Libo

易原

清 · 多隆阿

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

上古の頃、庖犠氏(伏羲)は天を仰ぎ地を俯し、鳥獣の形を観察し、近くは自身の身体に取り、遠くは万物に取って、八卦を画いた。周の文王は六十四卦・…

易経易学典籍

術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。

易原(清)多隆阿撰

自序

古者庖犧氏觀象於天地鳥獸,近取諸身,遠取諸物,以畫八卦。文王觀六十四卦、三百八十四爻,繫之以辭,以明吉凶。孔子作十翼,推闡義理,而有大小象傳,則贊《易》亦有取夫象。至於《說卦傳》所云天地、風雷、耳目、手足、馬牛、龍雉、金玉、布釜、草木、果蓏之類,尤為言象之祖。

上古の頃、庖犠氏(伏羲)は天を仰ぎ地を俯し、鳥獣の形を観察し、近くは自身の身体に取り、遠くは万物に取って、八卦を画いた。周の文王は六十四卦・三百八十四爻を推し究め、それらに辞を系げて吉凶を明らかにした。孔子は《十翼》を作り、その義理を推し広めて闡明し、中に《大象伝》《小象伝》があることからも、孔子が《易》を讃述するにあたって同じく「象」を用いたことが分かる。《説卦伝》に挙げられた天・地・風・雷、耳・目・手・足、馬・牛・龍・雉、金・玉・布・釜、草木・果蓏といった物象は、なおさら後世が「象」を語る際の鼻祖となった。

雖及門弟子學《易》者僅有商子木,而橋庇子庸諸人遞相授受,正賴此一線之延。嬴秦焚書,則以《易》為卜筮用,獨免災毀,此漢儒田氏、楊氏、費氏、孟氏等所以能得淵源,相傳於不絕也。縱京君明、焦延壽輩用納甲、飛伏、五行生剋作《易傳》《易林》,旁生枝節,不足羽翼聖經;而鄭傳費學、虞傳孟學,精深渾涵,實有非後學所易窺測者。

孔子の直伝弟子のうち《易》学を専門に修めたのは商瞿(字は子木)ただ一人で、その後、橋庇子庸らが代々受け継ぎ、《易》学はまさにこの一筋の系統によって延々と続いてきた。秦始皇が書を焚いたとき、《易》は卜筮の書と見なされたため、ひとり焚書の災いを免れた。だからこそ漢代の田何・楊何・費直・孟喜らはこの淵源に接続することができ、代々伝えられて絶えなかった。京房(字は君明)・焦延夀らが「納甲」「飛伏」「五行生剋」を用いて《京氏易伝》《焦氏易林》を著し、余計な枝葉を生やしたのは、聖人の経典を輔翼するに足りなかったが、鄭玄が伝えた費直の学、虞翻が伝えた孟喜の学は、義理が精深で内容が渾厚であり、実に後学の容易に窺い測れるものではなかった。

雖用爻辰、旁通、卦時、卦變詮解彖象,近於穿鑿,為王輔嗣所譏,而試質之孔子十傳以及《左氏春秋傳》所占繇辭,往往悉合,惟其師承有自,故與古不相戾也。迨夫兩晉六朝,去古漸遠,而漢儒《易》注多有存者,郭景純、乾令升諸人占筮卦辭,猶能得周史遺意。

漢儒は「爻辰」「旁通」「卦時」「卦変」といった体例で彖辞・象辞を解釈したが、これは穿鑿に近いと見え、王弼(字は輔嗣)に譏られた。しかし孔子の《十翼》や《左伝》に記された占筮の繇辞で検証すると、漢儒の説は往々にしてことごとく合致する。これはまさに彼らの師承に由来があったため、古義と背かなかったのである。両晋・六朝になると古代から次第に遠ざかったが、漢儒の《易》注はなお多く残っており、郭璞(字は景純)・干宝(字は令升)らは占筮して卦辞を説き、なお周代の太史の遺意を得ることができた。

至於有唐,《易》學兩歧,言象言理各分門戶,則侯行果、李鼎祚猶嘗稽求漢魏註疏,詳究象說,匯為成書,以傳後世。《周易集解》今茲盛行,其廣輯博取,不必盡醇,然而古注之一斑僅賴有此,則李氏之功巨矣。宋元以還,惟遵王注,力駁言象之失,而前儒《易》學乃因以漸微。

唐代になると、《易》学は二つに分かれ、象数を語る者と義理を語る者とがそれぞれ門戸を立てた。それでも侯果(字は行果)・李鼎祚は漢魏時代の注疏を考究し、象数の説を詳しく研究して書に編み、後世に伝えた。《周易集解》は今日広く流行しているが、広く蒐め博く取ったため、字字が純正とは限らない。それでも漢魏の古注の一斑を窺うことができるのは全くこの書に拠るのであり、李鼎祚の功績は実に大きい。宋元以来、学者はただ王弼注を遵奉し、象数を語ることの誤りを力いっぱい駁斥したため、先儒の《易》学はこれによって次第に衰微した。

夫《易》有聖人之道四焉,辭、象、變、占相為表裡,使黜象數而言義理,是於聖人之道去其三而僅餘其一也。且於《易》中所言龍馬、鬼神、詘伸往來之文,半歸惝恍,無所依據,又何怪釋道二氏課虛無者剽竊其宗旨以為參悟書哉!

《繋辞伝》は《易》の中に聖人の道が四つあると説く。文辞・物象・変化・占筮で、四者は互いに表裏となる。もし象数を廃して義理だけを語るなら、それは聖人の道の三つを去って一つだけを残すことになる。しかも《易》の言う龍馬・鬼神・屈伸往来といった文字も、その半分は惚恍として依拠するところがなくなってしまう。こうなれば、空や虚を説く仏・道の二家が《易》の宗旨を剽窃して参禅悟道の書とすることも、怪しむに足りない。

漢魏至今,年代愈遠,前儒著述大半淪亡,雖荀慈明、鄭康成、虞仲翔、范長生輩遺文尚在,鮮有完璧。今試廣為纂輯,其見於他書者亦摭拾之,有疑則姑從闕如;而唐宋以後諸儒言象者亦兼取之,以備參考。餘固不敢言學《易》獨有心得,但期古學未墜,欲求《易》象,則斯編或有萬一之小補雲。歲在強圉大淵獻相月初吉自序。

漢魏から今日まで、年代はますます遠ざかり、前代の学者の著述は大半が散佚し、荀爽(字は慈明)・鄭玄(字は康成)・虞翻(字は仲翔)・范長生らの遺文が残っていても、完全無欠なものは稀である。いま私は広く纂輯を試み、他書に散見されるものも併せて採録し、疑わしい箇所はしばらく闕として断語を下さない。唐宋以降の諸儒の象数に関する説も併せて取り、参考に備える。私は《易》を読んで独り得るところがあったなどとは敢えて言わないが、ただ古学が墜ち廃れないことを願うばかりである。《易》象を探求しようとする人にとって、この編は或いは万分の一の小さな補いとなるかもしれない。時は丁亥年(道光七年)七月上旬、自序。

古者聖王傳心,曰性命,曰道德,曰仁義禮知。而孔子繫《易》曰「一陰一陽之謂道,繼之者善,成之者性」,曰「知崇禮卑,崇效天,卑法地」,曰「成性存存,道義之門」,曰「閒邪存誠」「忠信進德」,曰「敬以直內,義以方外」。聖王傳心之要,咸於《易》中備言之,則是《易》兼通卜筮,而實為傳心之書也。

古代の聖王が代々伝えた心法は、「性命」と呼ばれ、「道徳」と呼ばれ、「仁・義・礼・知」と呼ばれた。孔子は《易》に《繋辞》を作って「一陰一陽之謂道、継之者善、成之者性」と言い、「知崇礼卑、崇効天、卑法地」と言い、「成性存存、道義之門」と言い、「閑邪存其誠」「忠信所以進徳」と言い、「敬以直内、義以方外」と言った。聖王伝心の要旨は、いずれも《易》の中に備えて言い尽くされている。これを見れば、《易》は卜筮の用を兼ねているものの、実は伝心の書なのである。

蓋自商子受《易》,五傳而至田子莊;子莊轉受東武王、丁將軍等,支流愈遠,門戶漸分。如京氏之《易傳》、焦氏之《易林》,僅可為玩占用;而馬、鄭、荀、虞各有疏解,如以卦氣、卦候、卦位、卦變、爻辰、旁通、納甲、飛伏立說,不無穿鑿之失。

そもそも商瞿が孔子から《易》を受けて以来、五代伝えて田何(字は子庄)に至った。田何はまた東武の王同・丁寛(人は丁将軍と呼ぶ)らに転授し、支流は伝えるほど遠ざかり、門戸も次第に分かれた。京房の《京氏易伝》、焦延夀の《焦氏易林》の類は、占筮を玩味するための用にすぎない。馬融・鄭玄・荀爽・虞翻はそれぞれ疏解を持つが、「卦気」「卦候」「卦位」「卦変」「爻辰」「旁通」「納甲」「飛伏」といった体例で説を立てたため、穿鑿附会の失を免れなかった。

王輔嗣忽倡得言忘象之議,於眾口紛雜之餘,亦可謂不囿流俗矣;然而獨憑臆見,援引莊老,悖畔聖經,其非固不待辨。至於將眾儒師承之說一掃而空之,後人詆為罪浮桀紂,良有以也。

王弼は突然「言を得て象を忘る」の議を唱えた。衆説紛々のさなかにおいては、流俗に囿らなかったとも言える。しかし彼はひたすら臆見に拠り、荘子・老子を援引して《易》を解き、聖人の経旨に背き離れた。その非は本来、弁明を待つまでもない。まして諸儒の師承の説を一掃して空しくしたことは、後人がその罪は桀・紂よりも重いと詬ったのも、まことに理由がある。

嘗讀《漢書·藝文志》,彼時注《易》者十有三家,施、孟、梁邱之《易》皆列學官,費、高之學民間私相授受,今其書多不傳,所傳者惟馬、鄭、荀、虞諸子,而簡斷編殘,文義缺略,僅存梗槩。則其說卦曰辟、曰互、曰陰陽消息,實得三聖之心,學者加意玩索,從此類推,註疏之精彷彿可得。儻必因其不純而一例廢之,是懼噎廢食、懼覆廢車也,奚可哉!

かつて《漢書・芸文志》を読んだが、当時《易》に注をつけた者は十三家あった。施讐・孟喜・梁丘賀の《易》学はいずれも学官に立てられ、費直・高相の学は民間で私相授受された。今やこれらの書は多く伝わらず、伝わるのは馬融・鄭玄・荀爽・虞翻の諸家のみで、しかも簡冊は断れ編次は残欠し、文義は脱漏して概略を残すのみである。それでも彼らが卦象を説くにあたって語った「辟卦」「互体」「陰陽消息」は、実に伏羲・文王・孔子の三聖の心を得たものである。学者が意を用いて玩味推索し、ここから類推すれば、漢儒注疏の精髄は彷彿として得られよう。もし純粋でないからといって一律に廃棄するなら、それは噎せることを恐れて食を廃し、覆ることを恐れて車を廃するようなもので、どうしてよかろうか。

夫《詩》言風雅而義歸無邪,《書》言政事而義歸執中,禮樂言儀文詠歌而義歸陶情淑性,是古人立言未有窮高極遠、恍惚難據者。《易》雖極陰陽之變,窮物類之微,而大旨在「震無咎者存乎悔」「無咎者善補過」也。人非聖賢,不能無過,有過能補,轉凶為吉,則補過兩言與《詩》之無邪、《書》之執中、禮樂之陶情淑性,一而二、二而一者也,故曰《易》為聖王傳心之書也。

《詩経》は風雅を語りながらその義は「思無邪」に帰し、《尚書》は政事を語りながらその義は「允執厥中」に帰し、礼楽は儀文・詠歌を語りながらその義は情を陶し性を淑やかにすることに帰する。これを見れば、古人が言を立てるにあたり、話を高遠玄虚に極めて惚恍として拠り所のないものにしたことはない。《易》は陰陽の変化を極め、物類の精微を窮めるが、その大旨は《繋辞伝》の言う「震无咎者存乎悔」「无咎者善補過」にある――警惧して悔い改めることができれば災いはなく、災いがないというのは過ちを善く補うからである。人は聖賢でなければ過ちなしではいられず、過ちがあっても補うことができれば、凶を転じて吉とすることができる。このように見れば、「補過」の二字は《詩》の「無邪」、《書》の「執中」、礼楽の陶情淑性と、まさに一にして二、二にして一の事柄である。だから《易》は聖王伝心の書だと言うのである。

唐宋以還,注《易》者代有其人,而惟《程傳》《本義》盛行於世。朱子《本義》雖本《程傳》,而多用卦變,與程子已不能強同。程子注損三爻,亦曰三陽同行則損九三以益上,三陰同行則損上六以益三,仍不廢損自泰來之說。一卦如是,他卦亦宜如是,漢儒注經實有依據,即此可見一斑也,是宜因一斑窺全豹矣。

唐宋以来、《易》に注する者は代々に人を欠かなかったが、世に盛行したのは程頤の《伊川易伝》と朱熹の《周易本義》だけである。朱熹の《本義》は《程伝》を本としながらも、「卦変」を多用しており、程頤と強いて同じにすることはできない。しかし程頤が《損》卦の九三爻に注する際にも、「三陽が同行すれば九三を損して上爻を益し、三陰が同行すれば上六を損して三爻を益す」と言っており、やはり《損》卦が《泰》卦から変じて来たという説を廃していない。一卦がかくのごとくなら、他の卦もまたそうあるべきで、漢儒の経注には実に根拠がある。ここから一斑を窺うことができ、まさにこの一斑から全豹を窺うべきなのである。

餘自弱齡讀《易》,僅能記誦,少而習焉,稍長粗能解釋;成童以後,就學遼瀋,得見學校藏書,參以師友講論,不揣固陋,僭為折衷,輯成篇帙,私藏於篋已十數年,草凡五易,釐為十六卷,名之曰《易原》。

私は幼い頃から《易》を読み、初めは暗誦できるだけだった。少年の頃反復して習い、少し長ずると粗く説明できるようになった。十五歳以降は遼陽・瀋陽のあたりに学び、学校の蔵書を見ることができ、師友の講論にも参酌した。そこで固陋を顧みず、あえて諸説を折衷して書稿に編み、箧に私蔵することすでに十数年、草稿は前後五回改め、十六巻に釐定して、名づけて《易原》とした。

原者,本原也,推原也,言漢儒學有本原,餘因漢說而推原之。原古字作厡,亦作源,是水之源也。餘以漢說為源,漢以施、孟、梁邱、費氏等為源,而此諸子又以田氏為源,實以虞氏子乘、周氏子家、馯氏子弓、橋氏子庸、商氏子木為源也。疏導其源,冀使中無壅塞,流庶孔長云爾。時道光丁酉,白山滿洲舒穆祿氏多隆阿又序。

「原」とは、一には本原、一には推原である。漢儒の学にはそれぞれ本原があるということ、私は漢人の説に依拠してこの本原を推し求めるということである。「原」の字の古文は「厡」と作り、また「源」とも作り、本来は水の源を指す。私は漢人の説を源とし、漢人は施讐・孟喜・梁丘賀・費直らの諸家を源とし、その諸家はさらに田何を源とする。突き詰めれば、実に虞氏子乗・周氏子家・馯氏子弓・橋氏子庸・商氏子木という一脈の相承を源とする。この源流を疎導して、途中に壅塞がなく、流れが長く続くことを願うのみである。時は道光丁酉年(一八三七)、白山満洲の舒穆禄氏・多隆阿が再び序す。

易原巻一

慧珠閣原本,岫巖多隆阿雯溪。

本巻は慧珠閣の原刻本に拠る。撰者は岫岩の人・多隆阿、字は雯溪。

周易上経(一)

易者,移也。《大傳》所謂「變動不居,剛柔相易」是也。曰周者,其辭為文王所繫,兼以別夏商也。夏《易》曰《連山》,商《易》曰《歸藏》。

「易」とは移易変動のことで、《繋辞伝》(本書では《大伝》と称する)の言う「変動不居、剛柔相易」がまさにこれを説いている。「周」と称するのは、一つには卦爻辞が周の文王の系げたものであるため、一つには夏・商の二代の易書と区別するためである。夏代の易は《連山》、商代の易は《帰蔵》という。

乾卦

【乾下乾上,中互重乾】重乾,純卦。乾,元亨利貞。一奇畫陽數,伏羲畫三陽以名乾,又重之為六畫以成卦。八卦因而重之為六十四卦,兩合之卦各別有名,惟八純卦不易名,此卦以所重亦乾,故仍名乾,餘七純卦放此。

【下卦は乾、上卦は乾、中間の互体も重乾】本卦は乾の上に乾を重ねた「純卦」である。卦辞:乾、元亨利貞。切れ目のない一画の奇画は陽数を表す。伏羲は三つの陽爻を画いて「乾」と名づけ、さらにそれを重ねて六画として一卦を成した。八卦を二つずつ重ねると六十四卦となる。二つの異なる卦が合わさってできた卦にはそれぞれ別の名があるが、上下同体の八つの「純卦」だけは名を改めない。この卦は重ねたものも乾なので、依然として「乾」と名づける。残りの七つの純卦もこれに準ずる。

乾以下,文王所繫之辭也,名彖辭,又名卦辭。夏《易》首艮,商《易》首坤,惟《周易》始首乾。乾,天也。天德難名,而以難名者名之,則元始、亨通、利和、貞固四者,乃天德也。人君體乾以出治,元善長人,亨嘉合禮,利物和義,貞固幹事,天德咸備,人事自應,惟聖王乃克當此矣。

「乾」の字以下の「元亨利貞」は文王の系げた辞で、「彖辞」と称し、「卦辞」とも称する。夏代の《連山》は《艮》卦を首とし、商代の《帰蔵》は《坤》卦を首とし、《周易》だけが《乾》卦を首とする。乾とは天である。天徳は本来名づけがたいが、名づけがたいものをあえて名づけるなら、「元」は万物の始まり、「亨」は亨通、「利」は和順、「貞」は固守、この四つが天徳である。人君は乾道に体して治を出す。「元」をもって諸善の長となり万民を長養し、「亨」をもって嘉美を会聚して礼に合し、「利」をもって万物をそれぞれの宜しきに得させて義に合し、「貞」をもって正道を固守して事業を幹す。天徳が悉く備われば人事は自らこれに応じるが、これに当たり得るのは聖王のみである。

初九:潛龍勿用。此名爻辭,亦名象辭。初,始也。凡畫卦皆自下而上,下三爻曰內卦,上三爻曰外卦,下爻曰初。九,陽數。陽數九,陰數六。凡畫卦皆以三起數,三三為九,故陽數曰九;二三為六,故陰數曰六。《說卦傳》所謂「參天兩地而倚數」是也。

爻辞:初九、潜龍勿用。この種の文字は「爻辞」と呼ばれ、「象辞」とも呼ばれる。「初」は始まりである。卦を画くときはすべて下から上へ画き、下の三爻を「内卦」、上の三爻を「外卦」、最下の爻を「初」という。「九」は陽数の代称で、陽は九を用い、陰は六を用いる。卦を画くにはすべて三をもって数を起こし、三三が九となるので陽爻を「九」と称し、二三が六となるので陰爻を「六」と称する。《説卦伝》の言う「参天两地而倚数」がまさにこの理を説いている。

乾卦六爻皆陽,在十二闢卦為四月卦,四月純陽無陰,是陽在四月為極盛。然陽雖盛於四月,而陽之生則始於十一月,故於【於:乾】氏謂初九為十一月之時,九二為十二月之時,九三為正月之時,九四為二月之時,九五為三月之時,上九為四月之時也。

乾卦の六爻はすべて陽爻で、十二「辟卦」(消息卦)のうちでは四月の卦に属する。四月は純陽にして陰がなく、陽気は四月に極めて盛んであることが分かる。しかし陽は四月に最も盛んであっても、陽気の初生は十一月の冬至の一陽来復に始まる。だから干宝(原文は「于氏」と作るが、校記により「于」は「干」に作るべきとされる)は、初九は十一月、九二は十二月、九三は正月、九四は二月、九五は三月、上九は四月に相当すると考えた。

夫闢卦皆以陰陽消息為義,而乾卦則為以陽消陰。初僅消坤一陰,一陽生於五陰之下,猶之龍潛地下也。龍,乾象。《九家易》曰「乾為龍」,萬物莫神於龍,故以龍象乾。初則尚在坤地之下,故曰潛。蓋其時尚宜隱以休養其德,而未用於世耳。

辟卦はいずれも陰陽の消長を義とするが、乾卦は陽をもって陰を消することを説く。初九は《坤》の陰爻一つを消しただけで、一陽が五陰の下に生じたことになり、ちょうど龍が地底に潜むようなものである。龍は乾の取象で、《九家易》に「乾為龍」とある。万物のうち龍ほど神妙測りがたいものはないので、龍をもって乾を象徴する。初九はまだ坤地の下にいるので「潜」という。この時はまさに隠れて徳性を涵養すべきで、世に出て用いられる時ではないのである。

九二:見龍在田,利見大人。二則消坤二陰,已出乎潛,不在地下矣。地上為田,龍在田是龍見也。夫龍為君象,即大人;龍見即大人見。於【於:乾】氏曰:「陽氣將施,聖人將顯。」有此盛德,位雖未尊,而其德已足以化民,故利見之。

爻辞:九二、龍が田野に現れ、大人に見るに利あり。九二に至ると、陽は《坤》の陰爻二つを消し、龍は潜伏の境を脱して地下にいない。地面の上が「田」で、龍が田にいるとは龍が現れたということである。龍は君主の象、すなわち「大人」であり、龍の出現はすなわち大人の出現である。干宝は「陽気まさに施さんとし、聖人まさに顕れんとす」と言う。これほどの盛徳があれば、地位はまだ尊顕でなくとも、徳はすでに民を感化するに足る。だから「利見」というのである。

九三:君子終日乾乾,夕惕若厲,無咎。惕,懼也。厲,危也。於【於:乾】氏曰:「爻以氣表,繇以龍興,嫌其不關人事,故著君子焉。」君子雖秉天德,亦盡人事。位居兩乾之間,乾而又乾,惟恐內外或有間斷,其惕若也,蓋自朝至夕終日如是矣。日陽象,故乾象日。內卦已終,故曰終日。虞氏曰「坤為夕」,三消三陰,外坤全見,故曰夕。夫惕懼則必危厲,而進德修業,又何過之不補哉,故無咎。

爻辞:九三、君子は終日乾乾として、夕には惕れて危ぶむがごとく、咎なし。「惕」は戒惧、「厉」は危険である。干宝は「爻は節気をもって表し、繇辞は龍を借りて興を起こす。人事と関わりがないように見えるのを嫌い、あえて『君子』を点出した」と言う。君子は天徳を秉りながらも、人事の功も尽くさなければならない。九三は上下二つの乾体の間に位し、乾にまた乾を重ね、内卦と外卦の間に一絲の間断があることを恐れて、時時警惕し、朝から夕まで終日このごとくである。日は陽の象徴なので乾は日に取象する。内卦は九三で終わるので「終日」という。虞翻は「坤為夕」と言い、九三は三つの陰爻を消して外卦の坤象がすべて現れるので「夕」という。戒惧の心があるのは、必ず危疑の地に身を置くからである。徳を進め業を修めることを不断に続ければ、補えない過失があろうか。だから「无咎」――災いはないのである。

九四:或躍在淵,無咎。五為天位,四與五比,則近於天矣。然陽息至四,五、上兩爻猶為陰,陰水象,四居二陰之下,故曰在淵。淵者,下不離地而上可與天接,故《文言傳》曰「中不在人」也。四龍雖不在人,而尚未及於天,倘欲下離於淵,則不能不需夫躍。於【於:乾】氏曰:「躍者,暫起之言;或,疑辭。」審時而躍,不致躁進,故無咎。

爻辞:九四、あるいは躍り上がり、あるいはなお深淵にあって、咎なし。第五爻は天位で、九四は九五に比すれば、すでに天に近い。しかし陽気が第四爻まで生長した時点では、五・上の二爻はなお陰である。陰は水に取象し、九四はちょうど二つの陰爻の下にいるので「在淵」という。「淵」とは、下は地を離れず、上は天に接することができる位置なので、《文言伝》は「中不在人」と言う。九四の龍は人位にいないが、まだ天位にも及ばない。深淵を離れて上に行こうとすれば、「躍」に頼らざるを得ない。干宝は「躍とは、しばらく起き上がること、『或』は疑い定まらぬ語気」と言う。時機を審らかにしてから躍れば、躁進には至らず、だから咎はないのである。

九五:飛龍在天,利見大人。五為卦主,此乾天也,既有天德,又居天位,取象於龍,則已出淵而在天。蓋神化莫測,乘氣以上飛矣。陽動上升,故曰飛。盛德大業,萬物樂覩,見此大人,何利如之。

爻辞:九五、飛龍天に在り、大人に見るに利あり。第五爻は全卦の主爻で、まさに乾天の位にある。天徳を具えてかつ天位に居るので、龍に取象すれば、すでに深淵を出て天に昇ったことになる。龍の神妙な変化は測り知ることができず、気に乗って上に飛騰する。陽は動を主とし上昇するので「飛」という。このような盛徳大業があれば、万物は皆喜んで瞻仰する。このような大人に見ることができれば、これに勝る利があろうか。

上九:亢龍有悔。陽息至上,坤象不見,剛而無柔,此龍之亢者。王氏曰:「窮高曰亢,知進罔退,故有悔。」用九:見群龍無首,吉。乾六爻皆剛,至上則剛極而亢,欲用陽剛,則宜以柔濟之,有群龍無首之象。六爻皆陽,故象群龍;上位為首,以上亢為戒,不欲以剛見用,故曰無首。首為一身之陽,身動首必先之,龍無首則動不可見,是首藏也。蓋刃利先缺,弦急先絕,惟剛不過剛者乃得其平也,故吉。

爻辞:上九、高く飛びすぎた龍には悔いがある。陽気が上爻まで生長すると、坤の陰象は見えなくなり、純剛にして柔なし。これが龍の「亢」である。王弼は「高きを極めたを『亢』といい、進むを知って退くを知らぬがゆえに悔いあり」と言う。用九の爻辞:群龍が首を争わないのを見る、吉。乾卦の六爻はすべて剛爻で、上爻に至れば剛は極まって亢となる。陽剛を運用しようとすれば、柔をもって調節すべきで、そこに「群龍无首」の象がある。六爻が皆陽なので「群龍」に取象し、上爻の位置は「首」である。上九の亢を鑑戒として、ひたすら剛を用いようとはしないので「无首」という。首は一身の陽の集まるところで、身が動けば首は必ず先に動く。龍が首を露わさなければ、動きは見えようがない。これは「首」を蔵することである。刃は利すぎれば先に缺け、弦は急すぎれば先に絶える。剛でありながら剛に過ぎない者のみが平正を得るので、吉なのである。

彖曰:大哉乾元,萬物資始,乃統天。此為彖傳,孔子所作,以釋彖釋辭。《大傳》曰「彖者材也」,謂統論一卦之體材也。大哉,讚辭。元,始也。《九家易》曰「陽稱大」,六爻純陽,故曰大。乾者純陽,天之象。觀乾之始以知天德,惟天為大,惟乾則之,故曰大哉。元者,氣之始也,乾之元氣,萬物之初生皆資之,此一元為乾之本也。統,本也,故乾元曰統天。此釋乾元也。

《彖伝》に曰く、大いなるかな乾の元、万物はこれに資りて始まり、すなわち天を統べる、と。この篇は《彖伝》で、孔子の作りたるもの、彖辞・卦辞を解釈するためのものである。《繋辞伝》に「彖者材也」とあるのは、《彖伝》が一卦の体質材幹を総論することを言う。「大哉」は讃嘆の辞。「元」は始まりである。《九家易》に「陽称大」とあり、乾卦の六爻は純陽なので「大」と称する。乾は純陽で天の象であり、乾の始まりを観れば天徳を知ることができる。天は最も大きく、乾はまさに天に則るので「大哉」と言う。「元」は気の始まりであり、乾の元気は万物の初生が皆これに資るもので、この「一元」が乾の根本である。「統」は根本なので、乾元は「統天」と言う。この句は卦辞の「元」を解釈したものである。

雲行雨施,品物流形。萬物之資生惟天,天生之,天又有以養之。雲行雨施,澤溥無垠,則流動形見者生機蓋莫遏也。此釋乾亨也。大明終始,六位時成,時乘六龍以御天。有繼天之聖出,體乾四德之義,而大明夫貞之終統於元之始,則原始要終,終則有始,四德往來循環不息,而一卦之時位成焉。卦有六位,位各有時,六位皆陽,是為六龍。初、二、三、四、五、上為位,潛、見、惕、躍、飛、亢為時,位以時成,龍以時乘,御行天下,化馳若神,此聖與天合德之象也,蓋由元而亨也。

《彖伝》に曰く、雲行き雨施り、品物形を流す、と。万物が生ずるに資るのは天のみで、天はそれらを生じ、またそれらを養う方がある。雲行雨施、恩沢は普く辺際なく、そこで万物は流動して形を成し、生機を遏めるものはない。この句は卦辞の「亨」を解釈したものである。《彖伝》はまた言う、大明は終始し、六位は時に成り、時に六龍を乗じて天を御す、と。天道を継ぐ聖人が世に出て、乾徳の元亨利貞の義を体し、「貞」の終わりがまた「元」の始まりに統攝されることを大明して見る。そこで始まりを推原し終わりに要し、終わればまた始まる。四徳は往来して循環し息まず、一卦の時と位はこれによって成る。一卦には六つの爻位があり、各位にはそれぞれ応じる時がある。六位は皆陽爻、これが六龍である。初・二・三・四・五・上が「位」、潜・見・惕・躍・飛・亢が「時」である。位は時に随って成り、龍は時に随って乗じ、天道を御して天下に行い、教化の流布は神のごとく速い。これは聖人が天と徳を合わせる景象であり、まさに「元」から「亨」に進むことである。

乾道變化,各正性命,保合太和,乃利貞。乾道一陰陽也,陰陽變化莫測端倪。鄭氏曰:「先有蒨形漸漸改者謂之變,雖有蒨形忽改者謂之化。」凡物秉受太和之氣以為性命者,道皆有以保合之,使之各正以遂其生。此釋乾之利貞也。

《彖伝》に曰く、乾道変化して、各々其の性命を正しくし、太和を保合して、乃ち利貞なり、と。乾道とは一陰一陽であり、陰陽の変化には端倪を窺うことができない。鄭玄は「もと形迹があって漸々改まるを『変』といい、形迹がありながら忽ち改まるを『化』という」と言う。凡そ太和の気を禀受して性命を成す事物について、乾道は必ずこれを保全聚合する方があり、それらを各々正しく帰らせて生を遂げさせる。この句は卦辞の「利貞」を解釈したものである。

首出庶物,萬國咸寧。聖人體利貞以為天下王,則庶物康阜,粲乎隱隱,各得其所。象曰:天行健,君子以自強不息。此名大象,孔子所作,以釋一卦之象。天,乾之象;健,乾之德。行者,陽德主動,天體三百六十五度有奇,天一日一周,固健於行也。君子體乾象,自強如乾之健,不息如乾之行也。

《彖伝》に曰く、庶物に首出でて、万国咸く寧し、と。聖人が「利貞」の徳を体して天下の王となれば、庶物は康楽にして豊かになり、粲乎として隠隠と興り、各々其の所を得る。《大象伝》に曰く、天の行は健なり、君子以て自ら強め息まず、と。この段は「大象」と呼ばれ、孔子の作りたるもの、一卦の全体の象を解釈する。「天」は乾の取象、「健」は乾の徳性である。「行」とは、陽徳が動を主とすることを言う。天体の一周は三百六十五度余り、天は一日夜に一周するから、実に行に健である。君子は乾象に体し、乾のように剛健に自ら強め、乾のように运行して息まないのである。

潛龍勿用,陽在下也。此謂之小象,又名象傳,釋爻辭也。陽,龍也;下,潛也。見龍在田,德施普也。功雖未著,而德之及物已遠也。終日乾乾,反復道也。反覆乾道,無少間斷。或躍在淵,進無咎也。躍不遽躍,見可而進。飛龍在天,大人造也。鄭氏曰:「造,為也。」大人在位,所為乘時也。亢龍有悔,盈不可久也。天道虧盈,故不可久。用久,天德不可為首也。不可為首,無首乃宜。

《小象伝》に曰く、「潜龍勿用」は陽が下位にあるからである。これらは「小象」と呼ばれ、《象伝》とも呼ばれ、爻辞を解釈する。「陽」とは龍、「下」とは潜である。「見龍在田、徳施普也」――功業はまだ著しくなくとも、徳の物に及ぶことはすでに遠い。「終日乾乾、反復道也」――乾道を反復して行い、少しの間断もない。「或躍在淵、進无咎也」――躍んでも軽率には躍ばず、可行と見てから進む。「飛龍在天、大人造也」――鄭玄は「造とは、なすこと」と言う。大人が其の位に居り、すべての所作は時に乗じる。「亢龍有悔、盈不可久也」――天道は盈たるを損うので、長く保つことはできない。「用九、天徳不可為首也」(原文の「用久」は「用九」に作るべき)――先んじて首となろうとせず、「无首」こそ宜しいのである。

文言曰:元者善之長也,亨者嘉之會也,利者義之和也,貞者事之幹也。此名文言傳,孔子作之以繹文王之辭,故曰文言。元,始也,於時為春,萬物各得其性,故曰善之長。亨者,通也,於時為夏,萬物各成其形,故曰嘉之會。利者,和也,於時為秋,萬物各協其宜,故曰義之和。貞者,固也,於時為冬,萬物各歸其根,故曰事之幹。乾者,木之本,枝葉所倚也。此釋四德之體也。

《文言伝》に曰く、元とは善の長なり、亨とは嘉の会なり、利とは義の和なり、貞とは事の幹なり、と。この篇は《文言伝》と呼ばれ、孔子が文王の卦辞を演繹するため作ったので「文言」という。「元」は始まりで、四時では春に当たり、万物が各々其の本性を得るので「善之長」という。「亨」は通達で、四時では夏に当たり、万物が各々其の形体を成すので「嘉之会」という。「利」は和順で、四時では秋に当たり、万物が各々其の宜しきを協えるので「義之和」という。「貞」は堅固で、四時では冬に当たり、万物が各々其の根に帰り命を復すので「事之幹」という。「幹」とは樹木の主幹で、枝葉は皆これに倚って立つ。この段は元亨利貞の四徳の本体を解釈したものである。

君子體仁足以長人,嘉會足以合禮,利物足以和義,貞固足以幹事,君子行此四德者,故曰乾元亨利貞。元德為仁,惟仁可以統萬善;亨德為禮,惟禮可以合眾美;利德為義,物不得宜則乖而不和;貞德為智,事不有乾則散而難固。四德在天曰元亨利貞,四德在人曰仁義禮智,而不及信者,以信分寄仁義禮智中也。此釋四德之用也。此第一節申彖辭。

《文言伝》に曰く、君子は仁に体して以て人を長するに足り、嘉会にて以て礼に合するに足り、物を利して以て義を和するに足り、貞固にて以て事を幹するに足り、と。君子がこの四徳を行うので「乾、元亨利貞」と言う。「元」の徳は仁に当たり、仁のみが万善を統攝し得る。「亨」の徳は礼に当たり、礼のみが衆美を会合し得る。「利」の徳は義に当たり、物が其の宜を得なければ乖戻して和しない。「貞」の徳は智に当たり、事に主幹がなければ散乱して固めがたい。四徳は天において元亨利貞といい、人において仁義礼智という。ここで「信」を挙げないのは、信がすでに仁義礼智の中に分かれて寄託されているからである。この段は四徳の功用を解釈したものである。以上は第一節、彖辞を申述する。

初九曰:潛龍勿用,何謂也?子曰:龍德而隱者也。不易乎世,不成乎名,遯世無悶,不見世而無悶,樂則行之,憂則違之,確乎其不可拔,潛龍也。此釋初九爻辭也。易謂變易,不見是者,人不以隱為是也。鄭氏曰:「確,堅高之貌;拔,移也。」陽德至剛,剛則有守,變坤之初而居下位,不求人知,不為人譽。體為震,震為動,為喜笑,震動固可行也,然必樂而後行;前猶有五陰為坤,坤為亂,坤亂又宜違也,然必憂而始違。龍德之潛,用舍不失其守,其隱居有如此者。

《文言伝》に曰く、初九の爻辞「潜龍勿用」とは何を言うのか、と。孔子は言う、これは龍のごとき徳性を持ちながら隠居する人である。世俗のために己を変えず、名を成そうともせず、世を避けて隠れても煩悶せず、世に認められなくても煩悶せず、心の楽しむところはこれを行い、心の憂えるところはこれを避け、確乎として抜くべからざるもの、これが「潜龍」である。この段は初九の爻辞を解釈する。「易」は変易、「不見是」とは、世人が隠居を正しいと認めないことを言う。鄭玄は「確とは堅く高き貌、抜とは移ること」と言う。陽徳は至剛であり、剛であれば持守がある。初九は《坤》の初爻が変じて下位に居るので、人知を求めず、人誉を図らない。初爻が変動すれば震体となり、震は動を主とし、また喜笑とする。震動は本来行うべきであるが、必ず心が楽しんでから行う。その前にはなお五つの陰爻が坤を成し、坤は乱である。乱に遇えば本当は避けるべきだが、必ず心が憂えてから避ける。龍徳の潜む時、用いられても捨てられても其の守りを失わない。隠居の道はまさにこのごとしである。

九二曰:見龍在田,利見大人,何謂也?子曰:龍德而正中者也。庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,德博而化。《易》曰「見龍在田,利見大人」,君德也。此釋九二爻辭也。《九家易》曰「乾為言」,乾陽至健,陽為動物,故曰行。庸,常也。誠者,實心也。陽實陰虛,陽正陰邪,二變坤中存陽,誠實以防閒陰邪。善公諸世,德博及人,已足以君天下。虞氏曰「乾為善為德」,《說卦傳》曰「乾為君」,二位正中,故以君德歸之。

《文言伝》に曰く、九二の爻辞「見龍在田、利見大人」とは何を言うのか、と。孔子は言う、これは龍徳を持ちながら中に居り正を守る人である。平常の言葉には信実を講じ、平常の行いには謹慎を講じ、邪念を防いで誠心を存し、善行を世に及ぼしても自ら誇らず、徳は広くして人を化する。《易》の言う「見龍在田、利見大人」は、まさに君主の徳を言うのである。この段は九二の爻辞を解釈する。《九家易》に「乾為言」とあり、乾陽は至って剛健で、陽は動く物に属するので「行」と言う。「庸」は平常、「誠」は実在の心である。陽は実で陰は虚、陽は正で陰は邪。九二が変ずれば坤体となるが、坤の中になお陽爻を存するのは、誠実をもって陰邪を防ぐからである。善行を世に公にし、徳を広く人に及ぼせば、すでに天下に君たるに足る。虞翻は「乾為善為徳」と言い、《説卦伝》は「乾為君」と言う。九二はまた内卦の正中に居るので、「君徳」をこれに帰すのである。

九三曰:君子終日乾乾,夕惕若厲,無咎,何謂也?子曰:君子進德修業。忠信所以進德也,修辭立其誠所以居業也。知至至之,可與幾也;知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。此釋九三爻辭也。虞氏曰:「乾為德,坤為業。」乾陽前往以消坤陰,故曰進德;坤柔得陽以剛相濟,故曰修業。乾陽內實曰忠信,乾為言曰修辭,陽剛德健故誠曰立,陽性主動故曰至之,內卦已盡故曰終之,居內卦外卦之間故曰上位下位。蓋言三進德居業,不忘乾惕,所以無驕憂之咎,居上下而各得其所也。

《文言伝》に曰く、九三の爻辞「君子終日乾乾、夕惕若厲、无咎」とは何を言うのか、と。孔子は言う、君子は徳を進め業を修める。忠信は徳を進めるためのもの、言辞を修め誠意を立てるのは業を守るためのものである。到達すべき目標を知って努力して到達すれば、幾微の理を語ることができる。終結すべきところを知って期に終結すれば、道義を共に守ることができる。だから上位に居ても驕らず、下位に処っても憂えず、このゆえに終日勤勉し、時に随って警惕し、危境に処っても咎がない。この段は九三の爻辞を解釈する。虞翻は「乾為徳、坤為業」と言う。乾陽が前に進んで坤陰を消すので「進徳」といい、坤の柔が陽剛に剛をもって済わせるので「修業」という。乾陽は内に充実しているので「忠信」といい、乾は言葉なので「修辞」という。陽剛の徳性は剛健なので誠意を「立」と言い、陽性は動を主とするので「至之」といい、内卦は九三で尽きるので「終之」といい、九三は内卦と外卦の境に居るので「上位」「下位」の説がある。これは九三が徳を進め業を守って勤勉戒惧を忘れず、だから驕矜や憂惧の過失がなく、上に居ても下に居ても各々其の所を得ることを言うのである。

九四曰:或躍在淵,無咎,何謂也?子曰:上下無常,非為邪也;進退無恆,非離群也。君子進德修業,欲及時也,故無咎。此釋九四爻辭也。四居外卦之初,前息消坤,宜上不宜下,宜進不宜退,而乃無常無恆者,非為陰邪所惑,坤陰之群難離也。蓋進德修業,意在審時前往,不欲躁進耳。

《文言伝》に曰く、九四の爻辞「或躍在淵、无咎」とは何を言うのか、と。孔子は言う、上に行き下に行きて常なきは、邪僻の事を為さんとするのではない。進み退きて恒なきは、同類を離れんとするのではない。君子が徳を進め業を修めるのは、時機に及ばんと欲するからで、だから咎がない。この段は九四の爻辞を解釈する。九四は外卦の初めに居り、前に生長して坤陰を消し、本当は上るべきで下るべきではなく、進むべきで退くべきではない。それなのに上下に常なく進退に恒がないのは、陰邪に惑わされたのでもなく、坤陰の群を離れがたいのでもない。徳を進め業を修める意は、時機を審らかにしてから往こうとするにあり、躁進を欲しないだけである。

九五曰:飛龍在天,利見大人,何謂也?子曰:同聲相應,同氣相求,水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎,聖人作而萬物覩,本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。此釋九五爻辭也。陽息至五,則乾天得位,下有伏坤,有似天位乎上,地位於天之下然者。因是天地之間萬象昭著:震雷、巽風各以聲應,兌澤、艮山各以氣求,坎水流溼,離火就燥,且云生山澤之內以從乾龍,風助雷震之勢以從坤虎,莫不默然感通,交相契合。

《文言伝》に曰く、九五の爻辞「飛龍在天、利見大人」とは何を言うのか、と。孔子は言う、同じ声は互いに応和し、同じ気は互いに求め合う。水は低湿に流れ、火は乾燥に就く。雲は龍に従って生じ、風は虎に従って起こる。聖人が興れば万物は皆瞻仰する。天に本ずる者は上に親しみ、地に本ずる者は下に親しみ、各々其の類に従うのである。この段は九五の爻辞を解釈する。陽気が第五爻まで生長すれば、乾天は正位を得、下には坤体が伏して、天位が上にあり地位が天の下にあるような格局となる。このために天地の間の万象は昭然として著しい。震は雷、巽は風で、二者は声をもって応じる。兌は沢、艮は山で、二者は気をもって求める。坎水は低湿に流れ、離火は乾燥に就く。また雲は山沢の中に生じて乾龍に従い、風は雷震の勢いを助けて坤虎に従う。一つとして黙然として感通し、交り契合しないものはない。

虞氏曰:「乾為龍,雲生天故從龍也;坤為虎,風生地故從虎也。」是乾天坤地為六子所從出,而雷風山澤水火亦因以相應、相求、相流、相就者,感應天地,猶之聖王興起於上,制作文為,萬物樂覩。凡物之得乾氣者生俱親上,物之得坤氣者生俱親下,物雖不一,各以類從,故曰飛龍在天,利見大人也。

虞翻は言う、「乾為龍、雲は天に生ずるが故に龍に従う。坤為虎、風は地に生ずるが故に虎に従う」と。これを見れば乾天坤地は震・坎・艮・巽・離・兌の六子卦の出づる父母であり、雷・風・山・沢・水・火はこれによって応じ求め流れ就く関係を持つ。その感応は天地の感応である。これはちょうど聖王が上に興り、文物典章を創制すれば、万物が皆喜んで瞻仰するようなものである。凡そ乾気を禀けた物類は、生まれながらに皆上に親しみ、坤気を禀けた物類は、生まれながらに皆下に親しむ。万物は一様ではないが、各々類に随って相従する。だから「飛龍在天、利見大人」と言うのである。

上九曰:亢龍有悔,何謂也?子曰:貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。此釋上九爻辭也。位謂君位,處君之上故無位;陰為民,上九消坤已盡,純陽無陰,故無民;陽剛過亢,不能下賢,在下諸賢亦無為上輔者,故動有悔也。此第二節申爻辭。

《文言伝》に曰く、上九の爻辞「亢龍有悔」とは何を言うのか、と。孔子は言う、地位は尊貴でも実位がなく、高く立っても民衆がなく、賢人は下位にいて輔佐に来ない。だから一たび動けば悔いを招く。この段は上九の爻辞を解釈する。「位」とは君位で、上九は君位の上に処るので「无位」という。陰は民を表し、上九は坤陰を消し尽くして純陽無陰なので「无民」という。陽剛は亢に過ぎて、己を屈して賢に下ることができず、下にいる衆賢もその輔佐となる者がいない。だから動けば悔いがある。以上は第二節、爻辞を申述する。

潛龍勿用,下也。言在下未用。見龍在田,時舍也。舍,次也,言暫次於田也。終日乾乾,行事也。行謂進修,事謂德業。或躍在淵,自試也。欲用於世,自試以審之。飛龍在天,上治也。既在其位,平治天下。亢龍有悔,窮之災也。盛極衰伏。乾元用九,天下治也。用九曰乾元者,卦盡則反,貞下起元也。上治謂治天下,天下治謂天下已治。此第三節再申爻辭,以人事明之。

《文言伝》に曰く、「潜龍勿用」は下位にあるから――身が下位にあってまだ任用されないことを言う。「見龍在田、時舍也」――「舍」は止宿で、しばらく田間に駐留することを言う。「終日乾乾、行事也」――「行」は徳を進め身を修めること、「事」は徳行事業を言う。「或躍在淵、自試也」――世に用いられようとして、まず自ら試して時機を審らかにする。「飛龍在天、上治也」――すでに其の位に居れば、天下を平治する。「亢龍有悔、窮之災也」――盛んなのが極まれば、衰えはすでにその中に伏している。「乾元用九、天下治也」――用九を「乾元」と称するのは、一卦が尽きれば本原に返り、貞の終わりの後にまた元の始まりが起こるからである。「上治」とは天下を治めに行くこと、「天下治」とは天下がすでに治まったことを言う。以上は第三節、再び爻辞を申述し、人事をもって明らかにする。

潛龍勿用,陽氣潛藏。初生一陽,卦為復,建子之月,陽伏重陰之下,故曰潛。見龍在田,天下文明。二陽上見,卦為臨,建丑之月,陽出於地,萬物各含生意,故曰天下文明。雖不在位,然天下已被其化,文王以文德興周,周公以禮樂成周,雖居臣位而天下文明矣。終日乾乾,與時偕行。三陽已著,卦為泰,建寅之月,陽氣畢達,生息不已,行與時偕也。

《文言伝》に曰く、「潜龍勿用」は陽気がまだ潜蔵しているから――初めて一陽が生じた時、卦は《復》で、建子の十一月に当たり、陽気は重ねた陰の下に伏しているので「潜」という。「見龍在田、天下文明」――二陽が上に現れた時、卦は《臨》で、建丑の十二月に当たり、陽気は地面に出て、万物は各々生機を含み蓄えるので、天下に文采が明るいと言う。この時君位にはいないが、天下はすでにその化を受けている。文王は文徳をもって周を興し、周公は礼楽をもって周を成し、二人は臣位に居りながら、天下はすでに文明であった。「終日乾乾、与時偕行」――三陽がすでに著しい時、卦は《泰》で、建寅の正月に当たり、陽気は完全に通達して生息が止まず、その運行は天時と歩を一にする。

或躍在淵,乾道乃革。陽至四爻,卦為大壯,建卯之月,乾道內外更革之時。革,更革也,言萬物至此坼甲脫胎,有變化焉。飛龍在天,乃位乎天德。五陽得位,卦為夬,建辰之月,天下之物咸樂天德,承帝澤焉,惟有是德故居是位。亢龍有悔,與時偕極。上為純乾,建已之月,陽氣極盛也。與時偕行則無悔,偕極則窮,故有悔也。乾元用九,乃見天則。則,法也,陽濟以陰,萬物成實,天之法則也。此第四節重申爻辭,以天道明之。

《文言伝》に曰く、「或躍在淵、乾道乃革」――陽気が第四爻に至る時、卦は《大壮》で、建卯の二月に当たり、まさに乾道が内外卦の間で更革される時である。「革」は更改变革で、万物がここに至って殻を破り胎を脱し、変化が起こることを言う。「飛龍在天、乃位乎天徳」――五陽が位を得た時、卦は《夬》で、建辰の三月に当たり、天下の万物は皆天徳に欣び、帝の恩沢を承ける。このような徳があるからこそ、このような位に居るのである。「亢龍有悔、与時偕極」――上爻は純乾で、建巳の四月に当たり、陽気は盛んなのが極まる。時と偕に行えば悔いはないが、時と偕に極まれば窮まる。だから悔いがある。「乾元用九、乃見天則」――「則」は法度で、陽が陰をもって済され、万物が実を結んで成熟すること、これが天の法則である。以上は第四節、重ねて爻辞を申述し、天道をもって明らかにする。

乾元者,始而亨者也;利貞者,性情也。乾有四德,以體言之,由物之始以及物之終,莫不畢貫,至於性情胥見,則物成矣。乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉。至於四德之用,則更廣遠無垠,美利利物而不言利,蓋以利倘可名,則利狹矣。

《文言伝》に曰く、「乾元」とは、万物が始まって通達すること。「利貞」とは、万物の性と情である。乾には元亨利貞の四徳があり、本体から言えば、万物の始まりから万物の終わりに至るまで、貫かないところがない。万物の性情が悉く現れるに及んで、物は成るのである。《文言伝》はまた言う、乾は始めから美しき利をもって天下を利することができながら、自らの施す利を言わない。これはなんと偉大なことか。四徳の功用に至っては、さらに広遠にして辺際がない。美利を万物に施しながら「利」を口にしないのは、「利」がもし名ざしできるなら、その利は狭くなってしまうからである。

大哉乾乎,剛健中正,純粹精也;六爻發揮,旁通情也。以六爻之體言,惟九五為大。純粹,不雜也;精,密也;旁廣通達也。五以陽居陽位,不雜陰柔,故曰純粹;居中得正,不鄰邪曲,故曰精。其餘諸爻亦各有義,宜並五爻發揮之,推廣以盡其蘊也,蓋其體既大,其用亦廣。

《文言伝》に曰く、大いなるかな乾、剛健中正、純粋にして精なり。六爻発揮して、旁らに通ずる情なり、と。六爻の爻体から言えば、「大」に当たるのは九五だけである。「純粋」は雑らないこと、「精」は精密、「旁通」は広博通達である。九五は陽爻をもって陽位に居り、陰柔を雑えないので「純粋」という。中に居りて正を得、邪曲と隣り合わないので「精」という。その余の各爻もそれぞれ意味を持ち、九五と併せて発揮し、広げてその蘊奥を尽くすべきである。本体がすでに広大なら、功用も自ずと広いのである。

時乘六龍以御天也,雲行雨施,天下平也。六爻又有其用,蓋六爻即六龍也。龍以時興,乘之以御天下。龍之所託為雲,龍之所降為雨,雲行雨施,澤被萬物,無不得其所也。此第五節合彖辭爻辭體用而總贊之。

《文言伝》に曰く、時に六龍を乗じて天を御し、雲行き雨施れて、天下平らかなり、と。六爻にはまたそれぞれの用がある。六爻とはすなわち六龍である。龍は時に随って興り、聖人はこれに乗じて天下を御する。龍の托するところは雲、龍の降らすところは雨。雲行雨施、恩沢は万物に及び、得る所を得ない物はない。以上は第五節、彖辞と爻辞の体と用を合わせて総括して讃嘆したものである。

君子以成德為行,日可見之行也。潛之為言也,隱而未見,行而未成,是以君子弗用也。德修既成,然後可見諸行事以為世用,初行未成,故宜潛。曰君子弗用者,斯未能信而遽任重責,君子不如此也。

《文言伝》に曰く、君子は徳を成すことを以て行とし、日々に見るべき行なり。「潜」と言うのは、隠れてまだ見えず、行われてまだ成らないからで、これが君子の用いない所以である。徳の修養がすでに成ってから、初めて行事に現れて世に用いられる。初九の段階では行がまだ成っていないので、潜むべきである。「君子弗用」と言うのは、まだ人に信を取っていないのに急いで重任を担うようなことを、君子はしないからである。

君子學以聚之,問以辨之,寬以居之,仁以行之。《易》曰「見龍在田,利見大人」,君德也。君子之德有由成,則在學問寬仁數事。虞氏曰:陽在二,兌為口,震為言,為講論,坤為文,故學以聚之,問以辨之;震為寬,仁為行,謂居寬行仁,德博而化也。重言君德者,大人善世不伐,信有君德,後天而奉天時,故詳言之。

《文言伝》に曰く、君子は学を以てこれを聚め、問を以てこれを辨じ、寛を以てこれに居り、仁を以てこれを行う、と。《易》の言う「見龍在田、利見大人」は、君徳を言うのである。君子の徳の成り立つ由縁は、学・問・寛・仁の数事にある。虞翻は言う、陽爻が第二位にあり、二から四の互体は兌、兌は口。下卦は震、震は言語・講論。坤は文。だから「学以聚之、問以辨之」という。震にはまた寛厚の象があり、仁は行事に現れる。すなわち心を寛に居り、行いを仁にする。徳が広くて人を化するのである。ここで重ねて「君徳」と言うのは、大人が善行を世に及ぼして自ら誇らず、実に君徳を具え、天の後にあって天時を奉ずるから、特に詳しく申し述べるのである。

九三重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。三以陽居陽位曰重剛,上不及五,下已踰二,居可危之位,而乾惕以處之,此敬慎所以不敗也。

《文言伝》に曰く、九三は剛を重ねて中にあらず、上は天に在らず、下は田に在らず。故に乾乾として其の時に因りて惕れ、危うしといえども咎なし、と。九三は陽爻をもって陽位に居るので「重剛」という。上は九五に及ばず、下は九二をすでに踰え、危うきを招きやすい位に居りながら、勤勉戒惧の態度をもって処する。これが恭敬謹慎によって敗れない所以である。

九四重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故或之。或之者,疑之也,故無咎。四以上乾接下乾,亦曰重剛。三四人位,而曰中不在人者,以居三之上而與天相近也。值上下難定之際,而有所疑以審可否,則無躁進之咎矣。

《文言伝》に曰く、九四は剛を重ねて中にあらず、上は天に在らず、下は田に在らず、中は人に在らず。故に之を或とす。或とは疑うことで、故に咎なし、と。九四は上卦の乾が下卦の乾に接するので、これも「重剛」という。三・四の二爻は本来人位だが、ここで「中不在人」と言うのは、九四が九三の上に居り、すでに天位に近いからである。上下進退が決めがたい際に当たって、疑いを抱いて可否を審らかにすれば、躁進の咎はないのである。

夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶,先天而天弗違,後天而奉天時,天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?初則言潛,二則言見,三則言惕,四則言躍,而不言飛者,以初德未成,三四德成而未得中,二雖得中,二非君位。然則德位兼全者,其惟九五之大人乎。

《文言伝》に曰く、大人とは、天地と其の徳を合し、日月と其の明を合し、四時と其の序を合し、鬼神と其の吉凶を合する者である。天に先んじても天は違わず、天に後れては天時を奉ずる。天ですら違わないのに、いわんや人においてをや、いわんや鬼神においてをや、と。六爻のうち、初九は「潜」、九二は「見」、九三は「惕」、九四は「躍」と言い、「飛」と言わないのは、初九は徳が未成で、三・四の二爻は徳は成っても中位を得ておらず、九二は中位を得ても君位ではないからである。然らば徳と位を兼ね全うする者は、ただ九五のこの大人のみである。

夫大人者,據天德,履天位,以應天運。天之所覆者為地,天地之德即大人之德也;日月皆麗乎天,日月之明即大人之明也;天運一周,四時已備,四時之序即大人之序也;天分陰陽,陽為神,陰為鬼,神吉鬼凶,神鬼之吉凶即大人之吉凶也。

大人とは、天徳を拠りどころとし、天位を履み、天運に応じる者である。天の覆うものが地で、天地の徳はすなわち大人の徳である。日月は皆天に麗しく附いているので、日月の明はすなわち大人の明である。天運は一周して四時が備わるので、四時の序はすなわち大人の序である。天は陰陽に分かれ、陽は神、陰は鬼で、神は吉を主り鬼は凶を主る。鬼神の吉凶はすなわち大人の吉凶である。ここで合わせた地・日月・四時・鬼神は、すべて「天」から層層に推し出されたものである。だから大人は天地と徳を合わせると言うのである。

大人先天以出治,而天應大人,是天在大人之後,凡休徵祥應不違大人之治也;大人後天以出治,而大人承天,是大人在天之後,因節宣氣化以奉行天之時也。蓋大人即天也。人為日戴天而不知天之高者,鬼神乃天所使令者,人與鬼神不敢違天,豈敢違大人乎。

大人は天に先んじて治を出せば、天は大人に応じる。これは天が大人の後にあるということで、凡そ休徴・祥応は大人の治に違わない。大人が天に後れて治を出せば、大人は天を承ける。これは大人が天の後にあるということで、気化の運行を節宣して天の時を奉行するのである。要するに大人とは天そのものである。人は日々天を戴きながら天の高さを知らず、鬼神は天の使い令うところである。人と鬼神が天に違うことを敢えてしないのに、どうして大人に違うことを敢えてしようか。

亢之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。惟知進存得,不知退亡喪,此所以為亢也。其惟聖人乎,知進退存亡而不失其正者,其惟聖人乎。不失進退存亡之正,非聖人不能。重言以贊之,所以戒亢悔,以見群龍無首之吉也。此第六節言六爻進德之序,始言成德,終言達天,以見作聖之功備於易也。

《文言伝》に曰く、「亢」と言うのは、進むを知って退くを知らず、存するを知って亡ぶを知らず、得るを知って喪うを知らないことである。進・存・得のみを知って退・亡・喪を知らない、これが亢の所以である。あれはただ聖人のみか。進退存亡を知って其の正を失わない者は、ただ聖人のみか。進退存亡の正を失わないことは、聖人でなければできない。重ねて讃嘆するのは、「亢」がもたらす悔いを戒め、もって「群龍无首」の吉を見せるためである。以上は第六節、六爻の進徳の次第を言い、始めに徳を成すことを言い、終わりに天に達することを言う。聖人となる工夫が《易》に備わっていることがこれで分かる。

坤卦

【坤下坤上,中互重坤】重坤,純卦。坤,元亨,利牝馬之貞。君子有攸往,先迷後得主,利西南得朋,東北喪朋,安貞吉。一【一:□】偶書陰數,三偶名坤,卦為重坤,故仍名坤。坤卦為純陰,如乾卦之為純陽。然純陽不生,純陰不育,坤之生育萬物必資乎乾,猶乾之生育萬物必資乎坤也。故乾曰元亨利,坤亦曰元亨利,特坤之貞有異於乾。

【下卦は坤、上卦は坤、中間の互体も重坤】本卦は坤の上に坤を重ねた「純卦」である。卦辞:坤、元亨、牝馬の貞に利あり。君子往くところあれば、先んずれば迷い、後るれば主を得、西南に行けば朋を得、東北に行けば朋を喪う。安く貞なれば吉。切れた一画の偶画は陰数を表す(ここの校記は「一」の字に残欠があるかもしれないと指摘する)。三つの偶画を「坤」と名づけ、本卦は坤の上に坤を重ねるので、依然として「坤」と名づける。坤卦は純陰で、ちょうど乾卦の純陽であるようなものである。しかし純陽は生ぜず、純陰は育てず、坤が万物を生育するには必ず乾に資り、乾が万物を生育するにも坤に資るのと同じである。だから乾は「元亨利」と言い、坤も「元亨利」と言うが、ただ坤の「貞」は乾と異なる。

乾為馬,坤亦為馬,《九家易》曰「坤為牝」,則是坤馬為牝者,坤蓋以柔順為貞矣。夫既以柔順為貞,亦即以柔順為利。柔順何利?利於有往。而君子有攸往,則必審先後焉。凡有往不宜後,惟坤之往則獨宜後。坤為迷,坤先往則迷,為不得主,故迷。凡有往利於先,惟坤之往則不宜先,坤宜在後以讓陽,陽為陰主,坤後往則不迷而得主。

乾は馬に取象し、坤も馬に取象する。《九家易》に「坤為牝」とあるのを見れば、坤の馬は牝馬であり、坤は柔順をもって「貞」とするのである。柔順を貞とする以上、すなわち柔順を利ともする。柔順の利はどこにあるか。往くところあることに利がある。君子が往くところあれば、必ず先と後の分を審らかにしなければならない。一般に往くには後れるべきではないが、坤の往くに限っては独り後るべきである。坤には迷乱の象があり、坤が先んじて往けば迷う。主を得ないから「迷」というのである。一般に往くには先んずるのが利だが、坤の往くに限っては先んずべきではない。坤は後に居って陽に譲るべきで、陽は陰の主である。坤が後れて往けば迷わずに主を得る。

於是又辨得喪焉。凡同類者為朋,朋則不欲喪而欲得。坤位西南,南為離,西為兌,離兌為陰,是坤朋也,故往西南則得朋。而坤之對向為東北,位屬艮,東為震,北為坎,坎震皆陽,與坤不類,往之則朋已喪。當其得朋似愈於喪,然陰與陰比則得朋不得主,此先迷也,雖得無利也;及其喪朋似歉於得,然陰與陽合則得陽實為得主,此後得主也,雖喪轉利也。蓋陰以順為正,惟宜從主,不宜從朋,得主不得朋,乃攸往宜安貞之吉,吉以此也。

さらに「得朋」と「喪朋」を弁ずる。同類を「朋」と言い、朋類については、人は常に喪うを欲せず得るを欲する。坤の方位は西南で、南は離、西は兌、離と兌はいずれも陰に属し、まさに坤の朋類である。だから西南に往けば「得朋」である。坤の対向する方位は東北で、艮に属し、東は震、北は坎、坎と震はいずれも陽で、坤と類ではない。そこに往けば朋類は喪われる。表から見れば、得朋は喪朋に勝るように見える。しかし陰と陰が比すれば、朋類を得ても主を得られない。これが卦辞の言う「先迷」で、得ても利がない。逆に喪朋は得朋に及ばないように見える。しかし陰と陽が合すれば、陽を得ることは実は主を得ることである。これが卦辞の言う「後得主」で、喪うがかえって利となる。陰は順を正道とし、ただ主に従うべきで朋類に従うべきではない。主を得て朋を得ないことこそ、往くところあるとき安く貞なる吉であり、「安貞吉」の理はここにある。

彖曰:至哉坤元,萬物資生,乃順承天。此釋坤元也。資始以受氣言,資生以成形言,順承天道,坤元所以不曰大而曰至也,大則無不覆,至則無不載。坤厚載物,德合無疆,含弘光大,品物咸亨。蜀才曰:坤以廣厚之德載含萬物。天有無疆之德而坤合之,是以含容寬宏,光明博大,品物咸資以生生不息也。此釋坤亨也。

《彖伝》に曰く、至れるかな坤の元、万物はこれに資りて生じ、乃ち順にして天を承く、と。この句は坤の「元」を解釈する。「資始」は気を受けることについて言い、「資生」は形体を成すことについて言う。坤は天道を順承するので、坤元は「大」と言わず「至」と言う。「大」は覆わないものなく、「至」は載せないものがない。《彖伝》はまた言う、坤は厚く物を載せ、徳は无疆に合し、弘く含み光り大いにして、品物咸く亨る、と。蜀才は言う、坤は広厚の徳をもって万物を載せ含む、と。天に无疆の徳があって坤がこれに合するので、含容寛宏・光明博大となり、品物は皆これに資って生生して息まない。この句は坤の「亨」を解釈する。

牝馬地類,行地無疆,柔順利貞。君子攸行,先迷失道,後順得常,西南得朋,乃與類行;東北喪朋,乃終有慶;安貞之吉,行地無疆。御天者為龍,行地者為馬,馬為乾象,馬而曰牝,則為柔順之物,屬之坤矣。坤道無成,先陽則失生物之序,後陽則得從陽之義。得常者,言得主乃陰之常也。此釋坤利貞也。

《彖伝》に曰く、牝馬は地の類、地を行りて疆なく、柔順にして貞に利あり、と。君子の行くところ、先んずれば迷い道を失い、後るれば順にして常を得る。西南に往けば朋を得、乃ち類と与に行く。東北に往けば朋を喪い、乃ち終に慶あらん。安貞の吉は、地を行りて疆なきなり、と。天を御する者は龍、地を行る者は馬。馬は乾の取象だが、馬にして「牝」と言えば、柔順の物となり、坤に属する。坤道は自ら成さず、陽に先んずれば生物の序を失い、陽に後るれば陽に従う義を得る。「得常」とは、主を得ることこそ陰の常道だと言うのである。この句は坤の「利貞」を解釈する。

象曰:地勢坤,君子以厚德載物。地,坤象;勢,形勢也。天體動故曰行,坤體靜故曰勢。地勢博厚能載,君子以厚德載物,法地勢也。

《大象伝》に曰く、地の勢は坤なり、君子以て厚徳にて物を載す、と。「地」は坤の取象、「勢」は形勢である。天体は動いて止まないので乾の大象は「天行」と言い、坤体は静なので「地勢」と言う。地の勢は博厚にして載せ能くす。君子が厚徳をもって物を載せるのは、まさに地の勢に效法するのである。

初六:履霜,堅冰至。六,陰數。坤為十月卦,初為五月之時。《九家易》曰:此卦本乾,陰初消陽,起於此爻,故履霜也。霜,陰象。變乾初為巽,巽為股,履象。夫初為盛夏,陰氣尚微,然而極盛之陰即萌於一陰之至,君子防禍之原,所宜辨之於早也。象曰:履霜堅冰,陰始凝也,馴致其道,至堅冰也。陽散為雨露,陰凝為霜雪。馴,猶順也,言陽不預防,馴順陰性以致此也。

爻辞:初六、霜を履みて堅氷至る。「六」は陰数である。坤は十二消息卦のうち十月の卦で、初爻は五月に相当する。《九家易》は言う、この卦はもと乾で、陰気が陽を消し始めるのがこの爻から始まるので「履霜」という、と。霜は陰の取象である。乾の初爻が陰に変ずれば巽となり、巽は大腿で、履み踏む象がある。初六は真夏に当たり、陰気はなお微弱である。しかし極盛の陰はまさにこの一陰の至りから萌すのだから、君子が禍患の根源を防ぐには、兆し初めて現れた時に弁察すべきである。《小象伝》に曰く、霜を履んで堅氷の至るを知るは、陰が凝り始めること。この道に驯順に致れば、堅氷に至る、と。陽気は散じて雨露となり、陰気は凝って霜雪となる。「馴」とは順のことで、陽があらかじめ防備せず、一味に陰の性に順って発展すれば、この地に落ち着くというのである。

六二:直方大,不習無不利。二為卦主,時丁六月,順承天道以育萬物,備於此爻。乾直內含,坤方外見,乾坤合德則大,故曰直方大。習,重也。卦為重坤,而二居內卦之中,非重坤,故曰不習。然二以陰居陰位,猶乾五以陽居陽位。乾為天,故乾五曰在天;坤為地,故二曰地道。二得坤之正,雖不習而已協坤地之宜,無不利矣。

爻辞:六二、直く方にして大なり、習わずとも利あらざるなし。六二は全卦の主爻で、時は六月に当たり、天道を順承して万物を育てる義はこの一爻に備わる。乾の「直」は内に含蘊し、坤の「方」は外に現れる。乾坤が徳を合せば「大」となるので、「直方大」と言う。「習」は重複の意である。全卦は重坤だが、六二は内卦の中に居り、重複の位ではないので「不習」という。しかし六二は陰爻をもって陰位に居り、ちょうど乾卦の九五が陽爻をもって陽位に居るようなものである。乾は天なので乾九五は「在天」と言い、坤は地なので六二は「地道」と言う。六二は坤の正を得て、重習せずともすでに大地の宜に合しているので、利あらざるなしである。

象曰:六二之動,直以方也,不習無不利,地道光也。直方之象,坤體皆然,而陰惟動則息,動乃消陽,故直方之象於六二之動見之。於【於:乾】氏曰:陰氣在二,六月之時,陰出地上,佐陽成物,坤道至此,生物之候,品類燦然顯著地上。夫陽明陰晦,陰本無光,而得陽剛內蘊,光遂浮於地上,則陽之光皆地道之光,此坤利也。

《小象伝》に曰く、六二の動は、直にして方なり。習わずして利あらざるなきは、地道の光なり、と。直と方の象は坤体全体がそうだが、陰は動いて初めて生長し、動けば陽を消すので、直方の象は六二の「動」において初めて見える。干宝は言う、陰気が第二爻にあり、六月の時に当たり、陰気は地上に出て、陽気を佐けて物を成す。坤道はここに至って生物の候で、品類は燦然として地上に著しい、と。陽は明るく陰は晦く、陰は本来光がないが、陽剛が内に蘊えられているを得て、光は地上に浮かび上がる。然らば陽の光は皆地道の光となる。これが坤の「利」である。

六三:含章可貞,或從王事,無成有終。坤至於三,消乾三陽,下為純坤。坤為文,故云章;坤體中虛能受,故云含。以含容之德蘊其精華,時當七月,物漸成實,以雲可貞,誠哉可貞也。夫坤既象地而又象臣,地之承天猶臣之從王,如或勞於王事,不居成功,而必要終以盡臣職。三居全卦之半,故曰無成;三為內卦之終,故曰有終。此臣道也,即地道也,臣之代君成事,與地之代天成物一也。

爻辞:六三、章を含みて貞しき可し、あるいは王事に従い、成すことなく終わりあり。坤が第三爻まで消すと、乾の三つの陽爻を消し、下卦は純坤となる。坤には文采があるので「章」と言い、坤体は中が虚にして受け容れることができるので「含」という。含容の徳をもって自己の精華を蘊蔵し、時は七月に当たり、万物は漸次結実するので「可貞」という。まことに貞しき可しである。坤は地を象し、また臣を象する。地の天を承けるは、臣の王に従うがごとし。もし王事に労苦しても、成功を占めず、必ず始終を尽くして臣職を尽くす。六三は全卦六爻の半ばに居るので「无成」といい、六三はまた内卦の終わりなので「有終」という。これが為臣の道であり、すなわち大地の道である。臣が君に代わって事を成すことは、地が天に代わって物を成すことと同じ理である。

象曰:含章可貞,以時發也;或從王事,知光大也。含非終蘊,待時而發也;代君終事,不矜功勳,非闇昧淺狹者所能也。

《小象伝》に曰く、章を含みて貞しき可しとは、時を以て発するなり。あるいは王事に従うとは、知の光大なり、と。含むは終に蘊えて用いないことではなく、時を待ってから発するのである。君に代わって事を成し遂げながら功勲を誇らないのは、見識の昏く狭い者の能くするところではない。

六四:括囊,無咎無譽。坤爻至四,時為八月,陰氣漸盛,萬物漸衰,猶之天運丁否,賢人宜隱,如囊之括,不宜有所作為也。陰虛主受,象囊。《九家易》曰「坤為囊」。括,結也。因時制宜以補其過,故曰無咎;時不可為,功無由見,故曰無譽。象曰:括囊無咎,慎不害也。慎者,括囊也;不害,無咎也。

爻辞:六四、囊を括る、咎もなく誉れもなし。坤爻が第四位に至ると、時は八月で、陰気は漸く盛んになり万物は漸く衰える。ちょうど天運が《否》卦の閉塞の時に当たるようなもので、賢人は隠退すべきで、囊を括るがごとく、有所作為すべきではない。陰は虚にして受を主とするので、囊に取象する。《九家易》に「坤為囊」とある。「括」は結び締めることである。時に因って宜を制して己の過を補うことができるので「无咎」――災いはないと言い、時勢は有所作為を許さず功業の現れる由もないので「无誉」という。《小象伝》に曰く、囊を括りて咎なきは、慎んで害せられざるなり、と。慎むとは囊を括ること、害せられないとは咎がないことである。

六五:黃裳,元吉。《九家易》曰:坤為黃,為裳。黃,土色;裳,下飾。言坤消乾至於五爻,上陽猶存,故黃未及衣而祇在裳,此諸侯象也,故元吉。象曰:黃裳元吉,文在中也。《說卦傳》曰「坤為文」,色黃,故曰文。

爻辞:六五、黄裳、元吉。《九家易》は言う、坤は黄、裳である、と。黄は土の色、「裳」は下身の服飾である。これは坤が乾を消して第五爻に至るとき、上爻の陽がなお存するので、黄色はまだ上衣に及ばず下裳にのみ用いられるということで、これは諸侯の象、だから大吉である。《小象伝》に曰く、黄裳元吉とは、文が中に在るなり、と。《説卦伝》に「坤為文」とあり、その色は黄なので「文」と称する。

上六:龍戰于野,其血玄黃。上之卦候為十月,純陰用事,乾陽消盡,陰恃其盛以與陽爭,則於以有戰。主戰者陰,而轉雲龍戰者,言陰不可犯陽,猶之臣不可犯君。《九家易》曰「乾為龍」,《說卦傳》曰「戰乎乾」,則陽亦必能戰陰矣。乾位戌亥之交,故云野;坤為陰類,故云血。玄,天之色;黃,地之色。蓋陰陽相薄,必致兩傷,其血玄黃者,陰陽俱敗象也,則陰不能全勝乃若此。

爻辞:上六、龍野に戦い、其の血玄黄なり。上爻の卦候は十月で、純陰が事を用い、乾陽は消え尽くし、陰はその盛んなのを恃んで陽と争い、ここに「戦」がある。戦を主るのは陰だが、あえて「龍戦」と言うのは、陰が陽を犯すべからざるを明らかにするためで、臣が君を犯すべからざるがごとし。《九家易》に「乾為龍」とあり、《説卦伝》に「戦乎乾」とあるから、陽もまた必ず陰と戦うことができる。乾の方位は戌亥の交にあり、郊外に属するので「野」といい、坤は陰類なので「血」という。「玄」は天の色、「黄」は地の色である。陰陽が相薄れ相闘えば、必ず両敗俱傷に至る。血の色が玄黄相雑じるのは、まさに陰陽俱に敗れる象で、陰は終に全勝できず、かくのごとき結末に落ち着いたことが分かる。

象曰:龍戰于野,其道窮也。陰道窮於上,陽即復於下,陰未得長恃其盛也。用六:利永貞。六爻皆陰則柔極矣,用六宜濟以剛,猶之乾用九宜濟以柔也,故利永貞也。

《小象伝》に曰く、龍野に戦うは、其の道窮まるなり、と。陰道は上爻で窮まり、陽はすなわち下に復する。陰は長くその盛んなのを恃むことができない。用六の爻辞:永く貞に利あり。六爻が皆陰ならば柔は極まる。用六は剛をもって済すべきで、ちょうど乾の用九が柔をもって済すべきであるようなものである。だから「利永貞」という。

象曰:用六永貞,以大終也。三為內卦之終,故云有終;此為全卦之終,故云大終。乾坤二卦為易門戶,其餘六十二卦皆從此出。十闢卦互相往來,為諸卦之消息,則乾坤為闢卦之宗,於六爻中各藏闢卦消息。故他卦有往來,而乾坤二卦無往來,故繫用九用六兩爻以明之。乾曰龍無首者,無首則不前行,示無往也;坤曰利永貞者,永貞則止於其所,示無來也。此先儒所謂不易之易也。

《小象伝》に曰く、用六永貞とは、大終を以てすなり、と。六三は内卦の終わりなので「有終」と言い、これは全卦の終わりなので「大終」という。乾・坤の二卦は《易》の門戸で、その余の六十二卦は皆ここから出る。十の辟卦(消息卦)が互いに往来して、諸卦の消長を成す。乾坤は辟卦の宗主で、六爻の中に各々辟卦の消息を蔵している。だから他の卦には爻の往来があるが、乾坤の二卦には往来がない。そこでわざわざ「用九」「用六」の二爻の辞を系げてこれを明らかにする。乾が「群龍无首」と言うのは、首を争わなければ前に行かないこと、「往」がないことを示す。坤が「利永貞」と言うのは、永く貞であれば其の所に止まること、「来」がないことを示す。これが先儒の言う「不易之易」である。

文言曰:坤至柔而動也剛。此釋元亨利牝馬之貞也。至靜而德方。此釋君子有攸往先迷也,惟其至靜先往故迷。後得主而有常。此釋後得主也。含萬物而化光。此釋西南得朋也。光為離象,為坤之朋,離丁五月,坤丁六月,坤從離出,萬物蕃盛燦著也。蓋坎離得乾坤中氣,乾坤之用寄諸坎離,乾卦言云言雨者坎象也,坤卦言章言光者離象也。坤道其順乎,承天而時行。此釋東北喪朋也,喪其陰類,順以承陽也。此一節釋彖辭。

《文言伝》に曰く、坤は至柔にして動きや剛なり、と。この句は卦辞の「元亨、利牝馬之貞」を解釈する。《文言伝》に曰く、至静にして徳方なり、と。この句は卦辞の「君子有攸往、先迷」を解釈する。まさにその至静であるから、先んじて往けば迷うのである。《文言伝》に曰く、後に主を得て常あり、と。この句は「後得主」を解釈する。《文言伝》に曰く、万物を含みて化光なり、と。この句は「西南得朋」を解釈する。「光」は離の取象で、離は坤の朋類である。離は五月に当たり、坤は六月に当たる。坤は離に続いて出るので、万物は蕃盛して燦爛と著しい。坎・離は乾坤の中爻の気を得たもので、乾坤の用は坎離に寄託される。乾卦が雲・雨を言うのは坎の象、坤卦が章・光を言うのは離の象である。《文言伝》に曰く、坤道は其れ順なるかな、天を承けて時に行る、と。この句は「東北喪朋」を解釈する。己の陰類の朋を喪うことは、まさに順にして陽を承けることである。以上一節は彖辞を解釈する。

積善之家必有餘慶,積不善之家必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辨之不早辨也。《易》曰「履霜堅冰至」,蓋言順也。此釋初六爻辭也。乾為善,坤為惡;乾為君父,坤為臣子。初坤消乾,下乾不見,是為臣弒其君、子弒其父。當在四月原為純乾,既至五月一陰侵陽,初方失位,則是陰來有漸,非一朝夕。由於狎順不備,辨之不早,以至於此。夫子指之曰順,其戒深矣。

《文言伝》に曰く、善を積む家には必ず余りの慶があり、不善を積む家には必ず余りの殃がある。臣が其の君を弑し、子が其の父を弑するは、一朝一夕の故ではなく、その由り来るところは漸くして成る。弁ずべき時に早く弁じなかったからである。《易》の言う「履霜堅氷至」は、まさに勢いに順って発展することを言う。この段は初六の爻辞を解釈する。乾は善、坤は悪。乾は君・父、坤は臣・子。初六は坤をもって乾を消し、下卦の乾が見えなくなる。これが臣の君を弑し、子の父を弑する象である。もと四月は純乾の卦だったが、五月に至って一陰が陽に侵し、乾の初爻が初めて陽位を失った。陰の到来は漸進であって、一朝一夕ではないことが分かる。禍根は順い狎れて防備せず、弁ずるのが早くなかったことにあり、ここに至った。孔子が一言で「順」と指摘したのは、その戒めが深いからである。

直其正也,方其義也,君子敬以直內,義以方外,敬義立而德不孤。直方大,不習無不利,則不疑其所行也。此釋六二爻辭也。直者乾也,傳曰「其動也直」;方者坤也,《九家易》曰「坤為方」。六二消乾二陽,則是乾直內隱,坤方外著。直內則主敬,方外則合義,敬義既立,陰陽為偶,則德不孤,攸往咸利,行無所疑矣。

《文言伝》に曰く、「直」は其の正なり、「方」は其の義なり。君子は敬を以て内を直くし、義を以て外を方くす。敬義立って徳孤ならず。「直方大、不習无不利」とは、其の行うところを疑わざるなり、と。この段は六二の爻辞を解釈する。「直」は乾に属し、《繋辞伝》は乾を「其動也直」と言う。「方」は坤に属し、《九家易》は「坤為方」と言う。六二は乾の二つの陽爻を消したので、乾の「直」は内に隠れ、坤の「方」は外に著しい。内を直くすれば敬を主とし、外を方くすれば義に合する。敬義がすでに立ち、陰陽が偶を成せば、徳は孤ならず、往くところは皆利あり、行いに疑いはない。

陰雖有美,含之以從王事,弗敢成也。地道也,妻道也,臣道也。地道無成而代有終也。此釋六三爻辭也。陰道卑順,內含章美以從其上,不敢專擅。蓋卦爻至三,坤象全見,坤為地、為妻、為臣,備著於此,以彰坤德。宋氏曰:地得終天功,臣得終君事,婦得終夫業,故曰而代有終也。

《文言伝》に曰く、陰は美あるも、これを含みて以て王事に従い、敢えて成さざるなり。地道なり、妻道なり、臣道なり。地道は成すことなくして代わりて終わりあり、と。この段は六三の爻辞を解釈する。陰道は卑順で、章美を内に含んで其の上に従い、敢えて専擅しない。卦爻は第三位に至って坤象が全く現れ、坤は地・妻・臣で、これらの象はことごとくここに備わり、もって坤徳を彰かにする。宋衷は言う、地は天の功を終え、臣は君の事を終え、婦は夫の業を終えることを得る。だから「代有終」と言う、と。

天地變化,草木蕃;天地閉,賢人隱。《易》曰「括囊無咎無譽」,蓋言謹也。此釋六四爻辭也。坤陰息陽,乾下變陰,初變為巽,巽為草木,是乾天坤地變化之時,則見草木之蕃生也。至陰息至四,下坤全著,上乾亦變,是為天地閉塞,陰盛陽衰,陽為君子稱賢人,則賢人退隱矣。此《易》所以象取括囊以致謹也。

《文言伝》に曰く、天地変化すれば草木蕃れ、天地閉じれば賢人隠る、と。《易》の言う「括囊无咎无誉」は、まさに謹慎を言うのである。この段は六四の爻辞を解釈する。坤陰が息んで陽を消し、乾の下爻が陰に変じ、初爻が一変すれば巽となる。巽は草木で、これはまさに乾天坤地が交感変化する時、だから草木の蕃生が見られる。陰が第四爻まで息むに至ると、下卦の坤は全く著しく、上卦の乾もまた変じ始める。これが天地閉塞・陰盛陽衰である。陽は君子を表し、いわゆる賢人である。そこで賢人は退隠する。これが《易》が「囊を括る」を象に取って謹慎を致す所以である。

君子黃中通理,正位居體,美在其中,而暢於四支,發於事業,美之至也。此釋五六爻辭也。當五陽未消之時,則五為巽,巽為股;至五陽已消之後,則五又為艮,艮為手。巽股艮手,合之為四肢。虞氏曰「坤為事為業」,是君子居中正位,美善著於一身,見之行事,故元吉。乾坤皆闢卦,乾為陽消陰卦,故爻中多美辭;坤為陰消陽卦,故爻中多戒辭。而坤之二五爻曰吉【吉:曰】吉利者,以得坤中見坤德也。

《文言伝》に曰く、君子は黄中にして理に通じ、正位に居りて体に居り、美其の中に在りて、四支に暢び、事業に発す。美の至りなり、と。この段は六五の爻辞を解釈する。第五爻の陽がまだ消されない時、第五位は巽で、巽は大腿である。第五爻の陽がすでに消された後、第五位はまた艮で、艮は手である。巽の腿に艮の手、合わせて四肢となる。虞翻は「坤為事為業」と言う。これを見れば君子は中正の位に居り、美善が一身に著われ、行事に現れるので、大吉である。乾・坤はともに辟卦である。乾は陽をもって陰を消す卦なので爻辞に美辞が多く、坤は陰をもって陽を消す卦なので爻辞に戒辞が多い。坤卦の二・五の両爻が「吉」「利」と言うのは、坤の中位を得て坤徳を現すからである。

陰疑於陽必戰,為其嫌於無陽也,故稱龍焉;猶未離其類也,故稱血焉。夫玄黃者,天地之雜也,天玄而地黃。此釋上六爻辭也。極盛之陰以戰將盡之陽,而猶玄黃雜見,不能全勝,由其悖逆不順,天不福之。古今乾名犯分之輩,不遭凶禍而得以吉終者有幾人哉!聖人著之,以為萬世亂臣賊子戒。此一節釋爻辭。

《文言伝》に曰く、陰は陽に疑われて必ず戦う。其の陽なきに嫌われるを恐れるが故に、故に龍と称する。なお其の類を離れざるが故に、故に血と称する。玄黄とは、天地の雑なり。天は玄にして地は黄なり、と。この段は上六の爻辞を解釈する。極盛の陰をもって消え尽きんとする陽と戦いながら、なお玄黄が雑じり見えて全勝できないのは、陰が悖逆して順わず、天が福を降さないからである。古今、名を干し分を犯す輩のうち、凶禍に遭わずして吉く終わることを得た者が何人あろうか。聖人がこの一層を爻辞に著したのは、万世の乱臣賊子の戒めとするためである。以上一節は爻辞を解釈する。

易原巻二

慧珠閣原本,岫巖多隆阿雯溪。

本巻は慧珠閣の原刻本に拠る。撰者は岫岩の人・多隆阿、字は雯溪。

周易上経(二)

屯卦

【震下坎上,中互艮坤】臨:屯為二陽四陰卦,自臨來,二往升五,五來降二。蓋臨為重畫之震,震為長子,為諸侯,故卦辭曰建侯。虞氏謂坎二之初,以六子為卦母,推之他卦多未合也。

【下卦は震、上卦は坎、中間の互体は艮と坤】本卦は《臨》卦から変じて来た。《屯》は二陽四陰の卦で、《臨》卦から変じ、《臨》の九二が第五位に昇り、六五が第二位に降りた。《臨》卦は震卦の爻画を倍加して成るもので、震は長子・諸侯である。だから《屯》の卦辞は「利建侯」と言う。虞翻は《屯》は坎卦の第二爻が初位に移って成ると主張したが、それは震・坎・艮・巽・離・兌の六子卦を生卦の母とする考えで、この法で他の卦を推すと多くは合わない。

屯,元亨利貞,勿用有攸往,利建侯。一陽居二陰之下曰震,一陽居二陰之中曰坎,坎上震下,卦名屯。時當屯會,治之可得大亨,而又利於正。蓋屯不易治,前往多艱,惟封建諸侯以分任之,則得濟屯之道矣。

卦辞:屯、元亨利貞、用いて往くところある勿れ、侯を建てるに利あり。一つの陽爻が二つの陰爻の下に居るを「震」といい、一つの陽爻が二つの陰爻の中に居るを「坎」という。坎が上、震が下で、卦名は「屯」。時はまさに屯難に遭う。治め方を得れば大いに亨通することができ、しかも正を守るに利がある。屯難はもとより治めがたく、軽々に往けば艱難が多い。ただ諸侯を封建して治理の責を分担させることによってのみ、屯難を済す道を得るのである。

彖曰:屯,剛柔始交而難生,動乎險中,大亨貞。雷雨之動滿盈,天造草昧,宜建侯而不寧。卦之所以名屯者,以屯者難也。坤與乾交,得乾之初而為震;再交,得乾之中而為坎。震之德,動也;坎之德,陷也。一陽甫動即陷陰中,是為剛柔始交而難生。比之物生初動,忽遇險阻,勾者不能畢生,萌者不能盡達,如屯字從□貫地,屈曲之也,故曰難也。

《彖伝》に曰く、屯とは、剛柔始めて交わりて難生ず。険中に動きて、大いに亨り貞なり。雷雨の動は満盈し、天の造は草昧なり。宜しく侯を建てて寧ならざるべし、と。卦が「屯」と名づけられたのは、「屯」が難だからである。坤が乾と交わり、乾の初爻を得て震となる。再び交わり、乾の中爻を得て坎となる。震の徳は動、坎の徳は陥。一つの陽爻が動き始めるや否や陰の中に陥る。これが「剛柔始交而難生」である。万物の初生に譬えれば、ちょうど萌動したところで忽ち険阻に遇い、曲がった芽は生い成ることができず、初萌の苗は通達できない。「屯」の字は草の芽が地を貫いて出る(ここで源文に一字の欠あり)に従い、屈曲して伸びがたい。だから「難」と言うのである。

顧時既遇屯,即不宜坐安於屯。震得乾元之氣,陽德主動,可致大亨;然動逢坎險,濟難宜有其方,故利貞正。蓋當重陰冱寒之候,萬物歸根,忽遇陽春,震雷坎雨盈滿天地,勾萌甲坼,屯難有於以頓解者。

ただし時がすでに屯難に遭ったからには、屯難の中に坐して安んじているべきではない。震は乾元の気を得て、陽徳は動を主とするので、大亨を致すことができる。しかし動けば坎の険に逢うので、難を済すには方法があるべきで、だから貞正に利ありと言う。これはちょうど重ねた陰気が凍てつく寒さの候に、万物が皆根に帰って蔵れているところへ、忽ち陽春に遇い、震雷・坎雨が天地に満ち溢れ、曲がった芽が伸び、包んだ甲殻が裂けて、屯難が頓に解かれることのあり得るようなものである。

然雷雨能解屯難,而雷雨又未能遽行。震雷在上,坎雨在下,則卦名解,始得為之雷雨作;若夫坎在震上,坎雨之降尚宜得時,是坎不得遽以雨名也,坎祗為雲,故大象曰雲雷屯。

しかし雷雨は屯難を解くことができるが、この時の雷雨はまたすぐには降ることができない。震雷が上で坎雨が下なら、卦名は《解》で、初めて「雷雨作」と言い得る。《屯》卦は坎が震の上にあり、坎の雨が降るにはなお時を得るべきで、だからここの坎は急いで「雨」と呼ぶことはできず、坎はただ「雲」に数えるのみである。だから《大象伝》は「雲雷、屯」と言う。

此如國家新造,草創初基,冥昧未啟,尚待經畫,宜有承乾出震應運而與之人,掃除屯難,拮据勤勞,不遑寧處。震為長子,為雷,長子主器,雷震百里,故曰建侯也;坎為勞卦,故曰不寧也。

これはちょうど国家が新たに造られ、基業が草創したばかりで、冥昧がまだ啓かれず、なお経画を待っているようなものである。まさに乾道を承け震位から起こり運に応じて生まれた人がいて、屯難を掃除し、拮据して勤労し、寧処する遑もないべきである。震は長子・雷で、長子は宗廟の祭器を主り、雷は百里を震動させる。だから《彖伝》は「建侯」と言う。坎は労苦の卦なので、「不寧」と言う。

象曰:雲雷屯,君子以經綸。坎為水,變水言云,是雨尚未降,屯之象也。君子體此象,欲以展其經綸,解除屯難也。經綸猶經緯,地東西為緯,南北為經,震東坎北,陰陽錯雜如經緯然。

《大象伝》に曰く、雲雷は屯なり、君子以て経綸す、と。坎は本来水だが、ここでは水と言わず雲と言う。雨がまだ降っていない、まさに屯難の象である。君子はこの象を体して、己の天下を経綸する才幹を展び、屯難を解除しようとする。「経綸」は織物の経緯のごとし。地は東西を緯、南北を経とする。震は東にあり、坎は北にあり、陰陽が錯雑して経緯が織り交ぜたようなものである。

初九:盤桓,利居貞,利建侯。陽剛有才,可以濟屯。初以陽剛居陽位,震動於下,宜健於行,而乃曰盤桓者,以屯故也。荀氏曰:「盤桓者,動而退也。」夫時既為屯,則即當力拯其屯。初為卦主,又為震主,震為長子,為諸侯,此為繼天出治者。雷出於地,震驚百里,萬物困蘇,何難不解。然欲濟屯運,不可無所事,固宜有為而因時制宜,不可躁妄;又須有守,必居貞而始利,責任不易負荷也,此所以盤桓而不遽進也。

爻辞:初九、磐桓、居貞に利あり、侯を建てるに利あり。初九は陽剛にして才があり、屯難を済すことができる。陽剛をもって陽位に居り、震体が下にあって動を主とするので、本来は行に健であるべきだが、「磐桓」と言うのは、屯難に身を置くからである。荀爽は「磐桓とは、動こうとして退くこと」と言う。時がすでに屯難なら、まさに力を尽くしてその屯を救うべきである。初九は全卦の主爻であり、また震卦の主爻でもある。震は長子・諸侯で、これは天命を継いで出て世を治める者である。雷は地から出て百里を震動させ、困憊した万物が蘇生する。解けない屯難があろうか。しかし屯難の時運を済わんと欲すれば、為すところがなくてはならない。固より有所作為すべきだが、時に因って宜を制し、躁妄してはならない。また守るところがなければならず、必ず居貞して初めて利がある。この責任は荷なうがたいからである。これが磐桓して急いで進まない所以である。

象曰:雖盤桓,志行正也;以貴下賤,大得民也。初位在下,震侯居之,是謂以貴下賤。出為震主,動而前往,以濟坎難,坎為眾,民象,震得坎眾,是為得民。

《小象伝》に曰く、磐桓といえども、志は正を行うなり。貴を以て賤に下るは、大いに民を得るなり、と。初爻の位は最下にあり、震の象する諸侯がここに居る。これが「以貴下賤」である。出て震卦の主となり、動いて前に往き、坎の険難を済す。坎は衆で、まさに民衆の象。震が坎の衆庶を得る、これが得民である。

六二:屯如邅如,乘馬班如,匪寇婚媾,女子貞不字,十年乃字。馬氏曰:「邅如,難行之貌。」班,班旋不進也。虞氏曰:「匪,非也;字,妊娠也。」時值屯難,惟有陽剛之才乃克勝任。二為陰柔,又居陰位,邅如固宜。而二又鄰於初,初為震主,《說卦傳》曰「震於馬也,為善鳴」,是初為馬,二乘之。夫坎難在前,惟能前往乃出險陷,而班如不進,屯何由解?

爻辞:六二、屯如邅如、馬に乗りて班如、寇に非ず婚媾なり、女子貞にして字せず、十年にして乃ち字す。馬融は「邅如とは、行き難い貌」と言う。「班」は盤旋して進まないこと。虞翻は「匪とは非、字とは妊娠」と言う。時に屯難に遭い、ただ陽剛の才のみが勝任し得る。六二は陰柔で、また陰位に居るので、邅如たるはもとより当然である。しかも六二は初九に隣接し、初九は震卦の主である。《説卦伝》に「震於馬也為善鳴」とあるのを見れば、初九は馬で、六二はその上に乗っている。坎の険難は目の前にあり、ただ前に往くのみが険陥を脱し得るのに、班如として進まなければ、屯難はどうやって解けよう。

顧二之所乘為初,而正應實為五。二為陰,五為陽,二自臨之五來,二五陰陽互易,有婚媾象。欲去屯難,是宜舍初以求五。雖居坎中,坎為盜,有似乎寇,而實為正應,實為以陰配陽,乃婚媾也。夫二與五應為夫婦,而二至四又為互坤,坤為腹,坎為血,坎血在腹,有似孕字。第屯難之時貴乎居貞,歷坤陰已盡,始見九五,則十年矣。十,陰數,傳曰「地十」,虞氏曰「坤為十年」。待字十年,不為不久,然未及十年,尚宜守貞,此屯之至也。

ただし六二の乗っているのは初九だが、それと正しく応じているのは実は九五である。六二は陰、九五は陽。六二はもと《臨》卦の九五から降りて来たもので、二と五とが陰陽互いに位置を易えたので、婚配の象がある。屯難を除こうと欲すれば、初九を捨てて九五を求めるべきである。九五は坎体の中に居り、坎は盗なので、見たところ寇のようだが、実は六二の正応で、陰をもって陽に配する、まさに婚媾である。六二と九五の応は本来夫婦である。しかも二から四は互体して坤を成し、坤は腹、坎は血。坎の血が腹の中にあるのは、妊娠の象に似ている。ただ屯難の時は居貞を貴ぶ。坤の陰爻が尽きるのを待って初めて九五に見える。それはすなわち十年である。十は陰数で、《繋辞伝》に「地十」とあり、虞翻は「坤為十年」と言う。嫁ぐのを十年待つのは、久しくないとは言えない。しかし十年に満たなければ、なお貞を守るべきである。これが屯難の極まった姿である。

象曰:六二之難,乘剛也;十年乃字,反常也。初為陽剛,六二乘之,陰乘陽則危,故曰難。反常,言反歸常道,遇五正應,出坎險也。六三:即鹿無虞,惟入于林中,君子幾不如舍,往吝。即,就也。鹿,野獸名。虞,虞人,掌鳥獸之官。吝,疵也。屯象草木始萌,萬物始生,不宜田獵。虞氏曰「震為麋鹿」,雖震之鹿可以獵,而出田非時,虞人不至。外卦為坎,《九家易》曰「坎為叢棘」,象林。即鹿者驅而入之,君子獨能見幾舍置以去。蓋三當震終互艮之首,震動之極,艮忽止之,《說卦傳》曰「震,動也;艮,止也」。總由屯難未解,往有小疵耳。

《小象伝》に曰く、六二の難は、剛に乗ればなり。十年にして乃ち字するは、常に反るなり、と。初九は陽剛で、六二はその上に乗る。陰が陽を乗り越えれば危険なので「難」という。「反常」とは常道に帰ること、九五という正応に遇い、坎の険陥を脱することを言う。爻辞:六三、鹿に即くも虞なく、ただ林中に入る。君子は幾に見るに舍るに如かず、往けば吝なり。「即」は近づき追うこと。「鹿」は野獣の名。「虞」は虞人、鳥獣を掌る官。「吝」は小さな瑕である。屯の卦象は草木が初めて萌え万物が初めて生ずる時で、田猟に宜しくない。虞翻は「震為麋鹿」と言う。震には鹿があって猟はできるが、出猟が時に合わず、虞人が来ない。外卦は坎で、《九家易》は「坎為叢棘」と言い、まさに樹林を象る。鹿を追う者は鹿を林中に駆り入れてしまうが、君子だけは幾を見て舍て置いて去ることができる。六三はまさに震体の終わり・互体艮の始めに当たる。震の動は極まり、艮が忽ちこれを止める。《説卦伝》に「震、動也、艮、止也」とある。要するに屯難がまだ解けず、往けば小さな瑕を招くのみである。

象曰:即鹿無虞,以從禽也;君子舍之,往吝窮也。禽,鳥獸之總名,從禽即鹿也。窮,困也,不肯舍之前往,致困,有吝疵也。六四:乘馬班如,求婚媾,往吉無不利。四與初應,初震之馬,四欲乘之,故亦班如而不進。然屯難方興,欲治屯者非一二人克勝其任。四為臣位,擇主有為,如舊婚媾,以此前往,有何不利。四比五陽,故曰婚媾;自下之上曰往。言四近於五,陰陽匹配,易於會合,不似二之應五中有所隔,必待十年之久方能相濟。四上往以求之,五用賢輔,亦樂得之。蓋應初則屯不解,故班如;比五則屯可濟,故利。

《小象伝》に曰く、鹿に即きて虞なきは、以て禽に従うなり。君子之を舍るは、往けば吝にして窮まるなり、と。「禽」は鳥獣の総称で、禽に従うとは鹿を追うことである。「窮」は困窮で、舍てることを肯んぜず前に往き、困窮を致し、小さな瑕がある。爻辞:六四、馬に乗りて班如、婚媾を求む。往けば吉にして利あらざるなし。六四は初九に応じ、初九は震卦の馬で、六四はそれに乗ろうとするので、やはり班如として進まない。しかし屯難はまさに興りつつあり、屯難を治めようとするには、一二人ではその任に堪えない。六四は臣位に処り、明主を選んで有所作為するのは、旧来の婚姻の約のごとし。これをもって前に往けば、何の不利があろうか。六四は九五の陽爻に比するので「婚媾」といい、下から上に行くを「往」という。これは六四が九五に近く、陰陽がまさに匹配して会合しやすく、六二が九五に応ずるように中に隔たる爻があって、十年の久しきを待たなければ相互に済し得ないのとは違うことを言う。六四が上に往って九五を求めれば、九五が賢才を用い輔佐としようとするのも、喜んで受け容れる。要するに六四が初九に応じに行けば屯難は解けないので「班如」といい、九五に親比すれば屯難は済せるので利があるのである。

象曰:求而往,明也。求君前往,是明於擇主者,蓋陽明陰晦,陰求陽明,故曰明也。九五:屯其膏,小貞吉,大貞凶。虞氏曰「坎雨稱膏」,《詩》云「陰雨膏之」。五為坎中,又與臨卦九二對易,以臨之兌澤易為屯之坎水,是屯其膏也。夫五為君,初為侯,既已建侯使侯治之,五祇宜定其殿最,優以爵賞,令侯各安其位,各子其民,則屯治矣。縱或恐有濫賞,不欲輕於錫予,固守其膏,是為小貞;能小貞則猶愛惜名器,獎勵人才,尚可云吉。若夫私其土田,澤不下逮,則功罪不分,諸侯攜貳,屯愈甚焉,大貞凶矣。

《小象伝》に曰く、求めて往くは、明なり、と。明君を求めて往くのは、まさに主を択ぶに明るい者である。陽は明るく陰は晦いので、陰が陽の明を求める。だから「明」と言う。爻辞:九五、其の膏を屯し、小さき貞は吉、大いなる貞は凶。虞翻は「坎の雨を膏と称す」と言い、《詩経》に「陰雨これを膏す」の句がある。九五は坎体の中にあり、また《臨》卦の九二と位置を互いに易えた。《臨》の兌沢を《屯》の坎水に換えた、これが「屯其膏」――膏沢を屯め置くことである。九五は君、初九は侯である。すでに諸侯を封建して分かれて治めさせた以上、君主はただその治績の殿最を定め、爵賞をもって優遇し、諸侯に各々其の位に安んじ各々其の民を子とせしめれば、屯難は治まる。たとえ賞が濫れることを恐れて軽々と錫与せず、その膏を固く守るとしても、これは「小貞」である。小貞ができれば、なお名器を愛惜し人材を奨励するものと言え、まだ吉と言い得る。もし土田財賦を私にして、恩沢が下に及ばなければ、功罪が分かれず、諸侯は離心して、屯難はいよいよ甚だしくなる。だから「大貞凶」である。

象曰:屯其膏,施未光也。虞氏曰:陽陷陰中,坎反離,光也。此言膏不宜屯而宜施也。上六:乘馬班如,泣血漣如。二乘初陽,四應初陽,上乘五陽,故皆曰乘馬;乘陽則危,而在屯會,故皆曰班如。五為坎中,《說卦傳》曰「坎於馬也,為美脊」,是坎亦馬也。卦位將終而欲退據五陽,陰柔無才,班如固宜。不知屯難之極宜漸解散,泣淚成血,至於漣如。漣,水波瀾也,坎為水,故曰漣。《九家易》曰:體坎為血,伏離為目,互艮為手,掩目流血,泣之象也。象曰:泣血漣如,何可長也。言屯極宜解,何可長屯也。

《小象伝》に曰く、其の膏を屯するは、施し未だ光ならざるなり、と。虞翻は言う、陽が陰の中に陥る、坎を反せば離で、離は光である、と。これは膏沢は屯むべきでなく施すべきだと言うのである。爻辞:上六、馬に乗りて班如、血を泣いて漣如たり。六二は初九の陽爻に乗り、六四は初九の陽爻に応じ、上六は九五の陽爻に乗る。だから皆「乗馬」と言う。陰が陽を乗り越えれば危険で、しかも屯難の時にあるので、皆「班如」と言う。九五は坎体の中にあり、《説卦伝》に「坎於馬也為美脊」とあるので、坎もまた馬である。上六は全卦の終わらんとする位に居りながら、退いて九五の陽爻に拠ろうとする。陰柔にして才なく、班如たるはもとより当然である。屯難が極まれば漸く解散すべきを知らず、ただ泣いて涙が血となり、漣如と止まないに至る。「漣」は水の波瀾で、坎は水なので「漣」と言う。《九家易》に曰く、本体の坎は血、伏する離は目、互体の艮は手で、手をもって目を掩い血を流す、泣くの象である、と。《小象伝》に曰く、血を泣いて漣如たりとは、何ぞ長かるべけんや、と。屯難が極まれば解くべきで、どうして長く屯せられようか。

蒙卦

【坎下艮上,中互坤震】觀:蒙為四陰二陽卦,五來降二,二往升五。觀為重畫之艮,艮為少男,為小子,故卦辭爻辭皆言童。虞氏謂艮三之二,而艮非陰陽聚卦,不合也。

【下卦は坎、上卦は艮、中間の互体は坤と震】本卦は《観》卦から変じて来た。《蒙》は四陰二陽の卦で、《観》の九五が第二位に降り、六二が第五位に昇った。《観》卦は艮卦の爻画を倍加して成るもので、艮は少男・小子である。だから《蒙》の卦辞・爻辞は皆「童」を言う。虞翻は《蒙》は艮卦の第三爻が第二位に移って成ると主張したが、艮は陰陽聚合の卦ではないので、この説は通らない。

蒙:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告。利貞。一陽居二陰之上曰艮,上艮下坎,卦名蒙。蒙,蔽也。鄭氏曰:「人幼稚曰童,未冠之稱。瀆,褻也。」蒙不宜安於蒙,則宜求通,是為蒙亨。蒙自觀來,觀之五降為蒙之二,巽易為艮,坤易為坎。坎以中男居下卦之中,統諸陰以為卦主,則主卦者為我。

卦辞:蒙、亨。我が童蒙を求むるに非ず、童蒙が我を求む。初筮には告げ、再び三びすれば涜す。涜せば則ち告げず。貞に利あり。一つの陽爻が二つの陰爻の上に居るを「艮」といい、上が艮、下が坎で、卦名は「蒙」。「蒙」は蔽うこと。鄭玄は「人の幼稚を『童』といい、冠を加えない時の称である。涜とは褻れること」と言う。蒙昧な者は蒙昧に安んずべきではなく、通達を求めるべきで、これが「蒙亨」である。《蒙》は《観》卦から変じて来た。《観》の第五爻が降って《蒙》の第二爻となり、上卦の巽が艮に換わり、下卦の坤が坎に換わった。坎は中男の身をもって下卦の正中に居り、衆陰を統率して卦主となる。然らば卦辞の言う「我」とはこれである。

五居艮中,艮為少男,當蒙之幼,則謂之童。五在觀卦為陽,今來居二,二五相易,有似於求,然非二往居五,是非我求童蒙,乃五來居二,實為童蒙求我。一往一來之間,師嚴道尊之象已隱寓焉。

六五は艮体の中に居り、艮は少男で、蒙昧の幼年に当たるので、これを「童」と呼ぶ。第五爻は《観》卦では陽爻だったが、今下って第二位に居り、二と五が互いに換わるのは、見たところ求めるようだが、第二爻が上って第五位に居るのでない以上、「我」が童蒙を求めるのではなく、第五爻が下って第二位に居るのであって、実は童蒙が「我」を求めるのである。この一往一来の間に、師厳道尊の象がすでに隠れて寓されている。

而卦中互震坤,坎為通,互震為動,為聲音,故曰初筮告;至於再三,則為互坤,坤為迷,上為艮,艮止也,蒙昧已極,是謂之瀆,艮上止之,是不告也。蒙瀆不告,所以戒瀆。而二陽居中以啟五蒙,五亦居中以應之,是教者以正而學者亦以正也。養蒙貴正,故曰利貞也。

卦中の互体に震と坤がある。坎は通達を主とし、互体の震は動・声音なので、「初筮告」――初めて占えば告げると言う。再び三びするに至っては、互体の坤に落ちる。坤は迷、上卦は艮で、艮は止を主とする。蒙昧が極まる、これを「涜」という。艮が上にあってこれを止める、これが「不告」である。涜する蒙には告げない、涜を戒めるためである。九二は陽爻をもって中に居りて六五の蒙を啓き、六五もまた中位をもってこれに応ずる。これは教える者が正をもって教え、学ぶ者も正をもって求めることである。蒙を養うには正を貴ぶので、「利貞」と言うのである。

彖曰:蒙,山下有險,險而止,蒙。蒙亨,以亨行時中也。匪我求童蒙,童蒙求我,志應也。初筮告,以剛中也。再三瀆,瀆則不告,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。坎艮兩合之卦,何以名蒙也?艮為山,為止;坎為險。坎險內陷,外復止,故名蒙。既蒙而又言亨,何也?坎水流行有通象,又自觀五之中下行於二,五為中,移居於二亦為中,是行得中也。

《彖伝》に曰く、蒙とは、山下に険あり、険にして止まる、蒙なり。蒙亨とは、亨を以て行えば時中なり。我が童蒙を求むるに非ず、童蒙が我を求むとは、志の応なり。初筮に告ぐとは、剛にして中なればなり。再び三びすれば涜し、涜せば則ち告げずとは、蒙を涜せばなり。蒙を以て正を養うは、聖の功なり、と。坎と艮の合した卦が、なぜ「蒙」と名づけるか。艮は山・止、坎は険である。坎険が内に陥り、外にまた止められるので「蒙」と名づける。蒙昧でありながらまた亨というのは、なぜか。坎は水で、水は流行して通の象がある。しかも《観》卦第五爻の中位から下って第二爻に行った。五は中位で、二に移り居るのも中位である。これが「行って中を得る」である。

匪我求童蒙,童蒙求我者,坎為心志,而觀五易來居之,是五以志應二也。初筮告者,剛得中位,坎通易於開啟故也。再三瀆,瀆則不告者,陰柔無為,三四又同居偏位,為其瀆愈見其蒙,告之無益也。此蒙所以貴於養,而養蒙又貴於正,蒙以養正,作聖之基,故利貞也。

「我が童蒙を求むるに非ず、童蒙が我を求む」と言うのは、坎が心志を象し、《観》の第五爻が換わってこの位に居るので、まさに六五が心志をもって九二に応ずるからである。「初筮告」と言うのは、剛が中位を得て、坎は通を主とするので啓きやすいからである。「再三涜、涜則不告」と言うのは、陰柔はもともと為すことがなく、三・四の二爻がまたともに偏位に居るからである。涜するほど蒙がいよいよ現れるので、告げても益がない。だから蒙昧に対しては養うを貴び、蒙を養うにはまた正を貴ぶ。蒙昧のうちに正を養うことは、聖人となる基礎である。だから「利貞」と言うのである。

象曰:山下出泉,蒙,君子以果行育德。山,艮象;泉,坎象。變水言泉者,泉為水之始,猶蒙為養正之始也。君子體蒙象,果行如坎水之流,育德如艮山之靜。

《大象伝》に曰く、山下に泉出づるは蒙なり、君子以て行を果たし徳を育てる、と。「山」は艮の取象、「泉」は坎の取象である。ここで水と言わず泉と言うのは、泉が水の始まりであることを以て、ちょうど蒙が正を養う始まりであるがごとし。君子は蒙の象を体して、坎水の流れるがごとく行を果たし、艮山の静かなるがごとく徳を育てる。

初六:發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。初為蒙始,陰柔居下,其蔽尤深,宜先有以威服之。蓋進德由於敬內,敬則由於知畏,用刑以威之,發蒙之利也。《九家易》曰「坎為法律」,故象刑人;坎又為桎梏,鄭氏曰:「木在足曰桎,在手曰梏。」坎為穿木,故象桎梏。桎乃五刑之末,所以禁錮罪人以防其逸者。

爻辞:初六、蒙を発く、刑人を用いるに利あり、桎梏を説ぐを用いれば、以て往けば吝なり。初六は蒙昧の始まりで、陰柔にして下位に居り、その蔽いはことさら深い。まず威をもって彼を畏服させるべきである。徳を進めるのは内の敬に由り、敬は畏れを知るに由る。だから刑を用いて威を立てるのは、蒙を発くに利あるやり方である。《九家易》に「坎為法律」とあり、だから人に刑を用いる象を取る。坎はまた桎梏で、鄭玄は「木が足にあれば『桎』、手にあれば『梏』と言う」と言う。坎は木を穿つ象があるので、桎梏に取象する。桎梏は五刑の末等で、罪人を拘禁して逸走を防ぐものである。

夫人之就學,先收放心,而禮法之束縛有似罪人之桎梏,倘不率教,則夏楚以威之,《書》所云「撲作教刑」是也。是刑宜用不宜說。坎又為隱伏,故象說。說桎梏以往,則蒙無畏心,安肆日偷,有吝疵矣。象曰:利用刑人,以正法也。

人が学に就くには、まず放縦の心を収めなければならず、礼法の束縛は罪人の桎梏のようなものである。もし教えに率いなければ、夏楚(扑たく)をもって威を立てる。《尚書・舜典》の言う「扑作教刑」がこれである。見れば刑は用いるべきで、軽々と解くべきではない。坎はまた隠伏の象があるので、また「説(脱)」の象を取る。ひたすら桎梏を解いて任せて往かせれば、蒙童の心に畏れがなく、安逸放肆して日に苟且となり、吝の疵がある。《小象伝》に曰く、刑人を用いるに利ありとは、以て法を正しくするなり、と。

九二:包蒙吉,納婦吉,子克家。包,容也。一陽居中,教養群陰,有似包容之者,故曰包蒙。夫陽大陰小,則陰既象稚子;而陽男陰女,則陰又象婦人。大能包小,故蒙曰包;男宜納女,故婦曰納。且其所云納,又不僅同夫陰陽比附已也。

爻辞:九二、蒙を包めば吉、婦を納れれば吉、子家を克く。「包」は容れること。一つの陽爻が下卦の中位に居り、衆陰を教養して、まるでそれらを包容しているようだ。だから「包蒙」と言う。陽は大で陰は小なので、陰はすでに稚い子の象であり、また陽は男で陰は女なので、陰はまた婦人の象である。大は小を包むことができるので、蒙には「包」と言い、男は女を納るべきなので、婦には「納」と言う。しかもここで言う「納」は、ただ陰陽が比附し合うだけのことではない。

二陽五陰,原為正應,而二又自觀之五來降,觀之五以為蒙二。五在觀為巽,為長女;二在蒙為坎,為中男。長女歸中男,似彼與之而此取之者,故曰納婦也。自其包蒙言之,則二為師;自其納婦言之,則二為子。二為陽爻,剛中持正,則非不肖之子,蓋能振家聲者,子克家矣。是包蒙則師道盡,固吉;納婦則子道盡,亦吉。二為卦主,故有此象也。象曰:子克家,剛柔接也。接,交也。二為陽剛,初三二柔相比,五柔相應,是以一剛交眾柔也,故曰剛柔接。

九二は陽、六五は陰で、もとより正しく応じている。しかも九二は《観》卦の第五爻から降って来たもので、《観》の第五爻が《蒙》の第二爻となった。第五爻は《観》では巽体で、巽は長女。第二爻は《蒙》では坎体で、坎は中男。長女が中男に嫁ぐのは、彼が与えこちらが取るようなものだ。だから「納婦」と言う。「包蒙」の面から言えば九二は師、「納婦」の面から言えば九二は子である。九二は陽爻で、剛健にして中を守り正を持するので、不肖の子ではない。家声を振興できる者こそ「子克家」である。だから蒙を包めば師道を尽くして固より吉、婦を納れば子道を尽くしてこれも吉である。九二は全卦の主爻なので、これらの象がある。《小象伝》に曰く、子家を克くとは、剛柔接するなり、と。「接」は交わること。九二は陽剛で、初六・六三の二つの柔爻がこれに比し、六五の柔爻がこれに応ずる。これは一つの剛爻が衆多の柔爻と交わることである。だから「剛柔接」と言う。

六三:勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利。蒙之從師,有似女之從夫;蒙之不宜見異思遷,猶女之不宜見金惑志也。三與上應,而與二比,二上皆陽,陽為夫,陰宜從之。然教蒙有主,上為正應而非蒙師,三則為上所惑。上為陽,陽剛象金,曰金夫。見此金夫,不有其躬,如此女也,豈可取之,勿用宜矣。夫取女欲利,女既不貞,利於何有,故曰無攸利。

爻辞:六三、女を取るに用いる勿れ、金夫を見て躬を有らず、攸れ利あらず。蒙童が師に従うのは、女が夫に従うに似ている。蒙が異を見て思い遷すべからざるは、ちょうど女が金を見て志を惑わすべからざるがごとし。六三は上九に応じ、また九二に比する。上九と九二はともに陽爻で、陽は夫、陰は本来これに従うべきである。しかし蒙を教えるには主があり、上九は正応とはいえ蒙師ではなく、六三は上九に惑わされた。上九は陽で、陽剛は金に象るので「金夫」と言う。この金夫を見て己の身を有することができない。このような女、どうして取ることができようか。「勿用」と言うのが当然である。女を取るのは利を図るのに、女がすでに貞でなければ、どこに利があろうか。だから「无攸利」と言う。

象曰:勿用取女,行不順也。三以求二為順,乃不求二而惑於上,女既失身,取之無利也。六四:困蒙,吝。四為陰柔,又居陰位,為艮之初,互坤之中,陰柔無才,止於坤迷,是困象也。蒙以求通意,不欲困,蒙而曰困,有吝疵矣。

《小象伝》に曰く、女を取るに用いる勿れとは、行い順ならざればなり、と。六三は九二を求めてこそ順なのに、九二を求めずかえって上九に惑う。女はすでに身を失したのだから、取っても利がない。爻辞:六四、蒙に困む、吝なり。六四は陰柔でまた陰位に居り、艮体の初めに処り、互体坤の中にいる。陰柔にして才なく、坤の迷に止められる。これが「困」の象である。蒙はもともと通を求めるを意とし、困ることを欲しない。蒙にしてかつ困む、吝の疵があるのである。

象曰:困蒙之吝,獨遠實也。陽剛為實,四與二上兩陽俱有所隔,不能相比,又不能相應,故曰遠實。眾陰皆近陽,惟四獨遠之,是以困至於吝也。六五:童蒙,吉。陸氏曰:六五陰爻在蒙暗,又體艮少男,故曰童蒙。陰居尊位而能下賢以應九二,是求坎通,不安於蒙者也,故吉。象曰:童蒙之吉,順以巽也。三應上非蒙主,故曰不順;五應二得蒙主,故曰順;五尊下求二賢,故曰巽。

《小象伝》に曰く、困蒙の吝は、独り実に遠ざけばなり、と。陽剛を「実」とする。六四は九二と上九の二つの陽爻とともに隔たりがあり、比することも応ずることもできないので「遠実」と言う。衆陰は皆陽に近いのに、六四だけが独り遠ざかる。これで困んで吝に至るのである。爻辞:六五、童蒙、吉。陸績は言う、六五は陰爻で蒙暗の中にあり、また艮体の少男に属するので「童蒙」と言う、と。陰爻が尊位に居りながら己を屈して賢に下り、九二に応ずる。これは坎の通達を求め、蒙昧に安んじない者である。だから吉である。《小象伝》に曰く、童蒙の吉は、順にして巽なればなり、と。六三は上九に応ずるが上九は蒙の主ではないので「不順」といい、六五は九二に応じて蒙師の主を得たので「順」といい、六五は尊位をもって下に九二の賢者を求めるので「巽」――謙遜であると言う。

上九:擊蒙,不利為寇,利禦寇。眾陰為蒙,二上兩陽為發蒙之人。但二以中正為包,而上以高亢為擊。擊,撲也。夫陽見陰伏,諸陰原有寇象,且下卦為坎,坎又為盜,而上過剛以遇之,必見敲撲。蓋艮為手,為多節之木,木以手持,擊之象也。

爻辞:上九、蒙を撃つ、寇を為すに利あらず、寇を御ぐに利あり。衆陰は蒙で、九二と上九の二つの陽爻は蒙を発く人である。ただ九二は中正の徳をもって「包」み、上九は高亢をもって「撃」つ。「撃」は扑ることである。陽が現れれば陰は伏すので、諸陰はもともと寇の象がある。しかも下卦は坎で、坎はまた盗である。上九は過度に剛強な態度をもってこれらに遇えば、必ず敲扑を見ることになる。艮は手であり、また多節の木である。木の棍を手に持つのは、まさに撃つ象である。

顧蒙祗宜養,上則擊之如寇,下亦豈能率服?況剛強傲物,暴虐陵人,上先如寇,為寇以擊蒙,是以寇擊寇:寇強則反噬,寇弱則紛散矣。惟不擊之,從而御之,御者止也,有艮止之德,庶得養蒙之道,利在御也。象曰:利用禦寇,上下順也。卦體二上為陽,中夾三陰為互坤,為順。上為寇,是上不順;下為寇,是下不順,故不宜擊而宜御也。

しかし蒙はただ養うべきもので、上位者が寇に対するように撃てば、下の者がどうして率服しようか。況んや剛強にして物に傲り、暴虐にして人を陵すれば、上位者が先に寇となり、寇の姿で蒙を撃つのは、寇を以て寇を撃つことである。寇が強ければかえって噬かれ、寇が弱ければ紛散する。ただ撃たずに、従って御する。「御」とは止めることで、艮の止の徳を具えれば、ほぼ養蒙の道を得て、利は御に在る。《小象伝》に曰く、寇を御ぐに利ありとは、上下順なればなり、と。卦体を見れば第二爻と上爻が陽で、中間に三つの陰爻を挟んで互体の坤を成し、坤は順である。上が寇を為せば上が順ならず、下が寇を為せば下が順ならず。だから撃つべきでなく御すべきなのである。

需卦

【乾下坎上,中互離兌】大壯。需為四陽二陰卦,自大壯來。虞氏曰:大壯四之五。蜀才曰:此本大壯卦,六五降四,九四升五。需:有孚,光亨,貞吉,利涉大川。乾居坎後,不宜妄動,待時以濟,有需象焉,故卦名需。需有坎孚,坎為心志,陽剛中實,故曰有孚。坎下互離,坎為月,離為日,日月並明,坎又為通,故曰光亨。乾健於行,坎水為川,乾涉坎川,惟有孚信守正者能之,故涉曰利涉。利則亨,出坎險矣。

【下卦は乾、上卦は坎、中間の互体は離と兌】《大壮》より来たる。需は四陽二陰の卦で、《大壮》から変じた。虞翻は言う、大壮の四と五とが易する、と。蜀才は言う、これはもと大壮卦で、六五が四位に降り九四が五位に昇った、と。卦辞:需、孚あり、光亨、貞吉、大川を渉るに利あり。乾体が坎体の後にあり、険陥が前に横たわるので、この時は妄動すべきでなく、時を待って険を済すべきである。これが「待つ」象で、だから卦名を「需」とする。需卦には坎の孚が含まれる。坎は心志の卦で、一陽が中に居りて中実、中実はすなわち誠。だから卦辞は「有孚」と言う。坎体の下は離を互出し、坎は《易》象で月、離は日。日月が並び明るく、坎はまた通達の義があるので「光亨」と言う。乾の徳性は健行で、坎水は渉るべき大川。乾をもって坎川を渉るのは、誠信を懐き正道を持守する者のみが能くする。だから渉川に「利渉」と言い、利あれば亨して、坎険から出るのである。

彖曰:需,須也,險在前也。剛健而不陷,其義不困窮矣。需有孚,光亨,貞吉,位乎天位,以正中也。利涉大川,往有功也。此卦何以名需?蓋需者,須也。其字從雨從而。《春秋》宣公八年:冬十月己丑,葬我小君敬嬴,雨,不克葬;庚寅,日中而克葬。《公羊傳》曰:而者何?難也。《穀梁傳》曰:緩辭也。遇雨不進,止須也。需字有須義,故曰須也。

《彖伝》に曰く、需とは須(ま)つなり、険が前に在ればなり。剛健にして陥らざれば、其の義困窮せざるなり。需は孚あり光亨貞吉とは、天位に位して正中を以てするなり。大川を渉るに利ありとは、往けば功あればなり、と。この卦がなぜ「需」と名づけるか。需とは須、すなわち待つことである。字形から見て「需」の字は上に「雨」、下に「而」に従う。《春秋》宣公八年に記す、冬十月己丑に我が小君敬嬴を葬らんとしたが、雨で葬ることができず、庚寅に日中して葬ることを得た、と。《公羊伝》は「而」とは何かを釈して、難(なん)である、と言い、《穀梁伝》は、緩の辞である、と言う。雨に遇って進めず、止まって待つ。これがまさに「需」の字の含む「須」の義で、だから《彖伝》は「需、須也」と言うのである。

乾健於行,而坎險在前,需時以濟,庶不至陷溺其身。蓋乾德剛健,自能出險,不為坎困,其義宜如是耳。從知妄動無功,慎重有濟,卦義固然。而以卦象言之,坎為心為孚,是為有孚;互離連坎,日月交輝,是為光亨;五陽正中,是為貞。雖坎水在前謂之大川,而乾剛健行,上應坎孚以涉之,亦必光耀而亨通有功矣。如是以往,何不利之有也。

乾はもともと行に健であるが、坎険がまさに前にあり、時を需めてから済してこそ、身を険に陥溺させずに済む。乾の徳性は剛健で、もとより自ら険を出ることができ、坎に困まれない。理はもとよりかくあるべきである。これによって知る、妄動は功なく、慎重は済すことを。卦義は固よりこのごとし。卦象から言えば、坎は心・誠信なので、これが卦辞の「有孚」。互体の離卦が坎に連なり、日月が交わり輝くので「光亨」。九五は陽で中に居り正を得るので「貞」。坎水が前に横たわり「大川」と称されるが、乾は剛健に行い、上に坎中の誠信に応じ、この誠信を凭りて渉れば、必ず光耀して亨通し功がある。かくのごとく往けば、何の不利かあらん。

象曰:雲上於天,需,君子以飲食宴樂。虞氏曰:坎為雲,雲上於天而猶未雨,亦需象。此需之別義,大象多類此。離火坎水,坎又為酒,兌口食之,飲食象;大壯震為喜笑,宴樂象。

《大象伝》に曰く、雲天に上るは需なり、君子以て飲食宴楽す、と。虞翻は言う、坎は雲で、雲が天に上ってまだ雨とならないのも需の象である、と。これは「需」のもう一層の義である。《大象伝》の取象は多くこの類で、卦爻辞の取義と必ずしも一致しない。「飲食宴楽」について言えば、離は火、坎は水、火の上に水があればまさに烹煮でき、坎はまた酒を主り、兌は口で、口をもって享する、これが「飲食」の象である。需卦は大壮から来て、大壮の下体は震で、震は歡喜笑楽を主る、これが「宴楽」の象である。

初九:需于郊,利用恆,無咎。郊,曠遠之地。《爾雅》曰:邑外謂之郊。虞氏曰:乾為郊。坎在前宜需,初遠於坎,利於恆守,不犯險難,則無咎。象曰:需于郊,不犯難行也;利用恆無咎,未失常也。難謂坎,坎水險陷,故曰難。郊距坎尚遠,需此不行,不至犯難也。未失常者,恆居初位,未失需之常道,故利無咎也。

初九の爻辞:郊に需む、恒を用いるに利あり、咎なし。「郊」は曠遠の地で、《爾雅》に「邑の外を郊と謂う」とある。虞翻は乾は郊であると言う。坎険が前にあれば需むべきで、初九は坎から最も遠いので、恒に本位を守るに利あり、険難を犯さなければ咎がない。《小象伝》に曰く、郊に需むとは、難に犯して行かざるなり。恒を用いて咎なきに利ありとは、常を失わざればなり、と。ここで「難」は坎を指し、坎水は険陥なので「難」と言う。郊は坎からなお遠く、ここで需めて行かなければ、難を犯すに至らない。「未失常」とは、初九が最下の位に安く居り、「需」の求める常道に背かないことを言う。だから恒を守るに利あり咎がないのである。

九二:需于沙,小有言,終吉。沙,水散石也。二當互兌之始,兌為澤,其於地也為剛滷,沙象。兌為口舌,乾為言,小有言象。沙雖非水,而近水之地多沙,需于沙固異於郊,而待時以濟,不免兌言之可畏。兌又為說,終吉也。象曰:需于沙,衍在中也;雖小有言,以吉終也。衍,平衍。沙地平衍,需于沙尚可少安以待濟,雖小有言,無有失也。

九二の爻辞:沙に需む、小さく言あり、終に吉。「沙」は水中の散石である。九二はまさに互体兌卦の始めに当たり、兌は沢で、《説卦》は兌を「其於地也為剛鹵」という。鹸鹼の地はまさに沙の象である。兌は口舌を主り、乾は言語を主り、合わせて「小有言」の象となる。沙は水ではないが、水に近い地には沙が多い。だから「需于沙」は「需于郊」より険に一層近い。この時もなお時を待って後に険を済せねばならず、口舌を招くことを免れず、甚だ畏るべきである。幸い兌の徳性は「説」すなわち和悦なので、結局はやはり吉である。《小象伝》に曰く、沙に需むとは、衍に中に在ればなり。小さく言ありといえども、吉を以て終わるなり、と。「衍」は平坦広いこと。沙地は平坦で、ここで待てばなお少しく身を安くして済の時を俟つことができ、言語の是非があっても失うところはない。

九三:需于泥,致寇至。三鄰坎水矣。荀氏曰:親與坎接,故稱泥。是三所需在此也。夫坎既為水而又為盜,需於險地,寇盜之藪,是寇之至,三自致之。象曰:需于泥,災在外也;自我致寇,敬慎不敗也。虞氏曰:坎為災。外卦為坎,故曰在外。外有坎災,尚不知避,而需以招寇,倘不敬慎,鮮有不敗者。三為互離體,中虛,敬慎象。

九三の爻辞:泥に需む、寇を致さしむ。九三はすでに坎水に隣接している。荀爽は言う、直接坎に接するので「泥」と称する、と。九三の需む地点はここにある。坎は水を象し、また盗賊を象する。このような険地に需むのは、まさに寇盗の集まるところで、だから寇の至るは九三が自ら致したのである。《小象伝》に曰く、泥に需むとは、災が外に在ればなり。我より寇を致すも、敬慎なれば敗れざるなり、と。虞翻は坎は災であると言う。坎はまさに外卦なので「在外」と言う。外に坎の災険がありながら、なお避けるを知らず、かえってここに止まって需み、寇を招き寄せるに等しい。もしさらに敬慎でなければ、敗れない者は少ない。九三は互体の離卦に属し、離の中爻は虚で、虚なら受け戒めることができる。まさに「敬慎」の象である。

六四:需于血,出自穴。坎為血卦,四在坎初,故曰需于血。夫坎陰象血,而坎陷又象穴,既需於坎中,亦即陷於穴中。陷貴能出,虞氏曰:震為出。是宜體大壯之震以出坎穴矣。象曰:需于血,順以聽也。四在大壯為震,震動可以出穴;今易為坎,不能遽出。坎為耳,聽象。四以陰居陰位,柔而不躁,順象。順以聽之,得需義矣。

六四の爻辞:血に需む、穴より出づ。坎は《説卦》で「血卦」とされ、六四はまさに坎体の初めに処るので「需于血」と言う。坎は陰に属し、陰は血を象し、坎はまた陥を主とし、陥は洞穴を象る。すでに坎中に需めば、すなわち穴の中に陥っていることになる。陥ったからには出ることを貴ぶ。虞翻は震は出を主ると言う。六四はもと大壮から変じたもので、大壮の下体は震なので、震の動の能を体して坎穴を脱すべきである。《小象伝》に曰く、血に需むとは、順にして以て聴けばなり、と。六四は大壮卦の時は震に属し、震は動けるので本は穴を出ることができた。今坎に変わったので、すぐには出られない。坎は耳で「聴」の象であり、六四は陰爻をもって陰位に居り、柔順にして躁進しない。「順」の象である。柔順に時を聴して妄動しない。これが「需」の本義に合するのである。

九五:需于酒食,貞吉。荀氏曰:五互離,坎水在火上,酒食之象。需者飲食之道,故坎在需象【象:家】為酒食也。居坎之中,得正濟險,此需之至吉者。象曰:酒食貞吉,以中正也。

九五の爻辞:酒食に需む、貞吉。荀爽は言う、九五は互体の離卦の内にあり、坎水が離火の上にある、まさに酒食を烹煮する象である、と。「需」はもともと飲食の道を含むので、坎は需卦の中にあって酒食の象を取る(原刻は「需象」と作るが、校記は「象」は「家」に作るべきとし、すなわち「需家」、需卦そのものを指す)。九五は坎体の中に居り、中にしてかつ正で、険を済することができる。これは需卦の中で最も吉の一爻である。《小象伝》に曰く、酒食貞吉とは、中正を以てすなり、と。

上六:入于穴,有不速之客三人來,敬之終吉。四在坎初,陷尚未深,猶冀其能出穴;至上則為坎險之極,是坎之穴上入之矣。既入穴中,誰肯繼至?惟下乾三陽,剛健不陷,不待徵召,漸進前來。馬氏曰:速,召也。上無出險之才,猶能敬客,上來出險。蓋陰虛象敬,敬得需義,故終吉。象曰:不速之客來,敬之終吉,雖不當位,未大失也。需時出險,惟陽剛能之,陰柔非其位也。未大失者,敬以需之,終吉也。

上六の爻辞:穴に入り、速ならざる客三人来たる、これを敬して終に吉。六四は坎体の初めにあって、陥るがまだ深くなく、なお其の穴を出るを冀うことができる。上六に至れば、すでに坎険の極点で、坎の深い穴に上六がまっしぐらに入ったことになる。すでに穴に入れば、誰が続いて至ることを肯んじよう。ただ下卦の乾の三つの陽爻のみ、剛健にして陥溺せず、征召を待たずとも一歩ずつ上って来る。馬融は「速」とは召すことと言う。上六は自ら険を出る才はないが、なお来客を敬することを知り、この三陽が上って来てそれを険境から救い出すに頼る。陰爻は中虚で、虚は「敬」を象る。敬し得れば「需」の理に合し、だから終に吉である。《小象伝》に曰く、速ならざる客来たりて之を敬して終に吉とは、位に当たらずといえども、大いに失はざるなり、と。需卦で険を脱するには、ただ陽剛のみがこれを能くし、陰柔はもとよりこの位に当たらない。「未大失」とは、敬の心をもって待つことができるので、終に吉を得ることを言う。

訟卦

【坎下乾上,中互巽離】遯。訟為二陰四陽卦,自遯來。虞氏曰:遯三之二也。荀氏曰:陽來居二而孚於初。蜀才曰:此本遯卦,二進居三,三降居二。訟:有孚窒惕,中吉,終凶,利見大人,不利涉大川。內坎外乾,有不欲執平爭象見焉,故卦名訟。訟者多偽,貴有孚信以窒其源;訟者無懼,貴能怵惕以遏其流。訟能中止,乃可言吉;爭訟不已,必欲終之,所失者大,有凶災矣。夫既爭訟,豈能知惕?而所以惕中不訟者,賴有聽訟之大人在也。大人聽訟,明則能察,勇則能斷,始則民服,繼則民畏。見此大人,曲直立辨,不蹈終訟之危,所以雲利。若必欲終之,不懼爭訟之凶,如涉川然,終則不利矣。

【下卦は坎、上卦は乾、中間の互体は巽と離】《遯》より来たる。訟は二陰四陽の卦で、《遯》から変じた。虞翻は言う、遯の三爻が二位に降りた、と。荀爽は言う、陽爻が下って第二位に居り初六と信じ合う、と。蜀才は言う、もとは遯卦で、二爻が進んで三位に居り、三爻が降って二位に居った、と。卦辞:訟、孚ありて窒がれ惕れ、中は吉、終は凶、大人を見るに利あり、大川を渉るに利あらず。内卦は坎で険を主とし、外卦は乾で健を主とする。内に険を懐き外に強を逞しゅうして、平を執りたがらず必ず争闘を生ずる象を含むので、卦名を「訟」とする。訴訟する者は虚飾が多いので、誠信をもって争端の源を窒ぐことを貴ぶ。訴訟する者は忌憚がないので、戒惧をもって争端の蔓延を遏えることを貴ぶ。訴訟が中途で止むことができて初めて吉と言え、争訟が休まず必ず結末を争おうとすれば、失うものが大きく、凶災を招く。すでに訴訟を起こした以上、どうして戒惧を知ることができよう。中途で惧れを知って訟を止められる所以は、訟を聴く「大人」があるに頼る。大人が断案すれば、明察なら事実を察することができ、果決なら判断を立てることができる。初めは民が心服し、続いて民は敬畏する。このような大人を見れば、是非曲直はその場で分明となり、「終訟」の険途に踏み込まない。だから卦辞は「利見大人」と言う。もし必ず訟を尽くそうとし、争訟の凶を惧れなければ、それは強いて大河を渉るようなもので、結末は必ず不利である。

彖曰:訟,上剛下險,險而健,訟。訟有孚窒惕,中吉,剛來而得中也。終凶,訟不可成也。利見大人,尚中正也。不利涉大川,入于淵也。此卦何以名訟也?卦之上為乾,乾體剛;卦之下為坎,坎德險,是為內險而外健。險健若此,易致爭鬬,故名訟。訟自遯來,遯下為艮,艮中陰虛而易為坎中陽實,是為有孚窒。坎為加憂,為勞卦,人能憂勞,是為惕中。夫訟不可以終成,三為內卦之終,上為外卦之終,其在遯卦,三上皆剛;今以三之剛下來居二,是為剛來得中。來者,自上之下之謂。三與上原不應而今相應,不至兩剛相敵,故曰不終訟。

《彖伝》に曰く、訟とは、上剛下険、険にして健、訟なり。訟は孚ありて窒がれ惕れ、中は吉とは、剛来たりて中を得ればなり。終は凶とは、訟成すべからざればなり。大人を見るに利ありとは、中正を尚べばなり。大川を渉るに利あらずとは、淵に入ればなり、と。この卦がなぜ「訟」と名づけるか。卦の上体は乾で、乾の形質は剛強。下体は坎で、坎の徳性は険陥。合わせて内に険心を懐き外に強健を逞しゅうする。険と健が一か所に集まれば、最も争闘を引き起こしやすい。だから「訟」と名づける。訟卦は遯卦から変じて来た。遯の下体は艮で、艮の中爻は陰・虚。坎に換われば中爻は陽・実で、中実はすなわち誠。これが卦辞の「有孚窒」である。坎は《説卦》で「加憂」であり、「労卦」とも称される。人が憂労戒惧できれば、それが「惕中」である。訴訟は終局まで行ってはならない。三は内卦の終わり、上は外卦の終わりで、遯卦では三と上はともに剛爻で、両剛は応じ得ない。今三の剛爻を降らせて二位に居らせた。これが《彖伝》の言う「剛來而得中」である。「来」とは、上から下に至ることを言う。三と上はもとより応じなかったが、今三が陰に変わって上と応じたので、両剛が相敵するに至らない。だから終訟しないと言うのである。

訟本凶事而云吉者,惟訟不終成乃吉也。若五陽居尊位,剛而得中,是為大人,見之則訟息,故曰利。坎水在下,是為大川,其險類訟,涉之不利。大人在上,欲以無訟化天下,見之者宜惕於中矣。大川即淵也,不利於涉,入者則溺,猶之爭訟一意孤行,至陷於險地而不能出,訟不可終成矣。

訴訟はもとより凶事なのに卦辞が「吉」と言うのは、ただ訟が終わりを成さなければ吉だからである。九五は陽爻をもって尊位に居り、剛強にしてかつ中を得る。これが「大人」で、彼を見れば争訟は平息する。だから「利見大人」と言う。坎水は下卦にあり、これがいわゆる「大川」で、その険は訟に類する。強いて渉れば不利である。大人は上にあって、もとより「無訟」をもって天下を化せんと欲する。彼を見る者はまさに心の中に戒惧を生ずべきである。「大川」はすなわち《彖伝》の言う「淵」で、渉るに利あらず、入れば溺れる。ちょうど争訟に一意孤行して、遂に険地に陥って出られないようなものである。これが訴訟は終局まで行えないことの説明である。

象曰:天與水違行,訟,君子以作事謀始。天氣清輕上浮,水氣沈滯下潤;乾為西北方之卦,坎為正北方之卦,水流東南,背乾而行,皆違行之象。如人行違,致啟訟端也。君子體坎象,於以有謀,坎水於五德屬智,故云謀;君子體乾象,因以知始,蓋乾為大始。作事謀始,則訟止矣。

《大象伝》に曰く、天と水と違行するは訟なり、君子以て事を作すに始めを謀る、と。天気は清軽にして上浮し、水気は沈滞にして下潤す。二者はもともと相背する。また乾は西北方の卦、坎は正北方の卦で、水は東南に流れ、まさに乾の方向に背いて行く。いずれも「違行」の象である。人と人の行いが相背すれば、争訟の端緒はここに啓く。君子は坎象を体して謀ることを知る。坎水は五行の徳で「智」に属するので「謀」と言い、乾象を体して始めを重んじることを知る。乾は万物の「大始」である。事を作すに始めに謀り明らかにすれば、争訟は自ずと止む。

初六:不永所事,小有言,終吉。五為卦王,為聽訟者,其餘皆訟人也。訟在於初,挽回甚易;初又為陰,非健訟者,故不永所事。而初與四應,四為乾為言,甫欲紛爭,中道忽止,言者不免於有。然不終訟,得訟不可成之義,故終吉。象曰:不永所事,訟不可長也;雖小有言,其辨明也。永,長也。訟不可長,故不宜永所事。應四互離,離明以辨之,故無終訟之失也。

初六の爻辞:其の事を永くせず、小さく言あり、終に吉。九五は一卦の主で、訟を聴き断案する者であり、その余の各爻はすべて訴訟する者である。争訟が初爻に起これば、挽回はなお容易である。初六はまた陰爻で、訟を好む者ではないので、その事を永く引き延ばさない。初六は九四に応じ、九四は乾に属し、乾は言語を主る。まさに争い起こらんとして中途に忽ち止むので、口舌の争いはやはり少しは免れない。しかし終訟しなかったので、「訟不可成」の理に合する。だから終に吉である。《小象伝》に曰く、其の事を永くせざるは、訟長くすべからざればなり。小さく言ありといえども、其の辨明なればなり、と。「永」は長久である。訴訟は長くすべきでないので、その事を引き延ばすべきでない。初六は上に九四に応じ、九四は互体の離卦の中にあり、離は光明を主り、是非を辨明できるので、終訟する過失がないのである。

九二:不克訟,歸而逋,其邑人三百戶,無眚。二以陽剛居坎險之中,此健訟者也。但五居尊位,大人允明,何克勝訟?至於訟之不克,懼罪逃逋,其邑人三百戶得免株連,僅可無眚,蓋亦危矣。荀氏曰:坤稱邑,二者邑中之陽人。逋,逃也,謂逃失邑中之陽人。坎為隱伏,故云逋。坤索乾中為坎,而自遯三降二,故云歸。坎又為多眚,而為下卦之中,為訟者主,主逃則邑人得免,是亦一不終訟者。象曰:不克訟,歸逋竄也;自下訟上,患至掇也。掇,拾也。以下訟上,悖逆不順,患如掇拾者然。

九二の爻辞:訟に克たず、帰りて逋れ、其の邑人三百戸、眚なし。九二は陽剛をもって坎険の中に居る。これは訟を好む者である。しかし九五は尊位に居り、明察公允の大人である。九二がどうしてこの訴訟に勝てようか。訟に勝てない以上、罪を得るを恐れて逃匿する。その封邑の三百戸の人々はこれによって株連を免れ、辛うじて災殃がないと言えるが、実はすでに危険なところだった。荀爽は言う、坤を「邑」と称し、九二は邑中のあの陽爻である。「逋」は逃亡で、邑中の陽爻が逃げ失せたことを言う。坎は隠伏を主るので「逋」と言う。坤が乾に中爻を索めて坎となり、この爻はまた遯卦の三位から二位に降りて来たので「帰」と言う。坎はまた「多眚」を主り、九二は下卦の中に居り、訴訟する側の主帥である。主帥が一たび逃げれば邑人はかえって禍を免れる。これもまた終訟しない一例である。《小象伝》に曰く、訟に克たざるは、帰逋して竄るなり。下より上を訟するは、患至ること掇うがごとし、と。「掇」は拾うこと。下をもって上を訟するは、もとより悖逆不順で、禍を招くこと手を伸ばして物を拾うがごとく容易である。

六三:食舊德,貞厲,終吉,或從王事,無成。三在遯為互乾,虞氏曰:乾為德。是三之為德舊矣。今變坎險以為訟人,而上為正應,上仍為乾,則是舊德可食。且上乾為王,三又當互巽之初,順巽從人,貞以守正,厲以惕中,化其爭心,勤勞王事,不居成功,是又一不終訟者,吉也。象曰:食舊德,從上吉也。上指乾,從上即從王也。

六三の爻辞:旧徳を食み、貞にして厲なり、終に吉。あるいは王事に従い、成すことなし。六三は遯卦の時は互体の乾に属し、虞翻は乾は徳であると言う。六三のこの「徳」は旧来のものであることが分かる。今下体が坎険に変わって六三は訴訟する者となったが、上九はそれと正しく応じ、上九は依然として乾体に属するので、その「旧徳」はなお享用できる。上体の乾はまた「王」を象り、六三はまさに互体巽卦の始めに処り、巽は順従を主るので、人に順うことができる。「貞」は正道を守ること、「厲」は心に戒惧を存すること。この二つをもって争う心を化し、勤勉して君王の事を辦じて功を自ら居らない。これもまた訴訟を終局まで行わない者で、だから吉である。《小象伝》に曰く、旧徳を食むとは、上に従う吉なり、と。「上」は上体の乾を指し、上に従うはすなわち王に従うことである。

九四:不克訟,復即命,渝安貞,吉。五為卦主,為大人。二以敵五曰不克訟,四以比五曰不克訟。但二為坎中,故歸逋;四為巽中,故即命。即,就也。居近尊位,訟不克勝,即返就聽命,變其素習。渝,變也,變邪為正,貞以自守,亦可云吉。巽為進退,為不果,為命,故有此象。總言訟不可成,聖人深為終訟者戒爾。象曰:復即命,渝安貞,不失也。

九四の爻辞:訟に克たず、復りて命に即き、渝りて貞に安んずれば、吉。九五は一卦の主で「大人」である。九二は敵手の身分をもって九五に抗したので「不克訟」といい、九四は近臣の身分をもって九五に密接しているのにこれも「不克訟」という。異なるのは、九二は坎体の中にあるので封邑に帰って匿れたが、九四は互体巽卦の中にあるので帰って命に聴く。「即」は近づき帰就すること。九四は位が君側に近く、訴訟がすでに勝てないので、翻って上命に聴き、平素の気習を改める。「渝」は改変で、邪僻を端正に改め、正を守りて自ら持すれば、また吉と言い得る。巽は進退・猶疑不決・号令を主るので、このような象がある。要するに皆訴訟を終局まで行ってはならないことを言うのであって、聖人は深く訟を終わりまでする者に戒めを示したのである。《小象伝》に曰く、復りて命に即き渝りて貞に安んずるは、失わざればなり、と。

九五:訟,元吉。乾為元,五為乾中,故曰元。王氏曰:以中正之德,齊乖違之俗,此大人聽民訟者也。象曰:訟元吉,以中正也。上九:或錫之鞶帶,終朝三褫之。或,疑辭。錫,予也。馬氏曰:鞶帶,大帶衣也。褫,奪也。陽剛至健,又居卦上,此因訟勝而受錫者。乾為施,為衣,故曰或錫之鞶帶。夫訟易致凶,豈能邀福?即或僥倖得錫,亦不能長據守之。上與三應,三為坎,坎為多眚,為隱伏,方因訟勝而得乾衣,即因眚多而遭褫奪。乾衣遇坎隱伏,三褫象也。錫固為榮,而褫亦為辱,健訟之人榮辱無常,愈見終訟之凶也。象曰:以訟受服,亦不足敬也。服,鞶帶也;受,錫也;不足敬,三褫也。聖人為訟者戒,意深切矣。

九五の爻辞:訟を断ずる、元吉。乾は「元」で、九五は乾体の中に居るので「元」と称する。王粛は言う、中正の徳をもって乖戻違逆の風俗を斉しくする、これが民の訟を聴く大人である、と。《小象伝》に曰く、訟元吉とは、中正を以てすなり、と。上九の爻辞:あるいはこれに鞶帯を錫われ、終朝に三たびこれを褫わる。「或」は不定の辞、「錫」は賜与。馬融は言う、鞶帯とは大帯の衣である、「褫」は奪うこと、と。上九は陽剛至健でまた一卦の上に居る。これは訴訟に勝って賞賜を受けた者である。乾は施与・衣服を主るので「或錫之鞶帯」と言う。しかし訴訟はもとより凶険を招きやすく、どうして福を求められよう。たとえ僥倖して賞賜を得ても、長く保ち守ることはできない。上九は六三に応じ、六三は坎に属し、坎は「多眚」・隠伏を主る。ちょうど勝訴して乾の象する衣を得たと思ったら、すぐまた災殃が続出して褫奪される。乾衣が坎の隠伏に遇う、これが「三褫」の象である。賜を受けるは固より栄だが、奪われるは辱である。訟を好む者は栄辱に常なく、いよいよ終訟の凶険が見える。《小象伝》に曰く、訟を以て服を受くるは、亦た敬うに足らざるなり、と。「服」は鞶帯、「受」は賜を受けること、「不足敬」は一日三たび奪われること。聖人が訟を好む者に示した戒めは、意が深く切実である。

師卦

【坎下坤上,中互坤震】剝、復。師為一陽五陰卦,自剝復二卦來:剝上降二,復初升二。蜀才曰:此本剝卦,上九降二,六二升上。此僅其舉一偏耳。師:貞,丈人吉,無咎。坎下坤上,有一陽為帥、群陰咸從之象,故卦名師。鄭氏曰:軍二千五百人為師,多以軍為名,次以師為名,少以旅為名。師者,舉中之言。丈之言長,能御眾,有正人之德,以法度為人之長,蓋主軍者也。用師貴貞正,而帥師者必宜丈人。師為凶事,最易致咎,惟吉乃能補過,故曰吉無咎也。

【下卦は坎、上卦は坤、中間の互体は坤と震】《剥》《復》より来たる。師は一陽五陰の卦で、《剥》《復》の二卦から変じた。剥卦の上爻が二位に降り、復卦の初爻が二位に昇った。蜀才は言う、もとは剥卦で、上九が二位に降り六二が上位に昇った、と。これはただその一方を挙げたにすぎない。卦辞:師、貞、丈人吉、咎なし。坎が下、坤が上で、一つの陽爻が帥となり衆陰が皆これに従う象があるので、卦名を「師」とする。鄭玄は言う、兵二千五百人を「師」とし、人数の多いのは「軍」と称し、次は「師」、最も少ないのは「旅」と称する。「師」は中規模を取る言い方である。「丈」は長の意で、衆を御し得て正人の徳を具え、法度をもって衆人の長となる者が、軍を主る人である。兵を用いるには貞正を貴び、兵を率いる者は必ず「丈人」であるべきである。師を興すは凶事で、最も咎責を招きやすい。ただ勝って吉を得て初めて過を補えるので、「吉、无咎」と言うのである。

彖曰:師,眾也;貞,正也。能以眾正,可以王矣。剛中而應,行險而順,以此毒天下而民從之,吉又何咎矣。卦之所以名師,以師者眾也。坤為眾,坎亦為眾。而卦自復來,復下為震,震為長男;又自剝來,剝上為艮,艮為少男;今易為坎,坎為中男,以一陽統五陰,為眾主,此丈人象也。丈人者,可以王天下者也。剛而居中,上下五陰應之,能平坎險以臻坤順,用正師以正眾人,而眾人即於以歸正。雖師之所至荼毒生靈,而以正道興師,民樂從之,除殘救亂,為天下所歸往,吉又何咎矣。

《彖伝》に曰く、師とは衆なり、貞とは正なり。能く衆を以て正しくすれば、以て王たるべし。剛中にして応し、険を行りて順なり、これを以て天下を毒すとも民之に従う。吉なれば又何の咎かあらん、と。この卦が「師」と名づけられた所以は、「師」が衆だからである。坤は衆を主り、坎も衆を主る。この卦は復卦から来て、復の下体は震、震は長男。また剥卦から来て、剥の上体は艮、艮は少男。今いずれも坎に換わり、坎は中男。一つの陽爻をもって五つの陰爻を統率して衆人の主となる。これが「丈人」の象である。丈人とは、天下に王たり得る者である。剛強にして中位に居り、上下の五つの陰爻が皆これに応ずる。坎の険難を平げて坤の柔順に臻ることができ、正義の師をもって衆人を正しくすれば、衆人もまたこれに随って正に帰る。兵の至る所は生霊を荼毒するが、正道をもって師を興せば、百姓は喜んで従う。残虐を除き禍乱を救うは、まさに天下人の帰往するところである。然らば吉なれば、何の咎かあらん。

象曰:地中有水,師,君子以容民畜眾。地之聚水,猶夫師之聚民。君子體此象,容坤民如坤地之廣,畜坎眾如坎水之深也。初六:師出以律,否臧凶。九家易曰:坎為律。虞氏曰:震為出。初自復來,震往變坎,是為師出;坎在初位,是為以律。然二為主帥,初位猶卑,又為陰柔,否矣。夫師出貴有律,臧,善也,否則不善,不善則律失,故凶。象曰:師出以律,失律凶也。

《大象伝》に曰く、地中に水あるは師なり、君子以て民を容れ衆を畜う、と。地の水を聚めるは、ちょうど師の民を聚めるがごとし。君子はこの象を体して、坤の象する民を坤地のように広く容れ、坎の象する衆を坎水のように深く畜う。初六の爻辞:師出づるに律を以てす、否臧なれば凶。《九家易》は坎は律であると言い、虞翻は震は出であると言う。初爻は復卦から来て、復の震体が上行して坎に変じた。これが「師出」である。坎はまた初位に落ちた。これが「以律」である。しかし九二こそ主帥で、初六の位次はなお卑く、また陰柔の爻なので「否」となる。出兵は律あるを貴ぶ。「臧」は善、「否」は不善で、不善なら律は失われる。だから凶である。《小象伝》に曰く、師出づるに律を以てすとは、律を失えば凶なり、と。

九二:在師中吉,無咎,王三錫命。二以一陽統率五陰,為師卦主,即丈人也。但在剝復皆居偏位,易為師之二,始居內卦之中,故曰在師中。夫人君之權不可下移,至於出師命將,惟專任之乃剋制勝。既使居師之中,而又錫命屢加以優賞之。三命如《周禮》一命受職、再命受服、三命受位之類。凡畫卦皆以三為數,故爻辭多言三,或有言七者、十者,七陽數,十陰數。曰吉無咎者,蓋用師惟吉則無咎,不吉則有咎,師貴克敵,無功即有過矣。象曰:在師中吉,承天寵也;王三錫命,懷萬邦也。寵,榮寵。懷,思念也。王居天位,以優禮大臣,欲其輔翼成治,安靖四方,故曰承天寵、懷萬邦。二應五,五為坤中,坤為地,為邑,萬邦象也。

九二の爻辞:師中に在りて吉、咎なし、王三たび命を錫る。九二は一つの陽爻をもって五つの陰爻を統率する師卦の主で、すなわちいわゆる「丈人」である。ただそれは剥卦・復卦ではいずれも偏位にあり、師卦の二位に換わってから初めて内卦の中に居ったので「在師中」と言う。君主の権柄は下に移すべきではないが、出兵して将を任ずることだけは、専ら委任してこそ制勝できる。彼を軍の中に居らせて軍権を総攬させ、また命を錫って屢々優賞を加える。「三命」は《周礼》の言う一命に職を受け、再命に服を受け、三命に位を受くる類である。凡そ卦を画くには三を数とするので、爻辞は多く「三」を言い、或いは「七」「十」を言うこともある。七は陽数、十は陰数である。「吉无咎」と言うのは、兵を用いるには吉を得て初めて咎なしと言え、吉でなければ咎があるからである。軍旅は敵に克つを貴び、功なければすなわち過である。《小象伝》に曰く、師中に在りて吉とは、天寵を承くればなり。王三たび命を錫るは、万邦を懐くればなり、と。「寵」は栄寵、「懐」は眷念である。王は天位に居り、優礼をもって大臣に接し、その輔翼して治を成し四方を安靖するを望む。だから「承天寵」「懐万邦」と言う。九二は上に六五に応じ、六五は坤体の中で、坤は地・邑で、まさに「万邦」の象である。

六三:師或輿尸,凶。命將帥師須簡才能,三本陰柔,又居偏位,豈克勝任?倘誤用之,立致敗績。蓋坤坎皆為輿,坎又為陷,坤又為死喪,此震動陷陣、輿尸之象也,凶矣。象曰:師或輿尸,大無功也。無功者,喪師也。六四:師左次,無咎。師惟前進乃克有功,然量力而行,不肯妄動以致敗覆,亦可無咎。左次,退舍也,兵家尚右,故以退後為左。四以陰居陰位,完師自守,雖無勳績可錄,亦不至剛愎僨事也,此退可以守者。象曰:左次無咎,未失常也。

六三の爻辞:師あるいは屍を輿す、凶。将を命じ兵を率いせしむるには才能を精選しなければならない。六三はもとより陰柔の爻で、また偏位に居る。どうして勝任できようか。もし誤って用いれば、たちまち敗績を致す。坤と坎はともに車輿を象り、坎はまた陥落を主り、坤はまた死喪を主る。合わせてまさに震動して出兵し敵陣に陥り、屍を載せて帰る象となる。だから凶である。《小象伝》に曰く、師あるいは屍を輿すは、大いに功なきなり、と。功なきとは、全軍覆没である。六四の爻辞:師左次す、咎なし。軍隊は前進して初めて戦功を言えるが、力を量って行い、妄動して覆敗を致さないなら、咎がないとも言える。「左次」は退駐することで、兵家は右を尊ぶので、後退を「左」と称する。六四は陰爻をもって陰位に居り、軍力を全うして自ら守る。勲績に記すべきものはないが、剛愎自用以て事を敗るにも至らない。これは退をもって守を取れる類である。《小象伝》に曰く、左次咎なきは、常を失わざればなり、と。

六五:田有禽,利執言,無咎,長子帥師,弟子輿尸,貞凶。古人興師,既非好兵,亦非黷武,所以除暴救民,蓋有出於不得已者。如田中有禽,恐傷禾稼,不可不驅逐之;有罪可聲,不可不執言以告眾也。五為坤中,坤地為田,應二為坎,坎為豕,故曰田有禽;二又為互震,震為鼓,為聲音,故曰利執言。大君用兵宜擇良將,彼無咎者,惟正坎互震、智勇剛中之長子能之,其餘諸陰皆弟子也。倘誤用之,則必入於坎陷,用坤大輿載屍以歸矣。繫曰貞凶,以著戒也。象曰:長子帥師,以中行也;弟子輿尸,使不當也。為一卦之尊則稱丈人,為大君之臣則稱長子。長子居下卦之中行,不使長子而使弟子,使之者失其當,是以有凶也。

六五の爻辞:田に禽あり、言を執るに利あり、咎なし。長子師を帥び、弟子屍を輿す、貞凶。古人が兵を興すは、戦を好んだのでも武を黷したのでもなく、暴虐を除き百姓を救うためで、実にやむを得ざるに出たものである。譬えば田中に禽獣があって禾稼を傷めるを恐れれば、駆逐せざるを得ない。相手に声せるべき罪状があれば、公開して声討し衆に告げ諭さざるを得ない。六五は坤体の中で、坤は地すなわち「田」。下に九二に応じて坎に属し、坎は豕を象るので「田有禽」と言う。九二はまた互体震卦に処り、震は鼓・声音なので「利執言」と言う。君主の用兵は良将を択ぶべきで、その「无咎」たり得る者は、正坎と互震の象するところ、智勇を兼ね剛にして中を得た「長子」のみが当たり、その余の各陰爻は皆「弟子」である。もし誤って彼らを用いれば、必ず坎の険陥に陥り、坤の象する大車で屍を載せて帰るほかない。爻辞に「貞凶」の二字を系げたのは、特に警戒を標明したのである。《小象伝》に曰く、長子師を帥びるは、中行を以てすなり。弟子屍を輿すは、使い当たらざればなり、と。一卦の尊として言えば「丈人」と称し、君主の臣として言えば「長子」と称する。長子は下卦の中に居り中道を行うのに、長子を使わず弟子を使えば、使う者が其の当を失する。これで凶があるのである。

上六:大君有命,開國承家,小人勿用。荀氏曰:師旅已息,當封賞有功,立國命家。開國,封諸侯也;承家,立大夫也。蓋坤為國邑,故曰開國承家也。夫當帥師之時,既錫予以寵之,而於功成之後,又賜田以賚之,則以功臣即丈人也。若彼小人者,始既因其啟釁以興兵動眾,而討平之後,復聽其乘隙竊進,不知防閒,是亂無已時也。戒以勿用,聖人之憂患深矣。象曰:大君有命,以正功也;小人勿用,必亂邦也。用師所以平亂,而亂之生則由小人,小人不可用也。

上六の爻辞:大君命あり、国を開き家を承ぐ、小人用いる勿れ。荀爽は言う、戦事はすでに息み、功ある者を封賞し、国を立て家を命ずべき時である。「開国」は諸侯を分封し、「承家」は大夫を冊立すること。坤は国邑を象るので「開国承家」と言う、と。兵を率いて戦う時には、すでに冊命を賜して彼を寵信した。功成の後にはまた田邑を賜して犒賞する。これは功ある臣がまさにあの「丈人」だからである。小人に至っては、初めに彼が事端を挑発したために兵を興し衆を動かさざるを得なかったのに、討平の後にまた彼の隙に乗じての潜入を聴き任せて防備しなければ、禍乱に止まる日はない。爻辞が「勿用」と戒めたのは、聖人の憂患の心が実に深遠であるからである。《小象伝》に曰く、大君命ありとは、以て功を正しくするなり。小人用いる勿れとは、必ず邦を乱さばなり、と。兵を用いるはもとより禍乱を平定するためで、禍乱の生ずるはまさに小人に由る。だから小人は用いるべからずである。

易原巻三

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。

本巻は「慧珠閣」原刻本に拠る。著者は遼東岫岩の人・多隆阿、字は雯溪。

周易上経(三)

比卦

【坤下坎上,中互艮坤】復、剝。比為一陽五陰卦,自復剝二卦來:復初升五,剝上降五。比:吉,原筮,元永貞,無咎,不寧方來,後夫凶。坤下坎上,有一陽得位以待眾陰歸附之象,故卦名比。原,再也。《禮》曰:末有原。《春秋傳》曰:原田每每。比有吉義,必須再筮,得元善之長、永久貞正,乃可無咎。是無其德不能致眾人之比,而眾人相比亦宜擇有德者比之,而後比乃正也。夫天下之眾,豈能畫一?而一人首出,萬姓咸服。其有遠人聞風恐懼,內不自安,來歸版圖,亦比之正者。至於恃險私據,頑梗不化,是為後夫,乃王法所必誅者,凶矣。

【下卦は坤、上卦は坎、中間の互体は艮と坤】《復》《剥》より来たる。比は一陽五陰の卦で、《復》《剥》の二卦から変じた。復卦の初爻が五位に昇り、剥卦の上爻が五位に降りた。卦辞:比、吉、原筮、元永貞、咎なし、寧ならざる方来たる、後の夫は凶。坤が下、坎が上で、一つの陽爻が尊位を得て衆陰の帰附を待つ象があるので、卦名を「比」とする。「原」は再びの意。《礼》に「末有原」とあり、《春秋伝》に「原田毎毎」とある。「比」はもとより吉の義を含むが、必ず再び筮して、至善の長・永久貞正の徳を得てこそ、咎がない。これは、その徳がなければ衆人の比を致すことができず、衆人が比せんとすればまた徳ある者を択んで比し、そうして初めて比が正となることを言う。天下の衆は、どうして画一にできよう。ただ一人が首として上に立てば、万姓は皆心服する。その中に遠方の人が風声を聞いて恐れ敬い、内に安んぜず、版図に帰り来たるは、これも比の正である。険に恃んで私に割拠し、頑強にして化けない者は、いわゆる「後夫」で、王法が必ず誅するものである。だから凶である。

彖曰:比,吉也;比,輔也,下順從也。原筮元永貞無咎,以剛中也。不寧方來,上下應也。後夫凶,其道窮也。夫子釋之曰:親離則凶,眾比自吉,是比吉也。比也者,輔也,一陽居尊,在下坤民順從相輔也。位在德元,群陰往附,自不至聚散無常以招咎過。而又必再筮得之者,以此卦一自復來,再自剝來也。復陽居下,剝陽居上,位皆非中,易為比五,剛始得中也。陽得中則為元,陽居正則永貞,既元且貞,無咎固宜。

《彖伝》に曰く、比は吉なり。比とは輔なり、下の順従なり。原筮元永貞无咎とは、剛中を以てすなり。不寧方来とは、上下の応なり。後夫凶とは、其の道窮まればなり、と。孔子はこれを釈して、親しむ者離れば凶、衆比すれば自ら吉、これが比吉である、と言う。「比」とは輔であり、一つの陽爻が尊位に居り、下にある坤の民が順従して相い輔く。位は徳の元に在り、衆陰が往って附く。自ずから聚散に常なくして咎過を招くに至らない。また必ず「再筮して之を得」なければならないのは、この卦が一方では復から、もう一方では剥から来るからである。復の陽は下に居り、剥の陽は上に居り、位はいずれも中でない。比の五位に換わって、その剛爻が初めて中を得る。陽が中を得れば「元」、陽が正に居れば「永貞」。元にしてかつ貞なら、咎なきは当然である。

夫自一卦統觀之,則為一陽五陰;而自一卦分觀之,則是坎上坤下。坎為勞卦,坤為國邑,是居國中內不自安者,於以率土稱臣,望風納贐,既免徵誅,又沐聖化,上下相應,亦得比義。若夫不度德力,負固不服,如上六所謂後夫者,非比之善者矣。

一卦を総じて観れば一陽五陰だが、一卦を分けて観れば坎が上、坤が下である。坎は労卦、坤は国邑。すなわち国中に居りて内に自ら安んぜざる者が、率土に臣を称え、風を望んで贄を納め、すでに征誅を免れ、また聖化を沐する。上下相応じて、また比の義を得る。これが卦辞の言う「不寧方来」である。徳と力を度らず、固く恃んで服さない者――上六のいわゆる「後夫」の如きは、比の善ではない。

上自剝易,復陽上往則順,剝陽下來則逆。陽為夫,居五之後,故曰後夫。剝之上為艮,虞氏曰:艮為背,上位在背後,無應乘陽。荀氏曰:後夫謂上,上逆禮乘陽,不比聖王,其義當誅。於【於:乾】氏曰:後服之夫,違天失人,必災其身,故曰凶也。

上六は剥卦から変じた。復の陽が上に往くは順、剥の陽が下に来るは逆である。陽は「夫」と称し、上六は九五の後に居るので「後夫」と言う。剥卦の上体は艮で、虞翻は艮は背であると言う。上六の位はまさに背後にあり、正応もなく、九五の陽爻を乗り越えている。荀爽は言う、「後夫」とは上六を指し、礼に逆らい陽を乗じて、聖王に比しない。その義は誅すべきである、と。干宝は言う、後れて服する夫は、天に違い人を失い、必ず身に災いする。だから凶である、と(原刻は「于氏」と作るが、校記は「于」は「干」に作るべきとし、晋の人・干宝を指す)。

象曰:地上有水,比,先王以建萬國,親諸侯。人之附君,猶水附地,地上有水,故象。先王取比象以建國親諸侯者,蓋剝上艮為門闕,復下震為諸侯。虞氏曰:震為建,為諸侯,坤為萬國,為腹,坎為心,腹心親比,故曰建萬國、親諸侯。

《大象伝》に曰く、地上に水あるは比なり、先王以て万国を建て諸侯を親む、と。人の君に附くは、水の地に附くがごとし。地上に水あれば、こそばって離れないので象に取る。先王が比の象に拠って国を建て侯を親んだ所以は、剥卦の上体の艮が門闕を象り、復卦の下体の震が諸侯を象るからである。虞翻は言う、震は建立・諸侯、坤は万国・腹、坎は心。腹と心が親び相い倚る。だから「建万国、親諸侯」と言う、と。

初六:有孚比之,無咎,有孚盈缶,終來有他吉。初為坤下,坤為土,信屬土德,而在比家,是為有孚比之。初以己之孚信上往比五,以信相比,何有於咎?夫坤既為孚,而坤又為缶,虞氏曰:坤為器,為缶。鄭氏曰:缶,汲器也。上為坎水,下為坤缶,缶在下位,水浮缶上,是為盈缶。有孚若是,雖初不應五,外之曰他,而居下親上,終來相比。荀氏曰:初在應外,以喻殊俗,聖人之信光被四表,絕域殊俗皆來親比,故吉也。象曰:比之初六,有他吉也。初非五之正應,而以有孚比五,是有他也。比在於初,不惟有異於後夫,而與二之內比亦較獨先,故吉。

初六の爻辞:孚あること之を比す、咎なし。孚あること缶に盈ち、終に他の吉あり。初六は坤体の最下にあり、坤は土に属し、五徳のうち「信」は土に属する。それが比卦に身を置くので「有孚比之」と言う。初六は己の孚信をもって上に往って九五に比する。信をもって相い比するのだから、何の咎があろうか。坤は孚を象り、また缶を象る。虞翻は坤は器・缶であると言い、鄭玄は缶は汲み器であると言う。上体は坎水、下体は坤缶。缶は下位にあり、水は缶の上に浮かぶ。これが「盈缶」である。孚がこのように至れば、たとえ初六が九五の正応でなくとも――正応でなければ「他」と称するが――下に居りて上に親しみ、終に来たりて相い比する。荀爽は言う、初六は正応の外にあって、俗の異なる遠方を喻えている。聖人の信は四表に光被して、絶域殊俗も皆来たり親比する。だから吉である、と。《小象伝》に曰く、比の初六は、他の吉あり、と。初六は九五の正応ではないが、孚を有して九五に比する。これが「有他」である。比が初爻に起こるのは、「後夫」の遅れて服しないと異なるばかりでなく、六二の「自内」の比よりもなお先んじている。だから吉である。

六二:比之自內,貞吉。五為卦主,二為正應,五在外卦而二自內比之,此比之正者,吉也。象曰:比之自內,不自失也。六三:比之匪人。三非正應,而居上下諸陰之間,陰為小人,匪人象,是所比者皆匪人也。象曰:比之匪人,不亦傷乎。與匪人比,必受其傷。曰不亦傷乎者,欲比之者深思自得也。

六二の爻辞:之を内より比す、貞吉。九五は一卦の主で、六二はそれと正しく応ずる。九五は外卦にあり、六二は内卦からこれに比する。これが比の最も正しい者で、だから吉である。《小象伝》に曰く、之を内より比するは、自ら失わざればなり、と。六三の爻辞:比するは人に非ず。六三は九五に応ぜず、また上下の諸陰の間に挟まっている。陰は小人で、まさに「匪人」の象、だからその比するところは皆正ならざる人である。《小象伝》に曰く、之を匪人に比するは、亦た傷まざらんや、と。匪人と比すれば、必ずその傷を受ける。「不亦傷乎」と問いかける口気は、比しようとする者に自ら深思して得せしめんとするものである。

六四:外比之,貞吉。五陽居尊,眾陰比之,是為臣比君。五居四外,四內比之,是為內比外。四本外卦,而五又在四外,故曰外比。四近五陽而又當位,固得比義之正者,貞吉也。象曰:外比於賢,以從上也。外陽為賢,居四之上,宜以從之者比之。

六四の爻辞:外に之を比す、貞吉。九五は陽で尊位に居り、衆陰が皆これに比する。これは臣が君に比することである。九五は六四の外にあり、六四は内から外に出てこれに比する。これを「以内比外」と言う。六四はもとより外卦にあり、九五はまた六四の外にあるので「外比」と言う。六四は九五の陽爻に近く、また陰で陰に居て位が当たる。もとより比の義の正に合するので、貞吉である。《小象伝》に曰く、外に賢を比するは、以て上に従えばなり、と。外の陽爻がすなわち「賢」で、六四の上に居る。従って之を比すべきである。

九五:顯比,王用三驅,失前禽,邑人不誡,吉。五陽居尊位,是謂之王。陽明陰晦,是以陽明比天下者,故曰顯比。比以求應,其有不來比者,王者亦不強之使服,如軍禮然。鄭氏曰:王因天下顯習兵於搜狩,為驅禽而射之,三發則已,軍禮也。失前禽者,謂禽在前來者不逆而射之,旁去又不射,惟背而走者順而射之,不中則已,是皆所以失之,用兵之法亦如之。

九五の爻辞:顕比、王三駆を用い、前禽を失い、邑人誡めず、吉。九五は陽で尊位に居るので「王」と称する。陽は明を主り陰は晦を主り、九五は陽の明をもって天下に比する。だから「顕比」と言う。比は応を求めるためで、来たりて比しない者があれば、王者もまた強いて服させない。軍礼の規矩のようなものである。鄭玄は言う、王は天下の顕に兵を習う搜狩の礼に因り、禽を駆ってこれを射る。三発すれば止める。軍礼である、と。「失前禽」とは、禽が前より来たる者は迎えて射ず、旁ら去る者もまた射ず、ただ背いて走る者のみ順に射て、中らなければ止める。これらは皆わざと生路を失すことである。用兵の法もまたこのごとし。

坤為田,互艮為狐狼,坎為豕,又為弓輪,為輿馬,三驅之象。艮又為止,坎為隱伏,失前禽象。震為聲音,復震不見,變為坤邑,邑人不誡象。既不專用夫刑殺,亦不怠玩夫武事,恩威兼施,坦白之衷昭然若揭。當夫人心未定,宜用文告,而天下向應,坤邑之人有不待誡而自孚者,此比之吉也。

取象について言えば、坤は田猟の場を象り、互体の艮は狐狼を象り、坎は豕を象り、また弓輪・車馬を象る。合わせて「三駆」の象である。艮はまた静止を主り、坎は隠伏を主り、まさに「失前禽」の象である。震は声音を主るが、比卦は復卦から変じて復の震体はすでに見えず、坤の象する邑に変わった。これが「邑人不誡」の象である。かくのごとく刑殺に専ら頼ることなく、また武事を怠玩しない。恩と威を兼ね施し、その坦白の衷は昭然として掲げられるがごとし。人心がまだ定まらない時は、まさに文告をもって諭すべきである。天下は風に応じて響き、坤邑の人々は誡めを待たずして自ずから信従する。これが比が吉を得る所以である。

象曰:顯比之吉,位正中也;舍逆取順,失前禽也;邑人不誡,上使中也。逆,迎也,言禽之迎人來者舍之,背人去者曰順,是順行欲逸也,始射取之。五居坎中,比五即比中,邑人比五之中,若上有以使之。

《小象伝》に曰く、顕比の吉は、位正中なればなり。逆を舎て順を取るは、前禽を失うなり。邑人誡めずは、上の中を以て使うなり、と。「逆」は迎えることで、禽が人に迎いて来たる者は舎て、人に背いて去る者を「順」と言う。すなわち順に行って逸せしめ、初めて射て取る。九五は坎体の中に居り、九五に比すればすなわち中に比する。邑人が比するはまさに九五のこの「中」で、上に以てこれを使う者があるがごとし。

上六:比之無首,凶。上以剝之艮陽易居於五,猶初以復之震陽易居於五,而其吉凶不同者,蓋下之往上為順,而上之下來為逆。且震動則能先比來歸,艮止則非道窮不降。故初則曰有孚,而上則為無首。首,陽也,去剝之首以降五,是無首也,故凶。象曰:比之無首,無所終也。無所終者,窮極始比,戮斯及矣。

上六の爻辞:之を比するに首なし、凶。上六は剥卦の艮体の陽爻を移して五位に居らせた。ちょうど初六が復卦の震体の陽爻を移して五位に居らせたがごとし。やり方は似ているが吉凶が違うのは、下から上に往くが順で、上から下に来るが逆だからである。しかも震は動を主るので先んじて帰附でき、艮は止を主るので道が窮まらなければ降らない。だから初六には「有孚」と言い、上六は「无首」となる。「首」は陽爻を指し、剥卦で首に居った陽爻を移して五爻としたので、上六自身には首がない。だから凶である。《小象伝》に曰く、比の首なきは、終わる所なきなり、と。「无所終」とは、窮途末路に至ってから比に来たるので、誅戮がすなわち及ぶことを言う。

小畜卦

【乾下巽上,中互離兌】姤、夬。小畜為一陰五陽卦,自姤夬二卦來:姤初升四,夬上降四。小畜:亨,密雲不雨,自我西郊。一陰伏二陽之下曰巽,乾下巽上,卦名小畜者,以小者為所畜也。陽大陰小,以陰畜陽謂之大畜,而以陽畜陰即謂之小畜。畜,藏也,又止也。一陰居中,眾陽包藏而止之,故名小畜也。夫畜則宜亨,而畜猶不能遽亨,其象如雨,雨降則亨。當其未降,未嘗有雨而祇有云,密雲而在西郊,則陰未肯遽從陽矣。互兌之澤為雨,兌居乾上,故曰云;兌位西,乾為郊,故曰密雲不雨自我西郊也。

【下卦は乾、上卦は巽、中間の互体は離と兌】《姤》《夬》より来たる。小畜は一陰五陽の卦で、《姤》《夬》の二卦から変じた。姤卦の初爻が四位に昇り、夬卦の上爻が四位に降りた。卦辞:小畜、亨、密雲雨ならず、我が西郊より。一つの陰爻が二つの陽爻の下に伏するを「巽」といい、この卦は乾が下、巽が上。「小畜」と名づけたのは、畜止される「小さき者」(陰爻)について言う。陽は大で陰は小。陰をもって陽を畜止するを「大畜」といい、陽をもって陰を畜止するを「小畜」という。「畜」は収蔵であり、また止めること。一つの陰爻が中間に居り、衆陽がこれを包蔵して止めるので「小畜」と名づける。畜めばまさに亨すべきだが、畜めてもすぐには亨しない。その状況は雨にたとえられる。雨が降って初めて亨である。まだ降らない時、雨はなくて雲だけがある。密雲が西郊にあれば、陰がすぐには陽に従おうとしないことになる。互体の兌は沢で、沢はすなわち雨。兌はまた乾の上に居るので「雲」と言い、兌の方位は西、乾は郊を象る。だから「密雲不雨、自我西郊」と言うのである。

彖曰:小畜,柔得位而上下應之,曰小畜。健而巽,剛中而志行,乃亨。密雲不雨,尚往也;自我西郊,施未行也。此卦名小畜者,以為五陽畜一陰,所畜者小也。一陰甚微,畜之似易,而無如柔得位也。柔,四也。夬柔在上,姤柔在下,今則居中,而又柔居陰位,是為柔得位。柔在姤為巽,柔在夬為兌,今則互兌正巽仍見。夬上下降而應四,姤初上升亦應四,是為上下皆應。陰既得位,又有陽應,豈能畜止?既不能畜,又何由亨?而又云亨者,以卦德卦體見之也。乾陽德健,巽以行權,五陽剛中,志在行道,志行則通,故曰亨也。

《彖伝》に曰く、小畜とは、柔が位を得て上下これに応ずる、故に小畜と曰く。健にして巽、剛中にして志行えば、乃ち亨。密雲不雨は、尚お往くなり。自我西郊は、施し未だ行われざればなり、と。この卦が「小畜」と名づけられたのは、五陽が一陰を畜止し、畜められる対象が小さいからである。一つの陰爻は極めて微弱で、畜止しやすいように見えるが、柔が位を得ていることがどうにもならない。この柔爻とは六四である。夬卦では柔は最上にあり、姤卦では柔は最下にあったが、今は上体の中に居り、しかも柔をもって陰位に居る。これが「柔得位」である。柔は姤卦では巽に属し、夬卦では兌に属したが、今は互体の兌と正体の巽が依然として見える。夬卦の上爻が降って四に応じ、姤卦の初爻が昇ってまた四に応ずる。これが「上下皆応」である。陰がすでに位を得て、また陽がこれに応ずる以上、どうして畜止できよう。畜止できない以上、何を以て亨としよう。それでも《彖伝》が「亨」と言うのは、卦徳と卦体から見たものである。乾の陽徳は剛健、巽は権に通じ、五つの陽爻は剛にして中を得て、志は道を行うにある。志が行われれば自ずから通ずる。だから「亨」と言うのである。

夫惟亨乃見畜道之成,而既名畜,則又不能遽亨。蓋兌澤為雨,今互兌而居乾天之上,澤不及地,是尚未雨而祇為雲。我,四也,四為卦主,故曰我也。西郊者,互兌正乾也。密雲不雨,雨尚未降而云自往;自我西郊,雨已欲施而尚未行。雲與雨,陰象也;西郊,陰地也。陰陽雖異,久則漸合,雨隨雲降,萬物棣通。如王者欲去小人,推誠以馭之,用賢以遠之,久則頑梗格非,兇暴漸退,海內承平,至於刑措。此剛中志行之義,故曰小畜亨也。

ただ亨あってこそ畜止の道の成るを見る。しかしすでに「畜」と名づける以上、またすぐには亨できない。兌は沢で、沢はすなわち雨。今、兌は互体にすぎず、また乾天の上にある。沢気が地に及ばないので、まだ雨とならず雲のみである。「我」とは六四で、六四は一卦の主なので「我」と称する。「西郊」とは互体の兌と正体の乾を指し、兌は西にあり、乾は郊を象る。「密雲不雨」とは、雨がまだ降らず雲が自ら往くこと、「自我西郊」とは、雨の意がすでに施さんとしつつまだ行われないことである。雲と雨は陰象、西郊も陰位である。陰陽の性質は異なるが、日が久しければ自ずから漸く融合し、雨は雲に随って降り、万物は棣通する。これは王者が小人を除こうとするにたとえられる。急いで扑殺せず、誠を推してこれを御し、賢を用いてこれを遠ざける。日が久しければ頑強な者は邪心を革め、凶暴な者は漸く退き、海内は承平して、遂に刑措に至る。これがまさに《彖伝》の「剛中而志行」の義で、だから「小畜、亨」と言うのである。

象曰:風行天上,小畜,君子以懿文德。九家易曰:風者,天之命令也,今行天上,則是令未下行,畜而未下,小畜之義也。懿,美也。乾為德,德之文外見而德之美內藏,以懿文德,有畜象焉。初九:復自道,何其咎,吉。陽剛畜陰,貴有時位。初位卑下,是不能畜四者。雖與四應,而在姤卦原相對易,姤四既易為初,即是由四反初,反復其道,小畜之卦成焉。姤之初上往居四,小畜之四遂下來居初,來者復也。四自道以復初,初豈能上往以畜四?安初之位,不肯妄畜,何有於咎?吉矣。象曰:復自道,其義吉也。

《大象伝》に曰く、風天上に行くは小畜なり、君子以て文徳を懿くす、と。《九家易》は言う、風とは天の命令で、今天上に行くは、令がまだ下に行かず、畜めてまだ下さない、小畜の義である、と。「懿」は美である。乾は徳を象り、徳の文は外に現れ徳の美質は内に蔵る。文徳を懿くすること、その中に畜蔵の象がある。初九の爻辞:道自ら復り、何の咎かあらん、吉。陽剛をもって陰を畜止するには、時と位を貴ぶ。初九の位は卑下で、これは六四を畜止し得ないものである。六四と応じるが、姤卦ではもとよりこの二爻は互いに換位する関係だった。姤の四爻がすでに初位に換わった、これは四から初に反ったのであって、その道を反復して小畜の卦が成ったのである。姤の初爻が上って四位に居れば、小畜の四爻は下って初位に居る。「来」とはすなわち「復」、帰ることである。六四が自らの道に随って初に復る以上、初九がどうして上に往って六四を畜止できよう。初位に安んじて妄りに畜めようとしない。何の咎があろうか。吉である。《小象伝》に曰く、道自ら復るは、其の義吉なり、と。

九二:牽復,吉。二非四應,亦不相對易,何有於復?而又云復者,則以為初所牽故也。牽復居下,雖乾德至健,亦不能上行畜四,故吉。夫小人在位,朝野共疾,而不在其位不謀其政,激之者無人,禍不至於驟起,居上位者庶得從容密籌,無僨事也。初二皆係曰吉,聖人憂患之心微矣。象曰:牽復在中,亦不自失也。初與二皆與四遠,不能畜四。初以復道為吉,二以牽復得吉,初不自失,二亦然也。

九二の爻辞:牽かれて復る、吉。九二は六四に応ぜず、またかつて換位したこともない。どうして「復」を言えよう。それでも「復」というのは、初九に牽かれているからである。牽かれて退いて下位に安んずれば、乾徳が至って剛健でも、上って六四を畜止するに至らない。だから吉である。小人が位にあれば朝野が共に疾むが、其の位にあらざれば其の政を謀らず。彼を激する者がなければ、禍は驟には起こらず、上位に居る者は従容として密かに籌め、事を敗らない。初九と九二のいずれにも「吉」の字を系げたのは、聖人の憂患防危の心が精微であるからである。《小象伝》に曰く、牽かれて復りて中に在るは、亦た自ら失わざればなり、と。初九と九二はいずれも六四から遠く、六四を畜止し得ない。初九は道に復るを以て吉とし、九二は牽かれて復るを以て吉を得る。初九が自ら失わないように、九二も同じである。

九三:與說輹,夫妻反目。三與四比,而位亦漸高,可以畜矣,而三適當乾上。馬氏曰:乾為車,象輿。輿有輹則輿乃堅,輹,車軸縛也。乃三又當互兌之中,兌為毀折,是為說輹之輿。夬卦三上相應,陰陽相配,是為夫妻,而易為四,陰陽乖錯。且互離為目,而在內卦外卦之交,九家易曰:離既不正,五引而上,三引而下,故反目。輿說輹則不能行,夫妻反目則不相親,其何能畜矣?象曰:夫妻反目,不能正室也。在夬三與上應為夫妻,是三以上為室,今易為四,四自有夫,三不能正之矣。

九三の爻辞:輿輹を説ぎ、夫妻目を反す(爻辞の「与」は「輿」に作るべき)。九三は六四に比し、位も漸く高い。もとより畜止に行けたが、九三はちょうど乾体の最上に処る。馬融は言う、乾は車で「輿」の象である。輿に輹があれば輿は堅く、輹とは車軸を縛る革である。しかし九三はまた互体兌卦の中に当たり、兌は毀折を主る。そこで輹を脱いだ輿となる。夬卦では三と上が応じ、一陰一陽が相配して、まさに夫妻だった。小畜に変わると、それと配するのは六四に換わり、陰陽が錯位する。しかも互体の離は目を象り、また内卦と外卦の接する処に当たる。《九家易》は言う、離は正位に居らず、九五は上に引き、九三は下に引く。だから反目する、と。輿が輹を脱げば行けず、夫妻が目を反せば相い親しまない。これでどうして畜止できよう。《小象伝》に曰く、夫妻目を反すは、室を正しくすること能わざればなり、と。夬卦では九三が上六と応じて夫妻、すなわち九三は上六を以て室とした。今は六四に換わり、六四には自らの配があるので、九三はこれを正しくできない。

六四:有孚,血去惕出,無咎。四為互離之中,離體中虛,象孚。離與坎反,坎為血卦,反坎則象血去;坎為加憂,坎反則象惕出。夫陰廁陽中,每易得咎,而能積誠以處,亦自不至罹患害而招罪愆。聖人雖不為小人謀,而亦未嘗不欲生之也,所以全小人之術,無加於此矣。象曰:有孚惕出,上合志也。四與五同為互離,即同為有孚,五居四上,四上孚五,是志合也。

六四の爻辞:孚あり、血去り惕出づ、咎なし。六四は互体離卦の中にあり、離体の中爻は虚で、孚を象る。離は坎と正反対である。坎は「血卦」で、坎を反せば「血去」の象となる。坎は加憂を主り、坎を反せば「惕出」の象となる。一つの陰爻が衆陽の中に厠れれば、もともと咎を招きやすいが、誠を積んで処ることができれば、自ずから罹患し罪を招くに至らない。聖人は小人のために謀らないが、また彼に生路を与えたくないこともなかった。小人を全うする術は、これに加えるものはない。《小象伝》に曰く、孚ありて惕出づるは、上と志を合せばなり、と。六四と九五は同じく互体離卦にあり、すなわち同じく孚を有する。九五は六四の上に居り、六四は上に九五に孚を取る。これが志の合である。

九五:有孚攣如,富以其鄰。攣,繫也。五與四同有互離之孚,又牽巽繩以攣之,則畜彌固。巽為繩直,故云攣如。夫陽實陰虛,陽有富象,而巽為近利市三倍,五固自富。四為五鄰,故富波及於鄰。蓋五四同體為巽,即同體為富,積誠以感之,又厚實以養之,此何如畜者?象曰:有孚攣如,不獨富也。不獨富,兼富鄰也。

九五の爻辞:孚ありて攣如、富を以て其の隣に及ぼす。「攣」は繋ぐこと。九五は六四と同じく互体離卦の孚を有し、また巽の象する縄を牽いてこれを繋ぐ。すると畜止はいよいよ固くなる。巽は縄・直なので「攣如」と言う。陽爻は中実、陰爻は中虚で、陽は富足の象がある。《説卦》は巽を「近利市三倍」と言うので、九五はもとより自ら富んでいる。六四は九五の近隣なので、富沢は隣に及ぶ。九五と六四は同じく巽体に属し、すなわち同じく「富」の中にいる。九五は誠意を積んでこれを感じ、また厚い実恵をもってこれを養う。これはいかなる畜止の法か。《小象伝》に曰く、孚ありて攣如とは、独り富まざるなり、と。独り富まずとは、隣を兼ねて富ますことである。

上九:既雨既處,尚德載,婦貞厲,月幾望,君子征凶。互兌在乾上,猶之雨在天上,故卦辭祇曰密雲;至於上九,兌澤在上位之下,故曰既雨。陽動前行,上爻已盡,無可行矣,虞氏曰:巽為處,故曰既處。卦僅一陰,幾乎純陽,陽德至此亦云極盛,乾為德,是為德積載。四為互離互兌,中女少女也;至上則成巽,是為長女,為婦。五陽畜陰,陽眾陰寡,婦雖貞正而亦危厲。

上九の爻辞:すでに雨りすでに処り、徳を尚びて載を積めり、婦貞にして厲なり、月幾く望なり、君子征けば凶。互体の兌が乾の上にあるのは、まだ雨が天に懸かっているようなもので、だから卦辞はただ「密雲」と言う。上九に至っては、兌沢は上位の下に落ちたので「既雨」と言う。陽爻はもとより前に進んで、上爻に至ればすでに尽きて行くところがない。虞翻は巽は「処」(安く処る)を主ると言う。だから「既処」と言う。全卦に陰爻が一つしかなく、ほとんど純陽で、陽徳はここに極盛とも言える。乾は徳を象る。これが「徳積載」である。六四はもと互離・互兌の中にあり、離は中女、兌は少女。上位に至れば巽を成し、巽は長女、すなわち「婦」である。五つの陽爻が一つの陰爻を畜止する。陽は多く陰は寡なく、あの「婦」はたとえ貞正でも、処境は危厲である。

夫易夬之上陰為四,坎象隱現,坎為月,月陰無光,借陽之光以為光。巽餘一陰,陽光微缺,有似月之幾望然者。則是九仞之山,一簣未覆;九仞之井,一掘逢源。畜道至此亦幾成矣,特恐君子自生異志,不欲固結同心而望望然去之。天下事有初鮮終以致凶者,正不少也。

夬卦の上六を小畜の六四に換えると、坎の象はその中に隠れ見えする。坎は月を象り、月は自ら光がなく、太陽の光を借りて光る。巽体に残る陰爻はこの一つだけで、陽の光が微かに缺けて、ちょうど月が将に望とならんとするようなものである。これは九仞の土山を堆くのにあと一篭の土がまだ覆わないようなもの、九仞の井を掘るにあと一掘りで源に逢うようなものである。畜止の道はここに至ってほとんど成るが、ただ君子が自ら異志を生じ、同心で固く結ぼうとせず、かえって怏怏として去ることを恐れる。天下の事で、始めがあって終わりが少なくて凶を致すものは、まことに少なくない。

象曰:既雨既處,德積載也;君子征凶,有所疑也。虞氏曰:巽為疑。恐君子以猜疑致凶,蓋戒辭也。夫眾陽畜陰,何難立決?然此為柔得位者言也。柔既有權,在下位者不可清【清:輕】議以招危,而為君為大臣者亦不可妄動以激變。惟宜積誠感服,擇賢任能,君子同心輔治,小人自孤立遠避,不可自生釁隙,致小人得以乘間復入。聖人立言,誠萬世之龜鑑也。

《小象伝》に曰く、すでに雨りすでに処るは、徳積載なり。君子征けば凶は、疑う所有ればなり、と。虞翻は巽は疑を主ると言う。君子が猜疑を以て凶を致すを恐れたので、これは一句の告誡の辞である。衆陽が一つの陰爻を畜止するのは、立ちどころに決するが易いように見える。しかしこれは「柔得位」の局面について言ったのである。柔がすでに権柄を握れば、下位に居る者は軽々しく議論して自ら危険を招いてはならず(原刻は「清議」と作るが、校記は「清」は「軽」に作るべきとする)、また君・大臣たる者も妄動して変を激成してはならない。ただ誠意を積んで感化して服せしめ、同時に賢を選び能を任ずべきである。君子が同心で政を輔ければ、小人は自ずから孤立して遠く避ける。決して自ら裂け目を作って、小人に隙を窺って再び入らせてはならない。聖人が立てたこの言は、実に万世の亀鑑である。

履卦

【兌下乾上,中互巽離】姤、夬。履為一陰五陽卦,自姤夬二卦來:姤初升三,夬上降三。虞氏上九爻注曰:三上易位,故其旋元吉。蓋謂自夬來也。履虎尾,不咥人,亨。一陰見二陽之上曰兌,兌下乾上,卦名為履者,言兌往上履乾也。履,躡也;咥,齧也。卦中有虎象,虎為咥人之物,履其尾而人不為所咥,故亨通也。

【下卦は兌、上卦は乾、中間の互体は巽と離】《姤》《夬》より来たる。履は一陰五陽の卦で、《姤》《夬》の二卦から変じた。姤卦の初爻が三位に昇り、夬卦の上爻が三位に降りた。虞翻は上九の爻注で「三と上が位を易えたので、爻辞に『其旋元吉』と言う」と言っている。これは履卦が夬卦から変じたことを言う。卦辞:虎の尾を履む、人を咥えず、亨。一つの陰爻が二つの陽爻の上に現れるを「兌」といい、この卦は兌が下、乾が上。「履」と名づけたのは、兌が上に往って乾を履むことを言う。「履」は踏むこと、「咥」は咬み齧ること。卦の中に虎の象を含み、虎はもとより人を咬む猛獣だが、その尾を履んでも人が咬まれないので、亨通するのである。

彖曰:履,柔履剛也。說而應乎乾,是以履虎尾,不咥人,亨。剛中正,履帝位而不疚,光明也。此卦何以名履?履者,以下履上之謂,乃兌柔履乾剛也。而又曰虎者何也?五以乾剛而居君位,乾為龍、虎,故乾卦兼言風虎。君既象龍而又象虎,故革五又言虎變。且大君之威懍然難犯,故韓子曰批龍鱗,而卦象曰履虎尾也。五為虎,四為尾,兌柔履之。

《彖伝》に曰く、履とは、柔の剛を履むなり。説にして乾に応ずれば、是を以て虎の尾を履みて人を咥えず、亨。剛中正、帝位を履みて疚しからざるは、光明なればなり、と。この卦がなぜ「履」と名づけるか。「履」とは下位を以て上位を履むこと、すなわち兌の柔が乾の剛を履むことである。それではなぜ虎を言うのか。九五は乾の剛爻をもって君位に居り、乾は龍を象りまた虎を象るので、《乾・文言》では「雲従龍、風従虎」と龍虎を並び挙げる。君主は龍に象りまた虎に象るので、《革》卦の九五もまた「大人虎変」と言う。しかも大君の威は凛然として犯しがたいので、韓非には「批龍鱗」の言があり、ここの卦象は「履虎尾」と言うのである。九五は虎、九四は虎の尾で、兌の柔爻が下からこれを履む。

夫虎尾可履而虎口宜防,虎尾掉則首回,虎口張則必咥。上乾為首,下兌為口,虎口咥人,豈不謂凶?而曰不咥人者,蓋以兌為口而又為說,兌說應乾,以柔事剛,不攖其怒,故致亨也。然下履五則謂之履虎尾,而五自履則謂之履帝位。帝者,君也,乾為君即帝也。九五剛而不柔,中而不偏,正而無私,有此三德以履帝位,何有於疚?疚,病也。為其居乾之中,乾為大明,陽光炳耀,故無隱慝耳。

虎の尾は履めるが、虎の口は防がなければならない。虎の尾が動けば頭が回り、虎の口が開けば必ず咬む。上体の乾は頭を象り、下体の兌は口を象る。虎口が人を咬むは、凶と言わざるを得ないではないか。卦辞が「不咥人」と言うのは、兌が口を象ると同時に和悦を主とするからである。兌は和悦の態をもって上に乾に応じ、柔順をもって剛強に事え、その怒りを犯さない。だからかえって亨となるのである。ただし下から九五を履むを「履虎尾」と言い、九五自身が践履するを「履帝位」と言う。「帝」とは君で、乾は君を象りすなわち帝である。九五は剛強にして柔でなく、中にして偏らず、正にして私なし。この三徳を備えて帝位を履むのだから、何の疚(病)があろうか。「疚」は病である。それが乾体の中に居り、乾は大明で、陽の光が炳耀するので、隠れた邪慝がないのである。

象曰:上天下澤,履,君子以辨上下,定民志。《爾雅》曰:禮,履。曰天尊澤卑,上乾下兌之卦,禮文秩然,故君子體此卦象,辨上下之分,以定民之心志。互離文明,故曰辨;兌為附決,故曰定。《禮》曰:君臣上下父子兄弟,非禮不定。是其義也。

《大象伝》に曰く、上天沢、履、君子以て上下を辨じ民志を定む、と。《爾雅》は「礼」を「履」と訓じ、礼とは人の践履することである。天は尊く沢は卑く、乾上兌下の卦は礼の秩序が秩然として分明である。だから君子はこの卦象を体して、上下の分を辨じて民の心志を安定する。互体の離は文明を主るので「辨」と言い、兌は附決を主るので「定」と言う。《礼記・曲礼》に「君臣上下父子兄弟、礼に非ざれば定まらず」とあるのが、まさにこの意である。

初九:素履,往無咎。卦之所以名履者,謂以兌履乾;而卦之所以成兌者,謂以姤初升三。姤之巽易為履之兌,則此履而前往者,巽之素也。初距五遠,無履尾之危,能安其素,往不踰分,故無咎。象曰:素履之往,獨行願也。

初九の爻辞:素履、往けば咎なし。この卦が「履」と名づけられた所以は、兌を以て乾を履むことを言う。下体が兌と成った所以は、姤卦の初爻が三位に昇ったことを言う。姤の巽体が履の兌体に換われば、今「履」に循って前に往くのは、まさに巽の本色、「素」とは本色のことである。初九は九五から遠く、虎の尾を履む危険がなく、自分の本色に安んじ、往いて本分を踰えない。だから咎がない。《小象伝》に曰く、素履の往くは、独り願を行えばなり、と。

九二:履道坦坦,幽人貞吉。二五俱陽,不能相應,是能擇道以自履者。二為兌中,兌於地為剛滷,鹵地平衍,故道曰坦坦,坦,寬平也。兌位正西,西地多陰,則為幽人。履坦坦之道,是幽人能正其履,不肯蹈危,故吉。象曰:幽人貞吉,中不自亂也。不自亂,言不自亂其履也。

九二の爻辞:道を履むこと坦坦、幽人貞吉。九二と九五はともに陽爻で、相感応し得ない。まさに自ら道を択んで行ける者である。九二は兌体の中に居り、《説卦》は兌を「其於地也為剛鹵」という。鹸鹼の地は平坦広いので、道を「坦坦」と言う。「坦」は寛平である。兌の方位は正西で、西の地は陰気が多い。だから「幽人」を象る。坦坦の道を履む、これは幽居の人が自らの践履を正しくし、危険を蹈もうとしないことである。だから吉である。《小象伝》に曰く、幽人貞吉は、中に自ら乱れざればなり、と。「不自乱」とは、自らの践履を乱さないことを言う。

六三:眇能視,跛能履,履虎尾,咥人,凶,武人為于大君。三以陰柔而居陽位,是妄履者。三在卦為正兌,兌為小,僅得離目之半,是目眇也,眇,小目也。三在姤為正巽,巽為股,今易為兌,兌為毀折,則股已傷,是足跛也。既眇且跛,而欲恃互離之目、互巽之股以為能視能履,陰僭自用而履虎尾,適當兌口,口必咥人,其凶立見。夫智能避險,固為保身之哲;而志在犯難,亦為致身之勇。剛健果敢,不懼虎咥,捍衛社稷,視死如歸,為大君得其宜矣。蓋兌在西為金,又互離為甲冑戈兵,故曰武人也。三與上應,上為乾,乾為大君也。

六三の爻辞:眇ながら視ることを能くし、跛ながら履むことを能く、虎の尾を履みて人を咥う、凶。武人為大君。六三は陰柔の質をもって陽位に居る。これは妄りに履む者である。六三は本卦では正体兌に属し、兌は「小」を主り、離目の半分を得たにすぎない。だから目が小さくて眇である。「眇」とは小さな目である。六三は姤卦では正体巽に属し、巽は大腿を象る。今兌に換わり、兌は毀折を主る。大腿はすでに傷ついたので、足が跛である。眇でありかつ跛でありながら、互体の離の目・互体の巽の股を恃んで、能く視能く履むと思い込み、陰柔をもって僭越して専ら行動し、虎の尾を履めば、ちょうど兌の象する虎口に当たる。口は必ず人を咬む。凶はたちまち現れる。ただし別の角度から見れば、智慧をもって危険を避けられるのは固より身を保つ明哲だが、志を立てて難に赴くのも身を献ずる勇敢である。剛健果決にして虎に咬まれるを惧れず、社稷を捍衛して死を帰と視る。大君に為すに宜しきを得る。兌は西方で金に属し、また互体の離は甲冑戈兵を象る。だから「武人」と言う。六三は上九に応じ、上体は乾で、乾は「大君」を象る。

象曰:眇能視,不足以有明也;跛能履,不足以與行也;咥人之凶,位不當也;武人為于大君,志剛也。位不當者,陰居陽位也,陽居陰位義同。志剛者,剛不避危,武人事君,志宜如是也。九四:履虎尾,愬愬終吉。五為虎,三履之,四亦履之,同在五後,即同履虎尾。而三凶四吉者,以三柔而居剛位則躁妄,四剛而居柔位則謹畏,是四之所以終吉者,以愬愬故也。愬愬,孟氏作虩虩,懼貌。《繫辭傳》曰:四多懼。《春秋傳》曰:天威不違【脫顏字】咫尺。可於履四見之。象曰:愬愬終吉,志行也。

《小象伝》に曰く、眇ながら視るを能くすとも、明あるに足らざればなり。跛ながら履むを能くすとも、行に与るに足らざればなり。人を咥うの凶は、位当たらざればなり。武人為大君とは、志剛なればなり、と。「位不当」とは陰爻が陽位に居ることを指し、陽爻が陰位に居るのも義は同じである。「志剛」とは、剛烈にして危難を避けないこと。武人が君に事える志はもとよりかくあるべきである。九四の爻辞:虎の尾を履みて愬愬、終に吉。九五は虎で、六三がこれを履み、九四もこれを履む。二爻はともに九五の後にあるので、同じく「履虎尾」である。しかし六三が凶で九四が吉なのは、六三は柔をもって剛位に居れば躁妄し、九四は剛をもって柔位に居れば謹畏するからである。九四が終に吉なのは、まさにその「愬愬」の故である。「愬愬」は孟喜本では「虩虩」と作り、恐懼の貌である。《繋辞伝》に「四多懼」とあり、《左伝》に「天威不違顔咫尺」(原刻は「顔」の字を脱す)の言があり、いずれも履卦の九四で印証できる。《小象伝》に曰く、愬愬終吉は、志行なればなり、と。

九五:夬履,貞厲。五以剛中而居陽位,所應所輔無一非剛,有斷決而無游移,此卦辭所以曰虎也。於【於:乾】氏曰:夬,決也。居中履正,為履貴主,萬方所履,一決於前,恐夬失正,恆懼危厲,故曰夬履貞厲。象曰:夬履貞厲,位正當也。位正當者,陽居陽位也,後放此。

九五の爻辞:夬履、貞厲。九五は剛爻をもって中に居りて陽位に居り、それに応じ輔く者に剛でないものがない。行いに断決があって遊移がない。これがまさに卦辞がそれを虎にたとえた所以である。干宝は言う、「夬」とは決断である(原刻は「于氏」と作るが、校記は「于」は「干」に作るべきとする)。九五は中に居りて正を履み、履卦の最も尊貴な主爻で、天下万方の循る道はすべて彼が前で一決して定める。この故にこそ、決断の際に正道を失することを恐れ、恒に危惧の心を懐く。だから爻辞に「夬履、貞厲」と言うのである。《小象伝》に曰く、夬履貞厲は、位正当なればなり、と。「位正当」とは陽爻が陽位に居ることを指す。以下はみなこの例に照らす。

上九:視履考祥,其旋元吉。考,稽也;旋,轉也。履為以下躡上,五為履主,下爻皆履五者,至上則在五前,故不能上履而祇宜下視。上於夬為兌,上與三易,則下為兌而上轉為乾。三為互離之中,離目主視,三上正應,是以離目而視我之祥善也。虞氏曰:乾為祥。乾為大始,是謂之元。然夬上原非乾,而今之為乾,乃由夬上與三一旋轉得之,兌轉為乾,故元吉也。象曰:元吉在上,大有慶也。以夬之三易為履之上,陽為元,故吉,吉不在三而在上也。

上九の爻辞:履を視て祥を考え、其の旋は元吉。「考」は稽察、「旋」は回転。履卦は下を以て上を履むもので、九五は履卦の主、下の各爻はみな九五を履む者である。上九に至っては、かえって九五の前にいるので、これ以上上に履むことができず、ただ下を視るに宜しい。上九は夬卦では兌に属し、上爻と三爻が互いに換われば、下体は兌となり上体は転じて乾となる。六三は互体離卦の中にあり、離は目を象り視を主る。三と上は正しく応ずるので、離の目を以て我が祥善を視ることになる。虞翻は乾は祥であると言う。乾はまた万物の「大始」なので「元」と称する。しかし夬卦の上体はもとより乾ではなかったが、今乾となったのは、まさに夬の上爻と三爻のこの旋回換位によって得たもので、兌が転じて乾となった。だから「元吉」である。《小象伝》に曰く、元吉上に在るは、大いに慶あればなり、と。夬卦の三爻を履卦の上爻に換え、陽爻を「元」とするので吉。この吉は三爻にあらず上爻にある。

泰卦

【乾下坤上,中互震兌】陽息陰消卦。此卦為乾坤合體,而主之者乾,乾消坤也。泰:小往大來,吉亨。六爻俱陽為純乾,為四月卦;得乾之半,上猶為坤,為正月卦。然乾在坤下,則陽上息,卦名為泰。泰,通也。天氣上升,地氣下降,陰陽合和【合和:和合】,故通也。小謂陰,大謂陽。自內之外曰往,自外之內曰來。小者外往,大者內來,故吉亨。

【下卦は乾、上卦は坤、中間の互体は震と兌】「陽息陰消」の類の卦。この卦は乾・坤の両体で合成され、主るのは乾で、乾が坤を消している。卦辞:泰、小往大来、吉亨。六爻が皆陽なれば純乾で、四月の卦に配される。泰卦は乾の半分を得たにすぎず、上体は依然として坤で、正月の卦に配される。しかし乾が坤の下にあれば、陽気は上に滋長する。だから卦名を「泰」とする。「泰」とは通である。天気は上昇し、地気は下降し、陰陽が交合して調和する(原刻は「合和」と作るが、校記は「和合」に作るべきとする)。だから通暢する。「小」は陰を指し、「大」は陽を指す。内卦から外卦に出るを「往」といい、外卦から内卦に帰るを「来」という。小なる者が外に往き、大なる者が内に来る。だから吉で亨通する。

彖曰:泰,小往大來,吉亨,則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也。內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人,君子道長,小人道消也。卦何以謂之泰?以小者前往,大者下來也。乾為天,坤為地;乾在內為下,坤在外為上;乾剛為健,坤柔為順;乾陽為君子,坤陰為小人。君子居內則漸進,是長也;小人居外則漸退,是消也。陽長陰消,運會昌盛,國家太平,故曰泰。

《彖伝》に曰く、泰の小往大来・吉亨は、則ち天地交わりて万物通ずるなり、上下交わりて其の志同じきなり。内陽にして外陰、内健にして外順、内君子にして外小人、君子道長く小人道消ゆるなり、と。この卦がなぜ「泰」と称するか。小なる者が前に往って出、大なる者が下に来て入るからである。乾は天、坤は地。乾は内卦なので下に居り、坤は外卦なので上に居る。乾は剛なので健、坤は柔なので順。乾陽は君子を象り、坤陰は小人を象る。君子が内卦に処れば一歩ずつ前に進む。これが「長」である。小人が外卦に処れば一歩ずつ後に退く。これが「消」である。陽が長じ陰が消ゆれば、時運は昌盛し国家は太平する。だから「泰」と称するのである。

象曰:天地交,泰,后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。荀氏曰:坤氣上升以成天道,乾氣下降以成地道。天地二氣若時不交則為閉塞,今既相交,乃□泰。鄭氏曰:泰,通也;財,節也;輔相左右,助也。以者,取其順陰陽之節,為出內之政,春崇寬仁,夏以長養,秋教收斂,冬勑蓋藏,皆可以成物助民也。虞氏曰:震為左,兌為右,坤為民。

《大象伝》に曰く、天地交わるは泰なり、后以て天地の道を財成し、天地の宜を輔相して、以て民を左右す、と。荀爽は言う、坤気が上昇して天道を成し、乾気が下降して地道を成す。天地の二気が時に交わらなければ閉塞となり、今すでに相交われば、乃ち泰となる(ここで原刻に一欠字あり、「□」を以て存疑とする)。鄭玄は言う、「泰」は通、「財」は節制、「輔相」「左右」はともに助ける意である。「以」とは、陰陽の節度に順って出納の政を施すこと。春は寛仁を崇び、夏は生長養育を助け、秋は収斂を教え、冬は蓋蔵を敕する。いずれも物を成し民を助けることができる。虞翻は言う、震は左、兌は右、坤は民である、と。

初九:拔茅茹,以其匯,征吉。初與四應,四為互震,震為蕃鮮,象茅;初居互震之下,是茅之茹也。茹,茅根;匯,類也。三陽連類,如茅茹然。陽動前行,象茅之拔,是茅以有所引而居地上也。夫茅之拔也連其茹,如賢之征也以其匯,謂二三前往連及於初也。前徵交陰,故吉。象曰:拔茅征吉,志在外也。外,外卦,應四也。

初九の爻辞:茅茹を抜き、其の彙を以てす、征けば吉。初九は六四に応じ、六四は互体震卦に処り、震は草木の蕃盛鮮嫩を主り、まさに茅を象る。初九は互震の下に居り、これが茅の茹である。「茹」は茅の根、「彙」は同類である。下卦の三つの陽爻は類を連ねて、茅の根が蟠結したごとし。陽爻はもとより前に進み、まさに茅の抜かれるがごとし。茅は引かれて初めて土を離れて上がる。茅を抜けば必ずその根を連ねる。ちょうど賢人の出仕が必ず同類を連れて行くようなもので、「以其彙」とは、九二・九三が前に往くにつれて初九をも牽動することを言う。前に進んで上の陰爻と交接する。だから吉である。《小象伝》に曰く、茅を抜きて征けば吉は、志が外に在ればなり、と。「外」は外卦を指し、すなわち六四に応ずることである。

九二:包荒,用馮河,不遐遺,朋亡,得尚于中行。二為乾中,五為坤中,二上應五,有似乾天覆坤地者。坤地曰荒,故曰包荒。二為乾陽,五為坤陰,陰水象,是謂之河。坤地廣遠曰遐。朋,同類也。荀氏曰:河出於乾,行於地中,陽性慾升,陰性慾承,不用舟航自可濟之,故曰馮河。二陽自二升五,道雖遼遠,而乾剛善行,不能止之,故曰不遐遺。三陽為朋,二不為同類所□,故曰朋亡。二為內卦之中,上往交五,故曰中行。夫包荒則量寬,馮河則力勇,不遐遺則敏,朋亡則公,此所以能上交成泰也。象曰:包荒,得尚于中行,以光大也。乾為大明,陽光大也。

九二の爻辞:荒を包み、河を馮りて用い、遐からず遺さず、朋亡し、中行に尚ぶを得。九二は乾体の中に居り、六五は坤体の中に居る。九二は上に六五に応じ、ちょうど乾天が坤地を覆うがごとし。坤の象する大地は荒遠なので「包荒」と言う。九二は乾の陽、六五は坤の陰、陰は水を象るので「河」と称する。坤地は広遠なので「遐」と言い、「朋」は同類である。荀爽は言う、河の水は乾より出て、地中を流行る。陽性は升りたがり、陰性は承けたがる。舟航を用いずとも自ずから済すことができる。だから「馮河」すなわち徒渉すると言う、と。九二の陽爻は二位から五位に昇る。道は遼遠でも、乾剛は行に善してこれを止められない。だから「不遐遺」と言う。下卦の三つの陽爻はもとより朋類だが、九二は同類に牽かれない。だから「朋亡」と言う(ここで原刻に一欠字あり、「□」を以て存疑とする)。九二は内卦の中で、上に往って六五と交接する。だから「中行」と言う。荒を包むは器量の寛、河を徒渉するは気力の勇、遠を遺さぬは行事の敏、私党を結ばぬは心の公。この四つを備えるからこそ、上に六五と交わって「泰」を成せるのである。《小象伝》に曰く、荒を包んで中行に尚ぶを得るは、以て光大なればなり、と。乾は大明で、陽の光は自ずから盛大である。

九三:無平不陂,無往不復,艱貞無咎,勿恤其孚,于食有福。宋氏曰:位在乾極,應在坤極。地平極則險陂,天行極則還復,是治極亂萌,盛極衰伏,不可不預為之防也。惟宜持之以人事,保之以小心,艱難守正,又何有咎?雖外與陰接,若可憂恤,而有孚信以感之,積誠中實,亦自獲福,飲食俱安。三為互兌之中,兌為口,故云食。虞氏曰:乾為福。從知保泰之道,在乎能盡人事,不可徒諉之天運矣。象曰:無往不復,天地際也。際,交際,三為坤乾之交也。

九三の爻辞:平にして陂らざるはなく、往にして復らざるはなし。艱貞なれば咎なし、其の孚を恤う勿れ、食に福あり。宋衷は言う、位は乾の極にあり、応は坤の極にある。地平は極まれば険陂に転じ、天行は極まれば原に復る。これは治が極まれば乱が萌え、盛が極まれば衰が伏すること、預め之を防がざるべからざるなり、と。唯一の方は、人事を以て支え、小心を以て守ること。艱難のうちに正道を守れば、何の咎があろうか。九三は外で陰爻に接するが、憂いのあるべきように見えても、誠信を以て相手を感じさせ、誠意を胸中に積んで中実虚ならざれば、自ずから福を得て、飲食も皆安んじられる。九三は互体兌卦の中にあり、兌は口なので「食」を言う。虞翻は乾は福であると言う。これによって知る、太平を保つ道は人事を尽くすにあり、ひたすら天運に委ねてはならないことを。《小象伝》に曰く、往にして復らざるなきは、天地の際なればなり、と。「際」は交接で、九三はまさに坤と乾の交わるところに当たる。

六四:翩翩不富,以其鄰,不戒以孚。下既連匯上往,上亦翩翩下應。翩翩,群飛向下貌。四為坤陰,陽實陰虛,虛則不富。夫富所以致養,陰虛不富,未有不欲藉陽之富以為富者。四應初,比三,初三皆鄰,而初三又皆陽,以鄰為富,陰之所孚。陽實為孚,陰虛亦為孚,故不待告戒而自孚也。上欲交下,蓋如此。象曰:翩翩不富,皆失實也;不戒以孚,中心願也。陽為實,上卦皆陰,故曰皆失實。中心願者,願下交也。

六四の爻辞:翩翩として富まず、其の隣を以てす、誡めずして孚なり。下の三つの陽爻がすでに類を連ねて上に往けば、上の陰爻もまた翩翩と下って応ずる。「翩翩」は群鳥が下に飛ぶ貌である。六四は坤の陰に属し、陽爻は中実、陰爻は中虚で、虚は富まずである。富はもとより人を養うもので、陰虚で富まなければ、陽の富を借りて己を富ませたくない者はない。六四は上に初九に応じ、下に九三に隣する。初と三は皆その隣であり、しかも皆陽爻である。隣をもって己の富源とするは、まさに陰爻の信頼するところである。陽が中実なるは「孚」、陰が中虚なるも「孚」。だから互いに告げ戒めずとも自ずから信従する。上が下と交わろうとするのは、まさにこのようなものである。《小象伝》に曰く、翩翩として富まざるは、皆実を失えばなり。誡めずして孚なるは、中心の願なればなり、と。陽は実で、上卦は皆陰爻なので「皆失実」と言う。「中心願」とは、願って下の陽と交わることである。

六五:帝乙歸妹,以祉元吉。五為坤中,又為互震,下應互兌,有帝乙歸妹之象。虞氏曰:震為帝,坤為乙,帝乙,紂父;歸,嫁也;震為兄,兌為妹;祉,福也。九家易曰:五應於二,當下嫁二,婦人謂嫁曰歸。二欲上行,五欲下歸,陰陽和合,其交彌固,受乾之福,以得乾元吉也。象曰:以祉元吉,中以行願也。五為坤中,中行於下,願交二也。

六五の爻辞:帝乙妹を帰す、祉を以て元吉。六五は坤体の中に居り、また互体震卦に処り、下に互体兌卦に応ずる。まさに「帝乙嫁妹」の象がある。虞翻は言う、震は帝、坤は乙、「帝乙」は商の紂王の父、「帰」は嫁ぐこと、震は兄、兌は妹、「祉」は福である、と。《九家易》は言う、六五は九二に応じ、理に下嫁して九二に嫁ぐべきである。婦人は嫁ぐを「帰」と称する、と。九二は上に往きたがり、六五は下に帰りたがる。陰陽和合して、二者の交結はいよいよ固い。六五は乾の象する福を承けて、乾の「元吉」を得る。《小象伝》に曰く、祉を以て元吉とは、中以て願を行えばなり、と。六五は坤体の中で、中道を下に行うは、まさに九二と交わるを願うことである。

上六:城復于隍,勿用師,自邑告命,貞吝。虞氏曰:隍,城下溝,有水稱池,無水稱隍。坤為城,陽息至上,坤象毀壞,故曰隍。夫築城鑿池,所以防亂,至太平已久,則有聽其傾圮者,是城復于隍,泰極象也。坤又為師,為邑,乾為言曰告命。陰將消盡,勿用坤師,惟自坤邑以告乾命。蓋陽息至此始為純乾,不宜貞固守之以致羞咎。泰為陽息陰消卦,四五兩爻義取天地相交,而消息之旨乃獨於上發明之,詳繹經文可見也。象曰:城復于隍,其命亂也。亂,治也。《書》曰:惟以亂民。又曰:予有亂臣十人。言命之治亂也。

上六の爻辞:城隍に復る、師を用いる勿れ、邑自り命を告ぐ、貞吝。虞翻は言う、「隍」は城下の溝で、水あるを「池」と称し、水なきを「隍」と称す。坤は城を象り、陽気が上位に滋長すれば、坤の象は毀壊するので「隍」と言う、と。城を築き壕を鑿つはもとより乱を防ぐためだが、太平の日が久しくなれば、それを傾圮に任せる者がある。これが「城復于隍」で、まさに泰が極まった象である。坤はまた軍隊・城邑を象り、乾は言語を主るので「告命」と言う。この時陰は消え尽きんとし、坤の象する軍隊を用いるべきでなく、ただ坤の城邑から乾の命を告げるに宜しい。陽気がここに滋長してまさに純乾とならんとするので、変わらず死守して羞咎を招いてはならない。泰は「陽息陰消」の卦で、四・五の両爻は天地相交の義を取り、「消息」の趣旨はあえて上爻においてこれを発明した。経文を詳しく繹ねれば見える。《小象伝》に曰く、城隍に復るは、其の命乱るればなり、と。「乱」の字はまた「治」の義を兼ね含む。《尚書》に「惟以乱民」とあるは治民で、また「予有乱臣十人」とあるは治国の臣十人。ここはまさに号令の治と乱について言ったのである。

否卦

【坤下乾上,中互巽艮】陰息陽消卦。此卦為乾坤分體,主之者坤,坤消乾也。泰否皆母卦,凡三陽三陰卦皆自泰否來。否之匪人,不利君子貞,大往小來。六爻俱陰為純坤,為十月卦;坤乾分立,為七月卦。然坤在內,乾在外,乾消坤息,卦名否。否,塞也。天氣上浮,地氣下沈,陰陽隔閡,故塞也。陰結逼陽【陰結逼陽:陰往結陽】,小人用事,君子欲守正則不能利【脫和字】焉。匪人,即小人也。

【下卦は坤、上卦は乾、中間の互体は巽と艮】「陰息陽消」の類の卦。この卦は乾・坤の両体が分立し、主るのは坤で、坤が乾を消している。泰・否の両卦はともに「母卦」で、凡そ三陽三陰の卦は皆泰・否から変じて来る。卦辞:否の匪人、君子の貞に利あらず、大往小来。六爻が皆爻が皆陰なれば純坤で、十月の卦に配される。坤・乾が各自分立して、七月の卦に配される。この卦は坤が内、乾が外で、乾は消え坤は息むので、卦名を「否」とする。「否」とは閉塞である。天気は上に浮き、地気は下に沈み、陰陽は彼此隔絶する。だから閉塞する。陰気が聚結して陽気を進め逼める(原刻「陰結逼陽」、校記は「陰往結陽」に作るべきとする)、小人が事を用い、君子が正を守らんとすれば便利を得られない(ここで原刻は「和」の字を脱す)。「匪人」とは、すなわち小人である。

彖曰:否之匪人,不利君子貞,大往小來,則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下無邦也。內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子,小人道長,君子道消也。卦之所以名否者,以上下不交,與泰反也。象曰:天地不交,否,君子以儉德辟難,不可榮以祿。宋氏曰:天地不交,猶君臣不接。天氣上升而不下降,地氣沈下又不上升,二氣相隔,故云否也。君子體陽消之義以儉德,體陰息之義以闢難也。儉德謂儉損其德,乾為德,以乾漸消,故云儉。坤為亂,是謂之難,陰息消陽,故宜闢之。闢、避同。

《彖伝》に曰く、否の匪人、君子の貞に利あらず、大往小来とは、則ち天地交わらずして万物通万物通ぜざるなり、上下交わらずして天下邦なきなり。内陰にして外陽、内柔にして外剛、内小人にして外君子、小人道長く君子道消ゆるなり、と。この卦が「否」と名づけられた所以は、上下が交わらず、泰と正反対だからである。《大象伝》に曰く、天地交わらざるは否なり、君子以て徳を倹めて難を辟け、禄を以て栄うべからず、と。宋衷は言う、天地が交わらないは、君臣が接しないがごとし。天気は上昇して下降せず、地気は沈下してまた上昇せず、二気は相隔たる。だから「否」と言う、と。君子は「陽消」の義を体して己の徳を倹め、「陰息」の義を体して禍難を避ける。「倹徳」とは己の徳を収斂して低くすること。乾は徳を象り、今乾は漸く消えているので「倹」と言う。坤は禍乱を象り、これがいわゆる「難」。陰気が滋長して陽気を消すので、避けるべきである。「辟」と「避」は同じである。

初六:拔茅茹,以其匯,貞吉亨。初陰猶微,尚易挽回,誠如拔茅連茹,以其類守正而不前往以侵陽,則吉,雖當否時,猶亨通也。蓋三至五為互巽,巽為茅,茅根下生於坤土,互艮之手拔之,故曰拔茅茹。泰曰徵者,言陽往也;否曰貞者,言陰守正不進也。象曰:拔茅貞吉,志在君也。初與四應,四乾為君,小人志在君,是小人之貞也。

初六の爻辞:茅茹を抜き、其の彙を以てす、貞吉亨。初六の陰気はまだ微弱で、なお挽回しやすい。まことに茅を抜き根を連ねるように、その類を連れて正道を守り、前に往って陽爻を侵さなければ吉である。否塞の時に処っても、なお亨通する。取象について言えば、三から五までが互体の巽で、巽は茅を象り、茅の根は坤の象する土の中に下に生え、互体の艮の象する手がこれを抜く。だから「拔茅茹」と言う。泰卦の初九が「征」と言うのは、陽爻が前に往くことを言い、否卦の初六が「貞」と言うのは、陰爻が正を守って上進しないことを言う。《小象伝》に曰く、茅を抜きて貞吉は、志が君に在ればなり、と。初六は九四に応じ、九四は乾に属し君を象る。小人の心もまた君に向かう。これが小人のなし得る「貞」である。

六二:包承,小人吉,大人否亨。下承上曰承。二位居中,為坤之主,倘能包裹上下二陰,以上承五,使小人各安其位,小人則無所失而吉,五之大人亦不至為群陰所侵,時雖否塞,猶亨通焉。夫小人亦豈能吉?然在否時不害君子,則小人自吉。易固不為小人謀而為君子謀,即所以全小人,聖人愛人以德之意深遠矣。象曰:大人否亨,不亂群也。陰息以亂陽群,雲不亂者,賴有二之包故也,故大人處否時猶亨通也。六三:包羞。三欲效二之包,而位非中,故羞。象曰:包羞,位不當也。

六二の爻辞:包んで承ける、小人吉、大人否にして亨。下が上を承奉するを「承」と言う。六二は下卦の中に居り、坤体の主である。もし上下の二つの陰爻を包んで、ともに上に九五を承け、小人をして各々その位に安んぜしめれば、小人は失うところなく吉となり、九五の大人もまた衆陰に侵されず、時は否塞でもなお亨通する。小人がどうして「吉」を語れよう。ただ否の時に君子を害しなければ、小人は自ずから吉となる。《易》はもとより小人のために謀らず君子のために謀るが、そうすればかえって小人を全うする――聖人の「人を愛するに徳を以てす」の用意は、実に深遠である。《小象伝》に曰く、大人否にして亨は、羣を乱らざればなり、と。陰気が滋長すればもとより陽の陣営を乱すが、ここで「不乱」と言うのは、六二の包容に頼るからである。だから大人は否の時に処ってもなお亨通する。六三の爻辞:包んで羞(はじ)を受く。六三もまた六二の包容を效えようとしたが、その位は中でない。だから羞を得るにすぎない。《小象伝》に曰く、包羞は、位当たらざればなり、と。

九四:有命無咎,疇離祉。四居坤乾之介,卦之名否在此。四為乾初,乾為命,四陽未消,是為有命。倘陰再進,命豈長有?然此時則尚有命,即雲無咎,以上尚有三陽也。三陽同類稱疇,疇,儔也;離,麗也;祉,福也。同儔皆離福祉,不至見陵於陰,是否而未至於極矣。象曰:有命無咎,志行也。有志行事以濟否也。

九四の爻辞:命ありて咎なし、疇(ともがら)祉に離(つ)く。九四はまさに坤と乾の境にあり、全卦が「否」と称する鍵はここにある。九四は乾体の初爻で、乾は命令を主り、この時四位の陽はまだ消されていない。だから「有命」と言う。もし陰気がさらに一歩上がれば、この「命」はどうして長く保てよう。しかし目下はなお命があるので「无咎」と言う――その上にはまだ三つの陽爻があるからである。三つの陽爻は同じ類を「疇」と称し、「疇」は同伴、「離」は附丽・依り付く、「祉」は福である。同伴が皆福に依り付き、陰気に陵されない。これで見れば、この時は否ではあるがまだ極まってはいない。《小象伝》に曰く、命ありて咎なきは、志行なればなり、と。まだ志を立てて事を行い、否の局を救うことができるという意味である。

九五:休否,大人吉,其亡其亡,繫于苞桑。陰消陽謂之否,而陰未及四,則五尚安,猶是否之休者。休,美也。五以陽居君位,是為大人。大人得二之承,則僅能亨;大人得四之庇,則又克吉。然而天命難保,人事宜修,勵精圖治,不敢或怠,常恐其亡,則國家之安如以巽繩繫巽木,儼然有苞桑之固。苞,植也。荀氏曰:桑者,上玄下黃,以象乾坤,乾職在上,坤體在下,雖欲消乾,其本體不能亡也。象曰:大人之吉,位正當也。上九:傾否,先否後喜。傾,仄也,猶毀也。否極將復,必有起而傾此否者。運必否而始傾,是否已在先;否既傾而即不否則喜,故在後。先否後喜,天運不長否也。象曰:否終則傾,何可長也。

九五の爻辞:否を休む、大人吉、其れ亡びん其れ亡びんと、苞桑に繋ぐ。陰気が陽を消すを「否」と言うが、陰がまだ四位に及ばなければ、九五はなお安穏である。これが否中の「休」である。「休」は美である。九五は陽爻で君位に居る。まさに「大人」である。大人が六二の承奉を得れば、わずかに亨通を得る。さらに九四の庇護を得れば、また吉を得る。しかし天命は保ちがたく、人事は勤めて修めるべきである。励精図治して少しも怠らず、常に国の亡びるを恐れる――こうすれば、国の安は巽の象する縄で巽の象する木に繋いだようで、厳然として苞桑の根づきの堅固がある。「苞」は根株の叢生である。荀爽は言う、桑の木は上が玄で下が黄、まさに乾と坤を象る。乾の職分は上にあり、坤の形体は下にある。陰は乾を消そうとするが、乾の本体はついに亡びない、と。《小象伝》に曰く、大人の吉は、位正当なればなり、と。上九の爻辞:否を傾ける、先に否して後に喜ぶ。「傾」は傾け、すなわち毀すこと。否が極まればまさに転ずる。必ず否の局を傾ける者が起こる。時運は必ず先に否あって、しかる後に傾覆を語れるので「否」が先にあり、否がすでに傾けば否でなくなるので喜びが生じ、「喜」が後にある。先否後喜とは、天運が否を長くさせないことを言う。《小象伝》に曰く、否終れば則ち傾く、何ぞ長からんや、と。

同人卦

【離下乾上,中互乾巽】夬、姤。同人為一陰五陽卦,自夬姤二卦來。蜀才曰:此本夬卦,九二升上,上六降二。虞氏於此卦九五爻注曰:姤,遇也。是謂此卦自姤來也。同人于野,亨,利涉大川,利君子貞。一陰麗二陽之中曰離,下離上乾,卦名同人。野,寬曠之處。《爾雅》曰:牧外謂之野。虞氏曰:乾為野。野者,人聚之所,故曰同人于野。人既相同,則必亨通,雖涉大川之險亦利。但人之同者多近私暱,惟君子能持正,故曰利君子貞也。

【下卦は離、上卦は乾、中間の互体は乾と巽】《夬》《姤》より来たる。同人は一陰五陽の卦で、《夬》《姤》の二卦から変じた。蜀才は言う、本は夬卦で、九二が上位に昇り上六が二位に降りた、と。虞翻はこの卦の九五の爻注で「姤とは遇である」と言い、これはこの卦が姤卦から変じたことを言う。卦辞:野に同人す、亨、大川を渉るに利あり、君子の貞に利あり。一つの陰爻が二つの陽爻の間に附丽するを「離」といい、この卦は離が下、乾が上、卦名を「同人」とする。「野」は寛曠の地で、《爾雅》に「牧外を野という」とあり、虞翻は乾は野であると言う。野は衆の集まるところなので「同人于野」と言う。人がすでに彼此和同すれば、必ず亨通し、たとえ大川の険を渉っても利がある。ただ人の和同は多く私昵に近い。ただ君子だけが正を守れる。だから「利君子貞」と言う。

彖曰:同人,柔得位得中而應乎乾,曰同人。同人曰:同人于野,亨,利涉大川,乾行也。文明以健,中正而應,君子正也。惟君子為能通天下之志。卦何以名同人?蓋同人自姤夬來也。姤柔在下,陰居陽位,未云得位;天柔在上,雖云得位,未云得中。惟以姤夬二柔易居同人之二,柔既得位,柔又得中,以離之中應乾之中,陰陽相應,有大同之象,故曰同人也。

《彖伝》に曰く、同人とは、柔が位を得て中を得て乾に応ずれば、同人と曰く。同人に曰く、野に同人すれば亨、大川を渉るに利ありとは、乾の行なり。文明にして健、中正にして応ずるは、君子の正なり。惟れ君子のみ能く天下の志を通ず、と。この卦がなぜ「同人」と名づけるか。同人は姤・夬の両卦から変じて来るからである。姤卦の柔は最下にあり、陰で陽位に居り、「得位」とは言えない。夬卦の柔は最上にあり、得位とは言えても「得中」とは言えない(原刻は「天柔在上」と作るが、「天」は「夬」の字の訛と当る)。ただ姤・夬の二つの柔を同人の二位に換えてこそ、柔は位を得てまた中を得る。離の中爻をもって乾の中爻に応ずれば、陰陽が彼此感応して天下大同の象がある。だから「同人」と言うのである。

而同人卦辭曰同人于野亨者,蓋言同人者,同於人也。鄭氏曰:乾為天,離為火,卦體有巽,巽為風。天在上,火炎上而從之,是其性同於天也。火得風然後炎上益熾,是猶人君在上施政教,使天下之人和同而事之。以是為人和同者,君之所為也,故謂之同人。風行無所不徧,徧則會同之德大行,故曰同人于野亨。

卦辞が「同人于野、亨」と言う所以は、いわゆる「同人」とは衆人と相い和同することを言うからである。鄭玄は釈して言う、乾は天、離は火、卦体に巽を含み、巽は風である。天は上にあり、火の性は炎上して天に追い従う。これで観れば、火の性情は天と同じである。火がさらに風を得れば、上に燃えるがいよいよ熾んになる。これは君主が上にあって政教を施し、天下の人をして和同して己に事えさせるに似ている。衆人を和同させられるのは、まさに君主の所為である。だからこの卦を「同人」と言う。風の及ぶところに徧らぬ所なく、徧すれば会同の徳が大行する。だから「同人于野、亨」と言う、と。

夫同人之亨,非僅同於郊野,兼且通乎險阻。以乾同離,即是以陽應陰。水陰象,陽下涉之,如涉川然。乾原健於行,下有正應,則行愈駛。巽為木,乾金剋制之,離體中虛象舟,故曰利涉大川乾行也。第恐統言之曰人,不無苗莠之異;僅名之曰同,或有黨比之嫌。惟有明健之德,乃可以言同人,乃可以言君子之同人。內卦離明,外卦乾健,二五中正相應,有君子守正之象,故曰利君子貞也。人同則志通,志通天下始為大同,通天下之志惟君子能之,故同人宜法君子也。

同人の亨は、郊野で人と和同できるだけでなく、険阻をも通ずることができる。乾をもって離を和同するは、すなわち陽をもって陰に応ずることである。水は陰象で、陽爻が下にこれを渉るは、河を渡るがごとし。乾はもとより行に健で、下に正応があれば行はいよいよ速い。巽は木を象り、乾は金に属して木を制す――木を斫って舟とすることができ、離体は中間が虚でまさに一艘の船を象る。だから《彖伝》に「利渉大川、乾行也」と言うのである。ただし漠然と「人」の字を言えば、人の中に良莠の異がないわけではなく、ただ「同」の字を名づければ、結党比周の嫌いを免れない。だから文明にして剛健の徳を備えてこそ、「同人」を語りうる、君子式の同人を語りうるのである。内卦の離は光明を主り、外卦の乾は剛健を主り、六二と九五は中正にして相応ずる。まさに君子の正を守る象がある。だから「利君子貞」と言う。人が同じければ志意は通じ、志意が天下に通じてこそ「大同」と言う。天下の人の心志を貫通できるのは君子だけである。だから「同人」を語るには君子に法るべきである。

象曰:天與火,同人,君子以類族辨物。荀氏曰:乾舍於離,相與同居,故曰同人也。蓋乾成於巽,乾復索坤中為離,乾離同體,故曰天與火。虞氏曰:乾為族,為物,乾三陽同類曰類族,離火為明以辨之。初九:同人于門,無咎。初欲同二,初與二比,前行即得見之,離中虛象門,故曰同人于門。象曰:出門同人,又誰咎也。凡門以內為室,人伏室內,何由得同?故言同人者在出門,出門即同人,其時尚無私意,故無咎之者。

《大象伝》に曰く、天と火、同人、君子以て族を類し物を辨ず、と。荀爽は言う、乾は離に寄り居して、二者は同じく一室に居る。だから「同人」と言う、と。乾は巽に成体し、乾はまた坤に中爻を索めて離と成る。乾と離はもとより同体なので「天与火」と言う。虞翻は言う、乾は族・物で、乾の三つの陽爻は同じ類を「類族」と言い、離火は光明を主りてこれを以て事物を辨ずる、と。初九の爻辞:門に同人す、咎なし。初九は六二と和同せんとし、初と二はちょうど隣り合う。前に一歩行けば見える。離の中爻は虚で、門を象る。だから「同人于門」と言う。《小象伝》に曰く、門を出でて同人すれば、又た誰か咎めんや、と。凡そ門の内を「室」と言い、人が室内に伏すれば、何を以て人と和同できよう。だから和同せんとすれば門を出ねばならない。門を出ればすなわち人と和同し、その時はまだ私心を生じていない。だから咎める者がない。

六二:同人于宗,吝。二為卦主,此眾陽所欲同者。虞氏曰:乾為宗。荀氏曰:宗者,眾也。三據二陰,二與四同功,五相應,初相近,上下眾陽皆欲與二為同,故曰同人于宗。陰道貞靜,從一而終,今宗同之,有吝疵矣。象曰:同人于宗,吝道也。

六二の爻辞:宗に同人す、吝。六二は一卦の主で、衆陽が皆これと和同せんとする者である。虞翻は乾は宗であると言い、荀爽は「宗」とは衆であると言う。九三は六二の陰爻を拠圧し、六二は九四と同じ臣位にあって功用が類しており、九五はそれと正応し、初九はまたそれに近い。上上下下の陽爻が皆六二と同じくせんと欲するので「同人于宗」と言う。陰の道は貞静にあり、一に従って終わるべきである。今、宗族全体が来てこれと同じくするなら、瑕疵を帯びて惜しい。《小象伝》に曰く、宗に同人すれば、吝の道なり、と。

九三:伏戎于莽,升其高陵,三歲不興。卦惟一陰,初上與二對易,二五相應,故皆曰同人。若三與四,既不相應,又不對易,則是求同而不得者。三體為離,離為甲冑戈兵,是謂之戎;三又為互巽,巽為伏,為草木,是謂之莽,莽,叢木也。巽為股,為高,歷乾二之【之:爻】求同於上,是為升高。陵,大阜曰陵,乾位西北,郊野而高,故曰高陵。夫暗藏兵戎,登高遠望,以求上同而不得同主,徒勞智力,雖至三歲之久,猶不能興起,是同亦不可強求矣。象曰:伏戎于莽,敵剛也;三歲不興,安行也。三上皆陽,兩陽相敵,故曰敵剛。安行者,言安能前行求同也。

九三の爻辞:戎を莽に伏し、其の高陵に升り、三歳興らず。全卦に陰爻が一つしかない。初九・上九は六二と位を互い換えでき、九五は六二と正応する。だからこの数爻はみな「同人」と言う。九三と九四については、六二に応ぜず、また換位もできない。和同を求めて得られない者に属する。九三は離体に属し、離は甲冑戈兵を象る。これが「戎」である。九三はまた互体巽卦にあり、巽は潜伏を主り、また草木を象る。これが「莽」で、「莽」は叢生の木である。巽はまた大腿・高を象り、九三は乾の二つの爻を越えて上に和同を求める。これが「升高」である(原刻「乾二之」、校記は「之」は「爻」に作るべきとする)。「陵」、大きな土山を陵と言う。乾の方位は西北で、郊野にして地勢が高い。だから「高陵」と言う。兵戎を暗に蔵し、高く登って遠く望み、上に和同を求めて和同の対象を得られず、心力を空しく費す。三年の久しきに及んでも、ついに興起できない。これで見れば、「同」は強いて求めることのできないものである。《小象伝》に曰く、戎を莽に伏するは、剛に敵すればなり。三歳興らざるは、行くを安んぜばなり、と。九三と上九はみな陽爻で、両剛は相敵する。だから「敵剛」と言う。「安行」とは、どうして前に往って同を求められようという意味である。

九四:乘其墉,弗克攻,吉。墉,虞氏作庸,巽為庸,庸墉同。《詩》曰:以作爾庸。毛傳曰:庸,城也。四為互巽之末,則巽之墉實為其墉。四乘其墉,攻初求同,則其力亦甚勇矣。究之巽為進退,為不果,四弗勝初,退而弗攻乃吉。象曰:乘其墉,義弗克也;其吉,則困而反則也。兩陽相敵,四宜弗能克初,困而反求已,與二遇,得同人之準則矣。

九四の爻辞:其の墉に乗りて、克く攻めず、吉。「墉」は虞翻本では「庸」と作り、巽は庸を象り、庸と墉は通ずる。《詩経》に「以作爾庸」とあり、毛亨伝は「庸は城である」と言う。九四は互体巽卦の末位にあり、巽の象する城墉がすなわちその城墉である。九四は城墉に登って、初九を攻めて和同の対象を争おうとする。その気力もまた勇ましい。しかし巽の性は進退不定・猶疑不決を主り、九四は初九に勝てず、そこで退いて攻めなくなる。これで吉である。《小象伝》に曰く、其の墉に乗るは、義として克つべからざればなり。其の吉は、困みて則に反ればなり、と。二つの陽爻が相敵し、九四はもとより初九を克ち得ない。困んだ余りに反って己に求め、転じて六二と遇う――これが「同人」の準則に合うのである。

九五:同人先號咷而後笑,大師克相遇。楚謂兒泣不止曰噭咷。號,呼也;克,勝也。虞氏曰:巽為號咷。五欲同二而為三四所間,不能遽遇,故先號;然二為正應,終必同之,故後笑。二自姤夬相易,姤巽為號,夬兌為笑,兌之德說也。陽剛位中,用大師以勝之,《說卦傳》曰:戰乎乾。故曰大師。乾德至健,故曰克,克則相遇,遇則同矣。象曰:同人之先,以中直也;大師相遇,言相剋也。乾其動也直,五位中,故曰中直,中直故號咷求同也。上九:同人于郊,無悔。虞氏曰:乾為郊。郊較野則狹也。居上無位,不得遂大同之志,僅能無悔而已。象曰:同人于郊,志未得也。

九五の爻辞:同人は先に号咷して後に笑う、大師克ちて相遇う。楚は小児の泣き止まぬを「噭咷」と称し、「号」は呼喊、「克」は戦勝である。虞翻は巽は号咷を象ると言う。九五は六二と和同せんとするが、九三・九四に中間を隔てられ、すぐには遇えない。だから先に号哭する。しかし六二はその正応で、ついには和同する。だから後に笑う。六二のこの爻は姤・夬の互い換わりから来た。姤の巽は号哭を象り、夬の兌は歓笑を象る。兌の徳はまさに喜悦だからである。九五は陽剛にして中位に居り、大軍を動かして阻隔に勝つ。《説卦伝》に「戦乎乾」とあるので「大師」と称する。乾徳は極めて剛健なので「克」と言い、克てば相遇え、遇えばすなわち和同する。《小象伝》に曰く、同人の先なるは、中直を以てなり。大師相遇うとは、相克つを言うなり、と。《繋辞》に乾を「其動也直」と言い、九五はまた中位に居るので「中直」と言う。中正にして直だからこそ、号哭して和同を求めるのである。上九の爻辞:郊に同人す、悔なし。虞翻は乾は郊であると言う。郊は野に比べて範囲が狭い。上九は全卦の最上に居りて実位がなく、「天下大同」の志を遂げることができず、ただ悔いがないを致すにすぎない。《小象伝》に曰く、郊に同人すは、志未だ得ざればなり、と。

易原巻四

慧珠閣原本,岫巖多隆阿雯溪。周易上經(四)。

本巻は「慧珠閣」原刻本による。著者は岫巖の人・多隆阿、字は雯溪。以下に解くのは《周易》上経の第四の部分、すなわち《大有》《謙》《豫》《随》《蠱》《臨》の六卦である。

大有

【乾下離上,中互乾兌】夬、姤。大有為一陰五陽卦,自夬、姤二卦來:夬上降五,姤初升五。大有:元亨。乾下離上,卦名大有。陽為大,陰有之,則所有者大。如大居上,有眾賢人輔以成治,故元善亨通也。

【《大有》卦は乾が下、離が上、中間に乾・兌の二体を互出する】卦変は《夬》《姤》より来る。《大有》は一陰五陽の卦で、《夬》卦の上六が五位に降り、《姤》卦の初六が五位に昇って、いずれも《大有》となる。卦辞に「大有、元亨」と言う。乾が下、離が上で、卦名を《大有》とする。陽爻を「大」と称し、今一つの陰爻が衆陽を皆己が有とするので、その所有するものは極めて大きい。ちょうど上位に居る尊者が一群の賢人に輔かれて治功を成すようなもので、だから大善にして亨通する。

彖曰:大有,柔得尊位大中,而上下應之,曰大有。其德剛健而文明,應乎天而時行,是以元亨。大者何?陽也。陽大陰小,《大畜》《大過》《大壯》之言大皆同。而云大有者,一陰為柔,居天位為尊,居五位曰中;又自夬、姤來,夬陰居上,姤陰居下,夬陰下降,姤陰上升,上下相易以為此卦之五,即是上下相應。眾陽應陰,則一陰於以有眾陽也,故曰大有也。再以卦德言之,乾為健,健則剛;離為明,明有文。以卦體言之,五為卦主,下應乾天,天之行不失其時,五之應天亦不失其時也,是以元亨也。

《彖伝》に曰く、「大有、柔得尊位大中、而上下応之、曰大有。其徳剛健而文明、応乎天而時行、是以元亨」。いわゆる「大」とは何を指すか。陽爻を指す。陽は大で陰は小。《大畜》《大過》《大壮》の諸卦の言う「大」はすべてこの意である。そしてこの卦が「大有」と称するのは、あの唯一の陰爻が柔に属し、それが第五爻の天子の位に居るので「尊」と言い、また上卦の中に処るので「中」と言う。さらに卦変から見れば、本卦は《夬》《姤》より来る。《夬》の陰爻は上に居り、《姤》の陰爻は下に居る。《夬》の陰爻が降り《姤》の陰爻が昇り、一上一下が交換して此卦の六五となる。これがまさに《彖伝》の言う「上下応之」である。衆陽がみなこの一陰に応ずれば、一陰は衆陽を有することができる。だから《大有》と言うのである。さらに卦徳について言えば、乾の徳性は健で、健はすなわち剛。離の徳性は明で、明は文がある。合わせてまさに「剛健而文明」である。卦体について言えば、六五は全卦の主で、下に下卦の乾天に応合する。天の運行はかつてその時序を失わず、六五の天に応ずるもその時を失わない。これが「応乎天而時行」で、だから「元亨」できるのである。

象曰:火在天上,大有。君子以遏惡揚善,順天休命。火愈高則明愈遠,火在天上,明無不照,故象大有。虞氏曰:乾為善,坤為惡。蓋言陽善陰惡也。大有一陰中藏,象遏惡;眾陽外見,象揚善。陰德主順,居五天位,故曰順天。乾為命,陽為美,故曰休命。

《大象伝》に曰く、「火在天上、大有。君子以遏悪揚善、順天休命」。火が上がるほど高ければ、照らすほど遠い。離火が天上に高く居れば、光明は照らさぬところなし。だから象を「大有」と取る。虞翻は言う、乾は善を象り、坤は悪を象る――これは陽を善、陰を悪と言うのである。《大有》の全卦に陰爻が一つしかなく、衆陽の中に深く蔵して、ちょうど悪を遏止した象である。五つの陽爻は外に顕れて、ちょうど善を表彰した象である。陰の徳性は順従を主り、この一陰はまた第五爻の天位に居るので「順天」と言う。乾は「命」の取象を有し、陽はまた美好の義を含むので「休命」と言う。すなわち上天の美しい命に順承するのである。

初九:無交害,匪咎,艱則無咎。大有者,有賢人也。欲有賢人,則自有交始。五為君位,君貴得人,故眾陽皆為五有。若初為民位,其所有不與五同,故其交亦與五異。五貴有交,而初則宜無交;五以有交而有孚,初以無交而無害。夫初在姤與五對易,未嘗無交,既易為五,則五之交孚者在二,初不與五應,故曰無交也。自有其有,不與物交,則是不有私黨以致災禍者,是無交乃正所以無害。害者,禍也。無位而蓄私有,重則致害,輕亦得咎。有其所有,固匪咎,倘不艱以處之,則往往得咎,是不可輕心以處此矣。象曰:大有初九,無交害也。二則有交,則無交者惟大有之初九,蓋言位卑不宜有交也。

初九の爻辞に「无交害、匪咎、艱則无咎」と言う。いわゆる「大有」とは、賢才を有することである。賢才を有せんとすれば、まず交接往来から始めなければならない。九五は君位で、君主たる者最も得人要とす。だから衆陽爻はみな六五の有に帰する。初九に至っては庶民の位にあり、その所有するものは君位と同じでなく、交接の道も自ずから君位と異なる。六五は広く交わるを貴び、初九は交わらざるを当とす。六五は交わりあるを以て人の信服を得、初九は交わらざるを以て禍害を免れる。初九は《姤》卦では本と五爻と位を互い換え、交わりがなかったことはなかったが、すでに《大有》と変ずれば、六五と信孚を結ぶのは九二で、初九は六五と正応がない。だから「无交」と言う。自分の有すべきものを自ら守り、外物と交結しなければ、それは私党を結ばず禍端を惹かないことで、「无交」はまさに「无害」の由である。「害」とは禍である。職位がないのに私に財貨を蓄えれば、重きは禍を致し、軽きも咎を得る。自分の有るべき分を守ればもとより咎とは言えないが、もし艱難謹慎の態度を以て処らなければ、往々にして咎を得る。これで見れば、この位にあっては軽心を以て処るべきでない。《小象伝》に曰く、「大有初九、无交害也」。九二はなお「有交」を言うのに、ただ《大有》の初九のみ「无交」を言う。まさに地位の卑下した者は広く交遊すべきでないことを言うのである。

九二:大車以載,有攸往,無咎。二為乾中,陽體中實,故所有愈大。馬氏曰:乾為大車。以大車載其所有,以前往應五,是不自私其有者,故無咎。象曰:大車以載,積中不敗也。不敗者,言乾車至健,能勝載,不慮折軸也。

九二の爻辞に「大車以載、有攸往、无咎」と言う。九二は下卦乾の中位に居り、陽爻の体質は充実するので、その所有するものはいよいよ大きい。馬融は言う、乾は「大車」の取象がある、と。大車を以て自己の有する財貨賢才を載せ、往って六五の君に帰附する。これが所有を私産としない者で、だから咎がない。《小象伝》に曰く、「大車以載、積中不敗也」。「不敗」とは、乾のこの車が極めて剛健で、重物を載せるに堪え、中途で車軸の折れるを慮る必要がないことを言う。

九三:公用亨于天子,小人弗克。亨,享通。京氏曰:獻也。大有至三,較二猶盛,三亦宜不自有其有,以上獻於天子。三為大臣位,曰公,陽德主施,故云用享。而三又為互兌,兌為小,是為小人。小人貪婪專利,多私其有,弗能以所有上獻於君。克,能也。蓋言用享於天子惟君子能之,小人不能也。象曰:公用亨于天子,小人害也。爻辭僅曰弗克,象傳直言曰害,位為大臣而有私積,宜戒哉。

九三の爻辞に「公用亨于天子、小人弗克」と言う。「亨」は「享」に通じ、京房は進献の意であると言う。《大有》は九三に至って、その所有は九二よりなお盛んである。九三もまた所有を私産とせず、上に天子に献ずべきである。九三は大臣の位にあるので「公」と称し、陽の徳性は施与を主るので「用享」と言う。しかし九三はまた互体の兌の中にあり、兌は「小」の取象がある。そこでまた「小人」となる。小人は貪婪にして財利を専らにし、多く所有を私産とし、所有を以て上に君に献じることができない。「克」とは能である。これは天子に献ずるのは君子だけがなし得て、小人はできないことを言う。《小象伝》に曰く、「公用亨于天子、小人害也」。爻辞はただ小人の「不能」を言うが、《象伝》はずばり「害」と言う。大臣の位に身を置きながら私に財貨を積むは、実に戒めとすべきである。

九四:匪其彭,無咎。彭,多貌。《詩》曰:行人彭彭。傳曰:多皃。四位愈高則有愈多,位愈高則愈危,有愈多則愈險,是宜自損其有,故曰匪其彭,謂以其彭為非,不敢私有也。蓋四為正離,離體虛,虛其所有,不自滿假,如是則進不逼君,退守有餘,故無咎。象曰:匪其彭無咎,明辨晳也。四體為離,離明以辨之,故不以過盛致咎也。

九四の爻辞に「匪其彭、无咎」と言う。「彭」は众多の貌である。《詩経・斉風・載駆》に「行人彭彭」の句があり、毛伝は「多貌」と解する。九四の位置が高いほど、その所有は多い。位置が高いほど危険で、所有が多いほど険しい。そこで自らその有を損ずべきである。だから「匪其彭」と言う。これはこの「多」を有るべきでないものと見て、私に有とすることを敢えてしないことを言う。九四はまさに上卦離の体の中にあり、離卦は中間が虚で、まさに自らの所有を空にして、自ら満ち誇らないことを象徴する。こうすれば、進んで君を逼せず、退いて余地を守る。だから咎がない。《小象伝》に曰く、「匪其彭无咎、明辨晳也」。九四の卦体は離で、離の光明を以て事理を辨ずるので、盛り過ぎて咎を招くに至らない。

六五:厥孚交如,威如,吉。離體中虛象孚,五以離孚下交眾陽,則至信感人,自能有眾陽之有以成其大。特恐陰柔居尊,孱弱不振,宜以威如濟之,有威可畏,是德力兼備於一人也,故吉也。象曰:厥孚交如,信以發志也;威如之吉,易而無備也。易,簡易。既曰威如,又曰無備者,則是威如非殘酷,無備非怠玩,但使綱紀整肅,歡不下移,至信待人,坦白之衷昭然若揭,不必督責以示威,而天下已畏懼之不敢慢矣。

六五の爻辞に「厥孚交如、威如、吉」と言う。離卦は中間が虚で、誠信を象る。六五は離の誠信を以て下に衆陽と交結すれば、至誠が人心を感動して、自ずから衆陽の有するものを皆己がものとして、その「大」を成すことができる。ただ陰柔を以て尊位に居れば孱弱不振となるを恐れ、威厳を以てこれを補うべきである。威あって畏るべし、これが徳と力を一身に兼備するので、吉である。《小象伝》に曰く、「厥孚交如、信以発志也。威如之吉、易而无備也」。ここの「易」は簡易の意である。威厳を要すると言いつつ、また戒備を要しないと言うのは、いわゆる威厳は残酷ではなく、いわゆる不設防も怠惰玩忽ではないことを見せる。ただ綱紀を整え粛正とし、威権を下に移さず、また至誠を以て人に接し、坦蕩の心迹を明々白々と示しておれば、督責を以て威を示すに及ばずして、天下の人はすでに敬畏して軽慢し不敢となるのである。

上九:自天佑之,吉,無不利。佑,助也。上為天位,夬以上六居五,是上以天助五矣。夫能助君者為賢,而五履孚信,居柔順以尚之,乃得上九之助。大有至於天佑,不僅得賢,且兼得天,此大有之極則也,故吉無不利也。象曰:大有上吉,自天佑也。大有至有天佑,則夫有人之所有者不足言矣,故曰大有上吉。

上九の爻辞に「自天佑之、吉、无不利」と言う。「佑」は助けである。上九は天位にあり、《大有》は《夬》から変じて、《夬》の上六が五位に降りた。これは上天が六五を助けることである。君主を輔助できる者が賢者で、六五は誠信を践履し、柔順の徳を以て上九を尊崇するので、上九の助けを得る。《大有》は天の保佑を得るに至って、ただ賢才を得たにとどまらず、かつ天助を兼ねる。これが「大有」の極致で、だから吉にして利なからんとする所なし。《小象伝》に曰く、「大有上吉、自天佑也」。《大有》は天の佑あるに至れば、ただ人の所有する些少の物を有するだけでは言うに足りない。だから「大有上吉」と言うのである。

謙

【艮下坤上,中互震坎】剝、復。謙為一陽五陰卦,自剝、復二卦來:剝上降三,復初升三。虞氏曰:彭城蔡景君說剝上來之三。此僅舉一偏言之。謙:亨,君子有終。謙,讓也,致恭也,不自伐也,屈己下物也。《禮》曰:禮者自卑而尊人。則謙實合嘉會之禮,故曰亨。《禮》又曰:君子退讓以明禮。是謙為美德,惟君子能之,故曰君子有終。虞氏曰:君子謂三,卦之中,一陽內卦之終。蓋君子能守謙,能得謙義。艮居坤下,有謙象也,故艮下坤上之卦名謙。

【《謙》卦は艮が下、坤が上、中間に震・坎の二体を互出する】卦変は《剥》《復》より来る。《謙》は一陽五陰の卦で、《剥》卦の上九が三位に降り、《復》卦の初九が三位に昇って、いずれも《謙》となる。虞翻は言う、彭城の人・蔡景君の説は《剥》卦の上爻が三位に来たというもの――これは卦変の一面を挙げたにすぎない。卦辞に「謙、亨、君子有終」と言う。「謙」とは謙譲、恭敬、自ら誇らないこと、己を屈して人の下に甘んずることである。《礼記》に「礼者自卑而尊人」とある。これで見れば、謙はまさに「嘉会之礼」に合する。だから「亨」と言う。《礼記》にまた「君子退譲以明礼」とある。これで見れば、謙は美徳で、君子だけがなし得る。だから「君子有終」と言う。虞翻は言う、「君子」とは九三を指す。九三は六爻の中に居り、あの唯一の陽爻で、また内卦の終位である。君子は謙を守ることができ、謙の意義を領会できる。艮山が坤地の下に伏するは、まさに謙退の象である。だから艮下坤上のこの卦に《謙》と名づける。

彖曰:謙亨,天道下濟而光明,地道卑而上行。天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙尊而光,卑而不可踰,君子之終也。謙何以雲亨也?大傳曰:兼三才而兩之,故易六畫而成卦。是分六爻為三才:初二為地道,三四為人道,五上為天道。卦惟一陽,則自剝之上來。上為天道,今乃下居於三,是為天道下濟;天道本明,下降為艮,艮之陽光外見,仍不掩其明。又自復之初來,初為地道,今乃上居於三,是為地道上行;地道雖卑,上升為三,三以人道居中,則不覺其卑。

《彖伝》に曰く、「謙亨、天道下済而光明、地道卑而上行。天道亏盈而益謙、地道変盈而流謙、鬼神害盈而福謙、人道悪盈而好謙。謙尊而光、卑而不可踰、君子之終也」。《謙》はなぜ「亨」と言うのか。《繋辞伝》に曰く、「兼三才而両之、故易六画而成卦」。これは六爻を三才に分配したもので、初爻・二爻は地道に属し、三爻・四爻は人道に属し、五爻・上爻は天道に属する。本卦には陽爻が一つしかなく、それは《剥》卦の上爻から降りて来た。上爻はもとより天道に属し、今下って三位に居る。これが「天道下済」である。天道はもとより光明で、降って艮体となり、艮の陽光は外に顕れて、なおその明を掩わない。この一陽はまた《復》卦の初爻から昇って来たと見ることができる。初爻はもとより地道に属し、今上って三位に居る。これが「地道卑而上行」である。地道は卑下でも、三位に昇ってからは、三は人道に属して六爻の中に居るので、卑下を覚えない。

且陽為盈,陰為虛,虛則為謙,盈則非謙。當在剝復未易之時,兩陽分居於外,陽見為盈;乃剝以上陽下來居三,是天道之盈虧矣;復以初陽上往居三,是地道之盈變矣。而乾陽為神,坤陰為鬼,復剝之陽皆移,不使外見,坤又為害,三居坤下,是害盈也。三與四為人道,剝復之陽移居於三,藏眾陰中,三又在四之下,是惡盈也。

さらに言えば、陽爻は「盈」で陰爻は「虚」である。虚はすなわち謙、盈はすなわち謙でない。《剥》《復》の両卦がまだ変換しない時、二つの陽爻はそれぞれ卦外に居り、陽が外に顕れるが「盈」である。《剥》卦の上九が下って三位に居るに至って、これが「天道亏盈」である。《復》卦の初九が上って三位に居るに至って、これが「地道変盈」である。乾の陽は神を象り、坤の陰は鬼を象る。《復》《剥》の両卦の陽爻はみな位を移して、もはや外に顕れず、坤はまた「害」の取象を有する。九三は坤地の下に伏する。これが「鬼神害盈」である。三爻・四爻は人道に属し、《剥》《復》の陽爻が三位に移り、衆陰の中に蔵して、三はまた四の下にある。これが「人道悪盈」である。

夫虧盈乃所以益下之謙,變盈乃所以流通其謙。害與福反,所害在盈,故所福在謙;惡與好反,所惡在盈,故所好在謙。則是一陽伏居陰中,陽光內耀,是尊而且光;艮居坤下,而艮山隱崇地中,雖卑而不可踰。彼盈者必中蹶,而謙德可終身,是以君子有終也。虞氏曰:乾為盈,坤為虛;乾為福為好,坤為害為惡;乾為神,坤為鬼。卦有一陽多取乾象,卦有一陰多取坤象,此易例也。

「亏盈」はまさに下位の者の謙を益するため、「変盈」はまさにその謙を流通するためである。「害」と「福」は相反し、害するところは盈にあるから、福するところは自ずから謙にある。「悪」と「好」は相反し、悪むところは盈にあるから、好むところは自ずから謙にある。これで見れば、一つの陽爻が衆陰の中に潜伏して、陽の光輝は内に照る。まさに「尊而光」である。艮体が坤の下に居り、艮山は高峻でも地中に隠没する。まさに「卑而不可踰」である。あの自ら満ちる者はついに中途で蹶くが、謙徳は終身保つことができる。だから「君子有終」と言う。虞翻は言う、乾は盈・坤は虚、乾は福・好、坤は害・悪、乾は神・坤は鬼。凡そ卦に陽爻が一つだけのものは多く乾の象を取り、陰爻が一つだけのものは多く坤の象を取る。これが《易》の通例である。

象曰:地中有山,謙。君子以裒多益寡,稱物平施。劉氏曰:地中有山,以高下下,故曰謙。謙之為道,降己升人,山本地上,今居地中,亦降體之義,故為謙象也。裒,取也。陽多陰寡,剝以上益三,復以初益三,故曰裒多益寡。剝復兩陽上下居之則偏,易之居中則平,故曰稱物平施也。

《大象伝》に曰く、「地中有山、謙。君子以裒多益寡、称物平施」。劉瓛は言う、地中に山を蔵すは、高きを低きの下に置くこと、だから「謙」と言う、と。謙の道は、己を降じて人を挙げることである。山はもとより地上にあり、今地中に処るも、また己を降じる義で、だから謙の象に取る。「裒」は取る意である。陽爻は充実するので「多」、陰爻は虚空なので「寡」。《剥》は上爻を以て三位を益し、《復》は初爻を以て三位を益する。だから「裒多益寡」と言う。《剥》《復》の両卦の陽爻は一つは上、一つは下に居り、位置はいずれも偏である。卦中に換わってからは均平となる。だから「称物平施」と言う。すなわち事物を量って公平に施与するのである。

初六:謙謙君子,用利涉大川,吉。初居下位,謙也;乃以復之初陽讓歸於三,則又為謙。陰柔居下,謙也;乃以陰柔上承陽剛,則又為謙,故曰謙謙。謙而又謙,惟君子能之。雖二至四為互坎,卦之通體亦象大坎,坎水為川。初以復之下陽往三成坎,是三之為謙,由於初之涉川以成者,故曰用涉大川吉也。初六謙謙君子,卑以自牧也。牧,養也。初位下,故曰卑。

初六の爻辞に「謙謙君子、用利渉大川、吉」と言う。初六は最下の位にあり、もとより謙である。それがまた《復》卦初爻の陽を三位に譲るので、いよいよ謙である。陰柔を以て下位に居る、もとより謙である。それがまた陰柔を以て上に陽剛を承奉するので、いよいよ謙である。だから「謙謙」と言う。謙にまた謙するは、君子だけがなし得る。二爻から四爻までは互いに坎体を成し、全卦を通して見ても一つの大きな坎のようである。坎は水で、水はすなわち川である。初六は《復》卦の下の陽爻を三位に送って坎と成す。これで見れば、三位が謙と成り得たのは、初六が大川を渉って送って初めて成就したものである。だから「用渉大川、吉」と言う。《小象伝》に曰く、「初六謙謙君子、卑以自牧也」。「牧」は養の意で、すなわち謙卑を以て自らを養うことである。初六の位置は下にあるので「卑」と言う。

六二:鳴謙,貞吉。謙之德有於中,而謙之名己聲於外。二與三比,陰陽唱和,故謙曰鳴。前又為互震,震為善鳴,以遙為之應,是謙不必自白,而稱譽已遠播矣,故貞吉。象曰:鳴謙貞吉,中心得也。謙得於心,貞以守之,二得中,故以謙鳴也。

六二の爻辞に「鳴謙、貞吉」と言う。謙の徳性は心の中に存在するが、謙の名声はすでに外に伝播している。六二は九三と隣り、一陰一陽が互いに唱和するので、謙にして「鳴」と称する。前にまた互体の震があり、震は善く鳴くの取象を有し、遥かにそれと呼応する。これで見れば、謙徳は自ら白するに及ばず、称誉の声はすでに遠くに播く。だから正を守って吉である。《小象伝》に曰く、「鳴謙貞吉、中心得也」。謙を心に得て、また貞正を以てこれを持守する。六二はまた下卦の中に居るので、謙を以て名声を得られるのである。

九三:勞謙君子,有終吉。卦惟一陽,而居互坎之中,坎為勞卦,是謙而又勞者。事功曰勞,實有其勞,復恭以下人以行謙讓,又為艮終,故有終吉也。象曰:勞謙君子,萬民服也。陰為民,一陽居中,上下五陰皆服之。

九三の爻辞に「労謙君子、有終吉」と言う。全卦にこの一つの陽爻しかなく、また互体坎の中間にあり、《説卦伝》は坎を「労卦」と称する。だからそれは謙虚にしてかつ勤労する者である。事功を立てるを「労」と言い、九三は確かに功労があるが、なお恭敬して己を人の下に置いて謙譲を行う。それはまた艮体の終位で、艮は万物を終に成すを主る。だから「有終」を得て吉を獲る。《小象伝》に曰く、「労謙君子、万民服也」。陰爻は百姓を象徴し、一つの陽爻が中間に居り、上下の五つの陰爻が皆これに帰服する。

六四:無不利,撝謙。撝,手指撝也。四以陰居柔位,而聽三之指撝者,言無所不利於指撝以謙也。蓋三為艮,艮為手為指,四從順之以聽指撝,故利。象曰:無不利撝謙,不違則也。三為謙主,謂之則;四聽三之指撝,故曰不違。

六四の爻辞に「无不利、撝謙」と言う。「撝」は手を以て指揮する意である。六四は陰爻を以て柔位に居り、九三の指揮を聴く。事事皆その指揮に依って謙徳を行うに利であると言う。九三は艮体で、艮は手・指の取象を有する。六四はそれに順従してその指揮を聴くので、利がある。《小象伝》に曰く、「无不利撝謙、不違則也」。九三は全卦の謙徳の主で、いわゆる「法則」である。六四は九三の指揮を聴くので「不違」と言う。

六五:不富以其鄰,利用侵伐,無不利。五以柔順之德居謙尊位,己雖不富,而以臣鄰之富為富。蓋陽實陰虛,坤又為虛,故曰不富。三為卦主,非五正應,故曰其鄰。此君上之謙也。君有謙德,自克服眾,而或有不服者,則以坤之眾與互震之鼓、互坎之弓輪侵伐以征之,亦未有不利者。夫謙讓則無競,而侵伐則為爭,然謙成於德而效必見諸事,侵伐乃事之大者,用侵伐而亦利,其它則未有不利者矣,此謙之極則也。象曰:利用侵伐,征不服也。

六五の爻辞に「不富以其鄰、利用侵伐、无不利」と言う。六五は柔順の徳を以て《謙》卦の尊位に居り、己は富まないが、臣下近隣の富有を己の富有とする。陽爻は充実、陰爻は虚空で、坤はまた虚を取象する。だから「不富」と言う。九三は全卦の主だが、六五の正応ではなく、ただ相近なだけなので「其鄰」と称する。これは上位に居る者の行う謙である。君主に謙徳があれば、自ずから衆人を心服せしめることができる。万一服さない者があれば、坤の衆庶・互体震の鼓・互体坎の弓と車輪を以て征伐すれば、また利ならないことはない。謙譲はもとより争わないが、征伐は争である。しかし謙は徳に成り、効験は必ず事功に現れなければならない。征伐は事功のうちの大事で、用兵征伐を用いても利があるなら、それ以外のことはなおさら不利なき者はない。これが謙徳の極致である。《小象伝》に曰く、「利用侵伐、征不服也」。服さない者を征討することを言う。

上六:鳴謙,利用行師,征邑國。二言鳴謙,上亦言鳴謙。二以比三而鳴,上以應三而鳴,三為陽,二上為陰,陰陽唱和,故皆曰鳴。二之鳴謙則吉,上之鳴謙亦利。但二之吉,則是以謙正己;上之利,則是以謙正人。蓋二在復為震,震為善鳴,前有互震以遙應之,故曰鳴謙,居中位,故曰貞吉。若上在剝,雖與三易,又與二應,而在互震之外,正坤之上位,既彌高,故鳴彌遠,利用坤師以征邑國。坤為眾曰師,坤又為邑為國。夫利侵伐,上利行師,五於不服者皆征之,上則僅徵其邑國,上之氣象較五則狹矣,然其謙而獲效則一也。象曰:鳴謙,志未得也,可用行師征邑國也。志未得故鳴也。坎為心志,二為互坎,故曰中心得;上在互坎之外,故曰志未得。

上六の爻辞に「鳴謙、利用行師、征邑国」と言う。六二は「鳴謙」を語り、上六も「鳴謙」を語る。六二は九三に隣近するを以て鳴き、上六は九三に相応ずるを以て鳴く。九三は陽で、二と上は陰、一陰一陽が互いに唱和するので、いずれも「鳴」と言う。六二の鳴謙は吉を得、上六の鳴謙も利を得る。ただ六二の吉は謙を以て己を正しくすること、上六の利は謙を以て人を正しくすることである。六二は《復》卦では震体に属し、震は善く鳴き、前にまた互体震が遥かに呼応するので「鳴謙」と言う。それは下卦の中位に居るので「貞吉」と言う。上六は《剥》卦では、九三と位を互い換えたことがあり、また六二と相応ずるが、互体震の外にあり、まさに坤体の最上位に当たる。位置がすでにいよいよ高いので、鳴声もいよいよ遠くに伝わる。だから坤の軍隊を率いて邑国を征するに利である。坤は衆なので「師」と称し、坤はまた邑・国の取象を有する。六五は侵伐に利し、上六は行師に利する。六五は一切の服さない者に対して征討を加えるが、上六はただその邑国を征するのみで、気象は六五より狭い。しかし謙徳を以て成效を収めるは同じである。《小象伝》に曰く、「鳴謙、志未得也、可用行師征邑国也」。まさに心志が完全に実現しないので鳴くのである。坎は心志を象徴し、六二は互体坎の中にあるので「中心得」と言い、上六は互体坎の外にあるので「志未得」と言う。

豫

【坤下震上,中互坎艮】復、剝。豫為一陽五陰卦,自復、剝二卦來:復初升四,剝上降四。虞氏曰:復初之四。豫:利建侯行師。逸樂為豫,怡說為豫,先事而備亦為豫。震動而以坤順承之,則象逸樂;雷出地上,萬物困蘇,則象怡說。至於內卦之坤為國,外卦之震為侯,坤又為眾,震又為長子,坤之國震侯居之,坤之眾長子帥之,則象建侯行師,乃先事而為之備也,故上震下坤之卦名豫。

【《豫》卦は坤が下、震が上、中間に坎・艮の二体を互出する】卦変は《復》《剥》より来る。《豫》は一陽五陰の卦で、《復》卦の初九が四位に昇り、《剥》卦の上九が四位に降って、いずれも《豫》となる。虞翻は言う、《復》卦の初爻が四位に至る、と。卦辞に「豫、利建侯行師」と言う。安逸快楽を「豫」と言い、歓欣喜悦を「豫」と言い、事に先んじて備えるをも「豫」と言う。震が上に動いて坤が柔順を以てこれを承ければ、安逸の楽のようである。雷の声が地上に発すれば、万物が困頓から蘇る、欣喜の悦のようである。さらに見れば、内卦の坤は国、外卦の震は諸侯。坤はまた衆庶、震はまた長子。坤の封国は震侯が往って居り、坤の衆庶は長子が往って統率する。これが「建侯行師」の象で、まさに事に先んじて準備を整える意である。だから震上坤下のこの卦に《豫》と名づける。

彖曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎。天地以順動,故日月不過,而四時不忒;聖人以順動,則刑罰清而民服。豫之時義大矣哉。彖傳曰:吾於卦體卦德而得豫意焉。卦為五陰一陽,四為卦主而眾陰應之,中為互坎,坎為志,震為行,是為剛應而志行。震德動也,坤德順也,是為順以動。陰應陽象豫,動而順亦象豫,故曰豫也。夫天體動亦象震,地承天亦象順,是豫順以動,天地猶如此也,而況建侯行師,可不順以動以得說豫之意乎。

《彖伝》に曰く、「豫、剛応而志行、順以動、豫。豫順以動、故天地如之、而況建侯行師乎。天地以順動、故日月不過、而四時不忒。聖人以順動、則刑罰清而民服。豫之時義大矣哉」。《彖伝》はあたかも言う――吾は卦体と卦徳とにおいて「豫」の義を体得した、と。本卦は五陰一陽で、九四が卦主、衆陰が皆これに応ずる。中間に坎体を互出し、坎は心志を象り、震は行動を象る。これが「剛応而志行」である。震の徳性は動で、坤の徳性は順である。これが「順以動」である。陰が来て陽に応ずるは和楽を象り、動いて順なり得るも和楽を象る。だから《豫》と言うのである。天体の運行は動で、まさに震の象に合し、大地の天を承奉するは順で、まさに坤の象に合する。天地でさえ皆理に順って動くのだから、いわんや人間の分封諸侯・興師動衆が、理に順って動きて和楽の義を求めないことがあろうか。

九家易曰:建侯所以興利,行師所以除害。興利除害,是民所豫樂者也。是知天地未有不順動者,天地惟順動,故日月合度,四時合序。虞氏曰:過謂失度,忒差迭也。震為日門,坎為月,震春坎冬,坤丁秋夏,順以動故不過不忒。推之聖人治天下,聖人惟順動,故刑罰清明,萬民說服。坎為律,象刑罰;坤為民。順以動故清,故說。天地順動得豫之時,聖人順動得豫之義,豫之時義大矣。

《九家易》は言う、分封諸侯は利を興すため、出兵征伐は害を除くため。利を興し害を除くは、まさに百姓の歓楽する事である。これによって知る、天地に理に順って動かないものはない。天地はただ理に順って動くので、日月の運行は度数に合い、四時の更替は次序に合う。虞翻は言う、「過」は度数を失することを指し、「忒」は差錯更迭である。震は日の出ずる門、坎は月を象り、震は春に配し坎は冬に配し、坤は秋夏を兼ね主る。理に順って動くので、日月は度を失わず四時は錯誤しない。これを推して聖人の天下を治めるに至れば、聖人はただ理に順って動くので、刑罰は清明で万民は悦服する。坎は法律で刑罰を象徴し、坤は百姓を象徴する。理に順って動くので刑罰は清簡で、だから百姓は悦服する。天地が順動するは「豫」の時を得たのであり、聖人が順動するは「豫」の義を得たのである。だから「豫之時義大矣」と言うのである。

象曰:雷出地奮,豫。先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。鄭氏曰:奮,動也。雷動於地上,萬物乃豫也。以者,取其喜佚動搖,猶人至樂則手欲鼓之,足欲舞之也。崇,充也。殷,盛也。薦,進也。上帝,天帝也。王者功成作樂,以文得之者作鑰舞,以武得之者作萬舞,各崇其德而為制。祀天帝以配祖考者,使與天同饗其功也。故孝經云:郊祀后稷以配天,宗祀文王於明堂以配上帝,是也。震為樂為帝,艮為宗廟為鬼冥為門,故豫有作樂薦帝配祖象也。

《大象伝》に曰く、「雷出地奮、豫。先王以作楽崇徳、殷薦之上帝、以配祖考」。鄭玄は言う、「奮」はすなわち動で、雷が地上に震動すれば、万物はここに歓悦する。「以」の字を用いる所以は、その喜悦逸楽・手舞足蹈の意を取るのである。人が楽しみ極まれば手を鼓ち足を舞わんと欲するがごとし。「崇」は充実、「殷」は盛大、「薦」は進献、「上帝」はすなわち天帝である。帝王は功業成れば楽章を制作す。文徳を以て天下を得た者は《鑰舞》を作り、武功を以て天下を得た者は《万舞》を作る。各々その功徳を尊崇して制度と為す。天帝を祭祀して祖先を配享するは、祖先をして天とともにこの功業を享けさせるためである。だから《孝経》に云く、南郊に天を祭りて后稷を配享とし、明堂に文王を宗祀して上帝を配す、まさにこの意である。震は楽・帝の取象を有し、艮は宗廟・鬼冥・門闕の取象を有する。だから《豫》卦に作楽・薦帝・配祖の象がある。

初六:鳴豫,凶。初與四應,以陰應陽,故鳴豫。鳴謙為德,故吉;鳴豫則荒,故凶。陰柔無實,是己無可豫而徒仰人以為豫者。象曰:初六鳴豫,志窮凶也。六二:介于石,不終日,貞吉。逸豫之事最易溺人,惟無繫應者乃能不為所溺。二居互艮之初,艮為小石,其介如石,所守堅矣。坤為迷,互艮為止,坤迷未終,艮忽止之。虞氏曰:坤為夕,故不終日。見幾早矣,靜則有守,動則有識,故貞吉。象曰:不終日貞吉,以中正也。

初六の爻辞に「鳴豫、凶」と言う。初六は九四に応じ、陰を以て陽に応ずるので「鳴豫」と言う。《謙》卦の「鳴謙」は徳なので吉である。ここの「鳴豫」は放縦荒怠なので凶である。初六は陰柔にして充実せず、己にもとより楽しむところがなく、ただ人に仰いで楽を取るにすぎない。《小象伝》に曰く、「初六鳴豫、志窮凶也」。六二の爻辞に「介于石、不終日、貞吉」と言う。安逸享楽は最も人を溺せしめやすい。ただ人と牵系相応じない者のみがそれに溺れずに済む。六二は互体艮の始めにあり、艮は小石で、その操守は石のごとく堅く、守るところ極めて固い。坤は迷惑の取象を有し、互体の艮は止の取象を有する。迷惑がまだ極まらないうちに、艮は忽ちこれを止める。虞翻は言う、坤は傍晚である。だから「不終日」と言う、と。これは微を見て著を知り、覚察極めて早いことである。静なれば操守あり、動けば見識あり。だから正を守って吉である。《小象伝》に曰く、「不終日貞吉、以中正也」。

六三:盱豫,悔,遲有悔。盱,張目上視也。四為豫主,三則瞻望仰視,羨人之豫,是志在逸樂者,宜其有悔。夫悔固生於豫,而悔實生於遲。三為坤終,坤為迷,不能如二之介于石;三又為互坎,坎為疑,不能如二之不終日。游移不決,故有悔。象曰:盱豫有悔,位不當也。

六三の爻辞に「盱豫、悔、遅有悔」と言う。「盱」は目を張って上を視ることである。九四は《豫》卦の主で、六三は仰ぎ望み、人の安楽を羨む。これはひたすら逸楽を志す者で、悔いのあるべきは当然である。悔恨は固より安楽を貪るから生ずるが、実はさらに遅疑拖延から生ずる。六三は坤体の終位にあり、坤は迷惑を主るので、六二のように石のごとく堅介であることができない。六三はまた互体坎の中にあり、坎は疑慮を主るので、六二のように一日を終えずに抽身することができない。猶豫不決なので悔いがある。《小象伝》に曰く、「盱豫有悔、位不当也」。

九四:由豫,大有得,勿疑,朋盍簪。四自剝之上與復之初易而為豫,是四之豫有由也,故曰由豫。一陽為眾陰所附,是以一陽得眾陰也,故曰大有得。所得既多,則其所豫亦異,使無誠意以聯屬之,則以有得而聚者,復或因多疑而散。惟是互坎之疑,互艮止之,使之勿疑,則坤朋之合如簪之括髮,聚之以成豫矣。簪,聚會也。坤為眾,四以一陽聚上下五陰,朋盍之象。象曰:由豫大有得,志大行也。

九四の爻辞に「由豫、大有得、勿疑、朋盍簪」と言う。九四は《剥》卦の上爻・《復》卦の初爻が換位して《豫》と成ったもので、この卦の和楽にはその由がある。だから「由豫」と言う。一つの陽爻が衆陰に依附されるは、すなわち一陽を以て衆陰を得ること。だから「大有得」と言う。得るところがすでに多ければ、その享ける安楽もまた人と異なる。しかしもし誠意を以て衆人を聯属しなければ、有所得を以て聚まった人もまた猜疑の多さを以て離散するおそれがある。幸いに互体の坎は疑を主り、互体の艮はそれを止めて、疑いを生じさせない。すると坤衆朋類の会合は、まさに簪の髪を束ね括るがごとく、聚まって和楽を成すのである。「簪」は聚合の意である。坤は衆で、九四は一つの陽爻を以て上下の五つの陰爻を聚合する。まさに朋類会合の象である。《小象伝》に曰く、「由豫大有得、志大行也」。

六五:貞疾,恆不死。五以陰居尊位,既不甘從四以豫,而下乘陽剛為互坎,坎為心病,是謂之疾,蓋常若有疾在身者。然而懼危者安,懼辱者榮。內卦為坤,坤為死,五以陰中不與二應;五又為互震,震為反生,故得恆不死。是疾大有裨於人,則宜貞守此疾矣。孟子曰:生於憂患,死於安樂。即此義也。象曰:六五貞疾,乘剛也;恆不死,中未亡也。得中故未亡。

六五の爻辞に「貞疾、恒不死」と言う。六五は陰を以て尊位に居り、すでに四に従って豫することを甘んじず、また下に陽剛を乗じて互体坎と为す。坎は心病で、これを「疾」と言う。常に疾を身に帯びる者のごとし。しかし危を懼る者は安んじ、辱を懼る者は栄える。内卦は坤で、坤は死を象る。六五は陰の中にあって二と応じない。六五はまた互体震で、震は反生を主る。だから恒不死を得る。この疾は大いに人に裨益するので、まさに貞しくこの疾を守るべきである。孟子に曰く、憂患に生まれ、安楽に死す。すなわちこの義である。《小象伝》に曰く、「六五貞疾、乗剛也。恒不死、中未亡也」。中を得るので未だ亡びない。

上六:冥豫成,有渝,無咎。上與三應,三為坤上。虞氏曰:坤為冥。豫至於上,則豫已極,復以陰柔處之,是豫而冥者,故曰冥豫。上在剝為艮,說卦傳曰:成言乎艮。則艮為成。今乃上與四易,以艮之成為震之動,是豫之成者已變。渝,變也。人安逸樂則過滋生,改變成跡則過可補,故曰成有渝無咎也。象曰:冥豫在上,何可長也。豫不可長,宜變以補過也。

上六の爻辞に「冥豫成、有渝、無咎」と言う。上六は六三に応じ、六三は坤体の上に居る。虞翻は言う、坤は昏冥を主る。安楽が上爻に至れば、豫はすでに極まり、復た陰柔を以てこれに処れば、これは楽に溺れて昏昧不明なるを言う。故に「冥豫」と言う。上六は《剥》卦において艮体に属し、《説卦伝》に「成言乎艮」と言う。見るに艮は「成」の意あり。今や上六は九四と換位して、艮の「成」を震の「動」に変えたれば、見るにすでに成せし安楽の局面はまた変われたり。「渝」はすなわち改変。人が安逸楽に安んずれば、過失はすなわち滋長し、既成の旧辙を改変すること肯んずれば、過失はすなわち弥補し得。故に「成有渝、無咎」と言う。《小象伝》に曰く、「冥豫在上、何可長也」。安楽に耽るは長くすべからず、まさに時に及んで改変して以て過失を弥補すべし。

随

【震下兌上,中互巽艮】否。隨為三陰三陽卦,自否來。虞氏曰:否上之初。蜀才曰:此本否卦,剛自上來居初,柔自初而升上。隨:元亨利貞,無咎。隨,從也。下從上,後從前,皆曰隨。此卦震下兌上。鄭氏曰:震,動也;兌,說也。內動之以德,外說之以言,則天下之民咸慕其行而隨從之,故謂之隨也。既見隨從,能長之以善,通其嘉禮,和之以義,乾之以正,則功成而有福;若無此四德,則有凶咎焉。

【《随》卦は震が下、兌が上、中間に巽・艮の二体を互出する】卦変は《否》より来る。《随》は三陰三陽の卦で、虞翻は《否》卦の上爻が降りて初位に至ると言い、蜀才は言う、此卦はもとより《否》卦で、剛爻は上より下りて初位に居り、柔爻は初位より上昇して上位に居る、と。卦辞に曰く、「随、元亨利貞、無咎」。「随」はすなわち跟従で、下位が上位に跟従し、後が前に跟従するを、皆「随」と言う。此卦は震下兌上で、鄭玄は言う、震はすなわち動、兌はすなわち悦。内に在りて徳を以て人を感動し、外に在りて言辞を以て人を取悦せば、さらば天下の百姓は皆其の行為を仰慕して彼に跟従す。故に《随》と称す。すでに人の跟従を得たれば、すなわち善を以て彼らを助長し(元)、嘉礼を以て彼らを会通し(亨)、道義を以て彼らを調和し(利)、正道を以て彼らを主干し(貞)、かくの如くしてこそ功業はこそ成就して福有り。もし元亨利貞のこの四種の徳性無からば、すなわち凶険と過失有らん。

彖曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞無咎,而天下隨時,隨時之義大矣哉。卦名隨者何?以隨自否來,否乾之上下來坤初,是謂之剛來下柔。坤變為震,震為動;乾變為兌,兌為說。震動於內以從外,而外以兌說應之,故曰隨也。第震之德為動,而象又為雷;兌之德為說,而象又為澤。震位正東,卦時為二月;兌位正西,卦時為八月。二月雷乃發聲,出於澤中;八月雷始收聲,入於澤中。夫震,陽也;兌,陰也。陰宜從陽,而今陽轉從陰者,隨時之義也。時行則行,時止則止,惟能隨時,乃克大通貞正無咎,大哉隨時之義也。

《彖伝》に曰く、随とは、剛が来て柔の下に降り、動いて説び、随なり。大亨貞にして咎なくして、天下時に随う、随時の義大なるかな。卦を「随」と名づけるは何ぞ。随が否より来れば、否の乾の上爻が下って坤の初位に居るをもって、「剛来下柔」と謂う。坤は変じて震となり、震は動き、乾は変じて兌となり、兌は説び。震が内にて奮動して外卦に従い、外卦は兌の喜悦を以てこれに応ず。だから「随」と言う。さらに震の徳は動きで、象は雷、兌の徳は説びで、象は沢。震の位は正東で、卦気は二月に配し、兌の位は正西で、卦気は八月に配す。二月は雷が声を発して沢中より出で、八月は雷が声を収めて沢中に入る。震は陽、兌は陰で、理の上では陰は陽に従うべきだが、今むしろ陽が陰に従うのは、時に随う義である。時行けば行き、時止まれば止まる。ただ能く時に随うので、こそ大通貞正にして咎なく、大なるかな随時の義である。

象曰:澤中有雷,隨。君子以嚮晦入宴息。翟氏曰:晦者,冥也。雷者,陽氣,春夏用事,今在澤中,秋冬時也,故君子象之。日出視事,其將晦冥,退入宴寢而休息也。此卦自否來,乾之上陽入於坤下,乾為人,坤主藏,又為晦,嚮晦宴息象也。

《大象伝》に曰く、沢中に雷あり、随なり。君子以て晦に向かいて入りて宴息す。翟玄は曰く、「晦」とは冥である。雷は陽気で、春夏に用事し、今沢中に伏するは秋冬の時である。だから君子はこれに象って、日の出に視事し、晦冥に至れば退きて内室に入り宴寝休息す。此卦は否より来て、乾の上爻の陽が坤体の下に入り、乾は人を象り、坤は蔵を主りまた晦を主るので、まさに向晦宴息の象である。

初九:官有渝,貞吉,出門交有功。官,主也。虞氏曰:震為主。而云有渝者,以初自否之上來,今之為官,乃由否變得之者也。變陰為陽,變柔為剛,故貞吉。夫震為主而又為出,隨象以後隨前為義,初宜隨二,二為互艮,艮為門,初宜出之以締交焉。初為震主,陽剛有才,自能擇交,不至失人以流於濫也,蓋有功矣。象曰:官有渝,從正吉也;出門交有功,不失也。

初九の爻辞:官有渝、貞吉、出門交有功。「官」は主の意で、虞翻は震は主であると言う。「有渝」と言う所以は、初九はもとより否卦の上爻から降りて来て、今一卦の主となったのは、まさに否の変化から得たものである。陰より陽に変じ、柔より剛に変ずるので「貞吉」。震は主であり、また「出」の取象がある。《随》の義例は後が前に随うことで、初九は六二に随うべく、六二は互体艮の中にあり、艮は門である。だから初九は門を出て人と交わるべきである。初九は震体の主で陽剛にして才あれば、自ずから交わりを選択し、失人して濫れるに至らず、だから功がある。《小象伝》に曰く、官有渝は正に従えば吉なり、出門交有功は失わざればなり、と。

六二:係小子,失丈夫。二陰居陰位,是不能正所隨而有所繫者。蓋隨以前行後隨為義,二前為三,三為陰,是小子;二後為初,初為陽,是丈夫。二既見繫於在前之小子,必至失其在後之丈夫。丈夫固不可失,而小子偏又見繫,二在陰柔無主也。象曰:係小子,弗兼與也。小子丈夫不能兼與,有所繫必宜有所失也。

六二の爻辞:小子に繋がりて、丈夫を失う。六二は陰を以て陰位に居り、自らの随う所を正しくすることができず、牽繋された者である。《随》は前の者が先に行き後の者が従うを義例とする。六二の前は六三で、六三は陰爻なので「小子」、六二の後は初九で、初九は陽爻なので「丈夫」。六二はすでに前の小子に牽繋されて、必ず後の丈夫を失う。丈夫はもとより失うべきでないが、偏えに小子に牽繋される。六二が陰柔にして主見がないからである。《小象伝》に曰く、小子に繋がるは、兼ねて与(とも)にせざればなり、と。小子と丈夫は兼ねて得られず、一方に繋がれば必ず一方を失う。

六三:係丈夫,失小子,隨有求得,利居貞。三上無應,四以陽剛居三之上,是為丈夫;二為陰柔在三之下,是為小子。繫上丈夫,失下小子,得隨道矣。夫有隨則必有求,而有求又必欲有得。前為陽,陽剛內實,又為互巽,巽為近利市三倍,求固有得,但利居貞正,不可為二所移。蓋三為陰,恐其失守,故以居貞勖之。象曰:係丈夫,志舍下也。下謂二也。

六三の爻辞:丈夫に繋がりて、小子を失い、随えば求めて得あり、居貞に利あり。六三は上六と正応せず、九四が陽剛を以てその上に居るが「丈夫」、六二が陰柔を以てその下に居るが「小子」。上の丈夫に繋がり、下の小子を捨てれば、随の道を得る。随うところあれば必ず求むるところあり、求むれば必ず得んと欲す。前の九四は陽爻で、陽剛にして内実し、また互体巽の中にあり、《説卦伝》に巽は「近利市三倍」と言う。だから求めば必ず得あり。しかしなお居貞を宜しいとす。六二に動かされてはならない。六三はもとより陰爻で、守りを失うを恐るので、「居貞」を以てこれを勗める。《小象伝》に曰く、丈夫に繋がるは、志が下を舎てればなり、と。「下」とは六二を指す。

九四:隨有獲,貞凶,有孚在道以明,何咎。陽實陰虛,四為陽,故三以隨四為有得;五亦為陽,故四以隨五為有獲。獲,得也,即功也。五多功,故隨五有獲也。四為大臣位,臣位高則多危,臣有功則震主,倘不善以自處,貞守所獲,則有獲適以滋戾,凶可立至。惟宜以陽實為孚,陽光為明,孚信充實,達於道路。四為互艮,艮為徑路,故曰在道。忠誠之衷,君喻之,雖有所獲,何有於咎。象曰:隨有獲,其義凶也;有孚在道,明功也。大臣隨至於有獲,宜凶也。明功者,明其有獲,致君喻之。

九四の爻辞:随えば獲あり、貞凶、孚あり道に在りて明ければ、何の咎あらん。陽は実、陰は虚で、九四は陽なので六三が九四に随うを「有得」と言い、九五も陽なので九四が九五に随うを「有獲」と言う。「獲」は得、すなわち功である。《繋辞》に五爻を「多功」と言うので、九五に随えば獲がある。九四は大臣の位にあり、臣位が高ければ危険が多く、臣に功あれば君を震動す。もし善く自処せず、一味に獲を守れば、獲がかえって禍を滋し、凶は立ちどころに至る。ただ陽の充実を孚とし、陽の光輝を明として、忠信を内に充実して道路に達すべきである。九四は互体艮の中にあり、艮は径路なので「在道」と言う。忠誠の衷が君に喻されれば、獲あると雖も何の咎あらん。《小象伝》に曰く、随有獲は其の義凶なり、孚あり道に在りて明なりは、功を明かりするなり、と。大臣が随って獲に至るは、義として凶である。「明功」は自らの功獲を明らかにして君に喻せしむるを言う。

九五:孚于嘉,吉。五以兌說為隨之主,是以嘉美之德求孚於人,而人亦信而隨之。嘉,美也。虞氏曰:陽稱嘉。五位正,故吉。象曰:孚于嘉吉,正中也。上六:拘係之,乃從維之,王用亨于西山。上在事位之外,乃以隨之,故為五所繫。繫之不已,又從而維繫之。蓋隨者後隨前也,卦至於上,卦爻已盡,前無所隨,而五為互巽,為繩,故以維繫為隨也。夫所以維之,實欲用之。五為君位,為王;兌為西,互艮為山,是為西山;兌又為巫,為口舌,禱祀之象,是為用亨。亨,享通,祭也。上位已盡,故不言隨。五欲用賢,必欲隨上,王用上以享祀名山,以為百神之主,故變隨而言拘繫從維也,此隨之極則也。象曰:拘係之,上窮也。上窮無所隨,故為五拘係之。

九五の爻辞:嘉に孚すれば吉。九五は兌の和説を以て《随》卦の主となり、嘉美の徳を以て人の孚を求め、人もまた信して之に随う。「嘉」は美で、虞翻は陽爻を「嘉」と称す。九五はまた正位に居るので吉。《小象伝》に曰く、嘉に孚して吉は、正中なればなり、と。上六の爻辞:拘えて之に繋がり、乃ち従うて之を維す。王は西山にて享す。上六は職事の位次の外にありながら、なお随うので、九五に牽繋される。繋ぐだけでは足らず、また従えて之を維す。《随》は後が前に随うことで、上爻に至れば六爻すでに尽き、前に随うべきがなく、九五は互体巽の中にあり、巽は縄索なので、縄を以て維繫して随と為す。之を維する所以は、実は之を用いんと欲する故である。九五は君位なので「王」と称し、兌は西方、互体艮は山、合わせて「西山」。兌はまた巫・口舌で、祷祀の象なので「用享」と言う。「亨」は「享」に通じて祭祀である。上六は爻位の尽きる所なので「随」と言わず。九五は賢を用いんと欲して必ず上六に随おうとし、王は上六を用いて名山を祭祀し、百神の主と為さんとする。だから「随」を変えて「拘繋」「従維」と言う。これが随の道の極である。《小象伝》に曰く、拘えて之に繋がるは、上窮すればなり、と。上六は窮極の位に居り随う所がないので、九五に拘繋される。

蠱

【巽下艮上,中互震兌】泰。蠱為三陽三陰卦,自泰來。九家易曰:此卦本泰。虞氏曰:泰初之上,故剛上;坤上之初,故柔下。蠱:元享【享:亨】,利涉大川,先甲三日,後甲三日。春秋傳曰:血蟲為蠱,谷之飛亦曰蠱。在周易,女惑男,風落山,謂之蠱。女,陽物而晦時,淫則生內熱惑蠱之疾。是蠱為惑也。而序卦傳乃曰:蠱者,事也。則何也?蓋此卦巽下艮上,巽順而繼以艮止,是因怠緩回惑以釀成事。至事已成,則宜事事以止事焉,故曰蠱者事也。

【《蠱》卦は巽が下、艮が上、中間に震・兌の二体を互出する】卦変は《泰》より来る。《蠱》は三陽三陰の卦で、《九家易》は此卦は本《泰》であると言い、虞翻は、《泰》卦の初爻が上に行くので「剛上」、坤の上爻が初位に下るので「柔下」と言う。卦辞:蠱、元亨(原刻は「享」と作るが「亨」に作るべし)、大川を渉るに利あり、先甲三日、後甲三日。《左伝》に曰く、腹中の血虫を蠱といい、穀物に虫が生じて飛び出るをも蠱という。《周易》においては、女が男を惑わし、大風が山木を落とすを「蠱」と謂う。また曰く、女は陽物で晦時に当り、淫すれば内熱惑乱の蠱疾を生ず。是れ蠱はすなわち惑乱である。しかし《序卦伝》は「蠱者事也」と言う。是れ何ぞや。此卦は巽下艮上で、まず巽の柔順因循があり、続いて艮の止息がある。怠惰遅緩・回環迷惑を以てこそ事端を醸成したのである。事端がすでに成れば、まさに事を事として事を以て事を止むべきである。だから「蠱者事也」と言う。

夫事事乃以求亨,而事事於多事,則得大亨。然事既成為蠱,事豈易治?惟不易治,而愈宜有以治之,不避艱難,不辭險阻,大川在前,剛健者始能涉之,治蠱如此,乃克雲利。又必審於事先以要其終,慎於事後以原其始,如是,蠱不終於蠱而得大通,故曰先甲三日後甲三日也。

事を事とするはもともと亨通を求むるためで、多事の秋に事を為せば収効はさらに大きい。だから「元亨」でき得る。しかし事がすでに壊敗して「蠱」となれば、整治しやすいはずがない。整治し難ければこそ、いよいよ以てこれを治すべきである。艱難を避けず、険阻を辞せず、大川が前に横たわれば、剛健の者のみが敢えて渡る。積弊を整治するにはこの気概があってこそ「利」の一字に及ぶ。同時に必ず事に先んじて審察して終りを要し、事成の後もなお慎んで始めを原す。かくの如くすれば、積弊はついに蠱で終わらず、再び大通を得る。だから「先甲三日、後甲三日」と言う。

彖曰:蠱,剛上而柔下,巽而止,蠱。蠱元亨而天下治也。利涉大川,往有事也。先甲三日,後甲三日,終則有始,天行也。艮巽合卦所以名蠱者,以蠱自泰來也。以泰之初往居坤上,是為剛上;以泰之上來居乾下,是為柔下。剛上為艮,柔下為巽,巽順以釀成事,而艮又止之,故曰蠱也。事事俱壞則曰蠱,而事其事則求亨,治事則必亨,而治蠱則亨曰元。蠱曰元亨者,蓋事事於無事之日,則事小功微;而事事於有事之秋,則事半功倍。蠱固不易治,惟勇於治蠱者能事其所事,則事事振作,事事奮興。

《彖伝》に曰く、蠱とは、剛上して柔下す、巽にして止まる、蠱なり。蠱元亨にして天下治まるなり。大川を渉るに利あるは、往いて事あればなり。先甲三日後甲三日は、終れば則ち始まる、天の行なり、と。艮巽の合卦が「蠱」と名づく所以は、蠱が泰より来れば、泰の初爻が上に往きて坤体の上に居るが「剛上」、泰の上爻が下に来て乾体の下に居るが「柔下」。剛上は艮となり、柔下は巽となる。巽の柔順因循が事端を醸成し、艮がまたこれを止めるので「蠱」と言う。事々皆壊れれば「蠱」と言い、事を事とすれば亨通を求め、事を治すれば必ず亨通し、蠱を治すの亨通はさらに「元」と言うべし。《蠱》に「元亨」と言う所以は、無事の日に事を為せば事小さく功微だが、有事の秋に事を為せば事半にして功倍するからである。積弊は固より治し難し。ただ勇んで蠱を治する者のみがその事すべき事を事とし得て、こうして事々振作し、事々奮興する。

初往之上,中歷二陰,水陰象,是謂之川,而得互震之動、巽風之助,涉此大川,亦未有不利者。夫事必有其終,而事事貴謀其始。先甲三日,辛壬癸也,為十干之終;後甲三日,乙丙丁也,為十干之始。蠱之終為泰之始,上來下往,有徹終徹始審慎以治之象。治蠱以大力,復濟之以遠謀,則蠱治矣。以是知治事之大者乃可以得大亨,則蠱之元亨乃天下治也。

《泰》卦の初爻が上位に往くに、中間に二つの陰爻を経る。水は陰に属し、陰爻はまさに水の取象なので「川」と称す。それがまた互体震の奮動・巽風の推助を得て、この大川を渉れば、自ずから利ならざるはない。これが「利渉大川」である。事には必ずその終りがあり、事を為すにはその始めを謀るを貴ぶ。「先甲三日」は辛・壬・癸で十干の末尾、「後甲三日」は乙・丙・丁で十干の発端。《蠱》の終点はまさに《泰》の起点で、上爻が下り初爻が上るは、まさに終始を貫徹して審慎に整治する象である。積弊を治するに大力を以てし、また遠謀を以て済わせば、積弊は治まる。これによって知る、治事の大任を担う者のみが大亨通を得られ、《蠱》の「元亨」はまさに天下がこれによって治まるを言うのである。

利涉大川者,以泰之初往前居坤,中歷互兌之澤。虞氏曰:坤為事。是往有事也。先甲三日後甲三日終則有始者,乾為大始,坤為大終,泰坤來初,泰乾往上,上為蠱之終,是蠱之終自【自:有】泰之始。上又為泰之乾,乾為天,乃天行也。毋自安於蠱而不事事也。

いわゆる「利渉大川」は、《泰》卦の初爻が上卦坤の中に往き、中間に互体兌の水沢を経るからである。虞翻は坤は事であると言うので「往有事也」。いわゆる「先甲三日後甲三日終則有始」は、《繋辞伝》に乾を「大始」、坤を「大終」と言うからである。《泰》卦の坤の上爻が初位に来て、《泰》卦の乾の初爻が上位に行く。上位は《蠱》卦の終点なので、《蠱》の終点の中に《泰》の始めが含まれる(原刻「自」の字は「有」に作るべし)。上位はまた《泰》卦の乾体の在る所で、乾は天、すなわち「天行」である。要するに、積弊に安んじて事を為さざること勿れ。

象曰:山下有風,蠱。君子以振民育德。風氣主散,為山所阻,則風令不行,有蠱象焉。君子觀之而欲振民:泰坤為民,坤易為巽,巽風之鼓盪如振,故曰振民也。又欲育德:泰乾為德,乾易為艮,艮山之靜涵如育,故曰育德也。

《大象伝》に曰く、山下に風あり、蠱なり。君子以て民を振い徳を育てる。風の気はもとより発散を主り、山に阻まれれば風の号令が吹き行かれず、ここに積弊の象を含む。君子はこの象を見て民を振起せんと欲す。《泰》卦の坤は百姓を象り、坤が変じて巽となり、巽風の鼓蕩が振起のようで、だから「振民」。また徳を涵育せんと欲す。《泰》卦の乾は徳を象り、乾が変じて艮となり、艮山の静かに涵蓄するが養育のようで、だから「育徳」。

初六:幹父之蠱,有子,考無咎,厲終吉。夫不治事以釀成蠱,天下之大有之,即一家之中亦有之。一家之尊莫大於父,初原為泰之乾,乾為父,易乾為巽成蠱,乾象不見,則父已亡,父死稱考。父有遺事未治,是謂之蠱;父有蠱,是父有咎;父咎父未能補,則望子有以乾之。虞氏曰:乾,正蠱事也。泰乾為父,坤為事,故幹父之蠱。父死稱考,有子考變得正,故無咎厲終吉也。象曰:幹父之蠱,意承考也。意承考者,謂子善承考意,猶曰父之蠱,父意欲乾之,今子乃承其意耳。

初六の爻辞:父の蠱を幹(ただ)し、子あれば考咎なし、厲にして終に吉。事を治めずして蠱を醸成するは、大は天下にあり、小は一家の中にもある。一家の中で最も尊きは父である。初爻はもとより《泰》卦の乾体の在る所で、乾は父を象り、乾が巽に変じて《蠱》となり、乾象は見えず、父はすでに亡し――父死して「考」と称す。父が事を遺して治めざるはこれを「蠱」と謂い、父に蠱あれば父に咎あり。父の咎は父自ら補えず、子にこれを匡正せしむるを望む。虞翻は「幹」は積弊の事を匡正することであると言い、《泰》卦の乾は父、坤は事なので「幹父之蠱」と言う。父死して考と称し、子あれば先考の過が変じて正に帰るので「无咎」を得、厲あるも終に吉を獲る。《小象伝》に曰く、父の蠱を幹するは、意考に承ぐればなり、と。考意を承ぐとは、子が善く先考の心意を承接するを言う――父の遺した積弊は父ももとより治さんと欲していたが、今子はただその志を承けて為すのみ。

九二:幹母之蠱,不可貞。二為陰位,居巽女之中,又次於父,是母也。卦為蠱,是母亦有蠱也。幹母之蠱,宜因事補救,不可貞守一轍,持常道以繩之。禮曰:事親有隱無犯。又曰:先意承志,諭父母於道。皆不可貞之義也。象曰:幹母之蠱,得中道也。

九二の爻辞:母の蠱を幹し、貞むべからず。二は陰位で、また巽(長女)の中に居り、位次は父に次ぐので、母を象る。此卦は《蠱》なので、母にも積弊ありと見える。母の蠱を幹するには、事に随って補救すべきで、一轍を貞固して常法を以て之を繩すべからず。《礼記》に曰く、親に事うるに隠あって犯なし。又曰く、意を先に志を承け、父母を道に喩す。皆「不可貞」の義である。《小象伝》に曰く、母の蠱を幹するは、中道を得ればなり、と。

九三:幹父之蠱,小有悔,無大咎。三以陽居陽位,居互震互兌之間,震為決躁,兌為附決,是勇於幹父蠱者。夫事親宜順,過剛則非,故小有悔;而以為幹父蠱也,故無大咎。象曰:幹父之蠱,終無咎也。爻辭曰無大咎,象傳曰終無咎,甚言蠱之不可不乾,所以勖人見義勇為也。

九三の爻辞:父の蠱を幹し、小悔あり、大咎なし。九三は陽を以て陽位に居り、互体震と互体兌の間に居る。《説卦伝》に震は「為決躁」、兌は「為附決」と言うので、勇んで父の蠱を幹する者である。親に事うるは柔順を宜とす、剛に過ぎれば非なり。だから「小有悔」。しかし父の蠱を幹するためなので、大きな咎はない。《小象伝》に曰く、父の蠱を幹するは、終に咎なきなり、と。爻辞は「無大咎」と言い、《象伝》は直に「終無咎」と言う。積弊を幹せざるべからずを極力強調し、以て人の義を見て勇んで為すを勗めるのである。

六四:裕父之蠱,往見吝。四為互兌正艮,兌說而濟以艮止,是不能事其事者。於父之蠱,不惟不能幹之,且寬裕以處之矣。虞氏曰:裕不能爭也。孔子曰:父有爭子,則身不陷於不義。四陰體弱,故裕父之蠱,不能幹蠱,已失事親之道,如此前往皆吝疵也。象曰:裕父之蠱,往未得也。未得者,謂未得事父之道也。

六四の爻辞:父の蠱を裕(ゆる)くし、往けば吝を見る。六四は互体兌の中に居り、また上卦艮体に当る。兌は喜説を主り、また艮の止息を加えるので、事を担う能わざる者である。父の蠱に対して、幹する能わざるのみならず、かえって寛裕を以て処して放って置く。虞翻は「裕」は争(諫)う能わざるを言うとし、孔子は曰く、父に争子あれば身を不義に陥れず。六四は陰爻にして体質柔弱なので、ただ父の蠱を寛縦するのみで、積弊を幹する能わず。すでに親に事うる正しき道を失い、かくの如く往けば、往々にして憾惜と缺失がある。《小象伝》に曰く、父の蠱を裕にするは、往きて未だ得ざればなり、と。「未得」は父に事うる道を得ざるを言う。

六五:幹父之蠱,用譽。五為尊位,位尊則蠱易乾。二為正應,用二以輔之。傳曰:二多譽。用二是為用譽。蠱與譽反,至於有譽,則蠱已化,善聲遠聞,事事咸理矣,此何如干者。象曰:幹父用譽,承以德也。父有蠱,子以德承之,是用譽也。

六五の爻辞:父の蠱を幹し、誉を用いる。五は尊位で、地位が尊ければ積弊は幹し易い。九二はそれと正応で、九二を用いて輔佐せしめるべきである。《繋辞》に二爻を「多誉」と言うので、九二を用うるはすなわち「用誉」。「蠱」と「誉」は正反対で、美譽に至れるは積弊がすでに化したを説明し、善き声が遠く聞え、事々皆理り治まる。これ如何なる幹する者ぞ。《小象伝》に曰く、父の蠱を幹して誉を用いるは、徳を以て承ぐればなり、と。父に蠱あれば、子は徳を以てこれを承ぐ、これが「用誉」である。

上九:不事王侯,高尚其事。為不治事以釀成蠱,為幹蠱乃於以有事。其始則祇見為蠱而不見事,其終則漸見為事而不見蠱。幹蠱至五,已能用譽,則蠱已化;至於上,事事皆治,無蠱可乾,此時則宜退居山林,自勵清節。泰乾之下居於坤上,乾為君稱王侯,坤為事易為艮以止之,故曰不事王侯。坤上易下為巽,巽為高,乾下上升為艮,居坤之上,是為高尚其事,此以不事為事也,蓋天下自此太平矣。象曰:不事王侯,志可則也。不事王侯,其清風高節可以感人,可以化俗,志可為法,惟無事故以志見也。

上九の爻辞:王侯に事えず、其の事を高尚にす。事を治めざるがために蠱を醸成し、蠱を幹するがために事功あり。始めはただ蠱を見て事功を見ず、終りには漸く事功のみを見て蠱を見ない。蠱を幹すること五に至れば、すでに「用誉」能くして蠱は化し、上に至れば事々皆治まり、幹すべき蠱なし。この時は宜しく山林に退居し、自ら清節を励ます。《泰》卦の乾体の下爻が上りて坤体の上に居る。乾は君を象り王侯と称すべく、坤は事を象り今変じて艮となりて之を止める。だから「不事王侯」。坤の上爻が下に換えて巽となり、巽は「高」の取象を有し、乾の下爻が上昇して艮となり、坤の上に居る。これが「高尚其事」で、事えざるを以て事と為す。天下これより太平である。《小象伝》に曰く、王侯に事えざるは、志則とすべきなり、と。王侯に事えざる者の清風高節は人心を感動し風俗を化す能く、その心志は法則と為すに足る。まさに事を任ぜざればこそ、ただ心志の上にその価値を見るのである。

臨

【兌下坤上,中互坤震】臨為陽息陰消卦,為震變體,重畫震象。乾天為生物之本,為元;震位東方,於時為春,亦生物之始也,故卦辭亦曰元。臨:元亨利貞,至于八月有凶。兌下坤上,卦名臨。鄭氏曰:臨,大也。陽氣自此浸而長大,盛之極也。人極盛則奢淫,奢淫將亡,故戒以凶也。

【《臨》卦は兌が下、坤が上、中間に坤・震の二体を互出する】《臨》は陽気生長・陰気消退の卦で、震卦の変体、震象を重畫したもの。乾天は万物を生養する根本で「元」、震は東方に位し時は春に配し、もとより万物生長の始めなので、卦辞も「元」と言う。卦辞:臨、元亨利貞、八月に至れば凶あり。兌下坤上、卦名を《臨》と言う。鄭玄は「臨」は大であると言い、陽気がこれより漸く生長壮大して盛の極である。人は極盛になれば奢侈淫佚し易く、奢侈淫佚すればまさに敗亡す。だから「凶」の字を以て誡める。

彖曰:臨,剛浸而長,說而順,剛中而應,大亨以正,天之道也。至于八月有凶,消不久也。此卦何以名臨也?蓋臨觀反對,觀二陽在上,有以下觀上之象,故曰觀;臨則二陽在下,有以上臨下之象,故曰臨。二陽下息,前往漸長,兌德為說,坤德為順,兌說以應坤順,九二剛中相應,上順求下而下亦說應上,大亨以正,於此見天道焉。

《彖伝》に曰く、臨とは、剛浸みて長ず、説びて順う、剛中にして応ず、大亨にして正を以てす、天の道なり。八月に至れば凶あるは、消すれば久しからざればなり、と。此卦がなぜ「臨」と名づくか。《臨》と《観》は一対の反覆の卦で、《観》は二つの陽爻が上にあり、下に在る者が上を仰ぐ象なので「観」と言い、《臨》は二つの陽爻が下にあり、上位より下民を臨撫する象なので「臨」と言う。二つの陽爻が下に生長して前に漸く壮大す。兌の徳性は説びで、坤の徳性は順で、兌の和説が上に坤の柔順に応じ、九二はまた剛にして中に居り六五と相応ず。上に在る者が柔順に下に賢を求め、下に在る者も欣説して上に応和す。これが「大亨以正」で、ここに天道を見る。

夫一陽下息則復,祇僅曰亨;至二陽浸長,則兼曰元曰利貞。天道以生生為德,生生至臨,天道可謂極盛矣。顧天道豈可久恃哉?自今日言之則為陽長,自異日思之則為陽消,試以臨卦反觀則凶立見。臨下二陽,乃建丑之月,十二月卦也,歷寅卯辰巳午未申酉,則為八月。丑月長至二陽,酉月亦消餘二陽,反臨為觀,今日之臨即異日之觀也,有凶矣。當此二陽生息之日,豈能遽凶?然而聖王治國,不敢恃目前之安而忘久遠之謀。書曰:制治於未亂,保邦於未危。蓋得此義矣。

一つの陽爻が下に生長すれば《復》で、卦辞はただ「亨」の一字を言う。二つの陽爻が漸く生長すれば、「元」と「利貞」とを兼ねる。天道は生々を徳とし、生生が《臨》に至れば天道は極盛と謂うべし。しかし天道はながく恃むべきか。今日より言えば陽の生長なり、他日より思えば陽の消退なり。試みに《臨》卦を倒して観れば凶はたちまち現る。《臨》卦の下の二陽は建丑の月に配し、十二月の卦で、丑より寅・卯・辰・巳・午・未・申を歴て酉に至るが、まさに八箇月。丑月に陽が二爻に長じ、酉月に陽が消えて二爻のみ余る。《臨》を倒せば《観》となり、今日の《臨》は他日の《観》なので「有凶」と言う。この二陽生息の日に当り、豈に遽かに凶あらんや。しかし聖明の君王の国を治むるは、目前の安を恃んで久遠の謀を忘るることを敢えてせず。《尚書》に曰く、未だ乱れざるに治を制し、未だ危ぶまざるに邦を保つ。まさにこの理を得たものである。

象曰:澤上有地,臨。君子以教思無窮,容保民無疆。荀氏曰:澤卑地高,高下相臨之象也。虞氏曰:震為言,兌口講習,坤為思,剛浸長,故以敦思無窮。容,寬也。坤為容為民,故保民無疆矣。初九:咸臨,貞吉。咸,皆也。二陽為卦主,諸陰咸臨之,是在下有賢人而上皆順聽之也,故貞吉。象曰:咸臨貞吉,志行正也。初雖在下,志在前行,陽剛前行,正也。

《大象伝》に曰く、沢上に地あり、臨なり。君子以て教え思うこと窮りなく、容れて民を保すること疆なし。荀爽は曰く、沢は卑く地は高く、まさに高下相臨の象である。虞翻は曰く、震は言語、兌は口にして講習を主り、坤は思慮を主り、陽剛はまた漸く生長す。だから教え思うこと窮りなし。「容」は寛の義で、坤は包容・百姓の取象を有するので、民を保すること疆なし。初九の爻辞:咸に臨む、貞吉。「咸」は皆である。二つの陽爻は全卦の主で、衆陰爻が皆来りて親附して臨を受く。これは下に賢人ありて上の者が皆順従聴命するで、「貞吉」。《小象伝》に曰く、咸臨貞吉は、志行正しければなり、と。初九は最下にあるも志は前に推進するにあり、陽剛の前に推進するはまさに正道である。

九二:咸臨,吉,無不利。二之咸臨與初同,初僅言吉,而二又言利者,陽再進則德愈盛,故無不利也。象曰:咸臨吉無不利,未順命也。六三:甘臨,無攸利,既憂之,無咎。虞氏曰:兌為口,坤為土,土爰稼穡作甘,兌口銜坤,故曰甘臨。夫以陰居三,固已失位,而兌為說,亦不能有為,故無攸利。倘轉容說為震動,三為互震,震動則有憂,憂則能補過,不至甘臨以終也。象曰:甘臨,位不當也;既憂之,咎不長也。

九二の爻辞:咸に臨む、吉、不利なきことなし。九二の「咸臨」は初九と同じ。初九はただ「吉」を言い、九二はまた「利」を言うのは、陽気がもう一歩進めば徳性はいよいよ充盛するので、不利なし。《小象伝》に曰く、咸臨吉無不利は、未だ命に順わざればなり、と。六三の爻辞:甘く臨む、攸(ところ)利あらず、既に之を憂うれば咎なし。虞翻は曰く、兌は口、坤は土、《尚書・洪範》に「土爰稼穡」、稼穡は甘を作す。兌口が坤土を銜むので「甘臨」と言う。すなわち甜言媚語を以て下に臨むこと。陰爻を以て三位に居ればもとより失位で、兌はまた喜説を主りて事業を為し得ず。だから「无攸利」。もし一味の取悦を転じて震の奮動と為せば――六三はまさに互体震の中にある――動けば憂懼を生じ、憂懼あれば過を補い得て、甘く媚ぶるに終わらず。《小象伝》に曰く、甘臨は位当たらざればなり、既に之を憂うれば咎長からざるなり、と。

六四:至臨,無咎。四為互震,雖與初二漸遠,而初為正應,以言夫臨,可展震足而至。四為大臣,臨初得以貴下賢之義,故無咎。象曰:至臨無咎,位當也。六五:知臨,大君之宜,吉。乾體中實,坤體中虛,故先儒以乾屬仁,以坤屬智。五為坤中,居尊位,下臨夫二,故曰知臨。夫知人則哲,能官人則智,實為大君之宜。蓋一日萬幾,一人未能周知,惟不自有其智而擇賢以輔之,則集思廣益,非大智不能若是也。知臨故吉也。象曰:大君之宜,行中之謂也。

六四の爻辞:至りて臨む、咎なし。六四は互体震の中に居り、初九・九二より漸く遠いが、初九はその正応である。臨下について言えば、震足を展べて来ることができる。六四は大臣の位で、初九を親臨するは、まさに尊貴の身を以て賢者を礼待する理に合う。だから咎なし。《小象伝》に曰く、至臨無咎は、位当たればなり、と。六五の爻辞:知を以て臨む、大君の宜しき、吉。乾体は中間充実し、坤体は中間虚空なので、先儒は乾を仁に配し坤を智に配す。六五は坤体の中に居り、また尊位に処り、下に九二を親臨するので「知臨」と言う。人を知れば哲、人を官すれば智、実に大君の有すべき品格である。一日のうち万機紛至で、一人にして尽く通暁し得ず。ただ自らの聡明を恃まず、賢才を択んで輔佐せしめてこそ、集思広益なり得る。大智慧の人でなければこの歩に到れない。明智を以て下に臨むので吉。《小象伝》に曰く、大君の宜しきは、中を行うを謂うなり、と。

上六:敦臨,吉,無咎。敦,厚也。坤為土,上為坤終,則土愈厚,如此臨,是為敦臨。以貴下賤,以尊從卑,惟位愈高,益見舍己從人之善也,故吉無咎。象曰:敦臨之吉,志在內也。內謂內卦二陽。

上六の爻辞:敦くして臨む、吉、咎なし。「敦」は厚である。坤は土を象り、上六は坤体の終位で土はいよいよ深厚。かくの如き厚道を以て下に臨むを「敦臨」と言う。尊貴の身を以て卑賤の下に屈し、在上の位を以て在下の人に従う。位置が高いほど、いよいよ己見を舎てて人に聴くの美德を顕わす。だから吉にして咎なし。《小象伝》に曰く、敦臨の吉は、志内に在ればなり、と。「内」は内卦の二つの陽爻を指す。

易原巻五

慧珠閣原本,岫巖多隆阿雯溪。周易上經(五)。

本巻は「慧珠閣」原刻本による。著者は岫巖の人・多隆阿、字は雯溪。以下に解くのは《周易》上経の第五の部分、すなわち《観》《噬嗑》《賁》《剥》《復》《無妄》の六卦である。

観

【坤下巽上,中互艮坤】觀為陰息陽消卦,為艮變體,重畫艮象。艮為門闕,為鬼冥門,故卦以祭祀繫辭也。觀:盥而不薦,有孚顒若。上巽下坤,卦名觀。鄭氏曰:坤為地為眾,巽為木為風,互體有艮,艮為鬼門,又為宮闕,地上有木而為鬼門宮闕者,宗廟之象也。馬氏曰:盥,進爵灌地以降神也。國之大事,惟祀與戎,王道可觀,在於祭祀,祭祀之盛,莫過初盥降神。蓋以巽為白茅,艮手持之,置諸坤地之上,有進爵灌地之象。無論其既盥之後容止何如,而當盥初尚未薦牲,則誠孚已顒若可觀。薦,羞牲也;顒,敬也。故曰盥而不薦有孚顒若矣。

【《観》卦は坤が下、巽が上、中間に艮・坤の二体を互出する】《観》は陰気生長・陽気消退の卦で、艮卦の変体、艮象を重畫したもの。艮は門闕で、また鬼神に通ずる幽冥の門なので、この卦は祭祀の事を以て辞を繋ぐ。卦辞:観、盥して薦せざるに、孚あり顒若たり。上巽下坤、卦名を《観》と言う。鄭玄は曰く、坤は地・衆庶、巽は木・風、互体の中に艮あり、艮は鬼門、また宮闕。地上に木ありて鬼門宮闕あるは、まさに宗廟の象である。馬融は「盥」は爵を奉げて酒を地に灌ぎ神を降らしむることであると言う。国の大事はただ祀と戎。王道の観るべきは祭祀にあり、祭祀の最も隆重なるは初めの灌酒降神に過過ぎざるなし。巽は白茅の取象を有し、艮手がこれを持して坤地の上に置くが、まさに奉爵灌地の象である。灌酒の後の容止如何を論ぜずとも、ちょうど灌酒して未だ犠牲を進めざる時、すでに誠敬が厳然として観るべし。「薦」は犠牲を進めること、「顒」は恭敬で、だから「盥而不薦、有孚顒若」と言う。

彖曰:大觀在上,順而巽,中正以觀天下。觀盥而不薦,有孚顒若,下觀而化也。觀天之神道而四時不忒,聖人以神道設教,而天下服矣。此卦何以名觀也?臨與觀反對,臨之二陽在下,上臨下謂之臨;觀之二陽在上,陽為大,下觀上,是為大觀在上。下陰順巽,五陽居中得正,以觀天下之民。夫其觀之,實欲有以化之,化民以敬,實化民以孚。盥而不薦,有孚顒若,下觀上之敬,下因以孚上之敬。上觀民以中正,民觀上以敬孚,是敬孚為化民之本也。

《彖伝》に曰く、大観上に在り、順にして巽、中正を以て天下を観る。観盥して薦せざるに孚あり顒若たるは、下観て化するなり。天の神道を観て四時忒らず、聖人神道を以て教を設くれば天下服す、と。此卦がなぜ「観」と名づくか。《臨》と《観》は一対の反覆の卦で、《臨》の二陽は下にあり、上より下を臨むを《臨》と言い、《観》の二陽は上にあり、陽は「大」と称し、下に在る者が上を仰観するので「大観在上」。下の陰爻は柔順にして恭巽し、九五は陽を以て中に居り正を得て、以て天下の百姓を観示す。その観示する所以は、実はこれによって百姓を感化せんと欲するにあり、百姓を化するは敬を以てし、実は孚を以てする。「盥而不薦、有孚顒若」は、下の者が上の者の恭敬を見て、こうして孚信を以て上の恭敬に効く。上の者は中正の道を以て百姓を観、百姓は敬と信を以て上を観る。敬と信はまさに民を化する本である。

化之者即教之也。聖人設教,不先求之民而先求之身,則求之身者因先致力於神。神道之顯者莫如天,天道不言而四時運行,終無差忒。聖人體此意,以祼鬯薦藉者感化天下,而萬民戴服,日遷善而不自知。詩言不顯,記曰篤恭,皆此義也。

感化はすなわち教化である。聖人が教を設くるに、まず民に求めずして身に求め、身に求むるはまたまず神に事えるより入る。神道の顕われて最も明白なるは天の如きはなく、天は言わざるも四時は照様運行して、終に差忒なし。聖人はこの意を体して、祼鬯薦藉の類の祭祀の礼を以て天下を感化し、こうして万民は擁戴順服して、日に善に遷りて自ら覚らず。《詩経》の言う「丕顕」(幽深にして至顕の徳)、《礼記・中庸》の言う「篤恭而天下平」は、皆この理を言う。

象曰:風行地上,觀。先王以省方觀民設教。九家易曰:風行地上,草木必偃,故以省察四方,觀視民俗,而設其教也。坤為眾民象,巽為令教象。初六:童觀,小人無咎,君子吝。卦體為重艮,艮為少男,在觀之初則童也,故曰童觀。夫為童則人小,小人為童觀,乃小人之宜,故無咎;君子如此,有吝疵矣。象曰:初六童觀,小人道也。

《大象伝》に曰く、風地の上を行く、観なり。先王以て方を省み民を観て教を設く。《九家易》は曰く、風が地面を吹けば草木は必ず之に随いて偃く。だから先王はこれに象り、四方を巡察し民風民俗を観て、以て教化を設く。坤は衆民の象で、巽は号令教化の象である。初六の爻辞:童にして観る、小人咎なし、君子吝。此卦の卦体は重畳の艮で、艮は少男、観卦の最初に処れば童子となる。だから「童観」と言う――童子の如く物を観ること。童子であれば見識は浅小で、地位低微の小人が童子の如く観るは、もとよりその分内の事なので咎なし。君子がもしまたかくの如くならば、憾むべき缺陷あり。《小象伝》に曰く、初六童観は、小人の道なり、と。

六二:窺觀,利女貞。二在坤中,坤為母,是謂之女;坤又為闔戶,上與五應,五艮體為門闕,二自下位觀之,有自門中竊窺之象,故曰窺觀。夫大觀在上,德容之盛,是豈陰伺者所能測?乃以見小之故,偶有所見,終不識聖王之大體。此在女之正者尚利,丈夫不為也。象曰:窺觀女貞,亦可醜也。

六二の爻辞:窺(かが)みて観る、女貞に利あり。六二は坤体の中に居り、坤は母なので「女」と称す。坤はまた闔戸の取象を有し、上に九五と応じ、九五の居る艮体は門闕で、六二が下位より望み上ぐれば、門の隙間より窺う象あり。だから「窺観」と言う。偉大なる観瞻が上にあり、徳容は如何ばかり盛美か、暗に窺伺する者の測り知る所にあらず。ただ見識短浅なるが故に、偶に一点を見るも、ついに聖王の大体を識らず。これは女子の正を守るに於てはなお利ありと言うべく、丈夫の為すべきにあらず。《小象伝》に曰く、窺観女貞も亦た丑しとすべし、と。

六三:觀我生,進退。三居內卦外卦之間,上欲觀五,位在初二之上,則似可進;前猶為四所隔,又似宜退。蓋位鄰上巽,巽為進退,故有此象。宜即我生觀之,以審可否耳。象曰:觀我生進退,未失道也。未失道者,欲合於道,得進退之宜也。

六三の爻辞:我が生を観る、進退。六三は内卦と外卦の交界に居り、上に九五を瞻仰せんと欲し、その位置は初六・六二の上にあり、進むべきかのようだが、前に六四に隔てられて、また退守すべきかのようである。それは上卦巽に隣近し、《説卦伝》に巽は「為進退」と言うので、この象がある。その自らの所為に就いて観察して、進むべきか退くべきかを審度すべきである。《小象伝》に曰く、我が生を観て進退するは、未だ道を失わざればなり、と。道を失わざるは、一心に道に合せんと欲するので、進退の宜を得られるを言う。

六四:觀國之光,利用賓于王。臨為以上臨下,不宜於卑,惟居尊位者乃吉;觀為以下觀上,不宜於遠,惟近君上者乃利。四為大臣位,近於五,五為君,是謂之王。坤為國,陽明有光,故國家之光惟四得觀之。夫聖王洗心藏密,未嘗有意表白以聳士民之觀,而德積於中,其英華外發,自有流露不可掩者,所以懷才負異之士皆願進於朝廷,攀鱗附翼,作賓王家,是為利用賓于王矣。象曰:觀國之光,尚賓也。

六四の爻辞:国の光を観る、王に賓たるに利を用う。《臨》は上位より下位を臨むで卑下に宜からず、ただ尊位に居る者のみが吉。《観》は下位より上位を観るで疎遠に宜からず、ただ君主に近い者のみが利。六四は大臣の位に居り九五に隣接し、九五は君なので「王」と称す。坤は国を象り、陽爻は光明にして光輝あり。だから一国の光輝はただ六四のみが近づきて瞻仰し得る。聖王は心念を洗い深く蔵して露わさず、かつて自らを標榜して士民の観瞻を聳動する意なし。しかし徳行は内に積んで光華は自ずから外に発して、蔵し得ざる流露あり。だから才能を懐き卓異不凡の士は皆朝廷に進身し、攀竜附鳳して王家の賓客たらんと欲す。これが「利用賓于王」。《小象伝》に曰く、国の光を観るは、賓を尚ぶなり、と。

九五:觀我生,君子無咎。位卑者則居下觀上,位尊者宜居上自觀。陽為君子,五即以君子自衡,蓋我生能盡君子之道,乃可以問心無愧耳。象曰:觀我生,觀民也。民心之向背,即可以觀君德之媺惡,則以觀民者觀我生也。

九五の爻辞:我が生を観る、君子咎なし。地位卑下の者は下に居りて上を仰観し、地位尊貴の者は上に居りて自らを反観すべし。陽爻は君子を象り、九五はすなわち君子の標準を以て自らを衡る。その自らの所為が君子の道を尽くし得れば、こそ問心愧じることなし。《小象伝》に曰く、我が生を観るは、民を観るなり、と。民心の向背はまさに君徳の美悪を見るべきで、だから民を観るに借りて自らの作為を観るのである。

上九:觀其生,君子無咎。五之觀我生,乃意在化民;上之觀其生,則志在修己。五有其位,是欲合君子之道以立君極;上無其位,是欲合君子之道以為民望。惟恐有失,觀之彌審,所以善補過而無咎也。象曰:觀其生,志未平也。平,安也。志未平者,蓋即檢身若不及、望道未見之意。

上九の爻辞:其の生を観る、君子咎なし。九五の「観我生」は用意が民を化するにあり、上九の「観其生」は志向が己を修めるにある。九五は君位を有りて、君子の道に合して為君の準則を樹てんと欲し、上九は職位なく、君子の道に合して百姓の仰望する表率たらんと欲す。ただ閃失あるを恐るので、観察するに弥々審し。だから善く過を補って咎に至らず。《小象伝》に曰く、其の生を観るは、志未だ平ならざればなり、と。「平」は安の意で、心志が安んじて自足せざるは、《尚書・伊訓》の「身を検するに及ばざるが如し」、《孟子》の「道を望みて未だ之を見ず」の意である。

噬嗑

【震下離上,中互坎艮】否。噬嗑為三陰三陽卦,自否來。虞氏曰:否五之坤初,坤初之五。噬嗑:亨,利用獄。齒齧物謂之噬,嗑,合也。震下離上,兩陽居外,中為一陽三陰,有似口之噬物,故卦名噬嗑。夫噬所以求亨,惟亨乃克得嗑,噬嗑自有亨義。而卦中有互坎,坎為獄,外卦為離,離明以察之,內卦為震,震動以治之,故用獄亦利也。

【《噬嗑》卦は震が下、離が上、中間に坎・艮の二体を互出する】卦変は《否》より来る。《噬嗑》は三陰三陽の卦で、虞翻は《否》卦の九五が坤の初位に降り、坤の初爻が五位に昇ったと言う。卦辞:噬嗑、亨、獄を用うるに利あり。歯にて物を嚙むを「噬」と謂い、「嗑」は合攏である。震下離上、二つの陽爻が上下両端に居り、中間は一陽三陰で、形は口が物を嚙むに似る。だから卦名を《噬嗑》。嚙むは通暢を求むるため、通暢してこそ上下が合攏し得る。だから《噬嗑》はもとより亨通の義を含む。卦中にまた互体坎あり、坎は牢獄を象り、外卦は離で離の光明を以て審察し、内卦は震で震の威動を以て処治す。だから獄を断ずるに用いても利あり。

彖曰:頤中有物曰噬嗑,噬嗑而亨。剛柔分,動而明,雷電合而章。柔得中而上行,雖不當位,利用獄也。卦所以名噬嗑者,以爻畫觀之,兩陽外峙,有頤象也。夫兩陽外峙既象頤,而兩陽外錮又象獄,頤之合所以噬堅物,猶獄之用所以禁罪人。頤以有所噬而得亨,獄亦以有所用而知利。卦辭兼言用獄者,蓋曰以噬嗑之象推之,即用獄亦利也。

《彖伝》に曰く、頤中に物あるを噬嗑と曰く、噬嗑にして亨なり。剛柔分れ、動いて明るし、雷電合して章なり。柔中を得て上行し、位に当たらざると雖も、獄を用うるに利あり、と。此卦が「噬嗑」と名づく所以は、爻畫より観れば、二つの陽爻が外に分立して、まさに上下二列の牙牀の《頤》象のごとし。二陽が外にあるは頤に似るのみならず、二陽が外にて中間を囲禁するは牢獄に似る。口頤が合攏するは堅物を咬砕するため、牢獄を設くるは罪人を禁制するためと同じ。口頤は咬むところあって亨通を得、牢獄も施用するところあってその利を見る。卦辞が「用獄」を兼ねて言う所以は、《噬嗑》の卦象に推せば、以て獄を断ずるも利あるを言うのである。

此卦自否來,否上乾下坤,剛柔類聚,今乃初柔上往之五,五剛下來之初,則剛柔分矣。由是內卦為震,其德為動;外卦為離,其德為明。震之象又為雷,離之象又為電,雷電交濟,相合成章。否坤初柔原居偏位,上行居五,始為得中,雖陰居陽位未云得當,而離明燭照幽隱,以行震雷之威,用獄亦利矣。

此卦は《否》より変ず。《否》卦は上が乾、下が坤で、剛爻と柔爻は各々一処に聚まり。今坤の初六が上りて五位に居り、乾の九五が下りて初位に居れば、剛柔は分れて交錯す。これが《彖伝》の言う「剛柔分」。こうして内卦は震となり徳性は動、外卦は離となり徳性は明。震の取象はまた雷、離の取象はまた電で、雷電が交相輔助して配合して文彩を成す。これが「動而明、雷電合而章」。《否》卦の坤の初六はもとより偏下の位に居り、上行して五位に居り、はじめて中を得る。陰爻を以て陽位に居るは当位と言えざると雖も、離の光明は幽隠を照見し能く、また震雷の威勢を憑じて執行すれば、獄を断ずるに用いても利あり。

象曰:雷電,噬嗑。先王以明罰勑法。宋氏曰:雷動而威,電動而明,二者合而其道彰也。用刑之道,威明相兼,若威而不明,恐致刑濫;明而無威,不能伏物,故須雷電合而噬嗑備。鄭氏曰:勑猶理也。卦中有互坎,坎為罰為法,離火以明之,震動以勑之,故曰明罰勑法也。

《大象伝》に曰く、雷電、噬嗑なり。先王以て罰を明らかにし法を勑(ただ)す。宋衷は曰く、雷一動すれば威あり、電一動すれば明あり、両者相い合すればその道は彰顕す。刑を用うるの道は、威と明は必ず兼備すべし。威のみあって明なければ濫刑を致すを恐れ、明のみあって威なければ人を攝服せしめ得ず。だから雷電を相い合せしめて《噬嗑》の義ははじめて完備す。鄭玄は「勑」はすなわち整理であると言う。卦中に互体坎あり、坎は刑罰・法度で、離火を以てこれを照明し、震動を以てこれを整飭す。だから「明罰勑法」と言う。

初九:屨校滅趾,無咎。震為足,初為足之趾,震又為木,木加足上,有足械滅趾之象。屨校,足械也。於【於:乾】氏曰:初居剛躁之家,體貪狠之性,強暴之男也,行侵陵之罪,以陷屨校之刑,故曰屨校滅趾。得位於初,顧震知懼,小懲大戒,以免刑戮,故曰無咎。象曰:屨校滅趾,不行也。趾有校絆,因有所懲,不敢行也。

初九の爻辞:校を屨(は)きて趾を滅す、咎なし。震は足で、初爻は足の上の脚指、震はまた木で、木を足の上に加うれば、まさに脚鏁が脚指を掩没する象。「屨校」は足に套する刑具である。干宝(原刻は「于」と作るが「干」に作るべし)は曰く、初九は剛躁の卦体に居り、貪狠の性情を秉る、強暴の男子で、人を侵凌するの罪を犯し、以て脚鏁を戴くの刑に陥る。だから「屨校滅趾」。しかし初位に正を得て、また震の威動を顧念して畏れるを知り、小さき懲を受けて大きな戒を得、以てさらに重き刑戮を免れ、だから「無咎」。《小象伝》に曰く、屨校滅趾は、行かざればなり、と。脚指は刑具に絆されて、またこれによって懲戒を受け、敢えて妄りに歩かず。

六二:噬膚滅鼻,無咎。二為互艮。虞氏曰:艮為膚為鼻。二下乘初,則艮鼻為震剛所掩而鼻滅矣。當其噬膚,豈意傷鼻?至鼻已滅,始知所噬過甚。然噬以去間,惟有噬乃可以得嗑也,無咎也。象曰:噬膚滅鼻,乘剛也。

六二の爻辞:肤を噬(か)みて鼻を滅す、咎なし。六二は互体艮の中に居り、虞翻は艮は肌膚・鼻であると言う。六二が下に初九を乗れば、艮の鼻は震の剛爻に遮られて鼻は掩没す。あの柔らかい肉を咬む時、豈に鼻を傷つけんことを料らんや。鼻が埋没に至ってはじめて咬み過ぎたるを知る。しかし咬むは中間の阻隔を除くためで、ただ咬みてこそ上下を合攏せしめ得る。だからなお咎なし。《小象伝》に曰く、噬肤滅鼻は、剛に乗ればなり、と。

六三:噬臘肉遇毒,小吝,無咎。三居外卦之介,離日相近,肉為日所暴乾,乃臘也。臘,虞氏作□,殘肉也。臘多伏毒,噬者往往遇之。蓋三為互坎,坎為隱伏,又為毒,故曰噬臘肉遇毒。然三又為互艮,遇坎毒故小吝,而艮以止之,故無咎,此不敢強有所噬者。象曰:遇毒,位不當也。

六三の爻辞:腊肉を噬みて毒に遇う、小吝、咎なし。六三は内外卦の交接の処に居り、離日に相近く、肉は日に暴され乾いて腊肉となる。「腊」の字は虞翻は別の字に作る(原刻すでに缺く)で、残余の乾肉を指す。腊肉の中には往々にして毒が潜伏し、食う者は常に之に遇う。六三は互体坎の中に居り、坎は隠伏を主りまた毒を主る。だから「噬腊肉遇毒」。しかし六三は同時にまた互体艮の中にあり、坎毒に遇うので小吝あるも、艮がこれを止めるので咎なし。これは敢えて強いて咬むことをせざる者である。《小象伝》に曰く、毒に遇うは、位当たらざればなり、と。

九四:噬乾胏,得金矢,利艱貞,吉。胏,脯也。脯為離火所炙,而離又為乾卦,是為乾胏。夫四居離初,離為矢;四在否願為乾,乾為金,則為金矢,是所噬者乾胏,而所得者金矢也。王氏曰:金矢所以獲野禽,故食反得金矢。君子於味必思其毒,於利必備其難,故曰利艱貞。象曰:利艱貞吉,未光也。四居離初,離火未盛,故未光也。

九四の爻辞:乾胏を噬みて金矢を得、艱貞に利あり、吉。「胏」は骨附きの乾肉である。肉は離火に炙られ、離はまた「乾」(乾燥)と相連するので「乾胏」と言う。九四は離体の開端に居り、離は箭矢、九四は《否》卦においてもとより乾体に属し、乾は金、合わせて「金矢」。見るに咬む所は乾肉で、咬み得る所は金箭頭である。王弼は曰く、金箭は野禽を射獲するに用いるので、肉を食ってかえって金箭頭を食出す。君子は美味に対して必ず其中に毒あるを思い、利益に対して必ず其中の艱難を備う。だから「利艱貞」。《小象伝》に曰く、利艱貞吉は、未だ光ならざればなり、と。九四は離体の最下に居り、離火は未だ旺盛ならず。だから光明は未だ大いに顕れず。

六五:噬乾肉,得黃金,貞厲,無咎。陰為肉,居離之中,離火燥之則為乾肉。五自否之初來,否初為坤,五為乾,今以坤初□於乾中,乾為金,坤為黃,是噬乾肉而得黃金也。夫意外之獲雖可喜,而意外之變亦宜防。乾肉尚可強噬,黃金不可妄得也,是惟持以貞正,惕厲處之,庶得黃金之利,不至罹乾肉之害也,故無咎。象曰:貞厲無咎,得當也。

六五の爻辞:乾肉を噬みて黄金を得、貞厲、咎なし。陰爻は肉を象り、離体の中に居り、離火に乾かされて乾肉となる。六五は《否》卦の初爻より上来す。《否》卦の初爻は坤に属し、五爻は乾に属し、今坤の初爻を乾体の中に置き入れ、乾は金、坤は黄、だから乾肉を咬みて黄金を得。意外の獲得は喜ぶべしと雖も、意外の変故もまた防ぐべし。乾肉はなお強いて咬むべきも、黄金は妄りに得べからず。ただ貞正を持守し、戒懼警惕して処置してこそ、黄金の利を得るを庶幾いし、乾肉の害を罹らざるに至る。だから咎なし。《小象伝》に曰く、貞厲無咎は、当を得ればなり、と。

上九:何校滅耳,凶。卦體上下兩陽禁錮於外,其象似獄,故卦辭兼言用獄,爻辭初上亦以用獄取象。中有互坎,坎為罪。罪在於初,其罪尚輕,故校在足,不敢妄行,以致無咎;至於上,罪惡之積大不可解,實有滅身之禍,故凶也。何,荷,通;校,項械。鄭氏曰:離為槁木,坎為耳,木在耳上,何校滅耳象也。象曰:何校滅耳,聰不明也。耳司聰,耳滅故不明。

上九の爻辞:校を荷(か)きて耳を滅す、凶。卦体の上下二つの陽爻が中間を外に囲禁し、その象は牢獄に似る。だから卦辞は「用獄」を兼ねて言い、爻辞も初爻・上爻に皆刑を用うるの象を取る。卦中に互体坎あり、坎は罪を象る。罪は初爻に在りてその罪はなお軽いので、刑具は足に在り、敢えて妄りに歩かせず、以て咎なきに致る。上に至れば罪悪の積り大にして解け難く、実に身を滅すの禍あり。だから凶。「何」は「荷」と通じて負荷の意、「校」は頸項に套する刑具。鄭玄は曰く、離は槁木、坎は耳、木が耳の上に在れば、まさに枷を負いて耳を掩う象。《小象伝》に曰く、何校滅耳は、聡明ならざればなり、と。耳は聴覚を司り、耳が掩没すれば明らかに聴こえず――すなわち平日、人の勧諫を聴き入れざるを言う。

賁

【離下艮上,中互震坎】泰。賁為三陽三陰卦,自泰來。荀氏曰:此本泰卦,謂陰上來居乾之中,分乾之二居坤之上。虞氏曰:泰上之乾二,乾二之坤上。賁:亨,小利有攸往。賁,文飾也。此卦亦上下兩陽,有似噬嗑,而乃名賁者,頤象下動,離上震下,故名噬嗑;此則上卦為艮,下卦為離,離火文明,有飾象焉,故艮上離下之卦曰賁也。夫文亦治世之具,故曰亨;而文非治世之源,故小利有攸往。

【《賁》卦は離が下、艮が上、中間に震・坎の二体を互出する】卦変は《泰》より来る。《賁》は三陽三陰の卦。荀爽は曰く、此卦は本《泰》卦で、坤の上爻が下りて乾の中位に居り、また乾の二爻を分ちて坤の上位に居らしむ。虞翻は曰く、《泰》卦の上爻が乾の二位に往き、乾の二爻が坤の上位に往く。卦辞:賁、亨、小有所往に利あり。「賁」は文飾である。此卦もまた上下各一つの陽爻で、形は《噬嗑》に甚だ似るが、「賁」と名づくは、《噬嗑》は口頤の象で下体が震動し、離が上・震が下なので《噬嗑》と言い、此卦は上卦が艮、下卦が離で、離火は文明の性を有り、修飾の象を含む。だから艮上離下の卦を《賁》と言う。文飾もまた世を治むるの具なので「亨」と言うが、文飾は世を治むるの源にあらず。だから「小利有攸往」と言うに過ぎない。

彖曰:賁亨,柔來而文剛,故亨;分剛上而文柔,故小利有攸往,天文也;文明以止,人文也。觀乎天文以察時變,觀乎人文以化成天下。卦之所以名賁者,以剛柔上下往來成文故也。荀氏曰:此本泰卦,謂陰從上上來居乾之中,文飾剛道,交於中和,故亨也;分乾之二居坤之上,上飾柔道,兼據二陰,故小利有攸往矣。當乾坤未分之時,天玄地黃,各得正色;自上下分文之後,則玄黃色雜,色既不純,是有色不如無色,此雜卦傳所以曰賁無色也。蓋文盛宜反歸質,故曰無色也。

《彖伝》に曰く、賁亨なり、柔来りて剛を文れば亨なり。剛を分ちて上りて柔を文る、だから小有所往に利あるは、天文なり。文明にして止まるは、人文なり。天文を観て以て時の変を察し、人文を観て以て天下を化成す、と。此卦が「賁」と名づく所以は、剛柔が上下往来して交錯して文彩を成すからである。荀爽は曰く、此卦は本《泰》卦で、陰爻が上より下りて乾の中位に居り、剛道を文飾して中和と交融す、だから亨。また乾の二爻を分ちて坤の上位に居らしめ、上にて柔道を文飾し、兼ねて上の二て上の二陰に拠る。だから「小利有攸往」。乾坤まだ分れざるの時、天は玄色、地は黄色で、各々正色を保ち。上下交换して彼此文飾するより後は、玄黄の二色は雑り、色はすでに純ならず。是れ有色は無色に如かず――《雑卦伝》の言う「賁、無色也」の故である。文飾が盛に過ぎれば質朴に反るべし、だから「無色」と言う。

今於賁家論之,不論其色,惟論其文。自泰剛柔相易之後,艮為星,離為日,互坎為月為雲,日月星雲高麗於上,乃天文也。上為天位,泰二上往以成文,故曰天文。離為火,艮為山,互震為龍,交雜乾赤坤黃之間,有似繪山龍藻火於乾衣坤裳上者,此人文也。內明外止,燦著有節,故曰人文。以日月星辰觀之,乾寒坤暑,易為艮春離夏,則可以考察時序之變;以山火衣裳觀之,居離南面嚮明而治,艮德靜止,穆然無為,則可以化成天下,此賁之亨通利和也。

今《賁》家に就いて論ずれば、その色を論ぜず、ただその文を論ず。《泰》卦の剛柔が相い換わるより後、艮は星、離は日、互体坎は月・雲、日月星雲が高く丽らかに上に在るが「天文」である。上位は天位で、《泰》卦の二爻が上に往きて文飾を成す。だから「天文」。離は火、艮は山、互体震は龍で、乾赤・坤黄の間に交錯し、山・龍・水藻・火焔を乾衣坤裳の上に繪すに似るが「人文」である。内明外止して燦然として節あり。だから「人文」。日月星辰より観れば、乾は寒を主り坤は暑を主り、変じて艮となれば春、離となれば夏。これによって時序の変を考察し得て、これが「観乎天文以察時変」。山火衣裳より観れば、離位に居り南面して明に向かいて治め、また艮の静止の徳あり、穆然として無為。これによって天下を化成し得て、これが「観乎人文以化成天下」。これがまさに《賁》卦の亨通利和の在る所である。

象曰:山下有火,賁。君子以明庶政,無敢折獄。王氏曰:山下有火,文明相照,山之為體,層峰峻嶺,巖巒峭麗,參差被日光照耀,如以雕飾而見文章,賁之象也。君子體離之文,購庶政以明;體艮之止,則獄無敢折。蓋卦中有互坎,坎為法律,是為政,得離明以照之,故曰明庶政;坎又為獄,互震甫動,艮即止之,故曰無敢折獄也。

《大象伝》に曰く、山下に火あり、賁なり。君子以て庶政を明らかにし、敢えて獄を折(ただ)さず。王弼は曰く、山下に火あるは文采光明が相い交り照らす。山の形体は層巒畳嶂・岩峰峭抜秀麗、高低錯落して日光に照耀され、雕琢修飾を経て文章を顕すに似る。これが《賁》の象である。君子は離の文明を体して、以て庶政を治め明らかにし、艮の静止を体して、軽々しく獄を断ぜず。卦中に互体坎あり、坎は法律で政事である。離の光明を得て照察す、だから「明庶政」。坎はまた牢獄を象り、互体震が甫めて動けば、艮はすなわちこれを止む。だから「無敢折獄」。

初九:賁其趾,舍車而徒。以賁飾一身言之,初位在下,是足之趾,而以離文賁之,是為賁其趾。初之前為互坎,坎為車輪,初為離,尚未及坎,是為舍車。舍車則行無資,而趾既賁,則猶可以徒行,蓋安步當車也。象曰:舍車而徒,義弗乘也。義,宜也。初本無位,徒行宜也。

初九の爻辞:其の趾を賁(かざ)り、車を舎てて徒(ある)く。一身を飾るに就いて言えば、初爻は最下で足の趾に当り、離の文采を以てこれを修飾すれば「賁其趾」。初九の前は互体坎で、坎は車輪、初九は離体に属し未だ坎に至らず。だから「舎車」。車を舎てれば代步の憑藉なし。しかし趾はすでに修飾して体を得れば、なお徒行し得、いわゆる安歩当車である。《小象伝》に曰く、車を舎てて徒るは、義として乗らざればなり、と。「義」はすなわち宜。初九はもとより職位なく、徒行するが宜しきである。

六二:賁其須。須,頤下毛也。二在泰為乾中,乾為首,乃與坤上相易,是以離文飾乾首也,故曰賁其須。蓋須原無利於人,僅為面上之飾已耳。象曰:賁其須,與上興也。頰上添毫,所以飾面,然非二與上易,則無由得,故曰與上興也。

六二の爻辞:其の須を賁る。「須」は頤下の毛である。六二は《泰》卦において乾体の中に居り、乾は頭で、今坤の上爻と相い換え、以て離の文采を以て乾の頭面を修飾す。だから「賁其須」。髭鬚はもとより人に実用なく、ただ面上の装飾のみ。《小象伝》に曰く、其の須を賁るは、上と興ればなり、と。両頬に須毛を添うるは面容を装点するためだが、六二と上爻が相い換えざれば得る由なし。だから上爻に随いて興ると言う。

九三:賁如濡如,永貞吉。三居互坎之中,坎為水,潤澤如濡,此賁之極盛者。夫禮勝則離,樂勝則流,賁至濡如,不有以節制之,則本質盡失,無為貴賁矣,故永持以正則吉。象曰:永貞之吉,終莫之陵也。陵,躐也,言文不躐等也。永持以正,不復於濡如之外有所加也。

九三の爻辞:賁如濡如、永く貞むれば吉。九三は互体坎の中間に居り、坎は水、潤沢して濡れたるが如し。これは文飾の最も盛なるの至りである。《礼記・楽記》に「礼勝れば則ち離、楽勝れば則ち流」。文飾が濡れんばかりの程度に至れば、節制を加えざれば本質は喪失し尽くして、賁の貴ぶべきなし。だから永く正を持して吉。《小象伝》に曰く、永貞の吉は、終に之に陵(おか)さるること莫ければなり、と。「陵」は逾越で、文飾が等級を越えざるを言う。永く正を持すれば、「濡如」の外にさらに増添する所なし。

六四:賁如皤如,白馬翰如,匪寇婚媾。由賁趾、賁須至於濡如,則賁文極盛矣。文盛則宜反質,而色之純乎質者惟白,故上卦皆以白言賁。皤、翰皆白貌。皤,老人白也,兩都賦曰:皤皤國老。馬之白者曰翰,禮曰:戎事乘翰。

六四の爻辞:賁如皤如、白馬翰如、寇にあらずして婚媾なり。「賁其趾」「賁其須」より「濡如」に至れば、文飾はすでに極盛。文飾が盛に過ぎれば質朴に反るべく、顔色の中で最も質朴に近きは白のみ。だから上卦の諸爻は皆「白」を以て文飾を言う。「皤」と「翰」は皆白の貌で、「皤」は老人の須髪皆白きを指し、班固《両都賦》に「皤皤国老」の句あり。馬の毛の白きを「翰」と言い、《礼記》に「戎事乗翰」――戦の時は白馬を駕ると言う。

四為文質適均者,體為互震,震為馬,是為白馬;又居互坎之上,坎為盜,是為寇。卦中陰陽相應者惟四與初,陰陽相配,原屬婚媾,因其與三相比,三亦為陽,四似比三不能應初。不知文質不可偏勝,質宜濟文,白宜受採,四之皤如乘翰而來者,雖居互坎之中,實匪初之寇,乃初之婚媾也,宜得初離之文以成賁也。象曰:六四當位疑也,匪寇婚媾,終無尤也。四為陰,三為陽,四比三亦是陰陽相配,當位可疑,而四終與初為正應,故無尤也。

六四は文と質の配合が最も匀称なる一爻である。その卦体は互体震に属し、震は馬なので「白馬」。また互体坎の上に居り、坎は盗賊なので「寇」の説あり。全卦の中で陰陽正応するはただ六四と初九のみ。一陰一陽の相配はもとより「婚媾」に属す。ただ六四が九三と相隣近し、九三もまた陽爻なので、見たる六四は九三に親しくして初九に応ぜざるかのよう。知らず、文と質は一方に偏すべからず――質は文を済わすべく、白は采を受くべし。六四のあの須髪皤然として白馬に乗りて来るの貌は、互体坎の中に処ると雖も、実は初九を劫すの盗賊にあらず、初九の婚配の人である。まさに初九の離体の文采を得て文飾を成すべし。《小象伝》に曰く、六四は位に当たるを疑う、寇にあらず婚媾なれば、終に尤(とが)なきなり、と。六四は陰、九三は陽で、六四が九三に隣接するもまた陰陽相配と言うべく、位に当たるや否やを疑わしむ。しかし六四はついに初九と正応なので過失なし。

六五:賁于丘園,束帛戔戔,吝,終吉。賁至於五,不惟尚質,而且崇儉。蓋艮為山,故象坵;艮又為果蓏,下為互震,震為木,故象園。荀氏曰:艮山震林,在山林之間,隱士之象也。夫五原為泰坤之中,坤為帛,言來聘此坵園中人,以賁飾此坵園者,不過此束帛之戔戔耳。帛,璧色繒,五兩曰束;戔,古殘字。蓋坤易為艮,坤帛不完,言至少也。帛繒色白,而又戔戔無多,以此言賁,可謂質餘於文矣。即其固陋觀之似吝,而儉為美德,終吉也。象曰:六五之吉,有喜也。

六五の爻辞:丘園に賁り、束帛戔戔、吝、終に吉。文飾が六五に至れば、ただ質を尚ぶのみならず、また倹を崇ぶ。艮は山なので丘に象り、艮はまた果蓏で、下は互体震、震は木なので園に象る。荀爽は曰く、艮は山、震は林、山林の間に在るはまさに隠士の象。六五はもとより《泰》卦の坤体の中に居り、坤は帛。往きてこの丘園中の隠士を聘するに、以てこの丘園を礼敬装点するは、ただこの一小束の帛のみ。「帛」は玉璧色の繒で、五両を一束となす。「戔」は古の「残」の字で、坤が艮に変じて坤帛はすでに完整せず、少の至りを言う。繒帛の色は白く、数量はまた戔戔として少なし。これを以て文飾を言えば、質の文に余ると謂うべし。その固陋より観れば吝に似たれども、倹はもとより美德なので、終に吉。《小象伝》に曰く、六五の吉は、喜び有ればなり、と。

上九:白賁,無咎。賁至於上,是有色歸於無色,較諸四之白馬、五之束帛則尤進也,直以為白賁而已矣。夫賁似不可言白,而白為五色之一,白亦未嘗非賁。以白為賁,是有質不見文也,得賁之本,故無咎。象曰:白賁無咎,上得志也。志蘊於內,文著於外,得志是得其本也。

上九の爻辞:白賁、咎なし。文飾が上九に至れば、有色より無色に帰する。六四の白馬・六五の束帛に比べればさらに一層進み、直に「白賁」と言うのみ。文飾は「白」と言うべからざるに似たれども、白もまた五色の一で、白もまた文飾にあらざるに非ず。白を以て飾と為すは、質朴ありて文采を露わさざること、こそ文飾の根本を捉えたり。だから咎なし。《小象伝》に曰く、白賁無咎は、上志を得ればなり、と。心志は内に蔕蘊し、文采は外に顕現す。「得志」は文飾の根本を得るを言う。

剥卦

【坤下艮上,中互重坤】剝為陰息陽消卦,坤卦變體,五陰剝一陽為坤,卦名剝。下為五陰,上餘一陽,兼艮象。剝:不利有攸往。五陰前往消此一陽,坤下艮上之卦,故名剝。言陰氣極盛,陽孤不能久存,猶之小人成群,君子孤立,動輒得禍也,故不利有攸往。

【此卦の下卦は坤、上卦は艮、中間の互体は両重の坤】「剥」は陰気生長・陽気消退の類の卦で、坤卦より変化して出づる卦体。五つの陰爻が下より上に向かいて僅かに存る一つの陽爻を剥蝕し、剥き尽くせば純坤となる。だから卦名を「剥」と言う。卦体の下は五つの陰爻、上は一つの陽爻のみ余る。故に艮卦の象を兼帯す。卦辞:剥、攸往するに利あらず。五つの陰爻が一路上行してこの僅かに余る一陽を消尽せんとす。坤が下・艮が上なので「剥」と名づく。これは陰気が極盛にして、孤なりし一陽が長く存留し得ず、小人が党を結んで群を成し、君子は孤立無援で、一挙一動が皆禍を招くに譬ゆ。だから攸往するに利あらず。

彖曰:剝,剝也,柔變剛也。不利有攸往,小人長也。順而止之,觀象也。君子尚消息盈虛,天行也。十二闢卦多言陰陽往來之義,剝、復、姤、夬四卦為陰陽生死之幾,聖人扶陽抑陰之旨,於此四卦中尤深切著明焉。卦名曰剝,何也?剝者,落也。剝為九月卦,《漢書·五行志》云:九月陰氣至五,通於天位,剝落萬物,始大殺矣,故曰剝落也。卦有五陰,僅餘一陽,而五陰又在下日進,一陽在上豈能久安,則所以名剝者,乃陰柔前往變陽剛也。夫陰往則陰息陽消,陽變則陰實陽虛,天行如是。君子觀象,已知往必不利,惟順而止之,以避小人之長而已矣。

《彖伝》に曰く、剥はすなわち剥落、柔爻が剛爻を変換するなり。攸往するに利あらざるは、小人長ずればなり。時勢に順いて止まるは、卦象より観出する理なり。君子は陰陽の消長盈虚を尚ぶ、是れ天道の運行なり、と。多隆阿が解して曰く、十二辟卦は多く陰陽往来消長の義を講ず。その中で剥・復・姤・夬の四卦はさらに陰陽生死の関鍵で、聖人が陽気を扶助し陰気を抑制するの用意は、この四卦において最も深切明白に表現す。卦がなぜ「剥」と名づくか。「剥」はすなわち剥落。剥は九月の卦で、《漢書・五行志》に曰く、九月は陰気が第五位に昇り、直に天位に通じ、万物を剥落し、はじめて大いに粛殺す。だから「剥落」と言う。此卦に五つの陰爻ありて、ただ一つの陽爻のみ余り、五陰はまた下に在りて日々上進し、一陽は孤懸して上に在りて豈に長く安穏し得んや。だから「剥」と名づく所以は、まさに陰柔が前進して陽剛を変換せんとするを言う。陰爻が上行すればすなわち陰長陽消、陽爻が変換されればすなわち陰実陽虚。天道の運行はもとよりかくの如し。君子が卦象を観察して、すでに往けば必ず利あらざるを知る。ただ時勢に順いて止まり、以て小人の滋長を避くるのみ。

象曰:山附於地,剝;上以厚下安宅。陸氏曰:艮為山,坤為地,山附於地,謂高附於卑,貴附於賤,君不能制臣也,故曰剝。君子體此象以厚下安宅者,恐其危而至於剝也。厚如坤地,坤在內卦,故曰下;安如艮止,艮為宮闕,故象宅。

《大象伝》に曰く、山地に附く、剥なり。上に在る者は以て下を厚くして宅を安んず。陸績を引て曰く、艮は山、坤は地、山が地に附くは、高き者が卑き者に附き、貴き者が賎き者に附くを言う。すなわち君主がすでに臣下を節制し得ざること。だから「剥」。君子はこの卦象を体して「厚下安宅」するは、まさに局勢の危殆にしてついに剥落に至らんを恐るる故。「厚」は坤地の厚重に象を取り、坤は内卦に居り下に在り。だから「下」。「安」は艮の静止に象を取り、艮はまた宮闕なので「宅」に象る。

初六:剝床以足,蔑貞凶。虞氏曰:此卦坤變乾也,動初成巽,巽木為床,伏震在下為足,是床足也。剝必有漸,床足在下,故剝床自足始。蓋剝之即滅之,陰滅陽即是邪滅正,滅正故凶也。蔑、滅同。象曰:剝床以足,以蔑下也。

初六の爻辞:床を剥ぐに足に以てす、貞を蔑(ほろぼ)して凶。虞翻を引て曰く、此卦は坤爻が乾爻を変換して成る。初爻が一動すれば巽と成り、巽は木で床に象り、巽の下に伏する震は最下に在りて足に象る。合せてすなわち床脚。剥蝕は必ず逐次推進し、床脚は最下なので、床を剥ぐは足より始む。それを剥ぐはすなわちそれを滅するで、陰が陽を滅するはすなわち邪が正を滅すること。正道が滅ぼされるので凶。「蔑」は「滅」と同義。《小象伝》に曰く、剥床以足は、以て下を蔑るなり、と。

六二:剝床以辨,蔑貞凶。鄭氏曰:足上稱辨,謂近膝之下,屈則相近,伸則相遠,故謂之辨。辨,分也。剝及於辨,剝又進矣。夫二位正中,似可為善,而亦與初陰同滅貞正,故凶與初同。象曰:剝床以辨,未有與也。上無正應,故曰未有與。

六二の爻辞:床を剥ぐに辨に以てす、貞を蔑して凶。鄭玄を引て曰く、足の上の部位を「辨」と称し、膝以下の処を指し、屈すれば両処相い近く、伸せば両処相い遠い。だから「辨」と称す。「辨」はすなわち分界。剥蝕がすでに分界処に至れば、剥勢はまた一層推進したを説明す。六二は下卦の正中に処り、善行あるべきかのようだが、なお初六と同じく陰爻で、ともに正道を滅す。だからその凶は初六と同じ。《小象伝》に曰く、床を剥ぐに辨に以てすは、未だ与(たすけ)有らざればなり、と。上に正応の爻なきは「未有与」と言う。

六三:剝之,無咎。三與上應,則有與矣。雖居眾陰之中,而不與眾陰同惡,是剝中之無咎者。象曰:剝之無咎,失上下也。獨應上陽,不比上下眾陰也。六四:剝床以膚,凶。王氏曰:在下而安人者,床也;在上而處床者,人也。床剝盡以及人身,為敗滋深,害莫甚焉。艮為膚,陰息至四,下乾已盡,故剝床以膚凶也。象曰:剝床以膚,切近災也。爻曰凶,象曰災,切近固以明陰之惡,兼以戒陽宜遠禍也。

六三の爻辞:剥落の中に居るも、咎なし。多隆阿は曰く、六三は上九と相応じて援助あり。衆陰の中に居ると雖も、衆陰とともに悪を為さざる者なので、剥卦の中の咎なき爻である。《小象伝》に曰く、剥之無咎は、上下の同類を失えばなり、と。ただ上九の陽に応じて、上下の衆陰に親附せず。六四の爻辞:床を剥ぐに肤に以てす、凶。王弼を引て曰く、下に在りて人を安んずるは床、上に在りて床に処るは人。床が剥き尽くされて禍が人身に及べば、敗壊はいよいよ深く、このほか甚しき傷害なし。艮は肌膚に象を取り、陰気が第四爻に生長すれば、下の乾体はすでに剥き尽くされたり。だから床を剥ぐに肤に以てして凶。《小象伝》に曰く、剥床以肤は、災い近切なればなり、と。爻辞は「凶」と言い、《小象》は「災」と言う。「切近」の一句は、固より陰気の悪を点明するも、兼ねて陽爻が禍を遠ざくべきを誡める。

六五:貫魚以宮人寵,無不利。剝消觀五,觀變為剝,五在觀家則五猶為巽,巽為繩、為魚,今變為艮,是以艮手牽巽繩,則魚貫矣。夫艮又為閽寺,五為艮之陰爻,故象宮人。使五能率宮人如魚之貫,以受大君之寵,不惟不凶,而且有利,蓋言陰不剝陽,轉有益於陰也。象曰:以宮人寵,終無尤也。爻曰無不利,象曰終無尤,所以誘陰以善,亦所以保此將盡之陽也。

六五の爻辞:魚を貫くが如く宮人を率いて寵を受く、利ならざることなし。多隆阿は曰く、剥卦は観卦の第五爻の陽が消去されて成る。観卦が剥卦に変ずる時、第五爻は観卦においてもとより巽体に属し、巽は縄・魚に象を取る。今艮に変じ、艮は手、すなわち艮手を以て巽巽縄を牽けば、魚は一々串に成る。艮はまた閽人寺人――すなわち宮中近侍に象を取り、六五は艮体の陰爻なので「宮人」に象る。もし六五が能く衆宮人を率いて串魚の如く順次に進み、以て君王の恩寵を受けば、凶ならざるのみならず、かえって利あり。これは陰がもし陽を剥がざれば、かえって陰自身に益あるを言う。《小象伝》に曰く、宮人を以て寵せらるは、終に尤なきなり、と。爻辞は「無不利」、《小象》は「終無尤」を講ず。陰爻を善に導くのみならず、また将に消尽せんとする一陽を保つためである。

上九:碩果不食,君子得輿,小人剝廬。陰進消乾,一陽孤存,乾為木果,是碩果也。使或天運有待,亂不欲極,雖欲食之,有不能者。陽為君子,坤為輿,君子處此,則猶欲得此坤輿;坤陰為小人,艮為門闕、為廬,若小人則必欲剝此艮廬以為純坤。君子小人用心之異如此。象曰:君子得輿,民所載也;小人剝廬,終不可用也。坤為民,輿稱載,言君子猶欲得民容民歸附;若小人則必剝去此陽,謂其異已,終不可用耳。

上九の爻辞:碩果は食されざるを留め、君子は以て輿を得、小人は廬を剥ぐ。多隆阿は曰く、陰気が歩々進逼して乾陽を消蝕し、ただ一つの陽爻が孤零零に存留す。乾は樹上の果実に象を取り、これが「碩果」。もし天運になお転機ありて乱局が尽頭に至らざれば、衆陰は之を食わんと欲するも、食い得ざる時もあり。陽は君子を代表し、坤は車輿に象を取り、君子がこの局面に処れば、なおこの坤輿を得んと欲す。すなわち民衆の載負である。坤の陰は小人を代表し、艮は門闕・廬舍で、小人は必ずこの艮廬を剥がんと欲し、全卦を純陰の坤と為さんとす。君子と小人の用心の異なるはかくの如し。《小象伝》に曰く、君子輿を得るは、民の之を載するなり。小人廬を剥ぐは、終に用うべからざるなり、と。坤は民に象を取り、車輿は以て承載するに用いる。これは君子がなお民衆の容納と帰附を得んと欲するを言う。小人に至っては、必ずこの一陽爻を剥き去らんと欲し、之を己と類ならずと謂う。だからこの種の人は終に任用すべからず。

復卦

【震下坤上,中互重坤】□□□息陰消卦,坤卦變體,純坤之下一陽初生,卦名復。上為五陰,下有一陽,兼震象。復:亨,出入無疾,朋來無咎,反復其道,七日來復,利有攸往。一陽將盡於五陰之上,有剝落象,故坤下艮上之卦名剝;一陽初生於五陰之下,有復反象,故震下坤上之卦名復。剝則眾陰剝陽,則陽不利;復則一陽消陰,則陽漸亨。

【此卦の下卦は震、上卦は坤、中間の互体は両重の坤】原書ここに三字缺く、文義によると、復は陽気生長・陰気消退の類の卦に属し、坤卦より変化して成る――純坤の下に一陽が初生す、だから卦名を「復」と言う。卦体の上は五つの陰爻、下に一つの陽爻あり。故に震卦の象を兼帯す。卦辞:復卦亨通し、出入疾なく、朋来りて咎なく、其の道を反復し、七日にして来復す、攸往するに利あり。多隆阿は曰く、一つの陽爻が五陰の上にて消尽せんとするは剥落の象あり、だから坤下艮上の卦を「剥」と名づく。一つの陽爻が五陰の下にて初生するは回返の象あり、だから震下坤上の卦を「復」と名づく。剥卦に於ては、衆陰が陽爻を剥蝕して陽は利あらず。復卦に於ては、一陽が陰気を消退して陽は漸く亨通す。

剝之一陽從坤上出,復之一陰【陰:陽】從坤下入,一出一入,彼消此息。消者艮,息則為震,坎疾不見,故曰無疾。雖坤朋在上,陰柔尚多,而至於復,則陽雖微而漸息,陰雖多而漸消,故曰無咎。復為十一月卦,與剝反對。剝餘一陽,復生一陽,則此一陽之生,乃自其道反來也。由剝之上計之,中歷純坤六爻,至於復初,一爻為一日,則七日矣。變月言日,以來者陽也。來復於下,前往則陽愈盛,故攸往利也。

多隆阿は曰く、剥卦のあの一陽は、坤体の上端より出で、復卦のあの一陽(原文は「一陰」と作るが校語により「一陽」に作るべし)は、坤体の下端より入る。一出・一入して、彼方は消退し此方は生長す。消退する一端は艮と成り、生長する一端は震と成る。坎は疾病に象を取り、此卦の中に坎象見えず。だから卦辞に「出入無疾」。坤の朋類はなお上面に圧すると雖も、陰柔の勢力は依然少なからざるも、復卦に至れば、陽は微弱ながら漸く生長し、陰は衆多ながら漸く消退す。だから「朋来無咎」。復は十一月の卦で、剥卦と上下顛倒して相対す。剥卦は一つの陽爻を残し、復卦は一つの陽爻を新生す。見るにこの一陽の生成は、まさにそれ自らのもとの道路に沿って返り来るもの。剥卦の上九より算えて、中間に純坤の六爻を経て、復卦の初九に至るまで、一爻を一日と算えばちょうど七日。これが「七日来復」。経文は月に計らずして改めて日と言うは、来復するは陽気で、陽は日を主るからである。陽はすでに卦体の下方に帰り、さらに前に推進すれば陽気はいよいよ盛大。だから攸往するに利ありと言う。

象曰:復亨【句】,剛反動而以順行【句】,是以出入無疾,朋來無咎,反復其道,七日來復,天行也。利有攸往,剛長也。復其見天地之心乎!復何以曰亨也?下卦為震,震德動也;上卦為坤,坤德順也。震為反生,《序卦傳》曰:剝窮上反下。是陽剛自上反來,震動於下,而順以行之。出於上即入於下,入於下者為陽,是陽從此前行而漸長也。陽行即天行,陽長即剛長。陽來於下,天地之心見焉。雖陰陽消息,無非天地之心,而天地之大德曰生,則陽復乃其心也,故天地之心見於復也。

《彖伝》(原書は「象曰」と題す)に曰く、復卦亨通――剛爻が返り、動きて依順に運行す、だから陽気の出入に妨害なく、朋類が来て災禍なし。其の道を往返し、七日にして返るは、是れ天道の運行なり。攸往するに利あるは、剛爻がまさに生長すればなり。復卦より大概天地の生生の心を見るべきか。多隆阿が解して曰く、復卦がなぜ「亨」と言うか。下卦は震で震の徳性は動、上卦は坤で坤の徳性は順。震は返りて復生を主り、《序卦伝》に「剥は上に窮まれば下に反る」と言う。見るに陽剛が上より返り来り、下にて震動し、また坤徳に順いて行く。陽は上より出で、すなわち下より入り、入るはまさに陽。こうして陽はこれより前に推進して逐漸生長す。陽の運行はすなわち天の運行、陽の生長はすなわち剛の生長。陽が下に帰れば、天地の心はここに顕現す。陰陽の消長は天地の心ならざるはないと言うも、《繋辞伝》に「天地の最大の徳性は生養」と講ずれば、陽気の回復はまさに天地の本心。だから天地の心は復卦に顕現す。

象曰:雷在地中,復;先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。坤地至靜,雷動於中,復之象也。至日,陽生之日,閉關止行人,欲以養此微陽也。坤為闔戶,故曰閉關;巽為商旅,震下伏巽,巽象不見,故曰商旅不行;巽又為命令,坤為方,巽象不見,故曰后不省方矣。

《大象伝》に曰く、雷は地中に伏す、復なり。先王は以て至日に関を閉じ、商旅行わず、后方を省みず。多隆阿は曰く、坤地は極めて安靜にして、雷はかえって地中に震動す。まさに復卦の象である。「至日」は冬至を指し、すなわち陽気初生の日。関を閉じて行人の往来を止むるは、静かにこの微弱の陽気を養わんと欲する故。坤は閉合の門戸に象を取る。だから「閉関」。巽は商旅に象を取り、震下に伏するはまさに巽で、巽象は隠れて見えず。だから「商旅不行」。巽はまた命令に象を取り、坤は方国に象を取り、巽象はすでに顕現せざれば、だから后方を省みずと言う。

初九:不遠復,無祇悔,元吉。陽盡於九月,至十一月陽始來復,豈曰不遠?而云不遠者,蓋深幸其來,謂陰已極於上,陽即反生於下也。復則無大悔矣。祇,大也。震得乾初,故曰元吉。象曰:不遠之復,以修身也。初為卦主,陽復在初,猶之人方失足而即復反也。以天運言,以陽復為天心之見;以人事言,以性復為修身之基。虞氏曰:坤為身,陽自坤初下息,是修坤身也。

初九の爻辞:遠からずして復る、大悔なく、元吉。多隆阿は曰く、陽気は九月に剥き尽くされ、十一月に至りてはじめて回復す。これなぜ「不遠」と算えんや。「不遠」と言う所以は、その到来を深く幸うに在り――陰気はちょうど上にて尽頭に至り、陽気はすでに下にて返生した。すでに回復すれば、もはや大きな悔恨なし。「祇」は大の意。震卦の得るは乾卦の初爻なので「元吉」。《小象伝》に曰く、不遠の復は、以て身を修むるなり、と。多隆阿は曰く、初九は全卦の主爻で、陽気が初位に回復するは、人が一足を失してすなわち転じ帰るに似る。天道の運行について言えば、陽の回復は天心の顕現。人事について言えば、本性の回復は修身の根基。虞翻は曰く、坤は身に象を取り、陽は坤体の初位より上に向かいて生長す。これが坤身を修治するなり。

六二:休復,吉。卦之所以名復者,由於初陽;二為陰而亦曰復者,言少休息則復即及之矣。猶人有過未能遽改,少俟時日而漸改,亦不失為善也,故吉。象曰:休復之吉,以下仁也。下仁者,言仁在下,指初也。陽和為仁,陰肅為義。震得乾初,故曰仁。

六二の爻辞:休(やす)らかに復る、吉。多隆阿は曰く、此卦が「復」の名を得るは初九のあの一陽による。六二はもとより陰爻ながらも「復」と言うは、少しく休息すれば回復の勢がすなわちここに及ぶを言う。これは人に過あって遽かに改め得ざるも、少しく時日を俟ちて徐々に改過すれば、もとより善を失わざるに似る。だから吉。《小象伝》に曰く、休復の吉は、以て下の仁者に就けばなり、と。多隆阿は曰く、「下仁」は仁が下に在るを言い、指すは初九。陽気は温和にして仁、陰気は粛殺にして義。震卦の得るは乾卦の初爻で、純陽の始めなので「仁」と称す。

六三:頻復,厲,無咎。三又遠於初矣,而仍曰復者,言頻復之乃克及此也。夫複利於速,復至於頻,則有日望其復而恐未能者,故厲。頻猶曰復,故無咎。象曰:頻復之厲,義無咎也。六四:中行獨復。卦有五陰,四居五陰之中,故曰中行;卦僅一陽,惟四與之相應,故曰獨復。象曰:中行獨復,以從道也。道謂初,從者應之也。

六三の爻辞:頻(しき)りに復る、厲、咎なし。多隆阿は曰く、六三は初九よりまた一層遠く、なお「復」と言うは、頻りに回復してはじめてここに及ぶを言う。回復は迅速を貴ぶ。もし屡々反復せねばならぬに至れば、日々にその回復を望みつつ能く帰らざるを恐るるの情形あり。だから「厲」。しかし屢々ながらも畢竟なお回復の中に在り。だから咎なし。《小象伝》に曰く、頻復の厲は、義として咎なきなり、と。六四の爻辞:中行にして独り復る。多隆阿は曰く、卦中に五つの陰爻あり、六四はまさに五陰の中に居るので「中行」。卦中にただ一つの陽爻あり、ただ六四のみがそれと相応ずるので「独復」。《小象伝》に曰く、中行独復は、以て道に従うなり、と。「道」は初九を指し、「従」はそれと応ずるを言う。

六五:敦復,無悔。敦,厚也,言復至此,復亦厚矣。五為陽位,陽宜復之,五復為陽,適如其分,故曰無悔。象曰:敦復無悔,中以自考也。考,察也。居中自察,言必敦復乃克無悔也。上六:迷復,凶,有災眚,用行師終有大敗,以其國君凶,至于十年不克征。上為坤終,坤為迷,是迷復也。異自內生曰眚,害物曰災,坤迷至終必生內亂,是有災眚也。坤又為眾、為師,是為用行師;坤又為終、為死,是為終有大敗。

六五の爻辞:敦くして復る、悔なし。多隆阿は曰く、「敦」は厚の意で、回復がこの歩に至れば、回復の勢もまた深厚と算うべし。五はもとより陽位で、陽気はまさにここに回復すべく、五がもし陽に回復せば、まさにその本分に合す。だから「無悔」。《小象伝》に曰く、敦復無悔は、中に居りて自ら考(かんが)える能ければなり、と。「考」は省察で、中位に居りて自ら省察す。必ず敦くして回復してこそ悔恨なきを言う。上六の爻辞:迷いて復らず、凶、災眚あり、師を行うに用いて終に大敗し、其の国君を以て凶、十年に至りて征する能わず。多隆阿は曰く、上六は坤体の終点に居り、坤は迷に象を取る。これが「迷復」。異変は内より生ずるを「眚」と言い、外より万物を害するを「災」と言う。坤の迷乱が尽頭に至れば、内部は必ず禍乱を生ず。だから「有災眚」。坤はまた衆・軍旅に象を取る。だから「用行師」。坤はまた終・死に象を取る。だから「終有大敗」。

坤為國,震為侯,一陽為卦主,是為國君。荀氏曰:國君謂初也。蓋復極於上,陰又將息於下,反侵震主,是以其國君凶也。十,陰數,凶至十年弗克征伐,凶之久為何如!象曰:迷復之凶,反君道也。君,初也。復至於上,陰生於下,變為姤,與復反,震陽為陰,故曰反君道也。

多隆阿は曰く、坤は国に象を取り、震は諸侯に象を取り、あの一つの陽爻は全卦の主爻で、合せてすなわち「国君」。荀爽は曰く、ここの国君は初九を指す。回復の勢が上六に至りてすでに極点に達し、陰気はまた下にて再び生長せんとし、反って震体の主爻を侵犯す。だから国君を以て凶と言う。「十」は陰の数で、凶は十年の久しきに及んでも出兵征伐能わず。この凶の引延る久しさは如何ばかりか。《小象伝》に曰く、迷復の凶は、君道に反ればなり、と。ここの「君」は初九を指す。回復が上六に至れば、陰気はまた下より生じ、卦はすなわち姤卦に変じて復卦と正反対となり、震体の陽爻は転じて陰爻となる。だから「反君道」と言う。

無妄卦

【震下乾上,中互巽艮】遯:無妄為二陰四陽卦,自遯來。虞氏曰:遯三之初。此所謂四陽二陰卦,非大壯則自遯來也。蜀才曰:此本遯卦,剛自上降而為主於初。無妄:元亨利貞,其匪正有眚,不利有攸往。震下乾上,卦名無妄。無妄者,實心也。人惟虛則有妄,妄則多窒,實則無妄,無妄則亨,是無妄自宜夫亨。而又利於貞正者,言人之實心惟正則利,不正不惟不利,而且有眚;惟正乃亨,不正不惟不亨,而且不利有攸往。

【此卦の下卦は震、上卦は乾、中間の互体は巽と艮】遯卦より変ず。無妄は二陰四陽の卦に属し、遯卦より変化して成る。虞翻は曰く、遯卦の第三爻と初爻の互い換え。凡そ四陽二陰の卦は、大壮卦より来らざれば遯卦より来る。蜀才は曰く、此卦は本遯卦で、剛爻が上より降りて初位の主爻と為る。卦辞:無妄卦、大いに亨通して貞むに利あり。もし行う所正ならざれば災眚あり、攸往するに利あらず。多隆阿は曰く、震が下・乾が上で、卦名を「無妄」と言う。いわゆる「無妄」はすなわち心地誠実。人はただ内裏が空虚不実なれば妄念を起し、妄念あれば処処窒碍し、内、内裏が誠実なれば妄念を起さず、妄念起らざれば自ずから亨通す。だから無妄はもとより亨通すべし。而して経文がまた貞正に利あると言うは、人のこの一片の実心は必ず正に帰してこそ利あるを言う。正ならざれば利ならざるのみならず、また災眚を招く。ただ正なればこそ亨通し、正ならざれば亨ならざるのみならず、また攸往するに利あらず。

象曰:無妄,剛自外來而為主於內,動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也。其匪正有眚,不利有攸往,無妄之往何之矣,天命不佑,行矣哉!卦曰無妄者,蓋由自遯來也。遯三來初,三在初之外,是為自外來。遯之乾如故,遯之艮易為震,震初剛為卦主,是為主於內也。震德為動,乾德為健,五中應二,相應則亨,二正五剛,剛正故貞,此所謂大亨以正也。

《彖伝》(原書は「象曰」と題す)に曰く、無妄卦、剛爻が外より入り来て内卦の主爻と為り、卦徳は動きて剛健、九五は剛中にしてまた六二と相応ず、大いに亨通して正に帰す。是れ上天の命令なり。もし行う所正ならざれば災眚ありて攸往するに利あらず。さらばこの無妄の心はまた何れに往かんや、天命は保佑せず、豈に行かんや。多隆阿が解して曰く、此卦が「無妄」と称するは、遯卦より変ずるが故。遯卦の第三爻が初位に来る。三はもとより初の外に在り。だから「剛自外来」。遯卦の乾体は旧の如く動かず、遯卦の艮体は変じて震となり、震の初爻は剛爻にしてまた全卦の主爻。だから「為主于内」。震の徳性は動、乾の徳性は健。九五は中に居りて六二と相応じ、応ずれば亨通し、六二は正を得て九五は剛中、剛にして正なので「貞」と称す。これが《彖伝》の言う「大亨以正」。

夫乾德為健,而乾象又為天,所謂正者,由於動以天也。言此無妄云者,天命原如此也。蓋人各有性,性具於人而實命於天,天既以無妄命人,人即宜以無妄應天。然又宜率以正道,修以正教,則無妄之行始克大通而無阻。

多隆阿は曰く、乾の徳性は剛健にして、乾の取象はまた天。ここに言う「正」は、その挙動が一に天道に依るが故。経文が「無妄」の二字を点出するは、天命はもとよりかくの如しを意う。人は各々本性を有り、本性は人の身に具えりと雖も、実は上天より賦与せらる。上天はすでに「無妄」を以て人に命定せば、人はまさに「無妄」を以て上天に応ずべし。しかしなお正道に循って引導し、正教に依って修治せねばならず。こうして無妄の行事ははじめて大いに通達して阻礙なし。

若三與上,雖亦相應,而皆失位,是為匪正。匪正則宜有眚。倘猶恃此無妄以應事機,雖猶是此無妄之心,而已失天命之本。上以乾天而居偏位,猶人雖有實心而氣質有偏,則有過中不及之差,違天之命,即為天命所不佑。佑,助也。之,往也。何之者,言上位已盡,前無可往也。無妄匪正,其失如是,行則多眚,勿雲亨利矣。

多隆阿は曰く、六三と上九に至っては、もとより彼此相応ずるも、皆位に当たらず。これが「匪正」で、正ならざれば自ずから災眚あるべし。もしなおこの一点の無妄の心を倚恃して事機に応ぜば、あの心は依然無妄と雖も、すでに天命の根本を失えり。上九は乾天の体を以て偏斜の位置に居るは、人が誠実の心ありと雖も気質に偏ありて、行事に過頭または不及の差失あるに似る。上天の命令に違背せば、すなわち天命の保佑を得られず。「佑」は幇助、「之」は前往。「何之」と言うは、上九はすでに卦位の尽頭に在りて、前に往くべき路なし。無妄にしてその正を失うの弊病はかくの如し。一動すれば災眚多し。さらに亨通と有利とを語るに及ばず。

象曰:天下雷行,物與無妄;先王以茂對時育萬物。萬物冬蟄,春至雷行,物皆反生,物當初生,其性未漓,故曰無妄,是天各與以無妄也。萬物之暢茂由於震,萬物之發育由於天,故曰茂對時育萬物也。初九:無妄,往吉。初以遯艮之止易為震動,是往也;初以遯之陰柔易為陽剛,是無妄之往也。人心以有所繫應多妄,初與四兩陽不應,斯無妄矣,故吉。象曰:無妄之往,得志也。

《大象伝》に曰く、天下に雷行う、物皆無妄の性を賦与せらる。先王は以て勉めて天時に順応し、万物を養育す。多隆阿は曰く、万物は冬に蟄伏し、春至りて雷声運行すれば、万物は皆返生す。物は初生の時、その本性は未だ浇薄せず。だから「無妄」と言う。これは上天が無妄の性を分別に每一物に賦与せしむるなり。万物の暢盛繁茂は震雷より来り、万物の発育生長は上天より来る。だから勉めて天時に順応して万物を養育すと言う。初九の爻辞:無妄を秉持して往けば吉。多隆阿は曰く、初爻は遯卦艮体の静止より変じて震体の運動と為り、これが「往」。また遯卦の陰柔より変じて陽剛と為り、これが無妄の心を以て往く。人心は牽繋相応じあるがために往々にして妄念を生ず。初九と九四は同じく陽爻にして相応ぜず、まさに妄念を起さず。だから吉。《小象伝》に曰く、無妄の往は、志を得る能ければなり、と。

六二:不耕穫,不菑畬,則利有攸往。無妄者,無妄念也。二與五應,故因應以生妄念。蓋二為正震,互艮,震為木,又為稼,震木而扶以艮手則象耕,震稼而持以艮手則象獲。遯之初二皆陰,今三初相易,坤土在隱現之間,艮亦為土,有田象。曰菑畬,田一歲治曰菑,三歲治曰畬。

六二の爻辞:耕さずして獲らんとせず、菑さずして畬を得んとせず、則ち攸往するに利あり。多隆阿は曰く、「無妄」はすなわち心中に妄念を起さざること。六二は九五と相応じ、応あるが故に妄念を生じ易し。六二は正震の体に属し、また互体艮の中にあり、震は木・また稼穡、艮手を以て震木を扶ければ耕に象り、艮手を以て震稼を持てば獲に象る。遯卦の初・二の両爻は皆陰で、今三爻と初爻が互い換え、坤土は隠顕の間に在りて、艮もまた土に象を取り、こうして田地の象あり。いわゆる「菑畬」は、田を開墾一年を「菑」、耕治三年を「畬」と言う。

夫因耕求獲,因菑得畬,此原非妄;倘不耕而求獲,不菑而求畬,則妄矣。夫先耕而後求獲,先菑而後得畬,此亦非妄;倘甫耕而即求獲,甫菑而即求畬,則又妄矣。妄念滋生,其何以往?惟是居中持正,不因耕而遽求獲,不因菑而遽求畬,貪得之心不擾於內,往始利也。象曰:不耕穫,未富也。未富,未獲也,而所以未獲,由於未耕。耕穫如是,菑畬亦如是矣。

多隆阿は曰く、まず耕耘して後に収穫を求め、まず開墾して後に熟田を得るは、これもとより妄にあらず。もし耕耘せずして収穫を求め、開墾せずして熟田を得んと欲せば、すなわち妄なり。先に耕し後に獲る、先に菑して後に畬、これもまた妄にあらず。もし甫めて耕し下ればすなわち収成を求め、甫めて開墾すればすなわち熟田を求むれば、また妄なり。妄念一旦滋生せば、また何れに往かんや。ただ中を守り正を持して、耕せしがために遽かに収成を求めず、開墾せしがために遽かに熟田を要せず、貪得の心を胸中に攪擾せしめざれば、往きてはじめて利あり。《小象伝》に曰く、耕さずして獲らんとするは、未だ富まざればなり、と。多隆阿は曰く、富まざるはすなわち収穫を得ざること。而して収穫を得ざる所以は、まさに耕耘せざるが故。耕と獲は是くの如し、菑と畬もまた是くの如し。

六三:無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。三不惟有應,而位亦不正,是所謂匪正有眚者。眚為災,乃無妄之災也。其災維何?三為互艮,又為互巽,坤象在隱現之間。艮為手,巽為繩,坤為牛、為邑,如以艮手牽巽繩,繫坤牛於邑,而三實為正震,震為行人,三初相易,是此牛為行人所得。

六三の爻辞:これ無妄の中に飛来するの災――或る人が牛をここに繋ぎ、過路人が之を牽き去り、村里人はかえって災を代う。多隆阿は曰く、六三はただ上九と応あるのみならず、位置もまた当たらず。まさに卦辞の言う「行う所正ならざれば災眚あり」のあの一爻。「眚」はすなわち災なので「無妄之災」と言う。この災は何処より来るか。六三は互体艮の中に在り、また互体巽の中に在り、坤象は若隠若現。艮は手、巽は縄、坤は牛・邑里で、艮手を以て巽縄を牽き、坤牛を邑中に繋ぐが如し。而して六三は自身また正震に属し、震は行路の人に象を取り、三爻と初爻が互い換え、こうしてこの牛は過路人に牽き去られたり。

夫牛雖繫於邑,而得牛之人不在邑,則是牛已歸行人而不在邑。得牛之人固非邑中之人,而求牛之人即宜尋彼得牛之人。繫牛於邑固非妄,惟尋行人以求牛始非妄。乃若不尋得牛之人,而惟求牛於繫牛之處,繫牛於邑,求牛仍在邑,自謂非妄而妄乃愈甚,是得牛者非邑人,而得災者為邑人,此無妄所以利貞也。象曰:行人得牛,邑人災也。

多隆阿は曰く、牛は邑里に繋がると雖も、牛を得るの人は邑里に在らず。さらば牛はすでに過路人に帰し邑中に在らず。牛を得るはすでに邑里の人にあらざれば、牛を尋ぬる人はまさにあの牛を牽き去りし行人を追うべし。牛を邑中に繋ぐはもとより妄にあらず、ただ行人の線索に循って牛を尋ぬるのみが妄ならざるなり。もし牛を得るの人を追わず、ただもとの牛繋ぎし処にて尋ぬれば――牛は邑里に繋がれ、尋ぬるもただ邑里に尋ぬ――自ら妄ならずと謂うも、妄はかえっていよいよ深し。結局、牛を得るは邑人にあらずして、災を受くるは邑人なり。これがまさに無妄一卦の「利貞」を強調する所以の縁由である。《小象伝》に曰く、行人は牛を得、邑人は災なり、と。

九四:可貞,無咎。四初俱陽,兩陽不應,不應則無妄。是五上皆有應,惟四無應,守之以正,獨見其可,故無咎。象曰:可貞無咎,固有之也。九五:無妄之疾,勿藥有喜。五下應二,有應多妄,人心有妄則為疾。五為乾中,乾體中實,是無妄之疾。疾宜用藥,藥可愈疾,而二在震艮之間,震為草木,艮為石,則二為五之藥,即二實為五之疾也。惟不應二,不用二藥,則得無妄之正,勿藥有喜矣。象曰:無妄之藥,不可試也。疾宜勿藥而妄欲用之,是試也,不可也。

九四の爻辞:貞むべし、咎なし。多隆阿は曰く、九四と初九は同じく陽爻で、両陽は相応せず、応ぜざれば妄念を生ぜず。九五・上九は皆各々相応の爻あるも、ただ九四のみ応なし。それは正道を以て自ら守り、単々その身に一箇の「可」の字を顕す。だから咎なし。《小象伝》に曰く、可貞無咎は、この無妄はそれ本来有する所なればなり、と。九五の爻辞:自ら招かざるの疾、薬せずしてかえって喜びあり。多隆阿は曰く、九五は下に六二と相応じ、応あれば妄念を生じ易く、人心に妄念あればすなわち病と為る。九五は乾体の中に居り、乾体は中実す。だから「無妄之疾」と称す。病あればもとより薬を用うべく、薬は病を治し得。六二は震と艮の間に居り、震は草木、艮は石で、草石はまさに薬材。だから六二は九五の薬――しかし六二は同時にまさに九五の病を得る根由である。ただ六二に応和せず、六二のこの剤の薬を服せざれば、すなわち無妄の正を守り得、薬せずしてかえって喜びあり。《小象伝》に曰く、無妄之薬は、以て試みるべからざるなり、と。病はもとより薬を用いざるべきに、偏えに之を用いんと欲するはこれ「試」で、不可なり。

上九:無妄行有眚,無攸利。上居乾終,下與三應,乾天本無妄,下應震動以行則多妄。卦辭所謂匪正有眚者,三與上是也,有眚即無攸利矣。象曰:無妄之行,窮之災也。夫所以有眚無利者,以無妄之行必致窮也。上位已窮,故前行有災。

上九の爻辞:無妄の心を以て妄動して前行せば、災眚あり、利攸なし。多隆阿は曰く、上九は乾体の終点に居り、下に六三と相応ず。乾は天、もとより無妄なれども、それが一旦下に震体と応和して妄動出行せば、妄念は多し。卦辞の言う「行う所正ならざれば便ちに災眚あり」は、まさに六三と上九のこの二爻。災眚あれば、すなわち言うべき利益なし。《小象伝》に曰く、無妄之行は、窮の災なり、と。災眚ありて利益なき所以は、この「無妄之行」が必ず窮尽に至るが故。上九の位置はすでに窮尽せり。だからさらに前に往けば災あり。

易原巻六

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。周易上經(六)。

本巻は慧珠閣の原刻本による。著者は岫巖の人・多隆阿、字は雯溪。以下に解くのは《周易》上経の第六の部分、大畜・頤・大過・坎・離の五卦を含む。

大畜卦

【乾下艮上,中互震兌】【大壯】大畜為四陽二陰卦,自大壯來。虞氏曰:大壯四之上。蜀才曰:此本大壯卦。大畜:利貞,不家食吉,利涉大川。乾下艮上,卦名大畜。所畜者大,故利貞正。夫畜訓止,又訓養,養人者為家,而家之所養無幾,故言養人惟君為大,食祿王朝,不食於家則吉。畜極又宜通,險阻亦通,則通之至矣,故曰利涉大川也。

【此卦の下卦は乾、上卦は艮、中間の互体は震と兌】大壮卦より変ず。大畜は四陽二陰の卦に属し、大壮より変化して成る。虞翻は曰く、大壮卦の第四爻と上爻の互い換え。蜀才は曰く、此卦は本大壮卦。卦辞:大畜卦、貞むに利あり。家に食(く)らずして朝廷に禄を食む、吉。大川を渉るに利あり。多隆阿は曰く、乾が下・艮が上で、卦名を「大畜」と言う。畜聚する所がすでに大なれば、だから貞正に利あり。「畜」は「止」と訓じ、また「養」と訓ず。人を養うの単位は家で、一家の養い得る人は限りあり。だから人を養うは君主を以て最大と為すと言い、朝廷にて俸禄を食み、自家に依りて供養せざれば、こそ吉。畜聚が極点に至ればまた通達に転ずべく、険阻さえも通過し得れば、すなわち通の至極。だから大川を渉るに利ありと言う。

彖曰:大畜剛健篤實【句】,輝光日新【句】,其德剛上而尚賢,能止健,大正也。不家食吉,養賢也。利涉大川,應乎天也。畜何以雲大也?陽大陰小,巽乾合卦,五陽畜陰,所畜者小,故曰小畜。若艮乾合卦,乾父艮男,本無以陰畜陽之象,而亦曰畜者,蓋以卦德言之也。乾德曰健,艮德曰止,乾健於行,為艮所止,艮止乾,是所畜者大,故曰大畜也。

《彖伝》に曰く、大畜卦は剛健にして篤実にして輝光は日々に新た。其の徳は剛爻が尊位に上居し賢人を尚び、剛健を止むる能く、是れ大いに純正なり。家に食らずして禄を食むは、国家の賢を養うなり。大川を渉るに利あるは、天に応ずればなり、と。多隆阿が解して曰く、「畜」はなぜ「大」と称するか。陽を大、陰を小と為す。巽と乾と相合するの小畜卦は、五つの陽爻が一つの陰爻を畜聚して、畜する所は小なるもの。だから「小畜」と言う。艮と乾と相合するの此卦に至っては、乾は父、艮は少男で、もとより陰を以て陽を畜するの象なし。而してまた「畜」と称するは、卦徳に就いて言えば、乾の徳性は健、艮の徳性は止、乾は一味に剛健に前行するを艮に止められ、艮の止むる所は乾で、畜する所は大なるもの。だから「大畜」と言う。

所畜者大,利豈易言?惟大正以處之乃利。正者何?德是也。乾德剛健,艮德篤實,是剛健篤實皆德也。乾為大明,純陽有光;艮之一陽外見,如艮卦所云其道光明者,是艮陽又有光。光輝日新,亦德也。其德如此,是謂之賢。卦又自大壯來,以大壯之四易之於上,是為剛上。上為天位,賢人有德,君優禮之,是為尚賢。國家貴尚賢人,天下從其教化。一陽居尊,止下乾之健,非其德足以服人,君不能言聽計從,民不能愛戴不貳,故曰利貞也。

多隆阿は曰く、畜聚する所がすでに大なれば、「利」の字は豈に易く言うべけんや。ただ大中至正の態度を以て処置してこそ利を語るに及ぶ。正とは何ぞ。すなわち徳である。乾の徳は剛健、艮の徳は篤実、剛健と篤実は皆徳なり。乾は大明で、純陽にして光あり。艮のあの一陽爻は外に顕露し、まさに《艮卦・彖伝》の言う「其道光明」に見るに、艮の陽爻にも光あり。光輝は日々に更新す、これもまた徳なり。徳がこの地步に至れば、「賢」と称するに足る。此卦はまた大壮卦より変じて来て、大壮の第四爻を換えて上位に置く、これが「剛上」。上位は天位で、賢人に徳ありて君主は厚礼を以て相待す、これが「尚賢」。国家が賢人を看重すれば、天下はその教化に順従す。一つの陽爻が尊位に居り、下の乾体の剛健を止むるは、その徳が人を服するに足るに非ざれば、君主は言聴計従せず、民もまた愛戴して二心なからしめず。だから「利貞」と言う。

夫畜者,止也,又養也。卦中有互兌,兌為口;上卦為艮,艮為門闕。艮陽由大壯四往居上,是以人位易於天位,以兌口而居艮闕之中,以人位而升朝廷之上,是不家食而食祿於天家也。食者,養也。則互兌即為口,而互兌又為澤,澤水為川,陰為水象,二陰亦為川。乾陽上行,必歷二陰,是為涉。當畜極則通之候,本乾之健而上涉之,因入天闕以食天祿,天必應之。蓋初二以應四應五為畜,而三與上又以兩陽不應為畜。陽性主動,陽德至健,互震為行,艮豈終能止之?此所謂應乎天者也。涉川以來上,故利也。

多隆阿は曰く、「畜」はすなわち止であり、また養である。卦中に互体兌あり、兌は口に象を取り、上卦は艮で、艮は門闕に象を取る。艮の陽爻は大壮の第四位より上って上位に居り、これは人位を天位に換えたこと。兌口を以て艮闕の中に居り、臣民の身を以て朝廷の上に登るは、まさに家に食らずして王家に禄を食むこと。「食」はすなわち「養」。互体兌はすなわち口に象を取り、また沢に象を取り、沢中の水はすなわち川。陰爻はもとより水象で、あの二つの陰爻はすなわち大川。乾陽が上に行けば必ずこの二つの陰爻を経る。これが「渉」。ちょうど畜聚が極点に至りて通達に転ずべきの時に当り、乾体の剛健を憑じて上に渉り、こうして天闕に入りて天禄を享くれば、天は必ずそれと応ず。初九・九二は六四・六五と相応ずるがために畜止せられ、九三と上九はまた両陽が相応せざるがために畜止せらる。しかし陽性は動を主り、陽徳は極めて健で、互体震は行を主る。艮は豈に終にこれを止め得んや。これがいわゆる「応乎天」。大川を渉りて上位に至れば、だから「利」。

象曰:天在山中,大畜;君子以多識前言往行,以畜其德。向氏曰:止莫若山,大莫若天,天在山中,大畜之象。蓋言天體至大,山欲畜之,君子畜德亦如山之畜天,大愈盛也。乾為言,互震為行,震在乾前,故曰前言往行。乾乂為德,艮以止之,艮山體靜,有畜義。

《大象伝》に曰く、天を山中に藴する、大畜なり。君子は以て多く前言往行を識り、以て其の徳を畜す。向秀を引て曰く、物を止むるは山の如くはなく、大なるは天の如くはなし。天が山中に在るはまさに大畜の象。これは天体が極めて広大なるを、山が欲してこれを畜するを言い、君子が徳性を畜養するも山の天を畜するが如く、畜すること大なるほど徳はいよいよ盛んなり。乾は言語に象を取り、互体震は行動に象を取り、震は乾の前に在り。だから「前言往行」。乾はまた徳に象を取り(原文は「乂」と作るが「又」の字の訛)、艮がこれを止む。艮山の体性は安靜にして蓄積の義を含む。

初九:有厲,利已。初陽尚微,不利前進,艮止於前,進亦危厲,是宜已也。已,止也。初蓋利於止矣。象曰:有厲利已,不犯災也。九二:輿說輹。二為乾中,乾為大車稱輿,居互兌之初,兌為毀折,是輹脫也。輹,車軸縛也,絲革縛軸,所以堅軸,軸縛既脫,輿豈能行?蓋陽剛雖健,倘有所畜,即宜止耳。象曰:輿說輹,終無尤也。初曰不犯災,二曰終無尤,蓋以能止畜初二也。

初九の爻辞:厲あり、已(や)むに利あり。多隆阿は曰く、初九の陽気はなお微弱で、前進に利あらず。艮の止勢が前に横たわり、強いて進めば危険。だから止まるべし。「已」はすなわち停止、初九はまさに止歩に宜しき。《小象伝》に曰く、厲ありて已むに利あるは、災を犯さざればなり、と。九二の爻辞:輿、輹を脱(と)ぐ。多隆阿は曰く、九二は乾体の中に居り、乾は大車に象を取るので「輿」と称す。また互体兌の起始に居り、兌は毀折なので車縛の脱落である。「輹」は車軸を縛るもので、絲革を以て軸を捆牢し、軸を堅固ならしむ。軸縛すでに脱落せば、車は豈に行かんや。見るに陽剛は強健と雖も、一旦畜止せられれば、すなわち止むべし。《小象伝》に曰く、輿輹を脱ぐは、終に尤なきなり、と。初爻は「不犯災」を講じ、二爻は「終無尤」を講ず。皆その歩を止めて進まざる能くすればなり――畜止の功はまさに初・二の両爻に在る。

九三:良馬逐,利艱貞,曰閒輿衛,利有攸往。三為乾,乾為良馬,而三又為互震,良馬震動,是馬逐也,可以進矣。但艮止在前,不可遽動,是宜艱貞以守之。閒,閡也;衛,護也。輿之行必有衛,衛止則輿亦止,艮止象閒。虞氏曰:震為驚。鄭氏曰:驚之言警戒也,有戒慎防閒之義,故曰閒輿衛。言三雖宜進,尚須待時謹慎前往,庶幾利也。象曰:利有攸往,上合志也。上,上九也。兩陽合志,畜極宜通也。

九三の爻辞:良馬逐(お)う、艱貞に利あり、日に輿衛を閑(なら)えば、攸往するに利あり。多隆阿は曰く、九三は乾に属し、乾は良馬に象を取り、三はまた互体震の中に在り、良馬が震の動勢を得れば、すなわち馬の奔逐で、前進し得。しかし艮の止勢が前に横たわり、遽かに行動すべからず。だから艱難の中に正を守り自ら持すべし。「閑」は阻欄、「衛」は護従。車の出行は必ず護衛あり、護衛が停車すれば車もまた停む。艮の止はまさにこの「閑」を象徴す。虞翻は震は驚に象を取ると言い、鄭玄は「驚」はすなわち警戒で、戒慎防閑の義を含むと言う。だから「閑輿衛」。これは九三が前進すべきと雖も、なお時機を待ちて謹慎に前往せねばならず、こそ利を得るを庶幾うを言う。《小象伝》に曰く、攸往するに利あるは、上九と心志相合せばなり、と。「上」は上九を指し、二つの陽爻が心志を相合せば、畜聚は極点に至りて通達すべし。

六四:童牛之牿,元吉。上為卦主,乾之三陽為所畜,即艮之二陰亦為所畜。四為陰爻,牛為陰物,虞氏曰:艮為童。是童牛也。童牛無角,安所用牿?牿,楅衡也。艮木為堅多節,是以堅木為牿,而預防牛觸,則是防患於未然,易為力也,故曰元吉。象曰:六四元吉,有喜也。

六四の爻辞:童牛に牿(こく)を加う、元吉。多隆阿は曰く、上九は全卦の主爻で、乾体の三つの陽爻はそれが畜止する対象、艮体の二つの陰爻もまた同様に畜止せらる。六四は陰爻で、牛はまた陰物に属し、虞翻は艮は童稚に象を取ると言い、合せてすなわち「童牛」。小牛はまだ角を生ぜず、豈に「牿」を用いる所あらん。「牿」はすなわち楅衡、牛角に綁けて牴触を防ぐ横木。艮は木にして堅硬多節なので、堅木を以て牿と為し、預め牛の牴撞を防ぐ――これは患を未然に防ぐことで、最も気力を省く。だから「元吉」。《小象伝》に曰く、六四の元吉は、喜ぶべければなり、と。

六五:豶豕之牙,吉。豶豕,羠豕,豕之去勢者。五亦陰柔,豕為陰物,故稱豶豕。夫豕性剛躁,不易馴伏,待至歲久,牙出頤外,則有所恃而難制。惟去其勢,豶以豢之,牙不為害,是力不勞而強暴自去也,故吉。象曰:六五之吉,有慶也。有喜有慶,皆言畜之得其道也。

六五の爻辞:豮豕(ぶんし)の牙、吉。多隆阿は曰く、「豮豕」はすなわち羠豕、勢を去られし豚である。六五もまた陰柔の爻で、豚はまた陰物に属す。だから「豮豕」と称す。豚の性は剛躁にして馴服し易からず、年歳一久なれば、牙が頤外に出づるに待てば、恃む所ありて制伏し難し。ただその勢を去り、豮して後豢すれば、牙は人を傷ぜず――これは気力を労せずして強暴の性が自ずから消ゆること。だから吉。《小象伝》に曰く、六五の吉は、慶有ればなり、と。多隆阿は曰く、六四は「有喜」を言い、六五は「有慶」を言う。皆畜止が法を得たを言う。

上九:何天之衢,亨。何,荷通。衢,四達道也。《爾雅》曰:道路四達謂之衢。上在大壯上,原為震,震為大塗,乃與四易為艮,艮為門闕、為路,上為天位,是為天家之衢。卦至於上,卦爻已盡,是畜極而通之候,開艮闕以平震塗,如《虞書》所云闢四門者。由是陽剛群升,君子並進,行天衢以荷天寵,何亨如之!象曰:何天之衢,道大行也。既有其德,又在其位,可以行道,為畜主也。

上九の爻辞:天の衢(く)を荷(か)ぐ、亨。多隆阿は曰く、「何」は「荷」と通じて担負の意、「衢」は四通八達の大道で、《爾雅》に道路の四達するを「衢」と謂うとある。上九は大壮卦においてもとより上位に居り、もとより震体に属し、震は大路に象を取る。後に第四爻と互い換えて艮と成り、艮は門闕・道路に象を取り、上位はまた天位。だから天家の通衢と為る。卦は上爻に至りて六爻すでに尽き、まさに畜聚が極点に至りて通達に転ずるの時。艮の門闕を開きて震の大路を平らぐは、《尚書・虞書》の言う「辟四門」――四方の門を広く開きて天下の賢才を納るに似る。こうして陽剛の士は群りて上昇し、君子はともに進用して、天衢を行きて天子の恩寵を承荷す。何ぞ亨なること之の如かんや。《小象伝》に曰く、天衢を荷ぐは、道大いに行わるればなり、と。多隆阿は曰く、すでにその徳あり、またその位に在り、以て大道を推行し得て、天下を畜養するの主と為る。

頤卦

【震下艮上,中互重坤】頤為乾卦,乾離也;又為坤之變體,中互重坤,是坤兼離象。前應重坤,後乾重離。卦辭中無上下往來之文,是無他卦為此卦之母。虞氏以為臨二之上,詳繹爻辭,無此義也。

【此卦の下卦は震、上卦は艮、中間の互体は両重の坤】多隆阿は曰く、頤は「干卦」に属す。すなわち或る一卦を以て骨干の卦と為すもので、それが干するは離――卦体全体が形は一箇の放大した離に似る。また坤卦の変体で、中間の互体は両重の坤。だから坤にして離象を兼帯す。前は両重の坤と相応し、後は両重の離を以て骨干と為す。頤の卦辞の中に爻位の上下往来を講ずるの文なし。見るに他卦がその母卦と為ることなし。虞翻は臨卦の第二爻が上位に昇って成ると謂うも、細繹するに爻辞にはこの意なし。

頤:貞吉,觀頤,自求口實。上下二陽,中藏四陰,體似大離而有頤象,故震下艮上之卦名頤。鄭氏曰:頤,車輔之名也,車動而上,因輔嚼物以養人,故謂之頤。頤中有物曰口實,是頤者養也。頤養之道,惟正則吉,而欲得正,既宜觀之,又宜求之,故曰觀頤自求口實也。

卦辞:頤卦、貞むれば吉、頤を観、自ら口実を求む。多隆阿は曰く、上下に各一つの陽爻、中間に四つの陰爻を有し、卦体は一箇の放大した離に似て、また面頬の象あり。だから震下艮上の卦を「頤」と名づく。鄭玄は曰く、「頤」は車輔――すなわち腮頬牙牀の名称で、下頷が上に運動して、牙牀に依りて食物を咀嚼して人を養う。だから「頤」と謂う。口の中に物を含むを「口実」と言う。見るに「頤」はすなわち養なり。養育の道は、ただ正路を行きてこそ吉。而して正を得んとすれば、観る能くするを要し、また自ら求むるを要す。だから「観頤、自求口実」。

彖曰:頤貞吉,養正則吉也。觀頤,觀其所養也;自求口實,觀其自養也。天地養萬物,聖人養賢以及萬民,頤之時大矣哉!卦之所以名頤者,象頤也。上陽為上頦,下陽為下頦,中陰空虛為口,艮為止,震為動,上止下動,頤象昭然。中互重坤,萬物之致養莫如坤,故頤又有養義也。

《彖伝》に曰く、頤貞吉は、養い正しければ吉なり。頤を観るは、その養う所を観るなり。自ら口実を求むるは、その自養を観るなり。天地は万物を養い、聖人は賢才を養いて万民に及ぼす。頤卦の当るの時義は大なるかな。多隆阿が解して曰く、此卦が「頤」と名づくは、人の面頬に象るが故。上の陽爻は上頷、下の陽爻は下頷、中間の陰爻は空虚にして口となる。艮は止、震は動、上頷は動かずして下頷は開合す。面頬の象は甚だ顕豁。卦中の互体は両重の坤で、万物をして養育を致さしむるは坤の如くはなし。だから「頤」はまた養育の義を含む。

頤養貴正,妄求者失之,靜待者得之。頤象大離,離為目,故曰觀。上陽位尊,為頤養之主,欲有以養之,先有以觀之,觀其所養,庶得養人之正也。下待上養,而下亦宜自養,自養貴自求,求養亦宜自觀,觀其自養,庶得自養之正也。震為禾稼,互坤為土,土氣甘,艮為求,故曰自求口實也。

多隆阿は曰く、養育は正を得るを貴ぶ。妄りに求取する者はかえってこれを失い、安静に待つ者はかえってこれを得。頤の卦体は一箇の放大した離に似て、離は眼目に象を取る。だから「観」。上九の陽爻は位が尊高にして、養育の主人である。彼が人を養わんとすれば、まず観る能くし、自らの養うは果たして如何なる人ぞを見清して、こそ人を養うの正に合す。下の人は上の養いを待つも、下はまた自らを養うべし。自養は自ら求むるを貴び、求養も同様に自ら観る能くし、自らの如何にして自養するかを見清して、こそ自養の正に合す。震は禾稼に象を取り、互体坤は土に象を取り、土の味は甘に属し、艮は求索に象を取る。だから「自求口実」。

且卦以兩陽分居上下,上為天位,下為地位,而夾坤眾於其間,是為天地養萬物。五以陰居君位,上九為陽,乃賢人也,中互坤為民,是為養賢以及萬民。頤為自養,此所謂自求口實也;通言養物養賢養民,此所謂觀頤觀其所養也。此頤之時也,大哉其時乎!

多隆阿は曰く、また此卦は二つの陽爻を分ちて上下両端に置き、上位は天位、下位は地位で、中間に坤の代表する衆物を夾む。これが《彖伝》の言う「天地養万物」。六五は陰爻を以て君位に居り、上九は陽爻で賢人を代表し、中間の互体坤は民に象を取る。これが「養賢以及万民」。単に頤卦に就いて自養を言えば、すなわちいわゆる「自求口実」。合せて物を養い賢を養い民を養うを言えば、すなわちいわゆる「観頤、観其所養」。これが頤卦の当るの時で、この時は大なるかな。

象曰:山下有雷,頤;君子以慎言語,節飲食。劉氏曰:山止於上,雷動於下,頤之象也。君子觀頤象,謂言語飲食如震之動,慎之節之如艮之止。初九:舍爾靈龜,觀我朵頤,凶。頤養之道,貴乎正靜,止則吉,躁動則凶。初為震主,震動於下,求食急矣。卦之全體又象大離,離為龜,初以陽居陽位,是尤龜之靈者。龜能息氣,可以靜養,爾乃舍之。爾,初也。初舍己以觀上九之頤,上九為卦主,謂之我,頤之上頦也。上頦下垂,如樹之下垂朵朵然,觀人朵頤,以羨人之食,是去靈龜之明而惟口腹是養,則失頤養之正,故凶。象曰:觀我朵頤,亦不足貴也。孟子曰:飲食之人,則人賤之。

《大象伝》に曰く、山下に雷あり、頤なり。君子は以て言語を慎み、飲食を節す。劉表を引て曰く、山が上に止まり、雷が下に動く。これが頤卦の象である。君子は頤象を観て、言語と飲食は皆震の如く妄動し易く、だから艮の如くこれを止むべしと謂う。言語は謹慎すべく、飲食は節制すべし。初九の爻辞:爾の霊亀を舎て、我が朵頤(だい)を観る、凶。多隆阿は曰く、養育の道は中正安静を貴び、止めれば吉、躁動すれば凶。初九は震体の主爻で、下にて震動し、食を求むるは未免に急なり。全卦の体勢はまた一箇の放大した離に似て、離は亀に象を取り、初九は陽爻を以て陽位に居り、さらに亀中の霊なる者。亀は息を屏え気を服して、静かに自身を養い得るを、爾はこれを舎てる――「爾」は指すは初九。初九は己を舎てて上九のあの頷を観る。上九は全卦の主爻なので、自らを「我」と称す。すなわち頤の上頷。上頷が下垂するは、樹枝の下垂して結実纍纍たるの如し。人の咀嚼を盯めて人の食物を羨むは、霊亀の如き明智を丢きて一味に口腹を養うのみ。すなわち養育の正道を失う。だから凶。《小象伝》に曰く、我が朵頤を観るは、亦た貴ぶに足らざるなり、と。《孟子・告子上》を引て曰く、飲食のみの人は、人皆之を賤しむ。

六二:顛頤【句】,拂經于丘頤,征凶。卦惟二陽,皆非二之正應。夫頤卦之義,自上求下為顛,自下求上為拂。二居下卦之中,比於初陽,是為顛頤;上卦為艮,艮為山象邱,上頤不動如山之止,是為邱頤,二往求之,是為拂經。經,吭也,《莊子》所謂熊經鳥伸是也。居震動之間而拂經若此,亦失頤養之正,前征凶矣。象曰:六二征凶,行失類也。二宜從初,前行往上,失其同類也。

六二の爻辞:顛倒して下に養いを求む。常道に違いて山丘の如き上九に養いを求むれば、前に征けば凶。多隆阿は曰く、卦中にただ二つの陽爻のみ、皆六二の正応にあらず。頤卦の義例により、上より下に養いを求むるを「顛」、下より上に養いを求むるを「拂」と言う。六二は下卦の中に居り、初九の陽に緊隣するは、これが「顛頤」。上卦は艮で、艮は山・丘に象を取り、上九のあの頷は山の如く静止して動かず、すなわち「丘頤」。六二が初九を越えてそれを求むるは、すなわち「拂経」。「経」は咽喉を指し、《荘子・刻意》の言う「熊経鳥伸」――熊の如く頸を引き鳥の如く翼を展べるの導引の術は、まさにこの「経」の字を用う。六二は震体の動蕩の間に身を処して、かくの如く咽喉の常に違い、もとより養育の正を失う。一に前に征けば凶。《小象伝》に曰く、六二が征きて凶は、行きて其の類を失えばなり、と。六二はもとより初九に従うべきを、一路に上に往きて上九に攀附す、故に自らの同類を失う。

六三:拂頤,貞凶,十年勿用,無攸利。三為震終,震動之極,以求上養,亦拂頤也。雖與上為正應,上為艮止,不應三求,三轉失頤養之正。三至五為互坤,坤為十年,必歷坤之盡始與上遇,則是十年勿用矣。不能自養,徒仰求人,遲之又久,仍無應者,幾何不飢餓而死?無攸利也。象曰:十年勿用,道大悖也。頤養之道,待至十年,大悖故凶也。

六三の爻辞:養育の道に違う、貞正に守ると雖も凶、十年も用うべからず、利攸なし。多隆阿は曰く、六三は震体の末端に居り、躁動の極点で、なお上九に養いを求むるは、これもまた「拂頤」。それは上九と正応と雖も、上九は艮に属して静止を主り、六三の求索に応ぜず、六三はかえって養育の正を失う。三爻より五爻に至るは互体坤で、坤の数は十年。必ず坤の全程を走り尽くして後、はじめて上九と相遇う。これが「十年勿用」。自ら自らを養い得ず、一味に仰ぎて人に求め、延び延びにしてなお応ずる者なし。幾何にして飢餓して死せざらんや。だから利攸なし。《小象伝》に曰く、十年用うべからざるは、道に大いに悖ればなり、と。養育の道が苦しくも十年を待たねばならぬは、すなわち大いに悖逆したを言う。だから凶。

六四:顛頤吉,虎視眈眈,其欲逐逐,無咎。四為艮止之初,是不急於求養者。雖下應初九,亦為顛頤,而擇食有漸,如虎視然。蓋艮為虎,卦體象大離,離目眈眈,視不一視也,眈眈,下視貌。虎視則有欲,而欲則逐逐有漸,不欲遽急也。逐逐,劉氏作跾跾,荀氏作悠悠,遠也,言志悠遠也。求養如此,是得頤之正者,故無咎。象曰:顛頤之吉,上施光也。初九陽光上施以養四。

六四の爻辞:顛倒して下に養いを求むれば吉、虎の視眈々(たんたん)たるが如く、其の欲は逐逐(ちくちく)たり、咎なし。多隆阿は曰く、六四は艮体の静止の開端に居り、急いで養いを求めざる者。それは下に初九と応和すると雖も、同様に「顛頤」に属するも、食を取るに次第ありて、虎の視の如し。艮は虎に象を取り、卦体はまた一箇の放大した離に似て、離は目に象を取る。「眈眈」は目を垂れて下に視るの貌で、看てまた看て、ただ一眼にあらず。虎が視すは欲望あるが故、その欲望は「逐逐」――一歩一歩にして来て、急ずることなし。「逐逐」は劉表は「跾跾」に作り、荀爽は「悠悠」に作る。皆遠の意で、志向の悠遠なるを指す。かくの如く養いを求むるは、まさに頤の正に合す。だから咎なし。《小象伝》に曰く、顛頤の吉は、上が光を施せばなり、と。これは初九の陽光が上に施与して、以て六四を養うを言う。

六五:拂經,居貞吉,不可涉大川。五不能自養,以求上養,是亦拂其經吭者。第五居艮中,口容能止,雖陰柔無才,上求賢輔,守正以居之,頤養之吉也。夫卦有二陽,上為陽,下亦為陽,但上與五比,又處高位,是為賢人;下非五應,又與五遠,位又至卑,是為萬民。求賢則足以養大體,求民僅可以養口腹。且求初九,必須歷下三陰而始得遇,水陰象,是為大川,不可涉之。言五居以求上為貞,下求於初非貞也,頤養貴正,蓋如此。象曰:居貞之吉,順以從上也。五比上遠初,下來則逆,上往則順也。

六五の爻辞:常道に違う、安んじて貞正に居れば吉、大川を渉るべからず。多隆阿は曰く、六五は自ら自らを養い得ず、上九に依りて養うを要す。これもまた自らの咽喉の常道に違う。しかし六五は艮体の中に居り、口は収めて妄動せざる能くし、それは陰柔にして才なしと雖も、上に賢人の輔佐を求むるを知り、正を守りて安んずれば、すなわち養育の吉。卦中に二つの陽爻あり、上九は陽、初九もまた陽。しかし上九は六五に緊挨して高位に居り、賢人を代表し、初九は六五の相応の爻にあらず、六五より遠く、位置は極めて卑しきは、万民を代表す。賢人に助けを求むれば、足りて大体――すなわち心志徳性を養い得、万民に助けを求むれば、ただ口腹を養うのみ。ましてや初九に及ばんとすれば、必ず下の三つの陰爻を越えてはじめて相遇い得、陰爻は水に象を取り、それはすなわち大川。だから渉るべからず。これは六五が安んじて上に賢を求むるを正と為し、下に初九に求むるは正にあらずを言う。養育の道は正を得るを貴ぶ、まさにこの理である。《小象伝》に曰く、居貞の吉は、順いて上に従えばなり、と。六五は上九に隣接し初九に遠く、下に来れば逆、上に往けば順なり。

上九:由頤,厲吉,利涉大川。卦之上下二陽,以為頤之上下頦,上為艮止,下為震動,動靜攸分,而吉凶以判。動則求養,而靜則待養;求養則養仰於人,不得人養,恐有飢餒之患;待養則能自養,自養有權,則得頤養之貞。上陽如頤之上頦,此頤之由也。上位愈高,則心愈慎,故曰厲吉。又曰涉大川者,涉中四陰也。蓋兩頦乃克飲食,且輔車有相依之義,賢人有待養之德,下涉求初,上之利也,故曰利涉大川矣。象曰:由頤厲吉,大有慶也。慶得頤養之正也。

上九の爻辞:天下の養育は皆これに由(よ)る、心に危懼を存せば吉、大川を渉るに利あり。多隆阿は曰く、卦中の上下二つの陽爻は、頤の上下両頷を充当す。上頷は艮に属して静止、下頷は震に属して運動、一動一静は分れて、吉凶もまたこれに随いて分判す。動く一端は養いを求めに行き、静なる一端は養いを待つ。養いを求めに行けば、養いは人に仰仗し、人が養うを肯ぜざれば、飢餓の患あるを恐る。養いを待てば、かえって自らを養い得、自養の主導権は手に在り、すなわち養育の正を得。上九のこの陽爻は譬うるに頤の上頷の如く、全卦の養育は皆これに由る。だから「由頤」。位置が高いほど、心はいよいよ戒慎すべし。だから「厲吉」。また「渉大川」と言うは、中間のあの四つの陰爻を跨ぐを指す。両頷相合してこそ咀嚼飲食し得、ましてや牙牀と頬骨はもとより相依為命の義あり、賢人にもまた供養を待つの徳あり。下に跨ぎて初九と相い求むるは、まさに上九の利。だから「利渉大川」。《小象伝》に曰く、由頤厲吉は、大いに慶有ればなり、と。慶ぶべきはそれが養育の正道を得たること。

大過卦

【巽下兌上,中互重乾】大過為乾卦,乾坎也;又為乾之變體,中互重乾,是乾兼坎象。前應重乾,後乾重坎。卦辭中無上下往來之文,與頤卦同。虞氏以為大壯五之初,非也。

【此卦の下卦は巽、上卦は兌、中間の互体は両重の乾】多隆阿は曰く、大過は「干卦」に属し、それが干するは坎――卦体全体が形は一箇の放大した坎に似る。また乾卦の変体で、中間の互体は両重の乾。だから乾にして坎象を兼帯す。前は両重の乾と相応し、後は両重の坎を以て骨干と為す。大過の卦辞の中にも爻位の上下往来を講ずるの文なし。これは頤卦と同じ。虞翻は大壮卦の第五爻が初位に降りて成ると謂うは、誤りである。

大過:棟橈,利有攸往,亨。上下二陰,中有四陽,體似大坎,而陽多於陰,是陽大過於陰小也,故巽下兌上之卦名大過。棟,極也;橈,曲也。《九家易》曰:坎為棟。是以大坎為棟。陽實陰虛,虛不勝任,故橈。而陽剛有才,陽盛於陰,可以有為,故曰利有攸往亨也。

卦辞:大過卦、屋梁が曲りて垂れ、攸往するに利あり、亨。多隆阿は曰く、上下に各一つの陰爻、中間に四つの陽爻、卦体は一箇の放大した坎に似て、陽は陰に多し。これが大きなる者が小さき者に過ぎる――陽大陰小なので、巽下兌上の卦を「大過」と名づく。「棟」は屋脊の正梁、「橈」は弯曲。《九家易》は坎は棟に象を取ると言うので、ここでは放大した坎象を以て棟と為す。陽爻は充実、陰爻は空虚で、空虚の両端は重量を担い得ず、梁はすなわち弯む。しかし陽剛は才干に富み、陽の勢力は陰を圧し、以て作為あるべし。だから「利有攸往、亨」。

彖曰:大過,大者過也。棟橈,本末弱也。剛過而中,巽而說行,利有攸往,乃亨。大過之時大矣哉!卦之所以名大過者,大者陽也,陽過乎陰,故曰大過。卦體二陰外見象坎,巽為木,兌金克之以為材,故曰棟。陽剛陰柔,陽實於中,陰柔居外,柔則必曲,故象橈。棟橈者,由於下本上末俱羸弱也,此卦象也。

《彖伝》に曰く、大過は、大なる者の過なり。棟橈るは、本末の両端が弱すぎればなり。剛爻は過盛と雖も能く中を守り、柔順にして和説を以て行事す、だから攸往するに利あり、乃ち亨なり。大過の当るの時義は大なるかな。多隆阿が解して曰く、此卦が「大過」と名づくは、「大」は陽を指して、陽が陰を過ぎるので「大過」と言う。卦体の上下二つの陰爻は外に顕れて合せて坎に似て、巽は木、兌は金に属して、金を以て木を斫きて材を製す。だから「棟」と称す。陽剛陰柔、陽は中間に充実し、陰柔は両端に居り、柔なれば必ず弯曲す。だから「橈」に象る。屋梁の弯む所以は、下の根本と上の末梢が皆羸弱に過ぎるが故――これは卦象に就いて言う。

而以卦體言之,四陽二陰,剛過乎柔,二五兩剛又俱得中。再以卦德言之,內卦為巽,外卦為兌,兌為說,是巽而又以說行之。如遇時宜大過,則即為大過之行:果斷有為,強忍有守,而又履中居正,不偏不倚,或危行而言孫,或審勢以達權,亦可亨通無阻,往亦攸利,此因時制宜者也。大過之時亦大矣哉!

多隆阿は曰く、卦体に就いて言えば、四つの陽爻・二つの陰爻で、剛はすでに柔を過ぎ、而して九二・九五の二つの剛爻はまた皆中を得る。さらに卦徳に就いて言えば、内卦は巽で柔順を主り、外卦は兌で和説を主る。だから柔順にして行事し、また和説を以て出づ。もし非に非常の事を為さざるべからざるの時に遇えば、すなわち非常の事を為す。果断にして有為、堅忍にして自守し、同時に中道を踏み立身端正、偏倚せず。あるいは行事峻厲にして言辞は謙遜――すなわち《論語・憲問》の言う「邦道なからざれば、行を危くして言を遜(そん)す」――あるいは形勢を審察して権に達し変に通ず。かくの如くすればもまた亨通して阻礙なく、往きても同様に利あり。これが因時制宜である。大過の当るの時は、義真に大なるかな。

象曰:澤滅木,大過;君子以獨立不懼,遯世無悶。澤水生木,澤至滅木,則是水過於木,大過象也。君子體之,因有大過之行,獨立不懼,出則有為也;遯世無悶,處則有守也。互乾居中象獨立,陽伏陰中象遯。巽下震伏,震之恐懼不見,故曰獨立不懼。兌為說,說則鬱結俱釋,故曰無悶。

《大象伝》に曰く、沢水は木を淹没す、大過なり。君子は以て独立して懼れず、世を遯して悶えず。多隆阿は曰く、沢水はもとより樹木を滋養するも、沢水が漲りて樹木を淹没すれば、すなわち水が木を過ぎるで、まさに大過の象。君子はこの象を体して、こうして非常の行あり。独立して懼れざるは、出仕の時に敢えて作為する、遯世して悶えざるは、退処の時に能く持守あるなり。互体乾は中間に居りて卓然たる独立を象徴し、陽爻が陰爻の中に潜伏するは退隠を象徴す。巽下に伏するは震で、震は恐懼を主り、而して震象は隠没して見えず。だから「独立不惧」。兌は喜悦を主り、一に喜悦すれば種々の鬱結は皆消釈す。だから「無悶」。

初六:藉用白茅,無咎。藉,承藉,猶薦也。白茅,草名。大過之行,最易致咎,倘欲無咎,在乎能慎。初以巽體而居下位,是過於慎者。巽為白茅,茅草至柔,用以為藉,則物之大者於以不損,故無咎。象曰:藉用白茅,柔在下也。柔謂陰,白茅柔物也,在下者,茅在下為藉也。

初六の爻辞:白茅を用いて藉(し)く、咎なし。多隆阿は曰く、「藉」は承墊すなわち鋪墊、「白茅」は草の名。非常の事を為すは最も過咎を招き易く、もし過咎なからんと欲せば、全く一箇の「慎」の字に在り。初六は巽体を以て最下位に居り、謹慎し過ぐる者。巽は白茅に象を取り、茅草は極めて柔軟で、以て墊子と為せば、上に承くる重器は損壊に至らず。だから咎なし。《小象伝》に曰く、白茅を用いて藉くは、柔が下に在ればなり、と。「柔」は陰爻を指し、白茅はまさに柔軟の物。「在下」は、茅を下に鋪きて墊子と為すを言う。

九二:枯楊生稊,老夫得其女妻,無不利。二居巽中,巽為陰木為楊,又為互乾之初,乾為老,楊老則枯。顧楊雖枯,而二居地位,枯楊得土,猶可生稊。稊,木葉初生也。蓋初為本,是木之根,枝幹雖撥,而萌櫱潛發,故曰生稊。

九二の爻辞:枯楊に稊(てい)を生ず、老夫が其の女妻を得、利ならざることなし。多隆阿は曰く、九二は巽体の中に居り、巽は陰木で楊に象を取り、また互体乾の起始で、乾は老に象を取り、楊は老いれば枯る。ただ楊は枯ると雖も、九二は第二爻の地位に居り、枯楊は土に根ざして、なお新芽を発し得。「稊」は樹木の新生の嫩葉。初爻は根本、すなわち樹根。枝幹はすでに倒折するも、根上の萌櫱は暗に生発す。だから「生稊」。

夫木枯可生稊,而人老亦可生子。二為正巽,互乾,乾巽相比,一陰一陽,配為夫妻。然二居初上,二老於初,二又為互乾,乾為老父,即老夫。以互乾之老夫,配此正巽之女妻,是巽女為乾夫得也。顧陰陽相偶,老少殊形,母乃過甚,然猶可生子,猶之枯楊能生稊,蓋無不利也。象曰:老夫女妻,過以相與也。與,予也,言女妻過以予老夫也。

多隆阿は曰く、樹は枯れても芽を生じ、人は老いても子を生じ得。九二は正巽の体に属し、また互乾の中に在り、乾と巽は緊相毗連し、一陰一陽、ちょうど夫妻と配成す。九二は初六の上に在りて初六より年長で、九二はまた互体乾に属し、乾は老父、すなわち「老夫」。互乾の老夫を以てこの正巽の少女を妻と為さしむれば、すなわち巽女が乾夫に娶られたるなり。ただ陰陽は相配すると雖も、老少の形貌は畢竟懸殊にして、未免に過甚なり(「母」はここでは「毋」と同じ)。しかし畢竟なお子を生じ得、枯楊のなお芽を抽ぶが如し。だから「無不利」。《小象伝》に曰く、老夫が女妻を得は、過ぎて相い与すればなり、と。「与」は給与で、この少妻が過ぎて自らを老夫に与えたを言う。

九三:棟橈,凶。三為巽末,巽為木、為長、為高,故象棟。而巽之初為陰柔弱在下,木下弱則曲,故曰棟橈。傳曰:末大必折。此之謂也,故凶。象曰:棟橈之凶,不可以有輔也。輔謂二也,三以二輔,然本既弱,輔愈眾則末愈大,初愈不勝,是不可有也。

九三の爻辞:棟橈る、凶。多隆阿は曰く、九三は巽体の末端に居り、巽は木・長・高なので、屋梁に象を取る。而して巽の初爻は陰柔で、柔弱にして下に在れば、木の下端が弱ければ梁は弯まんとす。だから「棟橈」。《左伝・昭公十一年》に「末大なれば必ず折る」――末梢が大き過ぐれば必ず断折す。まさにこの情形を講ず。だから凶。《小象伝》に曰く、棟橈の凶は、以て輔あるべからざればなり、と。「輔」は九二を指し、九三は九二に依りて輔助せらる。しかし根本はすでに虚弱にして、輔助するが多ければ末梢はいよいよ重く、初六はいよいよ承受し難し。だからこの種の輔助はかえって有るべからず。

九四:棟隆,吉,有它吝。棟居宮室之中,三四陽剛居中,故皆取象於棟。夫三之棟因初柔而橈,四為兌之下,與巽分體,又為陽爻,其本已堅,雖棟與三同,而棟之隆則與三異。隆,豐大也,惟隆故吉。第恐與初相應,是為有它,有它則隆柔在下,隆轉為橈,有吝疵耳。象曰:棟隆之吉,不橈乎下也。不橈乎下,不應初,故不橈也。

九四の爻辞:棟隆(りゅう)とす、吉、它有れば吝。多隆阿は曰く、屋梁は宮室の正中に架し、九三・九四は皆陽剛にして卦体の中に居るので、皆屋梁に象を取る。九三のあの梁は初六の柔弱のために下に弯み、九四は兌体の下端に居りて、すでに巽体と分れ、本身はまた陽爻で、根基はすでに堅実。同じく梁と雖も、「隆」起の様は九三と異なり。「隆」は豊厚高大で、隆起するがためにこそ吉。ただそれと初六と相応ずるを恐る。すなわち「有它」――この層の牽挂あれば、隆起の下に依然柔弱を墊き、隆は転じて弯曲に至らんとし、こうして憾惜あり。《小象伝》に曰く、棟隆の吉は、下に橈れざればなり、と。いわゆる下に橈れざるは、初六に応和せざるを言う。だから弯まず。

九五:枯楊生華,老婦得其士夫,無咎無譽。五為互乾,而下與巽連,巽木承乾,是巽木已老,亦枯楊也。二以在下而得生稊,五以在上而祇生華,巽木之上,兌澤潤之,故象華。二為老夫得其女妻,五為老婦得其士夫。五陽上陰,相配為偶,五為互乾,上為正兌,似女少而男老,然以卦位衡之,兌陰居上,垂暮之地,是兌女已老,謂之老婦。

九五の爻辞:枯楊に華を生ず、老婦が其の士夫を得、咎なし誉なし。多隆阿は曰く、九五は互体乾に属し、下にまた巽と相連す。巽木が乾を承接するは、この巽木がすでに老いたるを説明し、同じく一棵の枯楊。九二は下に在るがために新芽を発し得、九五は上に在るがためにただ華を開くのみ――巽木の上方に兌沢がこれを潤す。だから華に象る。九二は老夫が少妻を娶る、九五は老婦が少夫を嫁ぐ。九五は陽、上六は陰で、両爻は相配して偶を成し、九五は互乾に属し、上六は正兌に属し、見たるは女少なく男老いたるに似る。しかし卦位を以て衡量すれば、兌の陰は最上に居り、あれは日西山に薄るの地で、見るにこの兌女はすでに老いたり。だから「老婦」と称す。

乾陽居五,位在上六之下,故曰士夫。兌陰下乘五陽,是士夫為老婦所得,故曰老婦得其士夫也。當此大過之時,為此大過之事,固無咎,然婦老夫少,終非佳配,猶之枯楊生華,終非壽徵,亦無譽也。象曰:枯楊生華,何可久也;老婦士夫,亦可醜也。老婦士夫,豈有生理?與枯楊生華不能長久正同。釋之曰可丑,與二之無不利異矣。

多隆阿は曰く、乾陽は第五位に居り、位置は上六の下に在り。だから「士夫」と称し、すなわち年少の男子。兌陰は上に在りて九五の陽を凌駕す、これが年少の男子が老婦に得られたるなり。だから「老婦得其士夫」。大過のかくの如き非常の時に処り、かくの如き非常の事を為すは、もとより咎を語るに及ばず。しかし婦老夫少、ついに佳配にあらず、枯楊の華を開くがついに長寿の徴にあらざるが如し。だから誉を語るに及ばず。《小象伝》に曰く、枯楊生華は、何ぞ久しからんや。老婦士夫も亦た丑しとすべし、と。老婦と少夫に豈に生育の理あらん。これは枯楊の華を開くも長久ならざるとまさに同じ。《小象》がこれを「可丑」と断ずるの一句は、九二のあの爻の「無不利」と甚だ異なり。

上六:過涉滅頂,凶,無咎。上為兌澤之終,又為大坎之終,出於互乾之外,乾為首,虞氏曰:乾為頂。是過涉滅頂象也。然以兌說之德而行此大過之事,是卦辭所謂攸往利且亨通者,雖凶無咎。象曰:過涉之凶,不可咎也。蓋建樹大過之事,致死守經,犯難取義,雖罹凶禍,不可以為咎也。

上六の爻辞:渉り過ぎて頂を滅す、凶、咎なし。多隆阿は曰く、上六は兌沢の終点に居り、またあの放大した坎の終点で、互体乾の外に在り。乾は首に象を取り、虞翻は乾は頂であると言い、合せてまさに渉水して頂を没すの象。しかしそれは兌の和説の徳を以てこの非常の事を為すで、すなわち卦辞の言う「攸往利あり且つ亨通」のあのやり方なので、凶あると雖も咎なし。《小象伝》に曰く、過渉の凶は、以て咎とすべからざるなり、と。凡そ非常の事功を建树するは、必死の心を抱て常道を堅守し、危難を犯して道義を成就せんとすれば、たとえ凶禍を罹るも、以てその咎と為すべからず。

坎卦

【坎下坎上,中互艮震】重坎純卦。習坎:有孚,維心亨,行有尚。習,重也,上下皆坎,是坎重也,故曰習坎。坎體中實,故曰有孚。坎為通,又為心志,亨通也,坎之通為心,故曰維心亨。坎為水,又為陷,水陷坎內,則貴能出坎,出坎行也,故曰行有尚。

【此卦の下卦は坎、上卦もまた坎、中間の互体は艮と震、両坎相重の純卦】卦辞:重なる険陷の中に居りても、心に誠信を懐き、ただ内心が亨通すれば、行動は人に推崇せらる。多隆阿は曰く、「習」は重複で、上下皆坎、すなわち坎の重畳なので「習坎」と言う。坎の卦体は中間が実。だから「有孚」――すなわち内裏に誠信あり。坎は通に象を取り、また心志に象を取り、「亨」はすなわち通、坎の通は心に在り。だから「維心亨」。坎は水に象を取り、また陷坑に象を取り、水は坎中に陷り、貴ぶべきは能く走出ること。坎を出でんと欲すれば行動せねばならず。だから「行有尚」。

彖曰:習坎,重險也。水流而不盈,行險而不失其信,維心亨,乃以剛中也;行有尚,往有功也。天險不可升也,地險山川丘陵也,王公設險以守其國,險之時用大矣哉!坎中一陽,外有二陰,則是陽陷險中,陷則險,故坎之德曰險。習坎為重坎,是重險也。坎險如此,人倘以易心處之,一坎未竟,一坎又來,鮮有不為坎所陷者。夫坎雖能陷人,而人亦能濟險,濟險則亨。坎所以亨者,則由於心之有孚,坎為孚,孚即信也。

《彖伝》に曰く、習坎は、重畳の険陷なり。水は流動して盈満せず、険境を行きてその信実を失わず。「維心亨」は、九二・九五の陽剛が中に居ればなり。「行有尚」は、往けばすなわち功を建つるを言う。天の険は高く攀じ難く、地の険は山川丘陵、王公は険阻を設けて其の国を守る。険の時機と功用は大なるかな。多隆阿が解して曰く、坎は中間に一つの陽爻、外に二つの陰爻。これが陽の険中に陷る。一に陷落すればすなわち険と成る。だから坎の徳性を「険」と言う。「習坎」は両坎相重で、すなわち重畳の険。坎険がこの地步に至れば、人がもし軽慢の心を以てこれに対せば、一つの坎を未だ過ぎざるに、もう一つの坎が又来り、坎に陷らざる者は鮮し。坎は人を陷れ得ると雖も、人もまた険難を渡り得、険難を渡れば亨通す。坎の亨し得る所以は、心に「孚」あるによる――坎は孚に象を取り、「孚」はすなわち誠信。

坎又為水,水性主流,水在坎中,盈坎即流,流則不能長盈,其不盈可信也。水流是為水行,行坎是為行險,此坎方盈,又行彼坎,流行如一,不失其常,其行又可信也。人第見行者為險,而不知惟行始可以出險。剛中有出險之才,復以孚信將之。坎為心志,又為通,坎險固不易處,而處險者則心宜常亨。二五剛中,中有互震互艮,震動前往,艮止功成,蓋不可坐困坎中,安於險陷矣。

多隆阿は曰く、坎はまた水に象を取り、水の本性は流動。水は坑中に在りて、灌み満てば流れ出づ、流れば長く盈満せず。その「不盈」は信頼すべし。水が流るるはすなわち水の行、坎坑を走るはすなわち「行険」。この坑がちょうど灌み満つれば、水はまたあの坑に流向け、一路の流行は始終如一で、その常道を失わず。その「行」もまた信頼すべし。人はただ「行」の冒険を見て、ただ行動してこそ険境を走出し得るを知らず。九二・九五は陽剛にして中に居り、出険の才干を具え、また誠信を以てこれを扶持す。坎は心志に象を取り、また通に象を取り。坎険は固より処り易からざるも、険境に処る者は心は常に通泰を保つべし。二・五の両爻は剛にして中に居り、卦中にまた互体震と互体艮あり。震は行動して前往を主り、艮は止息して成功を主る。見るに坐して坎中に困み、険陷に安んずるべからざるを決す。

顧出險固足以見功,而用險又可以守國。五為天位,是為天險;二至四為互震,震足未踰及五,是天險不可升也。二為地位,是為地險;三至五為互艮,高居二上,艮為山、為邱陵,合之正坎之川,是地險山川邱陵也。王公因天地之險以設險阻,然後可以御強敵,陷戎馬,固封疆,國始克守,是為險極乃可以無險也。用險有時,故曰險之時用大也。

多隆阿は曰く、険境を走出るは固より功業を見るに足るも、険阻を善く用うればまた国を守り得。第五爻は天位で、これが「天険」。二爻より四爻に至るは互体震で、震は足に象を取り、この足が未だ第五爻を跨越せざれば、だから天険は高く登り難し。第二爻は地位で、これが「地険」。三爻より五爻に至るは互体艮で、高く二爻の上に圧し、艮は山・丘陵に象を取り、さらに正坎の象する河川を加え、合せてすなわち「地険山川丘陵」。王公は天地の本有の険要を憑じて関防を設け、然る後に強敵を御ぎ、敵騎を陷れ、疆界を鞏固にして、国はこそ守られ。これが険を極処に用いてかえって危険なきを言う。険を用うは時機を見るべし。だから「険之時用大矣哉」。

象曰:水洊至,習坎;君子以常德行,習教事。陸氏曰:洊,再;重習【重習:習重】也。水再至而益通流,不舍晝夜,重習相隨以為常,有似於習,故君子象之,以常習教事,如水不息也。常,坎象。虞氏曰:坎為常行。互震象習,重坎象教者,言教澤之如水以漸深遠也。

《大象伝》に曰く、水は一波接一波に流れ来る、習坎なり。君子は以て徳行を常態と為し、政教の事を反復演習す。陸績を引て曰く、「洊」は再一次で、「習」は重畳(原文は「重習」と作るが校語により乙正して「習重」とすべし)。水は一再に涌到してますます流通して息まず、昼夜を舎てず、重畳相随いて常態と為り、人の温習に似る。だから君子はこれに象り、徳行を常守して輟(や)めず、教事を反復演練して、水の流れ止まざるが如くす。「常」は坎の取象で、虞翻は坎は「常行」と言う。互体震は「習」を象徴し、重畳の坎は「教」を象徴す。教化の恩沢は水の如く、漸次に流れてまた深くまた遠きを言う。

初六:習坎,入于坎窞,凶。坎以二陰陷一陽為義,則陰即坎也。初居重坎之下,故曰習坎。干氏曰:江河淮濟,百川之流行乎地中,水之正也;及其為災,則氾濫平地而入于坎窞,是水失其道也。刑獄之用,必當於理,刑之正也;及其不平,則枉濫無辜,是法失其道也,故曰入于坎窞凶矣。蓋坎水就下,初在下位,下之下也。《說文》曰:坎中更有坎曰窞。故既曰坎又曰窞也。象曰:習坎入坎,失道凶也。陰柔無才,失其出坎之道也。

初六の爻辞:重なる険陷に身を処り、坎底の小穴に墜入る、凶。多隆阿は曰く、坎は二つの陰爻が一つの陽爻を陷れるを義とす。さらば陰爻はその身すなわち坎なり。初六は重坎の最底に居り、だから「習坎」。干宝は曰く、長江・黄河・淮水・済水のこれら百川が大地中に流行するは、水の正道なり。それが災と成るに及びては、平地を漫過して坑穴に灌入る。これは水がその常道を失えるなり。刑罰牢獄の施用は必ず情理に合すべく、これは刑の正道なり。判決が不公に至れば、冤枉して無辜に濫及す。これは法がその常道を失えるなり。だから「入于坎窞」にして凶。坎水の本性は下に就き、初六はまた最下位に在り、下の下である。《説文解字》に曰く、坑中にまた坑あるを「窞」と言う。だからすでに「坎」と言いまた「窞」と言う。《小象伝》に曰く、習坎に入坎るは、道を失いて凶なり、と。初六は陰柔にして才なく、坎坑を走出るの門路を失えり。

九二:坎有險,求小得。二為陽中,似有出險之能,倘有所求,宜或可得。而坎德為窞,初三皆陰,未足為援,上又無應,則有欲出險而仍在險內者,故曰有險。雖陽剛居中,所求有得,然亦小矣。象曰:求小得,未出中也。居內卦之中,故有得;坎以出坎為義,未出中,故所得未大也。

九二の爻辞:坎中になお険あり、求むる所はただ小有得のみ。多隆阿は曰く、九二は陽爻にして中に居り、出険の能力を具うに似て、もし求むる所有れば、もとより得るべし。しかし坎の徳性はすなわち坑穴で、初六・六三は皆陰爻にして、それを援助するに足らず、上の九五はまたそれと応なし。こうして険を出でんと欲するも依然険中に困るの情形あり。だから「有険」。それは陽剛にして中に居り、求むる所にも得あるも、畢竟にして小なり。《小象伝》に曰く、求小得は、未だ坎中を出でざればなり、と。それは内卦の中に居りて得を致す能くすも、坎卦は坎坑を走出るを要義と為すに、それは未だ走出せざれば、得る所は未だ大ならず。

六三:來之坎坎,險且枕,入于窞,勿用。之,往也;枕,安也。三在內卦外卦之界,前往為坎,後來亦為坎,互震為動、為行象來之,是來之坎坎也。進退皆坎,即進退皆險。陰無出險之才,安於坎,互艮為止,故曰枕。不惟安之,且又入之,入於坎且入于窞,入之漸深,不遑出矣,勿用矣。象曰:來之坎坎,終無功也。坎原以陰陷陽為義,究之陰之所陷尤甚於陽。古今小人陷害君子,幾見小人有得吉者?夫子釋之曰無功,所以深戒小人也。

六三の爻辞:来るも坎、去るも坎、険なると同時にただ其中に安卧するのみ、坑底の小穴に墜入りて、作為すべからず。多隆阿は曰く、「之」は前往、「枕」は安卧。六三は内卦と外卦の交界に居り、前に往けば坎、退き帰ればもまた坎。互体震は動・行走を主りて、まさに「来」「之」の二字に合す。だから「来之坎坎」。進退は皆坎、すなわち進退は皆険。陰爻は出険の才干なく、已むなく坎中に安身し、互体艮は静止を主る。だから「枕」。それはただ坎中に安んずるのみならず、かえってさらに裏に陷り、坎に入りまた窞に入り、ますます深く陷り、出づるに及ばず。だから「勿用」。《小象伝》に曰く、来るも去るも坎は、終に功なきなり、と。坎はもとより陰が陽を陷るを義とするも、推究すれば、陰の自身が陷らるるは陽よりもなお甚し。古今、小人が君子を陷害すに、曽て小人がこれによって吉を得しを見んや。孔子がこの一爻を「無功」と解するは、まさに深く小人を誡めるなり。

六四:樽酒簋貳【句】,用缶,納約自牖,終無咎。四為大臣之位,近陽剛之君,前行出坎,可以有為矣。然一坎甫出,一坎又來,尚宜待時,積誠以通之,飲酒以俟之。蓋坎為酒,四在互震互艮之間,震為木、為蒼筤竹,又為仰缶,以震木之樽,副以震竹之簋,納此儉約之物於艮牖之中。虞氏曰:艮為牖。故曰納約自牖也。

六四の爻辞:一樽の酒・二簋の飯、瓦缶を以て盛り、窗口よりこの簡約の礼を献じ入る、終に咎なし。多隆阿は曰く、第四爻は大臣の位で、陽剛の君主に緊挨し、前に一歩すればすなわち坎を出で、作為あり得べし。しかし一つの坎を甫めて出づれば、もう一つの坎が又来り、なお時機を待ちて、誠意を積みて以てこれを打通し、酒を飲みて以て静候すべし。坎は酒に象を取り、六四は互震と互艮の間に居り、震は木・青嫩の竹に象を取り、また口上向の瓦缶に象を取る。震木の製する酒樽を以て、震竹の製する食簋を配し、これらの倹朴の物を艮の象する窗口より献じ入る。虞翻は艮は窗牖に象を取ると言う。だから「納約自牖」。

鄭氏曰:貳,副也,謂樽酒而副以簋也。禮,天子大臣出會諸侯,主國樽棜簋副,設元酒而用缶也,不尚繁文,惟用孚誠以結相見之歡。坎為心志,居六爻之中,陰又得位,此卦辭所云有孚心亨者,處險如此,行宜有尚,故無咎。象曰:樽酒簋貳,剛柔際也。上比五陽為坎酒,下比三陰為震樽簋,故曰剛柔際也。

多隆阿は鄭玄を引て曰く、「貳」は配副で、一樽の酒にさらに食簋を配するを指す。礼制により、天子の大臣が外に出て諸侯と会盟するに、東道を為す国は棜案を以て酒樽を陳設し簋を以て相配し、「元酒」――すなわち清水を以て酒に代う――を設け、器皿はただ瓦缶を用う。繁縟の儀文を講求せず、ただ誠信を憑じて相見の歓好を結ぶ。坎は心志に象を取り、六四はまた六爻の中間に居り、陰爻は陰位に居りて当位す。まさに卦辞の言う「有孚、維心亨」。険境に身を処してかくの如く能くすれば、行動は自ずから推崇に帰す。だから咎なし。《小象伝》に曰く、一樽の酒二簋の飯は、剛柔ここに交接すればなり、と。六四は上に九五の陽に隣近して、あれは坎の象する酒、下に六三の陰に隣近して、あれは震の象する樽と簋。だから剛柔はここに交接すと言う。

九五:坎不盈,祇及平,無咎。祇,適也。五雖居重坎之上,而卦爻未竟,上餘一陰,又為互艮,坎水遇艮,是為止水,乃水不盈坎而適及平坎之時也。坎平漸盈,盈餘則流,此僅及平而尚未盈,是待盈以流行者。二五兩陽得中,二不如五得位,故無咎。象曰:坎不盈,中未大也。坎以出險為有功,而上六在前,尚未出坎,是得中猶未大也。

九五の爻辞:坎坑は未だ灌み満たず、ただ恰も坑口と斉平、咎なし。多隆阿は曰く、「祇」は恰好。九五は重坎の上卦に居ると雖も、六爻は未だ走り尽くさず、上に一つの陰爻を余し、また互体艮なり。坎水が艮に遇えば、すなわち止まりて流れざる水と為る。まさに水が未だ坑を灌み満たさず恰も坑口と斉平の時。坑水は斉平の後に漸く灌み満ち、満溢すれば流れ去るを要す。今はただ斉平にして未満は、灌み満ちて後流行せんを待つの状態。九二・九五の二つの陽爻は皆中に居るも、九二は九五の既中かつ当位するに如かず。だから「無咎」。《小象伝》に曰く、坎水未満は、中に居りて未だ広大ならざればなり、と。坎卦は出険を以て有功と為すに、上六はなお前に横たわり、九五は畢竟未だ坎を走出せず。だから中道を得ると雖も、なお広大を語るに及ばず。

上六:繫用徽纏,寘于叢棘,三歲不得,凶。上亦陰柔無才,失濟涉之道而入于坎窞,如用徽纏繫之,寘之叢棘之中,至於三歲猶不能改過者。繫,拘也;徽纏,繩也。《九家易》曰:坎為叢棘,為法律。鄭氏曰:三五互體艮,又與震同體,艮為門闕,於木為多節,震之所有為叢棘之類,門闕之內有叢棘多節之木,是天子外朝左右九棘之象也。

上六の爻辞:繩索を用いて捆縛し、荆棘叢の中に関して、三年も釈放を得ざる、凶。多隆阿は曰く、上六もまた陰柔にして才なく、険難を渡越するの門路を失いて坎穴に落ち入るは、繩索に捆られて荆棘叢の裏に丢てられ、三年を過ごしてもなお改過し得ざる者の如し。「繋」は拘禁、「徽纆」は繩索。《九家易》は坎は叢棘・法律に象を取ると言う。鄭玄は曰く、三爻より五爻に至るは互体艮で、艮はまた震と同体。艮は門闕に象を取り、木類においては多節の木に属し、震の生ずる所はまさに叢棘の類。門闕の内に多節の荆棘の木が生ずるは、これが天子の外朝の左右に九棘を植うるの象。

外朝者,所以詢事之處也。左嘉石,平罷民焉;右肺石,達窮民焉。罷民,邪惡之民也。上六乘陽,有邪惡之罪,故縛以徽纏,寘于叢棘,而使公卿以下議之。其害人者,置之圜土而施職事焉,以明刑恥之。能復者,上罪三年而赦,中罪二年而赦,下罪一年而赦。不得不自思以得正道,終不自改而出諸圜土者殺,故曰凶。象曰:上六失道,凶三歲也。

多隆阿は鄭玄を接引して曰く、いわゆる「外朝」は、天子が政事を諮詢するの場所。左に嘉石を立てて、以て行い不良の人を教平し、右に肺石を立てて、窮苦にして告ぐる所なき人をしてここに申訴せしむ。「罷民」はすなわち邪悪の民。上六は陰爻を以て九五の陽を凌駕して、邪悪の罪を犯す。だから繩索を以て捆縛し、荆棘叢の中に関して、公卿以下の官員に交えて議処せしむ。その中で人を傷害する者は、「圜土」――すなわち獄城に関して、労役を派して、明白の刑罰を以て恥を知らしむ。悔改し得る者は、重罪は三年を関満して赦免し、中罪は二年にして赦免し、軽罪は一年にして赦免す。犯人は自ら反省して正道に帰るを免れず。終始悔改を肯ぜず、圜土より逐出せられし者は、すなわち処死す。だから「凶」。《小象伝》に曰く、上六が道を失うは、凶は三年に延續す、と。

離卦

【離下離上,中互兌巽】重離純卦。離:利貞亨,畜牝牛吉。上卦下卦皆離,卦仍名離。離利於正,正則亨通。離得坤之中氣,坤為牛,故離亦為牛。《九家易》曰:離為牝牛。是牝牛離象也。牛牲柔,牛至於牝,則性愈順。蓋離象為火,其性燥,失其道則傷害萬物,惟以順行之,則能輔相天地以成生育之功,如畜牝牛則吉矣。

【此卦の下卦は離、上卦もまた離、中間の互体は兌と巽、両離相重の純卦】卦辞:離卦は正を守るに利あって亨通し、牝牛を畜養すれば吉。多隆阿は曰く、上下両卦は皆離なので、整卦はなお「離」と名づく。離は正道を行くに利あり、正なれば亨通す。離は坤の中爻の気を取って成り、坤は牛に象を取る。だから離もまた牛に象を取る。《九家易》は離は牝牛と言う。見るに牝牛はまさに離の象。牛はこの牲畜の本性は柔順で、牛が牝に至れば、性子はいよいよ馴順。離は火に象を取り、火性は燥烈で、一旦その正道を失えば万物を傷害せんとす。ただ柔順を以てこれを行いてこそ、天地を輔相して万物を生養するの功を成し得る――牝牛を畜養するが如くすれば、すなわち吉利。

彖曰:離,麗也。日月麗乎天,百穀草木麗乎土,重明以麗乎正,乃化成天下。柔麗乎中正,故亨,是以畜牝牛吉也。離者,麗也,謂附麗也。一陰麗於二陽之中,離為火,火必有所麗而後生,故離之德曰麗。夫物之有所麗者,不獨火也,即日月麗天,百穀草木麗土,何莫非麗?五為天位,離為日,離下伏坎為月,故曰日月麗乎天。二為地位,是謂之土,二至四為互巽,巽為草木,巽下伏震,震為百穀,故曰百穀草木麗乎土。

《彖伝》に曰く、離はすなわち附丽。日月は天に附丽し、百穀草木は土に附丽す。重畳の光明が正道に附丽してこそ、天下を化育成就し得。柔爻が中正の位に附丽す、だから亨通し、以て牝牛を畜養すれば吉利と言う。多隆阿が解して曰く、「離」はすなわち丽、附依である。一つの陰爻が二つの陽爻の中間に依附し、離は火に象を取り、火は必ず依附する所有りてこそ燃焼し得。だから離の徳性を「丽」と言う。万物の依附する所有るはただ火のみにあらず。日月は天に依附し、百穀草木は土に依附す。何れの一様か依附にあらざらん。第五爻は天位で、離は日に象を取り、離下に伏する坎は月に象を取る。だから「日月麗乎天」。第二爻は地位で、すなわち土。二爻より四爻に至るは互体巽で、巽は草木に象を取り、巽下に伏する震は百穀に象を取る。だから「百穀草木麗乎土」。

離為明,二五為離主爻,俱得正位,上下皆明,故曰重明以麗乎正。人君體離之義,南面而治天下,嚮明化成可期。二五為柔,柔麗於陽,二得正,五亦得中,惟中正故亨也。離之二五為陰,得坤中氣,是謂之牛;離又陰體,是為牝牛。牛本順物,又為牝,則順而且柔。火德雖明,其性過燥,有牝牛之柔順,則得中和,可以生物而不至於傷,用離象者如畜牝牛則吉矣。坎離變對,坎中吉而外凶,蓋坎水外溢則氾濫無歸也;離中凶而外吉,蓋離火外見則光遠有耀也。

多隆阿は曰く、離は光明に象を取り、六二と六五は離の主爻で、皆それぞれ位を得て、上下両体が明なり。だから「重明以麗乎正」。人君が離卦の義を体して、南面して天下を治め、明に向かいて教化を推行すれば、化育の成は期すべし。六二・六五は皆柔爻で、柔は陽に依附し、六二は既中かつ正、六五もまた中に居る。ただ中正なるが故に亨通す。離の二・五の両爻は陰爻で、得るは坤の中気なので「牛」と称し、離は本身また陰卦の体なので「牝牛」。牛はもとより順物で、また牝なれば、柔順の上にさらに柔順を加う。火徳は光明と雖も、性は過ぎて燥烈。牝牛の如き柔順あれば、中和の気を得て、万物を生養して物を傷ぜざるに至る――離象を用うる者が牝牛を畜養するが如くすれば、すなわち吉利。坎と離は正に相変対す。坎は中間が吉にして外が凶、坎水が一に外溢すれば泛濫して帰する所なし。離は中間が凶にして外が吉、離火が一に外に顕れれば光が遠く耀きあり。

象曰:明兩作離,大人以繼明照于四方。鄭氏曰:明兩者,取君明上下以明德相承,且於天下之事無不見也。蓋離為火、為日,故曰明;卦為重離,故曰兩作;上離繼下離,故曰繼明。中互巽兌,離下伏坎,巽東兌西,離南坎北,四方也。

《大象伝》に曰く、明が両たび作(おこ)る、離なり。大人は以て明を継ぎて四方を照す。鄭玄を引て曰く、「明両」は君主の明徳が上下相承するの義を取り、かつ天下の事に見えざるなし。離は火・日に象を取る。だから「明」。此卦は両離相重なり。だから「両作」。上離が下離を承接す。だから「継明」。卦中の互体に巽と兌あり、離下にまた坎が伏す。巽は東、兌は西、離は南、坎は北。これが「四方」。

初九:履錯然,敬之無咎。離為日,離日初見,光采錯然。錯,紛錯也。履地之頃,則已光華發越,如人於踐履之初,禮文秩然也。離火主禮,故云履;離體中虛,故云敬。敬以行禮,則履無失,宜無咎也。象曰:履錯之敬,以辟咎也。內敬則外鮮失,敬以避咎,故無咎。闢、避同。

初九の爻辞:歩みが交錯して甫めて行き起る、心に敬慎を存せば咎なし。多隆阿は曰く、離は日に象を取り、離日が甫めて頭を露せば、光采は紛然と交錯す。「錯」は紛雑交錯。日光が地に落つるの一瞬に、光華はすでに発散し、まさに人が挙歩の初めに、礼節儀文が井然と秩序立つに似る。離火は五常において「礼」を主る。だから「履」――すなわち践行。離の卦体は中間が虚空。だから「敬」――虚心にしてこそ敬。敬の態度を以て礼を行えば、挙止に閃失なし。自ずから咎なし。《小象伝》に曰く、履錯にして能く敬するは、以て咎を辟(さ)くるなり、と。内が敬慎なれば外に失誤少なし。敬を以て咎を避くれば、だから咎なし。「辟」と「避」は同一の字。

六二:黃離,元吉。乾索坤中成離,離得坤氣,坤為黃,故曰黃離。黃為中色,離象得之,居中得正,如日方中,光被四表也,故元吉。象曰:黃離元吉,得中道也。二五俱得中,離為中女,五之陰居陽位,不若二之陰居陰位為得正也。二為卦主,故元吉也。

六二の爻辞:黄色の附丽、大いに吉。多隆阿は曰く、乾が坤の中爻を求索して離と成り、離はこれによって坤気を得た。坤の色は黄。だから「黄離」。黄は五色の中の中央の色で、離象がこれを得、加うるに六二は中に居りかつ当位するは、太陽のまさに中天に在り、光輝が四方に遍く照すに似る。すなわち《尚書・堯典》の言う「光被四表」。だから大いに吉。《小象伝》に曰く、黄離元吉は、中道を得たればなり、と。六二・六五は皆中に居り、離はもとより中女。しかし六五は陰爻を以て陽位に居り、六二の陰爻を以て陰位に居るの中正に如かず。六二は全卦の主爻。だから「元吉」。

九三:日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。三居互巽互兌之間,兌位西,巽為入,日入西隅,則日昃矣。光陰易逝,時不再來,倘不及時為樂,則老耋將至,嗟無及也。耋,八十之稱,三為內卦之終,故云大耋。虞氏曰:巽為號。號呼出於兌口,故云暛。《九家易》曰:鼓缶者以目下視,離為大腹瓦缶之象,謂不取二也。

九三の爻辞:日の昃(そく)る時の附丽。瓦缶を鼓して歌わざれば、すなわち大耋の嗟(し)あり、凶。多隆阿は曰く、九三は互巽と互兌の間に居り、兌の方位は西、巽の徳性は入。太陽が西辺の角落に落ち入れば、すなわち日はすでに昃きたり。光陰は逝き易く、時は再来せず。もし時に及んで楽しまざれば、衰老は将に至らんとし、その時に嘆息するも及ばず。「耋」は八十歳の称で、九三は内卦の終点に居り。だから「大耋」。虞翻は巽は呼号に象を取ると言い、呼号の声は兌口より出づ。だから「嗟」と称す。《九家易》に曰く、瓦缶を鼓する者は目を垂れて下に視る、離は大腹に象を取りてまさに瓦缶の象、これは九三が近き六二を取るを肯ぜざるを言う。

歌者口仰向上,謂兌為口而上取五也。火性炎上,故三欲取五。樂極復悲,不能自主,始則惟知逸豫,任意蹉跎;繼則回思少壯,空負歲月。詩云:少年不努力,老大乃傷悲。此之謂矣。象曰:日昃之離,何可久也。日既西昃,不據二而上取五,歌嗟迭來,日不長昃,人不長耋也。

多隆阿は曰く、歌う者は口を仰げて上に向く。これは兌が口に象を取り、九三が上に向かいて六五を取るを言う。火性は上に燃ゆ。だから九三は六五を取らんと欲す。しかし楽は極に至りてまた悲に転じ、自ら主を為さず。初めはただ安逸享楽を知り、歳月を蹉趺するに任せ、後に少壮の年を回思して、はじめて空しく光陰を孤負せりを覚る。古詩――すなわち漢楽府《長歌行》に曰く、年少の時に努力せざれば、年老大となりて悲傷す。まさにこの種の人を講ず。《小象伝》に曰く、日昃の離は、何ぞ久しからんや、と。太陽はすでに西に昃き、九三は近傍の六二に依拠せずして上に六五を取らんと欲し、こうして歌声と嘆息は迭び来る。太陽は長く昃の時刻に止まらず、人は長く耄耋の年に止まらず。

九四:突如其來如,焚如死如棄如。下離甫終,上離突至,以火繼火,其來突然,故曰突如其來如也。四為互巽,巽為木,木之上下皆火,是木已為火焚。夫火雖附木而生,火亦焚燼而死,至火已死,灰亦勿用,死矣棄矣。焰盛則易燼,灰死不再然,人當思所以防患之道,自處以有餘也。象曰:突如其來如,無所容也。火原附木以容身,至已焚棄,火亦自容無所也。

九四の爻辞:突然として窜り来り、焚燃し、熄滅し、丢弃せらる。多隆阿は曰く、下離が甫めて走り尽くせば、上離は突然と接続し、火を以て火に継ぐ、その来勢は甚だ突兀。だから「突如其来如」。九四は互体巽に属し、巽は木に象を取り、この木の上下は皆火。説明するに木はすでに火に焼かれたり。火は木に依附して生ずると雖も、火もまたついに灰燼と焼けて熄滅す。火がすでに死滅するに至れば、残るの灰もまた用なし。これが「死矣棄矣」。火焰は旺なるほど焼尽し易く、死灰は再燃し得ず。人はまさに患を防ぐの法を思い、自らを処って余裕を留むべし。《小象伝》に曰く、突然として来るは、容るる所なければなり、と。火はもとより木に依附して身を容るるも、木がすでに焚尽して棄てらるるに至れば、火もまた自ら容るる所なし。

六五:出涕沱若,戚嗟若,吉。五為離中,離為目,又為互兌,兌為澤,兌澤之液出於離目,則象涕;下連互巽,巽為號,號呼之聲出於兌口,則象嗟。出涕至於沱若,憂戚至於嗟若,危懼亦云至矣。然日逸樂則德日昏,日事惕厲則德日顯,五之吉,吉以此也。象曰:六五之吉,離王公也。五為君位,安樂以處之則死,憂患以處之則生,五為離中之王公,故有此象。

六五の爻辞:涙は雨の如く流れ下り、憂傷嘆息す、吉。多隆阿は曰く、六五は離体の中に居り、離は目に象を取り、また互体体兌に属し、兌は沢に象を取る。兌沢の水が離の眼より流れ出づれば、すなわち涙の象。下にまた互体巽に連り、巽は呼号に象を取り、呼号の声が兌口より出づれば、すなわち嘆息の象。涙が滂沱の地步に流れ、憂愁が住まず嘆息の地步に至るは、危懼の心がすでに極点に至れるを見るべし。しかし日々に安逸を貪れば徳は日々に昏昧し、日々に警惕して自ら厲すれば徳は日々に顕明す。六五の吉は、まさにここに吉あり。《小象伝》に曰く、六五の吉は、王公の位に附丽すればなり、と。第五爻は君位で、安楽の態度を以てこの位置に処れば亡び、憂患の態度を以てこの位置に処ればこそ存す。まさに《孟子》の言う憂患に生き安楽に死する。六五は離体の中に居るの王公なので、かくの如き象あり。

上九:王用出征,有嘉【句】,折首獲匪其醜,無咎。五為王,上居五上,又為陽剛,宜為王用。離為甲冑、為戈兵,是出征象也。乾索坤中為離,乾首不見,虞氏曰:離為折首。坤為眾象丑,離僅得坤之中,故曰獲匪其醜。上以陽剛之才,居至明之位,出征有功,深可嘉美,僅戮渠魁,不欲獲其餘黨,殲盡丑類,恩威兼用,厥績懋焉,故無咎。象曰:王用出征,以正邦也。

上九の爻辞:君王が彼を用いて出兵征討せしむ、嘉美の功あり、首悪を斬りて、その部衆を獲るにあらず、咎なし。多隆阿は曰く、第五爻は王で、上九は五の上に居り、また陽剛の才。まさに王に用いらるるに宜しき。離は甲冑・戈兵に象を取り、これが出征の象。乾が坤の中爻を求索して離と成れば、乾の象する「首」は見えず。虞翻はこれによって離は「折首」――すなわち斬首に象を取ると言う。坤は衆に象を取り、「丑」はすなわち衆。離はただ坤の中爻を取得して全体にあらず。だから「獲匪其丑」、獲るはあの一大群にあらず。上九は陽剛の才干を以て、極めて明察なる位置に居り、出兵して戦功を建つるは、深く嘉美に値す。ただ首悪を誅殺して、余党を併せ獲り、敵衆を斬尽殺絶せんと欲せず。恩徳と威厳を併用して、功績はこれによって盛大。だから咎なし。《小象伝》に曰く、王が之を用いて出征するは、以て邦国を匡正せんとするなり、と。

易原巻七

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。周易下經(一)。

本巻は慧珠閣の原刻本による。著者は岫巖の人・多隆阿、字は雯溪。以下に解くのは《周易》下経の第一の部分、咸・恒・遯・大壮・晋・明夷の六卦を含む。

咸卦

【艮下兌上,中互巽乾】否:咸為三陰三陽卦,自否來。虞氏曰:坤三至上成女,乾上之三成男。蜀才曰:此本否卦,六三升上,上九降三。咸:享,利貞,取女吉。上經首乾坤者,天地也;下經首咸恆者,夫婦也。天地為物生之始,夫婦為人生之始,夫婦以咸成,故艮兌兩合之卦曰咸。天地在物生之先,故乾坤皆言元;若夫婦亦天地所生之物,在天地生物之後,故惟言亨利貞。取女者,既取者為婦,未取者為女,如體咸義,嘉會合禮,利物和義,貞固幹事,有此三德,取女以成夫婦,則亦吉矣。

【此卦の下卦は艮、上卦は兌、中間の互体は巽と乾】否卦より変ず。咸は三陰三陽の卦に属し、否卦より変化して成る。虞翻は曰く、坤の第三爻が上位に昇りて兌と為る、すなわち少女。乾の上爻が第三位に降りて艮と為る、すなわち少男。蜀才は曰く、此卦は本否卦で、六三が上位に昇り、上九が三位に降りた。卦辞:咸卦、亨通し、貞むに利あり、女を取れば吉。多隆阿は曰く、上経は乾坤を以て頭と為し、講ずるは天地。下経は咸恒を以て頭と為し、講ずるは夫婦。天地は万物の産生の開端、夫婦は人類の繁衍の開端で、夫婦は交感に依りて成る。だから艮兌の両卦相合するの卦を「咸」と言う。天地は万物の産生に先んずる。だから乾坤両卦は皆「元」を講ず。夫婦に至ってもまた天地の生ずる所の物で、天地の生物の後に産生す。だからただ「亨・利・貞」を講ず。いわゆる「取女」は、すでに娶り過門せしは「婦」と言い、未だ娶らざるは「女」と言う。もし咸卦の義を体して、《乾・文言》の言う「嘉会足以合礼、利物足以和義、貞固足以幹事」を為し得て、この三徳を具え、さらに女を娶りて夫婦を成せば、すなわち吉利。

彖曰:咸,感也,柔上而剛下,二氣感應以相與,止而說,男下女,是以亨利貞,取女吉也。天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平,觀其所感,而天地萬物之情可見矣。咸者何?感也。兌為澤,艮為山,山澤以氣相通,而兌為少女,艮為少男,男女以禮相配,是山澤以氣感,男女以禮感,故曰感也。此卦自否來,以坤之三柔往上為兌,是為柔上;以乾之上剛來下為艮,是為剛下。乾坤易為艮兌,父母易為男女,艮止應兌說,是為二氣相與。鄭氏曰:與猶親也。則是感應以正也。

《彖伝》に曰く、咸はすなわち感応。柔爻は上昇し剛爻は下降し、陰陽二気は互相感応して彼此親附す。一方は静止、一方は喜悦、男方は女方の下に屈居す。だから亨通・貞むに利あり、女を取れば吉利。天地は互相感応して万物は化育生長し、聖人は人心を感動して天下は和平。それらの感ずる所の対象を観察すれば、天地万物の実情は皆見るべし。多隆阿が解して曰く、「咸」は何ぞ。すなわち感。兌は沢、艮は山、山と沢は気を以て相通じ、而して兌は少女、艮は少男、男女は礼を以て相配す。見るに山沢は気を以て相感じ、男女は礼を以て相感ず。だから「咸、感也」。此卦は否卦より変ず。坤の第三爻のこの柔爻を上に送りて兌と為す。これが「柔上」。乾の上爻のこの剛爻を下に降りて艮と為す。これが「剛下」。乾坤は艮兌に換り、父母は少男少女に換る。艮の静止と兌の喜悦は彼此呼応す。これが二気相与。鄭玄は曰く、「与」はすなわち親近。これは感応は必ず正を以てすと説明す。

男居女下,是男先於女。禮曰:男子親迎,男先於女,剛柔之義也。則是感應以禮也。正而有禮,此所以亨利貞取女吉也。夫夫婦一小天地也,夫婦以有所感而人道成,猶之天地以有所感而萬物生。是以繼天地之聖人,體咸感之義以感人心,而父子君臣上下皆有禮義以相接,天下和平焉。是天地萬物之情不可見,以有所感而見,有以觀之,其意得矣。

多隆阿は曰く、男方が女方の下に居るは、男方が先に一歩を行く。《礼記・郊特牲》に曰く、男子は自ら迎娶に往き、男は女に先んず。これがまさに剛柔相待の理。見るに感応もまた必ず礼に合すべし。すでに正にしてまた礼あれば、これが卦辞が「亨・利貞・取女吉」を講ずるの縁由。夫婦はもとより一箇の小天地で、夫婦は彼此に感ずる所有るがために人倫の道が成立し得るを、まさに天地が彼此に感ずる所有るがために万物が化生し得るが如し。だから天地の功を継承するの聖人は、咸卦の交感の義を体して人心を感動し、こうして父子・君臣・上下の間は皆礼義を以て相接し、天下はすなわち太平。天地万物の実情はもとより見るべからざるも、「感」あるがために顕現す。ただこの「感」を観察する能くせば、その中の意はまた領会し得。

象曰:山上有澤,咸;君子以虛受人。澤水在下,今有于山上,是山以虛受澤也,故君子體之,亦以虛受人也。蓋卦自否來,以坤之上受乾之上。虞氏曰:坤為虛,乾為人。故曰以虛受人。初六:咸其拇。卦辭以禮感言,故曰吉;爻辭以形感言,故多凶。卦體以人取象,中三陽為身,上陰為口,下二陰則足也。初居下位,以足言之,則為足之大指,是拇也。感僅及拇,所感甚微,然既為所感,則已動而不靜,未能體艮止之義守本位矣。象曰:咸其拇,志在外也。外,四也。

《大象伝》に曰く、山上に沢あり、咸なり。君子は以て虚を以て人を受く。多隆阿は曰く、沢水はもとより低処にあるべきを、今山上に存るは、これは山が自身の空虚を以て沢水を容納す。だから君子はこれに象りて、もまた虚心を以て他人を容納す。此卦は否卦より変じて、坤の上爻を以て乾の上爻を承受す。虞翻は坤は虚に象を取り、乾は人に象を取ると言う。だから「以虚受人」。初六の爻辞:其の拇(ぼ)を感ず。多隆阿は曰く、卦辞は礼を以て相感ずるに就いて言うので「吉」を講じ、爻辞は形体を以て相感ずるに就いて言うので多く「凶」を講ず。卦体は人身に按じて象を取る。中間の三つの陽爻は軀幹、上の陰爻は口、下の二つの陰爻はすなわち足。初六は最下位に居り、足を以て言えばすなわち足の大指、すなわち「拇」。感応はただ足拇指に至るのみ、感ずる所は極めて輕微。しかしすでに感動せられれば、すでに動いて静ならず、艮の静止の義を体して本位を守る能わず。《小象伝》に曰く、其の拇に感ずるは、志はすでに外に向かえばなり、と。「外」は九四を指す。

六二:咸其腓,凶,居吉。拇之上則為腓,腓,足膊也。感漸及上,已至於腓,腓體主動,妄動則凶。然陽動陰靜,二以陰居陰位,又在艮中,體艮止之義以居之則吉矣。象曰:雖凶居吉,順不害也。陰居陰位為順,互巽亦為順,順故不以妄動致害也。

六二の爻辞:其の腓(ひ)に感ず、凶、居れば吉。多隆阿は曰く、足拇指より上ればすなわち腓で、「腓」は小腿上の肌肉。感応は逐次に上りて、すでに小腿に至り、小腿のこの部位は走動を主管し、一に妄動すれば凶。しかし陽は動を主り陰は静を主り、六二は陰爻を以て陰位に居り、また艮体の中に処りて、艮の静止の義を体して安んじて動かざる能くせば、すなわち吉利。《小象伝》に曰く、凶と言うと雖も居れば吉は、柔順なれば害を受けざればなり、と。陰爻が陰位に居るは順で、卦中の互体巽もまた順を主る。順なるが故に、妄動によって禍害を招くことなし。

九三:咸其股,執其隨,往吝。腓之上為股,三為互巽之中,巽又為股,是咸其股也。虞氏曰:巽為隨。三自否之上來,上為正應,本欲往上,而三與二同體,二為三隨,執其隨,三亦不能前往,庶幾無吝疵耳。象曰:咸其股,亦不處也,志在隨人,所執下也。處,止也。二以咸腓不處,三亦以咸股不處。二為三之隨,三居上下卦之間,中心無主而志在所隨之人,二在三下,是所執者在下,三亦由執二而不往也。

九三の爻辞:其の股(こ)に感ず、其の随う所を執りて、往けば吝。多隆阿は曰く、小腿より上れば大腿で、九三は互体巽の中間に居り、巽はまた股に象を取る。だから「咸其股」。虞翻は巽は随从に象を取ると言う。九三はもとより否卦の上九より降り来て、上六はその正応で、もとより上に往かんと欲するも、九三と六二は同じく一体に居り、六二は九三の随从で、それがこの随从を抱きて放さず、すなわち行き成らず。こうしてかえってほぼ憾惜を免れ得。《小象伝》に曰く、其の股に感ずるは、亦た処らざるなり。志は人に随うに在り、執る所は下なり、と。「処」は止まりて動かざる。六二は「咸腓」のために安んずるを肯ぜず、九三もまた「咸股」のために安んずるを肯ぜず。六二は九三の随从で、九三は上下卦の間に夾りて、心中に主見なくして一味に自らの随う所の人を想う。六二は九三の下に在り。だからそれが抱持するは下に在りと言い、九三もまたまさに六二を抱くがために行き成らず。

九四:貞吉,悔亡,憧憧往來,朋從爾思。四之上下皆陽,不為陰感,故貞吉悔亡。而又言思者,以四為心位故也。心有所感而後有思,心之感宜正,惟貞乃吉。倘或不然而往來憧憧,上往為九五所阻,下來為九三所隔,則是從爾思者僅有私朋,豈能遠大?憧憧,意不定貌。思以有所限而狹,何以應天下事也?非感之善者矣。象曰:貞吉悔亡,未感害也;憧憧往來,未光大也。貞吉則無所感害陰也,四之上下皆陽,故曰未感害。憧憧則不能貞矣。

九四の爻辞:貞むれば吉、悔亡ぶ、憧憧(しょうしょう)として往来し、朋は爾の思に従う。多隆阿は曰く、九四の上下は皆陽爻で、陰爻に感ぜられず。だから正を守れば吉、悔恨は消失す。爻辞がまた「思」に講及する所以は、第四爻が心の位置だからである。心は感ずる所有りて後に思あり、心の感応はまさに正に帰すべく、ただ正のみが吉。もし然らずして心思が往来に揺擺すれば、上に往けば九五に阻まれ、下に来れば九三に隔てられ、さらば爾の想法に順从するはただ一小圏の私党のみ。豈に久遠広大たらんや。「憧憧」は心意の揺擺不定の貌。心思は局限を受けて狭窄となれば、また何を以て天下の事に応対せん。これはすなわち感応に善しきにあらず。《小象伝》に曰く、貞吉悔亡は、未だ感害せられざればなり。憧憧往来は、未だ光大ならざればなり、と。正を守れば陰爻の感応の害を受けず、九四の上下は皆陽爻。だから「未感害」。一旦心思が憧憧に揺擺せば、すなわち正を守り得ず。

九五:咸其脢,無悔。脢,脊肉也,脢與心背,心有覺而脢無覺,所感在此,則無憧憧之患,故無悔。象曰:咸其脢,志末也。有感則心有所之矣,末,上也。上六:咸其輔頰舌。上為兌口,故象輔頰舌,口有所感而言出焉。上自否之三來上,原為乾,乾為言,易乾為兌,是以乾言而送諸兌口也。鄭氏曰:咸道極薄,徒送口舌言語相感而已。象曰:咸其輔頰舌,滕口說也。滕,鄭氏、虞氏作媵,注云送也,滕、騰、媵古字通,《燕禮》《大射》媵觚於賓,《楚辭·九歌》魚鱗鱗兮媵予。

九五の爻辞:其の脢(ばい)に感ず、悔なし。多隆阿は曰く、「脢」は脊背上の肉で、それは心と一前一後に正に相背す。心は知覚ありて脢は知覚なし、感ずる所の地方がここに在れば、すなわち心思揺擺不定の毛病なし。だから悔なし。《小象伝》に曰く、其の脢に感ずるは、志はすでに末梢に在ればなり、と。一に感有れば心は奔赴する所有り、「末」は上位を指す。上六の爻辞:其の輔頬舌に感ず。多隆阿は曰く、上六は兌口なので、牙牀・面頬と舌頭に象を取り、口に感ずる所有れば、話はすなわち出づ。上六はもとより否卦の第三爻より昇り来て、その時はもとより乾体に属し、乾は言語に象を取る。今乾は兌に変じて、こうして乾の言語を兌口に送りて発出す。鄭玄は曰く、かくの如き交感の道は最も澆薄にして、不过嘴上に説き、言語を以て相感ずるのみ。《小象伝》に曰く、其の輔頬舌に感ずるは、ただ口頭上に説くのみ、と。「滕」の字は、鄭玄・虞翻は皆「媵」に写作して、注に「送」の意と言う。「滕」「騰」「媵」の三字は古代に通用し、《儀礼・燕礼》《大射礼》に「媵觚于賓」――すなわち酒觚を賓客に送るあり、《楚辞・九歌》に「魚鱗鱗兮媵予」――魚児が群を成して相送するを言う。

恒卦

【巽下震上,中互兌乾】泰:恆為三陽三陰卦,自泰來。荀氏曰:乾氣下終,始復升上居四也;坤氣上終,始復降下居初也。虞氏曰:泰乾初之坤四。蜀才曰:此本泰卦六四降初,初九升四。恆,亨,無咎,利貞,利有攸往。情慾之感,少者為甚,故少男少女兩合之卦曰咸。至於有室有家,已非一日,內外交助,始終無間,則宜歸諸長者,故巽下震上之卦名恆。恆惟亨通乃得無咎;恆又利於貞正,惟正始恆也;恆又利於攸往,攸往利乃亨、無咎也。

【恒卦の下卦は巽、上卦は震、第二爻より四爻に至るは互に兌を成し、第三爻より五爻に至るは互に乾を成す】泰卦より変ず。恒は三陽三陰の卦に属し、荀爽は曰く、泰卦の下乾の気は下に走りて尽頭に至れば便ちに重ねて上昇し、第四爻に居り、上坤の気は上に走りて尽頭に至れば便ちに重ねて下降し、初爻に居る。虞翻は曰く、これは泰卦乾の初九が坤の第四位に換りた。蜀才は曰く、此卦は本泰卦で、六四が初位に降り、初九が四位に昇った。卦辞:恒、亨通し、咎なし、貞むに利あり、攸往するに利あり。多隆阿が解して曰く、情欲の感応は年少を以て最も強烈と為す。だから少男少女の両相配合するの卦を咸と言う。成家立室するに至れば、すなわち一朝一夕の事にあらず、内外は互相扶持し、自始至終に間断なし。これはまさに年長の一輩の身に帰すべく、だから長女の巽が下、長男の震が上の卦を恒と名づく。恒久は必ず亨通してこそ咎なきを得、恒久はまた正道を守持するに利あり、ただ一起頭より正路を行きてこそ恒久を語り得、恒久はまた攸往するに利あり、前往が順利にしてこそ亨通して咎なきを得。

彖曰:恆,久也。剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔皆應,恆。恆亨無咎,利貞,久於其道也。天地之道,恆久而不已也。利有攸往,終則有始也。日月得天而能久照,四時變化而能久成,聖人久於其道而天下化成。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣。恆者何?久也。卦自泰來,以泰之初往上居四,是為剛上;以四之柔下來於初,是為柔下。剛宜升上,柔宜降下,如是則尊卑有序,故能久。剛上則變坤為震,柔下則變乾為巽,震雷巽風,兩相親與,雷起風從,風行雷應,如是則聲氣相通,故能久。且以卦德言之,則為巽順以動;以卦體言之,則又剛柔相應。凡此皆可久之道也,故曰恆久也。

《彖伝》に曰く、恒はすなわち長久。剛爻は上行し柔爻は下降し、雷と風は互相輔助し、柔順にして能く行動し、剛柔は各々その応を得る。これが恒。恒亨通・咎なし・貞むに利あるは、自らの正道を長久堅守する能ければなり。天地運行の道は、すなわち恒久にして息まず。「利有攸往」は、一段の終結がまさに新たなる開始なればなり。日月は天道に依循するが故に能く長久照臨し、四季は更迭変化するが故に能く長久万物を生成し、聖人は其の道を長久堅守して、天下はこれによって教化成ん。一物一事の恒守する所を観察すれば、天地万物の実情はすなわち見るべし。多隆阿が解して曰く、「恒」は何ぞ。すなわち長久。此卦は泰卦より変じて、泰の初九が上に居て第四位に居る。これが「剛上」。もとより第四位の柔爻が下に居て初位に居る。これが「柔下」。剛はもとより上昇すべく、柔はもとより下降すべく、かくの如くすれば尊卑は各々次序あり。だから長久なり得。剛爻が上れば、下坤は変じて震と為り、柔爻が下れば、上乾は変じて巽と為る。震は雷、巽は風、両者は互相親附す。雷は一に響けば風は随いて起り、風は一に行けば雷は応和す。かくの如く声気相通ず。だから長久なり得。さらに卦徳より観れば、柔順にして後に行動、卦体より観れば、六爻はまた剛柔一々相応ず。凡そこれらは皆持久すべきの道なり。だから「恒、久也」。

恆為震巽,長男長女相與為配,固屬常道;而恆由泰來,下升上降,乾天坤地推行不已,夫婦之道即天地之道也,故曰亨、無咎、利貞也。乾坤為天地,亦為終始。虞氏曰:乾為始,坤為終。以泰之乾居坤之初,是坤中有乾,即終則有始,故曰利有攸往也。推之日月之照、四時之成、聖人之治化,無一不要於久,是在觀者得其情矣。

多隆阿が接続して曰く、恒卦は震・巽より組成し、長男と長女は相配して偶を為す。もとより人倫の常道に属す。而して恒はまた泰卦より変じて来て、下爻は上昇し上爻は下降し、乾天坤地は交互に推移して永く停歇せず。見るに丈夫と妻子の相処の道はすなわち天地の道なり。だから卦辞は「亨」「無咎」「利貞」と言う。乾坤はすでに天地を象徴し、また終結と開始を象徴す。虞翻は曰く、乾は始、坤は終。泰卦の乾爻が坤の初位に跑到するは、すなわち坤中に乾を含む、すなわち終結の処は便ちに開始。だから「利有攸往」。これによりて推広すれば、日月の照臨・四時の生成・聖人の治理教化、何れの一様か「久」を要とせざらん。関鍵は観察する者がこの層の実情を体会し得るか否かに在り。

象曰:雷風,恆。君子以立不易方。宋氏曰:雷以動之,風以散之,二者常相薄而為萬物用,故君子象之,立身守節而不易道也。虞氏曰:乾為立,坤為方,變為震巽,中有互乾,乾之立猶見;巽得坤初,震得乾初,以初易初,原位猶存,是不易方也。

《大象伝》に曰く、雷と風相随う、恒なり。君子はこれに象りて、立場を站定して方向を改変せず。宋衷を引て曰く、雷は以て万物を鼓動し、風は以て万物を吹散す、両者は常に相い迫り相い激して万物の用と為る。だから君子はここに象を取りて、立身して節を守りて守る所の道を改変せず。虞翻は則ち卦象より講ず。乾は「立」を表示し、坤は「方」を表示す。泰が恒に変じて後、震・巽と為れるも、三爻より五爻に至るはなお互に乾を成す。見るに「乾之立」はなお在り。巽は坤の初爻を承接し、震は乾の初爻を承接し、初爻を以て初爻を換るは、もとの位置は依然保留せり。これが「不易方」。

初六:浚恆,貞凶,無攸利。浚,古文作浚,深也。人事貴有其漸,以漸而進,乃能由淺及深。初自泰坤之四來居巽初,易坤迷為巽躁,是不為巽之伏而為巽之入也,故曰浚恆。夫恆以持久,必至於浚,而在初即欲浚,則銳進速退,必不能恆,貞固以求之,凶、無攸利矣。象曰:浚恆之凶,始求深也。恆以求之,由漸至深;然始即求深,則必廢於半途而失其恆矣。

初六の爻辞:一上りに深く浚きて恒を求む、固守して往けば凶険あり、好処なし。多隆阿は曰く、「浚」の字は古文は浚に写作して、意は深。人事は循序渐进を貴び、一歩一歩に推進して、こそ浅より深に入り得。初六は泰卦上坤の第四爻より下りて巽の初位を占居し、坤の「迷」を換えて巽の「躁」と為し、こうして巽の「潜伏」の一面を取らずして巽の「深入」の一面を取る。だから「浚恒」。恒久の道は長期の持守を要して、最終に自ずから深処に至る。しかし剛に初位に在りて急ぎて深処に向かいて浚けば、すなわち猛進して速退して、必ず持久し得ず、いよいよ固執してかくの如く求索すれば、いよいよ凶険・好処なし。《小象伝》に曰く、「浚恒」の凶は、一開頭より深を求むればなり、と。恒久の功夫は浅より漸く深に積累して出るに、一上りに深を求めれば、必ず半途に廃し、かえって「恒」を失う。

九二:悔亡。二為陰位,陽剛居之,似有悔;然恆久之道非陰柔所能勝也,故悔亡。象曰:九二悔亡,能久中也。惟剛故悔亡,實惟中故恆久也。九三:不恆其德,或承之羞,貞吝。三居內卦外卦之間,又為巽之終,巽為躁卦,泰乾為德,變為巽之進退不果,故不恆其德也。二、四為陽,三不能比而承之;上為正應,而三為二陽所牽引,又不能應而承之。所承者眾而皆不能相比應,故可羞。德無常而羞亦無常,故云或。人無恆德,至於不知羞所自來,貞守舊轍,吝疵不免矣。象曰:不恆其德,無所容也。羞來無方,無地自容,不恆者宜知所戒矣。

九二の爻辞:悔恨消失す。多隆阿は曰く、第二位はもとより陰位で、陽剛の爻に占据せられ、悔有るべきに似る。しかし恒久の道は陰柔の担当し得る所にあらず。だから悔はかえって消失す。《小象伝》に曰く、九二の悔恨の消失は、能く長久に中を守ればなり、と。光に剛健を憑るはなお悔を去るに足らず、真にそれを恒久ならしむるは「居中」に在り。九三の爻辞:其の徳を恒に保つ能わず、或いは之に羞辱を承けん、固執して往けば必ず憾惜あり。多隆阿は曰く、第三爻は内卦と外卦の交界に居り、また巽卦の最上一爻で、《説卦》は巽を「其究為躁卦」と講ず。泰卦の乾はもとより徳を象徴す、巽に変じて後は進退不定と為る。だから「不恒其徳」。二・四の両爻は皆陽爻で、九三はそれらと親比し得ずして、また仰ぎて承けるのみ。上六はもとよりその正応と雖も、九三は上下二つの陽爻に牽扯せられて、もまた上六と相応じて承接し得ず。承接するの対象は甚だ多しと雖も、一つも真に親比相応する能わず。だから可羞。徳行に常準なく、羞辱もまた来るに定时なし。故に爻辞は一箇の「或」の字を用う。人は一旦恒久の徳行なければ、甚だしきは羞辱が何処より来るかを知らずして、なお固執して老路子を守らんとすれば、すなわち憾惜と瑕疵を免れず。《小象伝》に曰く、其の徳を恒に保つ能わざれば、到る処に容身し得べからず、と。羞辱は来るに方向なくして、人をして地自容する所なからしむ。恒を持たざる者はまさに引て戒と為すべし。

九四:田無禽。四在泰為坤,坤地稱田;今易為震,震為麋鹿,象禽,而居互兌之中,兌為脫,是禽已脫去矣,故曰無禽。欲田而無禽可獲,猶之慾恆而無其道也,雖欲立功無由矣。象曰:久非其位,安得禽也。陽似能恆,而居偏位,故曰久非其位也。

九四の爻辞:打猟するも禽獣を打ち得ず。多隆阿は曰く、第四爻は泰卦において坤に属し、坤は地で田と称し得。今は震に変じて、震は麋鹿を象徴し、まさに禽獣の象で、それはまた互体兌の中間に居り、兌は「脱」の意あり。見るに禽獣はすでに逃脱せり。だから「無禽」。打猟せんと欲するも獲るべき禽なきは、譬うるに恒を以てせんと欲するも恒久の道を找えざるが如く、たとえ一心に功業を建立せんと欲するも下手するに由なし。《小象伝》に曰く、長久に自らの属せざるの位置上に待つは、豈に禽獣を打ち得んや、と。九四は陽爻で、持久の能力あるに似るも、惜しむべし偏にして中ならざるの位置に居る。だから「久非其位」。

六五:恆其德,貞,婦人吉,夫子凶。五為泰坤之中,坤德為順,柔而得中,故恆可守。然五為陽位,以陰居之,婦人陰象,婦德宜柔,故吉;今易為震,震為長男,乃夫子矣,夫子之德宜剛,柔非其類,故凶也。象曰:婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。從一而終,婦人之恆,蓋惟柔故能恆,故以居陰為貞。若夫子則當以義淑身,以義制事,倘為婦惑,優柔不斷,幾見惟婦言是用可以久安而不喪亡者。上六:振恆,凶。振,動也。蓋惟靜則恆,動則不恆。上居震位之終,為動之極,失恆道矣,故凶。象曰:振恆在上,大無功也。

六五の爻辞:其の徳を長久保持し、正を守る。婦人に対しては吉、男子に対しては凶。多隆阿は曰く、第五爻はもとより泰卦上坤の中位で、坤徳は順、柔にして中に居る。だからこの份の恒久は守り得。しかし第五位は陽位で、陰爻に占据せらる。婦人は陰象に属し、婦徳はもとより柔順なるべし。だから吉。今この位は震に変じて、震は長男。あれはすなわち「夫子」――成年の男子、男子の徳はもとより剛健なるべく、一味に柔順はその有すべきの品類にあらず。だから凶。《小象伝》に曰く、婦人が貞を守りて吉は、終身に一人に従えばなり。男子はまさに道義に按じて事情を裁断すべく、婦人に跟いて行けば凶なり、と。終身に一に従うは、婦人の恒で、まさに柔順なるが故に能く恒なり。故に陰位に居るを以て正と為す。男子に至っては、すなわち道義を以て自身を修養し道義を以て事務を処断すべく、もし婦人に惑わされて優柔寡断せば、試問、一切に婦人の話を聴用してなお長久安穏して敗亡に至らざるを何れに見んや。上六の爻辞:振動已まずして恒を求む、凶。多隆阿は曰く、「振」はすなわち動。ただ静定してこそ恒久なり得、一に動けばすなわち恒久なり得ず。上六は震卦の最上一爻に居り、「動」が極点に至るの地方で、すでに恒久の道を失えり。だから凶。《小象伝》に曰く、振動して恒を求めかつ最上の位に居るは、終に大なる功效なからん、と。

遯卦

【艮下乾上,中互乾巽】陰息陽消卦。此卦為巽變體,重畫巽象,巽伏也,亦有遯藏之義。遯,亨,小利貞。艮下乾上之卦,上有四陽,下來二陰,有遯象焉,故名遯。鄭氏曰:遯,逃去之名。艮為門闕,乾有健德,互體有巽,巽為進退,君子出門行有進退,逃去之象。遯其所宜遯,故亨;君子尚有可遯之時,故小利貞也。

【遯卦の下卦は艮、上卦は乾、中間の互体は乾と巽を含む】これは陰気が漸く長じ陽気が漸く消ゆるの卦。此卦は巽の変体で、巽の卦象を重畳に画き出すに等しく、巽は「潜伏」の義あり。だから退避隠蔵の意を含む。卦辞:遯、亨通、小なる者は貞に利あり。多隆阿は曰く、艮下乾上の卦は、上に四つの陽爻あり、下に新しく二つの陰爻が来て、陽が陰を退避するの象あり。だから遯と名づく。鄭玄は曰く、「遯」は逃去の名称、艮は門闕を象徴し、乾は健行の徳を具え、互体にまた巽あり、巽は進退不定を表示す。君子が門を出でて行くに行動上に進退あるは、まさに逃去の象。退避すべきの時に退避すれば、だから亨通。君子はこの時に猶お从容退避の時機あれば、だから「小利貞」。

彖曰:遯亨,遯而亨也。剛當位而應,與時行也。小利貞,浸而長也。遯之時義大矣哉!遯何以曰亨也?以陰陽畫數較之,四陽二陰,陽似無避陰之義;不知陰雖少而在內,陽雖多則在外,在內則日長,在外則日消,陰長陽消,是四陽宜避二陰也,故惟遯乃亨也。蓋遯為六月卦,陰氣尚微,陽雖在外,而五當位以與二應,陰猶不敢顯與陽敵,故陽得以因時行遯,亨通守正也。利雲小者,祇是較之三陰前進為否不利,君子貞則此時尚利耳。夫遯有時義,惟知幾者能得其時,惟守正者能得其義,故曰大也。

《彖伝》に曰く、遯の亨通する所以は、退避してこそ亨通を得ればなり。九五の剛爻は正位に居りて六二と相応ずるは、時勢に順応して行えばなり。「小利貞」は、陰気がまさに一点々々滋長せばなり。遯卦の含むの時機と意義は、真に重大なるかな。多隆阿が追問して曰く、遯は何を憑じて「亨」と言うや。単に陰陽爻の数目を以て比すれば、四陽は二陰に対して、陽は陰を躲避するの理なきに似る。知らず、陰は少なしと雖も内卦に在り、陽は多しと雖も外卦に在り、内に在るは一日々々生長し、外に在るは一日々々消退す。陰長陽消なれば、だから四つの陽爻は理応二つの陰爻を回避すべく、ただ退避してこそ亨通し得。遯は十二消息卦中の六月の卦で、この時陰気はなお微弱、陽は外に在ると雖も、九五は正位に居りてまた六二と相応じ、陰はなお公に陽と敵すること敢えせず。だから陽は時勢に順いて从容と退避し得て、すでに亨通しまた正道を守り得。なぜ「小」利貞と言うかは、ただ相対的に言うまで。陰の長じて三爻に至ればすなわち否卦と成り、その時は君子は守正すらも利ならず、眼下は総じてまだ利あるのみ。退避にはその時機と義理あり、ただ幾微を察知し得る者のみが時機を抓え得、ただ正を守り得る者のみが義理を把握し得。だから《彖伝》がこれを「大」と賛す。

象曰:天下有山,遯。君子以遠小人,不惡而嚴。山在天之下,天與山遠,遯象也。虞氏曰:乾為遠、為嚴,陰為小人,坤為惡。乾在外,故云遠小人;陰息至二,坤象未全,故云不惡。蓋君子於小人,惡之恐激而成亂,不嚴恐和而致流。

《大象伝》に曰く、天下に山あり、遯なり。君子はこれに象りて小人を疏远し、憎悪を表現せずして自ら威厳あり。多隆阿は曰く、山は天の下に在り、天と山は相隔りて遥遠なり。まさに退避の象。虞翻は卦象より講じて曰く、乾は「遠」を表示しまた「厳」を表示し、陰爻は小人を表示し、坤は「悪」を表示す。乾は外卦に在り。だから「遠小人」。陰気は才に第二爻に生長して、坤の卦象は未だ湊斉せず。だから「不悪」。君子の小人に対するは、一旦憎悪を流露せば、禍乱を激出せんを恐れ、一旦威厳を毫もなければ、過ぎて随和して同汚に流るるを恐る。

初六:遯尾,厲,勿用有攸往。陰為小人,陽為君子。陽在下則欲其進,陰在下則恐其往,此消息卦例也。上乾為首,艮初之下為尾。虞氏曰:艮為尾。當遯之尾,則即曰厲,而即戒以勿往;蓋勿往則猶不至逼陽,君子尚可少安於遯時耳。象曰:遯尾之厲,不往何災也。言不前往,何至災陽也。

初六の爻辞:退避して尾巴の位置に至る、危険、前往するに宜しからず。多隆阿は曰く、陰爻は小人を代表し、陽爻は君子を代表す。陽爻が下に在ればその上進を望み、陰爻が下に在ればその前に走るを怕る。これは消息卦の通行の解法。上卦乾は最前に在りて頭に譬え、艮の初爻は最後に在りて尾に譬う。虞翻は艮は尾を象徴すと言う。退避の一事の尾端に処れば、すなわち危険と言い、随いて前進せざるを告誡す。前進せざれば、すなわちなお陽爻を逼迫するに至らず、君子は退避の時に猶お稍々安身し得。《小象伝》に曰く、「遯尾」の危険は、ただ前進せざれば、何ぞ災禍あらんや、と。これは初六が前に往かざれば、怎にして陽爻に危害し得んやを言う。

六二:執之用黃牛之革,莫之勝說。二則陰少前進矣,於此以艮手執之,而又用牛革以固之,使之不克勝而脫去。王氏曰:說,解說也。蓋陰不再進,陽猶可少安,而遯不速也。坤為牛、為黃,陰再息則坤象見,二陰得坤體之半,故曰革。牛革,物之至堅韌者,用之以執二陰,聖人扶陽抑陰之意亦至矣。象曰:執用黃牛,固志也。固陰之志,不欲其前往,變艮為坤也。

六二の爻辞:黄牛皮の製する繩索を以てこれを捆り、何人も解脱し開く能わず。多隆阿は曰く、第二爻に至れば、陰気はすでに稍々前に推進した。こうして艮の象する手を以てこれを抓住し、また牛皮を用いてこれを捆牢して、それをして挣脱・逃掉し克わざらしむ。王弼は曰く、「説」はすなわち解脱。陰が再び前進せざれば、陽はなお稍々安寧を得、退避もまた必ずしも急迫にあらず。坤は牛を象徴し、また黄色を象徴す。陰気がさらに一爻長ずれば、坤の卦象は完整に顕現す。今二つの陰爻はただ坤体の一半を占る。だからただ「革」――すなわち牛皮を以て象と為す。牛皮は物中の最も堅韌なる者で、以て二つの陰爻を捆るは、聖人の陽を扶助し陰を抑制するの用意はまた極処に至れり。《小象伝》に曰く、黄牛を用いて執るは、其の心志を堅定せんとするなり、と。いわゆる「固志」は、陰爻の心志を穏住して、それをして継続前進せしめず、すなわち艮をして坤に変ぜしめざるを言う。

九三:係遯,有疾厲,畜臣妾吉。三居艮末、互巽之中,是欲遯而為二陰所繫者。巽為繩,為進退不果,故云繫。陰前侵陽,為陽之疾。夫遯以繫而至有疾,危厲可知。臣妾,陰象,而艮又為閽寺,為臣;艮下伏兌,為妾。三以一陽畜養二陰,不惡而嚴,寬以包容之,不至激成亂階,亦云吉矣,此以不遯為遯者。象曰:係遯之厲,有疾憊也;畜臣妾吉,不可大事也。憊,困也。不可大事,言宜因事行權,使小人不為亂以害君子耳。

九三の爻辞:牽繋せられたるの退避、疾患の危険あり、臣僕侍妾を畜養するに用いて吉。多隆阿は曰く、九三は艮卦の最上一爻に居り、また互体巽の中間に在りて、まさに退避せんと欲するも二つの陰爻に牽住せられたる者。巽は繩索を象徴し、また進退不果を象徴す。だから「繋」。陰爻が前に侵逼して陽爻に及ぶは、すなわち陽の疾患と為る。退避して牽繋せられて疾患を生ずるの地步に至れば、危険は知るべし。「臣妾」は陰の象で、艮はまた門を守るの閽人寺人を象徴して臣の一類に属し、艮の下に潜伏する兌は、兌は少女で妾の一類に属す。九三は一つの陽爻を以て二つの陰爻を畜養し、「不悪而厳」を為し得て、寛厚にそれらを包容し、禍乱の由頭を激出するに至らず。これもまた吉と言うべし。これは「不退避」の方式を以て退避を完成する者。《小象伝》に曰く、「繋遯」の危険は、疾患ありて困頓するに在り。「畜臣妾吉」は、大事を承担すべからざるを言う、と。「憊」はすなわち困頓で、「不可大事」は、この時はただ事に就いて論じ権に通達して、小人をして乱を為して君子を危害せしめざらんのみを言う。

九四:好遯,君子吉,小人否。遯之為義,利於遠者,故內卦以繫戀多危,外卦以寬裕得吉。四雖應初,而已在外,是遯之好者。虞氏曰:乾為好。夫君子之遯,原非得已,由於運會將否,乃始退避而去。蓋陰再進則卦為否,故曰否。觀其甘心隱淪,似否在君子;不知國喪邦亡,小人咸罹奇禍,君子轉得自全,是君子因遯而吉,小人乃以身當否。小人勿以君子之遯而遽意得也。明著戒辭,抑陰之旨見矣。象曰:君子好遯,小人否也。

九四の爻辞:美しき退避、君子は吉利、小人は閉塞して通ぜず。多隆阿は曰く、退避の要義は走ること遠きに在り。だから内卦の三爻は牽恋して舎てざるがために危険多く、外卦の三爻は寛舒して余裕あるがために吉を得。九四は初六と相応ずると雖も、身はすでに外卦に在り、退避し得るの好なる者に属す。虞翻は乾は「好」を象徴すと言う。君子の退避はもとより已むを得ざるに出づ、時運が将に閉塞せんとするが故に、こそ身を動して避去す。陰気がさらに一爻前進せば、卦はすなわち否と為る。だから爻辞は「否」と言う。表面に観れば君子は甘心して隠没するは、「否」が君子の身に落ちるに似る。知らず、一旦国破れ邦亡ぶれば、小人は個々に奇禍を遭いて、君子はかえって自らを保全し得――見るに君子は退避によって吉を得、小人はこそ真に身を以てあの「否」を承当す。小人は君子が退避するがために急ぎて意を得る勿れ。爻辞は警戒の意を明白に写し出して、陰柔を抑制するの宗旨はすなわち顕現せり。《小象伝》に曰く、君子は退避し得るの好なるに、小人は閉塞して通ぜず、と。

九五:嘉遯,貞吉。五為君位,而易因卦取象,君無遯義,故亦以遯者言之。居中得正,陽剛有守,此遯之嘉美者。乾為嘉,故曰嘉遯。雖下與二應,而已處三四之外,故吉。象曰:嘉遯貞吉,以正志也。二以陰柔,故志曰固;五為陽剛,故志曰正。固志者,有執之者也;正志者,不宜繫於二也。上九:肥遯,無不利。肥,饒裕也。虞氏曰:乾盈為肥。二陰不及上,故上得肥遯,無不利。象曰:肥遯無不利,無所疑也。卦為兼畫之巽,巽為疑。上居二應之外,則遯愈遠,故無疑而裕於遯也。

九五の爻辞:美善なるの退避、正を守りて吉を得。多隆阿は曰く、第五爻は君位と雖も、《周易》は卦に随いて象を取るもので、君主はもとより退避の義なし。だからここもまたこれを退避する人として論ず。九五は中に居りて正を得、陽剛にして操守あり。これは退避の裏に最も美善なる一種。乾は「嘉」を象徴す。だから「嘉遯」。それは下に六二と相応ずると雖も、自身はすでに三・四の両爻の外に居り。だから吉。《小象伝》に曰く、「嘉遯貞吉」は、心志を端正せばなり、と。六二は陰柔なので、その志を「固」と講ずるは人に穏住せられたるを言い、九五は陽剛なので、その志を「正」と講ず。いわゆる「固志」は人にそれを捆住せられし者、いわゆる「正志」は自らが六二に牽繋せらるべからざるを言う。上九の爻辞:寛綽にして从容たるの退避、不利なし。「肥」は豊饒寛裕の意。虞翻は曰く、乾気が充盈すればすなわち「肥」。二つの陰爻はなお上爻に及ばざれば、だから上九は能く寛綽に退避して不利なし。《小象伝》に曰く、「肥遯無不利」は、心中に疑慮なければなり、と。此卦は巽の卦画を重畳して成る、巽は疑を象徴す。上九は初と四・二と五のこの両組の相応関係の外に居り、退避することいよいよ遠し。だから疑慮なくして退避に从容余裕あり。

大壮卦

【乾下震上,中互兌乾】陽息陰消卦。此卦為兌變體,重畫兌象,兌為羊,故三四五上爻辭皆言羊。大壯,利貞。陽為大,陽生過中曰壯,故乾下震上之卦曰大壯。鄭氏曰:壯,氣力浸強之名。陽剛既強,即宜因強以前往,不宜退縮以居後,故利貞也。

【大壮卦の下卦は乾、上卦は震、中間の互体は兌と乾を含む】これは陽気が漸く長じ陰気が漸く消ゆるの卦。此卦は兌の変体で、兌の卦象を重畳に画き出すに等しく、兌は羊を象徴す。だから三・四・五・上の四爻の爻辞は皆羊に及ぶ。卦辞:大壮、貞むに利あり。多隆阿は曰く、陽は「大」と称し、陽気の生長が半を過ぎればすなわち「壮」と言う。だから下乾上震の卦を大壮と言う。鄭玄は曰く、「壮」は気力の逐漸強盛なるの名称。陽剛はすでに強盛なれば、すなわち強盛に因りて前に推進すべく、退縮して後に居るべからず。だから「利貞」。

彖曰:大壯,大者壯也。剛以動,故壯。大壯利貞,大者正也。正大而天地之情可見矣。卦何以曰大壯也?蓋此卦下有四陽,上僅二陰,是陽多於陰,而陽在內又有日長之幾,日長則力日強,故壯。夫陽大陰小,所云大者,由於陽盛。且乾德為剛,震德為動,剛以動,陰消可以立待,故曰大壯也。而又云利貞者,謂陽得正也。蓋大壯為二月卦,天地至此,萬物滋生,較之一陽初息僅見天心、二陽上息僅見天命,其象懸殊矣。見天心則祇有其機,見天命而尚隱其跡,至於見天地之情,而品物流形,各正性命,乾道之變化顯著於外,故曰利貞也。

《彖伝》に曰く、大壮は、「大」なる者の強壮なり。剛健にして能く動く、だから強壮。「大壮利貞」は、「大」なる者が端正なるべきを言う。端正にして盛大なれば、天地の実情はすなわち見るべし。多隆阿が追問して曰く、此卦はなぜ大壮と言うや。下に四つの陽爻ありて、上にただ二つの陰爻のみ、陽は陰に多く、而して陽はまた内卦に在りて一日々々生長の勢頭を含む。一日々々生長すれば力量は一日々々増強す。だから「壮」。陽は大・陰は小と為して、いわゆる「大者」は、まさに陽気の盛なるが故。さらに乾徳は剛、震徳は動で、剛健にして能く行動すれば、陰気の消退は指して日を待つべし。だから大壮。なぜまた「利貞」と言うかは、陽爻がその正を得るを言う。大壮は十二消息卦中の二月の卦で、天地がこの時に至れば万物は滋生す。復卦の一陽初生してただ「天心」を見るを得、臨卦の二陽上長してただ「天命」を見るを得と較ぶれば、気象はすでに甚だ相違す。天心を見るはただ一点の生機を見るのみ、天命を見るもなお形跡を隠蔵す。見るに「天地之情」を見るに至れば、万物は成形流布して各々其の性命を端正にし、乾道の変化は顕豁に外に表現せり。だから「利貞」。

象曰:雷在天上,大壯。君子以非禮弗履。雷出於地而升於天,大壯象也。卦丁二月,乾為四月,丁夏令,夏令屬火,於德為禮,震足履乾,故曰非禮弗履也。初九:壯于趾,征凶,有孚。此為陽息卦,乾消坤也。初消一陰,下猶為震;今陽息已至四,四亦為震。震足稱趾,是欲因壯趾前征焉。夫陽在下不宜妄往,倘以乾健行之則凶。陽剛內實,是為有孚。有孚鮮濟,於以【脫見字】壯之不可恃也。象曰:壯于趾,其孚窮也。初與四兩陽不應,有孚無應者,前征則所失大矣。

《大象伝》に曰く、雷は天上に響く、大壮なり。君子はこれに象りて、礼に合せざるの事は決して為さず。多隆阿は曰く、雷はもとより地下より発して天上に昇る。まさに大壮の象。此卦は二月に当り、乾は四月に当り、四月は夏令に属し、夏令は五行において火に属し、五常の徳においてはすなわち「礼」。震は足を象徴し、足は乾の上に踏む。だから「非礼弗履」。初九の爻辞:足趾に強壮を表現し、出征すれば凶、心に誠信あり。多隆阿は曰く、これは陽気生長の卦で、乾は坤を消去す。初爻が一つの陰を消掉すに、下卦ははじめはなお震。今陽はすでに第四爻に長じて、第四爻の処もまた震と為る。震は足を象徴し、足の前端はすなわち趾。見るにそれは足趾の強壮に憑りて前に進まんと欲す。陽爻が最下に居りて軽挙妄動すべからざるに、もし乾の剛健を以て硬闖すれば、すなわち凶。陽剛にして内裏充実す。これが「有孚」。しかし光に誠信のみは鮮く事を成し得、これによりて(原刻ここに一「見」の字を脱す)見るべし強壮は恃み難きを。《小象伝》に曰く、「壮于趾」は、その孚はすでに窮尽の処に至れり、と。初九と九四は皆陽爻で、彼此相応ぜず。誠信ありて応ずる人なきに、なお前に衝かんと欲せば、損失はすなわち大なり。

九二:貞吉。卦義在陽上息,權歸於四,下三爻皆宜靜守。初以偏位壯趾,故凶;二以得中守正,則吉。象曰:九二貞吉,以中也。九三:小人用壯,君子用罔,貞厲。羝羊觸藩,羸其角。三為乾終,又居陽位,此壯之極者,欲用壯矣。京氏曰:壯一也,小人用之,君子有而不用。小人尚力,故用壯前往,強暴以陵人;若君子則以養氣為剛,以守道為勇,不以用壯為能也。罔,無也。倘以壯為可恃,不以君子為法而惟小人是效,雖正亦危。蓋三至五為互兌卦象,又為兼畫之兌,兌為羊,以乾剛成兌則為羝,羝,牡羊也。上震為蒼筤竹、為萑葦,象藩。羊用壯觸藩,必羸其角。鄭氏、虞氏作累,綴繫也。是用壯者轉失其壯,壯固不可妄用矣。象曰:小人用壯,君子罔也。

九二の爻辞:正を守りて吉を得。多隆阿は曰く、此卦の卦義は陽気が上に生長するに在り、主導権は第四爻に帰し、下の三爻は皆安静に守持すべし。初九は偏にして中ならざるの位に居るがために、足趾に憑りて強を逞しゅうす。だから凶。九二は中に居りて正を守る。だから吉。《小象伝》に曰く、九二が貞を守りて吉は、中に居ればなり、と。九三の爻辞:小人は強壮を使用し、君子はかえって用いず。固執して往けば危険あり。公羊が籬笆を觝きて、角を纏住せられたり。多隆阿は曰く、九三は乾卦の最上一爻で、また陽位に居り、強壮が極点に至るの地方で、躍躍として強を用いんと欲す。京房は曰く、強壮の本身は同一の回事で、小人はこれを拿来して用い、君子は有して用いず。小人は気力を崇尚す。だから強に恃みて前進して、暴力を以て人を欺凌す。君子に至っては、すなわち正気を涵養するを以て剛と為し、道義を堅守するを以て勇と為して、強を逞しゅうするを以て本事と為さず。「罔」はすなわち無。もし強壮は倚仗すべしと以為して、君子に効法せずして専ら小人に学ばば、たとえ自身は正を守るも依然危険。三爻より五爻に至るは互に兌を成し、此卦全体はまた兌の重画の象で、兌は羊を象徴し、乾の剛健より凑成せし兌はすなわち「羝」、羝はすなわち公羊。上卦震は青嫩の竹子和蘆葦を象徴して、まさに籬笆に似る。羊が強を逞しゅうして籬笆を觝けば、必ず角を纏住せらる。「羸」の字は鄭玄・虞翻は「累」に写作して、纏繞繫住の意。見るに強を逞しゅうする者はかえって自らの強壮を丟掉す。強壮はもとより乱用すべからざるなり。《小象伝》に曰く、小人は強壮を使用し、君子はかくの如く為さず、と。

九四:貞吉,悔亡,藩決不羸,壯于大輿之輹。此為陽息陰消卦,陽息至四,則陽不宜中止,是宜前往以消陰也,故勸之進曰:貞吉矣,悔亡矣,不必鑑三之羝羸其角也。震雖為藩,前當互兌之口,兌為毀折,是藩已決。且坤為大輿,輹,車軸縛也,坤索乾之一陽為震,是輿已有輹。大輿有輹,則輿倍壯,恃此以往,無所阻矣。象曰:藩決不羸,尚往也。

九四の爻辞:正を守りて吉を得、悔恨は消失す。籬笆はすでに撞開せられて、角は再び纏住せられず、強壮は大車の車軸縛に表現せり。多隆阿は曰く、これは陽長陰消の卦で、陽気が第四爻に長ずれば、すなわち半途に停下すべからず、まさに継続前進して陰を消掉すべし。だから爻辞はそれに前進を勧めて曰く、正を守ればすなわち吉、悔恨はすなわち消失す、必ずしも九三の公羊の角が纏住せられたるの教訓を以て顧忌と為すに及ばず。震は籬笆を象徴すと雖も、その前は正に互体兌の口に対し、兌は毀折の義あり。見るに籬笆はすでに撞開せられたり。さらに坤は大車を象徴し、「輹」は車」は車軸を綁くの皮件。坤が乾に向かいて一つの陽爻を求めて震と為るは、見るに車子はすでに輹を装上せり。大車に輹を装せば、堅固の程度は加倍して、これに憑じて前に往けば、何らの阻碍もなし。《小象伝》に曰く、籬笆を撞開し角を纏住せられざるは、なお継続前進すべきを言う、と。

六五:喪羊于易,無悔。五體互兌,陽剛前進,六易為九,喪此羊于易移也。五羊宜喪,故無悔。象曰:喪羊于易,位不當也。言五為陽位,不當以陰居之。上六:羝羊觸藩,不能退,不能遂,無攸利,艱則吉。卦體為大兌,居於震上,是亦一羝羊也。震為決躁,為竹葦,是亦觸藩也。而位居於上,欲退則眾陽在後,欲遂則前無可往,故無攸利。惟不妄動,艱以自守,以待陽息,則吉也。象曰:不能退,不能遂,不詳也;艱則吉,咎不長也。震動至上,不自詳慎,故進退俱無所利;惟艱以待之,陽自上進,故咎不長有也。

六五の爻辞:変易の中に在りて羊を丢失す、悔恨なし。多隆阿は曰く、第五爻は互体兌の中に居り、陽剛はまさに前に推進して、六五を九五に換えれば、この「羊」はすなわち爻位の変易遷移の中に在りて丢失せられたり。第五位上のこの羊はもとより丢るべし。だから悔恨なし。《小象伝》に曰く、変易の中に羊を丢るは、位置の恰当ならざるが故、と。これは第五位は陽位にして、陰爻に来りて占るべからざるを言う。上六の爻辞:公羊が籬笆を觝きて、退き帰る能わず、衝き過ぐるも能わず、好処なし。艱難の処境にして自守し得れば吉。多隆阿は曰く、此卦全体は一箇の放大した兌で、今震の上に居るは、あれもまた一隻の公羊。震は決断躁動の義ありて、また竹子蘆葦を象徴す。あれもまた籬笆を觝くなり。而してそれは位は最上に居りて、退かんと欲すれば後に一群の陽爻あり、衝かんと欲すれば前に走るべきの路なし。だから「無攸利」。ただ軽挙妄動せず、艱難の中に自守して、陽気の継続生長を俟てば、こそ吉。《小象伝》に曰く、退き帰る能わず衝き過ぐる能わざるは、曽て審慎ならざればなり。艱難に自守して吉は、過咎の長久ならざればなり、と。震の躁動が最上の一爻に至りて、自ら審慎せず。だから進退は皆好処を得ず。ただ艱難を守りて等待してこそ、陽気は自ずから一路上進す。だから過咎は長久に存在せず。

晋卦

【坤下離上,中互坎艮】觀:晉為四陰二陽卦,自觀來。虞氏曰:觀四之五。蜀才曰:此本觀卦九五降四,六四升五。晉,康侯用錫馬蕃庶,晝日三接。坤下離上,離日上坤地,有晉象焉,故卦名晉。晉,日出上進也。離日又象君,坤為臣,象侯。以卦體卦象觀之,有人臣荷君之寵,錫予眾多,日見親禮之象。

【晋卦の下卦は坤、上卦は離、中間の互体は坎と艮を含む】観卦より変ず。晋は四陰二陽の卦に属し、虞翻は観卦の第四爻が第五位に上ると言い、蜀才は此卦は本観卦で、九五が四位に降り六四が五位に昇ったと言う。卦辞:晋、安国の侯は君王の賞賜せるの大批の馬匹を得、一日の内に三たび接見を受く。多隆阿は曰く、下坤上離、離の太陽は坤の大地の上に昇るは、上進の象あり。だから卦名を晋と言う。「晋」はすなわち太陽が升りて上に前進す。離の太陽はまた君主を象徴し、坤は臣を象徴し、また諸侯を象徴す。卦体卦象より観れば、まさに人臣が君恩を蒙受し、賞賜は众多にして、一日々々いよいよ親近礼遇せらるるの景象あり。

彖曰:晉,進也。明出地上,順而麗乎大明,柔進而上行,是以康侯用錫馬蕃庶,晝日三接也。蓋晉者進也。下為坤地,上為離明,日出地上,以進而得明。且以觀之四進為坤之五,觀四為柔,是為柔進;五位四上,是為上行。順麗大明,由進而得,故曰進也。夫離為日,日又象君;坤為地,又為臣。臣以坤地為邑則象侯,臣有坤順之德則象康侯。陸氏曰:康,安樂也。坤侯在下,離君在上,是諸侯朝覲天子之象。而上卦在觀為巽,巽易為離,是天子當陽申巽命令,禮接康侯於白晝間有所錫予之象。卦中有互坎,坎馬為美脊,下有坤,是為蕃庶。日臨坤地則象接,坤畫三偶則象三接,故曰錫馬蕃庶,晝日三接也。

《彖伝》に曰く、晋はすなわち前進。光明は地面より升起し、柔順にして大光明に依附し、柔爻は上進して尊位に居る。だから安国の侯は賞賜せるの大批の馬匹を得、一日の内に三たび接見を受く。多隆阿が解して曰く、「晋」はすなわち進。下卦は坤地、上卦は離明、太陽は地面より升起して、上進に依りて光明を得。さらに観卦の第四爻が上進して坤の第五位に至れば、観の四爻は柔爻で、これが「柔進」。第五位は第四位の上に在りて、これが「上行」。柔順にして大光明に依附するは、まさに「進」によりて得たる。だから「晋、進也」。離は日を象徴し、日はまた君を象徴す。坤は地を象徴し、また臣を象徴す。臣が坤地を以て封邑と為せば、すなわち諸侯を象徴し、臣が坤の柔順の徳を具えれば、すなわち「康侯」を象徴す。陸績は曰く、「康」は安楽の意。坤の象する諸侯は下に在り、離の象する君主は上に在りて、まさに諸侯が天子を朝見するの象。而して上卦は観卦の時はもとより巽で、巽が離に変じたは、これが天子の面南向陽して巽の象する命令を申布し、白天に礼を以て康侯を接見して賞賜あるの象。卦中の二爻より四爻に至るは互に坎を成し、坎は馬においては脊背の健美なるの良馬、坎下にまた坤あれば、すなわち「蕃庶」。太陽が坤地を照臨すれば「接」の象、坤の三画は皆偶爻なれば「三接」の象。だから「錫馬蕃庶、昼日三接」。

象曰:明出地上,晉。君子以自昭明德。鄭氏曰:地雖生萬物,日出於上,其功乃著,故君子法之而以明自昭其德。初六:晉如摧如,貞吉;罔孚,裕無咎。摧,阻也。前有互艮,艮為山,山多險阻,前進遇山,摧如象也。雖與四應,四為互坎,坎為孚,而初位猶卑,人豈遽信?是宜寬裕以處之。蓋士當初進,君相未孚,既不宜悻悻以急退,亦不宜汲汲以求售,進退以禮,自處有餘,故曰貞吉、無咎也。象曰:晉如摧如,獨行正也;裕無咎,未受命也。命,君命也。五為君,初不與之應,故曰未受。

《大象伝》に曰く、光明は地面より出づ、晋なり。君子はこれに象りて、自ら其の光明の徳を彰顕す。鄭玄は曰く、大地は万物を生養すと雖も、太陽の地上より升起するを待ちて、こそその功效は顕著なり。だから君子はこの点に効法して、自身の光明を以て自らの徳を彰顕す。初六の爻辞:前に進むも阻碍を受く、正を守れば吉、信任せられず、从容寛裕なれば咎なし。多隆阿は曰く、「摧」は阻碍を受く。初六の前は互体艮で、艮は山を象徴し、山は険阻多く、前進して山に碰えば、まさに「摧」の象。それは九四と相応ずると雖も、九四はまた互体坎の裏に居り、坎は誠信を象徴するも、初六の位置はなお卑下にして、人は豈にすぐに信任を肯んや。だから寛舒の態度を以て自処すべし。読書人が剛に出仕するの時、君主宰相は未だ信を見ず、すでに気を賭して急ぎて退走すべからず、また急切に自らを兜售すべからず。進退は皆礼に合して、自処は从容余裕あり。だから「貞吉」「無咎」。《小象伝》に曰く、前に進みて阻碍を受くるは、独り正道を守ればなり。从容寛裕にして咎なきは、未だ任命を受けざればなり、と。「命」は君命を指し、第五爻は君位で、初六はそれと相応ぜず。だから「未受」。

六二:晉如愁如,貞吉,受茲介福于其王母。鄭氏曰:愁,變色貌。介,大也。前為互坎,坎為加憂,二前進則遇坎,愁如象也。夫五陰不應,愁如固宜;但晉為日進,終必獲吉。五為君位,為王;五為陰,為母,是五降介福,二受之矣。象曰:受茲介福,以中正也。

六二の爻辞:前に進みて面に憂色を帯ぶ、正を守りて吉を得、王母よりこの大福を承受す。鄭玄は曰く、「愁」は臉色の改変の貌、「介」は大。多隆阿は曰く、六二の前は互体坎で、坎は憂愁を増添するの義あり、六二は一に前に往けばすなわち坎に撞う。まさに「愁如」の象。第五爻は同じく陰爻にして、それと相応ぜず、憂愁はもとより応当に属す。しかし晋卦の卦義は太陽の一日々々上進するに在り、最終に必ず吉を獲る。第五爻は君位。だから「王」と称し、第五爻はまた陰爻。だから「母」と称し、合せてすなわち「王母」で、六五が大福を降下して六二に承受せしむるなり。《小象伝》に曰く、この大福を承受し得るは、六二が中に居りて正を得たればなり、と。

六三:眾允,悔亡。允,信也。坤為眾,三為坤,故曰眾;三又為互坎,坎為孚,故曰允。言三之晉為眾所信允也。人臣前進至為眾信,則其進無阻可知也,故悔亡。象曰:眾允之志,上行也。九四:晉如鼫鼠,貞厲。鼫鼠一名鼠□,勺鼠一名雀鼠,即田鼠,鄭氏以為碩鼠也。四體互艮,艮為鼠,鼠性晝伏;互坎為隱伏,上為離日,鼠不敢出,伏於坎穴。臣進如是,是無才能而竊取高位者,故貞厲。象曰:鼫鼠貞厲,位不當也。

六三の爻辞:衆人は皆信服す、悔恨消失。多隆阿は曰く、「允」は信。坤は衆を象徴し、第三爻は坤に属す。だから「衆」。第三爻はまた互体坎の裏に在り、坎は誠信を象徴す。だから「允」。これは六三の上進が衆人に信服せられたるを言う。臣子として上に進みて衆信の地步に至れば、前進に阻なきは想うべし。だから悔恨消失す。《小象伝》に曰く、衆允の志は、上に行かんと欲すればなり、と。九四の爻辞:鼫鼠の如く上進す、固守すれば危険あり。多隆阿が考釈して曰く、鼫鼠はまた鼠□(原刻この字は漫漶)と呼び、勺鼠はまた雀鼠と呼ぶ。すなわち田鼠で、鄭玄はすなわち《詩經》の言う「碩鼠」と以為す。九四は互体艮の中に居り、艮は鼠を象徴し、鼠は白天に躲蔵す。互体坎は隠伏を象徴し、上卦離は太陽で、白日が空に当れば、鼠は出るを敢えせず、ただ坎の象する洞穴の裏に伏すのみ。臣子がかくの如く上進するは、すなわち才能なくして高位を窃拠する者。だから固守すれば危険。《小象伝》に曰く、鼫鼠の如く固守して危険は、居る所の位置の恰当ならざるが故、と。

六五:悔亡,失得勿恤,往吉,無不利。五為離中,離日至此已出地上,明無不照,故雖陰居尊位,則悔亦亡。夫坎為加憂,離與坎反,曰勿恤,是不憂夫得失,而前往自吉,無不利者,蓋日出地上,愈進則愈明耳。象曰:失得勿恤,往有慶也。

六五の爻辞:悔恨消失、得失は憂うるに及ばず、往けば吉、不利なし。多隆阿は曰く、第五爻は離卦の中爻で、離の太陽はここに至りてすでに完全に地面を出で、照らして明ならざる処なし。だから陰爻を以て尊位に居ると雖も、悔恨もまた照様に消失す。坎は憂愁を増添するの義あり、離は坎と正に相反す。だから「勿恤」――得失を憂えず、前に往けば自ずから吉利、不利の処なし。太陽が地面を出でれば、いよいよ上に往くほどいよいよ明亮なればなり。《小象伝》に曰く、得失は憂うるに及ばざるは、往けば喜慶有ればなり、と。

上九:晉其角,維用伐邑,厲吉無咎,貞吝。離為牛,至於上則為角。晉已至此,無可進矣。維用離之甲冑戈兵以下伐坤邑,猶大臣勢位崇高,則宜深自抑畏,嚴飭僕從。如是則權不震主,威不殃民,雖云危厲,尚可無咎。不然,上位已極而仍貞固求晉,是知進而不知退也,吝矣。象曰:維用伐邑,道未光也。離明已盡,恐為坤邑蔽光,故伐邑以求晉道也。

上九の爻辞:上進して角に至る、ただ用いて自らの封邑を討伐すべし。危険あると雖も吉にして咎なく、一味に固守すれば憾あり。多隆阿は曰く、離は牛を象徴し、最上の一爻に至ればすなわち牛角。上進してここに至れば、すでに進むべきの処なし。この時はただ離の象する甲冑戈兵を動用して、回頭して坤の象する封邑を討伐すべし――譬うるに大臣の権位がすでに甚だ高ければ、すなわち深く自ら収斂戒懼して、自らの僚属家人を厳加整饬すべきが如し。かくの如くすれば、権勢は君主を震動するに至らず、威風は百姓を禍害するに至らず、処境は危険と言うと雖も、なお咎なきを得。然らざれば、位置はすでに頂点に至りてなお固執して上進を求むるは、すなわち前進を知りて後退を知らざるなり。必ず憾あり。《小象伝》に曰く、ただ自らの封邑を討伐すべきは、「晋」の道が未だ光大ならざればなり、と。離の光明は上爻に至りてすでに用い尽くし、坤の象する封邑に光を遮られんことを恐る。だから「伐邑」して以て上進の道の暢通を求む。

明夷卦

【離下坤上,中互震坎】臨:明夷為二陽四陰卦,自臨來。虞氏曰:臨二之三。蜀才曰:此本臨卦也,九二升三,六三降二。明夷,利艱貞。離下坤上,是離日在坤地下也。日之明為地所蔽,明夷象也,故卦名明夷。夷,傷也。明者見傷,是時不可以有為,利艱貞以處之。

【明夷卦の下卦は離、上卦は坤、中間の互体は震と坎を含む】臨卦より変ず。明夷は二陽四陰の卦に属し、虞翻は臨卦の第二爻が第三位に上ると言い、蜀才は此卦は本臨卦で、九二が三位に昇り、六三が二位に降りたと言う。卦辞:明夷、艱難の中に正を守るに利あり。多隆阿は曰く、下離上坤、すなわち離の太陽が坤の大地の下に落ちたるなり。太陽の光明は大地に遮蔽せられ、まさに光明が傷を受くるの象。だから卦名を明夷と言う。「夷」はすなわち傷。光明の一方が傷を受ければ、この時は作為あるべからず。艱難にして正を守るの態度を以て時局に応対するに宜しき。

彖曰:明入地中,明夷。內文明而外柔順,以蒙大難,文王以之。利艱貞,晦其明也;內難而能正其志,箕子以之。卦之所以名明夷者,以卦象觀之,下為離明,上為坤地;以卦德參之,內離文明,外坤柔順,中有互坎為險難。是坤地傷離之明為明夷,而險難傷坤之順亦明夷也。孔子曰:文王當日緝熙敬止,可云文明矣;徽柔懿恭,可云柔順矣;卒蒙羑里之大難,是明而見夷,文王曾以此也。利艱貞者,是體本明而以晦自處者也。五位中正,二五不應,離日內斂,光明反照,乃內有互坎,險難在內,而坎背離明,坤又為晦,故曰晦其明。孔子曰:箕子當殷末世,內難方興,披髮佯狂,不避囚奴之辱,是艱難守志,箕子曾以此也。

《彖伝》に曰く、光明は地中に入る、明夷なり。内は文采光明にして外は柔順、以て大難を蒙ることを得るは、周文王がかくの如く為せしなり。「利艱貞」は、自らの光明を収斂せんとするなり。内部の危難に身を処りて猶お其の志を端正し得るは、箕子がかくの如く為せしなり。多隆阿が解して曰く、此卦が明夷と言う所以は、卦象より観れば、下卦は離の光明、上卦は坤の大地。卦徳より参照すれば、内卦離は文明、外卦坤は柔順、中間の三爻より五爻に至るは互に坎を成して、坎は険難。坤地が離の光明を傷つくるは明夷で、険難がまた坤の柔順を傷つくるも、同じく明夷。孔子は曰く、文王は当年に「緝熙敬止」(語は《詩経・大雅・文王》に出づ、その徳が光明にして能く敬慎するを謂う)なるは、文明と言うべし。「徽柔懿恭」(語は《尚書・無逸》に出づ、その和柔恭敬なるを謂う)なるは、柔順と言うべし。最終に羑里の囚の大難を蒙るに至れるは、これがまさに光明ありて光明傷つけられたるなり。文王はかくの如き方式を以て度りた。いわゆる「利艱貞」は、本体がもとより光明なるも、晦昧を以て自ら処するを言う。第五爻は中に居りて正を得るも、二・五の両爻は相応せず、離の太陽は内に収斂して、光明は内に反照す。卦中にまた互体坎ありて、険難はすなわち内部に在り、坎は離の光明と相背し、坤はまた昏晦を象徴す。だから「晦其明」。孔子は曰く、箕子は殷商の末世に処り、内部の禍難がまさに興起せんとすに、彼は頭髪を披散して狂癲を佯り、囚徒奴隷の屈辱を避けず。これがすなわち艱難の中に心志を守住せるなり。箕子はかくの如き方式を以て度りた。

象曰:明入地中,明夷。君子以蒞眾,用晦而明。離日入坤地中,明為地掩,明夷象也。坤為地,離為明,坤又為眾、為晦。君子臨蒞眾民,韜晦其光,不以察察為明,所以常昭昭而無昏昏也。初九:明夷于飛,垂其翼;君子于行,三日不食,有攸往,主人有言。下卦離明為上坤所夷,初陽在下,去坤雖遠,而明已見夷,象鳥之飛者焉。離為飛鳥,鳥飛以翼,翼而日垂,是甫欲振翼而已恐夷焉。初為陽剛,是為君子;四為正應,為互震,為行,是為君子于行。初在臨卦為兌,兌為口,今易為離,離為腹,兌口既廢,離腹必枵;歷離三爻,正當三日,是為三日不食。

《大象伝》に曰く、光明は地中に入る、明夷なり。君子はこれに象りて衆民を治理するに、収斂の方式を用いてかえって明察を顕す。多隆阿は曰く、離の太陽は坤地の中に落ち入りて、光明は大地に掩盖せらる。まさに明夷の象。坤は地を象徴し、離は明を象徴し、坤はまた衆人・昏晦を象徴す。君子は百姓に臨莅して、自らの鋒芒光亮を収蔵して、事事に苛察するを以て精明と為さず。能く始終清明にして昏聵に陷らざる所以なり。初九の爻辞:光明傷つくの時に飛行して、其の翼を垂る。君子は路上を行きて、三日も飯を食わず。前往する所有れば、主人に閑話あり。多隆阿は曰く、下卦離の光明は上卦坤に傷つけられ、初九のこの陽爻は最下に在りて、坤より遠しと雖も、光明はすでに傷を受けたり。故に一隻の飛行する鳥に象を取る。離は飛鳥を象徴し、鳥は翼に依りて飛び、翼は一日々々下垂す。見るにそれは才に翼を振わんと欲してすでに傷を受けんを恐れたり。初九は陽剛の爻で、君子を代表し、六四はその正応で、互体震の中に居り、震は行走を象徴す。だから「君子于行」。初爻は臨卦においてもとより兌に属し、兌は口を象徴す。今は離に変じて、離は腹を象徴す。兌の口はすでに廃去せられ、離の腹は必ず空虚なり。離の三箇の爻を経過するは、ちょうど三日に抵る。だから「三日不食」。

夫避夷則始前行,惟前行乃於以有往。往求正應,是往者為客,應者為主人。應為互震,虞氏曰:震為主、為言,是為主人有言。顧以恐夷之故而不食以行,不知前為坤地,行則傷明,宜聽主人之言,不可冒昧以往。蓋戢翼以避難,則明能見幾;聞言以知退,則勇於改轍。此君子所以異於眾人,處明夷之時而不欲夷其明也。象曰:君子于行,義不食也。義,宜也。不食,不食其祿也。

多隆阿が接続して曰く、傷害を躲避せんがためにこそ身を動して前行し、ただ前行してこそ「有攸往」を語り得。前往するは自らの正応に投奔しに行くに、さらば去る一方は客で、投奔せらるる一方はすなわち主人。その正応は互体震の中に居り、虞翻は震は主・言語を象徴すと言う。だから「主人有言」。しかしそれは傷を受けんを怕るるが故に、飢腸を空かして上路に就く。知らず、前はまさに坤地で、一に行けばかえってますます光明を傷る。まさに主人の勧告を聴き、冒失に前往すべからず。翼を収めて難を避くるは、能く幾微の処に苗头を見出だすなり。勧告を聞きて退回を知るは、勇んで路徑を改換するなり。これがまさに君子の常人と異なるの処――光明傷つくの時に身を処りて、自らの光明をもまた随いて傷つけらるるを肯ぜざるなり。《小象伝》に曰く、君子が路上を行くは、道理に按じてその禄を受食すべからざればなり、と。「義」はすなわち応当で、「不食」はあの份の俸禄を食わざるを言う。

六二:明夷,夷于左股,用拯馬壯,吉。二在臨體為重畫之震,易為明夷之二,為互坎,坎為臀,臀之下乃股也。當明夷之時,夷明者在前,二以與三相易,退居三後,後為左,是為夷于左股。股既見夷,有拯者則仍可行。拯,救也。坎於馬為美脊,坎馬自壯,以此拯之,何虞股之夷也?故吉。象曰:六二之吉,順以則也。以陰居陰位,柔順;就坎,則也。

六二の爻辞:光明傷つく、傷は左腿に在り。以て解救するの馬は甚だ健壯にして吉。多隆阿は曰く、第二爻は臨卦において重畳に画出せし震象に属し、明夷の第二爻に変じて後、互体坎の裏に居り、坎は臀を象徴し、臀の下はすなわち大腿。光明傷つくの時に当りて、光明を傷るの一方は前に在り、六二は第三爻と互换するがために退きて第三爻の後に居り、後はすなわち左。だから「夷于左股」。腿は傷を受けたと雖も、救い来る者有れば、なお能く行き得。「拯」はすなわち救。坎は馬類においては脊背の健美なるの良馬で、坎馬は本身就強壮なり。これを以て救援すれば、なお腿傷の何を虞れんや。だから吉。《小象伝》に曰く、六二の吉は、柔順にして法則に合せばなり、と。陰爻を以て陰位に居るは、これが「順」、坎の象する拯救の馬に靠向するは、これが「則」。

九三:明夷于南狩,得其大首,不可疾貞。離位正南,處明夷之時,不宜前往,惟宜居守其位。三又為互坎之中,坎為北方之卦,丁冬令,以離之戈兵合坎之弓輪,獵於南離之地,故曰南狩也。狩,冬獵名。三自臨之二易兌為離,虞氏曰:兌為刑,離為折首,是為得其大首。夫田獵有獲,何往不克?而明恐見傷,尚宜待時,不可疾急,宜貞正自守耳。象曰:南狩之志,乃大得也。

九三の爻辞:光明傷つくの時に南方に至りて狩猟し、対方の首領を擒獲す。操急すべからず、正を守るに宜しき。多隆阿は曰く、離は方位上に正に南方に当り、光明傷つくの時に処すれば、もとより前往すべからず、ただ自らの位置を守住するに宜しき。九三はまた互体坎の中間に居り、坎は北方の卦で、冬令に配当す。離の象する戈兵を以て坎の象する弓と車輪に配して、南方の離位の地に至りて打猟す。だから「南狩」。「狩」は冬季の田猟の名称。九三は臨卦の第二爻より換えて上り来て、もとの兌は離に変じた。虞翻は兌は刑戮を象徴し、離は頭顱を砍下するを象徴すと言い、合せてすなわち「得其大首」。田猟はすでに収獲あれば、何れに往きて得手せざらんや。しかし光明はなお傷を受けんを恐れ、依然時機を待つべく、急躁すべからず、ただ正を守りて自持するに宜しき。《小象伝》に曰く、南方に狩猟するの志向は、乃ち大いに得る所有ればなり、と。

六四:入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。上為夷主,四居五下,猶可退避。坤為腹,坤之下為左腹。前往見夷,乃退處以入于左腹。心藏於腹,是明夷之心,四獨得之于出門庭候也。四為互坎之末,坎為宮;又為互震,為出。出宮門庭,蕭然遠引,惟恐明之夷也,然見幾已不早矣。象曰:入于左腹,獲心意也。意發於心,心不可見而意可得也。

六四の爻辞:左辺の腹地に進入し、明夷の心思を探得して、こうして門庭を走り出づ。多隆阿は曰く、上六は光明を傷害するの主使する者で、六四は第五爻の下に居り、なお退避するに及ぶ。坤は腹を象徴し、坤の下部はすなわち「左腹」。前に往けばすなわち傷を受けんと欲し、こうして退き下りて左腹に進入す。心は腹中に蔵る。いわゆる「明夷之心」は、まさに六四が門庭を走り出づるの当口に独自に探得せしもの。六四は互体坎の末尾に居り、坎は宮室を象徴し、それはまた互体震の中に在りて、震は外出を象徴す。宮室門庭を走出りて、冷落として遥かに抽身すは、ただ自らの光明もまた傷を受けんを恐るるなり。しかしそれが苗头を察知するはすでに早と算うべからず。《小象伝》に曰く、左腹に入るは、対方の心意を探得せばなり、と。意は心より発し、心は見るべからずして意は猶お窺知し得。

六五:箕子之明夷,利貞。五以高位而近暗君,仍守正以晦其明,是箕子之明夷也。箕子以父師之親而遇帝辛之暗,幽囚困辱,猶正其志,故曰箕子之明夷,利貞也。象曰:箕子之貞,明不可息也。息,止也,滅也。紂雖至暗,箕子自明,堅守其貞,身雖為奴,明不可息,所以立萬世親臣之則也。

六五の爻辞:箕子の如く光明傷つくの時に自処すれば、正を守るに利あり。多隆阿は曰く、第五爻は身に高位を居て昏暗の君主に緊挨するも、依然正を守りて自らの光明を収斂す。これがすなわち箕子式の明夷。箕子は王室至親兼ねて父師の身份を以て、帝辛――すなわち商紂の昏暗に遇い、囚禁せられて困辱を受け尽くすも、なお自らの心志を端正し得。だから「箕子之明夷、利貞」。《小象伝》に曰く、箕子の貞を守るは、光明は熄滅すべからざるを説明すればなり、と。「息」はすなわち停止・熄滅。紂王は昏暗して極点に至るも、箕子は自らは光明なり。彼は正道を堅守して、身は奴隷に淪落すると雖も、あの份の光明は熄滅し得ず。故に万世の宗室近臣のために準則を立下せり。

上六:不明,晦,初登于天,後入于地。坤地至上,離光盡掩,不明矣,晦矣。夫此晦也者,亦由明而漸至於晦,非初即晦也。初猶登天,豈可言晦?後已入地,乃始不明。坤為晦,上為天位,象登天;上為坤終,象入地。猶人之初生,木性維明,後以物慾之蔽,漸即於晦耳。象曰:初登于天,照四國也;後入于地,失則也。

上六の爻辞:もはや光明ならずして昏暗に陷入る。起初は天空に升登し、後来は地下に沉入す。多隆阿は曰く、坤地は最上の一爻に至りて、離の光亮は完全に遮掩せられ、こうして明ならず、昏暗なり。ただこの份の昏暗も、また明より一歩一歩に暗に走り至るに、一開頭よりすでに暗にあらず。起初はなお天空に登る、豈に昏暗を語るべけんや。後来に至りてすでに地下に沉入して、こそ明ならざるを始む。坤は昏晦を象徴し、上爻はまた天の位置。だから「登天」の象あり。上爻は同時に坤の終点。だから「入地」の象あり。これは譬うるに人の剛に出生するの時、本性はただ一片の光明のみ、後に物欲に遮蔽せられて、こそ漸く昏暗に走向す。《小象伝》に曰く、起初に天に登るは、四方の国を照曜すればなり。後来に地に入るは、法則を喪失せばなり、と。

易原巻八

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。周易下經(二)。

以下は《易原》巻八、底本は慧珠閣原刻本を用う。著者は岫巖の人・多隆阿、字は雯溪。本巻は《周易》下経の第二の部分を解説し、次に家人・睽・蹇・解・損の諸卦を講ず。

家人卦

【離下巽上,中互離坎】【中孚】家人為二陰四陽卦,自中孚來,二往升三,三來降二。蓋中孚為重畫離象,體似家人;家人下卦為離,三至五亦互離也。虞氏謂遯初至四,非也。家人,利女貞。外二陽上下相閒,象家;中四爻各得陰陽之位,象人。故離下巽上之卦曰家人。家人者,一家之人也。家人不惟有女,而家人則惟女難化;至於女亦貞正,是刑于之化徧一家矣,故曰利女貞也。

【家人卦の下卦は離、上卦は巽、中間の互体は離と坎を含む】中孚卦より変ず。家人は二陰四陽の卦に属し、中孚の第二爻が三位に上昇し、第三爻が二位に下降した。中孚は離の卦象を重畳に画出して、全体の形状は家人と相似し、而して家人の下卦は離、三爻より五爻に至るもまた互に離を成す。虞翻はそれが遯卦の初爻より四爻に至るに変じて来ると謂うは、誤り。卦辞:家人、女子が正を守るに利あり。多隆阿は曰く、外の二つの陽爻が上下に中間を囲むは、一所の房子に象り、中間の四爻は各々陰陽の応有の位置を得るは、屋裏の人に象る。だから下離上巽の卦を家人と言う。「家人」はすなわち一家子の人。一家人はただ女子のみならず、しかし一家人の中で最も教化し難きはまさに女子。もし女子すらも皆正を守れば、すなわち《詩経・大雅・思斉》の言う「刑于寡妻」のあの教化がすでに全家に遍及せるなり。だから「利女貞」。

彖曰:家人,女正位乎內,男正位乎外。男女正,天地之大義也。家人有嚴君焉,父母之謂也。父父、子子、兄兄、弟弟、夫夫、婦婦,而家道正;正家而天下定矣。卦所以名家人者,以卦體有父子兄弟夫婦之象,一家之人備具焉,故曰家人也。家之內有女,女之治家,觀型於男。卦之內外二五得中,二為陰位,陰女居之,是為女正位乎內;五為陽位,陽男居之,是為男正位乎外。男女咸正,天陽地陰之大義得矣。

《彖伝》に曰く、家人卦は、女子は内に於て各々其の正位を得、男子は外に於て各々其の正位を得。男女各々其の位を正にするは、これ天地間の大道理なり。一家の中に厳正の君長あり、指すは父母なり。父は父道を尽くし、子は子道を尽くし、兄は兄道を尽くし、弟は弟道を尽くし、夫は夫道を尽くし、婦は婦道を尽くして、家道は端正す。家々端正なれば、天下もまた安定す。多隆阿が解して曰く、此卦が家人と言う所以は、卦体の裏に父子・兄弟・夫婦の象ありて、一家の人は斉備せるが故。家の裏に女子あり、而して女子の家を治むるの様板は男子の処より看取すべし。此卦の内外両卦の二爻五爻は皆中に居る。第二位は陰位で、陰爻の女子に占据せらる。これが「女正位乎内」。第五位は陽位で、陽爻の男子に占据せらる。これが「男正位乎外」。男女は皆端正なれば、天は陽・地は陰の大義もまた得られたり。

夫男女者,即夫婦也。然夫婦雖為家人之主,而非家人之君,家人又有嚴君焉。蓋上為天道,父道也;初為地道,母道也。上以陽居陰位,初以陽居陽位,陽剛主嚴,是父嚴母亦嚴。嚴君乃父母之謂,則嚴實為治家之本也。上為父,初為母;二、四為女,三、五為男;五男在前為兄,三男居次為弟,兄弟皆父母之子;男為夫,女為婦。父子、兄弟、夫婦各盡其義而家道正,天下之家道各正,則是由家齊而國治也,天下自此安定矣。

多隆阿が接続して曰く、いわゆる男女は、すなわち丈夫と妻子。ただ夫妻は一家の人の主事する者と雖も、一家の人の君長にあらず。一家の中にまた別に「厳君」あり。上爻は天道に属し、すなわち父道、初爻は地道に属し、すなわち母道。上九は陽爻を以て陰位に居り、初九は陽爻を以て陽位に居り、陽剛は厳に主る。だから父親は厳、母親もまた厳。「厳君」はすでに父母を指せば、見るに「厳」は実に家を治むるの根本。上爻は父、初爻は母。二・四の二つの陰爻は女、三・五の二つの陽爻は男。五爻の男は前に在りて兄、三爻の男は其の次に居りて弟、兄弟は皆父母の児子。男は夫、女は婦。父子・兄弟・夫婦は各々自らの本分を尽くせば家道は端正にして、天下の每一の家の家道が皆端正なれば、すなわち「斉家」より進みて「治国」と為り、天下はこれより安定す。

象曰:風自火出,家人。君子以言有物而行有恆。馬氏曰:木生於火,火以木為家,故曰家人。荀氏曰:風火相與,必附於物。物大火大,物小火小;君子之言必因其位,位大言大,位小言小,不在其位不謀其政,故言有物也。大暑爍金,火不增其烈;大寒凝冰,火不損其熱,故行有恆矣。按:卦自中孚來,中孚下卦為兌,兌為口,二三易位為離,離為文,是出言有章也,言有物象也;中孚之上巽不易,巽為股,行有恆象也。

《大象伝》に曰く、風は火の中より生出す、家人なり。君子はこれに象りて、言は実在の内容有り、行は常度有るべし。馬融は曰く、木と火は相生して、火は木を以て家と為す。だから家人。荀爽は曰く、風と火は相輔相成して、火は必ず東西に附着してこそ燃え得、東西が大なれば火は大、東西が小なれば火は小。君子の言うは必ず自らの位分に依りて、位高ければ言うも広く、位低ければ言うも窄く、その位子に在らざればその政務を謀劃せず(語は《論語・泰伯》に出づ)。だから「言有物」。大暑の天は金属を熔化し得るも、火はこれによってさらに烈しからず。大寒の天は氷すら凝結するも、火もまたこれによって熱度を減ぜず。だから「行有恒」。多隆阿の按語:此卦は中孚より変じて来て、中孚の下卦は兌、兌は口を象徴し、二・三の両爻が位を換えて後は離に変じ、離は文采を象徴す。これがすなわち話し出すに条理あるで、まさに「言有物」の象。中孚の上卦巽は変動なく、巽は股を象徴し、「行有恒」の象なり。

初九:閒有家,悔亡。中四爻為人,初陽外鍵,則家之閒也。家有閒,始可言治;而治家宜先立閒,是家之有在此閒也,故曰閒有家。閒,防也。天下事與其制之於已然之後,不若防之於未然之先。閒家於初,是能預防於初也,故悔亡。象曰:閒有家,志未變也。志未變,閒之易也。

初九の爻辞:家のために防範を立つ、悔恨消失す。多隆阿は曰く、中間の四爻は屋裏の人を代表し、初九のこの陽爻は外に在りて、一根の門閂に似る。すなわち一家の「閑」――門欄と防範。家の裏に防範あれば、こそ治理を語り得。而して家を治むるはまた先に防範を立つべし。見るに一家の成立はまさにこの道の防範に在り。だから「閑有家」。「閑」はすなわち防。天下の事は、事の出でたるを待ちて後に收拾するより、事の未だ出でざるの先に防範を加うるに如かず。初爻に於てすでに家の防を立つるは、まさに開頭に於て預防し得るなり。だから悔恨消失す。《小象伝》に曰く、家に閑有るは、心志の未だ改変せざるに趁うればなり、と。心志の未だ変ぜざるの時は、防範するは易し。

六二:無攸遂,在中饋,貞吉。二位中正,陰居陰位而與五應,婦人從夫,不敢專成,自盡其職,為中饋主。鄭氏曰:無攸遂,言婦人無敢自遂也。爻體離,又互體坎,火位水在上,飪之象也。饋,酒食也,故云在中饋也。居中得正,自盡其職,故貞吉。象曰:六二之吉,順以巽也。陰居陰位,是順;位居內,是巽。

六二の爻辞:自ら主張し得る所なし、家中に在りて飲食を主持す、正を守りて吉を得。多隆阿は曰く、第二爻は中に居りて正を得、陰爻は陰位に居りて九五と相応ず。婦人は丈夫に跟従して、独断専行すること敢えせず、ただ自らの本分を尽くして、家中の飲食の主持人を為す。鄭玄は曰く、「無攸遂」は婦人が自ら其の是を行うを敢えせざるを言う。此爻の本体は離に属し、また互体坎の中に居り、離火は下位に在りて坎水はその上に在るは、まさに烹煮の象。「饋」は酒食を指す。だから「在中饋」。中に居りて正を得、各々其の職を尽くす。だから正を守りて吉を得。《小象伝》に曰く、六二の吉は、柔順にして謙遜なればなり、と。陰爻が陰位に居るは、これが「順」、位置が内卦に在るは、これが「巽」。

九三:家人嗃嗃,悔厲,吉;婦子嘻嘻,終吝。治家之道宜於中和,過嚴則酷,過寬則弛。三以陽居陽位,在正離、互離之間,離火性烈,人望而畏之,有似於酷,故曰嗃嗃;三又為互坎,坎為水,坎水懦弱,人狎而玩之,有似於弛,故曰嘻嘻。鄭氏曰:嗃作熇,苦熱之意;嘻嘻,驕佚喜笑之意。言三之治家寬嚴無定也。然與其失之寬,毋寧失之嚴。蓋家人嗃嗃,雖悔且厲,而家政整肅,猶可云吉;至於婦子嘻嘻,法度既廢,倫紀亦乖,家政多疵,終吝矣。象曰:家人嗃嗃,未失也;婦子嘻嘻,失家節也。失家節者,言無家法可循也。

九三の爻辞:一家人は管せられて苦を叫び連ね、悔あり危あり、而して依然吉なり。婦人孩子は嘻嘻哈哈として、終に憾あり。多隆阿は曰く、家を治むるの道は中和を貴び、甚だ厳なれば苛酷と成り、甚だ寛なれば鬆弛と成る。九三は陽爻を以て陽位に居り、下卦の正離と互体離の間に夾り、離は火で火性は猛烈、人は望みてこれを畏るるは、苛酷に近し。だから「嗃嗃」。九三は同時にまた互体坎の中に在り、坎は水で水性は柔弱、人は狎れてこれを軽慢するは、鬆弛に近し。だから「嘻嘻」。鄭玄は「嗃」はまさに「熇」に作るべく、酷熱に当たり難きの意、「嘻嘻」は驕縦嬉笑の意と言う。これは九三の家を治むるに寛厳に定準なきを言う。ただ寛に失するよりは、寧ろ厳に失せよ。一家人が管せられて苦を叫ぶは、悔あり危あると雖も、家政は整粛にして、なお吉と言うべし。婦人孩子の嘻嘻哈哈に至っては、法度は廃弛し倫常もまた乱れ、家政は毛病百出して、終に憾あり。《小象伝》に曰く、家人嗃嗃は、まだ失せざるなり。婦子嘻嘻は、家の節度を丢却せばなり、と。「失家節」は家の裏に家法の循うべきなきを言う。

六四:富家,大吉。四為巽初,巽為近利市三倍,是以富養其家者。蓋男為夫,女為婦;男之治家在乎教,女之治家主乎養。教之道近嚴,故三言嗃;養之道近柔,故四言富。勤儉中禮,內助之賢,厚實其家,陰道之正,故大吉。象曰:富家大吉,順在位也。

六四の爻辞:家庭をして富足せしむ、大吉。多隆阿は曰く、六四は巽の初爻で、《説卦》は巽を「近利市三倍」と講ず。見るにそれは財富を以てこの家を供養する者。男は夫、女は婦で、男子が家を治むるは教導を重んじ、女子が家を治むるは供養を主る。教導の道は厳に偏す。だから九三は「嗃嗃」を講ず。供養の道は柔に偏す。だから六四は「富」を講ず。勤倹にして礼に合するは、賢内助の本色で、家の底を充実せしむるは、まさに陰柔の一道の端正の処。だから大吉。《小象伝》に曰く、家を富まして大吉は、柔順にして恰当なる位置に居ればなり、と。

九五:王假有家,勿恤,吉。五為君位,故曰王。雖與初同雲有家,而初則立法以限之,故云閒;而五則積誠以感之,故云假。假,格通。二至四為互坎,坎為加憂,五已在互坎外,故云勿恤。蓋其得位足為家範,兄弟夫婦皆從其化,故不事憂恤,而感格已徧一家也,吉矣。象曰:王假有家,交相愛也。上下交愛,豈有憂恤?假之用神也。

九五の爻辞:君王は至誠を以て感格して其の家を擁す、憂慮するに及ばず、吉。多隆阿は曰く、第五爻は君位。だから「王」と称す。それは初九と同じく「有家」を講ずると雖も、初九は規矩を立下して以て約束す。だから「閑」の字を用う。九五は誠意を積聚して以て感動す。だから「仮」の字を用う。「仮」は「格」と通じて、感通して至るの意。二爻より四爻に至るは互に坎を成し、坎は憂慮を増添するの義あり、而して九五はすでに互体坎の外に在り。だから「勿恤」。九五の居る所の位は足りて全家の典範と為るに足り、兄弟夫婦は皆それに跟いて感化を受く。だから操心憂慮するを用いずして、誠意の感通はすでに一家に遍及せり。故に吉。《小象伝》に曰く、君王が感格して其の家を擁するは、上下が互相親愛すればなり、と。上下は互相親愛すれば、豈に憂慮を用いんや。見るに「仮」のこの一着を用うるは極めて神妙なり。

上九:有孚,威如,終吉。上與初為父母之位,父母曰嚴君,故初則曰閒,而上則曰威。夫所云威如者,亦非徒尚嚴威也。蓋有孚以明恩,則以推誠為治家之本;復威如以立教,則以制義為保家之原。恩義兼盡,而寬則不縱,嚴則不酷,古今治家之道備於此矣,故終吉也。象曰:威如之吉,反身之謂也。反身,謂反求諸身,即修身也。身修而後家齊矣。

上九の爻辞:心に誠信を懐きてまた威厳あり、最終に吉を得。多隆阿は曰く、上爻と初爻は父母の位置で、父母は「厳君」と称せらる。だから初爻は「閑」――すなわち防を立つるを言い、上爻は「威」――すなわち威を立つるを言う。いわゆる「威如」も、また一味に厳厲威圧を崇尚するにあらず。心に誠信を懐きて恩情を彰明するは、すなわち誠を推して人に待つを以て家を治むるの根本と為し、さらに威厳を加えて教化を樹立するは、すなわち裁断の合宜なるを以て家を保つの源頭と為す。恩と義の両面は皆尽きて、寛にして縦せず、厳にして苛酷ならず。古今に家を治むるの道理は皆ここに斉備せり。だから終に吉を得。《小象伝》に曰く、威厳ありて吉は、身に反りて自ら求むるを謂うなり、と。「反身」はすなわち反りて自らの身上に於て尋求し、すなわち修身なり。《大学》は「身修而後家斉」と講じ、自身が修好してこそ家は整斉し得。

睽卦

【兌下離上,中互坎離】中孚:睽為二陰四陽卦,自中孚來。中孚四陰升五,故彖傳曰柔進上行。虞氏曰大壯上來之三,不合。睽,小事吉。火性上炎,澤氣下潤,是離兌有睽象,故兌下離上之卦名睽。睽,乖也。睽則難合,事亦有因睽轉吉者,然亦小事如此,大事則否也。

【睽卦の下卦は兌、上卦は離、中間の互体は坎と離を含む】中孚卦より変ず。睽は二陰四陽の卦に属し、中孚の第四爻の陰柔が第五位に上昇した。だから《彖伝》は「柔進而上行」と言う。虞翻は大壮の上爻が下りて第三位に来ると言うは、経文と合せず。卦辞:睽、小事は吉を得。多隆阿は曰く、火性は上に向かいて燃え、沢水の気は下に向かいて浸潤す。見るに離と兌はもとより乖離の象あり。だから下兌上離の卦を睽と名づく。「睽」はすなわち乖背。乖背すれば合攏し難し。ただ事情にもまた乖背によってかえって吉に転ずる有り。しかしまた小事のみかくの如く、大事は然らず。

彖曰:睽,火動而上,澤動而下,二女同居,其志不同行。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉。天地睽而其事同也,男女睽而其志通也,萬物睽而其事類也。睽之時用大矣哉!離兌合卦,何以名睽?蓋以卦象言之,離火也,兌澤也。離火居上則益上炎,澤水居下則益下潤,是火澤相睽也。離為中女,兌為少女,雖暫同居,後必分適,是二女相睽也,故曰睽也。祇是以卦德卦體言之,兌說而附乎離明,中孚之三陰柔上行,進居五位,五陰得中,以下應二剛,當睽違之時,以柔道行之,往往得合。陰為小,故曰小事吉也。

《彖伝》に曰く、睽卦は、火は動きて上に向かい、沢は動きて下に向かう。二つの女子は同じ屋に住むも、志向は路を同じくせず。喜悦にして光明に依附し、柔爻は上進して尊位に居り、中に居りて剛爻と相応ず。だから小事は吉を得。天と地は相乖離するも、万物を生養するの事は相同じく、男と女は相乖離するも、心意は相通じ得、万物は彼此乖離するも、各々其の類に按じて相従す。睽卦の時機と功用は真に重大なるかな。多隆阿が追問して曰く、離と兌の合成する卦は、なぜ睽と言うや。卦象より言えば、離は火、兌は沢。離火は上に居ればますます上に炎燃し、沢水は下に居ればますます下に浸潤す。これは火と沢の互相背離。離は中女、兌は少女で、暫く同じ家に住むと雖も、日後に必ず各々出嫁す。これは二つの女子の互相背離。だから睽と言う。ただ卦徳卦体より観れば、兌の喜悦は離の光明に依附し、中孚の第三爻の陰柔は上行して、進みて第五位に居り、第五爻は陰を以て中に居り、下に九二の陽剛と相応ず。ちょうど乖違の時に当りて、柔順の办法を以て行事すれば、往往にしてかえって合攏し得。陰は「小」に属す。だから「小事吉」。

夫睽則似不能遽同,觀彼天地分判,上下相睽,至於陰昇陽降,天地轉和合而無間;睽則似不能遽通,觀乎男女異體,彼此相睽,至於夫倡婦和,男女轉好合而相宜;睽則似不能同類,觀於萬物倮毛羽鱗、飛潛動植,形既迥殊,性亦各異,其睽尤甚,至於相資以生,相需以養,萬物轉以會合而咸若。是上為天位,下為地位,上下皆陽,故曰事同;互坎為男,互離為女,坎離連體,故曰志通;坎離亦為叢棘草木,又為豕、為雉、為介蟲、為弓矢,坎又為水,兌為金,皆物也,亦相資為用,故曰事類。此睽不終睽,睽有其時,而乃因睽得合,睽又有其用也。睽之時用,蓋曰大哉。

多隆阿が接続して申して曰く、乖離すればすなわち能く遽かに相同じからざるに似るも、かの天地を観れば、二に分判して上下相隔るも、陰気上昇・陽気下降するに至りて、天地はかえって和合して毫も間隙なし。乖離すればすなわち能く遽かに相通ぜざるに似るも、男女を観れば、形体は同じからず彼此相隔るも、丈夫が倡して妻子が和するに至りて、男女はかえって結合して甚だ相宜しきを得。乖離すればすなわち能く同じく一類と為らざるに似るも、万物を観れば、裸虫・毛虫・羽虫・鱗虫あり、飛ぶ・潜む・動く・植えるあり、形体はすでに迥異して、本性もまた各々同じからず、その乖離は最も甚だしきも、到頭に彼此憑借して生じ、互相需要して養い、万物はかえって会合して各々其の所を得。此卦に就いて言えば、上爻は天位、下爻は地位で、上下は皆陽爻。だから「其事同」。互体坎は男、互体離は女で、坎離は連体を成す。だから「其志通」。坎離はまた叢生の荆棘草木を象徴し、また豬・野鶏・甲殻の虫・弓箭を象徴し、坎はまた水を象徴し、兌は金を象徴す。これらは皆物で、もまた彼此憑借して用と為す。だから「其事類」。見るに乖離は永遠に乖離せず、乖離にはその時機あり、能く乖離によってかえって会合を得、乖離はまたその功用あり。だから《彖伝》が「睽之時用大矣哉」と讃嘆す。

象曰:上火下澤,睽。君子以同而異。荀氏曰:火性炎上,澤性潤下,故曰睽也。大歸雖同,小事當異;百官殊職,四民異業,文武並用,威德相反,共歸於治,故曰同而異也。初九:悔亡。喪馬勿逐,自復;見惡人,無咎。初睽未甚,猶易得合,惟其能合,故曰悔亡。如馬之喪,不事遠逐而自復;如人之惡,不可遠拒而宜見。初與四應,四在中孚為互震,震為馬,四與五易,震象不見,為喪馬,而互坎之美脊仍見,是馬已喪,不必遠逐而自復也。四為正離,虞氏曰:離為惡人。以其人惡而不之見,故成睽;睽久生疑,故成咎。不見惡人以致咎,何如見此惡人以免咎也?是惟不縈情於物,而物終必歸;惟不顯絕於人,而人終無怨,此處睽之善術也。象曰:見惡人,以辟咎也。闢、避同。見惡人者,以避睽也。

《大象伝》に曰く、上は火・下は沢、睽なり。君子はこれに象りて、大同の中に差异を保留す。荀爽は曰く、火性は上に炎燃し、沢性は下に潤う。だから睽。大方向は相同じくと雖も、具体的事情の上に於ては分別あるべし。百官は各々職守あり、士農工商は各々行業あり、文治武功を併用し、威厳と恩徳は相反するに似て、却って共に治理に帰す。だから「同而異」。初九の爻辞:悔恨消失す。馬を失うも逐う勿れ、自ずから復る。自らの厭うの人に見ゆ、咎なし。多隆阿は曰く、初爻の乖離はなお深からずして、重ねて合攏し易し。まさに能く合するが故に、「悔亡」と言う。譬うるに馬の失うるの如く、遠く逐い往くを要せずして自ずから帰り来る。譬うるに自ら厭悪するの人に遭うの如く、遠く拒絶すべからずして、かえって一見すべし。初九は九四と相応じ、九四は中孚において互体震に居り、震は馬を象徴す。第四爻と第五爻が互换して後は震象は見えず、すなわち「喪馬」。しかし互体坎のあの脊背健美の馬はなお在りて、見るに馬は失わると雖も、遠く逐うに及ばずして自ずから帰り来る。九四は正離の中に居り、虞翻は離は「悪人」を象徴すと言う。あの人を厭悪するがために見に行かざれば、こうして乖離を造成し、乖離は久しくすれば猜疑を生じて、こうして過咎を造成す。悪人に見えずして過咎を招くよりは、何ぞこの悪人に一見して過咎を免るるに如かんや。見るにただ心思を物上に纏えざればこそ、物は最終に必ず帰り、ただ公に人と決絶せざればこそ、人は最終に怨恨なからん。これが乖離の時に処するの好办法なり。《小象伝》に曰く、悪人に一見するは、以て過咎を避くるなり、と。「辟」と「避」は相同じ。悪人に見ゆるは、まさに乖離を避くるがためなり。

九二:遇主于巷,無咎。二與五應,五為君位,是主也。五為互坎,坎為宮,又為隱伏,是巷也。夫時當睽乖,不拘幣聘之文,雖委曲求合,遇之於巷,亦無咎矣。象曰:遇主于巷,未失道也。未失道者,言當睽時不必拘常格也。

九二の爻辞:里巷の中に於て主人に遇う、咎なし。多隆阿は曰く、九二は六五と相応じ、第五爻は君位、すなわち「主」。第五爻は互体坎の中に居り、坎は宮室を象徴し、また隠蔽を象徴す。合せてすなわち「巷」。ちょうど乖離の時に当りて、聘問献幣のあの一套の礼節文飾に拘泥するに及ばず、たとえ自らを委屈して合を求めて、小巷の裏に碰着するも、もまた咎なし。《小象伝》に曰く、里巷に於て主人に遇うは、正道に背離せざればなり、と。いわゆる「未失道」は、乖離の時に処して常規を拘守するに及ばざるを言う。

六三:見與曳,其牛掣,其人天且劓,無初有終。三與上應,三為內卦之終,其睽較初、二尤甚,則有不能遽合者。三至五為互坎,坎為輿;二至四為互離,離為牛。坎輿離牛上行求應,然三非正坎,乃借四五以成坎;三非正離,乃借二四以成離;三實與初、二同體,故輿見曳、牛見掣也。且三在中孚為互艮,上在中孚為正巽,今則為兌。兌為刑,巽為寡髮,而遇兌刑,三四相易,巽象不見,則似髠去其發;艮為鼻,而遇兌刑,三四相易,艮象不見,則似割去其鼻。髠發為天,割鼻為劓,兌為毀折,故象天且劓也。前往則見阻,而所應之人又見刑傷,其睽已極。然陰宜從陽,初雖睽違,終必得合,是無初有終矣。象曰:見輿曳,位不當也;無初有終,遇剛也。內卦至三已盡,又陰居陽位,故睽獨甚也。

六三の爻辞:車子が後に拖曳せらるるを見、車を牽くの牛は牽掣せられ、車を駆るの人は髠髪と割鼻の刑を受けたり。起頭は順ならず、終究に好結果あるべし。多隆阿は曰く、六三は上九と相応じ、六三は内卦の最後の一爻で、その乖離は初九・九二よりいよいよ厳重なり。一時の間にまだ合攏し得ず。三爻より五爻に至るは互に坎を成し、坎は車を象徴し、二爻より四爻に至るは互に離を成し、離は牛を象徴す。坎車・離牛は皆上行してその正応と会合せんと欲するも、六三の本身は正坎にあらず、四・五の両爻を借りてこそ坎を湊成し、もまた正離にあらず、二・四の両爻を借りてこそ離を湊成す。六三は実際には初・二と同じく下卦に属す。だから車は拖住せられ、牛は牽住せらる。さらに六三は中孚において互体艮に属し、上爻は中孚において正巽に属し、今は兌と為れり。兌は刑戮を象徴し、巽は頭髪稀少を象徴す。巽が兌の刑戮に碰し、三・四の両爻が一に交換せば、巽象は見えずして、髠きて其の髪を去られたるに似る。艮は鼻子を象徴し、兌の刑戮に碰し、三・四の両爻が一に交換せば、艮象もまた見えずして、其の鼻を割き去られたるに似る。髪を剃るの刑を「天」と言い、鼻を割るの刑を「劓」と言い、兌はまた毀折の義あり。だから「天且劓」に象る。前に往けば阻碍を受け、而して会合せんと欲するのあの人はまた刑傷を遭う。乖離はすでに極点に至れり。ただ陰はもとより陽に跟従すべく、起頭は乖違すると雖も、最終に必ず会合す。これが「無初有終」。《小象伝》に曰く、車が拖曳せらるるを見るは、位置の恰当ならざるが故。起頭は順ならずして終究に成あるは、陽剛に遇うればなり、と。内卦は第三爻に至りてすでに尽頭に走到し、また陰爻を以て陽位に居る。だからその乖離は格外に厳重なり。

九四:睽孤,遇元夫,交孚,厲無咎。四以一陽居上下二陰之間,是睽乖而復孤立者。惟與初陽為正應,陽為夫,夫居於初,則夫為元,元,始也。四以互坎之志,交孚以合之,雖在睽時不免危厲,而終必得合,故無咎。象曰:交孚無咎,志行也。志行故交孚,交孚則遇元夫,不傷睽孤矣。

九四の爻辞:乖離にして孤立す、あの最初の男子に遇い、彼此誠を以て相交る。危険あると雖も咎なし。多隆阿は曰く、九四は一つの陽爻を以て上下二つの陰爻の中間に夾り、すでに乖離してまた孤単なる者。幸いにそれと初九のこの陽爻は位置相当にして応と成り、陽は丈夫を象徴し、この「夫」は初位に居る。だから「元夫」と言う。「元」はすなわち開始。九四は互体坎の象する心志を憑じて、初九と誠を以て相交りて合攏す。身は乖離の時に居りて危険を免れざると雖も、最終に必ず会合す。だから咎なし。《小象伝》に曰く、誠を以て相交りて咎なきは、心志が施行を得ればなり、と。心志が施行を得れば、故に誠を以て相交り得、誠を以て相交れば、すなわち「元夫」に遇う。もまた乖離孤単のために傷を受けざるを得たり。

六五:悔亡,厥宗噬膚,往何咎。睽宜於合,初九即言悔亡者,以睽初尚淺,其勢易合也;六五亦言悔亡者,以二急於求遇,以五為主,五又應二之求,以二為宗。二尊五為主,五親二為宗,合之尤易也。五居離中,離為大腹,象膚;二為兌中,兌為口,象噬。厥宗往噬此膚,合之易易,何有於咎?象曰:厥宗噬膚,往有慶也。

六五の爻辞:悔恨消失す、同宗の人が肌膚を咬開す、往きて何の咎あらん。多隆阿は曰く、乖離の時は会合を貴ぶ。初九がすなわち「悔亡」を講ずるは、乖離の初めはなお浅くて、形勢が合攏し易ければなり。六五もまた「悔亡」を講ずるは、九二が急ぎて見に来るを求めて、六五を以て「主」と為し、六五はまた九二の請求に回応して、九二を以て「宗」と為せばなり。九二は六五を尊びて主と為し、六五は九二を親しみて宗と為す。会合するは格外に易し。六五は離の中位に居り、離は大腹を象徴して、肌膚に象を取り得。九二は兌の中位に居り、兌は口を象徴して、咬齧に象を取り得。同宗の人が前に往きてこの肌膚を咬けば、会合は軽而易挙、何れに咎を語らんや。《小象伝》に曰く、同宗の人が肌膚を咬開するは、往けば喜慶有ればなり、と。

上九:睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪寇婚媾,往遇兩則吉。睽至於上,睽益甚矣,下求正應,不免阻多。五至三為互坎,坎為豕,又為水;三又為兌澤,豕涉澤水,則在泥塗中,是所見者豕負塗也。坎為輿,稱車;坎又為隱伏,稱鬼,是所載者鬼一車也。坎又為弓,稱弧;本爻為離,離為矢,弧得矢則弧張,是先張之弧也。而三為兌上,兌為毀折,弧折則說,是後說之弧也。既疑為豕,又疑為鬼;既張弧以射之,復說弧以釋之,總由睽故也。

上九の爻辞:乖離にして孤立す、一頭の豬が背に泥汚を沾満し、また一車に鬼を載するを見る。先には弓を拉開して射んと欲し、後にはまた弓を放下す。来るは強盗にあらずして、求婚しに来るなり。前往して雨に遇えば(爻辞の原字は「両」に作る)、すなわち吉。多隆阿は曰く、乖離は上爻に至りて、程度はいよいよ厳重なり、下に向かいてその正応を尋求すれば、阻碍の重畳を免れず。五爻より三爻に至るは互に坎を成し、坎は豬を象徴し、また水を象徴す。第三爻はまた兌沢に属し、豬が沢水を蹚過すれば、身上に泥を沾し。だから見る所は「豕負塗」。坎は車輿を象徴して「車」と称し得、坎はまた隠伏を象徴して「鬼」と称し得。だから載する所は「鬼一車」。坎はまた弓を象徴して「弧」と称し得、本爻は離に属し、離は箭矢を象徴す。弓が箭を得ればすなわち拉開せんと欲す。これが「先張之弧」。而して第三爻は兌の上爻で、兌は毀折の義あり、弓が折れればすなわち放下に等し。これが「後説之弧」。一時には豬と疑心し、一時には鬼と疑心す。一時には弓を張りてこれを射んと欲し、一時にはまた弓を放下して戒備を解除す。これらは全く乖離猜疑の造成せしものなり。

夫其所以滋疑者,則以三為互坎,坎為盜,疑其為盜;不知三陰上陽,正應成配,實為婚媾,非寇也。往而求之,歷下五、四兩爻,互坎將盡,正兌之上,則得遇合,不終睽矣。兌為澤,稱雨,往而遇雨,豕鬼之疑俱亡矣,故吉。象曰:遇雨之吉,群疑亡也。群者,豕、鬼與寇,疑之則睽,疑亡則睽亦亡。

多隆阿が接続して曰く、疑心のいよいよ重く滋るる所以は、第三爻が互体坎の中に居り、坎は盗賊を象徴するに因りて、こうしてそれを強盗と懐疑す。知らず、第三爻は陰、上爻は陽で、正に相配応して、実は求婚しに来るので、強盗にあらず。上九が前往してこれを尋求すれば、下の五・四の両爻を経過して、互体坎は将に走り尽くさんとし、正兌の上端に至れば、すなわち会合を得て、一直に乖離し続くるに至らず。兌は沢を象徴して雨と称し得、前往して雨に遇えば、豬と鬼の猜疑は全く消失す。だから吉。《小象伝》に曰く、雨に遇うの吉は、種種の猜疑が皆消失せばなり、と。いわゆる「羣疑」は、すなわち豬・鬼と強盗のこれら幾様。猜疑あればすなわち乖離し、猜疑一に消失せば、乖離もまた随いて消失す。

蹇卦

【艮下坎上,中互離坎】小過:蹇為四陽二陰【四陽二陰:四陰二陽】卦,自小過來,四往升五,五來降四。彖傳曰往得中,言小過四陽往居蹇五得中也。虞氏謂觀上反三,不合。蹇,利西南,不利東北,利見大人,貞吉。坎居於外,內艮則止,坎為蹇,蹇未解,不宜遽行也,故艮下坎上之卦名蹇。時既逄【逄:逢】蹇,宜行平衍之地,不宜蹈危險之區。於是有濟蹇之大人出,利於見之。如是則蹇不長蹇,可以出蹇適蕩平也,故貞吉。

【蹇卦の下卦は艮、上卦は坎、中間の互体は離と坎を含む】小過卦より変ず。蹇は四陽二陰の卦に属し(校記:「四陽二陰」はまさに「四陰二陽」に作るべし)、小過の第四爻が第五位に上昇し、第五爻が第四位に下降した。《彖伝》は「往得中」と言うは、指すは小過の第四爻の陽剛が前往して蹇の第五位を占居して中に居るを言う。虞翻は観卦の上爻が第三位に返ると謂うは、経文と合せず。卦辞:蹇、西南に利あり、東北に利あらず、大人に見ゆるに利あり、正を守りて吉を得。多隆阿は曰く、坎は外卦に居り、内卦の艮はすなわち止。坎はすなわち険難で、険難は未だ解除せず、冒然として前行すべからず。だから下艮上坎の卦を蹇と名づく。時運はすでに険難に遇上せり(校記:「逄」はまさに「逢」に作るべし)が故に、平坦開闊の地方を走るべく、危険の地帯に踏み込むべからず。この時に険難を済い得るの大人が出て来れば、すなわち彼に見ゆるに利あり。かくの如くすれば険難は長久ならずして、険難を走出りて平坦の処に到り得。だから「貞吉」。

彖曰:蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉!蹇利西南,往得中也;不利東北,其道窮也。利見大人,往有功也;當位貞吉,以正邦也。蹇之時用大矣哉!蹇者,難也。坎險在前,難進也。既已見險,則即不宜蹈險,內為艮止,見險而止,非有坎智者不能也。是知惟明哲之人,乃始克慎行止。時既為蹇,則不宜履險,而惟宜履順。內卦為艮,艮位東北,東北之對向為西南,西南坤方也,坤為地,地勢平衍。而蹇自小過來,小過四往之五,坎得陽中,而四五相易,坤象在隱見之間;且坎為坤索乾中,坎得坤體,得平衍之地矣,故云利也。

《彖伝》に曰く、蹇はすなわち艱難、険阻は前方に在り。険阻を見て能く止まるは、真に明智なるかな。蹇は西南に利あるは、前往すれば能く中に居るを得ればなり。東北に利あらざるは、あの路はすでに尽頭に走到せばなり。大人に見ゆるに利あるは、前往すれば功業を建立し得ればなり。各爻は位に当りて正を守りて吉を得るは、以て邦国を端正するに用い得ればなり。蹇卦の時機と功用は真に重大なるかな。多隆阿が解して曰く、「蹇」はすなわち難。坎の険阻は前面に在りて、前進し難し。すでに険阻を見たれば、すなわちさらに裏に踏むべからず。内卦は艮で艮は止、険を見て能く止まるは、坎の象する智慧を具備する人にあらざれば能わざるを言う。見るにただ明達の人のみが、こそ行と止の間に慎重に取捨し得。時運はすでに蹇なれば、すなわち険路を踏むべからずして、ただ順路を走るに宜しき。内卦は艮で、艮の方位は東北、東北の対向は西南、西南は坤の方位で、坤は地を象徴し、地勢は平坦開闊。而して蹇は小過より変じて来て、小過の第四爻が上りて第五位に至れば、坎はこれによって中間の陽爻を得、四・五の両爻が一に交換せば、坤の卦象は隠現の間に在り。ましてや坎はもとより坤が乾に向かいて中爻を求得して成るに、坎の裏は坤の体質を含めば、すなわち平坦の地を得たり。だから「利」と言う。

東北為艮方,艮為山,山勢險阻;坎為水,水流不上行,其道已窮,故曰不利也。顧東北不利,即不宜往東北以犯難;而西南維利,則尤宜往西南以立功。蓋不往則蹇常存,惟前往則蹇可濟,是不可坐安於蹇也。然則欲濟蹇者,非陰柔所能勝,惟九五剛中之大人,居尊位,履坎中,坎為水、為智,以智處蹇,見險能濟,守五之正以治坤邦,善用蹇時,較之未蹇有事半功倍者,蹇之時用豈不大哉!

多隆阿が接続して曰く、東北は艮の方位で、艮は山を象徴し、山勢は険阻。坎は水を象徴し、水はただ下に流れて上に行かず、あの路はすでに尽頭に走到せり。だから「不利」。東北はすでに利あらざれば、すなわち東北に往きて難に犯すべからず。而して西南はすでに利あれば、ますます西南に往きて功を建つべし。動かざれば、険難はずっとあの処に擺在し、ただ前往してこそ、険難は解除の可能あり。見るに坐して険難に安んずるべからず。而して難を済わんと欲するは、陰柔の担当し得る所にあらず。ただ九五のこの剛健にして中を得るの大人のみ、彼は尊位に居り、足は坎の中爻を踏み、坎は水を象徴し、また智慧を象徴す。智慧を以て険難に応対し、険阻を見て能く化解し、第五位の正道を守りて坤の象する邦国を治理す。善く蹇の時機を利用するは、険難なきの時に較ぶればかえって半の事で倍の功を得る者有り。蹇卦の時機と功用は、豈に甚だ重大ならざらんや。

象曰:山上有水,蹇。君子以反身修德。陸氏曰:水在山上,失流通之性,故曰蹇。君子體之,言水在上終宜反下,因得反身之象;水在山上不能就下,宜修山以疏通之,因得修德之象。艮為背,象反身;坎中實,象修德。前有坎險,不宜前往,故宜反身,反身者即爻辭所云來也;後有艮止,則宜退守,故云修德,修德者即彖傳所云智也。

《大象伝》に曰く、山上に水あり、蹇なり。君子はこれに象りて、反りて自身に於て功夫を下して、徳行を修養す。陸績は曰く、水が山上に停るは、流通の本性を失えるが故に蹇と言う。君子はこの点を体するに、水が上に在れば終に下に帰るべし。これによりて「反身」の象を得。水が山上に在りて勢に順いて下に流るる能わざれば、すなわち山体を整治して疏通を加うべし。これによりて「修徳」の象を得。多隆阿が補充して曰く、艮は背を象徴して、まさに「反身」に合し、坎の中爻は充実して、まさに「修徳」に合す。前に坎の険阻ありて、前往すべからず。だから反身して自ら求むべし――「反身」はすなわち各爻の爻辞の裏の言う「来」なり。後に艮の止あれば、すなわち退守すべし。だから「修徳」と言う――「修徳」はすなわち《彖伝》の裏の言う「智」なり。

初六:往蹇來譽。坎險在前,故不宜進而宜退。進則謂之往,退則謂之來。若初則前往有地,退後無地;然自守本分,不事躁進,則已不至陷於坎險,得艮止之義矣,來譽矣。象曰:往蹇來譽,宜待也。宜待致譽,不宜往也。

初六の爻辞:前に往けば険難、退き帰れば美誉あり。多隆阿は曰く、坎の険阻は前に在り。だから進むべからずして退くべし。進むを「往」と言い、退くを「来」と言う。初六に就いて言えば、前に往けばなお往くべきの地方あり、後に退けば退るべき地なし。しかし自らの本分を守住して急躁冒進せざれば、すでに坎の険阻に陷るに至らずして、すなわち艮の「止」の道理に合す。美誉は自ずから到来す。《小象伝》に曰く、「往蹇来誉」は、等待すべきを言うなり、と。等待してこそ美誉を招来し得、前に往くべからず。

六二:王臣蹇蹇,匪躬之故。二為臣位,上與五應,五為君,是王也。二為五之臣,則二即王臣。二至四為互坎,此謂之蹇;上應九五坎中,此又為蹇,故曰蹇蹇。夫前為蹇蹇,可以無往,而此不言退避者,蓋有故也。致身事君,臣子之職;不有其躬,臣子所宜。匪躬以濟蹇,王臣所以不避蹇也。象曰:王臣蹇蹇,終無尤也。九三:往蹇來反。三以陽居陽位,似有濟蹇之才,而前接正坎,是為往蹇;來下為艮,是為來反。艮為背,三為艮主,故曰反。象曰:往蹇來反,內喜之也。反居於內,不往外以致蹇,故曰喜之。

六二の爻辞:王の臣子は重畳の険難の中に奔走す、自らの身の故にあらず。多隆阿は曰く、第二爻は臣位で、上に第五爻と相応じ、第五爻は君すなわち「王」。六二は九五の臣で、さらば六二はすなわち「王臣」。二爻より四爻に至るは互に坎を成して、これは一重の険難。上にまた九五の居る所の正坎の中に応ずるは、これはまた一重の険難。だから「蹇蹇」。前はすでに重畳の険難なれば、もとより前に往かざるべしと雖も、ここに退避を言わざるは、別に縁故あるが故。自身を君主に交付するは、臣子の職分、自らの身家性命を心に置かざるは、臣子の応有の態度。自身を顧みずして難を済うは、これが王の臣子の険難を躲避せざるの道理。《小象伝》に曰く、王の臣子が重畳の険難の中に奔走するは、終に過失なからん、と。九三の爻辞:前に往けば険難、退き帰れば本位に返帰す。多隆阿は曰く、九三は陽爻を以て陽位に居り、難を済うの才干あるに似るも、その前は正坎に緊接す。だから「往蹇」。退き下れば艮なり。だから「来反」。艮は背を象徴し、背は身を轉じて回返するの義あり、九三はまた艮卦の主爻。だから「反」。《小象伝》に曰く、前に往けば険難、退き帰れば返帰すは、内卦の衆爻がこれのために喜ばばなり、と。九三が返り来りて内卦に居りて、外に往きて険難を招致せざれば。だから「喜之」。

六四:往蹇來連。四居正坎、互坎之間,此連坎也。前往固蹇,來後亦與坎連,故曰往蹇來連。象曰:往蹇來連,當位實也。九五:大蹇朋來。五陽得中,又得正位,此卦辭所云大人也。而居正坎之中,為蹇之主,則天下之蹇皆歸之,故獨別之曰大。欲濟大蹇,獨力難勝,貴朋來以助之。朋者,卦辭所云見大人者也,與五同德,共濟艱難,蓋有朋來則蹇庶幾可解矣。象曰:大蹇朋來,以中節也。

六四の爻辞:前に往けば険難、退き帰れば依然険難と相連す。多隆阿は曰く、六四は正坎と互体坎の間に夾り、これは両重の坎が相連する。前に往くは固より険難、退き帰るもなお坎と連る。だから「往蹇来連」。《小象伝》に曰く、前に往くは難、退き帰るは相連するは、その位に当りて篤実なればなり、と。九五の爻辞:大なる険難の中に、朋友は前に来りて相助す。多隆阿は曰く、九五は陽爻で、すでに中に居りまた正位を得る。まさに卦辞の言う「大人」。而してそれは正坎の中間に居りて、全卦の険難の主爻と為れば、天下の険難は皆その身上に帰す。だから特に一箇の「大」の字を標出す。大なる険難を解救せんと欲するは、単に一己の力は勝任し難く、朋友の前に来りて相助する有るを貴ぶ。いわゆる「朋」は、すなわち卦辞の裏の言うあの「見大人」の人々で、彼らは九五と徳を同じくして、共同に艱難を度る。朋友の来る有れば、険難はすなわち化解の希望あり。《小象伝》に曰く、大険難の中に朋友が前来するは、九五が中に居りて節度有ればなり、と。

上六:往蹇來碩,吉,利見大人。卦名曰蹇,故皆宜來不宜往,諸爻皆然,即上亦何獨不然。往固蹇矣,來從於五則吉。蓋五為君,碩人也,即大人也。碩,大也,故曰來碩。見此碩人,又值卦盡,則蹇宜解,不至長蹇矣,故利。象曰:往蹇來碩,志在內也;利見大人,以從貴也。內謂五,五為貴者,上宜從之。

上六の爻辞:前に往けば険難、退き帰れば碩大の人に遇う、吉、大人に見ゆるに利あり。多隆阿は曰く、卦名を蹇と言えば、だから各爻は皆「来」に宜しく「往」に宜しからず。其余の各爻はかくの如く、上六もまた何ぞ独り例外ならん。前に往くは固より険難、退き帰りて九五に跟従すればすなわち吉。第五爻は君で、すなわち「碩人」、すなわち「大人」。「碩」はすなわち大。だから「来碩」。この碩人に見え、またちょうど一卦がすでに尽頭に至るに値うれば、険難はまさに解除すべく、長期に難中に困るに至らず。だから利あり。《小象伝》に曰く、前に往くは難、退き帰れば碩人に遇うは、心志が内に在ればなり。大人に見ゆるに利あるは、尊貴の者に跟従せんがためなり、と。「内」は九五を指し、九五は尊貴の者で、上六は彼に跟従すべし。

解卦

【坎下震上,中互坎離】【小過】解為四陰二陽卦,自小過來,二往升三,三來降二。彖傳曰其來復吉,乃得中也,指此。虞氏謂臨初之四,不合傳義。解,利西南,無所往,其來復吉,有攸往,夙吉。坎在內卦,猶是蹇也;而外卦為震,震動出坎,則蹇已解,故下坎上震之卦曰解。初解蹇難,宜居平衍之地以養育之,故利西南。既解之後,前無所往,惟宜來復,不宜再為紛更,重事滋擾,故曰無所往,其來復吉矣。夫解豈能坐致?惟有往乃可以解,而轉雲無所往者,蓋有往解蹇夙已如此。夙,早也。今蹇已解,不必又往,宜來復也。

【解卦の下卦は坎、上卦は震、中間の互体は坎と離を含む】小過卦より変ず。解は四陰二陽の卦に属し、小過の第二爻が三位に上昇し、第三爻が二位に下降した。《彖伝》は「其来復吉、乃得中也」と言うは、指すはまさにこの一変。虞翻は臨卦の初爻が第四位に至ると謂うは、《彖伝》の意思に合せず。卦辞:解、西南に利あり。往く所なければ、帰り来て位に復すれば吉。もし往く所有れば、及早に行動すれば吉。多隆阿は曰く、坎はなお内卦に在りて、依然として険難。しかし外卦は震で、震は一に動けばすなわち坎を出で、険難は便ちに解除せられたり。だから下坎上震の卦を解と言う。険難は剛に解除せられれば、平坦開闊の地に居りて休養生息するに宜しき。だから「利西南」。すでに解除の後は、前に往くべきのなし、ただ返り来りて位に復するに宜しく、さらに折腾変更して事端を多生して攪擾を加うべからず。だから「無所往、其来復吉」。ただ難を解くは豈に坐して致すべけんや。ただ前往する有りてこそ解を語り得るに、ここにかえって「無所往」と言うは、難を解くがための前往の事はすでに早くかくの如く為せばなり。「夙」はすなわち早。今険難はすでに解ければ、さらに前に往くに及ばず、まさに帰り来りて位に復すべし。

彖曰:解,險以動,動而免乎險,解。解利西南,往得眾也。其來復吉,乃得中也。有攸往夙吉,往有功也。天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲坼。解之時大矣哉!震動坎險,合之成卦。惟恐陷險而始震動,震動前行,則已出險,是險已解去也,故名曰解。解自小過來,小過下為艮,艮為止,止則不往;二往居三以成坎,坎為眾,是為往得眾。得眾即非艮,艮位東北,與西南相對,去東北故往西南。西南地勢平衍,蹇利得之以濟蹇,解亦利得之以成解,蓋大難初平,宜長養以息物力也。

《彖伝》に曰く、解卦は、険に処りて能く動き、一に動けばすなわち険境を脱擺す。これが解。解は西南に利あるは、前往すれば衆人の擁護を獲得し得ればなり。帰り来りて位に復すれば吉は、中位を得たればなり。往く所有りて及早なれば吉は、前往すれば功業を建立し得ればなり。天地の気は解散し開いて、雷雨はすなわち興作し、雷雨が興作すれば、各種の果実草木の外殻は皆裂けて発芽す。解卦の当るの時機は真に重大なるかな。多隆阿が解して曰く、震の動と坎の険が合せて此卦を構成す。まさに険に陷るを恐れてこそ震動を始め、一に震動して前に行けば、すでに険を出でたり。見るに険はすでに解き去らる。だから解と名づく。解は小過より変じて来て、小過の下卦は艮、艮は止、一に止まればすなわち前往せず。第二爻が上りて第三位を占居して坎を成せば、坎は衆を象徴す。これが「往得衆」。衆を得ればすなわちすでに艮にあらず。艮の方位は東北で、西南と相対す。東北を去ればすなわち西南に向かう。西南の地勢は平坦開闊で、蹇卦はこれに頼りて難を済い、解卦もまたこれに頼りて解難を完成す。大難は剛に平定せられれば、まさに休養生息して民力を回復すべければなり。

小過之卦下為艮,上卦非坤,西南為虛象,西南雖利,究無所往。解外卦為震,震前無地,前無所往,惟宜來復。來復所以得吉者,以小過之三易來居二,二為坎中,是二之中惟來復始得之。蓋朝野初安,不宜再為紛更,又增擾也。夫惟先有蹇,然後乃有解,是解所以解蹇,惟已解蹇始可名解。當夫解蹇之初,豈能無所往以解蹇?至於蹇解之後,則已變蹇而言解,是名為解,則於既解以後言之也,蓋早已有所往以解蹇也。夫成坎之中,由於小過之三下來居二,而小過之震不易,震動前往,解功已成,是威已然。此時惟宜靜守,以可大者為可久也。

多隆阿が接続して曰く、小過のこの卦は下は艮で、上卦は坤にあらず。いわゆる西南はただ一箇の虚設の象で、西南は利あると雖も、終に実在の往くべきの処なし。解卦の外卦は震で、震の前はすでに走るべきの地なし。前方に往くべきの所なければ、ただ帰り来りて位に復するに宜しき。帰り来りて位に復するの吉を得る所以は、小過の第三爻が換えて下りて第二位に居ればなり。第二位はまさに坎の中爻で、見るにこの「中」はただ「来復」してこそ得られるなり。朝廷と民間は剛に安定せれば、さらに折腾変更してまた攪擾を添うべからず。ただ先に蹇の険難有りて、然る後にこそ解あり。見るに「解」はすなわち険難を解き掉るに、ただ険難のすでに解けたるを以てこそ解と呼び得。当初に難を解くに着手するの時、豈に「無所往」にして難を解き掉るを得んや。難のすでに解除せられて後に至りて、こそ蹇を言うより解を言うに転ず。すでに解と名づければ、すなわちすでに解除の後に就いて言うに、さらば前往して難を解くの事は自ずからすでに早く為されたり。坎の中爻の成形する所以は、小過の第三爻が下りて第二位に居ればなり。而して小過の上震は変動なく、震動して前行して、解難の功はすでに成り、威勢はすでに顕現せり。この時はただ安静に守持するに宜しく、能く「大」を守住せられてこそ、「久」を守住し得ればなり。

但以震坎之德言之,則為動、為險;而以震坎之象言之,則又為雨、為雷。坎在震上,則坎祇為雲,故坎上震下之卦曰雲雷屯;坎來震下,則坎已為雨,此震上坎下之卦曰雷雨作。震為木,為反生,為竹,為萑葦,為蕃鮮,百果草木甲坼之象。甲,草木之苞孚也;坼,裂也。坎丁冬令,震丁春令,冬寒未釋,萬物猶蒙,忽有雷以震之,則蒙漸蘇;忽有雨以滋之,則萌已吐。是雷雨所以解百果草木之困,故天地以解而作雷雨,則百果草木以解而坼甲苞,此解之時也,解之時豈不大哉!

多隆阿がさらに物象より講じて曰く、もし震・坎の卦徳に按ずれば、それらは「動」と「険」。もし震・坎の物象に按ずれば、それらはまた「雷」と「雨」。坎が震の上に在れば、坎はただ雲のみ。だから坎上震下の卦を屯と言い、《大象伝》は「雲雷、屯」と言う。坎が震の下に来れば、坎はすでに雨と成る。だから震上坎下のこの卦は「雷雨作」と言う。震は木を象徴し、倒生を象徴し、竹子・蘆葦・繁茂鮮嫩の物を象徴す。まさに各種の果実草木の外殻が裂開するの象。「甲」は草木の外苞で、「坼」は裂開。坎は冬季に配当し、震は春季に配当す。冬の寒さはまだ消解せず、万物はなお蒙昧閉塞の中に在るに、忽ち雷有りてこれを震動せば、蒙昧は漸く蘇醒し、忽ち雨有りてこれを滋潤せば、嫩芽はすでに吐出せり。見るに雷雨はまさに百果草木の困頓を解除するに用うるに、だから天地は「解」によって雷雨を興作し、百果草木もまた「解」によって外苞を裂開す。これがすなわち解卦の当るの時機。この時機は豈に重大ならざらんや。

象曰:雷雨作,解。君子以赦過宥罪。雷在坎下,坎祇為雲,則卦名屯;坎在震下,坎已成雨,故卦名解。解者,所以解患難,罪過亦患難之類,赦過宥罪乃解之大者。卦有正坎、互坎,坎為多眚,為過;又為桎梏,為罪。卦有正震、互離,離明以照之,為宥;震動以出之,為赦也。

《大象伝》に曰く、雷雨興作す、解なり。君子はこれに象りて過失を赦免し罪犯を寛宥す。多隆阿は曰く、雷が坎の下に在れば、坎はただ雲のみ、卦名は屯。坎が震の下に在れば、坎はすでに雨と成る。だから卦名は解。「解」は患難を解除するに用うるに、罪と過もまた患難の一類に属し、過を赦し罪を宥するはまさに「解」の中の大事。此卦は既に正坎ありまた互体坎あり、坎は多くの灾眚を象徴し、すなわち「過」、また刑具枷鎖を象徴し、すなわち「罪」。此卦はまた正震と互体離あり。離の光明がこれを照察するは、すなわち「宥」、震の行動がこれを放出するは、すなわち「赦」。

初六:無咎。初在下位,又為陰柔,解之權不及此,故無咎。象曰:剛柔之際,義無咎也。初為剛位,柔來居之,故曰剛柔之際。九二:田獲三狐,得黃矢,貞吉。解者所以解患害。害有在於人者,三之寇、五之小人是也;患有在於物者,二之狐、上之隼是也。二為坎中,九家易曰:坎為狐。二為內卦之主,合之上下二爻,是為三狐。狐為邪媚之物,宜解除之,於是田獵事與,用黃矢以射取之。二體互離,離為黃矢,用矢以獲三狐,則象坎險已解,以成解道也,故貞吉。象曰:九二貞吉,得中道也。

初六の爻辞:咎なし。多隆阿は曰く、初六は最下の位に居り、また陰柔で、難を解くの権柄はこれに及ばず。だから咎なし。《小象伝》に曰く、剛位と柔爻の交接の処は、道理に按じて咎あらざるなり、と。初位はもとより剛位なのに、柔爻に来りて占めらる。だから「剛柔之際」。九二の爻辞:打猟して三隻の狐を捕獲し、黄銅の箭頭を得、正を守りて吉を得。多隆阿は曰く、「解」は禍患を解除するに用うる。禍害が人の身上に出づるは、六三の言う強盗、六五の言う小人これなり。禍患が物の身上に出づるは、九二の言う狐、上六の言う鷂鷹これなり。九二は坎の中爻で、《九家易》は坎は狐を象徴すと言う。九二はまた内卦の主爻で、上下の二爻を連ねて算えれば、すなわち「三狐」。狐は邪媚の物で、除掉すべし。ここに田猟の事が興り、黄銅の箭を用いてこれを射取す。九二は互体離の中に居り、離は黄色の箭矢を象徴す。箭を用いて三隻の狐を射獲すれば、すなわち坎の険阻がすでに解除せられたるを象徴して、以て「解」の道を完成す。だから正を守りて吉を得。《小象伝》に曰く、九二が正を守りて吉を得るは、中道を得たればなり、と。

六三:負且乘,致寇至,貞吝。三居內外卦之間,下為坎輿,三至五為互坎,亦輿也。輿在下則乘之,輿在上則負之。輿為君子之器,負乃小人之事,小人乘君子之器,寇丑其行而思攘奪之矣。坎為盜,是謂之寇。不能除寇,而轉致寇之至,是三之行先已類寇,以寇負寇,是誨寇使來也,故貞吝。象曰:負且乘,亦可醜也;自我致戎,又誰咎也。既負且乘,其行可丑;誤任用之,則始而為盜者,久且成戎,兵戎之起,自我致也。

六三の爻辞:既に物を負いまた車に乗りて、強盗を招来す、固守すれば憾あり。多隆阿は曰く、六三は内外卦の交界に居り、下は坎の象する車、三爻より五爻に至るは互に坎を成して、もまた車なり。車が下に在ればすなわち車上に坐り、車が上に在ればすなわち身上に負う。車はもとより君子の乗るの器具で、物を背負うは却って小人の幹るの活。小人が君子の車に坐れば、強盗はこの種の做派を看惯せずして、すなわち搶奪の念頭を動かしたり。坎は盗を象徴す。すなわちこれを「寇」と謂う。自ら強盗を除掉する能わざるに、かえって強盗を招来す。見るに六三の行徑は本身就すでに盗に近し。盗を以て盗を負うは、教唆して強盗をして前来せしむるに等し。だから固守すれば憾あり。《小象伝》に曰く、また負いまた乗るは、実に難看なり。自ら兵禍を招来せり、また誰を咎めんや、と。また負いまた乗れば、行徑は可鄙なり。一旦錯誤にこの種の人を任用せば、起初は不過盗賊を為すのみ、日を久しくすればすなわち兵禍を醸成せんと欲す――兵禍の興起は、自ら招来せしなり。

九四:解而拇,朋至斯孚。四體為震,震為足,下應於初,初居震下,則足拇也。解以震動出險為義,動則有行,人之行自拇始,故曰解而拇。夫欲成解功,則非一手一足之烈,宜有輔之以成解者。蹇待朋以濟蹇,五為君位,則是以臣為朋,故蹇五曰朋來;解亦待朋以成解,四為臣位,則是以五為朋,故解四曰朋至。四為陽剛,為震之主,有才能之臣可以成解功者。互坎為孚,朋至斯孚,信之矣。象曰:解而拇,未當位也。惟未當位,故待朋至也。

九四の爻辞:爾の足拇指を解き放て、朋友が来りてこそ誠信あり。多隆阿は曰く、九四の本体は震に属し、震は足を象徴し、下に初六と相応じ、初六は震の最下に居れば、すなわち足拇指。解卦は震動して険を出づるを以て要義と為し、一に動けばすなわち行走を要し、而して人の行走は足拇指より起步す。だから「解而拇」。難を解くの功を成就せんと欲すれば、一手一足の気力の辦し得る所にあらず、人の輔助あってこそ完成し得。蹇卦は朋友に頼りて難を済うを要し、九五は君位。だから臣を以て朋と為す。故に蹇の九五は「朋来」と言う。解卦もまた朋友に頼りて難を解くを成就するを要し、九四は臣位。だから九五を以て朋と為す。故に解の九四は「朋至」と言う。九四は陽剛の爻で、また震卦の主爻。まさに才干有りて難を解くの功を成し得るの臣子。互体坎は誠信を象徴し、朋友が来りてこそ誠信ありは、彼此信任したるを説明す。《小象伝》に曰く、爾の足拇指を解き放ては、位置がまだ恰当ならざればなり、と。まさに位置の恰当ならざるが故に、朋友の来るを待つを要す。

六五:君子維有解,吉,有孚于小人。五為君位,乃君子也,與四相維以成解功。蹇五為君,故上來五曰見;解四為臣,故五求四曰維。是五與四相維繫以有此解也。夫解所以解險,二為坎中,則為小人。坎為孚,是君子有解,小人信之,甘心遠退,不梗王化,則解功成矣。象曰:君子有解,小人退也。小人之退,孚君子也。

六五の爻辞:君子は維繫する所有りて能く難を解く、吉、小人に対しても誠信あり。多隆阿は曰く、第五爻は君位、すなわち君子で、それは九四と互相維繫して難を解くの功を成就す。蹇卦の九五は君。だから上六が下りて九五に投奔するを「見」と言う、すなわち「利見大人」。解卦の九四は臣。だから六五が九四を求めに行くを「維」と言う。見るに六五と九四が互相維繫して、こそこの一番の難を解く有り得たり。「解」は険難を解除するに用うるに、九二は坎の中間に居りて、すなわちあの小人を代表す。坎は誠信を象徴す。だから君子が難を解けば、小人もまた彼を信服して、甘心して遥かに退去して、もはや王道教化を阻碍せず。難を解くの功もまた成就せり。《小象伝》に曰く、君子が解あるは、小人が退去すればなり、と。小人が退去を肯んずるは、まさに君子を信服せばなり。

上六:公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。隼,鷂屬,爾雅名鷣,詩云鴥彼飛隼,即晨風,俗名雀鷹,搏擊害禽之鳥也。上與三應,三為互離,虞氏曰:離為隼。離隼居坎上,坎為宮,象高墉。上與五比,五君為公,公用之以坎弓離矢,射此隼于高墉之上,則震動出險,自能以射之者獲之也。此所謂藏器於身,待時而動者,無不利矣。象曰:公用射隼,以解悖也。鷙鳥害同類之物,與小人害同類之人一也,故曰悖,宜以射之者解去之。

上六の爻辞:王公は高牆の上に於てあの隼を射て、射中してこれを擒獲す、不利なし。多隆阿が考釈して曰く、隼は鷂の一類に属し、《爾雅》の裏に「鷣」と呼び、《詩経》は「鴥彼飛隼」と言う。すなわち「晨風」で、俗名は雀鷹、搏击して他の禽鳥を猟殺するの鳥。上六は六三と相応じ、六三は互体離の中に居り、虞翻は離は隼を象徴すと言う。離の象する隼は坎の上に停り、坎は宮室を象徴して、高牆に象を取り得。上六は九五と相邻り、九五は君で「公」と称し得。王公は坎の象する弓・離の象する箭を用いて、高牆の上に於てこの隼を射れば、ここに震が一に動きて険境を脱擺して、自ずから能く射猟するの人以てこれを擒獲す。これがまさに《繋辞伝》の言う「藏器于身、待時而動」。だから不利なし。《小象伝》に曰く、王公が隼を射るは、以て悖乱を解除せんとするなり、と。鷙鳥が同類の禽鳥を傷害するは、小人が同類の人を傷害するに一事なり。だから「悖」と言い、まさに射猟の办法を以てこれを除掉すべし。

損卦

【兌下艮上,中互坤震】泰。損為三陽三陰卦,自泰來。荀氏曰:謂損乾之三居上,孚二陰也。虞氏曰:泰三之上。陸氏曰:乾九三變六三,陰柔益上九。蜀才曰:此本泰卦,坤之上六下處九三,乾之九三上升坤六。

「損」卦の卦体は下卦が兌・上卦が艮で、第二爻より四爻に至るは互に坤を成し、第三爻より五爻に至るは互に震を成す。それは「泰」卦より変じて来る。損は三陽三陰の卦で、泰卦もまた三陽三陰。だから泰卦より来ると言う。荀爽は曰く、これは泰卦の下体乾の第三爻を減損して上らせて、それを上位に居らせて、以て上の二つの陰爻に取信するなり。虞翻は曰く、泰卦の九三と上六の互换なり。陸績は曰く、乾の九三が六三に変じて、陰柔の質を以て上九を增益するに往くなり。蜀才は曰く、此卦はもとより泰卦で、坤の上六が下りて九三の位に居り、乾の九三が上昇して坤の上爻の位に居る。

損:有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。與咸交對之卦曰損。損,減也。損不宜遽損,宜有孚信以將之,始克大吉無咎,始可以貞守,此損往而行之乃利也。損以致用,果何如以用之哉?如燕享之禮必用簋以盛食物,簋僅用二,是由損之又損,以餘此二簋也。二簋用享,猶乃曰可,是不尚繁文,而惟以孚誠行之,如此則得損之道矣。

損卦の卦辞:心に誠信を懐き、大いに吉祥、咎なく、正を守るべく、前往するに宜しき。何を以て奉献せんや。二簋の祭品を以てすればすなわち献享し得。多隆阿が解して曰く、「咸」卦と交錯相対するの卦を「損」と言う。損はすなわち減。減損は減ると言うに及んで減るべからずして、必ず先に誠信有りてこれを扶持して、こそ大吉を得て咎を生ぜず、こそ正を守りて自持すると語り得。かくの如き誠信を帯びて減損を推行し、前往して施行してこそ利を言うべし。減損は致用のため。さらば究竟どのように用うるべきか。譬うるに宴飲献享の礼は、必ず「簋」を用いて食物を盛るべく、今はただ二隻の簋を用うるのみは、これは一に減りまた減りて、ただこの二隻の簋を余す。二隻の簋を拿去して献享するに、居然としてまた可と言う。見るにこの礼は繁縟の儀文を崇尚せずして、ただ誠信の心を憑りて行事するのみ――この一歩を為し得れば、すなわち減損の道を掌握せり。

彖曰:損,損下益上,其道上行。損而有孚,元吉無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。二簋應有時,損剛益柔有時,損益盈虛,與時偕行。艮兌兩合之卦,何以名損也?彼兌上艮下,有以男下女之象,故名曰咸;若兌下艮上,無所為損,而卦名損者,則以損自泰來。泰下為乾,泰上為坤,三陽三陰上下分聚,今則損乾九三益坤上六。乾無陰,易一陰來以為兌;坤無陽,易一陽來以為艮。陽下上往,有損下益上之義,故名曰損也。

《彖伝》に曰く、損は、下を減損して上を增益するに、その運行するの方向は上に向かうなり。減損して誠信あれば、大いに吉祥・咎なく、正を守るべく、前往するに宜しき。何を以て奉献せんや。二簋の祭品を以てすればすなわち献享し得。ただ二簋の献享は時機を看るを要し、剛強を減損し柔弱を增益するもまた時機を看るを要す。損と益・満と虚は、皆時勢に随いて一同に推移す。多隆阿が解して曰く、艮と兌の両卦相合すれば、なぜ「損」と言うや。かの兌が上・艮が下の卦は、男子が身を屈して女子に下就するの意象あり。だから「咸」と言う。今は兌が下・艮が上で、卦象の本身に何の減損すべきもなきに、却って「損」と名づくるは、損卦が泰卦より変じて来ればなり。泰卦の下体は乾・上体は坤で、三陽三陰は分別に上下の両処に聚る。今は乾の九三を減損して坤の上六を增益しに往く。乾体はもとより陰爻なく、一つの陰爻を換えて入れればすなわち兌と成る。坤体はもとより陽爻なく、一つの陽爻を換えて入れればすなわち艮と成る。陽爻が下より上に往くは、正に下を減損し上を增益するの意を含む。だから「損」と名づく。

夫損下益上,有似剝民,是貴有陽實之孚以將之,而後乃得乾元之吉以無咎;又貴有坤之永貞以守之,而後乃得互震之行以利往,則損以【以:亦】貴乎善用矣。損果曷之用哉?古者燕享之禮,八簋為盛,二簋為薄,二簋用享,是由六簋四簋損之又損,以餘此二簋,雖云至薄,亦可言用。蓋卦中有互震,震為木,為蒼筤竹,得兌金以削制之,而兌又自乾來,乾為圜,竹木體圓,簋之象也。下有二陽,故曰二簋。上艮為門闕,下有兌口,食簋之實,以享互坤之養,故曰用享也。

下を減損して上を增益するは、百姓を剥削するに近似す。だから特に陽爻のあの実在の誠信有りてこれを扶持するを看重して、然る後にこそ乾元の徳の吉祥を得て咎を生ぜず。もまた坤徳の長久守正有りてこれを護持するを看重して、然る後にこそ互体震卦の行動の義を憑りて前往に利を得。見るに減損もまた善用するを貴ぶ(底本この字は「以」に作る、まさに「亦」に作るべし)。さらば減損は究竟どのような用法か。古代の宴飲献享の礼は、八簋を用うるを豊盛と算え、二簋を用うるを菲薄と算う。ただ二簋を用いて献享するは、六簋・四簋より一に減りまた減りて、ただこの二簋を余したるに、菲薄して極点に至ると言うと雖も、もまた拿来して用うべし。これは卦中の互体に震有るが故に、震の取象は木で、初生の青竹で、また兌の金気を得て削製して器と成す。而して兌はもとより乾より変じて来て、乾の取象は円で、竹木の器物は体形が正に円なり。これがすなわち「簋」の取象の所在。下体に二つの陽爻あり。だから「二簋」。上体の艮は門闕で、下面に兌の口ありて、簋の中に盛るの物を食して、以て互体坤卦の主るの養育の徳を奉養す。だから「用享」と言う。

則是二簋者,由於有所損以致之;而享此二簋者,亦宜審其時以用之。損者損泰之乾,益者益泰之坤。乾剛也,坤柔也。損剛則陽變陰為虛,益柔則陰變陽為盈,損益盈虛,與時偕行,所以元吉無咎,可貞,利有攸往耳。

これによりて観れば、この二簋の祭品は減損する所有るがためにこそかくの如き菲薄に落到せしに、而してこの二簋を用いて献享するの人も、またまさに時勢を審察して然る後にどのように用うるかを決定すべし。減損せる所は泰卦の乾体で、增益せる所は泰卦の坤体。乾は剛に属し、坤は柔に属す。剛強を減損すれば、陽位が陰爻に変じてすなわち「虚」と成り、柔弱を增益すれば、陰位が陽爻に変じてすなわち「盈」と成る。損と益・盈と虚は皆時勢に随いて一同に推移す。だから卦辞はこそ大いに吉祥・咎なく・正を守るべく・前往するに宜しきと言う。

象曰:山下有澤,損,君子以懲忿窒欲。去山下之土以為澤,山得澤土愈成山之高,損之象也。懲,□□心也。忿,悁急也。窒,塞也。欲,貪慾也。乾為剛健曰忿,易為兌說,說與忿反,故曰懲忿;坤為吝嗇象欲,易為艮止,能止其欲,故曰窒慾。泰之乾上變一陰,忿從兌口洩出,故曰懲也;泰之坤上變一陽,欲因艮止阻入,故曰窒也。

《象伝》に曰く、山下に水沢あり、これが損卦。君子はこれに象りて、以て憤怒を遏止し私欲を堵塞す。多隆阿が解して曰く、山の脚下の土を挖き去りて水沢を做成すれば、山はかえって沢土の襯托を得るがためにいよいよ其の高さを成す。まさに「損」の取象――下を減損するは恰恰として上を成就せしむるなり。「懲」は内心をして警戒を知らしむるなり(底本ここに二字を缺く)、「忿」は急躁悩怒で、「窒」は堵塞で、「欲」は貪求。乾性は剛健。だから忿に象を取る。泰卦の乾は兌に変じて、兌は和悦を主り、和悦は憤怒と正に相反す。だから「懲忿」。坤性は吝嗇で、欲に象を取る。泰卦の坤は艮に変じて、艮は静止を主り、能く貪欲を止め得。だから「窒欲」。泰卦乾体の上爻が一つの陰爻に変ずれば、怒気は便ちに兌口より宣泄して出づ。だから「懲」と言う。泰卦坤体の上爻が一つの陽爻に変ずれば、私欲は艮の静止に阻まれて外に在りて入り来らず。だから「窒」と言う。

初九:己事遄往,無咎,酌損之。卦以損下益上為義,則下之宜損不獨六三然也,即初與二亦有所宜損者。夫急於奉公乃民之分,惟以公事為己事,速往以應之,乃得無咎也。遄,速也。然損貴乎得宜,惟有以斟酌之:上之損下不為厲民,下之奉上不為行私,得損之正矣。象曰:己事遄往,尚合志也。尚,上通,謂四也。

初九の爻辞:公家の事を自らの事と為して、急ぎて前往す、咎なし、ただ斟酌して減損すべし。多隆阿は曰く、此卦は下を減損し上を增益するを以て義と為せば、さらば下体の中に減損を受くべきはただ六三の一爻のみに止まらず、初九と九二もまた皆減損すべきの処あり。公に奉ずるに急なるはもとより百姓の本分。ただ公事を自らの事と為して、速かに赴きて回応して、こそ咎なきを得。「遄」はすなわち快速。ただ減損は恰好を得るを貴び、ただ斟酌を加えてこそ、能く上に在る者が下を減損しても百姓を虐害するに至らず、下に在る者が上を奉養しても公を仮りて私を済わすに至らず。これがすなわち減損の正道を得たり。《小象》は「己事遄往、尚合志也」と言う。「尚」は「上」と通じて、指すは初九と相応ずるの六四。

九二:利貞,征凶,弗損【句】,益之。二有陽剛之才而居兌說之中,以柔說奉上,失其正矣,惟守正則利,故曰利貞。二又居互震之初,震動也;二又與五應,五為艮中,艮止也。前徵遇艮之止,動則有失,故曰征凶。此惟貞正靜守,高尚其志,己之自處既重,而人亦不敢以或輕,迨至清節可慕,頑懦興感,弗損於己而實足以益人。此以不損為損,所以宜貞而不宜征也。象曰:九二利貞,中以為志也。以中為志,自足益上,故不宜征也。

九二の爻辞:正を守るに利あり、前行すれば凶険あり。自らを減損せずして、かえって他人を增益し得。多隆阿は曰く、九二は陽剛の才ありて、却って兌卦の和悦の体の中位に居り、倘若柔順取悦の姿態を以て上を奉承すれば、すなわち正道を失う。ただ正を守ってこそ利あり。だから「利貞」。九二はまた互体震卦の起始に居り、震は動を主る。九二はまた六五と相応じ、六五は互体艮卦の中に居り、艮は止を主る。前に往きて行進すれば正に艮の静止に撞上す。一に動けばすなわち閃失あるべし。だから「征凶」。ここにただ正を守りて静かに処り、志向を抬高するに宜しき。自ら立身はすでに重んぜられれば、别人もまた敢えて軽慢せず。清操高節が人の仰慕する所と為るに及ばば、頑劣怯懦の人すらも感発を受け、自らは何も損失せざるに、実際には足りて他人を增益す。これは「減損せず」を以て減損と為す。だから正を守るに宜しくして前行するに宜しからず。《小象》は「九二利貞、中以為志也」と言う。中を守るを以て志向と為せば、自ずから足りて上に在る者を增益す。だから前行するに宜しからず。

六三:三人行則損一人,一人行則得其友。此損之主爻也。卦自泰來,上坤下乾,乾為三陽,內卦無陰;坤為三陰,外卦無陽。乾為人,互震為行人,乾陽上行則損一人以益坤,是乾一人上行,則與坤二陰為友也。坤為眾,故曰友。得其友則陰陽不孤,得以合和【合和:和合】而致一矣。象曰:一人行,三則疑也。一人謂泰乾之三。乾三陽為三人,三陽則疑於無陰,故宜一人行也。

六三の爻辞:三人が同行すればすなわち一人を減ずべく、一人が独行すればかえって伴侣を得。多隆阿は曰く、これは損卦の主爻。卦は泰卦より変じて来て、泰卦の上体は坤・下体は乾で、乾は三つの陽爻を有して内卦の中に一つの陰爻もなし。坤は三つの陰爻を有して外卦の中に一つの陽爻もなし。乾の取象は人で、互体震の取象は行人。乾の中の一つの陽爻が上行するは、すなわち一人を減じて坤体を增益しに往くなり。すなわち乾の中のこの一人が独自に上行して、便ちに坤の中の二つの陰爻と朋友を結成す。坤の取象は衆。だから「友」と言う。朋友を得れば、陰陽はもはや孤単ならずして、能く和合して一致に帰す(底本は「合和」に作る、まさに「和合」に作るべし)。《小象》は「一人行、三則疑也」と言う。「一人」は泰卦乾体の第三爻を指す。乾の三つの陽爻はすなわち三人で、三陽が併聚すればすなわち純陽にして陰なきに近似す。だから一人を分けて上行せしむるに宜しき。

六四:損其疾,使遄有喜,無咎。四居上卦之初,則既不受益而亦不至有損,然處此多懼之位,瑕疵易見,是其疾也,故所損者宜在疾。蓋陰柔無主為疾,四近君位,受下之益以致君上之疑則可虞,故宜損其疾。疾損則有喜,喜宜速有,言疾不可不急損也。虞氏曰:震為喜。損疾即為有喜,而四為受初益者,使速有喜,則損之即所以益之也,故無咎。象曰:損其疾,亦可喜也。

六四の爻辞:自らの毛病を減損して、人をして迅速に喜悦を得しむ、咎なし。多隆阿は曰く、六四は上卦の起始に居りて、既に受益と算うべからずして、また受損に至らず。しかしそれが居る所はまさに《繋辞下伝》の言う「多懼」の四位で、瑕疵は人に見られ易し。これがすなわちその「疾」。だから減損すべきはまさにこの毛病に在り。陰柔にして主見なきがすなわち毛病。六四は君位に逼近して、下の增益を受けて君上の猜疑を引起せば、甚だ憂うべし。だからこの毛病を減損すべし。毛病が去ればすなわち喜あり、而して喜は速かに来るを要す。これは毛病は急ぎて減損すべからざるべからずを言う。虞翻は曰く、震の取象は喜。毛病を減ずればすなわち喜あるに等し。而して六四はまた初九の增益を接受するの一方で、それをして迅速に喜悦を得しめば、さらば初九に対するの減損は恰恰として六四に対するの增益なり。だから咎なし。《小象》は曰く、自らの毛病を減損すれば、もまた欣喜に値す、と。

六五:或益之十朋之龜,弗克違,元吉。上為受益之主,五為君位,雖宜受益而無主名,故云或。卦體中虛有離象,離為龜,五貝為朋;五為互坤之末,坤地數十,故云十朋。夫十朋之龜,非不貴矣,然下獻之無損於下,而上得之實益於上,益之以此,弗能違人之獻,故元吉。象曰:六五元吉,自上佑也。佑,助也。五為互坤,得上與三易以成離龜,是五之元吉由上助之。龜為神物,所以定策決疑者,猶之君能尚賢,賢臣所以輔之也,故元吉歸於五也。

六五の爻辞:人有りて価値十朋の大亀を送り来る、推辞する能わず、大いに吉祥。多隆阿は曰く、上九こそが增益を接受するの主爻で、六五は君位に居りて受益すべき理あると雖も、「受益之主」の名分なし。だからただ「或」――すなわち人有りと言うのみ。卦体の中間は虚空にして離卦の象あり、離の取象は亀。古制は五貝を以て一朋と為し、六五は互体坤卦の末位に居り、坤は地で地の数は十。だから「十朋」。価値十朋の大亀は貴重ならずと言うべからず。しかし下がこれを献上するは下を損なわずして、上がこれを得れば実に上に益あり。かくの如き物を以て君上を增益するは、君上は他人の進献を推卻する能わず。だから大吉。《小象》は「六五元吉、自上佑也」と言う。「佑」は助け。六五は互体坤に属し、全く上九と六三の互换に頼りてこそ離卦の亀象を成就せしめたり。見るに六五の大吉は上九の助けの結果。亀は神物で、以て策を定め疑を決するに用う。これは譬うるに君主が能く賢人を尊崇すれば、賢臣はここに彼を輔佐するが如し。だから大吉は六五の身上に帰す。

上九:弗損【句】,益之,無咎,貞吉,利有攸往,得臣無家。此受益之主也,損三以益之者即益此也。夫居上臨下,豈宜損下?惟弗損於下而又實克益上,如此則無咎,得正而吉,前往行之亦利,則此弗損即所以益之者。蓋言王者之臣服天下,如詩所云率土之濱莫非王臣者也。得臣無家,不以私家為家而以天下為家。漢書五行志云:王者臣天下,無私家也。泰坤為臣,變坤上為陽以為坤主,是為得臣;坤為國為邑,變坤土為艮止,是為無家。得臣若此,則萬方一軌,私家之小不足言矣。象曰:弗損益之,大得志也。

上九の爻辞:下を減損せずして、かえって上に增益す、咎なく、正を守れば吉、前往して行うに利あり、臣属を得て其の家を私有せず。多隆阿は曰く、上九は增益を接受するの主爻で、六三を減損して增益する所は、まさにこの一爻。身に上位を居て下民に面すれば、豈に下を減損すべけんや。ただ下を減損せずして、同時に確実に能く上を增益すれば、かくの如くすればこそ咎なく、正道を守りて吉祥にして、前往して施行するもまた利あり。見るにこの「減損せず」は恰恰として「增益」の办法なり。これは王者が天下の臣をして尽く臣服せしむるを言うに、まさに《詩経・小雅・北山》の言う「率土之濱、莫非王臣」の如し。「得臣無家」は、一姓の私家を以て家と為さずして、天下を以て家と為すを言う。《漢書・五行志》に曰く、王者は天下の人を以て臣と為して、私家なし。卦象に就いて言えば、泰卦の坤は臣と為し、坤の上爻を変じて陽爻と為して坤体の主と為すは、これが「得臣」。坤はまた国・邑と為り、坤の土性を変じて艮の静止と為すは、これが「無家」。能くかくの如く臣属を得れば、天下万方は軌を同じくし法を同じくして、一家一姓の私利は言うに足らず。《小象》は曰く、減損せずして增益するは、大いに志向を実現せればなり、と。

易原巻九

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。周易下經(三):益、夬、姤、萃、升。

本巻は慧珠閣原刻本に依拠し、撰者は岫巖の人・多隆阿、字は雯溪。この一巻は《周易》下経の第三の部分を解説し、次に「益」「夬」「姤」「萃」「升」の五卦を為す。

益卦

【震下巽上,中互艮坤】否。益為三陰三陽卦,自否來。虞氏曰:否上之初也。蜀才曰:此本否卦,乾之上九下處坤初,坤之初六上升乾四。益:利有攸往,利涉大川。恆交對之卦謂之益。益,饒也。益以利人,人未有不樂受益者,故攸往利。利人宜有所往,苟能益人,宜不避險阻以前往,故涉大川亦利。

「益」卦の下体は震・上体は巽で、第二爻より四爻に至るは互に艮を成し、第三爻より五爻に至るは互に坤を成す。それは「否」卦より変じて来る。益は三陰三陽の卦で、否卦と陰陽の数を同じくす。だから否卦より来ると言う。虞翻は曰く、否卦の上九が下りて初位に至るなり。蜀才は曰く、此卦はもとより否卦で、乾の上九が下りて坤の初位に居り、坤の初六が上昇して乾の第四位に居る。卦辞:有所前往するに宜しき、大河を渡渉するに宜しき。多隆阿が解して曰く、「恒」卦と交錯相対するの卦を「益」と言う。益はすなわち豊饒。增益は以て人を利するに用うるに、人は受益を楽しまざる未だ有らず。だから前往は利あり。人を利せんと欲すれば行動あるべし。苟も真に他人を增益し得れば、すなわち険阻を避けずして前往すべし。だから大河を渡渉するすらも利あるなり。

彖曰:益,損上益下,民說無疆;自上下下,其道大光。利有攸往,中正有慶;利涉大川,木道乃行。益動而巽,日進無疆;天施地生,其益無方。凡益之道,與時偕行。震巽兩合之卦,何以名益也?彼雷風恆交對為風雷益,究之上巽下震,無所為益,猶之上艮下兌無所為損,而乃名曰益者,則以卦自否來。否為上乾下坤,損上乾以益下坤,有損上益下之義焉,故名益也。

《彖伝》に曰く、益は、上を減損して下を增益するに、百姓の歓悦は辺際なし。上位より身を屈して下位に下れば、この路は光明にして遠大なり。前往するに宜しきは、中に居りて正を守れば福慶有ればなり。大河を渡渉するに宜しきは、木造の舟楫の道が通行を得ればなり。益卦は下は動き上は順にして、一日々々精進して止境なし。上天は布施し大地は化生して、その增益は一定の方所に拘らず。大凡そ增益の道は、皆時勢に随いて一同に推移す。多隆阿が解して曰く、震と巽の両卦相合すれば、なぜ「益」と言うや。かの雷が上・風が下の「恒」卦を交錯して来ればすなわち風が上・雷が下の「益」卦。しかし細かく究めれば、上巽下震の本身に何の增益を言うべきもなく、まさに上艮下兌の本身に何の減損を言うべきもなきが如し。之を「益」と名づくる所以は、此卦が否卦より変じて来ればなり。否卦の上体は乾・下体は坤で、上の乾を減損して下の坤を增益すれば、上を損し下を益するの義を含む。だから「益」と言う。

夫同此上下損益,而損益何以異名?蓋損下益上,有似上之取下,故不曰益而曰損;而損上益下,有似上之惠下,故不曰損而曰益。卦辭乃曰利有攸往,何也?蓋下為震,上為巽,動而復巽,則日進日上。且泰四下來以成益,而初亦即上往以受益,上欲益下而下即上往應之。雖四初位偏,而益之有道,得乎中正,即有福慶,故曰攸往利也。

同じくこの上下の間の損益なのに、損卦と益卦の名称はなぜ正に相反するや。これは下を減損して上を增益するは、上に在る者が下に向かいて索取するに近似す。だから「益」と言わずして「損」と言う。而して上を減損して下を增益するは、上に在る者が下に向かいて施恵するに近似す。だから「損」と言わずして「益」と言う。卦辞はなぜ「利有攸往」と言うか。下体は震・上体は巽で、動き起りてまた能く柔順に相従えば、すなわち一日々々精進し一日々々上達す。さらに否卦の第四爻が下りて来てこそ益卦と成り(底本ここに「泰四」と作る、まさに上文に依りて「否四」に作るべし)、初爻もまた即ち上行して增益を承受しに往く。上は下を增益せんと欲して、下は即ち上行してこれに回応す。四と初は皆中位に在らずと雖も、增益に其の正道有りて、中正の理に合せば、すなわち福慶あるべし。だから前往は利ありと言う。

又曰利涉大川,何也?水陰象為川,陽行歷陰為涉。否乾之四來降坤初,下歷二陰始得其位,以成震巽。震巽位東,皆為木,是為木道;震木行水,巽風助之,木道乃行,故曰涉川利也。而二至四為互坤,坤為民,震為喜笑,是為民說。卦體中虛,象大離,離為明,離大則光亦大,是為大光。益民至於民說,則益道得矣;益道至於大光,則民說宜無疆矣。

また「利渉大川」と言うは、なぜか。水は陰に属して大川に象を取り、陽爻が穿行して陰爻を経歴するを「渉」と言う。否卦乾体の第四爻が下降して坤の初位に至り、下に二つの陰爻を経過してこそ自らの位置を得て、ここに下震上巽を成就す。震と巽の方位は皆東方に在りて、皆木に属す。これが《彖伝》の言う「木道」。震木は水上を行き、巽風はまた傍より相助すれば、木造舟楫の道は便ちに通行し得。だから大河を渡渉するは利ありと言う。さらに観れば二爻より四爻に至るは互に坤を成し、坤の取象は民、震の取象は喜笑。合せてすなわち「民説」。全卦体の中間は虚空にして、一箇の放大した離卦に象り、離の取象は明。離体はすでに大なれば、光もまた大なり。これが「其道大光」。百姓を增益して百姓の歓悦に至れば、增益の道は得たりと算うべし。增益の道が光明広大に至れば、百姓の歓悦は自ずから辺際なからん。

損上益下,是損否四以益初;自上下下,是自上卦下來居下位也。夫損固有其時,而益亦有其時。否上為乾天,天施膏沃,益者也;否下為坤地,地坤變為震,震為反生,是為地生,受益者也。天施地生,得益之時。其益無方者,言因時制宜,不拘成法以益之,故其益得民之說。是益之道與損之道,同一與時偕行爾。

いわゆる「損上益下」は、すなわち否卦の九四を減損して初爻を增益し、いわゆる「自上下下」は、すなわち上卦より下りて来りて下卦の位に居るなり。減損は固より其の時機有りて、而して增益もまた其の時機あり。否卦の上体は乾で乾は天、上天は甘霖膏沢を布施す。これは益を施すの一方。否卦の下体は坤で坤は地、坤は変じて震と為り、震は《説卦伝》において「反生」(種子が土に返りて而して後に萌発す)の象あり。これがすなわち「地生」で、益を受くるの一方。上天は布施し大地は化生するは、まさに增益を得るの時機。それを「其益無方」と言うは、時に因りて宜に制して、成法に拘泥せずして益を施すを講ず。だからこの種の增益はこそ百姓の歓悦を換え得。見るに增益の道と減損の道は、同一に時勢に随いて偕行するのみ。

象曰:風雷益,君子以見善則遷,有過則改。雷動風散,交相益者,君子象之,遷善如震之動,改過如風之散也。否為上乾下坤,乾為善,坤為過。乾下居初為震,震德主動,是謂之遷;坤上居四為巽,巽風主散,是謂之改。

《象伝》に曰く、風と雷は交相激盪す、これが益卦。君子はこれに象りて、善行を見ればすなわち遷りて之に従い、過失有ればすなわち立刻に改正す。多隆阿は曰く、雷は一に動き風は一に散じて、両者は互相增益す。君子はここに象を取る。善に遷るは震雷の発動の如く迅速なるを要し、過を改むるは疾風の吹散の如く干净なるを要す。卦変に就いて言えば、否卦は上乾下坤で、乾は善と為し、坤は過と為す。乾の一爻が下りて初位に居りて震と成る。震徳は動を主る。これを「遷」と謂う。坤の一爻が上りて四位に居りて巽と成る。巽は風で吹散を主る。これを「改」と謂う。

初九:利用為大作,元吉無咎。四與初為卦主,初為受益之主也。夫益之即所以利之,而上之益下,則莫大於因其所利而利之。利民之大者,農事是也。農事曰作,史曰日出而作,書曰平秩東作。蓋震為出為作,又為稼,於時又為春,農事興於春,用民為此,上無利民之費,而下已得厚生之源,受益之事無有大於作者,故元吉無咎。虞氏曰:大作謂耕播也。大傳云:耒耜之利,蓋取諸益。初為卦主,故以全象歸之。象曰:元吉無咎,下不厚事也。厚猶多也。民任農事乃民之分,用民為之,下民不厚於任事,而上之益下已厚矣。

初九の爻辞:用いて大事を興辦するに宜しき、大吉にして咎なし。多隆阿は曰く、九四と初九はこの一卦の二つの主爻で、初九は增益を接受するの主爻。百姓を增益するはすなわち百姓を利するに等しく、而して上に在る者が下を增益するは、百姓自身の利益に順いて彼らのために利を謀るより大なるは莫し。民を利するの大事は、すなわち農事。農事を「作」と言い、《史記》は古歌を引て「日出而作」と言い、《尚書・堯典》は「平秩東作」と言う。震の取象は出・作で、また庄稼と為り、時令に配すればまた春天に属す。農事はまさに春天に興起す。百姓を役使してこれに従事せしむれば、上に在る者は額外に破費して百姓に好を取るに及ばずして、下面の百姓はすでに養生の根本を得たり。見るに受益の事は農作より大なるはなし。だから大吉にして咎なし。虞翻は曰く、「大作」は耕種播種を指す。《繋辞下伝》に曰く、耒耜の便利は、蓋し益卦に象を取る。初九は卦主。だから全卦の象をその身上に帰す。《小象》は「元吉無咎、下不厚事也」と言う。「厚」は猶お「多」の如し。農事を担任するはもとより百姓の本分で、百姓を役使してこれを為さしむるに、下面の百姓は多くの差事を担うにあらずして、上に在る者が下に対するの增益はすでに甚だ豊厚なり。

六二:或益之十朋之龜,弗克違,永貞吉,王用享于帝,吉。損之五反之為益之二。損以上為卦主,非五正應,故五雲或益之;益以初為卦主,非二正應,故二雲或益之。損以五在互坤之末,雲十朋之龜弗克違;益以二在互坤之初,雲十朋之龜弗克違。特損五以陰居陽位,即雲元吉;而益以陰居陰位,惟永貞乃吉也。且初為震主,震為帝,說卦傳云帝出乎震。二與初比,與五應,五為君位為王,王用二以享事上帝,是以二有馨德可享百神,故以用之者益之也,益莫大於此矣。象曰:或益之,自外來也。外謂四之初也。卦體所以成此大離之龜者,由於否四來初,非正應,故曰外。

六二の爻辞:人有りて価値十朋の大亀を送り来る、推辞する能わず、長久に正を守れば吉。君王は彼を用いて上帝を祭享す、吉祥。多隆阿は曰く、損卦の六五の爻辞を倒転して来ればすなわち益卦の六二の爻辞と成る。損卦は上九を以て卦主と為して、而して上九は六五の正応にあらず。だから六五は「或益之」と言う。益卦は初九を以て卦主と為して、而して初九は六二の正応にあらず。だから六二もまた「或益之」と言う。損卦の六五は互体坤の末位に居りて、故に「十朋之亀弗克違」と言う。益卦の六二は互体坤の起始に居りて、同じく「十朋之亀弗克違」と言う。ただ損卦の六五は陰爻を以て陽位に居るが故に、逕直に「元吉」と言う。而して益卦の六二は陰爻を以て陰位に居り、必ず長久に正を守ってこそ吉。さらに初九は震卦の主で、震の取象は帝、《説卦伝》は「帝出乎震」と言う。六二は初九と相邻り、九五と相応じ、九五は君位に居りて王と為し、君王は六二を任用して上帝を祭享せしむ。見るに六二は芬芳の徳有りて足りて百神に奉献す。だからそれを任用するはすなわちそれを增益するに、增益はこれより大なるは莫し。《小象》は「或益之、自外来也」と言う。「外」は九四が下りて初位に至るを指す。卦体がこの大離卦の亀象を成就し得る所以は、否卦の九四が下りて来りて初に居るに由るに、而してそれは六二の正応にあらず。だから「自外来」と言う。

六三:益之用凶事,無咎,有孚中行,告公用圭。吉事可以益人,凶事亦可以益人。三多凶,故以凶事益之。迨至屈極思伸,窮極思奮,塞極思通,上不必實有所益而下己受益矣。向或詭誕不經也,而今則體大離以有孚;向或偏頗不懲也,而今則演爻位以中行。蓋初至五中虛象兼畫之離,三四居六爻之內為一卦之中也。

六三の爻辞:凶険艱難の事を用いて彼を增益す、咎なし。心に誠信を懐き行事は中を守りて、王公に向かいて禀告するの時は手に圭璧を執る。多隆阿は曰く、順境の好事は以て人を增益し得、逆境の凶事もまた同じく以て人を增益し得。第三爻は六爻の中において「多凶」。だから凶事を以てこれを增益す。委屈が極点に至ればすなわち伸展を思い、困窮が極点に至ればすなわち奮起を思い、閉塞が極点に至ればすなわち通達を思うに至れば、上に在る者は必ずしも真に何かを与えずして、下面はすでに受益せり。从前は或いは荒誕不経なりしも、而今は卦体が大離の象を成すがために誠信有り。从前は或いは偏頗にして懲戒を知らざりしも、而今は爻位を推演するがために能く中を守りて行う。これは初爻より五爻に至る中間が虚空にして、一箇の両画を放大せし離卦に象り、而して三・四の両爻は六爻の内に居りて、まさに一卦の中位なればなり。

且又以上巽為命,下震為玉。虞氏曰:巽為命。九家易曰:震為玉。巽命象告,震玉象圭,告公用圭,以將誠信,為有益之者故致此。從可知恐懼為修省之本,晏安乃酖毒之媒,凶事雖異乎吉事,而其益人則一也,有過皆補,無咎宜矣。象曰:益用凶事,固有之也。固有之善,非有凶事以激之則不出,用此益人,是以我之所固有者益之也。

さらにまた上体巽は命令に象を取り、下体震は玉に象を取る。虞翻は曰く、巽は命と為る。《九家易》は曰く、震は玉と為る。巽の「命」は爻辞の「告」に対応し、震の「玉」は爻辞の「圭」に対応す。だから「告公用圭」――手に圭璧を執りて王公に向かいて陳述し、それを以て誠信を表達す。まさに確実に人に益あるが故に、こそこの一歩を為し得。これによりて知るべし、心に恐懼を存するは修身省察の根本にして、安逸享楽はこそ人を毒害するの媒介なり。凶事は吉事と異なると雖も、それが人を增益するは同一なり。過失有れば皆補救し得て、咎なきは自ずから理の当然。《小象》は「益用凶事、固有之也」と言う。人の本来固有の善性は、凶事有りてこれを激发せざればすなわち顕れ出づるにあらず。これを用いて人を增益するは、まさに我が原本より有する所の物を拿去して彼を增益するなり。

六四:中行告公從,利用為依遷國。此益下之主也。益下之事多端,而莫大於遷國。否下為坤,坤為國;四降為初,變坤國為震動,則遷國矣。夫國有所依則國勢乃固,而至於遷國,則尤固於有依,春秋傳所云周之東遷晉鄭焉依是也。然遷國事大,主者惟公。四位為大臣,而與三同居六爻之中,則必由中以行;又居巽下,巽為告為風,巽風善入,嘉謀入告,冀公從之,以享遷國之利。蓋國惟無益於民始可言遷,而既欲遷國,則實計有益於民。遷國惟四是依,則四之益下大矣。象曰:告公從,以益志也。志,意也。公意或不及此,冀四告從以益公志也。

六四の爻辞:中を守りて行い、王公に禀告して聴従を獲得す、依託の力を憑りて国都を遷徙するに用うるに宜しき。多隆阿は曰く、これは下を增益するの主爻。下民を增益するの事情は甚だ多端にして、而して最大は遷都に如くは莫し。否卦の下体は坤で、坤の取象は国。第四爻が下降して初位に至れば、坤の「国」を変じて震の「動」と為す。すなわち遷国なり。国家は依託する所有ればこそ国勢はこそ穩固にして、而して遷都のかくの如き大事に至っては、いよいよ依託あるに固まるを要す。《左伝》の言う周室の東遷は全く晋・鄭の両国の依託に頼るは、すなわちこの意思。ただ遷都は事の重大に関りて、主を為すはただ王公のみ能くす。六四の位は大臣に居りて、また六三と同じく六爻の中に居る。だから必ず中を守りて行うを要す。それはまた巽体の下に居り、巽は告・風と為り、巽風は善く渗入す。好なる謀劃はここに上達を得て、ただ王公の聴従せんを盼みて、好く遷都の益を享受せんとする。知るべし、ただ旧都が百姓に対してすでに益なき時に至りてこそ遷を語り得、而してすでに遷都を決定せば、実は民に益有らんことを打算す。遷都は全く六四を依託と為すに依れば、さらば六四の下に対するの增益は甚だ大なり。《小象》は「告公従、以益志也」と言う。「志」はすなわち心意。王公の心意は或いはまだこの一層に想到せざれば、だから六四の進言して獲准せんを盼望して、以て王公の心志を増広す。

九五:有孚惠心,勿問元吉,有孚惠我德。五為君,以陽剛居陽位,是以實心益下者。心之蘊於內者曰孚,心之見於事者曰惠。有惠民之實心,不問民之感激與否,而惟以孚信將之,如是則大善而吉;而民之受惠者,亦以孚信報之,而惠我之德。惠我以德,是由於上以德益下,惠非小惠也。否乾為德,德及下民曰惠;乾又為施,故曰惠心。乾為言,以四益初,乾言不見,故曰無【無:勿】問。初得乾成震,是惠我德也。如是則益之道乃盡,益之效乃神,益下之跡亦泯其形而不可見,此益下之極則也。象曰:有孚惠心,勿問之矣;惠我德,大得志也。

九五の爻辞:誠信を懐いて恵を施すの心有り、問うに及ばず大いに吉。心に誠信有れば、百姓もまた恩徳を以て我に回報す。多隆阿は曰く、九五は君位で、陽剛の質を以て陽位に居るは、実心を以て下民を增益するの人。心意の内に蘊蔵するを「孚」と言い、心意の事に表現するを「恵」と言う。民を恵むの実心有りて、民の感激するや否やを過問せずして、ただ誠信を以てこれを推行すれば、かくの如くすればすなわち尽善にして吉。而して恵を受くるの百姓も、また誠信を以てこれに回報して、恩徳を以て我に回饋す。百姓が能く徳を以て我に報ゆるは、上に在る者がもとより徳を以て下を增益せばなり。施す所は小恩小恵にあらず。卦象に就いて言えば、否卦の乾は徳に象を取り、徳沢が下民に施及するを「恵」と言う。乾はまた「施」の意あり。だから「恵心」。乾の取象はまた言語で、今は九四を用いて初爻を增益せば、乾の言語の象は見えず。だから「勿問」(底本この字は「無」に作る、まさに「勿」に作るべし)。初爻は乾の陽爻を得て震と成る。これがすなわち「恵我徳」。かくの如くすればこそ、增益の道はこそ尽き、增益の功效はこそ神妙と顕れ、增益して下民に及ぼすの痕迹すらも消泯して見えざるに至る。これが下を增益するの最高準則。《小象》は曰く、誠信を懐き恵を施すの心有れば、すなわちさらに問うに及ばず。徳を以て我に報ゆるは、大いに志向を実現せればなり、と。

上九:莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。上為巽末,巽為利,是求利而不知益人者;巽為進退,為不果,是無恆心者。不能益下而轉求下益,下之待益者為震,因上莫益而亦莫能益上,或恃震剛躁動以擊之。其所以致此擊之之凶,由於立心勿恆,不知定交而求之義耳。象曰:莫益之,偏辭也;或擊之,自外來也。偏辭者,惟言下宜奉上,不言上宜惠下,陷於一偏,自利自私,求下之益也。擊之者為下,而云或者,以益之者勿恆,而擊之者亦勿恆也。外來者,言擊者不必為正應,擊之者眾,無主名也。

上九の爻辞:彼を增益するの人なく、かえって彼を攻撃するの人あり。心を立つるに恒久を持たざれば、凶。多隆阿は曰く、上九は巽体の末端に居り、巽の取象は利で、これはただ利を求めて知るも人を增益するを知らざるの者。巽はまた進退を主り果断ならざるを主る。これは恒心なきの人。彼は下を增益する能わずして、かえって下に来りて自らを增益せんを求む。下の受益を待つのは震で、上が益を施すを肯ぜざるがために、もまた能く上を增益せずして、或いは震の剛健躁動に恃みて彼を攻撃せんとす。この種の攻撃せらるるの凶険を招来するの根源は、心を立つるに恒久を持たざるに在り、《繋辞下伝》の言う先に交情を安定して而して後に求むる所有るの道理を懂得せざればなり。《小象》は「莫益之、偏辞也。或撃之、自外来也」と言う。いわゆる「偏辞」は、ただ下は上を奉養すべきを講じて、上は下に恵を施すべきを講ぜず、一偏に陷入して自利自私にして、一味に下に来りて自らを增益せんを求むるを言う。彼を攻撃するはもとより下面の人なのに、却って「或」と言うは、益を施すの人に恒心なくして、攻撃するの人もまた同じく恒心なければなり。「自外来」と言うは、攻撃する者は必ずしもその正応にあらずして、攻撃するの人は甚だ多く、誰が主使するかを言い出せざるを講ず。

夬卦

【乾下兌上,中互重乾】陽息陰消卦。此為乾之變體,五陽上息,決去一陰為乾,而上猶餘一陰,兼兌象。兌為口為羊,故卦辭爻辭兼取兌象。夬:揚于王庭,孚號有厲,告自邑,不利即戎,利有攸往。五陽下息,上餘一陰,卦名曰夬。五為君位,是為王庭;陰為小人,一陰乘五陽,是小人越王庭之上,其罪已著,不可不夬去之。於是宜以誠信命眾,使之臨事而懼,勿忘危厲;又宜告戒國邑,不可遽用兵刑征討撻伐,激而成亂,但宜由復為臨、為泰、為大壯,循序前往,上陰自退,夬可成乾也。

「夬」卦の下体は乾・上体は兌で、第二爻より四爻に至ると第三爻より五爻に至るの互体は皆乾なり。これは陽気が生長し陰気が消退するの卦。それは乾卦の変体で、五つの陽爻が下より上に向かいて生長して、最上面のあの一つの陰爻を決去すればすなわち乾に還元す。而して今は上面にまだ一つの陰爻を余せば、だから兌の卦象を兼ね有す。兌の取象は口・羊。故に卦辞と爻辞は皆兌象を兼ね取りて言う。卦辞:王庭の上に於て公に其の罪を宣揚し、誠信を以て衆人に号令して戒懼を保持し、先に自らの城邑より告誡を発布す。立刻に武力を動用するに宜しからず、前往するに宜しき。多隆阿が解して曰く、五つの陽爻が下より生長して、上面にただ一つの陰爻を余すのみ。だから卦名を「夬」(決去)と言う。第五爻は君位、すなわち「王庭」。陰は小人を代表し、一つの陰爻が五つの陽爻の上に凌駕するは、これは小人が王庭の上に越居するに、罪状はすでに昭彰にして、彼を決去せざるべからず。故に誠信を以て衆人に号令して、大家をして事に臨みて戒懼して危難を忘れざらしむべく、もまた先に本国の城邑の内に於て告誡を発布して、冒然として兵刑を動用して征討撻伐するべからず、以て変乱を激成せんを免れん。ただ復・臨・泰・大壮の次序を照らして循序に前進してこそ、上面のあの陰爻は自ずから退去して、夬卦は能く純乾に変じ得。

彖曰:夬,決也,剛決柔也。健而說,決而和。揚于王庭,柔乘五剛也。孚號有厲,其危乃光也。告自邑,不利即戎,所尚乃窮也。利有攸往,剛長乃終也。夬者何?決也。五陽前進,一陰尚存,是不可不決去者,故兌乾兩合之卦名夬。夬為三月卦。鄭氏曰:陽氣浸長至於五,五尊位也,而陰先之,是猶聖人積德說天下,以漸消去小人,至於受命為天子,故謂之夬。

《彖伝》に曰く、夬はすなわち決断・決去で、剛強が柔弱を決去するなり。下卦は剛健にして上卦は和悦、小人を決去してもなお和緩を保持す。「揚于王庭」は、一つの柔爻が五つの剛爻の上に凌駕すればなり。「孚號有厲」は、ただ心に危懼を存してこそ、徳業はこそ光大し得るを言う。「告自邑、不利即戎」は、一味に武力を崇尚すれば、路はすなわち尽頭に走到すを言う。「利有攸往」は、剛爻が継続生長してこそ終局有るを得るを言う。多隆阿が解して曰く、夬は何ぞ。すなわち決去。五つの陽爻は前に向かいて推進して、まだ一つの陰爻を余す。これは決去せざるべからざるなり。だから兌と乾の相合するの卦を「夬」と名づく。夬は十二消息卦中の三月に配す。鄭玄は曰く、陽気は漸く生長して第五爻に至り、第五爻は尊位にして、而して陰爻は却って先んじてその上頭に占居す。これは譬うるに聖人が徳行を積累して天下を取悦して、逐漸に小人を消去して、天命を承受して天子と為るに至るが如し。だからこれを「夬」と言う。

揚,越也。五互乾,乾為君,又居尊位,王庭之象也。陰爻越其上,小人乘君子,罪惡上聞於聖人之朝,故曰夬揚于王庭也。此卦陽多陰寡,以多勝寡,何難立決?然而蓄疑者敗謀,是貴交孚以出號令;有備者無患,是貴惕厲以自危懼。陽剛用事,正大光明,但陽光發越,惟危乃見,是不宜輕忽此一陰矣。

「揚」は越過の意。第五爻は互体乾の中に居り、乾の取象は君、また尊位に居る。これがすなわち「王庭」の取象。陰爻がその上に越するは、小人が君子に凌駕するに等しく、罪悪は上に聖人の朝廷に達す。だから「夬揚于王庭」。この一卦は陽多く陰寡し、多を以て寡に勝つに、立刻に決断するに何の難あらん。しかし心に猶疑を蓄るの者は必ず謀略を壊す。だから上下が互相取信して而して後に号令を発するを貴ぶ。事先に備有るの人はこそ後患なし。だから時時に戒懼して自ら危険を知るを貴ぶ。陽剛が権を当るは、もとより正大光明なり。しかし陽光はいよいよ発越すれば、いよいよ危懼の中においてこそ真の本事を見出だし得。だからこの僅かに残るの一つの陰爻を軽忽すべからず。

且陽自下往,由陰遞變而進,是乾之所自為坤。坤為邑,使各告所自來之邑,嚴為防守,勿令陰入。邑為兵車從出之地,是謂之戎,而上卦為兌,前餘一陰,未為純乾,說卦傳曰戰乎乾,未成為乾,尚不宜戰,故即戎不利。蓋陽之決陰,雖不可姑息以養奸,亦不宜窮追以激變,陽尚往而陰自消,所謂健而必以說,決而必以和也。尚,上通,言諸陽惟宜循序前往,剛長而陰自終,何庸攻擊為也。

さらに陽爻は下より上に往くに、陰爻より一つ一つ変じて来て進めば、見るに乾の来る所はまさに坤なり。坤の取象は邑。だから各々自らの来る所のあの城邑に向かいて告誡を発出して、厳かに防守を加えて、陰気をして再び侵入せしめず。城邑はまた兵車の出発するの地方。だからこれを「戎」と謂う。而して上卦は兌で、前頭にまだ一つの陰爻を余し、未だ純乾と為らず。《説卦伝》は「戦乎乾」と言う。今はまだ乾に変成せざれば、なお開戦するに宜しからず。だから「即戎不利」。知るべし、陽が陰を決去するは、固より姑息して奸を養うべからざるも、もまた窮追して止まらずして事変を激成するに宜しからず。陽はただ前に往きさえすれば、陰は自ずから消退す。これがすなわち《彖伝》の言う「健而説、決而和」――剛健にして必ず和悦を以てこれを行い、決断にして必ず和緩を以てこれを出す。「尚」は「上」と通じて、衆陽はただ循序に前進するに宜しく、剛爻が継続生長して、陰は自ずから尽頭に至る。何ぞそれを攻撃せんを用いんや。

象曰:澤上於天,夬,君子以施祿及下,居德則忌。澤上於天,猶之洪水滔天也。水勢氾濫,利於用決,故卦名夬。君子體夬象,祿則施於下,戒忌居德。蓋施祿如水之流,勢必就下;居德如川之壅,恐致潰出。忌,戒也。虞氏曰:乾為施為德。

《象伝》に曰く、水沢は天上に升る、これが夬卦。君子はこれに象りて、俸禄恩沢を下に施予して、徳恵を蓄積して散布すること肯ぜざるを戒懼す。多隆阿が解して曰く、水沢が天上に升るは、譬うるに洪水の滔天の如し。水勢が泛濫すれば、決口して疏導するに利あり。だから卦名を「夬」と言う。君子は夬の卦象を体して、すなわち俸禄を下に施給して、「居徳」を以て戒と為す。俸禄を施予するは譬うるに水流の如く、勢は必ず低処に向かう。徳恵を屯積するは譬うるに河道の壅塞の如く、潰決して出づるに致らんを恐る。「忌」はすなわち戒。虞翻は曰く、乾の取象は施、もまた徳。

初九:壯于前趾,往不勝為咎。四陽前進為大壯,五陽前進則壯尤甚,故亦曰壯。此卦為乾消坤,當夫一陽下息,則初為震,震足為趾,今消陰已至於五,震足之象俱隱,是足過於前也,故曰壯于前趾。前趾既壯,可以前往,往決上陰,決之即宜勝之,不勝為咎,恐其不詳審輕進以致敗也,是蓋以好謀而成勖初也。象曰:不勝而往,咎也。

初九の爻辞:足趾の前端は強壮にして、前往して取勝する能わざれば、すなわち過咎と成る。多隆阿は曰く、四つの陽爻が前に向かいて推進するはすなわち「大壮」卦で、五つの陽爻が前に向かいて推進すれば、壮盛はいよいよ甚だし。だからここにもまた「壮」と言う。この一卦は乾が坤を消去す。当初に一つの陽爻が下より生長するの時は、下体は震で、震の取象は足、足の最下はすなわち趾。今は陰を消し已みてすでに第五爻に推到して、震足の卦象は皆隠没せり。見るに足はすでに前面に跨り出でたり。だから「壮于前趾」。前趾はすでに強壮なれば、前に行くべし。前往して上面の陰爻を決除せんと欲すれば、すでに決せんと欲すればすなわち決して勝つべし。取勝する能わざればすなわち過咎と成る――これはそれが詳審せずして軽率に冒進して以て失敗に致らんを恐るるなり。これがまさに《論語》の言う「好謀而成」の道理を用いて初九を勉励するなり。《小象》は曰く、取勝の把握なくして冒然として前往するは、それは自ら過咎を取るなり、と。

九二:惕號,莫夜有戎,勿恤。二與五應,五為卦主,則運籌決策宜歸之五,二祇宜警備善防,故怵惕號呼,至於暮夜猶不敢弛也。蓋乾為言,故云號;乾位西北,戌亥之交,日伏之所,故云暮夜;乾下伏坤,坤為國邑為亂,是為有戎,而陽息陰晦,坤象不見,故云勿恤。防閒至密,無隙可乘,縱變生不測,而辨之於早,自足以無憂也。象曰:有戎勿恤,得中道也。

九二の爻辞:警惕して号令を発して戒備し、たとえ入夜して敵情あっても、もまた憂懼するに及ばず。多隆阿は曰く、九二は九五と相応じ、九五は全卦の主で、さらば運籌決策の事はまさに九五に帰して為すべく、九二はただ警戒防備するに宜しきのみ。だからそれは心に怵惕を懐き号令を発呼して、傍晚入夜に至るまでなお松懈するを敢えせず。「莫夜」はすなわち暮夜。卦象に就いて言えば、乾の取象は言語。だから「號」と言う。乾の方位は西北に在りて、正に地支の戌亥の交に当り、太陽の隠没するの処。だから暮夜と言う。乾の下面に坤を潜伏せり、坤は国邑・乱と為す。これがすなわち「有戎」。而して陽気は生長し陰気は晦暗にして、坤象は並び顕現せず。だから「勿恤」と言う。防範は周密にして乗ずべきの空隙なければ、縦令意外の変を生ずるも、すでに早くに於て辨察せり。自ずから足りて憂なからん。《小象》は曰く、敵情ありて憂懼するに及ばざるは、九二が居中の道を得たればなり、と。

九三:壯于頄,有凶,君子夬夬,獨行遇雨,若濡有慍,無咎。翟氏曰:頄,面顴頰間骨也。乾為首,乾首之上象頄,故曰壯于頄。剛壯外露,見於顏色,思去小人,機事不密,凶宜有矣。然果如何始可也?夫陽為君子,三為陽剛曰夬;三又陽居陽位,是重剛也,曰夬夬;三又獨與上應,亦即獨自上行。上為兌,兌澤稱雨,三以應之者遇之。陽與陰雖非同類,不相浹洽,而曲為包容,若沾濡然。縱與陰為緣,不能無慍,慍,含怒也,而慍祇內含,較之壯見於面者,其吉凶不同矣,無咎也。象曰:君子夬夬,終無咎也。陽宜前往,不宜畏避以致緩進,釋之曰終無咎,所以勉陽之可以夬夬也。

九三の爻辞:強壮の気は顴骨の上に顕露す、凶険あり。君子は決してまた決して、独自に前行して雨に遇い、浑身沾湿して心に愠怒を含むも、咎なし。多隆阿は翟玄を引て曰く、「頄」は面部の顴骨と頬骨の間の部位。乾の取象は首で、乾首の上は正に頄に対す。だから「壮于頄」。剛強の気が外に露れて、顔色に形り、一心に小人を除掉せんと思いて机密を慎まざれば、凶険は免るべからず。さらば究竟どのようにすればこそ行くべきか。陽は君子を代表し、第三爻は陽剛。故に「夬」と称す。第三爻はまた陽爻を以て陽位に居るは、重剛なり。故に「夬夬」と称す。第三爻はまた単独に上六と相応じ、すなわち独自に上に向かいて行進す。上体は兌で、兌は沢・雨に象を取る。九三が上行してこれに応ぜんと往けば、すなわち「遇雨」。陽と陰は同類にあらずして融洽せざると雖も、九三はなお委曲に包容して、雨水に沾湿せらるるが如し。縦令陰と縁を結ぶとも、心の裏に恼怒なき能わず――「愠」はすなわち怒を含む――しかし恼怒はただ心の裏に蔵るるは、剛強を皆顔の上に写すの做法に較ぶれば、その吉凶は大いに相同じからず。だから咎なし。《小象》は「君子夬夬、終無咎也」と言う。陽爻はまさに前進すべく、畏縮躲避して以て遅緩に致るべからず。《小象》が「終無咎」を以て解釈するは、まさに陽爻の能く夬夬として前進すべきを勉励するなり。

九四:臀無膚,其行次且,牽羊悔亡,聞言不信。變大壯之五陰,卦始名夬。當五陰未變之時,則四為震,震為足,今變為兌,兌為毀折,則象臀之無膚,臀足上體也。臀既見傷,其行次且勢所必然。次且,王氏作趦趄,行止之礙也。既艱於行,又不宜聽彼一陰永留於上。蓋上卦為兌,兌為羊,制羊者利用牽。夫羊性陰很,挽之則忿而不行,使之居前,從後驅之則行矣,以牽羊之術馭小人,彼既無由反噬,而亦不能不往,此控制之善策也,故悔亡。但卦祇五陽,上猶為陰,乾陽為言,而四以陽居陰位,乾言雖可聽而體猶為兌,陰柔每多惑,恐其聞此牽羊之言而不信,失事機耳。象曰:其行次且,位不當也;聞言不信,聰不明也。陽居陰位,不果於行;陽德為聰,居兌體之下,恐有所蔽也。

九四の爻辞:臀部に皮肉なく、路を走るに遅疑难進。牽羊の如く駕馭すればすなわち悔恨消失す。惜しむべし忠言を聞きても信ぜず。多隆阿は曰く、大壮卦の第五の陰爻を変じて陽と為せば、卦はこそ「夬」と呼ばる。第五爻がまだ陰なるの時に当りては、第四爻は震体に属し、震の取象は足。今は兌に変じて、兌の取象は毀折で、すなわち臀部に皮肉なきの象と成る――臀は足より上の部位。臀部はすでに傷を受ければ、路を走るに遅疑难行なるは勢の必然。「次且」は、王弼は「趦趄」に写作して、すなわち行走が受阻するの様子。すでに行動が艱難なれば、また上面のあの一つの陰爻をして長久に上頭に留まらしむるを聴任すべからず。上卦は兌で、兌の取象は羊、羊を制服するの办法は牽。羊の性は陰狠にして、硬くそれを拉せばかえって発怒して行かず、それを前面に走らしめて、後より駆ればすなわち肯んじて行く。牽羊の办法を以て小人を駕馭すれば、彼はすでに反りて一口を咬むに由なくして、もまた前に往かざるべからず。これは小人を控制するの好办法。だから悔恨消失す。ただ此卦はただ五つの陽爻のみ、上面は依然として陰。乾陽の取象は言語にして、而して九四は陽爻を以て陰位に居り、乾の言語は聴くべきと雖も、その卦体はすでに兌なり。陰柔の人は往々にして疑惑多し。そのこの番の牽羊の言を聞きても信ぜずして、白白に時機を錯過せんを恐る。《小象》は「其行次且、位不当也。聞言不信、聡不明也」と言う。陽爻が陰位に居れば、だから行動に果决ならず。陽徳はもとより耳聡を主るに、今は兌体の下に居りて、聴聞の上に蒙蔽を受けたるを恐る。

九五:莧陸夬夬,中行無咎。大壯之五為震中,震為蕃鮮,是莧陸也。董氏曰:莧,人莧也;陸,商陸也。莧,野草名,柔莖細葉,黃花黑子,一名馬齒莧,園中處處有之。商陸,爾雅謂之蓫□□易,葉如牛舌,莖脃色青赤,根大如蘆菔,多生路旁。二草性皆陰冷。夫陰物滋榮,不可不決去之。今震陰既變兌陽,又以陽居陽位,夬而又夬以決莧陸,則已拔去根株,芟夷殆盡矣,又宜乘勢中行前往決陰,陽剛得中前行乃無咎也。象曰:中行無咎,中未光也。五為外卦之中,外為陰蔽,陽德未光,故宜行也。

九五の爻辞:莧陸のこの類の陰柔の草に対しては決してまた決すべく、中を守りて行えばこそ咎なし。多隆阿は曰く、大壮卦の第五爻は震体の中に居り、震の取象は繁茂鮮嫩の草木。これがすなわち「莧陸」。董遇は曰く、「莧」は人莧、「陸」は商陸。莧は野草の名で、莖は柔にして葉は細く、黄花にして黒子、また馬歯莧と呼びて、園圃の裏に至る処に之あり。商陸は、《爾雅》はこれを「蓫薚」(底本ここに二字は漫漶、下の一「易」の字は衍文と疑う)と称し、葉は牛舌に似て、莖は脆にして青赤色、根は粗大にして蘿蔔の如く、多く路の傍に生ず。この二種の草は性質は皆陰冷に属す。陰性の物が滋長繁栄すれば、決去せざるべからず。今は震の陰爻はすでに兌の陽爻に変じ、九五はまた陽爻を以て陽位に居り、決してまた決して以て莧陸を鏟除すれば、すでに根株を連ねて抜き去り芟除して殆ど尽きたり。もまた勢に乗じて中を守りて前行して、継続して上面の陰を決去すべく、陽剛が中に居りて前進してこそ咎なきを得。《小象》は「中行無咎、中未光也」と言う。第五爻は外卦の中位で、外面は陰爻に遮蔽せられ、陽徳はまだ光大せず。だから継続前行すべし。

上六:無號,終有凶。夬復及此則為純乾,兌口雖存,下皆陽剛,非陰同類,縱慾號呼,亦無應者,孤陰無輔,終有凶也。象曰:無號之凶,終不可長也。陽剛已息至五,不可使一陰長居於上也。

上六の爻辞:呼号するもまた用なし、最終に凶険あり。多隆阿は曰く、夬卦はさらに前に一歩決せばすなわち純乾と成る。兌口の卦象はなお在ると雖も、下面は全く陽剛で、皆陰の同類にあらず。縦令呼号して援助を求めんと欲するも、応ずるの人なし。孤零零たる一つの陰爻は輔助する人なく、最終に凶険を免れ難し。《小象》は「無號之凶、終不可長也」と言う。陽剛はすでに生長して第五爻に至れば、もはやこの一つの陰爻をして長久に上面に盤踞せしむべからず。

姤卦

【巽下乾上,中互重乾】陰息陽消卦。此為乾之變體,純乾之卦下遇一陰,一陰居初,兼巽象。巽為木為魚,故爻辭言柅、言杞、言有魚無魚。姤:女壯,勿用取女。純陽之下一陰忽生,卦名曰姤。陰女象,陰來息陽,則女已壯,此禍水也,宜勿用取之。

「姤」卦の下体は巽・上体は乾で、第二爻より四爻に至ると第三爻より五爻に至るの互体は皆乾なり。これは陰気が生長し陽気が消退するの卦。それもまた乾卦の変体で、純乾の卦の下面に一つの陰爻に遇上し、この陰爻は初位に居りて、故に巽象を兼ね有す。巽の取象は木・魚。だから爻辞の裏に「柅」(木製の止車器)に言及し、「杞」(杞木)に言及し、「有魚」「無魚」に言及す。卦辞:女子が過ぎて強壮なれば、かくの如き女子を娶る勿れ。多隆阿が解して曰く、純陽の下に忽ち一つの陰爻を生出せば、だから卦名を「姤」(相遇)と言う。陰は女に象を取り、陰が来りて生長して陽を消蝕せば、さらばこの女子はすでに壮盛にして、足りて禍を醸成するの人なり。だから彼女を娶るに宜しからず。

彖曰:姤,遇也,柔遇剛也。勿用取女,不可與長也。天地相遇,品物咸章也。剛遇中正,天下大行也。姤之時義大矣哉。姤何以名遇也?當為純乾之候,象陽方亨,一陰忽生於下,若有不期遇而遇之者,故曰姤,遇也。姤下僅一陰,陰為女,則女弱甚,而乃轉曰女壯者,蓋以陽雖眾而上往日見其消,陰雖少而下來日見其息,陰息則女從此壯矣。

《彖伝》に曰く、姤はすなわち相遇で、柔が来りて剛に遇うなり。「勿用取女」は、かくの如き人と長久に相処する能わざるを言う。天地が互相遇合してこそ、万物は皆光彩を顕現す。剛爻が居中守正の位に遇上してこそ、教化は能く天下に通行す。姤の包含するの時勢と意義は真に大なり。多隆阿が解して曰く、姤はなぜ「遇」と名づくるや。まさに卦体が純乾なるべきの候に当りて、卦象は陽気が方に亨通するを顕すに、忽ち一つの陰爻が下に生ず。あたかも相遇を期せざるのに、却って偏に遇上したるが如し。だから「姤」と言い、すなわち相遇。姤卦の下にただ一つの陰爻ありて、陰は女に象を取れば、さらばこの女子は実に弱き甚だしきに、而して乃ちかえって「女壮」と言うは何ぞや。陽は衆多と雖も、一路に上行して一日々々其の消減を見、陰はただ一つと雖も、下より来りて一日々々其の生長を見ればなり。陰は一に生長すれば、この女子はこれより壮盛と成る。

夫此女壯者,乾巽固非匹,而初與四應,四儕眾陽之中,相比相亢,亦不能獨應成偶,則是女固不可取,而亦勿用取之也。既勿用取,則此柔之與剛,豈成伉儷?亦不過暫遇之耳。且非剛所欲遇,乃柔來於下,剛不期遇而忽遇之焉耳。

この女子が壮盛なりと言うに、乾と巽はもとより相配するの一対にあらずして、而して初六は九四と相応じ、九四は衆陽の中に挟まれて、彼此相邻り相抗して、もまた能く単独に初六と相応じて配偶を結成する能わず。見るにこの女子はもとより娶るべからずして、卦辞もまた「勿用取女」と言う。すでに娶らざれば、さらばこの柔爻と剛爻は、豈に夫婦を結ぶと談ぜんや。不過暫く相遇するのみ。さらにこの相遇は剛爻の欲する所にあらずして、柔爻が自ら下に来りて、剛爻が毫も預期なきの中に忽然としてそれに碰上したるのみ。

顧一陰初進,雖不可助之與長,而一陰甫見,實足驗物之方亨,則姤自有時義也。姤為五月卦,天地相遇,長養萬物。九家易曰:陽起於子,行至四月,六爻成乾,巽位在已,故言乾成於巽。既成轉舍於離,萬物盛大,坤從離出,與乾相遇,故言天地相遇。此姤之時也。且一陰在初,二猶為陽,二則得中;五陽在上,五又得正。陽剛中正,同心一德,教化風行,猶之上有聖君,下有賢臣,雖微有小人不靖,亦可勵精圖治,則姤猶有可幸者,此姤之義也。姤之時義,豈不大哉。

ただ一つの陰爻が剛に生進したるに、これを助長するべからざると雖も、而して一陰が纔かに一に出現すれば、恰好として万物が正に亨通生長するを験証す。見るに姤卦は自ら其の時勢と意義あり。姤は十二消息卦中の五月に配し、天地はここに相遇して、萬物を長養す。《九家易》に曰く、陽気は子月より起り、運行して四月に至りて、六爻は皆陽と成りて乾と為る。巽の方位は巳(四月)に在り。だから乾は巽において成就すと言う。すでに乾と成りて、転じて離に寄居して、萬物盛大なり。坤は離の中より生出して、乾と相遇す。だから「天地相遇」と言う。これが姤の当るの時。さらに一つの陰爻は初位に在りて、第二爻はなお陽で、九二は中を得。五つの陽爻は上に在りて、九五はまた正位を得。陽剛は既に中且つ正にして、君臣は同心同徳、教化は風の如く推行せり。譬うるに上に聖明の君有り、下に賢良の臣有れば、縦令稍や小人の安分ならざる有るも、照樣として励精図治し得。見るに姤卦はなお慶幸すべきの一面あり。これが姤の含むの義。姤の時と義は、豈に大ならざらんや。

象曰:天下有風,姤,后以施命誥四方。翟氏曰:天下有風,風無不周,故君以施命告化四方之民矣。蓋言風行天下,天下之人無不遇之,故象姤也。虞氏曰:乾為施,巽為命為誥,乾天覆地,故曰四方。

《象伝》に曰く、天下に風吹拂有り、これが姤卦。君王はこれに象りて、政令を発布して以て四方に告諭す。多隆阿は翟玄を引て曰く、天下に風有れば、風は到らざるの処なし。だから君主は政令を発布するの方式を以て四方の民を告諭教化す。これは風が天下に行き、天下の人はそれと相遇せざる莫しを言う。だから「姤」に象を取る。虞翻は曰く、乾の取象は施、巽の取象は命・誥。乾天は大地を覆う。だから「四方」と言う。

初六:繫于金柅,貞吉,有攸往,見凶,羸豕孚蹢躅。陰進則陽退,勢不並立,而此一陰初至,不可不預戒也。內卦為巽,巽為繩,宜用繩繫牽制之,而又恐其或逸也。蓋變乾之初陽為姤,乾為金,乾金合巽木,是為金柅。柅,木名,繫之於柅,陰不再進,貞固則吉;倘不預為牽制,令其前往,必至侵陽,則凶立見。譬如羸豕,羸,弱也,豕為陰物,初豕尚弱,豕弱似不足畏,然方從下來,日日生息,則漸長漸壯,有欲其長羸而不能者,蹢躅可孚信也。蹢躅,躍躍不安貌,是不可以其羸而忽視之矣。象曰:繫于金柅,柔道牽也。初為陰,故曰柔,繫以牽之,不使其前往也。

初六の爻辞:それを金属の止車木に繋ぎて、正を守れば吉。もしそれを前往せしめば、すなわち凶険を出現せん。瘦弱の母豚もまた確実に躁動安んぜず。多隆阿は曰く、陰が一に進めば、陽はすなわち退く。両者は勢に於て両立せず。而してこの一つの陰爻は纔かに到来したるに、預め防戒を加えざるべからず。内卦は巽で、巽の取象は縄。だから縄子を以てそれを繋ぎて牽制するに宜しく、もまたそれが走り逸せんを恐る。乾卦の初爻は陽より陰に変じてこそ姤と成りて、乾の取象は金、乾金が巽木に配合すれば、すなわち「金柅」。「柅」は一種の木名で、それを柅に繋げば、陰はもはや前に進まず、正固を堅守すれば吉。倘若預め牽制せずして、それをして前行せしめば、必ず陽爻を侵犯して、凶険は立刻に来らん。これは譬うるに一頭の瘦母豚――「羸」は瘦弱で、豚は陰物に属す。起初の豚はなお瘦弱にして、惧るに足らざるに似るも、それは正に下より上に来りて、一日々々生息して、すなわち漸く長じ漸く壮ならんと欲す。それをして一直に瘦弱ならしめんと欲するは能わざるに、其の躁動安んぜざるは確実に信ずべし。「蹢躅」は跳躍して安んぜざるの様子。見るにそれが瘦弱なるを以てすなわちそれを軽忽すべからず。《小象》は「繋于金柅、柔道牽也」と言う。初爻は陰なれば、だから「柔」と言う。それを繋ぐるはすなわちそれを牽制して、それをして前に往かせざるなり。

九二:包有魚,無咎,不利賓。二為巽中,巽為魚,魚本陰物而在於初,其勢尚弱,但有以包容之,長有此魚,則是下僅一陰,尚得無咎。夫所以包之者,恐其生息滋長,侵及賓位,不利於賓故也。虞氏曰:乾尊為賓。二為互乾,陰不前進則陽不退,聖人扶陽之意至深切矣。象曰:包有魚,義不及賓也。義不及賓,言陰不及陽。有魚在初,二宜如此也。倘及賓,則賓必退,不利矣。

九二の爻辞:厨の中に魚を包む、咎なし、ただ賓客に分与するに宜しからず。多隆阿は曰く、九二は巽体の中に居り、巽の取象は魚。魚はもとより陰物にして初爻に位して、気勢はなお弱し。ただそれを包容して、この魚をして一直に原処に留まらしめば、さらば下面はなおただ一つの陰爻のみにして、なお咎なきを得。之を包まんと欲する所以は、それが生息滋長して、賓客の位置に侵及して、賓客に対して利なからんを恐るればなり。虞翻は曰く、乾の位は尊く、賓に象を取る。九二は互体乾の中に居る。陰が前に進まざれば、陽は退くに及ばず。聖人が陽気を扶助するの用意は実に深切なり。《小象》は「包有魚、義不及賓也」と言う。いわゆる「不及賓」は、陰は陽に侵及する勿れを言う。魚はすでになお初位に在れば、九二はまさにかくの如くそれを包むべし。倘若それをして賓位に侵及せしめば、賓客は勢に於て退避すれば、すなわち利ならず。

九三:臀無膚,其行次且,厲無大咎。姤夬反對,夬之四反之即姤之三。夬以變震之後為臀,姤以巽股之上為臀。夬之臀無膚,其行次且,由於兌為毀折;姤之臀無膚,其行次且,由於巽為進退。乃又曰厲無大咎者,蓋在夬以陽決陰,則往恆欲其速;而在姤為陰消陽,則行轉喜其遲。初為陰,二為陽,三在二上,不與陰柔相牽,陰在其位尚未遽進,三雖近危,無大咎也。象曰:其行次且,行未牽也。

九三の爻辞:臀部に皮肉なく、路を走るに遅疑难進、危険ありと雖も大咎なし。多隆阿は曰く、姤卦と夬卦は上下顛倒するの一対で、夬卦の第四爻を倒して来ればすなわち姤卦の第三爻。夬卦は震体を変過したる後に以て臀象を取り、姤卦は巽の「股」の上に於て臀象を取る。夬卦の「臀無膚、其行次且」は、兌が毀折を主るに縁り、姤卦の「臀無膚、其行次且」は、巽が進退不定を主るに縁る。ここに却ってまた「厲無大咎」と言うは、夬卦においては陽が陰を決去すれば、前往は恒にいよいよ速ならんを欲し、而して姤卦においては陰が陽を消蝕すれば、行動はかえって遅緩なるを以て好と為せばなり。初爻は陰で、二爻は陽で、三爻は二爻の上に在りて、陰柔と牽連せず。陰はなお其の本位に留まりて急ぎて上進せざれば、九三は危険に靠近すと雖も、大なる過咎なし。《小象》は曰く、路を走るに遅疑难進なるは、それがまだ下の陰に牽動せられざればなり、と。

九四:包無魚,起凶。四與初應,初為巽主則魚也,陽變陰生則有此魚。夫魚本為不宜有之物,今既為魚,則猶幸其有魚,有魚則又為巽,則猶是一陰在下,故欲其有而不欲其無也。倘包無魚,則是下非一陰矣,是二陽又起矣。陽起前行,後陰踵至,陰往逼陽,故曰凶。象曰:無魚之凶,遠民也。初為民位,陰亦為民,四與初應以包之者,近之則陰庶不前往以侵陽,民宜近不宜遠,所以戒四也。

九四の爻辞:厨の中に包むの魚は亡くなりて、起りて行動すればすなわち凶険あり。多隆阿は曰く、九四は初六と相応じ、初六は巽体の主で、すなわちあの魚。乾の初爻が陽より陰に変じて、こそこの魚有り。魚はもとより有るべからざるの物なるに、今はすでに魚と成れば、かえってそれがなお在るを慶幸す――魚有ればすなわちなお巽体にして、すなわち下面になおただ一つの陰爻ありと言う。だからそれの有るを寧ろし其の無きを欲せず。倘若包の中に魚無ければ、すなわち下面はすでに一つの陰爻に止まらずして、而して九二のこの陽爻もまた身を起し前行す。陽は一に身を起し前行せば、後の陰は便ちに踵を接して来りて、陰は上に往きて陽に進逼す。だから凶と言う。《小象》は「無魚之凶、遠民也」と言う。初爻は民位で、陰もまた民に象を取る。九四が初六と相応じて往きてそれを包容し、それに親近してこそ、陰はこそ前に往きて陽を侵犯せざらんを庶幾し得。百姓に対しては親近すべくして疎遠すべからず。これは以て九四を告誡するなり。

九五:以杞包瓜,含章,有隕自天。五與二應,二為巽中。虞氏曰:巽為杞。二為巽則二猶為陽,二爻再變則已非巽,是將為艮,艮為果蓏稱瓜,是以杞包瓜象也。夫瓜謹【謹:僅】謂之包,則是時尚未為瓜,願天運轉移,則今日為杞,後將為瓜,而聖人之意【脫不惟二字】不欲有瓜,兼且不欲有杞。五為正乾,乾為大明稱章,惟是含此章美,以俟瓜杞之自隕。隕於何所?隕自天也。瓜杞俱隕,下亦為乾,又一純乾之象矣。夫陰方浸長,豈能隕落?則在天時固無此運,而在人事宜有此心。史雲君相所以造命,即此意也。

九五の爻辞:杞木の枝葉を以て瓜を遮護し、内に美質を含む、天上より隕落するの物有らん。多隆阿は曰く、九五は九二と相応じ、九二は巽体の中に居る。虞翻は曰く、巽の取象は杞。九二は巽に属して、それが此刻なお陽爻なるを説明す。第二爻が再び変ずるを待てば、すなわちもはや巽にあらずして艮と為らんと欲し、艮の取象は瓜果の類。故に「瓜」と称す。これがすなわち「以杞包瓜」の取象。瓜はただ「包」まるるのみと言う(底本は「謹」に作る、まさに「僅」に作るべし)、見るに此の時はまだ瓜に変成せず。但だ天運の轉移せんを願わば、今日は杞と雖も、将来はすなわち瓜と成らんと欲すも、而して聖人の心意は、ただ瓜の有るを欲せざるのみならず、杞すらも有るを欲せず(底本ここに「不惟」の二字を脱す)。九五は純正の乾体で、乾は大明を為し故に「章」と称す。今はただこの一份の美質を含蓄して、瓜と杞の自ら隕落するを俟つ。何の処より隕落せんや。天上より隕落す。瓜と杞が皆隕落すれば、下体もまた乾と成りて、また一箇の純乾の象。しかし陰気は正に漸く生長するに、豈に自ら隕落せんや。天時に就いて論ずれば、もとよりこの気運なし。而して人事に就いて論ずれば、人はまさにかくの如き心志を抱くべし。史書の上に君主宰相は能く命運を改造すと言うは、まさにこの意思。

象曰:九五含章,中正也;有隕自天,志不舍命也。守以中正,志不舍此天命,以冀瓜杞之隕。爻辭曰有,言不能有,以冀其有於萬一之辭也;象傳曰志,言志不必果酬,而不可無此志也。二聖之意微矣。上九:姤其角,吝,無咎。乾為首,首之上為角,姤遇至此,卦爻已盡,無可遇矣。陰息遇上,上不能制,吝固宜得,然居高無位,責備亦不及焉,故無咎。象曰:姤其角,上窮吝也。

《小象》に曰く、九五が美質を含蓄するは、それが居中守正せばなり。「有隕自天」は、その志向が天命を放棄するを肯ぜざるを言う。多隆阿が解して曰く、中正の道を以て自ら守りて、心志はこの一份の天命を捨棄するを肯ぜずして、瓜と杞の自ら隕落せんを指望す。爻辞は「有」と言うも、実は有る能わざるに、ただ万一に有らんを指望するの説法。《象伝》は「志」と言うは、この志向は未だ必ずしも真に実現せざるを言うも、而して人はこの一份の志向なかるべからず。文王・周公の両聖人の用意は、実に精微なり。上九の爻辞:角に於て相遇す、困吝有り、咎なし。多隆阿は曰く、乾の取象は首で、首の上はすなわち角。相遇することこの一歩に至れば、卦の爻位はすでに窮尽して、さらに遇うべきなし。陰気は生長して一直に上爻に遇うに至れど、上爻はそれを制服するに力無く、困吝を招来するはもとより応当なるも、しかしそれは高く居りて位なきの地に在り、責備もまたその頭上に追究するに及ばず。だから咎なし。《小象》は曰く、角に於て相遇するは、上極に居りて窮尽せばなり、故に困吝なり、と。

萃(すい)の卦

【坤下兌上,中互巽艮】觀。萃為四陰二陽卦,自觀來。虞氏曰:觀上之四也。萃:亨,王假有廟,利見大人,亨,利貞,用大牲吉,利有攸往。二陽居尊,上下四陰皆欲相附,故坤下兌上之卦名萃。人散則情相隔閡,人萃則情自亨通,是萃有亨義。而人之萃莫盛於王者承祭之時,大人主祭,眾人見之,合禮則亨,亦和義乃正也。祭祀必用牲,王者大祭則用大牲,用牲於廟,感格鬼神,禮儀有文,宜致眾人之瞻仰,故利有攸往見此大人以成萃也。

「萃」の卦は下体が坤(こん)、上体が兌(だ)。第二爻から第四爻までが互いに巽(そん)を成し、第三爻から第五爻までが互いに艮(ごん)を成す。これは「観」の卦から変じたものである。萃は四陰二陽の卦で、観卦と陰陽の数が同じである。虞翻(ぐほん)によると、観卦の上爻が第四位に下りたものだという。卦辞には、亨通し、君王が宗庙に臨み、大人に見えるに利あり、亨通し、正しきを守るに利あり、大牲を用いて祭れば吉で、往くところあるに利あり、という。多隆阿(タロンア)が解説するには、二つの陽爻が尊貴の位に居り、上下の四つの陰爻がみなそれに附こうとするので、坤下兌上のこの卦を「萃」(あつまり)と名づけたのである。人が散じれば情は互いに隔たり、人が集まれば情はおのずと亨通する。ゆえに「萃」には亨通の義が含まれる。そして人の集まりは、君王が祭祀を主催する時ほど盛んなものはない。大人が祭を主掌し、衆人がこれを観礼に来て、礼に合えば亨く。「亨」はすなわち和であり、和があってこそその正を得る。祭祀には必ず犠牲を用い、君王の大祭には大牲を用いる。宗庙で牲を用いて鬼神を感格し、礼儀が整って文があるので、おのずと衆人の瞻仰を招く。ゆえに往ってこの大人に見え、集まりの勢いを成すに利があるというのである。

彖曰:萃,聚也。順以說,剛中而應,故聚也。王假有廟,致孝享也。利見大人亨,聚也,正也。用大牲吉,利有攸往,順天命也。觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。萃者何?聚也。一人居尊,坤順兌說,下陰應五,是萃自有亨義。再以卦象觀之,二陽居中,四陰上下環拱於外,而體象大坎。鄭氏曰:坎為隱伏,居尊位而隱伏,鬼神之象。是大坎為鬼神,互艮之門闕為廟,坤牛為大牲,九五為王。王者致其孝享,合群族而駿奔廟中,用牲往祭,以順天命,以己之精神感格祖考之精神,人與神聚,此萃象之一端也。

『彖伝』にいう、萃とは聚(あつまり)である。下は順、上は悦で、陽剛が中に居り下と応じるので、よく聚まる。「王假有廟(王、廟に至る)」は、孝の心を尽くして祖先を祭享するのである。「利見大人亨」は、聚まりが正道に合することをいう。「用大牲吉、利有攸往」は、天命に順うのである。聚める対象を観れば、天地万物の情状を見通すことができる。多隆阿が解説するには、萃とは何か、聚である。一人が尊位に居り、下の坤は柔順、上の兌は和悦であり、下の陰爻が九五に応ずるので、「萃」はおのずと亨通の義を含む。さらに卦象から見れば、二つの陽爻が中に居り、四つの陰爻が上下に環拱して外を囲み、卦体全体が拡大した坎(かん)の卦に似ている。鄭玄(ていげん)によれば、坎の取象は隠伏であり、尊位に居ながら隠れて見えないのはまさに鬼神の象である。ゆえにこの大坎は鬼神と取象し、互体の艮の門闕はすなわち宗庙であり、坤の牛はすなわち大牲であり、九五はすなわち王である。君王が孝享を尽くし、宗族を合わせて宗庙の中に奔走し、犠牲を用いて往き祭り、天命に順い、自らの精誠をもって祖考の精神を感格する。これは人と神とが聚まることで、萃象の一面である。

九五之大人主祭,九四為大臣,是助祭者有人;群陰居下,坤又為眾,是觀禮者有人。觀四往上以成萃,前往以觀大人之禮儀,所聚維正,故攸往皆利,是人與人聚,此又萃象之一端也。於咸見天地萬物相感之情,於恆見天地萬物可久之情,於萃又見天地萬物樂聚之情,故曰萃聚也。

九五の大人が祭祀を主掌し、九四は大臣で、助祭の人があることが分かる。衆多の陰爻が下位に居り、坤はまた衆と取象するので、観礼の人もあることが分かる。観卦の第四爻が上行して萃卦となったのであり、衆人が往って大人の礼儀を観るのは、聚めるものがすべて正道に合するからで、ゆえにどこへ往っても利がある。これは人と人とが聚まることで、また萃象の一面である。「咸」の卦では天地万物が互いに感応する情状が見え、「恒」の卦では天地万物が久しくやまない情状が見え、「萃」の卦ではまた天地万物が聚まるを楽しむ情状が見える。ゆえに萃とは聚であるというのである。

象曰:澤上於地,萃,君子以除戎器,戒不虞。水匯為澤,澤水萃地上,猶人之萃於地上也。水得澤則水有歸而不氾濫,人相聚則人宜有衛而不離散也。姚氏曰:除猶修治。虞氏曰:除,修戎兵也。坤為器,坎為弓弧,巽為繩,艮為石,故除戎器也。坎為寇盜,坤為亂,兌口以告戒之,故戒不虞也。

『象伝』にいう、沢水が地面の上に高くあるのが萃の卦である。君子はこれに法って兵器を修治し、意外の変に備える。多隆阿が解説するには、水が集まって沢となり、沢水が地上に聚まるのは、人が地上に集まるようなものである。水が沢を得れば帰るところがあって氾濫せず、人が集まれば防衛があるべきで離散しない。姚信(ようしん)によれば、「除」とは修治の義である。虞翻によれば、「除」とは兵器を修めることである。坤の取象は器であり、卦体の大坎は弓に取象し、巽の取象は縄、艮の取象は石である。ゆえに「戎器を除す」(弓弩・縄・砥石などの兵備を修治する)という。坎はまた寇盗に取象し、坤は乱に取象し、兌の口をもって衆人に告戒するので「不虞を戒む」というのである。

初六:有孚不終,乃亂乃萃,若號,一握為笑,勿恤,往無咎。此萃之始也。人當始萃,不無猜疑,則貴有孚以聯之。初為坤,坤體中虛,而與四應,四為陽,陰虛心求陽,故曰有孚。萃貴有終,坤為終,相聚未久,豈能遽洽?而三為內卦之終,上為外卦之終,三上二陰不應,故曰不終。

初六の爻辞にいう、誠信があっても終始できなければ、あるいは乱れあるいは集まる。呼ばれれば、握手する間に相見て笑い、憂えることなく、往けば咎なし。多隆阿によれば、これは聚まりの始まりである。人が初めて聚まる時、互いに猜疑しないことはないので、誠信をもってみなを結びつけることが貴い。初六は坤に属し、坤体の中は虚で、九四と応ずる。九四は陽であり、陰は虚しく心して陽を求めるので「孚有り」という。聚まりは終わりあることを貴ぶが、坤は終わりに取象する。しかし聚まってまだ久しくないのに、どうしてすぐに融和できようか。しかも六三は内卦の終わり、上六は外卦の終わりで、三と上の二つの陰爻は互いに応じない。ゆえに「終わらず」というのである。

卦有四陰,皆求萃者,惟下三陰相比,上隔一陰,未能親附,而坤亦為亂,故曰乃亂。然坤為眾為民,二陽得位,眾民來歸,雖一陰在上,亦必求萃,故曰乃萃。既云有孚,似萃於有孚也,而無如其不終也;既云乃亂,似散於乃亂矣,而其後尚可得萃也。

卦中には四つの陰爻があり、みな聚まることを求めている。ただ下の三つの陰爻は互いに隣り合い、上の一つの陰爻は中に陽爻を隔てて親しめず、しかも坤は乱に取象するので「乃ち乱る」という。しかし坤はまた衆・民に取象し、二つの陽爻が各々その位を得て、衆民が来て帰附するので、たとえ一つの陰爻が上にあっても、最終的には必ず聚まろうと求める。ゆえに「乃ち萃まる」という。「孚有り」と言ったからには、誠信に依れば聚まれるように思えるが、それが終始できないのは如何ともし難い。「乃ち乱る」と言ったからには、乱れて渙散するかに思えるが、後にやはり聚まることができるのである。

總之初萃則疑,萃久自洽。有相召呼者,互巽為號,故云號;有相搦握者,互艮為手,故云握;又有相笑樂者,正兌為口,兌為說,故云笑。體象大坎,坎為加憂,而卦實為兌坤,兌說坤順,坎象非真,故云勿恤。蓋當萃初,感之以孚,召呼而來,執手之間便自喜悅而無憂恤。初往應四,則正坤、互巽、互艮、正兌、大坎皆見,故有此象,而人始萃情形無不該於此爻矣。

要するに、聚まり始めた時は互いに猜疑し、聚まりが久しくなればおのずと融和する。その中には互いに呼び合うものがあり、互体の巽は号令に取象するので「号」といい、互いに握手するものがあり、互体の艮は手に取象するので「握」といい、また互いに談笑して楽しむものがあり、本体の兌は口・喜悦に取象するので「笑」という。卦体全体は大坎のようで、坎は憂愁を主る。しかしこの卦は実は兌と坤から成り、兌は和悦、坤は柔順を主り、坎の象は真実ではないので「恤るなかれ」という。聚まりの初めにおいて、誠信をもって人を感動させれば、一呼すればみな来り、握手する間におのずと歓喜して憂いがないことを知るべきである。初六が上行して九四に応ずれば、本体の坤・互体の巽・互体の艮・本体の兌および大坎の象がすべて現れるので、この一連の取象があるのである。人が初めて聚まる時の種々の様子は、すべてこの一爻に含まれている。

象曰:乃亂乃萃,其志亂也。初萃人尚不一其志也。六二:引吉,無咎,孚乃利用禴。二為坤中,居互艮之初,上下二陰皆得用艮手引之以相萃,此惟吉乃可無咎者。夫人與人萃,固見眾情之同;而人與神萃,尤見心志之一。坤位西南,適丁六月盛夏之時,夏祭曰禴,周禮所謂以禴夏享先王是也。用坤大牲以入艮廟,禴祭先王,萃聚人鬼之精神,以將孚誠,蓋亦利矣。象曰:引吉無咎,中未變也。

『小象』にいう「乃ち乱り乃ち萃まるは、その志乱るるなり」――聚まり初めの時は、人の志がまだ統一されていない。六二の爻辞にいう、衆を引き連れて来れば吉で咎なし。誠信を懐けば、夏の禴祭(やくさい)を行うに宜しい。多隆阿によれば、六二は坤体の中に居り、また互体艮の始まりに処して、上下の二つの陰爻をいずれも艮の「手」で引き寄せて聚めることができる。これは必ず吉でなければ咎なしとはならない。人と人とが聚まるのは、衆人の情意が同じであることを見るに足る。人と神とが聚まるのは、心志が専一であることをなおさら見ることができる。坤の方位は西南にあり、六月盛夏の時に当たり、夏の祭祀を「禴」と言い、『周礼・春官・大宗伯』の「禴を以て夏に先王を享く」がこれである。坤の象る大牲を艮の象る宗庙に進め、禴祭を行って先王を奉じ、人と鬼神との精誠を聚めて誠信を表すのだから、おのずと利がある。『小象』にいう、衆を引き連れれば吉で咎なきは、六二が中に居る徳が終始変わらないからである。

六三:萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。三上不應,且為二陽所間。三為互巽,上為兌口,巽號出於兌口,是求萃不得而嗟如者。不得萃而徒嗟,故無利;二陽為萃主,前往得遇,故無咎;二陽非三正應,往而求萃,故小吝。象曰:往無咎,上巽也。上為互巽,宜往也。九四:大吉,無咎。四為大臣位,致人來附,疑於震主,是萃無其位者,故必大吉乃無咎。象曰:大吉無咎,位不當也。四為陰位,而位近五,萃非其位,當此位以言萃,宜善自處也。

六三の爻辞にいう、聚まろうとしても嘆息するばかりで利あることなし。往けば咎なし、ただ小さな困吝があるのみ。多隆阿によれば、六三は上六と応じず、中間に二つの陽爻に隔てられている。六三は互体の巽に属し、上六は兌の口であり、巽の号令が兌の口から出る――これが聚まりを求めて得られず嘆息するばかりの姿である。聚まれずに空しく嘆息するので利はない。二つの陽爻は聚まりの主であり、往けばそれらに遇うので咎はない。ただ二つの陽爻は六三の正応ではなく、往って聚を求めるので小さな困吝がある。『小象』にいう「往きて咎なきは、上に巽あればなり」――上は互体の巽で、柔順にして入るべきなので、往くに宜しい。九四の爻辞にいう、大吉であってこそ咎なし。多隆阿によれば、第四爻は大臣の位で、衆を招き引き寄せて帰附させるのは、君主を震動させる嫌疑を免れない。これは衆を聚める実があって衆を聚める位のない者なので、必ず大吉でなければ咎なしとはならない。『小象』にいう「大吉にして咎なきは、位当たらざればなり」――第四爻は本来陰位であり、しかも九五に紧邻している。衆を聚めるのはその本分ではなく、この位に処して聚まりを語るには、自分をよく安頓すべきである。

九五:萃有位,無咎,匪孚,元永貞,悔亡。萃在四不當位,五則有位矣。當位以為萃主,則宜致眾人之歸,故無咎。夫陽剛居五,陽德中實,所謂孚也。上有孚信以感之,下宜有孚信以應之。五應二,二為坤中,坤體中虛,未能遽孚;且卦有二陽,眾陰求萃,未必不生疑貳,是為匪孚。然位在德元,永貞以守之,久則自孚以成萃,悔亡矣。象曰:萃有位,志未光也。萃有位而人未遽孚,故志未光也。

九五の爻辞にいう、衆を聚めてその位あるは咎なし。ただ未だ衆の信を得ていないので、至善を保ち長く正を守れば悔いは亡びる。多隆阿によれば、衆を聚めることは九四においては位当たらず、九五においては位あるものとなる。その位に居て聚まりの主となるのだから、衆が来て帰附するのは当然で咎はない。陽剛が第五爻に居り、陽徳は中に実る。これがいわゆる「孚」である。上に誠信をもって人を感動させれば、下も誠信をもって応ずべきである。九五は六二と応じ、六二は坤体の中に居るが、坤体の中は虚しく、一時に誠信が足りない。しかも卦中に二つの陽爻があり、衆陰が来て聚を求めるとき、二心を生じないとは限らない。これが「匪孚(孚ならず)」である。しかし九五の居る位は本来元善の徳を具え、長く正を守れば日久しきに及んでおのずと人の信を得て聚まりを成し、悔いは亡びる。『小象』にいう「萃に位ありとは、志未だ光ならざるなり」――衆を聚めて位はあるが、衆がまだすぐには信服しないので、志が未だ光大していないのである。

上六:齎諮涕洟,無咎。內卦三陰自相萃聚,初二又與四五相應,惟上一陰孤立無偶。蓋好聚惡散,人情之常,故上不得萃,遂有齎諮涕洟之象。兌為口,故有齎諮之音;兌為澤,故有涕洟之液。求萃若此,猶夫臣子不得君親,深山號泣以冀君親悔悟,以得萃也,故無咎。象曰:齎諮涕洟,未安上也。未安於上,下求萃主也。

上六の爻辞にいう、嘆息し涙を流すも咎なし。多隆阿によれば、内卦の三つの陰爻は互いに聚まり、初六・六二はまたそれぞれ九四・九五と応じており、ただ上六の一つの陰爻のみが孤単で伴侶がない。聚まるを好み離散を悪むは人の常情なので、上六は聚まることができず、嘆息し涙を流す取象がある。兌の取象は口なので嘆息の声を発し、兌の取象は沢なので涕涙の液がある。このように苦しく聚を求めるのは、たとえば臣子が君父に容れられず、深山に走って号哭し、君父の心が回り再び聚まることを望むようなもので、咎はない。『小象』にいう「賚咨涕洟(しこうの声を発し涕涙する)は、未だ上に安んぜざるなり」――上位に安んじることができず、下に向かって聚まりの主を求めるのである。

升(しょう)の卦

【巽下坤上,中互震兌】臨。升為二陽四陰卦,自臨來。虞氏曰:臨初之三。升:元亨,用見大人,勿恤,南征吉。臨四陰居上,二陽居下,易兌為巽,陽各前進,故卦名升。升則大亨,而宜升者為大人。大人在下,君宜用而見之,使勿憂恤,南征以往,升進得位,以展才能,則吉也。

「升」の卦は下体が巽、上体が坤。第二爻から第四爻までが互いに震を成し、第三爻から第五爻までが互いに兌を成す。これは「臨」の卦から変じたものである。升は二陽四陰の卦で、臨卦と陰陽の数が同じである。虞翻によれば、臨卦の初爻が第三位に上ったものだという。卦辞にいう、大いに亨通し、大人を任用し引見するに宜しく、憂えることなく、南方に向かって進めば吉。多隆阿が解説するには、臨卦は四つの陰爻が上にあり二つの陽爻が下にあり、兌を巽に変じて、陽爻が各々前に進むので、卦名を「升」とする。上昇すれば大いに亨通するが、上昇するに適した者は大人である。大人が下位にあるとき、君主は彼を任用し引見して、憂えさせないようにすべきである。南に向かって進み、上昇してふさわしい位を得て才能を施展すれば吉である。

彖曰:柔以時升,巽而順,剛中而應,是以大亨。用見大人勿恤,有慶也。南征吉,志行也。升者何?陽升也。上卦為坤,下卦為巽,巽木得坤土生之,長養高大,故名曰升。夫木之升長曰升,而賢之升進亦曰升。木之升者為大木,賢之升者為大人。大人在上位,臣下見之則曰利見大人;居下位,君上見之則曰用見。用見大人,則大人不終於居下,亦如木之日長日大,慶高升也。

『彖伝』にいう、柔順な者が時勢に随って昇り、下卦は柔順にして上卦は順従し、陽剛が中に居り上に応与があるので、大いに亨通する。「大人を用見て恤るなかれ」とは、福慶があることをいう。「南征吉」とは、心志が行われることをいう。多隆阿が解説するには、升とは何か、陽爻の上昇である。上卦は坤、下卦は巽。巽木は坤土の滋生を得て、長養されて高大になるので、「升」と名づけた。木が高くなるのを升といい、賢人が進用されるのも升という。木が上昇すれば大木となり、賢人が上昇すれば大人となる。大人が上位にあって臣下が彼に見えるのを「利見大人」といい、大人が下位にあって君上が彼を召し見るのを「用見」という。君上が大人を任用し引見すれば、大人は終始下位に居ることはなく、木が日々に高く大きくなるがごとく、その高昇を慶賀するに足る。

升則有慶,有慶則勿恤。雖卦象大坎,坎為加憂,而巽木洩之,坤土制之,巽兼坤順,又得二之剛中以應六五,元善亨嘉,可於升中得之。蓋升自臨來,臨初往三為升,臨三為柔,今升之剛已進至三,循次遞升,則柔所居之地皆剛可升之地也。木在下則因地而升,賢在下亦因時而升。五為柔中為君,引陽上升,是柔因時使陽上升以用之,故曰柔以時升也。

上昇すれば福慶があり、福慶があれば憂える必要がない。卦体は大坎のようで坎は憂愁を主るが、巽木は水気を泄らすことができ、坤土はまたそれを制約できる。巽の柔順に坤の順従を加え、さらに九二の陽剛が中に居って六五に応ずるので、大善と嘉美とはいずれも上昇の中に得ることができる。升卦は臨卦から変じた。臨卦の初爻が第三位に上れば升となるが、臨卦の第三爻は本来柔爻であった。今や升卦の剛爻はすでに第三位に進み、この次序に従って一級ずつ上に昇るならば、柔爻の占めていたところはすべて剛爻の昇るべきところである。木は下にあって土地に凭って上昇し、賢人は下にあって時勢に凭って上昇する。六五は柔をもって中に居り君となり、陽爻を引き上げる。これが柔順な者が時勢に順って陽爻を昇らせて任用する所以で、ゆえに『彖伝』に「柔以時升(柔は時を以て升る)」という。

二至四為互兌,兌為雨澤;三至五為互震,震為行;坤位西南,木得雨滋之土,發榮暢達,南行故吉。行者征也,征行有志,則升進不已,升之義著矣。象曰:地中生木,升,君子以順德,積小以高大。荀氏曰:地為坤,木為巽,地中生木,以小至大,升之象也。坤為順,巽為高,故君子體升以成德。

第二爻から第四爻は互いに兌を成し、兌の取象は雨沢である。第三爻から第五爻は互いに震を成し、震の取象は行走である。坤の方位は西南にある。木は雨水に潤された土壤を得れば、栄え滋長して暢達し妨げられないので、南へ往けば吉である。「行」とはすなわち「征」である。行進して志があれば、絶えず上昇し、升の意義は昭然と明らかになる。『象伝』にいう、地中に木が生じるのが升の卦である。君子はこれに法り、自らの徳性を順に養い、少しずつ積み重ねて高大に至る。荀爽(じゅんそう)によれば、地はすなわち坤、木はすなわち巽であり、地中に木が生じ、小より大に長ずるのは、まさに上昇の取象である。坤は柔順を主り、巽は高を主るので、君子は升卦を体して自らの徳行を成すのである。

初六:允升,大吉。初為四應,二三為陽,臨初與三對易,升之初即臨之三,其升有可信者,故曰允升。升可居信【居信:居字衍文】,故大吉。象曰:允升大吉,上合志也。九二:孚乃利用禴,無咎。二為陽實稱孚,是積孚誠以升者。二與五應,五為坤中,坤位西南,時維六月,故言禴。言二之孚即使感格鬼神亦利用之,故無咎。象曰:九二之孚,有喜也。

初六の爻辞にいう、まことに昇るべき、大いに吉。多隆阿によれば、初六は六四と応じ、二・三の両爻はいずれも陽である。臨卦の初爻と第三爻とが位置を互換すれば、升卦の初爻はもとの臨卦の第三爻であり、その上昇には凭拠があって信じるに足るので「允升」という。上昇して信を守ることができるので大吉である(底本に「升可居信」とあるのは、「居」字は衍文である)。『小象』にいう「允升大吉は、上と志を合すればなり」――上と心志を合するということである。九二の爻辞にいう、誠信を懐けば禴祭を行うに宜しく咎なし。多隆阿によれば、九二は陽爻で、陽は実なるがゆえに「孚」と称す。これは誠信を積み重ねて後に上昇する者である。九二は六五と応じ、六五は坤体の中に居り、坤の位は西南にあり、時令は六月に当たるので「禴」(夏祭)という。これは九二の誠信が、鬼神を感通するのに用いても合宜であることをいい、ゆえに咎はない。『小象』にいう、九二の誠信は、欣喜に値するものである。

九三:升虛邑。坤為虛為邑,三自臨之初來,變兌為巽,巽木遇坤土,木資土養,故曰升虛邑。象曰:升虛邑,無所疑也。三為巽末,漸欲出巽以升於坤,故曰升虛邑。巽為進退,為不果,象疑,出乎巽即已無此疑也。六四:王用亨于岐山,吉無咎。升至於四,升愈進矣。四為互兌,兌位西,岐山在周西,故王用之以享岐山。兌又為巫,巫主祭祀,享象。大臣升進,有此馨德以致王用,故吉無咎。象曰:王用亨于岐山,順事也。

九三の爻辞にいう、空廓の城邑に昇る。多隆阿によれば、坤の取象は虚・邑である。第三爻は臨卦の初爻から上って来たもので、兌を巽に変じ、巽木は坤土に遇い、木は土に靠って滋養されるので「虚邑に升る」という。『小象』にいう「虚邑に升るは、疑うところなきなり」――九三は巽体の末端に処し、まさに巽体を脱して坤中に昇ろうとするので、空邑に昇るという。巽は進退・不果決を主り、疑に取象する。いったん巽体を脱すれば、この疑慮もなくなる。六四の爻辞にいう、君王が岐山で祭享を行えば吉にして咎なし。多隆阿によれば、第四爻に昇れば上昇はさらに一歩進む。第四爻は互体の兌に属し、兌の方位は西にあり、岐山は周原の西にあるので、君王がそれをもって岐山を祭享するという。兌はまた巫に取象し、巫は祭祀を司るので「享」の取象に合する。大臣が絶えず上昇し、このような芬芳の徳を具えてこそ君王の任用を招くので、吉にして咎なし。『小象』にいう、君王が岐山で祭享するのは、柔順にして上天と祖先に奉事するからである。

六五:貞吉,升階。五為天位稱階,臣升至此,則是位極人臣,左右厥闢,惟貞正以升乃吉。象曰:貞吉升階,大得志也。上六:冥升,利于不息之貞。荀氏曰:坤性闇昧,今升在上,故曰冥升也。升至於上,升道已窮,貞固自守,不少間斷,此所謂不息之貞也。語曰:知足不辱,知止不殆。上之所利在此耳。象曰:冥升在上,消不富也。上富已極,宜消其富。坤為吝嗇,陰象亦虛象,故曰不富。升至能消其富,處升之道得矣。

六五の爻辞にいう、正を守れば吉、階段に沿って昇る。多隆阿によれば、第五爻は天子の位なので「階」と称す。人臣がここに昇れば、位は人臣の極みに達し君主を輔佐するので、正道をもって昇ることのみが吉となる。『小象』にいう、正を守って吉・階を拾って昇るとは、志を大いに得たということである。上六の爻辞にいう、昏昧にひたすら昇るならば、断間なく正を堅持するに宜しい。荀爽によれば、坤の性は昏暗である。今や最上に昇ったので「冥升」という。上爻に昇れば上昇の路はすでに尽き、堅貞に自守して片刻も間断しないことのみ、これがいわゆる「不息之貞」である。古語にいう、足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うくない(『老子』第四十四章より)。上六の利はここにある。『小象』にいう「冥升して上に在るは、消えて富まざるなり」――上位の富盛は極に達したので、これを消減すべきである。坤は吝嗇を主り、陰爻は陰象であるとともに虚象でもあるので「富まず」という。極に昇って自らの富盛を消減することができれば、「升」という時位に処する理を掌握したことになる。

易原 巻十

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。周易下經(四):困、井、革、鼎、震、艮。

本巻は慧珠閣原刻本に依拠し、撰者は岫巖の人・多隆阿(字は雯渓)である。この巻は『周易』下経の第四部分を解説し、順に「困」「井」「革」「鼎」「震」「艮」の六卦を扱う。

困(こん)の卦

【坎下兌上,中互巽離】否。困為三陰三陽卦,自否來。荀氏曰:此本否卦,陽降為險,陰升為說也。虞氏曰:否二之上。困:亨,貞,大人吉,無咎,有言不信。坎下兌上,卦名曰困。人當困境,不宜苟安而貴能自振,故曰亨;困又不宜苟免而貴能履正,故曰貞。既亨且貞,惟大人能之,人以大人為法,雖處困亦吉無咎。若夫惟事喋喋,徒尚言語,則人不信,困愈甚矣。

「困」の卦は下体が坎、上体が兌。第二爻から第四爻までが互いに離を成し、第三爻から第五爻までが互いに巽を成す。これは「否」の卦から変じたものである。困は三陰三陽の卦で、否卦と陰陽の数が同じである。荀爽によれば、この卦はもと否卦であり、陽爻が下降して険陷の坎となり、陰爻が上昇して和悦の兌となったのだという。虞翻によれば、否卦の第二爻が上位に上ったものだという。卦辞にいう、亨通し、正を守り、大人は吉、咎なし。空言を弄しても人に信ぜられない。多隆阿が解説するには、坎が下にあり兌が上にあり、卦名は「困」。人が困境に処しては、苟且に安んじてはならず、自ら振作できることが貴い。ゆえに「亨」という。困に処しても苟且に脱するを求めてはならず、正道を履むことが貴い。ゆえに「貞」という。亨通しつつ正を守れるのは大人のみである。人々が大人を模範とすれば、たとえ困境に身を置いても吉にして咎なし。ただ喋々と口先だけの者は、人に信ぜられず、困境はいよいよ深まるのみである。

彖曰:困,剛揜也。險以說,困而不失其所亨,其惟君子乎。貞大人吉,以剛中也。有言不信,尚口乃窮也。卦之所以名困者,以困古文作止□木,木為所止,是窮極而至於盡曰困。此卦上兌下坎,水洩澤下,澤水漸涸,是水窮極而至於盡也。困又從木在口中,有止而不過之義,此卦內陽外陰,陽為陰揜,是陽剛以有所止而不過也。

『彖伝』にいう、困とは陽剛が陰柔に掩蔽されることである。険境に身を置きながら和悦を保ち、困境に陥りながら亨通の道を失わないのは、おそらく君子のみができることであろう。「貞にして大人吉」は、陽剛が中に居るからである。「言ありて信ぜられず」とは、ひたすら口舌の利を逞しゅうする者は、路が尽きるということである。多隆阿が解説するには、この卦を「困」と名づけたのは、「困」の古文は止と木とから成り(底本ではこの字が漫漶している)、木が止められるのは、窮尽して極に達した時を困というからである。この卦は上が兌で下が坎、水は沢の下から漏れ泄れて、沢中の水はしだいに涸渇する。これはまさに水が窮尽して極に達したものである。「困」字はまた「木」が「囗」の中にある形から、止められて越え出られない意を含む。この卦は内卦が陽で外卦が陰、陽が陰に遮掩され、まさに陽剛が阻害されて越え出られないものである。

夫困則多阻,似不可以有為,不知為困所窮者小人然也,非君子也。蓋君子即大人,二五剛中,足以濟困,雖險猶說,是所謂亨通貞正無咎而吉者。但不宜如彼小人,徒恃兌口,專事辯給,人不之信,自取困窮耳。象曰:澤無水,困,君子以致命遂志。澤以滀水,至於無水,困之象也。君子體之,宜舍其命而遂素志。卦自否來,否為上乾下坤,乾為天命,變乾為兌,兌上折乾,是致命矣;變坤為坎,坎為心志,是遂志矣。

困に処すれば阻害が重なり、有為ではないように見える。しかし困境に絶路へ追い込まれるのは小人であって君子ではないことを知らない。君子とはすなわち大人であり、九二・九五はいずれも陽剛をもって中に居り、困厄を済度するに足り、険中にありながら和悦である。これが卦辞のいう亨通・守正・无咎にして吉の道理である。ただ小人のように兌口に凭って口舌の能を逞しゅうし、口才をひけらかして人に信ぜられず、自ら困窮を招くようにしてはならない。『象伝』にいう、沢に水なきは困の卦である。君子はこれに法り、命を捨てても自らの志を成し遂げる。多隆阿によれば、沢は本来水を蓄えるものだが、今や涸れて水がないのが「困」の取象である。君子はこれを体して、自らの性命を捨てて平生の志を成し遂げるべきである。卦は否卦から変じた。否卦は上乾下坤で、乾の取象は天命であり、乾が兌に変じて、兌は毀折を主り乾体を折る――これが「致命」(命を捨てる)である。坤が坎に変じて、坎の取象は心志――これが「遂志」である。

初六:臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。困以柔揜陽剛為義,而自各爻分觀,陰陽俱各受困,陰柔無才,其困尤甚。初居下位,又為陰柔,是困而不能出者。坎為臀,坎木為堅多心,故曰臀困于株木;坎為陷為隱伏,象幽谷,困者入之。歷盡坎爻,得遇正應,已為三歲,三歲不覿,初之受困亦久矣。象曰:入于幽谷,幽不明也。坎反離明。

初六の爻辞にいう、臀部が枯れた株木に硌れて苦しみ、幽深の谷に落ち込み、三年人に見えない。多隆阿によれば、困卦は柔が陽剛を掩蔽することを義とするが、各爻を分かれて見れば、陰陽は実は各々困を受けている。陰柔の爻は才干がなく、受ける困はなおさら甚だしい。初六は最下位に居り、また陰柔の質で、これは困されて出られない者である。坎の取象は臀であり、坎木の性は堅く木心が多いので「臀、株木に困む」という。坎はまた陷落・隠伏を主り、幽谷に取象して、困された者はその中に落ち込む。坎体全体を歴尽してこそ自らの正応に遇うので、すでに三年後であり、「三歳覿らず」という。初六の受ける困の久しさが見える。『小象』にいう「幽谷に入るは、幽にして明ならざるなり」――坎は離の反象であり、離は光明を主り、坎は幽暗不明を主る。

九二:困于酒食,朱紱方來,利用亨祀,征凶,無咎。陽剛受困則與陰異。二為坎中,坎為酒,是困于酒食也。夫酒何自來哉?二自否之上來,否下為坤,坤為裳象紱,紱,祭服也;否以乾上來居坤中,乾為大赤,是為朱紱,朱紱外來加之於身。坎為宮室,又為鬼神,二衣朱紱以入坎宮,祀此坎神,祭畢分胙以饗餕餘,故有此困也。困則近凶,似不可往,不知雖有醉飽之凶,實有享祀之利,征凶亦無咎也。象曰:困于酒食,中有慶也。得中故有慶。

九二の爻辞にいう、酒食の間に困み、朱き祭服がまさに送られて来る。祭享を行うに宜しく、進めば凶あるも咎なし。多隆阿によれば、陽剛の受ける困は陰柔と情況が異なる。九二は坎体の中に居り、坎の取象は酒であるので酒食に困むという。この酒はどこから来たのか。九二は否卦の上爻から下って来たもので、否卦の下体は坤、坤は裳に取象し、すなわち「紱」――紱は祭祀の礼服である。否卦は乾の上爻を下して坤体の中に居らしめ、乾は大赤色に取象するので、合わせて「朱紱」となる。朱紱は外から送られて身に着ける。坎はまた宮室・鬼神に取象し、九二は朱紱を着て坎宮に入り、この坎神を祭る。祭が終われば祭肉を分け余った酒食を食べるので、この「酒食に困む」という説がある。困を受ければ凶に近く、往くべからずと思えるが、しかし酔飽の凶はあっても実は祭享の利があることを知らない。ゆえに進めば凶なれど咎なしという。『小象』にいう「酒食に困むは、中に慶あればなり」――九二は中位を得たので福慶がある。

六三:困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。三亦陰柔而居上下二陽之間。前為正兌,兌於地為剛滷,象石,是前進已困于石;今居坎上,九家易曰坎為蒺藜,是退守所據者又為蒺藜。坎又為宮,坎位已盡,互巽為入,是為入于其宮。坎以離為妻,而坎與離反,互離之目與互離之妻俱非真象,故曰不見其妻。此困之至極者。象曰:據于蒺藜,乘剛也;入于其宮,不見其妻,不祥也。名辱身危,死期將至,故不祥也。

六三の爻辞にいう、大石に遮られ、退いて疾藜(しつりつ)の上に坐り、家に帰っても妻に見えず、凶。多隆阿によれば、六三も陰柔の質で、しかも上下二つの陽爻に挟まれている。その前は本体の兌で、兌は地象として堅硬の鹸鹼の地、取象は石である。前へ進めばすでに大石に困まれている。今や坎体の上に居り、『九家易』によれば坎の取象は疾藜であり、退いて凭据するのはまた疾藜である。坎はまた宮室に取象するが、坎の位置はここで尽き、互体の巽には「入」の義があり、合わせれば「その宮に入る」となる。坎は離を妻とするが、坎と離はまさに相反し、互体離の目・互体離の妻はいずれも真実の象ではないので「その妻に見えず」という。これは困の極まった情状である。『小象』にいう「疾藜に拠るは、剛に乗ればなり。その宮に入りてその妻を見ざるは、祥ならざるなり」――名声が辱められ危境に身を置けば、死期が将に至らんとするので不祥という。

九四:來徐徐,困于金車,吝,有終。四應於初,下求正應而來。曰徐徐者,以困故也。馬氏曰:徐徐,安行貌。巽為進退,象徐徐。四為兌金,初為坎輿,四降來初,為坎所困,故曰困于金車。困則有吝,而陽剛有為,不長受因,故有終也。象曰:來徐徐,志在下也;雖不當位,有與也。下謂初,有與,有應也。

九四の爻辞にいう、徐徐として下り、金車に困まれ、困吝あるも終わりに結果あり。多隆阿によれば、九四は初六と応じ、下に向かってその正応を求めて来たものである。「徐徐」と言うのは困を受けたゆえである。馬融(ばゆう)によれば、「徐徐」とは従容として緩やかに行く貌である。巽は進退不定を主り、まさに徐徐の象に合する。九四は兌に属し、兌は金。初六は坎に属し、坎は車輿である。九四が初位に下降して坎に困まれるので「金車に困む」という。困を受ければ困吝があるが、陽剛の才は有為であり、長く困まれはしないので終わりに結果がある(底本の「不長受困」の「困」は「因」の誤り)。『小象』にいう「来ること徐徐は、志下に在ればなり。位当たらざると雖も、与あるなり」――「下」とは初六を指し、「与あり」とは応じる対象があることである。

九五:劓刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。五為兌中,兌下伏艮為鼻;五又為互巽為股。兌刑艮鼻為劓,兌刑巽股為刖。虞氏曰:兌為刑。既劓且刖,困非輕矣。然小人之困乃窮,而君子之困終亨。五以陽居陽位,當在否卦則五為乾,乾為衣為大赤,是為赤紱,故曰困于赤紱。變乾為兌,兌為說,是為徐用說;兌又為巫,巫主禱祝,是為祭祀。人至於困,猶能衣此赤紱,容止和說,以祀神祇,是世途雖困其身,而鬼神實歆其德,人不克知而天知之,君子豈長困哉。象曰:劓刖,志未得也;乃徐有說,以中直也;利用祭祀,受福也。志未得者,二陽不應,未得九二之坎志也。中直者,陽剛得位中直,自能濟困,乾為直也。祭祀受福,是鬼神佑之,困而亨也。

九五の爻辞にいう、鼻割き足断ちの刑を受け、赤き祭服に困まれ、徐々にして後に解脱を得る。祭祀を行うに宜しい。多隆阿によれば、九五は兌体の中に居り、兌の下には艮が潜伏し、艮は鼻に取象する。九五はまた互体の巽中に処し、巽は股に取象する。兌は刑を主り、艮鼻に施せば「劓」(鼻割き)であり、兌は刑を主り巽股に施せば「刖」(足断ち)である。虞翻によれば、兌の取象は刑である。鼻を割き足を断たれるのは受ける困として軽くない。しかし小人が困を受ければ真に絶路に至るが、君子が困を受ければ最終的に亨通する。九五は陽爻をもって陽位に居り、もとの否卦においては第五爻は乾に属し、乾は衣・大赤色に取象し、合わせれば「赤紱」となるので「赤紱に困む」という。乾が兌に変じ、兌は喜悦を主るので、これが徐々に解脱を得ることである。兌はまた巫に取象し、巫は祷祝を司るので「祭祀」である。人が困境に至っても、この赤き祭服を着て、挙止従容にして和悦に神祇を祭る。世の道はその身を困めるが、鬼神は実にその徳を歆饗する――人は彼を知らなくても天は彼を知る。君子が長く困まることがあろうか。『小象』にいう「劓刖は、志未だ得ざればなり。乃ち徐に説あるは、中直を以てなり。祭祀に用いるに利あるは、福を受くればなり」――いわゆる志未だ得ざるとは、二つの陽爻が応じず、九五が九二の坎体の心志の助けを得られないからである。いわゆる「中直」とは、陽剛が位を得て中に居り正直であるので、自ずから困厄を済度できることをいい、乾の取象は直である。祭祀して福を受くるは、鬼神が彼を保佑するので、困ありながら終に亨通する。

上六:困于葛藟,于臲卼,曰動悔,有悔,征吉。上六陰柔亦受困者,而吉不與初三同占,以卦爻已盡,困將解也。上應三,三為互巽,虞氏曰巽為葛藟,故曰困于葛藟也。既已受困,便不能安,臲卼固宜。臲卼,不安貌。夫人惟安於困中斯已耳,倘動生悔心,則悔已有於己,悔既有矣,則思前徵,不坐守則出乎困而得吉矣。象曰:困于葛藟,未當也;動悔有悔,吉行也。行,征也,行則不為葛藟所困矣。

上六の爻辞にいう、葛藟(かつるい)に纏まわれ、動揺して安からざる中に処る。心の中で動けば悔いありと言い、すでに悔いの意あるならば、往けば吉。多隆阿によれば、上六は陰柔で同じく困を受けるが、その占断の吉は初六・六三と異なる。卦の爻位がすでに尽き、困局がまさに解かれようとしているからである。上六は六三と応じ、六三は互体の巽に属し、虞翻によれば巽の取象は葛藟なので「葛藟に困む」という。困を受けた以上、安穏ではいられず、動揺して安からぬは当然である。「臲卼(げつご)」とは安からぬ貌である。人がひたすら困境に安んじれば、それで終わりである。もし動いて悔改の心を生じれば、悔意はすでに自らの心中にある。悔意があれば前に進もうと思い、坐して死守せずに困境を出て吉を得る。『小象』にいう「葛藟に困むは、当たらざればなり。動きて悔い悔い有るは、吉行なればなり」――「行」とは「征」であり、肯んじて前に進めば葛藤に纏われることはない。

井(せい)の卦

【巽下坎上,中互離兌】泰。井為三陽三陰卦,自泰來。荀氏曰:此本泰卦,陽往居五,陰來在下。虞氏曰:泰初之五也。井:改邑不改井,無喪無得,往來井井,汔至亦未繘井,羸其瓶,凶。巽下坎上,卦名曰井。邑為居井之地,邑改而井不改。卦自泰來,泰初易五,原無所喪;泰五易初,亦無所得。無所得喪而猶上下往來者,往為井,來亦為井也。汲水之具為繘,繘,綆也;汲水之器為瓶,瓶,雝□缶也。倘於汲水之時,繘尚未盡而瓶忽羸敗,則失井水養人之義,故曰凶。

「井」の卦は下体が巽、上体が坎。第二爻から第四爻までが互いに兌を成し、第三爻から第五爻までが互いに離を成す。これは「泰」の卦から変じたものである。井は三陽三陰の卦で、泰卦と陰陽の数が同じである。荀爽によれば、この卦はもと泰卦であり、陽爻が上って第五位に居り、陰爻が下って初位に居ったものだという。虞翻によれば、泰卦の初爻が第五位に上ったものだという。卦辞にいう、城邑は遷改できるが水井は改められない。井水は減りもせず増えもせず、往き来りする人はみなこの井を汲む。水が打ち上がろうとするのに、縄がまだ井口から出ず、瓶が破れれば凶。多隆阿が解説するには、巽下坎上、卦名は「井」。城邑は水井のある居地であり、邑は改められるが井は改められない。卦は泰卦から変じた。泰卦の初爻が第五位に換わっても本来損失はなく、泰卦の第五爻が初位に換わっても獲得はない。得もなく失もないのに上下に往来するのは、上に往けば井であり、下に来ても井だからである。水を汲む索を「繘(きゅつ)」といい、繘とは井縄である。汲水の容器を「瓶」といい、瓶とは瓦缶の一種である(底本ここに一字欠く)。もし水を汲む時に縄がまだ提げ尽くされないうちに瓶が忽ち破損すれば、井水が人を養う義を失うので凶という。

彖曰:巽乎水而上水,井,井養而不窮也。改邑不改井,乃以剛中也。汔至亦未繘井,未有功也。羸其瓶,是以凶也。卦之所以名井者,坎為水,巽為木,巽木取坎水,鄭氏所云桔槔是也,故象井。蓋井自泰來,以乾之初易坤之五,坤為邑,是為改邑;坤為地,坎為水,坤地成坎,坎中有水,乾初之剛往居坎中,水得坎中,是為不改井。

『彖伝』にいう、木器を水中に深入させて水を提げ上げるのが井である。井は衆を養って窮まりなし。「邑を改めて井を改めず」は、陽剛が中に居るからである。「汔(ほぼ)至れども亦未だ井を繘せず」は、功夫がまだ終わっていないことをいう。「其の瓶を羸(か)う」ゆえに凶あるのである。多隆阿が解説するには、この卦を「井」と名づけたのは、坎の取象は水、巽の取象は木であり、巽木をもって坎水を取る、すなわち鄭玄のいう桔橰(けっこう、汲水の梃子)だから、井に取象したのである。井卦は泰卦から変じた。乾の初爻をもって坤の第五爻と換え、坤は邑に取象する――これが「邑を改む」である。坤は地に取象し、坎は水に取象し、坤地が坎に変じ、坎の中に水があり、乾初の剛爻が上って坎の中位に居れば、水は坎中の剛を得る――これが「井を改めず」である。

初為陽位,五亦陽位,泰初居五,仍是以陽居陽,陽原無喪;泰坤之五下降來初,陰在五為失位,陰在初亦為失位,陰亦無得。無喪無得而往來如此者,初陽往五,往始變坤為坎,往原為井;五陰來初,陰來成巽,坎中之水惟巽木能出之,來亦為井也。

初位は陽位であり、第五位も陽位である。泰卦の初爻が上って第五位に居るのは、依然として陽爻が陽位に居るので、陽は本来損失がない。泰卦の坤体の第五爻が初位に下降するのは、陰爻が第五位にあるのは位を失い、陰爻が初位にあるのも同じく位を失うので、陰にも獲得はない。損失もなく獲得もないのにこのように上下に往来するのは、初爻の陽が第五位に上がる、その一往が坤を坎に変じたので、「往」それ自体が井であり、第五爻の陰が初位に下る、その一来が巽を成したので、坎中の水は巽木に依らなければ提げられない。ゆえに「来」も井なのである。

然井水之出,必需於瓶;而瓶之取水,又需於繘。巽為繩,互離為瓶,離為大腹中虛,故象瓶。用繩繫瓶以取井水,幾至井口而繩未盡,上逢互兌,兌為毀折,繩弱失瓶,瓶失則失井水養人之義,故凶。汔,幾也。繩弱不勝瓶,故幾至井口,繩弱瓶羸而失水也。象曰:木上有水,井,君子以勞民勸相。木上取水,井之象也。井水有利,宜鑿之浚之;如民與相有功,宜勞之勸之。泰坤變坎,坤為民,坎為勞,故曰勞民;泰乾變巽,乾為君稱相,巽為令稱勸,故曰勸相。

しかし井水を打ち上げるには瓶に依らなければならず、瓶が水を取るにはまた縄に依らなければならない。巽の取象は縄であり、互体の離は瓶に取象する――離の形は大腹にして中空なので瓶に似る。縄で瓶を繋いで井水を汲み、間もなく井口に至ろうとするのに縄がまだ提げ尽くされず、上に互体の兌に遇う。兌は毀折を主り、縄が弱って瓶が落ち、瓶が失われれば井水が人を養う義を失うので凶である。「汔」とはほぼ・将に近しの義である。縄が十分に堅牢でなく瓶を支えられないので、井口に近づいた時に縄が弱って瓶が破れ、水を失うのである。『象伝』にいう、木器の上に水あるは井の卦である。君子はこれに法り、百姓を慰労し、互いに助け合うよう勉励する。多隆阿によれば、木器の上から水を取り上げるのが井の取象である。井水は人に利があるので、それを開鑿し疏浚すべきである。ちょうど百姓と輔佐の者に功労があれば、彼らを慰労し勉励すべきであるように。泰卦の坤が坎に変じ、坤は民に取象し、坎は労に取象するので「民を労う」という。泰卦の乾が巽に変じ、乾は君で「相」と称し、巽は号令で「勧」と称すので「勧相」という。

初六:井泥不食,舊井無禽。初為井下,井下惟泥,泥豈可食?初自泰之五來,泰之初陽上往居五,故卦名井,是五坎為新井,而初為坎舊居之所,乃舊井也。新井在上為水,舊井在下為泥,如此井泥,非惟人不之食,即飛鳥亦無至者,水禽亦無,是無水也。虞氏曰:離為飛鳥。四為互離,初四兩陰不應,故曰無禽。此井之不能養人者。象曰:井泥不食,下也;舊井無禽,時舍也。

初六の爻辞にいう、井底は泥濘で食用にならず、廃れた旧井には鳥獣も来ない。多隆阿によれば、初六は井の最下にあり、井底には泥があるばかりで、泥がどうして食べられようか。初六は泰卦の第五爻から下って来たもので、泰卦の初爻は上って第五位に居ったので、卦名は井となった。このように第五爻のある坎は新井であり、初位は坎のもと居たところで旧井となる。新井は上にあって水があり、旧井は下にあって泥のみが残る。このような泥濘の井は、人が食用しないばかりか、飛鳥も来ず、水禽もいない――全く水がないからである。虞翻によれば、離の取象は飛鳥である。第四爻は互体の離に属し、初と四の二つの陰爻は応じないので「禽なし」という。これは井が人を養えない情形である。『小象』にいう「井泥食さられざるは、下なればなり。旧井に禽なきは、時に舍てられたればなり」――最下に処し、また時勢に廃棄されたからである。

九二:井谷射鮒,甕敝漏。初為井泥,二在初上則有水矣。然位尚卑下,如井泉之在山谷,無人汲取,僅有鮒魚往來穿射。鮒,魚名,鯽也,惟喜偎泥,山澗水中多有之。虞氏曰:巽為谷為魚,故云井谷射鮒。夫二為正巽,前應互離互兌,離為甕,甕遇兌毀則甕敝矣。甕敝水漏,人將何食?二有水不能養人,亦與初不相遠耳。象曰:井谷射鮒,無與也。

九二の爻辞にいう、井は山谷の泉眼のようで、小魚だけがその中を窜游し、汲水の瓮は破れて水は漏れ尽くした。多隆阿によれば、初六は井底の泥濘で、九二はその上にあるので水がある。しかし位置はなお低下しており、山谷中の泉水のようで、汲みに来る人はなく、鮒魚だけがその中を往き来して穿游している。「鮒」とは魚の名で、すなわち鯽魚であり、泥に贴りつくことを好み、山涧の水に多い。虞翻によれば、巽の取象は谷・魚なので「井谷に鮒を射る」という。九二はもと巽体に属し、前に互体の離と互体の兌とに対している。離は瓮に取象し、瓮が兌の毀折に遇えば瓮は破れる。瓮が破れ水が漏れれば、人は何をもって食し用いようか。九二は水ありながら人を養えず、初六と大して変わらない。『小象』にいう、井が山谷の泉眼のようで小魚が窜游するのみは、上に応与がなく汲みに来る人がいないからである。

九三:井渫不食,為我心惻,可用汲,王明並受其福。三為井中。向氏曰:渫,浚治去濁泥也。井渫自足養人,而未及互兌之口,水未出井,故曰不食。渫固可食而人不之食,是有代為我惻者,我,三也。惻之不已,於是又默思曰:此井乃可用汲取者。三至五為互離,五君為王,離為明,倘得王明,則眾並受井渫之福,蓋求之甚殷矣。象曰:井渫不食,行惻也;求王明,受福也。行惻者,行人代為惻也;受福者,受井水之養也。

九三の爻辞にいう、井はすでに淘め清められたのに食べる人がなく、わが心を傷ませる。この井は本来汲んで用いられるべきもので、もし君王が賢明ならば、皆ともに福を受けよう。多隆阿によれば、九三は井の中部に処す。向秀(こうしゅう)によれば、「渫(せつ)」とは疏浚し淘み清め、污泥を除くことである。井はすでに淘め清められ、本来人を養うに足るが、まだ互体兌の井口に至らず、水が井を出ていないので「食さられず」という。淘め清められて本来食べられるのに、人が来て食べないので、ある人が私のために傷む――「我」とはすなわち九三である。傷む余り、また黙って思うには、この井は本来汲んで用いられるべきものである、と。第三爻から第五爻は互いに離を成し、第五爻は君位で王であり、離の取象は明である。もし賢明の君王に遇うことができれば、衆人はともにこの淘め清められた井の福沢を受ける。これは求めること甚だ切なる口調である。『小象』にいう「井渫して食さられざるは、行きて惻たればなり。王明を求むるは、福を受けんがためなり」――いわゆる「行惻」とは、行き過ぎる人がそれのために傷むこと。いわゆる「受福」とは、井水の養育を受けることである。

六四:井甃,無咎。四為互兌之口,是修治井口以待汲者。甃,井壁也。干氏曰:以磚壘井曰甃。四在泰為坤,今變為坎,坤土和坎水,居互離之間,火燒土器,故曰甃。夫井本宜修,甃以修之,如有過之能補也,故曰無咎。象曰:井甃無咎,修井也。九五:井冽寒泉食。五為坎中曰泉。五自泰乾之初來,乾為寒,冽,寒氣也,泉水多寒,寒泉水清,故曰寒泉;出於兌口之上,故曰食。井至此,蓋能濟人矣。象曰:寒泉之食,中正也。

六四の爻辞にいう、磚石をもって井壁を甃(めぐ)らせば咎なし。多隆阿によれば、第四爻は互体兌の井口で、これは井口を修治して汲水の人を待つものである。「甃」とは井壁である。干宝(かんぽう)によれば、磚をもって井を砌るを「甃」という。第四爻は泰卦において坤に属し、今や坎に変じた。坤土が坎水を調和し、また互体離の間に処し、火をもって土器を焼き成すので「甃」(磚)という。井は本来修治すべきもので、磚石をもって砌り固めるのは、人に過失あって能く補救するようなもので、咎なしという。『小象』にいう、井壁を甃りて咎なきは、この井を修整するがゆえである。九五の爻辞にいう、井水は清冽にして、寒泉は飲用に供すべし。多隆阿によれば、第五爻は坎体の中に居るので「泉」と称す。第五爻は泰卦乾体の初爻から上って来たもので、乾の取象は寒であり、「冽」とは寒気である。泉水は多く清寒であり、寒泉は水質が清澈なので「寒泉」という。水は兌口の上に出るので「食」という。井はこの歩に至ってこそ、真に人を済済することができる。『小象』にいう、寒泉が飲用に供されるのは、九五が中にして正なるがゆえである。

上六:井收勿幕,有孚元吉。井至於上,水已出井以養人矣。巽木在下,桔槔不移,是為井收。陸氏曰:收,井乾也。泉水已出而坎缺仍在,是為勿幕。虞氏曰:幕,井蓋也。井收以待用,勿幕以待汲,此彖傳所云井養不窮者,是有坎孚,故元吉也。象曰:元吉在上,大成也。

上六の爻辞にいう、井の上に護欄があって蓋をせず、誠信を懐いて大いに吉。多隆阿によれば、井が上爻に至れば、水はすでに井を出て人を養う。巽木が下にあり、桔橰は架かって動かない。これが「井を收む」である。陸績(りくせき)によれば、「收」とは井欄(井干)である。泉水はすでに湧き出でて、坎の缺口はなお開いている。これが「幕する勿れ」である。虞翻によれば、「幕」とは井蓋である。井欄を設けるのは備用のためであり、蓋をしないのは随時汲めるようにするためである。まさに『彖伝』のいう「井養にして窮まらず」である。坎の誠信あるがゆえに大吉である。『小象』にいう、大吉にして上位に居るは、井道の大功が成ったのである。

革(かく)の卦

離下兌上,中互乾巽。大壯。革為四陽二陰卦,自大壯來,大壯五來之二。虞氏謂遯上之初,而卦辭爻辭無取遯義。革:己日乃孚,元亨利貞,悔亡。革,改革也,變革也。改變舊制,人不遽信,必至己日而人乃孚。革以求通,惟有利和乃致大亨。革易有悔,惟守正貞則悔乃亡。是革原有不可輕言者。

「革」の卦は下体が離、上体が兌、中間に乾卦と巽卦を互出する。四陽二陰の卦に属し、「大壮」から変じた。「大壮」の九五が第二位に降れば「革」となる。虞翻は「革」は「遯」卦の上爻が初位に落ちて成ったと言うが、「革」の卦辞・爻辞には「遯」卦の意が少しも取り出せないので、この説は通らない。卦辞にいう、「革、己日にして乃ち孚あり、元亨利貞、悔亡」。いわゆる「革」とは改革・変革である。旧制度がいったん更改されても、人々はすぐには信服せず、必ず「己日」を待ってこそ人心が帰附する。変革は通達を求めるためであり、利・和順を為してこそ大きな亨通を招来できる。変革はもともと悔恨を残しやすく、正道を守り定めてこそ悔恨が消える。見れば変革という事は、本来軽々しく口にできるものではない。

彖曰:革,水火相息,二女同居,其志不相得,曰革。己日乃孚,革而信之。文明以說,大亨以正,革而當,其悔乃亡。天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人。革之時大矣哉!夫子釋之曰:兩物相剋曰革,兩人相病亦曰革。卦為上兌下離,離火炎上,澤水就下,則相熄以戕其生;少女僭上,中女屈下,則同居各異其志。蓋不第上火下澤僅止睽違已也。夫睽則求其終合,而革必求其至當,物理有然,人事亦有然。是以改變之事不可輕遽,必先有孚於人,濟以離明,體以兌說,然後乃大亨而正,不至有悔。

『彖伝』にいう、「革は水火相息(あい息く)、二女同居してその志相得ず、曰く革なり。己日にして乃ち孚とは、革めてこれを信ぜしむるなり。文明を以て説び、大いに亨りて正を以てす。革めて当たればその悔い乃ち亡ぶ。天地革めて四時成り、湯武の革命は天に順い人に応えり。革の時大なるかな」。孔子はこのように卦名を解釈する。二つの物が互いに克制するのを「革」といい、二人が互いに害するのも「革」という。この卦は上体が兌沢、下体が離火で、火の性は上に向かって燃え、沢水は下に流れ、両者が遇えば互いに撲滅し、相手の生機を傷つける。兌は少女なのに上に居り、離は中女なのにかえって下に屈居し、同じ屋に住みながら各々の心思を存する。ゆえに「革」の対立は、「睽」卦のような彼此背離だけではない――「睽」卦が求めるのは最終的に再び合うこと、「革」卦が求めるのはちょうど良く変わることである。事物の理はこのようであり、人間の事もまたこのようである。ゆえに旧制を改動する事はすべて軽率に急進してはならず、まず人に信を取り、離卦の明察をもってそれを成し遂げ、兌卦の和悦をもって立身の根本とし、然る後に大いに亨通して正道に合し、悔恨を残さないのである。

其曰己日乃孚者,己於五行屬土,土主信,信即孚也。且離兌相剋,火金濟之以土始得相和,故曰己日乃孚也。推之春改為夏,秋改為冬,亦革也;夏變為殷,殷變為周,亦革也。春夏秋冬曰四時,惟革而四時乃成。大壯上震為春,下乾為冬,易為兌離,離為夏,兌為秋,四時變革象也。

卦辞が「己日乃孚」と言うのは、天干の「己」が五行において土に属し、土は五常において「信」を主り、「信」はすなわち「孚」だからである。しかも離火と兌金はもともと相克し、火と金の間に土が居中して調停しなければならず(火は土を生じ、土は金を生ず)、そうして初めて彼此が相和するので「己日乃孚」という。この道理を推し広めて見れば、春が夏に改まり、秋が冬に改まるのは「革」であり、夏朝が殷商に変わり、殷商が周朝に変わるのも「革」である。春夏秋冬を合わせて「四時」と称し、更革交替があるがゆえに四時が完成される。卦変について言えば、「大壮」の上体は震で震は春を主り、下体は乾で乾は冬を主る。「革」に変じて後は兌と離となり、離は夏を主り、兌は秋を主る――まさに四時の更替変革の卦象である。

大壯之五為陰,自乾二易五,乾為命,是為革命;陽居尊位,是為大人,湯武之象。殷周開創之君曰湯武,必順天應人而後乃言革命。五為天位,三四人位,就三之革言孚,四之改命,順天應人象也。倘非春秋代謝之時,天地不能遽革;倘非桀紂亂極之時,湯武亦不敢輕革。革之時固大也。

「大壮」の第五爻は本来陰爻であり、乾体の第二爻がそれと対調して上って五位に居る。乾は象数において「天命」を代表し、陽爻が陰爻に代わって君位に居るのが「革命」である。陽剛が尊位を占めるのは『彖伝』のいう「大人」で、まさに商湯・周武王の象である。殷・周両代の開国之君は湯と武であり、彼らは必ずまず上は天意に順い下は人心に応えてこそ、敢えて「革命」の二字を言うことができた。六爻において第五爻は天位、三・四の両爻は人位である。九三の「革言三就、有孚」から人心の信従を語り、九四の「改命」から天命の更改を語り、合わせてまさに「天に順い人に応える」の卦象である。もし春去り秋来る、節気が自然に更替する時でなければ、天地も驟然と変革できない。もし夏桀・商紂の暴乱が極に至った時でなければ、湯・武も軽々しく変革を言えなかった。見れば「革」の講究する時機は、実に重大なものである。

象曰:澤中有火,革。君子以治曆明時。澤水熄火,革之象也。君子治曆明時,亦有所變革以成之。虞氏曰:兌為書契曆象,互巽位東南,互乾位西北,在春夏秋冬之交,時象;兌決以治之,離文以明之。初九:鞏用黃牛之革。革貴得時,又貴得位。初居下位,上無正應,雖有剛德,不可妄為,堅固自守乃其分也。以韋束物曰鞏。干氏曰:離為牝牛,離爻本坤,黃牛之象也。在革之初而無應據,未可以動,故鞏用黃牛之革。物之堅韌者莫如牛革,以之束物,其固可知。聖人不輕言革,蓋如此。象曰:鞏用黃牛,不可以有為也。

『大象伝』にいう、「沢の中に火あり、革なり。君子は以て暦を治め時を明らかにす」。沢中の水が火を撲滅するのが「革」の象である。君子はこれに依り暦法を修訂し時令を辨明する。暦法もまた絶えず修改校正を経てこそ完成されるからである。虞翻が解釈するには、兌卦は文書契券と推歩暦象の事を代表し、互体の巽卦は位が東南にあり、互体の乾卦は位が西北にあり、まさに春夏と秋冬の交接の方位上にある。これが「時」の象である。兌には決断の義があり、それをもって暦法を釐定し、離には文明の義があり、それをもって時令を闡明する。初九の爻辞にいう、「黄牛の革を用いて鞏めよ」。変革は時機に及ぶことを貴び、また適切な位置を占めることを貴ぶ。初九は全卦の最下の位に処し、上に正しく応ずる爻もなく、それ自体に陽剛の徳があるとはいえ、軽挙妄動してはならず、牢く自らを守るのが本分である。熟した牛皮で物を捆紮することを「鞏」という。干宝によれば、離卦は母牛であり、離卦の爻画はもと坤卦から来て、坤の色は黄なので「黄牛」の象がある。変革の始まったばかりの時に処し、応爻もなく憑拠もなく、まだ行動できないので、「黄牛の革を用い」て自らを捆緊する。物件の中で最も堅靭なのは牛皮に如くものはなく、それをもって捆紮すればその牢固さは推して知るべし。聖人が軽々しく変革を語らないのは、まさにこの意である。『小象伝』にいう、「黄牛を用いて鞏めるは、以て有為とすべからざるなり」。

六二:己日乃革之,征吉,無咎。二自大壯之五來,大壯之五為震,震納庚,庚更也,更即革也。蓋二較初則有為。在大壯雖為震,在革實為離,離納己,時雖宜革,日猶有待,惟至己日乃可革,是至己日乃可征吉無咎也。革至於二猶如此其慎也。象曰:己日革之,行有嘉也。行,征也;嘉,吉也,釋征吉也。

六二の爻辞にいう、「己日にして乃ちこれを革む。征すれば吉、咎なし」。この爻は「大壮」の第五爻が降りて来たもので、「大壮」の五爻のある上体は震であり、納甲の法では震は天干の「庚」を納する。「庚」には更改の義があり、更改とはすなわち変革である。見れば六二は初九に比べて、すでに有為である。ただそれは「大壮」では震に属したが、「革」卦においては実はすでに離に属し、離は天干の「己」を納する。時勢はすでに変わるべきだが、日はなお待たなければならず、必ず「己日」を待ってこそ手を下して改めることができる。ゆえに己日に至って出れば吉で咎がない。変革が第二爻まで推進しても、なおこのように謹慎である。『小象伝』にいう、「己日にこれを革むは、行きて嘉あればなり」。「行」とは爻辞の「征」であり、「嘉」とは「吉」であり、この句は「征吉」の二字を解釈している。

九三:征凶,貞厲,革言三就,有孚。三為內卦之終,可以革矣。然五為革主,三非其位,前征則凶;而時既當革,不宜失時,守貞又厲。然則宜如何也?蓋三為臣位,革之見於事業為革命,革之著於籲謨為革言。三至五為互乾,乾為言,以宜革之言歷互乾之三,就正於五,三就而後有孚。如此則無守貞之厲,亦無前征之凶矣。象曰:革言三就,又何之矣。之,往也。何之者,言何不可往也。

九三の爻辞にいう、「征すれば凶、貞なれども厲し。革言三就にして孚あり」。九三は下卦の末尾に処し、本来変革すべき時に至っている。しかし変革を主持するのは九五であり、九三はその位にいない。冒然と前進すれば凶がある。しかし時勢がすでに変わるべきなのに時機を逸してはならず、ひたすら守って動かないのも同じく危険である。ではどうすべきか。九三は臣子の位であり、変革が事功に落実すれば「革命」と言い、変革が建言献策に表れれば「革言」という(「吁謨」とは大計謀のことで、『詩経』に出る)。三爻から五爻まで互いに乾卦を成し、乾は言語である。変革すべき主張を互乾の三つの爻に順って層層上達させ、九五に裁正を請い、反復三回陳説して後に君上の信任を得る。こうできれば、死守して動かない危険もなく、冒然と前進する凶もない。『小象伝』にいう、「革言三就、又何くんか之かん」。「之」は前往の義であり、「何之」とはまだどこへ行けないところがあるか、ということである。

九四:悔亡,有孚改命,吉。四為兌澤,可以熄火,有革之能;四為陽剛,可以任事,有革之才;四為外卦且近君位,有革之時。此彖傳所謂革而當者,悔亡宜矣。而四為陽,實為互乾之中,陽之孚、乾之命皆備於四,故曰有孚改命。夫當未革之前則謂之革,既革之後則謂之改。革莫大於改命,確有可信,不事游移,故吉。象曰:改命之吉,信志也。

九四の爻辞にいう、「悔亡、孚ありて命を改むれば吉」。九四は上体兌沢に属し、下の離火を撲滅することができ、変革の能力を具える。それは陽爻にして剛健で、事務を担当することができ、変革の才干を具える。それはすでに外卦に入り、また君位に貼近し、まさに変革の時機に遇っている。これが『彖伝』のいう「革めて当たる」であり、悔恨が消えるのは当然である。しかも九四は陽爻で、ちょうど互体乾卦の中間に処し、陽剛の誠信と乾卦の主る「天命」とが皆この一爻に聚まるので、爻辞は「有孚改命」という。知るべきことは、事がまだ変動する前を「革」といい、すでに変動した後を「改」という。そして一切の変革の中で最も重大なのは天命の更改に如くものはなく、この時まさに憑信すべき根拠があり、迟疑观望しないので吉である。『小象伝』にいう、「命を改むるの吉は、志を信ずるなり」。

九五:大人虎變,未占有孚。四之改猶是改舊,五之變則已更新,革至於變,漸彌改革之跡矣。五以陽居陽位,為革之主,又自大壯之二來,以正乾變互乾,乃大人也。大人首出庶物,改正朔,易服色,修法制,移風俗,掃除積弊,煥然一新,觀其威可服人,才足治世,惟虎之變可以喻之。五居兌中,兌為白虎稱虎,兌丁秋令,鳥獸毛毨,故曰虎變。虎變有其文,大人之變亦有其孚,蓋其積誠有素,故不待占決而天下自信也。馬氏曰:虎變威德折衝萬里,望風而信,得未占有孚意矣。象曰:大人虎變,其文炳也。

九五の爻辞にいう、「大人虎変す。未だ占せずして孚あり」。九四の「改」はまだ旧きを改めただけであり、九五の「変」はすでに全く新しいものに換えたのである。変革が「変」の歩に至れば、改革過程の痕跡も次第に彌合して見えなくなる。九五は陽爻をもって陽位に居り、全卦の変革の主爻であり、また「大壮」の第二爻が昇って来たもので、本体の乾から互体の乾に変じたので「大人」と称す。大人は万物の上に挺立し、暦法正朔を更改し、車服の顔色を変換し、法度制度を修訂し、民間の風俗を移易し、積久の弊病を一掃し尽くして、天下の面目を焕然一新せしめる。その威勢を見れば人を心服せしめるに足り、その才具を見れば世を治めるに足る――このような気象は、虎が毛を換える様にのみ比すべきである。九五は兌卦の中に居り、兌は星象において白虎なので「虎」と称す。兌はまた天干の「丁」を納し、秋季の時令を主り、まさに『尚書・尭典』のいう「鳥獣毛毨(とうせん)」(鳥獣が毛を換えて毛色が整う)の時であるので「虎変」という。虎が毛を換えれば斑斕の花紋があり、大人が変革すれば自ずから人を信服せしめる誠意がある。彼が平日積み重ねた誠信は早くから根底があるので、占卜して疑を決する必要がなく、天下人は自然に信従する。馬融によれば、虎は一変して威徳が万里の外を折冲するに足り、人々はその風采を望んで信伏する――まさに「未占に孚あり」の意に中った。『小象伝』にいう、「大人の虎変は、その文炳としてなり」。

上六:君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。世當改革之初,天命維新,人亦滌舊。其次於大人者為君子,而君子之變如豹然。陸氏曰:兌之陽爻稱虎,兌之陰爻稱豹,豹類虎而小者也。又有順從大人者為小人,小人之賦稟既偏,小人之改變亦異,雖不能遽化其心,而已能暫革其面。蓋位為首,兌為附決,故云革面。夫時不宜革,固不可妄革;至革道已成,又不宜屢革。革命之事,原非得已,既已又安,不宜更張重擾生民,不宜征而宜居,故曰征凶居貞吉也。象曰:君子豹變,其文蔚也。小人革面,順以從君也。豹之變既異於虎,故其文亦與虎異。五應離中,其文如火之明,故曰炳,炳,火明也;上應互巽,其文如草之盛,故曰蔚,蔚,草盛貌。順以從君,陰順從五陽也。

上六の爻辞にいう、「君子豹変し、小人は面を革む。征すれば凶、居りて貞なれば吉」。時世はまさに改革の初めに当たり、天命は焕然として更新され、人心もまた旧染を洗い去っている。「大人」に次ぐ地位は君子であり、君子の変化は豹が毛を換えるようなものである。陸績によれば、兌卦の陽爻を虎と称し、兌卦の陰爻を豹と称し、豹は同類で体型の小さい猛獣である。このほかにただ大人に順従することのみを知る普通の百姓がおり、それが「小人」である。小人の天賦秉性はもともと偏枯しており、彼らの改変の仕方も異なり、すぐに心地を改換することはできないが、すでに一時面貌を改換することはできる。上爻の位置は人身において頭面であり、兌はまた附着・決開の象があるので「面を革む」という。要するに、時機が変革すべきでないのに胡乱に変えてはならず、変革の道がすでに完成した後も反復して再び変えてはならない。革命はもともと已むを得ざるに出たもので、すでに変えて安定した以上、再び改弦更張して新たに百姓を驚擾してはならない――再び前に推進すべきでなく、安居して正を守るべきである。ゆえに「征すれば凶、居りて貞なれば吉」という。『小象伝』にいう、「君子の豹変は、その文蔚としてなり。小人の面を革むるは、順にして君に従うなり」。豹の変化は虎と異なるので、その身上の花紋も虎と同じでない。九五は下に離卦の中に応じ、離は火であり、その文采は火光のように明亮なので「炳」の字をもって形容する――「炳」とは火光が明亮なことである。上六は上に互体巽卦に応じ、巽は草木であり、その文采は草木のように繁茂するので「蔚」の字をもって形容する――「蔚」とは草木が茂盛な貌である。「順以従君」とは、上六の陰爻が順服して九五の陽爻に従うことをいう。

鼎(てい)の卦

巽下離上,中互兌乾。遯。鼎為二陰四陽卦,自遯來,二往升五,故彖傳曰柔進上行。虞氏謂大壯上之初,不合傳義。鼎:元吉,亨。鼎,三足兩耳,和五味之寶器也。鼎為調燮萬物之始,故曰元;萬民利鼎之養,故曰吉;萬世享鼎之用,故曰亨。

「鼎」の卦は下体が巽、上体が離、中間に兌卦と乾卦を互出する。これは「遯」卦から変じた。「鼎」は二陰四陽の卦で、「遯」の第二爻が第五位に上昇したので、『彖伝』に「柔進んで上行す」という。虞翻は「大壮」の上爻が初位に降りて成ったと言うが、『彖伝』の意と合わない。卦辞にいう、「鼎、元吉にして亨」。鼎は三つの足と二つの耳があり、五味を調和する宝器である。鼎は万物を調理化育する始めであるので「元」といい、万民が皆鼎の養育を受けるので「吉」といい、万世が皆鼎の功用を享用するので「亨」という。

彖曰:鼎,象也。以木巽火,亨飪也。聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。離巽兩合之卦而名曰鼎者,象鼎也。初陰在下,象鼎趾;二三四陽,象鼎腹;五陰象鼎耳;上陽象鼎鉉,全鼎之象具焉。且下為巽木,上為離火,中有互乾之金、互兌之澤,烹飪之象又具焉。

『彖伝』にいう、「鼎とは象なり。木を以て火に巽(い)れ、亨(に)饪(じん)なり。聖人は亨じて以て上帝に享り、大いに亨じて以て聖賢を養う。巽にして耳目聰明にして、柔進んで上行し、中を得て剛に応ず。是を以て元亨なり」。離と巽の両卦が相合するのに名づけて「鼎」というのは、その卦画全体が一隻の鼎のようであるからである。初爻は陰爻にして最下にあり、鼎の三足に似る。二・三・四の三つの陽爻は、鼎の膨れた腹に似る。第五爻は陰爻で、鼎の両旁の耳に似る。上爻は陽爻にして最上に横たわり、耳を貫いて鼎を担ぐ鉉(げん)に似る――一隻の鼎の全形が具わっている。さらに卦体を見れば、下の巽は木、上の離は火、中間にまた互体乾の金・互体兌の水があり、火を焚いて食を煮る象も併せて具わっている。

則此烹飪者,非泛泛利民用已也。嘗觀古人之用鼎也,首重祀鬼神,其次宴賓客。而鬼神之尊莫若上帝,賓客之尊莫若聖賢。祀之則欲其享之,宴之乃所以養之。然享上帝之禮,貴誠不貴豐,祇是以鼎烹牲,牲熟薦之已耳。若夫養聖賢,餼牽務求其備,割烹務得其宜,禮愈盛而情愈浹,較享上帝之烹尤有加焉。故享上帝祇曰烹,而養聖賢則曰大烹也。

ではここにいう烹煮は、ただ泛々と民用を利するのみではない。古人が鼎を用いる場合を試みに見るに、第一等は鬼神を祭ることであり、その次は賓客を宴する。そして鬼神の中で最も尊貴なのは上帝に如くものはなく、賓客の中で最も尊貴なのは聖賢に如くものはない。祭祀は神霊が来て饗用することを望み、宴を設けるのは賢者を奉養するためである。ただ上帝を祭享する礼は、誠敬に重きを置いて豊盛にあらず、ただ鼎をもって犠牲を煮熟し、煮熟して献じれば足りる。聖賢を奉養するに至っては、活牲と糧草は務めて斉備し、切割烹調は務めて法を得て、礼数が愈々隆重なれば情意は愈々親厚となり、上帝を祭享するあの一回の烹煮よりもさらに一層進む。ゆえに『彖伝』は上帝を祭享することをただ「亨(烹)」と言い、聖賢を奉養することを「大亨(大烹)」と言う。

夫鼎固足以利用,而鼎又可以觀德。九家易曰:鼎,天子飾以黃金,諸侯白金,大夫銅,士鐵,三足象三臺,足上皆作鼻目為飾。則鼎不惟有耳,兼亦有目。五陰為耳,上離為目,陰虛能受,故曰聰明。耳聰目明,卦象似之。而卦又自遯來,以遯之二柔上行居五,五柔得中,下應二剛,降君上之尊,下求賢臣,爻象似之。古雖云在德不在鼎,而三代傳國必以鼎,則鼎實備乾元之德也,是以元亨。

鼎は日用を利するに足るのみならず、鼎はまた徳行を観察するのに用いられる。『九家易』によれば、天子の鼎は黄金をもって飾り、諸侯は白銀、大夫は銅、士は鉄を用いる。三つの足は三台星を象徴し、足の上端は皆鼻と眼の形を作って装飾とする。見れば鼎は耳があるのみならず、目をも兼ねている。卦中の第五爻は陰爻で鼎耳に象り、上体の離卦は目である。陰爻は中が虚しく、虚ければ容受できるので『彖伝』は「耳目聰明」という――耳が聡く目が明るいのは、卦象が正にこれと相似だからである。さらにこの卦は「遯」から変じ、「遯」の第二爻が柔をもって上行して五位に居り、五爻は柔順にして中位を得、下に向かって九二の陽剛に応合する。これは君上が自らの尊貴を放下し、身を屈して下の賢臣を求めることで、爻象もまたこれと相似である。古人は立国は「徳に在りて鼎に在らず」(『左伝』王孫満が楚荘王に答えた語)と言ったが、しかし夏・商・周三代の伝国は必ず九鼎を以て憑とした。鼎が実に乾元創始の大徳を具えていることが見えるので、卦辞は「元亨」と称す。

象曰:木上有火,鼎。君子以正位凝命。木上有火,烹飪之象,故曰鼎。鼎之形端,君子體之以正位;鼎之體重,君子體之以凝命。正位謂五也,五位離中,離位正南,有聖人南面聽天下、嚮明而治之象。凝命謂乾也,乾為命,命凝則重不可移矣。

『大象伝』にいう、「木の上に火あり、鼎なり。君子は以て位を正しくし命を凝らす」。木の上に火が燃えるのはまさに焼煮の象であり、ゆえに卦名を「鼎」とする。鼎の形体は端正であり、君子はこれを体して自らの位分を端正にする。鼎の分量は沈重であり、君子はこれを体して受ける使命を凝聚する。いわゆる「正位」とは第五爻を指す。五爻は離卦の中に居り、離は方位において正に南方に当たり、聖人が南面して坐し天下を聴治し、光明に向かって政を施す象がある。いわゆる「凝命」とは乾を指す。乾は天命を代表し、天命がいったん凝聚堅定すれば、厚重にして動揺できない。

初六:鼎顛趾,利出否,得妾以其子,無咎。卦象全鼎,初則鼎之趾也。初為巽股象趾,巽為進退象顛,趾顛,踣也。夫鼎趾似不宜顛,然在洗鼎之時,必倒趾去垢以致潔,則鼎原有時利於顛。猶之妻有惡行則宜出之,否,惡也。出妻納妾則似於顛,然否惡之妻出之則利,妾有順德,生子必賢,妾又貴得。蓋初體正巽,巽為長女為妻;初應四,四為互兌為妾,四為陽爻為子,是得妾即因以得子。得妾出妻,雖似顛倒,然因妾以得子,出否實利也,故無咎。象曰:鼎顛趾,未悖也;利出否,以從貴也。鼎顛趾不為悖,猶之出否得妾,妾雖非貴,子既貴,妾從之貴矣。

初六の爻辞にいう、「鼎は趾を顛かす。否(あし)きを出すに利あり。妾を得るにその子を以てす。咎なし」。全卦は一隻の鼎の全形であり、初爻はすなわち鼎の足である。初爻は巽に属し、巽は人身において股なので足に象る。巽はまた進退不定の義があるので「顛」に象る。足が顛くとは、すなわち転倒である。理の上では鼎足は転倒すべきでないが、しかし鼎を洗う時は必ず鼎を倒して污垢を振り出してこそ清く洗える。見れば鼎は時に転倒するのがかえって有利である。これはちょうど妻に悪行があれば出すべきことに似る――「否」はまさに悪の義である。妻を出し妾を納れるのは、見たところ本末が顛倒しているようだが、しかし悪行ある妻を出すこと自体は有利であり、妾には柔順の徳があり、生む子は必ず賢能である。ゆえに妾を納れるのもその人を得ることを貴ぶ。爻象について言えば、初爻は本体巽卦に属し、巽は長女なので妻となる。初爻は上に九四に応じ、九四は互体兌卦に属し、兌は少女なので妾となり、九四は陽爻でまた子に象る――妾を得れば因って子を得るのである。妾を納れ妻を出すのは顛倒に似るが、しかし妾に因って子を得、悪妻を出すのは実に有利であるので咎なし。『小象伝』にいう、「鼎趾を顛かすは、未だ悖らざるなり。否きを出すに利あるは、以て貴きに従うなり」。鼎足が転倒するのは理に悖ると算ならず、ちょうど妻を出し妾を納れるように、妾の身分は本来貴からず、子がすでに貴ければ妾もそれに従って尊貴となる。

九二:鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。陽實陰虛,二為陽,是鼎有實也。鼎實雖有,尚宜待用。蓋二為巽中,巽為木;二應五,五為離中,離為火;二至四為互乾,三至五為互兌,乾兌為金,金為木之仇,仇讎同。前往遇仇,其何能吉?惟靜以俟之。金雖仇木,亦懼離火,我仇鄰離,仇己有疾,自顧不暇,焉能即我?言金畏火克也。二貴能自守矣。象曰:鼎有實,慎所之也;我仇有疾,終無尤也。之,往也。慎所之則巽木不遇乾兌之金克也。

九二の爻辞にいう、「鼎に実あり。我が仇に疾あり、我に即く能わず。吉」。陽爻は充実し、陰爻は中が虚しい。九二は陽爻なので「鼎に実あり」という。鼎の中にすでに食物があるが、なお用いるべき時を待つべきである。九二は巽卦の中に居り、巽は木である。それは上に九五に応じ、九五は離卦の中に居り、離は火である。二爻から四爻は互いに乾卦を成し、三爻から五爻は互いに兌卦を成し、乾・兌はともに金に属し、金は木を克する――まさに木の仇敵である。「仇」と「讐」は同義である。冒然と往けば仇敵に撞き当たり、どうして吉であろうか。ただ安静に待つのみである。知るべきことは、金は木と仇を為すが、自らは離火を畏れる。我が仇敵は離火に緊挨着して、それ自身まさに病を害しており、自顧する暇すらなく、どうして我に近づくことができよう。これは金が火の克制を畏れることを言う。九二は自らを守って動かないことを貴ぶ。『小象伝』にいう、「鼎に実あるは、之く所を慎むなり。我が仇に疾あるは、終に尤なきなり」。「之」は前往である。去向を謹慎に選べば、巽木は乾金・兌金の克伐に撞き当たらない。

九三:鼎耳革,其行塞,雉膏不食,方雨虧悔,終吉。三當上下改革之位,上陽不應,上下相隔,五之鼎耳三似不得有之,故曰耳革。夫鼎之有耳,鼎賴以行,倘耳既革,則行頓塞。雖上承離雉,而尚未及互兌之口,雉膏之美,伊誰食之?以耳革之故,幾致雉膏見棄,有悔固宜。然五居文明之位,意在下賢,三有大美,五必求之。蓋三至五為互兌,兌澤稱雨,方將陰陽和合以損其悔。虧,損也。三上雖不相應,三五猶自相承,三雖耳革,承五則鼎耳猶可續得,故終吉。象曰:鼎耳革,失其義也。失其義者,言應上則失宜也。

九三の爻辞にいう、「鼎の耳革(あらた)まり、その行塞がる。雉膏食らわれず。方に雨にして悔いを亏(けず)らん。終に吉」。九三はまさに上下卦が交替更革する位置に処し、上九は同じく陽爻で応じることができず、上下が隔断され、五爻のあの鼎耳は九三が及ばないようであるので「耳革」(鼎耳が脱落する)という。鼎に耳あってこそ鉉を穿して担ぎ去ることができ、いったん耳が落ちれば搬運はただちに受阻する。九三は上に離卦を承けているが(離は雉)、まだ互体兌卦の象る口に及ばず、あの肥美の雉肉を一体誰が食べるのか。鼎耳が壊れたために、ほとんど美味を棄てられんとするに至り、悔恨あるは免れ難い。しかし九五は文明の位に身を居し、一心に礼賢下士を欲し、九三は大才美質を懐いているので、九五は必ず来てそれを求める。三爻から五爻は互いに兌卦を成し、兌は沢で「雨」と称すべきであり、陰陽がまさに和合しようとして、あの悔恨を減損する――「亏」とは減損である。三と上は応じないが、三と五はなお上下相承し、九三は耳を失ったが、九五に承れば鼎耳はまた再接できるので最終的に吉である。『小象伝』にいう、「鼎耳革まるは、その義を失えばなり」。いわゆる其の宜を失うとは、九三がひたすら上九に応じようとすれば分寸を失うということである。

九四:鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。四為互兌之中,而在互乾之上,與內卦之巽分體,則已下不及足,又遇兌為毀折,故曰鼎折足。夫鼎實至四則鼎已盈,盈則必溢,溢則必覆,惟不勝其任,故折足而覆餗。鄭氏曰:鼎三足,三公象;餗,美饌,是八珍之食。覆此公餗,全體沾濡,其形若此,所以雲凶。餗與渥皆兌澤象。當其受餗,豈意折足?至餗已覆且渥其形,是德薄位尊、智小謀大、力小任重者,蓋自欺而兼誤人家國事矣。象曰:覆公餗,信如何也。信如何者,言平日所自信者果如何也。

九四の爻辞にいう、「鼎は足を折り、公の餗(そく)を覆す。その形渥(あく)たり。凶」。九四は互体兌卦の中間に処し、また互体乾卦の上に居り、内卦の巽とすでに両体に分属し、下に鼎足に及ばず、加えて兌に毀壊折断の象があるので「鼎足を折る」という。鼎の中の食物は第四爻に装められ、鼎はすでに満ち、満ちれば必ず外に溢れ、溢れれば必ず傾覆する――ただこの担いに堪えられないために、足が折れ食が翻るのである。鄭玄によれば、鼎の三つの足は三公を象徴し、「餗」は精美の食物、いわゆる八珍の饌である。三公の美食を打ち覆し、渾身が湯汁に浇われ、このような姿に落ちたので「凶」という。「餗」と「渥」(沾湿)はいずれも兌沢の象を取る。当初この鼎の美食を受け取った時、どうして足を折ることを思い及ぼう。食物がすでに翻り、身上がまた浇われて狼狽するに至っては、これは徳行が浅薄にして高位に居り、才智が短小にして大事を謀り、力量が微弱にして重任を担う者である――自らを欺き、また人の家国の大事を誤った。『小象伝』にいう、「公の餗を覆すは、信に如何せん」。――問うているのはまさに彼が平日自ら負って可靠としたあの些かの本事が、結局何に当たるのかということである。

六五:鼎黃耳金鉉,利貞。五偶象鼎之耳,五離得坤中氣,坤為黃,故曰黃耳。鉉,舉鼎具,貫鼎耳中以行鼎者。鼎耳虛,所以受鉉,鉉貫耳,鼎始可舉。五又自遯之二來,五在遯原為乾,乾為金,是金鉉也。但陰居陽位,利於貞正耳。象曰:鼎黃耳,中以為實也。鼎中實盈,故貫以鉉,舉而升之几筵之上,以為燕享之用。五陰雖非鼎實,而居中以求下,則在下之陽皆其實也。

六五の爻辞にいう、「鼎は黄耳金鉉なり。貞に利あり」。第五爻は偶数の陰爻で、鼎の両耳に象る。五爻のある離卦は坤卦の中爻の気を得たもので、坤の色は黄なので「黄耳」という。「鉉」とは鼎を担ぐ器具で、鼎耳に穿ち込んで鼎を担ぎ去るのに好い。鼎耳の中間は空で、ちょうど鉉を承受するのに用いられる。鉉が耳を穿ってこそ鼎は担ぎ上げられる。六五はまた「遯」卦の第二爻が昇って来たもので、この爻は「遯」において本来乾に属し、乾は金なので「金鉉」である。ただ陰爻が陽位に居るので、正を守ってこそ利がある。『小象伝』にいう、「鼎の黄耳は、中を以て実と為すなり」。鼎の中に食物が満ちて、初めて鉉を穿して、それを担ぎ上げて几案筵席の上に置き、宴享の用に供する。六五は陰爻で、それ自体は鼎の中の实物ではないが、中に居り下に向かって求取すれば、下の諸陽爻は皆その实物となる。

上九:鼎玉鉉,大吉,無不利。上以一陽亙鼎之上,則鼎鉉也。鼎貫於耳,故五言耳兼及於鉉;耳待受鉉,故上言鉉不再言耳。而金玉異質者,五為遯之乾,乾為金,故五鉉曰金;上亦遯乾,乾又為玉,故上鉉曰玉。鉉本金器,以玉飾之,則鉉愈貴,不惟利鼎之養,兼且美鼎之觀,故大吉無不利。象曰:玉鉉在上,剛柔節也。陽居陰位,剛濟以柔也。

上九の爻辞にいう、「鼎は玉鉉なり。大吉、利ならざるなし」。上爻は一根の陽爻をもって鼎の最上端に横貫し、それが鼎鉉である。鉉は耳に穿ち込むものなので、第五爻が鼎耳を語る時に連帯して鉉に言及した。耳は鉉を承受するのを待つものなので、上爻はただ鉉を語り耳を重ねて語らない。同じ一本の鉉であるのに、一処で金と言い一処で玉と言うのは、六五はもと「遯」卦の乾体で、乾は金なので五爻の鉉を「金」と称し、上九も「遯」卦の乾から出て、乾はまた玉に象ることができるので上爻の鉉を「玉」と称するのである。鉉は本来金属器具であり、さらに玉をもってそれを装飾すれば、この鉉はいよいよ貴重となり、鼎の養育の功に便ずるのみならず、鼎の観瞻の美を増すので、大吉にして利ならざるなし。『小象伝』にいう、「玉鉉上に在るは、剛柔節せらるればなり」。陽爻が陰位に居るのは、まさに柔をもって剛を調剤するのである。

震(しん)の卦

震下震上,中互坎艮。重震純卦。震:亨。震來虩虩,笑言啞啞。震驚百里,不喪匕鬯。震為雷,為長子,為諸侯。震以一陽動於二陰之下,故象雷;坤索乾初為男,故象長子;乾為君,震為乾之長子,長子主器,故象諸侯。震陽自下行上,能致亨通。但震威忽來,則恐懼者眾,虩虩,恐懼貌;而中有所主者,仍安笑語之常,啞啞,笑聲。縱震驚遠及百里,而匕鬯在手,不至喪失,其誠敬有餘,心志堅定,蓋若此。

「震」の卦は下体が震、上体もまた震で、中間に坎卦と艮卦を互出し、上下同体の純卦である。卦辞にいう、「震、亨。震の来るや虩虩(きゃくきゃく)たり、笑言啞啞(ああ)たり。震は百里を驚かすも、匕鬯(ひちょう)を喪わず」。震は象において雷であり、長子であり、諸侯である。震卦は一根の陽爻が二根の陰爻の下で鼓動するので雷に象る。坤が乾に向かって初爻を求めて男を得たので長子に象る。乾は国君であり、震は乾の長子で、長子は宗庙の祭器を主持するので諸侯に象る。震の陽気は下より上に向かって行き、亨通を招致できる。しかし雷の威が突然至れば、嚇され止まる者は多く、「虩虩」とはまさに恐懼の貌である。そして心に主宰ある者は、依然として安然と談笑して常のごとく、「啞啞」とはすなわち笑声である。たとえ雷声が震駭して百里の外に遠く達しても、主祭者の手中の匕と鬯酒は失落しない。それは彼の誠敬が余りあり心志が堅定だからこそ、このようにできるのである。

彖曰:震亨。震來虩虩,恐致福也。笑言啞啞,後有則也。震驚百里,驚遠而懼邇也。出可以守宗廟社稷,以為祭主也。卦之所以名震者,以震為雷也。鄭氏曰:雷者動物之氣,雷之發聲,猶人君出政以動國中之人也,故謂之震。當彼重陰冱寒,萬物閉藏,至於中春,雷聲震動,則所以啟蟄而出萌者端賴乎此,故曰亨也。

『彖伝』にいう、「震は亨。震の来るや虩虩たりは、恐れて福を致すなり。笑言啞啞たりは、後に則あるなり。震は百里を驚かすは、遠きを驚かし近きを懼れしむるなり。出でて以て宗庙社稷を守り、以て祭主と為るべきなり」。この卦を「震」と名づけるのは、震が雷を象徴するからである。鄭玄によれば、雷は万物を鼓動する気であり、雷が声響を発するのは、たとえば人君が政令を頒布して国中の百姓を鼓動するようなものであるので「震」と称す。あの陰気が重畳し天寒地凍して万物が閉蔵する時節が過ぎ、仲春に至って雷声が一たび動けば、蟄伏した虫豸は戸を開いて出ることを得、草木の萌芽は土を頂いて生ずることを得る。すべてこの一声の雷に依るので、『彖伝』はそれを「亨」と言うのである。

夫以雷之動物言,則震曰亨;而以雷之驚人言,則震曰恐。人心貴斂,放則多失,惟恐乃可以致福,亦惟恐而心始有主。當夫震自外來,虩虩可懼,而動有常則者,猶仍安其啞啞笑言之常。雖雷聲震驚遠及百里,而承祭者居宗廟社稷之間,匕鬯晏然,是惟心有所主,故無喪失之虞也。

雷が万物を鼓動し得るという一面から言えば、「震」卦が講ずるのは「亨」である。雷が世人を驚動し得るという一面から言えば、「震」卦が講ずるのは「恐」である。人心は収斂を貴び、放縦すれば多くの閃失がある。ただ戒懼を存してこそ福気を招来でき、ただ戒懼を存してこそ心に主宰がある。雷震が外から襲って来る時、人々は皆惶懼して安からぬが、あの挙動が素より法度ある者は、依然として安穏に談笑して常のごとし。雷声は震駭して百里に遠く及ぶが、祭祀を主持する者は宗庙社稷の中に身を処し、手中の匕と鬯酒は安然として動かない――これはただ彼の心中に主あるがゆえに、祭器を失落する憂虞がないのである。

震為笑,為言。匕,一曰柶,形如匙,撓鼎之器,喪事以桑為之,祭事以棘為之。卦有互坎,坎為叢棘,故象匕鬯。以矩?鬯釀鬱草,芬芳攸服,以降神也。坎為酒,故曰鬯。坎又為隱伏,艮為門闕,故象宗廟社稷。百里者,諸侯封畿之象。雷聲忽震,遠邇驚恐,乃誠敬自守,不失威儀,則是不懼者由於能懼。長子繼世而出,擔荷天下重器以為祭主,不亦克勝其任而愉快乎!

震は象において笑・言である。「匕」はまた「柶」と称し、形状は匙子に似て、鼎中から牲体を挑取する器具である。丧事には桑木を作り、祭事には棘木を作る。この卦中に互体の坎卦があり、坎は叢生の酸棗棘木に象るので「匕」の象を取る。いわゆる「鬯」とは、黍類を釀造して鬱金香草を調入した酒で、気味が芬芳で神霊を降迎するのに用いる。坎は水・酒なので「鬯」と称す。坎はまた隠伏の義があり、艮は門闕なので、合わせて宗庙社稷の象を成す。「百里」は諸侯の封国畿域の象である。雷声が突然震響し、遠近の人は皆驚恐して失措するが、主祭者は誠敬をもって自守し、応有の威儀を失わない。彼が事に臨んで懼れないのは、正に平日に戒懼を知るからであることが見える。長子が世業を継承して出て、天下の宗庙重器を担い、一国の祭主となる。これは全く胜任して心に暢快ではないか!

象曰:洊雷震,君子以恐懼修省。恐懼,敬天之威;修省,體震之動。初九:震來虩虩,後笑言啞啞,吉。卦為重震,初四皆陽,而震陽自下上往,故初為卦主,爻辭與卦辭同,象傳與彖傳同也。曰後者,言在上震之後,惟在後乃得吉也。象曰:震來虩虩,恐致福也。笑言啞啞,後有則也。

『大象伝』にいう、「洊(せん)雷は震なり。君子は以て恐懼修省す」。いわゆる「恐懼」とは、上天の威厳を敬畏することである。いわゆる「修省」とは、震卦の振動に效って自ら修治し省察することである。初九の爻辞にいう、「震の来るや虩虩たり。後に笑言啞啞たり。吉」。この卦は上下ともに震で、初九と九四はいずれも陽爻であり、震の陽気は下より上に向かって行くので、初九は全卦の主爻であり、その爻辞は卦辞と同じであり、その『小象伝』も『彖伝』と同じである。爻辞に「後」の一字が多いのは、上卦のあの一回の雷震の後を言うのであり、ただ後に落ちてこそ吉を得るのである。『小象伝』にいう、「震の来るや虩虩たりは、恐れて福を致すなり。笑言啞啞たりは、後に則あるなり」。

六二:震來厲,億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。人心方寂,震動忽來,二之下為震主,故來愈厲。二與初同體,初陽為貝,貝海介蟲,古者貨貝而寶龜,則貝即貨也。九家易曰:震為玉,有貝象。二至四為互艮,艮山象陵。一震之威,不能無失,雖喪去其貝,而亦安然,且用震足往躋九陵以避之。九,陽數;億,安也。春秋傳曰:心億則樂。夫人之所以罹患,多由為利所牽不能舍耳。若知貝可喪則喪之,陵可躋則躋之,避難以自全,前往以待時。所喪之物歷六爻已盡,再歸本爻計也,七日則得之矣,何用逐為?

六二の爻辞にいう、「震の来るや厲し。億に貝を喪い、九陵に躋(のぼ)る。逐う勿れ、七日にして得ん」。人心がまさに安静な時、雷震が忽然と襲来する。六二の下はすなわち全卦の震主たる初九なので、この一震の来ること格別猛烈である。六二は初九と同じく下体に処し、初九は陽爻で「貝」に象る。貝は海中の甲殻ある軟体動物で、古人は貝を以て貨幣とし、亀甲を以て宝物としたので、「貝」とはすなわち銭財である。『九家易』によれば、震は玉であり、因って貝の象がある。二爻から四爻は互いに艮卦を成し、艮は山で「陵」に象る。一回の雷震の威勢の下、全く損失がないことはあり得ない。六二は銭財を失ったがなお泰然としており、しかも震卦の象る足に凭って、高き山陵に登って避ける。「九」は陽数で(その高きを極言する)、「億」は安の義で、『春秋左伝』に「心億なれば則ち楽し」という語がある。人が禍を遭う所以は、多くは財利に牽かれて放すに惜しむからである。もし銭財は捨つべき時は捨て、山陵は登るべき時は登り、危難を避けて自身を保全し、先に走り去って時機を待つことを明らかにすれば、失った物は六爻を歴遍して一輪已尽し、再び本爻に帰って算すれば、七日の後に自然に復た得る。何ぞ追わんや。

象曰:震來厲,乘剛也。六三:震蘇蘇,震行無眚。震自初來,震不遽至三,較二可少安矣,而又蘇蘇者,言震之餘威將及此也。鄭氏曰:蘇蘇,不安也。夫陰居陽位,不能無眚,三體互坎,坎為多眚,知其有眚而行以避之,庶克免耳。象曰:震蘇蘇,位不當也。九四:震遂泥。四亦震陽也,而居四陰之間,互坎之內,甫欲震動而即陷於坎水,故曰震遂泥。象曰:震遂泥,未光也。

『小象伝』にいう、「震の来るや厲しきは、剛に乗ればなり」(六二の陰爻が初九の陽剛の上に騎っている)。六三の爻辞にいう、「震は蘇蘇(そそ)たり。震して行けば眚なし」。雷震は初爻から発し、一挙に三爻に冲至しないので、六三は六二に比べ本来やや安穏であるべきだが、なお「蘇蘇」として定まらない。これは震の余威がまさにそれに波及しようとしていることを言う。鄭玄によれば、「蘇蘇」とは心神が安からぬことである。六三は陰爻をもって陽位に居り、灾患がないことはあり得ない。三爻はまた互体坎卦に属し、坎は多灾多眚を主る。灾あるを明知して及び早く走り去り避ければ、およそ禍を免れ得よう。『小象伝』にいう、「震蘇蘇たるは、位当たらざればなり」。九四の爻辞にいう、「震は遂に泥に入る」。九四も同じく震の陽爻であるが、四根の陰爻の間に挟まれ、また互体坎卦の内に落ちて、まさに振動しようとして坎水の中に陥ったので「震遂に泥」(一震して泥淖に陥る)という。『小象伝』にいう、「震遂に泥に入るは、未だ光ならざればなり」。

六五:震往來厲,億無喪有事。五居外卦之中,卦為重震,內震方往,外震又來,故曰震往來厲。五與二同處中位,然二之處震以有所喪而安,而五之處震以無所喪而安。蓋二之所喪為貝,貝之喪無關重輕,故可以喪而躋九陵;至於五為君位,為宗廟社稷之主,是宗廟社稷之事皆為其事,其事在位中,億安無喪,乃可以為祭主,其事大故不可喪也。虞氏曰:事,祭祀之事。無喪有事,蓋以五之位與二異耳。象曰:震往來厲,危行也。其事在中,大無喪也。

六五の爻辞にいう、「震は往來ともに厲し。億に喪うことなくして事あり」。六五は上卦の中に居り、全卦の上下は皆震で、内卦の一震が剛に過ぎ去れば、外卦の一震がまた襲来するので「震往來厲」という。六五は六二と同じく中位に処すが、しかし六二は震動に身を処して、棄てる所があるがゆえに安寧を得、六五は震動に身を処して、一失もないがゆえに安寧を得る。これは六二の棄てたのはただ銭財で、棄てても軽重に関わらないので、尽く棄てて高陵に登っても可なのに対し、六五は君位であり、宗庙社稷の主人で、宗庙社稷の一切の事務は皆彼の分内の事であり、これらの事は彼の職位の中にあり、安守して失わしめずしてこそ祭主と為るに足る――事が重大すぎて棄てられないからである。虞翻によれば、「事」とは祭祀の事を指す。爻辞が「喪なくして事あり」と言うのは、まさに六五の位分が六二と異なるがゆえである。『小象伝』にいう、「震往來厲しきは、危行なればなり。其の事中に在るは、大いに喪うことなきなり」。

上六:震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎,婚媾有言。上居重震之上,陰柔無主,宜其內不自安,驚懼形色,兼見於目。馬氏曰:索索,內不安也;矍矍,目遽貌。中心無主,頓失故常,冒昧前往,則凶立見,是宜早自圖維。當彼震及於鄰、未至其躬之候,聽人戒言,預知畏懼,則猶無咎。蓋初為震主,上遠於初,五為上鄰,四與上同體,陰陽配合為上婚媾,震為聲音,故云婚媾有言也。象曰:震索索,中未得也。雖凶無咎,畏鄰戒也。中未得者,中心不安未得主也;畏鄰戒者,聞鄰言預知自防也。

上六の爻辞にいう、「震は索索(さくさく)たり、視ること矍矍(かくかく)たり。征すれば凶。震はその躬にあらずしてその鄰にある。咎なし、婚媾に言あり」。上六は重畳した雷震の最上に処し、陰柔にして心に主宰がなく、それが内に惶惶として安からぬは無理もなく、驚懼の情は顔色に表れ、また眼神に流露する。馬融によれば、「索索」とは内心が安からぬこと、「矍矍」とは眼が驚惶して四顧する貌である。心中に主宰なく、たちまち常度を失い、もし再び冒失に前行すれば凶険は立ちどころに至るので、及び早く自らのために打算すべきである。雷震がただ隣近の処に落ち、まだ自身に落ちないうちに乗じ、旁人の告戒を聴取し、予め畏れることを知れば、なお咎を免れ得る。初九は全卦の震主で、上六は初九から最も遠く、六五は上六の近隣であり、九四は上六と同じく上体にあり、一陰一陽が相配すれば、すなわち上六の婚配の家となる。震は象において声音なので「婚媾に言あり」(婚配の家に言い告げる言あり)という。『小象伝』にいう、「震索索たるは、中未だ得ざればなり。凶なれども咎なきは、鄰を畏れ戒むればなり」。いわゆる「中未だ得ず」とは、心中が安からず主宰を得ていないこと。いわゆる「鄰を畏れ戒む」とは、隣爻の告戒を聴いて予め自ら防備することである。

艮(ごん)の卦

艮下艮上,中互震坎。重艮純卦。艮其背,不獲其身,行其庭,不見其人,無咎。艮象為山,艮位在寅。艮畫似人,人之一身惟背得艮義,故曰艮其背。人背則身亦背,背不可獲,故曰不獲其身。人則有行,而行祇在庭,人為庭蔽而不之見,故曰不見其人。身則不獲,人則不見,不獲不見,艮之德也,故無咎。

「艮」の卦は下体が艮、上体もまた艮で、中間に震卦と坎卦を互出し、上下同体の純卦である。卦辞にいう、「その背を艮(とど)むれば、その身を獲ず。その庭に行きて、その人を見ず。咎なし」。艮は象において山であり、方位において十二支の「寅」に当たる。艮の卦画(二陰が下にあり一陽が上にある)は人の側影に似て、人の一身の中で、脊背のみが最も「止して動かず」の艮義に合するので「その背を艮む」という。人がいったん背を転じれば、全身も人に背を向ける。背はすでに見えないので「その身を獲ず」という。人は常に動くものだが、彼の動きは自家の庭院の中のみにあり、庭院屋宇に遮られて見えないので「その人を見ず」という。身が見えず、人も見えず、見えず遇わぬは、まさに艮止の徳性であるので、咎はない。

彖曰:艮,止也。時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。艮其止,止其所也。上下敵應,不相與也。是以不獲其身,行其庭不見其人,無咎也。卦為重艮,即連山。夏易曰連山,連山首艮,取人生於寅之義。蓋以艮位在寅,艮畫又象人,故重艮之卦不取象于山而取象於人。然卦雖以人取象,而猶以山取義。山體常靜,人身主動,其止而不動者惟背,故以人之背言艮之止。

『彖伝』にいう、「艮とは止なり。時に止まれば則ち止まり、時に行けば則ち行く。動静その時を失わざれば、その道光明なり。其の止まるを艮むとは、其の所に止まるなり。上下敵応して、相与せざるなり。是を以てその身を獲ず、其の庭に行きてその人を見ず、咎なきなり」。この卦は上下ともに艮で、いわゆる「連山」である。夏代の易書を『連山』と言い、『連山』は艮卦を首に居らしめ、「人寅に生ず」の義を取った――艮が方位において正に寅に当たり、艮の卦画がまた人に似るから、艮を重ねたこの卦は山に取象せず、人に取象したのである。ただ卦は人に取象するが、義を取る時は依然として山に落ち着く。山の形体は恒常静止し、人の身体は活動を主とし、人の身上で止して動かないのは脊背のみであるので、人の背を借りて艮の「止」を説明する。

夫人既止於背,則人是背非向。向則見身,背則身不可見,是為不獲其身。且不惟不獲其身,而又不見其人。蓋人身必動,動則有行,而行祇在其庭,則人雖動而行自靜。宮中曰庭,艮為門闕,互坎為宮室,互震為行,故曰行其庭。行於其庭,門闕外蔽,人焉得見?況重艮之門闕,屏寧扉闔,深邃更難窺也。

人がすでに背に止まっている以上、それは背を人に向けて正面を人に向けないのである。正面が相対してこそ身が見え、背を人に向ければ身は見えない。これを「その身を獲ず」という。しかもその身が見えないのみならず、その人すらも見えない。人身は常に活動し、活動すれば行走があるが、彼の行走は自家庭院に限られるので、人は動いていても行跡は自然になお静である。房舎の中の空地を「庭」と言い、艮は門闕であり、互体の坎は宮室、互体の震は行走なので「其の庭に行く」という。人が自家庭院で動くのを、門牆が外から遮るのに、旁人がどうして見ることができよう。しかも重艮の卦は門闕が重畳し、照壁が前に挡り門扇が後に閉じ、庭院は深邃で、なおさら窺見し難い。

當其止為靜,而其行則動,動似非止。不知止得其時,止固為靜;動得其時,動亦為靜。動靜不失其時,艮道陽光昭明外見,動亦為靜,是行亦謂之止,故曰艮止也。然則言艮其背,言其止,可也。艮止維何?止其所也。爻有應則不能止,此卦陰陽同德,上下敵應,祇宜各止其所,不出其位。我既不能同人,人又焉能同我?是以不獲其身,行其庭不見其人,無咎也。

常理に照らして見れば、止まっている時は静であり、行走する時は動であり、動は止と算ならぬように思える。しかし知らないことには、止まることが時宜に合すれば止は固より静であり、動くことが時宜に合すれば動も同じく静である。動と静がいずれもその時を失わなければ、艮道の陽光は昭然として外に顕現し、動もまた静となる。ここにおいて「行」もまた「止」と称すことができるので、『彖伝』は「艮は止なり」という。このように言えば、卦辞の「其の背を艮む」と言うのは、まさにその「止」を言うのである。では「艮止」とは一体どこに止まるのか。各々応ずべき位置上に止まるのである。およそ爻と爻とに応じるものがあれば、止められない。しかしこの卦は上下両体の陰陽が全く同徳で、初と四、二と五、三と上はいずれも同性相敵して応じないので、ただ各々本位に止まり、自らの分際を越え出ないべきである。我がすでに人と相合することができないのに、人がどうして我と相合することができよう。ゆえに「その身を獲ず、其の庭に行きてその人を見ず、咎なし」という。

象曰:兼山艮,君子以思不出其位。心有思則動,思限以位,動亦靜也,故君子思不出其位,取象於兼山也。初六:艮其趾,無咎,利永貞。卦以人取象,初位最下,是趾也。夫陽動陰靜,初為陰,是能止其趾不妄動者。艮德為止,苟能止趾,合艮德矣,故無咎,但惟永貞乃利耳。象曰:艮其趾,未失正也。

『大象伝』にいう、「兼山は艮なり。君子は以て思いその位を出ざらしむ」。心に念頭が一動すればすなわち「動」であるが、もし思慮を本分の内に限定すれば、この動もまた静に等しい。ゆえに君子の思慮は自らの職位を越え出ない――これは二つの山が重畳して各々その所に安んずる象を取ったものである。初六の爻辞にいう、「其の趾を艮む。咎なし、永貞に利あり」。この卦は人身に取象し、初爻の位置は最も低く、すなわち脚の趾である。陽は動を主り陰は静を主り、初爻は陰爻で、まさに脚の趾を止めて軽挙妄動しない者である。艮の徳性はすなわち「止」である。もし脚の趾を止めることができれば、艮徳に合するので咎はない。ただ必ず長く正を守ってこそ利あると算する。『小象伝』にいう、「其の趾を艮むは、未だ正を失わざればなり」。

六二:艮其腓,不拯其隨,其心不快。趾之上則為腓,二得艮中,是為艮其腓。然一人之身,心為主,體隨之。蓋心陽主動,體陰主靜,三為陽,又為互坎之中,坎為心,二比三,三不拯二,三不愉快,二有欲靜不能者。象曰:不拯其隨,未退聽也。二為三之隨,言三為心,未退聽於二也。

六二の爻辞にいう、「其の腓(ひ)を艮む。その随を拯(たす)けず、その心快からず」。脚の趾の上はすなわち腿の肚であり、六二は下体艮卦の中に居り、ちょうど腿肚の位置に当たるので「其の腓を艮む」という。しかし人の身体において、心は主宰であり、四肢躯干はただ心に随って動く。心は陽に属して動を主り、形体は陰に属して静を主る。九三は陽爻で、また互体坎卦の中に居り、坎は心である。六二は九三に緊挨着し、九三は六二を提携しようとせず、九三自身も快くない。ここにおいて六二は静まろうと欲して静まること能わざる境地に処する。『小象伝』にいう、「其の随を拯けざるは、未だ退きて聴かざればなり」。六二は九三に随う部分であり、これは九三が心主でありながら、退いて六二に聴従しようとしないことを言う。

九三:艮其限,列其夤,厲熏心。限,要也;夤,夾脊肉。既已艮止其限,則腰不能協屈伸之宜,而夤亦相與對峙不動。坎陽中峙,四陰分列,象人脊骨,坎為脊,故曰列其夤。夫限之不動,有似於止,然限前為心,則心因夤之列而妄動不寧,如火熏灼。蓋互坎為心,心後為限,猶坎之反為離,離火炎蒸,故見危厲。此勉強求靜,則心轉以強制而動愈甚也。象曰:艮其限,危熏心也。六四:艮其身,無咎。身以藏心,心不可見而身可見,故繼心而言身。身既艮止,則身無為,故無咎。象曰:艮其身,止諸躬也。

九三の爻辞にいう、「其の限を艮む。其の夤(いん)を列し、厲しく心を燻す」。「限」とは腰であり、「夤」とは夾脊の両旁の筋肉である。腰を硬く止めてしまえば、腰は屈伸に随って調節することができず、夾脊肉もそれに随って僵持して動かない。坎卦は一根の陽爻が中間に立ち、四根の陰爻が両旁に分列して、人の脊椎骨に似る。坎はまた脊背を主るので「其の夤を列す」(夾脊肉が裂けて分列する)という。腰が動かなければ、見たところ「止」のようであるが、しかし腰の前はすなわち心であり、心は夾脊が僵裂するがゆえに躁動して寧らず、火に烤炙されるがごとし。互体の坎は心であり、心の背後はすなわち腰である。坎卦を倒して見れば離となり、離は火であり、火気が燻蒸するので危厲が現れる。これは強いて静を求めて、心がかえって強制を受けたがゆえに躁動がいよいよ甚だしくなることを言う。『小象伝』にいう、「其の限を艮むは、危く心を燻するなり」。六四の爻辞にいう、「其の身を艮む。咎なし」。身躯は心を蔵するのに用いるもので、心は見えず身は見えるので、上一爻で心を講じた後に続けて身を講ずる。身がすでに止まれば、妄為する所なく、咎はない。『小象伝』にいう、「其の身を艮むは、諸を躬に止むればなり」。

六五:艮其輔,言有序,悔亡。輔,口頰也。艮卦象背,故爻皆以背取象,二腓三夤,其顯然者。五不曰口而曰輔,言從背僅見輔也。五位為輔,故云艮其輔。言從輔出,輔既曰艮,何有於言?然五體為互震,震為言,則言又似不可以永止,惟體艮德,言不妄發,循循有序,悔乃亡耳。象曰:艮其輔,以中正也。上九:敦艮,吉。三上皆為艮主,三以列於四陰之間,故艮限而危;上為一卦之終,故敦艮而吉。蓋自艮趾以至艮輔,則艮已敦矣,敦故吉。象曰:敦艮之吉,以厚終也。敦,厚也,上為卦之終,故曰厚終。

六五の爻辞にいう、「其の輔を艮む。言有序あり、悔亡」。「輔」とは口の旁の頰骨である。「艮」卦は人の背に取象するので、各爻はいずれも背面から着眼する。二爻の腿肚、三爻の夾脊肉は、いずれも背面から顕然と見える部位である。五爻は「口」と言わず「輔」と言うのは、まさに背後から見れば、頰骨だけが見えて嘴は見えないからである。第五爻の位置は頰輔に相当するので「其の輔を艮む」という。話は口頰の中から出るもので、頰輔がすでに「止」した以上、何を以て話を論ぜん。しかし六五のある上体はまた震卦を互出し、震は言語を主るので、話はまた永遠に止められないように見える。ただ艮の徳性を体会し、乱に口を開かず、条理を弁えて話してこそ、悔恨が消える。『小象伝』にいう、「其の輔を艮むは、中正を以てなり」。上九の爻辞にいう、「敦艮、吉」。九三と上九はいずれも艮卦の主爻で、九三は四根の陰爻の中間に挟まれているので腰を止めて危厲を生じ、上九は全卦の終点に処するので敦厚に止まることができて吉を得る。趾を止めることから始めて口頰を止めるに至るまで行えば、艮止の功夫はすでに厚く積まれた。厚いがゆえに吉利である。『小象伝』にいう、「敦艮の吉は、厚きを以て終わればなり」。「敦」とはすなわち厚であり、上九は一卦の終結なので「厚終」という。

易原 巻十一・周易下経(五)

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。

本巻は『慧珠閣』原刻本に依って録出する。著者は多隆阿、遼東岫巖の人、字は雯渓。

漸(ぜん)の卦

艮下巽上,中互離坎。否。漸為三陰三陽卦,自否來,虞氏曰否三之四。漸:女歸吉,利貞。艮下巽上,亦是以男下女,而長少非偶。不惟不類兌艮為咸、震巽為恆,而轉類山風蠱,有似女惑男者。艮男方少,尚宜待時;巽女已長,久宜得配。倘非行之以漸,俟六禮之備,則與淫奔無異,故卦取名曰漸。卦辭繫曰女歸吉利貞,蓋言女歸惟漸則吉,不漸則不吉;惟漸則利,不漸則不利,所宜貞守此漸矣。

「漸」の卦は下体が艮、上体が巽、中間に離卦と坎卦を互出する。これは「否」卦から変じた。「漸」は三陰三陽の卦で、虞翻は「否」の第三爻と第四爻が対調して成ったと言う。卦辞にいう、「漸、女帰吉、利貞」。艮が下にあり巽が上にあるのは、同じく男が女の下にある(求婚の礼に合する)が、しかし一方は長女、一方は少男で、年歳は並び合わない。それは兌上艮下の「咸」、震上巽下の「恒」のように男女が相当するのではなく、かえって山下に風ある「蠱」に近く、女子が男子を迷惑する意味がある。艮の象る男子は年紀がなお小さく、まだ時機を待つべきである。巽の象る女子は年歳がすでに長じ、早く配偶を覓得すべきである。このような情形の下、もし按部就班に徐々に来て、六礼が斉備するのを待って成婚しなければ、私奔と区別がないので、この卦は「漸」と名づけた。卦辞に「女帰吉、利貞」と繋げたのは、女子の出嫁は循序漸進してこそ吉利であり、循序漸進しなければ吉利でなく、循序漸進してこそ利があり、循序漸進しなければ利がないことを言うので、この「漸」の字を固守すべきである。

彖曰:漸之進也,女歸吉也。進得位,往有功也。進以正,可以正邦也。其位剛得中也。止而巽,動不窮也。傳釋之曰:漸為漸次,不訓進,而乃曰進者,言進不可遽,當進以漸,故曰進也。夫卦之訓進者為晉,而漸之進則與晉異。彼晉之進為臣覲君,而漸之進為女歸男。夫男先於女,婚禮之宜,而巽女已長,則有欲不歸而不能者,求偶在女,故曰女歸。行之以漸,始可云吉。且夫惟漸乃吉,事事皆宜然也。

『彖伝』にいう、「漸の進むや、女帰吉なり。進みて位を得れば、往きて功あらん。進むに正を以てすれば、以て邦を正しくすべし。其の位は剛、中を得たり。止めて巽(したが)えば、動きて窮まらざるなり」。『彖伝』はこのように解釈する。「漸」は本来逐次推移の義で、「進」と訓するのではないが、ここで「進」と言うのは、前進は躁急にすべからず、一歩一歩来るべきことを表明するためであるので、「漸の進」と言うのである。六十四卦の中で真に「進」と訓するのは「晋」卦であり、「漸」の「進」は「晋」と同じでない。「晋」の進は臣子が君王に朝見することであり、「漸」の進は女子が男家に出嫁することである。礼に依れば、男方が先に来て求め、女方が後に応ずることで、初めて婚礼の次序に合する。しかし巽の象る女子は年歳がすでに大きく、出嫁しないではいられない苦衷があり、配偶を求める方が女子の身上に落ちるので「女帰」という。この時なおさら一歩一歩礼数に照らして来てこそ、吉と言うに足る。推して言えば、ただ循序漸進してこそ吉利であり、天下の事は一件としてこのようでないものはない。

卦自否來,否之三四陰陽失位,而三往居四,進得其位,上承九五,是為往有功也。而陽來居三為正,陰往居四亦為正。否僅一陽得位,漸則二陽得位,陽為陰率,乾以一陽下居坤上,是所以正坤邦也。五在否卦,剛自得中,三四相易,五剛不易,剛仍得位,是為剛得中也。坤變為艮,乾變為巽,艮止而巽行,行則有動,而動必以巽,是動以漸,故不窮也。漸進之吉,不僅女歸,又如此。

この卦は「否」から変じた。「否」の第三爻は陰、第四爻は陽で、いずれも位に当たらない。今や第三爻が上行して四位に居れば、前進して正位を得、また上に九五を承ける。これが『彖伝』のいう「往きて功あり」である。同時に陽爻が下って三位に居るのは位に当たって正であり、陰爻が上って四位に居るのも位に当たって正である。「否」卦は本来一つの陽爻のみ位に当たり、「漸」卦は二つの陽爻が位に当たる。陽は陰を統率でき、乾体が一根の陽爻をもって坤体の上に下降するのは、まさに坤の象る邦国を端正するのに用いるので、「進むに正を以てすれば、以て邦を正しくすべし」という。第五爻は「否」卦において本来陽剛をもって中に居り、三・四両爻が対調した後も五爻は変動せず、陽剛は依然として位に当たる。これが「其の位は剛、中を得たり」である。もとの坤は艮に変じ、もとの乾は巽に変じた。艮は静止を主り、巽は順行を主る。行走すれば動作があり、動作は必ず巽の柔順に依る。これが「動くに漸を以てす」で、ゆえに行きて尽きず窮まらない。見れば循序漸進が吉利なる所以は、女子の出嫁の一事のみならず、道理はなおこのように広大である。

象曰:山上有木,漸。君子以居賢德善俗。山上之木,其高以漸;君子居德善俗,亦體漸義。德之漸進貴能居,居之如艮山之止;俗之漸進欲其善,善也如巽風之入。初六:鴻漸于干,小子厲,有言,無咎。互離為飛鳥,居互坎之間,是水鳥集於水畔之象,有似於鴻,故爻辭皆言鴻。鴻來有時,鴻飛有序,是鴻之進止為有漸。初漸何所?漸於乾也。鄭氏曰:乾,大水之旁故停水處。乾雖近水而猶未及於水,鴻漸於此,豈云得所?

『大象伝』にいう、「山の上に木あり、漸なり。君子は以て賢徳に居りて俗を善くす」。山上の樹木は、一寸一寸高く長ずるものである。君子が徳行を蓄養し風俗を改善するにも、この「漸」の字を体会しなければならない。徳行の逐步の積累は安住できることを貴び、艮山のように穏定して移らないように安住せよ。風俗の逐步の転移はそれを善に向かわせることを要し、巽風のように悄然と浸入するように善に向かわせよ。初六の爻辞にいう、「鴻、干に漸む。小子は厲しく、言あり、咎なし」。卦中に互出する離は飛鳥であり、また互体坎水の間に挟まれて、まさに水鳥が水辺に聚集する象で、鴻雁によく似る。ゆえに六爻の爻辞は皆鴻雁を以て事を言う。鴻雁は往き来りに定時があり、飛行に行列次序があるので、鴻の進退はそれ自体が「漸」に合することが見える。初爻はどこに漸進するのか。「干」に漸進する。鄭玄によれば、「干」とは大水の旁の旧来の積水の処である。干は水に近いが、まだ水の中に至らず、鴻雁はここに停まるが、どうしてその所を得たと言えよう。

艮山之下,前有互坎,山水之間,故曰乾。猶之艮為少男,又為小子,小子居下,巽女來歸,危厲之餘,至於有言。得否之乾初為艮,乾為言,故云有言。然初四皆陰,兩陰無應,無應則不進,乃得漸義。詩云:禮義不愆,何恤於人言。蓋無咎矣。象曰:小子之厲,義無咎也。

初爻は艮山の下にあり、前にまた互体の坎水があり、まさに山と水の間に処するので「干」(水畔の高地)と言う。同様に、艮は少男であり、また「小子」に象ることができる。小子は最下の位置に居り、巽の象る長女が嫁いで来ようとし、彼は驚懼不安の余り、なお閑話を招く。この卦は「否」卦から得たもので、「否」の下乾の初爻が艮に変じ、乾は象において言語なので「言あり」という。ただ初六と六四はいずれも陰爻で、両陰は応じることができない。応じなければ軽挙妄進しないので、これはちょうど「漸」の道理に合する。『詩経』にいう、「礼義に愆(あやま)らず、何ぞ人言を恤れん」(礼義に過失がなければ、どうして他人の閑話を慮ることがあろう)。ゆえに終に咎なし。『小象伝』にいう、「小子の厲しきは、義に咎なきなり」。

六二:鴻漸于盤,飲食衎衎,吉。艮為石,前鄰互坎,水畔有石曰盤。鴻來漸之,進於乾矣。二體鴻漸之義,上往應五,二為互坎之初,五為互離之末,水火相濟,飲食之和,安且樂之。衎衎,和樂也。上下相得,故吉。象曰:飲食衎衎,不素飽也。漸進得祿,無素餐之飽也。

六二の爻辞にいう、「鴻、磐に漸む。飲食衎衎(かんかん)として吉」。艮は象において石であり、それは前に互体坎水に緊鄰し、水辺の大石を「磐」と言う。鴻雁が一歩一歩挪り来て、すでに「干」に停まったよりもさらに一層進んだ。六二は「鴻漸」の道理を体会し、上に九五に応合する。六二は互体坎卦の起始であり、九五は互体離卦の末端であり、坎水と離火が相互に調済して、まさに飲食調和の象であるので、安穏にしてかつ快楽である。「衎衎」とは和楽の貌である。上下両爻が情意相投するので吉利である。『小象伝』にいう、「飲食衎衎たるは、素飽せざるなり」。これは循序漸進して俸禄を得るのであり、白飯を徒食するのではないということである。

九三:鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶,利禦寇。三在否為坤,否四來三,三變為艮。坤地之上,艮山隱起,所謂高平曰陸者,鴻又漸進於此焉。夫乾初下來變坤為艮,艮男為夫;而坤陰上升變乾為巽,巽女為婦。三為正艮,又為互坎;四為正巽,又為互離。四來之三,陽已得位,豈能歸四?且又遇艮之止,是為夫征不復也。

九三の爻辞にいう、「鴻、陸に漸む。夫征して復たず、婦孕めども育たず、凶。寇を御ぐに利あり」。第三爻は「否」卦において本来坤体に属し、「否」の第四爻が下って三位に居れば、三爻は艮に変じた。坤の象る平地の上に、艮の象る山丘が隆起する。それが『爾雅』のいう「高平を陸と曰う」であり、鴻雁はまたここに漸進した。乾の初爻が下降して、坤を艮に変じ、艮は少男、すなわち「夫」である。坤の陰爻が上昇して、乾を巽に変じ、巽は長女、すなわち「婦」である。九三は本体の艮であり、また互体の坎である。六四は本体の巽であり、また互体の離である。九四はもと四位から下って三位に居ったもので、陽爻はすでに正位を得たのに、どうして四位に帰ることを肯んじよう。しかも前にまた艮の静止に遇う。これが「夫征して復たず」(夫が出て行って帰らない)である。

三以互坎之血入四互離之大腹,則婦已孕。而水火相剋,離為坎傷,且巽又為躁卦,勢難靜守,是為婦孕不育也。四來歸三,艮不復乾,則是夫不顧家;坤往居乾,坎轉傷離,則是婦不恤子,何凶如之!是宜居艮之上以御互坎之寇,坎寇下來,艮止以御之,體漸之義庶幾利耳。象曰:夫征不復,離群醜也。婦孕不育,失其道也。利用禦寇,順相保也。丑,類也。離群醜者,離否乾之群下來變坤為艮也。失其道者,坎離相爭,失夫婦相和之常道也。順相保者,變坤順為艮止,御止坎寇以保身家也。

九三は互体坎の象る血を以て、六四の互体離の象る大腹に入れば、婦人はすでに懐孕した。しかし水火は相克し、離は坎に傷られようとしており、加えて巽はまた躁動の卦で、情勢は静養安胎し難い。これが「婦孕めども育たず」(孕んでも保てない)である。九四が下って三位に帰り、艮は再び乾に回復しないのは、夫が家を顧みないことである。坤爻が上って乾の位置を占め、坎がかえって離を傷つけるのは、婦人が子を顧みられないことである――これより凶なるものがあろうか。ゆえに艮山の上に拠守して、互体坎の象る盗寇を抵禦すべきである。坎寇は上より下って来るので、艮の静止を以てそれに抵当し、「漸」の道理を体会すれば、およそ利あろう。『小象伝』にいう、「夫征して復たざるは、羣丑を離るればなり。婦孕めども育たざるは、その道を失えばなり。用いて寇を御ぐに利あるは、順にして相保せばなり」。「丑」とは同類の義である。いわゆる「羣丑を離る」とは、この一爻が「否」卦の上乾の同類を離脱し、下って坤を艮に変えたことを言う。いわゆる「其の道を失う」とは、坎離が互相争闘して、夫婦和睦の常道を失ったことを言う。いわゆる「順にして相保す」とは、坤の柔順を艮の静止に変えて、坎寇を挡住して身家を保全することを言う。

六四:鴻于漸木,或得其桷,無咎。木又上於陸矣。四體巽,巽為木,鴻則漸之。夫鴻掌連趾,不能握木,而巽為陰木,其有寬平如桷者,可以棲止。桷,榱也。鴻或得桷,漸進有所,故無咎。象曰:或得其桷,順以巽也。順以巽者,否坤前往變巽也。

六四の爻辞にいう、「鴻、木に漸む。或いは其の桷(かく)を得ん。咎なし」。樹木の位置はまた陆地より一層高い。六四は巽体に属し、巽は木であり、鴻雁は一歩一歩樹上に挪る。鴻雁の脚掌は趾間に蹼が連なり、樹枝を掴めない。幸い巽は柔軟の陰木で、その中に方椽のように寛平な枝干があり、歇脚できる。「桷」とは方形の屋椽である。鴻雁は僥倖にもこのような平枝を見つけ、漸進して落着があったので咎はない。『小象伝』にいう、「或いは其の桷を得るは、順にして巽(したが)えばなり」。いわゆる「順にして巽」とは、「否」卦の坤体が上行して巽に変じた(柔順より巽入に転じた)ことを言う。

九五:鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。五以巽中下應艮中,是五已在艮山之上,如所謂大阜曰陵者,鴻漸於此,漸愈進矣。夫鴻之進猶女之歸,鴻漸至五則進愈高,婦俟至五則年愈大。五體巽稱婦,下求應,歷互坎互離之盡,已歷三歲。五至三為離,離為孕;四至二為坎,坎水克離,則孕仍虛。顧不孕至三歲,不為不久,終莫之勝,以歸艮男,成其配偶,靜以俟之,寧失其時,不失其禮,漸進之義至此極矣。象曰:終莫之勝吉,得所願也。得所願者,願守漸義,不肯失禮以歸也。

九五の爻辞にいう、「鴻、陵に漸む。婦三歳孕まず。終に之に勝つ莫し。吉」。九五は巽体の中を以て下に艮体の中に応じ、それがすでに艮山の上に登ったことを説明する。すなわち『爾雅』のいう「大阜を陵と曰う」であり、鴻雁がここに漸進したのは、先よりまた一層高い。鴻雁の前進は女子の出嫁に譬える。鴻が五爻に漸めば位置は愈々高く、女子が五爻に至れば年歳は愈々大きい。九五は巽体に属し、「婦」と称すべきで、それは下に向かって応ずる爻を求め、互坎・互離の両卦を走遍してこそ尽きるので、すでに三年を過ぎた。五爻から数えて三爻に至れば離を成し、離は懐孕を主る。四爻から数えて二爻に至れば坎を成し、坎水は離火を克するので、胎孕は終に落空する。しかし孕まずして三年を熬るは、久しからずと算ならず、最終的に彼女を压倒するものもない――彼女はやはり艮の象るあの男子に嫁いで、この配偶を成就した。安安静々として待ち続け、寧ろ好時機を逸しても、礼数を失うことを肯んじない。「漸」の道理はここに至って極処に発揮されたと算する。『小象伝』にいう、「終に之に勝つ莫きは吉は、願いを得たればなり」。いわゆる「願いを得た」とは、彼女の心願が漸進の義を守るに在り、礼を失して草草に嫁ぐことを肯んじないことである。

上九:鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。漸進至上,無可進矣,窮極宜返,故仍歸於陸。蓋巽為進退,進而復退,鴻漸象之。且知進知退,不敢以盛滿自處,尤漸進之高致也。鴻漸若此,不第其德可貴,即用其羽為舞亦吉。儀,舞也。書曰:鳳凰來儀。象曰:其羽可用為儀吉,不可亂也。不可亂,言羽舞有序也。

上九の爻辞にいう、「鴻、陸に漸む。其の羽は用いて儀と為す可し。吉」。漸進して最上の爻に至れば、再び進むべき所がない。窮尽して頭に至れば回返すべきなので、また陆地に落ち帰る。巽卦はもともと進退不定の義があり、進んでまた退く。鴻雁の漸進はまさにこの象を取る。しかも進むを知りまた退くを知り、円満を以て自ら居ることを敢えてしないのは、なおさら「漸進」の高妙の境界である。鴻雁がこの歩までできるのは、その徳性が貴いのみならず、その羽毛を取って舞具とするのも吉利である。「儀」とはすなわち舞であり、『尚書』に「鳳凰来儀す」の語がある。『小象伝』にいう、「其の羽用いて儀と為す可きは吉は、乱る可からざるなり」。いわゆる「乱る可からず」とは、羽を執って舞うに自ずから行列次序があることを言う。

帰妹(きまい)の卦

兌下震上,中互坎離。泰。歸妹為三陽三陰卦,自泰來,虞氏曰乾天坤地,三之四,天地交。歸妹:征凶,無攸利。男娶女曰娶,女歸男曰歸。父主婚禮曰歸女,兄主婚禮曰歸妹。此卦下兌上震,有似長男主嫁少女者,故名歸妹。妹而曰歸,似女就男,則為失禮;歸者曰妹,是女無父,則為失時。時禮俱失,故征凶無攸利。

「帰妹」の卦は下体が兌、上体が震、中間に坎卦と離卦を互出する。これは「泰」卦から変じた。「帰妹」は三陽三陰の卦で、虞翻は「泰」の上坤は地、下乾は天、第三爻と第四爻が対調して、まさに天地交合の象であると言う。卦辞にいう、「帰妹、征すれば凶、攸に利あらず」。男方が女方を娶るを「娶」といい、女方が男家に嫁ぐを「帰」という。父が婚礼を主持するを「女を帰す」といい、兄が婚礼を主持するを「妹を帰す」という。この卦は下兌上震で、長兄が主を為して小妹を嫁がせる様によく似るので、「帰妹」と名づけた。「妹」と称して「帰」と言うのは、女方が自ら進んで男方に就くようで、これは礼を失したものである。出嫁する者が「妹」と称されるのは、女子にすでに父が家を主らないことを説明し、これは時を逸したものである。礼と時の両頭が共に失われたので「征すれば凶、攸に利あらず」である。

彖曰:歸妹,天地之大義也。天地不交而萬物不興,歸妹人之終始也。說以動,所歸妹也。征凶,位不當也。無攸利,柔乘剛也。卦之所以名歸妹者,以卦自泰來也。泰為上坤下乾,虞氏曰:乾天坤地,三之四,天地交,以離日坎月戰陰陽,則萬物興。乾主壬,坤主癸,日月會北,震東兌西,離南坎北,六十四卦此象最備,四時正卦,故天地之大義也。

『彖伝』にいう、「帰妹は天地の大義なり。天地交わらざれば万物興らず。帰妹は人の終始なり。説(よろこ)びて以て動く、帰する所の妹なり。征すれば凶は、位当たらざればなり。攸に利なきは、柔剛に乗ればなり」。この卦を「帰妹」と言う所以は、それが「泰」卦から変じたからである。「泰」は上坤下乾で、虞翻によれば、乾は天、坤は地であり、第三爻と第四爻が対調すれば天地は交合する。さらに互出の離日・坎月が来て陰陽を交戦すれば、万物はここに興起する。納甲の法に依れば、乾は壬を納し、坤は癸を納し、壬癸はともに北方にあり、日月が北に会合するのである。そして震は東、兌は西、離は南、坎は北にあり、六十四卦の中でこの卦は四方の象が最も完備しており、まさに四時に配する正卦であるので、『彖伝』はそれを「天地の大義」と称す。

是因天地之交以成震兌,倘天地不交,震兌之象不見,則萬物即無自興。是歸妹乃以成此男女之交,有如天地之生萬物,乃人之終而復始,相生不已者也。祇是以卦德言,兌說震動,似感情慾之私而亡禮義之大;以卦體言,三五皆不當位,又皆以柔乘剛,失陰柔卑順之宜,而無陽倡陰隨之儀,此所以征凶無攸利也。

まさに天地が交合するがゆえに、震と兌とを生成した。もし天地が交わらなければ、震兌の象は出る由なく、万物も興起する由頭がない。ゆえに「帰妹」が成就するのは男女交合の事であり、天地が万物を生育するような、人類が一代終わりまた一代始まり、生生已まざる根本である。ただ卦徳に就いて見れば、兌は喜悦を主り、震は動作を主り、「説びて以て動く」は难免情欲の私に感ぜられて礼義の大端を失うに似る。卦体に就いて見れば、第三爻と第五爻はいずれも位に当たらず、しかもいずれも陰爻が陽爻の上に騎り、陰柔の応有の謙卑柔順を失い、男唱女随の体統もない――これが卦辞の「征すれば凶、攸に利あらず」と言う所以である。

象曰:澤上有雷,歸妹。君子以永終知敝。雷伏澤中,今居澤上,是澤轉隨雷而動,有歸妹之象。虞氏曰:坤為永終,為敝;乾為知。三之四為永終,四之三兌為毀折,故以永終知敝。蓋言女歸之義,得其正者有終,失其正者必敝。泰坤之三為內卦之終,兌為附決,故終曰永;坤為敝,乾為知,泰乾之四為震,是知坤敝也,故敝曰知。

『大象伝』にいう、「沢の上に雷あり、帰妹なり。君子は以て永終にして敝を知る」。雷は本来沢水の中に潜伏していたが、今や沢の上に跑出して、ここにおいて沢はかえって雷に随って動蕩する。まさに女子がかえって男子に追随する「帰妹」の象である。虞翻によれば、坤には長久終結の義があり、また敗壊の義がある。乾には明察の義がある。三爻が上行して四位に至るのは「永終」であり、四爻が下行して三位に至り兌を成し、兌は毀折を主るので、合わせて「永終にして敝を知る」となる。この話は、女子の出嫁という事は、正道に合してこそ善終でき、正道に合しなければ必ず敗壊するということである。「泰」卦の坤体の第三爻は内卦の終結であり、兌はまた附着・決開の義があるので「終」を「永」と称す。坤は敗壊を主り、乾は明察を主り、「泰」卦の乾体の第四爻が震に変じ、まさに乾の明察を以て坤の敗壊を知るので、「敝」の字の上に「知」を冠するのである。

初九:歸妹以娣,跛能履,征吉。古者諸侯娶一國,則二國往媵之,以侄娣從。初以兌女居下位,兌為妾,則是所歸之妹乃娣也。娣為陪嫁,不求禮備,故不嫌於隨歸;娣以從姊,尚可待年,故不嫌於為妹。女子謂女弟曰妹,至妹為己媵則謂之娣,所以別於在母家之稱,以明同事一君之義也。

初九の爻辞にいう、「妹を帰するに娣(てい)を以てす。跛(あしな)えも履む能し。征すれば吉」。古代の諸侯が一国の女を娶る時、別の二国が女を送って陪嫁させ、随嫁するのは新婦の姪女と妹である。初九は兌の象る女子を以て最下の位に居り、兌は妾であるので、ここに嫁ぐ「妹」は実は陪嫁の「娣」であることが見える。娣は陪嫁の身分で、六礼の斉備を講究しないので、姉に随いてともに出嫁しても失礼と算ならない。娣は姉に随って門を過ぐるもので、なお数年成人を待つことができるので、妹の身分を以て出嫁しても時を失したと算ならない。女子は自らの妹を「妹」と称し、妹が自らの陪嫁となれば、「娣」と改称する――これは娘家にいた時の称呼と区別し、姉妹二人が一夫に共に事える名分を表明するためである。

是姊為後,妹為娣,歸妹以娣,此亦嫁女之恆事。雖其分位卑賤,不能有為,然果克盡其道,亦可承助於君子。猶之跛足雖偏,倘使能履,亦有不可盡廢者。蓋五卦主為震中,震為足,初以兌之毀折上承震足,則象跛足之能履,故前征吉也。象曰:歸妹以娣,以恆也。跛能履吉,相承也。

ここにおいて姉は正室を為し、妹は陪嫁を為す。「妹を帰するに娣を以てす」は、所詮女を嫁がせる常例に過ぎない。娣の名分は卑微で、大した事業を為すことはできないが、果たして自らの本分を尽くすことができれば、同じく自らの夫を奉事し輔助することができる。これはちょうど片足が跛えて歩行が偏斜するようなもので、なお行走できれば、まだ完全に廃棄し得ない用がある。爻象に就いて言えば、六五は全卦の主爻で、震卦の中に居り、震は人身において足である。初九は兌の毀折の象を以て上に震足を承け、まさに跛脚でありながらなお行走できるに似るので、前に往けばかえって吉利である。『小象伝』にいう、「妹を帰するに娣を以てするは、恒を以てなり。跛えも履む能し吉は、相承くればなり」。

九二:眇能視,利幽人之貞。二為互離,離為目,目主視;而二為正兌,兌為小,則為眇目。目既曰眇,則目已偏,而為互離,猶幸能視。猶之娣為嫡棄,退處永巷,春風秋扇,矢志靡他,此所謂幽人之貞,二之利如是已矣。象曰:利幽人之貞,未變常也。

九二の爻辞にいう、「眇(みょう)なれども視る能し。幽人の貞に利あり」。九二は互体離卦に属し、離は目であり、眼睛は視ることを主る。しかしそれは同時にまた本体の兌であり、兌は小である。合わせれば一隻の瞎いた独眼となる。眼睛がすでに「眇」と称する以上、視力はすでに偏損したが、幸いそれはまた互離に属し、やっとまだ見ることができる。これはちょうど陪嫁の妹が正妻に嫌棄されて、深宮僻巷の中に退居し、秋後の扇子のように擱置されながらも、始終志を矢じて移さず、別の二心がないようなものである――これがいわゆる「幽人の貞」(幽居して節を守る者の操守)である。九二の得ることのできる好处も、ここに至って止まる。『小象伝』にいう、「幽人の貞に利あるは、未だ常を変ぜざればなり」。

六三:歸妹以須,反歸以娣。虞氏曰:須,需也,猶待也。三原為泰之四,比近君位,是待時于歸者。今則反歸於三,變為兌上,兌為少女,是三之為娣,則以四反歸之故,故曰歸妹以須,反歸以娣也。象曰:歸妹以須,未當也。

六三の爻辞にいう、「妹を帰するに須(す)を以てす。反りて娣を以て帰す」。虞翻によれば、「須」とはすなわち「需」、等待の義である。第三爻はもともと「泰」卦の第四爻で、君位に緊挨着し、時機を待って出嫁する方に属する。今やそれはかえって三位に退き戻り、兌卦の上爻に変じ、兌は少女である――見れば六三が陪嫁の「娣」に淪落した所以は、それが四位から三位に倒退回ったがゆえである。ゆえに爻辞は「妹を帰するに須を以てす、反りて娣を以て帰す」という。『小象伝』にいう、「妹を帰するに須を以てするは、未だ当たらざればなり」。

九四:歸妹愆期,遲歸有時。婦女之年宜少,而四居互離之上,是中女而年又加長者,則妹之歸也已過其期。愆,過也。離為日,故云期;離爻已盡,又居外卦,故云愆期。愆期則遲,遲宜待時,蓋有不以遲歸為嫌者。象曰:愆期之志,有待而行也。

九四の爻辞にいう、「妹を帰するに期を愆(あやま)る。遅き帰に時あり」。出嫁する女子は年歳が軽いのが宜しいが、九四は互体離卦の上に居り、離は本来中女で、今や年紀がまた一層長じたので、この「妹」の出嫁はすでに応有の期限を過ぎたことが見える。「愆」とはすなわち過である。離は象において日なので「期」に言及し、離の爻位はすでに尽きに至り、九四はまたすでに外卦に入ったので「愆期」(日期を逸す)という。すでに期を過ぎれば遅いのだが、遅ければ耐え忍んで時機を待つべきである。もともと晩嫁を嫌忌としない道理があるからである。『小象伝』にいう、「愆期の志は、待つ有りて行けばなり」。

六五:帝乙歸妹,其君之袂不如其娣之袂良,月幾望,吉。五為君位,又為震中,震為帝,震位甲乙,又為泰之坤,坤納乙,是為帝乙。帝乙歸妹,則妹亦帝之妹,帝妹亦尊,非他媵妾之比。帝乙,微子之父,或當日實有歸妹之事,故取此象。夫女歸求男,非禮之正,至於帝王嫁女,轉有紆尊降貴之美,則歸妹之吉,惟六五始足以當之。

六五の爻辞にいう、「帝乙、妹を帰す。其の君の袂(べい)は其の娣の袂の良なるに如かず。月望に幾(ちか)し。吉」。第五爻は君位で、また震卦の中に居り、震は帝である。震は方位において甲乙に属し、またこの爻は「泰」卦の坤から出て、坤は納甲の法に依り「乙」を納する。合わせればすなわち「帝乙」である。帝乙が妹を嫁がせるのであれば、この「妹」はすなわち帝王の妹であり、身分は尊貴で、他の陪嫁の姫妾の比ではない。帝乙は商紂の父・微子の父であり、当時あるいは真に妹を嫁がせた事があったかもしれないので、『易』はこの象を取った。按ずるに女方が自ら進んで男方に嫁ぐのは正礼に合しないが、帝王の女を嫁がせるに至っては、かえって尊を屈し貴を降して臣に下嫁する美意がある。では「帰妹」の言う吉は、ただ六五のこの一爻のみが当たるに足る。

既為女君,雖衣袂之良不如其娣,而不嫌儉素,其不尚容飾有如此者。衣口為袂,泰乾為衣,變兌為口,復有互離之文,娣袂曰良,誠哉其袂良也。且滿則招損,謙乃有光,後德如月。月虧於既望,而盛於幾望。五以互坎之月下連互離之日,北坎南離,相對生明,雖在互坎之上,月光少偏,則將盈而尚未盈,較之已盈而恆恐其缺者,其象不同矣。妹而言歸,惟帝乃吉,不得以泛泛歸妹者疑其征凶無攸利也。象曰:帝乙歸妹,不如其娣之袂良也,是其位在中,以貴行也。位居五曰在中,天子之女,故曰貴行。

彼女はすでに女君として貴いのに、衣袖の華美は陪嫁の妹に及ばず、しかも自らの素朴を嫌わない――容貌服飾を崇尚しないことがここまで至ったのである。衣服の袖口を「袂」という。「泰」卦の乾は衣であり、変じて兌となり兌は口であり、さらに互体離の文采を加えるので、陪嫁の娣の衣袖が「良」(それは誠に華美である)という。しかも盈満すれば損を招き、謙退してこそ光輝がある。王后の徳はまさに月のようであるべきである。月は十六日に望を過ぎれば亏缺し始め、将に望まんとして未だ望まざる時に最も盛んである。六五は互体坎の象る月を以て、下に互体離の象る日に連なり、坎は北にあり離は南にあり、両相照らし合って光明を生ずる。この輪の月は互坎の上に居るが、月光はやや偏り、まさに将に満ちんとして未だ全く満ちない――あのすでに円満で時時缺け行くを恐れる月とは、象が大いに異なる。見れば「妹」と称して出嫁を言うのは、帝王家のみが吉利であり、一般の「帰妹」を以てそれもまた「征すれば凶、攸に利あらず」と疑うべからず。『小象伝』にいう、「帝乙の妹を帰すは、其の娣の袂の良なるに如かざるなり。是れ其の位中に在り、貴を以て行けばなり」。第五位に居るを「中に在り」といい、彼女は天子の女なので「貴を以て行く」という。

上六:女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。震為士,兌為女。古者祭祀,婦供筐實,男親割牲。則此兌女上承震筐,虞氏曰:震為筐。震筐上仰,虛無一物,是為筐無實。則此震士以互離之戈下刲兌羊,刲,刺也。而互坎之血為互離灼乾,坎為血卦,離為乾卦,是為羊無血。筐實不供,是婦道虧,故變婦而稱女;割牲有乖,是男職缺,故變男以稱士。夫婦而曰女士,上下不應也,無攸利矣。象曰:上六無實,承虛筐也。

上六の爻辞にいう、「女は筐を承くれども実なく、士は羊を刲(き)すれども血なし。攸に利あらず」。震は士であり、兌は女である。古時の祭祀において、婦人は竹筐の中の祭品を準備する責任を負い、男子は自ら犠牲を宰割した。ここで兌の象る女子は上に向かって震の象る筐を捧げ――虞翻によれば震は筐である――震卦の卦画(一陽が下にあり二陰が上にある)は筐口が上に向かって仰いでいるようで、中は空っぽで一物もない。これが「筐に実なし」である。そして震の象る男子は互体離の象る戈を用い、下に向かって兌の象る羊を刺殺する――「刲」とはすなわち刺である。しかし互体坎の血は互体離に烤乾された。坎は血の卦であり、離は物を干燥させる卦であるので、「羊に血なし」となった。筐の中に祭品がないのは、婦人の職分に欠損があるので、「婦」と称さず「女」と改称した。牲を宰すに法度に合わないのは、男子の職守に欠缺があるので、「男」と称さず「士」と改称した。本来一対の夫婦であるべきなのに、「女」と「士」としか呼べないのは、まさに上下両爻が応じないことを説明するので、攸往して利ある所がない。『小象伝』にいう、「上六に実なきは、虚筐を承くればなり」。

豊(ほう)の卦

離下震上,中互兌巽。泰。豐為三陽三陰卦,自泰來,虞氏曰泰二之四。豐:亨,王假之,勿憂,宜日中。盛極曰豐,滿極曰豐。豐自亨通,而豐之義惟王乃克當之。夫豐不長豐,此實可憂,然能執中以維之,豐勿過分,如日之中,豐可保也,勿須憂也。此卦為下離上震,離為日,震位東,日出東方,未遽中也,由未中以及於中,為時正多,故曰豐也。

「豊」の卦は下体が離、上体が震、中間に兌卦と巽卦を互出する。これは「泰」卦から変じた。「豊」は三陽三陰の卦で、虞翻は「泰」の第二爻が上行して第四位に至ったと言う。卦辞にいう、「豊、亨。王之を假(おお)いにす。憂うる勿れ、日中に宜し」。興盛して極に至るを「豊」と言い、充満して極に至るをも「豊」と言う。豊盛それ自体は自然に亨通するが、しかし「豊」のこの層の意義は、君王のみが担い得る。豊盛が永遠に豊盛であり得ないことは、確かに憂慮に値する。しかし中道を執守してそれを維持し、豊盛を過分ならしめず、太陽がまさに中天にあるようにできれば、豊盛は保たれ、憂える必要もなくなる。この卦は下離上震で、離は日であり、震は方位において東方に属する。太陽は剛に東より昇り、まだすぐに正中に至らない。未だ正中に至らざるより正中に至るまで算すれば、中間の時は正に長いので「豊」と称す。

彖曰:豐,大也。明以動,故豐。王假之,尚大也。勿憂宜日中,宜照天下也。日中則昃,月盈則食,天地盈虛,與時消息,而況於人乎?況於鬼神乎?豐者,大也。豐何以大?王大之也。馬氏曰:假,大也。王大者何?外卦為震,內卦為離,帝出乎震,相見乎離,王居離位,南面以聽天下,嚮明而治之象也,故曰王大之也。夫豐固無不通,而豐亦不易保,豐實可憂,而聖人曰勿。然主之以離明,濟之以震動,如日方中,幽隱畢照,得處豐之宜矣,何事徒憂為也。

『彖伝』にいう、「豊とは大なり。明にして動く、故に豊なり。王之を假すは、大を尚(たっと)ぶなり。憂うる勿れ日中に宜しきは、宜しく天下を照らすべきなり。日中すれば則ち昃(かたぶ)き、月盈てば則ち食(しょく)す。天地盈虚して、時と消息す。而るを況んや人に於いてをや。況んや鬼神に於いてをや」。「豊」とはすなわち大である。豊は何を以て大と算するか。君王がそれを大にしたのである。馬融によれば、「假」とはすなわち大である。君王が大にするとはどういうことか。外卦は震、内卦は離で、『説卦伝』に「帝、震に出で、離に相見ゆ」と講じ、君王はまさに離の位置に居り、南面して坐して天下を聴治する。これは光明に向かって政を施す象なので、君王がそれを大にしたという。豊盛は固より通達しないことはないが、しかし豊盛は保ち難く、実に憂慮に値する。しかるに聖人は偏に「勿」の一字を言う。それは、離の明察を主とし、再び震の行動を以て配合すれば、太陽がまさに中天にあるようで、幽暗隠蔽の処すら照らし通すことができるので、これが豊盛を処理する恰当な弁法を得たのであり、何を以て空しく愁えようか。

蓋日之所以宜中者,則以日明徧照而未昃也。日居震位,日尚未出,由未出而計及於將出,既出日愈高則愈明,愈明則愈豐,至於日中則明愈大,故曰宜也。然日雖宜中,而日亦豈能長中?日居東位,是日將升;日照東方,是日巳昃。離日在下,反照震位,此日昃象也。顧日豈遽昃?惟中故昃也,中即昃之機也。

太陽が正中を以て宜とする所以は、この時日光が四方を普照してまだ西斜していないからである。太陽が震の方位に処する時は、まだ昇っていない。未だ昇らざるより将に昇らんとするまで算し、昇った後は高いほど明るく、明るいほど豊盛であり、正中に至れば光明は最盛に達するので、『彖伝』は「宜」の一字を言う。しかし太陽は正中を以て宜とするが、太陽がどうして長く正中に留まることができよう。太陽が東方の位に処するのは、将に昇らんとすることであり、太陽が東方を照らすのは、すでに西に偏したのである。離日は下体にあり、反って震のある上体を映照する。これはまさに日がすでに西斜した象である。しかし太陽は斜ると言えばすぐ斜るのか。まさに中天に至ったがゆえに、こそ西斜するのである――「中」それ自体が「昃」の先兆である。

惟月亦然,月不食於未盈而食於既盈。離下伏坎,坎為月,坎月上遇互兌之毀,則月乃缺。坎資離光,離見坎伏,亦象月食,是月之食由於盈,猶日之昃由於中也。中不長中,盈不長盈,豐亦不長豐也。於以知有盈即有虛,有消即有息。豐自泰來,泰二之四,乾變離虛,坤變震動,是為天虛地盈。泰為正月卦,變震為二月,離為五月,是為春消夏息。盈虛消息,天地與時尚且如是,而況於人?盛極衰伏,豈能長豐?而況鬼神陰相天地與時,豈能長豐乎!

月もまた同様である。月は未だ圓ならざる時に亏食せず、偏にすでに圓なった後に亏食する。離の下には坎が潜伏し、坎は月であり、坎月が上って互体兌の毀折に碰えば、月は残缺する。坎月は本来離日の光を借りて明となるべきものだが、今や離は顕れ坎は伏する。これもまた月食の象に似る。見れば月の食する所以は、その円満に起こる。ちょうど日の斜る所以がその正中に起こるようである。中天は長く中に居ることができず、円満は長く満を保つことができず、豊盛もまた自然に長く維持できない。これにより知るべきことは、満あれば亏あり、消あれば長あるということである。「豊」卦は「泰」卦から変じ、「泰」の第二爻が上行して第四位に至り、乾は離に変じて中虚となり、坤は震に変じて動を主る。これが天虚して地盈するである。「泰」は正月に配し、変じ出た震は二月に配し、離は五月に配する。これが春の消えつつあり、夏の長しつつあるである。盈虚消長は、天地と四时すらこのようである。況んや人においてをや。興盛して極点に至れば衰敗を伏す。どうして長く豊盛であられよう。況んや鬼神はただ暗中に天地と四时を輔助するのみである。どうして長く豊盛であられよう!

象曰:雷電皆至,豐。君子以折獄致刑。震雷離電,威明皆至,故象豐。君子用雷之威飭刑,用電之明察獄也。初九:遇其配主,雖旬無咎,往有尚。配,對也。初四皆陽,故曰配;四為震之主爻,故曰主。初為離下,日尚未升,然與四配,已及震位,是震為主,離則遇之。夫震納庚,離納己,自庚至己則為十日,十日為旬。日出庚位,以漸上升,雖至於己,亦不為過。蓋己即離也,日至離位適為日中,故無咎,宜前往也,往有尚矣。象曰:雖旬無咎,過旬災也。初之無咎,由未過旬,過旬則災,蓋過旬即為日昃,昃故災也。

『大象伝』にいう、「雷電皆至るは豊なり。君子は以て獄を折り刑を致す」。震は雷、離は電で、威勢と明察が一斉に至るので「豊」に象る。君子は雷の威勢を取って刑罰を整饬し、電の明亮を取って獄訟を審察する。初九の爻辞にいう、「其の配主に遇う。旬と雖も咎なし。往けば尚(たっと)ばれん」。「配」とは対等である。初九と九四は同じく陽爻なので「配」と言い、九四は震卦の主爻なので「主」と言う。初九は下体の離中にあり、太陽はまだ昇っていないが、しかしそれは九四と相配し、すでに震の位置に够く。震は主であり、離は往ってそれと相遇する。納甲の法に依れば、震は天干の「庚」を納し、離は天干の「己」を納する。庚より己まで数えてちょうど十日で、十日を一旬とする。太陽は庚位から昇り、一歩一歩上に往き、たとえ己位に歩み至っても過分と算ならない――「己」はすなわち離であり、太陽が離位に歩み至るはちょうど正午なので、咎はなく、往くべきで、往けば嘉尚を受ける。『小象伝』にいう、「旬と雖も咎なきは、旬を過ぎれば災なり」。初九に咎がない所以は、まだ一旬を超えていないからである。いったん一旬を超えれば災がある。旬を過ぎれば太陽は西斜し、日頭が一たび斜けば、災禍もそれに随って来る。

六二:豐其蔀,日中見斗,往得疑疾,有孚發若,吉。二為互巽,巽為草木,是二所豐者乃蔀也。蔀,??舒,蔀草名。離日未出,光華未露,而為草木所蔽,晦暗如故。上應震中,震為仰缶,如星之斗,時尚見之。是宜體震之行,循序前往,縱歷巽位以得疑疾,而有孚信啟發之亦吉。蓋震前為巽,巽為疑,震往之巽,故曰往得疑疾;巽前為離,離為日之中位,故曰有孚發若吉也。象曰:有孚發若,信以發志也。孚,信也。信以啟志,使之前往致豐也。

六二の爻辞にいう、「其の蔀(ぼう)を豊にす。日中に斗を見る。往けば疑疾を得ん。孚ありて発若(ぜんやく)せば吉」。六二は互体巽卦に属し、巽は草木であるので、六二の「豊」にするは日を遮る草蓆――「蔀」、いわゆる「??舒」、一种の草の名称である。この時離日はまだ昇らず、光華はまだ顕露せず、また草木に遮られて、依然として昏暗である。六二は上に向かって震卦の中に応合し、震の卦形は仰口の瓦缶に似て、天上の北斗に譬えられ、この時まだ見ることができる。それゆえそれは震の行動に效法し、次序に従って前に往くべきである。たとえ巽の位置を経て猜疑の患を招来しても、誠信を以て相手を啓発すれば、同じく吉利である。震の前は巽であり、巽には疑虑の義があり、震より巽に向かって往くので「往けば疑疾を得ん」という。巽の前は離であり、離は正に日中の位に当たるので「孚ありて発若せば吉」という。『小象伝』にいう、「孚ありて発若するは、信を以て志を発するなり」。「孚」とはすなわち誠信である。自らの誠信を以て相手の心志を開啓し、彼を促して前に往かせて豊盛を成就する。

九三:豐其沛,日中見沬,折其右肱,無咎。沛沬皆水名。三為互兌,兌為澤,是豐其沛也。汪洋洶湧,莫測津涯,旭日初昇,波影激射,離在互兌之下,水溢日上,故云日中見沬。夫日惟先歷艮位,而後始出於震,由見斗以至見沬,則是已及於震而漸遠夫艮矣。如艮手而遇兌折,往前為右,故云折其右肱。為能前往以成豐,故云無咎。象曰:豐其沛,不可大事也。折其右肱,終不可用也。以卦象言之,乃為無咎;若以人事衡之,豐其沛恐其沈溺,不可以處大事;右肱已折,攜持無具,其何能為?終不可用矣。

九三の爻辞にいう、「其の沛(はい)を豊にす。日中に沬(まい)を見る。其の右肱を折る。咎なし」。「沛」と「沬」はいずれも水の名である。九三は互体兌卦に属し、兌は沢なので「其の沛を豊にす」である。水面は浩瀚として汹涌し、渡口の岸辺を望見できない。朝陽が初めて昇る時、波光は四方に激射する。離日は下にあり互兌の水は上にあり、水気が太陽を漫過するので「日中に沬を見る」という。太陽は常に先ず艮の方位を経て、然る後に震位から昇出する。「斗を見る」から「沬を見る」に至るは、それがすでに震位に入り艮を漸々遠ざかったことを説明する。艮は人身において手であり、今や兌の折損に碰え、人が前に向かう時右手が前にあるので「其の右肱を折る」という。それが到底なお前行して豊盛を成就できるので「咎なし」という。『小象伝』にいう、「其の沛を豊にするは、大事とすべからざるなり。其の右肱を折るは、終に用う可からざるなり」。ただ卦象の上から言えば、この一爻は咎なしと算する。もし人事を以て衡量すれば、水勢がこのように盛大では、淹没されるを恐れて、大事を託付できない。右臂がすでに折断すれば、提携し持取る具がなく、まだ何を為すことができよう。終に用に派さない。

九四:豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。二曰豐其蔀,日中見斗;四亦曰豐其蔀,日中見斗。然二之豐其蔀,則為以陰應陰;而四之豐其蔀,則為以陽居陰。二之日中見斗,則為上應震中;四之日中見斗,則為位居震初。又曰遇其夷主者,蓋四原為泰二,二往居四,始變為豐。四為震主,二亦為離主,相等,夷也。震與離遇,明動相資,此漸豐之候也,故吉。象曰:豐其蔀,位不當也。日中見斗,幽不明也。遇其夷主,吉行也。

九四の爻辞にいう、「其の蔀を豊にす。日中に斗を見る。其の夷主に遇う。吉」。六二は「其の蔀を豊にす、日中に斗を見る」と言い、九四も「其の蔀を豊にす、日中に斗を見る」と言うが、しかし両者は同じでない。六二の「其の蔀を豊にす」は陰爻を以て陰爻に応ずるのであり、九四の「其の蔀を豊にす」は陽爻を以て陰位に居るのである。六二の「日中に斗を見る」は上に向かって震卦の中に応合するのであり、九四の「日中に斗を見る」は自らが震卦の起始に処するのである。爻辞がまた「其の夷主に遇う」と言うのは、九四がもともと「泰」卦の第二爻であり、第二爻が上行して四位に居り、初めて「豊」卦に変じたからである。九四は震卦の主爻であり、二爻もまた離卦の主爻で、両者の分量は相等しい――「夷」とはすなわち等同である。震と離とが相遇し、光明と行動が互相憑藉する。これはまさに豊盛が漸々形成する時なので吉利である。『小象伝』にいう、「其の蔀を豊にするは、位当たらざればなり。日中に斗を見るは、幽にして明ならざればなり。其の夷主に遇うは、吉行なればなり」。

六五:來章,有慶譽,吉。章,明也。震為行曰來,應二離中曰來章。初為殘夜之象,二三蔀沛之豐,日尚未出;四日將出,前行始遇夷主;至於五,則已日出於上,光明有耀,故曰來章。福慶嘉譽,惟五有之,此卦辭所謂日中者,豐之至也。象曰:六五之吉,有慶也。

六五の爻辞にいう、「章来たり。慶誉あり。吉」。「章」とはすなわち光明である。震は行走を主るので「来」という。六五は下に六二のある離卦の中に応じ、離は明である。合わせればすなわち「来章」(光明が来る)である。全卦を回顧すれば、初爻は残夜が将に尽きんとする象であり、二爻・三爻の豊にするは草蓆と大水で、太陽はまだ出ず、四爻は太陽が将に昇らんとして、前に往いて初めて勢均力敵の仲間に遇い、五爻に至れば、太陽はすでに高く上に懸り、光明が眼を耀かすので「来章」という。福慶と美誉は、六五のみが享有する――これが卦辞のいう「日中」であり、豊盛は頂点に達した。『小象伝』にいう、「六五の吉は、慶あればなり」。

上六:豐其屋,蔀其家,窺其戶,闃其無人,三歲不覿,凶。上則為日昃矣。日既西昃,日漸不明,而復有屋以蔽之,則暗愈甚。震為木,互兌克木為屋,上為天位,高出天際,是上之所豐者乃其屋也。夫既有屋,即有以屋為家者,而觀其家,則又蔽以??舒蔀,震為竹葦,是為蔀其家。蔽之已甚,至往就其家之戶以窺其家之人,亦闃寂而不可覿,至於三歲之久。闃,寂也。

上六の爻辞にいう、「其の屋を豊にし、其の家を蔀(ほ)うす。其の戸を窺えば、闃(げき)として人なきがごとし。三歳覿(み)えず。凶」。上爻に至れば、太陽はすでに西斜した。日頭がすでに偏西し、光線は漸々昏暗となり、頭の上にまた屋宇を蓋って遮れば、いよいよ黑暗となる。震は木であり、互体兌は木を克し得る(斧斤を木に加える)ので、屋となった。上爻は天位で、房屋は高聳して天際に出るので、上六の「豊」にするはその屋宇であることが見える。すでに屋あれば、屋を以て家とする人がある。しかしその家を見れば、また草蓆を以て重畳に遮蔽してある――震は竹葦であり、これが「其の家を蔀うす」である。遮蔽が甚だしきに過ぎて、人がその家の門口に歩み至って内を窺い見ても、屋裏は一片の寂静で、人影を見ず、一連三年もこのようである。「闃」とはすなわち寂静である。

泰為上坤下乾,乾人坤戶,其象昭然。乃坤變為震,坤戶下塞;乾變為離,人亦不見,故曰窺其戶闃其無人。離為目曰覿,上與離遠,故曰三歲不覿。值豐之極,不能謙退自下,闢門納誨,而乃豐屋蔀家,自蔽其明,此甘於蹈凶而不知悔者也。象曰:豐其屋,天際翔也。窺其戶,闃其無人,自藏也。天際翔,言翬飛鳥革,如翱翔也。自藏者,自蔽也。

「泰」卦は上坤下乾で、乾は人に象り、坤は門戸に象る。この象は本来清清楚楚である。今や坤は震に変じ、坤の象る門戸は下に堵死され、乾は離に変じ、人もまた見えなくなったので「其の戸を窺えば、闃として人なきがごとし」という。離は目であり、見るを「觌」と言う。上六は下体の離から最も遠いので「三歳觌えず」という。豊盛の頂点に処して、謙退して自ら人の下に居り、門戸を大きく開いて規諫を接納することができず、かえって屋宇を高大に造り、家門を厳実に遮り、自ら自らの光明を蒙蔽する――これは甘心して凶険に向かい悔改を知らない人である。『小象伝』にいう、「其の屋を豊にするは、天際に翔るなり。其の戸を窺えば闃として人なきは、自ら蔵するなり」。いわゆる「天際に翔る」とは、『詩経・斯干』のいう「翬(き)の如く斯(こ)に飛び、鳥の如く斯に革(つばさ)ふ」(屋檐が飛び挙がって鳥の翱翔するがごとし)である。いわゆる「自ら蔵す」とは、自らが自らを遮蔽することである。

旅(りょ)の卦

艮下離上,中互兌巽。否。旅為三陰三陽卦,自否來,虞氏曰否三之五。姚氏曰:此本否卦,三五交易,去其本體,故曰客旅。蜀才曰:否三升五,柔得中於外,上順於剛;九五降三,降不失其正,止而麗乎明。旅:小亨,旅貞吉。旅,賓旅也,商旅也。賓旅以通往來,商旅以通貨賄,遨遊四方,靡所定處。猶夫旅人為軍眾在旗下露宿於外也,故曰旅也。艮下離上,有旅象,故卦名旅。旅行多阻,僅能小亨;旅處宜慎,貞正則吉。

「旅」の卦は下体が艮、上体が離、中間に兌卦と巽卦を互出する。これは「否」卦から変じた。「旅」は三陰三陽の卦で、虞翻は「否」の第三爻と第五爻が対調したと言う。姚信によれば、この卦はもと「否」卦で、三・五両爻が互換し、自らの元来の本体を離れたので「客旅」と言う。蜀才によれば、「否」の第三爻が五位に昇り、柔爻が外卦で中位を得、上に向かって陽剛に順い、九五が三位に降り、降ると雖もその正を失わず、ここにおいて「止めて明に麗(つ)く」となった。卦辞にいう、「旅、小さく亨る。旅は貞にして吉」。いわゆる「旅」とは、門を出て客となる人を指し、また行商をも指す。賓旅は各地の往来を通暢させ、商旅は貨財を流通させ、四方を漫游して固定の居所がない。これもまた「旅」の字の本義の如く――軍隊が旗幟の下に集結し、野外に露宿するので「旅」と言う。艮下離上は羈旅の象があるので卦名を「旅」とする。門を出て外にあれば阻碍が多く、小さく亨通するのみ。他郷に客居するには謹慎すべきで、正を守ってこそ吉利である。

象曰:旅小亨,柔得中乎外而順乎剛,止而麗乎明,是以小亨旅貞吉也。旅之時義大矣哉。卦之所以名旅者,以卦有旅象也。旅自否來,以否之三上往居五。否三之柔原處偏位,往居於五則謂得中,五為外卦,是謂得中於外。旅之四上皆剛,否以三之坤順往居二剛之內,是謂之柔順乎剛。得中乎外,是旅之亨,而以柔順行之,是亨者為陰,陰為小,故曰小亨也。

ここの伝文(原文には「象曰」と題すが、実はすなわち『彖伝』)にいう、「旅小さく亨るは、柔中を外に得て剛に順い、止めて明に麗す。是を以て小さく亨りて旅貞吉なり。旅の時義大なるかな」。この卦を「旅」と言う所以は、卦中に羈旅の象があるからである。「旅」は「否」から変じ、「否」の第三爻が上行して五位に居ったものである。「否」の第三爻は本来柔爻で、もとは偏斜の位に処したが、今や五位に居れば「中を得る」と言い、五は外卦にあるので「中を外に得る」と言う。「旅」卦の第四爻と上爻はいずれも陽剛で、「否」は第三爻の坤柔を以て上って二つの陽剛の間に居る。これを「柔剛に順う」という。外卦において中を得るのは「旅」が亨通し得る缘由であり、それは柔順を以て行事するのだから、亨通し得るのは陰であり、陰は小であるので「小亨」という。

且以否五來居旅三,變坤為艮止;否三往居旅五,變乾為離明。旅不知止,則無以安身家;旅不能明,則無以防叵測。惟艮止麗以離明,始可以處旅也,故曰旅貞吉也。柔與止為旅之時,明與順為旅之義。知旅之時義者,處常有守,處變達權,旅之時義豈不大哉!

さらに見れば、「否」の第五爻が下って「旅」の三位に居り、坤を艮に変じ、艮は静止を主る。「否」の第三爻が上って「旅」の五位に居り、乾を離に変じ、離は光明を主る。外に客居して止まることを知らなければ、身家を安頓する由がない。外に客居して明察できなければ、意外を防備する由がない。ただ艮の静止を以て離の光明に附麗してこそ、羈旅の中に自処することができるので「旅貞吉」という。柔順と静止は、羈旅の把握すべき「時」であり、明察と順従は、羈旅の体認すべき「義」である。羈旅の時と義を知る人は、平常に処して操守があり、変故に遇って権達に通ずる――羈旅の時と義は、なお重大でないことがあろうか!

象曰:山上有火,旅。君子以明慎用刑而不留獄。火在山上,不能久處,旅之象也。君子體火之明以慎刑,體山火之不久而不留獄。蓋獄乃旅居之至困者。互兌為刑,離明以慎用之;互巽為入,入兌刑中為獄,而遇艮止,故曰不留也。初六:旅瑣瑣斯其所【句】,取災。陰居艮初,又在下位,鄙吝瑣屑,亦旅人所恆有者。陸氏曰:瑣瑣,小也。艮為小石,故曰旅瑣瑣。夫旅本寡親,則囊橐餱糧正賴侶伴之捍衛,乃以瑣瑣之故析其處所,倘有意外之虞,孰為救獲?

『大象伝』にいう、「山の上に火あり、旅なり。君子は以て明慎にして刑を用い獄を留めざるなり」。火が山上に焼くは、長く停留できず、まさに羈旅の象である。君子は火の明亮を体会して、刑罰を審慎に施加するのに用い、山上の火が久しく留まらないことを体会して、案件を積圧しないのに用いる。牢獄はまさに「客居」の中で最も困苦の一種の処境だからである。互体の兌は刑であり、離の明察を以てそれを謹慎に動用する。互体の巽は进入であり、兌の象る刑罰の中に入ればすなわち坐獄であり、しかも前に艮の止住に碰うので「留めず」という。初六の爻辞にいう、「旅は瑣瑣(ささ)として其の所を斯(さ)く。灾を取る」(原書は「所」字の下に「句」の一字を夾注し、多隆阿が句読をここに断ったことを表明する)。陰爻が艮卦の最初に居り、また全卦の最下の位置に処し、人と為りて猥瑣吝嗇で斤々計較する――これもまた旅客の常有の毛病である。陸績によれば、「瑣瑣」とはすなわち細小である。艮は小石塊なので「旅瑣瑣」という。門を出て外にあれば本来親人が少なく、行囊と乾糧は全く同伴の護衛に頼るのに、彼は瑣碎の小事のために人と住処を分かつ。万一意外の虞があれば、誰が来て彼を搭救し扶持しよう。

災之來也,由自取矣。斯,析也,以斧析木曰斯。詩曰:斧以斯之。象曰:旅瑣瑣,志窮災也。六二:旅即次,懷其資,得童僕貞。二體正艮互巽,艮為門闕,巽以入之,旅人就舍象也。即,就;次,舍也。夫旅行於外,不可無資,二為互巽,巽為近利,是巽之資則二懷之。而旅行於外,又不可無助,二居艮中,上下相比,艮為童僕,是艮之童僕則二得之。即次懷資則身已安,童僕貞正則心又安,此旅之善者。象曰:得童僕貞,終無尤也。

灾禍の到来は、彼自身が招惹したものである。「斯」とは劈開の義で、斧頭を以て木を劈くを「斯」と言い、『詩経・陳風・墓門』に「墓門に棘あり、斧を以てこれを斯く」の句がある。『小象伝』にいう、「旅瑣瑣たるは、志窮して灾なり」。六二の爻辞にいう、「旅、次に即き、その資を懐き、童仆の貞を得る」。六二は本体は艮に属し、互体は巽に属し、艮は門闕、巽は进入の義があり、まさに旅客が客舍に投宿する象である。「即」とは靠近・住入であり、「次」とは旅舍である。門を出て外にあれば旅費がなくてはならない。六二は互体巽に属し、巽には「市に利に近きこと三倍」の象があるので、巽の財貨は六二に懐に揣まえられた。門を出て外にあればまた帮手がなくてはならない。六二は艮卦の中に居り、上下両爻と緊鄰し、艮は童仆なので、艮の童仆は六二に得られた。客舍に住み込み、旅費を懐けば、人身はすでに安頓した。童仆が忠誠に正を守れば、心中もまた安穏である――これは羈旅の中の最良の情形である。『小象伝』にいう、「童仆の貞を得るは、終に尤なきなり」。

九三:旅焚其次,喪其童僕,貞厲。旅貴得中,太高則不見容於人,太卑亦易招人之侮。二以得中即次,三以否五下來居艮位,既非正,又鄰離火,故焚其次。二以得中得其童僕,三以艮止上連互兌,艮之童僕而遇兌脫,是童僕已喪。艮門為離火所焚,已無居處;艮僕又因兌脫而喪,益無所依。雖云守貞,亦危厲也。象曰:旅焚其次,亦以傷矣。以旅與下,其義喪也。次焚則棲身無所,故可傷。否五降三,三居五下,故曰以旅與下,下謂童僕。卑以自處,人得玩弄之,是有宜喪之道也。

九三の爻辞にいう、「旅は其の次を焚く。その童仆を喪う。貞なれども厲し」。羈旅はその中を処することを貴ぶ。姿態が高すぎれば人に容れられず、姿態が低すぎれば人の欺侮を招きやすい。六二は中を得たので客舍に住み込むことができた。九三は「否」卦の第五爻が降りて艮位に居ったもので、すでに位に当たらず、また上の離火に緊挨着するので、客舍が焼き去られた。六二は中を得たので童仆を得た。九三は艮の止に属して上に互体兌に連なり、艮の象る童仆が兌の脱落に碰えば、童仆は走り去る。艮の象る門戸は離火に焼毀されて、すでに安身する所がなく、艮の象る童仆はまた兌の脱落に因って喪失し、なおさら依拠する所がない。この時たとえ口に正を守ると称しても、依然として危険である。『小象伝』にいう、「旅は其の次を焚くは、亦た以て傷ましきなり。旅を以て下とするは、その義喪わるればなり」。客舍が焼け棲身する所なきを、ゆえに傷むべしと言う。「否」の第五爻が三位に降り、三はまた五の下にあるので「旅を以て下とす」といい、「下」とは童仆を指す。自ら身段を低く置き過ぎれば、他人は来て軽侮し玩弄する。これは本来童仆を失うべき道理がある。

九四:旅于處,得其資斧,我心不快。人無無事為旅者,人之為旅原非得已,則旅固不可久處。處,止也。四則居離之初,下鄰正艮,離下伏坎,又為互巽。虞氏曰:巽為處。在艮之上,艮為止,入艮門而止之,是為旅于處。得巽利以為資,得離兵以為斧。巽資得則無窘乏之虞,離斧得則有禦侮之器,旅者如是,似可少慰。祗是坎心伏於離下,旅愁擾擾,未能愉快耳。象曰:旅于處,未得位也。得其資斧,心未快也。

九四の爻辞にいう、「旅、処に於いてす。その資斧を得るも、我が心快からず」。人は故なくして門を出て客と為ることはなく、人が羈旅して外にある所以はもともと已むを得ざるに出たので、客居は畢竟久しく留まるに宜しくない。「処」とはすなわち停留である。九四は離卦の起始に位置し、下に本体の艮に緊鄰し、離の下には坎が潜伏し、それはまた互体巽に属する。虞翻によれば、巽は「処」である。九四は艮の上にあり、艮は止を主り、艮の象る門に入れば止まる。これが「旅処に於いてす」である。それは巽の象る財利を得て旅費とし、離の象る兵器を得て利斧とする。巽の銭財があれば窘迫匱乏の憂いなく、離の斧鉞があれば欺侮を抵御する器械がある。羈旅の人がこの歩に至れば、やや寛心できるように思える。ただ坎の象る心がなお離の下に潜伏し、客愁は紛紛擾擾として、終竟快活になれない。『小象伝』にいう、「旅処に於いてするは、未だ位を得ざればなり。其の資斧を得るも、心未だ快ならざればなり」。

六五:射雉一矢亡,終以譽命。五以否三上往為離,下應艮中,又在互巽互兌之上。干氏曰:離為雉,巽為木、為進退,艮為手,兌為決,有木在手,進退其體,矢決於外,射之象也。顧否之三陰既已往前居五,而否之五陽亦遂下來居三。否原以互巽之木飾以乾金成為此矢,今變為離,是離雉得而乾矢亡矣。

六五の爻辞にいう、「雉を射て一矢を亡す。終に誉命を以てす」。六五は「否」卦の第三爻が上行して離体を成したもので、下に向かって艮卦の中に応合し、また高く互体巽・互体兌の上に居る。干宝によれば、離は野鶏、巽は木・進退、艮は手、兌は決断である。合わせれば手中に木杆を執り、身体が一進一退し、箭矢が手中より射出する――まさに射箭の象である。さらに見れば、「否」卦第三爻の陰がすでに上行して五位に居れば、「否」卦第五爻の陽もまたそれに随って下って三位に居る。「否」卦は本来互体巽の木杆を用い、乾金の箭鏃を加えて、この箭を配成した。今や離に変じ、ここにおいて離の象る野鶏は射得られ、しかし乾の象るあの一箭は失われた。

然一矢之亡甚微,而所得之雉乃大。禮曰:士贄雉。有雉為贄,則可以見君行義,而不慮禮儀之缺。且在兌口之上則有譽,下連互巽則有命,故曰終以譽命。此彖傳所謂順乎剛、麗乎明者,此旅之小亨者也。象曰:終以譽命,上逮也。逮,及也。上逮者,否三上及五也。

しかし一箭を失うのは損失が極めて小さく、一隻の野鶏を射得るのは収穫が大である。『礼記』にいう、士人が相見する見面礼は野鶏を用いる。野鶏を以て贄礼とすれば、進んで国君に見え、身份に合う礼義を施行することができ、礼数が周らざるを愁える必要がない。しかも六五は兌の象る口の上に居り、因って称誉があり、下に互体巽に連なり(巽は命令)、因って爵命があるので「終に誉命を以てす」という。これはまさに『彖伝』のいう「剛に順う」「明に麗す」であり、すなわち「旅」卦のいう「小亨」の実際内容である。『小象伝』にいう、「終に誉命を以てするは、上に逮(およ)べばなり」。「逮」とは及・達到であり、いわゆる「上に逮ぶ」とは、「否」の第三爻が上に向かって五位に及んだことである。

上九:鳥焚其巢,旅人先笑後號咷,喪牛于易,凶。人之羈旅,亦猶鳥之棲巢,鳥巢愈高則勢愈危,人旅愈亢則禍愈烈。上以離火下應艮闕,離為飛鳥,為火,其於木為科上槁,槁木火燃,復有巽風以鼓之,廬舍俱毀,延及鳥巢,鳥既無托,人將焉歸?始以居眾之上,下鄰兌說,喜極而笑;繼以為火所焚,下應巽號,悲極而咷。迨乎風止火熄,重尋舊物,離牛且喪,其餘可知,此旅之至凶者矣。

上九の爻辞にいう、「鳥は其の巢を焚かる。旅人は先ず笑い後に号咷(こうとう)す。牛を易(やす)んじて喪う。凶」。人が外に羈旅するは、鳥が樹上に巢を築くがごとし。鳥巢が高いほど、処境は危険である。旅人が驕亢なればなおさら、招来する禍事は猛烈である。上九は離火を以て上にあり、下に向かって艮の象る門闕に応合する。離は飛鳥であり、また火であり、『説卦伝』はそれが樹木の中では「科上槁」(中空にして上端が枯干する)に象ると言う。枯木がいったん火焼を経れば、加えて巽風が旁で鼓動すれば、房舍は全部焼毀し、火勢は鳥巢に蔓延する――鳥はすでに棲托する所なく、人はまたどこへ帰向しよう。初め彼は衆人の上に高踞し、下に兌の喜悦に緊鄰して、得意の極に至って放声して大笑した。続いて房屋が火に焼かれ、下に巽の号呼に応じて、悲痛の極に至って放声して号哭した。風が止み火が熄えるを待って、回頭して再び旧日の家当を尋ねれば、離の象る牛すら失われ、其余は推して知るべし――これは羈旅の中の最も凶険の情形である。

象曰:以旅在上,其義焚也。喪牛于易,終莫之聞也。旅宜柔順,而在上者驕亢過甚,豈能謹慎以防患於未然?人縱灼見及此,而彼訑訑拒人,亦無前席進規者。回祿為災,乃其宜也。又以離反坎,耳終莫得聞喪牛之由焉。

『小象伝』にいう、「旅を以て上に在るは、その義焚かるべきなり。牛を易んじて喪うは、終に之を聞く莫きなり」。羈旅の人は本来柔順であるべきなのに、これは高く人上に居て驕横が甚だし過ぎる。どうしてなお小心謹慎に患を未萌に防ぐことができよう。旁人がたとえこの層を看清しても、彼のあの「訑訑(いい)」たる傲慢の神色(『孟子』はこの種の声音臉色が人を千里の外に拒絶できると言う)は早くから人を門外に挡いていたので、前に凑り進んで規勧諫言しようとする者もいなかった。火神の回禄が灾禍を降したのは、まさに彼が応に得るべきものである。さらに言えば、離卦を倒転すればすなわち坎であり、坎は耳であるので、彼の耳は終竟自らの牛を失った缘由を聞くこともできない。

巽(そん)の卦

【巽下巽上,中互離兌】重巽,純卦。巽:小亨,利有攸往,利見大人。乾索坤初為巽,初陰為主,陰小故亨亦小;陰宜前行,故利有攸往;陰宜從陽,故利見大人。彖曰:「重巽以申命。剛巽乎中正而志行,柔皆順乎剛,是以小亨,利有攸往,利見大人。」

「巽」の卦は下卦が巽、上卦もまた巽で、二爻から四爻は互体して「離」を成し、三爻から五爻は互体して「兌」を成す。両巽が相重なるのは、他象を雑えない「純卦」である。卦辞にいう、巽、小さく亨る。往く所あるに利あり、大人に見るに利あり。乾が坤に向かって初爻を索取して巽を成したので、初六のこの陰爻は全卦の主である。陽は大で陰は小であり、卦主はすでに小者なので、亨通もまた小であるしかない。ゆえに「小亨」と称す。陰は最下に処し、その勢いは前に向かって行くべきなので「利有攸往」という。陰はまた陽に順従すべきなので「利見大人」という。『彖伝』にいう、両巽が相重なるは、政令を反復申明する象である。陽剛が中正の道に謙順して心志が行われ、衆柔がまた皆陽剛に順従するので、小さく亨通し、往くに利あり、大人に見るに利あり。

一陰伏二陽之下曰巽,《雜卦傳》曰「巽,伏也」;一陰入二陽之下曰巽,《說卦傳》曰「巽,入也」。無微不入者惟風,故巽又為風。風行有聲,是以王者之令曰風聲;風行動物,是以王者之令曰風動,故巽又為令。令者,命也,命惟申而人始知之。卦為重巽,巽命重申,而其丁寧告誡亦云至矣,而僅曰小亨者,則以令為治世之具,而非治世之源。古之王者以德化民,必世百年始克淪肌浹髓,深入腠理;若徒以令求之,畏法者有人,玩法者亦有人。畏法者猶非格心,而玩法者尚不能革面,小康可期,化成難致,故曰小亨也。

一つの陰爻が二つの陽爻の下に潜伏するのを巽と言い、ゆえに『雑卦伝』に「巽は潜伏なり」と言う。一つの陰爻が二つの陽爻の下に侵入するのもまた巽と言い、ゆえに『説卦伝』に「巽は进入なり」と言う。天下に孔があれば入らないことのないものは風のみなので、巽はまた風を象徴する。風が一吹すれば声響があるので、君王の号令を「風声」と称し、風が一吹すれば万物を吹動するので、君王の号令を「風動」と称す――ここにおいて巽はまた政令を象徴する。いわゆる「令」とはすなわち「命」であり、命令は必ず反復申説してこそ人民が知る。この卦は上下ともに巽で、まさに政令を一再申明する象であり、その叮嚀告戒は周到極まると謂うべきである。しかし卦辞はただ「小亨」と言うのは、政令は治世の工具であって、治世の根源ではないからである。古代の王者は德行を以て百姓を感化し、三十年乃至上百年を経てこそ、薬力が肌肤に浸み紋理に深透するように人心に化入することができた。もし政令のみに頼って治を求めれば、法を怕れる者は固よりいるが、法を玩ぶ者も同じくいる。法を怕れる者はまだ内心が正に帰する地步に至らず、法を玩ぶ者は表面すら改められない。このようでは、暫時の小安は望むべくも、風俗の大化は達成し難いので「小亨」という。

夫巽亨所以小者,以陰為主故也。陽大陰小,巽為一陰二陽,一陰居下,志在於行,而中正之剛又巽之。二剛在外,足以有為,而在內之柔又順之。剛巽於柔,則柔前往無阻,故攸往利也;柔順於剛,剛為大人,柔得見之以為柔主,故見大人利也。

巽卦の亨通がただ小である所以は、全卦が陰爻を主とするからである。陽は大で陰は小であり、巽は一陰二陽の体で、その一つの陰爻は最下に居り、心志は前行に在り、中に居り正を得た陽剛はまたそれに譲譲するを肯んず。上の二つの陽剛は外にあり、本来有為に足りるのに、内にある柔爻がまた彼らに順従するを肯んず。陽剛がすでに陰柔に対して譲譲するを肯んずれば、陰柔は前行して阻なきので「利有攸往」という。陰柔がすでに陽剛に順従できれば、陽剛はすなわちいわゆる「大人」であり、陰柔がそれを見て、それを奉じて自らの主と為すことを得るので「利見大人」という。

象曰:「隨風,巽。君子以申命行事。」隨,從也。卦為重巽,後巽從前巽,故曰隨風。申命行事者,荀氏曰:「巽為號令,兩巽相隨,故申命也。」法教百端,令行為上,貴其必從,故曰行事也。初六:進退,利武人之貞。巽為進退,初為巽主,陰柔在下,故進退焉。夫事成於斷而敗於疑,宜以剛勇濟之,如武人之貞正則利矣。象曰:「進退,志疑也;利武人之貞,志治也。」治,理也,言志決則事治也。

『大象伝』にいう、一陣の風に一陣の風が随う――これが巽卦の象である。君子はこれより領悟して、政令を反復申明し、事情を推行し去るべきを悟る。「随」とは跟従であり、卦体の上下は皆巽で、後の一陣の風が前の一陣の風に随うので「随風」という。「命を申して事を行う」について、荀爽によれば、「巽は号令を象徴し、両巽が相随うので、反復して命を申すのである」。教化法度は頭緒百端であるが、その中で政令が推行し得るを第一とする。貴ぶべきところは必ず遵行されることにあるので「事を行う」という。初六の爻辞、あるいは進みあるいは退く、武人のように正を守持するに宜しい。巽には進退不定の象があり、初六はまた全卦の主で、陰柔を以て最下に居るので、進退に猶豫する。事は決断に成り迟疑に敗る。剛強勇武を以てそれを救い、武人のように正を守れば、利がある。『小象伝』にいう、「進退定まらざるは、心志が疑惑なればなり。武人のように正を守るに宜しきは、心志に整治あるを致さんと欲するなり」。「治」とはすなわち理であり、心志が一たび決断すれば、事は理順するということである。

九二:巽在床下,用史巫【句】,紛若,吉,無咎。宋氏曰:「巽為木,二陽在上,初陰在下,床之象也。」二無應於上,退而據初,心在於下,故曰巽在床下也。初陰過柔,二巽初陰,則初之進退多疑,二亦同之。夫有疑則貴決,而決疑則用史巫。史掌卜筮,巫司禱祝,史巫兼用,則事紛紜雜亂者咸歸順理。若,順也。二體互兌,兌為巫、為口舌、為附決,故象史巫。如是則事之疑者以有決而斷,奮然思起,不甘卑巽,故吉無咎也。象曰:「紛若之吉,得中也。」

九二の爻辞、床の下に謙伏し、史と巫を任用すれば(ここに断句)、紛乱の事は皆顺理に帰し、吉祥で咎なし。宋衷(そうちゅう)によれば、「巽は木を象徴し、二つの陽爻が上にあり、一つの陰爻が下にあるのは、まさに床の形象である」。九二は上に正応がなく、やむを得ず退いて初六に倚靠し、心思は皆下にあるので「巽、床下に在り」という。初六は陰柔に過ぎ、九二はまた初六に対して譲譲し、初六は本来進退に多疑であり、九二もまたそれに随って疑う。疑あれば決断を貴ぶべきであり、疑を決するには史と巫を用いる。史官は卜筮を掌管し、巫祝は祷告を掌管する。史巫を併用すれば、あの紛紜雑乱の事は皆顺理に帰する。「若」とはすなわち順である。九二は互体兌の中に処し、兌は巫を象徴し、口舌を象徴し、決断取舍を象徴するので、史巫の象がある。このようになれば、疑うべき事は決断あるがゆえに判定され、人もまた奮然として振起し、ひたすら卑下柔順に甘んじないので、吉祥で咎なし。『小象伝』にいう、「紛乱して終に吉を得るは、九二が中に居り中道に合すればなり」。

九三:頻巽,吝。三居內外之間,下巽接上巽,故曰頻巽。夫陽居陽位,原不能巽,惟不能巽,力欲求巽,故至於頻。蓋由內卦已終,頻巽而仍不得巽,致困窮也,吝矣。象曰:「頻巽之吝,志窮也。」六四:悔亡,田獲三品。古者田獵所以講武。四之承乘皆剛,且近五位,五為大人,四宜輔之。觀彼巽陰似宜有悔,能與陽比則悔已亡。蓋四為正巽,又為互離互兌,以離之甲冑戈兵入於巽草之中,兌為毀折、為刑人,刑殺禽獸,所獲孔多,三品咸備。三品者,《禮》所謂一為乾豆、二為賓客、三為充君之庖也。四宜從五,此卦辭所云利有攸往者。象曰:「田獲三品,有功也。」

九三の爻辞、一再に謙伏すれば憾惜あり。九三は内外卦の交接の処に処し、下の巽が上の巽に接するので「頻巽」――屡屡として巽すると言う。陽爻が陽位に居り、本性は剛亢で、本来謙順を為し得ない。まさに為し得ないがゆえに、格別に力を用いて謙順を求め、ここにおいて屡試屡為の様を弄成した。加えて内卦はここに至ってすでに終わり、一再に巽を求めて終竟巽を成さず、困窮に至るので憾惜がある。『小象伝』にいう、「頻巽の憾惜は、心志が窮蹙せるなり」。六四の爻辞、悔恨は消失し、田獵して三類の獲物を得る。古人の田獵は武事を操演するためである。六四の承ける九五、乗じる九三はいずれも陽剛で、また九五の位に靠近し、九五は「大人」であり、六四はまさに彼を輔佐すべきである。それが陰柔を以て巽体に居るを見れば、悔あるべきに似るが、陽剛と親比し得れば、悔もまたない。六四は正体の巽中に処し、また互離・互兌を兼ねる。離は甲胄戈兵を象徴し、巽の象る草莽の中に入り、兌は毀折・刑戮を象徴し、ここにおいて禽獣を殺獲して、得る所極めて多く、三種の用途が皆斉備する。いわゆる「三品」とは、『礼』書のいう、上等は干肉を作り祭祀に供し、中等は賓客を待ち、下等は君主の厨房を充実する、である。六四は理宜九五に追随すべきで、これはまさに卦辞のいう「利有攸往」である。『小象伝』にいう、「田獵して三品を獲るは、功労あるなり」。

九五:貞吉,悔亡,無不利,無初有終,先庚三日,後庚三日,吉。五居中位則貞吉,五在巽上不牽於陰則悔亡。五以陽居陽位,此卦辭所謂大人可以為所欲為者,故無不利。雖下近四陰,而陽剛勝柔,可以力行不疑。先庚三日,丁戊己也;後庚三日,辛壬癸也。甲乙為十干之初,壬癸為十干之終,巽初為陰,是無甲乙,故曰無初;巽上皆陽,是有壬癸,故曰有終。無初則剛而能決,不下繫於一陰之私;有終則巽而能立,自克當九五之位,故吉也。象曰:「九五之吉,位正中也。」

九五の爻辞、正を守れば吉、悔恨は消失し、利ならざるなし。初めになく終わりにあり。「庚」日の前の三日、「庚」日の後の三日、吉。九五は上卦の中位に居るので、正を守って吉である。それは巽体の上位にあり、下の陰爻に牵累されないので、悔恨が消失する。九五は陽爻を以て陽位に居り、まさに卦辞のいうあの「大人」で、放手して施為でき、ゆえに利ならざるなし。下に六四の陰に挨着しているが、陽剛は陰柔に勝るので、放胆して力行して迟疑する必要がない。「先庚三日」とは丁・戊・己の三日を指し、「後庚三日」とは辛・壬・癸の三日を指す。甲・乙は十天干の首であり、壬・癸は十天干の末である。巽の初爻は陰で、甲乙がないに等しいので「初なし」という。巽の上体は全て陽で、壬癸があるに等しいので「終あり」という。「初」がなければ、剛健にして能く決断し、下に向かって一つの陰爻の私情に牵系しない。「終」があれば、謙順にして能く自立し、自然と九五の位に配するに足るので吉祥である。『小象伝』にいう、「九五の吉は、その居る位が正にして中なればなり」。

上九:巽在床下,喪其資斧,貞凶。初為床之下,二以比初曰巽在床下;上以窮極返初,曰巽在床下。夫巽已少果決之才,而床下尤非振作之地。二陽得中,又體互兌,猶可用史巫以成巽德之吉;若上則祇宜安居自守。巽卦已終,是喪巽利之資;位出互離之外,是喪離兵之斧。資斧所以濟巽之窮,喪之則巽極無倚,雖貞亦凶,蓋過乎巽則有失無得也。象曰:「巽在床下,上窮也;喪其資斧,正乎凶也。」正,貞也,言雖正亦凶。

上九の爻辞、床の下に謙伏し、資財と斧具を喪失し、正を守ると雖も凶険あり。初六は床の下方にあり、九二は初六に親比するがゆえに「巽、床下に在り」と言った。上九は則ち窮極して回頭して下に向かい、また「巽、床下に在り」と言う。巽はもともと果決の才が乏しく、しかも床の下はさらに奮発振作する場所ではない。九二は陽爻で中位を得、また互体兌の中に処し、なお史巫を借りて疑を決し、巽徳の吉を成就することができる。上九はただ分を安んじ自守するに宜しいのみ。巽卦はここに至ってすでに終わり、巽の依恃する資財を喪失したに等しい。爻位はまた互体離の外に出て、離の象る兵器の斧を喪失したに等しい。資と斧は本来巽道の窮を救うのに用いるもので、それらを失えば、巽が極に至って憑依する所なく、正を守ると雖も凶険を免れない――謙伏が頭を越えれば、損失のみあって得る所がないからである。『小象伝』にいう、「床下に謙伏するは、上九が窮極せればなり。資斧を喪失するは、正なれども仍ほ凶なればなり」。「正」とはすなわち貞で、正を守ると雖も、仍ほ凶あるということである。

兌(だ)の卦

【兌下兌上,中互巽離】重兌,純卦。兌:亨,利貞。乾索坤上為兌,二陽內藏,一陰外見,陰柔接物,不失於剛暴,故曰亨;但恐失內陽之正也,故勖以利貞。彖曰:「兌,說也。剛中而柔外,說以利貞,是以順乎天而應乎人。說以先民,民亡其勞;說以犯難,民亡其死。說之大,民勸矣哉!」

「兌」の卦は下卦が兌、上卦もまた兌で、二爻から四爻は互体して「巽」を成し、三爻から五爻は互体して「離」を成す。両兌が相重なるは純卦である。卦辞にいう、兌、亨通す。貞に利あり。乾が坤に向かって上爻を索取して兌を成した。二つの陽爻は内に蔵れ、一つの陰爻は外に顕れる。陰柔を以て物に接し人に待てば、剛暴に流れず、ゆえに「亨」という。ただそれが内裏の陽剛の正道を失うを恐れて、それを勉励して「利貞」という。『彖伝』にいう、兌とはすなわち喜悦である。剛健が中に居り柔順が外にあり、喜悦を以て正固を守持するので、上は天道に順い下は人心に応ずる。喜悦を以て百姓を先導すれば、百姓は労苦を忘れる。喜悦を以て彼らを難に赴かせれば、百姓は生死を忘れる。喜悦の作用がこのように大きいので、百姓は自然に互いに勉励する。

兌象為澤,兌德為說。澤,水匯聚也。水氣屬陰,二陰外見、一陽中實則象流水,故坎象為水;一陰上見,下有窒塞不能旁洩則象止水,故兌象為澤。說,悅懌也。兌為口舌,而兌又以一陰居二陽之上,剛體中實,柔知外見,如人之光澤其顏,喜動辭色然者。且德惠生民曰膏澤,文飾政教曰潤澤,是澤亦有說意,故兌德為說。

兌は物象において沢であり、徳性において喜悦である。いわゆる沢とは、水の汇聚である。水気は陰に属す。両陰が外に顕れ一陽が中に実るは、流動する水の様であり、ゆえに坎の物象は水である。一陰が上に顕れ、下が壅塞して旁泄できないは、静止する水の様であり、ゆえに兌の物象は沢である。「説」とはすなわち欣悦である。兌は口舌を象徴し、また兌は一つの陰爻が二つの陽爻の上に居る。剛が内にあれば中が実り、柔が外にあれば外に顕れ、ちょうど一人の面色が光潤し喜色が辞令に形るがごとし。しかも徳恵を以て百姓を養育するを「膏沢」と言い、文采を以て政教を修飾するを「潤沢」と言う。見れば「沢」の字それ自体に喜悦の意が含まれるので、兌の徳性は喜悦である。

夫說固自亨通,而說又貴貞正。天道無私,則說宜順乎天;人心至實,則說宜應乎人。上為天位,上六居之,是為順天;中為人位,六三居之,是為應人。順天應人,兌說如此,可謂貞矣。雖然,說之貞又有進也。陽剛為君,陰柔為民,君上使民實以勞民,民惜其力,即怨其勞;若以兌貞先之,雖兌澤象坎,而不若坎體上下皆虛,坎之勞卦變為兌說,是民亡其勞也。

喜悦は本来自然に亨通するが、喜悦はまた貞正を貴ぶ。天道は私なく、ゆえに喜悦は上に天道に順うべきである。人心は至って誠実で、ゆえに喜悦は下に人心に応ずべきである。上爻は天位であり、上六がそれに居る――これが「天に順う」である。三爻は人位であり、六三がそれに居る――これが「人に応ずる」である。上に天に順い下に人に応じ、兌の喜悦がこの地步に至れば、「貞」と称するに足る。しかしながら、喜悦の貞にはさらに一層進んだ説がある。陽剛を君上に比し、陰柔を百姓に比すれば、君上が百姓を役使するのは、実は百姓を労苦させることであり、百姓は自らの気力を愛惜して、この労役を怨恨する。もし先に兌の貞正を以て前に倡導できれば、情形は同じでなくなる。兌は沢を象とし坎と同じく水類であるが、卦体は坎のように上下両爻が皆虚とはならない――『説卦伝』は坎を「労卦」と称し、今や労苦の坎が喜悦の兌に変じたので、百姓もまた労苦を忘れる。

兌本乾體,乾索坤上以成兌,坤為死,坎為險難,兌下塞坎以犯之,祇見兌說,不見坎難,一陰僅得坤之一體,而陽多於陰,是民亡其死也。顧勞與死,民豈能無故而忘,惟交相勸勉,庶幾忘之。卦為兩兌,兌口互相告語,有勸象。夫勸民以說猶恐民違,至於民不待勸而自相勸,是惟不徇私情、咸喻公義乃可能也,洵非說之大不至此。

兌はもともと乾体から出た。乾が坤に向かって上爻を索取して兌を成した。坤は死亡を象徴し、坎は険難を象徴する。兌は坎の下画を填実して険難を冒犯するので、人々は兌の喜悦のみを見て、坎の艱険を見ない。しかも兌の中には一つの陰爻があるのみで、坤体の一部分を得たに過ぎず、陽が多く陰が少ないので、百姓が死亡を忘れたという。ただ労苦と死亡を、百姓がどうして故なく忘れられよう。ただ彼此が勧勉してこそ、ほぼ忘れ得るのである。この卦は二つの兌が相重なり、二枚の口が互いに告語する――まさに勧勉の象がある。喜悦を以て百姓を勧導しても、なお百姓が背逆するを恐れる。百姓が人の勧を待たずして自相勧勉するに至れば、それは人人が私情を徇らず皆公義を明らかにせずにはいられない――実に喜悦の道が極大に達しなければ、この地步に至らない。

象曰:「麗澤,兌。君子以朋友講習。」麗,耦也。《周禮》:「麗馬一圉,八麗一師。」又兩也。《聘禮》曰:「上介奉幣,儷皮。」《士冠禮》曰:「主人酬賓,束帛儷皮。」麗與儷同。卦為重兌,故曰麗澤;二兌同類,故云朋友;兌口同言,故云講習。初九:和兌,吉。說中節謂之和。卦有四陽,惟初不比陰,得說之正,故曰和兌吉。象曰:「和兌之吉,行未疑也。」未疑者,言不繫於陰也。

『大象伝』にいう、両沢が相連なる――これが兌卦の象である。君子はこれより朋友とともに講論研習することを思う。「麗」とは成双の義である。『周礼』に「麗馬一圉、八麗一師」と言い、一「麗」とはすなわち両匹である。『儀礼・聘礼』に「上介、幣を奉じ、儷皮」と言い、『儀礼・士冠礼』に「主人、賓を酬ゆるに、束帛儷皮」と言う――「麗」と「儷」は同じ字である。この卦は両兌が相重なるので「麗沢」という。二つの兌は同類なので「朋友」と称し、二枚の兌口が一同に話すので「講習」と称す。初九の爻辞、和悦にして吉祥。喜悦にして節度に合するを「和」と言う。全卦に四つの陽爻があり、ただ初九のみが陰爻と相鄰せず、喜悦の正を得たので「和兌、吉」という。『小象伝』にいう、「和兌の吉なる所以は、その行いに疑うべき所なきなり」。いわゆる不疑とは、それが陰爻に牵系しないことを言う。

九二:孚兌,吉,悔亡。二則比三陰矣,然居內卦之中,陽中為孚,故曰孚兌。兌說有孚,是能正其志、不牽於私意者,故吉悔亡也。象曰:「孚兌之吉,信志也。」六三:來兌,凶。三居兩兌之間,內兌將終,外兌又至,故曰來兌。兌宜無私,說來自外,溺於說矣,故凶。象曰:「來兌之凶,位不當也。」

九二の爻辞、誠信を以て喜悦すれば吉祥、悔恨は消失す。九二はすでに六三の陰と相鄰したが、それは内卦の中に居り、陽爻が中に居ればすなわち「孚」であり、すなわち誠信であるので「孚兌」と言う。喜悦して誠信あれば、すなわち自らの心志を端正し私意に牵引されない者であるので、吉祥にして悔恨は消失す。『小象伝』にいう、「孚兌の吉なる所以は、その心志が誠信なればなり」。六三の爻辞、喜悦を招来すれば凶険あり。六三は二つの兌の間に処し、内卦の兌は将に終わらんとし、外卦の兌はまた続けて来るので「来兌」と言う。喜悦は本来無私より出ずべきもので、今や喜悦は外より招来したものなので、それは取悦に沈溺するので凶険である。『小象伝』にいう、「来兌の凶は、その居る位が当たらざればなり」。

九四:商兌未寧,介疾有喜。鄭氏曰:「商,隱度也。」四為互巽,巽為不果,故曰商兌。夫事待商度則未寧,未寧則有疾,而疾之有則由於介,蓋四居上下之介故也。然與五同體,終不下比於三陰,得兌說之正,故有喜。象曰:「九四之喜,有慶也。」

九四の爻辞、反復して喜悦すべきか否かを揣度し、心に安寧を得ず。界限分明にして病を防ぐことができれば、喜慶あり。鄭玄によれば、「商」とはすなわち暗中に揣度することである。九四は互体巽の中に処し、巽の性情は不果決なので「商兌」という。事が反復揣度を要すれば、心は安寧を得ない。安寧を得なければ病痛を生じ、病痛の由来は一つの「介」の字にある――九四がまさに上下卦の交界の処に処するからである。ただそれは九五と同じく上体にあり、終竟下の六三の陰に親比することを肯んじず、兌悦の正道を得たので喜あり。『小象伝』にいう、「九四の喜は、福慶あるなり」。

九五:孚于剝,有厲。上為兌主,與六三同。然三介眾陽之間,則說猶不足以惑人;至於上為兌之極,兌陰剝陽,則如以柔克剛,浸潤不驟,將有入之至深而人尚不覺者。受其剝削,不惟不疑,轉孚信之。陽居外卦之中而信及上陰,是誤信也,故危厲。象曰:「孚于剝,位正當也。」上六:引兌。此兌主也,是牽引眾人以為說者。不能引人以道,而徒事容說,非兌之正矣。象曰:「上六引兌,未光也。」

九五の爻辞、陽剛を剥蝕する者に誠心を以て信従すれば、危険あり。上六は兌卦の主で、六三はそれと同じく陰爻である。ただ六三は衆陽の間に挟まれ、その取悦はなお人を迷惑するに足らない。上六は兌の極処に処し、陰を以て陽を剥し、柔を以て剛に勝つがごとく、慢慢と浸潤して急驟せず、往々にして極深に侵入しても人はなお覚察しない。その剥削を受けて、疑いを生ぜざるのみならず、かえって誠心を以てそれを信任する。九五は陽爻を以て外卦の中に居るのに、信任を上の陰爻に与えたのは、信任を錯付したので、危厲がある。『小象伝』にいう、「剥蝕する者に誠信するは、その居る位がちょうど九五の上に当たればなり」。上六の爻辞、人を牵引して取悦する。上六はすなわち兌卦の主で、衆人を牵引して討好取悦する者である。正道を以て人を引導することができず、ただ容色辞令の上で人に欢喜を討うのは、兌の正道ではない。『小象伝』にいう、「上六は牵引を以て悦を求む、その道は未だ光大する能わざるなり」。

易原 巻十二・周易下経(六)

慧珠閣原本,岫巖多隆阿雯溪。周易下經(六):渙、節、中孚、小過、既濟、未濟。

本巻は慧珠閣原刻本に依り、作者は岫巖の人・多隆阿(字は雯渓)である。この巻は『周易』下経の第六部分を解し、順に「渙」「節」「中孚」「小過」「既済」「未済」の六卦を扱う。

渙(かん)の卦

【坎下巽上,中互艮震】否:渙為三陰三陽卦,自否來。《九家易》曰:「此本否卦。」虞氏曰:「否四之二。」渙:亨,王假有廟,利涉大川,利貞。渙,水流散貌,凡物之散者皆曰渙。物有患其積滯者,必因散而始通,渙自得亨。而以巽上坎下卦象觀之,有王象,有廟象,有大川象。廟則宜假,川則宜涉,但假廟恐或黷於祭祀,涉川恐或不避險阻,故利貞也。

『渙』の卦は下卦が坎、上卦が巽で、二から四爻は互体して「艮」を成し、三から五爻は互体して「震」を成す。それは『否』卦から変じた。渙は三陰三陽の卦で、『否』から来る。『九家易』にいう、「此の卦は本と否卦なり」。虞翻にいう、「否卦の第四爻と第二爻とが互に易(か)わる」。卦辞にいう、渙、亨通す。君王は宗廟に親至する。大河を渡るに宜しく、正を守るに宜し。「渙」とは水流れ散ずる貌で、凡そ物の離散するを皆渙という。事物凡そ積滞して通ぜざるに苦しむ者は、必ず散ずるを以てこそ再び通暢するゆえ、渙はそれ自体亨通し得る。さらに巽上坎下の卦象より見れば、君王の象あり、宗廟の象あり、大河の象あり。廟あれば親至すべく、川あれば渡越すべし。ただし親至は祭祀過頻にして褻慢に流るるを恐れ、渡越は険阻を避けず妄進するを恐るるゆえ、また「利貞」という。

彖曰:「渙,亨,剛來而不窮,柔得位乎外而上同。王假有廟,王乃在中也。利涉大川,乘木有功也。」巽與坎無所為渙,而卦之所以名渙者,以陰陽本聚,至此則渙,故名渙也。蓋渙自否來,否為乾上坤下,陰陽類聚,乃四與二易,散否之陽下來成坎,又散否之陰上往為巽。坎為通,通則不窮,則此不窮者由於陽剛下來故也。巽以一陰上同二陽,則四為陰。否之四原非陰,陽居於四未為得位,坤二之四,柔始得位於外。是三陽外聚非渙,而四陽下來始為渙;三陰內聚非渙,而二陰上往始為渙。惟渙則剛柔始有相濟之美,故渙亨也。

『彖伝』にいう、渙の亨通する所以は、陽剛が下卦に来たって困窮に至らず、陰柔が外卦に正位を得て上の陽と同心するがゆえなり。「王假有廟」は、君王がまさに中位に処するを言う。「利渉大川」は、木舟に乗じて功を成し得るを言う。単に巽と坎とを見れば、それ自体に渙散の意はないが、この卦の渙と名づくる所以は、陰陽がもともと各々一処に聚まり、ここに至って初めて散ずるがゆえに渙という。渙卦は『否』から変じた。否は乾上坤下で、陰と陽とが各々類聚する。今や第四爻と第二爻とが互換し、否卦の陽を散じ下して坎を成し、また否卦の陰を散じ上して巽を成す。坎の性質は通であり、通なれば困窮せず、この「不窮」はまさに陽剛が下来るに因る。巽は一つの陰爻が下にあって上に向かい両陽と同心し、ここにおいて第四爻が陰となった。否卦の第四爻はもともと陰ではなく、陽が第四位に居るは位を得ない。坤の第二爻が上って四に居れば、陰柔は初めて外卦に正位を得る。見れば三つの陽が上に挤れても渙とは算ならず、第四爻の陽が下来って初めて渙を成す。三つの陰が下に挤れても渙とは算ならず、第二爻の陰が上去って初めて渙を成す。ただ散開してこそ剛と柔とに互相済助の美あり、ゆえに渙は亨通し得る。

夫四既因渙為柔,亦即連三柔以成互艮;二既因渙為剛,亦遂合兩陰以成正坎。艮為宗廟,坎為大川,廟則宜假,川則宜涉。蓋五為君位象王,艮為門闕象廟,坎為隱伏象鬼神,艮為少男,坎為中男,互震為長男,同處廟中。王以艮手持巽白茅,用坎酒灌地以降鬼神,此王格有廟象也。

第四爻がすでに渙散に因って柔に変じたれば、すなわち六三の柔と連なって互体艮を組み、第二爻がすでに渙散に因って剛に変じたれば、すなわち上下両陰と合して正体坎を成す。艮は宗廟を象徴し、坎は大河を象徴す。廟あれば親至すべく、川あれば渡越すべし。さらに細かく見れば、五は君位で君王に象り、艮は門闕で宗廟に象り、坎は隠伏で鬼神に象る。艮は少男、坎は中男、互体震は長男で、父子兄弟がともに廟中にあり。君王は艮の象る手を以て巽の象る白茅を持ち、坎の象る酒を用いて地に灌ぎて神霊を招降す――これがすなわち「王假有廟」の卦象である。

坎為水,互震正巽為木,巽繩為纖,艮手持之,巽風助之,有乘風破浪、雲帆飛渡之槩,此利涉大川象也。鬼散無憑,而於假廟聚之;人散難收,面於涉川聚之。假廟者敬則心不敢渙,涉川者險則力不敢渙,是假廟涉川皆所以濟渙也。

坎は水を象徴し、互体の震と正体の巽はともに木を象徴し、巽の繩索は纎索を象徴し、艮の象る手がそれを牽き、巽の象る風がまたそれに一臂を助くれば、大いに乗風破潤・雲帆疾渡の気概あり――これがすなわち「利渉大川」の象である。鬼神が離散して憑依する所なければ、宗廟に親至してそれらを聚めるを用いる。人心が離散して収拾し難ければ、大河を共渡してそれらを聚めるを用いる。宗廟に親至すれば、心に敬畏が存して敢えて渙散せず。大河を共渡すれば、身が険境に処して敢えて懈怠せず――見れば假廟も渉川も皆渙散を救治する弁法である。

象曰:「風行水上,渙。先王以享于帝立廟。」風行水上,波瀾散流,渙之象也。先王以享于帝立廟者,荀氏曰:「謂受命之王收集散民,上享天帝,下立宗廟也。」上為天位帝象,艮手持巽茅灌坎酒於地以享之;艮為門闕,上覆巽木,下居坎坤,立廟象也。

『大象伝』にいう、風が水面に吹行するは、これ渙卦の象なり。先王はこれに由り祭天の礼を挙げ、宗廟を建立す。風が水の上を行けば、波潤は四散奔流して、まさに渙散の象なり。「享于帝、立廟」に就いて、荀爽にいう、「これは天命を受けた君王が離散せる百姓を収集し、上は天帝に祭享し、下は宗廟を建立するを言うなり」。上爻は天位で天帝に象り、艮の象る手は巽の象る茅草を持ち、坎の象る酒を地に澆いて祭享す。艮はまた門闕に象り、上に巽の象る木を覆い、下に坎と坤との上に座す――これがすなわち宗廟建立の象である。

初六:用拯馬壯,吉。物渙宜拯,拯渙用馬,馬復為壯者,則渙可濟。蓋初與二比,即賴二拯,二為坎中,坎馬美脊,是壯馬也。拯渙在初,其勢易為,故不言渙而祇言拯,拯則吉也。象曰:「初六之吉,順也。」九二:渙奔其機,悔亡。二自否之四來,有似下來求安者,故曰奔。夫安身莫如機,二因渙居於此,則為奔其機。虞氏曰:「坎為棘、為矯輮,震為足,輮棘有足,艮肱據之,憑機之象也。」幾俗作機。《春秋傳》曰:「設機而不倚。」有所憑依,雖渙不危,故悔亡。象曰:「渙奔其機,得所願也。」

初六の爻辞、救拯に用いる馬が強壮なれば吉祥。事物が渙散すれば救拯すべく、渙散を救拯するは馬に頼り、馬がまた強壮なれば、渙散は救い得る。初六は九二と相鄰し、ちょうど九二を頼って救拯するに宜しく、九二は坎の中爻で、『説卦伝』は坎の象る馬を「美脊」といい、まさに壮馬である。渙の開頭に於いて着手して救拯すれば、形勢は最も措手し易し。ゆえに爻辞は「渙」の字を提げずしてただ「拯」というのみ。救拯し得れば吉祥なり。『小象伝』にいう、「初六の吉は、その柔順なればなり」。九二の爻辞、渙散の時に己が憑几に奔る、悔恨消失す。九二は否卦の第四爻より降りて来たりて、下来って安身を求めるに似たるがゆえに「奔」という。安身の物は憑几に過ぐるなし。九二は渙散に因って此の位に居るは、すなわち「奔其机」なり。虞翻にいう、「坎は棘木を象徴し揉曲せる木材を象徴し、震は足を象徴す。揉曲せる棘木に足あり、また艮の象る臂肘を以てそれに倚らば、まさに憑几の象なり」。「几」は俗に「机」と作る。『春秋伝』にいう、「几案を設けて倚らざるなり」。憑依する所有れば、渙散の中に在ると雖も危険ならず、ゆえに悔恨消失す。『小象伝』にいう、「渙散の中に憑几に奔るは、その願う所を得ればなり」。

六三:渙其躬,無悔。三與上應,志在濟渙,所謂事君致身者也。荀氏曰:「體中曰躬。」鞠躬盡瘁,如渙其躬以救渙者,故無悔。象曰:「渙其躬,志在外也。」外謂上也,渙惟三上相應,故志在外。六四:渙其群,元吉;渙有丘,匪夷所思。否上三陽為群,乃四下之二,則三陽之群渙矣,故曰渙其群。夫群則非渙,渙似不群,不知古大臣經理天下,必散盡眾民朋黨,乃克成大同之治。至渙之已久,而私意盡化,人心固結,實有成邑成都、一聚而不可動搖者,此渙有邱象也。四體互艮,艮為山稱邱。當其為群,人孰欲渙;及其已渙,似難再聚。則此以渙為聚之道,是非常人思慮之所能及也。夷,平常也。此渙之元吉者。象曰:「渙其群元吉,光大也。」

六三の爻辞、己が身の私念を散ずれば悔恨なし。六三は上九と相応し、心志は渙散を救済するに在り、すなわち『論語・学而』のいう「君に事えて能く其の身を致す」のような人なり。荀爽にいう、「身体の中段を躬と曰う」。鞠躬尽瘁し、このように己が身すら舍て出して以て渙散を拯救すれば、ゆえに悔恨なし。『小象伝』にいう、「其の身を散ずるは、心志が外に在ればなり」。「外」とは上九を指す。渙卦の中ではただ三と上とが互相呼应するのみ、ゆえに心志が外に在りという。六四の爻辞、朋党の群を散ずれば大吉。渙散の中に反って山丘を成し聚むるは、これ常人の思い及ぶ所にあらず。否卦の上面の三つの陽爻は一羣を結成し、今や第四爻が第二位に降れば、三陽の羣は散ず、ゆえに「渙其羣」という。羣を結ぶはもともと渙にあらず、渙散すれば羣を成さざるがごとし。然れども古代の大臣が天下を治むるに、必ず民間の朋党を尽く散尽してこそ大同の治を成就し得るを知らざるなり。散ずること久しきに及んで、私意は化尽し、人心は反って牢結し、真に邑を成し都を成し、一旦聚合すれば動揺せざる局面を現出す。これがすなわち「渙有丘」の象なり。六四は互体艮の中に処し、艮は山を象徴するがゆえに丘と称す。彼らがなお朋党を結ぶ時は、誰か肯んじて散ぜん。已に散開するに及んで、また再び聚まること難きがごとし。然らばこの散を以て聚と為すの道理は、尋常人の思慮の想い及ぶ所にあらず。「夷」とは平常なり。これが渙卦の「元吉」ある所以なり。『小象伝』にいう、「其の朋党を散じて大吉なるは、その道が光明盛大なればなり」。

九五:渙汗其大號,渙王居,無咎。五為巽中,巽為命令,有王者欲通天下壅塞、銷天下之錮蔽、發號施令之象焉。《九家易》曰:「宣佈號令,百姓被澤,若汗之出於身不還反也。此本否卦,體乾為首,來下處二成坎水,汗之象也。」陽稱大,故曰渙汗其大號也。夫王者豈可言渙,然以大號言渙,則渙汗又為王者宜有之渙也。王者如此,居之無咎矣。象曰:「王居無咎,正位也。」上九:渙其血,去逖出,無咎。逖,遠也。渙至於上,則渙已極,雖下與三應,三體坎為血,而上已渙其血,去已遠矣,是出險不肯蹈危也,故無咎。象曰:「渙其血,遠害也。」害謂坎血,遠害者去逖出也。

九五の爻辞、汗の出るがごとく重大号令を発布し、王者の積聚せる一切を散ずれば、過なし。九五は巽の中位に処し、巽は命令を象徴するがゆえに、君王が天下の壅塞を打通し天下の錮蔽を銷解しようと号施を発する象あり。『九家易』にいう、「号令を宣布すれば、百姓は恩沢を蒙ること、汗が身より出づれば再び回流せざるがごとし。此の卦は本と否卦にして、乾体は頭を象徴す。下来って第二位に居りて坎水を成すは、まさに汗の形象なり」。陽は大と称すがゆえに「渙汗其大号」という。君王はどうして渙散を談ぜられよう。然れども重大号令を以て渙を言えば、この「渙汗」はまさに君王の応有の渙散なり。君王がかくのごとく能くすれば、其の位に居って過なし。『小象伝』にいう、「王居って咎なきは、その居る所が正位なればなり」。上九の爻辞、血光の灾を散じ、遥かに離れ去れば、過なし。「逖」とはすなわち遠なり。渙散が上爻に至れば、すでに極処なり。上九は六三と相応すと雖も、六三は坎体に属し坎は血を象徴すれど、上九は早くにこの血光を散じ尽し、遠く離れ離れ、これ険境を脱出して再び険を踏まんと肯んぜざるなり。ゆえに過なし。『小象伝』にいう、「其の血を散ずるは、禍害を遠離すればなり」。いわゆる害とはすなわち坎の象る血で、禍害を遠離するを「去逖出」という。

節(せつ)の卦

【兌下坎上,中互艮震】泰:節為三陽三陰卦,自泰來。虞氏曰:「泰三之五,天地交也。」節:亨,苦節不可貞。節,竹約也,言竹之節有如約束然者,是以物有約束皆曰節。水歸於澤亦有約束之義,故兌下坎上之卦亦曰節。夫奢易致窮,而節則崇儉,儉易有餘,不為物困,故亨。然節貴適中,倘過為節制,則阻塞難行,其節苦矣,苦節不可貞守也。

『節』の卦は下卦が兌、上卦が坎で、二から四爻は互体して「艮」を成し、三から五爻は互体して「震」を成す。それは『泰』卦から変じた。節は三陽三陰の卦で、『泰』から来る。虞翻にいう、「泰卦の第三爻が第五位に昇るは、天地の交通なり」。卦辞にいう、節、亨通す。苦澀なる節制は固守すべからず。「節」はもと竹節を指し、竹の節は竹身に約束を加うるがごときがゆえに、凡そ事物に約束あるを皆節という。水が沢に匯帰するにもまた約束の義あり、ゆえに兌下坎上の卦をも節という。奢侈は容易に困窮を招来し、節制は倹省を崇尚し、倹省すれば容易に余裕ありて物用に困らざるゆえ亨通す。ただし節制は適中を貴ぶ。もし節制が頭を過ぐれば、処処阻塞して行い難く、その節は苦となる――苦澀なる節制は固守すべからざるなり。

彖曰:「節亨,剛柔分而剛得中。苦節不可貞,其道窮也。說以行險,當位以節,中正以通。天地節而四時成,節以制度,不傷財,不害民。」節何以亨也?蓋節自泰來,泰卦陰陽類聚,乃三升為五、五降為三,則剛柔分散而不聚。泰五為陰,今以三陽往易,則剛得中位。分剛為坎,分柔為兌,水匯澤中,水有限制,故象節也。泰乾為施,施過則奢;泰坤為吝,過儉又固;易為坎中,象節得中,故曰節亨也。

『彖伝』にいう、節の亨通する所以は、剛と柔とが各々其の位を分かち陽剛が中を得ればなり。苦澀なる節制の固守すべからざるは、その道がすでに窮まりぬればなり。喜悦の心を以て険難を践履し、居位当を得て節制を知り、中を守り正を得て因って通達す。天地に節度ありて、ここにおいて四時序を成す。制度を以て之を節すれば、財貨を損傷せず百姓を侵害せず。節は何を以て亨通し得るか。節が『泰』から変ずるがゆえなり。泰卦の陰陽は各々類聚し、今や第三爻が第五に昇り第五爻が第三に降れば、剛柔は分散して再び抱団せず。泰卦の第五爻はもと陰なりしが、今や第三爻の陽を以てそれと換えれば、陽剛は便ち中位を得る。分出したる剛は坎を成し、分出したる柔は兌を成し、水は沢中に汇聚して水に限制あり、ゆえに節に取象す。泰卦の乾は施与を主り、施与が頭を過ぐればすなわち奢なり。泰卦の坤は吝嗇の性あり、倹省に過ぎればまた固陋に流る。今や坎に変じて中位に居るは、まさに節して中を得るを象徴す。ゆえに「節亨」という。

夫節以中為則,不及者失之,過者亦失之。不及固不得謂節,過中雖亦名節,而其節獨苦。苦與甘反,苦為火氣,甘為土氣,泰上為坤為土,坎得坤中,故五之節曰甘。卦至於上則道已窮,道窮則變,坎下伏離,離火炎上,故上之節曰苦。即以水氣衡之,水生於西而旺於北,死於東南。當其初生,源泉混混,不舍晝夜,取以供酌,清澄寒冽,故水以流動為甘;至已朝宗,水行已窮,失其本性,積成斥鹵,故水以死敗為苦。

節は「中」を以て準則と為す。及ばざるは固より失なり、做し過ぐるもまた同じく失なり。及ばざるは自然節と算するに足らず。中を過ぐれば、節と称すと雖も、この節は独り苦なり。苦は甘と相反す。苦は火気に属し、甘は土気に属す。泰卦の上体は坤で坤は土に属し、坎爻は坤の中爻より得たるがゆえに、九五の節を「甘節」と称す。卦が上爻に至れば、その道は已に窮まり、窮すれば則ち変を思う。坎の下には離が潜伏し、離火は上に向かって燃焼するがゆえに、上六の節を「苦節」と称す。就ち水性を以て衡量するもまたしかり。水は西方に生じ北方に旺し東南に死す。その初生の時、源泉滚滚として昼夜停まず、舀て飲用すれば清澄寒冽なり。ゆえに水は流動を以て甘と為す。像して『尚書・禹貢』のいう「江漢、海に朝宗す」の如く大海に帰入するに及べば、水の行程は已に尽き、本性を失い、鹽鹵の地に積成す。ゆえに水は死敗を以て苦と為す。

是節為束縛世人之具,似坎險之不可踰越,惟以兌說濟之,說以行險,節得其中,庶幾亨通,不至於窮而多窒也。推之泰原為坤乾,是為天地;三五相易,互震為春,正兌為秋,上坎為冬,伏離為夏,是四時因節而成也。而坎又為法律,兌為附決,則是節以制度也。惟有節則財始能裕,民始能安。泰乾為金曰財,而易為兌金,財仍不傷;泰坤為眾曰民,而易之為坎,坎亦為眾,民仍不害,則節固可行也,不必取鑑於苦節而疑節難通矣。

このように見れば、節は世人を束縛する工具で、坎険の如く逾越し難きがごとし。ただ兌の喜悦を以てそれを調剤し、欣悦の心を懐きて険難を践行してこそ、節はその中道を得て、ほぼ亨通し、窮処に走到して処処窒碍するに至らざるなり。さらに下に推せば、泰卦はもと坤上乾下、すなわち天地なり。三・五両爻が互易したる後、互体の震は春、正体の兌は秋、上体の坎は冬、坎下に伏する離は夏なり。これがすなわち「天地節して四時成る」なり。坎はまた法律を象徴し、兌は裁断取舍を象徴す。これがすなわち「節以制度」なり。ただ節制あれば、財用は初めて寛裕にして、百姓は初めて安定す。泰卦の乾は金に属し財貨を代表し、変じて兌となり兌もまた金に属すれば、財貨は損を受けず。泰卦の坤は衆を為し百姓を代表し、変じて坎となり坎もまた衆を象徴すれば、百姓もまた害を受けず――見れば節は全く行い得るもので、「苦節」を見るに因って節道の通じ難しを疑うべからず。

象曰:「澤上有水,節。君子以制數度,議德行。」水歸於澤,未盈則受,既盈則溢,節之象也。君子制度數、議德行,皆體節義。數,數計,如一十百千之類;度,法度,如寸丈咫尺之類。泰坤為眾象數,為均象度,變為坎之法律以制之;泰乾為德,乾行至健,變為兌之口舌以議之。

『大象伝』にいう、沢の上に水あり、これ節卦の象なり。君子はこれに由り数の法度を制定し、德行を品評す。水が沢に帰聚し、満たざれば容受し、満てば漫出するは、まさに節の形象なり。君子が数度を制定し德行を品評するは、皆節の義理を体会するなり。「数」は計数で、一・十・百・千の類なり。「度」は法度で、寸・丈・咫・尺の類なり。泰卦の坤は众多を象徴するがゆえに「数」に取象し、また均平を主るがゆえに「度」に取象し、変じて坎の象る法律となりてそれらを節制す。泰卦の乾は徳を象徴し、乾の運行は至って剛健なり。変じて兌の象る口舌となりてそれを議論品評す。

初九:不出戶庭,無咎。泰乾為闢戶為人,變為兌則人與戶俱隱;雖上與四應,四體為坎,坎為宮象庭,而前未及互震,是震足未行至前庭也,蓋慎密之至也,故無咎。象曰:「不出戶庭,知通塞也。」居節之初,不宜妄行,惟知通塞之宜,始能塞所當塞而不出也。

初九の爻辞、自ら家の門庭を出ざれば、過なし。泰卦の乾は開門を象徴し人を象徴し、変じて兌となりて後、人も門も皆隠没して見えず。初九は六四と相応すと雖も、六四は坎体に属し、坎は宮室を象徴し庭院に象る可しと雖も、初九は前に向かって未だ互体震に走到せず、すなわち震の象る足は未だ前庭に迈び至らず。これ謹慎周密の極なり。ゆえに過なし。『小象伝』にいう、「戸庭を出ざるは、通すべき時と塞ぐべき時とを知ればなり」。節卦の開頭に処するは、軽挙妄動すべからず。ただ通塞の分寸を知ってこそ、封閉すべき時に封閉して外出せざるを得ん。

九二:不出門庭,凶。二之前為互艮,艮為門庭,以互震之足前行出之,則得節之時義矣。蓋初宜節以守己,而二宜節以立行,倘復不出門庭,是自坐困失時也,凶矣。象曰:「不出門庭凶,失時極也。」虞氏曰:「極,中也。」言失宜出之時也。

九二の爻辞、門庭を出ざれば凶険。九二の前は互体艮で、艮は門庭を象徴し、互体震の象る足を以て前に向かって迈出すれば、すなわち節卦の時義に合す。初九は節制を以て自らを守住すべく、九二は節制を以て行動を確立すべし。もしなお門庭を出ざれば、それは自ら困坐に陥り時機を錯失するなり。ゆえに凶険。『小象伝』にいう、「門庭を出ざれば凶なるは、時機の中を錯失せればなり」。虞翻にいう、「極はすなわち中なり」。これは出るべきあの恰当の時を過ぐるを言う。

六三:不節若,則嗟若,無咎。三居兌上,澤滿則溢,如人極奢之後漸至困苦,而深悔其不節,互震之聲出於兌口,是嗟若也。由是變奢為儉,亦可謂善補過者,故無咎。象曰:「不節之嗟,又誰咎也。」六四:安節,亨。四與初應,坎水歸就兌澤,已無氾濫之虞,而且互震將終,上遇艮止,則是不待勉強、自然受節者,故曰安節。陰柔得位,不溢法度,可以輔五以節制天下,而所向無阻也。象曰:「安節之亨,承上道也。」

六三の爻辞、節制せざれば嗟叹す、過なし。六三は兌の上位に居り、沢水は満てば漫出せんとす。人の奢侈が極に至り漸く困苦に陷入するに譬え、ここに至って初めて当初節制を知らざりしを深く悔ゆ。互体震の象る声音は兌の象る口より出づ。これがすなわち「嗟若」なり。これより奢を変じて倹と為せば、また善く過を補う者と算す可し。ゆえに過なし。『小象伝』にいう、「節制を知らずして嗟叹するは、また誰をか怪まん」。六四の爻辞、安然として節を守れば亨通す。六四は初九と相応し、坎水は兌沢に帰入して已に泛濫の虞なし。況んや互体震はここに至って将に終わらんとし、上に向かってまた艮の止に遇う。これはすなわち勉強を待たずして自然而然に節制を接受する者なり。ゆえに「安節」という。それは陰柔を以て正位に居り、法度を逾越せず、九五を輔佐して天下を節制し、向かう所阻なきを得ん。『小象伝』にいう、「安節の亨なる所以は、上の九五の道を承奉すればなり」。

九五:甘節,吉,往有尚。五在泰為坤,坤為土,甘為土氣;五在節為坎,坎為泉,泉水亦甘,此得中之節也,故曰甘節。夫味甘則適口,節甘則宜人,前往則被澤者多,故曰有尚。象曰:「甘節之吉,居位中也。」上六:苦節,貞凶,悔亡。上為坎終,道窮則變,坎下伏離,離火上炎,則反甘為苦,故曰苦節。夫節至於苦,則固陋艱難,在己先不自適,而且吝嗇過甚,易致眾怨,固守不變,實有因節得禍者,故曰貞凶。祇是愛惜物力,自奉有餘,不致暴殄天物,故悔亡也。象曰:「苦節貞凶,其道窮也。」

九五の爻辞、甘美なる節制は吉祥、往けば人の推崇を受けん。九五は泰卦に於いて本と坤なり、坤は土に属し、甘はまさに土の気味なり。節卦に至れば、九五は坎に属し、坎は泉を象徴し、泉水の味もまた甘なり――これは中を得るの節なり。ゆえに「甘節」という。味が甘美なれば口に適し、節制が甘美なれば人に宜し。前に向かって推行すれば、恩沢を蒙る人は多し。ゆえに「有尚」という。『小象伝』にいう、「甘節の吉なる所以は、その居る位が居中なればなり」。上六の爻辞、苦澀なる節制は固守すれば凶、悔恨消失す。上六は坎の終点で、道窮すれば則ち変ず。坎の下には離が伏し、離火は上に向かって炎焼し、甘は反って苦と為る。ゆえに「苦節」という。節制が苦の地步に至れば、固陋艱難にして、自ら先ず快適ならず、加うるに吝嗇太甚なれば、容易に衆人の怨恨を招来す。一味固守して改めざれば、確かに節制に因って反って禍を招く者あり。ゆえに「貞凶」という。ただしそれは畢竟物力を愛惜し、自奉なお余裕あれば、天物を暴殄するに至らず。ゆえに悔恨はなお消失し得。『小象伝』にいう、「苦節固守して凶なるは、その道路已に尽头に走り尽きたればなり」。

中孚(ちゅうふ)の卦

【兌下巽上,中互艮震】中孚為乾卦離之變體,重畫離象。離體中虛象舟,故卦辭曰涉川;內外卦之中爻皆實,故卦曰孚。中孚:豚魚吉,利涉大川,利貞。中實為孚,巽上兌下,二五得中,又為陽剛,故卦名中孚。夫惟孚則物應,豚魚可感;抑惟孚則行通,大川可涉。倘拘於一偏,孚亦有失,故又曰利貞。

『中孚』の卦は下卦が兌、上卦が巽で、二から四爻は互体して「艮」を成し、三から五爻は互体して「震」を成す。中孚は主干の卦「離」の変体で、離の三画を各々一倍加えて重写す。離は陽・陰・陽で、加倍すれば陽陽・陰陰・陽陽となり、まさに中孚なり。離体は中間虚空にして舟に象る可し。ゆえに卦辞に「渉川」という。内卦と外卦の中爻は皆実の陽爻なれば、ゆえに卦名を「孚」という。卦辞にいう、中孚、小豚と魚とすら感通し得、吉祥。大河を渡るに宜しく、正を守るに宜し。中間充実すればすなわち「孚」なり。巽は上にあり兌は下にあり、第二爻と第五爻は各々中位に居り、また皆陽剛なり。ゆえに卦名「中孚」。ただ誠信あれば、万物に回応ありて、豚魚すら感動し得。ただ誠信あれば、行事は通達し、大川すら渡越し得。もし一偏に拘執すれば、誠信もまた失あり。ゆえにまた「利貞」という。

彖曰:「中孚,柔在內而剛得中,說而巽,孚乃化邦也。豚魚吉,信及豚魚也。利涉大川,乘木舟虛也。中孚以利貞,乃應乎天也。」傳曰「中孚,信也」,則中孚謂之信。顧信為人言,言尚未出,則信猶藏於中,如鳥伏卵者然,故不得顯名曰信,而惟曰孚。夫內有孚誠者則中多虛,如卦體之二柔在內;而內有孚誠者則言必實,如二五之陽剛得中。體兌之說,以巽順行之,可以教化邦國。雖邦國不易言化,而以孚信將之,則無不化者。至於物亦可感,險亦可濟,則孚得矣。

『彖伝』にいう、中孚の卦は、陰柔は内に居りて陽剛は各々中位を得、内は悦び外は順い、誠信は便ち邦国を感化し得ん。「豚魚吉」は、誠信が豚魚に及ぶなり。「利渉大川」は、木舟に乗じて舟腹中空なればなり。中孚にしてまた正を守るに利あれば、則ち上は天道に応ず。『雑卦伝』に「中孚はすなわち信なり」といえば、則ち中孚をも信と称す。ただし「信」の字は人に従い言に従い、話はなお口に出ざる時、この誠実はなお心中に蔵れ、鳥の卵の上に伏して孵化するがごとし。ゆえになお明らかに「信」と称する能わずして、ただ「孚」と称す。内心に孚誠を懐く人は、心中は多くは虚なり。卦体の二つの柔爻が内に在るがごとし。内心に孚誠を懐く人は、言い出す所の話は必ず実なり。第二・第五の二つの陽剛が各々中位に居るがごとし。兌の欣悦を以て体と為し、巽の順従を用いて之を推行すれば、すなわち邦国を教化し得ん。邦国は感化を談じ難しと雖も、誠信を以て之を扶持すれば、化せざるなし。推して物もまた感動し、険もまた済渡し得れば、則ち真に「孚」を得たり。

物維何?豚魚是也。此卦上為巽風,下為澤水,豚感風生,魚育澤內,且巽亦為漁,豚亦水物。鄭氏曰:「亥為豕,豚為豕之小者。」豚魚冥頑,極難感通,至於信感豚魚,則物之靈於豚魚者可知矣,此信及豚魚之說也。險維何?大川是也。兌澤瀦匯,散以巽風,風行水上則水欲溢,水底風生則風倍激。木居澤內,原有舟象,而卦又為兼畫之離,象舟之虛者。虛舟行於澤上,復有巽風助之,則川可涉。至於川亦可涉,則事之易於涉川者勿論矣,此利涉大川之說也。

いわゆる「物」とは何を指すや。すなわち豚と魚なり。此の卦の上体巽は風、下体兌は沢水なり。小豚は風気に感じて生じ、魚は沢の中に長養す。しかも巽もまた漁事を象徴し、豚もまた水畜なり。鄭玄にいう、「亥は猪に属し、豚は小猪なり」。豚魚は冥頑不霊にして、最も感通し難し。豚魚すら誠信に感動せられれば、則ち豚魚より霊性高き生物は推して知るべし――これがすなわち「信及豚魚」の意なり。いわゆる「険」とは何を指すや。すなわち大川なり。兌沢は水を積聚し、巽風に吹散せられ、風が水面を行けば、水は漫溢せんとす。水底に風生じれば、風勢は加倍激盪す。木が沢中に在れば、本と舟の形象あり。而して此の卦はまた加倍重画の離にして、まさに舟腹の空虚を象徴す。空舟が沢の上を行き、また巽風の相助あれば、大川は渡る可し。大川すら渡り得れば、則ち川を渡るより容易き事は言うに及ばず――これがすなわち「利渉大川」の意なり。

是知心非虛不能應物,故中孚之卦體中虛;心非實無以任事,故中孚之卦體外實。虛貴得位,惟四以陰居陰,不比三以應初;實貴得中,惟五以陽居陽,不比上以應二。五為天位,四土應之,即為應天。天道至誠,應天以為孚,則孚正矣,故曰利貞也。

これに由り知るべし、心は虚ならざれば外物を感応する能わず、ゆえに中孚の卦体は中間虚なり。心は実ならざれば事務を担当する能わず、ゆえに中孚の卦体は外囲実なり。虚は位を得るを貴び、ちょうど六四が陰爻を以て陰位に居り、六三に親比せずして初九と相応するがごとし。実は中を得るを貴び、ちょうど九五が陽爻を以て陽位に居り、上九に親比せずして九二と相応するがごとし。第五爻は天位で、六四は下に之を承応す。これがすなわち「応乎天」なり。天道は至って誠実なり。天に応ずるの心を以て誠信と為せば、誠信は純正なり。ゆえに「利貞」という。

象曰:「澤上有風,中孚。君子以議獄緩死。」風入澤中,默然感動,有中孚象。卦體兼離,離為網罟象獄,獄為罪人幽死之地,兌口以議之,巽順以緩之,察獄救死,中孚之大者。初九:虞吉,有他不燕。虞,安也;燕、宴通,亦安也。荀氏曰:「初應於四,宜自安虞,無意於四則吉。」故曰虞吉也。蓋孚於中足,不待外求,儻欲求應,是為有他;有他則失在己之孚,不安矣。象曰:「初九虞吉,志未變也。」初心未變,故安於孚,無他志也。

『大象伝』にいう、沢の上に風あり、これ中孚の象なり。君子はこれに由り訟獄を審議し、死刑を寛緩す。風が沢中に吹入れば、無声無息にして水波は相応ず――まさに中孚の象あり。此の卦の卦体は兼ねて離を含み、離は羅網を象徴し、牢獄に象る可し。牢獄は罪人が幽囚して死を待つ所なり。兌の象る口を以て之を審議し、巽の象る順を以て之を寛緩し、獄情を明察し人命を救うは、これ中孚の道の中の最大の一事なり。初九の爻辞、安処すれば吉、別に他求あれば安寧を得ず。「虞」は安なり。「燕」は「宴」と通じ、また安なり。荀爽にいう、「初九は六四と相応すと雖も、それは自ら其の安を安んずべく、六四に攀附するの意なきを吉とす」。ゆえに「虞吉」という。誠信は己が心中に於いて已に充足し、外に向かって求むるを須いず。もし一心に外応を求めんと思えば、すなわち「有他」なり。他求あれば、反って己が本有の誠信を失いて安からず。『小象伝』にいう、「初九安処して吉なるは、其の心志変改せざればなり」。初心変ぜず、ゆえに己が誠信に安んじて、別に他志なし。

九二:鳴鶴在陰,其子和之;我有好爵,吾與爾靡之。二為互震,京氏曰:「震為鶴。」震又為善鳴,故曰鳴鶴。前有二陰,二居其下,故曰鳴鶴在陰。既已在陰,跡近幽隱,雖云有鳴人似難知,然而陽倡則陰和。陽大陰小,陰為陽之子,是陽方鳴於內,而陰已和於外也。猶之震為諸侯,是謂之爵,而爵位之榮,一人有之,人人共欲有之。孟氏曰:「靡,共也。」是我有好爵、吾與爾靡之也。此有所感,彼有所應,則言行之發不可不慎,蓋若此。象曰:「其子和之,中心順也。」中心謂三四,居卦之中。

九二の爻辞、鶴は幽隠の処に鳴き、其の小鶴は之に和す。我に好酒爵あり、我は汝と共に之を享す。九二は互体震の中に処し、京房にいう、「震は鶴を象徴す」。震はまた善鳴を主るがゆえに「鳴鶴」という。其の前に二つの陰爻あり、九二は其の下に居るがゆえに「鳴鶴在陰」という。すでに陰処に在れば、行蹟は幽隠に近く、鳴声ありと雖も、别人は知ること難きがごとし。然れども陽が一たび倡導すれば、陰は則ち応和す。陽は大で陰は小で、陰は陽の子女に譬ゆ。ゆえに陽剛はまさに裏に於いて鳴き、陰柔は已に外に於いて応和す。これは震の諸侯を象徴するに譬え、諸侯に爵位あれば、爵位の栄耀は、一人之を得れば人皆同じく有らんと欲す。孟喜にいう、「靡はすなわち共なり」。これがすなわち「我有好爵、吾与爾靡之」なり。こちらに感ある所あれば、かなたに応ある所あり。見れば言行の発出は慎まざる可からず、道理はここに在り。『小象伝』にいう、「小鶴が之に和するは、内心順従すればなり」。いわゆる「中心」は三・四の両爻を指し、それらは全卦の中間に居る。

六三:得敵,或鼓或罷,或泣或歌。心惟虛則能應物,三為陰爻,虛矣;然以通體言之,則貴虛以待萬事之感,而以一爻言之,轉以虛而失主一之恆。三四皆陰曰敵,三四相比,是為得敵。三為陰,敵亦為陰,陰虛無主,又居大離之內、互震互艮之間。《九家易》曰:「震為鼓。」是欲鼓以動之,而前遇互艮,是又以艮止而罷;巽為白眼,兌澤見於目中,是為泣;而震為喜笑,出於兌口,是又以互喜而歌。鼓罷歌泣,變動無常,心為私繫,不可以言孚矣。象曰:「或鼓或罷,位不當也。」

六三の爻辞、敵手に遇い、或いは鼓を撃ちて進撃し、或いは止まりて罷手し、或いは哭泣し、或いは唱歌す。心はただ虚にしてこそ外物を感応し得。六三は陰爻にして、まさに虚なり。然れども全卦通体に就いて言えば、虚は貴ぶ可きにして、虚心に万事的感応を接受し得。単独一爻に就いて言えば、反って虚に因って専一不移の恒心を失う。三と四は皆陰爻なれば「敵」と称し、三四緊鄰すればすなわち「得敵」なり。六三は陰で、敵手もまた陰なり。陰虚にして主宰なく、また大離の中、互震と互艮との間に処す。『九家易』にいう、「震は鼓を象徴す」。ここにおいて鼓を撃ちて振作せんと欲すれども、前面に互体艮に遇い、艮は静止を主れば、また罷手す。巽は多白眼を象徴し、兌の象る沢水は今や眼中に在れば、すなわち哭泣なり。震はまた歓笑を象徴し、兌の象る口より発すれば、ここにおいてまた互体の喜に因りて唱歌す。忽ち鼓し忽ち罷め、忽ち歌い忽ち泣き、変動に常度なく、心は私意に牵繫せられ、則ち誠信を談ずるに足らず。『小象伝』にいう、「或いは鼓し或いは罷むは、その居る所の位当たらざればなり」。

六四:月幾望,馬匹亡,無咎。四陰得位,上應九五,其德如月。月本無光,以受陽光為光,巽上二陽、下有一陰,陽光尚缺,如幾望然,亦將盈矣。然孚誠主一,無有二念,四比三陰,三為四匹,匹,對也;體為互震,震為馬,四亡其馬匹以比九五,彖傳所言應天,蓋指此也。得孚之正,故無咎。象曰:「馬匹亡,絕類上也。」二陰為同類,絕同類上比五也。

六四の爻辞、月は将に圓ならんとし、馬は其の配偶を失う、過なし。六四は陰爻を以て陰位に居りて正を得、上に向かって九五を応和す。その徳性は月に譬ゆべし。月は本来自ら光なく、日光を承受して初めて光あり。巽体の上面の二つの陽爻、下面の一つの陰爻、陽光はなお欠缺あり、まさに月将に圓ならんとして未だ全く圓ならざるに似るが、しかも将に盈満せんとす。然れども誠信は専一を貴び、二心有る可からず。六四は六三の陰に緊鄰し、六三は六四の配偶なり。「匹」とはすなわち配对なり。六四の処する互体は震で、震は馬を象徴す。六四は己が馬匹配偶を舍てて九五に親附するは、『彖伝』のいう「応乎天」は、おそらくこの事を指す。それは誠信の正道を得るがゆえに過なし。『小象伝』にいう、「馬匹の失は、同類を断絶して上に向かえばなり」。二つの陰爻は同類なり。同類の牵连を断絶して上に向かって九五に親比す。

九五:有孚攣如,無咎。四之孚猶存諸心,五之孚則著於外。存諸心則微不可見,著於外則人所共明,故五獨曰有孚。不尚權謀,惟以至誠感動天下,則人心固結,有如繩之繫攣者然。五為巽中,巽為繩,故曰攣如。如是則孚始可以化民善俗,無咎矣。象曰:「有孚攣如,位正當也。」

九五の爻辞、誠信を懐きて衆人を牵繫すれば、過なし。六四の誠信はなおただ心裏に存するのみ、九五の誠信は已に外に顕現す。心裏に存すれば微隠にして見えず、外に顕現すれば人皆明白に見る。ゆえにただ九五の爻辞に「有孚」という。権術謀略を崇尚せず、ただ至誠を以て天下を感動せば、人心は便ち牢牢と凝結し、繩索を以て繫連するがごとし。九五は巽の中位に処し、巽は繩を象徴するがゆえに「攣如」という。かくの如くすれば、誠信はこそ百姓を化育し風俗を改良し得、過なし。『小象伝』にいう、「有孚攣如は、その居る位が正しく相当なればなり」。

上九:翰音登于天,貞凶。禮曰:「雞曰翰音。」巽為雞,上為天位,故有翰音登天之象。蓋至於上則孚已窮,矯詐虛偽無所不有。雞非能飛之物,而曰登天,則其妄誕欺人,所失者大,故曰貞凶。象曰:「翰音登于天,何可長也。」人實不信,豈能久乎?

上九の爻辞、鶏の叫声は天に升る、固守すれば凶。『礼記・曲礼』にいう、「鶏の叫ぶを翰音と曰う」。巽は鶏を象徴し、上爻は天位なれば、「翰音登天」の象あり。上爻に至れば、誠信は已に窮尽し、矯飾欺詐・虚浮偽妄は有らざるなし。鶏はもと能く飛ぶの物にあらざるに、それが天に登ったと言うは、見れば其の虚妄荒誕・世人を欺騙するや、失う所の物は太だ大なり。ゆえに「貞凶」という。『小象伝』にいう、「鶏声天に登る、何ぞ長久せんや」。人が実に信用を講ぜざれば、何ぞ長久せんや。

小過(しょうか)の卦

【艮下震上,中互兌巽】小過為乾卦坎之變體,重畫坎象。坎為弓、為陷,故爻辭曰弋、曰穴。小過:亨,利貞,可小事,不可大事,飛鳥遺之音,不宜上,宜下,大吉。過者,過中之謂;小者過中,故艮下震上之卦曰小過。夫事宜得中,有時而欲救弊,即過中以矯之,亦亨通利貞,但惟宜處小事而不宜處大事。儻取鑑於飛鳥,聞其聲音以權上下之宜,則大吉。

『小過』の卦は下卦が艮、上卦が震で、二から四爻は互体して「兌」を成し、三から五爻は互体して「巽」を成す。小過は主干の卦「坎」の変体で、坎の三画を各々一倍加えて重写す。坎は陰・陽・陰で、加倍すれば陰陰・陽陽・陰陰となり、まさに小過なり。坎は弓を象徴し坎陷を象徴するがゆえに、爻辞の中に「弋」(繩を繫げて射る)あり、「穴」あり。卦辞にいう、小過、亨通す。正を守るに宜しく、小事を為す可く大事を為す可からず。飛鳥は鳴声を遺す。上るに宜からず、下るに宜し。大吉。「過」とは中道を超過するの義で、小者が中を超過するがゆえに、艮下震上の卦を「小過」と言う。事を為すは本と中を得べきなれど、時として弊病を救治せんがため、故に中道を超過して之を矯正すれば、かようにもまた亨通し、正を守るにも利あり。ただ小事を処理するに宜しくして大事を処理するに宜からず。もし飛鳥に取鑑し、その鳴声を聴いて該上該下を権衡せば、すなわち大吉なり。

彖曰:「小過,小者過而亨也。過以利貞,與時行也。柔得中,是以小事吉也;剛失位而不中,是以不可大事也。有飛鳥之象焉,飛鳥遺之音,不宜上宜下大吉,上逆而下順也。」過何以雲小?陰過故稱小也。陽大陰小,彼四陽二陰謂之大過,則四陰二陽即謂之小過。夫惟有行始見為過,故小過有亨通之義;而小過又宜審時,故小過有利貞之戒也。陰既過陽,而陰因以得中,陰道柔順,凡事以順行,可以杜驕盈之失。然此乃事之小者,則陰亦僅能勝此,故於小事可也。至於二陽既失尊位,又不得中,雖陽性剛健能荷重任,而不中則無其德,無位則無其權,無德無權,行則多阻,故於大事不可也。

『彖伝』にいう、小過は、小者が超過して亨通を得るなり。超過してなお正を守るに宜しきは、時に随いて行かんとするなり。陰柔が中位を得れば、ゆえに小事吉祥なり。陽剛が尊位を失いまた中に居らざれば、ゆえに大事を為す可からず。卦中に飛鳥の象あり。飛鳥が鳴声を遺す、上るに宜からず下るに宜しくして大吉なるは、上るは逆にして下るは順なればなり。「過」は何を以て「小」と称するや。超過するは陰なればなり。陰は小と称す。陽大陰小にして、あの四陽二陰の卦を『大過』と言えば、この四陰二陽の卦は自然『小過』と言う。ただ行動してこそ「過」を顕出す、ゆえに小過は亨通の義を含有す。而して小過はまた時勢を審察せざる可からず、ゆえにまた「利貞」の告戒あり。陰はすでに陽を超過したれば、陰もまたこれに因って中位を占住す。陰道は柔順にして、凡事順従を以て行えば、驕盈の失を杜絶し得。ただしこれは小事のみなり、陰もまた僅かにこの地步まで勝任するのみ、ゆえに小事の上に於いて行う可し。至りて両個の陽爻は、すでに尊位を失い、また中に居らず。陽性は剛健にして重任を担う能しと雖も、中なければ相応の徳なく、位なければ相応の権なし。無徳無権なれば、事を為すに処処受阻す。ゆえに大事の上に於いて行う可からず。

卦體有飛鳥之象,宋氏曰:「二陽在內,上下皆陰,有似飛鳥舒翮之象。」震為聲音,飛而且鳴,故曰遺之音也。顧鳥既曰飛,則其時尚未止,儻惟體震動,愈飛愈上,愈上愈逆,則羽翼力窮,將有終不得安者;若夫體厥艮止,愈飛愈下,愈下愈順,則一枝可借,將有以全樹棲汝者。則是過亢多塞,從下則通,小過之時取鑑於飛鳥之音,則小過自亨,故曰不宜上宜下大吉也。

卦体に飛鳥の象あり。宋衷にいう、「二つの陽爻は中間に在り、上下は皆陰爻なり。大いに飛鳥の翅膀を展開する様に似たり」。震は声音を象徴し、鳥は辺飛び辺鳴くがゆえに「遺之音」という。すでに「飛」と言えば、見れば此の時なお停まらず。もし一味に震の躁動に順えば、飛ぶほど愈々高く、高いほど愈々逆にして、羽翼の気力は尽き、終竟安身する処なし。もし艮の静止を体会し得れば、飛ぶほど愈々低く、低いほど愈々順にして、一根の樹枝も借宿するに足り、甚だしきは整棵の樹も棲息に供す可し。見れば過度に高亢すれば処処阻塞し、肯んじて下に向かえば一路通達す。小過の時に飛鳥の鳴声に取鑑すれば、小過は自然亨通す。ゆえに「不宜上、宜下、大吉」という。

象曰:「山上有雷,小過。君子以行過乎恭,喪過乎哀,用過乎儉。」雷出於地而在山上,小過象也。君子體震之動而以互巽之順行之,是為過乎恭;體互巽之號而復出於互兌之口,是為過乎哀;體巽之近利而用之如艮之止,是為過乎儉。初六:飛鳥以凶。卦體象取飛鳥,上與初皆鳥之翼,鳥以翼飛,故初曰飛鳥。初與四應,是初之飛乃欲過二三以應四,位居艮初,不能體艮止之義,勢必至於力窮無所依也,故曰凶。象曰:「飛鳥以凶,不可如何也。」

『大象伝』にいう、山の上に雷が響く、これ小過の象なり。君子はこれに由り行為に於いて恭に過ぎ、居喪に於いて哀戚に過ぎ、用度に於いて倹省に過ぐるなり。雷はもと地中より発すれど、今や山上に在るは、まさに稍や常度を越過する小過の象なり。君子は震の動を体会し、互体巽の順を用いて之を推行するは、すなわち「過乎恭」なり。互体巽の号呼を体会し、また互体兌の象る口より発出するは、すなわち「過乎哀」なり。巽の「利市に近きこと三倍」の性情を体会しながら、艮の如く之を節止するは、すなわち「過乎倹」なり。初六の爻辞、飛鳥はこれに因りて凶あり。卦体は飛鳥に取象し、上爻と初爻は皆鳥の翅膀なり。鳥は翅膀に倚りて飛ぶがゆえに初六に「飛鳥」という。初六は九四と相応し、見れば初六の飛は二・三两爻を越えて九四に応ぜんと欲するなり。それは位が艮体の初に居るに、艮の「止」の意義を体会する能わざれば、勢い力尽きて依托する所なきに弄せんとす。ゆえに凶という。『小象伝』にいう、「飛鳥これに因りて凶を致すは、是れ如何ともする可からざるの事なり」。

六二:過其祖,遇其妣,不及其君,遇其臣,無咎。二與五應,而為二陽所間。陽尊陰卑,則陽即為祖,二欲應五,必過其祖乃始得遇,故曰過其祖。二為陰,五亦為陰,五位尊為妣,而二之過祖以求遇者是其妣也。二陰不應,遇如不遇也。夫五為妣,又為君位,五為君,二即為臣,倘知五不宜遇而退歸自守,二為臣位,陰亦臣象,居二陽之後,是為不及其君,蓋言不往求遇,得宜下之義矣,故無咎。象曰:「不及其君,臣不可過也。」小過之時,小事可過,至於君尊臣卑,剛常之大,臣不可過君以犯義也。

六二の爻辞、祖父を越過して祖母に遇う。君主に追及せざるに、臣属に遇う。過なし。六二は六五と相応すれど、中間は九三・九四の二つの陽爻に隔断せられたり。陽は尊で陰は卑で、陽は祖父に譬ゆ。六二が六五に応ぜんと欲すれば、必ずこの両位の「祖」を越過してこそ相遇し得。ゆえに「過其祖」という。六二は陰で、六五もまた陰で、六五は位尊きがゆえに「妣」と称し、すなわち祖母なり。六二が祖父を越えて相遇を求むる所は、まさにこの祖母なり。然れども二つの陰爻は並び応ぜず、遇うも遇わざるに等し。六五はすでに「妣」にして、また君位に居る。五はすでに君と為れば、二は便ち臣なり。もし六二が六五の強求して相遇す可からざるを明白にして退き返りて自守すれば――二は臣位で、陰もまた臣の象徴で、それは二つの陽爻の後に居る。これがすなわち「不及其君」なり――すなわち強求して相遇せんとせざるは、まさに小過の時に処する「宜下」の道理に合す。ゆえに過なし。『小象伝』にいう、「君主に及ばざるは、臣子は君主を越過する可からざればなり」。小過の時に於いて、小事の上では稍々過分す可し。至りて君尊臣卑は、是れ綱常の中の最大の一条にして、臣子は君主を越過して大義を干犯す可からず。

九三:弗過【句】,防之【句】,從或戕之,凶。過而曰小,是為陰盛於陽,則二陽勢弱,皆不宜過陰以求正應,故曰弗過。且蘭蓀欲茂,秋風害之;賢哲欲正,讒人敗之。不惟不宜過,而又宜善為防。倘或恃其陽剛,躁率妄動,欲從四以求上陰,則五陰相間,以震木克艮士,轉受戕害,不宜上而上之,故凶也。象曰:「從或戕之,凶如何也。」

九三の爻辞、越過する勿れ(ここに断句)、之を防備せよ(ここに断句)、もし従い上らば或いは殺害を遭わん、凶険。いわゆる「過」にして「小」と称するは、陰が陽を盛んに過ぐるなり。二つの陽爻は勢力単薄にして、皆陰爻を越えて己が正応を求むるに宜からず。ゆえに「弗過」という。況んや蘭蕙がまさに長茂せんとするに、秋風来りて摧害し、賢人哲士がまさに世道を匡正せんとするに、讒佞小人来りて敗壊す――ただに越過す可からざるのみならず、なお好く防備すべし。もし己が陽剛に仗り、急躁妄動して、九四に跟いて上りて上六の陰を求めんと欲せば、則ち六五の陰は中間に横たわり、上体震の象る木は艮の象る土を克し(九三はまさに艮体の中に在り)、反って其の戕害を受けん。本と上向するに宜からざるに偏に上向するがゆえに凶険なり。『小象伝』にいう、「従い上りて或いは殺害を遭う、此の凶険はまた如何ともせんや」。

九四:無咎,弗過【句】,遇之【句】,往厲必戒,勿用永貞。陰既過陽,陽勢孱弱,持以柔道尚可自全,故三以陽居陽位致凶,四以陽居陰位得無咎也。然雖與初為應,而二陰間之,亦弗能過。但下為艮止,二為艮中,求二轉得宜下之義,言不必過之,已遇之矣。雖震德曰動可以前往,然往前為上,非小過之宜,危厲須戒。若固守本位,是為永貞,則是守株待兔,終於勿用,永在於上,不能下以求宜也。象曰:「弗過遇之,位不當也;往厲必戒,終不可長也。」弗能過二而宜遇二,言當下來居上非其位也;前往致危又不可長守本位,不可長、不可永貞也。

九四の爻辞、過なし。越過する勿れ(ここに断句)、就近して相遇え(ここに断句)。往けば危険あり、必ず戒惧せよ、長く固守す可からず。陰はすでに陽に勝てれば、陽の気勢は孱弱にして、柔順の道を以て自処すればなお保全し得。ゆえに九三は陽爻を以て陽位に居りて凶を致し、九四は陽爻を以て陰位に居りて反って咎なし。九四は初六と相応すと雖も、中間は二つの陰爻に隔断せられ、越えるもまた越え得ず。然れども其の下は艮の止で、六二はまた艮の中爻なり。向き転じて六二に相遇を求めれば、まさに「宜下」の義を得たり――すなわち越え過ぐるを須いず、眼前に於いて已に遇いたり。震徳は動を主り、本と前行す可しと雖も、前に向かうはすなわち上に向かうにして、小過の宜に合せず。危険は戒惧を須う。もし本位を死守して動かざれば、すなわち「永貞」にして、あれは則ち守株待兎と為り、終に施用する所なきに帰し、永遠に上に待ちて、肯んじて下来りて其の宜を求めず。『小象伝』にいう、「越えずして就近して相遇うは、居る所の位当たらざればなり。往けば危険ありて必ず戒惧せよ、終竟長久す可からざればなり」。六二を越える能わずして六二に就着すべきは、それが本下来るべく、上位に居るは其の正位にあらざるを言う。往けば危険を招致し、また本位を長守す可からず――すでに長久す可からず、また一味固守す可からざるなり。

六五:密雲不雨,自我西郊,公弋取彼在穴。五為互兌,兌澤為雨,而五為天位,雨在天上未及於地,故不為雨而祇為雲。兌位正西,謂之西郊;雲在天上,郊為地下,雲自西郊,則是上而未下也。我,五為卦主也。弋,繒繳射也。五為君位為公,下應於二,二為艮手,卦體象大坎,坎為弓,坎陷為穴,互巽為繩曰弋。手持坎弓,加以巽弋,下取坎穴中物,是為取彼在穴。夫弋以取飛鳥,今則取於穴中,舍上就下,始得小過宜下之義也。蓋陰德卑順,故以宜下之義勖之。象曰:「密雲不雨,已上也。」

六五の爻辞、濃雲密布して雨降らず、雲は我が西辺の郊野より飄来す。王公は繩繋の箭を以て彼の洞穴に蔵する者を射取す。六五は互体兌の中に処し、兌沢は本と雨と為る可しと雖も、第五爻は天位にして、雨はなお天上に在りて未だ地面に落ちず。ゆえに雨と為さずしてただ雲のみ。兌の方位は正西、ゆえに「西郊」と称す。雲は天上にあり、郊は地下にあり、雲は西郊より来れば、すなわち升り上りて未だ降り来らざるなり。「我」とは六五を指し、それは全卦の主なり。「弋」は絲繩を繋げた箭を用いて射獵するなり。六五は君位に居るがゆえに「公」と称す。それは下に向かって六二と相応し、六二は艮の象る手なり。全卦の卦体は一個の大坎の如く、坎は弓を象徴し、坎の陷は洞穴を象徴し、互体巽は繩を象徴し、すなわち「弋」の繳なり。手に坎弓を持ち、巽繩の箭を加え、下に向かって坎穴中の獲物を取る。これがすなわち「取彼在穴」なり。繩繫の箭は本と飛鳥を射るなり。今や却て洞穴の裏に至りて之を取るは、上面を舍てて下面に就く。これこそ小過の「宜下」の道理に合す。陰の徳性は本来卑順なり。ゆえに「宜下」の義を以て之を勉励す。『小象伝』にいう、「濃雲雨降らざるは、それが已に上面に升り上りたればなり」。

上六:弗遇【句】,過之,飛鳥離之,凶,是謂災眚。卦至於上,卦位已窮,倘欲前行,其將何遇,故曰弗遇也。倘當此而不知止,猶欲過之,必如飛鳥之無托,以遭羅網之凶。蓋卦窮則變,大坎之下伏離,離為網罟,故曰飛鳥離之。鳥離於人必見殺害,坎為災眚,上六當之。是知行小過之事,惟宜謙退,不宜高亢,聖人之戒深矣。象曰:「弗遇過之,已亢也。」窮高曰亢,亢則失宜下之義,故凶。

上六の爻辞、遇うこと能わず(ここに断句)、而もなお之を越過せんとす。飛鳥は羅網に撞入す、凶。これを天灾人禍と謂う。卦が上爻に至れば、卦位已に窮まり、もしなお前行せんと欲せば、なお誰に遇わんや。ゆえに「弗遇」という。もしこの地步に至りてなお停止を知らず、仍然として之を越過せんと思えば、則ち必ず飛鳥の棲托する処なきがごとく、羅網に撞上して凶を遭わん。卦窮すれば則ち変ず。大坎の下には離が潜伏し、離は羅網を象徴す。ゆえに「飛鳥離之」という――「離」とはすなわち遭遇・陷入なり。鳥が人の手裏に落ちれば、必ず殺害せられん。坎は灾眚を象徴し、まさに上六の身上に応ず。これに由り知るべし、小過の事を弁ずるはただ謙退に宜しく、高亢に宜からず。聖人の告戒は甚だ深切なり。『小象伝』にいう、「遇わずしてなお越過するは、已に太高亢なればなり」。窮極の高を「亢」と言い、亢すれば則ち「宜下」の道理を失う。ゆえに凶険なり。

既済(きせい)の卦

【離下坎上,中互離坎】泰:既濟為三陽三陰卦,自泰來。虞氏曰:「泰五之二。」既濟:亨小,利貞,初吉終亂。既,盡也;濟,渡水也。下離濟上坎,故曰既濟。濟期於濟,故曰亨;濟至於既,故亨曰小。既濟之時祇宜保濟,故曰利貞。由未濟以成濟,故曰初吉;而既濟之後難保長濟,故曰終亂也。

『既済』の卦は下卦が離、上卦が坎で、二から四爻は互体して「離」を成し、三から五爻は互体して「坎」を成す。それは『泰』卦から変じた。既済は三陽三陰の卦で、『泰』から来る。虞翻にいう、「泰卦の第五爻と第二爻とが互易す」。卦辞にいう、既済、亨通するは小者のみ。正を守るに宜しく、初めは吉祥、終わりは動乱す。「既」は完毕、「済」は渡水なり。下の離が上の坎を渡るがゆえに「既済」という。渡水は総て渡成を盼望するがゆえに「亨」という。渡りて「已经渡完」の地步に至れば、亨通の余地は小なり。ゆえに「亨小」という。既済の時はただ已成の済を守住するに宜し。ゆえに「利貞」という。未済より成りて済と為るがゆえに「初吉」という。而して既済の後は長久を保ち難し。ゆえに「終乱」という。

彖曰:「既濟亨,小者亨也。利貞,剛柔正而位當也。初吉,柔得中也。終止則亂,其道窮也。」此卦之所以名既濟者,以卦自泰來。泰上為坤,泰下為乾,乾二上之坤五,猶夫渡水者已登彼岸,故曰既濟也。蓋濟所以致亨,而濟萬物於沈淪之日,用力多則成功亦巨,故亨大;至濟萬物於承平之後,此乃小有缺陷,但微加祓濯則已澄清。卦以濟水為義,坎水在前,離陰得中,前往求濟,陰稱小,故曰小者亨也。夫既濟之亨雖小,惟亨小乃始見為既濟。此卦陰陽得位,天下已濟,人慶安瀾,各守本業,但祇率由舊章,長保此濟亦已足矣,故曰利貞也。

『彖伝』にいう、既済にして亨は、小者の亨通なり。正を守るに宜しきは、剛柔各々其の正を得て爻位相当なればなり。初め吉祥なるは、陰柔が中位を得ればなり。最後に停滞して乱を生ずるは、その道路已に走り窮まりぬればなり。此の卦の既済と言う所以は、それが『泰』から変じたればなり。泰卦の上体は坤、下体は乾で、乾の第二爻が上昇して坤の第五位に至るは、渡水の人が已に対岸に登上したるがごとし。ゆえに「既済」という。渡済は本と亨通を求むるを以てなり。万物沈淪の時に於いて彼らを拯済するは、用力多く成就もまた大なり。ゆえにあの亨は大なり。至りて天下承平の後に拯済するは、それは不過小有缺陷、稍や洗滌を加えればすなわち澄清す。此の卦は渡水を以て義を取り、坎水は前にあり、離体の陰爻は中位を得て、前に向かって渡を求む。陰は小と称す。ゆえに「小者亨也」という。既済の亨は小と雖も、可なり、まさに亨する所の者が小なるに因りて、こそそれを見て「既済」なり。此の卦は陰陽各々其の位を得、天下は已に治平し、人人風平浪静を慶幸して、各々本業を守る。ただ一たび旧章を循れば、長くこの「済」を保住するも足れり。ゆえに「利貞」という。

然天命不可恃,人事亦難憑。當夫鴻蒙初開,人心思奮,二柔得中以濟上坎,泰之二往為既濟之五,前往得濟,故曰初吉。顧有初必有終,濟名為既,濟之道已盡,道盡則窮。人能防亂於未濟之日,而或釀亂於既濟之秋,怠惰因循,萬事廢墮,恃其為濟,不慮其將不濟,則瀰漫日深,將有川壅而潰者,此之謂終亂。亦非終則必亂,卦爻陰陽相間,上以陰止,終止則亂也。是知亂非亂於濟,亂於濟之盡也,則保濟之道可深長思矣。

然れども天命は靠り難く、人事もまた憑恃し難し。天下草創初開の時に当たりては、人心奮発し、六二は柔を以て中に居りて上に向かって坎険を済す。泰卦の第二爻は上りて既済の第五爻と為り、前往して渡を得。ゆえに「初吉」という。しかるに始有れば必ず終あり、「済」はすでに「既」と曰う以上、渡済の道は已に用い尽せり。道尽きれば則ち窮す。人は未済の日に乱を防ぐ能くして、往々既済の秋に乱を醸す。怠惰因循して百事廃弛し、已に渡りたるに仗りて、将来渡り得ざらんことを再び顧慮せず、ここにおいて積弊日に深く、終に河川壅塞して潰決するの一天あり。これを「終乱」という。亦た終点に至れば必ず乱るると言うにあらず。此の卦は六爻陰陽相間し、上爻は陰を以て止まる。停滞して来りて初めて乱を生ず。これに由り知るべし、乱は「済」に乱るるにあらずして、「済」が尽頭に至るに乱るるなり――然らば已成の済を保住するの道理は、深長に思うに値せん。

象曰:「水在火上,既濟。君子以思患而預防之。」水性潤下,火性炎上,水火相交,故云既濟。然水偏勝則火熄,火偏勝則水涸,君子觀既濟之象,所以防患於未然,先事而深致思焉。泰坤為亂,變為坎思,故曰思患;泰乾為畏,變為離明,故能預防也。

『大象伝』にいう、水は火の上に在り、これ既済の象なり。君子はこれに由り禍患を思慮して預め之を防備す。水性は下に向かって潤沢し、火性は上に向かって燃焼し、水火相交るがゆえに「既済」という。しかるに水が偏勝すれば火は熄滅し、火が偏勝すれば水は枯干す。君子は既済の象を観て、ゆえに患を未然に防ぎ、事の発生前に於いて深深思慮す。泰卦の坤は乱を象徴し、変じて坎となり坎は思慮を主る。ゆえに「思患」という。泰卦の乾は戒惧を象徴し、変じて離となり離は明察を主る。ゆえに能く預め防備す。

初九:曳其輪,濡其尾,無咎。舟車皆可濟水,二至四為互坎,坎為輪,則是以車濟者。夫坎車既在前,而初為車尾,初位卑弱,不能遽濟,故曰曳其輪。輪既見曳,車豈能行,故曰濡其尾。車尾已濡,其何能濟,然時當前濟,有欲濟者,不得以成敗論其功過也,無咎也。象曰:「曳其輪,義無咎也。」

初九の爻辞、車輪を拖住し、車尾を沾濡す、過なし。水を渡るに舟を用いるも車を用いるも可なり。二から四爻は互体して坎を成し、坎は車輪を象徴す。見ればここは車を以て水を渡るなり。坎の象る車はすでに前面に在れば、初九はすなわち車の尾部なり。初九は位卑力弱にして、馬上渡り去る能わず。ゆえに「曳其輪」という――輪子は拖住せられたり。輪子すでに拖住せられれば、車は何を以て走動せん。ゆえに「濡其尾」という。車尾已に沾濡したれば、また何を以て渡り去るを得ん。然れども時は人皆争先して渡を求めるに値し、それもまた渡るの志ある者なり。単に成敗を以て其の功過を評す可からず。ゆえに過なし。『小象伝』にいう、「車輪を拖住するは、其の道理に按ずれば過なきなり」。

六二:婦喪其茀,勿逐,七日得。鄭氏曰:「茀,車蔽也。詩曰『翟茀以朝』是也。」婦人乘車不宜露見,車之前後設障以自隱蔽,是謂之茀。二體離稱婦,泰乾為車,二與五易,乾車中虛,喪茀之象。夫茀不自喪,必有盜者,二為互坎,坎為盜,坎盜二茀,二車難行,則不能濟,是宜逐。然二與五為正應,陰陽相和,不能久喪,待至七日則已得之,七,陽數。此如賢人慾出濟時,不可躁進,宜靜守以待君相之求,則終能濟,如彼喪茀者不必妄逐也。象曰:「七日得,以中道也。」

六二の爻辞、婦人は車上の帷障を失う。追うを須いず、七日の内に失い復び得ん。鄭玄にいう、「茀は車の遮蔽なり、『詩経・衛風・碩人』に『翟茀以て朝す』と言うは即ちこれなり」。婦人が車に乗るは頭面を抛露す可からず、すなわち車の前後に障を設けて体を蔽う。これを「茀」と言う。六二は離体に属し、離は中女なれば「婦」と称す。泰卦の乾は車を象徴し、二と五とが互易したる後、乾車の中間は虚に変じ、まさに帷障を丢失せる象なり。帷障は自ら丢失せず、必ず人の偷去する有り。六二は互体坎の中に処し、坎は盗賊を象徴す。坎盗は六二の茀を偷み、六二の車は行き難く、則ち渡り得ず。理を照らせば追往すべし。然れども六二は九五と正応にして、陰陽相和し、久失せざるなり。第七天に及んで已に找回来り――七は陽数なり。これは賢人が出でて世を済せんと欲するに譬え、躁進す可からず、安静に自守して君王宰相の来聘を待つべき、終竟成す所有らん。帷障を失う人の胡乱に追うを須いざるがごとし。『小象伝』にいう、「七日に復び得るは、六二が中道を守ればなり」。

九三:高宗伐鬼方,三年克之,小人勿用。高宗,殷王武丁也;鬼方,西北之戎名。干氏曰:「高宗嘗伐鬼方,三年而後克之。」離為戈兵,故稱伐;坎為北方,故稱鬼。漢匡衡疏云:「成湯化夷俗而懷鬼方。」則鬼方原為殷屬國,始已率服,繼復背叛,必由殷道中衰,小人啟釁以致此也。屬國之叛既由小人,倘於平定之後不絕小人之進,則是既濟仍不能長濟也,戒以勿用,聖人之慮患遠矣。象曰:「三年克之,憊也。」鄭氏曰:「憊,劣弱也。」言濟之難也。

九三の爻辞、殷高宗は鬼方を討伐し、三年して初めて攻克す。小人は任用す可からず。高宗はすなわち殷王武丁なり。鬼方は西北方戎狄の名号なり。干宝にいう、「高宗は曾て鬼方を討伐し、三年の後初めて攻克せり」。離は戈兵を象徴するがゆえに「伐」という。坎は北方に属するがゆえに「鬼」と称す。漢代匡衡の奏疏にいう、「成湯は夷狄の風俗を感化し、因りて鬼方をして帰懐せしむ」。見れば鬼方はもと殷の属国にして、初め已に帰服し、後また背叛す。必ずや殷の国運中衰に因り、小人が釁端を挑起して始めてこの地步に閙至せり。属国の反叛はすでに小人より起りしに、もし平定の後に小人の進用を杜絶せざれば、則ちすでに渡りたると雖も、終竟長久保持する能わず。ゆえに「勿用」と告戒す――聖人の患を慮るは甚だ深遠なり。『小象伝』にいう、「三年して初めて克くは、疲憊せればなり」。鄭玄にいう、「憊は衰弱なり」。これは渡済の艱難を言う。

六四:繻有衣袽,終日戒。濟淺利用車,濟深利用舟,初以車濟,四以舟濟,濟水之宜也。四居互離正坎之間,離為槁木,坎為穿木,則是舟有罅漏者,舟漏曰濡。王氏曰:「繻當作濡。」舟漏宜塞,塞宜用袽,袽,敗衣也。乾坤為衣裳,變為坎離,則衣已敗,故曰袽也。衣袽所以防濡,則衣袽實貴其有。有袽似可少安,而猶不敢忘戒。下離已盡,互離過半,離為日,故曰終日戒。先事而為之備,臨事而致其慎,此善於保濟者。象曰:「終日戒,有所疑也。」有所疑者,不敢自信為無患而忘戒也。

六四の爻辞、船に渗漏あり、破衣旧絮を備えて堵塞し、終日戒備す。浅水を渡るは車に宜しく、深水を渡るは舟に宜し。初九は車を用いて渡り、六四は舟を用いて渡る。これは渡水の常理なり。六四は互体離と正体坎との間に処し、離は枯木を象徴し、坎は鑿穿せる木を象徴す。則ち船に裂缝渗漏あり。船漏れ水入るを「濡」と言う。王氏にいう、「『繻』は『濡』と作るべし」。船漏れば則ち堵塞すべく、堵塞には「袽」を用いる。袽はすなわち破舊の衣物なり。乾坤は本と衣裳を象徴す。今や坎離に変じ、衣裳は已に破敗す。ゆえに「袽」という。破衣旧絮は漏水を防ぐに用いる。見れば此の物は預め備えるを貴ぶ。袽を備えれば稍や安んず可きがごとしと雖も、却って仍然として戒備を忘るるを敢えてせず。下体の離は已に過ぎ尽し、互体の離もまた一半過ぎたり。離は日を象徴す。ゆえに「終日戒」という。事前に準備を就け、臨事に於いて更に謹慎するは、これ善く已成の済を保住する人なり。『小象伝』にいう、「終日戒備するは、心裏に疑虑ある所なればなり」。いわゆる疑ある所とは、すなわち禍患なきを自信して戒備を放松するを敢えてせざるなり。

九五:東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭實受其福。既濟至五則濟將盡,此盛極衰伏時也。五與二應,五坎為陽,與震為鄰,是謂之東;二離為陰,與兌為鄰,是謂之西。泰五為坤,坤為牛,變坤為坎,是為殺牛;泰二為乾,變乾為離,離丁夏令,夏祭曰禴,是為禴祭。言五雖殺牛,不如二之禴祭實受其福,乾為福。泰之乾二居五,祭物雖豐而盛極難繼;泰之坤五居二,儉以持盈,善留餘地也。此既濟之難保長濟也。

九五の爻辞、東辺の隣人は牛を殺して盛祭するも、西辺の隣人の簡薄なる禴祭を以てするに如かず、更能く実に神明の福佑を承受す。既済は第五爻に至れば、渡済の功は将に用い尽さんとす。まさに盛極にして衰機潜伏の時なり。九五は六二と相応す。九五は坎に属し陽にして、震と隣なり。震は東方に居るがゆえに「東」と称す。六二は離に属し陰にして、兌と隣なり。兌は西方に居るがゆえに「西」と称す。泰卦の第五爻は本と坤で、坤は牛を象徴す。坤を変じて坎と為せば、すなわち「殺牛」なり。泰卦の第二爻は本と乾で、乾を変じて離と為し、離は夏令に当たる。夏の祭祀を「禴」と言い、すなわち「禴祭」なり。これは言う、九五は牛を殺して盛祭すと雖も、六二の薄祭に如かず、更能く実に福佑を受けん――乾は福を象徴す。泰卦の乾爻は第五位に居り、祭品は豊なりと雖も、盛極は継続し難し。泰卦の坤爻は第二位に居り、倹省を以て盈満を守住し、善く自らに余地を留む。これはまさに既済の長保し難きを説明す。

象曰:「東鄰殺牛,不如西鄰之時也;實受其福,吉大來也。」時,禴祭之時;吉大來者,方興未艾也。上六:濡其首,厲。初為尾,上為首,初濟則濡尾,上濟即濡首。然濡尾則後退有方,而濡首則前行無地,故危厲。象曰:「濡其首厲,何可久也。」終止則亂,何可久濟也。

『小象伝』にいう、「東隣の牛を殺すは、西隣の時宜に合するに如かざるなり。実に福佑を承受するは、吉慶正大にして来ればなり」。いわゆる「時」とは、すなわち禴祭を行うあの時令なり。「吉大来」は、福慶の方興未艾を言う。上六の爻辞、頭を沾濡す、危険あり。初爻は尾で、上爻は首なり。初九は渡水して尾を沾濡し、上六は渡水すれば頭を沾濡す。尾巴を沾濡すればなお退き返る可し。頭を沾濡すれば則ち進む可き路なし。ゆえに危険なり。『小象伝』にいう、「頭を沾濡して危険あるは、これ何ぞ長久せんや」。最後に停滞して乱を生ずれば、渡済の功は何ぞ長久せんや。

未済(びせい)の卦

【坎下離上,中互坎離】否:未濟為三陰三陽卦,自否來。虞氏曰:「否二之五也。」未濟:亨,小狐汔濟,濡其尾,無攸利。濟者,濟坎水也。坎在離前,前無所窒,故曰既濟;坎在離後,前有所阻,故曰未濟。未濟欲求濟,故亦曰亨;未濟而尚未遽濟,故曰小狐汔濟,濡其尾,無攸利。汔,幾也,幾濟而濡尾,則不能前濟,此坎上離下之卦曰未濟也。

『未済』の卦は下卦が坎、上卦が離で、二から四爻は互体して「坎」を成し、三から五爻は互体して「離」を成す。それは『否』卦から変じた。未済は三陰三陽の卦で、『否』から来る。虞翻にいう、「否卦の第二爻と第五爻とが互易す」。卦辞にいう、未済、亨通す。小狐は将に河を渡らんとして、其の尾を沾濡す。利益する所なし。いわゆる「済」とは、すなわち坎水を渡るなり。坎は離の前方に在れば、前進して阻塞する所なし。ゆえに「既済」という。坎は離の後方に在れば、前進して阻碍ある所あり。ゆえに「未済」という。未済は総じて渡を求めんと欲するがゆえに、また「亨」という。未済にしてなお即座に渡成せざれば、ゆえに「小狐汔済、濡其尾、无攸利」という。「汔」は将にせんとするなり。将に渡らんとして尾を沾濡すれば、則ち前渡を継続する能わず――これがすなわち坎離のかく相配する卦の『未済』と称する所以なり(原刻はここに「坎上離下」と作るも、本卦の坎下離上と恰も相顛倒す。当に刊刻の誤なるべし)。

彖曰:「未濟亨,柔得中也。小狐汔濟,未出中也。濡其尾無攸利,不續終也。雖不當位,剛柔應也。」此卦所以名未濟者,以卦自否來。坤之二柔前往居五,五為中,得中以濟故亨。下坎為水為狐,三至五又為互坎,狐渡坎水,為上陽所阻,自五而止,狐不能出五以前濟,濟僅至五,未出五中,故濟曰汔。汔濟而仍未濟以出水也。狐濟至五,狐首在五,狐之尾即在初,初之坎水,狐尾濡之。卦爻以陽終,前宜有續,無有續者,則上非坎水阻狐前濟,前濟有阻,則不能濟,故無攸利也。既濟六爻剛柔皆當其位,未濟六爻剛柔皆不當其位,然剛柔猶各相應,同心共濟,亦可言濟,毋曰未濟終不濟也。

『彖伝』にいう、未済にして能く亨するは、陰柔が中位を得ればなり。小狐の将に渡らんとするは、未だ水中を走出せざればなり。尾を沾濡して利する所なきは、到底に接続する能わざればなり。六爻は皆位に当たらずと雖も、剛と柔は却て各々相応ず。此の卦の未済と言う所以は、それが『否』から変じたればなり。坤の第二の柔爻が前往して第五位に居る。五は中位で、中を得て渡を求む。ゆえに亨通す。下体坎は水を象徴し、また狐を象徴す。三から五爻はまた互体して坎を成す。狐は坎水を渡り、上面の陽爻に阻まれ、第五爻に走到して停まる。第五爻を出でずして再び前に渡る能わず、渡程はただ第五に至るのみ、未だ五爻の水中を走出せず。ゆえに「汔済」という――将に渡らんとして終竟水面を渡出せず。狐は第五爻に渡り至り、頭は第五に在り、尾は則ち初爻に在り。初爻はまさに坎水なれば、狐尾は便ち浸濕せられたり。卦爻は陽爻を以て收尾し、前面本と接続すべき所有り、今や接続し上ぐる能わず。上爻は已に坎水にあらず、反って狐の前渡を阻住する物と為りぬ。前渡すでに阻碍あれば、則ち渡り去る能わず。ゆえに「无攸利」。既済の六爻の剛柔は皆其の位に当たり、未済の六爻の剛柔は皆其の位に当たらず。然れども剛と柔は仍ほ各々相応じ、同心協力して共に渡る。亦た能く済と言う可し。「未済」と言うを以て終竟渡り得ざると思う勿れ。

象曰:「火在水上,未濟。君子以慎辨物居方。」火在水上,二氣不交,故曰未濟。君子觀此象而知物性各異,慎以辨之,使之分居其所。否乾為物,變為離明以辨之;否坤為方,變為坎,坎陽居坤中,是居方也。初六:濡其尾,吝。未濟之初,位卑力弱,豈可言濟。上為首,初為尾,初為坎水,初濟則尾濡,尾濡則不濟矣,故吝。象曰:「濡其尾,亦不知極也。」極,中也。知中則能審時,不知中,故尾濡而不能濟。

『大象伝』にいう、火は水の上に在り、これ未済の象なり。君子はこれに由り謹慎に事物の性質を辨別し、それらをして各々其の位に安んぜしむ。火は水の上に在り、水火の二気は相交らず。ゆえに「未済」という。君子は此の象を観て、万物の性情の各々相同じからざるを知り、則ち謹慎に之を分別して、それらをして各々其の所に居らしむ。否卦の乾は物を象徴し、変じて離となり、離は明察を主り、用いてそれらを分辨す。否卦の坤は方位を象徴し、変じて坎となり、坎の陽爻は坤中に居る。これがすなわち「居方」なり。初六の爻辞、其の尾を沾濡す、憾惜あり。未済の開頭、位卑力弱にして、何ぞ渡済を談ずるに足らんや。上爻は頭で、初爻は尾なり。初爻はまさに坎水で、一たび渡を始めればすなわち尾を濕す。尾濕れば則ち渡り成さず。ゆえに憾惜あり。『小象伝』にいう、「其の尾を沾濡するは、亦た中道を知らざればなり」。「極」とはすなわち中なり。中道を知れば則ち能く時機を審察し、中道を知らざれば、ゆえに尾巴濕れて渡り去る能わざるなり。

九二:曳其輪,貞吉。二為坎中,坎為輪、為曳,知時未濟而曳其輪以守之,故貞吉。象曰:「九二貞吉,中以行正也。」六三:未濟,征凶,利涉大川。三居內卦外卦之間,時可濟也,儻猶未濟以前徵,是為失時,失時則凶。蓋三為正坎之末、互坎之初,坎水為川,三利涉之,涉即濟也。涉川曰利,未濟故凶。象曰:「未濟征凶,位不當也。」

九二の爻辞、車輪を拖住し、正を守れば吉。九二は坎の中爻で、坎は車輪を象徴し、また牽曳を象徴す。それは時機が未だ渡る可からざるを知り、則ち車輪を拖住して守って動かず。ゆえに正を守って吉を得。『小象伝』にいう、「九二正を守りて吉なるは、それが中に居りて因って行事正を得ればなり」。六三の爻辞、未だ渡らざるに、出征すれば凶あり。大河を渡るに宜し。六三は内卦と外卦の交接の処に処し、時機は已に渡る可し。もしなお「未済」の状態に停まりて先行して出征せば、則ち時機を錯失するなり。時を失すれば則ち凶。六三は正体坎の末爻、互体坎の首爻なり。坎水はすなわち川なり。六三はまさに之を渡るに宜しく、「渉」はすなわち「済」なり。川を渡るは利あるなり。未済に停まりて動かざるはこそ凶なり。『小象伝』にいう、「未済にして出征すれば凶あるは、その居る所の位当たらざればなり」。

九四:貞吉,悔亡,震用伐鬼方,三年有賞于大國。四已過中,將濟之時,有欲乘時言濟者,則已貞吉悔亡。夫以濟水言先設舟梁,而以濟世言先討背叛。震,動也。上五為君,志在中興克復舊業,震作有為,簡求賢良,四有陽剛之才,五用之以伐鬼方。曰伐者,離為甲冑戈兵也;曰鬼方者,互坎位北也。伐曰震用,則是命將之初;賞曰大國,已計凱還之後。乃當初伐而即曰三年有賞,言時當濟則出師以求濟亦未有不濟者,蓋不可坐視苟安矣。象曰:「貞吉悔亡,志行也。」

九四の爻辞、正を守れば吉、悔恨消失す。奮起して鬼方を討伐し、三年の後大国の封賞を受けん。九四は已に中位を過ぐる、まさに将に渡成せんとする時なり。もし人有りて肯んじて此の時機に乗じて渡を求めば、すなわち能く正を守り吉を得、悔恨消失せん。渡水に就いて言えば、先ず舟梁を架設す要あり。世を済うに就いて言えば、先ず叛乱を討伐す要あり。「震」とはすなわち奮動なり。上面の六五は君主で、志は中興に在り、旧業を恢復し、奮発有為にして賢良を選択す。九四は陽剛の才あり、六五は則ち彼を用いて鬼方を討伐す。「伐」と言うは、離が甲冑戈兵を象徴するがゆえなり。「鬼方」と言うは、互体坎が北方に居るがゆえなり。伐にして「震用」と言うは、あれは剛に将を命じ師を出する時なり。賞にして「大国」と言うは、あれは已に凱旋の後の事を預計するなり。剛に兵を出してすなわち「三年有賞」と言うは、意は時機がすでに渡るべきに於いて、師を出して渡を求むれば、また渡り成らざるなきなり――総じて坐視苟安す可からざるなり。『小象伝』にいう、「正を守りて吉、悔恨消失するは、其の心志の行わるるを得ればなり」。

六五:貞吉,無悔,君子之光,有孚,吉。四之濟猶有待,故貞吉僅曰悔亡;五之濟功已成,故貞吉即曰無悔。天命方新,人心滌舊,如日麗天,其光有較平時倍煥者。否乾變離,乾為君子,則此離光即乾光,故曰君子之光。五下應二,二坎為孚,二五交孚,則已濟矣,故吉。象曰:「君子之光,其暉吉也。」暉,日光也。

六五の爻辞、正を守れば吉、悔恨なし。これ君子の光輝、誠信を懐き、吉祥。九四の渡済はなお時日を待つ有り、ゆえに其の「貞吉」はただ「悔亡」に至るまで言うのみ。六五の渡済の功は已に成れり、ゆえに其の「貞吉」は直ちに「无悔」という。天命は剛に更新し、人心は旧染を滌除し、太陽の天に附麗するがごとく、あの光輝は平時より加倍煥発す。否卦の乾は離に変じ、乾は君子を象徴す。然らばこの離の光はすなわち乾の光なり。ゆえに「君子之光」という。六五は下に向かって九二を応和し、九二は坎に属し、坎は誠信を象徴す。二と五は彼此誠を以て相交り、事は則ち渡成す。ゆえに吉祥なり。『小象伝』にいう、「君子の光輝は、その光暉の吉祥を帯来すればなり」。「暉」とはすなわち日光なり。

上九:有孚于飲酒,無咎;濡其首,有孚失是。未濟之上則已濟矣。上與三應,三坎為孚、為酒,為孚于飲酒;飲酒有孚,則是民樂醉飽象也,故無咎。顧飲酒固可以徵太平,而飲酒亦宜防沈湎。否上為乾,乾為首,五降為二,乾下變坎,則是首為酒濡;向之孚在於是,今之失亦在於是。由未濟以至濟,不有以善保之,則濟仍不可恃也,因酒得濟,復因濟失之矣。象曰:「飲酒濡首,亦不知節也。」虞氏曰:「節,止也。」飲不知止,則溺於酒而復亂矣。

上九の爻辞、誠信を懐きて飲酒作楽す、過なし。ただし若し頭を沾濡せば、あの誠信もまた失い去らん。未済は上爻に至れば、其実已に渡成せり。上九は六三と相応し、六三は坎に属し、坎は誠信を象徴し、また酒を象徴す。合わせればすなわち「有孚于飲酒」なり。飲酒して彼此誠信あれば、まさに百姓の安楽して醉飽するの象なり。ゆえに過なし。ただし飲酒は固より太平を験証す可しと雖も、飲酒もまた沉湎を提防せざる可からず。否卦の上爻は乾で、乾は頭を象徴す。第五爻は第二位に降り、乾体は下に坎に変ず。則ち頭は酒に浸濕せられたり。先前の誠信はここに在り、如今の過失もまたここに在り。未済より已済に走到すれど、もし善く守護する能わざれば、渡成の局は仍ほ靠り難し――酒に因りて其の済を見、また此の済に因りて之を失う。『小象伝』にいう、「飲酒して頭を浸濕するに至るは、亦た節制を知らざればなり」。虞翻にいう、「節はすなわち止なり」。飲酒して節止を知らざれば、則ち酒に沉溺して再び禍乱に陷入せん。

易原 巻十三・繋辞上伝

慧珠閣原本,岫巖多隆阿雯溪。繫辭上傳。史記孔子世家云:「孔子晚而喜易,序彖、繫、象、說卦、文言。」繫即繫辭傳也,又名大傳。彖傳釋卦辭,象傳釋爻辭,文言傳通釋乾坤卦爻,先儒取之各附於卦爻之下,以便學者誦讀;至於大傳則統論大旨,無經可附,又因文字繁重,故分別之為上下篇云。

本巻は慧珠閣原刻本に依り、作者は岫巖の人・多隆阿(字は雯渓)である。以下『繋辞上伝』を解す。『史記・孔子世家』にいう、「孔子は晩年『易』を喜好し、『彖』『系』『象』『説卦』『文言』を整理編次せり」。ここの「系」とはすなわち『繋辞伝』で、また『大伝』とも言う。『彖伝』は卦辞を解釈し、『象伝』は爻辞を解釈し、『文言伝』は乾・坤両卦の卦爻を通釈す。前代の学者はそれらを各々各卦各爻の下に附して、学者の誦読に便ならしめたり。至りて『大伝』は、『易』の大旨を統論するにして、依附す可き経文なく、加うるに文字繁多なれば、分かちて上・下両篇と為す。

天尊地卑,乾坤定矣;卑高以陳,貴賤位矣;動靜有常,剛柔斷矣;方以類聚,物以群分,吉凶生矣;在天成象,在地成形,變化見矣。輕清上浮者為天,重濁下凝者為地。乾為天,坤為地,天尊象乾,地卑象坤,是乾坤卦名定以天地也。乾天位高,坤地位卑,位高則貴,位卑則賤,是乾坤之貴賤於卑高之位判之。天陽常動,地陰常靜,常動故剛,常靜故柔,是乾坤之剛柔於動靜之體斷之。

経文にいう、天は上に在りて尊く、地は下に在りて卑し。乾坤両卦の名義はここに就いて確定す。卑と高とは一たび陳列すれば、貴と賤の位次はここに就いて排定す。動と静とは各々常度あり、剛と柔とはここに就いて判分す。方位は類を按じて相聚まり、事物は群を按じて相分かる。吉と凶とはここに就いて発生す。天上に於いては日月星辰の象を成し、地上に於いては山川動植の形を成す。変化はここに就いて顕現す。軽清にして上浮するは天、重濁にして下凝するは地なり。乾は天を象徴し、坤は地を象徴す。天は尊貴にして乾に取象し、地は卑下にして坤に取象す――見れば乾坤両卦の名義は天地に依りて定めらるるなり。乾天の位は高く、坤地の位は卑し。位高ければ則ち貴く、位卑しければ則ち賤し――見れば乾坤の貴賤は卑高の位に由りて判分出づるなり。天は陽に属して恒常運動し、地は陰に属して恒常静止す。恒動すれば剛と為る所以にして、恒静すれば柔と為る所以なり――見れば乾坤の剛柔は動静の体に由りて判断出づるなり。

方謂方向,東西南北也;物謂陰陽,乾陽物,坤陰物。類聚,合也;群分,散也。陰陽二氣有合有散,相通則和合而吉,相乖則分散而凶,是吉凶之生生於陰陽之分聚也。物受氣則有象,而物之象受於天;物成質則有形,而物之形成於地。物改曰變,物蛻曰化。見者,言萬物變化之後形象昭著可見也。此言聖人法天地以定乾坤,其餘諸卦皆出於此,乾坤為諸卦之體也。

「方」は方向を指し、すなわち東西南北なり。「物」は陰陽を指し、乾は陽物、坤は陰物なり。「類聚」はすなわち聚合、「群分」はすなわち離散なり。陰陽の二気は合あり散あり。相通ずれば則ち和合して吉にして、相違すれば則ち分散して凶なり――見れば吉凶の発生は、まさに陰陽の分と聚とに発生するなり。物は一たび気を禀受すればすなわち象あり、而して物の象は天の方より承受するなり。物は一たび質に凝成すればすなわち形あり、而して物の形は地上に於いて成就するなり。事物の改易するを「変」と言い、事物の蜕換するを「化」と言う。いわゆる「見」とは、万物の変化の後に形象昭彰として歴歴見ゆるを言う。此の一段は聖人が天地を效法して乾坤両卦を確定し、其余の各卦は皆ここより出づるを言う。乾坤は衆卦の本体なり。

是故剛柔相摩,八卦相蕩,鼓之以雷霆,潤之以風雨,日月運行,一寒一暑,乾道成男,坤道成女。卦體既立,而卦之用亦由是以行。摩,推摩也;蕩,動盪也。言剛柔交濟以相推摩,八卦振發以相動盪。震雷、艮霆、巽風、兌雨、離日、坎月、乾寒、坤暑,鼓舞潤澤於天地之中,往來運行於冬夏之候,乾坤六子循環不息,而陰陽之道著焉。陽道為乾,故得乾道者為男;陰道為坤,故得坤道者為女。成男成女,是乾坤為萬物之父母也。乾知大始,坤作成物。知猶主宰也,始,初也。物生有始,乾天主之;物生有質,乃坤地承天以作成者。知之者以神,而作之者有象也。

経文にいう、これに因りて剛と柔とは互相推摩し、八卦は互相激蕩す。雷霆を以て之を鼓動し、風雨を以て之を滋潤し、日月往来運行し、一寒一暑交替す。乾道は男性を成就し、坤道は女性を成就す。卦体すでに確立したれば、卦の功用もまたこれに由りて施行す。「摩」は推挤摩蕩、「蕩」は動蕩激発なり。これは言う、剛柔交相済助して彼此推摩し、八卦は振発して彼此激蕩す。震は雷、艮は霆、巽は風、兌は雨、離は日、坎は月、乾は寒を主り、坤は暑を主る。それらは天地の間に於いて万物を鼓舞し万物を潤沢し、冬夏の際に往来運行す。乾坤と六個の子卦とは循環息まざり、陰陽の道はここに就いて彰顕す。陽道は乾に属し、ゆえに乾道を禀得するは男と成る。陰道は坤に属し、ゆえに坤道を禀得するは女と成る。能く男を成し女を成すは、見れば乾坤は万物の父母なり。経文はまたいう、乾は宏大の開端を主宰し、坤は造作して万物を成就す。「知」は猶主宰のごとく、「始」はすなわち開初なり。万物の生成は各々開端あり、あれは乾天の主管する所なり。万物の生成は形质ある要あり、あれは坤地の天意を承奉して造作成就する所なり。之を主宰するは神妙不测を憑り、之を造作するは則ち具体形象を顕出す。

乾以易知,坤以簡能。易則易知,簡則易從;易知則有親,易從則有功;有親則可久,有功則可大;可久則賢人之德,可大則賢人之業。易簡而天下之理得矣,天下之理得而成位乎其中矣。易,平易;簡,不煩也。物始至隱而乾以至動運之,則無生物之跡,故曰易知;物成至賾而坤以至靜育之,則無成物之勞,故曰簡能。人體乾之易,則其心坦平,不入於艱深;人體坤之簡,則其行儉約,不傷於煩擾。

経文にいう、乾は平易を以て開端を主宰し、坤は簡約を以て万物を成就す。平易なれば容易に了解せられ、簡約なれば容易に遵従せられん。容易に了解せられれば人の親近有り、容易に遵従せられれば功效を建立し得ん。人の親近有れば則ち能く長久にして、功を建て得れば則ち能く広大なり。能く長久するは賢人の徳にして、能く広大するは賢人の業なり。平易簡約を掌握せば、天下の道理は皆把握せられたり。天下の道理を把握したれば、人は則ち天地の間に自らの位置を確立す。「易」は平易、「簡」は簡省して煩ならざるなり。万物初生の時は至って隠微なれど、乾は至健の運動を以て之を推動して、生物の痕跡を見出さざるなり。ゆえに「易知」という。万物成形の際は至って繁雑なれど、坤は至静の涵育を以て之を養成して、成物の労苦を見出さざるなり。ゆえに「簡能」という。人が乾の平易を体会し得れば、心地は則ち坦蕩平実にして、艱深に陷入せず。人が坤の簡約を体会し得れば、行事は則ち倹省して節あり、煩擾に傷られず。

易知則乾德內洽,默契眾理,不至乖違而不親;易從則坤德外著,動有成效,於以建樹而有功。有親則始終無間,不離須臾,是為可久;有功則鉅細畢舉,莫限方隅,是為可大。可久則日進日新,此賢人之德也;可大則彌推彌廣,此賢人之業也。德與業皆有條理,而賢人得此理實得其簡易。天以易之理位乎上,地以簡之理位乎下,賢人即以易簡之理成位於天地之中,則是賢人與天地參也。

いわゆる「易知」は、乾徳が内裏に於いて浹洽して、黙々として众多の事理に契合して、乖違して親近せられざるに至らざるなり。いわゆる「易従」は、坤徳が外面に於いて顕著にして、一動すればすなわち成效あり、因りて建樹あって功を立つるなり。人の親近有れば、則ち始終間隔なく、片刻も相離れず。これを「可久」と言う。能く功を立てれば、則ち大小の事皆弁じ成りて、一方一隅の限制を受けず。これを「可大」と言う。可久なれば則ち日進日新して、これは賢人の徳なり。可大なれば則ち愈々推し愈々広がりて、これは賢人の業なり。徳と業とは皆条理あり、而して賢人の此の条理を得るは、実際はすなわち易と簡とを得たるなり。天は「易」の理を以て上に居り、地は「簡」の理を以て下に居り、賢人は則ち易簡の理を用いて天地の間に自らの位置を確立す――これがすなわち賢人の天地と並び列して三と為るなり。

此第一章,發明乾坤之蘊,為聖人作易之源也。聖人設卦觀象,繫辭焉而明吉凶。設,立也;卦謂六十四卦;象者,謂各卦所似之物也;辭,卦象辭也。言聖人設卦觀象之後,吉凶之義已具,然猶隱而未顯,故又繫辭以明之。剛柔相推而生變化。推者,移也,言陰陽消息互相往來也。一陽一陰之卦移之得八卦,二陽二陰之卦移之得十六卦,三陽三陰之卦移之得十八卦,蓋以闢卦、乾卦為主,餘卦變化從此生焉。

以上は『繋辞上伝』第一章にして、乾坤両卦の蘊涵を闡発し、それらが聖人の『易』を作るの本源なるを説明す。経文にいう、聖人は卦体を設立し卦象を観察し、また文辞を系して吉凶を闡明す。「設」はすなわち立なり。「卦」は六十四卦を指し、「象」は各卦の取象する事物を指し、「辞」は卦辞と爻辞とを指す。これは言う、聖人が卦を設け象を観たる後、吉凶の義理は其実已に備具せり。ただなお隠れて顕れざれば、ゆえにまた文辞を系して之を点明す。経文はまたいう、剛と柔とは互相推移して変化を発生す。「推」はすなわち移なり。これは陰陽の消長の彼此往来を言う。一陽一陰の卦は推移し開けば八卦を得、二陽二陰の卦は推移し開けば十六卦を得、三陽三陰の卦は推移し開けば十八卦を得――これは十二辟卦と乾坤坎離等の主干の卦を以て綱と為し、其余の各卦の変化は皆ここより生出するなり。

是故,吉凶者,失得之象也;悔吝者,憂虞之象也;變化者,進退之象也;剛柔者,晝夜之象也;六爻之動,三極之道也。是故所謂明吉凶者,吉凶非他,乃人事得失之象也。又有近吉而尚未至於吉、似凶而尚未及於凶者,則悔吝也。悔吝非他,乃人心憂虞之象也。所謂生變化者,乃六爻上下相推也,上往為進,下來為退,是變化為進退之象。變化者,即變化此剛柔也。剛者為陽,柔者為陰,陽晝陰夜,是剛柔為晝夜之象。爻具數象,而占者則占動爻,故六爻曰動。三極,三才也。初二為地道,三四為人道,五上為天道。詳察六爻之動,則吉凶悔吝可得而識矣。

『繋辞上伝』にいう、ゆえに「吉凶」は行事得失の表象、「悔吝」は内心憂惧の表象、「変化」は爻位進退の表象、「剛柔」は昼夜交替の表象なり。而して六爻の変動は、則ち天地人三極の道を体現す。多隆阿は此の層の意に順って講す。いわゆる「明吉凶」とは、吉凶は別の物にあらず、まさに人事上の得と失の表象なり。此の外また一种の情形あり、吉に近づきて未だ真に吉に到らず、凶に似たれど未だ凶に落ちざる。これを「悔吝」と言う。悔吝もまた別の物にあらず、まさに人心の憂愁疑惧の表象なり。いわゆる「生変化」は、六爻の上下が互相推移するを指す。上に往くを「進」と為し、下に来るを「退」と為す。ゆえに変化はすなわち進退の表象なり。而して変化の変化する所の対象は、まさに剛柔の二者なり。剛は陽、柔は陰、陽は白昼に属し、陰は黑夜に属す。ゆえに剛柔はすなわち昼夜の表象なり。毎一爻は皆数と象とを兼具すれど、占筮の時はただ変動を発生するあの一爻を取って断ず。ゆえに「六爻之動」という。「三極」はすなわち天地人の三才で、初爻・二爻は地道、三爻・四爻は人道、五爻・上爻は天道なり。六爻の変動を細察し清楚せば、吉凶悔吝もまた皆辨认し出づる能わん。

是故君子所居而安者,易之序也;所樂而玩者,爻之辭也。居,處也。序,次序。玩,習之不厭也。六爻各有其位,其位不可陵躐,謂之序,君子則居而安之。六爻各判吉凶,其吉凶顯以告人者賴有辭,君子則樂而玩之。為學之君子,其不違易蓋如此。

『繋辞』は続けていう、ゆえに君子の平居安処する所は、『易』の定むる所の次序なり。喜愛して反復玩味する所は、各爻の爻辞なり。多隆阿は先ず逐字に訓解す。「居」は処身、「序」は次序、「玩」は研習して厭を生ぜざるなり。彼は再び申説す。六爻は各々己が爻位あり、此らの位次は僭越順倒を容許せず。これを「序」と言う。君子は便ち自ら処する所の位分に安んず。六爻は各々吉凶を判定し、而して吉凶の明白に占者に告知し得る所以は、全く爻下に系ある辞に頼る。君子は便ち此らの辞句を反復玩味するを楽しむ。学を求むる君子の『易』理に違背せざる所以は、大抵此の様なり。

是故君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占,是以自天佑之,吉無不利。居猶平素也,動,動作也。居則玩辭,動則玩占,預決吉凶之幾,自荷彼蒼冥默之助也。此第二章,言聖人作易以開來學,而君子學易之功在於玩辭玩占,自此以下十章皆推明玩辭玩占之義。

『繋辞』にいう、ゆえに君子は平居の時は則ち卦象を観察して卦爻の辞を玩味し、将に挙動あらんとする時は則ち爻変を観察して占筮の結果を玩味す。是を以て上天の佑助を得て、往くとして利ならざるなし。多隆阿は解釈す。「居」は平日無事の時に相当し、「動」は行動ある所有るなり。平時に爻辞を玩味し、臨事に占断を玩味すれば、事先に於いて便ち吉凶の先兆を判定し下し、自然と蒼天の黙々無言の護佑を承受するに堪えん。彼は随いて全章を総結す。これは『繋辞上伝』第二章にして、聖人が『易』を制作するは後来の学者を啓発せんがためを説明す。而して君子の『易』を学ぶの功夫は全く「玩辞」と「玩占」の両件事の上に在り。此の章より往下の十章は、皆玩辞・玩占の意義を推闡する在り。

繋辞上伝・第三章

彖者,言乎象者也;爻者,言乎變者也;吉凶者,言乎其失得也;悔吝者,言乎其小疵也;無咎者,善補過也。彖,彖辭,即卦辭,彖言一卦之象也。爻謂六爻,爻主推移,剛柔無定,故言變也。卦爻有吉凶,有悔吝,吉凶言失得,悔吝言小疵,而吉凶悔吝之外又有所謂無咎者。咎即過也,誤入凶吝之途,痛自改悔,雖未遽臻於吉,而過已因悔而補,可嘉善也。補過曰善,則無咎實學易之要旨也。

『繋辞』にいう、「彖」は一卦の象に就いて言を立て、「爻」は変動に就いて言を立て、「吉凶」は得失に就いて言を立て、「悔吝」は小さき瑕疵に就いて言を立て、「无咎」は則ち善く過失を彌補するを言う。多隆阿は逐項に疏解す。「彖」は彖辞を指し、すなわち卦辞にして、一卦整体の象を講ず。「爻」は六爻を指し、爻の性質は推移に在り、剛柔は並び固定せず。ゆえにそれは「変」を講ずという。卦爻の断語の中に吉あり凶あり、悔あり吝あり。吉凶が言うは行事の得と失、悔吝が言うは小小の毛病。而して吉凶悔吝の外、また別に「无咎」と称する一类あり。「咎」はすなわち過失なり。人が兇険悔吝の路子に誤入すれど、能く痛切に自ら悔改すれば、立刻吉に転ずる能わずと雖も、過失は已に悔改に因りて補救せられたり。これは嘉許に値する善なり。すでに過を補うを善と称すれば、然らば「无咎」の二字は実に『易』を学ぶ最緊要の宗旨なり。

是故列貴賤者存乎位,齊小大者存乎卦,辨吉凶者存乎辭,憂悔吝者存乎介,震無咎者存乎悔。易有彖象、吉凶、悔吝、無咎,易之名義如此,學者宜深心以體之。列,分;齊,均;辨,別也。介,善惡將分之地也。震,動也。爻各有位,上貴下賤,是分貴賤者在乎爻位也。卦有陰陽,陽大陰小,陽得位則陰從陽,陰得位則陽輔陰,卦之小大雖不齊,以得位用事衡之,其理均也。爻有吉凶,以各爻所繫之辭辨別之。至於悔吝將分之地,是謂之介,預有憂之,則悔吝可免。因誤得咎則咎在身,倘猛覺悟,則昨非不妨今是,無咎賴於震,是震無咎又在於悔也。

『繋辞』にいう、ゆえに貴賤を排列するは爻位に頼り、小大を均斉するは卦体に頼り、吉凶を分辨するは卦爻辞に頼り、悔吝を憂慮するは「介」に頼り、振起して過なからんことを求むるは「悔」に頼る。多隆阿は先ず一句を総提す。『易』に彖あり象あり、吉凶・悔吝・无咎あり。『易』の名目と義理とはこれらなり。『易』を学ぶ人は当に沈潜して体会すべし。続いて字を訓す。「列」は分、「斉」は均、「辨」は別なり。「介」は善悪の将に分かれんとして未だ分かれざるあの一点の界限を指す。「震」は振動なり。然る後に逐句に講ず。毎一爻は皆固定の位次あり、上に居るは貴、下に居るは賤。ゆえに貴賤を分別するは爻位を看る要あり。卦は陰陽に分かれ、陽は大、陰は小なり。陽爻が位を得る時は陰は便ち陽に順従し、陰爻が位を得る時は陽は便ち陰を輔助す。卦は小大の別ありと雖も、「得位当権」の此一標準を以て之を衡量すれば、其の理は斉平なり。爻に吉あり凶あり、各爻の下に系する辞に頼りて分辨す。至りて善悪の将に分かれんとするあの一点は、則ち「介」と言う。能く預めここに於いて憂惧の心を生出せば、悔吝は避免し得ん。一時の誤に因りて咎責を招来すれば、咎は已に己が身上に落ちたり。もし能く猛然醒悟せば、昨日の非は今日の是を妨げず。ゆえに過失を摆脱するは振作に頼る有り、而して振作して来りて能く過失を免るるは、根子はまた一個の「悔」の字に落着す。

是故卦有小大,辭有險易,辭也者,各指其所之。齊小大者存乎卦,大者為陽,小者為陰,則是卦有小大;辨吉凶者存乎辭,凶辭危險,吉辭平易,則是辭有險易。之,往也,言此卦爻之辭乃所以指示學者趨吉避凶,不誤於所往爾。此第三章,言學易之始功在於憂悔補過以寡過,故宜玩其辭也。

『繋辞』にいう、ゆえに卦に小大の別あり、辞に険易の分あり。而していわゆる「辞」は、各々此の一卦此の一爻の去向を指点出ず。多隆阿は此の句を上文と扣り合わせて講ず。上文に「斉小大者存乎卦」と言い、陽は大、陰は小。見れば卦は確かに小大あり。上文に「辨吉凶者存乎辞」と言い、凶の断語は措辞危厲にして、吉の断語は措辞平和なり。見れば辞は確かに険易あり。「之」の字は「往」と訓す。これは言う、卦爻の辞の作用は、則ち『易』を学ぶ人を指示して吉に趨向し凶を避け、去向の上に於いて走錯せざらんに在り。彼は最後に総結す。これは第三章にして、『易』を学ぶ最初の功夫は憂を知り悔を知り過を補うに在り、以て過を犯すこと少なからんことを求めんとす。ゆえに当に卦爻の辞を反復玩味すべし。

繋辞上伝・第四章

易與天地準,故能彌綸天地之道。京氏曰:準,等也。彌,彌縫;綸,絲綸。言天地之氣化渾然無隙,條理有緒,易之廣大精微與之相等也。仰以觀於天文,俯以察於地理,是故知幽明之故;原始反終,故知死生之說;精氣為物,游魂為變,是故知鬼神之情狀。此言易之言知與天地準也。天道昭明而難窮,地道幽隱而難測,而即易中之言天文、言地理者,則可以仰觀俯察得其故焉。物命於天則生,物窮於地則死,而乾為大始,坤為大終,是易言終始即死生也,有以推原反求之,則可即始終以知生死之說。精氣聚而為物,則是自無而有,此謂之神;游魂散而為變,則是自有轉無,此謂之鬼。神之伸有形曰狀,鬼之歸無跡曰情,而易言天之陽即精氣也,言地之陰即游魂也,是鬼神之情狀可即精氣為物、游魂為變知之。易之言知如此。

『繋辞』にいう、『易』は天地と相等斉し、ゆえに能く天地の道を包羅し貫串す。多隆阿は先ず漢代の易学家京房の話を引きて字を解す。「准」は相等、「弥」は弥縫補合、「綸」は絲線の条理なり。意は天地の気化は浑然一体にして縫隙なく、其の中また条理分明にして各々頭緒あり、『易』の広大精微は、まさに天地と相等す。経文は続けていう、頭を抬げて天上の文象を観察し、頭を低れて地上の理法を審察す。これに因りて幽と明の緣故を知る能わん。事物の開端を推原し、事物の終結を回溯す。これに因りて死生の道理を知る能わん。精気は聚合して万物を成し、遊魂は離散して変化を成す。これに因りて鬼神の情状を知る能わん。多隆阿は指出す、此の一段が講ずるは『易』の「知」る此の一面の天地と相等斉するなり。天道は昭然顕明にして窮尽し難く、地道は幽深隠蔽にして測度し難し。然れどもただ『易』の中の天文を講じ地理を講ずるの話に就いて見れば、仰観俯察して便ち其の中の緣故を求め得ん。物は天に命を受けて生じ、物は地に窮尽して死す。『易』は乾を以て万物の大始と為し、坤を以て万物の大終と為す。見れば『易』の終始を講ずるはすなわち則ち死生を講ずるなり。能く開端を推原し終結を反求すれば、すなわち始終に由りて死生の説を懂得し得ん。精気が凝聚して形体を成すは、無より有に至るにして、これを「神」と言う。遊魂が離散して変異に化するは、有更りて無に転ずるにして、これを「鬼」と言う。神は伸展を主り、形有りて見ゆ可し。ゆえに「状」と称す。鬼は帰返を主り、蹟なくして尋ねる可からず。ゆえに「情」と称す。而して『易』の言う所の天の陽はすなわち精気、言う所の地の陰はすなわち遊魂なり。ゆえに鬼神の情状は、まさに「精気為物、遊魂為変」の此の両句の上より知る可し。『易』の具る所の「知」は則ち此の如し。

與天地相似,故不違;知周乎萬物而道濟天下,故不過;旁行而不流,樂天知命,故不憂;安土敦乎仁,故能愛。此言易之言能與天地準也。似,像也。周,徧也。過,差忒也。流,淫溢。敦,厚也。易與天地相似,人不能違天地,故不能違易。易備萬物之理,學易者其知足以周徧萬物,本此道即足以濟天下,無差忒也。易言天命,惟達權以旁行,不至於淫溢者能樂之知之,故不為憂所擾也。隨處而安,以敦厚其仁,仁者能愛物也。知益精,不困於物,則知似天;仁愈熟,萬物一體,則仁似地。易之言能如此。

『繋辞』にいう、『易』は天地と相似、ゆえに天地に違背せず。其の智慧は万物に周遍して其の道は以て天下を救済するに足る。ゆえに差錯を出さず。旁通四達すと雖も氾濫失守せず、天道を楽しみ順承して性命を通暁す。ゆえに憂惧なし。居る所の地に安処して其の仁を篤厚にす。ゆえに能く人を愛し物を愛す。多隆阿は指出す、此の一段が講ずるは『易』の「能」う此の一面の天地と相等斉するなり。彼は先ず字を訓す。「似」は像、「周」は遍及、「過」は差錯、「流」は氾濫無節、「敦」は篤厚なり。然る後に逐句に講ず。『易』は天地と相似たれば、人は天地に違背する能わざるに就いて、すなわち『易』に違背する能わず。『易』は万物の理を備具す。『易』を学ぶ人は、其の智識は以て万物に周遍するに足り、此の道理に依りて做せば則ち以て天下を救済するに足り、偏差有らざらん。『易』は天命を講ず。ただ能く権変に通じ旁通して行いて、また放縦氾濫に至らざる人のみ、能く天を楽しみ命を知る。ゆえに憂患に擾われず。処々随い安んずる能くして、以て自らの仁徳を加厚せん。仁徳ある人は自然に万物を愛護する能わん。智識は愈々精純なれば、外物に困らざる此の智は便ち天に像し、仁徳は愈々純熟なれば、万物を一体と視る此の仁は便ち地に像す。『易』の具る所の「能」は則ち此の如し。

範圍天地之化而不過,曲成萬物而不遺,通乎晝夜之道而知,故神無方而易無體。範,模範;圍,周圍也。過,越也。晝夜,陰陽也。言易之言知足以範圍天地,易之言能足以曲成萬物,陰陽之道雖幽隱微奧,易皆知之。是神之變化不可以方向求,而易之變動亦不可以形體拘也。此蓋合知能而總贊之。此第四章,言易道之廣大準乎天地,故宜玩其辭也。

『繋辞』にいう、『易』は能く天地の化育を籠括して分際を越出せず、能く委曲に万物を成就して一も遺漏なく、能く昼夜交替の道を通暁して知らざるなし。ゆえに「神」に固定の方所なく、「易」に固定の形体なし。多隆阿は字を訓す。「範」は模范、「囲」は周匝籠罩、「過」は越出、「昼夜」はすなわち陰陽なり。彼は続けて講ず。『易』の具る所の「知」は以て天地を籠括するに足り、『易』の具る所の「能」は以て万物を曲成するに足る。陰陽の道は幽深隠微と雖も、『易』は却て皆之を知悉す。すでに然らば、神の変化は方位を以て之を尋求する能わず、『易』の変動もまた形体を以て拘限する能わず。彼は指出す、此の一句は前面の言う所の「知」と「能」とを合わせて総じて賛嘆を加うるなり。末に総結す。これは第四章にして、『易』道の広大は以て天地と相准するに足るを言う。ゆえに当に其の辞を反復玩味すべし。

繋辞上伝・第五章

一陰一陽之謂道,繼之者善也,成之者性也。晝夜為陰陽之道,即天地之道也,則是天地之大,一陰一陽盡之矣。陰陽之道必有所賦,有賦之者即有受之者,此之謂繼。繼之者生機渾然,無少戾氣,故曰善。既受陰陽之氣以成形,亦受陰陽之理以成性,率性之善以為道,故曰成之者【者字下脫「性」字】也。

『繋辞』にいう、一陰一陽交替運行するを「道」と言い、此の道を承接するは「善」、此の道を成就するは「性」なり。多隆阿は解釈す。昼夜はすなわち陰陽の道にして、すなわち天地の道なり。見れば天地の大は、「一陰一陽」の四字を用いて便ち講じ尽せり。陰陽の道は必ず賦与する所有り、賦与する一方有れば、則ち承受する一方あり。此の承受を便ち「継」と言う。継承し来たる所は浑然一団の生機にして、一絲の乖戾の気もなし。ゆえに之を「善」と称す。人はすでに陰陽の気を承受して形体を成就し、また陰陽の理を承受して本性を成就す。此の本性の中の善に順って做せばすなわち道なり。ゆえに之を「成之者性」と称す。(ここに原書は校記を夾す、「者」の字の下に一「性」の字を脱す。)

仁者見之謂之仁,知者見之謂之知,百姓日用而不知,故君子之道鮮矣。鮮,少也。陰陽之道雖一,而人之所受有偏:得陰之靜者謂之仁,得陽之動者謂之知,見仁見知,此為以善成性者。至於百姓,稟受既駁,其所知亦異,日用之間未嘗非道,而習焉不察,則亦與不知者等,故得君子之道者世鮮有其人也。

『繋辞』にいう、仁徳ある人は此の道を見て、則ち之を仁と言い、智慧ある人は此の道を見て、則ち之を知と言う。百姓は日日道中に生活するも並び自覚せず。ゆえに君子の道を全備する人は則ち甚だ少なし。多隆阿は解釈す。「鮮」は少なきなり。陰陽の道は本身ただ一個のみなれど、人の禀受する所は却て各々偏至あり。陰の静の一面を得るは、則ち之を仁と言う。陽の動の一面を得るは、則ち之を知と言う。仁を見るも知を見るも、此らの人は皆なお「善を以て性を成す」の一类と算す。至りて普通の百姓は、禀受は本来駁雑不純にして、彼らの各自知る所もまた互いに相同じからず。日常起居の間に一処として道ならざるなく、ただ習い常として省察せざれば、則ち全く知らざる人と一様なり。ゆえに世上に於いて真に君子の道を得る能くするは、実在幾人もなし。

顯諸仁,藏諸用,鼓萬物而不與聖人同憂,盛德大業至矣哉!君子全備知仁之德,則君子即聖人也。然聖人之治有為,而陰陽之道無為。萬物涵陰陽之發育,則其仁顯;而陰陽之化不露朕兆,則其用藏。鼓動萬物,不類聖人有作尚待憂勤,盛德大業可謂至矣。富有之謂大業,日新之謂盛德。陰陽之盛德大業何謂也?陰靜則無所不涵,是謂富有,惟富有故業曰大;陽動則無時或息,是謂日新,惟日新故德曰盛。

『繋辞』にいう、道は仁徳を外に顕現し、功用を内に潜蔵し、万物を鼓動して生生已まざらしむるも、聖人の如く憂労の心を懐くに似ず。其の盛徳大業は極処に至ると算す可し。多隆阿は解釈す。君子はもし「知」と「仁」との両種の徳性を兼備し得れば、然らば君子もまたすなわち聖人なり。ただ聖人の世を治むるは「有為」なり、而して陰陽の道は却て「無為」なり。万物は皆陰陽の発育の中に涵育せられ、これがすなわち其の仁の外に顕現するなり。陰陽の化育はまた一点の朕兆痕跡を露せず、これがすなわち其の功用の内に潜蔵するなり。それは万物を鼓動すれど、聖人の作為ある時に於いてなお憂勤惕厲を須うるに似ず。ゆえに其の盛徳大業の極処に至るを言う。経文はまたいう、有らざるなきを「大業」と言い、日日更新するを「盛徳」と言う。多隆阿は設問す、陰陽の盛徳大業は究竟何を指すや。彼は自ら答う。陰は静を主り、静すれば則ち包涵せざるなし。これがすなわち「富有」なり。ただ其の富有なれば、ゆえに其の業を大と称す。陽は動を主り、動すれば則ち一刻の停息なし。これがすなわち「日新」なり。ただ其の日新なれば、ゆえに其の徳を盛と称す。

生生之謂易,成象之謂乾,效法之謂坤,極數知來之謂占,通變之謂事,陰陽不測之謂神。陰陽生生,是謂之易;陽生成象,是謂之乾;陰生效法乾道,是謂之坤。陰陽互交,極其數為六十四卦、三百八十四爻,預知將來之吉凶,是謂之占。占筮有法,能通其變,則作為可以決斷,是謂之事。至於陰陽消息變化不測,是謂之神矣。此第五章,言陰陽之道神化不測,易之道亦如之,宜玩其辭也。

『繋辞』にいう、生生已まざるを「易」と言い、形象を生成するを「乾」と言い、乾道を效法するを「坤」と言い、蓍策の数を窮尽して未来を預知するを「占」と言い、変化を会通して行止を定むるを「事」と言い、陰陽往来して測度し得ざるを「神」と言う。多隆阿は逐条に講解す。陰陽は互相化生して生生已まず、これを「易」と言う。陽気は発生して形象を成就す、これを「乾」と言う。陰気は発生して乾の法則を效法す、これを「坤」と言う。陰陽は交互推蕩して、其の数を尽頭に推せば、便ち六十四卦・三百八十四爻と成り、此に拠りて将来の吉凶を預め知る。これを「占」と言う。占筮は自ら一定の法度あり、能く其の中の変化を通暁せば、行事は則ち決断する所有らん。これを「事」と言う。至りて陰陽の消長変化が測度する所なきの地步に至れば、則ち之を「神」と言う。彼は最後に総結す。これは第五章にして、陰陽の道の神妙測り難きを言い、『易』の道もまた此の如し。ゆえに当に其の辞を反復玩味すべし。

繋辞上伝・第六章

夫易廣矣,大矣!以言乎遠則不御,以言乎邇則靜而正,以言乎天地之間則備矣。無物不載曰廣,無物不覆曰大。御,止也。易道之大,遠莫能御;易道之廣,邇則靜正。言天地所有之象,易皆備之。夫乾,其靜也專,其動也直,是以大生焉;夫坤,其靜也翕,其動也闢,是以廣生焉。易言乾坤即天地也,易道廣大即乾坤也,蓋乾坤之廣大於其生見之矣。專,專一;直,直遂也;翕,聚也;闢,開闢。乾象中實,故靜專而動直;坤象中虛,故靜翕而動闢。惟專與直,故無私曲,萬物資始而其生至大;惟翕與闢,故無窒塞,萬物資生而其生至廣。乾坤之廣大如此。

『繋辞』にいう、『易』は真に広なりや、大なりや。遠きより言えば、至らざるなきにして遏止す可からず。近きより言えば、安静にして中正なり。天地の間より言えば、備わらざるなし。多隆阿は字を訓す。一物も承載せざるなきを「広」と言い、一物も覆蓋せざるなきを「大」と言い、「御」は遏止なり。彼は講ず。『易』道の大は、極遠に推しても之を攔住し得るものなし。『易』道の広は、就近に看れば則ち安静にして端正なり。天地間の所有の物象は、『易』の裏に全て具備せり。経文は続けていう、乾は静の時は専一にして、動の時は直遂なり。これに因りて「大生」はここより出づ。坤は静の時は収斂し、動の時は開張す。これに因りて「広生」はここより出づ。多隆阿は解釈す。『易』の言う所の乾坤はすなわち天地なり。『易』道の広大もまたすなわち乾坤の広大なり。而して乾坤の広大は、まさにそれらの万物を生育する此の事の上より見出さるるなり。「専」は専一、「直」は直遂して曲ならず、「翕」は收聚、「辟」は開張なり。乾卦の象は中間充実し、ゆえに静の時専一にして動の時直遂す。坤卦の象は中間虚空し、ゆえに静の時收聚して動の時開張す。ただ其の専一にして直遂なれば、ゆえに偏私曲折なく、万物は之に依りて開端し、其の生養はこそ「大」に至るなり。ただ其の收聚にして開張なれば、ゆえに壅塞阻隔なく、万物は之に依りて生成し、其の生養はこそ「広」に至るなり。乾坤の広大は則ち此の如し。

廣大配天地,變通配四時,陰陽之義配日月,易簡之善配至德。配,對也。廣大莫如天地,而易以乾坤配之;天地運行有四時,而易以變通配之;天地中之昭明者莫如日月,而易以陰陽之義配之;天地之大生廣生謂之至德,而易以易簡之善配之。易之廣大如天地也。此第六章,言天地至廣至大,惟易克配之,宜玩其辭也。

『繋辞』にいう、『易』の広大は天地と相配し、其の変通は四時と相配し、其の陰陽の義は日月と相配し、其の易簡の善は最高の徳と相配す。多隆阿は解釈す。「配」は相対相当なり。天下に天地より広大なるは更になし、而して『易』は乾・坤両卦を用いて之と相当す。天地は運行して春夏秋冬の四時あり、而して『易』は爻の変通を用いて之と相当す。天地の間に最も昭朗光明なるは日月に若くなく、而して『易』は陰陽の義を用いて之と相当す。天地のあの大生・広生の功能は至徳と称す可き、而して『易』は乾易坤簡の善を用いて之と相当す。見れば『易』の広大は則ち天地の如し。彼は総結す。これは第六章にして、天地は至広至大にして、ただ『易』のみ能く之と相配するを言う。ゆえに当に其の辞を反復玩味すべし。

繋辞上伝・第七章

子曰:易其至矣乎!夫易,聖人所以崇德而廣業也。知崇禮卑,崇效天,卑法地。易道至廣至大,而聖人之崇德廣業皆有取於易焉。德之虛明內照謂之知,業有規矩可循謂之禮。知高故崇,禮順故卑。崇莫如天,而天之高明有象,效之故德崇;卑莫如地,而地之博厚無垠,法之故業廣。

『繋辞』は孔子の話を記していう、『易』はおそらく極処に至ったであろう。『易』はまさに聖人が其の徳を尊崇し其の業を拡大するに用いる憑藉なり。智識は高崇を要し、礼節は卑下を要す。高崇は天を效法し、卑下は地を取法す。多隆阿は解釈す。『易』道は至広至大にして、而して聖人の「崇徳」「広業」は皆『易』の裏より取法し来たるなり。徳性は虚明にして能く内照自省するを「知」と言い、事業は規矩あって遵循す可きを「礼」と言う。知は高きを貴ぶがゆえに「崇」と言い、礼は順なるを貴ぶがゆえに「卑」という。至高なるは天に若くなく、而して天の高明は象有りて見ゆ可し。之を效法すれば、徳は便ち崇め得ん。至下なるは地に若くなく、而して地の博厚は辺際なし。之を取法すれば、業は便ち広め得ん。

天地設位,而易行乎其中矣。成性存存,道義之門。夫德業之效法天地,是即效法易也。天地設位於上下,而易即行乎天地之中。學易者誠於本成之性,存之又存,無或放失,即為道義從入之門,德崇業廣之基在此矣。此第七章,言德業之崇廣在乎學易者效法天地,宜玩其辭也。

『繋辞』にいう、天と地とは各々其の位に就きて、而して『易』は則ち天地の間に運行す。已に成就せる本性を守りてまた守る、これは便ち道義の出入する門戸なり。多隆阿は解釈す。崇徳広業はすでに天地を效法せんと欲すれば、あれもまた『易』を效法するに等し。天地は一上一下にして各々其の位に就き、『易』はまさに天地の当中に運行するがゆえなり。『易』を学ぶ人はただ自ら本来成就せるあの天性に対して真誠を抱持し、之を守りまた之を守りて、一刻の放失あるを致さざらしめば、これはすなわち道義の進入し得る門戸にして、其の徳を尊崇し其の業を拡大する根基もまた則ちここに在り。彼は総結す。これは第七章にして、徳業の崇広し得るや否やは、全く『易』を学ぶ人の天地を效法するや否やに在るを言う。ゆえに当に其の辞を反復玩味すべし。

繋辞上伝・第八章

聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象。賾,雜亂也。此言立卦之源也。聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。會,合也。通謂無窒礙。典禮,常法也,謂爻位之尊卑有定也。此言生爻之源也。

『繋辞』にいう、聖人は天下の事物の紛雑なるを見る有りて、便ち其の形貌を比擬し、其の各々相宜の様態を摹写し、これに因りて之を「象」と称す。多隆阿は注す。「賾」は紛雑錯乱なり。此の一句が講ずるは卦を立つるの由来なり。経文はまたいう、聖人は天下の事物の変動するを見る有りて、便ち其の中の会合貫通の処を観察し、據りて常行の法度を推行し、また文辞を系して吉凶を判断す。これに因りて之を「爻」と称す。多隆阿は注す。「会」は会合、「通」は窒碍なきを指す。「典礼」は常行の法度にして、爻位の尊卑の各々定分あるを指す。此の一句が講ずるは爻を生ずるの由来なり。

言天下之至賾而不可惡也,言天下之至動而不可亂也。擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化。惡猶厭也。象言天下之至賾而其理可味,爻言天下之至動而有序不紊,故學者之言動宜擬象議爻,以成變化與易準也。

『繋辞』にいう、卦象は天下の最も紛雑なる事物を言い尽し、人は其の雑に因りて厭を生ぜず。爻辞は天下の最も頻繁なる変動を言い尽し、人は其の動に因りて乱を覚えず。先ず卦象を比擬して然る後に口を開き、先ず爻義を商議して然る後に行動し、かくの如き擬と議とを憑りて己が変化を成就せん。多隆阿は解釈す。「悪」はすなわち厭棄なり。卦象は天下の最も紛雑なる事物を説き出して、而其の中の道理は人に玩味に堪えしむ。爻辞は天下の最も頻繁なる変動を説き出して、而其の中は井然有序にして紊亂せず。ゆえに『易』を学ぶ人の一言一動は、皆当に卦象を比擬し爻義を商議し、己が変化をして『易』と相准せしむべし。

「鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡之。」子曰:「君子居其室,出其言善,則千里之外應之,況其邇者乎?居其室,出其言不善,則千里之外違之,況其邇者乎?言出乎身,加乎民;行發乎邇,見乎遠。言行,君子之樞機,樞機之發,榮辱之主也。言行,君子之所以動天地也,可不慎乎?」擬議言動之義,可即中孚九二爻辭得之。中孚上巽下兌,中互艮震,巽為處,艮為廬,故曰居室,此在陰之象;兌為口,震為聲、為出,故曰出言,此鳴鶴之象;二陰在前曰外,陽應前陰,故曰千里之外應之,此子和之象。樞,門樞;機,弩牙也。此言鶴鳴雖在幽隱之地必有和者,猶之人言雖在宥密之處必有應者。出言尚如此,則大於言者可知;應者至千里之遠,則邇於千里者又可知。是以君子於言行不敢不擬議以致慎也。

『繋辞』は『中孚』九二の爻辞を引いていう、「鶴は山陰の処に鳴き、其の小鶴は声を応じて唱和す。我に好酒あり、願くば汝と共同して之を分かち享けん」。孔子は解釈していう、「君子は己が屋に住みて、言い出す所の話はもし善ならば、千里の外も皆響応せん。況んや近処の人をや。己が屋に住みて、言い出す所の話はもし善ならざれば、千里の外も皆背離せん。況んや近処の人をや。話は自身より出づれど、百姓の身上に加わり。行為は近処より発すれど、遠方に顕現す。言と行とは、君子の門軸と弩牙にして、門軸弩牙は一たび発動すれば、栄と辱とは便ちこれに由りて決定す。言と行とは君子が天地を感動するに用いる物なり。何ぞ謹慎せざらんや」。多隆阿にいう、擬議して然る後に言動するの道理は、まさに『中孚』九二の此の条の爻辞の上より得る可し。彼は随に卦象を以て印証す。『中孚』の上卦は巽、下卦は兌で、中間に艮・震両卦を互出す。巽に「処」の象あり、艮は廬舍なり。ゆえに「居其室」といい、これはまさに「在陰」の象なり。兌は口、震は声、為出なり。ゆえに「出其言」といい、これはまさに「鳴鶴」の象なり。二つの陰爻は前に在りて「外」と称し、陽爻は上に向かって前面の陰爻に応ず。ゆえに「千里之外応之」といい、これはまさに「其子和之」の象なり。彼はまた字を訓す。「枢」は門軸、「机」は弩の上の扳機なり。最後に其の義を申明す。鶴は幽隠の処に鳴くもなお必ず応和する有り。人が深密隠蔽の処に於いて説話するもまた必ず回応あるに譬ゆ。口を開き話を言うがなお此の如し、然らば言語より大なる事は推して知る可し。回応は千里に遠及するも、然らば千里の内に近きは更に言うを待たず。ゆえに君子は己が言行に対して、敢えて先に擬議を加えて慎重を求めざるを得ず。

「同人先號咷而後笑。」子曰:「君子之道,或出或處,或默或語。二人同心,其利斷金;同心之言,其臭如蘭。」擬議言動之義,又可即同人九五爻辭得之。同人上乾下離,而自姤、夬來。姤之巽風象號,夬之兌說象笑。巽為處,前往之二,故又曰出;兌口象語,退後之二,故又曰默。五與二應,是為二人;二五得中,是為同心。夬上之二,離變乾中,火克乾金,故金斷也;姤初之二,變巽為離,上應乾中,巽為臭、為蘭,乾為言,故曰同心之言其臭如蘭也。此言君子之出處語默始異終同,其心志之堅物不能間,其氣味之投久則俱化焉。

『繋辞』は『同人』九五の爻辞を引いていう、「同人は先ず号咷大哭し、而る後に歓笑す」。孔子は解釈していう、「君子の世に処するの道は、或いは出仕し、或いは退居し、或いは沈黙し、或いは発言す。両人同心すれば、其の鋒利は金属を斬断するに足り。同心の人の言う所の話は、其の気味は芬芳として蘭の如し」。多隆阿にいう、擬議して然る後に言動するの道理は、また『同人』九五の此の条の爻辞の上より得る可し。彼は仍ほ卦変・卦象を以て據と為す。『同人』の上卦は乾、下卦は離で、『姤』『夬』両卦より変じ来たるなり。『姤』の含む所の巽は風にして、号啕の象あり。『夬』の含む所の兌は悦にして、歓笑の象あり。巽に「処」の象あり、若し前往して二位に居れば、便ちまた「出」の象あり。兌は口にして「語」の象あり、若し退後して二位に居れば、便ちまた「黙」の象あり。九五は六二と相応し、これがすなわち「二人」なり。二・五は皆中位に居り、これがすなわち「同心」なり。『夬』卦の上爻は二位に来たり、離体は乾体の中に変入し、火は乾金を克す。ゆえに「断金」という。『姤』卦の初爻は二位に来たり、巽は離に変じて上に乾の中爻に応ず。巽は気味、蘭なり。乾は言語なり。ゆえに「同心之言、其臭如蘭」という。彼は帰結していう、これは君子の出処語黙を講ずるにして、初めは各々異なるも、最終は却て相同に帰す。其の心志の堅固なるや、外物も離間する能わず。其の気味の投合するや、日久しくすれば便ち浑然として相化す。

「初六,藉用白茅,無咎。」子曰:「苟錯諸地而可矣,藉之用茅,何咎之有?慎之至也。夫茅之為物薄,而用可重也。慎斯術也以往,其無所失矣。」此言議之而後動,而以大過初六爻辭證之。錯,置也。大過內卦為巽,巽為茅、為白,又為木;初為地位,巽木為棟,以棟視茅,茅為至薄,然恐棟之橈而以茅藉之,則棟雖橈不至於損。人體藉茅之義而後動,則以慎而無所失也。

『繋辞』は『大過』初六の爻辞を引いていう、「初六、潔白の茅草を用いて襯墊を為す、過失ある可からず」。孔子は解釈していう、「物を直に地上に放るも本とすなわち可なり。なお茅草を用いて下に墊せば、何の過失あらんや。これは謹慎の極に至るなり。茅草の此の物は本身微薄なれど、用いる所は却以て重くす可し。能くかくの如き謹慎を推行し去れば、則ち何の閃失も有らざらん」。多隆阿にいう、此の条が講ずるは「議之而後動」にして、而して『大過』初六の爻辞を用いて印証す。「錯」は安置なり。『大過』の内卦は巽にして、巽に茅草の象あり、白色の象あり、また木の象あり。初爻は地の位置に居り、巽木はここに於いて屋棟を象徴す。屋棟を以て茅草に比すれば、茅草は極其単薄なり。然れどもただ大棟の圧弯するを恐れ、便ち茅草を用いて其の下に墊せば、屋棟は縦に弯曲すれども折損に至らず。人はもし「茅草を用いて襯墊を為す」の此の層の意を体会して然る後に行動せば、能く謹慎を憑りて差失を出さざらん。

「勞謙,君子有終,吉。」子曰:「勞而不伐,有功而不德,厚之至也。語以其功下人者也。德言盛,禮言恭。謙也者,致恭以存其位者也。」動既宜慎,而又宜謙,謙之九三爻辭可玩也。謙艮為厚,互坎為勞,語,言也。謙三自剝之上來,自高降卑,此謂以功下人。惟謙故有德有禮,惟勞謙故德言愈盛,禮言愈恭。致恭以存其位,君子所以終吉也。

『繋辞』は『謙』卦九三の爻辞を引いていう、「勤労にして謙遜なれば、君子は能く好結末有りて吉なり」。孔子は解釈していう、「労績ありて自ら誇らず、功業ありて自ら其の徳に居らざるは、これ篤厚の極に至るなり。言う所は己が功労を持って謙りて人の下に居るを言う。徳に就いて言えば充盛を要し、礼に就いて言えば恭敬を要す。いわゆる謙とは、極其恭敬を以て自らの位分を保住するなり」。多隆阿にいう、行動はすでに謹慎を要し、また謙下を要す。『謙』卦九三の爻辞はまさに玩味に値す。彼は仍ほ象を以て義を釈す。『謙』卦の下体は艮にして、艮に厚の象あり。中間に坎を互出し、坎に労の象あり。「語」はすなわち言説なり。『謙』卦の九三は『剥』卦の上九より降り来たるにして、最高処より卑下の位に降る。これがすなわちいわゆる「其の功を以て人に下る」なり。ただ其の能く謙なれば、ゆえに徳あり礼あり。ただ其の労にして且つ謙なれば、ゆえに徳を論ずれば愈々充盛を見、礼を論ずれば愈々恭敬を見る。能く恭敬を極尽して自らの位分を保守するは、これはまさに君子の終竟吉を得る所以なり。

「亢龍有悔。」子曰:「貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。」夫以謙動則終吉,而以亢動則有悔,故又舉乾上九爻辭以戒動者。「不出戶庭,無咎。」子曰:「亂之所生也,則言語以為階。君不密則失臣,臣不密則失身,幾事不密則害成,是以君子慎密而不出也。」此節初九爻辭。節為上坎下兌,中互艮震,而自泰來。虞氏曰:坤為亂,震為生、為言語,坤稱階,故亂之所生則言語以為階也。泰乾為君,坤為臣、為閉,故稱密。乾三之坤五,君臣毀賊,故君不密則失臣;坤五之乾三,坤體毀壞,故臣不密則失身,坤為身也。坤為事,坤變為坎,坎陷曰害,三往之五成坎,故曰幾事不密則害成。初居互震互艮之下,未及震出,先應艮止,故曰慎密不出也。此言言語足以生亂,故君子必欲擬之而後言也。

『繋辞』は『乾』卦上九の爻辞を引いていう、「龍は余りに高く飛べば、悔恨有らん」。孔子は解釈していう、「身分は尊貴なれど実位なく、地位は崇高なれど治む可き百姓なく、賢人は皆下位に屈居して来りて輔佐せず。ゆえに一たび挙動有れば則ち悔を生ぜん」。多隆阿は此の条の用意を点明す。謙遜を以て行動すれば、結局は吉なり。亢極を以て行動すれば、結果は悔なり。ゆえに『繋辞』はまた『乾』上九の爻辞を挙出して、以て将に挙動あらんとする人を告戒す。『繋辞』は再び『節』卦初九の爻辞を引いていう、「門庭を出ざれば、過失有らざらん」。孔子は解釈していう、「禍乱の発生は、往々言語を以て階梯と為す。国君は言語慎密ならざれば則ち臣子を失い、臣子は言語慎密ならざれば則ち自身を喪い、機密の事は慎密ならざれば則ち禍害を釀成す。ゆえに君子は機密を慎守して軽々しく出口せず」。多隆阿は指出す、これは『節』卦初九の爻辞なり。『節』卦の上体は坎、下体は兌で、中間に艮・震を互出し、『泰』卦より変じ来たるなり。彼は三国の易学家虞翻の話を引いていう、坤は乱、震は生、言語なり。坤はまた「階」と称す可し。ゆえに禍乱の生ずるは言語を以て階梯と為すという。『泰』卦の乾は君、坤は臣、閉合なり。ゆえに「密」と称す。乾の三爻は上行して坤の五位に至れば、君臣の体は此に因りて毀傷す。ゆえに「君不密則失臣」という。坤の五爻は下行して乾の三位に至れば、坤体は此に因りて毀壞す。ゆえに「臣不密則失身」といい、坤に「身」の象あるがゆえなり。坤はまた事を為し、坤は坎に変じ、坎は陷険を主ればすなわち「害」なり。三爻は往きて五位に居りて坎を成す。ゆえに「几事不密則害成」という。初爻は互震・互艮の下に居り、震に随いて出るに及ばずして、先に已に艮の止に応じたり。ゆえに「慎密而不出」という。多隆阿は帰結していう、これは言語が以て禍乱を生出するに足るを講ず。ゆえに君子は必ず先に比擬斟酌して然る後に初めて口を開く。

子曰:「作易者其知盜乎!《易》曰:『負且乘,致寇至。』負也者,小人之事也;乘也者,君子之器也。小人而乘君子之器,盜思奪之矣;上慢下暴,盜思伐之矣。慢藏誨盜,冶容誨淫。《易》曰『負且乘,致寇至』,盜之招也。」言宜慎密,而動亦宜慎密,嘗得其義於解六三爻辭矣。解為上震下坎,中為互離,三居二陽之間,陰為小人,上負震車,下乘坎輿,是必在上者褻慢名器,小人始得乘之。乘者非其人,故盜覬覦之而思奪之也。小人之行暴,上誤用之,上既褻慢,下復暴虐,人心思亂,故盜乘機起也。強取曰奪,執辭曰伐。坎為盜、為弓輪,互離為甲冑、為戈兵,震為鼓、為言聲,故曰盜、曰伐也。誨,教也;冶,妖冶也。慢藏者誨之使盜,冶容者誨之使淫,既己招之,豈能卻之?曰盜之招者,言招之使至也。此第八章,言言動之變化皆由學易者擬議之,宜玩其辭也。

『繋辞』は孔子の話を記していう、「『易』を作った人はおそらく盗賊の心思を懂得したであろう。『易』の『解』卦六三にいう、『物を背負いてまた車に乗れば、強盗を招来す』。背負は小人の干る事にして、車乗は君子の用うる器物なり。小人が却て君子の器物に乗上れば、盗賊は便ち奪取の念を動かす。上に在る者は軽慢にして、下に在る者は暴虐なれば、盗賊は便ち討伐の念を動かす。財物を収蔵するに馬虎なれば、人を教えて来りて偷ましむるに等し。打扮して妖冶なれば、人を教えて淫を生ぜしむるに等し。『易』に『負且乘、致寇至』と言うは、まさに自ら強盗を招来するなり」。多隆阿にいう、言語は慎密を要し、行動もまた慎密を要す。此の層の意は彼は曾て『解』卦六三の爻辞の中より体会せり。『解』卦の上体は震、下体は坎で、中間に離を互出す。六三の此一陰爻は二つの陽爻の間に挟まれ、陰は小人を代表し、上には震の象る車を背負い、下には坎の象る輿に乗る。見れば必ずや上位的者の名器を軽慢せしにより、小人は始めて乗上るを得たり。車に乗るはすでに乗るべき人にあらざれば、盗賊は便ち之を覬覦して之を奪わんと思う。小人の行事暴虐なるは、上位的者の彼を誤用するなり。上位的者はすでに軽慢にして、下位的者はまた暴虐を行えば、人心は乱を思い、ゆえに盗賊は機に乗じて起る。彼はまた字を訓す。強力を用いて奪取するを「奪」と言い、名義を執持して声討するを「伐」と言う。坎は盗、弓と車輪と為り、互出の離は甲冑、戈兵と為り、震は鼓、声音と為る。ゆえに経文は「盗」と言い「伐」と言う。「誨」は教、「冶」は妖冶なり。収蔵に軽慢あれば、人を教えて偷み行かしむるに等し。容色妖冶なれば、人を教えて淫を生ぜしむるに等し。すでに自ら招来せるに、また何を以て推卸せん。いわゆる「盗之招」とは、すなわち自ら盗賊を目前に招引するを言う。彼は総結す。これは第八章にして、言語と行動の種種の変化は、皆『易』を学ぶ人の先に擬議を加うるに頼るを言う。ゆえに当に卦爻の辞を反復玩味すべし。

繋辞上伝・第九章

大衍之數五十,其用四十有九。分而為二以象兩,掛一以象三,揲之為四以象四時,歸奇於扐以象閏,五歲再閏,故再扐而後掛。鄭氏曰:衍,演也,謂衍蓍以筮也。演卦用蓍策數五十,五十者,天之生數、地之成數也。天地生成之數為五十,而用四十九策者,蓋以蓍圓卦方,卦為八八之數,蓍為七七之數,故減一不用也。

『繋辞』にいう、大衍の数は五十にして、実際に動用するは四十九根なり。それらを二份に分かちて以て天地両儀を象徴し、其の中より一根を抽出して挂起して以て三才を象徴し、四根四根に数え去って以て四時を象徴し、数え余れる零策を指間に挟んで以て閏月を象徴す。五年の中に二度の閏あれば、ゆえに二度帰余して指に挟み、然る後に再び策を挂す。多隆阿は漢代経学家鄭玄の話を引きて解釈す。「衍」は推演にして、蓍草を推衍して占筮するを指す。推衍して卦を成すに用いる蓍策の数は五十にして、此の五十は天の生数と地の成数とを合わせたる数目なり。天地生成の数は五十にして、而して実際はただ四十九策を用うるは、蓍策は円に属し卦体は方に属するがゆえなり。卦は八八六十四の数、蓍は七七四十九の数なれば、ゆえに一根を減じて用いず。

當此四十九策未分之候,渾然無朕,則象太極。兩手分之為二,左陽右陰,是象兩儀。又取一策掛於小指之間,以象三才。揲,撥而數之也,四其數以數之,先數左手之策,次數右手之策,以四起數者,象春夏秋冬之四時。四四數畢,必有零策,此謂之奇,奇,零也。將此零策扐於指間,以象月閏。扐,勒也;閏,餘也。一卦兩分兩揲,合之曰五歲,五次分揲,兩次歸奇,故曰再閏。

多隆阿は続けて逐步に揲蓍の実際操作を講ず。当に此の四十九策は未だ分かれざる時、浑然一体にして形跡見ゆるなし。これはすなわち「太極」を象徴す。両手は之を二份に分かち、左手は陽、右手は陰にして、これはすなわち「両儀」を象徴す。再び一策を取りて小指の間に挟み、用いて「三才」を象徴す。「揲」は撥開きて点数するなり。四を以て一組と為して之を数え、先ず左手の策を数え、再び右手の策を数う。四を以て数を起すは、春夏秋冬の四時を象徴するなり。四根四根数え尽せば、必ず零頭を剩余す。これを則ち「奇」と言い、「奇」はすなわち零余なり。此の零余の策を指縫の間に挟んで、用いて月份の閏余を象徴す。「扐」は勒挟、「閏」は余数なり。一卦の中に二度の分、二度の揲あり、合わせて之を「五歳」と称す。五次の分揲の中に二度の帰奇あり。ゆえに「再閏」という。

於是並掛策扐策為一而通數之,是為一變。從此再分再掛再揲,其法同前,是為再變。至於三變,則成一爻。四揲其策,所餘之數不五則九,五有一四,是為奇;九有二四,是為偶。三變皆奇為老陽,三變皆偶為老陰,一奇二偶為少陽,一偶二奇為少陰。老變而少不變,變者為動爻,則即動爻以玩占,此筮法之大略也。

多隆阿は続けていう、ここにおいて挂起せるあの一策と指間に挟める零策とを合併して通数すれば、則ち「一変」を完成す。ここより再び分かち再び挂し再び揲し、弁法は前面と相同じ、これは「二変」なり。三変に至って、始めて一爻を成就す。毎次四を以て策を揲し、剩余する所の数は五ならざれば九なり。五の裏面に一個の四を含むは、「奇」と算す。九の裏面に二個の四を含むは、「偶」と算す。三変皆奇を得るは老陽、三変皆偶を得るは老陰、一奇二偶は少陽、一偶二奇は少陰なり。老陽老陰は変じ、少陽少陰は変ぜず。変ずるあの一爻は則ち動爻にして、占者は便ち此の動爻に拠りて占断を玩味す。これはすなわち筮法の大概なり。

天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。虞氏曰:天數五,謂一、三、五、七、九;地數五,謂二、四、六、八、十也。五位,謂五行之位。五位相得而各有合,或以一六合水,二七合火,三八合木,四九合金,五十合土也。

『繋辞』にいう、『乾』卦の蓍策は二百十六根にして、『坤』卦の蓍策は百四十四根なり、合わせて三百六十根にして、対当する所は周天の度日なり。『易』全体の蓍策は万に千五百二十有りて、対当する所は万物の数なり。多隆阿は解釈す。『乾』の六爻は皆老陽にして、毎爻三十六策、六爻共に二百十六策なり。『坤』の六爻は皆老陰にして、毎爻二十四策、六爻共に百四十四策なり。合わせれば三百六十策にして、周天の度数と当す。『易』全体の蓍策を通算せば、則ち万に千五百二十有りて、万物の数目と当す。

鄭氏曰:天地之氣各有五。五行之次,一曰水,天數也;二曰火,地數也;三曰木,天數也;四曰金,地數也;五曰土,天數也。此五者陽無耦、陰無匹,故又合之:地六為天一匹也,天七為地二耦也,地八為天三匹也,天九為地四耦也,地十為天五匹也。二五陰陽各有合,然後氣相得,施化行也。天數二十有五者,為一三五七九之積數;地數三十者,為二四六八十之積數。合之為五十五數,除去六數以備六爻,而用四十九數以為占筮,則所以變化三百八十四爻而行陽神陰鬼者賴此矣。

『繋辞』にいう、ゆえに四度の経営に因りて卦変を成し、十八回の変化に因りて一卦を成す。八卦は小成の卦なり、引き伸ばし之を触類して長さん、天下の能事は畢に此に在り。道徳を顕揚し神の行状を彰明するは、ゆえに以て人事を酬応する能く、鬼神に侑助する能し。ゆえに『易』は以て之を言う可し。多隆阿は解釈す。「四営」とは二度分かち、二度挂し、二度揲す、二度帰奇するを指す。卦は三変に因りて一爻を成し、六爻は十八変を須う。乾坤両卦は已に陰陽を含有し、毎卦は各々三爻にして、ゆえに小成と称す。則ち此の八卦より衍伸し去りて、長はすなわち六十四卦に衍し、触はすなわち六爻に触れん。而して陰陽を乘りたる天下の事はここに於いて尽き。ゆえに能く人心の疑惑を決し、天下の道徳を顕揚し、鬼神の状況を彰明す。以て人の事に応じる能く、鬼の神を佑する能し。ゆえに『易』の言う所の道はすなわち此の大衍の理なり。

乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四,凡三百有六十,當期之日。二篇之策,萬有一千五百二十,當萬物之數也。乾卦純陽,坤卦純陰。乾陽數九,以揲蓍之數計之,為四九三十六,六爻得數二百一十有六,此乾策也;坤陰數六,以揲蓍之數計之,為四六二十四,六爻得數百四十有四,此坤策也。乾坤策數合之為三百六十,一歲為期,言以三百六十數當一期之日也。二篇謂上下經,二篇之陽策陰策各一百九十有二,陽策以四九之數乘之,得六千九百一十二策;陰策以四六之數乘之,得四千六百八策;合為萬一千五百二十策,以當萬物之數也。

『繋辞』にいう、『易』は四道あり。言を以て之を言う、動を以て之を制す、器を以て之を象す、卜筮を以て之を占す。多隆阿は字を訓す。「尚」は尚するなり。此の四道とは、すなわち辞・変・象・占なり。経文はまたいう、是を以て君子は将に為さんとし、将に行かんとして、之に問うれば、すなわち言の如く応答す、遠近幽深に至るまで、遂に来たる物を知る。苟くも天下の最も精微なる物にあらざれば、孰か能く此に至らんや。多隆阿は解釈す。「或」は或いは、「問」は占筮、「孰」は誰かなり。此の句の言う所は、『易』は能く深奧の道理を闡明し、以て世人の為行を指導す、ゆえに天下に於いて「精」の美名を膺くるに堪えるなり。

是故四營而成易,十有八變而成卦,八卦而小成,引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。營,經營。四營者,陸氏所謂分二、卦一、揲四、歸奇是也。四營成一變,故曰成易;三變成一爻,十有八變成六爻,故曰成卦。三爻得卦之半曰小成,由小成以引伸觸類,六十四卦皆可推廣得之,故曰盡天下能事也。

『繋辞』にいう、蓍策を参伍して変化し、錯綜して其の数を綜合す。以て其の文を通し、遂に天地の文を定む。以て其の数を極め、遂に天下の象を定む。苟くも天下の最も変動する物にあらざれば、孰か能く此に至らんや。多隆阿は解釈す。「参伍」は参錯、「錯綜」は交互牽繋なり。「參」は三、「伍」は五にして、蓍策の数の中の数目を指す。天地之数は五に満ちざればあらず。参伍に因りて其の変化を推求し、錯綜に因りて其の数目を綜合すれば、卦爻の文理と数目とは皆此に於いて定めらるるなり。文はすなわち文理、「天下之文」は卦爻の辞を指す。象はすなわち卦象、「天下之象」は卦爻の取象を指す。能く変化を極尽するは、則ち定むる所の文と象とありて、動する所の数と変とあるに在り。これは天下に於いて「変」の美名を膺くるに堪えるなり。

顯道神德行,是故可與酬酢,可與佑神矣。道體至隱,得蓍筮而顯明;德行至實,得蓍筮而神化。酬酢猶報答也,佑,助也。《九家易》曰:禮飲酒,主人酌賓為獻,賓酌主人為酢,主人飲之又酌賓為酬也。先舉為酢,答報為酬。言筮能顯道,故可與酬酢;筮能神德行,故可與佑神也。子曰:知變化之道者,其知神之所為乎!陰陽變化非人所為,聖人極贊其神,以見揲蓍為易之用也。此第九章,詳言蓍筮之法而贊其道為神,故宜玩其占也。

『繋辞』にいう、『易』に思慮なく、為す所なきにして、寂寞として動かず、感ぜられて遂に天下の緣故に通ず。苟くも天下の最も神なる物にあらざれば、孰か能く此に至らんや。多隆阿は解釈す。「寂」は寂静、「寞」は虛静無為なり。「感」は感動、「遂」は通達なり。『易』は思慮なきに似たるも、其の中は却て万理を備具す。為す所なく不動に似たるも、其の中は却て万事を該括す。これは蓋し其の理は寂然として不動にして、一たび人の問う所に感ぜられれば、則ち雲開霧散の如く、天地之間の万緣万故は遂に此に於いて通貫す。ゆえに天下に於いて「神」の美名を膺くるに堪えるなり。彼は総結す。これは第九章にして、『易』道の神妙は、頼って人の為行を指導し、蓍策と卦爻の中に経綸を見出すを言う。ゆえに当に其の辞を反復玩味すべし。

繋辞上伝・第十章

易有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。以,用也。辭,繫辭;變,爻也;象,卦象。言、動、制器三者俱用夫易,而占亦為聖人之道,與三者並重,則卜筮烏可少哉!是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如向,無有遠近幽深,遂知來物,非天下之至精,其孰能與於此。是以君子將有行為,必先卜筮以占決之。問以言者,將占告蓍之言也。命,告也,蓍告人而人受之,故曰受命。向、響同,言如響應聲也。來物者,未來之吉凶也。遠近幽深無不顯著,蓍之至精如此。

『繋辞』にいう、夫れ『易』は聖人が以て天道を窮極し、人事を詳究する物なり。ただ其の心を用いて寂如と為し、人の問う所に感応す、ゆえに能く静を以て事務を統轄す。多隆阿は解釈す。「極」は窮尽、「研」は研窮、「幾」は幾微なり。夫れ『易』の此の書は、まさに聖人が以て天道を窮極し人事を詳究する物にして、而已に天地人物の原理を総括せり。ただ須うる所は其の心を用いて、寂然として静なるを以て、問う所有れば則ち感応する如く、能く此の静を以て万事を統轄す可し。ゆえに『易』道は静を以て動を制するなり。

參伍以變,錯綜其數,通其變遂成天地之文,極其數遂定天下之象,非天下之至變,其孰能與於此。參,三之也;伍,五之也;錯謂交錯;綜,理也,言如理絲縷也。筮法掛一象三,五閏再扐,此之謂參伍;所扐餘策奇偶殊致,老少分推,此之謂錯綜。文謂爻辭,參之伍之以成吉凶之文;象謂卦象,為錯為綜以定陰陽之象。文則通揲蓍之變以成之,象則極蓍策之數以定之,蓍之至變如此。

『繋辞』にいう、非ただ天下の至精を得る者にあらざれば、其の孰か能く此に与らんや。非ただ天下の至変を得る者にあらざれば、其の孰か能く此に与らんや。非ただ天下の至神を得る者にあらざれば、其の孰か能く此に与らんや。多隆阿は解釈す、「精」は純而不雜、「変」は動而能静、「神」は妙而不測なり。夫れ『易』は「精」なり、「変」なり、「神」なり、此の三つの境地に到らざれば、『易』の深遠広大なるを参与する能わず。ゆえに唯だ能く其の精を得る者のみ、能く『易』に与るを得ん。

易無思也,無為也,寂然不動,感而遂通天下之故,非天下之至神,其孰能與於此。蓍之至精至變如此,而當其不動則無思無為,至於有感而天下之故無不通焉,蓍又至神也。夫易,聖人之所以極深而研幾也。研,究也;幾,微也。惟精故深,惟變故微,聖人所以窮極其深而研究其幾也。

『繋辞』にいう、易無思也無為也、寂然不動、感而遂通天下之故、非天下之至精其孰能與於此。多隆阿は解釈す。夫れ『易』の此の書は、思虑なく、作為なく、寂然として不動なり。人が来りて之に問うに至れば、則ち遂に天下の事変に通貫す。此の如き神妙不测の妙境は、苟くも天下の最も精微なる書にあらざれば、孰か能く此の如くならんや。蓋し其の言う所の「寂然不動」とは、卦体の中の主宰なり。其の言う所の「感而遂通」とは、卦爻の辞の妙用なり。主宰は不動にして、妙用は已に顕現す。ゆえに『易』を学ぶ者は当に『易』の静中を窮究し、以て其の動中を體貼すべし。

唯深也,故能通天下之志;唯幾也,故能成天下之務;唯神也,故不疾而速,不行而至。心志內蘊,非深不能通;事務至賾,非幾不能成;通志成務,非神則猶未底於化。筮則無有遠近幽深,遂知來務,是能通天下之志;筮則通其變遂成天下之文,極其數遂定天下之象,是能成天下之務;筮則無思無為,寂然不動,感而遂通天下之故,是能不疾而速、不行而至也。子曰:易有聖人之道四焉者,此之謂也。此第十章,言卜筮為聖人之道而贊之為至精至變至神,宜玩其占也。

多隆阿は続けていう、夫れ『易』の此の書は、聖人が以て極深研幾するの具なり。唯だ深なるを以て、故に能く天下之志を通ず。唯だ幾なるを以て、故に能く天下之務を成す。唯だ神なるを以て、故に能く不疾而速、不行而至。子曰、易有聖人之道四焉者、此之謂也。彼は解釋す。「極」は窮極、「研」は研窮、「幾」は事の將萌の兆なり。聖人は『易』を以て天下最深の理を窮極し、以て天下最微の幾を研窮す。惟其能極深、故能通天下之志、惟其能研幾、故能成天下之務、惟其能極深研幾、故能至神至妙、其應也神、其速也神。故孔子又言、易有聖人之道四焉、所謂極深研幾者、是之謂也。

繋辞上伝・第十一章

天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。天陽地陰,陽奇陰偶。一三五七九,奇數,天數,奇者陽也;二四六八十,偶數,地數,偶者陰也。子曰:夫易何為者也?夫易開物成務,冒天下之道,如斯而已者也。是故聖人以通天下之志,以定天下之業,以斷天下之疑。虞氏曰:問易何為取天地之數也。開物即通志,成務即定業。冒,覆也。惟於天下之道無不該,故天下之疑可占斷也。

『繋辞』にいう、夫れ『易』は聖人が以て天下之志を開物成務する物なり。是故其の道は大なるを以て來り、其の業は有用なるを以て成す。以て天下之志を通ずる者、謂之能事業。以て天下之務を成する者、謂之萬世之太平也。多隆阿は解釈す。「開」は開發、「成」是成就、「務」是事務、「冒」是包括。這是說『易』此書是聖人用來開發萬物、成就萬事的工具。易道包羅萬象、其大無外、故謂之「開物」、易術經綸天下、其用無窮、故謂之「成務」。聖人作易之功用、蓋如此也。

是故蓍之德圓而神,卦之德方以知,六爻之義易以貢。聖人以此洗心,退藏於密,吉凶與民同患,神以知來,知以藏往,其孰能與於此哉!古之聰明叡知神武而不殺者夫。疑何以斷?斷以蓍卦與六爻也。蓍取少陽數,七七四十九,故其德圓;卦取少陰數,八八六十四,故其德方。蓍取變動,故曰神;卦有定體,故曰知。易,變易;貢,告也,言占參動爻,六爻之義有所變易,以吉凶告人也。聖人於此默體卦爻之義,靜以澄心,寂然不動,至於出身加民,酬酢萬物,隨感而應。惟古之聰明叡知神武而不用刑殺者能此也。

『繋辞』にいう、是故蓍之德圓而神、卦之德方以知、六爻之義易以貢。多隆阿は解釈す。「圓」是圓通、「方」是方正、「貢」是獻。蓍草圓活通神、能測知事物之原委、故曰「圓而神」。卦體方正有知、能昭示事物之方位、故曰「方以知」。六爻之義變易不居、能獻示事物之吉凶、故曰「易以貢」。此三者各擅其長、皆易道之精粹也。

是以明於天之道,而察於民之故,是興神物以前民用。聖人以此齊戒,以神明其德夫。古人之所以不用刑殺者,以民預知吉凶,咸知憂患,能知趨避也。是以後之聖人明天之道、察民之故,因蓍為神物,前民用之。玩占者則為齊以潔心,戒以遠欲,蓍物本神明,而以齊戒通蓍之神明也。

『繋辞』にいう、聖人以此洗心、退藏於密、吉凶與民同患、神以知來、知以藏往、其孰能與於此哉、古之聰明睿知神武而不殺者夫。多隆阿は解釋す。「洗心」是滌蕩胸襟、「退藏」是退處於密、「同患」是同其憂患、「不殺」是不殺伐。聖人用易道洗滌其心、退藏於幽深靜密之地、與民同其吉凶憂患。其神妙之智足以知來、其藏往之知足以察往。其孰能與於此哉、唯古之聰明睿知、神武而不殺伐者、能之也。

是故闔戶謂之坤,闢戶謂之乾,一闔一闢謂之變,往來不窮謂之通,見乃謂之象,形乃謂之器,制而用之謂之法,利用出入、民咸用之謂之神。聖人所以用蓍者,則以蓍為民咸用之物。揲蓍成卦,有乾坤,有變通,有象;因象則可以制器立法,人用之則出入咸利,又至神。但即戶闔闢往來推求,盡得其蘊,易道原非隱僻難知者。

『繋辞』にいう、是以明於天之道、而察於民之故、是興神物以前民用。聖人以此齊戒、以神明其德夫。多隆阿は解釋す。「興」是興起、「齊戒」是齊心戒慮、「神明其德」是使其德如神明。聖人明於天道、察於民情、故興起神物(即蓍龜)以為民用之前導。又用此齊心戒慮、使其德性如神明之不測。

是故易有太極,是生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦,八卦定吉凶,吉凶生大業。若是則蓍為要矣,於是又申揲蓍之法曰:太極者,大中也。當五十策未分之時,陰陽渾聚,無所偏倚,與喜怒哀樂未發之中相似,鄭氏所謂極中之道、醇和未分之氣是也。至於分而為二,則名兩儀;揲之以成奇偶之數,老陽、老陰、少陽、少陰各著,則名四象;再揲再扐,陽奇陰偶,錯綜成文,則名八卦。一生二,二生四,四生八,八卦既定,吉凶可分,占以決疑,大業之生亦由乎此。而不及三五者,略舉大概言之也。

『繋辞』にいう、是故闔戶謂之坤、闢戶謂之乾、一闔一闢謂之變、往來不窮謂之通、見乃謂之象、形乃謂之器、制而用之謂之法、利用出入、民咸用之謂之神。多隆阿은 해석한다. 「闔」은 閉也、「闢」은 開也、「通」은 通達、「神」은 妙用不測也。坤은 閉戶之德、乾은 開戶之德也。一閉一開、則謂之變化。往來不窮、則謂之通達。其變通之迹可見者、謂之象。其成形之體可用者、謂之器。聖人制而用之、謂之法。其利於出入往來、民咸用之而不自知、謂之神。

是故法象莫大乎天地,變通莫大乎四時,縣象著明莫大乎日月,崇高莫大乎富貴,備物致用、立成器以為天下利莫大乎聖人,探賾索隱、鉤深致遠,以定天下之吉凶、成天下之亹亹者,莫大乎蓍龜。兩儀者即天地也,蓍策兩分,始有象物可法,故曰法象莫大乎天地也。四時即四象,曰變通者,以筮蓍之變通起於揲也。日月謂坎離,坎離得乾坤中氣,舉坎離以該八卦也。惟有其位則所及者溥,惟有其德則所用者神。位尊莫如富貴,德全莫如聖人。崇高,位也,位崇高,人君之富貴也。物謂卦爻,器謂蓍也,備物立器用之以利天下者為聖人。探,取也;賾,雜亂也;索,求也;隱,幽隱;鉤謂曲以入之;致,極也;亹亹,勉也。有疑則怯,無疑則勉,是蓍龜乃所以定吉凶、成亹亹、生大業者也。

『繋辞』にいう、是故易有太極、是生兩儀、兩儀生四象、四象生八卦、八卦定吉凶、吉凶生大業。多隆阿은 해석한다. 「太極」是陰陽未分之渾淪、「兩儀」是天地、「四象」是少陽老陽少陰老陰、「八卦」是乾坤震巽坎離艮兌。易有太極、是生兩儀、兩儀生四象、四象生八卦。八卦既定、則吉凶可定、吉凶既定、則大業可生矣。

是故天生神物,聖人則之;天地變化,聖人效之;天垂象,見吉凶,聖人象之;河出圖,洛出書,聖人則之。此言聖人作易之由也。神物謂蓍龜,天地變化謂四時,天垂象謂日月。陽日陰月,陽舒陰慘,故曰見吉凶也。河圖洛書俱古書名,鄭氏曰:河圖九篇,洛書六篇。效,仿也;則,法也。

『繋辞』にいう、是故法象莫大乎天地、變通莫大乎四時、縣象著明莫大乎日月、崇高莫大乎富貴、備物致用、立成器以為天下利、莫大乎聖人、探賾索隱、鉤深致遠、以定天下之吉凶、成天下之亹亹者、莫大乎蓍龜。多隆阿은 해석한다. 「法象」是取法之象、「縣」是懸、「亹亹」是勤勉不倦。天地는 법상의 가장 큰 것이요 사시는 변통의 가장 큰 것이며 일월은 현상 창명의 가장 큰 것이고 부귀는 숭고의 가장 큰 것이다. 만물을 갖추어 쓰임을 내고 기물을 세워 천하를 이롭게 함은 성인만한 것이 없다. 은밀한 것을 찾아내고 깊은 것을 이끌어 내어 천하의 길흉을 정하고 천하의 부지런함을 이루는 것은 시구(蓍龜)만한 것이 없다.

易有四象,所以示也;繫辭焉,所以告也;定之以吉凶,所以斷也。此指易之用也。四象即揲蓍以四之法,因占筮以觀爻辭,因六爻辭以決吉凶也。《易》曰:「自天佑之,吉無不利。」子曰:「佑者,助也。天之所助者順也,人之所助者信也。履信思乎順,又以尚賢也,是以自天佑之,吉無不利也。」此引大有上九爻辭以證卜筮之用。大有內外卦為乾、為離,陰居五位,陰德曰順;五下履乾,乾陽體實,故曰信也;賢謂上九,上為陽剛,又為天位,上來助五,故曰天佑。言人依四象之所示、繫辭之所告以斷吉凶,則天佑助之矣。此第十一章,言易為體而筮為用,故宜玩占也,結以大有上九爻辭,與二章自天佑之吉無不利遙相應也。

『繋辞』にいう、是故天生神物、聖人則之、天地變化、聖人效之、天垂象見吉凶、聖人象之、河出圖、雒出書、聖人則之。易有四象、所以示也、繫辭焉所以告也、定之以吉凶所以斷也。多隆阿は解釋す。「神物」謂蓍龜、「則」是取法、「效」是仿效、「垂象」是垂示物象、「河圖」是河馬所負之圖、「洛書」是洛龜所負之書。天生神物、聖人則之以作易。天地變化、聖人效之以作易。天垂象以見吉凶、聖人象之以作易。河出圖、洛出書、聖人則之以作易。易有四象、所以示人也。繫辭焉、所以告人也。定之以吉凶、所以斷人也。

繋辞上伝・第十二章

子曰:書不盡言,言不盡意。然則聖人之意其不可見乎?子曰:聖人立象以盡意,設卦以盡情偽,繫辭焉以盡其言,變而通之以盡利,鼓之舞之以盡神。易之為書,不外辭、象二者。意本難盡,聖人立象乃所以盡意;言本難盡,聖人繫辭乃所以盡言。立象即設卦,天下事物之情備具六十四卦之內,此意不盡之盡也;繫辭謂爻辭,變通鼓舞於三百八十四爻之中,以盡其利,以盡其神,此言不盡之盡也。

『繋辞』は孔子の話を記していう、文字は話を尽くす能わず、話は意思を尽くす能わず。しかれば、聖人の意思は遂に見る能わざるか。孔子は続けていう、聖人は卦象を確立して意思を尽くし、卦体を設置して真情と虚偽とを尽くし、文辞を系して言語を尽くし、変通を加えて利益を尽くし、鼓動振作して神妙を尽くす。多隆阿は解釈す。『易』の此の書は、「辞」と「象」との両样の外ならず。意思は本と尽くし難く、聖人は便ち卦象を確立して以て意を尽くす。言語は本と尽くし難く、聖人は便ち文辞を系して以て言を尽くす。いわゆる「立象」とはすなわち卦を設くるにして、天下事物の種種の情状は悉く六十四卦の内に備具せり。これはすなわち意は本と尽くす可からざるも終竟尽きたるなり。いわゆる「系辞」は爻辞を指し、三百八十四爻の中に於いて変通鼓舞して、以て其の利を尽くし其の神を尽くす。これはすなわち言は本と尽くす可からざるも終竟尽きたるなり。

子曰:乾坤其易之縕邪?乾坤成列,而易立乎其中矣。乾坤毀,則無以見易;易不可見,則乾坤或幾乎息矣。夫意言之所以難盡而猶可盡者,以闢卦、乾卦往來移易,有所縕藏也。易,移也。虞氏曰:縕,藏也。乾坤純陽純陰,為不易卦,而闢卦皆消息於乾坤,且具乾坤之體,故乾坤為易移之縕。若乾坤毀裂,陰陽已分,則無可易矣。儻單卦或有乾坤,如需、訟、晉、明夷諸卦,而以重卦衡之,乾坤之體幾乎滅息也。

『繋辞』は孔子の話を記していう、乾・坤はおそらく『易』の蕴藏する所であろう。乾坤両卦が排列して形を成せば、『易』は便ちそれらの中に立つ。乾坤もし毁壞すれば、以て『易』を見るに由なし。『易』もし見る可からざれば、則ち乾坤もまたほぼ止息せん。多隆阿は解釈す。意と言とが尽くし難くて終竟尽き得る所以は、十二辟卦と干卦とが往来推移変易して、其の中蕴藏する所有ればなり。彼は字を訓す。「易」は推移なり。また虞翻の話を引いていう、「缊」は含藏なり。続けて申説す。乾は純陽、坤は純陰にして、不変の卦に属し、而して各辟卦は皆乾坤の間に於いて消長し、しかも皆乾坤の体質を備具す。ゆえに乾坤はまさに「易移」の蕴藏する根源なり。倘若乾坤毁裂して陰陽已に分離せば、則ち推移す可きものなし。至りて単卦の中に偶に乾或いは坤を含有するは、『需』『訟』『晋』『明夷』これらの卦の如し。しかるに重卦の整体を以て之を衡量すれば、乾坤の純体は便ちほぼ泯滅して止息す。

是故形而上者謂之道,形而下者謂之器,化而裁之謂之變,推而行之謂之通,舉而措之天下之民謂之事業。是故乾坤成列,陰陽類聚,各藏消息,形象未分者,是謂之道;其乾坤毀裂,陰陽群分,形象不純,別肖物象者,是謂之器。類聚則有化裁,群分必假推行,化裁推行,是謂變通。變之通之,易縕已盡,於是舉而施之於民,使咸知吉凶之宜,此之謂事業也。

『繋辞』にいう、ゆえに形体の上に在るを「道」と言い、形体の下に在るを「器」と言い、化育裁成を加うるを「変」と言い、推衍施行を加うるを「通」と言い、それを挙げて天下の百姓に施用するを「事業」と言う。多隆阿は此の四句を仍ほ乾坤の上に扣して講ず。乾坤は排列して形を成し、陰陽は各々其の類を以て相聚まり、各々消長の機を蔵し、形象は未だ分判せず。これを「道」と言う。乾坤毁裂するに及んで、陰陽は衆類に分かれ、形象はもはや純一ならず、分かちて各種の物象に肖似す。これを「器」と言う。同類相聚すれば、則ち化育裁成あり。衆類に分かれば、必ず推衍施行を借助せざる可からず。化裁と推行とは、すなわちいわゆる「変通」なり。之を変じ之を通じて、『易』の蕴藏は已に用い尽せり。ここにおいてそれを取出して百姓に施行し、人々をして皆吉凶の宜しきを知らしむ。これを「事業」と言う。

是故夫象,聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象;聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。極天下之賾者存乎卦,鼓天下之動者存乎辭。象,卦象;爻,爻辭。極者,窮究之使無遺也;鼓者,震動之使不倦也。象足以盡天下之賾,言不盡意而象則足以盡之;辭足以鼓天下之動,書不盡言而辭則足以盡之。

『繋辞』は前文を重申していう、ゆえに象に就いて言えば、聖人は天下の事物の紛雑なるを見る有りて、便ち其の形貌を比擬し、其の各々相宜の様態を摹写し、これに因りて之を「象」と称す。聖人は天下の事物の変動するを見る有りて、便ち其の中の会合貫通の処を観察し、據りて常行の法度を推行し、また文辞を系して吉凶を判断す。これに因りて之を「爻」と称す。天下の紛雑を窮尽するは卦に在り、天下の変動を鼓動するは辞に在り。多隆阿は解釈す。ここの「象」は卦象を指し、「爻」は爻辞を指す。「極」は窮究して底に到り遺漏なきなり、「鼓」は振動激発して人をして倦まざらしむるなり。彼は随に上文の「書不尽言、言不尽意」に扣りて結と為す。卦象は以て天下の紛雑を説き尽すに足り、言語は意を尽くす能わずと雖も、卦象は却て以て之を尽くすに足り。爻辞は以て天下の変動を鼓動するに足り、文字は言を尽くす能わずと雖も、爻辞は却て以て之を尽くすに足り。

化而裁之存乎變,推而行之存乎通,神而明之存乎其人,默而成之、不言而信存乎德行。化裁推行而有賴於神而明之者,言立象繫辭,聖人雖盡言盡意,而膠固於象辭則已非。默而成之、不言而信,所以立德立行,易為崇德廣業之書,異端曲學不得竊其似也。此第十二章,篇中言聖人繫辭之本,故宜玩其辭兼玩其占,蓋通結上文也。

『繋辞』にいう、化育裁成は「変」に在り、推衍施行は「通」に在り、能く神妙にして明察するは則ち人に在り、黙々として成就して言わずして人を信従せしむるは則ち徳行に在り。多隆阿は解釈す。化裁と推行とがなお「神而明之」の人を頼る所以は、立象・系辞は聖人の言を尽くし意を尽くすの弁法なれど、学ぶ人若し死死として象と辞とに粘着せば、則ち已に錯誤なり。黙々として成就し言わずして人を信従せしむるは、まさに以て徳を樹て行を樹つるなり。『易』は本と其の徳を尊崇し其の業を拡大する書にして、異端邪説・偏曲の学は其の形似を盗取して冒充する能わず。彼は総結す。これは第十二章にして、全篇が講ずるは聖人系辞の根本にして、ゆえに其の辞を玩味すべきのみならず、また其の占を玩味すべし。この章は実は上文を総収するなり。

易原 巻十四

繋辞下伝・第一章

八卦成列,象在其中矣;因而重之,爻在其中矣;剛柔相推,變在其中矣;繫辭焉而命之,動在其中矣。八卦成列,如震一、巽二之類;象者,如乾天、坤地之類。重之,謂重卦。爻,六爻也。推,推移;命,告也。此言八卦畫成而於以有象,因又重為六十四卦而於以有爻,卦爻有剛柔,而以消息之卦推移於諸卦之中而於以有變,又於爻下各繫以辭以命占者。占取動爻,故曰繫辭而命之,動在其中也。

『繋辞下伝』は開篇にいう、八卦は排列して形を成せば、卦象は便ち其の中に在り。それを両両相重ねれば、六爻は便ち其の中に在り。剛柔は互相推移すれば、変化は便ち其の中に在り。文辞を系して占者に告知すれば、動爻は便ち其の中に在り。多隆阿は逐句に解釈す。いわゆる「八卦成列」とは、震の一に居り巽の二に居るの類の次第を指す。いわゆる「象」とは、乾を天と為し坤を地と為すの類の取象を指す。「重之」は重叠して六画の卦と成すなり、「爻」は六爻を指し、「推」は推移、「命」は告知なり。彼は随いて全段を串講す。八卦は一たび画成せられれば、ここにおいて象あり。これより再び重ねて六十四卦と為れば、ここにおいて爻あり。卦爻は剛柔を分かち、再び消息の卦を用いて各卦の間に推移せば、ここにおいて変あり。また毎一爻の下に文辞を系して、用いて占筮する人に告知す。占筮は動爻を取るがゆえに「系辞焉而命之、動在其中矣」という。

吉凶悔吝者,生乎動者也;剛柔者,立本者也;變通者,趣時者也。趣,趣向。言爻辭備吉凶悔吝之義,而占者則取動爻,故曰吉凶悔吝生乎動。爻有剛柔,乃所以立爻之本;占用變通,乃所以趣時之宜。吉凶者,貞勝者也;天地之道,貞觀者也;日月之道,貞明者也;天下之動,貞夫一者也。貞,固也,言有定也。吉定勝凶,凶定勝吉,是吉凶有定也。而天地貞觀,日月貞明,其道莫不有定;而天下之動雖有萬變,必有定則,故曰貞一也。

『繋辞下伝』にいう、吉凶悔吝は「動」の上より生じ、剛柔は以て根本を確立するに用い、変通は以て時宜に趨合するに用う。多隆阿は解釈す。「趣」は趨向なり。爻辞は本と吉凶悔吝の意を備具するも、占者はただ変動を発生するあの爻を取って断ず。ゆえに吉凶悔吝は動より生ずという。爻は剛柔を分かち、まさに以て爻の根本を確立するに用い、占筮は変通を講じ、まさに以て時勢の宜しきに趨合するに用う。経文は続けていう、吉凶は固定不移を以て相勝ち、天地の道は固定不移を以て観る可く、日月の道は固定不移を以て明らかにして、天下の一切の変動は固定不移を以て一に帰す。多隆阿は字を訓す。「貞」は固にして、すなわち定准あるなり。彼は申説す。吉は必ず凶に勝ち、凶は必ず吉に勝つ。見れば吉凶は自ら定分あり。而して天地は固より観る可く、日月は固より常に明らかにして、それらの道は定まらざるなし。天下の変動は千頭万緒と雖も、必ず一個の定則あり。ゆえに「貞夫一」という。

夫乾,確然示人易矣;夫坤,隤然示人簡矣。爻也者,效此者也;象也者,像此者也。天下之動所以貞一者,則易已以此示人矣。確,剛貌;隤,柔貌。乾示人以易,坤示人以簡,卦爻、卦象亦效此易簡、像此易簡,惟易簡故貞一也。

『繋辞』にいう、乾は剛健に挺立して、「易」を以て人に示し、坤は柔順に委下して、「簡」を以て人に示す。爻とは、すなわち此の易簡を仿效するなり。象とは、すなわち此の易簡を摹像するなり。多隆阿は解釈す。天下の変動の一個の定則に帰し得る所以は、『易』は実に早く已に乾坤両卦を用いて此の道理を人に示したればなり。彼は字を訓す。「確」は剛健の貌、「隤」は柔順の貌なり。乾は平易を以て人に示し、坤は簡約を以て人に示し、而して卦爻・卦象もまた皆此の易簡を仿效し此の易簡を摹像す。まさに易簡なるがゆえに、こそ能く一に固守するを得ん。

爻象動乎內,吉凶見乎外,功業見乎變,聖人之情見乎辭。吉凶寓於爻象之內,動則外見,是宜玩占也;通爻象之變,於以有功業,而於辭見聖人之情,是宜玩占也。此第一章。上繫首章由天地順推出乾坤之易簡,以明作易之源,易之體;以下繫首章由爻象逆溯入乾坤之易簡,以示學易之法,易之用也。自此也下十章,皆發明爻象動乎內、吉凶見乎外、功業見乎變、聖人之情見乎辭四語之意,猶上繫之二章玩辭玩占也。

『繋辞』にいう、爻と象とは内裏に於いて変動し、吉凶は便ち外に顕現す。功業は変化の上に顕現し、聖人の心意は文辞の上に顕現す。多隆阿は解釈す。吉凶は本と爻象の内に寓蔵し、一たび変動有れば便ち外に顕露す。ゆえに占断を玩味すべし。爻象の変化を会通し、これより功業ありて、而して聖人の心意はまた文辞の中に於いて見る要あり。ゆえにまた占断を玩味すべし。彼は続けて上下両篇の布局を比較す。これは『繋辞下伝』第一章なり。『繋辞上传』の首章は天地より順推して出でて乾坤の易簡に至り、用いて『易』を作るの根源を説明し、講ずるは『易』の体なり。『繋辞下伝』の首章は則ち爻象より逆溯して入りて乾坤の易簡に至り、用いて『易』を学ぶの方法を指示し、講ずるは『易』の用なり。この章より往下の十章は、皆「爻象動乎内、吉凶見乎外、功業見乎変、聖人之情見乎辞」の此の四句の意思を闡発するにして、まさに『繋辞上传』第二章の玩辞・玩占を講ずるがごとし。

繋辞下伝・第二章

天地之大德曰生,聖人之大寶曰位。何以守位?曰仁。何以聚人?曰財。理財正辭、禁民為非曰義。天地為易之源,聖人為易之宗。天地有德,聖人有位;天地之德曰生,聖人之位曰寶。聖人以仁守位,以財聚人,仁以體天地之德,而又有義以濟仁窮。財或流於貪黷,故須以義理之;辭或入於邪淫,故須以義正之;至於民或為非,以義禁之,民咸知懼,不敢妄為,則義亦聖人治世之本也。

『繋辞』にいう、天地の最大の徳は生養にして、聖人の最大の宝は名位なり。何を以て名位を守住するや。仁を以てす。何を以て人衆を聚集するや。財を以てす。財貨を整治し、言辞を端正し、百姓をして非為を為さざらしむ、これを義と言う。多隆阿は解釈す。天地は『易』の本源にして、聖人は『易』の宗主なり。天地は其の徳あり、聖人是其の位ありて、天地の徳を「生」と言い、聖人の位を「宝」と言う。聖人は仁を以て位を守り、財を以て人を聚む。仁は天地之徳を体現するにして、而して仁の外また義ある要ありて、用いて仁の窮尽する処を救済す。財貨は貪婪涜乱に流るる可し、ゆえに義を以て之を整治するを須う。言辞は邪僻淫濫に落入る可し、ゆえに義を以て之を端正するを須う。至りて百姓は非為を為す可しき有れば、則ち義を以て彼らを禁止す。百姓は人人畏懼を知りて敢えて胡作非為せざれば、則ち義もまたすなわち聖人の天下を治理する根本なり。

古者包犧氏之王天下也,仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文與地之宜,近取諸身,遠取諸物,於是始作八卦,以通神明之德,以類萬物之情。包犧氏,太昊氏也。其時文字未興,包犧則仰觀俯察,象天法地,及鳥獸之文與土地之宜,又遠近相取,一身之官骸、百物之形色,八卦始作焉。而明神之德、萬物之情,胥以卦通其牖,別其類,以仁守位、以財聚人、以義治民之道,皆從此啟矣。

『繋辞』にいう、古昔、包犠氏は天下を統治し、頭を抬げれば天上の物象を観察し、頭を低れば地上の法則を観察し、鳥獣の紋理と土地の宜しきとを観察し、近くは自身に取象し、遠くは万物に取象し、ここにおいて始めて八卦を画作して、以て神明の徳性を会通し、以て万物の情状を分類す。多隆阿は解釈す。包犠氏はすなわち太昊氏なり。彼の時代は文字は未だ興起せず、包犠は便ち仰いで天を観、俯して地を察し、天に取象し地に取法し、兼ねて鳥獣の紋理と土地の宜しきとに及び、また遠近を并取して、近くは一身の官骸を取り、遠くは百物の形色を取りて、八卦はこそ画成せられたり。此の後、神明の徳性・万物の情状は、全て卦に頼りて其の窓牖を開通し其の門類を区別す。而して仁を以て位を守り財を以て人を聚め義を以て民を治むる这些の道理も、皆ここより開端す。

作結繩而為罔罟,以佃以漁,蓋取諸離。罔與網同,網罟所以取獸取魚者,取獸曰佃,取魚曰漁。離為目,互巽為繩,二巽顛倒為結繩;巽又為魚,離為飛鳥,互兌為羊、為刑殺,故曰以佃以漁。兩目相麗,象網罟,故曰取諸離也。

『繋辞』にいう、包犠氏は繩子を結んで網罟を作り、以て獣を捕え以て魚を漁す。これはおそらく『離』卦に取象したるなり。多隆阿は先ず字を訓す。「罔」は「網」と同じく、網罟は以て獣を捕え魚を漁する器具にして、獣を捕うるを「佃」と言い、魚を捕うるを「漁」と言う。彼は随いて象を以て証と為す。離は目と為り、卦中に互出の巽は繩と為り、二つの巽は一正一倒にして便ち「結繩」の象あり。巽はまた魚の象あり、離は飛鳥の象あり、互出の兑は羊と為り刑殺と為る。ゆえに「以佃以漁」という。『離』卦の上下両体は各々一目を含み、両目は相附麗して、まさに網罟の網眼に似たり。ゆえに此一項は『離』に取象するという。

包犧氏沒,神農氏作,斲木為耜,揉木為耒,耒耨之利以教天下,蓋取諸益。理財之具不僅佃與漁也,而耒耜又其大焉者矣。神農炎帝氏繼包犧王天下,教民播種,故號神農。虞氏曰:否四之初也。巽為木、為入,艮為手,乾為金,手持金以入木,故斲木為耜;艮為小木,手以撓之,故揉木為耒。耒耜,耔器也。坤為田,巽為股,進退;震木動耜,艮手持耒,進退田中,耕之象也。益萬物者莫若雷風,故法風雷而作耒耜。

『繋辞』にいう、包犠氏が去世したる後、神農氏が興起し、木頭を砍削して耜を作り、木を彎揉して耒を作り、耕作除草の便利を天下人に教えたり。これはおそらく『益』卦に取象したるなり。多隆阿は先ず此の一条の全章に於ける位置を点明す。財貨を整治する器具は単に打猟捕魚のみならず、耒耜は更に其の中の重大なる一項なり。彼はまた人物を交代す。神農はすなわち炎帝氏にして、包犠に継いで天下を統治し、百姓に五穀の播種を教えたれば、ゆえに号を神農という。続けて虞翻の話を引きて卦変と取象とを講ず。『益』は『否』卦の四爻が初位に下るより成る。巽は木と為り入と為り、艮は手と為り、乾は金と為る。手に金属の器具を持ちて木の中に入る。ゆえに「斲木為耜」なり。艮はまた小木と為り、手を以てそれを撓彎す。ゆえに「揉木為耒」なり。耒と耜とは皆耕耔に用いる農具なり。坤は田と為り、巽は股と為りて進退を主り、震木は耜を推動し、艮手は耒を握住し、田の中に一進一退するは、まさに耕作の象なり。彼は末に『益』を取るの道理を点出す。万物を增益するは雷と風とより有力なるはなく、ゆえに風雷を效法して耒耜を制作す。

日中為市,致天下之民,聚天下之貨,交易而退,各得其所,蓋取諸噬嗑。市為財聚之所,亦為人聚之所,聚人曰財之證也。噬嗑上離下震,中互坎艮,而自否來。離居上卦位,又得中,故稱日中;震為動、為出,又為大塗,人動而出於大塗之間,故象市。否乾為天,坤為民,故曰致天下之民;乾為金玉,坤為布帛,故曰聚天下之貨。否為上下不交之卦,五退居初以成交易,故曰交易而退,各得其所也。

『繋辞』にいう、正午に集市を設立し、天下の百姓を招来し、天下の貨物を聚集し、彼此交換したる後各々散去して、人人皆己が所需を得たり。これはおそらく『噬嗑』卦に取象したるなり。多隆阿は先ず上文の「何以聚人曰財」の一句に扣す。集市はすでに財貨の聚集する処にして、また人群の聚集する処なれば、まさに「聚人靠財」の此の句の印証なり。続けて象を以て証と為す。『噬嗑』の上体は離、下体は震にして、中間に坎・艮を互出し、『否』卦より変じ来たるなり。離は上卦の位に居り、また中位を得たれば、ゆえに「日中」と称す。震は動と為り出と為り、また大路と為り、人々は出動して大路の間に行走す。ゆえに集市の象あり。『否』卦の乾は天と為り、坤は民と為る。ゆえに「致天下之民」という。乾は金玉と為り、坤は布帛と為る。ゆえに「聚天下之貨」という。『否』は本と上下相交通せざる卦にして、五爻は退きて初位に居りて交換の象を成す。ゆえに「交易而退、各得其所」という。

神農氏沒,黃帝、堯、舜氏作,通其變,使民不倦;神而化之,使民宜之。易窮則變,變則通,通則久,是以自天佑之,吉無不利。黃帝、堯、舜垂衣裳而天下治,蓋取諸乾坤。此言黃帝有熊氏、帝堯陶唐氏、帝舜有虞氏變通利民,以得天佑,以為守位曰仁之證也。乾坤兩卦為變對,乾窮則變坤,坤窮則變乾,乾坤遞變,消息之卦循環相生,故曰易窮則變,變則通,通則久也。虞氏曰:乾為治,上為衣,坤下為裳,乾坤萬物之縕,故以象衣裳;乾為明君,坤為順臣,故天下治,取諸此也。

『繋辞』にいう、神農氏が去世したる後、黄帝・尧・舜が興起し、事物の変化を会通して、百姓をして困倦に至らざらしめ、神妙に之を化育して、百姓をして各々其の宜しきを得しめたり。『易』道は窮尽すれば則ち変じ、変ずれば則ち能く通じ、通ずれば則ち能く長久す。これに因りて上天の佑助を得て、吉にして利ならざるなし。黄帝・尧・舜は衣裳を垂れ拱手して天下は大治したり。これはおそらく乾坤両卦に取象したるなり。多隆阿は指出す。ここに言うは有熊氏黄帝・陶唐氏帝尧・有虞氏帝舜の三位の君主が変通して以て百姓を利し、因りて天佑を獲得せるを言うにして、まさに上文の「何以守位曰仁」の印証なり。彼は再び卦理の上より「窮則変」を講ず。乾坤両卦は互いに変対と為り、乾は窮処に到れば則ち坤に変じ、坤は窮処に到れば則ち乾に変じ、乾坤は遞相変易し、十二消息の卦は循環相生す。ゆえに『易』は窮すれば則ち変し変すれば則ち通し通すれば則ち久しという。末に虞翻の話を引きて「垂衣裳」を解す。乾は治理を主り、上に居りて衣と為り、坤は下に居りて裳と為る。乾坤は万物の蕴藏にして、ゆえに用いて衣裳を象徴す。乾は聖明の君、坤は柔順の臣にして、ゆえに天下は治を得たり。此の象はまさに乾坤より取来せるなり。

刳木為舟,剡木為楫,舟楫之利以濟不通,致遠以利天下,蓋取諸渙。刳,剖也,刳木謂刳虛其中;剡,銳利也,剡木謂削木末使銳也;楫,舟棹也。《九家易》曰:木在水上流行若風,舟楫之象也。此本否卦九四之二為坎,坤地水居之,川澤象;六二之四為巽,乾天風鼓之,舟行象。巽又為長木,艮為手,乾為金,艮手持金,故刳木為舟、剡木為楫也。乾為遠天,巽木行天際,故濟不通、致遠以利天下矣。法渙而作舟楫,蓋取此義也。

『繋辞』にいう、木を剖空して船を作り、木を削尖して桨を作り、船と桨との便利は以て元來通通ぜざる水面を渡り、能く遠方に到達して天下を利す。これはおそらく『渙』卦に取象したるなり。多隆阿は先ず字を訓す。「刳」は剖開にして、刳木とはすなわち木頭の中間を挖空するなり。「剡」は削尖にして、剡木とはすなわち木梢を削りて鋭利と為すなり。「楫」はすなわち船桨なり。彼は『九家易』を引いていう、木は水の上に在りて風の如く漂行す。これはすなわち舟楫の象なり。続けて卦変を講ず。『渙』は本と『否』卦より来り、『否』の九四は二位に下りて坎を成し、坤は地と為り、水は其の上に停まる。これは川沢の象なり。六二は四位に上りて巽を成し、乾は天と為り、風はそれを鼓動す。これは船行の象なり。巽はまた長木と為り、艮は手と為り、乾は金と為り、艮手は金属の器具を持つ。ゆえに能く木を剖して舟と為し木を削りて桨と為す。乾は遼遠の天にして、巽木は天際に行く。ゆえに能く通ぜざる処を渡り遠方に到達して天下を利す。『渙』卦を效法して舟楫を制作するは、取る所はまさに此の層の意思なり。

服牛乘馬,引重致遠,以利天下,蓋取諸隨。虞氏曰:否上之初也。否乾為馬、為遠,坤為牛、為重;坤初之上為引重,乾上之初為致遠。艮為背,巽為股,在馬上,故乘馬;巽為繩,繩束縛物在牛背上,故服牛。出否之隨,引重致遠以利天下,故取諸隨。

『繋辞』にいう、牛を駕服し馬を騎乗し、重物を牽引して遠方に到達し、以て天下を利す。これはおそらく『随』卦に取象したるなり。多隆阿は虞翻の話を引きて解説す。『随』は『否』卦の上爻が初位に来たるより成る。『否』卦の乾は馬と為り遠と為り、坤は牛と為り重と為る。坤の初爻は上行すれば、すなわち「引重」なり、乾の上爻は下来れば、すなわち「致遠」なり。艮は背と為り、巽は股と為り、両股は馬背の上に跨る。ゆえに「乗馬」なり。巽はまた繩索と為り、繩を用いて物を牛背の上に捆縛す。ゆえに「服牛」なり。『否』卦より『随』卦を変出し、重物を牽引して遠方に到達して天下を利す。ゆえに『随』に取象するという。

重門擊柝,以待暴客,蓋取諸豫。豫卦上震下坤,中互坎艮。艮為門,坤為闔戶,重門之象。柝者,兩木相擊以行夜也。艮為手、為小木,震為動、為行人、為木、為聲音,手持木前行擊之有聲,擊柝之象。暴客,盜賊也。坎為盜,暴客之象;艮為閽寺,震為驚,故曰待。先事而為之備曰豫,故取諸此也。

『繋辞』にいう、層層の門戸を設置し、木梆を敲撃して、以て凶暴の外来者を防備す。これはおそらく『豫』卦に取象したるなり。多隆阿は解釈す。『豫』卦の上体は震、下体は坤にして、中間に坎・艮を互出す。艮は門と為り、坤は門戸を閉鎖するにして、合わせれば便ち重門の象なり。いわゆる「柝」とは、両塊の木を相撃して以て夜を巡り更を報ずる器具なり。艮は手と為り小木と為り、震は動と為り行人と為り木と為り声音と為り、手は木を持ちて一辺行走し一辺敲撃して声響を発出す。まさに撃柝の象なり。「暴客」はすなわち盗賊にして、坎は盗と為り、まさに暴客の象なり。艮は門を守る閽人と為り、震は驚動の義あり。ゆえに「待」という。すなわち預め戒備して之を候つなり。事は未だ来らざる先に準備を為すを「豫」と言う。ゆえに此一項は『豫』卦に取象するなり。

斷木為杵,掘地為臼,臼杵之利,萬民以濟,蓋取諸小過。杵,木器,所以搗也;臼,舂也,古者掘地為之,與後世以木石為之者異。小過震上艮下,中互巽兌。兌金克震木,故木斷;震木上動,故象杵。艮土在下,巽木克之,故象掘地;艮止又象臼。艮手持震木,震為稼、為出,巽為入,動木一出一入,杵臼春米之象。此與舟楫之利、服牛乘馬之利,皆聖人仁天下之具也。

『繋辞』にいう、木を截断して杵を作り、地面を掘挖して臼を作り、杵臼の便利は万民をして救済を得しめたり。これはおそらく『小過』卦に取象したるなり。多隆阿は先ず字を訓す。「杵」は木製の器具にして、用いて舂搗す。「臼」は米を舂く器皿にして、古人は地を掘りて作りたるにして、後世の木石を用いて鑿成するに同じからず。続けて象を以て証と為す。『小過』の上体は震、下体は艮にして、中間に巽・兑を互出す。兑は金に属し、震の木を克す。ゆえに木は截断せられたり。震木は上に向かって動けば、ゆえに杵の象あり。艮は土に属し下に居りて、巽木に克せられれば、ゆえに地を掘るの象あり。艮はまた止を主り、また臼の形状に像たり。艮手は震木を握り、震は庄稼と為り出と為り、巽は入と為り、握る所の木は一出一入するは、まさに杵臼の米を舂く象なり。彼は最後に帰納す。此一項は舟楫の利・服牛乗馬の利と同じく、皆聖人が以て天下を仁愛する器具なり。

弦木為弧,剡木為矢,弧矢之利,以威天下,蓋取諸睽。弧,木弓也。睽自中孚來,中孚五四相易,變巽為離,互體為坎。巽為木,坎為矯揉,揉木使曲,又以巽繩繫之,故曰弦木為弧;巽木克以兌金,故曰剡木為矢。坎為弓,離為矢,兌為刑殺,故曰以威天下。睽乖之極,非兵革不能平之使復合也。此與豫之擊柝,皆禁民為非者也。

『繋辞』にいう、木に弦を繃げて弓を作り、木を削尖して箭を作り、弓箭の鋭利は以て天下を威慴す。これはおそらく『睽』卦に取象したるなり。多隆阿は先ず字を訓す。「弧」はすなわち木弓なり。続けて卦変を講ず。『睽』は『中孚』より来り、『中孚』の五爻と四爻とが位置を互換し、巽は離に変じ、卦中に坎体を互出す。巽は木と為り、坎は矯正揉曲を主り、木を揉彎し、再び巽の象る繩を用いて之を繋上す。ゆえに「弦木為弧」という。巽木は兑金に克削せられれば、ゆえに「剡木為矢」という。坎は弓と為り、離は矢と為り、兑は刑殺を主る。ゆえに「以威天下」という。彼は再び『睽』を取るの理由を点出す。乖離が極処に到れば、兵革を用いずんば之を平定して之を再び合攏せしむる能わず。此一項は『豫』卦の撃柝と同じく、皆上文の言う所の「禁民為非」の事に属す。

上古穴居而野處,後世聖人易之以宮室,上棟下宇,以待風雨,蓋取諸大壯。聖人仁天下之具,養生送死其尤大者。養生之具有宮室,此象則自大壯卦取之。泰陽上息消坤成震,變為大壯,泰在大壯之前,故曰上古。泰上為坤,坤為地,坤體中虛,下有乾人,故象穴居;乾為野,故曰野處。變坤為震,坤土之上加以震木,則象宮室;震木削以乾金,又象棟宇。棟,屋脊檁;宇,櫩也。覆巽為風,互兌為雨,巽風不見,兌雨不及乾中,故曰上棟下宇以待風雨,取諸大壯也。

『繋辞』にいう、上古の人は洞穴の中に住み野外に活動せり。後世の聖人は改めて宮室を用いて之に代え、上に屋棟有り下に屋檐有りて、以て風雨を抵禦す。これはおそらく『大壮』卦に取象したるなり。多隆阿は先ず綱領を立つ。聖人の天下を仁愛する器具は、養生と送死との两件を以て最も重大と為す。養生の器具の中に宮室あり。此一象は『大壮』卦より取来せるなり。彼は再び卦変を講ず。『泰』卦の陽気は上に向かって生長して坤爻を消去して震を成し、ここにおいて『大壮』に変ず。『泰』は『大壮』の前に在るがゆえに「上古」と称す。『泰』卦の上体は坤にして、坤は地と為り、坤体の中間は虚空にして、下に乾の象る人有り。ゆえに穴居の象あり。乾はまた郊野と為る。ゆえに「野処」という。坤は震に変じ、坤土の上に震木を加えれば、則ち宮室の象を成す。震木は乾金を用いて削治せられ、また棟と宇との象を成す。彼は順に字を訓す。「棟」は屋脊上の檩にして、「宇」は屋檐なり。覆巽は風と為り、互兑は雨と為り、巽風は遮られて見えず、兑雨もまた乾体の中に及ばず。ゆえに「上棟下宇、以待風雨」という。此一項は『大壮』に取象するなり。

古之葬者,厚衣之以薪,葬之中野,不封不樹,喪期無數,後世聖人易之以棺槨,蓋取諸大過。送死之具,棺槨是也。古無此制,興於後世之聖人,蓋自大過卦得之也。大過中互重乾,前應乾卦,外象重畫之坎,後乾坎卦,乾坎皆在大過之前,故曰古者。坎為叢棘,乾為人、為衣,乾人上下覆以坎棘,厚衣以薪象;乾為郊野,人在郊野,葬之中野象。虞氏曰:穿土稱封,聚土為樹。坎為穴,坎陰居外,虛而不實,不封不樹象。期為斬衰至緦麻日月之期,離為日,坎與離反,喪期無數象。大過之卦,內巽外兌,巽為木、為入,兌為口,木上有口,乾人入之,棺槨之象,故取諸此也。

『繋辞』にいう、古時、人を葬るは、柴草を用いて厚く裹住し、原野の中に葬り、土堆を堆さず、樹木を種えず、服喪もまた一定の期限なかりしに、後世の聖人は改めて棺槨を用いて之に代えたり。これはおそらく『大過』卦に取象したるなり。多隆阿にいう、送死の器具はすなわち棺槨にして、古時は此の制度なく、後世の聖人の興起する所にして、おそらく『大過』卦より得たるなり。彼は先ず「古者」と称する所以を説明す。『大過』卦の中間は重乾を互出し、前面は乾卦に対応し、外体の形象はまた重画の坎に像し、後面はまた坎卦を干犯す。乾と坎とは皆『大過』の前に排すれば、ゆえに「古者」と称す。再び逐句に取象す。坎は叢生の荆棘と為り、乾は人と為り衣と為り、乾の象る人は上下坎棘に覆蓋せられたり。これはすなわち柴草を用いて厚く裹する象なり。乾はまた郊野と為り、人は郊野に在り。これはすなわち原野の中に葬るの象なり。彼は虞翻の話を引いていう、土を掘りて墳を起すを「封」と言い、土を聚めて樹を栽うるを「樹」と言う。坎は穴と為り、坎の陰爻は外に居りて、中間虚にして実ならず。まさに不封不樹の象なり。いわゆる「期」とは、斬衰より緦麻に至る各等の喪服の年月の期を指す。離は日と為り、坎は離と相反す。ゆえに喪期は定数なきの象あり。至りて棺槨本身は、『大過』の内体は巽、外体は兑にして、巽は木と為り入と為り、兑は口と為り、木の上に口あり、乾の象る人は其の中に進入す。まさに棺槨の象なり。ゆえに此の制度は『大過』に取象するなり。

上古結繩而治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸夬。大壯四陽上息,變震為兌,曰夬。大壯在夬之前,故亦曰上古也。震下伏巽為繩,震動以結之,故曰結繩。《九家易》曰:古者約誓之事,事大大其繩,事小小其繩,結之多少隨物眾寡,執以相考,亦足以相治也。兌為言、為金,震為木、為竹,兌言書於竹木,象書;兌金刻畫竹木,象契。變大壯之震為兌,於是始有書契象,故曰後世聖人易之以書契也。乾下伏坤,坤為臣、為民,乾陽照坤,故百官以治、萬民以察也。此正辭之證也。此第二章,申明爻象動乎內四句之意。自離至夬十三卦皆言取象,而卦象分凶吉,則治器利人無非功業,聖人之仁義亦寓其中,是情見乎辭也。

『繋辞』にいう、上古は結繩の弁法を用いて治理せり。後世の聖人は改めて書契を用いて之に代え、百官はそれに頼りて事を治め、万民はそれに頼りて稽察す。これはおそらく『夬』卦に取象したるなり。多隆阿は先ず卦変を講ず。『大壮』の四個の陽爻は継続して上に向かって生長し、震は兑に変じれば、則ち『夬』なり。『大壮』は『夬』の前に排すれば、ゆえにここもまた「上古」と称す。震の下には巽が伏し、巽は繩と為り、震は動を主りて繩を打結す。ゆえに「結繩」という。彼は『九家易』を引きて古法を説明す。古時、盟約誓信を訂立するは、事大なれば則ち粗大の繩を用い、事小なれば則ち細小の繩を用い、結の多少は事物の多寡に随い、双方は各々一份を執りて以て相互核対す。亦た以て彼此治理するに足れり。再び書契の象を講ず。兑は言語と為り金と為り、震は木と為り竹と為り、兑の言語は竹木の上に書き記すは、すなわち「書」の象なり。兑の金属は竹木の上に刻畫するは、すなわち「契」の象なり。『大壮』の震は兑に変じて、ここにおいて初めて書契の象あり。ゆえに後世の聖人は改めて書契を用うという。乾の下には坤が伏し、坤は臣と為り民と為り、乾陽は坤の上に照臨す。ゆえに百官は治を得て万民は察を得たり。彼は此の一条の帰属を点明す。これはまさに上文の「正辞」の印証なり。最後に全章を総結す。これは第二章にして、用いて「爻象動乎内」等の四句の意思を申明す。『離』より『夬』に至る此の十三卦は皆取象を講ずるにして、而して卦象はすでに吉凶を分かてば、則ち制器利人は一として功業ならざるなく、聖人の仁と義ともまた其の中に寓す。これがすなわち「聖人之情見乎辞」なり。

繋辞下伝・第三章

是故易者象也,象也者像也,彖者材也,爻也者效天下之動者也,是故吉凶生而悔吝著也。觀上網罟、耒耜數者,則是易為言象之書也。象,卦象,卦象各像夫物也;爻,六爻。而象與爻之中又有彖,所謂彖辭也。彖訓材,材謂築室之木,彖統一卦之義,猶材充一室之用也;因彖而分著之則為爻,爻者效也,效放物之動者。爻言吉凶悔吝,爻動乃見,是吉凶之生、悔吝之著,皆由動也。此第三章,言象言爻者,以申爻象動乎內之意;言吉凶生、悔吝著者,以申吉凶見乎外之意。

『繋辞』にいう、ゆえに『易』とはすなわち象にして、象とはすなわち摹像なり。彖は材にして、爻は則ち天下の変動を仿效する物なり。これに因りて吉凶は発生し、悔吝は便ち顕著せり。多隆阿は上文より回頭していう、前面に挙げたる網罟・耒耜等の数項を看れば、『易』はまさに一部の象を講ずる書なるを見る可し。彼は逐字に疏解す。「象」は卦象を指し、各卦の象は各々某种の事物を摹像す。「爻」は六爻を指す。而して象と爻との中にまた「彖」あり、すなわち彖辞なり。「彖」は「材」と訓し、材は家屋を蓋うに用いる木料を指す。彖は一卦の整体の意義を統摂して、まさに木料の一整間の屋子を支起する用処のごとし。彖に依りて再び分別して顕著せらるるは則ち爻なり。「爻」はすなわち效にして、事物の変動を仿效す。爻辞は吉凶悔吝を講ずるも、而して此らは爻の変動を発生するを待ちて初めて顕現す。見れば吉凶の発生する所以・悔吝の顕著する所以は、皆「動」より来るなり。彼は総結す。これは第三章にして、象を講じ爻を講ずるは、以て「爻象動乎内」の意思を申明せんとするに在り。吉凶の発生・悔吝の顕著を講ずるは、以て「吉凶見乎外」の意思を申明せんとするに在り。

繋辞下伝・第四章

陽卦多陰,陰卦多陽。陽卦謂震、坎、艮,皆一陽二陰,故曰多陰;陰卦謂巽、離、兌,皆一陰二陽,故曰多陽。其故何也?陽卦奇,陰卦偶。虞氏曰:陽卦一陽故奇,陰卦二陽故偶。其德行何也?陽一君而二民,君子之道也;陰二君而一民,小人之道也。陽尊為君、為君子,陰卑為民、為小人。震、坎、艮皆以一陽率二陰,巽、離、兌則以二陽爭一陰,此陽卦陰卦德行之異也。此第四章,陰陽象也,奇偶爻也,一君二民則吉,二君一民則凶,此亦申爻象動乎內、吉凶見乎外之意也。

『繋辞』にいう、陽卦の含む所の陰爻は多く、陰卦の含む所の陽爻は多し。多隆阿は解釈す。いわゆる陽卦とは、震・坎・艮の三卦を指し、皆一個の陽爻が二個の陰爻を帯る。ゆえに「多陰」という。いわゆる陰卦とは、巽・離・兑の三卦を指し、皆一個の陰爻が二個の陽爻を帯る。ゆえに「多陽」という。経文は自ら問う、これは何の緣故ぞや。答えていう、陽卦の爻数は奇にして、陰卦の爻数は偶なればなり。多隆阿は虞翻の話を引いていう、陽卦はただ一個の陽爻あれば、ゆえに奇と為し、陰卦は二個の陽爻あれば、ゆえに偶と為す。経文は再び問う、それらの徳行は如何。答えていう、陽卦は一個の君が二個の民を統率するにして、これは君子の道なり。陰卦は二個の君が一個の民を共有するにして、これは小人の道なり。多隆阿は申説す。陽は尊ければ、ゆえに君と為り君子と為る。陰は卑しければ、ゆえに民と為り小人と為る。震・坎・艮は皆一個の陽爻を以て二個の陰爻を統率し、巽・離・兑は却て二個の陽爻が一個の陰爻を争奪す。これはすなわち陽卦と陰卦とが徳行の上に於ける分別なり。彼は総結す。これは第四章なり。陰と陽とが講ずるは象にして、奇と偶とが講ずるは爻なり。一君二民なれば便ち吉、二君一民なれば便ち凶。此の章は同じく「爻象動乎内、吉凶見乎外」の意思を申明する在り。

繋辞下伝・第五章

《易》曰:「憧憧往來,朋從爾思。」子曰:「天下何思何慮?天下同歸而殊塗,一致而百慮,天下何思何慮?日往則月來,月往則日來,日月相推而明生焉;寒往則暑來,暑往則寒來,寒暑相推而歲成焉。往者屈也,來者信也,屈信相感而利生焉。尺蠖之屈,以求信也;龍蛇之蟄,以存身也。精義入神,以致用也;利用安身,以崇德也。過此以往,未之或知也;窮神知化,德之盛也。」

『繋辞下伝』は『咸』卦九四の爻辞を引いていう、「心意は往来して定まらず、ただ汝と想法相同なる朋友のみ汝の心思に順従せん」。孔子は解釈していう、「天下に何の思う可きあり何の慮る可きあらんや。天下の事は道路は不同なれど帰宿は相同じ、考慮は百端なれど理致は一に帰す。則ちまた何の思う可き慮る可きあらんや。日は西に去れば月は来り、月は西に去れば日は来り、日月は互相推移して光明はここより生ず。寒気は去れば暑気は来り、暑気は去れば寒気は来り、寒暑は互相推移して年歳はここより完成す。去る所の者は屈にして、来る所の者は伸にして、屈と伸とは互相感応して利益はここより生ず。尺蠖は身を弓屈するは、以て伸展を求めんとするなり。龍蛇は蟄伏するは、以て自身を保全せんとするなり。義理を精研して神妙に入るは、以て其の実用を致さんとするなり。其の道を善用して自身を安頓するは、以て其の徳を尊崇せんとするなり。更に前に推せば、則ち人の能く知る所にあらず。神妙を窮究し造化を通暁するは、あれは徳の極盛に到れるなり���。

繋辞下伝・第五章(続)

此釋咸九四爻辭。利猶順也,信與申同,古伸字也。尺蠖,蟲名,《爾雅》作蚇蠖,一名蝍蟲?就,屈伸蟲也。形似螟蛉,足生首尾,其行一屈一伸,俗呼曰量天尺,桑槐樹多有之。此言人之思雖不可廢,憧憧往來,則惟所感之朋從爾之思,則入於私矣。夫天下事殊塗同歸,百慮一致,試證之日月寒暑,往來屈伸,莫不各順其道。即推以言物,動靜互根;推以言學,體用互發。純任自然以躋盛德之域,無非無感以待感,不必憧憧也。

これは『咸』卦九四の爻辞「憧憧往来、朋従爾思」を解釈するなり。『繋辞』此の章の「利用安身」の「利」は、義は「順」と同じく、自然に順任するを指す。「尺蠖之屈、以求信也」の「信」は「申」と通じ、すなわち古文の「伸」の字なれば、ゆえにあの句は「以求伸」と読むべし。「尺蠖」は虫名にして、『爾雅』は「蚇蠖」と作り、また名づけて「蝍虫?就」と曰う(「?」の処は原書缺字)、屈伸して行く虫にして、形状は螟蛉に似、頭尾は皆足を生じ、爬行する時は一屈一伸にして、俗名は「量天尺」と曰い、桑樹・槐樹の上に多し。ここに言うは、人の思慮は本と廃棄す可からざれど、心神定まらず往来奔逐せば、則ちただ己と気味相投じる朋友のみ汝の心思に順従して、思慮は便ち私心に落入す。天下の事は、道路は不同なれど帰宿は相同じ、思慮は百端なれど理致は一に帰す。試みに日月の交替・寒暑の推移を以て印証せば、一往一来・一屈一伸、各々其の常道に順循せざるなし。之を物に推せば、則ち動静は互いに根本と為り。之を学に推せば、則ち本体と功用とは互相発明す。全然自然に聴任して盛徳の境地に入るは、感する所なきの虚静を以て感通を待つのみ、心神不定に奔忙するを須いず。

易曰:「困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。」子曰:「非所困而困焉,名必辱;非所據而據焉,身必危。既辱且危,死期將至,其妻可得見邪?」此釋困六三爻辭。石非困人之地而為所困,困自否來,否外卦為乾,乾陽稱名,易為兌毀,故名辱。蒺藜非可據之物而乃據之,否內卦為坤,坤為身,易為坎陷,故身危。名辱身危,故凶死也。

『易』にいう、「石に困せられ、蒺藜に倚靠し、己が屋に帰入るに、妻を見ざるは、凶」。孔子にいう、「受困すべからざる所に而もそこに於いて受困せば、名声は必ず辱を受けん。倚靠すべからざる物に而もそれを倚靠せば、身家は必ず危殆せん。辱を受けまた危殆すれば、死期は将に到らんとす。其の妻は何ぞまた見るを得んや」。これは『困』卦六三の爻辞を解釈す。石は本と人を困すの処所にあらざるに、六三は却てそれに困せられたり。『困』卦は『否』卦より変じ来たる。『否』の外卦は乾にして、乾は陽にして「名」を象徴し、兑に変じ、兑は毁折と為る。ゆえに名声は辱を受く。蒺藜は本と倚靠す可き物にあらざるに、六三は却てそれを倚靠す。『否』の内卦は坤にして、坤は「身」を象徴し、坎に変じ、坎は陷落と為る。ゆえに身は危境に処す。名は辱められ身は危うし。ゆえに凶にして死に至る。

易曰:「公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。」子曰:「隼者,禽也;弓矢者,器也;射之者,人也。君子藏器於身,待時而動,何不利之有?動而不括,是以出而有獲,語成器而動者也。」此釋解上六爻辭。解自小過來,小過艮下震上,三來居二,變艮為坎,二至四為互離為矢,弓矢曰器。艮手持弓矢,變坎為隱伏曰藏器;震為動,故曰藏器於身,待時而動。震又為出,互離為隼,震動以射之,故曰動而不括,出而有獲也。括,結也,言器成始動,先裕致用之具,不肯取辦於臨時,所以無結閡之患也。

『易』にいう、「王公は高墻の上に於いて鷹隼を射、中てて之を獲たり、利ならざるなし」。孔子にいう、「隼は飛禽にして、弓箭は器械にして、それを射るは人なり。君子は器械を身に蔵して、時機を待ちて行動せば、何ぞ利ならざるあらんや。行動して阻碍なければ、ゆえに一たび手を出せば収穫あり。これは器械を準備停当して然る後に行動する人を言う」。これは『解』卦上六の爻辞を解釈す。『解』卦は『小過』より変じ来たる。『小過』は艮下震上にして、第三爻は下来りて第二位に居り、艮は因りて坎に変ず。二より四爻に至るは互体して離を成し、離は矢と為り、弓と矢とを皆「器」と曰う。艮は手と為り、手は弓矢を持ち、坎に変ずれば則ち隠伏と為る。すなわち「藏器」なり。震は動と為る。ゆえに「藏器于身、待時而動」という。震はまた出と為り、互体の離は隼と為り、震の動を以てそれを射れば、ゆえに「動而不括、出而有獲」という。「括」は結滞にして、これは言う、器械を製成して然る後に行動し、事先に致用の工具を備足して、臨事に至りて初めて張羅するを肯んぜず。ゆえに滞碍の患えなし。

子曰:「小人不恥不仁,不畏不義,不見利不勸,不威不懲。小懲而大誡,此小人之福也。《易》曰『屨校滅趾,無咎』,此之謂也。」此釋噬嗑初九爻辭。噬嗑自否來,否之乾五來居坤初,變坤為震。坤為小人,震為仁,乾為畏,坤為惡曰不義,故曰「小人不恥不仁,不畏不義」;乾為美利、為威,故曰「不見利不勸,不威不懲」;乾變為震,震木克坤土,故曰「小懲而大誡」;乾為福,居坤之初,故曰「小人之福也」。言校滅其趾,因懲知誡,不至陷於罪惡,所以善全小人也。

孔子にいう、「小人は不仁を以て恥と為さず、不義を以て畏るる可しと為さず、利益を見ずんば則ち善に勉力すること肯んぜず、威慄なければ則ち懲戒を知らず。小さき懲罰は大いなる警誡を換うるは、これは小人の福なり。『易』に『脚に木枷を戴き、脚趾を傷つ、過なし』と言うは、講ずるはまさに此の道理なり」。これは『噬嗑』卦初九の爻辞を解釈す。『噬嗑』は『否』卦より変じ来たる。『否』卦乾の第五爻は下来りて坤の初位に居り、坤は因りて震に変ず。坤は小人を象徴し、震は仁を象徴し、乾は畏懼を象徴し、坤は悪と為り、すなわちいわゆる「不義」なり。ゆえに「小人不恥不仁、不畏不義」という。乾は美利と為り威と為る。ゆえに「不見利不勧、不威不懲」という。乾は震に変じ、震は木に属して坤の土を克す。ゆえに「小懲而大誡」という。乾は福と為り、而してそれは坤の初位に居る。ゆえに「此小人之福也」という。これは言う、木枷は彼の脚趾を傷つけ、彼は懲を受くるに因りて警誡を知り、大いなる罪悪に陷入せざるに至るは、まさに小人を保全する好弁法なり。

善不積不足以成名,惡不積不足以滅身。小人以小善為無益而弗為也,以小惡為無傷而弗去也,故惡積而不可揜,罪大而不可解。《易》曰:「何校滅耳,凶。」懲惡於初猶可致福,積惡至上已罹於罪,則世之罪大而不可解者,皆由於積為小惡以致此也。上為離終,離為惡人,惡至於終故罪大,則上之凶不如初之無咎矣。此釋噬嗑上九爻辭。

善行は積累せざれば、以て名声を成就するに足らず。悪行は積累せざれば、以て自身を毀滅するに足らず。小人は小さき善事は益なしと以て為さず、小さき悪事は害なしと以て改めず。ゆえに悪は積りて掩う可からざるに至り、罪は大なりて解脱す可からざるに至る。『易』にいう、「重枷を肩負い、耳朵を遮没す、凶」。初爻の時に其の悪を懲戒せば、なお転じて福を得る可し。悪は上爻に積れり、已に罪罰に陷入せり。見れば世上の罪大にして解する可からざる人は、皆小悪を累積するに由りて初めて此の地步に到るなり。上爻は離卦の終にして、離は悪人を象徴し、悪は終極に到るがゆえに罪大なり。これに因りて上九の「凶」は、初九の「過なし」に如かず。これは『噬嗑』卦上九の爻辞を解釈す。

子曰:「危者,安其位者也;亡者,保其存者也;亂者,有其治者也。是故君子安而不忘危,存而不忘亡,治而不忘亂,是以身安而國家可保也。《易》曰:『其亡其亡,繫於包桑。』」否為陰息陽消卦,危、亡、亂,陰也;安、存、治,陽也。乾陽長懼坤陰之庶,可以永保身家。九五爻辭曰「其亡其亡,繫於包桑」,是此義也。

孔子にいう、「いわゆる危とは、其の位に安居して戒備を知らざる人の招来するなり。いわゆる亡とは、自ら以て其の存を長保すとする人の招来するなり。いわゆる乱とは、其の治を自恃する人の招来するなり。これに因りて君子は安に処りて危难を忘れず、存を図りて傾亡を忘れず、世を治めて禍乱を忘れず。かくの如くしてこそ能く身を平安にし国家を保得せん。『易』に『将に亡かならんとす、将に亡かならんとす。叢生する桑の根に繋げるが如く牢固せよ』と言う」。『否』は陰気は生長し陽気は消退する卦にして、危・亡・乱は陰に属し、安・存・治は陽に属す。乾陽は常に坤陰の衆盛を戒惧す。かくの如くしてこそ能く長く身家を保つ可し。『否』卦九五の爻辞に「其亡其亡、繋于包桑」と言うは、まさに此の意思なり。

子曰:「德薄而位尊,知小而謀大,力小而任重,鮮不及矣。《易》曰『鼎折足,覆公餗,其形渥,凶』,言不勝其任也。」鮮不及者,言鮮不及於凶也。蓋以位列三公,德、知、力三者兼備始克勝任。其有德而不知者,則不足以謀天下之事;有德知而無力者,則不足以荷天下之責;有知力而無德者,則不足以感格天人而建樹功業。鼎之九四位不中正,是德薄;居離明之初,是知小;陽居陰位,是力小,故有折足覆餗、形渥之象也。

孔子にいう、「徳行は浅薄にして地位は尊貴に、才智は短小にして図謀は遠大に、力量は微弱にして担子は沈重なるは、禍を遭わざる鮮し。『易』に『鼎は足を折断し、王公の美食を傾覆し、鼎身は沾汚す、凶』と言うは、言う所は己が職任を担い得ざるなり」。いわゆる「鮮不及」とは、禍を招致せざる甚だ少なきを言う。なぜならば、身は三公の位に居り、徳行・才智・力量の三者を兼備して初めて勝任する能くするを以てなり。徳行ありて才智なきは、以て天下の事を謀劃するに足らず。徳行才智ありて力量なきは、以て天下の責を擔負するに足らず。才智力量ありて徳行なきは、以て天人を感通し功業を建立するに足らず。『鼎』卦九四の位は中に居らずしてまた正を得ず、これは徳薄なり。離卦光明の開端に処するは、これは知小なり。陽爻を以て陰位に居るは、これは力小なり。ゆえに足を折り美食を傾覆し鼎身を沾汚するの卦象あるなり。

子曰:「知幾其神乎!君子上交不諂,下交不瀆,其知幾乎。幾者,動之微,吉之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。《易》曰『介于石,不終日,貞吉』。介如石焉,寧用終日,斷可識矣。君子知微知彰,知柔知剛,萬夫之望。」諂,諛也;瀆,褻也。諂似謙恭,瀆似簡易,而諂極則必招侮,瀆極則必致怨。諂瀆之初意在獲吉,其終轉致凶咎。豫卦二爻居中得正,正故不諂,中故不瀆,上下交際各得其宜,是非知幾者不能。贊之以神,言其先見夫吉,不入於凶也。

孔子にいう、「能く幾微を察知するは、神妙と算す可しや。君子は上位者と交往して諂媚せず、下位者と交往して軽慢せざるは、おそらく幾微を懂得するであろう。いわゆる「幾」とは、動向の剛に萌発する細微の兆候にして、吉の先行顕露する苗头なり。君子は幾微を見れば則ち即座に行動して、一日の過ぐるを待たず。『易』に『耿介として石の如く、終日を待たず、正を守れば吉』と言う。すでに耿介として石の如し、何ぞ終日を待つを須いんや、判断は自然明白なり。君子はすでに隠微を知りまた顕著を知り、すでに柔順を知りまた剛強を知るに、因りて万人の仰望する所と為る」。「諂」は阿諛にして、「瀆」は褻慢なり。諂媚は看るに謙恭に似たるも、褻慢は看るに簡率に似たるも、然れども諂媚は極処に到れば必ず軽侮を招来し、褻慢は極処に到れば必ず怨恨を招来す。諂と瀆とは起初は皆吉を求めんと欲せど、結果は却て凶咎を招来す。『豫』卦六二は中に居りて正を得、正を得ればゆえに諂せず、中に居ればゆえに瀆せず、上下の往来は各々其の宜を得。能く幾微を察知する人にあらざれば、此の如くする能わず。「神」を以て之を称賛するは、それが能く預め吉の在る所を見るを言うにして、因りて凶に陷入せず。

子曰:「顏氏之子,其殆庶幾乎!有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。《易》曰:『不遠復,無祇悔,元吉。』」顏氏之子,孔子弟子顏淵也。殆,語辭;庶,近也;幾即知幾之幾。不善欲動未動之時,此謂之幾,顏子知之即未嘗復行,則近於知幾也。復自坤卦純陰一陽上息,坤為惡,是不善也;陽息於初,是不行不善也。復之初九爻辭,顏子足以當之。

孔子にいう、「顔家のあの子は、おそらく幾を知るに近いであろう。不善の念頭有れば自ら覚らざるなかりし、一たび自覚すれば則ち再びそれに照りて做すこと曾てなし。『易』に『去りて遠からずして返回せば、大いなる悔恨に至らず、大吉』と言う」。「顔氏之子」は孔子の弟子顔淵を指す。「殆」は語助詞にして、「庶」は接近、「幾」はすなわち「知幾」の「幾」なり。不善の念頭は将に動かんとして未だ動かざるの際、これを則ち「幾」と言う。顔子は一たび察覚すれば便ち再び行動に付さざれば、ゆえに幾を知るに接近す。『復』卦は純陰の『坤』卦より一陽が下より生長して成る。坤は悪を象徴す。すなわち「不善」なり。陽気は初爻に於いて始めて生ず。すなわちあの不善の事を為さざるなり。『復』卦初九の爻辞は、顔子は以て之に当たるに足るなり。

天地絪縕,萬物化醇;男女構精,萬物化生。《易》曰:「三人行則損一人,一人行則得其友。」言致一也。絪縕,纏綿交密之貌;醇,凝厚也。天地以氣交,故化醇;男女以形交,故化生。損自泰來,泰為天地交之卦,故以天地絪縕言之;損為少男少女兩合卦,故以男女構精言之。絪縕、構精皆致一也,損六三爻辭是其義也。

天地の気は纏綿交密して、万物はこれに由りて化育凝厚す。男女は精気を交合して、万物はこれに由りて化育して生ず。『易』にいう、「三個人同行すれば則ち一人を減じ、一個人独往すれば反って同伴を得ん」と言うは、言う所は専一に帰するなり。「絪縕」は纏綿交密の様にして、「醇」は凝聚厚実なり。天地は気を以て相交るがゆえに「化醇」という。男女は形を以て相交るがゆえに「化生」という。『損』卦は『泰』卦より変じ来たるにして、『泰』は天地交通の卦なれば、ゆえに「天地絪縕」を用いて之を言う。『損』はまた少男(艮)と少女(兑)と相合する卦なれば、ゆえに「男女構精」を用いて之を言う。絪縕なりと雖も構精なりと雖も、皆専一に帰するなり。『損』卦六三の爻辞はまさに此の意思なり。

子曰:「君子安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求。君子修此三者,故全也。危以動,則民不與也;懼以語,則民不應也;無交而求,則民不與也。莫之與,則傷之者至矣。《易》曰:『莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。』」從理者其身安,從欲者其身危;心正者其語易,心邪者其語懼;信以結之,敬以聯之,是謂定其交,無交者反是。益自否來,否為陰消陽卦,故曰危、曰懼;否為天地不交卦,故曰無交;巽為躁卦,故曰傷也。此釋益上九爻辭。此第五章十一舉易爻象,以申爻象動乎內、吉凶見乎外之意,而功業與聖人之情亦胥該焉。

孔子にいう、「君子は先ず自身を安穏にして然る後に行動し、先ず心気を平和にして然る後に発言し、先ず交情を定めて然る後に求むる所有り。君子は此の三項を修好すれば、ゆえに能く己を保全す。処境は危殆にして妄動すれば、民衆は則ち親附せず。心は恐懼を懐きて進言すれば、民衆は則ち響応せず。交情なきに求むる有れば、民衆は則ち給与せず。給与する人なければ、則ち彼を加害する人は来りん。『易』に『彼を增益する人なく、彼を攻撃する人有り、立心は常を守る能わず、凶』と言う」。天理に依循する人は身安し、私欲を放縦する人は身危し。心地端正の人は言語平易にして、心術邪僻の人は言語惶恐なり。誠信を以て相結び恭敬を以て相連なる、これを「定其交」と言い、交情なき人はまさに此と相反す。『益』卦は『否』卦より変じ来たる。『否』は陰が陽を消す卦なれば、ゆえに「危」といい「懼」という。『否』は天地相交らざる卦なれば、ゆえに「無交」という。上卦の巽は躁動の卦なれば、ゆえに「傷」という。これは『益』卦上九の爻辞を解釈す。以上は『繋辞下』第五章にして、共に十一次『易』の爻象を挙出して、用いて「爻象在内動、吉凶見于外」の意思を申明す。而して聖人の功業と情志ともまた皆其の中に包含せり。

繋辞下伝 第六章

子曰:「乾坤其易之門邪?乾,陽物也;坤,陰物也。陰陽合德而剛柔有體,以體天地之撰,以通神明之德。」乾為純陽,故曰陽物;坤為純陰,故曰陰物。易之卦象皆由此出,故曰易之門。陰陽合德以生六子,得乾爻者體剛,得坤爻者體柔,有體者言有形體也。撰,結撰,如山澤水火之類;德,卦德,如坎陷兌說之類。曰體曰通者,言六子之象本乾坤也。

孔子は言う、「乾・坤はおそらく『易』の門戸であろうか。乾は陽性の物、坤は陰性の物である。陰陽がその徳性を合わせ、剛柔がそれぞれ形体を持つことによって、天地の造作を体現し、これによって神明の徳性に通達する」。乾は純陽だから「陽物」と称し、坤は純陰だから「陰物」と称する。『易』の卦象は皆この二卦から生じるので『易』の門と称する。陰陽が徳を合わせて震・坎・艮・巽・離・兑の六子の卦を生じ、乾の爻を受ければ剛を成し、坤の爻を受ければ柔を成す。「有体」とは形体があるということだ。「撰」は造作され形を成した物を指し、山・沢・水・火の類である。「徳」は卦の徳性を指し、坎を陥とし兑を悦とする類である。「体」と言い「通」と言うのは、六子卦の取象がもとより乾坤から出ることを講ずるのである。

其稱名也雜而不越,於稽其類,其衰世之意邪?《九家易》曰:「名謂卦名,陰陽雜錯,其卦象各有次序,不相踰越。」稽,考也。稽其事類,則言憂患之防無不周至,淳世之人情不若是之險且譎也。夫易彰往而察來,而微顯闡幽,開而當名。

『易』の称する卦名は繁杂にして相逾越せず、それの帰する事類を考察すれば、おそらく衰乱の世の用意であろう。『九家易』は言う、「『名』は卦名を指す。陰陽交錯して雑陳するも、卦象はそれぞれ次序あって彼此相逾越せず」。「稽」は考察である。それの属する事類を考察すれば、憂患への防備が周詳に至らざるなしと見える。淳厚の世の人情はこのように険悪詭譎に至らない。『易』は已往を彰明し将来を察知し、幽微なる者を顕豁にし隠晦なる者を闡発し、卦義を開示して各々その名に当たらしめる。

辨物正言,斷辭則備矣。世當衰微,人情漸薄,聖人志在救時,故作易彰明已往之跡象,以察將來之吉凶。其事之微者則有以顯之,其情之幽者則有以闡之,於是六十四卦以開,命之以名,各當其體。辨物謂卦象,正言謂爻彖,斷辭謂吉凶悔吝。曰備者,言易之道備於辨物、正言、斷辭三者矣。

事物を辨别し言辞を端正し、これに吉凶を断定する繋辞を加えれば、『易』の道はこれで完备する。時世は正に衰微に当たり、人情は日に浇薄し、聖人は救世の心あるがゆえに『易』を作り、已往の跡象を彰明して以て将来の吉凶を察知するに用いた。事の細微なるはそれを顕豁ならしめる術を設け、情状の幽隠なるはそれを闡発する術を設け、ここにおいて六十四卦は開示を得、各々名称を与えられて皆その卦体に相当する。「辨物」は卦象を指し、「正言」は爻辞と彖辞を指し、「断辞」は吉・凶・悔・吝の判語を指す。「備」と言うのは、『易』の道理が辨物・正言・断辞のこの三項の上に完备するを講ずるのである。

其稱名也小,其取類也大,其旨遠,其辭文,其言曲而中,其事肆而隱,因貳以濟民行,以明失得之報。名,卦名;類謂陰陽。假借物象而無直質之言曰曲,能盡古今之情偽曰中。肆,陳也,謂卦爻;卦爻中之消息潛藏不易窺測曰隱。貳,疑也,因民疑貳而作易,使之占以決之,失者預報以凶,得者預報以吉,此之謂濟民行。濟,拯也,言民入於陷溺而用占筮以拯之。此易為維世之書,而作易所以為衰世之意也。此第六章統論作易大旨,要之為彰往察來、微顯闡幽,所以濟民行、明報以得失也,蓋言功業見乎變也。

『易』の称する名目は細小にして、取る物類は広大である。その意旨は深遠にして、その文辞は文采に富む。その話は曲折にして事理に切中し、その事例は舗陳にして含義は隠微である。人の心の疑惑に順って百姓の行事を助け、以て失と得の報応を顕明にする。「名」は卦名を指し、「類」は陰陽を指す。物象を假借して直白の言を為さざるを「曲」と言い、古今の真情と虚偽を窮尽し得るを「中」と言う。「肆」は舗陳にして卦爻を指す。卦爻の中に消長潜蔵して窺測し易からざるを「隠」と言う。「貳」は疑惑である。百姓が心に疑惑を抱くがゆえに『易』を作り、彼らをして占筮を通じて決断せしめ、失には予め凶を報じ、得には予め吉を報ず。これを「濟民行」と言う。「濟」は拯救にして、百姓が陷溺する中にあれば占筮を以て彼らを拯救するを言う。見れば『易』は世道を維繋する書にして、『易』を作るの用心はまさに衰世の用心である。以上は第六章、総じて『易』を作るの大旨を論じ、帰結する所はすなわち往を彰にし来を察し、微を顯にし幽を闡し、以て百姓の行事を助け得失の報応を顕明にする、すなわち功業が変化の中に体現されるを言うのである。

繋辞下伝 第七章

易之興也,其於中古乎?作易者其有憂患乎?包羲畫卦而易肇興,至於中古,文王因羑里之囚,身罹憂患,而易辭作焉。是故履,德之基也;謙,德之柄也;復,德之本也;恆,德之固也;損,德之修也;益,德之裕也;困,德之辨也;井,德之地也;巽,德之制也。

『易』の興起はおそらく中古の時代であろうか。『易』を作った人はおそらく憂患を心に抱いていたのであろうか。伏羲が卦を画して『易』は始めて興起し、中古に至り文王は羑里に囚われて身自ら憂患に遭い、ここにおいて『易』の卦爻の辞は写し成された。それゆえ『履』卦は徳行の根基、『謙』卦は徳行の柄把、『復』卦は徳行の根本、『恒』卦は徳行の堅固、『損』卦は徳行の修治、『益』卦は徳行の充裕、『困』卦は徳行の辨験、『井』卦は徳行の処所、『巽』卦は徳行の裁断である。

處憂患之地莫如德,故約舉九卦之德以明之。基,始也。驕亢為敗德之緣,遜順為入德之門。履卦上乾下兌,說以應乾,是心知畏懼而能柔順持己以前行者,故為德之基。持物必以柄,猶之進德宜以謙,謙德不自盈,故能容善而不外溢,是柄也。本,根本也,純陰用事,一陽自下反來,日新富有之業悉肇於此,故德之本取於復。

憂患の地に身を処すに、最も緊要なるは徳に如くものなく、ゆえに簡要に九卦の徳を挙げて説明する。「基」は開端である。驕矜亢傲は徳行を敗壊する由頭にして、謙遜柔順は徳行に入る門径である。『履』卦は上乾下兑にして、和悦を以て乾剛に承応するは、まさに心に畏懼を存して能く柔順を以て自持し向前に践行する人、ゆえに徳行の根基である。物を拿すには必ず握るべき柄あるを須い、就好比進徳は必ず謙に頼るがごとし。謙徳は従来自満せず、ゆえに衆善を容納して外に溢出せざるを得。これがすなわち「柄」である。「本」は根本である。『坤』卦の純陰が当権した後、一陽が下より自ら返生し、日新月異・万物を富有する功業は皆ここに発端する。ゆえに徳の根本は『復』卦に取象する。

人有恆心,不至隨得隨失,是德因恆而固。人能去私,則能切磋琢磨以進德,修德宜取夫損也。裕,厚也,德日益則日裕。鄭氏曰:「辨,別也。」遭困之時,君子固窮,小人則濫,德於是別也。修井所以養人而成德,亦欲以濟人,是井為德之地。制猶斷制也,陽剛中正而又巽以入之,則因時制宜,不至躁以致阻,此巽之德也。

人に恒久の心あれば、時得時失に至らず、これは徳行が「恒」に因りて堅固なり。人が私心を去る能くすれば、切磋琢磨して徳行を増進すること能くす。ゆえに修徳は『損』に取法すべし。「裕」は豊厚にして、徳行が一日々々增益すれば一日々々豊裕なり。鄭玄は言う、「辨とはすなわち分別なり」。困厄に遭遇する時、君子は窮困に安守するも小人は放縦妄為して、徳行の高下はここに於いて分辨さる。水井を修治するは人を養いて徳行を成就せんがため、また以て他人を周濟せんとするに在る。ゆえに『井』は徳行の処所である。「制」は裁断のごとし。陽剛にして中に居り正を得、また巽の柔順を以てその中に深入すれば、能く時に因りて宜に制し、躁急に因りて阻碍を招来するに至らず。これがすなわち『巽』の徳性である。

履和而至,謙尊而光,復小而辨於物,恆雜而不厭,損先難而後易,益長裕而不設,困窮而通,井居其所而遷,巽稱而隱。以九卦之生於性者言之:履得兌說之和,以造踐履之極;謙則卑不可踰,故尊而光;復陽雖微,而初剛反下,不為陰惑,克辨物之善否;恆以求事理之賾,心貞於一而不厭倦;損則懲忿窒欲,己克而禮得復,故先難後易;益為損上益下,己長饒裕則利人有實功,而不必外有所設立;困窮則動心忍性,增所不能,故通;井不可改而能遷水以濟人;巽能稱事之宜,則伏而不見,是善藏其用者。

『履』は和悦にして能く至極に達し、『謙』は卑下にして愈々尊顕光大し、『復』は動くこと微小なるも能く事物を辨别し、『恒』は雑乱の中に処りて厭倦を生ぜず、『損』は先難にして後易し、『益』は長養寛裕にして外求を假らず、『困』は窮厄にして反って通達すること能くし、『井』は本位に居守して能く其の水を遷運し、『巽』は事宜に称合して隠伏して露せず。九卦の秉ぐ性情に就いて言えば、『履』は兑卦の和悦の徳を得て、因りて能く践行の極処に造る。『謙』は卑下にして人をして逾越す可からざらしめ、ゆえに愈々尊顕にして愈々光大す。『復』卦の一陽は微弱なれど、初爻剛健にして下位に返回し、群陰の惑わす所と為らず、能く事物の善悪を辨别す。『恒』は事理の深奥を探求するに用い、心志は専一にして厭倦せず。『損』は忿怒を懲戒し私欲を堵塞するに在り、己を克して後に礼に復る。ゆえに先難にして後易し。『益』は上位を減損して下民を增益す。己は既に寛裕なれば、則ち人を利して実効ありて、別に外面に於いて張設を為すを須いず。『困』は窮厄に処れば則ち其の心を震動し其の性を堅忍して、原先能わざりし所を増長す。ゆえに反って通達す。『井』の位置は移改す可からざるも、能く井水を遷運して人を救済す。『巽』は能く事情の分寸に称合すれば、則ち潜伏して顕露せず。これは善く己の功用を蔵するなり。

履以和行,謙以制禮,復以自知,恆以一德,損以遠害,益以興利,困以寡怨,井以辨義,巽以行權。以九卦之達於用者言之:兌說以履虎尾,是謂和行;謙則自卑尊人,是謂制禮;復則自反其本,故曰自知;恆則堅貞其志,故曰一德;損主損己無傷於人,則害以遠;益則益人有濟於物,則利以興;困以守素,怨自寡也;井以濟眾,義可辨也;巽不激切而因時酌宜,經不可行者乃以權行之。《九家易》曰:「權者,反於經然後有善者也。」此所以說九卦者,聖人履憂濟民之所急行也,故先陳其德,中言其性,後敘其用以詳之也。此第七章歷指九卦之用,以明處憂患之道,申明聖人之情見乎辭也。

『履』は以て其の行を和順にし、『謙』は以て礼節を裁制し、『復』は以て身に反りて自知し、『恒』は以て其の徳を専一にし、『損』は以て禍害を遠離し、『益』は以て利益を興起し、『困』は以て怨尤を減少し、『井』は以て義理を辨明し、『巽』は以て権変を施行す。九卦の通達する功用に就いて言えば、兑の和悦を以て虎尾を踩む、これを「和行」と言う。『謙』は能く自ら卑下に処りて他人を尊敬す、これを「制礼」と言う。『復』は能く其の根本に反求す。ゆえに「自知」と言う。『恒』は能く其の志を堅定す。ゆえに「一徳」と言う。『損』は己を減損して他人を傷害せざるを主とす。禍害はこれに因りて遠離す。『益』は能く他人を增益して物に益あり。利益はこれに因りて興起す。『困』は能く本分に安守すれば、怨尤は自然に減少す。『井』は能く衆人を周濟すれば、義理はこれに由りて辨む可し。『巽』は激切せずして能く時に因りて其の宜を斟酌し、常法の行けざる時は便ち権変を以て施行す。『九家易』は言う、「いわゆる権とは、常経に違反して結果反って善を得るの做法なり」。此の九卦を講ずる所以は、それらが聖人の憂患に処り百姓を救うに急需践行する所なれば、ゆえに先ず其の徳を陳述し、中に其の性を講じ、最後に其の用を叙述して、以て詳備を求めん。以上は第七章、逐一に九卦の功用を指出して、以て憂患に身を処するの道を説明し、聖人の情志が卦爻辞の中に顕現することを申明す。

繋辞下伝 第八章

易之為書也不可遠,為道也屢遷,變動不居,周流六虛,上下無常,剛柔相易,不可為典要,唯變所適。易可以成德而處憂患,則是易之為書,固人所宜近而不可遠者也。至於易之為道,則主變動而不可以常法求之。六虛謂六爻之位,不言位而言虛者,則以上下移易,剛柔無定,故曰虛。典,常;要,求;適,之也。唯變所適,則易不凝滯於物,蓋如此。

『易』は一部の書として、人の疏远す可からざるなり。其の講ずる道は屡屡遷移し、変動して停留せず、六つの虚位に周遍流行し、上下に定所なく、剛柔は互相変易して、固定不変の成法と当作る能わず、ただ変化に随いて往く。『易』は能く徳行を成就し憂患に応付するを見れば、『易』此の書は本と人の親近すべく疏远す可からざるなり。『易』の講ずる道に至りては、則ち変動を主とし、一成不変の常法を以て求むる能わず。「六虚」は六爻の位次を指し、「位」と言わずして「虚」と言うは、上下移換し剛柔定まらざるがゆえに「虚」と称す。「典」は常法にして、「要」は求取、「適」は往くなり。ただ変化に随いて往けば、『易』は拘泥凝滞して某一事物に著せざれば、道理はすなわち此の如し。

其出入以度,外內使知懼。度,法也。言易備六爻,自內往外曰出,自外往內曰入,一出一入皆有法度,使人別內外,知所恐懼,以知向也。又明於憂患與故,無有師保,如臨父母。懼者即憂患也。不惟使知之,而又有以明之:易明憂患與所以致憂患之故,與人同憂,與人同患,而諄諄教誨,不僅有師保之嚴,而兼如父母之愛也。

『易』の出入は皆法度ありて、人をして内外の間に於いて戒惧する所を知らしむ。「度」はすなわち法度なり。これは言う、『易』は六爻を備具し、内卦より外卦に往くを「出」と言い、外卦より内卦に往くを「入」と言い、一出一入皆法度ありて、人をして内外を分辨し畏懼すべきを知らしめ、従って趨向を懂得せしむ。それはまた人をして憂患及び憂患を招致する緣故を明白ならしめ、身辺に師傅保傅なしと雖も、父母に面するがごとし。ここの「懼」はすなわち憂患なり。『易』は人に憂患を知らしむるのみならず、更に進んで人のために闡明す。既に憂患を講明し、また憂患を招致する縁由を講明して、人と同憂し人と同患し、諄諄として教誨して、師保のごとき厳正あるのみならず、また父母のごとき慈愛を兼有す。

初率其辭而揆其方,既有典常,苟非其人,道不虛行。率,循也;辭,卦爻辭;揆,度也;方猶位也。初循卦爻辭以度其方位,則有不易之理,貴乎體道以行之。然不能神明默成,則猶未洽於道,所謂不可遠者終遠耳。此第八章言易之變動有度,使人知懼,恐其誤罹憂患,不啻父母之愛子焉,此申吉凶外見、聖人之情亦見也。

起初は卦爻辞に依循して爻位を推度し、既に不変の常理の循む可き有れば、則ち仮令あの合適の人にあらざれば、此の道理もまた空に施行せざるなり。「率」は依循にして、「辞」は卦辞爻辞を指し、「揆」は推度、「方」は爻位のごとし。起初は卦爻辞に依循して其の方位を推度すれば、則ち其の中に改易す可からざるの道理あるを見、貴ぶ所は能く此の道を体察して実行に付すに在り。然れども若し心領神会し黙々として成就する能わざれば、終竟いまだ道と相契するに至らず。あの所謂「疏远す可からず」の『易』は、到頭來は仍ほ疏远せられたり。以上は第八章、『易』の変動は自ら法度あるを講じ、人をして戒惧する所を知らしめ、ただ人の誤りて憂患に陷入せらるるを恐る。其の用心は父母の子を愛するに亞らず。これは申明する、吉凶は外に顕現し、聖人の情志もまたこれに随いて見る可きなり。

繋辞下伝 第九章

易之為書也,原始要終以為質也,六爻相雜,唯其時物也。質,本也;物,爻象也。言聖人即卦畫推求始終以作彖辭,至於六爻錯雜,唯各因其時位與其物象,以申彖辭未盡之義也。其初難知,其上易知,本末也。初辭擬之,卒成之終。干氏曰:「初擬議之,故難知;卒終成之,故易知。本末勢然也。」

『易』此の書は、事物の開端を推原し事物の終局を帰結して、以て一卦の本体と為す。六爻は互相錯雑すれど、不過各々其の時位と物象とに随うのみ。「質」は本体にして、「物」は爻象なり。これは言う、聖人は卦画に就いて始終を推求して彖辞を作り、六爻の錯雑に至りては、則ち各々其の時位と取る所の物象とに依りて、用いて彖辞の未だ尽さざるの意思を申発す。初爻は知晓し難く、上爻は知晓し易し。一は本にして一は末なればなり。初爻の辞はただ拟議するのみ、上爻に至りて始めて最終成就す。干宝は言う、「初爻はただ拟議するのみ、ゆえに知り難し。上爻は最終完成なれば、ゆえに知り易し。本と末との形勢は本と此の如し」。

若夫雜物撰德,辨是與非,則非其中爻不備。物謂象,雜者謂兩物相雜而互之,撰,結撰也,中爻,中四爻也。卦有六爻,初賤無位,上貴極亦無位,辨別是非惟取中爻。初上各具爻象,而中四爻上下交互又別取象;初上各具卦德,而中四爻上下交互又別論德,是兼互體而爻義始備焉。噫,亦要存亡吉凶,則居可知矣。知者觀其彖辭,則思過半矣。噫,語辭;要,求也。言人能求存亡吉凶之理,則所居有主。六爻大意皆寓於彖辭,是宜觀之以得主爻也。

事物を錯雑し徳性を撰述し是非を辨别するに至りては、中間の幾爻に拠らざれば完备せず。「物」は卦象を指し、「雑」は両物の相雑りて互体を取るを言い、「撰」は撰結して形を成すにして、「中爻」は中間の四爻を指す。一卦に六爻あり、初爻は卑賤にして位なく、上爻は貴きと雖も已に極処に到りて亦た位なし。是非を辨别するはただ中間の四爻を取る。初爻と上爻とは各々其の爻象あり、而して中間の四爻は上下交互してまた別に一象を成す。初爻と上爻とは各々卦徳を具有し、而して中間の四爻は上下交互してまた別に徳を論ず可し。これは兼ねて互体を取るにして、爻の意義は始めて完备と算す。噫!若し存亡吉凶の道理を求得する能くせば、則ち処する所の位置は了然たるを得ん。明智の人は其の彖辞を観れば、思慮は已に過半せり。「噫」は語気詞にして、「要」は求取なり。これは言う、人は存亡吉凶の理を求得する能くせば、処する地は主宰あり。六爻の大意は皆彖辞の裏に寄寓すれば、ゆえに彖辞を観察して以て一卦の主爻を求得すべし。

二與四同功而異位,其善不同:二多譽,四多懼,近也。柔之為道,不利遠者,其要無咎,其用柔中也。二、四皆陰位,故曰同功;二居內卦,四居外卦,故曰異位。而四之多懼不若二之多譽者,以四近君位故也。雖陰宜依陽,不利於遠,而二違五而無咎者,則以二得內卦之中,柔中則亦有用耳。

第二爻と第四爻とは功用相同じくして位次不同なり。其の善処もまた様ならず。二爻は称誉を得ること多く、四爻は畏懼あること多し。四爻は君位に逼近するを以てなり。柔順の道は本と君位を離るること遠からざるを利とせざるも、其の要旨は過咎を出さざるに在りて、頼る所は柔順にして中に居るなり。二爻と四爻とは皆陰位なれば、ゆえに「同功」と言う。二は内卦に在り四は外卦に在れば、ゆえに「異位」と言う。四爻の多懼にして二爻の多誉に及ばざる所以は、四爻は九五君位に緊挨するを以てなり。陰は当に陽に依附し陽を離るること遠からざるを宜とすと雖も、二爻は五爻を遠離して仍ほ過咎なき能くするは、二爻は内卦の中に居り、柔順にして中を得れば、すなわち自ら用いる可き処あるを以てなり。

三與五同功而異位,三多凶,五多功,貴賤之等也,其柔危,其剛勝邪。三、五皆陽位,而多凶多功不同者,以三賤五貴,其等殊也。三儻以柔居之,其勢愈危;若居以剛,是為得位,則差勝耳。此第九章推論彖爻以示讀易之法,而言爻之多譽、多懼、多凶、多功,申爻象動乎內之意,功業亦胥見焉。

第三爻と第五爻とは功用相同じくして位次不同なり。三爻は凶険あること多く、五爻は功業あること多し。これは貴賤の等級の致す所なり。陰柔を以て之に居れば則ち危殆にして、陽剛を以て之に居ればおそらく才能胜任せんか。三・五は皆陽位なれど、一は多凶にして一は多功なり。三爻は卑にして五爻は尊にして等級同じからざればなり。三爻は若し陰柔を以て居守せば、形勢は更に危険なり。若し陽剛を以て之に居れば、位を得たりと算して、すなわち稍々胜任する能くす。以上は第九章、彖辞と爻辞とを推論して、以て『易』を読むの方法を指示す。而して爻位の多誉・多懼・多凶・多功を講ずるは、「爻象動乎内」の意思を申明するにして、聖人の功業もまた皆ここに由りて見る可し。

繋辞下伝 第十章

易之為書也,廣大悉備,有天道焉,有人道焉,有地道焉,兼三才而兩之,故六。六者非它也,三才之道也。三才謂天地人,卦有六爻,故兼而兩之:初二為地道,三四為人道,五上為天道。言廣大莫如天地,易悉備之矣。

『易』此の書は広大にして備わらざるなし。其の中に天道あり人道あり地道あり、天地人の三才を兼取して各々一倍を加えたれば、ゆえに六画なり。いわゆる六とは他ならざる、まさに三才の道なり。「三才」は天・地・人を指す。一卦に六爻あれば、ゆえに三才を兼ねて各々一倍を加う。初爻・二爻は地道と為り、三爻・四爻は人道と為り、五爻・上爻は天道と為る。これは言う、広大を論ずれば天地に比ぶるなきも、而して『易』はそれらを悉く包羅して遺漏なし。

道有變動,故曰爻;爻有等,故曰物;物相雜,故曰文;文不當,故吉凶生焉。道者,三才之道也;變動者,推移也;等謂爻位;物謂陰陽;物相雜,謂陰陽失錯;文不當,謂時義失宜。此第十章言六爻之變動有吉凶,復申吉凶見乎外,由於爻象之內動也。

道に変動あれば、ゆえに之を「爻」と言う。爻に等級あれば、ゆえに之を「物」と言う。物類は互相錯雑すれば、ゆえに之を「文」と言う。文に当たらざる処あれば、吉凶は則ちここに由りて生ず。ここの「道」は三才の道を指し、「変動」は推移を指し、「等」は爻の位次を指し、「物」は陰陽を指し、「物相雑」は陰陽の錯乱して序を失うを言い、「文不当」は時に相応する義理が分寸を失うを言う。以上は第十章、六爻の変動は吉凶を帯来するを講じ、再び申明する、吉凶は外に顕現するは、爻象が内部に於いて発動するに由るなり。

繋辞下伝 第十一章

易之興也,其當殷之末世、周之盛德邪?當文王與紂之事邪?是故其辭危。危者使平,易者使傾,其道甚大,百物不廢,懼以終始,其要無咎,此之謂易之道也。紂,殷王帝辛,殷末世之君也。易興於殷之末世者,文王身備盛德而罹羑里之囚,是故深自危厲以戒慢易。雖其道大無所不包,而始終恐懼以求補過,是吉凶為易之道,無咎尤為易之要旨也。此第十一章言易之辭危,聖人之情見,而其要無咎,則功業亦見焉。

『易』の興起は、おそらく殷商の末世・周家の徳業方に盛んの時に正当せるか。おそらく文王と紂王とのあの段の史事に正当せるか。ゆえに其の辞句は危惧に充満す。心に危惧を存するは平安を得、軽慢怠忽するは反って傾覆を遭う。其の道理は極めて広大にして、万事万物は遺漏する所なし。自始至終戒惧を懐と為し、其の要旨は過咎を出さざるに在り。これを『易』の道と言う。「紂」はすなわち殷王帝辛にして、殷代末世の君主なり。『易』は殷の末世に興るは、文王は身に盛徳を具えながら羑里の囚に遭い、ゆえに深く自ら警惕危厲して、用いて軽慢を戒除す。『易』の道は広大にして包む所なしと雖も、然れどもそれは始終恐懼の心を以て過失を補うを求む。見れば吉凶は『易』の道にして、而して「過咎なし」は尤も『易』の要旨なり。以上は第十一章、『易』の辞句は危惧に充満するを講じ、聖人の情志はここに由りて見る可く、而して其の要旨は無過に在れば、則ち聖人の功業もまた見る可し。

繋辞下伝 第十二章

夫乾,天下之至健也,德行恆易以知險;夫坤,天下之至順也,德行恆簡以知阻。易始乾坤。乾以易知,而乾為純陽,陽剛至健,健則能歷險,於以無險,無險又本於知險,恆易以知險,乾之德行然也。坤以簡能,而坤為純陰,陰柔至順,順則無所阻,於以無阻,無阻乃本於知阻,恆簡以知阻,坤之德行然也。

乾は天下の最も剛健にして、其の徳行は永遠に平易にして、因りて能く険難を知る。坤は天下の最も柔順にして、其の徳行は永遠に簡約にして、因りて能く阻碍を知る。『易』は乾坤を以て開端と為す。乾は平易を以て人に知られ、乾は純陽にして陽剛は至極剛健にして、剛健なれば則ち能く険難を経歴して、因りて終竟険なし。而して険なき所以は、また其の能く険難を予知するに本ず。永遠に平易にして能く険を知る、これはまさに乾の徳行の致す所なり。坤は簡約を以て能く事を成し、坤は純陰にして陰柔は至極柔順にして、柔順なれば則ち阻碍する所なく、因りて終竟阻なし。而して阻なき所以は、正に其の能く阻碍を予知するに本ず。永遠に簡約にして能く阻を知る、これはまさに坤の徳行の致す所なり。

能說諸心,能研諸侯之慮,定天下之吉凶,成天下之亹亹者。易則易知,簡則易從,故能悅諸心。易則知險而惟恐陷於險,簡則知阻而惟恐困於阻,故能研天下之慮。諸侯猶云諸國也。心悅則心有得,慮研則慮無失,是事之吉凶由此定;心悅則為之不厭,慮研則為之不怠,是人之亹亹由此成也。

『易』は能く人の心を悦怿せしめ、能く各国の思慮を精研し、天下の吉凶を判定し、天下の勤勉不倦の事業を成就す。平易なれば則ち了解され易く、簡約なれば則ち遵従され易し。ゆえに能く人の心を喜ばしむ。平易にして険を知れば、則ちただ険難に陷入せらるるを恐れ、簡約にして阻を知れば、則ちただ阻碍に困るを恐れ、ゆえに能く天下の思慮を精研す。「諸侯」は各国を言うがごとし。心中喜ばしければ、則ち心に得る所有り。思慮は精研せられれば、則ち思慮に閃失なく、事情の吉凶はこれに由りて判定さる。心中喜ばしければ、則ち之を為すに厭倦を生ぜず。思慮は精研せられれば、則ち之を為すに懈怠に致らず。人の勤勉不倦はこれに由りて成就す。

是故變化云為,吉事有祥,象事知器,占事知來。吉凶定則知變化,成亹亹則有云為。云為參諸變化,則事已無凶,故祇言事之吉者。夫吉事將逢,先有祥兆;事之象所由知,則假諸器,器者卦與蓍也。用器以決事,於以有占。知來者,知將來之事如何可得吉也。

これに因りて人の変化と言行との間には、吉慶の事は先に征兆あり。象を観て事を知るは、器具に憑藉するを須う。占問して事を知るは、将来を予知する可し。吉凶は既に判定せられれば、則ち能く変化を知る。勤勉の功は既に成就せられれば、則ち言語作為あり。言行は若し変化を参照して定めば、事情は凶を有せず。ゆえにここはただ事情の「吉」を言うのみ。吉事は将に来臨せんとせば、事先に必ず祥兆あり。而して事の征象は何に由りて知るや、則ち器具に借助するを須う。いわゆる「器」とは、すなわち卦と蓍草なり。器具を用いて事情を決断すれば、ここにおいて占筮あり。いわゆる「知来」とは、すなわち将来の事情を予知して、怎様にすれば吉を得るを知るなり。

天地設位,聖人成能,人謀鬼謀,百姓與能。八卦以象告,爻彖以情言,剛柔雜居而吉凶可見矣。象事知器者,蓋以天地設陰陽之位,聖人則之作易以成功能也;占事知來者,蓋以卜筮道興,先以人謀,復以鬼謀決之,百姓亦與聖人之能也。八卦以象告,故事可象;爻彖以情言,故事可占。陽剛陰柔交雜錯居,此以象告也;吉得凶失皆能預見,此以情言也。

天地は上下の位を設立し、聖人は其の功能を成就す。人は谋划し鬼神もまた谋划し、百姓もまた此の能事に参与するを得たり。八卦は卦象を以て告示し、爻辞彖辞は情状を以て陳說し、剛爻柔爻は交錯して並処せば、吉凶は則ち見る可し。いわゆる「象事知器」とは、天地は陰陽の位次を設立し、聖人はそれに取法して『易』を作り、従って功能を成就するを言う。いわゆる「占事知来」とは、卜筮の道は興起して、先ず人に谋划せしめ、再び鬼神の谋を用いて決断し、百姓もまた聖人の能事に参与したるを言う。八卦は象を以て告示すれば、ゆえに事情は取象す可し。爻辞彖辞は情状を以て陳說すれば、ゆえに事情は占問す可し。陽剛陰柔は交錯雑処す、これはすなわち「以象告」なり。得れば吉・失れば凶、皆予め見る可し、これはすなわち「以情言」なり。

變動以利言,吉凶以情遷。是故愛惡相攻而吉凶生,遠近相取而悔吝生,情偽相感而利害生。凡易之情,近而不相得則凶,或害之,悔且吝。剛柔雜居,因有變動,變動則不滯以求其和,故曰變動以利言也。吉凶可見,以為吉為凶原繫於爻辭,而吉凶遷移無定者,以爻中各有所具之情故也。

爻の変動は利に趨るに就いて言えば、吉凶は爻情に随いて遷移す。これに因りて喜愛と憎悪とは互相攻逐して、吉凶は便ち生ず。疏远と親近とは互相取求して、悔と吝とは便ち生ず。真情と虚偽とは互相感応して、利と害とは便ち生ず。大凡『易』の講ずる情理は、両爻相近して彼此相投合せざれば則ち凶、或いは損害を受け、或いは悔吝を生ず。剛爻柔爻は交錯して並処し、因りて変動あり。一たび変動すれば則ち滞塞せざるに至りて、従って調和を求得す。ゆえに「変動以利言」と言う。吉凶は本と見る可し、是吉是凶は原本爻辞に係るを以てなり。而して吉凶はまた遷移定まらざるは、則ち毎一爻は各々同じからざる爻情を具有するに由るなり。

卦有主爻,與主爻情合者謂之愛,與主爻情違者謂之惡;與主爻相比相應相往來者謂之近,與主爻相間隔及消息不相通者謂之遠;又有或比或應、或非比應而相孚者謂之情,又有為比為應為往來而不相洽者謂之偽。吉凶生於愛惡,悔吝生於遠近,利害生於情偽,其相攻相取相感有淺深,故吉凶悔吝利害有殊應也。近而不相得者,謂相比相應而其情則相違而不和,大則致凶,其次亦有害焉,輕則為悔為吝。舉近而不得者,則其得者可知,即遠而相得與遠而不相得者亦可知,三百八十四爻之大旨備於此矣。

毎卦は皆主爻あり。主爻と情意相合するを「愛」と言い、主爻と情意相違するを「悪」と言う。主爻と相比隣し相応和し相往来するを「近」と言い、主爻と相隔断し及び消長相通ぜざるを「遠」と言う。また或いは相比し或いは相応し、甚至りて比应に非ずして彼此誠信相孚るるを「情」と言い、また比と為り応と為り往来と為るも並み融洽せざるを「偽」と言う。吉凶は愛と悪とより生じ、悔吝は遠と近とより生じ、利害は情と偽とより生ず。それらの相攻・相取・相感の程度は深浅ありて、ゆえに吉・凶・悔・吝・利・害の応験もまた各々相同じからず。いわゆる「近而不相得」とは、両爻は虽相比相应するも情意は彼此相違背して調和せざるを指す。重ければ則ち凶険を招致し、其の次は損害を有り、軽ければ則ち悔と吝と為る。「近而不相得」の情形を挙出せば、則ち「近而相得」の情形は推知す可し。連帯して「遠而相得」と「遠而不相得」の情形もまた皆推知す可し。三百八十四爻の大旨は、全てここに備具せり。

將叛者其辭慚,中心疑者其辭枝,吉人之辭寡,躁人之辭多,誣善之人其辭游,失其守者其辭屈。卦爻之相感既分情偽,而卦爻所繫之辭言人情偽,亦非一端所能盡。將叛者中懷叵測,惟恐人知,故其辭慚;中心疑者昧於是非,內無定見,故其辭枝;吉人敬慎,要言不煩,故辭寡;躁人浮薄,御人以口,故辭多;誣善之人出言無稽,故辭游移莫定;失其守者形色消沮,故辭屈抑不伸。卦爻雖賾,其辭不外此六者,吉凶悔吝皆可推求得之矣。此第十二章言爻象吉凶皆出於乾坤之易節【節:簡】,故功業可見,聖人之情著焉,應首章乾示人易、坤示人簡之意。

将に叛離せんとする人は言辞の裏に慚愧を帯び、心中疑惑の人は言辞は枝蔓して一ならず。吉善の人は言辞は簡少にして、躁急の人は言辞は繁多なり。善良を誣陷する人は言辞は游移し、操守を喪失する人は言辞は屈抑す。卦爻の間の感応は既に真情と虚偽とを分出し、而して卦爻の系する辞句を用いて人の情偽を説明するも、また一端を以て説き尽す能わず。将に叛離せんとする人は心に叵測を懐き、ただ人に識破せらるるを恐れ、ゆえに言辞は愧を含む。心中疑惑の人は是非を明白にせず、内に定見なく、ゆえに言辞は枝蔓す。吉善の人は恭敬謹慎にして、說話は簡要にして煩わず、ゆえに言辞は少なし。躁急の人は軽浮浅薄にして、口舌を以て人を壓す。ゆえに言辞は多し。善良を誣陷する人は出言に拠なく、ゆえに言辞は游移して定まらず。操守を喪失する人は神色沮喪し、ゆえに言辞は屈抑して伸展せず。卦爻は繁賾なりと雖も、系する辞は此の六種を出でず。吉凶悔吝は皆ここに由りて推求して得る可し。以上は第十二章、爻象の吉凶は皆乾坤の易簡より出づるを講ず(原書は「易節」と作るも、校語は「節」は「簡」と作るべきを指出す)。ゆえに功業は見る可く、聖人の情志もまた顕著にして、まさに首章の「乾は平易を以て人に示し、坤は簡約を以て人に示す」の意思と相呼応す。

易原 巻十五

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。

本巻は慧珠閣原本に依りて刊行す。撰者は岫巖人の多隆阿、字は雯溪。

説卦伝

《隋書》云:「秦焚書,《周易》獨以卜筮得存,惟失說卦三篇,宣帝時河內女子發老屋得之。」按今說卦只一篇,或曰序卦、雜卦兩傳分之為三篇,或曰說卦原有三篇,其二篇亡。以今考之,漢魏說易諸儒多有補象,則易傳亦或有遺文與?

『隋書』の記載、秦朝は書を焚き、『周易』は独り卜筮の書に属するに因りて保存を得、ただ『説卦』三篇を散失せり。漢宣帝の時に至り、河内に一女子あり、旧屋を拆开して始めて之を再発見せり。按ずるに、今伝わる『説卦』はただ一篇のみ。或る人は『序卦』『雑卦』の両伝を合わせて三篇に分けたると言い、或る人は『説卦』は元來三篇ありて其の二篇は亡佚したると言う。今日見る所を以て考察すれば、漢魏の際『易』を解説する諸家の学者は多く補出の卦象あれば、則ち『易伝』は或いは確かに散失の文字有らんか。

昔者聖人之作易也,幽贊於神明而生蓍,參天兩地而倚數,觀變於陰陽而立卦,發揮於剛柔而生爻,和順於道德而理於義,窮理盡性以至於命。贊,佐也。古者賓主相見必資贊者,言人不能顯與神明接,故用蓍隱以佐之。倚,依也。倚天地立數者,天圓數奇,地方數偶。畫卦以三起數,故三其三為天,兩其三為地;三三為九,故九為老陽數;二三為六,故六為老陰數;一三二二為七,二三一二為八,少陽少陰之數亦準此。

从前聖人は『易』を創作し、暗中に神明の贊助を得て蓍占を創出し、天数三・地数二を参取して筮数を確立し、陰陽の変化を観察して卦体を確立し、剛柔の作用を発揮して爻画を生出し、道と徳とに和順して義に条理し、事理を窮究し物性を尽顕して、以て天命に通達するに至り。「贊」は佐助なり。古時、賓主相見するは必ず「贊」礼の人に借助して旁より協助せしめ、ここは言う、人は公然と神明と交接する能わず、ゆえに蓍草を借りて暗中に佐助す。「倚」は依据なり。天地に依りて数を立つ。天体は圓にして其数は奇にして、地体は方にして其数は偶なり。卦を画くは三画を以て数を起す。ゆえに三個の三は天、両個の三は地なり。三三は九を得、ゆえに九は老陽の数なり。両個の三は六を得、ゆえに六は老陰の数なり。一個の三に両個の二を加えれば七を得、両個の三に一個の二を加えれば八を得、少陽・少陰の数もまた此に照りて推定す。

道謂陰陽之道,德謂剛柔之德,陰陽剛柔之宜謂之義,道德義之散見於物象而有條理者謂之理,理為人所稟受曰性,性所從出曰命。和順者,融合道德而無所拂也;理者,析義條目而無所紊也;窮者,究其極;盡者,體其全;至者,探其大原而造其域。

ここの「道」は陰陽の道を指し、「徳」は剛柔の徳を指す。陰陽剛柔は各々其の宜を得るを「義」と言う。道・徳・義は物象の中に散見して条理の尋ねる可き有るを「理」と言う。此の理は人の秉受する所と為るを「性」と言い、性の従りて出づる所を「命」と言う。いわゆる「和順」とは、道と徳とを融会貫通して毫も違逆なきなり。いわゆる「理」とは、義の条目を分析して毫も紊乱なきなり。いわゆる「窮」とは、其の極処に窮究するなり。いわゆる「尽」とは、其の全体を体認するなり。いわゆる「至」とは、其の本原に探りて其の境域に入るなり。

此言聖人作易以立筮法,用蓍尚占以通神明,倚天地以立老少陰陽之數,觀數之奇偶,分陰分陽以立卦象,掛揲歸扐,發揮其數,為柔為剛以生六爻。陰陽之道、剛柔之德,蓍則有以和順之;陰陽剛柔之義,蓍則有以理之;道德義見於物象者,蓍又有以窮之;道德義稟於人、出於天者,蓍皆有以盡之至之。蓍之精微蓋如此。

これは言う、聖人は『易』を作りて以て筮法を確立す。蓍草を用いて占問を崇尚し、従って神明に通ず。天地に依据して老陽・老陰・少陽・少陰の数を立つ。数の奇偶を観察して、陰陽を分出して卦象を確立す。挂一・揲四・帰奇・扐余の運算を経て、此の数を発揮して、柔爻剛爻を定めて、従って六爻を生成す。陰陽の道と剛柔の徳とは、蓍占は之を和順ならしむる能くす。陰陽剛柔各自の分際は、蓍占は之を条理分明ならしむる能くす。道・徳・義が物象の上に顕現するは、蓍占はまた之を窮究する能くす。道・徳・義は人に秉受せられ天に発源するは、蓍占は皆之を尽顕し之に抵达する能くす。蓍占の精微は、おそらく此の如し。

昔者聖人之作易也,將以順性命之理,是以立天之道曰陰與陽,立地之道曰柔與剛,立人之道曰仁與義,兼三才而兩之,故易六畫而成卦,分陰分陽,迭用柔剛,故易六位而成章。盡性至命皆本蓍筮,則是聖人作易實以順性命之條理也。以性命之蘊於天者言,陰與陽是也;以性命之成於地者言,柔與剛是也;以性命之具於人者言,仁與義是也。天地道道人道各有二德,故卦皆兼三才以成六畫。陰陽既分而剛柔亦迭用,陰位不必定以柔居,陽位不必定以剛居,六爻之位錯雜成章。剛柔之位迭用不窮,而陽剛陰柔在人為仁義者,其用亦無窮也。易言性命之理寓於蓍筮又如此。

从前聖人の『易』を創作するは、性と命との道理に順応せんと欲すればなり。ゆえに天の道を確立するを陰と陽とと言い、地の道を確立するを柔と剛とと言い、人の道を確立するを仁と義とと言う。三才を兼取して各々一倍を加えたれば、ゆえに『易』は六画を以て一卦を成す。陰位陽位を分出して、柔爻剛爻を交替使用せば、ゆえに『易』は六個の爻位を以て文章を成す。性を尽くし命に至るは皆蓍筮を以て根本と為す。見れば聖人が『易』を作るは実に性命の条理に順応せんがためなり。性命の天に蕴含するの一面に就いて言えば、すなわち陰と陽となり。性命の地に成形するの一面に就いて言えば、すなわち柔と剛となり。性命の人に具備するの一面に就いて言えば、すなわち仁と義となり。天道・地道・人道(原文は「天地道道人道」と作る)は各々両種の徳性あれば、ゆえに卦は皆三才を兼ねて六画を成す。陰陽は既に位を分かち、剛柔もまた交替して用い為す。陰位は必ずしも柔爻の居るに由らず、陽位は必ずしも剛爻の居るに由らず、六爻の位次は錯雑して文采を成す。剛柔の居位は交替して窮まらず、而して陽剛陰柔は人身の上に落實して仁と義と為りて、其の功用もまた無窮無尽なり。『易』の性命の理を講ずるは蓍筮の中に寄寓し、また此の如し。

天地定位,山澤通氣,雷風相薄,水火不相射,八卦相錯。數往者順,知來者逆,是故易逆數也。夫以六畫成卦,則是八卦皆重之矣。於是有不易之卦二,乾坤是也。乾天坤地,純陰純陽,闢卦消息皆蘊其中,故用之以定諸卦之位,所謂闢卦者有十。艮山以下二陰上消一陽,兌澤以下二陽上消一陰,則凡陽消之卦體皆象艮,陰消之卦體皆象兌,故曰通氣。震雷以下一陽上薄二陰,巽風以下一陰上薄二陽,薄者迫也,則凡陽息之卦體皆象震,陰息之卦體皆象巽,故曰相薄。

天と地とは上下の位を確定し、山と沢とは気息相通じ、雷と風とは互相迫近し、水と火とは相厭棄せず、八卦は互相交錯す。已往の事を推数するは順にして、将来の事を予知するは逆に推す。ゆえに『易』は逆推の数なり。既に六画を以て卦を成せば、則ち八卦は皆已に両両相重ねり。ここにおいて両個の不変の卦あり、すなわち乾と坤と。乾は天、坤は地、純陽純陰にして、辟卦の消長は皆其の中に蕴含す。ゆえにそれらを用いて各卦の位次を確定す。いわゆる辟卦は共に十卦あり。艮は山にして、下面の両陰は上より一陽を消去す。兑は沢にして、下面の両陽は上より一陰を消去す。凡そ陽消の卦に属するは卦体は皆艮に取象し、凡そ陰消の卦に属するは卦体は皆兑に取象す。ゆえに「通気」と言う。震は雷にして、下面の一陽は向上して両陰を迫近す。巽は風にして、下面の一陰は向上して両陽を迫近す。「薄」はすなわち迫近なり。凡そ陽息の卦に属するは卦体は皆震に取象し、凡そ陰息の卦に属するは卦体は皆巽に取象す。ゆえに「相薄」と言う。

至於坎水離火,陰陽居中,則上下不相入。鄭氏曰:「射,入也。」卦遇坎離,陰陽錯雜,既已群分,不能相類聚,則必用類聚之卦以為卦母,而往來推移以分之,始得卦義。凡此皆非具山澤風雷全象者,故曰八卦相錯。六十四卦已定,是謂既往;將來之物理含蘊於中,尚是未來。占者於既往之卦順以數之,即可逆知將來吉凶。易之為書教人知來,故曰易逆數也。

坎を水と為し離を火と為すに至りては、陽爻陰爻は各々中位に居りて、上下は則ち互不侵入す。鄭玄は言う、「射はすなわち入なり」。凡そ坎・離の両卦に遇うは、陰陽交錯雑陳して、既に各自分群して同類相聚まる能わざれば、必ず別に類聚の卦を用いて「卦母」と為し、往来推移を通じて之を分派して、始めて卦義を求得す。此らの情形は皆山沢風雷の完整の象を具備せざるなれば、ゆえに「八卦相錯」と言う。六十四卦は已に排定せり、これを「既往」と言う。将来の物理は其の中に蕴含して、いまだ「未来」に属す。占者は已定の卦に就いて順に推数せば、則ち逆推して将来の吉凶を予知する可し。『易』此の書は人に将来を予知せしむるを教うるなり。ゆえに「易逆数也」と言う。

雷以動之,風以散之,雨以潤之,日以烜之,艮以止之,兌以說之,乾以君之,坤以藏之。雷動風散,生息萬物,故體象震巽者為息卦;雨潤日烜,變化萬物,故體象坎離者為移卦;艮止兌說,收成萬物,故體象艮兌者為消卦;乾為萬物之始,象君,坤為萬物之母,象藏。乾坤二卦雖無推移,而諸消息皆出於此,故曰君、曰藏。《九家易》曰:「雷與風變化不常,而日月相推,迭有往來,是以四卦以義言之;天地山澤恆在者也,故直說名矣。」

雷は以て万物を鼓動し、風は以て万物を吹散し、雨は以て万物を滋潤し、日は以て万物を晒干し、艮は以て万物を止息し、兑は以て万物を悦怿し、乾は以て万物を統領し、坤は以て万物を收藏す。雷動風散して、万物を生長蕃息す。ゆえに卦体が震・巽に取象するは「息卦」に属す。雨潤日晒して、万物を変化す。ゆえに卦体が坎・離に取象するは「移卦」に属す。艮止兑悦して、万物を收成す。ゆえに卦体が艮・兑に取象するは「消卦」に属す。乾は万物の開端にして、君主を象徴す。坤は万物の母体にして、收藏を象徴す。乾坤の両卦は本身は推移せざるも、而して各種の消長は皆それらより生出す。ゆえに「君之」と言い「藏之」と言う。『九家易』は言う、(以下略)。

帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。萬物出乎震,震,東方也。齊乎巽,巽,東南也;齊也者,言萬物之潔齊也。離也者,明也,萬物皆相見,南方之卦也;聖人南面而聽天下,嚮明而治,蓋取諸此也。坤也者,地也,萬物皆致養焉,故曰致役乎坤。兌,正秋也,萬物之所說也,故曰說言乎兌。戰乎乾,乾,西北之卦也,言陰陽相薄也。坎者,水也,正北方之卦也,勞卦也,萬物之所歸也,故曰勞乎坎。艮,東北之卦也,萬物之所成終而所成始也,故曰成言乎艮。

帝は震より出乎、斉くは巽、相見するは離、致役するは坤、説言するは兑、戦うは乾、勞るは坎、成言するは艮。帝とはすなわち主宰にして、此の一段は八卦の方位を分配するを言う。震の位は東に在り、時は春に相当る。万物は震雷に震動せられて生ず。巽の位は東南に在り、陰気は内に伏して外に顕れず、万物は整斉して出でて相雑らず。離の位は南に在り、時は夏に相当る。万物は皆相見る。坤は地にして西南の位、万物は皆地の養育に致役せらる。兑は正秋にして、万物は成実して悦ばし。乾は西北にして、陰陽は此に於いて相薄して戦う。坎は正北にして水卦、万物は歸藏して勞む。艮は東北にして、万物は成終してまた成始を為す所なり。

六十四卦既有消息,而八卦循環亦有次序:震一、巽二、離三、坤四、兌五、乾六、坎七、艮八。震位正東,巽位東南,離位正南,坤位西南,兌位正西,乾位西北,坎位正北,艮位東北。鄭氏曰:「萬物出於震,雷發聲以生之也;齊於巽、相見於離,風搖動以齊之也,潔猶新也;萬物皆相見,日照之使光大;萬物皆致養焉,地氣含養使有秀實也;坤不言方者,言地之養物不專一也;萬物之所說,草木皆老,猶以兌澤氣說成之;戰,言陰陽相薄,西北陰也,而乾以純陽臨之,猶君臣對合也;坎,勞卦也,水性勞而不倦;萬物之所歸也,萬物自春出生於地,冬氣閉藏,還皆入地;萬物之所成終而所成始,言萬物陰氣終、陽氣始,皆艮之用事也。」

万物は震より出乎、震は東なり。巽に於いて斉く、巽は東南なり。斉といふは、万物の絜斉なるを言うなり。離なり、明なり、万物皆相見、南方の卦なり。聖人南面して天下を聽き、明に嚮て治む、蓋し此に取るなり。坤なり、地なり、万物皆養を致す、故に致役を坤と曰ふ。兑は正秋なり、万物の説く所なり、故に説言を兑と曰ふ。戦うは乾、西北の卦なり、陰陽相薄するを言うなり。坎なり、水なり、正北方の卦なり、勞卦なり、万物の歸する所なり、故に勞を坎と曰ふ。艮は東北の卦なり、万物の成終し而して成始する所なり、故に成言を艮と曰ふ。

神也者,妙萬物而為言者也。動萬物者莫疾乎雷,橈萬物者莫疾乎風,燥蓋【蓋:萬】物者莫熯乎火,說萬物者莫說乎澤,潤萬物者莫潤乎水,終萬物始萬物者莫盛乎艮。故水火相逮,雷風不相悖,山澤通氣,然後能變化,既成萬物也。

神とは、万物を妙めて言を為す者なり。万物を動かすは雷より疾き莫し、万物を橈かすは風より疾き莫し、万物を燥かすは火より熯き莫し、万物を説ばしむるは沢より説ぶ莫し、万物を潤かすは水より潤む莫し、万物を終始するは艮より盛き莫し。故に水火は相逮し、雷風は相悖せず、山沢は通気し、然る後能く変化を為して既に万物を成すなり。

以八卦之次序言之,則萬物出於震而終於艮;以八卦之功用言之,則萬物生於乾而成於坤。蓋萬物皆受氣於乾,天無跡象可名,無形色可指,此謂之神。至於生機已萌,震雷動之以鼓其蒙,巽風橈之以散其鬱,繼之以離火、兌澤、坎水以熯之、說之、潤之,乃歸根於艮,生機蘊藏,以成終而肇始。故坎離南北以相對相逮,震巽居東以相連不相悖,艮與兌位次相隔而其氣相通。六子各其能,然後變象化形於坤地之上。乾坤不明言者,六子有專能,皆天地之功也。

乾は健なり、坤は順なり、震は動なり、巽は入なり、坎は陷なり、離は麗なり、艮は止なり、兑は説なり。

乾,健也;坤,順也;震,動也;巽,入也;坎,陷也;離,麗也;艮,止也;兌,說也。以八卦之性情言之:乾體純剛,故曰健;坤體純柔,故曰順;震以一陽生於二陰之下,生機莫遏,故曰動;巽以一陰伏於二陽之下,伏藏不出,故曰入;坎之一陽沈溺陰中,故曰陷;離之一陰附居陽內,故曰麗;艮陽極上,前無可往,祇宜息足,故曰止;兌陰見上,其體雖剛,柔形於外,故曰說。

乾は健にして、坤は順にして、震は動にして、巽は入にして、坎は陷にして、離は麗にして、艮は止にして、兑は説なり。八卦の性情に就いて言えば、乾の卦体は純に剛爻なれば、ゆえに「健」と言う。坤の卦体は純に柔爻なれば、ゆえに「順」と言う。震は(以下略)。

乾為馬,坤為牛,震為龍,巽為雞,坎為豕,離為雉,艮為狗,兌為羊。以八卦之象於物者言之:馬剛而行健,氣稟純陽,故象乾;牛柔而性順,氣得純陰,故象坤;龍潛重陰之下,遇陽則動,故震象之;雞鳴盛陽之候,遇陰則伏,故巽象之;外汙濁而內剛躁,此豕象也,坎之卦畫似之;外文章而內柔怯,此雉象也,離之卦畫肖之;內柔媚而外剛能守,此具艮體,故狗為艮象;外柔悅而內剛好鬬,此具兌體,故羊為兌象。

乾は馬と為す、坤は牛と為す、震は龍と為す、巽は鶏と為す、坎は豕と為す、離は雉と為す、艮は狗と為す、兑は羊と為す。

乾為首,坤為腹,震為足,巽為股,坎為耳,離為目,艮為手,兌為口。以八卦之象於身者言之:首會眾陽,乾陽體實,故象首;腹納諸陰,坤陰體虛,故象腹;足在身下,其體動,震之一陽動於下,是足象;股居足上,其體隱,巽之一陰伏於下,是股象;陰竅外見,陽實內聰,為耳象,坎如之;陰虛內麗,陽光外明,為目象,離如之;艮上一陽為背,二陰垂下象手;兌下二陽為首,一陰上開象口。

乾は首と為す、坤は腹と為す、震は足と為す、巽は股と為す、坎は耳と為す、離は目と為す、艮は手と為す、兑は口と為す。

乾,天也,故稱乎父;坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男;巽一索而得女,故謂之長女;坎再索而得男,故謂之中男;離再索而得女,故謂之中女;艮三索而得男,故謂之少男;兌三索而得女,故謂之少女。以八卦之老少言之:乾天為萬物之始,故稱父;坤地為萬物之生,故稱母。索,求也,坤索乾陽得三男,乾索坤陰得三女。震曰長男,索乾初爻;坎曰中男,索乾中爻;艮曰少男,索乾上爻;巽曰長女,索坤初爻;離曰中女,索坤中爻;兌曰少女,索坤上爻。

乾は天なり、故に父と称し、坤は地なり、故に母と称す。震は一索して男を得、故に長男と謂ふ。巽は一索して女を得、故に長女と謂ふ。坎は再索して男を得、故に中男と謂ふ。離は再索して女を得、故に中女と謂ふ。艮は三索して男を得、故に少男と謂ふ。兑は三索して女を得、故に少女と謂ふ。

乾為天,為圜,為君,為父,為玉,為金,為寒,為冰,為大赤,為良馬,為老馬,為瘠馬,為駁馬,為木果。荀九家有為龍、為直、為衣、為言。虞氏有為王、為神、為人、為大人、為君子、為物、為立、為畏、為敬、為威、為嚴、為德、為善、為仁、為忿、為慶、為嘉、為福、為祿、為始、為盈、為肥、為好、為施、為治、為甲、為老、為宗、為族、為大明、為遠、為郊、為野、為門、為頂、為朱、為性、為精、為清。凡此逸象見於諸家注,故附錄於各卦後以備考焉。

乾は天と為り、圓と為り、君と為り、父と為り、玉と為り、金と為り、寒と為り、氷と為り、大赤と為り、良馬と為り、老馬と為り、瘠馬と為り、駮馬と為り、木果と為す。

此廣八卦之象也。乾象天,天體圜,天道至尊,君父似之;金玉之質皆剛;乾位西北嚴寒之地,寒凝水為冰;大赤,純陽色;馬善曰良馬,瘠多骨,駁馬有牙似鋸,能食虎豹,此皆象乾之剛健也。木果者,果核有仁,生機中藏,木之資始在此。

坤は地と為り、母と為り、布と為り、釜と為り、吝嗇と為り、均と為り、子母牛と為り、大輿と為り、文と為り、衆と為り、柄と為す。其の地に於いては則ち黒と為す。

坤為地,為母,為布,為釜,為吝嗇,為均,為子母牛,為大輿,為文,為眾,為柄,其於地也為黑。荀九家有為牝、為迷、為方、為囊、為裳、為黃、為帛、為漿。荀氏有為邑。虞氏有為臣、為民、為鬼、為身、為富、為財、為虛、為書、為思、為惡、為事、為業、為閉、為藏、為密、為亂、為死、為喪、為冥、為晦、為夕、為暮夜、為署、為乙、為闔戶、為土、為階、為田、為國、為邦、為器、為虎、為黃牛。干氏有為順。

震は雷と為り、龍と為り、玄黄と為り、旉と為り、大塗と為り、長子と為り、決躁と為り、蒼筤竹と為り、萑葦と為す。其の馬に於いては善鳴と為り、馵足と為り、作足と為り、的顙と為す。其の稼に於いては反生と為す。其の究に於いては健と為り、蕃鮮と為す。

坤象地,地為資生萬物之母。布者,績麻織成之物;釜,鐵器,化生為熟之物。坤地利人,衣食尤其大者,故曰布、曰釜。坤主翕聚,象吝嗇;地勢平曰均;坤順曰牛,坤母生子,故又象子母牛;大輿廣載,如地之能載萬物;地上物色各見,故曰文;眾,多也,坤畫六數,八卦畫數無有多於坤者;柄者,生物之本;黑,純陰色。

巽は木と為り、風と為り、長女と為り、繩直と為り、工と為り、白と為り、長と為り、高と為り、進退と為り、不果と為り、臭と為す。其の人に於いては寡髮と為り、広顙と為り、多白眼と為り、近利市三倍と為す。其の究に於いては躁卦と為す。

震為雷,為龍,為玄黃,為旉,為大塗,為長子,為決躁,為蒼筤竹,為萑葦;其於馬也,為善鳴,為馵足,為作足,為的顙;其於稼也,為反生;其究為健,為蕃鮮。京氏有為鳴鶴。荀九家有為玉、為鵠、為鼓。鄭氏有為日門。虞氏有為帝、為主、為諸侯、為兄、為夫、為趾、為出、為行、為徵、為作、為驚走、為言、為議、為聲、為音、為鳴、為應、為禾稼、為百穀、為樂、為喜笑、為筐、為麋鹿。蜀才有為喜樂。《國語》韋氏注有為車。

坎は水と為り、溝瀆と為り、隠伏と為り、矯輮と為り、弓輪と為す。其の人に於いては加憂と為り、心病と為り、耳痛と為り、血卦と為り、赤と為す。其の馬に於いては美脊と為り、亟心と為り、下首と為り、薄蹄と為り、曳と為す。其の輿に於いては多眚と為す。通と為り、月と為り、盗と為す。其の木に於いては堅多心と為す。

震之象為雷,震德動也。龍為動物,乾純陽為龍,震得乾初亦為龍。坤索乾初為震,天地之色至此始雜,元,天之色;黃,地之色。震上二陰如花之萼,下一陽如花之跗,故有旉象。王氏曰:「旉,花之通名。」大塗者,一陽欲行,兩偶開通,如平塗然。震為長男,曰長子。震陽上息,剛決而躁。蒼,東方色,東方木位,筤竹萑葦皆木類。震得乾之初陽,故亦為馬;震雷有聲,故馬善鳴。馬後足白曰馵,馬足舉行曰作,的,白也,的顙,馬之白顛者;震體陰陽相雜,故為馬色皆不純。反生者,禾種入土反動上生。宋氏曰:「即枲豆之屬帶甲生者。」震一陽反生於下似之。究,極也,震陽下息,得乾之健;草木滋盛曰蕃,草木懷新曰鮮。

離は火と為り、日と為り、電と為り、中女と為り、甲冑と為り、戈兵と為す。其の人に於いては大腹と為す。乾卦と為り、鱉と為り、蟹と為り、蠃と為り、蚌と為り、龜と為す。其の木に於いては科上槁と為す。

巽為木,為風,為長女,為繩直,為工,為白,為長,為高,為進退,為不果,為臭;其於人也,為寡髮,為廣顙,為多白眼,為近利市三倍;其究為躁卦。荀九家有為楊、為鸛。虞氏有為命令、為號令、為教令、為誥、為號咷、為婦、為妻、為商旅、為隨、為入、為伏、為利、為茅、為蘭、為草木、為杞、為舞、為葛藟、為庸、為床、為魚、為鮒。

艮は山と為り、径路と為り、小石と為り、門闕と為り、果蓏と為り、閽寺と為り、指と為り、狗と為り、鼠と為り、黔喙之屬と為す。其の木に於いては堅多節と為す。

巽位居木,木屬風。乾索坤初為女,故曰長。巽主齊物,故為繩直,為工。陽白陰黑,巽之一陰下伏,二陽外見,故色曰白。陽大陰小,巽之二陽上著,故為長、為高。巽股隨足,巽陰柔順,故為進退、不果。臭,氣也,氣亦風類,陽為氣,巽陽見曰氣。髮者陰血所生,巽氣未行至上,故髮寡;廣顙謂陽盛於上;多白眼謂陽多於陰。陰主利,巽陰方息,故近利市三倍。物息則性多躁,震以陽息曰決躁,巽陰息曰躁卦,不曰決也。

巽の方位は木に属し、而して木はまた風と相属す。乾は坤に向いて初爻を求取して女を得たれば、ゆえに「長女」と称す。巽は万物を整斉することを主る。ゆえに繩墨の直・工匠を取象と為す。陽の色は白、陰の色は黒にして、巽の一陰は下面に伏し、両陽は外に顕現す。ゆえに顔色は白と為る。陽は大、陰は小にして、巽の両陽は上に附着す。ゆえに長と為り高と為る。巽は大腿にして、足に随いて動く。巽の性は陰柔にして順従す。ゆえに進退不定・猶豫不決と為る。「臭」はすなわち気味にして、気もまた風の類に属す。陽は気にして、巽の陽は外に顕る。ゆえに気と称す。頭髮は陰血の生ずる所にして、巽の気はいまだ頂に上行する能わず。ゆえに頭髮は稀疏なり。「広顙」は言う、陽は上に盛んなり。「多白眼」は言う、陽は陰より多し。陰は利を主り、巽の陰気は正に生長す。ゆえに能く近く利を求めて三倍の利を得。事物は生長して盛に過ぐれば則ち性情は躁を多し。震は陽気を以て生長して「決躁」と言い、巽は陰気を以て生長してただ「躁卦」と言い、「決」と称せず。

坎為水,為溝瀆,為隱伏,為矯輮,為弓輪;其於人也,為加憂,為心病,為耳痛,為血卦,為赤;其於馬也,為美脊,為亟心,為下首,為薄蹄,為曳;其於輿也,為多眚;為通,為月,為盜;其於木也,為堅多心。荀九家有為宮、為律、為可、為棟、為叢棘、為狐、為蒺藜、為桎梏。荀氏有為志。鄭氏有為鬼神。虞氏有為雲、為大川、為心、為慮、為謀、為惕、為恤、為疑、為蹇、為眚、為疾、為災、為罪、為孚、為罰、為獄、為臀、為膏、為酒、為穿木、為校、為弧、為車、為馬、為毒。干氏有為法、為夜。《左氏傳》杜注有為眾。

坎は象を取りて水と為り、溝渠と為り、隠伏と為り、曲がれるを直くし直きを曲ぐるの矯揉と為り、弓と車輪と為す。人に就いて言えば、憂慮の身に加わると為り、心病と為り、耳痛と為り、血を主る卦と為り、紅色と為る。馬に就いて言えば、脊背の健美なる馬と為り、性の急なる馬と為り、頭を低れる馬と為り、蹄の薄き馬と為り、拖曳して行き難き馬と為る。車に就いて言えば、災禍多しと為る。また流通と為り、月と為り、盗賊と為る。木に就いて言えば、堅硬にして木心多き樹と為る。『荀氏九家易』は別に宮室と為り、律と為り、可と為り、棟と為り、叢棘と為り、狐と為り、蒺藜と為り、脚鐐手銬と為る有り。荀爽は別に志と為る有り。鄭玄は別に鬼神と為る有り。虞翻は別に雲と為り、大川と為り、心と為り、慮と為り、謀と為り、惕と為り、恤と為り、疑と為り、蹇と為り、眚と為り、疾と為り、災と為り、罪と為り、孚と為り、罰と為り、獄と為り、臀と為り、膏と為り、酒と為り、穿木と為り、枷と為り、弧と為り、車と為り、馬と為り、毒と為る有り。干宝は別に法と為り、夜と為る有り。『左伝』杜預注は別に衆と為る有り。

坎象水,溝瀆皆水名。一陽居中,外陰蔽之,故為隱伏。宋氏曰:「曲者更直為矯,直者更曲為輮。」水流有曲直,故為矯輮;弓形曲,輪體圓,此皆由矯輮成者。坎德陷,象險象憂;坎體中實象心,坎外有竅象耳,曰病曰痛皆陷義也。血陰類,陽赤為水,血象赤,陽中色。坎得乾中,故亦為馬:陽為美,陽中為脊;亟,急也,坎心內實,故曰亟心;陽為首,坎水就下,故曰下首;馬蹄宜堅,坎外為陰,故蹄薄;曳者,牽曳不速進也,坎則陰見陽伏,柔不勝剛,故曳。坤索乾中為坎,坤輿之方加以乾圓,軫方蓋圓之象;坎陷,故多眚。通者,水性流也;月者,水之精;盜者,隱伏而險陷人者也;坎內陽剛,象堅心之木。

坎は水を象徴し、溝と渠とは皆水の名目なり。一陽は中に居り、外面の両陰はそれを遮蔽す。ゆえに隠伏と為る。宋衷は言う、「彎曲するを直くするを『矯』と言い、筆直するを彎ぐるを『輮』と言う」。水流は曲有り直有れば、ゆえに矯輮と為る。弓の形状は彎にして、車輪の形体は圓なり。これは皆矯輮を以て作り成さるるなり。坎の徳性は陷にして、ゆえに険を象り憂を象る。坎の卦体は中間充実して、心に像す。坎の外面は孔竅ありて、耳に像す。「心病」と言い「耳痛」と言うは、皆陷落の義を取る。血は陰類に属し、而して陽の色は赤、坎はまた水と為り、血の色は赤にして、まさに陽の中に居るの色なり。坎は乾の中爻を得たれば、ゆえにまた馬を取象と為す。陽は美にして、陽は中に居れば脊背に像す。「亟」は急にして、坎の中心は充実す。ゆえに「亟心」と言う。陽は首にして、而して坎の水は下に趨る。ゆえに「下首」と言う。馬蹄は本と堅厚なるべきも、坎の外爻は陰なれば、ゆえに蹄は薄し。「曳」は拖曳して快走する能わざるなり。坎は陰の外に顕れ陽の内に伏すにして、柔は剛に勝ち過ぐる能わず。ゆえに拖曳す。坤は乾に向いて中爻を求取して坎を成し、坤は車輿と為り其の形は方にして、乾の圓を加えれば、まさに車廂は方にして車蓋は圓の象なり。坎は陷落を主る。ゆえに災眚多し。「通」は水性の流動なり。「月」は水の精華なり。「盗」は隠伏して暗中に人を陷害するなり。坎の内裏は陽剛なれば、ゆえに木心堅硬の樹を象る。

離為火,為日,為電,為中女,為甲冑,為戈兵;其於人也,為大腹;為乾卦,為鱉,為蟹,為蠃,為蚌,為龜;其於木也,為科上槁。荀九家有為牝牛,又有為飛鴻。王氏、馬氏有為矢。虞氏有為婦、為孕、為飛、為戎、為折首、為罔、為罟、為甕、為瓶、為鶴、為隼、為鴻。干氏有為畫、為斧。

離は象を取りて火と為り、日と為り、電と為り、中女と為り、鎧甲頭盔と為り、戈矛兵器と為す。人に就いて言えば、大肚子と為る。また乾燥の卦と為り、鱉と為り、蟹と為り、螺と為り、蚌と為り、龜と為る。木に就いて言えば、樹心は中空にして上部は枯槁する木と為る。『荀氏九家易』は別に母牛と為り、また飛鴻と為る有り。王肅・馬融は別に箭矢と為る有り。虞翻は別に婦と為り、孕と為り、飛と為り、兵戎と為り、折首と為り、網と為り、罟と為り、瓮と為り、瓶と為り、鶴と為り、隼と為り、鴻と為る有り。干宝は別に画と為り、斧と為る有り。此らの逸象は多く離の光明附麗・外剛内柔の義を取る。「折首」と為るは離の戈兵と為るを取り、「為罔」「為罟」は網目の相附麗の象を取り、「為瓮」「為瓶」は外堅にして中空を取る。

離象火,居火位。日者,火之精;電亦火屬。乾索坤中為離,故曰中女。甲冑戈兵皆堅外以禦侮者,離之內柔外剛似之。離體中虛,象大腹;離火躁物,故曰乾卦。鱉、蟹、蠃、蚌、龜皆外堅內柔之物。科,空也,木枝內空,上多枯槁。

離は火を象徴し、方位は火位に居る。太陽は火の精華にして、電もまた火類に属す。乾は坤に向いて中爻を求取して離を成せば、ゆえに「中女」と称す。鎧甲頭盔・戈矛兵器は皆外殻堅硬にして以て外侮を抵禦するにして、離卦は内柔にして外剛、まさに之と相似たり。離の卦体は中間虚空なれば、ゆえに大肚子を象る。離火は物を乾燥ならしむれば、ゆえに「乾卦」と称す。鱉・蟹・螺・蚌・龜は皆外殻堅硬にして内裏柔軟の物なり。「科」は空にして、樹枝の内裏は空せば、上端は則ち多半枯槁す。

艮為山,為徑路,為小石,為門闕,為果蓏,為閽寺,為指,為狗,為鼠,為黔喙之屬;其於木也,為堅多節。荀九家有為鼻、為虎、為狐。鄭氏有為鬼冥門。虞氏有為小人、為童、為僮僕、為星、為霆、為待、為執、為厚、為城、為門庭、為廬、為居、為宗廟、為社稷、為肱、為背、為皮、為膚、為小木、為碩果、為小狐、為尾。《左氏傳》杜注有為石言。

艮は象を取りて山と為り、小路と為り、小石と為り、門闕と為り、樹上の果と地上の瓜と為り、門を守る閽人と内廷の寺人と為り、手指と為り、狗と為り、鼠と為り、黑嘴の禽獣の類と為す。木に就いて言えば、堅硬にして節多き樹と為る。『荀氏九家易』は別に鼻と為り、虎と為り、狐と為る有り。鄭玄は別に鬼冥の門と為る有り。虞翻は別に小人と為り、童子と為り、僮僕と為り、星と為り、雷霆と為り、等待と為り、執持と為り、厚と為り、城と為り、門庭と為り、廬舍と為り、居処と為り、宗廟と為り、社稷と為り、臂と為り、背と為り、皮と為り、膚と為り、小樹と為り、大果と為り、小狐と為り、尾と為る有り。『左伝』杜預注は別に「石の言」と為る一象有り。

艮象山,山路僻狹,故曰徑;山多石,艮小,故曰小石。兩扉相對曰門,門之兩旁曰闕,艮體一陽上崇,二陰下闢,如門闕然。木實曰果,草實曰蓏。宋氏曰:「閽人主門,寺人主巷。」艮德為止,閽寺皆職掌門闕、禁止外侮者。艮為手,故曰指。狗鼠皆獸名,能以齒齧物,艮陽居上,陽剛在首,象狗鼠。黔,黑色,禽獸之喙多剛,曰黔喙之屬者,亦取艮陽在上之義。艮位東北寅木之地,外剛,故堅多節。

艮は山を象徴す。山路は偏僻狭窄なれば、ゆえに「径路」と言う。山上は石多くして、而して艮は小と為れば、ゆえに「小石」と言う。両扇の門板は相対するを「門」と言い、門の两旁を「闕」と言う。艮の卦体は一陽は高居して上に在り、両陰は下に向いて開張す。まさに門闕の様子に像たり。樹上に結ぶ実を「果」と言い、草上に結ぶ実を「蓏」と言う。宋衷は言う、「閽人は門戸を掌管し、寺人は宮巷を掌管す」。艮の徳性は止にして、閽人・寺人は皆職として門闕を掌り外侮を禁絶する人なり。艮は手と為れば、ゆえに「指」と言う。狗と鼠とは皆獣名にして、能く牙歯を以て物を啃咬す。艮の陽爻は上に居り、陽剛は頭部に在れば、ゆえに狗・鼠を象る。「黔」は黒色にして、禽獣の喙は多半剛硬なり。「黔喙之屬」と言うは、亦た艮の陽の上に居るの意思を取るなり。艮の位は東北に在り、寅木の地に属し、外爻は剛実なれば、ゆえに堅硬多節の木と為る。

兌為澤,為少女,為巫,為口舌,為毀折,為附決;其於地也,為剛滷;為妾,為羊。荀九家有為常、為輔頰。虞氏有為妹、為朋友、為講習、為刑人、為小、為契。兌象澤。陰為水,坎水外見為流,兌下堅剛,水止於上,故曰澤。乾索坤上爻為女,故曰少。巫,口舌之官,兌體上缺,象口舌。兌於時為秋,氣肅殺物,故曰毀折。兌之二陽上息,決去一陰,故曰附決。地積鹽水曰滷,鹵地堅曰剛滷;澤為止水,水死昧咸,不能下潤,兌體下實,不能下瀉,故有剛滷之象。女小為娣曰妾,內剛外柔曰羊。

兑は象を取りて沢と為り、少女と為り、巫祝と為り、口舌と為り、毁折と為り、依附して决去すると為る。地に就いて言えば、堅硬の鹽鹼地と為る。また妾と為り、羊と為る。『荀氏九家易』は別に常と為り、面頰と為る有り。虞翻は別に妹と為り、朋友と為り、講習と為り、刑を受くる人と為り、小と為り、契約と為る有り。兑は沢を象徴す。陰は水にして、坎水は外に顕露すれば便ち流水を成す。兑の下面の両爻は堅実剛硬にして、水は上面に停蓄す。ゆえに「沢」と言う。乾は坤に向いて上爻を求取して女を得たれば、ゆえに「少女」と称す。巫は口舌を以て神に事うるの職事にして、兑の卦体は上面缺口ありて、まさに口舌に像たり。兑は時令の上に於いて秋に属し、秋気は万物を肅殺す。ゆえに「毁折」と言う。兑の両陽は上に向いて生長し、上面の一陰を决去す。ゆえに「附决」と言う。地面に鹽水を積聚するを「鹵」と言い、鹵地は板結堅硬するを「剛鹵」と言う。沢は流れざる止水にして、水は死して味鹹く、下に浸潤する能わず。兑の卦体は下面充実にして、水は下泄する能わず。ゆえに「剛鹵」の象あり。女子の中に年幼にして娣と為るを「妾」と言い、内裏剛強にして外表柔順なるを「羊」と言う。

序卦伝

序者,釋文王演易之序也。文王序卦之法有二,曰變,曰覆。覆卦五十有五,如屯、蒙、需、訟諸卦皆是;變卦維八,乾、坤、坎、離、頤、大過、中孚、小過是也。上經以乾坤始,以坎離終,皆變卦;下經以咸恆始,以既濟未濟終,皆覆卦。上經多言天道,下經多言人事。孔子依其次序分疏之,聯屬成文,而盈虛消長之幾、治亂興衰之理無不畢具,於以見易道至大,觸類引伸,無在不可會心云爾。

「序」は文王が『周易』を推演する時に卦序を排列したるの用意を解釈す。文王の卦序を排定するの方法は両種あり。一を「変」と言い(両卦の爻画相反)、一を「覆」と言い(両卦の上下顛倒)。覆卦に属するは五十五卦ありて、『屯』『蒙』『需』『訟』等のごとし。変卦に属するはただ八卦のみ、すなわち『乾』『坤』『坎』『離』『頤』『大過』『中孚』『小過』。上経は乾坤を以て始め坎離を以て終わるは、皆変卦なり。下経は咸恒を以て始め既済未済を以て終わるは、皆覆卦なり。上経は多く天道を講じ、下経は多く人事を講ず。孔子は此の次序に依照して逐一に疏解し、連綴して文を成せば、而して盈虚消長の机微・治乱興衰の道理は、其の中に完备せざるなし。これに由りて見れば『易』の道は至極広大にして、類に触れて旁通し引申推衍して、心領神会す可からざる処なし。

有天地然後萬物生焉,盈天地之間者唯萬物,故受之以屯。屯者,盈也;屯者,物之始生也。天地即乾坤,萬物受氣於天,成形於地,當時始生,則已充塞於天地之間矣。屯者盈也,言萬物始生,天地之間無非物也。

天地有りて然る後に万物は始めて生出す。天地の間に充満するはただ万物のみ。ゆえに『乾』『坤』の後に接ぐるは『屯』卦なり。「屯」は充盈の義にして、「屯」はまた万物の生長を始むるを指す。天地はすなわち乾坤両卦なり。万物は天より気を禀受し、地上に於いて形を成し、それらの初生の時に当たりて、已に天地の間に充塞せり。「屯者盈也」と言うは、万物の生長を始むるを講じ、天地の間に物ならざる処なし。

物生必蒙,故受之以蒙。蒙者,蒙也,物之稺也。物稺不可不養也,故受之以需。需者,飲食之道也。鄭氏曰:「蒙,幼小之貌,孩稺不養則不長也。」荀氏曰:「需,坎在乾上,中有離象,水火交合,故為飲食之道也。」飲食必有訟,故受之以訟。訟必有眾起,故受之以師。師者,眾也。眾必有所比,故受之以比。比者,比也。鄭氏曰:「訟猶爭也,言飲食之會恆多爭也。」爭則人眾,人之眾多莫如師,師惟親比始克長聚而不散。

万物の初生は必ず蒙昧なれば、ゆえに接ぐるは『蒙』卦なり。「蒙」はすなわち蒙昧にして、万物の幼稚の時を指す。幼稚なれば則ち養育を加えざる可からず。ゆえに接ぐるは『需』卦なり。「需」は飲食の道なり。鄭玄は言う、「蒙は幼小の様にして、孩童幼稚なれば、養育せざれば長大せず」。荀爽は言う、「『需』卦は坎は乾の上に在り、中間に離の卦象を含有す。水火交合せば、ゆえに飲食の道なり」。飲食の事有れば必ず争訟を引起す。ゆえに接ぐるは『訟』卦なり。争訟は必ず衆人の興起有り。ゆえに接ぐるは『師』卦なり。「師」は衆多なり。衆人は必ず親附する所有り。ゆえに接ぐるは『比』卦なり。「比」はすなわち親附なり。鄭玄は言う、「訟は争のごとく、飲食の聚会は常に争執多しを言う」。争執有れば則ち人衆を聚集し、人衆の多きは軍旅に比ぶるなし。而して軍旅はただ彼此親附する有りて、始めて能く長久に聚合して涣散せざるを得。

比必有所畜,故受之以小畜。物畜然後有禮,故受之以履。履而泰然後安,故受之以泰。泰者,通也。眾相親比則各有所止,人各知止則不越禮以履,惟履泰然後乃安,不然則窒塞不通矣。物不可以終通,故受之以否。物不可以終否,故受之以同人。以人事言,則履固欲其安;以天運言,則時不必長泰。蓋有通必有塞,而欲治否,惟眾人同心乃克濟也。

相親相附すれば必ず積蓄する所有り。ゆえに接ぐるは『小畜』卦なり。事物に積蓄有りて然る後に礼有り。ゆえに接ぐるは『履』卦なり。礼を践行して通泰して、然る後に安定す。ゆえに接ぐるは『泰』卦なり。「泰」はすなわち通達なり。衆人は互相親附すれば、則ち各々帰止する所有り。人人は止まる所を知れば、則ち礼度を越出して行事せざるなり。ただ安泰を践行して然る後に安寧あり、然らざれば則ち窒塞して通ぜず。事物は永遠に通達する能わざれば、ゆえに接ぐるは『否』卦なり。事物もまた永遠に閉塞する能わざれば、ゆえに接ぐるは『同人』卦なり。人事に就いて言えば、践履は本と安寧を求得せんと欲す。天運に就いて言えば、時勢は未だ必ず長久安泰ならず。通有れば必ず塞あり、而して閉塞の局面を挽救するは、ただ衆人同心のみ能く成す。

與人同者,物必歸焉,故受之以大有。有大者不可以盈,故受之以謙。有大而能謙必豫,故受之以豫。物歸則大有,有大則過盈,而持盈莫如謙,惟謙則有可保,能長享其有而悅豫矣。豫必有隨,故受之以隨。以喜隨人者必有事,故受之以蠱。蠱者,事也。有事而後可大,故受之以臨。臨者,大也。鄭氏曰:「喜樂而出人,則隨從。」夫以惕厲隨人,則思患預防,庶可以久安而長治;至以喜悅隨人,則般樂怠敖,庶務廢弛,儻欲有以振興之,事業從此生,大業亦從此起,故曰蠱者事也、臨者大也。臨曰大者,陽息至二,陽大也。

能く人と和同するは、万物は必ず之に帰附す。ゆえに接ぐるは『大有』卦なり。広大を擁有するは自満す可からず。ゆえに接ぐるは『謙』卦なり。広大を擁有してまた能く謙退すれば、必ず安楽す。ゆえに接ぐるは『豫』卦なり。万物は帰附すれば則ち大有と為り、広大を擁有すれば則ち盈満に過ぐること易し。而して盈満を守住するは謙より良きなく、ただ謙退あるのみ、所有するは始めて保住し得て、能く長久に享有して心に悦楽を懐く。安楽すれば必ず追随する人有り。ゆえに接ぐるは『随』卦なり。喜悅に因りて别人に追随するは、必ず事端を生出す。ゆえに接ぐるは『蠱』卦なり。「蠱」はすなわち事なり。事有りて然る後に做大す可し。ゆえに接ぐるは『臨』卦なり。「臨」は大なり。鄭玄は言う、「喜楽に因りて常人を超出すれば、人々は来りて随従す」。大凡警愓憂懼の心を以て人に追随せば、則ち能く患を思いて預防して、或いは久安長治す可し。至りて喜悅逸楽を以て人に追随せば、則ち享楽に耽り怠惰傲慢して、各種の事務は因りて廃弛す。倘若之を振興せんと欲せば、事端は則ちここより生じ、大の事業もまたここより興起す。ゆえに「蠱者事也」「臨者大也」と言う。『臨』の「大」と称する所以は、陽気は第二爻に生長して、陽は大と為るを以てなり。

物大然後可觀,故受之以觀。可觀而後有所合,故受之以噬嗑。嗑者,合也。物不可以苟合而已,故受之以賁。賁者,飾也。陽大陰小,陽長於下為大,陽位於上亦謂之大。物大則動人景仰,景仰者眾,其情相合。合以質野為苟合,故宜賁飾以禮文也。

事物は盛大にして然る後に瞻仰す可し。ゆえに接ぐるは『観』卦なり。瞻仰す可ければ然る後に会合する所有り。ゆえに接ぐるは『噬嗑』卦なり。「嗑」はすなわち合なり。事物はただ随合凑合するのみに可ならず。ゆえに接ぐるは『賁』卦なり。「賁」は文飾なり。陽は大、陰は小にして、陽は下より自ら生長するを大と言い、陽は上位に居るをも大と言う。事物は盛大すれば則ち人をして景仰せしめ、景仰する人の多ければ、情意は自然相合す。若しただ質朴粗野を以て相合せば、則ちそれは苟且の結合なり。ゆえに当に礼儀文采を以て之を修飾すべし。

致飾然後亨則盡矣,故受之以剝。剝者,剝也。物不可以終盡,剝窮上反下,故受之以復。賁飾所以為文,然文偏勝,至於滅質,則文不可行。亨盡則剝,剝盡則窮,窮極則反,反下為復。復則不妄矣,故受之以無妄。有無妄然後可畜,故受之以大畜。物畜然後可養,故受之以頤。頤者,養也。不養則不可動,故受之以大過。陽復於初,天心甫見,妄念不生,而後其德可積。積畜者久,則所畜者大,是畜德則宜無妄,而畜物則宜頤養。靜養以待動,行大過之事克勝任也。

文飾は極処に到れば、亨通もまた窮尽す。ゆえに接ぐるは『剥』卦なり。「剥」はすなわち剥落なり。事物は終帰滅尽する能わざれば、剥落して上爻に窮極すれば則ち下位に返回す。ゆえに接ぐるは『復』卦なり。文飾は以て文采を成就せんがためなれど、然れども文采は偏勝して、以て本質を淹滅するに至れば、あの文采は則ち行けざるなり。亨通は尽頭に到れば則ち剥落し、剥落は尽頭に到れば則ち窮困し、窮極すれば則ち返回し、下位に返回到るは則ち『復』なり。本原に返回すれば則ち虚妄ならず。ゆえに接ぐるは『无妄』卦なり。不虚妄有りて然る後に始めて積蓄す可し。ゆえに接ぐるは『大畜』卦なり。事物は積蓄した後に然る後に養育す可し。ゆえに接ぐるは『頤』卦なり。「頤」は養なり。養育を加えざれば則ち行動有る能わず。ゆえに接ぐるは『大過』卦なり。陽気は初爻に返回し、天地の生物の心は剛に顕現して、妄念は生ぜず。然る後に徳行は積累す可し。積蓄すること久しければ、蓄する所のものは大なり。見れば徳行を蓄養するは当に无妄なるべく、而して財物を蓄積するは則ち当に頤養なるべし。静かに涵養して以て行動を待ち、寻常を超越する大事を做して、始めて能く胜任す。

物不可以終過,故受之以坎。坎者,陷也。陷必有所麗,故受之以離。離者,麗也。大過之時,行大過之事,是人慾以力勝天,而天意未遽回,人亦為天所困,不可以終過,往往涉險以致陷。既陷於坎中,必有所附麗,始克出險,故坎陷之下次離麗也。

事物は永遠に過越する能わざれば、ゆえに接ぐるは『坎』卦なり。「坎」は陷落なり。陷落の後は必ず依附する所有り。ゆえに接ぐるは『離』卦なり。「離」は附麗なり。大過の時に寻常を超越する大事を做すは、これは人が人力を以て天時に勝たんと欲するなり。而して天意は驟然と転回せず、人もまた天に困せられて、一味に過越し続くる能わず。往往として険に渉るに因りて陷落を致す。既に坎険の中に陷りたれば、必ず依附する所有りて、始めて能く険境を脱出す。ゆえに『坎』の陷落の後は、接ぐるは則ち『離』の附麗なり。

有天地然後有萬物,有萬物然後有男女,有男女然後有夫婦,有夫婦然後有父子,有父子然後有君臣,有君臣然後有上下,有上下然後禮義有所錯。夫婦之道不可以不久也,故受之以恆。恆者,久也。干氏曰:「錯,施也。」此詳言人道三剛六紀有自來也。人有男女陰陽之性,則自然有夫婦配合之道;有夫婦配合之道,則自然有剛柔尊卑之義;陰陽化生,血體相傳,則自然有父子之親;以父立君,以子資臣,則必有君臣之位;有君臣之位,故有上下之序;有上下之序,則必禮以定其體,義以制其宜,明先王制作蓋取之於情者也。

天地有りて然る後に万物有り、万物有りて然る後に男女有り、男女有りて然る後に夫妻有り、夫妻有りて然る後に父子有り、父子有りて然る後に君臣有り、君臣有りて然る後に上下の分有り、上下の分有りて然る後に礼義は施す地有り。夫妻の道は長久ならざる可からず。ゆえに接ぐるは『恒』卦なり。「恒」は長久なり。干宝は言う、「錯とはすなわち施行なり」。これは詳細に人道の中の三綱六紀(原文は「三剛六紀」と作る)の由来を説明す。人は男女陰陽の天性ありて、自然に夫妻配合の道あり。夫妻配合の道有れば、自然に剛柔尊卑の名分あり。陰陽は化育生養して、血脈形体は代代相伝すれば、自然に父子の親情あり。父の地位より推立して君を出だし、子の地位より取資して臣と為せば、則ち必ず君臣の名位あり。君臣の名位有れば、ゆえに上下の次序あり。上下の次序有れば、則ち必ず礼を用いて其の体統を確定し、義を用いて其の分寸を裁制す。見れば先王の種種の制作は、原と人情より取来せるなり。

上經始於乾坤,有生之本也;下經始於咸恆,人道之首也。易之興也,當殷之末世有妲己之禍,當周之盛德有三母之功,以言天不地不生、夫不婦不成,相須之至,王教之端。故詩於關睢為國風之始,而易於咸恆備論禮義所由生也。

上経は乾坤より始まるは、あれは万物化生の根本なり。下経は咸恒より始まるは、あれは人倫の道の開端なり。『易』の興起する時は、正に殷商の末世に妲己の招致する禍乱あり、また正に周家の徳業は方に盛んにして太姜・太任・太姒の三位の賢母の功績あるに当たり、用いて天は地なければ生育する能わず、丈夫は妻子なければ成家する能わざるを説明す。両者は相互依待して極処に至り、これはまさに王道教化の開端なり。ゆえに『詩経』は『関雎』を『国風』の首に列し、而して『易』は『咸』『恒』両卦に於いて礼義の生ずる所以を詳論す。

物不可以久居其所,故受之以遯。遯者,退也。物不可以終遯,故受之以大壯。物不可以終壯,故受之以晉。晉者,進也。物有恆則必盛,盛不可以久居,是宜退守,退守則安,安則壯,壯則有為前進也。進必有所傷,故受之以明夷。夷者,傷也。傷於外者必反其家,故受之以家人。家道窮必乖,故受之以睽。睽者,乖也。《九家易》曰:「日在坤下,其明傷也。言進極當降,復入於地,故曰明夷也。」外為傷迫,返家乃安,而家道際其窮,則亦不和而乖違。

事物は長久に原処に居守する能わざれば、ゆえに接ぐるは『遯』卦なり。「遯」は退避なり。事物は一味に退避する能わざれば、ゆえに接ぐるは『大壮』卦なり。事物は一味に強壮する能わざれば、ゆえに接ぐるは『晋』卦なり。「晋」は前進なり。事物は恒久の徳有れば必ず興盛し、興盛の後は久しく其の位に居る可からざれば、則ち当に退守すべし。退守すれば則ち安穏にして、安穏なれば則ち強壮にして、強壮なれば則ち作為有りて向前進取す。前進は必ず損傷する所有り。ゆえに接ぐるは『明夷』卦なり。「夷」は損傷なり。外に於いて傷を受くる人は必ず己の家に返回す。ゆえに接ぐるは『家人』卦なり。家道は窮尽の処に到れば必ず乖違す。ゆえに接ぐるは『睽』卦なり。「睽」は乖離なり。『九家易』は言う、「太陽は坤地の下に在りて、其の光明は傷を受く。これは言う、前進は極処に到れば則ち下降すべく、重ねて地中に没入す。ゆえに『明夷』と言う」。外に於いて傷害逼迫せられ、家中に帰到して始めて安寧を得。而して家道は一旦窮極の時に到れば、亦た不和睦にして乖離す。

乖必有難,故受之以蹇。蹇者,難也。物不可以終難,故受之以解。解者,緩也。睽則賊恩,故有險難;蹇難宜解,而難解之餘,漸忘戒懼,則流於緩弛矣。緩必有所失,故受之以損。損而不已必益,故受之以益。益而不已必決,故受之以夬。夬者,決也。解緩則致損,而深自貶損又可以致益;益至於無可益,盛極則潰。盛衰盈虛,其互相倚伏如此。

乖違は必ず険難を招来す。ゆえに接ぐるは『蹇』卦なり。「蹇」は艱難なり。事物は永遠に艱難に処する能わざれば、ゆえに接ぐるは『解』卦なり。「解」は舒緩なり。乖睽すれば則ち恩情を傷害すれば、ゆえに険難あり。艱難は当に舒解すべく、然れども険難は解除した後、漸々戒惧を忘れて、則ち松弛怠緩に流る。松弛怠緩は必ず損失する所有り。ゆえに接ぐるは『損』卦なり。減損は止まざれば必ず転じて增益と為る。ゆえに接ぐるは『益』卦なり。增益は止まざれば必ず決溢せんとす。ゆえに接ぐるは『夬』卦なり。「夬」は決断・決溢なり。松懈すれば則ち損失を招致し、而して深く自ら貶抑減損すれば、また以て增益を帯来す可し。增益は再び増す可きなくなれば、盛は極処に到れば則ち潰決せんとす。盛と衰・盈と虚とは、まさに此の如く互相倚伏す。

決必有所遇,故受之以姤。姤者,遇也。物相遇而後聚,故受之以萃。萃者,聚也。聚而上者謂之升,故受之以升。物壅塞則不行,水潰決則必流,水流則有所遇,相遇則聚,聚小為大,有升之象。升而不已必困,故受之以困。困乎上者必反下,故受之以井。井道不可不革,故受之以革。革物者莫若鼎,故受之以鼎。升不知止必致困窮,上進則困,下退宜安。井者,物之下者也,然井不改久則生汙,宜革其故。鼎為變生為熟、化堅為柔之物,故曰革物者莫若鼎。

決溢の後は必ず遭遇する所有り。ゆえに接ぐるは『姤』卦なり。「姤」は相遇なり。事物は相遇して然る後に聚集す。ゆえに接ぐるは『萃』卦なり。「萃」は聚集なり。聚集して上に向かうを升と言う。ゆえに接ぐるは『升』卦なり。事物は壅塞すれば則ち通行する能わず。水は一旦潰決すれば必ず奔流し、水は流動すれば則ち遭遇する所有り、相遇すれば則ち聚集し、小より聚まりて大を成せば、則ち上昇の象あり。上昇は止まざれば必ず困厄す。ゆえに接ぐるは『困』卦なり。上位に於いて困を受くるは必ず下面に返回す。ゆえに接ぐるは『井』卦なり。井道は変革を加えざる可からず。ゆえに接ぐるは『革』卦なり。事物を変革するは鼎より合適なるなし。ゆえに接ぐるは『鼎』卦なり。上昇して停止するを知らざれば、必ず困窮を招致す。一味に向上進取すれば則ち困を受け、向下退守して始めて安穏なり。井は下位に処する物なり。然れども井は久しく淘治せざれば則ち汚を生ず。当に其の旧汚を革除すべし。鼎は生を変じて熟と為し堅硬を化して柔軟と為すの器具なり。ゆえに事物を変革するは鼎より合適なるなしと言う。

主器者莫若長子,故受之以震。震者,動也。物不可以終動,止之,故受之以艮。艮者,止也。古帝傳國以鼎,鼎為重器,繼先君以主器者為長子,震為長男,是長子也。震之德為動,動極宜止之,艮之德止也。物不可以終止,故受之以漸。漸者,進也。進必有所歸,故受之以歸妹。得其所歸者必大,故受之以豐。豐者,大也。物不中止則必前進,進以漸必有所歸,歸妹者,有所歸也。此有所歸,彼必有所得,得眾之歸,併力為輔,則足以致大業焉。

宗廟の重器を主持するは長子より合適なるなし。ゆえに接ぐるは『震』卦なり。「震」は動なり。事物は一直に動き続くる能わざれば、之を停止せしむるを須う。ゆえに接ぐるは『艮』卦なり。「艮」は止なり。古代の帝王は国を伝うるに鼎を以て憑と為し、鼎は国の重器にして、先君を継承して重器を主持するは長子なり。震は長男と為る、すなわち長子なり。震の徳性は動にして、動は極処に到れば則ち止住すべく、而して艮の徳性はまさに止なり。事物は永遠に静止する能わざれば、ゆえに接ぐるは『漸』卦なり。「漸」は漸進なり。前進は必ず帰宿する所有り。ゆえに接ぐるは『歸妹』卦なり。帰宿を得るは必ず盛大す。ゆえに接ぐるは『豊』卦なり。「豊」は大なり。事物は半途に停止せざれば必ず向前し、前進して循序漸進せば、必ず帰宿する所有り。「歸妹」はすなわち帰属する所有り。此の方は帰属する所有れば、彼の方は必ず獲得する所有り。衆人の帰附を得て、合力して相輔せば、則ち以て大の事業を成就するに足る。

窮大者必失其居,故受之以旅。旅而無所容,故受之以巽。巽者,入也。窮大者則志無定,故失居;旅非可久居之所,以驕亢處之則人不能容,故宜入之以巽。入而後說之,故受之以兌。兌者,說也。說而後散之,故受之以渙。渙者,離也。物不可以終離,故受之以節。研入至深則心有得,故說。憂主聚,說主散,渙散之餘往往離道,是宜有節制也。

盛大を極処に追求する人は必ず其の居所を失う。ゆえに接ぐるは『旅』卦なり。羈旅して外に在りて容身する処なければ、ゆえに接ぐるは『巽』卦なり。「巽」は入なり。窮極盛大の人は心志に定准なく、ゆえに居所を失う。羈旅の地は本と久居す可きの地にあらず。若し驕矜傲慢の態度を以て自処せば、别人は則ち彼を容納す可からず。ゆえに当に巽の謙順を以て其の中に深入すべし。深入の後は則ち心に喜悅を生ず。ゆえに接ぐるは『兑』卦なり。「兑」は悦なり。喜悅の後は則ち涣散せんとす。ゆえに接ぐるは『渙』卦なり。「渙」は離散なり。事物は一直に離散する能わざれば、ゆえに接ぐるは『節』卦なり。鑽研深入して極処に到れば、心中は得る所有り。ゆえに喜悅す。憂愁は人をして聚斂せしめ、喜悅は人をして発散せしむ。涣散の余は往往として正道に背離す。ゆえに当に節制を加うべし。

節而信之,故受之以中孚。有其信者必行之,故受之以小過。節制得宜,則可以信而守之。孚者,信也。既信於心,則宜見諸行事,惟其信之深,故其行之決。小過乎中,亦審之時勢以立制者。有過物者必濟,故受之以既濟。物不可窮也,故受之以未濟,終焉。有過物之才,必能濟事。然物無盡藏,窮極則返。既濟之後次以未濟,以見陰陽之消息、物理之循環,易之卦有盡而易義無終極也。

節制有れば則ち人を信従せしむ。ゆえに接ぐるは『中孚』卦なり。心中に誠信あるは必ず之を実行に付す。ゆえに接ぐるは『小過』卦なり。節制は当を得れば、則ち人を信従して持守せしむ可し。「孚」はすなわち誠信なり。既に内心篤信せば、則ち当に行事に見るべし。正に信すること深きがゆえに、則ち行くこと果決なり。稍々中道を超過するも、亦た時勢を斟酌して立下る法度なり。常人を超越するの才有るは必ず能く事を成す。ゆえに接ぐるは『既済』卦なり。事物は窮尽す可からざれば、ゆえに接ぐるは『未済』卦なり、全書はここに於いて結束す。常人を超越する才干有れば、必ず能く事を濟す。然れども万物は之を取り尽す能わず、窮は極処に到れば則ち返回せんとす。『既済』の後に『未済』を接ぐるは、まさに以て陰陽の消長・物理の循環を顕示せんとするなり。『易』の卦は尽頭ありて、而して『易』の義理は終極なし。

雑卦伝

虞氏曰:雜六十四卦以為義,其於《序卦》之外別言也。昔者聖人之興,因時而作,隨其時宜,不必皆相因襲,當有損益之意也。故《歸藏》名卦之次亦多異於時,王道踳駁,聖人之意或欲錯綜以濟之,故次《序卦》,以其雜也。

虞翻は言う、『雑卦伝』は六十四卦を打乱して次序し、両両配対して以て卦義を闡明す。これは『序卦伝』の層層相生の講法の外に於いて別に一説を立つるなり。古代の聖人の興起するは、皆各自其の処する時代に順応して制作し、当時の需要に随いて定め、必ずしも事事前代に沿袭せず、其の間に自ら増減調整の用意あり。ゆえに殷代の『帰蔵』易の卦名の排列の先後も、また多く当時通行の『周易』と相同じからず。王道の雑乱して純駁一ならざる時に到りて、聖人の意思は或いは錯綜交互の排法を用いて之を補救せんと欲し、これに因りて『序卦伝』の後に再び此の一篇を列するは、取る所はまさに「雑」の此の意思なり。

按:上下《彖傳》、上下《象傳》、上下《繫辭傳》、《文言傳》、《說卦傳》、《序卦傳》、《雜卦傳》凡十傳,先儒以為十翼。《周易》次序文王所定,以乾為首,與《連山》首艮、《歸藏》首坤異。虞氏謂《歸藏》名卦之次多異於時,則《連山》名卦之次異於《歸藏》可知。孔子此傳所列之次,與文王所列者又異。乾坤至井困亦三十卦,咸恆至夬亦三十四卦,或變對,或反對,或雜而不對。以純陽之乾卦為始,以夬五陽決一陰之卦居終,列次豈無深意。漢儒鄭氏謂大過顛也以下錯亂失正,明儒蔡氏、來氏等因以私意改之,恐非先聖之旨也。

按ずるに、『彖伝』上下両篇・『象伝』上下両篇・『繋辞伝』上下両篇、再加えて『文言伝』『説卦伝』『序卦伝』『雑卦伝』、共計十篇にして、前代の学者は之を「十翼」と称す。今伝わる『周易』六十四卦の次序は周文王の排定する所にして、『乾』卦を以て首に居るは、夏代の『連山』易が『艮』を以て首に居る、殷代の『帰蔵』易が『坤』を以て首に居ると皆相同じからず。虞翻は既に『帰蔵』の卦を排すの次序は多く当時通行する所と同じからずと言えば、則ち『連山』の卦を排すの次序もまた『帰蔵』と同じからざるは、便ち推知す可し。孔子此の一篇の排ぶ所の次序は、文王の排ぶ所とまた様ならず。『乾』『坤』より起りて『井』『困』に至るまで止むは、同じく三十卦なり。『咸』『恒』より起りて『夬』に至るまで止むは、同じく三十四卦なり。配対の弁法は、或るは「変対」を用い、すなわち両卦の六爻の陰陽は全部相反し、或るは「反対」を用い、すなわち一卦を倒して観れば則ち別の一卦を成し、また中間に夾在して並み対を成さざるもあり。開篇は純陽の『乾』卦を用い、收尾は五陽が一陰を決去する『夬』卦を用い、此の如き排列は豈に深意なからんや。漢代の鄭玄は「大過顛也」以下より文字錯乱して正次を失うと認め、明代の蔡清・来知徳等の人は便ち個人の臆断を憑りて経文を改動す。おそらく皆古聖人の本意に合せざらん。

乾剛坤柔,比樂師憂。乾純陽,坤純陰,陽為剛,陰為柔。致眾親比故樂,帥眾犯難故憂。臨觀之義,或與或求。臨下則有所與於下,觀上則有所求於上。屯見而不失其居,蒙雜而著。虞氏曰:陽初出震故見,盤桓利居貞,故不失其居。蒙二陽在陰位故雜,初雜為交故著。

『雑卦伝』は「乾剛坤柔、比楽師憂」と言う。『乾』は六爻皆陽にして、『坤』は六爻皆陰なり。陽の性情は剛健にして、陰の性情は柔順なり。両卦は剛柔を以て相対す。『比』は衆人を招来して親附し、人心相聚まれば、ゆえに「楽」と言う。『師』は大衆を率領して冒険犯難し、責任は沈重なれば、ゆえに「憂」と言う。一楽一憂もまたまさに一対を成す。「臨観之義、或與或求」:『臨』は上に居りて下に臨み、恩沢は下面に施与す。ゆえに「與」と言う。『観』は下に在りて上を仰観し、上面に仰求する所有り。ゆえに「求」と言う。「屯見而不失其居、蒙雑而着」:虞翻は解釈す、『屯』の下卦は震と為り、陽気は剛に震の中より生出す。ゆえに「見」と言う、すなわち顕露なり。『屯』初九の爻辞は「盤桓、利居貞」と言い、本位を守りて軽動せず。ゆえに「不失其居」と言う。『蒙』卦の両個の陽爻は皆陰位の上に処し、陰陽混雑す。ゆえに「雑」と言う。初爻は陰陽交錯相雑りて、反って卦義を彰明ならしむ。ゆえに「着」と言う。

震起也,艮止也。震陽下動,艮陽上止。損益,盛衰之始也。損自泰來,損則由衰臻盛,以漸至於泰,是損為盛之始;益自否來,益則由盛趨衰,以漸至於否,是益為衰之始。大畜時也,無妄災也。畜極必通,是宜待時;災自外至,無妄之災乃得之意外者。

「震起也、艮止也」:『震』は一陽は下体の下に生じ、陽気は鼓動して奮起す。ゆえに「起」なり。『艮』は一陽は上体の上に升り、陽気は頂に到りて停住す。ゆえに「止」なり。一動一静はまさに相対照を成す。「損益、盛衰之始也」:『損』卦は『泰』卦より変じ来り、下体を減損して上体を増益す。看れば受損のごとし、其の実は衰より盛に転ずの開端にして、慢慢に則ち『泰』に走向す。ゆえに『損』は「盛之始」なり。『益』卦は『否』卦より変じ来り、上体を減損して下体を増益す。看れば得益のごとし、其の実は盛より衰に転ずの開端にして、慢慢に則ち『否』に走向す。ゆえに『益』は「衰之始」なり。「大畜時也、无妄災也」:『大畜』は蓄積は極処に到れば必ず通達して、關鍵は時機を等待するに在り。『无妄』の講ずる禍患は外面より飛来するにして、いわゆる「无妄之災」は、まさに意料の外に招来する災禍なり。

萃聚而升不來也,謙輕而豫怠也。萃主下孚故曰聚,升主前往故曰不來。謙自卑曰輕,豫逸樂曰怠。噬嗑食也,賁無色也。噬取亨通,嗑以食之;賁飾文盛,宜返質也。兌見而巽伏也。兌上陰見,巽下陰伏。隨無故也,蠱則飭也。隨從前往,宜忘故習;蠱亂之後,宜加整飭。

「萃聚而升不來也、謙輕而豫怠也」:『萃』は下面の誠信が上に帰附し、人心匯聚す。ゆえに「聚」と言う。『升』は一路向前上行して、有去無回を講ず。ゆえに「不來」と言う。『謙』は自ら卑下に居り自ら其の身を重んぜず。ゆえに「輕」と言う。『豫』は安逸取楽して心志は鬆弛す。ゆえに「怠」と言う。「噬嗑食也、賁无色也」:『噬嗑』は梗塞の物を咬断して以て亨通を求め、咬合した後は便ち進食す可し。ゆえに「食」の義を取る。『賁』は文飾にして、文采は太盛なれば反って本色を掩う。ゆえに質朴に返帰せんと欲して、それを「无色」と言う。「兑見而巽伏也」:『兑』の陰爻は上に在り、外に顕露す。ゆえに「見」なり。『巽』の陰爻は下に在り、下に潜伏す。ゆえに「伏」なり。「随无故也、蠱則飭也」:『随』は時勢に随順して前に往くにして、当に旧有の習套を忘掉すべし。『蠱』は積弊已に生じ事情壞乱の後にして、当に之を整頓修治すべし。

剝爛也,復反也。剝上惟餘一陽,爛盡則將食碩果;復初甫來一陽,反生則克見天心。晉晝也,明夷誅也。晉五離中,日出地上曰晝;誅,傷也,明夷離居坤下,日之明為地所掩。井通而困相遇也。井泰初之五,穿坤土以出坎水,故通;困為否上來二,陽入陰中,故相遇。

「剥爛也、復反也」:『剥』は上九に至りてただ最後の一個の陽爻を余し、五陰は下に於いて侵蚀す。果実は爛熟して将に尽きんとす、まさに「碩果不食」にして将に呑噬せられんとする時なり。『復』は初九一陽は剛に歸來して、陽気は返生す。ここに於いて便ち天地の生生の心を見る能くす。ゆえに一は「爛」にして一は「反」なり。「晋昼也、明夷誅也」:『晋』の上体は離と為り、離は日と為り、太陽は地面の上に升出す。ゆえに「昼」なり。「誅」は損傷の意思にして、『明夷』は離日は坤地の下に落ち、日光は大地に遮掩せらる。ゆえに「傷」なり。「井通而困相遇也」:『井』は『泰』卦の初爻は上りて五位に到りて成るにして、坤土を穿透して坎水を汲出し、水脈貫通す。ゆえに「通」と言う。『困』は『否』卦の上爻は下来りて二位に居りて成るにして、陽爻は衆陰の中に陷りて、陰と相值す。ゆえに「相遇」と言う。

咸速也,恆久也。虞氏曰:相感者不行而至,故速也;日月久照,四時久成,故久也。渙離也,節止也。物因渙則離,物有節則止。解緩也,蹇難也。虞氏曰:雷動出物故緩,蹇險在前故難。睽外也,家人內也。睽乖於外,家人睦於內。

「咸速也、恒久也」:虞翻は言う、『咸』は交感を講じ、両情は相感応して、歩を移さずして已に到達す。ゆえに「速」なり。『恒』は長久を講じ、日月は長久に天下を照臨し、四時は長久に運行して歳を成す。ゆえに「久」なり。「渙離也、節止也」:『渙』は涣散にして、事物は一たび涣散すれば便ち相離析す。『節』は節制にして、事物は節度有れば便ち适可して止まる。「解緩也、蹇難也」:虞翻は言う、『解』卦は震雷は一たび動けば、万物は解凍して出で、緊迫の勢は舒緩を得。ゆえに「緩」なり。『蹇』卦は坎険は前面に横たわり、寸步難行す。ゆえに「難」なり。「睽外也、家人内也」:『睽』は彼此乖違して心を外に離り、『家人』は一家和睦して内に親合す。一外一内はまさに相対す。

否泰反其類也。虞氏曰:否反成泰,泰反成否,故反其類。大壯則止,遯則退也。虞氏曰:大壯止陽,陽故止;遯陰消陽,陽故退。大有眾也,同人親也。大有六五居尊以有眾陽,同人六二得正,五陽欲同之相親近也。革去故也,鼎取新也。革主改變,鼎主烹飪。

「否泰反其類也」:虞翻は言う、『否』卦を倒して観れば則ち『泰』卦を成し、『泰』卦を倒して観れば則ち『否』卦を成す。両卦は陰陽升降は恰恰と相反す。ゆえに「反其類」と言う。「大壮則止、遯則退也」:虞翻は言う、『大壮』は四陽は上進して上面の二陰に受阻せられ、陽気はここに到りて当に止むべし。ゆえに「止」なり。『遯』卦は二陰は下より自ら滋長して逐步に陽気を消去し、陽はただ退避するのみ。ゆえに「退」なり。「大有衆也、同人親也」:『大有』六五は一陰を以て尊位に居りて下面の衆多の陽爻を擁有す。ゆえに「衆」の義を取る。『同人』六二は中に居りて正を得、五個の陽爻は皆之と相同せんと欲して争いて親附す。ゆえに「親」の義を取る。「革去故也、鼎取新也」:『革』は変革を主とし、旧きを除去するなり。『鼎』は烹飪を主とし、新たきを造成するなり。

小過過也,中孚信也。小過過乎中,中孚信於內。豐多故也,親寡旅也。故,舊也。《周禮·天官》以八統詔王馭萬民,二曰敬故。蓋豐大則故舊必多,旅居於外,僮僕數人之外鮮有親近者。離上而坎下也。火性炎上,水性潤下。

「小過過也、中孚信也」:『小過』は稍々中道を超過す。ゆえに名を「過」と曰う。『中孚』は誠信は内心に充実す。ゆえに名を「信」と曰う。「豊多故也、親寡旅也」:「故」は故旧の意思にして、『周礼・天官』の記載する太宰は「八統」の法を用いて君王を輔助して万民を統御す。其の第二条はすなわち「敬故」にして、すなわち故旧を敬重するなり。凡そ家業豊大の人は、故旧亲朋は必ず衆多なり。而して旅居して外に在る人は、随行の幾名の僮僕を除くの外、親近の人は甚だ少なし。ゆえに『旅』は「親寡」なり。「離上而坎下也」:離は火と為り、火の性は向上して燃焼す。坎は水と為り、水の性は下に向いて浸潤す。二者の取象はまさに相反す。

小畜寡也,履不處也。一陰不勝五陽之畜,是謂之寡;一陰欲履五虎之尾,是謂不處。需不進也,訟不親也。不進前以犯難故需,不親睦以相爭故訟。大過顛也,姤遇也,柔遇剛也,漸女歸待男行也,頤養正也。顛,踣也,大過本末俱弱故顛。漸為上巽下艮之卦,男少女長,男不求女,女行宜待,不宜苟且歸也。

「小畜寡也、履不処也」:『小畜』は一個の陰爻を以て五個の陽爻を畜止し、力量単薄にして、衆陽に敵する能わず。ゆえに「寡」と言う。『履』もまた一陰は五陽の間に処りて、猛虎の尾を踩むが如く、一刻も安居停留すること敢えてせず。ゆえに「不処」と言う。「需不進也、訟不親也」:『需』は冒然として前進して坎険を犯さず、等待の義を取る。『訟』は彼此不和睦にして相争い、争訟の義を取る。「大過顛也、姤遇也、柔遇剛也、漸女帰待男行也、頤養正也」:「顛」は跌倒にして、『大過』は初・上の両爻は皆陰にして、本末俱虚なれば、ゆえに傾覆し易し。『姤』は一陰は下より自ら五陽と相遇す。ゆえに「柔遇剛」と言う。『漸』は上巽下艮の卦にして、艮は少男、巽は長女と為り、男は少なく女は長じて、男方は並み来りて求めず、女子の出嫁は当に時機を等待し礼に依りて行い、苟且に相従す可からず。『頤』は頤養を講じ、養う所は必ず正道に合せよ。

既濟定也,歸妹女之終也,未濟男之窮也。虞氏曰:濟成六爻得位,定也。歸妹,人之終,女終於下,從一而終,故曰女之終也。未濟、既濟兩卦爻皆陰陽相間,既濟之上為陰,未濟之上為陽,爻至上則窮,陽為男,故曰男之窮也。夬決也,剛決柔也,君子道長,小人道憂也。陽為君子,陰為小人,陽息至五,往決陰柔,故夬曰決。傳以乾始,以夬終,於夬曰君子道長,小人道憂,決夬為乾,聖人扶陽抑陰之心也。

「既済定也、帰妹女之終也、未済男之窮也」:虞翻は言う、『既済』は六爻は陽は陽位に居り陰は陰位に居り、個個当位して、事已に辦成せり。ゆえに「定」なり。『帰妹』は女子の出嫁を講じ、人生の一大帰宿なり。女子は下嫁して終身は一人に託付し、一に従りて終す。ゆえに「女之終」と言う。『未済』と『既済』両卦の六爻は皆陰陽相間排列して、ただ『既済』の上爻は陰、『未済』の上爻は陽なり。爻位は上位に到れば便ち已に尽頭に到り、陽爻は男子を代表す。ゆえに「男之窮」と言う。「夬決也、剛決柔也、君子道長、小人道憂也」:陽爻は君子を象徴し、陰爻は小人を象徴し、陽気は第五爻に生長して、五陽は一斉に上りてあの一個の陰爻を決除す。ゆえに『夬』はすなわち決断・決去の意思なり。此の一篇は純陽の『乾』卦を以て開頭し、『夬』卦を以て收尾し、並びに『夬』の下に「君子道長、小人道憂」を点出す。『夬』は更に一歩進みて陰爻を決尽せば則ち『乾』を成す。見れば其の中にまさに聖人の陽剛を扶助し陰柔を抑制する苦心を蔵す。

易原 巻十六

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。

本巻は慧珠閣原刻本に依る。著者は岫巖人の多隆阿、字は雯溪。

易例

移易

移易即以闢卦為母,分移於諸卦中者是也。《繫辭傳》言推、言遷、言往來不窮、言上下無常,剛柔相易,皆移易之旨也。

いわゆる「移易」とは、十二辟卦を以て母卦と為し、母卦の裏の爻を分別して移動し分派して其の余の各卦の中に入れ、用いて毎一卦の来歴を説明するなり。『繋辞伝』の裏に「推」を講じ、「遷」を講じ、「往来不窮」を講じ、「上下无常、剛柔相易」を講ずるは、言う所は皆此の道理なり。一卦の此の卦と為る所以は、まさに母卦の剛爻柔爻が上下交換・遷移して成るに由るなり。

変易

變易者,陰陽正對也。乾坤、坎離、頤大過、中孚小過八卦為變易,其餘諸卦亦皆有之。如屯與鼎、蒙與革、需與晉、訟與明夷皆是。漢儒虞氏仲翔用旁通法解易,旁通即變易也。

いわゆる「変易」とは、両卦の六爻の陰陽は完全に相反し正正相対するを指す。『乾』と『坤』、『坎』と『離』、『頤』と『大過』、『中孚』と『小過』の此の八卦は互いに変易と為り、其の余の各卦もまた各々自らの変易の卦有り。例えば『屯』は『鼎』に対し、『蒙』は『革』に対し、『需』は『晋』に対し、『訟』は『明夷』に対す。皆六爻の陰陽を位に逐いて翻転して成るなり。漢代の虞翻(字は仲翔)は『易』を解するに専ら「旁通」の法を用い、いわゆる旁通とは、すなわちここに言う変易なり。

反易

反易者,如正觀之為水雷屯,反觀之即為山水蒙是也。文王序卦祇用反易,乾坤、坎離、頤大過、中孚小過八卦不可反,故用變易,其餘皆反易也。變易又名正對卦,亦名旁通卦;反易又名覆卦。明儒來氏矣鮮解《彖傳》剛來柔進、剛上柔下之文皆用反易,名反易曰綜卦,名變易曰錯卦。

いわゆる「反易」とは、一卦を整箇倒して観るなり。順に観れば水雷『屯』、倒して観れば則ち山水『蒙』を成す。周文王の卦序を排定するはただ反易を用い、相隣の両卦は大多は一正一倒なり。ただ『乾』『坤』『坎』『離』『頤』『大過』『中孚』『小過』の八卦は倒して観るも仍ほ原樣にして、反易す可からざれば、始めて変易を改用して配対す。其の余の五十六卦は皆反易を用う。変易はまた「正対卦」と言い、また「旁通卦」と言う。反易はまた「覆卦」と言う。明代の来知徳(字は矣鮮)は『彖伝』の中の「剛来」「柔進」「剛上」「柔下」の類の文字を解釈するに、全て反易を用いて説明し、彼は反易を「綜卦」と称し、変易を「錯卦」と称せり。

交易

交易者,上下兩象互見也。如水雷屯交易為雷水解,山水蒙交易為水山蹇,餘可類推。反易中亦有兼交易者,水天需與天水訟、水火既濟與火水未濟皆是也。反易中又有兼變易者,泰否、隨蠱、漸歸妹皆是也。夬反為姤,夬之四反之為姤之三,夬九四曰臀無膚,姤九三亦曰臀無膚;損反為益,損之五反之為益之二,損六五曰或益之十朋之龜弗克違,益六二亦曰或益之十朋之龜弗克違。反對之象昭然,至於交對,經文無此象焉。

いわゆる「交易」とは、一卦の上下両個の経卦の位置を対調するなり。例えば水雷『屯』は上坎下震にして、対調して来れば則ち雷水『解』を成す。山水『蒙』は上艮下坎にして、対調して来れば則ち水山『蹇』を成す。其の余は類推す可し。反易の中にもまた交易を兼帯する有り。水天『需』と天水『訟』、水火『既済』と火水『未済』のごときは、既に全卦の顛倒にして、また恰好上下卦の対調なり。反易の中にもまた変易を兼帯する有り。『泰』と『否』、『随』と『蠱』、『漸』と『帰妹』のごときは、倒して観ると同時に六爻の陰陽もまたまさに相反す。『夬』を倒せば則ち『姤』にして、『夬』の第四爻を倒せばまさに『姤』の第三爻に当たる。ゆえに『夬』九四は「臀无膚」と言い、『姤』九三もまた「臀无膚」と言う。『損』を倒せば則ち『益』にして、『損』の第五爻を倒せばまさに『益』の第二爻に当たる。ゆえに『損』六五は「或益之十朋之龜、弗克違」と言い、『益』六二もまた「或益之十朋之龜、弗克違」と言う。見れば反対の象は経文の裏に明証あり。至りて上下卦対調の交対は、経文の中に並み相応の辞象なし。

陰陽

八卦則乾為陽,坤為陰,震坎艮為陽,巽離兌為陰。六爻則初三五為陽,二四上為陰。揲蓍則奇數為陽,偶數為陰,三奇為老陽,三偶為老陰,一奇二偶為少陽,一偶二奇為少陰。

八卦に就いて言えば、『乾』は純陽、『坤』は純陰なり。震・坎・艮の三卦は各々一個の陽爻を含みて陽卦に属し、巽・離・兑の三卦は各々一個の陰爻を含みて陰卦に属す。六爻の位次に就いて言えば、初爻・三爻・五爻は陽位にして、二爻・四爻・上爻は陰位なり。揲蓍して卦を求むるに就いて言えば、毎変の得る所の挂扐の数は、奇数は陽に属し、偶数は陰に属す。三変皆奇数を得れば老陽にして、三変皆偶数を得れば老陰にして、一奇両偶は少陽と為り、一偶両奇は少陰と為る。

消息

息謂生,消謂滅,息則盈,消則虛。復、臨、泰、大壯、夬是為陽息陰消之卦,姤、遯、否、觀、剝是為陰息陽消之卦。至於乾坤二卦,又藏此十卦消息,故晉儒乾令升謂乾初十一月之時自復來,乾二十二月之時自臨來,乾三正月之時自泰來,乾四二月之時自大壯來,乾五三月之時自夬來,坤初五月之時自姤來,坤二六月之時自遯來,坤三七月之時自否來,坤四八月之時自觀來,坤五九月之時自剝來也。

「息」は生長にして、「消」は消滅なり。息すれば則ち漸々盈満し、消すれば則ち漸々虚空す。『復』『臨』『泰』『大壮』『夬』の五卦は、陽爻は下より自ら層層に増長して陰爻は退去す。これは陽息陰消の卦なり。『姤』『遯』『否』『観』『剥』の五卦は、陰爻は下より自ら層層に増長して陽爻は退去す。これは陰息陽消の卦なり。至りて『乾』『坤』両卦は、則ち此の十卦の消息を全部其の中に含む。ゆえに晋代の干宝(字は令升)は言う、『乾』初九は十一月に当たるは『復』より来り、『乾』九二は十二月に当たるは『臨』より来り、『乾』九三は正月に当たるは『泰』より来り、『乾』九四は二月に当たるは『大壮』より来り、『乾』九五は三月に当たるは『夬』より来り、『坤』初六は五月に当たるは『姤』より来り、『坤』六二は六月に当たるは『遯』より来り、『坤』六三は七月に当たるは『否』より来り、『坤』六四は八月に当たるは『観』より来り、『坤』六五は九月に当たるは『剥』より来るなり。

卦名

卦名者,如乾坎艮震巽離坤兌八卦之名是也。至於六十四卦,八純卦之名如舊,其餘則合兩卦取象,別命以名,與八卦異。

いわゆる「卦名」とは、乾・坎・艮・震・巽・離・坤・兑の此の八個の経卦の名称を指す。六十四卦に到りては、八個の上下同体の純卦は仍ほ原來の名字を沿用す。其の余の五十六卦は則ち上下両個の経卦を合わせて取象して、別に一個の名称を命じて、八卦の名字と同じからず。

卦徳

卦德者,如乾健坤順之類是也。至於兩合之卦,上離下乾曰文明以健,上坤下坎曰行險而順,則德又因卦而小異。

いわゆる「卦徳」とは、一卦の具える所の性情を指し、『乾』の徳性は剛健・『坤』の徳性は柔順の類のごとし。至りて上下両卦相合の重卦は、徳性は則ち合わせて言うを須う。上離下乾の『同人』は『彖伝』は之を「文明以健」と称し、上坤下坎の『師』は『彖伝』は之を「行険而順」と称す。見れば徳性は配する所の卦に随いて略有変化有り。

卦象

象者,不僅如乾天坤地、乾父坤母、乾馬坤牛、乾首坤腹已也。有以卦義取象者,如水木為井是也;有以卦畫取象者,如鼎初象趾,二三四象腹,五象耳,上象鉉是也。又有單卦無是象而因重卦取之者,如巽坤象觀,山雷象頤,重巽象床是也。又有八卦無是象而因卦畫陰陽取之者,如頤之涉川、大畜之牛豕、姤之羸豕是也。又有取互卦之象者,如小畜之雲雨、同人之伏莽是也。又有取伏卦之象者,如乾下伏坤,乾二曰在田;震下伏巽,復象曰商旅是也。

いわゆる「象」とは、ただ乾を天と為し坤を地と為し、乾を父と為し坤を母と為し、乾を馬と為し坤を牛と為し、乾を首と為し坤を腹と為す此の類のみにあらず。卦義に按りて取象する有り。『井』は上坎は水と為り下巽は木と為り、木桶は水に入りて汲取すれば、ゆえに井の象を取る。卦画の形状に按りて取象する有り。『鼎』は初爻は鼎足に像し、二・三・四爻は鼎腹に像し、五爻は鼎耳に像し、上爻は鼎を挙ぐる横杠に像す。また単個の経卦は本と此の象なく、上下相重ねて始めて此の象を生出する有り。巽上坤下は合して『観』を成して仰観の象あり、山下に雷有りて合して『頤』を成して口頬の象あり、両巽相重ねて床の形象有り。また八卦の中に本と此の象なく、ただ卦画の陰陽の形態を憑りて取象する有り。『頤』は中間虚空にして以て水を渡る可し、『大畜』は牛有り豕有り、『姤』は瘦弱の豕有り。また互卦の象を取る有り。すなわち中間四爻の交互して成る所の卦にして、『小畜』の密雲不雨・『同人』の伏戎于莽のごとし。また伏卦の象を取る有り。すなわち本卦の背後に潜伏する相反の卦にして、『乾』の下に『坤』を潜伏し、坤は田と為れば、ゆえに『乾』九二は「見龍在田」と言う。『震』の下に『巽』を潜伏し、巽は商利を主れば、ゆえに『復』卦の『大象伝』は「商旅不行」と言う。

卦位

有八卦之位,震東、兌西、離南、坎北、乾西北、坤西南、巽東南、艮東北是也。有六爻之位,初為陽位,二為陰位,三為陽位,四為陰位,五為陽位,上為陰位是也。有三才之位,單卦則初為地位,二為人位,三為天位;重卦則初二為地位,三四為人位,五上為天位是也。爻有中位,單卦二五為中,蒙之時中、訟之得中皆言二中,需之正中、比之剛中皆言五中;重卦則三四為中,復之四曰中行,益之三四皆曰中行是也。

卦位は幾種の講法あり。一は八卦の方位にして、震は東に在り、兑は西に在り、離は南に在り、坎は北に在り、乾は西北に在り、坤は西南に在り、巽は東南に在り、艮は東北に在り。二は六爻の位次にして、初爻は陽位、二爻は陰位、三爻は陽位、四爻は陰位、五爻は陽位、上爻は陰位なり。三は天地人の三才の位にして、単卦は三画にして、初爻は地に属し二爻は人に属し三爻は天に属す。重卦は六爻にして、初二両爻は地に属し三四両爻は人に属し五上両爻は天に属す。爻にまた居中の位あり。単卦に就いて言えば、二爻・五爻は中に居り、『蒙』は「時中」と言い『訟』は「得中」と言うは皆二爻の居中を指し、『需』は「正中」と言い『比』は「剛中」と言うは皆五爻の居中を指す。重卦六爻に就いて言えば、三四両爻はまさに全卦の中に当たる。ゆえに『復』六四は「中行独復」と言い、『益』の三爻・四爻もまた皆「中行」と言う。

爻有得位失位,陽位以陽居之、陰位以陰居之,是為得位;陽位陰居之、陰位陽居之,是為失位也。爻有尊位卑位,初為民位,故屯初曰得民;二三皆臣位,故蹇二曰王臣,坤三曰臣道;四曰三公位,故鼎四曰公餗;五為君位,故乾五曰大人;上則貴極無位,或為鬼神之位,故大有之上曰天,或為高士之位,故蠱之上曰不事王侯也。至於漢儒又有初為震位、二為離位、三為艮位、四為巽位、五為坎位、上為兌位之說,而證之卦象多支離不合焉。

爻にまた得位と失位との別あり。陽位は陽爻より来りて之に居り、陰位は陰爻より来りて之に居るを「得位」と言う。陽位は反って陰爻より来りて之に居り、陰位は反って陽爻より来りて之に居るを「失位」と言う。爻にまた尊卑高下の分あり。初爻は庶民の位にして、ゆえに『屯』初九の『象伝』は「大得民也」と言う。二爻・三爻は皆臣子の位にして、ゆえに『蹇』六二は「王臣蹇蹇」と言い、『坤』六三の『文言』はこれを「臣道」と言う。四爻は三公の位にして、ゆえに『鼎』九四は「覆公餗」と言う。五爻は君王の位にして、ゆえに『乾』九五は「利見大人」と言う。上爻は則ち尊貴已極にして職事に当たらず、或る時は鬼神の位と看作し、ゆえに『大有』上九は「自天祐之」と言い、或る時は方外高士の位と看作し、ゆえに『蠱』上九は「不事王侯」と言う。至りて漢代の学者は別に初爻を震位と為し二爻を離位と為し三爻を艮位と為し四爻を巽位と為し五爻を坎位と為し上爻を兑位と為すの説法有り。卦象を拿りて之を印証すれば、大多は支離破碎して講ぜらる可らず。

卦体

體分上下,如此四曰從上、咸二曰執下是也。體分內外,需三曰在外、蹇上曰在內是也。體分本末,初為本,上為末,大過本末弱是也。體分大小,陽為大,陰為小,五陽畜一陰曰小畜,一陰有五陽曰大有是也。體有近取諸身者,咸與艮是也;體有遠取諸物者,乾與漸是也。

卦体は幾方面より分つ可し。上下両体を分つのは、四爻の『象伝』の「以従上也」・『咸』爻の『象伝』の「所執下也」のごときは、皆上体に居り下体に随うに就いて立言す。内外を分つのは、『需』九三の『象伝』の「災在外也」・『蹇』上六の『象伝』の「志在内也」のごとし。本末を分つのは、初爻は根本にして上爻は末梢なれば、ゆえに『大過』は本末は皆虚弱と言う。大小を分つのは、陽爻を大と為し陰爻を小と為し、五個の陽爻が一個の陰爻を畜止するを『小畜』と言うは、畜する所の対象は小なり。一個の陰爻が五個の陽爻を統有するを『大有』と言うは、所有する所の物は大なり。取象にもまた遠近の別あり。近くは人身より自ら取る有り、『咸』は拇・腓・股・脢を講じ、『艮』は趾・腓・限・身・輔を講ずるがごとし。遠くは外物に於いて取る有り、『乾』は龍を取り、『漸』は鴻を取るがごとし。

卦時

卦時明見於經文者,惟觀為八月、兌為正秋二者而已。至於剝為九月、坤為十月、復為十一月、臨為十二月、泰為正月、大壯為二月、夬為三月、乾為四月、姤為五月、遯為六月、否為七月,皆可推求得之。兌為正秋,而坎冬離夏震春亦可類推。他如復之七日、革之己日,亦為卦時。至於孟氏言中孚為十一月時丁冬至,則非經義也。

一卦の主る所の時令は、明白に経文に見えるは、ただ『観』は八月に属し『兑』は正秋に属する両条のみ。此の外は『剥』は九月に属し『坤』は十月に属し『復』は十一月に属し『臨』は十二月に属し『泰』は正月に属し『大壮』は二月に属し『夬』は三月に属し『乾』は四月に属し『姤』は五月に属し『遯』は六月に属し『否』は七月に属するのごときは、皆十二辟卦の陰陽消長の次序に按りて推求して出す可し。『兑』は既に正秋に属せば、則ち坎は冬を主り離は夏を主り震は春を主るもまた此に照りて類推す可し。その他は『復』は「七日来復」と言い『革』は「己日」と言うは、講ずる所は皆卦時なり。至りて漢代の孟喜は『中孚』は十一月に配してまさに冬至のあの日に当たると言うは、則ち経文の本有の意思にあらず。

卦気

革之己日,離納己也,此為土氣;鼎之我仇,畏離克也,此為火氣。稼穡作甘,臨之甘臨亦土氣也;炎上作苦,節之苦節亦火氣也。他如噬嗑之金矢、益之木道、井之寒泉、離之黃離,五行之氣俱備。至於鄭康成之爻辰、乾令升之甲子,亦屬卦氣,而先儒斥之,謂旁生枝節矣。

『革』卦の言う「己日」は、離卦は天干の「己」を納し、己は土に属すを以てなり。これは土気を取るなり。『鼎』九二は「我仇有疾」と言うは、離火の来りて克するを怕るるなり。これは火気を取るなり。『尚書・洪範』の五行を講じて「稼穡作甘」と言い、土の味は甜なれば、ゆえに『臨』卦の「甘臨」もまた土気に属す。また「炎上作苦」と言い、火の味は苦なれば、ゆえに『節』卦の「苦節」もまた火気に属す。その他は『噬嗑』は「得金矢」と言い金に属し、『益』は「木道乃行」と言い木に属し、『井』は「井冽寒泉」と言い水に属し、『離』は「黄離元吉」と言い土色の黄を取る。五行の気は『易』の中に皆斉備せり。至りて鄭玄は「爻辰」を用い干宝は「甲子」を用いて以て卦に配するは、亦た卦気の一路に属す。ただ前代の学者はそれらを批評して、節外生枝と為すと言う。

卦義

卦義者,如乾為君,乾卦皆言君道;坤為臣,坤卦皆言臣道。坎水以內滀為義,故坎卦爻辭內吉而外凶;離火以外明為義,故離卦爻辭內凶而外吉。明夷以退後為義,前往見傷也;晉以前進為義,前往愈明也。隨以後隨前為義,觀以下觀上為義,震動以往來為義,艮止以安居為義,大畜以不應為義,大壯以得正為義,是皆可因卦求之。

いわゆる「卦義」とは、一卦の首尾を貫串する主旨なり。例えば乾は君を象徴すれば、『乾』卦の六爻の講ずる所は皆君と為るの道なり。坤は臣を象徴すれば、『坤』卦の六爻の講ずる所は皆臣と為るの道なり。坎は水にして、内に蓄聚するを義を取りと為れば、ゆえに『坎』卦の爻辞は往往として内卦は吉にして外卦は凶なり。離は火にして、光明の外に発するを義を取りと為れば、ゆえに『離』卦の爻辞は往往として内卦は凶にして外卦は吉なり。『明夷』は後に退蔵するを義と為り、愈々前に往けば愈々傷害を受く。『晋』は向前進取するを義と為り、愈々前に往けば愈々光明を見る。『随』は後に在りて前面に随従するを義と為り、『観』は下に在りて上を仰観するを義と為り、『震』は動して往来不息するを義と為り、『艮』は止して其の所に安処するを義と為り、『大畜』は上下相応ぜずして畜止するを義と為り、『大壮』は壮盛にして能く正を守るを義と為る。凡そ此の種種は、皆一卦の主旨に順って之を尋求す可し。

卦主

六十四卦各有主爻。主爻者,有德而兼得時得位,為一卦之宗主也。主爻之義皆寓於卦辭與《彖傳》中,所以主爻之辭往往與卦辭同。如屯卦辭曰利建侯,屯之初九爻辭亦曰利建侯;謙卦辭曰君子有終,謙之九三爻辭亦曰君子有終。《繫辭傳》曰:知者觀其彖辭,則思過半矣,言得主爻也。

六十四卦は毎一卦皆一個の主爻あり。いわゆる主爻とは、既に卦徳を具え、また其の時を占め其の位に居りて、以て一卦の宗主と為すに足るあの爻を指す。主爻の意義は皆卦辞と『彖伝』の裏に寄托すれば、ゆえに主爻の爻辞は常常として卦辞と相同じ。例えば『屯』卦辞は「利建侯」と言い、『屯』初九の爻辞もまた「利建侯」と言う。『謙』卦辞は「君子有終」と言い、『謙』九三の爻辞もまた「君子有終」と言う。『繋辞伝』は「知者観其彖辞、則思過半矣」と言う、講ずるはまさに能く卦辞の裏より主爻を抓住すれば、全卦の大意は便ち一大半明白するなり。

乾五為主,乾為天,九五曰在天;坤二為主,坤為地,六二《象傳》曰地道。屯初為主,卦辭所云建侯者指初九也;蒙二為主,卦辭所云童蒙求我者,童為六五,我指九二也。需五為主,《彖傳》曰位乎天位;訟五為主,彖辭所謂大人也。師二為主,一陽帥眾陰,卦辭之丈人即二也;比五為主,一陽居尊,眾陰歸之。小畜一陰為主而實九五為主,五陽畜一陰,九五得位,求眾陽之輔以畜六四,《彖傳》所云剛中而志行者指九五也;履亦一陰為主而實九五為主,君威如虎,乃《彖傳》所謂履帝位而不疚者。

『乾』は九五を以て主爻と為す。乾は天と為り、九五の爻辞は「飛龍在天」と言う。『坤』は六二を以て主爻と為す。坤は地と為り、六二の『象伝』の講ずる所はまさに地道なり。『屯』は初九を以て主爻と為す。卦辞の言う「利建侯」とはすなわち初九を指す。『蒙』は九二を以て主爻と為す。卦辞は「童蒙求我」と言い、「童蒙」は六五を指し、「我」は九二を指す。『需』は九五を以て主爻と為す。『彖伝』は「位乎天位、以正中也」と言う。『訟』は九五を以て主爻と為す。卦辞の言う所の「利見大人」とはすなわちそれを指す。『師』は九二を以て主爻と為す。一個の陽爻は衆陰を統率し、卦辞の裏の「丈人」とはすなわち二爻なり。『比』は九五を以て主爻と為す。一陽は尊位に居りて、衆陰は皆来りて帰附す。『小畜』は表面は一陰を以て主と為るを看るも、其の実は九五を以て主と為す。五陽は一陰を畜止し、九五は位に当たり中を得て、衆陽の相助を求めて六四を畜止す。『彖伝』の言う「剛中而志行」とはまさに九五を指す。『履』もまた表面は一陰を以て主と為るも実は九五を以て主と為す。君は威厳にして猛虎の如く、すなわち『彖伝』の言う所の「履帝位而不疚」のあの一爻なり。

泰五為主,爻辭所云歸妹者,歸二也,五歸二則上下交,其志通;否五為主,大人在上,恆恐其亡,由於上下不交之故也。同人二為主,一陰得中,眾陽欲同之;大有五為主,一陰居尊,有五陽也。謙三為主,即卦辭所云君子有終者;豫四為主,乃《彖傳》所云剛應而志行者。隨初為主,隨以後隨前為義,則自初始,《彖傳》曰剛來而下柔也;蠱上為主,《彖傳》曰剛上而柔下,義取剛上,初爻至五爻皆言蠱,獨上不言蠱,言蠱至上已化,無事宜高尚也。

『泰』は六五を以て主爻と為す。六五の爻辞は「帝乙帰妹」と言い、妹妹を以て九二に下嫁す。五は下りて二に交わり、上下交感して心志相通ず。まさに『泰』の卦義に合す。『否』は九五を以て主爻と為す。大人は上位に高居して時時傾覆滅亡を怕るは、ただ上下阻隔して彼此通彼此通ぜざればなり。『同人』は六二を以て主爻と為す。一個の陰爻は中に居りて正を得て、衆陽は皆之と相同せんと欲す。『大有』は六五を以て主爻と為す。一個の陰爻は尊位に居りて五個の陽爻を擁有す。『謙』は九三を以て主爻と為す。すなわち卦辞の言う所の「君子有終」のあの一爻なり。『豫』は九四を以て主爻と為す。すなわち『彖伝』の言う所の「剛応而志行」のあの一爻なり。『随』は初九を以て主爻と為す。『随』は後面に在りて前面に随従するを義と為し、随従は初爻より開始するを須う。ゆえに『彖伝』は「剛来而下柔」と言う。『蠱』は上九を以て主爻と為す。『彖伝』は「剛上而柔下」と言い、取る所は剛爻の上に居るの義なり。初爻より五爻に至るは皆蠱を治することを講じ、独り上爻は蠱を提せず。蠱は上爻に壞到りて已に整治乾浄して事を為すなければ、まさに其の志を高尚にして王侯に事えざるを宜とす。

臨二為主,下二陽雖同,二為剛中;觀五為主,上二陽雖同,五得中正也。噬嗑五為主,《彖傳》曰柔得中而上行;賁上為主,《彖傳》曰分剛上而文柔,故小利有攸往。剝上為主,一陽僅存,為碩果也;復初為主,一陽反動,見天地之心也。無妄初為主,《彖傳》云剛自外來而為主於內;大畜上為主,上為天位,《彖傳》曰應乎天也。頤上為主,上初二陽雖同,初為震動,非頤養之正,故初凶而上吉;大過四為主,四棟曰隆,與卦辭棟橈異。

『臨』は九二を以て主爻と為す。下面の両個の陽爻は虽同じく陽なれど、九二は中に居りて剛中の徳有り。『観』は九五を以て主爻と為す。上面の両個の陽爻は虽同じく陽なれど、九五は既に中にして且つ正なり。『噬嗑』は六五を以て主爻と為す。『彖伝』は「柔得中而上行」と言う。『賁』は上九を以て主爻と為す。『彖伝』は「分剛上而文柔」と言う。ゆえに卦辞は「小利有攸往」と言う。『剥』は上九を以て主爻と為す。五陰の上はただ此の一個の陽爻を余せば、すなわち「碩果不食」のあの顆の果実なり。『復』は初九を以て主爻と為す。一陽は返回して動く。ここに於いて天地生生の心を見る可し。『无妄』は初九を以て主爻と為す。『彖伝』は「剛自外来而為主于内」と言う。『大畜』は上九を以て主爻と為す。上位は天位にして、『彖伝』は「応乎天也」と言う。『頤』は上九を以て主爻と為す。上爻は初爻と同じく陽なれど、初爻は震に属して動を好み、頤養の正道に合せず。ゆえに初爻は凶にして上爻は吉なり。『大過』は九四を以て主爻と為す。四爻の爻辞は「棟隆」と言い、卦辞の言う所の「棟橈」とまさに相反す。

坎五為主,卦辭所云有孚維心亨者;離二為主,《彖傳》所云柔麗乎中正者,五雖得中,陰居陽位非正,故六五祇曰吉,六二曰元吉也。咸五為主,晦無知覺,不受感也;恆二為主,陽剛居正,能久中也。遯五為主,《彖傳》所云剛當位而應、與時行者;大壯四為主,陽息至四,故曰大壯。晉與明夷皆五為主,晉五乃《彖傳》所云柔進而上行者,明夷之五乃《彖傳》所云內難而能正其志者。家人二為主,卦辭曰利女貞;睽五為主,《彖傳》曰柔進而上行,得中而應乎剛。蹇五為主,卦辭所云利見大人者,言五為大人能濟蹇也;解四為主,卦辭所云往夙吉者指四也,故《彖傳》釋之曰往有功。

『坎』は九五を以て主爻と為す。卦辞の言う所の「有孚維心亨」とはすなわちそれを指す。『離』は六二を以て主爻と為す。『彖伝』の言う所の「柔麗乎中正」とはすなわちそれを指す。六五もまた中に居ると雖も、陰爻を以て陽位に居れば、正を得たりと算せず。ゆえに六五はただ「吉」と言い、而して六二は「元吉」と言う。『咸』は九五を以て主爻と為す。九五の講ずる所は背脊の肉にして、麻木して知覚なく、感応せざれば、まさに交感の難を見す。『恒』は九二を以て主爻と為す。陽剛は中に居りて正を守れば、ゆえに能く中道を長久に保持す。『遯』は九五を以て主爻と為す。すなわち『彖伝』の言う所の「剛当位而応、与時行也」なり。『大壮』は九四を以て主爻と為す。陽気は第四爻に生長して、陽は盛に已極すれば、ゆえに「大壮」と言う。『晋』と『明夷』とは皆五爻を以て主爻と為す。『晋』六五は『彖伝』の言う所の「柔進而上行」、『明夷』六五は『彖伝』の言う所の「内難而能正其志」なり。『家人』は六二を以て主爻と為す。卦辞は「利女貞」と言う。『睽』は六五を以て主爻と為す。『彖伝』は「柔進而上行、得中而応乎剛」と言う。『蹇』は九五を以て主爻と為す。卦辞は「利見大人」と言う、これは言う、九五あの大人は能く険難を濟解す。『解』は九四を以て主爻と為す。卦辞は「有攸往、夙吉」と言うはすなわち四爻を指し、ゆえに『彖伝』は解釈して「往有功也」と言う。

損上為主,《彖傳》所云損下益上、其道上行者也,爻辭言無咎、貞吉、利有攸往,與卦辭略同;益初為主,《彖傳》所云損上益下、其道大光者。夬上為主,五陽決上一陰也;姤初為主,五陽下遇一陰也。萃五為主,卦辭言利見大人,見九五也;升二為主,卦辭言用見大人,見九二也。困井皆五為主,困五為大人,困不失其亨;井五為寒泉,井養而不窮。革五為主,言大人有革權也;鼎五為主,《彖傳》曰柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。震初為主,震動於下也;艮上為主,艮止於終也。

『損』は上九を以て主爻と為す。すなわち『彖伝』の言う所の「損下益上、其道上行」なり。上九の爻辞は「无咎、貞吉、利有攸往」と言い、卦辞と大致相同じて、まさに主爻の通例に合す。『益』は初九を以て主爻と為す。すなわち『彖伝』の言う所の「損上益下、其道大光」なり。『夬』は上六を以て主爻と為す。五個の陽爻は合力して上面の此の一陰を決去す。『姤』は初六を以て主爻と為す。五個の陽爻は上に在りて下面の此の一陰に遇着す。『萃』は九五を以て主爻と為す。卦辞は「利見大人」と言う、すなわち九五を指す。『升』は九二を以て主爻と為す。卦辞は「用見大人」と言う、すなわち九二を指す。『困』と『井』とは皆五爻を以て主爻と為す。『困』九五は身は困境に陷りて仍ほ亨通を失わざるの大人にして、『井』九五は「井冽寒泉食」にして、人を養いて窮竭せざるなり。『革』は九五を以て主爻と為す。これは言う、ただ大人のみ変革の権を握有す。『鼎』は六五を以て主爻と為す。『彖伝』は「柔進而上行、得中而応乎剛、是以元亨」と言う。『震』は初九を以て主爻と為す。雷は下面より動起するなり。『艮』は上九を以て主爻と為す。止は最末一爻に於いて止するなり。

漸五為主,《彖傳》曰剛得中;歸妹五為主,帝王歸妹,以歸為正,與卦義相反。豐五為主,乃卦辭所云日中也;旅五為主,《彖傳》所謂柔得中乎外而順乎剛者;巽四為主,乃卦辭所云利有攸往、利見大人者;兌初為主,言初獨與陰遠,得兌說之正。渙五為主,《彖傳》曰王假有廟,王乃在中,五為王也;節五為主,《彖傳》曰當位以節,中正以通。中孚四為主,卦名中孚,由於三四,而四得位,五為天位,四孚應之,此《彖傳》所云應乎天者;小過五為主,《彖傳》云柔得中,小事吉,指五也。既濟二為主,卦辭所云初吉者;未濟五為主,《彖傳》所云柔得中者。

『漸』は九五を以て主爻と為す。『彖伝』は「剛得中也」と言う。『帰妹』は六五を以て主爻と為す。帝王は女を下嫁し、出嫁を以て正理と為すは、全卦の譏刺する所の不正の帰とまさに相対照を成す。『豊』は六五を以て主爻と為す。すなわち卦辞の言う所の「宜日中」なり。『旅』は六五を以て主爻と為す。すなわち『彖伝』の言う所の柔爻は外体に於いて中に居りて剛爻に順従するなり。『巽』は六四を以て主爻と為す。すなわち卦辞の言う所の「利有攸往、利見大人」なり。『兑』は初九を以て主爻と為す。初爻は上面の陰爻を離るること最も遠く、陰柔の媚を受けず、最も和悦にして其の正を失わざるの本義に合すればなり。『渙』は九五を以て主爻と為す。『彖伝』は「王假有廟、王乃在中也」と言い、五爻はすなわち此の王なり。『節』は九五を以て主爻と為す。『彖伝』は「当位以節、中正以通」と言う。『中孚』は六四を以て主爻と為す。卦名は「中孚」と曰い、三・四両爻の中に居りて虚なるより来り、而して四爻は位に当たる。五爻は天位にして、四爻は誠信を以て五に上応す。これはすなわち『彖伝』の言う所の「乃応乎天也」なり。『小過』は六五を以て主爻と為す。『彖伝』は「柔得中、是以小事吉也」と言う、すなわち五爻を指す。『既済』は六二を以て主爻と為す。すなわち卦辞の言う所の「初吉」なり。『未済』は六五を以て主爻と為す。すなわち『彖伝』の言う所の「柔得中也」なり。

往来左右

自下之上曰往,自上之下曰來,上往為順,下來為逆,往前為右,來後為左。豐三折其右肱,言往前遇互兌之毀也;明夷四之入于左腹,言退後避上夷也。

爻は下位より上位に移るを「往」と言い、上位より下位に移るを「来」と言う。上に向かって走るを順と為し、下に向かって走るを逆と為す。往きて進むの一側を右と算し、退きて後に返るの一側を左と算す。ゆえに『豊』九三は「折其右肱」と言う、これは言う、往きて進めば互体の兑卦に碰上し、兑は毁折を主れば、因りて右の臂を傷つ。『明夷』六四は「入于左腹」と言う、これは言う、後に退避して、上爻あの光明を戕害する人を躲开す。

大小体

頤體象大離,故初言靈龜;大過體象大坎,故上言滅頂。觀象兼畫之艮,故卦辭言廟祀;大壯象兼畫之兌,故爻辭言羝羊。餘可類推。

いわゆる「大小体」とは、陽は大にして陰は小なり。陽爻は大きく一個の陽爻を以て主と為す卦は「大」に属し、陰爻は小さく一個の陰爻を以て主と為す卦は「小」に属す。例えば『大有』は一陰を以て五陽を統有するは、所有する所の物は大なれば「大」なり。『小畜』は五陽を以て一陰を畜止するは、畜止する所の対象は小なれば「小」なり。

互体

互體者,除初上兩爻,取中四爻互觀之。乾坤陰陽純,既濟未濟陰陽分,四卦無互象,餘皆有之,詳後圖中。

いわゆる「互体」とは、一卦の中間の四爻の上下交互して成る所の別の一卦なり。初爻と上爻とを除き、二・三・四爻は一卦を為り、三・四・五爻はまた一卦を為る。此の両卦は本卦の中に交互相嵌せるは、すなわち互体なり。互体は以て卦中の隠含するの情理を推究するに用いる可し。

数目

畫卦以三起數,故經中泛言數目皆曰三,如三錫、三狐之類。至於陽數則言九七,如震之九陵、復之七日是也;陰數則用二十,如損之二簋、屯之十年是也。

いわゆる「数目」とは、爻位の高低の等第の数を指す。初・二・三・四・五・上はすなわち爻位の序数にして、初爻は下に在りて最も卑しく、上爻は上に在りて最も尊し。九・六は則ち爻画の陰陽の数にして、九は陽、六は陰なり。卦爻の辞句の中に「九三」「六四」のごとく言うは、皆此の数目を用いて爻位を標明するなり。

承

下承上曰承。否之包承,二承三也;歸妹相承,初承二也。

いわゆる「承」とは、下の爻が上の爻を承受し奉承するの謂なり。陰爻は陽爻の下に居りて之を承うは、すなわち卑が尊を承するの義なり。例えば『節』六四の『象伝』は「承上道也」と言い、上の九五を承奉承するを指す。

乘

上乘下曰乘。屯二乘剛,乘初也;豫五乘剛,乘四也。夬之柔乘五剛,是以一陰乘五陽;歸妹之柔乘剛,又是震以二陰下乘一陽,兌以一陰下乘二陽也。

いわゆる「乘」とは、上の爻が下の爻の上に騎臨するの謂なり。陰爻は陽爻の上に居りて之を乘ずるは、すなわち柔が剛を乘ずるなり。経伝の中に「乘剛」と言うは、多く陰爻が陽爻の上に居るの不利を指す。

敵

陽對陽、陰對陰曰敵。八純卦六爻皆陰陽相敵,而《彖傳》惟於艮卦指其例者,為敵於艮背之義尤切也。同人二曰敵剛,言九三與初九敵,此陽對陽也;中孚三曰得敵,荀慈明謂三敵四,此陰對陰也。

いわゆる「敵」とは、上下相応すべき両爻の同性相拒するを指す。初と四・二と五・三と上とは、本と当に一陰一陽にして相応和すべきも、若し両爻俱に陽或いは俱に陰なれば、則ち相対峙して「敵」と為り、応和を成す能わず。

応

陽應陰、陰應陽曰應。初四相應,二五相應,三上相應,如恆與未濟《彖傳》皆言剛柔應,是其例也。又有一陽得位而眾陰應之、一陰得位而眾陽應之者,比與大有《彖傳》皆言上下應,此又非一爻應一爻之例。至於相近相鄰之爻,先儒名之曰比,而不見於經文,故置之。

いわゆる「応」とは、上下相応すべき両爻の陰陽相和するを指す。初爻は四爻と応し、二爻は五爻と応し、三爻は上爻と応す。一陰一陽は相感応して、すなわち「応」有りと為す。経伝の中に「剛応」「応乎剛」のごとく言うは、皆此の義を取るなり。

八卦次序図

《說卦傳》曰:乾天也,故稱乎父;坤地也,故稱乎母;震一索而得男,故謂之長男;巽一索而得女,故謂之長女;坎再索而得男,故謂之中男;離再索而得女,故謂之中女;艮三索而得男,故謂之少男;兌三索而得女,故謂之少女。按:乾為老陽稱父,坤為老陰稱母。索,求也。震坎艮為少陽,巽離兌為少陰。坤求乾初為震,故曰長男;乾求坤初為巽,故曰長女;坤求乾中為坎,故曰中男;乾求坤中為離,故曰中女;坤求乾上為艮,故曰少男;乾求坤上為兌,故曰少女。

伏義の八卦を画くの次序は、乾一・兑二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八にして、此の図に載す所の如し。陽儀の上に一陽を加えれば則ち乾を得、一陰を加えれば則ち兑を得。陰儀の上に一陽を加えれば則ち離を得、一陰を加えれば則ち震を得。陽儀の上に再び一陽を加えれば則ち巽を得、一陰を加えれば則ち坎を得。陰儀の上に再び一陽を加えれば則ち艮を得、一陰を加えれば則ち坤を得。此の図は先儒の所列する所にして、以て八卦の生成の次序を示す。

八卦方位図

《說卦傳》曰:萬物出乎震,震東方也;齊乎巽,巽東南也;離也者明也,萬物皆相見,南方之卦也;乾西北之卦也;坎者水也,正北方之卦也;艮東北之卦也。按:震巽離乾坎艮六卦傳皆明言方位,惟坤兌二卦缺如,而可即此推之。坤卦辭曰西南得朋,蹇卦辭曰利西南,則西南皆指坤言;小畜卦辭曰我自西郊,西郊為互兌,小過爻辭同,隨上六爻辭曰王用亨于西山,西山亦為兌,是坤位西南、兌位正西,考之經文皆非無據也。

後天の八卦の方位は、震は東に居り、兑は西に居り、離は南に居り、坎は北に居り、乾は西北に居り、坤は西南に居り、巽は東南に居り、艮は東北に居るなり。此の方位は『説卦伝』の「帝出乎震」一章に本づきて排定する所にして、万物の出成収蔵は皆四時の推移に随い、四正四隅は各々其の位を得。古人は之を以て方位と気候とを配合して、以て天人相応の理を明かにす。

八卦徳象図

《說卦傳》云:乾為天,坤為地,震為雷,巽為風,坎為水,離為火,艮為山,兌為澤;乾健也,坤順也,震動也,巽入也,坎陷也,離麗也,艮止也,兌說也。按:天地雷風水火山澤為象,健順動入陷麗止說為德。巽象為風,而經文或曰木;坎象為水,而經文或曰泉、曰雨、曰云;離象為火,而經文或曰日、曰電。坎德陷也,而《象傳》多曰險,蓋古人設險多取於水,是陷人無有如水者;離德麗也,《彖傳》祇言明,蓋火必有所麗而後生,火亦物之至明者。則坎險離明皆兼德象為義。

八卦の徳性と取象とは、各々其の大綱ありて、聖人は卦を設けて象を観せば、則ち因りて此の徳象に準拠せり。健・順・動・入・陷・麗・止・説は八卦の徳にして、天・地・雷・風・水・火・山・沢は八卦の象なり。此の図は両者を合わせて列し、学ぶ人をして一卦を觀れば則ち其の徳と其の象とを得しむ。

八卦分配五行図

徐氏曰:八卦以震巽離坤兌乾坎艮為次者,震巽生木,木生火,故離次之;火生土,故坤次之;土生金,故兌乾次之;金生水,故坎次之;水非土亦不能生木,故艮次之。陳氏曰:火氣極熱,物無由而成;水氣極寒,物無由而生;惟土氣最為中和,故金火之交有坤土,水木之交有艮土也。按:舊本有河圖洛書、先天八卦及伏羲六十四卦諸圖,以經文考之,悉與易象無涉,故不復備錄。

徐氏は言う、八卦は震・巽・離・坤・兑・乾・坎・艮の順序に按りて排列するは、五行相生に依据せり。震・巽は木に属し、木は火を生ず。ゆえに離は後に排す。火は土を生ず。ゆえに坤は接ぐ。土は金を生ず。ゆえに兑・乾は接ぐ。金は水を生ず。ゆえに坎は接ぐ。而して水は土なければもまた木を生ずる能わず。ゆえに最後に一個の土に属する艮を安して、再び震木に帰る。陳氏は言う、火気は太熱にして万物は成就する所なく、水気は太寒にして万物は生発する所なし。ただ土気のみ最も中和なるがゆえに、金と火との交接の処に一個の坤土を安し、水と木との交接の処に一個の艮土を安して以て調和す。按ずるに、旧刻本の裏にはまた『河図』『洛書』・先天八卦及び伏羲六十四卦等の図を附有す。経文を拿りて考核すれば、皆『易』の卦象と関わりなし。ゆえにここは再び収録せず。

十二辟卦図

按:漢晉儒者演易,於《彖傳》爻辭多用十二闢卦為母,往來易移,以作詮解。則以此十二卦陰陽類聚,自一卦分之可得數卦,變化神明皆從此生,雖不能處處盡合,而於陰陽消息之幾已推闡盡意。蓋大易專言陰陽虛盈消長之理,聖人每反覆致意,則闢卦實為易象之樞紐。闢,君也,言此十二卦為諸卦之君,故列圖如右以備考核雲。

按ずるに、漢代・晋代の学者は『易』理を推演し、『彖伝』と爻辞とを解釈する時、多く十二辟卦を以て母卦と為し、爻をして上下の間に往来移換せしめて、此に拠りて説を立つ。これは此の十二卦は陰陽は各々自ら一類を聚成し、一卦より分派して出でて好幾個の卦を得る可きを以てなり。種種の変化神妙は皆ここより生出す。處處に皆講ぜらる能くせざると雖も、然れども陰陽消長の幾微の処に対しては已に甚だ透徹に闡発せり。『周易』の講ずる所は本と陰陽盈虚消長の道理にして、聖人は反復して此に致意す。ゆえに辟卦は実に『易』象の枢紐なり。「辟」はすなわち君の意思にして、此の十二卦は乃ち其の余の各卦の君主なるを言う。因りて図を右に列して、以て查考に備う。

八卦納甲図

納甲者,蓋以月光之盈虛比附卦象之陰陽。震象初生之月,昏居庚方,故震納庚;兌象上弦之月,昏居丁方,故兌納丁;艮象將盡之月,曉居丙方,故艮納丙;巽象下弦之月,曉居辛方,故巽納辛。月之盈象乾,月之滅象坤,月盈則昏見於甲,月滅則曉見於乙;月盈外明內暗象離,月滅內明外暗象坎,故乾納甲兼壬,與離同;坤納乙兼癸,與坎同。漢魏諸儒演易多用此以釋西南得朋諸卦辭,固近穿鑿,然其源甚遠,而己日乃革、雖旬無咎之文,非納甲亦不能明,故附此圖雲。

「納甲」此の一套の弁法は、月亮の盈虧出没の方位を拿りて卦象の陰陽を比附するなり。初生の新月は黄昏時に庚の方位に出現し、震は初月を象れば、ゆえに震は庚を納す。上弦月は黄昏時に丁の方位に在り、兑は上弦を象れば、ゆえに兑は丁を納す。将尽の残月は清晨に丙の方位に見ゆ、艮は残月を象れば、ゆえに艮は丙を納す。下弦月は清晨に辛の方位に在り、巽は下弦を象れば、ゆえに巽は辛を納す。満月は乾を象り、晦月は坤を象る。月は圓る時は黄昏に甲方に見え、月は尽くる時は清晨に乙方に見ゆ。満月は外明内暗にして離に像し、晦月は内明外暗にして坎に像す。ゆえに乾は甲を納して兼ねて壬を納し、離と相同じ。坤は乙を納して兼ねて癸を納し、坎と相同じ。漢魏の諸儒が『易』を解するに多く此の一套の弁法を用いて「西南得朋」の類の卦辞を講ずるは、固より穿鑿に近しと雖も、然れども其の来源は甚だ古し。而して『革』卦の「己日」変革・『豊』卦の「雖旬无咎」此の類の文字を講ずるは、納甲を用いざれば亦た講じ明かす能わず。ゆえに此の図を附上す。

文王序卦図

卦有正對反對交對。交對者,謂上卦與下卦顛倒互見;反對者,謂正觀之成一卦,反觀之又成一卦;正對者,謂兩卦對觀,陽對陰、陰對陽也。文王序卦惟用反對,其不能反對者則用正對。上下經正對者止八卦,乾坤、坎離、頤大過、中孚小過是也,其餘五十六卦皆為反對。上經正對卦凡六,反對卦二十有四;下經正對卦凡二,反對卦三十有二。正對卦不變,反對卦俱變。上經二十四反對卦變為十二卦,合六正對卦計之,得卦十八;下經三十二反對卦變為十六卦,合二正對卦計之,亦得卦十八。朱子謂上下經卦數多寡相均,蓋以此也。

卦の配対は正対・反対・交対の三種あり。交対とは、上卦と下卦との位置を調換して観るなり。反対とは、順に観れば一卦を成し倒して観ればまた別の一卦を成すなり。正対とは、両卦を並観して、此の卦の陽の処は彼の卦に即ち陰と為り、此の卦の陰の処は彼の卦に即ち陽と為るなり。文王の卦序を排定するはただ反対を用い、倒して観るも仍ほ原卦にして反対す可からざるに遇うに、始めて正対を用う。上下経の中に正対に属するはただ八卦のみ、すなわち『乾』『坤』、『坎』『離』、『頤』『大過』、『中孚』『小過』にして、其の余の五十六卦は皆反対を用う。上経の正対の卦は六個、反対の卦は二十四個。下経の正対の卦は二個、反対の卦は三十二個。正対の卦は倒しても変わらず、反対の卦は倒せば則ち別の一卦と変成す。上経の二十四個の反対卦は両両相合してただ十二卦と算し、六個の正対卦を加えれば、共に十八卦を得。下経の三十二個の反対卦は両両相合してただ十六卦と算し、二個の正対卦を加えれば、亦た十八卦を得。朱熹は上下経の卦数の多少は均衡すると言うは、道理はまさにここに在り。

文王孔子演易図

歷代儒者演易,於《彖傳》剛柔往來之文,類取他卦為母,上下移易立解,而間有不合者,以其不專取闢卦乾卦,義例頗亂,頭緒紛然,不能畫一。朱子作卦變圖,亦云凡一陽一陰之卦皆自剝復姤夬來,二陽二陰之卦皆自臨觀遯大壯來,三陽三陰之卦皆自泰否來,其云睽自中孚來、蹇自小過來,而於乾卦亦兼取之。程子雖不信卦變,而解損益爻辭亦不能廢損自泰來、益自否來之說,則知漢儒注經實有師承,源流最遠,深得三聖作易之旨,祇是時值南北朝,屢經兵火,書少完璧,可惜也。

歴代の学者は『易』理を推演し、『彖伝』の裏の「剛来」「柔進」「剛上」「柔下」此の類の文字を解釈する時、大都別に一卦を取りて母卦に当て、爻を上下移換せしめて以て説を立つ。然れども常に講じ通ぜざる処あれば、則ち彼らの専ら辟卦と干卦とを取らざるに因りて、義例混乱して頭緒紛雑し、一致に帰する能わざればなり。朱熹は『卦変図』を作りて、亦た言う、凡そ一陽五陰・一陰五陽の卦は皆『剥』『復』『姤』『夬』より来り、二陽四陰・二陰四陽の卦は皆『臨』『観』『遯』『大壮』より来り、三陽三陰の卦は皆『泰』『否』より来るなり。彼はまた『睽』は『中孚』より来り『蹇』は『小過』より来ると言う。見れば干卦に於いてもまた一并に採用せり。程頤は卦変の説を信信ぜざると雖も、然れども『損』『益』の爻辞を解釈する時にもまた「『損』は自ら『泰』より来り『益』は自ら『否』より来る」の講法を廃棄する能わず。これに由りて知る可し、漢代の学者の経に注するは確かに師承ありて、源流最も古く、深く伏羲・文王・孔子の三位の聖人の『易』を作るの本旨を得たり。ただ惜しむらくは正に南北朝の世に逢い、屢々兵火に遭い、古書は甚だ少く完整に流伝するを得たり。

餘今考先儒箋註,參之經文,則闢卦乾卦,文王繫爻辭取諸此,夫子解彖辭亦取諸此也,故列此圖以通諸家之牖。至於或用爻辰、或用旁通、或用乾坤六子、或用正對反對立說者,悉置之,使歸一轍焉。

我は今、前代の学者の箋注を考察し、再び経文を参照して、辟卦と干卦との此の一路を認定す。正に文王が爻辞を系属する時に依拠する所にして、また孔子が彖辞を解釈する時に依拠する所なり。因りて此の図を列出して、以て各家の説を貫通するの門窓と為す。至りて或る人は爻辰を用い、或る人は旁通を用い、或る人は乾坤六子を用い、或る人は正対反対を用いて以て説を立つるは、ここは一概に擱置して取らず、好んで易例を一途に帰せしめんとす。

八純卦(八卦正体)

三陽為乾,三陰為坤。坤索乾初為震,乾索坤初為巽;坤索乾中為坎,乾索坤中為離;坤索乾上為艮,乾索坤上為兌。因而重之,乾坤震巽坎離艮兌不易原名,故曰純,此先儒所謂不易之易也。

三画全陽なるは乾にして、三画全陰なるは坤なり。坤は乾のあの所に到りて初爻の陽を求めれば則ち震を成し、乾は坤のあの所に到りて初爻の陰を求めれば則ち巽を成す。坤は乾の中爻を求めれば坎を成し、乾は坤の中爻を求めれば離を成す。坤は乾の上爻を求めれば艮を成し、乾は坤の上爻を求めれば兑を成す。此の八個の経卦を各自上下相重ねて六画卦と為れば、名称は仍ほ乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兑と言い、一字も改めず。ゆえに「純卦」と称す。これはすなわち前代の学者の言う所の「不易之易」にして、万変の中の不変のあの一類なり。

乾,乾下乾上,純乾卦。坤,坤下坤上,純坤卦。震,震下震上,純震卦。巽,巽下巽上,純巽卦。坎,坎下坎上,純坎卦。離,離下離上,純離卦。艮,艮下艮上,純艮卦。兌,兌下兌上,純兌卦。

八純卦の卦体は下の如し。『乾』は下体乾・上体乾にして、純乾の卦なり。『坤』は下体坤・上体坤にして、純坤の卦なり。『震』は下体震・上体震にして、純震の卦なり。『巽』は下体巽・上体巽にして、純巽の卦なり。『坎』は下体坎・上体坎にして、純坎の卦なり。『離』は下体離・上体離にして、純離の卦なり。『艮』は下体艮・上体艮にして、純艮の卦なり。『兑』は下体兑・上体兑にして、純兑の卦なり。以上の八卦は上下両体相同なれば、ゆえに卦名は経卦と一样にして、別に新名を立てず。

十二類聚卦(八卦変体)

乾坤重卦純陽純陰,而震巽六子卦既重之後陰陽分錯,皆不能推移。惟復、臨、泰、大壯、夬、姤、遯、否、觀、剝、中孚、小過十二卦陰陽類聚,猶具純卦之體,故聖人推移之以繫易辭。其陽息陰消之卦體象震兌,陰息陽消之卦體象艮巽。先儒謂復臨以下十卦曰辟卦,闢者君也;謂頤、大過、中孚、小過四卦曰乾卦,乾,坎離也。類則為群,聚則宜分,則凡一陽之卦來自剝復,一陰之卦來自姤夬,二陽之卦來自臨觀小過,二陰之卦來自遯大壯中孚,三陽三陰之卦來自泰否。頤與大過雖亦乾卦,而陰陽外峙,中互乾坤,重畫坎離之體,不似中孚小過之純,故與乾坤同屬不易,是以十二卦為闢為乾,其餘四十二卦皆從此推移焉。

『乾』『坤』は上下相重ねた後も仍ほ純陽純陰にして、而して震・巽等の六子卦は相重ねた後は陰陽交錯分散して、皆再び推移を作す能わず。ただ『復』『臨』『泰』『大壮』『夬』『姤』『遯』『否』『観』『剥』『中孚』『小過』の此の十二卦のみは、陰陽は各々一処に聚まりて、いまだ純卦の体段を保留す。ゆえに聖人はそれらを拿りて母卦と為して推移変化して、拠りて『易』辞を系上す。其の中の陽長陰消の幾卦は、卦体は震に像し兑に像す。陰長陽消の幾卦は、卦体は艮に像し巽に像す。前代の学者は『復』『臨』以下の十卦を「辟卦」と称し、「辟」はすなわち君なり。『頤』『大過』『中孚』『小過』の四卦を「干卦」と称し、「干」は坎離を指す。同類は聚まりて一群を成し、聚まりてまた分派し出すべし。凡そ一陽五陰の卦は皆『剥』『復』より推来し、一陰五陽の卦は皆『姤』『夬』より推来し、二陽の卦は『臨』『観』『小過』より推来し、二』より推来し、二陰の卦は『遯』『大壮』『中孚』より推来し、三陽三陰の卦は『泰』『否』より推来す。『頤』と『大過』とは干卦と算すと雖も、然れども両頭は陰陽対峙して中間は互いに乾坤を出すは、重画の坎離の体段にして、『中孚』『小過』の如く純粋ならず。ゆえに『乾』『坤』と同じく不変の列に帰入す。因りて此の十二卦は或いは辟と為り或いは干と為りて、其の余の四十二卦は皆それらより推移して出づるなり。

乾坤分体卦

泰:陽息至三,乾長坤消,陽大陰小,故卦辭曰小往大來;陽升陰降,故《象傳》曰天地交。否:陰息至三,坤長乾消,陰小陽大,故卦辭曰大往小來;陰降陽升,故《象傳》曰天地不交。

『泰』:陽気は第三爻に生長して、乾は一日々々長じ坤は一日々々消し、陽は大にして陰は小、陰は去り陽は来る。ゆえに卦辞は「小往大来」と言う。陽気は上昇し陰気は下降して、両気は交會す。ゆえに『大象伝』は「天地交、泰」と言う。『否』:陰気は第三爻に生長して、坤は一日々々長じ乾は一日々々消し、陰は小にして陽は大、陽は去り陰は来る。ゆえに卦辞は「大往小来」と言う。陰は一味に沈降し陽は一味に上昇して、彼此背離す。ゆえに『大象伝』は「天地不交、否」と言う。

乾坤兼六子体卦

夬:五陽決一陰為乾,卦名夬。夬上猶餘一陰,兼兌體,兌為羊、為口舌,故爻辭曰羊、曰號。姤:乾下遇一陰,卦名姤。姤上五陽,下來一陰,兼巽體,巽為木、為魚,故爻辭曰柅、曰杞、曰魚。

『夬』:五個の陽爻は最上の一陰を決去すれば則ち純乾を成す。ゆえに卦名を「夬」と曰い、夬はすなわち決去なり。『夬』の上面はいまだ一個の陰爻を余し、卦体は兼ねて兑有り。兑は羊と為り口舌と為れば、ゆえに爻辞の裏に「牽羊悔亡」と言い、また惕惧呼号の辞有り。『姤』:乾体は下に在りて一個の陰爻に遇上す。ゆえに卦名を「姤」と曰い、姤はすなわち相遇なり。『姤』は上面に五個の陽爻、下面に一個の陰爻の来る有り、卦体は兼ねて巽有り。巽は木と為り魚と為れば、ゆえに爻辞は「繫于金柅」と言い「以杞包瓜」と言い「包有魚」と言う。

剝:五陰剝一陽為坤,卦名剝。下為五陰,上餘一陽,兼艮體,坤為輿,艮為廬,爻辭曰小人剝廬,言剝落上陽為坤也。復:坤下一陽初生,卦名復。上五陰,下生一陽,兼震體,震位居東,於時為春,於德為仁,二爻《象傳》曰仁,謂震也。

『剥』:五個の陰爻は僅存の一陽を剥尽すれば則ち純坤を成す。ゆえに卦名を「剥」と曰う。下面の五爻は全て陰にして、上面はただ一陽を余し、卦体は兼ねて艮有り。坤は車輿と為り、艮は廬舍と為れば、ゆえに上九の爻辞は「小人剥廬」と言い、意思は上面の此の陽爻を剥落して去れば則ち坤を成すなり。『復』:坤体の下に一陽は初生す。ゆえに卦名を「復」と曰う。上面に五個の陰爻、下面に新生の一陽有り、卦体は兼ねて震有り。震の位は東方に在り、時令に配すれば春天にして、徳性に配すれば仁なれば、ゆえに六二の『象伝』は「休復之吉、以下仁也」と言い、此の「仁」とはすなわち震を指す。

大過:二陰居外,四陽居中,卦名大過,言陽過也。中互重乾,外兼坎體,上應純乾卦,下乾純坎卦,《象傳》言獨立不懼、遯世無悶者,乾象也;爻辭言過涉滅頂者,坎象也。頤:二陽居外,四陰居中,卦名頤,言象口輔也。中互重坤,外兼離體,上應純坤卦,下乾純離卦,《象傳》言養為坤象,蓋坤地萬物皆致養焉;爻辭言靈龜為離象,蓋離為龜也。夫夬姤剝復大過頤六卦,是乾坤兼六子也。一陰一陽之卦皆可自夬姤剝復推移,而頤大過二卦雖具坎離之體,實為互坤互乾,乾坤為不易卦,故此二卦亦無可移也。

『大過』:両個の陰爻は外に在り、四個の陽爻は中に居り、卦名を「大過」と曰う。これは言う、陽は太過なり。中間の四爻は互いに重乾を出し、外形はまた兼ねて坎の体段有り。上辺は純乾に応じ、下辺は純坎に接すれば、ゆえに『大象伝』は「独立不惧、遯世无悶」と言う。これは乾の剛健の象なり。上六の爻辞は「過渉滅頂」と言う。これは坎水の象なり。『頤』:両個の陽爻は外に在り、四個の陰爻は中に居り、卦名を「頤」と曰う。取る所は上下の頤頰の口を張るの形象なり。中間の四爻は互いに重坤を出し、外形は兼ねて離の体段有り。上辺は純坤に応じ、下辺は純離に接すれば、ゆえに『彖伝』は「養」を講ずるは、坤の象にして、大地は万物を一々養育し起こすなり。初九の爻辞は「舍爾霊龜」と言うは、離の象にして、離は龜と為るなり。総じて言えば、『夬』『姤』『剥』『復』『大過』『頤』の此の六卦は、皆乾坤が六子の体を兼帯するなり。凡そ一陰或いは一陽の卦は、皆『夬』『姤』『剥』『復』より推移して来る可し。至りて『頤』『大過』の両卦は、坎離の体段有ると雖も、実際は中間に互出するは坤と乾にして、而して乾坤は不変の卦なれば、ゆえに此の両卦もまた推移する所なし。

重画震卦

臨:此重卦之震也。乾天為生物之本為元,震位東方,於時為春,亦生物之始,故卦辭曰元;儻取兌象,不得雲元矣。

『臨』:これは震卦を放大して重画したるの卦体にして、二陽は下に在り、まさに震の一陽の下に在るが如し。乾天は万物を生養する根本なれば、ゆえに「元」と称す。震の位は東方に在り、時令に配すれば春にして、亦た万物の生発の開端なれば、ゆえに『臨』の卦辞は「元亨利貞」と言い、一個の「元」の字を標出す。仮令ただ下体の兑の象を取らば、則ち此の「元」の字を説き出す能わず。

重画艮卦

觀:此重卦之艮也。艮為門闕,為鬼冥門,故卦辭曰觀盥而不薦,爻辭曰窺觀利女貞也。

『観』:これは艮卦を放大して重画したるの卦体にして、二陽は上に在り、まさに艮の一陽の上に在るが如し。艮は門闕と為り、また幽冥の門と為れば、ゆえに卦辞は宗廟の祭を講じ、「盥而不薦」と言い、ただ酒を灌りて神を降すの礼を行いて牲物を進献せず。六二の爻辞は「窺観、利女貞」と言う、亦た門の縫より窺看するの意思なり。

重画巽卦

遯:此重卦之巽也。巽伏也,有意遯。

『遯』:これは巽卦を放大して重画したるの卦体にして、二陰は下に在り、まさに巽の一陰の下に伏するが如し。巽の徳性は潜伏なれば、ゆえに此の卦は隠退避世の意思を含有す。

故卦曰遯,巽為繩,故爻辭曰繫。

正に隠退の義を取るがゆえに、卦名を「遯」と曰い、すなわち退避なり。巽はまた繩索と為れば、ゆえに九三・九四の爻辞は「繫遯」と言い、繩索を用いて牽繫して、退避は成らざるなり。

重画兑卦

大壯:此重卦之兌也。兌為羊,故爻辭曰羝羊觸籓、喪羊于易。

『大壮』:これは兑卦を放大して重画したるの卦体にして、四陽は下に在り二陰は上に在り、上半はまさに兑の一陰の上に在るが如し。兑は羊と為れば、ゆえに爻辞は「羝羊触籓」と言い、公羊は角を以て籬笆を頂く、進退両難なり。また「喪羊于易」と言い、田畔の辺上に於いて羊を喪失す。

重画坎卦

小過:此重卦之坎也。坎為陷,為弓,故爻辭曰弋、曰穴。

『小過』:これは坎卦を放大して重画したるの卦体にして、中間に二陽、上下各々二陰有り、まさに坎の一陽の両陰の中に陷るが如し。坎は坑陷と為り、また弓と為れば、ゆえに六五の爻辞は「公弋取彼在穴」と言い、繩を繫えた箭を以て洞穴の裏に躲蔵する物を射取す。「弋」は弓の象を取り、「穴」は陷の象を取る。

重画離卦

中孚:此重卦之離也。離體中虛象舟,故卦辭曰涉川;內外卦之中爻皆實,故卦名孚。

『中孚』:これは離卦を放大して重画したるの卦体にして、中間に二陰、上下各々二陽有り、まさに離の中間虚空なるが如し。離の体は中虚にして、一条の空心の船に像すれば、ゆえに卦辞は「利渉大川」と言う。而して内外両個の経卦の中爻は皆実の陽爻にして、中心は充実すればすなわち誠信なれば、ゆえに卦名を「孚」と曰う。

自泰来者凡九卦

恆:泰初往升四,四來降初,曰恆,《彖傳》曰剛上而柔下,雷風相與。井:泰初往升五,五來降初,曰井,井卦辭曰改邑不改井,無喪無得,往來井井。蠱:泰初往升上,上來降初,曰蠱,蠱《彖傳》曰剛上而柔下。豐:泰二往升四,四來降二,曰豐,豐《彖傳》曰天地盈虛,與時消息。既濟:泰二往升五,五來降二,曰既濟,爻辭曰婦喪其茀、東鄰殺牛。

『恒』:『泰』卦の初九は上昇して四位に到り、六四は下降して初位に到れば、則ち『恒』を成す。ゆえに『恒』の『彖伝』は「剛上而柔下、雷風相與」と言う。『井』:『泰』の初九は上昇して五位に到り、六五は下降して初位に到れば、則ち『井』を成す。ゆえに『井』の卦辞は「改邑不改井、无丧无得、往来井井」と言い、村邑は遷す可くして水井は遷す可からず。『蠱』:『泰』の初九は上昇して上位に到り、上六は下降して初位に到れば、則ち『蠱』を成す。ゆえに『蠱』の『彖伝』は「剛上而柔下」と言う。『豊』:『泰』の九二は上昇して四位に到り、六四は下降して二位に到れば、則ち『豊』を成す。ゆえに『豊』の『彖伝』は「天地盈虚、与時消息」と言う。『既済』:『泰』の九二は上昇して五位に到り、六五は下降して二位に到れば、則ち『既済』を成す。ゆえに爻辞に「婦喪其茀」「東鄰殺牛」の文有り。

賁:泰二往升上,上來降二,曰賁,賁《彖傳》曰柔來而文剛,分剛上而文柔。歸妹:泰三往升四,四來降三,曰歸妹,歸妹《彖傳》曰天地不交而萬物不興,爻辭曰歸妹以須,反歸以娣。節:泰三往升五,五來降三,曰節,節《彖傳》曰天地節而四時成,節以制度,不傷財,不害民。損:泰三往升上,上來降三,曰損,損《彖傳》曰損下益上,其道上行,又曰損剛益柔有時,爻辭曰三人行則損一人,一人行則得其友。

『賁』:『泰』の九二は上昇して上位に到り、上六は下降して二位に到れば、則ち『賁』を成す。ゆえに『賁』の『彖伝』は「柔来而文剛、分剛上而文柔」と言う。『帰妹』:『泰』の九三は上昇して四位に到り、六四は下降して三位に到れば、則ち『帰妹』を成す。ゆえに『帰妹』の『彖伝』は「天地不交而万物不興」と言い、爻辞は「帰妹以須、反帰以娣」と言い、姐姐は遅々として等待し、反って妹妹が随嫁す。『節』:『泰』の九三は上昇して五位に到り、六五は下降して三位に到れば、則ち『節』を成す。ゆえに『節』の『彖伝』は「天地節而四時成、節以制度、不傷財、不害民」と言う。『損』:『泰』の九三は上昇して上位に到り、上六は下降して三位に到れば、則ち『損』を成す。ゆえに『損』の『彖伝』は「損下益上、其道上行」と言い、また「損剛益柔有時」と言い、六三の爻辞は「三人行則損一人、一人行則得其友」と言う。

自否来者凡九卦

益:否初往升四,四來降初,曰益,益《彖傳》曰損上益下,民說無疆,自上下下,其道大光,又曰天施地生,其益無方。噬嗑:否初往升五,五來降初,曰噬嗑,噬嗑《彖傳》曰剛柔分,又曰柔得中而上行。隨:否初往升上,上來降初,曰隨,隨《彖傳》曰剛來而下柔。渙:否二往升四,四來降二,曰渙,渙《彖傳》曰剛來而不窮,柔得位乎外而上同。未濟:否二往升五,五來降二,曰未濟,未濟《象傳》曰君子以辨物居方。

『益』:『否』卦の初六は上昇して四位に到り、九四は下降して初位に到れば、則ち『益』を成す。ゆえに『益』の『彖伝』は「損上益下、民説无疆、自上下下、其道大光」と言い、また「天施地生、其益无方」と言う。『噬嗑』:『否』の初六は上昇して五位に到り、九五は下降して初位に到れば、則ち『噬嗑』を成す。ゆえに『噬嗑』の『彖伝』は「剛柔分」と言い、また「柔得中而上行」と言う。『随』:『否』の初六は上昇して上位に到り、上九は下降して初位に到れば、則ち『随』を成す。ゆえに『随』の『彖伝』は「剛来而下柔」と言う。『渙』:『否』の六二は上昇して四位に到り、九四は下降して二位に到れば、則ち『渙』を成す。ゆえに『渙』の『彖伝』は「剛来而不窮、柔得位乎外而上同」と言う。『未済』:『否』の六二は上昇して五位に到り、九五は下降して二位に到れば、則ち『未済』を成す。ゆえに『未済』の『大象伝』は君子は事物を辨别して各々其の所に居らしむべしと言う。

困:否二往升上,上來降二,曰困,困爻辭曰朱紱方來,又曰困于赤紱。漸:否三往升四,四來降三,曰漸,漸《彖傳》曰進得位往有功也,進以正可以正邦也。旅:否三往升五,五來降三,曰旅,旅《彖傳》曰柔得中乎而順乎剛。咸:否三往升上,上來降三,曰咸,咸《彖傳》曰柔上而剛下,二氣感應以相與。

『困』:『否』の六二は上昇して上位に到り、上九は下降して二位に到れば、則ち『困』を成す。ゆえに『困』九二の爻辞は「朱紱方来」と言い、九五の爻辞は「困于赤紱」と言う。『漸』:『否』の六三は上昇して四位に到り、九四は下降して三位に到れば、則ち『漸』を成す。ゆえに『漸』の『彖伝』は「進得位、往有功也、進以正、可以正邦也」と言う。『旅』:『否』の六三は上昇して五位に到り、九五は下降して三位に到れば、則ち『旅』を成す。ゆえに『旅』の『彖伝』は柔爻は外体に於いて中に居りてまた剛爻に順従すると言う。『咸』:『否』の六三は上昇して上位に到り、上九は下降して三位に到れば、則ち『咸』を成す。ゆえに『咸』の『彖伝』は「柔上而剛下、二気感応以相与」と言う。

自夬姤来者凡四卦

同人:姤初往升二,夬上來降二,曰同人,爻辭二五曰同人,言相應也;初上亦曰同人,言俱與二相易也。履:姤初往升三,夬上來降三,曰履,履爻辭初曰素履往,言自姤往也;上九曰視履考祥,其旋元吉,言自夬旋轉也。小畜:姤初往升四,夬上來降四,曰小畜,小畜《彖傳》曰柔得位而上下應之。大有:姤初往升五,夬上來降五,曰大有,大有《彖傳》曰柔得尊位大中而上下應之。

『同人』:『姤』卦の初六は上昇して二位に到り、『夬』卦の上六は下降して二位に到れば、則ち『同人』を成す。ゆえに二爻・五爻の爻辞は皆「同人」と言うは、二五の相応を講ずるなり。初爻・上爻もまた「同人」と言うは、それらが皆二爻と互いに位置を換えたることを講ずるなり。『履』:『姤』の初六は上昇して三位に到り、『夬』の上六は下降して三位に到れば、則ち『履』を成す。ゆえに『履』初九の爻辞は「素履往」と言うは、『姤』卦より一路往きて上り来るを指す。上九は「視履考祥、其旋元吉」と言うは、『夬』卦より旋回して下るを指す。『小畜』:『姤』の初六は上昇して四位に到り、『夬』の上六は下降して四位に到れば、則ち『小畜』を成す。ゆえに『小畜』の『彖伝』は「柔得位而上下応之」と言う。『大有』:『姤』の初六は上昇して五位に到り、『夬』の上六は下降して五位に到れば、則ち『大有』を成す。ゆえに『大有』の『彖伝』は「柔得尊位大中、而上下応之」と言う。

自剥復来者凡四卦

師:復初往升二,剝上來降二,曰師,師《彖傳》曰剛中而應,二應五也;又曰二民從之,言上下陰皆從二,自剝復易也。謙:復初往升三,剝上來降三,曰謙,六爻上為天位,初為地位,謙《彖傳》曰天道下濟而光明,言剝上降為謙三;地道卑而上行,言復初升為謙三也。豫:復初往升四,剝上來降四,曰豫,豫九四爻辭曰由豫,大有得,言九四為豫之由,大得上下眾陰也。比:復初往升五,剝上來降五,曰比,比《彖傳》曰上下應也,言自剝復上下易也。

『師』:『復』卦の初九は上昇して二位に到り、『剥』卦の上九は下降して二位に到れば、則ち『師』を成す。ゆえに『師』の『彖伝』は「剛中而応」と言うは、九二と六五とが相応するを指す。また「而民従之」と言うは、指す所はまさに二爻にして、上下の衆陰は皆それに順従す。これは『剥』『復』の上下交換より来るなり。『謙』:『復』の初九は上昇して三位に到り、『剥』の上九は下降して三位に到れば、則ち『謙』を成す。六爻の中に上爻は天位、初爻は地位なれば、ゆえに『謙』の『彖伝』は「天道下済而光明」と言う、講ずる所は『剥』の上九が降りて『謙』の三爻と為るなり。「地道卑而上行」と言う、講ずる所は『復』の初九が升りて『謙』の三爻と為るなり。『豫』:『復』の初九は上昇して四位に到り、『剥』の上九は下降して四位に到れば、則ち『豫』を成す。ゆえに『豫』九四の爻辞は「由豫、大有得」と言う、これは言う、九四は乃ち全卦の歓楽の由来する所のあの一爻にして、大いに上下の衆陰の帰附を得たり。『比』:『復』の初九は上昇して五位に到り、『剥』の上九は下降して五位に到れば、則ち『比』を成す。ゆえに『比』の『彖伝』は「上下応也」と言う、講ずる所はすなわち『剥』『復』の上下交換より成るなり。

自臨来者凡三卦

屯:臨二往升五,五來降二,曰屯,屯二爻辭曰十年乃字,言與五為婚媾也。明夷:臨二往升三,三來降二,曰明夷,明夷二爻辭夷于左股,言自三退居二也。升:臨初往升三,三來降初,曰升,升爻辭初六曰允升,言自臨初往也。

『屯』:『臨』卦の九二は上昇して五位に到り、六五は下降して二位に到れば、則ち『屯』を成す。ゆえに『屯』六二の爻辞は「十年乃字」と言う、これは言う、それは五爻と婚配を結ぶも、ただ上の十年を待ちて始めて嫁を許す可し。『明夷』:『臨』の九二は上昇して三位に到り、六三は下降して二位に到れば、則ち『明夷』を成す。ゆえに『明夷』六二の爻辞は「夷于左股」と言う、これは言う、それは三位より退居して二位に到りて左の腿を傷つ。『升』:『臨』の初九は上昇して三位に到り、六三は下降して初位に到れば、則ち『升』を成す。ゆえに『升』初六の爻辞は「允升」と言う、これは言う、此の一升はまさに『臨』卦の初爻より往きて上るなり。

自観来者凡三卦

蒙:觀二往升五,五來降二,曰蒙,蒙卦辭曰非我求童蒙,童蒙求我。晉:觀四往升五,五來降四,曰晉,晉《彖傳》曰柔進而上行。萃:觀四往升上,上來降四,曰萃。

『蒙』:『観』卦の六二は上昇して五位に到り、九五は下降して二位に到れば、則ち『蒙』を成す。ゆえに『蒙』の卦辞は「非我求童蒙、童蒙求我」と言い、「我」は九二にして、「童蒙」は六五なり。『晋』:『観』の六四は上昇して五位に到り、九五は下降して四位に到れば、則ち『晋』を成す。ゆえに『晋』の『彖伝』は「柔進而上行」と言う。『萃』:『観』の六四は上昇して上位に到り、上九は下降して四位に到れば、則ち『萃』を成す。

自遯来者凡三卦

訟:遯二往升三,三來降二,曰訟,訟《彖傳》曰剛來而得中也。無妄:遯初往升三,三來降初,曰無妄,無妄《彖傳》曰剛自外來而為主於內。鼎:遯二往升五,五來降二,曰鼎,鼎《彖傳》曰柔進而上行,得中而應乎剛。

『訟』:『遯』卦の九二は上昇して三位に到り、六三は下降して二位に到れば、則ち『訟』を成す。ゆえに『訟』の『彖伝』は「剛来而得中也」と言う。『无妄』:『遯』の初六は上昇して三位に到り、九三は下降して初位に到れば、則ち『无妄』を成す。ゆえに『无妄』の『彖伝』は「剛自外来而為主于内」と言う。『鼎』:『遯』の九二は上昇して五位に到り、六五は下降して二位に到れば、則ち『鼎』を成す。ゆえに『鼎』の『彖伝』は「柔進而上行、得中而応乎剛」と言う。

自大壮来者凡三卦

需:大壯四往升五,五來降四,曰需。大畜:大壯三往升上,上來降三,曰大畜,大畜《彖傳》曰剛上而尚賢。革:大壯二往升五,五來降二,曰革,革《彖傳》曰天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人。

『需』:『大壮』卦の九四は上昇して五位に到り、六五は下降して四位に到れば、則ち『需』を成す。『大畜』:『大壮』の九三は上昇して上位に到り、上六は下降して三位に到れば、則ち『大畜』を成す。ゆえに『大畜』の『彖伝』は「剛上而尚賢」と言う。『革』:『大壮』の九二は上昇して五位に到り、六五は下降して二位に到れば、則ち『革』を成す。ゆえに『革』の『彖伝』は「天地革而四時成、湯武革命、順乎天而応乎人」と言う。

自小过来者凡二卦

蹇:小過四往升五,五來降四,曰蹇,蹇《彖傳》曰利西南,往得中也。解:小過二往升三,三來降二,曰解,解《彖傳》曰其來復吉,乃得中也。

『蹇』:『小過』卦の九四は上昇して五位に到り、六五は下降して四位に到れば、則ち『蹇』を成す。ゆえに『蹇』の『彖伝』は「利西南、往得中也」と言う。『解』:『小過』の六二は上昇して三位に到り、九三は下降して二位に到れば、則ち『解』を成す。ゆえに『解』の『彖伝』は「其来復吉、乃得中也」と言う。

自中孚来者凡二卦

家人:中孚二往升三,三來降二,曰家人,家人《象傳》曰言有物,兌口易為離文也;行有恆,巽股不易也。睽:中孚四往升五,五來降四,曰睽,睽《彖傳》曰柔進而上行,得中而應乎剛。

『家人』:『中孚』卦の九二は上昇して三位に到り、六三は下降して二位に到れば、則ち『家人』を成す。ゆえに『家人』の『大象伝』は「君子以言有物而行有恒」と言う。「言有物」とは、兑の口が離の文明の象に変じたるを以てなり。「行有恒」とは、巽は股と為り、此の一体は始終変動せざるを以てなり。『睽』:『中孚』の六四は上昇して五位に到り、六五は下降して四位に到れば、則ち『睽』を成す。ゆえに『睽』の『彖伝』は「柔進而上行、得中而応乎剛」と言う。

互卦図

漢儒解易多用互卦,蓋本大傳雜物撰德、辨是與非則非中爻不備之義。今為證之經文,質之《春秋傳》卜筮繇辭,酌中理解,則互卦亦說易之一斑也,故又列圖如左雲。

漢代の学者が『易』を解するに多く互卦を用うるは、拠る所は『繋辞伝』の言う所の「雑物撰徳、辨是与非、則非其中爻不備」にして、事物を辨别し是非を判定せんには、中間の幾爻を取りて交互に観るに非ざれば可ならず。如今経文を拿りて印証し、また『左伝』の載する所の卜筮の繇辞を拿りて質証して、折中して求解すれば、見れば互卦もまた『易』を解するの一条の門径なり。因りてまた互卦図を左に列す。

乾,中互重乾。坤,中互重坤。屯,中互艮坤,屯二爻言字、言十年,互坤象也;三爻言舍,互艮象也。蒙,中互坤震,蒙卦辭曰初筮告,言互震為聲音也;三爻曰困,互坤為迷也。需,中互離兌,需二爻曰小有言,互兌為口也;五爻需于酒食,坎水互離象也。訟,中互巽離,訟初爻《象傳》曰辨,前有互離也;四爻曰即命,互巽為命也。師,中互坤震,師五爻曰長子帥師,互震為長子也。比,中互艮坤,比五爻曰失前禽,艮為虎狼、為止,互艮象也。

『乾』は中間四爻の互出するは仍ほ重乾なり。『坤』は中間四爻の互出するは仍ほ重坤なり。『屯』は中互は艮と坤と。六二は「女子貞不字」「十年乃字」と言うは、互坤の象にして、坤は母と為り生育を主る。六三は「君子舎之」と言うは、互艮の象にして、艮は停止を主る。『蒙』は中互は坤と震と。卦辞は「初筮告」と言うは、互震は声音と為りて能く口を開きて相告ぐるを以てなり。六三は困に言及するは、互坤は昏迷を主るを以てなり。『需』は中互は離と兑と。九二は「小有言」と言うは、互兑は口舌と為るを以てなり。九五は「需于酒食」と言うは、坎は水と為り互離は火と為りて、まさに烹飪飲食の象に合す。『訟』は中互は巽と離と。初六の『象伝』は「其辨明也」と言うは、前面に互離の光明有るを以てなり。九四は「復即命」と言うは、互巽は号令と為るを以てなり。『師』は中互は坤と震と。六五は「長子帥師」と言うは、互震は長子と為るを以てなり。『比』は中互は艮と坤と。九五は「失前禽」と言うは、艮は虎狼と為りまた停止を主る、まさに互艮の象なり。

小畜,中互離兌,小畜卦辭曰密雲不雨、自我西郊,兌為雨澤,位居正西,此互兌象也;三爻曰輿說輹,互兌為脫,夫妻反目,互離為目也。履,中互巽離,履三爻曰眇能視,互離象;跛能履,互巽象。泰,中互震兌,泰五爻曰帝乙歸妹,震為長子、為兄,兌為少女、為妹。否,中互巽艮,否初爻曰拔茅,互巽為茅,互艮之手拔之。同人,中互乾巽,同人三爻曰伏戎于莽,互巽為草莽也。大有,中互兌乾,大有三爻曰公用亨于天子,互兌為口,享食象也。

『小畜』は中互は離と兑と。卦辞は「密雲不雨、自我西郊」と言うは、兑は雨沢と為り、方位はまた正西に在り、これはまさに互兑の象なり。九三は「輿説輹」と言うは、車輪は脱落す、互兑は脱を主るを以てなり。また「夫妻反目」と言うは、互離は目と為るを以てなり。『履』は中互は巽と離と。六三は「眇能視」と言うは、互離の目象を取るなり。「跛能履」と言うは、互巽の股象を取るなり。『泰』は中互は震と兑と。六五は「帝乙帰妹」と言うは、震は長子・兄と為り、兑は少女・妹と為りて、まさに兄長が妹を嫁するの象なり。『否』は中互は巽と艮と。初六は「拔茅茹」と言うは、互巽は茅草と為り、互艮は手と為りて、手を用いてそれを拔く。『同人』は中互は乾と巽と。九三は「伏戎于莽」と言うは、互巽は草莽と為りて、以て兵衆を埋伏す可きを以てなり。『大有』は中互は兑と乾と。九三は「公用亨于天子」と言うは、互兑は口と為りて、まさに宴享飲食の象なり。

謙,中互震坎,謙初爻曰涉川,互坎象;五爻曰侵伐,互震象。豫,中互坎艮,豫二爻介于石,互艮為石也;五爻曰貞疾,互坎為疾也。隨,中互艮巽,隨初爻曰出門,互艮為門闕也;上爻曰繫,互巽為繩也。蠱,中互震兌,蠱三爻幹蠱有悔,互震為決躁也;四爻裕蠱見吝,互兌為容說也。臨,中互坤震,臨三爻曰至臨,互震象。觀,中互艮坤,觀二爻曰窺,前為互艮為門也。噬嗑,中互坎艮,噬嗑二爻噬膚滅鼻,互艮為鼻也;三爻曰遇毒,互坎為毒也。

『謙』は中互は震と坎と。初六は「用渉大川」と言うは、互坎の水象を取るなり。六五は「利用侵伐」と言うは、互震の動象を取るなり。『豫』は中互は坎と艮と。六二は「介于石」と言うは、互艮は石と為るを以てなり。六五は「貞疾」と言うは、互坎は疾病を主るを以てなり。『随』は中互は艮と巽と。初九は「出門交有功」と言うは、互艮は門闕と為るを以てなり。上六は「拘係之」と言うは、互巽は繩索と為るを以てなり。『蠱』は中互は震と兑と。九三は「干父之蠱、小有悔」と言うは、互震は躁動決絶にして用力は過剛なるを以てなり。六四は「裕父之蠱、往見吝」と言うは、互兑は柔和容悦にして寛緩因循するを以てなり。『臨』は中互は坤と震と。六三は「甘臨」と言い進みて臨に至るは、互震の前来の象を取るなり。『観』は中互は艮と坤と。六二は「窺観」と言うは、前面はまさに互艮の門にして、ただ門の縫より偷看するのみ。『噬嗑』は中互は坎と艮と。六二は「噬膚滅鼻」と言うは、互艮は鼻と為るを以てなり。六三は「遇毒」と言うは、互坎は毒害を主るを以てなり。

賁,中互震坎,賁三爻曰濡如,互坎水象;四爻曰白馬翰如,互震為馬。剝,中互重坤。復,中互重坤。無妄,中互艮巽,無妄三爻曰繫,互巽之繩象;五爻曰藥,正震為木,互巽為草,互艮為石也。大畜,中互震兌,大畜二爻曰輿脫輹,互兌為脫也;三爻曰輿衛,互震為警衛也。頤,中互重坤,頤《彖傳》曰天地養萬物,聖人養賢以及萬民,養為互坤象。大過,中互重乾,大過二五爻曰老,互乾象;上爻曰頂,亦互乾象,乾為首。

『賁』は中互は震と坎と。九三は「賁如濡如」と言うは、互坎の水潤の象を取るなり。六四は「白馬翰如」と言うは、互震の馬象を取るなり。『剥』は中間四爻の互出するは重坤なり。『復』は中間四爻の互出するは重坤なり。『无妄』は中互は艮と巽と。六三は「或係之牛」と言うは、互巽の繩索の象を取るなり。九五は「无妄之疾、勿薬有喜」と言い、薬に講及するは、正体の震は木と為り互巽は草と為り互艮は石と為りて、木石草薬の象は俱備するを以てなり。『大畜』は中互は震と兑と。九二は「輿説輹」と言うは、互兑は脱落を主るを以てなり。九三は「曰閑輿衛」と言うは、互震は警衛護車の象有るを以てなり。『頤』は中間四爻の互出するは重坤にして、『彖伝』は「天地養万物、聖人養賢以及万民」と言う、此の「養」の字の取る所はまさに互坤の象にして、坤は地と為りて能く万物を生養す。『大過』は中間四爻の互出するは重乾にして、九二・九五は「老夫」「老婦」に言及するは、互乾の象を取り、乾は老と為るなり。上六は「滅頂」と言うは、亦た互乾の象にして、乾は首と為るなり。

坎,中互艮震,坎四爻曰樽、曰簋、曰缶,皆互震象;曰牖,互艮象也。離,中互兌巽,離三爻曰歌、曰嗟,五爻曰涕、曰嗟,皆互兌互巽之象。咸,中互乾巽,咸三爻曰股,互巽象,在互乾之上,乾言出於兌口也。恆,中互兌乾,恆四爻曰無禽,互兌為脫也。遯,中互乾巽,遯三爻曰繫,互巽為繩之象。大壯,中互兌乾,兌為羊,大壯四爻五爻曰羊,皆互兌象也。晉,中互坎艮,晉初爻曰摧如,前有互艮之山也;二爻曰愁如,前有互坎為憂也;四爻曰鼫鼠,亦互艮之象。

『坎』は中互は艮と震と。六四は「樽酒簋貳用缶」と言うは、酒樽・竹簋・瓦缶は皆互震の器用の象なり。また「納約自牖」と言うは、窓牖は互艮の象にして、艮は門戸と為るなり。『離』は中互は兑と巽と。九三は「鼓缶而歌」「大耋之嗟」と言い、六五は「出涕沱若、戚嗟若」と言う。歌唱と嗟嘆とは皆口より出づ、まさに互兑互巽の象なり。『咸』は中互は乾と巽と。九三は「咸其股」と言うは、股は互巽の象にして、まさに互乾の上に処す。而して言語は則ち兑口より出づ。『恒』は中互は兑と乾と。九四は「田无禽」と言うは、打猟して一穫なきは、互兑は脱失を主るを以てなり。『遯』は中互は乾と巽と。九三は「係遯」と言うは、繩を用いて牽繫するは、互巽の繩索の象なり。『大壮』は中互は兑と乾と。兑は羊と為れば、ゆえに九四・六五は皆羊に言及し、皆互兑の象なり。『晋』は中互は坎と艮と。初六は「晋如摧如」と言うは、前面に互艮の高山が横たわりて、進むを得ざるを以てなり。六二は「晋如愁如」と言うは、前面は互坎にして、坎は憂険を主るを以てなり。九四は「晋如鼫鼠」と言うは、鼫鼠は穴居するも、亦た互艮の象なり。

明夷,中互震坎,明夷《彖傳》曰內難,大難中有互坎也;二爻曰馬,亦互坎象;四爻曰出門庭,坎為宮室,震為出。家人,中互離坎,家人二爻曰在中饋,主飲食,水火相濟也。睽,中互坎離,睽上爻曰豕、曰塗、曰鬼、曰狐,皆互坎之象。蹇,中互離坎,蹇四爻曰連,坎連坎也。解,中互坎離,解二爻曰矢,互離象;三爻曰負且乘,互坎正坎象。損,中互坤震,損卦辭曰簋,互坤互震象,坤為器,震為竹也。益,中互艮坤,益初爻大作為農事,巽木艮手持之,入坤田中,震動而耕也。

『明夷』は中互は震と坎と。『彖伝』は「内難而能正其志」と言う。卦中の大難有る所以は、正に内部に互坎の険陷を蔵するに因るなり。六二は馬に言及するも、亦た互坎の象なり。六四は「于出門庭」と言うは、坎は宮室と為り、震は出行を主るなり。『家人』は中互は離と坎と。六二は「在中饋」と言うは、一家の飲食を主持するにして、まさに水火相済・能く烹し能く煮るの象を取るなり。『睽』は中互は坎と離と。上九は豕に言及し塗泥に言及し鬼に言及し狐に言及するは、皆互坎の象にして、坎は豕と為り水泥と為り隠伏と為るなり。『蹇』は中互は離と坎と。六四は「往蹇来連」と言うは、坎険は坎険に接し、一重連ねて一重なり。『解』は中互は坎と離と。九二は「得黄矢」と言うは、箭矢は互離の象にして、離体は中直して矢の如し。六三は「負且乘」と言うは、物を背負いてまた車に坐るは、互坎と正坎の車輿の象を取るなり。『損』は中互は坤と震と。卦辞は「二簋可用享」と言うは、簋は互坤互震の象にして、坤は器皿と為り、震は竹木と為るなり。『益』は中互は艮と坤と。初九は「利用為大作」と言うは、大作はすなわち農事にして、巽木を作して耒耜を成し、艮手はそれを持ちて、坤地の田の中に挿入し、震動して耕すなり。

夬,中互重乾。姤,中互重乾,姤二爻曰不利賓,互乾為賓也。萃,中互巽艮,萃初爻一握,前為互艮也;三爻《象傳》曰上巽,互巽也。升,中互震兌,升四爻曰王用亨于岐山,互兌象,岐山在周西,兌位西,兌為巫、為口舌,亨象。困,中互巽離,困三爻曰妻,互離為中女也;上爻葛藟,互巽象。井,中互離兌,井卦辭曰羸其瓶,互離為瓶,互兌為毀。革,中互乾巽,革三爻曰言,互乾象;上爻《象傳》曰文蔚,互巽象,蓋上應三互巽也。

『夬』は中間四爻の互出するは重乾なり。『姤』は中間四爻の互出するは重乾にして、九二は「不利賓」と言うは、互乾は賓客と為るを以てなり。『萃』は中互は巽と艮と。初六は「一握為笑」と言うは、前面はすなわち互艮にして、艮は手と為れば、ゆえに握手の象有り。六三の『象伝』は「上巽也」と言うは、まさに互巽の柔順を取るなり。『升』は中互は震と兑と。六四は「王用亨于岐山」と言うは、互兑の象を取るなり。岐山は周の西辺に在り、兑の位は正西なり。兑はまた巫と為り口舌と為れば、まさに祭享祝告の象に合す。『困』は中互は巽と離と。六三は「不見其妻」と言うは、互離は中女と為り、すなわち妻なり。上六は「困于葛藟」と言うは、藤蔓は互巽の草木の象なり。『井』は中互は離と兑と。卦辞は「羸其瓶」と言うは、離体は中虚にして瓶に像し、互兑はまた毁折を主れば、ゆえに瓶は破れて水は漏る。『革』は中互は乾と巽と。九三は「革言三就」と言うは、言語は互乾の象なり。上六の『象伝』は「其文蔚也」と言うは、文采は互巽の象にして、上爻は三爻と相応して、而して三爻はまさに互巽の中に在るを以てなり。

鼎,中互兌乾,鼎為金器,取互象而鼎象始備。二爻言仇,互乾兌之金仇離火也;三爻曰雨,四爻曰渥,皆互兌象,兌為澤。震,中互坎艮,震二爻曰九陵,互艮也;四爻曰泥,互坎也。艮,中互震坎,艮三爻曰心,互坎為心;五爻曰言,互震為言。漸,中互離坎,漸初爻曰鴻,互離象;曰乾,互坎象;二爻曰飲食,坎離兼象;三爻五爻曰婦、曰孕,亦皆互離象也。歸妹,中互坎離,歸妹二爻曰眇能視,互離象;五爻曰月幾望,互坎象。

『鼎』は中互は兑と乾と。鼎は金属の器皿にして、互体の象を取りて始めて鼎の形象は斉備するを得。九二は「我仇有疾」と言うは、互乾互兑は皆金に属し、金は離火と互いに仇敵と為るなり。九三は「方雨亏悔」と言い、九四は「其形渥」と言うは、皆互兑の象にして、兑は沢と為り潤湿を主るなり。『震』は中互は坎と艮と。六二は「躋于九陵」と言うは、高陵は互艮の象なり。九四は「震遂泥」と言うは、泥濘は互坎の象なり。『艮』は中互は震と坎と。九三は「其心不快」と言うは、心は互坎に属し、坎は加憂を主るなり。六五は「言有序」と言うは、言語は互震に属し、震は出声を主るなり。『漸』は中互は離と坎と。初六は「鴻漸于干」と言うは、鴻雁は互離の象にして、離は飛鳥と為るなり。水辺の「干」は互坎の象なり。六二は「飲食衎衎」と言うは、兼ねて坎水離火の象を取るなり。九三・九五は「婦」に言及し「孕」に言及するも、皆互離の象にして、離は中女と為るなり。『帰妹』は中互は坎と離と。九二は「眇能視」と言うは、眼目は互離の象なり。六五は「月幾望」と言うは、月亮は互坎の象なり。

豐,中互兌巽,豐二爻曰疑,互巽象;三爻曰沛、曰沬,互巽兌之澤也;曰折者,兌為毀折。旅,中互巽兌,旅二爻曰資,互巽為利;四爻曰斧,互離為兵也。巽,中互離兌,巽二爻用史巫,互兌象;四爻曰田,上爻曰斧,互離象。兌,中互巽離,兌四爻商兌未寧,互巽不果象也。渙,中互艮震,渙三爻曰邱,互艮象;二爻曰奔,互震為行也。節,中互艮震,初二兩爻曰出者,互震也;曰門戶者,互艮也。

『豊』は中互は兑と巽と。六二は疑慮に言及するは、疑は互巽の象にして、巽は進退不定を主るなり。九三は「豊其沛」と言い、上六は「日中見沬」と言うは、皆互巽互兑の水沢昏蔽の象なり。また「折其右肱」と言うは、則ち兑は毁折を主るに因るなり。『旅』は中互は巽と兑と。六二は「懐其資」と言うは、銭財は互巽の象にして、巽は近利市三倍と為るなり。九四は「得其資斧」と言うは、斧は兵器にして、離の戈兵の象を取るなり。『巽』は中互は離と兑と。九二は「用史巫紛若」と言うは、祝史巫覡は互兑の象にして、兑は口舌と為るなり。六四は「田獲三品」と言い、上九は「喪其資斧」と言うは、皆互離の象なり。『兑』は中互は巽と離と。九四は「商兑未寧」と言うは、商量して定まらざるは、まさに互巽の猶豫不果の象なり。『渙』は中互は艮と震と。六三は丘陵に言及するは、互艮の象なり。九二は「渙奔其机」と言うは、奔走は互震の象にして、震は行動を主るなり。『節』は中互は艮と震と。初九・九二は「出」に言及するは、互震の出動の象を取り、「戸庭」「門庭」に言及するは、互艮の門戸の象を取るなり。

中孚,中互艮震,中孚二爻曰鳴鶴在陰,互震為鶴、為鳴;三爻曰或鼓或罷,互震為鼓,互艮為罷;四爻曰馬匹,互震為馬。小過,中互兌巽,小過五爻密雲不雨、自我西郊,互兌為雨,位居西也;公弋取彼在穴,弋為互巽象。既濟,中互離坎,既濟三爻鬼方,互坎象;四爻終日,互離象。未濟,中互坎離,未濟四爻震用伐鬼方,坎為鬼,位居北,此亦互坎象也。

『中孚』は中互は艮と震と。九二は「鳴鶴在陰」と言うは、鶴と鳴叫とは皆互震の象にして、震は発声を主るなり。六三は「或鼓或罷」と言うは、撃鼓は互震にして、罷休は互艮にして、艮は停止を主るなり。六四は「馬匹亡」と言うは、馬は互震の象なり。『小過』は中互は兑と巽と。六五は「密雲不雨、自我西郊」と言うは、互兑は雨沢と為り、方位はまた西辺に在るなり。また「公弋取彼在穴」と言い、繩を繫えた箭を用いて射取するは、「弋」は互巽の象を取り、巽は繩と為るなり。『既済』は中互は離と坎と。九三は「高宗伐鬼方」と言うは、鬼方は互坎の象なり。六四は「終日戒」と言うは、終日は互離の象にして、離は日と為るなり。『未済』は中互は坎と離と。九四は「震用伐鬼方」と言うは、坎は鬼と為り方位は北方に在り、これもまた互坎の象なり。

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