木の上端は枯槁して折れやすく、まさに「折首」の象。剛明は上に居って照見が遠く及ぶので、首悪のみを誅して党羽に波及せぬ象がある。こうなれば威勢は震懾して刑罰は濫(みだ)れず——何の咎か言うべきことがあろう。
象曰:王用出征,以正邦也。寇賊亂邦,上能以剛明除天下之惡,所以正邦也。全卦以居中得正,有可亨之道,而以柔順自處,自能獲吉。六爻惟二兼中正柔順之德,故為最吉;五中而不正,而居尊位以照臨四方,故雖憂懼而亦有吉道。又火性炎上,在下則有勢易制,在上則其明及遠,所以皆無咎。若三處前明之盡,四居後明之逼,則凶不待言矣。
《象伝》に「王用いて出征するは、邦を正さんがためなり」という。盗賊は邦国を乱し、上九は剛強明察を凭(よ)りて天下の悪を除く——ゆえに邦国を正すという。全卦を通観すれば、中に居り正を得るをもって亨るべき道とし、また柔順をもって自ら処れば、おのずから吉を得うる。六爻の中、ただ六二のみ中正と柔順の二重の徳を兼備するので、最も吉。六五は中に居りて位に当たらないが、尊位に居って四方に照臨するので、憂惧ながらもなお吉を得る路あり。さらに火性は上に向かう。下位に処れば火勢なお小さく節制しやすく、上位に処れば光明の照らすところ遠し——ゆえに初九と上九はともに咎なしとしうる。九三が前の一重の光明の尽きる所に処り、九四が後の一重の光明の逼迫の下に処るに至っては、凶は言うまでもない。
巻四・咸の卦
咸卦,下艮上兌,取相感之義。兌少女,艮,少男也,男女相感之深,莫如少者。又艮體篤實,兌體和說,男以篤實下交,女心說而上應,感之至也,故名為咸。下經首咸。按《序卦》:有天地然後有萬物,有萬物然後有男女,有男女然後夫婦,有夫婦有父子,有父子然後有君臣,有君臣然後有上下,有上下然後禮義有所錯。天地,萬物之本;夫婦,人倫之始。
《咸(かん)》の卦は下卦が「艮(ごん)」、上卦が「兌」で、彼此感応の義を取る。「兌」は少女、「艮」は少男。男女の相感すること深きは、年少なる時より深きはなし。さらに「艮」の体は篤実、「兌」の体は和悦——男子が篤実の心をもってその下に屈してこれと交わり、女子は心に喜びて上よりこれに応ずる。これは感応の極まるところなので、卦名を「咸」という。下経は《咸》をもって首とする。《序卦伝》によれば、天地あって然る後に万物あり、万物あって然る後に男女あり、男女あって然る後に夫婦あり、夫婦あって然る後に父子あり、父子あって然る後に君臣あり、君臣あって然る後に上下の分あり、上下の分あって然る後に礼義の措(お)く所あり。天地は万物の根本、夫婦は人倫の開端である。
所以上經首乾坤,下經首咸,繼以恆也。又按《繫辭》:天地定位,山澤通氣。位欲其對待而分,故天地分為二卦;氣欲其流行而合,故山澤合為一卦也。全卦取男女夫婦之義,唯正則吉。六爻皆以人身取象,下卦象下體,自拇而腓而股;上卦象上體,自心而背而口。拇腓股隨體而動,應感者也。
ゆえに上経は《乾》《坤》をもって首とし、下経は《咸》をもって首とし、続いて《恒(こう)》とする。また陳氏が引く《繫辞》によれば——この二句は今の本は実は《説卦伝》に見える——「天地位を定め、山沢気を通ず」という。位次は両両対待して分かれることを講するので、天と地は《乾》《坤》の二卦に分かれる。気は流通往来して相合することを講するので、山と沢は《咸》の一卦に合成する。全卦は男女夫婦の義を取り、ただ正を守ってこそ吉。六爻は皆人身を取って象とする。下卦は人の下半身に象し、脚の拇指から腿肚(ふくらはぎ)を経て大腿に至る。上卦は人の上半身に象し、心から背を経て口に至る。脚拇指・小腿・大腿は皆身に随いて動く——受動的に応和する部位に属する。
晦不能思,無感者也。口以言為說,不足以感人者也。皆不能盡感之道。唯心為感之主。乃無心者無所感,有心者憧憧往來亦不能以為感,則感道之難言也。此全彖六爻之大略也。
九五が取る「脢(ばい)」は背の上にあり、晦暗にして明らかならず、思慮する所なく、根本から感応を起こさぬ部位である。上六が取る口舌はただ言語をもって人の喜びを買うのみ——一張の嘴のみを凭りては人を打動するに足らない。この両処はともに「感」の道理を講し尽くしえない。真に感応の主を為すはただ「心」のみである。しかし心が空空として一念を存せぬ人は固より感ずる所なし、心に念を存して来来回回に盤算して止まぬ人も、同じく真の感応と算(かぞ)えられない——「感」の道理は実に言い尽くし難いことが見える。以上は《咸》卦の彖辞と六爻の大概である。
咸。亨,利貞,取女吉。咸,感也。不曰感而曰咸。咸,皆也。無心之感,無所不感也。所謂寂然不動,感而遂通天下之故者。若有心於感,則非易之道矣。故卦名咸。
《咸》卦の卦辞にいう。亨る、貞に利あり、女を取(と)れば吉。「咸」とは感応である。直に「感」と呼ばず「咸」と呼ぶのは、「咸」に「皆・遍(あまね)」の意があるからである。私心を起こさぬ感応のみが、感じぬ所なしとしうる。これはまさに《繫辞伝》のいう「寂然として動かず、感じて遂に天下の故に通ず」である。もし一つの心を存して感応を求めるなら、《易》の道理ではない。ゆえに卦名は「咸」を取って「感」を取らない。
艮以少男先下於兌,感之專也。兌以少女而悅少男,應之至也。男先下女,得男女之正。感則必通,故占為亨。然必貞而取女則吉。若不以正,則失其亨而所為皆凶矣。又按,八卦各有正位:艮在三,兌在六。艮屬陽三,則以陽居陽;兌屬陰六,則以陰居陰。男女皆其正,故曰貞吉。
「艮」は少男でありながら、先を争いて「兌」少女の下に屈する——人を感ずる心の専一なるが見える。「兌」は少女であり、少男の下交によりて心に喜悦を生ず——応和の情の懇切なるが見える。男子が先に女子に向かって身を屈めて下るは、まさに男女交際の正理に合う。感がすでに専一なれば、必ず感通する——ゆえに占断は「亨」。ただしまた正を守らねばならず、然る後に女を取れば吉。もし正道に由らなければ、元来ある亨通をも併せて失い、作為するところ皆転じて凶となる。另(おぎ)えて按ず。八卦は各々自らの「正位」があり、「艮」の正位は第三爻にあり、「兌」の正位は第六爻にある。「艮」は陽に属して三に居るは、陽爻をもって陽位に居るなり。「兌」は陰に属して六に居るは、陰爻をもって陰位に居るなり。男女各々其の正を得る——ゆえに正を守れば吉という。
彖曰:咸,感也。本卦二體,初陰四陽,二陰五陽,三陽六陰,皆陽感陰應、陰感陽應。六畫皆相與,卦之名義由(文瀾本「由」作「如」)此。柔上而剛下,二氣感應以相與,止而說,男下女,是以亨、利貞、取女吉也。以卦體言之,兌柔在上,艮剛在下,六畫陰陽相應。以卦德言之,艮止則情專,兌說則應切。以卦象言之,少男先下於少女。柔上剛下,感應相與,所以亨也。夫婦之道,止而不說則離,說而不止則亂。止而說,所以利貞也。婚姻之道,無女先於男,必女守正而男先下之,所以取女吉也。
《彖伝》にいう。「咸は感なり。」本卦は上下両体が両両相配する。初六は陰・九四は陽、六二は陰・九五は陽、九三は陽・上六は陰——皆陽来て感じて陰往きて応じ、陰来て感じて陽往きて応ず。六画彼此相与(あいとも)す——卦名の取義はここより来る(文瀾閣本はここの「由」の字を「如」と作す)。《彖伝》は続いていう。「柔上にして剛下り、二気感応して以て相与し、止(とど)まりて説(よろこ)び、男女を下(くだ)す、是を以て亨・利貞・取女吉なり。」卦体より見れば「兌」の柔は上にあり「艮」の剛は下にあり、六画の陰陽は一々相応ず。卦徳より見れば「艮」は止、止まれば情意専一。「兌」は悦、悦べば応和懇切。卦象より見れば、少男は先を争いて少女の下に屈す。柔は上にあり剛は下にあり、二気感応して彼此相与す——ゆえに能く亨通する。夫婦相处の道は、一味に持守して喜悦せざれば疏离し、一味に喜悦して持守を知らざれば淫乱する。能く持守し能く喜悦する——ゆえに「利貞」という。婚姻の道は、女方が先に男方に求め就くことなし。必ず女子が正を守りて男子が先に聘(まみ)え下りて求む——ゆえに「取女吉」という。
天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平。觀其所感,而天地萬物之情可見矣。天地無心而成化,一自然之運也。聖人有心而無為,一至誠之理也。
《彖伝》にいう。「天地感じて万物品(うむ)を化生し、聖人人心を感じて天下和平す。其の感ずる所を観れば、天地万物の情見(あら)わるべし。」天地は物を感ぜんとする心あることなく、万物は自然に化育生成する——これは自然而然の運行。聖人は此の心有れども、刻意して造作し経営せず——これは至誠の理の自然なる流露である。
誠能動物。人心之和平,一至誠之理也。誠能動物。人心之和平,一至誠所感,非邀結之為也。分言之,天地自天地,聖人自聖人;合言之,則天地之翕闢,即聖人之呼吸;天地之慘舒,即人之哀樂。故有感必通,天地萬物之情所同也。寂然不動者性(文瀾本「性」作「心」),感而遂通者情,即有感必通之道,引伸之而情可見矣。
至誠は能く外物を感動する。人心の和平なる所以は、まさに此の至誠の理の效験である(底本はここ「誠は能く物を動かし、人心の和平」一句重出す。当に刻本の衍文なるべし)。至誠は能く外物を感動し、人心の和平なる所以は、全く至誠の感ずる所より出で、拉攏結納を凭りて作り出したものではない。分かちていえば、天地は天地、聖人は聖人。合わせていえば、天地の一開一合はすなわち聖人の一呼一吸、天地の一粛殺一舒展はすなわち人の一悲一喜。ゆえに感あれば必ず通ず——これは天地万物の実情の共有する所。寂然として動かざる那一面は「性」(文瀾閣本はここの「性」の字を「心」と作す)であり、感じて遂に通ずる那一面は「情」——すなわち感あれば必ず通ずるの道理である。これにより推衍して去れば、天地万物の情は見るべくなる。
象曰:山上有澤,咸。君子以虛受人。澤性潤下,土性受潤。澤之潤有以感乎山,山之虛有以受乎澤,咸之象也。山上有澤,氣以虛而通;人心以虛而受,虛受則能感矣。若心之不虛,私意先入為主,雖投之不受,感通之機窒矣。
《大象伝》にいう。「山上に沢あり、咸。君子虚を以て人を受く。」沢水の性は下に浸润し、土の性は浸润を承受する。沢の潤沢は能く山を感動し、山の空虚は能く沢を容受する——これが《咸》の卦象。山上に沢あり、気は中間の空虚を以ての故に通じうる。人心もまた虚なるを要し、虚にしてこそ人を装(い)れうる。虚心にして容受しえてこそ感応を談じうる。もし心が空ならずして、一己の成見私意が先に塞ぎ込みて主を為すなら、人の言が投げ来るも納れ入れられず、感通の机括は堵死(とし)せられてしまう。
初六。咸其拇。拇,足大指也。卦取男女之感,六爻皆以人心取象。初在下,有拇之象。拇非能感人者,特以人身形體上下,象所感有淺深耳。拇隨足而動,欲進未能。初感於最下,所感尚淺,以其未至妄動,故不言吉凶。象曰:咸其拇,志在下也。初與四正應,雖所感尚淺,未遽動,而志知其在九四矣。
初六の爻辞。「其の拇(おやゆび)を咸(かん)ず。」「拇」は脚の大拇指。此の卦は男女相感の義を取り、六爻は皆人身の部位を借りて心の象を取る。初六は全卦の最下に居るので脚拇指の象がある。脚拇指は本身人を感動しえず、ただ人身の下より上への部位を借りて、感ずる所の深浅を表すのみ。拇指は脚に随いて動く。前に往かんと欲しても動けない。初六は最下に処りて感を起こし、感ずることなお浅い——まだ軽挙妄動の地步に至らないので、爻辞は吉とも凶ともいわない。《小象伝》にいう。「其の拇を咸ずるは、志下に在ればなり。」初六と九四はもとより正応。感ずる所はなお浅く妄(みだ)りに行動せざれども、其の心志はすでに明らかに九四の身に係(かか)っている。
六二。咸其腓,凶,居吉。腓,足肚也,欲行則先自動,妄不能固守者也。二在下體之中,故有腓象。二與五為正應,然君位非可妄動求感。二變巽為入,則不待五之感而先動,躁妄故失之凶。然有中正之德,故能居其所,則吉也。又按,艮之六二曰艮其腓,象與咸同而不言凶。今咸曰凶者,以動故也。能居,則如艮之本體,可以吉矣。象曰:雖凶居吉,順不害也。吉言居者,非戒之使不得感也。陰性本靜,艮體本止,順其本然,不累於欲,感可不害矣。
六二の爻辞。「其の腓(こむら)を咸ず、凶、居れば吉。」「腓」は小腿肚。人の歩くには、それが先に自ら動き出す——軽躁にして守りえぬ部位である。六二は下卦の中に居るので小腿肚の象を取る。六二と九五はもとより正応であるが、九五は君位で、妄動して彼に感を求めに行くべからず。六二は一変して下卦が「巽」を成し、「巽」は入——これは九五の感じ来るを待たずして先を争いて動くこと、急躁妄動なので失して凶となる。然るに六二はもとより中正の徳を有し、能く本位に安居して動かざれば吉となる。另えて按ず。《艮》卦の六二爻辞に「其の腓を艮(とど)む」といい、取象は《咸》と同じくするも凶といわず。ここに《咸》の凶という所以は、まさにそれが動く故である。能く安居して動かざれば、「艮」の本体に同じくして、自然吉を得うる。《小象伝》にいう。「凶なりと雖も居れば吉は、順にして害なければなり。」爻辞に安居してこそ吉というのは、感応を許さぬを誡めるのではない。陰の本性はもとより静、「艮」体の本分はもとより止。此の本然の性に順い、欲望に牽累(けんるい)せられざれば、感応もまた禍を招くことなし。
九三。咸其股,執其隨,往吝。三居下體之上,互巽有股象。執者,專主之意。股,主於隨足而動,不能自專者也。下二爻皆欲動,三以陽剛不能自守,欲應於上六(文瀾本「六」作「矣」)。上,悅體之極,三往而從之,但主於隨。以人事言,猶君子說小人之富貴者,往必吝矣。象曰:咸其股,亦不處也。志在隨人,所執下也。亦者,對下二爻而言。二爻陰,躁其動固也。三以陽剛居止之極,乃不自安處而但隨人,所守汙下,不足言矣。
九三の爻辞。「其の股を咸ず、其の随を執(と)る、往けば吝。」九三は下卦の上に居り、二三四爻は互いに「巽」を成し、「巽」は股——ゆえに大腿の象がある。「執」は専主・一味に把定するの意。大腿の職分はただ脚に随いて移動するのみ、自ら主を為しえない。下の初六・六二两爻は皆捺えて動くを得ず、九三は身を陽剛としながら自らを守りえず、一心に上六に応和せんと往こうと欲す(文瀾閣本はここの「六」の字を「矣」と作す)。上六は「兌」悦の体の頂点で、九三は往きてこれに追随する——其の主とする所はただ一箇の「随」の字。人事をもって比すれば、徳ある士が小人の富貴を艶羨(あこが)れて趨附しに行くがごとく——此の一往は必ず羞吝を招く。《小象伝》にいう。「其の股を咸ずるは、亦た処らざるなり。志人に随うに在りて、執る所下なり。」一箇の「亦」の字をいうは、下の二爻に対していうもの。彼の二爻は陰で、躁動はもとより意中の内。九三は陽剛をもって「艮」止の極に居るのに、かえって自らを安んじえず、一味に人に随う——守る所此の如く卑下なれば、さらに言うに足らない。
九四。貞吉悔亡,憧憧往來,朋從爾思。九四居股之上、脢之下,三陽之中,心之象,咸之主也。心之感物,必正而固,乃得其理。九四以陽居陰,非其正也,而曰貞吉悔亡,戒之也。
九四の爻辞。「貞吉悔亡、憧憧(しょうしょう)として往来す、朋爾(なんじ)が思に従う。」九四は大腿の上・背脊の下に在り、三つの陽爻の中間に当たる——「心」の象であり、全卦の感応の主爻である。心が物を感ずるには、端正にして堅定ならねばならず、それでこそ感応の正理に合う。九四は陽爻をもって陰位に居り、本来正ならず。爻辞はしかし正を守れば吉・悔恨消ゆと説く——これは言をもってこれを誡め、正を守れというのである。
憧憧往來,謂一心計我之所以感,又計彼之所以應。有明道計功之意。初與四為正應,有朋象。思者,心之用也。心不可見,故言心之用。九四心之象,咸之主。若能正而固,則虛中無我,無所不感(文瀾本無「無所不感」四字),無所不應而自然獲吉,悔可亡矣。若此心一有計功謀利之私,則未免憧憧然於往來,不過其朋類從之。又安能廓然大公,物來順應而無所不通哉。象曰:貞吉悔亡,未感害也。憧憧往來,未光大也。未感害,當從程傳,未為私感所害也。憧憧往來,以私心相感,則感之道狹矣,故曰未光大也。
「憧憧往来」というは、一心に我は何をもって相手を感動せんかと盤算し、また相手は何をもって来り応ずるかと盤算する——「道理をも講じ功效をも計る」の私意を帯ぶることをいう。初六と九四は正応なので「朋」の象がある。「思」は心の作用。心は本身見るべからざるので、其の作用に就いていう。九四は心の象、感応の主である。能く端正にして堅定ならば、すなわち中心虚明にして一箇の私我を存せず、感ぜぬ所なく(文瀾閣本は「感ぜぬ所なし」の四字なし)応ぜぬ所なく、自然吉を獲て悔恨もまた消ゆ。もし此の心に一たび功を計り利を謀るの私意あれば、往来の間に盤算して止まざるを免れず、感動しうる所もただ己と気類相同なる彼の数人のみ——また何ぞ廓然大公(かくぜんたいこう)物来りて順応して通ぜざるなしと談ぜんや。《小象伝》にいう。「貞吉悔亡は、未だ害を感ぜざればなり。憧憧往来は、未だ光大ならざればなり。」「未だ害を感ぜず」一句は、陳夢雷は程頤《程伝》の講法を取り、まだ私心の感応に妨害されていないと解す。「憧憧往来」に至っては、私心をもって人を感ずるので、感応の路子は窄(せま)まる——ゆえに「未だ光大ならず」という。
九五。咸其脢,無悔。脢,背肉,在心之上,而相背昧,無所知,不能感物者也。五在上卦之中、心之上,故以取象。然以其無私繫也,故亦可以無悔。此卦諸爻皆動而無靜,五則靜而無動,皆非心之正也。僅以無私繫而得無悔,非取之也。象曰:咸其脢,志末也。孤孑絕物,所志已末。
九五の爻辞。「其の脢(ばい)を咸ず、悔なし。」「脢」は背の上の肉で、位置は心の上に在るが、心と背を向け合って暗昧にして知ることなし——物を感じえぬ部位である。九五は上卦の中・心位の上に居るので、この象を取る。ただそれに偏私の牽係がないので、悔恨を生ぜずにもいられる。此の卦の他の各爻は皆、一味に動いて静まる能わず。九五は一味に静まって動く能わず——両頭とも「心」の正道に合わない。九五はただ私系を存せぬがために、かろうじて「无悔」を得たに過ぎず、《易》がほんとうにこれを称許するのではない。《小象伝》にいう。「其の脢を咸ずるは、志末なり。」孤零零として外物との往来を断ち、立てる心志はすでに末流に落ちている。
上六。咸其輔頰舌。兌為口舌。上六居卦之最上,故有輔頰舌之象。舌動則輔應而頰從之,三者相須,皆所用以言者。以陰居說之終,處咸之極,無其實而徒以口舌感人者也。人情喜諛說佞,口舌容有感人之時。然其事已不足道矣,故凶悔吝,皆可不言也。
上六の爻辞。「其の輔頬舌を咸ず。」「兌」は口舌で、上六は全卦の最上に居るので、牙床・面頬・舌の象がある。舌が一たび動けば牙床はそれに応じ、面頬もまた随いて動く——三者互いに依頼し、皆言を発するに用うる部位である。上六は陰柔をもって「兌」悦の終点に居り、《咸》道の尽頭に処り、胸中に実在のものなく、ただ一張の嘴を凭りて人を打動せんとする。人情はもとより奉承を聴くを好み諂媚を喜ぶので、口舌のみを光りても、人を打動する時がないではない。ただこの種の事はすでに言うに足らないので、凶・悔・吝といった断語は皆もう説くに及ばない。
象曰:咸其輔頰舌,滕口說也。滕,騰通。馳騁其辭辯,以取說於人也。全卦以相感為義。感之道莫大於男女,故彖以取女言之,而要於正則吉。感之用莫神於心,故六爻以四之心為主,而要於正則悔亡。心有動有靜。靜而無動則脢也,不能感者也。動而不靜,腓也股也輔頰舌也,感之不以正者也。蓋上卦雖主於說,下卦則取於止。必也未感之先,心本於虛。方感之時,一出於正。所謂寂然不動,感而遂通者,庶得咸之義矣。又按,蘇傳,咸者以神交。夫神者將遺其心,況於身乎,身忘而後神存。心不遺則身不忘,身不忘則神忘。
《小象伝》にいう。「其の輔頬舌を咸ずるは、滕口説(とうこうぜい)なり。」「滕」は「騰」に通じ、其の口辯を逞(たくま)しゅうし辞鋒を馳騁して以て人の歓心を博する。全卦は彼此相感を義とする。感応の道は男女の感より大なるはなし——ゆえに《彖辞》は「女を取る」をもって説き、正を守ってこそ吉に帰結する。感応の用は「心」より神妙なるはなし——ゆえに六爻は九四の此の「心」を主とし、正を守ってこそ悔亡に帰結する。心には動の一面あり、静の一面あり。只静にして動かざれば、すなわち九五の「脢」——感を起こしえぬもの。只動にして静まらざれば、すなわち六二の「腓」・九三の「股」・上六の「輔頬舌」——感ずれども正道に由らぬもの。上卦は「兌」悦を主とすれども、下卦は「艮」止の義を取る。必ず未だ感ぜざる先に、心はもとより虚明にして物なし。正に感ずる時に至って、一挙一動すべて正より出づ。これこそ《繫辞》のいう「寂然として動かず、感じて遂に通ず」——ほぼ《咸》卦の本義と算えよう。また按ずに、蘇軾《東坡易伝》にいう。「咸」は神をもって相交わるなり。いわゆる「神」とは、己の心さえ忘るるを要す——況んや身体をや。身忘れてこそ神は存しえ、心忘れざれば身は忘れえず、身忘れえざれば、かえって神を忘れてしまう。
故神與身非兩存也,必有一忘。足不忘屨,則屨之累也甚於桎梏。要不忘帶,則帶之為虐也甚於縲絏。人之所以終日躡屨束帶而不知厭者,以其忘之也。道之可以名言者,皆非其至。而咸之可以分(文瀾本「分」作「象」)別者,皆其粗也。是故在卦者,咸之全也。在爻者,咸之粗也。爻配一體,自拇而上至於口。當其處者有其德,德有優劣而吉凶生焉。合而用之,則拇履、腓行、心慮、口言,六職並舉而我不知。此其為卦也。離而觀之,則拇能履而不能提,口能言而不能聽。此其為爻也。方其為卦也,見為咸而不知其所以咸。猶其為人也,見其人而不見其體也。六體各見,非全人也。見其所以咸,非全德也。是故六爻未有不相應者,而皆病焉。不凶則吝,其善者免於悔而已。此說可叅。
ゆえに「神」と「身」は両頭とも保ちえず、必ず一頭を忘れねばならない。脚がもし鞋(くつ)を忘れえざれば、鞋の脚に対する拖累は脚鐐(あしかせ)より甚だしい。腰がもし帯を忘れえざれば、帯の折磨は犯人を捆る繩索よりも苦しい。人が終日鞋を履き帯を束ねて煩厭を覚えぬ所以は、まさにそれらを忘れているからである。凡そ言語をもって説き得る「道」は、皆道の極処に非ず。凡そ《咸》の中に一条一条分かちて講じ得るものも(文瀾閣本はここの「分」の字を「象」と作す)、皆ただ其の粗迹のみ。ゆえに整卦より見れば「咸」の全体、一爻より見ればただ「咸」の粗迹。毎爻は人身の一部位を配し、脚拇指より上って口に至るまで、どの位置に処ればどの位置の徳性あり。徳性に高下あれば、吉凶ここより生ず。合わせて用いれば、拇指は地を踏むを司り、小腿は行走を司り、心は思慮を司り、口は言語を司り、六種の職分同時に運作して自ら渾然として覚えず——これが其の卦と成る様。拆(ひら)きて見れば、拇指は地を踏みえども提起しえず、口は言を発しえども声を聴きえず——これが其の爻と成る様。其れ卦と成る時には、ただ一箇の「咸」を見て其の何を以て咸たりえるかを知らず——ちょうど一人を見て、ただ其の人を見て其一節一節の肢体を見ざるがごとし。六つの肢体各自呈現すれば、完整なる人と成らず。その何を以て咸たりえるかのみを盯着すれば、完整なる徳と成らず。ゆえに六爻は一爻として応ぜざるなく、されど爻爻皆毛病あり——凶ならざれば吝、その最も良きもただ悔恨を免るるのみ。蘇氏の此の一説は参看すべし。
恒の卦
恆卦,巽下震上,取有常能久之意。彖傳取義有四:剛上柔下,一也;雷動風應,二也;由順而動,事乃可久,三也;剛柔相應,乃理之常,四也。故卦名恆。恆次於咸。按,序卦,夫婦之道不可以久也,故受之以恆。
《恒(こう)》の卦は下卦が「巽」、上卦が「震」で、常久不変の意を取る。《彖伝》が卦名を釈するに、取義は四層ある。一は剛上にあり柔下にあり。二は雷一たび動けば風相応ず。三は先ず理に順いて後に行動し、事こそ長久しうる。四は六爻の剛柔一々相応ず——これは本来常理。ゆえに卦名を「恒」という。《恒》は《咸》の後に置かれる。《序卦伝》によれば、夫婦の道は長久ならざるべからず(底本は此の句「不」の字を脱す)——ゆえに《咸》の後に接いで《恒》となる。
恆,久也。咸,夫婦之道。夫婦之道,終身不變者也,故咸之後繼以恆也。咸少男在少女之下,以男下女,男女交感之義也。恆長男在長女之上,男尊女卑,夫婦居室之常也。論交感之情則少為親切,論尊卑之序則長為謹嚴,故兌艮為咸而震巽為恆也。全彖以有常則亨,又貴於得正。以往兼不易不已二義,能盡乎恆之道者也。六爻雖上下相應,而皆於恆之義未盡。
「恒」とは長久である。《咸》が講ずるは夫婦の道、而して夫婦の道は終身変わらざるもの——ゆえに《咸》の後に接いで《恒》となる。《咸》は少男が少女の下に居り、男子が身を屈めて下り女子と交わる——男女交相感応の義を取る。《恒》は長男が長女の上に居り、男尊女卑——夫婦日常居家の常態を取る。交感の情を論ずれば年少なるほど親切、尊卑の序を論ずれば年長なるほど厳整。ゆえに「兌」「艮」相配して《咸》を成し、「震」「巽」相配して《恒》を成す。全《彖辞》の主旨は、常あって然る後に能く亨通し、また正を守るを貴びとするに在る。「利有攸往」一句に至っては、兼ねて「不易」と「不已」の両層の意を含み、「恒」の道理を講じ尽くしうる。六爻は上下一々相応ずれども、皆「恒」の義理を占め尽くしえない。
初在下之下,四在上之下,皆未及乎恆者,故泥常而不知變。三在下之上,上在上之上,皆已過乎恆者,故好變而不知常。惟二五得上下體之中,似知恆之義者。而五位剛爻柔,以柔中為恆,故不能制義,而但為婦人之吉。二位柔爻剛,以剛中為恆,而居位不當,亦不能盡守常之義,故但可悔亡亾而已。蓋恆之道難言,必如彖所云而後可也。
初六は下卦の最下に、九四は上卦の最下にあり、いずれもまだ「恒」に及ばない——ゆえに常規を死守して変通を知らない。九三は下卦の最上に、上六は上卦の最上にあり、いずれもすでに「恒」の分際を過ぎた——ゆえに変動に貪りて常を守るを知らない。ただ九二・六五のみが上下二体の中を得て、「恒」の義理を知るに似る。然るに六五の居る第五位は剛位にして爻は柔——ただ柔中をもって恒と為すのみ、事理を裁断しえず、僅かに婦人の吉に落つ。九二の居る第二位は柔位にして爻は剛——剛中をもって恒と為すも居位また相当ならず、同じく守常の義を做足しえず、ゆえに悔恨消ゆを為すのみ(「亾」は「亡」の異体字)。見るべし、「恒」の道理は実に説き難し。必ず《彖辞》の講ずるが如くならばこそ合格と算うべし。
恆。亨,無咎,利貞,利有攸往。恆,常久也。常有不易之義,久有不已之義。字從心從一日,立心如一日也。人能常久其道,則可以亨通而無咎。然必利於得正,乃得常久之道而利於有所往也。利貞,有不易之意。利有攸往,有不已之意。
《恒》卦の卦辞にいう。亨る、咎なし、貞に利あり、攸くところあるに利あり。「恒」とは常久である。「常」は改易せぬの意を含み、「久」は停止せぬの意を含む。「恒」の字は「心」に従い「一」に従い「日」に従う——すなわち心志を立定して終始一日の如し。人能く長久に己の道を守れば、亨通して咎なしとしうる。ただし必ず正を守るに利あらねばならず、それでこそ常久の道を得たと算え、また往けば利ありと談じうる。ゆえに「利貞」一句は「不易」の意を取り、「利有攸往」一句は「不已」の意を取る。
彖曰:恆,久也。剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔皆應,恆。以卦體言之,艮剛上而巽柔下,名分之常。以卦象言之,雷震則風從,氣化之常。以卦德言之,巽順理而雷動有為,操行之常。又以卦體言之,六爻剛柔皆應,情理之常。此皆以釋卦之名義也。
《彖伝》にいう。「恒は久なり。剛上にして柔下り、雷風相与し、巽にして動き、剛柔皆応ず、恒なり。」卦体よりいえば剛は上にあり「巽」の柔は下にあり——これは名分上の常道(底本はここ「震」を誤って「艮」と刻す。《恒》卦の上体は実は「震」)。卦象よりいえば雷一たび震動すれば風便ち相従う——これは気化上の常道。卦徳よりいえば「巽」は事理に順い「震」は動いて有為す——先ず理に順いて後に有為するは、これ操守上の常道。再び卦体よりいえば六爻剛柔一々相応ず——これは情理上の常道。以上は皆《彖伝》の卦名義理を釈するに用いたものである。
恆亨、無咎、利貞,久於其道也。天地之道,恆久而不已也。《本義》重「貞」字。按,文意宜重「道」字,道即貞也。言恆亨、無咎,而必曰利貞者,恆之義雖取於久,必久於其道也。天地之所以恆久不已者,道也。若久而非道,則不得謂之貞矣,安得亨而無咎乎。
《彖伝》にいう。恒卦の亨通し咎なき・正を守るに利ある所以は、能く長久に自らの正道上に守るに在る。天地運行の法則もまたまさに恒久にして永く止息せず。朱熹《周易本義》が此の節を解するに、分量を「貞」の字に圧す。陳夢雷の按語にいう、文意に就いて見れば分量を「道」の字に圧すべし——ここにいう「道」とはすなわち「貞」なれば。経文はすでに恒は能く亨り咎なしといえども、また必ず「利貞」一句を補足する——「恒」の含義は「久」より取るれども、必ず長久に正道上に守ってこそ数に入るからである。天地の恒久にして止まざる所以は、此の「道」を凭(よ)る。もし持続の久しきのみにして道に合せざれば、「貞」と称しえず、また何ぞ亨通して咎なからんや。
利有攸往,終則有始也。久於其道,終也;利有攸往,始也。蓋一定不易之中,即有隨時變易之理。天地晝之終即夜之始,寒之終即暑之始,循環無端,所以可常可久,故居恆而利於往也。此二節釋彖辭。
《彖伝》またいう。「攸くところあるに利ありは、終われば則ち始まればなり。」長久に正道上に守るとは、一箇の段落の終結を説く。攸くところあるに利ありとは、新たな一輪の開始を説く。もとより「一定不易」の常道の中に、本より「随時変易」の道理を含む。天地の間、白昼の終点はすなわち黑夜の起点、寒冬の終点はすなわち暑夏の起点——循環往復して断口なし。故にこそ常態を維持し、持続長久しうる。此れを以ての故に、人「恒」の境地に身を処すれば、かえって行動あるに利あり。以上両節は皆《彖伝》の卦辞に対する解釈である。
日月得天而能久照,四時變化而能久成,聖人久於其道而天下化成。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣。此極言恆久之道,見恆之利於貞也。日月,陰陽之精,以得天之道,往來盈虧而能久照。四時,陰陽之氣,亦得天之道而變化之,故寒暑相禪以成歲功。聖人亦常久於道,皆出於正,故天下化之以成風俗。故恆有所以恆者,道也,即貞也。日月之久照、四時之久成、聖人之化成,皆以此也。故曰天地萬物之情可見矣。
《彖伝》接(つ)いでいう。「日月天を得て能く久照し、四時変化して能く久成す。聖人其の道に久しゅうして天下化成す。其の恒なる所を観れば、天地万物の情見るべし。」此の数句は恒久の道を極処に説き、まさに「恒」の必ず「貞正」に落着せんことを顕さんとする。日月は陰陽の精華にして、天道に順うを得るが故に、能く一升一落・一盈一虧して長久に照臨す。四時は陰陽の気にして、亦た天道に順いを得て運転変化し、寒暑交替接続して一年の収成を成就す。聖人もまた同じく道上に長久に守り、一挙一動皆正より出づ——ゆえに天下其の感化を受けて風俗を成す。見るべし、「恒」の恒たりえる所以は、背後に能く恒ならしむるものあり——それはすなわち「道」、すなわち「貞」である。日月の能く久照し、四時の能く久成し、聖人の能く天下を化成するは、皆此の一点を凭る。故にいう、一物の恒守する所を観れば、天地万物の実情見るべしと。
象曰:雷風,恆。君子以立不易方。方,理之不可易者。巽性入而在內,雷性動而在外,雷風至變而不失其常。君子體之,常變經權皆不可易之理,非膠於一定之謂也。
《大象伝》にいう。「雷風、恒。君子以て方を易えず立つ。」いわゆる「方」とは、更改すべからざる道理准則を指す。恒卦は下卦が巽、巽の性質は渗入にして位置は内。上卦は震、震の性質は振動にして位置は外。雷と風は天地間の最も善変なるものなれど、終始其の固有の常態を失わず。君子此の一層を体察すれば、守常にも応変にも、常経を持守するにも権変を行使するにも、其の中に皆更改すべからざる道理の在るを悟る——これをこそ「不易の方を立つ」と曰い、死して一条の成規を抱きて放さざるに非ず。
初六:浚恆,貞凶,無攸利。初與四為正應,理之常也。然在下,未可深有所求。四震體,陽性動而不下,又為二三所隔,應初之意異乎常(文瀾本「異乎常」作「甚微」)矣。初之柔暗不能度勢,巽性善(文瀾本「善」作「務」)入故深,以常理求之,為浚恆之象。如是則雖貞亦凶,而無所利矣,況爻象本不正乎。象曰:浚恆之凶,始求深也。交際之道,自有淺深。交始而遽以深望之,豈常理哉。
初六の爻辞。「恒を浚(ふか)くす、貞なれど凶、利あらざる所なし。」「浚」は深挖し——一開頭より相手に求むること深過ぐるを指す。初六と九四は陰陽相配、もとより正応——これは常理。然るに初六は全卦の最下位に処り、まだ人に向かって深く求め及ぶべからず。九四は上卦震体に属し、陽の性は上に動きて下に就くを肯ぜず、中間また九二・九三に隔断せられ——其の初六に応答する心意はすでに寻常と異なる(文瀾本は「常と異なり」を「甚微」と作す、微弱の意)。初六は陰柔昏昧にして形勢を估量しえず、加うるに巽の性質は善く深入す——ゆえに求むるほどに深し。ただ常理を照らして相手に要求する——「恒を浚くす」の象となる。此の如くなれば、正を守るも凶を免れ難く、さらに何の利益か談ぜん——況んや此の爻は本より陰を以て陽に居り、位置すでに正ならずや。《小象伝》にいう。「恒を浚くするの凶は、始めに求むること深ければなり。」交際は自ら浅より深に入る次第あり。始めて来往するや急いで深交を以て相期す——何ぞ常理に合せんや。
九二:悔亡。以陽居陰,本當有悔,以久於中道,故悔可亡。象曰:九二悔亡,能久中也。過不及皆不能久,可久之道唯中而已。諸爻以不中故不能久。蓋正者或未必中,中者可以兼正也。
九二の爻辞。「悔亡(な)し。」九二は陽爻を以て陰位に居り、位置当たらず——本より悔恨を生ずべし。然れども長久に下卦の中道上に守る——ゆえに悔恨消ゆべし。《小象伝》にいう。「九二悔亡は、能く中に久しければなり。」凡事頭を過ぐるか位に至らざるかは、皆持久しえず。持久しうる路子はただ一箇の「中」の字のみ。恒卦の他の各爻の能く久しからざる所以は、まさに中に居らざるが故。知るべし、位を得て正を守るは未だ必ずしも中を得るに能わず。能く中を得るは、連ねて「正」も併せて涵蓋しうる——これまさに陳夢雷がここに特に「中」を看重する所以なり。
九三:不恆其德,或承之羞,貞吝。位雖得正,然過則不中,志從於上而不能久。蓋巽為不果,又為躁卦,故有不恆其德、或承之羞之象。承,進也。或者,不知誰何,人得而進之以羞也。如是則雖正亦吝矣。象曰:不恆其德,無所容也。過剛,又介二剛之間,進退無所容也。
九三の爻辞。「其の徳を恒せず、或いは之に羞を承け、貞なれど吝。」九三は陽爻を以て陽位に居り、位置は正と雖も、剛頭を過ぐれば中に居らず——心思は一味に上六に追随して長久を守りえず。下卦の巽はもとより優柔果決せざるの象あり、又た躁動の卦に属す——ゆえに「其の徳を恒守しえず」「人羞辱を遞(よこ)し来たる」の象あり。「承」はここに進奉・遞上の意、「或」は某人を確指せず——随に誰でも羞辱を彼の身に加え得るの意。此の如くなれば、正を守るもなお可惜なり。《小象伝》にいう。「其の徳を恒せざるは、容(い)るる所なければなり。」九三は剛硬に過ぎ、また九二・九四両陽爻の中間に挟まれ——進んでも入りえず退んでも退きえず、容身する所なし。
九四:田無禽。坤為眾,四變坤有田象;應初巽,為無禽象。師六五變坎中實,所應又剛,故為有禽;此變坤陰虛,所應又柔,故有無禽之象。以陽居陰,已非其位;所處不中,震體好動。曲學異端,返之身心而無益,措之天下而無功者也。象曰:久非其位,安得禽也。以陽居陰,非所久而久也。九二亦非位而悔可亡,此則不然者,又中與不中之辯也。
九四の爻辞。「田(でん)に禽(けもの)なし。」出かけて打猟するも一獲も得ざるの意。坤は衆多、九四は変爻の後上卦坤を成す——田野の象あり。其の応ずる所の初六は巽に属し——すなわち猟物なきの象を成す。師卦を以て対比すべし。師卦の六五は変爻すればすなわち坎を成し、坎の中間一画は実、所応の九二また陽剛——ゆえに「禽あり」。恒卦の九四は変爻して坤を成し、坤は陰虚、所応の初六また陰柔——ゆえに「禽なし」を成す。九四は陽爻を以て陰位に居り、本より其の位に当たらず。処る所また中に居らず、加うるに震体は動を好む。此の如き人は、偏曲の学・異端の説を専治する者に似て、收め帰りて身心を反省するに毫も益なく、推し出して天下に施行するも毫も功効なし。《小象伝》にいう。「久しく其の位に非ざるは、安くぞ禽を得んや。」陽を以て陰に居るは、本より久しく待つべき位置に非ざるに、硬に久しく待つ。或る人問う——九二も同じく位に当たらず、何を以て悔恨は消え得て九四は得ざるか。これはなお「中に居る」と「中に居らず」の分別なり。
六五:恆其德,貞,婦人吉,夫子凶。以柔中而應剛中,陰柔之正,有恆其德貞之象。五變兌為少女,婦人之象。以柔為恆,婦人之道,非夫子所宜,故婦人得此爻則吉,在夫子則凶也。象曰:婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。婦人從一夫而終,無專制之義。夫子剛斷,以義制事,乃柔順而從婦道,則凶矣。
六五の爻辞。「其の徳を恒にし、貞、婦人吉、夫子凶。」六五は陰柔を以て上卦の中に居り、下に九二の陽剛居中に応ず——これは陰柔一路の正道、ゆえに「長久に其の徳を保持して正を守る」の象あり。六五は変爻すれば上卦兌を成し、兌は少女——故に婦人を取って象とす。柔順を以て恒久の道と為すは、これ婦人の守るべき分際なれど、男子の宜とする所に非ず。ゆえに婦人此の爻を占すれば則ち吉、男子占すれば則ち凶。《小象伝》にいう。「婦人貞吉は、一に従いて終わればなり。夫子は義を制す、婦に従えば凶なり。」婦人は一生ただ一夫に従う、本より独断専行の道理なし。男子は則ち剛毅決断し、事理の当否に按じて事を裁処すべし。若し一味に柔順にして婦人の那(な)路子を走れば、凶となる。
上六:振恆,凶。以一卦之極言之,居恆之極,不能常矣;以上卦之極言之,處震之終,過於動矣;以上六之一爻言之,質陰柔不能固守居上,又非所安矣。故有震動其恆之象,而其占則凶也。象曰:振恆在上,大無功也。居上必有恆德,乃可有功。躁動如此,安能有所成乎。曰大無功,上無益於國家,下不利於生民也。
上六の爻辞。「恒を振(ふる)う、凶。」「振」は揺動なり。整卦より見れば、上六は恒卦の尽頭に処り、已に常態を維持しえず。上卦より見れば、震卦の最後の一位に処り、動くこと頭を過ぐ。単に此の爻本身に就いて見れば、其の体質陰柔にして守り牢(かた)からず、又た最高処に居り——本より其の安身の地に非ず。ゆえに「自らの恒常を揺動し去る」の象あり、占断は凶。《小象伝》にいう。「恒を振うて上に在るは、大いに功なければなり。」高位に身居する者は必ず恒久之徳あらねばならず、それでこそ功業を建立を談じうる。此の如く浮躁に乱動すれば、何を以てか成就せんや。「大いに功なし」というは、上は国家に対して益なく、下は百姓に対して好(よ)しなきを指す。
恆卦象甚善,而六爻鮮有全吉。蓋以爻配位,陰陽得失各有不同。大抵或守常而失之拘,或厭常而失之躁,皆不能中正以盡乎恆之義。初四皆守常而拘者也,而初之凶甚於四;三上皆厭常而躁者也,而上之凶甚於三;二五皆中而不正,故五有不能制義之凶,即二亦僅悔亡而已。盡恆之義,必如彖之所云乎。
陳夢雷全卦を総論す。恒卦の卦象は本より甚だ好しといえども、六爻は完全に吉利なること少なし。原因は爻を位次に配して見るに、陰陽の得位失位各々同じからざるに在り。大体二類に分かつ。一類は常規を守りて拘泥に失し、一類は常規を厭棄して躁動に失す。両類とも中正を成しえず、因りて皆「恒」の意義を尽くしえず。初六と九四は同じく常を守りて拘泥する類に属し、其の中初六の凶は九四に甚だし。九三と上六は同じく常を厭い躁動する類に属し、其の中上六の凶は九三に甚だし。九二と六五は中に居れども皆位に当たらず——ゆえに六五は「義を以て裁断しえざる」の凶あり、九二もただ悔恨消ゆを為すに過ぎず。「恒」の意義を完全に実現せんとするは、恐らく卦辞と《彖伝》の講ずる如くなるのみ可なり。
遯の卦
遯。遯卦,艮下乾上。二陰浸長,陽當退避;又乾陽外往而艮能止,有違遯之義,故為遯。不言退而言遯者,退但有退後之義,無避去之義故也。遯卦次恆。按,《序卦》:恆者,久也。物不可以久居其所,故受之以遯。久則有退去之理,遯所以次恆也。全彖以君子能遯,則身退而道亨;小人則不可以陰之浸長,而遽迫於陽。此全彖之大旨也。
遯(とん)の卦は下卦が「艮」、上卦が「乾」。全卦の下の二画は陰で、陰気がまさに逐步生長し、陽気は理の上で退讓回避すべきときである。さらに上卦の乾陽は一味に外へ行き、下卦の艮はまた能く之を止む——合わせて「背離退く」の意を有するので、名を「遯」と取る。「退」と言わず「遯」と言うのは、「退」には後に縮むの意のみ含み、避けて離れるの意を含まないからである。遯卦は恒卦の後に置かれる。《序卦伝》にいう。「恒は久なり。物は久しく其の所に居るべからず、故に受けて遯と為す。」一つのものが久しく一処に留まれば、自然に退き離れる道理がある——ゆえに遯は恒の後に立つ。全篇の卦辞の要旨は二層ある。君子は時に及んで退避すれば、身は退けども道は通じうる。小人は陰気の漸長に乗じて、急いで陽剛を逼めに行くべきでない。これが全卦卦辞の大意である。
六爻獨二不言遯。蓋全卦以二陰迫陽,二乃卦之所以為遯者,故(文瀾本「故」作「故其」)遯之意至堅,而不言遯,恐其迫陽也。遯貴速而遠:三近二,故有係;四應初,故有小人之戒;五得中,為嘉遯;上最遠,為肥遯。獨初與同體而在眾陽之後,則又以不遯免災。故當遯之時,不可不見機遠去也。
六爻の中、ただ六二のみ「遯」の字を提げない。全卦は二つの陰爻が陽爻を逼めており、六二はまさに此の卦を「遯」と為す根由で、其の退避の勢を促成すること最も堅決なれば(文瀾本はここ「故に其の遯の意至り堅し」と作す)、爻辞に「遯」を言わぬ所以は、それがかえって陽を逼めに行くを憚ったからである。退避の道は速きを貴び遠きを貴ぶ。九三は六二に挨着す——ゆえに「係遯」あり、牽住せられた。九四は下に初六に応ず——ゆえに小人に対する告誡あり。九五は上卦の中に居る——是れ「嘉遯」、退くこと美善。上九は陰爻より最も遠し——是れ「肥遯」、退くこと寛綽自得。ただ初六のみ六二と同じく艮体に属すれども、衆陽の後に列し、かえって退避せざるを以て災禍を免る。ゆえに退避すべき時に処すれば、機を見て遠く走らざるべからず。
遯,亨,小利貞。遯卦陰浸長而陽避,六月之卦也。亨指四陽而言,知時而遯,故身雖退而道亨。小利貞,《程傳》謂不可大貞而尚利小貞,《本義》以小為小人言,小人當利於守正,不可以浸長而迫於陽也。今按,此句宜指二陰而言,《本義》為是。蓋易雖為君子謀,未嘗不望小人之為君子。小而能貞,則亦君子矣。當遯之時,君子固以遯而亨,小人亦以正為利。諷君子而儆小人,亦扶陽抑陰之意。
卦辞。「遯、亨、小利貞。」遯卦は陰気漸長・陽気退避の卦にして、十二消息卦中では六月に配す。「亨」は上の四つの陽爻に就いていう。時勢に退くべきを知りて則ち退く——ゆえに身は退き下がれども道は行い通ず。「小利貞」一句に至っては、程頤《伊川易伝》は大いなる貞固を作すべからず、ただ小なる貞守を作すべしと解し、朱熹《周易本義》は「小」を小人と講じ、小人此の時は正を守るを以て利と為し、陰気漸長を恃(たの)んで陽剛を逼め行くべからずとする。陳夢雷の按語は判定す——此の句は下の二つの陰爻を指すべく、《本義》の解釈は是なり。《易》は処々君子の為めに謀るれども、亦た未だ小人の転じて君子と為るを盼(のぞ)まざるに非ず。小人若能く正を守れば、則ち亦た君子なり。此の退避の時に当たり、君子は固より退避を以て亨通し、小人も亦た正を守るを以て利と為すべし。一面に君子を点醒し、一面に小人を警戒す——同じく陽剛を扶助し陰柔を抑制するの用意なり。
彖曰:遯,亨,遯而亨也。剛當位而應,與時行也。五以陽剛中正與二之陰柔中正相應。二陰能順五,可以不遯矣;然二陰浸長,時不可以不遯。有知時而遯之能,所以致亨。小利貞,浸而長也。二陰浸長,而利於貞。不以勢之將盛而凌君子,小人之福也。
《彖伝》にいう。「遯、亨とは、遯して亨るなり。剛位に当たりて応ず、時と行なり。」九五は陽剛を以て中に居り正を得、六二の陰柔中に居り正を得ると上下相応ず。理に照らせば二つの陰爻はすでに九五に順从し得るのだから、本より退避せざるべしといえども、陰気は正に一歩一歩生長し、時勢は逼めて退かざるべからず。正に「時勢を看清れば則ち走る」の本事を具備するが故に、亨通を招致しうる。《彖伝》またいう。「小利貞は、浸りて長ずればなり。」二つの陰爻は正に逐漸生長す——此の時、それらに対しては正を守るこそ有利なり。自らの勢い将に壮盛ならんとするを倚仗して君子を欺凌せざるは、まさに小人自身の福分なり。
遁之時義大矣哉。陰方長而處之甚難,時在天而義在我。不審時,不知遯;不斷以義,不能遯。去就大節所關,非與時偕行者不能也。易中大矣哉有二:有贊其所係之大者,豫革之類是也;有嘆其所處之難者,大過遯之類是也。
《彖伝》末句に嘆赞す。「遯の時義大なるかな。」陰気正に生長し、此の局面に処して自ら処すること極めて難し。時勢は天に属すれども、取舍の義理は我が身に在り。時勢を審察せざれば、退くべきを知らず。義理を以て決断しえざれば、退き下がりえず。ここに関渉するは出仕と退隠の大節——時勢と歩を同じくして行いうる者に非ざれば、為しえざるなり。《易経》中「大なるかな」の赞語に二類あり。一類は其の関連する事の重大なるを赞す——豫卦・革卦の如し。一類は其の処する境地の艱難なるを感嘆す——大過卦・遯卦の如し。此処は後の一類に属す。
象曰:天下有山,遯。君子以遠小人,不惡而嚴。天不必遠於山也,乃山勢雖高,而天去之自遠;君子不必示惡聲厲色於小人也,乃小人雖近,君子遠之自嚴。不惡者,待彼之禮;嚴者,守己之節。遠小人,艮止之象;不惡而嚴,乾剛之象也。
《大象伝》にいう。「天下に山あり、遯。君子以て小人を遠ざく、悪(にく)まずして厳なり。」天は刻意して山を離れんとするに非ざれども、山勢いかに高くとも、天は自然にそれを離るること極めて遠し。君子もまた小人に対して悪声悪色を擺(ひら)くに及ばず、小人たとえ身辺にありとも、君子は自然にこれと疏远して威厳を失わず。「悪まず」は人を待つに応有の礼数、「厳」は自らの操節を守ること。小人を遠ざくるは、艮卦「止」の象を取る。悪臉色を擺かずして自然に威厳あるは、乾卦剛健の象を取る。
初六:遯尾,厲,勿用有攸往。遯而在後,尾之象;其勢已危,欲往不及。然在下無位,所居不正,無德無位之凡民,遯亦無益,晦處靜俟,庶可免耳。象曰:遯尾之厲,不往何災也。不往,即晦藏之意。初所居非貞,不往即其貞也。
初六の爻辞。「遯の尾、厲(あやう)し、用て往く所ある勿れ。」退避すべきに最後面に落つ——是れ「尾」の象。形勢は已に危険、走らんと欲するも及ばざるに似たり。然れどもそれは下位に身居して職位なく、処る所また正ならず——徳望も位分もなき普通の人、退避に随うても用うる所なし。隠晦に自処し安静に待つに如かず、或いは禍を免れん。《小象伝》にいう。「遯尾の厲は、往かざれば何の災かあらん。」いわゆる「往かず」は、隠晦に身を蔵するの意。初六の処する位置はもとより正ならず、能く妄動せざるを為せば、此の不動はすなわち其の「貞」なり。
六二:執之用黃牛之革,莫之勝說。二陰迫陽,卦之所由以遯者,而艮為手,有執之之象。二居中陰畫,黃牛象。《本義》謂二以中順自守,志在必遯,人莫能解,故有此象。然卦以陽遯陰,故陽爻皆言遯,二陰不必言遯。蓋二,陰也,勿迫乎陽,必堅其交五之志而不可解。此說雖與《本義》悖,而與彖小利貞句相應。
六二の爻辞。「之を執るに黄牛の革を以てし、之に勝ちて説(ぬ)ぐこと莫し。」黄牛の皮を以て捆(こん)り、誰も解き得ぬの意。二つの陰爻が陽爻を逼むは、まさに此の卦が「遯」と成る所以の原因。下卦の艮は手——ゆえに「執持」の象あり。六二は下卦の中に居り、陰爻の画——黄色は中に属し牛性は柔順、故に「黄牛」を取って象とす。《本義》は解して曰く、六二は中に居り柔順を以て自守し、心志堅定にして退避せんとし、人はそれを解き得ることなし——ゆえに此の象ありと。然れども陳夢雷は以為す——此の卦は陽が陰を避くるなり、ゆえに凡そ陽爻は皆「遯」といい、二つの陰爻は必ずしも「遯」といわず。六二は陰爻なり。それの為すべきは陽を逼めざること、九五と結交する心志を捆り牢めて解き難くすることなり。此の一説は《本義》と相違すれども、ちょうど卦辞「小利貞」一句と相呼応す——彼が此を取り彼を捨つる理由はここにあり。
象曰:執用黃牛,固志也。舊說謂志之固,非外物所能移也。此爻卦之所以為(文瀾本「為」作「謂」)遯而不言遯,蓋未行而志之決,實由於此也。今作固其交五之志。蓋君子皆遯,小人豈能自存,小人得志能固留君子,小人之貞也。
《小象伝》にいう。「黄牛を以て執るは、志を固くすればなり。」旧来の解釈は曰く、心志牢固にして外物の動揺する所に非ずと。此の一爻はまさに全卦をして「遯」と為らしむる関鍵なり(文瀾本は此の句を「此の爻卦の遯と謂う所以」と作す)、偏に爻辞の中に「遯」の字を説かざるは、陽爻未だ真に走らざれば、其の走る決心は実はここより逼め出されたるなり。今陳夢雷は「固志」を改め解して曰く、其の九五と結交する心志を堅定すと。君子若し皆退避して干净れらば、小人また安くぞ独り存活せんや。小人勢を得る時若能く牢く君子を留め置けば、それこそ小人一方の「貞」なり。
九三:係遯,有疾厲,畜臣妾,吉。二陰迫陽,陽宜遯矣。然三與陰近,又艮體為止,故有遯而有所係之象。艮為閽寺,有臣妾象。君子不可有所繫於小人;若臣妾之屬,則撫之以恩以得其心亦可。然曰畜之,則亦不使侵逼於陽矣。象曰:係遯之厲,有疾憊也;畜臣妾吉,不可大事也。當遯而係,勢必困憊矣。臣妾畜之則吉,非可使之干預大事也。一作臣妾最易係戀,畜養之則可;若出處去就之大事,則不可有所係也。此二意宜兼。
九三の爻辞。「係遯、疾厲あり、臣妾を畜(やしな)えば吉。」二陰は陽を逼め、陽は本より退避すべし。然れども九三は下の陰爻に緊く挨着し、加うるに自身は艮体に属し、艮性は止を主どる——ゆえに「退かんと欲するも牽住せらる」の象あり。艮はまた門を守る阍人(こんじん)・内侍を象徴し、因りて「臣妾」の象あり。君子は小人に対して牽恋あるべからず。臣僕婢妾の類に至っては、恩惠を以て安撫し其の心を籠絡すれば、倒に可行なり。ただし「畜養」といえば、仍(な)お彼らをして陽剛を侵逼せしめざるを意味す。《小象伝》にいう。「係遯の厲は、疾憊(あつかれ)あればなり。臣妾を畜えば吉は、大事すべからざればなり。」退避すべきに牽住せられれば、勢い困頓疲憊に陥らん。臣妾の類は畜養するは吉なれど、彼らをして大事に插手せしむべからず。另に一種の講法あり。臣妾は最も人をして牽掛留恋せしむ。彼らを養うは可なれど、若し出仕退隠に碰上れば——
九四:好遯,君子吉,小人否。下應初六,有情好之象;而乾體剛健,能絕之以遯之象。惟以義制欲、剛克之君子能之,小人不能,故占者君子得之則吉,小人則否也。象曰:君子好遯,小人否也。小人有係戀之私,必不能自克也。
九四の爻辞。「遯を好(この)む、君子吉、小人否(ふさ)がず。」九四は下に初六に応ず——彼此情意相好の象あり。然れども上卦乾体に属し、剛健有力、また此の情好を斬断して退去し得るの象あり。ただ能く義理を以て私欲を節制し、剛強を以て自克する君子のみ之を為しえ、小人は之を為しえず。ゆえに占者若し君子なれば、此の爻を得れば則ち吉、若し小人なれば則ち行えず。《小象伝》にいう。「君子遯を好むは、小人否がざればなり。」小人は牽掛眷恋の私情を懐き、必ず自らを克(か)ちえず。
九五:嘉遁,貞吉。陽剛中正,下應六二,亦柔順而中正,然不以相應而有所係,遯之嘉美者也,占者能正則吉矣。五雖君位,而遯非人君之事,故不以君言。此君子未見疎於小人,而能與時偕行,超然遠引,可不遯而遯者也。隨六三言係而五曰孚于嘉,遯亦於三言係、於五言嘉。蓋非正應而相暱曰係,以中正而相應則曰嘉也。
九五の爻辞。「嘉遯、貞吉。」九五は陽剛中に居り正を得、下に六二に応ず——六二もまた柔順中に居り正を得る。然れども九五は此の正応あるを以て牽住せられず——これは退避の中の最も美善なる一種、ゆえに占者能く正を守れば則ち吉。九五は君位に居れども、退避は人君の事に非ず——ゆえに此処は君主に按じて講ぜず。それが写すは此の如き君子——未だ小人に排挈疏远せられずして、能く時勢に順応し超然として身を引きて遠く去る——本より退かざるべくして自ら進んで退く類に属す。随卦は六三に「係」を講じ九五に「嘉に孚(まこと)あれり」を講ず。遯卦も同じく九三に「係」を講じ九五に「嘉」を講ず。見るべし——正応に非ざるにして彼此親暱するを「係」と曰い、中正の徳を以て互相感応するを「嘉」と曰う。
象曰:嘉遯貞吉,以正志也。九五嘉遯,無係無執無好。不事於外,正在我之志而已。二以陰應陽,其志當固;五以陽應陰,其志當正。
《小象伝》にいう。「嘉遯貞吉は、志を正しくするを以てなり。」九五の退避の美善なる所以は、牽係せられざるなり、また六二の如く執持あるに非ず、さらに九四の如く情好の拖累あるに非ず。それは外に向かって何ら張羅せず、ただ自ら心中の志向を端正するのみ。六二は陰爻を以て陽爻に応ず——其の志向は堅固を貴ぶ。九五は陽爻を以て陰爻に応ず——其の志向は純正を貴ぶ。両爻の用心の分際はまさにここに在り。
上九:肥遯,無不利。肥者,寬裕自得之意。陽道常饒,或損者,陰剝之也。以陽剛居卦之外,去柔最遠,高而能應剛而無決,無有疾憊,故稱肥焉,而占無不利也。
上九の爻辞。「肥遯、利あらざるなし。」「肥」は寛綽从容・自ら其の楽を得るの意。陽の性質はもとより充裕にして余あり、時に虧損する所以は、陰気に剥蝕せらるるが故。上九は陽剛を以て全卦の最外に居り、下の陰柔より最も遠く、位置は高くしてなお人と相応じ、剛健にして取舍決断を為すに費力を要せず、九三の「疾憊あり」の如き窘態なく——ゆえに「肥」と称し、占断は利なきなし。
象曰:肥遯無不利,無所疑也。剛健決去,無所復疑。有係者憊,無疑則肥矣。全卦雖主於遯,然下三爻艮體主止,故為不往、為執、為係;上三爻乾體主行,故為好遯、為嘉、為肥。蓋四陽以遯為亨,二陰以不迫陽為貞。三雖陽而艮體,不免於係。故欲盡彖遯亨之義,唯乾之三爻用可言之。
《小象伝》にいう。「肥遯利あらざるなしは、疑う所なければなり。」剛健果断にして離去す、心中再び遅疑なし。牽住せられたる者は疲憊不堪なり、毫も疑慮なき者こそ寛綽自得と顕れる。全卦を総観す。退避を主旨とすれども、下の三爻は艮体に属し艮は静止を主どる——ゆえに分かちて「往かず」「執」「係」の象を取る。上の三爻は乾体に属し乾は行動を主どる——ゆえに分かちて「好遯」「嘉」「肥」の象を取る。帰結していえば、四つの陽爻は能く退避するを以て亨通と為し、二つの陰爻は陽剛を逼めざるを以て正を守ると為す。九三は陽爻なれども身は艮体に在り——仍お牽係を免れ難し。ゆえに卦辞「遯して亨る」の意を尽くさんとするは、ただ乾体の彼の三爻のみが当たり得る。
大壮の卦
大壯。大壯,乾下震上。四陽盛長,大者壯盛,故為大壯。乾剛震動,以剛而動,大壯之義;又雷之威震於天上,大壯之象,故為大壯。大壯次遯。按,《序卦》:遯者,退也。物不可以終遯,故受之以大壯。遯為違去,壯為壯盛,消而復長,違去之後仍復壯盛。遯則必壯,大壯所以次遯也。全彖以陽壯之時亨不待言,唯利於得正。天地之情,亦不過正大而已。
大壮の卦は下卦が「乾」、上卦が「震」。全卦の下の四画は皆陽で、陽気は盛大に生長し、いわゆる「大」なる方はまさに壮盛に当たる——ゆえに「大壮」と曰う。卦徳に就いていえば、乾は剛健・震は振動、剛健を凭(よ)りて発動す——これはすなわち「大壮」の意。卦象に就いていえば、雷の威勢は天上に震响す——まさに大壮の象。ゆえに名を大壮と取る。大壮は遯卦の後に置かれる。《序卦伝》にいう。「物は終に遯すべからず、故に受けて大壮と為す。」「遯」は背離退去、「壮」は壮盛。陽気は消退の後必ず重新生長し、退避の後仍お再度壮盛す——退くこと尽きれば必ず転じて壮となる。ゆえに大壮は遯の後に接ぐ。整篇卦辞の立意は、陽气壮盛の時は亨通すでに説くに及ばず、肝要はただ能く正を守るか否かに在る。天地の実情もまた「正」と「大」の二字に過ぎず。
六爻當陽壯之時,多以處陰位為美。九四乃壯之所以為壯者,以不極其剛許其決藩。二亦履柔能守者也,故貞吉。初三皆以剛居剛,躁進過暴,所以征凶而羸角也。若上之二陰,則五以柔中受陽之壯,故可以無悔;若上以柔居柔,則以不能壯者而用壯,所以有不能退不能遂之戒也。此全卦六爻之大略也。
六爻は陽气壮盛の時に処り、多くは陰位に身居するを以て美とす。九四はまさに此の卦をして「壮」と成らしむる彼の一爻——其の剛強を極処に用いざるが故に、「藩籬を衝き開く」の成就を許す。九二もまた柔位に踏み居りて能く自守する者——ゆえに「貞吉」という。初九・九三は皆陽爻を以て陽位に居り、躁急冒進・過度に暴烈——ゆえに一は出征すれば則ち凶、一は羊角は藩籬に纏住せらる。上の二つの陰爻に至っては、六五は柔順にして中に居り陽剛の壮勢を承受す——ゆえに悔恨なしとしうる。上六は則ち陰柔を以て陰位に居り、本より壮と為りえざるに硬に壮を逞しゅうす——ゆえに「退くも得ず進むも成らず」の告誡あり。これが全卦六爻の大致なる脈絡なり。
大壯。利貞。大謂陽也。四陽盛長,大者壯盛,二月之卦也。陽壯則亨不待言,但利於正而已。六爻初三正而二四不正,而四為成卦之主,喜其震動得時,又恐以剛動而失其正也,故戒之。又大壯與遯相綜之卦。陰之進不正,則小人得以凌君子,故遯言小者利於貞;陽之進不正,則君子不能勝小人,故大壯言大者利於貞也。
卦辞。「大壮、利貞。」「大」は陽を指す。四つの陽爻は盛大に生長し、「大」なる方はまさに壮盛に当たり、十二消息卦中では二月に配す。陽はすでに壮盛、亨通は已に説くに及ばず——肝要はただ正を守るに利あるのみ。六爻の中、初九・九三は位を得て正、九二・九四は位に当たらず。而して九四は此の卦を成就する主爻——一方面欣喜其れ震動して恰逢其時、一方面懼れ其れ剛強を凭りて乱動して正道を失わんとす——ゆえに卦辞言を出して告誡す。さらにいえば、大壮と遯は一対の相綜(上下顛倒)の卦。陰気推進して正を守らざれば、小人は能く君子を欺凌す——ゆえに遯卦は「小なる者貞に利あり」という。陽気推進して正を守らざれば、君子はかえって小人に勝ちえず——ゆえに大壮は「大なる者貞に利あり」という。
彖曰:大壯,大者壯也。剛以動,故壯。以卦體言,四陽盛長,大者壯也;以卦德言,乾剛震動,所以壯也。卦體則勢壯,卦德則理壯,此皆以釋卦之名義也。大壯利貞,大者正也。正大而天地之情可見矣。所以大者,以其正也。陽正陰邪,陽大陰小,若不正則非大矣。天地無不覆載,無不生成,其情不過正大。大者正,大字指陽;下正大二字就理言。雷在地中,天地生物之機未露,有以見天地之心;雷在天上,天地生物之心已達,有以見天地之情。
《彖伝》にいう。「大壮、大なる者壮なり。剛以て動く、故に壮なり。」卦体より見れば四つの陽爻盛大に生長す——是れ「大なる者壮盛」。卦徳より見れば乾剛は下にあり震動は上にあり——これこそ其の壮なる所以の縁由。卦体が講ずるは気勢の壮、卦徳が講ずるは道理の壮——両句とも卦名の含義を釈するに用う。《彖伝》またいう。「大壮利貞は、大なる者正なり。正大にして天地の情見るべし。」いわゆる「大」と称しうる所以は、まさに其れ「正」なればこそ。陽は正・陰は邪、陽は大・陰は小。若し正ならざれば、亦た大と算しえず。天地は覆載せざるなく生成せざるなし——其の実情は「正大」の二字に過ぎず。「大なる者正」の「大」の字は陽爻を指し、下句の「正大」の両字は道理に就いていう。ここはまた復卦と対看すべし。復卦は雷地中に在り、天地生物の机括は未だ顕露せず——其の中より天地之「心」を見るべし。大壮は雷天上に在り、天地生物の心は已に暢達す——其の中より天地之「情」を見るべし。
象曰:雷在天上,大壯。君子以非禮勿履。人之克己,能如雷在天上,則威嚴果決,非禮在所必去矣。曰勿履,猶禁止之辭;弗,則自不為矣。雷在天上,聲勢之壯;非禮弗履,義理之壯。
《大象伝》にいう。「雷天上に在り、大壮。君子以て礼に非ざれば履(ふ)む勿れ。」人が自らを克制するに、能く雷の天上に震响するが如く威厳果断なれば、凡そ礼に合せざるものは必ず除き得る。経文は「履む勿れ」と説き、なお禁止の口気を帯ぶ。若し改めて「履まざれ」と説かば、則ち自然而然に為さざるなり——境界さらに一層進む。雷は天上に在り——是れ声勢上の壮。礼に合せざる事は一歩も踏まざる——是れ義理上の壮。君子の要とする所はまさに後の一種の壮なり。
初九:壯于趾,征凶有孚。初陽在下,當壯時而急於進,有壯于趾之象。征凶有孚,言進必取凶也。此以剛居剛,剛之過者也。象曰:壯于趾,其孚窮也。言必困窮。九二:貞吉。以陽居陰,非正也,然所處得中,不恃其剛,使因中求正,非禮弗履,則吉矣。王注謂居中得位(文瀾本作「居得中位」)以陽居陰,履謙不亢,是以貞吉,亦通。象曰:九二貞吉,以中也。中則不恃壯妄進也。
初九の爻辞。「趾(あし)に壮ん、征すれば凶孚(まこと)あり。」初九は陽爻にして全卦の最下に居り、まさに壮盛の時に当たりて急いで前に衝る——「趾に壮ん」の象あり。「征すれば凶孚あり」といえば、此の如く贸然として前進すれば、凶険を招来するは確鑿にして疑いなし。それは陽爻を以て陽位に居る——剛強頭を過ぐる類に属す。《小象伝》にいう。「趾に壮んなるは、其の孚窮まればなり。」必ず困窮に陷入せんの意。九二の爻辞。「貞吉。」九二は陽爻を以て陰位に居り、本より正を得ず。然れども処る所中を得、自らの剛強を倚仗せず。若し能く此の「中」を凭りて「正」を求め、凡そ礼に合せざる事は一概に為さざれば、則ち吉なり。王弼の注は解して曰く、九二は中に居りて位を得(文瀾本は此の句を「中位に居りて得」と作す)、陽爻を以て陰位に処り、謙退を践行して高亢せず——ゆえに貞正にして吉を得ると。陳夢雷は此の一説も講じ通ると以為す。《小象伝》にいう。「九二貞吉は、中を以てなり。」能く中を守れば、壮勢を倚仗して胡乱に冒進せず。
九三:小人用壯,君子用罔,貞厲。羝羊觸藩羸其角。罔,宜如不思則罔之罔,冒昧而進也。過剛不中,當壯之時,在小人用之以為壯,君子用之為罔而已。血氣之剛,無禮之勇,雖以九居三,正亦危矣。三四五為兌有羊象;三欲應上而隔於四,震為竹木,有藩象;陽剛欲進,有角象;為四所困,有羸象。此恃壯輕進而取困者也。象曰:小人用壯,君子罔也。小人之壯,非真壯也。在小人以為壯,在君子則不過冒昧妄行而已,其困不待言矣。
九三の爻辞。「小人は壮を用い、君子は罔を用う、貞なれど厲。羝羊藩に触れて其の角を羸(もと)す。」「罔」の字は《論語》「学びて思わざれば則ち罔し」の「罔」に照らして講ずべし——昏昧にして見る所なくして贸然として前進するを指す。九三は剛強頭を過ぎ且つ中に居らず、壮盛の時に処す。小人の手に在っては、此の股の気勁は壮と当てられる。君子の手に在っても、ただ一味の冒昧に過ぎず。血気の剛を凭り無礼の勇を逞しゅうす——たとえ陽爻を以て陽位に居り位置正と算すとも、照様危険なり。取象に就いていえば、三・四・五の三爻は互体に兌を為し、兌は羊の象あり。九三は上に上六に応ぜんと欲するも九四に隔断せられ、震は竹木——藩籬の象あり。陽剛は一味に進まんと欲す——羊角の象あり。九四に困住せられ——角の纏えらるる「羸」の象あり。これは壮勢を倚仗して軽率に冒進し自ら困頓を取る者なり。《小象伝》にいう。「小人壮を用うは、君子罔なり。」小人の彼の壮は真の壮に非ず。小人より見れば強を逞しゅうすと雖も、君子より見ればただ昏昧妄行——其の困境に陷入するは言うを俟たず。
九四:貞吉悔亡,藩決不羸,壯于大輿之輹。九四前二陰,震為大塗;附(文瀾本「附」作「互」)兌為附決,有潘決之象。輹,車之中乾也,輹壯則車強。四變坤,下乘三陽,有大輿壯輹之象。以陽居陰,疑於不正;所處非中,似乎有悔。然當壯之時,為壯之主,以剛居柔,行不違謙,不極其剛,不失其壯,故凡事得正則吉,悔可亡也。
九四の爻辞。「貞吉悔亡、藩決して羸(もと)らず、大輿(たいよ)の輹(ふく)に壮ん。」九四の前は六五・上六の二つの陰爻、上卦の震は大路を象徴す。さらに附兌の象を見れば(文瀾本は「互兌」と作す)、兌は附着を主どり毀折を主どる——ゆえに藩籬の衝き開かるる象あり。「輹」は車廂の下の横木。輹が壮実なれば車は結実す。九四は変爻すれば上卦坤を成し、坤は大車——其の下また三つの陽爻を駕(が)す。ゆえに「大車にして輹壮」の象あり。それは陽爻を以て陰位に居り、其の正を得ざるに似る。処る所また中位に非ず——悔恨あるべきに似る。然れどもまさに壮盛の時に当たり、それは全卦の壮勢の主爻にして、剛健の質を以て柔順の位に居り、行事は謙退に背離せず。剛を極処に用いず、また其の壮を失わず——ゆえに凡事正に合すれば則ち吉、悔恨もまた消ゆべし。
所以然者,前臨二陰如藩之決,無阻隔之勢;後乘三陽,如輹之壯,有大行之具也。貞吉悔,咸九四同,但在咸為不得其正,故有憧憧往來之戒;在壯又為不極其剛,所以有藩決不羸之喜也。又大畜九二在三陽之中,為六五正應所畜,故有脫輹之象;壯則九四在三陽之上,六五陰勢方衰,故有壯輹之象也。
此の如くなる所以は、其の前に二つの陰爻に臨み、藩籬すでに衝き開かれ前路再び阻隔なきがごとく。後にはまた三つの陽爻を駕し、車輹壮実なるがごとく、遠行の凭藉を具備せり。「貞吉悔亡」此の句は咸卦の九四と同じ(底本はここ「悔」の下一箇の「亡」の字を脱する疑いあり)。然れども咸卦の中では九四其の正を得ず——ゆえに「憧憧往来」の告誡あり。大壮の中では則ち其れ剛を極処に用いざるが故に、かえって「藩籬衝き開きて角纏えられざる」の喜慶あり。さらに大畜を取りて対照す。大畜の九二は三陽の中に挟まれ、正応たる六五に畜止せられ——ゆえに車輹脱落の象あり。大壮の九四は則ち三陽の上に踞(すわ)り、六五の陰勢まさに衰退す——ゆえに車輹壮実の象あり。同じく「輹」を取りて象とすれども、吉凶は全く処する位勢を看る。
象曰:藩決不羸,尚往也。九二但能自守而已,四則可以往矣。六五:喪羊于易,無悔。全卦似兌,多取象於羊。羊性牴觸,外柔內剛。五又互兌,有羊象。易,宜作疆場之場。卦以陽盛名大壯,而六五無陽,以柔居尊,不能牴觸,或失其壯,有喪羊于易之象。然陽勢方盛,陰柔不敵,理之宜也,故亦得無悔。
《小象伝》にいう。「藩決して羸らずは、往くを尚(たっと)べばなり。」九二はただ自らを守り得るのみ、九四はすでに手を放して前行しえたり。六五の爻辞。「易(えき)に羊を喪(うしな)う、悔なし。」大壮全卦の外形は兌卦に近似す——ゆえに多く羊を以て象を取る。羊の性は抵触を好み、外表柔順にして内里剛硬。六五また互体兌の中に処る——故に羊象あり。「易」の字は疆場の「場」と読むべし——田畔の牧地を指す。此の卦は陽気の盛壮を以て名を得れども、六五は陰爻にして陽剛を帯びず。柔順を以て尊位に居り、抵触を起こしえず——自らの彼の壮勢を丟(す)てたるに等し。ゆえに「牧場に羊を喪う」の象あり。ただ陽の勢いまさに盛んにして、陰柔はもとより敵しえず——これは情理上応有の結果。ゆえに仍お悔恨なきを得。
象曰:喪羊于易,位不當也。以陰居陽,又在尊位,過於畏縮,宜有所喪。上六:羝羊觸藩不能退,不能遂,無攸利,艱則吉。全卦有羊象,壯終動極,有觸藩不能退之象;質柔非壯,有不能遂之象;猶幸不剛,不敢妄進,有艱難自守之象;一變為大有,有終得吉之象。蓋以柔居剛,不能剛而強為剛,則無利;若能量己詳審,猶可得吉也。
《小象伝》にいう。「易に羊を喪うは、位当たらざればなり。」六五は陰爻を以て陽位に居り、また身は尊位に在り、畏縮退讓に過ぐ——理当たりて喪失あるべし。上六の爻辞。「羝羊藩に触れて退く能わず、遂げる能わず、利ある所なし、艱なれば則ち吉。」全卦に羊象あり。上六は壮の終点・動の極処に処る——ゆえに公羊の藩籬に撞(つ)き入りて退き出られざる象あり。其の体質は陰柔、本より壮に非ず——ゆえにまた前進成らざるの象あり。幸いに其れ剛ならず、胡乱に冒進するを敢えてせず——因りて艱難の中に自守するの象あり。上六一たび変ずれば全卦すなわち大有を成す——ゆえに最終に吉を得るの象あり。要するに、陰柔を以て剛位に居るは、本より剛と為りえざるに硬に剛を装えば、何の好処かなきなり。若し能く己を衡量し審慎詳察せば、なお吉を得べし。
象曰:不能退不能遂,不詳也;艱則吉,咎不長也。質本非剛,見剛之壯亦從之,不詳審故也。艱難自守,久則變矣,故雖有咎不長也。臨三變泰,大壯上變大有,故咎皆不長也。
《小象伝》にいう。「退く能わず遂げる能わざるは、詳ならざればなり。艱なれば則ち吉は、咎長からざればなり。」上六の本質はもとより剛強ならず、陽剛の一路壮盛なるを見て、便ち随いて熱鬧を湊(あつ)める——これは審慎詳察を肯ぜざる故なり。それ若し能く艱難の中に自らを守れば、日子久しければ局面は自ら転変す——ゆえに過失あれども拖長せず。此の一層は臨卦と対看すべし。臨卦の六三は一変すれば則ち泰卦を成し、大壮の上六は一変すれば則ち大有卦を成す。両処とも「咎長からず」といえば、道理はまさに爻変の後、亨通に転向するに在り。
全卦當陽壯之時,必以正得吉,不正則雖壯不可恃也。六爻又皆以不恃壯者為吉,人未有違謙越禮能全其壯者也。故方壯之始,宜如二之貞吉,不宜如初之壯趾;方壯之盛,宜如四之決藩,不宜如三之羸角。居壯之位,無壯之才,因不免於有喪;處壯之極,有不敢恃壯之心,庶幾其終得吉。君子但當以正大為心,不宜以用罔取困也。
陳夢雷総論す。全卦は陽气壮盛の時に処り、必ず正を守るを凭りてこそ吉を得る。正ならざれば、たとえ壮盛なりとも倚り難し。六爻また一律に「壮勢を倚仗せざる」を以て吉と為す——従来、謙退に背離し礼法を越出して自らの壮盛を保全しえた者なし。ゆえに壮勢剛(まさ)に起こる階段には、九二の如く正を守りて吉を得べく、初九の如く趾に壮んで乱衝すべからず。壮勢最も盛んなる階段には、九四の如く藩籬を衝き開くべく、九三の如く羊角を籬上に纏死せしむべからず。六五に至っては、壮の位置に身居すれども壮の才具なし——ここに喪失あるを免れず。上六は壮の尽頭に処れども、幸いに壮勢を倚仗せざる心を存し、かろうじて終に吉を得るを望みえたり。君子はただ「正大」の二字を心上に置くべく、九三の如く昏昧妄行して自ら困頓を取るべからず。
晉の卦
晉。晉卦,下坤上離。日出地上,進而益明。以綜卦言之,明夷之離在下,今則進而上行,故為晉。不言進而言晉者,進但有前進之義,無明之義,晉則進而光明故也。晉次大壯。按,《序卦》:物不可以終壯,故受之以晉。晉者,進也。既壯無止,理必進,以至於極。晉所以次大壯也。
晉の卦は下卦が「坤」、上卦が「離」。太陽は地面より升り出(い)で、前進するほどに光明なり。相綜の卦より見れば、明夷卦の離は下卦に在り、今は離進みて上卦に升る——ゆえに「晉」と曰う。「進」と言わず「晉」と言うは、「進」にただ前に行くの意のみありて光明の意を含まず、「晉」は辺りに進み辺りに光を放つなれば。晉卦は大壮の後に立つ。《序卦伝》にいう。「物は終に壮すべからず、故に受けて晉と為す。晉は進なり。」すでに壮盛なれば停まらず、理の上で必ず引き続き前進し、一直に進みて極処に至る——ゆえに晉は大壮の後に接ぐ。
全彖取方盛明之時,以坤順之臣,上接離明之君,而君復以柔進居尊,是以有功臣受寵之象。六爻以五為主,專取柔進之義。五自下而升,已進者也,故往吉無不利。下三爻皆欲進者,九四以剛間之,故有鼫鼠之象。三與五近,下接二柔,志在上行,眾莫能間,故悔亡。二去五漸遠,憂不得進,故愁。初最遠於五,應四反為所抑,故摧。上居卦之窮,無可進矣,故有吉而不免於吝。此全卦六爻之大略也。
整篇卦辞の取る所は光明正盛の時。坤の如き柔順なる臣子を以て、上に離の如き明叡なる君主を承接す。而して此の君主また陰柔を以て上行し尊位に据わる——ゆえに功臣寵を受くるの象あり。六爻は六五を主と為し、専ら「柔順上進」の意を取る。六五はもとより下より上に升り来たる——すでに進みて位に至れる類に属す。ゆえに「往けば吉、利あらざるなし」という。下の三爻は皆上進せんと欲すれども、九四は陽剛を以て中間に横たわりて挡(ふさ)ぐ——因りて「鼫鼠(せきそ)」の象あり。六三は六五に近く、下また二つの陰爻を連ね、一心に上に向かい衆人これを挡き得ず——ゆえに「悔亡」。六二は六五より漸く遠し、進み得ざるを憂う——ゆえに「愁」。初六は六五より最も遠く、九四に応ずるもかえって壓抑せらる——ゆえに「摧」。上九は全卦の尽頭に処り、再び進むべくもなし——ゆえに吉なれども少許の可惜を免れず。これが全卦六爻の大致なる脈絡なり。
晉。康侯用錫馬蕃庶。晝日三接。晉,進也。康侯,能致一世於康寧之侯也。錫馬蕃庶,言受賜之多;畫日三接,言親禮之至也。坤有土有民,有康侯象;坤為牝馬為眾,有錫馬蕃庶象;離為日為中虛,坤為眾為文,有畫日三接之象。全卦明出地上,為盛明之時,坤順附於離明,則君臣道合。六五柔中虛己之君,當明盛之時,臣以功進,君以恩接,故禮遇之隆如此。占者得之,有是德者,宜受是寵也。
卦辞。「晉。康侯馬を錫(たま)うを用いて蕃庶(はんしょ)、昼日三たび接せらる。」「晉」は前進。「康侯」は能く一世を安定康寧せしむる諸侯を指す。「馬を錫う蕃庶」は受くる所の賞賜極めて多きをいう。「昼日三たび接せらる」は一日の内に三度接見せられ、君主の親近礼遇極処に至るをいう。取象に就いていえば、坤は土地あり民衆あり——故に諸侯の象あり。坤は牝馬・衆多——故に賜馬成群の象あり。離は太陽・中間一画虚、坤は衆・文飾——故に白日の内に三度接見の象あり。全卦は光明地面に升り出で、まさに昌明鼎盛の時に当たる。坤の柔順は離の明叡に依附す——すなわち君臣の道相契合す。六五は陰柔中に居り虚心にして下を待つ君主——此の明盛の時に当たり、臣子は功労を凭りて上進し、君主は恩礼を以て相待つ——ゆえに礼遇の隆重此の地步に至る。占者此の卦を得れば、ただ真に此の如き徳行あれば、此の如き恩寵を承受すべし。
彖曰:晉,進也。釋卦名義。明出地上,順而麗乎大明,柔進而上行,是以康侯用錫馬蕃庶,晝日三接也。以卦象言之,以離乘坤,明出地上,此賞罰清明之時也;以卦德言之,坤順麗乎離明,順德之臣附於大明之君也;以卦綜言之,明夷下卦之離,進而為上卦之離,柔中此虛己之君也。康侯遇是時,有是德,遇是君,是以有用錫馬蕃庶畫日三接之象也。
《彖伝》にいう。「晉は進なり。」此の一句は卦名の含義を釈す。《彖伝》接いでいう。「明地の上に出(い)づ、順にして大明に麗(つ)き、柔進みて上行す、是を以て康侯馬を錫うを用いて蕃庶、昼日三たび接せらるなり。」卦象より講ずれば、離は坤の上に駕し、光明は地面に升り出づ——これは賞罰清明の時。卦徳より講ずれば、坤の柔順は離の明叡に依附す——これは順徳ある臣子の大明の君主に帰附するなり。卦綜より講ずれば、明夷卦下卦の離は上行して、晉卦上卦の離と変る——六五は陰柔中に居り、まさに虚心にして下を待つ君主。康侯は此の如き時勢に赶上(あ)い、此の如き徳行を具備し、此の如き君主に遇上(あ)う——ゆえにこそ「馬を賜うて群を成し、一日に三接」の象あり。
象曰:明出地上,晉。君子以自昭明德。日本明也,然入地則晦,出地則明矣;人之德性本明也,物慾蔽之則昏,自強不息則昭矣。至健莫如天,君子以之自強;至明莫如日,君子以之自昭。《程傳》專就去蔽致知言之,然兼力行言亦可,蓋此即《大學》所謂明明德也。
《大象伝》にいう。「明地の上に出づ、晉。君子以て自ら明德を昭(あき)らかにす。」太陽は本来明亮なれども、地下に沈入すれば昏暗、地面に升出して始めて顕明なり。人の徳性も本来明亮なれど、物欲に遮蔽せられれば昏昧、能く自強して息まざればこそ彰顯す。最も剛健なるは天に過ぎず——君子はそれを取りて自強す。最も光明なるは日に過ぎず——君子はそれを取りて自昭す。程頤《伊川易伝》の此の句を解するは、専ら「遮蔽を去り、知識を推致す」の上より講ず。陳夢雷は兼ねて「切実に践行す」の上より講ずるも未だ不可ならずと以為す——これはまさに《大学》のいう「明德を明らかにす」なれば。
初六:晉如摧如,貞吉,罔孚,裕,無咎。居初應四,欲進者也。但所居既不中正,所應又不中正。四互二三為艮為止,有在下始進而見摧抑之象;與四正應,貞吉之象;互坎為狐疑,罔字之象;坤土寬廣,初在下,有寬裕無咎之象。蓋當卑下之位,使以人之未信而慼慼不能自安,則有咎矣。故摧如在彼,吾不可以不貞;罔字在彼,而吾不可以不裕。蓋初以陰居陽非正,故戒以唯貞則吉;才柔志剛非裕,故戒之以唯裕則無咎。此君子之受抑而守正,以俟時者也。
初六の爻辞。「晉(すす)む如く摧(くじ)かるる如し、貞吉、孚(まこと)なし、裕(ゆた)か、咎なし。」初六と九四は相応ず——上進せんと欲するなり。然れどもそれ自身は中にも居らず位にも当たらず、所応の九四も同じく中にも居らず位にも当たらず。九四と二・三は互体に艮を成し、艮は止を主どる——ゆえに「剛(まさ)に上進せんとするや摧折壓抑せらる」の象あり。それと九四は正応——故に正を守りて吉を得るの象あり。互体また坎あり、坎は猜疑を主どる——まさに「孚なし」すなわち信任せられざるの象。坤は大地、広濶寛厚、初六はまた最下に在り——ゆえに寛裕从容にして咎なからんの象あり。知るべし、人卑下の位に処し、若し人の未だ己を信任せざるを以て憂愁して坐臥安からざれば、それこそ真に過錯を招来せん。ゆえにいう、摧折壓抑は人の我に加うる所、我は此を以て正を守らざるべからず。信任せられざるもまた人の那辺の事、我は此を以て寛裕ならざるべからず。初六は陰爻を以て陽位に居り、本より正を得ず——ゆえにただ正を守ってこそ吉と誡む。其の才質柔弱にして心志刚急、本より寛裕ならず——ゆえにただ寛裕なればこそ咎なしと誡む。これが写すはまさに君子壓抑を受けてなお正を守り、静かに時機を候(ま)つ様なり。
象曰:晉如摧如,獨行正也;裕無咎,未受命也。獨行正,言雖摧不可失其正也。寬裕以處,何以無咎,以未受君命,無官守言責故也。若已受命而不見信,則一日不可居矣,安得寬裕以曠其官乎。初居最下,應四不應五,有未受命之象。
《小象伝》にいう。「晉む如く摧かるる如しは、独り正を行けばなり。裕かにして咎なきは、未だ命を受けざればなり。」いわゆる「独り正を行く」は、たとえ摧折せられとも、己の正を丟失すべからずといえり。寛裕自処するが何を以てか咎なからんや。此の時未だ君主の任命を受けず——すでに官職の責守なく、また進言の職責なし。もし已に命を受け職に在りて信任せられざれば、則ち一日も再び留まるべからず——何ぞ寛裕从容・白(むな)しく位子を占めて事を為さざるを談ぜんや。初六は全卦の最下に居り、所応は九四にして君位の六五に非ず——まさに「未だ命を受けず」の象あり。
六二:晉如愁如,貞吉,受茲介福,于其王母。二與五非正應,三四五互為坎為加憂,故有欲進而愁之象。然二居中得正,故許以貞吉。又五以陰居柔尊,有王母之象;上下同德,亦有受福之象。二不以應之有無為吉凶,而以在我不失其正為吉,故始雖若愁如,而終乃受福也。初與二,進身之始,皆言貞吉。初未有貞,言貞,勉之也;二本貞,因其貞而欲其固守之也。聖人慾人始進之必以正也如此。
六二の爻辞。「晉む如く愁(うれ)うる如し、貞吉、此の介福(かいふく)を受く、其の王母に于(お)いて。」六二と六五は同じく陰爻、正応に非ず。三・四・五は互体に坎を成し、坎は憂愁を主どる——ゆえに上進せんと欲して発愁する象あり。然れども六二は下卦の中に居りまた位に当たる——ゆえに「貞吉」を許す。さらに六五は陰爻を以て尊位に居る——「王母」すなわち女性尊長の象あり。上下同じく柔順の徳——因りてまた大福を承受する象あり。六二は正応あるなしを以て吉凶の根拠と為さず、ただ己が正を失わざるを以て吉と為す——ゆえに初めは愁うるに似るも最終には福を得る。初六と六二は皆進身の開頭に処り、爻辞は皆「貞吉」という。初六は本より貞と談ずるに及ばず、「貞」というはそれを勉励す。六二は本より貞、「貞」というは其の貞に順いてそれに牢牢として守らしむ。聖人の人の一たび出仕すれば必ず正路を走らんことを望むや、用心の細密此の地步に至る。
象曰:受之介福,以中正也。二本中正,與初不同,故得言受福也。六三:眾允,悔亡。三不中正宜有悔,然居坤體之上,與下二陰皆欲上進,是以為眾所允而悔亾也。坤為眾,有眾象;順之極,有允象。居下之上,眾陰之長,康侯之謂也。從此上進,則麗乎大明矣,故無摧愁之象,而不中正之悔可無也。
《小象伝》にいう。「此の介福を受くるは、中正を以てなり。」六二は本より中に居り位に当たり、初六の情形と同じからず——故にこそ福を受くを談じえたり。六三の爻辞。「衆允(ゆる)す、悔亡。」六三は中にも居らず位にも当たらず——本より悔あるべし。然れども坤体の最上の一位に処り、下の二つの陰爻と同じく上進せんと欲す——因りて衆人の認同を得、悔恨もすなわち消ゆ。坤は衆——故に「衆」の象あり。柔順極処に至る——故に「允」すなわち認可の象あり。それは下卦の上に居り、衆陰の長なり——卦辞のいう「康侯」はまさに此の一爻を指す。ここよりさらに上に進めば、上の大明の君に依附す——ゆえに初六の「摧かる」が如き、六二の「愁う」が如き象なく、連ねて不中不正の帯ぶる悔恨もまたなしとしうる。
象曰:眾允之志,上行也。上附於大明之君也。九四:晉如鼫鼠,貞厲。九四互二三為艮,有鼠象。不中不正而居高位,三陰上進而己間之,貪位而忌能者。鼫鼠,田間食粟豆者,貪而畏人者也。其象如此,雖正亦危,況不正乎。
《小象伝》にいう。「衆允の志は、上行なり。」六三の衆人の認同を得る所以は、其の志向が上の大明の君に帰附するに在るが故。九四の爻辞。「晉むこと鼫鼠の如し、貞なれど厲。」九四と二・三は互体に艮を成し、艮は鼠——ゆえに鼠象あり。それは中にも居らず位にも当たらずして高位に身を処し、下の三つの陰爻は上進せんと欲するも、偏にそれに中間に横たわりて挡かる——あれは権位を貪恋して賢能を妒忌する者なり。「鼫鼠」は田間に粟豆を偸(ぬす)み喰う大老鼠、嘴を貪りてまた人を懼る。其の形象すでに此の如し——正を守るもなお危険、況んや本より正ならざるをや。
象曰:鼫鼠貞厲,位不當也。不中不正,以間柔進之三陰,皆不當也。六五:悔亡,失得勿恤,往吉無不利。以陰居陽宜有悔矣,然以大明在上,下皆順從,故悔可亡也。當進之時,易生得失之心;大明之中而才柔,易有得失之累,故戒以勿恤。言但當用其明於所當明,去其一切計功謀利之心,持此以往,自吉而無不利也。
《小象伝》にいう。「鼫鼠貞厲は、位当たらざればなり。」九四は中にも居らず位にも当たらずして、さらに往きて三つの柔順上進の陰爻を阻隔す——処々皆妥当ならず。六五の爻辞。「悔亡、失得恤(うれ)う勿れ、往けば吉利あらざるなし。」六五は陰爻を以て陽位に居る——本より悔あるべし。然れどもそれは大明の徳を以て高く上に居り、下の各爻は一概に順从す——ゆえに悔恨は消ゆべし。上進の時に当たり、人は最も得失を計較する心を生じやすし。六五は大明の中位に処れども、才質柔弱——さらに得失に牽累せられやすし。ゆえに爻辞はそれを誡めて「恤う勿れ」、掛慮するに及ばずとす。意はいう——ただ己の明叡を明察すべき所に用い、一切の功労を算え私利を謀るの心思を去るべし。此の如き態度を抱きて前行せば、自然吉利にして利あらざるなし。
三陰為四所間,有失象;終與五合,有得象;離火無定體,或得或失之象;互坎加憂,恤之象;五變不成坎,勿恤之象;變乾健行,往吉之象。五柔疑於進,故勉以往吉。失得勿恤者,立心宜然;吉無不利,又理勢之必然也。
さらに取象の上より見れば、下の三つの陰爻は九四に隔断せられ——「失」の象あり。それらは最終に六五と会合す——「得」の象あり。離は火に属し固定の形体なし——まさに或得或失の象。互体に坎あり、坎は憂を主どる——是れ「恤」すなわち掛慮の象。六五は変爻の後再び坎を成さず——すなわち「恤う勿れ」の象。変後は乾を成し、乾は健にして行く——すなわち「往けば吉」の象。六五は陰柔、上進に対して遅疑を免れず——ゆえに爻辞は「往けば吉」を以てそれを勉励す。「失得恤う勿れ」が講ずるは立心は当に此の如くあるべし、「吉にして利あらざるなし」は則ち情理と形勢の必然の結果なり。
象曰:失得勿恤,往有慶也。心惟無私,乃自有慶。有純王之心,乃有純王之化也。上九:晉其角,維用伐邑,厲吉無咎,貞吝。角,剛而居上者也。上九剛進之極,有晉其角之象。應三坤為土,有邑象;離為戈兵,有伐之之象。剛躁之極,他無可用,惟以伐其私邑。過剛雖不無危厲,然以陽制陰,有必勝之勢,故吉而無咎。但離明在上,所照不遠,僅治小邑,則雖正亦吝矣。他卦皆取扶陽抑陰,此獨不足於剛。
《小象伝》にいう。「失得恤う勿れは、往けば慶あればなり。」心中ただ私念なからしめば、福慶は自然に随いて来たる。純粹なる王者の存心あればこそ、純粹なる王者の教化あり。上九の爻辞。「其の角に晉(すす)む、維(こ)れ邑を伐(う)つに用ゆ、厲なれど吉咎なし、貞なれど吝。」「角」は剛硬にして最も上頭に長ずるもの。上九は剛強上進極処に至る——ゆえに「角に進む」の象あり。其の応ずる所の六三は坤に属し、坤は土地——城邑の象あり。上卦の離は戈矛兵器——征伐の象あり。剛強躁急極処に至れば、他の用処は皆談ずるに及ばず——ただ自家の私邑を討伐するに用いうるのみ。過剛は難免幾許かの危険あれども、陽を以て陰を制すは必勝の勢あり——ゆえに吉利にして咎なし。ただ離の光明は高く上に懸り、照らすこと遠からず——僅かに一座の小邑を治理するに足る。然らばたとえ正を守るもなお可惜なり。他の卦は多く陽を扶け陰を抑す——此の一卦のみかえって剛の頭を過ぐるを嫌う。
四有鼫鼠之厲,上有貞吝之戒,所以然者,卦取柔進上行,離明以柔為主故也。象曰:維用伐邑,道未光也。離體光明,今不能光被天下,而僅治一邑故也。全彖當明盛之時,有功德之臣,以柔順受寵於離明之君,晉道之盛者也。君子難進易退,故六爻宜柔而不宜剛。遯尾厲,惡其後也;晉其角厲,惡其先也。晉角之躁、鼫鼠之貪,皆以剛而失者也。
九四に「鼫鼠」の危厲あり、上九に「貞吝」の告誡あり。此の如くなる所以は、此の一卦は柔順上進の路子を取り、離の明叡また陰柔を主とするが故。《小象伝》にいう。「維れ邑を伐つに用うるは、道未だ光ならざればなり。」上九は本より離体に属し元来光明あり、今は光輝を天下に普照する能わず、ただ一座の城邑を治理するに足るのみ——ゆえに其の道は未だ光大せずという。整篇卦辞を総観す。まさに昌明鼎盛の時に当たり、功徳ある臣子は柔順の徳を以て明叡の君主の寵を受く——これは「晉」の道の最も盛んなる様。君子は進取に難しとして退讓に易し——ゆえに六爻は柔を宜とし剛を宜とせず。遯卦の初六「遯尾」に危厲あるは、其の後頭に落つるを嫌う。晉卦の上九「其の角に晉む」に危厲あるは、其の前頭に搶(うご)くを嫌う。晉角の躁急・鼫鼠の貪婪は、皆剛の頭を過ぎて当を失するが故なり。
四陰爻,則在上者宜有得失勿恤之心,人自進附於我;在下者宜有寬裕貞正之守,我乃可進而受寵於君。故未受命則以裕而無咎,已受命者則以貞而受福,而居下之上者,亦必由信友而獲上。凡以柔進上行,道宜如此也。又按,需卦九五一陽在位,三陽在下卦反為需;晉則以陰居五,三陰在下卦乃為晉。則君子宜以剛德自強,而進退之際,宜柔順不宜剛躁,以可見矣。
さらに四つの陰爻を見れば、上位に居る六五は、「得失皆掛慮せず」の心を存すべし——人は自ら主動して来り帰附せん。下位に居る初・二・三は、「寛裕にして貞正」の分際を守るべし——然る後にこそ上進して君の寵を受くるを得ん。ゆえに未だ命を受けざる初六は、寛裕を凭りて咎なからん。已に命を受けたる六二は、正を守るを凭りて大福を承受す。而して下卦の上に居る六三もまた、必ず先ず同輩の信を取り、然る後に上の支持を獲得せねばならず。凡そ柔順の徳を以て上に向かって推進するは、道理皆当に此の如くあるべし。陳夢雷また按ず。需卦は九五の一陽爻尊位に在り、三つの陽爻は下卦に在りて、かえって「需」を成し——ただ等待するのみ。晉卦は陰爻五位に居り、三つの陰爻は下卦に在りて、かえって「晉」を成し——能く上進す。見るべし、君子は固より剛健の徳を以て自強すべけれども、進退取舍の際に在っては、柔順を取るを宜として剛躁を宜とせず——此の一層はここより看て明らかなり。
明夷の卦
明夷。明夷,下離上坤。是入地中,明傷而暗。以人事言之,則昏君在上,明者見傷之時也,故為明夷。明夷次晉。按,《序卦》:晉者,進也。進必有所傷,故受之以明夷。進之不已,必有所傷,理自然也。明夷所以次晉也。
明夷の卦は下卦が「離」、上卦が「坤」。太陽は地中に沈入し、光明は損傷を受けて昏暗に転ず。人事に就いて講ずれば、昏庸の君主が高く上に居り、明智の人がかえって傷害を遭う時、ゆえに「明夷」と曰う——「夷」はまさに傷の意。明夷は晉卦の後に立つ。《序卦伝》にいう。「晉は進なり。進めば必ず傷く所有り、故に受けて明夷と為す。」ひたすら前に進みて止まるを肯ぜざれば、必ず碰(ぶつ)かり傷く——これは自然の理。ゆえに明夷は晉の後に接ぐ。
全彖言處明夷之道,在艱難而不失其正。文王箕子,後世之法也。然以二體言之,則離明為坤暗所傷;以六爻言之,則上一爻為暗君,下五爻皆為所傷。初去上最遠,垂翼而已;二傷股則害已深,而居中去上猶遠,故猶可拯也;三與上應,則以明而能去其暗者矣;四已入暗而淺,猶有可去之道;五則迫逐受傷,惟有自晦而已。此處明夷,隨其遠近淺深不同如此。
整篇卦辞の講ずるは明夷の世に身を処するの弁法——艱難の中に己の正を丟失せざること。周文王と箕子は、すなわち後世の取法する榜様なり。若し上下両体より見れば、離の光明は坤の昏暗に傷られ、若し六爻より見れば、最上の一爻は昏暗の君主にして、下の五爻は皆傷害を受くる人。初九は上六より最も遠く、ただ翅膀を垂れて避くるのみ。六二は大腿に傷き、損害すでに浅からず——然れども中に居りて上六より未だ遠し、ゆえになお救援しえたり。九三は上六と相応ず——光明を凭りて昏暗を去りうる人。六四はすでに昏暗に入るも未だ深からず、なお身を抽きて去るの路子あり。六五は逼迫追逐せられて傷き、ただ自ら晦を蔵するの一路のみ残る。見るべし、明夷の世に処るは、各人禍源よりの遠近・傷くことの深浅によりて、弁法もまた各々同じからず。
明夷。利艱貞。以全卦言,日入地中,明而見傷;以六爻言,下五皆為上六所傷。占者得此,在艱難委曲以守其正,亦以自晦其明也。不必專指六五一爻。彖曰:明入地中,明夷。離日在坤地之下,此以卦象釋卦名也。
卦辞。「明夷、艱貞に利し。」整卦より講ずれば、太陽は地中に沈入し、光明は損傷に遭う。六爻より講ずれば、下の五爻は皆上六に傷らる。占者此の卦を得れば、弁法は艱難の中に委曲求全して己の正を守り、同時に己の明智を收斂して蔵すること。此の一句は全卦を通説す——必ずしも専ら六五の一爻を指さず。《彖伝》にいう。「明地中に入る、明夷。」離の象徴する太陽は坤の象徴する大地の下に落つ——これは卦象を以て卦名を釈す。
內文明而外柔順,以蒙大難,文王以之。離明坤順,卦德如是。文王內有文明之德,不失其已;而外柔順以事紂,得免於禍,故雖見囚於紂而終得釋也。利艱貞,晦其明也。內難而能正其志,箕子以之。以六五一爻之義釋卦辭。內難,謂為紂近親,六五近於上六者也。文王箕子皆晦其明者,而箕子佯狂受辱,故艱貞於箕子尤切。象曰:明入地中,明夷。君子以蒞眾,用晦而明。自昭明德,以治己也;用晦而明,以治人也。不以察察為明,而寬容之中物情自照,用晦而明也。
《彖伝》にいう。「内は文明にして外は柔順、以て大難を蒙る、文王これを以てす。」下卦の離は明、上卦の坤は順——卦徳まさに此の如し。周文王は内に文明の徳を懐き、曾て己を失わず。外には則ち柔順を以て商紂に事え——因りて禍を免るるを得。ゆえに紂に羑里に囚せられといえども、最終にはなお釈放を得たり。《彖伝》またいう。「艱貞に利しとは、其の明を晦(くら)ませばなり。内難にして能く其の志を正くす、箕子これを以てす。」これは六五の一爻の意を以て卦辞を釈す。いわゆる「内難」は、身は紂の近親と為りて難に遭うを指し、まさに六五の上六に緊挨着く位置に対応す。文王と箕子は皆明智を蔵する人にして、箕子はさらに狂を装いて辱を受く——ゆえに「艱貞」の二字は箕子の身上に用うるに尤も貼切なり。《大象伝》にいう。「明地中に入る、明夷。君子以て衆に莅(のぞ)み、晦を用いて明らかなり。」晉卦の講ずる「自ら明德を昭らかにす」は、あれは自らを治理するに用い、ここに講ずる「晦を用いて明らかなり」は、人を治理するに用いる。事事を苛察するを以て明と為さず、寛容の中に人情事理をして自然に照見せしむ——これぞ「晦を用いて明らかなり」。
初九:明夷于飛垂其翼,君子于行,三日不食,有攸往,主人有言。離為雉,有飛鳥之象;在下見傷猶淺,有飛而垂巽之象。行、往,皆去也。主人,所之之地主我者也。君子見幾而作,行而三日不得食,然寧不食,不可以不行,行重於食故也。所往之地主我者,或訝其去之早然寧(文瀾本「早然寧」作「非宜、是」)主人有言,不可以不往。君子之獨見,非眾人所知也。《大全》以為伯夷太公之事,近之。
初九の爻辞。「明夷、飛ぶに于(お)いて其の翼を垂る、君子行くに于いて、三日食わず、往く所有り、主人言あり。」離は雉鳥——故に飛鳥の象あり。初九は最下に在り、受くる所の傷害なお浅し——故に飛びて翅膀を垂るるの象あり。爻辞の中の「行」と「往」は皆離去を指す。「主人」は其の往く所の地の彼の收留する人。君子は一たび苗头を見れば動身し、三日行きて飯を食いえず。然れども餓うを寧ろすとも、行かざるべからず——行くと行かざるとは飯を食うより緊要なれば。新しき地方に到りて、彼を收留する主人は或いは其の去ることの早きに詫り(文瀾本は此の句を「或いは其の去るの宜ならざるを詫る」と作す)、ここに主人に閑話あり。すなわち此の如しといえども、行かざるを得ず。君子の独到の見識は、本より衆人の理解しえる所に非ず。《周易大全》は伯夷・太公の紂を避くるの事を拿(も)って比附と為す——大致相近し。
象曰:君子于行,義不食也。去就以義,不食其實祿亦義也。六二:明夷,夷于左股,用拯馬壯吉。君臣一體,故明夷以人身取象。上為首而四腹心,二股肱也。二變為乾,有馬象。傷股,害於行矣;而左股,則傷未切。得馬之壯者,則救之速,可以去矣。蓋二較近於初,而猶有三四五之隔,故傷未甚而猶可救也。所謂吉者,得免而已,非可有為也。如文王賴散宜生有美女奇物之獻,以脫羑里之囚也。
《小象伝》にいう。「君子行くに于いては、義食わざればなり。」去と留とは義に取決せらる——彼の俸禄を食わざるも同じく義に出づ。六二の爻辞。「明夷、左股に夷(やぶ)る、拯(すく)うに馬壮を用いて吉。」君臣は本より一体、ゆえに明夷卦は人身を拿って象を取る。上六は頭、六四は腹心、六二は大腿手臂。六二は変爻すれば下卦乾を成し、乾は馬——故に馬象あり。大腿に傷くれば、行走を妨ぐ。ただ傷くるは左股、未だ切要と算せず。若し一匹の强壮の馬を得れば、救援は速く、なお身を脱きて去るべし。六二は初九に比し上六より稍々近し——然れども中間になお三・四・五の三爻を隔つ。ゆえに傷くること重しと算せず、仍お救い得て回らん。ここにいう「吉」は、ただ身を脱きて禍を免るるを得るのみ——有所作為すべしといえるに非ず。たとえば文王の散宜生の美女珍寶を進献するに倚りて、始めて羑里の囚禁を脱け出でたるがごとし。
象曰:六二之吉,順以則也。居中得正,二之則也。九三:明夷于南狩,得其大首,不可疾貞。離居南為戈兵,有南狩象;上失位而居最高,有大首象。九三以剛居剛,明之極而屈於至暗之下,正與上六為應,故有嚮明除害、得其首惡之象。以明伐昏似正矣,然此事間不容髮。天命已絕,則為獨夫;一日之間天命未絕,猶為天子,不可以為正,而急疾行之也。離性暴,故戒之。此湯武之事也。
《小象伝》にいう。「六二の吉は、順にして則(のっと)ればなり。」六二は中に居りて位に当たる——これが其の守る所の法則。九三の爻辞。「明夷、南狩(なんしゅ)に于いて、其の大首を得、疾く貞すべからず。」離は後天八卦に南方に居り、また戈矛兵器を象徴す——故に南方田猟の象あり。上六は位を失いて最高処に居る——故に「大首」すなわち首悪の象あり。九三は陽爻を以て陽位に居り、光明すでに極処に到るも至暗の者の下に屈居す。また上六と正相応ず——ゆえに光明に向かいて禍害を除去し首悪を擒(と)る象あり。光明を以て昏暗を討伐すは、正道に合するに似る——然れども此の事は分際毫髮の如く細し。天命若し已に断絶せば、彼の人はただの独夫民賊。ただ一天命未だ断絶せざるあらば、彼は仍お天子——自ら正と以為して急急に動手すべからず。離の性は暴烈、ゆえに爻辞は特に告誡す。これが写すは商湯・周武の彼の一類の事なり。
象曰:南狩之志,乃大得也。志在救命去害,非利天下也。必有湯武之志乃可也。六四:入于左腹,獲明夷之心,出於門庭。坤為腹。左者,隱僻之所,又右前而左後。六四隔六五,是五入其右,四入其左矣。四在坤體之下,四變互巽為入,有入于左腹之象。陰偶為門,互震為足為動,四柔而得正,居闇尚淺,有獲明夷之心出門庭之象。
《小象伝》にいう。「南狩の志は、乃ち大いに得ばなり。」其の志向は百姓の性命を拯救し禍害を除去するに在り、天下を據りて己利と為さんとするに非ず——必ず真に商湯・周武の如き心志あればこそ此の如く為しえたり。六四の爻辞。「左腹に入り、明夷の心を獲、門庭より出づ。」坤は腹。「左」は隠僻の所在、況んや方位上は右を前とし左を後とす。六四と上六の間は六五を隔つ——六五の入るは右辺、六四の入るは左辺に等し。六四は坤体の最下に処り、変爻すれば互体巽を成し、巽は進入——ゆえに「左腹に進入す」の象あり。陰爻は中間断けて两画を成し、門の象あり。互体に震あり、震は足・動。六四は陰柔にして位に当たり、昏暗の裏に陷りてなお深からず——ゆえに「明夷の主の心思を摸清(さぐ)りて門庭を走出る」の象あり。
《程傳》謂邪臣以隱僻結君心,而後行之於外也。按,卦以明見傷,邪臣得意,非明夷之義。《本義》謂得意而遠去,然大臣去國非得意之事。《大全》以微子之行遯言之。微子,紂至親,故知紂幽僻之事,至悉知其心意,決不可輔,故去之也。
程頤《伊川易伝》は此の一爻を解して、奸邪の臣は隠僻の手段を用いて君主の心を結住し、然る後に邪謀を外面に推行す、とす。陳夢雷の按語は反駁していう——此の一卦の講ずるは光明の傷害を受くること、若し奸臣の志を得ると講ずれば、則ち「明夷」の本義に合わず、と。朱熹《周易本義》は「其の心意を得て遠遠として離去す」と解す——然れども大臣の己の国家を離るるは、何の得意の事かあらん。《周易大全》は則ち微子の出走避禍を拿って此の一爻を講ず。微子は紂の至親——ゆえに紂の彼の幽暗隠僻の事を知ること最も清楚なり。徹底的に其の心思を看透し、絶対に再び輔佐すべからずと断定するに至りて、ここに決然として離去す。陳夢雷の取るはまさに此の一説なり。
象曰:入于左腹,獲心意也。凡人心腹中事難知,今入于左腹,已深知其心意也。六五:箕子之明夷,利貞。明夷以象暗主,高而失位者也,故於上九象君,而五不言君。然居坤之中,近至暗之主,同體而親,宗臣之象。以柔居中,陰居陽位,自晦其明者,故為箕子之象。以六居五,疑於不貞,故戒占者如箕子之貞乃可耳。彖言艱貞,此獨言貞者,蓋如箕子,則艱不待言矣。
《小象伝》にいう。「左腹に入るは、心意を獲ればなり。」人心の裏に深藏する事は最も摸清し難し——今はすでに深く「左腹」に入るは、すなわち彼の心思を徹底に摸透したるなり。六五の爻辞。「箕子の明夷、貞に利し。」明夷卦は最上の一爻を拿って昏暗の君主を象徴と為す——あれは位高くして其の位を失える人。ゆえに君主の象を上爻に安んず(底本はここ「上九」と作す)、六五は再び君位として講ぜず。六五は坤体の中に処り、至る昏暗の君主に緊挨着き、同体にして親近——まさに同宗大臣の象。それは陰柔を以て中に居り、また陰爻にして陽位に処る——己の明智を蔵する人なり。ゆえに箕子を取りて象と為す。陰爻を以て第五位に居るは、人をして它の必ずしも貞ならざるを疑心せしむ——ゆえに爻辞は占者を告誡して、箕子の如く正を守るこそ可なりとす。卦辞に「艱貞」という、ここにはただ「貞」のみいうは、箕子の如き処境は「艱」はすでに言うに及ばざれば。
象曰:箕子之貞,明不可息也。明可晦不可息者,若失其貞則明息矣。上六:不明晦,初登于天,後入于地。以陰居坤之極,有不明而晦之象。下五爻以明而受夷者,上則晦而夷人者也。上居高位而夷人,有登於天之象;終則自傷而墜厥命,有入於地之象。
《小象伝》にいう。「箕子の貞は、明の息(や)むべからざればなり。」明智は蔵晦すべけれども、熄滅すべからず。一旦貞正を丟失せば、彼の明智もまた熄滅す。上六の爻辞。「明ならず晦(くら)し、初め天に登り、後に地に入る。」上六は陰爻を以て坤体の極処に居り、昏昧にして明なく一片黑暗の象あり。下の五爻は明智ありてかえって傷害を受くる人、上六は則ち昏暗にして人を傷るに往く人。それは高位に身居して人を傷る——「初め天上に升る」の象あり。到頭して自ら其の身を傷り、天命を墜失す——「後に地下に落入る」の象あり。
象曰:初登于天,照四國也;後入于地,失則也。照四國,以位言之,言居其位宜有其明也。而後乃入於地,失其明,不足為四方之則也。六二受人之夷者,以順則而自全其明;上六夷人者,以失則而自墜厥命。《大全》以此爻為紂之事也。合全卦而論之,凡亂世君臣皆有此象。後人因商周之事有可擬合者,故因彖傳文王箕子之言、五爻箕子之占,因逐爻擬其人其事以明之。而聖人作易立教,初非以紀商周之事也。
《小象伝》にいう。「初め天に登るは、四国を照らせばなり。後に地に入るは、則を失えばなり。」いわゆる「四国を照らす」は、位次に就いていえり——彼の位置に居れば、本より之と相称の明德あるべく、四方の国を光照せん。然れども後にかえって地下に落入り光明を失い、再び四方の準則を充当するに足らず。六二は人の傷害を受くる一方——法則に順從するを凭りて己の明を保全せり。上六は人を傷害する一方——法則を丟失するに因りて自ら天命を墜失せり。《周易大全》は此の一爻を商紂の事と当てて講ず。全卦を合わせて見れば、凡そ乱世の裏の君臣は皆此の如き象あり。後人は商末周初の史事が恰好に比附すべきを以て、ここに《彖伝》の文王・箕子を提げたる話、および六五の「箕子の明夷」の占辞に順いて、逐爻それに某人某事を配上して説明と為す。其実、聖人の《易》を作りて教を設くるは、本来商周の史事を記載するためのものに非ず。
家人の卦
家人。家人,下離上巽。風自火出,有由家及外之象。又卦中二五有男正位乎外、女正位乎內之象。以六爻推之,有上父初子、五三夫四二婦、五兄三弟之象,故為家人。家人次明夷。按,《序卦》:傷於外者必反於家,故受之以家人。被傷於外必反於內,家人所以次明夷也。彖專言女而彖傳推之一家,內正而外無不正也。六爻內三爻多言女子之事,外三爻多言男子之事。其間內外剛柔皆有定位,所以為家道之善也。
家人の卦は下卦が「離」、上卦が「巽」。風は火の裏より生じ出づ——家内より家外に推及するの象あり。さらに卦中の九五・六二の两爻を見れば、まさに「男子は端正して外位に立ち、女子は端正して内位に立つ」の象あり。若し六爻によりて推衍せば、上九は父、初九は子、九五の六二に対し、九三の六四に対するは夫と婦、九五は兄、九三は弟——ゆえに「家人」と曰う。家人は明夷の後に立つ。《序卦伝》にいう。「外に傷る者は必ず家に反る、故に受けて家人と為す。」外面に傷を受ければ、必ず家中に返回す——ゆえに家人は明夷の後に接ぐ。卦辞は単に女子を説くも、《彖伝》は却って一家人に推広す——内里端正なれば、外面正ならざるなきが故。六爻の中、内卦の三爻は多く女子の事を講じ、外卦の三爻は多く男子の事を講ず。其の間内外剛柔は各々一定の位次あり——これはまさに家道の美善なる所以なり。
家人。利女貞。家人,一家之人也。九五居外,六二居內,男女正位之象;長女居上,中女居下,尊卑有序之象;四陽二陰,陽強陰弱,夫唱婦隨之象;二柔皆居柔位,執柔不敢抗之象;內明外巽,處家之象;自初至五皆貞,尊卑安於其分之象。而卦曰利女貞,女先正乎內也。八卦正位,離在二,巽在四。此卦長女位四,中女位二,女之貞也。正天下莫難於一家,一家莫難於一婦。一婦正則內正,而外無不正矣。
卦辞。「家人、女貞に利し。」「家人」はすなわち一家の人。九五は外卦に、六二は内卦に在り——男女各々其の正位を得るの象。上卦の巽は長女上に居り、下卦の離は中女下に居る——尊卑次序あるの象。四つの陽爻・二つの陰爻、陽強く陰弱し——丈夫唱導し妻子隨從するの象。二つの陰爻は皆柔位に踏む——柔順を執守し抗争するを敢えてせざるの象。内には明叡、外には遜順——家を持つの象。初爻より五爻に至るまで各々其の分に安んず——尊卑皆本分に安んずるの象。而して卦辞は偏に「女貞に利し」と説くは、女子は先ず内里を端正せしむべければ。八卦の正位に按ずれば、離の正位は第二爻に在り、巽の正位は第四爻に在る——此の卦は恰好長女四に居り中女二に居る、まさに女子各々其の正を得るなり。天下を端正せんとするに、最も難きは一家を端正す。一家を端正せんとするに、最も難きは一箇の婦人を端正す。一箇の婦人正ければ、内里則ち正し。内里正ければ、外面正ならざるなし。
彖曰:家人,女正位乎內,男正位乎外。男女正,天地之大義也。卦專言女,此兼言男。蓋男女內外俱正,乃為治家之道,故即卦中九五六二二爻而推言之也。家人有嚴君焉,父母之謂也。
《彖伝》にいう。「家人、女は内に正位し、男は外に正位す。男女正しきは、天地の大義なり。」卦辞はただ女子を説き、《彖伝》はここに男子を一併に説く。必ず男女・内外皆端正なるを以てこそ家を治むるの道と算す——ゆえに卦中の九五・六二の两爻に就きて推広して開きて講ず。《彖伝》接いでまたいう。「家人に厳君あらん、父母の謂なり。」一家の内にも威厳ある君長あり——それはすなわち父母。
嚴君,尊嚴之君長也。前既言男女之正,此又推本於父母之嚴。蓋父母者,一家之君長也。君長嚴則臣下肅,父母嚴則家道齊。必父母之嚴於其子,如君之嚴於臣,則倫理一定,上下截然整齊矣。或疑父嚴母慈而此皆稱嚴者,蓋母之不嚴則庇子弟之過,亂內外之別,家之不齊率由於此。
いわゆる「厳君」は、すなわち尊厳なる君長。上文すでに男女各々其の正を得るを説到し、ここにまた父母の威厳の上に追溯す。父母はまさに一家の君長なれば。君長に威厳あれば臣下こそ肃然たり、父母に威厳あれば家道こそ斉整たり。必ず父母の子女に対する厳は、君主の臣下に対する厳の如くあればこそ、倫理に定準あり上下に井然分明あり。或る人解せずして曰う——通常は父厳母慈という、何を以てここに父母皆「厳」と称するや。もとより母亲若し厳ならざれば、則ち子弟の過錯を包庇し、内外の分別を攪乱せん——一家の斉(ととの)わざる所以は、多半ここより来たる。
故亦稱嚴,正恐其過於慈也。此節《本義》謂亦指二五,然五剛二柔於嚴義未甚合。按,《大全》丘氏謂此卦內三爻女子之事,外三爻男子之事:初為人女,二為人妻,三為人母;四為人子,五為人夫,上為人父。三上皆剛,有合於嚴君之義。且前節言夫婦,此言父母,末又以六爻旁通,取象一家,意尤曲盡。
ゆえに母亲もまた「厳」と称すは、まさに其の慈愛の頭を過ぐるを怕(おそ)る。此の一節は朱熹《周易本義》は仍お六二・九五の两爻を指すと解す——然れども九五は剛、六二は柔、「厳」の意と配うること大いに上らず。陳夢雷の按語は《周易大全》の載する丘氏の説を引く——此の卦は内の三爻は女子の事を講じ、外の三爻は男子の事を講ず。初九は人の女と為り、六二は人の妻と為り、九三は人の母と為る。六四は人の子と為り、九五は人の夫と為り、上九は人の父と為る。九三と上九は皆陽剛——まさに「厳君」の意に合す。況んや上の一節は夫婦を講じ、此の一節は父母を講じ、末の一節はまた六爻を用いて旁通して一家に象を取る——層層照応して意は格外に周到なり。彼は此に因りて《本義》を舍てて丘氏の説を取る。
父父、子子、兄兄、弟弟、夫夫婦婦,而家道正。正家而天下定矣。上父初子,上下相去甚遠而其分嚴;五兄三弟,上下相去甚近而其情親;五夫四婦,三夫二婦,雖相比而亦未嘗無上下之分也。卦但言女貞,夫子即爻象旁通言外之意,而治家之道乃盡也。
《彖伝》にいう。「父父(ちちはちち)し、子子し、兄兄し、弟弟し、夫夫し、婦婦して、家道正し。家を正くして天下定まらん。」上九は父、初九は子——上下相距ること最も遠く、ゆえに名分最も厳なり。九五は兄、九三は弟——上下相距ること最も近く、ゆえに情意最も親なり。九五と六四、九三と六二は各々夫婦と為る——彼此緊挨着くといえども、未だ嘗て上下の分なからざるなり。卦辞はただ「女貞」を説きて、孔子は却って爻象に就きて旁推側引し、言外の意を発揮して出づ——家を治むるの道はここに至りてこそ講じ尽くせり。
象曰:風自火出,家人。君子以言有物而行有恆。火熾則風生。君子觀風火之象,知凡事由家而出,而家之本又在乎身也。脩身莫大於言行。言必有物,實而不虛;行必有恆,常而不變,則身修而家治矣。
《大象伝》にいう。「風火より出づ、家人。君子以て言に物ありて行に恒あり。」火は旺(さかん)に焼けば、風は隨いて之が生ず。君子は此の風火の象を観察し、便ち凡事は皆家の裏より生発して出去るを懂得し、家の根本はまた自身に在るを知る。身を修むるに言行より要緊なるはなし——話を説くには必ず実在の内容あるべく、実処に落到して空浮ならざるべし。事を行うには必ず常度あるべく、穩定して揺揺(ゆらゆら)せざるべし。此の二条を做到せば、自身修まりて家もまた治まらん。
初九:閒有家,悔亡。離體中虛有家象;變艮為門為止,有防閒之之象。凡事謹始,初之時當閒,而九之剛明能閒之。蓋離則有先見之明,陽剛則有威如之吉。如男不入,女不出,皆所以閒之也。推此類,凡事閒之於初,悔可無矣。然能謹閒可免悔,不閒且如何哉。象曰:閒有家,志未變也。志未變而豫防之,則易;若已變而治之,則傷恩失義亦無及矣。
初九の爻辞。「家あるを閑(かん)す、悔亡。」「閑」は設防・約束。下卦の離は中間一画虚——房屋人家の象あり。初九は変爻すれば下卦艮を成し、艮は門・止——設防約束の象あり。凡事皆開頭に謹愼すべし——初爻の此の時はまさに設防すべく、而して九の此一陽爻は剛健明叡、まさに設防の事を担起しえたり。離は先見の明あり、陽剛また威厳ありて吉を得るの分量あるが故。男子の内室に擅(ほしいまま)に入らざる、女子の中門を軽く出ざるが如き、皆「閑」の做法に属す。此を以て類推せば、凡事開頭に就きて規矩を立てれば、悔恨はなしとしうべし。反対にいえば、能く謹愼に設防すもなお悔恨を免るるを做到するのみ——若し一点も設防せずんば、后果はまた如何ならん。《小象伝》にいう。「家あるを閑すは、志未だ変ぜざればなり。」心志未だ悪に変ぜざるに預先に防范すれば、事情は易し。すでに悪に変じて然る後に整治に往けば、彼の時は恩情を傷り義理を失い、もはや及ばず。
六二:無攸遂,在中饋,貞吉。六二上應九五,有無遂事而順從其夫之象。在下卦之中,互坎為酒食,有居中唯酒食是議之象。柔順中正,女之正位乎內者也,故曰貞吉。象曰:六二之吉,順以巽也。柔順中正而上應九五也。
六二の爻辞。「遂ぐる攸(ところ)なく、中饋(ちゅうき)に在り、貞吉。」六二は上に九五に応ず——「自ら主張を作さず、丈夫に順從す」の象あり。それは下卦の中に居り、互体また坎あり、坎は酒食——ゆえに「家中に安処し、ただ飲食の事の上に操心す」の象あり。それは柔順にして中に居り位に当たる——まさに「女子端正して内位に立つ」の彼の一爻。ゆえに正を守りて吉を得るという。《小象伝》にいう。「六二の吉は、順にして巽なればなり。」それは柔順中正にして上に九五に応和す——ゆえに吉なり。
九三:家人嗃嗃,悔厲吉。婦子嘻嘻,終吝。九三重剛不中,故有嗃嗃嚴厲之象;比乎二四兩柔之間,又有婦子嘻嘻之象。治家之道,過剛不中,不無悔厲,然以義勝情,猶可獲吉;若縱情敗度,則家道以壞矣,豈不終可吝乎。悔自凶趨吉,吝自吉趨凶。象曰:家人嗃嗃,未失也;婦子嘻嘻,失家節也。過嚴未失治家之道,失節則必亂矣。
九三の爻辞。「家人嗃嗃(かくかく)、悔いて厲しも吉。婦子嘻嘻(きき)、終に吝。」「嗃嗃」は声色厳厲、「嘻嘻」は嬉笑にして節なし。九三は陽爻にして陽位に居り、剛の上に剛を加えまた中に居らず——ゆえに声色厳厲の象あり。それはまた六二・六四の二つの柔爻の間に緊(きっ)と挟まれ——因りてまた婦人孩子の嬉笑放任の象あり。家を治むるの道は、剛は頭を過ぎて中に居らざれば、悔恨危厲を免れず——然れどもただ能く義理を以て私情に勝たば、仍お吉を得べし。若し私情を放縦し法度を敗壊せば、家道はまさに垮(くず)れん——豈(あに)終に惜しまざらんや。知るべし、「悔」は凶より吉に転ず、「吝」は吉より凶に転ず——両者は方向まさに相反す。《小象伝》にいう。「家人嗃嗃は、未だ失わざればなり。婦子嘻嘻は、家節を失えばなり。」厳厲の頭を過ぐるも、なお家を治むるの道を失うと算せず——一旦家中の節度を失えば、必ず乱るん。
六四:富家,大吉。陽主義,陰主利。六四以陰居陰,得位之正,介乎九三九五之間,以柔得剛,以虛受實;又巽為利市三倍,故有能富盛其家之象,大吉之占也。《大全》以主家之婦言之,時解以言大臣理財,於家人之義未協,然為人臣者占得之,則以為理財之占亦可也。象曰:富家大吉,順在位也。以柔順而居陰之正位,能保其富者也。
六四の爻辞。「家を富ます、大吉。」陽は義理を主どり、陰は財利を主どる。六四は陰爻を以て陰位に居り、位置端正。また九三・九五の二つの陽爻の間に挟まれ、柔順を以て剛健を承接し、虚己を以て充実を接納す。加うるに上卦の巽は《説卦伝》の中に「利市三倍」の取象あり——ゆえに能く家道を富盛せしむるの象あり、占断は大吉。《周易大全》はこれを家務を主持する婦人と講ず。当時通行の解釈は則ち大臣の理財と講ず——これは「家人」の本義と大いに相合せず。ただ人臣と為る者若し此の爻を占得せば、これを理財の占と当てるも未だ不可ならず。《小象伝》にいう。「家を富ます大吉は、順にして位に在ればなり。」柔順の徳を以て陰爻の正位に居るは、まさに此の富厚を守りうる人。
九五:王假有家,勿恤,吉。假,至也。九五剛健中正,應六二之柔順中正,能修身以至於其家者。勿用憂恤,吉可知矣。初閒有家,家道之始;此有家,家道之成。中互坎為憂,此出坎外,故有勿恤之象。象曰:王假有家,交相愛也。五愛二之內助,二愛五之刑家,所謂假也。
九五の爻辞。「王仮(か)して家有り、恤う勿れ、吉。」「仮」は到る・感格の意。九五は剛健にして中に居り正に当たり、下に六二の柔順中正に応ず——能く己を修好して此の徳行を全家に貫徹せしむる人。すでに憂慮掛心するに及ばず、吉利もまた知るべし。初九の講ずる「家あるを閑す」は、あれは家道の開端。ここに講ずる「王仮して家有り」は、則ち家道の成就。卦中の互体に坎あり、坎は憂——而して九五はすでに坎の外面に出づ。ゆえに「掛慮するに及ばず」の象あり。《小象伝》にいう。「王仮して家有りは、交わり相愛せばなり。」九五は六二を愛するに能く内に相助くを以てし、六二は九五を愛するに能く身を以て則を作し全家を整肅するを以てす——彼此相感じ相愛す。これがいわゆる「仮」——すなわち一家の内に感格到るなり。
上九:有孚,威如,終吉。陽爻實,有有孚之象;以剛居上,有威如之象。有孚則至誠惻怛,可聯一家之心而不至於離;威如則整齊嚴肅,可振一家之事而不至於瀆。故長久得吉也。三以剛居剛,故有悔厲;上以剛居柔,又卦之終以威為正家之本,故終吉。象曰:威如之吉,反身之謂也。
上九の爻辞。「孚あり、威たる如し、終に吉。」陽爻は実——故に誠信の象あり。陽剛を以て全卦の最上に居る——故に威厳の象あり。誠信あれば、能く至誠懇切の心を以て一家の人の心を連結して離散に至らしめず。威厳あれば、能く整肅斉一にして、一家の事を振作して軽慢に至らしめず。ゆえに能く長久に吉を得。九三は陽爻を以て陽位に居り、剛の上に剛を加う——ゆえに悔恨危厲あり。上九は陽爻を以て陰位に居り、剛にして能く柔、また全卦の終了の処に処り、威厳を以て家を正くすの根本と為す——ゆえに最終に吉を得。《小象伝》にいう。「威たる如しの吉は、身に反るの謂なり。」
反身自治則人畏服,非作意以威之也。如言有物,物有恆是也。全卦以正家必先乎內,又上下卦為長女中女之象,故專言女貞。彖傳六爻,則推為一家之象。彖傳以上為父,初為子,五三夫,四二婦,五兄,三弟,而一家之長幼備矣。先儒又謂內三爻女子之事,外三爻男子之事。男女有定位,而爻之剛柔亦不可易。女子未嫁,律身宜嚴,故九居初以自閒也。
いわゆる威厳にして吉を得るは、かえって自身の上に功夫を下して己を治め得れば、人は自然に敬畏順服するを指し、刻意に威風を擺(なら)べて人を嚇(おど)すに非ず。《大象伝》のいう言に実在の内容あり、事を行うに常度あるが如し(底本はここ「物有恒」と作す——「物」は当に「行」の字の訛なり)。全卦を総観す。一家を端正するは必ず先ず内里より作り起こすべし。加うるに上卦は長女・下卦は中女——ゆえに卦辞は専ら「女貞」を説く。《彖伝》と六爻に至りては、則ち一整家人の象と推衍せり。《彖伝》は上九を以て父、初九を以て子、九五の六二に対し、九三の六四に対するを夫婦と為し、九五を兄、九三を弟と為す——一家の長幼便ち斉備せり。先輩の儒者またいう。内の三爻は女子の事を講じ、外の三爻は男子の事を講ず、と。男女各々定位あり、爻の剛柔もまた対調すべからず。女子は未だ嫁せざる時、自身を約束するは当に厳なるべし——ゆえに陽爻を以て初位に居り、自ら設防するの義を取る。
婦道宜順,故六居二,無遂事也。母道恐慈之過,故寧為九三之嗃嗃。此女正位乎內也。子道宜順,故六四為富家;夫道貴義,故九居五則刑家;上則為人父之事,嚴君一家之主,威如所以吉也。此男正位乎外也。蓋正家之道莫詳於此,而占者又隨事以求其義,未可泥也。
媳婦を為るの道は柔順なるべし——ゆえに陰爻を以て第二位に居り、「自ら主張を作さず」の義を取る。母親を為るの道は最も慈愛の頭を過ぐるを怕る——ゆえに九三の如く声色厳厲を寧ろす。此の数爻の講ずるはすなわち「女は内に正位す」。兒子を為るの道は柔順なるべし——ゆえに六四は「家を富厚ならしむ」の義を取る。丈夫を為るの道は義を守るを貴とす——ゆえに陽爻は第五位に居れば便ち身を以て則を作し全家を整肅しえたり。上九は則ち父親を為るの事——一家の主たる「厳君」、まさに威厳あるを以て吉を得。此の数爻の講ずるはすなわち「男は外に正位す」。要するに、一家を端正するの道理は、此の一卦より詳備なる講じはなし——ただ占者は仍お須らく各々其の事情に按じて其の意義を尋求すべく、爻位の配搭に死死に拘泥すべからず。
睽(けい)の卦
睽。睽卦,下兌上離。火炎上而澤潤下,二體相違,睽之義也;又二女同居,志不同行,亦睽之義也。睽次家人。按,《序卦》:家道窮必乖,故受之以睽。睽者,乖也。睽綜家人。家人離陰在二,巽陰在四,皆得其正;睽則兌陰居三,離居五,皆居陽位,不得其正。家道之窮必乖,睽所以次家人也。全卦以卦德,內說外明;卦綜,柔進居剛;卦體,六五下應九二。
睽の卦は下卦が「兌」、上卦が「離」。火性は上に向かいて炎焼し、沢水は下に向かいて浸潤す——上下両体は彼此背離す。これがすなわち「睽」——すなわち乖違の意。さらに兌は少女、離は中女——二つの女子は同じく一屋に住みて、各々其の志向は一処に向かわず——これもまた「睽」の意。睽卦は家人の後に立つ。《序卦伝》にいう。「家道窮まれば必ず乖(たが)う、故に受けて睽と為す。睽は乖なり。」睽と家人は一対の相綜の卦。家人卦の離の陰爻は第二位に在り、巽の陰爻は第四位に在り、皆各々其の正を得る。睽卦は則ち兌の陰爻は第三位に落ち、離の陰爻は第五位に落ち、皆陽位に占め、皆其の正を得ず。家道は尽頭に走れば必ず乖違を生ず——ゆえに睽は家人の後に接ぐ。全卦は三層を看るべし。卦徳よりいえば、内は和悦、外は明叡。卦綜よりいえば、陰柔上進して剛位を占據す。卦体よりいえば、六五は下に九二に応和す。
故離不宜大事,而小事猶吉。六爻皆有始睽終合之象。初喪馬,至四遇元夫而初四合;二遇巷,至五往何咎而二五合;三輿曳牛掣,至上遇雨而三上合。內卦皆睽而有所待,外卦皆反而有所應。天下未有終睽而不合者也。
ゆえに此の一卦は大事を辦するに適せず、小事を辦せばなお吉を得べし(底本はここ「離」の字——文意に依りて当に「睽」と作すべし)。六爻は皆開頭乖違・終究会合の象あり。初九は馬を丟(うしな)い、九四に到りて「元夫」に遇上(あ)う——初九と九四と会合せり。九二は巷中に君主に遇い、六五に到りて「往けば何の咎あらん」という——九二と六五と会合せり。六三は車の拖(ひ)かる・牛の掣(ひか)るるを見、上九に到りて「雨に遇う」——六三と上九と会合せり。内卦の三爻は皆乖違の中に処りて等待する所有り、外卦の三爻は皆かえって之と呼応す。天下は従来、一直に乖違して終に会合せざるの事なし。
睽。小事吉。睽,乖異也。上火下澤,性相違異;中女少女,志不同歸,故為睽。長女中女同居則為家人,而中女少女同居則為睽者,家人離陰在二,巽陰在四,得女之正;睽則兌陰在三,離陰在五,非女之正也。
卦辞。「睽、小事吉。」「睽」は乖違背異。上卦は火、下卦は沢——両者の性質は彼此背離す。離は中女、兌は少女——両人の志向は一処に往かず。ゆえに「睽」と曰う。或る人問わん——同じく二つの女子の同住、長女と中女と同住すれば家人卦と成り、中女と少女と同住すれば却って睽卦と成るは、是れ何を為めとするや。家人卦の裏、離の陰爻は第二位に在り、巽の陰爻は第四位に在るは、皆女子の応得の正位なれば。睽卦の裏、兌の陰爻は第三位に在り、離の陰爻は第五位に在るは、皆女子の応得の正位に非ざれば。
離上兌下為睽,僅可小事;兌上離下為革,則曰元亨利貞者,革以九居五,六居二,剛柔得位,故為湯武之大事;睽以六居五而九居二,剛柔失位,是以為小事也。又凡卦陽剛為主,則可以大事。睽柔進乎五者也,小過柔過乎剛,故不可大事;睽柔進居剛,故小事吉也。
離は上に在り兌は下に在ればすなわち睽——ただ小事を辦しえたり。かえって兌は上に在り離は下に在ればすなわち革卦——革卦は却って「元亨利貞」という。是れは革卦が陽爻を以て第五位に居り、陰爻を以て第二位に居り、剛柔各々其の位を得ればなり——ゆえに能く商湯・周武の如き大事を成就す。睽卦は陰爻を以て第五位に居り、陽爻を以て第二位に居り、剛柔皆本位を失う——因此にただ小事を辦しえたり。さらに、凡そ陽剛を以て主と為すの卦は、皆大事を辦すべし。睽は陰柔上進して第五位に占到り、小過は則ち陰柔が陽剛を越過せり——ゆえに皆大事を辦すべからず。睽はすでに陰柔上進して剛位に占住せり——ゆえにただ小事吉を説く。
彖曰:睽,火動而上,澤動而下。二女同居,其志不同行。火炎上而澤潤下,無相得之性;二女少則同處,長則各有夫家,有難合之情。此以卦象釋卦名義也。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉。以卦德言之,兌說麗乎離明,則心氣和平,明燭事機矣;以卦綜言之,家人下卦之離,進為睽之上卦,六居五尊位,有勢矣;以卦體言之,則以六五虛中之主,下應九二剛中之臣,得輔矣。
《彖伝》にいう。「睽は、火動きて上し、沢動きて下る。二女同居すれども、其の志は同行せず。」火は上に往きて炎し、沢水は下に往きて渗(しみ)る——両者は本より相合するの性質なし。二つの女子は小時は一処に同住し、長大して各々其の夫家あり——本より一処に合し難きの情形あり。これは卦象を以て卦名の含義を釈す。《彖伝》またいう。「説(よろこ)びて明に麗し、柔進みて上行す、中を得て剛に応ず、是を以て小事吉なり。」卦徳より講ずれば、兌の和悦は離の明叡に依附す——則ち心気平和にして事情の機微を照らして清楚ならしめう。卦綜より講ずれば、家人卦下卦の離は上行して睽卦の上卦と成り、陰爻は第五位此の尊位に占住せば、則ち勢位あり。卦体より講ずれば、是れ六五此の虚心にして中に居る君主が、下に九二此の剛健にして中に居る臣子に応和す——則ち輔佐あり。
然三者皆柔之為也,故僅小事吉而已。柔進上行、得中而應乎剛,在鼎則為元亨,在睽僅為小事,則爻同而事異故也。天地睽而其事同也,男女睽而其志通也,萬物睽而其事類也。睽之時用大矣哉。天高地下,睽也,然陽降陰升而成化育之事,則同矣;男女異質,睽也,然男倡女隨,志則通矣;生物萬殊,睽也,然此感彼應,事則類矣。睽,小也,睽而終同,則其用大矣,故極贊之。
ただ此の三様は皆陰柔の一方の辦到したる所——ゆえにただ小事吉と説くのみ。同じく「柔進上行・中を得て剛に応ず」は、鼎卦に在りては「元亨」と断じ、睽卦に在りては却只(た)だ小事吉と算す——原因是(こたえ)爻位の格局は同じといえども、処する事勢は同じからず。《彖伝》接いでいう。「天地睽れども其の事同じ、男女睽れども其の志通ず、万物睽れども其の事類(たぐ)う。睽の時用大きなり哉。」天は高く上に在り、地は低く下に在るは、乖違なり。然れども陽気下降し陰気上升して、共に万物を化育するの事を成就す——これに就きては同じ。男と女とは体質相異なるは、乖違なり。然れども男は唱導し女は隨從すれば、心志は則ち通ず。生ずる所の物は千差万別なるは、乖違なり。然れども此の辺一感じ彼の辺応ぜば、事理は便ち同一類に属す。「睽」は本身是れ小なれども、乖違して終に同に帰れば、其の功用は則ち大なり——ゆえに《彖伝》は極力讃嘆す。
象曰:上火下澤,睽。君子以同而異。二卦合體而性不同。君子以此,於大同之中知所當異。和而不流,群而不黨是也。彖傳於睽言合,君子濟睽之功也;象於同言異,君子不苟同之性也。然惟有不苟同之君子,乃能合天下之睽。
《大象伝》にいう。「上火下沢、睽。君子以て同にして異なり。」火と沢の两卦は一体に合成するも、性質は相同じからず。君子は此に由りて領会す——大処相同の中に在りて、どの地方は当に不同あるべきを知るべし。《中庸》のいう和順にして流れに逐(つい)て波を作さず、《論語》のいう群を合せて党を結び営私せずが如き、すなわち此の「同にして異」なり。《彖伝》は乖違の処に在りて「合」を講じ、説くは君子の乖違を弥合するの功業。《大象伝》は相同の処に在りて「異」を講じ、説くは君子の苟且附和を肯肯ぜざるの品性。然れどもまた苟同を肯ぜざる君子のみ、こそ真に天下の乖違を弥合しえたり。
初九:悔亡,喪馬勿逐自復,見惡人,無咎。初無正應,宜有悔也,然居睽之時,陽剛得正,悔亦可亡。下卦為兌為毀折,有所喪失之象;四互三五為坎為亟心之馬,有喪馬勿逐自復之象。坎又為盜,惡人之象,見惡人亦可無咎。所謂見者,不得已而遇之之詞,如孔子之於陽貨也;若往求見,則為逐矣。此爻言當睽之時,正應不可必得,不可強人之合。惟去者不追,聽其自還;來者不拒,雖惡人亦見。其善於處睽者也。
初九の爻辞。「悔亡、馬を喪うも逐う勿れ自ら復(かえ)る、悪人を見る、咎なし。」初九に正応なし——本より悔あるべし。然れども乖違の時に処りて、それは陽剛にして位を得て正を守る——悔恨もまた消ゆべし。下卦の兌は毀折を主どる——喪失する所の象。九四と三・五は互体に坎を成し、坎は性急の馬——ゆえに「馬走り丟(うしな)えども追い往くに及ばず、それ自ら回(かえ)り来たらん」の象あり。坎また盗——まさに「悪人」の象。悪人を見るも仍お咎なし。ここにいう「見」は、已むを得ずして碰上(あ)うの意——孔子の陽貨に対するが如く、躲(かわ)しえずしてこそ相見るなり。若し主動して求見に往かば、則ち「逐」と成らん。此の一爻の説くは——乖違の時に処れば、正応は未だ必ず求め得ると限らず、また人を強求して己と相合せしむべからず。ただ行き去れるは追い往かず、それが自ら回り来たるに任せ、来たれるは拒絶せず、たとえ悪人なりとも照樣見る——これがすなわち善く乖違を処理する人。
象曰:見惡人,以辟咎也。此咎作殃咎之咎。九二:遇主于巷,無咎。二變互三四為艮為徑路,巷之象;二五正應,遇之之象。二五本正應也,以當睽之時,多所乖隔。二以剛中之才,具和悅之性,委曲相求,以得遇主而成濟睽之功,故無咎。象曰:遇主于巷,未失道也。正應,非有邪也。
《小象伝》にいう。「悪人を見るは、以て咎を辟(さ)けばなり。」ここの「咎」は当に災殃と作すべし——意は此を借りて禍殃を避くるを謂う。九二の爻辞。「巷に主に遇う、咎なし。」九二は変爻の後三・四と互体に艮を成し、艮は小路——まさに「巷」の象。九二と六五は正応——ゆえに相遇の象あり。两爻は本より正応、ただまさに乖違の時に当たるに因りて、中間多く阻隔あり。九二は陽剛中に居るの才干を凭り、また兼ねて兌体和悦の性情ありて、曲折婉転して求合に往き、因りて君主に遇うを得て、乖違を弥合するの功業を成就す——ゆえに咎なし。《小象伝》にいう。「巷に主に遇うは、未だ道を失わざればなり。」彼らは本より正応、巷中に相遇うも何の邪僻かあるべけん。
六三:見輿曳,其牛掣,其人天且劓,無初有終。三互坎有輿象;二以剛在後,輿為曳之象。離有牛象,四以剛居前,其牛掣之象。天,去髮之刑,劓,去鼻之刑,皆傷於上者。天而又劓,重傷也。離為目,有見之象。三與上皆言見,非實有是事,而見為如此耳。
六三の爻辞。「輿(よ)の曳(ひ)かるるを見、其の牛掣(ひ)かれ、其の人天(てん)にして且つ劓(ぎ)せらる、初なきも終あり。」六三は互体坎の中に処り、坎は車——故に車の象あり。九二は陽剛を以て其の後面に在れば、則ち車の後に拖拽せらるる象と成る。離に牛象あり、九四は陽剛を以て前面に挡(ふさ)げば、則ち牛の牽住して放さざる象と成る。「天」は頭髮を剃去るの刑罰、「劓」は鼻子を割去るの刑罰——皆上半身に傷る。すでに髡刑(こんけい)を受けまた劓刑を受くるは、重重に受傷す。離は目——故に「見」の象あり。六三と上九の爻辞は皆「見」という——知るべし、真に此の等の事あるに非ず、ただ看上去此の如きのみ。
三與上本正應,而二在後,有見輿曳之象;四隔於前,有見牛掣之象;上九猜狠方深,見為被傷天且劓之象。二陽厄之如此,是無初也;終得正應,有終矣。三以不正之陰,承乘應皆不正之陽,故其象如此。
六三と上九は本より正応——然れども九二は後面に挡げば、則ち「車の拖住せらるるを見る」の象出現す。九四は前面に隔てれば、則ち「牛の掣住せらるるを見る」の象出現す。上九は此の時猜忌狠戾まさに深し——六三は便ち髡・劓の刑を施せらるるが如く受傷す。二つの陽爻に此の如く困厄せらるるは、すなわち「初なし」——開頭順ならず。最終には仍お正応と会合すは、すなわち「終あり」。六三は一箇の位に当たらざる陰爻を以て、上に承け、下に乗じ、遠く応ずるもまた皆位に当たらざる陽爻——ゆえに爻象はこそ此の様子なり。
象曰:見輿曳,位不當也;無初有終,遇剛也。以六居三,在二陽之間,不當也。遇剛,正應也。三雖善遇,非上之剛明,亦不得遇也。九四:睽孤,遇元夫,交孚,厲無咎。九四無應,上下皆陰柔小人,有睽孤之象;初九同德,有遇元夫交孚之象。元善之長,惡之友,初剛而得正,故為元夫。然當睽之時,惟恐交孚之不至,必以危厲處之,乃無咎也。初視四為惡人,四視初為元夫者,初得正而四不正也。不正而終有遇者,喜其陽剛之同德也。
《小象伝》にいう。「輿の曳かるるを見るは、位当たらざればなり。初なきも終あるは、剛に遇えばなり。」陰爻を以て第三位に居り、また二つの陽爻の間に挟まるは、位置当たらず。「剛に遇う」はすなわち終に正応に遇上(あ)えり。六三は固より善く遇を求むれども、若し上九の本身剛健明叡に非ざれば、また遇を成さず。九四の爻辞。「睽(けい)して孤(こ)、元夫に遇う、交わり孚(まこと)あり、厲なれど咎なし。」九四に正応なく、上下相隣るもまた皆陰柔小人——ゆえに乖違の中に孤立するの象あり。初九とそれとは同じく陽剛の徳——ゆえに「善士に遇上して彼此誠を以て相信ず」の象あり。「元」は衆善の長(底本は此の句を「悪の友」と作す——文字疑いて訛脱あり)。初九は陽剛にして位を得て正を守る——ゆえに「元夫」と称す。ただまさに乖違の時に当たるは、最も彼此の誠信の深からざるを怕る——必ず戒懼危厲の心を抱きて相处せばこそ、咎なし。初九は九四を「悪人」と看成るも、九四は却って初九を「元夫」と看成る——原因是れ初九は位を得て九四は位を得ず。九四は位に当たらざるも終に遇を能くするは、それは対方の己と同じく陽剛の徳なるを喜愛すればなり。
象曰:交孚無咎,志行也。得人以濟睽也。六五:悔亡,厥宗噬膚,往何咎。睽時以陰居陽,有悔也,然居中得應,悔可亡矣。厥宗,指九二於五,猶宗臣也。二兌口有噬膚象。噬膚,《本義》謂其易合;《程傳》謂五雖陰柔之才,二輔以陽剛之道而深入之,如姬公之於周成,入之者深也。今兼用之:五柔易合,二入之者深,明良道合,往以濟睽,何咎之有。象曰:厥宗噬膚,往有慶也。傳推言之,言睽可濟天下之慶,豈但免咎已乎。
《小象伝》にいう。「交わり孚ありて咎なきは、志行けばなり。」同志の人を得てこそ、能く乖違を弥合す——心志此に因りて推行を得。六五の爻辞。「悔亡、厥(そ)の宗(むね)は膚(はだえ)を噬(か)む、往けば何の咎あらん。」乖違の時に陰爻を以て陽位に居るは、本より悔あるべし。然れども中に居りてまた正応あり——悔恨は消ゆべし。「厥の宗」は九二を指す——九二の六五に対しては、たとえば同宗の大臣。九二は兌に属し、兌は口——故に肉を咬むの象あり。「膚を噬む」に関して、《本義》はそれを容易相合を譬喩(たと)うという——柔らかなる肉を咬むが如く力を費やさず。《程伝》は則ち、六五はただ陰柔の才なるも、九二は陽剛の道を以て深々と入りてそれを輔佐す——たとえば周公の周成王に於けるが如く、進むこと極めて深し、という。陳夢雷は两説を合わせて用う——六五は柔順因りて容易相合し、九二また進入すること深し——明君良臣の道は相契す。此の如く前往して乖違を弥合せば、なお何の過錯かあらん。《小象伝》にいう。「厥の宗膚を噬むは、往けば慶あればなり。」これは意をさらに一層推進す——乖違一旦弥合せば、天下の福慶を成就すべし——豈に過錯を免るるに止まらんや。
上九:睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪寇婚媾,往遇雨則吉。上九六三正應,非孤而曰孤者,睽極多疑,孤生於所見也。三互四五為坎有豕象,又為水有塗象;三以陰居二陽之上,又坎為隱伏,有載鬼一車象。三見四,有牛掣象;上見三,為豕之負塗,且疑其汙我矣。三見二,有輿曳象;上見三,則為載鬼一車,且疑祟我矣。
上九の爻辞。「睽して孤、豕(いのこ)の涂(ぬか)を負うを見、鬼を一車に載せ、先には之弧(こ)を張り、後には之弧を説(と)く、寇に非ず婚媾なり、往きて雨に遇えば則ち吉。」上九と六三は本より正応、併せて孤ならざるに、却って「孤」というは、乖違極処に到れば便ち疑心重重——彼の孤単は己の「見たる」の幻象の裏より生ぜり。六三と四・五は互体に坎を成し、坎は豕——故に猪の象あり。坎また水——故に泥涂の象あり。六三は陰爻を以て二つの陽爻の上に踞り、坎また隠伏を主どる——ゆえに「一車の鬼怪」の象あり。六三の九四を看るは、牛の掣住せらるるの象。上九の六三を看れば、則ち満身泥汚の猪と成りて、なおそれを疑いて己を沾汚せんと来らんとす。六三の九二を看るは、車の拖住せらるるの象。上九の六三を看れば、則ち一車の鬼を載せたると成りて、なおそれを疑いて己に作祟害せんと来らんとす。
弓矢本取象於睽,又坎為弓,又為狐疑。先張之弧,疑之也;後脫之弧,疑漸去矣。上變震為歸妹,有婚媾象。匪寇婚媾,知三非寇而實親也。坎又為雨,陰陽和則雨。遇雨則吉,遇六三也。言疑盡釋,睽終復合也。
弓箭此の類の器物は、《繫辭伝》は本より睽卦に於いて象を取るという。坎また弓、また狐疑を主どる。ゆえに「先には之弧を張る」は、心裏に彼を疑う。「後には之弧を説く」は、弓を放下するは、疑心は漸々消去す。上九は変爻すれば全卦帰妹を成し、帰妹は嫁娶の卦——故に婚媾の象あり。「寇に非ず婚媾なり」は、説くは終に明白せり六三は劫掠しに来る強盗に非ず、実在は自家の親人なりと。坎また雨——陰陽調和してこそ雨下る。「往きて雨に遇えば則ち吉」の「遇」は、すなわち六三に遇上(あ)う。これは説く、疑虑は全部渙然氷釈し、乖違は最終に重ねて会合に帰ると。
象曰:遇雨之吉,群疑亡也。群疑,指上所見。全卦當睽之時,是以不可大有所為。而睽有終合之理,故小事猶可獲吉。六爻皆始睽終合。二五、三上以正應而終合。初四非應,以同德而亦終合。天下事未有終於乖違者,所以貴有濟睽之功也。
《小象伝》にいう。「雨に遇うの吉は、群疑亡ぶればなり。」いわゆる「群疑」は、指すは上文の彼の一串の幻象——泥猪・鬼車の類。全卦を総観す。乖違の時に処れば、因此に能く大作為あらず。然れども乖違の中は終究会合の道理を含む——ゆえに小事を辦せばなお吉を得べし。六爻は一律に開頭乖違・終究会合。九二と六五、六三と上九は、正応を凭りて終に合す。初九と九四は本より正応に非ざるも、同じく陽剛の徳たるを凭りて終にも会合せり。天下の事は一直に乖違して底に到るはなし——ゆえに「乖違を弥合す」此の功業こそ格外に貴(たっと)し。
蹇(けん)の卦
蹇。蹇卦,下艮上坎。險在前而止不能進也,故為蹇。蹇卦次睽。按,《序卦》:睽者,乖也。乖必有難,故受之以蹇。蹇者,難也。睽乖之時,必有蹇難,蹇所以次睽也。全彖取後天八卦艮坎在東北方,離坤在西南方。艮坎為蹇,則對方為出蹇矣。又九五以剛健中正之君在上,而六二以柔順中正之臣在下,又有利見大人之象。此全彖之大旨也。六爻以五為濟蹇之君。
蹇の卦は下卦が「艮」、上卦が「坎」。険陷は前面に横たわり、己は停まりて往き過ぐる能わず——ゆえに「蹇」と曰う、すなわち跛行難進。蹇卦は睽卦の後に立つ。《序卦伝》にいう。「睽は乖なり。乖は必ず難あり、故に受けて蹇と為す。蹇は難なり。」乖違の時は必ず艱難を伴う——ゆえに蹇は睽の後に接ぐ。整篇卦辞は後天八卦の方位を取りて説を立つ。艮・坎は東北方に在り、離・坤は西南方に在る。艮坎は合わさりて蹇——然らば其の対面の方位はすなわち蹇難を脱出するの去処なり。さらに九五は剛健中正の君主にして上に居り、六二は柔順中正の臣子にして下に居る——因りてまた「大人を見るに利し」の象あり。これが全卦卦辞の大旨。六爻の中、九五を以て蹇難を済助するの君主と為す。
二為同患之臣。餘四爻雖處蹇,而無濟蹇之責。唯三以剛實具濟蹇之才。獨以與五非近非應,而反就二以同往,故言喜。四以比三,故言連。上以應三,故言來碩。蓋蹇中非有陽剛之才不能濟。故五之所待者,三之來也。三反從二以來,則朋來矣。獨初六才柔位卑,故以來譽勉之。此六爻之大略也。
六二は君主と患難を共にする臣子。其余の四爻は同じく蹇難に処るといえども、蹇難を済助するの職責なし。ただ九三は陽剛の質を凭りて、実実在在に蹇を済るの才干を具備す——偏にそれと九五とは相隣らず相応ぜず、ここに身を反らし就近して六二と聯合し、一同前往して輔佐す——ゆえに爻辞に「喜(よろこ)ばれ」と説く。六四は九三に緊挨着く——ゆえに「連(つら)なる」と説く。上六は九三と相応ず——ゆえに「来たりて碩(おお)き」と説く。知るべし、蹇難の中に陽剛の才なかれば済助しえず——ゆえに九五の等待する所は、まさに九三の到来なり。九三はかえって六二を帯(ひ)きて一同前に来たるは、則ち「朋来」なり。独り初六は才質柔弱・位置卑下——ゆえにただ「来たりて誉(ほま)れ」を以てそれを勉励す。これが六爻の大致なる脈絡なり。
蹇。利西南。不利東北。利見大人。貞吉。蹇,足不能進,行之難也。前有水之陷,後有山之阻。又為見險而止之義,故曰蹇。又睽卦盡反則為蹇。睽取目有所見,重離在前也;蹇取足不能進,重坎在前也。利西南不利東北,按,《本義》謂西南平易,東北險阻。《程傳》謂西南坤方,坤,地也,體順而易;東北艮方,艮,山也,體止而險。
卦辞。「蹇、西南に利し、東北に利あらず、大人を見るに利し、貞吉。」「蹇」は脚の邁(ゆ)き動かず、行走艱難。前面に水の陷坑あり、後面に山の阻隔あり、また「危険を見れば則ち停まる」の意を含む——ゆえに蹇と曰う。さらに、睽卦は整箇顛倒せばすなわち蹇卦。睽は「眼睛の見る所有り」を取る——離を目と為し重畳して前面に横たわるが故。蹇は「脚の進まざる」を取る——坎を険と為し重畳して前面に横たわるが故。「西南に利し、東北に利あらず」に至っては、朱熹《周易本義》は西南の地勢平坦・東北の地勢険阻と解し、程頤《伊川易伝》は西南は坤の方位にして坤は地、体性柔順にして平易、東北は艮の方位にして艮は山、体性静止にして険峻と解す。
今按,卦象中無坤而言坤者,其說有二。以後天八卦言之。艮坎東北與西南離坤相對。艮坎合為蹇,不利東北。離坤合為晉,是為利西南矣。蹇卦無西南,就東北對方言之。猶坤卦言西南得朋,而兼言東北喪朋也。又以卦之六爻言之。蹇難之時,非有陽剛之才不可有為。卦中唯五與三為陽。
陳夢雷の按語にいう。卦象の裏は本より坤あらざるに、両家は却って皆坤を拿って講ず——其の中の道理に両種の説法あり。第一種は後天八卦より講ず。艮・坎の所在する東北は、まさに離・坤の所在する西南と相対す。艮坎合わさりて蹇を成す——ゆえに「東北に利あらず」という。離坤合わさりて晉を成す——則ちそれは「西南に利し」。蹇卦の本身に西南なし、ただ東北の対面の方位に就いて説けり——たとえば坤卦の「西南に朋を得」と講じて連帯して「東北に朋を喪」と講ずるがごとし。第二種は卦の六爻より講ず。蹇難の時は、陽剛の才なかれば有所作為する能わず——而して此の一卦の裏に陽爻は九五と九三のみ。
五以陽剛為濟蹇之君。三非正應,然反而就二連四應上以輔乎五。五三變為純坤,則出東北之險阻,入西南之平易,蹇乃濟矣。故有利西南不利東北之象。六二柔順中正之臣,三反就之,遂與四上皆來互輔於五,以共濟蹇,有利見大人之象。六爻唯初不正,故宜見險待時。二以上皆正,可以濟蹇,故曰貞吉。占者得之,則見險者貴於能止,而不必終於止;處險者貴於能進,而又不可失其正也。
九五は陽剛を以て蹇難を済助するの君主を担任す。九三と九五は併せて正応に非ざるも、却って身を反らして六二に靠攏し、六四を連結し、上六を呼応して、一斉に来たりて九五を輔佐す。若し九五・九三の两爻皆変ずれば、全卦便ち純坤を成す——則ちそれは東北の険阻を走出して西南の平易に進入す。蹇難ここに因りて紓解を得——ゆえに「西南に利し、東北に利あらず」の象あり。六二は柔順中正の臣子、九三は身を反らし就近してそれと聯合す——ここに六四・上六も皆过来して一同に九五を輔佐し、共同して蹇難を済助す——因りて「大人を見るに利し」の象あり。六爻の中ただ初六は位に当たらず——ゆえにそれは険を見て停下来して時機を等待するに宜し。六二以上の各爻は皆位に当たり、蹇難を済助すべし——ゆえに「貞吉」という。占者此の卦を得れば、則ち明白すべし。危険を見る人は停まる能くするを貴とするも、一停底までするを必とせず。危険の中に身を処する人は前進能くするを貴とするも、また己の正を失うべからず。
彖曰:蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉。以卦德釋卦名義而贊之。蹇固足不能進之義。然知其不能進而不輕進,即知也。山水為蒙,水山為蹇。知者,蒙之友。
《彖伝》にいう。「蹇は難なり、険前に在ればなり。険を見て能く止まるは、知なり哉。」これは卦徳を以て卦名の含義を釈して之を讃嘆す。「蹇」は固より脚の邁き動かずの意——然れども明らかに過ぐべからずを知りて則ち軽挙妄動せず、これが本身すなわち智慧なり。ここにまた蒙卦と対看すべし。山は上に在り水は下に在るは蒙卦、水は上に在り山は下に在るはすなわち蹇卦。智慧はまさに蒙昧の対頭なり(底本は「蒙之友」と作す——「友」は疑いて当に「反」と作すべし)。
蹇,利西南,往得中也。不利東北,其道窮也。利見大人,往有功也。當位貞吉,以正邦也。蹇之時用大矣哉。以卦綜言之,蹇卦綜解。解下卦之坎,往為蹇上卦之坎,九五得其中也。後天震在東,艮在東北。解上卦之震,下為蹇下卦之艮,正在蹇之方,其道窮也。以卦體言之,二五正應,三反四連而上來碩,皆可濟險,往有功也。自二至上,位皆得正。初雖不當,而陰柔在下亦正也。上下皆正,則邦可正,蹇可濟矣。坎睽蹇皆非順境,夫子以為此時,亦有可用者,故極贊其大。
《彖伝》接いでいう。「蹇、西南に利しは、往きて中を得ればなり。東北に利あらざるは、其の道窮まればなり。大人を見るに利しは、往きて功あればなり。位に当たりて貞吉は、以て邦を正しくせばなり。蹇の時用大きなり哉。」卦綜より講ずれば、蹇と解とは相綜し、解卦下卦の坎は上に往きて、蹇卦上卦の坎と成りて、九五は因りて中位に居るを得。後天八卦は震は東に在り艮は東北に在り、解卦上卦の震は下来りて、蹇卦下卦の艮と成りて、恰好蹇難の所在する方位に落つ——ゆえに「其の道窮まる」という。卦体より講ずれば、六二と九五は正応、九三は身を反らし、六四は連結し、上六は前来して相助く——皆能く険難を済助す——ゆえに「往きて功あり」という。第二爻より上爻に至るまで、位次は皆各々其の正を得る。初六は位に当たらざるといえども、陰柔を以て最下に居れば、亦た正に合すると算す。上下皆正ければ、然らば邦国は端正すべく、蹇難もまた紓解すべし。坎・睽・蹇の三卦は皆順境に非ざるも、孔子は却って此の種の時にもなお用うる所の処あると以為す——ゆえに極力其の功用の大なるを讃嘆す。
象曰:山上有水,蹇。君子以反身修德。水之蹇也,止而不流。君王之蹇也,反而自修。反身即思不出其位之義,艮象也;修德即常德行之義,坎象也。象傳言反身修德,五爻曰大蹇朋來。蓋得人心以反諸身為本,即孟子所謂(文瀾本「謂」作「雲」)其身正而天下歸之也。
《大象伝》にいう。「山上に水あり、蹇。君子以て身に反(かえ)りて徳を修む。」水は蹇阻に遇えば、則ち積りて再び流れず。君王は蹇難に遇えば、則ちかえって自身の上に功夫を下す。「身に反る」はまさに艮卦《大象伝》のいう「思い其の位を出でず」の意——取るは艮象。「徳を修む」はまさに坎卦《大象伝》のいう「徳行を常とす」の意——取るは坎象。《大象伝》は身に反りて徳を修むを講じ、九五の爻辞は「大蹇に朋来たる」を講ず——両処を合わせて看れば便ち知る。人心を得んとするは、根本は仍お己に反求するに在り——すなわち《孟子》のいう所の(文瀾本は「所云」と作す)自身端正なれば、天下自然に帰附す、なり。
初六:往蹇,來譽。
初六の爻辞。「往けば蹇(けん)、来たれば誉(ほま)れ。」意思是れ、前に走往せば蹇難に撞上し、退き回ればかえって称誉を獲得す。此の一爻は前面のいう所の「初六は才質柔弱・位置卑下、ゆえに来たれば誉れを以てそれを勉励す」に承きて来たり——蹇難の世に処りて、険阻を見て則ち停まるを知り、硬に前に闖(うが)ちせず——此の自知は本身就れ称許に値す。
往,上進也。來,止而不進。蹇,行之難也。故諸爻皆以往來為言。他爻來字,指下一爻而言。初無可來,以不進為來。六非濟蹇之才,初非濟蹇之位。往則犯難,來則有見險能止之譽也。象曰:往蹇來譽,宜待也。待時而往,非終止也。
爻辞の裏の「往」は上に向かいて前進を指し、「来」は停下して再び前進せざるを指す。「蹇」の本義はすなわち行走艱難——ゆえに《蹇》卦の六爻は皆「往」「来」を用いて説を立つ。別の爻の「来」を講ずるは、皆下に緊鄰する一爻に退向するを指す。初六は下にすでに退くべき爻なし——其の「来」はただ再び前進せずと解すのみ。爻質に就いていえば、初六は陰柔、険を済り難を解くの才干なし。爻位に就いていえば、それは最下に居り、また蹇を済るの任に当たらず。此の如き人は前往すればすなわち自ら険難に投じ、退守して進まざればかえって「険を見て能く止まる」の讃誉を得べし。《小象伝》に「往けば蹇、来たれば誉れは、待つに宜しければなり」というは、説くは此の種の止步はただ時機の成熟を待ちて再び往くなり、併せて此より終身手を罷むるに非ず。
六二:王臣蹇蹇,匪躬之故。六二與五為正應,輔五以濟蹇者,有王臣之象。他爻外卦一坎而已,二互三四又得坎體,有蹇而又蹇之象。入難之深,致身王事,非為私也,故曰匪躬之故。他爻皆喜來惡往,二五獨不然。五乃濟蹇之君,二之柔順中正,濟蹇之臣也。當蹇之任,鞠躬盡力而已。成敗利鈍,皆非所計,故不言吉凶也。象曰:王臣蹇蹇,終無尤也。事雖不濟,亦無可尤也。二匪躬而不言濟蹇者,陰柔短於才故也。君子取其義而恕其才,故無尤。
「六二。王臣蹇蹇(けんけん)、躬(み)に匪(あら)ずの故。」六二と九五は正応——柔順の臣を以て九五を輔佐して共に艱難を渡る——ゆえに「王臣」の象あり。其余の各爻はただ上卦の一箇の坎を険と為すのみ、六二の自身は却って三・四より互い出でて又一箇の坎体と為す——是れ険の上に険を加う。ゆえに「蹇にして又た蹇」の象あり。これが説明するは、それの陷入する艱難は極めて深しといえども、仍お身を以て国に許し王事を辦理す——併せて己の為めに打算するに非ず。ゆえに爻辞に「躬に匪ずの故」という——是れ自身の緑故のための非ざるなり。別の爻は皆「来」を喜びて「往」を悪(にく)む——独り二・五の两爻は然らず。九五は身に蹇を済るの責を当てるの君、六二は柔順にして中正、是れ身に蹇を済るの責を当てるの臣。すでに任を受くれば、ただ躬を鞠躬し力を尽くして為し往くのみ——成敗順逆は皆計較の内に在らず。ゆえに爻辞は吉凶を断ぜず。《小象伝》に「終に尤(とが)なし」というは、説くは事情たとえ辦成せずとも、また責怪すべくもなし。六二は能く「躬に匪ず」なれども爻辞はそれを「蹇を済る」と称せざるは、陰柔の質は終究に才力足らざればなり。君子は其の忠を尽くすの義を取りて其の才の短なるを原諒す——ゆえに責怪すべくもなしという。
九三:往蹇來反。三與五非正應,非當蹇之任者,故往則蹇。來,下就二也。此爻變為水地比,有親比於人之象。二有蹇之任,三有剛陽(文瀾本「剛陽」作「陽剛」)之才,下就二以圖共濟,則反而得所安矣。象曰:往蹇來反,內喜之也。內指二陰,喜從陽。三有濟蹇之才,雖未當其任,而匪躬之臣,有得人之喜矣。
「九三。往けば蹇、来たれば反(かえ)る。」九三と九五は同じく陽爻、正応を成さず——本より身に蹇を済るの任に当たる人に非ず。ゆえに上に前往すればたださらに蹇に陷らん。「来」は退き下来りて六二に親近す。此の爻は陽より陰に変ずれば、全卦《水地比》を成し——人と親比するの象あり。六二は身に蹇を済るの任を負い、九三は剛陽の才干あり(文瀾閣本は「剛陽」を「陽剛」と作す)——退き下来りて六二と力を合わせ謀りて共に済らんと図るは、すなわち返帰して其の安んずる所を得るなり。《小象伝》に「内之を喜べばなり」という——「内」は内卦の二つの陰爻を指す、陰は本より陽に依從するを楽しむ。九三は蹇を済るの才あるも未だ其の位に居らず——然れどもすでに肯んじて下に六二彼の「躬に匪ず」の臣に就けば、六二は自然に人の相助くるを得るの喜びあり。
六四:往蹇來連。六四已入險中,而陰柔不足以濟。往則益蹇,唯連於九三,則合力可以共濟矣。象曰:往蹇來連,當位實也。陰虛陽實,九三陽居陽位。言所以連於三者,以三之實,所居當位,可以共濟蹇也。
「六四。往けば蹇、来たれば連(つら)なる。」六四はすでに上卦の坎険の中に進入し、本身また陰柔——力なくして険難を渡る能わず。さらに上に走往せばただ陷ることさらに深からん——ただ退き下来りて九三を連結し、两爻の力を合わせてこそ共に済るべし。《小象伝》に「位に当たりて実なり」という——陰爻を虚と為し、陽爻を実と為す。九三は陽爻にして陽位に居り、すでに「実」にしてまた「位に当たる」。これがすなわち六四の九三を連結する所以の道理を点明す——まさに九三の才質充実・処る所位を得るに因りて、靠りて住(た)しう、こそそれと一同に蹇難を渡りうる。
九五:大蹇朋來。五君位而在險中,天下安危所繫。而有陽剛中正之德以居之,故曰大蹇。五變坤為眾,朋來之象。來者皆就二以輔五也。二與五為正應,既有匪躬之志。三於二能來反,復具濟蹇之才。四比三而上承五,協力以濟蹇。占者有其德,則有是助矣。象曰:大蹇朋來,以中節也。居位得中,可以節制聯屬之,故能成正邦之功也。
「九五。大蹇に朋来たる。」九五は君位に居りて身は坎険に陷り、天下の安危は皆其の一身に係る。また陽剛中正の徳を以て此の位に据る——担う所の艱難は最も重し。ゆえに「大蹇」と称す。九五は陽より陰に変ずれば上卦坤を成し、坤は衆——まさに「朋来」の象。いわゆる「来たる」の人は、皆六二に帰就して九五を輔佐す。六二と九五は正応にして、早くより「躬に匪ず」国に許すの志あり。九三は能く退き下来りて六二に親附し、また蹇を済るの剛才を具備す。六四は九三に緊鄰して上に九五を承け、同じく力を協わせ共に済らんとす。占者若し真に九五此の如き徳あれば、自然に此の等の助力を獲得せん。《小象伝》に「中に以て節すればなり」というは、説くは九五は中に居り位を得て、能く此の等の来たりて助くるの人を節制統属す——ゆえに能く邦国を匡正するの功業を成就す。
上六:往蹇來碩,吉。利見大人。碩,大也。陽為大。《本義》《大全》皆作就九五以成大功。今按,六爻之義宜就三爻言之。蓋當蹇之時,非陽剛不足以濟。上以陰居蹇極,往則益蹇。唯來就九三之陽,可成大功。又蹇極將變為漸,則進矣,故許其吉。利見大人指九五言。就九三陽剛之才,利見九五之君,以濟其蹇也。
「上六。往けば蹇、来たれば碩(せき)、吉。大人を見るに利し。」「碩」は大——《易》の例は陽を以て大と為す。朱熹《周易本義》と《周易大全》は皆「来たれば碩」を六九五に帰就して大功を成就すと解す。今按ず——此の一爻の取義は当に九三の上に落るべし。蹇難の時に当たりては、陽剛に非ざれば救済に足らず。上六は陰柔を以て蹇の極処に居り、さらに前に往けばたださらに蹇ならん——ただ退き下来りて九三の陽に帰就してこそ、大功を成就すべし。況んや蹇は極処に到れば将に《漸》と変らんとす——《漸》は漸次にして進む、まさに前進すべきの時——ゆえに爻辞はそれに吉を許す。「大人を見るに利し」に至っては則ち九五を指す——上六は九三の陽剛の才を借り、また九五の君に進見するに利してこそ、能く其の蹇難を済らん。
象曰:往蹇來碩,志在內也。利見大人,以從貴也。《大全》以在內指九五,時解從之。然於從貴之言似復複。今以在內,指內卦之九三言之。上柔無濟蹇之才,志在得內卦陽剛之才以共濟,而從九五之君也。
《小象伝》にいう。「往けば蹇来たれば碩は、志内に在ればなり。大人を見るに利しは、以て貴に從えばなり。」《周易大全》は「内に在る」をも九五に指作し、当時通行の解説は皆それに跟從す。然れども此の如くなれば、「志内に在る」と下句の「以て貴に從う」とは則ち重複す。今按ず——「内に在る」は当に内卦の九三を指すべし。上六は陰柔、本身に蹇を済るの才なし——其の心志は内卦の陽剛の才を取得して己と共に済らんとし、同時にまた九五此の尊貴の君に帰從す——一句は倚る所の才を説き、一句は從う所の君を説く——两句こそ各々着落あらん。
全彖以卦象,有利西南不利東北之占。以卦體二五相應,有利見大人之占。大抵當蹇之時,欲其知止以善處蹇之道,又欲其陽剛以大濟蹇之功。需眾爻以濟蹇者五,故曰朋來。在蹇而輔蹇者二也,故曰匪躬。君臣當蹇之任者,故不得言往來。餘四爻皆不任濟蹇之責,故皆喜來而惡往。
全卦に就いて論ずれば、卦象より義を取りて「西南に利し、東北に利あらず」の占辞あり。卦体より二五の相応を看て「大人を見るに利し」の占辞あり。大体にいえば、蹇難の時に処りては、一面には人をして止まるを知らしむべし——これは善く蹇難に処するの弁法。一面にはまた陽剛の才あらんことを要す——これにこそ蹇を済るの大功を建立しえたり。全卦の中に衆爻を須(もと)めて来たりて相助け以て蹇を済るは九五——ゆえに其の爻辞は「朋来」と説く。身は蹇の中に在りて力を尽くして蹇を済るを輔佐するは六二——ゆえに其の爻辞は「躬に匪ず」と説く。此の两爻は君と臣、身に蹇を済るの任に当たる——因此に爻辞は「往」「来」を用いて説を立てず。其余の四爻は皆蹇を済るの責を負わず——ゆえに一律に「来」を喜びて「往」を忌む。
然蹇之時,惟陽剛與五同德,乃能共濟。三有濟蹇之才者,反而就二,則可以共濟矣。四以比三而來,上以應三而來,皆濟蹇之朋,能輔五者也。惟初陰柔在下,則惟有待時而往耳。然則蹇之時,在下者貴於知止,而在上者貴於濟蹇,庶幾得其正乎。
ただ蹇難の時に在りては、ただ陽剛にして九五と同徳の人のみこそそれと共に済りえたり。九三は蹇を済るの才を具備し、退き回りて六二に帰就せば、則ち力を合わせて共に済るべし。六四は九三に親比するに因りて「来」、上六は九三に応ずるに因りて「来」——此の等は皆蹇を済るの同伴にして、皆能く九五を輔佐す。独り初六は陰柔にして最下に居り、才と位とは两(ふた)つに闕(か)く——則ちただ時機を等待して再び往くのみ。此に由りて見るべし、蹇難の時に処りては、下位に居る人は止まるを知りて妄りに進まざるを貴とし、上位に居る人は難を済るの責を担起するを貴とす——此の如くしてこそ差不多(ほぼ)各々其の正を得ると算せんか。
解(かい)の卦
解卦,下坎上震,動於險外,出乎險也,故為患難解散之象。又震雷坎雨,陰陽交感,和暢解散,故為解。解卦次蹇。蹇者,難也。物不可以終難,故受之以解。難極必解散,所以次蹇也。全彖以解散之後,利於平易安靜,不宜久為煩擾。然小人者亂之根也,故六爻之義主於去小人。六三一陰為小人,非據以致天下兵者,諸爻皆欲去之。二之獲狐,獲三也。四之解拇,解三也。上之射隼,射三也。五之有孚,亦退三也。唯初六才柔位卑,不任解難而在解時,無咎而已。此全彖六爻之大指也。
《解》の卦は下卦が「坎」、上卦が「震」。震動は坎険の外に発生す——是れすでに険境を走出せり。ゆえに患難解散の象を取る。また震は雷・坎は雨——雷雨交作するは陰陽の交感、鬱結の気は隨いて和暢消散す——ゆえに卦名は「解」と曰う。《解》卦は《蹇》卦の後に立つ。《序卦伝》にいう。「蹇は難なり。物は終に難なるべからず、故に受けて解と為す。」事物は永遠に艱難の裏に困せらるることなし——艱難極処に到れば必然消散す。これがすなわち《解》の《蹇》を承接する所以の道理。全卦の大意は——患難解散の後は、平易安静を利とし、再び長久に事を生じて民を擾(みだ)すを宜とせず。然れども小人は禍乱の根源——ゆえに六爻の取義は皆小人を除去するを以て主と為す。六三の此一陰爻はすなわち小人——それは当に据るべからざるの位を窃據して、以て天下の兵戈を招来す。ゆえに其余の各爻は皆それを除却せんと欲す。九二の「田(た)に三狐を獲」の獲る所は六三。九四の「而(なん)じの拇(おやゆび)を解く」の解く所は六三。上六の「隼(はやぶさ)を射る」の射る所は六三。六五の「孚あり」もまた是れ六三をして退去せしめんとするなり。ただ初六は才柔く位卑し、難を解くの責を担当せず——而して難を解くの時に恰逢して、能く過錯なからんも亦た足れり。これが全卦六爻の大旨なり。
解:利西南。無所往,其來復,吉。有攸往,夙吉。解,難之散也。在險能動,出乎險之外,故為解。難既解,則宜於平易安靜,不可久為煩擾。其卦上震下坎,後天亦居東北之位,與坤亦對。蹇與解相綜,褰在險中,故言利西南,兼言不利東北。解已出險外,則但言利西南,而不利東北可不必言矣。無所往其來復者,復東北也。難已解,故復亦吉也。有所往,往西南也。夙,早也。若可往西南,又以早為吉也。蹇上卦之坎,來解為下卦,而二(「二」當作「五」,從文瀾本)仍居中,有來復吉之象。蹇下卦艮,綜解為上卦之震,反艮止為震動,有所往而夙之象。震東方日之初出,故曰夙吉。
卦辞。「解、西南に利し。往く所なければ、其の来たりて復(かえ)るは吉。往く攸(ところ)あれば、夙(つと)に吉。」「解」はすなわち患難消散。身は険の中に在りて能く奮動し、終に険外を走出せり——ゆえに「解」と曰う。患難すでに解除せれば、則ち平易安静に宜しく、長久に煩擾して事を生ずべからず。此の卦は上震下坎——後天八卦の方位の上に在りて、震は東に居り坎は北に居り、亦た東北の一路に属し、西南の坤方と正しく相対待す。《蹇》と《解》の两卦は上下顛倒して、互いに「綜卦」と為す。《蹇》はなお険の中に陷る——ゆえに卦辞はすでに「西南に利し」と説き、また兼ねて「東北に利あらず」と説く。《解》はすでに険外を走出せり——則ちただ「西南に利し」を説くのみ、「東北に利あらず」は説くに及ばず。「往く所なければ其の来たりて復る」の「復」は、東北に回到す。患難すでに解けば、回来するもまた吉なり。「往く攸あり」の「往」は、西南に往く。「夙」は早し——倘若し西南に往くべければ、則ち早きを以て吉と為す。卦綜の上より見れば、《蹇》の上卦坎は倒転下来りて《解》の下卦と成り、而して九五(原文は「二」と作す——文瀾閣本に據りて当に「五」と作すべし)は仍お中位に居る——これがすなわち「来たりて復れば吉」の象。《蹇》の下卦艮は倒転上去して《解》の上卦震と成り、艮の静止より反りて震の奮動と為す——これがすなわち「往く攸あり」にして「夙」を宜とするの象。震は東方に在り、是れ太陽初出の地——ゆえに「夙に吉」という。
彖曰:解,險以動,動而免乎險,解。以卦德釋卦名義也。蹇遇險而止,才之不足也。解遇險而動,才之有餘也。屯動乎險中,難之未平。解動乎險外,則難之已散也。解利西南,往得眾也。其來復吉,乃得中也。有攸往夙吉,往有功也。
《彖伝》にいう。「解は、険に以て動く、動きて険を免る、解。」これは上下卦の卦徳を以て卦名の含義を釈す。《蹇》は険に遇いて歩を止む——才力の足らざるを説明す。《解》は険に遇いて能く奮動す——才力の余あるを説明す。《屯》卦は険の中に動き、患難は未だ平定せず。《解》卦は険の外に動き、患難はすでに消散せり。《彖伝》接いで「解は西南に利しは、往きて衆を得ればなり。其の来たりて復れば吉は、乃ち中を得ればなり。往く攸あれば夙に吉は、往きて功あればなり」というは、句を逐(お)いて卦辞を釈す。
以卦綜釋卦辭。坤為眾,西南入於坤體,故為得眾。得中有功,《本義》《大全》皆謂指九二,時解從之。然六爻獨重九二,未得其解。愚意謂指兩陽爻也。無所往則來復,取坎之得中。有所往則貴夙,取震之能動。
此の一節は卦綜を以て卦辞を釈す。坤は衆、西南は坤位——西南に往けばすなわち坤体に進入す。ゆえに「衆を得」という。「中を得」「功あり」に至っては、《周易本義》と《周易大全》は皆専ら九二を指すと以為し、当時通行の解説もまた此の義に跟從す。然れども《解》卦の六爻は併せて単独に九二を看重するの道理なし——此の講法は説いて通らず。我はそれを分かちて九二・九四の二つの陽爻を指すと以為す。往く所なければ回来するは、取るは坎体九二の中を得るの義。往く所有れば早きを貴とするは、取るは震体の能く動くの義。
蹇上卦之坎,來解下卦,仍在下卦之中。來復得中,所以吉也。蹇下卦之艮,綜為解之震。震動有為,所以有功也。聖人於患難方平之際,不欲人以多事自疲,亦不欲人以無事自怠。故得中則不養禍,亦不擾民矣。有功則惡不滋,難永息矣。
《蹇》の上卦坎は来たりて《解》に在りて下卦と成り、九二は仍お下卦の中に居る——「来たりて復り」て能く中を得る。ゆえに吉という。《蹇》の下卦艮は綜転过来して《解》の上卦震と成り、震は動を主どりて有為す——ゆえに「功あり」という。聖人は患難剛に平定の際に在りて、すでに人の事を多くして自ら疲敝に弄するを願わず、また人の事なくして自ら懈怠に流るるを願わず。能く「中を得」れば、則ち姑渓して禍を養うことなく、また百姓を騒擾せず。能く「功あ」れば、則ち悪をして再び滋長せしめず、患難は永遠に止息すべし。
天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲拆,解之時大矣哉。雲雷為屯,故雷雨作為解。窮冬之時,陰陽固結不通。及陰陽交泰,則百果草木或甲或拆。天地所以成化功也。此極言而贊其大也。
《彖伝》またいう。「天地解けて雷雨作(おこ)り、雷雨作りて百果草木は皆甲拆(こうたく)す。解の時大きなり哉。」雲は雷の上に凝結して散ぜざるは《屯》、雷雨すでに落下せば便ち《解》。隆冬の時は、陰陽閉結して通ぜず。陰陽交泰を待ちては、百果草木は便ち或いは甲を裂きて出で、或いは殻を坼(さ)きて生ず。天地はまさに此の一解一散を凭りて化育の功を完成す——ゆえに《彖伝》は極力称説して、《解》の時の大なるを讃嘆す。
象曰:雷雨作,解。君子以赦過宥罪。雷者天之威,雨者天之澤。威中有澤,刑獄之有赦宥也。有過者,赦而不問可也。罪惡而赦之,非義也。矜其無知,宥而從輕而已(文瀾本「宥而從輕而已」作「而罪疑從輕」)。此所以推廣天地之仁也。雷雨交作,天地以之解萬物之屯。赦過宥罪,君子以之解萬民之難。故襍卦曰解緩也。
《大象伝》にいう。「雷雨作り、解。君子以て過を赦し罪を宥(ゆる)す。」雷は上天の威、雨は上天の沢——威の中に沢を帯ぶは、たとえば刑獄の中に赦あり宥あるがごとし。過失に属するは、赦免して再び追究せずして可なり。真の罪悪若し一概に赦免せば、便ち義に合せず——ただ其の無知を哀憐して、寛宥して軽きより發落するのみ(文瀾閣本は此の句を「而して罪は疑いて軽きに從う」と作す)。これはまさに天地の仁を推広するなり。雷雨交作するは、天地はそれを借りて万物の鬱結を化解す。過を赦し罪を宥するは、君子はそれを借りて万民の困難を化解す。ゆえに《雑卦伝》に「解は緩なり」という——「解」の意はすなわち寛緩。
初六:無咎。震陽動於險上,初與為應。卦之所藉以解散者,何咎之有。又方解之初,宜安靜而休息之,故爻辭簡以示意。象曰:剛柔之際,義無咎也。初柔四剛。際,過也。難之方解,不宜過剛過柔,以剛柔相際為得宜也。
「初六。咎なし。」上卦震の陽気は坎険の上に奮動し、初六は九四と正相応ず。全卦のそれを借りて患難を解散しうる所以は、初六もまた一份あり——さらに何の過錯かあらん。況んやまさに難を解くの初めに当たりては、安静休养すべし。ゆえに爻辞はただ二字を用いて、簡略に意を示すのみ。《小象伝》に「剛柔の際(あい)、義咎なし」という——初六は柔、九四は剛、「際」は交接の意。患難剛に解除せられれば、過剛を宜とせず、また過柔を宜とせず。剛柔両相交接するを以て最も合宜と為す——ゆえに義理の上に過錯なし。
九二:田獲三狐,得黃矢,貞吉。狐者,邪媚之獸。《本義》謂卦凡四陰,除六五君位,餘三陰,狐之象也。今按,三陰爻,上得正而初在下有應,爻辭皆不深貶。唯三不中不正,又無正應,又居下卦之上,猶小人以邪媚居高位者。當解之時,小人而在高位,在所必去。唯二以陽剛能去之。
「九二。田(た)に三狐を獲、黄矢を得、貞吉。」狐は邪媚の野獣。《周易本義》にいう、全卦は共に四箇の陰爻、六五の君位を除きて、其余の三箇の陰爻は便ち「三狐」の象。今按ず——此の三箇の陰爻の裏、上六は位に居りて正を得、初六は下に在りてまた九四と応あり——爻辞は彼らに対して皆曽て深く貶責を加えず。ただ六三のみ中に居らずまた正ならず、上に正応なく、却って下卦の上に居る——まさに邪媚の手段を用いて高位を窃居する小人に似たり。難を解くの時に当たりて、小人にして高位を占據するは、是れ除かざるべからず。而して全卦の中、ただ九二のみ陽剛の才を凭りてそれを除掉しえたり。
又坎為狐。六三居三之位,故有田獲三狐之象。黃,中色。矢,直物。九二居中,有剛直之德,有得黃矢之象。九居二若非正,而中,自無不正矣,故曰貞吉。此大臣得君,能去邪佞以行其中直之道者也。象曰:九二貞吉,得中道也。居中自能守正也。
さらに取象の上より説けば、坎は狐、六三はまた恰好第三位に居る——ゆえに「田に三狐を獲」の象あり。「黄」は五色の中の中色、「矢」は笔直の物。九二は下卦の中に居り、剛直の徳を具す——ゆえに「黄矢を得」の象あり。陽爻を以て二此の陰位に居るは、正ならざるに似る——然れどもそれは中を得る。中を得れば自然に正ならざらん。ゆえに「貞吉」という。此の一爻の講ずるは、大臣は君主の信任を獲得して、能く邪佞を剷除し、從而して其の中正剛直の道を推行す。《小象伝》に「中道を得ればなり」というは、まさに中に居る人は自然に能く正を守るを説く。
六三:負且乘,致寇至,貞吝。以六居三,在下卦之上。坎為輿,有負荷之小人而乘車之象。二視三為狐,上視三為隼,四視三為拇,群起而攻,有致寇至之象。六三非貞而言貞者,高位乃君所與,亦貞也。雖以正得之,亦可羞也,唯避而去之可也。卦以解名,解難莫要於解小人,故諸爻皆欲解三,而三亦唯有自解而去,則寇亦解矣。
「六三。負い且つ乗す、寇至るを致す、貞吝。」六の此一陰爻を以て第三位に居り、まさに下卦の上に在る。坎は車輿——ここに本より重物を背負うべき小人が却って車子に坐るの象あり。九二はそれを狐と看(み)て、上六はそれを隼と看て、九四はそれを足趾と看て、衆爻は群起して攻む——これがすなわち「寇至るを致す」の象。六三は本より正に非ざるも爻辞は偏に「貞」というは、其の居る高位は畢竟君上の授する所に出づれば——名分に就いていえば亦た正当と算す。然れどもたとえ正当の途徑に循いて得たりといえども、彼の位子に坐れば仍お羞(は)ずべし——ただ自ら避譲して離去するのみこそ好し。此の卦の名は「解」にして、難を解くに最も要緊なるは小人を解去するに如かず。ゆえに諸爻は皆六三を解掉せんと欲す。六三もまたただ自ら職を解して去るのみこそ、外来の寇難も自然に解かれん。
象曰:負且乘,亦可醜也。自我致戎,又誰咎也。負無可丑,負且乘,則可丑。戎由自致,不言凶而凶可知。九四:解而拇,朋至斯孚。按,《本義》以拇為初,朋為二。按,王注以拇為三,朋為初。皆未當。
《小象伝》にいう。「負い且つ乗すは、亦た醜(うご)べし。我より戎(えい)を致すは、また誰の咎ぞ。」単に物を背負うは耻ずべからず、物を背負いてまた車に乗らんとすればこそ、耻ずべしと顕(あら)わる。兵戎は己の招来したる所——爻辞は明らかに「凶」と説かざるも、凶はすでに想見すべし。「九四。而(なん)じの拇(おやゆび)を解けば、朋至りて斯(ここ)に孚あり。」按ず——《周易本義》は「拇」を以て初六、「朋」を以て九二と為し、王弼の注は則ち「拇」を以て六三、「朋」を以て初六と為す。両説皆妥当ならず。
今以朋指二,拇指三。蓋震為足,三在足下,有拇象。二與四同陽剛之德,四居大臣之位,宜與二同心以解難者。三以小人間之,解去三之拇,則二得以上比於四,同類之朋可相信矣。此大臣之去邪黨,以親善類者也。象曰:解而拇,未當位也。以九居四而與三比,故曰未當。設若居三居初,則得正而與二比。居五,則得當而與二同德矣。觀象傳,益見解拇宜指三。
我は現に「朋」を九二に指作し、「拇」を六三に指作す。上卦の震は足、六三はまさに震足の下に在る——ゆえに足趾の象あり。九二と九四は同じく陽剛の徳、九四はまた大臣の位に居る——本より九二と同心協力して難を解くべし。ただ六三此の小人が中間に夾(はさ)まりて彼らを隔断せばなり。ゆえに六三此の「拇」を解去してこそ、九二は能く上に九四に比し、同類の朋こそ互いに取信すべし。此の一爻の説くは、大臣は邪党を剷除して善類に親近す。《小象伝》に「未だ位に当たらざればなり」という——陽爻を以て第四位に居りてまた六三と比すれば、ゆえに位当たらずという。もしそれを三に居らしめ或いは初に居らしめば、則ち正を得て九二と比しえ、五に居らしめば則ち位を得て九二と同徳せん。《小象伝》此の句に由りて、さらに「拇を解く」の「拇」は当に六三を指すべきを見べし。
六五:君子維有解,吉。有孚于小人。按,《本義》卦凡四陰而六五當君位,與三陰同類者,必解而去之,則吉也。孚,驗也。君子有解,以小人之退為驗也。按,王注居尊履中而應乎剛,可以有解而獲吉矣。以君子之道解難釋險,小人雖闇猶知服之而無怨矣。
「六五。君子維れ解ある、吉。小人に孚あり。」按ず——《周易本義》にいう、全卦は共に四箇の陰爻、六五は君位に占め、其余の三陰はそれと同類——必ず解して之を去らしめばこそ吉。「孚」は応験(おうけん)——君子の解する所有れば、則ち小人の退去するを以て応験と為す、と。また按ず——王弼の注にいう、六五は尊位に居りて中道を履み、また下に九二の剛に応ず——ゆえに能く解する所有りて吉を獲。君子の道を用いて患難を解除し険阻を釈去せば、小人は昏昧といえども、なお心服して怨恨を生ぜざるを知る、と。
今時解皆從《本義》,謂人君以去小人為驗也。然詳王注語意,釋有孚尤明順。六五當君位而得中,亦得稱君子。然五陰柔,非能解者。以應陽剛之二,能獲三狐。比陽剛之四,能解其拇。是能逐惡之賢臣,而五能信任之,故曰有解也。五維能任二四以解難,凡卦中諸陰皆信服而退聽。此賢君能用賢臣以除患,使小人畏服者也。象曰:君子有解,小人退也。從《本義》作退去之退,從註疏作退聽之退。可兼。
如今通行の解説は皆《本義》に跟從して、是れ人君の小人を除去するを以て応験と為すと認めり。然れども細かに王弼注の語意を看れば、「孚あり」を釈するに用うるに尤も明白順暢なり。六五は身に君位を居りて中を得れば、また「君子」と称すべし。然れども六五は陰柔の質——本身に難を解くの能力なし。それは下に陽剛の九二に応じ、九二は能く「三狐を獲」。上に陽剛の九四に比し、九四は能く「其の拇を解く」——此の两位は皆能く悪人を駆逐するの賢臣にして、六五は能く彼らを信任す。ゆえにそれを「解あり」と説く。六五はただ能く二・四の两爻を任用して難を解かしめば、卦中の諸陰は自然に皆心服して退きて聴かん。此の一爻の説くは、賢君は能く賢臣を用いて患を除き、小人をして畏服せしむ。《小象伝》に「君子解あり、小人退けばなり」という——此の「退」の字は、《本義》に依りて退去の退と読み、旧注疏に依りて退聴の退と読む——両義は併存すべし。
上六:公用射隼于高墉之上,獲之無不利。上六居卦之最上,又震體,故有公象。三居下卦之上,互二四為離為飛鳥,有隼在高墉之象。上與三非應,則敵也,有射隼于高墉之上之象。九二剛中,視三柔而不中,象狐之邪媚。上柔正,視三居剛不正,又象隼之鷙害。繫辭以三為小人,以上為藏器待時之君子。六爻唯上獨正故也。
「上六。公隼(はやぶさ)を高墉(こうよう)の上に射るを用い、之を獲て利あらざるなし。」上六は全卦の最上に居り、また震体に属す。震は長子諸侯——ゆえに「公」の象あり。六三は下卦の上に居り、二より四に至るまで互い離体を出づ。離は飛鳥——ここに隼の高き墻上に棲むの象あり。上六と六三は同じく陰爻、正応を成さず——両者は便ち仇敌と成る。ゆえに高き墻上に隼を射るの象あり。九二は剛にして中を得るは、それの六三を看るは柔にして中ならず、狐狸の邪媚のごとし。上六は柔にして正を得るは、それの六三を看るは柔を以て剛に居り、位当たらず正ならず、また鷲鳥(しゅちょう)の凶害のごとし——取象の同じからざる所以は、まさに観者の処する地位の同じからざるが故。《繫辭伝》は六三を以て小人と為し、上六を以て器を蔵して時を待つの君子と為す——すなわち六爻の中ただ上六のみ位に居りて正を得ればなり。
易於震動多有戒辭,今曰無不利。蓋自坎來,經歷多難。所謂待時而動者,動必不妄也。象曰:公用射隼,以解悖也。三竊位而不應,悖逆者也,故解之宜速也。此卦彖傳及二爻四爻五爻上爻,所見皆與《本義》不同,非敢求異,姑存疑義耳。
《易》は凡そ震体の奮動に遇えば、多く戒懼の辞あり——ここには却って「利あらざるなし」という。上六は下卦の坎険より一路上走りて来たれるが故——許多の患難を経歴し、まさに《繫辭伝》のいう「時を待ちて動く」の人——一動すれば必ず軽妄に至らず。《小象伝》に「公隼を射るを用いるは、以て悖(もと)るを解けばなり」という——六三は其の位を窃據してまた上と応ぜず、是れ悖逆の人。ゆえにそれを解除するは速きを宜として慢きを宜とせず。以上《解》卦の《彖伝》および九二・九四・六五・上六の四爻、我が見解は皆《周易本義》と同じからず——併せて意に標新立異せんとするに非ず、ただ姑く此の可疑の義を存するのみ。
損(そん)の卦
損卦,下兌上艮。取損下益上之義,其說有四。山體高澤體深,下深而上益高,一也。澤在山下,其氣上通,潤及草木,二也。下為兌說,三爻皆上應,說以奉上,三也。損下乾剛而益柔,益上坤柔而成剛,四也。
《損》の卦は下卦が「兌」、上卦が「艮」。それは「下を損して上を益す」の義を取り、説法に四種あり。一には、山体は高く沢体は深し——下面を挖(ほ)ること深ければ、上面は顕れてますます高し。二には、沢は山の下に在り、沢気は上に通じて、山上の草木を滋潤す。三には、下卦の兌は悦、三爻は皆上に上卦に応ず——是れ喜悦の心を以て上に在る者に奉承す。四には、卦変に就いていえば、《損》は《泰》より来たり、下体乾の剛爻を損去して下体を柔に転じ、上体坤の柔位を增益して上体を剛を成さしむ。
損上益下謂之益,損下益上謂之損。譬損牆上之土以培基,則安益也。取牆基之土以增其高,必危損矣。散君惠(文瀾本「散君」作「君施」)以結民心,益也。剝民以奉其上,損矣。故卦名損。損次解。按,《序卦》,解者,緩也。緩必有所失,故受之以損。縱緩必失,失則有損,損所以次解也。
上に在るを減損して下に在るを增益するを「益」といい、下に在るを減損して上に在るを增益するを「損」という。喩を打てば、墻頭の土を取り下来りて墻基を培固すれば、墻はかえって安穩——これは益。墻基の土を挖りて墻頭を加高すれば、墻は必ず危険——これは損。君上の恩惠を散布して民心を結聚するは(文瀾閣本は「散君」を「君施」と作す)、是れ益。百姓を盤剝して上に在る者を奉養するは、是れ損。ゆえに此の卦の名は「損」。《損》卦は《解》卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「解は緩なり。緩は必ず失う所有り、故に受けて損と為す。」放縦鬆弛すれば必ず失う所有り、失あれば便ち損なり——これがすなわち《損》の《解》を承接するの道理。
全彖以損所當損則得,而要之於時。六爻則下三爻皆知損者,上三爻皆損中受益者。蓋損者聖人不得已而用之,唯合於時則得。若不宜損而損,則所損又不待言矣。此全卦之大旨也。
全卦の大意は——損する所は確かに損すべきなりてこそ、当を得たと算す。而して関鍵はまた一箇の「時」の字に落つ。六爻に就いて見れば、下の三爻は皆自損を懂得する者、上の三爻は皆損の過程の中に受益する者。「損」はもとより聖人の已むを得ずして用うるの手段——ただ時宜に合してこそ当を得たと算す。若し損すべからざるに硬に損せんと往かば、則ち其の造成する損害はさらに説くに及ばず。これが全卦の大旨なり。
損:有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。損為減省之義。以人事言之,損下益上,損內益外,剝民奉君,皆是也。損非人情所欲,故必損所當損,使人皆有孚信之心。則有樂從之吉,無貪鄙之咎。可垂諸萬世而貞,可通行天下而利有攸往也。占辭繁而不殺。蓋以損之事,本未能大善而吉,未必可固守,未必可有往。唯損所當損而至於有孚,則兼得之。故損,不可不慎也。
卦辞。「損、孚あり、元吉、咎なし、貞すべし、往く攸あるに利し。」「損」は減省の義。人事に就いていえば、下を損して上を益し、内を損して外を益し、百姓を盤剝して君上を奉養するは、皆損に属す。損は人情の願う所に非ず——ゆえに必ず損すべきを損して、人をして皆誠信相從の心を生ぜしめねばならず。此の如くしてこそ聴從を楽しむの吉あり、貪鄙聚斂の過錯なく、こそ万世に垂れて長久とし、天下に通行して往く所有るに利しえたり。此の条の占辞は一連串に説き下来りて省略するを肯ぜず——まさに「損」此の事は本身未だ必ずしも大善にして吉、未だ必ずしも固守すべく、未だ必ずしも往く所有るべくならざるが故。ただ損すべきを損して人心の誠服するを做到してこそ、此の数項を一併に兼得しえたり。ゆえに損の事を行うは、愼重せざるべからず。
曷之用,二簋可用享。曷,何也,問答之辭。言當損之時何所用乎。雖以二簋之薄,可用以享而無害於禮矣。彖曰:損,損下益上,其道上行。以卦體釋卦名義。損益二卦,皆損有餘以補不足也。損乾之九四曰損上,損乾之九三曰損下。蓋陽實陰虛,損下體本乾皆實,在所當損。上體本坤皆虛,在所當益。此所以損下益上而合於道之當然也。
卦辞またいう。「曷(か)れ之を用いん、二簋(にき)用ゐて享(まつ)るべし。」「曷」はすなわち「何」——自問自答の語気。損の時に当たりて何を用いんや、と。答えていう、たとえ两簋の薄物を備うるのみとも、また拿って祭享して礼に害なし、と。《彖伝》にいう。「損は、下を損して上を益す、其の道は上行す。」これは卦体を以て卦名の含義を釈す。《損》《益》の两卦は、皆有余を減損して以て不足を補足す。乾体の九四を減損するを「上を損す」という——《益》卦は《否》より来たり、上体乾の九四を損して以て初六を益す。乾体の九三を減損するを「下を損す」という——《損》卦は《泰》より来たり、下体乾の九三を損して以て上六を益す。陽爻を実と為し陰爻を虚と為す——此の卦は下体本より乾にして、三爻皆実、損すべきに属す。上体本より坤にして、三爻皆虚、益すべきに属す。これがすなわち「下を損して上を益す」にして道の当然に合する所以の緑故なり。
損而有孚,元吉無咎,可貞,利有攸往。曷之用,二簋可用享。二簋應有時,損剛益柔有時,損益盈虛,與時偕行。當其可之謂時。二簋之用,時當損故也。以卦爻推之,凡損剛益柔皆有時,非剛皆所宜損也。以天下之理推之,凡損其盈,益其虛,益極復盈而損,損極復虛而益,皆隨時以行,雖聖人不能違乎時也。
《《彖伝》接いでいう。「損にして孚あれば、元吉咎なし、貞すべし、往く攸あるに利し。曷れ之を用いん、二簋用ゐて享るべし。二簋は時に応ずべし、剛を損し柔を益すは時あり、損益盈虚は、時と偕に行く。」いわゆる「時」は、すなわち恰好其の可なるに当たる。两簋の薄物を以て祭享するの行いうべき所以は、時勢がまさに減損に当たればなり。卦爻に就いて推論すれば、凡そ剛を損し柔を益すは皆時候を看るべく、併せて剛は皆損すべきに非ず。天下の理に就いて推論すれば、凡そ盈満するを減損し、空虚するを增益するは、益すること極処に至りてまた盈満に転じて損に当たり、損すること極処に至りてまた空虚に転じて益に当たる——全部時に隨いて行う。たとえ聖人なりとも、また時勢に違背する能わず。
象曰:山下有澤,損。君子以懲忿窒欲。忿易發難制,故曰懲。懲者,懲於今而戒於後也。欲之起甚微,故曰窒。窒者,遏絕之使不行,思禮義以勝之也。君子觀山之象以懲忿。蓋忿之來氯湧如山,況多忿如少男乎,故懲忿當如摧山。觀澤之象以窒慾。蓋欲之溺浸淫如澤,況多欲如少女乎,故窒慾當如防澤。忿之不懲,必至於遷怒。欲之不窒,必至於貳過。君子修身所當損者,莫切於此。
《大象伝》にいう。「山下に沢あり、損。君子以て忿(いかり)を懲(こ)らし欲を窒(ふさ)ぐ。」忿怒は発作し易く抑制し難し——ゆえに「懲」の字を用う。「懲」は眼下にそれを懲戒して、日後にそれを警戒す。欲念の萌生は極めて細微——ゆえに「窒」の字を用う。「窒」はそれを堵絶して、行い出られしめず、礼義の思に倚りてそれに勝たんとす。君子は上卦艮山の象を観て忿を懲らす——忿気は涌起して高峻なること山の如し。況んや艮は少男、少男は本より忿多し。ゆえに忿を懲らすは当に一座の山を摧倒するが如くすべし。下卦兌沢の象を観て欲を窒ぐ——欲念は浸淫沉溺して漫衍すること沢の如し。況んや兌は少女、少女は本より欲多し。ゆえに欲を窒ぐは当に堤を筑きて沢を防ぐが如くすべし。忿怒を懲らさざれば、必ず他人に怒を遷(うつ)すに至らん。欲念を窒がざれば、必ず旧過を重犯するに至らん。君子の身を修むるに当に減損すべきは、此の两件より切要なるはなし。
初九:已事遄往,無咎,酌損之。初九當損下益上之時,而以剛居剛,處於有餘,上應六四。故宜輟其所為之事,速往以益四則為無咎。然當損之初,又不宜自損之過。故當酌其淺深之時宜,庶不自傷其本量也。象曰:已事遄往,尚合志也。尚,上通。上與四合,宜速往也。
「初九。事を已(や)めて遄(はや)く往け、咎なし、酌(く)みて之を損せ。」初九はまさに下を損して上を益すの時に当たり、また陽爻を以て陽位に居り、才力余あり、上は六四と相応ず——ゆえに己の手頭の事を停下して、急ぎて前往して六四を增益すべく、此の如くしてこそ咎なし。然れどもまさに損の開端に在りて、また自損すること太過を宜とせず——ゆえに深浅を斟酌し時宜を量度してこそ、己の本量を傷るに至らず。《小象伝》に「尚(なお)志に合すればなり」という——「尚」は「上」と通ず。説くは初九と上面の六四とは心志相合す——ゆえに速かに往くに宜し。
九二:利貞,征凶,弗損益之。二剛中,無有不正。然不能自守而妄進,則不正矣,故戒以征凶也。弗損益之,蓋損己益人者,益止於所損。以弗損為益,其益已無方。初曰酌損,二則弗損者。初以剛居剛,勢處有餘,在所宜損。二以剛居柔,已得其中,又為說體,若過損以益上,是屈己以取媚,非貞者矣。故弗損者,不變其所守也。然以陽剛與六五相應,剛柔相濟,五已受其益,是弗損而有以益之也。
「九二。貞に利し、征(ゆ)けば凶、損せずして之を益す。」九二は剛にして中を得れば、本より正ならざる所なし。然れども若し己を守る能わずして妄りに自ら前進せば、則ち正ならず——ゆえに爻辞はそれに「征けば凶」を戒む。「損せずして之を益す」に至っては、凡そ己を損して人を增益するは、增益する所は至多減損する所に等し。若し能く己を損せずして仍お人に益あらば、則ち其の增益は辺際なからん。初九は「酌みて損す」といい九二は「損せず」というは、初九は陽を以て陽に居りて勢位余あり、本より損すべきの列に在ればなり。九二は陽を以て陰に居りて、すでに中を得、また兌悦の体に処る——倘若し過分に自損して上に在る者に取り入らんとすれば、則ち己を屈して媚を取ると成りて、かえって正を守るの人に非ず。ゆえに「損せず」はまさに己の守る所を改変せざるなり。然れどもそれは陽剛を以て六五と相応ず——剛柔互いに済(たす)く、六五は早くより其の好処を得たり——これがすなわち己を減損せずして実実在在に人に益あるなり。
象曰:九二利貞,中以為志也。居二處說,疑於非正。中以為志,不以損為益則正矣。六三:三人行則損一人,一人行則得其友。此爻獨言損之義。天地間陰陽對待,唯兩而已,三則餘其一而當損。
《小象伝》に「中を以て志と為せばなり」という——九二は陽を以て陰位に居り、また兌悦の体に処れば、人をして它の正ならざるを疑心せしめ易し。然れどもそれは中を守るを以て志と為し、一味に自損するを以て人を益すと当成せず——これがすなわち正なり。「六三。三人行けば則ち一人を損し、一人行けば則ち其の友を得。」此の一爻は単に「損」の字本身の義理を講ず。天地の間、陰と陽とは两两に対待して、ただ成双するを以て常と為す——三箇なれば便ち一箇多出す。多出せるは当に減損すべし。
蓋兩相與則專,三則雜而亂。下卦本乾,損上爻以益坤,三人行而損一人也。一陽上而一陰下,一人行而得其友也。上與三以剛柔相易而謂之損者,但言其減一耳。夫子繫辭以男女媾精言之,即指三上二爻。程傳又謂初二二陽,四五二陰同德相比,三與上應,皆兩相與。則又因夫子之言而推之六爻,以廣得友之義也。
二つは相交われば情意専一、三つなれば則ち駁雑にして乱を生ず。《損》は《泰》より来たり、下卦は本より乾——乾の上爻(すなわち九三)を損去して以て上卦の坤を增益す——これがすなわち「三人行きて一人を損す」。一箇の陽爻は上り、一箇の陰爻は下る——これがすなわち「一人行きて其の友を得」。上六と九三は本より剛柔互換——然れども只だ「損」と叫作するは、不過一箇を减去するに就いて言うのみ。孔子は《繫辭伝》の裏に男女媾合精気を以て此の一爻を説く——指すはまさに三・上の两爻。程頤《伊川易伝》はまた、初九・九二の两陽は同徳にして相比し、六四・六五の两陰は同徳にして相比し、六三と上六はまた相応ず——皆「両相与(とも)する」と算す、という。これは孔子の話に順いてさらに六爻に推広して、「友を得」の義をさらに寛く講じたるなり。
象曰:一人行,三則疑也。一人行而得一人為友,三則疑其所與,理當損去其餘也。然細繹此爻取象,不過謂有餘在所當損,損而得當,則為得友耳。夫子繫辭以男女言之,蓋陰陽對待,不容或過。猶男女有偶,不容或叅。故道有所宜損者耳。非謂取友者,有取於二而不容有三也。若以辭害意,則不可通矣。
《小象伝》に「一人行くは、三なれば疑えばなり」という——一箇人走りて一箇の人を伴と為すを得るは、三箇人なれば免れず誰に跟(つ)くべきを疑惑す。理に按じて当に多出せるを减去すべし。然れども細々と此の一爻の取象を推尋すれば、不過有余の者は当に損すべく、損して恰当なれば便ち「友を得」と算すのみ。孔子の《繫辭伝》の裏に男女を以て比と為すは、陰陽两两対待にして、一箇の多出を容さず——たとえば男女の偶を成すが如く、第三者を摻(まじ)え入るるを容さず——ゆえに事理の上に減損すべきの処ありという。併せて朋友を交るはただ両人を取りて三人あるを許さずというに非ず。若し字面に拘泥して本意を妨害せば、則ち講じて通らず。
六四:損其疾,使遄有喜,無咎。四變互坎為心病,疾之象。卦取損下益上,四在上卦,宜不言損矣。然居損之時,在上之下,與剛相應,是能自損其陰柔之疾,以受陽剛之益者也。惟速則善而無咎矣。四與初皆言遄。蓋初方舍其事而速於益四,四亦必急去其疾以受初之益。若彼方汲汲,此乃悠悠,非受益者矣。初曰遄往,四曰使遄。初之過四,有以使之也。此能變化氣質以受益者也。占者能如是,則無咎矣。
「六四。其の疾(やまい)を損し、遄(はや)くして喜びあらしめ、咎なし。」六四は変爻すれば互い坎体を出づ。坎は心病——これは「疾」の象。此の卦は下を損して上を益すの義を取り、六四はすでに上卦に在る——例に照らし再び「損」と説かざるべし。然れどもそれは損の時に処り、上卦の下に居りて下面の剛爻と相応ず——まさに能く自ら其の陰柔の病を損して、以て陽剛の益を接受するの人。ただ急ぎて為し去るのみこそ好し、こそ咎なし。六四と初九は皆一箇の「遄」の字を説到す——初九は剛に己の事を放下して駆け来たりて六四を益す。六四もまた必ず急ぎて己の毛病を除去して以て初九の益を接受すべし。若し一辺は急急忙忙、一辺は慢慢騰騰ならば、則ち受益の人と為り成らず。初九は「遄く往け」といい、六四は「遄くあらしめよ」という——まさに初九の門を登りて来たりて就くは、本身すでに六四を催促するの作用あればなり。これは能く気質を変化して益を接受するの人——占者能く此の如く為せば、咎なし。
象曰:損其疾,亦可喜也。疾本無可喜,能因人而損之,亦可喜也。六五:或益之,十朋之龜弗克違,元吉。自二至上,中虛其體,似離而大,有十朋之龜之象。按,《食貨志》兩貝為朋。元龜長尺二寸,大貝十朋。朋直二百一十六,十朋直二千一百六十,大寶也。二應於五,而二既守正,以弗損為益。五虛中居尊,以受天下之益。若不知其益之所自來者,故曰或益之。而有其德則其實亦有不得辭者,故曰弗克違,元吉。
《小象伝》に「其の疾を損すは、亦た喜ぶべし」という——病は本身に何の喜ぶべきもなし、能く他人の助けに倚りてそれを損去せば、則ち喜ぶべし。「六五。或いは之を益す、十朋の亀克(あた)う違(そむ)けず、元吉。」九二より上九に至るまで、中間虚にして上下実——形状は一箇の放大せる離体に似たり。離は亀——ゆえに「十朋の亀」の象あり。《漢書・食貨志》に按ずれば、两枚の貝を一朋と為し、元亀は長さ一尺二寸、大貝十朋に値す。一朋は二百一十六銭に値し、十朋は便ち二千一百六十銭に値す——是れ極めて貴重の寶物。九二と六五は相応じ、而して九二はすでに能く正を守り、「自損せず」を以て人を益すの道と為す。六五は則ち中を虚にして尊位に居り、用いて天下の增益を承受す。此の增益は来たること自然而然、受者は仿佛として何処より来たるを知らざるがごとし——ゆえに「或いは之を益す」という。然れども受者は確かに彼の如き徳ありて、実際上また推辞して掉(さ)るる能わず——ゆえに「克う違けず、元吉」という。
象曰:六五元吉,自上祐也。德能動天,天祐之也。上九:弗損益之,無咎,貞吉,利有攸往,得臣無家。按,《本義》謂上九受益之極,欲自損以益人。然惠而不費,不待損己,然後可以益人也。惠而不費,則惠廣矣,故又曰得臣無家。今時解皆從之。
《小象伝》に「六五元吉は、上より祐(たす)けらるればなり」という——徳行は能く上天を感動せしめば、上天は便ち来たりて彼を保祐す。「上九。損せずして之を益す、咎なし、貞吉、往く攸あるに利し、臣を得て家なし。」按ず——《周易本義》は上九は受益極処に到りて、自損して人を益さんと欲すと認む。ただ恵を施して耗費せず、先ず己を減損して然る後に能く人を益するを用いず。恵を施して耗費せざれば、恩惠は則ち推めて広し——ゆえにまた「臣を得て家なし」という。如今通行の解説は皆此の一説に跟從す。
然上雖損卦之終,不得遽言損上益下之事。且上正受下之益者,又不得反言益人。按,王注處損之終,上無所奉。損終反益,剛德不損。處損之極,尚夫剛德,為物所歸,故曰得臣。天下為一,故無家也。此解雖不言益下,而於受益之義亦未明。
然れども上九は《損》卦の終に在るといえども、未だ一下子にそれを「上を損して下を益す」の事を為すと説きえず。況んや上九はまさに下面の增益を接受するの一爻——また反対にそれを人を增益すと説くべからず。按ず——王弼注にいう、上九は損の終に処り、上面にすでに奉承すべきなし。損は尽頭に到りてかえって益に転じ、剛徳は併せて虧損せず。損の極処に処りて仍お剛徳を崇尚すれば、万物の帰附する所と為る——ゆえに「臣を得」という。天下は同じく一体と為す——ゆえに「家なし」という、と。此の解釈は曽て下を益すと講じざるといえども、「受益」の義に対しても仍お説いて明白ならず。
愚意此弗損益之與二爻不同。二爻言不損己以益人,此則不損人以自益也。蓋上爻乃損下卦之陽,益此爻之陰而成上九。今既稱九,則無可益。下應六三,三亦不容復損矣。蓋在全卦為損之極,在此爻為受益之極。故以不損於三為益也。損下之極,不復過損,於義無咎。
我は上九此の「損せずして之を益す」の句は、九二の彼の句と意思同じからざるを以為す。九二の説くは己を減損せずして人に益あり、上九の説くは却って人を減損せずして己を增益す。上爻は本より下卦の陽爻を損去し、此の爻の陰位を增益してこそ上九と為れたればなり。今はそれすでに「九」と称せば、則ち再び增益すべきの余地なし。其の下面の応ずる所は六三、六三もまた再び減損せられんを容さず。全卦に就いていえば、ここは損の極処。此の爻に就いていえば、ここは受益の極処。ゆえにそれは再び六三を減損せざるを以て「益」と為す。下を損して極点に損して、而して再び過分に損せざるは、義理の上に過錯なし。
然以九居上,疑於不正,故戒以唯貞剛吉。蓋取民有制,非若蠲租市惠之為,如是則利有所往矣。上以三為臣,三與上應,有得臣之象。然不過求於三,非以三為私有者,有得臣無家之象。若陳氏之以家量貸民以固人心,則意在得臣,實以為其家矣。得臣而非以為家,亦受益之中而自寓貶損之意者。如此則於損卦之義較合,姑以此備闕疑。
ただ陽爻を以て上位に居れば、正ならずと疑えられ易し——ゆえに爻辞はそれにただ正を守り剛を持してこそ吉と戒む。民より之を取るには一定の法度あるべく、租税を減免して人心を買収するが如き做作に似ず——能く此の如くなれば則ち往く所有るに利せん。上九は六三を以て臣と為し、六三はそれと相応ず——これは「臣を得」の象。然れどもそれは併せて六三より索取することを過分にせず、また六三を自家の私産と視做せず——これがすなわち「臣を得て家なし」の象。たとえば春秋時の斉国の陳氏は自家の大斗を用いて借出し、小斗を以て収进来りて民心を籠絡せり——あれは存心に「臣を得」せんと要する、実際は国人を據りて一家の所有と為せり。臣を得て而して私家に據らざるは、まさに受益の中に在りて仍お自ら貶損の意を寓するなり。此の如く講ずるは《損》卦の義と比較して相合す——姑く録して以て一説に備え、以て疑う所を存す。
象曰:弗損益之,大得志也。不損於下,為眾所歸,其益乃大,得其志矣。全彖當損之時,必信服於人心,乃得其當。故下三爻主損,皆知損者。初以爻位俱剛而可損,然在初剛宜酌。二爻剛位柔則不必損下以益上矣。三正當損者也。上三爻皆受益者。四自損以受人之益者也。五不求益而下樂損以益之者也。上已受益而不欲過損於下矣。損非美事,而得其道則皆吉,此彖辭所以詳言之也。
《小象伝》に「損せずして之を益すは、大いに志を得ればなり」という——下面を減損せず、因りて衆人の帰附する所と為れば、其の得る所の益はこそ大、心志もまた実現せり。全卦を総観す。損の時に処りては、必ず人心をして誠服せしめばこそ、処置得当と算す。ゆえに下の三爻は損を以て主と為し、皆自損を懂得する人——初九は爻と位と皆剛、本より損すべし。然れどもそれは最初に居り、剛にして斟酌に宜し。九二は陽爻にして柔位に居れば、則ち再び下を損して上を益するに及ばず。六三こそ真に是れ損すべきの彼の一箇。上の三爻は則ち皆受益する者——六四は自ら其の疾を損して以て他人の益を接受す。六五は併せて益を求めず、而して下面は自損してそれを增益せんと楽しむ。上九はすでに受益せれば、便ち再び過分に下面を減損せんことを願わず。損は原より美事に非ざるも、然れどもただ其の道理に合せば、六爻は便ち皆吉——これがまさに卦辞の一層層詳説する所以の緑故なり。
周易淺述 巻五
益(えき)の卦
益卦,震下巽上。以卦象言之,風烈則雷迅,雷激則風怒,兩相助益,所以為益。以其義言,損下謂之損,則益下謂之益。以陽爻益坤之下爻,所以謂之益也。益卦次損。按,《序卦》,損而不已必益,故受之以益。
《益》の卦は下卦が「震」、上卦が「巽」。卦象に就いていえば、風勢猛烈なれば雷声はさらに急、雷声震激せば風力はさらに怒る——両者は互いに助長す。ゆえに「益」と曰う。卦義に就いていえば、下面を減損するを「損」という——然らば下面を增益するを「益」と曰う。此の卦は一箇の陽爻を坤体の下爻に加う——ゆえに「益」と称す。《益》卦は《損》卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「損して已まざれば必ず益す、故に受けて益と為す。」
蓋損卦天下富實之象。下實上虛,宜有所損以奉君。益卦朝廷富實之象。上實下虛,宜有所損以惠民。然損下謂損,損上謂益者,蓋民貧則上無所寄,民富則上無可憂。故損下君子反以為自損,損上反以為自益也。損益循環,理之自然,益之所以次損也。
《損》卦は天下富実の象——下体実にして上体虚、ゆえに民間を減損して以て君上を奉養するに宜し。《益》卦は朝廷富実の象——上体実にして下体虚、ゆえに朝廷を減損して以て民に恵を施すに宜し。同じく減損なれども、下面を減損するを偏に「損」と叫び、上面を減損するをかえって「益」と叫ぶ——是れは百姓貧困なれば、君上は便ち依託する所なし。百姓富足なれば、君上は便ち憂慮すべきなし。ゆえに下面を減損するは、君子はかえって己を損せりと看作し、上面を減損するは、かえって己を益せりと看作す。損と益とは循環相生す——是れ事理の自然。これがすなわち《益》の《損》を承接する所以の緑故なり。
全彖言益則無所不利。彖傳即君之及民,又推之學問造化,以贊其義之大。六爻下三爻皆受益者。初受四之益,必有以受之,故利大作。二受五之益而爻位皆陰,故宜永貞。三不中正不得當益,而當益下之時,故以凶事為益也。上三爻處益而當損者。四以順下之動為益。五以至誠感人為益。上處益之際,不能損己,反以求人,則或擊之矣。此全卦六爻之大指也。
卦辞は凡そ「益」に逢えば便ち利あらざるなしと説く。《彖伝》は先ず人君の恵を施して民に及ぶに就きて説を立て、さらに為学と造化とに推広して、以て「益」の義の大なるを讃嘆す。六爻の中、下の三爻は皆受益する者。初九は九四の益を承受し、必ず実在の作為を拿出してこそ承受しえたり——ゆえに「大作」に利す。六二は九五の益を承受し、而して爻と位と皆陰——ゆえに「永貞」に宜し。六三は中にも居らずまた正ならず、本より受益に当たらず——然れどもまさに下体を增益するの時に逢して、ゆえに凶険の事を用いてそれを磨砺す——かえって益を成り為らしむ。上の三爻は則ち益の中に処りて理当たりて自損すべき者。六四は下体の震動に順応するを以て益と為し、九五は至誠を以て人を感動するを以て益と為す。上九は益の末端に処りて、自損するを肯ぜず、かえって人に向かいて取を求む——則ちそれを攻撃する人あらん。これが全卦六爻の大旨なり。
益:利有攸往,利涉大川。益,增益也。當益之時,無所不利,以行則利往,以濟則利涉也。二五皆居中得正,故利往。震巽皆木,舟行之象,故利涉。人君能以益下為心,贈處常處變無所不利矣。
卦辞。「益、往く攸あるに利し、大川を渉るに利し。」「益」はすなわち增益。增益の時に当たれば利あらざるなし。拿って事を行えば則ち前往に利し、拿って険を済れば則ち川を渉るに利し。六二・九五は皆中に居りて正を得る——ゆえに「往く攸あるに利し」という。震と巽とは《説卦伝》の裏に皆木に属し、木は舟船の象あり——ゆえに「大川を渉るに利し」という。人君はただ下民を增益するを以て務めと存心せば、常に処るも変に処るも利あらざるなし。
彖曰:益,損上益下,民說無疆。自上下下,其道大光。此以卦體釋卦名義也。損乾之下爻,益坤之下爻,有人君損所有,以惠民之象。民說之自無窮矣。陽爻居下,陰爻居上,有人君居九重之上,降已以下其下之象。則非私恩小惠之為,其道光眀顯著矣。說道光,何益如之。
《彖伝》にいう。「益は、上を損して下を益す、民の説(よろこ)び疆(きはま)りなし。上より下に下(くだ)る、其の道は大いに光なり。」これは卦体を以て卦名の含義を釈す。《益》は《否》より来たり、上体乾の下爻を減損し、下体坤の下爻を增益す——人君は己の所有を減損して以て民に恵を施すの象あり、百姓の歓悦は自然に窮尽なし。陽爻は下面に降り、陰爻は上面に升る——人君は身に九重の上に居りて肯んじて己を屈して臣民に下就するの象。これは則ち私恩小惠の一類の做法に非ず——其の道は自然に光明顕著なり。百姓歓悦し、君道光を大にす——さらに何の增益か此に比せん。
利有攸往,中正有慶。利涉大川,木道乃行。此又以卦體卦象釋卦辭也。以卦體言之,五以中正應二,二亦以中正應五。君臣同德,天下受其福慶,所以利有攸往也。以卦象言之,木為舟,有濟險之才。震巽皆木。君臣同德,上下一心。不獨可以處常,且可濟變。木道之行也。
《彖伝》またいう。「往く攸あるに利しは、中正にして慶あればなり。大川を渉るに利しは、木の道乃ち行ければなり。」これは再び卦体と卦象とを以て卦辞を釈す。卦体に就いていえば、九五は中正を以て下に六二に応じ、六二もまた中正を以て上に九五に応ず——君臣同徳、天下は皆福慶を蒙受す。ゆえに「往く攸あるに利し」。卦象に就いていえば、木は舟を造るべく、険を渡るの功用あり——而して震・巽は皆木に属す。君臣同徳、上下一心——但ただ常に処るのみならず、また能く変を済る——これがすなわち「木の道乃ち行く」。
益,動而巽,日進無疆。天施地生,其益無方。凡益之道,與時偕行。又以二卦之德,推之學問言之。則內卦震動,奮發有為。外卦巽順,潛心遜志。其進也無疆矣。以二卦之體推之造化言之。震剛卦之一陽在下,天陽之下施也。巽柔卦之一陰居四,地陰之上生也。萬物並育,其益無方矣。凡此之益皆道也。道皆時也,損與益皆合乎時而已。此皆以極贊益之大也。象曰:風雷,益。君子以見善則遷,有過則改。遷善當如風之速,改過當如雷之猛。又雷與風有交相助益之勢。速於遷善則過當益寡,決於改過則善當益純。學問之益,莫大乎此。
《彖伝》さらにいう。「益は、動きて巽なり、日に進みて疆りなし。天は施し地は生ず、其の益は方(ほう)なし。凡そ益の道は、時と偕に行く。」これは先ず上下両卦の卦徳を以て為学の上に推ず。内卦の震は動を主どり、是れ奮発有為。外卦の巽は順を主どり、是れ潜心謙遜。一面に奮発し、一面に己を虚しくす——進境は自然に止境なし。また上下両卦の卦体を以て造化の上に推ず。震は剛卦、其の一陽は最下に在り——まさに天の陽気の下に向かいて施与す。巽は柔卦、其の一陰は第四位に居る——まさに地の陰気の上に向かいて生発す。陰陽交わり施し、万物並び育つ——受くる所の增益は便ち限るべき方所なし。凡そ此の等の「益」は皆道にして、道また皆時に隨いて定まる——損なるも好し、益なるも好し、総じて時に合するに帰するのみ。此の等の話は皆極力「益」の大なるを讃嘆す。《大象伝》にいう。「風雷、益。君子以て善を見れば則ち遷(うつ)り、過あれば則ち改む。」善に向かいて遷移するは風の如く迅速なるべく、過錯を改正するは雷の如く猛烈なるべし。而且して雷と風とは本より互いに助長するの勢あり——善に遷ること迅速なれば、過錯は自然にますます少なく、過を改むること果決なれば、善行は自然にますます純ならん。為学修身の獲得する增益は、此より大なるはなし。
初九:利用為大作,元吉無咎。陰小陽大。初剛在下,與四正應。六四近君,信任乎初,正受上之益者。又震體主動,故有利用大作之象。蓋初以在下受上之益,非大有作為無以報效,故利用大作。然所作不盡善,未免於有咎矣。越分圖事必出萬全,得盡善之吉,乃可無咎也。他卦元吉以效言,此以功言。象曰:元吉無咎,下不厚事也。初在下位,本不當任重大之事。不盡善,不足以免咎。
「初九。用いて大作を為すに利し、元吉咎なし。」《易》の例は陰を以て小と為し、陽を以て大と為す。初九は剛爻にして最下に居り、六四と正応。六四は君位に近く、初九を信任す——初九はまさに上面の增益を承受するの人。加うるにそれは震体に属し、震は動を主どる——ゆえに「用いて大作を為すに利し」の象あり。初九は身に下位に在りて上面の增益を受け、一番の大事業を干出(かんしゅつ)せざれば報効に從う所なし——ゆえに大いに作為あるに利す。然れども為す所の事若し尽く善ならざれば、咎を免れ難し。下に在るの身分を以て本分を越出して大事を図謀するは、必ず万全にして失なく、尽善の「元吉」を得てこそ、以て咎なしえたり。別の卦の「元吉」を講ずるは多く成效に就いて説く——此の一爻は却って事功に就いて説く。《小象伝》に「下は事を厚くせざればなり」という——初九は下位に居り、本より重大の事を承担すべからず。為すこと尽善ならざれば、咎責を免るるに足らず。
六二:或益之,十朋之龜弗克違,永貞吉。王用享于帝吉。二以柔順中正上應乎五,又當益下之時。此爻即損五之綜,故象占亦同。在損曰元吉,此曰永貞吉。則位有剛柔之分,分有君臣之異也。二已得正,恐陰柔不能固守,則非為下受益之道,故戒以永貞。二非君位,自王者占之,則為享帝之吉占。亦以下而受上之益也。若自人臣占之,則事君如事天之義也。象曰:或益之,自外來也。外不專指五。五固正應,而二之柔順中正,人孰不願益之。或者,眾無定主之辭。
「六二。或いは之を益す、十朋の亀克う違けず、永貞吉。王用いて帝に享して吉。」六二は柔順中正を以て上に九五に応じ、また下体を增益するの時に逢う。此の一爻はまさに《損》卦の六五を倒転过来せる爻——ゆえに取象と占辞もまた相同じ。《損》の六五は「元吉」という、ここには却って「永貞吉」という——是れ爻位に剛柔の別あり、名分に君臣の異なれば。六二は本よりすでに正を得るも、ただ陰柔の質は能く長久に固守せざるを怕る——然らば則ち下に居りて受益するの道に合せず。ゆえにそれに「永貞」を戒む。六二は君位に非ず、若し君王によりて占せば、則ち上帝に祭享するの吉占と成る——君王の天を祭るも、同じく下に居りて上天の增益を承受す。若し人臣によりて占せば、則ちそれは君主に事うること上天に事うるが如きの意。《小象伝》に「或いは之を益すは、外より来たればなり」という——此の「外」は専ら九五を指さず。九五は固より其の正応なれども、六二はすでに柔順にしてまた中正——誰かそれを增益せんを願わざらん。「或」の字はまさに衆人の来たりて益すも一人を指定せざるの説法なり。
六三:益之用凶事,無咎。有孚中行,告公用圭。三爻多凶。六三陰柔,不中不正,不當得益者。然當益下之時,與上為應。而上立心勿恆,故有益之以凶事之象。警戒震動,使之困心衡慮,以增益其所不能也,如此可以無咎。
「六三。之を益するに凶事を用い、咎なし。孚ありて中行す、圭(けい)を用いて公に告ぐ。」卦中の第三爻は多く凶。六三は陰柔、中にも居らずまた正ならず——本より增益を得るに当たらず。然れどもまさに下体を增益するの時に逢し、上面にまた上九のそれと応ずるあり——而して上九は「心を立てて恒する勿れ」、反覆常なし。ここに凶険の事を拿ってそれを增益するの象あり。上九の警戒震動は六三をして其の心を困苦せしめ、其の慮(おもんばかり)を横塞せしめ、從而して其の原本能ならざるの本事を増長す——此の如くなればかえって過錯なきを得べし。
六爻中虛,有孚之象。三四皆居全卦之中,中行之象。上卦主益下者。上勿恆而五居位,非可告者。唯四近君,在三之上,有公象。震為玉圭,所以通信。三知上之所以警戒震動我者,益我也。信之篤而行之必合乎中,以通信於上,故有有孚中行,告公用圭之象。如此,則三有受益之道矣。
全卦六爻の中間三画は皆虚——是れ「中孚(ちゅうふ)」誠信の象。三・四の两爻はまさに全卦の中に居る——是れ「中行」の象。上卦は本より下体を增益するを主持すれども、上九は心を立てて恒ならず、九五また君位に居る——皆径直に禀告すべきの対象に非ず。ただ六四は君側に近く、また六三の上に在る——ゆえに「公」の象を取る。震は玉、圭は玉制の信物——用いて誠意を通達す。六三は上九の自らを警戒震動する所以はまさに己を增益するに在るを明白し、因りてこれを信ずること深篤、これを行うこと必ず中道に合す。さらに六四を借りて誠意を上に通達せしむ——ゆえに「孚ありて中行し、圭を用いて公に告ぐ」の象あり。能く此の如くなれば、六三は則ち受益の門路あらん。
象曰:益用凶事,固有之也。困心衡慮則有之固也。六四:中行,告公從,利用為依遷國。三四在全卦之中,故皆言中行。四互二三為坤,有國象。中行告公,三告四也。從者,四從三也。巽為入,有從之之象。四本損之三,遷為益之四。依者,三依四,四依五也。故有為依遷國之象。
《小象伝》に「益するに凶事を用いるは、固(もと)より之れ有ればなり」という——其の心を困苦し其の慮を横塞して得たるのものは、こそ守ること牢固なり。「六四。中行す、公に告げて從う、用いて依(よ)りて国を遷(うつ)すに利し。」三・四の两爻は全卦の中に居る——ゆえに皆「中行」という。六四と二・三は互い坤体を成し、坤は地——「国」の象あり。「中行して公に告ぐ」は六三の六四に禀告す、「從」は六四の六三を聽從す。巽は入——随いて入り、其の言を聽從するの象あり。六四は本より《損》卦の九三の位、移り过来りて《益》卦の六四と成れり。「依」は六三の六四に依託し、六四の九五に依託す——ゆえに「為(ため)に依りて国を遷す」の象あり。
言四以益三為心,合於中行,故三告之而見從也。三之告四,欲得所依以受益也。而古者遷國以益下,亦必有所依而後能立。如邢依齊,許依楚之類。今四上遷依於五,以柔依剛,以弱依強。四得所依矣,三亦得所依矣。遷國使民有所依,此自損以益下之大者也。象曰:告公從,以益志也。志在益下,故告於公而見從也。
これは説く、六四は存心に六三を增益せんと要し、まさに中道に合す——ゆえに六三来たりて禀告すれば、それは便ち聽從す。六三の六四に禀告するは、依托を尋得して以て增益を承受せんと欲す。而して古人の国都を遷徙するは本より百姓を便利するため——また必ず依托する所有りてこそ国を立てえたり。たとえば春秋時の邢国は夷儀に遷りて斉国に依附し、許国は屡々遷りて楚国に依附するの類。今は六四は上に遷りて九五に依託す——是れ柔を以て剛に依り、弱を以て強に依る。六四は依托を獲得し、六三もまた之に隨いて依托を獲得せり。国を遷して百姓をして依托する所有らしむるは、これがまさに自損して下を益するの中の最大の一件。《小象伝》に「公に告げて從うは、以て志を益せばなり」という——六四は心志本より下民を增益するに在る——ゆえに六三は一たび禀告すれば便ち聽從を得たり。
九五:有孚惠心,勿問元吉。有孚惠我德。九五以剛中與二相應,天下皆受其益者也。故言上苟有信,以實心惠於下,不問而元吉可知矣。蓋我以實心惠下,則下亦實心感我之惠以為德也。自施者言心,惠出於心,非口惠也。自受者言德,德實及民,民皆感德,非邀結也。九五益之主,自損以益下者。至於惠我德,則不特益下,而上已大益矣。
「九五。孚ありて心を恵(めぐ)む、問う勿れ元吉。孚ありて我が徳を恵む。」九五は剛中の徳を以て六二と相応ず——天下は皆其の益を受く。ゆえにいう、上に在る者はただ誠信あれば、実心を拿って恵を下に施し、問うに及ばず——大吉は断定すべし。我は実心を以て下を恵めば、下面は便ち実心を以て我が恩惠を感念して徳と奉ず。恵を施すの一方より「心」を説くは、恩惠は本心に出づ、口頭の恵に非ざるを説く。恵を受くるの一方より「徳」を説くは、徳沢は実実在在に百姓の身上に到り、百姓は皆それを感念す——刻意に買収籠絡するに非ざるを説く。九五は全卦の益を施すの主爻、自損して以て下民を增益す。「我が徳を恵む」此の一層に到れば、則ち下面を益したるのみならず、上に在る者の自身もすでに大いに其の益を受けたり。
象曰:有孚惠心,勿問之矣。惠我德,大得志也。大德不德,不必問也。自損益民,君志大得,則上之益亦大矣。上九:莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。按,《本義》以陽居益之極,求益不已,故莫益而或擊之。立心勿恆戒之。
《小象伝》にいう。「孚ありて心を恵むは、之を問うの矣(よし)ならざればなり。我が徳を恵むは、大いに志を得ればなり。」大徳の人は自ら徳あると為さず——ゆえに問うを用いず。其の上を自損して以て百姓を增益せば、人君の心志は便ち大いに遂(とぐ)るを得——然らば上に在る者の得る所の益もまた大ならん。「上九。之を益する莫(な)し、或いは之を撃つ、心を立てて恒する勿(なか)れ、凶。」按ず——《周易本義》にいう、上九は陽爻を以て益の極処に居り、益を求めて止まず——ゆえにそれを益する人なく、かえってそれを攻撃する人あり。「心を立てて恒する勿れ」は聖人のそれに対する告誡なり。
按,大全朱子云此處可疑,且闕之。今細按,卦以損上益下故名曰益,則下三爻皆言受益,上三爻宜言損上。四遷國,正自損以益下者。五雖陽爻而居中得正,故為能自損以受益者。獨上不中不正,以陽居益之極。雖與三應,而不自損以益下。則不獨不能受益,且有反擊之凶矣。卦以益名而反攻擊者,蓋為上者始終以損上益下為心,則立心有恆,終當受益。若始能自損,終反求益,則立心勿恆。不但無益,自當致凶矣。
また按ず——《周易大全》は朱子の此の処を疑う、姑く闕きて論ぜずと載す。今細かに推尋を加う——此の卦は「上を損して下を益す」に因りて名を《益》と得。ゆえに下の三爻は皆受益を講じ、上の三爻は理当たりて自損を講ずべし。六四の「国を遷す」は、まさに自損して下を益するなり。九五は陽爻といえども、中に居りて正を得る——ゆえに能く自損してかえって其の益を受くる者。独り上九は中にも居らずまた正ならず、陽爻を以て益の極処に居り、六三と相応ずるといえども、自損して下を益するを肯ぜず。此の如く一来れば、それは但だ受益する能わざるのみならず、かえって攻撃せらるるの凶あり。卦の名は「益」にして爻はかえって攻撃に遭うは、上に在る人若し終始上を損して下を益するを以て心と為せば、則ちそれは心を立てて恒あり——終究に受益せん。若し初めにはなお能く自損するも、末には却って人に向かいて益を求むれば、則ちそれは心を立てて恒なし——但だ益を得る能わざるのみならず、自然に凶険を招致せん。
此與損之上爻皆有極而必變之意。損卦損下益上為損。然上爻不損下,則損極而益之漸也。益卦以損上益下為益。至上爻反有求於下,則益極而損之漸也。損益循環,猶否泰之相因也。象曰:莫益之,偏辭也。或擊之,自外來也。
此の一爻と《損》卦の上爻とは、皆物極まれば必ず変ずるの意を含む。《損》卦は下を損して上を益すを以て損と為す——然れども其の上爻はかえって下面を損せず。あれはまさに損極処に到りて将に益に転ぜんとするの先兆。《益》卦は上を損して下を益すを以て益と為す——然れども上爻に到りてかえって下面に向かいて求取す。あれはまさに益極処に到りて将に損に転ぜんとするの先兆。損と益とは循環相生す——たとえば《否》《泰》の两卦の互いに因果を為すがごとし。《小象伝》にいう。「之を益する莫しは、偏(へん)の辞なり。或いは之を撃つは、外より来たればなり。」
本義莫益之者,猶從其求益之偏辭而言也。若究而言之,則又有擊之者矣。按,此於偏辭句亦未眀。竊意上不損己以益下,上之偏也。自外來,即繫辭所謂莫之與則傷之者至之意。此卦三爻四爻上爻,雖說有可通,而不無牽強。來注蘇傳亦多異同,未見的確。姑合諸家酌其近理者如此。
《周易本義》は釈していう——「之を益する莫し」はなお只だ其の一味に益を求むるの偏執の辞に順いて言うのみ。若し追究して底に到れば、則ちなおそれを攻撃し来たるの人あらん、と。按ず——此の如く「偏辞」の一句を講ずるは仍お明白ならず。我が私意は、上九は自損して下を益するを肯ぜず——これは上九自身の偏。「外より来たる」に至っては、すなわち《繫辭伝》のいう「之に与(くみ)する莫ければ、則ち之を傷(やぶ)る者至らん」——彼に親附せんと肯んずる人なければ、彼を傷害する人は門に尋ねて上がり来たらん。《益》卦の第三・第四と上爻とは、各家の説法は説いて通ずるといえども、牽強(こじつけ)を免れず。来知徳の注と蘇軾《東坡易伝》とは彼此の出入もまた大し——皆一定の論なし。ここに姑く諸家を綜合して、情理に近きを斟酌して取ること上の如し。
夬(かい)の卦
夬卦,上兌下乾。以二體言之,水聚於澤,積上至高,勢必潰決。以爻論之,五陽在下,長而將極,一陰消而將盡,五陽決去一陰,故名夬也。夬卦次益。按,《序卦》,益而不已必決,故受之以夬。夬者,決也。理無常益,益極必決,夬所以次益也。
《夬》の卦は上卦が「兌」、下卦が「乾」。上下二体に就いていえば、水は沢の中に聚まり、積むほどにますます高く、勢いは必ず衝決して下る。爻位に就いていえば、五箇の陽爻は下より生長し、将に尽頭に長さんとし、一箇の陰爻は消退し、将に消え尽きんとす——五陽は合力して此の一陰を決去す。ゆえに卦の名は「夬」という。《夬》卦は《益》卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「益して已まざれば必ず決す、故に受けて夬と為す。夬とは、決なり。」事理の上に永遠に增益するの道理なし——益は極処に到れば必ず潰決す。これがすなわち《夬》の《益》を承接する所以の緑故なり。
全彖大意以雖處陰消陽之時,亦不容以易心處之。必相與同心戒懼,而後利有所往。六爻皆從上爻取義。陽之決陰,遠則不能相及,唯比與應當之。五比上,三應上,故皆言夬夬。決而又決,不繫於陰也。四介三五兩剛之間,欲決上而進退不果。二則遠而不相及,自備而已。初在下最遠,則不能勝矣。大抵君子之去小人,不可以易心處之。此全彖六爻之大旨也。
全卦の大意は——正しく陰消陽長の時に当たるといえども、また軽忽の心を以て対待することを容さず。必ず衆陽は同心に戒懼して、然る後にこそ往く所有るに利せん。六爻は皆上六此の一爻より義を取る。陽は陰を決去せんとすれば、隔たること遠ければ及ぶに及ばず——ただそれと比し、それと応ずるの两爻が此の重任に当たる。九五は上六と相い比し、九三は上六と相い応ず——ゆえに两爻は皆「夬夬」という——決してまた決して、決して彼の一陰に牽係せず。九四は三・五の两箇の剛爻の間に夾り、上六を決去せんと欲して進退果さず。九二は離れること遠く及ぶに及ばず、只だ自ら戒備を為すを得るのみ。初九は最下に在りて離れること最も遠く、則ちさらに勝任する能わず。大体に説く——君子は小人を鏟除するに、軽忽の心を以て対待すべからず。これがすなわち全卦六爻の大旨なり。
夬:揚于王庭,孚號有厲。告自邑,不利即戎,利有攸往。夬五陽一陰,三月之卦也。陰盛而陰將衰,決而去之,有君子決去小人之象。五陽去一陰,其勢甚易,恐人之安肆而忘戒懼也,故再三為警戒之詞。揚于王庭,《本義》作名正其罪。今按,彖傳柔乘五剛,此句宜指上六言之,言小人在君側得志也。孚號以下,指五陽爻。孚號,至誠孚號其眾,使合力也。有厲,有危道,不可肆也。告自邑,先治其私也。不利即戎,不可專尚威武也。能如是則可以有所往,亦不以贍顧而遂卻也。
卦辞。「夬、王庭に揚げり、孚ありて號(と)ぶも厲あり。邑より告ぐ、戎に即くは利あらず、往く攸あるに利し。」《夬》は五陽一陰、三月の卦に配す。陽気はまさに盛んにして陰気は将に衰えんとす(底本「陰盛」は当たりに「陽盛」の訛(あやまり))。決して之を去るは、君子の小人を鏟除するの象あり。五箇の陽爻は一箇の陰爻を去る——形勢は極めて容易。ただ人の此に因りて安逸放肆して戒懼を忘るるを怕るのみ——ゆえに卦辞は再三戒を加う。「王庭に揚げり」の一句、《周易本義》は公けに小人の罪状を宣明すと解す。今《彖伝》のいう「柔は五剛を乗(の)る」に按ずれば、此の句は上六に対して指すと応ずべく、説くは小人は君主の身辺に在りてまさに志を得たり。「孚ありて號ぶ」以下こそ五箇の陽爻を指す。「孚號」は至誠を以て衆人を號召し、彼らをして合力せしむ。「厲あり」は仍お危険の道あり——放肆すべからず。「邑より告ぐ」は先ず己の私属の一方を整治す。「戎に即くは利あらず」は一味に武力を崇尚すべからず。能く此の如くなれば則ち往く所あって、また瞻前顧後に因りて退縮するに至らざらん。
兌為口,有揚王庭象。陽實,孚象。乾為言,孚號告自邑之象。五陽恐剛或過,有有厲不利即戎之象。陽盛陰衰,有利有攸住之象。聖人於君子道長之時,戒懼叮嚀如此。蓋不以得為而自肆,又不以過葸而小卻也。彖曰:夬,決也,剛決柔也。健而說,決而和。釋卦名義而贊其德也。以五陽決一陰,乾健而濟以兌說,則不至於怯,亦不過於猛矣。其決之也得無過不及之中,非決而和乎。健而說,以德言。決而和,以事言。
さらに取象の上より説く。兌は口——王庭に宣揚するの象あり。陽爻は実——誠信の象なり。乾は言——「孚號」「邑より告ぐ」の象なり。五陽は並び進むも、ただ剛にして太だ過ぐるを怕る——「厲あり」「戎に即くは利あらず」の象なり。陽盛にして陰衰う——「往く攸あるに利し」の象なり。聖人は君子の道のまさに長するの時に在りて、なお此の如く反覆に戒懼し叮嚀す——まさに既に人をして有所作為に因りて自恃放肆するを許さず、また人をして過分に畏縮するに因りて稍稍退却するを許さざるなり。《彖伝》にいう。「夬とは、決なり、剛の柔を決するなり。健にして説(よろこ)び、決して和す。」これは卦名の含義を釈して併せて其の卦徳を讃美す。五陽を以て一陰を決し、乾の剛健また兌の和悦を以て済う——則ち怯懦に至らず、また過猛に至らず。決除すること恰好に過と不及と無きの中に当たる——これぞまさに「決して和す」に非ずや。「健にして説ぶ」は徳性に就いて説く。「決して和す」は行事に就いて説く。
揚于王庭,柔乘五剛也。孚號有厲,其危乃光也。告自邑,不利即戎,所尚乃窮也。利有攸往,剛長乃終也。柔乘五剛,以卦體言之。以一小人乘九五之君,跋扈橫恣之象也。其危乃光,危厲其心,必去小人,乃光顯也。所尚乃窮,言尚威武必至困窮。所以既告自邑而又不利即戎也。剛長乃終,謂一變純乾,乃無復小人也。
《彖伝》は接いでいう。「王庭に揚げるは、柔の五剛を乗ればなり。孚ありて號ぶも厲あるは、其の危うき乃ち光ればなり。邑より告ぐ、戎に即くは利あらざるは、尚ぶ所乃ち窮まればなり。往く攸あるに利しは、剛長ちて乃ち終ればなり。」「柔は五剛を乗る」は卦体に就いて説く——一箇の小人が九五の君の頭上に凌駕す——まさに跋扈横恣の象なり。「其の危うき乃ち光る」は説く、心に危懼を存し、必ず小人を除去せんと要せば、其の道こそ光明显著なれ。「尚ぶ所乃ち窮まる」は説く、武力を崇尚すれば必ず困窮に至る——ゆえに既に「邑より告ぐ」あり、また「戎に即くは利あらず」という。「剛長ちて乃ち終る」は説く、陽剛は長ちて底に到り、一変して純乾と為りてこそ、再び小人あることなからん。
易於剛乘柔不書,於柔乘剛則書。剝言不利有攸往,不欲其為純坤。夬言利有攸往,則欲其為純乾。皆扶陽抑陰之意。然以五陽去一陰,其勢似易,而聖人所以周防戒備之詞無所不至。蓋小人有一之未去,皆足為君子之憂。人慾有一分之未盡,皆足為天理之累。此聖人所為三致意也。象曰:澤上於天,夬。君子以施祿及下,居德則忌。澤上於天,其勢不居。君子觀此施祿,使澤及於下也。居德,即屯膏之意。居其德而澤不下逮,人君所最忌也。
《易》の体例——剛爻の柔爻に凌駕するは記載を加えず、柔爻の剛爻に凌駕するは必ず記出す。《剥》卦は「往く攸あるに利あらず」という——それをして純坤に変化せらるるを願わざれば。《夬》卦は「往く攸あるに利し」という——それをして純乾に変化せらんを希望すれば。皆陽剛を扶助し陰柔を抑制するの用意なり。然れども五陽を以て一陰を除くは、形勢は看て容易なるも、聖人の周密に防范し戒備叮嚀するの話は、至らざる所なし。小人はただ一箇の除き尽さざるあれば、以て君子の憂患と為るに足る。人欲はただ一分の除き浄さざるあれば、以て天理の牽累と為るに足る。これがすなわち聖人の再三意を致す所以の緑故なり。《大象伝》にいう。「沢、天の上にあり、夬。君子以て禄を施して下に及ぼし、徳に居れば則ち忌(い)む。」水気は天上に升る——其の勢いは久しく留まるを決せず、終究に降り来たらん。君子は此の象を見れば、則ち爵禄を頒施して、恩沢を人に下達せしむ。「徳に居れば則ち忌む」はすなわち《屯》卦の九五の「其の膏(あぶら)を屯(むらが)らす」の意——恩徳を囤積して恩沢は却って民に下達せざるは、これは人君の最も忌諱すべきなり。
初九:壯于前趾,往不勝為咎。陽壯之時居下無勢,有壯前趾之象。勇決前進,不勝其任。雖非背理,而反為小人所傷,則咎矣。此與壯初爻同。當壯之時,在下戒其用壯。當決之時,在下戒其過決。象曰:不勝而往,咎也。知其不勝而往,自取咎也。
「初九。前趾に壯(さかん)なり、往きて勝たざれば咎と為る。」陽気のまさに壯んなるの時、初九は却って最下に居りて勢位なし——ゆえに「前趾に壯なり」あり——只だ脚の趾の上に強を逞しくするの象。それは決断に勇んで一味に前進す——実に此の任務を担起しえず。理に於いて併せて背謬ならざるといえども、却って小人の傷る所と為らるれば、則ち過錯と成れり。此の一爻は《大壯》卦の初爻と同一の意思。壯盛の時に当たりては、下位に居る者は其の壯を恃むを戒め、決除の時に当たりては、下位に居る者は其の決の過ぐるを戒む。《小象伝》に「勝たずして往くは、咎なり」という——明らかに担起しえざるを知りてなお前往すれば、過錯は自ら招き来たるなり。
九二:惕號,莫夜有戎,勿恤。二,地位。二變為離。離日在地,莫夜之象。離為戈兵,有戎之象。坎為加憂。離,坎之反,勿恤之象。九二當決之時,以剛居柔,則能自晦不至於過,憂惕號呼以自戒備,則雖莫夜兵戎驟至,亦可無憂患矣。象曰:有戎勿恤,得中道也。下卦之中,剛而能柔故(文瀾本「故」作「者」)也。
「九二。惕(そそ)ぎ號(さけ)ぶ、莫夜(ぼや)に戎あらんも恤(うれ)うる勿れ。」第二爻は地の位置。九二は爻を変ぜば則ち下卦は離と成り、離は日——日は地下に落つ、まさに「莫夜」——傍晚にして天黑きの象。離また戈兵——「戎あり」の象。坎は憂を加う——離は恰好に坎の反体、ゆえに是れ「恤うる勿れ」憂慮すべからざるの象。九二は決除の時に当たりて、陽剛を以て柔位に居り、能く自ら収斂して太だ過ぐるに至らず、また憂懼號呼して預め戒備を作せば、然らば則ちたとえ傍晚に兵戎は驟然として至るとも、また以て憂患なきを得べし。《小象伝》に「戎あれども恤うる勿れは、中の道を得ればなり」という——まさにそれが下卦の中に居りて、剛にして能く柔なる所以の緑故(末字は文瀾閣本「故」を「者」と作す)。
九三:壯于頄,有凶。君子夬夬,獨行遇雨,若濡,有慍,無咎。九三居下卦之上,重剛不中,又乾為首,故有剛壯見於面目之象。以剛居剛,有夬而又夬之象。上與陰應,有獨行遇雨之象。君子之去小人,悻悻見於面目,則小人忌之,有凶道矣。然若果能果決,不繫於應與之私,則雖合於上六,如獨行遇雨至於若濡,而為眾陽之君子所慍,然終必能決去小人,無所咎也。《本義》以溫嶠之於王敦言之,亦近。
「九三。頄(きゅう)に壯なり、凶あり。君子は夬夬、独り行きて雨に遇えば、濡るるが若く、慍(いきどお)りあり、咎なし。」「頄」は顴骨。九三は下卦の上に居り、剛を重ねて中を得ず、乾また首と為る——ゆえに剛強の気が面目に顕露するの象あり。陽を以て陽に居れば、決してまた決するの象あり。上面は上六と相応ずれば、独り行きて雨に遇うの象あり。君子は小人を鏟除するに、若し憤憤の色を顔の上に擺(さら)け出せば、小人は便ちそれを忌恨せん——然らば則ち凶を取るの道あり。然れども假使にそれ真に能く果決して、応与(おうよ)の私の牽係せる所と為らざれば、然らば則ち上六と交合するといえども、独り行きて雨に遇いて衣裳の沾濡(ぬれ)するに至るが如く、因りて衆陽君子の不満と為る所と為らるとも、終究に仍お能く小人を決去して、過錯あることなからん。《周易本義》は東晋の温嶠が王敦を對付するの事を拿って此の一爻に比況す——また頗る切近なり。
象曰:君子夬夬,終無咎也。所以無咎者,以有夬夬之心故也。跡可濡,心不可變。決之以心,不必見於面目也。九四:臀無膚,其行次且,牽羊悔亡,聞言不信。四亦為坎。坎為溝瀆,有臂象。兌為毀折,無膚之象。九四居上之下,以陽居陰,不中不正。居則不安,行則不進,有臂無膚其行次且之象。兌有羊象。牽羊者,當其前則不進,縱之使前而隨其後,則可以行。四欲決陰,必藉五為之前而隨其後,有牽羊之象。
《小象伝》に「君子夬夬は、終に咎なければなり」という——咎なき所以は、其の心の裏に決してまた決するの決心あるに依ればなり。行跡の上は沾濡せらるべきも、心志の上は改変すべからず。決断は内心に在る——顔色の上に顕露するに及ばず。「九四。臀に膚(はだえ)なし、其の行くこと次且(しそ)、羊を牽きて悔亡ぶ、言を聞くも信ぜず。」九四は二より四に至りて亦互いに坎体を出し、坎は溝瀆——臀部の象あり(底本此の二処の「臂」字は、当たりに「臀」の訛)。兌は毀折——「膚なし」の象。九四は上卦の下に居り、陽爻を以て陰位に居り、中にも居らずまた正ならず——坐して安穩ならず、走りてまた走動せず——ゆえに「臀に膚なし、其の行くこと次且」の象あり。兌また羊の象あり。羊を牽く人は羊の前面に擋りて、羊はかえって走らず。それを前に放ちて自ら後頭に跟えば、則ち走り動くを得たり。九四は上六を決去せんと欲すれば、必ず九五を借りて前に路を開きて自ら其の後に随わんことを要す——これがすなわち「羊を牽く」の象なり。
兌為口。四變陰則為坎為耳,有聞言之象。牽羊隨其後則悔亡,而九剛無下人之志。聞牽羊之言當信,而四柔必無克己之功。有聞言不信之象。蓋君子之去小人,勢未可遏,姑緩之。必上格君心兼藉同志,故一決而去之。若才柔志剛,專己自用,鮮有不敗者。王沂公之於丁謂牽羊悔亡者也,寇萊公則聞言不信矣。象曰:其行次且,位不當也。聞言不信,聰不明也。位不當,不中不正也。
兌は口、九四は陰爻に変ぜば則ち坎と成り、坎は耳——ゆえに「言を聞く」の象あり。羊を牽きて其の後面に跟いて走れば、悔恨は則ち消失す。然れども九四は「九」の剛を以て、併せて人後に甘んじ居るの心志なし。「羊を牽け」此の句の勧告を聞きて本より信ずべきに、然れどもそれまた「四」此の柔位に居りて、終究に己を克するの功夫なし——ゆえに「言を聞くも信ぜず」の象あり。大抵君子は小人を鏟除するに、形勢は一時に圧し住むべからざれば、則ち姑く緩めて、必ず一面に君心を匡正し、一面に同志の力を憑借して、能く一挙に決して之を去るべし。若し是れ才具柔弱にして心志剛愎(しゅうよくな)らん者は、一味に独断自用して、失敗せざるものは稀なり。宋代の王曾が丁謂を對付するは、すなわち「羊を牽きて悔亡ぶ」の樣子。寇準は則ち「言を聞くも信ぜず」に属せり。《小象伝》にいう。「其の行くこと次且は、位當たらざればなり。言を聞くも信ぜざるは、聰(そう)明ならざればなり。」いわゆる位當たらずとは、すなわち中にも居らずまた正ならざるなり。
九五:莧陸夬夬,中行無咎。莧,馬齒。陸,商陸。皆感陰氣之多者。暴之難乾而脆易折,指上六小人之象。夬夬中行,按,《本義》決而決之而又不為過暴。大全丘氏謂勉之以夬夬而又戒其中行則無咎者。五當可決之位(文瀾本「位」作「時」),勢易於三。三唯其夬夬即可以無咎。五之夬夬或失之過暴,則猶為有咎也。
「九五。莧陸(かんりく)夬夬、中行にして咎なし。」「莧」は馬歯莧、「陸」は商陸——皆陰気を禀受すること最も多き草にして、曬(さら)しても乾かず、茎は却って脆く折れ易し——まさに取りて上六彼の小人を象わん。「夬夬中行」に至っては、《周易本義》は決してまた決して而も過分の暴烈に流れずと解す。《周易大全》の載する所の丘氏の説法は、則ち是れそれを勉励して決してまた決せしめ、同時にまたそれを告誡して須く中道に合してこそ咎なしと為す。九五はまさに決除すべきの位子に当たればなり(文瀾閣本は「位」を「時」と作す)、形勢は九三より容易なること得る所多し。九三は只だ能く決してまた決せば則ち以て咎なきを得べし、九五の決してまた決するは却って之を過暴に失するを怕る——然らば則ち仍お咎あらん。
今按,象傳中未光之言,非慮其過暴也,特慮其不決耳。蓋馬齒之為物,莖脆而根甚固。一拔即折似易除,而根蔓延不已,非盡力決而又決不可。故以此取象小人。人主暱於近習,忽為易制。不忍治之太過,而卒以敗事者多矣。九三與上應而在下位,故雖夬夬不免於濡而得無咎者,諒其心也。
今按ず——《小象伝》の「中いまだ光ならざればなり」というは、併せて九五の過暴なるを憂慮するに非ず、恰好に是れその決すること徹底せざるを憂慮す。馬歯莧此の種の草は、茎は脆くて根は極めて牢固、一たび拔けば則ち断つ——看て除去すること容易なるも、然れども根鬚は蔓延して止まず、全力を尽して決してまた決せざるべからず——ゆえにそれを拿って小人を象う。人君は身辺の近習の人を親昵して、軽忽に容易に制服すべしと為し、処置すること余りに重きを忍心ぜず、結果大事を壊すの例子は多し。九三は上六と相応じてまた下位に居る——ゆえにそれは「夬夬」すといえども仍お沾濡を免れず、能く咎なき所以は、其の本心を體諒するが故なり。
五居君位,有可夬之權。特恐暱比之過,視為易制。不忍處之太甚,以過中為疑。故戒之曰勿謂莧陸之易折也,小草根蔓難除。必夬之又夬之,非過於暴也。如是乃合乎中行,僅可以免咎耳。如此於象傳始合。象曰:中行無咎,中未光也。以其有暱比之心,未得為光大也。
九五は身に君位に居り、決除すべきの権柄を握有す——ただそれの上六と親昵相比するに因りて、対方を看て容易に制服すべしと為し、太だ重きの手を下すを忍ばず、また処置過重なれば則ち中道を失わんを疑心す。ゆえに爻辞はそれを警戒して説く——莧陸は折ること容易と為して以為すこと莫かれ。此の種の小草は根蔓は除き難し——必ず決してまた決せざるべからず。あれは併せて過暴に過ぎると算さず。此の如くにしてこそ中道に合すと算し、また僅かに咎責を免るるのみ。此の樣に照らして講ぜば、こそ《小象伝》と相合す。《小象伝》に「中行にして咎なしは、中いまだ光ならざればなり」という——まさにそれが心の裏に親昵相比の意を存すれば、彼の「中」はなお光明正大に够かざればなり。
上六:無號,終有凶。兌為口,變純陽為乾,無所號呼之象。上比五以自肆,而五則夬夬矣。應三以為援,三則亦夬夬也。小人窮極必敗,無所控訴也。占者有君子之德,則其敵當之,不然必凶矣。
「上六。號するなし、終に凶あり。」兌は口——此の爻一たび変ぜば、全卦は純陽の乾と成り、口の象は有りてなく——ゆえに是れ號呼する處無きの象。上六は本より九五を親比して放肆せんと欲すれども、九五は却って決してまた決す。九三に應じて以て援を求めんと欲すれば、九三もまた決してまた決す。小人は窮途末路に到れば必然に敗亡し、申訴するの地方すらなし。此の爻を占得して、自身若し君子の徳あれば、然らば凶に当たるは其の敵人。然らざれば、凶は則ち己の身上に落ちん。
象曰:無號之凶,終不可長也。一柔在上,終不可久,必為五陽所決也。全卦於君子去小人之道,言之最為委曲詳盡。叅之前史,君子小人消長之際,乃知聖人因理數之自然,立言以垂訓萬世者,至深切也。
《小象伝》に「號なきの凶は、終に長くすべからざればなり」という——一箇の柔爻は高く上に踞(すわ)れば、終究に長久なる能わず、必定に五箇の陽爻の決去する所と為らん。全卦は君子が小人を鏟除するの道に対して、説くこと最も委曲詳尽なり。前代の史事を拿って君子小人此消彼長の關頭を对照すれば、こそ聖人は理數の自然を依循して、言を立て訓を萬世に垂るるや、用心の何等なる深切を知らん。
姤(こう)の卦
姤卦,巽下乾上。風行天下,萬物無不經觸,乃遇之象。又卦爻五陽而一陰始生於下,陰與陽遇也,故為姤。姤卦次夬。按,《序卦》,夬,決也。決必有遇,故受之以姤。姤,遇也。本合則無所遇。夬決既離,乃復有遇。
《姤》の卦は下卦が「巽」、上卦が「乾」。風は天下に行われて、万物はそれに吹拂触接せられざるなし——これは相遇の象。また此の卦は五箇の陽爻にして、一箇の陰爻は剛ぞ最下より生出す——陰と陽と相遇う。ゆえに「姤」と曰う。《姤》卦は《夬》卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「夬とは、決なり。決すれば必ず遇あり、故に受けて姤と為す。姤とは、遇なり。」本来合して一處に在るは「遇」と談ずるに及ばず——《夬》はすでに決して分離せり、然る後にこそ重新にいわゆる「遇」あらん。
又夬卦一陰將消於上則復生於下,姤所以次夬也。全彖以一陰遇五陽,壯盛不正之女,故戒以勿取。彖傳喜陽之得行正,以見陰生之未可忽也。六爻皆以初陰取義。遇非正道,故惟近者得之而正應反凶。
さらに——《夬》卦の彼の一箇の陰爻は将に上面に消え尽きんとし、転じ来たりてまた下面に重生す。これがすなわち《姤》の《夬》を承接する所以の緑故なり。卦辞は一陰が五陽に遇うを気焔壯盛にして徳行貞ならざるの女子と看作す——ゆえに告誡してそれを娶ること勿れという。《彖伝》は則ち陽剛の能く位を得て其の正道を行うを喜び、此を借りて陰気の初生は併せて軽忽すべきに非ざるを見得す。六爻は皆初六此の一陰より義を取る——此の種の「遇」は本より正道に非ざるを既然とせば、ゆえに反対に是れ靠れること近きの爻がそれを得着して、それと正応の彼の一爻はかえって凶なり。
二最近初,遇之最先者,故有魚。四雖與初正應,而初為二得,非已有矣,故無魚凶。三介二四兩剛之間,欲遇不得,猶夬四之慾去不能(文瀾本「不能」作「未能」)也。五去初遠,無相得之理矣,聽天命之自至而已。上則最遠而窮矣。蓋陰生必至敵陽,故彖戒以勿取。而陽得陰猶可制,故爻又欲其制陰。此全卦六爻,無非扶陽抑陰之意也。
九二は初六を離るること最も近く、最先に遇上する者——ゆえに「包に魚あり」という。九四は初六と正応なるといえども、然れども初六はすでに九二に占得せられ、再びそれに帰属せず——ゆえに「包に魚なし、起こる凶」という。九三は二・四の两箇の剛爻の間に夾り、遇わんと欲して遇い着かず——まさに《夬》卦の九四の上六を除去せんと欲して能わざるが如し(文瀾閣本は「不能」を「未能」と作す)。九五は初六を離るること遠く、相い得るの道理なし——只だ天命に聴憑して自ら到来せしむるを得るのみ。上九は則ち最も遠くしてすでに窮尽に到れり。大抵陰気は一たび生ぜば、必ず将に陽と為敵せん——ゆえに卦辞は娶るべからずと告誡す。然れども陽は若し能く陰を得住せば、なお以てそれを制服すべし——ゆえに爻辞はまた陽をして陰を制せんを希望す。全卦六爻、陽を扶け陰を抑えるの意思に外ならざるなし。
姤:女壯,勿用取女。姤,遇也。一陰生於五陽之下,五月之卦也。夬決之盡,則為純乾。一陰忽生於下,如不其而遇者,故為姤。一陰而遇五陽,女德之不貞而壯之甚者。取以自配,必害乎陽,故戒以勿取也。
卦辞。「姤、女壯なり、用いて女を取ること勿れ。」「姤」はすなわち相遇。一箇の陰爻は五陽の下に生ず——五月の卦に配す。《夬》は決して尽頭に到れば便ち純乾と成り、忽然としてまた一陰の下面に生ずるあり——不期にして然として碰上するが如し(「不其」は当たりに「不期」と作すべし)——ゆえに「姤」と曰う。一陰を以て五陽に遇うは、是れ女徳貞ならずして気焔極めて盛んの人。此の如き女子を娶りて以て己に配せば、必定に陽剛を傷害せん——ゆえに告誡して娶ること勿れという。
彖曰:姤,遇也,柔遇剛也。五陽往而陰方來,故曰柔遇剛也。勿用取女,不可與長也。女德不貞,不能從一而長久也。天地相遇,品物咸章也。以卦體言之,五陽在上而一陰生於下。以陰遇陽,天地相遇也。以卦畫論,其時則為五月,萬物茂育蕃衍,品物咸章也。
《彖伝》にいう。「姤とは、遇なり、柔の剛に遇うなり。」五箇の陽爻はまさに往きて去らんとし、一箇の陰爻は方に来たりて生ず——ゆえに是れ柔の来たりて剛に遇うと説く。「女を取ること勿れは、与に長くすべからざればなり」は、説く、此の女子は徳行貞ならず、一に從いて終る能わず、人と長久ならず。「天地相遇えば、品物咸な章(あらわ)るればなり」——卦体に就いていえば、五陽は上に在りて一陰は下に生ず——陰を以て陽に遇うは、すなわち天地の相交わり相遇う。卦画の配する所の月份に就いていえば、此の卦は五月に当たり、万物はまさに茂盛繁育す——ゆえにいう、品類万物は彰明顕著せざるなし。
剛遇中正,天下大行也。《本義》專指九五,謂以剛明之君,遇建中表正之位。德因位顯,治化大行於天下也。今宜兼二五言。九二之剛德,遇九五中正之君。明良會合(文瀾本「會合」作「遇合」),道可行於天下也。彖辭慮陰之始生,彖傳又以遇之善者言之。天之遇地,臣之遇君。時當相遇,所關者不小。
《彖伝》またいう。「剛の中正に遇えば、天下大行ならん。」《周易本義》は専ら九五を指し、説くは剛健明叡の君は中建表正の尊位に遇上し、徳は位に因りて彰顯し、教化は此に因りて天下に大行す。今按ず——兼ねて二・五の两爻を指すに宜し。九二の剛健の徳は九五の中正の君に遇上し、賢臣明主會合すれば(文瀾閣本は「會合」を「遇合」と作す)、道は則ち以て天下に通行すべし。卦辞は陰気の初生を擔憂す——《彖伝》は却又た「遇」の善きの一面より説を立つ。天の地に遇う、臣の君に遇う——時勢はまさに相遇に当たり、関係する所は実に小ならざるなり。
姤之時義大矣哉。程傳專承天地君臣之相遇言之。《本義》謂幾微之際,聖人所謹。蓋以柔遇剛,遇之不善者也。天地相遇,剛遇中正,遇之善者也。陰陽,造化之本,不能相無,就姤而言,豈必無善者。然當品物咸章,治化大行之時,實為陰長陽消之幾(文瀾本「幾」作「機」)所自伏。當其時者,不可不思其義,預為扶陽抑陰之計也。
「姤の時義は大なるかな。」程頤《伊川易伝》は専ら天地・君臣の相遇に就いて説を立つ。朱熹《周易本義》は則ち是れ幾微萌動の際、聖人の最も謹慎する所と説く。柔の来たりて剛に遇うは、「遇」の不善の一面。天地相遇い、剛の中正に遇うは、「遇」の善の一面。陰と陽とは原より造化の根本にして、彼此は相手なかるべからず——《姤》卦に就いて言えば、豈に全く善処なしと説かんや。然れどもまさに万物彰明、教化大行の時に当たるは、其の実まさに陰長陽消の苗頭の潜伏する所(文瀾閣本は「幾」を「機」と作す)。身に此の時に当たるの人は、此の層の義理を體察せざるべからず、預め陽を扶け陰を抑えるの打算を做さんことを要す。
象曰:天下有風,姤。后以施命誥四方。風者,天之號令,所以鼓舞萬物。命者,君之號令,所以鼓舞萬民。施命誥四方,取風行天下之象也。君門深於九重,豈能與民相遇。惟施命誥四方,則君民相遇,猶風之遇物也。觀為地上之風旁行而通,姤為太虛之風自上而下。故觀言省方,而此則言施命也。
《大象伝》にいう。「天下に風あり、姤。后以て命を施して四方に誥(つ)ぐ。」風は上天の號令、用いて万物を鼓動す。政令は君主の號令、用いて萬民を鼓動す。「命を施して四方に誥ぐ」はまさに風の天下に行わるるの象を取る。君門は九重の內に深居せば、豈能く一々百姓と相遇えんや。ただ政令を頒布し四方に告諭してこそ、君と民とこそ相遇うと算す——たとえば風の物に遇うが如し。《觀》卦は地上の風——横行して四方に遍及す。《姤》卦は太虚の風——上より下に吹き下る。ゆえに《觀》卦の《大象》は「方を省(み)る」——四方を巡行して民俗を察看すといい、此の卦は却って「命を施す」——上より號令を頒布すという。
初六:繫于金柅,貞吉。有攸往,見凶。羸豕孚蹢躅。柅以止車。金柅,言其堅也。乾為金。初陰在下,宜靜正自守,有繫于金柅之象。其貞也如是則吉矣。然初陰已動,有攸往之象。故又言當遇之時,若以陰往遇陽,則立見其凶矣。設言一吉一凶,使之自擇也。
「初六。金柅(きんじ)に繫(かか)る、貞にして吉。往く攸あれば、凶を見ん。羸豕(るいし)孚あり蹢躅(てきちょく)す。」「柅」は車輪を刹止するの木楔——「金柅」というは其の堅固を形容す。上卦の乾は金。初六は陰爻を以て最下に居り、本より安靜に正を守るべし——ゆえに金柅に繫がれて動かざるの象あり。能く此の如く正を守れば則ち吉。然れども初六は剛ぞ生じたるの陰、すでに動き在る——ここにまた「往く攸あり」の象あり。ゆえに爻辞は接いで説く——此の相遇の時に当たりて、倘若し陰を以て上に往きて陽に遇わば、立刻に其の凶を見ん。一吉一凶両面を並陳するは、占者をして自ら抉擇せしめんとなり。
豕,陰物。初勢雖微,然在下而動,有羸豕蹢躅之象。言陰雖微,而躁動漸進侵陽。猶豕雖羸,其蹢躅跳躑有必然而可信者。不可不預為之備也。此爻只宜就陰不宜輕動遇陽言之,而戒小人儆君子之意皆在其中。不必專言小人之害君子。象曰:繫于金柅,柔道牽也。初四相應,將牽連而上,故柅以(文瀾本「柅以」作「以柅」)止之也。
猪は陰に属するの動物。初六は勢力は微弱なるといえども、下面に在りて躁動す——ゆえに瘦せたる猪の蹦跳するの象あり。これは説く、陰気は微なるといえども、躁動して漸漸に上進して陽剛を侵犯せんとす——たとえば猪は瘦弱なるといえども、其の踢騰跳躍は却って必然に有りて断定すべし——預め防備せざるべからず。此の一爻は只だ「陰は軽挙妄動して陽に遇うに宜からず」に就いて説を立つべく、而して小人を告誡し君子を警醒するの意思は皆其の中に包含す——専ら小人が君子を加害すると講成するに及ばず。《小象伝》に「金柅に繫がるは、柔道牽かるればなり」という——初六は九四と相応じて、将に牽引せられて上に往かんとす——ゆえに金柅を用いてそれを止住す(文瀾閣本は「柅以」を「以柅」と作す)。
九二:包有魚,無咎,不利賓。魚,陰物。巽為白茅。二與初近,初在其內,為包有魚之象。得之則陰受制於陽矣,故無咎。乾尊有賓象。二包初而有之,則二為主而四為賓。四雖正應。反不得而月(「月」當作「有」,從文瀾本)初矣,故有不利之象。蓋卦以遇合為義。遇合之女未嘗擇配,二近,則先有之矣。象曰:包有魚,義不及賓也。一陰不能兼二陽。揆之於義,不能及之矣。譬眾漁之取魚,先至者得之,後至者雖善漁,不及也。
「九二。包に魚あり、咎なし、賓に利あらず。」魚は陰に属するの物。巽は白茅——用いて包裹すべし。九二は初六と相近く、初六は則ち其の包裹の内に在る——ゆえに「包に魚あり」の象あり。能く此の條の魚を包住せば、陰は則ち陽に受制せん——ゆえに咎なし。上卦の乾は尊——「賓」の象あり。九二は初六を包住して己の有と為さば、然らば九二は主人、九四は便ち客人と成れり。九四は初六と正応なるといえども、かえって初六を得る能わず(此の處の「月」字は当たりに「有」と作すべし、文瀾閣本に從う)——ゆえに「賓に利あらず」の象あり。此の卦は遇合を以て義を立て、而して此の遇合の女は本より曽て配偶を挑選せず——九二は靠れること近く、則ち先づ占有せり。《小象伝》に「包に魚ありは、義は賓に及ばざればなり」という——一箇の陰爻は同時に两箇の陽爻に帰属する能わず、理に按して便ち客人に輪ずるに及ばず。たとえば衆人は同じく魚を捕うに、先に到れる者は得着し、後に到れる者はたといさらに善く魚を捕うとも、够かざるなり。
九三:臀無膚,其行次且,厲無大咎。巽為股。三居巽之上,有臀象。過剛不中,與上無應。居則不安,有臀無膚之象。下不過初,為二所隔。行則不進,有其行次且之象。進退如此,雖有危厲,然無所遇,亦不為陰邪所傷,故無大咎也。夬四欲上決上而不能,此則欲下遇陰而不得,故取象皆同。
「九三。臀に膚なし、其の行くこと次且、厲なるも大咎なし。」巽は股、九三は巽体の上に居り、股の上は便ち臀——ゆえに臀の象あり。それは剛に過ぎて中を得ず、上面にまた応爻なし——坐して安穩ならず、ゆえに「臀に膚なし」の象あり。下に初六に及ばず、中間は九二に隔斷せられ、走りてまた走動せず——ゆえに「其の行くこと次且」の象あり。進退皆此の如く窘迫すれば、危厲あるといえども、それは畢竟に遇合する所なければ、また陰邪の傷る所と為らず——ゆえに只だ「大咎なし」と説く。《夬》卦の九四は上に向かいて上六を決去せんと欲して能わざりき、此の一爻は下に向かいて初六と遇合せんと欲して得ざりき——處境相類す——ゆえに取象もまた相同じ。
象曰:其行次且,行未牽也。初陰上進又與四應。若有引進之者,故宜繫之。三孤孑無應,下又隔二。無牽引之者,是以行次且也。九四:包無魚,起凶。四與初正應,當遇者也。乃已遇於二,不及於四,有包無魚之象。人心已離,凶自此起矣。蓋遇本非正,故正應無遇之象。此即二之所謂不利賓也。
《小象伝》に「其の行くこと次且は、行くこといまだ牽かれざればなり」という——初六は陰気上進し、また九四と相応じて、人の前面に引きてそれを上げ来たるが如くあらんとす——ゆえに金柅を用いてそれを繫止す。九三は却って孤零零として応爻なく、下に向かいてまた九二に隔えられ、それを牽引するの人なし——此に因りてこそ走りて躊躇して前進せず。「九四。包に魚なし、起こる凶。」九四と初六とは正応——本より相遇の一対なるべし。無奈何初六はすでに九二と遇上せり——九四に輪ずるに到らず。ゆえに「包に魚なし」の象あり。人心はすでに離散せば、凶は則ち此より發端す。此の卦の「遇」は本より正道に合せざればなり——ゆえに偏に是れ正応の者がかえって遇う所なし——これがまさに九二の爻辞の説く所の「賓に利あらず」なり。
象曰:無魚之凶,遠民也。陰為民。民之去已,猶已遠之也。陰陽之取象不一,或取於男女,或取於君子小人,或取於君民。姤取男女之遇,本非其正,故四不得初而二得之。然陰之初長,近者易制,遠者難及,故二取象於得魚。以言君子小人近而得制,故可無咎。但陽宜得陰以為正應,故四取象於君之失民,必至召凶。取象雖異,而大意皆扶陽抑陰。占者亦隨事變通以占之,不可執一也。
《小象伝》に「魚なきの凶は、民に遠ざかればなり」という——陰爻は民と為り、百姓は自己を離去すれば、則ち等しく是れ自己が彼らを疏遠したるなり。《易》中の陰陽の取象は一種に止まらず——或いは男女を取り、或いは君子小人を取り、或いは君と民とを取る。《姤》卦は男女の遇を取る——本より正道に合せず。ゆえに九四は初六を得ざるに初六を得着すのは九二なり。而して陰気の初長に就いていえば、靠れること近ければ制服すること容易、隔たること遠ければ够かず——ゆえに九二は「魚を得」の象を取る——君子が小人と相近くして能く節制を加うるに譬喩す。此に因りて咎なし。然れども陽は本よりそれと正応の陰を得着すべし——ゆえに九四はまた人君が百姓を失去するの象を取る——然らば則ち必然に凶を招かん。取象は同じからざるといえども、大意は皆陽を扶け陰を抑えるに在り。占者もまた事に隨いて變通して占断せざるべからず——一説に拘執すべからず。
九五:以杞包瓜,含章,有隕自天。杞,高大堅實之木。九五陽剛中正,主卦於上,有杞象。瓜,柔蔓之物。初陰在下,有瓜象。五與初遠不相遇,勢不能相制,有以高大之杞欲包在地之瓜之象。姤,陰長之卦。而九五居陽明之位,有含晦其章美之象。
「九五。杞(き)を以て瓜を包み、章(あや)を含み、天より隕(お)つるあり。」「杞」は高大堅実の樹木。九五は陽剛中正、上に在りて一卦を主持す——ゆえに杞樹の象あり。「瓜」は柔軟蔓生の物。初六の陰爻は最下に在る——ゆえに瓜の象あり。九五は初六を離るること甚だ遠く、両く相遇わず、形勢の上それを制しえず——まさに高大の杞樹の地上の瓜を包住せんと欲するが如し。《姤》は陰気の漸長の卦にして、九五は陽明の位に居る——ゆえに含蓄収斂して其の光華を含むの象あり。
瓜性善潰,終有必壞之時。陰陽消長,姤又有終復之勢。靜以待天心之復,有有隕自天之象。陽剛之君在上,小人方盛,勢未能制,姑靜晦以待元惡之自斃。若晉明帝之於王敦,其事類之。
瓜の性質は潰爛し易く、終究に腐壞の一天あり。陰陽は互いに消長を為し、《姤》卦もまた陰極まりて陽復するの趨勢あり。安靜に天心の來復を等待するは、まさに「天より隕つるあり」——天より降下するの象。陽剛の君は上に在りて、小人の気焔はまさに盛ん、形勢はなおそれを制しえざれば、則ち姑く沈靜韬晦して、元凶の自ら敗亡を取るを待たん。たとえば東晋の明帝が王敦を對付する、事はまさに此と相類す。
象曰:九五含章,中正也。有隕自天,志不舍命也。居中得正,故能含其章美。不失之闇昧,亦不失於淺露也。志不舍命。蓋陰長而陽消,天之命也。有以勝之,人之志也。君子不以命廢志。九五之志堅,遇必有自天而隕者。言人之至者,天不能勝也。
《小象伝》にいう。「九五の章を含むは、中正なればなり。天より隕つるあるは、志命を捨てざればなり。」九五は中に居りて正を得る——ゆえに能く其の光華を含蓄して、既に之を昏昧不明に失せず、また之を淺薄外露に失せず。「志命を捨てず」に至っては——陰長陽消は天の命、人は能く法を設けてそれに勝つは人の志——君子は天命此の如しに因りて自己の志を放棄せず。九五の志は既に堅ければ、遇う所は必ず天より降下するの轉機あらん。これは説く、人力は極処に做せば、天もまた彼に勝つ能わず。
上九:姤其角,吝無咎。上九剛而在上,無位無應。不得所遇,為姤其角之象。吝道也。然不為陰邪所侵,亦無咎矣。蓋陰之初萌,能如二包而制之可也。四不能包,反受其凶。三以剛在下卦之上,故雖厲而無大咎。上以剛居上卦之上,雖吝無咎。蓋遇本非正,故不遇無可咎也。
「上九。其の角に姤う、吝なるも咎なし。」上九は剛強にして最上に居り、既に爵位なく、また応爻なし——遇うべきの人に遇い着かず。ゆえに「其の角に姤う」あり——遇う所は只だ硬邦邦たる犄角のみの象——これは一條の鄙吝の路。然れどもそれは陰邪の侵擾を受けず、また過錯なかるべし。大抵陰気の初萌の時、能く九二の如くそれを包住して節制を加うるが最善。九四は包住する能わず、かえって其の凶を受く。九三は剛を以て下卦の上に居る——ゆえに危厲なるも大咎なし。上九は剛を以て上卦の上に居る——ゆえに鄙吝なるも咎なし。此の卦の「遇」は本より正道に非ざればなり——ゆえに遇い着かざるはかえって責怪すべきなし。
象曰:姤其角,上窮吝也。剛上窮極,自無所遇也。大抵當姤之時,小人固不可使之進,而君子又不可無以蓄小人。彖但言陰長之宜防,而彖傳復言陽剛之可行。君子當此,正宜慎之於微也。初爻戒小人不可往。二四五皆言包制之道。唯三以重剛不中,上以剛居卦極,故厲而吝。然皆無咎,亦以與陰不相遇。皆不與陰之進也。
《小象伝》に「其の角に姤うは、上に窮まりて吝なればなり」という——陽剛は上行して窮極の處に到れば、自然に遇合する所なし。大抵相遇の時に当たりては、小人は固よりそれをして上進せしむべからざれども、君子もまた小人を容蓄するの度量なかるべからず。卦辞は只だ陰気の漸長は防范すべきを講じ、《彖伝》はまた陽剛の道は通行すべしを講ず——君子は此の關頭に處して、まさに幾微の際に於いて謹慎起来すべきなり。初爻は小人を告誡して上往すべからず。二・四・五の三爻は皆包容節制の道を講ず。ただ九三は剛を重ねて中ならず、上九は剛を以て一卦の極に居る——ゆえに一箇は危厲、一箇は鄙吝。然れども两爻は皆咎なし——またまさに彼らは陰と相遇わざるに依れば。全卦六爻、一處も陰気の上進を贊成するはなし。
萃(すい)の卦
萃卦,下坤上兌。澤在地上,水之聚也。水潤澤其地,萬物群聚而生,萃之象也。又上說下順,九五剛中,二以柔中應之,萃之由也。故為萃。萃卦次姤。按,《序卦》,姤者,遇也。物相遇而後聚,故受之以萃。萃者,聚也。物相會遇則成群萃,萃所以次姤也。全彖當萃聚之時,理勢必亨。
《萃》の卦は下卦が「坤」、上卦が「兌」。沢は地の上にあり——是れ水の會聚。水は此の土地を滋潤せば、万物は便ち成群聚集して生ず——これがすなわち「萃」の象。さらに上卦の兌は悦、下卦の坤は順。九五は剛健にして中を得、六二は柔順を以て中を得てそれに應ず——これは會聚する能くの緑由。ゆえに卦の名は「萃」。《萃》卦は《姤》卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「姤とは、遇なり。物相い遇いて後に聚す、故に受けて萃と為す。萃とは、聚なり。」万物は彼此會遇すれば便ち群聚を結ぶ——これがすなわち《萃》の《姤》を承接するの道理なり。全卦の大意は——まさに會聚の時に当たれば、情理と形勢とは皆必然に亨通す。
但當得正,則可大有所為。此全彖之大旨也。六爻四陰萃於二陽。五得位而權分於四,故有元永貞之戒。四以陽有可萃之權,而不居其位,故必大吉而後無咎。初宜應四而隔於二陰,故眾笑而可往。二五正應而二中正,故有引吉之占。三比四不得應上,非正故不免於小吝。上無位,求萃不得,唯有齎諮涕洟而已。此六爻之大畧也。
ただ必ず處置を正にしてこそ、以て大いに作為あるべし。これが全卦の卦辞の大旨なり。六爻の中、四箇の陰爻は两箇の陽爻に聚附す。九五は君位を得るといえども、権柄は却って九四に分去せらる——ゆえに「元永貞」の告誡あり。九四は陽剛を以て衆を聚むべきの権を握有すれども、君位に居らず——ゆえに必ず大吉にして然る後にこそ咎なし。初六は本より上に九四に應ずべきに、中間は却って六二・六三の两陰に隔斷せらる——ゆえに人の譏笑を受くべく、然れども仍お前往すべし。六二は九五と正應にして六二また中正——ゆえに「吉を引く」の占辞あり。六三は九四を親比して上六に應じ到らず、位はすでに正ならざれば、小さき鄙吝を免れ難し。上六は位なし、聚まらんを求めて聚を成さず——ただ嗟歎流涕あるのみ。これが六爻の大略なり。
萃:亨。王假有廟,利見大人,亨,利貞。用大牲吉,利有攸往。澤上於地,萬物萃聚之象。亨字衍文。廟,所以聚祖考之精神。人必先聚己之精神,乃可入廟而承祖考。當萃之時,故宜為卜祭之吉占也。既萃則宜見大人,可以得亨而貴於正,不正則亦不能亨矣。萃當物力豐盛之時,故祭享宜豐,用大牲則吉。萃當人心翕聚之會,故凡事可為而有所往則利也。
卦辞。「萃、亨。王、廟に假(か)る、大人を見るに利し、亨、貞に利し。大牲を用えば吉、往く攸あるに利し。」沢水は地に漫る——是れ万物會聚の象。開頭の彼の「亨」の字は傳抄重出の衍文なり。宗廟は祖先の精神を會聚するの地方。人は必ず先ず自己の精神を聚起してこそ、以て廟に進みて祖考を承事すべし。まさに會聚の時に当たる——ゆえに是れ祭祀を卜問するの吉占。すでに會聚せば、則ち大人を進見するに宜しく、以て亨を得べく、而して尤も守正を貴ぶ——正ならざればまた亨する能わず。會聚の時はまさに物力の豊盛の際——ゆえに祭享は豊かに宜しく、牛此の類の大牲を用えば便ち吉。會聚の時はまた人心翕合の會——ゆえに百事為すべく、往く所あれば便利なり。
全卦六爻二三四互艮為門闕。內坤純陰有宗廟之象。九五居尊而二應之,有利見大人之象。二五皆居中得正,有利貞之象。大象坎為豕,外卦兌為羊,內卦坤為牛,大牲之象。損之時二簋可享,則萃之時宜用大牲矣。渙之時利涉大川,則萃之時宜利有攸住矣。
さらに取象の上より説く。全卦の二・三・四爻は互いに艮を成し、艮は門闕。内卦の坤は純陰——宗廟幽陰の象あり。ゆえに「王廟に假る」を取る。九五は尊位に居りて六二は上に應ず——「大人を見るに利し」の象。二・五は皆中に居りて正を得る——「貞に利し」の象。全卦の大体の輪廓は一箇の坎の如く、坎は豕。外卦の兌は羊、内卦の坤は牛——牛羊豕の三牲斉備せり。まさに「大牲」の象。《損》卦の時は只だ两簋の薄物を用いて則ち祭享すべし——然らば《萃》卦の時は自然に大牲を用うべし。《渙》卦の如き離散の時ですらなお「大川を渉るに利し」——然らば《萃》卦の時は自然にさらに「往く攸あるに利し」に宜し。
彖曰:萃,聚也。順以說,剛中而應,故聚也。以卦德卦體釋卦名。坤順兌說。五剛中在上,而二以柔中應之,君臣聚會之時也。王假有廟,致孝享也。利見大人亨,聚以正也。用大牲吉,利有攸往,順天命也。
《彖伝》にいう。「萃とは、聚なり。順にして以て説(よろこ)び、剛中にして應ず、故に聚なり。」これは卦徳と卦体とを以て卦名を釈す。坤は順、兌は悦。九五は剛中にして上に居り、六二は柔中を以て下に在りて相い應ず——まさに君臣聚會の時。《彖伝》は接いで逐句に卦辞を釈していう。「王、廟に假るは、孝享(こうきょう)を致せばなり。大人を見るに利し亨は、聚するに正を以てすればなり。大牲を用いて吉、往く攸あるに利しは、天命に順えばなり。」
致孝享,言萃一己之精神以萃祖考之精神,所以盡孝享之心也。盡志以致孝,盡物以致享。二五正應,君臣遇合以道,所謂聚以正也。當萃之時,物力豐贍,事勢可為。時豐而豐,道隆而隆。皆天之正理,故曰順天命也。
いわゆる「孝享を致す」は、説く、自己一身の精神を攏聚して、以て祖先の精神を感聚し、此を借りて孝敬供享の心を尽す。心志を竭くすを「致孝」と曰い、物品を備辦するを「致享」と曰う。六二と九五とは正應を為り、君臣は道を以て相合す——これがすなわち「聚するに正を以てす」。まさに會聚の時に当たりては、物力は豊足、事勢は為すべし。時候豊裕なれば則ち丰厚に辦し、道運隆盛なれば則ち隆重に做す——これら皆天の正理。ゆえに「天命に順う」という。
觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。陽倡陰和,乾始坤生。天地之化育皆聚也。形交氣感,聲應氣求。萬物之生成皆聚也。於咸見情之通,於恆見情之久,於萃見情之同。然情之所以同,其理本一故也。人能聚其精神,則天地萬物與我一,造化在我心矣。
《彖伝》は最後にいう。「其の聚まる所を観れば、而して天地万物の情は見るべし。」陽は先づ倡して陰は随和し、乾は開始を主どり坤は生成を主どる——天地の化育は皆一箇の「聚」の字に帰す。形体交接し気息相い感じ、同じ声は相い應じ同じ気は相い求む——万物の生成もまた皆一箇の「聚」の字に帰す。《咸》卦に於いて情の相通を見、《恒》卦に於いて情の持久を見、《萃》卦に於いて情の相同を見る。而して情の相同なる能くの所以は、彼らの理は本よりすなわち一箇なればなり。人は若し能く自己の精神を聚起せば、天地万物は便ち我と合して一と為り、造化は則ち皆我が心の中に在らん。
象曰:澤上於地,萃。君子以除戎器,戒不虞。澤在天上,有恩澤之意。在地上,有潤澤之意。潤澤故生萬物而萃也。水聚而不防則潰,眾聚而不防則亂。除者,去舊取新,除其弊壞,以為不虞之備也。曰戒不虞,則非以耀武矣。若秦之銷鋒鑄鐻,則非除戎器之謂。
《大象伝》にいう。「沢、地の上にあり、萃。君子以て戎器を除(あらた)め、不虞に戒む。」沢は天の上に在れば、取る所は恩沢の下に施すの意——たとえば《夬》卦の「沢天の上にあり」。沢は地の上に在れば、取る所は滋潤の意——滋潤するに因りて、万物はこそ生長會聚す。水は聚まりて防范を加えざれば則ち潰決せん、人衆は聚まりて防范を加えざれば則ち乱を生ぜん。「除」は旧を去りて新に換え、破損敗壞の兵器を修整替换して、以て意外の変に備う。既に「不虞に戒む」といえば、則ち武力を炫耀するために非ず。秦始皇の天下の兵器を銷毀して鐘(しょう)を鋳成せるに至っては、則ち「戎器を除む」と叫ぶべからず。
黷武窮兵,又非戒不虞之謂也。初六。有孚不終,乃亂乃萃,若號,一握為笑,勿恤,往無咎。初與四應,而質柔不能固守,有孚不終之象。二陰間之,同類妄聚,乃亂乃萃之象。應四又連兌體,若有所呼號之象。二陰群聚而非之。互體為艮為手,兌為說,有一握為笑之象。一握猶一群。曰握,小之也。大象坎為加憂,恤之象。初變不成坎,勿慍之象。初能勿恤二陰之笑,往從正應則無咎矣。比初無應而有孚盈缶,終有他吉。萃初有應而有孚於不終,至於乃亂乃萃者。比一陽得位,諸爻比之者其情專。萃二陽,四不得位,二陰得以間之,其志亂也。
上文の《大象伝》の「君子以て戎器を除め、不虞に戒む」に承りて言う。若し一味に兵を窮め武を黷(けが)さば、則ちそれは「意外に戒備する」の本意に非ざらん。初六の爻辞にいう。心に誠信を存するも底まで守りえず、ここに乱れて後に聚まり、聚まりてまた乱る。一たび號呼して應を求めば、かえって人に聚まりて一團を作りて譏笑せらる。ただ理会せず、前往して正應に追隨せば便ち過錯なし。何を以て此の如く断ず。初六と九四とは本より正應にして、然れども其の質地は陰柔、此の份の相應の誠を守り住む能わず——ゆえに是れ「孚ありて終らざる」の象。六二・六三の两箇の陰爻は其の間に横隔し、同類は胡乱に聚攏す——便ち「乃ち乱れ乃ち萃る」の象。初六は上に九四に應じ、九四また上卦の兌体に連なり、兌は口——ゆえに呼號の象あり。两箇の陰爻は成群聚まりてそれを非議す。二より四に至りて互いに艮、艮は手。上卦の兌は悦——合して「一握して笑を為す」の象と成れり。「一握」は猶お「一群」と説くが如し——「握」の字を用うるは有意にそれを説いて小さく軽くせんとなり。全卦の大象は坎に似たり、坎は「憂を加う」——まさに「恤」の字の取象。初六は一たび変ぜば則ち坎体は成らず——ゆえに「恤う勿れ」、憂愁に及ばずという。初六は若し两陰の譏笑を心上に置かず、往きて九四此の正應に從わば、自然に過錯なし。比卦と對看すべし。比卦の初六は併せて正應なけれども、「孚ありて缶(ふ)に盈つ」——終究に別に吉慶あり。萃卦の初六は明々白々に應あれども、誠信はかえって持久する能わず、「乃ち乱れ乃ち萃る」に至る。緑故は比卦は只だ一箇の陽爻にして而且当位し、衆爻はそれを親附し、情を用うること専一なり。萃卦は却って两箇の陽爻あり、九四は陽を以て陰に居りて当位せず、两箇の陰爻は便ち其の中より阻隔するを得——初六の心志は此に因りて紛乱せり。
象曰。乃亂乃萃,其志亂也。為同類群陰所亂也。六二。引吉無咎,孚乃利用禴。互艮為手,牽引之象。中正相應,孚之象。艮為門闕。二變互離。禴為夏祭,利用禴之象。二與五為正應,君臣道合矣。然在二陰之間,必牽引其同類之初六六三以萃於五,則得以人事君之義。乃吉而無咎矣。又以二之柔順中正,應五之剛健中正。至誠交孚,不事煩文。猶四時之祭夏用禴,以聲為主,祭之薄矣。然用之亦利。當萃乃大牲可用之時,然誠意既孚,則雖薄亦可祭矣。蓋人臣薦賢為國,非以植黨,則誠意可以上達也。
《小象伝》に「乃ち乱れ乃ち萃るは、其の志乱るればなり」という——説くは初六は同類の一群の陰爻に心志を攪乱せらる。六二の爻辞にいう。同類を牽引して一同に来たり聚まれば則ち吉にして過錯なし——ただ誠信は中に在れば、則ちたとい夏の最も儉薄の「禴(やく)」祭を用うるもまた是れ利あり。取象の上、二より四に至りて互いに艮、艮は手——牽引の象。六二は柔中正にして上に九五の剛中正に應ず——「孚」の象。艮また門闕——六二は一たび変ぜば則ち互体は離と成り、「禴」は夏祭の名——ゆえに「禴を用うに利し」の象あり。六二と九五とはまさに正應、君臣の道は已然に相合す。然れどもそれは身に初六・六三の两陰の間に處して、必ず同類の初六・六三を牽引して一起に九五に歸聚せしめばこそ、これ「以て君に事うるに人を以てす」——賢才を君上に薦げる——の道理に合し、ここに吉にして咎なし。さらに六二は柔順中正を以て上に九五の剛健中正に應ず——两心は至誠に相通じ、繁文縟節を用いず。たとえば四時の祭、夏祭は「禴」を用い、歌声を以て主と為し、祭品は最も菲薄——然れども之を行うも一樣に利あり。萃聚の時は本より牛羊大牲も辦え得るの時なれども、誠意はすでに相通ぜれば、たとい祭品は簡薄なりとも照樣に薦享すべし。説いて底に至れば、人臣の賢能を擧薦するは国家の為、党を結び私を営むに非ず——此の份の誠意は自然に上に君に達すべし。
象曰。引吉無咎,中未變也。陰柔不能固守,則所萃不正。二有中正之德,不變所守也。六三。萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。六三陰柔,不中不正。欲萃於四而非應,有萃如嗟如之象。如是則無所利。往從於上,我順彼說,可以無咎矣。然上陰無位,所應非正,故又小吝。與初之往無咎者不同也。
《小象伝》に「吉を引きて咎なしは、中いまだ変ぜざればなり」という——陰柔の質は本より守り牢にあらず、聚むる所の対象は正ならざること易し。六二は中に居りて正を守るの徳を具備し、終始自ら守る所を改変せず——ゆえに同類を牽引して吉を得て過錯なし。六三の爻辞にいう。聚まらんと欲して聚を成さず、只だ連声に歎息せるを落とすのみ、利益に言うべきなし。前往して上六に依附せば則ち過錯なれども、但だ稍々一点の羞吝を帯ぶ。六三は陰爻を以て陽位に居り、中にも居らずまた位に当たらず——それは九四に歸附せんと欲するに、然れども九四は併せて其の正應に非ず——ゆえに「萃(すい)せんとするも嗟(さ)す」——聚まらんと欲して徒然に嗟歎するの象あり。此の如くなれば自然に一の利ある所なし。若し転じて上に上六に從わば、我は柔順を以て相い就き、上六は兌体の喜悦を以て相待てば、便ち以て過錯なきを得べし。ただ上六は陰爻にしてまた爵位なし、應ずる所は正に非ず——ゆえに終究にまだ一点の小さき羞吝を留むるのみ。これは初六の彼の乾淨利落の「往きて咎なし」とは併せて相同じからず。
象曰。往無咎,上巽也。上應雖非正,以其說體,能巽順以從之也。九四。大吉無咎。上比九五,下比眾陰,得其萃矣。然以陽居陰不正,非君位而得眾心,有僭逼之嫌。故必大吉然後可無逼君之咎也。此與隨四同義。隨四以承五致天下之隨,必有孚而後無咎。此以承五致天下之萃,必大吉而後無咎。所以戒人臣者至矣。
《小象伝》に「往きて咎なしは、上に巽(そん)すればなり」という——上六は六三の正應に非ざるといえども、然れどもそれは兌体喜悦に属し、六三は能く柔巽順從してそれに依附す——ゆえに前往して過錯なし。九四の爻辞はただ「大吉咎なし」の四字あり。九四は上は九五と相い比し、下は衆陰と相い比す——説いて可なり、すでに衆人の歸聚を得たり。然れどもそれは陽爻を以て陰位に居りて併せて位に当たらず、本より君位に非ざるに衆心を収攏せば、則ち僭越して上に逼るの嫌疑あり。ゆえに必ず「大吉」を做到せざるべからず——為す所為すこと皆尽善尽美——然る後にこそ君を逼るの咎なしと談ずべし。これは随卦の九四と同一の意旨。随卦の九四は九五を承事して以て天下の随を致す——必ず「孚あり」て後に咎なし。此の爻は九五を承事して以て天下の萃を致す——必ず「大吉」にして後に咎なし。聖人の人臣を告誡するに用うるの用意は、深切の至りと謂うべし。
象曰。大吉無咎,位不當也。不居君位也。九五。萃有位,無咎,匪孚,元永貞,悔亡。九五陽剛中正,以居尊位,當萃之時有位,則與四之不當者不同。足以至天下之萃而無咎矣。然有四分其權,故或有匪孚者,必修其元善永長正固之德,則無思不服而悔可亡也。
《小象伝》に「大吉咎なしは、位當たらざればなり」という——説くは九四は畢竟に君位に居らず——ゆえに格外に戒懼せんことを要す。九五の爻辞にいう。萃聚の時に處りて其の位あれば、過錯なし。たとい人のいまだ誠服せざるあらんとも、ただ元善・長久・正固の徳を修養せば、悔恨は便ち消失せん。九五は陽剛中正の徳を以て尊位に居り、萃聚の時に当たりて既に其の徳ありまた其の位あり——九四の彼の種の位に当たらざる者とは截然として不同。以て天下を招致して歸聚せしめて咎あるに至らず。ただ九四が一部分の権勢人望を分去せり——ゆえに難くもなお「孚ならざる」——曽て心から悦誠服せざるの人あらん。此の時に当たりて必ず「元」(至善)・「永」(長久)・「貞」(正固)の三徳を修養してこそ、天下は心服せざるなく、悔恨は自然に消亡すべし。
象曰。萃有位,志未光也。有位而猶匪孚,志未光大。故反己修德為要也。上六。齎諮涕洟,無咎。齎諮,嘆息也。自目曰涕。自鼻曰洟。兌口之嘆,有齎諮象。兌澤之流,有涕洟象。處萃之終,陰柔無位。求萃不得,必如是然後可無咎也。
《小象伝》に「萃して位あるは、志いまだ光ならざればなり」という——すでに位あるに仍お人の服せざるあれば、志向はなお光り大なる能わざるを見るべし。ゆえに身を反し省みて己徳を修養するこそ要務なれ。上六の爻辞にいう。歎息して涙を流すも、過錯なし。「齎咨(せいし)」はすなわち歎息。眼より流下するを「涕」と曰い、鼻の中より流下するを「洟」と曰う。上卦の兌は口——口の中の歎は便ち「齎咨」の象。兌また沢——沢水の流溢は便ち「涕洟」の象。上六は萃卦の終点に處り、陰柔にしてまた位なし——聚まらんを求めて聚を成さず。必ず此の如く憂懼涕泣して痛く自ら警省して、然る後にこそ過錯を免るるべし。
象曰。齎諮涕洟,未安上也。五為萃主而上乘之,心自不安也。按,萃卦六爻,或有應或無應,或當位或不當位,而皆曰無咎。蓋天地萬物之情既聚,吉多凶少,此萃所以亨也。然萃卦與比卦相似。比以五為主而言,萃亦以五為主而有匪孚者。
《小象伝》に「齎咨涕洟は、いまだ上に安んぜざればなり」という——九五は一卦の衆を聚むるの主、上六は却って其の上に凌駕す——居心は自然に安穩なる能わず。按ず——萃卦の六爻は、或いは應あり或いは應なし、或いは当位或いは不当位なれども、却って一概に「咎なし」という。これは天地万物の情はすでに聚合せば、吉多くして凶少なし——まさに萃卦の「亨」と称する所以の道理。ただ萃卦と比卦とは極めて相似す。比卦は九五を以て主と為して説を立て、萃卦もまた同じく九五を以て主と為す——然れども偏に「孚ならず」の話頭を現出せり。
比卦一陽,其情專。萃多九四一陽,其勢分也。然萃六爻皆無咎,而比之六三傷上六凶者。比則向背已定,其情私。萃則進退未定,其情猶公也。然比卦一陽為主,故於全彖言元永貞。萃卦二陽,獨於九五言元永貞。則凡人君者當萃比之時,非有元永貞之德,無以善其始終也。
比卦はただ一箇の陽爻のみ——衆陰の情は専一。萃卦は九四此の一箇の陽爻を多出す——形勢は便ち分散せり。然れども萃卦の六爻は皆咎なしと説き、比卦は却って六三の「之れ比するに匪(あら)ざる人」の損傷、上六の「之れ比するに首なし」の凶険あり——原因は、比卦の親附向背はすでに定局を成せり——其の情は偏私に近し。萃卦の進退はいまだ確定せず——其の情はなお公正と算す。また正に比卦は一陽を以て主と為すに因りて、ゆえに卦辞の裏に於いて則ち総じて「元永貞」を提す。萃卦は两箇の陽爻あれば、便ち只だ九五の一爻に単に「元永貞」を説く。凡そ人君と為る者は、衆人の萃聚親比するの時に處して、若し元善・長久・正固の徳なければ、始終を皆妥善に做すの法なからん。
升(しょう)の卦
升升卦,下巽上坤。木生地中,長而益高,升之象也。又卦綜萃,下卦之坤升為上卦,亦升之義也。升卦次萃。按,《序卦》:萃者,聚也。聚而上者謂之升,故受之以升。物之積聚益高而上,升所以次萃也。全彖內巽外順,九二剛中而六五虛中以應,君子進用之象。故可以見大人而利於前進。六爻六五為升之主。下四爻皆有可進之象。唯上當升之極,而猶升不已則冥升而已。此全卦六爻之大畧也。
升卦は下卦が「巽」、上卦が「坤」。樹木は地中に生じ、長ずるほどにますます高し——すなわち「升」の象。さらに本卦は萃卦の綜卦(整体倒転)にして、萃卦の下卦の坤は翻りて上がりて升卦の上卦と成れり——また上昇の義を含む。升卦は萃卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「萃」はすなわち聚。聚して上に向かうを「升」と曰う。ゆえに萃卦の後に升卦を以て接ぐ。事物は積聚すればするほどますます上に向かいて增高す——これが便ち升の萃に次ぐ所以の道理。卦辞全体に就いて見れば、内卦の巽は遜入、外卦の坤は柔順。九二は陽剛を以て中に居りて六五は虚中の徳を以て下に應ず——まさに君子の進用せらるるの象。ゆえに能く大人を進見して前に向かうに利し。六爻に就いて見れば、六五は升卦の主。下面の四爻は皆上進すべきの象あり。ただ上六は升の極点に處りて、なお一味に升して止まず——然らば則ち昏冥の升と成れり。これが全卦六爻の大略なり。
升。元亨。用見大人。勿恤。南征吉。升進而上也。木自地生。卦綜萃。坤升於上,內巽外順。九二剛中有應。皆有大亨之象。以剛中之臣遇柔中虛已之君,有宜見大人,不事憂恤之象。後天巽坤之中為離,有南征得吉之象。
卦辞にいう。升は大いに亨通す。大人を進見するに宜しく、憂慮に及ばず。南に向かい進発するは吉利なり。「升」はすなわち前進して上に向かう。木は地中より生出す。本卦はまた萃卦の綜卦にして、萃の坤は上位に升れり。内卦の巽は順入、外卦の坤は柔順。九二は陽剛を以て中に居りて上に六五の相應あり——此の等は皆大亨の象を構成す。剛中の臣を以て柔中にして己を虚しくして言を納れる君に遇上せば、ゆえに「大人を進見するに宜しく、憂愁を用いず」の象あり。後天八卦の方位に按ずれば、巽は東南に在り、坤は西南に在る——両者の間は正南の離。ゆえに「南征して吉を得」の象あり。
彖曰。柔以時升。按,《本義》謂以卦變釋卦名,謂解之三上居四也。陰陽二氣迭為升降。剛在上以為常,柔在上則以為時。亦扶陽抑陰之意也。來注以卦綜言,萃下卦之坤升而上也。然竊按,卦變柔進居上者多,即卦綜坤居上者亦多。
《彖伝》に「柔時を以て升る」という。按ず——朱熹《本義》はこれを卦変を以て卦名を釈すと認め、説くは升卦は解卦より変じ来たり、解卦の三爻と上爻と相い易えて四に居る、と。陰陽二気は交替して升降し、陽剛が上に居るは常態、陰柔が上に居れば則ち時を待ちて行うを須う——此の裏面もまた陽を扶け陰を抑えるの意思を含む。来知徳の注は則ち綜卦より説を立て、是れ萃卦の下卦の坤が升り上がったりと認む。然れども我私らに考察す——卦変を以ていえば、柔爻進みて上に居るの卦は多し。綜卦を以ていえば、坤の上位に居るの卦もまた少なからず——皆升卦を専指するに足らず。
獨此以升言,當以卦象言之。五行惟木最柔。然及時之既至,則自地下升於地上。又巽為風。風有氣無質,亦最柔者也。然時之既至,亦自地而上升。大象專言木,此魚木與風言之,故曰柔以時升。
独り此の卦の「升」を講ずるは、則ち卦象の上より説を立つべし。五行の中、ただ木は最も柔弱——然れども節候一たび到れば、それは便ち地下より地上に升る。巽また風と為り、風は気あって形質なし——また最も柔なり。然れども時令一たび到れば、同じく地面より上に向かいて升騰す。《大象伝》は只だ木を提ぐ——此の處は則ち兼ねて木と風とに就いて言う(「魚」字は当たりに「兼」字の訛)——ゆえに「柔時を以て升る」という——柔弱の物は時機に順いて上昇す。
巽而順,剛中而應,是以大亨。以卦德言之。內巽則沉潛觀理,外順則從容待時。以卦體言之。二有剛中之德,應五虛己之君。宜其大亨也。用見大人,勿恤。有慶也。南征吉,志行也。萃以五為大人。升以二為大人。聚者,下之所樂。故但見言利見大人。進者,上之所忌。故言用見大人。勿恤,慶在得君而志在行道也。
《彖伝》に「巽にして順、剛中にして應ず、是を以て大亨なり」という。卦徳より説く。内卦の巽は、沈潛して義理を體察す。外卦の坤順は、從容不迫に時機を等候す。卦体より説く。九二は陽剛居中の徳ありて、上に六五の己を虚しくして賢を納るる君に應ず——理当たりて大いに亨通す。《彖伝》また「用いて大人を見れば恤う勿れ、慶あるなり。南征して吉は、志行ければなり」という。萃卦は九五を以て「大人」と為し、升卦は則ち九二を以て「大人」と為す。聚合は下に在る者の楽しむ所——ゆえに萃卦は只だ「大人を見るに利し」という。上進は却って上に在る者の忌諱する所——ゆえに升卦は「用いて大人を見よ」という。一箇の「用」の字は其の間の鄭重と不易とを見出す。「恤う勿れ」の慶すべきの處は君主の信任を得るに在りて、而して心志は則ち己道を推行するに在り。
象曰。地中生木。升。君子以順德,積小以高大。《本義》以順作慎。謂事事謹慎乃能積小以至高大也。然按,坤巽二卦皆有順義。木之生自小至大,人莫見其跡,順其自然也。學問積小以至高大,亦順其自然,不間以私意而已。
《大象伝》に「地の中に木を生ず、升。君子以て徳に順い、小を積みて以て高大と為す」という。《本義》は「順」を「慎」と読作し、事事謹慎してこそ小より高大に積累するを得べしと説く。然れども按ず——坤・巽の两卦は本より皆順の義を含む。樹木は小より大に長ずるも、人は其の生長の痕迹を看出しえず——あれは其の自然に順う。学問を做すこと小より高大に積むも、同樣に是れ其の自然に順う——只だ私意をして夾雑し入るを得しめざるのみ。
初六。允升大吉。以柔居下,無應於上,本不能升。而二三當上升。初巽於二陽,二陽允之。故大吉也。晉三眾允,為二陰所信也。以陰信陰,不過悔亡而已。以陽信陰,故得大吉也。象曰。允升大吉,上合志也。《程傳》以上專指九二。然二陽皆欲上進者。初為巽主,與二陽同體,故從《本義》兼指二三。
初六の爻辞にいう。人に認められて上昇す——大吉。初六は柔爻を以て最下に居り、上面にまた正應なし——本より升り上がる能わず。然れども九二・九三はまさに上昇の時に当たり、初六は柔巽に此の两箇の陽爻に依附し、两陽もまたそれを認可す——ゆえに大吉。晋卦の六三の「衆允」を拿って対照すべし。あれは两箇の陰爻に信任せられたる、陰を以て陰を信ずる——不過「悔亡ぶ」のみ。此の處は陽を以て陰を信ずる——ゆえに大吉を得る能し。《小象伝》に「允(ゆる)されて升りて大いに吉は、上と志を合せればなり」という。《程伝》は「上」を専ら九二を指すと認む。然れども九二・九三は皆上進せんと要する者、初六また巽卦の成卦の主にして、两陽と同じく一体に在る——ゆえにここに《本義》に依從して、「上」を兼ねて九二・九三を指す。
九二。孚乃利用禴。無咎。萃六二以中虛為孚,此以中實為孚。二變互坎為隱伏,鬼神祭祀之象。以剛中之臣,應柔中之主。至誠相感,可以不事文飾。猶禴祭之簡質,可達於神也。如是,則可以無咎矣。象曰。九二之孚,有喜也。君臣相信,有得時行道之喜也。中互兌喜悅之象。二未言升,有喜則可升矣。
九二の爻辞にいう。心に誠信を存し、簡薄の「禴」祭を用うるに宜し——過錯なし。萃卦の六二は陰爻中虚を以て「孚」と為し、此の爻は則ち陽爻中実を以て「孚」と為す。九二は一たび変ぜば互体は坎と成り、坎は隠伏——まさに鬼神祭祀の象。剛中の臣を以て上に柔中の君に應ず——至誠相い感じ、任何の文飾を用いず——たとえば禴祭の如く簡質なるも照樣に能く神明に通達す。此の如くなれば便ち以て過錯なきを得べし。《小象伝》に「九二の孚は、喜有ればなり」という——君臣は互いに信任せば、則ち時を得て道を行うの喜慶あり。互体は兌と為り、兌は喜悦——まさに取象の所在。此の爻はなお明かに「升」を説かざれども、既にすでに喜あれば、則ち以て升るべし。
九三。升虛邑。陽實陰虛。坤為國邑。九三以陽剛當升之時,進臨於坤,故有升虛邑之象。象曰。升虛邑,無所疑也。三得正應,可以無疑也。六四。王用亨于岐山,吉無咎。人積誠以達於神,有升而上通之義。故二四皆以祭享言之。五陰居尊,山象。四承之,亨于岐山之象。四未居尊位,文王在岐周時之象。又二大臣四近臣。升有偪上之嫌,故皆不言升,而以誠意上達為升。如是,則吉而無咎也。
九三の爻辞にいう。上昇して空虚の城邑に入る。陽爻は実、陰爻は虚——坤は国邑。九三は陽剛の質を以てまさに上昇の時に当たり、前に向かいて上卦の坤に逼臨す——ゆえに「虚邑に升る」——人なきの境に入るが如し——の象あり。《小象伝》に「虚邑に升るは、疑う所なければなり」という——九三と上六とは正應にして、前進は疑慮なきを得べし。六四の爻辞にいう。君王は岐山に於いて祭享を舉行す——吉、過錯なし。人は誠意を積累して上に神明に達す——上昇して上に通ずるの意を含む。ゆえに九二・六四の两爻は皆祭享を借りて「升」を説く。六五は陰爻にして尊位に居る——山の象と為る。六四はそれを承奉す——まさに「岐山に享す」の象。六四はなお尊位に居らざるは、恰好に是れ文王のなお岐周に在りて諸侯たるの時の樣子。さらに説く、九二は大臣、六四は近臣——明かに「升」を説けば上に逼るの嫌を免れ難し。ゆえに两爻は皆避けて升を言わず、而して誠意を上達するを以て升と為す。此の如くなれば便ち吉にして過錯なし。
象曰。王用亨于岐山,順事也。按,《本義》謂以順而升,登祭于山之象。竊按,順宜就文王言之。文王三分有二以服事殷,順之至也。守人臣之位,而以積誠上達為升,所謂順也。六五。貞吉升階。以陰居陽,疑於不正,故言必正固則吉,如升階之易矣。坤為土,有階象。六五以陰居尊,必有正固之德以居天子之位,則正朝廷以正萬民,如升階之易也。
《小象伝》に「王用いて岐山に亨すは、順事なればなり」という。按ず——《本義》は柔順を以て升り、山に登りて祭を致すの象と解す。我私らに以為す——「順」は当たりに文王本人に就いて説くべし。文王はすでに天下の三分の二を據有するも、仍お殷商に臣服す——これは順の極処に到れるなり。彼は謹んで人臣の本位を守りて、而して誠を積みて上達するを以て自己の「升」と為す——これこそいわゆる「順」。六五の爻辞にいう。正を守れば則ち吉、上昇すること階を登るが如し。六五は陰爻を以て陽位に居り、看て正ならずに似たり——ゆえに特に必ず正固にしてこそ吉と説く。然らば上昇は則ち階を登るが如く容易なり。坤は土——階梯の象あり。六五は陰柔を以て尊位に居り、必ず正固の徳を具備してこそ天子の位に居るに配す。能く朝廷を端正して進みて万民を端正せば、然らば升進は則ち階を登るがごとき順当なり。
象曰。貞吉升階,大得志也。居尊致治,其志大得。又自下而上,至君位而極矣。故曰大得志。上六。冥升。利于不息之貞。以陰居升之極,務進不已,昏冥於升者也。若能反其升位之心以升其德,則純亦不已,積而愈高。故曰利于不息之貞也。使不貞,則其不息何所利哉。
《小象伝》に「貞吉にして階に升るは、大いに志を得ればなり」という——尊位に居りて天下の大治を致せば、志向は大いに実現せりと謂うべし。況んや下より上に至りて、君位に升るはすでに頂点——ゆえに「大いに志を得」という。上六の爻辞にいう。昏昧に一味に上昇せば、止息せざるの正道を用うるに宜し。上六は陰柔を以て升卦の極に居り、上進を務求して停歇するを肯ぜず——まさに「升」に対して昏昧不明の人。倘若し官位に升らんを求むるの心を反転して徳行を提升するの上に用いえば、則ちそれは《中庸》の説く所の「純にしてまた已まず」——ますます積みてますます高し。ゆえに「已まざるの貞に利し」という。假使に正道を守らざれば、あの止息せざるの上昇はまた何の好処かあらん。
象曰。冥升在上,消不富也。陰虛不富。升極必降,長極必消。昏冥不已,不能有其富矣。全卦以卦綜言之,則坤升巽上。以二象言之,則木自地升。以六爻言之,則六五為踐阼之君。升至此而極,為升之主。而下四爻皆上升者。二應五之大臣,四承五之近臣。皆嫌於言升,積誠上達亦升也。初在下,小臣也。得上援而升。三立功任事之臣也,升而得國。上無可升而務升不已。能為不息之貞,則衛武公之髦期進德也。若徒於位求升,君則周天元,臣則莽卓之臣而已,其昏冥何如哉。
《小象伝》に「冥(くら)く升りて上に在るは、消して富ならざればなり」という——陰爻は虚にして実ならず——ゆえに「富ならず」という。升りて極点に到れば必然に降り、生長して極点に到れば必然に消ゆ——昏昧に升りて止まず、終究に彼の份の豊盈を保住する能わず。全卦を総看す。綜卦より説けば、是れ萃の坤が巽の上面に升れたり。上下二象より説けば、是れ木が地中より上昇す。六爻より説けば、六五はすでに位に即きたるの君主——此に升りて便ち極点に到れり——まさに升卦の主。下面の四爻は皆上昇する者。九二は六五と相應の大臣、六四は六五を承奉するの近臣——皆明かに「升」を説くに嫌あり。ゆえに誠を積みて上達するを以て升と為す。初六は最下に在りて是れ小臣——上面の援引に靠りて升る。九三は功を立て事に任ずるの臣——升りて国邑を據有す。上六はすでに再び升るべきなけれども仍お升りて止まらんを求む——若し能く転じて「已まざるの貞」を做到せば、則ちあれは衛武公が九十の高齢に在りてなお進徳に勤しむの気象。若し只だ官位の上に升らんを求むれば、君と為る者は則ち北周の天元皇帝の如きの昏主と成り、臣と為る者は則ち王莽・董卓の一流と成れり——彼の份の昏冥はまたどう形容すべきや。
困(こん)の卦
困困卦,下坎上兌。以二象言之,水在澤下。枯涸無水,困乏之象。以二體言之,兌陰在上,坎陽在下。以卦畫言之,上六在二陽之上,九二限二陰之中。皆以陰揜陽。故為困。困卦次升。按,《序卦》:升而不已必困,故受之以困。乾進不已,必取困窮,困所以次升也。全彖以處險而說。二五剛中,有處困而亨之道。然惟大人能之。但不可尚口以取困窮。此全彖之大旨也。六爻以三柔揜三剛。大抵柔揜剛者凶,而剛之被揜者吉。下卦初三凶而二吉,上卦四五吉而上悔。蓋在困不失其亨惟君子,故剛爻多吉也。上雖有悔而不至於初三之凶,則又困極而通之漸也。此六爻之大畧也。
困卦は下卦が「坎」、上卦が「兌」。上下二象に就いていえば、水は沢の下面に在りて、沢の中は枯涸して水なし——まさに困乏の象。上下二体に就いていえば、兌は陰に属して上に居り、坎は陽に属して下に居る。卦畫に就いていえば、上六は九四・九五の两陽の上に壓し、九二また初六・六三の两陰に中間に夾まれ——皆陰を以て陽を掩蔽す。ゆえに「困」と曰う。困卦は升卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——一味に上昇して止まざれば必然に困頓を招致す。ゆえに升卦の後に困卦を以て接ぐ。進を求めて已まざれば、一定に自ら困窮を取る——これがすなわち困の升に次ぐ所以の道理。卦辞に就いて見れば、全卦は身に険境に處りて心は能く喜悦す——九二・九五は皆陽剛を以て中に居りて、身困にして道亨の條件を具備す。ただこれはただ大人のみ之を做しえ、而且して口舌の辯を逞しくして以てますます困窮を致すを切に可ならず——これが卦辞の大旨。六爻に就いて見れば、三箇の陰爻は三箇の陽爻を掩蔽す。大抵陽剛を掩蔽するの陰爻は凶、掩蔽せらるるの陽爻はかえって吉——下卦の初六・六三は凶にして九二は吉、上卦の九四・九五は吉にして上六は悔あり。處困して其の亨通を失わざるはただ君子のみ——ゆえに陽爻は多く吉。上六は悔あるといえども、初六・六三の如く凶には至らず——これまた困の極処に到りて将に通に転ぜんとするの先兆。これが六爻の大略なり。
困。亨。貞。大人吉。無咎。有言不信。困,窮不能自振也。坎剛為兌柔所揜,九二為初三所揜,四五為上六所揜,所以為困。坎險兌說。處險而說,有亨之象。困而能亨,得其正矣。
卦辞にいう。困、亨通す。正を守るに宜し。大人なれば則ち吉、過錯なし。此の時に口を開きて説かば人は信ぜざらん。「困」はすなわち窮窘して自ら振う能わず。坎の陽剛は兌の陰柔の掩する所と為る——九二は初六・六三の掩する所、九四・九五は上六の掩する所——此に因りて「困」と成る。下卦の坎は険、上卦の兌は悦——身に険境に處りて心能く喜悦せば、則ち亨通の象あり。困にして能く亨するは、まさにそれが正道を守住せるを説明す。
二五剛中,有大人象。身困道亨,非大人不能,其占吉而無咎也。兌為口,有言象。坎為耳痛,有言不信之象。當困之時,嘵嘵有言,人必不信,徒取困窮也。他卦言亨言貞,亨由於貞。此則亨所以為貞。蓋處困能亨,惟貞正之大人能之,所以吉而無咎。有言不信,則戒之之辭也。
九二・九五は皆陽剛を以て中に居る——「大人」の象あり。身は困るも道は能く亨するは、大人に非ざれば做し得ざるなり——ゆえに占断は吉にして過錯なし。兌は口——「言」の象あり。坎は耳痛——話を説き出せば人の聴信せんと肯ぜざるの象。まさに困頓の時に当たりて、喋々として申辯せば、人は一定に信ぜず——只だ徒らにさらに深き困窮を招く。別の卦の「亨」と「貞」とを講ずるは、亨通は守正より由り來る。此の卦は却って能く亨通する本身が則ち守正と算す。處困して能く亨するは、ただ貞正の大人のみ辦るを得ればなり——ゆえに吉にして咎なし。「言あれども信ぜられず」に至っては、あれは聖人の告誡の話。
彖曰。困,剛揜也。不曰柔揜剛而曰剛揜,卦為君子設。言剛之受揜,若剛自為之。亦抑陰之意也。此以卦體釋卦名也。險以說,困而不失其所亨,其唯君子乎。貞大人吉,以剛中也。有言不信,尚口乃窮也。
《彖伝》に「困は、剛の揜(おお)わるるなり」という。「柔は剛を掩う」と説かずして只だ「剛は掩わる」と説くは、《易》は君子の為に設けるが故なり。陽剛の掩を受くるを講ずれば、語気の上は仿佛として陽剛が自ら招き来たれるが如し——ここに同じく陰を抑えるの用意を含む。これは卦体を以て卦名を釈す。《彖伝》は接いでいう。「険にして以て説び、困にして其の亨する所を失わざるは、其れ君子のみか。貞にして大人なれば吉は、剛中を以てなり。言あれども信ぜられざるは、口を尚ぶ乃ち窮まればなり。」
困而不失其所亨,亨不於其身於其心,不於其時於其道也。剛中,指二五。凡人處困,大則失節,小則憂隕,以中不剛耳。剛中則知眀守固,居易俟命,所以貞大人吉也。兌口在上,有尚口之象。剛德在中,無藉於口。尚口欲以出困,反以致窮。蓋困時向人嘵嘵,即不能亨,即非貞矣。
いわゆる「困にして其の亨する所を失わず」は、説く、亨通は身に在らずして心に在り、一時の遇に在らずして守る所の道に在り。「剛中」は九二・九五を指す。一般の人は身に困境に處せば、重ければ気節を喪失し、軽ければ憂愁頽喪す——只だ心中の剛ならざるに就きて。陽剛は中に居れば、則ち見識は明白、操守は堅固にして、能く平易の地に安處して以て天命を等待す——ゆえに「貞にして大人なれば吉」という。兌の口は上に在り——口舌を崇尚するの象。而して剛徳は中に在りて、本より言辞に借助するを用いず。多く説くに靠りて困境を擺脫せんと想えば、かえって窮窘を招く——身に困の中に處りてなお人に向かいて喋々とすれば、則ち既に亨する能わず、また貞と算上する能わず。
象曰。澤無水。困。君子以致命遂志。水下漏則澤枯,故曰無水。致命,委致其身也。委命於天,以遂我之志。論是非不論利害,論可否不論死生,所謂困而亨也。致使有坎險之象,遂志有兌說之象。
《大象伝》に「沢に水なし、困。君子以て命を致して志を遂ぐ」という。沢の底は漏れて水沢は則ち枯乾す——ゆえに「水なし」という。「命を致す」は自身を交付して去る——性命を天に託付して以て自己の志向を成全し、只だ是非を論じて利害を論ぜず、只だ做すべきか否かを論じて生死を論ぜず——これがすなわちいわゆる困にして能く亨す。「命を致す」は下卦の坎険の象を含み、「志を遂ぐ」は上卦の兌悦の象を含む。
初六。臀困于株木。入于幽谷,三歲不覿。全卦剛為柔所困,六爻柔之困益甚。蓋在困時,無剛德則不能亨故也。人之體,行則趾為下,坐則臀為下。初六不能行而坐困者,故有臀象。株木,不可坐者。全卦水澤中互巽木,水草之區,故初三上皆以草木取象。
初六の爻辞にいう。臀部は光禿の樹の株に困坐し、幽深の山谷に落ち入りて、三年は天日を見ず。全卦は陽剛の陰柔の困る所と為るなれども、六爻の中は陰爻の受くる所の困はさらに重し——處困の時に剛徳なければ便ち亨通する能わざればなり。人の身体は、行走する時は脚の趾は最下、坐する時は臀部は最下。初六は行走する能わず只だ坐困するのみ——ゆえに「臀」の象を取る。「株木」は砍り剩されたる樹の株——本より坐すべきの物に非ず。全卦は水沢、中間は互いに巽を為して木——まさに水草叢生の地方。ゆえに初六・六三・上六は皆草木を取りて象と為す。
兌正秋。坎正比。初六在坎之下,大冬之時。蔓草凋脫,僅存株木,有困于株木之象。又坎險之最下,有入于幽谷之象。四本正應,而四亦在困中,不能振人。初距四三爻,不能遽遇於四,有三歲不覿之象。象曰。入于幽谷,幽不明也。陽眀陰暗。陰居最下[文淵本“最下”作“陽下”],不明之極,自陷於深困也。能眀則亨矣。
兌は正秋に当たり、坎は正北に当たる(源文は「正比」と作す——当たりに「正北」の訛)。初六は坎の最下に在りて、まさに隆冬の時節——蔓草は凋落し殆ど尽きて、只だ光禿の樹株を剩すのみ——ゆえに「株木に困まる」の象あり。それまた坎険の最底層に處す——ゆえに「幽谷に入る」の象あり。九四は本より其の正應なれども、然れども九四は自己もまた困の中に在りて、他人を振拔するの力なし。初六と九四とは三爻を相隔て、馬上に相遇う能わず——ゆえに「三歲覿(み)えず」の象あり。《小象伝》に「幽谷に入るは、幽にして明ならざればなり」という。陽は明を主どり、陰は暗を主どる。初六は陰爻を以て最下に居り(文淵閣本は「最下」を「陽下」と作す)——昏暗は極点に到りて、等しく是れ自ら深困の裏に陷れり。若し能く事理を明白せば、また亨通せらん。
九二。困于酒食。朱紱方來。利用亨祀。征凶。無咎。坎為酒食。陽陷陰中,上無應與,有困于酒食,厭飫過宜之象。然與五同德。五雖亦在困中,緩乃終合。又二互三四為離,有朱紱方來之象。坎中實,誠意在中,利用享祀之象。無應而在險中,行非其時,有征凶之象。然朱紱之來,正宜竭誠圖報。雖時值艱難,征則有凶,而鞠躬盡瘁,於義無咎也。
九二の爻辞にいう。酒食の困する所と為り、紅色の蔽膝はまさに送り来たらんとす——祭祀を擧行するに宜し。此の時に出行せば則ち凶なれども、但だ過錯と算せず。坎は酒食。九二は陽爻を以て两陰の中に陷り、上面にまた正應なし——ゆえに酒食に困み、飽食過度してかえって負累と成るの象あり。不過それは九五と同じく陽剛の徳——九五は困の中に在るといえども、一歩を緩めて終究に會合せん。加うるに九二は三・四と互体して離と成り、離は赤色——ゆえに「朱紱(しゅふつ)方に来たる」——君命は将に至らんとす——の象あり。坎卦の中爻は実——誠意の心の中に存するを象徵す——まさに「享祀を用うるに利し」の象。應なくしてまた身に険の中に在れば、此の時の行動は併せて其の時に非ず——ゆえに「征すれば凶」の象あり。然れども朱紱はすでに送り来たれば、まさに誠を竭くして圖報すべし。時は艱難に逢い出行に凶あるといえども、但だ躬を鞠げ瘁(つか)れ尽して、道義の上は併せて過錯なし。
象曰。困于酒食,中有慶也。雖困于酒食,而有剛中之德。終能當大任,以造福於天下也。六三。困于石。據于蒺藜。入于其宮。不見其妻。凶。六三不中不正,上無應與。將比於四而四扼之,四以兌體堅不可動,有困于石之象。乘乎九二之陽而剛銳不可倚,又坎為蒺藜,有據于蒺藜之象。六三居陽而上六居陰,故三以上為妻。互巽為入,互離而此爻變為有目不見。三求配於上,入其宮則是。而上六非正應,有入其宮不見其妻之象。上非所困而困,下非所據而據,身危而家不可保矣。
《小象伝》に「酒食に困むは、中に慶あればなり」という——酒食の困る所と為るも、却って陽剛居中の徳を具備す——終究に能く大任を擔當して天下の為に福を造らん。六三の爻辞にいう。石頭に困せられ、また蒺藜(しつりつ)に靠り、自己の家裏に囘りて、却って妻子を見ず——凶。六三は中にも居らずまた位に当たらず、上面に正應なし。それは九四を親附せんと欲するに、九四は却ってそれを擋住す——九四は兌体に属して堅硬にして撼動すべからず——ゆえに「石に困まる」の象あり。それは下に九二の陽を乗じ、九二は剛銳にして倚靠すべからず、坎また蒺藜と為る——ゆえに「蒺藜に據る」の象あり。六三は陰爻にして陽位に居り、上六は陰爻にして陰位に居る——ゆえに六三は上六を把りて「妻」と作す。互いに巽は入、互いに離は本より目——而して此の爻は一たび変ぜば便ち目ありて見えざると成る。六三は上六に向かいて配を求め、其の宮室に進入するは原より応当なれども、然れども上六は併せて其の正應に非ず——ゆえに「其の宮に入りて其の妻を見ず」の象あり。上面の困を受くべからざるは偏に困を受けに往き、下面の倚靠すべからざるは偏に倚靠しに往く——自身は危殆にして家室もまた保住する能わざらん。
象曰。據于蒺藜,乘剛也。入于其宮,不見其妻,不祥也。三變為大過,有棺槨象。不祥,死期將至也。九四。來徐徐。困于金車。吝。有終。按,《本義》:初六九四正應。九四處位不當,不能濟物。而初六方困於下,又為九二所隔。故其象如此。然邪不勝正,故其占為可吝而必有終也。
《小象伝》に「蒺藜に據るは、剛に乗ずればなり。其の宮に入りて其の妻を見ざるは、祥ならざればなり」という。六三は一たび変ぜば、全卦は大過と成り、大過は棺椁の象あり。いわゆる「祥ならず」は、説くは死期は将に近づかんとす。九四の爻辞にいう。来たること徐徐(じょじょ)たり、金車に困せられ、羞吝あれども、但だ終に結果あり。《本義》の講法に按ず——初六と九四とは本より正應、九四の處する所の位は当たらず、他人を済助するの力なく、而して初六はまさに下面に困み、また九二に隔斷せらる——ゆえに卦象は此の如し。然れども邪は終究に正に勝つ能わず——ゆえに占断は可羞吝なるも必有善終なり。
今按,卦以剛掩於柔為名,則九四不宜困於九二之剛。宜合坎體言之初與四為正應。初受困而待拯於四,四以剛居柔力不能濟,故有來徐徐之象。兌為金。坎為輪。兌之二陽皆為上柔所揜,四復乘坎之險,有困于金車之象。如是誠可吝矣。然上陰五陽有與,故有終也。
如今我の看法は——本卦は陽剛の陰柔に掩蔽せらるるを以て名を得たれば、然らば九四は則ち九二の剛に困せられと説くべからず——当たりに坎体を合して講ずべし。初六と九四とは正應——初六は困を受けて九四の来たりて救うを等待す。九四は陽爻を以て陰位に居りて、力量は済助に足らず——ゆえに「来たること徐徐」——遲遲として趕きて到らざる——の象あり。兌は金、坎は輪。兌体の两箇の陽爻は皆上六の柔の掩する所と為り、九四また坎険の上に凌乗す——ゆえに「金車に困まる」の象あり。此の如くは確かに可羞なり。然れども上六は陰にして九五は陽——九四は上に九五を承けば則ち依託する所有り——ゆえに終究に一箇の結果あらん。
象曰。來徐徐,志在下也。雖不當位,有與也。按,《程傳》以初之正應為與。竊按,剛揜之卦無取於陰之與,宜作上承五陽為有與。有與則亨而有終矣。九五。劓刖。困于赤紱。乃徐有說。利用祭祀。
《小象伝》に「来たること徐徐なるは、志は下に在ればなり。位に当たらざるといえども、与(とも)にする有ればなり」という。按ず——《程伝》は初六此の正應を把りて「与有り」と作す。我私らに以為す——剛は柔に掩わるるの卦は陰爻を取りて援助と為さず——当たりに九四の上に九五の陽を承くるを解してこそ「与有り」なり。依与する所有れば、便ち能く亨通して結果あらん。九五の爻辞にいう。鼻を割き足を斷つが如きの傷損を受け、赤紱(せきふつ)に困せられ、徐々にして喜悦を轉出せん——祭祀を擧行するに宜し。
按,《本義》以上為陰揜,下則乘剛為劓刖。上下既傷,則赤紱無所用為困。竊按,剛揜之卦不宜以乘剛為揜。五居三陽之上,君位。宜合全卦論之。上揜於上六,有劓象。下困於坎初,有刖象。二三四互為離南方赤色。紱,下體之衣。為君而在困中,上下被揜,則雖衣純朱之赤紱,亦無所用矣,有困于赤紱之象。然而剛中說體,誠意可格於鬼神,故有徐有說,利用祭祀之象。
按ず——《本義》は九五は上は陰爻に掩蔽せられ、下はまた剛に乗ず——ゆえに「劓刖(ぎげつ)」と称すと認む。上下皆傷を受ければ、赤紱は便ち用うる所なし——此に因りて困と成る。我私らに以為す——剛は柔に掩わるるの卦は「剛に乗ず」をも掩蔽と算入するに宜からず。九五は三箇の陽爻の上に居る——是れ君位——当たりに全卦を合して論ずべし。上は上六に掩蔽せらるるは、鼻を割くの象。下は下卦の坎の困阻を受くるは、足を斷つの象。二・三・四は互体して離と為り、離は南方に在りて其の色は赤。「紱」は下体を遮蔽するの禮服。身は君主と為りて困の中に陷り、上下皆掩蔽せられれば、然らばたとい純朱の赤紱を穿着するも用に派せず——ゆえに「赤紱に困まる」の象あり。然れども九五は陽剛居中、また兌体喜悦に属し、一片の誠意は以て鬼神を感格するに足る——ゆえに「乃ち徐に説(よろこ)びあり、祭祀を用うるに利し」の象あり。
象曰。劓刖,志未得也。乃徐有說,以中直也。利用祭祀,受福也。志未得,在困中主威不振也。中直,有剛中之德。是非有別,不惑群枉也。受福者至誠格天,則可祈天而永命矣。此困之亨也。
《小象伝》に「劓刖は、志いまだ得ざればなり。乃ち徐に説あるは、中直を以てなり。祭祀を用うるに利しは、福を受ければなり」という。いわゆる志いまだ得ずは、説く、身に困の中に在りて君主の威權は伸張に從う所なし。「中直」は陽剛居中の徳あるを指す——是非は分辨して清楚、衆多の邪曲の論の迷惑する所と為らず。「福を受く」は説く、至誠は以て上天を感動すべく、然らば則ち能く上天を祈求して天命を延長せん——これがまさに困卦の亨通の所在なり。
上六。困于葛藟。于臲卼。曰動悔。有悔。征吉。澤,水草之區。水枯而草木叢襍,故困。三陰爻皆取於草木。坎北方。初,冬將盡。僅存株木。三,秋冬之交。草葉脫而刺存,故象蒺藜。兌上,初秋。蔓草未殺也,故有困于葛藟象。葛藟,在束縛之中。臲卼,不安之狀。曰動悔,言處困之極,則有悔也。有悔征吉之悔,與上不同。上言事必致悔,此言心能自悔也。言能自悔其所為,則不終於困,往而可以得吉,所謂困極而通也。九二征凶,在險中也。上六征吉,困之極出險之外也。
上六の爻辞にいう。葛藤(かっとう)に纏困せられ、搖動不安の地に處り、説いて一たび動けば則ち悔を生ぜんと。能く悔意あれば、前往すれば則ち吉。沢は水草聚生の地——水は枯れれば草木は便ち叢雑糾結す——ゆえに困と為す。三箇の陰爻は皆草木を取りて象と為す。坎は北方に居る。初六は冬将に尽きんとする時——只だ樹株を剩すのみ。六三は秋冬の交——草葉は脫落して尖刺は猶お存す——ゆえに蒺藜を象う。上六は兌に在りて是れ初秋——蔓草はなお霜に殺されず——ゆえに「葛藟(かつるい)に困まる」の象あり。「葛藟」は身に藤蔓の束縛の中に在る、「臲卼(げつぐつ)」は搖動不安の樣子。「動けば悔あるを曰う」は、説く、困の極点に處して、一たび舉動すれば則ち悔恨を招來せん。「悔ありて征すれば吉」の此の「悔」に至っては、上の句と同じからず。上の句の説くは事は必然に悔恨を招致す、ここの説くは内心は能く自ら悔う。能く自己の作為に對して悔悟を生ぜば、終身困頓せざらん——前往して便ち以て吉を得べし。これがすなわちいわゆる困極まりて通ず。九二は「征すれば凶」という——なお険の中に在ればなり。上六は「征すれば吉」という——困の極点に到りてすでに険の外に走出せればなり。
必曰有悔,聖人慾人之悔過也。象曰。困于葛藟,未當也。動悔有悔,吉行也。所行未當,所以受困,動而有悔也。然困悔而能有悔,則行為吉。行可以出困矣。全卦以剛揜為困。唯其剛,故在困而亨為貞,為大人。然剛中則亨,尚口則不信,處困之道盡是矣。六爻初困于株木,三困于石,而二之困酒食則有慶。初三凶而二吉也。四有終。五有說,而上則未當。四五吉而上凶也。蓋陽剛為能亨貞之大人,故陽爻雖困皆吉。陰爻唯上有有悔征吉,則聖人望人悔過之心。困而知悔,亦可學為君子矣。
特に「悔あり」を説くは、聖人は人の能く過を悔うを希望すればなり。《小象伝》に「葛藟に困まるは、いまだ當たらざればなり。動いて悔あり悔あるは、吉行なればなり」という——為す所為すこと當たらず、此に因りて困を受け、一たび動けば則ち悔あり。然れども困に因りて悔いてまた能く真に悔悟せば、然らば則ち行動は便ち是れ吉——行動すれば則ち以て困境を走出すべし。全卦を総看すれば、陽剛の掩わるるを以て困と為す。まさにそれが陽剛なるに因りて、ゆえに處困して能く亨するをこそ「貞」と曰い、こそ「大人」と称するに配す。陽剛は中に居れば則ち亨通し、口舌を逞しくすれば則ち信任せられず——處困の道は尽く此に在り。六爻の中、初六は株木に困み、六三は石に困み、而して九二は酒食に困むも「中に慶あり」——是れ初・三は凶にして二は吉。九四は「終あり」、九五は「説あり」、而して上六は「いまだ當たらず」——是れ四・五は吉にして上六は凶。大概陽剛こそ能く亨し能く貞なるの大人——ゆえに陽爻は困の中に在るも皆吉。陰爻の裏はただ上六に「悔ありて征すれば吉」の一句あり——あれは聖人の人の過を悔うを盼(のぞ)むの苦心——困にして悔を知れば、また以て君子を做して学ぶべし。
井(せい)の卦
井井卦,下巽上坎。巽入於水,汲而上之,井之象。又以卦畫論之。初柔象泉源,三二則象泉,四柔井之中,五剛泉之上出,上柔井口,有全井之象。故名井。井卦次困。按,《序卦》:困乎上者必反下,故受之以井。上升至於困,必反於下。物之最下者莫如井。井所以次困也。全彖以井有常體,猶事有常法,時異而法不異。又當敬以守之,不可垂成而敗也。六爻以三陽為泉,三陰為井。二曰射,始達之泉。三曰渫,已潔之泉。五洌,則可食之泉矣。初泥,方掘之井。四甃,已修之井。上收,則出汲之井矣。
井卦は下卦が「巽」、上卦が「坎」。巽は入——水中に入りて水を汲み上ぐれば、すなわち井の象。さらに卦畫の上より見れば、初六の柔は泉源、九三・九二の两陽は泉水、六四の柔は井の中段、九五の剛は泉水の上涌するの處、上六の柔は井口——合せてまさに一口の完整の井。ゆえに名を取りて「井」と為す。井卦は困卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——上に在りて困を受くるは必定に下面に返る。ゆえに困卦の後に井卦を以て接ぐ。一路上升して困頓に到れば、必然に反りて下るべし。万物の中、最も下位に處するは井に若くはなし——これがすなわち井の困に次ぐ所以の道理。卦辞に就いて見れば、井は固定不變の形体あり——たとえば事に恒常の法度あるがごとく、時代は變じて法度は變ぜず。同時にまた当たりに敬慎の心を以てそれを守住し、功は一簣を虧きて垂成に敗るべからず。六爻に就いて見れば、三箇の陽爻は泉、三箇の陰爻は井。九二は「射」と曰う——剛ぞ透出したるの泉。九三は「渫」と曰う——すでに淘淨したるの泉。九五は「洌」と曰う——すなわち飲用すべきの泉。初六は「泥」——剛ぞ開挖したるの井。六四は「甃」——すでに修砌したるの井。上六は「收」——すなわち汲取すべきの井なり。
又以六爻之序言之,初泥而二谷,井之地,在下未見於用者也。三渫而四甃,在人位,則人事儘可以待用矣。五洌而上收,則得乎天,功用及物,井道大成矣。此全卦六爻之大旨也。
さらに六爻の次序に按じて説く。初六の「泥」、九二の「谷」は、井の地位に属し、下に居りて未だ用を見ず。九三の「渫」、六四の「甃」は、人の地位に属し、人事はすでに做し尽して、任用を等待すべし。九五の「洌」、上六の「收」は、則ち之を天に得たり——功用は万物に及び、井の道は此に至りて大功告成せり。これが全卦六爻の大旨なり。
井。改邑不改井。無喪無得。往來井井。汔至亦未繘井。羸其瓶。凶。巽木入於坎水之上下,上出其水,故謂之井。邑有改而井不改,其體有定也。井卦綜困。在困為兌,在井為巽。巽為市邑。今改為巽而坎卦不改,改邑不改井也。改邑而不改井,是以無得無喪。而往者來者皆井其井,其用有常也。汔,幾也。繘,綆也。巽為繩,繘象。中爻離,瓶象。羸,弱也,墜落之意。井之為用如此,而有事於井者,又當敬以處之。使汲井幾至,未盡綆而敗其瓶則凶矣。時解以言治道,言因革貴得其宜。然一切學問人事,皆可通也。
卦辞にいう。井。城邑は遷改すべく、井は却って遷改する法なし。井水は減らずまた増えず。来たり往たりするの人は皆此の口の井を取用す。水は汲みてほぼ井口を出るに到るも、繩はなお提げ尽さずして、却って瓶を碰破す——凶。巽木は坎水の上下に深入して、水を提出す——ゆえに「井」と曰う。城邑は改むべくして井は改むべからず——是れ井の形体の固定するが故。井卦は困卦の綜卦。困卦に在りては下体は兌、井卦に在りては下体は巽、巽は市邑。今は兌は改りて巽と成るも坎卦は未だ變ぜず——まさに「邑を改めて井を改めず」。邑を改めて井を改めざるを既然とせば、ゆえに「得るなく喪うなし」。而して来たる者去る者皆此の井を取用す——其の功用の常あるを説明す。「汔(きつ)」はほぼ、「繘(いつ)」は井繩。巽は繩——「繘」の象。中爻は互いに離——「瓶」の象。「羸(るい)」は弱——墜落の意を含む。井の功用は既に此の如し——然らば井上の事を辦るの人はさらに敬慎して事に從うべし。假使に水を汲みて将に頂に到らんとするに、繩はなお提げ尽さずして瓶を弄破せば、則ち凶ならん。當時の解說は多く治道を講じるに用い、因革損益は得宜を貴ぶと説く。其の實は一切の學問人事は、皆此より貫通すべし。
彖曰。巽乎水而上水,井。井養而不窮也。以卦象釋卦名義。木桶下汲水乃上,巽乎水而上水也。井取之無禁,用之不竭,養而不窮也。井,改邑不改井,乃以剛中也。汔至亦未繘井,未有功也。羸其瓶,是以凶也。以綜卦言之,兌改為巽而坎之剛中不改。在困居二之中,在井居五之中也。井以得水為功。未得水而羸瓶,井之養之道廢矣,故凶。
《彖伝》に「水に巽(い)りて水を上ぐ、井。井は養いて窮まらざればなり」という。これは卦象を以て卦名の義を釈す。木桶は水中に下りて再び水を提げ上ぐ——すなわち「水に巽りて水を上ぐ」。井水は人人取るべくして禁令なし、之を取りて竭きず——まさに人を養いて窮まりなし。《彖伝》またいう。「井は、邑を改めて井を改めざるは、乃ち剛中を以てなり。汔(きつ)して至るもいまだ繘(いつ)せずば、いまだ功あらざればなり。其の瓶を羸(やぶ)るは、是を以て凶なればなり。」綜卦より説けば、兌は改りて巽と成り、而して坎の陽剛居中は併せて改動せず——困卦に在りては九二は下卦の中に居り、井卦に在りては九五は上卦の中に居る。井は水を取得するを以て功と為す——未だ水を得ずして瓶を弄破せば、井の人を養うの功用は便ち廢棄す——ゆえに凶。
象曰。木上有水。井。君子以勞民勸相。木上有水,程子作取水木器。《本義》疑瓶從瓦,作草木之津潤上行。竊按,古人罇罍亦以木為之,字乃從缶。則瓶亦有木器,從《程傳》為順。勞民者,以君養民。勸相者,使民相養。皆井養之義。
《大象伝》に「木の上に水あり、井。君子以て民を勞(ねぎら)い勸相(かんしょう)す」という。「木の上に水あり」は、程頤は木器を以て水を汲むと解し、《本義》は則ち「瓶」字の瓦に從うを疑心して、ここに草木の津液の上に向かいて運行すと解成す。我私らに考察す——古人の罇・罍(そん、らい)もまた木料を以て制作し、而して字は偏に缶に從う——「瓶」も同じく木製あるを見るべし——仍お《程伝》に依れば講じて順なり。「民を勞う」は国君は己を以て民を養い、「勸相」は百姓をして互相いに養助せしむ——皆井養の義なり。
初六。井泥不食。舊井無禽。井以陽剛為泉,上出為功。初六陰柔在下,泥象,不可食矣。舊井,未渫者。井廢則舊,旁無汲水之餘瀝,禽安得而食之。坎有禽象。今在上卦,禽高飛莫顧,無禽之象。象曰。井泥不食,下也。舊井無禽,時舍也。所處汙下,為時所棄。
初六の爻辞にいう。井の裏は盡く淤泥にして飲用する能わず——廢棄せる旧井は禽鳥すら來たらず。井は陽剛を以て泉水と為し、水を上面に提ぐるを以て功用と為す。初六は陰柔にして最下に居る——まさに淤泥の象——食用する能わず。「旧井」は曽て淘治せられざるの井。井は一たび荒廢すれば便ち旧井と成り、井の旁に汲み剩すの余瀝すらなし——禽鳥は豈に還お飲みに來たらんや。坎は本より禽鳥の象あり——今は坎は上卦に在りて、禽鳥は高く飛びて回顧せず——ゆえに是れ「禽なし」の象。《小象伝》に「井泥食せられざるは、下なればなり。旧井に禽なきは、時の舍(す)てればなり」という——處する所は汚濁卑下、因りて時代の棄置する所と為る。
九二。井谷射鮒。甕敝漏。谷,井傍穴。鮒或作鯽,或去泥鰍,皆水中小魚,喜食泥者。巽為魚,鮒象。三四五互離甕象。九二上無正應,下比初六,有井谷射鮒之象。功不上行,又巽體下斷,有甕弊漏之象。此有德無援,不能濟物者也。象曰。井谷射鮒,無與也。上苟有與則汲而出,成井養之功矣。
九二の爻辞にいう。井の旁の穴口の滲出するの水は只だ小魚に澆及するに足り、汲水の瓮(おう)はまた破漏せり。「谷」は井の旁の穴洞。「鮒(ふ)」は或る人は鯽と写作し、或る人は泥鰍(どじょう)と説く——皆水中の泥を喜食するの小魚。巽は魚——まさに「鮒」の象。三・四・五は互いに離——「瓮」の象。九二は上面に正應なく、只だ初六と相い比す——ゆえに「井谷に鮒を射る」の象あり——水は只だ下に向かいて小魚に滲給す。功用は上行する能わず、加うるに巽体の最下の一畫は中斷す——ゆえに「瓮敝(やぶ)れ漏る」の象あり。これは徳あって人の援引なく、物を済ずる能わざるの人。《小象伝》に「井谷に鮒を射るは、与(とも)にするなければなり」という——上面若し人の接引あれば、水は則ち汲み出されて、井の人を養うの功用もまた成就せん。
九三。井渫不食。為我心惻,可用汲。王明。竝受其福。渫,渫去泥也。渫則清而可食矣。不食者,人不食也。九三以陽居陽,上雖正應,柔而無位。修己全潔,未為時用。二三四互兌為口。三變成震不成兌口,有井渫不食之象。坎為加憂,心惻之象。言如是則雖行道無與之人,亦為之惻然矣。然三之潔清,實有可用汲之泉。特無王眀耳。使王之眀汲之,則井養之功可成,豈獨三之遇哉。澤可大行,天下並受其福矣。五為王位,三四五互為離,王眀之象。五非其應,故有待於王之眀也。
九三の爻辞にいう。井はすでに淘淨せられたるも飲む人なし——我が心の中を惻然たらしむ。此の井は本より汲取すべく、ただ君王の明察さえあれば、衆人は皆同じく其の福を受くべし。「渫(せつ)」は汚泥を淘去す——淘淨せれば水は則ち清澈にして食すべし。「食せず」と説くは、人の來たりて取用するを肯ぜざるなり。九三は陽爻を以て陽位に居り、上面は上六を以て正應と為すといえども、然れども上六は柔弱にして爵位なし。それは自身を修養して潔淨にして瑕なし——然れども未だ時世の用うる所と為らず。二・三・四は互いに兌にして口——九三は一たび変ぜば則ち震と成りて兌口は成らず——ゆえに「井渫まるも食せられず」の象あり。坎は憂を加う——まさに「心惻(そく)」の象。意思は此の如く一来すれば、則ちたとい路を過ぎて彼と毫も相干らざるの行道の人も、彼の為に難過せんとす。然れども九三の潔清は、實實在在に是れ一泓の汲取すべきの泉——只だ一位の明察の君王を缺くのみ。假使に英明の君來たりて彼を汲取せば、井養の功は便ち成就すべく、然らば豈に九三一人の際遇に止まらんや——恩澤は以て大行すべく、天下は皆一同に福を受けん。九五は王位、三・四・五は互体して離と為る——まさに「王明」の象。九五は併せて九三の正應に非ず——ゆえに九三は只だ君王の明察に寄望するを得るのみ。
象曰。井渫不食,行惻也。求王明,受福也。行惻,行道之人皆為心惻。求王明,非枉道乾進。孔孟之轍環是也。不求正應而求王眀,易之所以時也。六四。井甃。無咎。以六居四,陰柔非泉。然所居得正。雖未有及物之功,而能自修治者。故有井甃之象,亦可以無咎矣。
《小象伝》に「井渫まるも食せられざるは、行く者惻(うれ)えればなり。王の明を求むるは、福を受ければなり」という。「行惻」は路上の行走する人は皆彼の為に難過す。「王の明を求む」は併せて正道を屈枉して進用を求むるに非ず——孔子・孟子の當年に車馬は列国に周流せしは、まさに此の意思。彼の正應を求めずして君王の明察を求むるは、これがまさに《周易》の因時制宜を貴ぶの處。六四の爻辞にいう。磚石を以て井壁を修砌す——過錯なし。六を以て四に居れば、陰柔は併せて泉に非ず。然れども其の居る所は正を得——未だ物に及ぶの功あらざるといえども、能く自我を修治す——ゆえに「井甃(しゅう)」の象あり、また以て過錯なきを得べし。
象曰。井甃無咎,修井也。初六不正在下,故為泥。六四正而在上,故為甃。甃所以禦泥達泉,閒邪存誠之功。故曰修井。三之渫,修於內以致潔。四之甃,修於外以禦汙。內外交修,濟物及人之本也。又四大臣近君,修井以儲九五之寒泉。能盡臣下之職,可因君以成井養之功矣。
《小象伝》に「井甃咎なしは、井を修めればなり」という。初六は正ならずして下に在る——ゆえに泥と為る。六四は正を得て上に在る——ゆえに甃と為る。井を砌るは淤泥を擋住して泉水をして通達せしむる為——人防いで邪念を閑(ふせ)ぎ誠意を存養するの功夫に相當す——ゆえに「井を修む」と曰う。九三の「渫」は、内に修めて以て潔淨を求む。六四の「甃」は、外に修めて以て汚濁を防ぐ——内外交わり相い修治す——まさに物を濟し人に及ぼすの根本。さらに説く、六四は身は大臣にして君主を親近す——井を修好して以て九五彼の一泓の寒泉を貯蓄し、能く人臣の職を尽せば、則ち以て君主を憑借して井養の功を成就すべし。
九五。井冽。寒泉食。三居甃下,未汲之泉也。五居甃上,已汲之泉也。陽剛中正,功及於物,有井冽寒泉食之象。冽,潔也。渫,潔之也。渫已可食,至此乃食。蓋渫與洌性也,食不食命也。未有渫而不冽者。至此則井養之德已具,井養之功可行矣。象曰。寒泉之食,中正也。居中得正,故六爻唯五曰泉。雖未收上出之功,井之德已盡善矣。
九五の爻辞にいう。井水は清洌にして、寒泉は飲用に供すべし。九三は井甃の下に在りて是れ未だ汲み出さざるの泉。九五は井甃の上に在りて是れすでに汲み出したるの泉。九五は陽剛中正、功用は万物に及ぶ——ゆえに「井洌にして寒泉食む」の象あり。「洌」は潔淨、「渫」はそれをして潔淨ならしむ。淘淨せれば本よりすでに食すべし——此に到りてこそ真に食用せらる。原來「渫」と「洌」とは自身の本性に属し、「食するか食せざるか」は則ち遇合の命運に属す——曽て淘淨して清洌ならざるはなし。此の地步に到れば、井養の徳はすでに完備し、井養の功用は施行すべし。《小象伝》に「寒泉の食は、中正なればなり」という——九五は中に居りて正を得——ゆえに六爻の中ただそれのみ「泉」と称す。未だ井口を提出するの功效を收到せざるといえども、井の徳性はすでに尽善せり。
上六。井收勿幕。有孚元吉。收,成也,即小象之大成也。幕,蔽覆也,蓋井之具也。有孚者,其出有源而用不窮也。上六雖非陽剛,而井之功用在上。坎口不揜,故有井收勿幕之象。濟人澤物,元吉可知。象曰。元吉在上,大成也。他卦至終則變,井至上功乃大成也。按,水之大者不一,而聖人畫卦有取於井者。凡水皆水之下流,故他卦言水,皆以險言之。獨井泉在冬而溫,乃天一之真性也。是以古者建國,必先卜井泉之便而居之。井之為用大矣。時解專就治道養民言之。然養德民治己治世,皆可觀象於井。隨其所處,以占其吉凶也。
上六の爻辞にいう。井の功は成を告げて加えて覆い蓋せず、其の中に自ら誠信あり——大吉。「收」は完成——すなわち《小象伝》のいう所の「大成」。「幕」は遮蓋——井を蓋うの器具。「孚あり」は説く、泉水は源あるに出でて取用し竭きず。上六は陽剛に非ざるといえども、然れども井の功用はまさに最上に在り。坎の口は掩蔽せられず——ゆえに「井收めて幕(おお)う勿れ」の象あり。既に能く人を濟し物を潤せば、大吉は自ら言を俟たず。《小象伝》に「元吉は上に在るは、大成なればなり」という——別の卦は終点に到れば則ち變ずべし、井卦は上爻に到りて功用こそ大成す。按ず——水面の大なる者は種類は一ならざるに、而して聖人の卦を畫くは独り井に取る。凡そ水は皆下に向かいて流る——ゆえに別の卦の水に説き及ぶは多く「険」を以て講ず。独り井泉は冬天に於いてかえって温煖——あれは天一の水を生ずるの本真の性。ゆえに古人の都邑を建立するは、一定に先ず井泉の便利なるか否かを卜問して然る後に居を定む。井の功用は真に大なるかな。當時の解說は只だ治道養民に就きて論を立つ。其の實は徳を養い民を養い、己を修め世を治むるも、皆井に於いて象を觀るべく、各人所處の地位に隨いて吉凶を斷定すべし。
革(かく)の卦
革革卦,下離上兌。火燃則水涸,水決則火滅。又二女同居,志不相得。有變革之義,故為革。革卦次井。按,《序卦》:井道不可不革,故受之於革。井之為物久則汙,易之則潔。不可不革,革所以次井也。全彖以改革之事,不信於初而信於後,其占可以大亨,而必利於正固,見革之不可輕也。六爻下三爻有不輕於革之意。上三爻則革之善者。而上革道已成,又不可過有所更。此全卦六爻之大畧也。
革卦は下卦が「離」、上卦が「兌」。火は燃え起これば水は則ち乾涸し、水は衝き下れば火は則ち熄滅す。また是れ两箇の女子が同一處に同住して、心志は互いに相投ぜず——變革の義を含む。ゆえに「革」と曰う。革卦は井卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——井道は淘治變革を加えざるべからず。ゆえに井卦の後に革卦を以て接ぐ。井此の物は日々久しければ則ち汚濁し、換えてこそ潔淨ならん——革せざるべからず。これがすなわち革の井に次ぐ所以の道理。卦辞に就いて見れば、改革此の件事は、起初には人は信ぜず、事の成りて後にこそ信ず。占断は以て大いに亨通すべく、而して必ず正固に利せざるべからず——變革は軽易に發動すべきに非ざるを見るべし。六爻に就いて見れば、下の三爻は軽く變革を言わざるの意思を含み、上の三爻は則ち變革に善き者。而して上六は變革の道はすでに成れり——また多く更張を加うべからず。これが全卦六爻の大略なり。
革。巳日乃孚,元亨利貞,悔亡。革卦澤上火下,火燃水乾,水決火滅。又中少二女,合為一卦。少上中下,志不相得。故卦為革。日為離象。日入澤,有巳日象。民可與樂成,難於慮始。故不信於方革之時,而信於已革之日。內有文眀之德,外有和說之氣,占可大亨。然而改革之事,非可妄舉[文瀾本“舉”作“取”]。必得其正,則所革皆當而悔可亡。若不貞,則不孚而有悔矣。
卦辞にいう。革、日に到りて人は乃ち信ず、大いに亨通して正を守るに利し、悔恨は消失す。革卦は沢は上に在り火は下に在り——火は燃えれば則ち水は乾き、水は決すれば則ち火は滅す。また是れ中女(離)と少女(兌)と合して一卦を成し、少女は上に在り中女は下に在りて、心志は互いに相投ぜず——ゆえに卦の名は「革」。「日」は離の象——日は沢の中に落ち入れば、便ち「巳日(しじつ)」の象あり。百姓は彼らと同じく成果を享受すべく、然れども彼らと開端を謀劃すること難し——ゆえに剛ぞ變革せんとするの時に信ずるを肯ぜず、變革の既成の日に到りてこそ信ず。内卦は文明の徳あり、外卦は和悦の気あり——占断は以て大亨すべし。然れども改革の事は軽率に妄擧する能わず(文瀾閣本は「擧」を「取」と作す)。必ず做して端正を得てこそ、改むる所こそ件件恰當にして悔恨は消すべし。倘若し正を守らざれば、則ち人を取信しえずして悔恨を留下せん。
彖曰。革,水火相息。二女同居,其志不相得,曰革。以卦象釋卦名義,與睽相似。相違背為睽,相滅息為革。二女不同行,離而去之而已。不相得則相剋矣,故為革。
《彖伝》に「革は、水火相い息(や)む。二女同居すれども、其の志相い得ざれば、革と曰う」という。これは卦象を以て卦名の義を釈す——睽卦と相似す。互いに違背するを「睽」と曰い、互いに消滅するを「革」と曰う。睽卦は两女は路を同じくせず、各自に離去するのみ。此の卦は心志投ぜざれば便ち進みて相克す——ゆえに「革」と為る。
巳日乃孚,革而信也。文明以說,大亨以正。革而當,其悔乃亡。眀則燭事理,能見於已革之先。說則順人情,能孚於已革之後。大亨者。除弊興利,一事之大亨。伐暴救民,興世之大亨。正者,順天理合人心也。又亨以正,則革之當。革當而悔乃亡,見革之不可輕也。
《彖伝》に「巳日乃ち孚(まこと)あるは、革して信ぜられればなり。文明にして以て説(よろこ)び、大亨にして以て正なり。革して當たれば、其の悔乃ち亡ぶ」という。「明」は能く事理を照見し、未だ革せざるの先に於いて看て清楚す。「悦」は能く人情に順應し、すでに革したるの後に於いて衆に取信すべし。いわゆる大亨——弊を除き利を興すは、一件の事情の上の大亨。暴君を討伐し百姓を拯救するは、一箇の時代の大亨。いわゆる「正」は、上は天理に順い下は人心に合す。また必ず亨通して正に合してこそ、變革は恰當と算し、變革恰當にして後に悔恨こそ消失す——變革は軽率すべからざるを見るべし。
天地革而四時成。湯武革命,順乎天而應乎人。革之時大矣哉。天地帝王之革,皆視其時。先時後時[文瀾本“先時後時”作“後時先時”],皆不可也。象曰。澤中有火。革。君子以治曆明時。四時之變,革之大者。歷之因時修改,革之義也。
《彖伝》に「天地革して四時成る。湯武は命を革む、天に順いて人に應ず。革の時は大なるかな」という。天地の變革と帝王の革命とは、皆時機を看准すべし——時機の先に搶い、時機の後に落つるも(文瀾閣本は「後時先時」と作す)、同じく行き通る能わず。《大象伝》に「沢の中に火あり、革。君子以て曆を治めて時を明らかにす」という。四時の推移は、變革の中の最大なる者。曆法は天時に隨いて修訂を加う——まさに「革」の意思に合す。
初九。鞏用黃牛之革。黃,中色。牛,順物。離得坤之中,皆有牛象。雖當革時而居初位卑,無可革之權。無應,無共革之人。未可有為,當堅固以守,不可輕有所革。如用牛皮以束物者。故其鞏固,有用黃牛之革之象。當以中順自固也。初變為艮止,故有此象。象曰。鞏用黃牛,不可以有為也。時位不可。
初九の爻辞にいう。黄牛の皮を以て牢く捆縛す。黄は中に居るの色、牛は柔順の物。離卦は坤の中畫を得る——ゆえに皆牛の象あり。初九は正しく變革の時に当たるといえども、却って最下に居りて位は卑く、變革の權柄なし。また正應なく、則ち共同に事を擧ぐるの人なし。此の時は有所作為すべからず——当たりに堅固に自守して軽く更改を言うべからず——たとえば牛皮を以て物を捆牢するが如し。ゆえに「黄牛の革を用う」の堅固の象あり——当たりに中道柔順を以て自固すべし。初九は一たび変ぜば艮と為り、艮は止——ゆえに此の象あり。《小象伝》に「黄牛を以て鞏(かた)むは、以て為す有るべからざればなり」という——是れ時機と位置とは皆容さざればなり。
六二。巳日乃革之。征吉。無咎。六二柔順中正,文眀之主。有應於上,可以革矣。猶必巳日乃革,則征吉而無咎。彖言巳日,已革之日也。爻言巳日,日已至然後革也。蓋德與位皆可革,猶俟其時也。象曰。巳日革之,行有嘉也。行,將然之辭。革必俟時,將有嘉美。
六二の爻辞にいう。日に到りてこそ手を動かして變革し、前往すれば則ち吉、過錯なし。六二は柔順中正——是れ文明の卦の主爻。上面にまた九五の相應あり——本より以て變革すべし。然れども仍お必ず「巳日」まで待ちてこそ革すべく、然の如く前往してこそ吉にして咎なし。卦辞の説く所の「巳日」は、變革すでに成りたるの日を指す。爻辞の説く所の「巳日」は、時日すでに到りて然る後に手を動かすを指す。徳と位とは皆革すべきの條件を具備するも、仍お時機を等待せざるべからざるを見るべし。《小象伝》に「巳日に之を革すは、行けば嘉あればなり」という——「行」は将に此の如くならんとするの語気——變革は必ず時機を待ちて、将に美好の結果あらん。
九三。征凶貞厲。革言三就。有孚。應兌互乾為口為言,離居三,革言三就之象。中實,有孚之象。九三過剛不中,居離之極。自恃剛眀,躁於革[文瀾本“革”作“進”]者。故戒以征則凶,雖貞亦厲也。然時當可革,爻位居三。審量所革再三,已有成說,亦可見信於人,而在所當革矣。象曰。革言三就,又何之矣。至於再,至於三,無所待矣。
九三の爻辞にいう。貿然として前往すれば則ち凶、正を守るも危厲なり。變革の議論はすでに三度論定せり——以て人に取信すべし。九三の應ずる所の上六は兌に属しまた互いに乾——兌は口、乾は言、而して離は恰好に第三爻に居る——ゆえに「革の言三たび就(つ)く」の象あり。離卦の中爻は実——「孚あり」の象。九三は剛強に過ぎて中に居らず、離卦の頂端に處し、自ら其の剛明を恃み、急いで變を求む(文瀾閣本は「革」を「進」と作す)——ゆえにそれを告誡して説く、貿然として前往すれば則ち凶、たとい正を守るも危厲あり、と。然れども時勢は確かに革すべきの時に到り、爻位また第三に居る——變革せんと要する所の事を反覆に審度して三次し、すでに定論を形成せり——また能く人に取信して、變革すべきに属す。《小象伝》に「革の言三たび就くは、また何れに之かん」という——第二次・第三次に到れば、則ち再び待つべきはなし。
九四。悔亡。有孚。改命吉。以陽居陰,有悔之象。然卦已過中。水火之際,乃革之時。剛柔不偏,又革之用。故有悔亡之象。然必有孚則改命而吉矣。下三爻猶不輕革,至此則已革而改為新矣。三議革而後孚,四有孚而始改,革之序也。象曰。改命之吉,信志也。謂上下信九四之志也。
九四の爻辞にいう。悔恨消失し、誠信あり、旧命を改易せば則ち吉。九四は陽爻を以て陰位に居る——本より悔恨の象あり。然れども全卦はすでに中位を過ぎ、まさに水火交接の際に当たり、恰好に是れ變革の時。剛柔偏らず、またまさに變革の須うる所の功用——ゆえに「悔亡ぶ」の象あり。不過必ず先ず誠信あらんを要して、然る後に旧命を改易してこそ吉。下面の三爻は皆なお軽易に變革するを肯ぜず——此に到りてこそ真に故を革めて新たに更す。九三は議定の後に人に取信し、九四は先ず誠信ありて後に手を動かして更改す——これがすなわち變革の先後の次第。《小象伝》に「命を改むるの吉は、志を信ぜしめればなり」という——説くは上上下下は皆九四の志向を信服す。
九五。大人虎變。未占有孚。變,希革,毛毨。毛落更生,潤澤鮮好[文瀾本“好”作“明”]也。乾以純陽為龍,以剛健亦為虎。五互乾有虎象。九五陽剛中正,當革之時而居尊位。湯武之順天應人者也,故有大人虎變之象。有孚在未占之先,則致此者有素矣。象曰。大人虎變,其文炳也。炳者,如火日之光眀也,改正朔,易服色,制禮作樂皆是也。即彖所謂文眀以說也。
九五の爻辞にいう。大人は虎の如く焕然として變化す——占問するに及ばずしてすでに誠信あり。いわゆる「變」は、すなわち《尚書・堯典》の鳥獣に講ずる「希革」「毛毨(せん)」の意——旧毛は脫落し新毛は更生し、潤沢にして鮮好なり(文瀾閣本は「好」を「明」と作す)。乾は純陽を以て龍と為り、剛健を以てまた虎と為るべし。九五の在る所の互体は乾と為る——ゆえに虎の象あり。九五は陽剛中正、まさに變革の時に当たりて尊位に居る——まさに商湯・周武の如き天に順い人に應ずるの人物——ゆえに「大人虎變」の象あり。誠信は未だ占せざるの先に便ちすでに具備す——此の一步に走到するは平日積累の結果なるを見るべし。《小象伝》に「大人虎變は、其の文炳(あきらか)なればなり」という——「炳」は火光日光の如く明亮なるなり——正朔を改定し服色を更換し禮を制し樂を作すは皆此に属す——すなわち《彖伝》の説く所の「文明にして以て説ぶ」。
上六。君子豹變。小人革面。征凶。居貞吉。虎文疏而著,故曰炳。豹文密而理,故曰蔚。九五皆陽,大人虎變之象。上六皆陰,君子豹變之象。兌說見於上,有革面象。君子小人,以位則有上下,以德則有邪正。上六處革之極,革道已成。君子變革其外而有文,小人變革其外而順君,復何所求哉。若他有所往,則梗化之民凶矣。況上六之才亦不可有為,惟有居貞靜守則吉耳。蓋革非得已之事。初未可革,當中順以自守。上既已革,當靜正以自居。蓋九五湯武之事,上六則伊呂之事也。
上六の爻辞にいう。君子は豹の如く變化し、小人もまた面目を改換す。此の時にさらに往く所有れば則ち凶、安居して正を守れば則ち吉。虎の花紋は疏朗にして顯著——ゆえに「炳」と曰う。豹の花紋は細密にして條理あり——ゆえに「蔚(い)」と曰う。九五は陽爻にして陽位に居り、純乎たる陽剛——是れ「大人虎變」の象。上六は陰爻にして陰位に居り、純乎たる陰柔——是れ「君子豹變」の象。兌の喜悦は上に顯現せば、便ち「面を革む」の象あり。君子と小人とは、地位に就いていえば上下の別あり、徳行に就いていえば邪正の分あり。上六は變革の極点に處り、變革の道はすでに完成せり。君子は外在をも文采斐然たらしめ、小人もまた面目を改換して君上に順從す——さらに何を求めんや。倘若し別に往く所有らば、教化を梗阻するの頑民は則ち凶に遭わん。況んや上六の才質は本より為す有るに足らず——ただ安居して正を守り靜靜に自處してこそ吉。變革は本より已むを得ざるの事——初九はなお革すべきの時に到らず、当たりに中順を以て自守すべし。上六は變革すでに成れば、当たりに靜正を以て自居すべし。九五の做すは商湯・周武の事、上六の做すは則ち伊尹・呂尚の如き輔佐して成を守るの事なり。
象曰。君子豹變,其文蔚也。小人革面,順以從君也。蔚者,隱然有文之謂。上六柔故也。全卦言變革之事,皆不得已而為之。初用黃牛,不敢輕於未革之先也。上言居貞,不敢擾於已革之後也。二之征吉,必俟巳日。三已三就,猶戒征凶。當革之時,必孚以信乎人心,當以合乎天理。乃可言四之改命,為五之虎變也。革豈易言哉。
《小象伝》に「君子豹變は、其の文蔚(い)なればなり。小人は面を革むは、順にして君に從えばなり」という。「蔚」は隱約含蓄して文采あり——上六の陰柔に属するが緑故なり。全卦を総看して講ずる所の變革は、皆已むを得ずしてこそ做す者。初九の「黄牛を用う」は、未だ革せざるの先に於いて軽擧妄動するを敢えてせず。上六の「貞に居る」は、すでに革したるの後に於いてさらに攪擾しに往くを敢えてせず。六二の「征すれば吉」は、必ず「巳日」に到るを待たんことを要す。九三はすでに「三たび就く」も、なおそれを告誡して「征すれば凶」。まさに革すべきの時に当たりては、必ず誠信を以て人心に取信し、必ず上に天理に合して、然る後にこそ九四の「命を改む」、九五の「虎變」を談ずべし。變革は豈に軽易に説くべきのものならんや。
鼎(てい)の卦
鼎鼎卦,下巽上離。取其象,亦取其義。取象有二。以全體言之。下植為足,中實為腹,對峙於上為耳,橫亙於上為鉉。以二體言之。中虛在上,下有足以承之。皆鼎象也。取義則以木從火,烹飪之義。故為鼎。鼎卦次革。按,《序卦》:革物者莫若鼎,故受之以鼎。水火不可同處,能使相合為用而不相害。易堅為柔,變生為熟,能革物也。鼎所以次革也。
鼎卦は下卦が「巽」、上卦が「離」。名を取るは既に其の形象を取り、また其の義理を取る。取象に两種の講法あり。六畫全体に就いていえば、最下の一畫は竪立して鼎足に象り、中間の三畫は充実して鼎腹に象り、上面の两旁對峙するは鼎耳に象り、最上の横貫するは鼎を擧ぐるの鉉(けん)に象る。上下二体に就いていえば、上体は中間虚空にして、下面に足のそれを承托するあり——皆鼎の形象。取義は則ち木を以て火に入る——烹飪(ほうにん)の義を含む。ゆえに「鼎」と曰う。鼎卦は革卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——事物を變革するは鼎よりも徹底するはなし。ゆえに革卦の後に鼎卦を以て接ぐ。水と火とは本より共處する能わざるに、鼎は却って二者をして相合して用を為し相い妨害せざらしむ——堅硬なるを化して柔軟と為し、生なるを變じて熟と為す——まさに事物を變革す。これがすなわち鼎の革に次ぐ所以の道理。
全彖以內巽順而外文明,柔進居尊,得中應剛,可以大亨。而六爻之義則以上出為功。初幸其出否。二幸其遠仇。三不知六五之君則為失義。四不知應於初六之小人則為失信。唯五之中實,與上剛柔之節,有吉占焉。蓋井與鼎,皆以上出為功故也。此全卦六爻之大畧也。
卦辞に就いて見れば。内卦の巽は柔順、外卦の離は文明。柔爻は上進して尊位に居り、中に居りて下に剛爻に應ず——此に因りて以て大いに亨通すべし。而して六爻の義理は則ち鼎中の物を取出して供用するを以て功と為す。初六の慶すべきは旧汚を倒出する能く。九二の慶すべきは仇敵を遠離する能く。九三は六五の君に歸向することを知らず——則ち君臣の義を失せりと算す。九四は下に初六此の小人に應ずべからず——あれは便ち受托の信を失せり。ただ六五の中虚にして中を以て実と為し、上九の剛柔調節得宜なるのみ、こそ吉の占断あらん。原因は井卦と鼎卦とは皆「上に出ず」を以て功と為すに在り。これが全卦六爻の大略なり。
鼎。元吉、亨。吉字衍文。彖曰。鼎、象也。以木巽火、亨飪也。聖人亨以享上帝、而大亨以養聖賢。象,卦畫取鼎之象也。亨飪,以二體言鼎之用也。亨飪不過祭祀賓客。祭之大者莫過於上帝,賓之大者莫過於聖賢。享帝貴誠,用犢而已,故言亨。聖賢備饔飱牢醴之盛,故言大亨。此以卦體釋卦名義也。
卦辞にいう。鼎、元吉、亨。其の中の「吉」字は多き出でたるの衍文。《彖伝》にいう。「鼎とは、象なり。木を以て火に巽(い)るは、亨飪(ほうにん)なり。聖人は亨して以て上帝に享し、而して大亨して以て聖賢を養う。」いわゆる「象」は、卦畫が鼎の形象を取れる。いわゆる「亨飪」(すなわち烹飪)は、上下二体に就きて鼎の功用を講ず。烹飪は外に祭祀と待客とに用うるに出でず。祭祀の大は上帝を祭るに若くはなく、待客の大は聖賢を養うに若くはなし。天を祭るは誠敬を貴び、一頭の牛犢を用うもまた足れり——ゆえに只だ「亨」という。聖賢を供養するは則ち饔飱牢醴の豊盛の禮を備齊せんを要す——ゆえに「大亨」という。これは卦体を以て卦名の義を釈す。
巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。以卦象言,則內巽而五為鼎耳、離為目。此心順巽[文瀾本“順巽”作“巽順”則入乎義理、耳目聰明則審乎事幾,有其德矣。以卦綜言,則革下卦之離二,上行居五,有其位矣。以卦體言,則五有虛中之君,而二應以剛中之臣,有其輔矣。明良道合,治化大成,宜占為元亨也。柔進上行得中應剛與睽同。而占不同於睽之小事,反同於大有之元亨,其時與德之異也。
《彖伝》に「巽にして耳目聰明、柔進みて上行し、中を得て剛に應ず、是を以て元亨」という。卦象より説く。内卦は巽と為り、六五は鼎耳、離は目——心地は柔順謙遜なれば(文瀾閣本は「順巽」を「巽順」と作す)則ち能く義理に深入し、耳目聰明なれば則ち能く事機を審察す——これは其の徳あるなり。綜卦より説く。革卦の下体離の第二爻は上行して第五位に居る——これは其の位あるなり。卦体より説く。六五は虚中にして賢を納るるの君、九二は剛中の臣を以てそれと相い應ず——これは其の輔あるなり。君は明にして臣は良、其の道相合して治化は大成す——占断は自然に是れ「元亨」。「柔進上行、中を得て剛に應ず」の説法は睽卦と相同じ——然れども占断は睽卦の如く只だ小事に宜しきに似ず、かえって大有卦の「元亨」に同じ——これは時勢と徳性と別あるが故なり。
象曰。木上有火。鼎。君子以正位凝命。離為聽政之位。巽為命令。天之命,亦命也。恭已以正其位,而凝因[文瀾本“因”作“固”其所受於天之命。蓋鼎為重器,故有正位凝命之象。
《大象伝》に「木の上に火あり、鼎。君子以て位を正して命を凝らす」という。離は政を聽くの位、巽は命令。上天の付与もまた同じく一種の命。君子は恭敬して自持して以て其の位を端正し、從而して自己の天より受くる所の使命を凝聚固守す(文瀾閣本は「固」を作す)。鼎は国家の重器——ゆえに「位を正して命を凝らす」の象あり。
初六。鼎顚趾、利出否、得妾以其子、無咎。初居鼎之下,趾象。上應九四,有顚趾之象。然當卦初,鼎未有實。舊有否惡之積,因顛而出去之,有利出否之象。六以陰居初不正,有妾之象。趾不宜顛而利以出否,妾得不足貴而以得子。蓋因敗以為功,因賤以致貴也。故占可無咎。
初六の爻辞にいう。鼎足は翻り倒れて、恰好に汚穢を倒出す。猶お妾を納るるも彼女に因りて兒子を生ぜしむるが如し——過錯なし。初六は鼎の最下に在りて是れ鼎足の象。それは上に九四に應じ、牽引せられて上がる——ゆえに「趾を顚(くつが)す」の象あり。不過まさに一卦の初に当たりて、鼎の中はなお物を盛らず——旧日積存の汚穢は恰好に傾倒を借りて清除し去るべし——ゆえに「否(あし)きを出すに利し」の象あり。六は陰爻を以て初位に居りて併せて正に当たらず——「妾」の象あり。鼎足は本より翻倒すべからざるも、却って翻倒に因りて汚を出すに利し。妾は本より貴ぶに足らざるも、却って子を生ずるに因りて貴と変ず——皆是れ失敗に因りて成功し、卑賤に因りて尊を致す。ゆえに占断は以て過錯なきを得べし。
象曰。鼎顚趾、未悖也。利出否,以從貴也。顚趾悖矣。可以出否,則未悖。從貴,去鼎中否之可賤,以從珍羞之可貴者也。九二。鼎有實。我仇有疾。不我能即。吉。以剛居中,有實之象。我仇,謂初。陰陽相求而不相得,所謂怨耦曰仇也。二以剛中自守,初雖近而顛趾,不能就之。有我仇有疾,不我能即之象,故吉。
《小象伝》に「鼎は趾を顚すは、いまだ悖(もと)らざればなり。否きを出すに利しは、以て貴に從えばなり」という。鼎足の翻倒は本より悖理なれども、然れども此を借りて汚穢を倒出せば、則ち悖理と算せず。「貴に從う」は鼎中の可鄙なる汚穢を去りて、珍饈美味此の等の可貴の物を迎接せんと好し。九二の爻辞にいう。鼎中に実物を盛る。我が仇(あだ)は疾(やまい)ありて我に近づく能わず——吉。九二は陽剛を以て中に居る——是れ鼎中に実あるの象。「我が仇」は初六を指す——陰陽は本より相い求むるも彼此投ぜず——すなわち《左伝》のいわゆる「怨耦(えんぐう)を仇と曰う」。九二は剛中を以て自守し、初六は近いといえども、却って鼎足はすでに顚れたるに因りてそれに就近するに法なし——ゆえに「我が仇疾あり、我を能く即(ちかづ)けざれ」の象あり——此に因りて吉を得たり。
象曰。鼎有實、慎所之也。我仇有疾,終無尤也。雖有實而不愼所之,則為仇所即而有尤矣。不暱於初,上從六五之正應,所以有吉無尤。九三。鼎耳革。其行塞。雉膏不食。方雨虧悔。終吉。革,變革也。九三以陽居鼎腹之中,本有美實者也。然與五不相應。五為鼎耳。鼎耳方革,不可舉移,故有鼎耳革,其行塞之象。上卦離為雉。
《小象伝》に「鼎に実あれば、之く所を慎(つつし)めばなり。我が仇疾ありは、終に尤(とが)なければなり」という——鼎中に実物あるといえども、若し自己の去向を慎重せざれば、則ち仇敵に貼り上げられて過失を招致せん。九二は初六を親昵せず、上に向かいて六五此の正應に追隨す——ゆえに吉ありて過失なし。九三の爻辞にいう。鼎耳は變形し、行動は受阻し、肥美の野鶏肉は喫上する能わず。陰陽和洽して雨を降らすに到るを待ちて、悔恨は便ち減少し、終究に吉を得たり。「革」はすなわち變革。九三は陽爻を以て鼎腹の中に居る——本より美味を盛れる。然れどもそれは六五と併せて相應せず。六五は鼎耳——鼎耳はまさに變形して擧げて移動する能わず——ゆえに「鼎耳革まり、其の行くこと塞がる」の象あり。上卦の離は雉。
三變為坎為膏。互兌三變則兌口不成。承上卦文明之腴而不見應於五。有雉膏不為人所食之象。又變坎為雨。陰陽和剛雨。三以陽居陽為得其正。然以正自守而五將求之,如陰陽之和而雨,悔可虧而終得吉矣。象曰。鼎耳革,失其義也。仕以行義。三不應五而應上,失君臣之義。
九三は一たび変ぜば坎と為り、坎は膏(あぶら)。本より互いに兌あり——三爻は一たび変ぜば則ち兌口は成らず。それは上卦文明の膏腴を承接するも、六五の響應を得る能わず——ゆえに「雉膏人の食む所と為らず」の象あり。また坎に変ずれば則ち雨と為る——陰陽調和せば便ち降雨す(源文の「剛」字は当たりに「則」字の訛)。九三は陽爻を以て陽位に居る——是れ其の正を得たり。能く正を以て自守せば、六五は終に将にそれを求め來たらん——たとえば陰陽和洽して雨と成るが如し——悔恨は以て減損して終に吉を得べし。《小象伝》に「鼎耳革まるは、其の義を失えばなり」という——出仕は義を行うが為なり。九三は六五に應ぜずして去りて上九に應ずれば、便ち君臣の義を失せり。
九四。鼎折足、覆公餗,其形渥。凶。九四居上任重,有實之鼎也。而下應初六之陰,大臣信任匪人,敗壞國事,傾覆天祿,享上帝養聖賢之用皆廢矣。初在下,足象。互兌為毀折,折象。四變為震,震動顚覆,有折足而覆公餗之象。形渥作刑,謂重刑也。《周禮》所謂不於市而以適甸師氏者也。不勝任而被重刑也。初否未出,顛之,猶可舍舊而求新。四鼎有實,折之,則鼎毀而用廢。吉凶所以異也。
九四の爻辞にいう。鼎足は折断し、王公の美食を傾覆し、自身は污渥に沾滿す——凶。九四は上位に居りて重任を擔う——是れ一箇の実物を装滿したるの鼎。却って下に初六此の陰爻に應ず——大臣が信ずべからざるの人を信任するに等しく、国事を敗壞し、天賜の禄位を傾覆し、上帝を祭り聖賢を養うの功用を全て廢棄せり。初六は下に在りて是れ足の象。互体は兌と為り、兌は毀折——「折」の象。九四は一たび変ぜば震と為り、震動して傾覆す——ゆえに「足を折りて公餗(こうそく)を覆す」の象あり。「形渥(けいあく)」は当たりに「刑剭(けいおく)」と讀むべし——重刑を指す。すなわち《周禮》の説く所の市曹に於いて刑を行わずして送りて甸師氏の處に處置するの彼の一種——意思は其の任に勝たずして重刑を遭受す。初六の時は鼎中の汚穢はなお倒出せず——それを顚り过来れば、なお以て旧を舍てて新を圖るべし。九四の時は鼎中はすでに実物あり——一たび折れれば則ち鼎は毀れて功用は尽く廢す——吉凶の分別は則ち此に在り。
象曰。覆公餗,信如何也。才不勝任,無以自信,亦失君上信任之意矣。六五。鼎黃耳。金鉉。利貞。五有耳象。黃中色。五居中,有黃耳象。金,剛物。鉉,貫耳以舉鼎者。五變乾,金鉉象。五以柔中下應九二之剛中,有黃耳金鉉之象。六五非正,故勉以利貞。蓋以柔中之君下用剛中之臣,即彖所謂得中而應乎剛者也。或以鉉為上九,則與玉鉉重複,且失象意。
《小象伝》に「公餗を覆すは、如何せん信ぜられんや」という——才力は其の任に勝たず、自己もまた自ら信ずるに從う所なし、また君上の信任の本意を辜負せり。六五の爻辞にいう。鼎は黄色の耳と金属の鉉を配す——正を守るに利し。第五爻は本より耳の象あり。黄は中に居るの色——六五は中に居る。ゆえに「黄耳」の象あり。金は剛硬の物——「鉉」は鼎耳を穿ちて用いて鼎を擧ぐるの横杠。六五は一たび変ぜば乾と為り、乾は金——是れ「金鉉」の象。六五は柔中の徳を以て下に九二の剛中に應ず——ゆえに「黄耳金鉉」の象あり。六五は陰を以て陽に居りて併せて正に当たらず——ゆえにそれを勉励して「貞に利し」という。これは説く、柔中の君を以て下に剛中の臣を任用す——すなわち《彖伝》のいわゆる「中を得て剛に應ず」。或る人は「鉉」を上九と解すれば、則ちそれは上九の「玉鉉」と重複して、而且して取象の本意を失せり。
象曰。鼎黃耳,中以為實也。五中虛,以得中為實德。上九。鼎玉鉉。大吉無不利。舉鼎在鉉,故上有鉉象。以剛居陰,剛而能溫。又上變為震為玉。有玉鉉之象。玉非可為鉉,取象不可拘也。鼎道貴和。至此,則陰陽和而鼎之功成。可舉鼎實以成養人之功矣,故其占大吉無不利。時解以言相道之得中者,亦可。
《小象伝》に「鼎の黄耳は、中を以て実と為ればなり」という——六五の中爻は虚空、まさに「中を得」を以て其の充実の徳性と為す。上九の爻辞にいう。鼎は玉鉉を配す——大吉、利あらざるなし。鼎を擧ぐるは全く鉉に靠る——ゆえに上爻は鉉の象あり。上九は陽剛を以て陰位に居り、剛強にして能く温潤す。上爻は一たび変ぜば震と為り、震は玉——ゆえに「玉鉉」の象あり。玉は本より真に拿って鉉と為す能わず——取象は拘泥せざるべからざるを見るべし。鼎の道は調和を貴ぶ——此に到れば則ち陰陽和洽して鼎の功用は成を告ぐ——鼎中の実を擧げ出して以て人を養うの功を成就すべし。ゆえに占断は是れ大吉にして不利なし。當時の解說はそれを以て宰相の道は中を得を貴ぶを講ず——また説いて通ず。
象曰。玉鉉在上,剛柔節也。爻剛位柔,剛柔中節,故成變理之功也。全卦有元亨之象,而六爻獨五上為最吉。蓋井與鼎皆以上出為功。五為主鼎之君,上輔鼎之臣。二應五,亦輔鼎者也。君臣相得以成至治而致元亨,故皆吉。初在下附勢,猶幸能因敗以為功。三有德不仕,亦終能守正以待遇。唯四以大臣比匪,遂致覆餗。雖因事為占,不必過拘。而就君臣治道言之,則大畧如是矣。
《小象伝》に「玉鉉は上に在るは、剛柔節すればなり」という——爻は是れ陽剛にして位は是れ陰柔——剛柔は恰好に其の処に到る。ゆえに能く調理變化の功を成就す。全卦を総看すれば元亨の象あり——而して六爻の中は独り六五・上九のみ最も吉。井卦と鼎卦とは皆「上に出ず」を以て功と為すが故なり。六五は鼎を主どるの君、上九は鼎を輔くの臣、九二は上に六五に應ず——また鼎を輔くの人と算す。君臣相い得て以て至治を成就し元亨を招致す——ゆえに皆吉。初六は下に在りて権勢に依附す——還お幸いに失敗に因りて成功する能く。九三は徳あって未だ任用を獲せず——また終究に能く正を守って遇合を待たん。ただ九四は身は大臣にして匪人を親比す——終に餗を覆すの凶を致せり。此の等は随事に占を取るに雖も、過分に拘泥するに及ばず——然れども君臣治道に就いて講ずれば、大致は則ち此の如し。
震(しん)の卦
震震卦,一陽動於二陰之下。動而震驚,故為震。震卦次鼎。按,《序卦》:主器者莫若長子,故受之以震。鼎者,器也。震為長男,承主重器,震所以次鼎也。全彖以震有可亨之道。蓋人能戒懼,則雖震動不失其常,不喪其所主[文瀾本“主”作“主者”]之重也。六爻以初為震主,與彖同占。四陷二陰之間,則失所以震矣。四陰皆受震者。二乘初剛而厲,三稍遠則無眚矣。五乘四剛以居中不至有喪,上遠四則不于其躬矣。此全卦六爻之大畧也。
震卦は一箇の陽爻が两箇の陰爻の下に動く。一たび動けば人をして震驚せしむ——ゆえに「震」と曰う。震卦は鼎卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——宗廟の重器を主掌するは長子よりも合適するはなし。ゆえに鼎卦の後に震卦を以て接ぐ。「鼎」は器、「震」は長男と為る——重器を承擔して主掌す。これがすなわち震の鼎に次ぐ所以の道理。卦辞に就いて見れば、震は以て亨通すべきの道を含む。人若し能く常に戒懼を存せば、然らば震動に遇うも其の常度を失わず、自己の主掌する所の重器を丢掉するに至らず(文瀾閣本は「主」の下に「者」を作す)。六爻に就いて見れば、初九は震卦の主にして占断は卦辞と相同じ。九四は两陰の間に陷りて、便ち震と為る所以の作用を失せり。其の余の四箇の陰爻は皆震を受くる者。六二は初九の剛に乗ずれば危厲、六三は稍や遠ければ便ち災なきを得べし。六五は九四の剛に乗じて能く中に居れば、喪失あるに至らず。上六は九四を離るること遠し——震は便ち自身に及ばず。これが全卦六爻の大略なり。
震。亨。震來虩虩、笑言啞啞。震驚百里、不喪匕鬯。虩虩,恐懼驚顧之貌。啞啞,言笑自如也。匕,所以舉鼎實。鬯,所以和秬黍。皆主祭之君所親執者。震一陰方動而上為二陰所掩,有虩虩之象。陰破而上達,有啞啞之象。雷鳴及遠,有震驚百里之象。長子主器,有不喪匕鬯之象。震有可亨之道。虩虩,震也。笑言以下,震之亨也。以人心言之。苟能常自戒懼,如震之來虩虩不寧。然仰不愧,俯不怍,從容自得。雖憂患之至如雷,震驚百里之遠。在我亦不至失所守之重也。
卦辞にいう。震、亨通す。雷震の來たる時は驚懼して四顧し、隨後に談笑自如す。雷聲は百里の遠を震驚す——主祭者の手中の匕(ひ)と鬯(ちょう)とは曽て失落せず。「虩虩(きゃくきゃく)」は恐懼して驚き顧るの樣子、「啞啞(ああ)」は言笑自若。「匕」は鼎中より祭肉を取出すの器具、「鬯」は秬黍(きょしょ)を以て調和して釀成したるの香酒——皆主祭の君の親手に執掌する所。震卦の初爻は方に動きて上面は两陰に掩蓋せらる——「虩虩」の象あり。陽気は陰は陰層を衝破して上達す——「啞啞」の象あり。雷鳴は傳ること極めて遠し——「百里を震す」の象あり。長子は宗器を主掌す——「匕鬯を喪わず」の象あり。震は亨すべきの道を含む——「虩虩」は震の本身、「笑言」以下こそ震の亨通なり。人心に就いていえば——若し能く時常に自我を戒懼し、たとえば雷震の到來する時の如く驚懼して不寧なれども、然れども仰いで天に愧ぢず俯して人に怍(は)ぢず、從容として自得せば、然らばたとい憂患の來勢は雷の如く、百里の外に震驚するも、自己ここに於いては所守の重任を丢掉するに至らず。
彖曰。震、亨。震則自亨、唯震故亨,兼二義。震來虩虩、恐致福也。笑言啞啞、後有則也。恐致福,恐懼以致福。所謂生於憂患也。後,恐之後也。有則者,言笑有常,不以震驚而變也。震驚百里、驚遠而懼邇也。出可以守宗廟社稷,以為祭主也。
《彖伝》に「震、亨」という。此の句は兼ねて两层の意思を含む——震動の本身は自然に亨通し、またまさに震動あるに因りてこそ亨通す。《彖伝》は接いでいう。「震來虩虩たるは、恐れて福を致せばなり。笑言啞啞たるは、後に則あればなり。」「恐れて福を致す」は恐懼戒愼に因りて福を招來す——すなわち孟子の説く所の「憂患に生きる」。「後」は恐懼の後を指す。「則あり」は説く、言笑は常度ありて震驚に因りて態を變ぜず。《彖伝》は再びいう。「百里を震すは、遠を驚かし近を懼れしめればなり。出でて以て宗廟社稷を守るべし、以て祭主と為ればなり。」
驚遠懼邇,言雷威之可畏也。此句之下,程子謂脫不喪匕鬯四字,從之。出字,或云即鬯字之誤。今應作帝出乎震之出,謂繼世而主祭也。當其執匕鬯以祭,心存誠敬,雖震驚百里而莫之聞,可以為宗廟社稷之主矣。如舜之烈風雷雨弗迷,堯乃使之嗣位是也。
「遠を驚かし近を懼れしむ」は説く、雷威の可畏なるを。此の句の下面は、程頤は「匕鬯を喪わず」四箇の字を脫落したと認む——ここは彼の説法に依る。「出」字は、或る人はすなわち「鬯」字の誤と説く。如今は当たりに《說卦伝》の「帝は震に出づ」の「出」と讀むべし——世統を繼承して祭祀を主持するを指す。彼の手に匕鬯を執りて祭を行うの時に当たりて、心中は誠敬專一——たとい雷震百里なるも耳に充ちて聞かず——此の如くにして以て宗廟社稷の主と為るべし。たとえば《尚書》の載する所の舜は烈風雷雨の中に於いて方向を迷失せず、堯はここに彼をして帝位を繼承せしめしは、まさに此の意。
象曰。洊雷震。君子以恐懼修身。上下皆震,重襲而至,故曰洊。恐懼存於心,修省見於事。恐懼繼以修省,所以盡畏天之實,象雷之洊也。初九。震來虩虩。後笑言啞啞。吉。初九九四二爻,震之所以為震者。下餘四陰爻,皆受震者。而初又成卦之之主也,故占與彖同。爻之吉,即彖之亨也。
《大象伝》に「洊(せん)雷は震なり。君子以て恐懼して身を修む」という。上下は皆震——雷聲は重疊して相い繼ぎて來る——ゆえに「洊」と曰う。恐懼は心の裏に存し、修省は事の上に表現す。恐懼の後に接ぎて修省してこそ、天命を敬畏するの實功を尽せりと算す——まさに雷の相い繼ぎて絶たざるが如し。初九の爻辞にいう。雷震の來たる時は驚懼して四顧し、隨後に談笑自如す——吉。初九と九四の此の两爻は、震の震と為る所以なり。下面の其の余の四箇の陰爻は皆震を受くる者。而して初九はまた成卦の主——ゆえに其の占断は卦辞と相同じ。爻辞の説く「吉」は、すなわち卦辞の説く「亨」なり。
象曰。震來虩虩、恐致福也。笑言啞啞、後有則也。六二。震來厲。億喪貝。躋于九陵。勿逐七日得。億,大也,十萬曰億。貝,介蟲,古者用為寶貨也。躋,升也。九陵,猶九皐,高處也。二變為離貝象。六二乘初九之剛,有震來甚厲必喪其重寶之象。上互三四為艮,有升於九陵以避之之象。占者為震動而有所失,能中正自守,則不求而終獲也。
《小象伝》に「震來虩虩たるは、恐れて福を致せばなり。笑言啞啞たるは、後に則あればなり」という——《彖伝》の釋する所の文句と相同じ。六二の爻辞にいう。雷震の到來は十分に危厲、估量すれば重寶を喪失せんと——高陵に登りて躲避せん。追尋するに及ばず——七日の後に自ら失い得を復せん。「億(おく)」は大數——十万を億と為す。「貝」は甲殻ある水生動物——古人は用いて寶貨と為す。「躋(せい)」は登る。「九陵」は猶お「九皋(きゅうこう)」と説くが如し——高き處を指す。六二は一たび変ぜば離と為り——貝の象あり。六二は初九の剛に凌乘す——ゆえに雷震の來勢極めて猛く、勢い必ず其の重寶を喪うの象あり。上に向かいて三・四と互体して艮と成り、艮は山——九陵に登りて難を避くるの象あり。占者は震動に因りて喪失する所有るも、只だ能く中を守り正を持して、追索せずんばも終究に失い得を復せん。
象曰。震來厲,乘剛也。近雷之威,故危。六三。震蘇蘇。震行無眚。蘇蘇,緩散自失之狀。以陰居陽。當震時而所居不正,有蘇蘇自失之象。然去震初稍遠,因震而能行。去其不正,猶可以避災眚。三互坎為眚,變陽則無眚之象。象曰。震蘇蘇,位不當也。不中不正,故宜急去。
《小象伝》に「震來厲は、剛に乘ずればなり」という——雷の威勢に貼近すれば、ゆえに危険。六三の爻辞にいう。震じて神情渙散す。震に因りて行動せば則ち災禍なし。「蘇蘇(そそ)」は緩散して神を失うの樣子。六三は陰爻を以て陽位に居り、まさに震動の時に当たりて居る所は正ならず——ゆえに「蘇蘇」として措を失うの象あり。然れどもそれは初九此の震源を離るること稍や遠し——能く震懼を借りて行動し起きて、自身の不正を去れば、また還お災眚(せい)を躲開するを得べし。六三は互いに坎、坎は災眚——此の爻は陽に変ずれば則ち「眚なし」の象と成る。《小象伝》に「震蘇蘇たるは、位當たらざればなり」という——既に中に居らずまた位に当たらず——ゆえに当たりに急ぎて原地を離るべし。
九四。震遂泥。遂者,不反之意。泥滯溺也。以剛居柔,不中不正,陷於二陰,互坎為泥,故有遂泥之象。蓋無奮發之才而溺於宴安之私者也。象曰。震遂泥,未光也。陽本光眀。陷陰,故未光。
九四の爻辞にいう。一たび震ぜば便ち泥の中に陷り入る。「遂(すい)」は一たび去りて返らざるの意、「泥」は滞陷して沉溺す。九四は陽爻を以て陰位に居り、既に中に居らずまた位に当たらず、上下两陰の間に陷り、互体は坎と為り、坎は泥——ゆえに「泥に遂(お)る」の象あり。これがまさに奮發の才なく、また安逸の私に沉溺するの人。《小象伝》に「震は泥に遂るは、いまだ光ならざればなり」という——陽は本來是れ光明、一たび陰の中に陷入せば、ゆえに能く光大せざると説く。
六五。震往來厲。億無喪有事。以柔居尊,當震之時,下乘四剛。初始震為往,四洊震為來。五為君位震主,故有往來厲之象。然柔而得中,不至於大有喪。而震動戒懼之後,事功因之以立。故有億無喪有事之象。五與二皆乘剛,而四遂泥,其勢稍緩。故往來厲較之來厲者稍殊,而無喪又不同於喪貝,有事則又不但勿逐而已。象曰。震往來厲,危行也。其事在中,大無喪也。往來皆厲,行則有危矣。得中德而能有事,故可無大喪。
六五の爻辞にいう。震動は往來皆危厲なれども、但だ估量すれば喪失する所なし——還お建樹する所有るべし。六五は柔爻を以て尊位に居り、まさに震動の時に当たり、下面は九四の剛に乘ず。初九は最も先に震動するを「往」と曰い、九四は重ねて震じて來るを「來」と曰う。六五は是れ君位、また是れ震を受くるの主——ゆえに「往來厲」の象あり。然れどもそれは柔にして中を得——大なる喪失あるに至らず。而且して震動戒懼を經過して後、事功はかえって此より建立す——ゆえに「億(おく)は喪わずして事ある」の象あり。六五と六二とは皆剛に乘ずるも、然れども九四はすでに「泥に遂る」——來勢は稍や緩し。ゆえに「往來厲」は六二の「震來厲」に比して略ほど不同あり。「喪わず」もまた六二の「貝を喪う」と同じからず。「事あり」はさらに六二の如く「逐う勿れ」のみに止まらず。《小象伝》に「震往來厲は、危行なればなり。其の事中に在るは、大いに喪わざればなり」という——往來皆危厲なれば、行動は自然に険あり。但だ既に中道の徳を得て而又能く事功を建立せば、ゆえに大いに喪失を致さざるを得べし。
上六。震索索。視矍矍。征凶。震不于其躬。于其鄰。無咎。婚媾有言。索索,神氣不存也。矍矍,視不定也。鄰謂五。婚媾指三。以陰柔處震之極,有震索索之象。上變離為目,有視矍矍之象。三居位不正,故宜行則無眚。六居上正矣,而過懼。行必有失,故有征凶之象。四剛近五而遠上。然能因此以自戒懼,知畏天者也。故有不于其躬于其鄰,而於義無咎之象。上變離為中女,坎為中男,婚媾之象。三與上皆陰柔而不相應,有婚媾有言之象。親者尚議之,則疎者可知。
上六の爻辞にいう。震じて渾身發抖し、両眼は張望して定まらず。此の時に前行せば則ち凶。雷震は自身の上に落ちざれども、而して鄰人の上に落つ——過錯なし。只だ姻親の間に閒話あらん。「索索(さくさく)」は神気渙散して存せず、「矍矍(かくかく)」は目光游移して定まらず。「鄰」は六五を指し、「婚媾(こんこう)」は六三を指す。上六は陰柔を以て震卦の極点に處す——ゆえに「震索索」の象あり。上六は一たび変ぜば離と為り、離は目——ゆえに「矍矍たりて視る」の象あり。六三は居位正ならず——ゆえに行動すればこそ災眚なきに宜し。上六は陰爻を以て陰位に居りて本よりすでに正を得たり——然れども又た過分に驚懼し、一たび動けば必ず閃失あらん——ゆえに「征すれば凶」の象あり。九四は陽剛にして、六五を離るること近く上六を離るること遠し。上六は却って此を借りて自我を戒懼する能し——まさに天威を敬畏するを懂得するの人——ゆえに「其の躬に於かず、其の鄰に於きて」にして義に於いて咎なきの象あり。上六は一たび変ぜば離と為り、離は中女、坎は中男——是れ「婚媾」の象。六三と上六とは同じく陰柔に属して相應せず——ゆえに「婚媾に言あり」の象あり——近しい人すらなお議論すれば、疏遠なるはさらに知るべし。
象曰。震索索,中未得中也。雖凶無咎,畏鄰戒也。中未得,謂處震極,中心有所未安也。因鄰戒而知畏,可以無咎矣。全卦皆言震懼,而六爻皆無凶咎之言。上雖征凶,而亦無咎。大抵人心泰侈則致禍,戒懼則致福也。
《小象伝》に「震索索は、中いまだ中を得ざればなり。凶といえども咎なきは、鄰に畏れて戒めればなり」という。いわゆる「中いまだ得ず」は、説く、身に震動の極点に處して内心は安らぎ有る所なし。鄰爻の警戒に因りて畏懼を知れば、則ち以て過錯なきを得べし。全卦を総看して通篇に講ずるは皆是れ震動恐懼——而して六爻は却って皆凶咎の斷語なし。上六は「征すれば凶」と説くも、なお仍お「咎なし」。大抵人心は一たび驕泰奢肆せば則ち禍を招き、能く戒愼恐懼せば則ち福を得たり。
艮(ごん)の卦
艮艮卦,一陽居二陰之上。陽動至上則止,陰性本靜。上止下靜,故為艮。不曰止而曰艮,止有畜止之義,艮有安止之義。又其象為山,有安重堅實之意。故曰艮也。艮卦次震。按,《序卦》:震者,動也。物不可以終動,止之,故受之艮。艮者,止也。動靜相因,艮所以次震也。全彖以上下不相應而相背,為各止其所之義。動靜皆止,無我無人。此全彖之大旨也。
艮卦は一箇の陽爻が两箇の陰爻の上に居る。陽は下より動きて、最上に升れば便ち停住す。陰の本性は原より安靜。上面は停止し下面は安靜——ゆえに「艮」と曰う。「止」と説かずして「艮」と説くは、是れ「止」は強行して畜止するの義に偏し、「艮」は則ち安んじて然る後に止まるの義あり。加うるに其の卦象は山と為る——安穩厚重・堅實不動の意味を含む——ゆえに「艮」と称す。艮卦は震卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「震」は動、事物は一味に動き續くる能わず、総じてそれを止住するを要す。ゆえに震卦の後に艮卦を以て接ぐ。「艮」はすなわち止なり。動と靜とは互いに因依す——これがすなわち艮の震に次ぐ所以の道理。卦辞に就いて見れば、全卦の上下各爻は两两相應せずして彼此背向す——各自に安止して當たる所の止の位に安ずるの意を取る。動するも止、靜するも止、既に我見なくまた人見なし。これが卦辞の大旨なり。
六爻從二陽爻起義,而全艮之時用者獨在乎上。蓋九三互震,失止之義,故有厲薰心之占。九五近上艮,故悔亡。四遠之,則亦艮其身而已。二近下艮,能艮腓而不能拯。初則遠之,但未失正而已。此六爻之大畧也。
六爻に就いて説けば、義理は两箇の陽爻より發端す——而して能く艮卦の時用の善を保全するは只だ上九の一爻のみ。九三は互体して震と成り、「止」の本義を失せり——ゆえに「厲して心を薰す」の占断あり。九五は上九の艮体に靠近す——ゆえに「悔亡ぶ」。六四は離るること稍や遠し——則ち只だ「其の身を艮す」を做到するに過ぎず。六二は下卦の艮に靠近し、能く自己の小腿を止住するも他人を拯救する能わず。初六は離るることさらに遠し——不過是れ「正を失わざる」のみ。これが六爻の大略なり。
艮其背。不獲其身。行其庭。不見其人。無咎。艮,一陽止於二陰之上。陽自下升,至上而止,其象為山。取坤地而隆其上之狀,亦止而不進之意也。人以面前為身,後為背。一身皆動,而背則靜。耳目口鼻皆有欲,唯背無慾。止之至也。卦體似人背面而立,故有艮其背之象。蓋天下之理,止於其所當止也。然理有所當止而多所擾者,起於有我之私。唯艮其背則無我之見,是以有不獲其身之象。理有所當止而多所歧者,又起於有人之見。唯艮其背,雖應事接物,各因其宜,無人之見,是以有行其庭不見其人之象。內外兩忘,動靜皆定,所以無咎。
卦辞にいう。其の背に止まれば、便ち自己此の身を覺察せず。彼の庭院に走り入るも、また彼の人を見ず。過錯なし。艮は一陽が二陰の上に止まる。陽は下より上升して頂端に到れば便ち止住し、其の象は山と為る——大地の其の上に隆起するの形狀を取り、また止まりて再び前行せざるの意を含む。人は面の朝うるの一面を以て身と為し、背後の一面を以て背と為す。全身は皆動を会すれども、唯だ背は靜なり。耳目口鼻は各々欲望あり、唯だ背は欲なし——これは「止」の極致。卦体は人の背を外に向かいて立てるに好像す——ゆえに「其の背を艮す」の象あり。天下の道理は、本より當たる所の止の處に止まるに在り。然れども道理は當たる所の止の處あれども人は偏に多く擾動す——病根は「我ある」の私に出づ。唯だ「其の背を艮す」こそ我見なし——ゆえに「其の身を獲ざる」の象あり。道理は當たる所の止の處あれども人は偏に多く歧異を生ず——病根はまた「人ある」の見に出づ。唯だ「其の背を艮す」こそ、照樣として事に應じ物を接し各々其の宜に隨うといえども、却って人我對立の見なし——ゆえに「其の庭を行きて其の人を見ざる」の象あり。内外两忘し動靜皆定まる——此に因りて過錯なし。
彖曰。艮,止也。時止則止,時行則行。動靜不失其時,其道光明。此釋卦名也。時止而止固止,時行而行亦止。非膠於止,唯其時各當,所以為止也。人心無主則昏。中有定止,自然光眀。又艮一陽見於二陰之上,光眀著見,陰莫能掩,有光眀之象。
《彖伝》に「艮とは、止なり。時に止まれば則ち止まり、時に行けば則ち行く。動靜其の時を失わざれば、其の道は光明なり」という。これは卦名を釋す。當に止まるべきの時に止住するは固より止、當に行うべきの時に行動するは其の實また止——併せて死板に粘着して動かざるに非ず。只だ每一步は皆時宜に合するに因りて、こそ「止」と曰うなり。人心は主宰なければ昏昧、心中に一定の歸止あれば、自然に光明なり。さらに説く、艮は一箇の陽爻が两陰の上に顯現して光明は顯著、陰は遮掩する能わず——ゆえに光明の象あり。
艮其止,止其所也。上下敵應,不相與也。是以不獲其身,行其庭不見其人,無咎也。背即止之所,故易背為止,以見背即止也。以卦體言之,內外相敵而不相與。陽上而陰下,一陽而統二陰,理無可加。陰陽各正其性,無外求之意。所以內不見己,外不見人也。
《彖伝》に「其の止まる所を艮すは、其の所に止まればなり。上下敵應して、相い与(とも)にせざればなり。是を以て其の身を獲ず、其の庭を行きて其の人を見ず、咎なきなり」という。「背」はまさに當たる所の止の處。ゆえに《彖伝》は卦辞の「背」字を換えて「止」字と為し、用いて背は則ち止なるを點明す。卦体より説けば、内卦と外卦とは两两相い敵して交わり与せず。陽は上に在り陰は下に在り、一陽は二陰を統領す——道理の上は増益すべきなし。陰陽は各自に其の本性を端正して、外に向かいて求索するの意なし——ゆえに内は自己を見ず、外は他人を見ず。
象曰。兼山。艮。君子以思不出其位。內外皆山,故曰兼山。理之所止為位。思各得其所止,不出其位也。不出位,身之止。思不出位,心之止。亦兼山之義也。
《大象伝》に「兼(けん)山は艮なり。君子以て思は其の位を出でざるなり」という。内外は皆山——ゆえに「兼山」と曰う。道理の當たる所の止の處はすなわち「位」。思慮は各々其の當たる所の止を得れば、すなわち其の位を出でず。行為は其の位を出でざるは、是れ身の止。思慮は其の位を出でざるは、是れ心の止——身心は两层相い疊ねて、またまさに「兼山」の意に合す。
初六。艮其趾。無咎。利永貞。趾,所以行。初陰在下,方行之初。當止而止,不失其正,故有艮其趾無咎之象。止貴有終。恐陰柔不能固守,故勉以利永貞。象曰。艮其趾,未失正也。當止而行則非正,事初而止則正未失。
初六の爻辞にいう。脚趾を止住す——過錯なし。長く正を守るに利し。脚趾は用いて行走する所。初六は陰爻を以て最下に居り、まさに将に行かんとして未だ行かざるの際に当たり、當に止まるべきは則ち止まりて、其の正を失わず——ゆえに「其の趾を艮して咎なし」の象あり。止は能く堅持して底を致くを貴ぶ。只だそれが陰柔にして長久を守る能わざるを怕る——ゆえにそれを勉励して「永貞に利し」という。《小象伝》に「其の趾を艮すは、いまだ正を失わざればなり」という——當に止まるべきの時にかえって行動すれば則ち正ならず。事情は剛ぞ開頭して止住せば、正道は便ち失掉せられざらん。
六二。艮其腓。不拯其隨。其心不快。二居限之下,趾之上,有腓象。居中得正,有艮其腓之象。三為限,腓之所隨。三過剛不中,止於上而薰心。二柔弱不能往而拯之,然非其心之所欲也。故有不拯其隨,其心不快之象。象曰。不拯其隨,未退聽也。三止於上,亦不肯退而聽二也。
六二の爻辞にいう。小腿肚を止住す。其の隨從する所の部位を拯救する能わず——心の裏は痛快ならず。六二は腰際の下・脚趾の上に在りて、まさに小腿肚(腓)の象。それは中に居りて正を得——ゆえに「其の腓を艮す」の象あり。九三は腰——小腿肚は原より腰に隨いて動く。九三は剛に過ぎて中に居らず、強いて上面に止まりて危厲にして心を薰す。六二は柔弱にして、上がりてそれを救う能わず。然れどもこれは併せて其の心の裏の願う所に非ず——ゆえに「其の隨を拯わず、其の心は快からず」の象あり。《小象伝》に「其の隨を拯わざるは、いまだ退きて聽かざればなり」という——九三は固執して上面に止まりて、また退きて六二に聽從するを肯ぜざればなり。
九三。艮其限。列其夤。厲薰心。限,身上下之際。夤,腰膂也。九三上下卦之間,有限之象。人身榮衛上下流通,則身舒而心泰。九三以剛限於上下二柔之間,止而不動。如腰脊中強,上下榮衛隔絕,百骸不屬,危懼驚心。故有艮其限,列其夤而危厲薰心之象。艮以九居三為得正,乃至於薰心者。蓋三互四五為震為動,艮之反也。當動之時而止,猶腰膂本轉動之處,乃中強不能屈伸。所以危厲薰心,亦有震驚之象也。
九三の爻辞にいう。腰際に止まりて、脊肉を撕裂す——危厲は火の心を薰くるが如し。「限」は身体上下の分界、「夤(いん)」は腰脊の肉。九三は上下卦の交界の間に處す——ゆえに「限」の象あり。人身の營衛の気は上下流通して、身体こそ舒暢にして心の裏こそ安泰なり。九三は陽剛を以て上下两箇の陰柔の間に横限して、止住して動かず——たとえば腰脊の中間は僵硬して、上下の營衛は隔絶し、百骸は相い連属せず、人をして危懼して心を驚かしむ——ゆえに「其の限を艮し、其の夤を列(さ)く」にして危厲にして心を薰すの象あり。艮卦の裏は九を以て三に居るは本より正を得たりと算す——竟お心を薰くるの地步に弄るは、是れ三が四・五と互体して震と成るが故なり。震は動を主どり、まさに艮の反面。當に動くべきの時にかえって強いて止まれば、たとえば腰脊は本より轉動すべきの部位なるに、偏に僵直して屈伸する能わず——ゆえに危厲にして心を薰く——其の中にもまた震驚の象を含む。
象曰。艮其限,危薰心也。震上動極不寧,故心不安。艮三則所止不適,故心危厲也。六四。艮其身。無咎。以陰居陰,時止而止,有艮其身之象。可以無咎矣。咸與艮皆以人身取象。艮四正當心位,不言心而言身,兼動靜而言也。心不可見,身止則心之得所止可知矣。
《小象伝》に「其の限を艮すは、危うく心を薰けばなり」という——震卦の上爻は極處に動きて安寧を得ざれば、ゆえに心安らかならず。艮卦の九三は則ち止まる所の處は合宜せざれば、ゆえに心は危厲を生ず。六四の爻辞にいう。上身を止住す——過錯なし。六四は陰爻を以て陰位に居り、當に止まるべきの時に便ち止まる——ゆえに「其の身を艮す」の象あり、以て過錯なきを得べし。咸卦と艮卦とは皆人身を取りて象と為す。艮卦の第四爻はまさに心の部位に当たるも、却って「心」と説かずして「身」と説くは、是れ動靜両面を兼ねて講ぜんと欲するなり。心は見る能わざるなり、身は既に止住せば、心はすでに各々其の止まる所を得たりもまた以て知るべし。
象曰。艮其身,止諸躬也。成已未能成物也。六五。艮其輔。言有序。悔亡。輔,頰兩傍骨。不言頰舌止言輔,背後所見也。六五正當輔之地,言所由出也。以柔居尊,發則為絲綸之言。然柔而得中,言不輕發。發必有秩秩之德音,故為艮其輔,言有序之象。以陰居陽,疑於有悔。然能得中,悔可亡矣。人莫大於言行,艮趾艮腓慎其行,艮輔慎其言也。
《小象伝》に「其の身を艮すは、躬に止まればなり」という——これは能く自己を成就するも還お外物を成就する能わず。六五の爻辞にいう。牙床を止住し、説話は條理あり——悔恨は消失す。「輔」は面頰の两旁の骨。頰・舌を説かずして只だ「輔」を説くは、是れ背後より見る能くの部位なるが故なり。六五はまさに「輔」の位置に当たりて是れ言語の出づる所に從う。それは陰柔を以て尊位に居り、一たび口を開けば便ち天下に號令するの絲綸の言。然れども柔にして中を得て、軽易に發言するを肯ぜず、一たび發すれば必是れ井然有序たるの徳音——ゆえに「其の輔を艮し、言に序ある」の象と為る。陰を以て陽位に居れば、本より悔恨あるを疑心す。然れどもそれは能く中を守れば、悔恨は則ち以て消亡すべし。人生の最も要紧は言と行とに若くはなし。「趾を艮す」「腓を艮す」は其の行を愼む、「輔を艮す」は其の言を愼むなり。
象曰。艮其輔,以中正也。以其中故可兼正。上九。敦艮。吉。以陽剛居止之極,自始至終一止於理而不變,敦厚於止者也。自初至五皆囿於一體,未能盡止道之善。獨上為成艮之主,於當止之地而止焉,所謂止於至善者。又陽在上不為陰揜,即彖所謂其道光明者。故占曰吉,與悔亡無咎者異矣。
《小象伝》に「其の輔を艮すは、以て中正なればなり」という——まさにそれが中に居るに因りて、ゆえに能く連帯して正を做到す。上九の爻辞にいう。敦厚に止まる——吉。上九は陽剛を以て止の極点に居り、始より終に至るまで一律に義理に止まりて改變せず——是れ「止」に於いて敦厚の人。初六より六五に至るまで皆各自に身体の某一の部位に局限して、未だ「止」道の善を尽す能わず。独り上九のみ是れ艮卦を成就するの主爻——當たる所の止の處に止まりて、まさに《大学》の説く所の「至善に止まる」。況んや陽爻は上に在りて陰の掩蔽する所と為らず——まさに《彖伝》の説く所の「其の道は光明」。ゆえに占断に「吉」というは、其の余の各爻の只だ「悔亡ぶ」「咎なし」を説くと大いに相同じからざるなり。
象曰。敦艮之吉,以厚終也。天下事有終為難,而厚道有終尤難。今於卦終敦厚其止,宜其吉也。全卦為震體之反,其吉凶之反亦然。震之吉在初,動之主也。艮之吉在上,止之終也。震之四下互二陰為艮,失所以為震矣,故遂泥。艮之三上互二陰為震,失其所以為艮矣,故薰心。趾腓下體,取象於行。輔在上,取象於言。而全卦取象於背。言行得其所止可無咎悔之憂。若夫忘我忘人,事事安於所止,必以上之敦艮為極乎。[文淵本“所止”下為“則唯上之敦艮能厚於終所以獨得吉也”無“必……乎”九字]
《小象伝》に「敦艮の吉は、以て厚く終わればなり」という——天下の事は始め有り終わり有るはすでに難く、而して厚道を以て貫徹して底に到るはさらに難し。如今は一卦の終点に於いてなお其の止を敦厚にする能し——宜しく吉を得べし。全卦を総看すれば、是れ震卦を顛倒したるの体——吉凶もまた恰好に相反す。震の吉は初爻に在り——初九は動の主なるが故。艮の吉は上爻に在り——上九は止の終点なるが故。震卦の九四の下は互いに两陰を出でて艮と成り、震と為る所以の性質を失掉す——ゆえに「泥に遂る」。艮卦の九三の上は互いに两陰を出でて震と成り、艮と為る所以の性質を失掉す——ゆえに「心を薰く」。趾と腓とは下体に属し、「行」に象を取る。輔は上部に在り、「言」に象を取る。而して全卦は総じて「背」に象を取る。言行は皆能く各々其の止まる所を得れば、則ち以て咎悔の憂を免るべし。我を忘れ人を忘れ、事事安んじて當たる所の止に至っては、則ち必ず上九の「敦艮」を以て極致と為さんを得たり(文淵閣本は「所止」以下を「則ち唯だ上の敦艮は能く終に厚きを致す、獨り吉を得る所以なり」と作し、「必……乎」此の九箇の字なし)。
周易浅述 巻六
漸(ぜん)の卦
漸漸卦,下艮上巽。上順下止而不遽進。以象言之,則山上有木,其高以漸。故曰漸。漸卦次艮。按,《序卦》:艮者,止也。物不可以終止,故受之以漸。漸者,進也。止必有進,消長自然之理,漸所以次艮也。全彖以艮男下於巽女,有女歸之象。然必正而有漸,乃吉。而為士進身之道,亦即此可推矣。六爻取象於鴻。皆自下而上,皆以論士進之義。故唯二五以正應而吉。初在下無應故厲。三過剛無應故凶。四之無咎,以順巽也。上羽儀之吉,超乎世外者也。此全卦六爻之大畧也。
漸卦は下卦が「艮」、上卦が「巽」。上面は柔順、下面は靜止——ゆえに驟然として前進せざらん。卦象に就いていえば、山上に樹木を生ず——其の長く高くなるは一点一点に來る。ゆえに「漸」と曰う。漸卦は艮卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「艮」は止、事物は一味に停まる能わず。ゆえに艮卦の後に漸卦を以て接ぐ。「漸」はすなわち進なり。止住して後に必ず前進あらん——これは消長盛衰の自然の理、すなわち漸の艮に次ぐ所以の道理。卦辞に就いて見れば、艮は少男にして巽此の長女の下に屈居す——女子の出嫁の象あり。然れども必ず端正にして循序漸進してこそ、吉を得るを得べし。士人の進身の道に至っても、また此より類推すべし。六爻は皆鴻雁に象を取り、皆下より上に自り、皆用いて士人の進身の義理を討論す。ゆえに只だ六二・九五は正を得て相應するに因りて吉。初六は下に在りてまた正應なし——ゆえに危厲。九三は剛に過ぎて應なし——ゆえに凶。六四の咎なき所以は、是れ其の柔順謙遜なるなり。上九は「羽儀」の吉を得——是れ世外に超然たるの人。これが全卦六爻の大略なり。
漸。女歸吉。利貞。漸,漸進也。木生於山雖高,然必以漸而長。卦德止於下而巽於上。皆有不遽進之義。以二體言,則艮男下於巽女。女之適人必俟媒妁之言、六禮之備亦有其漸,故有女歸之象。禮義廉恥之重,天下國家之本,無如女之歸,故以取象。時解作士之進必以漸,是又因類推言之也。女歸以漸為吉,而又利於得正。不漸則為淫奔,不貞亦未合禮。卦中唯二五以得正而吉,故曰利貞也。咸卦止而悅,其感以正,取女者之吉也。漸卦止而巽,其進以正,女歸者之吉也。彖曰。漸之進也,女歸吉也。
卦辞にいう。漸、女子は出嫁すれば則ち吉、正を守るに利し。「漸」はすなわち漸々として前進す。樹木は山上に生ずるは長く高くなるといえども、また必定に慢慢として長き起これり。卦徳に就いていえば、下卦の艮は止にして上卦の巽は順——皆驟然として前進せざるの意を含む。上下二体に就いていえば、是れ艮此の少男は巽此の長女の下に屈居す。女子の嫁ぐは必ず媒妁の言を等待し、納采・問名・納吉・納徵・請期・親迎此の六禮の備齊もまた自ら其の先後の次第あり——ゆえに「女歸」の象あり。禮義廉恥の重大・天下国家の根本は、女子の出嫁に比ぶるはなし——ゆえにそれを取りて象と為す。當時の解說はそれを士人の進身は必ず循序漸進せざるべからずと講ず——あれは此より類推して言うなり。女子の出嫁は循序を以て吉と為し、同時にまた其の正を守得するに利し。循序せざれば則ち私奔と成り、正を守らざればまた禮に合せず。全卦の中は只だ六二・九五は正を得るに因りて吉——ゆえに「貞に利し」という。咸卦は艮の止にして兌の悦——其の感應は正に出づ——あれは妻を娶るの一方の吉。漸卦は艮の止にして巽の順——其の進取は正に出づ——あれは女を嫁がすの一方の吉。《彖伝》にいう。「漸之進むや、女歸吉なり。」
之字,疑亦漸字。進得位,往有功也。進以正,可以正邦也。以卦綜釋利貞之義。按,此卦綜歸妹。歸妹下卦之兌進為漸上卦之巽,九得五之位。九進居五,又為得位之正。其進以正,正己正人可以正邦,即所謂有功也。
《彖伝》の「漸之進むや」の一句の裏の「之」字は、陳夢雷は本來もまた一箇の「漸」字なるを疑心す——傳寫に因りて誤を致せり。卦名は既に循序して進むに義を取れば、句の中に一箇の「漸」字を重ね出でてこそ卦義と相應す——朱熹《本義》は早く此處に訛脫あるを疑えり、陳氏は此の思路に順いて推断を作せり。下面の「進みて位を得、往きて功あればなり。進むに正を以てすれば、以て邦を正す可し」の两句は、「卦綜」を以て卦辞の裏の「貞に利し」を釋す。いわゆる卦綜は、一卦を整箇に倒轉して看るなり。《漸》卦は倒轉すればまさに《歸妹》。《歸妹》の下卦の兌は倒れ上がれば便ち《漸》の上卦の巽と成り、原來下位に在るの陽爻は此に因りて第五爻の位置に升る。九の陽は進みて五位に居る——既に「進」に合し、また是れ陽は陽位に居りて上卦の中を得——ゆえに「位を得るの正」と曰う。端正の方式を以て上進し、先ず己を正して後に人を正せば、則ち以て一国を匡正するに足る——此れ便ち《彖伝》の説く所の「往きて功あり」。
其位,剛得中也。剛得中,釋上文進得位之言。止而巽,動不窮也。止,不輕動。巽,不躁動。然如是而動必有功,不至於困窮矣。凡進之心愈急,則進之機愈沮。今內止,則未進之先廉靜無求。外順,則方進之時相時而動。所以進不窮也。按,本義以卦德言漸進之義。今按,文義似亦承上進以正可以正邦而釋之。
《彖伝》は接いで「其の位は、剛は中を得ればなり」という——これは上文の「進みて位を得」の意思を补足す。九五は僅かに尊位に升到せるのみならず、而且是れ陽剛は上卦の正中に居る——ゆえに「中を得」と称す。「止まりて巽(したが)い、動けば窮まらざればなり」は則ち卦徳より論を立つるに改む。下卦の艮は「止」——止まれば則ち軽擧せず。上卦の巽は「順」——順えば則ち躁動せず。能く此の如くして再び動けば、動けば必ず功ありて、困窮に陷入するに至らず。凡そ進を求むるの心は急切なるほど、進身の機会はかえって阻塞を受く。如今は内には能く止まりて、未だ進まざるの先に便ち廉靜に自守して一も干求なし。外には能く順えて、まさに進むの時に便ち時勢を審度して後に動く。これがすなわち「動けば窮まらず」の緑由。朱熹《本義》は此の两句を單に卦徳を講じ漸進の義を説明すと看る。陳夢雷は則ち以為す——文義に就いて見れば、此の两句は亦た上文の「進むに正を以てして邦を正す可し」に承接して解を立つるに似たり。
象曰:山上有木,漸。君子以居賢德善俗。地中生木,以時而升。山上之木,似乎高矣,然其進必以漸。君子以之,成己成物皆有其漸。賢字,本義疑衍。程傳作居賢善之德。居德以漸,勤修積累,始乎為士終乎為聖也。善俗以漸,從容化導,始乎鄉邦及乎天下也。
《大象伝》にいう。山上に樹木を長ず——此れすなわち《漸》。君子はそれに取法して、用いて賢徳を蓄養し風俗を改良す。《升》卦は地の中に木を生ず——時節に隨いて上に向かいて長ず。《漸》卦は山上の木——看去るに位置はすでに甚だ高し、然れどもそれの長き起こるは仍お一寸一寸に來る。君子は此の點を效法す——自身を成就するも外物を成就するも論せず、皆一箇の「漸」字を離れず。句の中の「賢」字は、朱熹《本義》は衍文ならんと疑い、程頤《伊川易傳》は則ち「賢善の徳に居る」と讀む。いわゆる徳を蓄うるに漸を要すは、勤修して積累し、一箇の士人を做るより起步して、最終に聖人と成る。いわゆる俗を善くするに漸を要すは、從容として教化引導し、一郷一邦より做起して、最終に天下に推及す。
初六:鴻漸于干,小子厲,有言,無咎。巽有飛鳥之象。互離坎。離為飛鳥,在坎水之上。又鴻之行有序而進有漸。昏禮用鴻,取不再偶。於女歸之義尤切,故六爻皆以取象。乾,水涯也。初六以陰居下,當進之始,有鴻漸于干之象。艮為少男,小子之象。
初六の爻辞——鴻雁は漸々として水辺の岸上に落ち、年幼の小子は危険あり、責怪の話を招來す——然れども過錯なし。上卦の巽は本より飛鳥の象を含む。二より四爻・三より五爻は互体して離と坎と成り、離は飛鳥——恰好に坎水の上に處す。加うるに鴻雁の飛行は隊を結びて序あり、行進は次第あり。古代の婚禮は雁を以て贄禮と為す——其の偶を失えば再び配せざるの意を取る——本卦の「女歸」の義と尤も貼切す。ゆえに六爻は皆鴻雁を借りて象を取る。「干(かん)」は水辺。初六は陰柔を以て全卦の最下に居り、まさに漸進の開端に当たる——ゆえに鴻雁が剛ぞ水涯に落ちたるの象あり。下卦の艮は少男——すなわち爻辞の中の「小子」の取象の所在。
鴻飛,長者在前,幼者在後。幼者惟恐失群,危而號呼,長者必緩飛俟之。初無應於上,危厲不免於號呼,有小子厲有言之象。然以漸不敢躁進,於義亦無咎矣。象曰:小子之厲,義無咎也。操心危厲,言以抒誠,不敢躁妄,得在下始進之義。
鴻雁は隊を結びて飛び、年長は前に在り年幼は後に在り。幼雁は最も掉隊を怕り、一たび着急すれば便ち驚呼し、前面の老雁は則ち速度を放慢してそれを待つ。初六は上に正應なく、孤零零として最下に處り、心の裏は危懼して呼號求助を免れず——これがまさに「小子厲、言あり」の象。然れどもそれは漸進の道を守りて、躁急して進を搶うを敢えてせず——道理の上に就いていえばまた過錯なし。《小象伝》にいう——小子の危懼する所以は、道理に就いて言えば併せて過錯なし。是れ其の存心は戒懼、口を開くは一片の誠意を傾吐するが為——併せて軽率に妄為するを敢えてせず——恰好に下位に身處して初次に進身するの該有の分寸に合すればなり。
六二:鴻漸于磐,飲食衎衎,吉。磐,大石也。遠於水進於乾而益安矣。衎衎,和樂也。艮為石,有磐石象。互坎有飲食象。六二柔順中正,進以其漸,而上有九五之應,有鴻漸于磐、飲食相呼、和樂自得之象。如是則吉矣。象曰:飲食衎衎,不素飽也。不素飽猶不素飡也。二五相應可以正邦而有功。二大臣位。衎衎疑於尸素,故傳推言之。
六二の爻辞——鴻雁は漸々として大石に進み、飲食は和樂す——吉祥。「磐」は大石。初六の在る所の水涯に比ぶれば、ここは水を離るることさらに遠く地勢はさらに進みて、則ちさらに安穩。「衎衎(かんかん)」は和樂の樣子。下卦の艮は石——ゆえに磐石の象あり。二より四爻は互いに坎にして水——ゆえに飲食の象あり。六二は陰柔にして而又中正——按部就班に上進し、上面にまた九五の正應あり——ゆえに鴻雁の磐石に登り、彼此呼喚して共に食し、和樂自得の象あり——此の如くにして自然に吉祥。《小象伝》にいう——飲食和樂は、併せて白く飯を食うに非ず。「素飽せず」は《詩経・魏風・伐檀》の説く「素餐せず」の如し。六二は九五と相應し、能く邦国を匡正して功業を建立す。六二はまた臣位に居りて大臣に属す。單に「衎衎」二字を看れば、尸位素餐と誤會し易し——ゆえに《小象伝》は特に一层を推開して點明す。
九三:鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶,利禦寇。鴻,水鳥。陸非所安也。九三過剛不中而無應,而居艮體之上,有水鳥自乾而進於高平之陸之象。內卦少男,外卦長女。故彖以女歸為吉,爻之二五、三四皆取夫婦之象。二五當相應之位為正,三四不當相應之位為邪。卦取上進。三上比四,夫征之象。互坎中滿,婦孕之象。三變成坤,離絕夫位,坎體亦不成,夫征不復之象。三悅四之陰,不當往而往,故夫征不復。四悅三之陽而從,不當合而合,故婦孕不育。不育者,不敢育也。
九三の爻辞——鴻雁は漸々として高平の陸地に飛び上がり、夫は出征して囘らず、妻は懷孕するも生育せず——凶險。然れども盗寇を抵禦するに利し。鴻は水鳥——高陸は併せて其の安身の處に非ず。九三は陽剛太過にしてまた中に居らず、上面に正應なく、而して下卦艮の頂端に處す——ゆえに水鳥の水涯を離れて高平の陸に進むの象あり。内卦の艮は少男、外卦の巽は長女——此に因りて《彖伝》は「女歸」を以て吉と為し、而して六爻の中、二と五・三と四とは皆夫婦の象を取る。二と五とは相應の位置に處りて正當の配偶に属す。三と四とは併せて相應せずして只だ相鄰る——不正當の私合に属す。全卦は上に向かいて進むに義を取り、九三は上に向かいて六四に緊挨す——便ち「夫征く」の象と成る。二より四爻は互いに坎、坎の中の一陽は充実——便ち「婦孕む」の象と成る。九三は若し陰爻に変ぜば、下体は坤と成り、陽は夫の位に絶えて、互いに坎の体もまた成り立たず——これがすなわち「夫征きて復たらず」の象。九三は六四の陰柔を貪悦し、往くべからざるに往く——ゆえに出征して返らず。六四は九三の陽剛を貪悦して順從し、合すべからざるに合す——ゆえに孕を懷けるも生育せず——いわゆる「育てず」は、生み出すを敢えてせざるなり。
如是其凶甚矣。然雁群不亂,止則相保。三四雖非夫婦之正,然以三之剛,四能順之,情好相比,可禦患難。三互二四為坎為盜賊,三四五互離又為戈兵,故有禦寇之象。象曰:夫征不復,離群醜也;婦孕不育,失其道也;利用禦寇,順相保也。丑,程傳以為離群可丑。竊按,丑,類。三與上為群類者也。今上無正應而求四,是離其群類以往,不復宜矣。四合於三,非女歸之正道也,雖孕不敢育矣。然變坎成坤,行險而順。欲禦寇賊以相保守,或可耳。
此の地步に到れば、凶險はすでに甚だ重し。不過雁群の飛行は從來散乱せず、一たび停まれば便ち彼此守護す。三と四とは正當の夫婦と算する能わざるといえども、然れども九三の剛強・六四の柔順を憑りて、两情相い得て又た緊鄰す——患難に遇うもなお能く互相いに抵擋す。二より四爻は互いに坎、坎は盗賊。三より五爻は互いに離、離は戈兵——ゆえに「寇を禦ぐ」の象あり。《小象伝》にいう——夫は征きて復たらざるは、同類を離れればなり。婦は孕みて育てざるは、正道を失えばなり。寇を禦ぐに利しは、柔順に靠りて相い保全すればなり。「丑(しゅう)」字は、程頤《伊川易傳》は「群を離るるは可醜の事」と解す。陳夢雷は私らに以為す——「丑」は当たりに「類」と訓すべし。九三と上九とこそ同類なり。如今上九は正應なく、九三は却って轉じて六四を追求す——これがすなわち同類を撇開して往く——一去して返らざるを怪むに及ばず。六四は九三と結合して、女子出嫁の正道に合せず——ゆえにたとい孕あるも生育するを敢えてせず。然れども九三は一たび変ぜば、坎険は化して坤順と成る——是れ身に険の中に在りて能く柔順す。若し寇賊を抵禦し相い保ちて自守せんと欲せば、或いは還お辦るを得べし。
六四:鴻漸于木,或得其桷,無咎。桷,平柯也。鴻不木棲,得平柯可以安。或者,偶然之辭。六四巽體而乘剛,在艮山之上,有漸於木之象。然柔順得正,三以一陽橫於下,有或得其桷之象。其占則無咎也。象曰:或得其桷,順以巽也。三得四順以相保,四從三順以得安。順則不拂,巽則不迫。故雖乘剛而又可以自安,與禦寇意相近。蓋三四非應。以夫婦之道言之,則為邪。若相比以圖安,猶庶幾也。
六四の爻辞——鴻雁は漸々として樹木に飛び上がり、或いは一根の平展の枝幹を尋得する能く——過錯なし。「桷(かく)」は平直の横枝。鴻雁は本より樹の上に棲せず、然れども若し一根の平枝に踩むれば、則ち安穩なり。「或」字は偶然・僥倖の口氣。六四は上卦巽体に属し、また九三の陽爻の上に騎る——位置は艮山の頂に在り。ゆえに漸進して樹木の上に到るの象あり。好いことにそれは陰柔にして正を得、而して九三は一根の陽爻を以て底下に横たわる——まさに彼の落腳を供するの平枝の如し——此れ便ち「或いは其の桷を得」、占問の結果は過錯なし。《小象伝》にいう——能く彼の平枝を尋得するは、柔順謙遜に靠ればなり。九三は六四の順を得て以て相い保つべく、六四は九三の順に從いて以て身を安んずるを得。順えば則ち違逆せず、巽えば則ち逼迫せず——ゆえに六四は陽剛の上に乘ずるも、仍お能く自ら安んず。此の层の意思は九三の「寇を禦ぐに利し」と相近し。須らく知るべし、三と四とは本より正應に非ず——若し夫婦の道を按じて衡量せば便ち邪。然れども若し只だ鄰里の相依として安穩を圖ると看なせば、倒れて還お説いて過去すべし。
九五:鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。陵,高阜也。九五居尊,在艮山之上,有鴻漸于陵之象。二以陰應五,有婦象。互離大腹而中虛,不孕之象。自二至五歷三爻,三四間隔其中,又離居三,有三歲不孕之象。然二五皆居中得正而相應,女歸之貞而以漸者也。三四終莫能勝之之象,宜其吉矣。卦以上為女,下為男。爻則以五為男,二為女,蓋就陰陽相應言之。易之取象不可為典要者也。象曰:終莫之勝吉,得所願也。中正相應,二五之願也。時解以明良終合成治言之,亦可,但不必拘耳。
九五の爻辞——鴻雁は漸々として高丘に飛び上がり、妻は三年孕まず——最終に彼らを阻隔する能くはなし——吉祥。「陵」は高き土山。九五は尊位に居り、また艮山の上に在り——ゆえに鴻雁の陵に登るの象あり。六二は陰柔を以て九五と相應す——是れ「婦」の取象。三より五爻は互いに離、離は大腹にして中間虚空——まさに孕まざるの象に合す。二より五に數えて共に三爻を歷り、中間は三・四の两爻に隔てられ、加うるに互いに離は恰好に第三位に居る——ゆえに「三歲孕まず」の象あり。然れども二と五とは皆中に居りて正を得て彼此相應す——まさに女子の出嫁して貞を守り循序漸進するの樣子——三・四の两爻は終究に阻隔する能わず——ゆえに吉祥。整卦に就いて言えば、上卦の巽は長女、下卦の艮は少男。爻位に就いて言えば、却って九五を以て男と為し六二を以て女と為す——これは陰陽相應に就きて説を立つるなり。《周易》の取象は處に隨いて變通して、一箇の固定の成例を拿って死套する能わざるを見るべし。《小象伝》にいう——終究に阻隔する能くはなくして吉を得るは、是れ願うが如くを得ればなり。中正にして相應するは、本より二・五の共同の心願。時人に此の一爻を賢君良臣の終に契合を得て共に治世を成すと講ずる者有り——また講じて通ず、只だ一説に拘執するに及ばず。
上九:鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。陸作逵,雲路也。儀,羽毛之飾也。上九至高,有鴻漸于逵之象。上九無位。然漸進至此已極其高,猶賢達君子高蹈遠去。而其進退去就,可為當世儀表,非無用者也。故有其羽可用為儀之象。占者如是則吉矣。象曰:其羽可用為儀吉,不可亂也。立志卓然,不可得其亂也。全彖以漸進取女歸之象,而要之正士君子之出處亦如之。二五明良遇合。初始進無援者也。三躁進而四取容。若上則達人之高致乎。
上九の爻辞——鴻雁は漸々として雲路に飛び入り、其の羽毛は以て儀飾と為すに用うべし——吉祥。ここの「陸」は当たりに「逵(き)」と作すべし——雲中の通路を指す。「儀」は羽毛を以て做るの裝飾。上九は全卦の最高處に處す——ゆえに鴻雁の雲路に飛び入るの象あり。爻位に按じて説けば、上九は本より位なきの地。然れども漸進して此の地步に到ればすでに高極まり——まさに賢達君子の超然として遠く引くが如し。其の進退出處は、以て一世の表率を為すに足る——併せて全然用なきに非ず——ゆえに「其の羽は以て儀と為すに用うべし」の象あり、此の爻を占得すれば便ち吉。《小象伝》にいう——羽毛は以て儀飾と為すに用うべくして吉なるは、是れ攪亂せらるべからざればなり。志を立つること高卓なれば、外物は則ち彼を動搖する能わず。全卦を通觀すれば、是れ漸進を借りて「女歸」の象を取る——而して根に歸り底に到りて講ずるは、還お是れ士君子の出處進退を端正するなり。二と五とは賢君良臣の遇合。初六は初めて茅廬を出でて人の援引なし。九三は躁急して進を求め、六四は曲意に容を取る。上九に至っては、あれは便ち通達の人の高遠の情致なり。
歸妹(きまい)の卦
歸妹。歸妹,上兌上震。雷震而澤動,有相從之象。女之長者曰姊,少者曰妹。兌以少女從震之長男,亦為女歸之象,故曰歸妹。歸妹次漸。按《序卦》:漸者,進也。進必有所歸,故受之以歸妹。漸有女歸之義。歸妹女之歸也。歸妹所以次漸也。
《歸妹》卦は、下体は兌、上体は震(底本は「上兌上震」と作す——前の「上」字は当たりに「下」字の訛)。雷は一たび震動すれば、沢水はそれに隨いて翻涌す——彼此相い從うの象あり。女子の中は年長を「姊」と称し、年少を「妹」と称す。此の卦は兌の少女が震の長男に追隨しに往く——また女子出嫁の象に属す。ゆえに卦の名は《歸妹》。《歸妹》は《漸》卦の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「漸」はすなわち進、進めば必定に歸宿する所有り。ゆえに接いで《歸妹》を安排す。《漸》卦は本よりすでに女子出嫁の意を含み、《歸妹》の講ずるはまさに女子出嫁——これがすなわち《歸妹》の《漸》卦に緊接するの緑由。
全彖以少女從長男,以悅而動非正。六爻自二至五皆不當位。三五皆以柔乘剛。初上雖得正而陽下陰上,故所往皆凶而無利。六爻唯五取帝女下嫁,尚德而不尚飾為最吉。二雖有女德之貞,而不得良配,亦不能成內助之功。初以安分為美,四以愆期為憾。蓋陽爻雖無應,猶喜其有女德也。若三以不正反歸,上以無應不終。蓋陰爻無應,則女之失德者,亦以說而動,必致凶矣。此全卦六爻之大畧也。
整卦の卦辞に就いて見れば、少女が長男に追隨しに往くは、一時の喜悦を憑りて行動す——本身就中來て正當ならず。六爻は二より五に至るまで皆位に当たらず、三と五とまた皆陰柔を以て陽剛の上に騎る。初と上とは爻位は正を得るといえども、却って仍お是れ陽は下に在り陰は上に在り、尊卑顛倒す。ゆえに何れの所に往くを論ぜず皆凶險——一處も便宜を占むるはなし。六爻の中、唯だ六五のみ帝王の女の下嫁して徳行を崇尚して服飾を崇尚せざるを取る——最も吉祥。九二は女子の貞を守るの徳あるといえども、却って好き丈夫に配せられず——則ち内助の功を成就する能わず。初九は安く本分を守るを以て美と為し、九四は婚期を延誤するを以て憾と為す——陽爻はたとい應なきも、仍おそれが女子の該有の徳操を具備するを取るべし。六三に至っては不端正に因りて退回せられ、上六は應なきに因りて始め有りて終わりなし——陰爻は一たび應なければ、便ち是れ徳を失えるの女子、仍お旧として一時の喜悦を憑りて妄動せば、必然に凶險を招致す。これがすなわち全卦六爻の大概なり。
歸妹:征凶,無攸利。妹,少女也。漸曰女歸,自彼歸我娶婦之家也。此曰歸妹,自我歸彼嫁女之家也。兌以少女從震之長男,故曰歸妹。男女相從以正則吉。今上動下悅,以說而動,恣情縱欲者也。自二至五皆不得正,三五又以柔乘剛,初上得位,亦柔上而剛下,皆非室家之宜,故征則必凶。凡占得此皆無所利。夫婦,人道之本。女說男動,位皆不正,何所不至。故諸卦之凶,未有如此之甚者。聖人垂戒之意深切矣。
卦辞——《歸妹》、前往すれば則ち凶、占むべきの便宜なし。「妹」は少女を指す。《漸》卦の説く「女歸」は、女子が彼方より我がここに嫁ぎ來る——娶婦の家に立って説話す。此の卦の説く「歸妹」は、女兒を我がここより彼方に嫁がす——嫁女の家に立って説話す。兌の少女は震の長男に追隨す——ゆえに「歸妹」と曰う。男女は相い從えば、正道に合すればこそ則ち吉。然れども此の一卦は上体は震動・下体は兌悦——喜悦に牽かれて走り、情を縱して欲を逞しくするの樣子。二爻より五爻に至るまで皆正位を得ず、三・五はまた陰を以て陽に乘ず。初と上とは位に当たるといえども、却って依舊として陰は上に在り陽は下に在り——全く家を成家を立てるの常理に合せず。ゆえに一たび往けば必ず凶——凡そ此の卦を占うるは利ある所なし。夫婦は人倫の根本——如今は女子は一味に悦を貪り男子は一味に妄動し、爻位また一も端正ならず——さらに何の荒唐の事は做し出さざるや。ゆえに六十四卦の凶險を論ずるは、此の卦より重きはなし——聖人の垂示告誡するの用意は、深く切なると謂うべし。
彖曰:歸妹,天地之大義也。天地不交,而萬物不興。歸妹,人之終始也。歸,女之終。生育者,人之始。此釋卦之名義而贊其大也。說以動,所歸妹也。說以動,以卦德言之。所歸者妹,女子不由禮也。征凶,位不當也。無攸利,柔乘剛也。諸爻皆不當位,所處不正,故動必凶。以柔乘剛,失尊卑之序,故無所利。
《彖伝》にいう。女子の出嫁は、天地間の大義。天地の二氣は若し交合せざれば、万物は便ち興起するに從らず。女子の出嫁は、まさに人道の終結と開端。いわゆる「終」は、女子の娘家に於いて生活するの了結。いわゆる「始」は、兒女を生み育て人類が繁衍するの開頭。此の一段は卦名の含義を釋し、併せて其の重大を讚美す。「説(よろこ)びて以て動くは、妹を歸する所なり」——「説びて以て動く」は卦徳に就きて論を立つ。下の兌は悦、上の震は動。而して嫁がす所は偏に是れ「妹」——此の女子は禮法に循いて出嫁するに非ざるを説明す。「征すれば凶は、位當たらざればなり。利する所なしは、柔は剛に乘ずればなり」——各爻は大抵位に当たらず、處する所の位置は端正ならず——ゆえに一たび動けば便ち凶。陰柔を以て陽剛の上に凌駕せば、尊卑の次序は顛倒す——ゆえに占むべきの便宜なし。
象曰:澤上有雷,歸妹。君子以永終知敝。雷動澤隨,男動女從之義。男女之道欲其永遠有終,必有以豫知其不終之敝。女子從人以說而動,後必不永其終。當說動之時知其敝,則可以永其終,與君子偕老矣。初九:歸妹以娣,跛能履,征吉。初九居下而無正應,有娣之象。然以剛居剛,女子有賢正之德,能承助其君者。以震為足,兌為毀折,有跛能履之象。以全卦言,為說以動則征凶。以此爻言,得娣之正,故其征吉。
《大象伝》にいう。沢の上に雷の響くあり——此れすなわち《歸妹》。君子は此より懂得す——婚姻をして長久に終わり有らしめんと欲せば、先ず其の敗壞し得べきの處を看清せざるべからず。雷は一たび動けば沢水はそれに隨う——まさに男は動き女は從うの意。男女の道は長久に終わり有るを求めれば、則ち必ず予め彼の善終を得ざらしむるの弊病を看清せざるべからず。女子は人に跟うは只だ一時の喜悦を憑りて動く——往後は必定に始終を保全する能わず。若し心動の當口に於いて弊病を看清せば、かえって能く終身を保住して、君子と白頭して偕老せん。初九の爻辞——女を嫁がして隨嫁の媵妾(ようしょう)を充当せしむるも、跛脚(はきゃく)にして仍お能く歩行す——前往すれば吉祥。初九は最下に居りてまた正應なし——まさに「娣(てい)」(隨嫁の妹・媵妾)の取象。然れどもそれは陽爻を以て陽位に居りて是れ女子にして賢良端正の徳を具備し、能く其の夫主を輔助す。上卦の震は足、下卦の兌は毀折——两象は合さりて便ち「跛にして能く履(ふ)む」。全卦に就いていえば、喜悦を憑りて動けば則ち前往すれば必ず凶。單に此の一爻に就いていえば、それは媵妾の本分を守住せり——ゆえに前往してかえって吉祥。
象曰:歸妹以娣,以恆也。跛能履吉,相承也。恆,常久之德。有嫡有妾,人道之常。謂以九居初也。相承,能承助其君也。以恆,以分言。相承,以德言。九二:眇能視,利幽人之貞。九二陽剛得中,妹之賢者。上有正應而反陰柔不正,所配不良而內助之功不能大顯。二互三四為離為目,陽明而當兌之毀折,故有眇能視之象。
《小象伝》にいう——女を嫁がして媵妾を充当するは、恒常の名分を守ればなり。跛にして能く履みて吉なるは、能く夫主を相承すればなり。「恒」は長久不變の徳性。正妻あり媵妾ありは、本より人倫の常態——ここは陽爻の初位に居りて卑下の分に安處するを指す。「相承」はすなわち能く承接して其の夫主を輔助す。「以て恒なり」は名分の上より説き、「相承」は徳行の上より説く。九二の爻辞——一目はすでに眇(すが)めれども仍お見る能し——幽居して靜を守るの人の如く正を守るに利し。九二は陽剛にして下卦の中に居る——是れ衆妹の中の賢者。上面は正應あるといえども、然れども六五は偏に陰柔にして位に当たらず——配する所は其の人に非ず、内助の功もまた顯揚し出づる能わず。二は三・四と互体して離と成り、離は目——本より陽明の象に属す——然れども又たまさに兌体の毀折に当たる——ゆえに「眇めて能く視る」——一隻の眼は壞れて尚お物を視る能くの象あり。
幽人,抱道守正而不偶者。以男女之象言,則五為二之配。以上下之位言,則五為二之君。二以陽居陰位,居下卦之中,有幽人之象。以九二之剛中上應六五之陰柔,女之賢不遇其夫。猶臣之賢不遇其君也(文瀾本「也」作「者」)。以其所居非正,故又戒之利貞,宜固守其正也。象曰:利幽人之貞,未變常也。幽靜自守,女子之常。
「幽人」は道義を懷抱し獨り正節を守りて配偶なきの人を指す。若し男女の象を按じて説かば、六五は九二の配偶。若し上下の位を按じて説かば、六五はまた九二の君主。九二は陽爻を以て陰位に居り、また下卦の中に處す——ゆえに幽人の象あり。九二の陽剛居中を以て上に六五の陰柔に應ずれば、好比たとえば賢徳の女子は好き丈夫に遇わず、また好比たとえば賢能の臣子は好き君主に遇わず(此の句の末字は文瀾閣本は「者」と作す)。まさに其の居る所の位置は本より正と算せざるに因りて、ゆえに爻辞はまたそれを告誡して「貞に利し」——当たりに牢牢として正道を守住すべし。《小象伝》にいう——幽人の如く正を守るに利しは、常道を變えざればなり。幽靜に自守するは、本より是れ女子の常德なり。
六三:歸妹以須,反歸以娣。須,或作待,或作斯須,皆未當。按《天官》,織女貴而須女賤,今從之。初九在下為娣。六三居下之上,非娣也。然陰柔而不中正,為說之主,女之賤者也。以此于歸,人莫之取,有反歸為娣之象。象曰:歸妹以須,未當也。六居三,賤居貴,柔乘剛,皆未當也。
六三の爻辞——女を嫁がして「須(しゅ)」の身份を以て出ずるも、結果は退回せられて媵妾を充当す。「須」字は、或る人は等待と解し、或る人は片刻の間と解す——皆妥當ならず。《史記・天官書》の載する所の星名に按ずれば、織女星は尊貴にして須女星は卑賤——陳夢雷の取る所は此の一説。初九は最下に處してこそ媵妾——六三は下卦の上位に居り、本より媵妾たるべからず。然れどもそれは陰柔にしてまた中ならず正ならず、還お是れ下卦兌の「悦」の主爻——女子の中の卑賤の一類に属す。此の如きの身份を以て出嫁せば、娶うを肯ずるの人なし——ゆえに退回せられて降りて媵妾と作さるるの象あり。《小象伝》にいう——女を嫁がして「須」の身份を以てするは、未だ當たらざればなり。陰爻は三位に居り、卑賤者は尊位を占め、また陰柔を以て陽剛の上に騎る——様様皆當たらず。
九四:歸妹愆期,遲歸有時。九四有陽剛之德而無正應,有賢女不輕從人、愆期以待時之象。愆期者數,有時者理。非終不歸者也。三四皆失位而三反四遲者,澤善淫而雷動有時也。象曰:愆期之志,有待而行也。志有所待,女德之剛也。
九四の爻辞——女を嫁がして婚期を誤るも、遲く出嫁するは自ら其の時あり。九四は陽剛の徳を具備するも正應なし——まさに賢徳の女子は軽易に人を許すを肯ぜず、寧ろ婚期を錯過して以て時機を等待するが如し。婚期を誤るは命數此の如し——「時あり」は則ち道理の必然、併せて終身嫁がざるに非ず。三と四とは同じく爻位は正を失えるも、然れども六三は退回せられ、九四は只だ延遲するのみ——緑故は下卦の兌は沢にして沢性は放蕩し易く、上卦の震は雷にして雷の震動は自ら時令あるに在り。《小象伝》にいう——婚期を延誤するの心志は、時機を待ちて然る後に行動せんと要すればなり。心の裏に等待する所有るは、まさに女子の徳行の中の剛正なり。
六五:帝乙歸妹,其君之袂不如其娣之袂良,月幾望,吉。卦以歸妹為名,故在九二言上配於五,在六五又言下嫁於二。帝乙,始制帝女下嫁之禮者。六五柔中居尊,下應九二,故有帝乙歸妹之象。五尊,女君之象。初在下,娣之象。袂,臂之飾。陽爻有外飾華美之觀。五六而初九,有其君之袂不如其娣之袂良之象。尚德而不貴飾,女德之盛也,有月幾望之象。小畜中孚之月幾望以位言,陰盛足以抗陽也。此以德言,陰盛足以配陽也。占者如是則吉矣。
六五の爻辞——帝乙は女を嫁がす。彼の女君の衣袖はかえって陪嫁の媵妾の衣袖の華美に如かず。月亮は将に圓ならんとして未だ圓ならず——吉祥。全卦は「歸妹」を以て命名す——ゆえに九二を講ずる時はそれが上に向かいて六五に配すと説き、六五を講ずる時はまたそれが下に向かいて九二に嫁ぐと説く。「帝乙」は最も早く帝王の女の下嫁の禮を制定したるの人。六五は陰柔にして中に居りて尊位に處り、下に九二に應ず——ゆえに帝乙の女を嫁がすの象あり。五位は尊貴——是れ女君の象。初爻は下に在りて是れ媵妾の象。「袂(べい)」は袖口の裝飾——陽爻は外表華美の觀あり。六五は是れ陰爻にして初九は是れ陽爻——ゆえに「女君の袖子はかえって媵妾の袖子に如かず」の象あり。徳行を崇尚して服飾を看重せざるは、まさに女子の徳行の極盛——ゆえに月の満盈に近づくの象あり。《小畜》と《中孚》との講ずる「月幾(き)ばくに望(ぼう)ならんとす」は爻位に就きて説く——陰氣の盛んにして以て陽に抗衡するに足るを指す。此處の講ずる「月幾ばくに望ならんとす」は徳行に就きて説く——陰徳の盛んにして以て陽に匹配するに足るを指す。此の爻を占得すれば便ち吉。
象曰:帝乙歸妹,不如其娣之袂良也。其位在中,以貴行也。有中德之可貴而行,故不尚飾。上六:女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。夫婦共承宗廟祭祀者也。女當承筐篚而無實,士刲羊而無血,皆無以承宗廟之祭矣。震有虛筐之象。兌有羊象。坎為血卦。今上變為離,無血之象。上六以陰柔居歸妹之終,與三無應,約婚而不終者,故有承筐無實、刲羊無血之象。占無所利矣。
《小象伝》にいう——帝乙は女を嫁がす、女君の衣袖はかえって媵妾の好きに如かず——其の位置は中に居り、是れ尊貴の徳行を憑りて行事す。是れ其の中に居るの徳此の可貴の處あるに因りて併せてそれに依りて行う——ゆえに外表の裝飾を看重せず。上六の爻辞——女子は竹筐を捧ぐるも空しく一物なし、男子は羊を宰るも血を見ず——占むべきの便宜なし。夫婦は本より共同に宗廟の祭祀を承奉す——女子は筐を捧げて物を盛るべきに却って空しく、男子は羊を刺して血を取るべきに却って血なし——則ち皆宗廟の祭を承擔する能わず。上卦の震は空筐の象あり、下卦の兌は羊の象あり、坎は血卦。如今上六は一たび変ぜば、上体は離と成りて坎体は存せず——まさに血なきの象。上六は陰柔を以て《歸妹》の末位に處り、六三とまた正應なし——是れ婚を訂するも終わり有る能わざるの人——ゆえに空筐を捧げ羊を刺して血なきの象あり、之を占うるに利ある所なし。
象曰:上六無實,承虛筐也。卦為歸妹言,故象傳不及刲羊無血也。合全卦而論之。以說而動,爻位不正,故皆凶。分六爻而占之。則得中而應剛德者皆吉。二五有應者也。五以得中為尚德,二以得中為守貞。然二應柔而五應剛,故二又不如五也。餘四爻無應,則以本爻有剛德者吉而陰柔者凶。故初以安分而征吉。四雖遲而有時。三以越分而反歸。上以無實而不終。蓋女德能剛則貞也。
《小象伝》にいう——上六は空しく一物なきは、一隻の空筐を捧ぐればなり。整卦は「女を嫁がす」に就きて説を立つるに因りて、ゆえに《小象伝》は只だ筐を捧ぐを提えて、羊を刺して血なきを提えず。全卦を合して論ずれば——喜悦を憑りて妄動し、爻位また端正ならず——ゆえに通体皆凶。六爻を分かちて占えば——凡そ中に居りて而又剛徳に應合するは皆吉、二と五とは則ち正應あるの两爻——六五は中に居るに因りて能く徳行を崇尚し、九二は中に居るに因りて能く貞節を守住す。然れども九二の應ずる所の六五は陰柔、六五の應ずる所の九二は陽剛——ゆえに九二はまた六五に如かず。其の余の四爻は皆正應なし——便ち只だ本爻の自身を看る。陽剛の徳あるは吉、陰柔は凶。ゆえに初九は安く本分を守りて前往して吉を得、九四は遲婚すといえども終に時機あり、六三は本分を僭越するに因りて退回せられ、上六は空虚にして実ならざるに因りて善終を得ず。女子の徳行は、能く剛正なれば則ちまた能く貞を守るを見るべし。
豊(ほう)の卦
豐。豐卦,下離上震。以明而動。動而能明,皆有豐大之意,故為豐。豐次歸妹。按《序卦》:得其所歸者必大,故受之以豐。物所歸聚勢必盛大,豐所以次歸妹也。全彖當豐盛之時,宜守中不使至於過盛。蓋豐則多故,故有戒辭也。
《豊》卦は、下体は離、上体は震。光明を憑りて行動しに往き、行動の中にまた能く明察を保持す——両頭とも盛大の意を含む。ゆえに卦の名は《豊》。《豊》は《歸妹》の後に立つ。《序卦伝》に按ず——歸宿を得たるは必然に壯大す。ゆえに接いで《豊》卦を安排す。万物は歸聚する所有れば、気勢は必定に盛大——これがすなわち《豊》の《歸妹》に緊接するの緑由。整卦の卦辞の講ずるは——まさに豊盛の時に当たりて、当たりに中道を守住して、それをして盛に漲り過ぐるを得ざらしめよ。是れ一たび豊盛なれば、事故もまた多きが故なり——ゆえに卦辞の裏に告誡の語氣を帶ぶ。
六爻以六五為豐之主。五柔暗,故欲得二四剛明之臣。二應五而四比五。初遠五,亦偕四同往以輔乎五。此四爻所以吉也。獨三不從五而遠應上,故至於折肱。至上則處豐之時,自蔽已甚,宜其凶也。此全卦六爻之大畧也。
六爻は六五を以て整个《豊》卦の主爻と為す。六五は陰柔昏暗——ゆえに急に九二・九四の如き剛健明察の臣子を須ちて輔佐せよとす。九二は六五と正應し、九四は六五と緊鄰す。初九は六五を離るること較ほど遠いといえども、また能く九四と一道に往きて六五を輔助す。此の四爻の吉なる所以は、緑故は則ち此に在り。独り九三のみ六五に歸附せずして、かえって遠く上六と相應す——結果は「右臂を折る」の地步に落ち至れり。上六に至っては、身に豊盛の時に處して自我遮蔽するは極点に到れり——凶險は自ら應當なり。これがすなわち全卦六爻の大概。
豐。亨。王假之。勿憂。宜日中。豐,大也。以明而動,盛大之勢。大則有亨道,理勢然也。假,至也。豐盛非王者車書一統不能至此。未至此固無可憂,至此則似可憂。然聖人以為徒憂無益也,當守常不使於過盛,如日之方中可矣。
卦辞——《豊》、亨通す。王者は以て此の一步に到達すべし。憂慮するに及ばず——当たりに正午の太陽の如くあるべし。「豊」はすなわち大。光明を憑りて行動せば、自ら盛大の気勢あり。既に盛大なれば、則ち亨通の理あり——これは情勢の然らしむる所。「假(か)」は至・到達。豊盛は極處に到れば、王者の天下を一統して車は軌を同じくし書は文を同じくするに非ざれば上ぐるに足らず。此の一步に到らざれば固より憂慮すべきなし——真に此の一步に到ればかえって当たりに憂慮すべきに似たり。然れども聖人は以為す——空しく憂慮するは用処なし。只だ常道を守住してそれをして盛に漲り過ぐるを得ざらしめて、太陽の剛ぞ正午に到りたるが如くあれば則ち足れり。
全卦上震下離,有日出東方光明盛大之勢,故有亨象。日之在東,其象非王者不能當,故有王假之之象。坎為加憂。離卦坎之反,有勿憂之象。日自東至中,其勢皆盛,過此則昃矣,故有宜日中之象。日之不能常中者,勢也。宜日中者,聖人持盈虛豐之道也。
全卦は上は震下は離。震は東方に在りて離は日と為る——太陽の東方より升起して光明盛大の気勢あり——ゆえに「亨」の卦象あり。太陽は初め東方に升る——此の氣象は王者に非ざれば以て当たるに足らず——ゆえに「王は之に假(いた)る」の卦象あり。坎卦は「憂を加う」と為り、而して離卦はまさに坎卦の反体——ゆえに「憂う勿れ」の卦象あり。太陽は東方より正中に走り到るに一路皆是れ気勢の上升——正中を過ぎれば便ち西に偏せんと要す——ゆえに「日中に宜しき」の卦象あり。太陽は永遠に正中に停まる能わず——これは自然の勢。而して「日中に宜し」と説くは、則ち聖人の豊盛の時に於いて盈滿を守持し其の傾覆を防ぐの辦法なり。
彖曰。豐,大也。明以動,故豐。明則風微,動則成務,故能致治盛大。以卦德釋卦名義也。王假之,尚大也。勿憂宜日中,宜照天下也。尚大,當豐之時,所尚自大。猶不期而自侈,所以可憂也。如日之常普天下,則可以保其豐。不然徒憂無益也。日中則昃,月盈則食,天地盈虛,與時消息。而況人於人乎,況於鬼神乎。日中有必昃之勢。故當豐之時者,不可有過中之心。
《彖伝》にいう——「豊」とは、大なり。明にして而又能く動けば、ゆえに能く豊なり。明なれば則ち細微幽隱の處もまた照らすに到り、動けば則ち事功は以て成就す——此に因りて能く盛大の治世を造成す。これは卦徳を以て卦名の含義を釋す。「王は之に假るは、大を尚べばなり。憂う勿れ日中に宜しきは、以て天下を照らすに宜しければなり」——いわゆる「大を尚ぶ」は、説く、まさに豊盛の時に当たりて、崇尚する所は自然に宏大に趨きて、往往不知不覺に奢侈し起これり——此れこそ憂るべきの處。若し能く太陽の普く天下を照らすが如く長久に光明を保持せば、豊盛は則ち守り住むを得べし。此の點を做し得ざれば、光に愁を發して毫も用処なし。「日は中すれば則ち昃(かたむ)き、月は盈(み)てば則ち食す。天地は盈虚し、時と與に消息す」——天地は尚お時序に隨いて盈に虚あり消に長あるに、況んや是れ人をや。況んや是れ鬼神をや。太陽は正中に到れば則ち必定に西斜す——ゆえに身に豊盛の時に處するの人は、過の中に盈を求むるの念頭を存すべからず。
象曰。雷電皆至。豐。君子以折獄致刑。折獄,象電之照。致刑,象雷之威。噬嗑明罰勅法,詳審立法,使人不敢犯也。折獄致刑,明察下情,使人有所懲也。初九。遇其配主。雖旬無咎。往有尚。凡卦爻取剛柔相應,此則取明動相資。蓋全卦以五為豐之主,五方柔暗,欲得剛明之臣以自輔。初遠於五而與四應。四,初之配也。故有遇其配主之象。旬,均也。初四皆陽,均敵非應之正。然同有陽剛之德,明動相資,故雖旬而無咎。同德共事,往以輔五,必有功矣,故曰往有尚。象曰。雖旬無咎,過旬災也。旬則與配均,可以相濟。初在下僚,道宜如此。當豐之時,求勝其配則有災。此雖爻辭外之意,亦即不過中之義也。
《大象伝》にいう。雷と電と一齊に到來す——此れすなわち《豊》。君子はそれに取法して、用いて獄訟を判斷し刑罰を施行す。獄訟を判斷するは、閃電の照徹に象を取る。刑罰を施行するは、雷霆の威嚴に象を取る。《噬嗑》卦の講ずる「罰を明らかにし法を勅(ただ)す」は、周詳審愼に法令を訂立して人をして犯觸するを敢えてせざらしむるを重んず。《豊》卦の講ずる「獄を折り刑を致す」は、明察して下情し據實斷案して人をして懲戒を受けしむるを重んず。初九の爻辞——彼と相配するの主人に遇う——两人の勢力は均等なるも過錯なし、前往すれば嘉許を受けん。一般の卦爻の取象は、講ずるは陽剛と陰柔と互いに感應す。此の一卦は却って「明」と「動」と互いに憑借するを取る。是れ全卦は六五を以て豊の主爻と為し、六五はまさに陰柔昏暗に当たりて、急に剛健明察の臣子を須ちて自己を輔助せよとするが故なり。初九は六五を離るること遠いも、却って九四と相應す——九四はすなわち初九の配偶——ゆえに「其の配主に遇う」の象あり。「旬(しゅん)」は均等の意。初九と九四とは同じく陽爻——是れ勢均力敵、併せて一陰一陽の彼の種の正當の相應に非ず。然れども两爻は同じく陽剛の徳を具し、一つは離体の明に属し一つは震体の動に属して彼此憑借す——ゆえにたとい勢均なるも過錯なし。徳性相同じくして事を共にし、一同に往きて六五を輔佐せば、必定に功を建てん——ゆえに「往きて尚(たっと)ばるるあり」と説く。《小象伝》にいう——勢均なるも咎なきは、旬を過ぐれば則ち災あればなり。勢均力敵してこそ、互いに成濟するを談ずるを得べし。初九は身に下位小官に在りて、本來当たりに此の如く自處すべし。まさに豊盛の時に当たりて、若し一心に自己の同輩を壓倒せんと想えば、則ち災を招かん。此の层の意思は爻辞の外に在るに雖も、其の實は仍お是れ「中を過ぐべからず」の道理。
六二。豐其蔀。日中見斗。往得疑疾。有孚發若。吉。蔀,障蔽也。來注作草名。今按,宜作亂草障蔽為是。震為蕃草,故以取象。南北斗形皆如量,故名斗。震亦有斗象。大其障蔽,日中而昏,則斗可見矣。六二當豐之時,離明之主而上應六五柔暗之君,故有豐其蔀、日中見斗之象。二以陰居而五又陰,故有往得猜疑疾惡之象。然二有文明之德,中虛之誠。人皆信之,終當有以發其蔀而行其志,故有有孚發若之象。占者如是則吉矣。
六二の爻辞——遮蔽の草席はますます鋪き大きく、正午の時分にかえって北斗を見る。前往すれば猜疑厭惡を招來せん——然れども只だ誠信を以て感發しに往かば、則ち吉祥。「蔀(ほう)」は遮蔽の物。來知徳の注解はそれを一種の草の名と説く——陳夢雷は以為す、還お當たりに亂草の編成したる遮蔽物と作すを妥と為す。上卦の震は蕃茂の草——ゆえに此の象を取る。南斗・北斗は形狀は皆米を量るの斗に象り——此に因りて名を得たり。震卦もまた斗の象を含む。遮蔽はますます鋪き大きく、正午の時に天色はかえって昏黑し、北斗は自然に見えるを得——六二はまさに豊盛の時に当たり、本身是れ下卦離明の主爻、上に向かっては却って六五此の位の陰柔昏暗の君主に應ず——ゆえに「其の蔀を豊かにし、日中に斗を見る」の象あり。六二は是れ陰爻、六五は又是れ陰爻——同類は相い處して相い濟さず——ゆえに前往してかえって猜疑厭惡を招くの象あり。然れども六二は文明の徳を具備し、また虚中して実ならざるの一片の誠意あり——人人は皆それを信服して、終究に能く彼の层の遮蔽を揭开して自己の志向を施行せん——ゆえに「孚ありて若(ごと)く發す」の象あり。此の爻を占得すれば便ち吉。
象曰。有孚發若,信以發志也。取信於君,可以發其心志矣。九三。豐其沛。日中見沬。折其右肱。無咎。沛,作旆,幡幔也。蔽甚於蔀矣。沬,小星也。三與上應。上柔暗失中,蔽甚於五。則三之所見甚於斗。故有豐沛見沬之象。三欲應上,而上之陰柔無位不可有為。又此爻變為艮,艮為手。未變陽爻為右。三四五互為兌為毀折。有折其右肱之象。以有用之才,置無用之地。上之不可有為,非三之咎也。
《小象伝》にいう——孚ありて發すは、信を以て志を開けばなり。君主の信任を取得してこそ、自己の心志は施展して開くを得べし。九三の爻辞——遮蔽の幔帳はさらに大きく張られ、正午の時分に小星を見る。右臂を折断す——過錯なし。「沛(はい)」は当たりに「旆(はい)」と作すべし——垂挂の幡幔、遮蔽の程度は「蔀」よりさらに甚だし。「沬(まい)」は小星。九三は上六と相應す——而して上六は陰柔にしてまた中位を失えり、昏暗遮蔽は六五よりさらに重し。ゆえに九三の見る所は六二の見たる北斗よりもなお暗し——小星すら皆見ゆ——此に因りて「豊沛にして沬を見る」の象あり。九三は本より上に上六に應ぜんと想うも、無奈上六は陰柔にして位なきの地に處して、何事をも做し成す能わず。加うるに此の爻は若し変ぜば則ち下体は艮と成り、艮は手。未だ變ぜざる時は是れ陽爻、陽は右、三・四・五は互体して兌と成り、兌は毀折——合さりて便ち「其の右肱(こう)を折る」の象と為る。これは有用の才を無用の地に安放するに等し。上六は作為有る能わず——責任は併せて九三に在らず——ゆえに「咎なし」と説く。
象曰。豐其沛,不可大事也。折其右肱,終不可用也。保豐大事,非柔暗者所能。人作事在右肱。上以三為右,則上為左。右折,則左亦不可用。九四。豐其蔀。日中見斗。遇其夷主。吉。九四上承六五之暗主,己又居陰,剛明不足,故象與六二同。夷,等夷也,指初九。初以下偶上,視四為配。四以上就下,視初為夷。九四剛而明不足。初剛在下,離體至明。資以輔五,則豐盛之治可保,宜其吉也。
《小象伝》にいう——幔帳は彼の如く大きく張られりは、以て大事を辦る能わざればなり。其の右肱を折るは、終に用に派する能わざればなり。豊盛を保住するは大事——決して陰柔昏暗の人の辦り得る所に非ず。人の事を做すは全く右臂に靠る。上六に對して言えば九三は其の右臂——然らば上六の自己は則ち左臂と成る——右臂は一たび折れれば、左臂もまた從りて力を使うに由なし。九四の爻辞——遮蔽の草席はますます鋪き大きく、正午の時分に北斗を見る。彼と地位相當の主人に遇う——吉祥。九四は上面は六五此の位の昏暗の君を承接し、自己又た陽爻を以て陰位に居り、剛健明察は皆足らず——ゆえに爻象は六二と相同じ。「夷(い)」は同輩・地位相當の意——初九を指す。初九は下より自りて上に配し、九四を把りて「配」と看作す。九四は上より自りて下に就き、初九を把りて「夷」と看作す。九四は剛あるも明察足らず、初九は陽剛にして下に在り、また離体に属して極めて明なり——其の力量を借りて一同に六五を輔佐せば、豊盛の治は便ち以て保全すべし——其の吉を怪むに及ばず。
象曰。豐其蔀,位不當也。日中見斗,幽不明也。遇其夷主,吉行也。不中不正,不當也。比陰居陰,不明也。六二中正,不得言不當。以應五,故豐蔀耳。六二以陰居陰,幽不待言。九四以陽居陰,幽與二同。故象傳不釋於六二而於此釋之。下求於初為行。震性動,有行象。得人以事君,行則吉矣。
《小象伝》にいう——其の蔀を豊かにするは、位當たらざればなり。日中に斗を見るは、幽にして明ならざればなり。其の夷主に遇うは、吉行なればなり。九四は中に居らずまた位に当たらず——ゆえに「當たらず」と説く。陰爻に緊鄰して自身は陰位に居る——ゆえに「明ならず」と説く。六二は本より中正の爻——其の位置は當たらざると説く能わず。其のまた「其の蔀を豊かにす」る所以は、只だ上に六五此の位の昏君に應ずるが故のみ。六二は陰爻を以て陰位に居り——幽暗は自ら言を俟たず。九四は陽爻を以て陰位に居り——其の幽暗は六二と一様。ゆえに《小象伝》は六二の處に於いて「幽明ならず」を釋せず、偏に留めて此の一爻に到りて之を釋す。九四は下に向かいて初九に助力を求む——すなわち是れ「行」。九四は震体に属し、震性は動を主どる——ゆえに「行」の象あり。幇手を得て來たりて共同に君に事えれば、此の行は自然に吉祥。
六五。來章。有慶譽。吉。六五質雖柔暗,若能來致天下之明,則有慶譽而吉矣。章指二。而初與四亦在所來。二雖質柔致疑,然離體文明,亦章也。自二之五曰往,自五之二曰來。初與四雖非應,然保豐盛之治,非有剛明之才不能。四比五而初應四。四以位柔不足,求初共輔之,皆可以保豐。然使五非柔中虛己以來之,則慶譽無由致矣。慶集於身,譽流天下,所以吉也。象曰。六五之吉,有慶也。言慶則譽可兼。
六五の爻辞——文采あるの才を招來せば、則ち福慶と美譽とあり——吉祥。六五の資質は陰柔昏暗なるといえども、若し能く天下の明智の士を招引し來たれば、便ち福慶美譽ありて吉を得ん。「章(しょう)」は九二を指す。不過初九と九四もまた招せらるるの列に在り。九二は資質は柔弱にして人の猜疑を招くといえども、然れどもそれは離体に属して文明——同じく「章」と称すに足る。二より五に往くを「往」と曰い、五より二に就くを「來」と曰う。初九と九四とは六五と本より正應に非ず。然れども豊盛の治世を保住せんと要せば、剛健明察の才あるに非ざれば可ならず。九四は六五に緊鄰し、初九はまた九四と相應す。九四は陰位に居るに因りて力量足らず、便ち往きて初九を求めて一同に輔佐す——两人は皆豊盛を保住するを幇すを得。然れども假如し六五は能く柔中の徳を以て虚心に彼らを請い來たらざれば、福慶美譽は終究に獲致するに從らず。福慶は己身に聚り、美譽は天下に傳遍す——ゆえに吉祥。《小象伝》にいう——六五の吉は、慶あればなり。既に「慶」を説けば、「譽」もまた其の裏頭に包含せり。
上六。豐其屋。蔀其家。闚其戶。闃其無人。三歲不覿。凶。以陰柔居豐之極,動之終。所處既高,有豐其屋之象。質本柔暗,有蔀其家之象。變離中虛,又陰質空虛,有闚其戶闃其無人之象。九三正應,以上九障蔽之深,莫與為用。相去三爻,又離居三,有三歲不覿之象。全卦宜日中。二五日中之位。初四未及乎中。三上皆過乎中者也。而上又以動體之終處豐之極,故凶最甚也。象曰。豐其屋,天際翔也。闚其戶闃其無人,自藏也。上六之豐其屋者,不過欲以自高,如飛翔於天際而己不知,適以自蔽其家而空其門。昏昧自高,人皆棄之。非人之遠己,乃己之遠人,是自藏也。
上六の爻辞——屋宇を造ること高大にして、却って家裏を遮りて漆黑と為す。門の縫より張望すれば、靜悄悄として一人をも見ず、三年は面を見るに到らず——凶險。上六は陰柔を以て豊盛の頂點・震動の体の末尾に處す。位置は既に高ければ、便ち「其の屋を豊かにす」の象あり。資質は本來陰柔昏暗なれば、便ち「其の家を蔀す」の象あり。此の爻は一たび変ぜば、上体は離と成りて中間虚空、加うるに陰爻は本より就中來て空虚——便ち「其の戸を窺(うかが)えば、闃(げき)として其の人なし」の象あり。九三は本より其の正應なるも、只だ上位は遮蔽するや深きに因りて、それと事を共にするを肯ずるの人なし。上六と九三とは三爻を相距り、加うるに互いに離は恰好に第三位に居る——ゆえに「三歲覿(み)えず」の象あり。全卦は「日中」を以て宜しと為す。二と五とはまさに日中の位に当たり、初と四とはなお中位に到らず、三と上とは却って皆中位を過ぎたり。而して上六はまた震動の体の終点を以て豊盛の極点に處す——ゆえに凶險は最も重し。《小象伝》にいう——其の屋を豊かにするは、天の際に飛翔するに似たり。其の戸を闚れば其の人なきは、自ら藏するなり。上六は高屋を造起するは、不過自己を抬高せんと想うのみ——好比たとえば天辺に飛翔するが如く——然れども知らず此の如く做すは恰好に家を遮りて一團の漆黑と為し、門庭を弄りて空空荡荡と為す。昏昧無知にして一味に自ら高し——人人は皆彼を離棄せん。これは併せて別人の彼を疏遠するに非ず、而して是れ彼の自己が他人を疏遠したり——ゆえに「自藏」と曰う。
全卦以明動相資而成豐。彖有王假之言,唯有天下者可當此象。故六爻以五為主。而他爻皆宜輔五以保其豐,故不拘爻位之相應也。保豐之道宜於日中。三與上皆過中,故三折肱而上無人。獨取於初二與四也。
全卦を通觀すれば、是れ「明」と「動」と互いに憑借するに靠りてこそ豊盛を造成せり。卦辞は既に「王は之に假る」の一句あれば、只だ天下を據有するの人のみこそ此の一卦の氣象に当たるを得るを見るべし。ゆえに六爻は皆六五を以て主と為し、其の余の各爻は皆当たりに六五を輔佐して以て豊盛を保住すべし——此に因りて本卦の爻を論ずるは陰陽相應の常例に拘泥せず。豊盛を保住するの辦法は「日中」を守住するに在り。九三と上六とは皆すでに中位を過ぎたり——ゆえに九三は右臂を折り、上六は門庭に人なし。全卦の取るべきは只だ初九・六二と九四の三爻のみ。
五既陰柔,輔五者貴有陽剛之德。二雖正應而質柔,必孚而後能發。四雖材剛而位柔,必遇初乃可共濟。初雖陽剛得正,猶必待配主之遇,又凜過旬之戒。國家當全盛之日,持盈保泰之道不出於廟堂,而賴於疎遠之小臣,而遭遇之不偶又如此。欲天下之常豐,豈易言哉。
六五は既然として陰柔なれば、それを輔佐するの人は陽剛の徳を具備するを貴ぶ。六二は六五と正應するといえども、資質は却って柔弱——必ず先ず君に取信して然る後に能く感發する所有らん。九四は材質は剛強なるといえども、處する所の位置は却って陰柔——必ず初九に遇上してこそ能く同舟共濟せん。初九は陽剛にして正を得るも、また還お配主と相遇うに到るを待ち、併せて時時に「旬を過ぐべからず」の告誡を凛遵せんを要す。一箇の国家はまさに全盛の日に当たりて、盈滿を守持し安泰を保全するの辦法は、竟お朝堂の上に出でず、かえって疏遠の小臣を仰仗せざるべからず。而して此の等の人際の遇合はまた此の如く艱難不偶なり。天下をして長く豊盛を保たしめんと欲すれば、豈に容易に説くべきの事ならんや。
旅(りょ)の卦
旅。旅卦,下艮上離。山止於下,火炎於上。去其所止而不處,為旅之象。又入而麗乎內則為家人,出而麗乎外則為旅。旅卦次豐。按《序卦》:豐,大也。窮大者必失其居,故受之以旅。失居遂至覊旅,旅所以次豐也。全彖以處旅本無大通,雖亨亦小。然道無不在,不可以暫時而苟且,故必守正乃吉也。六爻則旅之道以得中為善。卑則取辱,高則召禍。初卑,故有瑣瑣之災。三居下之上,焚次喪僕。上居上之上,焚巢喪牛。皆高之過也。四雖無太高太卑之失而未得中,故心亦不快。唯二以得中而懷資得僕。五以得中而譽命。然五不當位,猶不免於矢亡。然則居旅之善,唯六二乎。
《旅》卦は、下体は艮、上体は離。山は下面に停止して動かず、火は上面に炎騰して停まらず——火は其の依附する所の地を離れて停留するを肯ぜず——これがすなわち「旅」(外に在りて羈旅す)の象。さらに説く、内に附麗するは《家人》、外に附麗するは便ち《旅》。《旅》卦は《豊》の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「豊」はすなわち大、大を極處に推するの人は必定に其の居所を失う。ゆえに接いで《旅》卦を安排す。居所を失えば便ち淪じて羈旅と為る——これがすなわち《旅》の《豊》卦に緊接するの緑由。整卦の卦辞の意思は——身に羈旅に在れば、本より大通を談ずべからず、たとい亨通するも只だ是れ小亨。然れども道理は處に在らざるなし——只だ暫時寄居するのみなるを以て苟且随便する能わず。ゆえに必ず正を守ってこそ吉。六爻は則ち「中を得」を以て旅に處るの上策と為す——位置は太く卑しければ羞辱を招き、太く高ければ禍端を惹く。初六は太く卑し——ゆえに瑣屑にして災を取るの患あり。九三は下卦の頂端に處して、旅舍の焚かるる・童仆の喪失せらるるに落ち至れり。上九は上卦の頂端に處して、鳥巢の焚かるる・牛只の走失せらるるに落ち至れり——此の两爻は皆是れ之を高きに失す。九四は太く高く太く卑しきの毛病なきといえども、却ってまた中を得ることなし——ゆえに心の裏は終究に痛快ならず。唯だ六二のみ中を得るに因りて既に資財を懷けまた童仆を得、六五は中を得るに因りて美譽と爵命とを獲す。然れども六五は畢竟に位に当たらず——仍お一箭を射失するの損耗を免れず。此の如く見れば、羈旅に處りて最も善きは、則ち只だ六二なるべし。
旅。小亨。旅貞吉。按,本義,山止於下,火炎於上。為去其所止而不去之象,故為旅。按,大全,山止而不動,旅館之象。火動而不止,旅人之象。二說皆通。六五得中而順上下之二陽,艮止而麗於明,佔有亨道。但在旅,則雖亨亦小耳。六爻唯六二居中得正為最善。蓋道無不在,不可以偶然覊旅而苟且,必守正則吉也。
卦辞——《旅》、小く亨通あり。羈旅の中に正を守れば則ち吉。朱熹《本義》の講法に按ず——山は下面に停まり、火は上面に炎す——依附する所の處を離れて又た併せて真に走去らざるの象。ゆえに「旅」と曰う。さらに《周易大全》の講法に按ず——山は靜止して動かず、まさに旅館に象る。火は動きて停まらず、まさに旅客に象る。两種の説法は皆講じて通ず。六五は陰柔にして中を得て上下の两箇の陽爻に順承し、下卦の艮は止にして上卦の離は明——占断に就いて説けば亨通の理あり。只だ是れ身に羈旅に在れば、たとい亨通するも不過是れ小亨。六爻の中は唯だ六二のみ中に居りて而又正を得——最も妥善。是れ道理は處に在らざるなれば、只だ偶然に異郷に作客するを以て随便苟且する能わず——必ず正を守ってこそ吉なればなり。
彖曰。旅,小亨,柔得中乎外而順乎剛。止而麗乎明,是以小亨旅貞吉也。以卦綜言之。豐下卦之離得中於外卦,順乎二剛。覊旅之人得托援,雖在覊旅可小亨矣。以卦德言之。下艮止而上離麗乎明。非賢不主,非善不與,所謂於止知其所止者,貞而得吉矣。旅之時義大矣哉。旅之亨小,而其時義則大。義莫大於貞。高則取禍,卑則取辱。唯貞則吉。時義之大如此,人未可忽之也。
《彖伝》にいう——《旅》の小亨は、陰柔は外卦に於いて中を得て陽剛に順うが故なり。下は止まりて上は光明に附麗す、ゆえに小亨、旅して貞なるは吉なり。此の几句は先ず「卦綜」より説く。《旅》は倒轉すれば則ち《豊》——《豊》の下卦の離は翻り上がれば便ち《旅》の外卦に於いて中を得、上下に九四・上九の两箇の陽爻に順承す。羈旅の人は依托援助を得る能くば、客中に在るもまた以て小く亨通すべし。さらに卦徳より説く。下卦の艮は止、上卦の離は光明に附麗す——賢者に非ざれば投奔せず、善處に非ざれば交結せず——まさに《大学》のいわゆる「止に於いて其の止まる所を知る」、正を守りて因りて吉を得たり。「旅の時義は大なるかな」——羈旅の得べきの亨通は小なるといえども、其の時に隨いて世に處するの義理は却って大なり。而して此の義理は「正を守る」より大なるはなし。位置高ければ則ち禍を招き、位置低ければ則ち辱を受く——唯だ正を守ってこそ吉。時義は重大なること此の地步に到れば、人は軽忽すべからざるなり。
象曰。山上有火。旅。君子以明慎用刑,而不留獄。慎刑如山,不留如火。取其止以為慎,取其火以為明也。此於旅之義無與,但取火在山上之象耳。初六。旅瑣瑣。斯其所取災。當旅之時,陰柔居下。不務遠大,局於瑣屑。有瑣瑣取災之象。象曰。旅瑣瑣,志窮災也。其志猥陋窮迫,自取災也。
《大象伝》にいう。山の上に火あり——此れすなわち《旅》。君子はそれに取法して、明察審愼に刑罰を使用し、併せて案件を拖延積壓せず。審愼に刑を用うるは山の如く沈穩、案件を拖延せざるは火の如く迅疾。艮の「止」を取りて以て其の愼を見、離の「火」を取りて以て其の明を見る。此の一层は「羈旅」の卦義と併せて關渉なし——只だ火の山の上に在る此の卦象を取るのみ。初六の爻辞——羈旅の中に猥琐に計較す——これがまさに自ら災禍を取るの道。まさに羈旅の時に当たりて、初六は陰柔にして最下に居り、長遠宏大に着眼するを肯ぜず、盡く細碎の小事の上に打轉す——ゆえに猥琐にして災を取るの象あり。《小象伝》にいう——旅して琐琐(ささ)たるは、志窮まりて災あればなり。其の心志は卑陋窘迫せば、災禍は自然に是れ自ら招き来たれり。
六二。旅即次。懷其資。得童僕貞。六二以陰居陰得正。又艮為門,二居其中。有即次得安之象。陰主利而二居中,互巽為利市三倍,有懷其資之象。艮為少男而二居中得正,有得童僕貞之象。即次則安,懷資則裕。得童僕之貞,則無欺而有賴。旅之最吉者也。象曰。得童僕貞,終無尤也。童僕之貞最難,故象傳獨言之。
六二の爻辞——羈旅の中に客舍に住み入り、身上に盤纏を帶び、還お忠貞可靠の童仆を得たり。六二は陰爻を以て陰位に居りて正を得、また下卦の艮は門闕——六二はまさに其の中に處す。ゆえに客舍に住み入り安頓するの象あり。陰は財利を主どりて六二は中に居り、二より四爻は互いに巽——《説卦》に巽を「近く市利三倍せしむ」と称す——ゆえに資財を懷帶するの象あり。艮は少男にして六二は中に居りて正を得——ゆえに忠貞の童仆を得るの象あり。客舍に住み入れば則ち安穩、盤纏を帶ぶれば則ち寬裕、忠貞の童仆を得れば便ち欺瞞を受けずして依靠する所有り——これは羈旅の中の最も吉なるの一爻。《小象伝》にいう——其の仆の貞を得は、終に尤(とが)なければなり。童仆の能く貞なるか否かは最も指望し難し——ゆえに《小象伝》は單に此の一句を提出して講ず。
九三。旅焚其次。喪其童僕。貞厲。九三與六二相反。二柔而中正,故即次。三過剛不中,上近於離,故有棼次之象。二居中乘柔,故得僕。三過剛無徒,又下之柔已為二所得,有喪僕之象。九居三,於爻雖貞,於旅則厲也。象曰。旅焚其次,亦以傷矣。以旅與下,其義喪也。在旅與下過剛,義當喪僕。
九三の爻辞——羈旅の中に客舍は焚かれ、童仆を喪失す——正を守るも危険。九三は六二と恰好に相反す。六二は陰柔にして中正——ゆえに能く客舍に安住す。九三は陽剛太過にしてまた中に居らず、上に向かってはまた離火に逼近す——ゆえに客舍の焚かるるの象あり。六二は中に居りて陰柔に乘承す——ゆえに能く童仆を得。九三は剛強にして過分にして相い從うの人なし、加うるに下面の陰柔はすでに六二に占去せられたり——ゆえに童仆を喪失するの象あり。陽爻は三位に居るは、爻位に就いて説けば位に当たりて正を守ると算す——然れども羈旅の處境の裏に放れば則ち危険なり。《小象伝》にいう——旅して次(やどり)を焚(や)かるは、また以て傷えるなり。僕を喪うは、其の義なり。身に客中に在りて下人に對して一味に剛暴なれば、理に按じて則ち童仆を失掉すべし。
九四。旅于處。得其資斧。我心不快。九四以陽居陰,在上之下,用柔而能上(文瀾本「能上」作「能下」)者,故有旅于處之象。非其正位,故不曰次而曰處。非其次舍,暫時棲息者也。得資足以自利,得斧足以自防。四互巽為資財,又離為戈兵,有得其資斧之象。然旅雖有處,勝於三之焚次,終不若二之即次也。得資斧,勝於三之喪僕,亦不若二之得童僕貞也。九以剛明之才,處近君之地,不能得位以有為,而在覊旅之中,所以心不快也。
九四の爻辞——羈旅の中に一處の棲身の地を尋得し、盤纏と防身の斧子とを得たり——然れども我が心の裏は併せて痛快ならず。九四は陽爻を以て陰位に居り、上卦の最下に處す——是れ能く柔道を運用して下に俯就するの人(此の句は文瀾閣本は「能く下る」と作し、義は較ほど長ず)——ゆえに暫く一處に寄るの象あり。ここは併せて其の正位に非ず——ゆえに「次(やどり)」と説かずして「處(棲身の地)」と説く——併せて正經の旅舍に非ず、只だ暫時歇脚するのみ。盤纏あれば以て自ら養うに足り、斧子あれば以て自ら衛るに足る。三より五爻は互いに巽、巽は資財。上卦の離は戈兵——合さりて便ち「其の資斧を得」の象と為る。然れども羈旅は落腳處箇あるといえども、九三の客舍の焚かるるに比ぶれば是れ強し、終究に六二の堂堂正正に客舍に住み入るには如かず。盤纏斧子あるは、九三の童仆を喪失するに比ぶれば是れ強しも、また六二の忠貞の童仆を得るには如かず。九四は剛健明察の才を以て、また君主に接近するの位置に處するに、然れども正位を得て作為有る能わず、かえって羈旅の中に困る——ゆえに心の裏は痛快ならず。
象曰。旅于處,未得位也。得其資斧,心未快也。九居四,非所安之位。六五。射雉。一矢亡。終以譽命。六五處離之中。文明得中,有射雉之象。矢,剛物。六居五失剛。又坎有矢象。離,坎之反。有一矢亡之象。然柔順文明,又得中道。火體光明,其性炎上。互得兌巽。兌為口為譽,巽為命令,有譽聞外著、寵命自上之象。其始不無亡矢之費而所喪不多,終有譽命也。
《小象伝》にいう——旅して處(とま)るは、いまだ位を得ざればなり。其の資斧を得は、心いまだ快からざればなり。陽爻は第四位に居るは、本より其の身を安んずるの位置に非ず。六五の爻辞——山鶏を射る、一支の箭を損失す——最終に美譽と爵命とを獲す。六五は上卦離の正中に處して文明にして又た中を得——ゆえに雉を射るの象あり——離は雉と為る。「矢」は剛硬の物、六は是れ陰爻にして五位に居りて剛を失えり。加うるに坎卦は本より矢の象あり、而して離はまさに坎の反体——ゆえに「一矢亡ぶ」の象あり。然れども六五は柔順にして文明、また中道に居る。離は火——体性は光明にして炎上す。三より五爻と二より四爻とは互いに兌・巽の两体を得、兌は口にして譽、巽は命令——合さりて便ち聲譽は外に揚がり恩寵の命は上より來るの象と為る。起初は一箭を損失するを免れざるといえども、然れども損失は有限——最終に仍お美譽と爵命とを得。
時解或作人君居文明之位,使賢者旅進。雖不無弓旌之費,而有得賢之譽,上承天命。或作士人覊旅以取功名,雖不無資斧之費而終得眾譽,膺君命令。按,二說皆不必拘。大抵人君無旅,旅則失位(文瀾本「位」作「國」)。故不取人君之義,唯以覊旅言之。占者則或君或臣,隨事為占。要之始雖小失,終有所獲也。
時人の解說には、此の一爻を君主は文明の位に居りて賢者を招致して接續して進用せしむるに講ずる者有り——聘賢に用うるの弓旌此の類の花費を免れざるといえども、却って賢を得るの美名を換得して上に天命を承く。また士人が客遊して外に在りて以て功名を博取するに講ずる者あり——盤纏の耗費を免れざるといえども、終究に衆人の稱譽を獲得して君主の任命を領受す。陳夢雷は以為す——此の两説は皆拘執するに及ばず。大体は君主は「旅」と謂うべきはなし、一たび羈旅と成れば則ち位を失うに等し(此の字は文瀾閣本は「国」と作す——国を失うを謂う)。ゆえに此の一卦は君主の義を取らず、只だ羈旅に按じて説を立つ。占問するの人に至っては、或いは君或いは臣に為るも、各々其の事に隨いて斷を取る。総じて帰する所は開頭に小小なる損失あるといえども、最終に必ず獲得する所有らん。
象曰。終以譽命,上逮也。火性炎上,有上逮之象。自人臣言,上逮為得君。人君言之,自人君言之,上逮為得天,皆不必拘。上九。鳥焚其巢。旅人先笑後號咷。喪牛于易。凶。離為飛鳥又為科上槁,而火性炎上,有鳥焚巢之象。火有聲,有笑號之象。又應三為兌說,先笑之象。上變為震動,號咷之象。離為牝牛,上九驕而不順,又震為大塗,有喪牛于易之象。上九過剛,處旅之上,離之極,故象如此。
《小象伝》にいう——終に命を以て譽せらるるは、上に逮(およ)べばなり。火性は炎上——ゆえに上に向かいて通達するの象あり。臣子此の一面より説けば、「上に逮ぶ」は君主の賞識を得るなり。君主此の一面より説けば、「上に逮ぶ」は天命を承受するなり——皆拘泥するに及ばず。上九の爻辞——鳥巢は火に焼かれ、羈旅の人は先ずは歡笑して後に号咷(ごうとう)し、邊邑に於いて牛を失う——凶險。離は飛鳥——《説卦》にまた離を「科上槁(かじょうこう)」と為すと説く(中空にして上端は枯干——まさに樹巢に象る)。加うるに火性は炎上——ゆえに鳥巢の焚かるるの象あり。火は燃焼して聲あり——ゆえにまた笑いまた號くの象あり。上九は下に九三に應じ、九三は兌体に属して悦——ゆえに「先ず笑う」の象あり。上九は一たび変ぜば則ち震と成り、震は動——ゆえに「号咷」の象あり。離は母牛、上九は驕慢にして柔順ならず、震はまた大道と為る——合さりて便ち邊地に於いて牛を失うの象あり。上九は陽剛太過にして、羈旅の頂端・離火の極点に處す——ゆえに爻象は此の如し。
三與上應,皆以剛居上。三承九四之離,他人焚之也。上居離極,自焚也。同人親也,故先號咷後笑。旅親寡,故先笑後號咷。三焚次,巢尚在,猶可歸也。喪僕,牛尚存,猶可行也。今巢焚則欲歸無所,牛喪則欲行無資,凶之甚矣。象曰。以旅在上,其義焚也。喪牛于易,終莫之聞也。
九三と上九とは本より相應するも、两爻は皆陽剛を以て各々其の体の上位に居る。九三は上に九四の在る所の離体を承く——是れ別人に焼かるる者。上九は身に離火の極点に處す——是れ自ら自を焼く者。《同人》卦の講ずるは親近相い得——ゆえに「先ず号咷して後に笑う」。《旅》卦の講ずるは親人稀少——ゆえにかえって「先ず笑うて後に号咷す」。九三は只だ客舍の焚かるるのみ、巢は還お在りて尚お囘るを得。只だ童仆を喪うのみ、牛は還お在りて尚お行くを得。如今上九は巢もまた焼かれて囘らんと欲するも歸る處なく、牛もまた失いて行かんと欲するも脚力なし——凶險は極点に到れり。《小象伝》にいう——旅を以て上に在るは、其の義焚かるるなり。牛を邊に喪うは、終に之を聞く莫きなり。
旅而過高,豈能安居,義有焚巢之事矣。驕亢不順,禍生所忽而不自覺,故曰莫之聞也。全卦當旅之時,不宜用剛,故陽爻三皆不利。而柔又貴於得中。故初不及乎中,亦不免於災。柔順中正,唯二得貞吉之義。而五之居剛,亦不免於亡矢。則旅道之難言也。
客を作して外に在りて位置は過高——豈に安住し住むべけんや、理に按じて則ち焚巢の禍あるべし。驕横にして柔順するを肯ぜざれば、禍患は其の疏忽する所の處より生じ出でて自己は毫も察覺せず——ゆえに「終に之を聞く莫し」と説く。全卦を通觀すれば——まさに羈旅の時に当たりて剛を使うに宜からず。ゆえに三箇の陽爻は皆利ならず。而して陰柔もまた中を得を貴ぶ。初六は中位に及ばず——同じく災禍を免れず。真に柔順中正にして「貞吉」に当たるは、只だ六二の一爻のみ。六五すら身に陽位に居りても、一箭を損失するを免れず。羈旅に處るの道は、實在に説き難しと見るべし。
巽(そん)の卦
巽。巽卦,一陰在二陽之下。順於陽而善入,故名為巽。巽卦次旅。按《序卦》:旅而無所容,故受之於巽。巽者,入也。覊旅親寡,非巽順無以取容,巽所以次旅也。全彖以陰為主,故所亨者小。而以陰從陽,故利有所往而利見大人。六爻雖以二柔為主,而必以居中得位為善。初不如四。四得位,初不得位也。然初上位與中俱失。三四雖得位而失中。二得中而又失位。唯九五居中得位,所以為申命之大人。此全彖六爻之大畧也。
《巽》卦は、一根の陰爻が两根の陽爻の下に伏し、陽剛に順從して滲入するに善し——ゆえに名を取りて「巽」と為す。《巽》卦は《旅》の後に立つ。《序卦伝》に按ず——羈旅して外に在りて容身する處なし。ゆえに接いで《巽》卦を安排す。「巽」はすなわち入。異郷に作客して親友は稀少、謙遜柔順せざれば則ち人に容れらるるに法なし——これがすなわち《巽》の《旅》卦に緊接するの緑由。整卦は陰爻を以て主と為す——ゆえに亨通する能くの限りあり、只だ是れ「小亨」。而してそれは陰柔を以て陽剛に順從す——ゆえに「往く所有るに利し」而且して「大人を見るに利し」。六爻は初六・六四の两根の陰爻を以て成卦の主と為すといえども、然れども好壞を論ずるは仍お中に居りて而又位に当たるを以て上と為す。初六は六四に如かず——是れ六四は陰は陰位に居りて位に当たり、初六は陰は陽位に居りて位に当たらざればなり。不過初六と上九とは位・中の两様を皆失す。九三・六四は位に当たるも中を得ず。九二は中を得て又た位を失す。唯だ九五のみ既に中に居りまた位に当たる——ゆえにそれこそ反覆して政令を申布するの彼の「大人」に当たるを得べし。これがすなわち全卦の卦辞と六爻との大概なり。
巽。小亨。利攸往。利見大人。一陰伏於二陽之下,其性巽以入。於象為風,亦委曲善入者也。順則能亨,陰為主,故所亨者小。蓋卑巽,則才智不足以識遠任重矣。以陰從陽,有利有攸往之象。蓋巽以從人,人無不說也。然失其所從,未必利往。必利見大德之人。此則因其從陽,教之以所從之人也。九五陽剛中正,以居尊位,有利見大人之象。
卦辞——《巽》、小く亨通あり。往く所有るに利し、大人を見るに利し。一根の陰爻が两根の陽爻の下に伏す——本性は是れ謙遜にして滲入するに善し。象を取りて風と為るもまた是れ曲折縈回して孔に入らざるなきの物。能く順えば則ち能く亨す——然れども既に陰柔を以て主と為れば、亨通する所もまた限りあり。是れ一味に卑順謙下なれば、才智の上は便ち以て長遠を見識し重任を擔當するに足らず。陰柔を以て陽剛に順從す——ゆえに「往く所有るに利し」の象あり——謙遜の態度を以て別人に追隨せば、別人は喜ばざるなし。然れども若し追隨して人を錯えば、必ずしも往くに利せざらん——ゆえに必ず「大徳の人を見るに利し」。此の一句は其の陽剛に順從する此の點に就きて、さらに一歩を進めてそれに何様の人に追隨すべきを教う。九五は陽剛中正にして尊位に居る——まさに「大人を見るに利し」の象の指す所なり。
彖曰。重巽以申命。風者,天之號令。柔順善入,有命令之象。申命,叮嚀反覆之意。此釋卦之義也。剛巽乎中正而志行,柔皆順乎剛,是以小亨利有攸往利見大人。論成卦則以初四之柔為主。論爻之吉凶則以二五之剛為重。二中而不正。巽乎中正,其志大行,指九五也。柔指初四也。
《彖伝》にいう——上下は皆巽、是れ用いて反覆して政令を申布す。風は上天の號令、柔順にして入らざる處なし——まさに命令の下達するの象あり。「申命」は叮嚀して再三、反覆して曉諭するの意。此の一句は卦の義蘊を釋す。「剛は中正に巽(したが)いて其の志行はれ、柔は皆剛に順えば、是を以て小亨、往く所有るに利し、大人を見るに利し」——一卦の如何に成立するを論ずるは、初六・六四の两根の陰爻を以て主と為す。各爻の吉凶を論ずるは、則ち九二・九五の两根の陽爻を以て重しと為す。九二は中に居るも位に当たらず——ゆえに「中正に巽いて其の志大いに行はる」の一句は九五を指す。「柔は皆剛に順う」の「柔」は、初六と六四とを指す。
象曰。隨風。巽。君子以申命行事。隨,相繼之義。命,風象。申命,隨風象。行事,即行其所命。三復申戒,然後見之行事,則民曉然於吾意之所在而易從也。初六。進退。利武人之貞。巽為進退為不果。初六重巽之下柔之過,故有進退不決之象。然以柔居剛,為巽之主。若臨事以武人之貞處之,則有以濟其不及而得利矣。此與履六三皆以陰居陽,變純乾,有武人之象。然履宜謙而三居下之上,故危之。巽不果,初又居下之下,故以武人勉之。
《大象伝》にいう。風は一陣接ぎて一陣に吹く——此れすなわち《巽》。君子はそれに取法して、反覆して命令を申明して然る後に政事を推行す。「隨(ずい)」は相い繼ぎて絶たざるの意。命令は風に好比し、反覆の申命は一陣接ぎて一陣の風に好比し、「事を行う」は則ち下す所の命令を實行に付す。再三に申明告誡して、然る後に行動に見れば、百姓は便ち清楚に上面の意圖の所在を明白し、また依從し易し。初六の爻辞——進むも是ならず退くも是ならず——武人の如く正を守るに利し。《説卦》に巽を「進退と為し、果ならざると為す」と称す。初六は上下两巽の最下に處し、柔順は頭を過ぎたり——ゆえに進退猶豫して決せざるの象あり。然れどもそれは陰爻を以て陽位に居り、又是れ成卦の主爻——若し能く武人彼の種の果斷に正を守るの態度を拿って事に應ぜば、則ち能く其の不足を補足して利を獲ん。此の一爻は《履》卦の六三と同じく陰は陽位に居り、全爻は變ずれば則ち純乾と成る——ゆえに皆「武人」の象あり。不過《履》卦は本より謙退に宜しく、而して六三はまた下卦の上に居る——ゆえに爻辞はそれを警告して危険とす。《巽》卦の毛病は果斷せざるに在り、初六はまた下卦の下に居る——ゆえに爻辞は武人を以てそれを勉励す。
象曰。進退,志疑也。利武人之貞,志治也。過疑則志亂,不武之甚。武而得正則志治矣。治,謂修立也。履志剛故凶,此志治故利。九二。巽在床下。用史巫紛若。吉無咎。古之尊者坐於床上。卑者拜於床下。九二以剛居陰,不能自安,過於卑巽,有巽在床下之象。史,作策告神。巫,歌舞事神。
《小象伝》にいう——進退するは、志疑えればなり。武人の貞に利しは、志治(おさ)めればなり。疑慮は太過せば則ち心志は散乱し、あれは最も勇武ならざるの表現。勇武にして而又能く正を守住せば、心志は便ち整飭し起これり。「治」は修整して樹立するの意。《履》卦の六三は心志は一味に剛を逞しくして凶、此の爻は心志は整飭を得て利。九二の爻辞——謙卑して牀(しょう)の下に伏すに至り、祝史と巫覡(ふげき)とを動用して紛紜として辭を陳す——吉祥にして過錯なし。古時は尊者は牀の上に坐し、卑者は牀の下に於いて禮を行う。九二は陽爻を以て陰位に居り、自己は安んじて心を下らざるを得ず、謙卑は分を過ぎたり——ゆえに「牀の下に巽(つつし)む」の象あり。「史」は祝冊を撰寫して神明に向かいて禱告するの人、「巫」は歌舞を以て神明に事奉するの人。
九五陽剛居尊而非應之正。當巽之時。二居臣位,非丁寧煩悉其辭不能自達。又二互三四為兌為巫為口舌,三四五互為離為文明,有用史巫紛若之象。然二居中,卑巽不至已甚。九五同德,三四雖間於上,藉之為史為巫以上達於五,故占得吉而無咎也。象曰。紛若之吉,得中也。中則不亢不諂。
九五は陽剛にして尊位に居るも、却って九二と同じく陽爻——併せて一陰一陽の彼の種の正當の相應に非ず。まさに謙順の時に当たりて、九二は身に臣位に在りて、話を反覆周詳に説かざれば則ち心意を上達するに法なし。加うるに二と三・四とは互体して兌と成り、《説卦》に兌を「巫と為し、口舌と為す」と称し、三・四・五は互体して離と成り、離は文明——合さりて便ち「史巫を用いて紛若(ふんじゃく)たらしむ」の象あり。不過九二は畢竟に中に居れば、卑順はなお太過に至らず。それは九五と徳性相同じ、三・四の两爻は中間に横隔するといえども、恰好にそれらを借りて祝史巫覡を充当して、心意を九五に上達すべし——ゆえに占断は是れ吉にして過錯なし。《小象伝》にいう——紛若の吉は、中を得ればなり。中に居れば則ち倨傲ならずまた諂媚ならず。
九三。頻巽。吝。過剛不中,居下之上,非能巽者。然下既乘剛,上又臨之以巽,不得不勉而為之,而屢巽失,故有吝道也。復之六三頻復曰無咎,此則吝者。聖人不貴無過,而貴改過。屢失屢復,復在失後,故雖厲無咎。頻巽頻失,失則巽後,故吝。又巽與復不同。復則天心之來。心本難純,故以頻復為無咎。巽不過卑巽之一節而已。乃不出於中心,失而復改,改而復失,故為可吝。
九三の爻辞——一次次に勉强して謙順す——憾惜あり。九三は陽剛太過にしてまた中に居らず、下卦の頂端に居る——本より謙順する能くの人に非ず。然れどもそれは下面に陽爻に騎られ上面にまた上卦の巽に壓せられて、勉强して謙順の樣子を做り出さざるを得ず——ここに屢々に謙順して又た屢々に失態す——ゆえに憾すべきの道あり。《復》卦の六三もまた「頻(しき)りに復る」を講ずるに、爻辞は却って過錯なしと説く——ここは何ぞかえって「吝(りん)」と説くや。是れ聖人の看重する所は從來錯を犯さざるに在らずして、而して是れ能く錯を改むるに在ればなり。屢々に失足して又た屢々に囘頭す——「復」は「失」の後に在り——ゆえに危険あるも仍お過錯なし。「頻巽」は却って屢々に謙順して又た屢々に失態す——「失」は「巽」の後に在り——ゆえに憾とすべし。さらに説く、巽と復とは性質同じからず。復は天理良心の重新して萌動す——人心は本より純一し難し——ゆえに屢々に囘頭するを以て咎なしと為す。巽は不過是れ卑順謙下此の一件の事の上の分寸、如今は又た出自に真心に非ず、失いて再び改め改めて再び失す——ゆえに只だ憾と算作するを得るのみ。
象曰。頻巽之吝,志窮也。前倨後恭,窮盛不安。六四。悔亡。田獲三品。陰柔無應,承乘皆剛,宜有悔也。然以陰居陰,居上之下,其悔可亡。三品者,一為乾豆,二為賓客,三為君庖。初六利武人之貞,田亦武事。初以陰居陽,故勉之以利貞。四得位不為無悔,且於武事有功。中互離為戈兵,故有田獲三品之象。三雖得陽之正而過剛,非能巽以入者,故吝。四得陰之正,能巽以入,故無失而有得也。
《小象伝》にいう——頻巽の吝は、志窮まればなり。先前は倨傲にして後來は恭順——是れ氣焰は尽き用いてこそ安を得ざる、併せて真心に非ず。六四の爻辞——悔恨消失し、田獵は三類の獵物を獲得す。六四は陰柔にして正應なく、上に九五を承け下に九三に乘じ、両頭は皆是れ陽剛——理に照らして悔恨あるべし。好いことにそれは陰爻を以て陰位に居り、また上卦の最下に處して高に居らず——悔恨は以て消し去るべし。いわゆる「三品」は、古禮に按ずれば田獵の獲する所は三等の用途に分かつ——上等は乾肉を制成して祭祀に供す(乾豆)、中等は賓客を款待し、下等は君主の庖廚を充実す。初六の爻辞に「武人の貞に利し」と説くは、田獵もまた武事に属す。初六は陰を以て陽位に居る——ゆえにそれを勉励して正を守らしむ。六四は位を得——本より全く悔恨なしと説く能わざるも、然れどもそれは武事の上は確かに功績あり。三・四・五は互体して離と成り、離は戈兵——ゆえに田獵して三品を獲るの象あり。九三は陽爻を以て陽位の正を得るも、却って剛強は過分——併せて謙順して滲入する能くの人に非ず——ゆえに「吝」。六四は陰爻の陰位に居るの正を得て、能く謙順して滲入す——ゆえに失う所なくして得る所有り。
象曰。田獲三品,有功也。武人之功成也。九五。貞吉。悔亡。無不利。無初有終。先庚三日。後庚三日。吉。九五陽剛中正,以居尊位,有貞而得吉之象。當巽時而剛,疑有悔矣。然中而得正,故悔可亡而無不利。有悔,是無初也。悔亡,則有終矣。庚,更也。取變更之義。十干以戊己為中。凡事過中則變,故庚有變更之義。
《小象伝》にいう——田して三品を獲るは、功あればなり。これがまさに初六の爻辞の勉励する所の彼の種の武人の功は六四の身上に於いて成就せり。九五の爻辞——正を守りて吉を得、悔恨消失して利あらざるなし。開頭は順ならずして結局は圓滿。變更の先には先ず三日を推し、變更の後には再び三日を推す——吉祥。九五は陽剛中正にして尊位に居る——ゆえに正を守りて吉を得るの象あり。まさに謙順の時に当たりて却って剛健を以て自處す——悔恨あるべきに看える。然れどもそれは中に居りて而又位に当たる——ゆえに悔恨は以て消し去りて利あらざるなし。悔恨あれば、すなわち是れ「初なし」。悔恨は消え去れば、すなわち是れ「終あり」。「庚(こう)」はすなわち「更」——變更の義を取る。十の天干は戊・己を以て中に居ると為し、凡そ事は中を過ぐれば則ち變ずべし——ゆえに「庚」は變更の意を含有す。
巽不欲其過,故二陰爻皆以武事勉之。五君位,尤不宜過於巽。命出於君。必有所更改,乃為申命。但更新之事不可輕。必取先庚三日之丁,以丁寧於先。又取後庚三日之癸,以揆度於後。乃得吉也。巽五變蠱,亦亂極更治。此曰先庚,蠱曰先甲。此曰無初有終,蠱曰終則有始。蓋此乃事過中而更之於後,蠱則事已壞而圖之始。甲為十干之始,故曰有始。庚過十干之中,故曰有終。大抵有所變更,得此爻則吉也。
謙順は頭を過ぐるに宜からず——ゆえに两根の陰爻は皆武事を以て勉励す。九五は君位——尤も謙順の過分なるべからず。命令は君主より出ず——必定に更改する所有ってこそ、こそ「申命」を談ずるを得べし。然れども更新の事はまた軽率すべからず——ゆえに必ず庚の前の三日の「丁」を取りて、「丁寧(ていねい)」の義を取り、事先に反覆して曉諭し、再び庚の後の三日の「癸」を取りて、「揆度(きど)」の義を取り、事後に細く考量を加えて、此の如くにしてこそ吉。《巽》卦の九五は一たび變ずれば便ち《蠱(こ)》卦と成り、《蠱》もまた是れ極点に亂れて重新に整治す。此の爻は「庚に先だつ」を説き、《蠱》卦は「甲に先だつ」を説く。此の爻は「初なく終あり」を説き、《蠱》卦は「終わりて則ち始あり」を説く。區別は——此の爻は事情は中道を過ぎて後頭に於いて更改を加うるを講じ、《蠱》卦は則ち事情はすでに敗壞して從頭より圖謀す。甲は十干の首——ゆえに「始あり」と説く。庚は十干の中を過ぐ——ゆえに「終あり」と説く。大体凡そ變更する所有て此の爻を占得するは、皆吉。
象曰。九五之吉,位正中也。中則不過於巽。上九。巽在床下。喪其資斧。貞凶。上九至高,而曰床下者。居巽之極,又以陽居陰故也。故與二爻同象。旅九四以陽居陰,得其資斧。此上九亦以剛居柔,喪其資斧。何也。旅道宜柔,故剛居柔者得。巽戒過柔,巽之極而居柔,失所斷矣。又旅四離體為戈兵。巽上九在互離之外,故有喪資斧之象。雖貞亦凶,況不負乎。此資斧,本義專就斷言。資與齎同,不義(「不義」義字衍,從文瀾本)作資財。
《小象伝》にいう——九五の吉は、位正にして中なればなり。中に居れば則ち謙順の頭を過ぎざらん。上九の爻辞——謙卑して牀の下に伏すに至り、盤纏と斧子とを丟失す——正を守るも凶。上九は位置は最も高し、爻辞は却って「牀下」と説くは、是れ其の謙順の極点に處し、また陽爻を以て陰位に居れば、ゆえに爻象は九二と相同じ。《旅》卦の九四は同じく陽は陰位に居るも、却って「其の資斧を得」。此處の上九もまた剛は柔位に居りて、かえって「其の資斧を喪う」——何以して此の如しや。是れ羈旅の道は本より柔に宜しければ、ゆえに剛爻の柔位に居るは是れ得。而して《巽》卦の戒むる所はまさに過柔——謙順は極点に到りてまた柔位に居れば、則ち決斷を喪失せり。さらに説く、《旅》卦の九四の在る所の上体は離、離は戈兵。《巽》卦の上九は却って互体離の外面に處す——ゆえに資斧を丟失するの象あり。此の如くにしてたとい正を守るも凶、況んや是れ正を守るの責すら擔負し起こす能わざるの人をや。此處の「資斧」は、朱熹《本義》は專ら「決斷」に就きて説を立つ——「資」は「齎(せい)」と相通ず(持帶の義)——資財と解して作すべからず。
象曰。巽在床下,上窮也。喪其資斧,正乎凶也。上窮,巽至於窮極也。正乎凶,程傳作問答之辭,本義以為必凶。今從本義。全卦以巽名而不欲過於巽,故彖言亨而僅得小亨。巽之道,可以有所往而見大人。若過於巽則不能。
《小象伝》にいう——牀の下に巽むは、上窮まればなり。其の資斧を喪うは、正して凶なるか。いわゆる「上窮」は、謙順は尽頭に到れり。「正乎凶」此の三箇の字は、程頤《伊川易傳》は設問答語と讀む(意は——此の如くして正と算すか。還お是れ凶か)、朱熹《本義》は則ち斷語と讀みて其の必ず凶を謂う——陳夢雷はここは《本義》の讀法を採用す。全卦を通觀すれば——卦名は《巽》と曰うも、然れども併せて謙順の頭を過ぐるを希望せず——ゆえに卦辞は亨通を講ずるも只だ一箇の「小亨」を得る。謙順の道は、本より以て往く所有り大人を見るべく、一たび過分なれば、かえって辦り到る能わず。
六爻五在上以剛中為巽而言吉。二在下以柔中為巽而吉。此巽之得其宜者也。二陰爻,卦之所以為巽者。初居下之下而失位,故進退。四居上之下而得位,故有功。然皆未得中,故不言吉也。若三居下之上而以過剛失中。上居上而以窮極失正。宜其吝且凶矣。
六爻の中、九五は上に在り、陽剛を以て中に居りて謙順を行う——ゆえに爻辞は吉を言う。九二は下に在り、柔道を以て中に居りて謙順を行う——また吉。此の两爻は是れ謙順を用いて恰好に其の處に到れる者。初六・六四の两根の陰爻に至っては、本より此の卦をして《巽》と成らしむるの關鍵。初六は下卦の下に居りて位に当たらず——ゆえに只だ進退猶豫に落ち至れり。六四は上卦の下に居りて位に当たる——ゆえに田獵に功あり。然れども两爻は皆中を得ることなし——ゆえに爻辞は皆「吉」を言わず。さらに看るに、九三は下卦の上に居りて、剛強過分に因りて中を失す。上九は最上に居りて、窮極に因りて正を失す——彼らは一つは「吝」、一つは「凶」——また其の當然なる所なり。
兌(だ)の卦
兌。兌卦,坎體而塞其下流,其象為澤。一陰進乎二陰之上,喜見乎外,故其德為說。兌卦次巽。按《序卦》:巽者,入也。入而後說之,故受之以兌。兌者,說也。物相入則相說,兌所以次巽也。全彖以卦體柔外有亨之道,而剛中利於正。此全彖之大指也。
《兌》卦は坎の体式にして其の下面の出口を塞ぐ——象を取れば則ち水を聚むるの沼沢。一根の陰爻は上進して两爻の上に到り、喜色は外に顯露す——ゆえに其の卦徳は「説(悦)」。《兌》卦は《巽》の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「巽」はすなわち入、入りて而る後に人をして喜悦せしむ。ゆえに接いで《兌》卦を安排す。「兌」はすなわち悦。彼此は滲入すれば便ち彼此は喜ぶ——これがすなわち《兌》の《巽》卦に緊接するの緑由。整卦の卦辞の意思は——卦体に就いて見れば、柔爻は外に在りて亨通の理あり。陽剛は中に居れば則ち正を守るに利し。これがすなわち卦辞の大旨。
六爻以二陰為說之主,四陽皆為陰所說者。三為下兌之主。以柔居剛,動而求陽之說者。其惡易見,故凶。上為上兌之主。以柔居柔,靜而誘陽之說者。其惡難知,故不言凶咎。四陽爻則在下多吉,在上多凶。初與陰無係,故吉。二已近三,入說猶淺,故悔亡。四入上兌,處三五之間而莫決畧,故未寧。五與上比,說之將極,則厲矣。此六爻之大畧也。
六爻は六三・上六の两根の陰爻を以て「悦」の主爻と為し、四根の陽爻は皆陰爻に取悦せらるるの對象。六三は下体兌の主爻、陰柔を以て陽位に居りて主動して陽爻の歓心を求取す——其の壞處は一眼に見出だすを得——ゆえに凶。上六は上体兌の主爻、陰柔を以て陰位に居りて安靜に陽爻を引誘して自己を喜ばしめ來らしむ——其の壞處は察覺し易からず——ゆえに爻辞は凶咎を明説せず。四根の陽爻に至っては、下に居るは吉多く上に居るは凶多し。初九は陰爻と毫も牽連なし——ゆえに吉。九二はすでに六三に挨るも、然れども喜悦に陷入するは還お淺し——ゆえに只だ悔恨の消去するのみ。九四は上体兌に進入し、六三と九五との間に夾まれて決断し難し——ゆえに心神は安寧せず。九五は上六と緊鄰し、喜悦は極点に到らんとす——則ち危険なり。これがすなわち六爻の大概。
兌。亨利貞。按,本義亨利貞有二義。卦體剛中而柔外。剛中故說而亨,柔外故利於貞。此一義也。又柔外故為說亨,剛中故利於貞。亦一義也。後說卦中自然之象,前說以利貞作戒辭。亦相通。大抵說有亨道,而妄說不可不戒。
卦辞——《兌》、亨通、正を守るに利し。朱熹《本義》に按ず——「亨利貞」は两種の講法あり。卦体に就いて説けば、陽剛は中に居りて陰柔は外に在り。是れ陽剛は中に居れば、ゆえに喜悦にして能く亨通す。是れ陰柔は外に在れば、ゆえにそれに正を守るに利するを提醒せよ——これは一義。別の一種の講法——是れ陰柔は外に在れば、ゆえに其の喜悦にして亨通たるを成せり。是れ陽剛は中に居れば、ゆえに自然に正を守るに利し——これもまた一義。後の一説は是れ卦中の本有する象を直接に講出し、前の一説は則ち「利貞」を當作して告誡の辭と為す——两説は其の實は相通ず。大体は喜悦は本より亨通の理あるも、然れども無端に妄悦するは告誡を加えざるべからず。
卦辭與咸同。咸以艮陽下兌陰則相感,感則亨矣,而相感易至於不正。兌以二陽下一陰則相說,說則亨矣,而相說亦易流於不正。故皆言利貞也。又三男之卦皆不言利貞,蓋陽剛即貞也。三女之卦多以利貞戒之,陰柔之質,易至於不正也。
《兌》の卦辞は《咸》と相同じ。《咸》は艮の陽体が兌の陰体の下に屈居して彼此相い感す——一たび相い感ずれば則ち亨通す、然れども相い感ずるは正ならざるに走り至り易し。《兌》は两根の陽爻が一根の陰爻の下に屈居して彼此相い悦ぶ——一たび相い悦べば則ち亨通す、然れども相い悦ぶは同じく不正に流るる易し。ゆえに两卦は皆「利貞」を説く。さらに説く、震・坎・艮の三男の卦は皆「利貞」を提げず——是れ陽剛は本身則ち是れ貞なればなり。巽・離・兌の三女の卦は多く「利貞」を以て告誡す——是れ陰柔の資質は正ならざるに走り至り易ければなり。
彖曰。兌,說也。釋卦名義。聖人謂說人以心不以言,故去言稱兌。剛中而柔外,說以利貞,是以順乎天而應乎人。說以先民,民忘其勞。說以犯難,民忘其死。說之大,民勸矣哉。三上柔外,二五剛中。柔外而不剛中,則違道干譽,非貞也。
《彖伝》にいう——「兌」は、説(よろこ)ぶなり。これは卦名の含義を釋す。聖人は以為す——人をして喜悦せしむるは內心に靠りて言語に非ず——ゆえに「説」字は言旁を去りて寫作して「兌」と為す。「剛中にして柔外、説(よろこ)びて以て貞に利し、是を以て天に順い人に應ず。説びて以て民に先だてば、民は其の勞を忘れ、説びて以て難に犯れば、民は其の死を忘る。説の大なるや、民は勸められん哉」——六三と上六とは是れ柔の外に在り、九二と九五とは是れ剛の中に在り。假如し只だ柔外あって剛中なかれば、則ち正道に背離して以て聲譽を博取するに成れり——貞と算する能わず。
象曰。麗澤兌。君子以朋友講習。兩澤相麗,互相滋益。朋友講習,其象如此。天下之說不可極。惟朋友講習,過說無害。然天下至可說者,亦莫如朋友講習。講者,資友講之,以究其理。習者,我自習之,以踐其事。習而不講,則精義不出,昏而無得。講而不習,則至理不入,殆而不安。朋友講習之餘,心與理洽。天下之說,莫過於此。
《大象伝》にいう。澤は麗(つ)けり——此れすなわち《兌》。君子はそれに取法して、朋友と一同に講論演習す。两片の沼沢は相い連れ相い靠り、水氣は彼此に滋潤して增益す。朋友の間の講論演習は、まさに此の樣子。天下の喜悦は皆極端に推すべからざるも、唯だ朋友の講習此の一件のみ、喜悦は頭を過ぐるも害處なし。而して天下の最も喜悦すべきも、また朋友講習より好きはなし。いわゆる「講」は、朋友を借助して一同に討論し、以て其の中の道理を窮究す。いわゆる「習」は、自己に反覆して演練し、以て具体の行事に落實す。只だ演習して討論せざれば、精微の義理は出來らず、昏昏として一得なし。只だ討論して演習せざれば、最深の道理は身上に進入らず、危殆にして安穩する能わず。朋友の講習の後は、心と理とは融洽して間なし——天下の喜悦は此の一层に超過するなし。
初九。和兌吉。爻位皆剛,處說之初。不比於柔,又無繫應。和而不流之象。故吉。象曰。和兌之吉,行未疑也。鄰於陰則疑,說之過。二四疑於三,五疑於上。初去陰遠,故曰未疑。九二。孚兌吉。悔亡。剛中為孚象。居陰比陰,與五未應為悔。以剛中與五同德,不繫於三之陰,則吉而悔亡之象。
初九の爻辞——平和の態度を以て人と相い悦ぶ——吉祥。初九は陽爻の陽位に居り、爻と位とは皆剛、また喜悦の開端に處す。上面は陰爻に挨らず、また相應するの對象なし——まさに和順にして波に逐て流れざるの象——ゆえに吉。《小象伝》にいう——和兌の吉は、行いいまだ疑はれざればなり。陰爻に挨近すれば則ち人に疑心を招かん——あれは喜悦は頭を過ぎたり。九二・九四は人に六三に親近するを疑心せられ、九五は人に上六に親近するを疑心せられり。初九は陰爻を離るること最も遠し——ゆえに「未だ疑はれず」と説く。九二の爻辞——誠信を以て人と相い悦ぶ——吉祥、悔恨消失す。九二は陽剛にして中に居る——まさに「孚」(誠信)の象。それは陽爻を以て陰位に居り、また六三此の陰爻に緊挨し、且つ九五と同じく陽爻にして併せて相應せず——本來悔恨あるべし。然れどもそれは陽剛中に居るを憑りて九五と徳性相同じ、六三の陰柔に牽連せず——ゆえに吉にして悔亡ぶの象あり。
象曰。孚兌之吉,信志也。跡比三若可疑,志剛中則可信。六三。來兌凶。陰柔不中正,為兌之主。上無所應,有來就二陽以求說之象。然初剛而正,二剛而中,必不從也,其凶可知。象曰。來兌之凶,位不當也。不中正故也。
《小象伝》にいう——孚兌の吉は、志信なればなり。行跡の上より看れば、九二は六三に緊挨し、可疑に看える。然れども心志の上より看れば、其の陽剛中に居れば、則ち信じ過ぐるを得。六三の爻辞——下り來りて人の喜悦を求む——凶險。六三は陰柔にして而又中ならず正ならず、然れども是れ下体兌の主爻。其の上面は相應するの爻なし——ゆえに囘り來りて初九・九二の两箇の陽爻に遷就して、以て人の歓心を求むるの象あり。然れども初九は陽剛にして正を得、九二は陽剛にして中に居る——必定にそれに順從せざらん——其の凶險はまた以て想い知るべし。《小象伝》にいう——來兌の凶は、位當たらざればなり。是れ其の既不に中に居りまた位に当たらざればなり。
九四。商兌未寧。介疾有喜。九四上承九五,下比六三。以所居位柔,未能自決。又互巽為進退不果。故有商度所兌、未能安寧之象。上下兌之間,介象。質本陽剛,故有介然自守、疾惡柔邪而有喜之象。象曰。九四之喜,有慶也。大臣無私交,天下之福慶也。
九四の爻辞——反覆して誰を喜ぶべきを掂量して心神は安寧せず。耿介に自守して邪佞を厭惡せば、則ち喜慶あり。九四は上に九五を承け下に六三に鄰す——居る所は是れ陰位なるに因りて、自己は主意を拿り定むる能わず。三・四・五は互体してまた巽と成り、巽の性情はまさに進退果なし——ゆえに反覆して誰に親近すべきを權衡して遲遲として安定する能わざるの象あり。それは恰好に上下两箇の兌体の交界處に夾まれり——ゆえに「介」(界限・耿介)の象あり。而して其の資質は本より是れ陽剛——ゆえにまた耿介に自守して柔邪を痛恨して終に喜慶を得るの象あり。《小象伝》にいう——九四の喜は、慶あればなり。大臣は私黨を結ばず小人と私りに交結せず——まさに天下の福慶。
九五。孚于剝。有厲。剝指上六,陰能剝陽者也。九五陽剛中正,以居尊位,而近於上六。上六為說之主。虛說之極,他無繫應。專附乎五,妄說以剝陽。九五信之。有孚于剝而致危厲之象。恃一己之剛明,值國家之宴安。以小人為不足畏而過信之,則蠱惑心志,紊亂是非,無所不至矣。
九五の爻辞——彼の自己を剝蝕する者を信任す——危險あり。「剝」は上六を指す——陰柔は能く陽剛を剝蝕する者。九五は陽剛中正にして尊位に居るも、却って上六に緊挨す。上六は上体兌「悦」の主爻、虚情假意の取悦は極点に到達し、別處には又た相應するの爻なし——ここに一心に九五に巴附して、妄悦を用いて陽剛を剝蝕し、而して九五は竟おそれを信ぜり——ゆえに「剝蝕する者を信任して危險を招致す」の象あり。自己の剛強明察に仗り、またまさに國家の安逸太平に趕上りて、小人を看て為すに懼るに足らずとして過分に信任せば、然らば則ち心志は蠱惑せられ是非は攪亂せられて、何事をも皆出來らん。
二比於三而能孚於五而悔。五比六乃不孚於二而致厲者。二臣位,猶能剛中以事君。五君位,易狃於所說而不戒。三在下而來兌,其側媚之態易見。上居高而引兌,其彌縫之術最工。又二居陰不過剛,而志上孚於五。五居剛自謂剛明,不下接乎二,則上得而引之矣。象曰。孚于剝,位正當也。居剛比上,適當其位也。此與履五意同。履五當君位而凡事決之已,雖正亦危。此則居君位而暱於小人,其危甚矣。
同じく陰爻に挨れども、九二は六三に緊鄰して仍お能く誠信を以て九五に上通し、此に因りて悔恨は消去す。九五は上六に緊鄰してかえって九二を信任せず——此に因りて危險を招來す。原因は——九二は臣位に處して尚お陽剛居中の徳を以て君主に事奉するを懂得す。九五は君位に處して自己の喜歡する所の人に迷戀して戒備を知らざり易し。六三は下位に在りて主動に來りて悦を求む——彼の副の諂媚の態は一眼に看穿せらる。上六は高位に居りて下に向かいて引誘す——彼の套の彌縫遮掩の手段は最も高明。さらに説く、九二は陽爻を以て陰位に居りて剛にして過ぐるなく、心志は一意に上に向かいて九五に取信す。九五は陽爻を以て陽位に居りて自ら以て剛強明察として、身を俯して九二を接納するを肯ぜず——ここに上六は機に乗ずべくしてそれを牽引し過ぐり去れり。《小象伝》にいう——剝に孚ありは、位正當なればなり。九五は陽位に居りて上六に緊鄰す——恰恰として正當に彼の位置に当たる。これは《履》卦の九五の意思と相同じ。《履》卦の九五は身に君位に居りて凡事に自己獨斷す——たとい行事は端正なるも危險。此の爻は則ち身に君位に居りて小人に親昵す——危險は則ちさらに重し。
上六。引兌。以陰居說之極,引下五陽而剝之者也。故九五當戒,而此爻不言吉凶者。九五陽剛,或能知戒,未必從之也。象曰。上六引兌,未光也。三居剛而來兌,媚說之私見矣。上居柔,方以柔道牽引,使人不覺,其跡未光顯也。
上六の爻辞——牽引して人をして相い悦ばしむ。上六は陰柔を以て喜悦の極点に處し、下に向かいて九五此の陽爻を牽引してそれを剝蝕す——ゆえに爻辞は九五に当たりて戒備すべきを提醒す。此の一爻の本身に至っては吉凶を説かざるは、是れ九五は畢竟に陽剛なれば、或いは能く警覺する所有らん、必ずしも真にそれに順從せざらん。《小象伝》にいう——上六は引兌は、いまだ光ならざればなり。六三は陰爻を以て陽位に居りて主動に下り來りて悦を求む——彼の點の諂媚討好の私心はすでに顯露し出でたり。上六は陰爻を以て陰位に居りて、まさに柔軟の手段を用いて暗中に牽引して、人をして渾然として覺らざらしむ——ゆえに其の行の行跡は還お顯露出來らざりし。
全卦以說雖有亨道而利於得正,故以遠於說為貴。二陰爻為說之主,皆所不取。說至上而極。五以近之而厲。四介於二說之間而未寧。二近三,以上孚於五而吉,然始猶未免於悔。唯初剛而得正,遠於陰柔,故得和兌之吉。乃知陰柔說人,君子所宜深遠。古人所以有美疢藥石之喻,而易事難說,所以為君子也。
全卦を通觀すれば——喜悦は亨通の理あるも、然れども正を守るを以て要と為す。ゆえに此の卦は「悦」を遠離するを以て貴しと為す。两根の陰爻は是れ「悦」の主爻——皆取るに足らず。喜悦は上六に到りて極点に達す。九五は挨ること近きに因りて危險、九四は上下两箇の兌体の間に夾まれて心神は安寧せず、九二は六三に挨りて、上に向かいて九五に取信するに靠りてこそ吉を得るも、然れども開頭は仍お悔を免れず。唯だ初九のみ陽剛にして正を得て、陰柔を離るること最も遠し——ゆえに能く平和に相い悦ぶの吉祥を得。此に由りて知るべし——陰柔の人は喜悦を拿って討好せば、君子は当たりに遠く遠く避くべし。古人の「美疢(びちん)は惡石(あくせき)に如かず」の比喻ある所以は、好い話を説くは人をして舒服ならしむるの病に象り、耳に逆らうの言は病を治するの藥石に象る。而して《論語》に君子を「事に易きも説(よろこ)び難し」と説く——事を共にし易くして取悦し難し——まさに此の緑故に因りてこそ其の君子と成り為るなり。
渙(かん)の卦
渙。渙卦,下坎上巽。取風行水上、離披解散之象,故名渙。渙卦次兌。按《序卦》:兌者,說也。說而後散之,故受之以渙。人心憂則結聚,說則舒散。渙所以次兌也。卦以渙為名。彖辭取聚渙濟渙為義。故六爻之中,以剛柔上下相比合者乃能濟渙。初柔二剛,相合以任濟渙之責,故初吉而二得願。四柔五剛,相合以成濟渙之功,故四元吉而五無咎。三上相應,反以遠而不能相及,故三但渙其躬之難,上不過渙血以遠害而已。此六爻吉凶之例,又與他卦不同者也。
《渙》卦は、下体は坎、上体は巽、風が水面に吹行して水を吹き披散せしむるの象を取る——ゆえに卦の名は《渙》。《渙》卦は《兌》の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「兌」はすなわち悦、喜悦して而る後に則ち舒散し開ける。ゆえに接いで《渙》卦を安排す。人心は憂愁すれば則ち鬱結凝聚し、喜悦すれば則ち舒展消散す——これがすなわち《渙》の《兌》卦に緊接するの緑由。此の卦は既に「渙」(離散)を以て名と為すに、卦辞は却って兼ねて「已に散ぜる之の人心を聚攏し來らしむ」と「險難を解散す」との两层の意思を取る。まさに此の因なれば、六爻の中は凡そ剛柔上下が彼此相い鄰り相い合するは、こそ「渙を濟す」(渙散を挽救す)の事を辦り成すを得べし。初六は陰柔、九二は陽剛、两爻は相い合して共に濟渙の責を擔う——ゆえに初六は吉を得、九二は如願す。六四は陰柔、九五は陽剛、两爻は相い合して濟渙の功を成就す——ゆえに六四は大吉、九五は過錯なし。六三と上九とは本より正應なるも、却って相い距ること遠きに因りて彼此に及ぶを得ず——ゆえに六三は只だ自身一己の患難を散去する能く、上九もまた不過是れ血光の災を散去して以て禍害を遠避するのみ。此の種の吉凶を論ずるの体例は、別の卦と皆一様ならず。
渙。亨。王假有廟。利涉大川。利貞。渙取風行水上,解散之象。亨就卦綜言,詳彖傳。爻辭多以渙為吉,取解散險難之義。彖兼聚渙濟渙二義。下卦坎為鬼神,中互艮為門闕,九五居尊位,有王假有廟之象。巽木在坎水之上,有利涉大川之象。
卦辞——《渙》、亨通す。王は廟に假(いた)る。大川を渉るに利し。正を守るに利し。《渙》は風の水上を行きて水を吹散するの象を取る。其の「亨」と説くは、「卦綜」(倒轉して《節》卦と成る)に就いて言う——詳しくは《彖伝》を見よ。各爻の爻辞は多く「渙」を以て吉と為す——取る所は險難を解散する此の一层の意思。卦辞は則ち兼ねて渙散を聚攏することと險難を解散することとの两義を含む。下卦の坎は鬼神、二より四爻は互体して艮と成り、艮は門闕、九五はまた尊位に居る——合さりて便ち「王は廟に假る」の象あり。上卦の巽は木——木は坎水の上に浮べば、便ち「大川を渉るに利し」の象あり。
人心渙散,聖人思所以聚之。假廟者,聚一己之精神以聚祖考之精神。使天下知報本返始,則渙者可聚矣。此因散而聚之義也。天下之難,非陽剛得位無以解散之。木在水上,大川可涉。此解散患難之義也。然祭祀或以媚神,涉川或以行險僥倖,則非正矣,故又戒以利貞。九五居尊得正,為濟渙之主,亦貞之義也。
人心は一たび渙散せば、聖人は便ち設法してそれを聚攏し囘る。いわゆる「廟に假る」は、自己一身の精神を收斂して、以て祖先の精神に感通し、天下人をして本源に報答し初始を追念するを懂得せしめば、然らば散じ去れるの人心は則ち能く重新に聚合せん——これは「其の散するに因りて之を聚む」の一层の意思。天下の患難に至っては、陽剛の才は正位に居るを得ずんば則ち解き開くに由なし。木は水上に浮べば、大河もまた渉り過ぐるを得——これは「患難を解散す」の一层の意思。然れども祭祀は若し神明を討好するが爲ならば、渡河は若し冒險僥倖ならば、則ち正ならず——ゆえに卦辞はまた「利貞」を用いて以て告誡を加う。九五は尊位に居りて正を得——是れ濟渙の主爻、これがまさに「貞」の意思の所在なり。
彖曰。渙亨。剛來而不窮,柔得位乎外而上同。此卦程朱所論卦變各異,皆牽強。今以卦綜論之,甚合。此卦綜節。節外卦之坎來居內卦。二剛在下卦之中,不至困窮。節下卦之兌在此卦居外為巽。以陰居四得其正位,上同於五也。剛來不窮,英雄遷而得所,有其地矣。四上輔五,剛柔相濟,有其輔矣。此其所以亨也。
《彖伝》にいう——《渙》の亨は、剛は來りて窮まらず、柔は位を得て外に在りて上と同ずればなり。此の一卦は、程頤と朱熹との講ずる所の「卦變」は各々相同じからず、皆牽強を嫌う。「卦綜」を改用して講ずればかえって十分に吻合す。《渙》は倒轉すればまさに是れ《節》。《節》の外卦の坎は翻り下れば則ち《渙》の内卦に居り、陽爻は下卦の正中に處す——ゆえに困窮に至らず。《節》の下卦の兌は翻り上れば《渙》に於いて則ち外卦の巽と成り、陰爻は第四位に居りて正を得、上に向かいて九五と心を同じくす。「剛の來りて窮まらず」は、英雄の遷徙して安身の處を尋得するに好比す——是れ立足の地有り。「四は上に五を輔く」は、剛柔は互相いに濟助す——是れ得力の輔佐有り。これがすなわち《渙》の亨通する所以の道理。
王假有廟,王乃在中也。九五互艮。上畫為廟。九居五,王在廟中。利涉大川,乘木有功也。取乘舟濟川之義。此二節承上。有此卦綜之德,所以王假有廟,所以繫天下之心。乘木有功,可以濟天下之難也。象曰。風行水上。渙。先王以享于帝立廟。風行水上,天神之象。享帝於郊,象巽之高。水在地下,人鬼之象。立廟於宮,象坎之隱。皆所以合其散。
《彖伝》にいう——王は廟に假るは、王、廟の中に在ればなり。九五の在る所の互体は艮、艮の上面の一画は廟宇を象徴す。陽爻は第五位に居る——まさに君王が身に廟の中に在るの象。「大川を渉るに利し、木に乘りて功あればなり」は、船に乘りて渡河するの意を取る。此の两節は皆上文に承接して來る。上面の説く所の卦綜の徳あれば、ゆえに能く「王は廟に假る」——此を以て天下の人の心を繫住す。能く「木に乘りて功あり」——此を以て天下の患難を解救す。《大象伝》にいう。風は水の上を行く——此れすなわち《渙》。先王はそれに取法して、上帝を祭祀し宗廟を建立せり。風は水上を行く——是れ天神の象。郊外に於いて天を祭るは、巽の高遠の象を取る。水は地下に在る——是れ人鬼の象。宮中に於いて廟を建つるは、坎の幽隱の象を取る。此の两件の事は皆是れ用いて渙散の人心を重新に合攏せしむる所。
初六。用拯馬壯吉。居渙之初,拯之為易。初陰柔,非能拯渙者也。然坎為美脊亟心之馬,二有剛中之才。能順九二,事必有濟。故有用拯馬壯之象,故吉也。象曰。初六之吉,順也。能順二也。九二。渙奔其機。悔亡。以卦綜言,坎剛自外來。互震為足為動,有奔象。二居中,互震為本位,有奔其機而得所安之象。以陽居陰,有悔矣。然居中而得所安,悔可亡矣。當渙之時,播遷而得所安,則不至於困窮而渙可濟矣。
初六の爻辞——用いて拯救するの馬は壯健——吉祥。身に渙散の開頭に處すれば、挽救するは還お比較的に容易。初六は陰柔、本身は渙散を挽救するの能力なし。然れども下卦の坎は、《説卦》にそれを「脊を美しゅうし、心を亟しくする」の馬と称し、而して九二はまた陽剛居中の才を具す——初六は只だ九二に順從すれば、事情は必ず能く辦成せん——ゆえに「用いる所の拯救するの馬匹は壯健」の象あり、此に因りて吉。《小象伝》にいう——初六の吉は、順なればなり——能く九二に順從すればなり。九二の爻辞——渙散の中に憑靠すべきの几案に奔向す——悔恨消失す。卦綜に就いて説けば、坎の陽剛は《節》の外卦より內卦に來れる者。二より四爻は互体して震と成り、震は足・動——ゆえに「奔」の象あり。九二は下卦の中に居り、又是れ互いに震の本位——ゆえに几案に奔向して安頓を得るの象あり。それは陽爻を以て陰位に居る——本來悔恨あるべし。然れども中に居りて安頓の處を尋得せば、悔は則ち以て消し去るべし。まさに渙散の時に当たりて、輾轉遷徙するも能く安頓し下れば、便ち困窮に至らず、渙散もまた救いあるなり。
象曰。渙奔其機,得願也。濟渙之願可成。六三。渙其躬。無悔。此後四爻皆以渙為吉,蓋因渙以濟渙也。陰柔而不中正,有私於己之象。然居陽位以應乎上,志在散其私以濟時,人臣之致身事主者也。無可悔矣,悔亡者,有悔而亡。無悔者,無可致悔也。象曰。渙其躬,志在外也。外與上應,志在天下而不為私。
《小象伝》にいう——渙は其の机に奔ぐは、願い得ればなり——渙散を挽救するの心願は以て實現すべし。六三の爻辞——自身の私念を散去す——悔恨なし。此の一爻より以下の四爻は皆「渙」を以て吉と為す——是れ彼らは「散」を借着して「渙散」を挽救するなればなり。六三は陰柔にして中ならず正ならず——本より己に偏私するの象あり。然れどもそれは陽位に居りて上に上九に應ず——心志は一己の私を散去して以て時局を拯救するに在り——まさに臣子が身を獻じて君主に事奉するの樣子——ゆえに悔むべきはなし。分辨すべきは——「悔亡」は本來悔あるにして後に消し去り、「无悔」は則ち根本に悔恨を招致するの由頭なし。《小象伝》にいう——渙は其の躬(み)に及ぶは、志外に在ればなり。六三は外に向かいて上九と相應す——志は天下に在りて自己の為に打算せず。
六四。渙其群。元吉。渙有丘。匪夷所思。居陰得正,上承九五,當濟渙之任者。下無應與,有能散其朋黨之象。高則為丘,平等為夷。互艮為山丘。小群既散,大群自合。眾正盈朝若丘山。然初三二陰皆與四等夷者,思慮不能及此。故有渙有丘匪夷所思之象。六爻唯此最善而吉。蓋初二三上皆不得正。唯九五以剛陽得正,為濟渙之主。四則以陰柔得正,為輔君以濟渙之臣也。
六四の爻辞——自己の黨羽を散去す——大吉。散じて復た聚まりて丘山と成る——これは同輩の人の想い及ぶ能く所に非ず。六四は陰爻を以て陰位に居りて正を得、上面は九五を承接す——まさに濟渙の重任を擔當するの人。下面には又た攀附すべきの爻なし——ゆえに能く自己の朋黨を解散するの象あり。高き起れりを「丘」と曰い、平齊同等を「夷」と曰う。二より四爻は互体して艮と成り、艮は山丘。小さき黨羽は既に散じ去れば、大きき正人の群は自然に合攏し、滿朝は皆正直の士——丘山の如く堆積せり。然れども初六・六三此の两箇の六四と同じく陰爻・身分相當の人は、心の思いは根本に此の一层に想い及ぶ能わず——ゆえに「渙して丘あり、思い及ばざる所ならず」の象あり。六爻の中は只だ此の一爻のみ最も好く最も吉。是れ初六・九二・六三・上九の四爻は皆正位を得ず、唯だ九五のみ陽剛を以て正を得——是れ濟渙の君主。六四は則ち陰柔を以て正を得——是れ君主を輔佐して濟渙するの臣子。
象曰。渙其群元吉,光大也。去朋黨以事君,光明正大。九五。渙汗其大號。渙王居。無咎。坎水,渙象。巽風,號令之象。令出必行,如汗之出而不反居畜積也。渙王居,猶散小儲以成大儲也。九五陽剛中正,以居尊位。能散號令,由中及外。如汗之浹於四體。又能散其居積,以聚天下之人心。此濟渙之主也,可以無咎矣。
《小象伝》にいう——其の群を渙ずるは、元吉なり。光大なればなり。朋黨を撇開して一心に君に事えば、自然に光明正大。九五の爻辞——汗を發するが如く重大の號令を頒布し、王者の積儲を散去す——過錯なし。下卦の坎は水——是れ「渙」の象。上卦の巽は風——是れ號令の象。命令は一たび出づれば必定に推行す——汗は一たび出づれば便ち再び倒流して體内に積存せざるが如し。「王の居を渙ず」は、小さき積儲を散掉して以て大きき積儲を成就するに等し。九五は陽剛中正にして尊位に居り、能く號令を頒布して内より外に及ぶ——汗液の四肢に透遍するが如し。また能く自己の庫藏積蓄を散出して、以て天下の人心を聚攏す。これがまさに濟渙の主爻——過錯なきべし。
象曰。王居無咎,正位也。舊說以有德居尊位,故能渙也。又按,來注以王居為帝都。五變為坤,有國都之象。謂當渙散之時,遷都正位。如光武之都洛陽、宋高宗之即位,應天以聚人心之渙也。今觀象傳王居無咎上去渙字,釋之曰正位,意甚合。姑存之。
《小象伝》にいう——王の居は咎なしは、正位なればなり。舊の解釋は——徳あるの人は尊位に居れば、ゆえに能く「渙」の事を行うべし。另た來知徳の注解に按ずれば、「王居」を帝王の都城に講ず。九五は一たび變ずれば則ち上体は坤と成り——國都の象あり。意思は是れ天下が渙散の時に當たりて都を遷して以て位を正す——漢光武帝の洛陽に都を定め、宋高宗の應天府に於いて即位するが如し——皆是れ此を借りて渙散の人心を重新に聚める。如今《小象伝》を看るに、「王居咎なし」を引く時に上面の「渙」字を去りて、只だ「正位」两字を用いて以て釋す——來氏の講法と甚だ合す。陳夢雷は説く、此の一説は姑く保留し置く。
上九。渙其血去逖出。無咎。下卦坎為血為加憂。上與三應。有傷害畏懼之象。上九以陽居渙之極,能出乎渙者。有渙之使血去逖出之象。如是則無咎矣。然三以應上為美,上不以應三為美,何也。蓋易爻大都以陰應陽者,為柔得剛之援。以陽應陰者,為剛受柔之累。又三在險中,則欲得上援以出險。上在險外,則必欲離下以遠害也。
上九の爻辞——彼の血光の災を散去して、傷害を遠離せしめ憂懼を脱出せしむ——過錯なし。下卦の坎は血、また「憂を加う」と為る——上九は六三と相應す。ゆえに傷害を受け心に畏懼を懷くの象あり。上九は陽爻を以て渙散の極点に處す——是れ能く渙散の中より脫身し出ずるの人。ゆえに血光の災を散掉して傷害を遠去らしめ憂懼を解除するの象あり——此の如くして便ち過錯なし。不過六三は上九に應合するを以て美と為すに、上九は却って六三に應合するを以て美と為さず——何ぞや。是れ《周易》の爻例は大体——陰を以て陽に應ずるは、柔弱者は剛強者の援助を得る。陽を以て陰に應ずるは、剛強者は柔弱者の拖累を受く。さらに説く、六三は身に坎險の中に在りて、自然に上九の援手を以て險を脫するを希得す。上九はすでに險外に在りて、自然に下面を撇開して以て禍害を遠離せんと想うのみ。
象曰。渙其血,遠害也。血去則惕亦出,皆所以遠害也。全彖兼聚渙濟渙二義,而皆要之於正。初與二皆欲聚渙者也。然人心國勢不可渙,而私意朋黨不可不渙。號令居積不可不渙,患害尤所當急渙者也。故三四五上四爻,皆因渙以濟渙者也。五為濟渙之君,四為輔君濟渙之臣。六爻獨四五得正故也。亦即利貞之義乎。
《小象伝》にいう——其の血を渙ずるは、害を遠ざけばなり。血光は散じ去れば、驚懼もまた之に隨いて脱出す——两者は皆是れ禍害を遠離するの辦法。全卦を通觀すれば、卦辞は兼ねて「渙散を聚攏す」と「險難を解散す」との两義を含み、而して帰結点は皆一箇の「正」字に在り。初六と九二との两爻は、皆是れ渙散の人心を重新に聚起せんと想う者。知るべきは——人心と國勢とは渙散すべからざるも、然れども私心と朋黨とは渙散せざるべからず。號令と庫藏とは散出せざるべからず、禍患危害は更に是れ當務の急——必ず儘快に散掉すべし。ゆえに六三・六四・九五・上九の此の四爻は、皆是れ「散」を借着して「渙」を挽救す。九五は是れ濟渙の君主、六四は是れ君主を輔佐して濟渙するの臣子——六爻の中は只だ此の两爻のみ正を得——緑故は則ち此に在り。これがまさに卦辞「利貞」の用意なるべし。
節(せつ)の卦
節。下兌上坎。澤中有水,所受有限,為節之象。節卦次渙。按《序卦》:渙者,離也。物不可以終離,故受之以節。物既離散,必須節止,節所以次渙也。全彖以二五得中,剛柔各半。有亨通之道,但不可過中而至於苦。彖傳又推而極言之。六爻大抵當位者吉,不當者凶。初四五當位而吉者也。二三不當位而凶者也。上雖當位而亦凶,則以處於窮極故也。此全卦六爻之大畧也。
《節》卦は、下体は兌、上体は坎。沢の中に水を蓄う——容納する能く所は有限——これがすなわち「節」(限度ありて止まる)の象。《節》卦は《渙》の後に立つ。《序卦伝》に按ず——「渙」はすなわち離散、事物は一直に離散し下る能わず。ゆえに接いで《節》卦を安排す。既に離散せば、則ち必ず節制約束する所有らざるべからず——これがすなわち《節》の《渙》卦に緊接するの緑由。整卦の卦辞の意思は——九二・九五は皆中位を得、六爻は陰陽は各々半分を占む——ゆえに亨通の理あり。只だ是中道を過ぎて「苦節」に走り到るべからず。《彖伝》はまた節の道理を極處に推して講ず。六爻は大体は位に当たるは吉、位に当たらざるは凶。初九・六四・九五は位に当たりて吉、九二・六三は位に当たらざりて凶。上六は位に当たるも亦た凶——あれは是れ其の窮極の地に處すればなり。これがすなわち全卦六爻の大概。
節。亨。苦節。不可貞。節,有限而止也。凡事有節,自有亨道。然至於太甚則苦,不可守以為貞也。卦中陰陽各半而二五皆陽,節貴於得中也。彖曰。節亨,剛柔分而剛得中。剛柔適均而剛得中。節所以亨,以能得中故也。以卦體釋節之亨也。苦節不可貞,其道窮也。甘節為吉,苦則窮矣。
卦辞——《節》、亨通す。節制は苦の地步に到れば、則ち固守すべからず。「節」は限度ありて止まるを知る。凡そ事は節制あれば、自然に亨通の理あり。然れども一たび過分なれば則ち苦と變じ、苦なれば則ちそれを守って以て常道と當作する能わず。此の卦の六爻は陰陽は各半、而して九二・九五は皆是れ陽爻の中に居る——「節」は中を得を貴ぶと見るべし。《彖伝》にいう——《節》の亨は、剛柔は分かれて剛は中を得ればなり。剛柔は均勻に分布して陽剛は中を得——節の亨通する所以は、まさに中道を守住する能くが爲なり。これは卦体を以て《節》卦の「亨」を釋す。「苦節は貞とすべからず、其の道窮まればなり」——甘美の節制はこそ吉、苦澁の節制は則ち走投するに路なし。
說以行險,當位以節,中正以通。以卦德言之。內說欲進者矣。說則易流而行於坎險,則止說而不流,乃為有節。以卦體言之。九五當位,有能節之勢。居中得正,又坎為通。蓋節而中正,則可以通行,所以亨而不至於苦也。天地節而四時成。節以制度,不傷財,不害民。極言節道。天地四時,自然之節。聖人則因其自然者,立制度以節之。如九賦九式之類。財不至於匱乏,民不苦於誅求。
《彖伝》に接いで説く——説(よろこ)びて以て險を行き、位に當りて以て節し、中正にして以て通ず。此の几句は先ず卦徳より説く。内卦の兌は悦——本より一味に前に往かんと想う者。喜悦は放縱氾濫し易く、而して上面は偏に是れ坎險——ここに喜悦は攔住せられて氾濫する能わず——此れこそ其の「節」と成り為るなり。さらに卦体より説く。九五は位に当たりて、能く節制を施行するの勢位を具備す。それは中に居りて正を得、加うるに坎はまた「通」の性質あり。ゆえに説く、節制にして而又中正なれば、便ち以て天下に通行すべし——此に因りて亨通して苦澁に至らず。「天地は節して四時成る。節して以て制度は、財を傷らず民を害せず」——これは節の道理を極處に推して來りて説く。天地の運行・四時の更迭は、是れ自然の節度。聖人は便ち此の自然の節度に順い、制度を訂立して以て節制を加う——《周禮》の「九賦」(九種の賦税)・「九式」(九類の支出)此の類の如し。此の如くにして國用は匱乏に至らず、百姓もまた横征暴斂の苦を受けず。
象曰。澤上有水。節。君子以制數度,議德行。數度,所以為節。議德行,商度以求其中節也。制數度,節民於中。議德行,節身於中也。初九。不出戶庭。無咎。戶庭,戶外之庭也。初前九二。九陽奇,有戶象。初四有應,宜出者也。然九二以陽爻蔽於前。又四為坎體,出則入于坎窞。又以剛在下而無位。皆不可出。初九陽剛得正,當節之初。宜止而止,故有不出戶庭無咎之象。
《大象伝》にいう。沢の上に水あり——此れすなわち《節》。君子はそれに取法して、數目と法度とを訂立し、徳行を評議す。數目法度は是れ用いて節制を立つる所。徳行を評議するは、則ち反覆して斟酌して以て節度に合乎するを求む。數目法度を訂立するは、是れ百姓を中道の內に節制する。徳行を評議するは、是れ自身を中道の內に節制する。初九の爻辞——門戸の外の庭院に出でず——過錯なし。「戸庭」は門戸の外の庭院。初九の前面は是れ九二、九は陽數にして奇に属す——「戸」(單扇の門)の象あり。初九は六四と相應す——説に照らせば是れ出ずべし。然れども九二は陽爻を以て前面に擋り、六四はまた坎体に属す——出づれば則ち坎陷の中に掉ち入れり。加うるに初九は陽剛にして下位に居りて職位を併せてなし——此の几条は皆出ずべからざるを説明す。初九は陽剛にして正を得、まさに節制の開端に当たりて、止まるべければ則ち止まる——ゆえに「戸庭を出でず、咎なし」の象あり。
象曰。不出戶庭,知通塞也。通則出,塞則止。九二。不出門庭。凶。門庭,門內之庭也。九二前遇六三。六耦,有門象。九二居中,有可行之時。六三非有所窒塞,時可行矣。乃失剛不正,又以上無應與,止而不行,知節而不知通者也。故有不出戶庭凶之象。又按,初九來兌始。兌於時為酉,闔戶之象。九二互體震。震於時為卯,闢戶之象。初九時當止,位雖有應,其行非時。九二於時當行,位雖無應,其止非其時。是故節而止者易,節而通者難。
《小象伝》にいう——戸庭を出でずは、通塞を知ればなり——路は通ずれば則ち出づ、路は塞がれば則ち止まる。九二の爻辞——門內の庭院に出でず——凶險。「門庭」は大門の以內の庭院。九二の前面は六三に遇上し、六は陰數にして偶に属す——「門」(雙扇の門)の象あり。九二は下卦の中に居る——まさに行動すべきの時機。六三は併せて阻塞を構成せず——時勢は本より以て通行すべし。然れどもそれは陽爻を以て陰位に居りて正を失し、上面には又た相應するの爻なし——ここに停住して動かず——これは只だ節制を懂るにして通變を懂らざるの人。ゆえに戸を閉して出でざるにして凶の象あり。另た按ず——初九は兌体の開端に處し、兌は時辰の上は酉に属す——是れ門を關するの象。九二の在る所の互体は震、震は時辰の上は卯に属す——是れ門を開くの象。初九は時勢に按じて本より停まるべし——相應の爻あるも、出行は時に合せず。九二は時勢に按じて本より動くべし——相應の爻なきも、停住は時に合せず。此に由りて見るべし——節制を用いて以て自己を停まらしむるは易く、節制を用いて以て自己を通達せしむるは却って難し。
象曰。不出門庭凶,失時極也。九五剛中同德,可出以共成節亨之功。九二時可出而失之,故凶。六三。不節若。則嗟若。無咎。陰柔而不中正,當節而不節若之象。兌為口,有嗟若之象。無咎,與他處可同,言無所歸咎也。象曰。不節之嗟,又誰咎也。嗟乃自取,無所歸咎。
《小象伝》にいう——門庭を出でずの凶は、時を失うこと極めればなり。九五は陽剛にして中に居り、九二と徳性相同じ——九二は本より以て走り出でてそれと一同に「節して亨」の功業を成就すべし。如今時機は行くべきにして却って白く錯過せり——ゆえに凶。六三の爻辞——節制するを肯ぜず、ここに嗟嘆す——咎むべきなし。六三は陰柔にして而又中ならず正ならず——まさに節制すべきの時候に当たりて却って節制せず——ゆえに「節せざるが若く」の象あり。下卦の兌は口——ゆえに「嗟するが若く」(唉聲嘆氣)の象あり。ここの「无咎」は別處の用法と相通ずべし——意思は咎帰する處なし、旁人を怨むるを得ず。《小象伝》にいう——節せざるの嗟は、また誰が咎ならんや。嗟嘆は是れ自ら招き來たれり——咎帰する處なし。
六四。安節。亨。九五當位以節,能節以制度者。四承君之節,順而行之,有安節之象。柔順得正,上承九五,有亨道矣。象曰。安節之亨,承上道也。安於臣節,承上之道也。九五。甘節。吉。往有尚。甘者,味之中。節以中為貴,中則人說之而不至於苦。九五居中得正,所謂當位以節中正以通者,故有甘節之象。其占則吉。往則有可嘉尚,謂立法於今,可垂於後也。他爻之節,節其在我者。九五當位以節,節天下者也。節天下而使天下甘之,其功夫矣。甘在臨之三,以我求說於人,故無利。在此,則人自說於我,故有尚。
六四の爻辞——安然として節制を守住す——亨通。九五は位置当たりて能く節制を施行す——是れ能く制度を以て天下を節制するの人。六四は君主の定むる所の節度を承接し、順從してそれを推行す——ゆえに安然として節を守るの象あり。六四は陰柔にして正を得、上に向かいて九五を承接す——自ら亨通の理あり。《小象伝》にいう——安節の亨は、上の道を承ければなり。臣子たるの本分を安守するは、まさに君上を承奉するの正道。九五の爻辞——甘美の節制——吉祥、前往すれば嘉許を受けん。「甘」は五味の中の最も中和の一味。節制は中を得を以て貴しと為し、中を得れば則ち人人は皆受け入るるを樂しんで苦と感ずるに至らず。九五は中に居りて正を得——まさに《彖伝》の説く所の「位に當りて以て節し、中正にして以て通ず」の彼の一爻。ゆえに「甘節」の象あり、占断は吉と為す。「往きて尚ばるるあり」と説くは、其の今日の立つる所の法度は以て後世に垂範すべきを指し、此に因りて嘉許に値す。其の余の各爻の講ずる節は、只だ自己の分內の事を節制する。九五は位置当たりて節制を施行す——節制する所は是れ整个の天下。天下を節制して能く天下の人をして之を飴の如く甘からしむれば、此の份の功夫は大なるべし。同じく一箇の「甘」字にして、《臨》卦の六三は「甘臨」——あれは我が往きて人の歓心を討う——ゆえに「利する所なし」。此處に在っては却って人家は自然に我に對して心に悦び誠に服す——ゆえに「往きて尚ばるるあり」。
象曰。甘節之吉,居位中也。中則不過而不至於苦。可兼正,故止言中。上六。苦節。貞凶。悔亡。居節之極,過乎中矣,故有苦節之象。雖正而不免於凶矣。凶則有悔。然禮奢寧儉,故雖有悔而終得亡之矣。蓋苦節之悔,猶勝於不節之嗟也。上六得正為貞,窮極故凶。凶故悔,貞故悔亡。
《小象伝》にいう——甘節の吉は、位の道に居ればなり。中を得れば則ち過分ならず、また苦澁に至らず。既に中を得れば往々にして則ち兼ね帶びて正——ゆえに《小象伝》は只だ一箇の「中」字を提ぐ。上六の爻辞——節制は苦の地步に到れば、正を守るも凶、然れども悔恨は消失せん。上六は節の極点に處して、すでに中道を過ぎたり——ゆえに「苦節」の象あり。たとい其の爻位は正を得るも、凶を免れず——一たび凶なれば便ち悔恨あり。然れども《論語》に禮を「其の奢なるよりは儉ならんを寧ろ」と説く——ゆえに悔恨あるも終究に能く消掉せん。知るべきは——苦節の生ずる所の悔は、総じて還お節制を加えずして後に嗟嘆するに勝れり。上六は陰爻の陰位に居りて正を得——すなわち是れ「貞」。窮極の地に處す——ゆえに「凶」。凶に因りて悔あり、また正を守るに因りて悔恨は消亡するを得べし。
象曰。苦節貞凶,其道窮也。節,道也。至於苦則窮,不可通行於世也。今卦以節為名。在學為不陵節,在禮為節文,在財為樽節,在物為符節,在臣為名節,在君師為節制。隨其事皆可為占。全彖節有可亨之道而貴於中正。六爻在他卦中可兼正,在此卦則雖中而不正亦凶。蓋不正不可為節,但恐其過中而至於苦耳。
《小象伝》にいう——苦節貞凶は、其の道窮まればなり。節は本より一種の道。苦の地步に到れば則ち窮尽し、以て世に通行するに法なし。此の卦は既に「節」を以て命名せば、然らば則ち各處に落つ。爲学の上は《禮記》の説く所の「節を陵(こ)えずして施す」——次を越え等を躐(ふ)まざるなり。禮制の上は儀節の文飾。財用の上は撙節省儉。器物の上は符信の憑節。臣子の身上は名節。君主と師長との身上は節制。問う所の事に隨いて、皆此を據りて斷を取るべし。整卦の卦辞は節に亨すべきの道ありと説き、而して中正を貴ぶ。六爻は別の卦の裏は、中を得れば往々にして則ち兼ね帶びて正。此の一卦に於いては然らず——たとい中を得て正を得ずとも照樣に凶——是れ正ならざれば則ち其の節と成り為さざれば、防ぎ提すべき所は只だ中を過ぎて苦と變ずるのみ。
九五居中得正,故得甘節之吉。六三不中不正,故凶咎不待言。餘四爻則必以得正為善。初九得陽剛之正而無咎。六四得柔順之正而吉。上六雖以卦極致凶,亦以得正而無咎。九二雖居中,反至於凶,則以陽居陰,失正之故也。天下未有不貞亦(文瀾本「亦」作「而」)可謂之節者。故彖不必言利貞,而爻則必正乃吉也。
九五は中に居りて正を得——ゆえに「甘節」の吉を得。六三は中ならず正ならず——凶咎は自ら言を俟たず。其の余の四爻は則ち一律に正を得を以て善と為す。初九は陽剛の陽位に居るの正を得——ゆえに過錯なし。六四は陰柔の陰位に居るの正を得——ゆえに吉。上六は卦の極点に處するに因りて凶を招くも、また正を得に因りて終に過錯なきに帰す。九二は中に居るも、かえって凶に落ち至れり——まさに陽爻を以て陰位に居りて正を失せしの緑故に因る。天下は從來正を守らずして還お「節」と称するに配するはなし(此處の「亦」字は、文瀾閣本は「而」と作す)。ゆえに《節》卦の卦辞は特に「利貞」を標出するに及ばずして、然れども各爻は却って端正せざれば則ち吉を得ず。
中孚(ちゅうふ)の卦
中孚。中孚卦,下兌上巽。風行澤上,感於水中,中孚之象。以卦畫言之。內外皆實而中虛,中孚之義。二五皆陽為中實,亦中孚之義。蓋中虛者,信之本。中實者,信之質。卦所以稱中孚也。中孚次節。按《序卦》:節而信之,故受之以中孚。節制使人不越,上下信從。中孚所以次節也。
《中孚》卦は、下体は兌、上体は巽。風は沢面の上に吹行して、水の深處に感動す——これがすなわち「中孚」(內心の誠信)の象。六爻の画象に就いて説けば——上下の四爻は皆陽實、而して三・四の两爻は中間に虚空——まさに「中孚」の義に合す。さらに看れば九二・九五は皆陽爻、各々上下卦の中に居りて「中實」と為す——も亦た「中孚」の義に合す。是れ中間虚空なるは、誠信の根本——私なきてこそ能く物を容る。中間充實なるは、誠信の實質——物あってこそ能く欺かず。卦名の《中孚》と曰う所以は、緑故は則ち此に在り。《中孚》は《節》の後に立つ。《序卦伝》に按ず——節制あって人をして信從せしむ。ゆえに接いで《中孚》を安排す。節制は人をして逾越するを敢えてせざらしめ、上下は此に由りて互相いに信服す——これがすなわち《中孚》の《節》卦に緊接するの緑由。
全彖以誠信之極,雖無知之物可感,雖患難可涉,而皆利於以正也。六爻以孚之道在剛中,故獨二五為孚之至。初之應四,初實而四虛。至三之應上,三虛而上實。故皆未能盡孚之道。蓋他卦皆以陰陽相應為吉,此則獨以剛中同德為孚。此全彖六爻之大畧也。
整卦の卦辞の意思は——誠信は極点に到れば、知覺なきの物すらも能く感動し、再び大なりの患難も渉渡し過ぐるを得——而して此の一切は皆正を守るを以て利と為す。六爻は則ち誠信の道は陽剛の中に居るに在りと認定す——ゆえに唯だ九二・九五のみこそ誠信の極致と算す。初九は六四と相應するも、然れども初九は是れ陽實にして六四は是れ陰虚。六三は上九と相應するも、又是れ六三は陰虚にして上九は陽實——彼此は虚實齊しからず。ゆえに皆未だ誠信の道を盡す能わず。知るべきは——別の卦は皆一陰一陽の相應を以て吉と為すに、此の一卦は却って独り陽剛居中・徳性相同じを以て「孚」と為す。これがすなわち全卦の卦辞と六爻との大概なり。
中孚。豚魚吉。利涉大川。利貞。孚心可相信也。以一卦言為中虛,以二體言為中實,皆孚之象。又上巽以順下,下說以應上,亦相孚之義。豚魚,江豚。至則有風,信之可必者。澤上有風,有豚魚之象。木在澤上,外實內虛,舟楫之象。誠信之至如豚魚則吉,以涉險難亦利。然必利於正固乃可,不則硜硜匹夫之諒矣,以為信可感豚魚,於義亦優。然不如以象言為當。
卦辞——《中孚》、誠信は江豚に及べば則ち吉、大川を渉るに利し、正を守るに利し。「孚」は內心に以て彼此に信賴すべし。整卦に就いて看れば是れ中間虚空、上下两体に就いて看れば是れ各々中間充實——皆是れ誠信の象。さらに説く、上体の巽順は以て下面に俯就し、下体の兌悦は以て上面に應合す——も亦た彼此相い信ずるの意。「豚魚」は江豚を指す——それは一たび水面を出づれば則ち風を起こす——是れ信驗は必然に應準するの物。沢の上に風あれば、まさに江豚の象に合す。木は沢の上に浮びて外は實にして裏は空——まさに舟船の象。誠信は江豚彼の種の必然應驗の地步に真摯せば則ち吉、それを用いて險難を渡渉するも利あり。不過必ず正を守り固守するを以て前提と為してこそ可なり——否ざれば則ち《論語》の譏る所の「硁硁(こうこう)然たる小人かな」彼の種の匹夫の信に淪落せん。また人は此の句を「誠信は以て江豚を感動するに足る」と講ずる者有り——義理に就いて説けばも亦た講じて錯えず、只だ是れ卦象に按じて講ずるに如かざるを更に妥當と為す。
彖曰。中孚,柔在內而剛得中。說而巽,孚乃化邦也。以卦體言之。六三六四在內,則中虛無私主矣。九二九五剛而得中,事皆不妄矣。以卦德言之。下說以孚乎上,上巽以孚乎下,可以感化乎萬邦矣。
《彖伝》にいう——《中孚》、柔は內に在りて剛は中を得。説(よろこ)びて巽(したが)えば、孚は乃ち邦を化す。此の几句は先ず卦体より説く。六三・六四の两根の陰爻は全卦の中間に處し、中心は虚空——便ち偏私の成見の主どるなし。九二・九五は陽剛にして各々上下卦の中に居る——事を辦れば則ち皆虚妄ならず。さらに卦徳より説く。下体の兌悦は、是れ誠信を以て上面に對待す。上体の巽順は、是れ誠信を以て下面に對待す。上下は此の如く相い孚(まこと)なれば、便ち以て天下萬邦を感化すべし。
豚魚吉,信及豚魚也。利涉大川,乘木舟虛也。以卦象言。中孚以利貞,乃應乎天也。天者,理之正而已。《象》曰:澤上有風,中孚。君子以議獄緩死。議獄,兌象。緩死,巽象。風無形而能震川澤,誠也。議獄緩死,求之以誠也。如舜之好生洽民,舜之中孚。不犯有司,天下之中孚也。
《彖伝》にいう——「豚魚吉」は、誠信はすでに江豚・河魚此の一類の最も感格し難きの水族の身上に感通せり。「大川を渉るに利し」は、是れ中孚卦の中間の两爻は虚空——木船の腹中は空虚に好比し、それに乘りて水を渡れば必ず浮びて沈まざればなり。此の两句は皆卦象に就きて説を立つ。「中孚は利貞を以てし、乃ち天に應ずればなり」は、説く存誠は必ず正を守ってこそ、こそ天道と相い應ず。いわゆる「天」は、不過彼の至正の理のみ。《大象伝》にいう。兌沢は下に在り巽風は上に在り、風は沢の上を行く——此れすなわち《中孚》。君子は此に取法して、刑獄を審議して務めて反覆詳盡を求め、已定の死罪もまた其の期を寬緩して一線の生路を留む。「獄を議る」は兌を口舌・刑罰と為るの象を取り、「死を緩む」は巽を寬緩と為るの象を取る。風は本より形体なく、然れども能く一沢の水を震動す——靠る所はまさに一箇の「誠」字。君子の獄を議り死を緩むるも、また是れ一片の至誠を以て獄情の實を求得せんとするなり。《尚書・大禹謨》の記する所の虞舜の生を好むの徳は民心に洽(あまね)し——あれは舜一身の中孚。百姓は此に因りて法吏に干犯するに往かず——あれは則ち天下人の中孚なり。
初九:虞吉,有他不燕。中孚之初上應六四,度其可信而信之則吉。若有他則失所安,戒之也。卦中二柔。四得正,三不正。初宜應四而間於三,故有此象。《象》曰:初九虞吉,志未變也。志定於始,恐變於終。
初九の爻辞にいう——「虞(おもんぱか)りて吉、他あれば燕(やす)からず」。「虞」は是れ揣度。《中孚》の初九は下卦の始に居り、上に六四と相應す——先ず對方の確かに信すべきを揣度して然る後に之を信ず——此れこそ吉利。倘若別に屬する所有りて心志は二三なれば、則ち安身の所を失掉せり——ゆえに此の句の爻辞は是れ一番の告誡。卦中の六三・六四の两箇の柔爻は、六四は陰を以て陰に居りて正を得、六三は陰を以て陽に居りて正ならず。初九は本來当たりに上に六四に應ずべし——然れども正ならざるの六三に中間に隔たれり——ゆえに「揣度して後に信ず」と「他あれば則ち安からず」との此の两层の象あり。《象伝》に「初九虞吉は、志いまだ變ぜざればなり」と説くは、交信の志は開頭に於いて則ち審定するを要すを説く。開頭はすでに審定せりといえども、仍お後來に變節するを怕る——ゆえに特に「志未だ變ぜず」の三字を點出す。
九二:鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾縻之。兌為正秋為口舌。鶴,感秋而鳴者。二為陰。有鳴鶴在陰之象。二五以上下位言之,則五為君二為臣。以先後之序言之,則二可為父而五可為子。二中孚之實,而五亦以中孚之實應之,有鶴鳴子和之象。好爵爾縻。
九二の爻辞にいう——「鳴く鶴は陰に在り、其の子是れ和す。我に好爵あり、吾、爾と之を縻(つな)がん」。下卦の兌は時令は正秋に属し、人身は口舌に属す。鶴は秋氣を感じて鳴くの鳥——九二はまた下卦の幽隱の地に居る——ゆえに「鳴く鶴は陰に在り」の象あり。九二と九五との關係は两面より看るべし。上下の位を以て説けば、五は君・二は臣。先后の序を以て説けば、二は下に在りて先に生ず——父と比作すべく、五は上に在りて後に至る——子と比作すべし。九二は中孚の實心を懷き、九五もまた中孚の實心を以てそれに應ず——老鶴が一たび鳴けば雛鶴は即ち應ずるが如し——ゆえに「其の子是れ和す」の象あり。「好爵爾縻」の一句は、則ち彼此は美好の物を以て相い維係して捨てざるを説く。
按,《大全》張氏謂我爵指五。五為君位,故以爵言。吾亦五也。爾指二。縻,二係於五也。今按,好爵諸家皆以為爵祿,獨《本義》以為懿德。蓋謂二五剛而得中,皆能修其天爵者也。如此則我吾仍指二,爾指五為順。蓋懿德之實可以相感。二之所有,吾亦繫戀之也。《象》曰:其子和之,中心願也。九二以實感,九五以實應也。
按ず——《周易大全》の載する所の張氏の説は、「我有好爵」の「爵」は九五を指すと以為す——五は君位に居れば、ゆえに爵祿を用いて言を立つ。「吾」もまた是れ九五を指し、「爾」は則ち九二を指し、「縻」は九二の九五に繫属するなり。今按ず——「好爵」は諸家は皆爵祿と解すも、惟だ独り朱熹《周易本義》は美好の徳行と解し、以為す二・五は皆陽剛を以て中位に居りて、皆是れ能く「天爵」——すなわち自身の徳性——を修むるの人。《本義》に依りて講ずれば、則ち「我」「吾」は仍お九二を指し、「爾」は九五を指し、文意こそ順なれ。美徳の實は本より以て互相いに感通すべし。九二の所有する此の份の懿徳は、それは自己もまた珍重して繫戀し、九五と共に守らんを願う。《象伝》に「其の子是れ和すは、中心の願いなり」と説く——まさに九二は真實の心を以て感じ、九五は真實の心を以て應ず——两下は皆本心の願う所より出づるを説く。
六三:得敵,或鼓或罷,或泣或歌。敵謂上九,信之窮者也。三陰柔不中正,居說之極。與不中正之上九為應,而不能自主。互二四為震,或鼓之象。互四五為艮,或罷之象。兌澤之流,或泣之象。兌口之開,或歌之象。《象》曰:可鼓或罷,位不當也。不中不正故也。
六三の爻辞にいう——「敵を得、或いは鼓し或いは罷(や)み、或いは泣き或いは歌う」。「敵」は上九を指す——上九は是れ誠信は尽頭に走り到りて、信を執して變を知らざるの人。六三は陰柔を以て陽位に居りて、既不に中にしてまた正ならず、また下卦兌「説」の極点に處し、同じく中ならず正ならざるの上九と相應す——ここに人に隨いて俯仰して、自己の主を做すを得ず。二より四爻は互体して震と成り、震は動・鼓——ゆえに「或いは鼓す」の象あり。三より五爻は互体して艮と成り、艮は止——ゆえに「或いは罷む」の象あり。兌は沢、水は流下して注ぐ——「或いは泣く」の象あり。兌は口、口は張りて歌う——「或いは歌う」の象あり。《象伝》に「或いは鼓し或いは罷むは、位當たらざればなり」(底本は「或」は訛りて「可」と作す)と説く——まさに六三は既不に中にしてまた正ならざるに因りて、こそ此の如く進退は據なし。
六四:月幾望,馬匹亡,無咎。六四居陰得正,位近於君。有月無光,借日之光以為光,而幾於望之象。又下卦兌互震,震東兌西,日月相望之象。又震為馬。倆馬一色為匹,猶對也。初與四為匹,四乃絕之以上信於五,有馬匹亡之象。此大臣能杜私交以事主者也,故無咎。《象》曰:馬匹亡,絕類上也。下絕初九之類而上從於五也。
六四の爻辞にいう——「月は望に幾(ちか)く、馬匹亡ぶ、咎なし」。六四は陰爻を以て陰位に居りて正を得、また九五の君に緊鄰す。月亮は本身は光なし——是れ日光を借りて以て其の明を成す。六四もまた是れ九五の明を借りて以て其の徳を成す——光華は滿ち將たるも未だ滿せず——ゆえに「月は望に幾く」の象あり。さらに説く、下卦は兌と為り、二より四爻は互体して震と為る——震は東に在り兌は西に在り、日月は東西に相望す——も亦た「幾望」の象。震はまた馬と為る——两匹の毛色相同じの馬を「匹」と曰い、「匹」はすなわち相い對し雙を成すの意。初九は本より六四と匹配の應と為るも、六四は却って此の层の私應を斷絶し、一意に上に向かいて九五に取信す——ゆえに「馬匹亡ぶ」の象あり。これがまさに大臣の私交を杜絶し專心して君に事うるの做法——此に因りて過錯なし。《象伝》に「馬匹亡ぶは、類を絶ちて上なればなり」と説く——すなわちそれは下に對しては初九此の一黨類を斷絶し、上に對しては專一に九五に順從すを説く。
九五:有孚攣如,無咎。九五剛健中正,而居尊位,孚之主也。下應九二,與之同德,故為有孚攣如之象。此彖所謂孕乃化邦者也。故無咎。《象》曰:有孚攣如,位正當也。有德有位,乃為正當。
九五の爻辞にいう——「孚ありて攣(れん)如たり、咎なし」。九五は陽剛健實、中に居りて正を得て尊位に處す——是れ全卦の誠信の主人。それは下に九二に應じ、九二と同一の剛中の徳——两心は牽繫して解けず——ゆえに「孚ありて攣如」の象あり。これがすなわち卦辞の説く所の「孚は乃ち邦を化す」——誠信を以て一国を化成す(底本は「孚」は訛りて「孕」と作す)——ゆえに過錯なし。《象伝》に「孚ありて攣如たるは、位正當なればなり」と説くは、既に誠信の徳ありまた九五の位に居れば、徳と位とは相い稱えてこそ「正當」と算すを説く。
上九:翰音登于天,貞凶。雞鳴必先振羽,故曰翰音。巽為雞,又雞之鳴有信,故於中孚言之。上九居卦之最上。雞非登天之物,以居卦之極。信非所信而不知變,又有翰音登天之象。雖貞亦凶也,況不貞乎。《象》曰:翰音登于天,何可長也。九而不變則凶也。全卦以誠信在中,則可以涉險難,然皆利於得正。六爻在他卦皆取陰陽相應,此獨取二五中實之同德為孚。蓋中可兼正。即卦之貞也。四亦以正而無咎。初以正而吉而戒其有他。至三上則不中不正,失所謂貞。即失所謂孚矣。
上九の爻辞にいう——「翰音(かんいん)は天に登る、貞にして凶」。鶏は鳴叫せんと要すれば必ず先ず翅膀を振動す——ゆえに「翰音」と曰う——羽翼の聲。上卦の巽は鶏——鶏は時に按じて鳴きて最も信實あり——ゆえに《中孚》卦の裏に於いてそれを取りて象を立つ。上九は一卦の最上位に處す。鶏は本より能く天に飛上るの物に非ず——それは却って卦極に居るに因りて妄りに自ら高擧す。信ずる所は本より信ずるに足らざるも、又た固執して變通を知らず——ここに「翰音の天に登る」の象あり。此の種の人はたとい固守して移らざるも還お是れ凶、況んや守る所は本來正ならざるをや。《象伝》に「翰音天に登るは、何ぞ長からんや」と説く——虚聲は上騰して豈に長久すべけんや。九位に到りて變を知らざれば、則ち只だ凶あるのみ。全卦を通觀すれば——誠信は中に充實すれば、便ち以て險難を涉越すべし。然れども皆其の正を守り得るを以て利と為す。別の卦の六爻は多く陰陽相應を取りて義と為すに、此の一卦は却って独り九二・九五の中實同徳を取りて「孚」と為す——是れ「中」を得れば自然に以て「正」を兼ぬべきが故なり——これがすなわち卦辞の説く所の「貞」。六四もまた正を得に因りて過錯なく、初九もまた正を得に因りて吉——只だ是れそれに別に屬する所有るべからざるを告誡す。六三と上九とに至っては、既不に中にしてまた正ならず——いわゆる「貞」を失掉せば、則ちいわゆる「孚」を失掉せり。
小過(しょうか)
小過,下艮上震。山上有雷,其聲小過。為卦四陰二陽,陰多於陽。又陰居尊位,陽失位而不中。小者過其常也,故為小過。小過次中孚。按《序卦》:有其信者必行之,故受之以小過。人之所信必行,行則有過,小過所以次中孚也。
《小過》卦は下は艮上は震。艮は山、震は雷——雷は本來当たりに天上に於いて震響すべし——如今は只だ山頭の上に於いて響く、聲勢は小小と過ぎたる一點のみ——ゆえに卦の名は「小過」。卦体に就いて説けば、四箇の陰爻・两箇の陽爻、陰は陽より多し。また六五は陰を以て尊位に居り、九三・九四の两陽は皆位を失いて中を得ず。「小者」は即ち是れ陰——陰は其の平常の分限を超過せり——ゆえに《小過》と曰う。《小過》は何ぞ《中孚》の後に立つや。《序卦伝》に説く——誠信あるの人は必ず實行に往かんと要す。ゆえに《中孚》の後には《小過》を以て接ぐ。人は自己の信ずる所には必ず做しに往かんと要し、一たび做し起これば則ち過越する所有るを免れ難し——これがすなわち《小過》の《中孚》に次ぐの道理。
全彖以陰小過於陽亦可以亨,但利於守正,宜於小事而不宜於大事。此全彖之大旨也。六爻四陰二陽,陰過於陽。初爻上爻,陰之不中而過者也,故皆凶。二五兩爻,中而不過者也,故無凶咎。若三四兩陽爻,當四陰方過之時。四居柔在下,不過危厲。若三居剛在上,必致凶戕矣。大抵陰過則陽多傷,而陰又不宜至於太過,又聖人扶陽抑陰之微旨乎。
整篇の卦辞の意思は——陰は稍稍と陽を超過せば、も亦た自ら亨通の道あり。然れども必ず正を守ってこそ利あり、只だ小事を做すに宜くして大事を做すに宜からず——これは全篇の卦辞の大旨。六爻の中は四陰二陽、陰は陽に過ぎたり。初六・上六の两爻は、是れ陰にして又た中を得ず過ぐること太甚なる者——ゆえに皆凶。六二・六五の两爻は中に居りて過分ならず——ゆえに凶咎なし。九三・九四の两箇の陽爻に至っては、まさに四陰の方が盛なる時に当たる。九四は陽を以て柔位に居りて上卦の下に處す——最も多くは不過是れ危厲。九三は陽を以て剛位に居りて下卦の上に處す——則ち必ず戕害を遭受するに至らん。大抵は陰は一たび過分なれば、陽は多く傷を受け、而して陰はまた極点に過ぐべからず——ここはもまた聖人の陽を扶け陰を抑むるの微意を見出だすべし。
小過:亨,利貞,可小事,不可大事。飛鳥遺之音,不宜上,宜下,大吉。小謂陰也。四陰在外,二陽在內。陰多於陽,小者過也。以事言之有三義。小有所過,一也。大者不可過而小者可過,二也。所過者小,三也。
卦辞に説く——「小過、亨、利貞、小事には可なり大事には可ならず。飛鳥は其の音を遺す、上に宜からず下に宜し、大吉」。「小」は是れ陰を指す。四箇の陰爻は内外の两端に分居し、两箇の陽爻は中に居る——陰は陽より多し。ゆえに「小者過ぐ」と説く。人事に就いて講ずれば、「小過」は三层の意思を含む。一つは過越する所の程度は小、只だ稍稍と過ぐる一點。二つは大處は過ぐべからずして小處は妨げず過ぐべし。三つは過越する所の事情は本身是れ小事。三義を合せ看てこそ、卦名の意思は完足せり。
既過於陽則可以亨矣,然必利於守正。蓋不正,則所過不小矣。二五以柔得中,有可小事之象。三四以陽剛失位不中,有不可大事之象。此卦錯中孚。中孚大象離,有飛鳥之象。今錯變為小過大象坎不見離,有鳥飛已過但遺音之象。本卦中二陽爻,有鳥身之象。上下四陰爻有鳥翼之象。三四五互為兌口,有遺音之象。陽上陰下宜順其性,有不宜上宜下而大吉之象。
陰は既に陽に過ぎたれば、事情もまた以て通じ行くを得——ゆえに「亨」と説く。然れども必ず正を守ってこそ利あり——是れ一たび正を守らざれば、過ぐる所は則ち「小」のみに止まらざればなり。六二・六五は柔順を以て各々中位を得——ゆえに「小事可なり」の象あり。九三・九四は陽剛を以て位を失いてまた中を得ず——ゆえに「大事可ならず」の象あり。此の卦は《中孚》と「錯卦」と為り、六爻は陰陽は全く反す。《中孚》の全卦の大象は離に似たり、離は飛鳥——ゆえに飛鳥の象あり。錯じて《小過》と成れば、大象は坎に似て離を見ず——鳥はすでに飛び過ぎて只だ一點の鳴聲を留下せるのみ——ゆえに「飛鳥は其の音を遺す」の象あり。本卦に就いて看れば、中に居るの两箇の陽爻は鳥身に象り、上下の四箇の陰爻は鳥翼に象る。三・四・五爻は互体して兌と為り、兌は口——ゆえに「音を遺す」の象あり。陽性は上升し陰性は下沉す——各々其の性に順えばこそ好し。此の卦は陽は內に在りて陰は外に在る——ゆえに「上に宜からず下に宜し」にして大吉を得るの象あり。
過非美名。大過陽多於陰,易猶許其往。小過陰多於陽,則聖人多戒辭。此時非可以吉。然能善於自處小事而不為大事,處下而不處上,則可以大吉矣。《彖》曰:小過,小者過而亨也。陰多陽寡,小者過也。過而亨。時當小過,不順時豈能亨。惟小者過,所以亨也。此以卦體釋卦名義與卦辭也。
「過」は本より好き名目に非ず。《大過》は陽は陰より多く、《易》は還おそれに往く所有るを許す。《小過》は陰は陽より多く、聖人の辭句の裏は則ち多半是れ告誡。此の種の時候は本より説いて吉と稱するに上がらず——然れども若し能く自處するに善くば、只だ小事を做して大事を圖らず、下位に居るを甘んじて上位に居らざれば、倒れかえって以て大吉すべし。《彖伝》に説く——「小過は、小者過ぐるにして亨なり」。陰は多く陽は少し——まさに是れ「小者過ぐ」。何ぞ過ぐるも還お能く亨するや。是れ時勢はまさに小過に当たれば、時勢に順わざれば又た怎能に亨通せんや。惟だ其の過ぐる所は只だ小者なるが故に、ゆえに還お能く亨す。此の一句は卦体を以て卦名の義と卦辞とを釋す。
過以利貞,與時行也。柔得中,是以小事吉也。時當小過而不失其正,乃可謂與時行。失正,則非與時偕行之義矣。柔得中,以二五言。柔順得中,則處一身之小事能與時行矣,所以小事吉。剛失位而不中,是以不可大事也。以三四言。凡大事,必以剛健中正君子為之。今失位不中,陽剛不得志矣,所以不可大事。
《彖伝》に接いで説く——「過ぎて以て貞に利しは、時と與に行けばなり。柔は中を得、是を以て小事吉なり」。まさに小過の時に当たりて而も仍お其の正を失わざれば、こそ「時と偕に行く」と称するに配す。一たび正を失えば、則ち時に隨いて行くの本義に非ず。「柔は中を得」は是れ六二・六五に就いて説く。柔順にして而又中を得れば、一身の小事を處置して便ち能く時宜に合乎す——ゆえに小事は吉を得。又た説く——「剛は位を失いて中ならず、是を以て大事は可ならず」。これは是れ九三・九四に就いて説く。凡そ大事は、必ず剛健中正の君子を得て擔當せしめよ。如今の两陽は既に其の位を失いまた中を得ず——陽剛の才は施展するに從らず——ゆえに以て大事を做すべからず。
有飛鳥之象焉。飛鳥遺之音,不宜上宜下。大吉,上逆而下順也。以卦體言,飛鳥遺音,不宜上宜下。上逆下順者。上卦乘陽,四五失位,逆也。下卦乘陽(文瀾本「下卦乘陽」作「下卦承陽」),二三得位,順也。故占此者,凡事不宜上而宜下也。
《彖伝》に又た説く——「飛鳥の象あるかな。飛鳥は其の音を遺す、上に宜からず下に宜し、大吉は、上は逆にして下は順なればなり」。これは仍お卦体に就きて講ず——全卦は一只の飛鳥に象り、鳥はすでに過ぎて其の音を遺す——上に向かうに宜からずして下に向かうに宜し。いわゆる「上逆にして下順」は——上卦震の六五は九四の上に乘り、四・五の两爻は皆其の正位を失す——是れ逆。下卦艮の六二・九三は、二・三の两爻は各々其の位を得——是れ順(「下卦は陽に乘る」の一句は、文瀾本は「下卦は陽を承く」と作す——義に於いては長ず)。ゆえに此の卦を占得するの人は、凡事に皆上に向かいて強求するに宜からずして、退きて下に處るに宜し。
《象》曰:山上有雷,小過。君子以行過乎恭,喪過乎哀,用過乎儉。雷在天上為大壯。出於地而上于山,其聲小過而已。三者之過,皆小者之過。《本義》謂可過於小而不可過於大。蓋可過乎恭,不可過乎傲。可過乎哀,不可過乎易。可過乎儉,不可過乎奢也。又謂可以小過,而不可甚過。蓋恐其恭之甚為足恭。哀之甚而為喪明。儉之甚而為豚肩不掩豆也。
《大象伝》に説く——「山の上に雷あり、小過。君子は以て行は恭を過ぎ、喪は哀を過ぎ、用は儉を過ぐ」。雷は天上に在れば是れ《大壯》。雷は地面を出でて只だ山頭に響く——聲勢は不過略々に過分のみ。恭・哀・儉の此の三樣の過分は、皆「小者」の過分に属す。朱熹《周易本義》は釋して説く——小處に於いて過分する可く、大處に於いて過分すべからず——恭に過ぐる可く、倨傲に過ぐべからず。哀戚に過ぐる可く、簡慢に過ぐべからず。節儉に過ぐる可く、奢侈に過ぐべからず。《本義》に又た説く——稍稍と過ぐる一點は可く、太甚に過ぐべからず。是れ恭敬は太甚なれば則ち孔子の譏る所の「恭に足る」と成り、哀戚は太甚なれば則ち子夏の如く子を哭して明を喪うに會し、節儉は太甚なれば則ち晏嬰の如く一只の豚肩は小きにして祭豆を蓋い滿さざるに會す。
初六:飛鳥以凶。《大全》以初上為鳥翼,故於初上言飛鳥。然初二五上皆翼,取象未確。竊按,全卦有飛鳥之象。而上卦震二三四互巽,亦有鳥象。小過之時,不宜上宜下。初在下者也,乃陰柔不正,上應於四。則上而不下,猶小人附權貴以取禍者。故有飛鳥以凶之象。曰以者,初躁動援四而四以之也。《洞林占》謂致羽蟲之孽,亦此意。《象》曰:飛鳥以凶,不可如何也。初不安於下,凶乃自取,無可如何。
初六の爻辞に説く——「飛鳥は以て凶」。《周易大全》は初爻・上爻を以て鳥の两翼と為す——ゆえに只だ初・上の两爻に於いて飛鳥を説く。然れども初・二・五・上の四箇の陰爻は皆翼と算作すべし——此の如くの取象は併せて確當ならず。我は私くに以為す——全卦は本より飛鳥の象あり、而して上卦は震と為り、二・三・四爻は互体して巽と為り、巽は鶏にして風——も亦た鳥の象あり。小過の時に当たりて、本より上に宜からずして下に宜し。初六は最下に居る——まさに当たりに下位に安んずべし——偏にそれは陰柔にして正ならず、上に向かいて九四に應ず——ここに只だ上を知りて下を知らず——小人の權貴に攀附して自ら其の禍を取るが如し。ゆえに「飛鳥は以て凶」の象あり。爻辞は一箇の「以」字を用うるは、初六は躁動して九四に攀援しに往きて、而して九四はまたそれを帶びて上げ去れりと説く。《洞林占》に此の爻は羽蟲の災を招致するを主どると説く——も亦た此の意。《象伝》に「飛鳥以凶は、如何ともすべからざればなり」と説く——初六は自己は下に安んぜず、凶は是れ自ら取れる——誰も何ともすべからざるを説く。
六二:過其祖,遇其妣,不及其君,遇其臣,無咎。三陽在二之上,有父象。四在三上,有祖象。五以陰居尊,有妣象。然五尊而初二卑,又有君臣之象。二越三四而上應於五,是過其祖矣。然五陰非正應,是所遇乃妣也。然以爻位言之,五又君也。過祖,有繼世之譽。過君,則有犯分之嫌。當小過時,上逆而下順。二柔順中正,過而不過。下與初比。故有不及其君而遇其臣之象。如是則無咎矣。過祖非敢抗祖,乃遇其妣。君不敢過而與臣遇。正所謂可小事而不可大事,不宜上宜下者。故無咎也。《象》曰:不及其君,臣不可過也。臣過其君,非小過之義矣。
六二の爻辞に説く——「其の祖を過ぎて其の妣(ひ)に遇い、其の君に及ばずして其の臣に遇う、咎なし」。九三の陽爻は六二の上に在りて父の象あり。九四はまた九三の上に在りて祖の象あり。六五は陰柔を以て尊位に居りて祖母「妣」の象あり。然れども五は尊にして初・二は卑、五と二との間にはまた君臣の象あり。六二は三・四の两爻を越過して上に六五に應ず——すなわち是れ「其の祖を過ぐ」。然れども六五は是れ陰——六二と同性にして併せて正應に非ず——遇う所は只だ「妣」のみ。さらに爻位に就いて説けば、六五は又た是れ君。祖父を越過するは、還お世業を繼承するの美譽と算すべし。君上を越過すれば、則ち分を犯して逾越するの嫌疑あり。小過の時に当たりて、上に向かうは是れ逆、下に向かうは是れ順。六二は柔順にして中正——過ぐるも其の正を失わず、下に向かいてはまた初六と相い親比す——ゆえに「其の君に及ばずして其の臣に遇う」の象あり——君位を僭越せずして往かず、只だ下に在るの同列と相遇う——此の如くして自然に過錯なし。祖を過ぐるは併せて祖と抗衡するを敢えてするに非ず、只だ是れ妣に遇い了れり。君に於いては則ち逾越するを敢えてせずして、而して臣と相遇う。これがまさに卦辞のいわゆる「小事には可なり大事には可ならず、上に宜からず下に宜し」の道理——ゆえに咎なし。《象伝》に「其の君に及ばざるは、臣は過ぐべからざればなり」と説く——臣子は若し君上を越過せば、則ち「小過」の本義に非ず。
九三:弗過,防之,從或戕之,凶。《本義》以弗過防之謂不能過於防陰,然於四爻異同。今依胡氏以弗過為句。小過陰過之時。二陽皆稱弗過,謂陽不能過陰也。從,隨也。柔過之時,眾陰害陽。三雖得位而弗能過乎陰,則當離之。若不防則隨有戕之者至矣,故凶。蓋此卦不宜上。三居下卦之上,眾陰勢方上進故也。《象》曰:從或戕之,凶如何也。如何,言其甚也。
九三の爻辞に説く——「過ぎず、之を防げ、從いて或いは之を戕(そばめ)ん、凶」。《周易本義》は「弗過防之」を連讀して、解して陰を過分に防備する能わずと作す——然れども此の如く講じて九四の爻に到れば前後は則ち一致せず。今は胡氏の説に依りて、「弗過」の二字を斷じて一句と為す。小過の陰盛の時に当たりて、两箇の陽爻は皆「弗過」と説く——陽は陰に勝ち過ぐる能わざるを説く。「從」は是れ隨即・緊接。柔過の世は、衆陰は陽を傷す——九三は其の正位を得るも、然れども衆陰に勝ち過ぐる能わず——則ち当たりにそれを離れて遠くすべし。若し防備を知らざれば、緊接して則ち來りてそれを戕害する者有らん——ゆえに凶。是れ此の卦は本より上行に宜からずして、而して九三は下卦の上に居り、衆陰の氣勢はまさに一路に向上して逼進すればなり。《象伝》に「從いて或いは之を戕すは、凶如何せん」と説く——「如何」は是れ感嘆の詞、極めて其の凶の甚なるを言う。
九四:無咎,弗過,遇之,往厲必戒,勿用永貞。九四以剛居柔,似有咎矣。然當過之時,以剛居柔。小過乎恭者,無咎之道也。弗過遇之,亦宜從胡氏之說,弗過絕句與九三同。遇之,前遇乎陰也。三之陰在下。艮性止,故惟防之而已。四之陰在上。震性動,陽性上行,故往遇之。然小過之時,不宜上宜下。三居二陰之上而自恃其剛,故陰或戕之。四居二陰之下而以剛遇柔,未必致戕,而往則亦厲,故必在所當戒也。然往固非,固守而不能隨乎時宜亦非也,故又曰勿用永貞。蓋小過九四變而為謙,又有終吉之象矣。
九四の爻辞に説く——「咎なし、過ぎず、之に遇う、往けば厲あり必ず戒めよ、永貞を用うる勿れ」。九四は陽剛を以て陰柔の位に居る——本より過錯あるに似たり。然れどもまさに陰過の時に当たりて、剛を以て柔に居るは、まさに《大象》の説く所の「行は恭を過ぐ」の人——これがすなわち過錯を免るるの道。「弗過遇之」の一句は、も亦た当たりに胡氏の説に依るべし——「弗過」は自ら一句を成し、九三と例を同じくす。「之に遇う」は、前面に陰爻に遇上したりと説く。九三の對する所の陰は其の下面に在りて、下卦の艮性は靜止を主どる——ゆえに只だ防備するを須うるのみ。九四の對する所の陰は其の上面に在りて、上卦の震性は動を主どり、陽性はまた本來上行す——ゆえに前往して之に遇うなり。然れども小過の時は上に宜からずして下に宜し。九三は两陰の上に居りて自ら其の剛を恃む——ゆえに陰は或いは來りてそれを戕害せん。九四は两陰の下に居りて剛を以て柔に遇う——必ずしも戕を遭わざるも、然れども一たび往けば則ち危厲あり——ゆえに必ず戒懼する所を知るを須う。然れども一味に前往するは固より對ならず、一節を死守して時に隨いて變通する能わざるもまた對ならず——ゆえに爻辞はまた「永貞を用うる勿れ」と説く——一時の正を固執して到底に至るなかれ。況んや《小過》の九四は一たび變ずれば便ち《謙》卦と成り、《謙》は「終に吉」の象あり——まさに變通の利を見る。
《象》曰:弗過遇之,位不當也。往厲必戒,終不可長也。以剛居柔,前與柔遇。故曰不當,不可長。他卦多於上爻言之,此言於四。故《程傳》以長為上聲。謂當陰過之時,陽不能長而盛也。然於終字義有未安。蓋陰陽消長,理勢自然。竊意此句即勿用永貞之意。言往厲雖在所戒,而陰之過終不可長。是以當隨時變通,不可固執也。長字如字,未知是否。
《象伝》に説く——「過ぎずして之に遇うは、位當たらざればなり。往けば厲あり必ず戒めよは、終に長からざればなり」。九四は陽を以て陰位に居り、前面にまた柔と相遇う——ゆえに「位當たらず」と説き「長すべからず」と説く。「終に長からず」此の類の話は、別の卦は多く上爻に於いてこそ説くに、ここは却って四爻に於いて説く——此に因りて程頤《伊川易傳》は「長」を上聲と讀み、即ち生長の長——意思は是れ陰過の時に当たりて陽は生長壯大する能わず。然れども此の如く講ずれば、「終」字は則ち不很妥帖。陰陽の消長は本より是れ自然の理勢。我は私意に以為す——此の一句は則ち「永貞を用うる勿れ」の意思——前往は危厲あるも當たりに戒懼すべし、然れども陰の過盛は終究に長久する能わず——ゆえに当たりに時に隨いて變通して一の端を固執すべからず。「長」字は仍お本音に照りて長久の長と讀む——妥當なるか否かを知らず。
六五:密雲不雨,自我西郊,公弋取彼在穴。全卦有坎體。而三四五互為兌為西。六五以陰居尊,以陰過乎陽,不能和而為雨。有密雲不雨,自我西郊之象。坎為弓,有弋象。二陰在陽之下,有在穴象。六五當陰過之時,雖居尊不能有為。下取六二以為助,兩陰相得。不能大事,所取者下,有公弋取彼自穴之象。《象》曰:密雲不雨,已上也。己上,太高也。陰陽和則雨。小畜一陰不能固陽,陽尚往故不雨。此則四陰過陽,陰太高亦不能與陽和而為雨矣。
六五の爻辞に説く——「密雲雨せず、我が西郊よりす。公は弋(よく)して彼の穴に在るを取る」。全卦は坎体を含有し、三・四・五爻は互体して兌と為り、兌は西方に居る。六五は陰柔を以て尊位に居り、陰を以て陽に過ぐ——陰陽は以て調和して雨を成す能わず——ゆえに「密雲雨せず、我が西郊よりす」の象あり。坎は弓——ゆえに射弋の象あり。两箇の陰爻は陽爻の下に伏す——ゆえに「穴に在り」の象あり。六五は陰過の世に当たりて、尊位に居るも能く作為有るを得ず——只だ下に向かいて六二を取りて助と為し、两陰は相い得るのみ。既に大事を做し成す能わず、取る所は又た在下の物——ゆえに「公は弋して彼の穴に在るを取る」の象あり。《象伝》に「密雲雨せざるは、已に上なればなり」と説く——「已上」はすなわち升ること太く高し。陰陽は調和してこそ能く雨を下さん。《小畜》は是れ一陰は衆陽を繫住せざれば、陽は仍舊に上行す——ゆえに雨せず。此の卦は則ち四陰は陽に過ぎて、陰は升ること太く高し——同じく陽と相い和して雨を成す能わず。
上六:弗遇過之,飛鳥離之,是謂災眚。此爻與九四正相反。四前遇陰。上六已高,不復遇陽矣。動體之極,又陰過之極。震有飛鳥象。變離為網罟,有飛鳥離之象。陰柔過高,天災人眚皆所自取,凶之甚也。《象》曰:弗遇過之,已亢也。卦不宜上。上則過亢,必取凶也。
上六の爻辞に説く——「遇わずして之を過ぐ、飛鳥は之に離(かか)る、是を災眚(さいせい)と謂う」。此の一爻は九四と恰恰に相反す。九四は是れ前に向かいて陰に遇上せり。上六はすでに高く極位に居りて、再び陽に遇うを得ず。それは震体の動の極点に處し、又是れ陰過の極点。震は飛鳥の象あり、上六は一たび變ずれば則ち離と成り、離は網罟(もうこ)——ゆえに「飛鳥は之に離る」——鳥は羅網に撞き入る——の象あり。陰柔にして升ること過高——天降の災と人為の眚とは皆是れ自ら招き來たれり——凶は極處に到れり。《象伝》に「遇わずして之を過ぐるは、已に亢(あが)ればなり」と説く——此の卦は本より上行に宜からず、一味に上に向かえば則ち亢極に過ぎて、必定に凶を招かん。
全卦陰過乎陽,占者宜小事不宜大事,凡事宜下而不宜上。六爻唯二最吉。以在下卦之中,不至太過。而所居得正,又合利貞之義也。五不正不能有為。若初之不正而援上,上之動極而過高,皆凶之甚者。二陽爻則四以居柔而無咎,三以恃剛而致凶,與時行之難也。
全卦を通觀すれば——陰は陽に過ぎ、此の卦を占得するの人は小事を做すに宜くして大事を做すに宜からず、凡事に退きて下に處るに宜くして上に向かうに宜からず。六爻の中は只だ六二のみ最も吉——是れ其の下卦の中に居りて太過に至らず、居る所は又た是れ陰位にして正を得——まさに「利貞」の義に合す。六五は尊位に居るも正を得ず——ゆえに以て有為する能わず。初六は正ならずして上位に攀援し、上六は動極して升ること過高し——皆凶は極点に到れり。两箇の陽爻の裏は、九四は陽を以て柔位に居りて過錯なく、九三は自ら其の剛強を恃むを以て凶を招く——「時と偕に行く」の四字は如何ほど難きかを見るべし。
既濟(きせい)
既濟,下離上坎。水在火上,相交為用,天下事已濟之時也。又涉川曰濟。既濟未濟二卦皆有坎體。坎在內有險為未濟,坎在外則無險為既濟也。又以卦畫言之。六爻皆應,剛柔皆當其位。至此無不濟矣,故為既濟。
《既濟》卦は下は離上は坎。坎水は離火の上に在り、水火は交わりて用を為す——まさに天下の事はすでに辦成せるの時候。「濟」は又た水を渡るの義あり。《既濟》《未濟》の两卦は皆坎体を含む。坎は内卦に在れば、險は還お自己の脚の下に在り——ゆえに是れ《未濟》。坎は外卦に在れば、險はすでに過ぎ去れり——ゆえに是れ《既濟》。さらに卦画に就いて看れば、此の卦の六爻は两両として相い應じ、剛爻は剛位に居り柔爻は柔位に居り、位に当たらざる無し——此の地步に到ればすでに辦成せざるはなし——ゆえに卦の名は《既濟》。
既濟次小過。按《序卦》:有過物者必濟,故受之以既濟也。全彖當既濟之時,自有可亨。然六爻陽在陰下,故亨者小。剛柔皆當,故利於貞。然事之既濟,則聖人憂盛危明之心正於此始。蓋治亂相因,理勢自然也。六爻皆有戒辭。內三爻皆既濟之象,即彖之初吉也。外三爻漸入於未濟,即彖之終亂也。此全彖六爻之大旨也。
《既濟》は何ぞ《小過》の後に立つや。《序卦伝》に説く——能く別人を超過するの人は必定に能く事を成す。ゆえに《小過》の後には《既濟》を以て接ぐ。整篇の卦辞の意思は——まさに既濟の時に当たりて、自然に亨通の道あり。然れども六爻の陽は皆陰の下に居る——ゆえに亨する所は只だ是れ小。剛柔は各々其の位に当たる——ゆえに正を守るに利し。然れども事情は一たび辦成せば、聖人の彼の種の「盛に居りて憂え明に處して危ぶむ」の心思はまさに此より開始す——治と乱とは互いに因果を為し、本より是れ自然の理勢。ゆえに六爻の爻辞は全く告誡を帶ぶ。内卦の三爻は還お皆是れ既濟の象——すなわち是れ卦辞の説く「初吉」。外卦の三爻は漸々として未濟に轉入す——すなわち是れ卦辞の説く「終乱」。これがすなわち卦辞と六爻との大旨。
既濟:亨小,利貞,初吉終亂。既濟,事之既成也。水火相交各得其用,六爻相應各得其正,故為既濟。亨小。按,《本義》作小亨。既濟之終未濟之始,猶日中則昃之意,故亨亦小也。六爻皆正,所以利於貞也。既濟故初吉。終為未濟故亂。此雖聖人警戒之辭,亦理數之自然。又內卦離明,外卦坎險,亦初吉終亂之象也。彖傳柔得中終止,又推文王言外之意。
卦辞に説く——「既濟、亨小、利貞、初吉にして終に乱れん」。「既濟」はすなわち事情はすでに辦成せり。水火は相交じて各々其の用を盡し、六爻は相い應じて各々其の正を得——ゆえに既濟と曰う。「亨小」の一句は、朱熹《周易本義》は「小亨」と讀む。既濟の終は便ち未濟の始——日は中天に到れば便ち西に偏せんと要するに好比す——ゆえに亨する所もまた只だ是れ小。六爻は各々其の位を正す——ゆえに正を守るに利し。既に済を成せれば、ゆえに開頭は吉、終究に要して未濟に轉成す——ゆえに結局は乱。これは聖人の警戒の辭なるも、も亦た理數の自然。さらに説く、内卦の離は明、外卦の坎は險——も亦たまさに初吉終乱の象。《彖伝》の講ずる「柔は中を得」・「終れば則ち乱る」に至っては、あれは又た文王の言外の意思を推尋するなり。
《彖》曰:既濟亨,小者亨也。按,《本義》謂者下脫小字。小者亨,蓋爻有三陰得位而三陽下之,故曰小者亨也。然按彖辭,似以事之既濟則泰否相仍,所亨亦小。夫子彖傳又推言外之意,大旨亦並行不悖也。利貞,剛柔正而位當也。以卦體言。六十四卦六爻皆應而得位者,獨此而已。初吉,柔得中也。指六二也。
《彖伝》に説く——「既濟の亨は、小者亨なればなり」。按ず——《周易本義》は以為す此の一句の裏は一箇の「小」字を脫せり。いわゆる「小者亨」は、是れ卦中の三箇の陰爻は各々其の位を得て、而して三箇の陽爻はかえって其の下に居る——陰は小と為る——ゆえに小者亨と説く。不過文王の卦辞に就いて看れば、似かよって説く、事情は既に辦成せば泰は極まりて否は來りて尋ね已まず、亨する所はもまた則ち只だ是れ小。孔子の《彖伝》を作するは又た言外の意を推尋す——两説の大旨は並行して相い妨げず。又た説く——「利貞は、剛柔正して位當たればなり」。これは卦体に就きて講ず——六十四卦の中は六爻の全部は相い應じて而又各々其の位を得るは、只だ此の一卦のみ。又た説く——「初吉は、柔は中を得ればなり」。指す所は是れ六二の一爻。
終止則亂,其道窮也。文王初吉終亂之占。就理數自然言之,如泰極為否之類。夫子彖傳則又於言外而推之於人事也。蓋未濟則圖其濟,既濟宜保其濟。柔在二則吉,在上則亂。蓋柔順得中則善,處濟之初所以吉也。然天下治亂相乘,終極必變。終以優柔自處則有止心,止而不挽救,亂之所由生也。然則當既濟之時者,始則柔順文明,終必貴於剛健振作。庶幾知窮變通久之道,而具撥亂反正之才者乎。
《彖伝》に又た説く——「終れば則ち乱るは、其の道窮まればなり」。文王の「初吉終乱」の斷語は、理數の自然に就きて講ず——泰は極点に到れば便ち否に轉成するに好比す。孔子の《彖伝》は則ち又た言外に於いて人事の上に推し到る。未濟の時は設法して濟しに往かんと要し、既濟の後は設法して此の濟を保住せんと要す。同じく柔爻にして、六二に在っては則ち吉、上六に在っては則ち乱——柔順にして中を得るは是れ好し、成済の初に處すればゆえに吉。然れども天下の治乱は相い因りて、尽頭に走り到れば必然に變ずべし——若し終始に優柔を以て自處せば、便ち苟安停止の心を生出し、一たび停止して挽救を知らざれば、乱は則ち此より生じ出でぬ。此の如く見れば、既濟の時に處するの人は、起初は要して柔順文明なり、後來に到れば必ず剛健振作を貴ぶ——此れこそ庶幾くば《繫辭》の説く所の「窮すれば則ち變じ、變ずれば則ち通じ、通ずれば則ち久し」の道理を懂得し、も亦た算して撥乱反正の才幹を具備すとすべし。
《象》曰:水在火上,既濟。君子以思患而豫之。思患,坎離象。豫防,離明象。按,《大全》項氏謂人之用莫大於火,而火常生患。善濟火者莫如水。常儲水以防火,則其患亡矣。此說似近而意未備。竊按,水在火上則水火有相濟之功,而其終也有相剋之患。蓋水能滅火,火亦能幹水。思其患而豫防,則相為用而不相為害。以此推之天下事,莫不皆然也。
《大象伝》に説く——「水は火の上に在り、既濟。君子は以て患を思いて之に豫(そな)ふ」。「患を思う」は坎を憂・離を思と為るの象を取り、「豫防」は離明は能く燭照するの象を取る。按ず——《周易大全》の載する所の項氏の説は、以為す人の日用は火より更要緊はなく、而して火は又た常常に禍患を生出し、火を制する能くは水に若くはなし——平日に多く水を儲些して以て火を防げば、火患は則ちなし。此の説法は看て切近なるも、意思は却って完備せず。我は私くに以為す——水は火の上に在り、水火は本より相い濟すの功あるも、然れども最後に到れば又た相い剋するの患あり——水は能く火を滅し、火もまた能く水を熬(か)し乾さん。豫め此の层の禍患を想い到りて防備を加えば、二者はこそ只だ相い用を為して相い害を為さず。此の道理を拿って天下の事に推すれば、一件として此の如くならざるはなし。
初九:曳其輪,濡其尾,無咎。初應六四,坎有輪象。輪所以行,曳之則不行矣。初九當濟之初,守正而不輕進,有曳其輪之象。坎為狐。初在一卦之後,又有尾象。狐必揭其尾而後濟。濡尾則不掉,不速濟也。以剛在下,有濡其尾之象。徐進而不躐等,無咎之道也。《象》曰:曳其輪,義無咎也。得慎始之義。
初九の爻辞に説く——「其の輪を曳(ひ)き其の尾を濡(ぬ)らす、咎なし」。初九は上に六四に應じ、六四は坎体に在り、坎は車輪の象あり。輪子は本より是れ用いて路を走るの物——それを拖住すれば則ち動き走る能わず。初九は既濟の初に当たりて、正を守りて輕擧妄進せず——ゆえに「其の輪を曳く」の象あり。坎は又た狐と為る——初九は一卦の最後端に在りて尾の象あり。狐狸は水を渡れば必ず先ず其の尾を高擧し、尾は一たび沾濕すれば則ち擺動し起こす能わず——また以て渡り快からず。初九は陽剛を以て下位に居る——ゆえに「其の尾を濡らす」の象あり。慢慢として前進して躐等搶先せざるは、まさに過錯を免るるの路數。《象伝》に「其の輪を曳くは、義咎なければなり」と説く——それは「始を愼む」の道理を得たりを説く。
六二:婦喪其茀,勿逐,七日得。茀,車之蔽也。離為中女。二柔婦象。上應九五,坎為輿。離又中虛。茀象。二五本正應,以當既濟之時。九五剛中之君反有中滿之勢,不能下賢以行其道。又坎為盜。故有婦喪其茀之象。言失其所以行也。卦歷六爻復於二,為七位。中正之道不可終廢。二歷七數,中正自在,與五必有合也。故有勿逐七日得之象。《象》曰:七日得,以中道也。不失其中,則濟世之具在我。
六二の爻辞に説く——「婦は其の茀(ふつ)を喪う、逐う勿れ、七日にして得ん」。「茀」は是れ車上の帷蔽。下卦の離は中女、六二は又た柔順——婦人の象あり。それは上に九五に應じ、九五は坎体に在り、坎は車輿。離の卦画は中間虚空——まさに車上の遮蔽の帷幔に象る——ゆえに「茀」の象あり。二と五とは本より正應なるも、然れどもまさに既濟の時に当たりて、九五此の位の剛中の君はかえって自滿の勢頭ありて、己を屈して賢に下りて以て其の道を推行するを肯ぜず。坎は又た盗と為る——ゆえに「婦は其の茀を喪う」の象あり——いわゆる茀を喪うは、出行するに賴るの憑借を失掉したりと説く。一卦の六爻は走り了えて再び六二に囘る——恰好に是れ第七位。中正の道は終究に永遠に廢棄せらるるに會せず——六二は七數を歷滿して、其の中正の徳は依然として還お在りて、九五と必ず相合するの日有らん——ゆえに「逐う勿れ、七日にして得ん」の象あり。《象伝》に「七日にして得んは、中道を以てなり」と説く——只だ自己の中道を失掉せざれば、濟世の憑借は仍お自己の手の裏に在り。
九三:高宗伐鬼方,三年克之,小人勿用。九三應上坎體,坎居北,有鬼方之象。離為甲冑為戈兵,九三以剛居剛,有高宗伐鬼方之象。自四至上歷三爻,又離居三,有三年克之之象。必三年而後克,言其不輕濟也。然既克之後而用小人,則除一亂又生一亂矣,故戒以勿用。既濟之後,常存未濟之虞也。《象》曰:三年克之,憊也。師至三年,師老財匱矣。兵不可輕用也。
九三の爻辞に説く——「高宗は鬼方を伐ち、三年にして之を克す、小人は用うる勿れ」。九三は上に上六に應じ、上六は坎体に属し、坎は北方に在りて北方「鬼方」の象あり。下卦の離は甲冑・戈兵と為り、九三は又た陽を以て陽に居りて剛にして又た剛——ゆえに殷高宗武丁の鬼方を征伐するの象あり。九四より數えて上六に到るに共に三爻を歷し、離は又た第三位に居る——ゆえに「三年にして之を克す」の象あり。必ず三年を打ちてこそ攻克せんと要すは、彼は輕率に兵を用いて成を求むるを肯ぜずと説く。然れども既に攻克せば、若し接いで小人を任用せば、則ち一乱を除掉して又た一乱を生出さん——ゆえに「小人は用うる勿れ」と告誡す——事情は既濟の後は、心の裏は常に未濟の憂慮を存せよ。《象伝》に「三年にして之を克すは、憊(つか)ればなり」と説く——兵を出して三年に到れば、軍隊は疲老し財用は匱乏す——兵は以て輕易に動用すべからざるを見るべし。
六四:繻有衣袽,終日戒。繻作濡。衣袽,以塞舟之罅漏者。四坎體之下,有漏舟之象。當既濟之時,以柔居柔,以豫而知戒者。故有衣袽已備,終日不忘戒懼之象。《象》曰:終日戒,有所疑也。亂生於治,疑禍患之將至也。
六四の爻辞に説く——「繻(じゅ)に衣袽(いじょ)あり、終日戒む」。「繻」は当たりに「濡」と讀むべし——是れ水を滲む。「衣袽」は是れ破舊の衣絮、用いて船縫を塞ぎ漏洞を堵するの物。六四は坎体の下に居りて漏船の象あり。まさに既濟の時に当たりて、それは陰柔を以て陰位に居る——是れ豫め戒備を知るの人。ゆえに漏を塞ぐの舊絮は早已に備え好し、整天に戒懼を忘れざるの象あり。《象伝》に「終日戒むは、疑う所有ればなり」と説く——乱はまさに治の裏より生じ出づれば、ゆえに時時に禍患の將に至らんとするを疑慮す。
九五:東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭,實受其福。五陽,東鄰之象。二陰,西鄰之象。離有牛象。五坎水能滅火,有殺牛象。禴,夏祭。離為夏,禴祭之象。九五居尊而時已過,不如六二之在下適當其時,故有東鄰殺牛之大祭,反不如西鄰之禴祭受福之象。《象》曰:東鄰殺牛,不如西鄰之時也。實受其福,吉大來也。方來之吉猶未艾,二之所以勝五也。
九五の爻辞に説く——「東鄰の牛を殺すは、西鄰の禴祭(やくさい)に如かず、實に其の福を受けん」。九五は陽と為り、陽は東を主どる——東鄰の象あり。六二は陰と為り、陰は西を主どる——西鄰の象あり。下卦の離は牛の象あり。九五は坎体に在り、坎水は能く離火を滅す——ゆえに牛を殺すの象あり。「禴」は是れ夏天の薄祭、離は夏と為る——ゆえに禴祭の象あり。九五は尊位に居るも、而して既濟の好き時候はすでに過ぎ去れり。六二は下位に在るも、然れどもまさに其の時に当たる。ゆえに東鄰の牛を殺すの盛祭は、かえって西鄰の一場の薄祭に更に福を受くる能くに如かざるの象あり。《象伝》に「東鄰の牛を殺すは、西鄰の時に如かざればなり。實に其の福を受くは、吉の大いに來るなり」と説く——六二の方に來るの吉慶は還お尽頭なし——これがすなわち其の九五に勝過するの處。
上六:濡其首,厲。既濟之極,坎險之上。而以陰柔處之,故有狐涉水而濡其首之象,危厲可知。《象》曰:濡其首厲,何可久也。危亡不久。既濟全彖六爻,皆有警戒之詞。蓋天道否泰循環,固理勢之自然。亦聖人治不忘亂,安不忘危之深心也。
上六の爻辞に説く——「其の首を濡らす、厲し」。上六は既濟の極点・坎險の最上頭に處し、又た陰柔の質を以て之に居る——ゆえに狐狸が水を渉りて頭すらも浸濕せるの象あり——危厲は以て想い知るべし。《象伝》に「其の首を濡らすの厲は、何ぞ久しからんや」と説く——危亡は則ち眼前に在り、久しきを撑え得ず。《既濟》の一卦は、卦辞より六爻に到るに全く警戒の詞を帶ぶ。天道は否泰は往復循環す——固然として是れ理勢の自然、も亦たまさに聖人の世を治めて乱世を忘れず安に居りて危難を忘れざるの一片の深心を見る。
未濟(びせい)
未濟,下坎上離。火在水上,不相為用。又六爻皆不得位。故為未濟。未濟次既濟。按《序卦》:物不可窮也,故受之以未濟終焉。既濟物之窮。窮無不變易者,變易不窮。未濟則未窮也。未窮則生生不絕矣。
《未濟》卦は下は坎上は離。火は水の上に在り、火性は炎上・水性は潤下——两として相い用を為さず。六爻は又た皆其の正位を得ず——ゆえに卦の名は《未濟》。《未濟》は何ぞ《既濟》の後に立ち、而且して全經の末に居るや。《序卦伝》に説く——事物は以て窮尽すべからず。ゆえに《未濟》を用いて以て全書を收束す。《既濟》は事物は窮尽の處に走り到れり、而して凡そ窮尽するは變易せざるはなし、變易は又た無窮。《未濟》は則ち還お窮尽せざるなり、未だ窮尽せざれば則ち生生として已まず、綿綿として絶えず。
又後天八卦以坎離,居先天乾坤之位。蓋天以一生水,地以二生火。故坎得乾之中畫,離得坤之中畫。上經首乾坤而終坎離,後天首咸恆而終既濟未濟。既濟水火之交,六爻皆當,萬物之終也。未濟水火不交,六爻皆反,終則有始也。此未濟所以次既濟,而為全易之終也。
さらに説く、後天八卦は坎・離を先天の乾・坤の位置の上に擺す。天は一の數を以て水を生じ、地は二の數を以て火を生ず——ゆえに坎卦は乾卦の中間一画の陽を得、離卦は坤卦の中間一画の陰を得たり。上經は乾坤を以て頭を開きて坎離を以て尾を收め、後天の序は則ち咸恒を以て頭を開きて既濟未濟を以て尾を收む。《既濟》は水火は交合し、六爻は各々其の位に当たる——萬物の終を象徴す。《未濟》は水火は交わらず、六爻は全く其の位を反す——終にして復た始まるを象徴す。これがすなわち《未濟》の《既濟》の後に立ち、併せて全部《周易》の結尾と成る所以の緑故。
全彖卦雖未濟,終有可亨之道。幾濟而猶未濟,故無所利。而彖傳又以剛柔之應以見其亨,蓋未濟固終濟也。六爻下三爻在坎險之中,皆未濟之象。上三爻離明,則未濟者終濟矣。此全卦六爻之大畧也。
整篇の卦辞の意思は——卦は未濟と名づくるも、終究に以て亨通すべきの道理あり。只だ是れ眼の前に濟せんと要するにして終に未濟なれば——ゆえに「利する所なし」と説く。而して《彖伝》は又た剛柔相應を拿って其の亨を點出す——是れ未濟は畢竟に要して濟に終帰せんとするなればなり。六爻の中、下の三爻は坎險の裏に陷る——皆是れ未濟の象。上の三爻は離に属し、離は明と為る——未濟なりしももまた終に濟を得べし。これは全卦六爻の大概。
未濟:亨,小狐汔濟,濡其尾,無攸利。未濟,事未成也。水火不相交,不相為用。卦之六爻皆失其位。故曰未濟。未濟有終濟之理,故亨。既濟已然之亨,又陽居陰下,故曰小。未濟方來之亨,又陽在陰上,故但曰亨。彖傳柔得中,則又就卦體而推之人事也。坎有狐象。坎在下,小狐象。狐老者多疑,小者輕於濟。狐尾大,涉必揭其尾。汔,幾也。幾濟而濡其尾,則未能濟矣,何所利乎。蓋未濟雖終有可亨之道,使如小狐之濡尾,則亦無所利。戒占者之辭也。
卦辞に説く——「未濟、亨。小狐は汔(ほとん)ど濟れりとするも、其の尾を濡らす、利する所なし」。「未濟」は是れ事情は還お辦成せざるなり。水火は相い交わらず相い用を為さず、六爻は又た皆其の正位を失す——ゆえに未濟と曰う。未濟は終究に會して濟の道理あるを含む——ゆえに「亨」と説く。《既濟》は是れ已然の亨、而且して陽は陰の下に居る——ゆえに「亨小」と説く。《未濟》は是れ方に來るの亨、而且して陽は陰の上に在る——ゆえに只だ一箇の「亨」字を説く。《彖伝》の講ずる「柔は中を得」は、あれは又た卦体に就きて人事の上に推し到る。坎は狐の象あり、坎は下卦に在る——是れ小狐の象。老狐は多く疑いて審愼なり、小狐は則ち輕率に濟を求む。狐尾は大なり、水を渡れば必ず先ず其の尾を高擧す。「汔」は是れ幾乎・將近。眼の前に渡り過ぐべきにして却って尾を浸濕せれば、則ち渡り成す能わず——還お何の利の言うべきをや。未濟は終に亨すべきの道あるも、若し小狐の如く尾を濡らして廢すれば、則ち利する所なしと見るべし。これは是れ占者に給るの告誡の辭。
《彖》曰:未濟,亨,柔得中也。彖未濟之亨,就天運之自然言之。夫子又專指六五一爻,言人事有致亨之道也。柔而得中,則既非柔弱無能,又不剛猛僨事。小心慎密,處置得宜。未濟者終濟,此其所以亨也。
《彖伝》に説く——「未濟、亨は、柔は中を得ればなり」。卦辞の講ずる未濟の亨は、天運の自然に就きて講ず。孔子は却って專ら六五此の一爻を指し、説く人事の上は另た一条の亨を求むるの路あり。柔順にして而又中に居れば、便ち既に柔弱無能ならず、も亦た剛猛にして事を壞すに至らず——小心して縝密、處置して宜を得たり。未濟の終に濟を得るは、靠る所はまさに此の箇——ゆえに亨と説く。
小狐汔濟,未出中也。濡其尾,無攸利,不續終也。雖不當位,剛柔應也。未出中,指二也。九二在坎險之中,未能出也。不續終,指初也。初在下為尾。二所以不能出險,以初陰柔力微,故首濟而尾不濟,不能續其後也。雖不當位而剛柔皆應,則彼此相輔,終成濟險之功。此二語又覆解亨之義。蓋柔既得中,又與剛應,故能亨也。二五固剛柔應,然全卦剛柔皆應,故於此覆言之。
《彖伝》に接いで説く——「小狐は汔ど濟れりとするも、未だ中を出でず。其の尾を濡らす、利する所なしは、終を續けざればなり。位に當たらざるも、剛柔應ずればなり」。「未だ中を出でず」は九二を指す——九二は坎險の中間に陷りて、還お出で來る能わず。「終を續けず」は初六を指す——初六は最下に在りて是れ尾。九二の險を出る能わざる所以は、まさに初六は陰柔にして力弱く、頭は已に渡り了えて尾は未だ渡らず、後勁に接續し上がらざるに因る。六爻は皆位に当たらざるといえども、然れども剛柔は两両として相い應じ、彼此扶持す——終に能く濟險の功を成就せん。此の两句は又た囘りて「亨」の道理を申説す。柔は既に中を得、また剛と相い應ず——ゆえに能く亨す。二と五とは固より是れ剛柔相應なるも、其の實は全卦の六爻は相い應應ぜざるなし——ゆえにここに於いて再び一遍を申説す。
《象》曰:火在水上,未濟。君子以慎辨物居方。辨物如火之明,居方如水之聚。又水火異物,故以之辨物,使物以群分。水火各居其所,故以之居方,使方以類聚也。
《大象伝》に説く——「火は水の上に在り、未濟。君子は以て愼んで物を辨じ方に居らしむ」。事物を辨別するは火の如く明亮照徹せんと要し、方位を安置するは水の如く各々其の聚に歸せんと要す。さらに説く、水と火とは本より两種の不同なる物——ゆえにそれを取りて「物を辨じ」、萬物をして類に依りて分かれしむ。水火は又た各々自己の位置に居る——ゆえにそれを取りて「方に居らしめ」、各方をして類に按じて相聚まらしむ。
初六:濡其尾,吝。以陰居下,當未濟之初,未能自進,故有濡尾之象而至吝也。既濟濡尾無咎,此則吝者,既濟陽剛得正,離明之體。當既濟之時,知緩急而不輕進。故無咎。此則才柔不正,坎險之下。又當未濟之時,冒險躁進。則至於濡尾而不能濟矣。故吝。然彖言無攸利而此但言吝,則以卦之初,失尚未遠也。《象》曰:濡其尾,亦不知極也。《程傳》作不知之極,從之。坎之初不如離之初明知也。
初六の爻辞に説く——「其の尾を濡らす、吝」。それは陰柔を以て最下位に居り、まさに未濟の初に当たりて、自己は進み上がる能わず——ゆえに尾を濡らすの象ありて困吝に至れり。同じく「其の尾を濡らす」にして、《既濟》の初九は却って「咎なし」と説く——ここは何ぞ「吝」なるや。《既濟》の初九は陽剛にして正を得、また離明の体に在りて、既濟の時に当たりて、緩急を懂得して輕進せず——ゆえに咎なし。ここは則ち才質は柔弱にして又た正を得ず、身に坎險の下に處し、まさに未濟の時に当たりて還お冒險躁進せんと要す——ここに尾を濡らして濟する能わざるに弄り到れり——ゆえに吝。不過卦辞は「利する所なし」と説き、此の爻は只だ「吝」と説く——あれは是れ還お一卦の初に在れば、失得は還お遠からずと算すればなり。《象伝》に「其の尾を濡らすは、亦た極を知らざればなり」と説く——程頤《伊川易傳》は「極を知らざるなり」と讀む——事理に明ならざること極点に到れり——今は其の説に從う。坎の初爻は畢竟に離の初爻の如く明達有識ならず。
九二:曳其輪,貞吉。坎有輪象。九二上應六五,有陽剛之才,可以濟矣。而居柔得中,自止而不進,有曳其輪之象。九居二非正。而得為下之宜,正也,故曰貞吉。既濟初兩象,此分初二兩爻。初欲進不能而吝,才柔故也。二可進而不輕進而吉,才剛與既濟初九同故也。《象》曰:九二貞吉,中以行正也。九居二非正,以中故得正也。
九二の爻辞に説く——「其の輪を曳く、貞吉」。坎は車輪の象あり。九二は上に六五に應じ、本より陽剛の才あり——是れ以て險を濟すべき者。然れども陰位に居るに因りて中を得、自我節制して冒進せず——ゆえに「其の輪を曳く」の象あり。陽を以て二位に居るは本より正と算せざるも、然れどもそれは人臣たるの分寸を得——これがすなわち是れ正——ゆえに「貞吉」と説く。《既濟》は「輪を曳く」「尾を濡らす」の两象を皆初九の一爻に放れり、ここは却って初六・九二の两爻に分属す。初六は進まんと想うも進むを得ず——ゆえに吝——是れ才質柔弱の故。九二は進む能くして輕進せず——ゆえに吉——是れ才質剛健にして《既濟》の初九と相同じの故。《象伝》に「九二貞吉は、中以て正を行けばなり」と説く——陽を以て二位に居るは本より正ならざるも、まさに其の中を得るに因りて、かえって正に合す。
六三:未濟征凶,利涉大川。陰柔不中正,居未濟之時,以征則凶。利涉大川。《本義》謂將出乎坎,有利涉之象。蓋行者可以水浮,而不可以陸走也。又曰,或疑利字上當有不字。今從後說為優。蓋二陽剛猶以守貞為吉,三陰柔非利涉可知矣。《象》曰:未濟征凶,位不當也。未濟六爻皆不當,獨於三言之者,陰柔居險極也。
六三の爻辞に説く——「未濟は征すれば凶、大川を渉るに利し」。六三は陰柔にして而又中ならず正ならず、未濟の時に處して、貿然として前征すれば必ず凶。「大川を渉るに利し」の一句に至っては、《周易本義》はそれを將に坎を出でんとすと説く——ゆえに渉るに利の象あり——路を行くの人は以て水に浮きて行くべく、然れども能く陸地の上に奔走する能わず。《本義》に又た説く——或いは「利」字の上面に当たりに一箇の「不」字あるべきを疑う。今は後の一説を取りて長と為す。是れ九二は陽剛にして尚お正を守るを以て吉と為さんと要すに、六三は陰柔の質にして真に「渉るに利し」なる能わざるは——これは顯然。《象伝》に「未濟征凶は、位當たらざればなり」と説く——未濟の六爻は本來皆位に当たらざるも、獨り六三に於いて點出するは、是れ其の陰柔を以て坎險の極處に居ればなり。
九四:貞吉,悔亡,震用伐鬼方,三年有賞于大國。九居四不正而有悔,勉而貞則吉而悔亡,戒之也。未濟之四即既濟之三。三以上為鬼方,四以初為鬼方。坎北方,有鬼方象。離為甲冑戈兵,有伐之之象。既濟九三以剛居剛,故言高宗。此以剛居柔,則大國諸侯出征者也。
九四の爻辞に説く——「貞吉、悔亡ぶ、震して用いて鬼方を伐ち、三年にして大國に於いて賞あり」。陽を以て四位に居りて正ならず——本來悔あるべし、勉力して正を守れば則ち吉にして悔は消すべし——これは是れ告誡の辭。《未濟》の九四は《既濟》の九三に相當す。《既濟》の九三は上六を以て鬼方と為し、《未濟》の九四は則ち初六を以て鬼方と為す。坎は北方に在りて鬼方の象あり。離は甲冑戈兵と為りて征伐の象あり。《既濟》の九三は陽を以て陽に居りて剛にして又た剛——ゆえに殷高宗と称す。此の爻は陽を以て陰に居りて剛の中に柔を帶ぶ——あれは則ち命を奉じて出征するの大國諸侯なり。
四變互震,震懼也。臨事而懼,可以勝矣。在既濟言憊,此則受賞。蓋既濟之世利用靜,未濟之世利用動。當未濟之時,以剛居柔,上承六五,以克初陰。雖隔初三爻,有三年之久。而有剛健之才,有承有應,故有代(「代」當作「伐」,從文瀾本)伐鬼方而終受賞之象。
九四は一たび變ずれば、互体は震と成り、震は恐懼の義あり。事に臨みて戒懼を知ってこそ、能く勝を取らん。同じく三年の役にして、《既濟》は「憊(つか)る」を説き、ここは却って「賞を受く」を説く——是れ既濟の世は安靜に利し、未濟の世は振作に利すればなり。未濟の時に当たりて、九四は陽剛を以て柔位に居り、上に六五の君を承けて、下に在るの初六の陰を攻克しに往く。中間は初より三爻を隔つるも、時を費して三年の久しきも、然れどもそれは剛健の才あり、上に承ぐる所有り下に應ずる所有り——ゆえに鬼方を征伐して終に賞を受くるの象あり(「代」字は当たりに「伐」と作すべし——文瀾本に從う)。
《象》曰:貞吉悔亡志行也。已出其險,則伐亂之志可行也。六五:貞吉,無悔,君子之光,有孚,吉。以六居五,非貞也。然文明之主,居中應剛,虛心以求下之助,故得貞而吉。離體光明,虛以應九二之實,故又有君子之光而有孚之象,其吉可知。《象》曰:君子之光,其暉吉也。日光曰暉。言如日光之盛也。六五乘承應皆陽剛,君子相助為理,故曰其暉吉。
《象伝》に「貞吉悔亡ぶは、志行はればなり」と説く——九四はすでに坎險を走出し、禍乱を討伐するの志向は便ち以て施行すべし。六五の爻辞に説く——「貞吉、悔なし、君子の光、孚あり、吉」。陰柔を以て五位に居るは本より正と算せざるも、然れどもそれは是れ文明の主、中に居りて下に九二の剛に應じ、虚心して下に在るの幇助を求取す——ゆえに能く正を得て吉なり。六五は離体に在り、離性は光明、また自身の虚を以て九二の實に應ず——ゆえに「君子の光」「孚あり」の象あり——吉は言を俟たず。《象伝》に「君子の光は、其の暉(き)の吉なり」と説く——日光を「暉」と曰う——其の日光の如く盛大なるを説く。六五の乘ずる所の九四・承くる所の上九・應ずる所の九二は皆是れ陽剛——衆君子は共に相い輔助して以て治理を成す——ゆえに「其の暉吉なり」と説く。
上九:有孚于飲酒,無咎,濡其首,有孚失是。上與三應。三坎為酒食,又以征凶而安於未濟,有飲酒之象。上應之,有孚于飲酒之象。然上在五之上,有首之象。時雖未濟,至五則濟矣。上九陽剛,可以有為。乃過於逸樂自縱,以信於三。有飲酒而濡其首,雖有孚而亦失之象。蓋時在需,則酒食而吉。若未濟之極即濟之初,安可暱其私人,飲酒濡首以厲階兆亂乎。《本義》大意亦同,但未及六三之應耳。
上九の爻辞に説く——「酒を飲むに孚あり、咎なし。其の首を濡らすは、孚ありて是を失う」。上九は六三と相應す。六三は坎体に在り、坎は酒食と為り、六三は又た「征すれば凶」に因りて未濟の境に安んず——ゆえに酒を飲むの象あり。上九はそれと相應ずれば、則ち「酒を飲むに孚あり」の象あり。然れども上九は六五の上に在りて「首」の象あり。時勢は未濟と名づくるも、六五に到れば其の實はすでに濟えり。上九は陽剛の質を以て、本より以て作為有るべく、然れども安逸自縱に過ぎて、一味に六三に取信す——ここに酒を飲んで頭を浸濕して、其の信を守るもかえって其の正を失うの象あり。知るべきは——《需》卦の時に在っては、飲食宴樂は是れ吉。未濟の極に到りて將に既濟の初に轉入せんとすれば、豈に私人を昵愛して、酒を飲み首を濡らして、禍乱の爲に階梯を開き端倪を種さんや。朱熹《本義》の大意も亦た相同じ——只だ是れ六三と相應する此の一层を講じ到らざるのみ。
《象》曰:飲酒濡首,亦不知節也。知節,則能隨時以取中矣。全彖當未濟之時,終有可濟之理,故有亨道。但輕於濟,則無所利耳。六爻吉多凶少,較勝於既濟,然亦皆有戒辭。蓋既濟者固宜保於既濟之後,未濟者亦宜慎於方濟之初也。
《象伝》に「酒を飲み首を濡らすは、亦た節を知らざればなり」と説く——若し節制を懂得せば、自然に能く時に隨いて其の中を取らん。全卦を通觀すれば——まさに未濟の時に当たりて、終に濟すべきの理あり——ゆえに亨通の道あり。只だ是れ濟を求めて急にして之を輕率に失えば、則ち利する所なし。六爻は吉多く凶少し——《既濟》に比ぶれば要して好し。然れども每爻も亦た皆告誡を帶ぶ。是れ既濟の人は固然として当たりに事の成ぜる後に設法して保守すべく、未濟の人もまた当たりに將に成らんとするの初に格外に謹愼すべきが故なり。
合全易而論之。天地之道,不外於陰陽。五行之用,莫先於水火。上篇首天地,陰陽之正也,故以水火之正終焉。下篇首夫婦,陰陽之交也,故以水火之交終焉。乾上坤下,離東坎西。此先天之易,天地日月之四象也。故居上經之始終,以立造化之體。水火相逮,雷風不相悖,山澤通氣。此後天之易,六子之用也。故居下經之始終,以致造化之用。既濟之後猶有未濟者,示造化之用,終必有始也。
全部《周易》を合せ看れば——天地の道は陰陽に外ならず、五行の功用は水火より更に先に居るはなし。上經は乾坤天地を以て篇を開く——あれは陰陽の本位——ゆえに坎離——水火は各々其の位を正す——を以て尾を收む。下經は咸恒夫婦を以て篇を開く——あれは陰陽の交合——ゆえに既濟未濟——水火は交わり交わらず——を以て尾を收む。乾は上に在り坤は下に在り、離は東に在り坎は西に在り——これは先天の易、天地日月四象の方位——ゆえに上經の首尾に擺して、用いて造化の本体を確立す。水火は相い及びて相い滅せず、雷風は相い薄(せま)りて相い悖(もと)らず、山沢は處を異にして氣息は相通ず——これは後天の易、震巽坎離艮兌の六子の功用——ゆえに下經の首尾に擺して、用いて造化の功用を發揮す。《既濟》の後に還お一箇の《未濟》を接ぐ——まさに造化の用は終あれば必ず始あるを顯示せんと欲す——循環して已まず。
周易浅述卷七・繫辞上伝(けいじじょうでん)
上下經卦爻之下,文王周公所作,謂之繫辭。此傳則孔子之言,以發明繫辭中之大意也。以其統論全經之大體凡例,故不與彖傳象傳同附於經,而自分上下雲。
上下經の卦爻の底下に繫るの辭は、文王・周公の作する所にして「繫辭」と曰う——卦辭は文王より出で、爻辭は周公より出でぬ。ここに説く所の《繫辭伝》は、則ち孔子の話——用いて彼らの卦爻辭の中の大意を闡發す。是れ其の全經の大体と通例とを統論し、《彖伝》《象伝》の如く逐卦逐爻に附講せざるを以て、ゆえに經文の下に附せず、而して自ら一篇を成して上下の两卷を分出す。
第一章
第一章首節,以造化之實,明作易之原。是故以下至坤以簡能,言易理之見於造化者。易則易知以下,則言人之當體易也。天尊地卑,乾坤定矣。卑高以陳,貴賤位矣。動靜有常,剛柔斷矣。方以類聚,物以群分,吉凶生矣。在天成象,在地成形,變化見矣。
第一章の頭一節は、造化の實理を拿って《易》を作すの本原を説明す。「是の故に剛柔相摩す」より以下「坤は簡を以て能とす」に到るまでは、《易》理は如何に造化の中に顯現するを講ず。「易ければ則ち知り易く」以下は、則ち人は当たりに親身に此の《易》を體現し往くべきを講ず。經文に説く——「天は尊し地は卑し、乾坤は定まれり。卑高は以て陳じ、貴賤は位せり。動靜は常あり、剛柔は斷ぜらる。方は類を以て聚まり、物は群を以て分かる、吉凶は生じぬ。天に在りて象を成し、地に在りて形を成す、變化は見えぬ」。
天地者,陰陽形氣之實體。乾坤者,易中純陰純陽之卦名也。天尊地卑,陰陽固有自然尊卑之象。在易,則即太極之生兩儀四象見之。太極動而生陽,靜而生陰,陽已居先矣。至陽儀之上生一陽一陰,以陽為先。而陰儀之上生一陽一陰,亦以陽儀居先。以至六畫,莫不先陽後陰。故首乾終坤,尊陽卑陰。
「天地」は是れ陰陽形氣の實体、「乾坤」は則ち《易》の中の純陽純陰の两卦の名稱。天は尊して地は卑し——陰陽は本より自然の尊卑の象あり。《易》の裏に於いて、此の一点は「太極は两儀を生じ、两儀は四象を生ず」の上より看て得べし。太極は一たび動けば陽を生じ、一たび靜すれば陰を生ず——陽はすでに先を占めぬ。陽儀の上に再び一陽一陰を生ずるに到るに、仍お陽を以て先と為す。陰儀の上に再び一陽一陰を生ずるに、も亦た仍お陽儀を以て先に居らしむ。此の如く六画の卦に推して、先陽にして後陰ならざるはなし。ゆえに六十四卦は乾を以て首と為し坤を以て終と為し——陽を尊びて陰を卑す。
非聖人之私意,乃畫卦(文瀾本「畫卦」作「卦畫」)自然之象,實造化自然之位也。卑高者,天地萬物上下之位。貴賤者,易中卦爻上下之位也。不言高卑而言卑高者。高以下為基,人先見卑而後見高。
これは並びに聖人の私意にあらず、而して画卦の時に自然生成するの象——其の實はもまた則ち造化自然の位次(「画卦」の二字、文瀾本は「卦画」と作す)。「卑高」は天地萬物の上下の位置を説き、「貴賤」は《易》の中の卦爻の上下の位置を説く。經文が「高卑」と説かずして「卑高」と説くは、是れ高は低を以て基礎と為し、人もまた總て先ず低處を看て、再び高處を看ればなり。
畫卦亦自下而始。卦之六位,上貴下賤。如五為君,二為臣之類是也。動者陽之常,靜者陰之常。剛柔者,易中卦爻陰陽之稱。斷者,自然分判,不俟人力也。天圓而動,地方而靜。男外而動,女內而靜。雄嗚而動,雌伏而靜。皆有常者。以卦爻言之。初三五為剛,二四六為柔。以卦畫言之。
画卦もまた下より上に向かいて画き起こす。一卦の六位、上位は貴、下位は賤——五は君二は臣と為すの類を例とす。動は是れ陽の常態、靜は是れ陰の常態。「剛柔」は則ち《易》の中の卦爻の陰陽の名稱。一箇の「斷」字を説くは、剛柔は自然分判して人力を用いて區別せずを説く。天は円にして運轉して息まず、地は方にして凝定して動かず。男は外を主りて動し、女は内を主りて靜す。雄鳥は鳴飛して動し、雌鳥は卵を伏して靜す——此らは皆是れ各々常態あり。卦爻の位次に就きて説けば、初・三・五は剛位、二・四・六は柔位——下面に再び卦画の本身に就きて説く。
奇為剛,偶為柔。天地之動靜有常,卦畫爻位陽動陰靜,陽剛陰柔,剛柔本自判然也。方,事情所向。以類聚,善與善聚,惡與惡聚也。善有善之群,惡有惡之群。各有群,則善惡不得不分。此天下事物之情,而易之吉凶即從此生。善以致吉,惡以召凶也。
卦画に就きて説けば、奇画は剛、偶画は柔と為す。天地の動靜は各々常度あり、卦画と爻位とも亦た陽は動し陰は靜し、陽は剛にして陰は柔——剛と柔とは本來判然として分明なり。「方」は是れ事情の趨向する所の路數。「類を以て聚まる」は、善は善と相聚まり、惡は惡と相聚まるを説く。善は善の一群あり、惡は惡の一群あり——各自に群を成して、善惡は分かれざるを得ず。これは是れ天下事物の實情、而して《易》の吉凶はまさに此より生出す——善を為せば便ち吉を招來し、惡を為せば便ち凶を招來す。
象者,形之精華發於上者,日月星辰之屬。形者,象之體質留於下者,山川動植之屬。變化者,卦爻陰變為陽,陽變為陰也。有形象者,皆陽中有陰,陰中有陽。易之變化非因形象而後有,即形象而易中之變化可見也。此節即造化之所有,以明易之原。然非因有天地而始定乾坤,非因卑高始定爻之貴賤。蓋卦爻未起之先,觀天尊地卑而易之乾坤已定,觀卑高之陳而易中卦爻之貴賤已位。餘皆仿此,所謂畫前之易也。
「象」は是れ形体の精華は上に天に騰する——日月星辰の類の如し。「形」は是れ物象の体質は留滯して地に在る——山川草木鳥獸の類の如し。「變化」は則ち卦爻の陰は變じて陽と為り陽は變じて陰と為るを指す。凡そ形あり象あるの物は、皆是れ陽の中に陰を含み陰の中に陽を含む。《易》の變化は並びに先ず形象有りてしかる後に有るに因らず、而して形象に就着いて《易》の中の本有の變化を看見すべし。此の一節は造化の中の現成の事實に就きて、《易》を作すの本原を説明す。然れどもも亦た先ず天地有りてしかる後に乾坤を定め、先ず卑高有りてしかる後に爻位の貴賤を定めたるにあらず。卦爻は還お画を起こさざるの先に於いて、天尊地卑を觀ずれば而して《易》の乾坤はすでに定まれり、卑高陳列を觀ずれば而して《易》の中の卦爻の貴賤はすでに位に就けり。其余の各句は皆此の類に照らして推す——これがすなわち邵雍の説く所の「画前の易」。
是故剛柔相摩,八卦相盪。自此至坤以簡能,皆言易理之見於造化者。此節言易卦之變化也。畫卦之初,以一剛一柔與第二畫之剛柔相摩而為四象,又以二剛二柔與第三畫之剛柔相摩而成八卦。八卦已成,又各以八悔卦盪於八貞卦之上。而一卦為八卦,八卦為六十四卦也。摩盪,即上文所謂變化。
經文に説く——「是の故に剛柔相摩し、八卦相盪す」。此の一句より「坤は簡を以て能とす」に到るまでは、皆《易》理は造化の中に顯現するを講ず。此の一節の説く所は是れ易卦の本身の變化。画卦の初、先ず一剛一柔を以て第二画の剛柔と互いに摩擦して、四象と成す。再び两剛两柔を以て第三画の剛柔と相摩して、八卦と成す。八卦は既に成れば、又た各々八箇の上卦を以て八箇の下卦の上に盪加す——上卦は「悔」と称し、下卦は「貞」と称す——ここに一卦は八卦を生じ、八卦は六十四卦を生ず。いわゆる「摩」「盪」は、則ち上文の説く「變化」なり。
鼓之以雷霆,潤之以風雨,日月運行,一寒一暑。六十四卦之中有雷霆風雨日月寒暑。此變化之成象者,易中有之也。乾道成男,坤道成女。男女,兼人物而言。動物有牝牡雌雄。即植物如竹亦有雌雄,麻亦有牝牡。六十四卦之中,自有男女。此變化之成形者,易中文(「文」當作「又」,從文瀾本)有之也。
經文に説く——「之を鼓するに雷霆を以てし、之を潤すに風雨を以てし、日月は運行し、一寒一暑」。六十四卦の中は原來雷霆風雨・日月寒暑を含む——これは是れ變化の物象を凝成するの一面、《易》の裏は皆之あり。又た説く——「乾道は男を成し、坤道は女を成す」。ここに男女は兼ねて人と物とを指す。動物は牝牡雌雄あり、則ち植物にしても、竹はも亦た雌雄を分かち、麻はも亦た牝牡を分かつが如し。六十四卦の中は、自らいわゆる男女あり——乾は三たび索して三男を得、坤は三たび索して三女を得たり。これは是れ變化の形体を凝成するの一面、《易》の裏も亦た皆之あり(「文」字は当たりに「又」と作すべし——文瀾本に從う)。
此兩節又明易之見於造化者。大抵易之未畫,卦爻之變化在天地中。易之既畫,天地萬物之變化又在卦爻中。在天地者,未畫之易。在易者,已畫之天地也。
此の两節は又た《易》は如何に造化の中に顯現するを説明す。大略に説けば——《易》は還お画き出ざるの時、卦爻の變化は則ち天地の裏に藏れり。《易》は既に画き出せば、天地萬物の變化は又た皆卦爻の裏に收めぬ。天地の裏に在るは、是れ還お画き出さざるの《易》。《易》の裏に在るは、是れすでに画き出せるの天地。
乾知大始,坤作成物。此承上文男女而言。成男雖屬乾道,而男女所受之氯皆乾以始之。成女雖屬坤道,而男女所生之形皆坤以成之。知,知此也。作,能此也。大始,無所不始也。大始未有形,故曰知。成物,則流形而有為,故曰作。大抵物不離乎陰陽。陽先陰後,陽施陰受。陽之輕清未形,而陰之重濁有質也。
經文に説く——「乾は大始を知り、坤は物を成し作す」。これは是れ上文の男女を承けて講ず。男を成すは乾道に属するも、然れども男女の稟受する所の氣は皆乾より開端を來れり。女を成すは坤道に属するも、然れども男女の生成する所の形体は皆坤より完成を來れり。「知」は是れ之を主どり之を知る、「作」は是れ之を能くし之を任ず。「大始」は是れ始めざる所なし。大始の時は還お形体なし——ゆえに只だ「知」を説く。物を成すは則ち已に流布して形を成し作為有り——ゆえに「作」を説く。大抵萬物は陰陽を離れず——陽は先にして陰は後、陽は施して陰は受く。陽は輕清にして尚お形を成さず、陰は重濁にして已に体質あり。
乾以易知,坤以簡能。乾健而動,即其所知,便能始物而無所離,故以為易而知大始。坤順而靜,凡其所能,皆從乎陽而不自作,故以為簡而能成物。以草木之生觀之。天之陽氣一到,萌芽盡發,何其易也。坤不必別有作為,承受而長養之,即其能也,何其簡也。此承上文而言易中乾坤之德如此,下文乃言人當體乾坤之德也。
經文に説く——「乾は易を以て知とし、坤は簡を以て能とす」。乾は剛健にして常に動し、凡そ其の主どる所は、直下に便ち能く萬物を開創して毫も隔礙なし——ゆえに其の平易を説き、而して能く大始を主管す。坤は柔順にして常に靜し、凡そ其の能くする所は、皆陽に順從して自ら主張を作さず——ゆえに其の簡約を説き、而して能く萬物を成就す。草木の生長を拿って看れば——天上の陽氣は一たび到れば、萌芽は齊しく發し、何等なるか平易。坤は並びに另た何の作為あるもあらず、只だ是れ承受してそれを長養す——これがすなわち其の能——何等なるか簡約。此の一節は上文を承けて《易》の中の乾坤の徳は此の如しを説き、下文にこそ人は当たりに親身に乾坤の徳を體現し往くべきを説く。
易則易知,簡則易從。易知則有親,易從則有功。有親則可久,有功則可大。可久則賢人之德,可大則賢人之業。此節言人當法乾坤之道,乃可以為賢也。易簡之易,以簡易言。易知之易,以難易言。天地間凡物皆有乾坤,而人心尤自具一乾坤。人之所為,如乾之易,則其心明白而人易知。如坤之簡,則其事要約而人易從。易知,則非深險而不可測,與之同心者多,故有親。易從,則事無艱阻,與之協力者眾,故有功。
經文に説く——「易ければ則ち知り易く、簡なれば則ち從い易し。知り易ければ則ち親あり、從い易ければ則ち功あり。親あれば則ち久しきべく、功あれば則ち大なるべく。久しきべきは則ち賢人の徳、大なるべきは則ち賢人の業」。此の一節は人は当たりに乾坤の道を效法して、以て賢者と為るべきを説く。「易簡」の「易」は平易の易の如く讀み、「易知」の「易」は難易の易の如く讀む。天地の間は凡物は皆各々乾坤あり、而して人心の裏は尤其として自ら一副の乾坤を具す。人の所為所作、若し乾の如く平易なれば、心地は明白にして別人は容易に知り、若し坤の如く簡約なれば、事情は扼要にして別人は容易に依從す。容易に知れば、便ち深險にして測るべからざるの人にあらず——同心の人は則ち多し——ゆえに「親あり」。容易に從えば、便ち事事に艱阻なし——協力の人は則ち衆し——ゆえに「功あり」。
有親自然可以長久。有功自然可以廣大。德以所存主,言得於已者。業以所發見,言成於事者。可久者,日新而不已,賢人之德也。可大者,富有而無疆,賢人之業也。不言聖而言賢,蓋聖人者,自然之事。言賢人以見乾坤之德業,人皆可勉而至也。且可久可大,僅曰可而已,非其至也。至成位乎中,則聖矣。
親あれば自然に以て長久すべく、功あれば自然に以て廣大すべし。「徳」は内に存主する所に就きて説く——是れ自己の身上に得るの物。「業」は外に發見する所に就きて説く——是れ事情の上に成就するの物。能く長久なれば、則ち是れ日新にして止息せず——これは是れ賢人の徳。能く廣大なれば、則ち是れ富有にして邊際なし——これは是れ賢人の業。經文が聖人を説かずして賢人を説くは、是れ聖人は自然而然の事——勉強を俟たざればなり。賢人を擧げて來りて説くは、まさに乾坤の此の一套の徳業は、人人は皆勉力して做到すべきを見る。何況「久しきべく」「大なるべく」は只だ一箇の「可」字を説き、還お極致にあらず——下文の「其の中に位を成す」に到れば、あれはこそ是れ聖人。
易簡而天下之理得矣。天下之理得,而成位乎其中矣。成位,成人之位。其中,謂天地之中。至此,則體道之極功,聖人之能事,可以與天地參矣。此章首言天地有自然之易,中言易中有自然之天地,末言天地與易不外乎自然之理。理至易則至簡。人能易簡,則人心有易,人心有天地矣。右第一章。
經文に説く——「易簡にして天下の理を得たり。天下の理を得れば、而して其の中に位を成せり」。「成位」は是れ人の位分を成就す、「其中」は天地の中を指す。此の地步に到れば、則ち是れ道を體するの極功・聖人の能事——以て天地と併立して三と為すべし。此の一章の開頭は天地は本より自然の《易》ありを説き、中間は《易》の中は本より自然の天地ありを説き、末了は天地と《易》とは皆自然の理に外ならずを説く。理は極處に到れば便ち至易、至易は則ち至簡。人は能く易簡を做到せば、則ち人心の裏は則ち《易》あり、人心の裏も亦た則ち天地あれり。以上是れ第一章。
第二章
第二章自章首至三極之道也,言聖人作易之事。以下言君子學易之功。聖人設卦觀象,繫辭焉而明吉凶。聖人既作,觀卦爻之象而繫之以辭,非得已也。恐後人知不足以及此,而明示吉凶也。
第二章は章首より「三極の道なり」に到るまでは、聖人の《易》を作すの事を講ず。此より以下は、君子の《易》を學ぶの功夫を講ず。經文に説く——「聖人は卦を設けて象を觀じ、辭を繫げ焉(お)んじて以て吉凶を明らかにす」。聖人は既に卦を設ければ、則ち卦爻の象を觀察して上に文辭を繫ぐ。これは並びに彼は事を多くせんを願うにあらず、其の實は是れ後人の見識は以て自己に此の一层を看るに足らざるを怕る——ゆえに明明白白に吉凶を指示し出でぬ。
剛柔相推而生變化。吉凶以辭而明,辭因象而出。卦爻陰陽迭相推盪,而陰或變陽,陽或變陰。此聖人所以觀象而繫辭,眾人所以因蓍而求卦者也。是故吉凶者,失得之象也。悔吝者,憂虞之象也。聖人觀卦爻之中有得失,因繫之以吉凶。有憂虞,則繫之以悔吝。得則吉,失則凶。憂則悔,虞則吝。吉凶相對,而悔者自凶而趨吉,吝自吉而趨凶。蓋憂在心,虞在物。在心方有端而無患,為悔而已。心每有之而不忘,積之所以成吉。在物則有形可虞,非悔可及可成(文瀾本「可成」作「故成」)吝。吝者,口以為是,文過不改,積之以成凶矣。此節明上文繫辭焉而明吉凶之義。
經文に説く——「剛柔相い推して以て變化を生ず」。吉凶は辭を靠れてこそ明白なり、辭は又た象に因りて生ず。卦爻の陰陽は交じて相い推盪し、陰は或いは變じて陽と為り、陽は或いは變じて陰と為る——聖人はまさに此に據りて象を觀じ辭を繫ぎ、衆人もまたまさに此に據りて蓍草を用いて卦を求む。經文に又た説く——「是の故に吉凶は、失得の象なり。悔吝は、憂虞の象なり」。聖人は卦爻の裏に得有り失あるを看て、則ち上に吉凶の二字を繫ぎ、憂有り虞有れば、則ち上に悔吝の二字を繫ぐ。得は便ち吉、失は便ち凶。憂は便ち悔、虞は便ち吝。吉と凶とは两两として相い對し、而して「悔」は是れ凶より吉に走向し、「吝」は是れ吉より凶に走向す。「憂」は心の裏に在り、「虞」は事物の上に在る。心の裏に在るは、こそ端倪を動かして未だ禍患を成さず——不過是れ一点の悔意。此の点の悔意は常に存して忘れず——積久にして便ち吉を成就す。事物の上に在るは、すでに形迹として慮るべきあり——是れ一点の悔意の挽回する能くする所にあらず——ここに吝と成る(「可成」の二字、文瀾本は「故成」と作す)。いわゆる吝は、是れ口の裏は還お對と認めて、過失を文飾して改むるを肯ぜず——積久にして便ち凶と成れり。此の一節は上文の「辭を繫げ焉んじて以て吉凶を明らかにす」の意思を申明す。
變化者,進退之象也。剛柔者,晝夜之象也。六爻之動,三極之道也。變化剛柔,以卦畫言。進退晝夜,以造化言。進者息而盈,退者消而虛。陰進則陽退,陽進則陰退。剛方變柔,柔方變剛。剛柔未成為變化者,即造化或進或退之象也。剛屬陽,明晝之象。柔屬陰,暗夜之象。變化已成而為剛柔,即造化晝為陽,夜為陰之象也。
經文に説く——「變化は、進退の象なり。剛柔は、晝夜の象なり。六爻の動は、三極の道なり」。「變化」「剛柔」は是れ卦画に就きて説き、「進退」「晝夜」は是れ造化に就きて説く。進は是れ生息して充盈し、退は是れ消減して虚耗す。陰は進めば則ち陽は退き、陽は進めば則ち陰は退く。剛はまさに柔に變じ、柔はまさに剛に變じ——剛柔は尚お定形せずして變化の中に處す——これがすなわち造化の或いは進み或いは退くの象。剛は陽に属して是れ白昼光明の象。柔は陰に属して是れ黑夜幽暗の象。變化はすでに完成して剛柔と定まる——これがすなわち造化の中の昼は陽・夜は陰の象。
極,至也。不極則不動。三極即三才六爻之位。初二為地,三四為人,五上為天,三才之位。陽極則動為陰,陰極則動為陽。六爻所以變動,三才極至之道也。此節明上文剛柔相推而生變化之義。然則剛柔相推而生變化,而變化之極復為剛柔,以流行於一卦六爻之間。占者遂各因所值以斷吉凶也。自此以上皆言聖人之作易也。
「極」は是れ至極。極處に到らざれば則ち動かざるに會せず。「三極」は則ち三才の六爻の中に於ける位次——初・二の两爻は地、三・四の两爻は人、五・上の两爻は天——これは是れ三才の位。陽は極点に到れば則ち動して陰と為り、陰は極点に到れば則ち動して陽と為る。六爻の變動する所以は、まさに三才は各々極處に到るの道理。此の一節は上文の「剛柔相い推して以て變化を生ず」の意思を申明す。此の如く見れば——剛柔相い推して以て變化を生出し、變化は極處に到れば又た復た剛柔に歸し、此の如く一卦六爻の間に流行せば、卦を占するの人は便ち各々自己の遇う所の爻に就きて以て吉凶を斷定す。此より往上は、講ずる所は皆是れ聖人の《易》を作すの事。
是故君子所居而安者,易之序也。所樂而玩者,爻之辭也。居,就身之所處而言。安者,隨分而安也。序,以卦言,如剝復否泰是也。以爻言,如潛見飛躍是也。能循其序,則居之安矣。玩者觀之祥,樂有契於心也。玩味知其理之無窮,則可樂,愈可玩矣。居而安,君子之安分也。樂而玩,君子之窮理也。安分則窮理愈精,窮理則安分愈固。此及下節皆言君子學易之功也。
經文に説く——「是の故に君子の居りて安んずる所は、易の序なり。樂しみて玩ぶ所は、爻の辭なり」。「居」は自身の處する所の地位に就きて説き、「安」は是れ分に隨いて安んず。「序」は、卦に就きて説けば、剥にして復、否にして泰の次第の如し。爻に就きて説けば、乾卦の潛・見・飛・躍の次第の如し。能く此の次第に順えば、身を處すること自然に安穩なり。「玩」は是れ詳審に看る、「樂」は是れ心の裏に契合する所有り。其の道理の無窮无尽なるを玩味し到れば、便ち樂すべく、愈々樂すべければ愈々要して玩味す。居りて安んずるは、是れ君子の安分。樂しみて玩ぶは、是れ君子の窮理。安分すれば則ち窮理は愈々精し、窮理すれば則ち安分は愈々牢し。此の一節と下一節とは、講ずる所は皆是れ君子の《易》を學ぶの功夫。
是故君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占,是以自天祐之,吉無不利。居字與上文微分。以靜對動,就平居學易言之也。動則揲蓍求卦,就臨事用易言之也。未卜筮時,易但有象與辭。方卜筮時,易乃有變與占。
經文に説く——「是の故に君子は居れば則ち其の象を觀じて其の辭を玩び、動けば則ち其の變を觀じて其の占を玩ぶ。是を以て天より祐さる——吉にして利ならざるなし」。ここに「居」字は上文の「居」と略々分别あり。ここは是れ靜を以て動に對し、平日の《易》を學ぶに就きて説く。「動」は則ち蓍を揲して卦を求むる——事に臨みて《易》を用うに就きて説く。還お卜筮せざるの時、《易》は只だ象と辭とあり。まさに卜筮するの時、《易》はこそ變と占とあり。
八卦六爻皆有象辭,則各因象而指其吉凶。此就全經言之,在理而未形於事者也。變則揲筮得老陰老陽之變,占則所值卦爻之吉凶。此就揲筮所得卦爻言之,以吾所問之事合所得之辭而斷之者也。
八卦六爻は皆各々象あり各々辭あり——皆是れ象に就きて來りて吉凶を指點す。これは是れ全部經文に就きて説く——道理の上は講じ通じて還お具體事情の上に落ちざるの一层に属す。「變」は是れ蓍を揲して老陰老陽を求得して生出するの變爻。「占」は是れ遇う所の彼の一卦彼の一爻の吉凶——これは是れ揲蓍の得る所の卦爻に就きて説く——我の問う所の事を拿って得る所の辭に合わせて來りて斷定せんと要す。
言君子平居學易,既觀象矣,又玩辭以考其所處之當否。動而諏筮,既觀變矣,又玩占以考其所值之吉凶。吉則行,凶則止。動靜之間無非易,即無非天。靜與天俱,動與天遊。冥冥之中若或助之,故自天祐之,吉無不利也。人在天地之中,吉凶悔吝無一息之停。然吉一而已,凶悔吝有三焉。故上文示人以吉凶悔吝,以見聖人作易之事。此獨言吉而無凶悔吝,則君子學易之功也。右第二章。
君子は平日《易》を學び、既に其の象を觀じ、又た其の辭を玩味す——用いて自己の處する所の地位は当なりや当ならざるやを考察す。事有りて卜筮を諮詢すれば、既に其の變を觀じ、又た其の占を玩味す——用いて遇う所の結果は吉なりや凶なりやを考察す——吉なれば則ち往きて做し、凶なれば則ち住まる。此の如く一動一靜の間は往く所《易》ならざるなし——も亦た則ち往く所天ならざるなし。靜の時は天と同在し、動の時は天と同遊す——冥冥の中は何か有るか如く彼を幇助す——ゆえに「天より祐さる、吉にして利ならざるなし」と説く。人生は天地の間に在りて、吉凶悔吝は一刻の停歇なし。然れども吉は只だ一樣あり、凶・悔・吝は却って三樣あり。ゆえに上文は吉凶悔吝を皆擺し出して人に看せしむ——以て聖人の《易》を作すの事を見せしめ、ここは却って只だ吉を説きて凶悔吝に及ばず——あれはまさに是れ君子の《易》を學ぶの功效。以上是れ第二章。
第三章
第三章釋卦爻辭之通例,而後教人體卦爻辭之功。彖者言乎象者也,爻者言乎變者也。彖,文王所作卦辭。象,指全體而言。爻,周公所作爻辭。變,指一節而言。吉凶者,言乎其失得也。悔吝者,言乎其小疵也。無咎者,善補過也。
第三章は先ず卦辭爻辭の通例を解釋し、然る後に人を教えて如何に卦爻辭の上に用功するを説く。經文に説く——「彖は象を言う者なり、爻は變を言う者なり」。「彖」は文王の作する所の卦辭を指し、「象」は是れ一卦の全体に就きて説く。「爻」は周公の作する所の爻辭を指し、「變」は是れ一爻一節に就きて説く。經文に又た説く——「吉凶は、其の失得を言うなり。悔吝は、其の小疵を言うなり。咎なしは、過を補うに善し」。
盡善為得,不盡善為失。小不善為疵,不明於善而悞為不善為過。覺其不善而欲改為悔,覺其不善而未能改或不肯改為吝。悔未吉而猶有小疵,吝未凶而已有小疵。善補過,嘉其能改也。有過當有咎,能補則無。聖人不貴無過而貴改過,望人自新之意切矣。
善を盡せば便ち是れ「得」。善を盡す能わざれば便ち是れ「失」。小ささの不善を「疵」と曰う。何者の善を明白せずして、誤りて不善の事を做せるを「過」と曰う。自己の不善を覺察して改めんと想うは是れ「悔」。不善を覺察して然れども改むる能わず、或いは改むるを肯ぜざるは是れ「吝」。悔は還お吉に及ばず——是れ終究に小疵を留むればなり。吝は還お凶に及ばず——然れどもすでに小疵あり。いわゆる「過を補うに善し」は、是れ其の能く改むるを嘉許す。過あるは本來咎あるべし——能く過失を補救せば、咎は則ちなし。聖人は一人が從來過を犯さざるを看重せず、而して其の能く過を改むるを看重す——人の自新せんを盼うの意思は何等なるか懇切。
此皆卦爻辭之通例也。彖爻中吉凶悔吝無咎之辭皆備。吉凶者,卦爻中之得失。悔吝者,言卦爻中之小疵。無咎者,善卦爻中之能補過。此釋彖爻之名義。又釋吉凶悔吝無咎之名義也。
此らは皆是れ卦辭爻辭の通例。卦辭と爻辭との中は、吉・凶・悔・吝・咎なしの此の幾種の斷語は一應に倶に全し。吉凶を説くは、是れ卦爻の中の得失に就きて説く。悔吝を説くは、是れ卦爻の中の小疵に就きて説く。咎なしを説くは、是れ卦爻の中の能く過を補う者を嘉許す。此の一段は先ず「彖」「爻」の两箇の名目の意義を解釋し、又た吉・凶・悔・吝・咎なしの幾箇の斷語の意義を解釋す。
是故列貴賤者存乎位,齊小大者存乎卦,辯吉凶者存乎辭。上文已釋卦爻吉凶悔吝之名義,此則教人體卦爻吉凶悔吝無咎之功也。六爻之位,二四則四貴而二賤,五三則五貴而三賤,初上則上貴而初賤。上雖無位,然在所貴。以君言,為天子父,天子師。以世人言,物外清高不與事者。所以貴也。
經文に説く——「是の故に貴賤を列するは位に存り、小大を齊うするは卦に存り、吉凶を辨ずるは辭に存り」。上文はすでに卦爻の吉凶悔吝の名義を解釋せり——ここは則ち人を教えて如何に卦爻の吉凶悔吝咎なしの上に用功するを説く。六爻の位次に就きて説けば——二と四とを相比べば、四は貴にして二は賤。三と五とを相比べば、五は貴にして三は賤。初と上とを相比べば、上は貴にして初は賤。上爻は職位なきも、然れども仍お貴に属すべし——朝に在りて言えば、天子の父輩・天子の師傅に比作すべく、野に在りて言えば、超然として物外・清高にして世事を問わざるの人に比作すべし——ゆえに其の貴を説く。
小陰大陽。小大不可齊,猶辨別而定之也。如泰大否小之類。陰陽雖有小大,必假卦象而後顯也。此承上節而言。爻固言其變矣。若列貴賤,則存乎所變之位,貴賤不可淆也。彖固言其象矣。若齊小大,則存乎所象之卦,小大不可亂也。吉凶言乎失得矣。若辨吉凶,則存平其辭,吉則趨,凶則宜避之也。
「小」は陰を指し、「大」は陽を指す。小と大とは本より以て等同すべからず。いわゆる「齊」は、則ち辨別して各々其の分を定むる——《泰》を大と為し《否》を小と為すの類の如し。陰陽は小大の別あるも、必ず卦象を借りてこそ顯し出すべし。此の一節は是れ上文を承けて説く。爻は固然として變を講ずるなり、然れども貴賤を排列せんと要せば、則ち其の變ずる所の彼の位次を看るを得——貴賤は是れ混淆すべからず。彖辭は固然として象を講ずるなり、然れども小大を分定せんと要せば、則ち其の象る所の彼の一卦を看るを得——小大は是れ錯乱すべからず。吉凶は固然として失得を講ずるなり、然れども吉凶を辨明せんと要せば、則ち其の辭を看るを得——吉なれば便ち趨就し、凶なれば便ち該めて躲開すべし。
憂悔吝者存乎介,震無咎者存乎悔。介謂辨別之端,美惡已動而未形之時也。悔吝未至於吉凶。乃初萌動,可以向吉凶之微處。介又悔吝之微處。於此憂之,不至於悔吝矣。震,動也。不曰動而曰震,有所震動以求其無咎者。在乎深有所愧悔,以堅其補過之心,則不至於有咎矣。此亦承上而言。悔吝固言於其小疵矣。然當謹於其微,不可以小疵而自恕也。無咎固善其能補過矣。然欲動其補過之心,必自悔中來也。
經文に説く——「悔吝を憂うるは介に存り、咎なしを震するは悔に存り」。「介」は是れ分辨するの彼の一线の端倪——も亦た則ち善惡はすでに萌動して尚お成形せざるの時候。悔吝は還お吉凶の地步に到らず——只だ是れ剛に萌動して、是れ以て吉に轉向すべくも亦た以て凶に轉向すべきの細微處。而して「介」は又た是れ悔吝の更なる細微處。此の上頭に於いて先ず自ら憂懼せば、則ち悔吝に落ちるに至らず。「震」は是れ動。「動」と説かずして「震」と説くは、心の裏に震撼聳動する所有りて以て咎を免れんと求むを指す。これは靠る所は深深として慚愧悔恨する所有り——用いて自己の過を補うの心を堅定し、此の如く便ち咎あるに至らず。これはも亦た上文を承けて説く。悔吝は固然として小疵に就きて説くなり、然れども当たりに極細微の處に於いて則ち謹愼すべく、只だ小疵なるを因りて自己を原諒すべからず。咎なしは固然として其の能く過を補うを嘉許するなり、然れども此の過を補うの心を發動せんと要せば、必定に「悔」の裏より來るを得。
是故卦有小大,辭有險易。辭也者,各指其所之。大卦辭易,謙復之類。小卦辭險,睽剝之類。所之,所向也。各字,兼吉凶悔吝無咎五者。讀謙復之辭如行坦途,如逢春陽。氣象和樂,其辭平易,示人以所之之得且吉也。讀睽剝之辭如涉風濤,如履雪霜。氣象凜慄,其辭艱險,示人以所之之失且凶也。
經文に説く——「是の故に卦は小大あり、辭は險易あり。辭なる者は、各々其の之く所を指す」。陽大の卦は、辭は多く平易——《謙》《復》の類の如し。陰小の卦は、辭は多く險難——《睽》《剥》の類の如し。「之く所」は則ち是れ趨向する所。一箇の「各」字は、兼ねて吉・凶・悔・吝・咎なしの五者を指す。《謙》《復》の卦爻辭を讀むは、平坦大路の上を走るに象り、春天の暖陽に遇うに象る——氣象は和樂、辭句は平易——是れ人を指示して此の如く走り往けば必ず得あるにして吉ならん。《睽》《剥》の卦爻辭を讀むは、風濤の裏に船を行くに象り、霜雪を踏んで路を走るに象る——氣象は凜然として畏るべく、辭句は艱險——是れ人を指示して此の如く走り往けば必ず失あるにして凶ならん。
本凶而悔所之則吉,本吉而吝所之則凶。無咎本有過而能補過,則所之之於得不之於失,之於吉不之於凶矣。合前二章論之。第一章論伏羲畫卦,望賢人之體易。第二章論文王周公所係辭,望君子之用易。此則專論彖爻辭之例,示眾人之用易也。右第三章。
本來是れ凶なり、能く悔すれば、趨向する所は便ち吉に轉成す。本來是れ吉なり、若し吝すれば、趨向する所は便ち凶に轉成す。「咎なし」は本より是れ過有りて能く過を補う——則ち趨向する所は則ち得に歸して失に歸せず、吉に歸して凶に歸せざれり。前面の两章を合せ看れば——第一章は伏羲の卦を画くを論じ、是れ賢人に《易》を體現し往かんを盼望す。第二章は文王・周公の繫げる所の辭を論じ、是れ君子に《易》を運用し往かんを盼望す。此の一章は則ち專ら卦辭爻辭の通例を論じ、是れ一般人に如何に《易》を用うるを指示す。以上是れ第三章。
第四章
第四章言易道之大,聖人用之而窮理盡性以至於命。易與天地準,作易聖人亦與天地準也。易與天地準,故能彌綸天地之道。此節言易道之大也。易,指易之書而言。易書卦爻具有天地之道,與之齊準,故於天地之道能彌也。彌者,彌縫。合萬為一,使渾然而無欠。又能綸之。綸者,絲綸。一中有萬,使燦然而有條。彌而不綸則空疎無物,綸而不彌則判然不屬。彌如大德之敦化,綸如小德之川流也。
第四章は《易》の道の大きさを説き、聖人がそれを用いて事理を窮め、本性を尽くし、天命を知るに至ることを論じる。《易》は天地と等しく、《易》を作った聖人もまた天地と等しい。経文にいう、「易は天地に準(なら)う、故に能く天地の道を彌綸(みりん)す」と。この節は《易》の道の大きさを説く。「易」とは《易》という書物を指す。《易》の書の卦爻には天地の道が備わり、天地と斉しく準じているから、天地の道に対して「彌(び)」をなすことができる。「彌」とは彌縫、すなわち万殊を一に合し、渾然として欠けのないようにする。また「綸」をなすことができる。「綸」とは糸の筋で、一体の中に万殊を含み、燦然として条理あるようにする。彌あって綸なければ空疎にして物なし。綸あって彌なければ支離滅裂で連属しない。「彌」は《中庸》のいう「大徳の敦化」にたとえ、「綸」は「小徳の川流」にたとえることができる。
仰以觀於天文,俯以察於地理,是故知幽明之故。原始反終,故知死生之說。精氣為物,逰魂為變,是故知鬼神之情狀。此窮理之事也。以者,聖人以易之書也。易者,陰陽而已。幽明死生鬼神,皆陰陽之變,天地之道也。天文地理,《本義》謂天文有晝夜上下,地理有南北高深。《大全》謂晝明夜幽,上明下幽,觀此見天文幽明之所以然。
経文にいう、「仰いで以て天文を観、俯して以て地理を察す。是の故に幽明の故を知る。原(もと)め反(かえ)して終わる、故に死生の説を知る。精気は物を為し、遊魂は変を為す。是の故に鬼神の情状を知る」と。これは理を窮める事である。「以」の字は、聖人が《易》の書を取って観察することをいう。《易》とは陰陽の二字に過ぎない。幽明・死生・鬼神は、皆陰陽の変化であり、すなわち天地の道である。天文地理について、《周易本義》は天文に昼夜上下の別があり、地理に南北高深の別があるとし、《周易大全》は昼を明、夜を幽、上を明、下を幽とし、これによって天文中の幽明の所以然を見ることができるとする。
南明北幽,高明深幽,察此見地理幽明之所以然。此亦不過粗舉大凡,亦不盡此也。天文顯而在上,觀之可見。地理隱而下,必察其詳。又天文遠而成象,難於細察。地理近而有形,又非觀之所可盡也。
南を明、北を幽、高を明、深を幽とし、これによって地理中の幽明の所以然を見ることができる。ただしこれもあくまで大凡を粗挙したに過ぎず、これに尽きるわけではない。天文は顕露して上にあり、仰げば見えるから「観」という。地理は隠蔵して下にあるから、必ず細かく察しなければならず、「察」という。さらに天文は遠くて象を成すのみで細察し難く、地理は近くて形が実在するが、一望して尽くせるものでもない。
就天文地理分言之,似天文明而地理幽。而天文地理中又各有幽明,如日月雷風見於象者為明,其藏而不見處即為幽。山澤水火之隱藏未見者為幽,其有形可見即為明。以易之陰陽,知天文地理之有幽明。以易之陰中有陽陽中有陰,知天文地理中之幽中有明明中有幽。陽極陰生則漸幽,陰極陽生則漸明。終古天地皆如此。知其所以然之理,所謂知幽明之故也。
天文と地理を分けていえば、天文は明で地理は幽のようだが、天文の中にも地理の中にもそれぞれ幽明がある。日月雷風のように象となって現れるものは明で、蔵して見えない所は幽である。山沢水火の隠伏して未だ見えないものは幽で、形あり見えるものは明である。《易》の陰陽を用いれば天文地理に幽明があることが分かり、《易》の陰中に陽あり・陽中に陰ありを用いれば、天文地理の幽中に明あり・明中に幽あることが分かる。陽は極まれば陰が生じ、そこで漸く幽に転じ、陰は極まれば陽が生じ、そこで漸く明に転ずる。亘古より天地は皆このようであった。その所以然の理を知ることが、いわゆる「幽明の故を知る」である。
原者,推之於前。反者,要之於後。天地之化,雖生生不窮。然有聚必有散,有生必有死。以易中陰陽二氯之聚,推其所以始,則可以知生之說。說謂言其理也。耳目之聰明為精,口鼻之噓吸為氣。人之生也。精與氣合而有物,故為神。精滅則魄墮於地,氣絕則魂逰於天。人之死也。魂與魄離而為變,故為鬼。
「原」とは前に推し進めてその端緒を窮めること、「反」とは後に要約してその終結に帰することである。天地の造化は生々して窮まりないが、聚あれば必ず散あり、生あれば必ず死がある。《易》中の陰陽二気の聚合を取って、その始まる所以の理を推し窮めれば、「生」の説を知ることができる。「説」とはその理を言い明かすことである。耳目の聡明は「精」に属し、口鼻の呼吸は「気」に属する。人が生きている間は、精と気が合して形体となるから「神」に属する。精が滅すれば魄は地に堕ち、気が絶えれば魂は天に遊ぶ。人が死ねば、魂と魄が相離れて変化を生ずるから「鬼」に属する。
蓋在生謂之精氣,在死謂之魂魄。離合聚散,屈伸往來於天地之間謂之鬼神。然要不出於易之陰陽可知也。蓋精也魄也,皆陰之屬也。氣也魂也,皆陽之屬也。精氣為物,陰陽二氣聚而為神也。而神又陽之屬,則精氣者陽中之陰陽也,游魂為變,陰陽二氣散而為鬼。而鬼又陰之屬,則魂魄者陰中之陰陽也。
大略していえば、生きている間は精・気と呼び、死んだ後は魂・魄と呼ぶ。この離れ合い・聚り散じて、屈伸往来して天地の間にあるものを鬼神という。要するに《易》の陰陽の外に出るものではなく、これは推知できる。精と魄は皆陰に属し、気と魂は皆陽に属する。「精気物を為す」とは、陰陽二気が聚合して神となることである。神そのものはまた陽に属するから、精気は陽中の陰陽である。「遊魂変を為す」とは、陰陽二気が離散して鬼となることである。鬼そのものはまた陰に属するから、魂魄は陰中の陰陽である。
人生謂之氣,死謂之魂。乃夢中不謂之氣而謂之魂者,蓋當其睡夢,生而有死之形。氣雖未絕而精不用事,故魂與魄離而有夢,此又陽中之陰也。人生謂之神,死謂之鬼。乃正人君子死不謂之鬼又謂之神者,蓋浩然之氣死而全生之理。精雖已滅而氣猶不散,故魂能舉魄而為神。
人は生きている間を「気」といい、死を「魂」という。ところが夢を見る時は気と言わず魂というのは、睡夢の中では、生きていながら既に死者の形態があるからである。気は未だ絶えずとも精が既に事を主らないから、魂と魄が暫く相離れて夢境を生ずる。これはまた陽中の陰である。人は生を「神」、死を「鬼」という。ところが正人君子は死して鬼と言わず仍お神というのは、浩然の気が、死してもなお生の理を全うするからである。精は既に滅したが気はなお散じないから、魂がその魄を提挈して神となることができる。
此又陰中之陽也。正人君子之死,游魂之變而為神。伯有為厲之屬,游魂之變而為鬼。鬼者,歸也。亦漸歸於澌滅而已。神者,伸也。在天為星辰,在地為河嶽,正氣常伸。此又聖人之所以貴陽賤陰,扶陽抑陰之意乎。
これはまた陰中の陽である。正人君子の死は、遊魂の変となって神となるもの。《左伝》に載る鄭国の伯有が死して厲鬼となり祟りをなした類は、遊魂の変となって鬼となるものである。「鬼」とは「帰」であり、ただ漸々消尽に帰するのみである。「神」とは「伸」であり、天に在っては星辰、地に在っては河岳、一筋の正気が常に伸びて屈しない。ここにまた、聖人が陽を貴び陰を賤しみ、陽を扶け陰を抑える用意が見えるであろう。
而要其聚散以近,則陰陽之變化而不可窮詰。而其自無之有,自有之無則無極。太極而生陰陽,陰陽仍歸於無極,此鬼神之情狀可以易知之者也。《大全》楊氏曰,禍盈福謙,鬼神之情。如在其上,如在左右,鬼神之狀。於義亦通,但未盡其所以然之故耳。
その聚散を総括して近く観れば、それは陰陽の変化で窮め尽くせない。その無より有になり有より無になるに至れば、それは無極である。無極にして太極、太極にして陰陽を生じ、陰陽はまた仍りて無極に帰する――これが鬼神の情状であり、《易》理をもって推知できる。《周易大全》に楊氏の説を載せる。盈満する者に禍を受けさせ、謙退する者に福を得させるのは鬼神の「情」、《中庸》のいう「その上に在るが如く、その左右に在るが如し」は鬼神の「状」であると。この言は義においても通じるが、ただ所以然の故を説き尽くしていない。
與天地相似,故不違。知周乎萬物而道濟天下,故不過。旁行而不流。樂天知命,故不憂。安土敦乎仁,故能愛。上文言易與天地準,故可即易以窮天下之理。此言聖人之道似天地。
経文にいう、「天地に相似たり、故に違わず。知は万物に周(あまね)くして道は天下を済す、故に過(あやま)たず。旁行して流れず、天を楽しみ命を知る、故に憂えず。土に安んじ仁に敦(あつ)し、故に能く愛す」と。上文は《易》が天地と等しいことを説き、故に《易》によって天下の理を窮めることができるとした。ここでは聖人の道が天地に相似ていることを説く。
而所以似天地者,用易道以盡其性而已。天地之功大矣。準之者易,似之者聖人。易本無體故言準。如平準之準,均一無間。聖涉有為故言似。如形似之似,順適乎自然。天地聖人本無二道,列之為三,則相似而已。唯相似,故先天後天而不違也。此句統言之。以下不過不憂能愛皆不違之事。
聖人が天地に似ることができるのは、ただ《易》の道を用いて自らの性を尽くすからに他ならない。天地の功は極めて大きい。それと斉しいのが《易》であり、それに相似るのが聖人である。《易》自体には形体がないから「準」という。平準の準のように均斉画一で間隙がない。聖人は作為があるから「似」という。形似の似のように自然に順適する。天地と聖人は本来二つの道ではないが、ただそれを並列して三とするから「相似」というのである。まさに相似ているからこそ、《乾・文言》のいう「先天にして天も違わず、後天にして天時を奉ず」も、違背する所がない。「天地に相似り、故に違わず」の一句は総説であり、以下の「過たず」「憂えず」「能く愛す」は皆「違わず」の中の具体的事項である。
天地之道,知仁而已。知周萬物者,知同乎天也。道濟天下者,仁同乎地也。後以知仁分天地,以動靜言之,此以清濁言之。知之所及猶虛,故以屬天。道之所濟則實,故以屬地。不過與下文不同。不過言天下莫能過,即不違也。旁行而不流。《本義》謂旁行者行權之知也,不流者守正之仁也。
天地の道は、一つの「知」と一つの「仁」に過ぎない。「知は万物に周く」は、その智が天と同じであること。「道は天下を済す」は、その仁が地と同じであること。後文が知・仁を天地に分配するのは動静に就いての説であり、ここでの分配は清濁に就いての説である。智の照らす所はなお虚なるものであるから天に属し、道の済す所は既に実なるものであるから地に属する。ここの「過たず」と下文の「過たず」は意味が異なる。ここでは天下に彼を超える者がない、すなわち「違わず」をいう。「旁行して流れず」については、《周易本義》が「旁行」は通権達変の智、「不流」は正道を執守する仁であると説く。
《大全》朱子又云,細分之有知仁,其實皆知之事。對下安土敦乎仁一句。蓋朱子因兩故字而改之也,今從之。知之旁行而流,則不能樂天知命而不憂。故此句詳言之。天以理言,仁義忠信是也。命以氣言,吉凶禍福是也。雖有旁行行權之知,而不流於邪曲之為。蓋所樂者天理之正,無一念之雜。
《周易大全》はまた朱子の言を載せる。細かく分ければ「旁行」「不流」の中にも知あり仁あるが、実はすべて「知」の側の事で、下の「土に安んじ仁に敦し」の句に対するものであると。朱子は経文の二つの「故」の字に基づいてこのように改めて説いたので、今その説に従う。智が一味に旁行して流蕩し守りを失えば、天を楽しみ命を知って憂えなきことができないから、この句を詳しく分説するのである。「天」は理に就いていえば仁義忠信を指し、「命」は気に就いていえば吉凶禍福を指す。通権達変の智がありながら、邪曲な所作に流蕩しないのは、楽しむ所が天理の正であり、一念の雑染もないからである。
又知天命之有定,不以利害禍福殀壽貳其心,所以能不憂也。如是而其知益深,似乎天矣。安土,隨處而安也。所處不安,則何暇及於人。隨處皆安,無不息之不仁。私慾盡淨,天理充滿。愈加敦厚,不忘其濟物之心。所以能愛也。如是則其仁益篤,似乎地矣。此聖人體易以盡性之事,而上下與天地同流者也。
また天命に自ら定数あることを深く知り、利害禍福・短命長寿によって心を二三にしないから、憂えないことができる。こうあれば、その智はいよいよ深遠となって天に近づく。「安土」とは随処に安んずることである。自らの処する所が安穏でなければ、他人に及ぶ余力があろうか。随処に安んずれば、一刻も間断ない不仁がなく、私欲をきれいに掃き尽くし、天理がその中に充満し、さらに一味の敦厚を加えて済物の心を忘れないから、能く愛するのである。こうあれば、その仁はいよいよ篤実となって地に近づく。これが聖人の《易》道を体現して性を尽くす事であり、《孟子》のいう「上下天地と同流す」の境地である。
又按,來注知仁不分。不過不憂能愛皆指天地言。天地至大無外,不過者也。聖人知周萬物道濟天下,故同其不過。天地鼓萬物,不與聖人同憂者也。聖人樂天知命,故同其不憂。天地以生物為心,能愛者也。聖人安土敦仁,同其能愛。此說更渾。
また按ずるに、来知徳の注は知・仁を天地に分属させず、「過たず」「憂えず」「能く愛す」は皆天地を指すとする。天地は至大にして外なく、これが「過たず」である。聖人の知は万物に周く道は天下を済すから、それと同じく過たず。天地は万物を鼓動して聖人と憂えを同じくせず、これが「憂えず」である。聖人は天を楽しみ命を知るから、それと同じく憂えず。天地は物を生ずるを心とし、これが「能く愛す」である。聖人は土に安んじ仁に敦くするから、それと同じく能く愛す。この説はいっそう渾成である。
範圍天地之化而不過,曲成萬物而不遺,通乎晝夜之道而知,故神無方而易無體。此聖人體易而至於命之事。如鑄金之有模範。圍匡郭也。天地之化無窮,聖人範圍之,不使過於中道。以天道言。如一歲分四時,生長收藏。
経文にいう、「天地の化を範囲して過たず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道に通じて知らざるなく、故に神は方なく易は体なし」と。これは聖人が《易》道を体現して命を知るに至った事である。「範」は金器を鋳造する模子のよう、「囲」は外の匡郭である。天地の造化は窮尽することがなく、聖人はそれに範囲を立てて中道を過ぎさせない。天道に就いていえば、例えば一年を四時に分け、万物に次いで生・長・収・蔵させることである。
以人身言,如欲動情勝,為之禮義檢制皆是也。曲成不遺,又隨萬物之分量形質,使大小方圓各有成就也。範圍,即大德之敦化,上文之所謂彌。曲成,即小德之川流,上文之所謂綸也。幽明死生鬼神,即一晝一夜之理通達之也。知有晝即有夜之理,則古今一晝夜也。幽明死生鬼神,無不可知矣。
人身に就いていえば、例えば欲念が一たび動き情感が偏勝すれば、それに礼義を立てて検束節制することも、皆「範囲」に属する。「曲成して遺さず」とは、万物それぞれの分量形質に随い、大なるもの小なるもの・方なるもの円なるものが各々成就を得させることである。「範囲」は《中庸》のいう「大徳敦化」であり、すなわち上文の「彌」である。「曲成」は「小徳川流」であり、すなわち上文の「綸」である。幽明・死生・鬼神は、極めていえば一昼一夜の理に過ぎず、それに通達すれば知らざるなし。昼あれば必ず夜ある理を知れば、古往今来もまた一昼一夜に過ぎず、幽明死生鬼神も知れないものはない。
以此見至神之妙無有方所,易之變化無有形體也。使範圍有過,曲成有遺,通晝不通夜,通夜不通晝,則神有方易有體矣。蓋天地之化,陰陽之氣。萬物,陰陽之形。晝夜,陰陽之理。此三者不外乎陰陽者也。
ここから見えるのは、至神の妙用に定まった方所がなく、《易》の変化に定まった形体がないということである。もし範囲してなお過差があり、曲成してなお遺漏があり、昼に通じて夜に通ぜず、夜に通じて昼に通ぜぬならば、それは神に方所あり・《易》に形体ありということになる。当知るべし、天地の造化は陰陽の気であり、万物は陰陽の形であり、昼夜は陰陽の理であり、この三つは皆陰陽の外に出ない。
神,則陰陽不測。在陰忽而在陽,在陽忽而在陰,本無方所可定。易,則陰中有陽,陽中有陰。亦無體質可定。聖人盡乎易,即合乎神,所以能範圍曲成而通知之也。
「神」に至っては、陰陽の変化が測度しがたい。方に陰に在れば忽然として陽に在り、方に陽に在れば忽然として陰に在り、本来一定の方所を指すことができない。「易」に至っては、陰中に陽を含み陽中に陰を含み、また一定の体質を指すことができない。聖人は《易》を窮め尽くせば、神に合し、故に天地を範囲し・万物を曲成し・昼夜の道を通知することができるのである。
上文言聖人之知不過,此則能使天地之化不過。上言知周乎萬物,此則曲成之而不遺。上言仰觀俯察原始要終而知幽明死生鬼神,此則通乎晝夜之道而知。蓋窮理盡性之極,至於命之事。聖人即易也,即神也,即天地也(文瀾本「即天地也」作「則亦天地」)而已矣。
上文は聖人の智が「過たず」といい、ここでは彼が天地の造化を過たざらしめるという。上文は彼が「知は万物に周く」といい、ここでは彼が万物を曲成して遺す所なしという。上文は彼が仰観俯察・原始要終して幽明死生鬼神を知るといい、ここでは彼が昼夜の道に通じて知らざるなしという。これは窮理尽性の極致であり、すなわち「命に至る」の事である。この境地に至れば、聖人はすなわち《易》であり、すなわち神であり、すなわち天地である(「即天地也」の四字、文瀾本は「則亦天地」と作る)。
按,來注不言窮理盡性至命。但謂易與天地準,聖人亦與天地準。此節承上文。易能彌天地之道,聖人範圍不過亦能彌之。易能綸天地之道。聖人曲成不遺亦能綸之。易所具不過幽明死生鬼神之理,聖人通乎晝夜亦有以知之。其說雖與注小異而意更渾,可參。右第四章。
按ずるに、来知徳の注は窮理・尽性・至命の層次を説かず、ただ《易》が天地と等しく、聖人も天地と等しいというのみ。彼はこの節が上文を承けるものと見なす。《易》は能く天地の道を彌合し、聖人は範囲して過たず、これすなわち能く彌すこと。《易》は能く天地の道を条理し、聖人は曲成して遺さず、これすなわち能く綸すこと。《易》の具備する所は幽明死生鬼神の理に過ぎず、聖人は昼夜の道に通じ、これすなわち以てこれを知る所以有り。この説は旧注とやや異なるが、意味はいっそう渾成で、参看すべきである。以上第四章。
第五章
第五章言道不外乎陰陽。繼之者善以下二節,言其在人者。顯仁藏用二節,言其在造化者。自生生之謂易以下,言其在易書者。而總以陰陽不測結之。一陰一陽之謂道。陰陽迭運者,氣也。所以陰陽之理,則道也。按,來注,理乘氣機以出入。一陰一陽,氣之散殊,即太極之理各足而富有者也。氣之迭運,即太極之理流行而日新者也。故謂之道。此解亦精。《中庸》率性之謂道,就道之在人者言。此則就道之在天者言。
第五章は道が陰陽の外にないことを説く。「これを継ぐは善なり」以下の二節は、道が人身上に落ちる面を説く。「仁に顕れ、用に蔵る」の二節は、道が造化中に落ちる面を説く。「生生これを易と謂う」以下は、道が《易》の書上に落ちる面を説く。最後に総じて「陰陽測らざるこれを神と謂う」で収結する。経文にいう、「一陰一陽これを道と謂う」と。一陰一陽が交替して運行するのは気であり、陰陽をしてかくの如くあらしめる理こそが道である。按ずるに、来知徳の注は、理は気機に乗じて出入する――一陰一陽は気の散布分殊であり、すなわち太極の理が一々の所に各自具足して富有する。気の交替運行は、すなわち太極の理が流行止まず日々更新する。故にこれを道という。この解釈もまた精しい。《中庸》の「性に率うこれを道と謂う」は道が人身上にあるに就いての説であり、ここでは道が天上にあるに就いての説である。
繼之者善也,成之者性也。繼善,就斯道之發育賦予者言之。以其天命之本體,不雜於形氣之私。所謂元者善之長,故曰善也。成性,就人物所稟受而言之。氣以成形而理亦賦物,物各得一太極。無妄之理不相假借,故曰性也。繼善,陽之事。
経文にいう、「これを継ぐは善なり、これを成すは性なり」と。「継善」はこの道が万物を発育し万物に賦与する面に就いての説である。それは天命の本体で、形気の私を夾雑せず、すなわち《乾・文言》のいう「元は善の長なり」であり、故にこれを善という。「成性」は人と物の禀受する面に就いての説である。気が凝結して形体を成し、理も同時にその中に賦与され、物物各々一つの太極を得る。この真実無妄の理が各自完足し、彼此相假借しないから、故にこれを性という。継善は陽の側の事である。
成性,陰之事也。蓋道即所謂太極。繼善則動而生陽,成性則靜而生陰也。此節就天人賦受之界言之也。孟子之言性善,蓋出於此。夫子之言性相近也,蓋自成性之後兼於氣質者言之。孟子之言性善,則自成之先,純乎繼善者而言之也。
成性は陰の側の事である。道はいわゆる太極である。継善は太極の動いて陽を生ずるに相当し、成性は太極の静かにして陰を生ずるに相当する。この節は天と人が相授受する境界上に就いての説である。孟子の「性善」は、ほぼここから出たのであろう。孔子の「性相近きなり」は成性の後・気質を兼帯しての説であり、孟子の性善は成性の先・純に継善の面に就いての説である。
仁者見之謂之仁,知者見之謂之知,百姓日用而不知。故君子之道鮮矣。曰善曰性具於人身,渾然一理不可名狀。唯仁者發見於惻隱,則謂之仁。知者發見於是非,則謂之知。而後所謂善與性方有名狀。百姓同此善性。而氣稟所拘,物慾所蔽,故知之者鮮。
経文にいう、「仁者これを見てこれを仁と謂い、知者これを見てこれを知と謂い、百姓日々用いて知らず、故に君子の道鮮し」と。いう所の善・いう所の性は皆人身上に具わり、渾然として一つの理で、本来指名して描状することができない。ただ仁者が惻隠の心からこれを発露して仁と呼ばれ、智者が是非の心からこれを発露して知と呼ばれる。この後にいわゆる善・いわゆる性に名目形状ができたのである。百姓も同じくこの善性を有するが、ただ気禀に拘われ物欲に蔽われるから、真に知る者は少ない。
上章言聖人之知仁,合而為一者也。此言仁者知者,分而為二者也。自天命之流行於人物者言之。則繼善為陽,成性為陰。此就所成之德言之。則仁屬陽,知屬陰。上章以知屬天,仁屬地。此則仁屬陽,知屬陰者,彼以清濁言,此以動靜言也。
前章は聖人の知と仁が合して一となるを説き、ここでは仁者・智者が分かれて二となるを説く。天命が人物に流行する面に就いていえば、継善は陽に属し成性は陰に属する。人の成就する徳の面に就いていえば、仁は陽に属し知は陰に属する。前章は知を天に配し仁を地に配したが、ここでは仁を陽に配し知を陰に配する。それは前章が清濁に就いての説で、ここは動静に就いての説だからである。
夫子言仁靜知動,而此又以動屬仁,靜屬知者。《論語》就成德之後言,此從其稟性所近言。仁者得陽之發生流動,以為仁而德成。能安於理,則見其靜。知者得陰之凝定不易,以為知而德成。周通於理,則見其動。此又陰中之陽,陽中之陰,不可拘也。仁知各得道之一隅,隨其所見而目為全體。百姓則日用之間習而不察。此君子之道所以鮮也。君子之道,即一陰一陽之道。係之君子者,君子有體道之功也。
孔子は《論語》で「仁者は静なり、知者は動なり」といったが、ここでは動を仁に配し静を知に配する。それは《論語》が徳性既成の後に就いての説で、ここでは各人の禀性の偏り近づく面に就いての説だからである。仁者は陽気の発生流動の意を得て、これに拠って仁徳を成就する。徳既に成って理に安んずることができるから、その静を顕す。智者は陰気の凝定不移の意を得て、これに拠って智徳を成就する。徳既に成って理に周流通達することができるから、その動を顕す。これはまた陰中に陽あり・陽中に陰ありで、拘執すべきではない。仁者・智者は各々道の一角を得たに過ぎないのに、各々の見る所に随ってそれを全体とする。百姓はさらにその間に日々用いて習いながら察しない。これが「君子の道鮮し」の所以である。いわゆる君子の道とは一陰一陽の道であり、それを君子に係属するのは、君子にこの道を体現する功夫があるからである。
繫辞上伝・第五章(続)
顯諸仁,藏諸用。鼓萬物而不與聖人同憂,盛德大業至矣哉。顯,自內而外也。運動之跡,生育之功,顯諸仁也,德之發也。藏,自外而內也。神妙無方,變化無跡,藏諸用也,業之本也。聖人之與天地可同者,顯仁藏用之德業也。不可同者,天地無心,聖人有心也。聖人仁萬物而獨任其憂,天地鼓萬物而不與聖人同其憂。蓋天地無心而成化,聖人有心而無為也。
「仁に顕れ」とは生生の徳を外に顕露すること、「用に蔵れ」とは妙用を内に収斂することである。天地は万物を鼓動して生長させるが、聖人のように万物のために心を労することはない。このような盛大な徳性と広大な事業は、極点に達したというべきである。陳夢雷は「顕」の字を、内より外に向かうと解く。天地運行の痕迹・化育生長の功効が皆人の眼前に並ぶ、これが「仁に顕れ」で、徳性の発用である。「蔵」の字を、外より内に向かうと解く。神妙にして固定の方所なく変化して形迹を見せない面が奥に収まる、これが「用に蔵れ」で、事業の根本である。聖人と天地が相同じうするのは、まさにこの「仁を顕し用を蔵す」の徳と業であり、相同じうしないのは、天地は本来无心で、聖人は有心であることである。聖人は仁愛を以て万物に接するから、独りこの憂慮を担わねばならない。天地は万物を鼓動するが、聖人と憂えを同じくしない。その原因は、天地が无心にして自然に造化を成し、聖人は有心でありながら無為をなし得ることにある。
富有之謂大業,日新之謂盛德。富有者,大而無外,天高地下,萬物散殊是也。日新者,久而無窮,陰陽升降,變化不窮是也。此雖言天地,然聖人亦然。生物無窮,天地之大業;功及萬世,聖人之大業也。運行不息,天地之盛德;終始日新,聖人之盛德也。繼善成性二節,言陰陽之道在天人賦受之界者。顯仁藏用二節,言陰陽之道在天地造化者。
有らざるなきを「大業」といい、日々新たなるを「盛徳」という。陳夢雷はいう、いわゆる「富有」とは大きくして外なきこと。天は上に地は下にあり、万物が各々分布して種類を異にする、これが富有である。いわゆる「日新」とは久遠にして窮尽なきこと。陰気陽気が一升一降して変化止まず、これが日新である。この二句は表面は天地を説くが、実は聖人もまた同じである。万物を生養して窮尽なきは天地の大業、功業が万代に恵及するは聖人の大業。運行して停歇なきは天地の盛徳、終始日々新たなるは聖人の盛徳である。彼はまた《繋辞》のこれらの節に層次を分けた。上文の「これを継ぐは善なり、これを成すは性なり」の二節は、「一陰一陽これを道と謂う」が天の賦与と人の禀受の交際に落ちることを説く。「仁に顕れ、用に蔵れ」の二節は、この道が天地造化上に落ちることを説く。
生生之謂易。陰生陽,陽生陰,其變無窮。易之理如是,故其書亦如是。此以下就陰陽之在易書者言之。成象之謂乾,效法之謂坤。象者,法之未定;法者,象之已形。乾主氣,故曰成象。坤主形,故曰效法。乾本陽而名為乾,以其健而成象也。坤本陰而名為坤,以其順而效法也。此一陽一陰之道在卦者也。
生生已まざるを「易」という。陳夢雷の解釈:陰は能く陽を生じ、陽は能く陰を生じ、この変化に窮尽がない。《易》の道理は本来かくの如くであり、故に《易》の書もまたこのようである。この句より、行文は陰陽の道が《易》の書上に落ちることを説くに転ずる。「象を成す」面を乾といい、「法を効(なら)う」面を坤という。いわゆる「象」とは法則が未だ定形せぬ時であり、いわゆる「法」とは物象が既に成形した後である。乾は気を主るから「象を成す」といい、坤は形を主るから「法を効う」という。乾は本は陽に属しながら乾と名づくのは、剛健にして物象を成就し得るからであり、坤は本は陰に属しながら坤と名づくのは、柔順にして成法を仿効し得るからである。これが「一陰一陽これを道と謂う」が卦画上に落ちた様子である。
極數知來之謂占,通變之謂事。數,蓍數也。天數二十有五,地數三十。極天地之數而吉凶可以前知,此之謂占。通變,即所占之卦變而通之。事,行事,通其變而行之也。極數知來,所以通事之變。曰占,則事之未定者,屬乎陽。曰事,則占之已決者,又屬乎陰也。按,來注云極數者,方卜筮之時,究極其陰陽七八九六之數,觀其所值何卦、所值何爻,以斷天下之疑,故曰占。通變,既卜筮之後,詳通其陰陽老少之變,吉則趨之,凶則避之,以定天下之業,故曰事。此一陰一陽之道在卜筮者也。
蓍数を窮めて未来を予知するを「占」といい、その変化を会通して施行に付すを「事」という。陳夢雷はいう、ここの「数」は蓍草の数を指す。天数は合して二十五、地数は合して三十、天地の数を窮究して吉凶を予め知ることができる、これを占という。「通変」は占い得た卦に変通を加えること。「事」は行事、すなわち変通して得た所を実行に付すことである。蓍数を窮めて未来を知るのは、まさに事情の変化を打通するためである。「占」と称するのは事情が未だ定局せず陽に属し、「事」と称するのは占断既に決定してまた陰に属する。彼は続けて来知徳《周易集注》の説を引く。いわゆる「極数」とは、まさに卜筮の時に当たり、七・八・九・六の陰陽の数を窮究し、どの卦・どの爻に遇うかを見て、天下の疑難を決断するから占という。いわゆる「通変」とは、卜筮完備の後、老陰老陽・少陰少陽の変化を細かく貫通し、吉にはそれに趨り凶にはそれを避けて、天下の事業を奠定するから事という。これが「一陰一陽これを道と謂う」が卜筮上に落ちた様子である。
陰陽不測之謂神。此句總結上文。三百八十四爻陰中陽在,陽中陰在,故不測也。上章言易無體,此言生生生之謂易,唯其生生,所以無體也。上章言神無方,此言不測之謂神,唯其不測,所以無方也。言易,繼以乾坤,乾坤毀則無以見易也。言神,先以占事,占事則神所託而顯者也。
陰陽の変化が測度しがたい、これを「神」という。陳夢雷はこの句が上文を総結するという。全《易》三百八十四爻、陰の裏に陽を含み陽の裏に陰を含むから測度しがたい。前章は「易は体なし」を説き、ここでは「生生これを易と謂う」を説く。まさに生生已まざるが故に固定の形体がないのである。前章は「神は方なし」を説き、ここでは「測らざるこれを神と謂う」を説く。まさに測度しがたいが故に固定の方所がないのである。「易」を説く時に続けて乾坤を説くのは、乾坤一旦毀棄すれば易を見る術がないからである。「神」を説く時に先に占と事を説くのは、占と事こそ神が寄托しこれによって顕現する所だからである。(ここで原文「生生生之謂易」は「生」の字が一つ多い。《繋辞》に依り「生生之謂易」と作るべきである。)
此章大抵以道不外乎陰陽,而陰陽終不可測。以其在人者言之,則繼善、成性、仁者、知者皆陰陽之所為也。就其中而分之,則繼善陽、成性陰、仁陽、知陰。而究之繼成之妙,陰陽之在人者不可測也。以其在天地者言之,則盛德大業皆陰陽之所為也。就其中而分之,則顯仁陽、藏用陰。而要之盛德大業之妙,陰陽之在天地者不可測也。
陳夢雷はこの章の大意を総括する。道は陰陽の外になく、陰陽は最後に至って終に測度しがたい。それが人身上に落ちるに就いていえば、「これを継ぐは善」「これを成すは性」および「仁者これを見て仁と謂う」「知者これを見て知と謂う」は皆陰陽の造成する所である。さらにその裏に細分すれば、「継善」は陽に属し「成性」は陰に属し、「仁」は陽に属し「知」は陰に属する。しかるに「継」と「成」の奥妙を追究すれば、陰陽の人身上に落ちる面は仍お測度しがたい。それが天地上に落ちるに就いていえば、「盛徳」「大業」は皆陰陽の造成する所である。さらにその裏に細分すれば、「顕仁」は陽に属し「蔵用」は陰に属する。しかるに帰根到底、盛徳大業の奥妙は、陰陽の天地上に落ちる面も同様に測度しがたい。
以其在易者之,為乾、為坤、為占、為事,皆陰陽之所為也。就其中而分之,則乾陽、坤陰、占陽、事陰。而究之生生之妙,陰陽之在易者不可測也。不可測者,神也。以其理之當然而言,謂之道;以其道之不測而言,謂之神,非道外有神也。聖人假易書以明道,假卜筮以顯其神,使人體易,即以法乎天地。易也,天地也,聖人也一而已矣。右第五章。
それが《易》の書上に落ちるに就いていえば(原文「以其在易者之」は「言」の一字を脱す。「以其在易者言之」と作るべし)、象を成すを乾と為し、法を効うを坤と為し、数を極めるを占と為し、変を通ずるを事と為すは、皆陰陽の造成する所である。さらにその裏に細分すれば、乾は陽に属し坤は陰に属し、占は陽に属し事は陰に属する。しかるに生生已まざるの奥妙を追究すれば、陰陽の《易》書上に落ちる面も同様に測度しがたい。測度しがたきがすなわち「神」である。この道理の本然としてかくべき面に就いていえば「道」といい、この道の測度しがたい面に就いていえば「神」という。道の外に別に一つの神があるのではない。聖人は《易》の書を借りて道を闡明し、卜筮を借りてこの神を顕出し、人に易理を体会せしめ、これすなわち天地を効法するに等しい。こう見れば、易・天地・聖人は、極めていえばただ一つの事に過ぎない。以上第五章。
繫辞上伝・第六章
第六章贊易之廣大,而原於乾坤之二卦也。夫易,廣矣大矣。以言乎遠則不禦,以言乎邇則靜而正,以言乎天地之間則備矣。上章言易與天地準,贊易之書;此言廣大,贊易之理也。廣,言其中之所含;大,言其外之所包。下三句皆言廣大不禦,言其無遠不到,莫之能止,即所謂天下莫能載也。靜而正,言未動之先,即物而理存,無安排佈置之擾,即所謂天下莫能破也。盈天地之間惟萬物,而易之理無不備,其廣大如此。
第六章は《易》の広大を讃嘆し、この広大を乾・坤の両卦に遡る。経文にいう、《易》は実にまた広くまた大きいかな。遠くに就いていえば、遠きに届かずなく阻まる所なく、近くに就いていえば静かにして正しく、天地の間に就いていえば備わらざるなし、と。陳夢雷はいう、前章の「易は天地に準う」は《易》の書を讃え、ここの広大は《易》の道理を讃える。「広」はその内に含む所をいい、「大」はその外に包む所をいう。以下の三句は皆この広大の阻遏しがたきを説く。いかに遠くとも到達し、何ものもこれを遮ることができない、すなわち《中庸》のいう「大を語れば天下もこれを載る能わず」である。「静にして正し」は未だ発動せざる前、事物それ自体に就いて理既に具在し、人の安排布置を用いないこと、すなわちいわゆる「小を語れば天下もこれを破る能わず」である。天地の間に充満するはただ万物であり、《易》の道理は万物に備わらざるなく、その広大はまさにかくの如しである。
夫乾,其靜也專,其動也直,是以大生焉。夫坤,其靜也翕,其動也闢,是以廣生焉。乾坤各有動靜,靜體而動用,靜別而動交也。直專翕闢,其德性功用如是,以卦畫觀之亦然。乾性健,其畫奇,不變則其靜專一不他,變則其動直遂不撓。以其一而實,故以質言曰大,言無所不包也。坤性順,其畫偶,不變故其靜翕受無遺,變則其動開闢無壅。以其二而虛,故以量言曰廣,言無所不容也。蓋天雖包於地之外,而其氣常行於地之中。易不過寫乾坤之理,乾坤之德性如是,易之所以廣大者以此。
乾は静かなる時は専一にして、動く時は直遂するから「大」はこれより生ずる。坤は静かなる時は収斂し、動く時は開張するから「広」はこれより生ずる。陳夢雷はいう、乾坤は各々皆動あり静あり、静は本体で動は作用であり、静の時は両者分別し、動の時は両者交合する。専・直・翕・闢は、その徳性と功用がかくの如くであることをいい、卦画上から見てもまたまさにこのようである。乾の性情は剛健で、画を一奇と為す。変わらぬ時は静かにして専一で旁騖を生ぜず、変わる時は動いて直遂で屈撓を受けない。奇画は一にして実なるが故に、「質」からいって「大」とし、包まざるなきの意である。坤の性情は柔順で、画を一偶と為す。変わらぬ時は静かにして収納して遺すなく、変わる時は動いて開闢して阻まるなし。偶画は二にして虚なるが故に、「量」からいって「広」とし、容れざるなきの意である。天は地の外に包むが、その気は常に地の中間に運行する。《易》はただ乾坤の理を写し取ったに過ぎず、乾坤の徳性既にかくの如し、《易》の広大なる所以はまたこの故によるのである。
廣大配天地,變通配四時。陰陽之義配日月,易簡之善配至德。配,相似之意。廣大配天地,承上文言之,非配合也。易之廣大得於乾坤,則其廣大亦如天地矣。變通者,陽變而通乎陰,陰變而通乎陽,老陽老陰變化往來,配四時之流行不息也。義者,名義也。卦爻中剛者稱陽,柔者爾陰,故曰義。陰陽對待,配乎日月也。易簡即順健,至德即仁義禮智,天所賦於人之理,而人得之者也。仁禮屬健,義智屬順,是易所言易簡之善,與聖人之至德相似也。天地之間,至大者天地,至變者四時,至精者日月,至善者至德。易之書具此四者,豈不謂之備乎。右第六章。
《易》の広大は天地に配し、変通は四時に配し、陰陽の名義は日月に配し、易簡の善は至徳に配する。陳夢雷はまず「配」の字を訓じ、それは「相似」の意であるという。「広大は天地に配す」は上文を承けての言で、両辺を漬合するのではない。《易》の広大は乾坤から得たものだから、その広大は天地と同じである。いわゆる「変通」とは、陽が変じて陰に通じ、陰が変じて陽に通じ、老陽老陰が変化往来し、まさに四時の流行止まぬに相似ている。いわゆる「義」とは名義を指す。卦爻の中で剛画を陽と称し柔画を陰と称する、これは名義に就いての言である。陰陽が両々対待するのは、まさに日月に相似ている。「易簡」とは坤順乾健、「至徳」とは仁・義・礼・智で、上天が人に賦与し人がまた己に得る道理である。仁と礼は乾健に属し、義と智は坤順に属する。見れば《易》のいう易簡の善は、聖人の至徳に相似ている。天地の間で、最大なるは天地に過ぎず、最も善変なるは四時に過ぎず、最も精明なるは日月に過ぎず、最も完善なるは至徳に過ぎない。《易》の書はこの四つを皆備えている、いずくんぞ「備わる」と言えざらんや。以上第六章。(原文「柔者爾陰」の「爾」は「称」と作るべし。)
繫辞上伝・第七章
第七章贊易道之至,聖人所以崇德廣業而參天地也。子曰:易其至矣乎!夫易,聖人所以崇德而廣業也。知崇禮卑,崇效天,卑法地。德業以聖人為至,而聖人之德所以崇,業所以廣者,易也。德由於知,知識貴其高明,聖人以易窮理,則知之崇如天而德崇矣。業由於禮,踐履貴其著實,聖人以易踐履,則禮之卑如地而業廣矣。所見高於上,所行實於下,則道義從此生生不窮,猶天地設位而易行乎其中矣。
第七章は《易》道の極致を讃嘆し、聖人がそれによって徳性を高め事業を拡大し、天地と並び三と為ることを説明する。子曰く、《易》はそれ至れるかな。《易》は聖人が以て徳を崇め業を広むるものなり。知は崇きを貴び、礼は卑きを貴ぶ。崇きは天を効し、卑きは地を効す、と。陳夢雷は解説する。徳と業は聖人を以て最高とするが、聖人の徳の崇き所以・業の広き所以は、《易》に頼る。徳性は智識より来たり、智識は高明を貴ぶ。聖人は《易》によって事理を窮究すれば、智識は天の如く崇くなり、徳性もまたそれに随って崇くなる。事業は礼の践履より来たり、践履は切実を貴ぶ。聖人は《易》によって躬行実践すれば、礼は地の如く卑実となり、事業もまたそれに随って広大となる。見識は上に高く、行事は下に実在し、道義はここより生々して窮まらず、まさに天地が上下の位を設けて易道がその中を運行するが如しである。
天地設位,而易行乎其中矣。成性存存,道義之門。承上天地言之,言聖人非勉強效法乎天地也。蓋天地設位而易行,所以成性之存而道義出也。易不外陰陽,陰陽升降,所謂易行乎其中也。成性與成之者性稍異,彼乃成就之意,此則已成之性,渾然天成,非有所造作也。性同,唯聖人能存之。存存者,存而又存。知崇禮卑,則成性存存矣。
天地は上下の位を設けて、易道はその中に運行す。既成の性は時々保存せられ、これすなわち道義の門戸である。陳夢雷はいう、これは上文の「天地」を承けて説くもので、聖人は勉強して天地を効法するのではないという意である。天地が位を設けて易道が運行するから、人の「成性」は保存を得て、道義もまたここより出る。《易》は陰陽の外になく、陰陽の一升一降がすなわちいわゆる「易その中に行わる」である。ここの「成性」と上文の「これを成すは性なり」はやや異なる。あれは「成就」の意で、これは既に成就した本性を指し、渾然天成で人為の造作がない。人の本性は人人相同じいが、ただ聖人のみこれを保存し得る。「存存」とは保存しまた保存すること。智識を崇くし礼行を卑実とせば、すなわち「成性存存」を成し得たことになる。
在造化謂之易,易在人謂之道義。性者所得於天,道義世所共由。能知崇禮卑,則成性存而不失,道義從此而出。道義之得於心為德,見於事為業。自然日新月盛,不期崇而自崇,不期廣而自廣矣。聖人作易,固教人存性,以由道義之門。而德之崇,業之廣皆以此。此易之所以至也。右第七章。
陳夢雷は続けて分別する。この道理は天地造化の側では「易」と呼ばれ、人の側に落ちれば「道義」と呼ばれる。本性は天から得たもの、道義は世人が共に遵行するものである。智識を崇くし礼行を卑実とし得れば、既成の本性は保存されて失わず、道義はここより流れ出る。道義を心に得れば「徳」と呼ばれ、事に見えれば「業」と呼ばれ、自然に日々新たに月々盛んとなり、崇きを刻意して求めずして自ら崇く、広きを刻意して求めずして自ら広し。聖人の《易》を作したは、本来人に本性を保存せしめ、この道義の門より出で往かしめんがためである。徳の崇き所以・業の広き所以は、全てこの一点に倚る。これが《易》の「至」と称するに足る所以である。以上第七章。
繫辞上伝・第八章
第八章言卦爻之用。自中孚初爻以下,夫子擬議其辭,示人以學易之變化,以為三百八十四爻之例也。聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容。象其物宜,是故謂之象。賾,繁多也。擬諸形容,如乾為圜、坤為大輿之類。象其物宜,如乾稱龍、坤稱牝馬之類。象,卦爻中之象也。
第八章は卦爻の用法を説く。《中孚》の一爻以下、孔子は逐条に爻辞を擬議し、《易》を学ぶ変化の法を人に示範し、三百八十四爻の通例とした。経文にいう、聖人は天下事物の繁雑なるを見て、その形状容貌を擬比し、その物の宜なる所に象を取る、故にこれを「象」と謂う、と。陳夢雷の注、「賾」は繁多の意。「その形容を擬す」とは、《説卦》が乾を以て円と為し坤を以て大車と為す類。「その物宜に象る」とは、乾が龍と称し坤が母馬と称する類。ここにいう「象」とは、卦爻中の物象を指す。(按下文の挙ぐる所は実に《中孚》九二より起こる、原文は「初爻」と作る。)
聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮。繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。會,以物之所聚言;通,以事之所宜言。觀其會不觀其通,或窒塞而不可行;觀其通而不觀其會,則不知其中之條件曲折。典禮,猶常禮常法,堯舜揖讓、湯武徵誅是也。全卦中自有會通,一爻中又各有一爻之會通。繫辭以明其吉凶,使人皆由於典禮也。
聖人は天下事物の変動を見て、その會合と通達の所を観察し、以て常法常礼を施行し、再び文辞を繫けて吉凶を断ずる、故にこれを「爻」と謂う。陳夢雷はこの二字を分訓する。「會」は事物の聚集する面に就き、「通」は事情の宜なる面に就く。聚合のみを見て通達を見ざれば、窒塞して行き通わざるあり。通達のみを見て聚合を見ざれば、その条理曲折を辨じ難い。「典礼」とは常礼常法で、堯舜の禅譲・湯武の征伐の類がこれに属する。一卦の中に自らその會通あり、一爻の中にまた各々一爻の會通あり。文辞を繫けて吉凶を明かすは、人をして皆常法常礼に遵って行わしめんと欲するである。
言天下之至賾而不可惡也,言天下之至動而不可亂也。繁多者使人易厭,然皆理中所有,則不可惡也。動則紛紛致亂,然其中各自有理,則不可亂矣。擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化。
天下の最も繁雑なる事物を説き尽くして人をして厭わしめず、天下の最も紛紜なる変動を説き尽くして乱るに至らしめず。陳夢雷は解釈する。繁多の物は人をして厭を生ぜしめ易いが、然るにこれらは皆道理中に本有のものだから、厭うべからず。一たび変動すれば紛紛擾擾して乱を致し易いが、然るにその中に各々条理あるから、乱に至らず。経文は続けていう。先ず擬比して後に口を開き、先ず商議して後に行動す、この擬議によって《易》の変化を成就す、と。
聖人之於象,擬之而後成。學易者亦擬其所立之象以出言,則言之淺深詳略,必各當其理。聖人之於爻,必觀其會通,以行典禮。學易者亦必議其所合之爻以制動,則動之行止久速,必各當於時。易之變化無窮,學易者能擬議之如此,而易之變化成於吾身矣。故下文皆言擬議以成變化之事。
陳夢雷はいう、聖人の卦象に対するは、擬比して後に制成したものである。《易》を学ぶ者もまた聖人の立てた象を擬比して発言すれば、言の深浅詳略は必ず各々事理に合する。聖人の爻に対するは、必ず先ずその會通を観察し、然る後に常法常礼を施行する。《易》を学ぶ者もまた必ず自らの遇う所の一爻を商議して行動を決すれば、行動の進退久速は必ず各々時宜に合する。《易》の変化に窮尽なく、《易》を学ぶ者が能くこのように擬議すれば、《易》の変化は自らの身上に成就する。故に下文の挙ぐる所は、全て「擬議以て変化を成す」の実例である。
鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡之。子曰:君子居其室出其言善,則千里之外應之,況其邇者乎?居其室出其言不善,則千里之外違之,況其邇者乎?言出乎身加乎民,行發乎邇見乎遠。言行,君子之樞機。樞機之發,榮辱之主也。言行,君子之所以動天地也,可不慎乎?
《中孚》九二の爻辞にいう、白鶴は山の北面に鳴き、その幼雛は声を應じて唱和す。我に一盃の好酒あり、爾と共にこれを分享せんと欲す、と。孔子は解釈する。君子は自らの屋に居り、出す言が善なれば、千里の外も皆應応す、況んや近き者をや。自らの屋に居り、出す言が不善なれば、千里の外も皆背離す、況んや近き者をや。言は自らの身より出でて百姓に加わり、行は近処より発して遠方に顕れる。言と行は、君子の門軸と弩機である。門軸弩機が一たび動けば、栄と辱はこれより定まる。言と行は、君子の以て天地を感動するもの、慎まざる可けんや。
釋中孚九二爻義。爻言感通之理,夫子專以言行論之,蓋誠信感通莫大於言行也。居室,在陰之象。出言,鶴鳴之象。千里應之,子和之象。出身加民、發邇見遠,好爵爾靡之象。樞動而戶之開有大小,機動而弩之發有中否,猶言行之出有榮辱。應在人而感之在我,故曰榮辱之主也。言行和則致祥,乘則致異,所謂動天地也。學易必擬議至此,乃不為爻象所拘也。
陳夢雷は指摘する。この段は《中孚》九二の爻義を解釈する。爻辞は感應相通の道理を説くが、孔子は専ら言行を取って説く。誠信の感通し得る所以は、言行より緊要なるはないからである。「その室に居る」は爻辞「陰に在る」の象に対応し、「その言を出す」は「鶴鳴」の象に対応し、「千里之外これに應ず」は「その子和す」の象に対応し、「言は身より出で民に加わり、行は邇より発して遠に見ゆ」は「我に好爵あり、吾れ爾とこれを靡かん」の象に対応する。門軸が一たび転ずれば、門の開くに大小あり。弩機が一たび発すれば、箭の射るに中り中らずあり。まさに言行が一たび出でれば栄辱あるが如し。應応は他人に在るが、感召は自らに在る。故に言行は栄辱の主宰という。言行が諧和すれば吉祥を招き、乖違すれば災異を招く。これがいわゆる「天地を動かす」。《易》を学ぶ者は必ずこの地步まで擬議せねば、爻象に死に拘らされざらんことを得ず。(原文「乗則致異」の「乗」は「乖」と作るべし。)
同人先號咷而後笑。子曰:君子之道,或出或處,或默或語。二人同心,其利斷金。同心之言,其臭如蘭。釋同人九五爻義。爻言君子之道始雖岐而終實無間。孔子釋之,言始異而終同者,由於跡異而心同也。斷金,物莫能間。如蘭,其言有味也。
《同人》九五の爻辞にいう、先には号啕大哭し、後には却って歡笑す、と。孔子は解釈する。君子の処世の道、或いは出仕し或いは退居し、或いは沈黙し或いは発言す。二人の心意相同じければ、その鋒利は金属を断つに足る。心意相同じきの言語は、気味芬芳として蘭草の如し、と。陳夢雷はいう、これは《同人》九五の爻義を解釈する。爻辞は君子の道が初め分歧ありながら終に毫も隔閡なきを説く。孔子が解説を加えて、初め相異にして終に相同じきは、行跡は異なれど心は同じきが故と指摘す。「その利は金を断つ」は両人の間に插さるべき物なきをいい、「その臭は蘭の如し」は彼らの言に余味あるをいう。
初六,藉用白茅,無咎。子曰:苟錯諸地而可矣,藉之用茅,何咎之有?慎之至也。夫茅之為物薄,而用可重也。慎斯術也以往,其無所失矣。釋大過初六爻義。置物者不過求其安,錯諸地可以安矣。又承之以茅,則益有所藉,又安有傾覆之咎。茅為物至薄,用之以得無咎,則其用重矣,此慎之至也。天下事過則有失,唯過慎則無咎。
《大過》初六の爻辞にいう、白茅を以て下に襯墊せば、過ちなし、と。孔子は解釈する。本来直に地に擱げば亦可なり、さらに茅草を以て襯墊せば、何の過ちかあらん。これは謹慎の極致である。茅草という物はその体甚だ軽薄ながら、用は甚だ重大なり。この謹慎の法を終始推行せば、閃失なからん、と。陳夢雷はいう、これは《大過》初六の爻義を解釈する。物を放置するは安穏を求むるに過ぎず、地に擱ぐは既に安穏と算す。さらに茅草を以て底下に墊せば、いっそう憑藉ある、何の傾覆の災禍かあらん。茅草は極めて軽薄の物、これを用いて過ちを免れ得れば、その用の重きを見るべし、これ正に謹慎の極致。天下の事は過頭を做せば閃失あるも、唯だ謹慎に於て過頭は却って過ちなし。
勞謙君子有終吉。子曰:勞而不伐,有功而不德,厚之至也,語以其功下人者也。德言盛,禮言恭。謙也者,致恭以存其位者也。釋謙九三爻義。德言盛,禮言恭,言德欲其盛,禮欲其恭也。人之謙與傲,視其德之厚與薄。德厚者無盈色,德薄者無卑詞。如鐘磬焉,愈厚者聲愈緣,薄則反是。故有勞有功而不伐不德,唯至厚者能之。德盛禮恭,本君子修身之事,非有心以保錄位。然天下莫與爭勞爭功,自永保斯位矣。
《謙》九三の爻辞にいう、功労ありて謙退する君子、好結局あり、吉祥なり、と。孔子は解釈する。労績ありて自ら夸らず、功勲ありて自ら徳と為さず、これは敦厚の極致。自らの功労を以て人の下に謙居するをいう。徳はその盛大をいい、礼はその恭敬をいう。いわゆる「謙」とは、恭敬を極処に做し、以て自らの地位を保住する、と。陳夢雷はいう、これは《謙》九三の爻義を解釈する。「徳は盛を言い、礼は恭を言う」とは、徳性にその盛大を要し、礼節にその恭敬を要するをいう。人の或いは謙或いは傲なる所以は、その徳性の厚薄を見る。徳厚の人は自満の神色なく、徳薄の人は謙卑の言辞を出さず。鐘磬の如く、いよいよ厚重なれば声音いよいよ緩長、薄ければ則ち反る。故に労あり功ありて自ら夸らず自ら居らざるは、唯だ極敦厚の人のみ之を為し得る。徳性盛大・礼節恭敬は、本は君子の修身の事で、存心に禄位を保住せんとするに非ず。然るに天下に彼と功を争い労を争う者なく、則ちその地位は自然長保して失わず。(原文「声愈縁」は「声愈緩」と作るべし、「保録位」は「保禄位」と作るべし。)
亢龍有悔。子曰:貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。釋乾上九,已入文言。不出戶庭,無咎。子曰:亂之所生也,則言語以為階。君不密則失臣,臣不密則失身,幾事不密則害成。是以君子慎密而不出也。釋節初九爻義。爻義就出處言,夫子推及言語之節。蓋兌有口舌象也。
《乾》上九の爻辞にいう、龍飛び高き過ぎれば、悔恨あらん、と。孔子は解釈する。位置尊貴にして実職なく、地位崇高にして百姓なく、賢人皆下位に在って輔助を得ず、故に一たび挙動あれば悔恨を招く、と。陳夢雷の注、これは《乾》上九を解釈する、文字既に《文言伝》に収められたり。《節》初九の爻辞にいう、門庭を出でず、過ちなし、と。孔子は解釈する。禍乱の生ずる所以は、言語を以て階梯と為すに在り。国君の言語慎密ならざれば臣子を失い、臣子の言語慎密ならざれば性命を丢い、機密の事慎密ならざれば事を壊す。故に君子は慎密を謹守して軽々しく出口せず、と。陳夢雷の注、これは《節》初九の爻義を解釈する。爻義は本は出処進退に就いての説、孔子は却って言語の節制に推広せり。《節》卦の上体は兌にして、兌に口舌の象あるが故なり。
子曰:作易者,其知盜乎?易曰:負且乘,致寇至。負也者,小人之事也。乘也者,君子之器也。小人而乘君子之器,盜思奪之矣。上慢下暴,盜思伐之矣。慢藏誨盜,冶容誨淫。易曰:負且乘,致寇至,盜之招也。
子曰く、《易》を作す者はほぼ盗賊の心理を善く知れるか。《解》卦六三の爻辞にいう、物を背負いてまた車子に乗れば、強盗を招来す、と。物を背負うは小人の幹る活、車子は君子の用うる器具。小人が君子の器具に乗れば、盗賊は彼を奪取せんと思う。上位に在る者傲慢、下位に在る者暴横なれば、盗賊は彼を討伐せんと思う。財物を收藏するに馬虎なれば、人をして偷らしむるに等し。艶かに打扮すれば、人をして淫らしむるを招くに等し。《易》に「負にして乗り、寇を致す」といえるは、正に自ら盗賊を招来するなり。
釋解六三爻義。按,上慢下暴,大全作慢其上而暴其下,恐未的。竊意小人而乘君子句以德言,上下以位言。小人在上,驕慢不戒。小人在下,暴竊非據。皆盜所伐也。作易者不歸罪於盜而咎招盜之人,所以為知盜也。自中孚二爻至此,皆夫子擬議,示人以變化者。蓋爻義非辭不明,而天下事之變化,非辭可盡。故即諸爻以示三百八十四爻之例,蓋學者當觸類以及其餘也。右第八章。
陳夢雷はいう、これは《解》六三の爻義を解釈し、旧説に異議を提す。「上慢下暴」の一句、《周易大全》は「上に対し傲慢・下に対し暴虐」と講ず、恐らく確かならず。彼自らの見る所は、「小人にして君子の器に乗る」は徳行に就いての説、「上」「下」は地位に就いての説。小人が上位に居れば、驕横傲慢にして戒惧を知らず。小人が下位に居れば、暴横して本来自らの有すべきに非ざる物を竊据す。両情形とも盗賊の討伐せんと欲する対象なり。《易》を作す者は盗賊に罪を帰せず、却ってその盗賊を招引する者を責む、これ正に彼が盗賊の心理を知る所なり。陳夢雷は続けて総結す。《中孚》九二より一路ここに至るまで、皆孔子の擬議にして、以て人に《易》の変化を示範す。爻義は文辞に倚らざれば講明せず、天下事情の変化はまた文辞の説き尽くし得る所に非ず。故にこの数爻に就いて三百八十四爻の通例を示範し、《易》を学ぶ者はこれより其余の各爻に類推すべし。以上第八章。
繫辞上伝・第九章
第九章論天地大衍之數,揲筮求卦之法。天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。此言天地之數陽奇陰偶,即所謂河圖也。人知河圖之數,不知天地之數,故孔子分屬之。其位一六居下為水,二七居上為火,三八居左為木,四九居右為金,五十居中為土。
第九章は天地之数・大衍之数および揲蓍求卦の方法を討論す。経文にいう、天数は一・地数は二、天数は三・地数は四、天数は五・地数は六、天数は七・地数は八、天数は九・地数は十、と。陳夢雷は解説する。これは天地之数が陽を奇と為し陰を偶と為すを講ず、すなわちいわゆる《河図》なり。世人はただ《河図》上の数を知るのみ、これがすなわち天地之数なるを知らず、故に孔子はこれを一々天と地に分属せり。これらの数の《河図》上の方位は、一と六は下方に居り水に属し、二と七は上方に居り火に属し、三と八は左方に居り木に属し、四と九は右方に居り金に属し、五と十は中央に居り土に属す。
五行本五而有十,五行中又各有陰陽。如木有甲乙,火有丙丁,土有戊已,金有庚辛,水有壬癸故十也。數十而卦八者。十,五行之數。卦但取陰陽之象也。即一二三四得卦畫老少陰陽之象,即六七八九得揲筮老少陰陽之象。即中五為衍母,次十為衍子,而得揲筮求卦之原。至於因圖而畫卦,與先後天配合河圖之位,於河洛圖說詳之。此節所舉天地自然之數,以見大衍用五十之由耳。
五行は本来ただ五様なれど、十個の数を配出するは、五行の中にまた各々陰陽を分かつが故なり。木は甲乙に分かち、火は丙丁に分かち、土は戊己に分かち、金は庚辛に分かち、水は壬癸に分かつ、故に十と為る。数は十個ありて卦はただ八個なるは、十は五行の数、卦はただ陰陽の象を取るが故なり。一・二・三・四に就いて卦画上の老陰老陽・少陰少陽の象を得べく、六・七・八・九に就いて揲蓍の成す老少陰陽の象を得べし。さらに中央の五を以て「衍母」と為し、其次の十を以て「衍子」と為せば、便ち揲蓍求卦の本原を得。依《河図》に画卦し、および先天後天の方位が如何に《河図》の位と相配するかに至っては、陳夢雷は別に本書《河洛図説》中に詳論すという。この節の挙ぐる所はただ天地自然の数に過ぎず、用意は「大衍之数」が何故に五十を取るかを交代するに在り。(原文「土有戊已」の「已」は「己」と作るべし。)
天數五,地數五。五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十。凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。天數五者,一三五七九皆奇也。地數五者,二四六八十皆偶也。相得,本義謂一與二、三與四、五與六、七與八、九與十,各以奇偶為類而自相得。有合,謂一與六、二與七、三與八、四與九、五與十皆兩相合。
経文にいう、天数は五個あり、地数は五個あり、五個の方位は彼此相得してまた各々配合あり。天数は合して二十五、地数は合して三十、天地之数は總じて五十五、これすなわち変化を成し鬼神を行ずるの憑藉なり、と。陳夢雷は先ず旧説に照りて疏通す。天数五個は、一・三・五・七・九の皆奇数を指す。地数五個は、二・四・六・八・十の皆偶数を指す。いわゆる「相得」は、朱熹《周易本義》の講ずる一と二・三と四・五と六・七と八・九と十が、各々奇偶に類を按じて自ら相対することをいう。いわゆる「有合」は、一と六・二と七・三と八・四と九・五と十の両両相合するをいう。
今就五位二字思之,此句頗有疑。竊意五位者,五行之位也。五行之位,北水、南火、東木、西金而中土。一與六皆水而居北。二與七皆火而居南。木金土亦然。水得水之位,火得火之位。所謂五位相得也。若一與二、三與四彼此相對,非五位之相得者矣。
陳夢雷は随して自らの懐疑を提出す。単に「五位」の二字を細想すれば、《本義》の講法は甚だ疑わしきなり。彼は「五位」が五行の方位を指すと認む――北方水・南方火・東方木・西方金・中央土。一と六は皆水に属して北に居り、二と七は皆火に属して南に居り、木・金・土の三者もまたこれに類推す。水は水の方位を占め、火は火の方位を占む、これぞ「五位相得」と称す。若し《本義》の如く一と二・三と四を彼此相対に講ぜば、則ち「五位」の相得に非ざるなり。
所謂有合者,固以一六、二七為合。而各字所包者廣。竊意皆與五數又有合也。蓋一二三四五者,生數也。六七八九十者,成數也。然行止五,大衍之數亦取五。一與五合而得六。二與五合而七。以至八、九、十皆然。又十干之中,甲與己合、乙與庚合、丙與辛合、丁與壬合、戊與癸合皆隔五位,所謂各有合也。二十有五,五奇之積,然亦五其五也。三十,五偶之積,然亦六其五也。河圖畫卦意義所取非一,此節敘大衍之數。所以獨取五十之原,故獨於此詳之耳。
「有合」に至っては、固より一と六・二と七の如き搭配を以て講ずべきなれど、経文は一つの「各」の字を用う、包む所の範囲はいっそう広し。陳夢雷はこれらの数がまた皆「五」と相合すると認む。一・二・三・四・五は「生数」、六・七・八・九・十は「成数」。而るに五行はただ五様、大衍之数もまた五を取る。一加五して六を得、二加五して七を得、以て八・九・十も皆然り。再び十天干を見れば、甲と己は合し、乙と庚は合し、丙と辛は合し、丁と壬は合し、戊と癸は合す、皆相隔たること五位、これすなわち「各有合」なり。天数二十五は五個の奇数の和にして、同時に五個の五なり。地数三十は五個の偶数の和にして、同時に六個の五なり。《河図》と画卦の間に義を取る路数は一条に止まらず、この節は既に「大衍之数」を叙せんとするに、何故に単に五十を取るかを交代せんと欲すれば、故に特にここに於て詳しく講ず。(原文「然行止五」は、五行ただ五あるのみを謂い、「止」は「只」に通ず。)
變化本義謂。一變生水而六化成之,二化生火而七成之,三變生木而八化成之,四化生金而九變成之,五變生土而十化成之。此處亦覺未合。蓋五行之生成在變化之前。此所謂變化,疑在五行生成之後。又以變字化字分屬,亦未得其解。
経文「変化を成す」の「変化」の二字に至っては、《周易本義》はこのように講ず。一は「変」にして水を生じ、六は「化」にしてこれを成す。二は「化」にして火を生じ、七は「変」にしてこれを成す。三は「変」にして木を生じ、八は「化」にしてこれを成す。四は「化」にして金を生じ、九は「変」にしてこれを成す。五は「変」にして土を生じ、十は「化」にしてこれを成す。陳夢雷はこの講法もまた合わざるを覚ゆという。五行の生成は本来変化の前に在り、ここにいう「変化」は、恐らく五行生成の後に当在るべし。況んや「変」の字「化」の字を異なる数に分派するは、彼もその根拠の在処を弄明白ならず。
竊意水體陽而用陰而質最清,故天以一生水,地以六成之。火體陰而用陽而質次清,故地以二生火,天以七成之。木為少陽而質漸濁,故天以三生木,地以八成之。金為太陰而質更濁,故地以四生金而天以九成之。土中宮而質最濁,故天以五生土而地以十成之。五行各位其方,而四方即為四象。蓋自有天地而即有之,此五行之生成在未有變化之先也。
陳夢雷はここに自らの一套の解釈を提出す。水の本体は陽に属して作用は陰に属し、質地は最も清し、故に天は一を以て水を生じ、地は六を以て水を成す。火の本体は陰に属して作用は陽に属し、質地は次いで清し、故に地は二を以て火を生じ、天は七を以て火を成す。木は少陽に属して質地は漸く濁り、故に天は三を以て木を生じ、地は八を以て木を成す。金は太陰に属して質地はいっそう濁り、故に地は四を以て金を生じ、天は九を以て金を成す。土は中宮に居りて質地は最も濁り、故に天は五を以て土を生じ、地は十を以て土を成す。五行は各々一方を占め、四方はすなわち四象なり。この一套は天地有るより已に具備せり、見るべし五行の生成は未だ「変化」あらざる前の事なるを。
及五行既具。二氣運行,錯綜不一。所謂四象變化而庶類繁。聖人畫卦則由此而定先後天之位、而揲筮以求陰陽之數不外此。自一至十之數千變萬化皆從此出,故此所謂變化宜在五行生成之後。不必復以五行之生成分配變化也。鬼神,本義謂凡奇偶生成之屈伸往來者。蓋鬼神流行之妙,要不外於陰陽而已。此節未詳言本河圖以畫卦之原,不過言天地之數之原,以起下文大衍用五十之意也。
五行既に斉備せりに及び、陰陽二気運行し起こり、交錯綜合して変化一ならず、これすなわち周敦頤《太極図説》のいう「四象変化して庶類繁なり」なり。聖人の画卦は便ちこれより先天後天の方位を定下し、揲蓍以て陰陽の数を求むるもこの範囲を出でず。一より十に至るこれらの数の千変万化は皆これより出で、故に陳夢雷は断定す。ここにいう「変化」は当に五行生成の後に置くべし、必ずしも再び五行の生成を以て「変」「化」の二字を分配するを要せず。「鬼神を行ず」の鬼神に至っては、《本義》は一切の奇偶生成の数の屈伸往来を指すという。鬼神流行の奥妙は、帰根到底陰陽を出でざるが故なり。彼は最後に点明す。この節は《河図》に依拠して画卦する本原を細講せず、ただ天地之数の来歴を講じ、以て下文「大衍之数五十」の意を引出すを用とす。
大衍之數五十,其用四十有九。分而為二以象兩。掛一以象三。揲之以四以象四時,歸奇於扐以象閏。五歲再閏,故再扐而後掛。河圖五十有五者,天地自然之數也。大衍之數五十,聖人又即河圖中宮天乘地十而得之者也。河圖洛書,皆五居中而為數。故在天為五星,在地為五行,在人為五常。五者,數之祖也。數始於一,備於五。小衍之成十,大衍之而成五十。五十,數之成也。成則不動,故虛天一不用而取四十有九。此皆理數之自然,非人力所能損益也。
経文にいう、大衍之数は五十、実際に動用するは四十九。蓍草を両份に分かち以て天地両儀を象徴し、その中より一根を掛出し以て三才を象徴し、四根四根に点数し以て四時を象徴し、数余る零頭を指間に挟み以て閏月を象徴す。五年の中に両個の閏月あり、故に両度挟零したる後に再び掛一す、と。陳夢雷は解説す。《河図》の数五十五は、あれは天地自然の数なり。大衍之数五十は、聖人が《河図》中宮の天五に地十を乗じて得たるなり(原文「天乗地十」は「五」の一字を脱す)。《河図》《洛書》は皆五を以て中に居りて数を成す。故に天に在っては五星と為り、地に在っては五行と為り、人に在っては五常と為る――五は一切の数の祖宗なり。数は一より頭を起こし、五に至りて完備す。小に推衍を加えて十と為り、大に推衍を加えて五十と為る。五十は数の完成、完成すれば則ち再び動かず、故に天一を代表する那一根を虚き去りて用いず、ただ四十九を取る。これら皆理と数の自然にして、人力の増減し得る所に非ず。
兩,兩儀。天地也。掛,縣其一於左手小指之間也。三,三才也。揲,數之也。奇,所扐四數之餘也。扐,勒於左手中三指之兩間也。閏,積月之餘日而成月者也。象閏者,以其所歸之餘策而象日之餘也。
陳夢雷は揲蓍の術語を逐字訓釈す。「両」は両儀を指し、すなわち天と地なり。「掛」は一根の蓍草を左手小指の指縫の間に懸挂することをいう。「三」は三才を指す。「揲」は四根四根に点数することをいう。「奇」は四々点数したる後の余る零頭をいう。「扐」はこの零頭を左手の中間三指の指縫に挟勒することをいう。「閏」は每月の多出する日を積累して凑成する一個月をいう。いわゆる「象閏」とは、帰攏せる余策を取り、暦日の中に多出するそれらの日を象徴するをいう。
五歲再閏者,一年十二月氣盈六日,朔虛六日,共餘十二日。三年則餘三十六日。分三十日為一月,又以六日為後閏之積。其第四、第五年又各餘十二日。以此二十四日湊前六日。又成一閏。此是五歲再閏也。掛一當一歲。揲左當二歲。扐左則三歲一閏矣。又揲右當四歲。扐右則五歲再閏矣。再扐而後掛者。再扐之後復以所餘之蓍合而為一。為第二變再分再掛再揲也。獨言掛者。分二揲四皆在其中矣。此則象再閏也。
いわゆる「五歳再閏」は、一年十二個月、節気は六日を盈余し朔望は六日を虧欠し、合計して十二日を多出す。三年にして三十六日を多出し、その中の三十日を取りて一個の閏月を凑成し、余る六日は留めて下一次の閏月の積累と為す。第四年・第五年はまた各々十二日を多出し、この二十四日を以て先前の留めたる六日に凑え、また一個の閏月を成す。これすなわち五年の裏に両個の閏月を安排するなり。揲蓍に対応せば、掛一は第一年に相当し、左手の蓍草を点数するは第二年に相当し、左手の零頭を挟むはすなわち三年一閏なり。再び右手の蓍草を点数するは第四年に相当し、右手の零頭を挟むはすなわち五年再閏なり。いわゆる「再扐して後掛ぐ」は、両度挟零したる後、再び余る蓍草を合して一把と為し、第二変を進行し、重新に分二・掛一・揲四す。経文はただ「掛」を提げるは、分二・揲四既にその中に含まるるが故なり。この一句の象徴する所は、正に五年の中の第二個の閏月なり。
乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四。凡三百有六十,當期之日。凡此策數在生於四象。蓋河圖四面。太陽居一而連九。少陰居二而連八。少陽居三而連七。太陰居四而連六。揲筮之法則通計三變之餘,去其初掛之一。凡四為奇,凡八為偶。奇圓圍三,偶方為四。三用其全則三奇為九。四用其半則三偶為六。
経文にいう、乾卦の策数は二百一十六、坤卦の策数は一百四十四、合わせて三百六十、正に一年の日数に相当す、と。陳夢雷は解説す。これらの策数は皆四象より出づ。《河図》は四面に分かれ、太陽は一に居りて九に連なり、少陰は二に居りて八に連なり、少陽は三に居りて七に連なり、太陰は四に居りて六に連なる。揲蓍の弁法は、三変の挟む零頭を合わせて計算し、最初に掛出したる那一根を減ず。凡そ四根を余すを「奇」と算し、凡そ八根を余すを「偶」と算す。奇は円に属し、円の周長は三を以て計る。偶は方に属し、方の辺長は四を以て計る。三はその全数を取り、故に三個の奇は合して九と為る。四はその一半を取り、故に三個の偶は合して六と為る。
如三揲掛扐通十三策去初掛之一為十二,是三奇為九矣。而其揲亦九策,亦四九三十六,是為居一之黴老陽。三揲掛扐通十七策去初掛之一為十六,是二奇一偶則為八矣。而其揲亦八策,亦四八三十二,是為居二之少陰。三揲掛扐二十一策去初掛之一為二十,是二偶一奇則為七矣。而其揲亦七策,亦四七二十八,是為居三之少陽。三揲掛扐二十五策去初掛之一為二十四,是三偶為六矣。而其揲亦六策,亦四六二十四,是為居四之老陰。
例を挙げていわく、三次揲蓍の掛ぐ所挟む所は合計十三根、最初に掛げたる一根を減じて十二を得、あれは三個の奇、得数は九。この一爻の実際に揲する蓍草もまた九個の四、四九三十六策、すなわち《河図》の一の位に居る老陽なり。三次の掛ぐ所挟む所は合計十七根、初掛の一根を減じて十六を得、あれは両奇一偶、得数は八。揲する所もまた八個の四、四八三十二策、すなわち二の位に居る少陰なり。三次の掛ぐ所挟む所は二十一根、初掛の一根を減じて二十を得、あれは両偶一奇、得数は七。揲する所もまた七個の四、四七二十八策、すなわち三の位に居る少陽なり。三次の掛ぐ所挟む所は二十五根、初掛の一根を減じて二十四を得、あれは三個の偶、得数は六。揲する所もまた六個の四、四六二十四策、すなわち四の位に居る老陰なり。(「居一之霉老陽」の「霉」は底本の訛文なり。)
此言乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四者。專以乾坤之六爻老陰老陽言之。蓋少陰退而未極乎虛,少陽進而未極乎盈,故獨以老陰老陽為言也。然得乾者未必皆老陽,得坤者亦未必皆老陰。但以乾坤有老陰老陽之象,六子有少陰少陽之象,故以老陰老陽計乾坤六爻之策數而其餘可推也。至於三百六十則陰陽之合,其數必齊。
陳夢雷は指摘す、ここに乾の策数二百一十六・坤の策数一百四十四をいうは、専ら乾坤両卦の六爻が全て老陽・全て老陰なるを取りて計算するを以てなり。少陰は退いて未だ極処に虚せず、少陽は進んで未だ極処に盈たざるが故に、単に老陰老陽を挙げて説く。ただし実際の占筮の時、乾卦を得るは必ずしも六爻皆老陽ならず、坤卦を得るも必ずしも六爻皆老陰ならず。ただ乾坤に老陰老陽の象あり、震・坎・艮・巽・離・兌の六個の子卦に少陰少陽の象あるが故に、老陰老陽を取りて乾坤六爻の策数を算し、其余の各卦は便ち以て類推すべし。三百六十の總数に至っては、陰陽の合わさりて成る結果にして、数目は必然相斉う。
若乾坤之爻皆得於少陰少陽。則乾之策六其二十八而為百六十八,坤之策六其三十二而為百九十二,其合亦為三百六十也。期,周一歲也。一歲凡三百六十五日四分日之一,此特舉成數言之耳。當者,適相當。非以彼準此也。
仮に乾坤両卦の爻の得る所が皆少陽・少陰ならば、乾の策数は六個の二十八にして合わせて一百六十八。坤の策数は六個の三十二にして合わせて一百九十二。両者相加えて同じく三百六十。「期」は一個の整年を指す。一年は実際三百六十五および四分の一日、ここではただ整数を挙げて説くのみ。いわゆる「当」は、恰好相当するの意にして、一年の日数を取りて策数に比准するに非ず。
二篇之策,萬有一千五百二十。當萬物之數也。二篇,上下經也。老陽爻百九十二得六千九百一十二策。老陰爻百九十二得四千六百八策。合之得萬有一千五百二十,以當萬物之數。非謂物止此數,亦極言其多耳。若兩篇皆少陰少陽之數,合之亦為萬一千五百二十也。
経文にいう、上下両篇の策数は總じて一万一千五百二十、正に万物の数に相当す、と。陳夢雷は解説す。「二篇」は《周易》の上経と下経を指す。六十四卦は共に三百八十四爻、陽爻一百九十二は若し皆老陽を按じて算せば、每爻三十六策にして六千九百一十二策を得。陰爻一百九十二は若し皆老陰を按じて算せば、每爻二十四策にして四千六百八策を得。両項相加えて正に一万一千五百二十、以て万物の数に相当す。これは万物がただこれのみあるを説くに非ず、不過ぎ極めてその多きを言うのみ。若し両篇皆少陰少阳の策数を按じて計算せば、合わせて同じく一万一千五百二十なり。
是故四營而成易,十有八變而成卦。四營,分二掛一揲四歸奇也。易謂一變也。三變成爻,十有八變成六爻也。八卦而小成。謂九變成三畫,得內卦也。引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。此又就六爻大成之後視其變與否。則一卦可變為六十四卦以定吉凶,凡四千九十六卦也。能事,即下文顯道神德行、酬酢、佑神也。
経文にいう、四道の手続は一「易」を完成し、十八次の変化は一卦を完成す、と。陳夢雷の注、「四営」はすなわち分二・掛一・揲四・帰奇のこの四道の手続、「易」はここでは一変を指す。三変は一爻を成し、十八変は便ち六爻を成す。経文はまたいう、八卦にして小成す、これは九変が三画を画成して内卦を得るを指す。経文はさらにいう、これを引申して開き、類を按じて推広せば、天下の能く為し得る事は全く斉備す、と。陳夢雷はいう、この一句は六爻大成の後に就き、それが変ずるか変ぜざるかを見て講ず。一卦は以て六十四卦に変じて吉凶を判定すべく、六十四卦は各々六十四に変じ、總じて四千九十六卦。いわゆる「能事」とは、下文のいう顕道・神徳行・酬酢・佑神のこの数件なり。
顯道神德行,是故可與酬酢,可與祐神矣。道隱,而無形者也。因辭而顯其吉凶,以示乎人。德行,人之所為者也。因數而決其行止,則皆神之所為矣。隱者顯之以示人,顯者神之以合天。則明可以酬酢事物之宜,而幽可以輔助鬼神之功矣。受命如嚮。如賔主之應對,故曰酬酢。神不能言吉凶以示人。蓍卦有辭代鬼神言之,是佑助鬼神所不及也。此又極言因筮求卦之妙也。
経文にいう、《易》は能く道を顕出し、人の徳行を神妙ならしむ、故に以て人と應答酬対すべく、以て神明を輔助すべし、と。陳夢雷は解説す。道は隠微にして形迹なく、卦爻辞に倚りて吉凶を顕出して人に見せしむ。徳行は人自ら做出するもの、蓍数に倚りて行うべき止むべきを決定せば、則ち皆神の作為と為る。隠微のものを顕出して人に見せしめ、顕露のものを神化して天に合せしむ。ここに於て明処に在りては事物の宜なる所に應対すべく、幽処に在りては鬼神の功用を輔助すべし。卦を求むる時一問すれば即ち回應あり、主客の間の一唱一答するが如し、故に「酬酢」と呼ぶ。神自体は口を開きて人に吉凶を告ぐる能わず、蓍卦は辞ありて鬼神に代わりて言を為すを得。これすなわち鬼神を幇けてその為し得ざる事を為すなり。この一句はまた極力に依筮求卦の奇妙を形容す。
子曰。知變化之道者,其知神之所為乎。此復加子曰,以別上文也。變化,即上文大衍之數與揲筮求卦之法也。陽變為陰陰變為陽,皆非人之所能為。故曰神。道者,本然之妙。神者,所以然之故也。全章論天地之數,次論蓍之策之數,末論卦畫之數,而終贊因筮求卦之妙也。右第九章。
子曰く、変化の道を知る者は、ほぼ神の作為を知れるか。陳夢雷の注、ここに重新に「子曰」を加えるは、上文と区別するを為すなり。いわゆる「変化」とは、上文の講ずる大衍之数と揲蓍求卦の法なり。陽は変じて陰と為り、陰は変じて陽と為る、皆人力の為し得る所に非ず、故にこれを「神」と称す。「道」は本来かくの如くなる奥妙、「神」はかくの如くなる所以の縁由なり。彼は最後に全章を総結す。先ず天地之数を論じ、其次に蓍策の数を論じ、末了に卦画の数を論じ、依筮求卦の妙を讃嘆するを以て結と為す。以上第九章。
繫辞上伝・第十章
第十章承上章而言易中之用有四者,皆神之所為也。易有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。以,用之也。尚,取也。指其所之者,易之辭也。以言者為尚之,則言無不不當矣。化而裁之者,易之變也。以動者尚之,則動無不時矣。象其物宜者,易之象也。制器者尚之,則可以盡創物之智矣。極數知來者,易之占也。卜筮者尚之,則可以窮先知之神矣。
第十章は上一章を承け、《易》の用処に四項ありてこの四項は皆「神」の作為なるを講ず。経文にいう、《易》の裏に聖人の道を含むこと四種あり――これを以て言を為す者はその辞を重んじ、これを以て行動する者はその変を重んじ、これを以て器物を制造する者はその象を重んじ、これを以て卜筮する者はその占を重んず、と。陳夢雷は「以」を用と訓じ「尚」を取と訓じ、逐項に疏解す。事情の去向を指示するは《易》の辞、言を為す人はこれを取法し、出だす言は不当ならざるなし。変化して裁制を加うるは《易》の変、行動する人はこれを取法し、行動は時に合せざるなし。物の宜なる所に象を取るは《易》の象、器を制する人はこれを取法し、便ち器物を創制する智慧を窮尽し得。蓍数を窮尽して未来を予知するは《易》の占、卜筮する人はこれを取法し、便ち未来を予知する神妙を窮尽し得。(原文「則言無不不当矣」は「不」の字が一つ多し。)
辭與占為類,觀其辭乃可知其占。故下文至精,合辭與占言之。變與象為類。變者,事之方始。象者,事之已成。故下文至變,合變與象言之。四者唯變難知。變雖在辭象占之外,實不出乎辭象占之間也。
陳夢雷はさらにこの四者の配対を理出する。辞と占は一类であり、辞を見てこそ占の結果を知り得るから、下文が「至精」を講ずる時は辞と占を合わせて講ずるのである。変と象は一类であり、「変」は事情の始め始めたる時、「象」は事情の既に成形した時だから、下文が「至変」を講ずる時は変と象を合わせて講ずるのである。四者の中で唯だ「変」のみ最も掌握し難い。変は辞・象・占の外にあるようでありながら、実際は辞・象・占の範囲を出でるものではない。
是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如嚮,無有遠近幽深,遂知來物。非天下之至精,其孰能與於此。此節言尚辭尚占之事。問焉而以言。按,本義謂以言與以言者尚其辭之以言同。謂以之發言處事也。今按,經文上已有有為有行,此又補以言,語氣未順。又按,大全朱子又云言是命龜。受命是龜受命。此說較順,今從之。至精,窮理於精微也。
経文にいう、故に君子は将に為す所あらんとし将に行わんとする時、《易》に問いを発して言辞を以て教を求む。《易》は問命を承けて、回應すること回響の如く速く、遠近幽深を問わず、皆これより未来の事を知り得。若し天下の最も精微なるものに非ざれば、誰かこの地步を為し得んや、と。陳夢雷はいう、この節は辞と占を取法するを講ず。「問焉にして言を以てす」の一句について、《周易本義》はこの「以言」が前の「以て言する者はその辞を尚ぶ」の「以言」と同じで、《易》を以て発言処事するを指すとす。彼はこれを妥当ならずと覚ゆ。経文は上に既に「有為」「有行」を説き、ここに再び一つの「以言」を補えば語気順ならず、と。彼はまた《周易大全》を査し、朱子に別の一説あるを見る。「言」は蓍亀に命辞を下すこと、「受命」は蓍亀がこの命辞を接受すること――この講法は比較的順なるが故に、後説に改め従う。「至精」とは、道理を精微の処に窮究するをいう。
參伍以變,錯綜其數。通其變,遂成天地之文。極其數,遂定天下之象。非天下之至變,其孰能與於此。按,本義謂尚象之事。變,謂事之未定者也。要之此節總承上尚變尚象言之。參伍以變,交互參考之意。然按筮法。每爻三揲為三變。而每揲之中象兩、象三、象四時、象閏、象再閏。雖曰四營,實五小變。所謂參伍以變也。
経文にいう、三番五次に変化を推求し、その数目を交錯綜合す。その変化を貫通せば、天地の間の文采を成就す。その数目を窮尽せば、天下の物象を定下す。若し天下の最も善変なるものに非ざれば、誰かこの地步を為し得んや、と。陳夢雷はいう、《周易本義》はこの節を専ら「尚象」の事を講ずると見做すが、彼はこの節が総じて上文の「尚変」「尚象」の両項を承けて講ずると認む。「参伍以て変ず」は交互に参考するの意。筮法を按ずれば、每一爻は三揲して三変を成し、每一揲の中にまた象両儀・象三才・象四時・象閏・象再閏の数層あり。「四営」と説くも実際は五個の小変、これすなわちいわゆる「参伍以て変ず」なり。
錯,謂分而配之。三奇為老陽,三偶為老陰,兩奇一偶為少陰,兩偶一奇為少陽是也。綜,謂合而總之。總記左右手之正策得四六、四七、四八、四九之數是也。此二語止論一爻之法也。通其變,謂通六爻十有八變而成初二三四五上剛柔相雜之文也。極其數,謂極六爻七八九六而得內外兩卦天地雷風水火山澤之象也。此二句論成卦之法也。三變而成爻,十有八變而成卦。易之有象,天下之至變者無以加之矣。
「錯」は分かちて配搭するをいう。三個の奇画を配して老陽と為し、三個の偶画を配して老陰と為し、両奇一偶を配して少陰と為し、両偶一奇を配して少陽と為す。「綜」は合わせて總計するをいう。三変の後の左右両手に余る正策を統算し、四六二十四・四七二十八・四八三十二・四九三十六のこの数個の数を得、すなわち六・七・八・九のこの四個の爻数の由来なり。この両句はただ一爻を求むる弁法を講ず。「その変を通ず」は、六爻十八変を貫通して、初・二・三・四・五・上の各位の剛柔交雑する文采を成就するをいう。「その数を極む」は、六爻の七・八・九・六の数を窮尽して、内外両卦の天・地・雷・風・水・火・山・沢の物象を得るをいう――この両句こそ卦を成す弁法を講ず。三変は一爻を成し、十八変は一卦を成す。《易》の象ある所以は、天下の最も善変なるものもこれを超過する能わざるなり。
易無思也,無為也。寂然不動,感而遂通天下之故。非天下之至神,其孰能與於此。此四者,易之體所以立而用之,所以行者也。易,指蓍卦。無思無為,蓍策本無心者也。寂然者其體,感通者其用。此專就蓍卦而言。然而人心動靜之妙亦如此,唯聖人能之耳。
経文にいう、《易》は思慮なく作為なく、寂静にして動かず、一たび感應すれば便ち天下の事故に通達す。若し天下の最も神妙なるものに非ざれば、誰かこの地步を為し得んや、と。陳夢雷はいう、無思・無為・寂然・感通のこの四様は、正に《易》の本体の確立する所以・作用の運行する所以の故なり。ここの「易」は蓍と卦を指す。無思無為とは、蓍草の本来无心なるをいう。寂然はその体、感通はその用なり。この節は専ら蓍卦に就いての言、然るに人心の動静の奥妙もまた正にこの如く、ただ唯だ聖人のみ之を為し得るなり。
夫易,聖人之所以極深而研幾也。極深承至精,研幾承至變。如幽明之故、死生之說,易中之至精者本深也,聖人即此以極其深。如吉凶悔吝之萌,人不自覺,易中之至變者其幾也,聖人即此以研其幾。極深,大學之所謂知止。研幾,大學之所謂能慮。上文至精至變至神,易之體也。下文惟深惟幾惟神,易之用也。此句承上起下。
経文にいう、《易》は聖人の以て幽深を窮究し幾微を研求するなり、と。陳夢雷は指摘す。「極深」は上文の「至精」を承け、「研幾」は上文の「至変」を承く。幽明の縁由・死生の道理の如きは、《易》の中の最も精微なる部分にして、本来幽深なり、聖人はこれに就きて窮究し尽す。吉凶悔吝の剛に萌動して人自ら未だ察覚せざるの如きは、《易》の中の最も善変なる部分にして、すなわちいわゆる「幾」、聖人はこれに就きて細かに研求を加う。「極深」は《大学》のいう「止まるを知る」に相当し、「研幾」は《大学》のいう「能く慮る」に相当す。上文の至精・至変・至神は《易》の体を説き、下文の惟深・惟幾・惟神は《易》の用を説く。この一句は正に上を承け下を啓く。
唯深也,故能通天下之志。唯幾也,故能成天下之務。唯神也,故不疾而速,不行而至。唯易之能極深也,故以辭為占。則可以前知,而開通天下人之心志。唯易之能研幾也,故以變得象。則可以制作,而完成天下人之事務。然辭占變象所以能如此者,皆妙不可測之神為之。唯其妙不可測,故不待疾之而自速,不待行之而自至。謂自然而然,非人所能為也。天下之理,唯疾故速,唯行故至。未有不疾而速,不行而至者。蓋不如是,不足以為神也。神莫神於心。此所謂神,亦就易書言之。
経文にいう、唯だその幽深なるが故に能く天下人の心志に通達し、唯だその幾微なるが故に能く天下人の事務を成就し、唯だその神妙なるが故に急促せずして自然迅速、行走せずして自然到達す、と。陳夢雷は解説す。正に《易》が能く幽深を窮究するが故に、卦爻辞を憑りて占問せば便ち以て預知し、従って天下人の心志を打通し得。正に《易》が能く幾微を研求するが故に、変化を憑りて物象を取得せば便ち以て器用を制作し、従って天下人の事務を弁成し得。然るに辞・占・変・象の能くかくの如くなる所以は、全くあの妙測し難き「神」が作用を起こすに倚る。正にその妙測し難きが故に、催促を必とせずして自然迅速、行走を必とせずして自然到達す。これは自然にして然り、人力の為し得る所に非ず。常理を按ずれば、天下の事は総じて急促してこそ快く行走してこそ到る、未だ嘗て急促せずして快く行走せずして到るはあらず。このようでなければ、則ち「神」と称するに足らず。彼は最後に一句を補す。神は人心より神なるはなし、ここにいう神は仍お《易》の書に就いて講ず。
子曰。易有聖人之道四焉者,此之謂也。觀變玩占,可見其精。觀象玩辭,可知其變。然非有寂然感通之神,何以為精何以為變哉。變化之道皆神所為。易有聖人之道四焉,無非變化之道而已矣。右第十章。
子曰く、いわゆる《易》の裏に聖人の道を含むこと四種とは、これらを講ずるなり、と。陳夢雷は收束していう。変化を観察し占断を玩味せば、《易》の精微を見るべし。物象を観察し文辞を玩味せば、《易》の変化を知るべし。然るに若しあの寂然不動・感じて遂に通ずるの神なくんば、また何を以て精微と為し何を以て変化と為さんや。変化の道は全て神の造成する所、《易》の裏のこの四種の聖人の道は、説き極めて无非る変化の道なり。以上第十章。
繫辞上伝・第十一章
第十一章專言卜筮之事。子曰。夫易,何為者也。夫易開物成務,冒天下之道,如斯而已者也。是故聖人以通天下之志,以定天下之業,以斷天下之疑。
第十一章は専ら卜筮の事を講ず。子曰く、《易》の書は何を為すを用とするや。《易》は能く万物を開発し事務を成就し、天下の道理を統統罩住す、如此而已、と。故に聖人はこれを憑りて天下人の心志を通達し、天下の事業を奠定し、天下の疑難を決断す。
開物,謂人所未知者開發之。成務,謂人所欲為者成全之。冒天下之道,謂卦爻既設而天下之道皆包括於其中也。易之道本如此。而聖人以之教人卜筮,以知吉凶。易能開物,則於人所未知者開發之,而通天下之志矣。能成務,則於人所欲為者成全之,而定天下之業矣。能冒天下之道,則於萬事萬物之得失莫遁其情,有以斷天下之疑矣。卜筮之妙如此。
陳夢雷は逐句に疏解す。「開物」は人の未だ知らざる事を開発し出すをいい、「成務」は人の為さんと欲する事を成全するをいい、「天下の道を冒す」は卦爻が一たび設立せられれば天下の道理は全都その裏頭に包羅せらるをいう。《易》道は本来かくの如く、而るに聖人はこれを取りて人に卜筮を教え、人をして吉凶を知らしめんとす。《易》は能く物を開き、則ち人の未だ知らざる所を開発し出し、ここに於て天下人の心志を通達す。能く務を成し、則ち人の欲する所為を成全し、ここに於て天下の事業を奠定す。能く天下の道を罩住し、則ち万事万物の得失をして遁形する術なからしめ、ここに於て天下の疑難を決断す。卜筮の奇妙は正にここに在り。
是故蓍之德圓而神,卦之德方以知,六爻之義易以貢。聖人以此洗心,退藏於密,吉凶與民同患。神以知來,知以藏往,其孰能與於此哉。古之聰明睿知,神武而不殺者夫。
経文にいう、故に蓍草の徳性は円通にして神妙、卦の徳性は方正にして明智、六爻の意義は則ち変易を以て人に告知す。聖人はこれらを憑りて自らの心を洗滌し、退隠して幽密の中に收藏し、吉に遇い凶に遇うも皆百姓とその憂患を同じくす。神妙を以て未来を預知し、明智を以て往事を收藏す――また誰かこの地步を為し得んや。ほぼあの古時の聡明叡智・威武神奇にして殺伐を動かさざる者か。
圓神,謂變化無方。方知,謂事有定理。易以貢,謂變易以告人。蓋蓍以七為數,七七四十九而屬陽。分掛揲扐,陰陽老少變化無方,圓而神也。卦以八為數,八八六十四而屬陰。吉凶得失一定不易,方以知也。貢,猶告也。三百八十四爻剛柔迭用,九六相推。其理變易以告人,易以貢也。
陳夢雷は解説す。「円にして神」とは変化に固定の方所なきをいい、「方にして知」とは事情に各々一定の理あるをいい、「易にして貢」とは変易を以て人に告知するをいう。蓍草は七を以て数と為し、七七四十九にして陽に属す。分二・掛一・揲四・帰扐の際、陰陽老少の変化定まらず、故にそれを円通にして神妙と説く。卦は八を以て数と為し、八八六十四にして陰に属す。吉凶得失は一たび定下せられれば則ち改易せず、故にそれを方正にして明智と説く。「貢」はすなわち告知なり。三百八十四爻の剛柔は轮流に施用し、九と六は互相に推移す。その道理は変易に倚りて人に告知す、これすなわち「易にして貢」なり。
此以上皆承上節言易之妙也。聖人以下就畫前之易,易理在聖人之心者言之。洗心者,心純乎理,別無所累。非有私而洗之也。退藏於密者,寂然未動,人莫能窺。非有意藏之也。吉凶民同患者,既得吉矣又患其凶。凶固民之所患,吉亦民之所患。聖人之心與民同之也。
陳夢雷はいう、以上は皆上一節を承けて《易》の奇妙を講ず。「聖人これを以て心を洗う」以下は、則ち「画卦以前の易」に転じ、易理が聖人の心中に存する那一面に就いて講ず。いわゆる「洗心」とは、心裏に純に天理ありて別に牽累なきをいい、本は私念ありて後にこれを洗滌するに非ず。いわゆる「退蔵于密」とは、寂然未動にして旁人の窺見する術なきをいい、存心にこれを蔵せんとするに非ず。いわゆる「吉凶民と患を同じくす」とは、既に吉を得たりと雖もまた随って来たる凶を憂慮するをいう――凶は固より百姓の憂患する所なれど、吉もまた同様に百姓の憂患する所、聖人の心は百姓と共に憂患す。
神以知來,承上圓而神。知以藏往,承上方以知。蓍未有定數,故曰知來。卦已有定體,故能藏往。聖心之神知亦然也。言聖人之心體具三者之德。故當無事之時,心之體虛靈寂靜,人莫能窺,所謂洗心退藏於密也。及其有事之時,心之用隨感輒應,終始畢照,所謂吉凶同患、知來藏往也。此節即上章所謂寂然不動感而遂通者,而此特就易之在聖心者言之也。
「神を以て来を知る」は上文の「円にして神」を承け、「知を以て往を蔵る」は上文の「方にして知」を承く。蓍草は未だ定数あらざれば、故に它能く未来を知るという。卦は既に定体あれば、故に往事を收藏し得という。聖人の心中の「神」と「知」もまた正にこの如し。これは聖人の心体が蓍・卦・爻の三者の徳を兼具するを説く。故に無事の時は、心の本体は虚霊寂静にして旁人の窺見する術なし、これすなわち「洗心」「退蔵于密」。有事の時に至りては、心の作用は感に随い應じ、頭より尾に至りて照見せざるなし、これすなわち「吉凶患を同じくす」「来を知り往を蔵る」。この節は実はすなわち上一章のいう「寂然不動、感じて遂に通ず」にして、不過ぎここは専ら易理の聖人之心に存する面に就いて講ずるのみ。
神武不殺。按,本義謂得其理而不假其物之謂,謂無卜筮而知吉凶也。據此則神武不殺作取譬之詞,以文義求之有疑。按,王注言服萬物不以威則刑也。竊按,王注近是。蓋此二句設為問答讚歎之辭,以起下文與神物前民用之意。蓋指伏羲氏也。神足以開物,知足以成務,聰明睿知也。吉凶之斷,神武之決也。與民同患,不殺之仁也。故下文遂言聖人建立卜筮之事。蓋惟聖人體備全易之理,乃有易之書也。
「神武にして殺さず」について、朱熹《周易本義》はその道理を得て蓍亀の物を借助するを必とせざると解し、すなわち卜筮を用いずして吉凶を知るをいう。陳夢雷は指摘す、この講法に照らせば「神武不殺」は一句の取譬の詞と成り、文義より推求して実に疑わしし。彼は王弼の注を査す、万物をして順服せしめて威勢と刑罰を動用せざるを説く、王弼の講法は比較的本意に近しと認む。彼自らの意は、これら両句は問答讃嘆の語気を設けて、以て下文の「神物を興して以て民用に前だる」を引出すを用とし、指す所はほぼ伏羲氏なり。神妙は以て万物を開発するに足り、明智は以て事務を成就するに足る、これすなわち「聡明叡知」なり。吉凶を断定するは「神武」の決断、百姓とその憂患を同じくするは「不殺」の仁心なり。故に下文は続けて即ち聖人の卜筮を建立する事を講ず――唯だ聖人の心中に全部の易理を完整に具備せりてこそ、《易》の書あるを得たり。
是以明於天之道,而察於民之故,是興神物,以前民用。聖人以此齋戒,以神明其德夫。天之道,陰陽寒暑之運行皆是也。民之故,倫常日用之云為皆是也。明天之道,則知神物之可興。察民之故,則知民用之不可無以開其先。神物,即蓍龜也。湛然純一之謂齋,肅然警惕之謂戒。
経文にいう、故に聖人は上天の道を明白にし、また百姓の事を体察し、ここに於て蓍亀の類の神物を興起し、以て百姓の用に先だちて彼らに為に路を開く。聖人はこれらを憑りて斎戒して自ら守り、自らの徳性を神妙明澈ならしむ、と。陳夢雷は解説す。「天之道」とは、陰陽寒暑の運行の皆是なり。「民之故」とは、倫常日用の一切の挙動の皆是なり。天道を明白にすれば、則ち神物の興起すべきを知る。民事を体察すれば、則ち百姓の日用は物に先だちて彼らに為に頭を開くなくんばあらざるを知る。「神物」とはすなわち蓍と亀なり。心地の澄澈純一なるを「斎」と呼び、神情の肅然警惕たるを「戒」と呼ぶ。
聖人明於天人之故,而作為卜筮以教人。而於此齋戒,以考其占。使其心神明不測,如鬼神之知來,故曰神明其德。上言聖人以此洗心者,此心至靜而易體具也。此言以此齋戒者,此心至敬而易之用行也。
聖人は天と人の道理を明白にし、ここに於て卜筮を制作して世人を教導し、また卜筮の時に斎戒して自ら守り、これに拠りて得たる所の占断を考験し、自らの心を神妙測度し難からしめ、鬼神の如く能く未来を預知せしむ、故に「その徳を神明す」という。陳夢雷は特に前後両処の分別を拈出す。上文は「聖人これを以て心を洗う」といい、あれは此心の至って虚静にして《易》の体既に具備せり。ここは「聖人これを以て斎戒す」といい、あれは此心の至って誠敬にして《易》の用の運行を得たり。
是故闔戶謂之坤,闢戶謂之乾,一闔一闢謂之變,往來不窮謂之通。見乃謂之象,形乃謂之器,制而用之謂之法,利用出入,民咸用之謂之神。此節言揲卦布爻之事。闔戶謂之坤,言畫偶爻也。凡偶皆屬陰為坤。闢戶謂之乾,言畫奇爻也。凡奇皆屬陽為乾。先言坤者,由靜而動。猶言陰陽也。
経文にいう、故に門を關するを坤と呼び、門を開くを乾と呼び、一關一開を変と呼び、往来窮まらざるを通と呼ぶ。顕現するを象と呼び、形体を成すを器と呼び、制作し出して使用を加うるを法と呼び、出入の間に皆用い得、百姓が日々用うるを、則ち神と呼ぶ、と。陳夢雷はいう、この節は揲蓍して卦を成し爻画を排布する事を講ず。「戸を闔するを坤と謂う」は、一個の偶爻を画くを指し、凡そ偶画は皆陰に属し坤に属す。「戸を闢するを乾と謂う」は、一個の奇爻を画くを指し、凡そ奇画は皆陽に属し乾に属す。先ず坤を説き後に乾を説くは、静より動に由る、平常に「陰陽」と連称するが如し。
一闔一闢謂之變者,六畫既成,剛柔相雜,言成卦也。往來不窮謂之通者,九六之動,爻相往來,謂之通也。見於蓍策,有陰陽老少,謂之象也。形於卦爻,有剛柔動靜,謂之器也。制揲蓍以教人,使知分掛揲扐,謂之法也。一出一入,審其吉凶以為趨避,謂之神也。
「一闔一闢これを変と謂う」とは、六画既に画成して剛柔が互相に交雑するを説き、成卦を指す。「往来窮まらずこれを通と謂う」とは、九と六の変動が爻をして互相に往来せしむるを説き、これを通と呼ぶ。蓍策上に顕現して、陰陽老少の別あり、これを「象」と呼ぶ。卦爻上に成形して、剛柔動静の分あり、これを「器」と呼ぶ。揲蓍の法を制定して人を教え、人に分二・掛一・揲四・帰扐を如何にするかを知らしむ、これを「法」と呼ぶ。一出一入の間に、吉凶を審察して是れ趨るか是れ避くるかを決定す、これすなわち「神」と呼ぶ。
按,此節本義謂乾坤變通者,化育之功也。見象形器者,生物之序也。法者,聖人修道之所為。而神者,百姓自然之日用也。此似泛論天下之事理,大全平庵項氏專就卜筮解之。今從項氏為切。
陳夢雷は続けて両家の旧説を比較す。この節は《周易本義》が乾・坤・変・通を天地化育の功効と講じ、見・象・形・器を万物を生成する次序と講じ、「法」を聖人の道術を修明する作為と講じ、「神」を百姓が日用して自ら知らざる自然と講ず――このように講ぜば、泛論天下の事理と成るが如し。《周易大全》の載する所の平庵項安世は則ち専ら卜筮に就きて解す。彼自らは項安世の講法を取り、これがいっそう貼切なると認む。
是故易有太極,是生兩儀。兩儀生四象,四象生八卦。此聖人作易自然之次第。畫卦揲蓍,其序皆然。自此以下皆言聖人制作之本。八卦定吉凶,吉凶生大業。吉凶既定,以之建功立事,則大業自此生矣。此二節言爻象之所由生。
経文にいう、故に《易》に太極あり、太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず、と。陳夢雷の注、これは聖人の《易》を作す自然而然の次第にして、画卦に論なく揲蓍に論なく、次序は皆この如し。ここより以下は、皆聖人が《易》を制作する根本を講ず。経文は続けていう、八卦は吉凶を断定し、吉凶は大業を生ず、と。吉凶既に断定せられ、これに拠りて功を建て事を立てれば、大業は便ちここより生ず。この両節は爻と象の何より生ずるかを講ず。
是故法象莫大乎天地,變通莫大乎四時。縣象著明莫大乎日月,崇高莫大乎富貴。備物致用,立成器以為天下利,莫大乎聖人。探賾索隱,鉤深致遠,以定天下之吉凶,成天下之亹亹者,莫大乎蓍龜。寶貴,謂有天下。亹亹,猶勉勉也。疑則怠,決則勉。此六者之功用皆大。聖人即五者之大,以形蓍龜功用之大。易占用蓍不用龜。然龜亦具此理,故每並言之。此節言成器之所由立。
経文にいう、効法すべき物象は天地より大なるはなく、変化通達は四時より大なるはなく、天上に高懸して光明顕著なるは日月より大なるはなく、尊崇高貴は富貴より大なるはなし。器物を備弁してその功用を尽くし、器具を制成して以て天下を利するは、聖人より大なるはなし。繁雑を探索し隠微を搜求し、幽深を鉤取し遠方を招致し、以て天下の吉凶を断定し天下人の勤勉不倦を促成するは、蓍亀より大なるはなし、と。陳夢雷の注、「富貴」は天下を拥有するを指す。「亹亹」はすなわち勉勉なり、心に疑慮存すれば懈怠し、一たび決断せられれば奮勉するが故なり。この六項の功用は皆大なり、聖人は前五項の大を取りて蓍亀の功用の大を襯托す。《周易》の占問はただ蓍を用いて亀を用いず、然るに亀もまた同様の道理を具備す、故に每々連ねて説く。この節は器物の何より制成するかを講ず。(注文「宝貴」は「富貴」と作るべし。)
是故天生神物,聖人則之。天地變化,聖人效之。天垂象,見吉凶,聖人象之。河出圖,洛出書,聖人則之。此節言易書之所由作。神物謂蓍。則之而四十九之數以行。變化謂陰陽。天變化,寒暑晝夜之類。地變化,山川動植之類。效之而卦爻之動靜以出。象謂日月星辰。循度失度而吉凶見,象之而卦爻有以斷吉凶。圖書則金木水火土生成剋制之數。則之而卦畫方位以定。皆作易之本也。河圖洛書,別詳於圖說。
経文にいう、故に上天は神物を生じ出し、聖人はこれを取法す。天地は変化を発生し、聖人はこれを仿効す。上天は物象を垂示して吉凶を顕出し、聖人はこれに象を取る。黄河は図を出だし、洛水は書を出だし、聖人はこれらを取法す、と。陳夢雷はいう、この節は《易》の書の何より作れるかを講ず。「神物」は蓍草を指し、これを取法せば四十九根の用数は施行を得。「変化」は陰陽を指し、天の変化は寒暑昼夜の類の如く、地の変化は山川動植の類の如し、これを仿効せば卦爻の動静はこれより産生す。「象」は日月星辰を指し、それらは度に循い或いは度を失いて吉凶顕現し、これに象を取れば卦爻は便ち吉凶を断定し得。《河図》《洛書》は則ち金・木・水・火・土の相生相成・相克相制の数にして、これらを取法せば卦画の方位は確定を得。これら皆《易》を作す根本なり。《河図》《洛書》自体に至っては、彼は別に本書の図説部分に詳論すという。
易有四象,所以示也。繫辭焉,所以告也。定之以吉凶,所以斷也。四象,謂陰陽老少。示,示以所值之卦爻。示,使人有所見。告,使人有所知。斷,使人無所疑。此又總卜筮之大意而言之也。右第十一章。
経文にいう、《易》に四象あり、以て顕示するを用とす。文辞を繫ぐるあり、以て告知するを用とす。吉凶を以て判定を加うるあり、以て決断するを用とす、と。陳夢雷の注、「四象」は老陽・少陰・少陽・老陰を指す。いわゆる「示」とは、占者の遇う所の卦爻を彼に顕示して見せしむるをいう。示は人をして見る所有らしめ、告は人をして知る所有らしめ、断は人をして疑う所なからしむ。これはまた卜筮の大意を総括して講ずるなり。以上第十一章。
繫辞上伝・第十二章
第十二章言聖人作易之意。其散在六十四卦之爻象,其聚在乾坤之二卦。聖人用易之道。其散在天下之事業,其聚在一身之德行也。易曰。自天祐之,吉無不利。子曰。祐者,助也。天之所助者,順也。人之所助者,信也。履信思乎順,又以尚賢也。是以自天祐之,吉無不利也。
第十二章は聖人の《易》を作す用意を講ず。この用意は散開すれば六十四卦の爻と象の裏に在り、收攏すれば則ち乾・坤の両卦に聚まる。聖人の《易》の道を用うるは、散開すれば天下の事業上に在り、收攏すれば則ち一身の徳行に聚まる。経文は《易》を引いていう、上天より来たりて彼を保佑す、吉祥にして利あらざるなし、と。孔子は解釈す。「祐」はすなわち幇助なり。上天の幇助する所は柔順の人、衆人の幇助する所は誠信の人なり。誠信を躬行して念念に柔順に在り、また能く賢者を推崇す、故に「天より祐られ、吉利あらざるなし」という。
釋大有上九爻義。大有惟六五一陰,而上下五陽應之。上九以剛居上而能下從六五,是能履信思順而尚賢也。五之交孚信也,而上能履之。五得位而上從之,謙退不居,思順也。志從於五,尚賢也。此節疑在第八章之末,錯簡在此耳。
陳夢雷はいう、これは《大有》上九の爻義を解釈す。《大有》の全卦はただ六五の一個の陰爻あり、上下の五個の陽爻は皆来たりてこれに響應す。上九は陽剛を以て最上に居り、能く俯就して六五に就く、これすなわち「信を履み順を思う」にしてまた「賢を尚ぶ」。六五の爻辞は「その孚交如なり」を講ず、あれは信なり、而上九は能くこの信を躬行す。六五は尊位に居りて上九はこれに順従し、謙退して自ら居らず、これは「順を思う」なり。心志は六五に追随す、これは「賢を尚ぶ」なり。彼はまた一処の校勘上の懐疑を提出す。この節は疑わしくは本は第八章の末尾に在り、簡冊の錯乱にしてここに落ちたるなり。
子曰。書不盡言,言不盡意。然則聖人之意,其不可見乎。子曰。聖人立象以盡意,設卦以盡情偽,繫辭焉以盡其言,變而通之以盡利,鼓之舞之以盡神。
子曰く、文字は言語を写し尽くせず、言語は心意を説き尽くせず。然らば則ち聖人の心意は、豈に見ることを得ざらんや。孔子はまたいう、聖人は卦象を確立して以て心意を窮尽し、卦体を布設して以て真情と虚偽を窮尽し、文辞を繫げて以て説かんと欲する所を窮尽し、これを変通して以て利益を窮尽し、これを鼓動振作して以て神妙を窮尽す、と。
言之所傳有盡,象之所示無窮。立象盡意,指伏羲所畫之卦爻,包含變化無有窮盡。雖無言而吉凶同患之意悉具於中,所謂盡意也。設卦,謂文王所設六十四卦之名義也。本乎性而善者為情,拂乎性而不善者為偽。六十四卦之中,美惡真妄無所不具,所謂以盡情偽也。繫辭則文王周公彖爻之辭,吉凶悔吝之言盡矣。此三句皆言作易之事。答書不盡言、言不盡意之語。
陳夢雷は解説す。言語の伝達し得るは限りあり、卦象の顕示し得るは窮りなし。「象を立てて以て意を尽くす」は、伏羲の画いた卦爻を指し、包含する変化に窮尽なく、一個の字もなき虽も、「吉凶民と患を同じくす」の用意は已に全くその裏頭に在り、これを「尽意」と呼ぶ。「卦を設く」は、文王の定めた六十四卦の卦名と卦義を指す。本性に合して善を為すを「情」と呼び、本性に違して不善を為すを「偽」と呼ぶ。六十四卦の中、美の悪の・真の妄のは備わらざるなく、これを「情偽を尽くす」と呼ぶ。「辞を繫ぐ」は、文王の卦辞と周公の爻辞を指し、吉凶悔吝の言は皆説き尽くせり。この三句の講ずる所は皆《易》を作すの事にして、正に「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」のあの句に回答するなり。
而設卦在立象之後繫辭之前,蓋竟盡意之緒,啟盡言之端也。盡意盡情偽盡言,皆所以為天下利也。又恐其利有所未盡,於是作揲蓍十有八變之法。使往來相通,一卦可為六十四。則其用愈廣,足以盡利矣。因變得占吉凶。知所趨避,心無所疑。如以鼓聲作舞容。鼓聲愈疾,舞容亦愈疾。鼓聲不息,舞容亦不息。成天下之亹亹而不自知其所以然,所謂盡神也。此二者言用易之事。立象設卦,即上章所謂象也。繫辭,辭也。變通,變也。鼓舞,占也。
「卦を設く」は「象を立つ」の後・「辞を繫ぐ」の前に排せらるるは、それが既に「意を尽くす」の頭緒を接続し、また「言を尽くす」の端緒を開啓するが故なり。意を尽くし・情偽を尽くし・言を尽くすは、皆天下に利益を帯来せんが為なり。又この利益の未だ尽きざる処あるを怕れ、ここに於て揲蓍十八変の方法を制作し、卦爻をして往来相通せしめ、一卦は以て六十四卦に変じ得、用処いよいよ広大にして以て「利を尽くす」に足る。人は変化に依りて占断を得、是れ趨るべき是れ避くべきを知り、心裏に再び疑惑なし。鼓点を以て舞姿を帯動するが如く、鼓点いよいよ急なれば舞姿もまたいよいよ急に、鼓点停まらざれば舞姿もまた停まらず、天下人を成就して勤勉不倦ならしめて自ら未だ如何なる事なるかを明白ならざる、これを「神を尽くす」と呼ぶ。後面のこの両句は《易》を用うるの事を講ず。陳夢雷は最後にそれらを上一章の四道と相配す。立象・設卦はすなわち上章のいう「象」、繫辞はすなわち「辞」、変通はすなわち「変」、鼓舞はすなわち「占」なり。
乾坤其易之縕耶。乾坤成列,而易立乎其中矣。乾坤毀,則無以見易。易不可見,則乾坤或幾乎息矣。縕,即包畜也。易之所有,不外陰陽。凡陽奇皆乾,陰偶皆坤。畫卦定位,則二者成列而易之體立矣。成列舉乾坤,而諸卦皆在其中。乾坤毀無以見易,謂卦爻不列則易道無由而著也。易不可見則乾坤息,謂易道不顯則卦畫之變化不能自行也。易未嘗無乾坤,亦未嘗息。特以畫卦不立,無以見其變易之理。而乾坤之功用,併不可得而見也。
経文にいう、乾坤はほぼ《易》の蘊蔵なるか。乾坤は行列を排成し、《易》は則ちその中に立つ。乾坤は一たび毀棄せられれば、則ち《易》を見るに以てするなし。《易》若し見るべからざれば、則ち乾坤もまたほぼ息まんと欲す、と。陳夢雷の注、「緼」はすなわち包蔵蓄積なり。《易》の裏の所有するは陰陽の外になし。凡そ陽奇は皆乾に帰し、凡そ陰偶は皆坤に帰す。画卦して位を定め、両者は列を成して《易》の体は便ち確立す。「列を成す」と説いてただ乾坤を挙ぐるも、各卦は皆その中に含まる。「乾坤毀れば則ち以て易を見るなし」とは、卦爻を排列し出さざれば易道は彰顯するに由なきをいう。「易見るべからざれば則ち乾坤息む」とは、易道彰顯せざれば、卦画の変化は自ら運転する能わざるをいう。其実《易》は未だ嘗て乾坤なきことあらず、乾坤もまた未だ嘗て停息せず、ただ画卦一たび立たざれば、則ちあの変易の道理を見るに由なく、而して乾坤の功用もまた一并に見ることを得ざるなり。
是故形而上者謂之道,形而下者謂之器。化而裁之謂之變,推而行之謂之通,舉而錯之天下之民,謂之事業。卦爻陰陽皆形於下者,其理則道也。道超乎形而非離乎形,故不曰有形無形,而曰形上形下也。所變所通所措者皆道,然皆宜就揲蓍言之。本義謂變通二字上章以天言,此章以人言。蓋上章言闔闢往來,蓍策中所本有之理。此言化裁推行,則聖人筮卦用易之事也。
経文にいう、故に形体の上に在るを「道」と呼び、形体の下に在るを「器」と呼ぶ。変化して裁制を加うるを「変」と呼び、推行して開くを「通」と呼び、これを取りて天下の百姓に施用するを「事業」と呼ぶ、と。陳夢雷の注、卦爻の陰陽は皆下に成形するもの、それらの理こそが道なり。道は形体を超越しながらまた形体を離れず、故に経文は「有形」「無形」と説かずして、「形上」「形下」と説く。変ずる所・通ずる所・施用する所は皆道なり、不過ぎ皆当に揲蓍に就きて講ずべし。《周易本義》は「変通」の二字を指出す、上一章は天に就きて講じ、この一章は人に就きて講ず。上章のいう「一闔一闢・往来窮まらず」は、蓍策の中に本有の道理なり。ここにいう「化裁推行」は、則ち聖人が筮卦して《易》を用うるの事なり。
易道無窮。聖人化而裁之為六畫為上下為內外,故謂之變。推而行,推其變而行之也。如乾初變宜潛則潛為通,乾二變宜見則見為通,故謂之通也。事者,業之未成。業者,事之已就。定天下之吉凶以成天下之亹亹,則天下從此立矣。
易道に窮尽なく、聖人はこれを変化裁制して六画と為し、上下に分かち内外に分かつ、故にこれを「変」と呼ぶ。「推してこれを行う」とは、得たる所の変を推展開きて実行するをいう。譬えば《乾》卦の初爻変ずれば、潜蔵すべきは則ち潜蔵し、潜蔵すれば便ち通なり。九二の爻変ずれば、出現すべきは則ち出現し、出現すれば便ち通なり、故にこれを「通」と呼ぶ。「事」は事業の未だ做成せざる時、「業」は事情の已に做成せる時なり。天下の吉凶を断定し、従って天下人の勤勉不倦を成就せば、天下の事業は便ちここより建立せらる。
是故夫象,聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容。象其物宜,是故謂之象。聖人有以見天下之動,而觀其會通。以行其典禮。繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。重出以起下文。極天下之賾者存乎卦,鼓天下之動者,存乎辭。按,本義。卦即象也,辭即爻也。此解頗有可疑。竊意天地萬物之形象至多。六十四卦之中陰陽奇偶無所不備,是能極天下之賾也。辭則有彖辭有爻辭,皆示人以吉凶悔吝。使人曉然知所趨避,是能鼓天下之動也。
経文にいう、故に象を講ずるに至っては、聖人は天下事物の繁雑なるを見て、その形状容貌を擬比し、その物の宜なる所に象を取る、故にこれを「象」と謂う。聖人は天下事物の変動を見て、その會通を観察し、以て常法常礼を施行し、再び文辞を繫げて以て吉凶を断定す、故にこれを「爻」と謂う、と。陳夢雷の注、この両句は第八章の言を重複して、以て下文を引起す。経文は続けていう、天下の繁雑を窮尽するは卦に在り、天下の変動を鼓動するは辞に在り、と。これに対し《周易本義》は卦はすなわち象・辞はすなわち爻と説く、陳夢雷はこの講法を甚だ疑わしきと覚ゆ。彼自らの見る所は、天地万物の形象は極めて多く、而るに六十四卦の中に陰陽奇偶は備わらざるなし、故に能く天下の繁雑を窮尽し得。「辞」は則ち彖辞と爻辞を包括し、皆吉凶悔吝を人に指示し、人をして明明白白に是れ趨るべき是れ避くべきを知らしむ、故に能く天下の変動を鼓動し得。
化而裁之存乎變,推而行之存乎通。神而明之存乎其人,默而成之,不言而信,存乎德行。上文變通就揲筮而言,此就用易以行事而言。化卦爻所示之理而得其裁制,存乎人之能變,不可拘也。推卦爻所決之事而善於施行,存乎人之旁通,不可執也。變與通,所謂神明之也。存乎其人,而辭變象占皆不可泥也。此皆因筮得卦之後,用易而見於事者也。
経文にいう、変化裁制は「変」に在り、推展施行は「通」に在り。神妙にしてこれを明達するは、その人に在る。黙黙としてこれを成就し言わずして人をして信服せしむるは、徳行に在る、と。陳夢雷の注、上文は変通を揲蓍に就きて講じ、ここは変通を《易》を用いて処事するに就きて講ず。卦爻の示す所の道理に化裁を加うるは、全く人の能く変通するか否かを看、死守すべからず。卦爻の決する所の事情を妥善に施行するは、全く人の能く旁通するか否かを看、固執すべからず。能く変じ能く通ずれば、すなわちいわゆる「神にしてこれを明にす」なり。「その人に存す」と説くは、正に辞・変・象・占の皆拘泥すべからざるを表明す。これら皆筮に依りて卦を得たる後、《易》を用いて行事上に表現するなり。
至於平居,尤貴體易道於心身,不在書與言之跡。所謂默而成之,不言而信,存乎德行也。成者,我自成。信者,他人信之。得於心為德,履於自為行。前言變通而措之事業,推易道於民。此言變通而歸之德行,存易道於己也。上文五謂者,聖人作易之用。此六存者,聖人之用夫易也。自章首至此乾坤或幾乎息,言聖人作易。散為六十四卦之爻象,而縕於乾坤之二卦。自形而上者謂之道以下,言聖人用易。散為天下之事業,而要歸於人之德行也。
平日の居処に至っては、尤も貴ぶは易道を身心の上に体現するに在り、書本と言語の形迹に在らず、これすなわちいわゆる「黙してこれを成し、言わずして信なり、徳行に存す」なり。「成」は自ら自らを成就するをいい、「信」は他人の彼を信服するをいう。これを心に得るを「徳」と呼び、これを身に践むを「行」と呼ぶ。前面は変通を講じて事業に施用するは、易道を百姓の身上に推行するなり。ここは変通を講じて徳行に帰結するは、易道を自らの身上に保存するなり。上文のあの五個の「これを謂う」は、聖人の《易》を作す用意を説く。ここの六個の「に存す」は、聖人の《易》を使用するを説く。陳夢雷は最後に全章を総結す。章首より「乾坤ほぼ息まんか」に至るまで、聖人の《易》を作しその用意は六十四卦の爻象の裏に散在し、而して乾坤両卦に蘊蔵するを講ず。「形而上の者を道と謂う」以下は、聖人の《易》を用いその功用は天下の事業上に散在し、而して最終に人の徳行に帰結するを講ず。(原文「履于自為行」の「自」は「身」と作るべし。)
繫辞下伝・第一章
第一章言卦爻吉凶造化功業。八卦成列,象在其中矣。因而重之,爻在其中矣。成列,謂乾一兌二離三震四巽五坎六艮七坤八及先後天之方位皆是也。象,即卦之形體。大全謂乾兌離震之象未及天地雷風也。重之,謂八卦之上各加八卦,以成六十四卦也。爻,六爻。既重卦,則六爻皆在其中矣。
《繫辞下伝》第一章は卦爻の吉凶を講じ、并びに天地造化と人間功業に推及す。経文にいう、八卦は行列を排成し、物象は則ちその中に在り。再びそれらを両々相重ねれば、爻は則ちその中に在り、と。陳夢雷の注、「成列」とは、乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八のこの次序、および先天後天の方位の皆是なり。「象」はすなわち卦の形体なり。《周易大全》はここでは乾・兌・離・震等の卦画自体の象を指し、未だ天・地・雷・風の那一層に説き至らずと説く。「これを重ぬ」とは、八卦の上に各々一個の八卦を加え、凑成して六十四卦と為すをいう。「爻」はすなわち六爻なり。既に重ねて六画卦を成せば、六爻は自然皆その中に在り。
然八卦所以成列,乃從太極兩儀四象漸次而生。畫成之後,方見有三才之象。非聖人因見三才,遂以己意連畫三爻以象之也。六十四卦每卦六爻,亦以下卦為太極。生兩儀則十有六,生四象則三十有二,生八卦則六十四。畫成之後,然後見其可盡天下之變。非聖人見下三畫不足以盡天下之變,又增三爻以益之也。
陳夢雷は特に卦画生成の自然次序を強調す。八卦の行列を排成し得る所以は、太極より両儀を生じ、両儀より四象を生じ、四象より八卦を生ずと一歩一歩生出して来たるなり。画成したる後、始めて天・地・人の三才の象あるを見出し得、決して聖人が先に三才を見て、則ち自らの意思を憑りて連ねて三爻を画きてこれを象徴したに非ず。六十四卦の每卦は六爻、同様に下面の三画卦を以て太極と為す。両儀を生ずれば則ち十六と為り、四象を生ずれば則ち三十二と為り、八卦を生ずれば則ち六十四と為る。画成したる後、始めてそれが以て天下の変化を窮尽するに足るを見出し得、決して聖人が下面の三画が天下の変を窮尽するに足らざるを嫌い、始めてまた三爻を添えたるに非ず。
剛柔相推,變在其中矣。繫辭焉而命之,動在其中矣。剛柔相推而往來交錯,卦爻見矣。聖人因其有變,隨爻皆繫之辭。占者一二爻變,則一二爻動。四五爻變,則不變者為動。三爻變,則二彖皆動。純變,則之卦為動。皆觀其所繫之辭也。吉凶悔吝者,生乎動者也。吉凶悔吝在辭,因變動而占乃見。
経文にいう、剛柔は互相に推移し、変化は則ちその中に在り。文辞を繫げて告命を加えれば、動向は則ちその中に在り、と。陳夢雷の注、剛と柔は互相に推移し往来交錯して、卦爻は則ち顕現す。聖人はそれに変化あるが故に、便ち逐爻に皆文辞を繫ぐ。占筮する者、若し一爻二爻変ずれば、この一両爻を以て動爻と為す。若し四爻五爻変ずれば、あの変わらざる爻を以て動と為す。若し三爻変ずれば、本卦・之卦の両個の彖辞を以て皆動と為す。若し六爻全く変ずれば、変じ出たるあの一卦を以て動と為す――皆繫げたる辞の如何に言うかを看るべし。経文は続けていう、吉・凶・悔・吝は、変動の中より生ずるを以てなり、と。陳夢雷の注、吉凶悔吝は辞上に写され、変動の後に占問を倚りて顕現するを要す。
剛柔者,立本者也。變通者,趣時者也。一剛一柔,各有定位。自此而彼,變以從時。立本者,天地之常經。趣時者,古今之通義。上繫曰剛柔者晝夜之象,即此所謂立本。變化者進退之象,即此所謂趣時。吉凶者,貞勝者也。貞,正也,常也。天下事非吉則凶非凶則吉,常相勝而不已也。
経文にいう、剛と柔は、根本を確立する者。変と通は、時宜に趨赴する者、と。陳夢雷の注、一剛一柔は各々固定の位次あり、これは根本なり。この一爻よりあの一爻に変じ、時に随いて変ず、これは時に趨るなり。「立本」は天地間の不変の常規、「趣時」は古今通行の道理なり。《繫辞上伝》の「剛柔とは昼夜の象なり」といえるは、すなわちここの「立本」なり。「変化とは進退の象なり」といえるは、すなわちここの「趣時」なり。経文はまたいう、吉と凶は、その正を以て互相に勝ち取るなり、と。陳夢雷の注、「貞」は正にしてまた常なり。天下の事は吉ならざれば則ち凶、凶ならざれば則ち吉、両者は常々互相に圧倒して未だ嘗て停歇せず。
天地之道,貞觀者也。日月之道,貞明者也。天下之動,貞夫一者也。觀,示也。天地常垂象以示人,故曰貞觀。日月常明而不息,故曰貞明。天下之動無窮,然順理則吉,逆理則凶。其正而常者,亦一而已矣。夫乾,確然示人易矣。夫坤,隤然示人簡矣。確然,健貌。隤然,順貌。所謂貞觀者也。爻也者,效此者也。象也者,像此者也。效此者,效健順之理。像此者,像奇耦之畫。
経文にいう、天地の道は恒常に顕示し、日月の道は恒常に光明、天下の一切の変動は恒常のあの「一」に帰す、と。陳夢雷の注、「観」は顕示、天地は常に物象を垂示して人に見せしむ、故に「貞観」という。日月は常に明るくして停歇せず、故に「貞明」という。天下の変動は窮尽なく、然るに理に順えば吉、理に逆えば凶、あの正にして恒常の道理もまたただ一つあるのみ。経文は続けていう、乾は剛強堅定にして「易」を人に示し、坤は柔順舒緩にして「簡」を人に示す、と。陳夢雷の注、「確然」は剛健の様子、「隤然」は柔順の様子、これすなわちいわゆる「貞観」なり。経文はまたいう、爻とはこれを仿効する者、象とはこれに取像する者、と。陳夢雷の注、仿効とは乾健坤順の道理を仿効するをいい、取像とは奇画偶画の形状に取像するをいう。
爻象動乎內,吉凶見乎外。功業見乎變,聖人之情見乎辭。內,謂分蓍揲卦之時。外,成卦之後。吉凶悔吝生乎動。不變則功業無自而成,故曰功業見乎變。辭,則彖辭象辭。聖人示人以吉凶者也。
経文にいう、爻と象は内裏に変動し、吉と凶は外面に顕現す。功業は変化上に顕現し、聖人の心意は文辞上に顕現す、と。陳夢雷の注、「内」は蓍を分け卦を揲する時を指し、「外」は卦の既成の後を指す。吉凶悔吝は皆変動の中より生ず。変ぜざれば功業は成就するに由なし、故に「功業は変に見ゆ」という。「辞」は彖辞と象辞を指し、あれは聖人の取りて吉凶を人に指示するなり。
天地之大德曰生。聖人之大寶曰位。何以守位曰仁。何以聚人曰財。理財正辭,禁民為非曰義。此以上言作易之聖人,以憂世之心發明卦爻之辭。此節則言用易之聖人,有御世之位而行仁義之道也。天地以生物為心,德之大莫過乎此。聖人有德無位,亦不能相天地而遂人物之生,故以位為大寶。非聖人自寶之。蓋天下賴聖人之有位,得蒙其澤,故天下以為寶也。
経文にいう、天地の最大の徳性を「生」と呼び、聖人の最大の宝物を「位」と呼ぶ。何を以てこの位を守るかを、「仁」と呼ぶ。何を以て人心を聚攏するかを、「財」と呼ぶ。財貨を管理し言辞を端正し百姓が非を為すを禁止するを、「義」と呼ぶ、と。陳夢雷の注、以上の講ずる所は《易》を作すの聖人にして、憂世の心を懐きて卦爻の辞を闡発す。この節は則ち《易》を用うるの聖人を講じ、治世の地位を占據して仁義の道を推行す。天地は万物を生養するを以て心と為し、徳性の大はこの一点を超過するなし。聖人は徳ありて位なければ、また天地を輔助して人と物の生長を遂成する能わず、故に「位」を以て大宝と為す。これは決して聖人が自らそれを宝と為すに非ずして、天下人が聖人の位に在るに倚りてこそその恩沢を蒙受し得るを以て、故に天下人がこれを宝と看作すなり。
曰仁之仁,仍作人。人君能得天下之心,位乃可守。財,可養萬人之生,故人可聚。理財,使各得其分,養之也。正辭,則分別是非,教之也。禁民為非,明憲勅法以齊其不率,刑之也。養之教之,而後齊之以刑,聖人不忍人之政盡此三者。皆出於理之當然而不可易,所謂義也。戎在易。則理財即易之備物致用也。正辭即易之辨物正言也。禁民為非,易之斷吉凶、明失得、內外使知懼也。
陳夢雷は一処の異文を指出す。「何を以て位を守るかを仁という」の「仁」は、仍お「人」と作るべし。国君は天下人の心を得てこそ、位は始めて守り住むべし。財貨は万民の性命を養うべし、故に人心は聚攏すべし。「財を理す」は人をして各々その応得の一份を得しむるをいい、これは民を養うなり。「辞を正す」は是非を分辨するをいい、これは民を教うるなり。「民の非を為すを禁ず」は憲令法度を申明して、以てあの服従せざる者を整治するをいい、これは民を刑するなり。先ず彼らを養い彼らを教え、然る後に刑罰を以て彼らを整斉す。聖人の人を忍びざるの政はこの三項の外になく、而してこの三項は皆道理の当然に出でて更易すべからず、これすなわちいわゆる「義」なり。若し《易》上に落として講ぜば、「財を理す」はすなわち《易》の裏のいう物を備え用を致す、「辞を正す」はすなわち《易》の裏のいう物を辨じ言を正す、「民の非を為すを禁ず」はすなわち《易》の裏の吉凶を断じ得失を明らかにし人をして内外皆戒惧を知らしむるなり。(原文「戎在易」の「戎」は底本の訛文、意は《易》に就きて言うを謂う。)
此章論卦爻吉凶,推之造化功業。而以有德有位之聖人,能體易而參贊天地者終之。蓋天地之德在乎生,作易之聖人情見乎辭,用易之聖人仁守其位,無非以為其人而已矣。右第一章。
陳夢雷はこの章を総括す。先ず卦爻の吉凶を論じ、再び天地造化と人間功業に推広し、最後に徳ありまた位ある聖人の能く易道を体察し天地を参賛するを以て結と為す。天地の徳性は生養に在り、《易》を作す聖人は心意を文辞の裏に寄託し、《易》を用うる聖人は仁徳を憑りてその位を守る。説き極めて无非る皆人の為なり。以上第一章。
繫辞下伝・第二章
第二章言聖人制器尚象之事。古者包犧氏之王天下也。仰則觀象於天,俯則觀法於地。觀鳥獸之文,與地之宜。近取諸身,遠取諸物。於是始作八卦。以通神明之德,以類萬物之情。
第二章は聖人の器物を制作する時に卦象を取法した事を講ず。経文にいう、古時に包犠氏は天下を統治し、頭を擡げれば則ち天上の物象を観察し、頭を低れれば則ち地上の法則を観察し、鳥獣の紋理と各地の土宜を観察す。近処は自らの身体に取り、遠処は万物に取る。ここに於て始めて八卦を画き出し、以て神明の徳性を會通し、以て万物の情状を分類す、と。
象以氣言,屬陽。以形言,屬陰。鳥獸之文,謂天產之物,飛陽而走陰也。土地所宜,謂地產之物,草陽而木陰也。神明之德,不外乎健順動止陷入麗說之德。萬物之情,則不止天地雷風山澤水火之情。本義云俯仰遠近所取不一,然不過以驗陰陽消息兩端而已。蓋萬物不外於八卦,八卦不外乎陰陽。陰陽雖二,而實一氣之消息也。
陳夢雷は解説す。「象」は気に就きて言い、陽に属す。「法」は形に就きて言い、陰に属す。「鳥獣の文」は天生の動物を指し、飛ぶは陽に属し走るは陰に属す。「地之宜」は地産の植物を指し、草は陽に属し木は陰に属す。「神明の徳」は乾健・坤順・震動・艮止・坎陥・巽入・離麗・兌説のこの八種の徳性の外になし。「万物之情」は則ち天・地・雷・風・山・沢・水・火のこの八種の情状に止まらず。《周易本義》は俯仰遠近の取る所の対象は一様に止まらずと説くも、然るに不過ぎ以て陰陽消長のこの両頭を検証するを用とするのみ。万物は八卦を出でず、八卦は陰陽を出でざるが故なり。陰陽は両様なりと雖も、其実はただ一気の消長なり。
作結繩而為網罟,以佃以漁。蓋取諸離。離有二義。曰象曰理。理謂麗也,禽獸魚鱉麗乎綱罟也。象謂虛中,綱罟之目虛也。取之離者,言為綱罟有離之象,非睹離乃有此也,他卦倣此。
経文にいう、绳索を編結して網罟を做成し、以て打猟し以て捕魚す、ほぼ《離》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、《離》は両層の意思あり、一層は象、一層は理なり。理に就きて説けば、「離」はすなわち附麗、禽獣魚鱉は網罟上に附着す。象に就きて説けば、離卦の中間一画は虚にして、正に網罟の網眼の空なるが如し。いわゆる「諸を離に取る」とは、網罟を做すこの事が《離》の象に合するを説く、決して先に《離》卦を見て始めてこの物有るに非ず――其余の各卦は皆この道理に照りて理解すべし。
包犧氏沒,神農氏作。斲木為耜,揉木為耒。耒耨之利,以教天下。蓋取諸益。二體皆木,中互坤土。木入土中,上入下動,風雷之象也。粒食之利自此而始,益之義也。日中為市。致天下之民,聚天下之貨。交易而退,各得其所。蓋取諸噬嗑。日中為市。上明下動,火雷之象。中爻坎水艮山,群珍所出,聚貨之象。艮止,退而得所之象。貨不同皆合於市。借噬為市,嗑為合,噬嗑之義。
経文にいう、包犠氏は去世し、神農氏は興起す。木頭を砍削して耜を做し、木頭を彎曲して耒を做し、耒耜耕耘の好処を天下人に教う、ほぼ《益》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、《益》は上巽下震にして、両個の卦体は皆木に属し、中間に互いに坤卦を出だして土と為し、木は土中に插進す。上巽は入と為し下震は動と為す、正に風雷の象なり。人の糧食を吃する好処はこれより始まる、これ正に「益」の意に合す。経文にいう、正午に集市を開設し、天下の人を招来し、天下の貨物を聚集し、交換完畢して則ち散去し、各人は皆自らの所需要するを得、ほぼ《噬嗑》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、正午に市を設くは、上離は明と為し下震は動と為す、是れ火雷の象なり。中間に互いに坎水艮山を出だすは、各種の珍宝の出産する所にして、正に貨を聚むるの象に合す。艮は止と為す、是れ交易罷めて退去して各々その所を得るの象なり。貨物は各々相同じからずして皆市上に匯合す、故に「噬」を借りて「市」と為し「嗑」を「合」と為す、これすなわち《噬嗑》の義を取るなり。
神農氏沒,黃帝堯舜氏作。通其變,使民不倦。神而化之,使民宜之。易窮則變,變則通,通則久。是以自天祐之,吉無不利。黃帝堯舜垂衣裳而天下治,蓋取諸乾坤。陽極變陰,陰極變陽,變也。陽變陰不至於亢,陰變陽不至於伏,通也。陰陽循環無端,久也。上衣色玄象天,下裳色黃象地。食貨既足,禮義當興。變草昧而文明,又取乾坤變化而無為之義也。
経文にいう、神農氏は去世し、黄帝・堯・舜は相継いで興起す。彼らは事物の変化を貫通し、百姓をして倦怠せざらしむ。神妙に化導を加え、百姓をして各々その宜を得しむ。《易》の道理は窮尽すれば則ち変じ、変ぜば則ち通達し、通達すれば則ち長久す、故に「天より祐られ吉にして利あらざるなし」という、と。黄帝・堯・舜は衣を垂れ拱手して天下大治す、ほぼ《乾》《坤》の両卦に象を取れるか。陳夢雷の注、陽は極処に至りて陰に変じ、陰は極処に至りて陽に変ず、これは「変」なり。陽は陰に変じて亢極に至らず、陰は陽に変じて潜伏に至らず、これは「通」なり。陰陽は循環して端頭なし、これは「久」なり。上衣は玄色を用い、天を象徴す。下裳は黄色を用い、地を象徴す。糧食貨物既に充足せば、礼義は当に興起すべし。草昧の世を変じて文明の世と為し、また乾坤の変化して無為なるの意を取る。
刳木為舟,剡木為楫,舟楫之利,以濟不通。致遠以利天下,蓋取諸渙。刳木使中虛,剡木使末銳。木在水上故渙,有利涉大川之占。服牛乘馬,引重致遠,以利天下。蓋取諸隨。下動上說,澤雷之象。各因其性,動止隨人,有隨之義。重門擊柝,以待暴客,蓋取諸豫。雷震乎外,有聲之木。以互艮為門闕,以取其象。先事警戒,又豫備之意。
経文にいう、木頭を剖空して船を做し、木頭を削尖して桨を做し、船桨の便利に倚りて通ぜざる処を渡り、能く遠方に到達して天下を利す、ほぼ《渙》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、木を剖くは中間を空虚ならしむるをいい、木を削るは末端を尖利ならしむるをいう。《渙》は上巽は木と為し下坎は水と為す、木は水上に浮ぶが故に渙と為す、卦辞は正に「大川を渉るに利し」の占語あり。経文にいう、牛を馴服し馬を駕乗し、重物を牽き遠路を行き、以て天下を利す、ほぼ《随》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、《随》は下震は動と為し上兌は悦と為す、是れ沢雷の象なり。牛馬は各々自らの天性に依り、或いは動き或いは止まるも皆人の使喚に聴憑す、正に「随」の意に合す。経文にいう、多重の門戸を設置し木梆を敲撃し、以て強暴の来客を防備す、ほぼ《豫》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、《豫》は上震雷は外に震動す、是れ声を発し得るの木なり。互体は艮と為し、艮は門闕と為す、正にこの象を取る。事情は未だ発せざるに先に警戒を加う、また預め防備するの意を含む。
斷木為杵,掘地為臼。杵臼之利,萬民以濟。蓋取諸小過。下止上動,雷山象。民既粒食,又治使精,小過之義。弦木為弧,剡木為矢。弧矢之利,以威天下。蓋取諸睽。睽乖然後服之以威,取睽之義。又離為戈兵,兌金為矢為毀折,互坎為弓輪,亦有其象。
経文にいう、木頭を截断して杵を做し、地を掘りて臼を做し、杵臼の便利は万民をして接済を得しむ、ほぼ《小過》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、《小過》は下艮は止と為し上震は動と為す、是れ雷山の象なり。百姓は既に穀物を吃し、またこれを舂治して精細と為す、正に「小過」の稍々これに過ぐるの意に合す。経文にいう、木頭を彎めて弓と為し、木頭を削りて箭を做し、弓箭の威力を以て天下を震懾す、ほぼ《睽》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、人心は乖離し、然る後に始めて威勢を以て彼らをして順服せしむ、これは「睽」の意を取るなり。さらに《睽》は上離は戈兵と為し、下兌は金に属し箭鏃と為し毀折と為し、互体は坎と為し弓輪と為す、亦皆この象あり。
上古穴居而野處,後世聖人易之以宮室。上棟下宇,以待風雨,蓋取諸大壯。棟,屋脊承而上者。宇,椽也,垂而下者。故曰上棟下宇。風雨動於上,棟宇覆於下。雷天之象,又取壯固之意。
経文にいう、上古の人は洞穴の裏に住み曠野の中に宿し、後世の聖人は改めて宮室を以てこれに代替し、上に棟梁あり下に屋簷あり、以て風雨を防御す、ほぼ《大壮》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、「棟」は屋脊にして上に向かいて承托す。「宇」は椽子にして下に向かいて垂覆す、故に「上棟下宇」という。風雨は上面に吹動し、棟宇は下面に覆蓋す。《大壮》は上震は雷と為し下乾は天と為す、正に雷天の象にして、またその壮大堅固の意を取る。
古之葬者,厚衣之以薪,葬之中野。不封不樹,喪期無數。後世聖人易之以棺槨,蓋取諸大過。送死大事而過於厚,大過之義。又大過全卦象坎為隱伏,殯葬之象。中爻乾為衣,內巽為木,入土之象。養生不足以當大事,故杵臼小過。送死可以當大事,故取諸大過也。
経文にいう、古時は死者を埋葬するに、柴草を以て厚く裹住し、荒野の中に葬り、土堆を堆まず樹木を種えず、服喪もまた一定の期限なし。後世の聖人は改めて棺槨を以てこれに代替す、ほぼ《大過》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、死者を送葬するは大事にして、而して格外に豊厚に弁ず、正に「大過」の意に合す。さらに《大過》の整卦の形状は一個の坎卦の如く、坎は隠伏と為す、正に殯葬の象なり。中間の互体は乾と為し、乾は衣と為す。内卦は巽にして、巽は木と為す、皆土に入り安葬するの象なり。彼はまた一個の比較を作す。生者を奉養するはなお「大事」に及ばず、故に杵臼を做るはただ《小過》を取る。死者を送葬するは始めて「大事」に当たる、故に《大過》を取る。
上古結繩而治,後世聖人易之以書契。百官以治,萬民以察,蓋取諸夬。言有不能記者,書識之。事有不能信者,契驗之。取明決之義。夬之義。蓋夬乃君子決小人之卦,造書契亦所以決小人之偽而防其欺也。此章十三卦取象,見上古未有易之書而先有易之理。人見聖人備物致用,立成器以利天下。以為此出聖人之心思,不知皆因乎理所固有也。右第二章。
経文にいう、上古は結縄の弁法を以て治理し、後世の聖人は改めて文書契券を以てこれに代替し、百官はこれに倚りて政事を弁理し、万民はこれに倚りて事情を稽察す、ほぼ《夬》卦に象を取れるか、と。陳夢雷の注、言に記え得ざるあれば、則ち文書を以て記下す。事に取信し得ざるあれば、則ち契券を以て検験す。取る所は明白決断の意、これ正に《夬》の義を取るなり。《夬》は本は君子が小人を決除するの卦にして、文書契券を制作するもまた正に小人の偽詐を決除し彼らの欺騙を防備せんと欲すなり。彼は最後に総結す。この章の挙ぐる十三卦の取象は、上古は未だ《易》の書あらざれど、而して先に已に《易》の道理ありたるを見るべし。人々は聖人の器物を備弁しその功用を尽くし、器具を制成して以て天下を利するを見て、則ち以てこれ全く聖人の心思に出づと為す、而して知らず皆事理の本来有するに依拠するを。以上第二章。
系辞下・第三章(卦象と彖爻の用を言う)
第三章言卦象,彖爻之用。是故易者,象也。象也者,像也。聖人立象以盡意。由八卦以及六十四卦,內外互變,皆象也。知此,則易書所有,不獨天地雷風為象,即其言君臣政教無非象也。占者因象而變通以相觀,則於其辭有所不必泥矣。
本章の講ずる所は卦象と彖辞・爻辞の各々の功用なり。《繫辞下伝》にいう、いわゆる《易》とはすなわち「象」なり。いわゆる「象」とはすなわち模擬・仿効なり、と。聖人の卦象を設立したは、言語の説き尽くせざる意思を完全に表出せんが為なり。八卦より六十四卦に推し、内卦と外卦は交互に変化し、一処として「象」ならざるなし。この一層を明白にすれば、則ち《易》書中の所有する内容は、ただ天・地・雷・風のこれらの自然物のみが象なるを知らずして、就中君臣関係・政令教化を講ずる文字もまた、一として象ならざるなし。占筮する者は卦象に依りて霊活に変通し彼此参照し、卦爻辞の字面に対しては則ち死抠拘泥するを必とせず。
彖者,材也。言一卦剛柔之材,即卦德也。爻也者,效天下之動者也。天下之動甚微,有同德、同事而所當之位各有不同而吉凶生。爻則倣所動之吉凶以示人也。
「彖」は一卦の材質に就きて言うなり。これは一卦の剛柔両種の材質の構成を説く、すなわちこの一卦の卦徳なり。「爻」は則ち天下万事万物の変動を仿効す。天下の変動は極めて細微、ある事情は徳性相同じく事類も相同じく、ただ処する所の位置が各々相同じからざるが為にのみ、吉凶は便ちこれより分かたる。爻はすなわちこれらの変動の帯来する吉凶を摹写し出し、以て占者に昭示するを用とす。
是故吉凶生而悔吝著也。吉凶在事本顯,故曰生。悔吝在心尚微,故曰著。悔有改過之意。至於吉,則悔之著也。吝有文過之意。至於凶,則吝之著也。原其始而言,吉凶生於悔吝。要其終而言,則悔吝著而為吉凶也。此章言卦象彖爻之設,無非明得失以示人。使觀象玩辭觀變玩占者,知有悔心而不吝於改過,庶幾有吉而無凶耳。右第三章。
故に吉凶は生じ出て、而して悔吝もまた顕露出るという。吉と凶は事情上に落ちて本来明らか、故に「生」の字を用ゆ。悔と吝はなおただ心裏の一点の苗頭、尚且つ細微、故に「著」の字を用ゆ、それの隠より顕に由るを指す。「悔」は過失を改正するの意を含有し、吉を得るに至るまで、則ちあれは悔の徹底顕露なり。「吝」は過失を文飾するの意を含有し、凶に遭うに至るまで、則ちあれは吝の徹底顕露なり。起点上より説けば、吉凶は悔吝の中より生出するなり。終点上より説けば、則ち悔吝は顕露して最終に吉凶と成るなり。本章は卦象・彖辞・爻辞の設立を説明し、无非るは得失を辨明して世人に昭示し、あの平日に象を観じ辞を玩び変を観じ占を玩ぶ者をして、心裏に悔改の念を存して改過を吝惜せざらしめ、これにて始めて吉あって凶なきを得べし。以上《繫辞下伝》第三章。
系辞下・第四章(陰陽卦画を以て君子小人の道を分かつ)
第四章專以陰陽卦畫,分君子小人之道。陽卦多陰,陰卦多陽。震坎艮為陽卦,皆一陽二陰。巽離兌為陰卦,皆一陰二陽。其故何也。陽卦奇,陰卦偶。陽卦雖一奇二偶而以奇為主,陰卦雖一偶二奇而以偶為主也。陰二畫止當陽一畫,不必雲陽卦五畫陰卦四畫。
本章は専ら陰陽両類の卦の画象を借りて、君子の道と小人の道を区別す。《繫辞下伝》にいう、陽卦の中に陰爻は却って多く、陰卦の中に陽爻は却って多し。震・坎・艮の三卦は陽卦にして、皆一個の陽爻に両個の陰爻を配す。巽・離・兌の三卦は陰卦にして、皆一個の陰爻に両個の陽爻を配す。これは何の故ぞや。陽卦は奇数を以て体と為し、陰卦は偶数を以て体と為すが故なり。陽卦は一画の奇・両画の偶なりと雖も、却ってあの一画の奇を以て主と為す。陰卦は一画の偶・両画の奇なりと雖も、却ってあの一画の偶を以て主と為す。陰爻の両小画はただ陽爻の一画に抵当するに過ぎず、故にある人々の如く陽卦は共に五画・陰卦は共に四画と説くを必とせず。
其德行何也。陽一君而二民,君子之道也。陰二君而一民,小人之道也。德行以美惡言。君為陽,民為陰。一陽二陰則一君二民。尊無二上,道大而公,君子之道。二陽一陰則二君一民。政出多門,道小而私,小人之道。然凡陽卦未必皆言君子,陰卦未必皆言小人。特借陰陽卦體以明有君子小人之不同耳。陽奇陰偶,卦畫固有一定。而即此推之。則陽為君,陰為民。陽為君子,陰為小人,易之扶陽抑陰又如此。右第四章。
それらの徳行はまた如何に区別せんや。陽卦は一個の君主に両個の臣民を配し、これは君子の道なり。陰卦は両個の君主に一個の臣民を配し、これは小人の道なり。いわゆる「徳行」とは、美と悪に就きて説くなり。君は陽に属し、民は陰に属す。一陽二陰は便ち一君二民にして、尊位は両個の上に在る者を容れず、その道は広大にして公正、これは君子の道なり。二陽一陰は便ち二君一民にして、政令は多処より発出し、その道は狭小にして偏私、これは小人の道なり。ただし凡そ陽卦に属するは未だ必ずしも皆君子を講ずるに在らず、凡そ陰卦に属するも未だ必ずしも皆小人を講ずるに在らず。孔子はただ陰陽両類の卦体を借りて、世上有君子と小人の分別あるを説明するのみ。陽は奇を用い陰は偶を用い、卦画は本は一定の規あり。この一点に順い推して下れば、則ち陽を君と為し陰を民と為し、陽を君子と為し陰を小人と為すと成る。《易》の陽剛を扶助し陰柔を抑制するの用心はまたここに体現せらる。以上《繫辞下伝》第四章。
系辞下・第五章(錯綜して九卦十一爻を挙げてその義を明らかにす)
第五章錯舉九卦十一爻發明其義,與上繫之七卦皆象傳之文言。欲學易者,觸類以及其餘也。《易》曰:「憧憧往來,朋從爾思。」子曰:「天下何思何慮。天下同歸而殊途,一致而百慮。天下何思何慮。」
本章は交錯して九個の卦・十一条の爻辞を挙出して《易》理を闡発し、《繫辞上伝》の挙げたる七卦と同じく、皆卦爻の象義を解説する文字に属す。用意は《易》を学ぶ者をしてこれより触類旁通し、其余の各卦各爻に推及せしめんと欲するなり。《易経》咸卦九四の爻辞にいう、「心神摇蕩に往来奔走せば、ただ爾のあの一小群の同類のみが爾の心思に順從せん」と。子曰く、「天下の事に何の思う可き何の慮る可きあらんや。天下の万事は同帰して一路なれど路径は各別、同帰して一心なれど思慮は百端。天下の事に何の思う可き何の慮る可きあらんや」と。
此引咸九四爻辭而釋之。思者心之用,慮者謀度其事也。事之未來,寂然不動,何思之有。既與物接,各有定理,何慮之有。同歸殊途,天下無二理也。一致百慮,天下無二心也。若憧憧往來而僅其朋類從之,所從者亦狹矣。
ここに引くは咸卦九四の爻辞にして、孔子はこれを借りて義理を発揮す。「思」は心の作用、「慮」は具体的事情への謀劃権衡なり。事情は未だ到来せざる時、此心は寂然不動、何の「思」う可きあらんや。一たび外物と接触せば、每件事は各々その本然の道理あり、また何の「慮」る可きあらんや。「同帰して殊途」とは、天下に第二個の道理なきを説く。「一致して百慮」とは、天下に第二個の本心なきを説く。仮に九四の如く心神摇蕩して来回に奔走せば、結果は自らのあの一小群の同類のみ肯んじて跟從し、感通し得るの範囲もまた太だ狭窄ならん。
日往則月來,月往則日來。日月相推而明生焉。寒往則暑來,暑往則寒來。寒暑相推而歲成焉。往者屈也,來者信也。屈信相感而利生焉。此承上文憧憧往來而言。往來屈信,皆天道自然感應之常理。憧憧然則入於私矣。日月往來而明生,寒暑相代而歲成。往者之屈感來者之信,來者之信又感往者之屈,而有明生歲成之利。此天道往來自然之感也。若九四之憧憧,豈如是乎。
太陽は西に去れば則ち月亮は升起し、月亮は西に去れば則ち太陽は升起す。日月はこのように交相推移し、光明は便ちこれより産生す。寒気は過ぎ去れば則ち暑気は到来し、暑気は過ぎ去れば則ち寒気は到来す。寒暑はこのように交相推移し、一年は便ちこれより完成す。去る一方は「屈」、来る一方は「信」(すなわち「伸」)なり。屈と伸は互相に感應し、利益は便ちこれより産生す。この一段は上文の「憧憧往来」を承けて説く。往来屈伸は皆天道の自然感應の常理なり。一たび「憧憧」不定となれば、則ち私意に落入す。日月は往来して光明を生出し、寒暑は交替して歳功を成就す。去る者の収縮は来る者の伸展を感召し、来る者の伸展はまた去る者の収縮を感召す。ここに於て生明成歳の功利あり。これは天道往来の自然而然の感應、九四の如く心神不寧に奔走するは、何ぞこの様子ならんや。
尺蠖之屈,以求信也。龍蛇之蟄,以存身也。精義入神,以致用也。利用安身,以崇德也。按,此節本義云因言屈信往來之理,而以推以言學亦有自然之機也。精研其義至於入神,屈之至也。然乃所以為出而致用之本。利其施用,無適不安,信之極也。然勝出所以為入而崇德之資。內外交相養互相發也。
尺蠖は身子を弓め起すは、以て伸展を求めんが為なり。龍蛇は冬に蟄伏起すは、以て性命を保存せんが為なり。義理を精研して神妙に入るに至るは、以て実用に推致せんが為なり。施用を便利妥当にして自身を安頓するは、以て徳性を尊崇せんが為なり。按ずるに、この節は朱熹《周易本義》の説く所、上文に屈伸往来の道理を講じたるを以ての故に、ここに推開して学問を做すにも同様の自然而然的机理あるを説く。義理を精研して入神の地步に至るは、「屈」の極処に到るなり、然るにこれ正に後日の出でて用を致すの根本なり。自らの施用をして便利ならざるなく往きて安んぜざるなからしむるは、「伸」の極処に到るなり、然るにこれまた収斂して内に入り徳性を尊崇するの憑藉なり。内と外は交相に涵養し互相に激発す、本は一事の両面なり。
今時解皆從之。蓋本義以屈信交互言之,以明學問內外相資之功。未為不可。然細按上文之意,似以屈信相感發明何思何慮之一言。大抵人情但知信之為利,不知屈之為利。所以思慮愈多,卒求信而不得。故此節發明屈即為信之理。而教人以素位而行之學,不出其位之思也。尺蠖之行,不屈則不能伸,伸而再行則又屈,是屈乃以求伸也。龍蛇至冬不蟄,則來歲不能奮,故蛇冬見者多死,是龍蛇之蟄正所以藏身也。
如今通行の注解は皆朱熹のこの講法に沿用す。《周易本義》は屈と伸を交互に説き、以て学問を做すの内外互相憑藉の功を説明す、これ未だ嘗て可ならずとせず。但し上文の語脈を細看すれば、孔子はほぼ屈伸相感を以て「何の思う何の慮る」のこの一句を闡発せんと欲するが如し。大凡人情はただ伸展が好処なるを知るのみ、屈縮もまた好処なるを知らず、故に思慮は愈來愈多く、頭に至りて伸を求めて却って求め得ず。この故にこの節は「屈はすなわち伸」の道理を点明せんと欲し、人をして本位に安んじ本分に按じて行うの学問を教え、越位妄想の心思を生出せざらしむ。尺蠖の爬行は、弓めざれば則ち伸出する能わず、伸出して再び爬かば又要弓めん。見るべし弓屈は正に伸を求めんが為なるを。龍蛇は冬に至りて若し蟄伏せざれば、来年は奮起するに力なし。故に冬天に洞を出だす蛇は多半に凍死す。見るべし龍蛇の蟄伏は正に身を蔵し命を保つが為なるを。
此四句猶詩之興體,精義四句即應上言。物理如此,人之學問亦宜然。精義二句以知言,利用二句以行言。人惟不安於屈,妄意求伸。是以思慮百出,究皆無當。不知天下之理屈即為伸,隨時隨地有我之所宜知宜行者。如精義至於入神,吾方屈以求其所宜知也。而可以致用則伸矣。利用只求安身,吾方屈以求其所宜行也。而德之崇則伸矣。況乎知盡行至,過此以往,窮神知化不可得。而知屈而伸至於如此,人又何以思慮為乎。
尺蠖・龍蛇のこの四句は《詩経》の裏の「興」体に比すべく、物を借りて意を起こすなり。「精義入神」以下の四句こそ正面に上文に應答す。物性の道理はこの如く、人の学問もまた当にこの如くなるべし。「精義入神」の両句は「知」に就きての説、「利用安身」の両句は「行」に就きての説なり。人はただ心を安んずることを得ずして屈縮の位置上に処ることを得ざるが為に、一味に伸展を妄想す、故に思慮は百出して頭に至りて全く辺際に著かず。彼は天下の道理は正に屈すれば則ち伸なるを明白せず。随時随地に皆我が此刻に当に知るべき当に行うべきの事あり。譬えば義理を精研して神に入る、我正に身子を屈して此刻に應知を求むるなり。而して一たび能く実用に推致せば、則ち伸なり。施用の便を講求してただ此身を安頓せんが為のみ、我正に身子を屈して此刻に應行を求むるなり。而して徳性は尊崇を得、則ち伸なり。況んや知は尽頭に至り行は極処に至り、再び上に往かば、あの神妙を窮究し造化を洞知するの境界は本は人力の強求し得る所に非ず。屈して後に伸びてこの般の地步に達し得れば、人はまたあの許多の思慮を何を為さんと欲するや。
竊思如此解,此方與上文何思句相應。義者宜而已。精義者,精密其宜與不宜,皆得其分定而不可易。至於入神,則經權常變,惟我所為。以此致用,用無不利矣。致用由知而行,利用則專言行事矣。人身不安,德何由崇。故無論處常處變,處順處逆,凡所施用,且自安其身。似未嘗大有所作為,然此身既安,則一切事業皆由此起。是雖不過自安其身,實德所由崇也。精義入神,利用安身,豈必盡無思慮。然思其所宜思。所謂同歸殊途,一致百慮者。非憧憧之思也。
我は私に以てこのように解釈してこそ、始めて上文の「天下何の思う何の慮る」の一句と相呼應するを得るとす。いわゆる「義」とは、不過ぎすなわち「宜」、すなわち合宜なり。いわゆる「精義」とは、合宜と不合宜を辨析して極めて精密と為し、每一分一寸をも定まり住み換え得ざらしむるをいう。「入神」の地步に到れば、則ち常法と権変・恒常と変化は皆我が自如に運用するに聴憑す。このようの功夫を以て実用に推致せば、往きて利ならざるなし。「致用」は知より行に落つるを由り、「利用」は則ち専ら行事に就きて説く。人は自身安頓せざれば、徳性は何処より尊崇を起こさんや。故に常境に処ると変局に処るとを論ぜず、順境に処ると逆境に処るとを論ぜず、凡そ施為する所有れば、先ず自身を安穏ならしむるを要す。これは看れば似もや大なる作為なきが如し、然るに此身既に安んずれば、一切の事業は皆ここより生発す。説くは不過ぎ自身を安頓するなりと雖も、其実は正に徳性の尊崇を得るの根由なり。義理を精研して神妙に入り施用便利にして此身を安頓するは、豈に一点の思慮も要せざらんや。然らず、是れあの本当に思慮すべき事を思慮するなり、すなわち「同帰して殊途・一致して百慮」のあの種の思にして、而して九四のあの種の心神摇蕩の思に非ず。
過此以往,未之或知也。窮神知化,德之盛也。此,指上精義利用,下學之事。至此過此以往,則無所用其力。未之或知,則不止於致用崇德而已。窮神之神,即入神之神。唯有入神之功,乃有窮神之效。德盛之德,即崇德之德。唯積而日崇,則德自愈盛也。由致用崇德而至於窮神知化,乃德盛仁熟自致,非人力所能為。至此則信之極矣。
《繫辞》は続けていう、再び上に往かば、則ち人の知り得る所に非ず。神妙を窮究し造化を洞知するは、あれは徳性の極盛の境界なり、と。ここの「此」は上文の精義入神・利用安身を指し、下学の功夫に属す。この一步に到りて再び前に往かば、則ち用うべき力气なし。「未だこれ或いは知らず」とは、あの境界は已に致用・崇徳に止まるのみならずを説く。「窮神」の「神」はすなわち「入神」の「神」、唯だ入神の功夫を下したる有りてこそ、始めて窮神の効験あらん。「徳盛」の「徳」はすなわち「崇徳」の「徳」、唯だ日積月累に尊崇してこそ、徳性は自然愈々充盛せん。致用・崇徳より一路に窮神知化に到るは、徳盛仁熟の後に自然到達するにして、人力の強為し得る所に非ず。この一步に到れば、「伸」もまた極処に到るなり。
按,本義,不知者往而屈也,自致者來而伸也。竊意此節不必又分屈伸,宜承上節而言。屈之必伸,非特致用崇德而已。過此以往,乃有不可知之妙。即至於窮神知化,盛德之極。而其始不過精義入神,利用安身而已。又何必以憧憧之思慮為哉。竊意此節之解與本義不合,然於經文較為明順,以待高明參酌。
按ずるに、朱熹《周易本義》は、「未だこれ或いは知らず」は往きて屈し、「徳之盛」は自然に到来して伸なりと認む。我は私に以てこの節は必ずしも再び屈と伸を分かつを要せず、当に上一節を承けて講ずべし。屈せば必ず伸び、而且にただ致用・崇徳のこんな一点の効験のみならず、再び上に往かば、なお測知し難き玄妙あり。仮令窮神知化・盛徳の極致に到るとも、その起点もまた不過ぎ精義入神・利用安身のみ。既に然るしかくの如し、又何を以てあの種の心神摇蕩の思慮を用いんや。我のこの節の解法は《本義》と合せざれど、ただ経文の語脈に就きて説けば比較的明白順暢なり。謹んでここに録し、高明の士の参酌取舍を待つ。
《易》曰:「困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。」子曰:「非所困而困焉,名必辱。非所據而據焉,身必危。既辱且危,死期將至,妻其可得見耶。」非所因而因,不可為而強為之也。非所據而據,宜去而不去之也。君子有不幸之因,而我無致困之道。則不辱陳蔡匡人是已。君子無非年據之據,而所據必正則不危。不立巖牆之下是已。此釋困六三爻義。
《易経》困卦六三の爻辞にいう、「石頭に困まり、また蒺藜上に攀靠し、自らの家裏に帰るも、妻子を見るを得ず、凶」と。子曰く、「困まるべからざる所に陷り入れば、名声は必ず辱を受けん。攀靠すべからざる物に攀靠せば、身家は必ず危険ならん。既に辱を受けまた険に遇えば、死期は将に到らんとす、また妻子を見るを得んや」と。いわゆる「困まるべからずして困まる」とは、すなわち明らかに為すべからざるを知りて硬に為さんと欲するをいう。いわゆる「靠るべからずして靠る」とは、すなわち身を抽き離るべきに肯んじて離れざるをいう。君子もまた不幸の困厄に遇うことあり、但し自ら困厄を招致するの行径なし。孔子は陳蔡に於て糧を断たれ匡地に於て囲まるるもその尊厳を失わず、すなわちこのようなの例なり。君子は攀靠すべからざる物に攀靠せず、攀靠する所は必ず正当、因りて危険ならず。孟子の説く所の将に傾かんとする高牆の下に立たず、すなわちこのようなの例なり。(按ずるに、ここで底本は「困」の字を「因」に訛り、「理」の字を「年」に訛れり、今はその旧に仍りて改めず。)この一段は困卦六三の爻義を解釈す。
《易》曰:「公用射隼于高墉之上,獲之無不利。」子曰:「隼者,禽也。弓矢者,器也。射之者,人也。君子藏器於身,待時而動,何不利之有。動而不括,是以出而有獲。語成器而動者也。」此釋解上六爻義。夫子又推言外之意也。括,結礙也。
《易経》解卦上六の爻辞にいう、「王公は高牆の上に在りて鷂鷹を射猟し、一挙に射獲し、利あらざるなし」と。子曰く、「隼は禽鳥、弓箭は器械、弓を張りてこれを射るは人なり。君子は器械を身上に蔵し、時機を待ちて後に発動す、何の不利かあらん。発動起すや毫も滞礙なし、故に一たび手を出せば即ち収獲あり。これは器械已に備成して後に行動するの道理を講ず」と。この一段は解卦上六の爻義を解釈し、孔子はまた爻辞の言外の意思を推衍し出す。「括」とは、結住し阻碍するの意なり。
子曰:「小人不恥不仁,不畏不義,不見利不勸,不威不懲。小懲而大誡,此小人之福也。《易》曰:『屨校滅趾,無咎。』此之謂也。」此釋噬嗑初九爻義。小懲大誡猶為小人之福,況其知義者乎。
子曰く、「小人は不仁を以て羞恥と為さず、不義を以て可怕と為さず、実利を見ざれば則ち肯んじて努力せず、威勢の圧するあらざれば則ち肯んじて収斂せず。小処に於て一点の懲戒を受け、因りて大処に於て警诫を得、これ正に小人の福気なり。《易経》噬嗑卦初九の爻辞にいう、『脚上に木枷を戴き、脚趾を遮没す、過ちなし』と、説く所はこの道理なり」と。この一段は噬嗑卦初九の爻義を解釈す。小なる懲戒は大なる警诫を換え得、小人に対し尚且つ福気なり、況んやあの本来義理を懂得する者をや。
善不積,不足以成名。惡不積,不足以滅身。小人以小善為無益而弗為也,以小惡為無傷而弗去也,故惡積而不可揜,罪大而不可解。《易》曰:「何校滅耳,凶。」此釋噬嗑上九爻義。言懲惡在初,改過在小也。
善行は積累せざれば、名声を成就するに足らず。悪行は積累せざれば、また自身を毀滅するに足らず。小人は小なる善事を以て好処なきと看作して肯んじて為さず、小なる悪事を以て妨害なきと看作して肯んじて改めず。故に悪行は積多して遮掩する能わざるに至り、罪過は大にして開脱する術なきに至る。《易経》噬嗑卦上九の爻辞にいう、「肩上に木枷を扛ぎ、耳朵を遮没す、凶」と。この一段は噬嗑卦上九の爻義を解釈し、説く所は悪行を懲治するは最初に要在り、過失を改正するは還だ小なるに趁るを要す。
子曰:「危者,安其位者也。亡者,保其存者也。亂者,有其治者也。是故君子安而不忘危,存而不忘亡,治而不忘亂。是以身安而國家可保也。《易》曰:『其亡其亡,繫于苞桑。』」此釋否九五爻義。能常存危亂與亡之意,則可以安其位,保其存,有其治也。
子曰く、「危険を招致するは、自ら位を坐穩したりと為す者なり。滅亡を招致するは、自ら存続を保住し得ると為す者なり。禍乱を招致するは、自ら治世を守住し得ると為す者なり。故に君子は安穏の時に危難を忘れず、存続の時に覆亡を忘れず、治平の時に禍乱を忘れず。こうあってこそ自身は安穏・国家は保住し得。《易経》否卦九五の爻辞にいう、『亡びんとす、亡びんとす、これにて叢生の桑根に繫ぐるが如く牢固ならん』」と。この一段は否卦九五の爻義を解釈す。心裏に能く常に危・乱・亡のこの三重の憂念を存せば、却って位を坐穩し存続を保住し治世を守住し得。
子曰:「德薄而位尊,知小而謀大,力少而任重,鮮不及矣。《易》曰:『鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。』言不勝其任也。」此釋鼎九四爻義。
子曰く、「徳行浅薄にして身に尊位に居り、才智短小にして大事を図謀し、力量微弱にして重任を担う、禍患に遭わざるは鮮し。《易経》鼎卦九四の爻辞にいう、『鼎足は折断し、王公の美食は傾覆し出で、鼎身は沾污狼藉す、凶』と。これは彼が自らの受くる所の重任を担い起こす能わざるを説く」と。この一段は鼎卦九四の爻義を解釈す。
子曰:「知幾其神乎。君子上交不諂,下交不凟。其知幾乎。幾者,動之微,吉之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。《易》曰:『介于石,不終日,貞吉。』介如石焉,寧用終日,斷可識矣。君子知微知彰,知柔知剛,萬夫之望。」此釋豫六二爻義。上交宜恭而近諂,下交宜和而近凟。所分甚微,所謂幾也。介于石,則至靜而無慾,至重而難動。所以能見幾而不溺於豫。故知微又知彰,知柔又知剛也。知幾則有吉而無凶,故曰吉之先見。
子曰く、「能く事情の細微の兆候を洞察するは、ほぼ神明に近づくか。君子は上に結交して諂媚せず、下に結交して軽慢せず、これすなわち『幾』を察するを懂得するなり。いわゆる『幾』とは、変動の剛に起こる時の細微の苗頭、吉兆の最も先に顕露する所なり。君子はこの苗頭を見て則ち直ちに行動し、一日の過ぎ去るを待たず。《易経》豫卦六二の爻辞にいう、『耿介として石の如く、終日を待たず、正を守りて吉を得』と。既に耿介にして石の如くなれば、何ぞ用いて一整天を待つを得ん、是非決断は当下に看り明白なり。君子は既に細微を知りまた彰顯を知り、既に柔順を知りまた剛健を知る、因りて万人の仰望する所と為る」と。この一段は豫卦六二の爻義を解釈す。上に結交するは当に恭敬すべきも、恭敬の頭を過ぎれば便ち諂媚に近づく。下に結交するは当に和易すべきも、和易の頭を過ぎれば便ち軽慢に近づく。両者の界線は極めて細し、これすなわちいわゆる「幾」なり。「石に介たり」とは、心地の極めて静にして私欲なく、分量の極めて重にして軽々しく動揺せざるを説く。故に苗頭を見ること能くして豫卦の逸楽の裏に沈溺せず、因りて既に細微を知りまた彰顯を知り、既に柔順を知りまた剛健を知る。能く幾を察すれば則ち吉ありて凶なし、故に「幾」は吉の先兆という。
子曰:「顏氏之子,其殆庶幾乎。有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。《易》曰:『不遠復,無祗悔,無吉。』」此釋復初九爻義。庶幾,言近於也。天地絪縕,萬物化醇。男女構精,萬物化生。《易》曰:「三人行則損一人,一人行則得其友。」言致一也。此釋損六三爻義。天地氣化,男女形化皆以兩,故專一也。
子曰く、「顔回この人は、ほぼ幾を知るに近づくか。彼は一たび不善あれば自ら覚らざるなし、自ら覚りて後は再び犯すことなし。《易経》復卦初九の爻辞にいう、『行くこと遠からずして則ち返り、悔に至らず、吉』」と。この一段は復卦初九の爻義を解釈す。「庶幾」とは、すなわち接近するの意。(按ずるに、底本はここで「元吉」を「无吉」に訛れり、今はその旧に仍る。)天地の二気は交密纏綿し、万物はこれより化育凝厚す。男女は精気を交合し、万物はこれより化生す。《易経》損卦六三の爻辞にいう、「三個の人同行すれば則ち一人を減じ、一個の人独行すれば却って伴侣を得」、講ずる所は専一に帰するを以てなり。この一段は損卦六三の爻義を解釈す。天地は気を以て化生し、男女は形を以て化生す、皆両方の相配するに憑るを要す、故に専一を貴ぶ。
子曰:「君子安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求。君子修此三者故全也。危以動,則民不與也。懼以語,則民不應也。無交而求,則民不與也。莫之與則傷之者至矣。《易》曰:『莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。』」此釋益上九爻義。易,平易也。易其心而後語,心平氣和故能言也。
子曰く、「君子は先ず自身を安穏ならしめて後に行動し、先ず心地を平和ならしめて後に発言し、先ず交誼を穩固ならしめて後に求むる所有り。君子はこの三条を修好す、故に行事周全なり。処境危殆にしてまた行動せば、民衆は則ち追従せず。心に恐懼を懐きて説話せば、民衆は則ち響應せず。毫も交情なくして往きて人を求めば、民衆は則ち給与せず。人の肯んじて給与するなくんば、則ち彼を傷害する者は将に来たらんとす。《易経》益卦上九の爻辞にいう、『彼に增益する者なく、却って彼を攻撃する者あり、立心して常を守る能わず、凶』」と。この一段は益卦上九の爻義を解釈す。「易」は平易の意。「その心を易うして後に語る」とは、心平気和して後に始めて説話を出だし得るを説く。
危以動則民不與,黨與之與也。無交而求則民不與,取與之與也。安其身,易其心,定其交,皆非立心有恆者不能。動而與,語而應,求而與者,物我一心而無間之者也。益之上九專利自益,故不徒無益而反有傷之者也。上傳七卦,下傳九卦十一爻皆夫子隨其意之所欲言,發明其義,以為學易者之法。學者觸類以及其餘,則易之道思過半矣。右第五章。
「危うくして動けば則ち民与せず」の「与」は、党与・附從の「与」なり。「交なくして求めば則ち民与せず」の「与」は、給与の「与」なり。自身を安穏ならしめ、心地を平和ならしめ、交誼を穩固ならしむるは、皆立心して常を守る能わざる人の為し得る所に非ず。行動して衆人附從し、発言して衆人響應し、求むる有りて衆人肯んじて給するは、人我が同じく此の一心にして、中間に隔閡なきを以ての故なり。益卦上九は一味に好処を独占して以て自ら肥やす、故に増益を得ざるのみならず、却って傷害を招来す。《繫辞上伝》の挙げたる七個の卦、《繫辞下伝》の挙げたる九個の卦・十一条の爻辞は、皆孔子の自らの言わんと欲する意思に随い、随処にその中の義理を闡発し、為に《易》を学ぶ者に法式を立つるなり。学者は能くこれより触類旁通して其余に推及せば、則ち《易》の道理もまた领会すること大半ならん。以上《繫辞下伝》第五章。
系辞下・第六章(乾坤を易の門と為し吉凶を断じて民疑を決すを言う)
第六章言乾坤為六十四卦之所從出,其究無非斷吉凶以決民疑也。子曰:「乾坤其易之門耶。乾,陽物也。坤,陰物也。陰陽合德而剛柔有體。以體天地之撰,以通神明之德。」
本章は乾・坤の両卦が六十四卦の従って出づるの源頭たるを説明し、而して《易》の最終の用処は无非る吉凶を判断し百姓に為に疑難を解決するなり。子曰く、「乾・坤はほぼ《易》の門戸なるか。乾は陽性の物、坤は陰性の物なり。陰と陽の徳性は相合し、ここに於て剛爻柔爻は各々形体あり。これを以て天地の事功を体察し、これを以て神明の徳性を會通す」と。
六十四卦不外陰陽闔闢而成,故乾坤為易之門。有形質曰物。有奇有偶,則有形有質矣。以二物之德言。則陽與陰合,陰與陽合,而其情相得。以二體言。則剛自剛,柔自柔,而其質不同。撰,猶事也。雷風山澤之類也,可得見者也。可見者以此二物體之。德,順健動止之類也,不可測者也。不可測者以此二物通之。
六十四卦は无非る陰陽の閉合と開啓の配搭より成る、故に乾坤は《易》の門戸なり。凡そ形体质地有るを「物」と呼ぶ。奇画あり偶画あり、則ちまた形体质地有るなり。陰陽両物の徳性に就きて説けば、陽は陰と相合し陰は陽と相合し、両者の情意は彼此投契す。陰陽両種の卦体に就きて説けば、剛は剛に帰し柔は柔に帰し、両者の質地は各々相同じからず。「撰」とは、猶お事功を説くが如く、雷・風・山・沢の这一类すなわち是れ、皆眼睛の看り見得る所、看り見得るは則ち陰陽の二物を以てこれを体察す。「徳」とは、健・順・動・止の这一类、皆測度し得ざる所、測度し得ざるは則ち陰陽の二物を以てこれを會通す。
其稱名也,雜而不越。於稽其類,其衰世之意邪。萬物雖多,無不出於陰陽之變。故卦爻之義,雖雜出而無差謬。衰世,本義謂指文王與紂之時。蓋伏羲畫卦之時,理雖無所不具。然人心淳質,未有歷其事者。世衰道微,情偽滋多。至文王與紂之時,則經歷崎嶇險阻,故其言曲盡偽艱險。蓋聖人憂世之心,有不得已焉者也。
《繫辞》にいう、《易》の称挙する名目は紛雑なりと雖も、而して陰陽の範囲を逾越せず。それの帰する類別を考察せば、ほぼ衰乱の世の憂思を含めるか、と。万物は衆多なりと雖も、一様として陰陽の変化に自らざるなし、故に卦辞爻辞の義理は紛然雑出するも差錯なし。いわゆる「衰世」とは、朱熹《周易本義》は文王と商紂の時代を指すと認む。当初伏羲の画卦の時、道理は備わらざるなき虽も、但し人心は淳厚質朴にして、未だあれらの世事を真正に経歴する者あらず。世道衰微・虚情仮意の日益に滋長するに至りて、文王と紂の時代には、人は已に崎嶇険阻を歴尽せり、故に文王の繫げたる辞は人情の虚偽と処境の艱険を説きて曲折入微なり。これ正に聖人の世道を憂念する心の流露にして、せざるを得ざるの苦衷あり。
夫易,彰往而察來,而微顯闡幽。開而當名辨物。正言斷辭則備矣。而微顯當作微顯而。開而之而亦有悞。彰往,謂陰陽消長卦畫已具也。察來,謂事之未來吉凶因卦爻以斷也。微顯,謂即人事推之天道。顯者微之,使求其原也。闡幽,謂本天道驗之人事。幽者闡之,使求其端也。當名,謂父子君臣之分,上下貴賤之等,各當其位也。辨物,如乾馬坤牛離火坎水,悉辨其類也。正言,如元亨利貞、直方大之言。正其言以曉人也。斷辭,如利涉大川、不利涉大川、可小事、不可大事。以決人之疑也。
《繫辞》にいう、《易》は能く既往を彰明し未来を察知し、顕露のものを幽微に推し、幽隠のものを闡発し出し、巻を開きて名分各々当たり物類分明、措辞端正にして断語明確、ここに於て《易》の功用は則ち完備す、と。(按ずるに、「而微顕」は「微顕而」と作るべし、「開而」の「而」の字もまた訛誤あり。)「彰往」とは、陰陽の消長が卦画上に已に具備するを説く。「察来」とは、未だ到来せざる事情、その吉凶は卦爻を憑りて判定すべきを説く。「微顕」とは、人事上より天道を推求し、顕露の事を幽微の処に推し、人をしてその本原を找求せしむるをいう。「闡幽」とは、天道に依りて人事上に印証し、幽隠の理を闡発し出し、人をしてその端緒を找求せしむるをいう。「当名」とは、父子君臣の名分・上下貴賎の等級が各々その位に当たるを説く。「辨物」とは、乾は馬に象を取り坤は牛に象を取り離は火と為り坎は水と為るが如く、物類を一々分辨して清楚と為すをいう。「正言」とは、「元亨利貞」「直方大」の这一类の言の如く、その言辞を端正にして世人に曉喻すをいう。「断辞」とは、「大川を渉るに利し」「大川を渉るに利あらず」「小事可」「大事不可」の如く、以て人に為に疑惑を決断すをいう。
其稱名也小,其取類也大。其旨遠,其辭文。其言曲而中,其事肆而隱。因貳以濟民行,以明失得之報。此節上六句抑揚其辭,而總以因貳以濟民行二語結之。負乘往來,事之小。茅棘雞豕,物之小。然取類皆本於陰陽,則大矣。其旨皆陰陽道德性命之秘,遠而難窺。其辭則經緯錯綜有文,燦然可見矣。委曲其辭者,未必皆中乎理。易則委曲而無不合理。敷陳其事者,無有隱而不彰。易則事雖畢陳,而理之所以然未嘗不隱也。貳,疑也。報,應也。承上言凡若此者。無非因民之疑貳而決之。以濟其所行,而明得失吉凶之應也。大全吳氏謂專指彖辭。其實彖爻皆然,宜兼言之。右第六章。
《繫辞》にいう、《易》の称挙する名目は細小にして、取る所の物類は却って宏大。旨意は深遠、文辞は条理に富む。言は説きて曲折にして切中せざるなく、記する所の事は鋪陳し開きて而して理趣は仍お含蓄あり。それは人心の疑貳に順い以て百姓の行事を幇助し、従って得失の報應を昭示す、と。この一節の前の六句は一抑一揚して《易》の辞を形容し、最後に「貳に因りて以て民行を済す」の両句を以て総收す。物を背負いてまた車に坐り、来来往往するは、これは小事なり。茅草・荆棘・鶏・猪は、これは小物なり。然るに類を取るは皆陰陽に本づけば、則ち宏大なり。その旨意は皆陰陽・道徳・性命の隠微の処にして、深遠にして窺見し難し。その辞句は則ち縦横交錯して自ら文理あり、燦然として睹るべし。一般人は言を説きて曲折なれば、未だ必ずしも句句理に合せず、《易》は却って曲折にして理に合せざるなし。一般人は事を鋪陳し開けば、則ち隠れて彰らざるなし、《易》は却って事情已に説き尽くせども、而してその所以然の理は仍お含蓄して未だ露われず。「貳」は疑惑、「報」は感應なり。上文を承けて説けば、凡そこの種種は、无非る百姓の疑惑に順いて彼らに為に決断し、以てその行う所を助成し、并びに得失吉凶の應験を昭示するなり。《周易大全》の載する所の呉氏はこの節を専ら彖辞を指すと認む、其実は彖辞爻辞皆この如し、当に合わせて講ずべし。以上《繫辞下伝》第六章。
系辞下・第七章(三たび九卦を陳べて以て憂患に処るの道を明らかにす)
第七章三陳九卦以明處憂患之道。易之興也,其於中古乎。作易者,其有憂患乎。易指文王所繫之辭。伏羲畫卦,夏商雖以占卜,未有其辭。自文王拘於羑里,身經患難而係彖辭,教人以反身修德。故曰其有憂患乎。下文舉九卦之名,以見其憂患之意,因即此示人以處憂患之道也。
本章は三次に同じ九個の卦を列挙し、以て身を憂患に処する時の自処の道を説明す。《繫辞》にいう、《易》の興起は、ほぼ中古の時代に在れるか。《易》を作す者は、ほぼ心に憂患を懐けるか、と。ここの「易」とは、文王の繫げたる卦爻辞を指す。伏羲はただ卦を画くのみ、夏商の両代はそれを以て占卜すと雖も、而して未だ文辞あらず。文王が羑里に囚禁せられてより、身自ら患難を経歴して彖辞を繫げ、人をして反躬自省し徳行を修養せしむ、故に彼を「憂患有り」という。下文は九個の卦名を挙出し、借りて文王の憂患の意を顕出し、并びにこれに就きて世人に憂患に処るの方法を指点す。
是故履,德之基也。謙,德之柄也。復,德之本也。恆,德之固也。損,德之修也。益,德之裕也。困,德之辨也。井,德之地也。巽,德之制也。九卦皆反身修德以處憂患之事也。基所以立。履,禮也。上天下澤定分不易。必謹乎此,然後其德以有基而立也。柄所以持。謙者自卑以尊人,為禮者之所當執持而不可失者也。復為反善之義。人性本善,蔽於物欲則流於惡。能於念慮之萌人所不知己所獨知之處,審其幾而復於善。則火然泉達,萬善從此推廣。是德有其本也。
故にいう、履卦は徳の基址、謙卦は徳の把柄、復卦は徳の根本、恒卦は徳の穩固、損卦は徳の修治、益卦は徳の寛裕、困卦は徳の辨験、井卦は徳の地基、巽卦は徳の裁断なり、この九個の卦の講ずる所は皆反躬して徳を修め以て憂患に應対するの事なり。「基」は以て身を立つるを用とす。履はすなわち礼なり、上は天と為し下は沢と為し、尊卑の名分は一定にして移易すべからず、必ずこの上頭に於て謹守せねば、徳性に基址有りて立ち住むを得ず。「柄」は以て把持するを用とす。謙は自ら処ること卑下にして他人を尊崇す、正に礼を行う者の当に執持して失うべからざるものなり。復卦は善性に返るの義を取る。人性は本来は善なり、物欲に遮蔽せられて始めて悪に流る。能く念頭の剛に萌動し别人知らずして自ら独り知るの処に於て、あの一点の苗頭を審察して善上に帰到せば、則ち火苗の剛に燃え泉水の初めて湧くが如く、万善は皆これより推広し開く、これすなわち徳に根本有るなり。
所守游移則德不固,恆則守不變而常且久矣。損者懲念窒慾,所以修其身也。益者遷善改過,使善日長而充裕也。人處困窮,出處語默取予辭受可以觀德。明辨於此,以自驗其學問之力。又困而能通則可辨其是,困而不通則可辨其非矣。井有本,故澤及於物而井未嘗動。如人之有德而所施及人,德性初未嘗動。故曰德之地也。巽為資斧,有斷制之象。蓋巽不止於順。以一陰入二陽之下,順而能入。故曰德之制也。比皆修德之具,不必言功夫次第。
守る所の立場は遊移不定なれば、徳性は穩固ならず。恒卦は則ち持守して変わらずして能く長久なり。損卦は忿怒を抑止し私欲を堵塞し、以て自身を修治す(底本「懲忿」は「懲念」に訛れり)。益卦は善に遷り過を改め、善念をして一天一天に生長して充裕せしむ。人は困窮の中に処り、出仕か還た隠退か、説話か還た沈黙か、索取か還た給与か、接受か還た推辞か、最も徳性を看出し得。これらの処に於て辨じて分明なれば、正好く以て自らの学問の分量を検験すべし。而且に困にして能く通達すれば、以て彼の是なるを辨出すべし。困にして通達する能わざれば、以て彼の錯なるを辨出すべし。井は泉源あり、故に恩沢は万物に施及して而して井自体は并な移動せず、人に徳性有りて恵を人に施及するも、徳性自体は未だ嘗て動揺せざるが如し、故に井は徳の地基という。巽卦は「資斧」の象あり、裁断決制の意思を含む。原来巽はただ柔順に止まらず。一個の陰爻を以て両個の陽爻の下に潜入す、是れ柔順にして又能く深入す、故に巽は徳の裁断という。この九卦は皆徳を修むるの工具、必ずしも先後次第を強分するを要せず。
履和而至。謙尊而光。復小而辨於物。恆雜而不厭。損先難而後易。益長裕而不設。困窮而通。井居其所而遷。巽稱而隱。此如書之言九德也。禮本人情,和也。和則或疑非其至。然各得其所而不亂,則至極無以加矣。自尊者,雖尊而不光。唯謙則己雖卑,而人尊之且益光也。復一陽之微,而不亂於群陰。猶善端之萌,非眾惡所能遏也。
《繫辞》の第二次の列挙にいう、履は和悦にしてまた極処に至り、謙は自卑にして反りて光を顕し大なり、復は幽微にして能く物事を辨別し、恒は繁雑を歴経して而して厭倦せず、損は先ず難しくして後に易し、益は善をして増長充裕せしめて而して造作を仮らず、困は窮厄にして能く通達し、井は本処に居りて而して恩沢は流遷し、巽は事宜を称量して而して形迹は隠微なり、と。これは《尚書・皋陶謨》の九徳を講ずる説法の如し。礼は人情に本づく、故に「和」なり。既に和易なれば、人或いはそれの未だ極処に至らざるを疑わん、但し礼は万事をして各々その所を得て錯乱せざらしむ、則ちあれは極致にして加うるに以てするなし。自らを抬高する人は、尊位に居る虽も光彩ならず。唯だ謙下のみ、自ら卑位に処る虽も、别人は却って彼を尊崇し、因りて愈々光大す。復卦はただ一個の陽爻の微弱の力あり、而して衆多の陰爻に攪乱せられず、則ち善端の剛に萌発するが如く、衆悪の遏止し得る所に非ず。
恆既歷久,豈能無雜。然其德有常,雖歷煩雜而不厭也。損如懲忿窒欲。其始雖難,純熟之後乃易矣。益但充長其本然,而初無所造作。困者身困道亨,故通。井不動而及物。所施不窮,所謂遷也。巽能順理因時,稱物之宜。而性入而伏,形跡不露。猶風之動,物不見其形,所謂隱也。此正言九卦才德之善,以見能為修德之具。如履和而至,所以為修德之基。若和而不至,則不可為基矣。餘倣此。
恒卦は既に歴時長久なれば、何ぞ紛雑に遇わざるを得ん。但しその徳性に常有り、煩雑を経る虽も而して厭倦を生ぜず。損卦は忿怒を抑止し私欲を堵塞するが如く、起初は難しき虽も、做りて純熟したる後は則ち容易なり。益卦はただ人の本有の善性を拡充生長するのみ、起初は并な人為の造作なし。困卦は身に困厄に処りて而して道は反りて通達す、故に「通」という。井卦は自身動かずして而して恩沢は物に及び、施与する所は窮尽なく、これすなわちいわゆる「遷」なり。巽卦は能く事理に順い時宜に因應し、事物の分寸を称量し、而してその性質は深入潜伏して形迹を露わさず、風の吹動に好比す、万物はただその力を覚えて而してその形を見ず、これすなわちいわゆる「隠」なり。この一節は正面に九卦の才性徳行の善を説き、以てそれらの能く徳を修むるの工具に充当するを見んとす。譬えば履は和悦にしてまた極処に至る、故に能く徳を修むるの基址と為す。若しただ和悦にして極処に至らざれば、則ち基址と為す能わず。其余の八卦はこれに依りて類推す。
履以和行。謙以制禮。復以自知。恆以一德。損以遠害。益以興利。困以寡怨。井以辨義。巽以行權。人之所行不由禮則乖,故履所以和其行也。謙主卑下。禮以謙為主,所以制乎禮也。復則良知不為欲蔽,以自知也。恆則有始有終,所以一德也。損以遠忿欲之害。益以興遷改之利,知守其困,處之有道,則少有所怨尤。遷徙於義,非辨安能遷。而井靜而生明,故於義能辨之。巽則義精仁熟,精微委曲,無所不入。所謂可與權也。
《繫辞》の第三次の列挙にいう、履は以て行事を調和し、謙は以て礼数を節制し、復は以て反省して自ら知り、恒は以て徳性を専一にし、損は以て禍害を遠離し、益は以て利益を興起し、困は以て怨尤を減少し、井は以て義理を辨明し、巽は以て権変に通達す、と。人の行事は礼に依らざれば則ち乖違す、故に履は能くその行を調和す。謙は卑下を以て主と為し、而して礼はまた謙を以て主と為す、故に謙は能く礼を節制す。復卦は則ち良知は私欲に遮蔽せられず、因りて能く自ら知る。恒卦は則ち始あり終あり、因りて能くその徳を専一にす。損は以て忿怒私欲の害を遠離し、益は以て善に遷り過を改むるの利を興起す。困に安守しこれに処るに道あるを懂得すれば、怨尤は自然少なし。義上に遷移せんと要す、辨明せざれば又何ぞ遷り動くを得ん。井水は静止して而して能く明鑑を生出す、故に義に対し能く辨別し得。巽卦は則ち義理精熟・仁徳純熟、精微曲折にして入らざるなし、すなわち孔子のいう所の「与に権すべし」の境界なり。
始於守禮,終於達權,先後亦有其序也。此章凡三陳九卦。首言九卦為修德之具。次言九卦之善,所以可為修德之具。終乃言用九卦以處憂患之道。然九卦非專以處憂患。易言處憂患者,亦不止於九卦。夫子偶舉其近似者言之,以為學者之法而已。右第七章。
礼法を謹守するより始まり、権変に通達するを以て終わり、先後の間もまた自ら次序あり。本章は一に三次この九個の卦を列挙す。第一次は九卦が徳を修むるの工具なるを説き、第二次は九卦自体の美善がそれらをして徳を修むるの工具に充当し得らしむるを説き、最後に始めて九卦を運用して憂患に應対するの方法を説く。不過ぎ九卦は并な専ら憂患に應対するが為に設くるに非ず、《易》の中に憂患に処るを講ずるもまたこの九卦に止まらず、孔子は不過ぎ随手に数個の近似するを挙出して説く、為に学者に法式を立つるのみ。以上《繫辞下伝》第七章。
系辞下・第八章(易は遠ざるべからずして終に典常あるを言う)
第八章言易之不可離,而深有望於率辭揆方之人也。易之為書也不可遠,為道也屢遷。變動不居,周流六虛。上下無常,剛柔相易。不可為典要,唯變所適。按,本義,遠猶忘。大全林氏謂人生日用不可須臾離者道,即一陰一陽之道。變動,卦爻之變動也。屢遷不居,非一定也。六虛,即六爻。六爻剛柔往來如寄,非實有也,故曰虛。典,常也。要,約也。不可為典要,唯變所適,所貴變易以從時而已。
本章は《易》の書が人の一刻も離れる能わざるなるを説明し、并びに深切にあの能く卦爻辞に循いてその意向の在所を揣度する者に寄望す。《繫辞》にいう、《易》は一部の書と為して、是れ疎遠すべからず。それの講ずる所の道は、則ち屡屡遷移す。爻の変動は一処に停留せず、六個の虚位に周流す。上上下下に常態なく、剛爻柔爻は互相に更替し、以て固定の成法と簡約の定例と為す能わず、ただ変化の往く所に随うのみ、と。按ずるに、朱熹《周易本義》は「遠」は猶お「忘」の如しと説く。《周易大全》の載する所の林氏は、人生の日用の間に片刻も離れる能わざるは「道」にして、すなわち「一陰一陽これを道と謂う」の道なりと認む。「変動」とは、卦爻の変動を指す。「屡遷して居らず」とは、一定なきを説く。「六虚」とはすなわち六爻、六爻の剛柔往来は暫寄するが如く、并な実有に非ず、故に「虚」と呼ぶ。「典」は常法、「要」は定例なり。「典要と為すべからず、唯だ変の適く所のみ」、貴ぶべきは正に時に随い変易して以て時勢に順應するのみなり。
其出入以度,外內使知懼。此句疑有脫誤。大要謂易雖不可為典要,然或出或入,在內在外,皆有一定之法度,無非使人知戒懼而已。又明於憂患與故。無有師保,如臨父母。所以然曰故。明於憂患,且知其所以然之故。憂患之來,苟不明其故,則人有苟免之心。易明憂患而明其所以致之故,故人知自反也。蓋易本聖人吉凶與民同患之書。雖無師保,而常若父母臨之。則不徒教之誨之,且使人有所怙恃,有所瞻依。此極言易之切於人,而戒懼之不可以已。此易所以不可遠也。
《繫辞》にいう、その出入は皆法度あり、外に在ると内に在るとを論ぜず人をして戒惧を知らしむ、と。この一句は疑わしく脱漏訛誤あり。大意を説けば、《易》は固定の成法と為すべからずと雖も、然るに或いは出で或いは入り内に在り外に在るも、皆自ら一定の法度あり、无非る人の心に戒惧を存せしめんと欲するのみ。《繫辞》はまたいう、《易》は人をして憂患およびそのかくの如くなる所以の縁故を明白ならしむ。師傅保傅の旁に在るなき虽も、而して父母の親臨するが如し、と。事情のかくの如くなる所以を「故」と呼ぶ。憂患を明白にし、并びにその到来する所以の縁故を知る。憂患が頭に臨む時若し縁故を明白せざれば、人はただ僥幸にして躲開せんとする心を存すのみ。《易》は既に憂患を指明し、また憂患を招致するの縁故を指明す、人はこれに因りて反躬自省を懂得す。《易》は本は聖人が百姓と憂患吉凶を同じくするの心を懐きて作れる書にして、師保の旁に在るなき虽も、而して常に父母が身前に臨むが如し。こうあれば則ちただ人を教誨するのみならず、還た人をして依恃する所有り瞻仰する所有らしむ。これは極力に《易》と人の切近なるを形容し、戒惧の心は一刻も停歇すべからず、また正に《易》の疎遠すべからざるの縁故なり。
初率其辭而揆其方,既有典常。苟非其人,道不虛行。方,向也。初對既言。初,始也。既,終也。始由其辭以度其意之所向。則其書雖不可為典要,而其辭終則有典可循,有常可則也。然神而明之存乎其人,視其率辭揆方何如耳。苟非其人,道又何以行哉。此章總論易書之不可遠,變動不拘而終有典常。而後以非其人不行結之,深有望於學易者也。右第八章。
《繫辞》にいう、起初は卦爻辞に循い以てその意向を揣度し、末了に到れば則ち常法ありて依るべし。仮にあの様の人に非ざれば、この道もまた空に自ら行われず、と。「方」は意向なり。「初」と「既」は相対し、「初」は開始、「既」は終了なり。開始の時は卦爻辞を憑りてその意思の指向を揣度す、則ちこの書は固定の成法と為す能わずと雖も、可なりその辞は末了に到りて則ち典則ありて遵循すべく常道ありて取法すべし。不過ぎ能く神會して明察するは、全く人に在り、則ち彼の辞に循い意を揆する功夫の如何を看る。若しあの様の人に非ざれば、道はまた何を憑りて施行せんや。本章は総論《易》書の疎遠すべからざるを、変動拘らずと雖も而して終究に常法ありて依るべし。末了は「その人に非ざれば行われず」を以て結と為す、是れ深切に《易》を学ぶ者に寄望するなり。以上《繫辞下伝》第八章。
系辞下・第九章(専ら爻画を論じて以て人に示す)
第九章專論爻畫以示人也。易之為書也。原始要終,以為質也。六爻相雜,唯其時物也。質謂卦體。時謂六位之時。物謂陰陽二物。凡八卦及六十四卦所取龍馬豕雞之類,皆物也。卦有定體,故曰質。爻無定用,故曰時。言聖人之畫卦,必原其事之始,要其事之終,以為一卦之體質。六爻則剛柔相錯雜,隨其時而辨其物。占者吉凶各因其所值,無一定也。此節總言聖人作易立卦生爻之義,下文乃因分諸爻之為用而詳言之。
本章は専門に爻位の画象を討論して以て学者に指示す。《繫辞》にいう、《易》のこの書は、事情の開端を推原し事情の終局を帰結し、これを以て一卦の体質と為す。六爻は互相に錯雑し、講ずる所はただ処する所の時と取る所の物なり、と。「質」は卦体を指し、「時」は六個の爻位の各々の時機を指し、「物」は陰陽両種の物類を指す。凡そ八卦および六十四卦の取る所の龍・馬・猪・鶏の類は、皆「物」に属す。卦は固定の体あり、故に「質」と呼ぶ。爻は固定の用なし、故に「時」と呼ぶ。これは聖人の画卦は、必ず一件の事の起点を推原し一件の事の終点を帰結し、以て一卦の体質を構成することを説く。六爻は則ち剛柔互相に錯雑し、処する所の時に随いて取る所の物を分辨す。占筮する者の得る所の吉凶は、各々彼の遇う所の爻に依り、并な一定なし。この一節は総説聖人の《易》を作し卦を立て爻を生ずるの意旨、下文は始めて各爻の用処を分かちて詳しく講ず。
其初難知,其上易知,本末也。初辭擬之,卒成之終。此承上文原始要終,而言初上二爻也。原其始,則初爻為本。本質未明,故難知。要其終,則上爻為末。末質已著,故易知。難知者,所繫之辭,必擬議之而後得。易知者,但卒其卦之辭,以成其卦之終而已。
《繫辞》にいう、初爻は知り難く、上爻は知り易し、一個は本にして一個は末なるを以てなり。初爻の辞は擬比推求を倚りて要し、上爻の辞は則ち全卦を收束して以てその終局を成す、と。これは上文の「原し要す」を承けて単に初・上の両爻を説く。その開端を推原すれば、初爻はすなわち根本、根本の質性は未だ顕明せざれば、故に知り難し。その終局を帰結すれば、上爻はすなわち末梢、末梢の質性は已に顕著なれば、故に知り易し。知り難きは、繫ぐる所の辞は必ず反复擬比商量したる後に始めて出だすを得。知り易きは、ただ全卦の辞意を收束してこの一卦の終局を成就せば則ち行けり。
若夫雜物撰德,辯是與非,則非其中爻不備。按,本義此謂卦中四爻。按,大全吳氏謂論正體。則二為內卦之中,五為外卦之中。論互體。則三為內卦之中,四為外卦之中。故皆謂之中爻。今按,中爻之義宜從本義,以全卦之中言之。而經文備字宜兼正互體為言。物者,爻之陰陽。德,即健順動止之德。爻有中不中正不正有應無應,則皆有是與非矣。有內外卦之物與德,有互卦之物與德。故備。
《繫辞》にいう、物類を錯雑し徳性を撰述し、是と非を辨別するに至っては、則ち中間の数爻に非ざれば斉備する能わず、と。按ずるに、朱熹《周易本義》はここの「中爻」は一卦の当中の第二・三・四・五のこの四爻を指すと認む。また按ずるに、《周易大全》の載する所の呉氏は、若し本卦正体を論ぜば、則ち二は内卦の中・五は外卦の中。若し互体を論ぜば、則ち三は内卦の中・四は外卦の中、故にこの四爻は皆中爻と称すと認む。今按ずるに、「中爻」の含義は当に《本義》に依従し、整卦の中間部分に就きて説くべし。而して経文の「備」の字は則ち当に正体と互体の両面を兼顧して講ずべし。「物」は爻の陰陽属性を指し、「徳」はすなわち健・順・動・止の这一类の卦徳なり。爻に居中と居中せず・当位と当位せず・応ありと応なしの分別あり、ここに於て皆是と非有るなり。既に内卦外卦の物と徳あり、また互卦の物と徳あり、故に「備」という。
噫。亦要存亡吉凶,則居可知矣。知者觀其彖辭,則思過半矣。上文既分言初上二爻及中四爻,此又總六爻言之。而歸重於彖,以結章首原始要終之意也。存亡者,陰陽之消息。吉凶者,事情之得失。一卦所言不一,要其存亡吉凶之所歸,則六爻之義居然見矣。然知者見事於未形。雖不觀六爻之義,但觀其彖辭已得十之五六矣。蓋彖者原始要終以為質。或論二體,或論主爻,或論綜卦,相易之爻大意已該。知者觀之,無待於爻也。觀此,則爻辭有疑義,宜求之彖可知矣。
《繫辞》は感嘆していう、噫、ただ存亡吉凶に帰結せば、安坐して以て明白にすべし。明智の人は彖辞を看一看すれば、則ち领会すること一大半なり、と。上文は既に初・上の両爻と中間の四爻を分説せり、ここにまた六爻を総合して講じ、而して分量を彖辞上に帰し、以て本章の開頭の「原し要す」の意思を收束す。「存亡」は陰陽の消長、「吉凶」は事情の得失なり。一卦の講ずる所の頭緒は一ならず、ただその存亡吉凶の落点を帰結せば、六爻の義理は自然顕現す。況んや明智の人は能く事情の未だ成形せざる時に端倪を看出す。仮令六爻の義理を看ずとも、ただ彖辞を看れば已に十之五六を得たり。彖辞は正に開端を推原し終局を帰結して一卦の体質を成すを以てなり、或いは上下両体を論じ、或いは卦主の爻を論じ、或いは綜卦を論じ、剛柔相易の爻の大意をも已にその中に包括せり。明智の人は一看すれば則ち知る、爻辞を看るを待つを必とせず。これより見れば、爻辞に若し疑難の処あらば、当に彖辞の中に至りて解を求むべし。
二與四同功而異位,其善不同。二多譽,四多懼,近也。柔之為道,不利遠者。其要無咎,其用柔中也。此以下論中爻。同功,謂皆陰位。異位,謂遠近不同。四近君,有僭逼之嫌,雖在上而多懼。二遠君,陰柔遠則難援。雖若不利而歸於無咎者,以二居下體之中也。爻尚中正而中可兼正。四雖得正,猶有不中之累,況不得正者乎。二雖不正,猶有得中之美,況兼得正者乎。
《繫辞》にいう、二と四は功用相同じくして位置相同じからず、両者の美善もまた一様ならず。二は称誉を得ること多く、四は憂懼あること多し、四の君位に離るること太だ近きを以てなり。柔順の道は、離るること遠きに対し本は有利ならず、可なり二爻の要帰は却って過ちなきに在り、正にその柔を用い而して中に居るを以てなり、と。ここより往下は皆中間の各爻を論ず。「同功」とは、二・四が皆陰位に属するを説く。「異位」とは、君位に距るの遠近相同じからざるを説く。四は君位に緊挨り、僭越して上を逼るの嫌疑あり、上体に居る虽も而して憂懼多し。二は君位に遠離し、陰柔にしてまた疏遠、本来は援助を得難く、看似不利なれど而して過ちなきに帰す、正に二の下体の中に居るを以てなり。爻は中と正を貴ぶ、而して中に居るは往々にして正を得るを兼摂し得。四は当位して正を得る虽も、仍お中に居らざるの拖累あり、況んやあの位すら正ならざる者をや。二は当位せざる虽も、仍お中に居るの好処あり、況んやあの既に中にしてまた正なる者をや。
三與五同功而異位。三多凶,五多功,貴賤之等也。其柔危,其剛勝耶。三五同陽位而貴賤不同。三以臣之賤而居下卦之上,故多凶。五以君之貴而居上卦之中,故多功。柔危剛勝,宜兼五三兩爻言之。五,君位也。柔居之則危,剛能勝之。故六居五多危,九居五多吉也。九居四不言其剛危,六居三則曰柔危者。蓋九居四,猶為剛而能柔。六居三則才柔志剛,所以危也。耶字,疑詞。蓋卦爻之大凡如此。若乾之九三履之九五,則剛亦間有危者矣。右第九章。
《繫辞》にいう、三と五は功用相同じくして位置相同じからず。三は兇険あること多く、五は功業あること多し、これは貴賎等級の差別なり。この両位に居る者は若し柔爻なれば則ち危険、若し剛爻なれば大抵勝任し得るか、と。三と五は同じく陽位に属するも而して貴賎相同じからず。三は臣下の卑賎を以て下卦の頂端に居る、故に凶多し。五は君主の尊貴を以て上卦の中位に居る、故に功多し。「柔は危く剛は勝る」の一句は、当に五・三の両爻を兼顧して講ずべし。五は君位、柔爻居り上がれば則ち危険、剛爻は始めて勝任し得、故に六は五位に居りて危難多く、九は五位に居りて吉慶多し。九の四位に居るはその剛にして危なるを説かず、六の三位に居るは却ってその柔にして危なるを説くは、九の四位に居るは畢竟は剛にして能く柔なるを以てなり。六の三位に居るは則ち才質柔弱にして心志剛強、故に危険なり。「耶」の字は疑い而して未だ定まらざるの語気、卦爻の大概の情形はこの如くなるを説く。若し乾卦九三・履卦九五の如きは、剛爻もまた間々危厲の時あり。以上《繫辞下伝》第九章。
系辞下・第十章(六爻の天地人の道を備うるを論ず)
第十章論六爻備天地人之道。而不外陰陽二物錯雜成文,以為得失吉凶之象。摠以見易書之廣大悉備也。易之為書也,廣大悉備。有天道焉,有人道焉,有地道焉。兼三才而兩之,故六。六者非他也,三才之道也。才者,能也。天能覆,地能載,人能參天地。故曰才。三畫已具,三才重之。以上二爻為天,中二爻為人,下二爻為地。蓋一而不兩,則專而無對。天獨陽無陰,地獨陰無陽。人之陰陽,亦孤而無偶,不生不成。必皆兼而兩之,天地人各有陰陽,然後其道全而不偏。
本章は六爻が天・地・人の三才の道を具備するを討論し、而して三才の道もまた陰陽両物の錯雑して文を成すの外になし、従って得失吉凶の象を構成す。総めては《易》書の広大完備を顕示せんと要す。《繫辞》にいう、《易》のこの書は、広大にして備わらざるなし、その中に天道あり・人道あり・地道あり。三才を兼合して各々両爻を以て表示す、故に六画なり。この六画は別のものに非ず、すなわち三才の道なり、と。「才」は能力なり。天は能く覆蓋し、地は能く承載し、人は能く天地を参賛す、故に「才」と呼ぶ。三画の八卦は已に三才を具備し、六画の重卦は不過ぎ三才を各々一層重ぬるのみ。上面の両爻は天、中間の両爻は人、下面の両爻は地なり。ただ一画有りて両画を成さざれば、則ち孤单にして対待なし。天はただ陽ありて陰なく、地はただ陰ありて陽なく、人の陰陽もまた孤零零として配偶なきならば、則ち生ずる能わず成す能わず。必ず皆兼ねて両と為り、天・地・人は各々自ら陰あり陽あり、こうあってこそそれらの道は完全にして偏ならず。
若各以所近而析其名,則在天為陰陽,五陽而上陰。在地為剛柔,初剛而二柔。在人為仁義,三仁而四義。皆兩之。道本如是,非聖人強安排之也。易之為書,所以廣大悉備也。至其位之上下取義,又有不可拘者。一卦中陰或居上,則地或為天。陽或居下,則天或為地。五為君位,則天道為人道。二為臣道,則地道為人道。是又變通取義,不可為典要者也。
若し各々相近いの処に就きて分別にそれらに立名せば、則ち天に在りては陰陽と呼ばれ、五爻は陽と為し上爻は陰と為す。地に在りては剛柔と呼ばれ、初爻は剛と為し二爻は柔と為す。人に在りては仁義と呼ばれ、三爻は仁と為し四爻は義と為す、皆成双成対なり。道は本来すなわちこの如く、并な聖人が勉强に安排し出だすに非ず。《易》のこの書の広大完備なる所以は、原因はすなわちここに在り。爻位の上下の取る所の義に至っては、また拘执すべからざるの処あり。一卦の中に若し陰爻上に居れば、則ち本は地に属する位置は或いは時に反って天と成る。陽爻下に居れば、則ち本は天に属する位置は或いは時に反って地と成る。五は君位、ここに於て天道は則ち人道と成る。二は臣位、ここに於て地道は則ち人道と成る。これはまた随宜に変通して義を取る、以て固定の成法と為す能わざるなり。
道有變動,故曰爻。爻有等,故曰物。物相雜,故曰文。文不當,故吉凶生焉。道有變動,指卦之全體自初至上各有不同。如乾之初潛二見三惕四躍,始終先後不同,非陰陽老少之變也。爻有等,謂高下遠近貴賤之差。物,即陰陽二物。有剛柔小大之分,即物也。物相雜,指陰爻陽爻之相間。有陰無陽,有陽無陰,則無所雜而文不見。自乾坤二卦之外,皆陰陽錯雜以成文者也。
《繫辞》にいう、道に変動あり、故にこれを「爻」と呼ぶ。爻に等次あり、故にこれを「物」と呼ぶ。物は相錯雑し、故にこれを「文」と呼ぶ。文に当たらざるあり、ここに於て吉凶は則ち産生す、と。「道有変動」とは、一卦の整体が初爻より上爻に至るまで各々相同じからざるを指し、例えば乾卦の初爻は潜龍・二爻は見龍・三爻は惕厲・四爻は或いは躍る、始終先後は各々一様ならず、ここに説く所は并な陰陽老少の変爻に非ず。「爻有等」とは、高下・遠近・貴賎の等差を指す。「物」はすなわち陰陽の両物、剛柔・小大の分別あり、これすなわち物なり。「物相雑」とは、陰爻陽爻の互相間隔するを指す。若しただ陰ありて陽なくただ陽ありて陰なければ、則ち錯雑するに由なく、文理もまた看り出だす能わず。乾坤の両個の純卦を除くの外、其余の各卦は皆陰陽錯雑して以て文を成す。
文有當否。陽居陽位當,居陰則不當。陰居陰位當也,居陽則不當。當者多吉,不當者多凶。然陽居二,或以剛中而吉。居四居上,或以剛而能柔為吉。陰居初,或以在下而吉。在五,或以柔中而吉。陽居初三五,或以過剛而凶。陰居二四上,又或以過柔而凶。則又因卦義所取,間有不同,未可執一為論也。此章上節言全卦兼三才之道,以見易道之大。此節則即六爻而言吉凶之所由著,亦以見廣大之悉備也。右第十章。
文理に当たると当たらざるとあり。陽爻は陽位に居れば是れ当たり、陰位に居れば則ち当たらず。陰爻は陰位に居れば是れ当たり、陽位に居れば則ち当たらず。位に当たるは吉多く、位に当たらざるは凶多し。然るに陽爻は二位に居るは、或いは時に剛健にして中に居るを以て吉を得。四位・上位に居るは、或いは時に剛にして能く柔なるを以て吉を得。陰爻は初位に居るは、或いは時に下に在るを以て吉を得。五位に居るは、或いは時に柔順にして中に居るを以て吉を得。陽爻は初・三・五のこれらの陽位に居るは、或いは時に反って剛強に過ぐるを以て凶を致す。陰爻は二・四・上のこれらの陰位に居るは、或いはまた時に柔弱に過ぐるを以て凶を致す。見るべし還た各卦の取る所の卦義を看るを要し、その間に出入なきにあらず、一条を死执して以て論断する能わず。本章の上一節は整卦の三才の道を兼備するを講じ、以て《易》道の大なるを見んとす。この一節は則ち六爻に就きて吉凶の顕現する縁由を講じ、同様に《易》道の広大にして備わらざるなきを見出さんと要す。以上《繫辞下伝》第十章。
系辞下・第十一章(文王の易を作るの意を明らかにす)
第十一章明文王所以作易之意。欲人懼以終始,歸於無咎而已。易之興也。其當殷之末世,周之盛德耶。當文王與紂之事耶。是故其辭危。危者使平,易者使傾。其道甚大,百物不廢。懼以終始,其要無咎。此之謂易之道也。
本章は文王の《易》を作すの用意を闡明す。不過ぎ人をして頭より尾に至るまで心に戒惧を存せしめ、最終に過ちなきに帰せんと欲するのみ。《繫辞》にいう、《易》の興起は、ほぼ正に殷商の末世・周朝の徳業方に盛んの時に当たれるか。ほぼ正に文王と商紂の間のあの段の事情に当たれるか。故に《易》の文辞は多く危惧の意あり。心に危惧を存する者は、《易》は彼をして平安ならしむ。軽慢自恃する者は、《易》は彼をして傾覆せしむ。その道理は極めて広大、万事万物は皆廃敗に至らず。頭より尾に至るまで常に戒惧を懐き、その要旨は不過ぎ一個の過ちなきを求むるのみ、これすなわち《易》の道理と呼ばるるなり、と。
前章已言易興於中古,作於憂患。此則明以屬之文王。蓋非末世,則情偽不如是之熾。非盛德,則易道無自而傳。以紂之末世遇文王之盛德,易之所由演也。危者有憂患之心,故辭多危懼也。其辭危懼,故凡人之知危懼者,使之安平。慢易者,使之傾覆。非易有意使之。蓋殖有禮,覆昏暴,天道之自然也。百物不廢,本義作萬物之理無不具。與上文不相接。
上一章は已に《易》の中古に興起し憂患に於て作れるを説き過ぎたり、この一章は則ち明確にこれを文王の身上に帰す。原来衰乱の末世に逢わざれば、人情の虚偽はあの地步に熾盛せざらん。徳業方に盛んの君子に遇わざれば、《易》道もまた流伝するに由なし。商紂の末世を以て文王の盛徳に遇う、これ正に《易》の推演を得たる所以の縁由なり。「危」は心に憂患を懐く、故に文辞は多く危惧の意を帯ぶ。文辞既に危惧なれば、ここに於て凡そ危惧を懂得する者は《易》は則ち彼をして安穏平順ならしめ、凡そ軽慢自恃する者は《易》は則ち彼をして傾覆敗亡せしむ。これは并な《易》が有意に彼らをこのように対待せんとするに非ずして、礼を守る者を扶植し昏暴なる者を傾覆するは、本は天道の自然なり。「百物廃せず」の一句に至っては、朱熹《周易本義》は万物の理は具備せざるなしと解す、これは上文の語脈と接せず。
來注,廢字即傾字也。謂此道甚大。近而一身,遠而天下國家。若常以危懼為心,皆不至於傾廢也。此說較勝。懼即憂危之意。憂懼於始者易,終而猶始者難。憂懼以終始,其要不過欲無咎而已。易之為道如此,學易者可以悟矣。右第十一章。
来知徳《周易集注》は則ち説く、「廃」の字はすなわち上文の「傾」の字、意思はこの道理の極めて広大にして、近きは一身に関わり遠きは天下国家に関わり、ただ常に危惧の心を存せば、皆傾覆廃敗に至らず。この講法は《本義》より更に一籌を勝る。「懼」はすなわち憂危の意。開頭に能く憂懼するは難からず、難きは末了に到りて還た開頭の如くするに在り。頭より尾に至るまで常に憂懼を存し、その要旨は不過ぎ一個の過ちなきを求めんと欲するのみ。《易》の道理は如此、《易》を学ぶ者はここより以て领悟する所有るべし。以上《繫辞下伝》第十一章。
系辞下・第十二章(乾坤の徳と繫辞の凡例を論ず)
第十二章首論乾坤二卦之德,因及全卦之功用。自八卦以象告以下,又總作易繫辭之大略。而末以人情立言不同,以明繫辭之不同也。夫乾,天下之至健也。德行恆易以知險。夫坤,天下之至順也,德行恆簡以知阻。
本章の開頭は乾・坤の両卦の徳性を論じ、これより全部の卦爻の功用に推及す。「八卦は象を以て告ぐ」以下は、また総じて聖人の《易》を作し辞を繫げるの大略を述べ、末尾は則ち人情の同じからず立言の各々異なるを以て、《易》の繫げる所の辞の彼此同じからざる所以を説明す。《繫辞》にいう、乾は天下の最も剛健、其の徳行は恒常平易にして能く険阻を予知し、坤は天下の最も柔順、其の徳行は恒常簡約にして能く阻難を予知す、と。
至健則所行無難,故易。至順則所行不煩,故簡。然皆本於憂患之心,皆知其難而不敢易以處之之意。下危曰險,乾體在上。自高臨下,知下之險而不敢進。健而知險,則不陷於險矣。上難曰阻,坤體在下。自下趨上,知上之阻而不敢越。順而知阻,則不困於阻矣。全易皆由乾坤二卦而生。乾坤二卦之德如此,則全易之貴於危懼可知。
至って剛健なれば、行う所は便ち難処なく、故に「易」と呼ぶ、すなわち平易なり。至って柔順なれば、行う所は便ち煩擾せず、故に「簡」という。但しこの両者は皆憂患の心に出で、皆其の難きを明知し而して敢えて軽率に処せざるの意思を含む。下に在りて可畏なるを「険」と呼ぶ、乾体は上に居り、高処より下方に俯臨し、下に険有るを知りて軽易に前進せず。剛健にして能く険を知れば、則ち険裏に陥り入ることなし。上に在りて難行なるを「阻」と呼ぶ、坤体は下に居り、下方より上方に趨向し、上に阻有るを知りて敢えて僭越せず。柔順にして能く阻を知れば、則ち阻裏に困ることなし。整部の《易》は皆乾坤の両卦より生出し、乾坤両卦の徳性は尚おこの如し、則ち整部の《易》の危惧を以て貴と為すもまた推想して知るべし。
能說諸心,能研諸侯之慮。定天下之吉凶,成天下之亹亹者。侯之二字衍文。說諸心,本義屬乾之事。蓋心與理會,有自然之妙,故以屬陽也。研諸慮,本義屬坤之事。蓋理因慮審,涉於作為,故以屬陰也。又事之未定者屬乎陽,故本義謂說諸心有以定吉凶。事之已定者屬乎陰,故本義謂研諸慮有以成亹亹。分屬亦是,亦不必過拘。
《繫辞》にいう、能く人の心をして悦怿せしめ、能く人の思慮を精審ならしめ、従って天下の吉凶を判定し、天下の勤勉不倦の事業を成就す、と。(「諸侯」の「侯」の字は衍文なり。)「心に説ぶ」は、朱熹《周易本義》は乾の事に帰す、心と理の相契合するは自ら一種自然の妙処あるを以てなり、故に陽に配属す。「慮に研ぐ」は、《本義》は坤の事に帰す、義理は思慮を倚りて審辨するを要し、已に作為に渉るを以てなり、故に陰に配属す。また、事情の未だ定まらざるは陽に属す、故に《本義》は「心に説ぶ」は能く吉凶を判定すと説く。事情の已に定まりたるは陰に属す、故に《本義》は「慮に研ぐ」は能く勤勉不倦の功を成就すと説く。このように分属するは固より説き通る可し、而してまた拘泥し過ぐるを必とせず。
是故變化云為,吉事有祥。象事知器,占事知來。變化者,陰陽之所為。云為者,人事之所作。人事與天道相符,則吉事有祥。如見乎蓍龜之類。言吉事則凶事在其中矣。變化云為,明也。吉事有祥,幽也。於變化云為,則象之而有以知器。凡有形之實事,皆器也。
《繫辞》にいう、故に天地の変化・人の言語行事の中に於て、吉事は皆征兆ありて尋ぬべし。象を観ること事に於てすれば則ち器物を知るを得、占問すること事に於てすれば則ち未来を予知し得、と。「変化」は陰陽の造作する所、「雲為」は人事の造作する所なり。人事と天道と相符せば、吉事は則ち祥兆を顕出す、譬えば蓍草亀甲上に顕現するあの一类の如し。「吉事」と説くは、凶事もまたその中に包含せり。変化雲為は明処に属し、吉事に祥あるは幽処に属す。変化雲為に就きて言えば、以てそれに象を取りて器物を知暁し得。凡そ形有りて見ゆる実事は、皆「器」に属す。
于吉事有祥,則占之而有以知來。凡未形之吉凶悔吝,皆來也。此節言易之為書,具天道之變化,人事之云為。又吉凶皆有休祥之應。所以象事於此而知器,占事於此而知來也。天地設位,聖人成能。人謀鬼謀,百姓與能。
吉事に祥兆有るに就きて言えば、以てそれを占問して未来を予知し得。凡そ未だ成形せざる吉凶悔吝は、皆「来」に属す。この一節は《易》のこの書が、既に天道の変化を具備しまた人事の言語行為を具備し、而且に吉凶は皆征兆ありて應験すべしを説く、故にここに於て象を観ること事に於てすれば則ち器物を知暁し得、ここに於て占問すること事に於てすれば則ち未来を予知し得。《繫辞》はまたいう、天地は上下の位置を設定し、聖人はそれらの成す能わざるの功能を成就す。明処に於ては人に謀り、幽処に於ては鬼神に謀り、百姓をもこの份の功能の裏に参与せしむ、と。
天地設位而變化云為,吉事之祥已具。然此理不能以告人,聖人作易以成其功。使明則謀諸人,幽則謀諸鬼。而至愚之百姓亦因卜筮知所趨避,是百姓亦與其能也。蓋健順易簡知險知阻,天地之能也。說心研慮定吉凶成亹亹,聖人成天地所不及成之能也。云為之祥,象占之知。則百姓之能,得與於聖人已成之能也。
天地は一たび位を設ければ、変化と人の言行・吉事の祥兆は便ち皆具備す。但しこれらの道理は天地自ら人に告ぐる能わず、ここに於て聖人は《易》を作し以てこの一功用を成就し、人をして明処に於ては人に謀ることを得、幽処に於ては鬼神に謀ることを得、最も愚昧の百姓をも能く卜筮に憑りて吉に趨り凶を避くるを知らしむ、これすなわち百姓もまたこの份の功能に参与するなり。原来剛健柔順・平易簡約・険を知り阻を知るは、天地の功能なり。人の心を悦ばしめ人の慮を精にし吉凶を判定し勤勉を成就するは、聖人が天地の及ばざる所を成就したる功能なり。言行の中の祥兆・象を観ると占問との得る所の知見に至っては、則ち百姓の功能にして、百姓が聖人の已に成就したるあの份の功能を分かち享くるなり。
八卦以象告,爻彖以情言。剛柔雜居,而吉凶可見矣。象謂卦畫。八卦成列,象在其中,以象告也。至錯綜為六十四卦,爻彖所趨各異,則曲盡其情實而言之。上古觀象已告。後世情偽既多,非以情言不可也。爻彖之辭,因剛柔雜居有得有失。故吉凶於此見焉。此後乃詳言聖人爻彖所繫之辭,吉凶悔吝之所由著,以示學易者也。
《繫辞》にいう、八卦は卦象を用いて以て人に告げ、爻辞彖辞は情実を用いて以て講説す。剛爻柔爻は一処に雑居し、吉凶は便ち以て看出す可し、と。「象」は卦画を指す。八卦は行列に排し、象は已にその中に含む、これすなわち象を用いて以て人に告ぐるなり。錯綜して六十四卦と為るに及びて、爻と彖は各々の趨向同じからず、則ちその中の情実を曲折に説き尽くすを要す。上古の世はただ象を観れば則ち足れり、後世は人情虚偽日に多く、情実を説き出さざれば可ならず。爻辞彖辞は剛柔雑居に因りて得失あり、故に吉凶はすなわちここに顕現す。これより以下は便ち詳しく聖人が爻彖上に繫げたる辞および吉凶悔吝の顕現する縁由を講じ、以て《易》を学ぶ者に指示す。
變動以利言,吉凶以情遷。是故愛惡相攻而吉凶生,遠近相取而悔吝生,情偽相感而利害生。凡易之情,近而不相得則凶,或害之,悔且吝。此承上文剛柔雜居吉凶可見,而詳言繫辭吉凶悔吝之凡例也。易道變動,開物成務,以利言也。而卦爻之辭有吉有凶,則其情之有所遷耳。以下皆詳言吉凶以情遷之說。而以吉凶悔吝利害之三辭,由於相攻相取相感之三情。末復總以相近不相得之一情,使人推觀之也。命辭之法,必各象其爻之情。易之繫辭,不止言吉凶。蓋吉凶者,事之已成者也。吉凶之尚微而未成者,則曰悔吝。而其事之始商度其可否,則曰利不利,不利則害。
《繫辞》にいう、爻の変動は利害に就きて言う所、吉凶は則ち爻情の向背に随いて転移す。故に愛と悪は互相に攻撃し、吉凶は則ち産生す。遠と近は互相に求取し、悔吝は則ち産生す。真情と虚偽は互相に感應し、利害は則ち産生す。大凡《易》中の爻情は、両爻相近くして彼此投合せざれば、則ち凶、或いは傷害を受け、或いは悔あり吝あり、と。この一段は上文の「剛柔雑居、吉凶見る可し」を承接し、詳しく繫辞中の吉凶悔吝の通例を説明す。《易》道の変動は、万物を開通し事業を成就せんと要す、故に利害に就きて説く。而して卦爻の辞に吉あり凶あるは、則ち爻情に転移する所有るを以てなり。以下は皆「吉凶は情を以て遷る」のこの層の意思を詳説し、吉凶・悔吝・利害のこの三類の断辞を、相攻・相取・相感のこの三種の爻情上に帰す。末了は再用びて「相近くして而も相得ず」のこの一種の情を以て総括し、人をしてこれより其余を推求せしむ。繫辞の方法は、必ず各々あの一爻の情状を摹写す。《易》の繫げる辞はただ吉凶を講ずるに止まらず。吉凶は事情の已に定局したるなり。吉凶還た細微にして未だ定局せざるは、則ち悔吝と呼ぶ。而して事情が剛に開始して還た可否を斟酌するは、則ち利と不利と呼ぶ、不利は便ち害なり。
是易之辭有吉凶悔吝利害三者也。而其故,由於爻之情有相取相攻相感三者。相感者情之始交,故以利害言之。相取則有事矣,故以悔吝言之。相攻則其事極矣,故以吉凶言之。愛惡遠近情偽,姑就淺深言之。若錯綜言之。則相攻相取相感之情,其居皆有遠近,其行皆有情偽,其情皆有愛惡也。故總以相近一條明之。近而不相得,則以惡相攻而凶生矣,以偽相感而害生矣,不以近相取而悔吝生矣。是一近之中備此三條。
これより以て《易》の断辞に吉凶・悔吝・利害の三類あり、而してその縁故は爻情に相取・相攻・相感の三種有るに在るを知るべし。相感は情意が剛に交接を開始す、故に利害を以て説く。相取は就已に事有れり、故に悔吝を以て説く。相攻は則ち事情已に極処に到れり、故に吉凶を以て説く。愛と悪・遠と近・真情と虚偽は、姑く交接の深浅に就きて分説するなり。若し交錯して看れば、則ち相攻・相取・相感のこの三種の情は、その処する所は皆遠近の別あり、その行う所は皆真偽の別あり、その存心は皆愛悪の別あり。故に総じて「相近」のこの一条を用いて以て説明す。両爻相近くして而も投合せざれば、則ち悪を以て相攻して凶を生じ、偽を以て相感して害を生じ、近きに因りて相取る能わずして悔吝を生ず。見るべし単なる一個の「近」の字の裏に則ちこの三条を備うるを。
然不相得則惡相攻,偽相感,近不相取。則相得為愛相攻,情相感,近相取。可知不相得為凶害悔吝,則相得為吉利,悔亡,無悔無咎。可知夫子已言者三,其未言者三,其條例有六也。然凡爻有此爻,有應爻,有一卦之主爻,皆情之慾相得者。今稱近者,但即比爻言之。反以三隅,則主爻及應爻亦備此六條。以此十八條合之爻辭,則吉凶悔吝之大凡可知。
既に投合せざれば便ち悪を以て相攻し偽を以て相感し近く虽も而も相取らずなれば、則ち反ってこれ、投合は便ち愛を以て相攻し真情を以て相感し近きに因りて相取るは、これは推知し得べし。既に投合せざるの結果は凶・害・悔・吝なれば、則ち投合の結果は便ち吉・利・悔亡・无悔无咎は、これもまた推知し得べし。孔子の明説し出だせるは三条あり、明説せざるもまた三条あり、条例は共に六条を計す。再者、凡そ爻に本爻あり、これに相應する應爻あり、一卦の主爻あり、皆爻情の投合を要求する対象なり。ここに「近」と説くは、ただ比隣する爻に就きて講ず。一隅を挙げて以て三隅を以て反すれば、主爻と應爻もまた同様にこの六条を具備す。この十八条を用いて爻辞と比対せば、吉凶悔吝の大概の情形はすなわち掌握し得べし。
如頤上九之於六五,蹇上六之於九五,比爻之以愛相攻而吉者也。離之九三、九四,比爻之以惡相攻而凶者也。漸六四之於九三,賁上九之於六五,皆比爻之近相取而無咎悔者也。咸九三之於六二,小畜九三之於六四,皆比爻之近不相取而悔吝者也。賁六二之於九三,震六三之於六二,皆比爻之以情相感而有利者也。蒙六三之於九二,艮六二之於九三,皆比爻之以偽相感而有害者也。
下面は先ず「比爻」、すなわち上下に緊挨着する両爻を拿て、逐条に上文のあの六個の条例に対應す。頤卦上九の六五に対し・蹇卦上六の九五に対するは、相隣の両爻が愛を以て相攻して吉を得るなり。離卦の九三と九四は、相隣の両爻が悪を以て相攻して凶を致すなり。漸卦六四の九三に対し・賁卦上九の六五に対するは、皆相隣の両爻が貼近に因りて肯んじて彼此求取し、因りて過ちなく悔恨なし。咸卦九三の六二に対し・小畜卦九三の六四に対するは、皆相隣の両爻が貼近す虽も而も肯んじて彼此求取せず、因りて悔あり吝あり。賁卦六二の九三に対し・震卦六三の六二に対するは、皆相隣の両爻が真情を以て相感して利を得るなり。蒙卦六三の九二に対し・艮卦六二の九三に対するは、皆相隣の両爻が虚偽を以て相感して害を受くるなり。同じく「相攻」にして而も吉あり凶あるは、分別はただ存心の愛か悪かに在るのみ。同じく「相感」にして而も利あり害あるは、分別はただ交接の真情か虚偽かに在るのみ。
蒙九二之於六五,臨六五之於九二,皆應爻之以愛相攻而吉者也。大過九三之於上六,恆九三之於上六,皆應爻之以惡相攻而凶者也。損初九之於六四,睽九二之於六五,皆應爻之相取而無咎悔者也。屯六三之於上六,蒙六四之於初六,皆應爻之不相取而悔吝者也。蠱九二之於六五,賁六四之於初九,皆應爻之以情相感而有利者也。萃六三之於上六,歸妹六三之於上六,皆應爻之以偽相感而無利者也。
再び「應爻」を看る、すなわち初と四・二と五・三と上のこの三組の遥かに相呼應する両爻なり。蒙卦九二の六五に対し・臨卦六五の九二に対するは、皆應爻の愛を以て相攻して吉を得るなり。大過卦九三の上六に対し・恒卦九三の上六に対するは、皆應爻の悪を以て相攻して凶を致すなり。損卦初九の六四に対し・睽卦九二の六五に対するは、皆應爻の彼此求取して而して過ちなく悔恨なきなり。屯卦六三の上六に対し・蒙卦六四の初六に対するは、皆應爻の肯んじて彼此求取せずして悔あり吝あるなり。蠱卦九二の六五に対し・賁卦六四の初九に対するは、皆應爻の真情を以て相感して利を得るなり。萃卦六三の上六に対し・帰妹卦六三の上六に対するは、皆應爻の虚偽を以て相感して好処を得ざるなり。見るべしあの六個の条例は隔位相應の両爻上に放ちても一様に成立し、并な緊挨着の両爻に限らざるを。
比九五之於六二、六四,主爻之以愛相攻而吉者也。其於六三、上六,則以惡相攻而凶者也。大有六五之於九二、九四,主爻之以相取而無咎悔者也。蒙六四之於九二,豫六三之於九四,主爻之不相取而悔吝者也。復六四之於初九,剝六三之於上九,主爻之以情相感而有利者也。隨六三之於九五,觀六二之於九五,主爻之以偽相感而無利者也。易卦就主爻應爻論吉凶者多,就比爻論吉凶者不數。故夫子獨舉比爻以例其餘。又按,六爻有比有承有乘。先儒謂初與二比,三與四比,五與上比。而二三與四五則以承與乘言之。今曰近而不相得,則承與乘皆在其中。分之則比中又有承與乘,合之統謂比亦可。
再び一卦の「主爻」を看る、すなわち全卦の義の繫がる所のあの一爻なり。比卦九五の六二・六四に対するは、主爻の愛を以て相攻して吉を得るなり。それの六三・上六に対するは、則ち悪を以て相攻して凶を致すなり。大有卦六五の九二・九四に対するは、主爻の相取りて過ちなく悔恨なきなり。蒙卦六四の九二に対し・豫卦六三の九四に対するは、主爻の相取らずして悔あり吝あるなり。復卦六四の初九に対し・剥卦六三の上九に対するは、主爻の真情を以て相感して利を得るなり。随卦六三の九五に対し・観卦六二の九五に対するは、主爻の虚偽を以て相感して利を得る所なきなり。《易》中は主爻・應爻に就きて吉凶を論ずるは居多く、相隣の爻に就きて吉凶を論ずるは多からず、故に孔子は単に相隣の爻を挙げて例と為し、人をしてこれより其余を類推せしむ。又按ずるに、六爻の間に「比」あり・「承」あり・「乘」あり。先儒は初と二は相比し三と四は相比し五と上は相比すと説き、而して二と三・四と五の間は則ち「承」「乘」を用いて講ず。陰爻が陽爻の下に在りてそれを托するを「承」と呼び、陰爻が陽爻の上に圧るを「乘」と呼ぶ。如今「近くして而も相得ず」と説けば、則ち承と乘は已にその裏頭に包括せり。分かちて説けば、比の中にまた承あり乘あり。合わせれば、統めて「比」と称すもまた未だ嘗て可ならざるなし。
將叛者其辭慙,中心疑者其辭枝。吉人之辭寡,躁人之辭多,誣善之人其辭游,失其守者其辭屈。此又即人情之情偽其見於辭者不同如此,以見易之繫辭不同,亦猶是也。叛非叛逆,背實失信皆是。言與實背故慙。心疑則可否難決。如木之有枝,分為兩岐。誣善為惡,則言語不實。如物在水上,浮游不定。失守者見理不真,操持不固,故辭多屈而不伸。六者皆反對。叛者無信,疑者不自信。吉者靜,躁者動。誣者敗人,失守者自敗。然吉一而已。叛疑躁誣失居其五。人情之變盡於此矣。猶卦爻之情有相攻相取相感,而吉凶悔吝利害由此而生也。自八卦以象告至此,又發卦爻繫辭之凡例,以示學易者也。右第十二章。周易淺述卷七。
《繫辞》にいう、将に背叛せんとする人は、説話は慚愧を帯ぶ。心に遅疑する人は、説話は枝蔓分岔す。吉善の人は話少なく、躁急の人は話多し。好人を誣蔑する人は、言辞は浮游不定。操守を失掉する人は、言辞は屈曲して伸び難し、と。この一段はまた人情の真偽の言辞上に表現するかくの如く同じからざるに就きて、《易》の繫げる所の辞の彼此同じからざる所以を説明す、道理は正に一様なり。ここの「叛」は叛逆に非ず、凡そ事実に背离し信実を失掉するは皆算入す。話は実情と相背く、故に慚愧す。心中遅疑すれば則ち可否を決断し難く、樹木の枝杈を生出し両岔に分かつが如し。善を誣けて悪と為すは、言語は便ち真実ならず、東西の水上に漂うが如く、浮游不定なり。操守を失掉する人は、理を見ること真ならず把持して固ならず、故に言辞は多く屈曲して伸展し開かず。この六種は恰好に両々相対す。背叛者は信実を講ぜず、遅疑者は自己をも信ずる能わず。吉善者は静、躁急者は動。誣善者は別人を敗壊し、失守者は自己を敗壊す。然るに好いはただ「吉」のこの一種を占むるのみ、背叛・遅疑・躁急・誣善・失守は却って五種を占む、人情の変態は尽くここに在り。これは卦爻の情に相攻・相取・相感ありて而して吉凶悔吝利害はこれより産生するが如し。「八卦は象を以て告ぐ」よりここに至るは、また卦爻繫辞の通例を闡発し、以て《易》を学ぶ者に指示するに在り。以上《繫辞下伝》第十二章。《周易浅述》巻七終わる。
周易浅述巻八・説卦伝
説卦伝・第一章(聖人の揲蓍求卦の法を立つるを言う)
欽定四庫全書。周易淺述卷八。翰林院編修陳夢雷撰。說卦傳第一章言聖人因理數之自然而立揲蓍求卦之法,使學者安於義命也。昔者聖人之作易也,幽贊於神明而蓍。幽贊神明,猶言贊化育也。天下和平,王道得而蓍生長丈,其叢滿百莖。伏羲非因有蓍而後畫卦,蓋因生蓍而用之以求卦也。
《欽定四庫全書》本《周易浅述》巻八、翰林院編修陳夢雷撰。《説卦伝》第一章の講ずる所は、聖人が「理」と「数」の本来有る自然の勢いに依循し、揲蓍求卦の方法を創立し、《易》を学ぶ者をして義理と天命に安んずる能わしむ。《説卦伝》にいう、昔聖人の《易》を作すや、幽微に神明を賛助して蓍草を生出せり、と。いわゆる「神明を幽賛す」とは、猶お天地の化育を賛助するを説くが如し。天下太平・王道行わるるの時、蓍草は能く一丈に長く生じ、一叢に満一百茎なり。并な伏羲が先に蓍草有るを因りて始めて卦を画きに往くに非ずして、而も天地が蓍草を生出すを因り、聖人は便ち取りて以て求卦の工具と為す。
參天兩地而倚數。天圓地方。圓者徑一圍三,三各一奇。陽道常饒,故天用其全,參天而為三。方者徑一而圍四,四合二偶。陰道常乏,故地用其半,兩地而為二。數皆倚此而起。故揲蓍三變之末其餘三奇,則三三而九。三偶,則三二而六。兩二一三則為七。兩三一二則為八。三奇為乾,為老陽。三偶為坤,為老陰。二奇一偶為巽離兌,為少陰。二偶一奇為震坎艮,為少陽。此立卦之生爻之本。是數倚此而起也。
《説卦伝》にいう、天数三・地数二を取りて而してそれらに依拠して数を起こす、と。天体は円なり、地体は方なり。円形は直径が一の時に周長は三と為り、三の中は各々一個の奇数を含む。陽道は常に余りあり、故に天はその全数を取り、天数を参合して定めて三と為す。方形は直径が一の時に周長は四と為り、四は正好く両個の偶数を合成す。陰道は常に足らず、故に地はその一半を取り、地の両を取りて定めて二と為す。一切の数は皆この両個の数に依托して起算す。故に揲蓍の三変の末、若し余り残るは三個の奇なれば、則ち三個の三を相加えて九を得。三個の偶なれば、則ち三個の二を相加えて六を得。両個の二に一個の三を加うれば便ち七。両個の三に一個の二を加うれば便ち八。三奇は乾を成し、為に老陽。三偶は坤を成し、為に老陰。両奇一偶は巽・離・兌を成し、為に少陰。両偶一奇は震・坎・艮を成し、為に少陽。これすなわち卦を立て爻を生ずるの根本、一切の数は皆ここに依托して起算す。
觀變於陽而立卦,發揮於剛柔而生爻。揲蓍先有爻而後有卦。此先言卦而後言爻,就聖人作易言之也。在造化曰陰陽,就人事曰剛柔。數既形矣,卦斯立焉。聖人因其變之或九或七而為陽,因其變之或六或八而為陰。變至十有八而成卦。聖人無與也,特觀其變而立之爾。卦既立矣,爻斯生焉。聖人因其數之陽,而發明其為爻之剛。因其數之陰,而發明其為爻之柔。聖人無與也,特發揮其義爾。
《説卦伝》にいう、陰陽の変化を観察して卦を立起し、剛柔の性質を発揮して爻を生出す、と。(按ずるに、底本は此の句に一個の「陰」の字を脱し、通行本は「陰陽に於て変を観て卦を立つ」と作る。)揲蓍の実際の次序は先ず爻有りて而して後に卦を成す、ここに却って先ず卦を説き後に爻を説くは、聖人の《易》を作すの角度に就きて講ずるなり。造化上に於ては陰陽と呼び、人事上に於ては剛柔と呼ぶ。数は一旦形を成せば、卦は則ち立ち起る。聖人は変数の或いは九或いは七に依りて定めて陽と為し、変数の或いは六或いは八に依りて定めて陰と為し、変すること十八次にして一卦を成す。聖人は并な何かを加え入れず、ただその変化を観察して卦を立ち起こすのみ。卦既に立ち起れば、爻は則ち生じ出づ。聖人は数の陽に属するに依りて、それの爻と為るは剛なるを闡明し、数の陰に属するに依りて、それの爻と為るは柔なるを闡明す。聖人もまた何かを加え入れず、ただその中の義理を発揮するのみ。
和順於道而理於義,窮理盡性以至於命。此言聖人作易之極功也。吉凶消長之道。易皆和順從容,無所乖逆,默契其本原之謂也。理於義,又就其細者析言之。隨事皆得其條理,應變合宜之謂也。和順於道德,體也。理於義,用也。窮理,以知言。盡性,以行言。易書於天下之理無所不備,而能盡人物之性而自合於天道也。理必窮之,性必盡之。天命但可言至,則自然之謂也。易之妙皆因天地之自然如此。右第一章。
《説卦伝》にいう、道徳に和順して義に条理し、事理を窮究し物性を穷尽し、以て天命に通達するに至る、と。これは聖人の《易》を作すの到達したる最高の功效を講ず。吉凶消長の道理は、《易》は皆能和順従容にして毫も乖違なく、暗かにその本原に契合す、これすなわち「道に和順す」なり。「義に理す」とは、再び細処に就きて分説す。毎一件の事に随いて皆その条理を得、変化に應付して皆分寸に合す。道徳に和順するは体なり、義に条理するは用なり。「理を窮む」は「知」に就きて説く所、「性を尽くす」は「行」に就きて説く所なり。《易》のこの書は天下の理に対し備わらざるなし、因りて能く人と物の本性を穷尽して自ら天道に合す。理は必ず窮究に往かねばならず、性は必ず穷尽に往かねばならず、唯だ天命はただ「至」と説く可きのみ、それは自然而然なるを以てなり。《易》の精妙は、全く天地の自然に順うかくの如くあるのみに在り。以上《説卦伝》第一章。
説卦伝・第二章(易は三才の道を具うるを言う)
第二章言易具三才之道,故有取於六爻。而因筮求卦者,當盡人道以合乎天地也。昔者聖人之作易也,將以順性命之理。是以立天之道曰陰與陽,立地之道曰柔與剛,立人之道曰仁與義。兼三才而兩之,故易六畫而成卦。分陰分陽,迭用柔剛,故易六位而成章。
本章は《易》が天・地・人の三才の道を具備するを説明し、故に六爻を取用す。而して筮法を憑りて卦を求むる者は、当に人道を尽くし好くし、以て天地と相合するを求むべし。《説卦伝》にいう、昔聖人の《易》を作すは、性と命の道理に順應せんと要す、故に天の道を確立して陰と陽と呼ばしめ、地の道を確立して柔と剛と呼ばしめ、人の道を確立して仁と義と呼ばしむ。三才を兼合して各々両爻を以て表示す、故に《易》は六画を以て一卦を成す。爻位を分かちて陰位陽位と為し、交替に柔爻剛爻を使用す、故に《易》は六位を以てその文理を成す、と。
理在人為性,在天地為命。天無陰陽則氣機息,地無剛柔則地維墜,人無仁義則人道滅而禽獸矣。故曰立天立地立人。陰陽以氣言,剛柔以質言,仁義以理言。仁,體剛而用柔,屬乎陽。義,體柔而用剛,屬乎陰。
同じ一個の理、人の身上に落つれば「性」と呼ばれ、天地に落つれば「命」と呼ばる。天に若し陰陽なければ、気の運転は則ち停息す。地に若し剛柔なければ、大地を維繋するの綱紀は則ち墜落せんとす。人に若し仁義なければ、人道は則ち泯滅して淪為して禽獣と為らん。故に「天を立つ」「地を立つ」「人を立つ」という。陰陽は気に就きて説く所、剛柔は質に就きて説く所、仁義は理に就きて説く所なり。仁は、本体剛健にして発用柔和、故に陽に属す。義は、本体柔和にして発用剛断、故に陰に属す。
兼三才而兩之。以全體言。則上兩畫為天,五陽而上陰。中兩畫為人,三仁而四義。下兩畫為地,初剛而二柔。以兩卦分言。則上與三為天,三陽而上陰。五與二為仁,五仁而二義。四與初為地,四柔而初剛。
いわゆる「三才を兼ねてこれを両にす」とは、若し整卦の全体に就きて説けば、上面の両画は天、五爻は陽と為り上爻は陰と為す。中間の両画は人、三爻は仁と為り四爻は義と為す。下面の両画は地、初爻は剛と為り二爻は柔と為す。若し上下両個の三画卦を分かち開いて説けば、則ち上爻と三爻は同じく天位に属し、三爻は陽と為り上爻は陰と為す。五爻と二爻は同じく人位に属し、五爻は仁と為り二爻は義と為す(底本は「人」の字を「仁」に訛れり)。四爻と初爻は同じく地位に属し、四爻は柔と為り初爻は剛と為す。
分陰分陽以位言。初三五為陽,二四上為陰。陰陽各半故曰分。迭用柔剛以爻言,柔六剛九也。陽位剛爻居,柔爻亦居。陰位柔爻居,剛爻亦居。經緯錯綜,粲然有文。所謂成章也。人負陰陽之氣以有生,肖剛柔之質以有形,具仁義之理以成性,亦具三才之道。分陰陽用柔剛以斷吉凶,成亹亹而盡仁義之道。則性命之理在天地者,皆在吾心矣。右第二章。
「陰を分かち陽を分かつ」は爻位に就きて説く所なり。初・三・五は陽位、二・四・上は陰位、陰陽各々一半を占む、故に「分」という。「柔剛を迭用す」は爻画に就きて説く所なり。柔爻は六、剛爻は九なり。陽位上は剛爻居る可く、柔爻もまた居る可し。陰位上は柔爻居る可く、剛爻もまた居る可し。縦横交錯し、燦然として文理あり、これすなわちいわゆる「章を成す」なり。人は陰陽の気を禀受して以て生命あり、剛柔の質を仿効して以て形体あり、仁義の理を具備して以て本性を成就す、本身もまた則ち三才の道を具備す。人は能く陰陽を分辨し剛柔を運用して以て吉凶を判断し、あの勤勉不倦の事業を成就して仁義の道を尽くさば、則ち原本天地の間に存在したる性命の理もまた皆我がこの一顆の心の裏に在り。以上《説卦伝》第二章。
説卦伝・第三章(先天円図の対待と順逆を言う)
第三章就伏羲先天圓圖而言其對待之體,復即卦氣之流行而分其左右之順逆也。天地定位,山澤通氣,雷風相薄,水火不相射,八卦相錯。此伏羲先天圓圖八卦之位也。乾南坤北,天居上地居下,兩儀之位也。
本章は伏羲先天円図に就きて八卦両両対待の体勢を講じ、再び卦気の流行に就きて、左右両辺の順行と逆行を分かち出す。《説卦伝》にいう、天地は上下に位を定め、山沢の二気は相通じ、雷風は互相に迫近し、水火は相厭棄せず、八卦はかくの如く交錯配対す、と。これの講ずるは伏羲先天円図上の八卦の方位なり。乾は南に在り坤は北に在り、天は上に居り地は下に居る、これは両儀の本有の位置なり。
艮為山居西北,兌為澤居東南。通氣者,澤氣升於山,為雲為雨。山氣通於澤,為水為泉也。震為雷居東北,巽為風居西南。相薄者,勢相迫也。雷迅而風益烈,風激而雷益迅也。離為日居東,坎為月居西。不相射者,水得火以濟其寒,火得水以濟其熱,不相滅息也。先天八卦之位如此。皆陰陽相對而居,故曰八卦相錯也。重為六十四卦。為圓圖,其位亦然。其左以震離兌乾為主。與八卦相錯,為自復至乾三十二陽卦。其右以巽坎艮坤為主。與八卦相錯,為自姤至坤三十二陰卦也。
艮は山と為し西北に居り、兌は沢と為し東南に居る。いわゆる「気を通ず」とは、沢中の水気は山上に上昇し、化して雲と為り化して雨と為り、山中の地気は沢裏に通じ、化して水と為り化して泉と為るを説く。震は雷と為し東北に居り、巽は風と為し西南に居る。いわゆる「相薄く」とは、両者の気勢が互相に迫近するを説く。雷急なれば則ち風は更に猛烈、風激なれば則ち雷は更に迅疾。離は日と為し東に居り、坎は月と為し西に居る。いわゆる「相射たらず」とは、水は火を得てその寒を調剤し、火は水を得てその熱を調剤し、彼此并な相滅相熄せざるを説く。先天八卦の方位はすなわちこの如し、皆陰陽両々相対して居る、故に「八卦相錯く」という。八卦は相重ねて六十四卦と成り、円図に排すれば、方位もまたこの如し。左辺は震・離・兌・乾を以て主と為し、八卦と交錯して、復卦より乾卦に至る三十二個の陽卦と為る。右辺は巽・坎・艮・坤を以て主と為し、八卦と交錯して、姤卦より坤卦に至る三十二個の陰卦と為る。
數往者順,知來者逆。是故易逆數也。此就圓圖卦氣之行。準之橫圖,卦畫之序,從中而分其左右之順逆也。覆數已生之卦為順,豫推未生之卦為逆。天道運行為四時八節,以冬至夏至為樞紐。圓圖配八節之運行,以姤復二卦為樞紐。天道左旋,故圓圖配八節皆左旋。萬事出於心,故圖自中起。天開於子,故卦始終復。天道運行始於陽,陽生於極陰。故坤生復為陽始,冬至配之。盡震宮八卦至明夷,立春配之。盡離宮八卦至於臨,春分配之。盡兌宮八卦至於泰,立夏配之。
《説卦伝》にいう、已往を数えるは順、未来を知るは逆、故に《易》は逆推の数なり、と。これは円図上の卦気の運行に就き、横図卦画の次序を参照し、中間より左右両辺の順と逆を分かち出す。回頭して已に生成したる卦を数るを「順」と呼び、予め未だ生成せざる卦を推求するを「逆」と呼ぶ。天道の運行は四時八節に分かち、冬至・夏至を以て樞紐と為す。円図は八節の運行を配上すれば、則ち姤・復の両卦を以て樞紐と為す。天道は左旋す、故に円図の八節を配するは皆左旋なり。万事は皆心上より発出す、故に図は中間より起算す。天は子に開く、故に卦は復卦より起こる(底本「復に始まる」は「始終復」に訛れり)。天道の運行は陽より開始し、而して陽はまた陰の極処に生ず、故に坤卦は復卦を生出して以て陽の開端と為し、冬至を配す。震宮の八卦を数え尽くして明夷卦に至り、立春を配す。離宮の八卦を数え尽くして臨卦に至り、春分を配す。兌宮の八卦を数え尽くして泰卦に至り、立夏を配す。
盡乾宮八卦至於乾,陽極陰生得姤卦,夏至配之。盡巽宮八卦至於訟,立秋配之。盡坎宮八卦至於遯,秋分配之。盡艮宮八卦至於否,立冬配之。盡坤宮八卦至於坤,陰極陽生又為復卦。復至乾,由震四而離三而兌二而乾一,皆得已生之卦。如從今日計往日,順而易知也。自姤至坤,由巽五而坎六而坤八。如今日預推明日,逆而難知也。然以橫圖觀之。則自乾一而兌二而離三而震四而巽五而坎六而艮七而坤八,皆預推之,是皆逆也。逆所以知來,故易皆逆數也。以其位言之,則對待有順有逆。以其數論之,則皆逆而可以知來。先天圓圖之妙如此。右第三章。
円図上は毎一宮各々八個の卦を轄し、一宮数え尽くせば恰好に一個の節気を配上す。乾宮の八卦を数え尽くして乾卦に至れば、陽極まりて陰生じ、姤卦を得、夏至を配す。巽宮の八卦を数え尽くして訟卦に至り、立秋を配す。坎宮の八卦を数え尽くして遯卦に至り、秋分を配す。艮宮の八卦を数え尽くして否卦に至り、立冬を配す。坤宮の八卦を数え尽くして坤卦に至れば、陰極まりて陽生じ、また復卦を成す。復より乾に至るは、震の四に居り離の三に居り兌の二に居り乾の一に居るに由り、数うる所は皆已に生成したる卦、今天より昨天を回数するが如く、是れ順にして知暁し易し。姤より坤に至るは、巽の五に居り坎の六に居るに由り、坤の八に居るに至るまで(底本はここに「艮七」を脱す)、今天より明天を預推するが如く、是れ逆にして知暁し難し。然るに若し横図に按じて看れば、乾一より兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八に至るまで、全ては予め推し出だせる所、則ち皆逆なり。逆なれば始めて未来を知る能わし、故に《易》は皆逆推の数という。方位に就きて説けば、両々対待の中に順あり逆あり。数に就きて説けば、則ち全て逆推にして、因りて以て未来を予知し得——占筮の貴ぶ所は正にここに在り。先天円図の妙処はすなわちここに在り。以上《説卦伝》第三章。
説卦伝・第四章(先天方図と造化流行を言う)
第四章言先天方圖之位,六子之用統於乾坤,而造化流行有生長收藏之功也。雷以動之,風以散之。雨以潤之,日以晅之。艮以止之,兌以說之。乾以君之,坤以藏之。動則物萌,散則物解。二者生物之功。潤則物滋,晅則物舒。二者長物之功。止則物成,說則物遂。二者收物之功。君則物有所歸,藏則物有所息。二者藏物之功。雷動風散,乾坤初爻相易為震巽也。雨潤日晅,中爻相易為坎離也。止之說之,終爻相易為艮兌也。此六子,生物之序也。
本章は先天方図の方位を講ず。震・坎・艮・巽・離・兌の六子卦の功用は乾坤に統摂せられ、而して造化の流行に生・長・收・蔵の四段の功效あり。《説卦伝》にいう、雷は以て万物を鼓動し、風は以て万物を吹散し、雨は以て万物を滋潤し、日は以て万物を晒煖し、艮は以て万物を止住し、兌は以て万物を欣悦せしめ、乾は以て万物を主宰し、坤は以て万物を收藏す、と。鼓動すれば則ち万物萌発し、吹散すれば則ち万物解开す、この両様は物を生ずるの功なり。滋潤すれば則ち万物滋長し、晒煖すれば則ち万物舒展す、この両様は物を長ずるの功なり。止住すれば則ち万物成形し、欣悦すれば則ち万物遂性す、この両様は物を收るの功なり。主宰すれば則ち万物に帰属する所有り、收藏すれば則ち万物に安息する所有り、この両様は物を蔵るの功なり。雷動風散は、乾坤の初爻互換して以て震・巽を成す。雨潤日晒は、中爻互換して以て坎・離を成す。止の説のは、上爻互換して以て艮・兌を成す。この六個の子卦の排列は、正に物を生ずるの次序なり。
然六子致用,主於乾而動,歸於坤而藏。此又父母之功也,故以乾坤終之。自動至晅,物之出機。自止至藏,物之終極。出無於有,氣之行也。故以象言。入有於無,質之具也。故以卦言。先天方圖中始震巽而始終於乾坤。
然るに六子の作用を発揮するは、皆乾を以て主と為して動き、坤に帰して蔵る、これはまた父母卦の功労、故に乾坤を用いて結と為す。「動」より「晅」に至るは、万物が機括の中より生発し出づるなり。「止」より「蔵」に至るは、万物が終極に走り到るなり。無よりして有に出づるは、気の運行、故に雷・風・雨・日のこれらの物象を用いて説く。有よりして無に入るは、質の凝成、故に艮・兌・乾・坤のこれらの卦名を用いて説く。先天方図は正中に震・巽に起こり、而して始終は乾・坤に統す。
蓋陽生於北而極於南,陰生於南而極於北,天之道也。圓圖法天,故乾南坤北也。陽始於東北而盛於西北,陰始於西南而盛於東南,地之道也。方圖法地,故乾西北而坤東南也。乾坤初爻相易而為震巽。故震巽居中,為物之始生。中爻相易為坎離。故次外坎離,為物之方長。終爻相易為艮兌。故次外艮兌,為物之所收。終則乾居西北,坤居東南以藏之。以其位之尊卑而言,則宜先乾坤而後六子。以造化之流行而言,故先言六子而統於乾坤,此方圖之位具造化流行之妙也。右第四章。
原来陽は北方に生じて而して南方に於て極盛し、陰は南方に生じて而して北方に於て極盛す、これは天の道なり。円図は天に取法す、故に乾は南に在り坤は北に在り。陽は東北に始まりて而して西北に於て盛ん、陰は西南に始まりて而して東南に於て盛ん、これは地の道なり。方図は地に取法す、故に乾は西北に在り坤は東南に在り。乾坤の初爻互換して以て震・巽を成す、故に震・巽は方図の正中に居り、万物の生発を開始するを代表す。中爻互換して以て坎・離を成す、故に坎・離は次の外の一層に排し、万物の正に生長するを代表す。上爻互換して以て艮・兌を成す、故に艮・兌は再び外の一層に排し、万物の收成の時に到るを代表す。最後に乾は西北に居り坤は東南に居り、万物を收藏す。若し爻位の尊卑に就きて説けば、本は当に先ず乾坤を講じて而して後に六子を講ずべし。ここに造化の流行を講ずるが為、故に先ず六子を講じて而最終に乾坤に統す。これ正に方図の方位の中に含める造化流行の妙処なり。以上《説卦伝》第四章。
説卦伝・第五章(文王後天八卦の位を言う)
第五章言文王後天八卦之位。帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。此文王後天八卦之位。此節言八卦之流行也。帝者,天之主宰。出者,發露之謂。震居東方,於時為春。三陽開泰,萬物從此發生,則帝即從此出矣。齊、相見、致役以下皆帝也。齊者,畢達之謂。巽居東南,春夏之交,萬物畢達矣。尚有未盡生者,彼此未得相見也。
本章は文王後天八卦の方位を講ず。《説卦伝》にいう、主宰は震位より出で、巽位に於て整斉し、離位に於て彼此相見え、坤位に於て役を受けて養を得、兌位に於て欣悦して言い、乾位に於て交戦し、坎位に於て慰労し、艮位に於て終を成して言う、と。これは文王後天八卦の方位、この一節の講ずるは八卦の流行なり。「帝」とは、天の主宰を指す。「出」は、発露顕現の意思なり。震は東方に居り、時令上に於ては春天、三陽開泰して万物はこれより発生し、主宰もまた則ちここより出づ。下文の「斉」「相見」「致役」等等は、主語は皆仍おこの位の主宰なり。「斉」は、全部通達の意思なり。巽は東南に居り、正に春夏の交に当たり、万物は已に全部通達せり。但し還た完全に生じ出ざる有りて、彼此は未だ相見る能わざるなり。
離居南方,於時為夏,則明盛可見矣。致,猶委也。委役於萬物,無不養也。坤居西南,夏秋之交。萬物皆養於土,得向實也。說者,物形至此充足而說。兌居西方,於時為秋,物至此充足可說也。戰者,陰極陽剝,疑而戰也。乾居西北,秋冬之交。戰乎乾,非與乾戰,言陰陽戰於乾之方也。勞,去聲,慰勞之意。坎居北方,於時為冬,萬物歸藏於內而未息也。成言者,陽氣至此成終而成始。艮居東北,冬春之交,止乎此矣。復出乎震,不終止也。此皆萬物生成之序。然生之成之,必有主宰之者,故謂之帝。此就八卦之流行言之也。
離は南方に居り、時令上に於ては夏天、光明盛大にして万物はここに於て彼此見るべし。「致」とは、猶お委付を説くが如く、功役を万物に委付し、長養を得ざるなし。坤は西南に居り、正に夏秋の交に当たり、万物は皆土を倚りて長養せられ、始めて結実に趨向することを得。「説」は、万物の形体がここに到りて充実飽満して欣悦す。兌は西方に居り、時令上に於ては秋天、万物はここに到りて充実飽満して可喜なり。「戦」は、陰気が極処に到り陽気剥られ、陰は陽に疑いて交戦す。乾は西北に居り、正に秋冬の交に当たる。「乾に戦う」は乾と交戦するに非ずして、而も陰陽が乾の居る所の方位上に於て交戦するを説く。「労」は去声に読み、慰労の意思なり。坎は北方に居り、時令上に於ては冬天、万物は収め帰りて内蔵して而して生機は未だ止息せず。「成言」は、陽気ここに到りて既に終を成しまた始を成す。艮は東北に居り、正に冬春の交に当たり、万物はここに到りて停下来り、停下せる後また震位より出づ、并なこれに就きて終結するに非ず。これらは皆万物生成の次第なり。然るに能くそれを生じ能くそれを成すは、必ず一個の主宰者あり、故にこれを「帝」と称す。この一節は八卦の流行に就きて説く所なり。
萬物出乎震。震,東方也。齊乎巽。巽,東南也。齊也者,言萬物之潔齊也。離也者,明也。萬物皆相見,南方之卦也。聖人南面而聽天下,嚮明而治,蓋取諸此也。坤也者,地也。萬物皆致養焉,故曰致役乎坤。兌,正秋也,萬物之所說也,故曰說言乎兌。戰乎乾。乾,西北之卦也。言陰陽相薄也。坎者,水也,正北方之卦也。勞卦也。萬物之所歸也。故曰勞乎坎。艮,東北之卦也,萬物之所成終而所成始也,故曰成言乎艮。
《説卦伝》は接ぎて説く、万物は震位より出づ、震は東方の卦なり。巽位に於て整斉す、巽は東南の卦なり。いわゆる「斉」とは、万物の潔浄整斉なるを説く。離は、すなわち明なり。万物はここに到りて彼此相見え、是れ南方の卦なり。聖人は南方に面して以て天下を聴治し、光明の方向に朝着して施政す、ほぼ則ちここに象を取れるか。坤は、すなわち地なり。万物は皆ここに於て長養を得、故に「坤に役を致す」という。兌は、正に秋季に当たり、是れ万物欣悦の時、故に「兌に言うを説く」という。「乾に戦う」、乾は西北の卦、説く所は陰陽ここに於て相迫る。坎は、すなわち水、是れ正北方の卦、また慰労の卦、万物ここに於て帰蔵す、故に「坎に労す」という。艮は東北の卦、万物はここに於て既に終結を完成しまた新たなる一輪を開始す、故に「艮に言を成す」という、と。
上言帝,此節言萬物之隨帝以出入。蓋帝之出入不可見,而為物者可見,故又以物言之。以見八卦流行生物之功也。離明以德言,八卦之德可推。坤地坎水以象言,八卦之象可推。兌秋以時言,八卦之時可推。聖人象八卦之義以治天下,不獨取諸離。亦舉一可通其餘也。坤於方不言西南,坤土之用不止於西南也。上言致役乎坤,此言致養者。蓋上言帝。坤,臣也。帝,君也。君之於臣,役之而已。此言萬物。則坤,母也。萬物,子也。母之於於,則無所不養也。乾曰陰陽相薄者。九十月之交,陰盛陽微。
上一節の講ずるは「帝」、この一節は万物が帝に随いて一同に出入するを講ず。帝の出入は看見す可からざるも、而して万物の生成は看見す可し、故に再び物の角度より説き、以て八卦の流行して物を生ずるの功效を顕出す。「離也者明也」は卦徳に就きて説く所、其余の八卦の徳性はこれより推す可し。「坤也者地也」「坎者水也」は物象に就きて説く所、其余の八卦の象はこれより推す可し。「兌、正秋也」は時令に就きて説く所、其余の八卦の時令はこれより推す可し。聖人は八卦の義に取法して以て天下を治理す、并なただ離卦に取るのみならず、これもまた一隅を挙げて以て其余に通ず可し。坤は方位上に於て西南を提せざるは、坤土の功用が并な西南一隅に限らざるを以てなり。上一節は「坤に役を致す」と説き、この一節は却って「養を致す」と説くは、上一節の講ずるは帝なるを以てなり。坤は臣、帝は君、君は臣に対して、彼を役使するのみ。この一節の講ずるは万物なり。坤は母、万物は子、母親は子女に対して、則ち養わざるなし。乾位は「陰陽相薄く」と説くは、九月十月の交に、陰気盛んにして陽気微弱なるを以てなり。
陰疑於陽必戰。坤之上六亦言龍戰于野者,此也。上言帝之所乘,此言萬物之所主。觀此而後天八卦之義可見矣。蓋以其方位言之。則坎離者,天地之大用,得乾坤之中氣。故離火居南,坎水居北也。震,動也。物生之初,故居東。兌,說也。物成之後,故居西。此四者居於四正也。震木,巽亦木,震陽木而巽陰木。故巽居東南,巳之位也。兌金,乾亦金,兌陰金而乾陽金。故乾居西北,亥之方也。坤艮皆土,坤陰土,艮陽土。坤居西南,艮居東北者。所以均旺於四時也。此四者居於四隅也。
陰気は盛んにして陽と相疑うに至れば、必然に交戦す。坤卦上六の爻辞に「野に戦う龍」というは、指す所はすなわちこれなり。上一節は帝の乘用する所の次序を講じ、この一節は万物の依主する所の次序を講ず、これらの両節を看れば、後天八卦の意義は則ち明白なり。方位に就きて説けば、坎・離は天地の大用、乾坤の中気を禀得し、故に離火は南に居り坎水は北に居る。震は動、万物の初生の時に当たる、故に東に居る。兌は悦、万物の成熟したる後に当たる、故に西に居る。この四卦は東・南・西・北の四個の正方を占拠す。震は木に属し、巽もまた木に属す、震は陽木にして巽は陰木、故に巽は東南に居る、すなわち地支巳の位置なり。兌は金に属し、乾もまた金に属す、兌は陰金にして乾は陽金、故に乾は西北に居る、すなわち地支亥の方位なり。坤・艮は皆土に属す、坤は陰土、艮は陽土、坤は西南に居り艮は東北に居るは、土気をして四季に均しく旺えしめんが為なり。この四卦は西南・西北・東北・東南の四個の隅角を占拠す。四正は水火木金を配し、四隅は木金を以て分居せしめ而して両土を以て調停す、後天方位の骨架はすなわちこの如し。
以其流行之序言之,則以震巽離坤兌乾坎艮為次。蓋春為木,震巽屬木。木生火。夏為火,故離次之。夏而秋,火克金者也。火金之交,有坤土焉。則火生土,土生金。克者又順以相生。秋為金,兌乾屬金。金生水。冬為水,故坎次之。冬而春水生木者也。水木之交,有艮土焉。木克土,土克水。生者又逆以相剋。土金順以相生,所以為秋之克。水土逆以相剋,所以為春之生。生生剋剋,變化無窮,而皆有帝以宰之,此後天之妙也。右第五章。
若し流行の次序に就きて説けば、則ち震・巽・離・坤・兌・乾・坎・艮を依りて序と為す。春は木に属し、震・巽は皆木に属す。木は火を生じ、夏は火に属す、故に離卦はその後に排す。夏より秋に入るは、本は火が金を克するなれど、而して火と金の交接の処に偏えに坤土有り、ここに於て火は土を生じ土は金を生じ、相克の処は反って順に変じて相生と為る。秋は金に属し、兌・乾は皆金に属す。金は水を生じ、冬は水に属す、故に坎卦はその後に排す。冬より春に入るは、本は水が木を生ずるなれど、而して水と木の交接の処に偏えに艮土有り、ここに於て木は土を克し土は水を克し、相生の処は反って逆に相克を夹め入る。土金が順に相生するは、正に秋のあの一層の相克を化解せんが為なり。水土が逆に相克するは、正に春のあの一層の相生を成全せんが為なり。生生克克、変化窮まりなく、而してその中に皆一位の主宰ありて統摂す、これすなわち後天八卦の妙処なり。以上《説卦伝》第五章。
説卦伝・第六章(乾坤を去りて専ら六子を言い以て神の為す所を見ん)
第六章去乾坤而專言六子,以見神之所為。前即文王卦次,以明四時之序。後即伏羲卦次,以明對待之偶。蓋總先後天二圖言之,以見不可偏廢也。神也者,妙萬物而為言者也。動萬物者,莫疾乎雷。橈萬物者,莫疾乎風。燥萬物者,莫熯乎火。說萬物者,莫說乎澤。潤萬物者,莫潤乎水。終萬物始萬物者,莫盛乎艮。故水火相逮,雷風不相悖,山澤通氣,然後能變化,既成萬物也。
本章は乾坤を撇き開きて専ら六子卦を講じ、以て「神」の作為を顕出す。前半は文王後天卦の次序に依りて、四時の順序を説明す。後半は伏羲先天卦の次序に依りて、両々対待の配偶を説明す。総じては先天・後天の両図を合わせて講じ、以て二者の偏廃すべからざるを見んとす。《説卦伝》にいう、いわゆる「神」とは、それの万物を神妙莫测ならしむるに就きて立てたる名なり。万物を鼓動するは雷より迅疾なるはなし、万物を吹撓するは風より迅疾なるはなし、万物を烘干するは火より熾熱なるはなし、万物を取悦するは沢より欣悦なるはなし、万物を滋潤するは水より潤沢なるはなし、万物を終結しまた万物を開始するは艮より盛大なるはなし、と。故に水火は互相に追及し、雷風は互に違逆せず、山沢の二気は相通じ、こうあってこそ変化し得、従って万物を成就す。
此去乾坤專言六子。由後天流行之用,而推本於先天對待之體也。以主宰言曰帝,以功用言曰神。八卦各有所在,神無在無不在,故曰妙萬物。乾坤合而為神,言神則乾坤皆在其中。去乾坤而專言六子,見六子之為皆乾坤之為也。五卦皆言象,艮獨不言者。終始萬物,不繫於山也。文王後天卦次順四時之序而兌震以長男合少女,艮巽以長女合少男,則非其偶。
この一章は乾坤を撇き開きて専ら六子を講ずるは、後天流行の用より、先天対待の体に推尋し到るなり。主宰に就きて言えば「帝」と呼び、功用に就きて言えば「神」と呼ぶ。八卦は各々在る所の方位あり、神は却って在る所なくして而して在らざる所なし、故にそれを「万物を妙にす」という。乾坤は合わせれば則ち神なり、神を説けば、乾坤は已にその中に包含せり。乾坤を撇き開きて専ら六子を講ずるは、正に六子の作為が皆乾坤の作為なるを見出さんと要す。六卦の中に五卦は皆物象を挙出す、すなわち雷・風・火・沢・水、唯だ艮卦のみ物象を挙げざるは、万物を終結し万物を開始するのこの事が并な「山」のこの一物に繫がらざるを以てなり。文王後天卦の次序は四時に順いて排列す、ここに於て兌と震は長男を以て少女に配し、艮と巽は長女を以て少男に配しと成り、皆本来の配偶に非ず。
陰陽不相對待,則無由生成萬物矣。故此章先欲言神運萬物之妙,即文王卦次,以明四時之流行。後則推原其體,必由陰陽對待,各得其偶。故又本於先天之卦,以見陰陽交合之妙,而後有此變化之神。蓋合先天後天之妙總言之也。右第六章。
陰陽は若し両々対待する能わざれば、則ち万物を生成するに由なし。故に本章は先ず神の万物を运化するの妙用を講ずるを要し、便ち文王後天卦の次序に依りて、四時の流行を説明す。後面はまたその本体を推原せんと要し、必ず陰陽両々対待して各々その配偶を得せねばならず、ここに於て再び先天の卦に依りて、陰陽交合の妙処を顕出し、ここの一層有りて始めて変化の神有り。総之は先天・後天両図の妙処を合わせて講ずるなり。以上《説卦伝》第六章。
説卦・第七章(八卦の性情を言う)
乾,健也。坤,順也。震,動也。巽,入也。坎,陷也。離,麗也。艮,止也。兌,說也。
乾の徳性は剛健、坤の徳性は柔順、震の徳性は動、巽の徳性は潜入、坎の徳性は陥落、離の徳性は附麗、艮の徳性は静止、兌の徳性は喜悦(「説」は「悦」に同じ)。《説卦伝》は八卦の物象を鋪陳するの前に、先ずこの八個の字を用いて八卦に定性を与う。この八個の字の説く所は八卦の「何に象るか」に非ずして、而も八卦の「本身是れ何ぞ」——是れそれら各自の固有の気質と発用方式なり。
此節言八卦之性情。因下文欲言其象,先別其性情如此。蓋象者其似,性情者其眞也。性者其本體,情者其作用也。乾純陽剛故健,坤純陰柔故順。震一陽生二陰之下,剛而進故動。坎一陽在二陰之中,剛為陰所掩故陷。艮一陽出於二陰之上,無所往矣故止。巽一陰藏於二陽之下,順而伏故入。離一陰在二陽之中,順而附故麗。兌一陰在二陽之上,順而見故說。
この一節は八卦の「性」と「情」を講ず。下面の数章は八卦の取る所の物象を鋪陳せんと要すを以て、故に先ずそれらの性情を分辨して清楚と為す。物象はただ卦と相似するもののみ、性情は始めて卦の真実本体なり。「性」は卦の本体を指し、「情」は卦の作用を指す。乾は三画全陽、純粋剛強、故に性情は「健」なり。坤は三画全陰、純粋柔弱、故に性情は「順」なり。震卦は一個の陽爻が両個の陰爻の下に生ず、剛にして向上に推進す、故に「動」なり。坎卦は一個の陽爻が両個の陰爻の当中に夹まる、剛は陰に遮掩せられ、故に「陥」なり。艮卦は一個の陽爻が両個の陰爻の上に出づ、前面に再び去路なし、故に「止」なり。巽卦は一個の陰爻が両個の陽爻の下に蔵る、柔順にして潜伏す、故に「入」なり。離卦は一個の陰爻が両個の陽爻の中間に処る、柔順にして依附す、故に「麗」なり。兌卦は一個の陰爻が両個の陽爻の上に浮ぶ、柔順にして外に顕露す、故に「説」なり。
然乾健坤順。震坎艮三陽卦皆從健,巽離兌三陰卦皆從順。健則能動,順則能入。此震巽所以為動為入也。健遇上下皆順則必溺而陷,順遇上下皆健則必附而麗。此坎離所以為陷為麗也。健極於上,前無所往必止。順見於外,情有所發必說。此章以八字斷八卦之德,下章乃依類而分言之。自此以下乃以陰陽純卦及初中終為序,不用先天後天之序也。右第七章。
乾の純健・坤の純順は総綱なり。震・坎・艮は一陽を以て主と為し、陽卦に属し、それらの徳性は皆「健」より派生す。巽・離・兌は一陰を以て主と為し、陰卦に属し、それらの徳性は皆「順」より派生す。剛健なれば始めて推動を談ず可く、柔順なれば始めて潜入を談ず可し、これすなわち震の「動」・巽の「入」たるの道理なり。剛健の者若し上下皆柔順に包夹せられば、必然に沈溺して下陥す。柔順の者若し上下皆剛健なれば、必然に攀附依傍す。これすなわち坎の「陥」・離の「麗」たるの道理なり。剛健は最上の一爻に推し到れば、前面に路なく走る可からず、ただ停住するのみ、故に艮は「止」なり。柔順は外に顕露して情発する所有り、自然に歓悦に形る、故に兌は「説」なり。本章はただ八個の字を用いて八卦の徳を断定し、下一章に於て始めて分門別類に物象を鋪陳す。この一章より往下は、排列の次序は先ず乾坤の両個の純卦を挙げ、再び初爻・中爻・上爻に按じて長・中・少を分かち、并な伏羲先天卦序を採用せず、また文王後天卦序を採用せず。以上第七章。
説卦・第八章(遠く諸を物に取るの象)
乾為馬。坤為牛。震為龍。巽為雞。坎為豕。離為雉。艮為狗。兌為羊。
乾は象を取りて馬と為し、坤は象を取りて牛と為し、震は象を取りて龍と為し、巽は象を取りて鶏と為し、坎は象を取りて猪と為し、離は象を取りて野鶏と為し、艮は象を取りて狗と為し、兌は象を取りて羊と為す。この一節は「遠く諸を物に取る」にして、すなわち人身以外の動物の中より八卦に対應を找む。下文は逐一に毎一種の取象の依拠する所の理由を交代す、随口の罗列に非ず。
此章言遠取諸物者如此。馬健行而不息,其蹄圓,故乾為馬。牛順而載重,其蹄析,故坤為牛。龍潛於淵在重陰之下,與地雷同其動奮,故震為龍。雞,羽屬,能飛。其性則入而伏。知時而善應,鳴於丑半重陽之時。
本章の説く所の「遠く諸を物に取る」はすなわちこのように取るなり。馬は奔走剛健にして日夜息まず、而且に馬蹄は渾円の一塊(円にして完整は天に象る)、故に乾は象を取りて馬と為す。牛は性情柔順にして而して能く重を負う、牛蹄は分瓣する(分かれて両半と為るは則ち偶数、陰に象る)、故に坤は象を取りて牛と為す。龍は深淵の裏に潜伏し、正に震卦の一陽が両陰の下に伏するの爻位に合す。それ一旦奮起して動けば、地下の雷の震発と同じ一種の気勢、故に震は象を取りて龍と為す。鶏に至っては、それは羽族に属し、能く飛ぶ、可なり習性は偏えに窝中に鑽り入りて潜伏す、正に巽卦「入」の徳性に合す。それはまた時辰を知り感應に善く、丑時の半ば過ぎ陽気漸く重なるの際に啼鳴す。
又其行則首動於前,足動於中,身不動而隨其後。能動象二陽在前,不動象一陰在後。故巽為雞。豕主汙溼,其性趨下。前後汙濁,中心剛躁。故坎為豕。雉性耿介。中心柔懦而外文明。故離為雉。狗外剛內媚。止於人而能止人。故艮為狗。羊外柔說群而中剛狠,故兌為羊。
再び鶏の走路の様子を看る。頭は先ず前面に於て一伸一縮し、脚は中間に跟いて迈動し、身子は却って動かず、ただ帯びられて後面に跟従す。能く動く頭と脚は、巽卦の上面両個の陽爻に象る。動かざる身子は、下面あの一個の陰爻に象る。故に巽は象を取りて鶏と為す。猪は污泥湿地を喜び、習性は低処に往きて鑽る、外表は前後一身に脏污し、心裏は却って剛烈躁急——外は柔濁にして内は剛、正に坎卦の一陽が両陰の中に陥るの様子、故に坎は象を取りて猪と為す。野鶏は性情耿介孤高、内裏は柔弱怯懦にして而して外表は文彩鮮明、正に離卦の外剛内柔・文明外見の様子、故に離は象を取りて野鶏と為す。狗は外表剛猛にして而して主人に対し内心は諂媚親暱、それは人の身辺に守りて走らず、また能く人に為に看守して別人を攔阻す——これ正に艮卦「止」の徳性に合す、故に艮は象を取りて狗と為す。羊は外表柔順にして合群を喜び、心裏は却って剛愎兇狠、正に兌卦の外柔内剛の様子、故に兌は象を取りて羊と為す。
此章取象於經有不盡合者。周公以乾為龍,夫子以為馬。文王以坤為牝馬,夫子以為牛。變通以觀,可悟而不可執。八者之中,乾馬、兌羊、巽雞、離雉、坎豕,與卦爻間有合者。如大畜乾爻稱馬,大壯似兌稱羊,中孚巽爻稱雞,鼎三應離稱雉,睽互坎稱豕是也。至坤牛、震龍、艮狗,畢夫子所自取。善觀之,則萬物無非卦也。右第八章。
本章の取象は《易経》経文と并な処処吻合せず。周公の爻辞を作す時は乾を取りて龍に象らせしに、孔子はここに却って乾は馬と為すと説く。文王の卦辞を作す時は坤を取りて母馬に象らせしに、孔子はここに却って坤は牛と為すと説く。見るべし取象は活看を要し、能くその中の道理を领会すれば則ち好し、一物を死执する可からず。この八種の取象の裏に、乾は馬・兌は羊・巽は鶏・離は野鶏・坎は猪のこの五項は、卦爻辞と還た対得上る処あり。例えば《大畜》卦の下体は乾と為し、爻辞の中に則ち馬を称す。《大壮》卦の上体は兌に近似し、爻辞の中に則ち羊を称す。《中孚》卦の上体は巽と為し、爻辞の中に則ち鶏を称す。《鼎》卦の九三は上体の離と相應し、爻辞の中に則ち雉を称す。《睽》卦の互体は坎を成し、爻辞の中に則ち豕を称す。坤は牛・震は龍・艮は狗のこの三項に至っては、則ち完全に孔子が自ら別立したる取象なり。ただ看るを會すれば、天下万物は一様として卦象に帰入し得ざるなし。以上第八章。
説卦・第九章(近く諸を身に取るの象を言う)
乾為首。坤為腹。震為足。巽為股。坎為耳。離為目。艮為手。兌為口。
乾は象を取りて頭と為し、坤は象を取りて腹と為し、震は象を取りて脚と為し、巽は象を取りて大腿と為し、坎は象を取りて耳と為し、離は象を取りて眼と為し、艮は象を取りて手と為し、兌は象を取りて口と為す。この一節は「近く諸を身に取る」にして、すなわち人の自らのこの一身の部位に就きて以て八卦に配す、上一章の外物より象を取ると正好く内外両路を構成す。
此言近取諸身者。首會諸陽,尊而在上。腹藏諸陰,大而容物。足在下而動。股兩垂而下。耳輪內陷,陽在內而聰。目睛附外,陽在外而明。手動在前。口開於上。此一身之合於八卦者也。
この一節の講ずるは「近く諸を身に取る」なり。頭は一身の諸陽経の交會する処にして、位置最尊にして最上に居る、故に純陽の乾に配す。腹中の蔵納する所は皆陰分にして、容量大にして能く万物を盛受す、故に純陰の坤に配す。脚は人身の最下端に長ちて而して行動を主管す、故に一陽の下に動く震に配す。大腿は両条并び垂れて下る、正に巽卦の下面あの一画の分開せる陰爻に象る、故に巽に配す。耳廓は内に向かい凹陷し、陽は裏面に蔵れて而して能く聴きて聡敏、正に坎卦の陽の中間に在るに象る、故に坎に配す。眼珠は外面に附着するにして、陽は外に顕れて而して能く看て明亮、正に離卦の陽の外囲に在るに象る、故に離に配す。手は総じて身前に伸びて活動す、艮卦の陽の上に在りて能く物を持するに象る。口は臉の上部に開く、兌卦の上面あの一画の缺口に象る。これすなわち人の一身の中に於て八卦と相合するの処なり。
近取諸身者,六子皆反對。遠取諸物者,六子皆以序對。四者易而坎離不易也。首以君之,腹以藏之。足履於下為動,手持於上為止。股下岐而伏,口上竅而見。耳外虛,目內虛。各以反對也。在物,乾坤與二少皆取走。二長二中一走一飛。龍者走之飛,雞者飛之走。各以序對也。
近く人身の象を取る時、震巽坎離艮兌のこの六子卦は「反対」(卦体の上下が颠倒相反する)に按じて以て配対す。遠く外物の象を取る時、六子卦は却って長・中・少の次序に按じて両々相配す。この両套の配法の中に四対は互換し得、唯だ坎離両卦のみ両套の裏に於て皆固定して動かざるなり。先ず人身を説く。頭は以て全身を統領し、腹は以て收藏す。脚は下面に踩りて動を主とし、手は上面に挙げて止を主とす。大腿は下に在りて分岔して隠伏し、口は上に在りて開竅して顕露す。耳は外廓虚陥、眼は眼眶の中虚——毎一対は皆上下相反の義を取るなり。再び外物を説く。乾坤と艮兌の両個の少卦の取る所の馬・牛・狗・羊は皆走獣なり。震巽の両個の長卦と坎離の両個の中卦の取る所は、則ち一走一飞(震の龍・坎の豕は走、巽の鶏・離の雉は飞)なり。龍は走獣の裏の能く飞ぶ者、鶏は飞禽の裏の走に偏する者——これすなわち長中少の次序に按じて相配するなり。
夫子此章取象,坤為腹與明夷六四同,巽為股與咸九三互體同,兌為口與咸上六同。餘亦多自取,鮮所合者。其取義本先儒所解如此。而有可疑者:既言足,又言股。於面獨不言鼻。按《麻衣易》謂艮為鼻,巽為手。鼻者面之山。風能鼓舞萬物,手之所以舞也。其說似亦可叅。右第九章。
孔子本章の取象は、ただ三処のみ経文と相合す。坤は腹と為し、《明夷》六四の爻辞「左腹に入る」と相合す。巽は股と為し、《咸》卦九三の互体が巽を成して而して爻辞「其の股を咸く」と言うと相合す。兌は口と為し、《咸》卦上六の爻辞「其の輔頬舌を咸く」の指す所の口と相合す。其余は多半は孔子の自立の取象にして、卦爻辞と対得上るは少なし。以上の取義の説法は、本は歴代先儒の解釈なり。不過ぎその中に可疑の処あり。既に脚を説きたるに、また大腿を説く、両者は未免重复す。而して面部の諸竅は偏えに鼻子を提せず。《麻衣易》の説法に按ずれば、艮は鼻と為し巽は手と為す。鼻子は一張の臉上に隆起する山にして、正に艮の山と為るの象に合す。風は能く万物を鼓動し、手は正に人身の舞动に用うるの部位、正に巽の風と為るの象に合す。この説法は似て以て参考す可し。以上第九章。
説卦・第十章(乾坤が索して以て六子を成すを言う)
第十章又即八卦而見其有父母男女之義也。蓋文王有父母六子之說,故孔子發明之也。乾,天也,故稱乎父。坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男。巽一索而得女,故謂之長女。坎再索而男,故謂之中男。離再索而得女,故謂之中女。艮三索而得男,故謂之少男。兌三索而得女,故謂之少女。
第十章は八卦本身に就きて、その中に父母子女の名分を含むを看出す。これは文王に已に乾坤を父母と為し其余の六卦を六子と為すの説法有るを以て、故に孔子はここに於て加えて闡発す。乾は天、故に父と称し。坤は地、故に母と称す。震は乾の第一次に坤に向かいて求索して得たる男卦、故に長男と呼ぶ。巽は坤の第一次に乾に向かいて求索して得たる女卦、故に長女と呼ぶ。坎は第二次の求索にして得たる男卦、故に中男と呼ぶ。離は第二次の求索にして得たる女卦、故に中女と呼ぶ。艮は第三次の求索にして得たる男卦、故に少男と呼ぶ。兌は第三次の求索にして得たる女卦、故に少女と呼ぶ。(底本「坎再索而男」の一句は一個の「得」の字を脱す、今はその旧に仍る。)
索,求也。《本義》,揲蓍以求爻。後朱子語錄謂不當作揲蓍。大概陽先求陰,則陽入陰中而為男。陰先求陽,則陰入陽中而為女。乾求於坤而得震坎艮,坤求於乾而得巽離兌。一二三者,以其畫之次序言。以初中終三畫取長中少之序也。三男本坤體,各得乾之一陽而成男,陽根於陰也。三女本乾體,各得坤之一陰而成女,陰根於陽也。天地生萬物而人為貴,故以父母男女言之。然萬物亦皆有牝牡雌雄長少之分,則言人而物亦在其中矣。此卦畫已成之後,見有此象。猶之前後取象。不可以謂之二字,謂畫此卦以象人也。右第十章。
「索」はすなわち求なり。朱子《周易本義》は「索」を揲蓍して爻を求むるに解す、但し後来《朱子語録》はまた当に揲蓍に講じ成すべからずと説く。大体の道理は、陽は先ず往きて陰を求め、陽は則ち陰体の中に入りて以て男卦を成す。陰は先ず往きて陽を求め、陰は則ち陽体の中に入りて以て女卦を成す。乾は往きて坤を求め、震・坎・艮の三男を得。坤は往きて乾を求め、巽・離・兌の三女を得。いわゆる一索・再索・三索とは、陽爻或いは陰爻の居る所の画位次序に就きて説く所なり。初画に居るを長と為し、中画に居るを中と為し、上画に居るを少と為す。三個の男卦は本来は坤の卦体にして、各々乾の一個の陽爻を得て始めて男と為る、見るべし陽は陰の裏に扎根するを。三個の女卦は本来は乾の卦体にして、各々坤の一個の陰爻を得て始めて女と為る、見るべし陰は陽の裏に扎根するを。天地は万物を化生して而して人を以て最も貴重と為す、故に父母男女を用いて称説す。其実は万物もまた皆雌雄牝牡・長幼大小の分別あり、人を説けば、物もまた則ちその中に包含せり。これらの名分は卦画の画き成せる後に始めて看出せる象にして、前の両章の取象と一様なり。経文が「これを謂う」の両個の字を用いたるを因りて、則ち以て聖人は先ず人倫を想好して、再び照らして卦を画きて以て人に象らせしと為す可からず。以上第十章。
説卦・第十一章(八卦の象を広ぐ)
第十一章廣八卦之象。不必盡合於經,多夫子所自取也。乾為天,為圜,為君,為父,為玉,為金,為寒,為冰,為大赤,為良馬,為老馬,為瘠馬,為駁馬,為木果。
第十一章は八卦の取象を大いに推広し、これらの象は必ずしも処処に卦爻辞と相合するを要せず、多半は孔子が自ら別立したるなり。乾の取象有るは、天、円、君、父、玉、金、寒、冰、大紅、良馬、老馬、瘦馬、駮馬、樹上の果実。下文は逐項に毎一象の乾に属する所以の理由を交代す。
純陽至健天。陽體動為圜。又天之體也居上覆下,尊無不統君也。乾知大始,又生六子,父也。其德至粹,爻剛而位以柔相濟,玉也。純剛,金也。金故寒,而位西北,卦氣又立冬也,冬水始氷。寒之凝,陰之變而剛者也。盛陽之色,又四月在夏,故為大赤。坎一陽在中為赤。乾純陽,故赤曰大。別於坎也。
乾は三画純陽にして剛健は極処に到る、これすなわち天なり。陽の形体は運転して息まず、転じ出づる軌跡は円なり、故に円と為す。天の形体は高居して上に在りて而して下に覆蓋し、尊貴は統せざるなきに至る、これ正に君の地位、故に君と為す。《繫辞伝》に「乾は大始を知る」といい、乾はまた六子卦を生出す、故に父と為す。乾の徳性は至って純粋、爻は剛にして而して居る所の位にまた柔ありて調剤し、剛の中に潤を帯ぶ、正に玉の品質、故に玉と為す。純然剛硬なれば、あれは金なり。金性は寒を主とし、加うるに乾は後天方位に於て西北に居り、卦気は正に立冬に当たり、冬は水始めて冰を結ぶ、故に寒と為り冰と為る——寒気は凝結して冰を成す、是れ陰が変化して剛硬の物と成るなり。大紅は陽気極盛の顔色、乾はまた四月建巳・時令は夏に入るに当たる、故に大紅と為す。坎卦は一陽中に在り、また赤色を取る。乾は純陽、故に赤に一個の「大」の字を加え、以て坎の赤と相区別す。
馬曰良老瘠駁,純陽無陰,異於震坎陰陽相雜之馬也。良,健之善者。老,健之久者。瘠,多骨少肉,健之堅強者。駁,鋸牙食虎豹,健威猛者。又駁馬之色不純,純極而駁生也。圓而在上,以實承實,故為木果。異於艮之果蓏剛下有柔也。又荀爽《九家易》解此下有為龍,為直,為衣,為言。言字宜作玄。
乾の取る所の馬は良馬・老馬・瘦馬・駮馬と称し、皆純陽にして陰なきの馬にして、震・坎の取る所のあの種の陰陽夾雑の馬と同じからず。「良」は健にして好き者、「老」は健にして久しき者、「瘦」は骨多く肉少なく健にして堅実なる者、「駮」は説く所に依れば一種の鋸歯利牙にして能く虎豹を食らう猛獣、その健にして威猛なるを取る。再者駮馬は毛色駮雑にして純ならず、純陽は極処に到りて反って駁雑を生出す、もまた一層の意思なり。果実は渾円にして而して樹梢上に結び、是れ実心を以て実心を承接し、正に乾の純陽に合す、故に木果と為す——これは艮の取る所の「果蓏」と同じからず、艮は一剛上に在り二柔下に在り、剛の下面に還た柔あり。另外荀爽《九家易》の解本はこの一串の下に還た龍と為り・直と為り・衣と為り・言と為るの四項を多出す、その中の「言」の字は当に「玄」と作るべし。
坤為地,為母,為布,為釜,為吝嗇,為均,為子母牛,為大輿,為文,為眾,為柄,其於地也為黑。積陰於下故為地。物資以生故為母。動闢而廣,旁有邊幅而中寬平,故為布。又地南北經而東西緯,亦布象也。釜虛而容物,金質生於土,受模冶而成,有效法之義,故為釜。
坤の取象有るは、地、母、布、鍋、吝嗇、均平、母子牛、大車、文彩、衆多、柄、土色に就きて言えば則ち黒と為る。陰気は下方に積聚す、故に地と為す。万物は皆それに倚りて始めて生長し得、故に母と為す。坤動けば則ち開張して広遠、四旁に辺幅あり中間は寛平、正に一幅の布の如し、故に布と為す。再者大地は南北を経と為し東西を緯と為し、経緯交織するもまた正に布の形象なり。鍋は中間空虚にして能く物を容る、金屬の質は本は土中より生出し、また范模冶鋳を経て始めて成形す、「效法」(様に依りて鋳成す)の意思を含み、而して坤の徳性は正に乾を效法す、故に鍋と為す。
靜翕而不拖。陰性吝嗇,女子小人未有不吝嗇者也。吝嗇者翕之守。均者闢之敷。其勢均平而無偏陂,其德則生萬物而無私均也。順之極而生物相繼,故為子母牛。厚而載物為大輿。坎二畫虛,為輿而不大。坤三畫虛,言大以別於坎也。
坤の静なる時は収斂閉合して肯んじて外泄せず。陰の本性はすなわち吝嗇、女子と小人は吝嗇ならざるなし。吝嗇は正に「翕」(閉合)の時の守、均平は則ち「闢」(開張)の時の施なり。形勢に就きて説けば、大地は平鋪して而して偏斜高下なく。徳性に就きて説けば、それは万物を生養して而して毫も偏私なし——この両層は皆「均」と呼ばる。柔順は極点に到れば便ち生生相継ぎ母子相承す、故に母子牛と為す。地は厚くして能く物を載す、故に大車と為す。坎卦はただ中間の一画のみ陽にして上下の両画は虚、もまた車象を取る可し、但し「大」と称す能わず。坤は三画全虚、容量最大、故に特に「大車」と説き、以て坎の車と相区別す。
坤畫偶,又物生於地至雜,故為文。偶畫多故為眾。有形可執,持成物之權,故為柄。又在下而承物於上。凡執持之物,其本著地者,柄也。地之土色有五。黑者,極陰之色也。又荀九家有為牝,為迷,為方,為囊,為裳,為黃,為帛,為漿。
坤の爻画は皆断開せる偶画にして、交錯して紋を成す。加うるに万物は地上に生じ、色類は極めて駮雑、故に文彩と為す。偶画の数目は多し(三画皆偶、共に六段)、故に衆多と為す。地は形体ありて把握す可く、また万物を成就するの権柄を掌握す、故に柄と為す。再者柄は総じて下面に在りて上面の東西を承托す、凡そ執る可きの物は、その根本の地に着くのあの一端はすなわち柄なり。土の顔色は本は青黄赤白黒の五種あり、その中の黒は陰の極処に到るの顔色、故に「其は地に於ては黒と為る」という。另外荀爽の輯せる九家易の本子は、この一串の下に還た雌と為り・迷と為り・方と為り・囊と為り・裳と為り・黄と為り・帛と為り・漿と為る等項あり。
震為雷,為龍,為玄黃,為,為大塗,為長子,為決躁,為蒼竹,為萑葦。其於馬也,為善鳴,為足,為的顙。其於稼也為反生。其究為健,為蕃鮮。陰閉而陽奮於下為雷。陽在下動為龍。乾坤始交生震,故兼天地之色。
震の取象有るは、雷、龍、玄黄相雑の色、花萼初放、大道、長子、決断急躁、青翠の竹、芦荻。馬に就きて言えば、善鳴の馬・白足の馬・額上に旋毛有るの馬と為る。庄稼に就きて言えば、種子倒生反長と為る。それ極処に変ずれば則ち剛健と為り繁茂鮮美と為る。(底本「玄黄と為る」の下に一字を脱し、通行本は「旉」と作り、花萼初放を指す、今はその旧に仍りて補わず。)陰気は上に閉塞し、陽気は下に奮起し、衝激して以て雷を成す。陽爻は下方に在りて鼓動す、正に龍の潜みて而将に起こらんとするの象なり。乾坤の初次交合して震卦を生出す、故に震は天地の両色を兼ね有す。
得乾初盡為玄,得坤中畫上畫為黃,雜而成蒼色也。陽氣始施為。又花蔕下連而上分為花也。一奇動於內,二偶開通。前無壅塞,萬物畢出。故為大塗也。一索得男,長子也。陽生於下,上進決陰而躁動也。蒼,深青色。竹之美者。竹之筠也。萑,荻。葦,蘆。竹與蘆葦,皆下本實而上虛也。
震の初爻は乾より得、乾色は玄(天青黒)。中爻上爻は坤より得、坤色は黄(地黄)。両色相雑じて則ち蒼(青黒に黄を帯ぶ)と成る。陽気は剛に施発を開始し、草木は便ち花萼を抽出す。花萼の下端は蒂に連り、上端は分開して則ち花と成る(底本は此の句もまた「旉」の字を脱す)。一個の陽爻は内に在りて鼓動し、上面の両個の陰爻は開裂通達し、前方に壅塞なく、万物は一斉に湧出す、故に大道と為す。震は乾坤の一索の得る所の男卦、故に長子と為す。陽気は下に生じて而して向上に推進し陰爻を決排す、故に決断急躁と為す。「蒼」は深青色。あの最も好き竹子は、取る所は竹皮の青翠の色なり。「萑」は荻、「葦」は芦、竹子と芦荻は皆下段の根本は結実にして上段は中空——正に震卦の下実上虚の爻象に合す。
上畫偶開出聲,又陽氣始亨,故馬善鳴也。左足白曰。震居左也。足超健曰作。下畫一陽動也。的顙,額有旋毛中虛,射者之的。言上畫之虛也。稼,諸榖之類。萌芽自下而生,反勾而上,陽剛動於下也。陽長必終於乾,故究為健。蕃,生。鮮,美。春生之草,下一根而開葉於上也。按《荀易》下有為玉,為鵠,為鼓。
震の上一画は断開せる偶画にして、中虚にして能く声を出す、加うるに陽気初めて通ず、故に象を取りて善鳴の馬と為す。左脚は白色の馬を「馵」と呼ぶ、震は後天方位に於て東に居り、東は左と為す、故にこの象を取る(底本は「馵」の字を脱す)。脚步騰躍矯健を「作足」と呼び、下面一個の陽爻の鼓動するの義を取る(底本「曰作」の下に「足」の字を脱す)。「的顙」は額頭の正中に一圈の旋毛あり中間空白にして、射箭の靶心に象り、取る所は上面両画の中虚の象なり。「稼」は泛指各種の谷物。種子発芽は底下より鑽り出で、先ず倒勾して再び向上に返長す、正に陽剛の下に在りて発動するの象、故に「反生」と為す。陽は一路生長し、最終には必ず純陽の乾に帰す、故に震は極処に変じて剛健と為す。「蕃」は滋生、「鮮」は鮮美、春天の新生の草は、下面に一条の根ありて而して上面は枝叶を舒展す、もまた震象なり。另《荀氏易》に按ずれば、震象の下に還た玉と為り・鵠と為り・鼓と為るの三項あり。
巽為木,為風,為長女,為繩直,為工,為白,為長,為高,為進退,為不果,為臭。其於人也為寡髮,為廣顙,為多白眼,為近利市三倍。其究為躁卦。木,乾陽而根陰。又物之善入者莫如木也。陰凝於下,陽發於外。周旋不舍則為風。又氣之善入者莫如風也。坤始交於乾而得巽,長女也。
巽の取象有るは、木、風、長女、縄墨以て直を取る、工匠、白色、長、高、進退不定、猶疑して果決せず、気味。人に就きて言えば、頭髪稀少・額頭寛広・眼白多し・利を逐うに三倍の利を獲可し。それ極処に変ずれば則ち躁動の卦と成る。先ず木を説く。樹幹は上に在りて陽に属し、根須は下に在りて陰に属す、正に巽卦の二陽上に在り一陰下に在るに合す。而して万物の中の最も鑽入に善いは樹根より過ぐるなし、正に巽「入」の徳性に合す。再び風を説く。陰気は下に凝聚し、陽気は外に発散し、回旋して止まずして則ち風と成る。天地の気の最も滲入に善いもまた風より過ぐるなし。坤の第一次に往きて乾を求めて巽を得、故に巽は長女と為す。
繩,糾木之曲而取直者。工,引繩之直而制木者。巽德之制,故為繩直,為工也。巽少陰,故於色為白。木下入而上升,故為長,為高。又長者風之行,高者木之性也。陰性多疑,盤旋於二陽之下。又風行無常,或東或西。故為進退不果也。陰伏二陽之下,氣鬱不散,故為臭。
縄墨は以て木材の弯曲を矯正しその平直を取るを用とし、工匠は則ち縄墨の直線に依りて以て木材を加工する者なり。《繫辞伝》に「巽は徳の制なり」という、巽は裁制・約束の義あり、故に縄直と為り工匠と為す。巽は一陰初生の少陰の卦、陰気は尚お清し、故に顔色上に於ては白と為す。樹木は下に向かい扎根し上に向かい抽長す、故に長と為り高と為す。再説、能く綿延伸長するは風の行迹、能く高聳するは木の本性なり。陰の本性は多く疑う、あの一個の陰爻は両個の陽爻の下に盤桓し、進退不定。加うるに風の行は定向なく、忽ち東忽ち西。故に進退と為り果決せずと為す。陰爻は両陽の下に潜伏し、気は郁結して而して発散する能わず、郁久しければ則ち味を生ず、故に気味と為す。
陽盛於上,陰血不升,故為寡髮。二陽在上,陽氣上盛。故為廣顙。眼白為陽黑為陰,反離之黑在下而白居中,故多白眼也。陽義陰利。陰主於內,近利之至,如賈之得利三倍也。三爻皆變,則為震之決躁,故究為躁卦也。然震變乾,變上二畫而已。巽不言中上之變為坤,而以三畫盡變為為震者。蓋陰欲變為陽,陽又欲變為純陽。此又聖人扶陽抑陰之意也。《荀易》有為楊,為鸛。
陽気は頭頂に盛んにして、陰血は上養する能わず、故に頭髪稀少なり。両個の陽爻は上に居り、上部の陽気充盛、故に額頭寛広なり。眼睛の白仁は陽に属し黒仁は陰に属す、巽卦は正に離卦の反面——離は黒が中間に在り白が上下に在り、巽は反ってこれ、便ち黒が下に在りて白が中に居る、故に眼白多し。陽は道義を主とし、陰は貨利を主とす。巽の陰爻は内裏に主として、利を逐うこと極処に至れば、則ち商賈の能く三倍の利を獲るが如し。巽の三爻全変すれば則ち震と成る、震は決断躁動の卦、故に巽は極処に変じて躁卦と為るという。不過ぎ震は乾に変ずるは、ただ上面両画を変ずるを須うるのみ。ここに巽は中爻上爻の変じて坤を成すを取らず、偏えに三画尽変して以て震を成すを取るを説くは、陰は総じて陽に変ぜんと想い、陽はまた総じて純陽に変ぜんと想うを以てなり——これは仍お聖人の陽剛を扶助し陰柔を抑制するの用意なり。《荀氏易》は另に楊樹と為り・鸛鳥と為るの両項あり。(底本「尽変して震と為る者」は一個の「為」の字を衍す、今はその旧に仍る。)
坎為水,為溝瀆,為隱伏,為矯輮,為弓輪。其於人也為加憂,為心病,為耳痛,為血卦,為赤。其於馬也為美脊,為亟心,為下首,為薄蹄,為曳。其於輿也為多眚,為通,為月,為盜。其於木也為堅多心。一陽在內而明,二陰在外而陷,故為水。溝瀆所以行水,水流而不盈。
坎の取象有るは、水、溝渠、隠伏、揉曲して直を取る、弓と車輪。人に就きて言えば、憂慮加深・心病・耳痛・血を主とるの卦・赤色と為る。馬に就きて言えば、脊背美好・性子急躁・低頭して昂らず・蹄薄し・拖曳して行き難し。車に就きて言えば、多災と為る。また通と為り、月と為り、盗賊と為る。木に就きて言えば、堅硬にして中心多筋と為る。一個の陽爻は内裏に在りて明亮、両個の陰爻は外面に在りて下陥す、外暗内明・外柔内剛、正に水の形態、故に水と為す。溝渠は以て水を通ずるを用とす、水はその中に流れて而して満溢せず、もまた坎象に合す。
陽畫為水,二陰夾之,故曰溝瀆。陽居中而無陰以蔽之,則見而不隱。陽在陰下得時,則起而不伏。坎,陽陷陰中而包之,故為隱伏。水勢曲直方圓唯勢之利,因人所導,故為矯輮。弓蓋二十八,蔽車之上。輪輻三十六,運車以行。皆矯輮所成也。
中間のあの一陽画は水流に象り、上下両陰画は両岸の夹峙に象る、故に溝渠と呼ぶ。仮使陽爻中に居りて而して遮蔽する陰なければ、それは顕露して而して隠蔵せざらん。仮使陽爻陰の下に在りてまたその時に逢えば、それは奮起して而して潜伏せざらん。坎卦は偏えに是れ陽が陰の中に陥りて包裹せられ、故に隠伏と為す。水の走勢は或いは曲或いは直・或いは方或いは円、全く地勢の便を看て、人の疏导に任凭し、屈す可く伸ぶ可し、故に「矯輮」(矯は弯を弄りて直と為し、輮は直を弄りて弯と為す)と為す。車蓋の弓骨は二十八根あり、車頂上に撑覆す。車輪の輻条は三十六根あり、轉動して車を行かしむ。これらの弯曲の構件は皆矯輮の工に倚りて製成せらる、故に坎はまた弓と為り輪と為る。
陽陷陰中,心危慮深,故加憂。心耳皆以虛為體。坎中實,故為病為痛。離火在身為氣,坎水在身為血。血運於身,猶水之行於天地間也。得乾中畫之陽,故為赤而不大也。
陽は陰の中に陥りて脱身を得ず、処境は危険にして而して思慮は深沉、故に憂慮加深と為す。心と耳は皆中空を以て常態と為す。心虚なれば始めて思を容れ得、耳虚なれば始めて声を納れ得。坎卦は偏えに中間の一画は実、虚処は填塞せられ、故に心病と為り耳痛と為す。火は人の身上に於ては気に表現し、水は人の身上に於ては血に表現す。血は周身に運行し、水の天地の間に流行するが如し、故に坎は血卦と為す。坎の中爻は乾の中画の陽より得、故にもまた赤色を取る、但しただ赤と称するのみ可く、乾の如く「大赤」と称する能わず。
坎中畫陽故為馬為美脊。剛在內而躁,故馬亟心。上柔,故首下而不昂。下柔,故蹄薄而不厚也。曳亦下之弱者。柔不任重,故在輿馬多眚。坤輿行於平地則安。坎多險陷阻礙也。通者水之性,坎維心亨也。月者水之精。盜者隱伏而險。剛在中,故在木為堅多心也。按《荀易》又有為宮,為律,為可,為棟,為叢棘,為狐,為蒺藜,為桎梏。
坎の中画は陽、馬脊梁のあの道の挺起する骨脊に象る、故に脊背美好の馬と為す。剛は裏面に在りて躁動して安ならず、故に馬の性子急なり。上爻は柔なり、故に頭は低垂して昂起せず。下爻は柔なり、故に蹄は薄くして厚実せず。腿を拖えて走るも、また下部軟弱の表現なり。柔弱は重載を担い起こす能わず、故に坎馬の駕車は事故を出だし易し。同じく車なり、坤車は平地上に行きて穩当、坎車は却って処処に陥陥阻礙に遇う。「通」は水の本性、《坎》卦《彖伝》に「維心亨」という、険を行きて而して心志は能く通ず、故に通と為す。月亮は水の精華、故に月と為す。盗賊は暗処に隠伏して而して人をして険に渉らしむ、正に坎の隠伏と険に合す、故に盗と為す。剛は中央に在り、故に樹木に就きて言えば質地堅硬・中心多筋と為る。另《荀氏易》に按ずれば、坎象に還た宮室と為り・音律と為り・可と為り・棟梁と為り・叢棘と為り・狐と為り・蒺藜と為り・桎梏と為る等項あり。
離為火,為日,為電,為中女,為甲冑,為戈兵。其於人也為大腹,為乾卦,為鱉,為蠏,為蠃,為蚌,為龜。其於木也為科上槁。離者,麗也。火麗木而生,又內暗外明,故為火。日,火之精也。陰麗陽而明,又有火光,故為電。坤再交於乾,故為中女。剛畫在外為甲冑。
離の取象有るは、火、太陽、閃電、中女、鎧甲頭盔、戈矛兵器。人に就きて言えば、大肚子と為る。また乾燥の卦と為り、鼈・螃蟹・螺・蚌・亀と為る。樹木に就きて言えば、上端枯槁の中空の物と為る。「離」の本義は附麗なり。火は必ず柴薪に依附して始めて燃焼し得、而且に火焰は内部は暗を発し外囲は光明、正に離卦の外陽内陰に合す、故に火と為す。太陽は火の精華、故に日と為す。閃電は陰気が陽気に附着して光を発し、また火光を帯ぶ、故に電と為す。坤は第二次に往きて乾を求めて離を得、故に中女と為す。両個の剛爻は外面に包み、鎧甲頭盔の身外に護るが如し、故に甲胄と為す。
火銳於上為戈兵。中虛有容為大腹,又得坤之中爻也。火熯燥故為乾卦。外剛內柔,故為鱉蠏蠃蚌龜。又鱉性靜,取中畫之柔。蠏性躁,取上下二畫之剛。蠃取善麗之象。蚌取中虛之象。龜取文明之象。
火苗は尖鋭にして向上し、戈矛の鋒刃に象る、故に戈矛兵器と為す。中間の一画は虚にして能く容る、人の大肚子に象る。再者この一の中爻は正に坤の中画より得たる、坤は本に物を容るるの義あり、故に大腹と為す。火は能く烘烤して物を乾燥せしむ、故に乾燥の卦と為す。外面は剛硬にして裏面は柔軟、正に甲殻類の構造、故に鼈・蟹・螺・蚌・亀と為す。その中に鼈の性は沈静、中間のあの一の柔画を取る。蟹の性は躁動、上下の両剛画を取る。螺は岩石に附着すること善し、「麗」(附着)の象を取る。蚌殻は張開して中間は空、中虚の象を取る。亀背には紋理あり、文明の象を取る。
科上槁,一作科空也。本中空,上必枯槁。一曰科非木。科,巢之附於木上者。科中虛有離象。上槁者,科上之木乾燥,如花鵲巢以木枝結構而成者。二說雖不同,皆於離象可通。按《荀易》有為牝牛。
「科上槁」のこの三個の字には両種の解釈あり。一説に「科」はすなわち空、樹身の中間が空ければ、上頭は必然に枯槁す、正に離卦の中虚に合す。另一説に「科」は樹を指すに非ずして、而も樹上に搭えたる鳥の巢を指す。鳥の巢の中間は空にして、離卦の中虚の象あり。いわゆる「上槁」とは、巢下の圧する所の樹枝の乾燥枯脆するを説き、喜鵲の乾樹枝を以て架搭して巢を成すが如し。両説は同じからざる虽も、但し皆能く離の中虚の象と講じ通ず。另《荀氏易》に按ずれば、離象に還た母牛と為るの一項あり。
艮為山,為徑路,為小石,為門闕,為果蓏,為閽寺,為指,為狗,為鼠,為黔喙之屬。其於木也為堅多節。靜以止者,山也。徑者,路之小。艮為震之反體。高山之上成蹊,非如平地之大塗也。剛在坤土之上,象山頂高處之小石。若坎剛在坤土之中,則平地土中之大石矣。
艮の取象有るは、山、小路、小石頭、門闕、木実と草実、門を守る閽人と近侍の寺人、手指、狗、鼠、および黒嘴の一类の猛禽走獣。樹木に就きて言えば、堅硬にして多節と為る。静止して動かざるは山より過ぐるなし、故に山と為す。「径」は狭小の路なり。艮は震卦の倒过来たるの卦体、震は大道と為り、艮はこれに反すれば則ち小路と為る——高山の上に踩み出だせる蹊徑、自然に平地の通衢大道に象らず。艮の一個の剛爻は坤土の上に圧し、山頂の高処に露出する小石頭に象る。若し坎の如く剛爻が坤土の中に埋まれば、あれは平地の土裏の大石頭なり。
闕者,門之出入處。上畫連亙,中二畫雙峙而虛,似門闕也。果,木實;蓏,草實。乾純剛為木果,艮一剛二柔故為果蓏。震為,草木之始。艮為果蓏,草木之終。果蓏能終又能始,故於果蓏為切。
「闕」は宮門の両旁の高台、人は中間より出入す。艮卦の上面の一画は横貫相連し、下面の両画は分開対峙して而して中間空虚、正に両台の夹峙して中に通道を開くの門闕の如し。「果」は樹上の結ぶ実、「蓏」は藤蔓草本の結ぶ実なり。乾は純剛、故にただ木果を説くのみ。艮は一剛二柔、剛の中に柔を帯ぶ、故に兼ねて果蓏を説く。震は花萼初放と為す、あれは草木生長の開端(底本「震為」の下に「旉」の字を脱す)。艮は果実と為す、あれは草木生長の終結なり。而して果実は地に落ちて又能く重新に萌発す、既に終にして又是れ始、正に艮卦「万物を終え万物を始む」の徳性に合す、故に果蓏の象を取るを最も貼切と為す。
閽,掌王宮之中門之禁,止物之不應入者。寺,掌王之內人及宮女之戒令,止物之不得出者。手以止物,而用以止者在指。又諸物之末,骨之外見者也。鼠黔喙,皆前剛也。黔鉗通。山居之獸,齒牙如鐵能食生物。又鳥亦善以喙止物者也。緊多節,亦剛在外也。按《荀易》有為鼻,為虎,為狐。《麻衣易》亦以艮為鼻。朱子曰鼻者,面之山。管輅嘗言之。
「閽」は王宮の中門の門禁を掌管する人、職責は進み来るべからざるを攔住す。「寺」は宮内の女官宮女の戒令を掌管する人、職責は出で往くべからざるを攔住す。一進一出は皆「止」なり、故に艮象に合す。手は能く東西を按住す、而して真正に抵住に用うるの部位は手指に在り。手指はまた人身の諸物の末端・骨節の外露の処、正に艮の一陽が上に在りて外露するの象に合す、故に指と為す。老鼠と黒嘴の猛獣は、皆前面の部位の剛硬なる者(門牙・利喙は前に在り)。「黔」は「鉗」と相通じ、山中に居るあの類の獣を指し、歯は鉄の如く能く活物を咬食す。鳥類もまた善く喙を用いて東西を鉗みて放さず、皆「止」の意思なり。樹木に就きて言えば堅硬多節も、また剛の外に顕るの表現なり。(底本「堅多節」は「緊多節」に誤作れり、今はその旧に仍る。)另《荀氏易》に按ずれば、艮象に還た鼻と為り・虎と為り・狐と為るあり。《麻衣易》もまた艮を以て鼻と為す。朱子曰く、鼻子は一張の臉上の山なり。三国時の管輅は早くもすでにこのように講じ過ぎたり。
兌為澤,為少女,為巫,為口舌,為毀折,為附決。其於地也為剛滷,為妾,為羊。澤者水之聚。二陽沉於下,一陰見於上,坎壅成澤也。巫,以言語說神者。兌上折,口象,故為巫,為口舌。金氣始殺,條枯實落,故為毀折。
兌の取象有るは、沼沢、少女、巫祝、口舌、毀壊折断、依附して而して後に决裂。土地に就きて言えば堅硬の鹽鹼地と為る。又妾と為り、羊と為す。沼沢は水の匯聚する処。両個の陽爻は下面に沈み、一個の陰爻は上面に顕露す、則ち坎水の壅塞せられて流走する能わず、積みて沢と成せるが如し。「巫」は言語を倚りて神霊に向かい陳説祈禱する人なり。兌卦の上面の一画は断開せる缺口、正に人の張開せる口の如し、故に巫と為り口舌と為す。兌は後天方位に於て西方に属し、秋金の気は始めて肅殺し、草木の枝条は枯萎し果実は墜落す、故に毀壊折断と為す。
柔附於剛,剛乃決柔,故為附決。陰在上皆有決義。震陽動故躁,兌陰說故附決。躁者有所去,以達其怒。附決者始雖親,而動不免於去也。陽在下為剛,陰在上為滷。剛滷之地不生物。滷者,水之死氣也。坎水絕於下而澤見於上則為滷。滷暫熯而乾,乾而復潤,天下之潤者莫久焉。然不生物,以氣之在外也。少女從娣故為妾。內狠外說故為羊。
上面のあの一の柔爻は両剛の上に依附す、而して剛は終究にそれを決去せんと要す、故に「附決」と為る——先ず附着し、後に决裂す。凡そ陰爻上に居るの卦は、皆決去せらるるの義を含む。同じく陰の上に在るに、震は陽動を以て主と為す故に躁進と顕れ、兌は陰悦を以て主と為す故に附して而して後に決と顕る。躁進のは衝き出でてその怒気を発泄せんと要す者、附決のは則ち起初は親暱す虽も、一動き起これば終帰に離去を免れざるなり。下面の両陽は土質の堅硬に象り、上面の一陰は浮出する鹽花に象る、故に堅硬の鹽鹼地と為す。鹽鹼地は庄稼を長ぜず。鹵は水の死気なり。坎水は下に於て断絶し、ただ沢面の上面に浮ぶのみ残れば、則ち鹵と成る。鹵地は一晒せば則ち乾き、乾けばまた返潮す、天下の最も能く持久して潤を保つはそれより過ぐるなし、可是終究に万物を生養せず、その気の外に浮いて而して土に入らざるを以てなり。少女は嫡姊に随いて嫁を出でて陪媵と為るを要す、故に妾と為す。羊は内裏は狠戾にして而して外表は和悦、故に羊と為す。
按《荀易》有為常,為輔頰。前章以八卦象八物,此章又推廣以盡萬物之情。其中有相對取象者,如乾天、坤地之類是也。上文乾為馬,此則為良馬老馬瘠馬駁馬。良取其德,老取其知,瘠取其骨,駁取其力,皆取其健也。上文坤為牛,此則為子母牛,取其生生有繼,兼取其順也。
另《荀氏易》に按ずれば、兌象に還た常と為り・面頬と為るの両項あり。前面の第八・第九の両章はただ八卦を用いて八種の物に配す。本章は則ち大いに推広し、務めて万物の情を皆収め入れんと求む。その中に或るは相対して成双に取象する者あり、譬えば乾は天と為り坤は地と為るの類の如し。前文の乾はただ馬と為るを説くのみ、本章は却って良馬・老馬・瘦馬・駮馬を分かち出す。良はその品性の好きを取り、老はその経験の熟するを取り、瘦はその骨力の硬きを取り、駮はその気力の猛きを取る、四者は皆一個の「健」の字を出でず。前文の坤はただ牛と為るを説くのみ、本章は却って母子牛を説く、その生生相継いで絶えざるを取り、同時にまた牛の柔順を取る。
乾為木果,結於上而圓。坤為大輿,載於下而方。震為決躁,巽為進退,為不果,剛柔之性也。震巽獨以其究言剛柔之始也。坎內陽外陰,水與月則內明外暗。離內陰外陽,火與日則內暗外明。坎中實,故於人為加憂為心病為耳痛。離中虛,故於人為大腹。艮為閽寺為指,陽之止也。兌為巫為口舌,陰之說也。
乾は木果と為す、果実は樹梢の上に結びて而して形状渾円、天の円にして上に在るに合す。坤は大車と為す、車は物を下に載せて而して車廂方正、地の方にして下に在るに合す。これもまた相対して成双なり。震は決断急躁と為り、巽は進退猶疑と為す、一個は剛決・一個は柔疑、説く所は剛柔両種の性情なり。八卦の中にただ震・巽両卦のみ特に「其の究」(極処に変ずる)に説き及ぶは、要点に剛柔互変の起点を明らかにせんとするなり。坎は陽が内に在り陰が外に在り、故に水と月を取る、水月は皆内裏明亮にして外表晦暗なり。離は陰が内に在り陽が外に在り、故に火と日を取る、火日は皆内裏は暗を発し外囲は光明なり。坎の中爻は実、故に人の身上に於ては憂慮加深・心病・耳痛と為る。離の中爻は虚、故に人の身上に於ては大肚子と為る。艮は閽人寺人と為り手指と為す、皆陽剛上に在りて止を主とす。兌は巫祝と為り口舌と為す、皆陰柔上に在りて悦を主とす。
有相反取象者。震為大塗,反而艮則為徑路。大塗,陽闢乎陰,無險阻也。徑路,陽阻而下陰,不能闢也。巽為長為高,反而兌則為毀折。長且高者,陽之上達。毀而折者,陰之上窮也。有相因取象者。
還た一类ありて是れ卦体を倒过来して相反の象を取る者なり。震は大道と為す、倒过来て艮を成せば則ち小路と為る。大道は陽爻下に在りて陰爻を開闢し、一路暢通して阻なし。小路は陽爻が上面に頂けられ下面にまた陰を圧し、開きて通途を出だす能わず。巽は長と為り高と為す、倒过来て兌を成せば則ち毀壊折断と為る。長にして且つ高きは、陽気の一直に向上に通達するなり。毀壊折断は、陰気の最上頭に爬り到りて已に尽頭に走り尽くせるなり。此の外に還た一类ありて是れ彼此相因り此より彼に及びて取象する者、下文を見よ。
乾為馬。震得乾之初之馬,故於馬為善鳴足作足的顙。震陽下而陰上也。坎得乾中爻之馬,故馬美瘠亟心下首薄蹄曳。坎陽中而陰外也。善鳴似乾馬之良,美瘠似乾馬之瘠。作足,陽下而健。薄蹄者,陰下而弱也。
いわゆる相因りて取象するとは、譬えば乾は本は馬と為す。震は乾の初爻を得、故に震馬は善鳴・白足・騰躍・額に旋毛あり、これは震の陽が下に在りて陰が上に在るを以てなり(底本「善鳴足作足的顙」の処に「馵」の字を脱す)。坎は乾の中爻を得、故に坎馬は脊美・瘦勁・性急・低頭・蹄薄・拖曳、これは坎の陽が中に在りて陰が外に在るを以てなり。細看せば、善鳴は乾馬の「良」に近く、脊美瘦勁は乾馬の「瘠」に近し。「作足」は陽の下に在りて而して力あるなり、「薄蹄」は則ち陰の下に在りて而して軟弱——同じく乾馬に出づるも、却って爻位の同じからざるに因りて強弱の別あり。
坤為大輿,坎為輿為多眚。坤中虛而力能載,坎中滿而下無力也。巽為木,乾陽而根陰也。坎中陽,故於木為堅多心。艮上陽,故於木為堅多節。離中虛,故於木為科上槁。震為。乾為木果,艮為果蓏。震之一陽花之敷。乾之三陽果之結。果蓏則陽上而陰下也。
又如坤は大車と為す、坎もまた車と為すも却って多災の車なり。坤は三画皆虚、中空にして載力大なり。坎は中間填実して底下は反って力なく重を承る能わず。又如巽は木と為す、樹幹の陽に属し樹根の陰に属するを取る。同じく木を説くに、坎の陽は中間に在り、故に木の取象は堅硬にして中心多筋。艮の陽は上面に在り、故に木の取象は堅硬にして多節。離の中間は虚、故に木の取象は中空にして上枯す。再如震は花萼初放と為す(底本「震為」の下に「旉」の字を脱す)、乾は木果と為し、艮は果蓏と為す。震の一陽は花の綻放、乾の三陽は果の凝結、艮の果蓏は則ち陽が上に在り陰が下に在り、剛殻に柔瓤を裹るなり。
有一卦之中自相因取象者。坎為隱伏,因而為盜。巽為繩直,因而為工。艮為門闕,因而為閽寺。兌為口舌,因而為巫。有不言而互見者。乾為君以見坤之為臣。乾為圜以見坤之為方。吝嗇者,陰之翕也,以見陰之闢。均者,地之平也,以見天之高。
還た同一卦の内に於て前後相因じて以て取象する者あり。坎は已に隠伏と為り、ここに於て勢いに順いて盗賊と為す。巽は已に縄墨の直を取ると為り、ここに於て勢いに順いて工匠と為す。艮は已に門闕と為り、ここに於て勢いに順いて門を守る閽人寺人と為す。兌は已に口舌と為り、ここに於て勢いに順いて巫祝と為す。另に一类ありて是れただ一辺を説き、另一辺は対照に倚りて自ら見る。乾は君と為るを説けば、坤は臣と為るは必ずしも説くを要せず。乾は円と為るを説けば、坤は方と為るは必ずしも説くを要せず。坤の吝嗇を説くは、あれは陰気の閉合する時の様子、反ってこれ則ち陰気もまた開張の時有るを見出だし得。坤の均平を説くは、あれは大地の平鋪する様子、反ってこれ則ち天の高遠を見る。
為文者,物生於地離而可見也,知其始於天者不可見矣。為柄者,有形之可執也,乾之氣不可執矣。離為乾卦,以見坎之為溼。坎為血卦,以見離之為氣。巽為臭,以見震之為聲。巽離兌三女,震為長子而坎艮不言者,尊嫡也,於陽之長者尊之也。兌少女為妾而巽離不言者,少女從墒為娣,於陰之少者卑之也。乾為馬,震坎得乾之陽皆言馬而艮獨不言者,艮,止也,止之性非馬也。其大畧如此,他可觸類而通。
坤の文彩と為るを説くは、万物の地上に生じて形色分明して見る可きを以てなり。これより反照すれば、万物の天に起始するのあの一段は無形にして見る可からざるを知る可し。坤の柄と為るを説くは、地上の物に形ありて執る可きを以てなり。これより反照すれば、乾の気は把捉するに由なきを知る可し。離の乾燥の卦と為るを説けば、則ち坎の潮湿と為るを見出だす。坎の血を主とるの卦と為るを説けば、則ち離の気を主とるを見出だす。巽の気味と為るを説けば、則ち震の声音と為るを見出だす。巽・離・兌は皆点明して是れ三女と為し、震は点明して是れ長子と為すも而して坎・艮は却って提せず、これは嫡長を尊重し、陽の長たる者に対し要してそれを抬高せんとするなり。兌は点明して少女は妾と為るも而して巽・離は却って妾を提せず、これは少女は須く姊に随いて嫁を出でて陪媵と為るを以て、陰の少なき者に対し要してそれを圧低せんとするなり(底本「墒に従う」は当に「姊に従う」と作るべし)。乾は馬と為し、震・坎は乾の陽爻を得ても皆馬を説く、唯だ艮のみ馬を説かず、艮の徳性は止にして、止の性情は馬に合せざるを以てなり。大略この如し、其余の可以るは類に依りて推想して以て通ず。
至於卦象之中有與卦爻相符者,如乾天坤地之類是也。有不與卦爻相符者,如乾坤稱龍而不必在震,坤屯稱馬而不必在乾之類是也。有見於卦爻而此不載者,如漸之鴻中孚之豚魚之類是也。有見於此而卦爻無之者,如為釜為布為蠃為蚌之類是也。若夫大琴謂之離,小罍謂之坎。此見於他書,而易與說卦又可以類推也。
再び《説卦》の列する象と経文との関係を説く。卦爻辞と相符する有り、例えば乾は天と為り坤は地と為るの類。卦爻辞と相符せざる有り、例えば《乾》《坤》両卦の爻辞は皆龍を称すも、而して龍は本は震象にして并な震に限らず。《坤》卦と《屯》卦の爻辞は皆馬を称すも、而して馬は本は乾象にしてまた乾に限らず。卦爻辞に見えて而して《説卦》は載せざる有り、例えば《漸》卦の鴻雁・《中孚》卦の豚魚の類。《説卦》に見えて而して卦爻辞の裏に根本に有らざる有り、例えば釜と為り・布と為り・螺と為り・蚌と為るの類。大琴を把りて離と呼び小酒器を把りて坎と呼ぶに至っては、この類の説法は別の書に見ゆ、而して《周易》と《説卦》の取象もまたこの路子に照らして類推す可し。
至若自坤而降,或曰其於地,其於人,其於馬,於輿,於稼,於木,唯乾不言者,蓋物不足以盡卦,則正言為天為地之類。卦不足以盡物,則言其於人,其於馬之類。至乾之為物無不周遍,萬物不足以盡之,故無所言焉。要之天地之物,大而天地山川,微而草木禽蟲,君臣父子之倫,毛髮爪甲之細,無一不備於卦。即無一不本於太極,無一不在於吾心。知此可與言八卦之象矣。右第十一章。以上說卦傳十一章,備言卦象卦位。疑古者若《八索》之書,所載有此。夫子因筆削之,以為傳也。
還た一点あり。坤卦以下より、各卦は皆「其は地に於ては」「其は人に於ては」「其は馬に於ては」「其は輿に於ては」「其は稼に於ては」「其は木に於ては」の这一类の分類説法を出現す、唯だ乾卦のみ一処もなし。これは以ての故は、当に一物を以て整卦の意思を説き尽くすに足らざる時は、則ち直接に「天と為る」「地と為る」と説く。当に一卦の意思が如何なる一物の装い下す能わざるに非ずの時は、則ち退きて「人に就きて言えば」「馬に就きて言えば」と説き、某一類の裏に限定して講ず。乾に至っては、それは物象と為して包まざるなし、万物を加え合わせてもそれを盛り下す能わず、故に索性にこの種の限定を作さず。総之天地の間の東西は、大は天地山川に至り、小は草木禽虫に至り、上は君臣父子の人倫に至り、細は毛髪爪甲に至るまで、一様として卦中に備わらざるなし。則ちまた一様として太極に本づかざるなし、一様として我が心の内に在らざるなし。この一層を懂得して、始めて彼と八卦の象を談ず可し。以上第十一章。以上《説卦伝》十一章は、卦象と卦位を講じて甚だ完備せり。推想すれば古代にほぼ《八索》の一类の書ありて、裏頭にこれらの内容を記載し、孔子は加えて刪定し、編みてこの篇の伝を成せり。
序卦伝
按,序卦,韓康伯謂非聖人之蘊,沙隨程氏謂非聖人之書,朱子辨其不然。謂此中事事夾雜,無所不有。雖非聖人之精,不可謂非聖人之蘊也。今從《程傳》,分析其辭,見於六十四卦之首。則在此註釋可畧,附諸儒別論於後。
按ずるに、《序卦伝》に関しては、晋代の韓康伯はそれを聖人の深藴に算入す可からずと認め、宋代の沙随程迥は更にそれを根本に聖人の作に非ずと説き、朱子は則ち辯駁して然らずと説く。朱子の意思は、この篇の裏頭は頭緒夾雑して何でも有り、聖人の最も精微のものに算入す可からず虽も、而してそれを聖人の積蓄する所の義理に非ずと説く能わず。本書は如今程頤《伊川易伝》の弁法を採用し、《序卦》の文句を拆開し、分別に六十四卦の各卦の首に繫げ(前文の各卦に已に随処に解き過ぎたり)、故にここの注釈は以て簡より従す可く、ただ諸家の另外の議論を後面に附録す。
有天地,然後萬物生焉。盈天地之間者唯萬物,故受之以屯。屯者,盈也。屯者,物之始生也。物生必蒙,故受之以蒙。蒙者,蒙也,物之穉也。物穉不可不養也,故受之以需。需者,飲食之道也。飲食必有訟,故受之以訟。訟必有眾起,故受之以師。師者,眾也。眾必有所比,故受之以比。比者,比也。
先ず天地有り、然る後に万物始めて生出す。天地之間に充塞するはただ万物のみ、故に乾坤の後に《屯》卦を接ぐ——「屯」は充満にして、また万物の初生の時の挣扎して出づるの様子なり。万物初生は必ず蒙昧無知、故に《蒙》卦を接ぐ——「蒙」は蒙昧、万物の幼稚階段を指す。幼稚なれば則ち養育を加えざる能わず、故に《需》卦を接ぐ——「需」の講ずるは飲食供養の道なり。飲食の利有れば則ち必然に争奪を引起す、故に《訟》卦を接ぐ。争訟は一たび起これば必然に衆を聚めて相闘す、故に《師》卦を接ぐ——「師」は衆なり。既に衆を聚めれば、則ち必然に親附帰属有るを要す、故に《比》卦を接ぐ——「比」はすなわち親附なり。この一串の関鍵は、卦序は随手に排するに非ず、毎一卦は皆前卦の必然的後果より推し出だせるに在り。
比必有所畜,故受之以小畜。物畜然後有禮,故受之以履。履而泰,然後安,故受之以泰。泰者,通也。物不可以終通,故受之以否。物不可以終否,故受之以同人。與人同者,物必歸焉,故受之以大有。有大者,不可以盈,故受之以謙。有大而能謙必豫,故受之以豫。
人群は親附したる後は必然に積聚する所有り、故に《小畜》卦を接ぐ。積蓄有りて然る後に始めて礼節を講じ起こすを得、故に《履》卦を接ぐ(「履」はすなわち礼)。礼に依りて行い上下通泰し、然る後に始めて安定し得、故に《泰》卦を接ぐ——「泰」は通なり。事物は永遠に通泰する能わず、故に《否》卦を接ぐ。同様に、また永遠に閉塞する能わず、閉塞久しければ人心は合を思う、故に《同人》卦を接ぐ。能く人と心を同じくする者は、天下は必然に彼に帰附す、故に《大有》卦を接ぐ。広大を擁有すれば則ち自満す可からず、故に《謙》卦を接ぐ。広大を擁有して而して又能く謙退すれば、必然に安楽、故に《豫》卦を接ぐ。見るべし通より塞に至り塞より通に返るは、相反して相成り。謙より豫を致すは、則ち相因じて生ずるなり。
豫必有隨,故受之以隨。以喜隨人者必有事,故受之以蠱。蠱者,事也。有事而後可大,故受之以臨。臨者,大也。物大然後可觀,故受之以觀。可觀而後有所合,故受之以噬嗑。嗑者,合也。物不可以苟合而已,故受之以賁。賁者,飾也。
和楽の世は必ず人の相随附する有り、故に《随》卦を接ぐ。人人は喜悦を懐きて別人を追随し、日久しければ必ず弊壊を生じて而して整治を須うる事あり、故に《蠱》卦を接ぐ——「蠱」は(積弊を整治するの)事なり。能く事に任じて然る後に基業は始めて壮大し得、故に《臨》卦を接ぐ——「臨」は大なり。事物壮大して然る後に始めて観瞻すべきの気象あり、故に《観》卦を接ぐ。観瞻すべき有りて然る後に始めて會合を招来す、故に《噬嗑》卦を接ぐ——「嗑」は合なり。可是人物の間はただ苟且湊合するのみにすること能わず、還た文飾節文有るを須す、故に《賁》卦を接ぐ——「賁」は文飾なり。
致飾然後亨則盡矣,故受之以剝。剝者,剝也。物不可以終盡,剝窮上反下,故受之以復。復則不妄矣,故受之以無妄。有無妄然後可畜,故受之以大畜。物畜然後可養,故受之以頤。頤者,養也。不養則不可動,故受之以大過。物不可以終過,故受之以坎。坎者,陷也。陷必有所麗,故受之以離。離者,麗也。
文飾は極処に做り到れば、亨通の道もまた尽頭に走り到る、故に《剥》卦を接ぐ——「剥」は剥落なり。事物は徹底に剥尽せらるることなし、《剥》卦の一陽は最上の一爻に剥り到り、窮極して而して最下の一爻に返り、則ち《復》卦と成る、故に《復》を接ぐ。陽気は一たび復帰すれば、人は便ち本真に帰りて虚妄ならず、故に《无妄》卦を接ぐ。惟だ其れ真実にして妄ならざる、然る後に始めて徳を蓄え住むを得、故に《大畜》卦を接ぐ。積蓄豊厚にして然る後に能く供養す、故に《頤》卦を接ぐ——「頤」は養なり。先ず養足せざれば則ち動作する所有る能わず、故に《大過》卦を接ぐ。事物は一直に過甚して往下する能わず、過甚は必ず険陥を致す、故に《坎》卦を接ぐ——「坎」は陥なり。陥落の中は必ず依附する所有りて始めて出で来るを得、故に《離》卦を接ぐ——「離」は附麗なり。上経三十卦はここに到りて止まる。
序卦之意。有以相因為序,乾坤屯蒙是也。有以相反為序,泰否剝復是也。天地間不出相因相反二者。始則相因,極必相反也。右上篇
《序卦》の排列の義理は、帰結すればただ両種のみ。一種は相因じて序と為す、すなわち後卦は前卦より順勢に生出す、乾坤は屯を生じ屯は蒙を生ずるが如し。另一種は相反して序と為す、すなわち物は極まりて而して反す、後卦は前卦と相対す、泰の後は必ず否・剥の後は必ず復の如し。天地之間の変化はこの両条を出でず。起初は総じて勢いに順い相生し、極処に推し到れば則ち必然に反転す。以上は上篇。
有天地,然後有萬物。有萬物,然後有男女。有男女,然後有夫婦。有夫婦,然後有父子。有父子,然後有君臣。有君臣,然後有上下。有上下,然後禮儀有所錯。夫婦之道不可以不久也,故受之以恆。恆者,久也。物不可以久居其所,故受之以遯。遯者,退也。
下経は人倫より講じ起こす。天地有りて、然る後に始めて万物あり。万物有りて、然る後に始めて男女あり。男女有りて、然る後に始めて夫婦を結ぶ。夫婦有りて、然る後に始めて父子あり。父子有りて、然る後に始めて君臣あり。君臣有りて、然る後に始めて上下尊卑を分かつ。上下有りて、礼義制度は始めて安放施設するの処あり(「錯」はすなわち措置)。夫婦の道は長久ならざる可からず、故に《咸》卦(男女交感)の後に《恒》卦を接ぐ——「恒」は久なり。可是如何なるものも長久に一処を固守して変わらざる能わず、故に《遯》卦を接ぐ——「遯」は退避なり。
物不可終遯,故受之以大壯。物不可以終壯,故受之以晉。晉者,進也。進必有所傷,故受之以明夷。夷者,傷也。傷於外者必反其家,故受之以家人。家道窮必乖,故受之以睽。睽者,乖也。乖必有難,故受之以蹇。蹇者,難也。物不可終難,故受之以解。解者,緩也。
退避もまた退きて底に到る能わず、退き極まれば必ず反りて壮盛、故に《大壮》卦を接ぐ。壮盛もまた一直に壮んに往下する能わず、壮なれば則ち必ず上進を求む、故に《晉》卦を接ぐ——「晉」は進なり。一味に前進すれば必然に損傷を招致す、故に《明夷》卦を接ぐ——「夷」は傷なり。外面に於て傷を受けたる人は必ず自らの家中に退回す、故に《家人》卦を接ぐ。家道は窮処に走り到れば必ず乖離を生ず、故に《睽》卦を接ぐ——「睽」は乖背なり。乖背は必ず患難を生ず、故に《蹇》卦を接ぐ——「蹇」は難なり。患難は永無了結せず、故に《解》卦を接ぐ——「解」は舒緩なり。
緩必有所失,故受之以損。損而不已必益,故受之以益。益而不已必決,故受之以夬。夬者,決也。決必有所遇,故受之以姤。姤者,遇也。物相遇而後聚,故受之以萃。萃者,聚也。聚而上者謂之升,故受之以升。升而不已,必困,故受之以困。困乎上者必反下,故受之以井。井道不可不革,故受之以革。革物者莫若鼎,故受之以鼎。
松緩し来れば必ず廃失する所有り、故に《損》卦を接ぐ。減損止まず、損極まれば反りて増す、故に《益》卦を接ぐ。増益止まず、満極まれば必ず潰決す、故に《夬》卦を接ぐ——「夬」は決なり。決去したる後は必ず不期にして遇う者有り、故に《姤》卦を接ぐ——「姤」は相遇なり。彼此相遇して然る後に始めて聚會す、故に《萃》卦を接ぐ——「萃」は聚なり。聚積して而して上騰するを則ち升と呼ぶ、故に《升》卦を接ぐ。一味に上昇して止まざれば、力尽くれば必ず困窮に至る、故に《困》卦を接ぐ。上面に於て困住せるは必然に反りて下に求む、故に《井》卦を接ぐ(井は地下に在りて人を養う)。井は日久しければ汚濁し、淘治変革を加えざれば可ならず、故に《革》卦を接ぐ。而して物性を変革し化生を熟と為すの器具は鼎より過ぐるなし、故に《鼎》卦を接ぐ。
主器者莫若長子,故受之以震。震者,動也。物不可以終動,止之,故受之以艮。艮者,止也。物不可以終止,故受之以漸。漸者,進也。進必有所歸,故受之以歸妹。得其所歸者必大,故受之以豐。豐者,大也。窮大者必失其居,故受之以旅。旅而無所容,故受之以巽。巽者,入也。
宗廟鼎器を主持する者は長子より過ぐるなし、而して震は正に長男の卦、故に《震》卦を接ぐ——「震」は動なり。事物は一直に動いて停まらざる能わず、動きて時に到ればそれを止住すを要す、故に《艮》卦を接ぐ——「艮」は止なり。もまた一直に静止して動かざる能わず、故に《漸》卦を接ぐ——「漸」は循序漸進なり。前進は必ず一個の帰宿有るを要す、故に《帰妹》卦を接ぐ(女子嫁してその帰を得)。帰宿を得たるは必然に日に盛大ならん、故に《豊》卦を接ぐ——「豊」は大なり。可是盛大を極処に推し到る人は反って安居する所を失去す、故に《旅》卦を接ぐ。羈旅して外に在りて容身する処なければ、只好く卑順して以て入るを求む、故に《巽》卦を接ぐ——「巽」は入なり。
入而後說之,故受之以兌。兌者,說也。說而後散之,故受之以渙。渙者,離也。物不可以終離,故受之以節。節而信之,故受之以中孚。有其信者,必行之,故受之以小過。有過物者必濟,故受之既濟。物不可窮也,故受之以未濟終焉。
能く入りて而して後に彼此相悦ぶ、故に《兌》卦を接ぐ——「兌」は悦なり。悦びて過頭に到れば人心は則ち涣散す、故に《涣》卦を接ぐ——「涣」は離散なり。離散は以て底に到る可からず、須く制度の約束有るべし、故に《節》卦を接ぐ。節制有りて而して又能く人に信を取る、故に《中孚》卦を接ぐ(中心の誠信)。心裏に真実の信念有れば、則ち必ず行動に付諸せんと要す、行動は难免稍々過分す、故に《小過》卦を接ぐ。能く常人より一点多做する者は、事情は必ず成弁し得、故に《既済》卦を接ぐ。可是天下の事に真正に穷尽するの一天なし、故に最後は《未済》卦を以て全書を收結す。
右下篇。或問,易上經三十卦,下經三十四卦,多寡不均何也。曰。卦有正對,有反對。乾坤坎離頤大過中孚小過八卦,正對也。正對不變,故反覆觀之止成八卦。其餘五十六卦,反對也。反對者皆變,故反覆觀之共二十八卦。
以上は下篇。人の問う有り、《周易》上経はただ三十卦のみ、下経は却って三十四卦あり、多少均ならず、これは為何。答えていう、卦に「正対」(錯卦、六爻の陰陽全反)と「反対」(綜卦、卦体の上下颠倒)の両類あり。乾・坤・坎・離・頤・大過・中孚・小過のこの八卦は正対に属し、それらは上下倒して看ても還た原様、新卦を生ぜず、故に翻來覆去して仍おただ八個の卦のみ。其余の五十六卦は反対に属し、倒过来れば則ち另一卦に変じ、両卦は一個の卦体を共用す、故に翻來覆去してただ二十八個の卦体を成すのみ。
以正對卦合反對卦觀之,總而為三十六卦。其在上經,不變卦凡六,乾坤坎離頤大過是也。自屯蒙而下二十四卦,反之則為十二卦。以十二而加六,則十八也。其在下經,不變卦凡二,中孚小過是也。自咸恆而下三十二,反之則為十六。以十六而加二,亦十八也。其多寡之數未嘗不均也。
八個の正対卦と二十八個の反対卦体とを合わせて算えば、全部の《易》は其実ただ三十六個の卦体のみ。分かちて看れば、上経の裏に倒过来て変わらざるは六卦あり、すなわち乾・坤・坎・離・頤・大過。屯・蒙以下の二十四卦は皆反対にして、両々に一体を共用し、折りて十二個の卦体を成す。十二に六を加えて、正好く十八。下経の裏に倒过来て変わらざるはただ両卦のみ、すなわち中孚・小過。咸・恒以下の三十二卦は皆反対、折りて十六個の卦体を成す。十六に二を加えて、もまた正好く十八。見るべし上下経は各々十八個の卦体を占め、多少の数は原本是れ均等にして、表面上の三十と三十四の差は并な問題と成らず。
雙湖胡氏曰,文王序卦大抵本先天圖。以東西南北四方正卦乾坤坎離,為上經之始終。以西北隅艮、東南隅兌合而為咸。西南隅巽、東北隅震合而為恆。四隅反卦為下經之始。而終之以既未濟,則亦坎離之交不交也。
元代の双湖胡一桂がいう、文王の卦序を排定するは、大体上は伏羲先天図に依拠するなり。先天図上の東南西北四個の正位は乾(南)・坤(北)・離(東)・坎(西)の四個の正卦、文王は則ち乾坤を用いて頭を起こし坎離を以て尾を收め、以て上経の首尾と為す。先天図の西北角は艮・東南角は兌、この両卦を合わせれば(艮下兌上)則ち《咸》卦なり。西南角は巽・東北角は震、この両卦を合わせれば(巽下震上)則ち《恒》卦なり。ここに於て四隅の卦を以て相配して成せる咸・恒を用いて以て下経の開端と為す。下経は最後に《既済》《未済》を以て尾を收め、説く所は還た坎離両卦の水火の交と交らざるのみなり。
故乾坤坎離四純卦皆居上經。震巽艮兌四純卦皆居下經,又以反對為次。離非伏羲之舊,而先天之圖大旨則備見焉。夫子序卦,直以卦名發其次第之義,而他則未暇及耳。
故に乾・坤・坎・離のこの四個の純卦(八純卦の中の四正)は皆上経に安排し、震・巽・艮・兌のこの四個の純卦(四隅)は皆下経に安排し、再び反対相綜の関係に按じて依次に排列す。この様の卦序は虽已に伏羲先天図の旧貌に非ざるも、但し先天図の大旨は仍然として完整地にその中に体現せり。孔子の《序卦伝》を作すは、ただ直接に毎一卦の卦名に就きて前後相承の義理を点出す、卦位図象のこの一層に至っては、彼は則ち顧みて説くに及ばざるなり。
又按,呂氏《要指》曰,易,變易也。天下有可變之理,聖人有能變之道。反需為訟,泰為否,隨為蠱,晉為明夷,家人為睽。此不善變者也。反剝為復,遯為壯,蹇為解,損為益,困為井。此善變者也。文王示人以可變之幾,則危可安,亂可治。特一轉移間耳。後天之學其以人事贊天地之妙歟。
また呂氏《要指》の説くに按ずるに、《易》はすなわち変易なり。天下の事に転変し得ざるの道理なし、聖人は則ち転変を促成するの方法を掌握す。《需》を倒过来れば則ち《訟》を成し、《泰》を倒过来れば《否》を成し、《随》を倒过来れば《蠱》を成し、《晉》を倒过来れば《明夷》を成し、《家人》を倒过来れば《睽》を成す——この数組は好より壊に転ず、是れ転変に善からざるに属す。反ってこれ、《剥》を倒过来れば《復》を成し、《遯》を倒过来れば《大壮》を成し、《蹇》を倒过来れば《解》を成し、《損》を倒过来れば《益》を成し、《困》を倒过来れば《井》を成す——この数組は壊より好に転ず、是れ転変に善きに属す。文王のこの様の卦序を排出せるは、人々に指示せんと要す。転変の契機は則ち眼前に擺り、危局は転じて安と為り可く、乱世は転じて治と為り可く、ただ一念一挙の転移の間に在るのみ。文王の後天の学は、正に人事の努力を用いて以て天地の造化を賛助せんとするか。
又嘗合上下經始終而論之。乾坤,天地也。坎離,水火也。以體言也。咸恆,夫婦也。既未濟,水火之交不交也。以用言也。上經以天道為主,具人道於其中。下經以人道為主,具天道於其內。三才之間,坎離最為切用。日月不運,寒暑不成矣。民非水火不生活矣。心火炎燥而不降,腎水涸竭而不升,百病侵陵矣。故上下經皆以坎離為終焉。
我はまた嘗て上下経の首尾を合わせて看たり。上経は乾坤を以て開端と為し坎離を以て收尾と為す、乾坤は天地・坎離は水火、説く所は皆本体なり。下経は咸恒を以て開端と為し既未済を以て收尾と為す、咸恒は夫婦・既済未済は水火の交と交らざる、説く所は皆功用なり。上経は天道を以て主と為して而して人道はその中に包含せり。下経は人道を以て主と為して而して天道はその内に包含せり。天・地・人の三才の間に於て、坎離水火の作用は最も切近なり。日月(離は日と為り坎は月と為る)運行せざれば、寒暑は歳を成す能わず。百姓は水火を離れれば以て生活するに由なし。人身に就きて言えば、心火は炎上燥熱して而して下降せず、腎水は枯竭して而して上昇せざれば、百病は則ち虚に乗じて入らんとす。故に上経と下経は皆坎離を用いて結と為す。
按,沙隨程氏謂序卦非聖人之書,韓康伯謂序卦非聖人之精蘊,朱子辨之曰,謂序卦非聖人之精則可,非聖人之蘊則不可。太極生兩儀,兩儀生四象,此易之精也。序卦無所不有,此易之蘊也。
按ずるに、沙随程迥は《序卦》は聖人の著作に非ずと説き、韓康伯は《序卦》は聖人の精微の藴奥に算入す可からずと説き、朱子は則ち辨析していう、《序卦》は聖人の最も精微のものに非ずと説くは可なり、それを聖人の積蓄する所の義理に非ずと説くは却って行けず、と。太極は両儀を生じ両儀は四象を生ず、この一層は始めて《易》の「精」と呼ばる、是れ最も純粋の本原なり。《序卦》は万象を包羅して何の内容でも有り、この一層は《易》の「藴」と呼ばる、是れ聖人の積存し来たれる豊厚の義理なり。二者は層次同じからず、以てそれの精ならざるを因りて、則ちそれの藴あるを否認する能わず。
今按,橫圖圓圖方圖之序,伏羲所由以畫卦也。先天之學,不待語言文字者也。序卦所云,文王所由以作易也。後天之學,得語言文字而明者也。伏羲之後,連山首艮,歸藏首坤。則六十四卦之序,在夏商已不一。
如今我の看法は、横図・円図・方図のあの一套の次序は、伏羲の据りて以て卦を画く所、先天の学に属し、言語文字を須いずして自然に成立す。《序卦》の講ずる所のこの一套は、則ち文王の据りて以て《易》を作す所、後天の学に属し、言語文字を倚らざれば講じ明白するを得ず。而且に伏羲の後、夏代の《連山》は艮卦を以て首と為し、商代の《帰蔵》は坤卦を以て首と為す、見るべし六十四卦の排序は夏商両代に於て就已に各々相同じからず、本来は則ちただ一種の排法のみ有るに非ず。
文王憂患作易,曲盡天道人事之變。皆從卦之名義,或取相因,或取相反而為之序。故序卦所云,謂非先天之精蘊則可,謂非後天之精蘊則不可。後人或即麻衣反對之言以明序卦之偽,則尤一偏之論。夫屯之與蒙,需之與訟,其為綜卦何疑。坤後繼屯,蒙後次師,於卦畫非有所據。自當如序卦所云,由卦名以思其義。程氏疑其非聖人之書,得無過乎。
文王は憂患の中に於て《易》を作し、天道と人事の種種の変化を曲折に写し尽くせり、全ては毎卦の卦名意義より出発し、或いは相因相生を取り或いは相反相成を取り、排してこの次序を成せり。故に《序卦》の講ずる所は、それを先天の学の精藴に非ずと説くは可なり、それを後天の学の精藴に非ずと説けば則ち行けず。後人に或るは《麻衣易》の反対(綜卦)を講ずるの説法を拿て以て《序卦》は偽作なるを証明す、あれは更に偏執の論なり。《屯》と《蒙》・《需》と《訟》は、本来は彼此颠倒の綜卦、これに何の可疑あらん。《坤》卦の後に屯卦を接ぎ蒙卦の後に師卦を接ぐに至っては、これは卦画上に於て確かに依拠を找め出だす能わず、あれは正に当に《序卦》の説く所の弁法に照らし、卦名よりその中の義理を体會すべし。程迥のそれを聖人の書に非ずと懐疑するは、未免説きて過頭に過ぎたり。
雑卦伝
序卦,所以言易道之常。雜卦,所以言易道變。雜卦但要取反對之義。反覆其卦,則吉凶禍福、動靜剛柔皆相反也。序卦自乾坤而下三十卦,咸恆而下三十四,雜卦亦然。序卦反對,雜卦亦然。序卦反對,雜卦亦多反對,此其所同也。
《序卦》の講ずるは《易》道の常規、《雑卦》の講ずるは《易》道の変化なり。《雑卦》の要領はただ「反対」の義を取るに在り。一個の卦を上下に翻転过来れば、それの吉凶禍福・動静剛柔は則ち統統相反す。《序卦》は乾坤以下より算えて三十卦を以て上篇と為し、咸恒以下より算えて三十四卦を以て下篇と為す、《雑卦》の卦数分布もまた此の如し。《序卦》は反対に按じて相次ぎ、《雑卦》も大多は反対に按じて相次ぐ——これらは両篇の相同なるの処なり。
序卦以乾坤頤大過坎離在上篇,中孚小過在下篇,故二篇反對皆成十八卦。雜卦但以乾坤在上篇,餘盡在下篇,又自大過以下不復反對,此其所異也。以其序次錯綜,故謂之雜。然自乾至困當上經三十卦,實雜下經十二卦於其中。咸至夬當下經三十四卦,又雜上經十二卦於其中。則雜之中,又有不雜者存焉。
同じからざるの処は、《序卦》は乾・坤・頤・大過・坎・離の六個の不変の卦を上篇に放ち、中孚・小過の両個を下篇に放つ、故に両篇は反対に按じて折算して各々十八個の卦体を成す。《雑卦》は却ってただ乾坤を上篇に留むるのみ、其余の不変の卦は全て下篇に帰し、而且に《大過》以下より便ち再び反対に按じて排列せず。正にその次序の打乱錯綜するを以て、故に「雑」と呼ぶ。可是細看すれば又然らず。《乾》より《困》に至るは上経の三十卦の数に相当し、その中に実際に下経の十二卦を摻進せり。《咸》より《夬》に至るは下経の三十四卦の数に相当し、その中にまた上経の十二卦を摻進せり。見るべし雑乱の中に、仍お乱れざるの分寸有りて在るを。
又卦以乾為首而終之以夬。蓋夬以五陽決一陰,次去則又為純乾矣。故曰君子道長,小人道消,是又聖人扶陽抑陰之意也。又按,春秋傳有屯固比入坤安震殺之語,疑古筮書以一字斷卦義者多有之。夫子雜採其辭為經羽翼,本非創作。故謂之雜,未可知也。
再者《雑卦》は乾卦を以て頭を領き、而して《夬》卦を以て尾を收む。《夬》は五個の陽爻が一個の陰爻を決去するにして、この最後の一陰が再び去られれば、また則ち純陽の乾を成す。故に伝末に「君子の道長く、小人の道憂う」という、これは仍お聖人の陽剛を扶助し陰柔を抑制するの用意なり。另《左伝》の裏に按ずれば「屯固・比入」「坤安・震殺」の这一类の言有り、見るべし古代の筮書はほぼ多く一個の字を用いて以て卦義を断定するの体例有るを。孔子は各処よりこれらの旧辞を雑采し、編みて経文を輔翼するの一篇を成せり、本来は則ち自ら独創するに非ず。いわゆる「雑」は、或いは正にこの種の雑采を指して言うか、これもまた未だ知る可からず。
乾剛坤柔,比樂師憂。剛柔,以德言。憂樂,以事言。剛皆屬乾,而純乾為至剛。柔皆屬坤,而純坤為至柔。然二卦之二五皆得中,爻位剛柔又各有相濟,非倚於一偏者。就其德之各見者,則分為剛柔耳。比九五居上而得眾,故樂。師九二居下而任重,故憂。又順在內故樂,險在內故憂。
《雑卦》の開頭にいう、乾は剛、坤は柔。《比》は楽、《師》は憂。剛柔は卦徳に就きて説く所、憂楽は人事に就きて説く所なり。凡そ陽剛は皆乾に帰属し、而して純陽の乾は剛の極処に到れるなり。凡そ陰柔は皆坤に帰属し、而して純陰の坤は柔の極処に到れるなり。不過ぎこの両卦の二爻五爻は皆中位に居り、爻の陰陽と位の剛柔はまた彼此調剤し、并な一味に一辺に偏向するに非ず。ただ各自の最も顕著なる徳性に就きて分かつのみ、始めて一個を剛・一個を柔と説く。《比》卦の九五は陽剛尊位に居りて衆陰帰附し、上下相親む、故に楽なり。《師》卦の九二は陽剛下位に居りて而して独り師を興すの重を任ず、故に憂なり。再び卦体より看れば、《比》は坤順内に在り、故に楽なり。《師》は坎険内に在り、故に憂なり。
臨觀之義,或與或求。以我臨物曰與,物來觀我曰求。臨卦以二陽在下徧臨四陰,而六五上六又若以上臨下。觀卦九五觀示乎下,而四陰又相率以觀乎上,互有求與之意。或者,疑詞。無求與而若有求與。見為與又疑於求,見為求又疑於與也。
《雑卦》にいう、《臨》《観》両卦の意思は、或いは「与」、或いは「求」なり、と。我は高に居り臨んで下より別人を照臨す、是れ給与、これを「与」と呼ぶ。別人は前来りて我を仰観す、是れ取る所有り、これを「求」と呼ぶ。《臨》卦は二陽下に在りて遍く上面の四陰を臨む、是れ下を以て上に臨む式の給与なり。可是六五・上六は上に在りて、また上を以て下に臨むに象る。《観》卦は九五上に在りて下に示範す、是れ給与なり。可是下面の四陰はまた相率いて上を仰観す、あれは則ち求なり。両卦は皆兼ねて求と与の両義あり。経文は一個の「或」の字を用い、正に疑い而して未だ定まらざるの辞なり。本来は求と与と謂うべきなきも、而して却って求有り与有るに象り。看るに給与に象れども、また疑心して是れ求と為す。看るに求に象れども、また疑心して是れ給与と為す。
屯見而不失其居。蒙雜而著。屯,震遇坎。震動故見。坎險不行,居也。又以初爻言之,物始生為見。未得位居貞,居也。又合初五二爻言。九五陽在上卦之天位而顯,見也。一陽動坎險之下而固守,居也。
《雑卦》にいう、《屯》は顕現して而して其の安居を失わず、《蒙》は雑乱にして而して終に顕著に帰す、と。先ず《屯》を説く。下体は震・上体は坎、震は動を主とし、動けば則ち顕現す。坎は険と為りて軽進す可からず、只好く安処して動かず、これすなわち「居」なり。もまた初九の一爻に就きて講ず可し。万物初生は、地を冒して出づ、是れ「見」なり。未だ位を得ざれば、ただ正を守りて自ら処るのみ可し、是れ「居」なり。還た初九・九五の両爻を合わせて講ず可し。九五は陽にして上卦の五位に居るは則ち天位にして顕耀す、是れ「見」なり。初九は一陽にして坎険の下に在りて鼓動すれども固守して盤桓す、是れ「居」なり。
蒙,坎遇艮。坎幽昧為雜。艮光明著也。又以二爻言。全卦蒙然而生,故雜。二能治之使明,著也。又合九二上九二爻言之。九二陽在下卦之中而位幽,雜也。上九一陽止坎險之外而光明,著也。《本義》就卦義論,《大全》兼取爻義。宜兼之始備。時解謂屯以事功言,才有餘而遇不足,當養晦以俟時。蒙以學問言,質不足而學有餘,宜親師以取益。意亦是,但不必拘。
再び《蒙》を説く。下体は坎・上体は艮、坎は幽暗にして明ならず、故に「雑」と為す。艮は山と為りて其の徳は光明篤実、故に「著」と為す。もまた九二の一爻に就きて講ず可し。全卦は一片に蒙昧叢生す、是れ「雑」なり。九二は能く加えて整治して之を開明せしむ、是れ「著」なり。還た九二・上九の両爻を合わせて講ず可し。九二は陽にして下卦の中に居りて而して位は幽暗に処る、是れ「雑」なり。上九は一陽にして坎険の外に止まりて而して光明上に在り、是れ「著」なり。朱子《周易本義》は整卦の卦義に就きて講ずるなり、《周易大全》は則ち兼ねて爻義を取る。両者は当に合わせ看て始めて完備と算うべし。当時通行の解本は説く、《屯》は事功に就きて講ずる所、才具は余り有りて而して時遇は足らず、当に韜光養晦して以て時機を等待すべし。《蒙》は学問に就きて講ずる所、資質は足らず而して学力は余りあり、当に師長に親近して以て長進を求むべし。この意思もまた錯ならず、ただ拘执するを必とせざるのみ。
震,起也。艮,止也。損益,盛衰之始也。震艮以天道言,損益以人事言。損者人所憂,乃為盛之始。益者人所喜,乃為衰之始。倚伏之機可畏也。大畜,時也。無妄,災也。剛難畜而畜之,時有適然,意外之得也。無有妄而得災,災自外至者也,意外之禍也。
《雑卦》にいう、《震》は奮起、《艮》は静止。《損》《益》は盛衰の開端なり、と。震動艮止は天道に就きて説く所、損減増益は人事に就きて説く所なり。減損は人の憂慮する所、而して却って正に盛に転ずるの起点なり。増益は人の歡喜する所、而して却って正に衰に転ずるの起点なり。禍福の相倚り相伏するの機関は此の如く、実に畏るべし。又説く、《大畜》は時運、《无妄》は災禍なり、と。剛健の物は本は畜止し難し、如今竟に畜め住めり、あれは時機が恰好に凑上せるにして、意外の所得に属す。本来并虚妄の行なくして而して災に遭えり、あれは災の外より飞来するにして、意外の禍に属す。両卦は皆人力の外のあの一分の際遇を講ずるに在り。
萃聚,而升不來也。謙輕,而豫怠也。萃,三陰聚於下。升,三陰升於上。不來,謂升而不降也。時解以萃言君之用賢,升言臣之遇主。亦近之,不必拘舊說。輕者,一陽居下之上。不自尊大,自卑而輕。豫者,一陽居上之下。其志滿足,自肆而怠也。然豫四爻無怠意。按來注,謙之上六即豫之初六,故二爻皆言嗚。謙心虛,故自輕。豫志滿,故自肆。此說為勝。
《雑卦》にいう、《萃》は聚合、《升》は上行して而して返らず。《謙》は自ら輕んず、《豫》は怠惰なり、と。《萃》卦は坤下に在り、三個の陰爻は下面に聚る。《升》卦は坤上に在り、三個の陰爻は上面に升る。いわゆる「来たらず」とは、すなわちただ上に升って而して下降せざるなり。当時の解本は《萃》を用いて君主の賢才を聚攏するを講じ、《升》を用いて臣子の上に明主に遇うを講ず、もまた講じて近理なり、旧説を拘守するを必とせず。《謙》を「輕」と為すを説くは、九三の一陽が下卦の上に居り、自ら尊大せず、反って自ら卑下に処るを以て、故に輕と顕る。《豫》を「怠」と為すを説くは、九四の一陽が上卦の下に居り、志得意満し、放縦して而して懈怠すを以てなり。不過ぎ《豫》卦九四の爻辞に并懈怠の意なし。来知徳の注に按ずれば、《謙》の上六は翻転过来れば正に《豫》の初六なり、故にこの両爻は皆「鳴」を説く。《謙》は心虚、故に自ら輕んず。《豫》は志満つ、故に自ら縦す。この講法は更に一籌を勝る。
噬嗑,食也。賁,無色也。順中有物,故曰食。賁以白賁無咎,無色而天下之賁莫尚焉。食色,人之大欲。色至賁則過,故欲返本也。兌見,而巽伏也。兌,陰外見。巽,陰內伏也。隨,無故也。蠱,則飭也。隨時行止,前無故也。蠱壞已極,後當飭也。
《雑卦》にいう、《噬嗑》は喫する、《賁》は色なし、と。《噬嗑》は上下の両陽は唇歯の如く、当中に一個の九四を横たえて口中に物有るが如し、故に喫するという。《賁》卦上九の爻辞「白賁、咎なし」、文飾は極処に到りて反って素白に帰す、色なくして而して天下に再びそれより好き文飾なし。飲食男女は人の大欲、装飾打扮は《賁》のこの一歩に到れば已に過分に属す、故に返帰して本色とするを要す。又説く、《兌》は顕現、《巽》は潜伏——兌の陰爻は外に露れ、巽の陰爻は裏に蔵る、と。又説く、《随》は旧事なし、《蠱》は則ち整治を要す、と。時勢に随順して而して或いは行い或いは止まる、前頭に并な宿弊の牽累なし、故に故なしという。《蠱》は積弊の已に極処に壊れたる、後頭に整饬を加えざれば可ならず。
剝,爛也。復,反也。五陰潰於內,爛也。一陽生於下,反也。晉,晝也。明夷,誅也。二卦,朝暮生殺之義。日出地上為晝,則入地下為夜也。明在下為誅傷,則明升上為生長矣。井通,而困相遇也。往來井井,則其道通。剛為柔揜,所遇之困。自乾至此三十卦,適與上經之數相當。
《雑卦》にいう、《剥》は潰爛、《復》は回返なり、と。《剥》卦は五個の陰爻が下に在りて陽を蝕空し、果実の内部の潰爛するが如し。《復》卦は一個の陽爻が重新に最下に生ず、是れ陽気の回頭なり。又説く、《晉》は白昼、《明夷》は誅傷なり、と。この両卦の講ずるは朝暮生殺の道理なり。太陽は地上に出づれば昼と為す、則ち地下に沈み入れば則ち夜なり。光明は地下に陥れば誅戮傷害なり、則ち光明が地上に升れば則ち生養長育なり。又説く、《井》は通、《困》は相遇なり、と。井水は往来汲用して窮まらず、その道は暢通す。《困》は剛が柔に掩蔽せられ、遭遇する所は正に困厄なり。《乾》よりここに数えて恰好に三十卦、正に上経の卦数と相当す。
咸,速也。恆,久也。有感必通,故速。速則夫婦及時。其道有常,故久。久則夫婦偕老。渙,離也。節,止也。解,緩也。蹇,難也。睽,外也。家人,內也。否泰,反其類也。渙節與井困相反。井,以木出水,居塞而能通。渙,以水浮木,則通極而致散矣。節,澤上之水為有制。困,澤下之水則枯竭矣。解難既散,多失於怠緩。蹇險在前,則知阻難。睽疎而外,家人親而內。否泰則君子小人,其類每相反也。
《雑卦》にいう、《咸》は快速、《恒》は長久なり、と。男女交感は一触れれば則ち通ず、故に快し。快し、故に夫婦は能く時に及んで成配す。夫婦の道に恒常の不変あり、故に久し。久し、故に夫婦は能く白頭偕老す。又説く、《涣》は離散、《節》は止。《解》は舒緩、《蹇》は艱難。《睽》は疏外、《家人》は親内。《否》《泰》は則ち同類にして相反す、と。《涣》《節》両卦は正に《井》《困》と相反す。《井》は巽木の坎水に入りて而して水を汲み上ぐ、本処は壅塞の地にして而して能く通ず。《涣》は坎水下に在り巽木はその上に浮ぶ、通ずること極処に到りて反って涣散と成る。《節》は沢上に水あり、蓄えて而して制あり。《困》は水は沢下に漏れ、沢は則ち枯竭す。患難已に解散せば、人は多く懈怠松緩に失す、故に《解》は緩と為す。険難は前面に横たわれば、人は自然に阻有るを知る、故に《蹇》は難と為す。《睽》は彼此疏远して而外と為し、《家人》は彼此親近して而して内に在り。《否》《泰》に至っては、則ち君子と小人の両類の人の進退にして、毎毎彼此相反す。
大壯則止,遯則退也。慮後陽之恃壯,故不欲九四之進而欲其止。恐前陽之不及,故不欲六二之進欲其退也。陽進而消,陰者慎之。陰進而消,陽者抑之也。大有,眾也。同人,親也。革,去故也。鼎,取新也。小過,過也。中孚,信也。豐,多故。親寡,旅也。明且動,故多故。旅寓則所親自寡矣。此句卦名在下,變文以葉韻也。
《雑卦》にいう、《大壮》は止まるを要し、《遯》は退くを要す、と。《大壮》は四陽方に盛ん、聖人は後来の陽爻の強を恃みて冒進せんことを憂慮し、故に九四の再び進むを願わずして而してそれの止住せんことを希望す。《遯》は二陰漸く長ず、聖人は前に在る陽爻の抵擋し住む能わざるを擔心し、故に六二の上進を願わずして而して陽の能く及早に退避するを希望す。陽は一味に推進して而して陰を消滅するは、あれは陰に自ら謹慎せしめんと要するなり。陰は一味に推進して而して陽を消滅するは、あれは則ち法を設けてそれを抑制するを要す。又説く、《大有》は衆多、《同人》は親和。《革》は旧きを除去し、《鼎》は新しきを取用す。《小過》は稍々過分、《中孚》は内心の誠信。《豊》は故多し、「親寡し」は《旅》なり、と。《豊》卦は下は離明にして上は震動、明にしてまた動けば、事端は自然多し、故に故多しという。羈旅して外に在れば、親近する所の人は自然稀少なり。最後のこの一句は卦名を後面に放ち(「旅、親寡なり」と説かずして而して「親寡、旅也」と説く)、是れ文句を変換して以て韻を協えんが為なり。
離上,而坎下也。炎上,潤下。小畜,寡也。履,不處也。一陰畜陽,寡不敵眾。說隨陽進,柔能制剛也。需,不進也。訟,不親也。大過,顛也。姤,遇也,柔遇剛也。漸,女歸待男行也。頤,養正也。既濟,定也。歸妹,女之終也。未濟,男之窮也。夬,決也,剛決柔也。君子道長,小人道憂也。
《雑卦》にいう、《離》は向上し、《坎》は向下す、と。これは《尚書・洪範》の五行を講ずるの言を取るなり。火性は炎上し、水性は潤下す。又説く、《小畜》は寡少、《履》は安処せず、と。《小畜》はただ六四の一個の陰爻ありて五個の陽爻を畜止せんと要す、寡は衆に敵せず、故にただ小さく畜むる所有るのみ可し。《履》は兌柔が乾陽に跟隨して前行す、柔を以て剛を節制す、故に肯んじて停住せず。以下は《雑卦》の最後の一段なり。《需》は冒進せず、《訟》は相親まず。《大過》は本末颠倒、《姤》は相遇——柔は剛に遇えり。《漸》は女子嫁するは男方の迎え来るを待ちて始めて身を動かす、《頤》は養うに正を以てす。《既済》は各々その位を得て而して安定す、《帰妹》は女子帰宿の終、《未済》は男子処境の窮。《夬》は決去——剛は柔を決去し、ここに於て君子の道は増長し、小人の道は憂懼す。
需訟,皆主乾言。止坎之下為不進,背坎而去為不親。大過本末弱,故顛。女待男而行,所以為漸。頤以上養下,養得其正。既濟六位皆當,故定。女者,未嫁之稱。歸則女之事終也。未濟陰陽皆失位而陰不足言也,故曰男之窮。始乾終夬,則喜陽之長也。
《需》《訟》両卦は皆下体の乾に就きて説く所なり。《需》は乾が坎険の下に在りて停住して前進せず、故に進まずと為す。《訟》は乾が坎水に背対して各々離去す(上乾は上行し下坎は下流す)、故に相親まずと為す。《大過》は上下両爻皆陰にして本末柔弱、而して中間の四陽は過重、頭重脚軽、故に颠倒と為す。女子は必ず男方の迎え来るを待ちて始めて起行し、一步一節、故に漸進と為す。《頤》卦は上艮下震、上位の者を以て下位の者を養い、養うにその正を得、故に養正と為す。《既済》は六爻の陰陽各々その位に当たる、故に安定と為す。「女」は未だ嫁せざるの称呼、一旦嫁して帰宿せば、女儿を作るの事は則ち完結す、故に《帰妹》は女の終と為す。《未済》は六爻の陰陽全て位を失い、而して陰柔は本は単提するに値せず、故にただ男子の困窮を説くのみ。全篇は乾を以て頭を開き夬を以て尾を收むるは、陽剛の道の日に長ずるを喜ぶなり。
《本義》謂自大過以下卦不反對,或疑其錯簡。然以韻協之又似非誤,未詳其義。按,蘇氏蔡氏皆有改正之文。而蔡氏所改,類從而韻亦協。附錄於後兼載胡氏之論,以備參考。大過,顛也。頤,養正也。既濟,定也。未濟,男之窮也。歸妹,女之終也。漸,女歸待男行也。姤,遇也,柔遇剛也。夬,決也,剛決柔也。君子道長,小人道憂也。
朱子《周易本義》にいう、《大過》以下の諸卦より再び反対に相次がず、人或いは疑心是れ竹簡の錯乱の致す所とす。可是韻脚を拿て以て対えば、また似て并錯ならず、その中の道理は還た弄明白らかならず、と。按ずるに、蘇軾・蔡淵は皆改定の本子あり、而して蔡氏の改め過ぎたる次序は不但に同類相従し、韻もまた協え得上る。現在蔡氏改本を後面に附録し、并びに雲峰胡氏の議論を附載し、以て参考に備えん。蔡氏の改定せる次序は、《大過》は颠倒、《頤》は養正。《既済》は安定、《未済》は男子の窮。《帰妹》は女の終、《漸》は女子嫁して男を待ちて行く。《姤》は相遇、柔は剛に遇えり。《夬》は決去、剛は柔を決去し、君子の道は増長し、小人の道は憂懼す。
雲峰胡氏曰,易終於雜卦,而交易變易之義愈可見矣。每一卦反覆為兩卦,而剛柔吉凶每每相反。此變易之義也。自乾至困三十卦,與上經之數相當。而雜下經十二卦於其中。自咸至夬三十四卦,與下經之數相當。而雜上經十二卦於其中。此交易之義也。或曰,此偶然爾。愚曰,非偶然也,皆理之自然也。
元代の雲峰胡炳文がいう、《周易》は《雑卦》を以て尾を收め、而して「交易」と「変易」の両層の意思はここに於て看ること更に清楚なり。毎一個の卦は上下翻転すれば則ち另一个の卦と成り、而して剛柔吉凶は毎毎相反す——これは「変易」の意思なり。《乾》より《困》に至るまで共に三十卦、上経の卦数と相当すれども、その中に却って下経の十二卦を摻進せり。《咸》より《夬》に至るまで共に三十四卦、下経の卦数と相当すれども、その中に却って上経の十二卦を摻進せり——これは「交易」の意思なり。人の説く有り、これは不過ぎ碰巧なるのみ、と。我がいう、碰巧に非ず、皆是れ道理自然此の如くなるなり。
坎離交之中者,本居上經三十卦內,今附於下三十四卦。震艮巽兌交之偏者,本居下經三十四卦內,今附於上三十卦。至若無反對者。上經六卦,下經二卦。今附於上者二卦,附於下者六卦。皆交易之義也。十二月卦氣。除乾坤外,上經泰否臨觀剝復,陰之多於陽者十二。下經遯壯姤夬,陽之多於陰者十二。今雜卦移否泰於三十四卦之中,而陰陽之多少復如之。
坎離は乾坤の中爻に於て交わりて生じたる所、本来は上経三十卦の内に排せり、《雑卦》は却ってそれらを下面三十四卦の裏に移到せり。震・艮・巽・兌は乾坤の初爻上爻に於て交わりて生じたる所、偏交に属し、本来は下経三十四卦の内に排せり、《雑卦》は却ってそれらを上面三十卦の裏に移到せり。再びあの反対なき(倒过来て変わらざる)卦を看れば、上経は原有六個、下経は原有两個。《雑卦》の裏に上篇に帰するはただ両個のみ残り、下篇に帰するは却って六個あり。これらは皆「交易」の意思なり。再び十二月卦気より看れば、乾坤を除くの外、上経に泰・否・臨・観・剥・復の六個の消息卦あり、その陰爻の陽爻より多きの総数は十二。下経に遯・大壮・姤・夬の四個あり、その陽爻の陰爻より多きの総数もまた十二。《雑卦》は否・泰を三十四卦のあの一段の中に移到せしも、可是陰陽多寡の数目は仍舊として此の如く相当す。
特在上經者三十六畫,在下經者二十四畫。今附於上者二十四畫,附於下者三十六畫。愈見其交易之妙爾。若合六十四卦論之。上經三十卦,陰爻之多於陽者八。下經三十四卦,陽爻之多於陰者亦八。今則附於三十卦者。陽爻七十二,陰爻一百八。而陰多於陽者三十六。附於三十四卦者。陽爻一百二十,陰爻八十四。而陽爻多於陰者亦三十六。
不過ぎんば原在上経のあの数卦は合せて三十六画、原在下経のあの数卦は合せて二十四画。《雑卦》の一移して、上篇に帰するは二十四画と成り、下篇に帰するは三十六画と成れり——両個の数目は恰好に対調し、更に「交易」の巧妙を見出だす。若し六十四卦を合わせて算えば、上経三十卦は陰爻は陽爻より多く八、下経三十四卦は陽爻は陰爻より多く八。《雑卦》に到りては、前三十卦のあの一段に帰するは、陽爻七十二・陰爻一百八にして、陰は陽より多く三十六。後三十四卦のあの一段に帰するは、陽爻一百二十・陰爻八十四にして、陽は陰よりも多く三十六。両辺の多出する数目はまた恰好に相等し。
以反對論。上經陰之多於陽者四,下經陽之多於陰者亦四。今則附於上者。陽爻二十九,陰爻五十七。而陰爻多於陽者十八。附於下者。陽爻六十九,陰爻五十七。而陽爻之多於陰者亦十八。或三十六或十八,互為多少。非特見陰陽交易之妙,而三十六宮之妙愈可見矣。是豈聖人之心思智慮之所為哉。愚故曰,伏羲之畫,文王周公孔子之言,皆天也。
若し反対に按じて折りて卦体と為して以て算えば、上経は陰爻は陽爻より多く四、下経は陽爻は陰爻より多く四。《雑卦》に到りては、上篇に帰するは陽爻二十九・陰爻五十七にして、陰は陽より多く十八。下篇に帰するは陽爻六十九・陰爻五十七にして、陽は陰よりも多く十八。或いは三十六、或いは十八、彼此互いに多少と為り、皆斉整の対應を成す。これは不但に陰陽交易の巧妙を見出だし、連ねて「三十六宮」(六十四卦を折りて三十六個の卦体を成す)の妙処もまた越発に顕豁なり。これは何ぞ聖人の心思智巧を憑りて安排し出だし得たる。故に我がいう、伏羲の画きたる卦・文王周公孔子の説きたる言は、皆是れ天理自然、人為に非ず、と。
《本義》謂自大過以下卦不反對,或疑其錯簡。今以韻協之又似非誤,未詳何義。愚竊為雜物撰德,非其中爻不備。此蓋指中四爻互體而言也。先天圖之左互復頤既濟家人歸妹睽夬乾八卦,右互姤大過未濟解漸蹇剝坤八卦。此則於右取姤大過未濟漸四卦,於左取頤既濟歸妹夬四卦。各舉其半,可兼其餘矣。是雖所取不能無雜。蓋此謂雜卦,而互體又其最雜者也。
《本義》にいう、《大過》以下の諸卦より再び反対相次がず、人は或いは疑心是れ錯簡とす。可なり韻を拿て一対すれば又似て誤らず、是れ何の道理なるを知らず、と。我は私下に以為す、《繫辞伝》に「物を雑え徳を撰す、其中爻に非ざれば備わらず」という、ここの「中爻」は正に一卦の中間の四爻の互いに成す所の互体を指して言うなり。先天図に按ずれば、左半辺の各卦の互体は共に復・頤・既済・家人・帰妹・睽・夬・乾の八卦を得、右半辺の各卦の互体は共に姤・大過・未済・解・漸・蹇・剥・坤の八卦を得。《雑卦》末段の列する所は、正に右半辺より姤・大過・未済・漸の四卦を取り、左半辺より頤・既済・帰妹・夬の四卦を取れり。各々一半を挙げ、其余もまた則ち皆帯び出だせり。この様の取法は当然に雑乱と顕るを免れず、可是本篇は本来則ち《雑卦》と呼ばれ、而して互体はまたその中最も雑なる一層なり。
上三十卦終之以困,柔掩剛也。下三十四卦終之以夬,剛柔也。柔掩剛,君子不失其所亨。剛決柔,君子道長,小人道憂矣。然則天地間剛柔每相雜。至若君子之為剛,小人之為柔,決不可使相雜也。雜卦之末,特分別君子小人之道言之。聖人贊化育,扶世變之意微矣。
《雑卦》の前三十卦は《困》を以て尾を收む、あれは柔の剛を掩蔽せるなり。後三十四卦は《夬》を以て尾を收む、あれは剛の柔を決去するなり(底本「剛柔也」は当に「剛決柔也」と作るべし、今はその旧に仍る)。柔は剛を掩うの時、君子は仍お其の亨通の道を失わず。剛は柔を決すの時、君子の道は増長し、小人の道は憂懼す。見るべし天地之間の剛と柔は本来是れ常々混雑して一処に在る。但し一たび君子は剛に属し小人は柔に属すと説き到れば、あれは絶対に彼らを混雜せしむる可からず。《雑卦》は篇末に於て特意に君子の道と小人の道を分別し開きて講ず、聖人の天地化育を賛助し世道変遷を扶持するの深意は、則ちここに寄托せり。
周易浅述巻八・周易浅述図
河図図説
按易繫辭傳曰,天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。此即所謂河圖,理數之大原也。天以一生水,地以六成之。地以二生火,天以七成之。天以三生木,地以八成之。地以四生金,天以九成之。天以五生土,地以十成之。此河圖五行生成之數也。
《周易・繫辞上伝》に按ずるに説く、「天一地二、天三地四、天五地六、天七地八、天九地十」。奇数は天に属し、偶数は地に属す、この十個の数はすなわちいわゆる河図、是れ義理と象数の総源頭なり。天は一を用いて水を生じ、地は六を用いてそれを完成す。地は二を用いて火を生じ、天は七を用いてそれを完成す。天は三を用いて木を生じ、地は八を用いてそれを完成す。地は四を用いて金を生じ、天は九を用いてそれを完成す。天は五を用いて土を生じ、地は十を用いてそれを完成す。一二三四五は「生数」、六七八九十は「成数」、毎一行は皆一奇一偶の配合より成る——これすなわち河図五行生成の数なり。
一為太陽,居北。二為少陰,居南。三為少陽,居東。四為老陰,居西。東北陽分,故一三皆位陽。西南陰方,故二四皆位陰。東南物之始生,故二少位於東南。西北物之收成,故二老位於西北。此河圖四象之位也。
再び四象に配す。一は太陽、北方に居る。二は少陰、南方に居る。三は少陽、東方に居る。四は老陰(太陰)、西方に居る。東と北は陽の分野に属し、故に一・三の両個の奇数は皆この一辺に安置す。西と南は陰の方位に属し、故に二・四の両個の偶数は皆あの一辺に安置す。東方と南方は万物の生長を開始するの処、故に少陽・少陰の両個の「少」は東南に安置す。西方と北方は万物の収斂成熟するの処、故に太陽・太陰の両個の「老」は西北に安置す。これすなわち河図四象の方位なり。
一六為水居北。左旋而東,則水生木。又旋而南,則木生火。又旋而中,則火生土。又旋而西,則土生金。又旋而北,則金生水。此以其運行之序言之,左旋而相生也。北方一六之水尅南方二十之火,西方四九之金,又尅東方三八之木。此以其對待之位言之,又未嘗不相尅也。
一と六は合して水と為り、北方に居る。北より順時針に左転して東に至れば、水は木を生ず。再び転じて南に至れば、木は火を生ず。再び転じて中央に入れば、火は土を生ず。再び転じて西に至れば、土は金を生ず。再び転じて北に回れば、金は水を生ず。これは河図の運行次序に就きて説く所なり。左旋一周し、五行は依次に相生す。可是若し彼此対峙の方位を看れば、北方一六の水は正に南方二七の火に対し、水は火を克す。西方四九の金は正に東方三八の木に対し、金は木を克す。これは対待の位に就きて説く所なり。その中にまた未だ嘗て相克なきにあらず。(底本「二十之火」は当に「二七之火」と作るべし。)
要而論之,理數之原一而已矣。一者,太極也。二之則為兩儀。四之則為四象。四象變化而庶類繁生,數至四而備矣。一合四即為五,為五行。故五者,數之中也。自五以後,生數皆合五以為成數。一合五為六,二合五為七,三合五為八,四合五為九,成數至九而備矣。而五備五則為十。小衍之為十,大衍之為五十,即為蓍策之數所起。故十者,數之終也。
総括して説けば、義理と象数の本原はただ一個の「一」のみ。一はすなわち太極なり。一は加倍すれば則ち両儀を成し、再加倍すれば則ち四象を成す。四象は一たび変化すれば、万類は則ち紛紛繁生す、故に数は四に到れば則ち斉備す。一に四を加えれば則ち五、すなわち五行、故に五は数の中位なり。五より往きて後、毎個の生数は皆五を加えて而して成数と変ず。一加五は六を得、二加五は七を得、三加五は八を得、四加五は九を得、成数は九に到れば則ち斉備す。五自身は再び一個の五を加えれば則ち十。小衍は十を成し、大衍は五十を成す、正に揲蓍用策の数の起点なり。故に十は数の終点なり。
五為數之中,故於成數之中減其生數皆得五。十為數之終,故以生數合成數又皆得十。蓋太陽居一而連九,太陰居四而連六,少陰居二而連八,少陰居三而連七。就其三居之位言之。則生數太陽,成數配以太極。生數太極,成數配以太陽。生數少陽,成數配以少陰。生數少陰,成數配以少陽。而就陰陽老少各分計之,皆得十焉。此皆天地之自然,非人力所能損益也。
五は数の中位、故に如何なる一個の成数を拿ててもそれに対應する生数を減じれば、得数は皆五なり(六減一・七減二・八減三・九減四は皆五を得)。十は数の終点、故に老少陰陽の生数と成数を相配相加すれば、得数は又皆十なり。太陽の生数一は九に連ねるを要し、太陰の生数四は六に連ねるを要し、少陰の生数二は八に連ねるを要し、少陽の生数三は七に連ねるを要するを以てなり。それらの居る所の位次に就きて説けば、生数の太陽に属するは、成数の配するは太陰なり。生数の太陰に属するは、成数の配するは太陽なり。生数の少陽に属するは、成数の配するは少陰なり。生数の少陰に属するは、成数の配するは少陽なり。而して陰陽老少に按じて各々分算すれば、相加えて皆十なり。これらは皆天地自然此の如く、人力の増減し得る所に非ず。(底本「少陰居三而連七」は当に「少陽」と作るべし。「成数配以太極」「生数太極」の両処の「太極」は当に「太陰」と作るべし、今はその旧に仍る。)
萬物統乎天,數始乎一。乃以一二三四分屬於天地何也。天地之大,不外乎陰陽。陽奇陰偶分之,自各有所屬也。五行皆生於天地。乃或天生而地成之,或地生而天成之何也。萬物皆陰陽合而有生,而所以又各自有陰陽,皆由得氣之初,陰陽或先或後。
人の問う有り、万物は皆天に統属し、数は皆一より始まる、為何に而も一・二・三・四を分別して天と地に帰属するや。答えていう、天地の大は陰陽両端の外になし、陽は奇数・陰は偶数、こう一たび分かてば、一三は天に属し二四は地に属し、各々帰属あり、自然此の如し、と。又問う、五行は皆天地の生ずる所、為何に或るは天生じて地はこれを成し、或るは却って地生じて天はこれを成すや。答えていう、万物は皆陰陽交合せねば生成し得ず、而して毎一物自身はまた各々陰陽を分かつ、これ全くその気を禀受するの最初の一刻に在り、陰陽の到来は先後有るなり、と。
水先天陽而後天陰,故體陽而用陰。火先天陰而後天陽,故體陰而用陽。木由滋潤而後焦枯,先天同水而後天同火也。金由煅煉而後融液,先天同火而後天同水也。以至人道有男女,飛走之有雌雄、牝牡,其先後天皆可類推也。
則ち五行を拿てて説けば、水は先ず天の陽を得(天一生水)而して後に地の陰を得(地六成之)、故に本体は陽に属して而して作用は陰に属す。火は先ず地の陰を得(地二生火)而して後に天の陽を得(天七成之)、故に本体は陰に属して而して作用は陽に属す。木は先ず滋潤を要して始めて生長し、後来に始めて焦枯す、先天は水と同類にして而して後天は火と同類なり。金は先ず煅錬して火を受け、後来に始めて熔成して液体と為る、先天は火と同類にして而して後天は水と同類なり。推して之を広ぐれば、人道は男女を分かち、飛禽に雌雄あり走獣に牝牡あり、それら各自の先天後天の陰陽属性は、皆この路子に照らして類推す可し。
五行之生有先後,數有多寡何也。凡物之生皆自微而著,由清而濁,數之生皆自少而多。五行,水最輕清火次之,故一六水而二七火也。木則形堅,金則質重,土則最大而最濁矣。故三八木,四九金,而五十土也。
五行の生成に先後あり、配する所の数目に多少あり、これは何の道理なるか。凡そ物の産生は皆隠微より顯著に走向し清軽より重濁に走向す、数の産生もまた皆少より積累して多に至る。五行に就きて説けば、水の質地は最も軽く最も清し、火は水に次ぐ、故に「天一水を生じ地六これを成す」、水は一と六に配す。「地二火を生じ天七これを成す」、火は二と七に配す。木は已に堅実の形体有り、金の質地は更に加重量、土は則ち形質最大にして最も重濁なり。故に「天三木を生じ地八これを成す」、木は三と八に配す。「地四金を生じ天九これを成す」、金は四と九に配す。「天五土を生じ地十これを成す」、土は五と十に配す。清き者は先に在り、故に得数少し。濁き者は後に在り、故に得数多し、先後多寡の次第は毫も乱れず。
太陽以一為生數最少,以九為成數則最多。太陰以四為生數最多,而以六為成數又最少。少陽以三為生數多(「數多」當作「數次多」,從文瀾本),以七為成數又次少。少陰以二為生數次少,以八為成數又次多。何也。蓋生數主氣,成數主形。生數先天,而成數後天。論氣,則太陽清輕而太陰重濁,故太陽一而太陰四。論形,則太陽有餘而太陰不足,故太陰六而太陽九也。論先天,則少陽強而少陰弱,故少陽三而少陰二。論後天,則少陽主洩而少陰主收,故少陽七而少陰八也。
太陽は一を以て生数と為し、是れ四象生数の中最も少なきも、却って九を以て成数と為し、是れ成数の中最も多し。太陰は四を以て生数と為し、是れ生数の中最も多きも、却って六を以て成数と為し、反って是れ成数の中最も少なし。少陽は三を以て生数と為し、生数の中に於て次多に居る(底本は「生数多」と作り、文瀾本は「生数次多」と作る)、却って七を以て成数と為し、成数の中に於て次少に居る。少陰は二を以て生数と為し、生数の中に於て次少に居り、却って八を以て成数と為し、反って成数の中に於て次多に居る。これは為何。生数は「気」を主管し、成数は「形」を主管するを以てなり。生数は先天に属し、成数は後天に属す。気に就きて論ぜば、太陽は清軽にして太陰は重濁、故に太陽は一を得太陰は四を得。形に就きて論ぜば、太陽は余り有りて太陰は足らず、故に太陰はただ六に於て成り太陽は却って九に於て成る。先天に就きて論ぜば、少陽は強盛にして少陰は柔弱、故に少陽は三を得少陰は二を得。後天に就きて論ぜば、少陽は宣泄発散を主とし少陰は収斂蓄聚を主とす、故に少陽は七に於て成り少陰は八に於て成る。
老少陰陽之位,從一二三四而不論六七八九何也。由太極生兩儀,由兩儀生四象,皆先天之事也,故當從生數也。揲筮老少陰陽之數,取六七八九而不取一二三四又何也。由分二而掛一而揲四,皆後天之事也。故當從成數也。揲筮老陽取九而不取七,而老陰則取六不取八又何也。即太陽有餘太陰不足之說也。而不止此也。
老陽・老陰・少陽・少陰の方位は、ただ一・二・三・四に依りて定め、而して六・七・八・九を用いず、これは何の縁故なるか。太極より両儀を生出し両儀より四象を生出するは、皆先天自然生成の事に属するを以て、故に当に生数に依るべし。可是「揲筮」の時に老少陰陽を表示するの爻数は却って六・七・八・九を取り、一・二・三・四を取らず、又是れ何の縁故なるか。筮法の裏の「分二」(蓍草を信手に両把に分かつ)・「掛一」・「揲四」のこれらの手続は、皆後天人為の事に属するを以て、故に当に成数に依るべし。揲筮の時に老陽は九を取りて七を取らず老陰は六を取りて八を取らざるに至っては、又是れ何の縁故なるか。これ正に前面に説ける太陽有余・太陰不足の道理なり。不過ぎ縁由は還たこの一層に止まらず。
凡陽屬天,天形圓。圓者,徑一而圍三。凡陰屬地,地形方。方者,徑一而圍四。揲筮以四為數。所扐之數,以四為奇以象天,以八為偶以象地。如三扐皆奇,取徑一圍三之義。則三三為九,為天矣。天用其全,故不用七而用九也。如三扐皆偶,取徑一圍四之義。則三四為十二,為地矣。地用其半故不用八而用六也。且所扐者九,而過揲之數亦為四九三十六。所扐者六,而過揲之數亦為四六二十四。
凡そ陽に属するは皆天に帰し、天の形状は円、円形の比例は直径を一と為し周長を三と為す。凡そ陰に属するは皆地に帰し、地の形状は方、方形の比例は辺長を一と為し周長を四と為す。揲筮の時は四根の蓍草を以て一組と為して数る。毎一変に指間に挟むる「扐」の数は、四根を得れば則ち「奇」と算い、以て天を象徴す。八根を得れば則ち「偶」と算い、以て地を象徴す。仮に三変の扐せる所皆奇なれば、則ち「径一囲三」の意思を取り、三個の三を合わせれば是れ九、あれ便ち天数なり。天はその全数を用いる、故に老陽は七を用いずして九を用いる。仮に三変の扐せる所皆偶なれば、則ち「径一囲四」の意思を取り、三個の四を合わせれば是れ十二、あれ便ち地数なり。地はただその一半を用いる、故に老陰は八を用いずして六を用いる。而且に扐せる所が九なるは、過揲して余り残る蓍草は恰好に四九三十六根。扐せる所が六なるは、過揲して余り残るは恰好に四六二十四根、両頭は正に相符合す。
是揲筮老陽老陰,不必皆因河圖,而自與河圖暗合,此所以為理數之自然也。至若河圖言五行,而伏羲因之以畫八卦。河圖五方,而先後天之八卦分為八方。皆與河圖各有所合。又當即橫圖圓圖方圖,詳析兮疏,其義始見,故姑總其大略如此。而諸圖仍即楊子道聲《圖卦闡義》所分,備列於後雲。
見るべし揲筮の中の老陽・老陰の取数は、未だ必ずしも皆直接に河図に依拠して推衍し出だせるに非ず、而して自然而然に河図と暗に相符合す、これ正にそれの理数本身の自然に出づるを説明す。河図の講ずるは五行に至っては、伏羲は便ちそれに依りて八卦を画き出だせり。河図の分かつは五方、而して先天・後天八卦は却って八方に分かつ、これらもまた各々河図と相合するの処あり。これらの道理は還た「横図」「円図」「方図」と結合して逐一に剖析疏解するを須いて、始めてその中の意義を顕露し出だすを得、故にここに姑く先ず総括して大概と為す。以下の各図は、仍舊として楊道声《図卦闡義》の分かつ所の次第に按じ、一々に開列して後面に在り。
洛書図説
楊子道聲《洛書別論》曰。洛書之數起於一,中於五,窮於九。五建極於中,為眾數所取法。自五為以下皆為生數,為一為二為三為四。自五以上皆為成數,為九為八為七為六。生數與成數相間而立,以成右轉之形。夫數始於一,一合中五而生六,六合一而生七,七合中五去十而生二,二合七而生九,九合中五去十而生四,四合九去十而生三,三合中五為八,八合三去十而復生一,運行無窮焉。
楊道声《洛書別論》にいう、洛書の数は一に起こり、五に中し、九に穷尽す。五は中極を建立して正中に居り、是れ其余の各数の取法する準則なり。五以下よりは皆生数、すなわち一・二・三・四。五以上よりは皆成数、すなわち九・八・七・六。生数と成数は相間に排列し、右に向かい旋轉するの格局を構成す。数は一より開始す。一加中五は六を得、六加一は七を得、七加中五は十二を得て十を去りて二を得、二加七は九を得、九加中五は十四を得て十を去りて四を得、四加九は十三を得て十を去りて三を得、三加中五は八を得、八加三は十一を得て十を去りて又一に回る、こうして循環運行し、窮尽なし。
而其相合相生之法,凡奇數則合中五以生下數,耦則合前位之奇以生下數。耦從奇,奇不從耦也。奇必生耦,耦必生奇,陰陽互根也。中五建極,奇耦相生而自右至左,法自然之運。此不同於河圖之不奇耦(文瀾本「不奇耦」作「不生奇耦」),耦之合中五而為數也。至其對待之法,更有大異於河圖者。河圖奇耦重列以相對,洛書則單列以相對。奇對必奇,耦對必耦。以中五為之綱,而餘數相伍以列。
それらの相加相生の法則は、凡そ奇数に遇えば、則ち中央の五を加えて以て下一个の数を生出す。凡そ偶数に遇えば、則ち前一位の奇数を加えて以て下一个の数を生出す。これは偶数の奇数に跟従し、奇数は偶数に跟従せざるなり。奇数は必定に偶数を生出し、偶数は必定に奇数を生出す、正に陰陽互いに根本と為るの道理なり。中五は極を建て、奇偶は遞相に生発して而して右より左に向かい運行す、取法する所は天道自然の運転なり。この一点は河図と同じからず、河図は并な奇数・偶数一概に皆中五を加えて以て数を成すに非ず(此の句は底本に訛脱あり、文瀾本は「不奇耦」を「不生奇耦」と作る)。両者の「対待」の排法に至っては、差別は則ち更に大なり。河図は奇偶両数の重叠して排列して相対す、洛書は則ち単数各自に排列して相対す。奇数の対する所は必定に奇数、偶数の対する所は必定に偶数、皆中五を以て綱領と為し、其余の各数は依次相配して列す。
及計其對待之共數,莫不各倍中五以成十,而十已默寓於眾數之中矣。楊子道聲之論如此。今按,《易·繫辭傳》曰,河出圖,洛出書,聖人則之,是圖書相為表裡,夫子之言可據。後人以洛書至禹始出,其訛固不俟辨。至若天一地二章,所言皆河圖而不及洛書,蓋緣蓍數取於五十,故獨引河圖為言。至由兩儀四象而生八卦,則圖書皆其根本。而先後天八卦之位配之洛書,尤其易見者也。
相対の両数を合計して起こすに及びて、無く恰好に中五の两倍にして十を成さざるはなし、見るべし「十」のこの数は已に暗々裏に洛書の衆数の中に寓含せるを。楊道声の議論はすなわち此の如し。如今按ずるに、《易・繫辞伝》に「河は図を出だし洛は書を出だし、聖人これに則る」という、見るべし河図と洛書は本来互いに表裏と為るを、孔子の言は以て憑信す可し。後人は洛書は大禹の治水の時に到りて始めて出現すと説く、この種の訛伝は根本に弁駁を用いるに足らず。《繫辞》の「天一地二」のあの一章に至っては、講ずる所は全て河図にして而して洛書に説き及ばざるは、大衍蓍策の数は五十より取るを以て、故にただ河図を引きて立論す。両儀・四象より以て八卦を生出するに至っては、則ち河図洛書皆その根本なり。而して先天・後天八卦の方位は洛書を拿てて以て相配すれば、尤も看明白し易し。
洛書自北之西,一六之水尅二七之火。火南行,尅四九之金。金東行,尅三八之木。木轉中,尅中英(「英」當作「央」,從文瀾本)之土。土北行,又尅一六之水。此洛書之右轉相尅,異於河圖之左旋相生者也。至以其相對待言之,則東南四九之金,生西北一六之水。而東北三八之木,生西南二七之火。是洛書之對(「對」當作「之」,從文瀾本)對待相生,又異於河圖之對待相尅者也。
洛書の数は北より転じて西に向かい、北方と西北の一・六の水は、西方と西南の二・七の火を克制す。火は再び南行し、南方と東南の四・九の金を克制す。金は再び東行し、東方と東北の三・八の木を克制す。木は転じて中央に入り、中央の土を克制す(底本「中英」は「英」は当に「央」と作るべし)。土は再び北行し、また一・六の水を克制す。これすなわち洛書の右に向かい旋轉して而して依次に相克するは、河図の左に向かい旋轉して而して依次に相生する正好く同じからず。若しその相対する両方に就きて説けば、東南四・九の金は、西北一・六の水を生ず。東北三・八の木は、西南二・七の火を生ず。これは洛書の対待の位は反って相生し(底本「之対対待」は、文瀾本は前一の「対」の字を「之」と作る)、また河図の対待の位の相克と同じからず。
要之,生之中有尅,尅之中有生。十之數,不外九之用。九之用,已備十之體。四正已備乎四隅,四隅不外乎四正。四正四隅皆本於中宮,兩儀四象皆根於太極。此則河圖洛書之所同,而實未嘗異者。要之,言乎理則一,言乎氣則二,言乎象則四,言乎行則五。由是即一奇一耦,以生八卦六十四卦,而先天後天,為方為圓,皆從此起焉。是又當即諸圖分析求之,以詳其義者也。
総而言之、相生の中に相克を含み、相克の中に相生を含む。河図十数の立つる所の「体」は、洛書九数の顕す所の「用」を離るる能わず。洛書九数の「用」は、本身も已に十数の「体」を具備せり。四正の位は已に四隅を涵括し、四隅の位もまた四正の外に出でず。四正四隅は皆中宮に本づき、両儀四象は皆太極に根づく。これらは河図洛書の相同なるの処にして、実に嘗て何の差異有らざるなり。帰総して説けば、「理」より講ずればただ一、「気」より講ずれば便ち二、すなわち陰と陽。「象」より講ずれば便ち四、すなわち四象。「行」より講ずれば便ち五、すなわち五行。これより一奇一偶を用いて層層に推衍し、八卦を生出して以て六十四卦に至り、而して先天と後天・方図と円図は、皆ここより発端す。これらは還た当に以下の各図に就きて逐一に分析推求して、始めてその中の義理を講じて詳尽にし得べし。
八卦小成図説
河圖以十為數,洛書以九為數。河圖列四正五十居中,洛書列四正四隅而五居中。於八卦似各異,要之本太極而為陰陽奇偶,則一而已矣。陽大陰小,則陽先陰後。故伏羲先畫一奇以陽,畫一偶以象陰而兩儀具。兩儀各生一陽一陰而四象形。四象又各生一陽一陰而八卦列。卦既成,見其具天地人三才之象,非有取於三才強畫之也。卦既列,而乾一兌二至坤八有自然之序,非有意於先後強分之也。卦備於八,是謂小成。
河図は十を以て極数と為し、洛書は九を以て極数と為す。河図はただ四正の位を排して而して五と十は中に居る、洛書は則ち四正四隅具全して而して五は中に居る。両者の八卦と配合する方式は看似各々相同じからず、但し根を帰し底を帰すれば皆太極に本づきて而して陰陽奇偶に分かつ、其実はただ一個の道理なり。陽は大にして陰は小、故に陽は先に在りて而して陰は後に在り。因りて伏羲は先ず一根の奇画を画きて以て陽を代表し、再び一根の偶画を画きて以て陰を象徴し、両儀は則ち具備せり。両儀は各々再び一陽一陰を生じ、四象の形体は則ち成れり。四象はまた各々再び一陽一陰を生じ、八卦は則ち排列し出だせり。卦画既に成れば、始めて毎卦の三画が正好く天・地・人の三才の象を含むを看出す、并な先ず三才の説を取りて始めて勉强に三画を画き成せるに非ず。卦位既に列なれば、乾一・兌二より坤八に至るまで自ら天然の次序あり、もまた有意に一個の先後を分かちて始めて勉强に排定せるに非ず。卦は八に到りて完備し、これすなわち「小成」と呼ばるるなり。
六十四卦衡図説
八卦未畫之先,則太極生八卦。八卦既畫之後,則八卦皆可以為太極。所謂物物各具一太極者,此也。由是而兩儀得十有六。由是而四象得三十有二。由是而八卦得六十有四。六畫之上無可加,六十四卦之外亦無可益,此理數之自然也。六十四卦之中,八卦各居其本位。乾一兌二離三震四巽五坎六艮七坤八,分陰分陽,萬變畢具。陽生於復而極於乾,陰生於姤而極於坤。論卦體之相生,則自乾而復為順,自姤而坤為逆。論陰陽之升降,則自姤而坤為順,自乾而復為逆。奇偶順逆循環,而圓圖方圖皆自此出矣。
八卦の未だ画き出さざる以前は、太極が八卦を生出せり。八卦既に画き成せれば、則ち毎一卦もまた皆各自に以て一個の太極と当作る可し。いわゆる「物物に各具わる一太極」、説く所は正にこの意思なり。これより毎卦は各々両儀を生じ、共に十六を得。再び四象を生じ、共に三十二を得。再び八卦を生じ、共に六十四を得。卦画は六画の上に於て再び加うべきなし、卦数も六十四の外に於て再び増すべきなし、これは理数自然の限度なり。六十四卦の中に、八経卦は各々自らの本位を占む。乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八、陰陽分判し、万般の変化は已にその内に包含せり。陽気は《復》に生じて而して《乾》に於て盛極し、陰気は《姤》に生じて而して《坤》に於て盛極す。若し卦体の相生を論ぜば、《乾》より《復》に数えるは順、《姤》より《坤》に数えるは逆。若し陰陽の升降を論ぜば、則ち《姤》より《坤》に数えるは順、《乾》より《復》に数えるは逆。奇偶順逆は往復循環し、円図と方図は便ち皆ここより推衍し出づ。
楊道声先天卦配河図図説
理,一而已矣。一而二,則為乾坤。二而四,則乾得離而坤得坎。四而八,則乾得兌離震,坤得艮坎巽。乾坤動乎一者也。離坎繼乾坤而代之者也。兌震艮巽妙坎離之用者也。乾坤之位正而離坎正矣。離坎之位正而八卦正矣。坤之居北而配一六者何,一為數始而生物之始,六所以成之也。
理はただ一個あるのみ。一より分かれて二と為るは、すなわち乾と坤。二より分かれて四と為るは、乾のこの一辺は離を得、坤のこの一辺は坎を得。四より分かれて八と為るは、乾のこの一辺は兌・離・震を統摂し、坤のこの一辺は艮・坎・巽を統摂す。乾坤は太極のこの「一」の上より発動し出でたるなり。離坎は乾坤を承接して代わりてその事を行うなり。兌・震・艮・巽は則ち坎離の功用をして変化して妙に入らしむるなり。乾坤の方位は正しく擺られれば、離坎の方位もまた則ち正し。離坎の方位は正しく擺られれば、八卦の方位もまた皆正し。坤は為何に北方に居りて而して一・六の数に配するや。一は数の開端にして、もまた生物の開端、六は則ち以てそれを成就するを以てなり。
則所重在一。一,陽也。乾象而非坤象。然坤不能自生而生於乾,是以居北。乾之居南而配二七者何。二為一之匹,而亦生物之數。則所重在二。二,陰也。坤象而非乾象。然乾亦不能自生而生於坤,是以居南。乾南坤北,亦所以法天,天陽南而陰北也。離居東而配三八何,天三生木,地八成之,火生於木也。坎居西而配四九者何。地四生金,天九成之,水生於金也。四卦正位,一經一緯。不居其位而位乎其所自生,故曰先天也。
一と六のこの一組は、看重する所は一に在り。一は奇数、陽に属し、本は乾の象にして而して坤の象に非ず。但し坤は自ら自らを生出する能わず、それは乾のあれより生出せられ、故に坤は反って北方に居る。乾は為何に南方に居りて而して二・七の数に配するや。二は一の配偶にして、もまた生物の数、この一組の看重する所は二に在り。二は偶数、陰に属し、本は坤の象にして而して乾の象に非ず。但し乾もまた自ら自らを生出する能わず、それは坤のあれより生出せられ、故に乾は反って南方に居る。乾は南に在り坤は北に在り、もまた正に天道に取法するなり、天の陽気は南に在りて而して陰気は北に在るなり。離は為何に東方に居りて而して三・八に配するや。「天三木を生じ地八これを成す」にして、而して火は木より生出せらるるを以てなり。坎は為何に西方に居りて而して四・九に配するや。「地四金を生じ天九これを成す」にして、而して水は金より生出せらるるを以てなり。乾坤離坎の四卦は正位を占定し、一経一緯は交錯して局を成す。それらは自ら五行の本属する方位に居らずして、而して自らを生出せるあの一方に居る、故に「先天」と呼ばるるなり。
震兌艮巽之居四維者何。以乾坤離坎之定位位之也。陽之運自南而北,陰之運自北而南。南為老陽乾居之。乾之上爻變而為兌,居東南。中爻變而為離,居東。兩爻俱變而震,居東北。以極於北。則乾爻盡變矣。北為老陰坤居之。坤之上爻變而為艮,居西北。中爻變而為坎,居西。兩爻俱變而為巽,居西南。以極於南。則坤爻盡變矣。陰陽相摩,迭為終始。八卦正位,萬象森列。故曰乾坤離坎正而八卦正矣。
震・兌・艮・巽は為何に四個の隅角に居るや。あれは乾・坤・離・坎の定位に依りて推排し出だせるなり。陽気の運行は自ら南より北に向かい、陰気の運行は自ら北より南に向かう。南方は老陽、乾の占据する所。乾の上爻は一変すれば便ち兌を成し、東南に居る。中爻は一変すれば便ち離を成し、正東に居る。上・中の両爻皆変すれば便ち震を成し、東北に居る。一直に正北に推し到れば、乾の爻は則ち全変し尽くせり。北方は老陰、坤の占据する所。坤の上爻は一変すれば便ち艮を成し、西北に居る。中爻は一変すれば便ち坎を成し、正西に居る。上・中の両爻皆変すれば便ち巽を成し、西南に居る。一直に正南に推し到れば、坤の爻もまた全変し尽くせり。陰陽は彼此摩盪し、交替に為始為終す。八卦は各々正位を得、万象は便ち森然として羅列す。故にいう、乾・坤・離・坎は正しく擺られれば、八卦もまた則ち皆正し、と。
楊道声後天卦配河図図説
易逆數也而順以行之,聖人所以善法天也。《說卦》,帝出乎震,成言乎艮,後天之卦位也。先天乾坤為經,離坎為緯。今則離坎進而為經,震兌繼而為緯。一六為水故坎在北,二七為火故離在南。三八為木。四九為金。故震東而兌西。水火金木,各正其位。經正則緯正,緯正則八卦亦靡不正。夫震為木為春。離為火為夏。帝出乎震,歲之始也。春夏之交,百物暢茂。
《易》の推数は本は逆らいて未来に往きて推す所、聖人は却って時序に順いて以てそれを施行す、これ正に善く天道に取法するの処なり。《説卦伝》に「帝は震に出づ」「艮に言を成す」という、講ずる所はすなわち後天の卦位なり。先天卦位は乾坤を以て経と為し離坎を以て緯と為す。後天に到れば、離坎は便ち升り上がりて以て経位に充当し、震兌は接替し下りて以て緯位に充当す。一・六は水に属し、故に坎は北に居る。二・七は火に属し、故に離は南に居る。三・八は木に属し、四・九は金に属し、故に震は東に居りて而して兌は西に居る。水・火・金・木は各々自らの本行の正位上に帰す。経位正しければ則ち緯位正し、緯位正しければ則ち八卦もまた正ならざるなし。震は木に属し春令に当たり、離は火に属し夏令に当たる。「帝は震に出づ」は、一年の開頭なり。春夏の交に到れば、万物は生長暢茂す。
巽為木為風。振動而長養之,以相見乎離。繼之兌為金為秋,方受夏制伏而不起。交中央土,土以生金,坤卦當之,厥象為母。逮入北坎。西北之野,龍以戰焉,此天地之尊嚴氣也,乾卦當之,為君為父。冬之卦坎,百物告成。貞以起元,冬之季也,故艮以成之。艮,止也。歲聿云暮,功用止矣。正離坎以正發斂。正離坎震兌以正四時。正震巽離坤兌乾坎艮以正八節。天時以行,人事以遂,王者治平之道以弘。彌綸天地,各正性命,所謂後天而奉天時者乎。
巽は木に属し風と為す、風は振盪鼓動して而して万物を長養す、ここに於て離と相見え、これすなわち《説卦伝》の説く所の「離に相見えん」なり。接ぎて兌は金に属し秋令に当たり、正に夏火の制伏を受けて而して発起する能わず。再び交わりて中央の土に入れば、土は能く金を生ず、坤卦は此の位に当たり、その象は母なり。然る後に北方の坎に入る。西北の曠野は、正に《坤》上六の「野に戦う龍」の在所、あれは天地間の尊厳肅殺の気、乾卦は此の位に当たり、君と為り父と為す。冬天の卦は坎、万物はここに到りて告成す。「貞」より再び「元」を転じ出づるは、正に冬季の末に当たる、故に艮を由りて以てそれを完成す。艮は「止」の意思、一年将に尽きんとし、功用もまた則ち停歇す。離・坎を正しく擺うれば、則ち生発と収斂の両端を正しく擺う。離・坎・震・兌を正しく擺うれば、則ち春夏秋冬の四時を正しく擺う。震・巽・離・坤・兌・乾・坎・艮を正しく擺うれば、則ち一年の八節を正しく擺う。天時はこれに因りて運行し、人事はこれに因りて成就し、王者の国を治め天下を平らぐるの大道もまたこれに因りて弘大す。天地を包羅貫通し、万物をして各々その性命を正からしむ、これほぼ則ち《乾・文言》の説く所の「後天にして而も天時に奉る」の意思なるか。
楊道声先天卦配洛書図説
洛書之數,奇者居正,耦者居隅,尊陽也。卦以配之,各從其類。乾為純陽而配九。九,陽之極也。於河圖之位為二七。二合七非九乎,故乾稱用九。坤匹乾為純陰。厥配為一,陽饒而陰乏也。亦河圖天一之本位也。以九一截數之終始,以乾坤定卦之陰陽,則六子均可計焉。
洛書の数は、奇数は四正の位を占拠し、偶数は四隅の位を占拠す、これは陽を尊崇するの縁故なり。八卦を拿てて以てそれに配すれば、各々同類相従に依る。乾は純陽、九に配す。九は陽数の極点なり。乾は河図上に於て本来は二・七に配するの方位に居る、而して二加七は正に九ならずや。故に《乾》卦の用爻は「用九」と称す。坤は乾と相匹配して而して純陰と為り、その配する所は一、これは陽数の豊饒にして陰数の虧乏するの意思、一もまた正に河図「天一」の本位なり。九と一を用いて数の終点と起点を截取し、乾と坤を用いて卦の陰陽を定下すれば、則ち震・坎・艮・巽・離・兌のこの六個の子卦の次第は皆推算し出だす可し。
乾一交於坤得震,故次乾曰震,次九曰八。再交於坤得坎,故次震曰坎,次八曰七。三交於坤得艮,故次坎曰艮,次七曰六。而三男之位定矣。坤一交於乾得巽,故次坤曰巽,次一曰二。再交於乾得離,故次巽曰離,次二曰三。三交於乾得兌,故次離曰兌,次三曰四。而三女之位亦定矣。是以論其位,則乾一兌二離三震四巽五坎六艮七坤八。論其數,則乾九震八坎七艮六坤一巽二離三兌四。以卦之生得其數,以數之位序其卦云爾。
乾は第一次に坤と交合して震を得、故に乾の後は震を接ぎ、九の後は八を接ぐ。第二次に坤と交合して坎を得、故に震の後は坎を接ぎ、八の後は七を接ぐ。第三次に坤と交合して艮を得、故に坎の後は艮を接ぎ、七の後は六を接ぐ——震・坎・艮の三男の位次は則ち定下せり。坤は第一次に乾と交合して巽を得、故に坤の後は巽を接ぎ、一の後は二を接ぐ。第二次に乾と交合して離を得、故に巽の後は離を接ぎ、二の後は三を接ぐ。第三次に乾と交合して兌を得、故に離の後は兌を接ぎ、三の後は四を接ぐ——巽・離・兌の三女の位次もまた定下せり。因りて若し先天の卦位を論ぜば、是れ乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八。若し配する所の洛書の数を論ぜば、則ち是れ乾九・震八・坎七・艮六・坤一・巽二・離三・兌四。これは不過ぎ卦の生成に按じて以てその数を定め、再び数の位次に按じて以てその卦を排するのみ。
楊道声後天卦配洛書図説
先天乾坤為父母,以生六子之用。後天坎離為繼體,共生四子以還歸乎大父母之用。此卦位之所以異也。乾坤之體,體純陰純陽。相交而生,生之用已弘。離坎之體,襍陽襍陰。必互異而生,生之用乃顯。此尤卦位之所以異也。夫離陽儀所生,繼乾故居南而當九。坎陰儀所生,繼坤故居北而當一。離坎即父母也。坎之初爻易乎離,則中女生男。故離之次艮,九之次八。即以離之初爻易乎坎,則中男生女。故艮之次兌,八之次七。
先天卦位は乾坤を以て父母と為し、用いて六個の子女を生出す。後天卦位は則ち坎離を以て正体を承継し、両者は共に四個の子女を生じて而最終に帰還して大父母乾坤の功用上に到る。これは先後天卦位の同じからざるの一層の縁故なり。乾坤の本体は、純陰と純陽、両者は一たび交合すれば便ち化生し得、生化の用は已に甚だ宏大なり。離坎の本体は、則ち陽の中に陰を夹み陰の中に陽を夹み、必ず彼此互換に相異の爻を以て始めて化生し得、生化の用は始めて顕現す。これは更に先後天卦位の同じからざるの縁故なり。離は陽儀の生ずる所に由り、乾を承接す、故に南に居りて九数に当たる。坎は陰儀の生ずる所に由り、坤を承接す、故に北に居りて一数に当たる——後天の裏に於ては離坎は則ち父母に相当す。坎の初爻を拿てて離の初爻に換えれば、艮を成す、これは中女が男卦を生出するにして、故に離の後は艮を接ぎ、九の後は八を接ぐ。反って離の初爻を拿てて坎の初爻に換えれば、兌を成す、これは中男が女卦を生出するにして、故に艮の後は兌を接ぎ、八の後は七を接ぐ。
及坎之中爻易乎離,則中女之用還歸乎大父。故兌之次乾,七之次六。而乾兌艮之位定矣。即以離之中爻易位坎,則中男之用還歸乎大母。故坎之次坤,一之次二。坎之上爻易乎離,則中女又生男。故坤之次震,二之次三。即以離之上爻易乎坎,則中男更生女。故震之次巽,三之次四,而坤震巽之位定矣。先天正乾坤而八卦正。後天正離坎而八卦亦正。至八卦正乎離坎,而乾坤垂拱無為以董厥成,則又乾坤之妙其用,而離坎之神其能也。
坎卦の中爻と離卦の中爻と互換するに及びて、中女「離」の功用は便ち大父「乾」のあれに回帰す、故に兌卦の後は乾卦を接ぎ、配数上は七の後は六を接ぎ、乾・兌・艮の三卦の位次はこれに就きて確定す。反って離卦の中爻を用いて坎卦の中爻に換えれば、中男「坎」の功用は便ち大母「坤」のあれに回帰す、故に坎卦の後は坤卦を接ぎ、配数上は一の後は二を接ぐ。坎卦の上爻と離卦の上爻と互換すれば、中女はまた一個の男卦を生出す、故に坤卦の後は震卦を接ぎ、配数上は二の後は三を接ぐ。反って離卦の上爻を用いて坎卦の上爻に換えれば、中男はまた一個の女卦を生出す、故に震卦の後は巽卦を接ぎ、配数上は三の後は四を接ぎ、坤・震・巽の三卦の位次もまたこれに就きて確定す。先天図上は乾坤両卦を正しく擺うれば、八卦の位次は便ち皆正し。後天図上は離坎両卦を正しく擺うれば、八卦の位次は同様に皆正し。八卦一概に離坎より正を取るに及びて、乾坤は便ち以て衣を垂れ手を拱いて親しく施為するを必とせず、ただその成功を督察するのみ——これ正に乾坤が功用を運用して巧妙にし、而して離坎が才能を発揮して神妙にするなり。
學後天者,亦正其離坎而已。
故に後天の学を研治する者は、下手の功夫も亦不過ぎ離・坎両卦を正しく擺うのみ。先天図は乾坤を以て南北の経と為し、功夫は正乾坤に落つ。後天図は則ち離坎に由りて乾坤を接替して南北の位に当たらしむ、功夫は便ち正離坎に落つ。離南坎北のこの一対の経卦は一たび正しければ、震・兌・巽・艮と乾・坤の六卦は自然各々本位に帰し、整套の後天の学の関鍵は則ちここに繫がる。
先天主生後天主尅図説
南北為經,東西為緯,夫人而知之矣。而八卦之經緯更有異焉。先天以震巽為經,後天以坤艮為經,而諸卦皆為緯。先天者,天地之生氣也。後天者,天地之成氣也。震巽為木為春為發生,一氣互乾東北西南,而凡緯於其間皆主生。於是乾生坎,艮生兌,離生坤,以成先天之位。
南北向を経と呼び、東西向を緯と呼ぶ、これは人人皆懂るの常識なり。可是八卦に另に一套の経緯あり、これと同じからず。先天図は震・巽の両卦を以て経と為し、後天図は坤・艮の両卦を以て経と為し、其余の各卦は皆算して緯と為す。先天の講ずるは天地生発の気、後天の講ずるは天地成物の気なり。震・巽は木に属し春季に配して発生を主とす、この一股の気は東北より西南の一線を貫穿し、凡そこの条の線の間に横緯する卦は皆「生」を以て主と為し、ここに於て乾は坎を生じ艮は兌を生じ離は坤を生ず、先天の卦位は則ちこのように排定せり。
坤艮為土為季氣為收藏,一氣互於東北西南,而凡緯乎其間者皆主尅。於是坎尅離,兌尅震,乾克巽,以成後天之位。先天主生,故人之飲食、衣服、醫藥之屬咸取法焉。後天主尅,故人之祭祀、棺槨之屬咸取法焉。有後天而無先天則無本,有先天而無後天則不成。至生之中未嘗無尅,尅之中未嘗無生。觸類而長之可耳。
坤・艮は土に属し、四季末月の「季気」に配して収蔵を主とす、この一股の気は同様に東北より西南の一線を貫穿し、凡そこの条の線の間に横緯する卦は皆「尅」を以て主と為し、ここに於て坎は離を尅し兌は震を尅し乾は巽を尅す、後天の卦位は則ちこのように排定せり。先天は生を以て主と為し、故に人間の飲食・衣服・医薬の这一类の養生の事は、皆先天図に取法す。後天は尅を以て主と為し、故に人間の祭祀・棺槨の这一类の死を送り制断するの事は、皆後天図に取法す。ただ後天有りて而して先天なければ、事物は則ち根本を失掉す。ただ先天有りて而して後天なければ、事物は則ち成就するに由なし。況んや生の裏面に未だ嘗て尅なく、尅の裏面に未だ嘗て生なきにあらざるや、この門径に依りて推衍し開き去れば則ち是れなり。
楊道声圜図左旋配節気図説
圜,天象也。卦之有圜圖,法天也。天之可見者,莫如陰陽。陰陽之可見者,莫如四時。天之陰極於冬,陰極陽生為冬至。天之陽極於夏,陽極生為夏至。故二至為陰陽之樞紐。卦之陽極於乾,陽極陰生而為姤。卦之陰極於坤,陰極陽生而為復。故乾坤姤復亦為陰陽之樞紐。知此可與言圜圖矣。歲一而已,二之為冬夏,四之為春夏秋冬,八之為八節者,陰陽迭運以成其寒暑也。卦各一而已,倍之十六,再倍之三十二,又倍之六十四者,陰陽迭運以成其貞悔也。
円は、取る所は天の形象なり。卦図の円図を作り成さんと要する所以は、則ち天に取法するなり。天道の中の最も看見し得るは陰陽より過ぐるなし、陰陽の中の最も看見し得るは四時より過ぐるなし。天の陰気は冬天に到りて尽頭に走り、陰極まりて而して一陽来復す、これすなわち冬至なり。天の陽気は夏天に到りて尽頭に走り、陽極まりて而して一陰初生す(原文「陽極生」の下に一個の「陰」の字を脱す)、これすなわち夏至なり。故に冬至・夏至のこの両至は陰陽の総樞紐なり。卦上の陽気は《乾》に到りて極まり、陽極まりて陰を生ぜば便ち《姤》を成す。卦上の陰気は《坤》に到りて極まり、陰極まりて陽を生ぜば便ち《復》を成す。故に乾・坤・姤・復の四卦もまた陰陽の樞紐なり。この一層を懂得して、始めて彼と円図を談ず可し。一年は本はただ一個の整体、剖りて両半と為せば便ち冬夏、剖りて四份と為せば便ち春夏秋冬、剖りて八份と為せば便ち八節、これは陰陽の交替運行して而して寒暑を造成するなり。毎一卦もまた本はただ一個の整体、一倍を加えて十六を成し、再び一倍を加えて三十二を成し、また一倍を加えて六十四を成す、これは陰陽の交替運行して而して内卦「貞」と外卦「悔」を分かち出だすなり。
夫天道流行始乎陽,而陽之初生又始之始也。陽則生於極陰,坤爰生復為陽始,冬至配焉。盡震宮八卦至明夷,離為貞卦。一陰又生於三爻,立春配焉。盡離宮八卦至於臨,兌為貞卦。一陽又生於二爻,春分配焉。盡兌宮八卦至於泰,貞卦三陽,立夏配焉。盡乾宮八卦至於乾,貞悔皆陽。陽極陰生得姤卦,夏至配焉。盡巽宮八卦至於訟,坎為貞卦。一陰又生於三爻,立秋配焉。盡坎宮八卦至於遯,艮為貞卦。一陰又生於二爻,秋分配焉。盡艮宮八卦至於否,貞卦三陰,立冬配焉。盡坤宮八卦至於坤,貞悔皆陰。陰極陽生,又得復卦配冬至。卦氣相配,循環無端。
天道の運行は陽気を以て開端と為し、而して陽気の初生は、更に是れ開端の裏の開端なり。陽は極陰の処に生ず、坤卦の後は《復》卦を生出す、是れ陽気の始、冬至に配す。震宮の八卦を走り尽くして《明夷》に到れば、下卦(貞卦)は離と変じ、是れ第三爻の陰より陽に転ずる(原文は「一陰」と作る、卦変に按ずれば当に「一陽」と作るべし)、立春に配す。離宮の八卦を走り尽くして《臨》に到れば、下卦は兌と変じ、是れ第二爻にまた一陽を生ず、春分に配す。兌宮の八卦を走り尽くして《泰》に到れば、下卦の三爻は全陽、立夏に配す。乾宮の八卦を走り尽くして《乾》に到れば、内外卦は全て陽爻、陽極まりて陰を生じて《姤》を得、夏至に配す。巽宮の八卦を走り尽くして《訟》に到れば、下卦は坎と変じ、是れ第三爻にまた一陰を生ず、立秋に配す。坎宮の八卦を走り尽くして《遯》に到れば、下卦は艮と変じ、是れ第二爻にまた一陰を生ず、秋分に配す。艮宮の八卦を走り尽くして《否》に到れば、下卦の三爻は全陰、立冬に配す。坤宮の八卦を走り尽くして《坤》に到れば、内外卦は全て陰爻、陰極まりて陽を生じ、また《復》卦を得て而して冬至に配す。卦気と節気はこのように相配し、循環往復して起訖を找め出だす能わず。
蓋天道左旋而卦則之。以陰陽之升降言,則復至乾姤至坤皆順。以卦體之初生言,則復至乾姤至坤皆逆。以衡圖相配言,則姤至坤為順,復至乾為逆。運行無窮而乾南坤北離東坎西之位不失。先天之八卦,得此益彰矣。按,此篇以衡圖相配之順逆與《說卦傳》所稱順逆不同。《說卦傳》以豫推未生之卦為逆,數已生之卦為順。以合衡圖之序為順,逆衡圖之序為逆也。
大抵に天道は左に向かい旋轉し、卦図は便ちそれに取法す。陰陽の升降に就きて説けば、《復》より《乾》に至る・《姤》より《坤》に至るは皆順と算う。卦体初生の先後に就きて説けば、《復》より《乾》に至る・《姤》より《坤》に至るは皆逆と算う。横図(衡図)の次序と相配するに就きて説けば、《姤》より《坤》に至るは順と為し、《復》より《乾》に至るは逆と為す。このように運行して窮まらず、而して乾南・坤北・離東・坎西の定位は始終失わず、先天八卦の意思は、この張の図を得て則ち更に彰明なり。陳氏按ずるに、本篇の講ずる所の「衡図と相配す」の順逆は、《説卦伝》の説く所の順逆と并な一回事に非ず。《説卦伝》は預め未だ生成せざる卦を推算するを逆と呼び順に已に生成せる卦を数るを順と呼ぶ。本篇は則ち横図の次序に合乎るを以て順と為し、横図の次序に倒れるを以て逆と為す。
楊道声圜図右転以て六十四卦を生ず図説
天左旋,日月星辰右轉。一順一逆,變化見矣。圜圖陰陽之升降則左旋以法天,六十四卦之相生則右轉以法七政。乾卦生兌離震,坤卦生巽坎艮。六子之所生,皆乾坤之所生也。故生卦之本,惟乾坤雲。乾坤而六十四卦之位以正,三百八十四爻之變以章章焉。夬至坤皆生於乾,剝至乾皆生於坤。貞卦以宰之,悔卦以動之。悔卦之變一周而貞卦一變,貞悔之變一周而乾坤一變,六十四卦所以全乾坤之用也。
天体は左に向かい旋轉す、日月星辰は却って右に移行す、一順一逆の間に於て、変化は則ち顕し出づ。円図の裏の陰陽の升降は左旋、取法する所は天なり。六十四卦の相生は右転、取法する所は日月と金木水火土の五星のこの「七政」なり。乾卦は兌・離・震を生出し、坤卦は巽・坎・艮を生出す。六個の子卦の生じたる一切の卦は、追いて底に到れば皆乾坤の生ずる所、故に卦を生ずるの根本はただ乾坤両卦に在るのみ。乾坤有りて、六十四卦の方位は始めて以て正しく擺るを得、三百八十四爻の変化は始めて以て昭著にし得。从《夬》より《坤》に至るのこの一路は皆乾に生じ、从《剥》より《乾》に至るのこの一路は皆坤に生ず。内卦「貞」はそれを主宰し、外卦「悔」はそれを発動す。外卦は変じて一輪を満てば、内卦は始めて一次動く。内外卦は各々変じて一輪を満てば、乾坤は始めて一次動く——六十四卦は則ちこのように以て乾坤の功用を発揮して完備せり。
貞悔六陽為乾,其變也自悔始。上九變則得夬,九五變得大有,五與上變得大壯,九四變則得小畜,四與上變則得需,四與五變得大畜,以及乎泰,則悔卦之變一周矣。悔卦之變一周,則貞卦九三變而得履,乃乾艮而兌進矣。兌之變一周而離退,離之變一周而震進,震之變一周而坤進,然後貞悔之變一周而消息視之。
内外卦の六爻全陽なるはすなわち《乾》、その変化は外卦(悔卦)より手を起こす。上九の一爻変じて《夬》を得、九五変じて《大有》を得、五と上と同変して《大壮》を得、九四変じて《小畜》を得、四と上と同変して《需》を得、四と五と同変して《大畜》を得、一直に《泰》に排し到れば、外卦の変化は便ち一輪を転満す。外卦は変じて一輪を満てば、内卦(貞卦)の九三は始めて一変して《履》を得、ここに於て乾は退き下りて兌は進み上がる(原文「乾艮」は当に「乾退」と作るべし、下文の「坤退而艮進」と対照して知るべし)。兌は変じて一輪を満てば而して離は退き、離は変じて一輪を満てば而して震は進み、震は変じて一輪を満てば而して坤は進む。然る後に内外卦は各々変じて一輪を満てば、陰陽の消長盈虚は則ち皆能く図上に於て看出すを得。
貞悔六陰為坤,其變也亦自悔始。上六變則得剝,六五變得比,五與上變得觀,六四變則得豫,四與上變得晉,四與五變得萃,以及否,則悔卦之變一周矣。悔卦之變一周,則貞卦六三變而得謙,乃坤退而艮進矣。艮之變一周而坎退,坎之變一周而巽進,巽之變一周而乾進,然後貞悔之變又一周而消息亦視之。陰陽相易,貞悔相濟。六爻感應,若日月之往來而靡間也。若五緯之各得其道而不紊也。此其包括宇宙而無遺也。
内外卦の六爻全陰なるはすなわち《坤》、その変化もまた外卦より手を起こす。上六の一爻変じて《剥》を得、六五変じて《比》を得、五と上と同変して《観》を得、六四変じて《豫》を得、四と上と同変して《晋》を得、四と五と同変して《萃》を得、一直に《否》に排し到れば、外卦の変化は便ち一輪を転満す。外卦は変じて一輪を満てば、内卦の六三は始めて一変して《謙》を得、ここに於て坤は退き下りて艮は進み上がる。艮は変じて一輪を満てば而して坎は退き、坎は変じて一輪を満てば而して巽は進み、巽は変じて一輪を満てば而して乾は進む。然る後に内外卦はまた各々変じて一輪を満てば、陰陽の消長は同様に皆図上に於て看見す可し。陰と陽は互相交替し、内卦と外卦は互相済成し、六爻は彼此感應し、日月の往来して間断なきが如く、もまた金木水火土の五星の各々軌道に循いで毫も紊乱なきが如し。これすなわち円図の能く宇宙を包挙して而して遺漏なき所以の縁故なり。
楊道声圜図陰陽対待図説
一陰一陽之謂道。陰無陽不成其為陰,陽無陰不成其為陽。陰陽相須,故圜圖有對待之象焉。乾生兌離震為陽卦。凡乾兌離震之所生,皆陽卦也。乾至復三十二卦,是以居左。坤生艮坎巽為陰卦。凡坤艮坎巽之所生,皆陰卦也。坤至姤三十二卦,是以居右。陽左陰右,兩儀對待也。
《繫辞伝》に「一陰一陽これを道と謂う」という。陰は陽を離れれば陰を成す能わず、陽は陰を離れても陽を成す能わず、陰陽は彼此相待相求す、故に円図上に於て始めて両々相対の形象あり。乾の生じたる兌・離・震は皆陽卦に属し、凡そ乾・兌・離・震の再生し出だせる卦もまた皆陽卦に属す、《乾》より《復》に至るまで共に三十二卦、因りて図の左半辺に列す。坤の生じたる艮・坎・巽は皆陰卦に属し、凡そ坤・艮・坎・巽の再生し出だせる卦もまた皆陰卦に属す、《坤》より《姤》に至るまで共に三十二卦、因りて図の右半辺に列す。陽は左に居り陰は右に居る、これすなわち両儀の相対して而も待するの格局なり。
然陽卦之中亦有陰,陰卦之中亦有陽,又莫不自相對待。如一陽五陰之復、剝、比、豫、謙、師,則對一陰五陽之姤、夬、大有、小畜、履、同人也。二陰四陽之無妄、家人、離、革、中孚、睽、兌、大畜、需、大壯、大過、鼎、巽、訟、遯。則對二陽四陰之升、解、坎、蒙、小過、蹇、艮、萃、晉、觀、頤、屯、震、明夷、臨也。若泰、歸妹、節、損、豐、既濟、賁、隨、噬嗑、益之對否、漸、旅、咸、渙、未濟、困、蠱、井、恆,則陰陽半焉者也。乾之與坤,則以純陽而對純陽也。多寡相配,上下相求。東西成列一陰一陽,而開物成務之事畢矣。
然るに陽卦の裏面にもまた陰を含み、陰卦の裏面にもまた陽を含む、それらの彼此の間もまた無く対を成して相待せざるはなし。譬えば一陽五陰の《復》《剥》《比》《豫》《謙》《師》は、正に一陰五陽の《姤》《夬》《大有》《小畜》《履》《同人》と対す。二陰四陽の《无妄》《家人》《離》《革》《中孚》《睽》《兌》《大畜》《需》《大壮》《大過》《鼎》《巽》《訟》《遯》は、正に二陽四陰の《升》《解》《坎》《蒙》《小過》《蹇》《艮》《萃》《晋》《観》《頤》《屯》《震》《明夷》《臨》と対す。《泰》《帰妹》《節》《損》《豊》《既済》《賁》《随》《噬嗑》《益》の《否》《漸》《旅》《咸》《渙》《未済》《困》《蠱》《井》《恒》と対するに至っては、あれは陰陽各々一半を占むの一类なり。乾と坤と相対するは、則ち以て純陽と純陰と対す(原文の下一個の「陽」の字は当に「陰」と作るべし)。陰陽多寡は各々その配を得、上下両爻は彼此相求し、東西両辺は行列に排して而して一陰一陽は恰恰相当す、万物を開通し事業を成就するの道理は便ち尽くその中に在り。
楊道声圜図卦次図説
孔子之說卦也,則曰八卦成列,因而重之。邵子之說卦也,則曰一分為二,二分為四,四分為八,八分為十六,十六分為三十二,三十二分為六十四。二說蓋不類云,及詳夫圜圖,而知邵子固已摻孔子左券也。卦次運行以中為界。乾姤為首,坤復為尾,六十四卦若翼之垂。左右分行,起首而止乎尾。故貞卦兌二次乾一,繼而離三,繼而震四,左行及尾止焉。
孔子の卦を論ずるに、《繫辞伝》の裏に説く所は「八卦成列す、因りて之を重ぬ」なり。邵雍の卦を論ずるに、説く所は一分かちて二と為し二分かちて四と為し四分かちて八と為し八分かちて十六と為し十六分かちて三十二と為し三十二分かちて六十四と為す、と。両種の説法は看去似て一路に非ず、円図を細看し一遍するに及びて、始めて邵雍の手裏に其実早くも孔子と相合するの憑据を握り在るを知る(古人は符を剖りて両半と為し各々其一を執る、「左券」はすなわち合得上るのあの一半)。卦の次序は図上に於て正中を以て界と為して運行す、《乾》《姤》は首に居り、《坤》《復》は尾に居り、六十四卦は鳥の両翼の垂れ張り開くが如く、左右分頭して排行し、皆首端より起こり尾端に到りて止まる。故に内卦(貞卦)に就きて説けば、兌二は乾一の後に接ぎ、接ぎて是れ離三、再接ぎて是れ震四、左に向かい尾端に行き到りて止まる。
巽五亦次乾一,繼而坎六,繼而艮七,繼而坤八,右行極尾止焉。悔則八卦一周,當貞之一卦,亦起首而止乎尾。左起乾一次二三,向左疊行,終而復始,乾至復是也。右亦起乾一次二三,向右疊行,終而復始。姤至坤是也。孔子所謂因而重之者此卦,邵子所謂遽而者即此卦也。邵子則言其相生之漸,孔子則言其已成之象。非邵子則孔子之言不明,非孔子則邵子之言不全,後之人執一而失之,亦重可慨夫。
巽五もまた乾一の後に接ぎ、接ぎて是れ坎六、再接ぎて是れ艮七・坤八、右に向かい尾端に行き到りて止まる。外卦(悔卦)に至っては、八卦一輪を走り満てば、始めて内卦の一卦に抵わる、同様に首端より起こり尾端に到りて止まる。左辺は乾一より起こり、依次に二・三、左に向かい層層に叠行し、一輪を走り尽くして再び重新に開始す、すなわち《乾》より《復》に至るのこの一段なり。右辺もまた乾一より起こり、依次に二・三、右に向かい層層に叠行し、一輪を走り尽くして再び重新に開始す、すなわち《姤》より《坤》に至るのこの一段なり。孔子の説く所の「因りて之を重ぬ」は、指す所は正にこれらの卦。邵雍の説く所の層層分生(原文「遽而」の二字は疑わしく訛脱あり)、指す所もまた是れこれらの卦なり。邵雍の講ずるは相生の漸次過程、孔子の講ずるは已に成形したる卦象なり。邵雍なければ、孔子の言は講じ明白する能わず。孔子なければ、邵雍の言は講じ完全する能わず。後人は各々一端を執りて而して另一端を失掉す、実に甚だ嘆惜す可し。
楊道声圜図初爻図説
兩儀既判,極天下之至變,若非兩儀之妙也。則極天下之至變,莫不有兩儀之之象也。圜圖初爻三十二陽居左,三十二陰居右,合而則一陰一陽也。乾至復坤至姤之卦備而兩儀立矣。
両儀は一たび分判せられれば、天下の変化は極処に到りて、一様として両儀の妙用ならざるなし(原文「若非」は当に「莫非」と作るべし)。天下の変化は極処に到りて、もまた一様として両儀の形象を帯びざるなし(原文「両儀之之象」は一個の「之」の字を衍す)。円図の最底下の初爻は、三十二個の陽爻は左辺に排し、三十二個の陰爻は右辺に排す、合わせて看れば正に一陰一陽なり。《乾》より《復》に至る・《坤》より《姤》に至るの諸卦は斉備し、両儀もまた則ち図上に於て立ち起これり。
楊道声圜図二爻図説
兩儀生四象,則極天下之至變,莫非四象之妙也。極天下之至變,莫不有四象之象也。圜圖二爻乾至臨十六陽,而間同人至復十六陰。坤至遯十六陰,而間師至姤十六陽。合之則二陽二陰,四象之象也。又合南三十二皆陽,北三十二皆陰,非即兩儀哉。
両儀は四象を生出し、ここに於て天下の変化は極処に到りて、一様として四象の妙用ならざるなし。天下の変化は極処に到りて、もまた一様として四象の形象を帯びざるなし。円図を看れば自ら下より上に向かい数える第二爻は、《乾》より《臨》に至るは十六個の陽爻、中間に《同人》より《復》に至るの十六個の陰爻を隔てる。《坤》より《遯》に至るは十六個の陰爻、中間に《師》より《姤》に至るの十六個の陽爻を隔てる。合わせて看れば便ち両陽両陰は相間にして、正に四象の形象なり。若し再び南半辺の三十二爻は全て陽に属し北半辺の三十二爻は全て陰に属するを合わせて看れば、あれは則ちまた両儀ならずや。
楊道声圜図三爻図説
四象生八卦,則天下之至變,莫非八卦之妙也。極天下之至變,莫非有八卦之象也。圜圖三爻乾至泰八陽,而間履至臨八陰。坤至否八陰,而間謙至遯八陽。姤至升復至無妄,而間訟至師明夷至同人,八卦之象也。合之則四陽四陰,八卦而即四象也。
四象は八卦を生出し、ここに於て天下の変化は極処に到りて、一様として八卦の妙用ならざるなし。天下の変化は極処に到りて、もまた一様として八卦の形象を帯びざるなし。円図の第三爻を看れば、《乾》より《泰》に至るは八個の陽爻、中間に《履》より《臨》に至るの八個の陰爻を隔てる。《坤》より《否》に至るは八個の陰爻、中間に《謙》より《遯》に至るの八個の陽爻を隔てる。《姤》より《升》に至る・《復》より《无妄》に至るのこの両段は、また中間に《訟》より《師》に至る・《明夷》より《同人》に至るの両段を隔てる、これすなわち八卦の形象なり。合わせて看れば便ち四陽四陰は相間にして、八卦は其実もすなわち四象の加倍なり。
楊道声圜図四爻図説
八而倍之,十六所自起也。極天下之至變,莫不有八卦之象,則亦莫不有十六之象也。圜圖四爻乾至大壯四陽也,而間小畜至泰四陰。履至歸妹、同人至豐、無妄至震之間中孚至臨、家人至明夷、益至復,法皆仝矣。坤至觀四陰也,而間豫至否四陽。謙至漸、師至渙、升至巽之間小過至遯、解至訟、恆至姤,法皆同矣。合之則八陰八陽,十六之象即八卦之象也。而以四相間,又非四象乎。
八は再び一倍を加えれば、すなわち十六の来歴なり。天下の変化は極処に到りて、一様として八卦の形象を帯びざるなし、則ち同様に一様として十六の形象を帯びざるなし。円図の第四爻を看れば、《乾》より《大壮》に至るは四個の陽爻、中間に《小畜》より《泰》に至るの四個の陰爻を隔てる。此の外《履》より《帰妹》・《同人》より《豊》・《无妄》より《震》の数段は、その間にまた《中孚》より《臨》・《家人》より《明夷》・《益》より《復》の数段を隔てて、排法は完全相同なり。《坤》より《観》に至るは四個の陰爻、中間に《豫》より《否》に至るの四個の陽爻を隔てる。此の外《謙》より《漸》・《師》より《渙》・《升》より《巽》の数段は、その間にまた《小過》より《遯》・《解》より《訟》・《恒》より《姤》の数段を隔てて、排法もまた完全相同なり。合わせて看れば便ち八陰八陽、十六の形象もすなわち八卦形象の加倍なり。而してそれが四爻を以て一節と為し相間隔たるは、不又正に四象ならずや。
楊道声圜図五爻図説
十六又倍之,三十二所自起也。則有十六之象也,莫不有三十二之象也。圜圖五爻履兌二陽而間二陰之睽歸妹,謙艮二陰而間二陽之蹇漸。餘五十六卦之相間,莫不皆然。合之則十六陽十六陰,十六之象即三十二之象也。而相間以二,亦即兩儀之象也。
十六は再び一倍を加えれば、すなわち三十二の来歴なり。既に十六の形象有らば、則ち三十二の形象を帯びざるの道理なし。円図の第五爻を看れば、《履》《兌》両卦は両個の陽爻、中間に《睽》《帰妹》の両個の陰爻を隔てる。《謙》《艮》両卦は両個の陰爻、中間に《蹇》《漸》の両個の陽爻を隔てる。其余の五十六卦の相間排列は、無く皆この様子ならざるなし。合わせて看れば便ち十六個の陽爻・十六個の陰爻、十六の形象もすなわち三十二形象の一半なり。而してそれが両爻を以て一節と為し相間隔たるは、すなわち両儀の形象なり。
楊道声圜図上爻図説
卦之有六十四,生於三十二也。推而上之,生於一。一與二,三十二與六十四,卦之終始也。圜圖上爻一陰一陽相間而列。合之則三十二陽、三十二陰,六十四之象即三十二之象也。而陰陽相間以一為率,兩儀之象即太極之象也。
卦に六十四の数あるは、三十二より加倍して来たるなり。一層層に上に往きて追えば、最終は仍お「一」より生出せたるなり。一と二は、三十二と六十四と対して、正に卦の終点と起点なり。円図の最上の上爻を看れば、是れ一陰一陽の交錯排列なり。合わせて看れば便ち三十二個の陽爻・三十二個の陰爻、六十四の形象もすなわち三十二形象の加倍なり。而して陰陽は一爻を以て一節と為して相間にすれば、両儀の形象は根を帰し底を帰すればもすなわち太極の形象なり。
楊道声圜図雑撰図説
《周易》始於乾坤,終於既濟未濟,一經之終始也。上經始於乾坤,終於坎離。下經始於咸恆,終既濟未濟。一分為二而各有終始也。始於乾坤,中於泰否,終於坎離,為上經。始於咸恆,中於損益,終於既濟未濟,為下經。上下經之各有始各有中各有終,所以成一經之始於乾坤終於既濟未濟也。
《周易》は《乾》《坤》を以て篇を開き、《既済》《未済》を以て尾を收む、これは一部の経の首尾なり。上経は《乾》《坤》を以て頭を起こし、《坎》《離》を以て結束す。下経は《咸》《恒》を以て頭を起こし、《既済》《未済》を以て結束す——一部の経は剖りて両半と為し、毎半はまた各々自らの首尾あり。《乾》《坤》より起こり中間は《泰》《否》にして《坎》《離》に終わるは、是れ上経なり。《咸》《恒》より起こり中間は《損》《益》にして《既済》《未済》に終わるは、是れ下経なり。上下経は各々起頭あり各々居中あり各々收尾あり、合わせて始めて整部の経の「乾坤に始まり既済未済に終わる」の大格局を成就せり。
而始於乾坤終於既濟未濟者何也。上經言乾坤坎離,實則乾為主坎用事,宗陽也。下經言震巽艮兌,實則坤為主離用事,宗陰也。乾坤坎離,萬象之樞也。故始於乾坤而終於既濟未濟,即始於乾坤而終於坎離也。然不終於坎離而終於既濟未濟何也。
則ちば、為何に乾坤を以て頭を開き既済未済を以て尾を收めるや。上経は表面上に講ずるは乾・坤・坎・離、実際上は乾卦を以て主と為して而して坎卦に由りて当直せしむ、宗旨は陽に在り。下経は表面上に講ずるは震・巽・艮・兌、実際上は坤卦を以て主と為して而して離卦に由りて当直せしむ、宗旨は陰に在り。乾・坤・坎・離は、正に万象の総樞紐なり。故に「乾坤に始まりて而して既済未済に終わる」と説くは、もまた則ち等しく「乾坤に始まりて而して坎離に終わる」と説くなり。可是既に此の如くなれば、為何に乾脆《坎》《離》に終わらずして、偏に《既済》《未済》に終わるを要するや。
乾坤立坎離之體,坎離妙乾坤之用。因乾坤之交不交以生坎離之用,因坎離之交不交以章乾坤之體。坎離一乾坤也。乾坤得坎離,則每於不交者正其位。坎離繼乾坤,則必於交其[文瀾本“其”作“者”]呈其能。未言離坎坎[文瀾本“離坎坎”作“坎離首言”]乾坤,曰乾曰坤曰坎曰離,乾坤坎離之不交者也。乾坤之不交,即坎離之不交也。既言泰否,終言既濟未濟。曰泰曰否曰既濟曰未濟,乾坤坎離之交者也。坎離之交,即乾坤之交也。《周易》雖分上下經,雖各有終始。實則始於乾坤,中於坎離,終於既濟未濟。坎離不交即乾坤,而交即既濟未濟。
乾坤は坎離の為に本体を立下し、坎離は乾坤の功用を発揮して精妙ならしむ。乾坤の交と交らざるに由りて、坎離の功用を生出す。坎離の交と交らざるに由りて、乾坤の本体を彰顯す。坎離は説きて底に到れば則ち乾坤なり。乾坤は坎離有りて、便ち総じて「不交」の状態下に於て各々その位を正す。坎離は乾坤を承接して、便ち必定に「相交」の処に於て本領を顕出す(此の処「交其」は、文瀾本は「交者」と作る)。上経は開篇に先ず乾坤坎離を挙げ(此の句の原文は「未言離坎坎乾坤」と作る、文字に訛あり、文瀾本は「離坎坎」の三字を「坎離首言」と作る)、乾を説き坤を説き坎を説き離を説く、この四卦は皆乾坤坎離の彼此相交わらざるの様子なり。而して乾坤の不交は、もすなわち坎離の不交なり。既にして《泰》《否》に説き到り、最後に《既済》《未済》に説き到る、泰を説き否を説き既済を説き未済を説く、この四卦は皆乾坤坎離の彼此相交わるの様子なり。而して坎離の相交は、もすなわち乾坤の相交なり。《周易》は虽も上下両経に分かち各々首尾あれども、実際上はただ乾坤に起こり坎離に中して既済未済に終わるなり。坎離は交わらざる時は則ち乾坤、一たび交われば則ち既済未済なり。
凡震巽艮兌錯行於其間,以成乾坤既濟未濟之終始。乾坤既濟未濟,誠萬象之樞也。盍觀乎圜圖之互卦乎。以六十四卦互得三十二卦。左右八分列,實得一十六卦。曰乾曰夬曰睽曰歸妹曰家人曰既濟曰頤曰復曰姤曰大過曰未濟曰解曰漸曰蹇曰剝曰坤。兩卦而互一卦,亦四卦而互一卦也。又以其三十二卦互之得十六卦。左右重列,實得四卦。曰乾曰既濟曰未濟曰坤。
震・巽・艮・兌は一概にこの中間を交錯穿行し、用いて乾坤と既済未済の首尾格局を成就す。見るべし乾・坤・既済・未済は確かに万象の総樞紐なり。何ぞ再び円図上の「互卦」(一卦の二至五爻を取りて別に組成する卦)を看ざるや。六十四卦を拿てて一々に互を取れば、三十二卦を得。左右各々八、分列し開けば、実際ただ十六個の卦名を得るのみ、すなわち《乾》《夬》《睽》《帰妹》《家人》《既済》《頤》《復》《姤》《大過》《未済》《解》《漸》《蹇》《剥》《坤》なり。両卦互いに一卦を出だすは、もすなわち四卦互いに一卦を出だすに等し。再びこの三十二卦を拿てて互を取れば、十六卦を得。左右両辺は重複排列して、実際ただ四個の卦名を得るのみ、すなわち《乾》《既済》《未済》《坤》なり。
兩卦而互一卦,亦四卦而互一卦,且八卦而互一卦也。推之六十四卦。則四卦而互一卦,亦八卦而互一卦,且一十六卦而互一卦也。互至於乾坤既濟未濟而窮,蓋互之而仍得乾坤既濟未濟也。以四卦而畫六十四卦,故乾坤既濟未濟為萬象之樞也。故《周易》始於乾坤終於既濟未濟也。既濟未濟一坎離也,坎離一乾坤也。《周易》之始於乾坤,終於既濟未濟。即始於乾坤,終於乾坤也。至[“至”當作“互”、從文瀾本]卦云者,即孔子之所謂雜物撰德也。
これは両卦互いに一卦を出だすにして、もまた四卦互いに一卦を出だし、還た八卦互いに一卦を出だすなり。六十四卦上に推して説けば、便ち四卦互いに一卦を出だすにして、もまた八卦互いに一卦を出だし、還た十六卦互いに一卦を出だすなり。互いに乾・坤・既済・未済のこの四卦に到れば則ち尽頭に走り到る、再び互い下せば得る所は仍舊この四卦なるを以てなり。この四卦を用いて以て六十四卦を画き出だす可し、故に乾・坤・既済・未済は万象の樞紐なり。故に《周易》は乾坤に起こりて而して既済未済に終わる。既済未済は説きて底に到れば是れ坎離、坎離は説きて底に到れば是れ乾坤。《周易》の乾坤に起こり既済未済に終わるは、其実は則ち乾坤に起こりて又乾坤に終わるなり。いわゆる「互卦」(原文は「至卦」と作る、文瀾本に据れば当に「互卦」と作るべし)は、すなわち孔子が《繫辞伝》の裏に説く所の「物を雑え徳を撰す」なり。
楊道声方図総論
乾坤,大父母也。乾坤正而八卦正矣,六十四卦俱正矣。陽生於北而極於南,陰生於南而極於北,天之道也。圜圖法天,故乾南而坤北。陽始於東北而盛於西北,陰始於西南而盛於東南,地之道也,方圖法地,故乾西北而坤東南。乾坤運卦體於無窮,圜圖之義也。乾坤交卦體以變化,方圖之義也。此其所異也。由是次乾坤而兌艮,次兌艮而離坎,次離坎而震巽,八卦之位不既正乎。由是一一統八,八其八而六十四卦之位,不俱正乎。
乾坤は六十四卦の大父母なり。乾坤は一たび正しければ、八卦は則ち正しく、六十四卦もまた全て正し。陽気は北方に生じて而して南方に於て盛極し、陰気は南方に生じて而して北方に於て盛極す、これは天の路数なり。円図は天に取法す、故に乾は南に在り坤は北に在る。陽気は東北に起こりて而して西北に於て盛んにし、陰気は西南に起こりて而して東南に於て盛んにす、これは地の路数なり。方図は地に取法す、故に乾は西北に在り坤は東南に在る。乾坤は卦体を運轉して無窮に至らしむ、これは円図の用意なり。乾坤は卦体を交合して而して変化を生ぜしむ、これは方図の用意なり——両図の分別は則ちここに在り。これより乾坤に接ぐるは兌・艮、兌・艮に接ぐるは離・坎、離・坎に接ぐるは震・巽、八卦の方位は已に正しく擺られたるに非ずや。再びこれより一卦が八卦を統領し、八個の八は相乗じて而して六十四を成す、六十四卦の方位は不も皆正しく擺られたるか。
方図縦横八卦図説
六十四卦成列,相交變化而八卦各居其本位,以為卦主。從計之則乾一兌二離三震四巽五坎六艮七坤八不少紊也。衡計之,則亦乾一兌二離三震四巽五坎六艮七坤八不少紊也。以從衡之間斜計之,仍為乾一兌二離三震四巽五坎六艮七坤八,不少紊也。此其為卦之正,以統夫眾卦也。
六十四卦は排して八行八列の方陣を成し、彼此相交じて而して変化を生じ、八卦は各自に本来の位子を守りて、以て一方の主に充当す。縦(從)に数え下れば、是れ乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八、一点も乱れず。横(衡)に数え過ぎれば、もまた是れ乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八、一点も乱れず。再び縦横の間より斜めに数えれば、仍舊是れ乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八、一点も乱れず。これすなわち八純卦の「正位」、これを倚りて以て其余の衆卦を統領す。
方図経緯図説
卦有經,必有緯。經正則緯正,緯正則經緯之間無弗正。圜圖以南北為經,則東西為緯。方圖以西北東南為經,則東北西南為緯。乾坤交得否泰,繼而兌艮交得咸損,故次否泰。繼而離坎交得未既濟,故又次咸損。繼而震巽交得恆益,故又次未既濟。皆為緯。緯合經而一十六,邵子所謂四象相交成十六事也。而各卦之交咸取諸此矣。
卦位に経あれば、則ち必定に緯あり。経正しく擺われば緯もまた則ち正しく、緯正しく擺われば則ち経緯交織の処に端正ならざるなし。円図は南北の一線を以て経と為し、東西の一線は便ち緯なり。方図は西北より東南に至るの一線を以て経と為し、東北より西南に至るの一線は便ち緯なり。乾と坤と相交じて、《否》《泰》の両卦を得。接ぎて兌と艮と相交じて、《咸》《損》の両卦を得、故に《否》《泰》の後に排す。接ぎて離と坎と相交じて、《未済》《既済》の両卦を得、故にまた《咸》《損》の後に排す。接ぎて震と巽と相交じて、《恒》《益》の両卦を得、故にまた《未済》《既済》の後に排す——これらは皆緯に属す。緯は経を連ね合計して一十六卦、すなわち邵雍の説く所の「四象相交じて十六事を成す」なり。各卦の相交わるの規矩は、全て此に於て取法す。
楊道声方図六十四卦相交図説
六十四卦生於八卦之相交,而八卦之相交其法有七。有隔六交者,有比肩交者,乃至隔一、隔二、隔三、四、五交者。其隔六,則乾坤相交是也。隔五,則乾艮、坤兌相交是也。隔四,則乾坎、艮離、兌艮相交是也。
六十四卦は八卦の両々相交じて生出せたるに由り、而して八卦の相交わるの方式は共に七種あり。相隔たること六位にして交わる有り、緊く挨りて(比肩)相交わる有り、中間に還た一位を隔て・二位を隔て・三位を隔て・四位を隔て・五位を隔てて相交わる有り。いわゆる隔六は、すなわち乾一より坤八に至るの次序に按じ、首尾相距ること六位の乾と坤と相交わるなり。いわゆる隔五は、すなわち乾と艮・坤と兌と相交わるなり。いわゆる隔四は、すなわち乾と坎・艮と離・兌と艮と相交わるなり(末の一組の原文は「兌艮」と作る、隔四の数と合せず、疑わしく訛字あり)。
乾巽、兌坎相交,坤震、艮離相交,則隔三也。乾震、兌巽相交,則隔二也。交以離乾、兌震,交以離巽、震坎,交以巽艮、坎坤,非隔一乎。交以乾兌、兌離,交以離震、震巽,交以巽坎、坎艮及艮坤,非比肩乎。剛柔往來,貞悔變易盡之矣。
乾と巽・兌と坎と相交じ、坤と震・艮と離と相交わるは、これは隔三なり。乾と震・兌と巽と相交わるは、これは隔二なり。離と乾・兌と震と相交わるを用い、離と巽・震と坎と相交わるを用い、巽と艮・坎と坤と相交わるを用いるは、これは則ち隔一ならずや。乾と兌・兌と離と相交わるを用い、離と震・震と巽と相交わるを用い、巽と坎・坎と艮および艮と坤と相交わるを用いるは、これは則ち緊く挨りて相交わるならずや。剛爻柔爻の往来推移・内卦外卦の交換変易は、尽くこの七種の交法の中に在り。
方図縦衡貞悔図説
方圖之形衡八而從八。計其衡,則自下而上,乾一兌二離三震四巽五坎六艮七坤八皆居貞卦之位。計其從,則自右而左,一乾二兌三離四震五巽六坎七艮八坤皆居悔卦之位。各以一卦為主而從有八悔,衡有八貞。縱衡貞悔,犬牙相錯。分之而其體成八。八縱八衡,卦各據其一行也。合之而其用有九。縱二衡二,虛中而得九也。先王九州別壤,九井均田蓋取諸此。
方図の形状は横八行・縦八列なり。横行に按じて数えれば、自ら下より上に向かい是れ乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八、此の一路は皆内卦(貞卦)の位子を占む。縦列に按じて数えれば、自ら右より左に向かい是れ一乾・二兌・三離・四震・五巽・六坎・七艮・八坤、此の一路は皆外卦(悔卦)の位子を占む。毎一卦は各自に主と為る。縦に看れば八個の外卦あり、横に看れば八個の内卦あり、縦横の間に貞悔は交錯し、犬牙の如く彼此咬合す。それを分かちて看れば、本体は八を成す。八縦八横、毎一卦は各々一行を占む。それを合わせて看れば、功用は九を得。縦向に両刀を切り横向に両刀を切り、中間に一格の空位を留出すれば、則ち九宮の数を得。上古の先王の九州の土壤を划分し九夫を以て井と為して田地を均分せしは、ほぼ則ち此に於て取法せるなり。
方図陽貞陰悔図説
兩儀既判,陰固不可無陽,陽亦不可無陰。實則陰施而陰受,陽信而陰屈,陽尊而陰卑。此相輔以為用,而聖人所以垂教萬世也。乾兌離震陽卦也,合所生之二十八卦而得陽卦三十二。坤艮坎巽陰卦也,合所生二十八卦而得陰卦三十二。於衡圖,則陽卦皆居前而陰卦皆居後。於圜圖,則陽卦居左而陰卦皆居右。於方圖,則陽卦皆居內而陰卦居外。尊陽也。
両儀は一たび分判せられれば、陰は固然として陽なくんばある能わず、陽もまた同様に陰なくんばある能わず。実処に落ちれば、則ち陽は施与して而して陰は承受し(原文の上一個の「陰」の字は当に「陽」と作るべし)、陽は伸展して而して陰は屈縮し、陽は尊貴にして而して陰は卑下す。二者は相輔相成して而して各々その用あり、聖人は正にこの道理を拿てて以て万世に垂訓するなり。乾・兌・離・震は陽卦、それらの生ずる所の二十八卦を連ねて、共に陽卦三十二を得。坤・艮・坎・巽は陰卦、それらの生ずる所の二十八卦を連ねて、共に陰卦三十二を得。横図上に於ては、陽卦は全て前に排し陰卦は全て後に排す。円図上に於ては、陽卦は左に排し陰卦は右に排す。方図上に於ては、陽卦は全て内に居り陰卦は外に居る——皆陽を尊崇するが為なり。
故觀方圖者,分之則六十四卦,合之則一卦也。三十二卦為貞,三十二卦為悔。一貞一悔,非一卦之象乎。以六十四卦觀之,則其文燦然而有章也,以一卦觀之,則其體寂然而不動也。陰陽變化不可以智知,不可以識識,其斯之謂歟。若乃各爻之相對相間,不少異於圜圖,知圜圖而方圖有可知者。
故に方図を看る者は要して明白ならん、分かちて看れば是れ六十四卦、合わせて看ればただ一卦なり。三十二卦は内卦(貞)に充当し、三十二卦は外卦(悔)に充当す、一貞一悔は配え起これば、不又正に一個の卦の形象ならずや。六十四卦を拿ててそれを看れば、紋理は燦然として而して条貫分明なり。一個の卦を拿ててそれを看れば、本体は寂然として而して声色を動かさず。いわゆる陰陽変化は聡明を憑りて以て測度する能わず見識を憑りて以て把捉する能わずとは、説く所はほぼ則ちこれなるか。各爻の相対と相間排列に至っては、円図と毫も二致なし、円図を懂得すれば、方図もまた以て推知す可し。
按,祝氏曰。初爻內三十二陽,外三十二陰。二爻內外皆可六陽間十六陰。三爻內外各八陰八陽相間。四爻內外各四陰四陽相間。五爻內外各二陰二陽相間。上爻內外各一陰一陽相間。今按,初二三爻相配如祝氏說。其各悔卦左右中分之。則四爻右三十二陽,左三十二陰。五爻左右各十六陰間十六陽。上爻左右各八陰八陽相間。蓋貞卦分內外,悔卦分左右以配陰陽。此異於圜圖,祝氏諸家所未悉也。
陳氏按ずるに、祝氏の説き過ぎたるは、方図の初爻は内圈は三十二個の陽・外圈は三十二個の陰。二爻は内外皆十六個の陽に十六個の陰を間隔す(原文「皆可六陽」は「可」は当に「十」と作るべし)。三爻は内外各々八陰八陽相間す。四爻は内外各々四陰四陽相間す。五爻は内外各々二陰二陽相間す。上爻は内外各々一陰一陽相間す。如今看るに、初・二・三の此の三爻の配法は確かに祝氏の説く所の如し。但し外卦(悔卦)は当に左右対分して以て看るべし。四爻は右辺は三十二個の陽・左辺は三十二個の陰、五爻は左右各々十六陰に十六陽を間隔し、上爻は左右各々八陰八陽相間す。大抵に内卦(貞卦)は内外を分かちて以て陰陽を配し、外卦(悔卦)は左右を分かちて以て陰陽を配す。この一点は円図と同じからず、是れ祝氏等の諸家の未だ講透せざる所なり。
方図分内外図説
先王定城郭宮室甸服之制,以辨內外,朝聘以時,至寒暑不怨諮,叛亂備而民生遂。何其慎邪。庖羲氏之方圖,誘厥矣。夫乾坤視八卦,故凡與乾坤並列者皆居外。次乾坤而為兌艮,故凡與兌艮並列者皆居次外。次兌艮為離坎,故凡與離坎並列者皆居次內。次離坎為震巽,故凡與震巽並列者皆居內。內以應外,外以衛內。內外之辨不亦詳且密哉。
上古の先王の城郭・宮室と甸服の等級規矩を制定せるは、用いて内外を分別す。朝覲聘問は皆時節に按じて挙行し、人をして寒暑奔走の中に於ても亦怨言なからしめ、叛乱に防備有りて而して民生は以て遂順を得——用心何等に謹慎なるか。伏羲氏の画きたる方図は、早已にこの層の道理を啓示し出だせり。乾坤は八卦を統摂す、故に凡そ乾坤と同列の卦は皆最外層に排す。乾坤に接ぐるは兌・艮、故に凡そ兌・艮と同列の卦は皆次外層に排す。兌・艮に接ぐるは離・坎、故に凡そ離・坎と同列の卦は皆次内層に排す。離・坎に接ぐるは震・巽、故に凡そ震・巽と同列の卦は皆最内層に排す。内層は外層に呼應し、外層は内層を護衛す、此の内外の別は不も够周詳縝密なるか。
方図天地相交之図説
天氣上升,地氣下降,則不交而物不生。地氣上升,天氣下降,則相交而物生。相交者,天交乎地,地交乎天也。其不交者,天與天交而地與地交也。不交乎此,則交乎彼矣。不交,則天地或幾乎息矣。相交而生物者,天地之用也。不交而不生物者,天地之體也。有體而後有用,故有貞而後有元,有不生物而後有生物。
天気は一味に上昇し地気は一味に下降し、両者は背離して交わらざれば、万物は則ち生出する能わず。地気は上昇し而して天気は下降し、両者は交會すれば、万物は始めて生出し得。いわゆる相交とは、是天が往きて地に交合し地が往きて天に交合するなり。いわゆる不交とは、是天はただ天と交わり地はただ地と交わるなり。此の辺に於て交わらざれば、必定に彼の辺に於て交わる。若し全然交わらざれば、天地もまた幾に停息せんとす。相交じて而して物を生ずるは、天地の功用なり。不交わらずして而して物を生ぜざるは、天地の本体なり。先ず本体有りて然る後に始めて功用あり、故に先ず冬蔵の「貞」有りて而して後に始めて春生の「元」あり、先ず物を生ぜざるの一面有りて而して後に始めて物を生ずるの一面あり。
天之卦乾兌離震,自相交而生無妄、大壯十二卦,天交天也。即為天之體。地之坤卦艮巽坎自相交而生觀、升十二卦,地交地也。即為地之體。天之卦而交坤艮坎巽得恆、否、豫、姤十六卦,天交乎地也。地之卦而交乾兌離震得泰、益、復、小畜十六卦,地交乎天也。即為天地之用。於是,即此得聲音色味與夫飛走草木情性形體之變,此邵子前知之學也。
天に属するの四卦は乾・兌・離・震、それらは彼此相交じて、《无妄》《大壮》等の十二卦を生出す、これは天の天と交わるにして、すなわち天の本体なり。地に属するの四卦は坤・艮・巽・坎、それらは彼此相交じて、《観》《升》等の十二卦を生出す、これは地の地と交わるにして、すなわち地の本体なり。天に属するの四卦は往きて坤・艮・坎・巽と交わりて、《恒》《否》《豫》《姤》等の十六卦を得、これは天の地に交合するなり。地に属するの四卦は往きて乾・兌・離・震と交わりて、《泰》《益》《復》《小畜》等の十六卦を得、これは地の天に交合するなり——この両類は則ち天地の功用なり。ここに於て則ちここより声音・顔色・気味および飛禽走獣・草木植物の性情と形体上の種種の変化を推し出だす、これ正に邵雍の能く未来を預知するのあの一套の学問なり。
楊道声方圜合図説
天何依乎,依乎地也。地何附乎,附乎天也。天地相依附,而天地之內千變萬化。所謂不貳不測者,不外乎一經一緯、一方一圓、一動一靜間也。先天圖圜乎外方乎內。夫子欲取方圖於外以別地,而虛圜圖之內以象天。實不若天包地外,地居天中,有依附之勢為不易也。天圜於外,圜則運行而不息。地方於內,方以相交而成功。於是陰陽之妙用大無外小無內,悉包舉於斯而莫之或遺矣。
天は何を依托するか。地に依托す。地は何に附着するか。天に附着す。天地は彼此依附し、ここに於て天地の内に千変万化を生出す。《中庸》の説く所の「其の物と為るや貳なく、則ち其の物を生ずるや測らず」は、もまた不外乎一経一緯・一方一円・一動一静の間のみ。先天図の格局は円図は外に在り方図は内に在り。一位置の前輩先生ありて方図を外面に移し去りて以て地を標別し、而して円図の中心を空し出だして以て天を象徴せんと欲す。其実あれは如今の此の様に天が地の外面に包み地が天の中央に居りて、依附相抱の勢有るに如かず、来たって移易す可からざるなり。天は円形を作りて外に在り、円は則ち能く運行して息まず。地は方形を作りて内に在り、方は則ち能く彼此交合して而して万物を成就す。このように一来れば、陰陽の妙用は大きくして外辺なく小さくして裏辺なく、全て皆この張の図の裏に包挿せられて、一点の遺漏なし。
三十六卦錯綜図説
《麻衣易》謂卦有反對。反者,即綜卦之謂也。正則為屯,倒則為蒙。正則為需,倒則為訟。諸卦相綜悉視此。其不得綜者凡八。曰乾、坤、坎、離、頤、大過、中孚、小過。《麻衣》所謂對卦,即錯卦也。合錯綜而言得三十六卦,邵子所謂三十六宮也。以此言之也,方圖圓圖橫圖之外,不可不知錯綜之圖。
《麻衣易》に説く、卦に「反」有り「対」有り、と。いわゆる「反」とは、すなわち後人の講ずる「綜卦」——一個の卦を把りて整個倒过来て看るなり。正しく看れば是れ《屯》、倒过来れば則ち《蒙》なり。正しく看れば是れ《需》、倒过来れば則ち《訟》なり。各卦の相綜するの道理は皆この様子に照らす。その中に倒过来ても仍お本卦にして相綜するに由なきは共に八個あり、すなわち《乾》《坤》《坎》《離》《頤》《大過》《中孚》《小過》なり。《麻衣》の説く所の「対卦」は、すなわち後人の講ずる「錯卦」——六爻の陰陽全部互換す。錯と綜を合并して計算すれば、六十四卦はただ三十六個の相同じからざる卦形のみ残る、すなわち邵雍の説く所の「三十六宮」なり。此の如く説けば、方図・円図・横図の外に、還た錯綜の図を懂得せざる可からず。
十翼之有《雜卦傳》,固專為錯綜卦言之也。《彖傳》《本義》以卦變言者十有五卦,曰訟、隨、蠱、噬嗑、賁、無妄、大畜、晉、睽、蹇、解、升、鼎、漸、渙是也。《程傳》論卦變,多本於乾坤。《本義》但取兩爻相比為變。渙卦柔得位乎外則不合,朱子自亦疑之。今照咸恆二卦剛上柔下柔上剛下之例,皆以卦綜言之,於十五卦皆合。然兩卦雖有錯綜,至錯綜之或先或後,自當因名以求其義。如《序卦》所云,不可易也。
《十翼》の裏に《雑卦伝》有る所以は、本来是れ専ら錯卦・綜卦の為に発せるなり。朱熹《周易本義》は《彖伝》の下に於て「卦変」を用いて説を立つるは共に十五卦、すなわち《訟》《随》《蠱》《噬嗑》《賁》《无妄》《大畜》《晋》《睽》《蹇》《解》《升》《鼎》《漸》《渙》なり。程頤《伊川易伝》の卦変を講ずるは、多半は乾坤両卦に推本す。《本義》は則ちただ相隣の両爻の互換を取りて変と為す。可是《渙》卦《彖伝》に「柔得位乎外」と説くは、この弁法を用いれば則ち講じ通ずる能わず、朱熹自らも亦疑いを起こし過ぎたり。如今《咸》《恒》両卦の「剛上柔下」「柔上剛下」の成例に依照し、一概に卦綜を用いて以て解説すれば、この十五卦は一卦として講じ通ぜざるなし。不過ぎ両卦は虽も錯綜の関係あれども、錯綜の中の孰れか先孰れか後に至っては、仍お当に卦名に就きてその義理を尋繹すべし、正に《序卦伝》の排定する所の次第の如く、是れ随意に更動す可からざるなり。
