易图明辨
巻十・学易の正宗を論ず(郝敬《談経》《学易枝言》)
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
易図明辨
序(万斯同)
予初讀易,惟知朱子《本義》而已。年垂三十,始集漢魏以後諸家傳注,與裡中同志者講習,乃頗涉其津涯。因嘆朱子篤信邵子之過,而《本義》卷首之九圖為可已也。友人德清胡朏明先生,精於明學,庚辰仲夏,示予以《易圖明辨》十卷,則《本義》之九圖咸為駁正,而謂朱子不當冠於篇首。予讀之大喜,躍然曰:至哉言乎,何其先得我心乎!
私が若いころ《周易》を読んだとき、知っていたのは南宋の朱熹の《周易本義》という一書にすぎなかった。三十歳に近づくころ、ようやく漢・魏以降の諸家の伝注を集め、郷里の志を同じくする人々とともに講習して、やっと易学の門径にわずかに入ることができた。そこで朱熹が北宋の邵雍の学をあまりに篤く信じすぎていること、《周易本義》の巻首に掲げられたあの九つの図は、実はまったく取り去ってよいものだと嘆いた。私の友人で徳清の人、胡渭(字は朏明)先生はこの学にきわめて精しく、康熙庚辰年(三十九年)の仲夏、著わした《易図明辨》十巻を私に見せてくれたが、書中では《周易本義》巻首の九図を一つずつ駁正し、朱熹がそれらを全書の冒頭に冠すべきでなかったと論じていた。私は読んで大いに喜び、躍り上がって言った。なんと徹底した言葉だろう、どうして私の胸に抱いていたことを先に言い当ててくれたのか!
予嘗謂河圖洛書、先天後天、羲文八卦、六十四卦方圓諸圖,乃邵子一家之學,以此為邵子之易則可,直以此為羲、文之易,則大不可。乃朱子恪遵之,反若羲文作易本此諸圖,不亦異乎?夫河圖見於《顧命》《繫辭》《論語》,古固有之,而後世亡之矣。今之自一至十之圖,本出陳希夷,古人未嘗語及,非真河圖也。戴九履一之圖,今之所謂洛書者,見於《漢書·張衡傳》及緯書《乾鑿度》,乃太乙下行九宮圖,非洛書也。後世術家配以一白二黑之數,至今遵用不變,豈果真洛書乎。
私は従来から考えていた。河図洛書、先天図・後天図、伏羲八卦と文王八卦、六十四卦の方図・円図という一連の図式は、みな邵雍一家の学問である。それらを邵雍の易学として扱うならよいが、そのまま伏羲・文王の易学と見なすのは、まったく許されない。ところが朱熹は恭しくそれらを遵奉し、かえって伏羲・文王が《易》を作ったのはこれらの図に基づいていたかのようである。これはおかしくないだろうか。「河図」という名は《尚書・顧命》、《周易・繋辞伝》、そして《論語》に見え、上古に確かにそうしたものがあったが、後世にはとうに亡佚していた。今日流布している一から十までの白黒の点の図は、もともと五代・宋初の道士陳摶(号は希夷先生)が伝え出したもので、古人が言及したことはなく、真の河図ではない。あの「戴九履一」の図、すなわち今人がいう洛書は、《漢書・張衡伝》と緯書《乾鑿度》に見えるもので、もとは「太乙下行九宮」の式図であり、洛書ではない。後世の術数家はさらにそれに一白・二黒などの九星の数を配し、今日まで改めずに用いているが、それが本当に洛書だというのだろうか。
卦止有出震齊巽之位,乃孔子之所繫,而文王周公之遺法也,安得有先天之位?此誰言之而誰傳之?「天地定位」一節,不過言八卦之相錯耳,何曾有東西南北之說,而欲以是為先天卦位乎?此不特先天二字可去,即後天二字亦必不可存。蓋卦位止一而無二,不得妄為穿鑿也。八卦之序,自當以父母六子為次,孔子《繫辭》屢言之,乃舍此不遵,以乾兌離震巽坎艮坤為次,此何理乎?
八卦の方位は、《説卦伝》の「帝出乎震、齊乎巽」の一套しかなく、それは孔子が繋げた伝文であり、文王・周公が伝えた法度であって、どこに「先天の方位」などがありえようか。この説はいったい誰が言い、誰が伝えたのか。《説卦伝》の「天地定位」の一節は、八卦が二つずつ相対し陰陽が交错することを述べたにすぎず、いつ東西南北の方位を説いたことがあろうか。どうしてそれをもって先天卦位などと断定できようか。こう見ると、「先天」の二字を削るべきなだけでなく、「後天」の二字も決して存置してはならない――卦位は一套しかなく第二の套はないからで、むやみに穿鑿附会してはならない。八卦の次序は、もともと乾・坤の父母が震・坎・艮・巽・離・兌の六子を生む順であるべきで、孔子は《繋辞伝》でたびたびこれを説いている。それなのにこの一条を捨てて遵わず、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の配列を用いるとは、どういう理屈か。
太極生兩儀、兩儀生四象、四象生八卦,固出於《繫辭》,而實非生卦之謂也。乾坤生六子,其理顯然,而坤可置於最末乎?三男三女,可錯亂而無序乎?易但有三畫之卦,重之則為六畫,未嘗有二畫四畫五畫之卦也;但有八卦六十四卦,未聞八卦重為十六、十六重為三十二、三十二始重為六十四也。必曰一每生二,以次而加,試問易中曾有是說乎?
「太極生両儀、両儀生四象、四象生八卦」という言葉は確かに《繋辞伝》に出るが、それが説くのは実は卦画を生成する過程ではない。乾・坤が六子を生むこと、その理はきわめて明白だが、先天の次序でどうして坤卦を最後に置けようか。三男三女をどうして秩序なく錯乱させてよいのか。《周易》には三画の経卦があるだけで、それを重ねれば六画の別卦となるのであり、二画・四画・五画の卦などあったためしがない。八卦と六十四卦があるだけで、八卦がまず十六に重なり、十六がさらに三十二に重なり、三十二がようやく六十四に重なったなどとは聞いたことがない。必ず「一が毎に二を生じ、順に倍加する」と言うなら、試しに問おう、《易》の中にかつてそうした説があったか。
至於卦變,惟程蘇二家為可信,古人十闢之說,予猶不敢從。若朱子之《本義》,益為支離。況與《啟蒙》之言不合,一人而持兩說,令學者何所適從?此予必不敢附會者也。凡此諸說,間與友人言之,或然或不然。讀先生此書,一一為之剖析,洵大暢予懷。而其採集之博,論難之正,即令予再讀書十年,必不能到。何先生之學大而能精如此!以此播於人間,易首之九圖即從此永廢可也。四明同學弟萬斯同纂
「卦変」の説については、程頤・蘇軾の二家の説だけが信じるに足る。古人が「十辟卦」から諸雑卦を生じさせたという説も、私はなお遵うに敢えてしない。朱熹《周易本義》に列挙された卦変に至っては、さらに支離滅裂であり、しかも彼自身の《易学啓蒙》の説とも合わない――同じ一人の人間が二つの説を持つのでは、学ぶ者はどちらに従えばよいのか。これは私が断じて附会を敢えてしない点である。以上の見解は、私も平生ときどき友人に語ったことがあり、賛同する者もいればしない者もいた。胡先生のこの書を読むと、一つ一つの問題を剖判し尽くしており、実に私の胸を大いに暢びさせた。そしてその採辑する材料の広博さ、弁難立論の精当さは、私にさらに十年読書させても、きっと及ばない。胡先生の学問は、どうしてここまで博大かつ精深なのか。この書を世に伝え広め、《周易》巻首のあの九つの図がこれ以後永遠に廃棄されるなら、それでよいのである。四明(寧波)の同学弟・万斯同が纂す。
易図明辨題辞
古者有書必有圖,圖以佐書之所不能盡也。凡天文、地理、鳥獸、草木、宮室、車旗、服飾、器用、世系位著之類,非圖則無以示隠賾之形,明古今之制,故詩書禮樂春秋皆不可以無圖。唯易則無所用圖,六十四卦二體六爻之畫,即其圖矣。白黑之點、九十之數、方圓之體、復姤之變,何為哉?其卦之次序方位,則乾坤三索、出震齊巽二章盡之矣,圖可也,安得有先天後天之別?
古人は書物を作れば必ず図を添えた。図は文字で言い尽くせない部分を補うためのものである。およそ天文、地理、鳥獣、草木、宮室、車旗、服飾、器物、および世系や班位の類は、図に画かなければ幽微で分かりにくい形状を示し、古今の制度の差異を説き明かすことができない。だから《詩》《書》《礼》《楽》《春秋》はいずれも図がなくてはならない。ただ《周易》だけは図を用いる必要がない。六十四卦の上下二体・六爻の卦画そのものが、すでにそれ自身の図だからである。あの白黒の点、九と十の数、方図・円図の形体、《復》から《姤》への推変などは、いったい何のためのものか。卦の次序と方位は、《説卦伝》の「乾坤三索」と「帝出乎震、齊乎巽」の二章ですでに言い尽くされており、これに基づいて一幅の図を画くことはできないこともないが、どこに「先天」「後天」の区別などありえようか。
河圖之象自古無傳,從何擬議?洛書之文見於《洪範》,奚闗卦爻?五行九宮初不為易而設,《參同契》先天太極,特借易以明丹道,而後人或指為河圗,或指為洛書,妄矣!妄之中又有妄焉,則劉牧所宗之《龍圖》、蔡元定所宗之《闗子明易》是也,此皆偽書,九十之是非,又何足校乎?故凡為易圖以附益經之所無者,皆可廢也。
河図の形象は古来伝わっていないのに、後人は何をもって臆測し議論するのか。洛書の文字は《尚書・洪範》に見えるが、《周易》の卦爻と何の関係があるのか。五行・九宮という二つの仕組みはもともと《易》のために設けられたものではない。魏伯陽の《周易参同契》が説く先天・太極も、《易》を借りて煉丹の道を説明したにすぎないのに、後人はある者はそれを河図と指し、ある者は洛書と指した。まったく荒唐無稽である。その荒唐無稽の中にさらに荒唐無稽なものがある。それが劉牧が依拠とする《龍図》と、蔡元定が依拠とする《関子明易伝》であり、これらはすべて偽書である。こうであれば、河図が九数か十数か、洛書が十数か九数かといった是非は、どうして争うに値しようか。だからおよそ《周易》に図を配し、経文に本来なかったものを付け加えたものは、みな廃棄してよい。
就邵子四圖論之,則橫圖義不可通,而圓圖別有至理。何則?以其為丹道之所寓也。俞琰曰:先天圖雖易道之緒餘,亦君子養生之切務。人曰丹家之說雖出於易,不過依仿而托之者,初非易之本義,因作《易外別傳》以明之。故吾謂先天之圖與聖人之易,離之則雙美,合之則兩傷。伊川不列於經首,固所以尊聖人,亦所以全陳邵也。觀吾書者,如以為西山之戎首、紫陽之罪人,則五百年來有先我而當之者矣,吾其可末減也夫。康熙丙戌上已,七十四叟東樵胡渭書於顒溪客舍。
邵雍の四つの図について論じれば、横図(八卦次序・六十四卦次序)は義理の上で説が通らないが、円図には別に一層の深い意味がある。なぜか。円図には煉丹の道が寄託されているからである。元の俞琰は言った。先天図は易道の余緒にすぎないが、君子の養生の切要な工夫でもある、と。また彼は、丹家の説は《周易》に出るものの、《易》に依仿し《易》に仮託したにすぎず、本来《易》の本義ではないと言い、だから《易外別伝》を著わしてこの趣旨を明らかにした。それで私は思う。先天図と聖人の《易》は、分かてばそれぞれにその美をなし、合わせればともに傷つく、と。程頤がこれらの図を経文の冒頭に置かなかったのは、もちろん聖人を尊ぶためであったが、同時にまさに陳摶と邵雍を保全したのでもある。私のこの書を読む人が、もし私を蔡元定(西山)を攻撃した元凶、朱熹(紫陽)に罪を犯した罪人と見なすなら、五百年来すでに私に先立ってこの罪名を負った者がいる。私はおそらくまだ軽く発落してもらえるだろう。康熙丙戌年(四十五年)の上巳の日、七十四歳の老翁・東樵胡渭、顒渓の客舎にて記す。
易図明辨序(阮元)
元幼學易,心疑先後天諸圖之說。庚子得毛西河先生全集中《河圖洛書原舛篇》,讀之豁然,得其原委。友人歙凌次仲廷堪謂元曰:子知西河之辨易,未見德清朏明先生《易圖明辨》,尤詳備也。元識之,求其書不可得。繼在京師見四庫館書目錄之,曰其書一卷辨河圖洛書,二卷辨五行九宮,三卷辨《參同契》先天圖太極圖,四卷辨《龍圖》《易數鉤隱圖》,五卷辨《啟蒙》圖表,六卷七卷辨先天古易,八卷辨後天之學,九卷辨卦變,十卷辨象數流弊,並引據經典,原原本本,於易學深為有功,元鄉注益切。
私は幼いころ《易》を学び、先天・後天の各種の図の説を心に疑っていた。乾隆庚子年(四十五年)、毛奇齢(号は西河)先生の全集中の《河図洛書原舛篇》を得て、読んで豁然と開け、この図説の来龍去脈をはっきり知った。友人の歙県の凌廷堪(字は次仲)が私に言った。あなたは毛西河が《易》を弁じたことは知っているが、まだ徳清の胡朏明先生の《易図明辨》を見ていない。あの書はいっそう詳しく備えて弁じている、と。私はその言葉を記憶したが、あちこち求めても書を得られなかった。後に都で四庫館の書目を見て、その著録を見た。そこには、この書は巻一に河図洛書を弁じ、巻二に五行九宮を弁じ、巻三に《周易参同契》と先天図・太極図を弁じ、巻四に《龍図》と《易数鈎隠図》を弁じ、巻五に《易学啓蒙》に載る図表を弁じ、巻六・巻七に先天古易を弁じ、巻八に後天の学を弁じ、巻九に卦変を弁じ、巻十に象数の流弊を弁じるとあり、至るところ経典を援引して源流をありのままに述べ、易学にきわめて功労があるとされ、私の向往し注目する気持ちはいよいよ切迫した。
丙辰視學至吳興,始求得讀之,蓋距昔已十六年矣。愧聞道之甚遲,喜斯篇之未泯,亟命其家修板刷印,廣為流傳,以貽學者,因並識其事於篇首。至其圖辨大略,則萬季野先生序言之已盡,茲不贅論。嘉慶元年八月二十八日,浙江督學使者、內閣學士兼禮部侍郎、儀徵後學阮元謹序。
嘉慶丙辰年(元年)、私は学政の身分で呉興に按臨し、ようやくこの書を求めて読むことができた。かつてその名を聞いてからすでに十六年になる。私は道を聞くのが遅すぎたことを恥じ、この書が湮没しなかったことを喜び、急いで胡氏の後人に旧版を修補して刷印させ、広く流布させて後の学者に残すよう命じ、そこでこの事を書の篇首に併せて記した。書中の図を弁じる大旨については、万斯同(字は季野)先生の序がすでにきわめて徹底して説いているので、ここでは多くを言わない。嘉慶元年八月二十八日、浙江督学使者・内閣学士兼礼部侍郎・儀徴の後学阮元、謹んで序す。
跋(伍崇曜)
右《易圖明辨》十卷,國朝胡渭撰。按渭原名渭生,字朏明,一字東樵,德清人。事蹟著撰具見江鄭堂《漢學師承記》,稱先生嘗謂:詩書禮春秋皆不可無圖,惟易無所用圖。六十四卦二體六爻之畫即圖也,八卦之次序方位,乾坤三索、出震齊巽二章盡之矣,安得有先後天之別哉?河圖之象自古無傳,何從擬議?洛書之文見於《洪範》,五行九宮初不為易而設,乃作是書云云。
以上は《易図明辨》十巻、本朝の胡渭の撰である。案ずるに胡渭はもとの名を渭生、字を朏明、また字を東樵といい、浙江徳清の人。彼の生平の事跡と著述は、いずれも江藩(号は鄭堂)の《漢学師承記》に見える。書中に胡先生がかつて言ったと称している。《詩》《書》《礼》《春秋》はいずれも図がなくてはならないが、ただ《周易》だけは図を用いる必要がない。六十四卦の上下二体・六爻の卦画そのものが図である。八卦の次序と方位は、《説卦伝》の「乾坤三索」と「帝出乎震、齊乎巽」の二章ですでに言い尽くされており、どこに先天・後天の区別があろうか。河図の形象は古来伝わらず、何をもって臆測するのか。洛書の文字は《尚書・洪範》に見え、五行・九宮はもともと《易》のために設けられたものではない――そこでこの書を著わした、云々。
又云:洪範古聖所傳,如日月之麗天,有目所共覩,而間有晦盲否塞者,先儒曲說為之害也。漢儒五行傳專主災異,以瞽史矯誣之說,亂彝倫攸敘之經,其害一也;洛書之本文具在《洪範》,宋儒創為黑白之點、方圓之體、九十之位,書也,而變為圖矣,且謂洪範之理通於易,劉牧以九為河圖、十為洛書,蔡元定兩易其名,其害二也;《洪範》原無錯簡,而宋儒任意改竄,移「庶徵王省惟歲」以下為五紀之傳,移「皇斂時五福」至「作汝甲咎」及「三德惟闢作福」以下併為五福六極之傳,其害三也。作《洪範正論》五卷雲雲。其言有足與是書相發明者。
江藩はまた彼の言葉を記している。《洪範》は上古の聖人が伝えたもので、日月が天に懸かるようなものであり、目ある者はみな見ることができる。その間にときどき晦冥不明・阻塞して通じにくいところがあるのは、みな先儒の曲解がもたらした禍である。漢代の儒者の《洪範五行伝》はひたすら災異を説き、巫史の欺罔虚妄の説で、「彝倫攸叙」を説くこの経書を掻き乱した。これが第一の禍である。洛書の本文はもともと《洪範》の中に完全に保存されているのに、宋儒は白黒の点・方円の形体・九数十数の位次を作り出し、もとは「書」(文字)であったものを「図」に変えてしまい、さらに《洪範》の理は《周易》と通じると言い、劉牧は九数をもって河図とし十数をもって洛書とし、蔡元定はまた両者の名称を入れ替えた。これが第二の禍である。《洪範》にもともと錯簡はなかったのに、宋儒は恣意に改動して紊らし、「庶征・王省惟歳」以下を「五紀」の伝文に移し、「皇斂時五福」から「作汝甲咎」まで、および「三徳・惟辟作福」以下を、いっしょに「五福六極」の伝文に移した。これが第三の禍である。このため彼はまた《洪範正論》五巻を作った、云々。これらの言葉はまさに本書と互いに発明し合うものである。
先生篤志經學,著述甚夥,所撰《禹貢錐指》一書,曾呈聖祖御覽,賜「耆年篤學」扁,稽古之榮,至今豔稱之。顧四庫提要著錄是書,與阮文達《國朝儒林傳稿》,均稱視《禹貢錐指》尤為有功經學,則其推崇也至矣。咸豐壬子冬至前一日,南海伍崇曜謹跋。
胡先生は一心に経を治め、著述が多い。撰した《禹貢錐指》一書はかつて康熙皇帝に進呈されて御覧に供し、「耆年篤学」の匾额を賜った。この稽古の栄耀は今日まで人に称羨されている。そして《四庫全書総目提要》が本書を著録し、阮元(諡は文達)が修めた《国朝儒林伝稿》も、いずれもこの書は《禹貢錐指》より経学への功労が大きいと称しており、その推尊が極に達したことが見える。咸豊壬子年(二年)冬至の前一日、南海の伍崇曜、謹んで跋す。
易図明辨目録
卷一 河圗洛書。卷二 五行、九宮。卷三 周易參同契、先天太極。卷四 龍圗、易數鉤隠圗。卷五 啟蒙圗書。卷六 先天古易上。卷七 先天古易下。卷八 後天之學。卷九 卦變。卷十 象數流弊。
全書十巻の目次は次の通り。巻一は「河図洛書」を弁ず。巻二は「五行」と「九宮」を弁ず。巻三は魏伯陽《周易参同契》と「先天図」「太極図」を弁ず。巻四は《龍図》と劉牧《易数鈎隠図》を弁ず。巻五は朱熹《易学啓蒙》に載る図と書を弁ず。巻六は「先天古易」上篇を弁ず。巻七は「先天古易」下篇を弁ず。巻八は「後天の学」を弁ず。巻九は「卦変」を弁ず。巻十は象数の学が流布する中で生じた諸々の弊病を弁ず。
提要
《易圖明辨》十卷,國朝胡渭撰。渭原名渭生,字朏明,號東樵,徳清人。是書專為辨定圖書而作。初,陳摶惟闡易理,衍為諸圖,其圖本凖易而生,故以卦爻反覆研求,無不符合。傳者務神其說,遂歸其圖於伏羲,謂易反由圖而作;又因繫詞河圖洛書之文,取大衍算數作五十五點之圖,以當河圖;取《乾鑿度》太乙九宮法造四十五點之圖,以當洛書。其陰陽竒偶,亦一一與易相應,傳者益神其說,又真以為龍馬神龜之所負,謂伏羲由此而有先天之圖。
《易図明辨》は全部で十巻、本朝の胡渭の撰である。胡渭はもとの名を渭生、字を朏明、号を東樵といい、浙江徳清の人。この書はひとえに「河図洛書」の説を弁定するために作られた。はじめ五代・宋初の陳摶は《周易》の義理を闡発し、それを推衍して一連の図式を作ったにすぎなかった。これらの図はもともと《周易》に依って推演されたものなので、卦爻と反復対照して研求すれば、自然に吻合しないことはなかった。ところが伝授する者たちがひたすらこの説を神秘的に語ろうとし、これらの図を伏羲の名に帰し、《周易》はかえって図に基づいて作られたのだと言った。また《繋辞伝》に「河出図、洛出書」の文字があるのを取り、大衍筮法の算数を取って五十五点の図を作って河図に充て、緯書《乾鑿度》の太乙九宮法を取って四十五点の図を作って洛書に充てた。これらの点数の陰陽・奇偶も至るところ《周易》と相応したので、伝授者はいよいよそれを神奇に語り、ついには本当に龍馬・神亀が背負って出たとまで思い込み、伏羲がこれによってはじめて先天の図を得たと言った。
實則唐以前書絶無一字之符驗,而突出於北宋之初。夫測中星而造儀器,以驗中星無不合,然不可謂中星生於儀器也;候交食而作算經,以驗交食無不合,然不可謂交食生於算經也。由邵子以及朱子,亦但取其數之巧合,而未暇究其太古以來從誰授受,故《易學啟蒙》及《易本義》前九圖皆沿其說,同時袁樞、薛季宣皆有異論。
実際には唐代以前の典籍の中にこれらの図を印証できる字は一つも見つからないのに、それらは突然北宋の初年に現れた。たとえば中星を観測するために儀器を作り、儀器をもって中星を検証すれば合わないことはないが、中星が儀器から生まれたとは言えない。日月の交食を推候して算経を編み、算経をもって交食を検証しても合わないことはないが、交食が算経から生まれたとは言えない。邵雍から朱熹までも、ただこれらの図の数値上の巧合を取っただけで、上古以来いったい誰から誰へ伝わったのかを追及する暇がなかった。だから《易学啓蒙》と《周易本義》巻首の九図はみなこの説を踏襲したのである。朱熹と同時代の袁枢・薛季宣は、いずれも異なる意見を提出していた。
然考《宋史·儒林傳》,《易學啟蒙》朱子本屬蔡元定創稿,非所自撰。《晦庵大全集》中載《答劉君房書》曰:啟蒙本欲學者且就大傳所言卦畫蓍數推尋,不須過為浮說。而自今觀之,如河圖洛書,亦不免尚有剰語。至於《本義》卷首九圖,王懋竑《白田雜著》以文集、語類鉤稽參考,多相矛盾,信其為門人所依附,其說尤明。則朱子當日亦未嘗堅主其說也。元陳應潤作《爻變易蘊》,始指先天諸圖為道家假借易理以為修煉之術,呉澄、歸有光諸人亦相繼排擊,各有論述。國朝毛竒齡作《圖書原舛編》,黃宗羲作《易學象數論》,黃宗炎作《圖書辨惑》,爭之尤力。然皆各據所見抵其罅隙,尚未能窮溯本末,一一抉所自來。
ただ《宋史・儒林伝》を考察すれば、《易学啓蒙》一書は朱熹がもともと蔡元定に起草を委託したもので、自ら撰したのではないことが分かる。《晦庵先生朱文公文集》に《答劉君房書》が載り、そこでは、《易学啓蒙》を作った本意は、学者に《繋辞伝》の説く卦画・蓍数に即して推尋させ、あまり浮泛な議論を多くさせないためであった。今見れば、河図洛書の類の内容にも、なお余計な言葉が残っていたようだ、と言っている。《周易本義》巻首のあの九図については、清の王懋竑が《白田雑著》の中で朱熹の文集と《朱子語類》を鉤稽・比対し、矛盾が多いことを見出し、門人が後で付け加えたものと断定した。この説はとりわけ明白である。これを見ると朱熹も当時、図書の説を断固として主張していたわけではなかった。元の陳応潤は《爻変易蘊》を作り、まず先天諸図は道家が易理を仮借して修錬の術を説いたものと指摘した。呉澄および明の帰有光らも相次いで駁撃を加え、それぞれ論述があった。本朝の毛奇齢は《河図洛書原舛編》を作り、黄宗羲は《易学象数論》を作り、黄宗炎は《図書辨惑》を作り、争弁はいよいよ有力であった。しかし彼らはみなそれぞれ自らの見るところに基づいてその漏洞を攻撃したにすぎず、まだ徹底的にこの説の本末源流を遡り、一つ一つの来歴を暴き出すには至っていなかった。
渭此書,卷一辨河圖洛書,卷二辨五行九宮,卷三辨周易參同、先天太極,卷四辨龍圖、易數鉤隠圖,卷五辨啟蒙圖書,卷六卷七辨先天古易,卷八辨後天之學,卷九辨卦變,卷十辨象數流弊,皆引據舊文,互相參證,以箝依託者之口,使學者知圖書之說,雖言之有故、執之成理,乃修煉術數二家旁分易學之支流,而非作易之根柢。視所作《禹貢錐指》,尤為有功於經學矣。
胡渭のこの書は、巻一に河図洛書を弁じ、巻二に五行九宮を弁じ、巻三に《周易参同契》と先天図・太極図を弁じ、巻四に《龍図》と劉牧《易数鈎隠図》を弁じ、巻五に《易学啓蒙》に附された図書を弁じ、巻六・巻七に先天古易を弁じ、巻八に後天の学を弁じ、巻九に卦変を弁じ、巻十に象数の学の流弊を弁じている。すべて旧来の文献を援引して互いに参証し、古の聖人に仮託する者たちの口を封じ、学者に明白に知らしめた。図書の説は語れば来歴があり、執持すれば自ずから条理をなすように見えるが、実は修錬家と術数家が易学の傍らから分かれ出た支流にすぎず、聖人が《易》を作った根柢ではない。彼の著わした《禹貢錐指》に比べ、この書のほうが経学への功労が大きい。
易図明辨巻一 徳清・胡渭撰
河図洛書
《繫辭傳》曰:古者包犧氏之王天下也,仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文與地之宜,近取諸身,逺取諸物,於是始作八卦,以通神明之德,以類萬物之情。
《周易・繋辞下伝》にいう:上古、伏羲氏が天下を統治していたとき、上を見上げれば天の星象を観察し、下を見下ろせば大地の法則を観察し、鳥獣の体の文様と各地の土宜が生ずる物産を観察して、近くは人の身体に象を取り、遠くは万物に象を取り、そこではじめて八卦を画き、もって神明の徳性を会通し、もって万物の情状を類比した。胡渭がこの経文を全書の冒頭に置いたのは、まさに指摘せんがためである。伏羲が《易》を作るにあたって依拠したのは仰観俯察であって、河図洛書などではない。
朱子曰:俯仰逺近,所取不一,然不過以驗陰陽消息兩端而已。草廬吳氏澄曰:氣之有文者曰象,形之有理者曰法。天有雷風日月,雷風氣也,日月象也,言象可以兼氣;地有水火山澤,水火質也,山澤形也,言形可以兼質。鳥獸之文謂動物,地之宜謂植物。身就人而言,物該服食器用而言。神明,天地之氣象形質,妙而可測、顯而可見者也。德若健順動入陷麗止說,及鼔之散之潤之晅之之屬。萬物,凡動植人器皆是。情,猶言其意義也。
朱熹がいう:仰観俯察し、遠きに取り近きに取ることは、取る対象はそれぞれ異なるが、しかし陰陽の消長という両端を検証するためのものにすぎない。元の草廬先生・呉澄がいう:気の中に文理あるものを「象」といい、形の中に条理あるものを「法」という。天に雷・風・日・月があり、雷風は気に属し、日月は象に属す。「象」といえば気をも併せ包み込む。地に水・火・山・沢があり、水火は質、山沢は形である。「形」といえば質をも併せ包み込む。「鳥獣之文」は動物を指し、「地之宜」は植物を指す。「身」は人の自身についていい、「物」は衣食・器用の類を包摂する。「神明」とは、天地間の気・象・形・質の、微妙にして推測し得、顕豁にして見ることのできる理をいう。「徳」とは、健・順・動・入・陥・麗・止・説という八卦の徳、およびそれを鼓動し、散布し、滋潤し、曝晒する類の作用のことである。「万物」とは、およそ動物・植物・人・器具を皆含める。「情」とは、すなわちそれらの意義をいう。
渭按:易之為書,八卦焉而已。卦各具三畫,上畫為天,下畫為地,中畫為人,三才之道也。羲皇仰觀而得天道,俯觀而得地道,中觀於兩間之萬物而得人道,三才之道黙成於心,故立八卦以象之,因而重之,遂為六十四,所謂兼三才而兩之也。言八卦則六十四卦在其中矣,觀下文所舉離、益、噬嗑等皆因重之卦可知也。夫子言羲皇作易之由,莫備於此。
胡渭の按語:《周易》という書は、帰するところただ八卦にすぎない。各卦はみな三画から成り、上の一画は天を代表し、下の一画は地を代表し、中間の一画は人を代表する。これが天地人の三才の道である。伏羲は仰いで天文を観て天道を得、俯して地理を察して地道を得、中に居って天地の間の万物を観て人道を得、三才の道が黙々と彼の心中に成形したので、八卦を立ててそれを象徴した。さらに八卦を二つずつ重ねれば六十四卦となる。これが《説卦伝》のいう「兼三才而両之」である。八卦を説けば六十四卦はすでにその中に含まれている――《繋辞下伝》の下文に挙げる《離》《益》《噬嗑》などの象を観て器を制した例は、みな重卦を用いているのを見れば明らかである。孔子が伏羲の《易》を作った所以を説いたもので、この段より完備したものはない。
河圗洛書乃仰觀俯察中之一事,後世專以圗書為作易之由,非也。河圗之象不傳,故周易古經及註疏未有列圗書於其前者,有之自朱子《本義》始。《易學啟蒙》屬蔡季通起藁(見《宋史·儒林傳》),則又首本圗書,次原卦畫,遂覺易之作全由圗書,而舍圗書無以見易矣。學者溺於所聞,不務觀象玩辭,而唯汲汲於圗書,豈非易道之一厄乎?
河図洛書は仰観俯察の中の一事にすぎないのに、後世は偏に図書を伏羲が《易》を作った唯一の縁由と見なした。これは誤りである。河図の形象は伝わっていない。だから《周易》の古本経文および歴代の注疏は、かつて図書を経文の前に列したことはない。このやり方があったのは朱熹《周易本義》から始まる。《易学啓蒙》一書は朱熹が蔡元定(字は季通)に起草を委託したもので(《宋史・儒林伝》に見える)、書中ではまた「本図書」を首篇に列し、「原卦画」をその次に置いたので、人々に《周易》の発生は全く図書から出たかのように感じさせ、図書を離れれば《易》を見るすべがないかのようになった。学者は耳目に聞き慣れた説に溺れ、卦象を観て爻辞を玩味する工夫をしようとせず、ただ慌てて図書を追い求める。これは易道の一つの厄運ではないか。
右論伏羲作易之本不專在圗書。
以上の一節は、伏羲が《周易》を創作した根本の依拠は仰観俯察にあり、もっぱら河図洛書にはないことを論証した。
天一,地二;天三,地四;天五,地六;天七,地八;天九,地十。
《繋辞上伝》にいう:天数は一、地数は二。天数は三、地数は四。天数は五、地数は六。天数は七、地数は八。天数は九、地数は十。この十の数のうち、奇数の一・三・五・七・九は天に属し、偶数の二・四・六・八・十は地に属す。宋儒はまさにこの一段を捉えて、それを河図と見なした。
朱子曰:此簡本在第十章之首,程子云宜在此,今從之。此言天地之數,陽奇陰偶,即所謂河圗者也。
朱熹がいう:この一節の簡文はもともと《繋辞上伝》第十章の冒頭にあったが、程頤はここに移すべきだと考えたので、いまは程の説に従う。この段が説くのは天地之数で、陽は奇数、陰は偶数であり、いわゆる河図である。
天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。(伊川先生曰:變化言功,鬼神言用。白雲郭氏曰:變化見於萬物者也,鬼神運於四時者也。)
《繋辞上伝》にいう:天数は五つあり、地数は五つあり、五つの位次は二つずつ相配してそれぞれ会合がある。天数を加えれば二十五、地数を加えれば三十、天地之数は合わせて五十五。これが変化を成就し鬼神を運行させる所以である。(程頤がいう:「変化」は造化の功についていい、「鬼神」は造化の用についていう。白雲先生・郭雍がいう:変化は万物の上に顕現し、鬼神は四時の中を運行する。)
朱子曰:此簡本在大衍之後,今案宜在此。
朱熹がいう:この一節の簡文はもともと「大衍之数」の章の後にあったが、いま考定してここに移すべきである。
平庵項氏安世曰:姚大老云,「天一地二」至「天九地十」,班固《律歴志》及衛元嵩《元包·運蓍篇》皆在「天數五、地數五」之上。今按新安朱先生《易傳》亦用此說,與「天數五」至「行鬼神也」合為一節,置在大衍之首,今從之。
平庵先生・項安世がいう:姚大老(宋人・姚寛)が言った。「天一地二」から「天九地十」までのこの一段は、班固《漢書・律暦志》と北周・衛元嵩《元包・運蓍篇》では、いずれも「天数五、地数五」の前に置かれている。いま新安の朱熹《周易本義》を考察するに、彼もこの説を採用し、それを「天数五」から「行鬼神也」までを一節に合わせて、「大衍之数」章の冒頭に配置したので、いまもこの編次に従う。
渭按:卦者,易之體,所以立;蓍者,易之用,所以行。韓康伯云:卦,象也;蓍,數也。蓍極數以定象,卦備象以盡數。四語劃然分曉。葢象中雖有數,而終以象為主;數中亦有象,而終以數為主。故夫子言數皆主蓍:曰「極數知來之謂占」,曰「參伍以變,錯綜其數」,曰「極其數遂定天下之象」,曰「幽贊於神明而生蓍,參天兩地而倚數」,曰「數往者順,知來者逆,是故易逆數也」,凡此類無一不以蓍言。
胡渭の按語:卦は《易》の本体で、法象を確立するためのもの。蓍は《易》の功用で、占筮を推行するためのもの。晋の韓康伯がいう:卦は「象」に属し、蓍は「数」に属す。蓍は数を窮めてはじめて象を定め、卦は象を備えてはじめてその数を尽くす。この四句は両者をはっきりと分けている。おおよそ象の中に数を含んではいても、終始象を主とし、数の中に象を含んではいても、終始数を主とする。だから孔子が「数」に言及するときは、すべて蓍法についていったのである。「極数知来之謂占」といい、「参伍以変、錯綜其数」といい、「極其数遂定天下之象」といい、「幽賛于神明而生蓍、参天両地而倚数」といい、「数往者順、知来者逆、是故易逆数也」といい、この類の言葉は一つとして蓍策についてのものでないものはない。
而此章尤為明白,舉天地之數正為大衍之數張本。其曰五位者,即五奇五偶,非指天數之中五。一、三、五、七、九同為奇,二、四、六、八、十同為偶,是謂五位相得;一與二、三與四、五與六、七與八、九與十,一奇一偶兩兩為配,是謂各有合。於五行五方曷與焉?於天地生成曷與焉?於河圗洛書又曷與焉?
そしてこの章はとりわけ明白である。天地之数を列挙したのは、まさに下文の「大衍之数」のための張本である。それのいう「五位」とは、五つの奇数と五つの偶数を指すのであって、天数の中の中央に居る「五」を指すのではない。一・三・五・七・九がともに奇数に属し、二・四・六・八・十がともに偶数に属する。これを「五位相得」という。一と二、三と四、五と六、七と八、九と十が、一奇一偶で二つずつ相配する。これを「各有合」という。これが五行・五方と何の関係があろうか。いわゆる「天生地成」の生成之数と何の関係があろうか。河図洛書とまた何の関係があろうか。
又按:章中言數者三:一曰天地之數,二曰大衍之數,三曰萬物之數。葢天地之數為大衍之法所自出,而萬物之數乃二篇之策適相當耳,於畫卦全無交涉。使五位相得而各有合,果為伏羲所則河圗之象,夫子何難一言以明之,曰「此河圗也」,而顧廋辭隠語,使天下後世之人百端推測邪?至其後章雖言河圗,而與洛書並舉,且與神物、變化、垂象比類而陳,文勢語脈遙遙隔絶,又安見此河圗者即前五十有五之數邪?
また按するに、この章で「数」に言及した箇所は合わせて三か所ある。一は天地之数、二は大衍之数、三は万物之数である。天地之数は大衍筮法が出てくる根源であり、万物之数はただ上下二篇・六十四卦の策数がたまたま相当するだけで、画卦とはまったく関わりがない。もし「五位相得而各有合」が本当に伏羲の取り法した河図之象であるなら、孔子が一句「これが河図である」と添えるのに何の難しさがあろうか。どうしてわざわざ隠語で暗示して、天下後世の人にあらゆる手段で推測させる必要があろうか。後の一章では河図に言及しているが、それは洛書と並び挙げられ、しかも「天生神物」「天地変化」「天垂象」などの事柄と排比して述べられており、文勢・語脈は前文と遥かに隔絶している。どうしてここでいう河図が前のあの五十五之数だと断定できようか。
或問:五位以蓍法言之,其相得有合之實,亦有可見者乎?曰:有。一變所餘之策,左一則右必三,左二則右亦二,左三則右必一,左四則右亦四,非奇與奇相得、偶與偶相得乎?二變三變所餘之策,左一則右必二,左二則右必一,左三則右必四,左四則右必三,非一奇一偶兩兩為配而各有合乎?若夫一六、二七、三八、四九、五十之相合,而為天地生成之數、水火木金之象,此後世五行家言,豈易之所有哉?
ある人が問う。いわゆる「五位」を揲蓍の法に即して言えば、その「相得」「有合」の実際の状況は、目に見えるものがあるか。答えていう。ある。第一変で余る策数は、左手に一余れば右手に必ず三余り、左手に二余れば右手にも二余り、左手に三余れば右手に必ず一余り、左手に四余れば右手にも四余る。これはまさに奇と奇が相配し偶と偶が相配する「相得」ではないか。第二変・第三変で余る策数は、左手に一余れば右手に必ず二余り、左手に二余れば右手に必ず一余り、左手に三余れば右手に必ず四余り、左手に四余れば右手に必ず三余る。これはまさに一奇一偶が二つずつ対をなす「各有合」ではないか。一と六、二と七、三と八、四と九、五と十を相配して、天地生成之数・水火木金の象と言うのは、後世の五行家の説であって、《周易》のどこにそんなものがあろうか。
右論天地之數不得為河圗。
以上の一節は、《繋辞伝》の説く天地之数は河図に当てることができないことを論証した。
大衍之數五十,其用四十有九。(兼山郭氏曰:凡數有母、有法、有實。蓍之母,四十九是也;蓍之法,四是也;蓍之實,三十六、二十四、二十八、三十二是也。數有是母,必有法以用之,然後得是實,三者闕一,則蓍道絶矣,此聖人幽贊神明之道也。白雲郭氏曰:是三者之數,莫知所立之後先。謂四十九為先乎,則非法之四,亦不用四十九矣;謂法之四為先乎,則非三十六、二十四、二十八、三十二,亦不用法之四矣。故三者之數,一有一無則蓍之道不立,一先一後則蓍之用不成,惟同冇同立,莫知先後,故其數一本於自然,如環之無端,雖聖人不能加毫末於是矣。)
《繋辞上伝》にいう:大衍之数は五十だが、実際に用いるのは四十九だけである。(兼山先生・郭忠孝がいう:およそ数には「母」があり、「法」があり、「実」がある。蓍法の母は四十九。蓍法の法は四。蓍法の実は三十六・二十四・二十八・三十二という過揲之数である。この母があれば、必ず法があってそれを運用し、そうしてはじめてこれらの実が得られる。三者に一つ欠けても蓍占の道は断絶する。これはまさに聖人が陰に神明を賛助する道理である。白雲先生・郭雍がいう:この三者の数は、どれが先に立ちどれが後に立ったかを知る由もない。四十九が先だと言うが、「四」という法がなければ四十九も用いられない。「四」という法が先だと言うが、三十六・二十四・二十八・三十二という実がなければ「四」も用いるところがない。だからこの三者の数は、一つ有って一つ無くては蓍道は立たず、一先一後では蓍の功用が成立せず、ただ同時に存在し同時に確立して先後の分かれがない。ゆえにその数は完全に自然に本づき、円環に端のないがごとく、聖人といえどもその上に分毫を増添できない。)
分而為二以象兩,掛一以象三,揲之以四以象四時,歸奇於扐以象閏,五歲再閏,故再扐而後掛。(朱子曰:兩,謂天地也。掛,懸其一於左手小指之間也。三,三才也。揲,間而數之也。奇,所揲四數之餘也。扐,勒於左手中三指之兩間也。閏,積月之餘日而成月者也。五歲之間,再積日而再成月,故五歲中凡有再閏,然後別起積分;如一掛之後,左右各一揲而一扐,故五者之中凡冇再扐,然後別起一掛也。又曰:掛一歲,右揲二歲,扐三歲,一閏也;左揲四歲,扐五歲,再閔也。)
《繋辞上伝》にいう:蓍策を二份に分けて天地両儀を象徴し、その中から一策を取り出して挟んで天地人三才を象徴し、四本ずつ数えて四時を象徴し、数え余った余策を指の間に挟んで閏月を象徴し、五年の中に二つの閏月があるので、二度扐に帰した後に再び掛一する。(朱熹の解釈:「両」は天地を指す。「掛」は一策を左手の小指の間に懸け挟むこと。「三」は三才を指す。「揲」は隔てて一組ずつ数えること。「奇」は四四に数え終わった後に残る余数。「扐」は余策を左手の中間三指の指股に勒え挟むこと。「閏」は毎月余った日を積み重ねて一か月とすること。五年の内に二度日を積んで月と成すので、五年中に閏月が二つあり、そうして別に一巡の積分を起こす。ちょうど掛一の後に左右それぞれ一揲し一扐するように、この五つの手順の中に二度の帰扐があり、その後に別に一度掛一する。朱熹はまたいう:掛一は第一年に当たり、右手の揲策は第二年に当たり、帰扐は第三年に当たり、これが第一の閏。左手の揲策は第四年に当たり、帰扐は第五年に当たり、これが第二の閏。)
乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四。(韓氏曰:陽爻六,一爻三十六策,六爻二百一十六策;陰爻六,一爻二十四策,六爻百四十四策。白雲郭氏曰:九六,天地之數也,乾坤之策也;七八出於九六者也,六子之策也,乾坤相索而成者也。)凡三百有六十,當期之日。(朱子曰:少陰退而未極乎虛,少陽進而未極乎盈,故此獨以老陽老陰計乾坤六爻之策數,餘可推而知也。期,周一歲也,凡三百六十五日四分日之一,此特舉成數而槩言之耳。)
《繋辞上伝》にいう:乾卦の策数は二百一十六、坤卦の策数は一百四十四。(韓康伯がいう:乾には六つの陽爻があり、一爻三十六策で六爻合わせて二百一十六策。坤には六つの陰爻があり、一爻二十四策で六爻合わせて一百四十四策。白雲・郭雍がいう:九と六は天地之数であり、すなわち乾坤両卦の策数。七と八は九・六から派生したもので、六子卦の策数であり、乾坤両卦が互いに求索して生成したもの。)両者を合計すれば三百六十で、ちょうど一周年の日数に相当する。(朱熹がいう:少陰は退きながらまだ極虚に至らず、少陽は進みながらまだ極盈に至らないので、ここでは老陽・老陰だけを用いて乾坤六爻の策数を計算し、残りはこれによって推し知ることができる。「期」とは満一年のことで、実際には三百六十五・四分の一日だが、ここでは整数を挙げて概略を言うだけである。)
二篇之策,萬有一千五百二十,當萬物之數也。(二篇謂上下經。凡陽爻百九十二,得六千九百一十二策;陰爻百九十二,得四千六百八策,合之得此數。)是故四營而成易,十有八變而成卦。(四營謂分二、掛一、揲四、歸奇也。易,變易也,謂一變也。三變成爻,十八變則成六爻也。)八卦而小成。(謂九變而成三畫,得內卦也。)引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。(引伸觸類,謂已成六爻而視其爻之變與不變以為動靜,則一卦可變而為六十四卦,以定吉凶,凡四千九十六卦也。)
《繋辞上伝》にいう:上下二篇の策数は合わせて一万千五百二十で、ちょうど万物之数に相当する。(「二篇」とは《周易》の上経と下経を指す。全部の陽爻は合わせて一百九十二で、六千九百一十二策を得る。陰爻は合わせて一百九十二で、四千六百八策を得る。二項を加えればこの数になる。)ゆえに四道の営求を経て一変を成し、十八変して一卦を成す。(「四営」とは分かれて二と為し・掛一・揲之以四・帰奇于扐の四つの手順をいう。「易」とは変易のことで、一変を指す。三変して一爻を成し、十八変して六爻を成す。)八卦して小成す。(九変して三画を得、内卦と成ることを指す。)それを引申して類に触れて推し広めれば、天下にできることはすべて備わる。(「引申触類」とは、六爻がすでに成った後、各爻が変ずるか否かを見て動静を判定すれば、一卦は六十四卦に変じ得て吉凶を断定するのに用い、合わせて四千九十六卦となることをいう。)
朱子曰:大衍之數五十,葢以河圗中宮天五乘地十而得之。至用以筮,則又止用四十有九,葢皆出於理勢之自然,而非人之知力所能損益也。
朱熹がいう:大衍之数が五十なのは、おそらく河図中宮の天数五をもって地数十に乗じて得たのであろう。実際に占筮に用いるに至っては、また四十九本だけを用いる。これはすべて事理・形勢の自然から出たもので、人の智力が増減し得るものではない。
按:大衍之解,康節云:五者,蓍之小衍也,故五十為大衍。漢上云:小衍之五,參兩也;大衍之五十,則小衍在其中矣。此說近是。五十非以河圗中宮天五乘地十而得之,葢古之立數者,凡畸零不用,故於五十五數去其五,亦猶期三百六十五日四分日之一,而去其畸零以為三百有六十也。且蓍草之生,一本百莖,中分之得五十,彼此參會,皆由自然。
胡渭の按語:「大衍之数」の解釈について、邵雍(諡は康節)がいう:五は蓍数の「小衍」で、ゆえに五十を「大衍」という。漢上先生・朱震がいう:小衍の「五」は参天両地之数であり、大衍の「五十」には小衍がすでにその中に包まれている。この説は比較的実情に近い。五十は河図中宮の天五をもって地十に乗じて得たのではなく、古人が数を立てるとき、およそ端数は捨てて用いないので、五十五という数から五を減じたのである。ちょうど一周年は実は三百六十五・四分の一日であるのに、古人も端数を去って三百六十だけを取ったのと同じである。まして蓍草が生長するに、一本に百茎を生じ、それを分かてばちょうど五十を得、両辺が互いに参験会合するのは、みな自然から出たものである。
及其用也,則又止四十有九。王弼云一不用以象太極,妄也,諸家穿鑿附會尤無理。唯鄭康成云:以五十之數,不可以為七八九六卜筮之占,更減其一,故四十有九。是為正義,而李泰伯、郭子和宗之。
実際の使用に至っては、また四十九本だけを用いる。王弼はその一本を用いないのは太極を象徴するためだと言ったが、これは妄説である。その他各家の穿鑿附会はさらに道理がない。ただ鄭玄がいう:五十という数をもっては七・八・九・六という卜筮に用いる爻数を推し出せないので、さらに一本を減じて四十九とする。これこそ正解であって、宋の李覯(字は泰伯)・郭雍(字は子和)がいずれもこの説に遵った。
(子和曰:世俗皆以三多三少定卦象,如是則不必四十九數,以四十五、四十一皆初揲非五則九,再揲三揲非四則八矣,豈獨四十五、四十一為然哉?自三十以上論之,則三十三、三十七、五十三、五十七、六十一、六十五、六十九、七十三、七十七、八十一、八十五、八十九、九十三、九十七,皆可得五九四八多少之象,與四十九數為母者無以異,獨不可得三十六、二十四、二十八、三十二之策數,故蓍數四十九為不可易之道,可易者非聖人之法也。)此正所謂出於理勢之自然,而非人之智力所能損益者,又何必以河圗太極之五一為蓍法之所自出乎?
(郭雍がいう:世俗はみな「三多三少」で卦象を判定するが、このやり方に照らせば、必ずしも四十九本でなくてもよい。四十五本・四十一本を用いても、第一変の余数は五か九であり、第二変・第三変の余数は四か八である。しかも四十五・四十一だけに限らない。三十から上を算えば、三十三・三十七・五十三・五十七・六十一・六十五・六十九・七十三・七十七・八十一・八十五・八十九・九十三・九十七でも、みな五・九・四・八という類の多少之象を得られ、四十九を母数とするのと区別がない。ただ三十六・二十四・二十八・三十二という四つの過揲策数だけは得られない。ゆえに蓍数が四十九を用いるのは更改できない定法である――更改できるなら聖人の法ではない。)これはまさに事理・形勢の自然から出たもので、人の智力が増減し得るものではないという所以である。それなのに、どうして必ず河図中宮の「五」と太極の「一」を蓍法の来由としなければならないのか。
蕭山毛太史奇齡《河洛原舛編》曰:間嘗學易淮西,見鄭康成所注太衍之數,起而曰:此非河圗乎?則又思曰:焉有康成所注圗,而漢代迄今不一引之為據者?則又思大衍所注見於李民《易解》者,干寶、崔憬言人人殊,何以皆並無河圗之言?則又思康成所注大傳,其於「河出圗」句既有成注,何以翻引入春秋緯文(河圗九篇,洛書六篇),而不實指之為大衍之數?於是怳然曰:圗哉圗哉,吾今而知圗之所來矣。摶之所為圗,即大衍之所為注也。
蕭山の毛奇齢太史が《河図洛書原舛編》でいう:かつて私が淮西で《易》を学んだとき、鄭玄の注する大衍之数を見て、躍り上がって言った。これは河図ではないか。続いてまた思った。どうして鄭玄の注した図が、漢代から今に至るまで一人としてそれを引いて根拠とした者がいないのか。さらに思った。鄭玄の大衍への注は李鼎祚《周易集解》に保存されているが、同書に引かれた干宝・崔憬ら各家の説は人ごとに異なるのに、どうして誰も河図に言及しなかったのか。さらに思った。鄭玄は《繋辞伝》を注して、「河出図」の句の下にすでに出来合いの注があるのに、どうしてかえって《春秋緯》の文字を引き入れて(河図に九篇、洛書に六篇があると説く)、それが大衍之数だとは明確に指認しなかったのか。そこで忽然と悟って言った。図よ図よ、今日やっとこの図がどこから来たか分かったぞ。陳摶の造ったあの図は、まさに鄭玄が大衍之数に施したあの注である。
然而大衍之注之斷非河圗者,則以河圗之注之別有在也。大衍之注曰:天地之數五十有五,天一生水在北,地二生火在南,天三生木在東,地四生金在西,天五生土在中。然而陽無耦,陰無妃,未相成也,於是地六成水於北,與天一併(一六在北);天七成火於南,與地二並(二七在南);地八成木於東,與天三並(三八在東);天九成金於西,與地四並(四九在西);地十成土於中,與天五並(五十在中),而大衍之數成焉。
しかし鄭玄のあの大衍の注は断じて河図ではない。彼は「河図」に対して別に注を持っているからである。彼は大衍を注していう。天地之数は合わせて五十五。天一は水を生じて位は北方に居り、地二は火を生じて位は南方に居り、天三は木を生じて位は東方に居り、地四は金を生じて位は西方に居り、天五は土を生じて位は中央に居る。しかし陽数には配偶がなく、陰数には匹配がないので、まだ相互に成就することができない。そこで地六は北方で水を成就し天一と並び列し(一六は北に居る)、天七は南方で火を成就し地二と並び列し(二七は南に居る)、地八は東方で木を成就し天三と並び列し(三八は東に居る)、天九は西方で金を成就し地四と並び列し(四九は西に居る)、地十は中央で土を成就し天五と並び列する(五十は中に居る)――こうして大衍之数が湊成される。
則此所為注,非即摶之所為圗乎?康成但有注而無圗,而摶竊之以為圗;康成之注即可圗,亦非河圗,而摶竊之以為河圗。其根其柢,其曲其裡,明白顯著,可謂極快。然而趙宋元明千年長夜,而及今而始得之,其說有二:
では鄭玄の作ったこの注は、まさに陳摶の画いたあの図ではないか。鄭玄は注だけあって図はなく、陳摶がそれを窃取して図に画いた。鄭玄の注はたとえ図に画けたとしても河図ではなく、陳摶はそれを窃取して河図に冒充した。この図の根柢の所在・内外の曲折は、いまやすべて明白であり、痛快の極みと言える。しかし宋・元・明三代の千年の長夜を経て、今日ようやくそれを撃破した。その原因は二条ある。
一則世之言河圗者亦皆知大衍之數,然第以為河圗之陽二十五點、河圗之陰三十點,與大衍之數一三五七九、二四六八十共成五十有五者,其數相合已耳。而其天生地成、地生天成,或北或南,為水為火,能方能圎,有單有復,按之可為形,指之可為象,則河圗有之,大衍不得而有之也。而孰知大衍之數其為形為象原自如此,而人初不知,其長夜一。
第一に、世の中で河図を講ずる者もみな大衍之数を知っているが、ただ河図の陽点二十五・陰点三十と、大衍之数の中の一三五七九・二四六八十が合わせて五十五となるのは、数値上の相合にすぎないと思っていた。「天生地成・地生天成」に至っては、あるいは北に居りあるいは南に居り、水と為り火と為り、方形にも円形にも排べられ、単があり復があり、それに即せば形状が見え、それを指せば象数が見える――これらは河図にだけあるもので、大衍之数にはあり得ないと考えていた。誰が思ったか、大衍之数が本来このような形と象を具えていたのに、世人は初め何も知らなかったとは。これが第一の長夜である。
一則魏晉以後俗尚王學(謂王弼),而鄭學稍廢,其所遺注第散見於易、詩、書、三禮、春秋疏義及釋文、漢書、文選諸所引注,而迄無成書。故唐惟李鼎祚略採其注於《易解》中,而其在他書,則惟王氏應麟復為彚輯而補於其後。此在劉、邵言易時皆未之見,今摶得其說而不言所自,或亦轉得之他人,而並其所自而亦不之知,皆未可定,則冥冥矣,其長夜二。
第二に、魏晋以降、風気は王弼の学を尊び、鄭玄の学は次第に荒廃し、彼の遺した注は《易》《詩》《書》三《礼》《春秋》の疏義および《経典釈文》、《漢書》注、《文選》注に引かれる形で零星に散見するだけで、ついに成書されなかった。だから唐代には李鼎祚だけが《周易集解》の中にやや彼の注を採録し、他の書に散らばるものについては、宋の王応麟があらためて彙輯して書の後に補っただけである。これらの材料は劉牧・邵雍が《易》を講じたときには見られなかった。いま陳摶が鄭玄の説を得ながら出処を語らないのは、あるいは自ら他人の手から転々と得たもので、来歴すら明らかでなかったのかもしれない――これらはいずれも断定し得ず、ただ一片の模糊を残すのみである。これが第二の長夜である。
乃幸而得白,顯有從來,但當名之為大衍圗,非然則名天地生成圗,非然則名五行生成圗,而斷斷不得名之為河圗。浸假河圗即此圗,則此圗固康成所注者也,其於大傳「河出圗」下,何難直注之曰:所謂河圗,即揲蓍所稱大衍之數,天一地二、天三地四、天五地六、天七地八、天九地十者?而乃又曰:河龍圗發,其書九篇。則豈非衍數河圗截然兩分,數不得為圗,衍不得為畫乎?
いま幸いに真相が大いに白らかになり、来歴が明らかになった。この図はただ「大衍図」と呼ぶべきであり、さもなければ「天地生成図」、さもなければ「五行生成図」と呼ぶべきで、断じて「河図」と呼んではならない。一歩退いていえば、仮に河図が本当にこの図だとしても、この図はもともと鄭玄が注し出したものである。彼が《繋辞伝》の「河出図」の句の下に、直ちに一句「いわゆる河図とは、揲蓍の称する大衍之数、すなわち天一地二・天三地四・天五地六・天七地八・天九地十である」と注するのに、何の難しさがあったか。ところが彼はあえて別に「河中に龍図が出て、その書は九篇ある」と注した。これはまさに大衍之数と河図が截然と二事に分かれることを示すではないか――数は図に当てることができず、蓍衍之数は卦画に当てることができない、と。
《原舛》云數不得為圗、衍不得為畫二句,真千古格言,顧其說猶有不盡然者,餘不可以無辨。謹案:大衍者,揲蓍求卦之法也,大衍之數出於天地之數,而非即天地之數。葢天地之數,易與範共之,凡天下之言數者未有外於此者也;大衍之數,則唯易有之,範不得而有之也。
胡渭がいう:《河洛原舛編》の「数は図に当てることができず、蓍衍之数は卦画に当てることができない」という二句は、まことに千古の名言だが、毛奇齢の説にはなお尽くし妥当でないところがあり、私は辨析を加えざるを得ない。謹んで按するに:大衍は揲蓍して卦を求める方法であり、大衍之数は天地之数から出るが、天地之数に等しいわけではない。天地之数は《周易》と《尚書・洪範》が共有するもので、天下およそ数を語る者はみなこの範囲を出ないが、大衍之数は《周易》にのみあるもので、《洪範》にはないからである。
康成注大衍與四象,皆本漢書五行志。志據劉向父子洪範五行傳以推災異,其所引左氏陳災傳說,葢劉歆取大傳之六七八九十,以續洪範之一二三四五,而為生成妃牡之數,意主洪範,初不為易而設。即其末舉坎離二卦,亦以證水為火牡、火為水妃云爾,終於大衍無涉也。
鄭玄の大衍之数と四象への注は、いずれも《漢書・五行志》に本づく。《五行志》は劉向・劉歆父子の《洪範五行伝》に依拠して災異を推演したもので、その中に引く《左伝》の陳国の火災に関する伝説は、実は劉歆が《繋辞伝》の六・七・八・九・十を取り、《洪範》の一・二・三・四・五に接続させて、いわゆる生成・牡妃之数を湊成したものである。その用意はもともと《洪範》を解くところにあり、断じて《周易》のために設けられたものではない。たとえ篇末に坎・離の両卦を挙げたとしても、水が火の牡、火が水の妃であることを証明するために用いたにすぎず、結局のところ大衍之数とは毛のほども関わりがない。
唯律歴志言備數則引易大衍之數五十,言鐘律則引參天兩地而倚數,言歴法則引大衍之數四營之象,而以天地之數終焉。大抵五行主洪範,則附以春秋而不及大衍;律歴主大衍,則附以春秋而不及洪範。考厥源流,區以別矣。
ただ《漢書・律暦志》が「備数」を講ずるとき《周易》の大衍之数五十を引き、鐘律を講ずるとき「参天両地而倚数」を引き、暦法を講ずるとき大衍之数四営の象を引き、最後に天地之数をもって収束した。おおよそ言えば、《五行志》は《洪範》を主とし、《春秋》を付帯して大衍に及ばず、《律暦志》は大衍を主とし、《春秋》を付帯して《洪範》に及ばない。その源流を考察すれば、界限ははっきりと分かれている。
故劉說雖未嘗有圗,而圗實在其中,藉令繪以為圗,亦但可名天地生成圗,或五行生成圗,而斷斷不得名之曰大衍圗。何也?蓍無五行,無方位,無生成,無配耦也。今試就筮法而按之,自四營成易以至十八變而成卦,格中之所陳,版上之所畫,孰為天生而地成、地生而天成邪?孰居北而為水、居南而為火邪?方者圎者、單者復者皆安在邪?而《原舛》云大衍之數其形其象原自如此,吾所不解。
だから劉歆の説は図に画かれてはいないが、図は実はすでにその中に含まれていた。たとえそれを図に描いたとしても、「天地生成図」か「五行生成図」と呼ぶほかなく、断じて「大衍図」とは呼べない。なぜか。蓍法の中に五行はなく、方位はなく、生成はなく、配偶もないからである。いま試みに筮法に照らして照合してみよう。四営して一変を成すところから十八変して一卦を成すまで、格の上に並べた蓍策・板の上に画いた爻画のうち、どれが「天生して地成す、地生して天成す」か。どれが北に居って水と為り、南に居って火と為るか。いわゆる方のもの円のもの、単のもの復のものは、またどこにあるか。ところが《原舛編》は大衍之数は本来このような形象を具えていると言う。これは私の理解し得ないところである。
若乃竊之為河圗,則固有其形其象矣,生成南北、方圎單復,一一不爽,如宋人之所說矣。幸彼不見鄭注,苟見之,則援以相證,更増一重金湯之固矣。然而天地之數終不得為河圗者,則以大傳無明文,而五十有五但可以生蓍,不可以畫卦也。毛公惟知數不得為圗,而不知大衍之數與天地之數不可混而為一;惟知衍不得為畫,而不知鄭注乃劉氏洪範五行之數,非伏羲大衍四營之數也。長夜始旦,明尚未融,此餘之所以不能無辨也。
人に窃取されて河図に冒充されれば、それは自ずから形有り象有りとなる。生成・南北・方円・単復が一つずつ分毫も違わず、まさに宋人の説くがごときである。幸い宋人が鄭玄のこの注を見なかった。もし見ていたら、必ず引いて互いに印証し、そうなればさらにこの説に金城湯池のごとき一重の防護を添えただろう。しかし天地之数は終始河図に当てられない。《繋辞伝》に明文がなく、五十五という数は蓍法を推し出せるだけで卦画を画くには用いられないからである。毛奇齢は「数は図に当てられない」ことだけを知り、大衍之数と天地之数を混同し得ないことを知らず、「蓍衍之数は卦画に当てられない」ことだけを知り、鄭玄のあの注が劉歆《洪範五行伝》の数であって、伏羲の大衍四営の数ではないことを知らなかった。長夜はようやく暁を破ったが、光明はまだ透彻していない。これが私が辨析を加えざるを得ない所以である。
總之康成以九篇為河圗,久已認賊作子,而復據生成配耦之數以注易,遂為偽闗易之嚆矢,此所謂藉寇兵而齎盜糧者也,於摶乎何尤?毛公惡宋太過,故其立言往往刻於宋而寛於漢,夫豈平心之論與?
要するに、鄭玄は緯書のいう九篇を河図と見なした。これはすでに賊を認めて子と為したに等しい。また生成配偶之数をもって《周易》に注したので、ついに偽託の《関朗易伝》一派の先声となった。まさに兵器を敵寇に貸し、糧食を盗賊に送るというものだ。こうであれば、どうして陳摶ばかりを責められようか。毛奇齢は宋儒を憎むこと度を過ごしたので、立論が往々にして宋人には苛刻で漢人には寛容である。これを持平の論と言えるだろうか。
右論五行生成之數非河圗並非大衍。
以上の一節は、五行生成之数は河図でもなく、大衍之数でもないことを論証した。
易有太極,是生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦,八卦定吉凶,吉凶生大業。
《繋辞上伝》にいう:《易》に太極あり、太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を断定するのに用いられ、吉凶が定まって後に偉大な事業を成就する。この一節はまさに宋儒が先天次序図(一が二を生じ、二が四を生じ、四が八を生じる加倍の法)を立てる主要な経典の依拠であるので、胡渭はその本義を専ら弁明しなければならない。
劉氏禹錫《辨易九六論》曰:一行《大衍論》云,三變皆剛,太陽之象;三變皆柔,太陰之象;一剛二柔,少陽之象;一柔二剛,少陰之象。
唐の劉禹錫《辨易九六論》にいう:僧一行の《大衍論》に講じるところ、揲蓍して三変して得るところがすべて剛(奇)なら、これが太陽之象。三変して得るところがすべて柔(偶)なら、これが太陰之象。一剛二柔は少陽之象、一柔二剛は少陰之象である。
東坡蘇氏《易論》曰:老者,陰陽之純也;少者,陰陽之雜而不純者也。陽數皆奇而陰數皆偶,故乾以一為之爻,而坤以二。天下之物以少(上聲)為主,故乾之男皆二陰,而坤之女皆二陽。老陽老陰者,乾坤是也;少陰少陽者,乾坤之子是也。
東坡・蘇軾《易論》にいう:「老」とは陰陽の純粋で、「少」とは陰陽の駁雑にして不純なものである。陽数はすべて奇数で、陰数はすべて偶数である。ゆえに乾は一画をもって爻とし、坤は両画をもって爻とする。天下の事物は数量の少ないほうを主とするので、乾の生ずる三つの男卦はいずれも両陰一陽、坤の生ずる三つの女卦はいずれも両陽一陰である。老陽・老陰はすなわち乾坤両卦。少陰・少陽はすなわち乾坤の生ずる六つの子女卦である。
漢上朱氏曰:乾,老陽也;震坎艮,少陽也;坤,老陰也;巽離兊,少陰也。故四象生八卦。
漢上先生・朱震がいう:乾は老陽、震・坎・艮は少陽、坤は老陰、巽・離・兌は少陰である。ゆえに経文に「四象生八卦」という。
平庵項氏曰:凡繫辭之稱八卦者,即六十四卦也。八卦更相上下,變為六十四卦,故例以八卦稱之。
平庵・項安世がいう:およそ《繋辞伝》の中で「八卦」と称するものは、六十四卦を指している。八卦が互いに上下に相重なって六十四卦に変ずるので、例に従い依然として「八卦」でそれらを呼ぶのである。
虛齋蔡氏清曰:四象生八卦,此八卦該六十四卦者也,故繼之以八卦定吉凶。
虚斎先生・蔡清がいう:「四象生八卦」という句の中の八卦は、六十四卦をすべてその中に包んでいる。ゆえに下文に引き続き「八卦定吉凶」というのである。
《仲氏易》(蕭山毛錫齡字天與,善言易,早卒,其季奇齡述之為《仲氏易》)曰:此為揲蓍三致意也。夫秖一揲蓍,而本乾坤而前民用,至於如是。是故未揲之先,合五十之數,聚而不分,有大中之道焉。說文:極,中也。屋極謂之中,言不分於一隅也。崔憬雲舍一蓍為太極,是也。而於是分之為二以象兩,則是太極生兩儀也。李氏《易解》秖四十九數而未分為太極,分之為陰陽,是也。而於是揲之以四以象四時,則是兩儀生四象也。虞翻謂四象即四時,是也。而於是一扐再扐、再變三變而八卦成焉,則是四象生八卦也。荀爽雲四時通變為八卦之所由始,是也。
《仲氏易》(蕭山・毛錫齢、字は天与、《易》を講ずるに長じ、早年に没した。その弟の毛奇齢がその説を追述して《仲氏易》を書いた)にいう:この一節は揲蓍に就いて反復して意を致している。たった一套の揲蓍の法が、乾坤を本として百姓のために先導の用を開き、ついにここまでの境地に達する。だからいまだ揲しない先に、五十本の蓍策を一処に合わせ、聚めて分かたない。その中にすでに「大中」の道が含まれている。《説文解字》にいう:極とは中である。屋の棟を「極」というのは、それが中に居って一隅に偏らない義を取ったものである。唐の崔憬が「一本の蓍策を捨て去ればこれが太極」といったのは、まさにこの意である。そこで蓍策を二份に分けて両儀を象徴する。これが「太極生両儀」である。李鼎祚《周易集解》のいう「四十九本であってまだ分かれないときは太極で、分かれば陰陽と成る」は、まさにこの意である。そこで四本ずつ数えて四時を象徴する。これが「両儀生四象」である。虞翻のいう「四象とは四時のこと」は、まさにこの意である。そこで一扐・再扐を経て、二変・三変を経て八卦が告成する。これが「四象生八卦」である。荀爽のいう「四時の通変は八卦の由って生ずる開端」は、まさにこの意である。
夫如是而所生止八卦已哉?吉凶定則大業即於是生,而況其它乎?所謂生生之謂易,如是矣。其不及掛一象三、歸奇象閏者,略言之也,猶後文秖言象四時也。舊以太極兩儀泛指天地,則於「易有太極」「易有四象」兩「易有」不合,一;謂是伏羲畫卦時,則畫卦是作卦,不是生卦,繫辭凡言生,如生變化、生吉凶、生情偽、生利害,皆是筮卦非畫卦也,二;
このように言うならば、生ずるところは八卦だけなのか。吉凶がひとたび断定されれば、偉大な事業がこれによって生ずる。ましてその他の種々をや。いわゆる「生生之謂易」とはまさにこのことである。ここでは「掛一以象三」「帰奇于扐以象閏」に言及していないが、これは叙述の従略で、ちょうど後文がただ「以象四時」とのみいうのと同じである。旧説は「太極」「両儀」を泛く天地と指すが、そうすると「易有太極」「易有四象」の二か所の「易有」の句式と符合しない。これが第一点の通じないところ。もしこれが伏羲の画卦を説くのだというなら、画卦は「作卦」であって「生卦」ではない。《繋辞伝》はおよそ「生」に言及する所、たとえば「生変化」「生吉凶」「生情偽」「生利害」は、みな筮して得た卦を説くのであって、画いて出した卦ではない。これが第二点の通じないところ。
伏羲畫卦是由乾而坤而六子,而因重以至六十四,夫子本辭自言之,並無由一而二而四之法,三;太極秪中而不分之義,而為圗為說,聚訟不決,此必不可為訓者,四;四象從來無解,五。且後文明云「易有四象,所以示也」,與下「所以告」「所以斷」同,若指畫卦言,則陰陽老少但畫時取資之象,謂可以示世、告世、斷吉凶乎?
伏羲の画卦は、乾から坤へ、さらに六つの子女卦へと進み、そうして相重ねて六十四卦を成すもので、孔子の伝文は自らこのように説いている。一より二、二より四への加倍の法は根本的にない。これが第三点の通じないところ。「太極」はただ「中に居って分かれない」の意にすぎないのに、後人はそのために図を画き、そのために説を立て、争訟してやまない。これは断じて準則とすることができない。これが第四点の通じないところ。「四象」の二字は従来確解がない。これが第五点の通じないところ。しかも後文に明らかに「易有四象、所以示也」とあり、下句の「所以告」「所以断」と句式を同じくする。もし画卦に就いていうとするなら、陰陽の老少は画卦のときに取用した象にすぎず、どうしてそれが世人に昭示し、告知し、吉凶を判断し得ると言えようか。
蠡吾李剛主塨與毛太史奇齡《訊易書》曰:易有太極一節,先儒舊說反覆思之不解。以兩儀為天地,然八卦之乾坤天地也,豈天地生天地乎?若以兩儀為陰陽,則乾坤陰陽也,亦陰陽生陰陽矣,一不解也。四象為木火金水等說,先生闢之詳矣,況乾坤之上,先儒以太極為主宰尚有理,若又有兩儀四象,則乾坤之上不容有許多對象也,二不解也。繫辭曰「天地設位而易行乎其中」,則易者從乾坤六子而名之者也,乃言易有太極以生天地,三不解也。
蠡吾の人・李塨(字は剛主)が毛奇齢太史に宛てた《訊易書》にいう:「易有太極」の一節、先儒の旧説を反復して思索してもついに理解できない。「両儀」を天地に講ずれば、八卦の中の乾坤はすなわち天地なのに、天地がさらに天地を生ずることがあろうか。もし「両儀」を陰陽に講ずれば、乾坤はすなわち陰陽で、それでは陰陽が陰陽を生ずることになる。これが第一の不解。「四象」を木火金水の類と講ずる説は、先生がすでにきわめて詳しく批駁されている。しかも乾坤の上において、先儒は太極をもって主宰とするのはまだ説が通るが、もし太極の下・乾坤の上にさらに両儀・四象を挿入するなら、乾坤の上にこれほど多くの層次の対象を置くことは容れられない。これが第二の不解。《繋辞伝》に「天地設位而易行乎其中」という。これを見れば「易」は乾坤六子によって名づけられたものなのに、いま「易」に太極があって天地を生ずるという。これが第三の不解である。
先生直以太極為乾,兩儀為乾坤各三而成八卦,塨亦未了然。今忽從先生解「夫易何為」句,謂闡大衍五十之數,生一妄解:謂太極者,大衍之舍一不用者也(唐崔憬有此說);兩儀者,分而為二以象兩也;四象者,揲之以四以象四時也(先儒以四象為老陽老陰少陽少陰,然亦揲之以四中事也);八卦統六十四卦而言,四揲十有八變而成之者也。
先生が直ちに太極を乾と講じ、両儀を乾坤と講じ、それぞれ三卦を生じて八卦と成すとされたのも、私・李塨にはなおよく分からない。いま忽然として先生の「夫易何為者也」一句を解した思路に依れば、この一節は大衍五十之数を闡発しているのだと考え、そこで一つの不成熟な解釈を生じた。いわゆる太極とは、大衍之数の中で捨て去って用いないあの一本である(唐の崔憬にすでにこの説がある)。いわゆる両儀とは「分而為二以象両」である。いわゆる四象とは「揲之以四以象四時」である(先儒は四象を老陽・老陰・少陽・少陰と講じたが、実はそれも四四に揲する中の事である)。いわゆる八卦とは、六十四卦を併せていうもので、すなわち四四に策を揲し、十八変して卦と成ることである。
言易大衍之數遞生以成八卦,而吉凶以定,趨吉避凶而大業以生,仍闡明揲蓍之故也。不言掛一歸奇者,即在兩四之內也。觀前文有「興神物以前民用」,後文有「定吉凶莫大乎蓍龜」及「易有四象所以示也,繫辭焉所以告也,定之以吉凶所以斷也」,似仍闡大衍之數者。惟先生敎之。(仲氏易舊主卦,後改主蓍,李未見,故有此訊。毛驚其闇合,答書大稱賞。)
これは《易》の大衍之数が層層に遞生して八卦を成し、これによって吉凶を断定し、吉に趨り凶を避けて大業を成就するのであって、依然として揲蓍の法の道理を闡明している。「掛一」「帰奇」に言及しないのは、それらがすでに「分二」「揲四」の内に包含されているからである。前文に「興神物以前民用」があり、後文に「定吉凶莫大乎蓍亀」および「易有四象所以示也、繋辞焉所以告也、定之以吉凶所以断也」とあるのを見れば、この一節はやはり大衍之数を闡発しているようだ。先生の指教を請う。(《仲氏易》は当初この節は卦を説くと主張していたが、後に改めて蓍を説くと主唱した。李塨は改本を見ていなかったので、この訊ねの書をしたためた。毛奇齢は二人が暗に合したことに驚き、返信して大いに賞賛した。)
四象,餘舊主東坡、漢上之說,乾坤為老陽老陰,三男三女為少陽少陰,葢以四象即八卦,八卦即六十四卦也。歲庚辰客京師,因金素公得交於李君,晨夕過從,間以此說就正。李君曰:八卦原該六十四卦,但經明曰四象生八卦,今乃以四象即八卦,是八卦生八卦矣,似難通也。因出《訊易書》並《仲氏易》以示余,餘參酌其說而為之解。
「四象」について、私(胡渭)はもともと蘇軾・朱震の説を主張し、乾坤をもって老陽老陰、三男三女をもって少陽少陰としていた。四象はすなわち八卦、八卦はすなわち六十四卦だからである。康熙庚辰年、私は京師に客居し、金素公の紹介で李塨と知り合い、朝夕往来した。その間にこの見解を取って彼に教えを請うた。李塨はいった。八卦はもともと六十四卦を包むが、経文に明らかに「四象生八卦」という。いま四象をそのまま八卦と見なせば、八卦が八卦を生ずることになり、通じないようだ、と。そこで彼の《訊易書》と毛奇齢の《仲氏易》を出して私に見せ、私は彼らの説を参酌して以下の解釈を作った。
謹按:天一地二至存乎德行四章,大抵言揲蓍求卦之事。此節上文曰「蓍之德圎而神」,而繼之曰「卦之德方以知,六爻之義易以貢」,是卦爻即揲蓍之所得,非易書已然之畫也。故又曰「神以知來」,曰「是興神物以前民用」,曰「利用出入,民咸用之謂之神」,皆指蓍言也。故唐一行以三變皆剛為太陽、三變皆柔為太陰,而朱子釋此節亦兼主揲蓍,訊易之解良是。
謹んで按するに:《繋辞上伝》の「天一地二」から「存乎徳行」までのこの四章は、大体において揲蓍して卦を求める事を説いている。この一節の上文は「蓍之徳円而神」といい、続いて「卦之徳方以知、六爻之義易以貢」という。これを見ればここの卦爻はまさに揲蓍して得たもので、《易》書に原から画き定められた卦画ではない。だから下文にまた「神以知来」といい、「是興神物以前民用」といい、「利用出入、民咸用之謂之神」という。みな蓍策に就いていうのである。だから唐の僧一行は三変すべて剛を太陽、三変すべて柔を太陰とし、朱熹もこの一節を解するに兼ねて揲蓍から説を立てた――李塨《訊易書》の解法は確かに正しい。
但以分而為二為兩儀、揲之以四為四象,則其義猶未愜當。葢分而為二,不過分四十九策為左右,即不舍一為太極,其將不可分乎?安見此兩為一之所生乎?揲之以四,不過以左右手四四而數其策,即不分而為二,其將不可數乎?安見此四為兩之所生乎?
ただし「分而為二」を両儀とし、「揲之以四」を四象とするのは、意がなお妥帖でない。「分而為二」はただ四十九策を左右の二堆に分けることにすぎない。たとえ先に一策を捨て去って太極としなくても、二堆に分かれないことがあろうか。どうしてこの「二」があの「一」から生じたと見られようか。「揲之以四」はただ左右の手で四本ずつ策を数えることにすぎない。たとえ先に二堆に分けなくても、数えられないことがあろうか。どうしてこの「四」があの「二」から生じたと見られようか。
且太極形而上者也,兩儀四象八卦皆形而下者也。八卦粲然成列,則兩儀四象亦必粲然成列。當分二揲四時,正在手中般運,其所謂天地、三才、四時、再閏者,特取譬之假象耳。若夫兩儀四象,則參伍錯綜之餘,通變而成文者也。四營未畢,格中無奇耦之數;三變未終,版上無老少之爻,又安見為兩儀四象哉?
しかも太極は形而上に属し、両儀・四象・八卦はみな形而下に属する。八卦はすでに歴々分明に排列されるのだから、両儀・四象も必ず歴々分明に排列されなければならない。ところが分二・揲四のとき、蓍策は手中で搬弄運転されている最中で、いわゆる天地・三才・四時・再閏は、ただ喩えに用いた仮借之象にすぎない。両儀・四象に至っては、参伍錯綜した後に通変して文と成った結果である。四営がまだ完成せず、格の中に奇偶之数がなく、三変がまだ終わらず、板の上に老少之爻がないのに、どこから両儀・四象を見出せようか。
展轉尋繹,終未豁然。竊意所謂太極者,一而已矣。命筮之初,奇偶未形,即是太極。迨夫四營而成易,合掛扐之策置之於格,或五或四則為奇,或九或八則為偶,是謂太極生兩儀。至於三變而成爻,畫之於版,三奇為□曰老陽,三偶為乂曰老陰,一奇二偶為一曰少陽,一偶二奇為--曰少陰,是謂兩儀生四象。至於九變而為三畫之小成,十八變而得二體之貞悔,是謂四象生八卦。由是各占其所值之卦爻,是謂八卦定吉凶。由是吉者趨而凶者避,是謂吉凶生大業。
私は反復して思い尋ねたが、ついに豁然と貫通できなかった。私が窃かに思うに、いわゆる太極とは「一」にすぎない。はじめ筮を命ずるとき、奇偶はいまだ形を成していない。それが太極である。四営が一変を成すに至り、掛策と扐策を合わせて格の中に置く。五を得るか四を得れば奇と為り、九を得るか八を得れば偶と為る。これを「太極生両儀」という。三変して一爻と成り、板に画く。三たびとも奇なら「□」を画き、老陽という。三たびとも偶なら「乂」を画き、老陰という。一奇二偶なら「一」を画き、少陽という。一偶二奇なら「--」を画き、少陰という――これを「両儀生四象」という。九変して三画の内卦が小成し、十八変して内外二体の貞悔を得る。これを「四象生八卦」という。これによってそれぞれ値する卦爻に就いて占断する。これを「八卦定吉凶」という。これによって吉には趨り、凶を避ける。これを「吉凶生大業」という。
故下文結言之曰「定天下之吉凶,成天下之亹亹者,莫大乎蓍龜」,脈絡分明,辭旨融徹,其為揲蓍之序也何疑?總之四象二字苦無定說,今既主一行之剛柔太少,而更推得其所以然,始知四象與單稱象者不同。單稱象者,即易書已然之畫,八卦成列,象在其中是也;四象則蓍策過揲之數,爻所用之九六及不用之七八是也。故下文又曰「易有四象所以示」,謂示人以所值之卦爻也。章中兩言四象,朱子以前四象為聖人畫卦自然之次第,以後四象為揲蓍所得陰陽老少之爻,夫均此四象,且同在一章之中,豈容有二解哉?
だから下文に結んで「定天下之吉凶、成天下���亹亹者、莫大乎蓍亀」という。脈絡は分明で、辞意は通徹している。この一節が説くのは揲蓍の次第で、何の疑いがあろうか。要するに「四象」の二字は従来定説がないことに苦しんでいたが、いま一行の剛柔・太少で四象を解する講法を採用し、さらにその所以然を推し出して、はじめて「四象」と単に「象」というだけとが同じでないことが分かった。単に「象」というのは、《易》書にすでに画き定められた卦画を指し、いわゆる「八卦成列、象在其中」である。「四象」は蓍策の過揲之数で、すなわち爻に用いる九・六と用いない七・八である。だから下文にまた「易有四象所以示」という。値する卦爻を人に昭示することをいう。この章は二度「四象」に言及しているが、朱熹は前の四象を聖人が卦を画く自然の次第と講じ、後の四象を揲蓍して得た陰陽老少之爻と講じた。同じ「四象」で、しかも同じ一章の中にあるのに、どうして二種の解釈を容れることができようか。
太極兩儀四象之遞生,其為揲蓍之序益洞然而無疑矣。解成,以復於李君。李君答書曰:拙解雖成,然清夜思之,尚未自信,以舍一、分二、揲四是相連之事,非相生之物也。今得妙解,豁然真是相生之序矣,真是生生之易矣,何快如之。
このように見れば、太極・両儀・四象が層層に遞生するのはまさに揲蓍の次第であって、いよいよ清楚にして疑いを容れない。解釈を書き成して、私は李塨に返信した。李塨が復信していう:私のあの解釈は書き成したものの、夜深く人静まって思うに、まだ自信できない。捨一・分二・揲四は前後に相連なるいくつかの手順であって、互いに相生するものではないからだ。いまあなたのこの精妙な解釈を得て、豁然と開けた。これこそまさに相生の次序であり、まさに「生生之謂易」である。これより痛快なことがあろうか、と。
此節於圗書之義似乎差緩,然《鉤隠》《啟蒙》以太極、兩儀、四象、八卦悉附會於圗書,傳習已久,世莫敢違,故詳著其說,以明此節與圗書無涉,且與畫卦亦無涉,而先天八卦次序之謬因以見雲。
この一節は図書の義を弁明する上で、見たところ関係はやや遠い。しかし劉牧《易数鈎隠図》と��熹《易学啓蒙》は太極・両儀・四象・八卦を悉く河図洛書に附会しており、流伝講習されること久しく、世人も背くことを敢えてしない。ゆえに私は以上の各説を詳しく陳述して、この一節が河図洛書とも関係なく、画卦とも関係ないことを明らかにしようとした。そうすれば先天八卦次序図の謬誤も、これに随って顕露するのである。
右論太極兩儀四象非圗書之所有。
以上の一節は、太極・両儀・四象という一套の説法が河図洛書の中に固有のものではないことを論証した。
天生神物,聖人則之。(秀巖李氏曰:《龜筴傳》天下和平,王道得,而蓍莖長丈,其生每百莖,漢儒之說如此。今犍為郡田野間生此蓍草,一本百莖,絶無餘支,愚親觀之,但長可二尺餘,不盡如先儒之說。問諸土人,雲其生亦如常草,但一本百莖,此為異也。)天地變化,聖人效之。(漢上朱氏曰:天地變化,四時行焉,萬物生焉,故聖人效之。)
《繋辞上伝》にいう:上天が神奇之物(蓍と亀)を生ずるとき、聖人はそれを取り法す。(秀巌先生・李心伝がいう:《史記・亀策列伝》に講じるところ、天下が太平で王道が行われるとき、蓍草の茎は一丈に長じ、一本に百茎を生ずる。漢代の儒者の説はこのようである。いま犍為郡の田野の間にこの蓍草が生えており、一本に百茎で余分な枝は絶対になく、私がかつて親しく見たが、ただ高さは二尺余にすぎず、完全には先儒のいうようではない。土地の人に問うと、その生長は尋常の草と同じで、ただ一本百茎であることだけが奇特だという。)天地に変化あり、聖人はそれを効法する。(漢上先生・朱震がいう:天地がひとたび変化すれば、四時が運行し、万物が生長する。ゆえに聖人はそれを効法する。)
天垂象,見吉凶,聖人象之。(日月五星,天象也,天不言,示之以象,吉凶見矣,故聖人象之。)河出圗,洛出書,聖人則之。易有四象,所以示也。(朱子曰:四象謂陰陽老少,示謂示人以所值之卦爻。)繫辭焉,所以告也;定之以吉凶,所以斷也。
上天が星象を垂示して吉凶を顕現するとき、聖人はそれに象を取る。(日月と五星がすなわち天象である。上天は語らず、象をもって昭示すれば吉凶が現れる。ゆえに聖人はそれに象を取る。)黄河より図が出、洛水より書が出るとき、聖人はそれを取り法す。《易》に四象あり、もって示すのである。(朱熹がいう:四象は陰陽の老少を指す。「示」は値する卦爻を人に昭示すること。)卦爻の下に文辞を繋げるのは、もって告げるのである。吉凶をもってそれを定めるのは、もって断ずるのである。
程氏遺書入闗錄曰:孔子感麟而作春秋,然麟不出,春秋豈不作?大抵須有發端處,如畫卦因見河圗洛書,果無河圗洛書,八卦亦須作。
《二程遺書・入関語録》にいう:孔子は麟を獲たことに感じて《春秋》を作ったが、しかし仮に麒麟が現れなかったとしても、《春秋》は作らなかったであろうか。おおよそ事はつねに触発する端緒を要する。ちょうど画卦が河図洛書を見るがゆえであるように。果して河図洛書がなくても、八卦は同じく画き出されていたであろう。
紫巖張氏浚曰:天生神物,謂蓍龜之探賾索隠、鉤深致逺者是也,聖人則之以明易之象數;天地變化,謂陰陽之消息盈虛、往來進退者是也,聖人效之而為六十四卦;天垂象,謂天之經緯錯雜、縱橫昭著者是也,聖人象之而為三百八十四爻。夫易之象數卦爻,聖人皆得於心,而必參之天地者,葢聖人與天地之心相似,其愛人之心未嘗不同也。然天欲雨,山川必先雲氣,況易之興也,豈無先至之祥乎?
紫巌先生・張浚がいう:「天生神物」とは、蓍と亀が幽深を探究し、隠微を索求し、深奥を鈎取し、遠意を招致することをいう。聖人はそれを取り法して《易》の象と数を闡明した。「天地変化」とは、陰陽の消長・盈虚・往来・進退をいう。聖人はそれを効法して六十四卦を作った。「天垂象」とは、天上の経緯に交错し縦横に昭著なる星象をいう。聖人はそれに象を取って三百八十四爻を定めた。《易》の象数・卦爻は、聖人はもともとすべて自らの心中から得たものだが、必ず天地に参験した。聖人の心が天地の心と相似ており、その人を愛する心が同じだからである。しかし天が雨を降らさんとすれば、山川は必ず先に雲気を興す。まして《易》の興起に、先がけて来る祥瑞がなかったことがあろうか。
是以聖人必終之以河出圗洛出書而又則之者,其則皇天以興其易者乎?又況「河圗不出,吾已矣夫」,孔子嘗有是嘆;「九洛之事,治成德備」,莊周嘗有是言。聖人則之,度其時以卜其道之將以興也。而鄭康成溺於緯書,乃云河圗有九篇、洛書有六篇;孔安國又以河圗為八卦、洛書為九疇,此皆蕪穢聖經者矣。甚至以神物、變化、垂象、圗書為四象,此尤不經,學者不可以不辨。
だから聖人はこの章の最後に必ず「河出図、洛出書、聖人則之」という。おそらく上天を取り法して《易》道を興起させるのであろう。しかも孔子はかつて「河図が出ないなら、我が一生はおそらく終わった」という慨叹を発した。荘周も「九洛之事、治功既成、徳行完備」という言葉を言った。聖人が図書を取り法したのは、これを借りて時運を揣度し、自らの道が興らんとすることを占卜したのである。ところが鄭玄は緯書に沈溺し、ついに河図に九篇・洛書に六篇ありと言い、孔安国はまた河図を八卦とし、洛書を九疇とした。これらはみな聖人の経典を蕪雑にし汚している。さらに甚だしきは「天生神物」「天地変化」「天垂象」「河出図洛出書」の四事を「四象」と見なす者までいる。これはいよいよ荒謬無稽である。学者は辨析を加えざるを得ない。
按:此言聖人作易,準天地萬物之理而未嘗自用其私智。蓍草一本百莖,中分為五十,而大衍之數以定,四營之法以立,是謂天生神物,聖人則之。在天成象,在地成形,天地之變化也;剛柔相摩,八卦相蕩,鼓之以雷霆,潤之以風雨,日月運行,一寒一暑,乾道成男,坤道成女,則聖人效之之事也。日月五星,天之垂象也,順序而行則示人以吉,薄蝕陵鬬則告人以凶,聖人設卦觀象,繫辭焉而明吉凶,使占者知所趨避,所以象之也。
胡渭の按語:この章は聖人が《易》を作るにあたり、至るところ天地万物の理をもって準とし、ついぞ自ら聡明を作さなかったことを説いている。蓍草は一本に百茎を生じ、それを分かてば五十を得る。大衍之数はこれによって確定し、四営之法はこれによって建立される。これが「天生神物、聖人則之」である。天にあって星象と成り、地にあって形体と成る。これが天地の変化である。剛柔は互いに摩盪し、八卦は互いに推盪し、雷霆をもってそれを鼓動し、風雨をもってそれを潤沢し、日月は運行して一寒一暑し、乾道は男を成し、坤道は女を成す。これらが聖人の効法した事である。日月五星は上天の垂示する象であり、それらが順序に運行すれば人に吉を昭示し、薄蝕・陵犯・争闘があれば人に凶を予告する。聖人は卦を設けて象を観、文辞を繋げて吉凶を闡明し、占卜する者に何に趨り何を避けるべきかを知らしめる。これが「聖人象之」である。
河洛者,地之中也,聖人興必出圗書,伏羲則之以畫卦,文王周公則之以繫彖爻,而開物成務之道備矣。上三者無時不有,圗書則曠世而一出,故末言之。觀下文繫辭與四象並舉,則此實該三聖之事,不必專主伏羲,亦不必謂洛書禹時所出,於易無與也。
黄河・洛水の一帯は天下の中心であり、聖人が興るとき必ず図書が出現する。伏羲はそれを取り法して卦を画き、文王・周公はそれを取り法して彖辞・爻辞を繋げ、そうして万物を開通し事務を成就する大道が完備した。上にいう神物・変化・垂象の三項は時を選ばず存在するが、ただ図書だけは多くの世代を隔ててようやく一度出現するので、最後に置いて説くのである。下文に「繋辞」と「四象」を並び挙げるのを見れば、この一節は実は伏羲・文王・周公の三聖人の事を兼ね包んでおり、必ずしも伏羲一人を指すのではない。また洛書が夏禹の時に出たがゆえに、それを《周易》とまったく無関係とする必要もない。
易有筮無卜,而卜筮蓍龜並言;伏羲所則者河圗也,而並及洛書,學者疑之。蔡季通云:易豈有龜卜之法乎?亦言其理無二而已。愚竊謂上文雖蓍龜並言,而此但云神物,即專指蓍亦無不可。圗書原不止羲禹時出。漢《五行志》劉向曰:昔三代居三河,河洛出圗書。《武帝紀》元光元年詔曰:昔在唐虞,畫象而民不犯;周之成康,刑錯不用,德及鳥獸,麟鳳在郊藪,河洛出圗書。《李尋傳》對災異曰:天下有道,則河出圗,洛出書。《溝洫志》谷永上言:河,中國之經瀆,聖王興則出圗書,王道廢則竭絶。由是觀之,歴代有道之君皆受圗書,非獨羲禹時出也。
《周易》には筮法はあるが亀卜の法はないのに、《繋辞伝》は卜と筮、蓍と亀を並列して説く。伏羲が取り法したのはもともと河図であるのに、経文は洛書まで併せて言及する。学者はこれに疑問を持つ。蔡元定がいう:《易》にどうして亀卜の法があろうか。並挙したのは、両者の道理に二様がないと説くにすぎない。私が窃かに思うに:上文は蓍亀を並提したが、ここではただ「神物」とのみいうので、たとえ専ら蓍草を指すとしてもよい。図書に至っては、もともと伏羲・大禹の時に限って出たわけではない。《漢書・五行志》に劉向がいうと載せる:昔、夏・商・周三代が三河の一帯に都を建てたとき、黄河・洛水に図書が出た。《漢書・武帝紀》の元光元年の詔書にいう:昔、唐堯・虞舜の世は、ただ象を画いて刑と為したが百姓は法を犯さなかった。周の成王・康王の時は、刑罰を措いて用いず、恩徳は鳥獣に及び、麒麟・鳳凰が郊野・薮沢に現れ、河・洛に図書が出た。《李尋伝》の災異への答問にいう:天下に道あれば、すなわち河より図が出、洛より書が出る。《溝洫志》に谷永の上書を載せていう:黄河は中国の大川である。聖王が興れば図書を出し、王道が衰廃すれば枯竭して断流する。これを見れば、歴代の有道の君はみな図書を受けており、伏羲・大禹の時に限って出たわけではない。
河圗,象也,故則之以畫卦;洛書,文字也,故則之以繫辭。河圗非必八卦,洛書不盡九疇也。墨子言周文王時河出錄圗,故易緯《乾鑿度》有入戊午蔀二十九年受錄應河圗之說。沈約《宋書·符瑞志》云:周公攝政七年,制禮作樂,鳳凰見,乃與成王觀於河洛,沈璧,禮畢,榮光幕河,青龍臨壇,銜玄甲之圗,坐之而去;禮於洛亦如之,玄龜止於壇,背甲刻書,赤文成字,其言自周公至於秦漢盛衰之符。此皆本諸緯候,殊不足信。
河図は「象」に属するので、それを取り法して卦を画いた。洛書は「文字」に属するので、それを取り法して辞を繋げた。河図は必ずしも八卦ではなく、洛書も《洪範》九疇に限らない。墨子は周文王の時に黄河から録図が出たと言うので、易緯《乾鑿度》に「戊午蔀の第二十九年に入り、符録を受けて河図に応ず」という説がある。沈約《宋書・符瑞志》にいう:周公が摂政して七年目、礼を制し楽を作ると鳳凰が現れ、そこで成王とともに河洛に赴き礼を観、玉璧を水中に沈めた。礼が畢わると、五色の栄光が河面を覆い、青龍が祭壇に降り、口に玄色の甲書の図を銜え、置き去りにして去った。洛水で礼を行ったときも同様で、玄亀が壇上に止まり、背甲に文字が刻まれ、赤い紋理が字句を組んでおり、周公から秦・漢に至る盛衰の符命を説いていた。これらはみな緯書・候書に本づき、実に憑信に足りない。
然漢書言之鑿鑿,夫子亦有嘆徯之思,是圗書必非不再出之物,安知文王周公不有所則以繫彖爻乎?紫巖以圗書為易興先至之祥,正與夫子鳳鳥河圗並舉之意相合。大傳曰「易之興也其於中古乎」,又曰「當殷之末世周之盛德」,然則二聖繫辭,亦當有先至之祥,易興於中古,豈徒以羑里東山憂患之故哉?
ただ《漢書》の言は鑿々として根拠があり、孔子にも河図を盼待する慨叹があった。これを見れば図書は決して一度出て再び現れないものではない。どうして文王・周公がそれを取り法して彖辞・爻辞を繋げなかったと知れようか。張浚は図書を《易》道の興起に先立って到る祥瑞と見なしたが、まさに孔子が鳳鳥と河図を並挙した意に合致する。《繋辞伝》に「《易》の興りは、およそ中古か」といい、また「ちょうど殷の末世・周徳の隆盛なる時に当たる」という。では文王・周公の両聖人が辞を繋げたのにも、先がけて来る祥瑞があるべきである。《易》が中古に興ったのは、どうして文王が羑里に囚われ、周公が東征したという憂患の故だけであろうか。
易將興而圗書出,所謂先天而天弗違也;圗書出而易遂作,所謂後天而奉天時也。記曰:清明在躬,志氣如神,耆欲將至,有開必先,天降時雨,山川出雲。聖人一天而已,時至事起,何容心焉?
《易》がまさに興らんとして図書が出る。これが《乾・文言》のいう「天時に先んじて天が背かない」である。図書が出て《易》がこれに随って創作される。これが「天時に後れて天道を奉行する」である。《礼記・孔子閑居》にいう:清明の徳が身に存すれば、志気は神霊のごとし。願い求めるものがまさに到来せんとするとき、必ず先に開啓の兆しがある。ちょうど上天が時雨を降らさんとすれば、山川が先に雲気を興すがごとし。聖人と天はもともと一体で、時機が至れば事は自ら生ずる。どうしてわざわざ心を用いる必要があろうか。
鄭氏玄易注曰:春秋緯曰:河以通乾出天苞,洛以流坤吐地符,河龍圗發,洛龜書成。河圗有九篇,洛書有六篇。(隋經籍志:緯書《河圗》二十卷、《河圗龍文》一卷,其書出於前漢,有河圗九篇、洛書六篇,自黃帝至周文王所受本文;又別有三十篇,雲自初起至於孔子,九聖之所増演以廣其意;又有七經緯三十六篇,並云孔子所作,並前合為八十一篇。)
鄭玄《周易注》にいう:《春秋緯》に講じるところ、黄河は乾天に通じて天の符苞を吐き、洛水は坤地に流れて地の符命を吐く。河中に龍図が顕発し、洛中に亀書が書成する。河図に九篇あり、洛書に六篇あり。(《隋書・経籍志》に著録:緯書《河図》二十巻、《河図龍文》一巻。これらの書は西漢に出て、その中に河図九篇・洛書六篇は、黄帝から周文王に至る歴代の受けた本文。また別に三十篇があって、最初から孔子に至るまでの九位の聖人が遞相に増補推演してその意を拡充したものと言う。さらに七経緯三十六篇があって、いずれも孔子の作と言う。前と合わせて計八十一篇。)
邢昺論語疏云:鄭玄以為河圗洛書龜龍銜負而出,如中候所說龍馬銜甲,赤文綠字,甲似龜背,袤廣九尺,上有列宿斗正之度、帝王錄紀興亾之數是也。今案史記秦始皇三十二年,燕人盧生奏錄圗書曰「亡秦者胡也」,此即所謂錄紀興亡之數,葢圗讖之術自戰國時已有之。
邢昺《論語疏》にいう:鄭玄は河図洛書は亀龍が銜え負って出てきたものと考え、《尚書中候》のいうごとく、龍馬が甲書を口に銜え、赤色の紋・緑色の字で、甲の形は亀の背のごとく、長さ幅九尺あり、上に二十八宿・北斗の運行度数および帝王の興亡の符命記録を記したとする。いま《史記》を按するに、秦始皇三十二年、燕人の盧生が図録の書を進呈し、そこに「亡秦者胡也」と書かれていた。これはまさにいわゆる興亡之数を記録した図書である。これを見れば図讖の術は戦国の時からすでにあった。
漢武表章聖籍,諸不在六藝之科者皆不得進。及其衰也,哀平之際,緯候繁興,顯附於六藝而無所忌憚。王莽矯用符命,光武尤信讖言,鄭興、賈逵以附同稱顯,桓譚、尹敏以乖忤淪敗,自是習為內學(其事秘密,故稱內)。康成號一代儒宗,不能違眾而獨立,乃據此以注易。
漢武帝は聖人の経籍を表彰し、およそ六芸の列に属さないものは進用を許さなかった。漢朝の衰微に至り、哀帝・平帝の際に、緯書・候書が大量に湧出し、公然と六芸に依附して少しも忌憚しなかった。王莽は符命を仮造して簒位し、光武帝はことさら讖言を篤信した。鄭興・賈逵は讖緯に附和したゆえに顕達し、桓譚・尹敏は讖緯に違逆したゆえに淪落失敗した。これ以後、讖緯の講習はいわゆる「内学」となった(この類の事は秘密であるがゆえに「内」と称する)。鄭玄は一代の儒宗と号されながらも、衆人に違逆して独り己見を持することができず、���いにこの緯説に依拠して《周易》を注解した。
信如所言,則伏羲畫卦之本變為錄紀興亡之數,而河圗亦是文字,洛書且非九疇矣,妖妄不經莫甚於此。故參同契之流得乘隙而起,以九宮之數縱橫十五者冒河圗之名,而稍近於理,世莫能辨。向使東漢諸儒不為緯候所惑,紹先正之傳而更為之發明,彼方技家言安得竄入於吾易而亂聖真、欺來學也哉?噫,是康成之過也。
もし本当に鄭玄の言う如くならば、伏羲の画卦の依拠は帝王の興亡を記録する符命之数に変わり、河図も文字と成り、洛書はかえって《洪範》九疇ではなくなる――妖妄荒誕はこれより甚だしいものはない。まさにこのゆえに《周易参同契》の一派が虚に乗じて起こることを得て、九宮之数を縦横に加えればいずれも十五を得るという仕組みを取り上げて河図の名に冒充した。しかも見たところやや道理に近く、世人はついに弁別する術がなかった。当初、もし東漢の諸儒が緯書・候書に迷惑されず、先儒の正伝を継承してさらに闡発を加えたなら、あの方技家の説がどうして我らの《易》学に竄入し、聖人の真義を紊らし、後の学者を欺くことができたであろうか。ああ、これは鄭玄の過失である。
河洛九六之說,至今猶有為彼所惑而遷就其間者。黃氏《象數論》曰:天垂象見吉凶聖人象之者,仰觀於天也;河出圗洛出書聖人則之者,俯察於地也。謂之圗者,山川險易、南北髙深,如後世之圗經是也;謂之書者,風土剛柔、戶口阨塞,如夏之禹貢、周之職方是也;謂之河洛者,河洛為天下之中,凡四方所上圗書皆以河洛繫其名也。愚竊謂伏羲之世風俗淳厚,豈有山川險易之圗?結繩而治,豈有戶口阨塞之書?且舉河洛以該四方,未免曲說,改「出」為「上」尤覺難通矣。
河図洛書が九篇か六篇かという説については、今日に至ってもなお鄭玄に惑わされ、その中間で遷就調停する者がある。黄宗羲《易学象数論》にいう:「天垂象見吉凶、聖人象之」は、仰いで天を観ること。「河出図、洛出書、聖人則之」は、俯して地を察すること。いわゆる「図」とは、山川の険易・南北の高深のことで、後世の図経のようなもの。いわゆる「書」とは、風土の剛柔・戸口の要塞のことで、夏の《禹貢》、周の《職方》のようなもの。いわゆる「河洛」は、河洛が天下の中心であるがゆえに、およそ四方の進献する図書はみな河洛をもってその名に繋げた。私(胡渭)が窃かに思うに:伏羲の世は風俗が淳厚で、どうして山川の険易を記した図があろうか。あの時は結縄して治めていたので、どうして戸口の要塞を記した書があろうか。しかも河洛をもって四方を概括するのは、曲説を免れない。経文の「出」の字を改めて「上」(進献)と読むのは、いよいよ説が通らない。
毛氏《原舛編》曰:大抵圗為規畫,書為簡冊,無非典籍之類。鄭康成注大傳,引春秋緯云河圗有九篇、洛書有六篇,則直指為簡冊之物,此漢代近古,似乎可案者。夫緯書,六經之稂莠也,康成引以釋經,侮聖已甚,後儒不能鋤而去之,而反為之灌溉滋長焉,其何以息邪而閒道乎?
毛奇齢《河図洛書原舛編》にいう:おおよそ「図」とは画き出された図形で、「書」とは編じて成した簡冊であり、いずれも典籍の類に属する。鄭玄が《繋辞伝》を注して、《春秋緯》を引いて河図に九篇・洛書に六篇ありと言ったのは、直ちにそれらを簡冊の物と指したもので、これは漢代人の説である。年代が古に比較的近いので、なお依拠してよいようである。緯書に至っては、これは六経の中の莠草である。鄭玄がそれを引いて経を解したのは、聖人への軽慢がすでに過分である。後の儒者がこの莠草を鋤き去ることができず、かえってそれに水を注ぎ肥やしを施して滋長させたのでは、どうして邪説を遏止し正道を捍衛できようか。
揚雄《核靈賦》曰:大易之始,河序龍馬,洛貢龜書。(見李善文選注。)禮緯《含文嘉》曰:伏羲德合上下,天應以鳥獸文章,地應以河圗洛書。
西漢の揚雄《核霊賦》にいう:《大易》が起始したとき、黄河は順に龍馬を献じ、洛水は亀書を進貢した。(李善《文選注》の引く所に見える。)礼緯《含文嘉》にいう:伏羲の徳は上は天に合し、下は地に合し、上天は鳥獣の文采をもって応じ、大地は河図洛書をもって応じた。
按:此謂圗書並出伏羲之世。揚雄與劉歆同時,而其說之互異如此。葢伏羲受河圗,經無明文,即無以驗洛書之果不出也,故諸儒各據所見以為言。然夫子云「上古結繩而治,後世聖人易之以書契」,上古謂包犧神農,後世聖人則黃帝也。許慎說文序曰:神農氏結繩而治,黃帝之史倉頡見鳥獸蹏迒之跡,乃造書契。
胡渭の按語:この二条はいずれも河図洛書がともに伏羲の世に出たと言っている。揚雄は劉歆と同時代人なのに、両人の説がこれほど互いに抵牾している。伏羲が河図を受けた一事は、経文に明確な記載がないので、洛書が当時果たして出たか否かを検証する術もない。ゆえに諸儒は各々己見に凭って説を立てた。しかし孔子は「上古結縄而治、後世聖人易之以書契」といい、「上古」は伏羲・神農を指し、「後世聖人」は黄帝である。許慎《説文解字・叙》にいう:神農氏は結縄して治め、黄帝の史官・倉頡は鳥獣の蹄爪の痕跡を見て、はじめて書契を創造した。
又河圗玉版曰:倉頡為帝,南巡登陽虛之山,臨於玄扈洛汭之水,靈龜負書,丹甲青文以授之。孝經援神契曰:奎主文章,倉頡效象,洛龜曜書,垂萌畫字。則書契興於黃帝之世,倉頡感洛書而作明矣。(孔安國尚書序雲伏羲造書契以代結繩之政,顯背大傳,不可從。)伏羲時未有書名,洛之所出,安得稱書?子云亦未深考耳。
また《河図玉版》にいう:倉頡が帝となったとき、南巡して陽虚之山に登り、玄扈・洛汭の水辺に来ると、霊亀が書を背負い、赤い甲・青い文字をもって彼に授けた。《孝経援神契》にいう:奎星は文章を主管し、倉頡は星象を効法し、洛水の亀が書を顕耀して、萌兆を垂示して文字を画き成した。これを見れば書契は黄帝の世に興り、倉頡は洛書を感受して文字を創造したのである。この点は明白である。(孔安国《尚書序》は伏羲が書契を造って結縄の政に代えたと言うが、明らかに《繋辞伝》に背くので従えない。)伏羲のときにはまだ「書」という名目がなかったのに、洛水の出たものをどうして「書」と呼べようか。揚雄(字は子雲)も深く考えなかっただけである。
漢書五行志劉歆曰:虙犧氏繼天而王,受河圗,則而畫之,八卦是也;禹治洪水,賜雒書,法而陳之,洪範是也。
《漢書・五行志》に劉歆がいうと載せる:伏羲氏は天命を承けて王となり、河図を受け、それに照らして画き出したのが八卦である。夏禹は洪水を治め、天が洛書を賜り、それに照らして陳べ出したのが《洪範》九疇である。
張衡東京賦曰:龍圗授羲,龜書畀姒。
東漢の張衡《東京賦》にいう:龍の負う図は伏羲に授けられ、亀の負う書は姒姓の夏禹に与えられた。
按:禹受洛書,不可謂無其事,然不自禹始也。據河圗玉版、挺輔佐,黃帝堯舜時洛已出龜書矣;亦不自禹止也,據沈約宋書符瑞志,成王周公時洛又出龜書矣。河圗不止羲受,洛書亦不止禹受,故夫子並舉以贊易。
胡渭の按語:大禹が洛書を受けたという事は、ないとは言えない。しかし大禹から始まったのではない。《河図玉版》と《河図挺佐輔》によれば、黄帝・堯・舜の時にすでに洛水から亀書が出ている。大禹で終わったのでもない。沈約《宋書・符瑞志》によれば、成王・周公の時に洛水からまた亀書が出ている。これを見れば河図は伏羲一人だけが受けたのではなく、洛書も大禹一人だけが受けたのではない。ゆえに孔子は両者を並び挙げて《易》道を賛美したのである。
吳草廬云:大抵周後漢初,儒家專門之學率是口耳授受,故凡有文辭可記誦者有傳,無文辭不可記誦者無傳。五經皆存而獨樂之一經亡,三百五篇詩皆存而獨笙詩六篇亡,葢以無文辭可記誦故也。若先天古易止有卦畫,河圗洛書止有圗象,則儒家亦不傳,是以魏晉唐宋初之儒不見圗書。
元の呉澄(号は草廬)がいう:おおよそ周の末・漢の初め、儒家の専門の学はみな口伝えに耳で受けたので、およそ文辞があって記誦できるものには伝承があり、文辞がなく記誦できないものは失伝した。五経はみな保存されたが、ただ《楽》の一経が亡佚し、《詩》三百五篇はみな在るのに、ただ《南陔》などの笙詩六篇が亡佚したのは、それらに文辞がなく記誦できなかったためである。仮に先天古易に卦画しかなく、河図洛書に図象しかなかったなら、儒家もそれを伝えられなかったであろう。ゆえに魏晋から唐・宋の初年までの儒者はみな図書を見ていないのである。
渭按:自秦禁學,口說流行,漢初挾書之律未除,凡無文字可記誦者,儒家或逸而不傳,亦未可知。然易又與它經不同,秦以為卜筮之書,獨不在禁中,使果有先天古易、河圗洛書,不妨公行於世,何竟無一人知之?
胡渭の按語:秦が私学を禁絶して以来、学問は口説で流伝し、漢初には「挟書律」がいまだ廃止されず、およそ文字がなく記誦に供できないものは、儒家がこれによって散失・不伝となったかもしれない。これは知れない。しかし《周易》は他の経書と異なる。秦人はそれを卜筮の書と見なし、ただ禁毀の列に入れなかった。仮に本当に先天古易・河図洛書があったなら、公然と世に流行できたはずで、どうしてついに一人として知る者がいなかったのか。
且草廬謂儒家無傳,其意以為獨養生家傳之耳。漢蓺文志道家之外,又有房中、神仙、方技諸家,皆不以記誦為事,能傳河圗洛書者也。彼縱私為養生之術,豈遂不知為包犧作易之由也者?孝文好黃老而創置博士,孝武慕神仙而表章六經,儒道二流皆其所尚,真千載一時也。苟出所藏以為人主長生久視之助,且明指為河圗洛書,以附四聖人之易而立於學官,其道將由是大光,奚為終秘而不出乎?宋世之所傳,其非古之河圗洛書也明矣。
しかも呉澄は儒家に伝承がなかったと言うが、言外の意味は養生家だけが伝えたということであろう。《漢書・芸文志》は道家のほかに、なお房中・神仙・方技の各家を列している。彼らはいずれも記誦を業とせず、まさに河図洛書を伝えられる人々である。彼らはたとえ私にそれを養生の術としても、それが伏羲の《易》を作る依拠であることを知らなかったであろうか。漢文帝は黄老を愛好して博士を創置し、漢武帝は神仙を慕って六経を表彰した。儒・道の両派はみな朝廷に崇尚される列にあって、まことに千載一遇の時機であった。彼らがもし秘蔵を出して君主の長生久視を助け、そしてそれが河図洛書であると明確に指認し、伏羲・文王・周公・孔子の四聖の《易》に附して学官に立てたなら、この一派の学問はこれによって大いに光を放ったであろう。どうして終始秘蔵して出さなかったのか。これを見れば宋代に伝わったあの図々は、古代の河図洛書ではない。これは明白である。
昔張平子言緯候虛妄,譬猶畫工惡圗犬馬而好作鬼魅。彼謂龍銜一片之甲、龜負一卷之書者,固不足信;而宋以後圗書之說,亦復與畫鬼魅無異。葢東序之河圗、天錫之洛書,世無其器,任意寫之,無所不可,故或云九圗而十書,或云十圗而九書,或刓方而使之圎,或引圎而使之方;
昔、張衡(字は平子)は緯書・候書を虚妄不实と言い、画工が犬馬を画くを悪み鬼怪を画くを好むに喩えた。あの龍が一片の甲を銜え、亀が一巻の書を負うという話は、もともと憑信に足りない。そして宋代以降の図書の説も、鬼怪を画くのと変わらない。東序に陳列した河図・上天の賜った洛書は、世に実物がないので、人がどう画いても構わない。ゆえに河図九数・洛書十数と言う者があり、河図十数・洛書九数と言う者もある。方なるものを削って円にする者があり、円なるものを引き延ばして方にする者もある。
或作陰陽相含之象(羅願以一圈為河圗,陰陽相含,言出於青城山隠者,見宋文憲集。蔣公順雲當以先天圗為河圗,即此);或為白黑相間之形(郝經盡廢先儒之說,自畫一圗,為白圈黒圈,與五相間而為十,以白為天奇,以黑為地偶,取三奇為乾、三偶為坤,其餘卦取之亦然,見劉因河圗辨);
陰陽が互いに包含する様子に画く者がある(南宋の羅願は一つの円圏を河図とし、陰陽互含の意を取った。青城山の隠者から出たと言う。宋濂《宋文憲公集》に見える。蒋公順は先天図をもって河図とすべしと主張したが、これを指す)。白黒相間の形に画く者もある(元の郝経は先儒の旧説を全く廃棄し、自ら一幅の図を画き、白圏・黒圏と「五」を相間に排して十と成し、白圏を天の奇数・黒圏を地の偶数とし、三つの奇を取って乾とし、三つの偶を取って坤とし、残りの各卦もこれに照らして取り法した。劉因《河図辨》に見える)。
或言蜀隠者之秘授(趙撝謙六書本義云:天地自然之圗,世傳蔡元定得於蜀之隠者,秘而不傳。毛氏原舛編云:蜀山隠者、青城隠者及篾叟醬翁之徒,總闇昧不可考,從來無名氏皆是寓言,不必有人者。君平季主皆蜀隠君子,亦皆言易,何必無名也);或稱武夷君之真傳(謝枋得有一圗,髣髴八卦,作坎離中畫交流,謂之真河圗。袁清容曰:謝先生遯於建安,得圗書於彭翁,彭得之武夷君。原舛編云:此即魏伯陽諸家抽坎填離之術)。
蜀地の隠者が秘密に伝授したと言う者がある(明の趙撝謙《六書本義》にいう:「天地自然之図」は、世に蔡元定が蜀地の一人の隠者から得たと伝えられ、秘して外に伝えなかった。毛奇齢《原舛編》にいう:蜀山の隠者・青城の隠者および篾叟・醤翁の類は、みな渺茫として考究できない。従来この類の無名氏はみな寓言で、必ずしもその人が実在したわけではない。厳君平・司馬季主はみな蜀中の隠君子で、《易》を講じていたのに、どうして名無しの人に託名する必要があるのか)。武夷君の真伝を得たと号する者もある(宋末の謝枋得に一幅の図があり、八卦の形状に髣髴として、坎離両卦の中爻を交流の勢に画き、真河図と称した。袁桷(号は清容)がいう:謝先生は建安に隠遁し、彭翁から図書を得て、彭翁はまた武夷君から得た。《原舛編》にいう:これは実は魏伯陽の一派の「抽坎填離」の丹術である)。
而其所載之以出者,則曰馬之旋毛如星點,龜之甲坼如字畫;或又云馬毛似連錢之文,龜甲有瑇瑁之點。至近世豐坊謂龍駰之革燼於武庫,其象傳於石經(坊偽撰石經正音,有一圈為河圗,其說云:包羲之世,龍駰出於榮河,背上旋毛有此圗象,歴世相傳,至晉元康五年武庫火,駰革燼焉,其象傳於石經,宋藏之秘府,而清敏公手摹之。清敏,坊逺祖稷也。晉書五行志:元康五年武庫火,王莽頭、孔子履、漢髙祖斷白蛇劍一時蕩盡,坊因而附會,以為駰革之燼亦在此年也)。
図書を載せて出てくるものについて言えば、ある者は龍馬の旋毛が星点のごとく、亀甲の裂紋が字画のごとしと言い、またある者は馬の毛が連銭の文様のごとく、亀甲に玳瑁のごとき斑点があると言う。近世の豊坊に至っては、龍駰の皮革は晋代の武庫の大火で焼けたが、その図象は石経によって伝わったとさえ言う(豊坊は《石経正音》を偽造し、その中に一つの円圏を河図とした。その説は:伏羲の世、龍駰が滎河に出て、背の旋毛がこの図象を構成した。歴代相传して西晋元康五年に武庫が火災を失い、龍駰の革は灰燼に焼かれたが、その図象は石経に伝えられ、宋代に秘府に収蔵され、清敏公が自ら摸写した。清敏公とは豊坊の遠祖・豊稷である。按するに《晋書・五行志》:元康五年武庫が火災を失い、王莽の頭・孔子の履・漢高祖の白蛇を斬った剣が一時に焼き尽くされた。豊坊はこれに附会して、龍駰の革もこの年に焼けたと言ったのである)。
朱謀<土韋>謂河圗世藏秘府,宋徽宗始出示中外傳寫(謀<土韋>著易象通,有衍河圗一太極、二兩儀、三四象、四八卦,俱作圎圈,葢解剝希夷古太極體而為之。其說曰:三代以來,厥圗世蔵秘府,學者莫得而窺,逮宋徽宗考古搜奇,始出示中外傳寫,迄今寖失其舊,以故學者舍河圗而造太極,昧四象而贅五行,位置顛冥,方物舛謬)。
朱謀㙔はまた、河図は歴代宮廷の秘府に収蔵され、宋徽宗に至って取り出して中外に伝写させたと��う(朱謀㙔は《易象通》を著し、河図を推衍する一套の図式がある。一が太極、二が両儀、三が四象、四が八卦で、みな円圏に画く。実は陳摶の古太極図を拆解して作ったものである。その説は:三代以来、この図は代々秘府に蔵され、学者は窺見する術がなかった。宋徽宗が古物を考求し奇異を捜集するに至って、はじめて取り出して中外に伝写させた。今に至って次第に本来の面目を失ったので、学者は河図を撇いて太極図を造り、四象を明らかにできずにさらに五行を添え、位置を顛倒錯乱させ、方位・事物を皆乖謬させた、という)。
而誕謾斯極矣。夫畫工之寫鬼神,雖天容道貌,吾猶不敢信以為真,而況夔魖罔象變相迭出者乎?易道至此,亦陽九之阸、百六之會也。迂談僻論愈出愈奇,矯誣上天,蕪穢聖經,何怪乎歐陽永叔、司馬君實、姚小彭、項平甫、袁機仲、林德久、趙汝楳、王子充、歸熙甫、郝仲輿諸人之慾屏絶圗書也哉!雖然,河圗洛書古實有其事,後之君子不信河洛五九之篇、方圎九十之數可也,並夫子所謂河出圗洛出書者而疑之,則過矣。
荒誕欺妄もここに至って極まった。画工が鬼神を描くに、たとえ天帝の儀容・道家の風貌を画いても、私はなお真実と信じるに敢えてしない。ましてあの山精水怪・変相の層出窮まらないものをや。易道もここに至っては、まさに「陽九」の厄・「百六」の会に遭ったと言うべきである。迂闊怪僻の議論は出るほど奇を増し、上天に仮託して欺きを行い、聖人の経典を蕪雑にし汚した――欧陽脩(字は永叔)・司馬光(字は君実)・姚小彭・項安世(字は平甫)・袁枢(字は機仲)・林至(字は徳久)・趙汝楳・王禕(字は子充)・帰有光(字は熙甫)・郝敬(字は仲輿)らが徹底的に図書の説を屏棄しようと主張するのも無理はない!とはいえ、河図洛書は古代に確かにその事があった。後世の君子が河洛九篇六篇の書・方図円図九数十数の説を信じないのはよいが、孔子のいう「河出図、洛出書」までも併せて疑うならば、それは過分である。
右論圗書不過為易興先至之祥。
以上の一節は、河図洛書は《易》道がまさに興る前の先がけの祥瑞にすぎず、伏羲の画卦が依拠した底本ではないことを論証した。
《書·顧命》曰:「赤刀、大訓、弘璧、琬琰在西序,大玉、夷玉、天球、河圗在東序。」
《尚書・顧命》に周成王の死後に遺物を陳設した状況を記していう:赤刀・大訓・弘璧・琬琰の数点は西序(西の廂房)に陳列し、大玉・夷玉・天球・河図の数点は東序(東の廂房)に陳列した。これは先秦の経典の中で唯一、「河図」を一つの実物として、それが周王室に収蔵され陳列されたことを説明した記載である。ゆえに後世が河図がいったい何物か・果たして存在したかを争う最も肝要な証拠となり、胡渭の河図公案の考弁はこの一条から手を着ける。
孔氏安國曰:「大訓,虞書典謨。河圗,八卦。伏犧王天下,龍馬出河,遂則其文以畫八卦,謂之河圗。及典謨皆歴代傳寶之。」
旧題・西漢の孔安国(孔子の後裔で、伝えに《尚書》孔伝の作者とされる)がこの一条を解していう:「大訓」とは《虞書》の中の《堯典》《舜典》と《大禹謨》《皋陶謨》の類の典謨之文を指す。「河図」とは八卦を指す。伏羲が天下を統治していたとき、龍馬が黄河の中より出て、伏羲はそこで龍馬の身の紋様を取り法して八卦を画き成した。これを「河図」という。河図は典謨とともに、歴代王朝に世々伝わり重宝として収蔵されたものである。
《論語》:子曰:「鳳鳥不至,河不出圗,吾已矣夫!」
《論語・子罕》に記す。孔子がいう:「鳳凰が再び飛来せず、黄河が再び河図を出さないなら、我が一生はおそらく終わった。」孔子は「河出図」と「鳳鳥至」を並立し、いずれも聖王が位に在り上天が符瑞を降す徴兆と見なした。この言葉は後世、河図を語る者が最も多く引用する経典の依拠であり、宋人が河図を一幅の数字図式と説くときに倚仗した護身符でもある。
何晏《集解》:孔曰:「聖人受命則河出圗,今無此瑞。」「河圗,八卦。」
三国魏の何晏《論語集解》に孔安国の注を引いていう:聖人が天命を承けて即位すれば、黄河に河図が出る。いまその祥瑞はない。また「河図」はすなわち八卦と注した。これを見れば漢魏の時期の旧注は一様に河図を直ちに八卦と同一視しており、それが白黒の点で排された数字図式であるとは言っていない。
《禮記·禮運》曰:「天不愛其地,道不愛其寶,人不愛其情,故天降膏露,地出醴泉,山出器車,河出馬圗。」
《礼記・礼運》にいう:上天はその大道を吝しまず、大地はその宝蔵を吝しまず、人はその真情を吝しまない。ゆえに上天は甘美の露を降らし、大地は甘甜の泉を湧かせ、山中に自然生成の器車が出、黄河の中に「馬図」が出る。(通行本《礼運》のこの句は「天不愛其道、地不愛其宝」で、この本は「道」「地」の二字が互いに倒れている。)胡渭がこの一条を引くのは、先秦文献の中の河図が膏露・醴泉・器車と並列する一件の祥瑞の物であって、一套の数理図式ではないことを説明せんがためである。
鄭氏玄曰:「馬圗,龍馬負圗而出也。」
東漢の経学の大師・鄭玄が解していう:いわゆる「馬図」とは、龍馬が図を背負って黄河の中より出たものをいう。鄭玄は《礼運》の「馬図」と《周易》《論語》の「河図」を同一の事と見なした。「龍馬負図」の説はこれによって定型し、後世に河図の来歴を語る通行の講法となった。
孔氏穎達曰:「按《中候·握河紀》注云:『龍馬,龍而形象馬,故云馬圗。』」(或云:《周禮》馬八尺以上曰龍,出於河,猶漢武時天馬出渥窪水也。)
唐の孔穎達(《五経正義》の主持人)がいう:《尚書中候・握河紀》の注に講じるところ、いわゆる「龍馬」とは、龍で���って形状が馬に似るので「馬図」という。(また一説に:《周礼》を按するに、馬は身の高さ八尺以上なれば「龍」と称する。この種の馬は黄河から出るのであって、ちょうど漢武帝の時に天馬が渥洼水より出たごとし。)この二種の解釈は、一は龍馬を神物と見なし、一はそれを河辺から出た一頭の駿馬と見なす。
東坡蘇氏曰:「夫河圗、洛書,其詳不可得而聞矣,然著於《易》,見於《論語》,不可誣也。而今學者或疑焉。山川之出圗書,有時而然也。魏晉之間,張掖出石圗,文字粲然,時無聖人,莫識其義耳。河圗、洛書,豈足怪哉!」
北宋の蘇軾(号は東坡)がいう:河図・洛書の詳しい状況はすでに聞く術がないが、それらは《周易・繋辞》に書かれ、《論語》にも見えるので、偽造と誣して指すことはできない。ところがいまの学者にはそれらを疑う者がある。山川の間に図書が出ることは、もともとたまたま発生する事である。魏晋の際、張掖郡に一つの石図が出て、上に文字が歷々として明らかだったが、ただ当時に聖人がなく、その義を認め得る者がいなかっただけである。河図・洛書の類の事が、どうして大驚小怪するに値しようか。
(《魏志·管寧傳》:青龍四年辛亥詔書:「張掖玄川湧溢,激波奮蕩,寶石負圗,狀象靈龜,宅於川西,嶷然盤峙,倉質素章,麟、鳳、龍、馬煥炳成形,文字告命,粲然著明。」太史令髙堂隆上言:「古王聖帝所未嘗蒙,實有魏之禎命,東序之世寶。」葢隆亦以此石為河圗之類也。)
(案:《三国志・魏志・管寧伝》に魏明帝の青龍四年辛亥日の詔書を載せていう:張掖郡の玄川の泉水が湧溢し、波濤が激盪して、図紋を背負った宝石を冲し出した。形は霊亀に似て、川水の西岸に坐し、高く聳えて盤踞し、石質は青蒼で花紋は潔白で、麒麟・鳳凰・龍・馬の形象が煥然と成形し、上の文字は天命の告示のごとく鮮明にして弁別できた。太史令・高堂隆が上奏していう:これは古代の聖王もかつて得なかった祥瑞で、まことに曹魏の受命の吉兆であり、東序に陳放できる伝世の宝である。これを見れば高堂隆もこの石を河図の類の物と見なした――これはまさに胡渭が後に河図は石類に属すべしと推断する根拠である。)
厚齋王氏應麟曰:「歐陽公以河圗、洛書為怪妄,東坡曰:『見於《易》,著於《論語》,不可誣也。』南豐曰:『以非所習見,則果於以為不然,是以天地萬物之變為可盡於耳目之所及,亦可謂過矣。』蘇、曽皆歐陽公門人,而論議不苟同如此。」
南宋の王応麟(号は厚斎、《困学紀聞》《玉海》の作者)がいう:欧陽脩は河図・洛書を荒誕不経の説と認定したが、蘇東坡は「それは《周易》に見え、《論語》に載る。偽造と誣することはできない」と言い、曾鞏(世に南豊先生と称す)もまた「ただ自分が平常见慣れない事物だからといって、断じて存在し得ないと認定するのは、天地万物の一切の変化をみな自分の耳目で窮められると見なすに等しく、過分にすぎる」と言った。蘇軾・曾鞏はみな欧陽脩の門生であるのに、議論においてこのように師説に苟同しなかった。
一卷之書,亦必有師。尊所聞,行所知者,弟子之職也。然自非聖人,不能無過,故語云「智者千慮,必有一失」。夫入室操戈,固非師之所望於弟子,而義苟未安,則為弟子者虛心平氣以待公論之自定,未為不可。彼一聞異議輙疾之如讎,欲執兵而掊其後者,亦非君子之道也。蘇、曽不阿所好,其與世之黨同門、妬道真、挾恐見破之私意而無從善服義之公心者,相去逺矣。
胡渭はこれに就いて議論を発する:たとえ一巻の書を読むだけでも、必ず師がある。師から聞いた道理を尊重し、自分の懂得した学問を実行するのは、弟子たる者の本分である。ただし聖人でない限り、誰にも過失を免れない。ゆえに俗に「聡明な者も千慮に必ず一失あり」という。師の伝えた学問をもってかえって師を攻撃するのは、固より師の弟子に対する期望ではない。しかし道理の上で確かに不妥があれば、弟子たる者が虚心平気して公論の自然に成るを待つのも、また悪くない。異なる意見を聞くや否やそれを仇敵のごとく恨み、兵器を取って背後から相手を撃たんと欲する者も、同じく君子の道に合わない。蘇軾・曾鞏が師の偏好に曲意迎合しなかったのは、世上のあの結党して同門を袒護し、真理を嫉妬し、自分が人に見抜かれるを恐れる私心を懐いて善に従い義に服する公心のない者たちと比べれば、隔たりは実に遠い。
山陽閻徵君若璩曰:「鳳鳥、河圗皆為帝王盛世之應,故《禮》以天之膏露、地之醴泉、山之器車與馬圗並言,《書》與兊之戈、和之弓、垂之竹矢一時而並陳,原不必定伏羲時出。秖緣《集註》如是,加以世多歐公之徒不信祥異,一似夫子思此不再見之物也者。不知河圗黃帝時亦出,堯、舜、禹時疉出,成王、周公時又出,載諸史志。即下至晚宋,朱子表章四書,有龍駒生於九峰山下,龍首馬身,狀若負河圗者,父老來致賀於元晦,以為與麟至同符,誰謂天人相與之際不有冥通者邪!」
山陽の人・閻若璩(清初の考据学家で、博学をもって荐挙され「征君」と称された。《尚書古文疏証》を著す)がいう:鳳鳥と河図はみな帝王の盛世の感応の物である。ゆえに《礼記》は上天の甘露・大地の甜泉・山中の器車と河中の馬図を並列して説き、《尚書・顧命》は河図を兌の造った戈・和の造った弓・垂の造った竹矢と同時に一処に陳列した。もともと河図が伏羲の時にのみ出たと断定する必要はない。ただ朱熹《論語集注》があのように講じたがゆえ、加えて世上に欧陽脩の一派で祥瑞・災異を信じない者が多く、そこで孔子が嘆息したのはこれ以後二度と現れない一物であるかのようになった。彼らは河図が黄帝の時にも出て、堯・舜・禹の時にたびたび出て、成王・周公の時にまた出たことを知らない。これらはみな歴代の史志に載る。南宋の末期、朱熹が《四書》を表彰したときに至っても、なお龍駒が九峰山の下に生まれ、龍頭馬身で様子が河図を背負うがごとく、郷里の父老が来て朱元晦に賀を述べ、これを孔子の時代に麒麟が現れたのと同じ類の符瑞と見なした。誰が天人の相感応する際に暗中に相通ずる道理がないと言えようか。
《魏志》博士淳于俊曰:「包羲因燧皇之圗而制八卦。」髙貴鄉公折之曰:「若使包羲因燧皇而作《易》,孔子何以不云『燧人氏沒,包羲氏作』乎?」俊不能荅。此妄談,不足深辨。
《三国志・魏志》に記す。博士・淳于俊がいう:伏羲は燧人氏の伝えた図に依拠して八卦を制作した。魏帝・高貴郷公の曹髦が面と向かって彼を駁斥していう:もし伏羲が燧人氏を承けて《周易》を作ったのなら、孔子は《繋辞》でどうして「燧人氏没して包羲氏作れり」と言わなかったのか。淳于俊は答えることができなかった。胡渭の按:これは無稽の談であって、深く辨析するに値しない。
《玉海》:姚信曰:「連山氏得河圗,夏人因之曰《連山》;歸藏氏得河圗,商人因之曰《歸藏》;伏義氏得河圗,周人因之曰《周易》。」(姚信,三國吳太常卿也。《周禮疏》云:案《世譜》等書,神農一曰連山氏、列山氏,黃帝一曰歸藏氏,並是代號。)王洙曰:「《山海經》云:伏羲氏得河圗,夏后因之曰《連山》;黃帝氏得河圗,商人因之曰《歸藏》;列山氏得河圗,周人因之曰《周易》。」(洙字原叔,著《易傳》十卷。)
王応麟《玉海》に三国呉の人・姚信の言を引いていう:連山氏が河図を得て、夏代人がそれに沿って用い、《連山》と称した。帰蔵氏が河図を得て、商代人がそれに沿って用い、《帰蔵》と称した。伏羲氏が河図を得て、周代人がそれに沿って用い、《周易》と称した。(姚信は三国呉国の太常卿。《周礼疏》にいう:《世譜》の類の書を按するに、神農氏はまた連山氏・列山氏と言い、黄帝はまた帰蔵氏と言う。いずれも朝代の別称である。)北宋の王洙はまたいう:《山海経》に講じるところ、伏羲氏が河図を得て、夏后氏がそれに沿って用いて《連山》と称した。黄帝氏が河図を得て、商人がそれに沿って用いて《帰蔵》と称した。列山氏が河図を得て、周人がそれに沿って用いて《周易》と称した。(王洙は字を原叔、《易伝》十巻を著す。)
二說互異。漢上朱氏曰:「斯乃杜子春之所憑,姚信之言非口自出,但所從傳者異耳。梁武攻之,涉於率肆。仲尼曰『河不出圗,吾已矣夫』,葢聖人受命必有符瑞,若圗不再出,無勞嘆徯。」此言良是。然歴代所受河圗,豈必皆為卦畫之象而則之以作《易》?蒙有猜焉,未敢盡從也。
姚信と王洙のこの二説は、配した帝号が互いに抵触する。南宋の朱震(漢上に居り、世に漢上先生と称す。《漢上易伝》を著す)がいう:これはもともと漢代の杜子春が依拠した旧説で、姚信の言は自らの杜撰に出たのではなく、ただ彼が承伝した師説が異なるだけである。梁武帝がこの類の説を攻駁したのは、軽率放肆にすぎる。孔子は「黄河が再び図を出さないなら、我が一生は終わった」と言った。これを見れば聖人の受命には必ず符瑞が伴う。もし河図がこれ以後二度と現れないなら、孔子も嘆息して待つ必要がなかったであろう。胡渭の按:朱震のこの言はまことに正しい。ただし歴代の受けた河図は、どうして必ずしもみな卦画の形象で、みな聖人に取り法されて《周易》の創作に用いられたと言えようか。私はこれに心に疑いを存し、完全には従い敢えてしない。
按:《顧命》東西序之所陳,類皆玩好,唯大訓、河圗為載道之器。《周官》天府總謂之「大寶器」,祭祀陳之,示能守;喪紀陳之,示能傳也。河圗非必伏羲時出,猶鳳鳥不獨舜時來儀。然孔安國注《論語》云「河圗,八卦」,而《書·顧命》傳則直指為伏羲之河圗;姚信亦云伏羲得河圗,周人因之曰《周易》。朱子固有所本,非杜撰也。
胡渭の按:《顧命》の東・西両序に陳列したものは、大抵は玩賞の物に属し、ただ「大訓」と「河図」だけが大道を載せる器具である。《周礼》の天府の職はそれらを統べて「大宝器」と称し、祭祀のときに陳列して祖業を守れることを示し、喪礼を執り行うときに陳列して先王の道を伝承できることを示す。河図は必ずしも伏羲の時に出なければならないものではなく、ちょうど鳳凰も舜の時にだけ来儀したのではないのと同じである。ただ孔安国は《論語》を注して「河図はすなわち八卦」とのみ言ったが、彼が《尚書・顧命》に伝を作ったときは径ちにこれが伏羲の得た河図であると指明した。姚信も伏羲が河図を得て周人がこれに因って《周易》と称したと言う。これを見れば朱熹の河図が伏羲の世に出たと講じたのは、もともと依拠する所があって、憑空に杜撰したのではなかった。
但河圗不知載在何物,歴數千年至周而尚存。據《禮運》為馬圗,則《中候》云「龍馬銜甲,甲似龜背,袤廣九尺」,庶幾近之,而其所謂「甲」者,終不知為何物。據曹魏時張掖出石圗有八卦之狀,髙堂隆以比東序之世寶,則河圗當為石類。俞玉吾琰云:「天球,玉也。河圗而與天球並列,葢玉之有文者。」然則赤刀,金也,大訓而與赤刀並列,亦將為金之有文者乎?又有據大訓為簡策以證河圗之亦為簡冊者,則緯書九篇之說不為誕妄矣。
しかし河図がいったい何の材料に書かれ、数千年を経て周代まで保存され得たかは、誰も説き明かせない。もし《礼運》に依ってそれを「馬図」と見なすなら、《尚書中候》のいう「龍馬が甲を口に銜え、甲は亀の背に似て縦横九尺」はほぼ実情に近いが、それのいう「甲」がいったい何物かは、ついに明らかでない。もし曹魏の時に張掖より出土した石図が八卦の形状を帯び、高堂隆がそれを東序に蔵する世宝に比べたことから推し断するなら、河図は石の類に属すべきである。元の俞琰(字は玉吾)がいう:天球は玉器である。河図は天球と並び陳放されたのだから、おそらく一塊の紋理ある玉であろう。しかしこの推法に照らせば、赤刀は金属であり、大訓は赤刀と並列したのだから、それを紋ある金属と言わなければならないではないか。またある者は大訓が簡冊であることに拠って、河図も簡冊であると証明するが、そうすれば緯書のいう河図に九篇あるという講法も、かえって荒誕とは言えなくなる。種種の材質の推断は、それぞれ証拠があり、それぞれ破綻もある。
紛紛推測,終無定論。然河圗藏諸天府,不知何時遂亡。初意秦昭襄王取周九鼎寶器時,河圗併入於秦,及項羽燒秦宮室,與府庫俱為灰燼,此其所以不傳也。今年客京師,與四明萬君季野斯同論及此事,萬君曰:「幽王被犬戎之難,周室東遷,諸大寶器必亡於此時,河圗無論,後人恐夫子亦不及見。」餘聞而韙之。頃檢《周本紀》云:「犬戎殺幽王驪山下,虜褒姒,盡取周賂而去。」賂即珍寶貨財也,可見河圗實亡於此時。故自平、桓以下,凡《顧命》所陳諸寶器,無一復見於傳記;而王子朝之亂,其所挾以出者,周之寶珪與典籍而已,天府之藏無有也。(寶珪,典瑞所掌;典籍,太史掌之,並非大寶器。)
各種の推測は紛紛として一せず、ついに定論がない。しかし河図は周天子の天府に収蔵されていたが、いつしか亡佚した。私は初め、秦昭襄王が周室の九鼎宝器を奪ったとき、河図は一緒に秦に帰し、項羽が秦の宮室を焼いたときに府庫とともに灰燼と化したので、流伝しなかったのだと思っていた。今年、私は京城に客居し、四明の人・万斯同(字は季野、明史館の史学の名家)とこの事を談じたところ、万君がいう:周幽王が犬戎の禍に遭い、周室はやむなく東遷し、諸々の大宝器は必ずあの時に亡失した。河図は言うまでもなく、おそらく孔子でさえ親しく見られなかったであろう。私は聞いて大いに然りとした。近ごろ《史記・周本紀》を査するに、犬戎が驪山の下で幽王を殺し、褒姒を掠め取り、周室の財宝を掻き集め尽くして去ったとある――「賂」とは珍宝財貨である。これを見れば河図は確かにこの時に亡びた。だから周平王・周桓王以降、およそ《顧命》に陳列したあの宝器は、一件も伝記に再び見えない。そして王子朝が乱を起こして出奔したとき挟帯して出たのは、周室の宝圭と典籍だけで、天府の蔵する大宝器は一件もなかった。(宝圭は典瑞の官が掌管し、典籍は太史が掌管する。いずれも「大宝器」に属さない。)
河圗亡已久,雖老聃、萇弘之徒亦未經目覩,故夫子適周無從訪問,贊《易》有其名而無其義,所謂「疑者丘葢不言」也。若夫天地之數,夫子未嘗指為河圗,故自漢魏以迄隋唐,言河圗者或以為九宮,或以為九篇,未有指五十五數為河圗者。《乾鑿度》《參同契》雖皆以九宮為河圗,而終不敢摹一象名之曰河圗以附於其書。陳摶生於五季,去古彌逺,何從得其本真而繪圗以授人乎?漢景帝云「食肉不食馬肝,未為不知味」,今言《易》而不言河圗,亦未為不知道也。
河図の亡佚は久しく、老聃・萇弘らの周室の旧臣でさえ親しく見たことがなく、だから孔子が周室に赴いても訪ね求め問う術がなかった。彼が《周易》を賛述したとき、河図という名目があることだけを知り、その実義を明らかにしなかったのは、まさに彼のいう「疑いある所は、我が孔丘は存して論ぜず」である。一から十までの天地之数について、孔子はかつてそれが河図であると指認しなかった。だから漢魏から隋唐まで、河図を語る者は、あるいはそれを九宮と見なし、あるいは九篇の緯書と見なし、かつて「五十五」という数目を河図と指した者はいない。《易緯乾鑿度》と《周易参同契》はいずれも九宮を河図としたが、ついに一つの図象を摸画して「河図」と題して自書に附することを敢えてしなかった。陳摶は五代に生まれた。上古よりさらに遠く離れて、どこから河図の本来の面目を得て、図式に画き成して人に伝授したであろうか。漢景帝は「肉を食らって馬肝を食らわざるは、味を知らざると謂わず」と言った。今日《周易》を講じて河図を講ぜざるも、《易》道を知らざると謂わない。この一段は胡渭の全書の関鍵たる推論である:河図は早くも西周の末年に実物として亡佚し、孔子は見たことがなく、五十五点之図は宋人・陳摶の一系の後起之説で、断じて古河図ではない。
右論古河圗之器。
以上の一節は、古代文献の中の実物・器具としての河図を考弁した。これは胡渭が毎節の末に自ら加えた標目で、本节の論題の範囲を標明するためのものである。
《書·洪範》:箕子乃言曰:「我聞在昔,鯀陻洪水,汨陳其五行。帝乃震怒,不畀洪範九疇,彝倫攸斁。鯀則殛死,禹乃嗣興,天乃錫禹洪範九疇,彝倫攸敘。初一曰五行,次二曰敬用五事,次三曰農用八政,次四曰協用五紀,次五曰建用皇極,次六曰又用三德,次七曰明用稽疑,次八曰念用庶徵,次九曰向用五福、威用六極。」
《尚書・洪範》に記す。箕子(商紂王の叔父。周武王が商を滅ぼした後、彼に治国の大法を請うた)がいう:私が聞くに、昔、鯀が塞き止める方法で洪水を治め、水火木金土の五行の次序を乱したので、上帝はこれに震怒し、「洪範九疇」という九類の大法を彼に賜らず、人倫の常道はこれによって敗れた。鯀は処死され、大禹が継起して水を治め、上天はここに洪範九疇を禹に賜り、人倫の常道はこれによって順理された。第一類を五行といい、第二類を敬慎に五事を施行するといい、第三類を努力して八政を辦ずるといい、第四類を協調して五紀を用いるといい、第五類を皇極を建立するといい、第六類を治理に三徳を運用するといい、第七類を明習に卜筮を用いて疑いを決するといい、第八類を諸種の徴兆に留心するといい、第九類を五福をもって勧勉し六極をもって警戒するという。この経文は洛書公案の総綱である。留意すべきは、それが通篇ただ「洪範九疇」だけを講じ、「洛書」の字様が一つもないことである。
孔氏安國曰:「天與禹,洛出書,神龜負文而出,列於背,有數至於九。禹遂因而第之,以成九類常道,所以次敘。」
孔安国がこの一条に注していう:上天が大禹を賜うとき、洛水に書が出て、神亀が文字を背負って水面に浮出し、文字は亀の背に排列して数は九まで達した。大禹はそこでそれに依って次序を排定し、九類の治国常道を形成し、人倫の次序はこれによって確立した。孔安国のこの注は、《洪範》の「天錫禹洪範九疇」と《繋辞》の「洛出書」とを正式に掛け繋げた第一歩で、後世の「神亀負書」の説はみな��れ��由来する。
孔氏穎達曰:「《易·繫辭》云『河出圗,洛出書,聖人則之』,九類各有文字,即是書也。《漢書·五行志》劉歆以為『禹治洪水,錫洛書,法而陳之,洪範是也』,先達共為此說。龜負洛書,經無其事,《中候》及諸緯多說黃帝、堯、舜、禹、湯、文、武受圗書之事,皆云龍負圗、龜負書。緯候不知誰作,通人討核,謂偽起哀、平。雖復前漢之末始有此書,以前學者必相傳此說,故孔以九類是神龜負文而出,列於背有數,從一而至於九也。」
孔穎達がいう:《周易・繋辞》に「黄河より図が出、洛水より書が出、聖人はそれらを取り法した」と講ずる。九類の大法にそれぞれ文字があれば、それがいわゆる「書」である。《漢書・五行志》に劉歆が「禹は洪水を治め、上天が彼に洛書を賜り、禹は法に依って陳べ出したのが《洪範》である」としたと載せ、前代の通儒はみなこの説を持つ。神亀の洛書を背負うことは、経書の中にはない事である。《尚書中候》と諸種の緯書は多く黄帝・堯・舜・禹・湯・文王・武王が図書を承けた事を講じ、いずれも龍は図を背負い亀は書を背負うと言う。緯書・候書は誰の作か知られず、通達の士は考核して漢哀帝・平帝の際に偽造されたものと認めた。ただしこれらの書がたとえ西漢の末年に至って出たとしても、それ以前に学者たちは必ずすでに転々としてこの説を相传していたので、孔安国はこそ九類は神亀が文字を背負って浮出し、背上に排列して数があり、一より九に至ると認定したのである。
「言『禹第之』者,以天神言語必當簡要,不應曲有次第丁寧若此,故以為禹次第之。又曰『初一』已下至『六極』,傳言此禹所第敘,不知洛書本有幾字。《五行志》悉載此一章,乃云『凡此六十五字皆洛書本文』。計天言簡要,必無次第之數,故孔以『第』是禹之所為,『初一曰』等二十七字必是禹加之也。其『敬用』『農用』等二十八字,大劉及顧氏以為龜背先有,總三十八字;小劉以為『敬用』等亦禹所第敘,其龜文惟有二十字。並無明據,未知孰是,故兩存焉。」(顧氏名彪,大劉名焯,小劉名炫,皆隋人。)
孔穎達は続いていう:「禹がそれに次序を排定した」と講ずる所以は、天神の言語は必ず簡要で、曲折周詳・叮咛にこの程に至るべきでないので、次序は禹の編んだものと断定した。また「初一」以下から「六極」までを、孔伝は禹の排定叙述と見なしたが、洛書の原本にいくつの字があったかは知る術がない。《漢書・五行志》はこの章を全文鈔録し、「この六十五字はみな洛書の本文」と言った。しかし上天の言語は必ず簡要と推想され、「第一」「第二」の類の序数を帯びるはずがないので、孔安国は「第」を禹の所作と見なし、「初一曰」などの二十七字は必ず禹の添加したものである。「敬用」「農用」などの二十八字については、隋の劉焯(大劉)と顧彪は亀背に原からあったと認め、合わせて三十八字とした。劉炫(小劉)は「敬用」などの字も禹の排定叙述と認め、亀背の原文は二十字にすぎないとした。両説とも明確な証拠がなく、どちらが正しいか知れないので併存する。(顧氏は名を彪、大劉は名を焯、小劉は名を炫。いずれも隋代人。)
按:《隋志》云「濟南伏生之傳,唯劉向父子所著《五行傳》是其本法」。歆以洛書為文字,葢亦本伏生。伏生嘗為秦博士,習聞古訓,洛書即九疇,必三代以來相傳之學,非臆說也。天地之文理當簡要,劉炫謂本文惟有二十字,是為得之。
胡渭の按:《隋書・経籍志》に「済南・伏生の《尚書》の伝授には、ただ劉向父子の著した《洪範五行伝》だけがその本来の方法である」という。劉歆が洛書を文字と認めたのも、おそらく伏生に本づく。伏生は秦の博士を務め、古代の旧訓に熟習していた。彼が洛書を九疇と講じたのは、必ず夏・商・周三代以来相传の旧学で、憑空の臆説ではない。天地の顕示する文理は簡要であるべきで、劉炫が洛書の本文はただ二十字と言ったのは、この判断は正しい。
但孔疏云「天神言語」,世或疑焉,以為如此則頗似崔浩稱寇謙之所受《錄圗真經》「人神接對,手筆粲然」者,事涉妖妄,不可以說經。故林之奇《書傳》云「『帝乃震怒,不畀洪範九疇』猶言天奪之鑑,『天乃錫禹洪範九疇』猶言天誘其衷」,而趙汝楳《易雅》謂「不過如『天錫王勇智』『天錫公純嘏』之類,非真有物負之以錫諸人也」。王褘祖述其意,極論禹無受洛書之事,而據《繫辭傳》以為河圗、洛書皆伏羲所則以作《易》。總由「天神言語」四字有以滋其疑而莫之釋耳。孔子曰:「天何言哉?四時行焉,百物生焉。」孟子曰:「天不言,以行與事示之而已矣。」禹治水得其道,天錫之洛書以昭瑞應,此實「時行物生」「以行與事示之」之理。洛書,文也,非言也,而穎達以為天神之言語,則誣矣。
ただ孔穎達《正義》が「天神の言語」と講じたことは、世人に疑いを生じさせ、これでは北魏の崔浩が寇謙之の受けた《録図真経》を称うる「人と神が当面して対答し、親筆の書写が明らか」といった類に似て、事が荒誕に渉り、経を解くに用いられないと考えられた。だから南宋の林之奇《尚書全解》にいう:「上帝が震怒して洪範九疇を鯀に与えない」は、上天が彼の明察を奪い去ったと言うに等しい。「上天がここに洪範九疇を禹に賜る」は、上天が彼の心志を啓迪したと言うに等しい。趙汝楳《易雅》もまたいう:これは経書の「上天が王に勇気と智慧を賜る」「上天が公に大福を賜る」の類の説法にすぎず、本当に九疇を馱して人に賜る一物があったのではない。元の王禕はこの意を承襲し、力を尽くして禹は洛書を承けた事はなかったと論証し、かえって《繋辞伝》に依拠して河図・洛書はみな伏羲が取り法して《周易》を作ったものと断定した。これらの疑いは、帰するところみな「天神言語」の四字に引き起こされたのに、ついに誰もそれに代わって解き明かさなかった。孔子がいう:「天は何を言ったか。四季は同じく運行し、万物は同じく生長する。」孟子がいう:「天は語らず、ただ行いと事実をもって顕示するにすぎない。」大禹が水を治めて正道に合ったので、上天は彼に洛書を賜って祥瑞の感応を昭示した。これがまさに「四時運行・百物生長」「行いと事実をもって顕示する」の理である。洛書は「文」であって「言」ではない。孔穎達はそれを天神の言語と説いたので、誤りを説いたのである。
《說文》序云:「倉頡之初作書,葢依類象形,故謂之文;其後形聲相益,即謂之字。字者,言孳乳而浸多也。」然則文與字不同,文之點畫少,字之點畫多。洛書之文,葢與蒼頡初制相類。《左傳》:仲子有文在手,曰「為魯夫人」;成季、唐叔有文在手,曰「友」、曰「虞」。《正義》曰:「石經古文『虞』作□,『魯』作表,手文容或似之。」朱子亦云「古字畫少,恐或有模樣」。觀於此言,可以悟洛書成文之理矣。
《説文解字》の序言にいう:倉頡が初めて書契を造ったとき、ほぼ事物の類別に依って形象を描き摸したので「文」と称した。後に形旁・声旁が互いに配合して「字」と称した。「字」の意味は、それが生育繁衍のごとくますます多くなることを言う。このように見れば「文」と「字」は同じではない。「文」は笔画が少なく、「字」は笔画が多い。洛書の上の「文」は、おそらく倉頡の初造したあの「文」と同一の類に属する。《左伝》に記す:宋仲子は生まれたとき手上に紋路があり、「為魯夫人」の字様と成った。魯の成季(季友)・晋の唐叔虞も、生まれたとき手上に紋路があり、一は「友」の字と成り、一は「虞」の字と成った。《正義》にいう:石経古文の「虞」の字は某の形に作り、「魯」の字は某の形に作る。手上の紋路は或いはこれと相似ていたかもしれない。朱熹もまた「古字は笔画が少ないので、おそらく真にあのような模様があった」という。これらの言葉を見れば、洛書がどのように「文を成す」かの道理に悟り得る。
馬圗見於《禮運》,人不以為怪;龜書見於緯候,世或疑其妄。然天地間耳目之所不及,未可斷以為必無。《魏志》明帝青龍四年,張掖有寶石負圗,狀像靈龜,文字告命,粲然著明;《水經注》引車頻《秦書》,苻堅建元十二年,髙陸縣民穿井得龜,大二尺六寸,背文負八卦古字。物固有然,無足怪者。
馬図は《礼記・礼運》に見えるが、人々は奇怪に思わない。亀書は緯書・候書に見えるが、世人はそれを荒誕と疑う。しかし天地の間で耳目の及ばない事は、必ず無いと断定できない。《三国志・魏志》に載せる。魏明帝の青龍四年、張掖に図紋を背負った宝石が出て、形は霊亀に似て、上の文字は天命の告示のごとく鮮明にして弁別できた。《水経注》に車頻《秦書》を引いて載せる。前秦・苻堅の建元十二年、高陸県の百姓が井を穿ち、一隻の亀を掘り当てた。長さ二尺六寸、背の花紋に八卦の形状を帯びた古字があった。この類の事物はもともとあるもので、大驚小怪するに値しない。
然世風衰薄,間有作偽之事。如三國吳孫晧時,鄱陽歴陵山石文理成字凡二十,乃人以朱書石作之,言天下當太平。(《吳志》:孫晧天璽元年,鄱陽言歴陵山石文理成字凡二十,曰「楚九州島渚,吳九州島都,揚州士,作天子,四世治,太平始」。注:《江表傳》曰:歴陵長上言石印發,晧遣使以太牢祭之。巫言石印三郎說天下方太平。使者作髙梯上看印文,詐以朱書石作二十字,還以啟晧,晧大喜。)
ただし世風が衰薄し、その中に確かに作偽の事もあった。たとえば三国呉主・孫皓の時、鄱陽の暦陵山に一つの石の紋理が二十字を湊成したが、実はある人が朱砂をもって石上に書いて偽造したもので、内容は天下がまさに太平せんとするというものであった。(《三国志・呉志》に載せる:孫皓の天璽元年、鄱陽が暦陵山の石に紋理が字と成ったと上報し、合わせて二十字で、「楚九州渚、呉九州都、揚州士、作天子、四世治、太平始」といった。裴松之の注に《江表伝》を引いていう:暦陵県長が「石印発」を上報し、孫皓は使者を遣わして太牢をもって祭祀した。巫師は石印三郎が天下まさに太平せんとするを宣告したと言った。使者は高い梯子を架して上り印文を見、暗に朱砂をもって石上に二十字を書き、帰って孫皓に禀報し、孫皓は大いに喜んだ。)
臨朝,武承嗣使鑿白石為文凡八字以獻,稱獲之於洛水,太后命其石曰「寶圗」。(《通鑑》:唐垂拱元年,武承嗣使鑿白石為文,曰「聖母臨人,永昌帝業」,末紫石雜藥物填之,使雍州人唐同泰奉表以獻,稱獲之於洛水。太后喜,命其石曰「寶圗」,尋更命為「天授聖圗」。十二月己酉,太后拜洛受圗。)
またたとえば武則天が朝に臨んで制を称したとき、武承嗣が人をして白石上に八字を鑿ちて献じ、洛水の中で得たと偽り称した。太后はこの石に「宝図」と名づけた。(《資治通鑑》に載せる:唐の垂拱元年、武承嗣が人をして白石上に「聖母臨人、永昌帝業」の八字を鑿ち、鑿痕の末を紫石に薬物を攙えて填平し、雍州人・唐同泰をして上表して進献せしめ、洛水より得たと声言した。太后は大いに喜び、この石に「宝図」と命名し、まもなくまた「天授聖図」と改名した。その年十二月己酉、太后は自ら洛水に臨んでこの図を拝受した。)按:原文の「臨朝」二字の上には、「唐武后」の類の主語があるべきで、今本はそれを脱した。
林少穎、趙汝楳、王子充有見於此類,故深斥洛書。然以末世之偽而疑上古之真,不可也。《東都事略·杜鎬傳》:王欽若勸真宗為祥瑞以鎮服四夷,真宗疑焉,因問鎬「河出圗,洛出書,果何事」,鎬遽對曰:「此聖人以神道設敎耳。」真宗意遂決。是猶曹丕簒漢而以為舜、禹之事當亦如此也。鎬之言,不惟成君之惡,且大得罪於聖人矣。
林之奇(字は少穎)・趙汝楳・王禕(字は子充)はまさにこの類の偽造を見たので、力を尽くして洛書を排斥した。しかし末世の偽造をもって上古の真物を疑うのは、してはならない。《東都事略・杜鎬伝》に記す:王欽若は宋真宗に祥瑞を造って四方を震懾するよう勧め、真宗は遅疑して杜鎬に問うた。「河出図・洛出書とは、いったいどういう事か。」杜鎬は脱口して答えた。「これは聖人が神道に仮借して教化を施行したにすぎません。」真宗はここに祥瑞を造る決心を定めた。これは曹丕が漢室を簒奪しながら、なお当年の舜・禹の禅譲もこのようにやったと認定したに等しい。杜鎬のこの一言は、君主の悪行を助成しただけでなく、聖人をも大いに得罪させた。
《仲氏易》曰:「考禹治河所得,名為洪範九疇,不名洛書。觀《書》云『天乃錫禹洪範九疇』,並不及洛書,可驗也。若云天所錫者洛書,禹因而衍之,始名洪範九疇,則《書》又云『天不畀鯀洪範九疇』,是以禹所更定之名而天反豫竊之也,可乎?」
清初の毛奇齢《仲氏易》にいう:大禹が河を治めて得たものを考察するに、「洪範九疇」と名づき、「洛書」とは名づかない。《尚書》のいう「上天がここに洪範九疇を禹に賜る」を見れば、全然洛書に言及していない。これをもって検証できる。もし上天の賜ったものがもともと洛書で、禹がそれに拠って推演してはじめて洪範九疇と名づけたと言うなら、《尚書》はまた「上天が洪範九疇を鯀に与えない」と言う。これは上天が禹が後になって定めた名称をあらかじめ盗用したことにならないか。これは通じるか。
渭按:《洪範》者,《尚書》之篇名也。《書序》云「武王勝殷,以箕子歸,作《洪範》」,是《洪範》乃箕子之所命,以其為治天下之大法,故謂之《洪範》。其「九疇」則大禹所命,亦猶包犧之八卦耳。羲皇受河圗而始作八卦,文王演之,其書名《易》,不名《河圗》;大禹第洛書為九疇,箕子演之,其書名《洪範》,不名《洛書》,其義一也。
胡渭の按:《洪範》は《尚書》の中の一篇の篇名である。《書序》に「武王が殷商に勝ち、箕子を連れ帰り、《洪範》を作る」という。これを見れば「洪範」という名称は箕子の起したもので、それが天下を治める大法であるので《洪範》という。「九疇」という名目は大禹の定めたもので、ちょうど伏羲が「八卦」と定名したのと同じである。伏羲は河図を承けてはじめて八卦を画き、文王がそれを推演した。その書は《周易》と呼び、《河図》とは呼ばない。大禹は洛書を九疇に排定し、箕子がそれを推演した。その書は《洪範》と呼び、《洛書》とは呼ばない――二つの事の道理は全く同じである。毛奇齢が「経文の中に洛書の名が見えない」ことをもって洛書を否定するのは、まさに「書名」と「本とした物」を混同して論じたものである。
葢河圗、洛書乃《易》《洪範》所由作,非即《易》《洪範》也。以彖、爻無河圗之文而疑八卦非感河圗而作,以《洪範》無洛書之文而疑九疇非法洛書而陳,然則夫子所謂「聖人則之」者,果何所則而何所作邪?至於「天不畀鯀洪範九疇」而「錫禹洪範九疇」,此箕子追序之辭,謂鯀失治水之道,天不錫之以洛書;禹得治水之道,天乃錫之以洛書耳。而顧以辭害意,謂禹所更定之名而天反豫竊之也,不已戲乎!
知るべきである。河図・洛書は《周易》と《洪範》がそれに依拠して生じた源であって、《周易》と《洪範》そのものに等しいわけではない。もし卦辞・爻辞の中に「河図」の二字がないがゆえに八卦は河図に感じて作られたのではないと疑い、《洪範》の中に「洛書」の二字がないがゆえに九疇は洛書を取り法して陳べたのではないと疑うなら、孔子のいう「聖人はそれらを取り法した」とは、いったい何を取り法し、何を作り出したのか。「上天が洪範九疇を鯀に与えない」が「禹に洪範九疇を賜る」というのは、箕子が事後に追述した際の措辞で、意は鯀が治水の道を失い上天が彼に洛書を賜らず、禹は治水の道を掌握し上天がこそ彼に洛書を賜ったにすぎない。毛奇齢は字面に拘泥して本意を妨げ、上天が禹が後になって改め定めた名称をあらかじめ盗用したかのように言う。なんと児戯に類することか。
總之,河圗、洛書特推原當時《易》《範》所由作。今欲明《易》,八卦具在,焉用河圗?欲明《範》,九章具在,焉用洛書?宋人崇尚圗書,自以為補苴罅漏,張皇幽渺,若非此則無以明《易》《範》,遂成千古笑柄。然「河圗洛書」三語實出於夫子,又不可如歐公軰斥之以妖妄,故不得不一核其源流。
要するに、河図・洛書は当年《周易》と《洪範》が生じた源頭を遡ったにすぎない。今日《周易》を会得しようとするなら、八卦はすべて具わっている。どうして河図を用いる必要があろうか。《洪範》を会得しようとするなら、九章はすべて具わっている。どうして洛書を用いる必要があろうか。宋人は図書の学を推崇し、自らは経典の缺漏を補い幽深玄妙の義を発揮していると思い、それに依らなければ《易》と《範》を講明できないかのようであったが、結局千古の笑柄と成った。ただ「河出図、洛出書、聖人則之」の数句は確かに孔子の口から出たので、欧陽脩らの輩のように妖妄と斥けるわけにもいかない。ゆえにその源流を徹底的に考核し尽くさざるを得ない――これがまさに胡渭の全書の立場である。宋人の図を信じず、かつ孔子の言を廃しない。
侏儒問天髙於修人,修人曰「不知」。侏儒曰:「子雖不知,猶近於我。」孔安國、劉歆,修人也;陳摶、劉牧,侏儒也。天髙幾許,豈修人所能知?然必無修人不知而侏儒反知之理。況修人所言畧有端倪,而侏儒所言無非夢囈,又安得不舍侏儒而從修人邪!
一つの譬喩がある。矮子が高身の者に天の高さを問うと、高身の者は「知らない」と言う。矮子がいう。「あなたは知らないが、どうせ私より天に近い。」孔安国・劉歆はあの高身の者であり、陳摶・劉牧はあの矮子である。天がいったいどれほど高いかは、高身の者に知れるはずがない。しかし高身の者が知らず矮子がかえって知るという道理は決してない。しかも高身の者の講ずる所はなお幾ばくかの眉目があり、矮子の講ずる所はすべて夢言である。どうして矮子を捨てて高身の者に従わぬことがあろうか。
右論古洛書之文。
以上の一節は、古代文献の中の文字としての洛書を考弁した。これは胡渭が本节のために加えた標目である。
易図明辨巻二 徳清・胡渭撰
五行
《書·洪範》曰:「一、五行:一曰水,二曰火,三曰木,四曰金,五曰土。」
《尚書・洪範》にいう:九疇の第一疇は「五行」――第一は水、第二は火、第三は木、第四は金、第五は土。これは「五行」という名とその固定の次序が経書に現れた最も早い出所で、後世の一切の「五行生数・成数」の説はこの五つの数字から生発した。ゆえに胡渭が図書の学を弁ずるに、まずここから弁じ起こす。
《正義》曰:「萬物成形,以微著為漸;五行先後,亦以微著為次。水最微為一,火漸著為二,木形實為三,金體固為四,土質大為五。」
孔穎達《尚書正義》がこの次序を解していう:万物が形を成すのは、みな細微より漸く顕著に向かう。五行の先後もまた微より著への順に排する。水が最も細微なので第一に排し、火はやや顕著で第二、木は実の形体があり第三、金は体質が堅固で第四、土は質地が厚大で第五とする。これを見れば一至五が講ずるのは形質の軽重であって、いわゆる「生数」「成数」とは毛のほども関わりがない。
按:五行之名肇見於《洪範》,其一二三四五以微著輕重為次,自氣而形而質具在其中,未見此但為生數而必待六七八九十以成之也。《易》有四象而無五行,此與天地、大衍之數絶無交涉。
胡渭の按:「五行」という名目が最も早く見えるのは《洪範》である。その一・二・三・四・五は微より著へ、軽より重への順に排したもので、気より形、形より質へと、すでにすべてこの次序の中に包まれている。これら五つの数がいわゆる「生数」にすぎず、六七八九十が来てはじめてそれらを「成」さなければならないなどとは見えない。《周易》には太陽・太陰・少陽・少陰の四象があるだけで、五行はない。ゆえに《洪範》の五行之数は、《繋辞》の「天地之数」(一至十)および「大衍之数」(五十)と全く無関係である。この一条は胡渭が宋人の河図五十五点之説を破る第一の立足点である。
右論古五行之序。
以上の一節は、古代の五行次序の本義を考弁した。
《漢書·五行志》:《左氏傳》鄭裨灶曰「火,水妃也,妃以五成」(妃音配,或讀如字)。說曰:「天以一生水,地以二生火,天以三生木,地以四生金,天以五生土。五位皆以五而合,而陰陽易位,故曰『妃以五成』。然則水之大數六,火七,木八,金九,土十。故水以天一為火二牡,木以天三為土十牡,土以天五為水六牡,火以天七為金四牡,金以天九為木八牡。陽奇為牡,陰耦為妃,故曰『水,火之牡也』(左傳魯梓慎語),『火,水妃也』。於《易》,坎為水、為中男,離為火、為中女,葢取諸此也。」
《漢書・五行志》に《左伝》の鄭国の大夫・裨竈の言を引いていう:火は水の配偶であり、配偶は「五」に依ってはじめて配が成る。(「妃」は「配」と読む。また本字のまま読む者もある。)《五行志》が申していう:上天は一をもって水を生じ、大地は二をもって火を生じ、上天は三をもって木を生じ、大地は四をもって金を生じ、上天は五をもって土を生ず。この五つの方位はいずれも「五」を加えてはじめて配合し、配合の後に陰陽が位置を互換するので「配偶は五をもって配成す」という。こうして水の大数は六、火は七、木は八、金は九、土は十である。ゆえに水は天一を取って火二の「牡」(雄)とし、木は天三を取って土十の牡とし、土は天五を取って水六の牡とし、火は天七を取って金四の牡とし、金は天九を取って木八の牡とする。陽数は奇で「牡」、陰数は偶で「妃」である。ゆえに《左伝》に「水は火の牡」(これは魯国の大夫・梓慎の言)、「火は水の妃」という。《周易》では坎は水・中男、離は火・中女であり、おそらくここに義を取ったのであろう。
白雲郭氏雍曰:「《漢志》言『天以一生水,地以二生火,天以三生木,地以四生金,天以五生土』,故或謂天一至天五為五行生數,地六至地十為五行成數。雖有此五行之說,而於《易》無所見,故五行之說出於歴數之學,非《易》之道也。」
南宋の郭雍(号は白雲先生、《郭氏伝家易説》を著す)がいう:《漢書・五行志》の講ずる「天以一生水、地以二生火、天以三生木、地以四生金、天以五生土」に依って、ある者は天一より天五までを五行の「生数」と呼び、地六より地十までを五行の「成数」と呼ぶ。この一套の五行の講法はあるが、《周易》の中にはその影は根本的に見つからない。これを見れば五行之説は暦法算数の一系の学問から出たもので、《易》の道理ではない。
梨洲黃氏宗羲《象數論》曰:「世之言五行者,莫不本於生成之數,皆以為造化之自然,無容複議也。某則以九流之失,由此數失之於始。夫太虛絪縕相感,止有一氣,無所謂天氣也,無所謂地氣也。自其清通而不可見,則謂之天;自其凝滯而有形象,則謂之地。故曰『資始』『資生』,又曰『天施地生』,言天倡而不和,地和而不倡。今所謂『生』者倡也,所謂『成』者和也。一三五,天之生數;六八十,地之成數;二四,地之生數;七九,天之成數。是天倡而復和,地和而復倡,真若太虛之申兩氣並行,天氣、地氣其為物貳矣。
明末清初の黄宗羲(号は梨洲)は《易学象数論》の中でいう:世に五行を講ずる者は「生数・成数」をもって根本としない者はなく、皆これを造化の自然と思い��異議を容れることを許さない。私は思うに、九流百家の差錯は、まさにこの一套の数字の冒頭から誤っている。太虚の中に二気が絪緼交感するが、ただ一股の気であって、何の「天気」もなく、何の「地気」もない。それが清虚にして通暢し見えない面についていえば、これを天という。それが凝聚滞礙して形象ある面についていえば、これを地という。ゆえに《易》は「乾資始、坤資生」といい、また「天施地生」という。意は天はただ倡を主として応せず、地はただ応を主として倡しないということである。いまいわゆる「生」はすなわち倡で、いわゆる「成」はすなわち応である。一・三・五は天の生数で、六・八・十は地の成数。二・四はまた地の生数と成り、七・九はまた天の成数と成った。こうなれば、天は倡を主としつつ応もし、地は応を主としつつ倡もすることになり、まさに太虚の中に二股の気が伸び出して並行不悖のごときで、天気・地気を二つの物と見なしたことになる。
是故一氣之流行,無時而息。溫之殺而涼為秋,是金之行;涼之至而寒為冬,是水之行;寒之殺則又和。木火金水之化生萬物,其凝之之性即土。葢木火金水土,目雖五而氣則一,皆天也;其成形而為萬物,皆地也。若以水木土天之所生,火金地之所生,則春冬屬天,夏秋屬地,五行各有分屬,一氣循環,忽截而為天,忽截而為地,恐無此法象矣。
ゆえに言う、この一股の気の流行は一刻も休まない。温熱が漸く消退して涼爽に転ずれば秋となり、これが金の運行。涼爽が極に至り寒冷に転ずれば冬となり、これが水の運行。寒冷が漸く消退し、また温和に転回する。木・火・金・水は万物を化育生成し、万物を凝結して形を成さしめるあの性質がすなわち土である。これを見れば木火金水土は、名目は五つあるが、気はただ一つで、みな天に属する。それらが凝じて形体と成り万物に化するのは、みな地に属する。もし水・木・土は天の生じる所、火・金は地の生じる所と言うなら、春と冬は天に帰し、夏と秋は地に帰する。五行はそれぞれ帰属があり、一股の気は循環して已まないのに、忽ちにして天と切割され、忽ちにして地と切割される。天地の間にこのような法象はおそらくない。
原其『一水二火三木四金五土』,不過以質之輕重為數之多寡,第之先後,故土重於金,金重於木,木重於火,火重於水。然方其為氣,豈有輕重之可言?未聞涼重於溫、寒重於和也。則知天一至地十之數,於五行無與矣。是故言五行天生地成可也,言地生天成不可也;言奇數屬天、偶數屬地可也,言某行屬奇數、某行屬偶數不可也。此千古不解之惑,儒者不免,況於術數家乎!」
「一水・二火・三木・四金・五土」の本意を追究すれば、形質の軽重によって数目の多少を定め、先後を排したにすぎない。ゆえに土は金より重く、金は木より重く、木は火より重く、火は水より重い。しかしそれらがまだ気であったとき、どうして軽重を論じ得ようか。涼気が温気より重いとか、寒気が和気より重いとは聞いたことがない。これによって知れる。天一より地十のこの数目は、五行と毛のほども関わりがない。ゆえに五行は天より生じ地より成ると言うのは可であるが、ある者は地より生じ天より成ると言うのは不可である。奇数は天に属し偶数は地に属すと言うのは可であるが、ある行は奇数に属しある行は偶数に属すと言うのは不可である。これは千百年の解けない迷惑で、儒者ですら免れないのに、ましてあの術数家をや。
按:《大傳》曰「在天成象,在地成形」,又曰「乾知大始,坤作成物」,又曰「成象之謂乾,效法之謂坤」,然則氣象皆在天,形質皆在地。地道無成而代有終,五行無地生天成之理也。梨洲之言,可謂明且清矣。
胡渭の按:《繋辞大伝》に「天にあって象と成り、地にあって形と成る」といい、また「乾は万物の開端を主宰し、坤は万物を作り成すことを司る」といい、また「象を顕現するを乾といい、効法して形を成すを坤という」という。このように見れば、気と象はみな天に帰し、形と質はみな地に帰する。《坤卦・文言》は地道は自ら成功に居らず、ただ天に代わって終局を完成すると講ずる。ゆえに五行に「地より生じ天より成る」の理は断じてない。黄宗羲のこの言は、明白かつ透彻に講じたと言える。
《禮記·月令》孟春之月曰「天氣下降,地氣上騰,天地和同,草木萌動」,孟冬之月曰「天氣上騰,地氣下降,天地不通,閉塞而成冬」,是固有天氣、地氣之說矣。然地氣即向之所受於天而藏焉者也,以其在地,因謂之地氣,猶臣子受君父之賜予以為己有,不可謂其物本吾之所有也。故朱子謂「地二而虛,所以其中容得天許多氣」,豈天氣之外別有所為地氣哉!《孔子閒居》謂子夏曰「地載神氣,神氣風霆,風霆流行,庶物露生」,其所謂神氣,即天之氣也。況太虛之中、絪縕之始,安得地氣與天氣並行邪?
《礼記・月令》に孟春之月は「天気下降し、地気上昇し、天地交和して草木が萌発す」と講じ、孟冬之月は「天気上昇し、地気下降し、天地通ぜずして閉塞して冬と成る」と講ずる。これは確かに「天気」「地気」の説法がある。しかしいわゆる地気とは、もともと先に天から承受して地中に儲蔵した気で、それが地の中にあるがゆえに地気と呼ぶのであって、ちょうど臣子が君父の賞賜を受けて取って己の物と為しても、それがもともと己に属するとは言えないのと同じである。ゆえに朱熹は「地は二に属して中間は虚なので、天の多くの気を容納し得る」と言った。どうして天気のほかに別に地気と呼ぶ一物があろうか。《礼記・孔子閑居》に孔子が子夏に言う:「大地は神気を承載し、神気は風雷に化し、風雷は流行し、万物は顕露して生ず。」そこにいう「神気」は、すなわち天の気である。まして太虚の中・絪緼の初始の際に、どうして地気が天気と並行し得ようか。
《左傳》昭九年裨灶曰「火,水妃也,妃以五成」,注云「火畏水,故謂之妃。妃,合也。五行各相妃合,得五而成」。疏云:「陰陽之書有五行妃合之說:甲乙木也,丙丁火也,戊巳土也,庚辛金也,壬癸水也。木克土,土克水,水克火,火克金,金克木。木畏金,以乙為庚妃也;金畏火,以辛為丙妃也;火畏水,以丁為壬妃也;水畏土,以癸為戊妃也;土畏木,以己為甲妃也。」杜用此說,故云「火畏水,故為之妃」。
《左伝》昭公九年に裨竈が「火は水の配偶で、配偶は五をもって配成す」と記し、杜預の注に「火は水を畏れるので、これを水の配偶と称す。『妃』はすなわち配合。五行は各自相互に配合して、いずれも『五』を得てはじめて配成する」という。孔穎達の疏に解していう:陰陽家の書に一套の五行配合の説がある――甲乙は木に属し、丙丁は火に属し、戊己は土に属し、庚辛は金に属し、壬癸は水に属す。木は土を克し、土は水を克し、水は火を���し、火は金を克し、金は木を克す。木は金を畏れるので、乙を取って庚の配偶と為す。金は火を畏れるので、辛を取って丙の配偶と為す。火は水を畏れるので、丁を取って壬の配偶と為す。水は土を畏れるので、癸を取って戊の配偶と為す。土は木を畏れるので、己を取って甲の配偶と為す。杜預が用いたのはまさにこの説で、ゆえに「火は水を畏れるので、その配偶を作る」という。
十八年梓慎曰「水,火之牡也」,注云「牡,雄也」。疏云:「陰陽之書有五行嫁娶之法:火畏水,故以丁為壬妃,是水為火之雄。」今按此文,則水妃火牡,辭雖不同,理實一致。陰陽家五行嫁娶之法,取十於妃合為義:甲與己合,乙與庚合,丙與辛合,丁與壬合,戊與癸合,是為「妃以五成」。此皆陰陽家言,與《易》道本不相謀,而《漢志》以天一地二之數釋「火牡水妃」之義,又證之於卦,以坎為火牡、離為水妃,是則然矣。獨不思乾兊之金、坤艮之土、震巽之木,將孰為牡而孰為妃邪?豈乾兊之金可以牡震巽之木,震巽之木可以牡坤艮之土邪?就其言推之,己有不可得通者,而後之人顧猶據以為洛書,爭以為河圗,真不足當劍首之一吷矣。
昭公十八年に梓慎が「水は火の牡」と言い、杜預の注に「牡はすなわち雄」という。孔疏に解していう:陰陽家の書に一套の五行嫁娶の法があり、火は水を畏れるので、丁を取って壬の配偶と為す。これがすなわち水が火の雄を作ることである。いまこの二条を見るに、一は「水妃火牡」といい、一は「火妃水牡」という。措辞は異なるが、道理は実は一致する。陰陽家の五行嫁娶の法は、十天干の配合を取って義とする。甲は己と合し、乙は庚と合し、丙は辛と合し、丁は壬と合し、戊は癸と合する――両干の相隔たるがちょうど五位で、これを「配偶は五をもって配成す」という。これらはすべて陰陽家の説法で、《周易》の道とはもともと関わりがない。ところが《漢書・五行志》は天一・地二のあの数目を取り上げて「火牡水妃」の含義を解釈し、また卦をもって印証して、坎をもって火の牡、離をもって水の妃とした。見たところ講じ通るようだが、彼はあえて考えない。乾兌は金に属し、坤艮は土に属し、震巽は木に属すが、これらはまた誰が牡を為し誰が妃を為すか。まさか乾兌の金が震巽の木の牡を為し得、震巽の木が坤艮の土の牡を為し得ようか。彼の言に従って推し下れば、それ自体ですでに通らない。後人はついにこれに拠って洛書と認め、争って河図と��い立てた。まことに一息を費して理会するに値しない。
鄭氏《易注》曰:「天地之氣各有五。五行之次,一曰水,天數也;二曰火,地數也;三曰木,天數也;四曰金,地數也;五曰土,天數也。此五者,陰無匹,陽無耦,故又合之:地六為天一匹也,天七為地二耦也,地八為天三匹也,天九為地四耦也,地十為天五匹也。二五陰陽各有合,然後氣相得施化行也。」(注「五位」。)
東漢の鄭玄《周易注》にいう:天地之気は各々五つある。五行の次序は、第一は水で天数に属し、第二は火で地数に属し、第三は木で天数に属し、第四は金で地数に属し、第五は土で天数に属す。この五つの数は、陰は配偶なく、陽は対子なし。ゆえにまたそれらに各々一つを配す。地六を天以一の配偶と為し、天七を地二の対子と為し、地八を天三の配偶と為し、天九を地四の対子と為し、地十を天五の配偶と為す。両組の五つの数・陰陽は各々配合あり、そうして気が相投じ、生化が推行し得る。(これは鄭玄が《繋辞》「五位相得而各有合」の句に注したもの。)
又曰:「凡五行減五,大衍又減一,故四十九也。天一生水於北,地二生火於南,天三生木於東,地四生金於西,天五生土於中,陽無耦,陰無配,未得相成。地六成水於北,與天一併;天七成火於南,與地二並;地八成木於東,與天三並;天九成金於西,與地四並;地十成土於中,與天五並也。」(注「大衍」。)
鄭玄はまたいう:五行之数の五十五から五を減じ、大衍之数の五十からさらに一を減じるので、実際には四十九本の蓍草を用いる。天一は北方で水を生じ、地二は南方で火を生じ、天三は東方で木を生じ、地四は西方で金を生じ、天五は中央で土を生ず。このとき陽数に対子なく、陰数に配偶なく、まだ相互に成就できない。そこで地六は北方で水を成就して天一と相并し、天七は南方で火を成就して地二と相并し、地八は東方で木を成就して天三と相并し、天九は西方で金を成就して地四と相并し、地十は中央で土を成就して天五と相并する。(これは鄭玄が《繋辞》「大衍之数五十」の句に注したもの。)
按:《漢志》說本劉歆《洪範五行傳》,但據天一至地十之數以釋《左氏》水妃火牡之文,初不為《易》而設,亦未有五方之位也。自康成取以注《易》,而七八九六為《易》之四象,水北火南木東金西土中,一生一成各為配耦(亦是配以五成,然但取生成,不取克畏,與《漢志》小異),雖未寫以為圗而圗已具,此與揚子《玄圗》皆偽《闗易》、河圗之粉本也。
胡渭の按:《漢書・五行志》の説法は劉歆の《洪範五行伝》に本づき、ただ天一より地十のあの数目を取って《左伝》「水妃火牡」の文句を解釈したもので、もともと《周易》のために設けられたのではなく、また東南西北中の五方之位にも配していなかった。鄭康成がそれを取り来って《周易》に注して以来、七・八・九・六がはじめて《易》の四象と成り、水は北・火は南・木は東・金は西・土は中と成り、一つの生数に一つの成数を配した(これも「五をもって配成す」だが、ただ鄭玄は生成の関係だけを取り、相克相畏を取らない。《漢志》とやや異なる)。鄭玄はそれを図に画いてはいないが、図の形制はすでに完全に具備していた。この鄭注に揚雄の《玄図》を加えれば、まさに後の偽《関朗易伝》と宋人のいわゆる「河図」の底本である――これは胡渭が宋図の来歴を追査する関鍵の一環である。
《禮記·月令》:孟春之月,其日甲乙,其數八,立春盛德在木,迎春於東郊;孟夏之月,其日丙丁,其數七,立夏盛德在火,迎夏於南郊;季夏之月中央土,其日戊巳,其數五;孟秋之月,其日庚辛,其數九,立秋盛德在金,迎秋於西郊;孟冬之月,其日壬癸,其數六,立冬盛德在水,迎冬於北郊。
《礼記・月令》に記す:孟春之月は、配する天干は甲乙、配する数は八。立春の日、盛徳は木にあり、天子は東郊に赴き迎春之礼を行う。孟夏之月は、配する天干は丙丁、配する数は七。立夏の日、盛徳は火にあり、南郊に赴き夏を迎える。季夏之月は中央土に属し、配する天干は戊己、配する数は五。孟秋之月は、配する天干は庚辛、配する数は九。立秋の日、盛徳は金にあり、西郊に赴き秋を迎える。孟冬之月は、配する天干は壬癸、配する数は六。立冬の日、盛徳は水にあり、北郊に赴き冬を迎える。
按:《月令》,呂不韋作也,而東木之數八,南火之數七,中土之數五,西金之數九,北水之數六,則似戰國時已有以天地之數附會於《洪範》而為五行生成之說者矣,不待劉歆、班固也。其於木火金水皆以成數言之,而土則獨言生數者,葢舉五以例其餘,以見六七八九之尚有一二三四也。
胡渭の按:《月令》は秦の相・呂不韋が主持して編み成したもので、その中で東方木の数は八、南方火の数は七、中央土の数は五、西方金の数は九、北方水の数は六である。これを見れば戦国の時期にすでに《繋辞》の天地之数を《洪範》の五行に附会して「生数・成数」の説を造り出す者があり、劉歆・班固を待たなければならなかったのではないことが分かる。それは木・火・金・水にはみな成数をもって講じ、ただ土にのみ生数を用いる。おそらく「五」を挙げてその余を類推させ、人に六七八九の中にまだ一二三四が蔵れていることを見出させようとしたのであろう。
且一乘五即為六,二乘五即為七,三乘五即為八,四乘五即為九,五者六七八九之所由成也;六除五即為一,七除五即為二,八除五即為三,九除五即為四,六七八九者又一二三四之所藏也;五乘五即為十,十除五即為五,其數互相備,雖不言十而十在其中矣。鄭康成以木火金水為四象,實本於此。唐仲友《經世圗譜》云「《月令》,河圗之數也,故土藏十」,此據劉牧之《龍圗》而為言耳。然《龍圗》九宮之數也,南九西七,而《月令》以七居南、以九居西,則固與九宮易位矣。以是知不韋所言乃五行生成之數,非明堂九室縱橫十五之數也。(中央言五不言十,與《玄圗》同。)
しかも一加五はすなわち六、二加五はすなわち七、三加五はすなわち八、四加五はすなわち九。これを見れば「五」はまさに六七八九の生成し得る関鍵である。六減五はすなわち一、七減五はすなわち二、八減五はすなわち三、九減五はすなわち四。これを見れば六七八九の中にまた一二三四が蔵れている。五加五はすなわち十、十減五はまた五に還元する。これらの数は互いに包含する。《月令》は十に言及しないが、十は実はすでにその中にある。鄭康成が木火金水を四象に配したのは、実はここに本づく。南宋の唐仲友《経世図譜》に「《月令》の用いる所は河図之数で、ゆえに土の里に十が蔵れている」というが、これは劉牧の《龍図》に依拠して論を立てたにすぎない。しかし《龍図》が用いるのは九宮之数で、九は南に居り七は西に居る。《月令》は七を南に置き九を西に置く。方位は九宮とちょうど互換している。これによって知れる。呂不韋の講じたのは五行生成之数であって、明堂九室のあの縦横相加して皆十五を得る数ではない。(《月令》の中央はただ五を言い十を言わない。これは揚雄《玄図》と同じである。)
揚子雄《太玄·玄圗》篇曰:「一與六共宗(范望解云:在北方也),二與七為朋(在南方也),三與八成友(在東方也),四與九同道(在西方也),五與五相守(在中央也)。」
西漢の揚雄《太玄経・玄図》篇にいう:一と六は同宗(三国呉の人・范望が注解して、北に居るを指すという)、二と七は友と為る(南に居る)、三と八は伴を結ぶ(東に居る)、四と九は同道(西に居る)、五と五は相守する(中央に居る)。この四句はまさに後の宋人のいわゆる「河図」の白黒点位次の文字上の源頭である。胡渭は下文で宋図がここから翻造されたと証明しようとしている。
張子曰:「天下之數止於十,窮則自十而反一。又數當止於九,其言十者,九之耦也。揚雄亦曰『五復守於五』者,葢地數無過天數之理,孰有地大於天乎?故知數止於九,九是陽極也;十也者,姑為五之耦焉耳。」
北宋の張載(世に横渠先生と称す)がいう:天下の数は十に至って止み、尽きれば十より一に返る。さらに言えば数は実は九に至って止むべきで、十に及んだのはただ九に対子を配するにすぎない。揚雄も「五がまた五を守る」と言った。これは地数が天数を超える理がないためである――どうして地が天より大きいことがあろうか。ゆえに数は九に至って止むと知るべきで、九は陽の極点である。十に至っては、ただ姑く五のために配偶を作ったにすぎない。
按:《太玄》演五行之數,不曰「五與十相守」而曰「五與五相守」,隠其十而不言,何也?葢子云覃思渾天,參摹而四分之,極於九九八十一首,每首九贊,以五行之數分隸九贊之下,勢不得復用十矣。故其說曰「鴻本五行,九位施重」,此十之所以隠而不言也與。(今九九算法遇十則變為一十,常隠而不見,即是此理。)
胡渭の按:《太玄》が五行之数を推演するに、「五与十相守」と言わず「五与五相守」と言い、「十」を隠して言わないのは、どういう故か。おそらく揚雄(字は子雲)は渾天の学に潜心し、「三摹而四分」の方法で推衍して、最終的に九九八十一首を得、各首の下に九条の「賛」を設けて、五行之数を九賛の下に分派しようとすれば、形勢上もはや「十」を用いることができなかったのであろう。ゆえに彼自身が「宏大なる根本は五行にあり、九つの位次を層層に叠加する」と言った。これが「十」が隠されて言われない所以であろう。(今日の九九乗除の算法でも、十に逢えば位を進めて「一十」と変え、十自身は常に隠没して見えない。まさに同じ道理である。)
劉、鄭五行配合之說與天地之數相符,然未嘗名之曰圗也。至《太玄》始有《玄圗》篇,而其所謂「一六共宗,二七為朋,三八成友,四九同道,五五相守」者,葢即其圗也。圗雖不見於今,既名為圗,則圗固具是矣,而奇偶各配與劉、鄭同,惟五不配十為小異耳。
劉歆・鄭玄のあの五行配合の説は《繋辞》の天地之数と合するが、彼らはかつてそれを「図」と称しなかった。《太玄》に至って《玄図》一篇がはじめてあるが、それのいう「一六同宗、二七為友、三八結伴、四九同道、五五相守」は、おそらくあの図の内容であろう。図は今日すでに見られないが、「図」と名づく以上、図の様子もまたこの数句の中に尽きている。それの奇数偶数が各自相配するのは劉歆・鄭玄と同じで、ただ五が十を配しないこの一点のみが略々小異である。
范諤昌以是為伏羲復位生成之位,而劉牧目之曰洛書;闗子明以是為龍馬所授伏羲之數,而蔡元定宗之為河圗。其粉本皆用《太玄》而加以地十。然《玄》雖擬《易》,實老子之學,本名《玄圗》,非河圗也,安得附會《大傳》,指為聖人之所則哉!奇白偶黑之點,非子云意中所有,今欲示共宗同道之形,姑借《龍圗》之法以立象爾。
北宋の范諤昌はこの数を伏羲の「復位生成」の方位と説き、劉牧はそれに「洛書」という名を取った。関子明に託名する書はそれを龍馬が伏羲に授けた数と説き、蔡元定(朱熹の学侶で、《易学啓蒙》の実際の執筆人)はそれを「河図」として尊奉した。彼らの底本はみな《太玄》より取り、ただ一つの「地十」を添えたにすぎない。しかし《太玄》は《周易》を模擬したとはいえ、骨子は老子の学で、そのこの篇は本名を《玄図》といい、河図ではない。どうして《繋辞大伝》に附会して、硬く聖人の取り法した物と説くことができようか。白点をもって奇数を表し黒点をもって偶数を表すことも、また揚雄の心目中にあったものではない。いま「共宗」「同道」の形状を顕示するために、ただ姑く《龍図》の画法を借用して一つの象を立てたにすぎない。
自春秋以迄兩漢,言五行者,禆灶、梓慎主占候,呂不韋主時令,劉向主災異,劉歆兼主歴數,揚雄草《玄》亦與《泰初歴》相應,雖皆言生成之數,卻非為《易》而設。至鄭康成始援以注《易》,而四象之義乃定,要之未有以此數為河圗洛書者。
春秋より両漢に至るまで、五行を講じた者はそれぞれ側重があった。裨竈・梓慎は占卜候気を主とし、呂不韋は時令月序を主とし、劉向は災異を主とし、劉歆は暦法算数を兼ね主とした。揚雄の《太玄》の撰もまた《太初暦》と相配するものであった。彼らはみな生数成数を講じたが、いずれも《周易》を解くために設けたのではなかった。鄭康成に至ってはじめてこの数を援引して《易》に注し、四象の含義はこれによって定まった。要するに、これらの人の中にはまだ一人としてこの数目を河図か洛書と指認した者はいない。
何則?劉歆以河圗為八卦,洛書為九章;鄭康成以九篇為河圗,六篇為洛書;劉瑜以《乾鑿度》九宮之數為河圗;蜀隠者以希夷之先天太極為河圗。彼既自有其圗書,必不於其外更標一圗書可知也。自偽《龍圗》出,而始以五十有五為羲皇復位之數矣;自偽《闗易》出,而直以五行生成為龍馬所負之圗矣。劉牧、蔡元定從而揚其波,抑又甚焉。自此以後,劉、蔡迭為興廢,或以此為河圗,或以此為洛書,謬種流傳,變怪百出,原其弊,實《漢志》有以啟之。愚故先辨五行,次及九宮、《參同契》、先天太極,而以《龍圗》《鉤隠》《啟蒙》終焉。
なぜこのように言うか。劉歆は河図を八卦、洛書を九疇と認定し、鄭康成は緯書の九篇を河図、六篇を洛書と認定し、東漢の劉瑜は《乾鑿度》の九宮之数を河図とし、蜀中の隠者は陳摶(号は希夷先生)の先天図・太極図を河図としたからである。彼ら各人はすでに自らの一套の「図書」を持っていたので、必ずこのほかに別に一套を立てることはなかった。これは明白に見られる。偽造の《龍図》が出るに至って、はじめて「五十五」を伏羲復位之数と説いた。偽造の《関朗易伝》が出るに至って、はじめて直ちに五行生成之数を龍馬の背負う図と説いた。劉牧・蔡元定がこれに随って波を助け勢いを推し、いよいよ变本加厉と成った。これ以後、劉牧の一派と蔡元定の一派が此伏彼起し、ある者はこの数を河図に充て、ある者はそれを洛書に充て、謬種は流伝し、花样は百出した。この流弊の源頭を追究すれば、実に《漢書・五行志》が開いた端である。ゆえに私はまず五行を弁じ、次に九宮・《周易参同契》・先天図と太極図に及び、最後に《龍図》《鈎隠図》《易学啓蒙》をもって結びとする――これが全書の辨偽の次第である。
右論洪範五行傳生成之數。
以上の一節は、《洪範五行伝》の講ずる生数と成数を考弁した。
九宮
《禮記·月令》:孟春,天子居青陽左個(注云:太寢東堂北偏也。《正義》云:是明堂北偏,而云太寢者,明堂與太廟、太寢制同;北偏者,近北也;四面旁室謂之個);仲春居青陽太廟(東堂當太室);季春居青陽右個(東堂南偏);孟夏居明堂左個(太寢南堂東偏);仲夏居明堂太室(南堂當太室);季夏居明堂右個(南堂西偏);中央土居太廟太室(中央之室也。土寄旺四時各十八日,共七十二日,除此則木火金水亦各七十二日矣。土無專氣,無定位,寄旺於辰戌丑未之末。未月在火金之間,又居一歲之中,故特揭中央土於此,以成五行之序焉);孟秋居總章左個(太寢西堂南偏);仲秋居總章太廟(西堂當太室);季秋居總章右個(西堂北偏);孟冬居玄堂左個(太寢北堂西偏);仲冬居玄堂太廟(北堂當太室);季冬居玄堂右個(北堂東偏)。
《礼記・月令》に天子が月に従って明堂の各室を輪居する制度を記す:孟春之月は青陽左个に住する(鄭玄の注に、太寝の東堂の偏北の一間という。《正義》に、実は明堂の偏北の一間で、「太寝」と称するのは明堂が太廟・太寝と建制を同じくするため。「偏北」は北に偏すること。四面の旁室を「个」という)。仲春は青陽太廟に住する(東堂の正中で、太室に正対する)。季春は青陽右个に住する(東堂の偏南)。孟夏は明堂左个に住する(南堂の偏東)。仲夏は明堂太室に住する(南堂の正中)。季夏は明堂右个に住する(南堂の偏西)。中央土が当令のときは太廟太室に住する(すなわち正中の一間。土は四季に寄旺し、毎季十八日、合わせて七十二日。この七十二日を除けば、木火金水も各々七十二日を得る。土は専属の気なく、固定の方位なく、辰・戌・丑・未の四か月の月末に寄旺する。未月は火と金の間に挾まれ、また一年の正中に当たるので、特にここに「中央土」を標出して五行の次序を湊成させたのである)。孟秋は総章左个に住する(西堂の偏南)。仲秋は総章太廟に住する(西堂の正中)。季秋は総章右个に住する(西堂の偏北)。孟冬は玄堂左个に住する(北堂の偏西)。仲冬は玄堂太廟に住する(北堂の正中)。季冬は玄堂右个に住する(北堂の偏東)。
朱子曰:「論明堂之制者非一,竊意當有九室,如井田之制。東之中為青陽太廟,東之南為青陽右個,東之北為青陽左個;南之中為明堂太廟,南之東即東之南為明堂左個,南之西即西之南為明堂右個;西之中為總章太廟,西之南即南之西為總章左個,西之北即北之西為總章右個;北之中為玄堂太廟,北之東即東之北為玄堂右個,北之西即西之北為玄堂左個;中為太廟太室。
朱熹がいう:明堂の形制を論ずる説は一種に止まらないが、私が窃かに思うに、九間の屋で、井田のごとく三行三列に排するべきである。東辺の正中の一間は青陽太廟、東辺の偏南は青陽右个、東辺の偏北は青陽左个。南辺の正中は明堂太廟、南辺の偏東(すなわち東辺の偏南)の一間は明堂左个、南辺の偏西(すなわち西辺の偏南)は明堂右个。西辺の正中は総章太廟、西辺の偏南(すなわち南辺の偏西)は総章左个、西辺の偏北(すなわち北辺の偏西)は総章右个。北辺の正中は玄堂太廟、北辺の偏東(すなわち東辺の偏北)は玄堂右个、北辺の偏西(すなわち西辺の偏北)は玄堂左个。正中の一間は太廟太室である。
凡四方之太廟異方所,其左右個則青陽左個即玄堂之右個,青陽右個即明堂之左個,明堂右個即總章之左個,總章右個乃玄堂之左個也,但隨其時之方位開門耳。太廟太室,則每季十八日天子居之歟。古人制事多用井田遺意,此恐然也。」
四方の太廟は各々異なる方位を占める。左个右个に至っては、青陽左个はすなわち玄堂右个、青陽右个はすなわち明堂左个、明堂右个はすなわち総章左个、総章右个はすなわち玄堂左个――四隅の屋はいずれも両面が兼用で、ただ当令の方位に従ってどちらの門を開くかだけである。中央の太廟太室は、おそらく毎季の末の十八日に天子の居する所である。古人が制度を立てるには多く井田の意に沿ったので、明堂九室もおそらくこのとおりであろう。
《大戴禮記·明堂》篇曰:「明堂者,古有之也,凡九室。」(句。)「二九四」(句),「七五三」(句),「六一八」(句)。
《大戴礼記・明堂》篇にいう:明堂という建制は古来あった。合わせて九間の屋。(以上は一句。)続いて三句がある。「二九四」(一句)、「七五三」(一句)、「六一八」(一句)。この三行九つの数は、後世の「九宮」縦横相加して皆十五を得る数の最も早い文字記録であり、胡渭の追査せんとする九宮の真の源頭である。
按:後世以九宮為河圗,實造端於明堂《月令》之說。今考小戴言天子居明堂九室,依四時十二月之序,而大戴則分九室為三條而言之。南曰明堂,其本名。古者以西為上,故從西南起。或曰:《封禪書》公玉帶上黃帝時明堂圗,有樓從西南入,命曰崑崙,天子從之入以拜祠上帝,故九室起自西南也。
胡渭の按:後世が九宮を河図とするの���、その源頭は実は明堂と《月令》の説法に起こる。いま考察するに:《小戴礼記》が天子の輪居する明堂九室を講ずるのは、四季十二月の次序に従って排列したもの。《大戴礼記》は九室を三条に分けて講じた。南面するあの一間を「明堂」と呼ぶ。これが全建筑の本名である。古人は西を尊としたので、西南隅より数え起こす。またある説に:《史記・封禅書》に公玉帯が黄帝の時の明堂図を進献したと記す。図上に一座の楼があり西南より入り、名を昆崙という。天子はここより入って上帝を祭拜した。ゆえに九室は西南より数え起こす、と。
「二九四」者,二為總章左個與明堂右個,九為明堂太室,四為明堂左個與青陽右個也;「七五三」者,七為總章太廟,五為太廟太室,三為青陽太廟也;「六一八」者,六為總章右個與玄堂左個,一為玄堂太廟,八為玄堂右個與青陽左個也。二九四共為十五,七五三共為十五,六一八亦共為十五,縱橫十五,妙合自然,後世九宮之數實權輿於此。其以某室當某數者,葢取九九算術所設乘除之位以定明堂九室之數也。(詳見於後。)
いわゆる「二九四」:二は総章左个が明堂右个を兼ね(西南隅)、九は明堂太室(正南)、四は明堂左个が青陽右个を兼ねる(東南隅)。いわゆる「七五三」:七は総章太廟(正西)、五は太廟太室(正中)、三は青陽太廟(正東)。いわゆる「六一八」:六は総章右个が玄堂左个を兼ね(西北隅)、一は玄堂太廟(正北)、八は玄堂右个が青陽左个を兼ねる(東北隅)。二加九加四は十五、七加五加三は十五、六加一加八も十五。横竪に加えていずれも十五を得る。妙合は自然で、後世の九宮之数は実にここから発端した。どの屋にどの数を配すべきかは、おそらく九九乗法の算術の排定する乗除位次を取り、もって明堂九室に番号を編んだのであろう。(詳細は後文に見える。)
《漢蓺文志》禮十三家有《明堂陰陽》三十三篇,又《明堂陰陽說》五篇,此必戴記所自出。故宣帝時魏相表採《易陰陽》及《明堂月令》奏之,言五帝所司各有時,東方之卦不可以治西方,南方之卦不可以治北方,則以八卦之方位配明堂之九室可知矣。坎之為一以至離之為九,則又據明堂九室之數而定之也。
《漢書・芸文志》の礼類十三家に《明堂陰陽》三十三篇があり、また《明堂陰陽説》五篇がある。《大戴礼記》のこの一篇は必ずそれらに出る。ゆえに漢宣帝の時、丞相・魏相が上表して、《易陰陽》と《明堂月令》を採録して進奏し、五方の天帝は各々一時を主り、東方の卦をもって西方を治することはできず、南方の卦をもって北方を治することはできないと言った――これを見れば当時すでに八卦の方位を明堂九室に配していた。坎をもって一とし離をもって九とするこの配法に至っても、やはり明堂九室の数目に依拠して定まったものである。
古之制度,大而分州,小而井田,莫不以九為則,明堂亦然,其制皆起於黃帝,在伏羲畫卦之後。八卦之方位已定,並其中數之則為九,九州島、井田、明堂皆黃帝所以法八卦也。九宮葢即明堂之九室,故《隋志》有《九宮經》,依託黃帝。然自歆、固以前,未有直指為河圗者,唯《後漢·劉瑜傳》桓帝延熹八年上書,言「河圗授嗣,正在九房」,九房即九室也。(《考工記》云「內有九室,九嬪居之」,葢王者路寢聽朝時,則九嬪在此共聽事也。)
古代の制度は、大きいのは九州の画分から、小さいのは井田に至るまで、みな「九」をもって準則とした。明堂もこのようである。これらの制度はみな黄帝に起こり、時は伏羲の画卦の後である。八卦の方位がすでに定まっていたので、中央を併せて計算すれば九となる。ゆえに九州・井田・明堂はみな黄帝が八卦を効法するために用いた産物である。九宮はおそらく明堂の九室であろう。ゆえに《隋書・経籍志》に《九宮経》の著録があり、黄帝に託名している。しかし劉歆・班固以前には、それを直ちに河図と指した者はいない。ただ《後漢書・劉瑜伝》に桓帝の延熹八年に劉瑜が上書して「河図は嗣を授け、まさに九房に在る」と言ったと載せ、「九房」はすなわち九室である。(《周礼・考工記》に「内に九室あり、九嬪はその中に住む」という。おそらく君王が路寝で政を聴くとき、九嬪はここでともに事を聴いたのであろう。)
葢其時已有據《乾鑿度》「河圗八文」一章而直指九宮為河圗者,此即偽《龍圗》三變之粉本矣。(《龍圗》第三變,劉牧謂之「太皥授龍馬負圗」。)然河圗乃天成卦畫之象,伏羲因之以作《易》,數因象而見,象不由數以生。縱橫十五之數,雖非人私智所能為,亦出畫卦之後,終不可指以為河圗也。
これを見れば東漢のとき、すでに《乾鑿度》の「河図八文」という一章に拠って、径ちに九宮を河図と指した者があった。これはまさに後の偽《龍図》「三変」の底本である。(《龍図》の第三変を、劉牧は「太皥が龍馬負図を授く」と称した。)しかし河図はもともと上天の生成した卦画之象で、伏羲はそれに拠って《周易》を創作した。数は象に随ってはじめて顕現するもので、象は数によって生じたのではない。縦横相加して皆十五を得るこの数は、人の私智によって造作し得るものではないが、それもやはり画卦の後に出現したので、終始河図と指認することはできない。この一句は胡渭が九宮は河図にあらずと弁ずる総断語である。
《後漢書·張衡傳》:自中興之後,儒者爭學圗緯,兼復附以妖言。衡以圗緯虛妄,非聖人之法,乃上疏曰:「聖人明審律歴以定吉凶,重之以卜筮,雜之以九宮,經天驗道,本盡於此。圗讖成於哀、平之際,皆欺世罔俗,以昧埶位,情偽較然。且律歴、卦候、九宮、風角,數有徵效,世莫肎學,而競稱不占之書,譬猶畫工惡圗犬馬而好作鬼魅,誠以實事難形而虛偽不窮也。宜收藏圗讖,一禁絶之,則朱紫無所眩,典籍無瑕玷矣。」
《後漢書・張衡伝》に記す:東漢の中興以来、儒生は争って図讖緯書を研鑽し、さらに種種の妖妄の言を附会した。張衡は図緯を虚妄で聖人の法度に合わないと考え、そこで上疏していう:聖人は律呂暦法を詳審して吉凶を判定し、さらに卜筮をもって輔け、九宮をもって参じ、天象を観測し天道を検証する。根本は尽くこの中にある。図讖は漢哀帝・平帝の際に造り出されたもので、すべて世を欺き俗を惑わし、これを借りて権位を謀取するもので、真偽は一目瞭然である。しかも律暦・卦気候応・九宮・風角のこれらの学問は、推算すればみな応験があり、世人は学ぼうとせず、かえって争って占験できない書を称引する。ちょうど画工が犬馬を画くを悪み鬼怪を画くを好むがごとし――実は真実の物は描摸が難しく、虚仮の物は随って言い立てられるからである。図讖を一律に収繳して封存し、徹底的に禁絶すべきである。そうすれば真偽は再び混淆せず、典籍も再び瑕疵を持たないであろう。
按:九宮不見於《漢書》,至張衡始兩言之,上與律歴、卜筮並稱,下與卦候、風角相埓,非圗緯妖妄不經者比。九宮之數縱橫十五,不知起於何時。按《管子·輕重戊》篇曰:「宓戲作,造六峜以迎陰陽(方以智《通雅》云:舊以「峜」字未詳,一切字書皆不收入。智按《宛委編》以「六計」解之,升庵之說也,則當為「計」音,以「企」本是「跂」音也。又辛子文號計研,漢碑作「峜研」。王若谷曰:六峜其如《周髀》算法乎),作九九之數以合天道,而天下化之。」
胡渭の按:九宮は《漢書》に見えず、張衡に至ってはじめて二度それに言及した。上文では律暦・卜筮と並称し、下文では卦気候応・風角と相提して論じた。これを見れば九宮はあの妖妄不経の図緯の流に属さない。九宮縦横相加して皆十五を得るこの数は、いつ起こったか知れない。《管子・軽重戊》篇にいう:伏羲が興り、「六峜」を創造して陰陽に迎合し(方以智《通雅》にいう:従来「峜」の字は解を得ず、諸字書も収録しない。方以智は《宛委編》を按してそれを「六計」と解した。これは楊慎の説で、では「計」の音に読むべきである。「企」はもともと「跂」の音に読むからである。また戦国の辛子文は号を計研といい、漢碑には「峜研」と書く。王若谷がいう:「六峜」はおそらく《周髀算経》のあの算法に相当するのであろう)、また九九之数を造り出して天道に合わせ、天下はこれによって教化を得た。
《世本》曰「隸首作數」,宋忠云「隸首,黃帝史也」。魏劉徽《九章算經》序曰:「包犧氏始畫八卦,作九九之術,以合六八之變,黃帝引而伸之。」(邵子《觀物外篇》曰:天圎而地方,圎之數起一而積六,方之數起一而積八,變之則起四而積十二也。六者常以六變,八者常以八變,十二者亦以八變,自然之道也。此所謂「六八之變」,疑即是此數。)
《世本》に「隷首が算数を創制した」といい、漢末の宋忠の注に「隷首は黄帝の史官」という。三国魏の劉徽《九章算術》序にいう:伏羲はまず八卦を画き、九九算法を制作して「六八之変」に配合し、黄帝がさらにそれを引申推広した。(邵雍《観物外篇》にいう:天は円く地は方く、円の数は一より起こり累じて六と成り、方の数は一より起こり累じて八と成る。変化すれば四より起こり累じて十二と成る。六はつねに六によって変じ、八はつねに八によって変じ、十二もまた八によって変ず。これは自然の理である。劉徽のいう「六八之変」は、疑うにこの数を指すのであろう。)
夏侯陽《算經》序曰:「算數起自伏羲,而黃帝定三數為十等,隸首因以著《九章》。」《韓詩外傳》曰:「齊桓公設庭燎,東野人有以九九見者。」《吳書》:趙達治九宮一算之術。《隋志》有楊淑《九九算術》一卷。葢九宮一算即九九算術,伏羲始作之,黃帝使隸首引而伸之,以為《九章》之數者也。據劉徽之言,則伏羲先畫八卦,後作九九,班固云「伏羲畫八卦由數起」,非也。(漢儒據《說卦》第一章先言生蓍倚數,後言立卦生爻,故謂畫卦由數起,而傳意實不然,葢錯解也。)
夏侯陽《算経》の序にいう:算数は伏羲に起源し、黄帝が「三数」を十の等級に定め、隷首がこれに拠って《九章》を書き成した。《韓詩外伝》にいう:斉桓公が庭中に火炬を点じて賢才を招納したとき、東郊の一鄉人が「九九」の術をもって見を求めた。《呉書》に趙達が九宮一算の術に精通したと記す。《隋書・経籍志》に楊淑《九九算術》一巻を著録する。これを見れば「九宮一算」はすなわち九九算術で、伏羲が創始し、黄帝が隷首に命じて引申推広させ、《九章》の算数と成した。劉徽の説に依れば、伏羲はまず八卦を画き、後に九九を作った。では班固が「伏羲の八卦を画くは数より起こる」といったのは、正しくない。(漢代の儒者は《説卦》第一章がまず「生蓍倚数」を講じ、後に「立卦生爻」を講ずることに依拠し、それゆえ画卦は数より起こると認めた。実は《説卦》の本意はこのようではなく、彼らが誤解したのである。)
今九九八十一乘除之算,疑即隸首遺制。《算經》每以物設為乘除法(《觀物外篇》曰:乘數,生數也;除數,消數也。算去雖多,不出乎此),有九數列為三條書之者,與《大戴·明堂》篇所列正相似。術家取九室之數配以八卦五行,名之曰九宮。後漢黃香有《九宮賦》,《隋志》有《黃帝九宮經》一卷、《九宮行棊經》三卷,並鄭玄注,又《九宮八卦式圗》一卷;《唐志》有《太一九宮雜占》一卷、《遁甲九宮八門圗》一卷。其曰「黃帝九宮」,葢以數成於隸首,而明堂之制亦創自黃帝,故依託之也。
今日の九九八十一の乗除算法は、疑うに隷首が遺した旧制であろう。算経の中にはしばしば実物を取って乗除の算題を設ける(《観物外篇》にいう:乗はすなわち「生数」、除はすなわち「消数」。算法の名目は多いが、みなこの両者を出ない)、その中に九つの数を三行に排して書き出すものがあり、《大戴礼記・明堂》篇の列する「二九四、七五三、六一八」とちょうど相似る。術数家は明堂九室の数目を取り、八卦五行を配して、これを「九宮」と呼んだ。東漢の黄香は《九宮賦》を作った。《隋書・経籍志》に《黄帝九宮経》一巻・《九宮行棋経》三巻を著録し、いずれも鄭玄注を帯び、また《九宮八卦式図》一巻がある。《唐書・芸文志》に《太一九宮雑占》一巻・《遁甲九宮八門図》一巻を著録する。「黄帝九宮」と称する所以は、おそらくこの数が黄帝の史官・隷首の手に成り、明堂の建制もまた黄帝に創始したので、彼に託名したのであろう。
右論古九宮之數。
以上の一節は、古代の九宮之数の来歴を考弁した。
王氏應麟《玉海》引《易·乾鑿度》曰:「河圗八文,《易》變而為一,一變而為七,七變而為九,九者氣之究也,乃復變而為一。」(語本《列子》。彼注云:太極本一而生陰陽五行則為七,其變為九,則又以七之少陽而進為老陽。陽主進,陰主退,八退為六,七進為九也。)
王応麟《玉海》に《易緯乾鑿度》を引いていう:河図は合わせて八篇の文字がある。《易》は太易より変じて一と為り、一は変じて七と為り、七は変じて九と為る。九は気数の終極なので、また回復して一に変ず。(この言は《列子》に本づく。張湛《列子注》にいう:太極はもともと一で、陰陽五行を生じて七と成る。それが九に変ずるのは、七という少陽が進んで老陽と成るためである。陽は前進を主とし、陰は後退を主とするので、八は退じて六と成り、七は進んで九と成る。)胡渭がこの一条を引くのは、《乾鑿度》のいう「河図」が八篇の緯文であって、九宮とも五十五点之図とも同一事ではないと指摘せんがためである。
東坡蘇氏曰:「世之通於數者,論參伍錯綜,則以九宮言之。九宮不經見,見於《乾鑿度》,曰『太乙行九宮』。九宮之數,以九一三七為四方,以二四六八為四隅,而五為中宮,經緯四隅,交絡相值,無不得十五者。陰陽老少皆分取於十五:老陽取九,餘六以為老陰;少陽取七,餘八以為少陰。此與一行之學不同,然吾以為相表裡者。二者雖不經見,而其說皆不可廢也。」
蘇軾がいう:世に数術に精通する者は、「参伍錯綜」を談ずると、九宮を取って講じる。九宮は経書に見えず、ただ《乾鑿度》に見えて「太乙は九宮を巡行す」という。九宮の数は、九・一・三・七をもって四正方に居り、二・四・六・八をもって四隅に居り、五は中宮に居る。横の竪のおよび四隅を穿つ対角線を交錯相加すれば、十五ならぬ一組もない。陰陽老少の四象は、みな十五の中から分け取られたものである。老陽は九を取り、残りの六がすなわち老陰。少陽は七を取り、残りの八がすなわち少陰。これは唐代の僧・一行の学説と異なるが、私は両者が互いに表裏を為すと思う。この両家はいずれも経書に見えないが、それらの説法はいずれも廃すべきではない。
程氏大昌《易原》曰:「晉張湛傳《列子》,至『七變為九』,曰『此章全是《周易乾鑿度》』,則漢魏已降,凡言《易》《老》者皆已宗而用之,非後世托為也。然則圗書也者,《乾鑿度》實能得之,而孔、劉反不得見,何邪?所可言者,其四正四維皆為十五,正符陳摶所傳,則其來已古,篤可信爾。」
南宋の程大昌(字は泰之)《易原》にいう:晋人の張湛が《列子》に注し、「七変為九」の句に注するに及んで「この章は全く《周易乾鑿度》に出る」と言った。これを見れば漢魏以来、《易》と《老子》を談ずる者はすでにそれを宗奉沿用し、後世の偽託ではなかった。こうであれば、河図洛書のたぐいは、《乾鑿度》の作者がついに真に見ることができ、孔安国・劉歆がかえって見ることができなかったのは、なぜか。断定し得るのは、それが四正四隅に相加していずれも十五を得ることは、ちょうど陳摶の伝えた図と符合し、来歴はすでに非常に古く、全く信ずべきだということである。
緯書多出於哀、平之世,而《後漢·律歴志》順帝時邊韶上言「太初改元易朔,以《乾鑿度》八十分之四十三為日法」,則似武帝時已有《乾鑿度》矣。是殆不然,葢作者以《太初》歴法竄入其中,暗與之合,非武帝果用此書為日法也。圗緯至唐時已多殘缺,宋世別有《乾鑿度》二卷,題云「蒼頡修」,乃贗書,《玉海》所載,不知是殘缺本文否。據晉張湛注《列子》「太易」一章云全是《乾鑿度》,而孔穎達《易正義》引《乾鑿度》有太易、太初、太始、太素,正與張湛所言合,其為本文無疑矣。河圗之形象久已無傳,自田何軰不能贊一辭,況撰《乾鑿度》者乎?程泰之謂作者親見河圗,葢為其所愚也。
胡渭が辨駁していう:緯書はたいてい漢哀帝・平帝の世に出る。ところが《後漢書・律暦志》に順帝の時・辺韶が上奏して「太初年間に元を改め暦を換え、《乾鑿度》の八十分之四十三をもって日法と為した」と記す。このように見れば、漢武帝の時すでに《乾鑿度》があったかのようである。実はそうではない。これは《乾鑿度》の作者が《太初暦》の暦法をこっそり書の中に塞げ込み、暗にそれと吻合させたのであって、武帝が真にこの書をもって日法と為したのではない。図緯は唐代にすでに多く残阙し、宋代に別に一部の《乾鑿度》二巻があり、「蒼頡修」と題するが、あれは偽書である。《玉海》の引く所は、残存の原文かどうか知れない。晋人・張湛の《列子》「太易」章の注が全く《乾鑿度》に出るということに拠り、また孔穎達《周易正義》の引く《乾鑿度》の中に太易・太初・太始・太素があり、ちょうど張湛のいう所と吻合する。これを見ればそれは確かに原文で疑いない。河図の形象に至っては、すでに早く失伝し、漢初に《易》を伝えた田何の輩ですら一言も言い出せなかったのに、まして《乾鑿度》を編造した人をや。程大昌が《乾鑿度》の作者は河図を親見したというのは、この書に騙されたのである。
《後漢書·張衡傳》注引《易·乾鑿度》曰「太一取其數以行九宮」,鄭玄注云:「太一者,北辰神名也,下行八卦之宮,每四乃還於中央。中央者,地神之所居(《日知錄》云:「地神」疑作「北辰」),故謂之九宮。天數大分,以陽出,以陰入,陽起於子,陰起於午,是以太一下九宮,從坎宮始。自此而坤而震而巽,所行者半矣,還息於中央之宮;既又自此而乾而兊而艮而離,行則周矣。上游息於太一之星,而反紫宮也。」
《後漢書・張衡伝》の李賢注に《易緯乾鑿度》を引いて「太一はあの数を取って九宮を巡行す」といい、鄭玄が注解していう:太一は北極星神の名で、下りて八卦の主する宮位を行き、四宮を行くごとに中央に一度帰る。中央は地神の居する所(顧炎武《日知録》に、「地神」は疑らく「北辰」と作るべきという)なので、合わせて九宮と称す。天数の大分は、陽気をもって出、陰気をもって入る。陽は子位に起こり、陰は午位に起こるので、太一の九宮を下行するは坎宮より始まり、これより坤・震・巽に至り、半ばを行き尽くして中央之宮に帰り歇息する。続いてまたこれより乾・兌・艮・離に至り、一圏が行き尽くす。然る後に上昇して太一之星に歇息し、紫微宮に返る。
(《史記·天官書》:中宮天極星,其一明者為太一常居。《封禪書》:亳人謬忌奏祠太一方,曰「天神貴者太一,太一佐曰五帝。古者天子以春秋祭太一東南郊,用太牢七日,為壇開八通之鬼道」。於是天子令太祝立其祠長安東南郊,常奉祠如忌方。鄭康成《周禮注》云:昊天上帝又名太一。)
(案:《史記・天官書》にいう、中宮の天極星のうち最も明るいあの一つは、太一の常住する所である。《史記・封禅書》にいう、亳県の人・謬忌が太一を祭祀する方術を上奏して、「天神の中で最も尊貴なのは太一で、太一の輔佐は五帝である。古の天子は春秋の二季に東南郊で太一を祭祀し、太牢の礼をもって七日間祭り、祭壇を築き、四方に通ずる八条の鬼道を開いた」といった。そこで天子は太祝に命じて長安の東南郊に太一祠を建立し、長く謬忌の方術に拠って奉祀した。鄭康成《周礼注》にいう:昊天上帝はまたの名を太一という。)
《南齊書·髙帝紀》:案太一九宮占歴,推自漢髙帝五年至宋順帝升明元年太一所在。《易·乾鑿度》曰「太一取其數以行九宮」。九宮者,一為天蓬,以制冀州之野;二為天內,以制荊州之野;三為天沖,其應在青;四為天輔,其應在徐;五為天禽,其應在豫;六為天心,七為天柱,八為天任,九為天英,其應在雍、在梁、在揚、在兗。天沖者木也,天輔者亦木也,故木行太過不及,其眚在青、在徐;天柱金也,天心亦金也,故金行太過不及,其眚在梁、在雍。惟水無應宮也。
《南斉書・高帝紀》に記す:太一九宮の占算暦法に拠り、漢高帝五年より劉宋・順帝の昇明元年までの太一の所在する宮位を推排した。《易緯乾鑿度》に「太一はあの数を取って九宮を巡行す」という。いわゆる九宮は、一を天蓬といい冀州之地を主管し、二を天内といい荊州之地を主管し、三を天沖といい青州に感応し、四を天輔といい徐州に感応し、五を天禽といい豫州に感応し、六を天心、七を天柱、八を天任、九を天英といい、それぞれ雍州・梁州・揚州・兗州に感応する。天沖は木に属し、天輔も木に属するので、木の運行が太過か不及なら、災眚は青州・徐州に出る。天柱は金に属し、天心も金に属するので、金の運行が太過か不及なら、災眚は梁州・雍州に出る。ただ水のみ相応する分野之宮がない。
《唐書·玄宗紀》:天寶三載十二月癸丑,祠九宮貴神於東郊。
《新唐書・玄宗本紀》に記す:天宝三載十二月の癸丑の日、玄宗が東郊で九宮貴神を祭祀した。これは九宮が術数家の説法より正式に国家祀典に入った開端である。
《唐會要》:玄宗天寶三載十月,術士蘇嘉慶上言,請於京城置九宮壇,壇一成,其上依位置小壇:東南曰招搖,正東曰軒轅,東北曰太陰,正南曰天一,中央曰天符,正北曰太一,西南曰攝提,正西曰咸池,西北曰青龍。五數為中,戴九履一,左三右七,二四為上,六八為下,符於遁甲。(晁氏曰:遁甲之書見於《隋志》凡十三家,則其學之來亦不在近世矣。以休、生、傷、杜、景、死、驚、開八門推國家之吉凶,通其學者以為冇驗,未之嘗試也。)肅宗至德三年六月,置太一神壇於南郊東。九宮以四孟隨歲改位行棊,謂之飛位,乾元後遂不易位。
《唐会要》に記す:玄宗天宝三載十月、術士の蘇嘉慶が上奏して、京城に九宮壇を設置することを請うた。壇は一層を築き、壇上に方位に拠って九つの小壇を設ける。東南を招揺、正東を軒轅、東北を太陰、正南を天一、中央を天符、正北を太一、西南を摂提、正西を咸池、西北を青龍という。五は中央に居り、頭頂は九・足踏は一、左は三・右は七、二と四は上(両肩)、六と八は下(両足)で、遁甲之法と相合する。(晁公武がいう:遁甲のたぐいの書は《隋書・経籍志》に合わせて十三家を著録する。この門の学問の来歴もまた晩近とはいえないことが分かる。それは休・生・傷・杜・景・死・驚・開の八門をもって国家の吉凶を推算し、この学に精通する者は非常に霊験だというが、私はかつて試したことがない。)粛宗至徳三年六月、南郊之東に太一神壇を設置した。九宮は四孟之月に年に随って位次を更換し、碁を下すように移動して「飛位」と呼んだ。乾元以後は位置を変換しなくなった。
武宗會昌二年正月,左僕射王起等奏:按《黃帝九宮經》及蕭吉《五行大義》,一宮其神太一,星天蓬,卦坎,行水,方白;二宮其神攝提,星天內,卦坤,行土,方黑;三宮其神軒轅,星天沖,卦震,行木,方碧;四宮其神招搖,星天輔,卦巽,行木,方綠;五宮其神天符,星天禽,卦坤,行土,方黃;六宮其神青龍,星天心,卦乾,行金,方白;七宮其神咸池,星天柱,卦兊,行金,方赤;八宮其神太陰,星天任,卦艮,行土,方白;九宮其神天一,星天英,卦離,行火,方紫。統八卦,運五行,土飛於中,數轉於極。(章俊卿《山堂考索》云:漢立太一祠,即甘泉泰畤也,唐謂之太清紫極宮,宋謂之太一宮,尤重其祠。以太一飛在九宮,每四十餘年而一徒,所臨之地則兵疫不興,水旱不作。)
武宗会昌二年正月、左僕射の王起らが上奏した:案ずるに《黄帝九宮経》と隋人・蕭吉の《五行大義》に、一宮之神は太一、星名は天蓬、坎卦に配し、水を行き、方色は白。二宮之神は摂提、星名は天内、坤卦に配し、土を行き、方色は黒。三宮之神は軒轅、星名は天沖、震卦に配し、木を行き、方色は碧。四宮之神は招揺、星名は天輔、巽卦に配し、木を行き、方色は緑。五宮之神は天符、星名は天禽、坤卦に配し、土を行き、方色は黄。六宮之神は青龍、星名は天心、乾卦に配し、金を行き、方色は白。七宮之神は咸池、星名は天柱、兌卦に配し、金を行き、方色は赤。八宮之神は太陰、星名は天任、艮卦に配し、土を行き、方色は白。九宮之神は天一、星名は天英、離卦に配し、火を行き、方色は紫。それは八卦を統摂し、五行を運転し、土は中央に飛居し、数字は尽きるところまで転じてまた循環する。(章俊卿《山堂考索》にいう:漢代の立てた太一祠はすなわち甘泉宮の泰畤。唐代は太清紫極宮と呼び、宋代は太一宮と呼んで、この祭祀を格別に重んじた。太一が九宮を飛行し、四十余年ごとに一回遷移し、それが臨む所は兵禍瘟疫が起こらず水旱之災が作らなかったためである。)
按:張衡所稱九宮,不過如明堂《月令》之說,而《易緯·乾鑿度》則以為太一下行之數,涉於誕矣。衡方斥圗緯為非聖之書,九宮必不取諸《乾鑿度》,章懷不當引以為注。蘇嘉慶、王起等所奏神號、星名、方色,則又其穿鑿傅會之甚者也。
胡渭の按:張衡のいう九宮は、明堂《月令》のあの一路の講法にすぎない。ところが《易緯乾鑿度》はそれを太一の下行する数と説き、荒誕に流れた。張衡はまさに図緯を非聖之書として斥けていたので、彼のいう九宮は必ず《乾鑿度》より取ったのではなく、章懐太子・李賢は《乾鑿度》を引いて彼の注を作るべきではなかった。蘇嘉慶・王起らの奏章の中のあの神号・星名・方色に至っては、さらに穿鑿附会の極みである。
九宮非河圗也。自《乾鑿度》有「河圗八文」之語,劉瑜有「河圗九房」之稱,而世遂以九宮為河圗矣。又有指此為洛書者,葢以九疇之故。然九疇有次第,無方位也,強配八卦以附會之數,豈理也哉!
九宮は河図ではない。ただ《乾鑿度》に「河図八文」の言があり、劉瑜に「河図九房」の説法があったので、世人は九宮を河図と為した。またある者は九宮を洛書と指すが、それは洛書が九疇に対応するためである。しかし九疇には先後の次第があるだけで、方位は言うべくもない。硬くそれを八卦に配してこの数を附会し出すのは、どうして道理に合おうか。
右論乾鑿度太一九宮之數。
以上の一節は、《乾鑿度》の講ずる太一の九宮巡行之数を考弁した。
易図明辨巻三 徳清・胡渭撰
周易参同契
《舊唐書·經籍志》丙部五行類:《周易參同契》二卷,魏伯陽撰;《周易五相類》一卷,魏伯陽撰。
《旧唐書・経籍志》の丙部五行類に著録する:《周易参同契》二巻、魏伯陽撰。《周易五相類》一巻、魏伯陽撰。魏伯陽は東漢の会稽上虞の人で、道教の丹家は彼の《参同契》を「万古丹経王」と奉ずる。胡渭が《参同契》を単立して巻三の専題とするのは、宋人のいわゆる「先天図」「太極図」の図式が、実はみなこの煉丹書から出たためである。
《唐書·藝文志》五行類:魏伯陽《周易參同契》二卷,又《五相類》一卷。(《古文參同契》本云「三相類」,淳于叔通撰,未知孰是。)
《新唐書・芸文志》の五行類に著録する:魏伯陽《周易参同契》二巻、また《五相類》一巻。(《古文参同契》は本を「三相類」と作し、淳于叔通の撰と題す。どちらの説が正しいか知れない。)
真一子彭曉《參同契解義序》曰:「魏伯陽,會稽上虞人,修真潛黙,養志虛無,博贍文詞,通諸緯候,得《古文龍虎經》,盡獲妙旨,乃約《周易》譔《參同契》三篇,復作《補塞遺脫》一篇,密授青州徐從事(名景休),徐乃隠名而注之。桓帝時復授同郡淳于叔通,遂行於世。」
五代・蜀人の彭暁(道号は真一子)が《参同契解義》の序の中でいう:魏伯陽は会稽上虞の人で、真道を修錬し沈黙自守し、虚無の境に心志を涵養した。文辞は富贍で、諸種の緯書候書に通暁し、《古文龍虎経》を得てその中の妙旨を尽く得、そこで《周易》を取法して《参同契》三篇を撰成し、また《補塞遺脱》一篇を作して、青州の徐従事(名は景休)に秘密に伝授した。徐景休はすなわち己の姓名を隠してこれに注を為した。漢・桓帝の時に至り、また同郡の淳于叔通に伝え、この書はやっと世に流行した。
《雲笈七籤·神仙傳》曰:「魏伯陽作《參同契》,似解釋《周易》,其實假借爻象以論作丹之意。而儒者不知神仙之事,多作陰陽注之,失其奧旨矣。」
《雲笈七籤》の収める《神仙伝》にいう:魏伯陽の《参同契》を作るや、表面は《周易》を解釈するかのごとく見えるが、実は爻象を借用して煉丹の道理を講じたものである。しかし儒者は神仙修錬の事を解さず、たいてい陰陽義理に拠ってそれを注解したので、かえってその深意を失った。この一条はまさに《参同契》がもともと《易》を解く書にあらずを説明する。胡渭がそれを引くのは、丹家の図と《易》学との界限を画さんがためである。
鼂氏公武《讀書志》曰:「《周易參同契》三卷,漢魏伯陽撰,彭曉為之解,隋、唐書皆不載。(唐新舊二史皆有。)按陸德明解『易』字雲『虞翻作《參同契》,言字從日下月』,今此書有『日月為易』之文,其為古書明矣。」
南宋の晁公武《郡斎読書志》にいう:《周易参同契》三巻、漢の魏伯陽撰、彭暁がこれに解を為す。《隋書》《唐書》はいずれも著録しなかった。(胡渭の夾注が指摘する:新旧の両《唐書》は実はいずれも著録した。)晁公武はまたいう:陸徳明が「易」の字を解釈するに「虞翻は《参同契》を作し、この字は上に『日』下に『月』だという」と講じたが、いまこの書の中にちょうど「日月為易」の言がある。これを見ればそれは確かに古書である。
陳氏振孫《書錄解題》曰:「《參同契分章通真義》三卷、《明鏡圗訣》一卷,真一子彭曉秀川撰,蜀永康人也。《參同契》因《易》以言養生,後世言修煉者祖之。序稱廣政丁未(蜀孟昶廣政十年歲在丁未,漢髙祖之天福十二年也),以《參同契》分十九章而為之注,且為圗八環,謂之《明鏡圗》。」
南宋の陳振孫《直斎書録解題》にいう:《参同契分章通真義》三巻・《明鏡図訣》一巻は、真一子・彭暁(字は秀川)の撰で、彼は蜀地の永康の人である。《参同契》は《周易》を借りて養生を講じたので、後世の修錬を講ずる者はみなそれを祖と奉ずる。彭暁の序は「広政丁未」と題す(後蜀・孟昶の広政十年がちょうど丁未年に当たり、すなわち後漢高祖の天福十二年)。彼は《参同契》を十九章に分けて注解を加え、かつ八つの環形の図を画いて《明鏡図》と称した。
升庵楊氏慎《古文參同契序》曰:「《參同契》為丹經之祖,然考隋、唐經籍志皆不載(承鼂氏之誤),惟《神仙傳》云魏伯陽上虞人,通貫詩律,文詞贍博,修真養志,約《周易》作《參同契》,徐氏景休箋註,桓帝時以授同郡淳于叔通,因行於世。五代之時,蜀永康道士彭曉分為九十章,以應火候之九轉,餘《鼎歌》一篇,以應真鉛之得一,其說穿鑿,且非魏公之本意也。其書散亂橫決,後之讀者不知孰為經,孰為注,亦不知孰為魏,孰為徐與淳于,自彭始矣。朱子作《考異》及解,亦據彭本;元俞玉吾所注,又據朱本。」
明代の楊慎(号は升庵)《古文参同契序》にいう:《参同契》は丹経の鼻祖であるが、《隋書》《唐書》の経籍志を案ずるにいずれも著録しなかった(これは晁公武の誤りを沿襲したもの)。ただ《神仙伝》が講ずるに:魏伯陽は上虞の人で、詩律に精通し文辞は富博で、真を修め志を養い、《周易》を取法して《参同契》を作り、徐景休が箋注し、桓帝の時に同郡の淳于叔通に伝えたので、世に流行した。五代の時、蜀地永康の道士・彭暁がそれを九十章に分け、もって火候の「九転」に対応させ、残りの《鼎歌》一篇は、もって真鉛の「得一」に対応させた。この分法は穿鑿附会で、しかも魏伯陽の本意に合わない。この書は文句が散乱錯雑で、後の読者はどれが経でどれが注かを分けず、またどれが魏伯陽に出てどれが徐景休と淳于叔通に出るかも分けなかった――混乱は彭暁から始まった。朱熹の《周易参同契考異》と注解もまた彭暁本を用い、元人の兪琰(字は玉吾)が注を作すに当たっては、また朱熹本に依拠した。
復陽子蔣一彪《古文參同契集解序》曰:「昨偶檢先大夫雲龍公遺籍,得《古文參同契》一帙,魏伯陽所著上中下三篇、序一篇,徐景休箋註亦三篇、序一篇,淳于叔通補遺《三相類》上下二篇、後序一篇,合為十一篇,惟白文無注,是未經後人妄紊者,為成都升庵楊慎氏所序本。覽之始知往年所閱者,乃以魏君序及景休、叔通二家之注序竄入於魏君經文中,大相混亂。
明人の蒋一彪(道号は復陽子)《古文参同契集解序》にいう:先ほど偶然、先父・雲龍公の遺した旧書を翻検して、一部の《古文参同契》を得た。その中は、魏伯陽の著した上・中・下の三篇と序一篇、徐景休の箋注もまた三篇と序一篇、淳于叔通の補遺した《三相類》の上・下の二篇と後序一篇で、合わせて全部で十一篇。ただ白文があって夾注はなく、かつて後人に胡乱に攪乱されたことのない本子で、まさに成都の楊慎が序を作ったあの本子である。それを見てはじめて知った。往年読んだ通行本は、魏伯陽の序および徐景休・淳于叔通の両家の注と序を、魏伯陽の経文の中に混雑して竄入させ、大いに混乱させていたのだと。
後人注者不知所自,訛以因訛,經注莫辨,皆緣飾以成文,則不無牽引附會之誤。又無怪乎最後之觀者,見其重文復義,不達所指,咸即成說而一切草草錯會焉。不知亂肇自何人,而升庵謂於彭始。予今釐正其訛,一以古文為準,別出魏君經文,取彭曉、陳顯微、陳致虛、俞琰四子之注節集於各段之下,以顯明其義。」(一彪餘姚人,萬歴甲寅序。)
後に注を作す者はこれらの文字の来歴を知らず、訛をもって訛を伝え、経文と注文とが分辨せず、一概に修飾を加えて文章を湊成したので、牽強附会の謬誤を免れなかった。最後の読者が書中の文字の重復・意思の畳出を見て、それがいったい何を指すか明らかにせず、みな旧説を沿襲して草草に誤読するほかなかったのも無理はない。この混乱がいったい誰に始まったかは知り得ないが、楊慎は彭暁から始まったと言う。私はいまその訛誤を訂正し、一概に古文本をもって準とし、単独に魏伯陽の経文を抽出し、さらに彭暁・陳顕微・陳致虚・兪琰の四家の注を節録して各段の下に汇集し、もってその含義を闡明する。(蒋一彪は余姚の人。この序は万暦甲寅年に作られた。)
《朱子語類》曰:「《易》只是個陰陽,莊生曰『《易》以道陰陽』,亦不為無見。等而下之,如醫技、養生家之說,皆不離陰陽二者。魏伯陽《參同契》,恐希夷之學有些是其源流。」又曰:「先天圗傳自希夷,希夷又自有所傳,葢方士技術用以修煉,《參同契》所言是也。」
《朱子語類》に朱熹の言を記す:《周易》の講ずるはただ陰陽の一個で、庄子の「《易》はもって陰陽を講ずる」というのも、見地がないとは言えない。下りて推せば、医術・養生家の学説のごときも、陰陽のこの両様を離れない。魏伯陽の《参同契》は、おそらく陳摶(号は希夷先生)の学問の一部分がそれを源流とするのであろう。朱熹はまたいう:先天図は陳摶より伝わり、陳摶はまた別に師承がある――あれはもともと方士技術の修錬に用いるもので、《参同契》の講ずる所がまさにそれである。胡渭が朱熹のこの二条を引くのは、まさに朱熹自身の言をもって先天図は丹家より出て、伏羲より出たのではないと証明せんがためである。
「參,雜也;同,通也;契,合也。」謂與《周易》理通而義合也。其書假借君臣以彰內外,敘其離坎;直指汞鉛,列以乾坤;奠量鼎器,明之父母;保以始終,合以夫妻;拘其交媾,譬諸男女;顯以化生,材以陰陽;導之反覆,示之晦朔;通以降騰,配以卦爻;形於變化,隨之斗柄;取以周星,分以晨昏,昭諸刻漏:莫不託《易》象而論之,故名《周易參同契》云。
書名の解釈は:「参」は摻雑、「同」は相通、「契」は符合で、それが《周易》と道理相通じ意義相合することを言う。この書は君臣関係を借りて内外を彰顕し、離・坎の二卦を叙述し、直指するに水銀と鉛をもって乾・坤を配し、衡量鼎器を安置してそれらが父母のごとくを説明し、始終をもって保全し、夫妻をもって配合し、それらの交媾を約束して男女に譬喩し、化育生成を顕示して陰陽に取材し、往復循環を引導して晦朔をもって示意し、昇降を貫通して卦爻を配し、変化を表現して北斗斗柄に随い、周天星度を取法して早晚を画分し、刻漏をもって昭示する――みな《周易》の卦象に仮託して立論しないことはない。ゆえに名を取って《周易参同契》という。
合沙鄭氏東卿曰:「伯陽之《參同契》意在鍛鍊,而入於術,於聖人之道為異端。」
南宋の合沙の人・鄭東卿がいう:魏伯陽の《参同契》は、その用意は丹薬を焼錬するにあり、方術の一路に落ちた。聖人之道に対しては異端に属する。
黃氏震《日抄》曰:「《參同契》者,漢世魏伯陽所造,其說出於《神仙傳》,不足憑。為之註釋者五代末彭曉,則此書必出於五代之前也。此方士煉丹之書,然必冒《周易》為稱者,煉丹取子午時為火候,是坎離,因用乾坤坎離四正卦於槖鑰之外。
南宋の黄震《黄氏日抄》にいう:《参同契》は漢代の魏伯陽の造る所といえるが、この説は《神仙伝》に出て、凭信に足らない。それに注釈を為したのは五代末年の彭暁なので、この書は必ず五代以前に出現したことが見える。それはもともと方士の煉丹の書で、硬く《周易》の名号を冒用したのは、煉丹が子時・午時を取って火候と為すためで、あれがすなわち坎と離なので、「橐鑰」(炉鼎の風箱)のほかにまた乾・坤・坎・離のこの四正卦を用いたのである。
其次言屯蒙六十卦,以見一日用功之早晚;又次言納甲六卦,以見一日用功之進退;又次言十二闢卦,以分納甲六卦而兩之:要皆附會《周易》以張大粉飾之。其實煉丹無藉於《易》,《易》本無預於煉丹。而今世言火候者,因以三百八十四爻為一周天,以一爻直一日,而爻多日少,終不相合,其妄可知。近世蔡季通學博而不免於雜,嘗留意此書,而晦庵與之遊,因為校正,其書頗行,然求其義則終無之。」
次に屯・蒙以下の六十卦を講じ、もって一日の中の用功の早晚を表示する。再び納甲の六つの卦を講じ、もって一日の中の用功の進退を表示する。再び十二辟卦を講じ、納甲六卦を分けて加倍して成したもの――要するにみな《周易》に附会して己のために門面を撑え装飾を為すものである。実は煉丹は《周易》を借助する必要がなく、《周易》ももともと煉丹と関わりがない。いま世に火候を講ずる者は、ここにおいて三百八十四爻を取って一つの周天と為し、一爻は一日を管とするが、爻は多く日は少なく、終始合わない。その荒謬はこれによって知れる。近世の蔡元定(字は季通)は学問が広博で駁雑を免れず、かつてこの書に留意した。朱熹は彼と交游し、因ってこれに校正を為したので、この書はここにおいて相当に流行した。しかしその中に何らかの義理を求めようとしても、終始ないのである。
河津薛氏瑄曰:「《參同契》假《易》論長生之術,若指諸掌,然終是方技之書。」
明代の河津の人・薛瑄(理学名臣、諡は文清)がいう:《参同契》は《周易》を借りて長生の術を講じ、講じること自分の手掌を指すがごとく明らかであるが、それは終始一部の方術技芸之書である。
京山郝氏敬《學易枝言》曰:「《周易參同契》作自魏伯陽,大旨宗老氏《道德經》者,老子之《易》也。門戶、轂軸、槖鑰、牝牡,稽數探賾,不一而足,有無玄妙悉本其中。故知此書宗老氏,於《易》則《參同契》云爾。」
明代の京山の人・郝敬《学易枝言》にいう:《周易参同契》は魏伯陽の作る所で、宗旨は老子の《道徳経》に帰本する――《道徳経》はすなわち老子の《易》である。書中の「門戸」「轂軸」「橐鑰」「牝牡」のこれらの説法は、数理を考究し幽微を探索する所が比々としてあり、有無の玄妙な道理はすべて《道徳経》に本づく。ゆえにこの書は老子を宗奉するものと知るべきで、《周易》に対しては、ただ「参同契合」するだけにすぎない。
河右毛氏奇齡曰:「《參同契》諸圗,自朱子注後則學者多刪之。徐氏注本已亡,他本厖雜不足據,惟彭本有《水火匡廓圗》《三五至精圗》《斗建子午圗》《將指天罡圗》《昬見圗》《晨見圗》《九宮八卦圗》《八卦納甲圗》《含元播精三五歸一圗》,然或並《至精》《歸一》圗,或並《斗建》《將指》圗,故或九或七,今藏書家與道家多有之。以其書本丹灶家抽坎填離之術,故隋、唐志以其書入道家類(渭按:唐志入五行類,隋志無)。相傳漢桓帝時淳于叔通受其學,始以行世,故張平叔《悟真詩》云『叔通受學魏伯陽,留為萬古丹經王』也。」(見《太極圗說遺議》。)
清初の毛奇齢(河右の人)がいう:《参同契》の附する諸種の図は、朱熹が注を作って以来、学者はたいていそれらを刪除した。徐景休の注本はすでに早く亡佚し、別の本は雑乱で凭拠に足らず、ただ彭暁本のみが《水火匡廓図》《三五至精図》《斗建子午図》《将指天罡図》《昏見図》《晨見図》《九宮八卦図》《八卦納甲図》《含元播精三五帰一図》を保存した。ただある本は《至精》《帰一》を併せて一図と為し、ある本は《斗建》《将指》を併せて一図と為すので、図数はあるいは九を作しあるいは七を作す。いま蔵書家と道家の手にはたいていこれらの図が存する。この書がもともと丹灶家の「抽坎填離」の方術なので、《隋書》《唐書》の書志はそれを道家類に帰した(胡渭の按:《唐書》は実は五行類に帰し、《隋書》は根本的に著録しなかった)。相伝えるに漢・桓帝の時、淳于叔通がこの学を承受してからこの書はやっと世に流行しだしたので、張伯端(字は平叔)《悟真篇》の詩に「叔通は魏伯陽の学を受け、留めて万古の丹経王と為る」という。(毛奇齢《太極図説遺議》に見える。)胡渭の点出せんとする関鍵は、宋人の「太極図」の前身たる《水火匡廓図》《三五至精図》が、まさにこの丹経の図の中に保存されているということである。
《書錄解題》言彭本《明鏡圗》有八環,今其存者非九則七,葢《斗建》《將指》不當併合,而《至精》《歸一》本係一圗,是為八環耳。
陳振孫《直斎書録解題》は彭暁本の《明鏡図》が合わせて八つの環と言ったが、いま伝わるものは九幅でなければ七幅である。おそらく《斗建》《将指》の両幅はもともと合併すべきではなく、《至精》《帰一》はもともと一幅の図だったのであろう。このように計算すれば、ちょうど八環に湊成する。
《易外別傳》校正彭真一《明鏡圖》,畧加增損而成九環。《易》曰:「至哉坤元,萬物資生,乃順承天。」《參同契》曰:「恆順地理,承天布宣。」石澗俞氏琰曰:「人之元氣藏於腹,猶萬物藏於坤;神入氣中,猶天氣降而至於地;氣與神合,猶地道之承天。天地以此而生物,吾身以此而產藥。《太玄經》云『藏心於淵,美厥靈根』,與此同旨。」
元代の兪琰《易外別伝》は五代・蜀人の彭真一(すなわち彭暁)の作った《明鏡図》を校訂し、原図にやや増補刪減を加え、九つの円環に改めた。第一環はまず《周易・坤卦・彖伝》を引く:「偉大なるかな坤元、万物はそれに依って生長し、それは順って天道を承奉す。」また《周易参同契》を引く:「永く大地の条理に順い、天の施与を承受して布散宣揚す。」石澗先生・兪琰が解釈していう:人の元気は腹中に蔵れ、ちょうど万物の坤地に蔵れるがごとし。「神」が「気」の中に入るは、ちょうど天気の地面に下降するがごとし。「気」が「神」と相合するは、ちょうど地道の天道を承奉するがごとし。天地はこの道理に凭って万物を生養し、人身はこの道理に凭って丹薬を産出する。揚雄《太玄経》の「心を深淵の中に蔵め、自らの霊根を滋養す」は、ここと同一の旨趣である。
邵子曰:「月體本黑,受日之光而白。」俞氏曰:「日為太陽,月為太陰。月本無光,月之光乃日之光也。陽明陰暗,陽稟陰受,故太陰受太陽之光以為明。人之心為太陽,氣海猶太陰。心定則神凝,神凝則氣聚。人能凝神入於氣中,則氣與神合,與太陰受太陽之光無異。」
第二環は邵雍の言を引く:「月の本体はもともと黒く、太陽の光照を受けてはじめて白色を顕す。」兪琰が解釈していう:太陽は「太陽」に属し、月は「太陰」に属する。月は自身発光せず、月光は実は日光である。陽は明を主とし陰は暗を主とし、陽は給与を司り陰は承受を司るので、太陰は太陽の光を受けてはじめて明亮ある。人身にあっては、心は太陽に相当し、下腹の「気海」は太陰に相当する。心が安定すれば神は凝聚し、神が凝聚すれば気は積聚する。人若し神を凝らしめて気の中に送り入れられば、気と神は合して一と為り、これは太陰が太陽の光を承受するのと両様ならない。
邵子曰:「神統於心,氣統於腎,形統於首。形氣交而神主乎其中,三才之道也。」俞氏曰:「人之一身,首乾腹坤,而心居其中,其位猶三才也。氣統於腎,形統於首,一上一下本不相交,所以使之交者神也。神運乎中,則上下渾融,與天地同運,此非三才之道歟?夫神守於腎則靜而藏伏,坤之道也;守於首則動而運行,乾之道也。藏伏則妙合而凝,運行則周流不息。妙合而凝者藥也,用流不息者火也。」
第三環は邵雍の言を引く:「神は心に統摂され、気は腎に統摂され、形は頭に統摂される。形と気とが相交じ、神が中間にあって主を為す。これが天・地・人の三才の道理である。」兪琰が解釈していう:人の一身は、頭部は乾に属し腹部は坤に属し、心は中間に処る。この位置はまさに三才のごとし。気は腎に統摂されて下にあり、形は頭に統摂されて上にある。一上一下はもともと互いに交接せず、それらを交接せしめ得るのは神である。神が中間を運行すれば、上下は融して一片と成り、天地と同一の節奏をもって運転する。これぞ三才之道ではないか。神が腎中に守れば安静にして潜蔵し、これは坤の道理。頭部に守れば活動して運行し、これは乾の道理。潜蔵すれば「妙合而凝」し得、運行すれば周流して停まらない。妙合して凝聚するを「薬」と為し、周流して停まらざるを「火」と為す。すなわち火候である。
《陰符經》曰:「機在目。」邵子曰:「天之神發乎日,人之神發乎目。」俞氏曰:「目之所至,心亦至焉,故內煉之法,以目視鼻,以鼻對臍,降心火入於氣海,葢不過片餉工夫而已。」《易》曰:「乾為天,坤為地,離為日,坎為月。」又曰:「乾為首,坤為腹。」《太玄經》曰:「陽氣潛萌於黃宮。」《黃庭經》曰:「子欲不死修崑崙。」又曰:「出日入月呼吸存。」
第四環は《陰符経》を引く:「関鍵は眼睛に在り。」また邵雍を引く:「天の神は太陽に顕発し、人の神は眼睛に顕発す。」兪琰が解釈していう:眼睛がどこを見れば心もまたどこに随う。ゆえに内丹修錬の法は眼をもって鼻を看、鼻をもって臍に対し、心火を気海に降入せしめる。これは実はただ片刻の間の功夫にすぎない。以下の一環は《周易・説卦伝》を引く:「乾は天を象徴し、坤は地を象徴し、離は日を象徴し、坎は月を象徴す。」またいう:「乾は頭を象徴し、坤は腹を象徴す。」揚雄《太玄経》を引く:「陽気は悄々として黄色の中宮に萌発す。」道教《黄庭経》を引く:「汝若し死せざらんと欲せば、『昆崙』(頭頂を指す)を修錬せよ。」またいう:「太陽の出・月の入は、すべて呼吸の間に存想す。」
俞氏曰:「首居上而圎,諸陽之所會,乾天之象也,故《易》以乾為首;崑崙在西北乾位,故《黃庭經》以乾為崑崙。腹居下而中虛,八脈之所歸,坤地之象也,故《易》以坤為腹;天玄而地黃,故《太玄》以坤為黃宮。日生於東,月生於西,故《易》以離為日、坎為月;呼吸出入,升降上下,往來無窮,故《黃庭》以呼吸為日月。或以兩目為日月,非也,兩目僅有日月之形,無日月之用。」
兪琰が解釈していう:頭は人身の最上にあって形状は渾円で、衆陽脈の会聚する所で、まさに乾天之象なので、《周易》は乾をもって頭に配する。昆崙山は西北方にあり、ちょうど乾位に当たるので、《黄庭経》は「昆崙」をもって乾を称す。すなわち頭頂である。腹は人身の下にあって中間が空虚で、奇経八脈の匯帰する所で、まさに坤地之象なので、《周易》は坤をもって腹に配する。天色は玄黒く地色は黄なので、《太玄経》は坤を「黄宮」と称す。太陽は東方に升起し、月は西方に生ずるので、《周易》は離をもって日に配し坎をもって月に配する。人の呼吸は出有入有り、一昇一降・上下往来して窮尽なし。ゆえに《黄庭経》は呼吸を日月に比す。ある者は両只の眼睛を日月と為すが、これは誤りである。両眼はただ日月の形状を具備するのみで、日月の往来運行の作用を持たない。
《參同契》曰:「九還七返,八歸六居。」又曰:「七八數十五,九六亦相應。」又曰:「金水合處,木火為侶,四者渾沌,列為龍虎。」俞氏曰:「六七八九乃水火木金之成數。木數八屬東,火數七屬南,木自東而升,則與火為侶於南矣;金數九屬西,水數六屬北,金自西而降,則與水合處於北矣。丹家有所謂赤龍、黑虎者,東方蒼龍七宿運而之南則為赤龍,西方白虎七宿運而之北則為黑虎,無非譬喻身中之呼吸。究而言之,何龍虎之有?何金水木火之有?何七八九六之有?皆譬喻耳。或疑九、七、八言還、返、歸,六獨言居,得無異乎?曰:六居北不動,三方之還、返、歸皆聚於北,故言居也。」
《周易参同契》にいう:「九還、七返、八帰、六居。」またいう:「七と八とを加えれば十五、九と六とを加えてもまた然り。」またいう:「金と水とは一処に会合し、木と火とは伴侣を結び、四者は混同して分れず、排列して龍と虎と為る。」兪琰が解釈していう:六・七・八・九は水・火・木・金の「成数」である。木数は八で東方に属し、火数は七で南方に属す。木は東方より上昇して、すなわち南方で火と伴侣を結ぶ。金数は九で西方に属し、水数は六で北方に属す。金は西方より下降して、すなわち北方で水と会合する。丹家のいう「赤龍」「黒虎」は、東方の蒼龍七宿が南方に運行して赤龍と成り、西方の白虎七宿が北方に運行して黒虎と成るを指す。身体の中の呼吸を比喻するにほかならない。追究し尽くせば、どうして真に龍虎があろうか。どうして真に金水木火があろうか。どうして真に七八九六があろうか。すべて比喻にすぎない。ある者は疑う:九・七・八は分かれて「還」「返」「帰」を言い、ただ六のみ「居」を言うのは、豈一致しないか。答えていう:六は北方に居って動かず、残り三方の還・返・帰は最後にみな北方に聚攏するので、六に対してはただ「居」を言うのみである。
俞氏曰:「乾上坤下,吾身之天地也;泰左否右,吾身天地之升降也。復非十一月,亦非夜半子時,乃身中之子也;姤非五月,亦非日中午時,乃身中之午也。張悟真雲『否泰交,則陰陽或升或降』,葢謂身中之泰否。」俞氏曰:「坎北離南,吾身之水火也;既濟東,未濟西,吾身水火之升降也。屯居寅,蒙居戌,吾身之火候也。寅非平旦寅,乃身中之寅;戌非黃昏戌,乃身中之戌。張悟真雲『屯蒙作動靜,在朝在昏』,葢謂身中之屯蒙。」
兪琰が別の両環を解釈していう:乾は上に坤は下にあり、これは我が身上の天地である。泰卦は左に否卦は右にあり、これは我が身上の天地之気の昇降である。図中の復卦は農暦十一月を指さず、夜半の子時も指さず、身体内部の「子」である。姤卦は五月を指さず、正午の午時も指さず、身体内部の「午」である。張伯端《悟真篇》に「否泰が交替すれば、陰陽はすなわち昇有り降有り」という。講ずるはまさに身体内部の泰否である。兪琰はまたいう:坎は北に離は南にあり、これは我が身上の水火。既済は東に未済は西にあり、これは我が身上の水火の昇降。屯卦は寅に配し蒙卦は戌に配す。これは我が身上の「火候」。寅は天亮の寅時ではなく、身体内部の寅。戌は黄昏の戌時ではなく、身体内部の戌。張伯端の「屯蒙は動と静とに分かれ、一は早朝に一は黄昏に在り」は、講ずるもまた身体内部の屯蒙である。
《參同契》曰:「朔旦屯直事,至暮蒙當受。晝夜各一卦,用之依次序。既未至昧爽,終則復更始。日辰為期度,動靜有早晚。春夏據內體,從子到辰巳;秋冬當外用,自午訖戌亥。」俞氏曰:「《參同契》以乾坤為鼎,坎離為藥物,因以其餘六十卦為火候。一日有十二時,兩卦計十二爻,故日用兩卦:朝屯則暮蒙,朝需則暮訟,以至於既濟未濟一也。屯倒轉則為蒙,有一升一降之象。屯自內而升,為朝、為晝、為春夏;蒙自外而降,為暮、為夜、為秋冬,諸卦皆然。夫以六十卦分佈為三十日以象一月,然遇小盡則當如之何?葢比喻耳,非真謂三十日也。或以此為閉目數息之法,則不勝其煩且勞矣,豈至簡至易之道哉!」
《周易参同契》にいう:「初一の早朝は屯卦が当直し、傍晚に至って蒙卦が承接すべし。白天黒夜は各々一卦を用い、次序に依って推し下る。既済より未済に至り天明に及ぶまで、一輪は行き尽くしてまた重新に開始す。日辰をもって期限尺度と為し、動と静とは各々早晚有り。春夏之気は卦の内卦に依拠し、子時より辰時・巳時に至る。秋冬之気は外卦に当直し、午時より戌時・亥時に至る。」兪琰が解釈していう:《参同契》は乾坤をもって煉丹の「鼎器」と為し、坎離をもって「薬物」と為し、そこで残りの六十卦を取って「火候」に充てる。一日に十二時辰があり、両卦は合わせて十二爻。ゆえに毎日両卦を用いる。早朝が屯卦ならば傍晚は蒙卦、早朝が需卦ならば傍晚は訟卦。直ちに既済・未済に排するまで、道理はみな同じ。屯卦を倒せばすなわち蒙卦で、一昇一降の象あり。屯卦は自内より上昇して、早朝・白昼・春夏に配す。蒙卦は自外より下降して、傍晚・黒夜・秋冬に配す。残りの各卦もまたみなこのよう。ただ六十卦を三十天に分派して一箇月を象徴せしめれば、二十九天のみの「小尽」之月に逢えばまたどうすべきか。これを見ればこれはただ比喻で、真に三十天を指さない。ある者はこれを目を閉じて呼吸を数える法と為すが、それなら煩瑣労累して堪えられず、どうして極簡極易の大道と称し得ようか。
《周易參同契》金丹鼎器藥物火候萬殊一本之圗。惟斯之妙術兮,審諦不誑語;傳於億世後兮,昭然而可考;煥若星經漢兮,昺如水宗海;思之務令熟兮,反覆眂上下。千秋燦彬彬兮,萬遍將可覩;神明或告人兮,心靈忽自悟;探端索其緒兮,必得其門戶;天道無適莫兮,當傳與賢者。
これは《周易参同契》の「金丹鼎器薬物火候万殊一本図」の図題と題辞である。辞の中にいう:この奇妙なる法術なるかな、子細に審察すれば決して虚妄の言にあらず。億万世の後に流伝するかな、なお清清楚々として考究すべし。それは燦爛として群星の銀河を横ぎるがごとく、明亮として衆水の大海に匯帰するがごとし。それを思索するは必ず爛熟なるかな、反反復復して上下細看すべし。千百年の後になお光彩煥発するかな、万遍読みて自ら看清さるべし。神明はあるいは人に啓示するかな、心霊は忽然として自ら開悟す。線頭を捉えてその頭緒を追尋するかな、必ず入門の路径を尋ね得ん。天道は人に偏愛も疏遠もなきかな、賢徳の人に伝うべし。
右論《參同契》指要十七。
以上は《周易参同契》の要旨に関する論述で、合わせて十七条。
《參同契》曰:「乾坤者,易之門戶,眾卦之父母。坎離匡廓(朱子《考異》作「匡郭」,雲其象如垣郭之形),運轂正軸,牝牡四卦,以為槖鑰。」(空同道士鄒欣曰:以宇內言之,則乾天在上,坤地在下,而陰陽變化在其間;以人身言之,則乾陽在上,坤陰在下,而一身之陰陽變化在其間。此乾坤所以為易之門戶、眾卦之父母也。凡言易皆指陰陽變化而言,在人身則所謂金丹大藥者也。然則乾坤其爐鼎歟?乾坤位乎上下,而坎離升降於其間,如車軸之貫轂以運輪,□下而□上也。牝牡謂配合之四卦,震、艮、巽、兊是也。槖,鞴囊;鑰,其管也。)
《周易参同契》にいう:「乾坤は《易》の門戸・衆卦の父母である。坎離は城郭のごとく囲護して外にあり(朱熹《周易参同契考異》は『匡廓』を『匡郭』と書き、その形状は城垣の外郭に似るという)、車轂を帯動し車軸を扶正する。牝牡相配の四卦は、風箱と吹管に充当する。」空同道士・鄒欣が解釈していう:天地の間についていえば、乾天は上に坤地は下にあり、陰陽変化は中間で行われる。人身についていえば、乾陽は上に坤陰は下にあり、一身の陰陽変化もまた中間で行われる。これが乾坤が《易》の門戸・衆卦の父母である所以である。凡そ「易」と言えば、みな陰陽変化を指し、人の身に落ちればいわゆる「金丹大薬」となる。では乾坤はすなわち煉丹の炉鼎ではないか。乾坤は上下に定位し、坎離は中間で一昇一降し、ちょうど車軸が車轂を穿って車輪を帯動するがごとく、一は下に一は上に(原文はここに二字が缺失)。「牝牡」は相配合の四卦を指し、すなわち震・艮・巽・兌である。「槖」は風を鼓する皮囊で、「鑰」はその送风管である。
(上陽子陳致虛曰:何謂坎離匡廓?葢陽乘陰則乾中虛而為離,陰乘陽則坤腹實而為坎,故坎離繼乾坤之體而為陰陽之匡廓。比乾坤之於坎離,猶車輻之於轂軸,乾坤正坎離之輻,坎離輳乾坤之轂。老子曰「三十輻共一轂」,此大小徐君之旨同也。)
上陽子・陳致虚が続けて解釈していう:何を「坎離匡廓」というか。たいてい陽が陰の上に凌駕すれば、乾卦の中間は空虚と成って離卦に変じ、陰が陽の上に凌駕すれば、坤卦の腹中は充実して坎卦に変ず。ゆえに坎離は乾坤の形体を承接し、陰陽の外囲城郭に充当する。乾坤を坎離と比すれば、ちょうど車輻と車轂車軸の関係のごとし。乾坤は坎離の輻条で、坎離は衆輻の湊集する車轂である。老子の「三十本の輻条が一つの車轂を共にする」は、大徐君・小徐君の両家と旨趣が一致する。
「天地設位,而易行乎其中矣。天地者,乾坤之象也;設位者,列陰陽配合之位也。易謂坎離,坎離者乾坤二用。二用無爻位,周流行六虛,往來既不定,上下亦無常,幽潛淪匿,升降於中,包囊萬物,為道紀綱。」(全陽子俞琰曰:乾天坤地,吾身之鼎器也;離日坎月,吾身之藥物也。先天八卦乾南坤北,列天地配合之位;離東坎西,分日月出入之門。反求吾身,其致□也。乾坤為體,坎離為用。坎離二者周流升降於六虛,往來上下木無爻位;吾身坎離運行乎鼎器之內,潛天潛地,豈有爻位哉!)
《参同契》はまたいう:「天地は上下の位置を設定し、『易』はその中で運行する。天地はすなわち乾坤之象。『設位』は陰陽相配の位置を排出すること。ここでの『易』は坎離を指し、坎離は乾坤の二種の功用である。この二種の功用は固定の爻位なく、上下四方の六つの方位を周流し、来去は定まらず上下は常なく、深藏隠没し、中間で昇降して万物を包裹し、大道の綱紀と成る。」全陽子・兪琰が解釈していう:乾天坤地は、すなわち我が身上の「鼎器」。離日坎月は、すなわち我が身上の「薬物」。先天八卦は乾は南・坤は北にあって天地相配の位置を排出し、離は東・坎は西にあって日月出入の門戸を分かつ。反って己の身上に求めれば、道理は同じ。乾坤は本体、坎離は功用。坎離の両者は六虚の中を周流昇降し、往来上下はもともと固定の爻位なし。我が身上の坎離は鼎器の内で運行し、上は天に潜し下は地に潜すことができる。どうして爻位があろうか。
河右毛氏曰:「水火匡廓圗者,以章首有『坎離匡廓,運轂正軸』二語,所云水火即坎離也。丹家以坎離為用,故輪而象之,又名水火二用圗,則又取『天地者乾坤之象,坎離者乾坤之用』二語。葢其圖正作坎離二卦而運為一軸,非所謂兩儀也,亦非所謂陽動生陰、陰靜復生陽也。其中一○則坎離之胎也,左((為離,白黑白即□—□也;右))為坎,黑白黑即—□—也。」(見《太極圗說遺議》)
河右の人・毛奇齢がいう:いわゆる「水火匡廓図」は、《参同契》の篇首に「坎離匡廓、運轂正軸」の二句があり、その中にいう水火はすなわち坎離。丹家は坎離を功用と為すので、輪状に画いてそれを象徴する。この図はまた「水火二用図」とも呼ばれ、「天地は乾坤之象、坎離は乾坤之用」の両句を取った。あの図は実はただ坎離の両卦を画き出して環転せしめ一根の車軸のごとくしただけで、周敦頤のいう「両儀」でもなく、いわゆる「陽動して陰を生じ陰静してまた陽を生ず」でもない。図中間のあの円圈は、坎離の孕む胎である。左の半分は離卦で、白・黒・白が相間して、まさに離卦の陽・陰・陽の画法。右の半分は坎卦で、黒・白・黒が相間して、まさに坎卦の陰・陽・陰の画法。この説は毛奇齢《太極図説遺議》に見える。
《參同契》曰:「物無陰陽,違天背元。牝雞自卵,其雛不全。夫何故乎?配合未連,三五不交,剛柔離分。」(陳顯微曰:張紫陽詩云「莫把孤陰謂有陽,獨修一物轉羸尩」,鍾離先生詩云「莫謂此身亡是道,獨修一物是孤陰」。須知一陰一陽之謂遒,男女構精,萬物化生,而後可語還丹矣。苟二物不合,三五不交,水火未濟,剛柔離分,則陰陽隔絶,天地閉塞,所謂偏陰偏陽謂之疾也。)
《周易参同契》にいう:「事物に若し陰陽配合なければ、天道に背き本原に乖離す。雌鶏が自らの下した蛋を孵しても、孵り出る雛鶏は完全ならず。これは何の故か。配合が接続せず、『三五』が交会せず、剛と柔とが彼此分離したためである。」陳顕微が解釈していう:張紫陽(張伯端)の詩に「孤零零たる陰をもって陽あると説くなかれ、一物を単修すればかえって修めるほど瘦弱す」と講じ、鍾離先生の詩に「この身体を抛てばこそ道だと言うなかれ、一物を単修するはすなわち孤陰」と講ずる。知るべきである。一陰一陽が交替往復してこそ大道という。男女が交合して精気を為し、万物が化育生成して、然る後に「還丹」を言い得る。もし両物が結合せず三五が交会せず水火が既済と成らず剛柔が各自分離すれば、陰陽は隔絶し天地は閉塞する。これがまさにいわゆる「陰に偏し陽に偏すれば即ち病と呼ぶ」である。
又曰:「三五與一,天地至精,可以口訣,難以書傳。子當右轉,午乃東旋,夘酉界隔,主客二名。金水合處,木火為侶,四者混沌,列為龍虎。龍陽數奇,虎陰數偶。肝青為父,肺白為母,腎黑為子,心赤為女,脾黃為祖,子五行始。三物一家,都歸戊巳。」(彭曉曰:子水數一,為五行始;金火木三物同功,首尾造化俱歸戊巳者,是故脾黃為藥之祖也。)
《参同契》はまたいう:「三・五と一は、天地間の最も精微の道理で、口頭の伝诀をもってし得、文字に形し難し。子位は右に旋回すべく、午位は東に向かって回転し、卯と酉とが界限を画し、主と客の二名目を分かつ。金と水とは一処に会合し、木と火とは伴侣を結び、四者は混同して分れず、排列して龍と虎と為る。龍は陽に属しその数は奇、虎は陰に属しその数は偶。肝の色は青で父、肺の色は白で母、腎の色は黒で子、心の色は赤で女、脾の色は黄で祖。子は五行の開端である。三物は一家に同帰し、すべて戊己の土に帰結す。」彭暁が解釈していう:子は水に属し数は一で、五行の起始である。金・火・木の三物は功用同じく、造化の首尾はみな戊己土に帰結するので、黄色の脾がすなわち丹薬之祖と成る。
「剛柔迭興,更歴分佈,龍西虎東,建緯夘酉,刑德並會,相見歡喜,刑主伏殺,德主生起。」(陳致虛曰:青龍屬東,白虎屬西,此其正也。更歴分佈者,青龍建緯於酉,白虎建緯於夘,是刑德並會而龍虎歡喜顛倒相見。)「子南午北,互為綱紀,一九之數,終而復始,含元虛危,播精於子。」
《参同契》は続けていう:「剛と柔とは交替に興起し、輪流に経歴し分かち布列す。龍は西方に移り虎は東方に移り、経緯を卯位と酉位に立つ。刑と徳とは一同に会合し、彼此相見て歓喜す。刑は潜伏と粛殺を主管し、徳は生長と興起を主管す。」陳致虚が解釈していう:青龍は東方に属し白虎は西方に属す。これがそれらの正位である。いわゆる「更歴分布」は、青龍が緯を酉方に立て白虎が緯を卯方に立てるを言う。これがすなわち刑徳の一同会合・龍虎の顛倒相見の歓喜である。《参同契》はまたいう:「子位は南に移り午位は北に移り、互相いに綱紀と為る。一より九の数は、尽きる所に至りまた重新に始まる。元気は虚宿・危宿の間に含藴し、真精を子位に播散す。」
(陳致虛曰:子南午北者,顛倒五行也。仙聖云「五行順行,法界火坑;五行顛倒,大地七寶」,所以水火互為綱紀,方能既濟也。陽生於一,成於九,陽數至九則極,極則復於一,此謂一九之數終而復始。「含元虛危,播精於子」者,丹之神功在此兩句。葢虛危之次,日月合璧之地,一陽初生之方,龜蛇蟠結之所,故太一所含先天之元氣,其真精遇子則播施,此復應前文「子五行始」之義也。俞琰曰:子午即南北水火,夘酉即東西金木。右轉左旋,一伏一起,則水火相交,金木自然不間隔矣。然東西夘酉皆金木異名,非天地方位,亦非人身左右。)
陳致虚が解釈していう:「子南午北」は五行を顛倒させることである。仙家の聖人は「五行順く行けば世界は即ち火坑、五行顛倒すれば大地は即ち七宝」という。ゆえに水火が互いに綱紀と為り、はじめて既済之象と成り得る。陽は一より生じて九に至って成る。陽数は九に至れば極点に達し、極点に至ればまた一に帰る。これを「一九之数は終わりて復始まる」という。「含元虚危、播精于子」に至っては、煉丹の神妙な功夫は尽くこの両句にある。虚宿・危宿の所在する星次は、日月合璧の処・一陽初生の方位・亀蛇盤結の所在なので、太一の含む先天元気は、その真精は子位に遇えばすなわち播撒する。これはまた前文の「子は五行の開端」の意に回応する。兪琰が解釈していう:子午はすなわち南北の水火、卯酉はすなわち東西の金木。一は右転し一は左旋し、一伏一起して、水火はすなわち相交じ、金木は自然にもはや隔閡なし。ただ東西卯酉はみな金木の別名で、天地の実際の方位でもなく、人身の左右でもない。
張氏伯端《悟真篇》曰:「三五一都三個字,古今明者實然稀。東三南二同成五,北一西方四共之,戊巳自居生數五,三家相見結嬰兒。嬰兒是一含真氣,十月胎圎入聖機。」
張伯端《悟真篇》にいう:「『三五一』は合わせて三字、古今真に明白なる者は実に稀少なり。東方之三は南方之二と合して一つの五を成し、北方之一は西方之四と合してまた一つの五を成す。戊己土は自身生数之五を占む。この三家相見れば、すなわち嬰児を結成す。嬰児はすなわちあの『一』で、真気を含み、十箇月懐満して胎児円成し、便ち成聖の関捩に入る。」
毛氏曰:「三五至精圗者,取『三五與一,天地至精』語,而分五行為三五。中央土一五也,天五生土也;左火與木共一五也,地二生火,天三生木也,二三五也;右水與金又共一五也,天一生水,地四生金也,一四亦五也。故其為生序,則水承坎下,火承離下;其為行序,則金盛為水,木盛為火,而合而復歸於一元也(合三五而皆鉤連於下之一)。則此一○者,三五之合,非二五之合;三五之精,非二五之精。葢丹家水火必還一元,故其後復有含元播精、三五歸一之語。」(見《太極圖說遺議》)
毛奇齢がいう:いわゆる「三五至精図」は、「三五与一、天地至精」という句を取り、五行を三つの「五」に分ける。中央の土は一つの五。それは「天五生土」のため。左辺は火と木とが合して一つの五。それは「地二生火、天三生木」で、二加三は五。右辺は水と金とがまた合して一つの五。それは「天一生水、地四生金」で、一加四もまた五。ゆえに生成の次序に拠れば、水は坎卦の下に承接し、火は離卦の下に承接する。運行の次序に拠れば、金は盛んにして水に化し、木は盛んにして火に化し、最後に合攏して一元に重帰する(三つの五はいずれも線をもって下面のあの「一」に鈎連する)。これを見れば図中のあの一つの円圈は、三つの五の会合であって二つの五の会合ではなく、三つの五の精華であって二つの五の精華ではない。たいてい丹家が水火を講ずるには必ず一元に帰す。ゆえに後文にまた「含元播精」「三五帰一」の説法がある。この説は毛奇齢《太極図説遺議》に見える。
按:三輪肖坎離二卦,五行即天地之生數。然伯陽專心修煉,特藉此以明作丹之意,初非為易而設。葢三輪不可以為兩儀,五行不可以為四象,其所謂易,專指坎離水火,非聖人生生之易也。唐《真元妙經品》有太極先天圗,合三輪五行為一,而以三輪中一○、五行下一○為太極,又加以陰靜、陽動、男女、萬物之象,凡四大○。陰靜在三輪之上,陽動在三輪之下(三輪左離右坎者,水火既濟之象;二○上陰下陽者,天地交泰之象。《鼎器歌》云「陰在上,陽下奔」,即此義也)。
胡渭の按語:あの三つの円環は坎・離の両卦を模仿し、五行の用いるはすなわち天地の生数である。しかし魏伯陽の一心は修錬の上にあり、ただこれらを借りて結丹の意を説明したにすぎず、もともと《易》を解くために設けたのではない。三つの円環は「両儀」と為すべからず、五行は「四象」と為すべからず。彼のいわゆる「易」は、専ら坎離水火を指し、聖人のあの生生不息の《易》ではない。唐代の《真元妙経品》の中に一幅の「太極先天図」があり、三輪と五行とを一體に合成し、また三輪中間の円圈と五行下面の円圈をもって太極と為し、別に陰静・陽動・男女・万物之象を加えて、合わせて四つの大円圈とした。陰静は三輪の上に画き、陽動は三輪の下に画く(三輪は左辺が離・右辺が坎で、水火既済之象を取る。上下の両円圈は上陰下陽で、天地交泰之象を取る。《参同契・鼎器歌》に「陰は上に在り、陽は下に奔る」というは、すなわちこの意)。
男女萬物皆在五行之下,與宋紹興甲寅朱震在經筵所進周子太極圗正同。今《性理大全》所載者,以三輪之左為陽動、右為陰靜,而虛其上下之二○以為太極,乃後人所改,非其舊也。此不在《本義》九圗之列。或曰陳摶傳穆修,穆修傳周子;或曰周子所自作,而道家竊之以入藏。疑不能明,存而弗論雲。
男女・万物はみな五行の下に排する。これは南宋・紹興甲寅年に朱震が経筵で進呈した周敦頤《太極図》と完全相同である。今日《性理大全》の載せるあの一幅は、三輪の左の左辺を陽動・右辺を陰静と為し、また上下の両円圈を空けて太極と為す。あれは後人が改動したもので、元の様子ではない。この図は朱熹《周易本義》の巻首九図の列に入らない。ある者はそれを陳摶が穆修に伝え穆修が周敦頤に伝えたと言い、ある者は周敦頤の自作で道家がそれを盗んで道蔵に収めたと言う。この事は疑しく明らかにし難いので、姑く保留して論断を加えない。
右論二用三五。
以上は《参同契》の「二用」と「三五」の両図に関する論述である。
《參同契》曰:「言不苟造,論不虛生,引驗見效,校度神明,推類結字,原理為徵。坎戊月精,離己日光,日月為易,剛柔相當。土旺四季,羅絡始終,青赤白黑,各居一方,皆稟中宮戊己之功。」(彭曉曰:「坎戊月精」者,月陰也,戊陽也,乃陰中有陽,象水中生金虎也;「離己日先」者,日陽也,己陰也,乃陽中有陰,象虎中生柔龍也。)
《周易参同契》にいう:「話は随便に造作せず、議論は空から生ぜず。みな引証験め実効を見、校核揣度して神明に合す。推類の法をもって文字を拼合し、本来の道理をもって凭证と為す。坎中の戊土は月の精華、離中の己土は日の光輝。『日』『月』の二字を合わせればすなわち『易』字で、剛と柔とが正好相当す。土は四季之末に旺し、始と終とを网羅貫穿す。青・赤・白・黒は各々一方に居り、すべて中宮戊己土の功用を禀受す。」彭暁が解釈していう:いわゆる「坎戊月精」は、月は陰に属し戊は陽に属する。これは陰中に陽ありで、水の中より金虎を生ずるを象徴す。いわゆる「離己日光」(ここの原文は「日先」と作す)は、日は陽に属し己は陰に属する。これは陽中に陰ありで、虎の中より柔龍を生ずるを象徴す。
(陳顯微曰:《易》卦納甲法,坎納六戊,離納六己,坎為月,離為日,故曰「坎戊月精,離已日光」。「日月」二字合為「易」字,故曰「推類結字」,是皆原理為證,而非虛造言論也。易既不外乎日月,丹豈不本乎坎離?然坎之與離皆存戊巳,古人云「都綠彼此懷真土,遂使金丹有返還」。況土旺四季,羅絡始終,水火木金雖各居一方,而皆稟中宮土徳也。張紫陽詩云「四象五行全藉土」,土德之功大矣哉!葢土者金母也,知五行之俱歸於土,則知五行之俱變為金,然後能會造化於中宮,種黃芽於后土矣。)
陳顕微が解釈していう:《易》卦の納甲法は、坎卦は六戊を納し離卦は六己を納す。坎は月を象徴し離は日を象徴す。ゆえに「坎中の戊土は月の精華、離中の己土は日の光輝」という。「日」「月」の両字は合して「易」字と成る。ゆえに「推類結字」という。これらはみな本来の道理をもって凭证と為し、空から造り出した言論にあらず。すでに「易」は日月より外ならず、煉丹は豈に坎離を本とせざるを得ようか。しかも坎と離との中にいずれも戊己土を存す。古人は「全く彼此が真土を懐むに因りて、はじめて金丹を返還せしめ得」と言った。しかも土は四季之末に旺し、始終を貫穿する。水火木金は各々一方に居るが、すべて中宮土の徳性を禀受す。張紫陽の詩に「四象五行は尽く土に頼る」という。土徳の功用は実に大きい。土は金之母なり。五行が尽く土に帰するを知れば、五行が尽く金に変じ得るを知り、然る後に中宮で造化に会合し、后土の上に「黄芽」を種うることを得る。
「晦朔之間,合符行中,混沌鴻蒙,牝牡相從,滋液潤澤,施化流通,天地神明,不可度量,利用安身,隠形而藏。始於東北,箕斗之鄉,旋而右轉,嘔輪吐萌,潛潭見象,發散清光,昴畢之上,震出為徵。」(陳顯微曰:晦朔之間,當合符行中,如混沌鴻蒙不可度量,葢牝牡相從、滋液潤澤、施化流通之時也,豈可用功乎?故利用安身,隠形而藏,卻自箕斗之鄉嘔輪吐萌、發散輝光可也。寒山子詩云「不得露其根,根虛則子墜」,葢體用不同,施功亦異故也。)
《参同契》にいう:「晦日と朔日の交は、日月は合符して中道を運行し、混沌鴻蒙一片にして、牝と牡とが相随い、津液は滋潤し施化は流通す。天地神明の運作は測度し難く、此時己身を安頓し形跡を隠して潜蔵するに宜し。それは東北方の箕宿・斗宿の分野に起こり、隨いで右に旋転し、輪のごとき月輪の萌芽を吐出し、深潭の中に物象を初現し、清亮の光を発散す。昴宿・畢宿の上に至れば、震卦の一陽が出現し、すなわちこれ兆である。」陳顕微が解釈していう:晦朔之交は、日月はまさに合符して中道を行き、混沌鴻蒙として測度し難きがごとし。あれは牝牡が相随い津液が滋潤し施化が流通する時で、どうして用功を言い得ようか。ゆえに此時は身を安じ形を隠して潜蔵すべく、箕斗の分野より月輪の萌芽を吐出し光輝を発散する時を待ってはじめて下手すべきである。寒山子の詩に「根を露出せしむべからず。根虚ければ果実は墜落せん」という。これは体と用とが異なり、用功の時機もまた異なるためである。
「聖人不虛生,上觀顯天符。天符有進退,詘伸以應時,故易統天心。復卦建始萌,長子繼父體,因母立兆丌(音其,薦物之具),消息應鍾律,升降據斗樞。三日出為爽,震庚受西方;八日兊受丁,上弦平如繩;十五乾體就,盛滿甲東方。蟾蜍與兔魄,日月氣雙明,蟾蜍視卦節,兔者吐生光。七八道已訖,屈折低下降,十六轉就綂,巽辛見平明;艮直於丙南,下弦二十三;坤乙三十日,東北喪其朋。節盡相禪與,繼體復生龍,壬癸配甲乙,乾坤括始終。七八數十五,九六亦相應,四者合三十,陽氣索滅藏。」
《参同契》にいう:「聖人は徒らに降生せず、上は天象を観て天の符信を彰明す。天符は進有り退有り、屈伸して時令に順応す。ゆえに《易》は天心を統摂す。復卦は一陽の始めて生じ萌動する時なり。長子・震は父・乾の形体を承継し、母・坤に凭って承物の器具を立つ(『丌』は『其』と読む。祭品を承放する器具)。消長盈虚は鍾律に合し、昇降は北斗の斗枢に依拠す。初三の日、月光初めて出づるを『爽』という。震卦は西方の庚位より承受す。初八の日、兌卦は南方の丁位を承受す。上弦月は平直にして縄のごとし。十五の日、乾卦之體は完成し、月光は東方の甲位に盛満す。蟾蜍と兎魄は、日月之気が双々顕明なり。蟾蜍は卦の節度を映現し、兎子は新生の光を吐く。七と八の道は行き尽くして、すなわち屈折して低降す。十六の日は統属に転じ入り、巽卦は西方の辛位にて平明の時に見ゆ。艮卦は南方の丙位に当直す。下弦は二十三の日なり。坤卦は乙位に在り。三十の日は東北方にて同伴を喪失す。一節走り尽くしてすなわち相互に禅譲交替し、承継する者はまた蒼龍を生ず。壬癸は甲乙と相配し、乾坤は始と終とを包括す。七加八は十五、九加六もまた相応じ、四者合して三十、陽気は此に至りて耗盡して潜蔵す。」
(陳顯微曰:魏君以一月之間月形圎缺喻卦象進退:自初三日為一陽,初八日為二陽,十五則三陽全而乾體就;十六則一陰生,二十三則二陰生,三十日則三陰全而坤體成。)
陳顕微が解釈していう:魏伯陽は一箇月の中の月形体の円缺を用いて、卦象の進退を比喻す。初三日より一陽と算し、初八日より二陽と算し、十五日三陽は斉全して乾卦之體は完成す。十六日一陰は始生し、二十三日二陰は生じ、三十日三陰は斉全して坤卦之體は形成す。
(昴畢在西方庚位,每月初三日月現微明於西方庚位,應震之一陽初生,而《周易》納甲法震卦納六庚,其造化之理參合如此。初八日月現上弦於南方丁位,應兊卦二陽生,而納甲法則兊納六丁。以至十五日月滿於東方甲位,則乾卦又納六甲,其時卦備三陽,三五之道已終,則滿者虧而伸者屈,髙者低而升者降。至十六日一陰生而當陰用事,月於平旦現在西方辛位,以應巽卦納辛;至二十三日月於平旦現南方丙位,應艮卦納丙;至三十日月沒東方乙位,應坤卦納乙。節盡則又相禪與,陽復用事。)
陳顕微が続けていう:昴宿・畢宿は西方の庚位にある。毎月の初三、月は西方の庚位に一線の微明を顕し、震卦の一陽初生に対応し、《周易》の納甲法では震卦はまさに六庚を納す。天地造化の道理はこのように彼此吻合す。初八日、月は南方の丁位に現れて上弦と為り、兌卦の二陽生に対応し、納甲法では兌卦は六丁を納す。十五日に至り月は東方の甲位に円して、乾卦はまた六甲を納す。此の時卦中の三陽は斉備し、「三五」之道はすでに走り尽くし、そこで円満なるは始めて亏欠し、伸展なるは始めて屈曲し、高きは低に転じ、昇るは降に転ず。十六日に至り一陰は始生して陰より権を当て、月は清晨に西方の辛位に出現して巽卦の辛を納するに対応す。二十三日に至り月は清晨に南方の丙位に出現して艮卦の丙を納するに対応す。三十日に至り月は東方の乙位に隠没して坤卦の乙を納するに対応す。一節走り尽くしてすなわちまた相互に禅譲交替し、陽気は重新に権を当つ。
(俞琰曰:火候之妙,有未易明言者,於是古之至人觀天之道,設為法象以示人:以天地喻鼎器,以日月喻藥物,以日月往來喻火候。月行於天,一月一度與日交合,故謂天符。應時者,十二時也。月自初一以後光漸進,魂長魄消,陰屈陽伸,象一日之子至已;十六日以後光漸退,魄長魂消,陰伸陽屈,象一日之午至亥。火候進退屈伸,猶是也。)
兪琰が解釈していう:火候の奥妙には、講じ明らかにし易からざる者あり。そこで古代の至人は天道を観察し、一套の天象を取法する図式を設立して後人に指示した。天地をもって煉丹の鼎器に比喻し、日月をもって薬物に比喻し、日月の往来をもって火候に比喻す。月は天上を運行し、一箇月に太陽と一度交会す。ゆえに「天符」と呼ぶ。いわゆる「応時」は、十二個の時辰を指す。月は初一以後、光は漸く増長し、魂は長じ魄は消え、陰は屈し陽は伸び、一日の中の子時より巳時に至るを象徴す。十六日以後は光は漸く退去し、魄は長じ魂は消え、陰は伸び陽は屈し、一日の中の午時より亥時に至るを象徴す。火候の進退屈伸もまた、まさにこの様子である。
「謬誤失事緒,言還自敗傷。別序斯四象(謂七八九六),以曉後生盲。八卦佈列曜,運移不失中,元精眇難睹,推度效符徵。上觀天河(今本作「河圗」,非)文,下序地形流,中稽於人心,參合考三才。」
《参同契》にいう:「若し誤れば即ち事情の頭緒を失い、説き出す話はかえって自ら敗傷を取る。別にこの四象を排出し(七・八・九・六を指す)、もって後世の盲昧の人を点醒す。八卦は群星のごとく布列して閃耀し、運転推移してその中を失わず。元精微渺にして見ること難く、ただ推算揣度してその符応征兆を験すべし。上は天河の文彩を観(今本は『天河』を『河図』と改作す。誤りなり)、下は地形水流の走向を叙し、中は人心を考究し、三方は参照合験して、天地人の三才を考求す。」
(陳顯微曰:上察天文,下察潮候,中稽人心。俞琰曰:古之修丹者,仰觀天文,俯察地理,中稽人心,於是虛吾心,運吾神,迴天闗,轉地軸,上應河漢昭回,下應海潮升降。天地雖大,而其日月星辰、五行八卦皆掇入於吾身,或為爐鼎,或為藥物,或為火候,一反觀而三才皆備於我,未嘗外身而他求也。)「動則觀卦節,靜則因彖辭,乾坤用施行,天地然後治。」
陳顕微が解釈していう:これは上は天文を観、下は潮汐節候を観、中は人心を考究するもの。兪琰が解釈していう:古代の金丹を修錬する者は、頭を抬げて天文を観、頭を低れて地理を考察し、中に人心を考究した。そこで心を空しくして己の神を運転し、天関を扭転し地軸を旋動し、上は銀河の回旋照映に応合し、下は海潮の昇降起落に応合した。天地は大なりといえども、その中の日月星辰・五行八卦はみな自らの身上に摂取され、あるものは炉鼎に充てられ、あるものは薬物に充てられ、あるものは火候に充てられた。ただ一回頭して内観すれば、三才はすべて己の身上に具備し、従来この身を離れて外に求める必要なし。《参同契》の最後にいう:「動の時は即ち卦の節度を観察し、静の時は即ち彖辞を依循し、乾坤の功用は施行を得て、天地は然る後に治理を得る。」
鄒欣曰:「《參同》之說見一日之間有晦朔弦望。上弦者,氣之方息,自上而下也;下弦者,氣之方消,自下而上也;望者,氣之盈,日沈於下而月圎於上也;晦朔之間者,日月之合乎上下,所謂『舉水以滅火,金來歸性初』之類是也。」又曰:「《參同》本不為明易,借納甲之法以寓行持進退之候雲。甲乙丙丁庚辛者,乃以月之昬旦出沒言之,非以分六卦之方也。」
鄒欣がいう:《参同契》の説法は、一日の内にもまた晦・朔・弦・望あることから見出し得る。「上弦」は気がまさに生長して自上より下に、「下弦」は気がまさに消退して自下より上に、「望」は気がすでに円満して日は下に沈み月は上に円し、「晦朔之間」は日月が上下に会合して、いわゆる「水を挙げて火を滅ぼし、金は本性之初に帰る」のたぐいである。鄒欣はまたいう:《参同契》はもともと《易》を闡明するために作られたのではなく、ただ納甲の方法を借りて行功修持の中の進退の時機を寄托した。文中の甲・乙・丙・丁・庚・辛のこれら天干は、月が黄昏か清晨に出没する方位についていうので、六つの卦の方位を画分するためではない。
朱子答袁機仲書曰:「《參同契》所言納甲之法,則今所傳京房占法見於《火珠林》者是其遺說。此雖非為明易而設,然易中無所不有,苟其言自成一說,可推而通,則亦無害於易,恐不必輕肆詆排也。」
朱熹は《答袁機仲書》の中でいう:《周易参同契》の中に講ずる納甲之法は、すなわち今日伝わる京房の占法・《火珠林》一書に見えるあの一套の遺説である。それは《易》を闡明するために設けられたのではないが、《易》の中には包まざるなし。その説法が自ら一家を成し推衍貫通し得さえすれば、《易》に対しても妨害はなく、おそらく軽率に毀謗排斥を加える必要はない。
漢上朱氏《周易卦圖說》曰:「納甲何也?曰:舉甲以該十日也。乾納甲壬,坤納乙癸,震巽納庚辛,坎離納戊巳,艮兊納丙丁,皆自下生。聖人仰觀日月之運,配之以坎離之象,而八卦十日之義著矣。」
漢上先生・朱震は《周易卦図説》の中でいう:何を「納甲」というか。答えていう:「甲」を挙出して十天干を概括す。乾卦は甲と壬を納し、坤卦は乙と癸を納し、震卦・巽卦は庚と辛を納し、坎卦・離卦は戊と己を納し、艮卦・兌卦は丙と丁を納す。みな自下より上に生起す。聖人は頭を抬げて日月の運行を観察し、坎離之象をもってそれに配合した。そこで八卦と十天干と相配の意義は彰顕し出でた。
《繫辭傳》「懸象著明莫大乎日月」,虞翻曰:「謂日月懸天成八卦象:三日暮震象月出庚,八日兊象月見丁,十五日乾象月盈甲壬,十六日旦巽象月退辛,二十三日艮象月消丙,三十日坤象月滅乙。晦夕朔旦則坎,坎象水流戊;日中則離,離象火就己。戊巳土位象見於中,日月相推而明生焉。」《坤·彖》「西南得朋」,虞曰:「陽喪滅坤,坤終復生,此指說易道陰陽之大要也。」又曰:「消乙入坤,滅藏於癸。」
《周易・繋辞伝》に「物象を懸けて顕明なるは、日月より大なるは莫し」といい、虞翻が注解していう:これは日月が天上に懸かりて八卦之象を形成するを指す――初三日の傍晚は震象で、月は庚位に出現す。初八日は兌象で、月は丁位に見ゆ。十五日は乾象で、月は甲位・壬位に盈満す。十六日の清晨は巽象で、月光は辛位に退く。二十三日は艮象で、月は丙位に消ゆ。三十日は坤象で、月は乙位に滅す。晦日の夜晚より朔日の清晨に至っては坎に属し、坎は水流を象徴し戊に配す。正午は離に属し、離は火を象徴し己に配す。戊己は土位で、その象は中央に顕現す。日月は互相いに推移して光明は産生す。《坤卦・彖伝》に「西南に朋を得」といい、虞翻が注解していう:陽気は喪亡して坤に消滅し、坤は尽きてまた重新に陽を生ず。これは《易》道の陰陽の大要を指明するもの。虞翻はまたいう:陽気は乙位に消えて坤に入り、最後に癸位に滅蔵す。
按:鄒欣注本圗悉刪去,唯存納甲一環,葢以彭本之昏見、晨見合而為一圗也。甲乙丙丁庚辛指月昏旦出沒之方,而圗移六卦於月體之下,悖矣。漢上圗較勝,然坎離寄納戊巳、乾坤兼納壬癸之義,皆不能有所發揮,因更定附列於左而為之說焉。
胡渭の按語:鄒欣の注本は《参同契》の原有の各図を全て刪去し、ただ納甲の一環を保留した。おそらく彭暁本の中の「昏見図」と「晨見図」を合併して一図と成したのであろう。甲・乙・丙・丁・庚・辛はもともと月が黄昏か清晨に出没する方位を指したのに、あの図は六つの卦を月体の下に挪してしまった。これは講じ通らない。朱震の図は相対的にやや良いが、坎離が戊己を寄納し乾坤が壬癸を兼納する道理を、彼はいずれも闡発を加えられなかった。ゆえに私は別に一図を訂定して左に附列し、かつそれに一番の解説を為す。
按:納甲者,始於京房之積算,以甲為十干之首,舉一干以該其餘,故謂之納甲。魏伯陽以月象附會之,以寓丹家行持進退之候,葢以月之明魄多少取象於卦畫,而以所見之方為所納之甲。震一陽始生,於月為生明□,三日夕出於庚,故曰震納庚,謂一陽之氣納於西方之庚也;兊二陽為上弦□,八日夕見於丁,故曰兊納丁,謂二陽之氣納於南方之丁也;乾純陽為望○,十五夕盈於甲,故曰乾納甲,謂三陽之氣納於東方之甲也。此望前三候陽息陰消之月象也(月分六候,每五日為一候)。
胡渭の按語:納甲之法は京房の積算に起源する。甲は十天干の首なので、一つの天干を挙げてその余を概括する。ゆえに「納甲」と呼ぶ。魏伯陽は月相を取ってそれに比附し、もって丹家の行功修持の中の進退の時機を寄托した。たいてい月の明る部分と暗魄部分の多少に拠って卦画に取象し、さらに月が出現する方位をもってそれの納する天干と為す。震卦の一陽初生は、月相の上では初生の明光で、初三日の傍晚に庚位に出現す。ゆえに「震は庚を納す」という。意は一陽之気が西方の庚に納する。兌卦の二陽は、上弦月で、初八日の傍晚に丁位に見ゆ。ゆえに「兌は丁を納す」という。意は二陽之気が南方の丁に納する。乾卦の純陽は、満月で、十五日の傍晚に甲位に盈満す。ゆえに「乾は甲を納す」という。意は三陽之気が東方の甲に納する。これは望日以前の三候・陽長陰消の月相である(一箇月は六候に分かれ、毎五日を一候と為す)。
巽一陰始生,於月為生魄□,十六旦明初退於辛,故曰巽納辛,渭以一陰之氣納於西方之辛也;退二陰為下弦□,二十三旦明半消於丙,故曰艮納丙,謂二陰之氣納於南方之丙也;坤純陰為晦●,三十旦明盡滅於乙,故曰坤納乙,謂三陰之氣納於東方之乙也。此望後三候陽消陰息之月象也。
巽卦の一陰初生は、月相の上では初生の暗魄で、十六日の清晨に月光は辛位より退き始む。ゆえに「巽は辛を納す」という。意は一陰之気が西方の辛に納する。艮卦の二陰は、下弦月で、二十三日の清晨に月光は丙位に半ば消ゆ。ゆえに「艮は丙を納す」という。意は二陰之気が南方の丙に納する。坤卦の純陰は、晦日の無月で、三十日の清晨に月光は乙位に尽滅す。ゆえに「坤は乙を納す」という。意は三陰之気が東方の乙に納する。これは望日以後の三候・陽消陰長の月相である。(原文の「渭以一陰之気」の「渭」は「謂」と作るべきで、「退二陰為下弦」の「退」は「艮」と作るべきである。)
離為日,日生於東,故離位乎東;坎為月,月生於西,故坎位乎西。至望夕,則日西月東,坎離易位,其離中一陰即是月魄,坎中一陽即是日光,東西正對,交注於中,此二用之氣所以納戊巳也。故曰「坎戊月精,離己日光,日月為易,剛柔相當」,「蟾蜍與兔魄,日月氣雙明」也。
離卦は太陽を象徴し、太陽は東方に生ずるので、離位は東にある。坎卦は月を象徴し、月は西方に生ずるので、坎位は西にある。望日の傍晚に至っては、太陽は西に月は東にあり、坎離は位置を交換した。離卦の中間のあの一爻の陰は、すなわち月の暗魄。坎卦の中間のあの一爻の陽は、すなわち日の光輝。東西はちょうど相対し、両者の気は交相に中央に注入する。これが坎離のこの「二用」之気が戊己土を納する所以である。ゆえに《参同契》に「坎中の戊土は月の精華、離中の己土は日の光輝、日月合して『易』字を成し剛柔正好相当す」といい、また「蟾蜍と兎魄、日月之気は双々顕明なり」という。
乾納甲而又納壬,坤納乙而又納癸者,何也?謂乾之中畫即太陰之精,望夕夜半,月當乾,納其氣於壬方地中對月之日;坤之中畫即太陽之精,晦朔之間,日在坤,納其氣於癸方地中合日之月也。
乾卦はすでに甲を納しまた壬を納し、坤卦はすでに乙を納しまた癸を納す。これは何の故か。乾卦の中間のあの一画はすなわち太陰の精華で、望日の夜半に月はまさに乾位に当たり、それは気を壬方に納する。あれは地底下にて月と正相対する太陽である。坤卦の中間のあの一画はすなわち太陽の精華で、��朔��交に日はまさに坤位に在り、それは気を癸方に納する。あれは地底下にて日と相合する月である。
徐敬可云:「望夕之陽既盈於甲矣,其夜半日行至壬而月與為衡。日中原有陰魄,所謂離中一陰者,平時含蘊而不出,至是則盛陽將革,又感正對之陰,乃充溢流滋而為生陰之本,故其象為□,即望夕夜半壬方之日也。晦旦之陽既盡於乙矣,其夜半日行至癸而月與同躔。月中原有陽精,所謂坎中一陽者,平時胚渾而不分,至是則盛陰將革,又感摩戛之陽,乃剖發迸洩而為生陽之本,故其象為□,即晦朔間癸方之月也。」故曰「壬癸配甲乙,乾坤括始終」,此尤易象之要樞也。
徐敬可がいう:望日の傍晚に陽気はすでに甲位に盈満し、その日の夜半に太陽は壬位に運行し、月はそれと遥かに相対して秤衡の両端のごとし。太陽の中にはもともと陰魄を含有する。すなわちいわゆる「離卦の中間のあの一爻の陰」で、平常は含藴して顕露せず、此の時に至り盛盛極の陽はまさに変革せんとして、また正対面の陰に感応し、そこで充溢流布して、陰気初生の根本と為る。ゆえにその象はすなわち一陰初生之象であり、すなわち望日夜半の壬方のあの太陽である。晦日の清晨に陽気はすでに乙位に尽き、その日の夜半に太陽は癸位に運行し、月はそれと同じ一度に処る。月の中にはもともと陽精を含有する。すなわちいわゆる「坎卦の中間のあの一爻の陽」で、平常は混沌一体にして分離せず、此の時に至り盛極の陰はまさに変革せんとして、また摩蕩相接の陽に感応し、そこで剖裂迸発して、陽気初生の根本と為る。ゆえにその象はすなわち一陽初生之象であり、すなわち晦朔之間の癸方のあの月である。ゆえに《参同契》に「壬癸は甲乙と相配し、乾坤は始と終とを包括す」という。これはなおさら《易》象の関鍵枢紐である。
「七八數十五,九六亦相應,四者合三十,陽氣索滅藏」,葢即明堂九室縱橫十五之數。雖不言九宮,而九宮在其中矣。橫言之,二四為六之與九也,三五為八之與七也,一八為九之與六也,七八九六皆十五也;縱言之,三四為七之與八也,一五為六之與九也,二六為八之與七也,七八九六皆十五也;四維斜對言之,二五為七之與八也,四五為九之與六也,七八九六皆十五也。
「七と八とを加えれば十五、九と六とを加えてもまた相応じ、四者合して三十、陽気は此に至りて尽く潜蔵す」。これは実は明堂九室の縦横相加して皆十五を得るあの数である。文中は「九宮」に言及しないが、九宮はすでにその中に包含されている。横行に拠れば:二加四は六を得て九に相配し、三加五は八を得て七に相配し、一加八は九を得て六に相配する――七・八・九・六は両両相加していずれも十五。縦列に拠れば:三加四は七を得て八に相配し、一加五は六を得て九に相配し、二加六は八を得て七に相配する――七・八・九・六もまたみな十五。四角斜対に拠れば:二加五は七を得て八に相配し、四加五は九を得て六に相配する――七・八・九・六は同じくみな十五。
七八數十五,九六數亦十五,合之為三十,當一月之日數。陽氣謂目光也,月本無光,感日之明以為光。明,陽也;魄,陰也。三日生明,十五而望,十六生魄,三十而晦,故曰「四者合三十,陽氣索滅藏」。索者,盡也,謂月所感日之光至是盡滅,全體皆魄也。
七と八之数は十五、九と六之数もまた十五で、合して三十。ちょうど一箇月の天数に当たる。ここの「陽気」は日光を指す(原文は「目光」と作すが、「日光」の誤りに当たる):月は自身発光せず、太陽の明亮を感受してはじめて光有り。「明」は陽に属し、「魄」は陰に属す。初三に月光は初生し、十五日円満して望と為り、十六日暗魄は始めて生長し、三十日全く暗く晦と為る。ゆえに「四者合して三十、陽気は尽くて潜蔵す」という。「索」はすなわち尽。月の感受する日光が此の時に至り全部消滅し、全月体がみな暗魄と成ることを言う。
此雖言月體之消長,而未嘗不合於九宮之數。然其卦則以子午為綱,夘酉為緯,所謂「乾坤定上下之位,離坎列左右之門」者是也,與明堂九室之卦位不同。觀漢上納甲圗用乾南坤北、離東坎西之位,則可知矣。彭本有九宮八卦圗,舉二者合而為一,殊覺齟齬。
これは月体の消長を講じたものだが、九宮之数に合せざるにはあらず。しかしそれは卦位の上で子午をもって経綱と為し卯酉をもって緯線と為す。すなわちいわゆる「乾坤は上下の位置を定め、離坎は左右の門戸を排列す」。これは明堂九室の卦位と同じからず。朱震の納甲図が乾を南・坤を北・離を東・坎を西の方位を採用したを見れば、明らかにし得る。彭暁本の中に一幅の「九宮八卦図」があり、この両套の物を一つに合併したが、実に彼此抵牾・格格不入である。
「上觀天河文,下察地形流」,注家皆以「天河文」為雲漢,「地形流」為海潮。今本云「上觀河圗文」,葢後人妄改,以應九為河圗之說。河圗非天象,安得云「上觀」?其為俗子點竄可知。且淳于叔通《五相類》曰:「法象莫大乎天地兮,玄溝數萬里;河鼓臨星紀兮,人民皆驚駭。」
《参同契》の原文は「上は天河文を観、下は地形流を察」といい、従来の注家はみな「天河文」を銀河と解し、「地形流」を海潮と解した。今日の通行本は「上は河図文を観」と作すが、これは後人の擅自改動で、「戴九履一之数は河図に出る」の説法に迎合せんがためである。河図は天上の星象にあらず。どうして「向上観察」を言い得ようか。これは俗人の妄りに竄改したと見える。しかも淳于叔通《五相類》にいう:「取法之象は天地より大なるは莫きかな、あの玄沟は綿延数万里。河鼓星は星紀之次に臨近するかな、人民はみな驚駭不安。」
俞琰注云:「玄溝者,天河也,自箕尾之間至栁星之分,介斷天盤,不知幾萬里。修丹者法天象地,反身而求,則身中自有一壺天也。河鼓星位在天河邊斗牛之間,星紀,天盤之丑位也。丹法火臨於丑,則驅回尾穴連雲焰,趕入天衢直上奔(其氣自尾閭升於泥丸也),正當斬闗出路之時,一身之人民豈不竦然驚駭乎?」觀此文及注,則天河正有精義,不得作河圗。以是知七八九六,伯陽特以為晦朔弦望之候,雖有「別序斯四象」句,而實於河圗之四象絶無交涉也。
兪琰が注解していう:「玄沟」はすなわち天河で、箕宿・尾宿の間より柳宿・星宿の分野に至るまで、天盤全体を横断し、幾万里あるか知れない。修丹の人は天に取法し地に取象し、回頭して自身に求めれば、身体の中に自然にもう一片の天地がある。河鼓星の位置は天河辺の斗宿・牛宿の間にある。「星紀」は天盤上の丑位である。丹法で火候が丑位に臨むときは、尾閭の一穴に駆り帰り連天の火焰を帯起し、天衢に趕入して一路直上する(あの気が尾閭より泥丸に上昇することを言う)が、まさに斬関奪路の時で、一身の「人民」はどうして悚然として驚駭せざるを得ようか。この本文と注解を見れば、「天河」の二字は確かに精義あり、「河図」に改めるべからざるが見える。これによって知れる。七・八・九・六は、魏伯陽はただそれを取って晦・朔・弦・望の時を指したので、「別にこの四象を排出す」という句はあるが、実際は河図の四象と毛のほども関係がない。
右論月體納甲。
以上は「月体納甲」の一図に関する論述である。
呂純陽《沁園春》丹詞(按《宋史·陳摶傳》:闗西逸人呂洞賓,世以為神仙,數來摶齊中。希夷丹道,豈即純陽所授邪?詞云「不因師指,此事爭知」,葢雖有希夷之風骨,不遇神仙終難成就金丹,歲晚無消息,能不重嘆乎):「七返還丹,在人先須煉已待時。」
以下は呂純陽(呂洞賓)の《沁園春》の丹詞である。胡渭の按:《宋史・陳摶伝》に記す、関西の隠士・呂洞賓は、世人はみな彼を神仙と為し、度々陳摶の住処に来た。陳摶・希夷先生の丹道は、まさか呂純陽の伝授したものか。詞の中に「師父の指点有らざれば、この事はどうして知るを得ん」と言う。これを見れば希夷のごとき風骨を具備すとも、神仙に遇わざれば終始金丹を煉成し難し。年歳老いてなお消息なきに至れば、どうして再三慨嘆せざるを得ようか。詞の冒頭にいう:「七返還丹、人はまず必ず己を煉って時機を待つべし。」
石澗俞氏曰:「七,火數也。煉丹之法,其先以紅投黑而生藥,既有藥,然後進火,煉黑入紅而成丹,故曰七返還丹,即非自寅至申之七時也。張紫陽《悟真篇》云『金公本是東家子,送在西鄰寄體生,認得喚來歸舍養,配將奼女作親情』,是此義也。」
石澗先生・兪琰が解釈していう:七は火之数である。煉丹の法は、まず「紅」を「黒」の中に投じて薬を生じ、薬有りて然る後に火を進め、「黒」を「紅」の中に煉入して丹を結成す。ゆえに「七返還丹」と呼ぶ。寅時より申時に至るあの七個の時辰を指すのではない。張紫陽《悟真篇》に「金公はもと東家の子、西隣の人家に送り寄養せられ、認め出でて彼を喚び家に帰り養わしめ、さらに姹女を配して姻親を結ぶ」という。講ずるはまさにこの意である。
《離騷·逺遊》篇云:「毋滑而魂兮,彼將自然;一氣孔神兮,於中夜存;虛以待之兮,無為之先。」即「煉已待時」之謂也。要在收視返聽,寂然不動,凝神於太虛,無一毫雜想,少焉神入氣中,氣與神合,則真息自定,神明自來,不過片晌間耳。邵康節《先天吟》云:「若問先天一字無,後天方要著工夫。」丹法亦然:採藥於先天則無為,進火於後天則有為,不可以一律齊也。
《楚辞・遠遊》篇にいう:「汝の魂魄を擾乱することなかれや、それは自ずと順然ならん。一気は極めて神妙なるかな、夜半に存養せん。虚静にしてそれを待つかな、無為に先んじて妄動するなかれ。」これはまさに「煉己待時」の意である。要領は視聴を收回し内に向かって返照し、寂然として動かず、神を太虚に凝聚し、一絲の雑念もなきこと。しばらく過ぎれば神は気の中に入り、気は神と相合し、そこで真息は自然に安定し、神明は自然に到来す。ただ片刻の間の事にすぎない。邵雍《先天吟》にいう:「若し先天を問わば、あれは一字も無し。後天に至りて、はじめて工夫を下すを要す。」丹法もまたこのよう。先天において薬を採るは「無為」、後天において火を進むるは「有為」で、一概に論じ得ない。
「正一陽初動,中宵漏永,溫溫鉛鼎,光透簾帷。」俞氏曰:「白紫清《珠玉集·丹髓歌》云『煉丹不用尋冬至,身中自有一陽生』,然吾何以知身中之一陽生也?葢彈指聲中巽門豁開,而心覺恍忽之時是也。吾於此時鼓之以槖鑰,煅之以猛火,則真鉛出坎,而河車不敢暫停,直運入崑崙峰頂,乃可以為還丹。邵康節《恍忽吟》云『恍忽陰陽初變化,絪縕天地乍迴旋,中間些子好光景,安得功夫入語言』,非洞曉陰陽造化,疇克知此。」
詞は続けていう:「まさに一陽初動の時に当たり、半夜に漏声は悠長に、丹田の中の鉛鼎は温温として暖を発し、光亮は垂簾に似た眼帘を透過す。」兪琰が解釈していう:白紫清(白玉蟾)《珠玉集・丹髄歌》に「煉丹は冬至のあの日を尋ねるを要せず、身体の中に自ずと一陽生ず」という。では我は何を凭って身中の一陽がすでに生じたと知るか。たいてい弾指一声の間に「巽門」が豁然として開啓し、心裏に恍恍惚惚たるを覚えるあの時である。我は此の時に風箱のごとき呼吸をもってそれを鼓動し、猛火をもってそれを煅錬すれば、真鉛は坎中より出て、「河車」は一刻も停歇を敢えてせず、径直に昆崙の峰頂に運送する。これをもってはじめて還丹と称し得る。邵雍《恍惚吟》に「恍恍惚惚の間に陰陽は剛に変化を始め、氤氳の中に天地は忽然として回旋す。この中間の一點の好光景を、どの本事をもってか言語で説き出さん」という。透徹して陰陽造化に通暁する人でなければ、誰がこれを懂得し得よう。
中宵即半夜子時也。《參同契》云「含元虛危,播精於子」是也。又云「晦朔之間,合符行中」,謂三十日半夜子時之前介乎晦朔之間也。若蹙之於一日,則每夜子時之前即晦朔之間,初不拘於三十日之半夜也。《悟真篇》云「日月三旬一遍逢,以時易日法神功」,其說明矣。鉛即藥也,鼎謂下丹田也。子時將至而陽氣潛萌於其下,所以溫溫也。簾帷者,眼也,垂眼下視有垂簾之象,故曰簾帷。惟丹田有藥而陽氣上升,透於兩睂之間,是以有光也。
「中宵」はすなわち半夜の子時。《参同契》に「元気は虚宿危宿に含藴し、真精を子位に播散す」というはまさにこれを指す。また「晦朔之交、合符して中道を行く」というは、三十日の夜半子時以前に、まさに晦と朔の間に処るを言う。もし一箇月を一日の上に圧縮すれば、毎夜の子時以前はすなわち「晦朔之間」で、もともと三十日の夜半に限定しない。《悟真篇》に「日月は三十天に一回相逢し、時辰をもって日子に替換す。法門は神妙なり」という。この道理はすなわち明白に講じられた。「鉛」はすなわち薬、「鼎」は下丹田を指す。子時まさに至らんとして陽気は下に悄々として萌動するので、「温温」の暖を発すと言う。「帘帷」は眼睛を指し、眼帘を垂れて下に看るは垂帘のごとき有様なので、帘帷と呼ぶ。丹田に薬有りて陽気上昇し、両眉の間に透到するがゆえに、はじめて光有り。
「造化爭馳,虎龍交媾,進火工夫牛斗危。」俞氏曰:「造化爭馳,謂坤之末、復之初也。《參同契》云『龍呼於虎,虎吸龍精,兩相飲食,俱相吞併』,作丹之時,要在心息相依,然後神凝氣聚,交媾而為藥。陳朝元《玉芝書》云『玄黃若也無交媾,爭得陽從坎下飛』,故必陰陽交媾,丹田有藥,乃可以進火也。」
詞は続けていう:「造化之機は競い馳走し、虎と龍とが交合す。進火の工夫は牛・斗・危のこれらの宿の方位に至るべし。」兪琰が解釈していう:「造化争馳」は坤卦之末・復卦之初のあの一刻を指す。《参同契》に「龍は虎に向かって呼喚し、虎は龍の精気を吸取し、両下は互相いに吞食し彼此に吞并す」という。結丹の時は、関鍵は心と呼吸とが相依るにあり、然る後に神は凝聚し気は積聚して、交合して薬と為る。陳朝元《玉芝書》に「玄と黄と若し交合せざれば、どうして陽気を坎位の下より飛昇せしめ得ん」という。ゆえに必ず陰陽が交合し丹田に薬有りてこそ、はじめて火を進むるべし。
牛斗危,乃身中火候之方位,謂進火工夫至寅而般運,如天之生物胚胎於子,至寅而出也。《參同契》云「始於東北,箕斗之鄉,旋而右轉,嘔輪吐萌」,《翠虛篇》云「有一子母分胎路,妙在尾箕斗牛女」,與此同旨。
「牛・斗・危」は身体内部の火候の方位で、進火の工夫は「寅」の位置に至ってはじめて搬運を始むるを言う。ちょうど天地が万物を生養するに、子位に於て胚胎を結成し、寅位に至ってはじめて生発し出すがごとし。《参同契》に「東北方の箕宿・斗宿の分野に起こり、隨いで右に旋転し、輪のごとき萌芽を吐出す」といい、《翠虚篇》に「一条の子母分胎の路径有り、奥妙は尾・箕・斗・牛・女のこれらの宿の間に在り」という。ここと同一の旨趣である。
「曲江上,見月華瑩淨,有個烏飛。」俞氏曰:「《翠虛篇》云『西南路上月華明,大藥還從此處生』,記得古人詩一句『曲江之上鵲橋橫』。古仙本以小腸有九盤十二曲,是為曲江,而《翠虛》又以西南路上發明其說,可謂深切著明矣。葢西南屬坤,坤為腹,藥生於丹田之時,陽氣上達麗於目而有光,故自目至臍一路皆虛白晃耀,如月華之明也。有個烏飛者,身中之天地交、坎離合,二氣絪縕,結成一滴露珠而飛落丹田中也。陳希夷《指玄篇》云『有個烏飛入桂宮』,《翠虛篇》云『紅蓮含蕊露珠凝碧,飛落華池滴滴』。」
詞はまたいう:「曲江の上にて、月光の瑩潔明浄なるを見、一只の烏鴉飛び過ぐる有り。」兪琰が解釈していう:《翠虚篇》に「西南の路上に月光明亮にして、大薬は即ち此処より生出す」といい、また古人の一句の詩に「曲江の上に鵲橋横たわる」と記す。古代の仙家はもともと小腸に九盤十二曲有るに因りて、それを「曲江」と呼び、《翠虚篇》はまた「西南路上」をもってこの説法を闡発した。非常に透徹明白に講じたと言い得る。たいてい西南は坤に属し、坤は腹部に配す。薬が丹田に生成する時、陽気は上達して眼に附麗し、因って光有り。ゆえに眼より臍に至るこの一路はみな虚明白亮にして、晃耀として月光のごとし。いわゆる「烏の飛ぶ有り」は、身中の天地交合・坎離会合し、両種の気が氤氳相激して、一滴の露珠に凝結して丹田の中に飛落することを言う。陳摶《指玄篇》に「一只の烏鴉が桂宮に飛び入る」といい、《翠虚篇》に「紅蓮は花蕊を含み露珠は碧色に凝り、一滴々として華池の中に飛落す」という。
「當時自飲刀圭(謂但以服食為事),又誰信無中養就兒(即所謂三家相見結嬰兒也)。」俞氏曰:「金丹大道,至簡至易,於無中生有,養就嬰兒。如涕唾精津氣血液之類,止可按助以為階梯,非丹質也。學者局於管見,往往以先入之說為主,更不肻參究丹書,雖有道者欲與開發,孰為之信?《翠虛篇》云『怪事敎人笑幾回,男兒今也會懷胎,自家精血自交結,身裡夫妻是妙哉』。葢夫婦即陰陽之異名,非真有所謂夫婦也。或者偏執竹破竹補之說,遂謂以人補人,而專意於三峰邪術,又安信金丹乃清淨無為之道,而專於無中生有哉!」
詞はまたいう:「時に己が刀圭を飲み下す(服食を要務と為すのみを言う)、また誰か信ぜん、『無』の中より嬰児を養い出だしたるを(すなわち前に説いた三家相見て嬰児を結成する)。」兪琰が解釈していう:金丹の大道は極めて簡・極めて易で、「無」の中に「有」を生じ、嬰児を養成する。涕・唾・精・津・気・血・液のこのたぐいに至っては、ただ取って輔助と為し入門の階梯に充てるのみで、丹の本質ではない。道を学ぶ者は一孔の見に拘わり、往々先入と為す説に占められ、さらに丹書を参究しようとしない。仮に道を得た人が彼のために開導せんと願うとも、誰か信ぜんとするや。《翠虚篇》に「怪事は人をして笑はしめること幾回なり、男子はいまやまた懐胎を会す、自家の精血は自ずと交結し、身体の中の夫妻はまさに妙なり」という。ここの「夫婦」はただ陰陽の別名で、真に何らかの夫婦があるのではない。ある者は「竹破れるには須らく竹を用いて補うべし」の説に偏執し、すなわち「人をもって人を補う」べしと思い、一心に三峰のたぐいの邪術を搞す。それならまたどうして金丹が実は清浄無為之道で、専ら無中より有を生ずると信じ得ようか。
「辨水源清濁,木金間隔,不因師指,此事爭知。」俞氏曰:「人身有一物,分而為二,其浮者為木,沈者為金,一東一西,故謂之間隔。若得斗柄之機斡運,使之上下循環,如天河之流轉,則木性愛金,金情戀木,而刑德並會,不間隔矣。」
詞はまたいう:「水源の清濁を辨別すべし、木と金とは彼此隔閡す。若し師父の指点なからんは、この事はどうして知るを得ん。」兪琰が解釈していう:人の身上に一物あり、分かれて両様と成る。軽浮なるは木、沈重なるは金。一は東に一は西に在るので「間隔」と呼ぶ。若し北斗斗柄のごとき枢機を得て斡旋運転せしめ、それらを上下循環せしめて天河のごとく流転して息まざらしめれば、木の本性は金を愛し金の情意は木に恋し、刑と徳とは一同に会合して、もはや隔閡なからん。
(按:人身之水有清有濁,東坡《天慶觀乳泉賦》謂若汗、血、涕、洟、涎、沬之類,皆水之外騖者,一出而不復返;唯華池之真液,下湧於舌底而上流於牙頰,甘而不壞,白而不濁,宜古之仙者以是為金丹之祖、長生不死之藥也。故水源之清濁不可以不辨。木金間隔,即東家西鄰之謂。)
胡渭の按語:人の身上の水には清有り濁有り。蘇軾《天慶観乳泉賦》にいう、汗・血・眼泪・鼻涕・口涎・唾沫のこのたぐいは、みな外に奔逸する水で、一旦流出すればすなわち帰らず。ただ「華池」の真液のみ、舌根の下より湧出して上行して歯と両頬の間に至り、甘甜にして腐壊せず、色白くして渾濁せず。古代の仙家がそれを金丹之祖・長生不死の薬と為したのも無理はない。ゆえに水源の清濁は辨別せざるを得ない。「木金間隔」に至っては、すなわち前に説いた「東家」「西隣」のあの意である。
《悟真篇》云:「饒君聰慧過顏閔,不遇真人莫強猜。」葢丹經所陳,或假物以明理,或設象以寓意,名義不同,學者卒然讀之,莫不有望洋之嘆。且以五行言之,或曰金木,或曰水土,或曰水火,或曰金火,或曰金水,或曰木火,或曰水土,使人心目俱眩,誠不易知也。
《悟真篇》にいう:「汝を縦うて顔回・閔子騫に聡慧勝れりとも、真人に遇わざれば硬に猜るなかれ。」たいてい丹経の陳述する所は、あるいは外物を借りて道理を説明し、あるいは象征を設立して深意を寄寓し、名目と含義とは各々相同じからず。学者は猛然として読むや、望洋興嘆の感有らざるなし。五行を取って言えば、ある時は金木を講じ、ある時は水土を講じ、ある時は水火を講じ、ある時は金火を講じ、ある時は金水を講じ、ある時は木火を講じ、ある時はまた水土を講じ、人をして眼花繚乱せしめ、実に懂得し易からず。
「道要玄微,天機深逺,下手速修猶太遲。」俞氏曰:「丹道之要有二:曰交媾,曰進火。雖有先後次序,要皆一片功夫。天機謂半夜子陽初動之時也。天機將至,人能動吾之機以應之,則天人合發,內外相符,結而為丹矣。雖曰一日十二時,凡相交處亦皆可為,而古仙必用半夜子陽初動之時者,其時太陽正在北方,而人身氣到尾閭闗,葢與天時相應,所謂盜天地、奪造化,惟此時為然。乃若丑時則太陽已偏,人身之氣已過尾閭矣;寅時則太陽已出地,人身之氣已過腎堂矣,皆不可用也。《玉芝書》云『凡煉丹隨子時陽氣而起火,其火方全;餘外別時起火,其火不全』,斯言盡之矣。」
詞はまたいう:「大道の要領は玄妙精微にして、天機は深邃悠遠なり。马上に手を下して修せんとも、なお遅きを嫌う。」兪琰が解釈していう:丹道の要領は二条あり、一は「交媾」、一は「進火」。先後の次序有りといえども、実は通じて一片の工夫である。「天機」は半夜子時に一陽初動の時を指す。天機まさに至らんとして、人能く自身の機を起動してそれに応合せば、すなわちそれは天と人とが同時に発動し、内と外とが彼此相符して、凝結して丹と成る。一日十二時辰有りと説き、凡そ陰陽相交の処はみな下手すべきだが、古代の仙家は必ず半夜子時の一陽初動の際を用いる。それはあの時太陽がまさに北方に在り、人身の気がちょうど尾閭関に行き至り、正しく天時に相応ずるためである。いわゆる「天地を盗取し造化を奪取す」は、ただこの時のみ辦じ得る。丑時に至っては太陽はすでに偏离し、人身の気はすでに尾閭を過ぎ、寅時は太陽はすでに地を出で、人身の気はすでに腎堂を過ぎる。みな用い得ない。《玉芝書》に「凡そ煉丹は子時の陽気に順いて火を起こせば、火ははじめて完全。別の時辰に火を起こせば、火は完全ならず」という。この言は道理を説き尽くした。
「蓬萊路,仗三千行滿,獨步雲歸。」(尸解則能輕舉,然只成地仙,故歸名山洞府也。)俞氏曰:「三千行滿,謂九年三千日也。三千日內,務要積功累行,十二時中不可須臾離道。劉虛谷《還丹篇》云『大功欲就三千日,妙用無虧十二時』是也。丹法片晌結胎,百日而功靈,週年而胎圎,九年而行滿,皆有程度,決無今日遇師、明日便能成仙之理。當知一年而小成,九年而大變:始而易氣,次而易血,次而易脈,次而易肉,次而易髓,次而易筋,次而易骨,次而易髮,次而易形,積九年而閱九變,煉盡純陰,變成純陽,然後可以遺世獨立,羽化而登仙也。」
詞の結尾にいう:「蓬莱に通ずる路は、全く三千日の功行円満に頼りて、はじめて独自雲を踏みて帰ることを得。」(胡渭の注:尸解は軽身飛挙し得といえども、ただ地仙を成し得るのみで、ゆえに帰宿は名山洞府に在る。)兪琰が解釈していう:「三千行満」は九年三千天を指す。この三千天の中は、務めて功徳を積み修行し、一日十二時辰みな片刻も道を離れてはならない。劉虚谷《還丹篇》に「大功は成せんに三千日を要し、妙用は十二時に亏らず」という。まさにこの意。丹法の上では、片刻の間に胎を結び、一百天にして功効霊験あり、一年満ちて胎円し、九年にして功行円満す。みな進度循べきあり、決して今日師父に遇い明日すなわち仙と成る道理なし。知るべきである。一年は小成、九年ははじめて大変。まず気を換え、次に血を換え、次に脈を換え、次に肉を換え、次に髄を換え、次に筋を換え、次に骨を換え、次に頭髪を換え、次に形体を換え、九年積満して九次の変化を経歴し、純陰を煉り尽くし、純陽に変成し、然る後に塵世を超脱し独立して高挙し、羽化して登仙し得る。
渭按:丹家之煉已,一曰交媾,亦曰生藥、採藥,又曰作丹,此其事在亥子之交,《參同契》云「晦朔之間,合符行中,混沌洪蒙,牝牡相從」是也;進火一曰起火,此其事在子丑之會,《參同契》云「始於東北,箕斗之鄉,旋而右轉,嘔輪吐萌」是也。陳致虛云「人先須養性,乃可修命,臨爐一差百錯,總由煉已無功」,言生藥不可不早也;俞琰云「丹法火臨於丑,則驅回尾穴連雲焰,趕入天衢直上奔」,言進火不可不力也。
胡渭の按語:丹家のいう「煉己」は、一に「交媾」と呼び、また「生薬」「採薬」とも呼び、また「作丹」とも呼ぶ。この事は亥時と子時の交に発生す。《参同契》のいう「晦朔之交、合符して中道を行く、混沌鴻蒙一片、牝牡相随い」はまさにそれを指す。「進火」はまた「起火」とも呼び、この事は子時と丑時の会に発生す。《参同契》のいう「東北方の箕斗の分野に起こり、隨いで右に旋転し、輪のごとき萌芽を吐出す」はまさにそれを指す。陳致虚の「人は必ず先ず性を養い、はじめて命を修するを言い得。一たび炉前に至れば毫厘を差え千里を謬る。全て煉己に功夫なきに因る」は、これは生薬は早めざるべからずを言う。兪琰の「丹法で火候が丑位に臨めば、尾閭の一穴に駆り帰り連天の火焰を帯起し、天衢に趕入して一路直上す」は、これは進火は力を用いざるべからずを言う。
其於天地之撰、陰陽之義、水火之情、日月之運,亦可謂探其微而抉其奧矣。惜乎其以聖人之大道而小試之也!惜乎其以聖人之公心而私用之也!聖人能盡其性則能盡人物之性,贊天地之化育,何其大也;丹家之功效止於一身,小之至矣。孔子曰「死生有命」,又曰「朝聞道,夕死可矣」;孟子曰「夭壽不貳,修身以俟之」;張子曰「存吾順事,沒吾寧也」。聖人於死生之際如是而已,何其公也;丹家日孳孳唯以長生久視為念,私亦甚矣。故謂丹道出於易則可,謂聖人之作易意在明丹道則不可也。
丹家は天地の構造・陰陽の義理・水火の性情・日月の運行に対しても、またその精微を探りその奥秘を掘り出したと言い得る。惜しいかな、彼らは聖人の大道を取って小さな試験と為した。惜しいかな、彼らは聖人の公心を取って私自の用途と為した。聖人は己の本性を尽くし得、すなわち他人と万物の本性を尽くし得、天地の化育に参賛す。これは何等の宏大か。丹家の功効はただ己の一身に限る。実に渺小の極みである。孔子は「死生は自ずと天命有り」といい、また「朝に大道を聞けば、夕に死すとも可なり」という。孟子は「短命長寿を問わず其志を改めず、己身を修養して天命を待つ」という。張載は「生くれば吾は順事して行い、死せば吾は安寧す」という。聖人の生死に対する態度はこのようなに過ぎず、これは何等の公正か。丹家は却って日々孜々として求め、一心にただ長生久視を念ず。未だ私されすぎたを免れない。ゆえに丹道が《易》に出ると言うは可であるが、聖人の《易》を作る用意が丹道を闡明するに在ると言えば、すなわち可ならず。
右論煉已進火。
以上は「煉己」と「進火」の両項の丹訣に関する論述である。
先天太極
清容袁氏桷《謝仲直易三圗序》曰:「上饒謝先生遯於建安,番昜吳生蟾往受易,而後出其圗焉。建安之學為彭翁,彭翁之傳為武夷君,而莫知所受,或曰托以隠秘,故謂之武夷君焉。始晁以道紀傳易統緒,截立疆理,俾後無以偽。至荊州袁溉道潔,始受於薛翁而易復傳,袁乃以授永嘉薛季宣士龍。始薛授袁時,嘗言河洛遺學多在蜀漢間,故士大夫聞是說者爭陰購之。」
清容居士・袁桷は《謝仲直易三図序》の中でいう:上饒の謝先生は建安に隠居し、鄱陽の人・呉蟾が前に往きて彼に従い《易》を学び、この後に至ってはじめてあの三幅の図を取出した。建安の一系の学問は彭翁に出て、彭翁の伝授は武夷君より来たるが、武夷君の師承の何人たるやは人知らず。ある者はこれを託名にして隠秘を示すと言う。ゆえに彼を「武夷君」と称す。初め晁説之(字は以道)が《易》学の伝授統緒を記述し、界限を划定して後人をして偽を作るに由なからしめた。荊州の人・袁溉(字は道潔)に至りて、はじめて薛翁より学を受け、《易》学はここにおいて重新に伝わり下り、袁溉はまた永嘉の人・薛季宣(字は士龍)に伝えた。初め薛翁が袁溉に伝授する時、かつて言うに、河図洛書の遺学はたいてい蜀汉の一帯に保存すと。ゆえに士大夫のこの説を聞く者は、みな争い暗に銭を出して捜購した。
「後有二張,曰行成,精象數;曰演,通於玄。最後朱文公屬其友蔡季通如荊州,復入峽,始得其三圗焉。或言洛書之傳,文公不得而見。今蔡氏所傳書訖不著圗,藏其孫抗,秘不復出。臨卭魏了翁氏嘗疑之,欲經緯而卒不可得。季通宋武夷,今彭翁所圗疑出蔡氏,惜彭不具本始。謝先生名字今不著,其終也世能道之。」
袁桷が続けていう:後に張氏を姓する者二人在り。一位は張行成といい、象数に精通す。一位は張演といい、玄理に通暁す。最後に朱熹は彼の朋友・蔡元定(字は季通)に嘱託して荊州に往かしめ、さらに三峡に深入して、はじめてあの三幅の図を得た。ある者はいう、洛書の伝本は、朱熹は並びに見ずと。いま蔡家の伝える書の中は終始図を附さず、図は彼の孫・蔡抗の手裏に蔵し、秘して人に示さず。臨邛の人・魏了翁はかつてこれに疑を生じ、それを経緯条貫に整理し出さんと欲するも、終始辦じ得ず。蔡元定は宋代の武夷一帯の人で、いま彭翁の画いた図は、疑らく蔡家に出たのであろうが、惜しいかな彭翁はその来龍去脈を交代しなかった。謝先生の名はいま書き出さないが、彼の最後の下場は、世人は却って説き出し得る。
渭按:清容博雅君子也,君子之言信而有徵,故首著之。季通所得三圗,一為先天太極圗無疑矣,其二葢九宮圗與五行生成圗,而希夷未嘗名之曰洛書,故「或言洛書朱子不得見」也。(謝枋得字君直,信州弋陽人,宋末以江西招諭使知信州事,國亡變姓名遯入建陽,其後人稍識之,被徵不就。福建行省參政魏天佑送至大都,遂不食而死,事具《宋史》本傳。仲直即君直也。清容以謝拒元命為時所忌,故隠其名,復更其字。)
胡渭の按語:袁桷は博学高雅の君子である。君子の言は信じ得て拠り有り。ゆえにまず彼の言をここに録す。蔡元定の得た三幅の図、その中の一幅は「先天太極図」で、これは疑問なし。別の両幅はおそらく「九宮図」と「五行生成図」で、しかし陳摶本人はそれらを「洛書」と呼ばなかった。ゆえに袁桷は「ある者は洛書の伝本を朱熹は見る能わずと講ず」といった。(謝枋得は字を君直といい、信州弋陽の人。南宋末年に江西招諭使の身份をもって信州の政事を主持した。宋亡びるや名を改め姓を換えて建陽に逃げ入り、後に当地の人は漸く彼を認出した。元廷は召し徴するも彼は職に就くを肯んじず。福建行省参政・魏天祐が彼を大都に押送したので、彼はすなわち絶食して死した。事跡は《宋史》本伝に見える。文中の「仲直」はすなわち「君直」である。袁桷は謝枋得が元朝の徴召を拒絶したため当時に忌諱せられていたので、彼の名を隠し、また彼の字を改動した。)
趙氏撝謙《六書本義》曰:「天地自然之圗,虙戲氏龍馬負圗出於榮河,八卦所由以畫也。《易》曰『河出圗,聖人則之』,《書》曰『河圗在東序』是也。此圗世傳蔡元定得於蜀之隠者,秘而不傳,雖朱子亦莫之見,今得之陳伯敷氏。嘗熟玩之,有太極函陰陽、陰陽函八卦之妙。」(撝謙字古則,餘姚人,宋宗室,別號老古先生。《名山藏》作趙謙,雲洪武初聘修《正韻》。)
趙撝謙は《六書本義》の中でいう:この幅の「天地自然之図」は、すなわち伏羲の時に龍馬が図を負いて滎河に出で、八卦が拠りて画き成ったあの図である。《周易・繋辞伝》に「黄河は図を出だし、聖人はそれを取法す」といい、《尚書・顧命》に「河図は東序に陳放す」という。指すはそれである。この図は相伝えるに蔡元定が蜀地の一隠者より得たというが、秘蔵して外に伝えず、朱熹ですら見る能わざった。いま私は陳伯敷よりそれを得た。かつて反復して玩味するに、その中に太極が陰陽を包含し陰陽が八卦を包含する妙有り。(胡渭の注:趙撝謙は字を古則といい、余姚の人、宋朝宗室の後裔。別号は老古先生。《名山蔵》は趙謙と作し、彼は洪武初年に征聘されて《洪武正韻》の修撰に参与したという。)
楊氏時喬《周易全書》曰:「趙氏圗書,世競傳之為真圗書,靈寶許公誥、郴陽何公孟春尤篤信之。獨季彭山本云:朱子與蔡氏無書不講明,豈有秘不與言之理?」渭按:蔡氏所得之三圗,清容不言其形象,未知何如。據古則所傳以為蔡氏之所得,葢三圗之中此居其一,名曰先天圗,亦曰太極圗,取《參同契》之月體納甲、二用三五與九宮八卦混而一之者也。朱子發云「陳摶以先天圗授种放,三傳而至邵雍」,則康節之學實出於希夷,其所演以為先天古易者悉本此圗,可知也。
楊時喬は《周易全書》の中でいう:趙撝謙のこの図を、世人は争ってそれが真の河図洛書だと伝説し、霊宝の人・許誥・郴陽の人・何孟春はなおさら深く信じて疑わぬ。ただ季本(号は彭山)のみ原本に依拠していう:朱熹と蔡元定の間はどの書も相講論せざるなし。どうして秘蔵して相告げざる道理があろうか。胡渭の按語:蔡元定の得たあの三幅の図は、袁桷はそれらの形状を言わず、その究竟是いかなる様子かを知る由なし。趙撝謙の伝えたこの幅の図を拠って蔡元定の所得と算すれば、三幅の中でそれは一つに居るべく、名は「先天図」と呼びまた「太極図」とも呼ぶ。実は《参同契》の月体納甲・二用三五と九宮八卦とを一體に糅合成する産物である。朱震の「陳摶は先天図を种放に伝え、三伝して邵雍に至った」といえるに拠れば、邵雍の学問は確かに陳摶に出たと見え、彼の推演して「先天古易」と称したあの一套は、全てこの図に本づく。これは断定し得る。
後人謂之天地自然之圗,又謂之太極真圗。其環中為太極,兩邊白黑回互,白為陽,黑為陰。陰盛於北而陽起薄之,故邵子曰「震始交陰而陽生」,自震而離而兊以至於乾,而陽斯盛焉。震東北,白一分黑二分,是為一奇二偶;兊東南,白二分黑一分,是為二奇一偶;乾正南全白,是為三奇純陽;離正東,取西之白中黑點為二奇含一偶,故云「對過陰在中」也。
後人はそれを「天地自然之図」と呼び、また「太極真図」とも作す。図中の環繞する中心は太極で、両辺の白黒は回旋して相抱き、白は陽を代表し黒は陰を代表す。陰気は北方に盛んで陽気は興起してそれに逼る。ゆえに邵雍は「震卦は始めて陰と相交じて陽気生ず」という。震より離・兌を経て乾に至るまで、陽気はすなわち旺盛と成る。震は東北に在り、白は一分を占め黒は二分を占む。すなわち一奇二偶。兌は東南に在り、白は二分を占め黒は一分を占む。すなわち二奇一偶。乾は正南に在り、全白。すなわち三奇純陽。離は正東に在り、西辺の白色の中のあの黒点を取って二奇含一偶と為す。ゆえに「対面のあの一点の陰は中間に在り」という。
陽盛於南而陰來迎之,故邵子曰「巽始消陽而陰生」,自巽而坎而艮以至於坤,而陰斯盛焉。巽西南,黑一分白二分,是為一偶二奇;艮西北,黑二分白一分,是為二偶一奇;坤正北全黑,是為三偶純陰;坎正西,取東之黑中白點為二偶含一奇,故云「對過陽在中」也。
陽気は南方に盛んで陰気は前来してそれを迎接す。ゆえに邵雍は「巽卦は始めて陽気を消損して陰気生ず」という。巽より坎・艮を経て坤に至るまで、陰気はすなわち旺盛と成る。巽は西南に在り、黒は一分を占め白は二分を占む。すなわち一偶二奇。艮は西北に在り、黒は二分を占め白は一分を占む。すなわち二偶一奇。坤は正北に在り、全黒。すなわち三偶純陰。坎は正西に在り、東辺の黒色の中のあの白点を取って二偶含一奇と為す。ゆえに「対面のあの一点の陽は中間に在り」という。
坎離為日月,升降於乾坤之間而無定位,納甲寄中宮之戊巳,故東西交易,與六卦異也。八方三畫之奇偶與白黑之質次第相應,天工乎?人巧乎?其自然而然之妙,非竊窺造化陰陽之秘者亦不能為也,但不可指以為伏羲之河圗耳。
坎離は日月を象徴し、乾坤の間を上下昇降して固定の位置なし。納甲する時は中宮の戊己土の上に寄托する。ゆえにそれらは東西互換して、残りの六卦と同じからず。八方の位上の三画卦の奇偶は、図上の白黒の分量と次第に一々相応す。これは天工か、それとも人巧か。あの自然と成る巧妙は、若し暗中に造化陰陽の秘密を窺見せざれば、為し得ない。ただそれを指認して伏羲の河図と為すことはできないのみ。
或問:「朱子謂希夷之學源出《參同契》,何以知其然乎?」曰:即其陰陽盛衰之數以推晦朔弦望之氣,而知其理有若合符節者矣。陽氣生於東北而盛於正南,震、離、兊、乾在焉,即望前三候陽息陰消之月象也;陰氣生於西南而盛於正北,巽、坎、艮、坤在焉,即望後三候陽消陰息之月象也。
ある者問う:朱熹は陳摶の学問が《周易参同契》に源出すと言ったが、何を凭って確かにこのとおりと知るか。答えていう:図上の陰陽盛衰の分数に就いて晦・朔・弦・望の気候を推求すれば、その中の道理が彼此吻合して符節の合するがごとくを発見する。陽気は東北に生じて正南に盛んと成り、震・離・兌・乾の四卦はこの一辺に排す。まさに望日以前の三候・陽長陰消の月相である。陰気は西南に生じて正北に盛んと成り、巽・坎・艮・坤の四卦はあの一辺に排す。まさに望日以後の三候・陽消陰長の月相である。
陰極於北而陽起薄之,陰避陽,故回入中宮而黑中復有一點之白;陽極於南而陰來迎之,陽避陰,故回入中宮而白中復有一點之黑。葢望夕月東日西,坎離易位,其黑中白點即是陽光,白中黑點即是陰魄,東西正對,交注於中,此二用之氣所以納戊巳也。舉《參同》千言萬語之玄妙而括之以一圗,微而著,約而賅,丹家安得不私之為秘寶而肯輕出示人耶?
陰は北方に至りて極盛にして、陽気は興起してそれに逼り、陰は陽を避け、ゆえに回旋して中宮に入り、そこで黒色の中にまた一点の白有り。陽は南方に至りて極盛にして、陰気は前来してそれを迎え、陽は陰を避け、ゆえに回旋して中宮に入り、そこで白色の中にまた一点の黒有り。たいてい望日の傍晚は月は東に日は西にあり、坎離は位置を交換す。あの黒中の白点はすなわち日光で、白中の黒点はすなわち月魄。東西は正しく相対し、両者の気は交相に中央に注入す。これが坎離二用之気が戊己土を納する所以である。《参同契》の千言万語の玄妙をすべて一幅の図の中に概括し、精微にしてまた顕豁、簡約にしてまた周備なり。丹家はどうしてそれを私蔵の秘宝と為さずに、肯んじて軽易に取出して人に見せんや。
自种放之後,儒者受此圗皆有所變通恢廓,而非復希夷之舊,唯蜀之隠者得其本真,私相授受以為丹家之要訣,篾叟、醬翁之徒是也。故雖朱子之博洽亦不得見,而必屬季通入峽求之,葢即酷愛《參同契》之意,以為坐談龍肉不如吃豬肉而飽也。其終不以為河圗而列諸經首者,葢以圗出希夷,源自伯陽,不若根柢《大傳》五十有五之數為得其正耳,非季通秘之而不與言也。
种放以後、儒者でこの図を接受した者は、みな各々変通推衍有りて、もはや陳摶の元来の面目にあらず。ただ蜀地のあの隠者のみがその本来の様子を得て、私かに相互に伝授し、丹家の要訣と為した。篾を売る老頭・醤を売る老翁のあのたぐいの人がすなわちである。ゆえに朱熹のごとき博洽の人ですら見る能わざった。蔡元定に嘱託して三峡に深入して捜求せしめざるを得なかったのは、これは実は彼が《参同契》を酷愛する心に出でて、坐して空しく龍肉を談ずるは真に猪肉を一口食うがごとき飽くに及ばずと思ったためである。彼は最終的にこの図を河図と為して《周易本義》の巻首に列さなかった。それは図が陳摶に出で源頭が魏伯陽に在るためで、《繋辞伝》の「天地之数五十有五」に拠って説を立てるがごとき純正に及ばなかったからで、蔡元定が蔵私して彼に告げるを肯んぜざったのではない。
趙氏仲全《道學正宗》曰:「古太極圗,陽生於東而盛於南,陰生於西而盛於北,陽中有陰,陰中有陽,而兩儀、而四象、而八卦,皆自然而然者也。」按:潛溪宋氏濂曰:「新安羅端良願(羅願字端良)作陰陽相含之象,就其中八分之以為八卦,謂之河圗;用井文界分九宮,謂之洛書。言出於青城山隠者,然不寫為象。」今觀趙氏此圗,正所謂陰陽相含、就中八分之以為八卦者,青城隠者之所授當亦如此,然不著陰陽分數,視古則為疎略。其不曰河圗而謂之古太極圗,何也?葢其時既從《啟蒙》以五十五數為河圗,而濂溪又自有所為太極圗者,故不名河圗,曰太極圗而加「古」以別之。
趙仲全は《道学正宗》の中でいう:この幅の「古太極図」は、陽は東方に生じて南方に盛んと成り、陰は西方に生じて北方に盛んと成る。陽の中に陰を含み、陰の中に陽を含む。これによって両儀有り四象有り八卦有り。全ては自然と成りて形成せり。胡渭の按語:潜溪先生・宋濂がいう、新安の人・羅願(羅願は字を端良という)が一つの「陰陽相含」の図象を作り、その中を八分に分けて八卦と為し、これを河図と称す。さらに井字紋をもって九宮に画分し、これを洛書と称す。これは青城山の隠者に出たと説くが、羅願はそれを図形に画かなかった。いま趙仲全のこの図を見れば、まさにいわゆる陰陽相含・その中を八分に分けて八卦と為す様子である。青城の隠者の伝授した所もまたこのようであったはずだが、ただそれは陰陽の各占する何分かを標明せず、趙撝謙のあの幅に比べて粗疏簡略である。それが河図と称せず「古太極図」と呼んだのは、何の故か。おそらく当時すでに朱熹《易学啓蒙》に依りて五十五之数を河図と為し、かつ周敦頤にまた別に自らの一幅の《太極図》があったので、河図と称せず改めて太極図と称し、さらに一つの「古」字を加えてもって区別を加えたのである。
先天圗雖丹家修煉之訣,然亦必得其人而傳之,非其人則不傳也,故宋初唯种放、穆修受希夷之學,而他無聞焉。其後穆修授李之才,之才授邵雍,而天下始知有象數之學,即上所列二圗是也,亦曰太極圗,或謂之河圗。(有蔣公順字得之者,魏鶴山之門人也,著論以先天圗為河圗,五行生成數為洛書,戴九履一為太一下行九宮圗,鶴山云「此亦是一說」。)
先天図は丹家修錬の口訣だが、また必ず合適な人に遇ってはじめて伝授し、合適な人にあらざれば伝えない。ゆえに宋初にはただ种放・穆修のみが陳摶の学問を承受し、このほかに再び他人を聞かざった。後に穆修は李之才に伝え、李之才は邵雍に伝えて、天下ははじめていわゆる象数之学あるを知った。指すは上面の列したあの両幅の図で、また太極図と呼び、ある者はそれを河図と称す。(一位の蒋公順は、字を得之といい、魏了翁・鶴山先生の門人。著文して先天図を河図と為し、五行生成之数を洛書と為し、「戴九履一」を太一下行九宮図と為すべしと主張す。魏了翁は「これもまた一種の説法と算し得」といった。)
希夷之所授受盡於此矣,而說者謂此外別有河圗洛書,种放得之以傳李溉及許堅,不亦謾乎?溉惟有卦氣圗(見漢上《周易卦圗》,雲其說源於易緯《類是謀》),而堅無所著,不知其說云何。今觀范諤昌、劉牧之言,則皆祖述偽龍圗者也,與希夷之學相去徑庭矣。
陳摶の一系の伝授はここに至ってすなわち尽きる。しかし論者は却ってこのほかに別に河図洛書有りて、种放が得て李溉と許堅とに伝えたと言う。これぞ謊話ではないか。李溉にはただ一幅の「卦気図」あるのみ(朱震《周易卦図》に見える。その説法は易緯の《類是謀》に源出すと言う)。許堅にはすなわち著作なく、その説法の何たるを知らず。いま范諤昌・劉牧の言論を見れば、全てはあの部の偽造の《龍図》を祖述したもので、陳摶の学問と相違することは十万八千里に何ばくかあるや。
葢自种放既沒,天禧以後龍圗託名希夷,當世翕然宗之。邵子之書雖得真傳,而變通恢廓多所自得,良工不示人以樸,人莫測其所從來;其流傳蜀漢間者,又不過二三隠淪私為養生之訣,儒者無過而問焉,非若劉牧之徒造作文字、更相標榜以簧鼔天下也。故朱子雖力辨劉牧之非,而終不能脫龍圗之窠臼,逮乎晚年始覺其妄,遂令季通入峽購得三圗耳。蔡氏秘不肻出,及元末明初復見於世,雖無當於聖人之易,而源出《參同》,猶勝龍圗之怪誕。彼疑清容、二趙之言為不足信者,得吾說而思之,夫亦可渙然釋矣。
たいてい种放の去世し天禧年間以後より、《龍図》はすなわち陳摶の名を仮託し、当時の人は一致してそれを宗と奉じた。邵雍の書は真伝を得たとはいえ、彼は多く変通推衍して自ら心得を出した。ちょうど高明の工匠が未加工の坯料を人に示さざるがごとく、人もまたその来歴を捉摸し得ない。蜀汉一帯に流伝するあの一支に至っては、またただ二三の隠居之士が私かに養生の口訣と為すのみで、儒者は根本的に過問せず、劉牧のあの一伙のごとく文字を炮制し相互に標榜して天下を鼓惑するに似ず。ゆえに朱熹は劉牧之非を極力辯駁したとはいえ、終始《龍図》の窠臼を跳出できず、晚年に至ってはじめてその荒謬に覚察し、そこで蔡元定に三峡に進入してあの三幅の図を購得せしめた。蔡家は秘蔵して取出すを肯んぜず、元末明初に至ってはじめて重新に世に出現した。これらの図は聖人の《易》と相関無いとはいえ、源頭が《参同契》に出ずるは、総じてなお《龍図》の怪誕に勝る。あの袁桷と趙撝謙・趙仲全の二人の言を疑って凭信に足らぬと為す者は、我がこの論議を読みてさらに一考すれば、また以て渙然として氷釈し得る。
右論希夷先天圗。
以上は陳摶・希夷先生の「先天図」に関する論述である。
易図明辨巻四 徳清・胡渭撰
龍図
希夷陳先生《龍圗序》曰:「且夫龍馬始負圗,出於羲皇之代,在太古之先也。今存已合之位尚疑之,況更陳其未合之數邪?然則何以知之?答曰:於夫子三陳九卦之義探其旨,所以知之也。況夫天之垂象,的如貫珠,少有差則不成次序矣,故自一至於盈萬,皆累累然如繫之於縷也。且若龍圗便合,則聖人不得見其象;所以天意先未合而形其象,聖人觀象而明其用。是龍圗者,天散而示之,伏羲合而用之,仲尼黙而形之。」
陳摶・希夷先生《龍図序》にいう:龍馬の初めて図を駄して出現せるは、伏羲の時代に在り、なお太古以前である。いま保存し来たる「已合之位」でさえなおそれを疑う者有り。いわんやさらにあの「未合之数」を陳述せんをや。では何を凭ってそれを知るか。答えていう:孔子が三次に九卦を陳説する意の中よりその旨趣を探求し、因ってはじめて知ったのである。しかも上天の垂示する星象は、斉整として串珠のごとく、稍や差錯あればすなわち次序を排し得ない。ゆえに一より万に満つるまで、みな一個一個として絲線をもって串ぐがごとし。さらに言えば、若し龍図がもともと合攏したるならば、聖人はその象を見るを得ず。ゆえに上天の意はまず合せざらしめてその象を顕し、聖人はこの象を観てはじめてその用を明白にす。ここをもって《龍図》という物は、上天がそれを拆散して人に指示するもので、伏羲はそれを合攏してもって運用を加え、孔子はすなわち明言せずただその意を顕現したのみ。
「始龍圗之未合也,惟五十五數。上二十五,天數也,中貫三五九,外包之十五,盡天三、天五、天九,並十五之位,後形一六無位,又顯二十四之為用也,茲所謂天垂象矣。」
《龍図序》は続けていう:初めに龍図いまだ合攏せざるの時、ただ五十五のこの数有り。上面の二十五は天数で、中間は三・五・九を貫穿し、外は十五を包囲して、天三・天五・天九および十五のこれら位置を併せて占め尽くす。随いで一と六とが位置なきを顕し、また二十四のこの数を顕して功用と為す――これがすなわちいわゆる「上天は星象を垂示す」。
「下三十,地數也,亦分五位,皆明五之用也。十分而為六,形地之象焉;六分而成四象,地六不配。在上則一不配,形二十四;在下則六不用,亦形二十四。」
《龍図序》はまたいう:下面の三十は地数で、また五つの位置に分かれ、みな「五」の功用を顕明す。十を六份に分ければ、すなわち地の象を構成し、六はさらに分かれて四象と成れば、地数の六は便ち配する所なし。上面は「一」に配偶なく二十四を顕し、下面は「六」が用場に派せず同じく二十四を顕す。
「後既合也,天一居上為道之宗,地六居下為器之本,三乾地二地四為之用(本注:參一三乂天數合九,乾元用九也;兩二四地數合六,坤元用六也)。三若在陽則避孤陰,在陰則避寡陽(本注:成八卦者三位也。上則一三五為三位,二四無中正,不能成卦,為孤陰;下則六八十為三位,七九無中正,不能成卦,為寡陽。三皆不處,若避之也)。大矣哉,龍圗之變,岐分萬塗,今畧述其梗槩焉。」
《龍図序》はまたいう:後に合攏せる後、天数の一は上に居りて「道」の宗主と為り、地数の六は下に居りて「器」の根本と為る。三は地二・地四とともにそれらの功用に充当す(原注:一と三とが相参合して天数は合して九と成り、すなわち乾卦の「用九」。二と四とが相并んで地数は合して六と成り、すなわち坤卦の「用六」)。「三」は若し陽の一辺に処れば孤陰を避け、陰の一辺に処れば寡陽を避く(原注:八卦を構成し得るは三つの位置。上面の一・三・五は三つの位置で、二と四とは中正之位なく、卦を成す能わず。これを「孤陰」という。下面の六・八・十は三つの位置で、七と九とは中正之位なく、卦を成す能わず。これを「寡陽」という。「三」は両辺いずれにも居留せず、それらを避くるに似たり)。偉大なるかな。龍図の変化は、岔分して千万条の路径に至る。いまはただ大略その梗概を叙述するのみ。
仲尼黙示三陳九卦:履,德之基(《序卦》次十,明用十,示人以辨上下);謙,德之柄(次十五,明用十五,示人以裒多益寡);復,德之本(次二十四卦,示氣變之始);恆,德之固(下經次二卦,示形化之始)。
孔子の暗中に顕示した「三陳九卦」は下のごとし。履卦は徳の根基(《序卦》の中でそれは第十に排す。「十」を用るを説明し、人に上下の分際を辨明せしむるを指示す)。謙卦は徳の柄把(第十五に排す。「十五」を用るを説明し、人に多きを減損し少なきを増益せしむるを指示す)。復卦は徳の根本(第二十四卦に排す。気化変動の開端を顕示す)。恒卦は徳の穏固(下経の中で第二卦に排す。形体化育の開端を顕示す)。
損,德之修;益,德之裕(此二卦示人以盛衰之端)。困,德之辨;井,德之地(此二卦示人以遷通之義)。巽,德之制(巽以行權,權者聖人之大用也,因事制宜、隨時變易之義備矣)。
損卦は徳の修治、益卦は徳の寛裕(この両卦は人に盛と衰との端倪を指示す)。困卦は徳の辨別、井卦は徳の処所(この両卦は人に遷移変通の道理を指示す)。巽卦は徳の裁断(巽はもって権変を行使す。「権」は聖人の最大の作用で、事に因り宜を制し時に随って変通する意義はここにいずれも斉備す)。
按:李邯鄲淑《書目》有《易龍圗》一卷,陳摶撰,朱子以為假書,其序則錄於《宋文鑑》。劉靜修云:「龍圗之說未必出於劉牧之前。」(牧受能圗於范諤昌,諤昌傳自李溉、許堅,則其書固先牧而出。)呂伯恭從而誤信之,猶張敬夫為戴師愈所欺也。希夷未聞有書。(《宋史·隠逸傳》:陳摶好讀易,著《指玄篇》,言導養及還丹之事,而無所謂龍圗者。)
胡渭の按語:邯鄲の人・李淑の《書目》に《易龍図》一巻を著録し、陳摶の撰と題す。朱熹はそれを偽書と認め、その序はすなわち《宋文鑑》の中に収められる。劉因(静修)がいう:「《龍図》の説法は未だ必ずしも劉牧より前に出現せず。」(劉牧は范諤昌より河図を承受し、范諤昌はまた李溉・許堅より伝わり、では《龍図》一書はもともと劉牧より早く出現した。)呂祖謙(伯恭)は因ってそれを誤信した。ちょうど張栻(敬夫)が戴師愈に騙されたがごとし。陳摶はかつて何らかの書を著したを聞かざった。(《宋史・隠逸伝》に記す:陳摶は《易》を読むを好み、《指玄篇》を著し、導引養生と還丹の事を講じたが、何らの《龍図》もなし。)
今觀其序之荒謬,則有不可勝言者。未合之數以為探三陳九卦之旨而得之,夫三陳九卦於「河出圗」之義有何干涉?比儗不倫,殊為可笑。
いまあの篇の序の荒謬を見れば、まさに説き勝えざるに近い。それは「未合之数」を三陳九卦の旨趣の中より探求し出たと説くが、しかし三陳九卦は「黄河出図」の意と何の相干かあらん。この比擬は毫も倫類せず、実に笑うべし。
又云「若龍圗本合,則聖人不得其象,故天必先散而示之」。夫以聖人之智,天即合而示之,聖人豈不能見其所分?且使天合而聖人果不能見其所分,當其散也,聖人又豈能合而用之邪?狂瞽之談,不足深辨。而宋景濂謂「序非圗南不能作」,甚矣儒者之易愚,非獨一呂伯恭也。餘姚黃先生云:「河出未合之圗,聖人合而用之,是伏羲畫卦又畫圗也。」一言破的,此書之偽妄灼然可覩矣。
序の中にまたいう:「若し龍図がもともと合攏したるならば、聖人はその象を得ず。ゆえに上天は必ず先ずそれを拆散して人に指示す。」聖人の智慧を凭れば、仮に上天が合攏して彼に見せたとしても、聖人はどうしてそれをいかに分かつべきかを看出さざるを得ようか。いわんや仮に上天が合攏して聖人が果して如何に分かつべきかを看つき得ざれば、それを拆散する時に当たり、聖人はまたどうしてそれを合して使用に供し得んや。この種の狂妄の瞎話は、細辨に値しない。しかるに宋濂(景濂)はついに「この篇の序は陳摶(図南)にあらざれば写し出せざる」といった。これを見れば儒者はあまりにも騙され易し。騙されたは呂祖謙一人のみにあらず。余姚の黄宗羲先生がいう:「黄河の出だしたるは未だ合攏せざるの図で、聖人はさらにそれを合して使用す。それなら伏羲はすでに卦を画き、また図を画いたことになる。」一句をもって要害を説き破る。この部の書の虚偽荒謬もまた昭然として見可し。
三陳九卦之義,其有合於龍圗者不可曉。雖然,彼既妄言之,吾不妨妄解之:葢天地未合之數、已合之位,一陳也;龍馬負圗,二陳也,所謂「散而示之」者也;伏羲復位五行生成之數、地上八卦之體,三陳也,所謂「合而用之」者也(詳見後)。仲尼不明言,而於《大傳》三陳九卦以微示其意,故曰「黙而形之」。作偽者之肺腸,容或如此。舊注泥九卦立解,則穿鑿無理甚矣。
三陳九卦の意はいったいどこが《龍図》に合せるや、実に理解し得難し。ただ作偽の者が胡乱にこのように説いた以上、私もまた妨げず胡乱に彼に代わって一解を為さん。おそらく天地の「未合之数」は「已合之位」と算して第一陳と為し、龍馬が図を駄して出づるを第二陳と算し、すなわちいわゆる「拆散して人に指示す」。伏羲が重新に五行生成之数・地上八卦之體を排定するを第三陳と算し、すなわちいわゆる「合して運用を加う」(詳細は後文に見る)。孔子は明言せず、ただ《繋辞伝》の中で三次に九卦を陳説し、隠約としてこの層の意を透露した。ゆえに「黙してこれを形す」という。作偽者の心思は、あるいはこのとおりか。旧注は死にあの九つの卦を摳して説を立てれば、すなわち穿鑿附会して毫も道理なし。
《東都事略·儒學傳》:陳摶讀《易》,以數學授穆修,以象學授种放,放授許堅,堅授范諤昌。
《東都事略・儒学伝》に記す:陳摶は《周易》を研読し、「数」を講ずる一路の学問を穆修に伝授し、「象」を講ずる一路の学問を种放に伝授した。种放はさらに許堅に伝え、許堅はさらに范諤昌に伝えた。これがすなわち宋代の易学図書之学の伝授譜系である。
按:馬令《南唐書》,許堅不知其家世,或曰晉長史穆之裔。形陋而怪,或寓廬阜白鹿洞,幘巾芒屩,短襴至骭,亦無齎裝,唯自負布囊,常括不解。每沐浴不脫衣,就澗浴,出而暵之。癖嗜魚,得大魚則全體而烹,不加酰鹽,熟而啖之。後或居茅山,或居九華,適意往返,人不能測。舊與錢若水善,若水後因轉挽江南,遇堅於簡寂觀,勉之以仕,則顰蹙不答。堅嘗至陽羨,人不之識。一日涉西津,臨波闊步若平地然,眾始神之,不知其所往雲。此亦是神仙面目,絶無儒者氣象,其自托於希夷之徒,有以也。
胡渭の按:馬令《南唐書》にいう、許堅の家世は人知らず。ある者は彼を東晋の長史・許穆之の後裔と言う。彼の相貌は醜陋古怪で、かつて廬山の白鹿洞に寄居し、頭に布幘を裹き脚に草鞋を穿き、短衣はただ小腿に垂れるのみ。身辺には並びに行装なく、ただ自ら一只の布口袋を背負い、口袋は常年扎えて従来解かざった。毎沐浴するや衣を脱がず、径ちに山澗に入りて洗い、出ればすなわちそれを晒乾するに任す。彼は魚を癖として嗜み、大魚を得れば便ち整条を鍋に下して煮、醋を加えず鹽を加えず、熟すればすなわち食う。後に彼はある時は茅山に住みある時は九華山に住み、随って心の欲するに往来し、人はその行踪を捉摸し得ざった。彼は早年に銭若水と交好し、銭若水は後に漕粮を督運して江南に至り、簡寂観に於て許堅に遇い、彼に出て官を為すを勧めたが、許堅はただ皺眉して答えざった。許堅はかつて陽羡に至るも、当地の人はみな彼を認識せず。ある日彼は西津を渡り、波浪を踏んで大步に行き、ちょうど平地を走るがごとし。衆人はこれをもってはじめて彼の神異と覚り、この後はすなわちその去向を知らざった。これは完全に一副の神仙面目で、丝毫も儒者の気象なし。彼の自ら陳摶(希夷)の一派の門徒と称するは、縁由有るものなり。
《宋史·儒林傳》:朱震有《漢上易解》,云:种放以河圗、洛書授李溉,溉傳許堅,堅傳范諤昌,諤昌傳劉牧,牧陳天地五十有五之數。其論圗書授受源委如此,葢莫知其所自雲。
《宋史・儒林伝》に記す:朱震は《漢上易解》を著し、その中に种放は河図・洛書を李溉に伝授し、李溉は許堅に伝え、許堅は范諤昌に伝え、范諤昌は劉牧に伝え、劉牧はここにおいて天地之数五十有五を推陈し出したという。朱震の河図洛書の授受源流を論述する説法はこのようで、おそらく彼自身もこの説法がいったいどこより来たるを知らざったのであろう。
晁氏《讀書志》:《易證墜簡》一卷,天禧中毘陵從事范諤昌撰,自謂其學出於湓浦李處約、廬陵許堅。(陳氏《書錄解題》又有《易源流圖》一卷。)
晁公武《郡斎読書志》に著録す:《易証墜簡》一巻は、宋真宗・天禧年間に毘陵従事・范諤昌の撰で、彼は自らその学問は湓浦の人・李処約と廬陵の人・許堅に出ると称す。(陳振孫《直斎書録解題》は別にまた范諤昌の《易源流図》一巻を著録す。)
按:《東都事略》言陳摶以象學授种放,放授許堅,象學者,河圗、洛書也。而朱震云:放以圗書授李溉,溉傳許堅,堅傳范諤昌,諤昌傳劉牧。晁公武云:諤昌自謂其學出於李處約、許堅。其說互異。溉與處約不知是一是二,諤昌又不言處約傳自誰氏,中間授受不甚分明,識者疑之。昔孟喜得《易》家候陰陽災變書,詐言師田生且死時枕喜厀,獨傳喜。又蜀人趙賓為《易》,持論巧慧,非古法,雲受孟喜,喜為名之。賓死,喜因不肻仞。(見《漢書·儒林傳》。)葢曲學授受之際,往往多依託隠諱,不可考究。李、許之學自附於种放,其亦田生獨傳孟喜不仞之類乎?
胡渭の按:《東都事略》は陳摶が「象学」を种放に伝え、种放は許堅に伝えたと言う。いわゆる象学とは、指すは河図・洛書である。しかるに朱震は却って种放は図書を李溉に伝え、李溉は許堅に伝え、許堅は范諤昌に伝え、范諤昌は劉牧に伝えたと言う。晁公武はまた范諤昌は自らその学は李処約・許堅に出ると称したと言う。三種の説法は彼此矛盾す。李溉と李処約とはいったい一人か両人かも弄清楚らず、范諤昌はまた李処約の学問は何人より伝わるを言わざった。中間幾代の授受関係は並びに分明ならず。明眼の人は早くすでに起疑せり。従前の孟喜は《易》家の占候陰陽災変の書を得れば、すなわち謊って師の田王孫が死に臨む時に彼の膝上を枕して学問を単独に彼に伝えたと言った。また蜀人の趙賓は《易》を治め、立論は機巧新奇で古法に合わざったが、孟喜より受けたと言い、孟喜もまた彼のために目を張った。趙賓一死するを待ち、孟喜は便ちこの事を承認することを肯んぜざった。(《漢書・儒林伝》に見える。)たいてい偏曲之学は授受の際に、往々仮託と隠諱とが多く、考究する由なし。李溉・許堅の学問が自ら上は种放に接すると称するは、恐らくすなわち田王孫が孟喜に独伝し、孟喜が事後にまた帳を認めざったたぐいの把戯であろう。
空山雷氏思齊《易圗通變》曰:由漢而唐,《易經》行世,凡經傳疏釋之外,未有及於圗書之文刋列經首者。迨故宋之初,陳摶圗南始創意推明象數,自謂因玩索孔子三陳九卦之義,得其逺旨,新有書述,特稱《龍圗》。離合變通,圗第一為龍馬圗,餘二十是全用《大傳》天地五十有五之數,雜以納甲,貫穿《易》理。內一圗謂形九宮,附一圗謂形洛書者,則盡去其五生數,秖起地六至地十,自釋十為用、十為成形,故《洪範》陳五行之用數語而已。及終其書,再出兩圗:其一形九宮者,元無改異,標為河圗;其一不過盡置列《大傳》五十有五之數於四方及中,而自標異謂為洛書,並無傳例言說。
空山道人・雷思斉《易図通変》にいう:漢代より唐代に至るまで、《易経》は世に流行し、経・伝と注疏解説のほかに、かつて図書のたぐいの文字を経首に刊刻排列したことはなかった。宋朝初年に至り、陳摶(字は図南)ははじめて別出心裁に象数を推演闡明し、自ら孔子が《繋辞》の中で三次に九卦を陳説する用意を玩味して、その中の深遠の旨趣を領悟し、そこで新たに一部の著作を写し成し、特に題して《龍図》と名づけたと称す。書中は図の離合変通を講じ、第一幅は龍馬図で、残りの二十幅は全て《繋辞》の天地五十有五之数を用い、納甲之法を摻雑して、もって《周易》の義理を貫串す。その中の一幅は九宮を描摸するといい、別に一幅を附して洛書を描摸するというが、却って五つの生数を全部去掉して、ただ地六より起こり地十に至るまでとした。彼は自ら解釈して、十は「用」・十は「成形」なので、《尚書・洪範》が五行之用を陳述するは寥寥たる数語に過ぎないという。全書の末尾に至り、また両幅の図を出す。その一は九宮を描摸し、原様のまま毫も改動せず、却って河図と標す。その一はただ《繋辞》の五十有五之数を尽数に四方と中央とに排布するに過ぎないのに、自ら新意を出して洛書と標称す。何らの伝承体例上の説明もなし。
圗南之後,种放、許堅、李溉未及見其它有著述。若劉長民所親授之師如范諤昌,所著《大易源流》,其稱龍馬負圗出河,羲皇窮天人之際,復位五行生成之數、地上八卦之體,故老子自西周傳授孔子造《易》之原。天一正北,地二正南,天三正東,地四正西,天五正中央,地六配子,天七配午,地八配卯,天九配酉,地十配中寄於未,乃天地之數五十有五矣。因考其既以圗之前五數置於北南東西之正及中,復以後五數配子午卯酉及中,何也?夫子午卯酉非四方之正邪?地十配中雲寄於未,夫中抑有未邪?諦詳所置之數,正今圗所傳有四方而無四維者。是諤昌元不識圗南所以標異,特因《太玄》準《易》,取於《洪範》一水、二火、三木、四金、五土而然,鑿空無故,造端老子,増立怪論,以實圗南易置二七四九之位耳。
陳摶の後は、种放・許堅・李溉はみな別の著述あるを見ず。劉牧(字は長民)の親承の師・范諤昌に至っては、彼の著した《大易源流》の中にいう:龍馬は図を負いて黄河に出で、伏羲は天人之際を窮究し、重新に五行生成之数と地上八卦之體を排定した。ゆえに老子は西周より《周易》の創作の本原を孔子に伝授した。またいう:天一は正北に、地二は正南に、天三は正東に、地四は正西に、天五は正中央に在り。地六は子に配し、天七は午に配し、地八は卯に配し、天九は酉に配し、地十は中に配して未に寄す。合してすなわち天地之数五十有五。私はこれに因って考究す。彼はすでに前の五つの数を北・南・東・西の四正と中央に安放したるに、なぜまた後の五つの数を子・午・卯・酉と中央とに配するか。子・午・卯・酉は豈にまさに四方の正位ならざらんや。地十を中に配すと説きながら却って「未に寄す」という。中央に豈に別に一つの未位有らんや。彼の安排する数を細察すれば、ちょうどいま流伝する図の四正有りて四隅なきの様子である。これを見れば范諤昌は根本的に陳摶の標新立異の用意を懂得せず、ただ揚雄《太玄》が《周易》を比擬し、《洪範》の一水・二火・三木・四金・五土之説を取用したに因りて、彼はそれに照らして排布したにすぎない。空より拠なく、源頭を老子の身に攀附し、怪誕の議論を増設するは、非なればすなわち陳摶の二七・四九方位を移換する做法を坐実せんと欲したにすぎない。
按:雷氏所言,則似親見《龍圗》之書者,然不著其形象,唯清江張氏《易象圗說》載之頗詳,謹列如左。
胡渭の按:雷思斉のこの言に照らして見れば、彼はあたかも《龍図》の原書を親見した人のごとし。惜しいかな彼は図の形状を描摸し出さなかった。ただ清江の張理の《易象図説》に記載が相当に詳細あるのみ。いま謹んで次第に下に列挙す。
右龍圗天地未合之數。張氏曰:上位天數也。天數中於五,分為五位,五五二十有五;積一、三、五、七、九,亦得二十五焉。五位縱橫見三,縱橫見五;三位縱橫見九,縱橫見十五。序言「中貫三五九,外包之十五」者,此也。下位地數也。地數中於六,亦分為五位,五六凡三十;積二、四、六、八、十,亦得三十焉。序言「十分而為六,形地之象」者,此也。
以上は龍図の「天地未合之数」。張理がいう:上面の一位は天数である。天数は五をもって中と為し、五位に分かれ、五乘五は二十五を得る。一・三・五・七・九を累加しても、またちょうど二十五。五つの位が縦横に排して三を現し、縦横に排して五を現し、三つの位が縦横に排して九を現し、縦横に排して十五を現す。《龍図序》のいう「中は三五九を貫き、外は十五を包む」とは、指すはこれ。下面の一位は地数である。地数は六をもって中と為し、また五位に分かれ、五乘六は合して三十。二・四・六・八・十を累加しても、またちょうど三十。《龍図序》のいう「十分して六と為し、地之象を形す」とは、指すはこれ。
古龍圗天地已合之位。張氏曰:上位象也。合一、三、五為參天,偶二、四為兩地,積之凡十五,五行之生數也。即前象上五位:上五去四得一,下五去三得二,右五去二得三,左五去一得四,惟中□不動。序言「天一居上,為道之宗」者,此也。案《律歴志》云「合二始以定剛柔」,一者陽之始,二者陰之始。今則此圗,其上天○者,一之象也;其下地□者,之象也;其中天□者,四象五行也。左上一○太陽,為火之象;左上一○少陰,為金之象;左下一○少陽,為木之象;右下一○太陰,為水之象。土者,沖氣居中,以運四方,暢始施生,亦陰亦陽。右旁□三才之象,卦之所以畫三;左旁□四時之象,蓍之所以揲四。是故上象一二三四者,蓍數卦爻之體也。
これは龍図の「天地已合之位」。張理がいう:上面の一位が講ずるは「象」。一・三・五のこの三つの奇数を合して「参天」と呼び、二・四のこの両つの偶数を合して「両地」と呼び、累加して合して十五。これがすなわち五行の生数。すなわち前の一幅の図の上面の五つの位:上辺の五は四を去って一を得、下辺の五は三を去って二を得、右辺の五は二を去って三を得、左辺の五は一を去って四を得。ただ中間の□は動かず。《龍図序》のいう「天一は上に居りて道の宗と為る」とは、指すはこれ。按ずるに《漢書・律暦志》に「二始を合して剛柔を定む」という。一は陽の開端で、二は陰の開端。いまこの図を見れば、上面の天に属する○は、すなわち一の象。下面の地に属する□は、すなわち二の象。中間の天に属する□は、すなわち四象五行。左上の一つの○は太陽で、火之象と為す。左上の一つの○は少陰で、金之象と為す。左下の一つの○は少陽で、木之象と為す。右下の一つの○は太陰で、水之象と為す。土は冲和之気が中央に居り、もって四方を運化し生機を暢達し生養を施布す。すなわち陰に属しまた陽に属す。右旁の□は三才之象で、ゆえに卦は三画を画くを要す。左旁の□は四時之象で、ゆえに揲蓍は四本をもって数うを要す。ここをもって上面の象ずる所の一・二・三・四は、蓍数と卦爻の「體」である。
下位形也。九、八、七、六,金木水火之成數,中見地十土之成數也。即前象下五位,以中六分開,置一在上六而成七,置二在左六而成八,置三在右六而成九,惟下六不配而自為六。序言「六分而成四象,地六不配」者,此也。案七者蓍之圎,七七而四十有九;八者卦之方,八八而六十有四;九者陽之用,陽爻百九十二;六者陰之用,陰爻亦百九十二;十者大衍之數,以五乘十,以十乘五,而亦皆得五十焉。是故下形六七八九者,蓍數卦爻之用也。上體而下用,上象而下形,象動形靜,體立用行,而造化不可勝既矣。
下面の一位が講ずるは「形」。九・八・七・六は、金・木・水・火の成数で、中間は地十を現す。すなわち土の成数。すなわち前の一幅の図の下面の五つの位:中間の六を分けて、一を上面の六の上に放てば七と成り、二を左辺の六の上に放てば八と成り、三を右辺の六の上に放てば九と成る。ただ下面の六は他数と相配せず自ら成じて六と為る。《龍図序》のいう「六は分かれて四象と成り、地六は配せず」とは、指すはこれ。按ずるに:七は蓍策之円で、七七相乘は四十九。八は卦體之方で、八八相乘は六十四。九は陽之用で、陽爻は合わせて一百九十二。六は陰之用で、陰爻もまた一百九十二。十は大衍之数で、五乘十・十乘五もまた五十を得る。ここをもって下面の形ずる所の六・七・八・九は、蓍数と卦爻の「用」である。上は體と為し下は用と為し、上は象と為し下は形と為し、象は動を主とし形は静を主とし、體すでに確立すれば用はすなわち運行し、ここにおいて造化之妙は窮尽し尽くさるるなし。
案:一二三四,天之象,象變於上;六七八九,地之形,形成於下。上下相重而為五行,則左右前後生成之位是也;上下相交而為八卦,則四正四隅九宮之位是也。今以前後圗參考,當如太乙遁甲陰陽二局圗:一二三四猶遁甲天盤在上,隨時運轉;六七八九猶遁甲地盤在下,布定不易。法明天動地靜之義,而前此諸儒未有能發其旨。
張理がまた按ずる:一・二・三・四は天之象で、象は上面で変化す。六・七・八・九は地之形で、形は下面で凝成す。上下の両層は相畳合して五行と成り、すなわち左右前後の生数成数相配の方位。上下の両層は相交錯して八卦と成り、すなわち四正四隅の九宮の方位。いま前後の両幅の図を取って対照参看すれば、太乙遁甲の陰陽二局図のごとくすべし。一・二・三・四は遁甲の天盤に比して上に在り、時序に随って運転す。六・七・八・九は遁甲の地盤に比して下に在り、布定して移らず。この一套の办法は天動地静の道理を講じ明したが、これ以前の諸位の儒者は一人としてその旨趣を発明し得た者がなかった。
是故一在南,起法天象,動而右轉。初交,一居東南,二居西北,三居西南,四居東北,四陽班布居上右,四陰班布居下左,分陰分陽而天地設位。再交,一居東北,二居西南,三居東南,四居西北,則牝牡相銜而六子卦生。合是二變,而成先天八卦自然之象也。然後重為生成之位,則一六、二七、三八、四九陰陽各相配合,即邵子、朱子所述之圗也。三交,一居西北,二居東南,三居東北,四居西南,則剛柔相錯而為坎離震兊。四交,一居西南,二居東北,三居西北,四居東南,則右陽左陰而乾坤成列。合是二變,而成後天八卦裁成之位也。再轉則一復於南矣。《大傳》所謂「參伍以變,錯綜其數」,劉歆云「河圗洛書相為經緯,八卦九章相為表裡」,此其義也。
ゆえに一は南方に起こり、天象を取法し、運動して右に旋転す。第一次の交変は、一は東南に至り、二は西北に至り、三は西南に至り、四は東北に至り、四つの陽数は上方の偏右に分布し、四つの陰数は下方の偏左に分布し、陰陽は分判して天地は各々その位に就く。第二次の交変は、一は東北に至り、二は西南に至り、三は東南に至り、四は西北に至り、ここにおいて雌雄は相衔接して震・坎・艮・巽・離・兌の六子卦は産生す。この両次の変化を合せば、すなわち先天八卦自然之象と成る。然る後さらに生成之位に畳合すれば、すなわち一と六・二と七・三と八・四と九の陰陽各自相配で、すなわち邵雍・朱熹の講述したあの幅の図である。第三次の交変は、一は西北に至り、二は東南に至り、三は東北に至り、四は西南に至り、ここにおいて剛柔交錯して坎・離・震・兌と成る。第四次の交変は、一は西南に至り、二は東北に至り、三は西北に至り、四は東南に至り、ここにおいて右陽左陰にして乾坤は成列す。この両次の変化を合せば、すなわち後天八卦裁成之位と成る。さらに旋り下れば、一はすなわちまた南方に帰る。《繋辞》のいう「参伍して以て変じ、其数を錯綜す」、劉歆のいう「河図と洛書とは互いに経緯と為り、八卦と九章とは互いに表裏と為る」は、講ずるはまさにこの道理。
右龍圗天地生成之數。張氏曰:此即前圗一二三四,天之象也,動而右旋;六七八九,地之形也,靜而正位。是故一轉居北而與六合,二轉居南而與七合,三轉居東而與八合,四轉居西而與九合,五十居中而為天地運行之樞紐。《大傳》言「錯綜其數」者,葢指此而言。錯者,交而互之,一左一右,三四往來是也;綜者,總而挈之,一低一昂,一二上下是也。分作二層看之,則天動地靜上下之義昭然矣。
以上は龍図の「天地生成之数」。張理がいう:これがすなわち前の一幅の図の中の一・二・三・四で、天之象に属し、運動して右に旋る。六・七・八・九は地之形に属し、静止して各々その位を正しくす。ゆえに一は転じて北方に至り六と会合し、二は転じて南方に至り七と会合し、三は転じて東方に至り八と会合し、四は転じて西方に至り九と会合し、五と十とは中央に居りて天地運行の枢紐と為る。《繋辞》のいう「其数を錯綜す」は、おそらく指すはこれ。いわゆる「錯」は、交叉して互換す。一は左に一は右に在り、三と四とが往来対調すればすなわちこれ。いわゆる「綜」は、総攬して提挈す。一は低に一は高に在り、一と二とが上下相畳すればすなわちこれ。それを上下の両層に分けて看れば、天動地静・上體下用の意は一目瞭然である。
右河洛縱橫十五之象。張氏曰:《洪範》「初一曰五行,次二曰敬用五事,次三曰農用八政,次四曰協用五紀,次五曰建用皇極,次六曰又用三德,次七曰明用稽疑,次八曰念用庶徵,次九曰向用五福、威用六極」,漢儒以此六十五字為洛書本文。而希夷所傳,則以此為龍圗三變,以生成圗為洛書本文,葢疑傳寫之誤而啟圗九書十之辨。今以二象兩易其名,則龍圗龜書不煩擬議而自明矣。
以上は河洛の「縦横十五之象」。張理がいう:《尚書・洪範》の中の「初一に五行といい、次二に五事を敬用すといい、次三に八政を農用すといい、次四に五紀を協用すといい、次五に皇極を建用すといい、次六に三徳を乂用すといい、次七に稽疑を明用すといい、次八に庶徴を念用すといい、次九に五福を嚮用し六極を威用すといいう」のこの六十五字は、漢代の儒者はすなわち洛書の本文と認めた。しかるに陳摶(希夷)の伝えた所は却ってこの一図をもって龍図の第三変と為し、反って生成之図をもって洛書本文と為す。おそらく伝写の誤を疑い、因って「河図九、洛書十」の争論を引出したのであろう。いまこの両つの図象の名称を互換すれば、龍図と亀書とは議論を再費さずして自然に分明せん。
按:以上四圗並見《易象圗說》內篇,清江張理仲純所著也。其第一為天地未合之數,上位以五五為天數二十有五,下位以五六為地數三十,葢漢《律歴志》云「天之中數五,地之中數六」,故依託為此圗也。第二為天地已合之位,上位一上、二下、四左、三右、五居其中,即劉牧所謂上下未交之象也。及其已交,則天一下生地六,地二上生天七,天三左生(天地未合之數,一變也;已合之位,二變也;龍馬負圗,三變也)地八,地四右生天九,故下位六七八九十皆以生數乘中五而得之,即劉牧之洛書五行成數也。其縱橫十五之象,本龍圗三變,劉牧所謂龍馬負圗是也,雷氏以為河圗,張氏易其名曰洛書;天地生成之數,即范諤昌所謂羲皇復位五行生成之數、地上八卦之體者也,雷氏以為洛書,張氏易其名曰河圗。
胡渭の按:以上の四幅の図はみな《易象図説》の内篇に見え、清江の人・張理(字は仲純)の著である。第一幅は「天地未合之数」で、上位は五つの五をもって天数二十五と為し、下位は五つの六をもって地数三十と為す。おそらく《漢書・律暦志》の「天之中数は五、地之中数は六」といえるに因りて、この両句に依託してこの図を造出したのであろう。第二幅は「天地已合之位」で、上位は一は上に二は下に四は左に三は右に五は中央に居る。すなわち劉牧のいう上下未交之象。已交に至っては、すなわち天一は下に向かい地六を生じ、地二は上に向かい天七を生じ、天三は左に向かい(天地未合之数は第一変、已合之位は第二変、龍馬負図は第三変)地八を生じ、地四は右に向かい天九を生ず。ゆえに下位の六・七・八・九・十はみな生数をもって中央の五を乗じて得たるもので、すなわち劉牧の講ずる洛書の五行成数。「縦横十五之象」に至っては、もともと龍図の第三変で、すなわち劉牧のいう龍馬負図。雷思斉はそれを河図と認め、張理は却って名字を換えて洛書と為した。「天地生成之数」は、すなわち范諤昌のいう「伏羲は重新に五行生成之数・地上八卦之體を排定す」のあの一幅で、雷思斉はそれを洛書と認め、張理は却って名字を換えて河図と為した。
今考之本書,縱橫十五之象,九數各居一位,故序曰「天散而示之」;天地生成之數,一六、二七、三八、四九、五十皆耦居一方,故序曰「伏羲合而用之」。河圗之數四十有五,洛書五十有五,本象元自如此。張氏宗《啟蒙》,恐啟圗九書十之辨,故疑為傳寫之誤而兩易其名。然劉牧師范諤昌,諤昌師李溉、許堅,三傳弟子,一脈相承,使圗書果如張氏所列,而牧輒兩易之,是入室而操戈也,其何以取信於當世而學者翕然宗之乎?西山謂圗九書十出於劉牧之意見,非也,而張氏宗之亦過矣。
いま《龍図》の本書を考察すれば:縦横十五之象は、九つの数が各々一位を占む。ゆえに《龍図序》に「天は散じてこれを示す」という。天地生成之数は、一と六・二と七・三と八・四と九・五と十とはみな対を成して一方に聚居す。ゆえに《龍図序》に「伏羲は合してこれを用う」という。河図之数は四十五、洛書之数は五十五。この両つの図象はもともとこのようである。張理は朱熹《易学啓蒙》を尊奉し、「河図九、洛書十」の争論を引き起こすを恐れて、そこで伝写の誤と疑いて両者の名称を対調した。しかし劉牧は范諤昌に師従し、范諤昌は李溉・許堅に師従した。三代相伝の弟子は一脈相承する。仮に河図洛書が果して張理の排列したがごときなら、而も劉牧がついに両者を対調したれば、すなわちそれは登堂入室してかえって老師の戈矛を取って老師を攻撃するもので、彼はまた何を凭って当世に取信し、学者らをして一致して尊奉せしめ得んや。蔡元定(西山)の「河図九、洛書十」は劉牧個人の臆見に出るというは、これは正しくない。しかして張理がこの説に沿襲するも、また未だ过分を免れざった。
易圗以白為陽、黑為陰,自《參同》水火匡廓始,其後先天太極圗亦然。而《龍圗》則獨用奇白偶黑之點,序曰「天之垂象,的如貫珠」,自一至於盈萬,皆累累然如繫之於縷也。因於點間為墨絲以聮絡之,使若貫珠然,思之可發一笑。前此未有此狀,圗出希夷之後,是亦一證也。雷氏不知《龍圗》源出湓廬,非華山道士所作,故以為希夷必不如此,而歸其罪於諤昌,此亦莫須有之獄。至以復位五行生成之數為老子自西周傳孔子,不知出何典記,鑿空造端,増立怪論,誠有如雷氏所譏者,諤昌直一妄人耳。語曰「不知其形視其景」,景曲則形必曲,觀諤昌之言,則李、許之為人從可知矣。
易図に白点をもって陽と為し黒点をもって陰と為すは、《周易参同契》の水火匡廓図より始まる。後の先天太極図もまたこのよう。しかるに《龍図》は単々奇数に白点・偶数に黒点を用い、《龍図序》に「天之垂象は、的として貫珠のごとし」といい、一より万に満つるまで、みな密密麻麻として一本の絲線に串るがごとし。そこで点と点の間に墨線を画いて連綴せしめ、一串の珠子のごとくなし成した。思えば真に人をして発笑せしむ。この以前にかつてこの種の様式なし。これを見ればこの図は陳摶の後に出たり。これもまた一条の証拠なり。雷思斉は《龍図》が湓浦・廬陵のこの一系に源出して、華山道士・陳摶の作にあらざるを知らず。ゆえに陳摶は必ずこのように至らずと認定し、罪過を全て范諤昌の頭上に帰した。これもまた一つの「莫須有」の冤獄なり。「重新に五行生成之数を排定す」を老子が西周より孔子に伝えたと説くに至っては、どの典籍の記載に出るを知らず。空より説を立て怪論を増設す。確かに雷思斉の譏諷したがごとく、范諤昌はまさに一個の妄人にすぎない。俗語に「形体のいかなる様かを知らざれば、すなわちその影を看よ」という。影は弯なれば、形体は必ず弯なり。范諤昌のこの言論を看れば、李溉・許堅の為人もまた推して知るべし。
右論龍圗。
以上は《龍図》一書の真偽を考弁した部分。
易数鈎隠図
三衢劉氏牧《鉤隠圗序》曰:夫《易》者,陰陽氣交之謂也。若夫陰陽未交,則四象未立;八卦未分,則萬物安從而生哉?是故兩儀變易而生四象,四象變易而生八卦,重卦六十四卦,於是乎天下之能事畢矣。夫卦者,聖人設之,觀於象也;象者,形上之應。原其本,則形由象生,象由數設,舍其數則無以見四象所由之宗矣。是故仲尼之贊《易》也,必舉天地之極數以明成變化而行鬼神之道,則知《易》之為書,必極數以知其本也。詳夫註疏之家,至於分經析義,妙盡精研,及乎解釋天地錯綜之數,則語惟簡略,與《繫辭》不偶,所以學者難曉其義也。今採摭天地奇偶之數,自太極生兩儀而下,至於復卦,凡五十五位,點之成圗,於逐圗下各釋其義,庶覽之者易曉耳。夫《易》道淵邈,雖往哲難窺於至賾,牧也蕞生祖述,誠媿其狂簡,然象有定位,變有定數,不能妄為之穿鑿耳,博雅君子試為詳焉。
三衢の人・劉牧《易数鈎隠図序》にいう:いわゆる《周易》は、講ずるはすなわち陰陽二気の交感である。倘くも陰陽交わらざれば、四象は立つに由なく、八卦分かざれば、万物はまたどこより産生せんや。ゆえに両儀は変化して四象を生じ、四象は変化して八卦を生じ、八卦は重畳して六十四卦と成り、天下の一切の事理はここにおいて窮尽す。卦は聖人の設立したもので、物象の観察より来たる。象はすなわち形而上者の感応である。その本根を推原すれば、形は象より生じ、象は数より設定さる。数を捨去すればすなわち四象の自ずと出づる本源を見るに由なし。ゆえに孔子は《周易》を賛述するに、必ず天地の極数を挙出して「変化を成し鬼神を行う」の道理を闡明す。これを見れば《周易》という書は、必ず数を窮究してはじめてその根本を知り得。従来の注疏の諸家を細看すれば、経文を分辨し義理を剖析するに講ずるは精妙詳審というべし。一たび天地錯綜之数を解釈するに至れば、すなわち語焉として詳ならず、《繋辞》と対せず。ゆえに学者はその中の意を明白にし難し。いま私は天地奇偶之数を采集し、太極の両儀を生ずるより下りて、復卦に至るまで、合わせて五十五個の位次を点画して図と成し、毎幅の図の下に各々その義理を解説す。看る人の容易に明白ならんを願う。《周易》之道は深遠にして、仮に前代の哲人もその極深処を窺見し難し。我・劉牧は一介の小人物にして妄りに祖述を加う。実に己が狂簡を慙ず。ただ象に一定の方位有り変に一定の数目有りて、我は並びに胡乱に穿鑿せざるのみ。博雅の君子が我のために詳しく審定せられんことを請う。
晁氏《讀書志》曰:《易解》十五卷,劉牧長民撰。仁宗時,言數者皆宗之。慶歴初,吳秘獻其書於朝,優詔奬之,田況為序。又有《鉤隠圗》三卷,皆《易》之數也,凡五十五圗,並《遺事》九,有歐陽永叔序,而其文殊不類。
晁公武《郡斎読書志》にいう:《易解》十五巻は、劉牧(字は長民)の撰。宋仁宗の時、象数を講ずる者はみな彼を尊奉した。慶暦初年、呉秘はこの書を朝廷に進献し、仁宗は優詔を下して褒奨し、田況はそれに序を為した。劉牧は別に《易数鈎隠図》三巻あり、講ずるはみな《周易》之数で、合わせて五十五幅の図に、外に《遺事》九則を加え、巻首に欧陽脩(字は永叔)の序有り。しかしあの篇の序の文字風格は、欧陽脩の手筆に甚だ似ず。
渭按:歐公與劉牧同時,位尊望重,不信圗書,乃祖述《鉤隠》者之所憂,故其序託名歐公以欺世。千載而下,黨同作偽者之肺肝,猶如見之也。
胡渭の按:欧陽脩は劉牧と同時で、地位は尊崇・声望は隆重なるに、河図洛書之説を信ぜざった。これはまさにあの《易数鈎隠図》を祖述する者らの憂える所である。ゆえにあの篇の序は欧陽脩の名を仮託して世人を欺瞞した。千年の後、これらの結党附和・文字を偽造する人の肺腑肝腸は、なお親見するがごとく清清楚楚なり。
三百年來,學者唯知有《本義》卷首所列之圗書,而不復問其原委,故餘詳考《龍圗》及《鉤隠》,以著謬種所自出,使學者參觀而猛省焉,非為其有當於聖人之《易》而錄之也。
三百年來、学者はただ朱熹《周易本義》の巻首に列するあの両幅の河図洛書あるを知り、却ってその来歴原委を追問せざった。ゆえに私は詳しく《龍図》と《易数鈎隠図》とを考究し、もってこの荒謬種子の出処を揭示し、学者をして対照参看して猛然として醒悟せしめんとす。それらが聖人の《周易》に合するに因りてそれらを収録し入れたのではない。
劉氏曰:昔虙犧氏之有天下,感龍馬之瑞,負天地之數出於河,是為龍圗者也。戴九履一,左三右七,二與四為肩,六與八為足,五為腹心,縱橫數之皆十五,葢《易繫》所謂「參伍以變,錯綜其數」者也。太皥乃則而象之,遂因四正定五行之數。以陽氣肇於建子,為發生之源;陰氣萌於建午,為肅殺之基。二氣交通,然後變化,所以生萬物焉、殺萬物焉。且天一生坎,地二生離,天三處震,地四居兊,天五由中,此五行之生數也。且孤陰不生,獨陽不發,故子配地六,午配天七,卯配地八,酉配天九,中配地十。既極五行之成數,遂定八卦之象,因而重之,以成六十四卦、三百八十四爻,此聖人設卦觀象之奧旨也。
劉牧がいう:従前の伏羲氏が天下を統治するや、龍馬の祥瑞を感召し来たり、龍馬は天地之数を背負して黄河の中より出現した。これがすなわち龍図である。それは頭に九を戴き脚に一を履み、左に三・右に七、二と四とを両肩と為し、六と八とを両足と為し、五は腹心之位に居り、縦に横に相加していずれも十五。これがすなわち《繋辞》のいう「参伍して以て変じ、其数を錯綜す」である。太皥・伏羲はここにおいてそれを取法描摸し、便ち四正之位に依りて五行之数を確定した。陽気は建子之月に発端し、万物発生の源頭なり。陰気は建午之月に萌動し、万物粛殺の基礎なり。二気は交感貫通して、然る後に変化生ず。ゆえに万物を生養し得、また万物を粛殺し得。さらに天一は坎を生じ、地二は離を生じ、天三は震に処り、地四は兌に居り、天五は中に由る。これがすなわち五行の生数。しかも孤陰は生育能わず、独陽は発育能わず。ゆえに子は地六に配し、午は天七に配し、卯は地八に配し、酉は天九に配し、中央は地十に配す。五行の成数すでに窮尽すれば、ここにおいて八卦之象を確定し、さらに重畳を加えて、六十四卦・三百八十四爻を構成す。これがすなわち聖人の設卦観象の深奥の旨趣である。
今龍圗其位有九,四象八卦皆所包蘊,且其圗縱橫皆合天地自然之數,則非後人能假偽而設之也。
いまこの幅の龍図は九つの位次有り、四象と八卦とはみなその中に包藴さる。しかもそれは縦横相加してみな天地自然之数に合す。これを見れば後人の偽造設立し得る所にあらず。
河圖兩儀(此即龍圖天地已合之上位而虛其中也)。河圖四象(此即龍圖天地已合之下位而虛其中也)。河圖八卦(關子明則圖畫卦之說與此無異)。
河図両儀図(これはすなわち龍図の「天地已合之位」の上位で、ただ中間を空け出したのみ)。河図四象図(これはすなわち龍図の「天地已合之位」の下位で、また中間を空け出したのみ)。河図八卦図(関朗、字は子明。河図に依りて卦を画くと説くは、この一幅と並びに不同ならず)。
劉氏曰:原夫八卦之宗,起於四象。四象者,五行之成數也。水數六,除三畫為坎,餘三畫布於亥上成乾;金數九,除三畫為兊,餘六畫布於申上成坤;火數七,除三畫為離,餘四畫布於已上成巽;木數八,除三畫為震,餘五畫布於寅上成艮。此所謂四象生八卦也。
劉牧がいう:八卦の本源を推究すれば、四象に起こる。いわゆる四象は、すなわち五行の成数。水数は六で、三画を扣除して坎卦を作し、残りの三画を亥位の上に布置して乾卦と成す。金数は九で、三画を扣除して兌卦を作し、残りの六画を申位の上に布置して坤卦と成す。火数は七で、三画を扣除して離卦を作し、残りの四画を巳位の上に布置して巽卦と成す。木数は八で、三画を扣除して震卦を作し、残りの五画を寅位の上に布置して艮卦と成す。これがすなわちいわゆる「四象は八卦を生ず」である。
雷氏《易圗通變》曰:究核諤昌之取用,不過循納甲之緒餘,及五子歸庚之殊向,又謂天上八卦,坎離對中之外,移置乾兊坤於東,艮震巽於西。不謂五行之說多起於《易》後,而反引五行以為定卦之原,此又其敢於創異之大端也。是宜長民不獨増以五十五圗,又因諤昌坎離震兊四正之外,而以四成數同於四方,謂坎六退本卦三數,以餘三數三畫為乾;離七退本卦三數,以餘四數四畫為巽;震八退本卦三數,以餘五數五畫為艮;兊九退本卦三數,以餘六數六畫為坤,皆以數為畫,標為河圗,是不揣本而齊末。夫八卦各三畫,以剛柔生爻,未聞本卦止用三畫,而以其餘畫之多反分為別卦也。所陳之數抑配偶然,且以坎離震兊為四象,則尤非也。象本在未成卦之先,故曰四象生八卦也。
雷思斉《易図通変》にいう:范諤昌の取用する所を細究すれば、ただ納甲之説の余緒を沿襲し、および「五子帰庚」のあの一套の別様の取向に過ぎざるなり。彼はまた何らの天上八卦を講じ、坎離の相対して中に居るを除くのほか、乾・兌・坤を東方に移置し、艮・震・巽を西方に移置す。彼は五行之説がたいてい《周易》の後に興起せるを想わずして、反って五行を援引して定卦の本原と為す。これもまた彼が敢えて標新立異する一大端なり。劉牧が五十五幅の図に增补したのみならず、また范諤昌の坎・離・震・兌が四正に居るの説法に依って、四つの成数を四方に配して、坎六は本卦の三数を退去し、残りの三数三画を用いて乾を作し、離七は本卦の三数を退去し、残りの四数四画を用いて巽を作し、震八は本卦の三数を退去し、残りの五数五画を用いて艮を作し、兌九は本卦の三数を退去し、残りの六数六画を用いて坤を作すと説いたも無理ならざらんや。全て数を取って画と為し、さらに標称して河図と為す。これは根本を揣度せずしてただ末节の斉整を求むるなり。八卦は各々三画有り、剛柔生成の爻位に頼る。かつて本卦はただ三画を用い、反って多き出づる画数を別に分かちて別の卦を作るとは聞かざった。彼の陳列する数はただ勉强に凑合するに過ぎず。いわんや坎・離・震・兌を取って四象と為せば、すなわちいよいよ錯なり。象はもともと卦を成す前に在り。ゆえに《繋辞》ははじめて「四象は八卦を生ず」と言い得る。
按:希夷天地自然之圗宗《參同契》,用乾南坤北、離東坎西之位,而《鉤隠》仍以坎離震兊居四正,乾坤艮巽居四隅,即此一端,亦足以證《龍圗》之本不出於希夷矣。
胡渭の按:陳摶(希夷)の「天地自然之図」は《周易参同契》を宗奉し、乾を南・坤を北・離を東・坎を西の方位を採用す。しかるに《易数鈎隠図》は却って坎・離・震・兌を四正に居らしめ、乾・坤・艮・巽を四隅に居らしむ。ただこの一点を凭るのみでも、また《龍図》がもともと陳摶の手に出たものにあらざるを証明するに足る。
洛書五行生數。洛書五行成數(以上二圖合之,即是羲皇復位五行生成之數)。
洛書五行生数図。洛書五行成数図(以上の両幅の図を合せれば、すなわち范諤昌のいう伏羲の重新に排定せる五行生成之数)。
劉氏曰:或問:洛書一曰水,二曰火,三曰木,四曰金,五曰土,則與龍圗五行之數之位不偶者何也?答曰:此謂陳其生數也。雖則陳其生數,乃是已交之數,下篇分土王四季,則備其成數矣。且夫洛書九疇,惟出於五行之數,故先陳其已交之生數,然後以土數足之,乃可見其成數也。
劉牧がいう:ある者問う。洛書に「一を水といい、二を火といい、三を木といい、四を金といい、五を土という」というが、これは龍図の中の五行之数の居する方位と対せざるは、何の故か。答えていう:ここに説くは生数を陳列するもの。陳列するは生数なりといえども、却ってすでに陰陽交合の後の数なり。下篇は土の四季に王たるを講じ、すなわち成数を補全す。いわんや洛書九疇はただ五行之数より推して出だしたるのみ。ゆえに先ず已交之生数を陳列し、然る後に土数をもって补足し、はじめてその成数を見出し得。
《書》之九疇,惟五行是包天地自然之數,餘八法皆是禹參酌天時人事類之耳,非龜所負之文也。今詳《洪範五行傳》,凡言災異,必推五行為之宗;又若「鯀無聖德,汨陳五行,是以彝倫攸斁」,則知五行是天垂自然之數,其文負於神龜,餘八法皆大禹引而伸之,猶龍圗止負四象八純之卦,餘重卦六十四皆伏羲仰觀俯察,象其物宜,伸之以爻象也。或曰:既云龍圗兼五行,則五行已具於龍圗矣,不應更用龜書也。答曰:雖兼五行,有中位而無土數,惟四十有五,是有其象而未著其形也,唯四象八卦之義耳;龜書乃具生成之數五十有五矣。《易》者包象與數,故聖人資圗書而作之也。
劉牧がまたいう:《尚書・洪範》の九疇は、ただ五行の一疇のみ天地自然之数を包含し、残りの八法はみな大禹が天時人事を参酌して分類推衍し出たるもので、神亀の背の上の原有の文字にあらず。《洪範五行伝》を細看すれば、凡そ災異を講ずるや必ず五行に推本す。また「鯀は聖徳なく、胡乱に五行を摆布し、ここをもって常道敗壊す」という。これを見れば五行は上天の垂示する自然之数で、この段の文字ははじめて神亀の負う所で、残りの八法はみな大禹の引申発揮なり。これはちょうど龍図のただ四象と八つの純卦を負載し、残りの重畳して成る六十四卦は、みな伏羲が仰いで天文を観俯して地理を察し、万物之宜を摹擬して爻象を用いて引申したがごとし。ある者問う。すでに龍図は五行を兼含すると説く以上、五行はすでに龍図の中に具備す。更に亀書を用いるべからざるなり。答えていう:龍図は五行を兼含すといえども、ただ中位有りて土数なし。総数はわずかに四十五。これはその象有りていまだその形を顕さず、僅々四象八卦之义を具備するに過ぎず。亀書ははじめて生成之数五十有五を完整に具備す。《周易》は象と数とを兼包す。ゆえに聖人は河図洛書に依凭してそれを創作した。
雷氏《易圗通變》曰:書之九疇,各疇自有成數,如一五行、二五事,猶或得以其數從而強推引之;至於五皇極,則已不可指實之為何物何事,而甚則九五福而附以六極,則將計九乎?計五福而兼計六極乎?皇極謂大中,而六極者,其極又可謂中乎?皇極本非物非事,故可指之為中,今徒實以五點,而五點者乃遂得為中乎?疇自一至九,界界然各存本有之數,不知何自而可以合於五十有五之數,強謂合者,葢其人之妄也。若其後而至於以書謂圗、以圗謂書者,又妄人中之妄人也。此餘特謂圗則有數可通,而書則有疇類可數,而不可布之以為圗也。
雷思斉《易図通変》にいう:《洪範》の九疇は、毎疇各々自らの定数有り。第一疇の五行・第二疇の五事のごときは、あるいはなおその数目に凭って勉强に推衍附会し得。第五疇の皇極に至っては、すでにそれがいったい何物・何事を指実するを言い得ず。いよいよ甚だしきは第九疇の五福を講じてまた六極を附上するに至りては、では九と算すべきか、それとも五福を算してさらに六極を兼算すべきか。皇極の意は「大中」で、しかして六極のこの「極」は、豈にまた「中」と呼び得んや。皇極はもともと物にあらず事にあらざれば、ゆえにそれを指して「中」と為し得。いま却って硬に五つの点を用いてそれを坐実せしむ。五つの点は豈にすなわち「中」と算し得んや。九疇は一より九に至るまで、界限分明として各々本来の数目有り。何を凭って五十五之数に凑合し得るを知らず。硬に凑合し得と説くは、あれはその人の妄誕なり。後についに洛書を河図と呼び河図を洛書と呼ぶ者有るに至っては、さらにそれは妄人の中の妄人なり。ここをもって私ははじめて特に言う。河図は貫通し得る数有り、洛書はすなわち計数し得る疇類有るのみで、排布して図と成すことは能わず。
按:劉牧謂洛書與河圗並出於伏羲之世,兼則之以畫卦,而五行之數未顯,故禹復法之以陳九疇。然一為五行,二為五事,以至九十為福極,禹何以知之?故又為之說曰「惟五行是天垂自然之數,餘八者皆禹自類之」,意謂五事以下禹從五行推演而得之也。然五事、皇極、庶徵、五福、六極,劉向嘗以此附會於五行,猶可通也,其餘則絶無交涉矣。六十四卦不離乎八卦,河圗具八卦之象,則六十四卦包在其中;若九疇五事以下,未見五行中具有此義也。禹乃鑿空而増之,以綴於五行之後,則幾同駢拇枝指矣,是亦不可以已乎?且經云「天錫禹九疇」,不言「錫禹五行」,九疇皆天之所設,非人之所為,謂八者禹自類之,妄也。
胡渭の按:劉牧は洛書が河図と同じく伏羲之世に出たと認め、伏羲は両者を兼取して卦を画き、ただ五行之数がいまだ顕明せざったので、大禹はまた洛書を取法して九疇を陳述したとする。しかし第一疇を五行と為し第二疇を五事と為し、第九疇に至っては福と極を講ずるに至るまで、大禹は何を凭ってこのように分かつべきを知ったか。ゆえに劉牧はまた彼に代わって解説して「ただ五行のみ上天の垂示する自然之数で、残りの八疇はみな大禹の自ら分類推し出した」という。意は五事以下はみな大禹が五行より推演して得たと為す。しかし五事・皇極・庶徴・五福・六極のこれらの項は、劉向はかつてそれらを五行の上に附会して、なお勉强に講じ通り得。残りはすなわち五行と毫も相干なし。六十四卦は八卦を離れず。河図は八卦之象を具備すれば、では六十四卦は自然にその中に包含さる。九疇の中の五事以下の各条に至っては、五行の中にこれらの内容を含有すと見出し得ず。大禹はついに空より增添し出して五行の後に綴じたれば、すなわちほぼ脚の上の駢趾・手の上の枝指に等し。この種の説法は豈に罷むべからざらんや。いわんや経文は「上天は大禹に九疇を賜う」というが、並びに「大禹に五行を賜う」とは言わざった。九疇はみな上天の設ける所で、人力の為す所にあらず。その中の八疇を大禹が自ら分類推し出したと説くは、純粋に妄説なり。
《易乾鑿度》曰:陽起而進,陰動而退,故陽以七、陰以八為彖。《易》一陰一陽,合而為十五之謂道,陽變七之九,陰變八之六,亦合於十五,則彖變之數若一。陽動而進,變七之九,象其氣之息也;陰動而退,變八之六,象其氣之消也。故太一取其數以行九宮,四正四維皆合於十五。五音、六律、七始,由此作焉。
《易緯・乾鑿度》にいう:陽気は起こりて前進し、陰気は動きて後退す。ゆえに七を用いて陽を代表し八を用いて陰を代表し、彖数と為す。《周易》は一陰一陽を講じ、合して十五と成り、これを「道」と呼ぶ。陽は七より変じて九と成り、陰は八より変じて六と成り、合してもまた十五。これを見れば彖数と変数とは一致す。陽気は動きて前進し、七より変じて九と成り、その気の生長するを象徴す。陰気は動きて後退し、八より変じて六と成り、その気の消減するを象徴す。ゆえに太一はこれらの数を取用して九宮を運行す。四正と四隅と相加していずれも十五に合す。五音・六律・七始は、みなこれによりて制作し出だしたるなり。
《隋經籍志》:宋大明中始禁圗讖,梁天監以後又重其制,及髙祖受禪,禁之愈切。煬帝即位,乃發使四出,搜天下書籍與讖緯相涉者皆焚之,為吏所糾者至死,自是無復其學,秘府之內亦多散亡。今按志有鄭氏注《易緯》七卷,而無《乾鑿度》;唐《藝文志》有宋均注《易緯》九卷,亦無《乾鑿度》。孔穎達義疏、章懷《後漢書注》所引《乾鑿度》,葢即秘府散亡之餘,僅存於《易緯》九卷中者也,是為可信。宋時復有《乾鑿度》二卷,晁氏云「舊題蒼頡修古籀文,鄭氏注」。案唐四庫書目有鄭玄注《詩》《書》緯及宋均注《易緯》,而無此書,其中有不可曉者,獨九宮之法頗明。
《隋書・経籍志》に記す:南朝宋・大明年間に始めて図讖を查禁し、梁武帝・天監以後さらに禁令を加重し、隋の高祖が禅を受くるに至りて禁はいよいよ厳し。隋煬帝が即位せば、便ち使者を四方に出動せしめ、天下の凡そ讖緯に牽連する書籍を捜羅して一律に焚毀し、官吏に検挙せられたる者は死刑に至るまで及んだ。これよりこの門の学問はさらに伝習する人なく、宮廷秘府の蔵する所もまたたいてい散失した。いま《隋志》を査すれば鄭玄注《易緯》七巻を著録すれど《乾鑿度》なし。《新唐書・芸文志》は宋均注《易緯》九巻を著録すれど《乾鑿度》なし。孔穎達《周易正義》と章懐太子・李賢《後漢書注》の引く所の《乾鑿度》は、おそらく秘府の散亡の後に《易緯》九巻の中に残存する部分で、これらは信ずべし。宋代に至りまた《乾鑿度》二巻出現す。晁公武はそれを「旧題は蒼頡が古籀文をもって修撰し、鄭玄が注を作す」という。唐代の四庫書目を査するに鄭玄注の《詩緯》《書緯》および宋均注の《易緯》を載すれど、この部の書なし。書中に講じ明からざる処有るに、ただ九宮之法のみ説くこと相当に明白なり。
愚謂此贗書無疑。圗緯興於哀平之際,《乾鑿度》縱出其先,亦當在漢世,而題曰蒼頡修,將誰欺乎?「太一取其數以行九宮」,章懷所引鄭注盡之矣,無七八九六進退消息、彖易彖變之說也,是必蒼頡二卷中語。葢其時《洞極經》出,十圗九書早已萌芽,故劉牧之徒偽造《乾鑿度》二卷,以《參同契》七八九六之文竄入於其中,以見此河圗之象出自西漢,逺有端緒,使人不敢動搖。陳氏所云「殘闕不完,於偽之中又有偽焉」者也。而昧者更題云蒼頡修,若此書為黃帝繼伏羲而作,適以自獻其偽,可不謂大愚乎?
私はこれが必ず一部の贋品で疑いなしと認む。図讖緯書は漢哀帝・漢平帝の際に興起した。《乾鑿度》は縦うて出現のより早しとも、また応に漢代に在るべし。しかるに「蒼頡修」と題すとは、これは誰を欺かんとするや。「太一はこれらの数を取用して九宮を運行す」のこの一句は、李賢の引く所の鄭玄注はすでに講じ尽くし、その中に七・八・九・六の進退消息および彖数彖変のあの一套の説法は並びになし。これを見ればこれらは必ず偽題の蒼頡の二巻本の中に添え出したる言なり。おそらくあの時《洞極経》が問世し、「河図十、洛書九」之説はすでに早く萌芽し、ゆえに劉牧の一派の人は《乾鑿度》二巻を偽造し出し、《周易参同契》の中の七八九六の文字をその中に竄入せしめ、もってこの幅の河図之象が西漢に出て源遠流長にして自ずと端緒有るを顕示し、人をして動揺するを敢えてせしめざらんとした。これがすなわち陳振孫のいう「残缺少けず、偽書の中にまた偽造有り」の情形なり。しかるに糊塗の人はさらに進んで「蒼頡修」と題し、あたかもこの書が黄帝の時代に伏羲に継ぎて作られたがごとくにせしめた。ちょうど自ら作偽の破綻を送上門するに等し。これぞ天大の愚蠢ではないか。
《子華子》曰:二與四抱九而上躋也,六與八蹈一而下沈也。戴九而履一,據三而持七,五居中宮,數之所由生;一從一橫,數之所由成。胃之實也,神氣之守也。故曰:天地之數,莫中於五,莫過於五。
《子華子》にいう:二と四とは九を擁抱して上に昇騰し、六と八とは一を踩踏して下に沈降す。頭は九を戴き脚は一を履み、左は三を拠し右は七を持ち、五は中宮に居る。これは数の由りて産生する処なり。一縦一横は相交じ、これは数の由りて構成する法なり。それは腹中の充実のごとく、神気の守護する所在なり。ゆえにいう。天地之数は、五より中に居るは莫く、五より超越するも莫し。
晁氏《讀書志》曰:《子華子》十卷,其傳云子華子程氏名本,晉人也,劉向校定其書。按《莊子》稱子華子見韓昭侯,陸德明以為魏人,既不合;又《蓺文志》不錄,且多用字說,謬誤淺陋,殆元豐以後舉子所為耳。
晁公武《郡斎読書志》にいう:《子華子》十巻は、書前の伝記に子華子は程を姓とし名は本、晋国人と言い、劉向はかつてこの書を校定した。しかし《庄子》に拠れば子華子は韓昭侯に拝見すと称し、陸徳明は彼を魏国人と認め、「晋人」之説とすでに対せず。さらに《漢書・芸文志》に並びにこの書を著録せず、しかも書中は多く王安石《字説》のあの一套の解字之法を用い、謬誤浅陋なり。おそらくただ宋神宗・元豊以後に応挙する士子の写したる物に過ぎざるべし。
朱子《偶讀漫記》曰:會稽官書版本有《子華子》,雲是程本字子華者所作,孔子所與傾葢而語者。以予觀之,其詞故為艱澀而理實淺近,其體務為髙古而氣實輕浮,但如近年後生巧於摹擬變換者所為,不惟決非先秦古書,亦非百十年前文字也。如論河圗,巧亦甚矣,惟其巧甚,所以知其非古書也。或云王銍性之、姚寛令威多作贗書,二人皆居越,恐出其手。又曰:但觀其書數篇與前後三序皆一手文字,其前一篇托為劉向,而殊不類向它書。
朱熹《偶読漫記》にいう:会稽の官刻書版の中に《子華子》有り、程本(字は子華)の作る所といい、すなわち孔子が路上に車を停めて交談したあの人である。我が見るに、それの文辞は故に艱渋に写して道理は実は浅薄で、それの体製は高古に力めて気格は実は軽浮なり。ただ近年のあの善く摹仿変換する後生の写したる物に似るのみ。絶対に先秦の古書にあらざるのみならず、また一百余年前の文字にもあらざるなり。書中の河図を論ずるは、巧みというべき極みなり。まさに太も巧なるがゆえに、それを古書にあらざるを知る。ある者は王銍(字は性之)・姚寛(字は令威)は多く偽書を造ると言う。二人はみな越地に住む。この書はおそらくすなわち彼らの手に出たるべし。朱熹はまたいう:ただこの書の幾篇の正文と前後の三篇の序とがみな同じ一人の手筆なるを見れば足りる。その中の前面の一篇は劉向の作る所に仮託すれど、甚だ劉向の別の著作に似ず。
周氏《涉筆》曰:其書多解字義,吾嘗疑其三經後此書方出,故信《字說》而主老莊。
周氏《渉筆》にいう:この書の中には字義を解釈する内容多し。私はかつてそれを王安石《三経新義》の後に出現したと疑う。それで《字説》を信奉して老荘之学を宗主と為す。
陳氏《書錄解題》曰:《家語》有孔子遇程子傾葢事,而莊生亦載子華子見昭僖侯一則。莊生固寓言,而《家語》亦未可考信,班固《古今人表》亦無之。
南宋の陳振孫《直斎書録解題》にいう:《孔子家語》の中に孔子の程子に路遇し車を停めて交談した事を載せ、《庄子》の書中にもまた子華子が韓昭僖侯に進見した一段を記す。庄子の書はもともと多く寓言で、取りて信ずに足らず。《孔子家語》の一書も同じく考実する由なし。班固《漢書・古今人表》に至っては、その中に根本的に子華子のこの人なし。
王氏《困學紀聞》曰:《子華子》後序謂鬼谷子之師,水心銘鞏仲至所謂程子即此書也。朱文公謂詞艱而理淺,近世巧於模擬者所為,決非先秦古書。
南宋の王応麟《困学紀聞》にいう:《子華子》一書の後序に子華子は鬼谷子の師と称す。葉適(号は水心)が鞏仲至のために作った銘文の中に言及する「程子」は、指すはすなわちこの部の書。朱熹はそれを批評して文辞は艱渋にして義理は浅薄、近世の古書を摹仿するに擅長する人の做出したもので、絶対に先秦時代の旧籍にあらずとした。
劉牧之徒偽撰《乾鑿度》以自固其學,而猶未已也。葢緯書出於西漢,恐不足以厭服天下之心,故又造《子華子》,其人為與孔子傾葢而語者,以「戴九履一,據三持七」為河圗,始可以屈《洞極經》而伸吾之說。然格致凡近,辭義淺陋,序雲劉向作,而《漢蓺文志》無之。人皆知其出於元豐後《三經》《字說》盛行之時,竟何益哉?故曰:作偽心勞日拙。
劉牧の一派は《乾鑿度》を偽造して自家の学説を巩固せしめたるに、なお肯んじて罷まざった。おそらく緯書は西漢に出るも、分量はなお天下人の疑心を圧服するに足らざったので、また一部の《子華子》を造り出し、書中の子華子を当年孔子と車を停めて傾蓋して談じた人と説き、彼の口を借りて「戴九履一、拠三持七」の九宮之数を河図と指せしめ、これに拠って《洞極経》を圧倒して自らの説法を伸張せんとした。しかし書中の格物致知を講ずるはみな極めて平庸で、文辞義理は十分に浅陋なり。序の中には西漢の劉向の作る所と説くに、《漢書・芸文志》は却って並びに著録せざった。人人はみなそれが宋神宗・元豊以後に王安石の《三経新義》《字説》が盛行した年代に出たるを見出し得。これほどの作偽は一体何の用あらんや。ゆえにいう:作偽の者はいよいよ心機を費尽すれば、破綻はいよいよ顕露す。
旴江李氏覯《刪定易圗論序》曰:世有治易根於劉牧者,其說日不同。因購牧所為《易圗》五十有五觀之,則甚復重,乃刪其圗而存之者三,所謂河圗也、洛書也、八卦也。於其序解之中撮舉而是正之,諸所觸類亦復詳說,成六論。別有一冊黃黎獻為之序者,頗増多誕謾,自鄶以下無譏焉。[論作於仁宗景佑三年。王湜《易學》曰:吳秘之《通神》、黃黎獻之《畧例》《隠訣》、徐庸之《易縕》皆本劉氏。逮鮮于侁稍辨其非,其後論易者交攻之,而九圗十書宋之群儒恆主其說。]
北宋の旴江の人・李覯は《刪定易図論序》の中でいう:世に《易》を治めて劉牧を本と為す者は、説法は一日一様なり。私はここにおいて劉牧の作った《易図》五十五幅を買い求めて細看するに、その中は重複繁冗なりき。便ち多余のを刪去し、ただ三幅を保留す。すなわち河図・洛書と八卦図。また彼の原有の序文と解説の中に摘要を加えて訂正し、凡そ推類し及び得る処もまたみな詳しく論述を加え、六篇の論を写し成した。別にまた一册の黄黎献の序を為した本子有り、荒誕不経の成分はいよいよ多し。あれはすなわち《詩経》の十五国風の自檜国以下にして一評に値せざるに似たり。(この論は宋仁宗・景祐三年に作る。王湜《易学》にいう:呉秘の《通神》・黄黎献の《略例》《隠訣》・徐庸の《易藴》は、みな劉牧之説を本と為す。鮮于侁に至ってはじめてややその謬誤を辨明し、この後《易》を議論する者は紛紛として起こりてそれを攻撃した。ただ「九は図・十は書」の説法は、宋代の群儒はなおしばしばそれを主張した。)
谷水林氏至《易裨傳·極數篇》曰:夫子於《繫辭》言數者三:曰「天地之數五十有五」,曰「天一終於地十」,曰「參天兩地」而已。雖曰「河出圗,洛出書」,初未嘗曰某為圗、某為書也。至劉牧出《鉤隠圗》,始以四十五為河圗而五十五為洛書,且以為出於希夷之所傳授,始有「戴九履一,左三右七,二四為肩,六八為足,縱橫十五,總四十有五」之說,前此未之見也。孔穎達曰:「龜負洛書,先無此事,見之緯候之書。」牧不信聖人之言而主緯候之說,何邪?大抵聖人闡易,有象則有數,有數則有變。象則太極生兩儀、四象、八卦者也;數則五十有五奇耦之生成者也;變則揲蓍倚數生爻者也。要不出於三者而已。如牧之為圗,巧則巧矣,於易何取焉?且其數曰縱橫十五而已,所以生卦成卦無聞焉,不知何與於易哉?
南宋の林至(号は谷水)《易裨伝・極数篇》にいう:孔子は《繋辞》の中で「数」を講じた処は合わせて三处有り。一は「天地之数五十有五」、二は「天一……終わりて地十」、三は「参天両地」に過ぎざるなり。「黄河は図を出だし洛水は書を出だす」と説いたとはいえ、かつてどれを図・どれを書とは言わざった。劉牧の《鈎隠図》を作するに至って、はじめて四十五を定めて河図と為し五十五を定めて洛書と為し、さらにこれを陳摶の伝授し来たると説く。そこではじめて「戴九履一、左三右七、二四を肩と為し六八を足と為し、縦横相加していずれも十五、総数四十五」のこの一套の説法有り。この以前に見えるはなし。孔穎達はかつて言った:「烏亀は洛書を背負せりとは、先前にこの事なし。ただ緯候のたぐいの書に見えるのみ。」劉牧は聖人之言を信ぜずして緯候之説を主とするは、これは何の故か。たいてい聖人は《易》道を闡発するに、象有ればすなわち数有り、数有ればすなわち変有り。象は、太極が両儀・四象・八卦を生ずる。数は、五十五のこの奇偶生成之数。変は、揲蓍が数に依りて爻画を生出す。総じてこの三様を出でざるのみ。劉牧のごとく図を作すは、巧みは固より巧みなりといえども、《易》に対して何の用かあらん。いわんや彼のあの数はただ縦横みな十五を講ずるのみで、如何に卦を生じ如何に卦を成すやは全く交代なし。これは《易》と何の相干かあらんを知らず。
又曰:緯候之家不過借河圗洛書之說以神其事,至牧反覆言之,而世之論易者多宗其說,易之本原愈以不明。本朝惟歐陽公以圗書為怪妄之甚,為說以黜之,然一人之言不能勝久習之溺也,特學易者不深察之耳。今所謂極數者,本之天地五十有五之數而黜圗書之妄,雖得罪於君子不辭也。
林至はまたいう:緯候の一派はただ河図洛書の説法を借りて自家の事を神乎其神に説くに過ぎざるなり。劉牧の手裏に至って反復申説すれば、世の《易》を論ずる者はたいてい彼を宗と奉じ、《易》の本原はいよいよ晦冥として明からざるに至った。本朝はただ欧陽脩のみ図書之説は荒誕の極みと認め、専ら著論してもって排斥を加えた。しかし一人の言論は長期積習の沉溺に抵く能わず。ただ《易》を治むる者は肯んじて深察せざるのみ。いま私の講ずる「極数」は、天地五十五之数を本と為し図書之妄を摒除す。仮にこれに因りて君子に罪を獲るとも、また辞せざる所なり。
按:五十有五即自一至十之數,林氏因錯簡而誤析為二耳。《繫辭》言數者三:天地之數一也,參伍錯綜二也,參天兩地三也。此皆主蓍而言,於圗書無涉。宋人不知此義,而以數為圗書,易道之榛蕪至此而極。雖命世大儒如伊川,不能廢五行之說,而郭子和非之,以為歴數之學;如考亭,不能廢圗書之說,而林德久斥之,以為緯候之流。嗚呼,之二子者,豈非豪傑之士哉!
胡渭の按:「五十有五」はもともと一より十に至るまでの相加の総数で、林至は《繋辞》の簡策の錯乱に因りて、誤ってそれを両条に拆分した。《繋辞》が「数」を講ずる処は合わせて三处有り。天地之数は一处、「参伍して以て変じ其数を錯綜す」は一处、「参天両地」は一处。この三处はみな蓍草を起卦するに就いて言うので、河図洛書と毫も相干なし。宋人はこの層の道理を明白にせず、これらの数目を図書と為したれば、《易》学の蕪雑混乱はここに至ってすでに極点に至れたり。仮に名は一世を重んぜし大儒と雖も:程頤は五行を《易》に配する説を廃する能わざったが、しかして郭雍(字は子和)は便ち彼を駁斥して、あれは暦法算数之学と説いた。朱熹は河図洛書之説を廃する能わざったが、しかして林至(字は徳久)は便ち彼を駁斥して、あれは緯候の一路と説いた。噫。この両位の敢えて大儒を駁正する人は、豈に真に豪傑之士ならざらんや。
雷氏《易圗通變》曰:龍圗流傳未逺,知者亦鮮,至劉牧乃増至五十五圗,名以《鉤隠》,師友自相推許,更為倡述,各於易有註釋:曰《卦德論》,曰《室中語》,曰《記師說》,曰《指歸》,曰《通微》,亦總謂之《周易新注》。每欲自神其事,及跡而究之,未見其真能有所神奇也。時則有李覯泰伯者,著六論以駁之,刪其復重,止存三圗。自後愈傳愈失,甚者反以五十五數為河圗,而圗南所傳者為洛書,顛倒迷謬,靡所底止。
元代の雷思斉《易図通変》にいう:陳摶の《龍図》は流伝の時間は並びに久遠ならず、それを懂得する人もまた甚だ少なし。劉牧の手裏に至ってはついに五十五幅の図に増衍し、名を取って《鈎隠図》と為す。彼らの師徒朋友は互相いに標榜し、接連して撰述し、各々《易》に対し注解を作して、《卦徳論》《室中語》《記師説》《指帰》《通微》の諸篇有り。総称して《周易新注》。彼らは処処にこの套の物を神乎其神に説かんと欲すれども、痕跡に循って追究すれば、真に何らかの神奇の処有るを見出ださざるなり。当時に李覯(字は泰伯)有り、六篇の論を写してもって駁斥を加え、重複の図を刪去し、ただ三幅を保留した。此後いよいよ伝えてますます失真し、甚だしきは反って五十五之数を河図と為し、陳摶(字は図南)の伝えた所を洛書と為し、顛倒錯乱して止境なし。
按:劉牧之學,當時皆謂其源出於希夷,而不知希夷所傳者乃天地自然之圗、白黑回互之狀[見第三卷],康節之所受而演之者也,於《龍圗》曷與焉?於《鉤隠》又曷與焉?葢自天禧之後,偽書盛行,而天地自然之圗隠矣。說者以劉牧之學為希夷之傳,是猶呂之代嬴、牛之易馬,世仍以秦、晉目之,而不知其血脈之已非也。李泰伯存其三圗,雷齊賢歸咎後人,亦尋常之見耳。《鉤隠》支離破碎,繳繞窒塞,真無一可取。譬諸田功,聖人之易,五穀也;希夷之易,荑稗也;牧之易,進不可窮理以盡性,退不可養生以盡年,徒為稂莠而已矣。
胡渭の按:劉牧の学問は、当時の人はみな陳摶(号は希夷)に源出すと説くに、陳摶の伝えた所は実は「天地自然之図」なるを知らざった。すなわち白黒点の相互に回環するあの一幅で(本書の第三巻を参看)、あれこそ邵雍の承受してさらに推演を加えたもので、《龍図》と何の関係かあらん。《鈎隠図》とまた何の関係かあらん。おそらく宋真宗・天禧年間以後より、偽書は盛行し、天地自然之図は反って隠没して顕れざった。論者は劉牧之学を陳摶の嫡伝と説き成す。ちょうど呂氏が嬴姓に取代わり牛氏が司馬氏を頂替するがごとし。世人はなおそれを秦と呼びそれを晋と呼ぶに、血脉はすでに早く元来のにあらざるを知らざった。李覯はその中の三幅の図を保留し、雷思斉(字は斉賢)は過錯を全て後人に推し与えた。ただ尋常の見識に過ぎざるなり。《鈎隠図》は支離破碎して糾纏して通ぜず、実に一処も取るべきなし。農事を取って比と作さば:聖人の《易》は五谷、陳摶の《易》は稗草、劉牧の《易》はすなわち進めば理を窮め性を尽くす能わず、退けば生を養い年を尽くす能わず。ただ田の中の莠草に過ぎざるなり。
右論易數鉤隠圗。
以上の一一節は、劉牧《易数鈎隠図》の来歴と真偽を考弁した。
易図明辨巻五 徳清・胡渭撰
啓蒙図書
西山蔡氏元定曰:古今傳記,自孔安國、劉向父子、班固,皆以為河圗授羲、洛書錫禹;闗子明、邵康節皆以十為河圗、九為洛書。葢大傳既陳天地五十有五之數,《洪範》又明言「天乃錫禹洪範九疇」,而九宮之數戴九履一、左三右七、二四為肩、六八為足,正龜背之象也。惟劉牧意見以九為河圗、十為洛書,託言出於希夷,既與諸儒舊說不合,又引大傳以為二者皆出於伏羲之世,其易置圗書並無明驗。但謂伏羲兼取圗書,則易、範之數誠相表裡,為可疑耳。其實天地之理一而已矣,雖時有古今先後之不同,而其理則不容於有二也。故伏羲但據河圗以作易,則不必豫見洛書,而已逆與之合矣;大禹但據洛書以作範,則亦不必追考河圗,而已暗與之符矣。其所以然者何哉?誠以此理之外無復他理故也。
南宋の蔡元定(号は西山)がいう:古今の伝記は、孔安国・劉向劉歆の父子より班固に至るまで、みな河図は伏羲に授けたるもの・洛書は大禹に賜いたるものと認めた。関子明・邵雍はすなわちいずれも十数をもって河図と為し九数をもって洛書と為した。《繋辞》がすでに天地之数五十五を列出し、《尚書・洪範》がまた明に「上天はここにおいて大禹に洪範九疇を賜う」と言い、而も九宮之数の「九を戴き一を履み、左に三・右に七、二四を肩と為し六八を足と為す」は、まさに烏亀の背甲の形象である。ただ劉牧のみ個人の臆見に凭って、九数を河図と為し十数を洛書と為し、さらにこの説法が陳摶に出ると仮託し、すでに前代の諸儒の旧説と合わず、また《繋辞》を援引して河図洛書がみな伏羲之世に出たと説く。彼の図と書とのこの種の対調は、並びに何らの確証もなし。ただ彼が伏羲は同時に図書を取用したと説くは、倒も《易》数と《洪範》之数とが確かに互いに表裏と為るを点出す。この一点ははじめて琢磨に値す。実は天地之理はただ一つで、時代に古今先後の別有るも、道理は両套あるを容さない。ゆえに伏羲はただ河図に依拠して卦を画き、必ずしも預め洛書を見るを要せずして、自然に洛書と暗合す。大禹はただ洛書に依拠して《洪範》を作し、また必ずしも回りて河図を考究せずして、自然に河図と相符す。これの如き所以は、この道理の外にさらに別の道理なければなり。
右見《易學啟蒙》注。季通為朱子起藳,故不敢列已說為正文。然朱子河圗洛書之象數實由季通而定。初劉牧以四十有五為河圗、五十有五為洛書,實龍圗之本象,而季通以為牧之所易置,至此乃復其舊,且引闗、邵以相證。今按闗《易》明繫偽書,不可以為據;而邵子圎星方土之論,其意別有所在,未嘗以五十有五為河圗也。謹列其說如左,明者幸垂察焉。
以上の一段は《易学啓蒙》の注文に見える。蔡元定(字は季通)は朱熹のために《啓蒙》を起草した人なので、敢えて自らの議論を正文に列さなかった。しかし朱熹の書中の河図洛書の象と数とは、実際にはまさに蔡元定の敲定した所である。当初劉牧は四十五をもって河図と為し五十五をもって洛書と為した。あれはもともと《龍図》の原有の様子である。蔡元定は却って劉牧が両者を対調したと認定し、ここに至ってはじめて「旧貌を恢復す」と算し、かつ関子明・邵雍の両家之説を引いてもって証と為した。いま考察するに:関子明の《易伝》は明らかに偽書で、証拠と為し得ず。しかして邵雍の「円なるは星なり、方なるは土なり」のあの段の議論は、本意は別に指す所有り、並びに五十五を河図と為すと言わざった。私は謹んで関係ある各家の説法を下に列す。明達の読者は細かく審察せられんことを請う。
《闗子明易傳》曰:河圗之文,七前六後,八左九右,聖人觀之以畫卦。是故全七之三以為離,竒以為巽;全八之三以為震,奇以為艮;全六之三以為坎,奇以為乾;全九之三以為兊,奇以為坤。正者全其位,隅者盡其畫。[此與《鉤隠》四象生八卦同。]洛書之文,九前一後,三左七右,四前左,二前右,八後左,六後右。後聖稽之為三象:一四七為天生之數,二五八為地育之數,三六九為人資之數。
《関子明易伝》にいう:河図の図形は、七は前に六は後に在り、八は左に九は右に在り、聖人はそれを観てもって卦を画く。ゆえに七之数を取りて三画を満たして「離」と成し、残りの奇零を用いて「巽」と成す。八之数を取りて三画を満たして「震」と成し、余数は「艮」と成す。六之数を取りて三画を満たして「坎」と成し、余数は「乾」と成す。九之数を取りて三画を満たして「兌」と成し、余数は「坤」と成す。四正之位に居る卦は本位を占満し、四隅之位に居る卦は残余の画数を用尽す。(これは劉牧《鈎隠図》のいう「四象は八卦を生ず」と一路の貨色なり。)洛書の図形は、九は前に一は後に在り、三は左に七は右に在り、四は左前に二は右前に在り、八は左後に六は右後に在り。後世の聖人はそれを考究して三組の象数に分けた。一・四・七は天の生ずる所之数、二・五・八は地の育つる所之数、三・六・九は人の凭借する所之数。
《邯鄲書目》[宋皇佑中李淑撰]:《闗子明易傳》一卷,唐趙蕤注。魏孝文使幷州刺史王虯與子明著《疑筮論》數十篇,蕤雲亡篇過半,今無能詮次,但隨文解義,庶學者觸類而長。阮逸詮次刋正《洞極元經傳》五卷[逸字天隠,宋仁宗時人]。闗子明以生、育、資為傳以釋其蘊,為經論十一篇[《玉海》云:子明《易傳》卜百年義第一,次以統言易義、大衍、乾坤策、盈虛、闔闢、理性、時變、動靜、神義,終於雜義第十一],又為圗以序其象。《文中子》錄子明事:太和末,穆公與談易,言於孝文帝,帝曰:「且與卿就成筮論。」子明曰:「乾坤之策,陰陽之數,推而行之不過三百六十六,引而伸之不過三百八十四,天之道也。象生有定數,吉凶有前期,變而能通,故治亂有可易之理。」
《邯鄲書目》(宋仁宗・皇祐年間に李淑が編撰)に著録す:《関子明易伝》一巻は、唐人の趙蕤が注を作す。北魏の孝文帝は并州刺史・王虯を派して関子明と合して《疑筮論》数十篇を撰せしめた。趙蕤は亡佚の篇章はすでに過半し、いまは編次する能わず、ただ文に随って義を解するのみで、読書の人がこれによりて触類旁通せんを願うという。阮逸は《洞極元経伝》五巻を編次校訂す(阮逸は字を天隠という、宋仁宗の時の人)。関子明は「生・育・資」の三义をもって伝を作し書中の藴意を闡発し、撰して経論十一篇と成した(《玉海》にいう:関子明《易伝》は「卜百年義」を第一篇と為し、次は統言易義・大衍・乾坤策・盈虚・闔闢・理性・時変・動静・神義で、最後は第十一篇の雑義)、また図を画いてその象を排列した。《文中子》は関子明の事跡を記していう:太和の末年、穆公は彼と《易》を談じ、彼を孝文帝に推薦した。孝文帝はいう:「姑く汝と筮論を写し成さんとす。」関子明がいう:「乾坤両卦の策数・陰陽の数目は、推し開けば三百六十六に過ぎず、引申すれば三百八十四に過ぎず、これがすなわち天道なり。物象は産生して一定之数有り、吉凶は預知し得る期限有り、変化して通達し得。ゆえに治乱の間に転換し得る道理有り。」
晁氏《讀書志》曰:《闗子明易傳》一卷,魏闗朗撰,李邯鄲始著之目,王通贊易葢宗此也。
南宋の晁公武《郡斎読書志》にいう:《関子明易伝》一巻は、北魏の関朗の撰で、李淑《邯鄲書目》が最も早くそれを著録入目した。隋代の王通は《易》理を闡揚するに、おそらくこの書を宗と為した。
《後山叢談》曰:世傳王氏《元經》、薛氏傳、《闗子明易傳》、《李衛公問對》,皆阮逸所著。逸以草示蘇明允,而子瞻言之。
北宋の陳師道《後山叢談》にいう:世に流伝する王通《元経》と薛収の作った伝・《関子明易伝》・《李衛公問対》は、みな阮逸の編造したものである。阮逸はかつて稿本を蘇洵(字は明允)に看せしめた。この話は蘇軾(字は子瞻)の説き出した所なり。
《朱子語類》:鄒浩問李壽翁椿最好《闗子明易》。先生曰:是阮逸偽作,陳無已集說得分明。
《朱子語類》に記す:鄒浩は李椿(字は寿翁)の最も《関子明易伝》を推重する一事を問い起した。朱熹は回答していう:あれは阮逸の偽造で、陳師道(字は無己)の文集の中ですでに明明白白と説き尽くされてある。
姚氏曰:世所傳闗子明《洞極經》亦言河圗洛書如劉氏說,而兩易之,以五方者為圗、九宮者為書。按唐李鼎祚《易解》盡備前世諸儒之說,獨無闗氏;至本朝阮逸始偽作《洞極經》,見於《後山叢談》,則闗亦不足為證矣。[見《周易玩辭》]
姚氏がいう:世に流伝する関子明《洞極経》は、河図洛書を講ずるもまた劉牧の説法と同じく、ただ両者を対調して五方生成之数を河図と為し九宮之数を洛書と為すに過ぎざるなり。考察するに、唐代の李鼎祚《周易集解》は前代の各家之説を捜羅し尽くすに、ただ関朗なし。本朝の阮逸に至ってはじめて《洞極経》を偽造し出した。これは《後山叢談》の中に記載有り。では関子明之説もまた証拠と為すに足らざるなり。(この条は《周易玩辞》に見える。)
雷氏《易圗通變》曰:楊次公自著《洞極經》,託名於闗子明[渭按:楊傑字次公,元豐中與范鎮論樂。《洞極經》果為傑所撰,則又出阮逸之後,恐非]。如其敘本篇稱「子曰:河圗之文,七前六後,八左九右,聖人觀之以畫八卦。是故全七之三以為離,奇以為巽;全八之三以為震,奇以為艮;全六之三以為坎,奇以為乾;全九之三以為兊,奇以為坤。正者全其位,隅者盡其畫」,而謂四象生八卦,此謬之尤者。乾坤相索而生六子,今為男女者反能生父母之卦邪?
元代の雷思斉《易図通変》にいう:《洞極経》は楊次公の自ら写したもので、関子明の名下に仮託した(胡渭の按:楊傑��字を次公といい、宋神宗・元豊年間にかつて范鎮と楽��を討論した。《洞極経》が若し真に楊傑の撰ならば、すなわち阮逸よりなお晩し。おそらく説き通らざるべし)。書中の叙本篇に称するがごとく:「孔子がいう。河図の図形は、七は前に六は後に在り、八は左に九は右に在り、聖人はそれを観て八卦を画く。ゆえに七之数を取りて三画を満たして離と成し、余数は巽と成す。八之数を取りて三画を満たして震と成し、余数は艮と成す。六之数を取りて三画を満たして坎と成し、余数は乾と成す。九之数を取りて三画を満たして兌と成し、余数は坤と成す。正位に居るは本位を占満し、隅位に居るは余画を用尽す。」これによりて四象が八卦を生出し得と説くは、これは錯の最も離譜なり。按ずるに《説卦》に拠れば、乾坤両卦が交互に求索してはじめて六つの子女卦を生ず。いま倒して六子のこれら男女之卦が反って父母之卦を生出し得と説くは、豈にこの道理あらんや。
《文中子中說》三卷,隋王通之門人共集其語為是書,而晁氏擿其三事以為可疑。其一則闗朗在太和中見魏孝文,自太和丁巳至通生之年甲辰,葢一百七十年矣,而其書有問禮於闗子明,是以知其妄也。程子謂王通隠君子,當時有些少言語,後來為人傅會,不可謂全書,續經之類皆非其作,朱子亦以為然。王氏《揮麈錄》直以為阮逸偽作。今按《中說》宋有阮逸、龔鼎臣二本,其文多異,闗子明事葢逸所傅會,與《洞極經》論總出一手,彼此扶同,以欺天下後世也。
《文中子中説》三巻は、隋代の王通の門人が彼の言論を彙集して成ったものである。晁公武は却ってその中の三件事を択び出して可疑と認めた。その中の一件は:関朗が北魏の太和年間に孝文帝を謁見し、太和の丁巳年より王通の出生の甲辰年に至るまで、中間に約一百七十年を隔つるに、しかも書中についに王通が関子明に礼制を請教した記載有り。これによりてそれを虚妄と知る。程頤は王通は一位の隠居の君子で、当時に若干の言論を留下し、後に人に附会増益せられ、以って一部の完整可信の書と為し得ないと説く。いわゆる「続経」のたぐいはみな彼の写したものにあらず。朱熹もまたこの看法に同意す。王明清《揮麈録》は乾脆に《中説》はすなわち阮逸の偽造と説く。いま《中説》を考えるに、宋代に阮逸・龔鼎臣の両個の本子有り、文字は多く出入有り。関子明の事跡はおそらく阮逸の附会し入れたもので、《洞極経》の一路の議論とは総じて同じ一人の手に出たるもので、彼此串通してもって天下後世を欺瞞したのである。
宋仁宗朝,劉牧著《易數鉤隠》,以九宮為河圗、五合為洛書,其學盛行於世。同時有阮逸者,陰欲排之,乃撰《闗子明易傳》而兩易其名。季通不察,以為真古書也,遂引為圗十書九之證。季通無論已,獨怪朱子素斥《龍圗》為假書,又據《後山叢談》深信闗《易》為阮逸所造,而於此則曲從季通之說,何也?
宋仁宗の一朝、劉牧は《易数鈎隠図》を著し、九宮之数を河図と為し五行生成之数を洛書と為した。この套の学問は当時に盛行一時す。同時に一個の阮逸有り、暗裡にそれを圧倒せんと欲し、すなわち《関子明易伝》を編造し出して図と書との名目を対調し来たる。蔡元定は察覚せずして、それを真に一部の古書と為し、そこでそれを引いて「河図十数、洛書九数」を証明せんとした。蔡元定は倒も罷むべし。奇怪なるは朱熹が一向に《龍図》を斥けて偽書と為し、また《後山叢談》に依拠して《関子明易伝》が阮逸の手に出たるを確信するに、しかもここに至っては却って曲意して蔡元定之説に聴従するは、これは何の故か。
葢自漢魏以來,言河圗者皆主《乾鑿度》《參同契》,而此獨根柢大傳五十有五之數,其據地尊而取義正也。然河圗久已無傳,不知其形象若何,而強以五十五數當之,大傳既無明文,古注亦無可考。「七前六後,八左九右」之位不見於經,「天生地成,奇白偶黑」之點非易所有。至其所以則之者,謂伏羲分四正之餘數以成四隅之卦畫,支離舛錯,全無義理。藉令此書真出於古,猶不可據以說經,而況明明為阮逸之偽作乎?且此數但可以生蓍而不可以畫卦,九與十何擇焉?
おそらく漢魏以来、河図を講ずる者はみな《易緯乾鑿度》《周易参同契》を本と為した。ただこの部の書のみ《繋辞》の「天地之数五十有五」に立足し、占むる地位は尊貴に顕れ、取義もまた端正に顕る。しかし河図はすでに早く失伝し、誰人もそれがいったい何の形状かを知らざるに、いま硬に五十五之数をそれに派す。《繋辞》はすでに明文なく、古人の注解もまた査考する由なし。「七は前に六は後に在り、八は左に九は右に在り」のこのような方位は、経文の中に見出し得ず。「天生地成、奇数は白点を用い偶数は黒点を用い」のこのたぐいの説法も、また《易》の中原有のものにあらず。その聖人の如何に河図を取法したを講ずるに至っては、伏羲が四正之数の余数を分け出して凑成して四隅の諸卦の画と為すと説く。さらに支離錯乱して毫も道理なし。仮にこの部の書が真に古書なりとも、また以って経を解くに用い得ず。いわんや明らかに阮逸の偽造なるをや。しかもこの套の数目はただ以って蓍策を推演し得、以って卦を画くことは能わず。では九と定むるも十と定むるも、また何の択ぶべきかあらん。
范諤昌《大易源流》言:龍馬負圗出河,羲皇窮天人之際,復位五行生成之數,地上八卦之體:天一正北,地二正南,天三正東,地四正西,天五正中央,地六配子,天七配午,地八配夘,天九配酉,地十配中寄於未,乃天地之數五十有五矣。雷氏云:正今圗所傳有四方而無四維者也,闗子明之河圗實本諸此。然諤昌但謂伏羲據龍圗以復位五行之數、八卦之體有如此者,未嘗直指此為河出之圗也。故劉牧《鉤隠》仍以九為圗而十為書,偽闗《易》竊其義,遂以「七前六後,八左九右」為河圗之文。人皆知其書之出於阮逸,而不知其數之本乎諤昌也。
范諤昌《大易源流》にいう:龍馬は図形を背負して黄河の中より出現し、伏羲は天人之際を窮究し、それに拠って五行生成之数と地上八卦の体位を定出す。天一は正北に居り、地二は正南に居り、天三は正東に居り、地四は正西に居り、天五は中央に居り、地六は子位に配し、天七は午位に配し、地八は卯位に配し、天九は酉位に配し、地十は中に居りて未位に寄す。合せばすなわち天地之数五十五。雷思斉がいう:これがまさに今日の伝うるあの四正方位のみ有りて四隅方位なきの図で、関子明のいう河図は実はすなわちこれに本づく。ただ范諤昌はただ伏羲が龍図に依拠して五行之数・八卦之體を定出するはこの様子と説くのみで、並びに直截にこれがすなわち黄河の中に出たあの幅の図とは言わざった。ゆえに劉牧《鈎隠図》はなお九数をもって河図と為し十数をもって洛書と為した。偽造���《関子明易伝》は范氏の意を窃取し、そこで「七前六後、八左九右」を説いて河図の図形と為した。人人はみなあの部の書が阮逸の手に出たるを知るも、あの套の数目が范諤昌に本源するを知らざった。
邵子《觀物外篇》曰:圎者星也,歴紀之數其肇於此乎[《易學啟蒙》注云:歴法合二始以定剛柔,二中以定律歴,二終以紀閏餘,是所謂歴紀也。按此說出唐一行《歴本議》]?方者土也,畫州井地之法其放於此乎[《啟蒙》注云:州有九,井九百畝,是所以畫州井地也]?葢圎者河圗之數,方者洛書之文,故羲文因之而造易,禹箕敘之而作範也[《啟蒙》引此段遺後四句,殊為疎謬]。
邵雍《観物外篇》にいう:円なるは星なり、暦法紀年の数目はおそらくすなわちこれに発端せるか(《易学啓蒙》の注にいう:暦法は「二始」を合してもって剛柔を確定し、「二中」を合してもって音律暦数を確定し、「二終」を合してもって閏余を紀る。これがすなわちいわゆる「暦紀」。按:この説は唐代の僧・一行の《暦本議》に出る)。方なるは土なり、州域を画分し井田を経営する办法はおそらくすなわちこれに仿効せるか(《啓蒙》の注にいう:州は合わせて九有り、一井は九百畝。これがすなわち州を画し井田之法を営む由来)。たいてい円なるは河図之数に属し、方なるは洛書之文に属す。ゆえに伏羲・文王はそれに依拠して《易》を造り、大禹・箕子はそれに拠って叙述して《洪範》を作した(《啓蒙》がこの一段を引く時は後面の四句を漏落した。実に疏漏錯謬なり)。
《朱子語類》曰:二始者,一二也,一奇故為剛,二偶故為柔;二中者,五六也,五者十干,六者十二辰也;二終者,九與十也,閏餘之法以十九歲為一章。姑借其說以明十數之為河圗耳。又曰:「圎者星也」,圎者河圗之數,言無那四角底,其形便圎。又曰:河圗既無那四隅,則比之洛書固亦為圎矣。「方者土也」,方者洛書之文,言畫州井地之所依仿而作者也。《書·禹貢》禹別九州島,冀北、揚南、青東、梁西、兗東北、雍西北、徐東南、荊西南、豫中也。孟子言周家井地之制,井九百畝,其中為公田,八家皆私百畝,同養公田,是皆法洛書之九數也。
《朱子語類》にいう:いわゆる「二始」は、一と二を指す。一は奇数ゆえに剛に属し、二は偶数ゆえに柔に属す。「二中」は五と六を指す。五は十天干に対応し、六は十二地支に対応す。「二終」は九と十を指す。閏余之法は十九年をもって一章と為す。これはただ姑くこの套の説法を借りて十数がすなわち河図なるを説明するに過ぎざるなり。またいう:「円なるは星なり」、円なるは河図之数に属すとは、それが四つの角なきを説くので、形状は自然に円なり。またいう:河図はすでに四隅なければ、では洛書に比して当然円と算すべし。「方なるは土なり」、方なるは洛書之文に属すとは、州域を画分し井田を経営するはまさにそれに仿照して制定せるを説く。《尚書・禹貢》の中に大禹は九州を画分す。冀は北に、揚は南に、青は東に、梁は西に、兗は東北に、雍は西北に、徐は東南に、荊は西南に、豫は中央に在り。孟子は周代の井田之制を講ず。一井は九百畝で、中は公田と為し、八家は各々一百畝を私し、共同して公田を耕種す。――これらはみな洛書九数を取法したものなり。
鶴山魏氏了翁《題司馬子已易圗》曰:涑水司馬叔原覃思易理之學,著《已易》。朱文公以十為河圗、九為洛書,引邵子說辨析甚詳,叔原從之。乃邵子不過曰「圎者河圗之數,方者洛書之文」,今戴九履一之圗其象圎,五行生成之圗其象方,是九圎而十方也,安知邵子不以九為圗、十為書乎?故朱子雖力攻劉氏,而猶曰「易範之數誠相表裡」,又曰「安知圗之不為書、書之不為圗」,則朱子尚有疑乎此也。近世朱子發、張文饒精通邵學,而皆以九為圗、十為書,朱以《列子》為證,張以邵子為主。予嘗以《乾鑿度》及張平子傳所載太一下行九宮法考之,即所謂戴九履一者,則是圗相傳已久,安知非河圗也?紹定四年書。
南宋の魏了翁(号は鶴山)《題司馬子已易図》にいう:涑水の人・司馬叔原は《易》理之学を潜心研究し、《已易》を著す。朱熹は十数をもって河図と為し九数をもって洛書と為し、邵雍の説法を援引して辨析するに甚だ詳尽なり。司馬叔原はすなわち彼に依従した。しかし邵雍はただ「円なるは河図之数、方なるは洛書之文」と説くに過ぎず。いま「九を戴き一を履む」のあの幅の図はその形象は円で、五行生成のあの幅の図はその形象は方なり。これを見れば九をもって円と為し十をもって方と為す。どうして邵雍が九数をもって図と為し十数をもって書と為すにあらざるを知らんや。ゆえに朱熹は劉牧を極力攻駁すといえども、なお「《易》数と《洪範》之数とは確かに互いに表裏と為る」と言い、また「怎んぞ図の書と為り得ざる・書の図と為り得ざるを知らんや」と言う。これを見れば朱熹はこの一点に対してなお存疑せり。近世の朱震(字は子発)・張行成(字は文饒)はみな邵氏之学に精通すれども、いずれも九をもって図と為し十をもって書と為す。朱震は《列子》を引いて証と為し、張行成は邵雍を主と為す。私はかつて《乾鑿度》および《後漢書・張衡伝》の載する所の「太一下行九宮」之法を用いて考核するに、あれはまさにいわゆる「九を戴き一を履む」で、これを見ればこの幅の図の相伝えたるはすでに久遠なり。どうしてそれを河図にあらざるを知らんや。紹定四年に記す。
靜修劉氏因《河圗洛書辨》曰:邵子但言方圎之象,而不指九十之數。若以象觀之,則九又圎於十矣。且其所謂方圎而前後乎此者,不過指陰陽剛柔奇偶而已。在此則星少陽而土少柔,其偶者固當為方而為陰,奇者固宜為圎而為陽矣。
元代の劉因(号は静修)《河図洛書辨》にいう:邵雍はただ方円之象を講ずるのみで、並びに九数か十数かを指明せざった。若し単に形象に就いて看れば、九数は反って十数よりなお円なり。しかも彼の前後の説く所の方と円とは、ただ陰陽・剛柔・奇偶に就いて言うに過ぎざるなり。ここにおいて星は少陽に属し土は少柔に属す。偶数はもともと応に方・陰に配すべく、奇数はもともと応に円・陽に配すべし。
邵子之於圗書,言方圎而不言九十。蔡季通以圎星為十為圗、方土為九為書,而朱子從之,謂河圗無四隅,比洛書便圎;魏華父則以為九圎而十方,劉夢吉亦云九圎於十,葢皆以九為圗。說者以為物有八隅必作圎形,九宮是也;物止四面必成方形,五合是也。魏說較長,以理言之誠有然者。若摹寫為奇白偶黑、累累貫珠之狀,則九亦可觚稜之以為方,十亦可彎環之以為圎,安見九必圎而十必方乎?方圎之或九或十終無定論,而邵子埓之以星土,固有所自來,其數可考而知也。
邵雍は河図洛書を談ずるに、ただ方と円とを説くのみで、並びに九と十とを言わざった。蔡元定は「円なるは星」を定めて十数と為し河図と為し、「方なるは土」を定めて九数と為し洛書と為し、朱熹はそれに跟って採用して、河図は四隅なく洛書に比して自然に円と説いた。魏了翁(字は華父)は却って九数はじめて円で十数はじめて方と認め、劉因(字は夢吉)もまた九は十よりなお円と説く。――彼らはたいてい九を以て河図と主張した。論者の理由は:一件の物は八つの角有れば必ず円形と成る、九宮図はすなわちこれ。ただ四面のみ有れば必ず方形と成る、五行生成図はすなわちこれ。魏了翁の説法は比較的道理有り、理路に就いて言えば確かにこのとおり。ただ若しそれらを摹画して奇数は白点を用い偶数は黒点を用い、一串串として連珠のごとき様子と為せば、では九数もまた棱角を画き出して方形と成し得、十数もまた環状に弯めて円形と成し得。どうして九は必ず円・十は必ず方と見得んや。方円がいったい九に属するか十に属するかは、終に定論なし。しかして邵雍が星と土とを取りて相配するは、自ずと彼の来歴有り、その中の数目は考究して明白にし得るものなり。
友人徐敬可嘗謂余曰:《觀物外篇》所謂圎星方土,乃論積數自然之理,非論圗書也,連上文讀之即明。朱子斷章取義,載之《啟蒙》,遂不可解,而引一行二始二中二終之說以釋歴數肇於圎星之義,殊為牽強。今按此之上文曰:「天圎而地方,圎之數起一而積六,方之數起一而積八,變之則起四而積十二也。六者常以六變,八者常以八變,而十二者亦以八變,自然之道也。」又曰:「圎者六變,六六而進之,故六十變而三百六十矣;方者八變,故八八而成六十四矣。陽主進,是以進之為六十矣。」
私の朋友の徐善(字は敬可)がかつて私に言った:《観物外篇》の中のいう「円なるは星なり、方なるは土なり」は、講ずるは数目累積の自然之理で、河図洛書を講ずるにあらず。ただ上文に連ねて読めばすなわち明白なり。朱熹は断章取義して、それを《易学啓蒙》の中に写し入れ、反って講じ通らざると為し、さらに僧・一行の「二始、二中、二終」の説法を引いて「暦紀之数は円星に発端す」を解釈するに至っては、実に牵强なり。いまこの段の言の上文を考するにいう:「天は円にして地は方。円の数目は一より算して起こりて累積して六に至り、方の数目は一より算して起こりて累積して八に至り、変化し開けばすなわち四より算して起こりて累積して十二に至る。六は総じて六を倍数と為して逓変し、八は総じて八を倍数と為して逓変し、しかして十二もまた八を倍数と為して逓変す。これは自然の道理なり。」またいう:「円は六次の変化を経て、六乘六してさらに逓進し、ゆえに変じて六十と成りて三百六十と為る。方は八次の変化を経て、ゆえに八乘八して六十四と成る。陽は前進を主とし、ここをもって推進して六十と成る。」
然後繼以圎星方土之說,玩其辭旨,葢積數自然之理。凡以七圎物相聚,必以一為心而環之以六□,此形是起一而積六也;凡以九方物相聚,必以一為心而圍之以八□,此形是起一而積八也;凡以十二方物相聚,必以四為心而圍之以十二□,此形是起四而積十二也。
次いで「円なるは星なり、方なるは土なり」に説き及ぶ。その文意を玩味するに、講ずるはまさに数目累積の自然之理なり。凡そ七個の円形物を聚めれば、必ず一を以て中に居らしめ、外に六個を環繞す(□の示すがごとし)。これがすなわち「一より算して起こりて累積して六に至る」。凡そ九個の方形物を聚めれば、必ず一を以て中に居らしめ、外に八個を囲繞す(□の示すがごとし)。これがすなわち「一より算して起こりて累積して八に至る」。凡そ十二個の方形物を聚めれば、必ず四を以て中に居らしめ、外に十二個を囲繞す(□の示すがごとし)。これがすなわち「四より算して起こりて累積して十二に至る」。
圎者聚七之形,如眾星之麗乎天,以六變而為三十六,進之極於三百六十,當期之日,得氣朔盈虛之中,而星於是乎一周,是為治歴之本,故曰歴紀之數肇於此,二始二終曷與乎?方者聚九之形,象九州島,亦八家同井、中為公田象也。變之則為聚十六之形,象四邑為丘,丘容十六井;又加兩圍共六十四,乃四丘為甸之象,甸容六十四井;更進而四甸為縣,縣容六十四邑;更進而四縣為都,都容六十四丘,皆所謂八八而成六十四也,故曰畫州井地之法放於此也。
円なるは聚七之形で、衆星の天に附麗するがごとし。六次の変化を経て三十六と成り、推進して極処に至ればすなわち三百六十で、ちょうど一年の日数に合し、その中に節気朔望盈虧の中数を包含し、而も星辰はここにおいて一周を運行す。これがすなわち暦法を制定する根本で、ゆえに「暦紀之数はこれに発端す」という。――一行の講ずる「二始」「二終」はこれと何の相干かあらん。方なるは聚九之形で、九州を象徴し、また八家が一井田を共にし中間を公田と為すの形象なり。それが変化し開けば便ち聚十六之形と成り、四邑を以て一丘と為し一丘は十六井を容るるを象徴す。さらに両層の囲繞を加えて合わせて六十四は、すなわち四丘を以て一甸と為す之象で、一甸は六十四井を容る。さらに推進すればすなわち四甸を以て一県と為し、一県は六十四邑を容る。さらに推進すればすなわち四県を以て一都と為し、一都は六十四丘を容る。――これらはみないわゆる「八八して六十四と成る」で、ゆえに「州を画し井田之法はこれに仿効す」という。
更推而廣之,古有河圗亦圎體也,羲文因之以造易,則圎星之類也;古有洛書亦方體也,禹箕敘之以作範,則方土之類也。此不過因論方圎之積數而牽綴及之,不專為圗書而發。方九猶可言,彼圎則何以知其為九與十也哉?
さらに下に推广し開けば:古に河図有り、また円體にして、伏羲・文王はそれに依りて《易》を造り、ではすなわち「円星」の一類に属す。古に洛書有り、また方體にして、大禹・箕子はそれに拠って《洪範》を作し、ではすなわち「方土」の一類に属す。これはただ方円の累積之数を論ずるに因りて順筆に帯及したに過過ぎず、専ら河図洛書のために発したにあらず。方なるを定めて九数と為すはなお勉强に説き得るも、あの円なるはまた何を凭ってそれを九か十かと断定せんや。
其下文則曰:「蓍數不以六而以七,何也?並其餘分也。去其餘分則六,故策數三十六也。是以五十者,六十四卦閏歲之策也;其用四十有九,六十四卦一歲之策也;歸奇掛一,猶一歲之閏也。卦直去四者何也?天變而地效之,是以蓍去一則卦去四也。」又曰:「蓍德圎以況天之數,故七七四十九也,五十者存一而言之也;卦德方以況地之數,故八八六十四也,六十者去四而言之也。」
さらに下の文にいう:「蓍策之数は六を用いずして七を用いるは、何の故か。零余をも算し入れたに因るなり。零余を去ればすなわち六、ゆえに毎爻の策数は三十六なり。ここをもって五十のこの数は、六十四卦の閏年の策数なり。実際にはただ四十九を用いるのみ、これは六十四卦の一年の策数なり。余を帰し一を挂くるは、ちょうど一年の中の閏月に比す。卦数は径ちに四を減ずるに至っては、また何の故か。天は先に変じて地はそれに随いて效法す。ゆえに蓍数は一を減じ、卦数はすなわち四を減ず。」またいう:「蓍の徳性は円に属し、用いて天数に比擬す。ゆえに七七四十九で、五十というはあの存して用いざるを連ねて計したるなり。卦の徳性は方に属し、用いて地数に比擬す。ゆえに八八六十四で、六十というはあの四を去りたる後に就いて説いたるなり。」
然則天圎主蓍、地方主卦,蓍數以七相乘則為四十九,以六相乘則為三十六,無九位四十有五之數;卦數以八相乘為六十四,去其四則為六十,亦無十位五十有五之數。竊意邵子所指為河圗者,即希夷先天太極一圈之形,故謂之圎,與闗朗之河圗全無交涉;其所指為洛書者,即九宮之形,中起一而外積八,故謂之方,此則與闗朗闇合,而其所以為方之意,季通亦未之識也,故漫引以為圗十書九之證。從來憒憒,茲特為一闡明之。
このように看れば、天円は蓍策を主とし、地方は卦画を主とす。蓍数は七を以て自乘して四十九を得、六を以て自乘して三十六を得、その中に並びに九宮四十五之数なし。卦数は八を以て自乘して六十四を得、四を減じて六十を得、その中にもまた十位五十五之数なし。私は私かに推想するに、邵雍の指した河図は、すなわち陳摶の先天太極のあの一個の圏圈の形状で、ゆえに「円」と称す。関朗のいう河図と毫も相干なし。彼の指した洛書は、すなわち九宮の形状で、中央に一を起こし外囲は八を累積す。ゆえに「方」と称す。この一点は倒も関朗と暗合すれども、ただそれが「方」と称する所以の用意は、蔡元定は並びに懂得せざった。ゆえに胡乱に引きて「図十書九」の証拠と為した。歴来糊裏糊塗なり。ここに特にそれを闡明一番す。
朱子《答劉君房書》曰:「《啟蒙》本欲學者且就大傳所言卦畫蓍數推尋,不須過為浮說,而自今觀之,如河圗洛書亦未免有剩語。」觀此言,知季通代斵不中繩墨,文公晚年亦深悔之,但未及改削耳。而近代諸儒奉《啟蒙》為不刋之書,不亦過乎!
朱熹《答劉君房書》にいう:「《易学啓蒙》の本意は学者に《繋辞》の講ずる卦画・蓍数に就いて推求せしめんと欲し、必ずしも多く浮泛之論を作さず。いま回りて看れば、河図洛書のあれらの内容のごときも、また免れず多余の言なり。」この句によりて知るべし、蔡元定は人に代わりて斧を操り、砍りて墨線に合せざった。朱熹は晚年にもまた深く追悔し、ただ刪改に及ばざるのみ。しかるに近代の諸儒は却って《啓蒙》を奉じて更改すべからざるの定本と為す。豈に太も过分ならざるや。
《本義圗說》:《繫辭傳》曰「河出圗,洛出書,聖人則之」,又曰「天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也」,此河圗之數也。洛書葢取龜象,故其數戴九履一,左三右七,二四為肩,六八為足。
《周易本義》の巻首の図説に称す:《繋辞伝》に「黄河は図を出だし洛水は書を出だし、聖人はそれらを取法す」という。また「天一地二、天三地四、天五地六、天七地八、天九地十。天数は五有り、地数は五有り、五つの方位は一々相対応して各々配合有り。天数は合計して二十五、地数は合計して三十、天地之数は総じて五十五。これを以て変化を成就し鬼神を運行する所以なり」という。――これがすなわち河図之数。洛書はおそらく亀背に取象す。ゆえにその数目は頭に九を戴き脚に一を履み、左に三・右に七、二と四とを両肩と為し、六と八とを両足と為す。
《易學啟蒙》曰:河圗之位,一與六共宗而居乎北,二與七為朋而居乎南,三與八同道而居乎東,四與九為友而居乎西,五與十相守而居乎中。葢其所以為數者,不過一陰一陽、一奇一偶,以兩其五行而已。所謂天者,陽之輕清而位乎上者也;所謂地者,陰之重濁而位乎下者也。陽數奇,故一三五七九皆屬乎天,所謂天數五也;陰數偶,故二四六八十皆屬乎地,所謂地數五也。天數地數各以類而相求,所謂五位之相得者然也。
《易学啓蒙》にいう:河図の方位は、一と六とは同宗して北方に処り、二と七とは伴を為して南方に処り、三と八とは同道して東方に処り、四と九とは友を為して西方に処り、五と十とは相守して中央に処る。たいていそれが数を成す道理は、ただ一陰一陽・一奇一偶に過ぎず、用いて五行を各々両個に配成するのみ。いわゆる「天」は、陽気の軽清にして上位に居る。いわゆる「地」は、陰気の重濁にして下位に居る。陽数は奇なれば、ゆえに一・三・五・七・九はみな天に属す。これがすなわち「天数五」。陰数は偶なれば、ゆえに二・四・六・八・十はみな地に属す。これがすなわち「地数五」。天数と地数とは各々同類に依りて相求む。いわゆる「五位相得」はまさにこれを指す。
天以一生水而地以六成之,地以二生火而天以七成之,天以三生木而地以八成之,地以四生金而天以九成之,天以五生土而地以十成之,此又其所謂各有合焉者也。積五奇而為二十五,積五偶而為三十,合是二者而為五十有五,此河圗之全數,皆夫子之意而諸儒之說也。至於洛書,則雖夫子之所未言,然其象其說已具於前,有以通之,則劉歆所謂經緯表裡者可見矣。
天は一を以て水を生じて地は六を以てそれを成就し、地は二を以て火を生じて天は七を以てそれを成就し、天は三を以て木を生じて地は八を以てそれを成就し、地は四を以て金を生じて天は九を以てそれを成就し、天は五を以て土を生じて地は十を以てそれを成就す。――これはまたいわゆる「各々配合有り」。五つの奇数を累加して二十五を得、五つの偶数を累加して三十を得、両者を合して五十五。これがすなわち河図の全数で、みな孔子の本意と諸儒の説法なり。洛書に至っては、孔子のいまだ講じ及ばざる所なりといえども、しかしその象・その説法はみなすでに前面に具備す。ただそれを貫通し得れば、劉歆のいう「河図洛書は互いに経緯・表裏と為る」もまた看見し得。
天地之數五十有五,專為大衍之數五十張本,此蓍策之原,非畫卦之法。《易雅》云:九六七八為揲蓍策數,乃先有卦而後揲蓍,非先得數而後畫卦,夫子未嘗以是明河圗也。李泰伯云:天一至地十乃天地之氣降出之次第,而曰五十有五者,葢聖人假其積數以起算法,非實數也。譬如兄弟行第一至第十者乃十人耳,今《鉤隠》河圗有白黑四十五點,是九人而化為四十五人也;《啟蒙》河圗有白黑五十五點,是十人而化為五十五人也。以積數為實數,以算法為卦原,而寫之以成象,九圗十書、十圗九書,總無是處。
胡渭の按:「天地之数五十有五」は専ら「大衍之数五十」のために張本を張るので、これは蓍策推演の源頭で、卦を画く方法にあらず。《易雅》にいう:九・六・七・八は揲蓍の得る所の策数で、これを見れば先に卦有りて後に揲蓍す、先に数目を得て後に卦を画くにあらず。孔子はかつてこれらの数を取って河図を説明せざった。李覯がいう:天一より地十に至るまで、ただ天地之気の降生の先後次第のみ。五十五と説くは、あれは聖人がこの累加之数を借りて算法を起こすので、実にその数有るにあらず。たとえば兄弟の排行は第一より第十に至るまで、実はただ十人のみ。いま《鈎隠図》の河図は白黒四十五個の点を画き、九個の人を四十五個の人に変えたに等し。《啓蒙》の河図は白黒五十五個の点を画き、十個の人を五十五個の人に変えたに等し。累加之数を取って実数と為し、算法を取って卦を画く根源と為し、さらに摹画し出して図象を構成す。では九を図と為し十を書と為すと説くも、十を図と為し九を書と為すと説くも、通通みな講じ通らざるなり。
然九宮猶存八卦之位,而五合缺其四隅,則與八卦一毫不相似矣。易有八卦而無五行,以《洪範》五行附會於翼傳,自漢儒始。《五行志》曰:天一生水,地二生火,天三生木,地四生金,天五生土。又曰:水之大數六,火七,木八,金九,土十。大數即成數,此以天地之數配五行也。坎水、離火、巽木見於夫子之大象,而坤艮不言土,乾為金惟見於《說卦》。據《左傳》莊二十二年周史曰「坤,土也」,《周語》太子晉曰「山,土之聚也」,是坤艮亦可言土矣,而震木兊金無聞焉。《五行志》曰:震在東方為木,兊在西方為金。震木兊金始見於此。《漢上易傳》云:京房以乾兊為金。然則震巽同為木,葢亦始於房。此以八卦方位配五行也,皆非夫子之意。
ただ九宮図は到底なお八卦の方位を保留す。しかして五行生成図は四つの角を欠き、では八卦と一点も相像せざるなり。《易》の中にはただ八卦有りて五行なし。《洪範》の五行を《易》の十翼の上に附会するは、漢代の経師より始まる。《漢書・五行志》にいう:天一は水を生じ、地二は火を生じ、天三は木を生じ、地四は金を生じ、天五は土を生ず。またいう:水の大数は六、火は七、木は八、金は九、土は十。「大数」はすなわち「成数」で、これは天地之数を取って五行に配する。坎を水と為し離を火と為し巽を木と為すは、孔子の作った《大象伝》に見え、しかして坤・艮は並びに土とは言われず、乾を金と為すもまたただ《説卦》に見えるのみ。《左伝》の荘公二十二年に周朝の史官が「坤は、これ土なり」と説くに依拠し、《国語・周語》に太子晋が「山は、これ土の聚積なり」と説くに依れば、坤・艮もまた土と講じ得。震を木と為し兌を金と為すに至っては、すなわち経に拠なし。《漢書・五行志》にいう:震は東方に在りて木に属し、兌は西方に在りて金に属す。――震木兌金之説ははじめてここに出現す。朱震《漢上易伝》にいう:京房は乾・兌を以て金と為す。では震・巽が同じく木に属するも、おそらくまた京房より始まらん。これは八卦方位を取って五行に配するので、みな孔子の本意にあらず。
劉牧云:洛書之數五十有五,演五行而不述四象,謂禹則之以陳範,故專主五行也。今既以五十有五為河圗,而羲則之以畫卦,即與五行全無交涉,奚為拾漢儒之餘瀋而以五行生成之數附會於其間乎?劉歆言羲則圗、禹則書,而繼之曰「河圗洛書相為經緯,八卦九章相為表裡」,此真所謂畫蛇添足者,而《啟蒙》欲有以通之,吾未見其有可通之理也。
劉牧がいう:洛書之数は五十五で、ただ五行を推演して四象を叙述せざるは、大禹がそれを取法して《洪範》を陳述したに因る。ゆえに専ら五行を主とす。いますでに五十五を河図と為し、而も伏羲がそれを取法して卦を画く以上、すなわち五行と毫も相干なし。何の必ずしも漢儒の唾余を拾いて、硬に五行生成之数を附会し入れんや。劉歆は伏羲は河図を取法し大禹は洛書を取法したと説き、接続してまた「河図洛書は互いに経緯と為り、八卦九疇は互いに表裏と為る」と説く。これは真にいわゆる画蛇添足なり。しかして《啓蒙》はなおそれを貫通せんと欲す。私は何らかの貫通し得る道理有るを見出ださず。
然則聖人之則之也奈何?曰:則河圗者虛其中,則洛書者總其實也。河圗之虛五與十者,太極也;奇數二十、偶數二十者,兩儀也;以一二三四為六七八九者,四象也;析四方之合以為乾坤離坎,補四隅之空以為兊震巽艮者,八卦也。洛書之實:其一為五行,其二為五事,其三為八政,其四[四庫本此至「五十合」闕]為五紀,其五為皇極,其六為三德,其七為稽疑,其八為庶徵,其九為福極,其位與數尤曉然矣。
では聖人は如何にそれらを取法したか。答えていう:河図を取法するは、その中央を虚去するに在り。洛書を取法するは、その実数を総括するに在り。河図の中虚は五と十とを去る。あれは太極なり。奇数を合して二十・偶数を合して二十。あれは両儀なり。一二三四を配して六七八九と成す。あれは四象なり。四正方位の配合を拆きて乾・坤・離・坎を定め、四隅方位の空缺を補いて兌・震・巽・艮を定む。あれは八卦なり。洛書の実数は:第一は五行、第二は五事、第三は八政、第四(四庫全書本はここの処より下の「五十合」一段に至るまで文を缺く)は五紀、第五は皇極、第六は三徳、第七は稽疑、第八は庶徴、第九は福極。――その方位と数目とはすなわちいよいよ清楚なり。
又曰:洛書而虛其中,則亦太極也;奇偶各居二十,則亦兩儀;一二三四而含九八七六,縱橫十五而互為七八九六,則亦四象也;四方之正以為乾坤離坎,四隅之偏以為兌震巽艮,則亦八卦也。河圖之一六為水,二七為火,三八為木,四九為金,五十為土,則固洪範之五行,而五十有五者又九疇之子目也。是則洛書固可以為易,而河圖亦可以為範矣,且又安知圖之不為書、書之不為圖也耶?
またいう:洛書はその中央を虚去すれば、あれもまた太極なり。奇数偶数は各々二十を占む。あれもまた両儀なり。一二三四の中は九八七六を含み、縦横相加していずれも十五にして彼此互いに七八九六を成す。あれもまた四象なり。四つの正方位は乾・坤・離・坎を定め、四つの偏隅方位は兌・震・巽・艮を定む。あれもまた八卦なり。河図の中の一と六とは水を為し、二と七とは火を為し、三と八とは木を為し、四と九とは金を為し、五と十とは土を為す。あれはもともと《洪範》の五行で、しかして五十五のこの総数はまたまさに九疇の各条細目の相加の数なり。このように看れば、洛書は固より以て《易》に用い得、河図もまた以て《洪範》に用い得。いわんやまたどうして図の書と為り得ざる・書の図と為り得ざるを知らんや。
玉齋胡氏方平《啟蒙通釋》曰:四方為乾坤離坎、四隅為兌震巽艮者,蓋一六老陰之數而畫卦為艮坤,反居六、坤居一也;三八少陰之數而畫卦為離震,離居三、震居八也;四九老陽之數而畫卦為乾兌,乾居九、兌居四也;二七少陽之數而畫卦為巽坎,巽居二、坎居七也,此洛書亦可以為八卦也。九疇子目者:五行五,五事五,八政八,五紀五,皇極一,三德三,稽疑七,庶徵十,福極十一,總五十五。
元代の胡方平(号は玉斎)《易学啓蒙通釈》にいう:いわゆる四正方位は乾・坤・離・坎と為し、四隅方位は兌・震・巽・艮と為すは、これは次の故に因る。一と六とは老陰之数で、拠りて卦を画けば艮と坤とを得、分別して六位と一位とに居る。三と八とは少陰之数で、拠りて卦を画けば離と震とを得、離は三位に居り震は八位に居る。四と九とは老陽之数で、拠りて卦を画けば乾と兌とを得、乾は九位に居り兌は四位に居る。二と七とは少陽之数で、拠りて卦を画けば巽と坎とを得、巽は二位に居り坎は七位に居る。――これがすなわち洛書もまた以て八卦に配し得を説く。九疇の細目に至っては:五行は五条、五事は五条、八政は八条、五紀は五条、皇極は一条、三徳は三条、稽疑は七条、庶徴は十条、福極は十一条。合計してちょうど五十五。
黃氏《象數論》曰:就二數通之於易,則十者有天一至地十之數可據,九者並無明文,此朱子爭十為河圖之意長於長民也。雖然,自一至十之數,易之所有也;自一至十之方位,易之所無也。一三五七九之合於天、二四六八十之合於地,易之所有也;一六合、二七合、三八合、四九合、五十合,易之所無也。天地之數,易之所有也;水火木金土之生成,易之所無也。試盡去後人之添入,依經為說,則此數仍於易無與,而況名之為河圗乎?
黄宗羲《易学象数論》にいう:九・十の両套の数目を取って《易》と相印证するに、十数はなお「天一より地十に至る」の経文に拠る可し。九数はすなわち全く明文なし。これがすなわち朱熹が十数を河図と主張する、その理由が劉牧(字は長民)に勝るの処なり。話はこのようだが、一より十に至るまでのこれらの数目は、《易》の中に本有のものなり。しかして一より十に至るまでの方位配置は、《易》の中にないものなり。一・三・五・七・九の天に合し二・四・六・八・十の地に合するは、《易》の中に本有のものなり。一と六と相配し二と七と相配し三と八と相配し四と九と相配し五と十と相配するは、《易》の中にないものなり。天地之数は、《易》の中に本有のものなり。水火木金土の生数成数は、《易》の中にないものなり。試みに後人の添加した部分を全部剔除して、ただ経文に依りて説を立てれば、ではこれらの数目は《易》となお相干ならず。いわんやさらにそれに「河図」の名目を安んずるをや。
天一至地十之數,儒者必欲言聖人則之以畫卦。崔憬曰:參天者,謂從三始順數而至五七九,不取於一;兩地者,謂從二起逆數而至十八六,不取於四。艮為少陽其數三,坎為中陽其數五,震為長陽其數七,乾為老陽其數九,兊為少陰其數二,離為中陰其數十,巽為長陰其數八,坤為老陰其數六。劉長民水六金九火七木八而生八卦[以坎離震兊為四正]:六居坎而生乾,謂三為坎、三為乾也;九居兊而生坤,謂三為兊、六為坤也;七居離而生巽,謂三為離、四為巽也;八居震而生艮,謂三為震、五為艮也。朱子曰:河圗之虛五與十者,太極也;奇數二十、偶數二十者,兩儀也;以一二三四為六七八九者,四象也;析四方之合以為乾坤離坎,補四隅之空以為兊震巽艮者,八卦也。同此一數,而三家所指不同如此。
「天一より地十に至る」のこの套の数に対しては、儒者は総じてそれを聖人が取法して卦を画くと説き成さんと欲す。唐人の崔憬がいう:いわゆる「参天」は、三より起こりて順に五・七・九に数え、一を取らず。いわゆる「両地」は、二より起こりて逆に十・八・六に数え、四を取らず。艮は少陽で数は三。坎は中陽で数は五。震は長陽で数は七。乾は老陽で数は九。兌は少陰で数は二。離は中陰で数は十。巽は長陰で数は八。坤は老陰で数は六。劉牧はすなわちいう:水六・金九・火七・木八にして八卦を生ず(坎・離・震・兌を以て四正之卦と為す)。――六は坎位に居りて乾を生ずとは、三画を取りて坎と為し三画を取りて乾と為すを説く。九は兌位に居りて坤を生ずとは、三画を取りて兌と為し六画を取りて坤と為すを説く。七は離位に居りて巽を生ずとは、三画を取りて離と為し四画を取りて巽と為すを説く。八は震位に居りて艮を生ずとは、三画を取りて震と為し五画を取りて艮と為すを説く。朱熹はすなわちいう:河図の中虚は五と十とを去る。あれは太極なり。奇数二十・偶数二十。あれは両儀なり。一二三四を配して六七八九と成す。あれは四象なり。四正之数を拆きて乾坤離坎を定め、四隅之空を補いて兌震巽艮を定む。あれは八卦なり。同じくこの一套の数にして、三家の指す所はついにこのように各々相同じからず。
配卦之論始於崔憬。憬但言其數不言其位,乾坤震巽數有可據,其附會者坎離艮兊耳。長民兼位數而言,六為水而坎屬之,七為火而離屬之,八為木而震屬之,九為金而兊屬之,以四卦之五行遷就其位數,未為不可,至於乾坤艮巽則不可通矣。朱子祖先天之說,以乾南坤北者宓羲之卦位也,離南坎北者文王之卦位也,河圗出於宓羲,其時尚無離南坎北之位,硬以乾南坤北配之,則更無一合者矣。天下之物,一人以為然,千萬人以為然,其為物也不逺矣;一人可指之為此,又一人可指之為彼,其為物也無定名矣。故以天地之數配八卦者,皆非定名也。
数目を用いて卦に配する議論は、崔憬より始まる。崔憬はただ数目を講じて方位を講ぜず。その中の乾・坤・震・巽の数目はなお幾分の依据有るも、牵强附会するはただ坎・離・艮・兌に過ぎざるなり。劉牧はすなわち方位と数目とを合して講ず。六は水と為して坎に配し、七は火と為して離に配し、八は木と為して震に配し、九は金と為して兌に配す。この四卦の五行を用いてそれらの方位と数目とに遷就すれば、倒もなお講じ得。しかし乾・坤・艮・巽に至ってはすなわち説き通らざるなり。朱熹は先天之説を祖述す。乾は南に坤は北に在りて伏羲の卦位なり。離は南に坎は北に在りて文王の卦位なり。河図はすでに伏羲之世に出たれば、あの時はなお離南坎北の方位なく、硬に乾南坤北を取って配せんとすれば、さらに一処も合せざるなり。天下の事物は、一人はそれをこのようと認め、千万人もそれをこのようと認めれば、ではこの事物は真相より遠からざるなり。若し一人はそれを甲と指し、別の一人はまたそれを乙と指せば、ではこの事物は確定の名目なし。ゆえに天地之数を取って八卦に配する種種の説法は、みな確定の名目にあらず。
毛氏《原舛編》曰:夫圗書非他,神聖之事也,豈有神聖之事而一人授之、一二人受之哉?授者無憑,受之者無據,而或四或五,或方或圎,或羲或禹,或卦或範,彼此可以爭先後,可以易,一室兩家,茫無定準,其為不足道亦可見矣。
毛氏《原舛編》にいう:河図洛書は別のものにあらず、すなわち神聖之事なり。豈に神聖之事にして却ってただ一人より授け出で一両人に受け入る道理あらんや。授する一方に憑証なく、受ける一方にまた依据なし。しかして説法の上ではあるいは四と作しあるいは五と作し、あるいは方と説きあるいは円と説き、あるいは伏羲に帰しあるいは大禹に帰し、あるいは用いて卦を画きあるいは用いて《洪範》を作す。彼此の間は以て先後を争い以て互相いに対調し得。同一の屋裏にすなわち両家之言有り。茫然として一定の標準なし。――それが凭信に足らざるは、これによりてまた看見し得るなり。
按:季通據先天八卦之方位,而附會以太極兩儀四象之名,曰「析四方之合以為乾坤離坎,補四隅之空以為兊震巽艮」[即闗《易》所云「正者全其位,隅者盡其畫」,然彼用後天卦位,此用先天卦位]。噫!伏羲上聖,其則河圗以畫卦,乃煩割裂補綴,費如許經營邪?雖至愚者亦知其無是理矣。劉歆所云相為經緯表裡者,不過以五行生成言之耳,季通發明其義,以為易之太極兩儀四象皆通於洛書,而洪範之五行、九疇之子目則又通於河圗,任意牽合,無所不可。然十圗九書本無定理,故結之曰「安知圗之不為書、書之不為圗」,終歸於鶻突無據而已矣。
胡渭の按:蔡元定は先天八卦の方位に依拠して、而も太極・両儀・四象の名目を附会し、何らの「四正之数を拆きて乾坤離坎を定め、四隅之空を補いて兌震巽艮を定む」と説く。(これがすなわち偽の《関子明易伝》のいう「正位に居るは本位を占満し、隅位に居るは余画を用尽す」で、ただあちらは後天卦位を用いこちらは先天卦位を用いるに過ぎざるなり。)噫。伏羲は上古の聖人なり。彼が河図を取法して卦を画くに、豈にさらにこのように割裂拼補してこれほど多くの周折を費さんや。最も愚笨の人ですらもこの道理なきを知る。劉歆のいう「互いに経緯・表裏と為る」は、ただ五行生成之数に就いて言うに過ぎざるなり。蔡元定はその义を推衍して、《易》の太極・両儀・四象はみな洛書に貫通し得、《洪範》の五行・九疇の細目はまた河図に貫通し得と認め、任意に牽合して不可とする所なし。しかし「十は図・九は書」はもともと確定の道理なし。ゆえに彼は末にただ一句の「怎んぞ図の書と為り得ざる・書の図と為り得ざるを知らんや」を説くを得るのみ。終に落得して含糊として憑拠なきに過ぎざるなり。
朱子《書河圗洛書後》曰:世傳一至九數者為河圗、一至十數者為洛書,考之於古,正是反而置之,予於《啟蒙》辨之詳矣。近讀《大戴禮》,又得一證:其《明堂篇》有「二九四七五三六一八」之語,而鄭氏注云「法龜文也」。然則漢人固以此九數者為洛書矣。
朱熹《書河図洛書後》にいう:世に流伝する説法は、一より九に至るまで之数をもって河図と為し、一より十に至るまで之数をもって洛書と為す。古書を用いて考核すれば、ちょうど両者を顛倒せるなり。私は《易学啓蒙》の中ですでに辨析するに甚だ詳細なり。近頃《大戴礼記》を読みて、また一条の証拠を得た。それの《明堂篇》に「二九四、七五三、六一八」のこのような言有りて、而も鄭玄の注に「これは亀背の紋路を取法す」という。このように看れば、漢代の人はもともとこの九つの数を洛書と為したなり。
《大戴禮·明堂篇》注云:「記用九室,謂法龜文,故取此數以明其制也。」朱子以為鄭氏語。餘姚黃先生云:鄭玄注小戴禮,未嘗注《大戴禮》,在《藝文志》可考,今之所傳亦後人假託為之也,甚疎略,不出於鄭氏明矣;況鄭氏明言河圗九篇、洛書六篇,豈又以九宮為洛書自背其說哉?今按《後漢書·鄭玄傳》,康成無《大戴禮》注;而《周書·盧辯傳》云:辯字景宣,以《大戴禮》未有訓詁,乃注之。《儒林傳》云:魏永熙三年,敕中書舍人盧景宣解《大載禮·夏小正》篇。然則「九室法龜文」乃景宣語,非康成語也。今之所傳葢出景宣,亦非假託。以洛書為龜文有數至於九,實始於晚出孔安國《書傳》,而景宣襲之。揚雄、張衡但言龜書,無九數之說。
《大戴礼記・明堂篇》の注にいう:「この篇は明堂が九室を用いるを記して、亀背の紋路を取法すると説く。ゆえにこの套の数を採用してその制度を説明す。」朱熹はこれを鄭玄の言と認めた。余姚の黄宗羲先生がいう:鄭玄の注したは《小戴礼記》で、並びに《大戴礼記》を注したことなし。これは《漢書・芸文志》に考見し得。今日の伝うる注もまた後人の仮託で、内容は十分に疏略にして、顕らかに鄭玄に出ざるなり。いわんや鄭玄は明らかに河図は九篇有り洛書は六篇有りと説いたるに、豈にまた九宮を洛書と為して自ら相矛盾せんや。いま《後漢書・鄭玄伝》を考するに、鄭玄(字は康成)は並びに《大戴礼》の注なし。しかして《周書・盧弁伝》にいう:盧弁は字を景宣といい、《大戴礼》に訓詁なきに因りて、そこでそれに為に注を作した。《儒林伝》にいう:東魏・永熙三年に、中書舎人・盧景宣に《大戴礼・夏小正》篇を解説せしむるを詔命した。このように看れば、「九室は亀文を取法す」は盧景宣の言で、鄭玄の言にあらず。今日の伝うる注はおそらく盧景宣に出たるもので、倒も仮託と算し難し。洛書を亀紋と説きてその数は九に至るまで多きは、実は晩出の孔安国《尚書伝》より始まり、盧景宣はそれに沿襲した。揚雄・張衡はただ亀書を説くに至るまでで、並びに九数之説なし。
西山兩易圗書,援孔、劉、闗、邵以證已之說,其實唯孔安國以洛書為九數,而闗朗之圗書與所反悉同,劉不言其數,邵亦但以九為書而未嘗以十為圗也。《本義》雖列此二圗,終不能厭服天下之心。故呂伯恭與朱子友善而信劉牧龍圗之學,魏華父私淑朱子亦以戴九履一者為河圗,他如朱元升、葛同叟、李簡、胡一中皆生於朱子之後而不從《啟蒙》。宋末元初朱學盛行,始有從《啟蒙》者,而郝經、劉因、雷思齊猶以為非。迨明之中葉,士子舍《程傳》而專宗《本義》,天下於是惟知有卷首之圗書,而不復問其所從來矣。
蔡元定は河図洛書を対調し、孔安国・劉牧・関朗・邵雍を援引して自らの説法を印证せしめた。実はただ孔安国のみ洛書を以て九数と為すに過ぎず、而も関朗の書中の図と書とは、まさに彼の反対するあの一套を完全に対調し来たるものなり。劉牧は並びにあの套の数を講ぜず、邵雍もまたただ九を以て洛書と為すのみで、かつて十を以て河図と為さざった。《周易本義》はこの両幅の図を巻首に列すといえども、終に天下人の心服を得る能わざった。ゆえに呂祖謙(字は伯恭)は朱熹と交好するに、劉牧《龍図》之学を信じた。魏了翁は朱熹に私淑するに、また「九を戴き一を履む」のあの幅を河図と為した。その他の朱元升・葛同叟・李簡・胡一中のごときは、みな朱熹の後に生まれて《啓蒙》に遵従せず。宋末元初に朱子学は盛行して、はじめて《啓蒙》に依従する人有り。しかして郝経・劉因・雷思斉はなおそれを正しからずと認めた。明代中葉に至って、士子は《程氏易伝》を捨去して専ら《周易本義》を宗とし、天下はここにおいてただ巻首のあの両幅の図書あるを知り、さらにそれらの来歴を追問せざった。
震川歸氏有光《易圗論》曰:或曰:子以易圗為非伏羲之舊,固已明矣,若夫「河以通乾出天苞,洛以流坤出地符」,所謂河圗洛書可廢耶?葢宋儒朱子之說甚詳:揭中五之要,明主客君臣之位,順五行生剋之序,辨體用常變之殊,合卦範兼通之妙,縱橫曲直無不相值,可謂精矣。曰:此愚所以恐其說之過於精也。夫事有出於聖人而在學者有不必精求者,河圗洛書是也。聖人聰明睿智,德通於天,符瑞之生出於世之所創見,而奇偶法象之妙足以為作易之本,理亦有然者。然曰「河圗洛書聖人則之」者,此大傳之所有也;「通乾流坤、天苞地符」之文,「五行生成、戴九履一」之數,非大傳之所有也。
明代の帰有光(号は震川)《易図論》にいう:ある者問う。あなたは《易》図が伏羲の旧物にあらざるを認定した。この層はすでに講じ明りたり。緯書のいう「河水は乾に通じて天苞を出だし、洛水は坤に流れて地符を出だす」に至っては、あのいわゆる河図洛書は豈にまた廃棄し得るか。宋儒の朱熹の説法は極めて詳備なりべし。中央の五数の枢要を拈出し、主客君臣の方位を講明し、五行相生相剋の次序に順い、体用常変の差別を分辨し、《易》卦と《洪範》九疇との兼通の妙を会合して、縦横曲直は一々相合せざるなし。精密極まりなしというべし。答えていう:これがまさに私の彼の学説を「精に過ぐる」を憂える処なり。ある事は聖人に出るも、而も学者は必ずしも精細に追求するを要せず。河図洛書はすなわちこのよう。聖人は聡明睿智にして徳は上天に通ず。祥瑞の出現は世に罕見の事にして、而も奇偶取象之妙は以て《易》を作る根本と為し得。この道理もまた説き通るべし。しかし「河図洛書、聖人はそれらを取法す」のこの句は《繋辞》の中に有るものなり。「乾に通じ坤に流れ、天苞地符」のあれらの文句は、「五行生成、九を戴き一を履む」のあれらの数目は、みな《繋辞》の中にないものなり。
以彼之名合此之跡,以此之跡符彼之名,不與大易同行,不藏於博士學官,而千載之下,山人野士持盈尺之書而曰「古之圗書者如是」,此其付受固已沈淪詭秘,而為學者之所疑矣。雖其說自以為無所不通,然此理在人,仁者知者皆能見之,龍虎之經、金石草木之卜、軌菥占算之術,隨其所自為說而亦無不合,豈必皆聖人之為之乎?大傳曰:「包羲氏之王天下也,仰則觀象於天,俯則觀法於地。」夫天地之間,何往非圗而何物非書也哉?揭其圗而示之曰「孰為上下,孰為左右,孰為乾兊離震,孰為巽坎艮坤」,天之告人也何其瀆;因其上下以為上下,因其左右以為左右,因其乾兊離震以為乾兊離震,因其巽坎艮坤以為巽坎艮坤,聖人之效天也何其拘。且彼所謂效變化則垂象者,毫而析之,又何所當也?
あちらの名目を取ってこちらの痕跡に附合し、またこちらの痕跡を取ってあちらの名目を印证す。この套の物はすでに《周易》と同じく流伝せず、また博士官学の中に收藏せらるることなし。却って一千余年の後に、山野の人が一尺見方の一幅の図を持ちて「古代の図書はすなわちこの様子」と説く。――その授受の来路はもともと幽昧詭秘にして、すでに早く学者の懐疑せる所と為れたり。この套の説法は自ら以て通ぜざる所なしと為すといえども、しかしこの層の道理は人人心の中に有り。仁者智者はみな見るを得。《龍虎経》を講じて丹を煉る者・金石草木を用いて占卜する方術・および各種の推歩占算之学は、各自随意に説を立て、また自らその説を円らかにする能わざるなし。豈にみな聖人の做出せる所ならんや。《繋辞》にいう:「伏羲氏が天下を統治するや、頭を抬げて天上の物象を観察し、頭を低くして地上の法則を察看す。」天地の間は、どこか図にあらざる・何物か書にあらざらんや。若し上天が一幅の図を挙げて人に看せ、指点して「どこか上・どこか下、どこか左・どこか右、どの幾処か乾兌離震、どの幾処か巽坎艮坤」と説くは、では上天の世人を暁諭する方式は未だ太も軽慢を免れざるなり。若し聖人がその上下に順えばすなわち上下を定め、その左右に順えばすなわち左右を定め、その乾兌離震に順えばすなわち乾兌離震を定め、その巽坎艮坤に順えばすなわち巽坎艮坤を定むるは、では聖人の上天を效法する方式はまた未だ太も拘泥を免れざるなり。いわんや彼らのいう「変化を效法して物象を垂示す」の、一丝一毫もみな剖析し出さんと欲するは、またどこに説き通るを得んや。
使二圗者果在如今所傳,然其所謂精蘊者,聖人固已取而歸之易矣,求圗書之說於易可也。子產曰:「天道逺,人道邇。」天者,聖人之所獨得,而人者,聖人之所以告人者也。告人以天,人則駭而惑;告人以人,人則樂而從。故聖人之作易,凡所謂深微悠忽之理,舉皆推之於庸言庸行之間,而卦爻之象、吉凶悔吝之辭,不亦深切而著明也哉!聖人見轉蓬而造車,觀鳥跡而制字,世之人求為車之說與夫書之義則有矣,而必轉蓬鳥跡之求,愚未見其然也。
仮にこの両幅の図が真に今日の伝うる様子のごとく確実に存在すとも、しかしその中のいわゆる精深の意藴は、聖人はすでに早く取りて《易》の中に帰納した。では《易》の中に至りて図書之説を尋求すればすなわち足る。子産がいう:「天道は遠く、人道は近し。」天道は聖人の独自領会する所で、人道ははじめて聖人が用いて衆人を暁諭する所なり。天道を取って人に告げれば、人はすなわち驚駭迷惑す。人道を取って人に告げれば、人はすなわち楽しく聴従す。ゆえに聖人は《易》を作すに、凡そあれらの深微恍惚の道理は、一概に日常の言語行事の中に推して講じ、そこで卦爻の象・吉凶悔吝の辞は、深切にしてまた明白ならざらんや。聖人は風に随って旋転する飛蓬を見て車子を造出し、鳥獣の足迹を見て文字を創制した。世人は車を造る理と文字之义を探求するは応然なり。若し非なれば飛蓬と鳥跡の上に追根究底せんと欲するは、私は何らかの必要有るを見出ださず。
孔子贊易,刪《連山》《歸藏》而取《周易》,始於乾而終於未濟,則圗書之列粲然者莫是過矣。今夫冶之所貴者範,而用者不求範而求器也;耕之所資者耒,而食者不求耒而求粟也。有圗書而後有易,有易無圗書可也。故《論語》「河不出圗」,與鳳鳥同瑞而已;《顧命》「河圗在東序」,與兊弓和矢同寶而已。是故圗書不可以精,精於易者精於圗書者也。惟其不知其不可精而欲精之,是以測度摹擬無所不至,故有九宮之法,有八分井文之畫,有坎離交流之卦,與夫孔安國、向、歆、揚雄、班固、劉牧、魏華父、朱子發、張文饒諸儒之論,或九或十,或合或分,紛紛不定,亦何足辨也。
孔子は《易》道を闡揚し、《連山》《帰蔵》を刪去して独り《周易》を取り、乾卦より始めて未済卦を以て結了す。では図書之説の中の真に燦然として見可しの部分も、ただこのように過ぎざるなり。たとえば冶鋳の最も要緊なるは模範なり。しかし使用する人は模範を求めずして器物を求む。耕種の凭借するは耒耜なり。しかし喫飯する人は耒耜を求めずして穀子を求む。先に図書有りて後に《易》有り。いま《易》有る以上、図書なくともまた妨げなし。ゆえに《論語》に「黄河は図を出ださず」というは、あれはただ鳳鳥と同じく祥瑞に属するに過ぎざるなり。《尚書・顧命》に「河図は東序に陳列す」というは、あれはただ兌地之弓・和地之矢と同じく宝器に属するに過ぎざるなり。ここをもって図書はもともと精を求むるを要せず。《易》の上に精を求め得る人は、すなわち図書の上に精を求めたるなり。まさにそれを精を求め得ざるを明白にせずして偏に精を求むるに因りて、そこで揣测摹擬は至らざる所なし。そこで九宮之法有り、八分井字紋の画法有り、坎離交流の卦説有り、および孔安国・劉向・劉歆・揚雄・班固・劉牧・魏了翁・朱震・張行成の諸家の議論は、あるいは九を主としあるいは十を主とし、あるいは合しあるいは分かれ、紛紛擾擾として定論なし。またどこに辨析するに値するを得んや。
自《本義》之圗書盛行,學者捲舌而不敢議,震川先生獨能昌言以正之,引繩批根,不遺餘力,真三百年來有數文字。
《周易本義》の巻首の図書之説が盛行して以来、学者はみな口を緘じて敢えて議論せず、ただ帰有光先生のみが直言してもって糾正を加え、墨縄を拉き直し、根より批き倒し、毫も余力を留めざった。真に三百年來の数えるべき好文章である。
秀水徐善敬可博覽精思,無所不通,而尤深於易,晚著書以發其蘊,有《天易》《羲易》《商易》《周易》。天易者,河圗洛書也;羲易者,先天古易也;商易者,《歸藏》首坤也;周易者,文王所演也。連山無傳,故不著夏易。同縣朱太史彝尊名其書曰《徐氏四易》而為之序。敬可與餘厚,向在京師出以示余,其言河圗洛書以劉牧得希夷之傳,而西山兩易殊可疑,餘深以為然,僭作題辭,要不出此意。
秀水の人・徐善(字は敬可)は群書を博覧し深く精微を思い、通ぜざる所なく、而も殊に《易》学に精し。晩年に書を著して心得を闡発し、《天易》《羲易》《商易》《周易》の四種有り。いわゆる「天易」は、河図洛書を講ずる。「羲易」は、先天古易を講ずる。「商易」は、《帰蔵》が坤卦を以て首に居るを講ずる。「周易」は、文王の推演した《易》を講ずる。《連山》は伝本なく、ゆえに別に「夏易」の一目を立てざった。同県の太史・朱彝尊はこの書のために《徐氏四易》と定名し、かつ序を作した。徐敬可は私と交誼深厚で、早年に京城に在る時かつて書を取出して私に看せた。彼の河図洛書を講ずるは、劉牧こそ陳摶の真伝を得た人と認め、而も蔡元定が図と書とを対調したは甚だ可疑と為す。――私は深くそれを然りと為し、すなわち冒昧に一篇の題辞を写した。大意もまたこの層の意を出でざるなり。
既而思之,河圗洛書自秦漢以來未有能言其狀者,至五季而始出,何可遽信?學者不能痛絶圗書之謬種,而徒辨劉蔡之是非,無為也。歲庚午,與敬可讀書莫釐峰下,方且效一得之慮,相與更定是書,而敬可尋以病歸,卒於家,吾欲言之無以為質矣。因復窮究其義,知圗書之形象自古無傳,當姑從漢孔劉之言而闕其疑,至於宋人之所傳,一槩難信。越七歲,為今丁丑,始成此五卷。追念舊好,歔欷者久之。嗟乎!郢人逝矣,誰與盡言?此嵇生所以致慨也。
後にさらに細く想うに:河図洛書は秦漢以来よりその形状を説き出し得る人なく、五代に至ってはじめて忽然と冒い出た。どうして軽易に信じ得んや。学者は若し図書のこのたぐいの謬種を根より断絶し能わざれば、ただ劉牧と蔡元定と孰れが是孰れが非の上に争辯するのみで、あれは徒労の力なり。庚午のあの年、私は徐敬可と莫厘峰の下に読書し、まさに自らの一得之見を献じて、彼と同じくこの部の書を修訂せんと欲した。不料敬可はほどなく病に因りて郷に帰り、家の中で死した。私はさらに何かを説かんと欲するも、質証し得る人なし。そこで重ねてその中の義理を窮究し、図書の形象は古より流伝せざったを明白にし、ただ応に姑く漢代の孔安国・劉歆の説法に依従して疑う処を存して論ぜざるべく、宋人の伝えたあれらに至っては、一概に信じ難し。七年を過ぎて、今年の丁丑に至り、はじめてこの五巻を写し成した。故交を追念し、久久として嘆息す。噫。あの匠石と相配した郢人はすでに在らず。なお誰と暢所欲言せんや。これがまさに当年の嵇康が知音の亡故のために深く感慨を致した縁由なり。
右論啟蒙圗書。
以上の一節は、《易学啓蒙》の載する河図洛書之説を考弁した。
易図明辨巻六 徳清・胡渭撰
先天古易・上
《繫辭傳》曰:「易有太極,是生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦。」
《周易・繋辞伝》にいう:《易》に一つの「太極」有り、太極は「両儀」を生じ、両儀はさらに「四象」を生じ、四象はさらに「八卦」を生ず。
朱子曰:「一每生二,自然之理也。《易》者,陰陽之變;大極者,其理也。兩儀者,始為一畫以分陰陽;四象者,次為二畫以分太少;八卦者,次為三畫而三才之象始備。此數言者,實聖人作《易》自然之次第,有不假絲毫智力而成者。畫卦揲蓍,其序皆然。」
朱熹が解釈していう:一つは必ず両つを生ず。これは自然の理なり。いわゆる《易》は、陰陽の変化を講ずる。いわゆる「大極」(すなわち「太極」)は、指すはこの変化の背後の道理なり。「両儀」は、最も先に画出した第一画で、用いて陰と陽とを区分す。「四象」は、接いで画出した第二画で、用いて太陰太陽と少陰少陽とを区分す。「八卦」は、さらに画出した第三画で、ここに至って天・地・人の「三才」の象ははじめて斉備す。この几句は、実に聖人が《易》を創作する時に自然に形成せる先後の次第で、その中に丝毫の人為の智巧を掺入せず。卦を画くも揲蓍して卦を求むるも、次序はみなこのよう。
按:此節夫子本言揲蓍之序,與畫卦無涉,說見第一卷。
胡渭の按:《繋辞》のこの一節は、孔子はもともと「揲蓍」して卦を求むる時に蓍草を分数する先後の次序を講ずるので、伏羲の卦を画くと毫も相干なし。詳細の論証は本書の第一巻に見える。
《語類》曰:「某嘗聞季通:『康節之數,伏羲也曽理會否?』曰:『伏羲須理會過。』某以為不然。伏羲只是據他見得一個道理,恁他便畫出幾畫,他也那裡知得疉出來恁地巧。此伏羲所以為聖。若他也恁地逐一推排,便不是天然意思。《史記》曰伏羲至淳厚,作《易》八卦,那裡恁地巧推排。」(此葉賀孫所録也。劉砥録以「伏羲至淳厚」為季通述太史公語,以規朱子。)
《朱子語類》に朱熹の言を記していう:私はかつて蔡季通(蔡元定)に問うた。「邵康節の講ずるあの套の数は、伏羲は当年にもまた推究したか。」彼は答えた。「伏羲は必ず推究した。」私は却ってこのように看ず。伏羲はただ自ら体会した一個の道理に凭って、手に随いてすなわちあの幾画を画き出したのみで、彼は豈に一層一層を畳み加えてついにこのように凑巧斉整し得るを知らんや。まさにこのがゆえに、伏羲ははじめて聖人と称し得る。仮に彼もまた後人のごとく一歩一歩排算すれば、すなわち天然自成の意にあらず。《史記》は伏羲の為人は極めて淳厚で、《易》を作して八卦を画くと説く。豈にあのように巧妙に推排せんや。(この条は葉賀孫の記録した所。劉砥の記録はすなわち「伏羲至淳厚」の一句を蔡季通が太史公・司馬遷の言を転述して、用いて朱熹を規勧したと為す。)
又董銖問:「《程易》乾繇辭下解云:『聖人始畫八卦,三才之道備矣,因而重之,以盡天下之變,故六畫而成卦。』據此說,卻是聖人始書八卦,每卦便是三畫,因而重之為六畫,似與邵子說不同。」曰:「程子之意,只雲三畫上疉成六畫,八卦上疉成六十四耳,與邵子說異。蓋康節此意不曽說與程子,程子亦不曽問之,故一向只隨他所見去。但他說聖人始畫八卦,不知其時先畫甚卦,此處便曉他不得。」
また董銖が発問していう:「程頤《易伝》は乾卦の卦辞の下に解釈して:『聖人は最初に八卦を画出せば、天地人の三才之道はすなわち斉備し、そこで八卦を重畳して、用いて天下の変化を窮尽す。ゆえに六画ははじめて一卦と成る。』この説法に照れば、聖人の最初に画いた八卦は、毎卦はすなわち三画で、さらに重畳して六画と成り、邵雍の講法と不同なるに似たり。」朱熹は回答していう:「程子の意は、ただ三画の上にさらに畳みて六画と成り、八卦の上にさらに畳みて六十四卦と成ると説くに過ぎざるなり。これは確かに邵雍の説法と一樣ならず。おそらく邵康節のこの套の意はかつて程子に講じ聴かせず、程子もまたかつて彼に問うに往かざった。ゆえに程子は終始ただ自らの見る所に依って講じた。ただ彼が聖人は最初に八卦を画くと説くに、あの時先に画くはどの一卦かを交代せざった。この一点はすなわち説き通らざるなり。」
按:康節先天八卦次序,伊川不用,以為聖人始畫八卦,每卦便是三畫。其後精通邵學者莫如漢上,而《集傳》釋兩儀、四象、八卦亦不從康節,意可知矣。朱子初亦疑之,謂伏義至淳厚,未必如此巧推排,而蔡季通堅執不移,故《本義》屈伊川而伸康節。蓋牧堂(季通父,名發,字神與)嘗以《皇極經世》授季通曰:「此孔孟正脈。」故季通篤信邵學不啻如孔孟,朱子方以為老友,不在弟子之列,往往曲從其言。至《啟蒙》則屬季通起藁,其《原卦畫》一篇敷暢邵學尤為詳備,而其說遂牢不可破矣。
胡渭の按:邵康節の排した「先天八卦次序」を、程伊川は並びに採用せず。彼は聖人が最初に八卦を画く時は、毎卦はすなわち直接に三画と認めた。後に邵雍之学に精通した人は朱震(漢上先生)に超越せるなし。しかして彼の《漢上易伝》は「両儀」「四象」「八卦」を解釈するにもまた邵康節に依従せず。その中の態度はすなわち推して知るべし。朱熹は起初にもまた懐疑して、伏羲の為人は極めて淳厚にして、未だ必ずしもこのように巧妙に推排するべしと説いた。ただ蔡季通は堅持して肯んじて讓歩せざった。ゆえに《周易本義》は最終的に伊川の説法を委屈して康節の説法を伸張した。もともと蔡牧堂(季通の父、名は発、字は神与)はかつて《皇極経世》を季通に伝授し、かついう:「これは孔孟の正統血脉なり。」ここをもって季通は邵氏之学を篤信するに孔孟を篤信するに亜がず。而も朱熹はまた彼を老朋友として看待して弟子の列に列さず、往々として彼の意見に遷就した。《易学啓蒙》を編むに至っては、さらに季通に委託して起草せしめ、その中の《原卦画》の一篇は邵学を鋪陳発揮して殊に詳尽完備なり。そこでこの套の説法は牢固としてさらに推倒し得ざるに至った。
朱子又疑伊川不知康節之意。愚謂程、邵在洛中晨夕往來,豈有邵不言而程亦不問者?此必伊川灼見其非,故《易傳》不從耳。又疑八卦不知先畫何卦。萬季野云:「讀《大傳》『成象之謂乾,效法之謂坤』,便見是先畫乾,次畫坤,然後以乾坤相索成六子,有何難曉?」李剛主亦云。
朱熹はまた程伊川が邵康節の用意を了解せざったと懐疑す。我・胡渭は認む。程頤は邵雍と同じく洛陽に在り、早晚往来して相処す。豈に邵雍が従来講ぜず程頤もまた従来問わざるの道理あらんや。これは必ず伊川が明明白白としてそれを正しからざると看出したゆえに、《易伝》ははじめて採用せざった。朱熹はなお伊川が最も先に画くはどの一卦かを説き清からざったと懐疑す。万斯同(字は季野)がいう:「ただ《繋辞大伝》の『象を成すを乾と謂い、法を效すを坤と謂う』の両句を読めば、すなわち先ず乾を画き次に坤を画き、然る後に乾坤より互相いに求索して六つの子卦を生出すを看出し得。これは何の難懂かあらん。」李塨(字は剛主)もまたこのように講ず。
邵子《觀物外篇》曰:「太極既分,兩儀立矣。陽下交於陰,陰上交於陽,四象生矣。陽交於陰,陰交於陽,而生天之四象;剛交於柔,柔交於剛,而生地之四象。於是八卦成矣。八卦相錯,然後萬物生焉。是故一分為二,二分為四,四分為八,八分為十六,十六分為三十二,三十二分為六十四。故曰:『分陰分陽,迭用柔剛,易六位而成章也。』」
邵雍は《観物外篇》の中でいう:太極は一たび分判すれば、「両儀」はすなわち確立す。陽は下に向かいて陰と交接し、陰は上に向かいて陽と交接せば、「四象」はすなわち産生す。陽は陰と交わり陰は陽と交わりて、天に属する四象を生出し、剛は柔と交わり柔は剛と交わりて、地に属する四象を生出す。この一歩に至って、八卦はすなわち形成す。八卦は交錯相配して、然る後に万物ははじめてこれによりて産生す。ゆえにいう:一は分かれて二と為り、二は分かれて四と為り、四は分かれて八と為り、八は分かれて十六と為り、十六は分かれて三十二と為り、三十二は分かれて六十四と為る。ここをもって《説卦伝》にいう:「陰を分かち陽を分かち、柔と剛とを交替に運用し、《易》は六個の爻位を以て文章を成就す。」
「十分為百,百分為千,千分為萬,猶根之有乾,乾之有枝,枝之有葉,愈大則愈小,愈細則愈繁。合之斯為一,衍之斯為萬。是故乾以分之,坤以翕之,震以長之,巽以消之。長則分,分則消,消則翕也。」
十はさらに分かれて百と為り、百はさらに分かれて千と為り、千はさらに分かれて万と為る。ちょうど樹根が樹干を生じ、樹干が枝條を生じ、枝條が樹葉を生ずるがごとし。整体はいよいよ大なれば、分け出る単位はすなわちいよいよ小。分くることいよいよ細なれば、数目はすなわちいよいよ繁多。合攏せば便ち一、推衍し開けば便ち万と成る。ゆえに乾は用いて分張し、坤は用いて收斂し、震は用いて生長し、巽は用いて消退す。生長すればすなわち分張を要し、分張すればすなわち消退を要し、消退すればすなわち收斂に帰す。
《本義》圖說:右《繫辭傳》曰「易有太極,是生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦」,邵子曰「一分為二,二分為四,四分為八也」。《說卦傳》曰「易逆數也」,邵子曰「乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八,自乾至坤皆得未生之卦,若逆推四時之比也」。後六十四卦次序仿此。(黒白之位本非古法,但今欲易曉,且為此以寓之耳。後六十四卦次序仿此。)
《周易本義》の附する図説に称す:上面のこの幅の図は、《繋辞伝》のいう「易に太極有り、太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」に出づ。邵雍はそれを解釈して「一は分かれて二と為り、二は分かれて四と為り、四は分かれて八と為る」と為す。《説卦伝》はまた「易は逆数なり」という。邵雍はそれを解釈していう:乾を一と為し兌を二と為し離を三と為し震を四と為し巽を五と為し坎を六と為し艮を七と為し坤を八と為す。乾より坤に至るまで数えば、得る所はみな未だ生成せざるの卦で、倒して四季の次序を推算するに比す。此後の六十四卦の次序もまたこの办法に照らして排す。(図中に黒白の両色を用いて奇偶の位置を標示するは、もともと古法にあらず。ただ今人をして容易に看懂せしめんがため、姑くそれを借りて卦画を寄托するのみ。此後の六十四卦の次序もまたこの办法に照らす。)
李剛主《學易》曰:「先天圖杜撰乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八之數,毛河右闢之是矣。若宗康成,以天地生成之數配八卦,則乾天也乃得地六數,坤地也乃得天九數,且中遺五數亦可疑也。蓋必分八卦次序之數,則畫卦自乾而終兌可為數,卦位自震而終艮可為數,然總不必也。何者?用九用六,爻有數;用四十有九,大衍有數,即卦數也。若乾一至坤八之數,聖人所不言,何為為渾敦畫眉乎?」
李塨は《学易》の中でいう:先天図は空より乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八のこの一套の卦数を造出し、毛奇齢(河右)のそれに対する駁斥は正しい。倘くも鄭玄(康成)に依従して、天地生成之数を用いて八卦に配せば、では乾はもともと天なるに地数の六に配せられ、坤はもともと地なるに天数の九に配せられ、しかも中間にさらに五のこの数を漏落す。同じく人をして疑を生ぜしむ。要するに非なれば八卦に次序之数を排出せざるべからずと説かば、では画卦に依りて論ずれば、乾より起こり兌に至るまで数うるも、また一種の数と算し得。卦位に依りて論ずれば、震より起こり艮に至るまで数うるも、また一種の数と算し得。しかしこれらは実はみな必要ならざるなり。何を以てか。「用九」「用六」は、爻の本身にすでに数有り。「大衍之数、その用は四十有九」は、揲蓍の本身にすでに数有り。あれはすなわち卦の数なり。乾一より坤八に至るまでのこの套の数に至っては、聖人はかつて講じたことなし。何の必ずしも渾沌のために眉毛を画かんや。
《易學啟蒙》曰:「盈天地之間莫非太極陰陽之妙,聖人於此仰觀俯察,逺求近取,固有以超然而黙契其心矣。故自兩儀之未分也,渾然太極,而兩儀、四象、六十四卦之理已粲然於其中。自太極而分兩儀,則太極固太極也,兩儀固兩儀也;自兩儀而分四象,則兩儀又為太極,而四象又為兩儀矣。自是而推之,由四而八,由八而十六,由十六而三十二,由三十二而六十四,以至於百千萬億之無窮,雖其見於摹畫者若有先後而出於人為,然其已定之形、已成之勢,則固已具於渾然之中,而不容毫髮思慮作為於其間也。」
《易学啓蒙》にいう:天地の間に充満する一切は、非なればすなわち太極と陰陽との奥妙なり。聖人はこれに対して頭を抬げて天を観身を俯して地を察し、遠きは万物に取象し近きは己身に取象し、もともと超然として領悟して心中に黙々として相契するを得。ゆえに両儀のいまだ分かれざるの時、渾然としてただ一個の太極に過ぎず、而も両儀・四象より六十四卦に至るまでの道理は、すでに清清楚楚としてその中に包含せり。太極より両儀を分け出すや、この時は太極はなお太極なり、両儀はなお両儀なり。両儀よりさらに四象を分け出せば、では両儀はまた転じて太極に充当し、四象はまた転じて両儀に充当す。このようによりて推せば、四より八に、八より十六に、十六より三十二に、三十二より六十四に、一直に百千万億に至って窮尽なし。図上に表出する摹描は先後有り人為に出るに似たるといえども、しかしあのすでに確定せる形状・すでに形成せる趨勢は、実はすでに早く渾然一體の中に具備し、人をしてその中に一丝一毫の思慮造作を掺れ入るを容さず。
「程子所謂『加一倍法』者,可謂一言以蔽之;而邵子所謂『畫前有易』者,又可見其真不妄矣。世儒於此或不知察,往往以為聖人作《易》蓋極其心思探索之巧而得之,甚者至謂凡卦之畫必由蓍而後得,其誤益以甚矣。」
程顥の説く所の「加一倍法」は、一句を以てこの套の卦を生ずる理を概括し尽くしたと言い得。而も邵雍の説く所の「画前に易有り」も、またこれによりて確かに虚妄の談にあらざるを見出し得。後世の儒者はこの一点に対して時には体察を加えず、往々として聖人の《易》を作るは心思を窮尽して探索の巧妙に頼りてはじめて得たると為す。いよいよ甚だしきは、ついに凡そ卦画は必ず先ず揲蓍を経てはじめて得るを得と説くに至りては、すなわち錯のいよいよ甚だしきなり。
又曰:「太極者,象數未形而其理已具之稱,形器已具而其理無朕之目,在《河圖》《洛書》皆虛中之象也。周子曰『無極而太極』,邵子曰『道為太極』,又曰『心為太極』,此之謂也。」
《易学啓蒙》はまたいう:いわゆる「太極」とは、象と数とがいまだ成形せざるにその理はすでに完備せるあの種の称呼を指し、また形体器物はすでに具備せるにその理は却って何らの朕兆を看出し得ざるあの種の名目を指す。《河図》《洛書》の中において、それはみな中央虚空のあの象として表出す。周敦頤は「無極にして太極」といい、邵雍は「道を太極と為す」といい、また「心を太極と為す」という。講ずるはまさにこれ。
「太極之判,始生一竒一偶而為一畫者二,是為兩儀,其數則陽一而陰二,在《河圖》《洛書》則竒偶是也。周子所謂『太極動而生陽,動極而靜,靜而生陰,靜極復動,一動一靜,互為其根,分陰分陽,兩儀立焉』,邵子所謂『一分為二』者,皆謂此也。」
太極は一たび分判すれば、最も先に一奇一偶の両種の一画の符号を生出す。これがすなわち「両儀」。数に就いて言えば、陽は一と為し陰は二と為し、《河図》《洛書》の裡においてすなわち奇数と偶数なり。周敦頤《太極図説》の講ずる「太極は一動すればすなわち陽を生じ、動きて極処に至れば便ち静と為り、一静すればすなわち陰を生じ、静かにして極処に至ればまた復して動に帰す。一動一静は互いに根本と為り、陰を分かち陽を分かち、両儀はここにおいて確立す」、および邵雍の講ずる「一は分かれて二と為る」は、説くはみなこの一層。
「兩儀之上各生一竒一偶而為二畫者四,是謂四象。其位則太陽一、少陰二、少陽三、太陰四,其數則太陽九、少陰八、少陽七、太陰六。以《河圖》言之,則六者一而得於五者也,七者二而得於五者也,八者三而得於五者也,九者四而得於五者也;以《洛書》言之,則九者十分一之餘也,八者十分二之餘也,七者十分三之餘也,六者十分四之餘也。周子所謂『水火木金』,邵子所謂『二分為四』者,皆謂此也。」
《易学啓蒙》は接続していう:両儀の上において、各々さらに一奇一偶を生出し、そこで両画の符号の合わせて四種と為る。これを「四象」と呼ぶ。位次に就いて言えば、太陽は第一に居り少陰は第二に居り少陽は第三に居り太陰は第四に居る。数目に就いて言えば、太陽は九に配し少陰は八に配し少陽は七に配し太陰は六に配す。《河図》を用いて講ぜば、この四つの数はみな本数にさらに中に居る五を加上す。六は一加五、七は二加五、八は三加五、九は四加五なり。《洛書》を用いて講ぜば、この四つの数はすなわち十里より本数を減去して剩る所。九は十減一の剩、八は十減二の剩、七は十減三の剩、六は十減四の剩なり。周敦頤《太極図説》の講ずる「水・火・木・金」、邵雍の講ずる「二は分かれて四と為る」は、指すはみなこの一層。
「四象之上各生一竒一偶而為三畫者八,於是三才略具而有八卦之名矣。其位則乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八。在《河圖》則乾坤離坎分居四實,兌震巽艮分居四虛;在《洛書》則乾坤離坎分居四方,兌震巽艮分居四隅。《周禮》所謂『三易經卦各八』,《大傳》所謂『八卦成列』,邵子所謂『四分為八』者,皆指此而言也。」
四象の上において、各々さらに一奇一偶を生出し、三画の符号の合わせて八種と為る。ここに至って天地人の三才は大略具備し、そこで八卦の名称有り。位次に就いて言えば、乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八。《河図》の裡において、乾・坤・離・坎は分別して四つの実位を占拠し、兌・震・巽・艮は分別して四つの虚位を占拠す。《洛書》の裡において、乾・坤・離・坎は分別して四正之方を占拠し、兌・震・巽・艮は分別して四つの角落を占拠す。《周礼》のいう「三《易》の経卦は各々八有り」、《繋辞大伝》のいう「八卦は列を成す」、邵雍のいう「四は分かれて八と為る」は、指すはみなこれ。
《語類》曰:「康節之書固自是好,而季通推得來又甚縝宻(觀此語則《啟蒙》仍季通之藁無所更定可知),若見於用,不知果如何,恐絶勝諸家也。」
《朱子語類》に朱熹の言を記していう:邵康節の書はもともと好し、而も蔡季通はそれを推演し出してまた極めて細密なり(この句によりて看見し得、《易学啓蒙》はなお蔡季通の原稿で、朱熹は並びに何らの改定を作さざった)。若し取りて実際に運用せば、いったいいかんなるを知らず。おそらく遠く別家に勝るべし。
康節之學似揚子雲。《太玄》擬《易》,方、州、部、家皆自三數推之。玄之為首,一以生三為三方,三生九為九州島,九生二十七為二十七部,九九乘之斯為八十一家。首之以八十一,所以準六十四卦;贊之以七百二十有九,所以準三百八十四爻,無非以三數推之。康節之數,則是加倍之法。
朱熹はまたいう:邵康節の学問は幾分か揚雄に似たり。揚雄の《太玄》は《易》を仿照して作したもので、その中の「方」「州」「部」「家」の四級はみな三のこの数に按りて推衍し出たる。《太玄》は「首」を立て、一より三を生じて三方と成り、三より九を生じて九州と成り、九より二十七を生じて二十七部と成り、さらに九を以て九を乗ずれば便ち八十一家を得。それは八十一首を用いて《易》の六十四卦に対応し、七百二十九賛を用いて《易》の三百八十四爻に対応す。一処として三を取りて推さざるなし。邵康節の用いる数に至っては、あれはすなわち成倍相加の办法なり。
程先生有一柬說先天圖甚有理,可試往聴他說看。觀其意甚不把當事,然自有《易》以來,只有康節說一個物事如此齊整。如揚子雲《太玄》便零星補湊得可笑,若不補又卻欠四分之一,補得來又卻多四分之三。如《潛虛》之數用五,只似如今算位一般,其直一畫則五也,下橫一畫則為六,橫二畫則為七,蓋亦補湊之書。
朱熹はまたいう:程先生(程頤)に一封の短簡有り、先天図は甚だ道理有りて、試みに往きて彼の講ずるを聴くべしと説く。彼の口気を看れば、実はこの事を太も真に当てと為さざるなり。しかし《易》有りて以来、ただ邵康節のみこのほどの一套の物を斉整に説き出したり。揚雄の《太玄》のごときは、すなわち零零碎碎として凑補して笑うべし。補わざれば、なお四分の一を差し、補えば起きて、また四分の三を多出す。また司馬光の《潜虚》のごときは、五を用いて基数と為し、ただいまの算筹が位を摆くに似たり。縦に一画はすなわち五、下に一横画を加えればすなわち六、両横画を加えればすなわち七。説き到ればまた一部の拼凑して成れる書なり。
按:《太玄》方、州、部、家表贊皆自三數推之,全從「三生萬物」得來,不待清靜寂寞等語而始知其為老氏之學也。《易》之為書,廣大悉備,天象厯數之理皆包括其中,然伏羲作《易》之本,夫子仰觀俯察數語盡之,天象厯數非其本也。雄因覃思渾天而作《太玄》以擬之,與《太初厯》相應。
胡渭の按:《太玄》の方・州・部・家および表・賛は、みな三のこの数に按りて推衍し出たるもので、完全に老子の「三は万物を生ず」の一語より脱胎して来たる。書中のあれらの「清靜寂寞」のたぐいの言を見るを待つを要せずして、すでにそれが老氏之学に出るを知る。《易》のこの書は広大周備にして、天象と暦法の理とはみなその中に包含さる。ただ伏羲の《易》を作す根本は、孔子は「仰いで天を観俯して地を察す」の幾句を用いてすなわち説き尽くしたり。天象暦数は並びにその根本にあらず。揚雄は渾天之説を深思したに因りて《太玄》を作して以て《易》に比擬す。ゆえにそれは漢代の《太初暦》と正しく相呼応す。
《易》太極生兩,兩生四,四生八;《玄》太極函三為一,一生二,二生三,三生萬物:其所據者固老氏之《易》,而非聖人之《易》矣。列子言太易自一而七而九,亦皆竒數,卻不言三。夫子所言自一而兩而四而八皆偶數,故康節用加一倍法。子云之乘法以參,康節之倍數以兩,故蔡季通云:「使康節為之,定是四公、八辟、十六侯、三十二卿、六十四大夫,都是加倍法也。」
《易》は太極が両儀を生じ、両儀が四象を生じ、四象が八卦を生ず。《太玄》はすなわち太極は三を含みて一と為り、一は二を生じ二は三を生じ三は万物を生ず。これを見ればそれの依拠する所はもともと老子の一路の《易》で、聖人の《易》にあらず。列子は「太易」を講じて一より七而して九、用いるもみな奇数なれど、三を講ぜず。孔子の講ずるは一より両而して四而して八、用いるもみな偶数なり。ゆえに邵康節は加一倍の办法を採用す。揚子雲の推法は三を以て相乘し、邵康節の推法は二を以て相倍す。ここをもって蔡季通はいう:「仮に康節をして《太玄》を作らしめば、あれは必ず四公・八辟・十六侯・三十二卿・六十四大大夫に排成し、通通みな加倍法ならん。」
子云草《玄》,自丑至午得七百二十九而止,《玄》其所自造,任意可也。康節著先天圖,自兩至八,《易》之所有也;自八而為十六、三十二、六十四,以至於百千萬億而無窮,又豈《易》之所有乎?是亦邵子之數學,而非古聖人之《易》矣。
揚子雲は《太玄》を起草して、丑位より排して午位に至り七百二十九賛を得てすなわち停住した。《太玄》はもともと彼の自ら造った書で、如何に安排するも彼の意に随う。邵康節は先天図を撰作して、両儀より八卦に推す。これは《易》の中にもともと有るものなり。ただ八よりさらに十六・三十二・六十四に推し、一直に百千万億に至って窮尽なきに至っては、豈にまた《易》の中にもともと有るものならんや。これは同じくただ邵雍自身の数学で、古代聖人の《易》にあらず。
朱子嘗云「康節之學似揚子雲」,又云「康節數學源流於陳希夷」。希夷,老氏之徒也,不啻若子云之小疵。朱子斥《太玄》學本老氏,而顧以出自希夷者為聖人之《易》,獨何與?
朱熹はかつて「邵康節の学問は揚子雲に似たり」といい、また「康節の数学の淵源は陳摶(希夷)に出ず」という。陳摶はもともと道家老氏の一派の人物で、その毛病は遠く揚子雲のあの小瑕疵の比にあらず。朱熹は一面に《太玄》之学は老氏に本づくと斥責し、一面に陳摶に出たる物を取って聖人の《易》と為す。これはいったい何の故か。
嗟乎!仲尼沒而微言絶,七十子喪而大義乖。漢世崇尚黃老,至謂《老子》兩篇過於五經,子云擬《易》,所以墮其玄中也。魏晉諸人皆以老、易混稱,歴唐宋而未艾。伊川始闢異端,専宗十翼,《易》道昌明如日月之中天矣,而希夷之徒以象數自鳴,復從而亂之。蓋自孔子贊《易》之後二千年間,其不以老氏之《易》為聖人之《易》者無幾。迨宋末元初,《啟蒙》之說盛行,以至於今,則反謂文王、周公、孔子之《易》非伏羲之《易》,而老、列、希夷、康節之《易》乃真伏羲之《易》矣。晦盲否塞五百餘年,非屏絶先天諸圖而専宗程氏《易》,不可得而明也。
噫。孔子は去世して精微之言は断絶し、七十弟子は凋零して大義は走様す。漢代は黄老之学を崇尚し、甚だしきは《老子》の上下両篇は五経に勝ると説く。揚子雲は《易》を模擬して《太玄》を作す。まさにこれに因りて道家玄虚の路数に墜入せり。魏晋の諸人はさらに老氏と《易》とを混じて一談と為し、一路に唐・宋を経て止息せざった。程伊川ははじめて異端を排斥して、専ら孔子の十翼を主とし、《易》道は昌明して日月が空に当たるがごとし。しかし陳摶の一派はまた象数の旗號を打ちて自ら標榜し、重新にそれを攪乱した。大致に言えば、孔子が《易》を賛じて以後の両千年間、老氏之《易》を取って聖人之《易》と為さざる人は幾個か有らざった。宋末元初に至り、《易学啓蒙》の説法は盛行し、一直に今日まで流伝し、人々は反って文王・周公・孔子の《易》は伏羲の《易》にあらずと説き、老子・列子・陳摶・邵雍の《易》ははじめて真の伏羲の《易》と為す。このように昏暗閉塞して五百余年、若し先天の諸図を徹底に屏除して専ら程頤の《易伝》を主とせざれば、《易》道は重新に弄明白にする能わざるなり。
鯤溟黃氏曰中曰:「卦之短長闊狹彼此如一,若依橫圖畫法,下畫一竒一偶,以視四象,每竒偶當截為二段,八卦當截為四段,十六當截為八段,三十二當截為十六段,六十四當截為三十二段。其四象、八卦、十六、三十二亦各各當截。若不截下,以一竒一偶牽連上之六十四,竒偶長短不倫,且圓圖如何抝轉?方圖如何堆疉?」
号を鯤溟という黄曰中がいう:卦画の長短寛窄は、彼此もともとみな一様なり。若し横図の画法に依拠せば、最も下の一画は一奇一偶を分かち、では四象に対照して看れば、毎一個の奇画偶画はみな両段に截成するを得、八卦に対照せば、四段に截成するを得、十六に対照せば、八段に截成するを得、三十二に対照せば、十六段に截成するを得、六十四に対照せば、すなわち三十二段に截成するを得。その中の四象・八卦・十六・三十二の各層も、また各々自ら截断を要す。仮に下のこの一画を截せざれば、すなわち一個の奇画か偶画を用いて上面の六十四卦に牽連するを要し、では奇偶の各画は長短参差不斉にして、円図はまたどうして弯転し得、方図はまたどうして堆畳し得んや。
「若依六十四截之,截竒則竒仍是竒,截偶則偶已非偶矣。何也?偶之為畫,中斷者也,自兩儀一截而後,偶固蚤化而為竒矣。今觀橫圖,亦自知其法不可通,不得已而以黒白分竒偶,大失畫竒偶之本色矣。」
仮に六十四卦の分法に照らしてそれを截き開けば、奇画を截する時は奇画はなお奇画なりといえども、偶画を截する時は偶画はすなわちさらに偶画にあらず。何を以てか。偶画はもともと中間の断開せる一画で、両儀のあの層に一たび截せられたる後、偶画はすでに早く両段の短短とした奇画に化成したり。いま横図の画法を看れば、図を作る人もまた自らこの办法の講じ通らざるを明白にし、已むことを得ずしてはじめて黒白の両色を用いて奇偶を区分せしめた。これは大大に奇画偶画を画くの本来の面目を失せしめたり。
按:橫圖逐爻漸生之法,唯揲蓍三變而成爻、十八變而成卦,自初而二、而三、而四、而五、而上,六爻次第得之,誠有然者。然兩儀主一變言,但分竒偶;而初畫則兼三變,三變之餘或老或少,各視其所得之九六七八以為名,則初畫便當為四象,不可謂兩儀。四象三畫皆有,獨以中畫為四象,尤不可也。然則就揲蓍言之,其義亦有難通者矣。
胡渭の按:横図のあの逐爻に漸次に生出する办法は、ただ揲蓍の時にのみ説き通り得。三変して一爻と成り、十八変して一卦と成り、初爻より二爻・三爻・四爻・五爻・上爻に至るまで、六爻は依次に求得す。確かにこのよう。しかし「両儀」はただ一変に就いて言うに過ぎず、僅々奇偶を分け出すに過ぎず。而も初爻のこの一画は却って三変を兼るを要す。三変の後の余る所の策数はあるいは老あるいは少で、各々得る所の九・六・七・八に按りて命名すれば、では初画は応に「四象」と算して、「両儀」と呼ぶ能わざるべし。いわんや四象は三画の中の毎一画にみな有るに、偏にただ中間のあの一画を四象と為せば、すなわちいよいよ説き過ごさる能わず。これを見れば仮に揲蓍に就いて講ずるとも、この套の義理にもまた講じ通らざるの処有るなり。
若夫畫卦之法,三才一時俱備,豈有先畫一竒一偶,其上覆為一竒一偶之理?康節以揲蓍之序為畫卦之序,又何怪乎世儒謂凡卦之畫必由蓍而後得也哉!《儀禮》注云「卦者主畫地識(音志)爻,爻備以方寫之」,方即牘也。伏羲時書契未興,其始作八卦不知畫在何處,然亦必有一物焉以載此八卦之象可知也。
卦を画く方法に至っては、天地人の三才は一次に同時に具備す。豈に先ず一奇一偶を画き出し、さらにその上に一奇一偶を添うるの道理あらんや。邵康節は揲蓍の次序を取って画卦の次序と為したれば、あれはすなわち後世の儒者が凡そ卦画は必ず揲蓍を通じてはじめて得るを得と説き出したも怪しむに足らざるなり。《儀礼》の鄭玄注に「卦する者は主管して地上に爻画を划記し、六爻斉備の後にさらに方版を用いて抄写出来す」と説く(「識」は「志」と読む)。ここの「方」はすなわち木牘なり。伏羲の時代は文字書契はなお興起せず、彼が最初に八卦を画くやいったい何処に画いたかはすでに知るに由なし。ただ必ず何らかの物が用いてこの八卦の卦象を承載したは、断定し得るなり。
信如康節所圖,則初畫最長,巾畫半之,終畫又半之。吾不知伏羲既作此象,將截為八段以示人乎?將連者仍連而聴人之自為識別乎?抑亦殫其智力以為之初,如今人之起藁,繼乃更定,劃然分列為八乎?揆諸事情,決無是理。鯤溟之辯良足解頤。吾不知季通何以極贊其妙,而朱子舍己從之也。
果して邵康節の画いたごとくならば、では最も下の一画は最長く、中間の一画はただそれの半分有り、最も上の一画はまた中間の半分有るのみ。私は実に知らず。伏羲はすでにこのような図象を作出して、これをそれを八段に截成して人に看せんと欲するや、それとも相連なるを旧のごとく相連ならしめ、別人の自ら分辨するに聴凭せんと欲するや。あるいは彼はついに先ず智力を竭くして個の初稿を画出し、今人が草稿を打つがごとく、随いでさらに改定を加えて、はじめて清清楚楚として分列して八卦と成したるや。常理を取って衡量すれば、絶えてこの事有るなし。黄鯤溟のこの番の辯駁は実に人をして解頤せしむ。私は蔡季通が何の故に極口にこの種の画法の巧妙を称賛し、而も朱熹がついに自らの見解を捨去して彼に順従したを明白にせず。
林黃中栗與朱子論《易》,以一卦之全體為太極,內外為兩儀,內外及互體為四象,又顛倒取為八卦。朱子曰:「如此則不是生,卻是包也。」林曰:「惟其包之,所以生之。」朱子曰:「包如母之懷子,子在母中;生如母之產子,子在母外。」此特據康節之圖以為言耳。
林栗(字は黄中)は朱熹と《易》を討論して、一卦の整体を取って太極と為し、内卦外卦を取って両儀と為し、内卦・外卦にさらに互體を加上して四象と為し、また卦を顛倒して取りて八卦と成さんことを主張した。朱熹がいう:「このように講ぜば、すなわち『生』にあらずして『包』なり。」林栗がいう:「まさにそれが包含するに因りて、生じ出すを得。」朱熹がいう:「『包』は母の胎児を懐くに似て、子は母の體内に在り。『生』は母の子を産下するに似て、子は母の體外に在り。」朱熹のこの番の言は、実はただ邵康節の図に依拠して論を立てたに過ぎざるなり。
若希夷太極圖作白黒回互之狀,函兩儀、四象、八卦,皆子在母中。譬諸歲時,一歲本一氣耳,析之而為寒暑則二氣矣,又析之而為春夏秋冬則四氣矣,又析之而為分至啟閉則八節矣,皆一分為二、子在母中者也。
若し陳摶の太極図を説かば、白黒の回環互抱の様子に画き成して、その中に両儀・四象・八卦を包含すれば、あれはみな「子が母の體内に在る」に属す。一年の時令を取って比喩と作さば:一年はもともとただ一股の気で、それを分かてばすなわち寒・暑の両気と成り、さらに分かてばすなわち春・夏・秋・冬の四気と成り、さらに分かてばすなわち春分秋分・夏至冬至と立春立夏立秋立冬のこの八節と成る。これらはみな一は分かれて二と為るで、「子が母の體内に在る」の情形に属す。
至康節變為橫圖,則兩儀、四象、八卦皆子在母外:初畫為儀,中畫為象,終畫為卦,而太極一畫更居其先,是猶一歲之外別有寒暑,寒暑之外別有四時,四時之外別有八節也,其謬不已甚乎?雖名為先天,而實失希夷之意矣。
邵康節が改めて横図と成すに至っては、では両儀・四象・八卦はみな「子が母の體外に在る」と成った。最も下の一画を両儀と算し、中間の一画を四象と算し、最も上の一画を八卦と算し、而も太極を代表する一画はなおそれらの前に摆くを要す。これはちょうど一年の外に別に寒暑有り、寒暑の外に別に四季有り、四季の外に別に八節有るに比す。荒謬は豈に太も甚だしからざらんや。それは「先天」の名号を挂くるといえども、実際にはすでに陳摶の本意を失せり。
《仲氏易》曰:「趙宋専襲陳摶先天圖,謂老陽、少陽、老陰、少陰為四象,而世共遵之。考陰陽老少仍是揲蓍所用,與畫卦不同。惟卦有動靜,爻有貞變,老動少靜,老變少不變,故立此數。」
毛奇齢《仲氏易》にいう:趙宋の一代は専ら陳摶の先天図を承襲して、老陽・少陽・老陰・少陰を取って四象と為し、而も挙世はみなそれに跟って遵奉せり。考究するに、陰陽の老少はもともと揲蓍して卦を求むる時に用いる名目で、卦を画くとは両回事なり。ただ卦に動有り静有り、爻に不変有り変有りて、老陽老陰は動を主とし少陽少陰は静を主とし、老なるは変ずるを要し少なるは変ぜざるに因りて、はじめてこれらの幾個の数を立下した。
「今繪圖者先以兩儀為一重,則自兩畫始,非一畫也;若又加一虛中夾畫於兩儀之前以為太極,則又別一畫,非卦畫也。乃以兩陰兩陽作四象而以為二重。夫老之與少並從已成之卦所推,故乾為老陽,非老陽而後乾也。當庖羲作乾畫時,雖有二畫,然尚未知所成為何等,而乃先曰此當為純陽之卦、此畫為老陽,有是理乎?此說之必不可通者也。」
いま図を画く人は先ず両儀を一層と算すれば、あれはすなわち両画より算して起こるので、一画にあらず。若しまた両儀の前に一条の中間虚断の夾画を添えて以て太極を代表せば、すなわち別に一画を成す。しかしあれは並びに卦画にあらず。接続してまた両陰両陽を取って四象と為し、第二層と算す。知るべきである、老と少との分別は、みなすでに成形せる卦より推して出たるを。ゆえに先に乾卦有りてはじめてそれを老陽と称し、先に老陽有りて然る後に乾有るにあらず。伏羲が乾卦を画きて第二画に至るの時、已有の両画有るといえども、なお最終にいったい何の卦と成るを知らざるに、どうして預め「これは将に純陽之卦と成らん」「この一画は老陽に属す」と説き得んや。これはこの套の説法の必定に講じ通らざるの処なり。
「乃作三重畫而並以乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤一齊出之為八卦,是一畫之後不必成乾,已先作兌離諸卦之畫;及成乾之後,又不必繼坤,而反以六子之卦成之坤前。將夫子《大傳》所云『成象乎乾,效法乎坤』,與『乾坤成列』『因而重之』『一索再索』『得男得女』諸語顯然抵梧(去聲),是敢於悖聖,而以此解經,真鹵莽之甚者也。」
そこでまた第三層を画出して、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤を一斉に排し出して以て八卦と為す。このように来たれば、第一画を画き了るの後に必ずしも先ず乾卦を成さず、反って先ず兌・離等の卦の画を画出したり。而も乾卦が成形したる後にもまた、坤卦に接続して成らず、反って六つの子卦を坤卦の前に摆く。これはすなわち孔子《繋辞大伝》のいう「象を成すを乾と謂い、法を效すを坤と謂う」、および「乾坤は列を成す」「因りてこれを重ぬ」「一索再索」「男を得女を得」等の語と公然として抵牾す(「抵梧」の「梧」は去声と読む)。これは敢えて聖人に違背し、さらにそれを取って経を解す。真に粗疏魯莽の極点に到れたり。
按:卦,象也;蓍,數也。《左傳》韓簡曰:「物生而後有象,象而後有滋,滋而後有數。」蓋數即象之分限節度處,生於象而不可以生象。康節加一倍法欲以數生卦,非也。四象唯揲蓍三變成爻後有之,乾坤男女即是八卦,不得稱四象,専屬第二畫尤無理,說見上文。
胡渭の按:卦は「象」に属し、蓍は「数」に属す。《左伝》の裡の韓簡がいう:「事物は先ず産生して然る後に形象有り、形象有りて然る後に滋生有り、滋生有りて然る後に数目有り。」数はただ象の分界と節度の所在に過ぎず、それは象より生ずるも、反って象を生ずる能わず。邵康節の加一倍法は数を用いて卦を生出せんと欲す。これは錯なり。四象はただ揲蓍の三変して爻と成るの後にのみ談じ及び得。乾坤と六つの子卦は本身にすなわち八卦で、「四象」と称する能わず。四象を専ら第二画に帰属せしむるはさらに道理なし。理由はすでに上文に見えたり。
《說卦傳》曰:「雷以動之,風以散之,雨以潤之,日以晅之,艮以止之,兌以說之,乾以君之,坤以藏之。」
《説卦伝》にいう:雷は用いて万物を鼓動し、風は用いて万物を吹散し、雨は用いて万物を滋潤し、日は用いて万物を曝曬し、艮は用いて万物を止息せしめ、兌は用いて万物を欣悦せしめ、乾は用いて万物を統御し、坤は用いて万物を收藏す。
石門梁氏寅曰:「『天地定位』一節首乾坤,此一節則先六子者,蓋前乃先天八卦之體也,故先言不用者而後言用;此乃先天八卦之用也,故先言其用者而後言不用。如文王八卦専以用言之,亦始於震巽,而退乾於西北,退坤於西南。於此見八卦之體用固當不同也。」
石門の人・梁寅がいう:《説卦》の「天地は位を定む」のあの一節は乾坤を以て開頭と為すに、この一節は却って先ず六つの子卦を講ず。その原因在于、前の一節が講ずるは先天八卦の「體」なれば、ゆえに先ず直接に作用せざる乾坤を説き、然る後に作用する六子を説く。この一節が講ずるは先天八卦の「用」なれば、ゆえに先ず作用する六子を説き、然る後に直接に作用せざる乾坤を説く。文王八卦が専ら「用」に就いて説を立つに至っては、また震・巽より開始して、乾を西北に退かしめ坤を西南に退かしむ。これによりて八卦の體と用とはもともと応に不同有るべきを見出し得。
「神也者,妙萬物而為言者也。動萬物者莫疾乎雷,撓萬物者莫疾乎風,燥萬物者莫熯乎火,說萬物者莫說乎澤,潤萬物者莫潤乎水,終萬物始萬物者莫盛乎艮。故水火相逮,雷風不相悖,山澤通氣,然後能變化,既成萬物也。」
《説卦伝》は接続していう:いわゆる「神」とは、それが微妙に万物を運化し得るに就いて言う。万物を鼓動するは雷より迅疾なるは莫く、万物を吹拂揺動するは風より迅疾なるは莫く、万物を烘干するは火より熾烈なるは莫く、万物を欣悦せしむるは沢より能く取悦するは莫く、万物を滋潤するは水より能く潤沢するは莫く、万物を終結してまた万物を開啓するは艮より盛大なるは莫し。ゆえに水火は相互に相手に及び、雷風は彼此相背違せず、山沢之気は互相いに貫通し、然る後に変化流行して万物を成就するを得。
平庵項氏曰:「動、撓、燥、說、潤、盛皆據後天分治之序,而相逮、不相悖、通氣、變化復據先天相合之位者,明五氣順布、四季分王之時,無極之真、二五之精所以妙合而凝者,未始有戾於先天之學也。苟無此章,則文王為無體,伏羲為無用矣。」
平庵先生・項安世がいう:「動」「撓」「燥」「説」「潤」「盛」のこれらの句は、みな後天八卦に依りて四時を分治する次序に就いて講ずる。而も「相逮」「不相悖」「通気」「変化」の幾句は、また先天八卦の両両相合の方位に帰りて講ず。これは表明せんと欲す:五行之気が順次に布施し四季が各々当令する時、あの「無極之真」と「陰陽五行之精」とが能く奇妙に凝合する所以は、従来先天之学に違背せざった。仮にこの一章なければ、では文王の後天卦は本体なきと成り、伏羲の先天卦もまた功用なきと成る。
又曰:「先天之首以天地、山澤、雷風、水火為序,後天之末乃自水火、雷風、山澤、天地倒而言之,彼言乾坤之用成於坎離,此推坎離之功歸於乾坤也。」
項安世はまたいう:先天の一段の開頭は、天地・山沢・雷風・水火の順序に按りて排列す。後天の一段の結尾は、却って水火・雷風・山沢・天地より倒して講じ帰る。前者は乾坤の功用が坎離に頼りて完成するを説き、後者は坎離の功労を乾坤に帰還する。
按:「天地定位」「雷以動之」二章皆以對待之體言,一首乾坤明六子所自出,一先六子而歸功於乾坤,未見其為先天之方位也。「帝出乎震」章以流行之用言,故順四時以為序而各著其方位。「神也者」章兼流行、對待言之:動、撓、燥、說、潤、盛,流行之用也;水火、雷風、山澤,對待之體也。雖不言乾坤,而六子之功用莫非乾坤之所為,「神」與「變化」正指乾坤而言,與「雷以動之」章略同,亦無以見上六句為後天之位而下三句為先天之位也。
胡渭の按:「天地は位を定む」と「雷以てこれを動かす」のこの両章は、みな両両相対する「體」に就いて講ずる。前の一章は乾坤を以て開頭と為し、六つの子卦が何より出るを説明す。後の一章は先ず六子を講じて功労を乾坤の身上に帰す。この両章の中よりそれらが何の先天方位を講ずるかを看出し得ず。「帝は震より出づ」の一章ははじめて流行する「用」に就いて講ずる。ゆえに四季に順って次序を安排し、かつ各々在る所の方位を標明す。「神や」との一章はすなわち流行と対待との両面を兼説す。動・撓・燥・説・潤・盛の六句は、流行之用に属す。水火・雷風・山沢の三句は、対待之體に属す。文中に明らかに乾坤を提げずといえども、しかし六子の功用は一つとして乾坤の為す所にあらざるなし。あの「神」の字と「変化」の二字は、まさに乾坤に就いて言うので、「雷以てこれを動かす」の一章と大略相同じ。ゆえに同じく上面の六句がすなわち後天之位・下面の三句がすなわち先天之位を看出し得ず。
橫圖、方圖從中起者為震、巽,人皆謂根柢於此。自余觀之,「三索」章先父母而後六子,此兩章先六子而後父母,要皆歸重於乾坤,豈有六子居母前之理?此天地之大經、古今之通義,而邵圖紊亂如此,尚可信乎?
横図と方図とが中間より算して起こる位置は震と巽とで、人はみな先天之説の根柢はすなわちここに在りと言う。我が見るに、《説卦》の「一索再索三索」を講ずるあの一章は先ず父母を講じて後に六子を講じ、ここの両章は先ず六子を講じて後に父母に帰す。総じてみな分量を乾坤の上に落とす。豈に六つの子卦を父母の前に排するの道理あらんや。これは天地の間の大原則・古今相通の義理にして、而も邵雍の図はついにこの地步に紊乱す。なお信じ得るか。
右論邵子伏羲八卦次序。
以上の各条は、邵雍の定めた「伏羲八卦次序」図を討論する。
《說卦傳》曰:「天地定位,山澤通氣,雷風相薄,水火不相射,八卦相錯。數往者順,知來者逆,是故《易》逆數也。」(「數往」,色主反;「逆數」,色具反。)
《説卦伝》にいう:天と地とは上下の位置を確定し、山と沢之気とは互相いに貫通し、雷と風とは互相いに激蕩し、水と火とは彼此相厭棄せず。八卦はこれによりて交錯相配す。すでに過去した事を数点するは順に数え、将に到来せんとする事を推知するは逆に推す。ゆえに《易》は逆推之数なり。(「数往」の「数」は、反切を「色主反」と為す。「逆数」の「数」は、反切を「色具反」と為す。)
韓氏康伯注曰:「《易》八卦相錯,變化理備,於往則順而知之,於來則逆而數之。」又曰:「作《易》以逆覩來事,以前民用。」
韓康伯が注釈していう:《易》は八卦の交錯相配を以て、変化之理は完備せざるなし。すでに過去した事に対しては、すなわち順に推してそれを知り、将に到来せんとする事に対しては、すなわち逆に推してそれを数う。またいう:聖人は《易》を作す。まさにこれは預め未来之事を見て、用いて百姓の行事を引導せんがため。
孔氏穎達《正義》曰:「此一節就卦象明重卦之意。《易》以乾坤象天地,艮兌象山澤,震巽象雷風,坎離象水火。若使天地不交、水火異處,則庶類無生成之用,品物無變化之理,所以因而重之,令八卦相錯,則天地人事莫不備矣。故云天地定位而合徳,山澤異體而通氣,雷風各動而相薄,水火不相入而相資。」
孔穎達《周易正義》にいう:この一節は卦象に就いて重卦の用意を説明す。《易》は乾坤を以て天地を象徴し、艮兌を以て山沢を象徴し、震巽を以て雷風を象徴し、坎離を以て水火を象徴す。仮に天地が相交わらず水火が各々一方に処れば、では万類は生成の功用なく、万物は変化の道理なし。まさにこのがゆえに、八卦を重畳して、八卦をして交錯相配せしめ、そこで天道・地道と人事と完備せざるなし。ゆえにいう:天地は各々その位を定めて徳性は相合し、山沢は形体不同にして気息は相通じ、雷風は各々鼓動して互相いに激蕩し、水火はもともと相容れずして彼此資助す。
「既八卦之用變化如此,故聖人重卦,令八卦相錯,乾坤震巽坎離艮兌莫不交互而相重,以象天地雷風水火山澤莫不交錯,則《易》之爻卦與天地等,成性命之理、吉凶之數,既往之事、將來之幾備在爻卦之中矣。故《易》之為用,人慾數知既往之事者,《易》則順後而知之;人慾數知將來之事者,《易》則逆前而數之。是故聖人用此《易》道以逆數知來事也。」
すでに八卦の功用がこの地步に変化すれば、ゆえに聖人は卦を重ねて、八卦をして交錯相配せしめ、乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌は彼此交互に重畳せざるなし。用いて天地・雷風・水火・山沢の交錯相通せざるなきを象徴す。このように来たれば、《易》の爻と卦とはすなわち天地と相等同じ。性命之理・吉凶之数、已往の事情・将来の端倪は、全て爻卦の中に具備す。ゆえに《易》の功用に就いて言えば:人が数え出して已往之事を知らんと欲せば、《易》はすなわち順に後に往きてそれを知り、人が数え出して将来之事を知らんと欲せば、《易》はすなわち逆に前に行きてそれを推数す。ここをもって聖人はこの一套の《易》道を運用し、逆推之数に頼りて未来の事を預知す。
平庵項氏曰:「數往者順,即卦以藏往也;知來者逆,即蓍以知來也。」
項安世がいう:「往きたるを数ふるは順なり」とは、指すは卦を用いて已往の事を藴蔵す。「来たるを知るは逆なり」とは、指すは蓍草を用いて将来の事を預知す。
丘氏程曰:「《易》言『藏徃知來』『彰徃察來』,又言『數往知來』,則方來已往之事《易》皆有以知之。然往者已過而易知,來者未形而難見,《易》之占筮為知來設,故曰『《易》逆數也』。正如所謂『占事知來』、所謂『遂知來物』、所謂『前民用』,皆逆數之謂也。」
丘程がいう:《易》の裡に「往きたるを蔵して来たるを知り」「往きたるを彰にして来たるを察す」と講じ、また「往きたるを数えて来たるを知る」と講ず。これを見れば将に到来せんとする事とすでに過去した事とは、《易》はみな知るを得。しかし已往の事はすでに発生し因りて知り易く、将来の事はなお成形せず因りて見難し。《易》の占筮はまさに未来を預知するがために設けたるなり。ゆえに「《易》は逆数なり」という。まさに《易》の中に説く所の「事を占して来たるを知り」「遂に来物を知り」「以て民を用うるに先んず」は、講ずるはみな逆推之数。
亭林顧氏炎武《日知錄》曰:「數往者順,造化人事之跡有常而可驗,順以考之於前也;知來者逆,變化云為之動日新而無窮,逆以推之於後也。聖人神以知來,知以藏往,作為《易》書以前民用,所設者未然之占,所期者未至之事,是以謂之逆數。雖然,若不本於八卦已成之跡,亦安所觀其會通而繫之爻象乎?是以『天下之言性也,則故而已矣』。」
顧炎武(亭林)《日知録》にいう:「往きたるを数ふるは順なり」は、造化と人事の迹象に常規有りて検証し得るに因る。ゆえに順に往きて従前を考察す。「来たるを知るは逆なり」は、変化と人の言行挙動とが日々更新して窮尽なきに因る。ゆえに逆に往きて日後を推求す。聖人は神妙之知を以て未来を預知し、明智之知を以て已往を藴蔵し、《易》のこの書を作出して以て百姓の行事を引導す。設くる所は未だ発生せざる事の占断で、期する所はなお到来せざる事なり。ゆえに「逆数」と呼ぶ。話はこのようだが、若し八卦のすでに形成せる迹象を根本と為さざれば、また何を凭ってその会通を観察して爻辞卦象を繋げんや。ゆえに《孟子》にいう:「天下人の本性を談ずるは、ただ已然の迹象に依拠するに過ぎざるなり。」
劉汝佳云:「天地間一理也。聖人因其理而畫為卦以象之,因其象而著為變以占之。象者體也,象其已然者也;占者用也,占其未然者也。已然者為往,往則有順之之義焉;未然者為來,來則有逆之之義焉。」
劉汝佳がいう:天地の間はただ一個の理なり。聖人はこの理に依拠して卦を画き成して以てそれを象徴し、またこれらの卦象に依拠して変化を推し出して以てそれを占断す。「象」は體に属し、あれらのすでにこのようたるの事を摹擬す。「占」は用に属し、あれらのなおこのようたらざるの事を占測す。すでにこのようたるは「往」と呼び、「往」なればすなわち順に数うるの意を含有す。なおこのようたらざるは「来」と呼び、「来」なればすなわち逆に推するの意を含有す。
「如象天而畫為乾,象地而畫為坤,象雷風而畫為震巽,象水火而畫為坎離,象山澤而畫為艮兌,此皆觀變於陰陽而立卦、發揮於剛柔而生爻者也,不謂之數往者順乎?」
たとえば天に取象して乾と画き成し、地に取象して坤と画き成し、雷と風とに取象して震・巽と画き成し、水と火とに取象して坎・離と画き成し、山と沢とに取象して艮・兌と画き成す。これらはみな《説卦》の講ずる「陰陽の変化を観察して卦を確立し、剛柔の作用を発揮して爻を生出す」に属す。これぞ正しく「往きたるを数ふるは順なり」ではないか。
「如筮得乾而知『乾元亨利貞』,筮得坤而知『坤元亨,利牝馬之貞』,筮得震而知『震亨,震來虩虩,笑言啞啞』,筮得巽而知『巽小亨,利有攸往,利見大人』,筮得坎而知『習坎,有孚維心亨,行有尚』,筮得離而知『離利貞亨,畜牝牛吉』,筮得艮而知『艮其背,不獲其身,行其庭,不見其人』,筮得兌而知『兌亨利貞』,此皆通神明之徳、類萬物之情者也,不謂之知來者逆乎?」
またたとえば占筮して乾卦を得れば、すなわち乾卦の卦辞は「元亨利貞」なるを知り、占筮して坤卦を得れば、すなわち坤卦の卦辞は「元亨、牝馬之貞に利あり」なるを知り、震卦を得れば、すなわち「震亨、震来りて虩虩、笑言は啞啞」を知り、巽卦を得れば、すなわち「巽小亨、攸往有るに利あり、大人を見るに利あり」を知り、坎卦を得れば、すなわち「習坎、孚有りて心亨に維り、行きて尚有り」を知り、離卦を得れば、すなわち「離、貞亨に利あり、牝牛を畜いて吉なり」を知り、艮卦を得れば、すなわち「其の背を艮め、その身を獲ず、その庭を行きて、その人を見ず」を知り、兌卦を得れば、すなわち「兌、亨利貞」を知る。凡そこの種種は、みな《繋辞伝》のいう「神明の徳性を貫通し、万物の情状を比類す」に属す。これぞ正しく「来たるを知るは逆なり」ではないか。
「夫其順數已往,正所以逆推將來也。孔子曰『殷因於夏禮,所損益可知也;周因於殷禮,所損益可知也』,數往者順也;『其或繼周者,雖百世可知也』,知來者逆也。故曰『《易》逆數也』。」
すでに過去したを順に数点するは、まさに将に到来せんとするを逆に推求せんがためなり。孔子は「殷代は夏代の礼に沿襲し、その中の減去と増加したは知り得るを説き、周代は殷代の礼に沿襲し、その中の減去と増加したはまた知り得るを説く」。これがすなわち「往きたるを数ふるは順なり」。またいう「将来にもし周代に継承する者有らば、仮に百代を過すともまた預め知り得」。これがすなわち「来たるを知るは逆なり」。ゆえに「《易》は逆数なり」という。
「若如邵子之說,則是羲、文之《易》已判而為二,而又以震、離、兌、乾為數已生之卦,巽、坎、艮、坤為推未生之卦,殆不免強孔子之書以就已之說矣。」
仮に邵雍の説法に照らせば、すなわち伏羲の《易》と文王の《易》とを割裂して両截と為した。しかもまた震・離・兌・乾を説いて已に生成したの卦を数点すると為し、巽・坎・艮・坤を説いて未だ生成せざるの卦を推求すると為す。これは免れず孔子の書を強拉して彼のあの一套の説法に遷就せしめたなり。
按:此章與八方之位無涉。「天地定位」,言乾坤自為匹也;「山澤通氣」,言艮兌自為匹也;「雷風相薄」,言震巽自為匹也;「水火不相射」,言坎離自為匹也。至於「八卦相錯」,則天或位乎下、地或位乎上,而且與六子之位同列矣;山澤之氣不但二者自相通,而且與天地、雷風、水火之氣互相通矣,雷風水火亦然。
胡渭の按:《説卦》のこの一章は八方の方位と毫も相干なし。「天地は位を定む」とは、乾と坤との両卦が自ら一対を成すを説く。「山沢は気を通ず」とは、艮と兌とが自ら一対を成すを説く。「雷風は相薄す」とは、震と巽とが自ら一対を成すを説く。「水火は相射さず」とは、坎と離とが自ら一対を成すを説く。「八卦は相錯す」を講ずるに至っては、では天は時に下に処り地は時に上に処り、しかもさらに六つの子卦の位置と並列するを要し、山沢之気はただ両者の彼此相通のみならず、さらに天地・雷風・水火之気と互相いに貫通するを要し、雷・風・水・火の幾卦の情形もまたみなこのよう。
上四句即所謂「八卦成列,象在其中」,下一句即所謂「因而重之,爻在其中」也,意重下句。孔疏云「就卦象明重卦之意」,深得經旨。夫子《大象》皆以二體八物發明其義,此節正其註腳。八卦相錯是為六十四卦,而占筮之法生焉。
上面の四句はすなわち《繋辞》のいう「八卦は列を成し、象はすなわちその中に在り」で、下面の一句はすなわちいう所の「それを重畳せば、爻はすなわちその中に在り」。語意の分量は下面の一句に落ちる。孔穎達が疏解してこれを「卦象に就いて重卦の用意を説明す」と為すは、深く経文の本旨を得たり。孔子の作った《大象伝》はみな上下の両體・八種の物象を用いて卦義を闡発す。この一節はまさに《大象伝》の注脚なり。「八卦は相錯す」はすなわち六十四卦と成り、占筮の方法もまたこれによりて産生す。
卦之徳方以知,知以藏往,所謂數往者順也,君子居則觀其象而玩其辭,藏往之學也;蓍之徳圓而神,神以知來,所謂知來者逆也,君子動則觀其變而玩其占,知來之道也。雖往來並舉,卻重在知來。知來乃揲蓍求卦之事,《繫辭傳》云「極數知來之謂占」,又云「無有逺近幽深,遂知來物」,又云「占事知來」,有一不以蓍言者乎?於卦何與焉?
卦の徳性は方正にして能く明智し、明智して因りて已往を藴蔵し得。これがすなわちいわゆる「往きたるを数ふるは順なり」。君子は平居の時に卦象を観察して卦爻辞を玩味す。これは已往を藴蔵する学問に属す。蓍の徳性は円通にして神妙し、神妙して因りて未来を預知し得。これがすなわちいわゆる「来たるを知るは逆なり」。君子は行動の時に爻変を観察して占断を玩味す。これは未来を預知する門径に属す。「往」と「来」とは並列して提出すといえども、重心は「来を知る」に落ちる。而も「来を知る」はまさに揲蓍して卦を求むる事なり。《繋辞伝》に「蓍数を窮極して未来を知るを占と謂う」といい、また「遠近幽深を問わず、みなこれによりて将来の事物を知るを得」といい、また「事を占問して未来を預知す」という。どの句か蓍に就いて言わざらんや。これは卦画と何の相干かあらん。
卦主象,蓍主數,雖象中亦有數、數中亦有象,然其間有賓主之辨。韓康伯曰:「蓍極數以定象,卦備象以盡數。」賓主極其分明。希夷之圖,象學也,而康節則専精於數,故往往以蓍數為卦象,與經旨背。
卦は「象」を主と為し、蓍は「数」を主と為す。象の中にもまた数を含有し数の中にもまた象を含有すといえども、しかし両者の間に主客の分別有り。韓康伯がいう:「蓍は数目を窮極して以て象を確定し、卦は象を具備して以て数を窮尽す。」主客は分かること極めて清楚なり。陳摶の図は象学に属す。而も邵康節は却って専ら数に精研す。ゆえに常常に蓍の数を取って卦の象と為す。これはすなわち経文の本旨と相背離す。
至於據橫圖從中折取,以自震至乾為順數已生之卦、自巽至坤為逆推未生之卦,然則「《易》逆數也」,豈専用巽坎艮坤而不用乾兌離震乎?就其言解之,已有不可得通者矣。
横図に依拠して中間より折り開きて取用し、震より乾に至る一段を説いて已に生成したの卦を順に数うると為し、巽より坤に至る一段を説いて未だ生成せざるの卦を逆に推すると為すに至っては、では「《易》は逆数なり」のこの句は、豈にただ巽・坎・艮・坤の四卦を用いて乾・兌・離・震の四卦を用いざるか。すなわち彼自身の言に順って解釈するも、またすでに講じ通らざるの処有るなり。
《本義》圖說:《說卦傳》曰「天地定位,山澤通氣,雷風相薄,水火不相射,八卦相錯,數往者順,知來者逆」,邵子曰「乾南坤北,離東坎西,震東北,兌東南,巽西南,艮西北,自震至乾為順,自巽至坤為逆」。後六十四卦方位仿此。
《周易本義》の附する図説に称す:《説卦伝》に「天地は位を定め、山沢は気を通じ、雷風は相薄し、水火は相射さず、八卦は相錯す。往きたるを数ふるは順なり、来たるを知るは逆なり」という。邵雍はこれに拠って説を立つ。乾は正南に居り坤は正北に居り、離は正東に居り坎は正西に居り、震は東北に居り、兌は東南に居り、巽は西南に居り、艮は西北に居る。震より乾に数うるの一路を順と為し、巽より坤に数うるの一路を逆と為す。此後の六十四卦の方位もまたみなこの办法に照らして排列す。
《易學啟蒙》邵子曰:「此一節明伏羲八卦也。八卦相錯者,明交相錯而成六十四也。數往者順,若順天而行是左旋也,皆已生之卦也,故曰數往也;知來者逆,若逆天而行是右行也,皆未生之卦也,故云知來也。夫《易》之數由逆而成矣。」此一節直解圖意,若逆知四時之謂也。
《易学啓蒙》は邵雍の言を引いていう:この一節は伏羲八卦を闡明する。いわゆる「八卦は相錯す」とは、八卦が交互に錯配して六十四卦と成るを説く。いわゆる「往きたるを数ふるは順なり」とは、天体運行の方向に順えばすなわち左旋で、数え到る所はみな已に生成したの卦なれば、ゆえに「往を数ふ」と呼ぶ。いわゆる「来たるを知るは逆なり」とは、天体運行の方向に逆えばすなわち右行で、推し到る所はみな未だ生成せざるの卦なれば、ゆえに「来を知る」と呼ぶ。《易》の数はまさに逆推より成ったものなり。《啓蒙》にいう:この一節は径ちに図意を解説し、ちょうど逆に四季を預知する意に似たり。
(以橫圖觀之,有乾一而後有兌二,有兌二而後有離三,有離三而後有震四,有震四而巽五、坎六、艮七、坤八亦以次而生焉,此《易》之所以成也。而圓圖之左方,自震之初為冬至,離兌之中為春分,以至於乾之末而交夏至焉,皆進而得其已生之卦,猶自今日而追數昨日也,故曰數往者順;其右方自巽之初為夏至,坎艮之中為秋分,以至於坤之末而交冬至焉,皆進而得其未生之卦,猶自今日而逆計來日也,故曰知來者逆。然本《易》之所以成,則其先後始終如橫圖及圓圖右方之序而已,故曰《易》逆數也。)
(朱熹の自注:横図に就いて看れば、乾一有りて然る後に兌二有り、兌二有りて然る後に離三有り、離三有りて然る後に震四有り。震四有れば、巽五・坎六・艮七・坤八もまた依次に接連して生出す。これがすなわち《易》の形成し得る全過程なり。さらに円図を看れば:それの左半辺は、震の起点より算して冬至と為し、離・兌の間を経て春分と算し、一直に乾の末端に至って夏至に交る。この一路の前進して得る所はみな已に生成したの卦で、ちょうど今日より回頭して昨日を数うるに比す。ゆえに「往きたるを数ふるは順なり」と呼ぶ。それの右半辺は、巽の起点より算して夏至と為し、坎・艮の間を経て秋分と算し、一直に坤の末端に至って冬至に交る。この一路の前進して得る所はみな未だ生成せざるの卦で、ちょうど今日より逆に行きて明日を計算するに比す。ゆえに「来たるを知るは逆なり」と呼ぶ。しかし本を追い源を遡れば、《易》の形成する所以は、その先後始終はただ横図および円図右半辺のあの次序に過ぎざるなり。ゆえに「《易》は逆数なり」という。)
邵子《觀物外篇》曰:「震始交陰而陽生,巽始消陽而陰生。兌,陽長也;艮,陰長也。震兌在天之陰也,巽艮在地之陽也,故震兌上陰而下陽,巽艮上陽而下陰。天以始生言之,故陰上而陽下,交泰之義也;地以既成言之,故陽上而陰下,尊卑之義也。乾坤定上下之位,離坎列左右之門,天地之所闔闢,日月之所出入,是以春夏秋冬、晦朔弦望、晝夜長短、行度盈縮莫不由乎此矣。」
邵雍は《観物外篇》の中でいう:震は陰気が始めて交接して陽気は産生し、巽は陽気が始めて消退して陰気は産生す。兌は、陽気の漸長す。艮は、陰気の漸長す。震と兌とは天の一辺の陰に属し、巽と艮とは地の一辺の陽に属す。ゆえに震・兌の上爻は陰にして下爻は陽、巽・艮の上爻は陽にして下爻は陰なり。天の初生に就いて講ぜば、ゆえに陰は上に在りて陽は下に在り、取るは「交泰」之义。地の已成に就いて講ぜば、ゆえに陽は上に在りて陰は下に在り、取るは「尊卑」之义。乾坤は上下の方位を確定し、離坎は左右の門戸を排列す。あれは天地の開闔の処・日月の出入の門なり。ここをもって春夏秋冬の推移・晦朔弦望の更替・昼夜長短の変化・天体行度の盈縮は、一つとしてこれによりて来たらざるなし。
朱子《語類》曰:「先天圖直是精微,不起於邵子。希夷以前元有,只是秘而不傳,次第是方士輩所相傳授。《參同契》中所言亦有些意思。」
《朱子語類》に朱熹の言を記していう:先天図は実に精深微妙で、並びに邵雍の首創にあらず。陳摂の以前に本来すでに有り、ただ秘して伝えざるのみ。おそらく方士の一輩の人が輾転伝授して来たるものなり。《周易参同契》の中の講ずる所も、またそれと幾分か相通ずる意有り。
按:「震始交陰而陽生」,謂震與坤按而一陽生於下,三日夕月出庚,納震一陽之氣也,即《參同契》所謂「三日出為爽,震庚受西方」也;「巽始消陽而陰生」,謂巽與乾接而一陰生於下,十六日旦月退卒,納巽一陰之氣也,即《參同契》所謂「十六轉就緒,巽辛見平明」也。自震一陽進而納兌之二陽,至乾三陽而滿,此望前三候明生魄死之月象也;自巽一陰退而納艮之二陰,至坤三陰而滅,此望後三候魄生明死之月象也。
胡渭の按:いわゆる「震は始めて陰と交わりて陽を生ず」とは、震卦が坤と相接して一陽が下爻に生ずるを説く。毎月の初三の傍晚に月は庚方に出現す。これは震卦の一陽之気を納受するので、すなわち《参同契》のいう「初三は出現して爽と為り、震は庚を納して西方に受く」である。いわゆる「巽は始めて陽を消して陰を生ず」とは、巽卦が乾と相接して一陰が下爻に生ずるを説く。十六日の清晨に月は漸く退去す。これは巽卦の一陰之気を納受するので、すなわち《参同契》のいう「十六は転じて緒に就き、巽は辛を納して平明に見ゆ」である。震の一陽より前進して兌の二陽を納し、乾の三陽に至って月輪は円満す。これは望日以前の三候の「明生じ魄死す」の月象なり。巽の一陰より後退して艮の二陰を納し、坤の三陰に至って月光は尽滅す。これは望日以後の三候の「魄生じ明死す」の月象なり。
《禮運》曰「播五行於四時,和而後月生也,是以三五而盈,三五而闕」,正合此意。「播五行於四時」,以一歲中四氣之流行言之,「出震齊巽」之方位是也;「三五而盈,三五而闕」,以一月中月體之消長言之,「乾南坤北」之方位是也。
《礼記・礼運》に「五行を四季の中に布散し、調和して然る後に月ははじめて明を生ず。ここをもって十五日にして盈満し、また十五日にして亏缺す」という。正しく上面の講ずる意に合す。「五行を四季に布散す」とは、一年の中の四時之気の流行に就いて講ずるので、すなわち「帝は震より出で、巽に斉し」のあの一套の後天方位なり。「十五日にして盈満し、十五日にして亏缺す」とは、一個月の中の月體の消長に就いて講ずるので、すなわち「乾南坤北」のあの一套の先天方位なり。
熊氏朋來《五經說》曰:「《參同契》云『易謂坎離』,又云『日月為易』『乾坤門戶,坎離匡廓,牝牡四卦』。先天以乾坤坎離牝牡,兌震巽艮四卦。又云『坎離者乾坤二用,老陽變陰用九,老陰變陽用六』,其牝牡之體、九六之用皆坎離也。」
熊朋来《五経説》にいう:《周易参同契》は「易はすなわち坎離なり」を講じ、また「日月は合してすなわち『易』の字と為る」「乾坤は門戸、坎離は外郭、牝牡は合わせて四卦」を講ず。先天図はまさに乾・坤・坎・離を以て牝牡に配作して、而も兌・震・巽・艮を以て別の四卦と為す。《参同契》はまた「坎離は乾坤の両種の功用で、老陽は変じて陰と為りて九を用い、老陰は変じて陽と為りて六を用いる」を講ず。これを見れば牝牡之體・九六之用は、根を帰し底を帰してみな坎離の上に落ちる。
「姑就《參同契》言之,則先後天圖已在其中。乾坤爐鼎,坎離水火,故後天坎離居先天乾坤之位,以坎中陽實離中陰虛仍為乾坤,故丹經謂之還元。乾専於陽,坤専於陰,曰爐鼎者,器之。惟夫離已日光,坎戊月精,互相根依,在納甲則主中宮戊巳之功,在先天則為日東月西之象,在後天則正火南水北之位。」
姑く《参同契》に就いて講ぜば、先天図と後天図とは実はみなすでにその中に包含さる。乾坤は炉鼎で、坎離は水火なり。ゆえに後天の坎離は正しく先天の乾坤の位置を占拠す。坎卦の中爻の陽実を用いて離卦の中爻の陰虚を填むれば、すなわちなお乾坤に還元す。ゆえに丹経はこれを「還元」と呼ぶ。乾は純粋に陽に属し、坤は純粋に陰に属す。それらを「炉鼎」と称するは、それらを器具と為すなり。離は己に配して日光と為り、坎は戊に配して月精と為り、両者は互いに根依と為るに至っては:納甲之法の中においては、それらは中宮戊己の功用を主管し、先天図の中においては、日が東に月が西に在るの卦象を構成し、後天図の中においては、すなわち火が南に居り水が北に居るの方位に正相当するなり。
「八卦中乾兌二金,坤艮二土,震巽二木,皆陰陽和順;惟坎離水陰根陽、火陽根陰,不同他卦。天降而地升,陽倡而陰和,坎離者天地之交也。」
八卦の中において、乾と兌とは同じく金に属し、坤と艮とは同じく土に属し、震と巽とは同じく木に属す。みな陰陽各自に和順なり。ただ坎離のみ同じからず。坎は水と為り、陰は陽を以て根と為す。離は火と為り、陽は陰を以て根と為す。他の各卦と一樣ならず。天気は下降して地気は上昇し、陽は先に唱い陰は後に和す。坎離はまさに天地の交合する処なり。
「故日為太陽精,離者日之象,何不三爻純陽而中有陰爻?才說太陽,其間便有少陰,所以日納月之烏,認得日中有月則可以知離卦。月為太陰精,坎者月之象,何不三爻純陰而中有陽爻?才說太陰,其間便有少陽,所以月納日之兔,認得月中有日可以知坎卦。」
ゆえに太陽は至陽之精で、離卦はすなわち日の象なり。しかしそれがなぜ三爻全陽にあらずして中間に偏に一個の陰爻有るか。一たび太陽と説けば、裡面にすでに少陰を含有するに因る。ゆえに日の中に本は月に属する烏を容納す。日の中に月有るを懂得せば、すなわち離卦を懂得し得。月亮は至陰之精で、坎卦はすなわち月の象なり。しかしそれがなぜ三爻全陰にあらずして中間に偏に一個の陽爻有るか。一たび太陰と説けば、裡面にすでに少陽を含有するに因る。ゆえに月の中に本は日に属する兎を容納す。月の中に日有るを懂得せば、すなわち坎卦を懂得し得。
「乾與離同受太極之陽,而離者中虛之乾;坤與坎同受太極之陰,而坎者中滿之坤。乾坤,太極之兩儀;坎離,太極之四象。是以坎離二卦常為陰陽造化之樞紐也。」
乾と離とは同じく太極之陽を禀受すといえども、而も離はただ中間虚断せる乾に過ぎず。坤と坎とは同じく太極之陰を禀受すといえども、而も坎はただ中間填満せる坤に過ぎず。乾坤は太極の生ずる所の両儀で、坎離は太極の生ずる所の四象なり。ここをもって坎離の両卦は常常に陰陽造化の枢紐と成る。
「乾南坤北,離東坎西」之圖,朱子雖知其出於《參同契》而不欲盡言,至熊與可始發其隠。崑山吳先輩喬著《他石錄》,其外篇《儒辨》曰:「六經多被混亂,尤甚者《易》,《易》中尤甚者先天八卦。夫卦之方位,『帝出乎震』章八方有明文,『天地定位』章不言八方,蓋謂有天上地下之《否》而亦有地上天下之《泰》,八卦相蕩而成六十四卦也。逆數者,卜筮而前知吉凶也。先天之文見於乾卦,『先』讀去聲,非邵子之所謂也。」
「乾南坤北、離東坎西」のこの幅の図は、朱熹はそれが《周易参同契》に出るを知りながら肯んじて言を講じ尽さざった。熊朋来(字は与可)に至ってはじめてその中の隠情を掲破した。崑山の前輩の呉喬は《他石録》を著し、その外篇《儒辨》にいう:六経は多く攪乱せられ、最も甚だしきは《易》で、《易》の中で最も甚だしきはまた先天八卦なり。卦の方位を説くに至っては、《説卦》の「帝は震より出づ」の一章は八方に対し明文の交代有り、「天地は位を定む」の一章は却って根本的に八方を講ぜず。あれはただ天上地下の《否》卦有れば、また地上天下の《泰》卦もまた有りて、八卦は互相いに激蕩して六十四卦と成るを説くに過ぎざるなり。いわゆる「逆数」とは、卜筮して預め吉凶を知るを指す。「先天」の両字の出処に至っては乾卦の《文言》の「天に先んじて天は違わず」に見える。あの「先」は去声と読む。並びに邵雍の講ずるあの「先天」にあらず。
「愚嘗得張平叔《悟真篇》之傳於方外士(宋天台張伯端,字平叔,一名用成,撰《通玄秘要悟真篇》一卷),其意與邵子之圖適合:離東者,移火於木位,東三南二同成五也;坎西者,移水於金位,北一西將四共之也;乾南坤北者,移坎之中實以填離之中虛,而成金丹三家相見結嬰兒也。」
私はかつて方外之士より張平叔《悟真篇》の伝授を得て(宋代の天台の人・張伯端、字は平叔、またの名は用成。《通玄秘要悟真篇》一巻を撰す)、その意が邵雍の図と恰好として吻合するを発見した。いわゆる離は東に在りとは、火を木の方位に移すので、東方の三と南方の二とが合して五と成る。いわゆる坎は西に在りとは、水を金の方位に移すので、北方の一と西方の四とが共に一処に居る。いわゆる乾南坤北とは、坎卦の中爻の陽実を移して去りて離卦の中爻の陰虚を填補す。すなわち金丹家のいう「三家相見」して嬰児を結成す。
「巽居西南坤位,以長女合老陰,黃婆也;艮居西北乾位,以少男合老陽,築基也;兌居東南巽位,以少女合長女,隠寓三七於其中,鼎器也;震居東北艮位,以長男合少男,隠寓二八於其中,藥物也。其於數往知來,遙寓順則成人、逆則仙也。」
巽卦は西南の本は坤に属する位置を占拠す。これは長女を以て老陰に配合す。指すは丹家のいう「黄婆」。艮卦は西北の本は乾に属する位置を占拠す。これは少男を以て老陽に配合す。指すは「筑基」。兌卦は東南の本は巽に属する位置を占拠す。これは少女を以て長女に配合し、暗中に「三七」之数を寄寓す。指すは「鼎器」。震卦は東北の本は艮に属する位置を占拠す。これは長男を以て少男に配合し、暗中に「二八」之数を寄寓す。指すは「薬物」。「往きたるを数えて来たるを知る」の一語に至っては、すなわち遥かに順行すればすなわち人を生じ、逆行すればすなわち仙と成るの丹家宗旨を寄寓す。
「《易》道無所不包,何獨丹法?凡醫藥、相地、三命等無不倚之以立言,而離於文王處憂患、孔子無大過,即非吾儒之《易》。希夷,仙也,不妨以外道說《易》;邵子交於二程,何可出此?考亭于丹道有所見,是以手注魏伯陽之《參同契》,見邵子之圖欣然會心,入之《本義》,而不計丹道可以倚《易》、《易》不為丹道作也。《本義》之混濫者多矣,以『天地定位』章為第一。」
《易》道は包まざる所なし。豈に丹法の一門に止まらんや。凡そ医薬・堪輿・三命のたぐいは、非なればすなわち《易》に依傍して説を立つ。ただ文王が憂患の中に処りて《易》を作り、孔子が《易》を学んで以て大過なきを求むるのこの根本を脱離せば、すなわち我ら儒家の《易》にあらず。陳摪はもともと仙道の中の人で、妨げず外道を用いて《易》を講ず。邵雍はすでに二程と交往するに、どうしてこの套の物を弄出し得たか。朱熹(考亭)は丹道に対し領会有り。ゆえに親手で魏伯陽の《参同契》に為に注を作した。邵雍の図を見れば便ち欣然として会心し、それを《周易本義》の中に収め入れた。しかし思い及ばざりき:丹道は《易》に依傍し得。而も《易》は丹道のために作られたものにあらず。《本義》の中に夾雑混濫せる処は甚だ多し。「天地は位を定む」のこの一章を以て第一と為す。
渭按:「丹道可以倚《易》,《易》不為丹道作」,又云「《易》道無所不包,而離於文王處憂患、孔子無大過,即非吾儒之《易》」,此真千古格言。方技家既借「天地定位」四句撰為此圖,下文順逆亦自有其說,邵子「已生未生」之解大非。「順則成人,逆則仙」,修齡義亦有所未盡,說在《參同契》「坎離之為易」也。
胡渭の按:呉喬の「丹道は《易》に依傍し得。而も《易》は丹道のために作られたものにあらず」と説き、また「《易》道は包まざる所なし。ただ一旦文王が憂患に処り孔子が大過なきを求むるのこの根本を脱離せば、すなわち我ら儒家の《易》にあらず」と説くは、これは真に千古不易の格言なり。方技家はすでに「天地は位を定む」等の四句を借りてこの幅の図を編造し出した以上、では下文の「順」「逆」もまた彼らの処に自ずと一套の講法有り。邵雍は「已生」「未生」を用いて解釈した。これは大錯特錯なり。「順行すればすなわち人を生じ、逆行すればすなわち仙と成る」の説法に至っては、養生延年の意義に就いて言えばなお講じ透らざるの処有り。この一層は《参同契》の「坎離の易と為す」を論ずる時に留めて再び説く。
《周易參同契》曰:「天地設位,而易行乎其中矣。天地乾坤也,易謂坎離。坎離者,乾坤二用;二用無爻位,周流行六虛,往來既不定,上下亦無常。」又曰:「坎戊月精,離己日光,日月為易,剛柔相當。」又曰:「人所稟軀,體本一元,元精雲布,因氣托初。陰陽為度,魂魄所居。陽神日魂,陰神月魄,魂之與魄,互為室宅。」
《周易参同契》にいう:天地は上下の位置を設定して、而も「易」はすなわちその中に運行す。いわゆる天地は、すなわち乾坤なり。いわゆる「易」とは、指すは坎離なり。坎離は乾坤の両種の功用で、この両種の功用は固定の爻位なく、周遍として上下四方の六虚の中に流行し、往来はすでに定所なく、上下もまた常規なし。またいう:坎は戊に属して月之精と為り、離は己に属して日之光と為る。日と月とが合して「易」の字と成り、剛と柔とが恰好として相匹配す。またいう:人の禀受する身軀は、本體は一元に源し、元精は雲のごとく布散して、元気に凭借して托始して成形す。陰陽は法度と為り、魂魄の安居する処なり。陽神はすなわち日魂で、陰神はすなわち月魄なり。魂と魄とは互相いに相手の居室に充当す。
朱子《語類》曰:「《參同契》所言坎離水火龍虎鉛汞之屬,只是互換其名,其實則精氣二者而已。精,水也,坎也,龍也,汞也;氣,火也,離也,虎也,鉛也。其法以神運精氣,結而為丹。陽氣在下初成水,以火煉之則凝,神丹內外異色,如鴨子卵。」又曰:「水一也,火二也,以魂載魄,以二守一,則水火相濟而不相離,所以能永年也。養生家千言萬語,說龍說虎,說鉛說汞,說坎說離,其術只如此而已。」
《朱子語類》に朱熹の言を記していう:《参同契》の講ずる坎離・水火・龍虎・鉛汞のたぐいは、ただ同一批の物が名目を互換するに過ぎず。実際にはただ「精」と「気」との両様に過ぎざるなり。精は、すなわち水、すなわち坎、すなわち龍、すなわち汞なり。気は、すなわち火、すなわち離、すなわち虎、すなわち鉛なり。その方法は神を用いて精気を運化し、凝結して丹と成す。陽気は下に在り、最初は水に化成す。火を用いてそれを煅錬すればすなわち凝結す。神丹の内外の顔色は不同で、ちょうど鴨蛋のごとし。またいう:水の数は一、火の数は二。魂を用いて魄を承載し、二を用いて一を守護すれば、では水火は能く互相いに済助して相分離せざるを得。ゆえに延年し得。養生家の千言万語は、龍を説き虎を説き、鉛を説き汞を説き、坎を説き離を説くも、彼らの方術はただこのように過ぎざるなり。
先天八卦方位,丹家用之最親切而有味。其所謂「易」者,坎離也,與儒學不同,故解此章之順逆亦自有其義。孔子之意在蓍卦,丹家之意在水火。
先天八卦の方位は、丹家が用いるに最も貼切にして意味有り。彼らのいう「易」とは、指すは坎離で、儒家之学と同じからず。ゆえにこの一章の「順」「逆」を解釈するもまた自ずと彼らの一套の義理有り。孔子の用意は蓍と卦との上に落ち、丹家の用意はすなわち水と火との上に落ちる。
人之一身,乾為首,坤為腹。自首以下有心,心屬火而為氣之總會;自腹以下有腎,腎屬水而為精之所藏。火炎上,水潤下,自有生而已然,所謂數往者順也。及加以修煉之功,以乾坤為爐鼎,坎離為鉛汞,務使火降而下、水升而上,所謂知來者逆也。
人の一身に就いて言えば、乾は頭に対応し、坤は腹に対応す。頭より下は心有り、心は火に属して気の総匯なり。腹より下は腎有り、腎は水に属して精の蔵所なり。火性は上に炎し、水性は下に潤す。これは人が出生するやすでにこのようなり。すなわち丹家のいう「往きたるを数ふるは順なり」。修錬の功夫を加上するを待ち、乾坤を取って炉鼎と為し、坎離を取って鉛汞と為し、務めて火をして下降せしめ水をして上昇せしむるを要す。これがすなわち彼らのいう「来たるを知るは逆なり」。
《鼎器歌》云「陰在上,陽下奔」,陰謂水,陽謂火。丹家以坎離為易,水下而反上,火上而反下,故曰「易逆數也」。《說卦》離南而坎北,丹家抽坎之中實以填離之中虛,故乾南而坤北。《參同契》云「子南午北,互為綱紀,一九之數,終而復始」,亦此義也。
《参同契・鼎器歌》に「陰は上に在り、陽は下に奔る」という。ここの「陰」は水を指し、「陽」は火を指す。丹家は坎離を以て「易」と為す。水はもともと下に在るに反って上昇し、火はもともと上に在るに反って下降す。ゆえに「易は逆数なり」という。《説卦》の後天方位は離は南に在り坎は北に在り。丹家は坎卦の中爻の陽実を抽出して去りて離卦の中爻の陰虚を填補す。そこで乾は南に在り坤は北に在ると成った。《参同契》に「子位は南に在り、午位は北に在り、互いに綱紀と為る。一と九之数は、終わりて復して始まる」という。講ずるもまたこの道理なり。
人之生也,火在水上,未濟之象也;神丹既成,則水在火上為既濟。以魂守魄,使陰陽不相離,可以長生而久視。仙訣云「五行順行,法界火坑;五行顛倒,大地七寳」,是為順則成人、逆則仙也。
人の出生する時は、火は水の上に在り。まさに《未済》卦の象なり。神丹は一旦錬成すれば、すなわち変じて水は火の上に在り、《既済》卦と成る。魂を用いて魄を守り、陰陽をして相分離せざらしめば、すなわち長生久視し得。仙家の口訣に「五行は順に走れば、法界全体はみな火坑なり。五行は倒して来れば、大地は遍く七宝なり」という。これがすなわちいわゆる順行すればすなわち人を生じ、逆行すればすなわち仙と成る。
邵子小橫圖用加一倍法以為伏羲八卦之次序,誤矣;而又推之於方位,以自震至乾為順、自巽至坤為逆,且喻之以左旋右行。夫天之與日月五星也,左則俱左,右則俱右,豈有左右各半之理乎?既失丹家之旨,又非孔子之義,無一而可者也。
邵雍の小横図は加一倍法を用いて排列し、それを取って伏羲八卦の次序と為す。これはすでに錯なり。彼はさらに進んでこの套を方位の上に推して、震より乾に至るは順、巽より坤に至るは逆と説き、かつ左旋・右行を取りて比喩と為す。知るべきである、天と日月五星との運行は、左する要あればすなわち一斉に左に向かい、右する要あればすなわち一斉に右に向かう。豈に一半は左に一半は右に向かうの道理あらんや。このように来たれば、すでに丹家の宗旨を失い、また孔子の本義に合わず。一処として立つべきなし。
或問:「子以希夷先天圖為康節之學所自出,其詳可得聞乎?」曰:「康節受《易》於李之才,以先天古《易》衍其旨,蓍書十餘萬言(謂《皇極經世》《觀物內外篇》《漁樵問對》)以發希夷之蘊。史稱『探賾索隠,妙悟神契,洞徹蘊奧,汪洋浩博,德其所自得者』,此實録也。」
ある人が問うた:「先生は陳摶の先天図がすなわち邵康節之学の来源と認める。詳しく講じて得るか。」回答していう:邵雍は李之才より《易》学を承受し、先天古《易》を用いてその中の旨意を推衍し、十数万字の著作を書き下した(《皇極経世》《観物内外篇》《漁樵問対》を指す)。用いて陳摪一派の蘊奥を発揮した。史書は彼を称して「幽深を探究し、隠微を捜索し、妙悟して神理と相契し、その中の深奥を洞徹し、汪洋浩博にして、みな彼自身の所得」という。この言は実に拠りて録したものなり。
今以八卦次序、方位圖考之:太極即希夷先天圖之環中也;初畫為兩儀,即圈之白黒各半左右回互者;中畫為四象,即白中之黒、黒中之白與半白半黒而為四也;終畫為八卦,即一圈界分為八,而八卦竒偶之畫與白黒之質相應者也。從中折取,則乾南坤北、離東坎西、震東北、兌東南、巽西南、艮西北,八卦有方位而九宮具焉也。
いま八卦次序図と八卦方位図とを取りて考察するに:いわゆる「太極」とは、すなわち陳摶の先天図の中間のあの円環なり。最も下の一画の両儀は、すなわち円圏の中の黒白が各々半を占め、左右が回環して相抱する様子なり。中間の一画の四象は、すなわち白中の黒・黒中の白に、さらに半白半黒を加上し、合わせて四種と成す。最も上の一画の八卦は、すなわち一個の円圏を八份に划分して、而も八卦の奇偶之画はまさに黒白之質と一一に対応す。中間より折り開きて取れば、すなわち乾南・坤北・離東・坎西・震東北・兌東南・巽西南・艮西北と成り、八卦に方位有りて、九宮之数もまたその裡頭に包含さる。
圓者引之使長,合者攡之使分,而圖遂化為畫矣。然兩儀、四象、八卦皆子在母外,既失希夷之本意;而又以白代單、以黒代拆,則乾之三連變為三白□,坤之六斷變為三黒□,六子皆然(坎離即水火匡廓之形)。表畫以色,有竒無偶,大非三代以來相傳之卦象,瀆經侮聖與劉牧無異,何為其從之也?
円なるを拉直して長に変え、合するを分けて離散せしめれば、そこであの円図はすなわち卦画に変化す。しかしこのように来たれば、両儀・四象・八卦はみな「子が母の體外に在る」と成り、すでに陳摶の本意を失せり。いわんやまた白色を用いて奇画に代え、黒色を用いて偶画に代えたれば、そこで乾の三条の連画は三個の白□に変じ、坤の三条の断画は三個の黒□に変じ、六つの子卦もまたみなこのように弁理す(坎離の両卦はすなわち《参同契》のいう水火匡廓の形状なり)。顔色を用いて卦画を標示すれば、結果は奇のみ有りて偶なし。大大に三代以来の相伝の卦象に合わず。この種の経典を褻瀆し聖人を軽侮する做法は、劉牧と並びに両样なし。何の故にさらに彼に跟って走るか。
右論邵子伏羲八卦方位。
以上の各条は、邵雍の定めた「伏羲八卦方位」図を討論する。
易図明辨巻七 徳清・胡渭撰
先天古易・下
邵子伏羲六十四卦次序を論ず
《繫辭傳》曰:「八卦成列,象在其中矣;因而重之,爻在其中矣。」又曰:「《易》之為書也,廣大悉備,有天道焉,有人道焉,有地道焉,兼三才而兩之,故六。六者非他也,三才之道也。」《說卦傳》曰:「昔者聖人之作《易》也,將以順性命之理。是以立天之道曰陰與陽,立地之道曰柔與剛,立人之道曰仁與義,兼三才而兩之,故《易》六畫而成卦。分陰分陽,迭用柔剛,故《易》六位而成章。」
《周易・繋辞伝》にいう:「八卦は列を排して行を成せば、天地万象はすでにその中に含さる。八卦を両両相重すれば、六爻はすでにその中に含さる。」またいう:「《易》のこの書は、広大を包羅して備ならざる所なし。その中に天道有り、人道有り、地道有り。天・地・人の三才を各々倍加す。ゆえに一卦は六画なり。この『六』は別物にあらず、まさに三才之道なり。」《説卦伝》にいう:「昔日の聖人は《易》を創作するに、これを用いて性命之理に順応せんと欲したり。ゆえに天道を確立して『陰』と『陽』と称し、地道を確立して『柔』と『剛』と称し、人道を確立して『仁』と『義』と称す。三才を各々倍加す。ゆえに《易》は六画を以て一卦を組成す。陰位と陽位とを区分し、柔爻と剛爻とを交替に使用す。ゆえに《易》は六個の爻位を以て文理を構成す。」
按:夫子曰「重」、曰「兼」,明是倍三為六,非逐爻漸生之謂。《本義》猶從舊解,云「因而重之」謂各因一卦而以八卦次第加之為六十四,又云三畫已具三才,重之故六。至《圖說》則與邵義並存,而以邵為善;及蔡氏草《啟蒙》,則専主《觀物外篇》,而顯背經文亦有所不顧矣。
胡渭の按語:孔子は「重」といい「兼」という。分明に三画を倍加して六画と成すで、並びに六爻は一爻一爻逐層に生出するを要すと説くにあらず。朱熹《周易本義》はなお旧注に沿用して、「因りてこれを重ぬ」を解釈して、各々一卦を以て下體と為し、さらに依次に八卦をその上に加えて六十四卦と成ると為し、また三画はすでに天地人の三才を具備し、重畳すればゆえに六画と説く。しかし《易学啓蒙》の図説の部分に至っては、彼はすなわち旧解と邵雍之説とを並列して、かつ邵説がより好しと認めた。蔡元定が《易学啓蒙》を起草するに至っては、さらに専ら邵雍の《観物外篇》を主と為し、明らかに《繋辞》《説卦》の経文に違背するもまた顧みる所なし。
《大傳》但云包犧氏始作八卦,其因而重之以為六十四者不言其人。先儒或以為神農,或以為大禹,或以為文王,總無確證。然吾觀夫子所陳十三卦制器尚象之事,唯網罟創自包犧,取諸《離》之純卦,而耒耨之利取諸《益》,日中為市取諸《噬嗑》,皆神農之所為也,則謂神農重卦者庶幾得之。蓋伏羲雖有因重之意,而八卦成列之後未嘗復加之畫;至神農則始一一演之,以為六十四卦、三百八十四爻,而重卦之名至黃帝乃備耳。子曰:「聖人立象以盡意,設卦以盡情偽。」蓋立象即八卦成列,設卦即因而重之,伏羲略而神農詳也。
《繋辞伝》はただ包犠氏が始めて八卦を画出したと説くに、八卦を相重して六十四卦に推衍したは誰かに至っては、並びに講じず。前代の学者はあるいは神農と説き、あるいは大禹と説き、あるいは文王と説いて、終始に確鑿の証拠なし。しかし我は孔子が《繋辞》の裡に列挙した十三卦の「制器尚象」之事を考察す:ただ縄を結して網罟を作すのこの一項は包犠に出で、《離》のこの上下同體の純卦に取象す。而も耒耜の利を発明するは《益》卦に取象し、日中に市を為すは《噬嗑》卦に取象す。これらはみな神農の作為なり。では重卦が神農に出ると説くは、おそらく事実に接近す。伏羲はすでに「因りてこれを重ぬ」の意有るといえども、しかし八卦が排定したる後に並びにさらに上に画を加えず。神農に至ってはじめて一卦一卦を推演して開きて、六十四卦・三百八十四爻と成り、而も「重卦」のこの名目は黄帝の時を要してはじめて完備す。孔子がいう:「聖人は象を立てて以て意を尽くし、卦を設けて以て情偽を尽くす。」いわゆる「立象」とはすなわち八卦は列を成す。いわゆる「設卦」とはすなわち因りてこれを重ぬ。伏羲は略して作り神農は詳備に作った。
若夫重卦之次序,絶無可考。《連山》首《艮》,《歸藏》首《坤》,先儒雖有是說,而其書已亡,自《艮》《坤》以後六十三卦其次序不知如何,今可言者獨文王所演之易象耳。或云烈山氏之易,文王因之,烈山氏即神農也。首《乾》《坤》,終二《濟》,兩兩反對,皆有至理,安得於此外更造一圖以為伏羲六十四卦之次序哉?智者之鑿,孟子之所惡也。
重卦以後の六十四卦の排列次序に至っては、すなわち完全に考証するに従なし。《連山》は《艮》卦を以て首に居り、《帰蔵》は《坤》卦を以て首に居る。前代の学者はこの説法有るといえども、しかしあの両部の書はすでに早く亡佚し、《艮》《坤》の後の其余の六十三卦が如何に排列するかは、誰もまた知らず。いまなお講じ明白にし得るは、ただ文王の推演したあの一套の卦序のみ。ある人は烈山氏に本に一部の《易》有りて、文王はそれを沿用したと説く。――烈山氏はすなわち神農なり。文王の卦序は《乾》《坤》を以て開端と為し、《既済》《未済》を以て收尾と為し、六十四卦は両両相対相反して、処処みな極めて深い道理有り。どうしてその外に別に一張の図を造して、硬くあれこそ伏羲六十四卦の次序と説き得んや。この種の自作聡明の穿凿は、まさに孟子の厭悪したる所なり。
《本義圖說》曰:前《八卦次序圖》即《繫辭傳》所謂「八卦成列」者,此圖即其所謂「因而重之」者也。故下三畫即前圖之八卦,上三畫則各以其序重之,而下卦因亦各衍而為八也。若逐爻漸生,則邵子所謂「八分為十六,十六分為三十二,三十二分為六十四」者,尤見法象自然之妙也。《易學啟蒙》曰:八卦之上各生一竒一偶而為四畫者十六,於經無見,邵子所謂「八分為十六」者是也,又為兩儀之上各加八卦,又為八卦之上各加兩儀也。四畫之上各生一竒一偶而為五畫者三十二,邵子所謂「分為三十二」者是也,又為四象之上各加八卦,又為八卦之上各加四象也。
朱熹《周易本義》の図説に講ず:前面のあの幅の《八卦次序図》は、すなわち《繋辞伝》のいう「八卦は列を成す」。この一幅の図は、すなわちそれのいう「因りてこれを重ぬ」。ゆえに毎卦の下面の三画はすなわち前図の八卦で、上面の三画はすなわち各々八卦次序に按りて重畳して上がる。そこで毎一個の下卦はまた各自に八卦に衍生す。若し逐爻漸生の説法に照らせば、あれはすなわち邵雍のいう「八は分かれて十六、十六は分かれて三十二、三十二は分かれて六十四」で、さらに卦象生成の自然之妙を見出し得。《易学啓蒙》にいう:八卦の上において各々一奇一偶の両画を生出せば、すなわち四画の図形の十六個と成る。――これは経文の中に根拠を尋ね得ず。まさに邵雍のいう「八は分かれて十六」。角度を換えて看れば、すなわちまた両儀の上に各々八卦を加え、あるいは八卦の上に各々両儀を加えたなり。四画の上にさらに各々一奇一偶を生ぜば、すなわち五画の三十二個と成る。まさに邵雍のいう「分かれて三十二」。角度を換えて看れば、すなわちまた四象の上に各々八卦を加え、あるいは八卦の上に各々四象を加えたなり。
五畫之上各生一竒一偶而為六畫者六十四,則兼三才而兩之,而八卦之乘八卦亦周,於是六十四卦之名立,而易道大成矣。《周禮》所謂「三易之別皆六十有四」,《大傳》所謂「因而重之,爻在其中矣」,邵子所謂「三十二分為六十四」者是也。若於其上各卦又各生一竒一偶,則為七畫者百二十八矣;七畫之上又各生一竒一偶,則為八畫者二百五十六矣;八畫之上又各生一竒一偶,則為九畫者五百十二矣;九畫之上又各生一竒一偶,則為十畫者千二十四矣;十畫之上又各生一竒一偶,則為十一畫者二千四十八矣;十一畫之上又各生一竒一偶,則為十二畫者四千九十六矣。
五画の上にさらに各々一奇一偶を生ぜば、すなわち六画の六十四個と成る。これ便ち《説卦》のいう「三才を兼ねてこれを両にす」で、而も八卦と八卦とが相乘するもまた恰好として周遍して遺漏なし。そこで六十四卦の卦名は一一確立し、《易》道はここに至って大成す。《周礼》のいう「三種の《易》は各々相同じからず、卦はみな六十四」、《繋辞伝》のいう「因りてこれを重ぬれば、爻はその中に在り」、邵雍のいう「三十二は分かれて六十四」は、講ずるはみなこの一件事なり。《啓蒙》は接続してなおこの「加一倍」の办法に照らして一路に上に推す:若し六画の上に毎卦さらに各々一奇一偶を生ぜば、すなわち七画の百二十八を得。七画の上にさらに各々一奇一偶を生ぜば、すなわち八画の二百五十六を得。八画の上にさらに各々一奇一偶を生ぜば、すなわち九画の五百一十二を得。九画の上にさらに各々一奇一偶を生ぜば、すなわち十画の千二十四を得。十画の上にさらに各々一奇一偶を生ぜば、すなわち十一画の二千四十八を得。十一画の上にさらに各々一奇一偶を生ぜば、すなわち十二画の四千九十六を得。――毎に上へ一画を加えれば、数目はすなわち一番を翻す。
此焦贛《易林》變卦之數,蓋以六十四乘六十四也,今不復為圖於此,而略見第四篇中。若自十二畫上又各生一竒一偶,累至二十四畫,則成千六百七十七萬七千二百一十六變,以四千九十六自相乘,其數亦與此合,引而伸之,蓋未知其所終極也。雖未見其用處,然亦足以見易道之無窮矣。
これがすなわち焦延寿《易林》の変卦の数目で、すなわちまた六十四が六十四を乗じて得たるなり。ここはさらに別に一図を画かず、大略は第四篇の中に見ゆ。倘若十二画の上よりさらに各々一奇一偶を生じ、一路に累加して二十四画に至れば、すなわち一千六百七十七万七千二百一十六種の変化を得出す。四千九十六を用いて自乗すれば、数目もまた恰好として相合す。このように引申推衍して下れば、簡直に尽头が何処に在るかを知らず。何らの実際用処有るを看出し得ずといえども、しかしまた《易》道の窮尽なきを見出すに足る。
康節先天之學,其病根全在小橫圖。蓋八卦之次序既乖,則其論方位亦誤,六十四卦之次序方位更不待言矣。而吾竊有怪於《啟蒙》之說也。數用加一倍法,可以推之百千萬億而無窮;若《易》卦則六畫而止,其變而之他亦不過六畫。
邵雍の先天之学の病根は、全くあの幅の八卦小横図の上に在り。八卦の次序はすでに弄り錯えれば、彼の講ずる方位もまたそれに跟って錯う。六十四卦の次序・方位は、さらに言うに及ばず。而も我が私下に最も奇怪と覚えるは、なお《易学啓蒙》の一段の言なり。「加一倍法」を用いて数目を推算すれば、固然として百千万億に推して窮尽なしと為し得。しかし《易》卦はただ六画に至るを以て止まりと為し、一卦が別の卦に変じるも、またなお六画なり。
即如焦氏《易林》,每一卦變為六十四,至四千九十六,其本卦仍自為本卦,之卦別自為之卦,曷嘗屋上架屋,於六畫之上覆自七畫遞加至十二畫乎?而且云「自十二畫上又累至二十四畫,引而伸之,未知其所終極,足以見易道之無窮」也。夫易道無窮而卦畫則有窮,季通之藁荒謬至此,朱子曽不一是正,何歟?
すなわち焦延寿《易林》を取りて説くに、毎一卦は六十四卦を変出し得、合わせて四千九十六卦と為る。しかし本卦はなお本卦の六画で、変ずる所の卦もまたなお之卦の六画なり。何曽屋の上に屋を架して、六画の上にさらに七画より一直に十二画まで逓加せんや。《啓蒙》はなお何らか「十二画の上よりさらに累加して二十四画に至り、このように引申して下れば尽头を知らず。足らん《易》道の窮尽なきを見る」と説く。知るべきである、《易》道は固然として窮尽なしといえども、卦画は却って有限有り。蔡元定(字は季通)の草稿はこの地步に荒謬するに、朱熹はついに一句も糾正せざりき。これは何の故か。
《仲氏易》曰:夫兩儀四象者,生卦之序,非畫卦之序也。因而重之者,以三重三,非謂二可重一、四可重二、八可重四也。故就其成卦而觀之,則由兩而四,由四而八,由八而至六十四,未為不可;而就其畫卦而觀之則不然。夫伏羲但畫八卦耳,何曽畫六十四卦乎?《繫辭傳》曰「乾坤成列,易立其中」,則先畫乾坤;又曰「八卦成列,象在其中」,則次畫八卦;又曰「因而重之,爻在其中」,則於是不再畫也,第因其所畫而復配之為六十四卦,而易象終焉。故《周禮》經卦皆八,揚雄謂宓羲經以八卦,孔安國曰「伏羲氏之王天下也,始畫八卦」,皆以畫八卦為一截,未嘗一及重卦。
毛奇齢《仲氏易》にいう:両儀・四象が講ずるは卦の生成次序で、伏羲が卦を画くの次序にあらず。いわゆる「因りてこれを重ぬ」とは、三画卦を取りて三画卦に重ぬるので、両儀が一画を重ね得、四象が両儀を重ね得、八卦が四象を重ね得と説くにあらず。ゆえに卦の生成に就いて看れば、両儀より四象に、四象より八卦に、八卦より六十四卦に至るは、未だ嘗てこのように講ぜざるべからずなり。しかし伏羲が実際に卦を画くに就いて看ればすなわちこのようたらず。伏羲はただ八卦を画いたに過ぎず。何曽六十四卦を画いたるや。《繋辞伝》に「乾坤は列を成して、《易》はその中に立つ」といえば、これを見れば先ず乾坤を画く。また「八卦は列を成して、象はその中に在り」といえば、これを見れば接いで八卦を画く。また「因りてこれを重ぬれば、爻はその中に在り」といえば、これを見ればここに至ってすなわちさらに筆を動かさず。ただすでに画いた八卦を就て互相いに配合して六十四卦と成し、《易》象はここに至って便ち完備す。ゆえに《周礼》に経卦はみな八と説き、揚雄に伏羲之経はただ八卦と説き、孔安国に「伏羲は天下を統治して、はじめて八卦を画く」と説く。みな八卦を画くを一個の段落と為して、かつて一句に重卦を提及せざった。
而重卦之起,舊有歸之神農者(京房引孔子之言曰「神農重乎八純」,謂取伏羲八純卦而重之為六十四卦。《史記》亦云神農始作重卦),有歸之大禹者(《周禮》三易,一曰《連山》,即夏易,謂以重艮為連山也。晉孫盛曰「夏禹修用《連山》」,以艮之重卦為夏易首)。雖其說不可深信,然亦以見八卦與六十四卦縱成自伏羲,亦必不連次而加畫之,斷可識矣。故先天之圖其誤有八。一、畫繁(自一畫為陽,二畫為陰,三一為乾,三二為坤,而其畫已畢,未有畫至六十四卦者。今圖取巧便,但以黒為陰、白為陽耳,此非羲畫法也。若羲畫原法則黒皆兩畫,是六十四卦在陽有一百九十二畫、在陰有三百八十四畫,太不憚煩矣,此非自然因重之數也。其誤一也)。
重卦の起源に至っては、旧説は神農に帰する有り(京房は孔子の言を引いていう「神農は八純に重んず」。意は伏羲の八個の純卦を取りて相重ねて六十四卦と成す。《史記》もまた神農がはじめて重卦を作すと説く)、また大禹に帰する有り(《周礼》の三易、第一種を《連山》と呼ぶ。すなわち夏代之《易》で、説くは重艮卦を以て《連山》の首卦と為す。晋の人の孫盛は「夏禹は《連山》を修用す」と説く。すなわち艮の重卦を以て夏易之首と為す)。これらの説法は深く信ずべからずといえども、しかしまた以て看見し得:八卦と六十四卦とは仮にみな伏羲に成るとも、また決して一筆連ねて一筆逐層に加画して出たるにあらず。この一点は断然として判定し得。ゆえに先天図に八処の錯誤有り。第一、画法は繁瑣なり(一画を陽と為し、両画を陰と為し、三個の一は乾と為り、三個の二は坤と為る。画きてここに至ればすなわち了る。かつて一直に六十四卦まで画き到る有らざった。いまの図は巧みに方便を取らんがため、ただ黒を用いて陰を代表し白を用いて陽を代表するに過ぎず。これは並びに伏羲の画法にあらず。若し伏羲のもともとの画法に依れば、陰爻はみな両筆を画くを要し、では六十四卦の裡に陽爻は合わせて百九十二画、陰爻は合わせて三百八十四画で、未だ免れず太も麻煩を怕れざるなり。これもまた「因りてこれを重ぬ」の自然応有の数目にあらず。これが第一誤)。
二、四五無名(四象分四畫為太陽、少陰、少陽、太陰,今増至十六畫,又増至三十二畫,則可名十六象、三十二象乎?抑仍名四象乎?若仍名四象,則八卦又生四象矣。其誤二也)。三、三六無住法(惟只有三畫,並無四畫五畫之加,故三畫而止便可名之為八卦。如連翩加畫,則何以三畫有名,四畫五畫秖空畫更無名也?且何以見畫之當止於三、止於六也?其誤三也)。四、不因(乾坤成列畫八卦,八卦成列始作重卦,故曰「因而重之」。因者,因成列之卦也,若一連畫去,何所因乎?其誤四也)。五、父子母女並生(乾父坤母合生六子,此《繋辭》明言次第也,今八卦並生。其誤五也)。
第二、四画五画の図形に名称なし(四象は四種の画象に分かれて、太陽・少陰・少陽・太陰と呼ぶ。いま十六個の図形に増し、また三十二個の図形に増せば、豈に「十六象」「三十二象」と呼び得べけんや。それともなお四象と呼ぶか。若しなお四象と呼べば、あれはすなわち八卦の上にさらに四象を生出したなり。これが第二誤)。第三、三画六画の外に停まる道理なし(まさにただ三画有るのみにして、並びに四画五画の層次なきに因りて、ゆえに三画に画きて止まれば便ち八卦と称し得。若し一層一層連ねて画を加えば、ではなぜ三画は名称有りて、四画五画はただ空画にして名称なきか。また何を凭って三に画きてすなわち停まるべし、六に画きてすなわち止まるべしと断定せんや。これが第三誤)。第四、「因」の字に合わず(乾坤が排定して然る後に八卦を画き、八卦が排定して然る後に重卦を作す。ゆえに「因りてこれを重ぬ」という。いわゆる「因」とは、すなわちすでに排定せる卦に因襲す。若し一筆連ねて画き下れば、なお何を「因」せんや。これが第四誤)。第五、父母と子女とが同時に生出す(乾を父と為し坤を母と為して、合して六個の子女を生出す。これは《繋辞》の明明白白に講じたる先後次第なり。いま八卦は却って一斉に生出す。これが第五誤)。
六、子先母,女先男,少先長(六子俱先坤,兌離先震,巽先坎,兌又先離,離又先巽,於一索再索之敘俱失盡矣。羲畫次第必不如是。其誤六也)。七、卦位不合(《說卦》卦位千古不蔑,今以第加之畫而環圖之,乾一右轉,巽五左旋,以乾南坤北離東坎西為象,此實本魏氏《參同契》乾坤運軸、坎離匡廓之圖而妄名先天,致邵子以「雷風相薄」「水火不相射」為證。其誤七也)。八、卦數杜撰無據(卦原無數,但以大衍之數推之,則乾西北卦正當地六相成之數,故曰乾六;坤西南卦正當天九相成之數,故曰坤九。今無故而為乾一、兌二、離三、震四之數,此何據乎?其誤八也)。具此八誤而以為伏羲畫卦次第如是,不可通矣。
第六、子は母に先んじ、女は男に先んじ、幼は長に先んず(六個の子女卦はみな坤卦の前に排せられ、兌・離は震の前に排せられ、巽は坎の前に排せられ、兌はまた離の前に排せられ、離はまた巽の前に排せられる。《説卦》の一索・再索・三索の次第は全く打乱せられたり。伏羲が卦を画くの次序は断じてこのようたらざらん。これが第六誤)。第七、卦位が経文に合わず(《説卦》の載する八卦方位は千古に磨滅し得ざるに、いまは却って依次に画を加うるの順序に按りて環じて円図を成し、乾一は右辺より転じて下がり、巽五は左辺より旋して上がり、摆成して乾は南に坤は北に離は東に坎は西に在る様子と為す。これは実は魏伯陽《参同契》の乾坤を軸と為し坎離を匡廓と為すの丹図に本づくも、却って胡乱に「先天」と題作し、以致って邵雍は《説卦》の「雷風は相薄す」「水火は相射さず」の両句を取りて証拠と作す。これが第七誤)。第八、卦の数目は全く杜撰に属して拠る所なし(卦はもともと数目なく、若し大衍之数を用いて推せば、乾は西北に居り、正しく地六がこれを成すの数に合す。ゆえに乾六と説く。坤は西南に居り、正しく天九がこれを成すの数に合す。ゆえに坤九と説く。いまは平白无故に乾一・兌二・離三・震四のこの套の数目を定出す。何を凭せんや。これが第八誤)。この八項の錯誤有りて、なお伏羲が卦を画くの次第はすなわちこのようと説かば、講じ通る能わざるなり。
按:仲氏八誤之辯,剖析無遺,總由伏羲六十四卦次序元無可考而任意為之,所以來後人之彈射也。冠諸經首,不愈彰邵子之過乎?
胡渭の按語:毛奇齢のこの八条の駁論は、剖析して遺漏なし。根を帰し底を帰せば、伏羲六十四卦の次序はもともと考証するに従なきに、却って空より臆造する人有りて、はじめて後人の攻撃を招来したなり。このような一張の図を《周易》経文の最も前面に放てば、豈にいよいよ邵雍の過失を彰顕するにあらざらんや。
右論邵子伏羲六十四卦次序。
以上の一節は、邵雍の伝えた「伏羲六十四卦次序」之図を考弁した。
邵子伏羲六十四卦方位を論ず
《本義圖說》曰:右伏羲四圖,其說皆出於邵氏。蓋邵氏得之李之才挺之,挺之得之穆修伯長,伯長得之華山希夷先生陳摶圖南者,所謂先天之學也。此圖圓布者,乾盡牛中,坤盡子中,離盡卯中,坎盡酉中,陽生於子中,極於午中,陰生於午中,極於子中,其陽在南,其陰在北。方布者,乾始於西北,坤盡於東南,其陽在北,其陰在南。此二者陰陽對待之數。圓於外者為陽,方於中者為陰;圓者動而為天,方者靜而為地者也。
朱熹《周易本義・図説》にいう:上面のこの四幅の伏羲之図は、説法はみな邵雍に出づ。邵雍は李之才(字は挺之)より得、李之才は穆修(字は伯長)より得、穆修は華山の希夷先生・陳摶(字は図南)より得たり。これがすなわちいわゆる「先天之学」。この幅の図が円形を作して排布する時は:乾卦は正南の午位の中点に終わり(原文の「牛中」は「午中」と当作る)、坤卦は正北の子位の中点に終わり、離卦は正東の卯位の中点に終わり、坎卦は正西の酉位の中点に終わる。陽気は子位の中に生じて午位の中に盛極し、陰気は午位の中に生じて子位の中に盛極す。ゆえに陽は南方に在り陰は北方に在り。方形を作して排布する時は:乾卦は西北角に起こり、坤卦は東南角に終わり、陽は北方に在り陰は南方に在り。この両者は陰陽の彼此対待之数を体現す。円図は外に在りて陽に属し、方図は内に在りて陰に属す。円は動を主として天に象し、方は静を主として地に象す。
邵子《觀物外篇》曰:夫易根於乾坤而生於姤復,蓋剛交柔而為復,柔交剛而為姤,自茲而無窮矣。又曰:復至乾凡百一十有二陽,姤至坤凡八十陽;姤至坤凡百一十有二陰,復至乾凡八十陰。邵氏伯溫曰:先君云,乾坤大父母也,故能生八卦;復姤小父母也,故能生六十四卦。
邵雍《観物外篇》にいう:《易》は乾坤を以て根本と為して、而も《姤》《復》の両卦に生発す。剛爻は柔中に交入すればすなわち《復》と成り、柔爻は剛中に交入すればすなわち《姤》と成る。これより変化は窮尽なし。またいう:《復》より《乾》に至る一段は合わせて百十二の陽爻有り、《姤》より《坤》に至る一段は合わせて八十の陽爻有り。《姤》より《坤》に至る一段は合わせて百十二の陰爻有り、《復》より《乾》に至る一段は合わせて八十の陰爻有り。邵伯温がいう:先父は講じた、乾・坤は「大父母」なれば、ゆえに八卦を生出し得。復・姤は「小父母」なれば、ゆえに六十四卦を生出し得。
《朱子語類》:董銖問:「先天圖有自然之象數,伏羲當初亦知其然否?」曰:「也不見得如何。但橫圖據現在底畫較自然,圓圖便是就這中間抝做兩截,恁地轉來者是竒,恁地轉去厎是偶,有些造作,不甚依他元初畫厎。」
《朱子語類》に記す:董銖が問う:「先天図は自然而然の象と数とを含有す。伏羲は当初にもまたこのようなを知りしか。」朱熹は答えた:「これもまた看出し得ず。ただ横図は現成の画法に按りて排し下ればなお自然なり。円図は却って横図を当中より拗断して両截と為し、このように転じて来たる一半は奇(陽)、あのように転じて去る一半は偶(陰)なれば、未だ免れず幾分か人為造作有りて、あまり伏羲の当初に卦を画くの本樣に合わざるなり。」
黃氏宗炎曰:圖南本黃冠師,此圖不過仙家養生之所寓,故牽節候以配合,毫無義理。再三傳而堯夫受之,指為性天窟宅,千古不發之精蘊盡在此圖。《本義》崇而奉焉,證是羲皇心傳,置夫大易之首。以言乎數,則不逮京房、焦贛之可征;以言乎理,則逺遜輔嗣、正叔之可據。且曲為之說曰:此圖失自秦火,流於方外,自相授受,不入人間。夫《易》為卜筮之書,不在禁例,宜並其圖而不禁,豈有止許民間藏卦爻而獨不許藏圖之事?朱元晦與王子合書云:「邵氏言伏義卦位近於穿鑿附會,且當闕之。」乃《易學啟蒙》《本義》又如此其敬信,不可解也。
黄宗炎がいう:陳摶はもともと道士出身で、この幅の図はただ仙家養生之術の寄托に過ぎず。ゆえに硬く節気物候を牽合して入れたるも、実に何らの義理も言うべきなし。輾転として両三代を伝えて、邵雍(字は尭夫)はそれを接受し、それを指して性命天道の巢穴と為し、千古に人の掲破せざる精微蘊奥は全くこの張の図の裡に在りと説いた。《周易本義》はまたそれを推崇信奉し、これを伏羲親伝の心法と認定し、それを《周易》経文の最も前面に放てたり。しかし「数」を論ずれば、それは京房・焦延寿のごとく拠って験すべき有るに比ぶべからず。「理」を論ずれば、さらに遠く王弼(字は輔嗣)・程頤(字は正叔)のごとく依るべき理有るに趕不上す。さらに曲意してそれのために辯解して、この図は秦火の中に失伝して、方外道流の手裡に流落し、彼此私相授受して、かつて民間に流入せざったと説く。知るべきである、《易》はもともと卜筮之書で、秦朝の焚禁の列に在らず。では図に連ねるもまた応に一併に禁ぜざるべし。豈にただ民間の卦爻を收藏するを許して、偏に図を收藏するを許さざるの道理あらんや。朱熹(字は元晦)が王子合に与える信の裡に説く:「邵氏の講ずる伏羲卦位は穿凿附会に近し。姑く疑を存して論ぜず。」しかし《易学啓蒙》と《周易本義》の裡にまたあのように恭敬信従す。実に人をして不解せしむ。
按:夫子云「八卦成列,象在其中矣;因而重之,爻在其中矣」,又云「八卦相蕩」「八卦相錯」,六十四卦皆三畫八卦之所生也。姤、復同在六十四卦中,豈能生諸卦乎?康節受學於李挺之,挺之《六十四卦相生圖》,凡五陰一陽、五陽一陰之卦皆自姤復而來,凡四陰二陽、四陽二陰之卦皆自臨遯而來,凡三陰三陽、三陽三陰之卦皆自泰否而來,此即姤復小父母之意。
胡渭の按語:孔子は「八卦は列を成せば、象はその中に在り。因りてこれを重ぬれば、爻はその中に在り」といい、また「八卦は相蕩す」「八卦は相錯す」という。これを見れば六十四卦はみな三画の八卦より両両相重して生出せるなり。《姤》《復》の両卦は本身にすなわち六十四卦の中に在るに、どうして反って其余の各卦を生出し得んや。邵雍は李之才より学を受けたり。李之才に一幅の《六十四卦相生図》有り:凡そ五陰一陽・五陽一陰の卦は、みな一陽来復の《復》と一陰始生の《姤》とより変じて来たり。凡そ四陰二陽・四陽二陰の卦は、みな二陽の《臨》と二陰の《遯》とより変じて来たり。凡そ三陰三陽・三陽三陰の卦は、みな三陽の《泰》と三陰の《否》とより変じて来たり。これがすなわち邵伯温のいう「復姤は小父母」の由来なり。
蓋推乾坤三索之說,施之於六畫卦,故有是圖。然姤復所生止十卦,而康節舉臨遯否泰之所生悉歸之姤復,則又與挺之異。就今六十四卦觀之,逐爻變遷,義亦可通,伏羲作易之初實不爾也。其中間抝為兩截,左陽右陰,則又極其造作,而非法象自然之妙矣。
これは《説卦》の乾坤の「三索」して六子を得るの説法を六画卦の上に推広したれば、はじめてこの張の図有り。しかし李之才の図に照らせば、《姤》《復》の生ずる所はただ十卦有るのみにして、而も邵雍は《臨》《遯》《否》《泰》の生ずる卦をも一概に《姤》《復》の名下に帰した。これはまた李之才と不同なり。現成の六十四卦に就いて看れば、それらが逐爻に変遷して来たると説くも、道理の上に講じ得。ただ伏羲が最初に《易》を作す時は実はこのようたらざった。横図を中間より拗じて両截と為し、左辺は全く陽、右辺は全く陰と為すに至っては、すなわちさらに刻意造作で、絶えて何らかの「法象自然」の妙処にあらず。
《擊壤集》詩曰:「耳目聰明男子身,洪鈞賦予不為貧。須探月窟方知物,未躡天根豈識人。乾遇巽時觀月窟,地逢雷處見天根。天根月窟閒來往,三十六宮都是春。」
邵雍《伊川撃壤集》に詩有りていう:「この耳聰目明の男子之身を生成すれば、天地造化が我に与えるは決して薄からず。『月窟』を探らざれば、便ち万物を認識するに従なし。かつて『天根』に踏上せざれば、またどうして人自身を認識し得んや。乾卦が巽卦に遇うの処は、以て月窟を観看し得。地(坤)が雷(震)に碰上するの地方は、以て天根を看見し得。天根と月窟との間に従容として往来すれば、三十六宮は処処みな春意なり。」
石澗俞氏曰:月窟在上,天根在下,往來乎月窟天根之間者,心也。何謂三十六宮?乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八是也。「三十六宮都是春」,謂和氣周流乎一身也。如此則三十六宮不在紙上,而在吾身中矣。
石澗先生・兪琰がいう:月窟は上に在り、天根は下に在り。能く月窟と天根との間に往来するは、すなわち人の心なり。何を「三十六宮」と呼ぶか。すなわち乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八のこの八個の数目を相加して三十六を得るなり。いわゆる「三十六宮はみな春」とは、和順之気が一身に周流するを説く。このように来たれば、三十六宮は紙上の図の裡に在らずして、我自身の身上に在る。
黃氏《象數論》曰:康節因先天圖而創為天根月窟,即《參同契》乾坤門戸牝牡之論也。故以八卦言者,指坤震二卦之間為天根,以其為一陽所生之處也;指乾巽二卦之間為月窟,以其為一陰所生之處也。程前村直方謂天根在卯,離兌之中是也;月窟在酉,坎艮之中是也,引《爾雅》「天根,氐也」、《長楊賦》「西壓月窟」證之,然與「乾遇巽」「地逢雷」之義背矣。以六十四卦言者,朱子曰天根月窟指復姤二卦。有以十二闢卦言者,十一月為天根,五月為月窟。
黄宗羲《易学象数論》にいう:邵雍は先天図に根拠して「天根」「月窟」之説を創出せり。その実は《参同契》の講ずる乾坤を門戸と為し坎離を牝牡と為すのあの一套なり。ゆえに八卦に就いて言えば、坤・震の両卦の間を天根と呼ぶ。あれは一陽の初生する処に因る。乾・巽の両卦の間を月窟と呼ぶ。あれは一陰の初生する処に因る。程直方(号は前村)は却って天根は卯位に在り、すなわち離と兌との間、月窟は酉位に在り、すなわち坎と艮との間と説き、さらに《爾雅》の「天根はすなわち氐宿」、揚雄《長楊賦》の「西は月窟を圧す」を引いて証を作す。しかしこれはすなわち邵雍の詩の裡の「乾が巽に遇う時」「地が雷に逢う処」の意と相違背す。六十四卦に就いて言えば、朱熹は天根・月窟は《復》《姤》の両卦を指すと認める。また十二辟卦に依りて講ずる有り、十一月の《復》を以て天根と為し、五月の《姤》を以て月窟と為す。
其三十六宮凡有六說。以八卦言者三:乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八之次第,積數為三十六;乾一對坤八為九,兌二對艮七為九,離三對坎六為九,震四對巽五為九,四九亦三十六;乾畫三,坤畫六,震坎艮畫各五,巽離兌畫各四,積數亦三十六。以六十四卦言者二:朱子曰卦之不易者有八(乾、坤、坎、離、頥、中孚、大過、小過),反易者二十八,合之為三十六;方虛谷回曰復起子左得一百八十日,姤起午右得一百八十日,一旬為一宮,三百六十日為三十六宮。
「三十六宮」に至っては、合わせて六種の解釈有り。八卦に就いて言えば三種有り:その一、乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八のこの一串の次第之数を相加して、合わせて三十六を得。その二、乾一に坤八を配して九を得、兌二に艮七を配して九を得、離三に坎六を配して九を得、震四に巽五を配して九を得。四個の九もまた三十六なり。その三、乾は三画有り、坤は六画有り、震・坎・艮は各々五画、巽・離・兌は各々四画で、加え起こせば同じく三十六なり。六十四卦に就いて言えば両種有り:その一、朱熹は卦體を倒してなお変わらざる有りて八個(乾・坤・坎・離・頤・中孚・大過・小過)と説き、倒せばすなわち別卦に変ずる有りて二十八対で、合わせてまさに三十六。其二、方回(号は虚谷)は《復》卦は子位に起こりて左に行きて百八十日を得、《姤》卦は午位に起こりて右に行きて百八十日を得。一旬を一宮と算して、三百六十日はすなわち三十六宮と説く。
以十二闢卦言者一:鮑魯齋恂曰,自復至乾六卦,陽爻二十一、陰爻十五,合之則三十六;自姤至坤六卦,陰爻二十一、陽爻十五,合之亦三十六,陽爻陰爻總七十二,以配合言,故云三十六。按諸說雖異,其以陽生為天根、陰生為月窟無不同也。蓋康節之意,所謂天根者性也,所謂月窟者命也,性命雙修,老氏之學也(愚謂煉己是修性,進火是修命),其理為《易》所無,故其數與《易》無渉也。
十二辟卦に就いて言えば一種有り:鮑恂(号は魯斎)がいう、《復》より《乾》に至る六卦は、陽爻は二十一、陰爻は十五で、合わせて三十六なり。《姤》より《坤》に至る六卦は、陰爻は二十一、陽爻は十五で、合わせてもまた三十六なり。陰陽爻は合わせて七十二で、陰陽が両両配合するに按りて算するに因りて、ゆえに三十六と称す。按:これらの説法は同じからずといえども、しかしみな陽気の初生を天根と為し陰気の初生を月窟と為す。この一点は並びに二致なし。邵雍の本意は、いわゆる「天根」は「性」を指し、いわゆる「月窟」は「命」を指す。性命双脩は、まさに道家老氏之学なり(我は「錬己」は性を脩し、「進火」は命を脩すと認む)。この套の道理は《易》の裡に有らざるものなり。ゆえにその数目もまた《易》と毫も相干なし。
按:天根月窟即《參同》納甲之說。天,陽也;月,陰也。以八卦言之,月三日生明於庚,納震一陽之氣,庚當乾終巽始,故曰「乾遇巽時觀月窟」;震一陽始交於甲,納乾初九之氣,甲當坤終震始,故曰「地逢雷處見天根」也。以六十四卦言之,純乾遇巽之一陰是為姤,於月為生魄,陽消陰息自此始,故謂之月窟,即乾盡午中而陰生之謂也;純坤遇震之一陽是謂復,於月為合朔,陰消陽息自此始,故謂之天根,即坤盡子中而陽生之謂也(《參同契》云「晦至朔旦,震來受符,當斯之時,天地媾其精,日月相撢持,雄陽播玄施,雌陰化黃包,混沌相交接,權輿樹根基」,邵子所謂「地逢雷處見天根」者是)。
胡渭の按語:天根・月窟はその実は《参同契》の納甲之説なり。天は陽に属し、月は陰に属す。八卦に就いて言えば:月亮は初三に西方の庚位に新光を現出して、震卦の一陽之気を納受す。而も庚はまさに乾卦の終了・巽卦の開始の処に当たる。ゆえに「乾が巽に遇う時は月窟を観る」という。震卦の一陽は最初に東方の甲位に交わって、乾卦の初九之気を納受す。而も甲はまさに坤卦の終了・震卦の開始の処に当たる。ゆえに「地が雷に逢う処は天根を見る」という。六十四卦に就いて言えば:純陽の乾は巽の一陰に遇えば、すなわち《姤》卦と成り、月相の上に於いては月が始めて魄を生ずるに相当し、陽消陰長はこれより開始す。ゆえに月窟と呼ぶ。すなわち円図の上に乾が午位の中に終わりて陰気の生ずるの意なり。純陰の坤は震の一陽に遇えば、すなわち《復》卦と成り、月相の上に於いては日月の合朔に相当し、陰消陽長はこれより開始す。ゆえに天根と呼ぶ。すなわち円図の上に坤が子位の中に終わりて陽気の生ずるの意なり(《参同契》にいう:晦日の末より初一の清晨に至り、震卦は前に来りて符命を接受す。まさにこの時に当たりて、天地は精気を交合し、日月は互相いに牽引扶持し、雄性の陽は玄妙の施与を播き、雌性の陰は黄色の胞衣を化育し、混沌の中に彼此交接して、万物はこれによりて根基を扎下す。邵雍のいう「地が雷に逢う処は天根を見る」とは、説くはまさにこれ)。
三十六宮,朱子之義較長。蓋人身之天根在尾閭,月窟在泥丸。修煉之法,夜子以心神注氣海,謂之生藥;子後則自尾閭進火以達於泥丸,午中則自泥丸還元以訖於尾閭。從復姤用功而諸卦皆到,上下往來,終而復始,和氣滿腔,盎然流溢,故曰「三十六宮都是春」也。邵子雖不事修煉,而其理固已洞徹,丹家秘寳和盤托出矣。
「三十六宮」を講ずるは、なお朱熹の解釈が較べて通達なり。人の身上の天根は尾閭(脊柱の末端)に在り、月窟は泥丸(頭頂の脳宮)に在り。修錬の方法は:夜半の子時に心神を気海に灌注す。これを「生薬」と呼ぶ。子時以後に尾閭より火を起こして上行して泥丸に至る。午時の正中にさらに泥丸より本元に返還して下達して尾閭に至る。《復》《姤》の両卦より功夫を下して、而も六十四卦は処処みな到り、一上一下往来循環して、終わりて復して始まる。そこで和順之気は胸腹に充満して、盎然として外溢す。ゆえに「三十六宮はみな春」という。邵雍は自分で修錬工夫を做さざるといえども、しかしこの一層の道理は彼はすでに早く洞徹して、丹家の秘蔵を和盤托出したり。
或問:邵子既知此理,何不事修煉?曰:修煉亦是苦功,頗妨人作樂。邵子襟懷疎放,得蒙莊逍遙之趣,可以養生,可以盡年,無所待於修煉,故知而不為。其詩曰「不佞禪伯,不諛方士」,自是真實語,非因與二程遊而有所揜飾也。
ある人が問うた:邵雍はすでにこの道理を懂得するに、なぜ修錬工夫を做しに行かざるか。回答は:修錬もまた一桩の苦功夫で、甚だ人の生活の楽趣を享受するを妨礙す。邵雍は胸襟は疏朗放達にして、深く荘子の逍遥之趣を得たり。これ本身にすでに養生するに足り、天年を尽くすに足り、修錬に依頼するを要せず。ゆえに彼は知りて做さざった。彼の詩の裡に「禅門宗匠に諂媚せず、方術之士に奉承せず」という。これは老実の話で、並びに程顥・程頤の兄弟と交往したに因りて有意に掩飾したにあらず。
《朱子語類》:周謨問:先天卦氣相接皆是左旋,蓋乾接以巽初姤卦,便是一陰生;坤接以震初復卦,便是一陽生。自復卦一陽生(十一月),盡震四、離三一十六卦,然後得臨卦(十二月);又盡兌二凡八卦,然後得泰卦(正月);又隔四卦得大壯(二月);又隔大有一卦得夬(三月);夬接乾(四月),乾接姤。自姤卦一陰生(五月),盡巽五、坎六一十六卦,然後得遯卦(六月);又盡艮七凡八卦,然後得否卦(七月);又隔四卦得觀(八月);又隔比一卦得剝(九月);剝接坤(十月),坤接復,周而復始,循環無端。
《朱子語類》に記す:周謨が問う:先天図の上の卦気の銜接はみな左に向かい旋転す。――乾の後は巽宮の起首の《姤》卦に接す。あれはすなわち一陰の初生なり。坤の後は震宮の起首の《復》卦に接す。あれはすなわち一陽の初生なり。《復》卦の一陽初生(十一月)より算して起こり、震宮の四・離宮の三の合わせて十六卦を走り尽くして、はじめて《臨》卦(十二月)に到り、さらに兌宮の二の合わせて八卦を走り尽くして、はじめて《泰》卦(正月)に到り、また四卦を隔てて《大壮》(二月)に到り、また《大有》の一卦を隔てて《夬》(三月)に到る。《夬》は《乾》(四月)に接し、《乾》は《姤》に接す。《姤》卦の一陰初生(五月)より算して起こり、巽宮の五・坎宮の六の合わせて十六卦を走り尽くして、はじめて《遯》卦(六月)に到り、さらに艮宮の七の合わせて八卦を走り尽くして、はじめて《否》卦(七月)に到り、また四卦を隔てて《観》(八月)に到り、また《比》の一卦を隔てて《剥》(九月)に到る。《剥》は《坤》(十月)に接し、《坤》はさらに《復》に接して、周して復して始まり、循環して端緒なし。
卦氣左旋,而一歲十二月之卦皆得其序。但陰陽初生各歴十六卦而得一月,又歴八卦再得一月,至陰陽將極處只歴四卦為一月,又歴一卦遂一併三卦相接,其初如此之疎,其末如此之密,此陰陽盈縮當然之理歟?然此圖於復卦之下書曰「冬至子中」,於姤卦之下書曰「夏至午中」,此固無可疑者;獨於臨卦之下書曰「春分卯中」,則臨卦本為十二月之卦,而春分合在泰卦之下;於遯卦之下書曰「秋分酉中」,則遯卦本為六月之卦,而秋分合在否卦之下,是固不可曉者。答曰:伏羲易自是伏羲說話,文王易自是文王說話,固不可交互求合。所看先天卦氣盈縮子細,某亦嘗如此理會來,而未得其說。
卦気は左に向かい旋転して、一年の十二個月の辟卦はみな各々その位次を得。しかし陰気陽気が剛に生ずる時は、各々十六卦を経てはじめて一個月を得、さらに八卦を経てまた一個月を得。陰陽が将に極盛ならんとする処に至っては、ただ四卦を経てすなわち一個月と為り、さらに一卦を経てついに一連三卦が緊緊相接す。開頭はこのように稀疏にして、末尾はこのように緊密なり。これは豈にすなわち陰陽盈虚消長の自然応有の道理ならんや。さらに有り、この幅の図は《復》卦の下に「冬至子中」と注し、《姤》卦の下に「夏至午中」と注す。これは固然として疑問なし。ただ《臨》卦の下に「春分卯中」と注す。――《臨》はもともと十二月之卦で、春分は応に《泰》卦の下に注すべし。《遯》卦の下に「秋分酉中」と注す。――《遯》はもともと六月之卦で、秋分は応に《否》卦の下に注すべし。これは実に人をして明白ならざらしむ。朱熹は答道す:伏羲之《易》は自ずから伏羲の講法で、文王之《易》は自ずから文王の講法なり。もともと彼此交錯して強求して相合せしむべからず。君は先天卦気の盈縮を看ること甚だ仔細なり。我もまたかつてこのように琢磨したが、しかし終始に説法を得出さざった。
黃氏《象數論》曰:《易緯》有卦氣之法,京房精於其學。以坎、震、離、兌主二十四氣,其餘六十卦起自中孚。卦有六爻,爻主一日,凡主三百六十日,餘五日四分日之一。每日分為八十分,五日得四百分,四分日之一得二十分,積四百二十分,均於六十卦,六七四十二,每卦得六日七分。又於六十卦之中別置復、臨、泰、大壯、夬、乾、姤、遯、否、觀、剝、坤十二以為闢卦,每爻各主一候。自復至乾為息卦曰太陽,自姤至坤為消卦曰太陰,息卦所屬者曰少陽,消卦所屬者曰少陰。
黄宗羲《易学象数論》にいう:《易緯》の裡に一套の「卦気」之法有り。京房はこの学に精し。それは坎・震・離・兌の四正卦を用いて二十四節気を分主し、其余の六十卦は《中孚》より排して起こす。毎卦は六爻で、一爻は一日を主とし、合わせて三百六十日を主とし、なお五又四分の一日を剩す。一日を八十分に分かてば、五日はすなわち四百分、四分の一日は二十分で、合計四百二十分。平均して六十卦に分ければ、六は七を乗じて四十二を得。そこで毎卦は六日七分を得。また六十卦の中に別に《復》《臨》《泰》《大壮》《夬》《乾》《姤》《遯》《否》《観》《剥》《坤》の十二卦を立てて「辟卦」(君卦)と為す。毎爻は各々一候を主とす。《復》より《乾》に至るは陽気生長の息卦で、「太陽」と呼ぶ。《姤》より《坤》に至るは陽気消退の消卦で、「太陰」と呼ぶ。息卦に隷属するを「少陽」と呼び、消卦に隷属するを「少陰」と呼ぶ。
故孔穎達《復·彖》「反復其道,七日來復」之疏,謂剝卦陽氣之盡在於九月之末,十月純坤用事,坤卦之盡則復卦陽來,坤卦有六日七分,舉成數故言七日。王昭素駁之曰:坤卦之盡復卦陽來,則十月之節終一陽便來,不得到冬至之日矣;據其節終尚去冬至十五日,則卦七日之義難用《易緯》之數。某以為昭素駁之是矣,然昭素未悉卦氣之法,不能針其錮疾也。
ゆえに孔穎達は《復》卦の彖辞の「其の道を反復して、七日にして来復す」に為に疏を作して、《剥》卦の陽気は九月末に至ればすなわち尽き、十月は純坤が当令す。坤卦が走り了れば便ち《復》卦の一陽が来復す。坤卦は六日七分を占めて、整数を取ればゆえに「七日」と説く。王昭素は駁斥していう:若し坤卦が一たび了れば《復》卦の陽気が来れば、では十月の節気が一たび終れば便ち一陽来復して、すなわち冬至のあの日に到らざるべし。節気の終了に照らして算せば、冬至を離れてなお十五日有り。これを見れば「卦は七日を主とす」のこの講法は《易緯》のあの套の数目を用い得ざるなり。我(黄宗羲)は王昭素のこの反駁は正しいと認む。ただ彼は並びに卦気之法を弄懂せざった。ゆえにその痼疾に扎中せざった。
以十二闢卦言之,剝之至復所隔唯坤六爻,其一爻當一候,一候得五日五十六分分之五,六爻得三十日三十五分,非七日也。以六十卦言之,一卦六日七分,剝之至復中隔艮、既濟、噬嗑、大過、坤、未濟、蹇、頤、中孚九卦,計五十四日六十三分,非一卦也。孔氏牽合兩者,故其說不能合。《易》之「七日來復」,取卦之反易為義,反剝為復,所歴七爻,以一日為一爻,故曰「反復其道」,反覆即反覆也,與卦氣何與?即使孔氏之疏能合卦氣,則《易》之辭無乃為卦氣圖說乎?為卦氣之法者,宓戲耶?文王耶?
若し十二辟卦に按りて算せば、《剥》より《復》に至る中間はただ坤卦の六爻を隔つるのみ。一爻は一候に当たり、一候は五日零五分余りに合し、六爻は合わせて三十日三十五分を得。並びに七日にあらず。若し六十卦に按りて算せば、一卦は六日七分で、《剥》より《復》に至る中間は艮・既済・噬嗑・大過・坤・未済・蹇・頤・中孚の九卦を隔つり、合計五十四日六十三分で、また一卦に止まらず。孔穎達は両套の算法を牽合して一起と為したり。ゆえに彼の説法はどうしても対上せざるなり。《易》は「七日にして来復す」を講ず。取るは卦體の反覆顛倒之义なり。《剥》卦を倒せばすなわち《復》卦なり。その間は七爻を経歴して、一爻を以て一日に当たる。ゆえに「其の道を反復す」という。――「反復」はすなわち反覆顛倒で、卦気と何の相干かあらん。たとえ孔穎達の疏が卦気と対上し得るとも、豈に《易》の卦爻辞はついに卦気図の説明文字と成ったか。さらに説く、卦気之法を制定したは、伏羲か、それとも文王か。
先儒之議卦氣者,謂卦氣不起於中孚而起於復,中孚為大雪之終氣,至冬至而始盡,故繫於冬至之下,中孚之於冬至,於象於名兩無當也。然觀《太玄》之辭曰「陽氣藏於黃宮,信無不在其中」,則中孚之直冬至者,顧以其名耳。《太玄》之釋卦序,自闢卦之外,無不以其名為義也,又何獨疑於中孚乎?所謂六日七分者,六日既盡,七分便為來日之始,非必取足八十分而自為一日也。趙汝楳乃以餘算歸之一卦,於是有一卦直七日者,失其意矣。葉氏則以七分為之氣盈,六十卦餘五日二十分,若積餘以置閏者,是一卦直六日,且並京、焦之學失其傳也。
前代の学者は卦気を議論して、卦気は応に《中孚》より起こるべからずして、《復》より起こるべしと説く。《中孚》の値る所は大雪の末気で、冬至を要してはじめて走り尽くすに因る。ゆえに冬至の下に繋げた。しかし《中孚》と冬至とは卦象に就くも卦名に就くもみな相称せず。しかし揚雄《太玄》の言を看れば「陽気は黄宮に蔵し、誠信はその中に在らざるなし」という。これを見れば《中孚》の正しく冬至に当たる所以は、もともとその名義を取るに過ぎざるなり。《太玄》は卦序を解釈して、辟卦以外は、卦名を取りて義を取らざるなし。また何の必ずしも単々《中孚》を懐疑せんや。いわゆる「六日七分」とは、六日は走り了り、あの七分は便ち次日の開頭と算す。並びに必ず八十分を凑足して自ら一日と成すを要せず。趙汝楳は却って余る所の分数を全く一卦に帰して、そこで一卦が七日に値るの説法有り。これはすなわち本意を失せり。葉氏はまた七分を取って節気の盈余と為し、六十卦は五日二十分を多出すと説き、ちょうど余数を積累して以て閏を置くに比す。ではすなわち一卦が六日に値ると成り、京房・焦延寿之学を連ねて一併に失伝せしめたり。
六日七分之說相傳最久,其餘卦氣皆自後起。有自乾至未濟並依《易》書本序,以一卦直一日,乾直甲子,坤直乙丑,至未濟直癸亥,乃盡六十日,六周而三百六十日;四正卦則直二分二至,坎冬至、離夏至、震春分、兌秋分,不在六十卦輪直之列者,焦氏之法也。有以乾坤坎離四卦為槖鑰,餘六十卦依序卦,一爻直一時,一月有三百六十時足其數者,又以十二闢卦每卦管領一時,魏伯陽之法也。
「六日七分」の説法は流伝最も久し。其余の各種の卦気之法はみな後にはじめて興起したり。一種有り、《乾》より《未済》に至るまで全く《周易》の原有の卦序に依りて、一卦は一日に値る。《乾》は甲子に値り、《坤》は乙丑に値り、一直に《未済》が癸亥に値るに至るまで、恰好六十日で、六輪して下ればすなわち三百六十日なり。坎・震・離・兌の四正卦はすなわち二分二至に分値す。――坎は冬至を主とし、離は夏至を主とし、震は春分を主とし、兌は秋分を主とし、六十卦の輪値に参加せず。――これは焦延寿の办法なり。また一種有り、乾・坤・坎・離の四卦を取って風箱の橐籥(枢機)と為し、其余の六十卦は《序卦》に依りて排列し、一爻は一個の時辰に値り、一個月の三百六十個の時辰は恰好としてその数を凑足し、さらに十二辟卦を用いて毎卦が一個の時辰を統領す。――これは魏伯陽の办法なり。
至宋而後有所謂先天圖者,於是邵子以六日七分之法施於其圖,黜卦起中孚之說,以復起冬至、姤起夏至,其以坎離震兌四正卦主二十四氣者,改為乾坤坎離,此圓圖之卦氣也。張理以方圖覆背置之,泰處於東北,乾處於東南,否處於西南,坤處於西北,亦以冬至起復,至泰而正月,至乾而四月;夏至起姤,至否而七月,至坤而十月,此方圖之卦氣也。張氏又以一陰一陽至六陰六陽類而並列,六陽處南,六陰處北,陽自下而升,陰自上而降,廣闢卦之法也。
宋代以後に至ってはじめていわゆる「先天図」出現せり。そこで邵雍は六日七分之法をこの張の図の上に施用して、卦気が《中孚》に起こるの旧説を廃掉し、改めて《復》卦が冬至に起こり《姤》卦が夏至に起こると為した。もともと坎・離・震・兌の四正卦を以て二十四気を主としたるも、また改めて乾・坤・坎・離と為した。これがすなわち円図の卦気なり。張理はまた方図を翻転して安放して、《泰》をして東北に居らしめ、《乾》をして東南に居らしめ、《否》をして西南に居らしめ、《坤》をして西北に居らしめ、同じく冬至より《復》に起こり、《泰》に到るは正月、《乾》に到るは四月。夏至より《姤》に起こり、《否》に到るは七月、《坤》に到るは十月。これがすなわち方図の卦気なり。張理はまた一陰一陽より六陰六陽に至るまでを類に按りて並列して、六陽のは南に排し、六陰のは北に排して、陽気は下より上に昇り、陰気は上より下に降る。これは辟卦之法を加以て推広したなり。
邵子又以方圖乾兌離震各重之為六十四卦,共二百五十六卦,以之算大運,亦以算小運,二十四氣每氣六十四爻,積一千五百六十二爻,合乾兌離震掛一之數,謂之掛一圖,所謂皇極之學也。諸家之不同如此。蓋初無一定之理,各以意之所見為之,是故六日七分之外,有一卦直一日者,兩卦直一日者,有一爻直一日者,四爻三分強直一日者,總卦與日之大數而後分配其小數,或多或少,不顧其果否如是也。
邵雍はまた方図の中の乾・兌・離・震の四宮を各自にさらに重ねて六十四卦と成し、合わせて二百五十六卦で、それを用いて大運を推算し、また用いて小運を推算す。二十四節気は毎気に六十四爻を配して、累計千五百六十二爻で、正しく乾・兌・離・震の四宮の「挂一」之数に合す。これを「挂一図」と称す。これがすなわちいわゆる《皇極経世》之学なり。各家の分歧はすなわちこのよう。もともと一定不易の道理なく、各人は自らの意見に凭りて安排し去る。ゆえに六日七分以外に、なお一卦が一日に値る有り、両卦が一日に値る有り、一爻が一日に値る有り、四爻零三分余りが一日に値る有り。総じて先ず卦数と日数との大概を定下して、さらに零頭小数を分配し去り、あるいは多くあるいは少なく、根本的に事実の上にこのようか否かを管せざるなり。
其卦之排比,惟《序卦》可據,《序卦》之義於時日不可強通,故漢儒別求其義於卦名,而有中孚之起。然揚雄氏所傳之卦義未免穿鑿附會,未嘗為《易》之篤論也。宋儒始一變其說,以竒偶之升降消長為言,而於經文可據之方位一切反之。然則宋儒之畫、漢儒之義,猶二五之為十也,孰分其優劣哉?
六十四卦が如何に排比するかに至っては、ただ《序卦》のみ依拠し得。而も《序卦》の義理はまた強いて時日と相通ずる能わざるなり。ゆえに漢儒は別に卦名の上より根拠を尋ねて、はじめて卦気が《中孚》に起こるの説法有り。しかし揚雄の伝えたあの套の卦義は、未だ免れず穿凿附会で、《易》に対する確切之論と算するに足らず。宋儒ははじめて旧説を一変して、専ら奇偶爻の昇降消長を講ずるも、却って経文の裡に拠って査すべき有る八卦方位を一概に顛倒して来たり。このように看れば、宋儒の画法と漢儒の義解とは、ちょうど二が五を乗ずると五が二を乗ずるとが同じく十を得るに比す。誰かまた高下優劣を分け出し得んや。
按:《說卦傳》有經卦之方位,而無別卦之方位。蓋文王所演六十四卦,其八卦之貞錯綜而敘,不以其卦為類,故無方位之可言。京房六日七分法,卦氣起於中孚,亦不過取卦名之義以為當直冬至,非謂中孚方位在子之半也。自魏伯陽以乾坤坎離牝牡、震艮巽兌,先天八卦之方位端倪始見,而邵子演之曰:「乾坤定上下之位,離坎列左右之門,天地之所闔闢,日月之所出入。」於是有乾南坤北、離東坎西之圖,又推之於六十四卦為大橫圖以定其次序,又規夫橫圖而圓之以為六十四卦之方位,更有方圖居其中。
胡渭の按語:《説卦伝》はただ三画経卦の方位を講ずるのみで、並びに六画別卦の方位を講ぜざった。文王の推演した六十四卦は、その下卦(貞卦)は錯綜交叉に排列して、並びに同一八卦に按りて帰類せざるなり。ゆえに何らの方位かを談じ得ず。京房の六日七分之法は卦気を《中孚》に起らしめたも、ただ「中孚」のこの卦名の含義を取りて、それが応に冬至に値るべしと認めたに過ぎず。並びに《中孚》の方位が子位の中に在ると説くにあらず。魏伯陽が乾坤坎離を用いて牝牡と為し、また震艮巽兌を配上して納甲を講じて以来、先天八卦方位の苗头ははじめて出現せり。邵雍はそれに加以て推衍して、いう:「乾坤は上下之位を定め、離坎は左右之門を列す。天地はこれによりて開合し、日月はこれによりて出入す。」そこですなわち乾は南に坤は北に離は東に坎は西に在るの図有りて、またそれを六十四卦に推広して大横図を作して以て次序を定め、さらに横図を弯めて円形と成して以て六十四卦の方位と為し、中間にさらに一幅の方図を安放す。
於是經卦既非乾坤三索之序,別卦又失文王所演之舊。雖用京、焦分卦直日之遺法,而次序方位參錯不齊,其卦氣所自起,不得不黜中孚而用復姤;坎離震兌四正卦之主二十四氣者,亦改為乾坤坎離,固其所矣。然京房分卦直日以候災異,實有其用;而邵子大圓圖則但如《參同契》以六十卦象一月升降往來之氣,非真有分卦直日之事也。故闢卦相去之疎密前後不同,而二分卯酉之中乃繋之臨遯,蓋此圖惟明丹道,不主占候,固不必一一求合於卦氣也。
このように一来すれば、三画経卦はすでに《説卦》の乾坤三索して六子を生ずるの次序に合わず、六画別卦はまた文王の演じた旧貌を失せり。京房・焦延寿の卦を分けて日に値らしむるの遺法に沿用すといえども、しかし次序方位は錯雑して斉しからず。卦気の起点は《中孚》を廃せざるを得ずして《復》《姤》に改用したり。もともと坎・離・震・兌の四正卦に由りて二十四気を分主したるも、また乾・坤・坎・離に改成したり。これは自ずから勢いの必ず至る所なり。しかし京房の卦を分けて日に値らしむるは、用いて災異を占候する所以で、確かに実用有り。邵雍の大円図は却ってただ《参同契》のごとく、六十卦を用いて一個月の中の陰陽昇降往来之気を象徴し、並びに真に卦を分けて日に値らしめんと欲するにあらず。ゆえに図上の各辟卦の間の疏密前後は一致せず、春分・秋分の在る所の卯位・酉位の中に反って《臨》《遯》の両卦を繋げたり。これを見ればこの張の図はただ丹道を闡明するが為のみで、並びに占候を主とせず。もともと必ずしも一一に卦気と合を求むるを要せざるなり。
其極數知來之學全在加一倍法,與此圖無涉。至於方圖,則內外疉作四層,意在明十六卦兩隅尖射之巧妙,難用分卦直日法,而張仲純亦仿圓圖之例,起復姤,終乾坤,以定十二闢之卦氣,其舛謬不更甚乎?
邵雍のあの套の数目を窮尽し未来を預知する学問に至っては、全く「加一倍法」の上に在りて、この張の円図と並びに相干なし。さらに方図を説くに、それは内より外に向かい重畳して四層と成り、用意は十六卦が両個の角の上より対射するの巧妙を顕示するに在りて、もともと分卦値日之法を套用するに難し。而も張理(字は仲純)もまた円図の成例を仿照して、《復》《姤》より起こり《乾》《坤》に至るまでに止まりて、十二辟卦の卦気を安排した。あれは豈に錯のいよいよ甚だしきにあらざらんや。
「冬至子之半,天心無改移。一陽初動處,萬物未生時。玄酒味方淡,太音聲正希。此言如不信,更請問庖犧。」又曰:「何者謂之機?天根理極微。今年初盡處,明日起頭時。此際易得意,其間難下辭。人能知此義,何事不能知?」
邵雍の詩にいう:「冬至はまさに子時の半分に当たり、天地之心は毫も改移なし。これは一陽が剛に萌動するの処にして、また万物が未だ生発せざるの時なり。玄酒のごとく滋味方に淡く、太音のごとく声響ほぼ無し。この言は若し君が肯んじて信ぜざれば、すなわちさらに伏羲に請教しに往け。」また一首にいう:「何をか『機』と呼ぶや。天根之理は極めて精微なり。それはすなわち今年の将に尽きんとするあの一刻、明日が重新に開頭するあの一時に在り。この中間は最も心領神会し易くして、却って最も言語を用いて説明し難し。人は若しこの層の意思を懂得し得れば、なお何事か能く懂せざる有らんや。」
石澗俞氏曰:朱紫陽云「子之半是未成子,方離於亥之時」,又云「一陽初動處,在貞元之間」。愚謂此處正是造化之真機。程伊川云「若非竊造化之機,安能長生」,至哉言乎!
石澗先生・兪琰がいう:朱熹(号は紫陽)が「子之半」を講ずるは、子時がなお完全に形成せず、剛に亥時を離去するあの一刻で、また「一陽初動之処」を講ずるは、まさに旧歳之貞と新歳之元とが交接する当口に在り。我はこれをまさに造化の真機の所在と認む。程頤(世は伊川先生と称す)は「若し造化の機関を窃取せざれば、どうして長生し得ん」と説く。この言は真に透徹したり。
《大易吟》曰:「天地定位,否泰反類;山澤通氣,損咸見義;風雷相薄,恆益起意;水火相射,既濟未濟。四象相交,成十六事;八卦相蕩,為六十四。」
邵雍《大易吟》にいう:「天地は上下に位を定め、《否》《泰》の両卦はまさに相反対す。山沢は気息相通じ、《損》《咸》の両卦はその義を見出す。風雷は互相いに激蕩し、《恒》《益》の両卦はその意を引申す。水火は彼此交射すれば、すなわち《既済》《未済》なり。四種の卦象は両両相交わりて、十六件の事を構成す。八卦は互相いに推蕩せば、便ち六十四卦と成る。」
《朱子語類》曰:此是說方圖中兩交股底。且如西北角乾、東南角坤,是天地定位,便對東北角泰、西南角否;次乾是兌,次坤是艮,便對次否之咸、次泰之損,後四卦亦如是,共十六卦。又曰:方圖自西北之東南,便是自乾以之坤;自東北之西南,便是由泰以之否。其間有咸恆損益、既濟未濟,所以又於此八卦見義,蓋為是自兩角尖射上與乾坤相對,不知怎生恁地巧。
《朱子語類》にいう:これは方図の中の両条の対角線が交叉する情形を講ず。たとえば西北角は《乾》、東南角は《坤》で、これがすなわち「天地は位を定む」。それは正しく東北角の《泰》と西南角の《否》とに対す。《乾》に緊挨するは兌宮の諸卦、《坤》に緊挨するは艮宮の諸卦で、それらはまた正しく《否》に緊挨する《咸》と《泰》に緊挨する《損》とに対し、後面の四卦もまたこのようで、合わせて十六卦なり。またいう:方図は西北より東南に至るこの条の線は、すなわち《乾》より《坤》に走到す。東北より西南に至るこの条の線は、すなわち《泰》より《否》に走到す。この中間に《咸》《恒》《損》《益》と《既済》《未済》と有り。ゆえに《大易吟》はまたこの八卦の上に義理を見出したり。おそらくこれは両個の角の上より尖々として射て過ぎて正しく乾坤と相対するに因る。真にどうしてこのように凑巧するを知らず。
天台董氏楷曰:愚因邵子《大易吟》,欲以方圖分作四層看。其第一層四隅乾坤否泰四卦,所謂「天地定位,否泰反類」也,然以周圍二十八卦橫直觀之,皆乾一坤八之卦,此見天地定位之不可易也。其第二層四隅兌艮咸損四卦,所謂「山澤通氣,損咸見義」也,然以周圍二十卦橫直觀之,亦皆兌二艮七之卦,此見山澤通氣之象也。
天台の人・董楷がいう:我は邵雍《大易吟》を読むに因りて、方図を分かて四層として看んと欲す。最も外の一層の四個の角は乾・坤・否・泰の四卦で、まさにいわゆる「天地は位を定め、否泰は類を反す」。而もこの一層の周囲の二十八卦を横に看ても豎に看ても、みな乾一・坤八の両宮の卦なり。これはすなわち天地の位を定むは更易し得べからざるを見出す。第二層の四個の角は兌・艮・咸・損の四卦で、まさにいわゆる「山沢は気を通じ、損咸は義を見る」。而もこの一層の周囲の二十卦を横に看ても豎に看ても、またみな兌二・艮七の両宮の卦なり。これはすなわち山沢通気之象を見出す。
其第三層四隅為坎離既濟未濟四卦,所謂「水火相射,既濟未濟」是也,然以周圍十二卦橫直觀之,亦皆離三坎六之卦,此足以見水火不相射之象也。其最裡一層為震巽恆益四卦,所謂「雷風相薄,恆益起意」,其象亦可見矣。以此言之,邵子之詩曉然,足以見先天法象自然之妙。
第三層の四個の角は坎・離・既済・未済の四卦で、まさにいわゆる「水火は相射し、既済未済」。而もこの一層の周囲の十二卦を横に看ても豎に看ても、またみな離三・坎六の両宮の卦なり。これはすなわち水火不相射之象を見出すに足る。最も裡の一層は震・巽・恒・益の四卦で、まさにいわゆる「雷風は相薄し、恒益は意を起こす」。その卦象もまた同じく看見し得。このように説けば、邵雍のこの詩は意思明白にして、先天卦象の自然而然の妙処を見出すに足る。
按:方圖自西北至東南兩隅尖射為八純,自西南至東北兩隅尖射為否泰等卦,是為十六事。然後於四正各布十二卦,共四十八,合前十六為六十四,而八卦相錯徧焉。此亦邵子之巧推排,《易》無此卦位也。
胡渭の按語:方図は西北より東南に至るこの条の対角線の上に尖射して出るは乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の八個の純卦で、西南より東北に至るあの条の対角線の上に尖射して出るは《否》《泰》等の卦で、合わせてすなわち「十六事」。然る後に四正方向に各々十二卦を排して、合わせて四十八卦で、前面の十六卦を加えて恰好六十四。八卦の交錯もまたすなわち周遍して遺漏なし。これは同じく邵雍の巧妙の推排で、《易》の裡にもともとこのような卦位有らざった。
《觀物外篇》曰:先天學,心法也,故圖皆從中起,萬化萬事生於心也(胡玉齋云:此明圖之所謂太極)。又曰:圖雖無文,吾終日言而未嘗離乎是,蓋天地萬物之理盡在其中矣。
邵雍《観物外篇》にいう:先天之学は一套の「心法」なれば、ゆえに図はみな中心より起こり、千変万化・万事万物はみな心より生出す(胡一桂(号は玉斎)がいう:ここの講ずる「中」は、すなわち図中のいわゆる太極なり)。またいう:図上には一個の字も無きといえども、我が終日講説するはかつてそれを離れたることなし。天地万物の道理は全てその中に包含せるに因る。
前村程氏直方曰:邵子云「先天圖心法也,圖皆從中起」,曰「皆」者其故何也?兼方圓圖而言也。「天地定位」,圓圖之從中起也;「雷以動之,風以散之」,方圖之從中起也,皆五與十所寄之位也。故圓圖左旋起於六十四之坤,右轉起於一之乾,是中起於天地之定位也;方圖西北與東南之交也起於震巽,東北與西南之交也起於恆益,南北相直也則起於恆震巽益,東西相直也則起於震益恆巽,是中起於雷風之動散也。由此而論,圓者動,以定位為本;方者靜,以動散為用。故動而無動,靜而無靜,固先天之心法歟!是不可不皆求之圖也。
前村先生・程直方がいう:邵雍が「先天図は心法で、図はみな中心より起こる」を講ずるに、彼はなぜ一個の「都」の字を説くか。方図と円図との両者を兼指して言うに因る。《説卦》の「天地は位を定む」の一句は、説くは円図が中心より起こる。「雷以てこれを動かし、風以てこれを散ず」の両句は、説くは方図が中心より起こる。これらはみな河図の裡の五と十とが寄托する所の中位なり。ゆえに円図は左に向かい旋し、第六十四に排せる《坤》に起こり、右に向かい転じて、第一に排せる《乾》に起こる。これがすなわち天地定位の中心より起こる。方図の西北と東南との両角の交会の処は震・巽の二宮に起こり、東北と西南との両角の交会の処は《恒》《益》の両卦に起こる。南北は一直線を成して看れば、すなわち《恒》《震》《巽》《益》に起こり、東西は一直線を成して看れば、すなわち《震》《益》《恒》《巽》に起こる。これがすなわち雷風の鼓動発散の中心より起こる。これによりて説けば、円図は動に属して定位を以て根本と為し、方図は静に属して鼓動発散を以て功用と為す。動の中に並びに動く所なく、静の中に並びに静かなる所なし。これはおそらくまさに先天の心法か。ゆえに両幅の図はみな往きてこの層の意思を求めざるべからず。
雙湖胡氏一桂曰:案程氏此論甚的。愚因推之:「天地定位」,起南北子午之中;「山澤通氣」,次西北東南之卦;「雷風相薄」,次東北西南之卦;「水火不相射」,又次東西之卦,圓圖自南北之中起也。「雷以動之,風以散之」,正居方圖中心;「雨以潤之,日以晅之」,則坎次巽、離次震;「艮以止之,兌以說之」,則艮次坎、兌次離;「乾以君之,坤以藏之」,則乾次兌、坤次艮,實由中而達乎西北東南,方圖亦自中起也。
双湖先生・胡一桂がいう:程直方のこの番の議論は甚だ中肯なり。我はこれに因りて推衍して下る:《説卦》の「天地は位を定む」は、南北の子午両位の正中に起こり、「山沢は気を通ず」は、次いで西北・東南の両角の卦に及び、「雷風は相薄す」は、再び次いで東北・西南の両角の卦に及び、「水火は相射さず」は、また次いで正東・正西の卦に及ぶ。――これを見れば円図は南北の中より起こる。「雷以てこれを動かし、風以てこれを散ず」は、震・巽はまさに方図の中心に居る。「雨以てこれを潤し、日以てこれを晅す」は、そこで坎は巽に緊挨し離は震に緊挨す。「艮以てこれを止め、兌以てこれを説く」は、そこで艮は坎に緊挨し兌は離に緊挨す。「乾以てこれを君とし、坤以てこれを蔵す」は、そこで乾は兌に緊挨し坤は艮に緊挨す。これはすなわち一路に中心より西北と東南との両角に通達す。――これを見れば方図もまた中心より起こる。
鄱陽董氏真卿曰:愚按畫卦之始,不過太極生兩儀,每一生二,以至於六十四卦,此說固不待贅矣。若夫邵子方圓圖,則又不過以六畫大橫圖中分,移右邊陽儀上生三十二卦自上而下居左,左邊陰儀上生三十二卦自上而下居右,規而圓之以象天而周其外,則自然有節氣之流行,而乾坤陰陽之極與復姤陰陽之始適居上下之中,而有以合乎「天地定位」之章。
鄱陽の人・董真卿がいう:我は卦を画くの起始は、ただ太極が両儀を生じ、毎に一が二を生じて、一路に六十四卦まで生ずるに過ぎずと認む。この説法はもともと多く講ずるを要せず。邵雍の方図・円図に至っては、またただ六画の大横図を中間より剖開するに過ぎず。右辺の陽儀の上に生ずる所の三十二卦を、上より下へ左辺に移し、左辺の陰儀の上に生ずる所の三十二卦を、上より下へ右辺に移し、さらに円規を用いてそれを弯めて円形と成して以て天を象徴し、外圏に環繞せしめた。こに自然に節気の流行有りて、而も乾・坤のこの両個の陰陽極盛之卦と復・姤のこの両個の陰陽初生之卦とは、恰好として上下両端の正中に分居し、またすなわち《説卦》の「天地は位を定む」のあの一章と相合したり。
又以六畫大橫圖從三畫乾至坤各上生八卦者,自右而左分割作八段,自下重起,矩而方之以象地,而居圓圖之內,以取地囿天中之象。而由中及外,自然有雷風雨日、山澤天地對待之象,且縱橫斜正,以三畫六畫卦數之,莫不有以合乎「雷動風散」之章。而十二闢卦皆左旋於圓圖之間,右轉於方圖之外,雖疎密之不均,莫不有自然之妙焉。以此觀之,邵子「皆從中起」之說,蓋指圓圖方圖而言,新安程氏最為得之。邵子只據已成之橫圖,或規而圓,或矩而方,以見卦畫之用耳,又何論乎卦畫之所由生哉?固不以橫圖畫卦之始例論也。
また六画大横図の中の三画の乾より坤に至るまで、各自に上に向かい八卦を生出するあの部分を、右より左へ八段に分割して、下面より重新に排して起こり、矩尺を用いて摆じて方形と成して以て地を象徴し、円図の裡面に安放す。取るは「地は天に包まれて中間に在る」の象。このように中心より外に向かい看れば、自然に雷・風・雨・日と山・沢・天・地との両両対待の象有り。しかも縦看・横看・斜看・正看して、三画卦と六画卦とに按りて数えば、非なればすなわち《説卦》の「雷以てこれを動かし、風以てこれを散ず」のあの一章と相合せざるなし。十二辟卦はみな円図の間に在りて左に向かい旋し、方図の外に在りて右に向かい転ず。疏密は均勻せずといえども、しかし非なればすなわち自然の妙処有らざるなし。これによりて看れば、邵雍の「みな中心より起こる」のこの句は、もともと円図と方図とを兼指して言う。新安の人・程直方の理解は最も到位なり。邵雍はただすでに画成せる横図を就て、あるいは弯めて円と成しあるいは摆じて方と成して、用いて卦画の功用を顕示するに過ぎざるなり。豈にさらに卦画がどう生じ出たるを討論せんや。もともと応に横図の卦を画くの初の道理を取りて一概にそれを衡量すべからざるなり。
《觀物外篇》曰:圓數有一(一為心),方數有二(或以一為心,或以四為心),竒耦之義也。六即一也,十二即二也(兩其六為十二,以六視十二,猶之乎一與二也)。天圓而地方,圓之數起一而積六(眾圓簇聚,一外得六),方之數起一而積八(眾方簇聚,一外得八),變之則起四而積十二也(以四為心,四外得十二)。六者常以六變,八者常以八變,十二者亦以八變,自然之道也。八者天地之體也,六者天之用,十二者地之用也。天變方為圓而常存其一,地分一為四而常執其方;天變其體而不變其用也,地變其用而不變其體也。六者並其一而為七,十二者並其四而為十六也。
邵雍《観物外篇》にいう:円の数目はただ一個の中心有り(この「一」はすなわち中心なり)、方の数目は両種の算法有り(あるは一を以て中心と為し、あるは四を以て中心と為す)。これがすなわち奇と偶との分別なり。六もまたすなわち一に等しく、十二もまたすなわち二に等し(両個の六は十二なり。六と十二とを取りて相比すれば、ちょうど一と二との関係に比す)。天は円にして地は方なり。円の数目は一より起こりて六に積む(多くの円が囲攏して、中心の一個の外に恰好として六個を排し得)、方の数目は一より起こりて八に積む(多くの方塊が囲攏して、中心の一個の外に恰好として八個を排し得)。一変すれば、すなわち四より起こりて十二に積むと成る(四個を以て中心と為して、四個の外に恰好として十二個を排し得)。六は総じて六を以て変じ、八は総じて八を以て変じ、十二もまた八を以て変ず。これは自然之理なり。八は天地の本體で、六は天の功用で、十二は地の功用なり。天は方を変じて円と為して終始にあの「一」を存留し、地は一を分かて四と為して終始にあの「方」を守住す。天の変ずるは本體にしてその功用を変ぜず、地の変ずるは功用にしてその本體を変ぜず。六は中心の一を加えればすなわち七、十二は中心の四を加えればすなわち十六なり。
又曰:五十者,蓍之數也;六十者,卦數也。五者,蓍之小衍也,故五十為大衍也;八者,卦之小成,則六十四為大成也。蓍徳圓,以況天之數,故七七四十九也,五十者存一而言之也;卦徳方,以況地之數,故八八六十四也,六十者去四而言之也。蓍者用數也,卦者體數也;用以體為基,故存一也;體以用為本,故去四也。圓者本一,方者本四,故蓍存一而卦去四也。
またいう:五十は、蓍草の数目なり。六十は、卦の数目なり。五は蓍数の「小衍」なれば、ゆえに五十を「大衍」と呼ぶ。八は卦の「小成」なれば、では六十四はすなわち「大成」なり。蓍の徳性は円にして、用いて天数に比擬す。ゆえに七々四十九。五十と説くは、あの存して用いざる一をも算入して言うなり。卦の徳性は方にして、用いて地数に比擬す。ゆえに八八六十四。六十と説くは、あの四個の用いざるを除去して然る後に言うなり。蓍は「用」之数で、卦は「體」之数なり。用は體を以て根基と為す。ゆえに一個を存下して用いず。體は用を以て根本と為す。ゆえに四個を除去して算えず。円は一を以て本と為し、方は四を以て本と為す。ゆえに蓍は一を存して卦は四を去る。
按:《書·洪範》「五皇極」傳云「極,中也」,《漢·律歴志》「太極元氣,函三為一。極,中也」,極皆訓中(不從此訓自朱子始)。邵子曰「先天學,心法也,故圖皆從中起」,又曰「心為太極」,可見極即中,中即心,從中起謂從太極起也(《觀物詩》云「天向一中分造化,人於心上起經綸」,亦即此意)。天地萬物之理有一不本於太極者乎?有一不具於人心者乎?故曰「吾終日言而未嘗離乎是」。先儒以「圖皆從中起」兼方圓圖言之,當矣,然其義猶有所未盡也。
胡渭の按語:《尚書・洪範》の「五、皇極」の一条は、旧伝はそれを解釈して「極はすなわち中なり」といい、《漢書・律暦志》は「太極元気、三を包含して一と為す」と説き、また「極はすなわち中なり」という。――これを見れば「極」は歴來みな「中」と訓す(この訓解を用いざるは、朱熹より始まる)。邵雍は「先天之学は心法なれば、ゆえに図はみな中心より起こる」と説き、また「心はすなわち太極」という。これを見れば「極」はすなわち「中」、「中」はすなわち「心」で、いわゆる「中より起こる」とはすなわち太極より起こるなり(彼の《観物》の詩の裡に「天は一個の『中』の字の上より造化を分け出し、人は自らの心の上に経綸を開出す」という。まさにまたこの意なり)。天地万物の道理は、どの一条か太極に本づかざらんや。どの一条か人の心の中に具備せざらんや。ゆえに彼は「我が終日講説するはかつてそれを離れたることなし」と説く。前代の学者が「図はみな中心より起こる」を方図円図を兼指して講じたるは、正しい。ただ意思はなお説き尽さざるなり。
蓋先天方圓之圖皆由一四之積數來也。天圓而地方,其在《易》則圓主蓍,方主卦。圓之數起一而積六,一在中,六在外也,蓍徳圓象之。六並一為七,六者常以六變,六七四十二,並初七為四十九,大衍之數五十而其一為太極不用,故曰「五十者存一而言之」,此蓍策也,與卦圖無涉。
その実は先天の方図・円図は、みな「一」と「四」とのこの両種の積数より推し出したるなり。天円地方は、《易》の上に落とせば、円の一路は蓍数を主とし、方の一路は卦数を主とす。円の数目は一より起こりて六に積み、一は中心に在り六は外囲に在る。蓍の徳性は円にして、まさにこれに取象す。六は中心の一を加えれば七、而も六は総じて六を以て変ず。六は七を乗じて四十二を得、さらに最初の七を加上すればすなわち四十九なり。大衍之数は五十で、その中の一数は太極を代表して存して用いざるなり。ゆえに「五十はあの存して用いざる一を連ねて併せて言う」という。これが講ずるは揲蓍之策で、卦図と並びに相干なし。
方之數起一而積八,一在中,八在外也,卦徳方象之,小圓圖是也。八並一為九,中為太極,故一不用也。八者常以八變,積為八八六十四,太圓圖是也,乾坤坎離四正卦不用,故曰「六十者去四而言之」也。乾坤當南北之中,坎離當東西之中,圖從中起,中為太極,故不用而止於六十,猶小圓圖之虛其一也。
方の数目は一より起こりて八に積み、一は中心に在り八は外囲に在る。卦の徳性は方にして、まさにこれに取象す。八卦の小円図はすなわちこのよう。八は中心の一を加えれば九、中心はすなわち太極なり。ゆえにあの一は存して用いず。八は総じて八を以て変じ、累積して八八六十四と成る。六十四卦の大円図はすなわちこのよう。その中の乾・坤・坎・離の四個の正位之卦は存して用いず。ゆえに「六十は四個を除去して然る後に説く」という。乾坤は南北の正中に当たり、坎離は東西の正中に当たる。図は中心より起こり、中心はすなわち太極なり。ゆえにこの四卦は用いずしてただ六十を算す。まさに八卦の小円図が中心のあの一個を虚しくするがごとし。
方之數變之則起四而積十二,四在中,十二在外也。十二者亦以八變,故四之外累加之,第一圍必十二,第二圍必二十,第三圍必二十八,併為六十四,方圖是也。圖從中起,中為太極,故震巽恆益四卦亦不用而止於六十,猶大圓圖之去其四也。卦徳本方,象地之體,而其中又有方圓之別。天變方為圓而常存其一者,謂大小圓圖也,地中之天,方中之圓也;地分一為四而常執其方者,謂方圖也,地中之地,方中之方也(邵子取渾天之象,天周地外,地在天中,故作方圓合一之圖。朱子謂圓圖中間虛者便是太極,不合方圖在中間塞卻,待挑出放外,如此恐失作者之意)。
方の数目は一変すれば、すなわち四より起こりて十二に積み、四は中心に在り十二は外囲に在る。十二もまた八を以て変ず。ゆえに中心の四個の外に層層累加す:第一圏は必ず十二、第二圏は必ず二十、第三圏は必ず二十八で、合わせて恰好六十四。六十四卦の方図はすなわちこのよう。図は中心より起こり、中心はすなわち太極なり。ゆえに中央の震・巽・恒・益の四卦もまた存して用いず、ただ六十を算す。まさに大円図が四個の正卦を除去するがごとし。卦の徳性はもともと方に属して、地之體を象徴す。而もその中にまた方と円との分別有り。いわゆる「天は方を変じて円と為して終始にあの一を存留す」とは、指すは大小両幅の円図で、あれは地中の天・方中の円なり。いわゆる「地は一を分かて四と為して終始にあの方を守住す」とは、指すは方図で、あれは地中の地・方中の方なり(邵雍の取るは渾天の形象で、天は地の外に包み地は天の中に処る。ゆえに方円合一の図を作したり。朱熹は円図の中間の空なる所はすなわち太極で、応に方図をして中間に塞がらしめず、それを挑出して外面に放くべしと説く。――このようではおそらく図を作る人の本意を失せん)。
推之於大小橫圖,兩儀四象八卦皆由太極而生,亦所謂從中起也。此邵子之數學,即邵子之心法,終日言而不離乎是,故托《易》以著為圖,不必與聖人之《易》盡同也(揚子《太玄》其圖亦由中而起,中為一元,自一元衍而為三方,自三方衍而為九州島,自九州島衍而為二十七部,自二十七部衍而為八十一家,故知先天與《太玄》均為老氏之學也)。邵子之心與太極為體,嘗作《無名公傳》以自寓,無名者,太極之謂也。贊曰:「借爾面貌,假爾形骸,弄丸餘暇(丸謂太極),閒往閒來。」則其所謂心法者可知矣。彼以圓圖為合乎「天地定位」之象、方圖為合乎「雷動風散」之次者,皆知其一而不知其它,得其皮毛而不得其骨髓者也。
大小横図の上に推広すれば、両儀・四象・八卦はみな太極より生出す。すなわちいわゆる「中心より起こる」。これは邵雍の数学で、すなわちまた邵雍の心法なり。彼は終日講説してそれを離れず。ゆえに《易》の名義を借りてこれらの図を作出したも、もともと必ずしも聖人の《易》と完全相同ならんを要せず(揚雄《太玄》の図もまた中心より起こる。中心は「一元」で、一元より衍して三「方」と為り、三方より衍して九「州」と為り(原文は誤って「九州島」と作す)、九州より衍して二十七「部」と為り、二十七部より衍して八十一「家」と為る。これによりて先天之学と《太玄》とが同じくみな老氏の一路の学問なるを知り得)。邵雍の心は太極を以て本體と為し、かつて一篇の《無名公伝》を写して以て自ら比した。いわゆる「無名」とは、説くは太極なり。伝後の賛語にいう:「君の面貌を借り、君の形骸を仮りて、丸を弄するの閑暇の裡に(『丸』はすなわち太極)、悠然として来去す。」彼のいう心法は、これによりてすなわち明白にし得。あれらの円図は恰好「天地は位を定む」の象に合し、方図は恰好「雷動風散」の序に合すると認める人は、みなただその一を知りて其余を知らず、皮毛を得て骨髄を得ざったなり。
俞氏《易外別傳序》曰:《易外別傳》者,先天圖環中之秘,漢儒魏伯陽《參同契》之學也。人生天地間,首乾腹坤,呼日吸月,與天地同一陰陽。《易》以道陰陽,故伯陽借《易》以明其說,大要不出先天一圖。是雖《易》道之緒餘,然亦君子養生之切務,蓋不可不知也。圖之妙在乎終坤始復,循環無窮;其至妙則又在乎坤復之交,一動一靜之間。愚嘗學此矣,徧閱《雲笈》,略曉其一二,忽遇隱者授以讀《易》之法,乃盡得環中之秘。反而求之吾身,則康節邵子所謂太極、所謂天根月窟、所謂三十六宮,靡不備焉,是謂身中之易。
兪琰《易外別伝・序》にいう:《易外別伝》が講ずるは先天図の「環中」の秘密で、すなわち漢儒の魏伯陽《参同契》の一路の学問なり。人は天地の間に生きて、頭頂は乾に象り腹部は坤に象り、呼気吸気は日月に応じて、天地と同一の陰陽之理なり。《易》の講ずる所はまさに陰陽之道なれば、ゆえに魏伯陽は《易》を借りて彼の丹法を闡明す。大要は先天のこの一張の図を出でず。これはただ《易》道の余緒なりといえども、しかしまた君子養生の切要之務で、知らざるべからず。この張の図の妙処は、《坤》に終わりて《復》に始まりて循環窮なきに在り。その最も妙なる所は、また《坤》と《復》とが交接し一動一静するあの一瞬に在り。我はかつてこの門の学問を学び、遍く《雲笈七籤》のたぐいの道書を読み、略々一二を懂得したり。後に忽然として一位の隠者に遇うて《易》を読む之法を伝授せられて、はじめて完全に「環中」の秘密を得たり。回頭して自分の身上に尋求すれば、では邵雍の説く所の太極・説く所の天根月窟・説く所の三十六宮は、一つとして具備せざるなし。これを「身中之易」と呼ぶ。
又書其後曰:先天圖環中之極玄,愚雖弗暇専志從事於斯,而丹之妙用非苟知之,蓋嘗試之者也,故敢直指方士之所靳,以破學者之惑。嘗慨夫世所傳丹家之書,廋辭隠語,使覽者無罅縫可入,往往目眩心碎而掩卷長嘆。如蔡季通、袁機仲嘗與朱子共訂正《參同契》矣,雖能考其字義,然不得其的傳,未免臆度而已。愚今既得所傳,又何忍緘黙以自私?乃述是書,附於《周易集說》之後,而名之曰《易外別傳》,蓋謂丹家之說雖出於《易》,不過依仿而托之者,初非《易》之本義也。
また書後に題記していう:先天図の「環中」之説は極めて玄奥で、我は閑暇なくして専心にこれに従事する能わざるといえども、しかし丹道の妙用は並びに随便に聴き来たるにあらずして、かつて親身に試験したるなり。ゆえに敢えて方士たちの秘して宣せざる物を直截に指出して、以て学者の疑惑を破除す。我は常常に世上に流伝する丹家之書は、尽く隠語廋辞で、読む人をして一条の鑽入すべき縫を尋ね得ざらしむるを感慨す。往々として眼花心乱して、巻を掩い長嘆す。蔡元定(字は季通)・袁枢(字は機仲)のごときはかつて朱熹と同じく《参同契》を校訂したるも、能く字義を考訂すといえども、しかし確切の伝授を得ずして、終究に免れず臆測に出たるに過ぎざった。我はいますでに伝授を得れば、またどうして緘默不言して己に拠有するに忍びんや。そこでこの部の書を写し成して、《周易集説》の後に附し、《易外別伝》と題名した。意は丹家の説法は《易》に出るといえども、ただ《易》に依傍して寄托するに過ぎず、もともと並びに《易》の本義にあらざるなり。
《易外別傳》曰:《參同契》云「終坤始復,如循連環」,《皇極經世書》云「先天圖者,環中也」。愚謂人之一身即先天圖,心居人身之中,猶太極在先天圖之中,朱紫陽謂「中間空處」是也。圖自復而始,至坤而終,終始相連如環,故謂之環。環中者,六十四卦環於其外,即太極居其中也。在《易》為太極,在人為心,人知心為太極,則可以語道矣。
《易外別伝》にいう:《参同契》は「坤に終わりて復に始まり、連環に沿うて転ずるがごとし」を講じ、《皇極経世書》は「先天図はすなわち環中」を講ず。我は人の一身はすなわち一幅の先天図と認む。心は人身の中央に処り、ちょうど太極が先天図の中央に処るに比す。朱熹のいう「中間の空なる所」とはすなわちそれを指す。図は《復》卦より開始して、《坤》卦に至りて終結し、首尾は相連なりて個の円環に似たり。ゆえに「環」と呼ぶ。いわゆる「環中」とは、六十四卦が外に環繞して、而も太極はその中に居るを説く。《易》の裡に在りては太極と呼び、人の身上に在りてはすなわち心と呼ぶ。人は能く心がすなわち太極なるを明白にせば、すなわち彼と大道を談論し得。
又云:冬至之後為呼,夏至之後為吸,此天地一歲之呼吸也。愚謂冬至後自復而乾,屬陽,故以為呼;夏至後自姤而坤,屬陰,故以為吸。呼乃氣之出,故屬冬至之後;吸乃氣之入,故屬夏至之後。大則為天地一歲之呼吸,小則為人身一息之呼吸。《參同契》曰「龍呼於虎,虎吸龍精」,又曰「呼吸相含育,佇息為夫婦」,蓋以呼吸為龍虎,為夫婦。千經萬論,譬諭紛紛,不過呼吸兩字而已矣。
またいう:冬至以後は「呼」、夏至以後は「吸」。これは天地の一年の呼吸なり。我は冬至以後は《復》卦より《乾》卦に走到して、陽に属するがゆえに呼と算し、夏至以後は《姤》卦より《坤》卦に走到して、陰に属するがゆえに吸と算すと認む。呼は気が外に向かい出るなれば、ゆえに冬至の後に配す。吸は気が裡に向かい入るなれば、ゆえに夏至の後に配す。大きく説けば、天地の一年の呼吸なり。小さく説けば、すなわち人身の一息の間の呼吸なり。《参同契》に「龍は虎に向かい呼気し、虎は龍の精気を吸取す」といい、また「呼と吸と互相いに含育し、息を屏し神を凝して夫妻の交合するがごとし」という。これは呼吸を比して龍虎と為し、夫婦と為す。千経万論、譬喻は紛紛として、説き来たり説き去るもただ「呼吸」の両個の字に過ぎざるなり。
又曰:「一動一靜,天地之至妙者與;一動一靜之間,天地人之至妙至妙者與。」愚謂圖左自復至乾,陽之動也;圖右自姤至坤,陰之靜也。一動一靜之間,乃坤末復初陰陽之交,在一歲為冬至,在一月為晦朔之間,在一日則亥末子初是也。吾身之乾坤內交,靜極機發,而與天地之機相應,是誠天地人之至妙至妙者也。
またいう:「一動一静は、おそらく天地の間の最も玄妙の事か。而も一動と一静とが交接するあの一瞬は、おそらく天・地・人の間の玄妙の極点に到れる事か。」我は図の左半辺は《復》より《乾》に至るは、陽気之動で、図の右半辺は《姤》より《坤》に至るは、陰気之静と認む。一動一静の交接の処は、まさに《坤》之末・《復》之初の陰陽交会の地方なり。一年に在りてはすなわち冬至、一月に在りてはすなわち晦日と朔日との間、一日に在りてはすなわち亥時之末・子時之初なり。我が自身の乾坤は體内に交合して、静して極処に至りて生機は発動すれば、すなわち天地の生機と相応す。これは確かに天・地・人の間の玄妙の極点に到れる事なり。
又云:「無極之前,陰含陽也;有象之後,陽分陰也。」朱紫陽曰:邵子就圖上說循環之意,自姤至坤是陰含陽,自復至乾是陽分陰,坤復之間是無極。袁機仲曰:朱子謂坤復之間乃無極,其論察矣。又詩云:「忽然夜半一聲雷,萬戸千門次第開。若識無中含有象,許君親見伏羲來。」無中含有象,即是坤復之間無極而太極也。邵子之學,非朱子孰能明之?
またいう:「無極の前に在りては、陰の中に陽を含む。形象有るの後に在りては、陽の中に陰を分かつ。」朱熹がいう:邵雍は図の上に就いて循環の意思を講ずる。《姤》より《坤》に至るは陰が陽を含み、《復》より《乾》に至るは陽が陰を分かつ。《坤》《復》の間はすなわち無極なり。袁枢がいう:朱熹は《坤》《復》の間はすなわち無極と認む。この見解は甚だ精審なり。朱熹はなお詩有りていう:「忽然として夜半裡に一声の雷響き、千門万戸は依次に打開す。若し『無』の中に『有』を含むの象を認得し得れば、すなわち君に親しく伏羲の走り来るを見るを許さん。」いわゆる「無の中に象を含有す」とは、まさに《坤》《復》の間のあの「無極にして太極」なり。邵雍之学は、朱熹を除きて誰か能く講じ明白にせんや。
內煉之道,至簡至易,唯欲降心火入于丹田耳。丹田在臍之後、腎之前,正居腹中。丹家諱言心腎,謂心腎非坎離,蓋指呼吸為坎離,殊不思呼吸乃坎離之用,心腎乃坎離之體。人之一身,心為之主,故獨居中;腎為之基,故獨居下。丹家不言心腎而言身心,身即腹也,腎在其中矣,豈可舍腎哉?腎屬水,心屬火,火入水中,則水火交媾,如晦朔之間日月之合璧。
内丹修錬の道理は極めて簡単極めて容易で、ただ心中之火を丹田に降入するを要するに過ぎざるなり。丹田は肚臍の後・両腎の前に在りて、まさに腹腔の中央に処る。丹家は心と腎とを講ずるを忌諱して、心腎は坎離にあらずと説き、而も呼吸を取って坎離と為す。却って思い及ばざりき、呼吸はただ坎離の「用」に過ぎず、心腎ははじめて坎離の「體」なりを。人の一身は、心は主宰なれば、ゆえに独り中央に居る。腎は根基なれば、ゆえに独り下部に居る。丹家は心腎を説かずして「身」「心」を説く。いわゆる「身」はすなわち腹で、腎はもともとすなわちその中に在り。どうして腎を撇開して談ぜざり得んや。腎は水に属し、心は火に属す。火は水の中に進入すれば、水火はすなわち交媾す。まさに晦朔之交の日月が合成して一璧と成るがごとし。
《易》曰「山澤通氣」,又曰「二氣感應以相與」。愚按《參同契》云:「自然之所為兮,非有邪偽道;若山澤氣相烝兮,興雲而為雨。」蓋人身之陰陽絪縕交結于丹田,則升於泥丸,滃然如云,化為甘澤。陳希夷詩云「倏爾火輪煎地脈,愕然神瀵湧山椒」,與此同旨(神瀵出《列子》)。嘗謂山澤之氣相通,由其虛也,唯虛也故二氣感應以相與,不虛則窒而不通,安能相與?
《易》は「山沢は気を通ず」といい、また「陰陽の二気は感応して互相いに親与す」という。我は《参同契》の説くを按ず:「これは自然而然の作為なり、並びに何らの邪僻虚偽の門道有らざるなり。ちょうど山と沢之気とが互相いに蒸騰するがごとく、雲を興起して雨と化成す。」人身の陰陽二気は絪縕交結して丹田に在れば、すなわち泥丸に上昇して、蓊然として雲のごとく、さらに甘美の津液に化成す。陳摪の詩に「忽然として火輪は地脉を煎熬し、驚覚する時は神泉は山頭に涌上す」という。講ずるはまさにこの意(「神瀵」の一詞は《列子》に出づ)。我は常常に山沢之気の能く相通ずる所以は、それらの中間が空虚なるに因ると説く。まさに虚なるに因りて、二気ははじめて感応交与し得。若し虚ならざればすなわち堵塞して通ぜず。どうしてなお相与し得んや。
內煉之道貴乎心虛,心虛則神凝,神凝則氣聚,氣聚則興云為雨,與山澤相似。《離騷·逺遊篇》云:「道可受兮而不可傳,其小無內兮其大無垠,母滑而魂兮彼將自然,壹氣孔神兮於中夜存,虛以待之兮無為之先。」朱紫陽注云:「蓋廣成子之告黃帝,不過如此,實神仙之要訣也。」
内錬の道理は心虚を貴ぶ。心虚なればすなわち神は凝聚し、神凝聚すればすなわち気は積聚し、気積聚すればすなわち能く雲を興し雨を化し、山沢通気と一個の道理なり。《楚辞・遠遊》にいう:「道は領受し得るも言伝し得べからず。それは小にして内里なく、大にして辺際なし。汝の魂魄を撹乱するなかれ。それは自ずからその自然に順わん。其の気を専一にして極めて神妙にして、夜半の時分に存守せよ。虚静にしてそれを等待して、無為の先に抢するなかれ。」朱熹が注解していう:「おそらく広成子が黄帝を告誡した言は、またただこのようのごとし。これは実に神仙家の要訣なり。」
醫書云:人身有任、督二脈。任脈者,起於中極之下,以上毛際,循腹裡上闗元,至咽喉,屬陰脈之海;督脈者,起於下極之腀,並於脊裡,上至風府,入腦上顛,循額至鼻柱,屬陽脈之海。所以為任脈者,女子得之以姙養也;謂之督脈者,以其督領經脈之海也。鹿運尾閭,蓋能通其督脈者也;龜納鼻息,蓋能通其任脈者也。人能通此二脈,則百脈皆通。《黃庭經》云「皆在心內運天經,晝夜存之自長生」,天經乃吾身之黃道,呼吸往來於此,即任督二脈是也。
医書にいう:人の身上に任脉・督脉の両条の経脉有り。任脉は中極穴の下に起こり、上に向かい陰毛の辺際を経て、腹腔の内側に沿うて上行し関元穴を経て、咽喉に到達す。全身の陰脉の総匯なり。督脉は会陰の処に起こり、脊柱の内側と並行して、上達して風府穴に至り、脳に入り上行して頭頂に至り、さらに前額に沿うて下りて鼻柱に至る。全身の陽脉の総匯なり。それを「任脉」と呼ぶは、女子がそれに頼りて妊娠養胎するに因る。それを「督脉」と呼ぶは、それが総督統領して衆経脉之海たるに因る。鹿は善く尾閭を擺動す。おそらく能く督脉を打通す。亀は善く鼻を用いて気を納す。おそらく能く任脉を打通す。人は若し能くこの両条の脉を打通せば、全身の百脉はみな通ず。《黄庭経》に「一切はみな心内に在りて天経を運転し、日夜存守すれば自然に長生す」という。いわゆる「天経」とはすなわち我が身上の黄道で、呼吸往来はみなここより経過す。すなわち任・督の二脉なり。
按:石澗,精於《參同契》者也,不徒心解之,且身試之,故知先天圖為老氏之易而非聖人之易,著書以闡其幽,名之曰《易外別傳》,以為丹家所依託,非《易》之本義。自有先天圖以來,知其妙而不使之混於《易》中者,唯石澗一人(明萬厯中有莆田林兆恩者,號三教先生,其徒述其說以成書,亦名《易外別傳》,而其指大異。石澗卻道家於《易》外,三教混釋老於《易》中,邪正相去懸絶)。
胡渭の按語:兪琰(号は石澗)は《参同契》に精通する人で、彼はただ心の裡に理解するのみならず、しかも親身に試験したり。ゆえに先天図は老氏の一路の《易》にして、聖人の《易》にあらざるを知る。彼は書を著してその中の幽微を闡発して、《易外別伝》と題名し、これを丹家が《易》に依傍して寄托したるで、並びに《易》の本義にあらずと認む。先天図有りて以来、能くその妙処を識得してそれを《易》の裡に混進せしめざるは、ただ兪琰一人のみ(明代の万暦年間に一個の莆田の人・林兆恩有り、号は三教先生。その門徒はその説を記述して一書を編成して、また《易外別伝》と呼ぶも、宗旨は大いに相同じからず。兪琰は道家を《易》の外に推し、三教之説は却って釈・老を《易》の中に混進せしむ。正と邪とは相去ること極めて遠し)。
魏伯陽,丹經王也,希夷、康節乃其嫡派正傳,所言皆老氏之易也。康節橫圖以白代—、以黒代--,實本希夷。然《天地自然之圖》本謂龍馬授伏羲者如是,而伏羲則之以畫卦,變白黒為—、--耳;康節乃謂伏羲所作亦如是,然則伏羲之後更有何人變白黒為—、--如今卦首所列之六畫乎?
魏伯陽は丹経之王で、陳摪・邵雍はすなわち彼の嫡派正伝で、講ずる所はみな老氏の一路の《易》なり。邵雍の横図は白色を用いて陽爻「—」に代え、黒色を用いて陰爻「--」に代えたるも、その実は陳摪に本づく。しかし《天地自然之図》はもともと龍馬が伏羲に負い与えた図様はこのようで、伏羲はそれに取法してはじめて卦を画き出し、黒白を改めて「—」と「--」と為したと説く。邵雍は却って伏羲の作したもまた黒白のあの様子と説く。では伏羲以後はまた何の人か黒白を改めて「—」「--」と為して、いまの卦首に列する六画と成したか。
又兩儀四象八卦,希夷皆子在母中,康節卻子在母外,雖取法希夷,而實失先天之本意矣。希夷之圖止有八卦方位,而無其次序。康節既獨出臆見,於一竒一偶之上各加一竒一偶之三畫,而為乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八矣,又欲附會於希夷,乃以「天地定位」一章當希夷八卦方位,就中推出次序。
さらに両儀・四象・八卦を説くに、陳摪の図はみな子は母の中に含まれ、邵雍は却って子は母の外に排す。取法を陳摪にすと説くといえども、実際にはすでに先天図の本意を丢掉したり。陳摪の図はただ八卦方位有るのみで、並びに次序なし。邵雍はすでに自ら臆見を出して、一奇一偶の上に層層各々一奇一偶を加え、凑じて三画と成して、乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八を得出したり。また陳摪と牽合せんと欲して、そこで《説卦》の「天地は位を定む」のあの一章を取りて去りて陳摪の八卦方位に比附して、その中より一套の次序を推出した。
其左半乾兌離震適符橫圖之一二三四,遂以為「數往者順」;至右半坤艮坎巽,則與橫圖正相反,乃從中拗轉為巽五、坎六、艮七、坤八,以為「知來者逆」,斯不亦矯揉造作,失天地自然之妙乎?且次序與方位元不相謀,未聞乾坤三索之序由出震齊巽之位而定也,何獨於先天合之?故圓圖抽坎填離,猶是丹家之遺制,而橫圖則無謂甚矣。
左半辺の乾・兌・離・震は恰好として横図の一・二・三・四之序に合すれば、彼はすなわちこれを「往きたるを数ふるは順なり」と説く。右半辺の坤・艮・坎・巽に至っては、却って横図と正反対なれば、そこで中間より拗転して来て排して巽五・坎六・艮七・坤八と成して、これを「来たるを知るは逆なり」と説く。これは豈に矯揉造作にして、反って天地自然の妙処を失せるにあらざらんや。いわんや次序と方位とはもともと両回事で、かつて乾坤三索して六子を生ずるの次序が、《説卦》の「帝は震より出で、巽に斉し」のあの套の方位に由りて決定せらるるを聴かざった。なぜ偏に先天図の上に於いて両者を凑合せんと要すか。ゆえに円図の上の「坎を抽き離を填む」はなお丹家の留下した成法と算し得。あの張の横図はすなわち実に毫も道理なし。
乃復引而伸之為六十四卦次序,遂至有四畫五畫之卦。夫此四畫五畫者,將名曰某卦乎?抑仍謂之兩儀四象乎?如以為兩儀四象,則八卦之後不應復有兩儀四象也。或曰此康節之數學,知來之道寓焉。然吾觀《皇極經世書》,其所推元會運世之數及天地萬物之變,恐別有方術,未必用加一倍法也。
彼はまた横図を引申推衍して六十四卦の次序と成して、そこでついに四画・五画の卦出現せり。これらの四画・五画の物は、それを何の卦と呼ばんと要するか。それともなお両儀・四象と呼ぶか。若し両儀・四象と算せば、では八卦の後は応にさらに両儀・四象有るべからず。ある人はこれを邵雍の数学で、未来を預知する道理はすなわちその裡頭に寄托すと説く。しかし我は《皇極経世書》を看るに、彼の推算する元・会・運・世の数目および天地万物の変化は、おそらく別に一套の方術有りて、未だ必ずしも真に「加一倍法」を用いざるべし。
竒偶之上各加竒偶,只因錯解「易有太極」一節,遂以揲蓍生爻之次序為始作八卦之次序耳。然則大小橫圖,既戾於聖人之經,又絶非希夷之指,先天之贅肬也,安得冠諸經首以為伏羲不言之教乎?
奇偶の上にさらに各々奇偶を加うるは、ただ《繋辞》の「易に太極有り」のあの一節を錯解したに因るのみ。そこで揲蓍して爻を生ずるの次序を取って最初に八卦を画くの次序と為したに過ぎざるなり。このように看れば、大小横図はすでに聖人の経文に違背し、また完全に陳摪の本旨に合わず。簡直に先天之学の身上に多く長えた一塊の贅瘤なり。どうしてそれを《周易》経文の最も前面に放てて、以て伏羲の不言之教と為し得んや。
右論邵子伏羲六十四卦方位。
以上の一節は、邵雍の伝えた「伏羲六十四卦方位」之図を考弁した。
易図明辨巻八 徳清・胡渭撰
後天の学
《繋辭傳》曰:乾坤其易之縕邪?乾坤成列,而易立乎其中矣。乾坤毀,則無以見易;易不可見,則乾坤或幾乎息矣。
《繋辞伝》にいう:乾・坤の二卦は、おそらく《易》が包蔵する根本であろう。乾・坤がすでに序列をなせば、《易》の体制はその中に確立する。乾・坤がもし毁棄されれば、《易》を見るすべがなく、《易》が見えなくなれば、乾・坤の働きもほとんど息絶えるに近い。
南軒張氏曰:乾坤其易之門,言易出入於乾坤也;乾坤其易之縕,言易含蓄於乾坤也。
南軒張栻がいう:《繋辞伝》の「乾坤其易之門」は、《易》の変化が乾・坤二卦から出入往來することをいい、「乾坤其易之縕」は、《易》の全内容が乾・坤二卦の中に蘊蔵・包含されていることをいう。
《本義》曰:縕,所包蓄者,猶衣之著(音灼)也。易之所有,陰陽而已。凡陽皆乾,凡陰皆坤,畫卦定位,則二者成列,而易之體立矣。乾坤毀,謂卦畫不立;乾坤息,謂變化不行。
朱熹《周易本義》にいう:「縕」とは包み蓄えたもので、衣の中に綿を入れたようなものである(「着」は「灼」と読む)。《易》が具える内容は、陰と陽にすぎない。およそ陽に属するものは乾に帰し、陰に属するものは坤に帰する。卦爻を画き、位次を定めれば、陰陽の二者が行列をなし、《易》の本体も確立する。いわゆる「乾坤毀」とは、卦画が成立し得ないことであり、いわゆる「乾坤息」とは、変化が運行し得ないことである。
《語類》曰:乾坤只是說二卦,此易只是說易之書,與「天地定位,易行乎其中」之易不同,行乎其中者卻是說易之道理。又曰:大抵易之言乾坤者多以卦言,易立乎其中,只是乾坤之卦既成而易立矣。又曰:乾坤只言卦,易只是陰陽卦畫。
《朱子語類》に記す:ここでいう乾・坤は二つの卦についてのことで、ここでいう「易」はただ《周易》という書を指し、「天地定位、易行乎其中矣」の「易」とは異なる。「行乎其中」の「易」は変易の道理をいう。またいう:大体《易》で乾・坤を論ずるのは、多くは卦についてであり、「易立乎其中」は、ただ乾・坤二卦がすでに成れば《易》もそれに随って立つということである。またいう:乾・坤は単に卦を指し、「易」はただ陰陽の卦画にすぎない。
按:陰陽一畫,但可謂之剛柔,不可謂之乾坤。凡言乾坤者,皆純陽純陰之卦,非三畫則六畫,此經主三畫而言(《雜卦》「乾剛坤柔」主六畫)。《本義》云「凡陽皆乾,凡陰皆坤」,則似一畫亦可謂之乾坤,非經意也。易謂卦畫之交易而成變化者,乾坤成列,則六子及重卦皆在其中,故曰易之縕。乾坤毀無以見易,謂無乾坤二卦,則六十四卦無由而出;易不可見,乾坤或幾乎息,謂無易書,則天地變化之道不著,殆與滅息相似。此乾坤字義與上不同。
胡渭の按語:陰・陽の単独の一画は、剛・柔と呼ぶことはできても乾・坤と呼ぶことはできない。およそ乾・坤と称するものは、皆純陽・純陰の卦で、三画の経卦か六画の重卦である。この段の《繋辞伝》は三画の経卦について言っている(《雑卦伝》の「乾剛坤柔」は、あれこそ六画の重卦についてのものである)。《周易本義》の「凡そ陽は皆乾、凡そ陰は皆坤」は、聞こえでは単独の一画も乾・坤と呼べそうだが、これは経文の本意に合わない。「易」とは卦画が交互に変易して変化を生ずることであり、乾・坤がすでに行列をなせば、震・坎・艮・巽・離・兌の六子卦および六十四重卦はすべてその中に含まれる。ゆえに「易之縕」という。「乾坤毀則无以見易」とは、乾・坤二卦がなければ六十四卦は生じ得ないということ。「易不可見、則乾坤或幾乎息」とは、《周易》という書がなければ天地変化の道は顕明し得ず、ほとんど消亡・止息に似るということ。ここでの「乾坤」二字の含意は、上の文のものとはまた異なる。
乾坤其易之門邪?乾,陽物也;坤,陰物也。陰陽合徳而剛柔有體,以體天地之撰,以通神明之徳。
《繋辞伝》はまたいう:乾・坤はおそらく《易》の門戸であろう。乾は陽性の物、坤は陰性の物である。陰陽二つの徳性が交合し、剛と柔がそれぞれ形体を持つ。よって天地万物の事状を体察し、神明の徳性に会通することができる。
南軒張氏曰:以卦言之,乾之三竒乃陽物也,坤之三耦乃陰物也。三竒三耦索而為六子,互體卦變積而為六十四,此陰陽合徳而剛柔有體也。
南軒張栻がいう:卦について言えば、乾卦の三条の奇画(陽爻)は陽性の物、坤卦の三条の偶画(陰爻)は陰性の物である。三奇三偶が互いに求索して震・坎・艮・巽・離・兌の六子卦を生じ、さらに「互体」「卦変」によって層層に推衍し、積み重なって六十四卦となる。これがいわゆる「陰陽合徳而剛柔有体」である。
《本義》曰:諸卦剛柔之體,皆以乾坤合徳而成,故曰乾坤易之門。撰,猶事也。
朱熹《周易本義》にいう:各卦の剛柔の形体は、すべて乾・坤二卦の徳性の交合から成る。ゆえに乾・坤は《易》の門戸という。「撰」という字の意味は「事」に相当し、天地間の事状を指す。
按:陰陽合徳,謂一再三索;剛柔有體,謂六子成列也。因而重之為六十四,變化無窮,皆出於乾坤二卦,故曰易之門。自康節有伏羲先畫一竒一耦之說,世皆指乾坤為一畫,經旨鬱而不宣,茲特為正之。
胡渭の按語:「陰陽合徳」とは、乾坤が一索・再索・三索して六子を生ずることであり、「剛柔有体」とは、六つの子卦がそれぞれ列を成すことである。八卦を二々相重ねて六十四卦とすれば、変化は窮まりなく、すべて乾・坤二卦から出る。ゆえに乾・坤は《易》の門戸という。邵雍(康節)が伏羲はまず一奇一偶を画いたという説を唱えて以来、世人は皆、乾・坤を単独の一画と指し示し、経文の本旨はこのために埋没して顕れなくなった。ここに特にこれを訂正する。
《說卦傳》曰:乾,天也,故稱乎父;坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男;巽一索而得女,故謂之長女;坎再索而得男,故謂之中男;離再索而得女,故謂之中女;艮三索而得男,故謂之少男;兌三索而得女,故謂之少女。
《説卦伝》にいう:乾は天であるから父と称し、坤は地であるから母と称す。震卦は第一の求索で男を得たから長男といい、巽卦は第一の求索で女を得たから長女といい、坎卦は第二の求索で男を得たから中男といい、離卦は第二の求索で女を得たから中女といい、艮卦は第三の求索で男を得たから少男といい、兌卦は第三の求索で女を得たから少女という。
南軒張氏栻曰:老陽為父,老陰為母。老陽能變,故自下而索震為長男,自中而索坎為中男,自上而索艮為少男;老陰能變,故自下而索巽為長女,自中而索離為中女,自上而索兌為少女。
南軒張栻がいう:老陽は父、老陰は母である。老陽は変動し得るから、下爻から求索して震を成して長男とし、中爻から求索して坎を成して中男とし、上爻から求索して艮を成して少男とする。老陰もまた変動し得るから、下爻から求索して巽を成して長女とし、中爻から求索して離を成して中女とし、上爻から求索して兌を成して少女とする。
《本義》曰:索,求也,謂揲蓍以求爻也。男女指卦中一陰一陽之爻而言。
朱熹《周易本義》にいう:「索」は求め取る意で、蓍草を分揲して爻を求めることを指す。ここにいう男・女は、卦中の一つの陰爻または一つの陽爻についてのことである。
《語類》曰:震一索而得男一段,看來不當専作揲蓍看,揲蓍有不依這序時便說不通。大概只是乾求於坤而得震坎艮,坤求於乾而得巽離兌,一二三者以其畫之次序言也。
《朱子語類》にいう:「震一索而得男」のこの段は、専ら揲蓍として理解すべきでないように見える。揲蓍にはしばしばこの次序に従わない出方があり、そのようにすれば説が通らないからである。およそ乾が坤に向かって求索して震・坎・艮を得、坤が乾に向かって求索して巽・離・兌を得るというだけであり、いわゆる一索・再索・三索は、爻画の置かれた次序についてのことである。
按:揲蓍之說本諸漢上,甚無理,故《語録》不從,而《本義》乃未及改正。李秀巖謂《本義》在前,《語録》在後,其間有十數條意義尤密者,此蓋其一也。
胡渭の按語:「索」を揲蓍求爻と解する説は、もともと朱震《漢上易伝》から出たもので、たいへん不合理である。ゆえに《朱子語録》はこれを採らなかったが、《周易本義》の成書が先で改めるに及ばなかった。李心伝(秀岩)がいうに、《本義》は前に書かれ《語録》は後に記され、その中に《語録》の説が《本義》より精確なものが十数条ある。これはおそらくその一つであろう。
朱子《荅袁機仲書》曰:自初未有畫時說到六畫滿處者,邵子所謂先天之學也;卦成之後各因一義推說,邵子所謂後天之學也。今來喻所引《繫辭》《說卦》三才六位之說,即所謂後天者也。先天後天既各自為一義,而後天說中取義又多不同,彼此自不相妨,不可執一而廢百也。若執此說,必謂聖人初畫卦時只見一個三才,便更不問事由,一連便埽出三畫以擬其象,畫成之後子細看來見使不得,又旋劃壁添出後一半截,此則全是私意杜撰補接,豈復更有易邪?
朱熹《答袁機仲書》にいう:最初まだ一画もないところから論じ始め、六画が満ちるまで論じるのが、邵雍のいう「先天之学」である。卦体がすでに成った後、それぞれ一種の意義について推衍して解説するのが、邵雍のいう「後天之学」である。いま来書が引く《繋辞伝》《説卦伝》の三才六位の説は、まさに後天の一路に属する。先天・後天はそれぞれ一つの義例を成し、後天一路の取義はまた多く異なり、互いにもともと妨げ合わず、一つを執定して残りの百種を廃することはできない。もしあなたの説を死守すれば、必ずや、聖人が卦を画いた当初はただ一つの「三才」を見ただけで、もはや由来を追究せず、一息に三画を掃き出してその象を摸したが、画き成した後に詳しく見ると通らず、そこで臨時に後半を補画した——と言わねばならなくなる。これは全て私意による杜撰の継ぎ接ぎであり、どこに《易》があろうか。
又曰:據邵氏說,先天者伏羲所畫之易也,後天者文王所演之易也。伏羲之易,初無文字,只有一圖以寓其象數,而天地萬物之理、陰陽始終之變具焉。文王之易,即今之《周易》,而孔子所為作傳者是也。孔子既因文王之易以作傳,則其所論固當專以文王之易為主,然不推本伏羲作易畫卦之所由,則學者必將誤認文王所演之易便為伏羲始畫之易,只從中半說起,不識向上根原矣。
朱熹はまたいう:邵雍の説によれば、「先天」は伏羲の画いた《易》であり、「後天」は文王の推演した《易》である。伏羲の《易》は、初め文字がなく、ただ一幅の図があってその象と数を寄寓し、天地万物の理・陰陽終始の変化がその中に具わっていた。文王の《易》は、いまの《周易》であり、孔子がそれに伝を作った書である。孔子が文王の《易》に依拠して伝を作った以上、彼の論ずるところは当然、専ら文王の《易》を主とすべきである。しかし伏羲が《易》を作り卦を画いた根源を遡らなければ、学者は必ず文王の演じた《易》を伏羲の最初に画いた《易》と誤認し、半ばから語り始めて上の根本の源頭を識らなくなる。
故十翼之中,如「八卦成列,因而重之」,太極、兩儀、四象、八卦,與天地、山澤、雷風、水火之類,皆本伏羲畫卦之意;而今新書原卦畫一篇,亦分兩儀,伏羲在前,文王在後。必欲知聖人作易之本,則當考伏羲之畫;若只欲知今易書文義,則但求之文王之經、孔子之傳足矣。兩者初不相妨,而亦不可以相雜。來教乃謂専為邵氏解釋,而於易經無所折衷,則恐考之有未詳也。
だから《十翼》の中の、「八卦成列、因而重之」や、太極・両儀・四象・八卦、また天地・山沢・雷風・水火といった類の説は、みな伏羲の画卦の用意に本づく。私の新著《易学啓蒙》の《原卦画》一篇も二つの段に分け、伏羲の部分を前に、文王の部分を後に置いた。もし聖人が《易》を作った根本を必ず明らかにしようとするなら、伏羲の画いた卦を考究すべきであり、ただ今本《易》書の文義を理解したいだけなら、文王の経文・孔子の伝文に求めれば足りる。両者はもともと互いに妨げないが、また互いに混雑させてもならない。来書は私が専ら邵氏のために解釈を作り、《易》経そのものに折衷取正していないと言うが、おそらく考察がまだ周到でないのであろう。
按:伏羲胷羅造化,全體太極,仰觀俯察,近取逺取,三才之道了了於心目之間,便一連埽出三畫,有何不可,而必一生二、二生四、四生八,作巧推排計邪?一連埽出者為私意杜撰補接,然則逐爻生出者,豈反非杜撰補接邪?孔子之傳無一語推本伏羲者則已,既有推本伏羲者,則何以知兩儀四象為伏羲之所畫,而乾坤三索為文王之所演邪?先天後天強生分別,前第六卷中辨之已詳。知彼逐爻生出之為謬,則知一連埽出三畫而交易以成六子者,真伏羲之易而非文王之易矣。曉人自解,無庸辭費也。
胡渭の按語:伏羲の胸中は造化を包羅し、渾然として太極の全体を具え、上は天文を観、下は地理を察し、近くは身に取り遠くは物に取り、三才の道は明らかに彼の心目の間にあった。ゆえに一息に三画を掃き出して何が不可であろうか。どうして一が二を生じ、二が四を生じ、四が八を生ずるという、あのような小細工の推排の計策を弄しなければならないのか。朱子の言い方に従えば、一息に三画を掃き出すのは私意の杜撰継接だというが、では一爻ずつ順に生じることはかえって杜撰継接ではないのか。孔子の伝文がもし一句も伏羲に遡らなければ、それで済むが、確かに伏羲に遡る言葉がある以上、何によって両儀四象は伏羲の画いたもので、乾坤三索が六子を生ずるのは文王の演じたものだと断定できよう。先天・後天を強引に二段に分けることについては、前の第六巻ですでに詳しく辨析してある。あの爻ごとに生出する説が誤りだと分かれば、一息に三画を掃き出し、さらに交互変易して六子を生成するのが、まさに真の伏羲の《易》であって文王の《易》ではないことが分かる。明らかな人は自ずと悟るであろう。多言は要らない。
右論邵子文王八卦次序。
以上の一節は、邵雍の伝えた《文王八卦次序図》の来歴と名実を考辨したものである。
《說卦傳》曰:帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。萬物出乎震,震,東方也。齊乎巽,巽,東南也;齊也者,言萬物之潔齊也。離也者,明也,萬物皆相見,南方之卦也;聖人南面而聴天下,蓋取諸此也。坤也者,地也,萬物皆致養焉,故曰致役乎坤。兌,正秋也,萬物之所說也,故曰說言乎兌。戰乎乾,乾,西北之卦也,言陰陽相薄也。坎者,水也,正北方之卦也,勞卦也,萬物之所歸也,故曰勞乎坎。艮,東北之卦也,萬物之所以成終而所成始也,故曰成言乎艮。
《説卦伝》にいう:万物を主宰する「帝」は震卦から発動して出て、巽卦に至って潔斉し、離卦に至って相い見え、坤卦に至って養いを致し力を尽くし、兌卦に至って欣悦して言い、乾卦に至って陰陽が交戦し、坎卦に至って労倦し、艮卦に至って終始を成す。万物は震に萌発し、震は東方の卦である。「斉乎巽」とは、巽は東南方に居り、「斉」とは万物が潔く斉いことをいう。離はすなわち「明」で、万物はここに至って皆互いに顕現し、南方の卦である。聖人は南に面して天下を聴治するが、おそらくこの象に取ったのであろう。坤はすなわち地で、万物は皆ここで養育を得るから「致役乎坤」という。兌はまさに秋に当たり、万物が欣悦する時であるから「説言乎兌」という。「戦乎乾」とは、乾は西北の卦で、陰陽二気がここで相迫ることをいう。坎はすなわち水で、正北方の卦であり、また労倦の卦で、万物の帰宿する所であるから「労乎坎」という。艮は東北の卦で、万物はここで旧の一輪を終えて新の一輪を始めるから「成言乎艮」という。
白雲郭氏曰:自天地定位之後皆論八卦,此章獨異,復有重釋之辭。蓋上論八卦之位未明言其所,故下復明言之曰「震,東方也」「巽,東南也」,如是則無嫌於重釋之也。
白雲郭雍がいう:「天地定位」一章以後、《説卦伝》の各章は皆八卦を論じているが、ただこの章だけが異なり、後に一段の重ねて解釈する文字が附いている。おそらく前半が八卦の位次を述べる時にそれぞれ何の方位にいるかを明記しなかったので、後半で改めて「震、東方也」「巽、東南也」と明白に指摘したのであろう。このように見れば、重ねて解釈することも余分ではない。
石門梁氏曰:自東南至西,皆母與三女之位;自西北至東,皆父與三男之位。《本義》圖說:右見《說卦》。邵子曰:此文王八卦,乃入用之位,後天之學也。
石門梁氏がいう:東南方から西方へ回るのは、皆母(坤)と三つの女卦の居る位置であり、西北方から東方へ回るのは、皆父(乾)と三つの男卦の居る位置である。朱熹《周易本義》はこの図の下の説明に、「以上《説卦伝》に見える」と書く。邵雍はいう:これがすなわち「文王八卦」で、実際の運用に入る方位に属し、いわゆる「後天之学」である。
按:以上二圖非古所傳,亦邵子作也。乾坤三索之次序、出震齊巽之方位,伏羲之易本是如此,而邵子獨以為文王之易,名之曰後天,以尊先天之學。序位皆是,而其名則非,九圖之中無一可存者也。
胡渭の按語:以上の二幅の図はいずれも古代に伝わったものではなく、同じく邵雍の手から出た。乾・坤が三索して六子を生ずる次序および「帝出乎震、斉乎巽」の方位は、伏羲の《易》はもともとこのようなものであったのに、邵雍はことさらこれらを文王の《易》と言い、「後天」と名づけて、自己の「先天之学」を高めるのに用いた。次序と方位そのものは間違っていない。間違っているのはその頭に被せた名目である。ゆえに《易学啓蒙》巻首に列した九図の中に、一つとして保留できるものはない。
《觀物外篇》曰:至哉,文王之作易也!其得天地之用乎?故乾坤交而為泰,坎離交而為既濟也。乾生於子,坤生於午,坎終於寅,離終於申,以應天之時也。置乾於西北,退坤於西南,長子用事而長女代母,坎離得位,兌震為偶,應地之方,王者之法其盡於是矣。
邵雍《観物外篇》にいう:偉大なり、文王の《易》の制作や! 彼はおそらく天地の功用を掌握したのであろう。だから乾・坤を相交らせて《泰》卦を成し、坎・離を相交らせて《既済》卦を成した。乾は子位に生じ、坤は午位に生じ、坎は寅位に終わり、離は申位に終わる。これをもって上天の時序に応え、乾卦を西北に安置し、坤卦を西南に退け、長子たる震卦に権を当らせ事を用い、長女たる巽卦に母職を代行させ、坎・離は各々正位を得、兌は震と相配して偶を成す。これをもって大地の方位に応える——帝王が世を治める法則は、おそらく皆ここに尽きている。
朱子《荅王伯豐書》曰:《說卦》「天地定位」至「坤以藏之」以前,伏羲所畫八卦之位也;「帝出乎震」以下,文王即伏羲已成之卦而推其義類之辭也。如卦變圖剛來柔進之類,亦是就卦已成後用意推說,以此為自彼卦而來耳,非真先有彼卦而後方有此卦也。
朱熹《答王伯豊書》にいう:《説卦伝》が「天地定位」から「坤以蔵之」以前までに論じるのは、伏羲の画いた八卦の方位であり、「帝出乎震」以下は、文王が伏羲のすでに画き成した卦についてその意義の類を推衍した文字である。たとえば卦変図の「剛来」「柔進」といった類の説も、皆卦体が成った後に意をもって推衍し出した解説で、ただこの卦をあの卦から変じて来たと見なすだけで、実際に先にあの卦がありそれからこの卦があったのではない。
林氏《易裨傳》法象篇曰:以造化之序論之,先天所以立體也,後天所以致用也。先天乾坤定上下之位,而天尊地卑之體立矣;坎離居左右之門,而日生乎東、月生乎西之象著矣;震巽對峙,而雷始於東北、風起於西南矣;兌艮角立,西北多山、東南多水之所鍾矣。後天震居東方,萬物出生之地;巽居東南,萬物潔齊之地;坤西南,萬物致養之地;兌正西,物之所說;乾西北,陰陽之相薄;坎正北,物之所歸;艮東北,所以成終成始者也。
林至(徳久)《易裨伝・法象篇》にいう:造化の次第について言えば、先天図は本体を立てるためのもの、後天図は功用を施すためのものである。先天図では、乾・坤が上下の位を定めて天尊地卑の本体が立ち、坎・離が左右二門に分かれ居て日は東に出て月は西に生ずる物象が顕れ、震・巽が両々対峙して雷は東北に動き風は西南に起こり、兌・艮が二つの角に分立して西北に山が多く東南に水が多い形勢が各々鍾聚する。後天図では、震は東方に居り万物の萌生の地、巽は東南に居り万物の潔斉の地、坤は西南に居り万物の受養の地、兌は正西に居り万物の欣悦の処、乾は西北に居り陰陽相迫の処、坎は正北に居り万物の帰蔵の処、艮は東北に居り万物の終了を成しまた開端を啓く所在である。
以陰陽之體論之,巽離兌本陽體也,而陰來交之;震坎艮本陰體也,而陽來交之。伏羲之卦,得陽多者屬乎陽,得陰多者屬乎陰;後天之卦,得一陰者為三女,得一陽者為三男。先天之位,三女附乎乾,三男附乎坤,陰附陽、陽附陰也;後天之位,三男附乎乾,三女附乎坤者,陰附陰、陽附陽也。
陰陽の本体について言えば、巽・離・兌はもと陽体(乾体)であって陰爻が来てこれと交わり、震・坎・艮はもと陰体(坤体)であって陽爻が来てこれと交わる。伏羲の卦では、陽爻を多く得たものを陽に帰し、陰爻を多く得たものを陰に帰す。後天の卦では、一つの陰爻を得たものを三女とし、一つの陽爻を得たものを三男とする。先天の方位では、三つの女卦が乾に附き三つの男卦が坤に附く。これは陰が陽に附き陽が陰に附くことである。後天の方位では、三つの男卦が乾に附き三つの女卦が坤に附く。これは陽が陽に附き陰が陰に附くこととなる。
黃氏《象數論》曰:離南坎北之位見於經文,而卦爻所指之方亦與之相合,是亦可以無疑矣。蓋畫卦之時即有此方位,易不始於文王,則方位亦不始於文王,故不當云文王八卦方位也。乃康節必欲言文王因先天乾南坤北之位改而為此,朱子則主張康節之說過當,反致疑於經文:曰曷言齊乎巽,不可曉;曰坤在西南,不成東北方無地;曰乾西北亦不可曉,如何陰陽來此相薄;曰西方肅殺之氣,如何言萬物之所說。
黄宗羲《易学象数論》にいう:離が南・坎が北の方位は《説卦伝》の経文に見え、各卦各爻の指す方向もまたこれと合う。これはもともと疑う必要のないことである。おそらく卦を画いた時すでにこの方位はあったのであろう。《易》が文王から始まったのでない以上、方位もまた文王から始まったのでないから、「文王八卦方位」と呼ぶべきでない。ところが邵雍は、これを文王が先天図の乾南坤北の方位を改めてこうしたのだと強いて言い、朱熹はまた邵雍の説を主張し過ぎて、かえって転じて経文を疑うに至った。「斉乎巽」と言うのは理解できないとか、坤が西南にあるなら東北方には地がないのかとか、乾が西北にあるのも理解できず陰陽がどうしてここで相迫るのかとか、西方は粛殺の気でどうして万物の欣悦するところと言えようか、などと。
凡此數說,有何不可曉?巽當春夏之交,萬物畢出,故謂之齊,觀北地少雨,得風則生氣鬱然可驗也。夏秋之交,土之所位,故坤位之,非言地也。若如此致難,則先天方位巽在西南,何不疑東北無風邪?其餘七卦莫不皆然。乾主立冬以後、冬至以前,故陰陽相薄,觀《說卦》乾之為寒為冰,非西北何以置之?萬物告成於秋,如何不說?朱子注元亨利貞之利曰:利者,生物之遂,物各得宜,不相妨害,於時為秋,於人為義而得其分之和,非說乎?顧未嘗以肅殺為嫌也。然則朱子所以致疑者,由先天之說先入於中,故曰主張太過也。
この数条に何か理解できないことがあろうか。巽は春夏の交に当たり、万物は尽く土を出るから「斉」という。北方の地は雨が少なく、一たび風を得れば生気が蓬勃とすることを見れば、これを以て検証できる。夏秋の交はまさに「土」の位に当たる時節だから、坤を用いてこの位置を占め、単に大地を言うのではない。もしこのように難ずるなら、先天方位で巽は西南にあるのに、どうして東北に風がないと疑わないのか。残りの七卦も皆このようである。乾は立冬以後・冬至以前を主るから、陰陽がここで相迫るという。《説卦伝》が乾を寒・為冰と言うのを見れば、西北に置かずしてどこに置くのか。万物は秋に告成するのに、どうして欣悦と言えないのか。朱熹は「元亨利貞」の「利」の字に注して、利とは生物が各々その性を遂げ、物々が各々その宜を得て互いに妨害しないことで、時序では秋に属し、人事では義に属してその分際の和を得る——これはまさに欣悦ではないか。彼はかつて秋気が粛殺だと嫌ったことはないのである。然るに朱子の疑いを生じたのは、ただ先天の説が先入主となったためであり、彼が主張し過ぎたと言う所以である。
康節曰:乾坤交而為泰(言文王改先天圗之意。先天乾南坤北,交而為泰,故乾北坤南),坎離交而為既濟(先天離東坎西,交而為既濟,故離南坎北),乾生於子(先天乾居午而其生在子,故下而至北),坤生於午(坤居子而其生在午,故上而至南),坎終於寅(坎當申,交於離,終於寅),離終於申(離當寅,交於坎,終於申)。所謂交者,不取對待言之也。即以對待而論,則乾南坤北者,亦必乾北坤南而後泰之形可成也,今坤在西南、乾在西北;離東坎西者,亦必離西坎東而後既濟之形可成也,今離在上、坎在下,於義何居?藉曰再變而後為今位,是乾南坤北之後、離南坎北之前,中間又有一方位矣。乾位戌,坤位未,坎位子,離位午,於子午寅申皆無當也。
邵雍がいう:乾・坤は相交して《泰》を成す(これは文王が先天図を改動した用意を言う:先天では乾は南・坤は北にあって、二者が相交して《泰》を成すから、後天は乾を北・坤を南に変える)、坎・離は相交して《既済》を成す(先天では離は東・坎は西にあって、相交して《既済》を成すから、後天は離を南・坎を北に変える)。乾は子に生ず(先天は乾は午位に居って生機は子にあるから、北方へ下移する)、坤は午に生ず(坤は子位に居って生機は午にあるから、南方へ上移する)。坎は寅に終わる(坎は申位に当たり、離と相交して寅に終わる)、離は申に終わる(離は寅位に当たり、坎と相交して申に終わる)。しかし彼の言う「交」は、対待の方位について言ったものではない。仮に対待に従って論じても、乾南坤北なら、必ず乾北坤南に変わってこそ《泰》の卦形が成立するのに、今では坤は西南にあり乾は西北にある。離東坎西なら、必ず離西坎東に変わってこそ《既済》の卦形が成立するのに、今では離は上にあり坎は下にある——道理の上で通るだろうか。もし再度変じて今の位置になったと言うなら、乾南坤北の後・離南坎北の前に、中間にまた一套の方位が多出来てしまう。何况、乾位は戌・坤位は未・坎位は子・離位は午で、子・午・寅・申の説とは悉く合わない。
康節又曰:震兌始交者也(陽本在上,陰本在下,陽下而交於陰,陰上而交於陽。震一陽在下,兌一陰在上,故為始交),故當朝夕之位;坎離交之極者也(坎陽在中,離陰在中,故為交之極),故當子午之位(四正皆為用位);巽艮不交而陰陽猶雜也(巽一陰在下,艮一陽在上,適得上下本然,故為不交),故當用中之偏;乾坤純陽純陰,故當不用之位(東方陽主用,西方陰為不用)。夫氣化流行不息,無時不用,若以時過為不用,則春秋不用者子午,冬夏不用者卯酉,安在四正之皆為用位也?必以西南西北為不用之位,則夏秋之交、秋冬之交,氣化豈其或息乎?
邵雍はまたいう:震・兌は交わり始めたばかりのもの(陽はもと上にあり陰はもと下にあり、陽は降りて陰に交わり、陰は昇して陽に交わる。震は一陽が下にあり、兌は一陰が上にあるから始交とする)だから早・晚の位に当たる。坎・離は交わり極まったもの(坎の陽爻は中に居り、離の陰爻は中に居るから交の極とする)だから子・午の位に当たる(四正の位は皆有用の位である)。巽・艮は交わらず陰陽がなお雑処する(巽は一陰が下にあり、艮は一陽が上にあり、恰好各々上下本然の位を得るから不交とする)だから有用の中の偏位に当たる。乾・坤は純陽純陰だから不用の位に当たる(東方は陽に属して用を主とし、西方は陰に属して不用とする)。しかし気化の流行は止まず、作用しない一刻もない。もし時節が過ぎれば「不用」とするなら、春秋の時に不用なのは子・午、冬夏の時に不用なのは卯・酉となり、四正の位はどうして一概に有用の位と言えようか。もし必ず西南・西北を不用の位と定めるなら、夏秋の交・秋冬の交に気化は停歇するのであろうか。
康節又曰:乾坤縱而六子橫,易之本也(先天之位);震兌橫而六卦縱,易之用也。由前之說,則後自坎離以外皆橫也;由後之說,則前自坎離以外皆縱也。圖同而說異,不自知其遷就與?是故離南坎北之位本無可疑,自康節以為從先天改出,牽前曳後,始不勝其支離。朱子求其所以改之之故而不可得,遂至不信經文,籲,可怪也。
邵雍はまたいう:乾・坤は縦に列なり六子は横に列なる。これは《易》の本体である(先天方位を指す)。震・兌は横に列なり残りの六卦は縦に列なる。これは《易》の功用である。前の説に照らせば、後天図では坎・離以外は皆横であり、後の説に照らせば、先天図では坎・離以外は皆縦である。同じ一套の図に解説が前後で異なり、彼自身はまさかこれが迁就だと感じないのか。だから言う、離南坎北の方位はもともと疑うべきものがなかった。邵雍がそれを先天図から改めたものと認定して以来、前に引き後に扯いて、支離破砕にして収拾できなくなった。朱熹は文王が図を改めた故を見出そうとしてついに見出せず、遂に経文すら信じようとしなかった。ああ、実に奇怪である。
《魏志·管輅傳》注引《輅別傳》,謂劉邠曰:輅不解古之聖人何以處乾位於西北、坤位於西南。夫乾坤者,天地之象,然天地至大,為神明君父,覆載萬物,生長撫育,何以安處二位,與六卦同列?今按《說卦》之方位,秦漢諸儒未有疑之者,疑之自管輅始。蓋其時魏伯陽之學已行,乾南坤北之位略有端倪,輅心善之,因發難以導邠,而邠不能問,故未竟其說也。
《三国志・魏志・管輅伝》注が引く《管輅別伝》に、管輅が劉邠に言ったと記す:私は古代の聖人がなぜ乾を西北に置き坤を西南に置いたのか分からない。乾・坤は天地の象で、天地は極めて広大であり、神明・君父として万物を覆載し生長扶育する。なぜかえってこの二つの方位に安置し、残りの六卦と並列同等としたのか。いま《説卦伝》の方位を考察するに、秦漢の諸儒はかつて疑ったことがなく、疑いは管輅から始まった。おそらく当時魏伯陽の学説がすでに流行し、乾南坤北の方位がほんのり端倪を見せ、管輅は心の中でこれに賛同したから、故に難を発して劉邠を導いたが、劉邠は追問することができなかったので、彼も言い尽くさなかったのであろう。
朱子酷愛《參同契》,八卦之方位斷從先天,遂覺出震齊巽等無一不可疑,入者主之,出者奴之,勢所必至也。至謂此章與卦變俱是成卦後用意推說,則又儗非其倫矣。林徳久深斥劉牧之鉤隠,可謂卓識,而獨於先天方位則附會其意而為之辭,亦以康節非牧流輩耳。然二人品格雖相去懸絶,而圖學之無當於經則一也,徳久豈未之思乎?
朱熹は《周易参同契》を極めて愛し、八卦方位については断然先天の説を採り、そこで「出乎震」「斉乎巽」などに一句として疑えないものはないと感じた——先入したものが主人となり、排斥されたものが奴僕となるのは勢いの必至である。彼が《説卦》のこの章を卦変と同じく、皆卦体が成った後に意をもって推衍した解説だと言うのは、さらに比類不倫である。林至(徳久)は劉牧の《鈎隠図》を痛く斥け、見識卓越と言うべきだが、ただ先天方位についてだけは曲意に附会して言葉を代えてしまった。それもただ邵雍が劉牧のような一流の人ではないからにすぎない。しかしこの二人の品格は懸隔が絶するほど違うが、その図書の学が経義と関わりないことは同じである。徳久はこの一層を考えなかったのであろうか。
右論邵子文王八卦方位。
以上の一節は、邵雍の伝えた《文王八卦方位図》の名実と真偽を考辨したものである。
易図明辨 巻九 徳清胡渭撰
卦変
《繫辭傳》曰:易之為書也不可逺,為道也屢遷。變動不居,周流六虛,上下無常,剛柔相易,不可為典要,唯變所適。
《繋辞伝》にいう:《易》は書として疎遠にできないもので、それが体現する道は屢々遷移する。爻の変動は一処に停留せず、六つの爻位の間を周流し、あるいは上りあるいは下って常規がなく、剛爻と柔爻が互いに更易し、固定不変の準則として捉えることはできず、ただ変化に随って各々適宜となる。
白雲郭氏曰:易之為道,數遷而變動未嘗止,周流六爻,或以下而升上,或由上而降下,以剛易柔,以柔易剛,不可以常道拘也,唯變所適而已,此之謂易之道也。
白雲郭雍がいう:《易》の言う道は、屢々遷移して変動がやまない。それは六爻の間を周流し、あるいは下から上に昇り、あるいは上から下に降り、剛爻を以て柔爻を換え、柔爻を以て剛爻を換える。固定の常規を以てこれを拘限することはできず、ただ変化に随って各々適宜となるのみ——これを《易》の道という。
漢上朱氏曰:訟彖曰「剛來而得中」,隨彖曰「剛來而下柔」,蠱彖曰「剛上而柔下」,噬嗑彖曰「剛柔分,動而明」,賁彖曰「柔來而文剛」「分剛上而文柔」,無妄彖曰「剛自外來而為主於內」,大畜彖曰「剛上而尚賢」,咸彖曰「柔上而剛下」,損彖曰「損上益下」,又曰「損剛益柔」,益彖曰「損上益下」,又曰「自上下下」,渙彖曰「剛來而不窮,柔得位乎外而上同」,節彖曰「剛柔分而剛得中」。
朱震《漢上易伝》は、《彖伝》の中で爻の升降往来を用いて成卦の由を説明する辞例を歴挙する:《訟》卦《彖伝》は「剛来而得中」といい、《随》卦は「剛来而下柔」、《蠱》卦は「剛上而柔下」、《噬嗑》卦は「剛柔分、動而明」、《賁》卦は「柔来而文剛」、また「分剛上而文柔」、《无妄》卦は「剛自外来而為主於内」、《大畜》卦は「剛上而尚賢」、《咸》卦は「柔上而剛下」、《損》卦は「損上益下」、また「損剛益柔」、《益》卦は「損上益下」、また「自上下下」、《渙》卦は「剛来而不窮、柔得位乎外而上同」、《節》卦は「剛柔分而剛得中」という。この十数箇所の辞例は、まさに後人が卦変の説を立てるに凭る経文の根拠である。
剛者,陽爻也;柔者,陰爻也。剛柔之爻,或謂之來,或謂之分,或謂之上下,所謂唯變所適也。此虞氏、蔡景君、伏曼容、蜀才、李之才所謂自某卦來之說也。
ここでいう「剛」は陽爻を指し、「柔」は陰爻を指す。剛柔の爻は、あるいは「来」と言い、あるいは「分」と言い、あるいは「上」「下」と言う。まさに《繋辞伝》のいう「唯変所適」である。これが虞翻・蔡景君・伏曼容・蜀才・李之才らが主張した「此の卦は某の卦より来たる」という卦変の説である。
東坡蘇氏曰:凡易之所謂剛柔者,皆本諸乾坤也。乾施一陽於坤,以化其一陰而生三子,皆一陽而二陰,凡三子之卦有言剛來者,明此本坤也而乾來化之;坤施一陰於乾,以化其一陽而生三女,皆一陰而二陽,凡三女之卦有言柔來者,明此本乾也而坤來化之。
蘇軾《東坡易伝》にいう:およそ《易》の言う剛と柔は、皆乾・坤二卦に本源する。乾が一つの陽爻を坤に施して、坤の一つの陰爻を化するのに用いると、震・坎・艮の三つの男卦を生じ、皆一陽二陰の体である。およそこの三つの男卦を帯びた卦で《彖伝》が「剛来」と言うのは、この卦がもと坤体であって乾が来てこれを化したことを表明する。坤が一つの陰爻を乾に施して、乾の一つの陽爻を化するのに用いると、巽・離・兌の三つの女卦を生じ、皆一陰二陽の体である。およそこの三つの女卦を帯びた卦で《彖伝》が「柔来」と言うのは、この卦がもと乾体であって坤が来てこれを化したことを表明する。
東谷鄭氏汝諧曰:易始於畫,畫始於乾坤。自乾坤而為八卦,乾坤之變極矣;自八卦而為六十四,八卦之變極矣。八卦皆乾坤所生,六十四卦皆八卦所生,此作易之本旨也。傳易者懼其說之簡易而無以自托於艱深之地,於是有互體卦變之說。又云:乾坤大父母也,復姤小父母也。夫父母一也,安得大小之別?
東谷鄭汝諧がいう:《易》は画卦から起こり、画卦は乾・坤から起こる。乾・坤から推衍して八卦を成せば乾坤の変は尽き、八卦から推衍して六十四卦を成せば八卦の変も尽きる。八卦は皆乾・坤から生じ、六十四卦は皆八卦から生ずる。これが《易》を作った本旨である。《易》を伝える人は自己の説があまりに簡易で艱深の地に托身できないのを恐れ、そこで「互体」「卦変」といった類の名目を造り出した。彼らはまた言う:乾・坤は大父母、《復》《姤》は小父母である、と。父母は一重しかないのに、どこから大小の別が来たのか。彼に言わせれば、互体・卦変の類の名目は、皆《易》を伝える者がわざと艱深を作った産物にすぎない。
按:《參同契》云「乾坤者,易之門尸,眾卦之父母」,是眾卦皆生於乾坤也。李、邵為先天之學,而其卦圖乃以復、姤、臨、遯、泰、否、壯、觀皆為生卦之母,則是顯背伯陽矣,希夷之傳豈若是乎?既失《參同》之旨,又非《彖傳》之意,東谷譏之有以也。
胡渭の按語:《周易参同契》は「乾坤者、《易》之門戸、衆卦之父母」といい、衆卦が皆乾・坤から生出することを見ることができる。李之才・邵雍は先天之学を講じたが、彼らの卦図は《復》《姤》《臨》《遯》《泰》《否》《大壮》《観》を一括して生卦の母とした。これは公然と魏伯陽に背く。陳摶(希夷)の伝えたものがまさかこのようであったろうか。《参同契》の宗旨を失い、《彖伝》の本意にも合わない。東谷鄭汝諧が彼らを譏諷したのには理由がある。
《彖傳》曰:泰,小往大來,吉亨,則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也;內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人,君子道長,小人道消也。否之匪人,不利君子貞,大往小來,則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下無邦也;內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子,小人道長,君子道消也。
《彖伝》にいう:《泰》卦「小往大来、吉亨」は、天地が交感して万物が通暢し、上下が交感して心志が同じくすることである。内卦は陽で外卦は陰、内は剛健で外は柔順、内に君子を用いて外に小人を斥ける。ゆえに君子の道は生長し小人の道は消退する。《否》卦「否之匪人、不利君子貞、大往小来」は、天地が交感せず万物が通暢せず、上下が交感せず天下が邦国を成さないことである。内卦は陰で外卦は陽、内は柔弱で外は剛強、内に小人を用いて外に君子を斥ける。ゆえに小人の道は生長し君子の道は消退する。
黃氏《象數論》曰:卦變之說,由泰否二卦小往大來、大往小來而見之,而夫子《彖傳》所以發明卦義者於是為多,固易中一大節目也。上經三十卦,反對之為十二卦;下經三十四卦,反對之為十六卦;乾、坤、頤、大過、坎、離、中孚、小過不可反對,則反其竒偶以相配。卦之體兩相反,爻亦隨卦而變,顧有於此則吉、於彼則凶,於此則當位、於彼則不當位。從反對中明此往來倚伏之理,所謂兩端之執也。行有無妄之守,反有天衢之用;時有豐亨之遇,反有羇旅之悲。非以此卦生彼卦也,又非以此爻換彼爻也。
黄宗羲《易学象数論》にいう:卦変の説は、《泰》《否》両卦の「小往大来」「大往小来」から顕れ出たもので、孔子の《彖伝》が卦義を闡発するのにこの一路が最も多い。もともと《易》中の一大関目である。上経の三十卦は両々反対(卦を倒転して見る)で十二組を合成し、下経の三十四卦は両々反対で十六組を合成する。《乾》《坤》《頤》《大過》《坎》《離》《中孚》《小過》の八卦は倒転してもなお本卦であって反対にできないので、それらの奇偶の爻を全体顛倒して互いに配合する。一卦の卦体は両々相反し、爻もまた卦に随って変動し、ここに在れば吉・かしこに在れば凶、ここに在れば位に当たり、かしこに在れば位に当たらない分別がある。反対の中からこの往来倚伏の理を明らかにするのが、いわゆる「執其両端」である。行事に《无妄》の持守して妄ならない一面があり、倒転すれば《大畜》「何天之衢」の通達の用となる。時運に《豊》卦の亨盛の際遇があり、倒転すれば《旅》卦の羇旅の悲涼となる。これはこの卦からあの卦を生ずるというのでもなく、この爻を以てあの爻と換えるというのでもない。
按:易有聖人之道四,變居一焉。易窮則變,變則通,通則久,變者易中之大義也。觀孔子之言曰「上下無常,剛柔相易」,「內陽而外陰」「內柔而外剛」,則凡《彖傳》之剛柔往來上下內外,皆主卦變而言可知矣。然諸儒概以一爻言之,故唯三陰三陽之卦可通,而二陰二陽之卦則不可通,無妄「剛自外來」、升「柔以時升」之類是也,唯以反對言之則無不可通。蓋卦可以該爻,而爻不可以該卦,卦變則爻隨而動矣。坤索乾得震坎艮,以一剛為主;乾索坤得巽離兌,以一柔為主。《彖傳》所稱剛柔,或指卦,或指爻,隨文立義可也。大抵三陰三陽,泰否以卦言,餘皆以爻言;二陰二陽則必以卦言,然其所主者,陽卦之一剛、陰卦之一柔耳。
胡渭の按語:《易》には聖人の道が四条あり、「変」はその一つを占める。《易》は窮まれば変し、変してこそ通達し、通達してこそ長久する。「変」は《易》中の大義である。孔子の言葉を見るに「上下无常、剛柔相易」といい、また「内陽而外陰」「内柔而外剛」という。然らばおよそ《彖伝》に剛柔往来・上下内外を講ずるものは、皆卦変についてのことで、これは断定できる。ただ諸儒が一概に一爻のみについて立論するので、三陰三陽の卦のみ説が通り、二陰二陽の卦は説が通らない。《无妄》の「剛自外来」、《升》の「柔以時升」がそのようである。ただ「反対」によって説いてこそ説の通らないことがない。卦は爻を統摂することができるが、爻は卦を統摂することはできないからである。卦が一変すれば爻は自ずとこれに随って動く。坤が乾に求索して震・坎・艮を得るのは、その一つの剛爻を主とし、乾が坤に求索して巽・離・兌を得るのは、その一つの柔爻を主とする。《彖伝》の言う剛柔は、あるいは卦を指し、あるいは爻を指す。文に随って義を立てればよい。大体三陰三陽の卦は、《泰》《否》は卦について言い、残りは皆爻について言い、二陰二陽の卦は必ず卦について言わねばならない。しかしその主とするところは、なおただ陽卦中のあの一つの剛爻、陰卦中のあの一つの柔爻にすぎない。
右論古卦變。
以上の一節は、《彖伝》の本とする古の卦変の義を考辨したものである。
虞仲翔卦変図
一陰一陽之卦各六,皆自復、姤而變。復、姤:師(初之二)、同人(初之二);謙(初之三)、履(初之三);豫(初之四)、小畜(初之四);比(初之五)、大有(初之五);剝(初之上)、夬(初之上)。
虞翻(仲翔)卦変図の第一類:一陽の卦と一陰の卦は各々六つあり、皆《復》《姤》両卦から変じて来る。《復》(一陽が初位にあり)《姤》(一陰が初位にあり)を主変の卦とする。初爻と二爻を互いに易すれば、《復》は《師》に変じ、《姤》は《同人》に変ずる。初爻と三爻を互いに易すれば、《謙》と《履》に変ずる。初爻と四爻を互いに易すれば、《豫》と《小畜》に変ずる。初爻と五爻を互いに易すれば、《比》と《大有》に変ずる。初爻と上爻を互いに易すれば、《剥》と《夬》に変ずる。いわゆる「初之二」とは、初爻を二位に移し両爻の位置を交換することで、残りはこれに類推する。
二陰二陽之卦各九,皆自臨、遯而變。臨、遯:升(初之三)、無妄(初之三);解(初之四)、家人(初之四);坎(初之五)、離(初之五);蒙(初之上)、革(初之上);明夷(二之三)、訟(二之三);震(二之四)、巽(二之四);屯(二之五)、鼎(二之五);頤(二之上)、大過(二之上)。
第二類:二陽の卦と二陰の卦は各々九つあり、皆《臨》(二陽が下にあり)《遯》(二陰が下にあり)両卦から変じて来る。《臨》《遯》を主変の卦とする。初と三を互易すれば《臨》は《升》に、《遯》は《无妄》に変ずる。初と四を互易すれば《解》と《家人》に変ずる。初と五を互易すれば《坎》と《離》に変ずる。初と上を互易すれば《蒙》と《革》に変ずる。二と三を互易すれば《明夷》と《訟》に変ずる。二と四を互易すれば《震》と《巽》に変ずる。二と五を互易すれば《屯》と《鼎》に変ずる。二と上を互易すれば《頤》と《大過》に変ずる。本卦《臨》《遯》自身を連れて各々九卦を成す。
三陰三陽之卦各十,皆自泰、否而變。泰、否:恆(初之四)、益(初之四);井(初之五)、噬嗑(初之五);蠱(初之上)、隨(初之上);豐(二之四)、渙(二之四);既濟(二之五)、未濟(二之五);賁(二之上)、困(二之上);歸妹(三之四)、漸(三之四);節(三之五)、旅(三之五);損(三之上)、咸(三之上)。
第三類:三陽の卦と三陰の卦は各々十あり、皆《泰》(三陽が下にあり)《否》(三陰が下にあり)両卦から変じて来る。《泰》《否》を主変の卦とする。初と四を互易すれば《泰》は《恒》に、《否》は《益》に変ずる。初と五を互易すれば《井》と《噬嗑》に変ずる。初と上を互易すれば《蠱》と《随》に変ずる。二と四を互易すれば《豊》と《渙》に変ずる。二と五を互易すれば《既済》と《未済》に変ずる。二と上を互易すれば《賁》と《困》に変ずる。三と四を互易すれば《帰妹》と《漸》に変ずる。三と五を互易すれば《節》と《旅》に変ずる。三と上を互易すれば《損》と《咸》に変ずる。本卦《泰》《否》を連れて各々十卦を成す。
四陰四陽之卦各九,皆自大壯、觀而變。大壯、觀:重大過(初之五)、重頤(初之五);重鼎(初之上)、重屯(初之上);重革(二之五)、重蒙(二之五);重離(初之上)、重坎(二之上);兌(三之五)、艮(三之五);睽(三之上)、蹇(三之上);需(四之五)、晉(四之五);大畜(四之上)、萃(四之上)。
第四類:四陽の卦と四陰の卦は各々九つあり、皆《大壮》(四陽)《観》(四陰)両卦から変じて来る。《大壮》《観》を主変の卦とする。初と五を互易すれば《大過》と《頤》を得る。初と上を互易すれば《鼎》と《屯》を得る。二と五を互易すれば《革》と《蒙》を得る。再び変じて《離》と《坎》を得る。三と五を互易すれば《兌》と《艮》を得る。三と上を互易すれば《睽》と《蹇》を得る。四と五を互易すれば《需》と《晋》を得る。四と上を互易すれば《大畜》と《萃》を得る。およそ卦名の上に「重」の字を標すのは、この数卦が二陰二陽の類ですでに現れたので、ここは重ねて列するに属することを言う。
變例之卦二:中孚、小過。凡變卦皆從乾坤來:乾、坤。
別に変例に属する二つの卦がある:《中孚》と《小過》で、これらは一爻升降の通例を以て求めることができず、別に変例を立てるしかない。しかし帰結すれば、およそ変卦は皆乾・坤二卦から生出する。ゆえに図の最後もなお乾・坤を総源頭とする。
黃氏《象數論》曰:古之言卦變者莫備於虞仲翔,其法以兩爻相易,主變動者止一爻。四陰四陽即二陰二陽之卦也,其變不收於臨遯之下者,以用臨遯生卦,則主變須二爻皆動而後餘卦可盡,不得不別起觀、壯。有四陰四陽而不用五陰五陽之夬、剝者,以五陰五陽之卦已盡於姤、復,無所俟乎此也。
黄宗羲《易学象数論》にいう:古人が卦変を講じたのに、虞翻より詳備な者はいない。彼の方法は二つの爻を互いに位置を換えさせ、真に変動を主導するのは一爻のみとする。四陰四陽の卦は実は二陰二陽の卦である(陰陽を互いに見るだけである)。これらを《臨》《遯》の名の下に収めないのは、《臨》《遯》を用いて卦を生ぜしめれば、主変が必ず二爻を並べて動かさなければ残りの卦を生じ尽くせないから、やむを得ず別に《観》《大壮》両卦を立てて起点としたのである。四陰四陽の類を設けた以上、五陰五陽の《夬》《剥》を設けないのは、五陰五陽の卦はすでに《姤》《復》の名の下に生じ尽くしているから、改めて立てる必要がないのである。
中孚、小過為變例之卦,何也?中孚從二陰之卦,則遯之二陰皆易位;從四陰之卦,則大壯三四一時俱上。小過從二陽之卦,則臨之二陽皆易位;從四陰之卦,則觀三四一時俱上。所謂主變之卦以一爻升降者,至此而窮,故變例也,猶反對之卦至乾坤坎離頤大過中孚小過而亦窮也。虞氏之卦變脈絡分明如此。當時所著《周易注》《周易集林》今既不傳,其見於李鼎祚《易解》中者語焉不詳,朱漢上據之以定虞氏卦變,遂有此然彼否之異,無怪趙汝楳謂其錯雜無統也。某追尋其緒,而後知漢上之誤。
《中孚》《小過》はなぜ別に変例を立てるのか。《中孚》を二陰の卦に帰させれば、《遯》の二つの陰爻を同時に換位させねばならず、四陰の卦に帰させれば、《大壮》の三・四の二爻を一斉に上行させねばならない。《小過》を二陽の卦に帰させれば、《臨》の二つの陽爻を同時に換位させねばならず、四陰の卦に帰させれば、《観》の三・四の二爻を一斉に上行させねばならない。いわゆる主変の卦が一爻のみを升降する通例は、ここに至って窮尽する。ゆえに変例として立てるほかない——ちょうど反対の法が《乾》《坤》《坎》《離》《頤》《大過》《中孚》《小過》の八卦で同じく窮尽するように。虞翻の卦変は、脈絡はもともとこのように分明である。惜しいのは彼の当時著した《周易注》《周易集林》が今は伝わらず、李鼎祚《周易集解》に保存されたものもまた語るところ詳細でなく、朱震がこれに依って虞氏の卦変を厘定し、そこでこのような彼是の互いに抵牾する差異を生じた。趙汝楳がそれを錯雑無統と批評したのも無理はない。私がその頭緒を追尋して初めて、誤りは朱震にあったと知った。
然四陰四陽與二陰二陽畢竟相錯,不能不有重出之卦。此八卦者(重於大壯者為大過、鼎、革、離,重於觀者為頤、屯、蒙、坎),其主變屬之臨遯乎?屬之大壯觀乎?抑兼屬之乎?其說有時而窮也。以《彖傳》證之,如無妄之「剛自外來」(遯之初三相易,皆在內卦,非外來),晉之「柔進上行」(觀之四五相易,皆在上卦),暌之「柔進上行」(大壯三上相易,柔為下行),蹇之「徃得中」(觀三上相易,不得為中),皆不能合,此虞氏之短也。
ただ四陰四陽と二陰二陽のこの二類はついに互いに交錯するので、重複する卦が現れないわけにいかない。この重出の八つの卦(《大壮》の下に重出するのは《大過》《鼎》《革》《離》、《観》の下に重出するのは《頤》《屯》《蒙》《坎》)は、それらの主変の卦が一体《臨》《遯》に帰すべきか、《大壮》《観》に帰すべきか、あるいは両方に帰するのか——これは説明し切れない。さらに《彖伝》を以て検証すれば:《无妄》は「剛自外来」という(虞氏に照らせば、《遯》の初・三の両爻の互易で、両爻とも内卦にあり、外卦から来たのではない)。《晋》は「柔進而上行」という(《観》の四・五の互易で、両爻とも上卦にあり、「進」とは言えない)。《睽》は「柔進而上行」という(《大壮》の三・上の互易で、柔はかえって下行する)。《蹇》は「往得中」という(《観》の三・上の互易で、中位を得られない)——悉く合わない。これが虞氏卦変の短所である。
蘇子瞻言剛柔相易皆本諸乾坤,程子亦專以乾坤言卦變,本之蜀才曰「此本乾卦」「此本坤卦」,荀爽曰「謙是乾來之坤」,非創論也。但三陰三陽之卦此往彼來顯然可見,其它則來者不知何來,徃者不知何往。如無妄「剛自外來」,外卦之乾未嘗損一剛也,而云自外來,不已背乎?故朱子曰:程子専以乾坤言卦變,然只是上下兩體皆變者可通,若只一體變者則不通。蓋已深中其病矣,然較之虞氏而下鑿空為說者,某以為獨優也。
蘇軾は剛柔の相易は皆乾・坤に本づくと言い、程頤もまた専ら乾・坤を以て卦変を講じた。これは蜀才の言う「此の卦はもと乾卦より」・「此の卦はもと坤卦より」および荀爽の言う「《謙》は乾爻が坤中に来る」に本づくのであって、彼らの創論ではない。ただ三陰三陽の卦は、どの爻が往きどの爻が来るかが顕然として見えるが、残りの卦は、来るものはどこから来たか知れず、往くものはどこへ往くか知れない。たとえば《无妄》の「剛自外来」は、外卦の乾体は一つの剛爻も減少していないのに、剛が外から来たと言うのは、自らに背くではないか。ゆえに朱熹が言う:程子は専ら乾坤を以て卦変を講ずるが、しかし上下両体がともに変ずるもののみ説が通り、もし一体のみ変ずるものは説が通らない。この言葉はすでにその毛病に切中している。ただ虞翻以下の空を凭えて説を立てる人々に比べれば、私(黄宗羲)は程氏の説がなお最も良いと思う。
右論虞氏卦變。
以上の一節は、虞翻の一系の卦変の説およびその得失を考辨したものである。
李挺之変卦反対図
乾坤二卦為易之門、萬物之祖圖第一(舊本曰功成無為圖):乾,老陽;坤,老陰。乾坤相索三變六卦不反對圖第二:(坤體而乾來交)頤、小過、坎;(乾體而坤來交)大過、中孚、離。
李之才(挺之)《変卦反対図》の第一図は、「乾坤二卦為易之門、万物之祖図」と題する(旧本は「功成无為図」と題する):乾は老陽、坤は老陰である。第二図は「乾坤相索三変六卦不反対図」と題する:坤体に属して乾爻が来て交わるのは《頤》《小過》《坎》、乾体に属して坤爻が来て交わるのは《大過》《中孚》《離》である。この六つの卦は乾・坤を連れて、倒転してもなお本卦のままである。ゆえに「不反対」という。
乾卦一陰下生反對變六卦圖第三:姤、同人、履;夬、大有、小畜。坤卦一陽下生反對變六卦圖第四:復、師、謙;剝、比、豫。
第三図は「乾卦一陰下生反対変六卦図」と題する:乾卦の下に一つの陰爻が生じて《姤》を成し、陰爻が順に上昇して《同人》《履》に変ずる。この三卦と一々反対(倒転)するのは《夬》《大有》《小畜》である。第四図は「坤卦一陽下生反対変六卦図」と題する:坤卦の下に一つの陽爻が生じて《復》を成し、陽爻が順に上昇して《師》《謙》に変ずる。これと一々反対するのは《剥》《比》《豫》である。
乾卦下生二陰各六變反對變十二卦圖第五:遯、訟、旡妄;大畜、需、大壯;暌、兌、革;家人、巽、鼎。坤卦下生二陽各六變反對變十二卦圖第六:臨、明夷、升;觀、晉、萃;蹇、艮、蒙;解、震、屯。
第五図は「乾卦下生二陰各六変反対変十二卦図」と題する:乾卦の下に二つの陰爻が生じて《遯》を成し、順に《訟》《无妄》に変ずる(原文は「旡妄」で、「旡」はすなわち「无」の異体)。これに反対するのは《大畜》《需》《大壮》である。さらに一路変じて《睽》(原文は「暌」)《兌》《革》となり、これに反対するのは《家人》《巽》《鼎》である。第六図は「坤卦下生二陽各六変反対変十二卦図」と題する:坤卦の下に二つの陽爻が生じて《臨》を成し、順に《明夷》《升》に変ずる。これに反対するのは《観》《晋》《萃》である。さらに変じて《蹇》《艮》《蒙》となり、これに反対するのは《解》《震》《屯》である。
乾卦下生三陰各六變反對變十二卦圖第七:否、恆、豐;泰、咸、旅;歸妹、節、既濟;漸、渙、未濟。坤卦下生三陽各六變反對變十二卦圖第八:泰、損、賁;否、益、嗑噬;蠱、井、未濟;隨、困、既濟。
第七図は「乾卦下生三陰各六変反対変十二卦図」と題する:乾卦の下に三つの陰爻が生じて《否》を成し、順に《恒》《豊》に変ずる。これに反対するのは《泰》《咸》《旅》である。さらに変じて《帰妹》《節》《既済》となり、これに反対するのは《漸》《渙》《未済》である。第八図は「坤卦下生三陽各六変反対変十二卦図」と題する:坤卦の下に三つの陽爻が生じて《泰》を成し、順に《損》《賁》に変ずる。これに反対するのは《否》《益》《噬嗑》(原文は「嗑噬」の二字が倒置)である。さらに変じて《蠱》《井》《未済》となり、これに反対するのは《随》《困》《既済》である。
林氏《易裨傳》外篇曰:李挺之變卦反對圖八篇、六十四卦相生圖一篇,漢上朱氏以為康節之子伯溫傳之於河陽陳四丈,陳傳之於挺之。長楊郭氏序李氏象學先天卦變曰:陳圖南以授穆伯長,伯長以授李挺之,挺之以授邵堯夫、陳安民,安民以授兼山。卦變一義,橫渠、伊川罕言,而兼山獨得之。康節本為先天易學,而《觀物外篇》亦曰:體者八變,用者六變,是以八卦之象不易者四、反易者二,以六變而成八也(不易者四,謂乾坤坎離也;變易者二,謂震艮巽兌也)。重卦之後,不易者八,反覆者二十八(不易者乾坤坎離頤小過中孚大過,變易者二十八,餘五十六卦也),以三十六變而成六十四也。
林至《易裨伝・外篇》にいう:李之才の《変卦反対図》八篇・《六十四卦相生図》一篇は、朱震《漢上易伝》が、邵雍の子の邵伯温が河陽の陳四丈に伝え、陳四丈がさらに李挺之に伝えたとする。長楊郭氏が李氏の《象学》に序を作り、先天卦変の伝授を述べて言う:陳摶(図南)が穆修(伯長)に伝え、穆修が李挺之に伝え、李挺之が邵雍(尭夫)と陳安民に伝え、陳安民が兼山郭忠孝に伝えた。卦変のこの義理は、張載(横渠)・程頤(伊川)もごく少ししか語らず、ただ兼山のみがその真伝を得た。邵雍はもともと先天易学を講じていたが、《観物外篇》もまた言う:体には八変あり、用には六変あり、ゆえに八卦の象に変えられないものが四つ、反転できるものが二組あり、六変を用いて八卦を成す(変えられない四つとは乾・坤・坎・離を指し、変易できる二組とは震と艮・巽と兌を指す)。八卦を相重ねた後は、変えられないものが八つあり、反復倒転できるものが二十八対ある(変えられないのは乾・坤・坎・離・頤・小過・中孚・大過で、変えられる二十八対とは残りの五十六卦が両々相配したもの)。合わせて三十六変を用いて六十四卦を成す。
又曰:乾坤之位可易也,坎離名可易而位不可易也,震巽位可易而名不可易也,兌與艮名位皆可易也。離肖乾,坎肖坤,中孚肖乾,頤肖離,小過肖坤,大過肖坎,是以乾坤坎離中孚頤大小過皆不可易也。
邵雍はまたいう:乾・坤両卦は位置を互いに換えることができ、坎・離は名称を互いに換えられるが位置は互いに換えられず、震・巽は位置を互いに換えられるが名称は互いに換えられず、兌と艮は名称も位置も互いに換えられる。離の形体は乾に似て、坎の形体は坤に似、《中孚》は乾に似、《頤》は離に似、《小過》は坤に似、《大過》は坎に似る。ゆえに乾・坤・坎・離・《中孚》《頤》《大過》《小過》のこの八つの卦は、いずれも倒転変易できない。
又曰:卦之反對皆六陽六陰也。在易則六陽六陰者十有二對也,去四正則八陽四陰、八陰四陽者各六對也,十陽二陰、十陰二陽者各三對也(此以三陰三陽為主而變也。六陰六陽十二對者,否變泰、咸、恆、豐、旅、漸、歸妹、渙、節、既濟、未濟六對;四正,初經則乾坤坎離,重卦則頤、中孚、大過、小過。八陽四陰、八陰四陽各六對者,遯變大壯、需、訟、無妄、大畜、暌、家人、兌、革六對,臨變觀、明夷、晉、升、萃、蹇、解、艮、震、蒙、屯六對。十陽二陰、十陰二陽各三對者,姤變夬、同人、大有、履、小畜三對,復變剝、師、比、謙、豫三對,凡五十六也。而此有三十對者,否泰司啟閉之節,既濟未濟當四隅之位,所以重用一卦)。
邵雍はまたいう:卦の反対は、合わせて見れば皆六陽六陰である。《易》の中で一対の内に六陽六陰あるものは十二対あり、四正の卦を除けば、八陽四陰と八陰四陽は各々六対あり、十陽二陰と十陰二陽は各々三対ある。(これは三陰三陽の卦を主として推変したものである。六陰六陽の十二対とは、《否》の一系が《泰》《咸》《恒》《豊》《旅》《漸》《帰妹》《渙》《節》《既済》《未済》を変出し、合わせて六対を言う。いわゆる四正は、三画の初経では乾・坤・坎・離で、六画の重卦では《頤》《中孚》《大過》《小過》である。八陽四陰・八陰四陽の各六対とは、《遯》の一系が《大壮》《需》《訟》《无妄》《大畜》《睽》《家人》《兌》《革》の六対を変出し、《臨》の一系が《観》《明夷》《晋》《升》《萃》《蹇》《解》《艮》《震》《蒙》《屯》の六対を変出することを言う。十陽二陰・十陰二陽の各三対とは、《姤》の一系が《夬》《同人》《大有》《履》《小畜》の三対を変出し、《復》の一系が《剥》《師》《比》《謙》《豫》の三対を変出することを言う。合計五十六卦。ここにただ三十対を列するのは、《否》《泰》が閉塞と開通の節候を掌り、《既済》《未済》が四隅の位に当たるから、ある卦は重ねて取用されたのである。)
乾坤本也,坎離用也,乾坤坎離上篇之用也;咸兌艮也,恆震巽也,兌艮震巽下篇之用也;頤大過小過中孚,二篇之正也。故曰:至哉,文王之作易,其得天地之用乎!大抵卦變八圖,陽在下者以升為變,在上者以降為變,故升降之對,此為升則彼為降,此為降則彼為升。
乾・坤は根本、坎・離は功用であり、乾坤坎離はまさに上経の功用の所在である。《咸》卦は兌と艮の合で成り、《恒》卦は震と巽の合で成り、兌・艮・震・巽はまさに下経の功用の所在である。《頤》《大過》《小過》《中孚》は上下两篇の正体である。ゆえに言う:偉大なり、文王の《易》の制作や、彼はおそらく天地の功用を掌握したのであろう! 大体卦変八図の規則は:陽爻が下にあるものは上昇を以て変とし、陽爻が上にあるものは下降を以て変とする。ゆえに互いに反対する一対の卦は、この卦は升であればあの卦は降、この卦は降であればあの卦は升である。
然康節先天之學不泥書言,而猶有卦變之說,何邪?曰:大易之道,本之氣數之自然,觀先天圖則可知出生之統體矣。今六十四卦兩兩相比,若近於反對者,觀序卦之先後皆有深意,要非三陰三陽反對不反對雲者。近世復有上經三十卦、下經三十四卦反對不反對,皆本八卦以求合於十有八變者,其巧愈甚矣。要之卦變之義,易之一端耳,若以為易道盡於是,要非康節所以望後世者,姑錄之以為外篇之首。
ある人が問う:邵雍の先天之学は文字に拘泥しないのに、なぜ卦変の説を保留したのか。答えて曰く:《易》の大道は気数の自然に本づき、先天図を見れば万物生成の大体を知ることができる。いま六十四卦は両々隣り合わせに排列され、見たところ「反対」に近いが、《序卦伝》の先後次第を考察すれば、その中に皆深意があり、ただ三陰三陽・反対と不反対のこの一層のみではない。近世またある人が上経三十卦・下経三十四卦の反対と不反対を一括して八卦に帰本させ、「十有八変」の数に符合させようとしたが、それはさらに巧みを弄し過ぎたものである。要するに卦変の義は《易》の一つの方面にすぎず、もし《易》道がすべてここに尽きると思うなら、おそらく邵雍が後人に望んだものではない。姑くこれを抄録してここに置き、《外篇》の冒頭とする。
顧氏《日知録》曰:卦變之說不始於孔子,周公繫損之六三已言之矣,曰「三人行則損一人,一人行則得其友」,是六子之變皆出於乾坤,無所謂自復、姤、臨、遯而來者,當從《程傳》(蘇軾、王炎皆同此說)。
顧炎武《日知録》にいう:卦変の説は孔子から始まったのではなく、周公が《損》卦の六三に辞を系した時すでに言及している。「三人同行すれば一人を減じ、一人独行すればかえって伴侶を得る」と。六子の卦の変化は皆乾・坤から出るのであって、《復》《姤》《臨》《遯》から変じて来たという説はなかった。程頤《易伝》の講法に従うべきである(蘇軾・王炎の意見も皆これと同じ)。
黃氏《象數論》曰:虞仲翔之釋比曰「師二上之五得位」,蜀才曰「此本師卦,六五降二,九二升五」,亦已發其端矣,特未以此通之於別卦也。至李挺之所傳變卦反對圖,可謂獨得其真,而又與六十四卦相生圖並出,則擇焉而不精也。其後來知徳頗以此說變,而以反對者為綜,竒偶相反者為錯,於頤、過八卦相反之外,取反對者而亦復錯之,不知竒偶相反之中暗寓反對,非別出一義也。若又有相反一義,何以卦爻略不之及乎?為卦爻之所不及者,可以無待於補矣。
黄宗羲《易学象数論》にいう:虞翻が《比》卦を解して「《師》卦の二爻が五位に上れば正位を得る」と言い、蜀才が「此の卦はもと《師》卦より、六五は二位に降り九二は五位に昇る」と言ったのも、すでに反対の説の端緒を開いたが、ただそれを他の卦に貫通させなかった。李之才の伝えた《変卦反対図》に至って、まさにその中の真意を独り得たと言えるが、惜しいのは彼が同時にまた一幅の《六十四卦相生図》を抛出したことで、それは選択が精審でなかった。後に来知徳がこの説をよく採って変を講じ、互いに反対(倒転)するものを「綜」と呼び、奇偶の爻が全体相反するものを「錯」と呼んだ。《頤》《大過》などの八つの相反の卦の外に、またすでに反対である卦をさらに錯し直したが、奇偶相反の中にはもともと反対が暗に含まれており、別に一層の義理ではないことを知らなかった。もし真に別に「相反」の一義があるなら、なぜ卦辞爻辞は一概に言及しないのか。卦爻辞の渉及しないものなら、それを補足してやる必要もない。
(渭按:大傳「參伍以變,錯綜其數」,主蓍策而言,來氏斷章取義為錯綜圖,殊非經旨。其說以為一左一右曰錯,一上一下曰綜。錯本圓圖,自乾坤至復姤凡六十四;綜本序卦,自屯蒙至既濟未濟凡二十八。此圖於經無所用,故後不復著。)
(胡渭の按語:《繋辞伝》の「参伍以変、錯綜其数」は、もともと揲蓍求策について言ったもので、来知徳は断章取義し、これに依って「錯綜図」を造り出した。たいへん経文の本旨に合わない。彼の説は:一左一右を「錯」といい、一上一下を「綜」という。「錯」は伏羲円図に本づき、乾・坤から《復》《姤》まで排列して合わせて六十四卦。「綜」は《序卦伝》に本づき、《屯》《蒙》から《既済》《未済》まで排列して合わせて二十八対。この図は経を解くに何の用もない。ゆえに下文はこれを収録しない。)
按:六十四卦兩兩相比,無不反對,其陰陽相背者八卦,雖無變體,亦反對也。反對實文王演卦之一義,《彖傳》本此以釋經,剛柔之往來上下一覽而得,不可謂孔子之說非文王之說也。李氏反對圖首列乾坤二卦為易之門,則諸卦宜皆出於乾坤,而乃乾坤下生之卦,一陰生自姤,一陽生自復,二陰生自遯,二陽生自臨,三陰生自否,三陽生自泰,何其紛糾之甚也!
胡渭の按語:六十四卦は両々隣り合わせに排列され、一対として反対(倒転)でないものはない。その中で陰陽が完全に相背する八つの卦は、倒転しても卦体は変わらないが、その奇偶相反の点から言ってもなお反対と算える。反対は確かに文王の演卦の一層の義理で、《彖伝》はまさにこれに依拠して経文を解釈する。剛柔の往来上下は一見して得られる。孔子の講法が文王の講法でないと言うことはできない。李之才の反対図は冒頭に乾・坤両卦を列して《易》の門戸とするから、各卦は理の上では皆乾・坤から生ずべきである。ところが彼のいう乾坤が下生する卦は、一陰の卦は《姤》から生じ、一陽の卦は《復》から生じ、二陰の卦は《遯》から生じ、二陽の卦は《臨》から生じ、三陰の卦は《否》から生じ、三陽の卦は《泰》から生ずる——頭緒がなんと紛乱してこの地步に至ったか!
康節親受此圖,故有乾坤大父母、姤復小父母之說。夫乾坤生六子是為八卦,因而重之遂為六十四,六十四卦皆乾坤之所生也。姤、復、遯、臨、否、泰同在六十四卦之中,安能生諸卦乎?然姤復以一爻升降,其蹤跡猶可尋求;遯臨否泰則兩三爻遞為升降,而否泰、二濟未免重出,益雜亂而無章矣。乾坤雖諸卦所自出,第以《象傳》證之,則唯三陰三陽者可通,而二陰二陽者不可通,不如専主反對之為得也。
邵雍は自らこの図を受伝したから、「乾坤は大父母、《姤》《復》は小父母」という説がある。乾・坤が六子を生じれば八卦となり、八卦を両々相重ねれば六十四卦を成す。六十四卦は皆乾・坤の生ずるところである。《姤》《復》《遯》《臨》《否》《泰》は同じく六十四卦の中に身を置くのに、どうしてかえって残りの各卦を生ずることができようか。ただ《姤》《復》は一爻のみの升降で、来竜去脈はなお尋査できるが、《遯》《臨》《否》《泰》は二三の爻が番々に升降し、《否》《泰》および《既済》《未済》はまた重複出現を免れず、さらに雑乱無章である。乾・坤は固より各卦の来源だが、《易》伝を以て検証すれば、三陰三陽の卦のみ説が通り、二陰二陽の卦は通らない。ついには専ら「反対」を主とするに及ばない。
康節以文王所演為後天,則卦變似非先天之學。然其論卦之反對曰:乾坤本也,坎離用也,乾坤坎離上篇之用也;咸兌艮也,恆震巽也,兌艮震巽下篇之用也。此即《參同契》以乾坤坎離牝牡震巽艮兌之意;而乾坤大父母、姤復小父母,則又圓圖陽生子中、陰生午中之精義也。乃知卦變亦希夷所傳,均屬先天之學,故朱子附列於邵子六圖之後雲。
邵雍は文王の推演したものを後天と算えるから、卦変は先天之学に属しないようだ。しかし彼が卦の反対を論じる時に言うには:乾・坤は本、坎・離は用、乾坤坎離は上経の功用、《咸》は兌艮の合で成り《恒》は震巽の合で成り、兌艮震巽は下経の功用である。これはまさに《周易参同契》が乾坤坎離を炉鼎とし、震巽艮兌を以て牝牡を分ける用意であり、また「乾坤大父母、姤復小父母」は、まさに先天円図の「陽は子中に生じ、陰は午中に生ず」の精義である。これにより卦変もまた陳摶(希夷)の一系の伝えるところで、同じく先天之学に属することが知れる。ゆえに朱熹はこれを邵雍の六図の後に附列した。
李挺之六十四卦相生図
(乾坤者,諸卦之祖)姤,乾一交而為姤;復,坤一交而為復。凡卦一陰五陽者皆自復卦而來,復一爻五變而成五卦:師、謙、豫;比、剝。凡卦五陽一陰者皆自姤卦而來,姤一爻五變而成五卦:同人、履、小畜;大有、夬。
李之才《六十四卦相生図》:(乾・坤両卦は衆卦の祖宗である。)《姤》は乾と坤が初めて相交して成り、《復》は坤と乾が初めて相交して成る。およそ一爻が陰で五爻が陽の類の卦は皆《復》卦から来て、《復》卦のあの一爻が順に上昇し、五変して五卦を成す:《師》《謙》《豫》《比》《剥》(この条の標目は列した卦と合わない。列したものは実は一陽五陰の卦であり、「一陽五陰」の誤りであろう)。およそ五陽一陰の卦は皆《姤》卦から来て、《姤》卦のあの一陰爻が順に上昇し、五変して五卦を成す:《同人》《履》《小畜》《大有》《夬》。
遯,乾再交而為遯;臨,坤再交而為臨。凡卦四陰二陽者皆自臨卦而來,臨五復五變而成十四卦:(第一四變)明夷、震、屯、頤;(第二復四變)升、解、坎、蒙;(第三復三變)小過、萃、觀;(第四復二變)蹇、晉;(第五復一變)艮。凡卦四陽二陰者皆自遯卦而來,遯五復五變而成十四卦:(第一四變)訟、巽、鼎、大過;(第二復四變)無妄、家人、離、革;(第三復三變)中孚、大畜、大壯;(第四復二變)睽、需;(第五復一變)兌。
《遯》は乾と坤が第二次に相交して成り、《臨》は坤と乾が第二次に相交して成る。およそ四陰二陽の卦は皆《臨》卦から来て、《臨》は五輪の反復を経て、毎輪さらに変じ、合わせて十四卦を生ず:第一輪は四変して《明夷》《震》《屯》《頤》を得、第二輪はさらに四変して《升》《解》《坎》《蒙》を得、第三輪はさらに三変して《小過》《萃》《観》を得、第四輪はさらに二変して《蹇》《晋》を得、第五輪はさらに一変して《艮》を得る。およそ四陽二陰の卦は皆《遯》卦から来て、《遯》も同じく五輪の反復を経て十四卦を生ず:第一輪は四変して《訟》《巽》《鼎》《大過》を得、第二輪はさらに四変して《无妄》《家人》《離》《革》を得、第三輪はさらに三変して《中孚》《大畜》《大壮》を得、第四輪はさらに二変して《睽》《需》を得、第五輪はさらに一変して《兌》を得る。
否,乾三交而為否;泰,坤三交而為泰。凡卦三陰三陽者皆自泰卦而來,泰三復三變而成九卦:(第一三變)歸妹、節、損;(第二復三變)豐、既濟、賁;(第三復三變)恆、井、蠱。凡卦三陽三陰者皆自否卦而來,否三復三變而成九卦:(第一三變)漸、旅、咸;(第二復三變)渙、未濟、困;(第三復三變)益、噬嗑、隨。
《否》は乾と坤が第三次に相交して成り、《泰》は坤と乾が第三次に相交して成る。およそ三陰三陽の卦は皆《泰》卦から来て、《泰》は三輪の反復を経て毎輪三変し、合わせて九卦を生ず:第一輪は三変して《帰妹》《節》《損》を得、第二輪はさらに三変して《豊》《既済》《賁》を得、第三輪はさらに三変して《恒》《井》《蠱》を得る。およそ三陽三陰の卦は皆《否》卦から来て、《否》もまた三輪三変を経て九卦を生ず:第一輪は三変して《漸》《旅》《咸》を得、第二輪はさらに三変して《渙》《未済》《困》を得、第三輪はさらに三変して《益》《噬嗑》《随》を得る。これにより相生図は専ら下体の一爻の遞昇を取って変とし、反対図が上下両体を兼ね取る方法とは同じでないことが分かる。
林氏《易裨傳》外篇曰:李挺之六十四卦相生圖,其傳授見於反對圖中。漢上朱氏曰:始虞氏卦變,乾坤生坎離,乾息而生復、臨、泰、大壯、夬,坤消而生姤、遯、否、觀、剝。自復來者一卦(豫),自明夷來者四卦(明夷、解、升、震),自泰來者九卦(蠱、賁、恆、升、井、歸妹、豐、節、既濟),自大壯來者六卦(需、大畜、大過、睽、鼎、兌),自夬來者一卦(同人),自遯來者五卦(訟、無妄、家人、革、巽),自否來者八卦(隨、噬嗑、咸、益、困、漸、渙、未濟),自觀來者五卦(晉、蹇、頤、萃、艮),自剝來者一卦(謙)。
林至《易裨伝・外篇》にいう:李之才《六十四卦相生図》の伝授の源流は、すでに《変卦反対図》の条に見えている。朱震《漢上易伝》にいう:最初虞翻が卦変を講じたのは、乾・坤が坎・離を生じ、乾気が生長して《復》《臨》《泰》《大壮》《夬》を生じ、坤気が消退して《姤》《遯》《否》《観》《剥》を生ずるというもの。《復》から変じて来た一卦(《豫》)、《明夷》から変じて来た四卦(《明夷》《解》《升》《震》)、《泰》から変じて来た九卦(《蠱》《賁》《恒》《升》《井》《帰妹》《豊》《節》《既済》)、《大壮》から変じて来た六卦(《需》《大畜》《大過》《睽》《鼎》《兌》)、《夬》から変じて来た一卦(《同人》)、《遯》から変じて来た五卦(《訟》《无妄》《家人》《革》《巽》)、《否》から変じて来た八卦(《随》《噬嗑》《咸》《益》《困》《漸》《渙》《未済》)、《観》から変じて来た五卦(《晋》《蹇》《頤》《萃》《艮》)、《剥》から変じて来た一卦(《謙》)。以上が朱震の排比して出した虞翻卦変の全譜である。
而屯生於坎,蒙生於艮,比生於師,頤、小過生於晉,睽生於大壯或生於無妄,旅生於賁或生於噬嗑,中孚生於訟,小畜變需上,履變訟初,姤無生卦,師、比、同人、大有四卦闕。李鼎祚取蜀才、虞氏之書補其三卦(大有闕),而頤卦虞以為生於晉,侯果以為生於觀。今以此圖考之,其合於圖者三十有六卦,又時有所疑,不合者二十有八卦。
このほか、《屯》は坎に生じ、《蒙》は艮に生じ、《比》は《師》に生じ、《頤》《小過》は《晋》に生じ、《睽》はあるいは《大壮》に生じたと言いあるいは《无妄》に生じたと言い、《旅》はあるいは《賁》に生じたと言いあるいは《噬嗑》に生じたと言い、《中孚》は《訟》に生じ、《小畜》は《需》の上爻から変じて来て、《履》は《訟》の初爻から変じて来た。《姤》は別の卦を生じず、《師》《比》《同人》《大有》の四卦は闕けて説がない。李鼎祚は蜀才・虞翻の書を取ってその中の三卦を補った(《大有》はなお空缺)。《頤》卦については、虞翻は《晋》に生じたと認め、侯果は《観》に生じたと認めた。いまこの相生図を持って核対すれば、図と相合するものは三十六卦あり、別に時々疑わしく図と合わないものは二十八卦ある。
夫自下而上謂之升,自上而下謂之降,升者生也、息也,降者消也。陰生陽,陽生陰,陰復生陽,陽復生陰,升降消息,循環無窮,然不離於乾坤:一生二,二生三,至於三極矣,故曰乾坤大父母也,姤復小父母也。嘗考之,諸儒之論相生者始於虞翻、蜀才,近世漢上朱氏用以解易。然卦之六十有四,由八卦相錯而成也,未有先有復、姤、臨、遯、泰、否而後有諸卦者。傳曰「八卦成列,象在其中矣;因而重之,爻在其中矣」,考夫震巽坎離艮兌相合而後成卦,今謂震坎艮生於臨、巽離兌生於遯,母乃顛倒而不通邪?
およそ下から上へを「升」といい、上から下へを「降」という。升はすなわち生であり息であり、降はすなわち消である。陰は陽を生じ、陽は陰を生じ、陰はまた陽を生じ、陽はまた陰を生ず。升降消息は循環して窮まりないが、終始乾・坤を離れない:一は二を生じ、二は三を生じ、三に至れば極限である。ゆえに乾・坤は大父母、《姤》《復》は小父母という。私はかつて考察した:諸儒の卦の相生を論ずるのは虞翻・蜀才に始まり、近世は朱震がこれを用いて《易》を解いた。しかし六十四卦は八卦の交錯相重によって成るのであって、先に《復》《姤》《臨》《遯》《泰》《否》があってそれから残りの各卦があるという道理は断じてない。《繋辞伝》は「八卦成列、象在其中矣、因而重之、爻在其中矣」という。震・巽・坎・離・艮・兌が互いに相合して後に卦を成すことが見える。いまや震・坎・艮は《臨》に生じ、巽・離・兌は《遯》に生じたと言うのは、本末を顛倒して説が通らないではないか。林至に言わせれば、これがまさに相生図の最も根本的な破綻である。
邵康節曰:無極之前,陰含陽也;有象之後,陽分陰也。陰為陽之母,陽為陰之父,故母孕長男而為復,父生長女而為姤,是以陽起於復而陰起於姤也。又曰:易始於乾坤而交於復姤,蓋剛交柔而為復,柔交剛而為姤,自此而變無窮矣。由前之說,則陽生於子、陰生於午之義也;由後之說,則十二闢卦剛柔相摩之義也。
邵雍がいう:无極の前には陰の中に陽を含み、有象の後には陽の中から陰を分ける。陰は陽の母、陽は陰の父である。ゆえに母が長男を孕育して《復》を成し、父が長女を生出して《姤》を成す。これにより陽気は《復》に起こり陰気は《姤》に起こる。彼はまたいう:《易》は乾・坤に起こり、《復》《姤》に交合する。剛が柔に交わりに行けば《復》を成し、柔が剛に交わりに行けば《姤》を成し、これより変化は窮まりない。前の説に照らせば「陽は子に生じ、陰は午に生ず」の意であり、後の説に照らせば十二辟卦の剛柔相摩蕩の意である。この二段の言葉は、一つは陰陽が互いにその根を為すことに立論し、一つは剛柔の交感に立論して、いずれも相生の説を主張する者に引かれて根拠とされた。
今論卦變相生之說曰:易於賁曰「柔來而文剛,剛上而文柔」,節曰「剛柔分而剛得中」,無妄曰「剛自外來而為主於內」,大傳曰「剛柔相推,變在其中矣」,是故有斯義也。要之六十四卦之變皆本於八卦,而八卦之重又本於乾坤之竒偶。今卦之反對則兼上下體,六十四卦相生則専用下卦為變,是亦一家之學耳,謂易道盡在於是則未也,姑取其大概著於篇。
いま卦変相生の説を論ずるに:《易》は《賁》卦で「柔来而文剛、分剛上而文柔」といい、《節》卦で「剛柔分而剛得中」、《无妄》卦で「剛自外来而為主於内」といい、《繋辞伝》で「剛柔相推、変在其中矣」という。ゆえに卦変には確かにこの一層の義理がある。要するに六十四卦の変化は皆八卦に本づき、八卦の相重はまた乾・坤の奇偶両画に本づく。いま「卦之反対」は上下両体を兼ね取り、「六十四卦相生」は専ら下体の一爻を用いて変とするのも、またただ一家の学にすぎない。もし《易》道がすべてここに尽きると言うなら、まだ数えることができない。姑くその大概を取って本篇に著録する。林至の用意は、卦変は経文に確かに端緒があるが、一部全体の生卦の譜系に推衍してはならないことを明らかにしようとするにあった。
黃氏《象數論》曰:六十四卦相生圖不以觀、壯四陰四陽之卦為主變,可以無虞氏重出之失矣。然臨遯自第二變以後,主變之卦兩爻皆動,在《彖傳》亦莫知適從,又不如虞氏動以一爻之有定法也。方實孫有《易卦變合圖》,與相生圖同,至兩爻交動則稍更其次序。
黄宗羲《易学象数論》にいう:《六十四卦相生図》は《観》《大壮》の類の四陰四陽の卦を主変とせず、虞翻の重複出卦の毛病を免れることができる。しかし《臨》《遯》は第二変以後、主変の卦は二つの爻を一斉に動かすので、《彖伝》を持って照対してもどの爻に依従すべきか分からず、かえって虞氏の毎変ごとに一爻のみ動かすように確定した法則があるに及ばない。方実孫は《易卦変合図》を作ったが、大体相生図と同じで、ただ二爻が交互に動くところで少し次序を更動したにすぎない。
朱風林升分為內外體,有自十闢卦所變者(乾坤無變,故十二闢卦去之為十卦):一陽在內體自復變凡二卦(師、謙),一陽在外體自剝變凡二卦(豫、比),二陽在內體自臨變凡二卦(升、明夷),二陽在外體自觀變凡二卦(晉、革),二陽在內體一陽在外體自泰變凡九卦(與相生圖同);一陰在內體自姤變凡二卦(同人、履),一陰在外體自夬變凡二卦(小畜、大有),二陰在內體自遯變凡二卦(無妄、訟),二陰在外體自大壯變凡二卦(需、大畜),二陰在內體一陰在外體自否變凡九卦(與相生圖同)。
朱升(風林)は一卦を内体・外体に分けて変を講じた。十の辟卦から変じて来るものがある(乾・坤自身は変じないから、十二辟卦はこの二卦を除いて十卦のみ残る):一つの陽爻が内体にあるものは《復》から変出し、合わせて二卦(《師》《謙》)。一つの陽爻が外体にあるものは《剥》から変出し、合わせて二卦(《豫》《比》)。二つの陽爻が内体にあるものは《臨》から変出し、合わせて二卦(《升》《明夷》)。二つの陽爻が外体にあるものは《観》から変出し、合わせて二卦(《晋》《革》)。両陽が内体にあり一陽が外体にあるものは《泰》から変出し、合わせて九卦(相生図と同じ)。一つの陰爻が内体にあるものは《姤》から変出し、合わせて二卦(《同人》《履》)。一つの陰爻が外体にあるものは《夬》から変出し、合わせて二卦(《小畜》《大有》)。二つの陰爻が内体にあるものは《遯》から変出し、合わせて二卦(《无妄》《訟》)。二つの陰爻が外体にあるものは《大壮》から変出し、合わせて二卦(《需》《大畜》)。両陰が内体にあり一陰が外体にあるものは《否》から変出し、合わせて九卦(相生図と同じ)。
有自六子卦所變者:二陽分在內外,不處震之主爻者自震變(蹇、蒙),不處坎之主爻者自坎變(小過、頤),不處艮之主爻者自艮變(解、屯);二陰分在內外,不處巽之主爻者自巽變(睽、革),不處離之主爻者自離變(中孚、大過),不處兌之主爻者自兌變(家人、鼎),各得二卦。其自十闢卦所變者以一爻升降,其自六子卦所變者以兩爻升降。自三陰三陽而外,主變之卦多、所生之卦少,何其頭緒之紛紜也!(渭按:朱風林卦變支離破碎,全屬杜撰,而且於經無所用,故後不復著。)
別に六子卦から変じて来るものがある:二つの陽爻が内外両体に分かれ処り、震卦の主爻の位を占めないものは《震》から変出し(《蹇》《蒙》)、坎卦の主爻の位を占めないものは《坎》から変出し(《小過》《頤》)、艮卦の主爻の位を占めないものは《艮》から変出し(《解》《屯》)。二つの陰爻が内外両体に分かれ処り、巽卦の主爻の位を占めないものは《巽》から変出し(《睽》《革》)、離卦の主爻の位を占めないものは《離》から変出し(《中孚》《大過》)、兌卦の主爻の位を占めないものは《兌》から変出し(《家人》《鼎》)——毎項各々二卦を得る。およそ十辟卦から変じて来るものは一爻の升降を用い、六子卦から変じて来るものは両爻の升降を用いる。三陰三陽の卦を除けば、主変の卦は多く所生の卦は少ない。頭緒はなんと紛乱なことか! 換言すれば、朱升は主変の卦を十の辟卦から六子卦に拡大し、また規則を一爻升降から両爻升降に緩め、条例はかえっていっそう零乱となった。(胡渭の按語:朱升の卦変は支離破砕で、全て杜撰に属し、しかも経を解くに何の用もない。ゆえに下文はこれを収録しない。)
按:李挺之言卦變,莫善於反對,莫不善於相生,反對者經之所有,相生者經之所無也。六十四卦相生圖,蓋從乾坤三索之義而推之於六畫以為卦變:純乾純坤一交而為姤、復,再交而為遯、臨,三交而為否、泰,是亦可以已矣。而又以姤初之一陰、復初之一陽遞升以訖於上,遯臨之二陰二陽、否泰之三陰三陽亦如之。夫姤復以一爻主變,猶有定法;若遯臨否泰,則兩爻俱動,或獨升,或同升,主變者非一,紛然而無統紀矣。且六子純卦亦不過因而重之,今乃謂震坎艮生於臨、巽離兌生於遯,有是理乎?甚矣此圖之為贅肬也。
胡渭の按語:李之才の卦変を講じた中で、最も良いのは「反対」で、最も良くないのは「相生」である。反対は経文がもともと有するもので、相生は経文にないものだからである。《六十四卦相生図》はおそらく乾坤が三索して六子を生ずる意を六画の重卦に推し進めて卦変としたのであろう。純乾純坤が初めて相交して《姤》《復》を成し、再び交わって《遯》《臨》を成し、三たび交わって《否》《泰》を成す——ここまで講じれば実はやめてよかった。彼はさらに《姤》の初爻のあの陰、《復》の初爻のあの陽を一位ずつ上へ遞昇させ、上爻に至らしめ、《遯》《臨》の両陰両陽、《否》《泰》の三陰三陽も同様に遞昇させた。《姤》《復》が一爻を以て主変とするのは、なお確定した法則があると言えるが、《遯》《臨》《否》《泰》に至っては、両爻を並べて動かし、あるいは単独に上昇し、あるいは一同に上昇し、主変が一爻に止まらず、そこで紛紛として統紀がなくなった。何况、六子の純卦もまた八卦の相重で成るにすぎないのに、いまや震・坎・艮は《臨》に生じ、巽・離・兌は《遯》に生じたと言うとは、天下にこのような道理があるか。この図は実に余分な贅瘤に似すぎている。
邵子《皇極經世書》曰:天地之本,其起於中乎?是以乾坤屢變而不離乎中也。又曰:自下而上謂之升,自上而下謂之降,升者生也,降者消也,故陽生於下,陰生於上,是以萬物皆反生也。又曰:陰生陽,陽生陰,陰復生陽,陽復生陰,是以循環而無窮也。《乾坤吟》曰:道不逺於人,乾坤只在身,誰能天地外,別去覓乾坤。
邵雍《皇極経世書》にいう:天地の根本は、おそらく「中」から発したのであろう。ゆえに乾・坤は屢々変化して終始中を離れない。またいう:下から上へを升といい、上から下へを降という。升はすなわち生、降はすなわち消。ゆえに陽気は下に生じ、陰気は上に生ず。これにより万物は皆逆さに生長する。またいう:陰は陽を生じ、陽は陰を生じ、陰はまた陽を生じ、陽はまた陰を生ず。ゆえに循環往復して永く窮尽しない。彼の《乾坤吟》にいう:大道は人身を遠く離れず、乾坤はただ己の身上にあり。誰か天地の外に走って、別に何の乾坤をか求めん。
俞氏曰:乾坤,陰陽之純;坎離,陰陽之交。乾純陽為天,故居中之上;坤純陰為地,故居中之下;坎陰中含陽為月,離陽中含陰為日,故居乾坤之中。其餘六十卦,自坤中一陽之生而至五陽,則升之極矣,遂為六陽之純乾;自乾中一陰之生而至五陰,則降之極矣,遂為六陰之純坤。一升一降,上下往來,蓋循環而無窮也。
兪琰(石澗)がいう:乾・坤は陰陽の純体、坎・離は陰陽の交体である。乾は純陽で天と為すから中軸の上に居り、坤は純陰で地と為すから中軸の下に居る。坎は陰中に陽を含んで月と為し、離は陽中に陰を含んで日と為す。ゆえに乾・坤の間に居る。残りの六十卦は、坤の中から一陽を生出し、五陽に累積して極処に上昇し、そこで六陽の純乾を成す。乾の中から一陰を生出し、五陰に累積して極処に下降し、そこで六陰の純坤を成す。一升一降・上下往来は、まさに循環して窮まりない。
天地如此,人身亦如此。子時氣到尾閭,丑寅在腰間,卯辰已在脊膂,午在泥丸,未申酉在胸膈,戌亥則又歸於腹中,此一日之升降然也。一息亦然:呼則自下而升於上,吸則自上而降於下。在天則應星而如斗指子午,在地則應潮而如月在子午,子午蓋天地之中也。《參同契》云「合符行中」,又云「運移不失中」,又云「浮游守規中」。人能知吾身之中以合乎天地之中,則乾坤不在天地而在吾身矣。
天地はこのようであり、人身もまたこのようである:子の時に気は尾閭に行き、丑・寅の時に腰間にあり、卯・辰・巳の三時に脊梁にあり、午の時に泥丸(頭頂)に到り、未・申・酉の三時に胸膈にあり、戌・亥の両時にまた腹中に帰る——これが一昼夜の内の升降である。一呼一吸もまたこのようで、呼気はすなわち下から上に昇り、吸気はすなわち上から下に降る。天上では星象と相応じ、北斗の斗柄が子・午を指すようなもの。地上では潮汐と相応じ、月亮が子・午の位に行くようなもの——子・午はまさに天地の中位である。《周易参同契》は「合符行中」といい、また「運移不失中」といい、また「浮游守規中」という。人がもし自己の身中のこの「中」を識り得て、天地の「中」に契合するのに用いれば、乾坤は天地に在らずして自己の身上に在る。
按:希夷先天之學,《參同契》之的傳也。伯陽所言無非丹道,其曰「二用無爻位,周流行六虛,往來既不定,上下亦無常」,蓋借易剛柔往來上下以明人身二氣之升降,與夫子《彖傳》所言不同指。而李氏六十四卦相生圖于丹道絶無交涉,安在其為先天邪?竊疑穆修受學於希夷,唯有反對圖,而相生則李氏以意為之,頗縁飾以儒者之義理,故其圖彷佛虞仲翔,多與《彖傳》相合。
胡渭の按語:陳摶(希夷)の先天之学は、まさに《周易参同契》の嫡伝である。魏伯陽の講じたことは一句として丹道でないものはない。彼が「二用无爻位、周流行六虚、往来既不定、上下亦无常」と言うのは、《易》の剛柔往来上下の説を借りて人身の陰陽二気の升降を説明するのであり、孔子の《彖伝》の講じたものとは同じ事ではない。しかし李之才の《六十四卦相生図》は丹道と毫も関わりがなく、何によって先天之学と算えようか。私は密かに疑う:穆修が陳摶から学び受けたのは《反対図》のみで、《相生図》に至っては李之才が自己の意を凭えて造り出したもので、しかも儒家の義理をよく用いて文飾を加えた。ゆえにあの図は虞翻の路数に似て見え、多くは《彖伝》に牽就しようとしている。
唯石澗直圖,上乾下坤而坎離居中,正得乾坤為鼎器、坎離為藥物之意;又據邵子天根月窟之說,自坤中一陽生而升至五陽,遂為六陽之純乾,自乾中一陰生而降至五陰,遂為六陰之純坤,一升一降,上下往來,與伯陽之義脗合。且諸卦皆生於乾坤,無姤復小父母之疵;而四陰二陽與坎並列,四陽二陰與離並列,亦皆井然有條理,無重出之病,勝李氏二圖逺甚。
ただ兪琰(石澗)の《先天直図》のみ、乾が上・坤が下で坎・離が中に居り、まさに「乾坤為炉鼎、坎離為薬物」の丹家の本意に合う。また邵雍の「天根月窟」の説に依拠し、坤の中から一陽が生起して五陽に上昇し、そこで六陽の純乾を成し、乾の中から一陰が生起して五陰に下降し、そこで六陰の純坤を成す。一升一降・上下往来は魏伯陽の義旨と完全に吻合する。しかもそれは各卦を皆乾・坤から生ぜしめ、「姤復小父母」のような毛病がない。四陰二陽の卦は坎と並び列し、四陽二陰の卦は離と並び列し、いずれも井然として条理があり、重複出卦の弊がない。李之才のあの二幅の図よりはるかに優れている。
然石澗未嘗自名為卦變也,第因邵子有橫圖、圓圖、方圖而更作先天直圖以申其意。自余觀之,此圖既非六十四卦之次序,又非六十四卦之方位,正可作卦變圖耳。異哉!石澗能於三百餘歲後紹聞知之統,使呼吸上下往來之象一望瞭然,真希夷先天之學,而邵子之所不及圖者也,故附列李氏二圖之末,以質於後之君子。
ただ兪琰自身はかつてこれを卦変図と称しなかった。ただ邵雍に横図・円図・方図があったから、彼は別に一幅の《先天直図》を作って己の意を申明したのである。私の見るところでは、この図は六十四卦の次序でもなく、六十四卦の方位でもなく、恰好卦変図として用いることができる。実に奇特である! 兪琰が三百余年の後にこの一脈の伝聞所知の統緒を接続し、呼吸升降・上下往来の象を一望で了然とさせた。これこそ真の陳摶の先天之学であり、しかも邵雍の画かなかったものである。ゆえにこれを李之才の両幅の図の後に附列し、後の君子に就正する。
右論李氏卦變。
以上の一節は、李之才の伝えた《変卦反対図》と《六十四卦相生図》の両図の優劣真偽を考辨したものである。
朱子の卦変図
《本義》圖說曰:《彖傳》或以卦變為說,今作此圖以明之,蓋易中之一義,非畫卦作易之本指也。
朱熹《周易本義》の図説は講じて曰く、《彖伝》は時に卦変を用いて説を立てるので、今この図を作ってそれを明らかに講じる。これは《易》の中の一つの義理に過ぎず、卦を画き《易》を作った本旨ではない。
凡一陰一陽之卦各六,皆自復、姤而來(五陰五陽卦同圖異):剝、比、豫、謙、師、復;夬、大有、小畜、履、同人、姤。
第一類:およそ一陽の卦と一陰の卦は各六つあって、すべて《復》《姤》の両卦から変わって来る(五陰五陽の卦はこの図と同じで、ただ名目が異なるだけである)。一陽の卦の一行は《剥》《比》《豫》《謙》《師》《復》で、すなわちあの一つの陽爻が上位から逐級に初位まで下るものである。一陰の卦の一行は《夬》《大有》《小畜》《履》《同人》《姤》で、すなわちあの一つの陰爻が上位から逐級に初位まで下るものである。
凡二陰二陽之卦各十有五,皆自臨、遯而來(四陰四陽卦同圖異):頤、屯、震、明夷、臨;蒙、坎、解、升;艮、蹇、小過;晉、萃;觀。大過、鼎、巽、訟、遯;革、離、家人、無妄;兌、睽、中孚;需、大畜;大壯。
第二類:およそ二陽の卦と二陰の卦は各十五あって、すべて《臨》《遯》の両卦から変わって来る(四陰四陽の卦はこの図と同じで、ただ名目が異なるだけである)。《臨》の一系は順次、《頤》《屯》《震》《明夷》《臨》、《蒙》《坎》《解》《升》、《艮》《蹇》《小過》、《晋》《萃》、《観》である。《遯》の一系は順次、《大過》《鼎》《巽》《訟》《遯》、《革》《離》《家人》《无妄》、《兌》《睽》《中孚》、《需》《大畜》、《大壮》である。朱子のこの図は虞翻のように一爻のみ動かすと限定せず、二爻が昇降する種々の可能性を一括して排列したので、類ごとの卦数は虞氏よりはるかに多い。
凡三陰三陽之卦各二十,皆自否、泰而來:損、節、歸妹、泰;賁、既濟、豐;噬嗑、隨;益;蠱、井、恆;未濟、困;渙;旅、咸;漸;否。
第三類:およそ三陽の卦と三陰の卦は各二十あって、すべて《否》《泰》の両卦から変わって来る。《泰》の一系は順次、《損》《節》《帰妹》《泰》、《賁》《既済》《豊》、《噬嗑》《随》、《益》、《蠱》《井》《恒》、《未済》《困》、《渙》、《旅》《咸》、《漸》、《否》である。
咸、旅、漸、否;困、未濟、渙;井、蠱;恆;隨、噬嗑、益;既濟、賁;豐;歸妹;泰。
《否》の一系は順次、《咸》《旅》《漸》《否》、《困》《未済》《渙》、《井》《蠱》、《恒》、《随》《噬嗑》《益》、《既済》《賁》、《豊》、《帰妹》、《泰》である。これを見ると《泰》《否》の両系は彼此交錯し、同一の卦が両辺で重複して出現する。
凡四陰四陽之卦各十有五,皆自大壯、觀而來(二陰二陽圖已見前):大畜、需、大壯;睽、兌;中孚;離、革;益;無妄;鼎、大過;巽;訟;遯。萃、晉、觀;蹇、艮;小過;坎、蒙;解;升;屯、頤;震;明夷;臨。
第四類:およそ四陽の卦と四陰の卦は各十五あって、すべて《大壮》《観》の両卦から変わって来る(これらの卦は前の二陰二陽の図にすでに出現した)。《大壮》の一系は順次、《大畜》《需》《大壮》、《睽》《兌》、《中孚》、《離》《革》、《益》、《无妄》、《鼎》《大過》、《巽》、《訟》、《遯》である。《観》の一系は順次、《萃》《晋》《観》、《蹇》《艮》、《小過》、《坎》《蒙》、《解》、《升》、《屯》《頤》、《震》、《明夷》、《臨》である。
凡五陰五陽之卦各六,皆自夬、剝而來(一陰一陽圖已見前):大有、夬;小畜;履;同人;姤。比、剝;豫;謙;師;復。
第五類:およそ五陽の卦と五陰の卦は各六つあって、すべて《夬》《剥》の両卦から変わって来る(これらの卦は前の一陰一陽の図にすでに出現した)。《夬》の一系は順次、《大有》《夬》、《小畜》、《履》、《同人》、《姤》である。《剥》の一系は順次、《比》《剥》、《豫》、《謙》、《師》、《復》である。
黃氏《象數論》曰:朱子言以《彖傳》考之,說卦變者凡十九卦,蓋言成卦之由,《彖傳》不言成卦之由則不言所變之爻,此是朱子自言其卦變也。《繫辭傳》曰「爻者,言乎變者也」,易中何卦不言變?辭有隠顯,而理無不寓,即證之《彖辭》,亦非止十九卦也。
黄宗羲《易学象数論》は曰く、朱熹が講じるに、《彖伝》をもって考察すれば、卦変を講じるものは合わせて十九卦で、あれは成卦の由来について言ったのである。《彖伝》が成卦の由来を講じないものは、彼は変ずる爻を指し示さない——これは朱子が自ら卦変を講じる体例を述べたものである。しかるに《繋辞伝》は「爻とは、変について言うものなり」と言い、《易》の中で変を講じない卦があろうか。ただ辞に隠顕があるが、理は寓さざるところなし。《彖辞》をもって検証すれば、卦変を講じるものも十九卦に止まらない。
訟「剛來而得中」,以需之反對觀之,彼得正又得中,此但得中不能得正。泰否之往來,所謂反其類。隨「剛來而下柔」,蠱「剛上而柔下」,二卦反對:蠱上之剛自外卦來,初居二三之下;隨初剛自下而上,上柔自上而下。噬嗑「柔得中而上行」,賁「柔來而文剛,分剛上而文柔」:前卦謂六二上行為五,後卦言六五自外卦而入內,初九從下卦而至上。無妄「剛自外而為主於內」,大畜「剛上而尚賢」:無妄之初九自大畜上爻外卦來,為內卦之主;大畜之上九自無妄初爻而上。咸「柔上剛下」,恆「剛上柔下」:咸指上六九三,恆指九四初六。
《訟》は「剛来りて中を得たり」と言う。その反対の卦《需》を見るに、《需》の九五は正を得かつ中を得、《訟》は中を得るのみで正を得ること能わず。《泰》《否》の往来を講じるは、いわゆる「その類を反す」である。《随》は「剛来りて柔を下す」と言い、《蠱》は「剛上りて柔下る」と言う。両卦は互いに反対である。《蠱》の上爻の剛は外卦より下り来たり、初爻は二・三の下に居る。《随》の初爻の剛は下より上り、上爻の柔は上より下る。《噬嗑》は「柔中を得て上行す」と言い、《賁》は「柔来りて剛を文り、剛を分ちて上りて柔を文る」と言う。前の卦は六二が上行して五位に至るを指し、後の卦は六五が外卦より内卦に入り、初九が下卦より上位に升るを言う。《无妄》は「剛外より来りて内に主となす」と言い、《大畜》は「剛上りて賢を尚ぶ」と言う。《无妄》の初九は《大畜》の上爻すなわち外卦より来たって、内卦の主となった。《大畜》の上九は《无妄》の初爻より升ったものである。《咸》は「柔上りて剛下る」と言い、《恒》は「剛上りて柔下る」と言う。《咸》は上六と九三を指し、《恒》は九四と初六を指す。
晉「柔進而上行」,明夷之六二上行為六五;睽「柔進而上行」,家人之六二上行為六五。蹇「往得中也」,解「其來復吉,乃得中也」:蹇之九五自解內卦,故曰往;解之九二自蹇外卦,故曰來。升「柔以時升」,升上卦之柔皆萃卦所升。鼎「柔進而上行」,鼎五由萃二而上。漸「進得位」,漸九五當歸妹居二為不得位。渙「剛來而不窮」者,節五來二;「柔得位乎外而上同」者,柔在三失位,在四得位。此朱子所謂十九卦之《彖辭》,皆以反對為義者也。
《晋》は「柔進みて上行す」と言う。これは《明夷》の六二が上行して六五となるである。《睽》は「柔進みて上行す」と言う。これは《家人》の六二が上行して六五となるである。《蹇》は「往きて中を得」と言い、《解》は「その来復は吉、すなわち中を得」と言う。《蹇》の九五は《解》の内卦より往ったので「往」と言い、《解》の九二は《蹇》の外卦より来たので「来」と言う。《升》は「柔時を以て升る」と言い、《升》の上卦の柔はすべて《萃》卦より升り来たものである。《鼎》は「柔進みて上行す」と言い、《鼎》の五爻は《萃》の二爻より升ったものである。《漸》は「進みて位を得」と言い、《漸》の九五は《帰妹》の中では二位に居り、まさに位を得ざるである。《渙》は「剛来りて窮まらず」と言う。これは《節》の五爻が来りて二位に居るである。また「柔外に位を得て上同じくす」と言うのは、あの柔が三位にあれば位を失い、四位にあれば位を得るということである。これらがすなわち朱子の言う十九卦の《彖辞》で、実はすべて反対をもって義を立て得るのである。
需「位乎天位以正中也」,自訟九二而來,得中又得正。損「損下益上,其道上行」,益「損上益下,自上下下」:由損觀之,似以三爻益上爻;由益觀之,似以四爻益初爻。小畜「密雲不雨」,反對為履,履下之兌澤氣成云,故曰宻雲;兌變而巽,風以散之,故曰不雨。大有「應乎天而時行」,方其同人在二之時應乎天也,今時行而居其位。謙「地道卑而上行」,地道指坤,豫在下卦為卑,謙在上卦為上行。臨「至于八月」,觀二陽在上,臨二陽在下,自臨至觀歴八爻,故言八月。復「七日來復」,剝一陽在上,復一陽在下,自剝至復歴七爻,故言七日。
《需》は「天位に位し、正中を以てす」と言う。これは《訟》の九二より来たので、中を得かつ正を得る。《損》は「下を損して上を益す、その道上行す」と言い、《益》は「上を損して下を益し、上より下る」と言う。《損》より見れば、三爻を以て上爻を増益するが如く、《益》より見れば、四爻を以て初爻を増益するが如し。《小畜》は「密雲雨らず」と言う。その反対は《履》である。《履》の下体の兌は沢を為し、沢気は上升して雲を成す。故に「密雲」と言い、兌は巽に変じて風が雲を吹き散らす。故に「雨らず」と言う。《大有》は「天に応じて時に行く」と言う。それがまだ《同人》で柔が二位に居る時はまさに「天に応じ」、今時に順いて行えば五位に居る。《謙》は「地道は卑にして上行す」と言う。「地道」とは坤を指し、坤は《豫》にあって下卦を為すので「卑」であり、《謙》にあって上卦を為すので「上行」である。《臨》は「八月に至りて凶あり」と言う。《観》は両陽が上にあり、《臨》は両陽が下にあり、《臨》より《観》に数えて八爻を経る。故に八月と言う。《復》は「七日にして来復す」と言う。《剥》は一陽が上にあり、《復》は一陽が下にあり、《剥》より《復》に数えて七爻を経る。故に七日と言う。
明夷「初登于天」言晉,「後入于地」言明夷。夬「所尚乃窮」,對姤為言。井「改邑不改井」,兌為剛滷之地,變而為巽則「近利市三倍」,是改邑也;坎不變,是不改井也,皆對困言之。歸妹「征凶,位不當也」,漸之二五皆當位,至歸妹皆不當。旅「柔得中乎外」,在豐為得中乎內。巽「柔皆順乎剛」,兌「剛中而柔外」,兌柔不順乎剛,巽柔中而剛外,二卦相反。既濟「剛正而位當」,未濟不當位,二卦亦相反。此朱子十九卦以外亦皆以反對為義者也。反對之窮而反其竒偶以配之,又未嘗不暗相反對於其間:如中孚上爻之翰音,反對即為小過初爻之飛鳥;頤之口實,由大過之兌;大過士夫、老夫,由頤之艮震。此序卦之不可易也,奈何諸儒之為卦變紛然雜出而不能歸一乎?
《明夷》は「初め天に登り」というのは《晋》について言い、「後に地に入る」というのは《明夷》について言う。《夬》は「尚ぶ所すなわち窮まる」というのは《姤》に対して言う。《井》は「邑を改めて井を改めず」と言う。兌は塩鹵の地を為し、巽に変ずれば「利市三倍に近し」、これが「邑を改む」である。坎体は変わらず、これが「井を改めず」である。いずれも《困》に対して言う。《帰妹》は「征けば凶、位当たらざればなり」と言う。《漸》の二・五両爻は皆位に当たるが、《帰妹》に至ればいずれも位に当たらず。《旅》は「柔外に中を得」と言うが、《豊》にあっては内に中を得る。《巽》は「柔皆剛に順う」と言い、《兌》は「剛中にして柔外」と言う。兌の柔は剛に順わず、巽は柔が中にして剛が外にあり、両卦は正に相反する。《既済》は「剛柔正しく位当たる」と言い、《未済》は位に当たらず、両卦もまた正に相反する。これらは朱子の十九卦以外で、同じく反対を以て義を立てるものである。反対の法が窮まり、奇偶の爻をことごとく顛倒して相配せざるを得ないあの八つの卦にいたっても、その間にもまた暗に反対を含まぬではない。例えば《中孚》上爻の「翰音天に登る」は、反対し来れば正に《小過》初爻の「飛鳥以て凶」であり、《頤》の講じる「口実」は《大過》の兌口より来たり、《大過》の講じる「士夫」「老夫」は《頤》の艮・震より来る。これがまさに《序卦》の次第が更改できぬ所以である。あきない、諸儒の卦変を講じるや、紛々として雑出し、終始して一説に帰することが能わず。
朱子變卦圖,一陰一陽與五陰五陽相重出,二陰二陽與四陰四陽相重出,泰與否相重出,除乾坤之外,其為卦百二十有四,蓋已不勝其煩矣。易之上下往來皆以一爻升降為言,既有重出,則每卦必有二來,從其一則必舍其一,以《彖傳》附會之,有一合必有一不合。就其所謂一來者,尚有兩爻俱動,並其二來,則動者四爻矣。
朱子の卦変図は、一陰一陽と五陰五陽が彼此重出し、二陰二陽と四陰四陽が彼此重出し、《泰》と《否》もまた重出する。乾・坤両卦を除くほか、列せるものはなんと百二十四卦にのぼり、実に煩瑣にして堪えられない。《易》のいう上下往来は、いずれも一爻の昇降について言ったものである。重出がある以上、卦ごとに必ず二つの来歴があり、その一つに依従すれば必ず他の一つを捨てなければならず、《彖伝》に附会すれば、一カ所合えば必ず一カ所合わぬものがある。彼の言うあの一つの来歴について見ても、なお二爻が並び動くことを要する。二つの来歴を合わせて算すれば、動くものは四爻になる。
原諸儒卦變之意,所以明其自復、姤、臨、遯、否、泰、大壯、觀、夬、剝而來者,以其卦惟此一爻之故變為別卦,是以脈絡可尋而定為主變。使一卦之中頭緒紛然,爻爻各操其柄,則彼卦之體已不復存,猶可認其自某所而來乎?
諸儒が卦変を講じる本意を推究すれば、某卦は《復》《姤》《臨》《遯》《否》《泰》《大壮》《観》《夬》《剥》より変わって来たと指し示す所以は、これらの卦はこの一爻を変動するだけで別の卦を成すから、脈絡に跡があって尋ねるべく、故にそれらを主変の卦と定めたのである。もし一卦の中に頭緒が紛然として、爻ごとに各々変動の権を握るならば、その卦の本体はすでに存せず、なおどこから来たかを弁認できようか。
朱子雖為此圖,亦自知其決不可用,所釋十九卦《彖辭》盡舍主變之卦,以兩爻相比者互換為變:訟則自遯(二三相換),泰則自歸妹(三四相換),否則自漸(三四相換),隨則自困(初二相換)、自噬嗑(五上相換)、自未濟(初與二、五與上相換),蠱則自賁(初二相換)、自井(五上相換)、自既濟(初與二、五與上相換),噬嗑則自益(四五相換),賁則自損(二三相換)、自既濟(五上相換),無妄則自訟(初二相換),大畜則自需(五上相換),咸則自旅(五上相換),恆則自豐(初二相換),晉則自觀(四五相換),睽則自離(二三相換)、自中孚(四五相換)、自家人(二與三、四與五相換),蹇則自小過(四五相換),解則自升、升則自解(皆三四相換),鼎則自巽(四五相換),漸則自渙(二三相換)、自旅(四五相換),渙則自漸(二三相換)。凡十九卦,而主變者二十有七,或來自一卦,或來自兩卦三卦,多寡不倫,絶無義例。
朱子はこの図を作ったが、自らも決して用いるべからざるを知り、あの十九卦の《彖辞》を解するに当たり、ことごとく図中の主変の卦を撤き去り、隣接する二爻の互換を改めて用いて変を講じた。《訟》は《遯》より来る(二・三互換)、《泰》は《帰妹》より来る(三・四互換)、《否》は《漸》より来る(三・四互換)、《随》は《困》より来る(初・二互換)、《噬嗑》より来る(五・上互換)、《未済》より来る(初と二・五と上互換)、《蠱》は《賁》より来る(初・二互換)、《井》より来る(五・上互換)、《既済》より来る(初と二・五と上互換)、《噬嗑》は《益》より来る(四・五互換)、《賁》は《損》より来る(二・三互換)、《既済》より来る(五・上互換)、《无妄》は《訟》より来る(初・二互換)、《大畜》は《需》より来る(五・上互換)、《咸》は《旅》より来る(五・上互換)、《恒》は《豊》より来る(初・二互換)、《晋》は《観》より来る(四・五互換)、《睽》は《離》より来る(二・三互換)、《中孚》より来る(四・五互換)、《家人》より来る(二と三・四と五互換)、《蹇》は《小過》より来る(四・五互換)、《解》は《升》より来り《升》は《解》より来る(いずれも三・四互換)、《鼎》は《巽》より来る(四・五互換)、《漸》は《渙》より来る(二・三互換)、《旅》より来る(四・五互換)、《渙》は《漸》より来る(二・三互換)。釈せるものは合わせて十九卦にして、主変に充つるものはかえって二十七卦あり、あるいは一卦より来り、あるいは両卦三卦より来り、多寡は参差不齊、まったく義例に循うべきものなし。すなわち、彼が図上に定めたあれらの主変の卦は、経を解くに至ってはなんと一条も用いられなかったのである。
就以其法推之,此十九卦中朱子之所舉者亦有未盡:訟之自無妄(初二相換)、自巽(三四相換),隨之自既濟(三四相換),蠱之自未濟(三四相換),噬嗑之自未濟(初二相換)、自賁(三四相換)、自隨(五上相換),賁之自蠱(初二相換)、自噬嗑(三四相換),無妄之自家人(三四相換),大畜之自睽(三四相換),咸之自困(二三相換),恆之自井(四五相換),晉之自艮(三四相換)、自萃(五上相換),睽之自大畜(三四相換)、自兌(五上相換),蹇之自坎(二三相換)、自萃(三四相換)、自艮(五上相換),解之自震(初二相換)、自小過(二三相換)、自坎(四五相換),升之自明夷(初二相換),鼎之自離(初二相換)、自大過(五上相換),漸之自否(三四相換),渙之自益(初二相換)、自未濟(四五相換)。復得二十九卦,而兼之者不與焉。
彼のこの套の弁法に照らして下へ推せば、この十九卦の中に朱子の挙げたものはなお甚だ不完備である。《訟》はさらに《无妄》より来り得(初・二互換)、《巽》より来り得(三・四互換)、《随》はさらに《既済》より来り得(三・四互換)、《蠱》はさらに《未済》より来り得(三・四互換)、《噬嗑》はさらに《未済》より来り得(初・二互換)、《賁》より来り得(三・四互換)、《随》より来り得(五・上互換)、《賁》はさらに《蠱》より来り得(初・二互換)、《噬嗑》より来り得(三・四互換)、《无妄》はさらに《家人》より来り得(三・四互換)、《大畜》はさらに《睽》より来り得(三・四互換)、《咸》はさらに《困》より来り得(二・三互換)、《恒》はさらに《井》より来り得(四・五互換)、《晋》はさらに《艮》より来り得(三・四互換)、《萃》より来り得(五・上互換)、《睽》はさらに《大畜》より来り得(三・四互換)、《兌》より来り得(五・上互換)、《蹇》はさらに《坎》より来り得(二・三互換)、《萃》より来り得(三・四互換)、《艮》より来り得(五・上互換)、《解》はさらに《震》より来り得(初・二互換)、《小過》より来り得(二・三互換)、《坎》より来り得(四・五互換)、《升》はさらに《明夷》より来り得(初・二互換)、《鼎》はさらに《離》より来り得(初・二互換)、《大過》より来り得(五・上互換)、《漸》はさらに《否》より来り得(三・四互換)、《渙》はさらに《益》より来り得(初・二互換)、《未済》より来り得(四・五互換)。こうしてさらに二十九卦を増出し、なお兼ねて幾つかの来歴をもつものを算入しない。
此二十九卦者,以為有用乎,則為《彖辭》之所不及;以為無用乎,不應同一卦變,在一卦中,其可以附會《彖辭》者從而取之,其不可以附會《彖辭》者從而置之。朱子云「某之說卻覺得有自然氣象」者安在也?且易所謂往來上下者,自內之外謂往,自外之內謂來,上者上卦也,下者下卦也。今兩爻互換,同在內卦而謂之往,同在外卦而謂之來,同在上卦而曰下,同在下卦而曰上,即欲附會之而有所不能矣。是朱子之卦變兩者俱為無當,宜乎其說之不能歸一也。
この二十九卦は、用があると言えば?《彖辞》はまったく言及していない。用がないと言えば?同じく卦変でありながら、何を以て一卦の中で、《彖辞》に附会できるものは取用し、《彖辞》に附会できぬものは擱置して問わないのか。朱子は自らの講法を「却って自然の気象ありと覚ゆ」と言うが、その自然の気象は一体どこにあるのか。況んや《易》のいう往来上下は、内卦より外卦へ行くを「往」と言い、外卦より内卦へ来るを「来」と言い、「上」は上卦を指し、「下」は下卦を指す。今二爻を互換して、同じく内卦にありながら「往」と言い、同じく外卦にありながら「来」と言い、同じく上卦にありながら「下」と言い、同じく下卦にありながら「上」と言うのは、附会せんと欲しても附会し得ない。これを以て朱子の卦変は、図上に定めた主変の卦にせよ、経を解くに当たり別に立てた二爻互換の法にせよ、両方面とも講じ通せず、彼の説が終始一致に帰せぬも無理はない。
按:邵子言重卦不易者八,反覆者二十八,以三十六變而為六十四,卦變之義數言盡之矣,據此以釋《彖傳》亦足矣。李挺之相生圖已傷煩碎,況朱子之所定乎?棃洲一一指擿,無微不彰。但朱子専取十九卦者,第就《彖傳》所謂剛柔往來上下內外者而求之,其它則未暇及。棃洲續舉諸卦中,唯損、益二卦似不當遺,何也?《彖傳》曰「損剛益柔」,又曰「損下益土,其道上行」,又曰「損上益下,自上下下」,則剛柔上下之義備矣,正可與十九卦並舉,何獨遺之?其它只言剛柔而不言往來上下,則其義即本卦可見,不必求之卦變,固不在此例。
胡渭按語:邵雍は重卦の中に変易すべからざるもの八つあり、反復倒転し得るもの二十八対あり、三十六変を用いて六十四卦を成すと言う——卦変の義理は、数言にして説き尽くされ、これに拠って《彖伝》を解釈すれば足用である。李之才の相生図はすでに煩瑣に失し、況んや朱子の釐定したこの一套をや。黄宗羲(梨洲)が一條々々指摘するや、微に至りて顕れざるなし。ただ朱子が十九卦のみを取ったのは、専ら《彖伝》の講じる剛柔往来上下内外の処に就いて寻求したので、其余は顧みるに及ばなかったのである。梨洲が続けて挙げたあの卦の中で、《損》《益》両卦のみは遺漏すべからざるが如きは、何を以てか。《彖伝》は「剛を損して柔を益す」と言い、また「下を損して上を益す、その道上行す」と言い(原文の「上」は誤って「土」と作る)、また「上を損して下を益し、上より下る」と言い、剛柔上下の義はすでに完備し、まさにあの十九卦と並び挙ぐべきなのに、何を以て単にそれらを漏らすか。其余の卦は剛柔のみ講じて往来上下を講じざれば、その意は本卦上に見るべく、卦変の中に求むるを要せず、もともとこの例の内に在らず。
然朱子欲以卦變附先天之後,當仍用李氏反對圖,猶不失希夷本指;今乃據相生圖以更定其法,煩碎甚於李氏,而及其釋經也,則又舍反對之卦,而泛泛焉以兩爻相比者互換為變,往來上下訖無定法,亦安用此圖為也?
しかるに朱子は卦変を先天諸図の後に附せんと欲する以上、なお旧来の通り李之才の《変卦反対図》を採用すべきで、さすればなお陳抟一系の本旨を失わざるに、今却って《六十四卦相生図》に依拠して別に一套の弁法を定め、李之才よりさらに煩瑣にして、実際に経を解くに至っては、また反対の卦を抛き去り、泛泛として隣接二爻の互換を以て変を講じ、往来上下は終始定法なし——さらばこの図を要して何の用かあらん。
經於六十四卦之首各列二體六畫,即卦變圖也,剛柔往來之義開卷瞭然,何以別圖為?或曰:誠用反對,則每卦必顛倒視之而後可以知《彖傳》之所謂,不亦勞乎?余曰:人之眼光雖至短,兩卦相去尺幅間,豈不能兼矚,而必須顛倒以視之?此言真兒童之見,疑乎其所不足疑。
経文は六十四卦の卦ごとの冒頭に、各々上下両体・六画の卦形を列出す。それ自体が一幅の卦変図で、剛柔往来の義は書を開けば一目瞭然、何ぞ必ずしも別に図を画かん。ある人問うて曰く、果たして反対の法を採用せば、卦ごとに皆倒して看て、然る後に《彖伝》の講じる所を解すべく、あに太だ事を費やさざらん。我答えて曰く、人の眼光は再び短しとも、両卦相隔つるは尺幅の間に過ぎず、あに併せ見る能わずして、必ず書を倒転して看るを要せんや。この種の話は真に児童の見で、もともと疑うに足らぬ事を取りて疑うものである。
右論朱子卦變。
以上の一節は、朱熹《周易本義》の定めた卦変図の煩瑣と疏失を考弁するものである。
易図明辯 巻十 徳清胡渭撰
象数流弊
《本義》圖說曰:「右《易》之圖九。有天地自然之易,有伏羲之易,有文王、周公之易,有孔子之易。自伏羲以上皆無文字,只有圖畫,最宜深玩,可見作《易》本原精微之意。文王以下方有文字,即今之《周易》。然讀者亦宜各就本文消息,不可便以孔子之說為文王之說也。」
南宋の朱熹が《周易本義》巻首の九幅の図の後に作った総説は講じて曰く、以上に列せる《易》図は合わせて九幅。易学は幾つかの層次に分かれる:天地自然に生成する易あり、伏羲が卦を画いた易あり、文王・周公が辞を繫いだ易あり、孔子が伝を作った易あり。伏羲より上は未だ文字なく、図画のみあり、この一層は最も深く玩味すべく、その中より聖人が《易》を創作した本原と精微なる用心を見出すべし。文王以下より文字あり、これがすなわち今伝わる《周易》である。ただ《易》を読む者もまた各々層ごとの本文に就いてその中の消長の義理を体会すべく、径く孔子の説法を以て文王の説法と為すこと能わざる。
震川歸氏《易圖論》曰:「夏為《連山》,商為《歸藏》,周為《周易》,經別之卦,其數皆同。雖三代異名,而伏羲之易,即《連山》而在《連山》,即《歸藏》而在《歸藏》,即《周易》而在《周易》,未嘗別有所謂伏羲之易也。後之求之者,即其散見於《周易》之六十四卦者是已。」又曰:「以圖說《易》自邵子始。吾怪夫儒者不敢以文王之易為伏羲之易,而乃以伏羲之易為邵子之易也。」
明代の震川先生帰有光は《易図論》の中に曰く、夏代の易は《連山》と言い、商代の易は《帰蔵》と言い、周代の易は《周易》と言い、正経と別卦の数は皆相同じ。三代は名称こそ異なれど、伏羲の易はその中に寄寓する——《連山》に就いて言えば《連山》の中に在り、《帰蔵》に就いて言えば《帰蔵》の中に在り、《周易》に就いて言えば《周易》の中に在り、従来別に単独に存在するいわゆる伏羲の易はない。後人が伏羲の易を寻求せんとすれば、《周易》六十四卦の中に散見する処に求めればよいのである。帰有光また曰く、図を以て《易》を解説するは、北宋の邵雍に始まる。我はあの儒者たちが文王の易を以て伏羲の易と為すを敢てせず、却って偏に伏羲の易を以て邵雍の易と為すを怪しむ。
按:《本義》卷首列九圖於前,而總為之說。所謂天地自然之易,《河圖》《洛書》也;伏羲之易,先天八卦及六十四卦次序、方位也;文王之易,後天八卦次序、方位及六十四卦之卦變也(《本義》卦變圖,朱子為釋《彖傳》而作,非康節反對之旨,故屬之後天)。是皆著為圖者。
胡渭按語:《周易本義》は巻首にまず九幅の図を列して、然る後に総べて説明を加えた。朱熹の言う「天地自然の易」は、《河図》と《洛書》を指す。言う所の「伏羲の易」は、先天八卦および六十四卦の次序図・方位図を指す。言う所の「文王の易」は、後天八卦の次序図・方位図および六十四卦の卦変図を指す(《本義》の中の卦変図は、朱熹が《彖伝》を解釈するが為に作ったもので、邵雍のあの両卦が相互に顛倒する「反対」の義ではない。故に後天の一類に帰する)。これらはいずれも図に画かれた部分である。
伏羲有畫而無辭,文王擊彖,周公繫爻,孔子作十翼,皆遞相發揮以盡其義,故曰「聖人之情見乎辭」。辭者,所以明象數之難明者也。而朱子顧以為三聖人之易専言義理,而象數闕焉,是何說與?且易之所謂象數,蓍卦焉而已。卦主象,蓍主數;二體六畫,剛柔雜居者,象也;大衍五十,四營成易者,數也。經文粲然,不待圖而明。若朱子所列九圖,乃希夷、康節、劉牧之象數,非易之所謂象數也,三聖人之言胡為而及此乎?
伏羲は卦画のみあって文辞なく、文王は卦辞を撰作し、周公は爻辞を繫げ、孔子は《十翼》を書き成して、一層々々継ぎて発揮し、易理を講じ尽くした。故に《繋辞伝》は「聖人の情は辞に見る」と言う。文辞はまさに象と数の中の明らかにし難き処を説明するに用いるものである。しかるに朱熹は却って文王・周公・孔子三位の聖人の易は専ら義理を講じ、象数はこれを闕如に付すと認めるとは、これは何の説法か。況んや《易》のいう象と数は、蓍と卦に過ぎぬ。卦は象を主管し、蓍は数を主管す。上下両体・六爻の画に剛爻柔爻交錯排列するは、これがすなわち「象」であり、大衍の数五十にして四つの程序を経て一変を成すは、これがすなわち「数」である。経文は明白白々、図に頼らずとも読み通せる。朱熹の列せる九幅の図に至っては、あれは陳抟・邵雍・劉牧一系の象数で、《易》自体の言う象数ではない。三位の聖人の言はかつてこの上に説き及んだことがあろうか。
伏羲之世,書契未興,故有畫而無辭。延及中古,情偽漸啟,憂患滋多,故文王繫彖以發明伏羲未盡之意,周公又係爻以發明文王未盡之辭,一脈相承,若合符節。至於孔子,紹聞知之統,集群聖之大成,論者以為生民所未有。使伏羲、文王、周公之意而孔子有所不知,何以為孔子?既已知之而別自為說以求異於伏羲、文王、周公,非述而不作之指也。然則伏羲之象得辭而益彰,縱令深玩圖畫而得其精微,亦不外乎文王、周公、孔子所言之理,豈百家眾技之說所得而竄入其中哉?九圖雖妙,聴其為易外別傳,勿以冠經首可也。
伏羲の時代は文字書契が未だ興らず、故に卦画のみあって文辞なし。中古に至り、人情の真偽は漸く滋生し、憂患もまた一天天に増多し、故に文王は卦辞を撰作して伏羲の言い尽くさざる用意を闡発し、周公はまた爻辞を繫げて文王の言い尽くさざる言を闡発し、前後一脈相承けて、符節の相合するが如く厳然として隙なし。孔子に至っては、前聖の聞知する所の統緒を承け、衆聖の大成を集め、論ずる者は生民以来未だ曾て有らざる人物と為す。仮に伏羲・文王・周公の用意を孔子が竟に知らざる所あらば、彼は何を以て孔子と称せん。もしすでに知りて、却って別に一套の説法を立てて伏羲・文王・周公に異を求めんとすれば、則ち彼の「述べて作らず」の宗旨に合わぬ。これを以て見れば、伏羲の卦象は文辞あるが故にいよいよ顕豁となり、たとえ深く図画を玩してその中の精微を領会するも、文王・周公・孔子の講じた道理を超出せず、諸子百家の方術の説はまたどうして羼雑し入ることを得んや。九幅の図はたとえ精妙なるも、それを《易》以外の別伝としておけばよい。これを経文の前頭に冠する勿れ。
右論四聖之易。
以上の一節は、伏羲・文王・周公・孔子四位の聖人の易の伝承関係を弁論するものである。
《宋史·隠逸傳》:陳摶字圖南,亳州真源人。始四五歲,戲渦水岸側,有青衣媼乳之,自是聰悟日益。及長,讀經史百家之言,一見成誦,悉無遺忘,頗以詩名。後唐長興中,舉進士不第,遂不求祿仕,以山水為樂。自言嘗遇孫君仿、麞皮處士二人者,髙尚之人也,語摶曰:「武當山九室巖可以隠居。」摶往棲焉,因服氣辟穀,歴二十餘年,但日飲酒數杯。移居華山雲臺觀,又止少華石室,每寢處多百餘日不起。
《宋史・隠逸伝》に記載す:陳抟は字を図南といい、亳州真源県の人。彼は四五歳の時に渦水の岸辺で戯れて、一人の青衣を着た老婦が彼に乳を飲ませ、これより一天天に聡明頴悟となった。長じて後、経書・史書および諸子百家の著作を読み、一遍見れば即ち誦じ得て、まったく遺忘せず、詩にも頗る名声あり。後唐長興年間、彼は進士の試験に参加して中せず、遂に官禄を謀ることを再びせず、山水を游賞するを以て楽しみと為す。彼自ら言うに、曾て孫君仿・麞皮処士两位の高尚の士に遇い、あの両人は彼に対し、「武当山の九室岩は隠居すべし」と言った。陳抟は即ち往きてその中に栖身し、これより服気の術を修習し、穀食を断絶し、前後二十余年、毎日ただ数杯の酒を飲むのみ。後に華山雲台観に移居し、また少華山の石室に住み、躺臥安寝するごとに往々にして百余日も起身せず。
周世宗好黃白術,有以摶名聞者。顯徳三年,命華州送至闕下,留止禁中月餘,從容問其術。摶對曰:「陛下為四海之主,當以致治為念,奈何留意黃白之事乎?」世宗不之責,命為諫議大夫,固辭不受。既知其無他術,放還所止,詔本州島長吏歲時存問。
後周の世宗柴栄は金銀を焼錬する「黄白術」を好み、ある人が陳抟の名声を彼に報告した。顕徳三年、世宗は華州に命じて陳抟を京城に送らせ、宮中に留住すること一箇月余、从容として彼の方術を詢問した。陳抟は答えて曰く、「陛下は四海の主たり、天下を治理するを以て心に置くべし、何ぞ却って金銀を焼錬するこの類の事に留意せんや」と。世宗は彼を責めず、諫議大夫に任命したが、彼は堅く推辞して受けず。世宗は彼に別の方術なきを弄清楚し、彼を原の住処に放して帰し、併せて詔を下して本州の長官に時節に按じて前に慰问せよと命じた。
太平興國中來朝,太宗待之甚厚。九年復來朝,上益加禮重,謂宰相宋琪等曰:「摶獨善其身,不乾勢利,所謂方外之士也。摶居華山已四十餘年,度其年經百歲。自言經承五代離亂,幸天下太平,故來朝覲。與之語甚可聴。」因遣中使送至中書。
太平興国年間に陳抟は入朝し、宋太宗は彼を待つこと非常に優厚なり。太平興国九年に彼は再び入朝し、太宗はいよいよ礼遇し看重し、宰相の宋琪らに対し曰く、「陳抟はただ独りその身を善くするを求め、権勢利禄を追逐せず、いわゆる方外の士なり。彼の華山に住するやすでに四十余年、年紀を估算すれば百歳を過ぐ。彼自ら言うに、身自ら五代の離乱を経歴し、今天下の太平なるを幸い、故に前に朝見し来ると。彼と談話するは甚だ聴くに値す」と。遂に宮中の使者を遣わして彼を中書省に送らしめた。
琪等從容問曰:「先生得玄黙修養之道,可以教人乎?」對曰:「摶山野之人,於時無用,亦不知神仙黃白之事、吐納養生之理,非有方術可傳。假令白日沖天,亦何益於世?今聖上龍顏秀異,有天人之表,博達古今,深究治亂,真有道仁聖之主也。正君臣協心同徳、興化致治之秋,勤行修煉,無出於此。」琪等稱善,以其語白上,上益重之。下詔賜號希夷先生,仍賜紫衣一襲,留摶闕下數月,放還山。
宋琪らは从容として問うて曰く、「先生は玄黙修養の道法を得たり、人に教え授くべきか」と。陳抟は答えて曰く、「我は山野の人、当世に対し用なく、また神仙焼錬の事および吐納養生の理を解せず、併せて传授すべき方術なし。たとい白日飛升し得るとも、世道に対し何の益かあらん。今聖上は龍顔秀異にして天人の儀表あり、古今に博通し、治乱の理を深究す、真に有道の仁聖の君なり。まさに君臣同心同徳にして教化を振興し、治世を成就すべき時に当たり、勤行修錬を言わば、これより要緊なるはなし」と。宋琪らは彼の言うを善しと称し、この番の話を太宗に報告す。太宗はいよいよ彼を看重した。遂に詔を下して「希夷先生」の号を賜い、また紫衣一領を賜い、陳抟を京城に留めること数箇月にして、才めて彼を山に放ち帰した。
端拱初,忽謂弟子蔣徳升曰:「汝可於張超谷鑿石為室,吾將憩焉。」二年秋七月,石室成。摶手書數百言為表,其略曰:「臣摶大數有終,聖朝難戀,已於今月二十二日化形於蓮華峰下張超谷中。」如期而卒,經七日支體猶溫,有五色雲蔽塞洞口,彌月不散。
端拱初年、陳抟は忽然として弟子の蒋徳升に対し曰く、「汝は張超谷に至りて石を鑿ちて室と為すべし。我はまさにあそこに安息せんとす」と。端拱二年秋七月、石室は鑿成した。陳抟は親ら数百字を写して上表と為し、大意は曰く、「臣陳抟は大限すでに至り、聖朝に眷恋すと雖も久留し難く、すでに本月二十二日に蓮華峰下の張超谷中に化形して去れり」と。彼は果たして期の如く去世し、七日を過ぐとも肢体はなお温く、五色の祥雲ありて洞口を遮り、整整一箇月も散らず。
摶好讀《易》,手不釋卷,常自號扶搖子,著《指玄篇》八十一章,言導養及還丹之事,宰相王溥亦著八十一章以箋其指。摶能逆知人意。齋中有大瓢掛壁上,道士賈休復心欲之,摶已知其意,謂休復曰:「子來非有他,蓋欲吾瓢耳。」呼侍者取以與之,休復大驚,以為神。
陳抟は《易》を読むを好み、手に巻を釈かず、常に自ら「扶揺子」と号し、《指玄篇》八十一章を著し、講ずる所は導引養生および還丹を錬るの事で、宰相の王溥もまた八十一章を写してその意旨を注釈した。陳抟は能く予め人の心の中に想う所を知る。彼の書斎の中に一隻の大葫蘆ありて壁上に挂り、道士の賈休復は心の中にこれを欲し、陳抟はすでに彼の心思を看破し、彼に対し曰く、「汝の来るは別の事なく、過ぎず我のこの隻の葫蘆を欲するのみ」と。便ち侍者を叫んで取り下げて彼に与えしめ、賈休復は大いに驚き、彼を以て神人と為した。
有郭沆者,少居華陰,夜宿雲臺觀,摶中夜呼令趣歸,沆未決,有頃復曰:「可勿歸矣。」明日沆還家,果中夜母暴得心痛幾死,食頃而愈。華陰隠十李琪,自言唐開元中郎官,已數百歲,人罕見者。闗西逸人呂洞賓有劍術,百餘歲而童顏,步履輕疾,頃刻數百里,世以為神仙,皆數來摶齋中,人咸異之。
郭沆と叫ぶ人あり、年少の時に華陰に住し、一夜雲台観に留宿すれば、陳抟は夜半に彼を叫んで速やかに家に帰れと言い、郭沆は猶豫定まらず、しばらくして陳抟また曰く、「帰らざるを必せざる可し」と。翌日郭沆は家に帰り着き、果たして夜半に彼の母は突然心痛してほとんど死せんとし、一頓の飯の工夫を過ぎてまた好くなった。華陰の隠士李琪は、自ら唐代開元年間の郎官と称し、すでに数百歳を活き、人に見られること少なし。関西の逸人呂洞賓は剣術あり、百余歳にして面色童子の如く、走ること軽捷迅疾にして、頃刻の間に数百里を行き得て、世人は皆彼を以て神仙と為す。これらの人は皆屢々陳抟の書斎に来至り、当時の人は奇異を感ぜざるなし。
錢希白《洞微志》曰:上即位初,鄧州觀察使錢太博若水,雍容文雅,亦近世竒士,堅乞罷樞務,遂拜禮部貳卿,充集賢院學士。其日晚,餘往謁賀,諸客退,獨相留後廳同坐,因云:某初應舉欲求解,遂往華陰謁陳先生,通刺後蒙倒屣相迎。臨出執手,約後十日卻相訪。至期徑往,迎入山齋,地爐中已先有一僧擁衲對坐,某揖之,寒暄之禮亦甚簡傲。少年壯氣,頗不平之。良久,僧熟視某而謂陳曰:「無此骨法。」二公皆微笑,雖驚異其言而不敢詢問。更有他客至,乃逡巡先退。
北宋の銭易(字は希白)は《洞微志》の中に記載す:今上が剛く即位した時、鄧州観察使・太子中允の銭若水は気度雍容にして文雅観るべく、また近世の奇士なり。彼は堅く枢密の職を解除せんことを請い、遂に礼部侍郎に改授し、集賢院学士を充任した。その日の傍晚、我は前に往きて賀を道い、別の客人は皆退下した後、彼は単独に我を後厅に留めて一起に坐り、遂に言うて曰く、我は当初挙に応じて解送の資格を求めんと欲し、便ち華陰に至りて陳抟先生を拝謁し、名帖を遞上すれば、彼に倒屣して出迎へるを蒙った。臨去の時彼は我の手を握り、約定して十日以後再び来りて相訪せよと。期に至り我は径く前に往き、山斎に迎え入れられ、ただ地炉の辺にすでに先に一人の僧人ありて衲衣を披りて対坐するを見、我は彼に揖を作して礼を行えば、彼の寒暄の礼数もまた十分に簡慢傲然たり。我はあの時年少気盛にして、心の中に頗る平らならず。好くしばらく過ぎて、あの僧人は仔細に我を端詳し、陳抟に対し曰く、「この副の骨相なし」と。两位は皆微微として一笑し、我はこの話に驚異すと雖も、敢て追問せず。この時また別の客人到來すれば、我は便ち遅疑して先に告退した。
次日,某獨往見陳,且問僧名及言者何事。陳曰:「此即白閣道者也,道行髙潔,學通天人,至於知人尤為有神仙之鑑。欲勸留學道,中心不決,遂請道者質疑。他云:見足下非神仙骨法,學道亦不能成,但卻得好官,能於急流中勇退耳。又云:他本在太白山,累歲方一到此。」某再求見,終不可得。人生萬事,知不可以力取。(張端義《貴耳集》云:僧即麻衣道者。)
翌日、我は独り陳抟に見え、併せてあの僧人の名字および彼のあの話を言うは何の意かを問うた。陳抟は曰く、「あれはすなわち白閣道者、道行は高潔にして、学問は天人を貫通し、識鑑人物に至っては、尤も神仙の如き眼力あり。我本より汝を勧めて留めて道を学ばんと欲したが、心の中に主意を拿えず、便ち道者を請うて我に疑を解かしめた。彼曰く、足下を看るに併せて神仙の骨相なく、道を学ぶも成就する能わず、ただ好き官を做すことを得るのみ、併せて能く急流の中に勇退し得べしと。彼また曰く、自ら本来太白山に住し、数年好くして才来りて此処に一度来ると」。銭若水は再びあの僧人に見えんことを求めたが、終に見うること能わず。人生の万事、これを以て気力を憑みて強く求めて得るにあらざるを知るべし。(南宋の張端義《貴耳集》は曰く、あの僧人はすなわち麻衣道者なり。)
按:希夷,老氏之徒也。著《指玄篇》,言導養還丹之事,則其能養生也可知矣。觀賈、郭二事及預決亡日,則其能知來也可知矣。養生,魏伯陽之學也;知來,管輅、郭璞之術也。至所與遊者多異人,化形之後有異徵,則其為神仙者流又可知矣。先天圖於造化陰陽之妙,不無所窺見,要之為道家之易,而非聖人之易,其可以亂吾經邪?
胡渭按語:陳抟は道家の老子一派の人物である。彼が《指玄篇》を著して、導引養生および還丹を錬るの事を講ずるを見れば、彼が養生に擅長なるを知るべし。彼の賈休復・郭沆両件を看破し、および予め自らの去世の日を算定するを見れば、彼が未来を預知し得るを知るべし。養生は、東漢の魏伯陽《周易参同契》一路の学問である。未来を預知するは、三国の管輅・晋代の郭璞あの一路の術数である。彼と交往するは多く異人にして、死後にまた異常の兆ありとすれば、則ち彼の神仙一流に属するもまた想い知るべし。先天図は造化陰陽の奥妙に対し、まったく窺見なしとは言えざれど、帰根到柢すればあれは道家の易で、聖人の易にあらず、どうしてこれを以て我らの経書を攪乱せんことを得んや。
朱子《答蔡季通書》曰:陰君丹訣,見濓溪有詩及之,當是此書(《雲笈七籖》載《陰真君傳》,言陰長生者,新野人也,師事馬明生,受太清金液神丹,白日昇天,臨去著書九篇。又陰真君自序曰:惟漢延光元年,新野山之子受仙君神丹要訣,道成去世,副之名山。蓋即此所謂陰君丹訣也。濂溪學本希夷,留心丹道,此亦其一證)。
朱熹が蔡元定(字は季通)に回復する信の中に曰く、いわゆる「陰君丹訣」は、我は周敦頤にそれを提到する詩あるを見、まさにこの部の書なるべし。(胡渭注:《雲笈七籤》に《陰真君伝》を載せ、陰長生は新野の人にして、馬明生を師と拝し、太清金液神丹の法を授けられ、白日に飛升し、臨去の時に書を著して九篇と言う。また陰真君の自序は曰く、漢代の延光元年に新野山の子は仙君の神丹要訣を領受し、道成りて去世し、別に一本を抄して名山に蔵すと。これは大概此処の言う「陰君丹訣」ならん。周敦頤の学は本より陳抟より出で、丹道に留心するも、これもまた一条の証拠である。)
彼之行此而壽考,乃吃豬肉而飽者。吾人所知,蓋不止此,乃不免於衰病,豈坐談龍肉而實未得嘗之比邪?《魏書》一哥已刻就,前日寄來此,必寄去矣。校得頗精,字義音韻皆頗有據依,逺勝世俗傳本,只欠教外別傳一句耳。
あの人々がこの如く修錬して高寿を得たるは、真に豚肉を喫りて飽き足りた人である。我らの懂得する道理はもともとこれに止まらず、なお衰老多病を免れざるは、これあに正に坐して空しく龍肉を談じて実際には一口も嘗めたことなき人に似ずや。魏伯陽のあの部の書(すなわち《周易参同契》)は、一哥はすでに刻成し、先日我が処に寄到せり、想你にもまたすでに寄り到せり。校勘は相当に精審にして、字義音韻は皆大いに依拠あり、世間に通行する本子に遥かに勝り、ただ教外別伝のあの一句を欠缺するのみ。
《書周易參同契考異後》曰:魏君,後漢人。篇題蓋仿緯書之目,詞韻皆古,與雅難通,讀者淺聞,妄輒更改,故比他書尤多舛誤。今合諸本更相讎正,其間尚多疑晦,未能盡祛,姑據所知寫成定本,其諸同異因悉存之,以備參訂雲。空同道士鄒欣。
朱熹《書周易参同契考異後》は曰く、魏伯陽は後漢の人。この部の書の篇題は大概緯書の名目を模倣し、文詞声韻は皆甚だ古奥にして、雅正の文体と貫通し難く、読者は見聞浅陋にして、往々にして擅自更改するを以て、別の書より錯訛は尤も多し。今各種の本子を合せて互相に校勘訂正し、その中になお少なからず疑難晦澀の処ありて、未だ全部祛除する能わざれば、姑く自ら知る所に依拠して定本を写し、各本の異同は則ち一併に保存して、参考訂正に備ふ。文末の落款は「空同道士鄒欣」と題す。
(雙湖胡氏曰:鄒欣即公姓名。向解者以為「鄒」者「朱」之轉,「欣」者「熹」之轉耳。後據《考異》本原有注云:按鄒本春秋邾子之國,《樂記》云「天地欣合」,鄭氏注「欣」當作「熹」,則「鄒欣」二字即「朱熹」二字,他人不解也。)
(胡渭注:元代の双湖先生胡一桂は曰く、「鄒欣」はすなわち朱熹本人の姓名である。昔これを解する者は「鄒」は「朱」の音転、「欣」は「熹」の音転と以為す。後に《参同契考異》の本子のもとある注文に拠れば曰く、鄒はもともと春秋時の邾子の国の国名で、《礼記・楽記》に「天地欣合」の一語あり、鄭玄の注は「欣」はまさに「熹」と作るべしと言い、さらば「鄒欣」の二字はすなわち「朱熹」の二字で、ただ別人は看懂せざるのみ。)
《題袁機仲所校參同契後》曰:予頃年經行順昌,憩篔簹鋪,見有題「煌煌靈芝,一年三秀,予獨何為,有志不就」之語於壁間者,三復其詞而悲之,不知題者何人,適興予意會也。慶元丁巳八月七日(時朱子年六十八),再過其處,舊題固不復見,而屈指歲月,忽忽餘四十年,此志真不就矣。道間偶讀此書,並感前事,戲題絶句:「鼎鼎百年能幾時,靈芝三秀欲何為。金丹歲晚無消息,重嘆篔簹壁上詩。」晦翁。
朱熹《題袁機仲所校参同契後》は曰く、我は往年順昌を路過し、篔筜鋪に歇脚して、墻壁上に「煌煌たる霊芝は、一年に三秀す、予独り何を為さん、志有りて就らず」の幾句の題するを見、反復して三度吟誦して之が為に感傷し、題写するは何人なるかを知らず、恰好我と心意相合せり。慶元丁巳年八月初七(その時朱熹は六十八歳)、我は再びあそこを経過すれば、旧日の題字は自然にすでに看るべからず、屈指して算えば、忽忽としてすでに四十余年を過ぎ、この志向は真に実現せざりき。途中偶然《参同契》のこの部の書を読み、また往事を感慨して、戯れに一首の絶句を題す:匆匆たる百年は能く幾久あらん、霊芝は一年に三秀してまた何を為さんと要す、金丹の事は晚年に至るもなお消息なく、ただ能く再び篔筜鋪壁上のあの詩を為に嘆息するのみ。署名は晦翁。
《調息箴》曰:鼻端有白,我其觀之。隨時隨處,容與猗移。靜極而噓,如春沼魚;動極而翕,如百蟲蟄。氤氳開闢,其妙無窮,孰其尸之,不宰之功。雲臥天行,非予敢議,守一處和,千二百歲。
朱熹《調息箴》は曰く、鼻尖の上に一点の白あり、我は即ち神を凝らしてそれを観照す。時に随い処に随い、从容自在にして舒緩に運転す。静の極処に至りて呼気すれば、春天池沼の中の魚の吐息するが如く、動の極処に至りて吸気すれば、百虫の蟄伏する時の収斂するが如し。一氤一氲、一閉一開、その中の妙用は無窮、是れ誰か之を主宰する。あれは正に主宰する所なき自然の功なり。雲の如く高卧し天の如く運行する境界は、我が敢て妄りに議論せざる所、ただこの「一」を守りて中和に安処すれば、能く寿一千二百歳を享くべし。
《答王子耕書》曰:病中不宜思慮,凡百可且一切放下,専以存心養氣為務,但跏趺靜坐,目視鼻端,注心臍腹之下,久自溫暖,即漸見功效矣。
朱熹《答王子耕書》は曰く、生病の期間は多く思慮するに適せず、一切の事情は皆暫く放下すべく、専ら心神を存養し元気を涵養するを以て要務と為せ。ただ跏趺を結んで静坐し、両眼は鼻尖を注視し、心念を臍腹以下に凝注せば、時間一久しければあそこは自然に温暖し起りて、即ち漸々に効功を見るに至る。
按:養生、知來,皆希夷之能事,而朱子獨有取於養生者,蓋衰年病侵,欲藉是以卻之,使徳業更有所進耳。觀鼻端之白,嘆壁上之詩,疑龍鮓之難嘗,羨豬肉之易飽,所謂寓意於物而不留意於物也。故金丹之訣,不惟知之,而身欲試之。撰《參同契考異》,託名空同道士鄒欣;而序《啟蒙》則曰云臺真逸,跋《道徳經》則曰云臺子;及其奉祠雲臺也,又寄陸子靜書云:「熹衰病,幸叨祠祿,遂為希夷直下諸孫,良以自慶。」其嚮慕之誠如此,此《太極真圖》所以期於必得也。坎離龍虎,未必非易中之一義,但不可謂易専為是而作耳。
胡渭按語:養生と未来を預知するは、皆陳抟の看家の本領にして、朱熹は単にその中の養生の一項を取用す、大概は年老多病なるが為、これを借りて病を駆き去りて、徳業をしてなお長進有らしめんと欲するのみ。彼の鼻端の白を凝視し壁上の詩を嘆息し、「龍肉」は嘗め難しと懐疑し「豚肉」は飽き易しと羨慕するを看れば、これがすなわちいわゆる「物に意を寓して物に意を留めず」である。故に金丹の口訣に対しては、彼はただ知るのみならず、なお親身に一試せんと欲す。彼が《周易参同契考異》を撰すに、名を托して「空同道士鄒欣」と為し、《易学啓蒙》の序を作れば則ち自ら「雲台真逸」と署し、《道徳経》の為に跋を作れば則ち自ら「雲台子」と署し、彼が雲台観の祠禄を主管するに及ぶに至っては、また陸九淵に信を寄せて曰く、「我は衰老多病にして、幸いに忝くも祠禄を領し、遂に希夷先生の嫡系の子孫と為り、実に自慶に値す」と。彼が陳抟を傾慕する誠意はこの地步に至る、これがすなわち彼の《太極真図》に対し必ず手に入れんと要する所以である。坎離龍虎あの一套は、必ずしも《易》の中の一層の義理と算せざるにあらず、ただ《易》は専らこの為に作られたと言う能わざるのみ。
右論陳希夷。
以上の一節は、陳抟その人その学と《易》図との関係を弁論するものである。
《宋史·道學傳》:邵雍字堯夫,其先范陽人,父古徙衡漳,又徙共城。雍年二十遊河南,葬其親伊水上,遂為河南人。雍少時自雄其才,慷慨欲樹功名,於書無所不讀。始為學,即堅苦刻厲,寒不爐,暑不扇,夜不就席者數年。已而嘆曰:「昔人尚友于古,而吾獨未及四方。」於是踰河、汾,涉淮、漢,周流齊、魯、宋、鄭之墟。久之,幡然來歸曰:「道在是矣。」遂不復出。
《宋史・道学伝》に記載す:邵雍は字を堯夫といい、祖先は范陽の人、父の邵古は衡漳に遷り、後にまた共城に遷った。邵雍は二十歳の時に河南を游歴し、父母を伊水の上に安葬し、遂に河南の人となった。邵雍は年少の時に自ら其の才に負い、慷慨激昂して功名を建立せんと欲し、書を読むに渉猟せざるなし。彼の学を始るや、即ち艱苦刻厲にして、冷たき天に炉火を生せず、熱き天に扇子を用いず、夜に上床して睡らず、此の如くにして数年を過ごした。後に彼は嘆息して曰く、「古人はなお上に古人を友とし、我は而も四方を走り歩いたことすらなし」と。遂に黄河・汾水を渡り、淮河・漢水を跋涉し、斉・魯・宋・鄭の故地を遍く游歴した。久しく過ぎて、彼は幡然として醒悟して帰り来りて曰く、「道は即ち此処に在り」と。これより再び外出せず。
北海李之才攝共城令,聞雍好學,嘗造其廬,謂曰:「子亦聞物理性命之學乎?」雍對曰:「幸受教。」乃事之才,受《河圖》《洛書》、宓羲八卦六十四卦圖象。之才之傳,逺有端緒,而雍探賾索隠,妙悟神契,洞徹蘊奧,汪洋浩博,德其所自得者。及其學益老,徳益劭,玩心髙明,以觀天地之運化、陰陽之消長,逺而古今世變,微而走飛草木之性情,深造曲暢,庶幾所謂不惑,而非依仿象類、億則屢中者。遂衍宓羲先天之旨,著書十餘萬言行於世,然世之知其道者鮮矣。
北海の人李之才は共城県令を代理し、邵雍の学を好むを聞き、曾て門に登りて造訪し、彼に対し曰く、「汝は物理性命の学問を研究することを聞いたことあるか」と。邵雍は答えて曰く、「領教せんことを願う」と。遂に李之才を師と拝し、《河図》《洛書》および伏羲八卦・六十四卦の図象を接受した。李之才のこの一系の伝授は、源流久遠にして頭緒の尋ねるべきあり、邵雍は幽深を探究し隠微を索求し、妙悟神会して、その中の蘊奥を徹底に看透し、学問は汪洋浩博にして、多くは彼自ら体悟して得たる所なり。彼の学問の愈々老練し徳行の愈々美盛なるに及び、高明の境に用心して、以て天地の運化・陰陽の消長を観察し、遠くは古今世事の変遷、細は飛禽走獣草木の性情に至るまで、皆钻研すること深透にして曲尽し、差不多ばいわゆる「不惑」ならんと、而もあの依様に物類を比附し猜测を憑みて屢々言中する路数にあらず。遂に彼は伏羲先天の学の宗旨を推衍し、書を著すこと十余万字にして世に流行す、然るに世の中に彼の学問を懂得する者は少なし。
熙寧十年卒,年六十七,贈秘書省著作郎,元佑中賜諡康節。雍髙明英邁,迥出千古,而坦夷渾厚,不見圭印,是以清而不激,和而不流,人與交久,益尊信之。河南程顥初侍其父識雍,議論終日,退而嘆曰:「堯夫,內聖外王之學也。」
邵雍は熙寧十年に去世し、享年六十七歳、朝廷は追贈して秘書省著作郎と為し、元祐年間に諡号「康節」を賜う。邵雍は高明英邁にして、遥かに千古の上を超出す、然るに人と為るは平易渾厚にして、鋒芒棱角を露さず、故に清高にして偏激せず、随和にして同流合汚せず、人々は彼と交往すること愈々久しければ、愈々尊敬信服す。河南の人程顥は当初父亲の程珦に陪侍して邵雍を結識しに往き、両人は議論すること一整天にして、程顥は退下して後に嘆息して曰く、「堯夫の学問は、是れ内聖外王の学なり」と。
雍知慮絶人,遇事能前知。程頤嘗曰:「其心虛明,自能知之。」當時學者因雍超詣之識,務髙雍所為,至謂雍有玩世之意;又因雍之前知,謂雍於凡物聲氣之所感觸,輒以其動而推其變焉,於是摭世事之已然者,皆以雍言先之,雍蓋未必然也。
邵雍の見識思慮は常人を超越し、事に遇い能く予め知る。程頤は曾て曰く、「彼は心地虚明にして、自然に即ち知る能し」と。当時の学者は邵雍の見識超絶なるが為に、一味に彼の所作所為を高き処に往きて推許し、甚だしきは彼に玩世の意ありと言い、また彼が能く預知するが為に、彼はおよそ万物の声音気息に接触到れば、即ち其の動向に拠りて其の変化を推断すと言い、遂に世上のすでに発生した事を拈出して、皆邵雍が事先に講じたと说成す。其実邵雍は必ずしも真に此の如しにあらず。
所著書曰《皇極經世》《觀物內外篇》《漁樵問對》,詩曰《伊川擊壤集》。邵子《無名公傳》曰:朝廷授之官,雖不強免,亦不強起。晚有二子,教之以仁義,授之以六經。舉世尚虛談,未嘗掛一言;舉世尚竒事,未嘗立異行。故其詩曰:「不佞禪伯,不諛方士,不出戶庭,直遊天地。」家素業儒,口未嘗不道儒言,身未嘗不行儒行。故其詩曰:「心無妄思,足無妄走,人無妄交,物無妄受。炎炎論之,甘處其陋;綽綽言之,無出其右。」羲、軒之書未嘗去手,堯、舜之談未嘗離口。當中和天,同樂易友,吟自在詩,飲歡喜酒。百年昇平,不為不偶;七十康強,不為不壽。此其無名公之行乎。
邵雍の著する所の書は《皇極経世》《観物内外篇》《漁樵問対》あり、詩集は《伊川撃壤集》と叫ぶ。邵雍の自撰する《無名公伝》は曰く、朝廷は彼に官職を授け、彼は既に硬く推辞するを要せず、また強いて出仕せず。晚年に两箇の児子あり、仁義を以て彼らを教導し、六経を以て彼らに伝授す。挙世は空虚玄談を崇尚すれど、彼は曾て一句も言わず、挙世は奇特の事を崇尚すれど、彼は曾て一件の異行も做さず。故に彼の詩は曰く、禅門宗匠に諂媚せず、方術の士に阿諛せず、足は戸庭を出ず、而も径く天地を遨游すと。彼の家は世々儒を業とし、口は曾て儒者の話を言わざるなく、身は曾て儒者の事を行わざるなし。故に彼の詩は曰く、心の中に虚妄の念頭を起さず、脚下に虚妄の路を走らず、人を待るに虚妄の結交を作らず、物を接するに虚妄の饋贈を受けず、別人が気勢炎炎として高談闊論する時、彼は甘んじて簡陋の中に安処し、而も从容寛舒として道理を講じ起れば、また彼に圧倒し得る人なしと。伏羲・軒轅の書は曾て手を離れず、堯・舜の話題は曾て口を離れず。中和の世に身を処し、和楽平易の朋友と交わり、自在の詩を吟じ、歓喜の酒を飲む。百年の間天下升平にして、好き機遇にあらずと言う能わず、七十歳にしてなお康健強壮にして、長寿と算せざると言う能わず。これは大概あの「無名公」の行事ならん。
明道先生志康節之墓曰:昔七十子學於仲尼,其傳可見者,惟曽子告子思,所以授孟子者耳。其餘門人,各以其材之所宜為學,雖同尊聖人,所因而入者,門戸則眾矣。況後此千餘歲,師道不立,學者莫知其從來,獨先生之學為有傳也。先生得之於李挺之,挺之得於穆伯長,推其源流,逺有端緒,今穆、李之言及其行事,概可見矣。而先生醇一不雜,汪洋浩大,乃其所自得者多矣。然而名其學者,豈所謂門戶之眾各有所因而入者歟?語成徳者,昔難其居,若先生之道,就其至而論之,可謂安且成矣。
程顥が邵雍の為に作る墓誌銘は曰く、昔孔子の門下の七十弟子は、伝承の線索は考見し得る所、ただ曾子が子思に伝え、子思が再び孟子に伝えたこの一支のみ。其余の弟子は各々自ら才性の適宜なる方面に就いて学を為し、同じく聖人を尊奉すと雖も、而も以て入門する路径は是れ众多なり。況んや此の後一千余年、師道立たず、学者は自らの学問の何処より来るかすら言い清すこと能わず、独り邵先生の学のみ是れ伝授有りと。先生はこれを李之才(字は挺之)より得、李之才はこれを穆修(字は伯長)より得たり。其の源流を推究すれば、久遠にして端緒の尋ねるべきあり、今穆修・李之才の言論および行事は、大略はなお看るべし。而も先生は純一にして雑らず、汪洋浩大にして、あれは多分は彼自ら体悟して得たる所なり。此の如くにして言えば、彼の学問に名目を定めんに、あに即ちいわゆる入門の路径众多にして各々因る所有りて入るの一种にあらずや。徳行有りて成る人に談ずれば、昔は甚だ此の称許に当たること難し、而も先生の道の如きは、其の造詣の極処に就いて評論すれば、既に安穏にして且つ成就ありと言うべし。
《程氏遺書》曰:堯夫之學,先從理上推意,言象數言天下之理,須出於四者,推到理處,曰:「我得此大者,則萬事由我,無有不定。」然未必有術,要之亦難以治天下國家。其為人則直是無禮不恭,惟是侮玩,雖天地亦為之侮玩。如《無名公傳》言「問諸天地,天地不對」「弄丸餘暇,時往時來」之類。
《程氏遺書》は曰く、邵雍の学問は、先ず「理」の上に推求して意旨を求め、象数を講じ天下の理を講ずるに、皆元・会・運・世あの四者より推出することを要す。理の処に推究して至りて、彼曰く、「我はこの最大の根本を掌握せば、則ち万事は皆我より作主を為し、安定せざる能わざるなし」と。然るに彼は必ずしも真に可行の弁法有らず、総じて言えばまたこれを以て天下国家を治理するに拿げ難し。其の人と為るは則ち简直に無礼にして恭敬せず、ただ一味に戯侮玩弄するのみ、天地すらも彼に拿げられて戯侮玩弄せらる。《無名公伝》の中の言う「天地に諸を問えば、天地対えず」「弄丸の余暇に、時に往き時に来る」の此の類の話の如し。
君實篤厚,晦叔謹嚴,堯夫放曠。又曰:堯夫道雖偏駁,然卷舒作用極熟,又能謹細行。又曰:堯夫襟懷放曠,如空中樓閣,四通八達也。伯淳言邵堯夫病革,且言試與觀化一遭。子厚言觀化他人便觀得,自家又如何觀得化?嘗觀堯夫詩意,才做得識道理,卻於儒術未見所得。
程氏また曰く、司馬光(字は君実)は篤実厚重にして、呂希哲(字は晦叔)は謹慎厳正にして、邵雍(字は堯夫)は疏放曠達なり。また曰く、邵雍の道は駁雑不純と雖も、而も収放運用は極めて純熟にして、また能く細行を謹守す。また曰く、邵雍の胸襟は疏放曠達にして、空中の楼閣の如く、四通八達す。程顥(字は伯淳)は邵雍の病危なるを説きて、なお妨げず試みに造化の変化を観察せんと言う。張載(字は子厚)は曰く、造化を観察するは、別人を観察するを以て可なり、自らの死はまたどうして観察し得んや。我は曾て邵雍の詩の中の意を看れば、才めて道理を些か識得するを做したに過ぎず、儒者の学に至っては則ち彼に何等の心得あるを看出さずと。
世人之學,博聞強識者豈少?其終無有不入禪學者,就其間特立不惑,無如子厚、堯夫,然其說之流,恐未免此弊。邵堯夫數法出於李挺之,至堯夫推數方及理。邵堯夫臨終時只是諧謔,須臾而去。以聖人觀之則亦未是,蓋猶有意也;比之常人,甚懸絶矣。他疾甚革,某往視之,因警之曰:「堯夫平生所學,今日無事否?」他氣微不能答。次日見之,卻有聲如絲髮來大,答云:「你道生薑樹上生,我亦只得依你說。」
世人が学を為すに、博聞強記の人はあに少なからんや。然るに最終には禅学に滑入せざるなし。此の中間に特立独行して惑われざる者は、張載と邵雍に比すべきなし、然るに彼らの学説は流伝して下れば、恐らく此の毛病を免れず。邵雍の数学の法は李之才より出で、邵雍に至りて才めて数を推すより進みて理に講じ至る。邵雍は臨終の時にただ一味に説笑するのみ、转眼の間に即ち去世した。聖人の標準を以て看れば、此れはなお到家と算せず、是れなお有意に為すの成分を帯びるを以てなり。ただ常人に比すれば、あれは遥かに超出せり。彼の病勢は危重なる時、我(程頤)は前に往きて探視し、即ち彼に提醒して曰く、「堯夫平生の学ぶ所は、今天に把握有りて事なきか」と。彼は気息微弱にして答え得上がらず。翌日再び彼を看れば、才めて一丝細かきこと髪丝の如き声音有りて回答して曰く、「汝は生姜が樹上に長ずと言う、我もまた只好く汝の説法に依るのみ」と。
尹子曰:邵堯夫家以墓誌屬明道,太中、伊川不欲。因步月於庭,明道曰:「顥已得堯夫墓誌矣,堯夫之學可謂安且成。」太中乃許。
程門の弟子尹焞は曰く、邵雍の家は墓誌を撰写する事を程顥に托付し、程顥の父亲程珦(官は太中大夫に至る)と弟弟程頤は皆贊成せず。一度庭中の月下に散步して、程顥は曰く、「我はすでに堯夫の墓誌はどう写すべきかを想好せり——堯夫の学は既に安穏にして且つ成就ありと言うべし」と。程珦はこれに才めて応允した。
《上蔡語録》曰:堯夫易數甚精,自來推長厯者,至久必差,惟堯夫不然,指一二近事,當面可驗。明道云:「待要傳與某兄弟。」某兄弟那得功夫?要學須是二十年功夫。明道聞說甚熟,一日因監試無事,以其說推算之,皆合。出謂堯夫曰:「堯夫之數,只是加一倍法,以此知《太玄》都不濟事。」堯夫驚,撫其背曰:「大哥,你恁聰明。」伊川謂:「堯夫知易數為知天,知易理為知人。」堯夫云:「還須知易理為知天。」因說今年雷起甚處,伊川云:「堯夫怎知?某便知。」又問某處起,伊川云:「起處起。」堯夫愕然。他日伊川問明道曰:「加倍之數何如?」曰:「都忘之矣。」因嘆其心無偏繫如此。
程門の弟子謝良佐の《上蔡語録》は曰く、邵雍の易数は極めて精妙にして、歴来長暦を推算する者は、時間一久しければ必ず誤差を出現す、独り邵雍のみ会せず、随に手を指して一两件の近期の事を出せば、当面に即ち検証し得。程顥は曰く、「彼は此の套の本事を我ら兄弟に伝えんと欲す」と。我ら兄弟はあの工夫あらんや。学ばば非ずんば二十年の功夫を下せざる可し。程顥は彼の説法を聴くこと甚だ熟く、ある日監考の為に事なきに因り、即ち彼の説法を用いて推算すれば、結果は皆合せり。出でて邵雍に対して曰く、「堯夫の数は、過ぎず一倍を加るの方法なり、これを以て揚雄《太玄》は全く事を済さざるを知るべし」と。邵雍は喫驚して、彼の背を拍して曰く、「大哥、汝は此の如く聡明なり」と。程頤は曰く、「堯夫は易数を懂得すれば即ち天を知り、易理を懂得すれば即ち人を知ると認めり」と。邵雍は曰く、「なお易理を懂得すれば才めて天を知ると算すと言うを要す」と。一度今年の雷の打つは何の処より起るかに説き及べば、程頤は曰く、「堯夫はどうして知らんや。我は即ち知る」と。邵雍はまた何処より起るかを問えば、程頤は曰く、「起る処より起る」と。邵雍は愕然として語なし。後のある日程頤は程顥に問うて曰く、「あの一倍を加るの数は究竟如何なるか」と。程顥は曰く、「全く忘れり」と。程頤はこれに因りて彼の心の中に偏執系恋せざること此の地步に至るを讃嘆した。
《朱子語類》:問:「康節學到不惑處否?」曰:「康節又別是一般。聖人知天命以理,它只是以術,然到得術之精處,亦非術之所能盡,然其初只術耳。」又曰:「想它看見天下之事,才上手來便成四截了,其先後緩急莫不有定,動中機會,事到面前便處置得下矣。只是用時須差異,須有些機權術數也。」老子窺見天下之事,卻討便宜,置身於安閒之地,雲清靜自治,邵康節亦有些小似他。問:「《淵源録》中何故有康節傳?」曰:「書坊自増耳。」(見《孟子》「楊子取為我」章下。)
《朱子語類》に記載す:ある人問うて曰く、「邵雍の学問は不惑の地步に至ったか否や」と。朱熹は曰く、「邵雍はまた別外の一路なり。聖人は理を憑みて天命を知る、彼はただ術を憑むのみ。ただ術精微の処に至れば、また術の能く窮尽する所にあらず、然るに彼の最初に憑みたるはただ術のみなり」と。朱熹また曰く、「想うに彼は天下の事を看るに、一到手にすれば即ち四截に分作し、先後緩急は悉く定准有りて、行動は機会に切中し、事情は眼前に到れば即ち処置停当し得。ただ運用し起れば須らく与众不同を顯し、総じて些か機変権謀・術数の成分を帯びたり」と。老子は天下の事を看透しながら、却って専ら便宜を揀び、自らを安閑の地に安置し、何ぞ清静自治を言うや、邵雍もまた彼に些か似たり。ある人問うて曰く、「《伊洛淵源録》の中に何を以て邵雍の伝有るか」と。朱熹は曰く、「あれは書坊が自ら添え入れたるなり」と。(此の条は《孟子》「楊子取為我」の章の下に見ゆ。)
《答汪尚書書》曰:程、邵之學固不同,然二先生所以推尊康節者至矣。蓋以其信道不惑,不雜異端,班於溫公、橫渠之間,則亦未可以其道不同而遽貶之也。和靖之言,恐如孟子言伯夷、伊尹之於孔子為不同道之比,妄意其然,不識臺意以為然否?抑康節之學,抉摘窈微,與佛老之言豈無一二相似,而卓然自信,無所汙染,此其所見必有端的處,比之溫公欲護名教而不言者,又有間矣。
朱熹《答汪尚書書》は曰く、程氏兄弟と邵雍の学問は固然として相同じからず、然るに二程は邵雍を推尊することすでに極点に至れり。大概彼の道を信ずる堅定不惑にして、異端を夾雑せざるが為、司馬光と張載の間に排すべく、則ち路数不同なるが為に便ち一下子に彼を貶低する能わざるなり。尹焞(号は和靖)の説法は、恐らく孟子の伯夷・伊尹と孔子の「道を同じくせず」と言うが如き意思ならん、我は姑く此の如く揣测す、閣下は然りと為すか否やを知らず。再び邵雍の学に言えば、幽深微妙の処を剔髪して、仏老の説法とあに一两分相似なからんや、而も彼は卓然として自信し、沾染を受けず、此れ彼の見る所は必ず実在着落の処有るを説明し、司馬光のあの名教を維護するが為に干脆と談ぜざる態度に比すれば、また高く一層に出でたり。
厚齋王氏曰:張文饒云:「處心不可著(直略切,下同),著則偏;作事不可盡,盡則窮。」先天之學止是此二語,天之道也。愚謂邵子詩「夏去休言暑,冬來始講寒」,則心不著矣;「美酒飲教微醉後,好花看到半開時」,則事不盡矣。
南宋の厚斎先生王応麟は曰く、張行成(字は文饒)が講ずるに、「心を用うるに執着する可からず(「着」は直略切と読む、下同じ)、執着すれば即ち偏なり。事を做すに做し尽す可からず、做し尽せば即ち走投無路なり」と。先天の学は過ぎず此の両句の話なり、此れ即ち天道なり。王応麟は自ら認めて曰く、邵雍の詩の中の「夏去れば暑を言うを休め、冬来たれば寒を講じ始む」は、即ち心を用うるに執着せざるなり。「美酒は飲ませて微酔の後、好花は看て半開の時」は、即ち事を做すに尽さざるなり。
按:邵子之學源出希夷,實老莊之宗派。但希夷一言一動,無非神仙面目;而邵子則不尚虛談,不立異行,不落禪機,不溺丹道,粹然儒者氣象,故二程樂與之遊。然觀其平日所論,微有不滿於邵子者:曰放曠,曰偏駁,曰無禮不恭,曰空中樓閣,曰儒術未見所得,曰其說之流有弊。瑕瑜不相揜,亦未可謂推尊之至也。
胡渭按語:邵雍の学問は源は陳抟より出で、実際には老荘一派に属す。ただ陳抟は一言一動はなにしろ神仙家の面目にあらざるなし、而も邵雍は則ち空虚玄談を崇尚せず、標新立異の行を做さず、禅家の機鋒に落入せず、丹道に沉溺せず、一派純粋の儒者気象なり。故に二程は彼と交往するを楽しむ。然るに二程平日の議論を看れば、其実微微として邵雍に対する不満を含む:彼を「放曠」と言い、彼を「偏駁」と言い、彼を「無礼不恭」と言い、彼を「空中楼閣」の如しと言い、彼を「儒術は未だ所得を見ず」と言い、彼の学説は流伝して下れば弊病有るべしと言う。瑕と瑜は彼此掩盖する能わず、また二程が彼を推尊すること極点に至ると言う能わざるなり。
及其為墓誌,則謂得之穆、李者,特因其材之所宜以為入道之門戸,則固以象數為一家之學矣。雖云自得者多,不止穆、李之所傳,然終不離乎象數。易道之大,無所不包,執一家之學而以為伏羲之精意全在於此,豈理也哉!
程顥が彼に替わりて墓誌を写るに至っては、則ち彼が穆修・李之才より得たる所は、過ぎず彼の才性の適宜なるに因りて、入道の一箇の門径と為すのみと言う——此れ即ち分明に象数を以て一家の学と看作すなり。彼自ら体悟して得たる所は多く居ると言うと雖も、穆・李の伝する所に限らず、而も終に象数を離れず。易道は博大にして包まざる所なし、一家の学を抓住して伏羲の精微なる用意は全く此の中に在りと認定せんは、あに此の道理あらんや。
朱子於先天方位得養生之要,於加一倍法見數學之精,篤信季通,意固有在,吾何敢輕議,但不當列諸經首以為伏羲之易耳。明道適僧舍,見其方食而曰「三代威儀盡在是矣」,此偶然語也;設有人焉,掇浮屠之戒律冠於《禮經》之首,則荒矣。胡文定於內典獨稱《楞嚴》《圓覺》,亦謂彼教中有可取者耳;設有人焉,舉二書於《中庸》《論語》合為一編,則悖矣。故吾以為邵子之易與聖人之易,離之則雙美,合之則兩傷,學者不可以不審也。
朱熹は先天方位図の中より養生の要領を悟り得、一倍を加る法の中より数学の精妙を見出し、蔡元定の説法を篤信して、用意は自ら存する所有り、我はあに敢て軽々しく議論せんや。ただ此れらの図を経文の首に列して、以て伏羲の易と為すべからざるのみ。程顥は僧舎に至りて、僧人がまさに飯を用うるを見、便ち「三代の威儀は全く此の中に在り」と言う——此れは過ぎず偶然感慨の話なり。仮に人有りて此れに因りて仏教の戒律を摘出して《礼経》の前面に冠せば、則ち荒唐なり。胡安国(諡は文定)は仏典の中に単独《楞厳経》《円覚経》を称許す、亦ただあの教の中に猶お取るべき処あるを言うのみ。仮に人有りて此の両部の書を《中庸》《論語》と合編して一書と為せば、則ち悖謬なり。故に我は邵雍の易と聖人の易は、分かれて言えば則ち両者各々其の美を得、合わせて言えば則ち両者皆損傷を受くと認め、学者は審慎に弁別せざる可からず。
右論邵康節。
以上の一節は、邵雍の学と先天図書との関係を弁論するものである。
《宋史·隠逸傳》:譙定字天授,涪陵人。少喜學佛,折其禮歸於儒,後學《易》於郭曩氏,自見乃謂之象,一語以入。郭曩氏者,世家南平,始祖在漢為嚴君平之師,世傳易學,蓋象數之學也。定一日至汴,聞伊川程頤講道於洛,潔衣往見,棄其學而學焉,遂得聞精義,造詣愈至,浩然而歸。
《宋史・隠逸伝》に記載す:譙定は字を天授といい、涪陵の人。年少の時に仏を学ぶを好み、後に礼教に折服して儒学に帰依し、此の後郭曩氏に跟いて《易》を学び、自ら見る所有れば即ち之を「象」と称し、一句话にして門径に切入した。郭曩氏の一族は世々南平に居を為し、其の始祖は漢代に厳君平の老師を做したこと有り、世々易学を伝習し、走る所は象数の一路なり。譙定はある日汴京に至り、程頤(世は伊川先生と称す)が洛陽に在りて道を講ずるを聞き、即ち衣冠を潔斎して前に往きて拝見し、原先の学ぶ所を抛開して改めて程頤に従い、遂に精微の義理を聴き、造詣は愈々深進して、浩然として帰った。
其後頤貶涪,實定之鄉也。北山有巖,師友游泳其中,涪人名之曰讀易洞。靖康初,呂好問薦之,欽宗召為崇政殿說書,以論弗合,辭不就。髙宗即位,定猶在汴,右丞許翰又薦之,詔宗澤津遣詣行在。至維揚,寓邸舍,窶甚,一中貴人偶與鄰,饋之食不受,與之衣亦不受,委金而去,定袖而歸之。其自立之操類此。
後に程頤は涪州に貶せられ、あれは正に譙定の家郷なり。北山に一処の山岩有りて、師徒二人は其の中に優游して講習し、涪州人は之を「読易洞」と称す。靖康初年、呂好問は譙定を推薦し、欽宗は彼を召して崇政殿説書を做らしめんとしたが、議論相合せざるを以て、彼は辞謝して就任せず。高宗即位する時、譙定はなお汴京に在りて、尚書右丞の許翰はまた彼を推薦し、朝廷は詔を下して宗沢に舟車を備弁して彼を行在に送らしめた。維揚に到りて、彼は客舎に寄住し、窮困すること甚だし。一位の宦官は恰好彼と隣り為り、彼に食物を送れば彼は接受せず、彼に衣服を送れば亦た接受せず、あの人は銭を放下して即ち走り去り、譙定は衣袖を以て銭を兜りて還し帰った。彼の自立自守の操行は大概此の如し。
上將用之,會金兵至,失定所在,復歸蜀,愛青城大酉之勝,棲遁其中。蜀人指其地曰譙巖,敬定而不敢名,稱之曰譙夫子,有繪像祀之者,久而不衰。定易學得之程頤,授之胡憲、劉勉之,而馮時行、張行成則得定之餘意者也。定後不知所終,樵夫牧童往往有見之者,世傳其為仙雲。
高宗はまさに彼を任用せんとするに、恰逢して金兵は打ち来り、譙定は去向を知らず、また蜀地に帰り、青城山・大酉山の勝景を喜愛して、即ちあそこに隠居した。蜀人は彼の隠居する処を指して「譙岩」と叫び、彼を敬重して敢て其の名を直呼せず、彼を「譙夫子」と称し、なお人有りて画像を為して供奉し、久しくして衰えず。譙定の易学は程頤より得、また胡憲・劉勉之に伝え、而も馮時行・張行成は則ち譙定の余緒を得たる者なり。譙定は後に終る所を知らず、樵夫牧童は常々彼を見る者あり、世上は彼が仙を成したと伝説す。
初,程頤之父珦嘗守廣漢,頤與兄顥皆隨侍,遊成都,見治篾篐桶者挾冊,就視之則《易》也。欲擬議致詰,而蔑者先曰:「若嘗學此乎?」因指「未濟男之窮」以發問,二程遜而問之,則曰:「三陽皆失位。」兄弟渙然有所省,翌日再過之,則去矣。
当初、程頤の父亲程珦は曾て広漢太守を任じ、程頤と哥哥程顥は皆側に随侍し、一度成都を游れど、一箇の竹篾箍桶を做る人が一本の書を挟むを見、走近して看れば、元来是れ《周易》なり。程氏兄弟はまさに措辞去を斟酌して請教せんと欲すれば、あの篾匠は先に口を開いて曰く、「汝らは曾て此れを学んだことあるか」と。遂に《序卦伝》の「未済、男の窮なり」の一句を指して発問すれば、二程は謙遜に彼に請教し、彼は便ち曰く、「未済卦の三箇の陽爻は皆位に当たらざるを以てなり」と。兄弟二人は豁然として醒悟する所有り。翌日再び彼を找しに往けば、人はすでに走り去れり。
其後袁滋入洛,問《易》於頤,頤曰:「易學在蜀耳,盍往求之?」滋入蜀訪問,久無所遇,已而見賣醬薛翁於眉、卭間,與語大有所得,不知所得何語也。憲、勉之、滋皆閩人,時行、行成蜀人,郭曩氏及篾叟、醬翁皆蜀之隠君子也。
後に袁滋は洛陽に到り、程頤に向かって《易》を問えば、程頤は曰く、「易学は蜀地に在り、何ぞあそこに到りて尋訪せざらん」と。袁滋は蜀地に入りて訪求するも、久しく遇わず、後に眉州・邛州の間に一位の醤を売る薛老翁に見え、彼と交談して大いに得る所有り、ただ得たる所は何れの話なるかを知らず。胡憲・劉勉之・袁滋は皆福建の人、馮時行・張行成は蜀の人、郭曩氏とあの位の篾匠老人・醤を売る老翁は、皆蜀地の隠君子なり。
朱子《籍溪先生胡公行狀》曰:先生學《易》於涪陵處士譙公天授,久未有得。天授曰:「是固當然,蓋心為物漬,故不能有見,唯學乃可明耳。」先生於是喟然嘆曰:「所謂學者,非克己工夫也邪?」自是一意下學,不求人知,一旦揖諸生,歸隠於故山。
朱熹《籍谿先生胡公行状》は曰く、胡憲先生は涪陵の処士譙定に跟いて《易》を学び、久しく心得なし。譙定は曰く、「此れは本来即ち此の如くなるべし、人心は外物に浸染せらるるを以て、故に見る所有る能わず、ただ学を為すのみ能く明白ならん」と。胡先生は遂に喟然として嘆じて曰く、「いわゆる学は、あに即ち己を克つの工夫にあらずや」と。此れより一心に下学の処に用功して、人の知るを求めず、ある日諸生に向かって揖を作して告別し、故郷の山中に帰りて隠居し去れり。
《與汪尚書書》曰:郭子和雲譙天授亦伊川黨事後門人。熹見胡、劉二丈說親見譙公自言,識伊川於涪陵,約以同居洛中,及其至洛,則伊川已下世矣。問以伊川易學,意似不以為然,至考其它言行,又頗雜於佛老子之學者,恐未得以門人稱也。以此一事及其所著象學文字推之,則恐其於程門亦有未純師者,不知其所謂卒業者果何事邪?
朱熹《与汪尚書書》は曰く、郭雍(字は子和)は譙定はまた程頤の党禁の後の門人なりと言う。我は曾て胡憲・劉勉之両位の長者に聴き、親ら譙定が自ら講じるを耳にし、彼は涪陵に在りて程頤を結識し、約定して日後洛陽に同住せんとし、彼が洛陽に到るを待つや、程頤はすでに去世せりと。彼に対して程頤の易学を如何に看るかを問えば、彼の意思は似乎と賛同せず。再び彼の其他の言行を考察すれば、また相当に仏家と老子の学を夾雑し、恐らく程門の弟子と称作する能わず。此の一件の事および彼の著する所の象学の著作を以て推断すれば、恐らく彼は程門に対してもまた純粋の師承と算上する能わず、いわゆる「卒業」は究竟何の事を指すかを知らず。
按:朱子此言,則譙定僅識伊川於涪陵,而入洛則不及見,史稱先受《易》於洛,後復從遊於其鄉者,妄也。徽宗朝蔡京用事,禁毋得挾元佑書,自是伊洛之學不行。時胡、劉二公皆在太學,而定適至,聞其嘗與伊川遊,故慨然師事之。所欲聞者義理也,而定本象數之學,不能有所益。定於伊川不純師,二公於定亦未純師也。
胡渭按語:朱熹の此の番の話に照れば、譙定はただ涪陵に在りて程頤を結識し、洛陽に到る時はすでに見るに及ばず、《宋史》は彼が先に洛陽に在りて《易》を受け、後にまた家郷に在りて程頤に随いて游学したと言うは、是れ不実の詞なり。徽宗朝に蔡京は権を当り、元祐年間の書を私蔵するを禁止し、此れより伊洛の学は流行する能わず。当時胡憲・劉勉之両位は皆太学に在り、恰好譙定来至り、彼らは彼が曾て程頤と交游したことを聞き、故に慨然として彼を師と拝した。彼らの聴かんと欲するは義理なり、而も譙定は本是れ象数一路の学問にして、彼らに何等の幇助を与うる能わざりき。譙定は程頤に対して純粋の師承と算上せず、胡・劉両位もまた譙定に対して純粋の師承と算上せざりき。
故朱子雖遊二公之門,而不得見希夷之真圖,晚使蔡季通入峽乃購得之。「易學在蜀」亦必非伊川語,蓋其徒知象數非儒者所尚,故自附伊川之易以張其學,修史者不能裁擇,因而書之以為傳,實不然也。昔嚴君平著《老子指歸》,而郭曩氏始祖為其師,然則定所受者乃老子之易,其於聖人之道猶爝火之於日月也,何足選哉?何足選哉?
故に朱熹は胡・劉両位の門に出入すと雖も、而も陳抟の真図を見ず、晚年に蔡元定を派して三峡地区に入らしめて才めて買い得たり。「易学は蜀に在り」の此の句话もまた一定に程頤の言う所にあらず、大概是れあの一派の門徒は象数は儒者の推崇する所にあらざるを知りて、故に程頤の易学に攀附して自らの此の門を張大せんとし、史を修する者は裁断取舍する能わず、即ち照抄して伝の中に写入す、其実は併せて此の如しにあらず。昔厳君平は《老子指帰》を著し、而も郭曩氏の始祖は彼の老師なり、さらば譙定の承受する所は乃是れ老子の易にして、聖人の道に比すれば、小火把の日月に比するが如く、何ぞ称道するに足らん。何ぞ称道するに足らん。
右論蜀隠者。
以上の一節は、譙定および蜀中の隠者一系の易学の来歴を弁論するものである。
李潛《麻衣道者正易心法序》曰:此書頃得之廬山一異人(或云許堅)。或有疑而問者,餘應之云:何疑之有?顧其議論可也。昔《黃帝素問》《孔子易大傳》,世尚有疑之,嘗曰:世固有能作《素問》者乎?固有能作《易大傳》者乎?雖非本真,是亦黃帝、孔子之徒也。餘於《正易心法》亦曰:世固有能作之者乎?雖非麻衣,是乃麻衣之徒也。胡不觀其文辭議論乎?一滴真金,源流天造,前無古人,後無來者,翩然於羲皇心地上馳騁,實物外真仙之書也。讀來十年方悟,浸漬觸類,以知易道之大如是也。得其人當與共之。
北宋の廬山隠者李潜が《麻衣道者正易心法》の為に作る序は曰く、此の部の書は我が不久前に廬山の一位の異人の手の中より得たるなり(ある人はあの人は許堅と叫ぶと言う)。人有りて懐疑して来りて発問す、我は彼に回答して曰く、何の疑うべき有らん。ただ其の議論の如何を看るのみ是れなりと。昔《黄帝素問》《孔子易大伝》は、世上なお人の懐疑する有り、我は曾て曰く、世上にあに真に《素問》を写り出す能くする人あらんや。真に《易大伝》を写り出す能くする人あらんや。たとい本人の真作にあらずとも、あれはまた黄帝・孔子一派の人の写したるなり。我は《正易心法》に対してもまた此の如く言う、世上にあに真に此の書を写り出す能くする人あらんや。たとい麻衣道者にあらずとも、あれはまた麻衣一派の人なり。何ぞ其の文辞議論を看ざらん。真に一滴の真金の如く、源流は天造より出で、前に古人なく後に来者なく、翩然として伏羲の心地の上に馳騁し、実在是れ物外真仙の書なり。我は読むこと十年にして才めて領悟し、一層々々浸潤して類に触れて旁通し、才めて易道の大なること此の地步に至るを知れり。適合の人に遇えば、まさに彼と共享すべし。
《正易心法》曰:卦象示人,本無文字,使人消息,吉凶嘿會。易道不傳,乃有周孔;周孔孤行,易道復晦。又曰:易道彌滿,九流可入,當知活法,要須自悟。又曰:世俗學解,浸漬舊聞,失其本始,易道淺狹。(卷首題云:希夷先生受並消息。)
《正易心法》は曰く、卦象は人に昭示す、本来文字なく、人をして自ら消長を体察せしめ、吉凶は黙会の中に領悟す。易道は失伝し、才めて周公・孔子の文辞有り。周公・孔子の説は単独流行し、易道は却ってまた晦暗なり。また曰く、易道は弥漫充満し、諸子九流は皆此れより入門し得、活法を懂得すべく、関鍵はなお須らく自ら覚悟すべし。また曰く、世俗の解説は旧聞に浸染せられ、本原を丢失し、易道は遂に浅薄狭窄となれりと。(該書の巻首には「希夷先生受并消息」と題す。)
跋曰:五代李守正叛河中,周太祖親征,麻衣語趙韓王曰:「李侍中安得久?其城中有三天子氣。」未幾城陷,時周世宗與本朝太祖侍行。錢文僖公若水,陳希夷每見以其神觀清粹,謂可學仙,有升舉之分,見之未精,使麻衣決之,麻衣雲無仙骨,但可作貴公卿耳。夫以神仙與帝王之相,豈易識哉!麻衣一見決之,則其識為何如也。即其識神仙、識帝王眼目以論易,則其出於尋常萬萬也,固不容於其言矣。乾道元年冬十有一月初七日,玉溪戴師愈孔文撰。
該書の跋文は曰く、五代の時に李守正は河中に在りて叛乱し、後周の太祖郭威は親ら征討し、麻衣道者は趙普(後に韓王に封ぜらる)に対し曰く、「李侍中はあに能く久しからん。あの城の中に三位の天子の気有り」と。不久して城は陥落し、当時後周の世宗と本朝の太祖趙匡胤は皆軍中に随行せり。文僖公銭若水は、陳抟は彼に見る毎に彼の神観清粋を覚え、以て仙を学ぶ可しと為し、飛升の分数有りと。ただ自ら看得は精準に足らざるを覚え、便ち麻衣道者を請うて来りて決断せしめ、麻衣は彼に神仙の骨なしと言い、ただ能く顕貴の公卿を做るのみと。神仙の相と帝王の相は、あに容易に識別する所あらん。麻衣は一見すれば即ち断定し得、さらば彼の識見はまさに何等了得なるべし。就憑じて彼の神仙を識り帝王を識るの此の副の眼力を以て《易》を論ずれば、あれは自然に尋常人の万万倍を超出し、彼の話は本来即ち置疑を容れざるなり。乾道元年冬十一月初七日、玉溪戴師愈(字は孔文)撰。
南軒張氏曰:嗚呼,此真麻衣道者之書也。其說獨本於羲皇之畫,推乾坤之自然,考卦脈之流動,論反對變復之際深矣,其自得者歟!希夷隠君實傳其學,二公髙視塵外,皆有長往不來之願,抑列御冦、莊周之徒歟?
南宋の南軒先生張栻は曰く、ああ、此れ真に麻衣道者の書なり。其の説法は独独伏羲の卦画に本し、乾坤の自然の理を推究し、卦脉の流動を考察し、反対・変復の際に論ずるや甚だ深度有り、大概是れ自ら体悟して得たる所ならん。陳抟此の位の隠君子は実際に彼の学問を伝承し、两位は皆塵世の外に高視し、皆一去不返の心願を存し、大概是れ列御寇・荘周一流の人ならん。
雖然,概以吾聖門之法則未也。形而下者謂之器,或者有未察歟?其說曰:「六十四卦,惟乾與坤本之自然,是名真體。」又曰:「六子重卦,乾坤雜氣,悉是假合,無有定實。」餘則以為六子重卦,皆乾坤雜氣之妙用,真實自然,非假合也。希夷述其說曰:「學者當於羲皇心地上馳騁,無於周孔腳跡下盤旋。」予則以為學《易》者須於周孔腳跡下尋求,然後羲皇心地上可得而識。推此可概見矣。然其書之傳,固非牽於文義、鑿於私意者所可同年而語也。
話は此の如しと雖も、もし一概に我ら聖門の法度を以て衡量せば、之はなお格に足らず。「形而下者之を器と謂う」の此の層の道理は、作者は或いは未だ考察清楚せざらん。書の中に曰く、「六十四卦の中にただ乾と坤のみ自然に本づく、此れ才めて真体と叫ぶ」と。また曰く、「六子と重卦は皆乾坤の雑気にして、全是れ假合にして、定准実体なし」と。我は却って六子と重卦は皆乾坤雑気の妙用にして、真実にして自然、併せて假合にあらずと認む。陳抟は其の説法を転述して曰く、「学者はまさに伏羲の心地の上に馳騁すべく、周公・孔子の脚印の下に盤旋する要らざれ」と。我は却って《易》を学ぶ人は必ず周公・孔子の脚印の下に寻求し、然る後に伏羲の心地は才めて認識せらると認む。此れより推して去れば、大略は即ち看て出づべし。ただ此の部の書の能く流伝するは、本来もまたあの文義に拘牽し私意に穿凿する著作の相提併論する能くする所にあらず。
朱子《書麻衣心易後》曰:此書詞意凡近,不類一二百年前文字。如所謂「雷自天下而發,山自天上而墜」,皆無理之妄談;所謂「一陽生於子月而應在夘月」,乃術家之小數;所謂「由破體煉之乃成全體」,則爐火之末技;所謂「人間萬事悉是假合」,又佛者之幻語耳。其它此比非一,不容悉舉。
朱熹は《書麻衣心易後》の中に曰く、此の部の書の詞句意旨は平庸浅近にして、一二百年以前の文字に似ず。例えば書の中のいわゆる「雷は天下より発出し、山は天上より墜落す」は、皆是れ事理に合わざる妄談なり。いわゆる「一陽は子月に生じて卯月に応験す」は、あれは過ぎず術士の時日を推算する小把戯なり。いわゆる「破体より錬成して全体と為る」は、あれは丹家の炉火焼錬の末流技芸なり。いわゆる「人間万事は全是れ假合」は、また過ぎず仏家の講ずる虚幻の語のみなり。書の中の此の類の例子はなお一処両処に止まらず、多くして一々列挙して出すに法なし。
要必近年術數末流,道聴塗說,掇拾老佛醫卜諸說之陋者以成其書;而其所以託名於此人,則以近世言象數者必宗邵氏,而邵氏之學出於希夷,於是又求希夷之所敬,得所謂麻衣而托之。以為若是,則凡出於邵氏之流者莫敢議已,而不自知其說之陋,不足以自附於陳、邵之間也。
柢を言えば、此れは一定に近年の術数末流の輩にして、道聴途説して、老・仏・医・卜各家の中の浅陋の説法を拾掇して凑成して此の部の書と為し、何を以て麻衣道者の身上に托名するかに至っては、あれは近世の象数を講ずる人は必ず邵雍を尊奉し、而も邵雍の学は陳抟より出づるが為に、遂にまた陳抟の敬重する人を找して、いわゆる麻衣道者を找着して、便ち彼に托名す。彼らは此の如くすれば、およそ邵雍一派より出づる人は皆敢て議論せざらんと以為す、而も自らの説法の鄙陋にして、根本に陳抟・邵雍の間に攀附するに配せざるを知らず。
《再跋麻衣易說後》曰:予既為此說,後二年假守南康,始至,有前湘陰主簿戴師愈者來謁,老且蹩,使其壻自掖而前。坐語未久,即及麻衣易說,問其師傳所自,則曰得之隠者;問隠者誰氏,則曰:「彼不欲世人知其姓名,不敢言也。」既復問之邦人,則皆曰書獨出戴氏,莫有知其所自來者。
朱熹《再跋麻衣易説後》は曰く、我は前面のあの篇の跋を写した後二年、暫く南康軍の知軍を任じ、剛く到任して、一位の従前に湘陰主簿を做したこと有る戴師愈は前に来りて拝謁し、人はすでに老邁にして且つ脚は跛み、彼の女婿をして搀扶して上前せしむ。坐りて談じること多久ならずして、即ち麻衣易説に説き及べば、我は彼に此の書の師承は何処より来るかを問えば、彼は是れ一位の隠者の処より得たと言う。あの隠者は何と姓するかを問えば、彼は即ち曰く、「あの人は世人に彼の姓名を知らるを願わず、我は敢て言わず」と。後に我はまた当地の人に問えば、皆此の書はただ戴家より出づるのみ、人其れ何処より来るかを知る者なしと言う。
予後至其家,見幾間有所著雜書一編,取而讀之,則其詞語氣象宛然麻衣易也。予以是始疑前時所料三五十年以來人者,即是此老。既歸即取觀之,則最後跋語固其所為,而一書四人之文,體制規模乃出一手,然後深信所疑之不妄。
我は後に彼の家に到り、几案の上に彼の著する所の雑書一編有るを見、取りて来りて一読すれば、あの詞語気象は活脱として即ち麻衣易の口吻なり。我は此れに因りて才めて先前に推断したる「三五十年以来の人」は、即ち此の位の老先生なるを懐疑す。帰りて以後即ちあの書を拿げて来りて看れば、果たして最後の跋語は本来是れ彼の写したるなり、而も一部の書の中の四箇の人の文字は、体制規模は竟に一人の手より出づ、此れ才めて自らの懐疑は妄断にあらざるを深信す。
是時戴病已昏,不久即死,遂不復可窮詰。獨得其易圖數卷,閱之又皆鄙陋瑣碎,穿穴無稽,如小兒嬉戲之為者。欲以其事馳報敬夫,則敬夫亦已下世。因以書語呂伯恭曰:「吾病廢有年,乃復為吏,然不為他郡而獨來此,豈天固疾此書之妄,而欲使我親究其實邪?」
あの時戴師愈はすでに病んで神志昏昧し、不久して即ち死し、遂に再び追問して下るに法なし。ただ彼の易図数巻を弄到し、看て過ぎて後にまた皆鄙陋瑣碎にして、穿凿附会して根拠なく、小孩子の游戯を做るが一般なり。我は此の件の事を趕緊に張栻(字は敬夫)に告げんと欲すれど、張栻もまたすでに去世せり。遂に信を写して呂祖謙(字は伯恭)に告げて曰く、「我は病に因りて廃置する多年、今また出でて官を做る、然るに別の郡に往かずして偏に此処に来る、あに上天は本来此の部の書の荒妄を憎悪して、我をして親ら真相を查明せしめんと欲するにあらずや」と。
時當塗守李壽翁侍郎雅好此書,伯恭因以餘言告之。李亟以書來曰:「即如君言,斯人而能為此言,亦吾所願見也,幸為津致使其一來。」予適以所見聞報之,而李已得謝西歸,遂不復出,不知竟以餘言為何如也。
当時太平州(治所は当涂に在り)の知州・侍郎李椿(字は寿翁)は一向此の部の書を喜好し、呂祖謙は便ち我の話を彼に告げた。李椿は馬上に信を写して来りて曰く、「たとい您の言うが如くとも、此の人は竟に此の如くの話を言い出す能くすれば、亦た是れ我の願わくは一見せん所なり、煩わしく我が為に引荐し、彼をして一趟来らしめよ」と。我はまさに見聞する所を彼に回復せんとするに、而も李椿はすでに官を辞して西帰し、此れより再び出仕せず、彼が究竟我の話に対して如何の評価を作すかを知らず。
《陳氏書録解題》曰:舊傳麻衣道者授希夷先生,崇寧間廬山隠者李潛得之,凡四十二章,蓋依託也。朱侍講云:南康主簿戴師愈撰,乃不唧溜底禪,不唧溜底修養法,不唧溜底時日法。
南宋の陳振孫《直斎書録解題》は曰く、旧来相伝えて此の書は麻衣道者が希夷先生陳抟に伝授したと言い、崇寧年間に廬山隠者李潜は之を得、共に四十二章、其実是れ依托偽造なり。朱熹(曾て侍講を任ず)は曰く、此れは南康主簿戴師愈の撰する所、是れ不高明の禅学・不高明の修養法・不高明の時日を選擇する法なりと。
王炎曰:洛水李壽翁侍郎喜論《易》,炎嘗問曰:「侍郎在當塗板行麻衣新說如何?」李曰:「程沙隨見屬。」炎曰:「恐託名麻衣耳。以撲錢背面喻八卦陰陽純駁,此鄙說也;以泉雲雨為陽水,以澤為陰水,與夫子不合。」李曰:「然。然亦有兩語佳。」炎曰:「豈非『學者當於羲皇心地上馳騁,不當於周孔腳跡下盤旋』邪?然此二語亦非也。無周孔之辭,則羲皇心地學者何從探之?」李無語。
王炎は曰く、洛水の人・侍郎李椿(字は寿翁)は《易》を談ずるを喜び、我は曾て彼に問うて曰く、「侍郎は当涂に在りて刻板刊行した麻衣新説は如何なるか」と。李椿は曰く、「是れ程迥(号は沙随)が我に嘱托して刻らしめたるなり」と。我は曰く、「恐らく是れ麻衣に托名するのみ。銅銭を擲る正面反面を以て八卦陰陽の純と駁を比喻するは、是れ浅鄙の説法なり。泉・雲・雨を以て陽水と算し、沢を以て陰水と算するは、孔子の説法ともまた合わず」と。李椿は曰く、「是れ此の如し。ただ其の中にまた両句の話好し」と。我は曰く、「あに即ち『学者はまさに伏羲の心地の上に馳騁すべく、周公・孔子の脚印の下に盤旋する要らざれ』にあらずや。然るに此の両句の話もまた正しからず。周公・孔子の文辞なくんば、伏羲の心地は、学者はまた何処より探求せんと往かん」と。李椿は答うべき話なし。
按:是書託名麻衣,序跋與書及注同出一手,其它踳駁之說無論,獨李壽翁所賞二語,貽誤學者不淺。然其言實出希夷,《觀物外篇》曰:「先天學,心法也。圖雖無文,吾終日言而未嘗離乎是。」亦即所謂「羲皇心地上馳騁,不於周孔腳跡下盤旋」也。麻衣,小說家以為即白閣僧相錢若水者,其人蓋孫君仿、麞皮處士之流,縱令是書真出麻衣,吾亦深惡而痛絶之,況戴師愈乎?
胡渭按語:この部の書は麻衣道者に名を託し、序・跋と正文・注文は同じく一人の手より出で、其の他の駁雑錯乱の説法は姑く論ぜず、単に李椿の賞識したあの両句の話だけでも、学者に貽誤すること浅からず。しかるにあの話は実は陳抟より出で、《皇極経世・観物外篇》に曰く、「先天の学は、是れ心法なり。図は文字なしと雖も、我は終日講論して曾てそれを離れたことなし」と——これがすなわちいわゆる「伏羲の心地の上に馳騁し、周孔の脚印の下に盤旋せず」である。麻衣に至っては、小説家は彼を以てすなわちあの白閣で銭若水に相を見た僧人と為し、此の人は大概孫君仿・麞皮処士一流であろう。たといこの書が真に麻衣の手より出たとしても、我はなお深く悪み痛絶するであろう。況んやそれが戴師愈の手より出たものをや。
右論麻衣道者。
以上の一節は、《麻衣道者正易心法》という書の偽託の来歴を弁論するものである。
潛溪宋氏《溟涬生贊序》曰:溟涬生者,旴江廖應淮海學也。抱負竒氣,好研摩運世推移及方技諸家學。年三十遊杭,上疏言丁大全誤國狀,大全怒,中以法,配漢陽軍。生荷校行歌出都門,道旁觀者嘖嘖壯之。
明初の潜谿先生宋濂《溟涬生賛》の序は曰く、溟涬生という人は、即ち旴江の廖応淮で、字は海学。彼は奇気を抱負し、世運推移の説および各家の方技の学を钻研するを好んだ。三十歳の年に杭州を游歴し、上疏して丁大全の国を誤る情状を掲発すると、丁大全は大怒して、法令を以て彼を中傷し、彼を漢陽軍に刺配した。廖応淮は枷を戴き、一路歌を唱いて京城の城門を出で、路旁の囲観する人は皆啧啧として彼を豪壮と称賛した。
抵漢江濱,遇蜀道士杜可大,揖曰:「子非廖應淮邪?」生愕然曰:「道士何自知之?」可大曰:「宇宙太虛一塵耳,人生其間為塵幾何?是茫茫者尚瞭然心目間,矧吾子邪?然自邵堯夫以先天學授王豫天悅,天悅死無所授,同葬玉枕中。未百年而吳曦叛,盜發其冢,得《皇極經世體要》一篇、《內外觀象》數十篇,餘賄盜得之,今餘五十年,數當授子,吾俟子亦久矣。」
彼は漢江の辺に走り至り、蜀地の道士杜可大に遇い、杜可大は揖を作して曰く、「汝は廖応淮にあらずや」と。廖応淮は驚愕して曰く、「道士はどこよりこれを知ったか」と。杜可大は曰く、「宇宙は太虚の中では一粒の微塵に過ぎず、人生はその間にあってまた幾許の微塵を算えよう。あの如く茫茫無際のものを我がなお清清楚楚に看るに、況んや是れ汝をや。ただ邵雍が先天の学を王豫(字は天悦)に伝えてより、王豫は死する時に伝うべき人なく、即ち書を一同に玉枕の中に葬った。百年に満たざるに呉曦叛乱し、盗墓賊は彼の墳を掘開いて、《皇極経世体要》一篇・《内観外象》数十篇を得たり。我は財物を以て盗賊に向かってそれを買い下げ、今すでに五十年を過ぎ、数に按ずれば汝に伝うべし。我が汝を待つもまた甚だ久し」と。
乃言於上官,脫其籍,盡教以冢中書。其算由聲音起,生神鑑穎利,可大指畫未到者,生已先意逆悟,可大自以為不及。學既成,去隠宣、歙間。遇餘安裕弋陽,將教之,安裕勸生業《中庸》,生瞠目厲聲曰:「俗儒幾辱吾康節於地下矣。」
遂に杜可大は上級の官員に情を通じて、廖応淮の為に刑徒の名籍を除去し、墓中に得た書を全部彼に教えた。その套の推算は声音より起算するもので、廖応淮の心思は神明にして頴悟鋭利にして、杜可大が未だ指点の及ばざる処に、彼は先んじて一歩領悟し、杜可大は自ら彼に及ばざると認めた。学が成るの後、彼はあそこを離れて宣州・歙州の間に隠居した。弋陽に在りて余安裕に遇い、まさに彼に教えんとしたが、余安裕は却って彼に《中庸》を研习せよと勧め、廖応淮は眼を瞪らして厳声に曰く、「汝のこの俗儒、ほとんど九泉の下に我が邵康節を侮辱せんとす」と。
復去之杭,客賀外史家,晝市大衍數,夜沽酒痛飲,飲即吐,吐即飲,不醉如泥不休。醉中嘗大叫曰:「天非宋天,地非宋地,奈何奈何。」語聞賈似道,遣客叩之,生曰:「毋多言,浙水西地髮白時是其祥也。」似道未解,復召至,屏人與語,生曰:「明公宜自愛,不久宋鼎移矣。」似道惡其言,掩耳走。
彼はまたあそこを離れて杭州に至り、賀外史の家に寄居し、昼は大衍推数の卜術を売り、夜は酒を買いて痛飲し、飲めば即ち吐き、吐き尽くして再び飲み、爛酔して泥の如くならざれば肯んじて罷めず。酔う中に曾て大声に叫喊して曰く、「天は宋朝の天にあらず、地は宋朝の地にあらず、どうせんかどうせんか」と。この話は賈似道の耳に伝到り、門客を派して探問せしめれば、廖応淮は曰く、「多く言うを必とせず、浙水以西の地上の草木が白く変ずる時、即ちそれがその兆なり」と。賈似道は明白せず、また彼を召して往き、旁人を屏退して彼と交談せしめれば、廖応淮は曰く、「明公はまさに自愛すべし、不久して宋朝の鼎祚はまさに転移せんとす」と。賈似道はこの話を悪み、耳を捂いで走り去った。
生亦徑出,過曽淵子家索酒轟飲,酒酣作嬰兒啼曰:「大廈將焚,燕猶呢喃未已邪。」復賦歌以見意,都人士聞之,競指以為怪民,不與接,獨太學生熊睎聖猶時造其廬。生私執熊手謂曰:「吾端居層樓,聞空中戎馬百萬來,人鬼作哭泣聲。壬申襄樊陷,甲戌宮車晏駕,乙亥長江飛渡,似道亦殛死臨漳,丙子三宮播遷,諸王大臣皆南北亂走,噓吸事耳,子不去欲何為?」居亡何,宋事日非,沿江州郡望風奔潰。生大慟曰:「殺氣又入閩廣中,吾不知死所矣。」遂遁去,其言無一不驗。
廖応淮もまた径く出でて、曽淵子の家を路過して酒を討いて痛飲し、酒酣の時に嬰児の啼哭を学んで曰く、「大厦はまさに焼き起らんとす、燕子はなお呢喃として罷まざらんや」と。又た歌を作りて以て心意を表出した。京城の士人は之を聞き、争相いて彼を指して怪民と為し、肯んじて彼と来往せず、ただ太学生熊睎聖のみなお時々彼の住処に到る。廖応淮は私かに熊睎聖の手を握りて曰く、「我は高楼の上に静居し、空中に百万の兵馬の涌来するを聴き、人も鬼も皆哭泣せり。壬申の年に襄陽・樊城は陥落し、甲戌の年に皇帝は駕崩し、乙亥の年に元軍は長江を飛渡し賈似道もまた臨漳に処死せられ、丙子の年に三宮は迫られて遷徙し、諸王大臣は皆南北に乱窜せん——これらは過ぎず转眼の間の事なり。汝は走らずしてなお何を為さんと欲するか」と。過ぐること甚だ久しからずして、宋朝の局勢は一天不如一天となり、沿江の州郡は風を望んで潰散した。廖応淮は大慟して曰く、「殺気はまた閩・広一帯に進入せり。我は何処に死するかを知らず」と。遂に逃遁して去った。彼の話は一句として応験せざるなし。
後四年病死處州學中,年五十二,無子,一義女從之。生宗堯夫先天之學,頗自謂知《易》,每見諸易師傳疏,不問淺深,輒訕駁以為樂。及論後天,則尊羲畫為經,彖爻繋辭為傳,黜《文言》《彖》《象》二傳為九師之言,且謂《說卦》非聖筆不能作,上下《繫》乃門人所述,《序卦》直漢儒記耳。蓋生聰明絶人,未聞道而驟語數,故其論經多失中。
四年以後に彼は病死して処州の州学の中にあり、享年五十二歳、児子なく、ただ一箇の義女有りて随侍す。廖応淮は邵雍の先天の学を宗奉し、頗る《易》を懂得するを以て自負し、各家の易学師承の伝・疏を見る毎に、深浅を問わず、動くに即ち譏訕駁斥して以て楽しみと為した。後天の易に談ずれば、則ち伏羲の卦画を尊んで経と為し、卦辞・爻辞・《繋辞》を以て伝と算し、《文言》および《彖》《象》二伝を貶めて漢代の九家易師の話と為し、また《説卦》は聖人の手筆にあらざれば写り出す能わずと言い、上下《繋辞》は門人の記述する所、《序卦》は简直にただ漢儒の記録のみと為す。大概廖応淮は聡明人に絶すれど、道を聞かざるに驟りに数を講ずるを以て、故に彼の経を論ずるは多く中道に合わず。
然性使酒難近,又好訐人陰私,人面頸發赤不顧,罕有從其學者,唯國子簿吳浚、進士彭復樂師之。浚不卒業,復屢受唾斥不怨。生將遁時,召復至,口發例,手布籌,雖平昔所靳若終身不示人者,一舉授復。復後又授鄱陽傅立雲。
ただ彼は性情酒を借りて気を使い、人をして近親し難からしめ、また人の隠私を掲発するを好み、人家をして満面満脖子漲紅せしめても顧みず、これに因りて彼に跟学する者甚だ少なく、ただ国子監主簿呉浚・進士彭復は楽しんで彼を師と拝した。呉浚は学び完わず、彭復は屢々彼の唾罵叱責を挨んでも怨まず。廖応淮はまさに逃げ走らんとする時、彭復を叫んで来らしめ、口は推算の条例を講じ、手は算籌を布き、あの平日吝惜して将に終身人に示さざらんとするが如きものを、一下子に全部彭復に伝えた。彭復は後にまた鄱陽の傅立雲に伝えた。
或曰:生瀕死語女曰:「吾死後一月,朝中命山姓鳥名使者來徵吾及傅立,立當過吾門,汝可出藏書示之,立當以此致大官。」後皆如其言。所謂山姓鳥名,崔鵬飛也。生所著書有《玄玄集》《厯髓》《星野指南》《象滋綂會》《聲譜》《畫前妙旨》,數十萬言,今猶間傳於世。(贊不録。)
ある人曰く、廖応淮は臨死の時に義女に対して曰く、「我が死する後一箇月、朝廷は一位の姓の中に山を帯び名の中に鳥を帯びた使者を派して我と傅立を徴召せん。傅立は我が家門口を路過せん。汝は蔵書を拿出して彼に看せよ。彼は将にこれを憑りて大官を做らん」と。後に皆彼の言うが如し。いわゆる姓の中に山を帯び名の中に鳥を帯びるは、即ち崔鵬飛なり。廖応淮の著する所の書は《玄玄集》《暦髄》《星野指南》《象滋統会》《声譜》《画前妙旨》有り、共に几十万字、今なお偶偶世に流伝す。(宋濂の賛詞は此処に録せず。)
余自幼即見長老談溟涬生事,近見李淦性學及戚光子實所造文,又知生為詳。以生之精藝如此,而修《宋史》者不列之《方技傳》中,殊可恨也,故予愍之,特序之,又傷易道之微,激而贊之。惜乎予文蕪陋,不能永生也,然餘情亦至矣。濂志。
宋濂また曰く、我は小より長輩が溟涬生の事を談ずるを聴き、近来李淦(字は性学)および戚光(字は子実)の写した文章を見て、彼の生平に対する了解はいよいよ詳細なり。彼の技芸は精妙なること此の地步に至るを憑みて、而も《宋史》を修する者は竟に彼を《方技伝》に列入せず、実に人をして痛惜せしむ。故に我は彼を怜惜して、特に彼の為に序を作り、また易道の衰微を感傷して、此れに激して彼の為に賛を作る。可惜しむらくは我の文字は蕪雑鄙陋にして、彼の名声をして久しく流伝せしむる能わず、ただ我の心意もまた尽くしたと算するのみ。宋濂記。
按:程可久云「易以道義配禍福,得正而斃則吉,詭遇獲禽則凶」,此千古格言也。嚴君平精於卜筮,與人子言依於孝,與人臣言依於忠,猶不失開物成務之意。管輅善言《易》,亦嘗以謙、壯諷何晏,請上追文王六爻之旨,下思尼父彖象之義,未嘗近舍周孔,逺宗羲畫也。
胡渭按語:程迥(字は可久)の言う「《易》は道義を以て禍福に配するなり、正を守りて死すれば即ち吉、不正当の手段を以て禽獣を猟獲すれば即ち凶」は、是れ千古の格言なり。厳君平は卜筮に精し、人家の児子と話すれば即ち孝に帰本し、人家の臣子と話すれば即ち忠に帰本して、なお《易》の「物を開き務を成す」の本意を失わず。管輅は《易》を談ずるに善く、亦た曾て《謙》卦・《大壮》卦を以て何晏を諷諫し、彼に上は文王六爻の意旨を追い、下は孔子《彖》《象》の義理を思えと請うて、曾て身辺の周公・孔子を撇開して遠く伏羲の卦画を宗奉することせず。
自先天之學興,而易道之蓁蕪甚矣。廖應淮自謂得康節真傳,而其所談者唯禍福,無一字及於道義,罔知忌諱,屢觸危機,其不為京房、郭璞,特幸而免耳。驗之最大者莫如宋亡,而究竟分毫無補,亦安用前知為也?
先天の学が興起してより、易道は荒草に塞がれて様子を成さざるに至った。廖応淮は自ら邵雍の真伝を得たと称するも、しかるに彼の談ずる所はただ禍福のみにして、道義に涉及するは一字もなく、全く避忌を知らず、屢々危機を触犯した。彼は京房・郭璞の如き下場を得ずに済んだのは、過ぎず僥幸に禍を免れたのみ。彼の応験した最大の一事は宋朝の滅亡に如くなし、しかるに結果は時局に対し絲毫の補いもなし、さらば予め知るもまた何の用かあらん。
餘安裕勸讀《中庸》,蓋以索隠行怪,聖人之所不為,而無道不黙,亦非明哲保身之事,故微辭以規之,而應淮不自覺寤,詆為俗儒。其於《易》也,訕侮程、張,卑視周、孔,二篇獨尊羲畫,十翼専取《說卦》,鄙倍之論,全無忌憚,豈僅失中而已邪?
余安裕が彼に《中庸》を読めと勧めたのは、あれは隠僻を探求し行為怪異するは聖人の為さざる所であり、而も無道の世に緘黙せざるを肯んぜざるも、また明哲保身の做法にあらざるを以て、故に委婉の話を以て彼を規勧したのに、廖応淮は自ら毫も覚悟せず、却って人家を俗儒と罵った。彼の《易》に対しては、程頤・張載を譏訕軽侮し、周公・孔子を鄙薄し、上下二篇にはただ伏羲の卦画を推尊し、《十翼》の中にはただ《説卦》を取るのみ、あの粗鄙にして理に背く議論は、全く一点の顧忌もなし、あにただ「中道に合わず」のみならんや。
世俗溺於所聞,爭言象數,黃口小兒人人慾為邵子,而二篇十翼束之髙閣,邪說橫行,聖真滅息矣。雖曰末流之極弊,抑先天心法之傳有以導之使然也。其後劉秉忠、李俊民等専治《皇極經世》數,而顧以《易》鳴,唯資中黃澤楚望謂當因孔子之言上求文王、周公之意,可謂粹然一出於正。然非屏棄九圖,則黃霧不披,青天白日終不可得而見也。
世俗の人は聞く所の一套に沉溺し、争相て象数を談論し、黄口の小児に至るまで人人邵雍を做らんと欲し、而も《易》の上下二篇および《十翼》は却って高閣に束ねられ、邪説は横行して、聖人の真意は就中湮没す。此れは末流の極弊と言うべしと雖も、然るにまた是れ先天心法の伝授の引導して出した結果なり。此の後劉秉忠・李俊民らは専門に《皇極経世》の数を研治して、却って《易》を以て名家と為し、唯だ資中の黄沢(字は楚望)は孔子の言に依拠して上は文王・周公の本意を求むべしと主張し、純粋に正道より出でたりと言うべし。然るに若しあの九幅の図を摒棄せざれば、黄霧散らず、青天白日は終じて看る能わざるなり。
右論溟涬生。
以上の一節は、廖応淮一派の専ら禍福を言う流弊を弁論するものである。
王氏弼《周易略例·明象篇》曰:夫象者,出意者也;言者,明象者也。盡意莫若象,盡象莫若言。言主於象,故可尋言以觀象;象主於意,故可尋象以觀意。意以象盡,象以言著,故言者所以明象,得象而忘言;象者所以存意,得意而忘象。猶蹄者所以在兔,得兔而忘蹄;筌者所以在魚,得魚而忘筌也。然則言者,兔之蹄也;象者,魚之筌也。
魏人王弼《周易略例・明象篇》は曰く、いわゆる「象」は、以て意を表出するに用いる。いわゆる「言」は、以て象を闡明するに用いる。意を窮めんには、象より良きはなし。象を窮めんには、言より良きはなし。言は象に依托し、故に言に循いて以て象を観るべし。象は意に依托し、故に象に循いて以て意を観るべし。意は象を以て窮まり、象は言を以て著る。故に言は以て象を闡明する者、象を得れば即ち言を忘るべし。象は以て意を存留する者、意を得れば即ち象を忘るべし。此れは猶お兔蹄(兔を捕る器具)の以て兔を捕るに用いるが如く、兔を捉得すれば即ち兔蹄を忘る。魚筌は以て魚を捕るに用い、魚を捉得すれば即ち魚筌を忘る。此の如くにして言えば、言は即ち兔を捕る蹄、象は即ち魚を捕る筌なり。
是故存言者,非得象者也;存象者,非得意者也。象生於意而存象焉,則所存者乃非其象(所存者在意)也;言生於象而存言焉,則所存者乃非其言也(所存者在象)。然則忘象者,乃得意者也;忘言者,乃得象者也。得意在忘象,得象在忘言。故立象以盡意,而象可忘;重畫以盡情,而畫可忘也(盡和同之意,忘其天火之象;得同志之心,拔茅之畫可棄)。
故に言を拘守する者は、併せて真に象を得ず。象を拘守する者は、併せて真に意を得ず。象は意より生じて、而も象を拘守せば、則ち拘守する所は是れ真の象にあらず(唐代の邢璹注:真の象は意の中に在り)。言は象より生じて、而も言を拘守せば、則ち拘守する所は是れ真の言にあらず(注:真の言は象の中に在り)。此の如くにして言えば、能く象を忘るる者は、才是れ意を得る人。能く言を忘るる者は、才是れ象を得る人。意を得るは即ち象を忘るるに在り、象を得るは即ち言を忘るるに在り。故に聖人は象を立てて以て意を尽くすも、而も象は是れ忘るべし。卦画を重畳して以て情を尽くすも、而も卦画もまた是れ忘るべし(注:《同人》の和同の意を領会すれば、即ちその離下乾上の「天火」の象を忘るべし。同心同志の心を得れば、《泰》卦の「茅を拔く」の爻画もまた棄置すべし)。
是故觸類可為其象,合義可為其徵。義苟在健,何必馬乎?類苟在順,何必牛乎?(《大壯》九三有乾亦云羝羊,《坤》卦無乾彖亦云牝馬。)爻苟合順,何必坤乃為牛?義苟應健,何必乾乃為馬?(《遯》無坤,六三亦稱牛;《明夷》無乾,六二亦稱馬。)而或者定馬於乾,案文責卦,有馬無乾,則偽說滋漫,難可紀矣。互體不足,遂及卦變;變又不足,推致五行。一失其原,巧愈彌甚,縱復或值,而義無所取,蓋存象忘意之由也(失魚兔則空守筌蹄,遺健順則空說龍馬)。忘象以求其意,義斯見矣。
故に類に触れて旁通するは皆可なりて以て其の象を立て、義理相合するは皆可なりて以て其の徴験を為す。義理はただ剛健に在らば、何ぞ必ずしも馬を用いざるを得ん。物類はただ柔順に在らば、何ぞ必ずしも牛を用いざるを得ん。(注:《大壮》九三は乾体有りても亦た「羝羊」と言い、《坤》卦は乾体なくして卦辞もまた「牝馬」と言う。)爻はただ柔順に合せば、何ぞ必ずしも坤ならざれば牛を為さん。義はただ剛健に応ずれば、何ぞ必ずしも乾ならざれば馬を為さん。(注:《遯》卦は坤なくして六三もまた牛と称し、《明夷》は乾なくして六二もまた馬と称す。)然るに人有りて偏に馬を死に乾の上に定めて、文辞に照らして卦体を責求し、馬有りて乾なきに遇えば、則ち偽説泛濫して多く記して來れず。互体は講じ通せざれば、即ち卦変を搬出し、卦変もなお講じ通せざれば、即ち五行の上に推到す。一旦本原を失うや、弄する愈々巧くなるほど愈々糟くなり、たとい偶偶碰對するも、義理の上に取るべき処なし。此れ皆象を拘守して意を遺忘するの造成する所なり(注:魚と兔を丟えば則ちただ空しく筌と蹄を守り、剛健柔順を遺棄すれば則ちただ空しく龍と馬を談ず)。象を忘れて其の中の意を求めれば、義理は即ち自然に顕現す。
陵陽李氏心傳《丙子學易編》曰:自周之衰,言《易》者寖失羲、文之意,而牽合破碎,或反資以為亂,故夫子作《十翼》,専以義理明之。其後讖緯之學興,而飛伏、互體之文,壬遁、九宮之說,紛紛然並出,皆托《易》以行世。至王輔嗣乃獨辭而闢之,其視兩漢諸儒可謂賢矣,惜其溺於時好,乃取莊、老之妄以亂周、孔之實,故《易》之道終不明於世。
南宋の陵陽人李心伝《丙子学易編》は曰く、周室が衰微してより、《易》を講ずる人は漸々伏羲・文王の本意を失い、牽強附会・支離破碎して、あるいは却って作乱の憑借を為すに拿げられ、故に孔子は《十翼》を作り、専ら義理を以て之を闡明した。此の後讖緯の学が興起し、飛伏・互体の文字、六壬遁甲・九宮の説法は、紛紛として一起に冒出して、皆《易》を假托して以て世に流行した。王弼(字は輔嗣)に至りて才めて独り著文して以て排斥を加え、両漢の諸儒に比すれば賢明と言うべし。可惜しむべくは彼は当時の風尚に沉溺して、竟に荘子・老子の虚妄の説を取りて周公・孔子の実理を攪乱し、故に《易》道は終じて世に大明する能わざりき。
按:王氏筌蹄之喻,雖出於莊子而其義不同。其所謂忘言忘象者,亦謂學《易》者觀象玩辭,期於自得,久之當有所融釋脫落耳,非若為先天之學者欲盡棄周孔之言,専於羲皇心地上馳騁也。即其卦爻之解,間有涉於虛無者,亦皆莊老之微旨,與坎離龍虎之說精觕相去逺矣。故伊川教人且看王輔嗣、胡翼之、王介甫三家《易》,以其所主在義理,不為百家眾技所惑也。宋人奉陳、邵為伏羲,而顧斥輔嗣為莊老,吾不知其何說矣。
胡渭按語:王弼の筌蹄の比喻は《荘子》より出づると雖も、含義は相同じからず。彼の言う忘言忘象も、亦た過ぎず《易》を学ぶ人が象を観じ辞を玩みて、自得に期し、日子一久しければ自然に融通脱落する所有らんを言うのみ、併せて先天の学を搞する人の如く、周公・孔子の話を全部拋棄して、専ら伏羲の心地の上に馳騁せんとするに似ず。たとい彼が卦爻を解釈する時に偶々虚无に涉及する処有るも、あれは皆荘・老の微旨にして、坎離龍虎あの套の丹家の説とは精粗の上に相去ること甚だ遠し。故に程頤は人に教えて姑く先ず王弼・胡瑗(字は翼之)・王安石(字は介甫)三家の《易》を看よと為す、彼らの主とする所は義理に在りて、諸子百家の方技に迷惑せられざるを以てなり。宋人は陳抟・邵雍を奉じて伏羲と為し、却って王弼を斥責して荘老と為す、我は真に此れ何の説法なるかを知らず。
程子《易傳序》曰:《易》,變易也,隨時變易以從道也。其為書也,廣大悉備,將以順性命之理,通幽明之故,盡事物之情,而示開物成務之道也。聖人之憂患後世,可謂至矣。去古雖逺,遺經尚存,然而前儒失意以傳言,後學誦言而忘味,自秦而下,蓋無傳矣。予生千載之後,悼斯文之湮晦,將俾後人沿流而求源,此傳所以作也。
程頤《周易程氏伝》の序は曰く、いわゆる《易》は、即ち変易なり、時勢に随いて変易して以て道に順従す。此の部の書は広大にして備らざる所なし、以て性命の理に順応し、幽明の故を貫通し、事物の情を窮尽し、従りて「物を開き務を成す」の道理を昭示す。聖人は後世の為に憂慮し、極点に至ったと言うべし。古代より距ること久遠と雖も、遺留の経文はなお在り、然るに先前の儒者は本意を丟掉してただ文句を伝え、後来の学者は文句を誦読して意味を忘掉し、秦より以後、真の伝承なしと言うべし。我は千年の後に生れ、此の文脉の湮没晦暗なるを痛惜し、後人をして支流に沿いて源頭を追尋せしめんと欲す。此の伝は即ち此の為に作る所なり。
《易》有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。吉凶消長之理,進退存亡之道,備於辭,推辭考卦,可以知變,象占在其中矣。君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占。得於辭不達其意者有矣,未有不得於辭而能通其意者也。至微者理也,至著者象也,體用一源,顯微無間。觀會通以行其典禮,則辭無所不備。故善學者求言必自近,易於近者非知言者也。予所傳者辭也,由辭以得其意,則在乎人焉。
《易》は聖人の道の四つの方面を包含す:之を以て講論する者は其の辞を重んじ、之を以て行動する者は其の変を重んじ、之を以て器物を制作する者は其の象を重んじ、之を以て卜筮する者は其の占を重んず。吉凶消長の道理・進退存亡の方法は、皆完備に辞の中に体現す。辞を推求し卦を考察すれば、即ち変を知るべく、象と占もまた其の中に包含す。君子は平居すれば即ち其の象を観察して其の辞を玩味し、行動有らば即ち其の変を観察して其の占を玩味す。人有りて辞を得て其の中の意に通達する能わざるは有れど、従来辞を得ざりて能く其の意に通ずる人はなし。最も幽微なるは理、最も顕著なるは象、体と用は同一の源より出で、顕と微の間に間隔なし。事理の会通の処を観察して其の典章礼制を施行せば、則ち辞は備らざる所なし。故に善く学を為す者は文辞を求解するに必ず切近の処より入手す、切近の処を軽視する者は是れ言辞を懂得する者にあらず。我の伝述する所は辞なり、辞より以て其の中の意を領会せんに至っては、則ち各人自らに在り。
《遺書》:張閎中以書問「《易》之義本起於數」,程子答曰:謂義起數則非也。有理而後有象,有象而後有數。《易》因象以知數,得其義則象數在其中矣。必欲窮象之隠微,盡數之毫忽,乃尋流逐末,術家所尚,非儒者之務也,管輅、郭璞之學是已。又曰:理無形也,故因象以明理;理見乎辭者也,則可由辭以觀象,故曰「得其義則象數在其中矣」。
《程氏遺書》に記載す:張閎中は信を写して「《易》の義理は本来数より起る」と問う。程頤は回答して曰く、義理は数より起ると言うは、あれは是れ是ならず。先に理有りて後に象有り、先に象有りて後に数有り。《易》は象を憑借して以て数を知る、其の義を得れば、象と数は皆其の中に在り。若し必ず象の隠微を窮究し数の毫忽を算尽せば、則ち是れ流を尋ね末を逐うにして、術士の崇尚する所にして、儒者の正事にあらず、管輅・郭璞あの一路の学問は即ち此の如し。程頤また曰く、理は形体なく、故に象を借助して以て理を闡明す。理は辞の上に顕現す、故に辞より以て象を観るべし。故に「其の義を得れば、象と数は皆其の中に在り」と言う。
朱子曰:自秦漢以來,考象辭者泥於術數,而不得其弘通簡易之法;談義理者淪於空寂,而不適乎仁義中正之歸。求其因時立教,以承三聖,不同於法而同於道者,則惟伊川先生程氏之書而已。後之君子誠能日取其一卦若一爻者熟復而深玩之,如已有疑將決於筮而得之者,虛心端意,推之於事而反之於身,以求其所以處此之實,則于吉凶消長之理、進退存亡之道,將無所求而不得,邇之事父,逺之事君,亦無處而不當矣。
朱熹は曰く、秦漢より以来、象と辞を考求する人は術数に拘泥して、あの弘大通達・簡易明白の法門を得ず。義理を談論する人はまた空虚寂滅に淪して、仁義中正の帰宿に達せず。一位の能く時に因りて教を設け、上は伏羲・文王・孔子三聖を承け、方法同じからずして同じくする所は道に在る者を找せんとすれば、則ちただ伊川先生程頤の書のみ有り。後世の君子若し真能く毎日其の中の一卦あるいは一爻を取りて反復熟読し深く玩味を加え、自ら心の中に疑難有りて将に占筮を通じて決断せんとするに恰好此の一卦一爻を得るが如く、虚心端意して、之を事に推して身に反求し、眼前の処境に応対する実理を寻求せば、則ち吉凶消長の道理・進退存亡の方法に対し、将に求めて得ざるなからん。近くは父亲に事奉し、遠くは君主に事奉し、亦た一処として合宜ならざるなし。
鄱陽馬氏端臨曰:按伊川之《易》,精於義理而略於卜筮象數,此固先儒之說。然愚嘗以為《易》之象數卜筮,豈出於義理之外?蓋有此理則有此象、有此數,而卜筮之說,其所謂趨吉避凶、恵迪從逆雲者,又未嘗不一出於義理。平時本諸踐履,則觀象玩辭,此義理也;一旦謀及卜筮,則觀變玩占,亦此義理也,初不必岐而二之。
元代の鄱陽人馬端臨は曰く、程頤の《周易程氏伝》に按ずれば、義理に精しくして卜筮象数には講ずること簡略なるは、此れ本来前輩儒者の定評なり。然るに我は曾て《易》の象数と卜筮は、あに能く義理の外に走り出でんやと認めり。既に此の理有れば、即ち此の象有り此の数有り。而も卜筮のあの套の説法は、いわゆる吉に趨り凶を避け、善道に順従すれば則ち吉、善道に違逆すれば則ち凶の話は、又た何ぞ一概に義理の中より出でざらん。平日に躬行践履を以て根本と為し、即ち象を観じ辞を玩むは、此れ義理なり。一旦事有りて卜筮に謀れば、即ち変を観じ占を玩むは、此れ同じくなお義理なり。本来即ち両者を分けて両截と為して看るを必とせざるなり。
項氏《周易玩辭》自序曰:「君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占」,讀《易》之法盡於此矣。《易》之道四,其實則二,象與辭是也。變則象之進退也,占則辭之吉凶也。不識其象,何以知其變?不通其辭,何以決其占?然而聖人因象以措辭,後學因辭而測象,則今之讀《易》,所當反覆紬繹、精思而深味者,莫辭若也。於是作《周易玩辭》。
南宋の項安世《周易玩辞》の自序は曰く、「君子は平居すれば即ち其の象を観察して其の辞を玩味し、行動有らば即ち其の変を観察して其の占を玩味す」と、《易》を読むの方法は尽くして此処に在り。《易》の道は四項有りて、其実はただ両項のみ有り、即ち象と辞なり。変は、是れ象の進退。占は、是れ辞の吉凶。其の象を認識せざれば、どうして其の変を知らん。其の辞を通暁せざれば、どうして其の占を決断せん。然るに聖人は象に依拠して文辞を措置し、後学は則ち文辞に依拠して象を推測す。さらば今天《易》を読むに、最も反復抽繹し精思深味すべきは、文辞より更要緊なるはなし。遂に此の部の《周易玩辞》を写し出せり。
又曰:程子平生所著,獨《易傳》為全書,安世受而讀之三十年矣。今以其所得於《易傳》者述為此書,而其文無與《易傳》合者,合則無用述此書矣。世之友朋,以《易傳》之理觀吾書,本末條貫,無一不本於《易傳》者;以《易傳》之文觀吾書,則未免有「使西河之民疑汝於夫子」之怒。知我者此書也,罪我者此書也。
項安世また曰く、程頤の一生に著する所は、ただ《易伝》のみ是れ完整の書なり。我は之を領受して誦読するやすでに三十年なり。今《易伝》より得たる所の心得を撰述して此の部の書と為すも、而も書の中の文字は《易伝》と相同じる一処なし。若し相同じれば、則ち此の部の書を再び写すを用いざるなり。世上の朋友、若し《易伝》の義理を以て我が書を看れば、本より末まで条理貫通して、《易伝》に本づかざる一処なし。若し《易伝》の文字を以て我が書を看れば、則ち免れず「西河の民をして汝を夫子に疑わしむ」の如き責怪を招来せん。我を理解するは是れ此の部の書、我を怪罪するも亦是れ此の部の書。
鄱陽馬氏《周易玩辭序》曰:《易》有聖人之道四,變與象居其二焉。自義理之學大明,而變象之說幾晦,先儒欲救其弊,則曰:「聖人當時自可別作一書明言義理以詔後世,何用假託卦爻,為此艱深隠晦之辭乎?」愚嘗以為變之說不一:有隨時之變,如彖、象、小象、文言、繫辭各自一義是也;有逐爻之變,如九六七八、陰陽老少是也;有逐卦之變,如剛柔往來、互體飛伏是也。
馬端臨が項安世《周易玩辞》の為に作る序は曰く、《易》は聖人の道四項を包含し、「変」と「象」は即ち其の中の両項を占む。義理の学が大いに昌明してより、変を講じ象を講ずる説法はほとんど晦暗にして彰らず、前輩の儒者は此の偏失を補救せんと欲して、就中反問して曰く、「聖人は当時尽くして別に一部の書を写し、明明白白に義理を講じて以て後世に告示すべく、何ぞ必ずしも卦爻を假托して、此の種の艱深隠晦の文辞を写り出さんや」と。我は曾て「変」の説法は一种に止まらずと認めり:随時に言うの変有り、例えば《彖伝》《大象》《小象》《文言》《繋辞》は各々一層の意義を成就する如し。逐爻に言うの変有り、例えば九・六・七・八および陰陽老少の分は如し。逐卦に言うの変有り、例えば剛柔往来・互体飛伏此の一類は如し。
象之說亦不一:有卦畫之象,陰陽竒耦、三連六斷是也;有大象之象,天地風雷、山澤水火是也;有《說卦》之象,乾為馬、坤為牛、乾為首、坤為腹之類是也。至簡要者隨時之變也,至支離者逐卦之變也,至精微者卦畫之象也,至瑣碎者《說卦》之象也。必研究其簡要精微者,而不拘泥其支離瑣碎者,則曰象曰變,固無非精義至理之所寄也,豈有二哉?
「象」の説法も亦た同じく一种に止まらず:卦画の象有り、陰陽の奇画と偶画・三画相連の乾と六画中断の坤は如し。大象の象有り、天・地・風・雷・山・沢・水・火此の八种の物象は如し。《説卦》の象有り、乾は馬を為し坤は牛を為し乾は首を為し坤は腹を為す此の一類の取譬は如し。此の幾種の中に在りて、最も簡明扼要なるは是れ随時の変、最も支離なるは是れ逐卦の変。最も精微なるは是れ卦画の象、最も瑣碎なるは是れ《説卦》の象。ただあの簡要精微の部分を用心研究し、而もあの支離瑣碎の部分に拘泥せざれば、則ちいわゆる「象」・いわゆる「変」は、本来精深なる義理の寄托する所にあらざるなしにして、あに截然として両回事ならんや。
按:象、辭、變、占四者,說《易》之綱領也。伊川歸重於辭,平庵因之。愚則謂辭本乎象,象尤不可忽,故夫子曰「聖人立象以盡意,繫辭焉以盡其言」,又曰「八卦以象告,爻彖以情言」。象者,二體六爻之畫是也,而王輔嗣以乾牛坤馬之類當之。朱子謂如「初九潛龍勿用」一辭中四者俱備:初九,變也;潛龍,象也;勿用,占也。愚則謂潛龍、牝馬等語,若詩之比興,總謂之辭,非夫子之所謂象。平庵云:凡卦辭皆曰彖,凡卦畫皆曰象,未畫則其象隠,已畫則其象著,故指畫為象,非謂物象也;大象總論六畫之義,小象各論一畫之義,故皆謂之象;其曰天、曰龍者,自因有象之後推引物類以明之耳,本稱《易》象,非此之謂也。斯言可以正諸儒之失。未筮謂之辭,筮得其辭謂之占,亦非但「勿用」二字為占也。
胡渭按語:象・辞・変・占四項は、是れ《易》を解説する綱領なり。程頤は重心を辞の上に帰し、項安世(号は平庵)は其の説法に沿袭す。我は則ち辞は象に本づき、象は尤も忽略すべからずと認む。故に孔子は「聖人は象を立てて以て意を尽くし、辞を繫げ焉して以て其の言を尽くす」と言い、また「八卦は象を以て告げ、爻彖は情を以て言う」と言う。いわゆる象は、上下二体・六爻の卦画を指すのに、而も王弼は却って乾は牛を為し坤は馬を為す此の一類を拿げて以て之に充当す。朱熹は「初九潜龍勿用」の如き一句の辞の中に四者皆斉備すと認む:「初九」は是れ変、「潜龍」は是れ象、「勿用」は是れ占。我は則ち潜龍・牝馬此の類の語句は、《詩経》の比興に比すべく、帰根して皆辞と算す、併せて孔子の言う象にあらずと認む。項安世は曰く、およそ卦辞は皆彖と叫び、およそ卦画は皆象と叫ぶ。未だ画り出さざる時はあの象は是れ隠にして、画り出せばあの象は顕なり。故に卦画を指して象と為す、併せて物象を言うにあらず。《大象》は総じて六画の義理を論じ、《小象》は分かちて一画の義理を論ず。故に皆象と称す。天を言い龍を言うに至っては、あれは卦画の象有るの後に物類を推引して以て之を説明するのみ、本来称する所の《易》象は、指す所は此れにあらず。此の番の話は以て諸儒の失誤を匡正すべし。占筮せざる時は之を辞と叫び、占筮してあの句の辞を得れば即ち之を占と叫ぶ、亦た単に「勿用」両箇の字のみ才めて占と算するにあらず。
京山郝氏敬《談經》曰:羲畫始呈玄旨,苞絡如夜半子,陽初動,晨光未熹。夏、商之易不可覩矣,然使其無憾,文王必不更演《易》。至文王、周公抽厥玄緒,但其辭旨深約,如平旦昧爽,曲房晏起,尚未知曙。迨夫子《十翼》,讚揚幽隠,畢達揭日月而行康莊,大明中天矣。旋罹秦火,六籍散越而《易》獨存,後生捧完璧,誠斯文大幸。奈何更生異端,稂莠其真苗,磔裂其同體,妄謂羲聖有不傳之秘,使緯稗蠭起,詆夫子《十翼》為一家言,離經叛道莫此為甚。
明代の京山人郝敬は《談経》の中に曰く、伏羲の卦画は初めて玄妙の意旨を呈現し、万有を包罗するも半夜子時の如く、陽気は剛く萌動し、晨光はなお未だ明亮ならず。夏・商両代の易はすでに看る能わざるも、然るに仮にあの時の易が毫も遺憾なからば、文王は必ず再び《易》を推演せざらん。文王・周公が其の中の玄妙の線索を抽繹するに至るも、然るに彼らの文辞意旨は深奥簡約にして、平旦天色微明に比すべく、深屋の中に睡り晩れた人はなお已に天亮したるを知らず。孔子が《十翼》を作るに及ぶに至りて、幽深隠微の処を一々闡揚し、全部通達して、日月を挙げて康庄大道の上に行走するが如く、太陽は空に当たりて光明大盛なり。随后に秦代の焚書に遭遇し、六経は散失して独り《易》のみ保存を得たり。後生は此の塊の完璧を捧ぐ、実在是れ斯文の大幸なり。あきない、また異端を生出して、莠草を以て其の真苗を雑乱し、其れ本来一体のものを撕裂開きて、妄りに伏羲は別に伝えざる秘旨有りと説きて、緯書稗説をして蜂擁して起らしめ、孔子の《十翼》を詆毀してただ一家の言と為すは、経に離れ道に叛くは此れより厲害なるはなし。
近時博士家承邵、朱之說,謂三聖不同易,病分經合傳之非古,歸咎王弼,此不能三年之喪而緦小功之察也。夫謂經傳不可合者,以書同而道異、言同而人異,如《春秋》諸傳於經,則誠未可合也;羲、文、周、孔,奚不合之有?由孔子視三聖為古,自視為傳;由今視四聖,則皆古也,皆經也。孔子何遂不如左、公、谷傳《春秋》?世儒不病左、公、谷合《春秋》,而病《十翼》合《易》,以伸「四聖不同易」之說,謬也。
近来経を講ずる博士らは邵雍・朱熹の説法を承襲して、伏羲・文王・孔子三聖の易は各々相同じからずと認め、経と伝を合せるは古制に合わずと指責して、過錯を王弼の身上に帰す。此れは譬えば三年之喪すら行う能わざるに、却って緦麻・小功あの些細の処を講究するが如し。経と伝は合併すべからずと言うは、是れ書は同じと雖も道は相異なり、話は同じと雖も人は相異なるが為、《春秋》諸家の伝は経に対し、あれは確かに合併すべからざるなり。伏羲・文王・周公・孔子に至っては、何の合併すべからざる有らん。孔子の角度より看れば、三聖は是れ古人、自ら作る所は是れ伝。今天より四位の聖人を看れば、あれは皆古人、亦た皆経なり。孔子はあに却って左氏・公羊・穀梁が《春秋》の為に伝を作るに及ばざらんや。世儒は左・公・穀三伝が《春秋》と合刻するを非議せずして、却って《十翼》が《易》と合編するを非議し、此れを以て「四聖同じ易ならず」の説法を伸張す、此れ是れ荒謬なり。
巻十・学易の正宗を論ず(郝敬《談経》《学易枝言》)
邵堯夫造為先天方圓等圖,好事詫為新竒,修煉羽流緣飾龍虎、鉛汞、奼女、嬰兒為《參同》《悟真》等書,乍見竒僻,叩之不過存神馭氣以求長生,而珍秘自喜,援易為口實。聖人作易,易簡開物,患人不知;而小說誣世,唯恐人知,心術已冰炭矣。《禮》云:「假鬼神、時日、卜筮疑眾者殺。」學者反尊崇其說,甚矣人之好怪也。
北宋の邵雍(字は堯夫)は先天方円の一類の図を造り出し、好事の人は便ち新奇怪異の説と驚詫す。丹道を修錬する道士はまた「龍虎」「鉛汞」「姹女」「嬰兒」此れらの隠語を用いて以て縁飾を加え、《周易参同契》《悟真篇》一類の書を編成す。一見するに奇詭冷僻なりと乍ら、追問して下れば、亦た過ぎず神を存し気を馭して以て長生を求むるのみ、而も秘宝と当作して自ら得意と鳴り、なお《周易》を拉らし来りて借口を為す。聖人の《易》を作るは、本来平易簡明にして民智を開通して事務を成就し、惟だ人の明白せざるを恐る。此れらの小道の説は世人を欺蒙して、惟だ人に看破せられんことを恐る。両者の居心は已に氷炭の如く相反す。《礼記・王制》は曰く、「鬼神・時日・卜筮を假借して以て民衆を惑乱する者は、処死す」と。学者は却って此の類の学説を尊崇す、人々の怪を好む毛病は、実在太だ厳重なり。
《學易枝言》曰:羲聖世無文字,三才義理無憑發揮,爰始畫卦設象,不得已也。設有文字,便敷演成辭,豈好為隠乎?揚雄識字既多,而索隠鉤藏,別構方、州、部、家為《玄》儗易,則心勞而日拙矣。
郝敬《学易枝言》は曰く、伏羲あの時代はなお文字なく、天・地・人三才の義理は表述発揮するに処なし、此れ才めて卦を画き象を立て始む、実在是れ已むを得ざりき。仮使当時已に文字有らば、伏羲は便ち文辞に鋪陳して成さん、あに彼は故に隠晦を作るを好まんや。西漢の揚雄は認得の字は已に多しと夠すれど、而も偏に隠僻を探索し幽蔵を鉤取し、別に「方」「州」「部」「家」の名目を立て、《太玄》を写し成して以て《周易》を摹擬す、此れ就中叫ぶに心思は愈々用いるほど愈々拙笨なり。
易爻辭象義誠有不可盡解者,前人不傳,後人何述?要之,精微中之易簡,愚不肖可知;易簡中之精微,聰明才辯者未悉。如管公明、郭景純卜筮,焉可謂之非易?然亦四道之一端耳。子云:「知之為知之,不知為不知。」三才之要,人所當知者,王輔嗣、程正叔諸君子所言,不可勝用矣。
《周易》の爻辞と象義は確かに講じ透さざる処有り、前人は伝え下らず、後人は何を憑りて追述せん。総じて言えば、精微の裡頭の平易簡明は、愚笨不才の人も亦能く懂り、平易簡明の裡頭の精微は、聡明善弁の人に連ねても未だ必ずしも尽く通ぜず。三国魏の管輅(字は公明)・晋代の郭璞(字は景純)の如き占筮は、どうして《易》にあらずと言う能わん。ただあれも亦たただ「辞・象・変・占」四道の中の一端のみ。孔子は曰く、「知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す」と。三才要義の中人の当に明白すべき所は、王弼(字は輔嗣)・程頤(字は正叔)此れらの先生は已に講じて用い尽くさざるを得たり。
聖人作易,立人之道而已;學易者,亦學為立人之道而已。又曰:朱元晦謂孔子之易非文王、周公之易,愚謂孔子贊易,秖為立人之道,學者日用切要而言,誠有之。但聖人說理發揮人道,即函蓋三才萬象無不脗合,與羲、文、周公無二。
聖人の《易》を作るは、過ぎず是れ人の為る道理を確立せんと要するのみ。《易》を学ぶ人も、亦た過ぎず人の為る道理を践実し学ばんと要するのみ。また曰く、朱熹(字は元晦)は孔子の《易》は文王・周公の《易》にあらずと認む。我は以て孔子の《易》を賛するは、ただ人の道を確立し学者日用の最も切要の処に就いて言を立つ、此の話は確かに幾分の道理有り。但し聖人は義理を闡説し人道を発揮すれば、同時に就中三才万象を涵盖して吻合せざるなし、伏羲・文王・周公と併せて両様ならず。
按:莊生曰「易以道陰陽」,此非周之言,而古之言也。蓋古者三易之法掌於太卜,一曰《連山》,二曰《歸藏》,三曰《周易》,其經卦皆八,其別皆六十有四。非但彖爻之辭自為一書,即如《春秋》內外傳所載諸繇辭亦不得與焉。其所見者唯二體六畫剛柔雜居之象,以為道陰陽宜也。至扵文王繫彖、周公繫爻,則固以陰陽推之於人事,而所言無非仁義中正之歸矣。孔子作十翼,則又發彖爻之蘊,竭盡而無餘焉。聖人之所以窮理而盡性,君子之所以反身而寡過,皆在此書,奚止道陰陽哉!
胡渭按:荘周は「《易》は以て陰陽を講ず」と言う、此の句の話は併せて荘周自らの創見にあらず、而も是れ古来相伝の旧説なり。上古の三种の《易》法は太卜に帰して掌管せしめ、一は《連山》、二は《帰蔵》、三は《周易》、彼らの経卦は皆八箇、重卦は皆六十四箇。あの時は不但に文王・周公の彖辞爻辞はなお自ら一書を成さず、連ねて《左伝》《国語》の載する所のあの占繇の辞も亦た其の中に在らず。人々の看る能くする所は、ただ上下二体・六画剛柔交錯の卦象のみ、故に《易》は以て陰陽を講ずと言うも、亦た理所当然なり。文王が彖辞を繫げ周公が爻辞を繫ぐるに及ぶに至りて、已に陰陽を推衍して人事の上に至らしめ、講ずる所は仁義中正に帰結せざるなし。孔子の《十翼》を作るは、更に彖辞爻辞の蘊涵を発揮して淋漓盡致ならしむ。聖人の以て天理を窮究し人性を極尽し、君子の以て身に反躬し過失を減少するは、全く此の部の書の中に在り、あにただ陰陽を講ずるのみならんや。
微三聖之辭,則伏羲作易之旨鬱而不明,萬古如長夜矣,而顧謂三聖不如伏羲,何歟?且夫三才之道,在天曰陰陽,在地曰剛柔,在人曰仁義,其為性命之理則一也。《洪範》由天道以推之人道,《中庸》由人道以合之天道,蓋天人之理未有不歸於一致者也。三聖所重在人道,而天地之道亦無不備焉。伏羲時未有文字,不得已而畫竒耦以垂教,陰陽可以畫見,而仁義不可以畫見,故說者但以為道陰陽,而不知伏羲之旨専在立人之道也。
若し文王・周公・孔子三位の聖人の文辞無からば、伏羲の《易》を作る本意は鬱結して明白ならず、千秋万代は長夜の如くならん。然るに竟に人有りて三聖は伏羲に及ばずと言うは、此れ何の道理か。再び三才の道を言えば、天に在りては陰陽と叫び、地に在りては剛柔と叫び、人に在りては仁義と叫ぶも、性命の理と為せば却是れ同一なり。《尚書・洪範》は天道より推して人道に及び、《礼記・中庸》は人道より上は天道に合す、見るべく天と人の道理は帰一致せざるなし。三聖の着重する所は人道に在り、而も天地の道も亦た一として完備せざるなし。伏羲の時はなお文字なく、已むを得ず才めて奇画を画きて陽と為し偶画を為して陰と為し、以て教化を垂示す。陰陽は以て卦画に表現すべく、仁義は卦画に表現するに法なし。故に《易》を講ずる人はただ之を以て陰陽を講ずと為すも、而も伏羲の本意は専ら人の為る道理を確立するに在るを知らず。
苟其有文字,則亦必言及仁義矣。伏羲而無言也;伏羲而有言,安知不與三聖同辭乎?老莊之徒掊擊仁義,故厭薄周孔之辭,以為不足道;儒者不能辭而闢之,反為之推波助瀾,尊伏羲不言之教,抑三聖闡幽之辭,豈不悖哉!仲輿解經多所創穫,而尤不喜宋儒,愚未敢深信;獨論易數則最為精確,其曰「聖人作易,立人之道而已」,此語大有裨於來學,故特表而出之,且為之暢其指趣焉。
仮使あの時已に文字有らば、伏羲も亦た必ず仁義に講じ及ばん。伏羲はただ言辞を留下せざるのみ。伏羲若し言辞有らば、どうして三聖と言う所同じからざらんを知らん。老子・荘子一派は仁義を攻撃す、故に周公・孔子の文辞を看軽して、言うに足らずと認む。儒者は能く理に拠りて駁斥せずして、却って彼らの為に波を推し瀾を助け、伏羲の言を立てざる教法を抬高し、三聖の幽微を闡発する文辞を圧低す、あに是れ本末を顛倒するにあらずや。郝敬(字は仲興)の経を解するは多く独得の发明有り、尤も宋儒を喜ばざるは、此の点は我は敢て深信せず。独り彼の《易》を論ずる此の幾条は最も精確にして、彼の言う「聖人の《易》を作るは、過ぎず是れ人の為る道理を確立せんと要するのみ」は、此の句の話は後学に対し大いに裨益有り、故に特に之を標挙し出し、併せて彼に替わりて意旨を申説明白す。
巻十・学易の正宗を論ず(陳言《易疑》と《易経精蘊》諸序)
東涯陳氏言《易疑》自序曰:易非聖人卜筮之書也,卜筮以聖人之書爾。伏羲畫卦,原神於太乙,起數於陰陽,類象於萬物,通幽於神明,和順於道徳性命,無乎弗括。文王於卦為之辭以明其象類,周公於爻為之辭以盡其變化,孔子於卦爻為之彖、象、文言、繫辭、說、序、雜卦,以闡羲、文、周公之義理,使學者修此而吉,悖此而凶,淵乎廣矣,而非作之以卜筮也。
明代の陳言(号は東涯)《易疑》の自序は曰く、《易》は併せて聖人が卜筮の為に作る書にあらず、是れ卜筮が聖人の書を借用したのみ。伏羲の卦を画くは、本は「太乙」に源して神妙に通じ、数を陰陽に起し、象を万物に取り、神明と幽隱に相通じ、道徳性命と相和顺にして、包まざる所なし。文王は卦の下に辞を繫げ、以て卦の象徴する物類を闡明し、周公は爻の下に辞を繫げ、以て爻の変化を窮尽し、孔子はまた卦爻の為に《彖伝》《象伝》《文言》《繋辞》《説卦》《序卦》《雑卦》を作り、以て伏羲・文王・周公の義理を闡発し、《易》を学ぶ人をして此れに依りて身を修めれば則ち吉、之に違背すれば則ち凶ならしむ——是れ何等なる深広、併せて卜筮の為に作るにあらず。
子曰:「易有聖人之道四焉」,辭、象、變、占是也。孔子見卦爻之有辭象變占,言焉而廣大,動焉而吉凶,制器焉而網罟舟楫之用,卜筮焉而神物大衍之策,斯徧舉之矣,而未嘗専於卜筮也。夫易何止五經之原、天地神化之奧,而於卜筮之技精之則末矣。秦漢諸儒考象辭則泥術數,論義理則淪空寂,而不知孔子之易先義理而托象數者也。蓋體其卦爻之蘊,察乎辭象變占之理,通乎言動制器卜筮之用,用之所向即理也,理之所協即占也,占之所利即用也,是孔子之易也,而非専於卜筮明矣。是故學者索卜筮於卦爻之外,參《程傳》於《本義》之中,斯孔子之易備矣,作《易疑》。
孔子は「《易》の中に聖人の道四种有り」と言う、即ち辞・象・変・占なり。孔子は卦爻が辞象変占を兼具するを見て:言語に就いて言えば則ち広大周備、行動に就いて言えば則ち吉凶を見、制器に就いて言えば則ち網を結び舟楫を造るの功用有り、卜筮に就いて言えば則ち蓍亀神物と大衍之数の籌策有り——是れ四者を全部挙出したるにして、併せて曾て偏りて卜筮を主とせず。《易》はあにただ五経の本源・天地神化の奥秘の在所のみならん、卜筮あの点の技芸に至っては、たとい精通するも亦た末节のみ。秦漢の儒者は象と辞を考求すれば則ち術数に拘泥し、義理を討論すればまた空寂に沉溺して、全く孔子の《易》は義理を以て先と為して象数に寄托すること明白せず。若能く卦爻の蘊涵を体察し、辞・象・変・占の道理を明白し、言語・行動・制器・卜筮の功用を貫通せば、則ち功用の指向する所は即ち理、理の契合する所は即ち占、占の利する所は即ち用、此れ才めて孔子の《易》なり、顕然として併せて専ら卜筮を主とせず。故に学者はまさに卦爻の外に到りて卜筮を寻求し、朱熹《周易本義》の中に在りて程頤《伊川易伝》を参看すべし、孔子の《易》は即ち完備なり——遂に《易疑》一書を写り成せり。
朱氏綬《易經精蘊》自序曰:周子曰「聖人之精,畫卦以示;聖人之蘊,因卦以發」。其蘊維何?凡彖、象、文言、繫辭、說卦皆是。宋儒以《周禮》言大卜掌三易,故専作卜筮之書,歴詆大聖理義之言,不少假借。愚於此大懼,深求其病,只在「太卜掌三易」之一言耳。不知易有理、有象、有數:理即蘊之發,象即精之寓,數因一以積。畫卦示象之吉凶,繫辭論理之吉凶,數之吉凶未之明,故立筮人掌三易以辨九筮之吉凶也。
明代の朱綬(字は文佩)《易経精蘊》の自序は曰く、周敦頤は講じたり、「聖人の精微は、卦を画くを以て顕示し、聖人の蘊涵は、卦を憑借して発揮す」と。いわゆる蘊涵は是れ何ぞや。《彖伝》《象伝》《文言》《繋辞》《説卦》は皆是れなり。宋儒は《周礼》が太卜は三《易》を掌ると言うを以て、即ち《易》は専ら是れ卜筮の書と断定し、一々大聖人の義理を講ずる言論を詆斥して、毫も寛假せず。我は此れに対し十分に憂懼し、此の毛病の根源を深究すれば、ただ「太卜三易を掌る」の此の一句の話の上に在るのみ。彼らは《易》に理有り象有り数有るを懂得せず:理は即ち蘊涵の発揮、象は即ち精微の寄寓、数は則ち一より逐步累積して成る。卦を画くは是れ象の吉凶を顕示し、辞を繫ぐるは是れ理の吉凶を論説し、数の吉凶に至ってはなお未だ講明せざれば、故に《周礼》はまた「筮人」の官を設けて三《易》を掌管せしめ、以て九种の筮法の吉凶を辨别す。
觀象玩辭,聖人體易、君子學易以成盛徳大業,至矣;庸人不能,故立占人、筮人。七八九六揲蓍求卦,不過筮更、筮咸,尤細事耳。易無不該,天地有此數,不立筮法以成變化,則天地間缺此一藝,非謂易道易象舉在此筮,専作卜筮之書也。夫子欲加年學易,期無大過,豈在占筮乎?
卦象を観察し文辞を玩味するは、聖人は此れより以て《易》道を体認し、君子は此れより以て《易》を学びて以て盛大の徳業を成就す、此れ是れ最高の境界なり。平常人は做る能わざれば、才めて「占人」「筮人」の官職を設立す。七・八・九・六を以て蓍草を分揲して卦を求むるは、過ぎず《周礼》の九筮の裡の「筮更」「筮咸」之の類、更に是れ細枝末节なり。《易》は包まざる所なし、天地間は既に此の套の数有れば、筮法を立下せざれば以て変化を完成せず、天地間は即ち此の一門の技芸を缺く。此れ併せて《易》の道理と《易》の卦象は全く占筮の上に在りと言うにあらず、《易》は専ら是れ卜筮の為に作る書なり。孔子は幾年かを多く活きて《易》を学ばんと欲し、自ら大の過失なからんと期望す、用意はあに占筮の上に在らんや。
況占筮専於動而不主於靜,一於用而不求於體,求諸神而不求諸已,失無算矣。使一委之卜筮,而平日無玩易之功,遇吉行之而已,遇凶避之而已,君子將何以自強不息?將何以厚徳載物?學者無用辨悔吝之介,無用震無咎之悔,六十四卦訓戒之言皆作虛文矣。洪惟聖朝用易為首經取士,而只在占筮授受,豈不誤甚?無由挽之回車就道,徒抱憤耳。自知得罪於先儒,取譏當世,獨賴聖人為之依歸,用以自解雲。
況んや占筮はただ動を管して静を管せず、ただ用を求めて体を求めず、一味に鬼神に求めて而も自らに反求せざれば、失誤は即ち多くして数え得ざるなり。若し一切を卜筮に交給し、平日に毫も《易》理を玩味する功夫なく、吉に碰上れば即ち照做し、凶に碰上れば即ち躲开すれば、君子はなお何を憑りて「自強して息まず」、なお何を憑りて「厚徳を以て物を載す」。《易》を学ぶ人も亦た細微の征兆と悔吝の関係を辨明するを用いず、悔悟を憑りて以て震動して過失に致らざらしむるを做るを用いず、六十四卦の訓誡の話は全部空文と成らん。本朝は《易》を以て首経と為して士を取るも、而もただ占筮の上に伝授接受す、あに是れ大錯にあらずや。之を挽回して正路の上に至るに従なし、ただ能く白白に恨を抱くのみ。我は自ら知る此の如くすれば先儒に得罪し当世の譏笑を招来せん、唯だ聖人の言を以て帰依と為し、以て自らの為に解説す。
二泉邵氏寳序《精蘊》曰:易為性命道徳之原,而開物成務,仲尼贊之詳矣。惟其道無不備,故百氏宗之。卜筮者,技之至微者也。自朱子《本義》一出,學者翕然從之。夫方術談於庸醫,聴者不能什一;惟夫和、扁一言,雖或盡變軒岐之書,人將謂其有據也。朱子名冠諸儒,道行今古,誠吾儒之和、扁矣,専主卜筮之說,疇不謂其有據乎哉?庠序以之而教人,科目因之而取士,習尚成風,安固而不搖矣。
明代の邵宝(号は二泉)が《易経精蘊》の為に作る序は曰く、《易》是れ性命道徳の本源にして、又能く民智を開通し事務を成就す、孔子は已に賛述する甚だ詳尽なり。正に其の道の備らざる所なきを以て、故に諸子百家は皆之を宗奉す。卜筮は、ただ是れ技芸の中最も細微の一种のみ。朱熹《周易本義》が一出してより、学者は紛紛として跟従す。同じ一套の方術は、庸医の口より出でれば、聴信する人は十分之一に到らず。若し名医の医和・扁鵲の言う所なれば、たとい黄帝・岐伯の相伝する医書を全部改掉するも、人々は皆彼に根拠有りと認めん。朱熹の名望は諸儒に冠絶し、其の学は古今に通行す、実在是れ我ら儒門の医和・扁鵲なり。彼は専ら卜筮の説を主とす、誰か彼に根拠有りと認めざらん。学校は之を拿げて人を教え、科挙は之に依りて士を取り、風気は一成すれば、牢固にして動揺すべからざるなり。
嗚呼!此文佩朱公所以深懼,而《精蘊》之書不容於不作也。書凡二十四卷,一以孔子義理之言為主,按卦推辭,隨爻悉義,一覽之間而四聖之心昭然在目,其有功於斯道也大矣。雖然,《本義》無心於晦道,《精蘊》豈有心於矯弊哉?一念所主而得失因之,紫陽有知,必將感其救正之功也,君曰有罪,夫豈然哉!
唉、此れ正に朱文佩先生の深深に憂懼して、《易経精蘊》を写らざるを得ざる所以なり。全書は共に二十四巻、一概に孔子の義理を講ずる話を以て主と為し、卦に依りて辞義を推求し、爻を逐いて詳尽に発揮す、一覧の下に、伏羲・文王・周公・孔子四位の聖人の用心は便ち昭然として目に在り、其の《易》学に対する功労は是れ甚だ大なり。話は此の如しと雖も、《本義》は併せて意図を以て《易》道を晦蔽せんと要するにあらず、《精蘊》は又たあに是れ意図を以て時弊を糾弾せんと要せんや。過ぎず是れ一念の主とする所にして、得失は便ち此れより以て分かるのみ。朱熹(世は紫陽先生と称す)は若し地下に知有らば、必ず此の部の書の救正する功労を感念せん。朱君は自ら「罪有り」と言う、あに真に是れ此の如くならんや。
都氏穆序《精蘊》曰:客有問穆者曰:「易有卜筮之道乎?」穆曰:「然。」「主卜筮而作乎?」曰:「否。請以水喻:崑崙上源,發而為江、漢、河、淮,以迨溝、澗、溪、渠,皆水也。居溪者曰水以溪而生也,濱澗者曰水以澗而出也,舉一廢百,知水不亦淺乎?」孔子曰:「假我數年,卒以學易,可以無大過矣。」夫以大成之聖,欲學易以免過,易之道可知矣,豈卜筮所可盡哉?
明代の都穆(字は玄敬)が《易経精蘊》の為に作る序は曰く、客人有りて我に問うて曰く、「《易》の中に卜筮の道有るか」と。我は曰く、「有り」と。客人また問うて曰く、「《易》是れ卜筮に主として作るか」と。我は曰く、「否。請うて我をして水を拿げて比方を打たしめよ。崑崙山の上游は源を発して、長江・漢水・黄河・淮水に流れ成り、溝・澗・谿・渠に至るまで、全都是れ水なり。谿辺に住む者は水は谿の裡より生じ出づと言い、澗辺に住む者は水は澗の裡より流れ出づと言い、其の一を挙げて其の百を廃す、此の如くにして水を認識せんは、あにも太だ浅陋ならずや」と。孔子は曰く、「我に再び幾年かを与えて、最終に《易》を学び完うる能くせば、即ち以て大の過失なからしむべし」と。孔子の此の如く大成を集めたる聖人を以てすら、なお《易》を学びて以て過失を免れんと欲すれば、《易》の道理の多大なるは想い知るべく、あに是れ卜筮の窮尽する能くする所ならんや。
巻十・学易の正宗を論ず(顧炎武《日知録》の卜筮を論ず)
顧氏《日知録》:舜曰「官占惟先蔽志,昆命於元龜」,《詩》云「爰始爰謀,爰契我龜」,《洪範》曰「謀及乃心,謀及卿士,謀及庶人,謀及卜筮」,孔子之贊易也,亦曰「人謀鬼謀」。[祖伊告紂,言格人元龜,亦先人後龜。]夫庶人至賤也,而猶在蓍龜之前,故盡人之明而不能決,然後謀之鬼焉。故古人之於人事信而有功,於鬼也嚴而不瀆。
清代の顧炎武《日知録》は曰く、舜は講じたり「官占の法は、先ず自ら主意を拿定し、然る後に才めて之を大亀に交付す」と。《詩経・大雅・緜》は曰く「爰に始めて謀し、爰に亀を灼きて兆を取る」と。《尚書・洪範》は曰く「先ず之を自らの心に謀し、再び之を卿士に謀し、再び之を庶人に謀し、最後に才めて之を卜筮に謀す」と。孔子の《易》を賛するも、亦た「人謀鬼謀」と言う。[祖伊が商紂を勧諫するに、「格人」と大亀に講じ及ぶも、亦た先ず人にして後に亀なり。]庶人是れ最も卑賤にして、なお蓍草大亀の前に排す、見るべく人の智慧を用い尽くしてなお決断する能わざれば、然る後に才めて鬼神に問う。故に古人は人事に対し、是れ之を信任して能く実効を収め、鬼神に対し、是れ之を敬畏して而も軽慢褻瀆せざるなり。
子之必孝,臣之必忠,此不待卜而可知也,其所當為,雖凶而不可避也。故曰「欲從靈氛之吉占兮,心猶豫而狐疑」,又曰「用君之心,行君之意,龜策誠不能知此事」。善哉屈子之言,其聖人之徒歟!
児子を做るは必ず孝ならざる可からず、臣子を做るは必ず忠ならざる可からず、此れは占卜を用いずして明白なり。およそ分内当に做るべき事は、たとい卜して凶兆を得るも亦た回避すべからず。故に屈原《離騒》は曰く「靈氛の吉占に聴従せんと欲するも、心の中は猶豫して遅疑す」と、《卜居》また曰く「您の自らの心に按じて做り、您の自らの意に照らして行え、亀甲蓍草は実在此の類の事を知る能わざるなり」と。屈原の此れらの話は言うこと好し、彼は大概聖人の門徒と称するに足らん。
《卜居》,屈原自作,設為問答,以見此心非鬼神吉凶之所得而移耳。王逸序乃曰「心迷意惑,不知所為,往之太卜之家,決之蓍龜,冀聞異策,以定嫌疑」,則與屈子之旨大相背戾矣。洪興祖《補註》曰「此篇上句皆原所從,下句皆原所去,時之人去其所當從,從其所當去,其所謂吉乃原所謂凶也」,可謂得屈子之心者矣。
《卜居》是れ屈原自ら作る所、一番の問答を仮設して、以て自らの此の顆の心は鬼神吉凶の能く動揺する所にあらざるを表明す。東漢の王逸は序を作りて却って屈原は「心迷い意惑い、どうするかを知らず、才めて太卜の家に到りて、蓍亀に決断を請い、別様の策告を聴かんことを希望して、以て疑難を判定す」と言う、此れ即ち屈原の本意と大相違背す。宋代の洪興祖《楚辞補注》は曰く、「此の篇の裡の上一句は皆屈原の遵従せんと要する所、下一句は皆屈原の捨棄せんと要する所。当時の人は却って遵従すべきを捨棄し、捨棄すべきを遵従す。彼らのいわゆる吉は、正に屈原のいわゆる凶なり」と。此れは屈原の用心を懂得するを算すべし。
《禮記·少儀》:「問卜筮曰:義與?志與?義則可問,志則否。」子孝臣忠,義也;違害就利,志也。卜筮者,先王所以教人去利懷仁義也。
《礼記・少儀》は曰く、「人に向かって卜筮を請教するに要して問わん、卜する所は是れ道義の上の事か、猶お是れ私意の上の事か。道義に属するは以て問うべく、私意に属するは即ち以て問うべからず」と。児子の孝を行い臣子の忠を尽くすは、此れ是れ道義。禍害を躲开し利益に趨就するは、此れ是れ私意。卜筮は、正に是れ先王の以て人を教えて私利を去らしめ仁義を懐抱せしむる手段なり。
石駘仲卒,無適子,有庶子六人,卜所以為後者,曰「沐浴佩玉則兆」。五人者皆沐浴佩玉,石祁子曰「孰有執親之喪而沐浴佩玉者乎」,不沐浴佩玉,石祁子兆,衛人以龜為有知也。南蒯將叛,枚筮之,遇《坤》之《比》,曰「黃裳元吉」,子服恵伯曰「忠信之事則可,不然必敗。外強內溫,忠也;和以率貞,信也,故曰黃裳元吉。黃,中之色也;裳,下之飾也;元,善之長也。中不忠,不得其色;下不共,不得其飾;事不善,不得其極。且夫易不可以占險,猶有闕也,筮雖吉,未也」,南蒯果敗。是以嚴君平之卜筮也,與人子言依於孝,與人弟言依於順,與人臣言依於忠,而髙允亦有「筮者當依附爻象,勸以忠孝」之論,其知卜筮之旨矣。
《礼記・檀弓》に記載す:衛国の大夫石駘仲は死して、嫡子なく、ただ六箇の庶子有るのみ、誰か継承人を做すべきかを占卜し、卜辞は曰く「沐浴して玉を佩ぶれば即ち吉兆を得」と。その中の五人は皆沐浴して玉を佩びて往き、ただ石祁子のみ曰く「あに父の為に服喪してなお沐浴して玉を佩ぶるの道理有らん」、便ち沐浴して玉を佩びず、結果吉兆は偏に石祁子の身上に応じ、衛国人は此れに因りて亀は有りて霊知と認めたり。《左伝》に記載す:魯国の季氏の家臣南蒯は将に叛変せんとして、事由を説明せずして占筮し、《坤》卦の《比》卦に変ずるを得、爻辞是れ「黄裳元吉」。子服恵伯は曰く、「忠信の事の上に用いれば才めて可なり、然らざれば一定に失敗す。外表剛強にして内裏温和は、是れ忠。和順を以て正道を遵行するは、是れ信。故に『黄裳元吉』と言う。黄は、是れ中に居るの色。裳は、是れ下に在るの服飾。元は、是れ衆善の長。心中忠ならざれば、即ちあの顔色に配上せず。下に居りて恭ならざれば、即ちあの服飾に配上せず。事善ならざれば、即ちあの極致に達せず。況んや《易》は以て険悪の事を占る能わざるは、此の外にまた欠缺有り。筮辞は是れ吉と雖も、亦た算して吉を得るに足らず」と。後に南蒯は果たして失敗す。故に漢代の厳遵(字は君平)は人に替わりて卜筮し、人子と話すれば即ち孝に依り、人弟と話すれば即ち順に依り、人臣と話すれば即ち忠に依る。北魏の高允もまた「占筮する人は当に爻象に就着し、忠孝を以て人を勧勉すべし」の議論有り——彼らは皆卜筮の宗旨を懂得するを算すべし。
《申鑑》[後漢荀悅撰]:或問卜筮,曰:「徳斯益,否斯損。」曰:「何謂也?」「吉而濟,凶而救,之謂徳;吉而恃,凶而怠,之謂損。」
《申鑑》[東漢の荀悦の撰する所]の裡に人有りて卜筮を問う、答えて曰く、「徳有れば即ち益を得、徳無ければ即ち損を受く」と。また問うて曰く、「此の話は如何に講ずるか」と。答えて曰く、「吉兆を得て而努力して以て之を成就すれば、凶兆を得て而も設法して以て之を補救すれば、此れを徳有りと叫ぶ。吉兆を得れば即ち之に依頼し、凶兆を得れば即ち懈怠して下る、此れ即ち損を受くと叫ぶ」と。
君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如向,告其為也,告其行也。死生有命,富貴在天,若是則無可為也,無可行也,不當問,問亦不告也。易以前民用也,非以為人前知也;求前知非聖人之道也。是以《少儀》之訓曰「毋測未至」。
君子は将に作為有らんとし将に行動有らんとする時、才めて蓍卦に向かって発問して其の言を求め、蓍卦は問命を承受して回声の如く即刻応答し、彼に該当に如何做り該当に如何行うべきかを告げる。死生は命有り富貴は天に在る此の類の事に至っては、既に作為すべからく、亦た行動すべからざれば、即ち問うべからず。たとい問うも、蓍卦も亦た告げざるなり。《易》是れ以て百姓に先んじて其の日用を開導する、併せて人に替わりて未来を預知せんと要するにあらず。一味に預知を求むるは、本来即ち聖人の路数にあらず。故に《礼記・少儀》の訓誡は曰く「未だ到来せざる事を測度する毋かれ」と。
郭璞嘗過顏含,欲為之筮,含曰:「年在天,位在人,修已而天不與者,命也;守道而人不知者,性也。自有性命,無勞蓍龜。」《文中子》:子謂北山黃公善醫,先寢食而後針藥;汾陰侯生善筮,先人事而後說卦。
郭璞は曾て晋人の顔含を拝訪し、彼に替わりて占筮せんと欲すれば、顔含は曰く、「寿数是天に在り、官位是人に在り。身を修養して而も上天は給与せざれば、あれ是れ命。正道を守住して而も世人は了解せざれば、あれ是れ性。我は自ら我が性命有り、蓍草大亀を労煩するを必とせず」と。隋代の王通《文中子》の裡に曰く、北山の黄公は医術に擅長し、先ず病人の睡眠飲食を調理し、然る後に才めて針薬を用いる。汾陰の侯生は占筮に擅長し、先ず人事を講じ清め、然る後に才めて卦象を講説す。
《金史·方伎傳》序曰:古之為術,以吉凶導人而為善;後世術者,以休咎導人而為不善。
《金史・方伎伝》の序は曰く、古時術数を搞する人は、吉凶を用いて人を引導して善事を做らしむ。後世の術士は、却って禍福を用いて人を引導して不善の事を做らしむ。
易為卜筮之書,與醫藥、種樹並稱,秦人之見也,然其說亦有所自來。古者太卜所掌,唯夏商以來相傳之繇辭,如《左氏》之所載者;而文王、周公易象之書,則藏於周、魯之太史氏。故陳厲公時,周史始有以《周易》見陳侯者,陳侯使筮之,而有《觀》六四之占;及昭公二年,韓宣子來聘,觀書於太史氏,始見《易象》與《魯春秋》,可見易象之書他國不皆有。孔子十翼則作於晚年,而傳之商瞿子木,尚未流行於世。[杜預曰:汲縣有發舊冢者,得《周易》上下篇,與今正同,而無彖、象、文言、繫辭,疑於時仲尼造之於魯,尚未播之於逺國也。]
胡渭按:《易》を以て卜筮の書と看成し、医薬・種樹之の類と並列す、此れ是れ秦人の見識、ただ此の種の説法も亦た其の来歴有り。古時太卜の掌管する所は、ただ是れ夏商以来相伝の占繇の辞のみ、《左伝》の裡の記載するあれらの如し。文王・周公の易象を講ずる書は、則ち周王室と魯国の太史の手裡に收藏す。故に陳厲公の時、才めて周朝の史官有りて《周易》を帯びて陳侯に見えに往き、陳侯は彼をして占筮せしめ、遂に《観》卦六四のあの次の占断有り。魯昭公二年に至りて、晋国の韓宣子は来りて聘問し、太史の処に在りて書を観し、此れ才めて《易象》と《魯春秋》を見る——見るべく易象を講ずる書は併せて各国皆具有するにあらず。孔子の《十翼》は晚年に作られ、弟子の商瞿(字は子木)に伝え、当時はなお未だ世に流行せず。[杜預曰く、汲県に人有りて古墓を挖開し、《周易》上下篇を得、今本と完全相同にして、而も《彖》《象》《文言》《繋辞》なく、あの時孔子は魯国に在りて此の幾篇を作り、なお未だ遠方の国家に伝播せざりしと懐疑す。]
秦僻在西垂,何由得見?李斯未必知,即知之亦必不信,其以易為卜筮之書無足怪者,而儒者遂謂易専為卜筮而作。夫伏羲既畫八卦而即制蓍為筮法,孔子贊易亦以蓍龜為神物而深明其用,謂易為卜筮之書無甚礙,但謂伏羲作易専為卜筮,而文王、周公、孔子卻說出許多義理,非伏羲之本義,是則大可疑耳。
秦国は偏りて西陲に処り、何処より此れらの書を看るを得ん。李斯は未だ必ずしも知らず、たとい知るも亦た必ず信ぜず、彼は《易》を以て卜筮の書と当作すは併せて奇怪ならず。然るに儒者は竟に亦た跟いて《易》は専ら卜筮の為に作られたりと言う。伏羲は既に八卦を画けば、即ち随に蓍草を用いて筮を起す方法を制定し、孔子の《易》を賛するも亦た蓍亀を以て神物と看作して而も深く其の功用を明白す、《易》は一部の卜筮の書と言うは、本来即ち多大の妨げなし。然るに若し伏羲の《易》を作るは専ら卜筮の為、而も文王・周公・孔子は却って許多の義理を講じ出し、併せて伏羲の本意にあらずと言えば、此れ即ち大可なりて懐疑すべし。
夫義理必藉文字以傳,伏羲時書契未興,故立象以盡意。卦畫有形而義理無形,有形者可見而無形者不可見,然其意實在立人之道曰仁與義也。三聖遞相祖述,發揮仁義之旨,而伏羲之意乃大白於天下,安得謂孔子之易非文王、周公之易,文王、周公之易非伏羲之易乎?伏羲之易有畫無辭,農夫、紅女、百工、商賈皆得而用之者也。[如後世楚巫打瓦、越人雞卜,雖無辭亦自有占法。]
義理は必ず文字を借りて以て流伝せざる可からず、伏羲の時は文字未だ興らざれば、才めて卦象を立てて以て心意を窮尽す。卦画は有形にして義理は無形、有形は看るべく、無形は看る能わざるも、然るに伏羲の用意は実在人の為る道理を確立するに在り、即ち仁と義なり。文王・周公・孔子三位の聖人は逓相承述して、仁義の宗旨を発揮し、伏羲の本意は才めて天下に大白す、どうして孔子の《易》是れ文王・周公の《易》にあらず、文王・周公の《易》是れ伏羲の《易》にあらずと言う能わん。伏羲の《易》は卦画有りて文辞無し、故に農夫・織婦・各行の工匠・商販は皆之を拿げて来りて使用し得。[即ち後世の楚地の巫者の「瓦を打つ」・越人の「鶏卜」の如く、文辞無しと雖も、亦た自ら一套の占法有り。]
若夫夏商以來之繇辭及文王、周公之彖爻,唯卜史能用之;至於孔子之十翼,則卜史亦不能知,唯士大夫好學深思者能知之耳。蓋易至孔子而其道始為處憂患、無大過之具,與《詩》《書》《禮》《樂》同其切要,人倫日用所不可斯須去者,而非徒卜筮之書矣。幸而秦火不及,學者得見完書,上之可以窮理而盡性,下之可以反身而寡過。顧徒以農夫、紅女、百工、商賈不能用,而欲崇不言之教,視《繫辭》如糟粕,毋乃過為髙論,墮老莊之環中而不覺也乎?
夏商以来の占繇の辞および文王の彖辞・周公の爻辞に至っては、則ちただ卜官史官のみ能く使用す。孔子の《十翼》に至れば、卜官史官に連ねても亦た読み懂す能わず、唯だ好学深思の士大夫のみ才めて明白す。大抵《易》は孔子の手裡に至りて、才めて憂患に身を処し大過を免るるの憑借と成り、《詩》《書》《礼》《楽》と一般に切要にして、是れ人倫日用に片刻も離れ得ざる所、而もただ一部の卜筮の書のみにあらず。幸いに秦火は之を焼き到らず、学者は完整の書を見るを得、上は以て理を窮め性を尽くすべく、下は以て身に反躬し過失を減少すべし。今却ってただ農夫・織婦・工匠・商販は之を用上せざるが為に、就中言を立てざる教法を推崇し、《繋辞》を以て糟粕と看成す、此れあに是れ話を太だ高く言い、老荘の圈套の裡に堕進して而も未だ自覚せざるにあらずや。
且夫卜筮之事,非君子所常有也。善當為,惡不可為,乃心自明,何必筮?死生富貴非人之所能為,亦焉用筮?惟天下大事,人但能料其可否,而氣數推移,有非鬼神不能知者,是之謂大疑,於是乎謀及乃心,謀及卿士庶人,而復謀及卜筮焉,故曰「人謀鬼謀,百姓與能」。然必其居也有觀象玩辭之學,而後其動也有觀變玩占之明。[動謂將有為、將有行。《洪範》曰「龜筮共違於人,用靜吉,用作凶」,靜即此所謂居,作即此所謂動也。]
再び卜筮此の件の事を言えば、本来即ち君子の経常に做る要する所にあらず。善は当に做るべく、悪は做る可からず、自ら心の中に明明白白、何ぞ必ずしも占筮せん。死生富貴是れ人力の左右する能くする所にあらず、又た何ぞ須らく占筮せん。ただ天下の大事は、人はただ能く可行与否を料到するも、而も気運数理の推移は、非ずんば鬼神の知る能わざる有り、此れ才めて「大疑」と叫ぶ。遂に先ず之を自らの心に謀し、再び之を卿士庶人に謀し、最後に才めて之を卜筮に謀す。故に《繋辞》は曰く「人謀鬼謀、百姓与に能くす」と。但し必是れ平居の時に象を観じ辞を玩むの学問有りて、然る後に行動の時に才めて変を観じ占を玩むの明断有り。[「動」は将に作為有らんとし将に行動有らんとするを指す。《尚書・洪範》は曰く「亀卜と筮占は皆人の意見と相違せば、則ち安静に常を守りて吉利、挙動有らば即ち凶」、「静」は即ち此処の言う「居」なり、「作」は即ち此処の言う「動」なり。]
計一歲之中,居之時多,動之時少,及其動也,不疑之事什九,可疑之事什一,其大疑者又加少焉,君子之於卜筮亦未嘗數數也。聖人豈専為卜筮而著一書,使天下後世之人日日端策拂龜,聴命於鬼神而不務民義也哉?亭林論卜筮十則,可以箴宋人之膏肓,餘故備錄之,而綴以管見如此。
算して来れば一年の中、静処する時は多く、行動する時は少なし。行動に及ぶとも、疑慮するを必とせざる事は十分の九を占め、疑うべき事はただ十分の一を占め、其の中「大疑」に夠上するは又た更に少なし、見るべく君子の卜筮に対するも亦た併せて頻繁ならず。聖人はあに会して専ら卜筮の為に一部の書を写して、天下後世の人をして天天蓍策を摆弄し亀甲を擦拭せしめ、一味に鬼神に聴命して而も民衆の義事に尽力せざらしめんや。顧炎武(号は亭林)の卜筮を論ずる此の十則は、以て宋人の膏肓の疾を鍼砭すべし、故に我は彼らを全部抄録して下し、併せて上面の如く自らの浅見を附上す。
《日知録》曰:孔子論易,見於《論語》者二章而已:曰「假我數年,五十以學易,可以無大過矣」;曰「南人有言曰:人而無恆,不可以作巫醫。善夫!不恆其徳,或承之羞」,子曰「不占而已矣」。是則聖人之所以學易者,不過庸言庸行之間,而不在乎圖書象數也。今之穿鑿圖象以自為能者,畔也。
《日知録》は曰く、孔子の《易》を論ずるは、《論語》に見るはただ両章のみ有り:一は「我に再び幾年かを与えて、五十歳に到りて《易》を学べば、即ち以て大の過失なからしむべし」、一は「南方人有りて句の話を言う、人若し恒心無からば、巫医すら做る能わず。言うこと好し。《恒》卦九三は曰く『徳行を長久に保持する能わざれば、即ち羞辱を招来せん』」、孔子は続けて曰く「此の種の人は占卜するを必とせざるのみ」と。見るべく聖人の《易》を学ぶは、過ぎず平常の言語行事の間に着落し、併せて河図洛書・象数の学の上に在らず。今あの図象を穿凿して以て自ら本事を逞する人は、是れ聖人の道に背離す。
記者於夫子學易之言而即繼之曰「子所雅言,詩、書、執禮,皆雅言也」,是知夫子平日不言易,而其言詩、書、執禮者皆言易也。人苟循乎詩、書、執禮之常而不越焉,則自天佑之,吉無不到矣。故其作《繫辭傳》,於悔吝無咎之旨特諄諄焉,而《大象》所言,凡其體之於身、施之於政者,無非用易之事。
《論語》の記録する者は孔子の《易》を学ぶを談ずる話の後面に、緊接して写して曰く「孔子の経常に談論するは、是れ《詩》《書》および礼を守る、此れらは皆彼の日常に談ずる所」、見るべく孔子は平日《易》を談ぜず、而も彼の《詩》《書》を談じ礼を守るを談ずるは、其実処処に皆《易》を談ずるなり。人はただ《詩》《書》および礼を守るの常道に循いて而も逾越せざれば、則ち上天は即ち之を保佑し、吉利は来らざるなし。故に孔子の《繋辞伝》を作るは、悔・吝および如何に過失を免るるかの宗旨に対し、格外に反復叮嚀す。而も《大象伝》の講ずる所は、およそ自身に体現し政事の上に施行するは、一として《易》を運用する事にあらざるなし。
然辭本乎象,故曰「君子居則觀其象而玩其辭」,觀之者淺,玩之者深矣。其所以與民同患者,必於辭焉著之,故曰「聖人之情見乎辭」。若「天一地二」「易有太極」二章,皆言數之所起,亦贊易之所不可遺,而未嘗専以象數教人為學也。是故「出入以度」「無有師保,如臨父母」,文王、周公、孔子之易也;希夷之圖、康節之書,道家之易也。自二子之學興,而空疎之人、迂怪之士舉竄跡於其中以為易,而其易為方術之書,於聖人寡過反身之學去之逺矣。
然るに文辞は卦象に本づく、故に「君子は平居すれば即ち卦象を観察して爻辞を玩味す」と言う。観察はなおただ浅き一層のみ、玩味は才めて深き一層なり。聖人の百姓と忧患を同じくする所以は、必ず文辞の裡に表明することを要す、故に「聖人の心意は文辞の上に顕現す」と言う。「天一地二」「易に太極有り」此の両章に至っては、皆是れ数の起源を講ずるも、亦た是れ《易》を賛する時に缺少すべからざる部分なり、但し孔子は併せて曾て専ら象数を拿げて人に教えて学問を做らしめず。故に「出入に法度有り」「師保在る傍ら無しと雖も、亦た父母に面对するが如し」の如き話は、才めて是れ文王・周公・孔子の《易》。陳抟(号は希夷)の図・邵雍(諡は康節)の書は、則ち是れ道家の《易》。此の両人の学説が興起してより、空疏の人・迂怪の士は统统あの裡面に躲進して之を以て《易》と当作す、遂に彼らの《易》は方術の書と成りて、聖人の過を寡くし身に反る学問を離れること甚だ遠し。
巻十・学易の正宗を論ず(黄宗羲《易学象数論》の序と胡渭の総断)
黃氏《象數論序》曰:夫易者,範圍天地之書也,廣大無所不備,故九流百家之學俱可竄入焉;自九流百家借之以行其說,而於易之本意反晦矣。《漢·儒林傳》:孔子六傳至菑川田何,易道大興。吾不知田何之說何如也。降而焦、京,世應、飛伏、動爻、互體、五行、納甲之變無不具者。吾讀李鼎祚《易解》,一時諸儒之說蕪穢康荘,使觀象玩占之理盡入於淫瞽方技之流,可不悲夫!
清代の黄宗羲《易学象数論》の序は曰く、《易》是れ天地を籠罩する書、広大にして備らざる所なし、故に九流百家の学説は皆其の中に钻進し得。九流百家が之を借りて以て自家の主張を推行してより、《易》の本意は却って晦暗なり。《漢書・儒林伝》は曰く、孔子の《易》学は六伝して菑川人の田何に至り、《易》道は大いに興盛す——我は却って田何の学説は究竟如何なるかを知らず。往後に西漢の焦延寿・京房に至りて、世応・飛伏・動爻・互体・五行・納甲種種の変例は一として備らざるなし。我は唐代の李鼎祚《周易集解》を読み、ただ当時の諸儒の説法は一条の大路を弄りて荒穢不堪と為し、象を観じ占を玩むの道理をして全部巫瞽方技一流の手裡に落進せしむるを見、能く人をして痛心せしめざらんや。
有魏王輔嗣出而注易,得意忘象,得象忘言,日時歲月、五氣相推悉皆擯落,多所不闗,庶幾潦水盡而寒潭清矣。顧論者謂其以老莊解易,試讀其注,簡當而無浮義,何曽籠落玄旨,故能逺歴於唐,發為《正義》,其廓清之功不可泯也。然而魏伯陽之《參同契》、陳希夷之圖書逺有端緒,世之好竒者卑王注之淡薄,未嘗不以別傳私之。
曹魏の王弼は出でて《易》に注して、其の意を得れば即ち象を忘るべく其の象を得れば即ち言を忘るべしと主張し、日・時・歳・月および五気相推あの一套を统统掃除して、大多は《易》と関係なしと認む、此れ才めて些か積水退尽し寒潭澄清の気象有り。然るに議論する人は彼は老荘を以て《易》を解すと言う、試みに其の注を読めば、簡明恰当成りて而も浮泛の談無く、何曾か玄理を拿げて経文を籠罩せしめん。故に其の注は能く一直に唐代まで流伝し、衍して《周易正義》と為す、彼の《易》学を廓清する功労是れ抹殺する能わざる所なり。然るに東漢の魏伯陽の《周易参同契》・陳抟の図書の学は源頭甚だ早く、世上の奇を好む人は王弼の注は太だ淡薄なりと嫌み、総じて免れず此れらを以て別に師承有るの秘伝と当作して私下に珍視す。
逮伊川作《易傳》,收其崑崙旁薄者散之於六十四卦中,理到語精,易道於是而大定矣。其時康節上接种放、穆修、李之才之傳,而創為河圖先天之說,是亦不過一家之學耳。晦庵作《本義》,加之於開卷,讀易者從之,後世頒之學官,初猶兼《易傳》並行,久而止行《本義》,於是經生學士信以為羲、文、周、孔其道不同,所謂象數者又語焉而不詳,將夫子之韋編三絶者須求之賣醬箍桶之徒,而易學之榛蕪蓋仍如京、焦之時矣。自科舉之學一定,世不敢複議,稍有出入其說者,即以穿鑿誣之。
程頤(世は伊川先生と称す)が《伊川易伝》を作るに至りて、あの渾淪磅礴の道理を分散して六十四卦の中に安顿し、理を説くは透彻し措辞は精当にして、《易》道は此処に至りて才めて大定と算す。当時邵雍は上は種放・穆修・李之才の伝授を承け、河図および先天の説を創立す、此れも亦た過ぎず是れ一家の学のみ。朱熹(号は晦庵)は《周易本義》を作り、此れらの図を巻首に加え、《易》を読む人は便ち跟いて信従す。後世の朝廷は之を学官に頒行し、起初はなお《伊川易伝》と並行すれど、久之しくしてただ《本義》のみ行われ、遂に経生学士は竟に真に伏羲・文王・周公・孔子は各々各の道有りと認め、而もいわゆる象数は又た講じて含糊不清、孔子の韋編三絶して読んだあの部の書を弄りて、却って醤を売る・桶を箍する一類の市井の術士の処に到りて求めんとせしめ、《易》学の荒蕪は大概なお旧来京房・焦延寿の時代と一般なり。科挙の学が一尊に定まってより、世人は敢て再び異議有るを為さず、稍微あの套の説法と出入一点すれば、即ち穿凿附会と指さる。
夫所謂穿鑿者,必其與聖經不合者也,摘發傳注之訛,復還經文之舊,不可謂之穿鑿也。河圖洛書,歐陽子言其怪妄之尤甚者,且與漢儒異趣,不特不見於經,亦是不見於傳。先天之方位,明與出震齊巽之文相背,而晦翁反致疑於經文之卦位。生十六、生三十二,卦不成卦,爻不成爻,一切非經文所有,顧可謂之不穿鑿乎?
いわゆる穿凿は、必定に是れ聖人の経文と合わざるを指す。伝注の訛誤を指摘し経文の本来面目を恢復するに至っては、能く穿凿と叫作する能わざるなり。河図洛書は、欧陽修は之を怪妄の説の中最も厲害と言い、而も且つ漢儒の路数と同じからず、不但に経の裡に有らざるのみならず、伝の裡も亦た見る能わざるなり。先天図の方位は、明明《説卦》の「帝は震より出で巽に斉し」の文字と相違背すれど、朱熹は却って経文の裡の卦位を懐疑す。いわゆる八卦より十六を生じ三十二を生ずるに至っては、卦は卦と為るを成さず爻は爻と為るを成さず、一概に皆経文の裡の有る所にあらず、あになお能く是れ穿凿にあらずと言う能わんや。
晦翁曰:「談易者譬之燭籠,添得一條骨子則障了一路光明,若能盡去其障,使之統體光明,豈不更好?」斯言是也,奈何添入康節之學,使之統體皆障乎!世儒過視象數以為絶學,故為所欺,餘一一疏通之,知其於易本了無干涉,而後反求之《程傳》,或亦廓清之一端也。
朱熹は言うたり:「《易》を講ずるは譬えば灯籠の如く、一根の骨架を添えれば即ち一路の光明を挡住す。若能く遮損を全部去掉して、之を通体透亮ならしめば、あに更に好からずや」と。此の話は言うこと對なり、然るに彼自らは却って邵雍あの一套を添進して、通体皆遮損と弄り成せり。世上の儒者は象数を看得太だ重く、之を以て絶学と当成し、此れに因りて其の蒙蔽を受く。我は逐条に之を疏解清楚して、人をして此れらは《易》と本来毫も相干らざるを知らしめ、然る後に再び頭を回して之を程頤《伊川易伝》に求めん、此れ或いは亦た《易》学を廓清する一条の路子ならん。
按:史,魏正始中,何晏、王弼等好《老》《莊》書,祖尚虛無,以六經為聖人之糟粕,天下士大夫慕效成風,迄江左而未艾,故范寧謂王、何之罪深於桀、紂。今觀弼所注易,各依彖爻以立解,間有涉於老莊者亦千百之一二,未嘗以文王、周公、孔子之辭為不足貴而糟粕視之也。獨為先天學者,欲盡廢周孔之言而専從羲皇心地上尋求,是其罪更浮於王、何矣。儒者不之闢,而反助其狂瀾,以為三聖人之易非即伏羲之易,何邪?亭林、棃洲之論大有造於易學,故殿之篇末,以告天下之習非而不悟者。
胡渭按:史書の記載に拠れば、曹魏正始年間、何晏・王弼らは《老子》《荘子》を喜好し、虚无を崇尚して、六経を以て聖人の糟粕と看作す、天下の士大夫は競りて仿效して風と成り、東晋南朝に至るまでなお未だ止息せず、故に東晋の范寧は王弼・何晏の罪過は桀・紂よりなお深しと言う。今王弼の注する所の《周易》を看れば、各々彖辞爻辞に依りて解を立て、偶々老荘に涉及するも亦た過ぎず千百分の一二、併せて曾て文王・周公・孔子の文辞を以て珍貴するに足らざる糟粕と看作せず。倒是れあの先天の学を講ずる人は、周公・孔子の言語を全部廃掉して、専ら伏羲の「心地」の上に到りて寻求せんと要す、此の罪過は王弼・何晏よりなお重し。儒者は彼らを駁斥せずして、却って此の股の狂瀾を助長し、三位の聖人の《易》は即ち伏羲の《易》にあらずと認む、此れ何の道理か。顧炎武・黄宗羲(号は梨洲)の議論は《易》学に対し大いに功労有り、故に我は彼らを全書の末尾に放り、以て天下のあの非を習い是と成して而も覚悟せざる人に告誡す。
右論學易正宗。
以上の一節は、《易》を学ぶの正宗の門径を論ずる所なり。
