焦氏易诂
前漢の易学は後漢に至り失伝した
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
焦氏易詁 巻一
行唐尚秉和節之撰
本巻は行唐(現在の河北省行唐県)の人・尚秉和の撰述で、尚氏の字は「節之」である。
自序
悲哉,《易》之為書也!自東漢迄今,幾兩千年,總九經之注,不如《易》一經之多,而《易》義之晦自若也,誤解相承如故也。李剛主曰:「《易》二千年在漆室中。」真信心之言哉!蓋《易》之為書,義盡在經中,說皆在經外。如內外應予、卦位貴賤、陽升陰降、陽順陰逆、乾貞子、左行陽時六、坤貞未、右行陰時六等說,經傳皆不詳也。倘《乾鑿度》不言之,後人如何各大之?
悲しいかな、《周易》という書物よ!後漢から今日までほぼ二千年、九経の注釈をすべて合わせても《周易》一経の注釈の数には及ばない。それなのに《易》の義理は依然として晦むばかりで、先人の誤解もそのまま代々受け継がれてきた。李塨(字は剛主)は「《易》は二千年間、漆黒の部屋に閉じ込められてきた」と言ったが、まことに心からの実言である。そもそも《周易》という書は、義理はすべて経文の内にあり、それを読み通すための「易説」はすべて経文の外にある。内卦・外卦の相応、卦位の貴賤の区別、陽爻が上昇し陰爻が下降すること、陽は順行し陰は逆行すること、および「乾は子に貞し、左行して陽の時六辰を歴る」「坤は未に貞し、右行して陰の時六辰を歴る」といった説は、経文にも《易伝》にも明らかにされていない。もし《易緯・乾鑿度》がこれらを記していなかったら、後人は何によって推し求めることができただろうか。
又如互卦,如干南,倘《左氏》不言,可竟襄助其無矣。又如旁通,如覆象,《左氏》雖言之,乃至東漢,口傳一失,遂知之不真,並《左氏》而誤解矣。由是而推之,卦象如震車、震旗、震姬、震射、震威、震殺、艮言、艮鳥、坎眾等象,並見於《左氏》內外傳,後儒失其義,而竟疑此象矣。其餘所未言而象之遺失者,不知凡幾也。夫易說易象,解《易》之根本也。觀春秋人說《易》,無一字不本於象,其重可知。失其說,亡其象,而強詁之,不猶瞽者之辨黑白、聾者之聽音聲乎?必無當矣。
また互体の卦、また「乾が南に在る」という先天卦位についても、もし《左伝》が言及しなかったなら、後人は古来そんな説はないと言い切ったであろう。また旁通(二つの卦の六爻の陰陽がすべて反転して互いに通じること)や覆象(一つの卦を上下ひっくり返して別の卦となること)についても、《左伝》は確かに用いていたが、後漢になると師弟の口伝が一旦断たれ、人々ははっきり知らなくなり、《左伝》の本文まで併せて誤解してしまった。このことから類推すると、震を車とする、震を旗とする、震を姫(女子)とする、震を射とする、震を威とする、震を殺とする、艮を言とする、艮を鳥とする、そして坎を衆とするといった卦象は、いずれも《左伝》と《国語》(すなわち左氏の内伝・外伝)に見えるが、後の儒者はその義訓を失い、かえってこれらの象が虚構であると疑うに至った。左氏が言及しなかったために既に亡佚した卦象については、なおさらどれほどあるか分からない。そもそも「易説」と「易象」こそ《易》を解く根本である。春秋時代の人が《易》を説くのを見ると、一字として卦象に拠らないものがなく、象の重さはこれで分かる。易説を失い易象を亡くしながら、強いて経文を訓解しようとするのは、盲人に白黒を分けさせ、聾者に音声を聴かせるようなものではないか。必ず要点に合致しない。
今日之易說,東漢人之易說也。西漢所遺,皆零詞斷句,不能會其通,獨焦氏《易林》尚為完書,乃歴代學者皆以占辭視之。餘獨以為焦氏林詞多至四千餘,其必有物焉以主其詞;不然,以一卦為六十四詞,雖善者不能也。乃日夜覃精而求其故,求之既久,然後知其本於易象。其深者雖不能盡通,淺者遂得其八九。乃昔人為之注者,祗釋其故事、地名、人名,及草木禽獸蟲魚之名,無釋及卦象者。今既稍有所通,遂卽其通者而詳註之。
今日通行している易説は、実は後漢人の易説にすぎない。前漢に遺されたものはみな断片的な詞句で、完全な義例に貫通させることができない。ただ焦延寿の《焦氏易林》だけが完書と言えるが、歴代の学者は皆それを占いの繇辞として見なしてきた。私は焦氏の林辞は四千余条にも及ぶので、その中に必ずこれらの辞を主宰する何かがあるはずだと考えた。さもなければ、一卦に六十四条の繇辞を配するなど、どんなに文に長けた者でもできることではない。そこで日夜苦心してその理由を探求し、求めること久しくして、やっと林辞がすべて易象に本づくことを悟った。その深奥なものは尽く通じられないが、浅近なものはすでに八九分を領会できた。昔《易林》に注を施した人々は、ただその故事・地名・人名および草木鳥獣虫魚の名目を解釈するだけで、卦象から説き明かした者はいなかった。今や私はやや通ずるところがあるので、すでに読み通せた部分について逐条詳しく注解した。
注之既久,兼得其易說;又久之,而知焦氏之易象易說,為東漢所無。於是由其說以解《易》,凡李剛主所謂二千年漆室者,往往復明;復由其說以解《左傳》,凡服虔?杜預所不解或誤解者,象皆有著。乃恍然於易說易象至東漢頗失其傳,東漢人之誤解有由也。閒常輯《易林》之說《易》者,次而編之,名曰《焦氏易詁》。有焦氏直說者,有焦氏未言、由其例以推得者,凡得十卷。
注を重ねるうちに、ついでに焦氏の易説にも悟りを得、さらに久しくなって、焦氏の用いる易象と易説はいずれも後漢人にはなかったものだと知った。そこで焦氏の説をもって《周易》を解くと、李塨の言う「二千年の漆黒の部屋」は往々にして豁然と再び明るくなり、さらに焦氏の説をもって《左伝》を解くと、服虔・杜預が解けなかったり解き誤ったりした箇所にも、卦象の落ち着きどころができた。ここに至ってようやく悟った。易説・易象は後漢において大半が失伝しており、後漢人が誤解したのには理由があったのだ。閑居の折、私は常に《易林》のうち《易》を説くに足る部分を輯録して順序立てて編み、《焦氏易詁》と題した。その中には焦延寿が直接言い表したものもあり、焦氏が明言しなかったが彼の義例によって推し求めて得たものもあり、全部で十巻を成した。
其間如「利涉大川」、「鶴嗚子和」、「有言」等解,及坤水、兌月等象,雖起東漢人質之,亦不得不謂焦氏之是,而悟己之非也。於是又頗雜採東漢以來名家易說,與焦說並列,以顯其得失,以較其短長。噫!以二千年之舊解而忽疑其誤,以數百年已熄之先天象而忽謂其復然,無乃駭眾。雖然,焦氏之書固在也,焦氏之說固如斯也。世之君子,倘有同好,請繹其言。
書中の「利渉大川」「鶴鳴子和」「有言」といった解釈、および「坤為水」「兌為月」といった卦象は、たとえ後漢の学者を復生させて問い詰めても、彼らは焦延寿が正しかったと認めざるを得ず、自分の誤りに気づくであろう。そこで私はさらに後漢以来の諸名家の易説を広く採録し、焦氏の説と並べて掲げ、互いの得失を顕し、彼此の短長を比較するようにした。ああ!二千年にわたって踏襲されてきた旧解を、にわかに誤りではないかと疑い、数百年前にすでに打ち消されていた先天卦象を、にわかに再び成立すると言い立てるのは、おそらく衆人を驚かすことになるだろう。とはいえ、焦氏の書は結局残っており、焦氏の説も結局この通りである。世の君子で、もし私と好みを同じくする方があれば、どうかこれらの言葉を細かく尋ね繹ねていただきたい。
焦易の淵源
西漢易學,得孔子嫡傳者三家,施、孟、梁邱是也。三家之學,同祖丁將軍寬。寬既從田何受《易》畢,復歸洛陽,從周王孫受古義。古義者,非孔氏《十翼》,蓋卽許慎所謂秘書、汲冡古《易》,但有陰陽秘書者是也,卽陰陽災變之學也。後高相專以陰陽災變說《易》,自言出於丁將軍,是其證。
前漢の易学で孔子の嫡伝を得たものは全部で三家あり、施讐・孟喜・梁丘賀である。三家の学は同じく丁寛に出る(丁寛は梁孝王の将軍を務めたので「丁将軍」と称する)。丁寛は田何の門下で《易》を学び終えた後、再び洛陽に戻り、周王孫に従って「古義」を学んだ。いわゆる「古義」とは、孔門の《十翼》ではなく、許慎のいう「秘書」、および汲塚から出た古本《易》――「ただ陰陽があるのみ」の秘書、すなわち陰陽災変の学である。後に高相がもっぱら陰陽災変をもって《易》を説き、自ら丁将軍に伝わったと称したのは、その明証である。
三家之學皆同,獨孟喜能候陰陽災變,自謂田生將死時枕喜膝受之,而施讎、梁邱賀皆不能。時賀已為少府侍中,貴幸,而喜獨能畢傳師業,名最高,故賀甚嫉之,既疏證喜言之詐,復譛之於帝,使有改師法之嫌。豈知賀謂喜言為詐,賀所謂田生絕於施讎手中者,其言尤詐乎?設田生果絕於施讎手中,喜安肯刺謬如此。蓋西漢經師,以有利祿故,每爭名,相傾軋以求勝,不獨易家也。
三家の学ぶところは本来同じだったが、ただ孟喜だけが陰陽災変の占候ができ、師の田王孫が臨終の際に彼の膝を枕として自ら伝授したのだと自称した。施讐・梁丘賀にはそれができなかった。当時梁丘賀はすでに少府・侍中の官に至り尊貴で寵遇されていたのに、孟喜はひとり師門の業を完全に継承して名声が最も高かったので、梁丘賀は彼を深く嫉妬し憎んだ。まず条々に証拠を挙げて孟喜の言は偽造だとし、また皇帝に讒言して孟喜に「師法を改易した」という嫌疑を負わせた。ところが梁丘賀が孟喜の言を偽造だというなら、梁丘賀自身の言う「田王孫は施讐の手中で死んだ」という言はなおさら偽ではないか。もし田王孫が果たして施讐の手で死んだのなら、孟喜はどうしてこのように明白に矛盾する嘘をでっち上げようとするだろうか。おおよそ前漢の経師は利禄を得られるため常に名を争い、互いに傾軋して勝とうとしたのであり、《易》を治める一家だけがそうだったのではない。
由此觀之,三家之《易》,獨孟喜兼明陰陽,不墜師法,而焦延壽則問《易》於孟喜者也,故延壽亦兼明陰陽災變。其白生、翟牧不肯焦、京為孟學者,仍經師嫉妬之私;史謂延壽得隱士之說者,仍施、梁二家解嘲之語。蓋自孔子傳《易》,六傳而至田何,七傳而至丁將軍。丁將軍既從田何受《易》,復從周王孫受古義,周王孫百他,仍田何弟子也。然則陰陽災變之學,皆出自孔門,為傳《易》者所必學,其淵源可謂明悉矣。
これから見るに、三家の《易》学のうち、ただ孟喜だけが陰陽災変を兼ねて通じ、師法を失わなかった。そして焦延寿はまさに孟喜に《易》を問うた人であるから、焦延寿もまた陰陽災変を兼ねて通じた。白光(白生)・翟牧がともに孟喜の弟子でありながら、焦延寿・京房の伝えたものが孟氏の学であることを認めようとしなかったのは、やはり経師同士が互いに嫉む私心に出たものである。史書が焦延寿の《易》はある隠士から得たと言うのも、やはり施・梁両家が自らを慰め解く言葉である。そもそも孔子が《易》を伝えてから数えて、六代伝わって田何に至り、七代伝わって丁寛に至った。丁寛は田何から《易》を受けただけでなく、また周王孫から「古義」を受けた。周王孫その人(「百他」の二字は脱誤の疑いがある)も同じく田何門下の弟子である。このようである以上、陰陽災変の学はみな孔門の一脈から出たのであり、《易》を伝える人の必須の課業であった。その源流は十分明確に説明できる。
徒以施、梁二家未得其全,遂謂孟喜陰陽之學非出自丁、田,更疑延壽易學非出自孟氏,豈知皆施、梁二家徒黨之誣詞哉。總之,陰陽災變之學,由丁寬證之,其源皆出於孔氏。後三家惟孟喜為能兼明,三家後惟焦、京能傳孟學,故京氏巍然為三家後第一大家,得立於學官。彼高相者,得丁將軍一體耳,非其倫也。
ただ施・梁両家が孟氏の学の全貌を得なかったために、孟喜の陰陽の学は丁寛・田何から出たものではないと言い、さらに焦延寿の易学が孟喜に出ないと疑った。しかしこれらはみな施・梁両家の門徒の誣蔑の言葉である。要するに陰陽災変の学は、丁寛の師承をもって照合すれば、その源がみな孔門に出ることが分かる。三家のうちただ孟喜のみが兼ねて通じることができ、三家以後はただ焦延寿・京房のみが孟氏の学を伝えることができた。だから京房は巍然として三家以後の第一の大家となり、学官に立つことを得た。高相について言えば、丁将軍の学の一支一体を得たにすぎず、彼らと同日に論ずることはできない。
前漢の易学は後漢に至り失伝した
秦禁書,獨不及於《易》,故其傳授永不絕。至田何,去孔子六世耳,故西漢易說,較東漢尤珍。乃至漢末,西京《易》存者,祗孟、京二家,有書無師,莫能傳習。鄭康成初習京氏,後棄去,學費氏,苦無師也。費直專以孔傳說《易》,無師可通也。王弼《易》之能風行晉唐者,亦以此。吳虞翻自謂世傳孟氏《易》,然焦延壽,學孟者也,焦氏所說易象,翻多不知,世傳孟《易》之言,果可信乎?至京氏,更無人道及,其餘無書者,更無論已。於是三家之學,至東漢嶄然齊亡。
秦代に書を焚いたが、ただ《周易》には及ばなかったので、《易》の伝授は終始断絶しなかった。田何に伝わるまで孔子からわずか六代だったので、前漢の易説は後漢のものよりも貴重である。ところが漢末になると、西京の《易》学でなお存したのは孟喜・京房の両家だけで、書はあっても師がなく、伝習できる者がいなかった。鄭玄(字は康成)ははじめ京氏《易》を学んだが、後に棄てて学ばず、改めて費直の《易》を学んだのは、まさに師がないことに苦しんだためである。費直がもっぱら孔子の《十翼》で《易》を説いたのも、承くべき師がなかったためである。王弼の《易》注が晋・唐に流行できた原因も同じくここにある。呉人の虞翻は家に代々孟氏《易》が伝わると自称したが、しかし焦延寿は孟氏を学んだ人であり、焦氏の用いる易象を虞翻は大半解さなかった。それなら「世々孟氏易を伝える」という言は果たして信じられるだろうか。京氏の学に至ってはさらに言い及ぶ者もなく、その他は書さえ亡んでしまったのだから言うまでもない。こうして三家の学は後漢になると一斉に断絶した。
易說既亡,於是「射其元王中厥目」,《左氏》言先天象,杜預不知所謂,而不釋無與王之象矣。《左氏》以艮為言,以讒釋《明夷》之「有言」,杜預不知艮為覆震,震為言,又不知《謙》初至五,正反兩震言相背為讒,離正反兩兌口相對為「有言」,純用覆象,而誤解矣。其時服、賈之注皆在,可見此等晚說之失傳,自東漢已然,不始於杜預也。
易説がすでに亡失したので、《左伝》の「その元を射、王その目を中る」といった記載はもはや解釈の手がかりがなくなった。《左伝》の用いるものは本来先天卦象であり、杜預はそれが何を指すかを明らかにせず、「元」(首)と「王」の取象さえ解釈できなかった。《左伝》は艮を言語とし、「讒」をもって《明夷》の「有言」を解釈したが、杜預は艮が震の覆象(震卦を倒転すれば艮となる)であり、震が言であることを知らなかった。また《謙》卦の初爻から五爻までの間に一正一反二つの震を含み、二つの「言」が互いに背くので「讒」となることも知らなかった。《明夷》の下体の離の中に正反二つの兌を含み、二つの「口」が互いに対するので「有言」となる――これらは純粋に覆象を用いているのに、杜預はそのために解き誤った。杜預の時代には服虔・賈逵の旧注がまだ残っていたので、この種の易説の失伝は後漢からすでにそうであったのであり、杜預から始まったのではない。
今日に居って前漢の易詁を求めるには、ただ《焦氏易林》があるのみ
西漢《易》雖可貴,無如其書皆亡,見存者,祗《京易傳》三卷,及焦氏《易林》。《易傳》為為殘缺之餘,且專演八宮世應,乃易學之一端,蓋與丁將軍所學之古義、孟喜兼明之陰陽災變同,非專門詁《易》之書也。
前漢の《易》学は貴重だが、あいにく当時の書はみな亡佚し、現存するのは《京氏易伝》三巻と《焦氏易林》だけである。《京氏易伝》自体すでに残欠の余であり、しかももっぱら八宮世応の法を講じるので、易学の一つの支派にすぎない。おおよそ丁寛の学んだ「古義」や孟喜の兼ね通じた陰陽災変と同じ類に属し、《周易》を専門に訓解する書ではない。
焦氏《易林》,二千年來,無有通其義者。唐王俞云:「言近指遠,易識難詳。」馬端臨曰:「《易林》總四千九十六卦,各為韻語,與《左傳》『鳳凰于飛,和鳴鏘鏘』、《漢書》『大橫庚庚,子為天王』之語,絕相類。豈古之占人,各有此等詞耶?莫可考也。」豈知《易》卦辭亦占辭也,而《易》之卦辭無一不根於象;《易林》繇辭多至四千餘,亦豈能離象造辭。知《易林》繇辭無一字不根於象,則《易林》之辭必於《易》有關矣。
《焦氏易林》は二千年間、その義理を通じた人がいなかった。唐人の王兪はそれを「言は近く指は遠く、識り易く詳しくし難し」と言った。馬端臨は言う。《易林》は全部で四千九十六卦あり、卦ごとに一段の韻語を繫げ、《左伝》の「鳳凰于飛、和鳴鏘鏘」、《漢書》の「大横庚庚、子為天王」といった類の言葉と非常によく似ている。もしかすると古代の占人はそれぞれこのような繇辞を持っていたのだろうか。もはや考証のしようがない、と。しかし《周易》の卦爻辞も本来占辞であり、しかも《周易》の卦爻辞で卦象に根づかないものは一条もない。《易林》の繇辞が四千余条にも及ぶのに、どうして卦象を離れて空に辞を作ることができようか。《易林》の繇辞は一字として象に根づかないものがないと認めさえすれば、《易林》の辞は必ず《周易》と関係することになる。
然自魏晉以迄明清,二千年來之易家,無有援以詁《易》者。則以西漢易學,至東漢已失傳,後儒所宗,獨馬、鄭、荀、虞諸說,而馬、鄭、荀、虞,皆在西京易說易象失傳之後;而焦氏《易林》繇辭,則字字步趨《周易》者也。西漢《周易》真詁,為東漢人所不知,則焦氏《易林》真詁,相因而不解者,勢也。
しかし魏晋から明清に至るまで、二千年間の易家のうち、《易林》を援引して《周易》を訓解した者は一人もいない。これは前漢の易学が後漢にすでに失伝し、後の儒者が宗奉したのは馬融・鄭玄・荀爽・虞翻の几家の説だけであり、馬・鄭・荀・虞はみな西京の易説・易象が失伝した後に位置していたためである。《焦氏易林》の繇辞は字ごとに《周易》に随って来たものだ。前漢の《周易》の真の解がすでに後漢人に知られなかった以上、《焦氏易林》の真の解もまたそれに伴って誰にも分からなくなったのは、勢いの至る必然である。
以故西漢之書存留至今者,雖皆不免訛誤,而舛錯顛倒、魯魚亥豕,多至十六七,不堪卒讀者,莫《易林》若也。追原其故,由歴代學者不知辭根於象,故莫能以象定辭,影響模糊,謂是為非,謂非為是,致使林辭疵累大半,而無如何,真可浩嘆也。
したがって、前漢の書で今日まで伝わったものは、どれも誤脱を免れないが、錯乱し颠倒して「魯」を「魚」と写し「亥」を「豕」と写すような坏字が十中六七に達し、ほとんど読み続けられないほどのものは、《易林》ほど酷いものはない。その理由を追究すると、歴代の学者が林辞が卦象に根づくことを知らず、象をもって文字を判定することができず、ただぼんやりと曖昧に、正しいものを誤りと言い、誤ったものを正しいと言い、そのために林辞の大半が病を帯びたままどうしようもなくなったことにある。まことに長嘆せずにはいられない。
前漢の易が後漢に失伝した証
其顯者易見者,為先天卦象。先天卦象,後儒皆謂出於陳、邵,為宋以前所無,以儒家而用道家之說,玷汙儒席,莫斯為甚。黃梨洲、毛西河諸人,肆口謾罵,力辯其誣。後惠士奇、惠棟、焦循、張惠言、姚配中諸治《易》者,自標旗幟曰:「吾治漢《易》。」豈知治漢《易》者,皆盤旋於荀、虞腳下,荀、虞於西漢易學且不能明,焉有於後。今以焦氏《易林》考之,其用先天卦象者多於後天,而先天卦象,東漢諸儒多不知,致解《既濟》九五爻辭,及《大有》《同人》《師》《比》諸卦名,靡不錯誤,此一證也。今將焦氏《易林》言先天卦象者,標舉如左。
その中で最も顕豁に見える一項は先天卦象である。先天卦象といえば、後の儒者はみな陳摶・邵雍から出たとし、宋代以前には根本的になく、儒者が道家の説を採用して儒門を汚したものとして、これほど酷いものはないとした。黄宗羲(号は梨洲)・毛奇齢(号は西河)などの人々は口を極めて罵り、それが偽託であることを力説した。後に恵士奇・恵棟・焦循・張恵言・姚配中ら《易》を治める人々は、自ら旗を立てて「我が治めるのは漢《易》だ」と言った。しかし漢《易》を治めると自称する者たちは、みな荀爽・虞翻の足下を回っているにすぎない。荀・虞でさえ前漢の易学を明らかにできなかったのに、どうしてさらに上の淵源を語ることができようか。今《焦氏易林》をもって考察すると、それが用いる先天卦象は後天卦象よりも多い。そして先天卦象を後漢の諸儒は大半知らなかったため、《既済》の九五爻辞および《大有》《同人》《師》《比》のいくつかの卦名を解釈するにあたり、出さなかった誤りがない。これが第一の証拠である。今《焦氏易林》のうち先天卦象を講じた箇所を挙げて示す。
先天卦象・乾南
《屯》之《否》云:「登几上輿,駕駟南遊。」《否》中爻艮為幾,下坤為輿,上乾為馬,故曰「駕駟」;乾為行為南,故曰「南遊」。又《復》之《大壯》云:「遂到南陽,完其芝香。」《大壯》乾為陽,位南,故曰「南陽」;震為草,故曰「芝」;伏巽,故曰「香」。又《升》之《遯》云:「南行無遇。」乾為南為行,《遯》乾在上,故無遇。又《大有》之《乾》云:「南山大行。」乾為南為山,為大為行,故曰「南山大行」。此焦氏以乾為南之證也。
《易林》「《屯》の《否》」の条の林辞に「几に登り輿に上り、駟を駕して南に遊ぶ」とある。変じた卦《否》は下が坤・上が乾で、二から四爻まで互体して艮を成し、艮は几案なので「登几」と言う。下卦は坤で、《説卦》に「坤は大輿」なので「上輿」と言う。上卦は乾で、《説卦》に「乾は馬」なので、四馬を「駟」として「駕駟」と言う。乾はまた行・南なので「南遊」と言う。また「《復》の《大壮》」に「遂に南陽に至り、その芝香を完うす」とある。《大壮》の下体は乾で、乾は陽であり方位は南なので「南陽」と言う。上体は震で、《説卦》は震を蒼筤竹・萑葦とするのはまさに草類なので「芝」と言う。震の伏する(旁通)卦は巽で、《説卦》に「巽は臭(匂い)」なので「香」と言う。また「《升》の《遯》」に「南行して遇わず」とある。乾は南・行であり、《遯》の乾体は上位に高く踞り、下体は望むことはできても及ばないので「無遇」と言う。また「《大有》の《乾》」に「南山大行」とある。《乾》は純乾で、乾は南・山・大・行なので、四字はすべて乾から出る。これらはみな焦延寿が乾を南方に居らせた(先天の乾南)確証である。
先天卦象・坤北
《師》之《泰》云:「三人北行。」《泰》中爻震,為人為行,數三;坤北,故曰「三人北行」。又《渙》之《臨》云:「追亡逐北。」坤為北,震為追逐為往,亡,往也,故「追亡逐北」。又《坤》之《觀》云:「北辰紫宮。」《觀》中爻艮,艮為星辰;下坤,坤北,故曰「北辰」。又《晉》之《否》云:「北風寒涼。」《否》中爻巽,巽風;下卦坤,坤北,故曰「北風」。他坤北之證尚多,此特其顯著易解者。
「《師》の《泰》」の林辞に「三人北に行く」とある。《泰》卦は下が乾・上が坤で、三から五爻まで互体して震を成し、震は人・行であり、震の後天の数は三なので「三人」と言う。坤は先天において北方に居るので「北行」と言う。また「《渙》の《臨》」に「亡きを追い北きを逐う」とある。《臨》は下が兌・上が坤で、坤は北である。二から四爻まで互体して震を成し、震は追逐・往であり、「亡」の字はまさに「往」と訓するので「追亡逐北」と言う。また「《坤》の《観》」に「北辰紫宮」とある。《観》は三から五爻まで互体して艮を成し、艮は星辰である。下卦は坤で、坤は北なので「北辰」と言う――紫宮とは即ち北極星の居るところである。また「《晋》の《否》」に「北風寒凉」とある。《否》は三から五爻まで互体して巽を成し、《説卦》に「巽は風」である。下卦は坤で、坤は北なので「北風」と言う。その他坤を北とする例証はまだ多いが、ここでは最も顕豁に解り易い数条を挙げるに留める。
先天卦象・離東
《復》之《未濟》云:「東鄰西國,福喜同樂。」《未濟》上離,故曰「東鄰」;下坎,故曰「西國」。又《噬嗑》之《巽》云:「東鄰殺牛。」《巽》中爻離,離為牛,為東;兌折,故曰「東鄰殺牛」。又《遯》之《井》云:「避患東鄰。」《井》上坎,坎為避為患;中爻離,離東,故「避患東鄰」。又《晉》之《家人》云:「心意西東。」《家人》中爻離坎,離東坎西,故曰「心意西東」。又《訟》之《未濟》云:「避患西東。」亦以離東坎西為訓。又《隨》之《睽》云:「東鄰少女。」《睽》上離,故曰「東鄰」;下兌,故曰「少女」。此焦氏以離為東之證也。
「《復》の《未済》」の林辞に「東鄰西国、福喜同じく楽しむ」とある。《未済》は下が坎・上が離で、上体の離は先天において東に居るので「東鄰」と言い、下体の坎は先天において西に居るので「西国」と言う。また「《噬嗑》の《巽》」に「東鄰牛を殺す」とある。《巽》は純巽で、三から五爻まで互体して離を成し、離は牛(この象は《離》卦辞の「牝牛を畜すれば吉」に本づき、《説卦》に出ず)、離はまた東である。二から四爻まで互体して兌を成し、《説卦》に「兌は毀折」なので宰殺となる。合わせればまさに「東鄰殺牛」である。また「《遯》の《井》」に「患を避けて東鄰」とある。《井》の上体は坎で、坎は陥陥なので避・患となる。三から五爻まで互体して離を成し、離は東なので「避患東鄰」と言う。また「《晋》の《家人》」に「心意西東」とある。《家人》は二から四爻まで互体して坎を成し、三から五爻まで互体して離を成し、離は東・坎は西なので「心意西東」と言う。また「《訟》の《未済》」に「避患西東」とあるのも、同じく離を東・坎を西として解く。また「《随》の《睽》」に「東鄰少女」とある。《睽》の上体は離なので「東鄰」と言い、下体は兌で《説卦》に「兌は少女」なので「少女」と言う。これらはみな焦延寿が離を東方とした(先天の離東)確証である。
先天卦象・坎西
《履》之《訟》云:「受福西鄰。」《訟》上乾,為福;下坎,故曰「西鄰」。又《復》之《未濟》云:「東鄰西國。」《未濟》上離,為東鄰;下坎,為西國。又《姤》之《既濟》云:「西家嫁女。」《既濟》上坎,坎西,故曰「西家」。又《漸》之《屯》云:「東山西山。」《屯》中爻艮山,震後天在東,故曰「東山」;上坎,坎西,故曰「西山」。又《屯》林云:「平城道西。」《屯》中爻艮,為城為道;上坎,為平為西,故曰「平城道西」。又《遯》之《師》云:「雨師駕西。」《師》坎,為雨為西;中爻震,為駕,故曰「雨師駕西」。此焦氏以坎為西之確證也。
「《履》の《訟》」の林辞に「西鄰に福を受く」とある。《訟》は下が坎・上が乾で、上体の乾は福であり、下体の坎は先天において西に居るので「西鄰」と言う。また「《復》の《未済》」に「東鄰西国」とあるのは、《未済》の上体の離が東鄰、下体の坎が西国である。また「《姤》の《既済》」に「西家女を嫁がす」とある。《既済》は下が離・上が坎で、上体の坎は西に居るので「西家」と言う。また「《漸》の《屯》」に「東山西山」とある。《屯》は下が震・上が坎で、三から五爻まで互体して艮を成し、艮は山である。下体の震は後天において東方に居るので「東山」と言い、上体の坎は西に居るので「西山」と言う――一卦の中に東西二つの山が併せ見える。また《屯》卦の林辞に「平城道西」とある。《屯》は互体して艮を成し、艮は城郭・道路であり、上体の坎は平・西なので「平城道西」と言う。また「《遯》の《師》」に「雨師西に駕す」とある。《師》は下が坎・上が坤で、坎は雨・西であり、二から四爻まで互体して震を成し、震は駕なので「雨師駕西」と言う。これらはみな焦延寿が坎を西方とした(先天の坎西)確証である。
先天卦象・震東北
《屯》之《大壯》云:「利走東北。」《大壯》上震,為行為東北,故曰「利走東北」。又《大壯》之《離》云:「丑寅不徙。」《離》通坎,坎中爻上艮下震,艮後天居丑寅,故曰「不徙」。丑寅者,東北也,言艮震先後天皆在東北也。此焦氏以震為東北之證也。
「《屯》の《大壮》」の林辞に「東北に走るに利あり」とある。《大壮》の上体は震で、震は行であり、震は先天において東北に居るので「利走東北」と言う。また「《大壮》の《離》」に「丑寅徙らず」とある。《離》の旁通の卦は《坎》で、《坎》は二から四爻まで互体して震を成し、三から五爻まで互体して艮を成す。これが「上艮下震」である。艮は後天において丑・寅の位に居り、艮の本義は止なので「不徙」と言う。丑寅はまさに東北方である。これで震が先天において、艮が後天において、ともに東北に位置することが分かる。これが焦延寿が震を東北とした(先天の震位東北)証拠である。
先天卦象・巽西南
《泰》之《未濟》云:「實沈參墟。」按實沈為申次,參,二十八宿星名,皆在西南。《未濟》有三巽形,故既曰「實沈」,又曰「參」。又《歸妹》之《旅》云:「西賈巴蜀,寒雪至轂。」《旅》中爻巽,巽為商賈,巽西南,故「賈巴蜀」,巴蜀在西南也。又《家人》之《解》亦曰「西賈巴蜀」,則以《解》上卦震,震伏巽,巽西南,為月窟。邵子以東北震為天根,西南巽為月窟,本此也。此焦氏以巽為西南之證也。
「《泰》の《未済》」の林辞に「実沈参墟」とある。「実沈」は十二辰次の一つで申次に当たり、「参」は二十八宿の星名であり、二者の方位はともに西南にある。《未済》は六爻が陰陽相間し、その中に三つの巽の半象を含む(およそ下が陰・上が陽の二爻が即ち巽の半である)。だから「実沈」とも言い「参」とも言うが、いずれも巽が西南に居る義を取ったものである。また「《帰妹》の《旅》」に「西の賈巴蜀、寒雪轂に至る」とある。《旅》は下が艮・上が離で、二から四爻まで互体して巽を成し、《説卦》は巽を「近く利あり市三倍」とするので巽は商賈となる。巽は西南に居るので、巴蜀に行商することを言う――巴蜀はまさに西南にある。また「《家人》の《解》」にも「西賈巴蜀」とあるのは、《解》の上卦が震であり、震の伏する(旁通)卦が巽で、巽は西南に居り、これが「月窟」だからである。邵雍が東北の震を「天根」とし西南の巽を「月窟」としたのは、まさにここに本づく。これが焦延寿が巽を西南に居らせた証拠である。
先天卦象・艮西北
《既濟》之《損》云:「天門地戶。」按《損》上艮,故曰「天門」;下兌,故曰「地戶」。《內經》以戌亥為天門,辰巳為地戶,戌亥者,西北也。又《睽》之《晉》云:「闘戰天門。」《晉》中爻艮,故曰「天門」。又《升》之《鼎》云:「娵訾開門。」《鼎》通《屯》,《屯》中爻艮,故曰「娵訾」。娵訾者,亥次。又《未濟》之《困》云:「辰次降婁。」《困》通《賁》,《賁》上艮,艮為辰。降婁者,戌次。戌亥皆西北。又《革》之《賁》云:「亥午相錯。」《賁》上艮,故曰「亥」;下離,故曰「午」。其餘以艮為天門者尚多,不可勝數也。
「《既済》の《損》」の林辞に「天門地戸」とある。《損》は下が兌・上が艮で、上体の艮なので「天門」と言い、下体の兌なので「地戸」と言う。《黄帝内経》は戌・亥を天門とし、辰・巳を地戸とするが、戌亥はまさに西北方である――これで艮が西北にあることが分かる。また「《睽》の《晋》」に「天門に闘戦す」とある。《晋》は下が坤・上が離で、二から四爻まで互体して艮を成すので「天門」と言う。また「《升》の《鼎》」に「娵訾門を開く」とある。《鼎》の旁通の卦は《屯》で、《屯》は三から五爻まで互体して艮を成すので「娵訾」と言う――「娵訾」は十二辰次のうち亥次である。また「《未済》の《困》」に「辰次降婁」とある。《困》の旁通の卦は《賁》で、《賁》の上体は艮、艮は辰であり、「降婁」は戌次である。戌・亥はいずれも西北に属する。また「《革》の《賁》」に「亥午相錯す」とある。《賁》の上体は艮なので「亥」と言い、下体は離で離は後天において南に居り、午は正南なので「午」と言う。その他艮を天門とする例はまだ多く、数え切れない。
先天卦象・兌東南
《既濟》之《損》云:「天門地戶。」《損》下兌,故曰「地戶」。《內經》以辰巳為地戶,辰巳者,東南。又《大壯》之《離》云:「辰巳有咎。」《離》中爻上兌下巽,兌先天居辰巳,巽後天居辰巳,澤風相值為《大過》,《大過》死,故曰「有咎」。此焦氏以兌為東南之證也。
「《既済》の《損》」の林辞に「天門地戸」とあるが、《損》の下体は兌なので「地戸」と言う。《黄帝内経》は辰・巳を地戸とするが、辰巳はまさに東南方である――これで兌が東南にあることが分かる。また「《大壮》の《離》」に「辰巳咎あり」とある。《離》は重離で、二から四爻まで互体して巽を成し、三から五爻まで互体して兌を成す。これがいわゆる「中爻上兌下巽」である。兌は先天において辰巳に居り、巽は後天において辰巳に居り、両者はちょうど同位である。沢(兌)が上・風(巽)が下で遇えば即ち《大過》卦となり、《大過》には棺椁死喪の象があるので「有咎」と言う。これが焦延寿が兌を東南に居らせた証拠である。
以上所舉先天卦象,可謂顯而易明矣。清初諸儒謂易象無先天者,觀此得無顏汗乎。妙在當時無一人能解此辭也。惟西漢時是否名曰先天象、後天象,則無明文可證。後儒謂其名不合,擬改先天名為天地定位圖,後天為帝出震圖。豈知邵子祗以先天屬伏犧,後天屬文王,為不當耳;至先後天之名,必隨此圖以俱來,故能切當如此,非可擅改也。然焦氏所用,不祗先天卦象,卽邵子所謂乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八之先天卦數,後儒謂繫邵子妙悟、實與法象皆不合者,焦氏亦靡不用之。可見此數亦非邵子所定,其傳亦甚古也。茲標出如左。
以上挙げた先天卦象は、顕豁明白と言える。清初の諸儒は易象には先天という一路が根本的に存在しないと声言したが、これらの例証を見れば、恥じて汗を流さないだろうか。妙なのは当時ついに一人もこれらの林辞を説き通せなかったことである。ただし前漢の時にすでに「先天象」「後天象」と呼ばれていたかどうかは、明文の証がない。後の儒者はこの二つの名目が妥当でないとし、「先天」を「天地定位図」に、「後天」を「帝出震図」に改めようとした。しかし邵雍が先天を伏羲に帰し後天を文王に帰したことこそ不恰当であり、「先天」「後天」という二つの名称は必ず図とともに伝わってきたものだからこそ、このようにぴったり合うのであり、勝手に変更してはならない。しかし焦延寿の用いたものは先天卦象だけではない。邵雍の言う「乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八」という一套の先天卦数――後の儒者はそれを邵雍一人の妙悟で卦の法象と全然合わないと言う――まで、焦氏はことごとく用いている。これでこの套の数もまた邵雍が定めたものではなく、その流伝も同じく古いことが分かる。今挙げて示す。
先天卦数・乾一
《恆》之《泰》云:「一身兩頭。」《泰》坤為身,乾一,故曰「一身」。又《同人》之《乾》云:「一臂六手。」乾先天一,故曰「一臂」;後天數六,故曰「六手」。又《巽》之《訟》云:「一簧兩舌。」《訟》上乾,故曰「一」;下坎,坎上下正反兩兌,兌為口舌,故曰「兩舌」。又《剝》之《咸》云:「一人輦車。」《咸》中爻乾,乾為人,居一,故曰「一人」;乾伏坤,坤為車也。此乾一之見於《易林》者也。
「《恒》の《泰》」の林辞に「一身両頭」とある。《泰》は下が乾・上が坤で、坤は身であり、乾は先天の数において一なので「一身」と言う。また「《同人》の《乾》」に「一臂六手」とある。乾の先天数は一なので「一臂」と言い、乾の後天数(洛書の数)は六なので「六手」と言う――同じ乾で先天・後天の二つの数を併用する。また「《巽》の《訟》」に「一簧両舌」とある。《訟》は下が坎・上が乾で、上体の乾は数が一なので「一」と言い、下体の坎は上下それぞれ一正一反の兌の半象を含み、《説卦》に「兌は口舌」なので、二兌は「両舌」となる。また「《剥》の《咸》」に「一人輦車」とある。《咸》は下が艮・上が兌で、三から五爻まで互体して乾を成し、乾は人であり数が一に居るので「一人」と言い、乾の伏する(旁通)卦は坤で《説卦》に「坤は大輿」なので「車」と言う。これらが「乾一」の数が《易林》に見える例である。
先天卦数・兌二
兌二之數,《易林》尤多。《比》之《損》云:「二人共路。」《損》中爻震,震為人;兌二,故曰「二人」。又《夬》之《大壯》云:「兩戰不勝。」《大壯》上震,震為戰;中爻兌,兌二,故「兩戰」。又《小畜》之《節》云:「兩人相距。」《節》中爻震,為人;下兌,故曰「二人」。又《比》之《歸妹》:「一身兩頭。」《歸妹》中爻坎,坎為大首;兌二,故曰「兩頭」。此兌二之證也。
「兌二」という数は《易林》で特に多く用いられている。「《比》の《損》」の林辞に「二人路を共にす」とある。《損》は下が兌・上が艮で、二から四爻まで互体して震を成し、震は人であり、下体の兌の数は二なので「二人」と言う。また「《夬》の《大壮》」に「両戦勝たず」とある。《大壮》の上体は震で、震は戦であり、三から五爻まで互体して兌を成し、兌は二なので「両戦」と言う。また「《小畜》の《節》」に「両人相距る」とある。《節》は下が兌・上が坎で、二から四爻まで互体して震を成し、震は人であり、下体はまさに兌で兌は二なので「二人」と言う。また「《比》の《帰妹》」に「一身両頭」とある。《帰妹》は二から四爻まで互体して坎を成し、坎は大首(この象は《説卦》に列せず、《易林》の残す漢代の逸象である)であり、兌の数は二なので「両頭」と言う。これらはみな「兌二」の証拠である。
先天卦数・離三
《需》林云:「久旱三年。」《需》下乾,乾為年;中爻離,居三,故曰「三年」。又《夬》之《睽》云:「三羊上山。」《睽》下兌,兌為羊,離位三,故曰「三年」。又《同人》之《大有》云:「三翼飛來。」《大有》上離,離為飛為翼,居三,故曰「三翼」。又《噬嗑》之《需》云:「三聖茂功。」《臨》之《同人》曰「三言」,之《大有》曰「三十」,皆謂離三。此《易林》以離居三之碓證也。
《需》卦の林辞に「久旱三年」とある。《需》は下が乾・上が坎で、下体の乾は年であり、三から五爻まで互体して離を成し、離は先天の数において三なので「三年」と言う。また「《夬》の《睽》」に「三羊山に上る」とある。《睽》は下が兌・上が離で、《説卦》に「兌は羊」、離の数は三なので「三羊」と言う(原文ここは「三年」の二字であるが、上下文により「三羊」に作るべきである)。また「《同人》の《大有》」に「三翼飛来」とある。《大有》の上体は離で、《説卦》は離を雉とするので飛・翼となり、離の数は三なので「三翼」と言う。また「《噬嗑》の《需》」に「三聖茂功」、「《臨》の《同人》」に「三言」、「《臨》の《大有》」に「三十」とあるが、その中の「三」はいずれも離の数を指す。これらが《易林》が離を三に居らせた確証である。
先天卦数・震四
《大有》之《革》云:「山陵四塞。」《革》通《蒙》,《蒙》上艮,故曰「山陵」;中爻震,居四,故曰「四塞」。又《小畜》之《損》云:「功加四海。」《損》中爻坤,為海;震居四,故曰「四海」。又《困》之《震》云:「四足俱走。」震為足,居四,故曰「四足」。又《夬》之《大壯》云:「四足俱行。」《大壯》上震,為足為行,位四,故曰「四足俱行」。又《渙》之《豐》云:「四馬共轅。」《豐》上震,為馬為轅,居四,故曰「四馬共轅」。他若《觀》之《小過》云「四亂不安」,《旅》之《豫》亦云「四亂不安」,皆指上震四言也。
「《大有》の《革》」の林辞に「山陵四塞」とある。《革》の旁通の卦は《蒙》で、《蒙》は下が坎・上が艮であり、上体の艮は山なので「山陵」と言い、《蒙》は二から四爻まで互体して震を成し、震は先天の数において四なので「四塞」と言う。また「《小畜》の《損》」に「功四海に加わる」とある。《損》は三から五爻まで互体して坤を成し、坤は海(坤が水である象に本づく)であり、二から四爻まで互体して震を成し、震の数は四なので「四海」と言う。また「《困》の《震》」に「四足俱に走る」とある。《震》は重震で、《説卦》に「震は足」、震の数は四なので「四足」と言う。また「《夬》の《大壮》」に「四足俱に行く」とある。《大壮》の上体は震で、足・行であり、その数は四なので「四足俱行」と言う。また「《渙》の《豊》」に「四馬轅を共にす」とある。《豊》の上体は震で、震は馬・車轅であり、数は四に居るので「四馬共轅」と言う。その他「《観》の《小過》」の「四乱不安」、「《旅》の《豫》」の同じく「四乱不安」は、いずれも上体の震の数四を指して言う。
先天卦数・巽五
《大壯》之《觀》云:「五石示象。」《觀》中爻艮,艮為石;上巽,居五,故曰「五石」。又《大有》之《觀》云:「三塗五嶽。」《觀》中爻艮,艮為嶽;巽五,故曰「五嶽」。又《遯》林云「三塗五嶽」,義同。又《師》之《大畜》「一身五心」,《大畜》通《萃》,下坤為身;中爻巽五,故曰「一身五心」,坎為心也。又《師》之《解》云:「三德五才。」《解》上震,伏巽,巽五,故曰「五才」。又《同人》之《蒙》云:「三羖五羊?。」《蒙》通《革》,《革》中爻巽,巽五,故曰「五羊?」。此焦氏以巽為五之確證也。
「《大壮》の《観》」の林辞に「五石象を示す」とある。《観》は下が坤・上が巽で、三から五爻まで互体して艮を成し、《説卦》に「艮は小石」なので艮は石であり、上体は巽で巽は先天の数において五なので「五石」と言う。また「《大有》の《観》」に「三涂五岳」とある。《観》は互体して艮を成し、艮は山岳であり、巽の数は五なので「五岳」と言う。また《遯》卦の林辞にも「三涂五岳」とあり、取義は同じである。また「《師》の《大畜》」に「一身五心」とある。《大畜》の旁通の卦は《萃》で、《萃》の下体の坤は身であり、《萃》は三から五爻まで互体して巽を成し、巽の数は五なので「一身五心」と言う――そして「心」は本卦《師》の下体の坎から取り、《説卦》は坎を加憂心病とするので坎は心である。また「《師》の《解》」に「三徳五才」とある。《解》の上体は震で、震の伏する(旁通)卦は巽であり、巽は五なので「五才」と言う。また「《同人》の《蒙》」に「三羖五羊?」とある。《蒙》の旁通の卦は《革》で、《革》は二から四爻まで互体して巽を成し、巽は五なので「五羊?」と言う(ここの一字は缺佚しているが、原様のままに留める)。これらはみな焦延寿が巽の数を五とした確証である。
先天卦数・坎六
《賁》之《噬嗑》云:「六人俱行,各遺其囊。」《噬嗑》下震,為人為行;中爻坎,坎六,故曰「六人俱行」。又《臨》之《旅》云:「三身六目。」《旅》通《節》,《節》中爻震,後天數三,故曰「三身」;上坎,通離,離目,居六,故曰「六目」。又《遯》之《師》云:「六體不易。」《師》上坤,為身為體;下坎,居六,故曰「六體」。又《睽》之《困》云:「當夏六月。」《困》中爻離,故曰「夏」;下坎,為月,數六,故曰「六月」。又《睽》之《蹇》云:「十日六夜。」《蹇》通《睽》,《睽》中爻離,為日;兌數十,故曰「十日」。坎為夜,居六,故曰「六夜」。又《中孚》之《明夷》云:「蘇氏六國。」《明夷》坤為國,坎六,故曰「六國」也。
「《賁》の《噬嗑》」の林辞に「六人俱に行き、各々その嚢を遺す」とある。《噬嗑》は下が震・上が離で、下体の震は人・行であり、三から五爻まで互体して坎を成し、坎は先天の数において六なので「六人俱行」と言う。また「《臨》の《旅》」に「三身六目」とある。《旅》の旁通の卦は《節》で、《節》は二から四爻まで互体して震を成し、震の後天の数は三なので「三身」と言い、《節》の上体は坎で、坎の旁通は離、《説卦》に「離は目」、そして坎の数は六なので「六目」と言う。また「《遯》の《師》」に「六体易らず」とある。《師》の上体は坤で、坤は身・体であり、下体の坎の数は六なので「六体」と言う。また「《睽》の《困》」に「夏に当たり六月」とある。《困》は二から四爻まで互体して離を成し、離は後天において南方の夏を主るので「夏」と言い、下体の坎は月でありその数は六なので「六月」と言う。また「《睽》の《蹇》」に「十日六夜」とある。《蹇》の旁通の卦は《睽》で、《睽》は二から四爻まで互体して離を成し、離は日であり、兌の数は十なので「十日」と言い、《蹇》の上体は坎で夜であり、数は六に居るので「六夜」と言う。また「《中孚》の《明夷》」に「蘇氏六国」とある。《明夷》の上体は坤で国であり、二から四爻まで互体して坎を成し、坎の数は六なので「六国」と言う――まさに蘇秦が合縦した六国を指す。
先天卦数・艮七
《中孚》之《觀》云:「鳳生七子。」《觀》下坤,為鳳;中爻艮,數七;覆震,為子,故曰「七子」。又《旅》之《大有》云:「七日六夜。」《大有》通《比》,《比》中爻艮,艮數七,故曰「七日」,離為日也;下坤,為夜;上坎,數六,故曰「六夜」。又《頤》之《艮》云:「據斗運樞。」斗,北方宿,七星,艮數七,故曰「據斗」;中爻坎為樞,故曰「運樞」。又《謙》之《觀》、《升》之《臨》亦云「據斗」,《觀》中爻艮,艮數七;《臨》通《遯》,《遯》下艮,數七,故皆曰「斗」也。此《易林》以艮為七,尤為顯著易見者也。
「《中孚》の《観》」の林辞に「鳳七子を生む」とある。《観》の下体の坤は鳳であり、三から五爻まで互体して艮を成し、艮は先天の数において七である。艮はまた震の覆象(震を倒転すれば艮となる)であり、《説卦》に「震は長子」なので子となり、よって「七子」と言う。また「《旅》の《大有》」に「七日六夜」とある。《大有》の旁通の卦は《比》で、《比》は三から五爻まで互体して艮を成し、艮の数は七なので「七日」と言う――「日」は本卦《大有》の上体の離から取り、離は日である。《比》の下体の坤は夜であり、上体の坎の数は六なので「六夜」と言う。また「《頤》の《艮》」に「斗に拠り枢を運す」とある。北斗は北方の宿で全部で七星であり、艮の数はまさに七なので「据斗」と言い、《艮》卦は二から四爻まで互体して坎を成し、坎は枢機なので「運枢」と言う。また「《謙》の《観》」「《升》の《臨》」にもいずれも「据斗」とある。《観》は互体して艮を成し、艮の数は七であり、《臨》の旁通の卦は《遯》で、《遯》の下体は艮で数は七である。だからいずれも「斗」と言う。これは《易林》が艮を七の数とした、特に顕豁に見える一組の例証である。
先天卦数・坤八
《臨》之《遯》云:「八百諸侯。」《遯》通《臨》,《臨》中爻震,為諸侯;坤居八,故曰「八百諸侯」。又《遯》之《姤》云:「八世大昌。」《姤》通《復》,《復》下震,為大為昌,又為後世;坤數八,故曰「八世大昌」。又《兌》之《剝》云:「乘輿八百。」《剝》下坤,為輿;坤八,故曰「八百」。此坤八之數見於《易林》者也。
「《臨》の《遯》」の林辞に「八百諸侯」とある。《遯》の旁通の卦は《臨》で、《臨》は二から四爻まで互体して震を成し、震は諸侯である(《説卦》に震は長子、主器出令なので諸侯となる)。《臨》の上体は坤で、坤は先天の数において八なので「八百諸侯」と言う――まさに周武王の孟津の会を指す。また「《遯》の《姤》」に「八世大昌」とある。《姤》の旁通の卦は《復》で、《復》の下体は震で、震は大・昌であり、また後世でもある。坤の数は八なので「八世大昌」と言う。また「《兌》の《剥》」に「乗輿八百」とある。《剥》の下体は坤で、《説卦》に「坤は大輿」なので輿であり、坤の数は八なので「八百」と言う。これらが坤八の数が《易林》に見える例である。
然《易林》不惟用先天卦象卦數,並邵子《皇極經世》所用之幹日、兌月、離星、震辰、坤水、艮火、坎土、巽石之象亦用之。夫此八象不見於《說卦》,不見於各家逸象,後儒久目為怪異。近人杭辛齋於《易》無所不覩,無所不究,先後天之故,尤能瞭然於心,乃謂《經世》八象為邵子之別有妙悟,特以日月星辰水火土石為符號耳,意亦謂邵子所創,與胡渭之向壁虛造說同也。豈知焦氏《易林》皆用之,而坤水、艮火,用之尤多,可見此八象傳之已久。昔顧炎武、翟云升、牟庭等,常疑《易林》非焦氏所為,幸不解此詞耳;使其能解,將又疑《易林》為北宋後人所為矣。茲將《易林》乾日、兌月等八象,標出如左。
しかし《易林》は先天卦象と先天卦数を用いるだけではない。邵雍《皇極経世》が用いる「乾為日・兌為月・離為星・震為辰・坤為水・艮為火・坎為土・巽為石」という八つの象をも併せて用いている。この八つの象は《説卦》にも見えず、各家の輯めた逸象にも見えないので、後の儒者は長らくそれらを怪誕の説と見なしてきた。近人の杭辛斎は《易》について読まないものなく究めないものなく、先天後天の来脈に特に胸を明らかにしていたが、それでも《皇極経世》の八象は邵雍が別に妙悟したもので、日月星辰水火土石を記号として使ったにすぎないと考えた――やはりこの八象は邵雍の創造であると言い、胡渭がその向壁虚造を指摘した説と同じである。しかし焦延寿の《易林》はすべて用いており、しかも「坤為水」「艮為火」は特に多く用いている。これでこの八象の流伝がすでに久しいことが分かる。昔の顧炎武・翟雲升・牟庭らは、しばしば《易林》が焦延寿の作ではないと疑ったが、幸い彼らはこれらの林辞を読み通せなかった。もし読み通せたなら、彼らはまた《易林》が北宋以後の人の偽造だと疑ったであろう。今《易林》中の乾日・兌月など八象を挙げて示す。
経世八象・乾日
《易林》《蹇》之《咸》云:「日月並居。」《咸》上兌,為月;互乾為日,故曰「並居」。又《升》之《咸》云「日月並居」,義與上同。又《解》之《臨》云:「與日月處。」《臨》上坤,坤伏乾,乾日,兌月。又《乾》之《泰》云:「白日皎皎。」《泰》下乾,乾為日;互震為白,故曰「皎皎」。又《泰》之《恆》云:「踰日厯月。」《恆》互兌,為月;乾為日,故曰「踰日厯月」。是《易林》顯以乾為日也。後思《易》《乾》九三云:「君子終日乾乾。」乾為日,三居卦末,故曰「終日」。《大畜》九三云:「閒輿衛。」日亦指乾。又《乾》彖傳云「明終始」,大明者,日也。又《恆》傳云:「日月得天而久照。」《恆》互兌,為月;乾為日。是《易》與彖傳皆以乾為日,故《易林》本之也。九家亦以乾為日,見後。
《易林》「《蹇》の《咸》」の林辞に「日月並び居る」とある。《咸》は下が艮・上が兌で、上体の兌は月であり、三から五爻まで互体して乾を成し、乾は日である。日月が同じ一卦の中にいるので「並居」と言う。また「《升》の《咸》」にも「日月並居」とあり、取義は上の条と同じである。また「《解》の《臨》」に「日月と処る」とある。《臨》は下が兌・上が坤で、上体の坤の伏する(旁通)卦は乾であり、乾は日であり、下体の兌は月である。だから日月が並び見える。また「《乾》の《泰》」に「白日皎皎」とある。《泰》の下体は乾で、乾は日であり、三から五爻まで互体して震を成し、震は《説卦》の「蕃鮮」の義を取って白なので「皎皎」と言う。また「《泰》の《恒》」に「日を踰え月を歴る」とある。《恒》は二から四爻まで互体して乾を成し、三から五爻まで互体して兌を成し、兌は月・乾は日なので「踰日歴月」と言う。これで《易林》が明らかに乾を日としていることが分かる。後に《周易》の本経を考え直すと:《乾》九三に「君子終日乾乾」とあり、乾は即ち日であり、三爻の位は下卦の末に居るので「終日」と言う。《大畜》九三の「閑輿衛」の中の日も下体の乾を指す。《乾》の彖伝に「大明終始」(原文は「大」の字を脱く)とあるが、いわゆる「大明」はまさに太陽である。《恒》の彖伝に「日月天を得て久しく照らす」とあり、《恒》は互体して兌を成して月、乾を成して日であり、ちょうど符合する。これで《周易》の経文と彖伝が本来いずれも乾を日としていたことが分かる。だから《易林》がそれを承用した。九家《易》もまた乾を日とするが、詳しくは後文に見える。
経世八象・兌月
《易林》《復》之《臨》云:「月出平地。」坤為地,兌為月,在下,故曰「平地」。又《晉》之《小過》云:「月出阜東。」《小過》艮為阜,互兌為月,震為東,故「月出阜東」。又《家人》之《小畜》云:「杲杲白日,為月所食。」《小畜》互離為日,兌為月,兌月侵入離體之半,故曰「為月所食」,兌為食也。又《大壯》之《革》云:「不見日月。」《革》上兌,為月;中互大坎,坎隱伏,故不見。是《易林》以兌為月也。後思《易》《小畜》之「月幾望」,《中孚》《歸妹》之「月幾望」,《恆》彖之「日月得天久照」,蓋皆以兌為月,故《易林》用之,邵子亦用之也。
《易林》「《復》の《臨》」の林辞に「月平地に出づ」とある。《臨》は下が兌・上が坤で、坤は地であり上に居り、兌は月であり下に居る。月が地の下から昇るので「月出平地」と言う。また「《晋》の《小過》」に「月阜東に出づ」とある。《小過》は下が艮・上が震で、艮は山なので土阜である。三から五爻まで互体して兌を成し、兌は月である。震は後天において東に居るので「月出阜東」と言う。また「《家人》の《小畜》」に「杲々たる白日、月の食むところとなる」とある。《小畜》は三から五爻まで互体して離を成し、離は日であり、二から四爻まで互体して兌を成し、兌は月である。兌体と離体が二爻分重なり合い、まさに兌の月が離の日の半分に侵入したので「為月所食」と言う――兌はもともと吞食の義がある。また「《大壮》の《革》」に「日月を見ず」とある。《革》の上体は兌で月であり、卦中の数爻がまた合わさって一つの大坎の象を成し、《説卦》は坎を隠伏とするので「不見」と言う。これで《易林》が兌を月としていることが分かる。後に《周易》本経を考え直すと:《小畜》上九の「月幾望」、《中孚》六四・《帰妹》六五の「月幾望」、および《恒》彖伝の「日月天を得て久しく照らす」は、おおよそいずれも兌を月としている。だから《易林》がそれを承用し、邵雍もまたそれを承用した。
経世八象・離星
《易林》《大畜》之《小畜》云:「明星煌煌。」《小畜》互離,離為明為星,故曰「明星煌煌」。又《離》之《訟》云:「星隕如雨。」《訟》下互離,離星;下坎,為雨,故曰「星隕如雨」。又《未濟》之《困》云:「建星中堅。」《困》互離,故曰「星」;建星秋昬中,兌秋,故曰「建星」。是《易林》以離為星。後思《易》《豐》六二之「見斗」、九三之「見沫」,亦以下卦離為星,《易林》仍本之《易》也。虞翻以《豐》三上易為《噬嗑》,以《噬嗑》互艮為星,殊失《易》旨。然朱子發云:「仲翔以離艮為星。」是離星之象,虞氏亦知,知而不用,果何故也。
《易林》「《大畜》の《小畜》」の林辞に「明星煌々」とある。《小畜》は三から五爻まで互体して離を成し、離は光明・星なので「明星煌煌」と言う。また「《離》の《訟》」に「星隕りて雨の如し」とある。《訟》は下が坎・上が乾で、二から四爻まで互体して離を成し、離は星であり、下体の坎は雨なので「星隕如雨」と言う。また「《未済》の《困》」に「建星中堅」とある。《困》は二から四爻まで互体して離を成すので「星」と言う。建星は秋の黄昏にちょうど中天に当たり、兌は後天において西方の秋を主り、《困》の上体はまさに兌なので「建星」と言う。これで《易林》が離を星としていることが分かる。後に《周易》本経を考え直すと:《豊》六二の「日中に斗を見る」、九三の「日中に沫を見る」もまた下卦の離を星としている。これで《易林》が依然として《周易》に本づいていることが分かる。虞翻は《豊》の三爻と上爻を互いに易えて《噬嗑》に変え、さらに《噬嗑》の互体の艮を取って星としたが、大いに《周易》の本旨を失っている。ただ朱震(字は子発)が「虞仲翔は離・艮を以て星とす」と言ったので、離を星とする象を虞翻も知っていた。知っていながら用いなかったのは、いったいどんな理由か。
経世八象・震辰
《易林》《小畜》之《大畜》云:「辰次降婁。」降婁者,十二辰之一,在戌分。《大畜》互震,為辰。辰者,日月交會之次;辰次降婁者,言日月交會於廠也。艮先天居戌,故「辰次降婁」。又《大過》之《泰》云:「我生不辰。」《泰》中爻震,震為辰為生;坤為我,坤凶,故曰「我生不辰」。又《頤》之《泰》云:「過時不反。」《泰》互震,為辰,辰者時也;震往,故「過時不反」。又《臨》之《噬嗑》云:「厯象星辰。」《噬嗑》互艮,艮為星;下震,為辰,故曰「厯象星辰」。是《易林》顯以震為辰。
《易林》「《小畜》の《大畜》」の林辞に「辰次降婁」とある。「降婁」は十二辰次の一つで、戌の分野に位する。《大畜》は下が乾・上が艮で、二から四爻まで互体して震を成し、震は辰である。いわゆる「辰」とは日月交会の位次であり、「辰次降婁」とは日月がこの辰次で交会することを言う。艮は先天において戌位に居るので「辰次降婁」と言う。また「《大過》の《泰》」に「我の生まれたる辰ならず」とある。《泰》は三から五爻まで互体して震を成し、震は辰・生であり、上体の坤は我であり、坤は凶を主るので「我生不辰」と言う――生が時に逢わないことである。また「《頤》の《泰》」に「時を過ぎて反らず」とある。《泰》は互体して震を成して辰であり、辰は即ち時であり、震は動して往くを主るので「過時不反」と言う。また「《臨》の《噬嗑》」に「星辰を歴象す」とある。《噬嗑》は三から五爻まで互体して坎を成し、二から四爻まで互体して艮を成し、艮は星であり、下体の震は辰なので「歴象星辰」と言う。これで《易林》が明らかに震を辰としていることが分かる。
因思《易》《損》《益》皆有震,故皆曰「與時偕行」。又《艮》傳云:「時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。」則以艮為反震,震為時為辰;震反,故「時止」,而三至五互震,震行,故「時行」,行止皆以震,故曰「動靜不失其時」,是經原以震為辰也。艮與震同體,故艮亦為時。又案《說文》:「辰,震也,三月陽氣動,雷電振,民農時也。」又《釋名》:「辰,伸也,物皆伸舒而出也。」是辰之為訓,皆與震相合。而《說文》中辰為震,似卽本於卦象,是震為辰之象,許慎時猶未失傳,至漢末遂遺逸矣。
これによって《周易》本経を考え直すと:《損》《益》の二卦はいずれも震体を含むので、彖伝はともに「時と偕に行く」と言う。また《艮》の彖伝に「時に止まれば止まり、時に行けば行き、動静その時を失わず、その道光明」とある。これは艮が震の反象(震を倒転すれば艮となる)であり、震が時・辰であるためである。震を倒転すれば動くことができないので「時止」と言い、《艮》卦は三から五爻がまた互体して震を成し、震は行を主るので「時行」と言う――行も止もいずれも震から取るので「動静不失其時」と言う。これで経文が本来震を辰としていたことが分かる。艮と震は同一の卦体(一正一反)であるから、艮もまた時となる。さらに《説文解字》を見ると「辰とは震である。三月に陽気が動き雷電が振るい、民の農時である」とあり、《釈名》に「辰とは伸である。物がみな伸び舒びて出る」とある。これで「辰」の字の訓釈はいずれも震と合致することが分かる。そして《説文》が辰を震としたのは、まさに卦象に本づいたようであり、「震為辰」という象が許慎の時代にはまだ失伝せず、漢末に至ってやっと亡佚したことが知れる。
経世八象・坤水
坤水之象,所關甚巨,而東漢人皆不知,致解「利涉大川」,爻詞卦詞,靡不舛錯,獨九家《易》知之。說《蠱》之「利涉大川」云:「此卦泰,乾天有河,坤地有水,二爻升降,出入乾坤,利涉大川也。」按九家《易》向不知為何人,《釋文》敘列九家,為荀爽、京房、馬融、鄭玄、宋衷、虞翻、陸績、姚信、翟子玄等九人,並云不知何人所集,稱荀爽者,以荀為之主也。而《隋》《唐志》及《釋文》,皆稱為《荀爽九家集解》。夫既不知何人所集,胡為名之曰荀九家?荀亦九家之一耳,胡得云為之主?《釋文》之言,不可信也。
「坤為水」という象は関係が極めて大きいのに、後漢人は皆知らず、そのため《周易》の「利渉大川」を解釈するにあたり、爻辞であれ卦辞であれ乱れなかったものがない。ただ九家《易》だけがそれを解していた。九家が《蠱》卦の「利渉大川」を解して言う:この卦は《泰》から来て、乾は天であり河があり、坤は地であり水があり、二爻が上下に昇降して乾坤の間に出入りするので「利渉大川」である、と。按ずるに九家《易》は従来どんな人が輯めたのか知られず、陸徳明《経典釈文》は九家の名簿を列挙して荀爽・京房・馬融・鄭玄・宋衷・虞翻・陸績・姚信・翟子玄の九人とし、誰が編集したか知らないと言い、荀爽を標称したのは荀爽を主としたためだとしている。しかし《隋書・経籍志》《唐書・芸文志》および《釈文》はいずれもそれを《荀爽九家集解》と称する。誰が編集したか知らないのに、何によって「荀氏九家」と呼ぶのか。荀爽も九家中の一家にすぎないのに、どうして彼を主とすると言えるのか。《釈文》の説は信じられない。
《文獻通考》云:「陳氏曰:九家者,漢淮南王所聘明《易》者九人,而荀爽嘗為之集解。」以九家為西漢易師,以集解為荀爽所集,依陳氏之言,則名與實符矣。此雖不知陳氏之所本,然以坤水之象證之,陳氏之言殊勝。則以此象東漢人皆不知,獨九家知之,與《易林》合。又乾河之象,《易林》常取之,亦惟九家與《易林》合。爽輯其說,卽知其象,故說「利涉大川」,略與九家乾河坤水同。又九家說《同人》云:「乾舍於離。」「同而為日。」乾日之象,東漢人亦不知,惟荀爽知之。由乾日坤水等象證之,知九家必為西漢人,而非東漢。設為東漢,則乾日坤水,極重之象,東漢人不難皆知。觀馬、鄭、荀爽諸易說,虞氏無不知,此其證也。故陳氏所言,殊多可信。茲將坤水之象,標出如下:
《文献通考》が陳振孫の言を引くに、いわゆる九家とは漢代の淮南王が招き請えた《易》学に精通した九人の者であり、荀爽がかつて彼らのために集解を作ったというものである。これは九家を前漢の易師と見なし、集解を荀爽が輯めたものと見なす――陳氏の説の通りなら名と実が相符する。陳氏のこの言の根拠は知らないが、「坤為水」という象をもって印证するに、陳氏の説ははるかに高明である。この象は後漢人が皆解さないのに九家だけが解し、《易林》とちょうど相合するからである。さらに「乾為河」の象は《易林》が常に取用し、九家だけが《易林》と相合する。荀爽は彼らの説を輯録した以上、自然にこれらの象を知っていたので、彼が「利渉大川」を講じるのは大略九家の乾河・坤水と同じである。また九家が《同人》を解して「乾は離に舍る」「同じくして日となる」と言い、「乾為日」という象も後漢人は同じく解さず、ただ荀爽だけが解した。乾日・坤水という象から印证するに、九家は必ず前漢人であり後漢人ではないことが分かる。もし彼らが後漢人なら、乾日・坤水のような極めて重要な象を後漢人が皆知るのは難しくないはずだ。しかし馬融・鄭玄・荀爽以下の諸家の易説を考察するに、虞翻を含めて実際に皆通暁できなかった(原文この句の文字に訛あり)。これが明証である。だから陳氏の言はたいへん信じるに値する。今坤を水とする象を挙げて示す。
《乾》之《觀》云:「江河淮海,天之奧府。」按《觀》下重坤,故曰「江河淮海」。又《坤》之《升》云:「憑河登山。」《升》上坤,坤水,故曰「憑河」。又《訟》之《泰》「弱水之西」,坤水坤柔,故曰「弱水」。又《履》之《坤》云:「循河榜舟,旁淮東遊。」是亦以坤為河。又《履》之《大壯》云:「水流趨下,遠至東海。」《大壯》通《觀》,《觀》下坤,坤為水為下為海。又《賁》之《損》云:「龍蛇所聚,大水來處。」《損》中爻坤,故曰「大水」。又《觀》之《大有》「山沒邱浮,陸為水魚」,《大有》通《比》,《比》下坤,上互艮,山在水上,故曰「邱浮」。又《師》之《復》「淵泉堤孩,水道利通」,皆以坤為水之證也。
「《乾》の《観》」の林辞に「江河淮海、天の奥府」とある。《観》の下体は坤であり、二から四爻がまた互体して坤を成し、坤体が重畳し、坤はすでに水なので「江河淮海」と言う。また「《坤》の《升》」に「河に憑りて山に登る」とある。《升》は下が巽・上が坤で、上体の坤は水なので「憑河」と言う。また「《訟》の《泰》」に「弱水の西」とある。坤は水でありその性は柔順なので、柔弱の水、よって「弱水」と言う。また「《履》の《坤》」に「河に循い舟を榜ぎ、淮の旁を東に遊ぶ」とある。これも坤を河としている。また「《履》の《大壮》」に「水流れて下に趨り、遠く東海に至る」とある。《大壮》の旁通の卦は《観》で、《観》の下体は坤、坤は水・下・海である。また「《賁》の《損》」に「竜蛇の聚まるところ、大水の来る処」とある。《損》は三から五爻まで互体して坤を成すので「大水」と言う。また「《観》の《大有》」に「山没し邱浮かび、陸は水の魚となる」とある。《大有》の旁通の卦は《比》で、《比》の下体は坤で水であり、三から五爻まで互体して艮を成して山である。山が水の上に浮かぶので「邱浮」と言う。また「《師》の《復》」に「淵泉堤孩、水道利通」とある。これらはみな坤を水とする証拠である。
経世八象・艮火
《蹇》之《渙》云:「從風放火。」《渙》中爻艮,艮為火,與巽連,故「從風放火」。又《大壯》之《遯》云:「火爛銷金。」《遯》上乾,為金;下艮火,故「銷金」。又《恆》之《艮》云:「順風縱火,芝艾俱死。」《艮》中爻震,伏巽,故「順風」;艮火,故曰「縱火」。又《坎》之《謙》云:「門燒屋燔。」《謙》下艮,艮為門為屋;艮火,故「燔燒」。又《解》之《謙》云:「三火起明,雨滅其光。」《謙》下艮,為火,納丙數三,故曰「三火」;上互坎,故「雨滅其光」。此《易林》以艮為火之證也。
「《蹇》の《渙》」の林辞に「風に従いて火を放つ」とある。《渙》は下が坎・上が巽で、三から五爻まで互体して艮を成し、艮は火であり、それがちょうど上体の巽(風)と連なっているので「従風放火」と言う。また「《大壮》の《遯》」に「火爛れて金を銷す」とある。《遯》の上体は乾で、《説卦》に「乾は金」、下体の艮は火であり、火は金を熔かすので「銷金」と言う。また「《恒》の《艮》」に「風に順いて火を縦つ、芝艾俱に死す」とある。《艮》は重艮で、三から五爻まで互体して震を成し、震の伏する(旁通)卦は巽であり、巽は風なので「順風」と言い、艮は火なので「縦火」と言う。また「《坎》の《謙》」に「門焼け屋燔く」とある。《謙》の下体は艮で、《説卦》に「艮は門闕」なので門・屋となり、艮はまた火なので「燔焼」と言う。また「《解》の《謙》」に「三火起りて明、雨その光を滅す」とある。《謙》の下体は艮で火であり、納甲の法では艮は丙を納し、丙は天干において第三位に居るので「三火」と言う。《謙》は二から四爻まで互体して坎を成し、坎は雨なので「雨滅其光」と言う。これらはみな《易林》が艮を火とする証拠である。
経世八象・坎土
坎土之象,後儒尤怪之,《易林》亦數用也。《節》之《井》云:「宣髮龍叔,為王主國,安土成稷,天下蒙福。」「安土成稷」者,《井》上坎,下互大坎,坎為土,巽為稷。稷者,社稷也,《風俗通》所謂「稷為百穀長,五穀不能偏祭,立稷而祭之」是也。稷以土築成,《井》上下皆坎土,故曰「安土成稷」。又《臨》之《蠱》云:「火生月窟,下土思塞。」《蠱》上艮,為火;下巽,為月窟;下互大坎,坎為土為塞,故曰「下土恩塞」。又《豐》之《大過》云:「相呼南去,膏潤下土。」《大過》為大坎,坎為膏潤為土。又《夬》之《震》云:「可以履土。」《震》互坎,坎為土,震為足,故曰「履土」。又《隨》之《節》云「水土不同」,《師》之《漸》云「拜治水土」,《無妄》之《解》云「載土販鹽」,皆以坎為水土。此《易林》以坎為土之證。蓋坎為塞而中堅實,故象土也。
「坎為土」という象は、後の儒者が特に怪異に感じたものだが、《易林》は屡々用いている。「《節》の《井》」の林辞に「宣発して竜叔たり、王のために国を主り、土に安んじて稷を成し、天下福を蒙る」とある。いわゆる「安土成稷」とは:《井》は下が巽・上が坎で、上体は坎であり、初爻から四爻までまた合わさって一つの大坎の象を成し、坎は土であり、下体の巽は稷である。「稷」とは社稷であり、《風俗通義》のいう「稷は百穀の長であり、五穀を一一遍く祭ることができないので、稷を立てて代わりに祭る」はまさにこの意である。社稷の壇は土で築く。《井》卦の上下はともに坎土なので「安土成稷」と言う。また「《臨》の《蠱》」に「火月窟に生じ、下土塞がるを思う」とある。《蠱》の上体は艮で火であり、下体は巽で月窟(巽は西南に居って月窟となる)である。初から四爻まで合わさって大坎を成し、坎は土・壅塞なので「下土恩塞」と言う。また「《豊》の《大過》」に「相呼んで南に去り、膏潤は下土に」とある。《大過》は全体が即ち一つの大坎であり、坎は膏潤・土である。また「《夬》の《震》」に「以て土を履む可し」とある。《震》は三から五爻まで互体して坎を成し、坎は土であり、《説卦》に「震は足」、足がその上を履むので「履土」と言う。このほか「《随》の《節》」に「水土同じからず」、「《師》の《漸》」に「水土を拝治す」、「《无妄》の《解》」に「土を載せ塩を販ぐ」とあるが、いずれも坎を水・土としている。これらはみな《易林》が坎を土とする証拠である。おおよそ坎の卦体は中画が陽であり、壅塞して中が堅実なので、象を土に取るのである。
経世八象・巽石
巽石之象,後儒怪之,與坎土同,而《易林》數用之。《同人》之《小畜》云:「戴石上山。」《小畜》上巽下乾,巽為石,乾為首,石在首上,故曰「戴石」。又《夬》之《姤》云:「山石朽破。」《姤》上乾,乾為山,詳後;下巽,巽為石,下斷,故曰「山石朽破」。又《明夷》之《革》云:「掘井得石。」《革》兌為井,互大坎,坎窖亦為井,互巽為石,故曰「掘井得石」。是《易林》以巽為石之明證。他若《大壯》之《觀》云「五石示象」,《觀》上巽,數五,巽為石,故曰「五石」;又《家人》之《否》云「反得弊石」,《否》互巽,巽為石為弊,故曰「弊石」,亦明明以巽為石。然《觀》與《否》皆互艮,艮亦為石,恐觀者未能分明,故首舉《小畜》《姤》《革》以為證,《小畜》《姤》《革》皆無艮象,石專指巽也。由《易林》推之,《易》《困》六三云「困于石」,《困》中爻巽,三正當巽初,故曰「困于石」,是《易》亦以巽為石也。後儒怪之者,由易象失傳,故雖見於經而不知。
「巽為石」という象も、後の儒者は「坎為土」と同じように怪異に感じたが、《易林》は屡々用いている。「《同人》の《小畜》」の林辞に「石を戴きて山に上る」とある。《小畜》は下が乾・上が巽で、巽は石であり、《説卦》に「乾は首」、石が首の上に圧しているので「戴石」と言う。また「《夬》の《姤》」に「山石朽破す」とある。《姤》の上体は乾で、乾は山(詳しくは後文に見る)であり、下体は巽で石である。そして巽の初爻は陰で、その画は中が断たれているので「山石朽破」と言う。また「《明夷》の《革》」に「井を掘りて石を得」とある。《革》の上体は兌で井であり、卦中の数爻が合わさって大坎を成し、坎は地窖すなわち井である。二から四爻まで互体して巽を成して石なので「掘井得石」と言う。これが《易林》が巽を石とする明証である。このほか「《大壮》の《観》」に「五石示象」とあるのは、《観》の上体が巽でその数が五、巽は石なので「五石」と言い、「《家人》の《否》」に「反りて弊石を得」とあるのは、《否》が三から五爻まで互体して巽を成し、巽は石・敝壊なので「弊石」と言う――これも明らかに巽を石としている。ただ《観》と《否》はいずれも別に互艮を含み、艮も同じく石なので、読者が分かち難い恐れがある。そこでまず《小畜》《姤》《革》の三卦を挙げて証とする。この三卦にはいずれも艮象がなく、その中の「石」はただ巽を指すのみである。《易林》からさらに《周易》に推し戻すと:《困》六三に「石に困む」とあり、《困》は三から五爻まで互体して巽を成し、六三はちょうど互巽の初爻に当たるので「困于石」と言う。これで《周易》も巽を石としていたことが分かる。後の儒者が怪異に感じたのは易象が失伝したためであり、明らかに経文に見えていても認識できなかったのである。
由是證之,邵子之日月星辰水火土石等八象,豈惟《易林》皆有,《易》亦多有也。乃東漢人皆不知,其失傳與先天象數等。他若《易林》以乾為江河為山,以坎為肉,以震為南為神,以兌為華,以坤為魚,以艮為祖為臣,詳皆見後,率源本於經,而東漢人尤不知,致解經皆誤。朱子嘆易象失傳,豈知其自東漢而已然哉。
以上の例証によって断定できる。邵雍の用いた日・月・星・辰・水・火・土・石の八つの象は、《易林》にすべてあるばかりか、《周易》にも大半備わっている。ところが後漢人は皆解さず、その失伝は先天象数と同じ情形である。このほか《易林》が乾を江河・山とし、坎を肉とし、震を南・神とし、兌を花とし、坤を魚とし、艮を祖・臣とするなどの詳しいことはみな後文に見えるが、大抵は経文に源本し、後漢人はなおさら知らなかったので、経を解くにあたり至るところ間違いを出した。朱熹は易象の失伝を嘆いたが、後漢からすでにそうであったことをどうして知ろうか。
後漢以前に先天象を言ったもの
學者謂宋以前無言先天象者,非也。《左傳》閔二年,成季之將生,筮之,遇《大有》之《乾》,曰:「同復於父,敬如君所。」杜注不知先天象,祇釋「同於父,敬如君」,於「復」字、「所」字,皆不知其所謂,而不釋之,猶不失先聖闕疑之旨。孔疏則不知而強解之,曰:「國人敬之,其敬如君之處所。」夫乾處西北,離處正南,人敬離,如何與乾之處所相同乎?此不通也。所者,位也;復者,復其位也。言乾為君為父,離變乾,既同於君父,乾南離亦南,更復其君父之位,故人敬離位,亦同於君父之位也。乾南之象,至明白矣。
学者は宋代以前に先天卦象を講じた人がいないと言うが、これは誤りである。《左伝》閔公二年の記載に、成季が生まれようとした時にそのために占筮して、《大有》が《乾》に変ずる(六五の一爻が変ずる)を得て、繇辞に「同じく父に復り、敬すること君の所の如し」とある。杜預の注は先天卦象を解さず、ただ「父に同じ」「君の如く敬す」を解釈しただけで、「復」の字と「所」の字には何も言えず、そのまま解かずに置いた――これはかえって古の聖人の「疑があれば闕く」の宗旨を失わなかった。孔穎達の《正義》は解らないのに強いて解き、「国人が彼を敬重し、君主の居所を敬うように彼を敬う」と言った。しかし乾は後天において西北に居り、離は後天において正南に居る。人々の敬うものは離であり、どうして乾の居所と同じであろうか。説き通せない。実は「所」とは位であり、「復」とは本位に帰ることである。この繇辞が言うには:乾は君・父であり、《大有》の上体の離が変じて乾となり、すでに君父と同じであり、そして乾は先天において南に居り、離は後天においても南に居るので、君父の本位に帰ったに等しい。だから人々が離の位を敬うことは、即ち君父の位を敬うことと同じである。乾が南方に居る象は、ここで最も明白である。
又成十六年,晉與楚戰,公筮之,遇《復》,史曰:「南國蹙,射其元王中厥目。」元者,首也,《左傳》哀十一年「歸國子之元」是了。乾為首為王,離為目,乾若不在南,陽報射南,祇中離目可矣,胡為射中王首哉?杜注祇知離目象,不知乾南象,故云「離受其咎」。豈知射中王首,乾亦受咎也。卦象失傳,《左氏》尚不能釋,焉有於《易》。
また《左伝》成公十六年、晋国と楚国が交戦し(鄢陵の役)、晋厳公が人に命じて占筮させ、《復》卦を得た。太史が言うに「南国蹙まり、その元を射れば、王その目に中る」と。「元」とは頭であり、《左伝》哀公十一年の「国子の元(首級)を帰還す」はまさにこの用法である。乾は首・王であり、離は目である。もし乾が南方にいなければ、南に向かって射れば、ただ離の目に中るだけで足りるはずで、どうして王の頭にまで中ることがあろうか。これで南方の位には先天の乾と後天の離の両方があり、一箭を南に射れば両者とも中ることが分かる。杜預の注は離が目である象しか知らず、乾が南に居る象を知らなかったので、「離その咎を受く」と言ったにすぎない。しかし王の頭に射中ったのだから、乾も同じく咎を受ける。卦象が一旦失伝すれば、《左伝》さえ解釈できなくなるのに、いわんや《周易》本経をや。
《左氏》以外,釋《易》之書莫古於《乾鑿度》,蓋《說卦》亞。《乾鑿度》云:「易者,不易也,變易也。不易也者,其位也,天在上,地在下,君南面,臣北面,此其不易也。變易也者,其氣也,天地不變,不能通氣,五行迭終,四時更廢。」卽後天卦位之震春木、離夏火、兌秋金、坎冬水也,故曰「變易」。又云:「八卦成列,天地之道立,雷風水火山澤之象定矣。其散佈用事也,震生於東方,離長於南方,兌收於西方,坎藏於北方」云云。可見八卦未散佈用事之時,其方位不在此,至為明白矣。
《左伝》以外で、《周易》を解釈した書に《易緯・乾鑿度》より古いものはなく、その地位は《説卦》に次ぐ。《乾鑿度》に言う。いわゆる「易」には「不易」と「変易」の二義を含む。「不易」が指すのは位であり、天は上にあり地は下にあり、君は南に面し臣は北に面する。これは変わらない。「変易」が指すのは気であり、天地が変動しなければその気を交通することができず、そこで五行が輪番に終始し四時が更替して興廃する。ここで言っているのはまさに後天卦位の中で震が春木に属し、離が夏火に属し、兌が秋金に属し、坎が冬水に属するということであり、だから「変易」と言う。《乾鑿度》はまた言う。八卦が序列を成せば天地の道が確立し、雷風水火山沢の象も定まる。それらが散布して各々事を司るに及んで、はじめて震が東方に生じ、離が南方に長じ、兌が西方に収め、坎が北方に蔵する云云となる。これで八卦がまだ「散布用事」していない時、その方位は後天のこの套ではないことが分かる――この点はこれ以上明白に言えないほどである。
《說卦》之演先天也,亦不明言其方位,以當時人人皆知也。若後天,則恐人生疑,故明釋其義。乃《說卦》《乾鑿度》以為人盡知者,至後漢竟失傳矣。管輅不知先天象,生以後天為不合矣。此與十二消息卦,《坤》上六用之,《臨》繇詞用之,《坤》文言用之,《左氏》用之,《乾鑿度》用之,漢人解《易》者皆用之,而皆未明言,則以消息卦人人皆知也。乃至後世,竟有以荀爽解「大明終始」云「離坎者,乾坤之家,陰陽之府」,為發諸儒所未發者矣,《困學紀聞》如此言,則亦將失傳也。先天方位亦猶是也。幸《左傳》猶存,《乾鑿度》未全佚,焦氏《易林》言之尤詳,且盡得以證明邵子先天象及《經世》八象之有本耳。不然,隨聲附和者流,不知伊于胡底也。
《説卦》が先天卦位を推演する時も方位を明言しなかったのは、当時は誰もが知っていたからである。後天卦位については人が疑いを生ずる恐れがあるため、はじめて明白にその意義を解釈したのである。しかし《説卦》《乾鑿度》が人尽く知ると見なしたものが、後漢に至ってはかえって失伝してしまった。管輅は先天卦象を解さず、一途に後天をもって衡量したので、かえって至るところ合わないと感じた。これは十二消息卦の情形と同じである。《坤》上六はそれを用い、《臨》の繇辞もそれを用い、《坤・文言》もそれを用い、《左伝》もそれを用い、《乾鑿度》もそれを用い、漢代に《易》を解く人も皆それを用いたが、誰も明言しなかった。それはまさに消息卦が誰もが知っていたからである。しかし後世になると、荀爽が「大明終始」を解して言った「離・坎は乾坤の家・陰陽の府」という言を、前人未発の論と見なす者さえ現れた(王応麟《困学紀聞》がそう言っている)。これで消息卦もまた失伝しようとしていたことが分かる。先天方位の遭遇もまさにこのようであった。幸い《左伝》がなお残り、《乾鑿度》も全部は亡佚せず、焦延寿の《易林》は特に詳しく講じているので、邵雍の先天卦象および《皇極経世》八象はいずれも来歴があることを完全に証明できる。さもなければ、声に附和する人々が、どこまで騒ぎ立てるか分からない。
又按九家注《同人》云:「乾舍於離。」舍者,次也,是以乾為南也。又曰:「同而為日。」是以乾為日,同於《易林》也。又荀爽注《同人》云:「乾舍於離,相與同居。」是亦以乾居南,與《左氏》「敬如君所」義同也。而治漢《易》者向不稱述,王定柱云:「以中其所忌也。」故王、毛等皆不不引。近獨姚配中,王與姚同時,注《易》,於九家及荀注「乾舍於離」之說,知為反對乾南者之大障也,則駁之。夫《明夷》上坤下離,九家及荀胡以不云「坤舍於離」?則以不同位也。後之解經者,邪僻淫私,無理取鬧,經何由通乎?故夫解經須有解經之德也。
また九家《易》が《同人》に注して「乾は離に舍る」と言う――「舍」とは止宿・次舎の意であり、これは乾を南に居らせることである(乾と離が同じく南方に処るので、乾は離に舍ることを得る)。また「同じくして日となる」と言うのは、これは乾を日とすることであり、《易林》と一致する。荀爽が《同人》に注しても「乾は離に舍り、相与に同居す」と言い、同じく乾を南に居らせたのであり、《左伝》の「敬すること君の所の如し」の意と同じである。しかし漢《易》を治める者は従来この条を称引せず、王定柱が言うに「それが彼らの忌諱に触れたからだ」と。だから王懋竑・毛奇齢らの人は皆引用しない。近頃は姚配中(王定柱と姚配中は同時代人)だけが《周易姚氏学》を作り、九家と荀爽の「乾舍于離」の説が乾南に反対する者にとって一大障碍であることを見抜き、そこでそれを駁斥した。試しに問う。《明夷》の上体は坤、下体は離であるのに、九家と荀爽はなぜ「坤は離に舍る」と言わなかったのか。まさに坤と離が同位でないためである。後世に経を解く人は心術が邪僻で私的であり、無理に事を構えて騒ぐので、経義がどうして説き通せようか。だから経を解く者はまず経を解く徳を備えなければならないと言うのである。
按姚氏所駁九家之說,謂「火同於天,若天不同於火」者,皆暗避乾南之說。又謂「傳於離言火言電不言日」,而忘《離》傳之言日,愈迥護愈分明,至為可哂。益足證乾南之象,荀氏已知,與管輅所疑同也。王氏為漢學鉅子,獨於先天不徇流俗,誠以其左證不能掩也。又杭氏云:「《大有》《同人》《比》《頤》《噬嗑》《節》《豐》等卦,皆以先後天同位而命名。」自東漢卦象失傳,皆不知此等卦名由於先後天,苦求其故而不得,遂穿鑿矣。
さらに姚配中が九家を駁った言を見るに、彼は「これは火が天に同じくするのであって、天が火に同じくするのではない」と言う。この類の説は皆ひそかに「乾は南方に在る」の説を回避しているのである。彼はまた《彖伝》《象伝》が離に講じるに火・電だけを言って日を言わないと言うが、《離》卦の伝文が明らかに日に講じていることを忘れている――回護すればするほど破綻はいっそう分明になり、実に笑うべきである。これはかえって「乾居南」という象を荀爽がとっくに知っていたことを十分に証明するものであり、管輅が疑ったことと同じ一事である。王定柱は漢学の大家であり、ただ先天の問題においてのみ流俗に随わなかったが、実に左証が揃っていて覆い隠せないからである。また杭辛斎が言う。《大有》《同人》《比》《頤》《噬嗑》《節》《豊》これらの卦は、いずれも先天・後天が同位である義を取って命名したものである。後漢に卦象が失伝して以来、人々は皆この類の卦名が先後天方位から出たことを知らず、苦しんでその故を求めても得られなかったので、仕方なく穿鑿附会するに至った。
又按《太玄》云:「南北定位,東西通氣。」是以南北釋「天地定位」,以東西釋「水火不相射」及「相逮」也,皆先天位也。故《漢上易》引以為注。此亦乾南坤北離東坎西之見於西漢者也。
また揚雄《太玄》に「南北位を定め、東西気を通ず」とある。これは南北をもって《説卦》の「天地定位」を解釈し、東西をもって「水火不相射」および「水火相逮」を解釈したもので、講じているのはすべて先天方位である。だから朱震《漢上易伝》はこれを引いて注とした。これも乾南・坤北・離東・坎西の説が前漢に見える一つの例証である。
焦氏易詁 巻二
行唐尚秉和節之撰
本巻も引き続き行唐(現在の河北省行唐県)の人・尚秉和の撰述で、尚氏の字は「節之」である。
焦氏易旨の求索
余自幼好讀焦氏《易林》,如《蒙》之《節》云:「三夫共妻,莫適為雌,子無名氏,翁不可知。」及《坤》之《剝》云:「南山大獲,盜我媚妾,怯不敢逐,退而獨宿。」等林詞,酷愛其語,而莫能通其義。所謂通其義者,非祗知其故事人物,以林詞既為某卦而設,其詞必與卦象有關。乃求之既久,毫無所入,遂亦置之。後忽思《節》林之「三夫共妻」,因《節》卦中爻震為長男,艮為少男,上坎為中男,共三男象,震為夫,故曰「三夫」;祗下兌一女象,故曰「三夫共妻」,果林詞從象生也。由此推之,其言正象者,往往而解,然十不過二三,其餘再四求索,仍不能通,遂又置之,而從事於《易》。
私は幼い頃から焦延寿の《易林》を読むのを好んだ。「《蒙》の《節》」の「三夫妻を共にし、適して雌となるものなく、子は名氏なく、翁は知るべからず」、「《坤》の《剥》」の「南山大いに獲たり、我が媚妾を盗む、怯えて逐うことを敢てせず、退いて独り宿す」といった類の林辞は、その語句を甚だ愛しながらその義理を通じられなかった。いわゆる義理を通ずるとは、ただその中の故事人物を知ることだけではない。各条の林辞はいずれもある卦のために設けられたものである以上、辞句は必ず卦象と関係があるはずである。しかし求めて久しいのに少しも門径がなく、そのまま放り出してしまった。後にふと《節》卦のあの「三夫共妻」を思い出した。《節》は下が兌・上が坎で、二から四爻まで互体して震を成して長男、三から五爻まで互体して艮を成して少男、上体の坎は中男であり、全部で三つの男子の象がある。そして震は夫なので「三夫」と言う。全卦にただ下体の兌の一つの女子の象しかないので「三夫共妻」と言う――これで林辞が果たして卦象から生まれたことが分かった。これによって類推するに、およそ本卦の正象を用いるものは往々にして説き通せるが、十条のうち二三条を通ずるにすぎない。その他は反覆して求めても依然として通じず、そこでまた擱いて、心を専らにして《周易》を研治することに転じた。
久之,知《易》用旁通。旁通者,卽來氏所謂「錯」,今所謂「對象」,乾對坤,坎對離,艮對兌,震對巽是也,相對卽相通。《說卦》「山澤通氣」,氣通則往來不分;「雷風相薄」,相薄則合而為一;「水火相逮」,相逮則凝而為一。故《履》下兌,兌通艮,卽言虎;《睽》上離,離通坎,故《睽》上九爻詞象全用坎;《鼎》,形卦也,而《鼎》之形不在《鼎》而在《屯》,《鼎》通《屯》故也。
研治が久しくなってはじめて《周易》が「旁通」を用いることを知った。いわゆる旁通とは、来知徳の言う「錯」であり、今日言う「対象」である。乾は坤に対し、坎は離に対し、艮は兌に対し、震は巽に対す――二卦の六爻の陰陽が全く反対であり、相対すれば即ち相通ず。《説卦》に「山沢気を通ず」とあるのは、気が既に相通すれば往来に彼此の区別がないことを言う。「雷風相薄らぐ」とあるのは、相薄らげば即ち合して一となることを言う。「水火相逮る」とあるのは、相逮れば即ち凝って一体となることを言う。だから《履》卦の下体は兌であり、兌は艮に通じ、艮は虎なので、卦辞爻辞に「虎尾を履む」と言う。《睽》の上体は離であり、離は坎に通じるので、《睽》上九の爻辞の取象(鬼一車を載す、先ず弧を張る、寇に非ず婚媾など)は全く坎象を用いている。《鼎》は器形を取って卦を立てたものだが、鼎の形状は《鼎》卦自体には見えず、かえって《屯》卦に見えるのは、まさに《鼎》と《屯》が互いに旁通だからである。
又知《易》用覆象,來氏曰「綜」,亦名「反象」。《大過》九五「枯楊生華」,以上兌為反巽,巽木,故亦曰「楊」,與九二同。《損》六五爻詞與《益》六二同,以《損》覆卽為《益》,《益》六二卽《損》六五。《夬》九四與《姤》九三爻詞同,以《夬》覆卽為《姤》,《姤》九三卽《夬》九四也。
また《周易》が「覆象」を用いることを知った。来知徳はそれを「綜」と呼び、また「反象」とも呼ぶが、一卦を上下に倒転して象を取ることである。《大過》九五に「枯楊華を生ず」とある。《大過》の上体は兌であり、兌を倒転すればまさに巽であり、《説卦》に「巽は木」なので、ここでも「楊」と言い、九二爻辞の「枯楊稊を生ず」と取象が同じである。《損》六五の爻辞(十朋の亀)は《益》六二と全く同じである。それは《損》を倒転すれば即ち《益》であり、《益》の六二はまさに《損》の六五だからである。《夬》九四と《姤》九三の爻辞が同じ(臀に膚なく、その行き次且たり)であるのは、《夬》を倒転すれば即ち《姤》であり、《姤》の九三はまさに《夬》の九四だからである。
又知《易》用半象。半象之名,起於虞翻。翻注《需》「小有言」云「震象半見」,《小畜》「密雲不雨」及《兌》云「坎象半見」,故後人皆以半象始於虞翻。《易林》常用之。實《履》與《歸妹》之「眇能視,跛能履」,皆半象也。故小象曰:「眇能視,不足以有明也;跛能履,不足以有行也。」兌為半震,故曰「行不足」;為半離,故曰「明不足」。《歸妹》下亦兌,故詞與《履》同。
また《周易》が「半象」を用いることを知った。「半象」という名目は虞翻から始まる。彼が《需》九二の「小さく言あり」に注して「震象半ば見る」と言い、《小畜》の「密雲雨せず」および《兌》卦に注して「坎象半ば見る」と言ったので、後の人は皆半象が虞翻に始まると思った。実は《易林》が常に使用している。《履》六三と《帰妹》初九・九二の「眇にして能く視、跛にして能く履む」は、いずれも半象を用いている。だから《小象伝》に「眇にして能く視とは、以て明あるに足らざるなり。跛にして能く履むとは、以て行あるに足らざるなり」と言う。《履》の下体は兌であり、兌の二・三の両爻は一陽一陰で、ちょうど震の下半である。だから「半震」と言う――震は行走を主るが、その半ばを得たにすぎないので「行足らず」と言う。この二爻はまた同時に離の下半でもあるので「半離」と言う――離は光明を主るが、その半ばを得たにすぎないので「明足らず」と言う。《帰妹》の下体もまた兌なので、爻辞が《履》と同じである。
又知《易》用中爻。《繫詞》云:「若夫雜物撰德,辨是與非,則非其中爻不備。」中爻者,三至五互一卦,二至四互一卦,卽上下互也。說者謂言互卦最古者莫過於《左傳》。《左傳》陳厲公筮敬仲,遇《觀》之《否》,曰:「風為天。」言巽變乾。「於土上,山也。」言《否》二至四互艮也。又曰:「猶有觀焉。」言《否》三至五仍為巽,雖變為《否》卦,仍上巽下坤,與《觀》卦同也。自杜注以來,解此句皆誤。
また《周易》が「中爻」を用いることを知った。《繫辞下》に「錯綜して事物を陈し、徳性を撰述し、是非を弁別せんとすれば、中爻を用いなければ備わらない」とある。いわゆる中爻とは、三から五爻まで互いに一卦を出し、二から四爻まで互いに一卦を出すこと、即ち上互と下互である。論者は互卦を談ずる最古の記載は《左伝》に過ぎないとする。《左伝》は陳厳公が敬仲のために占筮したことを記し、《観》が《否》に変ずるを得て、卜人が「風は天となる」と言ったのは、《観》の上体の巽が乾に変じたことを言う。「土の上に、山なり」と言ったのは、《否》の二から四爻まで互体して艮を成すことを指す(艮は山、坤土は下にある)。また「なお観あり」と言ったのは、《否》の三から五爻まで依然として互いに巽を成し、すでに《否》卦に変じたが、依然として上が巽・下が坤で、《観》卦と同じだからである。杜預が注を作って以来、この句を解釈する者は皆間違ってきた。
豈知《易》《謙》九三云「勞謙君子」,以二至四互坎,坎為勞卦,故曰「勞謙」;《豫》六二云「介于石」,以二至四互艮,艮石,故曰「介于石」,是《易》用下互也。《小畜》九三云「夫妻反目」,以三至五互離,離目,故曰「反目」;又《賁》六四云「白馬翰如」,以三至五互震,震為馬,為的顙,故曰「白馬」,是《易》用上互也。
しかし《周易》では:《謙》九三に「労謙の君子」とあるのは、二から四爻まで互体して坎を成し、《説卦》に「坎とは労卦なり」とあるので「労謙」と称する。《豫》六二に「石に介たり」とあるのは、二から四爻まで互体して艮を成し、艮は石なので「介于石」と言う――これは《周易》が下互を使用したものである。《小畜》九三に「夫妻目を反らす」とあるのは、三から五爻まで互体して離を成し、《説卦》に「離は目」なので「反目」と言う。《賁》六四に「白馬翰如」とあるのは、三から五爻まで互体して震を成し、《説卦》は震を馬とし、その馬に於て「的顙」(白い額)となると言うので「白馬」と言う――これは《周易》が上互を使用したものである。
他若《噬嗑》六二云「噬膚滅鼻」,以《噬嗑》下互艮,艮為膚為鼻,是《易》用下互;六三云「噬臘肉遇毒」,則以三至五互坎,坎為毒為肉,故三四五三爻皆曰肉。虞翻等以肉屬下互艮,後儒因之,誤之遠矣。豈知孟氏逸象原有肉,以字訛為「內」,此象遂爾失傳。《易林》以坎為脯,是其證,是又用上互,尤為顯著。此其概略也。
このほか《噬嗑》六二に「膚を噬み鼻を滅す」とあるのは、《噬嗑》の下互(二から四爻)が艮を成し、艮は肌膚・鼻であるからであり、これは下互を用いたものである。六三に「腊肉を噬みて毒に遇う」とあるのは、三から五爻まで互体して坎を成し、坎は毒・肉だからであり、だから三・四・五の三爻の爻辞はいずれも「肉」を言い及ぶ。虞翻らは「肉」を下互の艮に帰し、後の儒者はその説を踏襲したが、大いに間違っている。しかし孟喜の逸象にはもともと「坎為肉」があり、ただ「肉」の字が「内」の字に訛ったためにこの象が失伝したのである。《易林》は坎を脯(干し肉)とするが、これがまさに明証である――これもまた上互を使用したもので、特に顕豁である。以上が《周易》の用象の大略である。
蓋對象者,陽與陰相對,陰與陽相對,陰陽既相對,卽常往來流通,合而為一,不能分析。覆象者,艮反為震,震反為艮,兌反為巽,巽反為兌,正倒雖不同,而體則一。半象者,杭辛齋雲基於卦位:震初位,艮三位,震起艮止,中自然離,故離兼艮震,離位二也;巽位在四,兌位在上,兌見巽伏,中自然坎,故坎兼兌巽,坎位五也。清儒焦循謂半震亦可作半兌,半艮亦可作半巽,以是駁虞仲翔,蓋因不知卦位,故誤若此。今按《易林》所用卦位之說,亦不拘也。
おおよそいわゆる「対象」とは、陽爻と陰爻が相対し、陰爻と陽爻が相対することである。陰陽が既に相対していれば、常に往来流通し、合して一となり、分割できない。いわゆる「覆象」とは、艮を倒転すれば震、震を倒転すれば艮、兌を倒転すれば巽、巽を倒転すれば兌である。正しく見ても倒して見ても異なるが、卦体は同じ一つである。いわゆる「半象」は、杭辛斎がそれは卦位の上に立つと言った。震は初位に居り、艮は三位に居り、震は起を主り艮は止を主る。両者の間に自然と離が生じるので、離は艮・震を兼ね含み、離は第二位に居る。巽の位次は四にあり、兌の位次は上にあり、兌が顕れれば巽が潜伏する。両者の間に自然と坎が生じるので、坎は兌・巽を兼ね含み、坎は第五位に居る。清儒の焦循は半震も半兌とすることができ、半艮も半巽とすることができるとして、これに拠って虞翻を駁斥したが、それは卦位を解さないためで、このように間違ったのである。ただし私の考察によれば、《易林》の用いるところはこの套の卦位の説にも拘らない。
至中爻上下互,尤為《易經》之根本。昔人謂《易經》無一字不根於象,《易》若無中爻,則詞多泛設矣,有是理哉。朱子晚年蓋深知易象之重,而嘆象失其傳,然其注《易》,仍不敢用中爻,祗《大壯》一卦用之,則以《程傳》方風行,恐乾物議也。豈知《程傳》之浮泛無根,更甚於王弼哉。
中爻の上互・下互に至っては、なおさら《易経》の根本である。前人は《易経》に一字として象に根づかないものはないと言う。《周易》がもし中爻を用いなければ、爻辞は大半が泛泛の談となってしまう。そんな道理があるだろうか。朱熹は晩年おそらく卦象の重さを深く知り、象が失伝したことを嘆いたが、しかし彼が《周易》に注する時は依然として中爻を使用することを敢えてせず、《大壮》一卦にのみ一度用いたにすぎない。それは程頤の《伊川易伝》がちょうど流行していたので、物議を招くことを恐れたからである。しかし《程伝》の浮泛無根は、王弼よりもさらに酷い。
四説をもって易林を求め、易林が本象・対象と常に相通ずるを知る
以上易說,既少有窺,尋再讀《易林》,遂解者漸多,乃恍然悟《易林》之詞,無一不本於《易》也。《易》《比》九五云「顯比」,坎隱伏,胡有顯象?則以對象離主文明也。《大有》六五云「有孚」,象曰「信以發志」,夫曰孚、曰信、曰志,離皆無此事,則以對象《比》上坎,坎為孚為信為志也。《易林》本之,各卦爻詞用對象者十之三四,本象與對象雜用者十之三四,其專用本卦象者,二三而已。
以上の四種の易説(旁通・覆象・半象・中爻)に私はすでにやや門径を窺い、続いて再び《易林》を読むと、説き通せるものがだんだん多くなり、ここに至ってようやく悟った。《易林》の辞句で《周易》に本づかないものは一条もない。《周易》《比》九五に「顕比」とあるが、《比》の上体は坎であり、《説卦》は坎を隠伏とするのに、どこに「顕」の象があるのか。もとはその対象(旁通の卦《大有》)の離を取ったのであり、離は文明を主るので顕となる。《大有》六五に「孚あり」とあり、《小象》に「信をもって志を発す」とあるが、孚・信・志と言うのに、離卦にはこれらの義訓がない。もとはその対象《比》の上体の坎を取ったのであり、坎は孚・信・志である。《易林》はまさにこれに承って来た。各卦の繇辞の中で、純粋に対象を用いるものは約十中三四を占め、本象と対象を雑用するものも十中三四を占め、もっぱら本卦の象を用いるものは十中二三に過ぎない。
如《復》之《巽》云:「三人俱行,一人言北,伯仲欲南,少叔不得,中路分道,爭闘相賊。」繇詞巽,而象則全用震。震為人為行,數三,上震下震,二至四反震,共三震,故曰「三人俱行」。震為南,互坎,坎數一,二至四反震,與上下震相反,故曰「一人言北」,震為言也。震為伯,坎為仲,故曰「伯仲」;震為南,故曰「欲南」;艮少男,故曰「少叔」;艮為覆震向下,故曰「不得」,言不從伯仲南行也。艮為道路,坎為中,或向南或向北,則分道矣。震為爭,艮為手,二至上反正兩艮震相背,故曰「爭鬥」;坎為盜賊,故曰「相賊」,無一字不用震象。
例えば「《復》の《巽》」の林辞に「三人俱に行き、一人北を言い、伯仲南を欲す、少叔得ず、中路道を分かち、争闘相い賊す」とある。繇辞の繫がれたのは《巽》卦だが、取象は全く震を用いている――巽の対象(旁通の卦)がまさに震だからである。震は人・行であり、その数は三である。《巽》の上下両体は皆巽で、各々一つの震を伏する。二から四爻まで互体して兌を成し、兌は艮を伏し、艮は即ち倒転した震で、これが「反震」である――合わせて三つの震があるので「三人俱行」と言う。震は先天において南に居る。三から五爻まで互体して離を成し、離は坎を伏し、坎の後天の数は一である。そしてあの「反震」の方向は上下二つの震と相反するので「一人言北」と言い、「言」もまた震から取った。震は長男なので伯、坎は中男なので仲、よって「伯仲」と言う。震は南なので「欲南」と言う。艮は少男なので「少叔」と言う。艮は震を倒転して下を向くので「不得」と言い、彼が伯・仲に従って南に行かない意である。艮は道路、坎は中であり、一つは南に向かい一つは北に向かうので「中路分道」である。震は争、艮は手であり、二爻から上爻までの間に一正一反二組の艮・震が互いに背き合っているので「争闘」と言う。《説卦》に「坎は盗」なので「相賊」と言う。全条の林辞に一字として震象を用いないものがない。
又若《訟》之《鼎》云:「虎聚摩牙。」《鼎》中爻兌,兌為牙;對象艮,艮為虎,艮手,為摩。之《小過》云:「青牛白咽。」《小過》對象互大離,為牛;震東方,色青,故曰「青牛」,則又本象與對象兼用。推焦氏之意,陰陽氣既相薄相通相逮,卽混合而不能分,此立竿則彼必見影,見其一既知其二,故混同若此。反之於《易》,亦往往如此也。《左傳》史蘇曰:「《震》之《離》亦《離》之《震》。」此易說之最古者也,卽旁通也。晁景迂云:「陰伏肇乎所配,而終不脫乎本,以隱顯佐神明者謂之伏。」伏卽對象也。學者能明晁氏之言,則《易》與《易林》用旁通之故,可瞭然矣。
また「《訟》の《鼎》」に「虎聚り牙を摩ぐ」とある。《鼎》は三から五爻まで互体して兌を成し、兌は口なので牙となり、兌の対象は艮であり、艮は虎であり、艮はまた手なので摩擦となる。「《訟》の《小過》」に「青牛白咽」とある。《小過》の対象は《中孚》で、《中孚》は六爻の上下が皆陽・中間が皆陰で、合わさって一つの大離の象を成し、離は牛である。《小過》の上体の震は後天において東方に居り、東方の色は青なので「青牛」と言う――この条は即ち本象と対象を兼用したものである。焦延寿の意を推するに:陰陽二気は既に相薄らぎ・相通じ・相逮る以上、混合して分割できず、こちらに竿を立てればかならずそちらに影が見え、その一を見ればその二を知るので、取象がこのように彼此混同するのである。反対に《周易》を見ても往々にしてこの通りである。《左伝》に史蘇が言うを記す:「《震》が《離》に変ずるとは、即ち《離》が《震》に変ずることである。」これは最も古い易説であり、講じているのはまさに旁通である。晁説之(号は景迂)が言う。「陰の潜伏はそれが匹配する一方から起こり、終に本体を離れない。隠顕をもって神明を輔けるものを『伏』と言う。」ここの「伏」とは即ち対象である。学者がもし晁氏のこの言を明らかにすれば、《周易》と《易林》が旁通を使用する理由は一目瞭然である。
易林が毎に覆象を用いるを知る
《易》之用覆象,如「十朋之龜」,如「臀無膚」,如「枯楊生華」,皆顯著,人能知之;其幽深之處,則不易知。如《困》卦之「有言不信」,則用覆兌也;《中孚》之「鶴鳴子和」,則用覆震覆艮也。推之於《頤》之「慎言語,節飲食」,《損》之「懲忿窒欲」,無不皆然。
《周易》が覆象を使用するのは、《損》六五・《益》六二の「十朋の亀」、《夬》九四・《姤》九三の「臀に膚なし」、《大過》九五の「枯楊華を生ず」のように、みな顕著で誰もが解する。それらの幽深な箇所に至っては、容易には見抜けない。例えば《困》卦の「言ありとも信ぜられず」は覆兌(二つの兌の口が相背する)を用い、《中孚》九二の「鶴陰に鳴き、その子和す」は覆震・覆艮を用いている。さらに《頤・象》の「言語を慎み、飲食を節す」、《損・象》の「忿を懲し欲を窒ぐ」に推し及ぼすと、いずれもこの通りである。
此外,如《左氏》昭五年《明夷》之《謙》云:「於人為言。」《謙》下艮,艮為覆震,震為人為言。又曰:「敗言為讒。」震覆卽言敗。又曰:「主人有言,主必讒也。」誠以《謙》反正兩震言相背,故曰「讒」。「有言」卽讒者,《明夷》離正反兩兌口相背,與《謙》之兩震言相背同,皆用覆也。
このほか《左伝》昭公五年に荘叔が穆子のために占筮して《明夷》が《謙》に変ずるを得たことを記し、「人に於ては言となる」と言う。《謙》の下体は艮であり、艮は即ち震の覆象であり、震は人・言である。また「言を敗れば讒となる」と言う。震が一旦倒転すれば、「言」が敗壊する。また「主人に言あれば、主は必ず讒なり」と言う。まさに《謙》卦の中に一正一反二つの震を含み、二つの「言」が互いに相背するので「讒」となる。そして《明夷》の「有言」が即ち讒であるのは、《明夷》の下体の離の中に正反二つの兌を含み、二つの「口」が互いに相背するので、《謙》の二「言」の相背と同じ理である――いずれも覆象を使用している。
又晉筮嫁伯姬於秦,遇《歸妹》之《睽》,曰:「西鄰責言。」兌為西,故曰「西鄰」;兌為口舌為言,而三至四覆兌,兩兌口相對卽相背,故曰「責言」,與《明夷》之「有言」同也,用覆兌也。又曰:「敗於宗丘。」震為主為宗,為覆艮,故曰「宗丘」,亦用覆也。而《集解》古注,除九家以震為覆艮、虞翻以兌為反巽外,餘用者少。獨《易林》凡遇正反兩兌、兩震、兩艮,相反或相對者,不曰「相囓」,卽曰「相訟」;不曰「相擊」,卽曰「相闘」。而於《謙》卦,不曰「齊魯爭言」,卽曰「長舌為災」,尤與《左氏》讒義相合。於是《易》與《左氏》用覆之處,始得真解,回視東漢人所說,皆煙雲也。
また晋国が占筮して伯姫を秦国に嫁がせ、《帰妹》が《睽》に変ずるを得て、繇辞に「西隣責言」とある。兌は後天において西に居るので「西隣」と言い、《説卦》に「兌は口舌」なので言となり、そして三・四の両爻がまた一つの倒れた兌を成し、二つの兌の口が相対することは即ち相背することなので「責言」と言う。《明夷》の「有言」と同じ理で、いずれも覆兌を用いている。繇辞はまた「宗丘に敗る」と言う。震は主・宗であり、同時にまた艮の覆象(艮は山丘)なので「宗丘」と言い、これも覆象を用いている。しかし李鼎祚《周易集解》が収めた古注は、九家《易》が震を覆艮とし、虞翻が兌を反巽とする以外、覆象を用いるものは少ない。ただ《易林》だけが、およそ一正一反の二兌・二震・二艮が互いに相反しまたは相対するのに遇えば、「相啮」と言わなければ「相訟」と言い、「相撃」と言わなければ「相闘」と言う。そして《謙》卦では、「斉魯言を争う」と言わなければ「長舌災となる」と言い、特に《左伝》が覆象を讒とする義訓と相合する。ここに至って《周易》と《左伝》が覆象を用いた箇所が、はじめて真の解釈を得た。振り返って後漢人の説を見れば、みな過眼の煙雲にすぎない。
易林が半象を用いるを知る
《易》用半象,前既言之矣。然《易》用半象之處不多,故《易林》用之亦少,獨於《既》《未濟》二卦,十八九用之。他若《解》《家人》《蹇》《睽》《漸》《歸妹》六對象,亦往往用之。初視之皆不解其所謂,後由《易》推《易林》,始知其用半象。如《需》之《既濟》云「遊居石門」,則以《既濟》中爻有半艮象,故曰「居」曰「石」曰「門」,半震為遊;《渙》之《未濟》云「三虎上山」,《未濟》有三半艮形,故曰「三虎上山」,半震為登為上,皆用半象也。
《周易》が半象を使用することは前にすでに述べた。ただ《周易》が半象を用いる箇所は多くないので、《易林》の用いるところも少ない。ただ《既済》《未済》の両卦においては十中八九がそれを用いる。このほか《解》と《家人》、《蹇》と《睽》、《漸》と《帰妹》の、互いに対象である三組六卦においても、往々にして使用する。これらの林辞は初めて見る時は皆何を言っているか分からなかったが、後に《周易》から《易林》を推し求めて、はじめてそれらが半象を用いていることを知った。例えば「《需》の《既済》」に「石門に游居す」とある。《既済》卦の中に艮の半象を含み(一陰一陽が下より上へと、まさに艮の上半である)、艮は止・小石・門闕なので「居」・「石」・「門」と言う。卦中にまた震の半象があり、震は動を主るので「游」と言う。「《渙》の《未済》」に「三虎山に上る」とある。《未済》は六爻が陰陽相間し、三つの艮の半象を含み、艮は虎・山なので「三虎上山」と言う。半震は登・上である。これらはみな半象を使用したものである。
易林が中爻を重んずるを知る
《易》有上下互,漢魏人除王輔嗣外,殆皆用之。惟《易經》六十四卦中,中四爻爻詞往往與初上異,故下《繫》云:「若夫雜物撰德,辨是與非,非中爻不備。」是中爻似重於初上也。《易林》本之,往往視中爻象重於本象。如《坤》之《離》云「齊魯爭言,戰於龍門」,則以《離》中爻上兌,兌魯;下巽,巽齊;正覆兩兌口相背,故曰「爭言」;兌伏艮,故曰「門」;巽伏震,故曰「龍門」,全於本象不及。又《大壯》之《離》云「築室水上,危於一齒,丑寅不徙,辰巳有咎」,亦全用中爻。
《周易》には上互・下互があり、漢魏の人は王弼(字は輔嗣)以外ほとんど皆用いた。そして《易経》六十四卦の中で、中間の四爻の爻辞は往々にして初爻・上爻と異なるので、《繫辞下》に「錯綜して事物を陈し、徳性を撰述し、是非を弁別せんとすれば、中爻を用いなければ備わらない」と言う。これで中爻は初・上の二爻よりも重いようである。《易林》はこれに承って来て、往々にして中爻の象を本卦の象よりも重く見る。例えば「《坤》の《離》」に「斉魯言を争い、竜門に戦う」とある。《離》は重離で、三から五爻まで互体して兌を成し、兌は魯であり、二から四爻まで互体して巽を成し、巽は斉である。一正一覆の二つの兌の口が互いに相背するので「争言」と言う。兌は艮を伏し、艮は門闕なので「門」と言い、巽は震を伏し、震は竜なので「竜門」と言う――全条の林辞は全く本卦の象に及ばない。また「《大壮》の《離》」に「室を水の上に築き、一齒に危うし、丑寅徙らず、辰巳咎あり」とあるのも、全く中爻をもって取象したものである。
以上易說,除中爻為東漢人熟用不疑外,餘對象、覆象、半象,東漢人似半信半疑,偶用之,絕不能貫徹全經,則以西漢師說中絕,知有此例耳,未得師傳,不敢決也。此外東漢人所知者,《易林》無不用之。
以上の数種の易説は、中爻は後漢人が娴熟に運用して少しも躊躇しなかった以外、その余の対象・覆象・半象は後漢人が半信半疑だったようで、たまに一度用いるだけで、決して全経に貫徹することはできなかった。これは前漢の師説がすでに中断し、彼らはこの類の義例があることだけを知っていたにすぎず、師伝を得ていない以上、断然として使用することを敢えてしなかったためである。これ以外に、およそ後漢人の知った易例は《易林》に用いないものがない。
易林は納甲を用いる
納甲之說,始見於《乾鑿度》,更見於《京房易傳》,最古之易說也。茲《易林》《家人》之《大壯》云:「六甲無子,以喪其戌,五丁不親,癸走出門。」又若「甲戊已庚,隨時轉行」,林中尤數見,詳解皆在《易林注》。又凡遇乾坤則曰東者,亦指納甲也。實干甲震庚離已,《易》原有也。
納甲の説は最も早く《易緯・乾鑿度》に見え、また《京氏易伝》にも見え、極めて古い易説である。《易林》「《家人》の《大壮》」に「六甲子なし、以てその戌を喪い、五丁親からず、癸門を走り出づ」とある。また「甲戊己庚、時に随いて転行す」といった類の言は《易林》中に特に屡見し、詳しい解釈はみな私の《焦氏易林注》に置いた。このほかおよそ乾・坤に遇って「東」と言うのも納甲を指す――乾は甲を納し、甲は東方に属する。実は乾が甲を納し、震が庚を納し、離が己を納するというこの配法は、《周易》本経の中にもともとあったものである。
易林は辟卦を用いる
荀爽注「大明終始」云:「乾起坎而終於離,坤起離而終於坎,離坎者,乾坤之家,陰陽之府。」後儒謂此語發前人所未發,有功於《易》。按此用闢卦也。闢卦最古,《易》爻詞用之,《坤》上六「龍戰于野」是也;文言亦用之,「陰凝於陽」是也;《左傳》亦用之,晉人筮得《復》,曰「南國蹙,射其元王中厥目」,此卽以《復》居正北,荀所謂「乾起坎」也。《易經》用闢卦,人或知之;《左氏》之用闢卦,人則不知。茲《易林》《恆》之《謙》云:「咸陽辰巳,長安戌亥。」以乾居辰巳,以坤居戌亥,此焦氏已言闢卦之證也。
荀爽が《乾》彖伝の「大明終始」に注して言う。「乾は坎に起こりて離に終わり、坤は離に起こりて坎に終わる。離と坎とは、乃ち乾坤の家宅・陰陽の府庫である。」後の儒者はこの言が前人未発であり《易》に功があると言った。按ずるに、ここで用いたのはまさに辟卦(十二消息卦)である。辟卦は極めて古い。《周易》の爻辞がそれを用い、《坤》上六の「竜野に戦う」がそれである(坤の十月は亥であり、陰が極まりて陽が来て相戦する)。《文言》もそれを用い、「陰陽に凝る」がそれである。《左伝》もそれを用い、晋人が占筮して《復》卦を得て、太史が「南国蹙まり、その元を射れば、王その目に中る」と言ったのは、まさに《復》が十一月の卦で正北に居るためであり、即ち荀爽の言う「乾は坎に起こる」である。《周易》が辟卦を使用したことは人々がおそらくまだ知っているが、《左伝》が辟卦を使用したことは人々が知らない。今《易林》「《恒》の《謙》」に「咸陽辰巳、長安戌亥」とある。これは乾を辰巳に居らせ、坤を戌亥に居らせたもので、まさに焦延寿がすでに辟卦を使用した証拠である。
易林は独り震をもって子とす
《說卦》震為長子,於坎、艮卽不言為中子、為少子,《易林》本之,凡但言子者,皆指震象,無指艮、坎者,此必有師說也。又按《蒙》九二云「子克家」,以互震為子也;《中孚》九二云「其子和之」,以覆震為子也;《鼎》初六云「得妾以其子」,因《鼎》下巽,巽伏震,震為子;又《蠱》初六云「有子」,亦以巽伏震為子。而《易》於艮、坎,則無但言子者,《易林》蓋仍用《易》也。而虞仲翔於《蠱》初上艮為子,於《鼎》必以四變成震為說,且必以震為長子,以刖於艮坎,豈知《易》祗言子者必指震,若《隨》《漸》之「小子」方指艮,不祗言子也。此亦西漢師說至東漢中絕之證也。
《説卦》は「震は長子」と言うが、坎・艮に至っては中子・少子とは言わない。《易林》はこの例に承用する。およそ単に「子」の一字を言うものは皆震象を指し、艮・坎を指すものはない。ここには必ず師伝の成説がある。さらに《周易》を見るに:《蒙》九二に「子家を克ぐ」とあるのは、二から四爻まで互体の震をもって子としたものである。《中孚》九二に「その子和す」とあるのは、三から五爻まで互体の艮(艮は即ち覆震)をもって子としたものである。《鼎》初六に「妾を得てその子を以てす」とあるのは、《鼎》の下体が巽であり、巽は震を伏し、震は子だからである。《蠱》初六に「子あり」とあるのも、巽が震を伏するのをもって子としたものである。そして《周易》は艮・坎の両卦において、かつて単に「子」と言ったことがない。これで《易林》が依然として《周易》に沿っていることが分かる。しかし虞翻は《蠱》初六で上体の艮をもって子とし、《鼎》卦では必ず四爻が変じて震を成すと言い、しかも必ず震を長子に限定し、これをもって艮・坎を割裂させた。しかし《周易》はおよそ単に「子」と言うものは必ず震を指し、《随》《漸》の言う「小子」に至ってはじめて艮を指すが、それはもはや単に「子」と言うのではない。これもまた前漢の師説が後漢に中断した一つの証拠である。
易林は乾をもって順とし、坤をもって逆とす
乾順行,坤逆行。《乾鑿度》云:「乾貞子,左行陽時六;坤貞午,右行陰時六。」此實易道陰陽往來交姤之樞紐,後儒知此者鮮,故解坤「西南得朋,東北喪朋」,不能得解。茲《易林》頤之艮云:「據斗運樞,順天無憂。」是以乾為順也。益之泰云:「政逆民憂。」泰坤為政、為逆、為民。雙歸妹之晉亦云,是皆以坤為逆也。
乾は順行し、坤は逆行する。《乾鑿度》に言う。「乾は子位から起貞して左に向かい順行し、六つの陽月を主管する。坤は午位から起貞して右に向かい逆行し、六つの陰月を主管する。」これは実に《易》道の陰陽往来交合の枢紐の在るところであり、後世の儒者でこの点を解する者は少なく、だから《坤》卦の卦辞「西南に朋を得、東北に朋を喪う」を解釈するにいつも説き通せない。今《焦氏易林》を取って証とする:「頤之艮」の一林に「斗に拠り枢を運し、天に順いて憂なし」とあり、辞中に「順」の字を「天」に配し、天は即ち乾なので、《易林》が乾をもって「順」としていることが分かる。「益之泰」の一林に「政逆くして民憂う」とあり、之卦の《泰》は下が乾・上が坤で、坤は政・逆・民であり、「逆」の字はまさに坤象から生じた。《帰妹》之《晋》の一林にも同じ言がある(「双」の字は「又」の字の誤りであろう)。これらはみな《易林》が坤をもって「逆」とする証拠である。
易林は純陽純陰をもって凶とし、相遇すれば吉とす
《易林》開章明義,於乾林云:「道陟石阪,胡言連蹇,譯瘖且聾,莫使道通。」言孤陽不通也,陽遇陰也。乾之坤云:「招殃來螫,害我邦國。」又屯之坤云:「采薪得麟,大命隕顛。」言純陰不生也,陰遇陰也。乃乾之泰則吉,之否亦吉,則以陰陽相遇也。《易林》開端標義如此,《周易》樞機盡於此矣。
《焦氏易林》は巻を開くや否や宗旨を点明する。乾宮の第一林(乾之乾)に「道石阪を陟り、胡言連蹇し、訳は瘖かつ聾にして、道を通ぜしむるなし」とある――道路は石の坂を攀じ登り、言葉は吃り続け、通訳する者は唖でかつ聾であり、言葉を伝え通すことができない。これは孤陽が通達できないことを言うのであって、本卦之卦が皆純陽であり、陽と陽が相遇するためである(原文は「陽遇陰也」と作るが、下文の「陰遇陰也」との対文により、「陽遇陽也」の誤りであろう)。「乾之坤」の一林に「殃を招き螫を来たし、我が邦国を害す」とあり、「屯之坤」の一林に「薪を采りて麟を得、大命隕し顛れる」とある――之卦は皆純陰の《坤》であり、これは純陰が生育できないことを言うのであって、陰と陰が相遇するためである。「乾之泰」が吉であり「乾之否」も吉であるのは、《泰》《否》の二卦がいずれも陰陽相遇の体だからである。《易林》が篇首に標挙した義例はこのようであり、《周易》の枢機もすべてここに含まれている。
乃此義至東漢卽不明,致解升、節等卦多誤。後宋蔡淵《易象意言》云:「凡剛進而上,遇柔則利,如大壯之四、大畜之三是也;遇剛則不利,如大壯、大畜之初是也。」吳摯父先生說大畜云:「凡陽之行,遇陰則通,遇陽則阻,故初二皆不進,而三則利往。」說節云:「易以陽在前為塞,陰在前為通。初之不出,以九二在前,故曰知通塞;二則可出而不出,故有失時之凶。」於《易林》大旨,合若符契。後之學者唯不知此,故易說常晦;若能悟此,則全部義經,可迎刃而解矣。
しかしこの一層の意は後漢に至って明らかでなくなり、そのため《升》《節》などの卦を解くに多くの失誤があった。後に宋人の蔡淵は《易象意言》の中で言う。「およそ陽剛が上に向かって前進し、前に陰柔に遇えば利があり、《大壮》九四・《大畜》九三の如し。前に陽剛に遇えば利がなく、《大壮》《大畜》の初九の如し。」呉摯父先生は《大畜》を講じて言う。「およそ陽爻が前行すれば、陰に遇えば通じ、陽に遇えば阻まる。だから初九・九二はいずれも進めず、九三は往くに利あり。」《節》卦を講じて言う。「《易》は陽が前にあるのを堵塞とし、陰が前にあるのを通暢とする。初九の『戸庭を出ず』は、九二が前に遮っているからで、だから《象伝》に『通塞を知る』と言う。九二は本来出ることができるのに出ないので、『時を失う』の凶がある。」これらの説は《焦氏易林》の大旨と全く吻合し、符契が合うが如しである。後世の学者はただこの一点を解さないので、易説が常に晦渋して明らかでない。もしこの一層を領悟できれば、《易経》の全部は迎刃而解できる。
易林は毎に大象を用いる
兌為羊,乃大壯上六亦曰羊,則以大壯形仍兌也。艮為床,乃剝初二亦皆曰床,則以剝形仍艮也。來矣鮮名曰大象。大象者,卽以頤為大離、大過為大坎是也。此其義,至東漢亦失傳,於大壯、艮之羊、床皆不能解。後治漢易如惠棟父子等,凡遇大象,卽曰漢人未言,不敢用。豈知惠氏所謂漢儒,祗馬、鄭、荀、虞等耳。若焦贛,則時時用大象也。夬之大過云:「久陰霖雨。」坎為霖為雨,是以大過為大坎也。蹇之頤云:「張羅百目。」離為綱羅為目,是以頤為大離也。又損之頤云:「十九同投,為雉所離。」離伏坎,坎為彈丸,離為雉。用大象之多,不可勝數也。
《説卦》は兌を羊とし、《大壮》上六の爻辞もまた「羊」と言う。これは《大壮》が四陽を下に・二陰を上にして、全卦の外形が依然として一つの拡大された兌だからである。《説卦》は艮を床とし、《剥》卦の初六・六二はいずれも「床」と言う。これは《剥》の全卦の外形が依然として一つの拡大された艮だからである。明代の来知徳(矣鮮)はこの種の取象を「大象」と呼んだ。いわゆる大象とは、《頤》を一つの大きな離と見、《大過》を一つの大きな坎と見ることである。この層の義理は後漢にすでに失伝したので、《大壮》の「羊」、艮体(《剥》)の「床」をいずれも解釈できなかった。後に漢易を治める人、恵棟父子などは、およそ大象に遇えば漢人が講じていないと言って採用を敢えてしなかった。しかし恵氏のいう「漢儒」とは、馬融・鄭玄・荀爽・虞翻の数家にすぎない。焦延寿(焦赣)に至っては、常に大象を使用している。《易林》「夬之大過」に「久陰霖雨」とあるが、坎は霖・雨であり、之卦《大過》は本来坎がないのに、まさに《大過》を大坎と見なしたためである。「蹇之頤」に「羅を張りて百目」とあるが、離は網羅・目であり、まさに《頤》を大離と見なしたためである。また「損之頤」に「十九同じ投げ、雉の離(罹)るところとなる」とあるが、大離の下に坎が伏し、坎は弾丸、離は雉なので、弾丸をもって雉を射ると言う。《易林》の大象を用いることの多さは、ほとんど数え切れない。
易林は先天・後天・辟卦と納甲の方位を兼用する
《易林》用先天,先天乾南坤北;《易林》用後天,後天乾西北坤西南;《易林》用闢卦,闢卦坤西北乾東南:說皆見前。易要用納甲,乾納甲,坤納乙,甲乙在東方。如坤之幹云:「谷風布氣。」《毛傳》:「谷風,東風也。」他若履之幹云:「東向蕃垣。」之坤云:「旁淮東遊。」皆取象甲乙也。後天、闢卦及納甲方位,為東漢人所知;先天方位,除荀氏注同人云「乾舍於離,相與同居」,以乾為南外,餘少知者。
《易林》は先天方位を用い、先天の乾は南・坤は北である。《易林》はまた後天方位を用い、後天の乾は西北・坤は西南である。《易林》はさらに辟卦方位を用い、辟卦の坤は西北・乾は東南である――この数層は前ですべて述べた。《易》はまた納甲の法を用いる。乾は甲を納し、坤は乙を納し、甲乙はともに東方にある。例えば「坤之乾」の一林に「谷風気を布く」とあり、《毛伝》は「谷風」を東風と解する。また「履之乾」に「東に向かい蕃垣」、「履之坤」に「淮の旁を東に遊ぶ」とあるが、これらの「東」の字はみな乾の甲納・坤の乙納から取象したものである。後天方位・辟卦方位と納甲方位は後漢人もまだ知っていたが、ただ先天方位だけは、荀爽が《同人》に注して「乾は離に舍り、相与に同居す」と言って乾を南方と見た以外、その他の人はほとんど知る者がいなかった。
焦氏易林の平議
漢魏人學易者,往往著易林,如焦氏《易林》、費氏《易林》、崔氏《易林》、許峻《易林》、虞翻《易林》、管輅《易林》,及不知姓名之《易新林》《集林》《占林》等,並見於《隨》《唐志》。焦氏《易林》雖不見於《漢書》,然費《易林》、虞《易林》、管《易要》,史皆未書,亦無議其非者。今所存獨焦林,無可質證。
漢魏の間で《易》を治めた人は、往々にしていずれも「易林」という類の書を著した。例えば焦氏《易林》・費氏《易林》・崔氏《易林》・許峻《易林》・虞翻《易林》・管輅《易林》、および作者姓名を知らない《易新林》《集林》《占林》などがあり、《隋書・経籍志》と《唐書・芸文志》にいずれも著録されている。焦氏《易林》は《漢書・芸文志》に見えないが、費直《易林》・虞翻《易林》・管輅《易要》もまた史志に著録がなく、それでいてこれらが真でないと議論する者はいなかった。今この一揃いの書は焦氏《易林》の一種だけが残って世に存し、もはや同類の書で比較し質証できるものがない。
於顧寧人疑其為東漢以後人所為。其所持之故,謂焦氏不應用《左傳》,而忘河間獻王之為《左氏春秋》立博士,張蒼、賈誼、張敞、翟方進等皆為左氏專家。二謂《易林》謂漢高為「季」,非漢人所宜言,而忘《史記》之一則曰「季」,再則曰「季」。三謂《易林》萃之益有「昭君是福」之語,昭君出塞,延壽不及見其事。豈知「昭君」謂益有大離之象,而不必實有其事有其人。震之節云:「乾侯野井,昭君喪居。」豈王昭君死於乾侯乎?萃之臨曰:「昭君守國,諸夏蒙德。」豈王昭君又為中國天子乎?此若為昭君,將《易林》言「孔明」,可謂為諸葛亮矣;言「則天」,可謂為武后矣;言「宣和」「政和」,可謂為宋徽宗矣;屢言先天象,可謂為邵子之門人所為矣。豈有窮乎?
清初になると、顧炎武(字は寧人)は《易林》が後漢以後の人の作ではないかと疑い、彼の持論の理由は三条あった。第一に、焦延寿が《左伝》を引用するのは不当然だと言うが――河間献王がとっくに《左氏春秋》に博士を立て、張蒼・賈誼・張敞・翟方進らは皆《左氏》を治める専門家であり、前漢人が《左伝》を用いるのは少しも怪しくないことを忘れている。第二に、《易林》が漢高祖を「季」と称するのは漢朝人の言うべきことではないと言うが――《史記》の中で一再ならず高祖を直に「季」と呼んでいることを忘れている。第三に、《易林》「萃之益」に「昭君是福」の一句があり、王昭君の出塞は元帝竟寧元年で、焦延寿はこの事に間に合わなかったと言う。しかしこの「昭君」は之卦《益》に大離の象があることについて言うのであり、「昭」は離明の義を取るのであって、必ずしも真にその事・その人があるとは限らない。「震之節」の林辞に「干侯野井、昭君居を喪す」とあるが、王昭君は干侯で死んだのか。「萃之臨」の林辞に「昭君国を守り、諸夏徳を蒙る」とあるが、王昭君はまた中国の天子になったのか。もしこれらの「昭君」をみな王昭君とするなら、《易林》の中で「孔明」と言えば諸葛亮を指すと言え、「則天」と言えば武則天を指すと言え、「宣和」「政和」と言えば宋徽宗を指すと言え、書中に屡々先天卦象を用いているのは邵雍の門人の作と言える――このように推し進めればどこに果てがあるのか。
京房之死,在元帝末年,年方四十。其師必死於京房前乎?其師之年必多於京房三四十歲乎?恐未然也。寧人又以梁王嗣位在昭帝始元二年,共嗣位四十年,其資助焦贛遊學,似必從其嗣位日始者,其說之誣。又謂《易林》用《漢書·李尋傳》若「天門」「太微」等語,創自李尋者,尤為誣枉,及不知林辭為何物。山陽丁晏闢之詳矣。
京房は元帝の末年に死に、年はわずか四十歳だった。師たる者が必ず京房より先に死ななければならないのか。師の年齢が必ず京房より三四十歳上でなければならないのか。おそらく必ずしもそうではない。顧炎武はまた梁王が嗣位したのは昭帝始元二年で、在位計四十年だったことに拠って、梁王が焦延寿の遊学を資助したのは必ず即位の日から計算するはずだと断定したが、この種の推論も同じく根拠がない。彼はさらに《易林》の中の「天門」「太微」などの語は《漢書・李尋伝》から出て李尋の首唱だと言うが、それはなおさら冤罪であり、彼が林辞がどういうものかを全く解していないことも示す。山陽人の丁晏(字は倹卿)がこれらの説に対してすでに詳しく弁駁している。
後翟云升、牟庭等,又據費直敘題《易林》為「建新天水焦延壽撰」八字,疑今《易林》為崔篆之《易林》。篆曾為建新大尹,「天水」者,「大尹」之訛;「焦」為「崔」之訛。崔延壽者,必篆亦字延壽也。豈知費敘庸劣,且言及王莽後事,為直所未知,其偽尤著。牟庭自知所據之陋也,則又據《漢紀》:明帝用《周易卦林》筮雨,其繇曰「蟻卦穴戶,大雨將集」,明日大雨,上以詔書問沛獻王輔,輔上書釋其義,詔報曰「善哉,王次序之」,言王詮次繇詞之善也。而牟庭謂帝令王作敘,此敘卽沛獻所作,故及莽事。此與謂篆字亦延壽,說皆武斷可哂。
後に翟雲升・牟庭らは、また費直の作と題された《易林》序中の「建新天水焦延寿撰」という八字に拠って、今本《易林》は実は崔篆の《易林》ではないかと疑った。彼らの推法はこうである。崔篆は建新大尹を務めたことがあり、「天水」は「大尹」の訛字、「焦」は「崔」の訛字である。既に「崔延寿」と呼ぶ以上、崔篆も必ず字が延寿だったはずだ、と。しかしこの費直の序は行文が拙劣であり、しかも王莽以後の事に言及している。それは費直が生前に決して知りえないことなので、序文自体が偽作であり、破綻はいっそう明白である。牟庭自身も拠り所が浅陋すぎることを知っていたので、また《漢紀》の記載を持ち出した。漢明帝が《周易卦林》をもって雨を占問して、繇辞が「蟻が穴戸を卦(掛)け、大雨将に集まらんとす」で、翌日果たして大雨であった。明帝は詔を下して沛献王劉輔に問い、劉輔は上書してその義を解釈し、明帝は詔を下して答えて「善いかな、王がこれを次序した」と言った。これは劉輔が繇辞を詮次編排したのがよいと称賛した意である。牟庭はこれを明帝が劉輔に命じて序を作らせたとし、今本《易林》の序は沛献王の手から出たからこそ王莽の事に言及できるとした。この説は「崔篆も字が延寿」という説と同じく、武断で笑うべきものである。
又以鼎之節有「安民呼池」之言,謂罷呼池為安民縣,事在平帝二年,非篆不及見。豈知同人之豫亦有此詞。各本「安」皆作「按」,「呼」作「湖」。「按民湖池」者,以湖池多盜,遣使按治,故下云「玉杯文案」。此必有故事,為後來所未知。若作「安民」,安民者縣名也,呼池者苑名也,此四字如何相屬?又與下「玉杯文案」義何涉乎?丁儉卿謂牟庭私改「按」為「安」,以就其說,語雖近奇,然「安」為「按」之訛字,無疑也。
牟庭はまた「鼎之節」の林辞中の「安民呼池」の四字を掴み、漢平帝二年にかつて呼池苑を罷めて改めて安民県を置いたことがあり、この事は焦延寿が間に合わず、崔篆だけが見られたと言う。しかし「同人之豫」の一林にも同じ言がある。しかも各本はここで「安」の字を皆「按」と作り、「呼」を皆「湖」と作る。原文はもと「按民湖池」で、その意は湖池一帯に盗賊が多く、朝廷が使者を派して按治させたのであり、だから下の句で「玉杯文案」に接続する。この中には必ず当時の一段の故事があり、後人はもはや知らない。もし牟庭に従って「安民」と改めれば、安民は県名・呼池は苑名であり、この四字がどうやって連綴して句となるのか。また下の句「玉杯文案」とどんな意義上の関聯があるのか。丁晏(倹卿)は牟庭が私に「按」を「安」に改めて自分の説に迁就させたと言ったが、言葉は酷であるものの、「安」が「按」の訛字であることは疑問の余地がない。
翟等又據《因話録》:唐崔群之鎮徐,當以焦氏《易林》自筮,此「焦」字亦「崔」之訛。昔崔駰常以家林筮,見範書《孔僖傳》,群既駰之後裔,亦必以家林筮,而其詞在今《易林》中,以此定今《易林》為崔篆《易林》。姑無論今傳之《因話録》皆作「焦」,無作「崔」者;卽使是崔《易林》詞偶與焦林同,亦何足異?唐人詩甲詩入乙集、乙詩入甲集者多矣。如「虢國夫人承主恩,平明騎馬入金門」,杜甫詩也,而張祜集亦有。如因祜集有杜詩,便謂《草堂集》皆祜所為,似不然矣。況漢人為易林者前後相望,因襲雷同,理所必至乎。唐時焦氏《易林》、崔氏《易林》並存,見於《唐志》,今亡者一,存者一。崔篆為西漢大儒,其書之亡誠為可惜,然必以相傳甚久之焦氏《易林》屬於崔氏,祗見其誤,未見其安也。
翟雲升らはまた唐人趙璘《因話録》の記載に拠った。崔群が徐州を出鎮した時、かつて焦氏《易林》をもって自分のために占筮したとあり、彼らはこの「焦」の字もまた「崔」の字の訛りだと言う。理由はこうだ。昔崔駰は常に自らの家の「家林」をもって占筮し、范曄《後漢書・孔僖伝》に見える。崔群は崔駰の後裔である以上、必ず家林をもって占筮したはずであり、そしてあの繇辞はまた今本《易林》に見える。そこで今本《易林》は即ち崔篆の《易林》と断定した。今日伝世する《因話録》の各本が皆「焦」と作り、「崔」と作る本は一つもないことはさておくとしても、仮に崔氏《易林》の林辞の数条が偶々焦氏の林辞と同じだったとして、何が怪しいことがあろうか。唐人の詩は、甲の詩が乙の集に混じり、乙の詩が甲の集に混じる例が非常に多い。たとえば「虢国夫人主の恩を承け、平明馬に騎り金門に入る」はもと杜甫の詩でありながら、張祜の集にもある。もし張祜の集に杜甫の詩があるからと言って、杜甫《草堂集》はすべて張祜の作だと言うなら、明らかに説き通せない。ましてや漢代に易林を作った人は続いており、彼此因襲雷同するのは本来勢いの必然であった。唐代には焦氏《易林》と崔氏《易林》が併存し、《唐書・芸文志》にいずれも著録されており、今は一つが亡び一つが存する。崔篆は前漢の大儒であり、彼の書が亡佚したのは実に惜しい。しかし必ず流伝久しい焦氏《易林》を崔氏の名下に判じ帰そうとするなら、それはただその誤りを見せるだけで、妥当な点は見えない。
丁晏《易林釋文》前後敘,駁議綦詳,然其義有未盡者,故復引申之。至《易林釋文》劉毓崧後跋,按漢家帝諱,謂全書十萬言,獨不見「弗」字,定《易林》作於昭帝時,則真考索有得矣。至顧氏謂林內有「新作初陵」語,疑用成帝起昌陵事。夫一帝卽位卽為起陵,何帝不然,胡獨成帝?又有謂林中如「牡飛」「門啟」等詞,事在成帝時,為延壽所不及見。豈知《京房易傳》已有「厥妖門牡自亡」之占。房死於元帝時,豈必見亡牡之事而後為此詞?此自古來相傳之一種占法,非創聞於成帝時也,尤淺不足辨。
丁晏は《易林釈文》の前叙・後叙において駁議がすでに十分詳しいが、ただ意に尽きないところがあるので、ここで私がさらに引申を加える。劉毓崧が《易林釈文》のために作った後跋に至っては、漢家帝王の避諱から入手して、全書十万言の中にただ独り「弗」の字が見えないことを指摘し(漢昭帝の名は弗陵)、これに拠って《易林》は昭帝の世に作られたと断定したが、それはまさに考索の得るところがあった。顧炎武が林辞に「新作初陵」の一语があり、漢成帝の昌陵営建の事を用いたのではないかと疑ったのは――皇帝は即位するや否や陵墓を営造し始めるものであり、どの朝でもそうでないものがないのに、なぜわざわざ成帝を指すのか。また、林中の「牡飛」「門啓」といった類の言は事が成帝の時にあり、焦延寿は間に合わなかったと言う者もいるが――《京房易伝》にはすでに「厥妖門牡自ら亡ぶ」という占辞があることを知らない。京房は元帝の時に死んだ。どうして門閂が自ら失せる怪異を親見しなければ、このような辞を書けないと言えるのか。これはもともと古来伝わる一種の占法であり、成帝の時にはじめて聞いたものではない。この類の説はなおさら浅陋であり、弁駁するに値しない。
然丁、劉等徒驚其訓詁故事之奧古,尚未知林詞之解易。間當思之,焦氏《易林》實第二易也。《周易》卦辭爻辭,無一字不根於象,一奇也。《周易》一卦一辭,《易林》則一卦為六十四辭,無一林義復,無一林義不翻新出奇變換,二奇也。《周易》用象,巧不可階,往往非言說所能喻,必目覩其象而始知,如剝五「貫魚以宮入寵」、如泰上六「城覆於隍」皆是。《易林》之用象亦然,如井之隨云「蜆(普通本皆作晲)見不祥」,隨三至五巽,巽為蠱,當矣;而蜆又名縊女,好自縊死,巽為繩,直為繫縊形也,其切當神妙,不減於易剝之貫魚也,三奇也。丁晏《釋文》不知宋本獨作「蜆」,謂黃丕烈刊宋本擅改「蜺」為「蜆」以合《爾雅》,冤哉黃乎!
しかし丁晏・劉毓崧の輩は、ただ《易林》の訓詁が古奥で典故が淵博であることに驚嘆するのみで、まだ林辞自体がまさに《易》を解いていることを解していなかった。私は常に思う。焦氏《易林》は実に「第二の《易》」と称することができる。《周易》の卦辞爻辞は、一字として卦象から生まれないものがない。これが第一の奇である。《周易》は一卦に卦辞が一条しかないのに、《易林》は一卦を衍して六十四条の林辞とし、その中に意の重複するものが一条もなく、また翻新出奇・変化不窮でないものも一条もない。これが第二の奇である。《周易》の用象の巧みさは誰も及ばず、往々にして言語で説明できず、必ずその卦象を親見してはじめて領悟する。例えば《剥》六五の「貫魚宮人を以て寵せられ」、《泰》上六の「城隍に復る」が皆そうである。《易林》の用象もまたこのようである。「井之随」の林辞に「蚬見るや不祥」(通行の各本は「蚬」を皆「晲」と作る)とあり、之卦《随》は三から五爻まで互体して巽を成し、巽は蠱虫であり、「蚬」の字を用いてすでに貼切である。しかも蚬はまたの名を「縊女」と言い、自ら縊れて死ぬことを好む。巽は繩であり、繩が直に垂れ下がるのはまさに係縊の形である――この種の切当で神妙なことは、《周易》《剥》卦の「貫魚」に劣らない。これが第三の奇である。丁晏が《易林釈文》を作るにあたり、ただ宋本だけが「蚬」と作ることを知らず、かえって黄丕烈が宋本を刊刻する時に勝手に「蜺」を「蚬」に改めて《爾雅》に迁就させたと言ったのは、まさに黄丕烈を冤罪にしたものである。
《易林》繇詞,卦不同而詞同,同一詞也,用之甲而當,用之乙亦當,用之丙丁尤當,四奇也。《易林》用象之幽深難解者,如否之謙云「殷商絕嗣」,因殷商子姓,謙體三子俱備,坤為殺為死,子殺死,故殷商絕嗣。大有之漸云「魁行搖尾,逐雲吹水」,漸下艮,先天數七,故曰魁,魁者北斗七星也;艮為尾,反震為搖,坎為雲水,反兌為吹。又如大壯之離云「丑寅不徙,辰巳有咎」,則以離通坎,坎中爻艮震,先後天皆居東北,故曰不徙;離中爻兌巽,先後天皆居辰巳,兌巽為大過,大過死,故曰有咎。如此等詞,或數日思之始能解,或數月不能解,而《易林》如此者不可勝數,若行所無事者,五奇也。又何怪二千年學者不解其詞哉!
《易林》の繇辞は、常に卦は異なるのに辞は同じである。同じ一条の辞が、甲の卦に用いれば貼切であり、乙の卦に用いても貼切であり、丙の卦・丁の卦に用いればなおさら貼切である。これが第四の奇である。《易林》の用象が幽深で解き難い例:例えば「否之謙」に「殷商嗣を絶つ」とある――殷商は子姓であり、之卦《謙》の一体の中に震・坎・艮の三男が俱に備わり、いずれも「子」である。坤は殺・死であり、三子が俱に死するので、殷商の嗣が絶えると言う。「大有之漸」に「魁行き尾を揺り、雲を逐い水を吹く」とある――《漸》の下卦は艮であり、艮の先天の数は七なので「魁」と称し、魁は即ち北斗七星である。艮は尾であり、艮の反象は震で、震は動を主るので「揺」と言う。坎は雲・水であり、坎の反象は兌で、兌は口なので「吹」と言う。また「大壮之離」に「丑寅徙らず、辰巳咎あり」とある――《離》は《坎》と通じ、坎の中爻が互いに艮・震を出し、艮震は先天後天ともに東北の丑寅の位に居るので「不徙」と言う。離の中爻が互いに兌・巽を出し、兌巽は先天後天ともに辰巳の位に居り、そして兌巽が合体して《大過》を成し、《大過》には死象があるので「有咎」と言う。この類の林辞は、あるものは数日考えてやっと解け、あるものは数ヶ月考えてもやはり解けない。しかし《易林》の中にはこのような辞が数え切れないほど多いのに、作者はまるで手のままに書き、少しも力を費やさないようである。これが第五の奇である。このようである以上、二千年以来の学者がその辞を読み通せなかったとしても、何の不思議があろうか!
至此書確定為西漢人作,且確定為焦氏作者,其證有六。一,所用春秋故事,有為三傳、《國語》《韓詩外傳》《說苑》等書所無者,故雖唐人不能注,古書亡也。又所用之字,古義甚多,在在乎西漢淳樸之氣,文不加修飾,自然峭古,與魏晉之塗繢者異。二,顯宗以《周易林》筮雨,遇蹇,其詞在今《易林》中,以問沛獻王輔。當此時,諸王如東平王蒼尤深經學,乃不問蒼而問輔,以輔善說京氏易,焦贛為京氏師,既善京易,必知焦易,故獨問輔。三,凡京氏易說可考見者,如「朋來」為「崩來」、無妄為大旱卦,皆與焦氏易說同,師弟授受,蹤跡分明。
この書が前漢人の作であり、しかも焦延寿の作であると断定する証拠は六条ある。第一に、書中に用いられた春秋の故事は、《左氏》《公羊》《穀梁》の三伝および《国語》《韓詩外伝》《説苑》などの書にもないものがあり、だから唐人でも注し出せない。これでそれが依拠した古書がすでにとっくに亡佚していたことが分かる。書中の用字はまた古義を多く存し、至るところ前漢の淳朴な気息が滲み出ており、文章は雕飾を加えずに自然と峭拔・古劲で、魏晋人の塗飾藻繪の文風とは全く異なる。第二に、漢明帝(顕宗)が《周易林》をもって雨を占問して《蹇》卦を占い得たが、あの繇辞は今本《易林》の中にあり、明帝はそれを持って沛献王劉輔に教えを請うた。当時の諸侯王の中では東平王劉蒼の経学が特に精深だったが、明帝は劉蒼に問わず劉輔に問うた。まさに劉輔が京房易を講じるに長けていたためであり、焦延寿は京房の師なので、劉輔は京氏易に精通している以上必ず焦氏易にも通暁している。だから彼だけに問うたのである。第三に、およそ今日まだ考見できる京房の易説、例えば《復》卦の「朋来」を「崩来」と読み、《无妄》を大旱の卦と定めるなどは、いずれも焦氏の易説と同じであり、師弟授受の痕跡が歴然としている。
四,《易林》卦象,如離東坎西、坤水坤魚,東漢人若知,則解經不誤矣,惟其為西漢,故至東漢而失傳。管輅云:「既曰天地定位,豈容有別位哉?吾不知古之聖人何以處乾於西北、坤於西南。」是疑易有先天位,求其說而不得,非失傳而何?致經詁皆誤。五,用韻之古,直同周秦。六,《隨志》卽有焦贛《易林》,《唐志》焦《易林》與崔《易林》並存,其名實久定,不應忽誤崔為焦。由以上諸證,定今之焦氏《易林》斷非費直,亦非崔篆,更非東漢人陸績、虞翻、管輅所能為,而確為焦氏《易林》。彼顧亭林等不究其詞之所謂,其誤解固難怪矣。
第四に、《易林》の用いる卦象、例えば離が東・坎が西、坤が水・坤が魚といったものは、後漢人がもし知っていれば、経を解いて間違いを出すことはなかったはずである。まさにこれらが前漢の師説なので、後漢に至って失伝したのである。管輅が言う。「《説卦》に『天地定位』と講じている以上、どうしてもう一組の方位を容れることができようか。古代の聖人がなぜ乾を西北に置き坤を西南に置いたのか、私には分からない。」これはまさに彼が《易》に別の一組の先天方位があることを察知したのに、どうやってもその説を求め得なかったことを示す――失伝でなくて何であろう。そこで経文の解釈がすべて間違った。第五に、《易林》の用韻の古さは、まさに周秦と異なるところがない。第六に、《隋書・経籍志》はすでに焦赣《易林》を著録しており、《唐書・芸文志》では焦氏《易林》と崔氏《易林》が併存する。名実はとっくに確定しており、にわかに「崔」を「焦」と誤認すべきではない。以上の各条に拠れば、今本の焦氏《易林》は決して費直の作ではなく、崔篆の作でもなく、さらに後漢人の陸績・虞翻・管輅に書き得るものでもなく、確かに焦氏《易林》であると断定できる。顧炎武(亭林)の輩は林辞がいったい何を言っているかを深く究めようとしなかったので、彼らの誤解もまた無理からぬことである。
惟二千年學者不知《易林》談易象,故莫能以象定詞,而《易林》之書遂訛誤不堪卒讀。如「蜆見不祥」,妄者不知蜆於巽象細切入微,而竟改為「蜺」,於象無關。又如「李耳匯巢鵲,更相畏怯」,妄者不知「匯」為蝟,《爾雅》有明訓,而以李耳為人名,竟改「匯」為「橐」矣。全書如此者,不勝毛舉。他若城誤為域、域誤為城,喜誤嘉、嘉誤喜,以形近而訛者幾於無林不有,而宋本尤多。又最甚者,竟改三字句為四字句,致韻義皆失,惟宋本存其真。原林為六句四句,刪為五句三句;原林祗二句,而以他林竄入,足成六句四句者尤多。
ただ二千年以来の学者が《易林》の講ずるものが易象であることを知らなかったので、卦象をもって文字を判定することができず、《易林》一書は遂に訛誤が累々として、ほとんど読み続けられなくなった。例えば「蚬見るや不祥」に、妄りに改めた者は「蚬」の字が巽象に対してどれほど細緻に入り込んでいるかを解さず、竟に「蜺」に改め、卦象と全く関係なくしてしまった。また「李耳が巢鵲に匯い、更に相畏怯す」に、妄りに改めた者は「匯」が即ち刺猬(《爾雅》に明確な訓釈あり)であることを知らず、かえって「李耳」を人名とし、竟に「匯」を「橐」に改めてしまった。全書のこの類の例は、挙げても挙げ切れない。その他「城」を「域」と誤り、「域」を「城」と誤り、「喜」を「嘉」と誤り、「嘉」を「喜」と誤るなど、字形が相近いために誤りを致したものは、ほとんど毎林にあり、宋本はなおさら多い。最も酷いのは、三字句を四字句に改めて、音韻と意義を全て喪失させてしまったことであり、宋本だけがまだ本来の面目を保存している。元の林はもと六句・四句だったのが、五句・三句に刪られ、元の林は二句しかなかったのに他家の林辞を竄入して六句・四句に湊足したものも、さらに少なくない。
蓋唐以前皆展轉傳鈔,而其時各家林詞皆在,學者恆就其所喜附入焦林之下,以備參稽,當其初必有標識也,久之遂皆為焦林。豈知焦氏焉能為一卦作二林詞?凡今本下注「又作某詞」者,蓋皆非焦林也。悲哉!西漢書之訛誤,莫甚於《易林》也。原其故,皆由於不求林詞也。今以卦象為權為衡,凡林字不知屬誰是者,則以卦象衡之:其於卦象無涉者,非也;於卦象皆有關,則擇其尤切並於上下文最適者從之,庶乎其誤較寡矣。然有時各本皆如是,雖宋本亦不能正其誤,而文義確有訛謬者,亦尚難免也,則無如之何矣。
これは唐以前の書がすべて輾転と伝写に拠ったためであり、当時は各家の林辞が皆まだ残っていたので、学者は常に自分の好む他家の林辞を焦氏の林辞の下に附抄して、参考対照に備えた。初めには必ず標記を設けて区別したが、日が久しくなるにつれ皆焦氏の林辞と見なされるようになった。そもそも焦延寿がどうして同一の卦のために二条の林辞を書くことがあろうか。およそ今本の下に「又某詞と作る」と注したものは、おおよそ皆焦氏の原文ではない。嘆かわしいことである!前漢の典籍の訛誤は《易林》ほど酷いものがない。その原因を追究すると、すべて人々が林辞の本義を探求しないことにある。今私は卦象を準縄とする。およそ一処の文字に遇ってどれが正しいか分からなければ、卦象をもって衡量する――卦象と全く関係がないものは即ち誤りである。もし二つの説がともに卦象と関係があれば、その中で最も貼切であり、かつ上下文と最も合うものを選取する。このようにすれば、誤りはおそらく少なくできる。ただし時には各本の文字が皆同じで、宋本にも従って校正することができず、しかも文義上確かに訛謬がある場合は、それは免れがたく、どうしようもない。
焦氏易詁 巻三
行唐尚秉和節之撰。
本巻は行唐(現在の河北省行唐県)の人・尚秉和の撰述で、秉和の字は節之である。
《易林》之略例既明,其易說可得而窺矣。蓋易之卦詞爻詞,無一字不從象生。易說既失傳,有吾人不知其象者矣,斷無象外之詞,《易林》亦如是。今將《易林》說易之處,一一推測而揭出之:有東漢人誤解相承、至今而不覺者,證以《易林》始正其誤;有東漢人勉強解詁、實浮泛不切、相承至今遵用不改者,證以《易林》而詁始確;有極要之象為東漢人所不知,得《易林》始知有此象而經始通者;有傳寫巽文、互相非難,證以《易林》而字始定者。則謂今日之易說由《易林》多所革新可也。所恨學識譾陋,略窺其端,不能竟其緒耳。
《易林》の通例はすでに講明されたので、それが含蔵する易説も窺い見ることができる。およそ《周易》の卦辞・爻辞は、一字として卦象から生まれないものがない。易説がすでに失伝した以上、その中には我々が今日どんな象か知らないものも当然あるが、卦象の外に出る辞は決してない。《易林》も同じである。今私は《易林》が《周易》を解説した箇所を一条一条推し尋ねて人に掲示する。あるものは後漢人が誤解して輾転相承して今に至り誰も察知しなかったもので、《易林》をもって印证すれば旧誤が是正される。あるものは後漢人が無理に解を作って実際は浮泛で切当でないのに、今まで沿い用いて改めないもので、《易林》をもって印证すれば訓詁がはじめて確切となる。あるものは極めて関係の緊要な卦象で、後漢人がすでに知らず、《易林》を得てはじめてこの象があることを知り、経文もこれに随って読み通せるものである。またあるものは伝抄が異文を生じ、諸家が互いに攻訐するもので、《易林》をもって印证すれば文字がはじめて論定される。だから今日の易説が《易林》によって多く革新されたと言っても、全く差し支えない。遺憾なのは私の学識が浅陋で、ただ門径を略窺うのみで、この仕事を徹底的にやり遂げられないことだけである。
乾九三「君子終日乾乾」の解
乾為君子為日,見前。三居卦終,終曰終日。虞翻謂陽息至三,二變成離,離為日;荀爽謂日以喻君。虞固穿鑿,荀亦未得,皆由不知乾日象也。
乾は君子であり、乾は日であることは、前にすでに講じた。九三は下卦の終に処り、終りまた終りなので「終日」と言う。虞翻はこの句を解して、陽気が消息して第三爻に上り、九二が陰に変じて離を成し、離は日であると言い、荀爽は「日」は君主を比喩するものだと言った。虞翻の講法はもちろん穿鑿であり、荀爽の講法も的中していない。いずれも乾自体に「日」という象があることを知らないためである。
乾坤の彖辞における陰陽合一の解
乾彖云「萬物資始」「品物流形」,又曰「首出庶物」。夫曰萬物、曰品物、曰形、曰庶物,皆坤象也,而乾彖言之。坤彖云「含弘光大」,夫曰弘、曰大,則皆乾象,而坤能含之、光而大之。杭辛齋云:「如咸恆則坤含乾之證,如損益則乾得坤始光之證。」然則陰陽二氣實不能分、不能離,見陰卽知陽,見陽卽知陰,易彖已如此。此由《易林》視本象與對象相通而推得之也。
《乾・彖》に「万物始めるに資る」「品物形を流る」と言い、また「庶物を首出す」と言う。いわゆる万物・品物・形・庶物は、本来いずれも坤象に属するのに、《乾・彖》はそれを取って乾を説く。《坤・彖》に「弘大を含み光る」と言う。いわゆる弘・いわゆる大は、本来いずれも乾象に属するのに、坤はそれを含容し、それを光顕盛大にすることができる。杭辛斎が言う。「《咸》《恒》の二卦の如きは、坤が乾を含む証拠であり、《損》《益》の二卦の如きは、乾が坤を得てはじめて光大する証拠である。」このように見れば、陰陽二気は実に分かつことも離れることもできず、陰を見ればその中に陽があることを知り、陽を見ればその中に陰があることを知る。《彖伝》の中ではすでにこのようである。この一層の道理は、まさに《焦氏易林》が本象と対象(旁通の卦)を相通ずるものと見るという通例から推し求めて出たものである。
屯「乗馬班如」の解
吳冀州《易說》云:「班如者,猶車班班也,言不一馬也。」此最得解。而虞仲翔訓班為躓,後儒知其不安,又遵《左傳》杜注訓班為別。以「別」訓班馬,已與深夜測知齊師其遁之義不安;若以訓「班如」,則形容全失。茲《易林》剝之復云「班馬還師」,復下震,震為馬,上坤互坤亦為馬,故曰班馬。又觀之既濟、夬之否皆有此詞,皆以多馬班列取象,不惟無躓義、別義,並無徹義。誠以屯下震,中爻坤,上坎,皆有馬象,馬多而前後班列,故曰故如也。
呉汝綸(冀州知州を務めた)の《易説》に言う。「『班如』とは車が班班として相次ぐように言うのであり、馬が一匹でない意である。」この解釈が最も妥当である。虞翻(仲翔)は「班」を「躓」(馬が蹄を躓かせる)と訓したが、後世の学者は説き通せないことを知り、改めて《左伝》杜預注に依って「班」を「別」と訓した。しかし「別」をもって《左伝》の「班馬之声」を解するのは、深夜に声を聴いて斉軍がすでに逃遁したことを測知した文義に合わない。もしこれを持ち出して《屯》卦の「班如」を解すれば、形容の意味が全て失われる。今按ずるに《焦氏易林》「剥之復」の林辞に「班馬師を還す」とある――之卦《復》の下卦は震で、震は馬であり、上卦は坤・互体もまた坤であり、坤もまた馬なので「班馬」と言う。また「観之既済」「夬之否」にも皆この句があり、いずれも衆馬が排列して行を成す象を取っている。これで「班」は「躓」の義でも「別」の義でもなく、さらに「徹」の意もないことが分かる。実に《屯》卦は下卦の震・中爻の互坤・上卦の坎がいずれも馬象を有し、馬匹が衆多で前後に排列して行を成すので「班如」と言う。
屯六三「即鹿無虞」の解
虞翻謂艮為山,山足稱鹿,鹿,林也。至王肅則竟作「麓」。鹿、麓古固可通,然屯之「卽鹿」實麋鹿之鹿,取象震也。證之《易林》,凡遇震卽曰鹿:益之恆云「鹿得美草」,恆上震也;遯之師云「鹿下西山」,師二至四互震也。屯六三在震體中,故曰鹿。虞謂鹿為林者,非也。下曰「林中」,此復言林,言理不適矣。
虞翻は艮を山とし、山の麓を「鹿」と言い、「鹿」は即ち山林であると言った。王肃に至っては干脆としてこの字を「麓」と写した。「鹿」「麓」の二字は古代に固より通用できたが、《屯》卦六三の「即鹿」は、実は麋鹿の鹿であり、震に取象したものである。《焦氏易林》をもって印证するに、およそ震象に遇えば「鹿」と言う。「益之恒」の林辞に「鹿美草を得」とあり、之卦《恒》の上卦は震である。「遯之師」の林辞に「鹿西山を下る」とあり、之卦《師》は二から四爻まで互体して震を成す。《屯》卦六三はちょうど下卦の震体の中に処っているので「鹿」と言う。虞翻が「鹿」を山林と解したのは誤りである。爻辞の下文に明らかに「惟林中に入る」と言っているのに、もし上文の「鹿」がすでに林なら、ここでまた林を言うのは文理が重複して通じない。
「卽鹿無虞」者,《淮南子》云:「卽鹿無虞,惟入于林中。夫施薄而望厚者,未之有也。」高誘注云:「虞,欺也。鹿以喻民。」又《三國志·陳琳傳》:「易稱卽鹿無虞,夫微物尚不可欺。」亦詁虞為欺,與《淮南子》同。然則無虞者,言勿以鹿為微物而輕忽之,致穿入林中而無所獲也。震為叢木,故曰林;坤虛,故空入林中。又王弼云:「雖見其禽而無其虞,徒入于林中。」又詁虞為備虞。蓋震為決躁,言卽鹿而無備虞,故無所獲。詁虞字與淮南、陳琳微異,然大義則同也。乃孔疏忽謂虞為虞官,失王義矣。又《左傳》隱五年「不備不虞,不可以師」,蓋王注之所本也。
「即鹿無虞」の四字に至っては、《淮南子》の引用に言う。「鹿に即くとも虞なし、惟林中に入るのみ。施予が微薄なのに厚い報いを望むのは、従来あったことがない。」高誘の注に言う。「虞とは即ち欺である。鹿は百姓を比喩するのに用いた。」《三国志・陳琳伝》もまた言う。「《易》は『即鹿無虞』と称す。微小の物もまた欺くべからず。」同じく「虞」を欺と訓し、《淮南子》と一致する。このように見れば、「無虞」とは鹿を微不足道なものとして軽忽してはならないと言うのであり、一路追い込んで林中に入りながら一無所獲となる。『即鹿無虞』とはその意である。震は叢生の樹木なので「林」と言い、坤は中が虚なので空しい手で林中に入る。このほか王弼は言う。「その禽獣を見たが虞人の導きがなく、徒らに林中に入るのみ。」これは「虞」を戒備防虞と訓したものである。震は決断・躁動の性があるので逐鹿して防備を加えないと言い、そのため一無所獲となる。王弼が「虞」の字を訓釈するのは《淮南子》・陳琳とやや異なるが、大意は依然一致する。むしろ孔穎達《正義》がにわかに「虞」を山沢を掌る虞官と解したので、王弼の本意を失った。《左伝》隠公五年に「備え虞らざれば、以て師を為すべからず」という言があり、おそらくまさに王弼が注を作るに拠ったものである。
蒙卦辞の解
蒙,「匪我求童蒙,童蒙求我」。虞仲翔以二五志應為說,當矣。若以焦氏用覆象之例推之,彖既曰志應,似二五互相求也。何則?艮為童蒙、為求,而二至上則正反兩艮相對:正視之則下求上,反視之則上求下,來往相求,並無偏倚,故曰志應。志既相應,則二五互求,故曰非我求童蒙,卽童蒙求我。後人以二為陽,將「匪」字詁實,謂陽不求陰。豈知九二與六五皆不當位,九二升五,六五降二,乃當然之理,胡不求乎?將經文迴環往復之意全失矣。
《蒙》卦辞に「我童蒙を求むるに非ず、童蒙我を求む」とある。虞翻(仲翔)は九二と六五が志向相応ずることをもって解釈したが、それは正しい。もしさらに焦延寿の覆象(卦を倒して見る)を使用する通例に依って推し求めれば:《彖伝》はすでに「志応」と言うのだから、それは二・五の両爻が互いに求め合うようである。なぜか。艮は童蒙でありまた求であり、《蒙》卦は二爻から上爻までちょうど一正一反二つの艮が相対している――順に見れば下が上を求め、倒して見れば上が下を求め、往来して相求め、いずれか一方に偏しない。だから「志応」と言う。志が既に相応じれば、二・五は互いに求め合うので、卦辞に「我が童蒙を求めるのでない、即ち童蒙が我を求める」と言う。後の人は九二が陽爻であるために「匪」の字を坐実して講じ、陽は陰を求めに行かないと言う。しかし九二と六五はいずれも位に当たらず、九二が五位に昇り六五が二位に降るのは本来当然の理なのに、どうして相求めないことがあろうか。後人のように講じれば、経文の回環往復の意味が全て失われてしまう。
至「再三瀆」,解者皆以卦變為說,尤穿鑿不當。茲《易林》謙之蒙云「盜明相讓」,以二至上正反兩震言相對,故相讓責。又泰之蒙云「讒佞為政」,則以蒙下震言出,上震卽如言相反,故曰讒佞。皆以二至上來往皆震言取養,故彖曰再三瀆。又坎上下皆兌口,亦再三瀆也。易訟卦曰「有言」者,亦以坎上下皆兌口也。
卦辞の「再三瀆」に至っては、易を解く者は皆卦変をもって講じ、特に穿鑿で妥当でない。今按ずるに《焦氏易林》「謙之蒙」の林辞に「明を盗み相譲る」とある。これは《蒙》卦の二爻から上爻まで一正一反二つの震が相対することを取り、震は言語なので、相譲り相責める義がある。また「泰之蒙」の林辞に「讒佞政を為す」とあるのは、《蒙》の下卦の震言の出るものと、上面の反震の言がそれと相反することを取ったので「讒佞」と言う。これは皆二から上爻まで往きて見ればいずれも震であり、いずれも言語を主り、一再重ねて出言するので、《彖伝》に「再三瀆」と言う。このほか坎卦の上下両爻が各々兌口を成し、兌は口舌であり、同じく「再三瀆」の象である。《易》の中の《訟》卦に「有言」と言うのも、坎の上下が皆兌口である故を取ったものである。
需「利渉大川」の解
自焦氏以坤為水為江河,此象確定,後凡易言利涉大川者皆迎刄而解。而虞仲翔必以坎為大川,卦無坎象者則強變成坎以當大川,其為穿鑿不待言矣。而後之治漢易者遵用不改,非以為安,舍此說不能解也。茲以坤為大川:需上坎,言陽往居坤中,得位,故利涉。彖曰「往有功也」,亦以陽居坤中當位也,與蹇之利西南通也。彼虞仲翔謂二失位,變而涉坎,坎為大川,得位應五,故曰利涉。如虞所詁,利涉指陰爻矣。二變陰方應五,詁同人尚可,詁需豈不明與彖詞背哉?彖詞固以九五為往為利涉也。又按紀磊《虞氏逸象考正》云:「虞以坎為大川,非也。坎為水為溝瀆,兌象乃為大川。」按紀氏獨能覺坎為大川之非,可謂特識,惟以兌為大川仍誤。一象失傳之害如是。
焦延寿が坤を水・江河として以来、この象が一旦確定すると、後に《易》の中で「利渉大川」を講じる所は皆迎刃而解できる。虞翻(仲翔)は必ず坎をもって大川としようとし、卦中に坎象がないものに遇えば、無理に爻を変えて一つの坎を出して大川に充てた。その穿鑿であることは言うまでもないが、後に漢易を治める者は沿い用いて改めず、妥当と感じたのではなく、実にこれを舍てれば解釈のしようがなかったのである。今坤をもって大川として見れば:《需》の上卦は坎であり、坎はまさに陽爻が坤の中に入って成ったもので、陽が五位に居り正を得るので「利渉」と言う。《彖伝》に「往けば功あり」と言うのも、まさに陽が坤中に居り位に当たることについて言うのであり、《蹇》卦の「西南に利し」と同一の道理である。虞翻は九二が位を失い、変じて坎中に渉り入り、坎が大川であり、位を得てまた上が九五に応ずるので「利渉」と言うと言った。虞氏のように講じれば、「利渉」は陰爻を指すことになる。九二が陰に変じてはじめて五に応じることができるが、それは《同人》を解くにはまだ辛うじて説き通せても、《需》を解くには明らかに《彖伝》と相背するではないか。《彖伝》はもともと九五をもって「往」・「利渉」としているのである。また按ずるに紀磊《虞氏逸象考正》に言う。「虞翻が坎をもって大川とするのは誤りである。坎は水・溝瀆であり、兌象こそ大川である。」紀氏は独り「坎為大川」の非を察知したので、人に過ぐる識見があると言うべきだが、ただ彼が改めて兌をもって大川としたのは依然として誤りである。一つの卦象が失伝すると、貽害がこの地にまで及ぶのである。
需九二「小有言」の解
自左氏謂謙為讒,更以讒釋明夷之有言,《易林》本之,遇兩兌口兩震言相背或相對者,不謂為讒佞,卽謂為爭訟,凡易言有言者皆得的解。需之小有言,虞仲翔謂震象半見,故小有言。豈知易非以震象全見為有言,凡云有言者皆爭訟也。虞氏求其說而不得,故強解也。清焦循以卦變為說,變愈多而義愈紊,甚於虞之不得解也。茲《易林》小過之需云「與叔爭訟,更相毀傷」,爭訟卽有言也,更相毀傷謂三至五正覆兩兌口相對也。又恆之需云「張牙切齒,齗怒相視」,兌為齒牙,正反兩兌相對,故曰相視,離為視也。《易林》之解需有言,可謂明晰矣。小有言者,二人兌體,兌為小,故曰小有言也。此與明夷之以離為有言同也。離,正反兩兌口相對也。
《左伝》が《謙》卦を「讒」と解し、さらに「讒」をもって《明夷》の「有言」を解釈して以来、《焦氏易林》はこの一路数を沿い用いた。およそ二つの兌口・二つの震言が互いに相背しまたは相対するのに遇えば、「讒佞」と言うか「争訟」と言う。《易》の中で「有言」を講じる所は、これによって皆確かな解を得た。《需》九二の「小有言」に、虞翻は震象が半ば見えるのみなので「小有言」と言うとしたが、《易》は震象が完整に現れてはじめて「有言」と言うのではなく、およそ「有言」と言うのは皆争訟を指すことを知らない。虞氏はその説を求めて得られず、やむを得ず無理に解を立てた。清人の焦循は卦変をもって講じ、卦変が多くなればなるほど義理が乱れて、虞翻よりもなおさら説き通せない。今按ずるに《焦氏易林》「小過之需」の林辞に「叔と争訟し、更に相毀傷す」とあり、争訟は即ち「有言」である。「更相毀傷」は三から五爻まで正覆二つの兌口が相対することを指す。また「恒之需」の林辞に「牙を張り歯を切り、怒りて相视す」とあり、兌は歯牙であり、一正一反二つの兌が相対するので「相视」と言い、離は目・視である。《易林》が《需》卦の「有言」を解するのは、清楚明白と言うべきである。いわゆる「小有言」とは、九二が兌体に入り、兌は小なので「小有言」と言う。これは《明夷》が離(正反二つの兌口が相対する)をもって「有言」とするのと同一の道理である。
訟「不利渉大川」
彖曰「不利涉大川,入于淵也」,言陽來居坤中而在下,故曰入淵。淵者謂坤,不謂坎;入則謂陽入也。《易林》震之復云「藏匿淵底」,坤為淵,陽在坤下,故曰淵底。《易林》以坤為淵,蓋本之易。今吾人失卻淵象,正宜以《易林》證明也。東漢以來皆以坎為大川,故入屬何爻不能確指,皆由不知坤為水象,故於淵象亦不知。
《訟・彖》に「大川を渉るに利あらず、淵に入るなり」とあるのは、陽爻が来て坤中に居り下位に処るので「入淵」と言う。「淵」が指すのは坤であり、坎ではない。「入」が指すのは陽爻がその中に入ることである。《焦氏易林》「震之復」の林辞に「淵底に藏匿す」とある――坤は淵であり、之卦《復》は一陽が坤の下にあるので「淵底」と言う。《易林》が坤を淵とするのは、おそらくもともと《周易》を承襲したものである。今日我々は「淵」という象を失っているので、まさに《易林》をもって印证を加えるべきである。後漢以来皆坎をもって大川としたので、「入」の字がいったいどの爻に属するのか終始指し明らかにできなかった。その根子は全て坤に水象があることを知らないことにあり、そのため「淵」の象まで併せて知らなくなったのである。
訟初六「所事を永くせず、小に言あり、終に吉」の解
虞仲翔仍以震象半見為小有言,並謂初失位,宜與四易位成震言,訖不知有言為爭訟,故必變成震以當有言,與利涉大川必變出坎以當大川同也。按《易林》歸妹之訟云「凶訟不已,相與爭戾」,是以訟之有言為爭訟也。又巽之訟云「一簧兩舌,妄言諂語」,兌為舌,兩舌謂坎上下正反兩兌也。以是推訟之有言,亦以坎上下兩兌口相背。以其居初,陰微勢弱,故曰小有言也。坤為事,坎折坤,故不永所事。初有應,故終吉。
虞翻は依然として震象が半ば見えるのみなのを「小有言」とし、また初六が位を失い、九四と位置を交換して震を成して言とすべきだと言った。彼は終始「有言」が即ち争訟であることを知らず、だから必ず一つの震を変じ出して「有言」に充てようとする。これは彼が「利渉大川」を解くに必ず一つの坎を変じ出して大川に充てるのと同じ病である。今按ずるに《焦氏易林》「帰妹之訟」の林辞に「凶訟已まず、相与に争戾す」とあり、これで《易林》がまさに《訟》卦の「有言」を争訟としていることが分かる。また「巽之訟」の林辞に「一簧両舌、妄言諂語」とあり、兌は舌であり、「両舌」は坎卦の上下一正一反二つの兌を指す。これによって推知するに《訟》卦の「有言」もまた、坎の上下二つの兌口が相背する象を取ったものである。初六は最下に居り、陰柔が微弱で勢力が単薄なので「小有言」と言う。坤は事であり、坎が坤を截断するので「不永所事」と言う――事は長く引きずらない。初六は上に九四の応があり、だから「終吉」である。
師・比の卦名の解
自《易林》用先天象,於是卦名得解者多。先天坤居北,後天坎居北,水地合居,故曰比。比者,親也,近也,和也,言水地合居一方,相親近也。覆之則曰師。師,眾也,言坎從坤居北,故勢眾也。皆合先後天象而立名。
《焦氏易林》が先天卦象を使用して以来、多くの卦名がこれによって解釈を得た。先天方位では坤は北方に居り、後天方位では坎は北方に居る。水と地が合一して一処に居るので「比」と言う。「比」の意は親・近・和であり、水と地が一方に同居して彼此親近することを言う。《比》卦を倒せば「師」と言う。「師」の意は衆多であり、坎が坤に随いて北方に同居し、それによって声勢が衆盛であることを言う。この二つの卦名はいずれも先天・後天の二組の方位の象を合わせて確立したものである。
師九二「王三錫命」
來矣鮮云:「王三錫命,用錯象也。」錯象卽對象,此最與《易林》旨合。師對同人,師之坎與同人之離對,故通用不分。同人上乾,乾為王;下離,數三;中爻巽,巽為命,故曰王三錫命。此與《易林》巽卦繇詞全用震象旨合。故明清以來談易象者,惟來氏有真悟,不本《易林》,能與《易林》闇合。有清一代治漢易者,以來用先天,向不齒及。豈知西漢易說,東漢已不知,不得以東漢不言先天,便謂易林銜天,肆口謾罵,適形其陋耳。後治漢易者以震為王,說亦可通,特象云「承天寵也」,卽用同人。同人上乾,故曰天。六二與九五應,故曰承天寵,陰承陽也。若用本象,卽陽承陰,與象違矣。
来知徳(矣鮮)が言う。「『王三錫命』は錯象を用いたものである。」錯象とは即ち対象(旁通の卦)であり、この点は最も《焦氏易林》の宗旨に合う。《師》は《同人》と相対し、《師》の坎は《同人》の離と相対するので、両卦の象は通用して分かれない。《同人》の上卦は乾で、乾は王であり、下卦は離で、離の数は三であり、中爻は互体して巽を成し、巽は命である。だから「王三錫命」と言う。これは《易林》の中で巽卦の繇辞が全く震象を用いるのと同一の旨趣である。だから明清以来易象を講じた者の中で、来知徳だけが真の領悟があった――彼は《易林》に依拠しなかったのに、《易林》と暗合することができた。清代に漢易を治める者は、来氏が先天を用いたために、従来それを一顧するに値しないとした。しかし前漢の易説が後漢にすでに解されなくなっていたことを知らず、後漢人が先天を講じなかったからと言って、来氏の説が憑空に根拠なく出たと断定して肆口に罵るのは、ただ自分の浅陋を顕すにすぎない。後に漢易を治める者は震をもって王としたが、その説もまた説き通せる。ただ《象伝》に「天寵を承くるなり」と言うのは、まさに《同人》の象を用いている。《同人》の上卦は乾なので「天」と言い、六二が九五に相応ずるので「承天寵」と言い、陰が陽を承奉するのである。もし《師》卦の本象のみを用いれば、それは陽が陰を承けることになり、《象伝》と相背する。
小畜「密雲不雨」
虞氏謂坎象半見為不雨。若以《易林》例之,此全用對象也。對象豫,中爻坎,坎為雲雨,坎上下皆重陰,故曰密雲。坎之下,坤土艮山,高燥無澤,故不雨。後之人但於本象求之,宜其於象不合矣。後解此不誤者,惟來知德及焦循。來氏云此用錯,焦循雲此用旁通,並以小過六五仍用此詞為證,識過虞翻遠矣。何者?小過與豫體同也。惟焦循又以卦變為說,反致義晦耳。
虞翻は坎象が半ば現れたのみなので「不雨」だと言った。もし《焦氏易林》の通例に依って見れば、この句は全く対象(旁通の卦)を用いている。《小畜》の対卦は《豫》であり、《豫》の中爻は互体して坎を成し、坎は雲・雨である。坎の上下は皆重畳する陰爻なので「密雲」と言う。坎の下は坤土・艮山であり、地勢が高燥して水沢がないので「不雨」である。後の人はただ本卦の象の中に求めたので、象と合わないのも当然である。後にこの句を解して間違わなかったのは、来知徳と焦循だけである。来氏はこれを「錯」(錯卦)を用いたと言い、焦循はこれを「旁通」を用いたと言い、しかも《小過》六五も同じこの爻辞を用いることをもって左証とした。識見は虞翻をはるかに越える。なぜか。《小過》と《豫》の卦体はちょうど同じだからである。ただ焦循はまた卦変を搀入して講じ、かえって意を晦渋させてしまった。
小畜九三「輿説輹、夫妻反目」
輹訛為輻,凡稍通小學者皆知之,不贅述。惟此仍用對象豫。豫二至四艮,艮為覆震,震為車為輹,震覆,故輿脫輹。震輹之象久失傳。《左傳》僖十五年「車脫其輹」,震變故也。《子夏傳》:「輹,車屐也。」屐行震,故震為輹。虞氏不知用旁通,譏馬融及俗儒以乾為車之非,可謂特識,惟不知此取對象艮,而以坤變至三坤象不見為脫。夫既用旁通矣,而又命坤全變,以不見為脫,其說之支離可知。則以震車震輹之象已失傳,又不知易用覆也。非《易林》,烏從證之。
「輹」の字が「輻」に訛ったことは、およそ小学に少しでも通じた者なら皆知っており、贅述しない。緊要なのはこの句が依然として対象《豫》を用いることである。《豫》卦は二から四爻まで互体して艮を成し、艮は即ち倒した震であり、震は車・輹である。震が既に倒覆したので「輿脱輹」と言う――車廂が伏兎を脱落した。震が輹である象は久しく失伝していた。《左伝》僖公十五年に「車その輹を脱す」と記すのは、まさに震象が変じたためである。《子夏伝》に言う。「輹とは即ち車屐である。」屐は行走の物で震に属するので、震は輹となる。虞翻はここで旁通を用いるべきことを解さなかったが、馬融および俗儒が乾をもって車とする非を譏評できたので、独得の識見があると言うべきである。ただ彼はここで取ったのが対卦《豫》の艮象であることを知らず、かえって坤が第三爻まで変じ、坤象が見えないのが即ち「脱」だと言った。すでに旁通を用いながら、また坤を全部変じ尽くさせ、象が見えないことをもって「脱」とするのは、その説の支離破碎は想われる。これは皆震が車・輹である象がすでに失伝し、また《易》が覆象を用いることを解さなかったためである。《焦氏易林》がなければ、どこからこれらを印证しようか。
至夫妻反目,虞仍用旁通,以巽為妻,伏震為夫象,是矣,然全在上,與三何涉哉?虞又以夫妻共在四,離火動,上巽多白眼為反目,此尤不切。茲以《易林》證之,夫妻謂互離也。《易林》豫之家人云「夫婦相背」,家人三四形震,震夫,上巽為婦,震巽相對卽相背。又《易林》坎之未濟云「夫婦不和」,未濟二三及四五皆形震,震夫;三四及五上皆形巽,巽婦;震巽相對卽相背,故不和。小畜三至上與家人三至上體同,與未濟震巽相對之形亦同。
「夫妻反目」に言及するに、虞翻は依然として旁通を用い、巽をもって妻とし、巽の下に伏する震をもって夫とした。これはもともと正しいが、しかし巽・震は皆上卦にあり、九三のこの爻と何の関係があるのか。虞翻はまた夫妻は皆第四爻にあり、離は火で躁動であり、上卦の巽は「白眼多し」なので「反目」と言うとしたが、これはなおさら貼切でない。今《焦氏易林》をもって印证するに、いわゆる「夫妻」とは互体の離を指す。《易林》「豫之家人」の林辞に「夫婦相背す」とある――之卦《家人》の三・四の両爻が半震を構成し、震は夫であり、上卦の巽は婦であり、震と巽が方向相対すれば即ち相背である。また《易林》「坎之未済」の林辞に「夫婦不和」とある――《未済》の二三の両爻と四五の両爻が皆半震を構成し、震は夫であり、三四の両爻と五上の両爻が皆半巽を構成し、巽は婦である。震巽が相対すれば即ち相背なので「不和」である。《小畜》の三爻から上爻までの卦体は《家人》の三爻から上爻までと同じであり、《未済》の震巽相対の形状とも同じである。
虞氏於震用旁通,非不合也,乃震夫巽婦而反目,用旁通之震則不切,必用本卦半象之震始切;如用旁通,則震巽相得,不相反矣。反目者,據《易林》巽之歸妹云「反目相逐」,歸妹中爻離,離為目,二三半離,三四亦半離,兩半離相對卽相反,故曰反目。以是知小畜之反目,亦以兩半離相對為反目,而震巽者,離之上下也。震夫巽妻,故曰夫妻反目。虞氏亦知震用旁通於反義不安,而以巽多白眼當之。乃《易林》于歸妹亦曰反目,歸妹無巽象,故知虞說不當也。
虞翻が震象の上で旁通を使用したのは、本来合わないことではない。ただ既に震を夫・巽を婦として反目に至ると言う以上、旁通を用いて得た震は貼切でなく、必ず本卦の半象の震を用いてはじめて貼切となる。もし旁通を用いれば、震と巽はかえって彼此相得して、「相反」とは言えなくなる。「反目」の二字に至っては、《焦氏易林》「巽之帰妹」の林辞に「反目相逐う」とある――之卦《帰妹》の中爻は互体して離を成し、離は目であり、二三の両爻は半離を成し、三四の両爻も半離を成し、二つの半離が彼此相対すれば即ち相反である。だから「反目」と言う。これによって《小畜》の「反目」も同じく二つの半離が相対するのを反目としていることが分かる。そして震と巽はまさにこの離の上下の両半である。震は夫・巽は妻なので「夫妻反目」と言う。虞翻自身も震に旁通を用いることが「反」の字において説き安くないことを知っていたので、巽の「白眼多し」を取って湊合させた。しかし《易林》は《帰妹》を講じても「反目」と言うのに、《帰妹》には巽象がない。これで虞翻の説が妥当でないことが分かる。
小畜六四「有孚血去惕出」および《象》「上合志」の解
此全用旁通。小畜通豫,四體離對坎,坎為孚為憂。胡為恤,血讀為恤,馬季長如是也。有孚者,謂陰陽相孚應也。恤去惕出者,坎在上,震為去為出,恤去惕出則豫矣,故無咎。豫九四以一陽前臨二陰,故志大行;小畜以一陰前承二陽,故與上合志,其理同也。上謂五上,虞翻等專指五言,是不明陰陽相需之理也。此與升初六之上合志同也。志者坎象。四體離而象皆用坎,卦小畜而詞皆用豫。非《易林》有此例,孰知其所謂哉。
この一段は全く旁通を用いている。《小畜》は《豫》と通じ、六四は離体に処り坎と相対し、坎は孚・憂である(原文「胡為恤」の三字は訛誤の疑いがあり、坎がまた「恤」である意)。「血」の字は「恤」と読むべきであり、馬融(字は季長)がそう読んでいる。いわゆる「有孚」とは、陰陽が彼此孚信して相応ずることを言う。いわゆる「恤去惕出」は、坎が上にあり震が去・出であるため、憂恤が去り驚惕が出て、即ち《豫》の和楽に転じるので「无咎」である。《豫》九四は一つの陽爻をもって前で二つの陰爻に臨むので《象伝》に「志大行」と言い、《小畜》六四は一つの陰爻をもって前で二つの陽爻に承えるので「上合志」と言う。道理は同じである。「上」は六五と上九の両爻を指し、虞翻らは専ら九五の一爻を指したが、それは陰陽が互いに相需する道理を明らかにしていない。これは《升》卦初六の《象伝》が「上合志」と言うのと同一の情形である。「志」は坎の象である。六四は本は離体にいるのに取った象はすべて坎であり、卦は《小畜》なのに爻辞は全く《豫》を用いる――《焦氏易林》にこのような通例がなければ、誰がそれがいったい何を言っているかを知ることができようか。
小畜・帰妹・中孚「月幾望」の解
易言「月幾望」者三,卽小畜上九、歸妹六五、中孚六四是也。自兌月、離東及大象失傳,東漢人必以坎為月,以震為東,於是解歸妹之月幾望:坎月離日,兌西震東,日月相望,恰合。乃小畜則無坎象、無震象,虞翻則命上變成坎,震則用旁通;中孚亦無坎象,虞翻則謂中孚從訟來,訟下坎為月,互離為日。豈知易凡言月幾望者,由《易林》證之,皆以兌為月也。兌月之證見前。此象,清治漢易者以東漢人不知,故皆不知,獨近易家杭辛齋知之,雲凡易言月,除日月並舉者指坎,餘皆指兌。是杭亦以月幾望之月為兌也。惟杭言日月並舉者指坎,則不然。如離、恆、豐彖傳皆日月並舉,皆以互兌為月,而皆無坎象也。
《周易》に「月幾望」を講じる所は全部で三か所あり、即ち《小畜》上九・《帰妹》六五・《中孚》六四である。「兌為月」「離在東」および大象という数層の義例が失伝して以来、後漢人は必ず坎をもって月とし震をもって東とした。そこで《帰妹》の「月幾望」を解して言う。坎は月・離は日であり、兌は西・震は東であり、日月が遥かに相望んで、ちょうど説き通せる、と。しかし《小畜》には坎象も震象もないので、虞翻は上爻を変じて坎を成させ、震は改めて旁通をもって取得した。《中孚》にも坎象がないので、虞翻は《中孚》は《訟》卦から変じて来たと言い、《訟》の下卦の坎が月・互体の離が日だとした。しかし《周易》はおよそ「月幾望」を講じる所は、《焦氏易林》をもって一印证すれば、いずれも兌をもって月としている。兌が月である証拠は前にすでに挙げた。この象は、清代に漢易を治める者は後漢人が知らなかったために皆知らず、ただ近代の易学家杭辛斎だけが解していた。彼は言う。およそ《易》の中で「月」を講じるものは、日月を併挙するのが坎を指すのを除き、その余は皆兌を指す、と。これで杭氏もまた「月幾望」の「月」は兌だと見なしていたことが分かる。ただ杭氏が日月併挙の時は坎を指すと言うのは誤りである。《離》《恒》《豊》の三卦の《彖伝》はいずれも日月を併挙しながら、皆互体の兌をもって月とし、そして三卦にはいずれも坎象がない。
小畜兌月離日,歸妹兌月離日,中孚兌月、大離為日。《易林》大有之中孚云「卒逢白日」,震白,大離為日。兌西震東,日月望,至為協洽。而兌皆值巽,歸妹上震亦通巽,故曰幾。幾,荀皆作既。既望者,十六日也。按納甲法,十五日干象,月盈甲;十六日旦巽象,月退辛,正既望也,荀讀是也。京作近。虞翻專以納甲解易,巽為既望,當所熟知,乃於小畜既訓幾為近,從京讀;于歸妹則又讀幾為其,致前後不一,則以兌月之象失傳故也。
《小畜》は兌が月・離が日であり、《帰妹》もまた兌が月・離が日であり、《中孚》は兌が月・大離が日である。《焦氏易林》「大有之中孚」の林辞に「卒に白日に逢う」とある――震は白であり、之卦《中孚》の全体は大離であり、大離は日である。兌は西・震は東であり、日と月が遥かに相対して望み、配合が極めて妥帖である。そしてこの数卦の兌はいずれもちょうど巽に正対し、《帰妹》の上卦は震であり、震はまた巽と通ずるので「幾」と言う。「幾」の字は荀爽本が皆「既」と作る。「既望」とは即ち毎月十六日である。按ずるに納甲の法:十五日は乾象であり、月が円くなって甲を納する。十六日の平旦は巽象であり、月が盈から退に転じて辛を納する。まさに「既望」である。これで荀爽の読法が正しいことが分かる。京房本は「近」と作る。虞翻は専ら納甲をもって《易》を解き、巽が既望であることは本来彼が最も熟悉しているはずなのに、しかし彼が《小畜》を解くにあたり「幾」を「近」と訓し、京房の読法に依从した。《帰妹》を解くにあたりまた「幾」を「其」と読み、そのため前後が一致しない――これは依然として「兌為月」の象が失伝したためである。
履「履虎尾」および彖「柔履剛」の解
彖曰「柔履剛也」,是彖傳卽對對象謙,以坤為柔矣。虞翻解此獨用對象,古義獨存。惟虞以坤為虎,似不如來知德氏以艮為虎,與《易林》例合。何則?艮為虎,見九家逸象,《易林》言虎不啻千百,皆謂艮也。易既取象艮尾而曰虎尾,則虎亦取象於艮也明矣。況謙三至五震,震為履,震上艮下,故曰履虎尾。若以坤為虎,則於象不合矣。晉郭璞《洞林》又以兌為虎,雖各有意義,《易林》亦不用之。
《履・彖》に「柔剛を履むなり」とある。これで《彖伝》がまさに対卦《謙》に対して立言し、坤をもって柔としたことが分かる。虞翻はこの句を解するに独り対象を使用し、古義がこれによって保存された。ただ虞翻が坤をもって虎としたのは、来知徳が艮をもって虎とするほど《焦氏易林》の通例に合わないようである。なぜか。艮は虎であり、《九家易》逸象に見え、《易林》の中で「虎」を講じる所は成百上千あり、いずれも艮を指す。《周易》はすでに艮を取って「尾」とし「虎尾」と言ったので、「虎」もまた艮に取象するのがとても明白である。ましてや《謙》卦は三から五爻まで互体して震を成し、震は履(践踏)であり、震が上・艮が下なので「履虎尾」と言う。もし坤をもって虎とすれば、卦象と合わない。晋人の郭璞《洞林》はまた兌をもって虎としたが、各家はそれぞれ自らの道理があるものの、《易林》はこの説を採用しない。
履九二「道を履むこと坦坦たり、幽人貞にして吉」
此亦用對象。對象艮為道路,而與震之大塗鄰,故曰坦坦。至於幽人,仍用對象坎,坎為隱伏,艮為清高。《易林》賁之艮「清人高子」,為君子,故曰幽人。又《易林》離之師云「履道坦坦,平安無咎」,誠以師中爻震,震為大塗,故曰坦坦。師二至上與謙三至上體同,正釋此也。
この一爻もまた対象を用いている。《履》の対卦は《謙》であり、《謙》には艮があり、艮は道路であり、また震の「大塗」と隣接するので「坦坦」と言う。即ち平坦で広いことである。「幽人」に至っては、依然として対卦の坎を取り、坎は隠伏であり、艮は清高である。《焦氏易林》「賁之艮」の林辞に「清人高子」の一语があり、指すのはまさに君子なので「幽人」と称する。また《易林》「離之師」の林辞に「道を履むこと坦坦、平安にして咎なし」とあるのは、まさに之卦《師》の中爻が互体して震を成し、震は大塗なので「坦坦」と言う。《師》卦の二爻から上爻までと《謙》卦の三爻から上爻までは卦体が同じであり、この条の林辞はまさに《履》九二のこの爻辞を解釈している。
履「眇にして能く視、跛にして能く履む」の解
《易林》於既、未濟二卦往往用兌象,如「驅羊南行」是也;用震象,如「逐鹿」(震為鹿)、「山」(艮山)、「西」是也;用巽象,如「順風趕北」是也。而既、未濟實無艮兌震巽四象,皆用半象也。以茲悟履六三「眇能視,跛能履」,亦以二三為半離半震,故彖曰「不足」。不足者,言離震未全見也。後閱《易林》解之節云「左眇右盲」,節下兌為半離,故曰眇;二至五互大離,故曰盲。又剝萃云「兩目失明」,亦以萃上兌,兌為半離,故曰失明。此《易林》解履眇之確詁也。又《易林》否之夬云「鳥飛跌跛」,夬上兌,兌半震而毀折,伏艮為鳥,故曰鳥飛跌跛。又剝之萃云「脛足跛曳,不可以行」,萃上兌,兌亦半震,故曰不可以行。此《易林》解履跛之確詁也。皆與彖傳合,皆以半象也。而虞仲翔以離目不正、兌小為眇忽,又不用其半見之說。豈知彖明曰不足,不足卽半見也。
《焦氏易林》が《既済》《未済》の両卦を解するに、往々にして兌象を用いる。例えば「羊を駆って南に行く」。震象を用いる。例えば「鹿を逐う」(震は鹿)、「山」(艮は山)、「西」などの語。巽象を用いる。例えば「風に順いて北を赶う」。しかし《既済》《未済》には実は艮・兌・震・巽の四つの象がなく、用いたのは全て半象である。これによって私は《履》六三の「眇にして能く視、跛にして能く履む」もまた、二・三の両爻で半離・半震を構成するのを以てしたものと悟った。だから《彖伝》に「足らず」と言う。「足らず」とは離・震が完整に顕現しなかったことを言う。後に《易林》「解之節」の林辞に「左眇右盲」とあるのを読んだ――之卦《節》の下卦は兌で半離なので「眇」(一目の失明)と言い、二から五爻まで互いに大離を成すので「盲」と言う。また「剥之萃」の林辞に「両目失明」とあるのも、《萃》の上卦が兌で兌が半離だから「失明」と言う。これが《易林》が《履》卦の「眇」の字を解する確かな詁である。また《易林》「否之夬」の林辞に「鳥飛びて跌跛す」とある――《夬》の上卦は兌で、兌は半震でありまた毀折の義があり、兌の下に伏する艮は鳥なので「鳥飛跌跛」と言う。また「剥之萃」の林辞に「脛足跛曳、以て行くべからず」とある――《萃》の上卦は兌で、兌もまた半震なので「不可以行」と言う。これが《易林》が《履》卦の「跛」の字を解する確かな詁である。これらは皆《彖伝》と相合し、いずれも半象を用いている。しかし虞翻は離の目が正しくないことと兌が小であることをもって「眇」を解し、自分の「半見」の説をかえって打ち捨てて用いなかった。しかし《彖伝》は明らかに「不足」と言い、「不足」はまさに半ばしか見えない意である。
泰初九「茅茹を拔く」の象
此亦用對象。坤為品物、為庶物、為萬物,見於乾坤彖傳,是坤有茅茹象。故《易林》剝之坤云「荻芝俱死」,以坤為荻芝,卽茅茹。《食貨志》「菜茹有畦」,《晉書·地理志》「環盧種菜茹」,茹固有食義、連引義,而此則訓為菜茹之茹,故下云「拔茅連茹」。焦循以茹字屬下讀,非也。泰對否,下坤為茅茹,正與《易林》象合,故否初六與此同詞。否則用本象矣,否二至四艮,艮手為拔。而虞翻必本大過,以否中爻巽為茅,慎則慎矣,然坤之為茅茹,證之彖傳本經而皆合,舍近不取,必取與初甚遠之互巽,恐非。至後儒以泰下乾,乾卽言茅茹,疑乾亦有此象者,而苦求之,則不知易例矣。
この一爻もまた対象を用いている。坤は品物・庶物・万物であり、《乾》《坤》両卦の《彖伝》に見えるので、坤に「茅茹」の象があることが分かる。だから《焦氏易林》「剥之坤」の林辞に「荻芝俱に死す」とあるのは、まさに坤をもって荻芝、即ち茅茹の類としたものである。《漢書・食貨志》に「菜茹に畦あり」、《晋書・地理志》に「盧を環りて菜茹を種す」とあり、「茹」の字はもちろん食べる意も牽連の意もあるが、ここでは菜茹の茹と訓ずべきであり、だから下文に「茅を拔き茹に連なる」と接続する。焦循は「茹」の字を断って下の句に属させて読んだが、誤りである。《泰》と《否》は相対し、《否》の下卦の坤が即ち茅茹であり、まさに《易林》の取象と相合するので、《否》卦初六と《泰》卦初九が同じ爻辞を用いる。《否》卦は本象を用いている――《否》は二から四爻まで互体して艮を成し、艮は手なので「拔」くことができる。虞翻は必ず《大過》に源を溯ろうとして、《否》の中爻の巽をもって茅としたが、謹慎は謹慎であるものの、坤が茅茹であることは《彖伝》と本経をもって印证しても皆合するのに、眼前に近いものを舍てておいて、わざわざ初爻から遠い互巽を取るのは、おそらく誤りであろう。後の学者が《泰》の下卦が乾であり乾が茅茹を言い及ぶからと言って、乾にもこの象があるのではないかと疑い苦しく求めるに至っては、なおさら《易》の通例を解していない。
泰九二「荒を包み、用て河を馮り、遐く遺らず、朋亡し、中行に於て尚を得」の解
自東漢人不知坤為河為水象,解泰九二爻詞誤與利涉大川同。虞云:「荒?,荒?荒同字,大川也。變得正體坎,坎為大川為河,震為足,故用馮河。」案《爾雅》:「馮河,徒涉也。」《詩·小雅》「不敢馮河」,《毛傳》:「馮,陵也。」坤為河,二升五,正當坤水之中,故用以涉河,正所謂得尚于中行也。又《易林》需之泰云「弱水之西」,坤為水,坤柔,故曰弱水。又坤之升云「馮河登山」,升二至上與泰體同,亦以涉河為訓,河皆指坤。
後漢人が坤に「河」「水」の象があることを知らなかったため、《泰》九二の爻辞を解釈するにあたり誤って「利渉大川」と混同した。虞翻が言う。「『荒』の字とあの缺文の字は本来同じ字で、意は大川である。九二が変じて正を得れば坎体を成し、坎は大川・河であり、震は足なので『用て河を馮る』と言う。」按ずるに《爾雅》に言う。「馮河とは、即ち徒渉して河を渡ることである。」《詩経・小雅》に「敢えて河を馮らず」とあり、《毛伝》に「馮とは即ち凌越である」と言う。坤は河であり、九二は五位に上昇してちょうど坤水の正中に処るので、これをもって河を渉ると言う。これもまた「中行に於て尚を得」の意である。また《焦氏易林》「需之泰」の林辞に「弱水の西」とある――坤は水であり、坤の性は柔なので「弱水」と称する。また「坤之升」の林辞に「河を馮り山に登る」とある――《升》卦の二爻から上爻までと《泰》卦の卦体は同じであり、同じく河を渉ることをもって解説するので、「河」は皆坤を指すことが分かる。
包荒?為大川,亦指坤象。不遐遺者,言二五相距雖遐遠,然二必升五,不以遠而不升也。朋亡者,陰以陽為朋。亡者,往也,逃也。《列子》「亡羊補牢」,《漢書·韓信傳》「何聞信亡,自追之」,皆以亡為逃,逃卽往也。言陽往居五而為陰朋,五中位,卽尚于中行也。卦無坎象,虞氏必以荒?為坎,以河為坎,豈知坎乃變後之象,見有之象坤已為大川為河矣,何必用未來之坎?一象之失傳,其關係之巨若是。又虞氏誤以兌二陽為朋,謂二五上下兌象不見,故朋亡,是不知易朋之確詁也。
「包荒」の「荒」は大川と訓し、同じく坤象を指す。いわゆる「不遐遺」とは、九二と六五が相距ることは遠いが、九二は必ず五位に上昇し、路が遠いために上昇しないことはないと言う。いわゆる「朋亡」とは、陰は陽をもって朋とすることを言う。「亡」は往・逃の意である。《列子》に「羊を亡して牢を補す」、《漢書・韓信伝》に「蕭何は韓信が逃亡したと聞き、自ら追いに行った」とあり、いずれも「亡」を逃走として用い、逃走は即ち前往である。これは陽爻が前往して五位に居り、群陰の朋となることを言う。五は中位であり、即ち「中行に於て尚」である。《泰》卦は本来坎象がないのに、虞翻は必ず「荒」を坎と言い「河」を坎と言った。しかし坎は爻変した後にはじめてある象であり、眼前の現成した坤象はすでに大川であり河であるのに、何のためにまだ現れていないあの坎を用いるのか。一つの卦象が失伝すると、牽連する害がこのように大きい。虞翻はまた誤って兌の二つの陽爻をもって「朋」とし、九二が五に昇った後は上下の兌象がともに見えなくなるので「朋亡」と言うとしたが、これは《易》の中の「朋」の字の確かな訓釈を解さないものである。
泰六四「翩翩たり、富まず其の隣を以てす、戒めず孚を以てす」の解
翩翩為句。《易林》每以震為飛,四震體,故曰翩翩。不富為句。《易林》未濟之頤云「齗齗囓囓,貧鬼相責」,是以坤為貧也,貧卽不富。象曰失實,坤虛,故失實,亦詁不富也。以,及也。鄰謂五上,言四及五上也。戒者,備也。孚,信也,感通也,卽應與也。不戒以孚者,言四及五上皆有應與,不必戒備,自然孚於下也。孚於下,則二五相升降,無不當位也。自漢以來,因小畜有富以其鄰之語,於是以不富以其鄰五字連讀,致易義晦澀不明。豈知以其鄰與下屬也。虞翻以震東兌西為鄰,而不釋其義,以二五變四體離釋翩翩,皆曲說不可從。
「翩翩」は独立して句を成すべきである。《焦氏易林》は常に震をもって飛とする。六四は互震の体の中に処るので「翩翩」と言う。「不富」もまた独立して句を成すべきである。《易林》「未済之頤」の林辞に「齗齗囓囓、貧鬼相責む」とあるので、坤をもって貧とすることが分かる。貧は即ち不富である。《象伝》に「実を失う」と言い、坤は中が虚なので「失実」であり、同じく「不富」を解釈している。「以」は「及」の意であり、「隣」は六五と上六を指し、六四が五・上の両爻を連れて行くことを言う。「戒」は防備であり、「孚」は信・感通であり、即ち相応する爻があることである。いわゆる「不戒以孚」とは、六四が五・上の三爻を連れ、各々相応する爻があるので、戒備を用いる必要がなく、自然に下卦と相孚するということである。下卦と相孚すれば、二・五は互いに昇降することができ、位に当たらないものがない。漢代以来、《小畜》に「富其の隣を以てす」の一语があるため、「不富以其隣」の五字を連読し、《易》の義を晦渋不明にしてしまった。しかし「以其隣」は下の句に連ねて読むべきものである。虞翻は震が東・兌が西であることをもって「隣」としたが、その中の道理を解釈せず、また二・五の爻が変じた後に四爻が離体に居ることをもって「翩翩」を解釈した。いずれも曲説であり、依从できない。
泰上六「城隍に復る」の解
虞氏謂:「否艮為城,今泰反否,乾壞為土,艮城不見,而體復象,故城復于隍也。」此等謬解,進退無據,可謂誤人之甚者矣。既以否艮為城,是用旁通也,是用對象也。但泰下乾變坤為土,尚可曰乾壞為土,否二三四正艮城也,胡云不見乎?若指本象,泰原無艮城,尚何待言。乃終又以本象泰三至上為解,三至上得復象,遂藉以了城復于隍之義。凡虞說初視之似密,實按之皆非。初學以其大師,為其說所糾纏而誤入迷途者多矣,故不得不辨也。
虞翻はこの一爻を解して言う。「《否》卦には艮があり、艮は城である。今《泰》は《否》の反覆の卦であり、乾が壊れて土となると、艮城は見えなくなり、しかも卦体はまた《復》象を得るので『城復于隍』と言う。」このような謬解は進退に拠りどころがなく、人を誤らせること極まったと言える。すでに《否》卦の艮をもって城とした以上、それは旁通・対象を用いたことになる。しかし《泰》の下卦の乾が変じて坤土となるのは、辛うじて「乾が壊れて土となる」と言えるものの、《否》卦の二・三・四爻は明らかにまさに一つの艮城であるのに、どうして見えないと言えようか。もし本卦の象を指すと言うなら、《泰》卦はもともと艮城がないので、なおさら言うまでもない。しかし彼は最後にまた本卦《泰》の三爻から上爻までを取って解とし、三から上までが《復》卦の象を得ると言い、便乗してこの「復」の字で「城復于隍」の意を取り繕った。およそ虞翻の説は、乍見すれば周密なようだが、一たび推按すれば皆立ち得ない。初学の者は彼が漢易の大師であるために、彼の説に纏わられて迷途に誤り入る者が多い。だから辨析を加えないわけにはいかない。
茲以《易林》證之,則此用覆象也。焦、京皆以復之「朋來無咎」為「崩來無咎」,因復震為反艮也,艮覆則山崩。又《易林》遯之解云「盈盛之門,高屋先履」,則以解上震,震為反艮,艮為屋,艮倒則屋覆矣,在上,故曰高屋先覆。由是推泰上門城復于隍。復、覆義通,復卦「反復其道」,《釋文》云「復本作覆」;又《詩·大雅》「陶復陶穴」,《說文》作「覆」,是其證。艮為城,艮倒則城覆矣。隍者,城下池,中爻兌,澤象也,城覆則城頭正在澤中也。後儒但以泰極將否詁復字,謂城以隍土築成,今城壞,復歸於隍,不知城復卽城壞。三至上為覆艮,復亦從象生,易無象外字也。
今《焦氏易林》をもって印证すれば、この句は覆象を用いたことが分かる。焦延寿と京房はいずれも《復》卦の「朋来无咎」を「崩来无咎」と読んだ。《復》の下卦の震はまさに倒した艮であり、艮が既に倒覆すれば山は崩れる。また《易林》「遯之解」の林辞に「盈盛の門、高屋先に履(覆)る」とある(「履」は即ち「覆」の借字)――之卦《解》の上卦は震であり、震は反艮であり、艮は屋であり、艮が一たび倒れば屋は傾覆する。震はまた上に居るので「高屋先覆」と言う。これによって《泰》卦上六の「城復于隍」を推知できる。「復」と「覆」は意義が相通ずる。《復》卦の《彖》辞「反復其の道」に、陸徳明《経典釈文》は「復は本は覆と作る」と言い、《詩経・大雅》の「陶復陶穴」に《説文解字》は「覆」と引く。いずれも証拠である。艮は城であり、艮が一たび倒れば城は傾覆する。「隍」は城の下の護城壕である。《泰》卦の中爻は互体して兌を成し、兌は沢であり、城が既に傾覆すれば、城頭はちょうど沢の中に落ちる。後の学者はただ「泰極まりて将に否ならんとす」をもって「復」の字を解し、城はもと隍中の土をもって築き成したもので、今城が壊れれば土はまた隍の中に帰ると言った。彼らは「城復」が即ち城の壊れることを知らなかった。三爻から上爻までがまさに一つの倒艮であり、「復」の字もまた同じく卦象から生まれた――《易》には一字として象の外にあるものがない。
同人の卦名の解
杭氏云:「先天乾,後天離,同位於南,故曰同人。」《雜卦》曰「同人,親也」,同位故親。按《左傳》大有之幹曰「同復於父,敬如君所」,言離變乾,同位於南,故曰復曰所,卽本先天為義,此先天乾南之首見於《左傳》者。九家曰「乾舍於離,同而為日」,荀爽曰「乾舍於離,相與同居」,是皆以乾南釋同人之義也。
杭辛斎が言う。「先天の乾と後天の離が同じく南方に処るので、卦名を『同人』と言う。」《雑卦伝》に「同人とは親なり」と言うのは、まさに同じ一位に処るので相親しいためである。按ずるに《左伝》の記す「大有之乾」の占例に「同じく父に復り、敬すること君の所の如し」とあるのは、離が乾に変じ、二者が同じく南方に位するので「復」(もとの処に帰る)と言い「所」(同一の処所)と言うのであり、まさに先天方位に本づいて義を立てたものである――これは先天の乾が南方に居るという説が最も早く《左伝》に見えるところである。《九家易》に「乾は離に舍り、同じくして日となる」と言い、荀爽に「乾は離に舍り、相与に同居す」と言うのは、いずれも乾が南方にあることをもって《同人》の卦名の含意を解釈したものである。
同人「利渉大川」の解
欲解此經,須先明陰陽相須之理。《易林》乾繇詞不吉,以純陽也;乾之坤亦不吉,以純陰也;至泰否則皆吉。蓋易之道如電然,同性則相違,異性則相感;陽遇陽、陰遇陰則窒,陽遇陰、陰遇陽則通,是《易林》之定例也。由是推之,易凡言利有攸往者皆陽遇陰也,如大畜九三是也;凡言征凶者陽遇陽也,如大壯初九是也。惟陰亦然:革六二前遇三陽,故曰征吉,曰行有嘉;小畜六四上承二陽,則曰有孚,陰遇陽則通也;頤六二曰征凶,六五不可涉,陰遇陰則阻也。
この一句の経文を解き通すには、まず陰陽が互いに需め求める道理を明らかにしなければならない。《焦氏易林》乾宮の首林(乾之乾)の繇辞が吉でないのは、純陽だからである。「乾之坤」の繇辞もまた吉でないのは、之卦が純陰だからである。「乾之泰」「乾之否」に至っては皆吉である。もとは《易》の道理は電のようであり、同性は相斥き、異性は相引く。陽が陽に遇い、陰が陰に遇えば閉塞し、陽が陰に遇い、陰が陽に遇えば通暢する――これは《易林》の定例である。これによって推衍すれば:《易》の中でおよそ「往くところあるに利し」と言うのは皆陽が前に陰に遇うもので、《大畜》九三の如し。およそ「征めば凶」と言うのは皆陽が前に陽に遇うもので、《大壮》初九の如し。陰爻もまた同じである。《革》六二は前に三つの陽爻に遇うので「征めば吉」と言い「行けば嘉あり」と言う。《小畜》六四は上に二つの陽爻を承えるので「孚あり」と言う――これは陰が陽に遇えば通ずることである。《頤》六二に「征めば凶」と言い、六五に「大川を渉るべからず」と言うのは、これは陰が陰に遇って阻まれることである。
同人之利涉大川,若以《易林》象推之,則大川者乾也。《易林》蒙之幹云「海為水王」,是以乾為海水。又剝之同人云「雄處弱水,雌在海濱」,雄處弱水謂對象師二,雌在海濱謂同人,乾為海,二陰在其中,故曰雌在海濱。又九家易於蠱卦利涉大川云「乾天為河」。據此以釋同人之利涉大川,則乾為大川,利涉謂六二,陰遇陽則通,故云利涉大川也,至為為明確也。
《同人》卦辞の「利渉大川」は、もし《焦氏易林》の取象をもって推し求めれば、「大川」が指すのはまさに乾である。《易林》「蒙之乾」の林辞に「海は水の王」とある。これは乾をもって海水としたものである。また「剥之同人」の林辞に「雄は弱水に処り、雌は海浜にあり」とある――「雄処弱水」が指すのは対卦《師》の九二であり、「雌在海浜」が指すのは《同人》である。乾は海であり、六二のこの一つの陰爻が衆陽の中に処るので「雌在海浜」と言う。《九家易》が《蠱》卦の「利渉大川」を解しても「乾天は河となる」と言う。これに拠って《同人》の「利渉大川」を解釈すれば、乾は即ち大川であり、「利渉」が指すのは六二である。陰が陽に遇えば通ずるので「利渉大川」と言う――これは極めて明確である。
惟易之道扶陽不扶陰,凡遇陰通之處,不盡謂吉,且恐其遇盛以危陽,於咸之六二則曰居吉,於遯之六二則曰執之用黃牛之革,於姤之初六則曰繫于金柅、貞吉往凶,皆懼其前進而阻之。故彖傳釋同人之利涉,則曰「乾行也」,純用對象師,師九二臨坤水也,仍與其它之利涉大川指陽義同也。虞仲翔既不知乾為河水,又不思彖傳用旁通,只好仍用其故技,使四變再使上變,九五成坎為乾行。清治漢易者多宗虞,更無他說矣,易說之失傳益明矣。
ただし《易》道は陽を扶助し陰を扶助しないので、およそ陰に遇って通ずる所も、全て吉とするわけではなく、しかも陰気が過盛になって陽爻を危うくすることを恐れる。だから《咸》六二に「居れば吉」(安居してはじめて吉)と言い、《遯》六二に「これを執るに黄牛の革を用う」(黄牛の革で牢固に繋ぐ)と言い、《姤》初六に「金柅に繫げ、貞なれば吉・往けば凶」(金属の車止めに繋ぎ、静かに守れば吉・往けば凶)と言うのは、いずれも陰が前進することを恐れて方法を設けてそれを阻止するものである。したがって《彖伝》が《同人》の「利渉」を解釈するに、ただ「乾行なり」と言うのみで、全く対卦《師》をもって説を立てる――《師》九二の一陽が坤水の上に臨む――依然として《易》の中の他の「利渉大川」が陽爻を主とする意義と同じである。虞翻は乾が河水であることを知らず、また《彖伝》が旁通を用いるとは思いもよらず、やむを得ず依然として老手段を使い出した。まず四爻を変じさせ、次に上爻を変じさせて、九五に坎を成させ、これが即ち「乾行」だと言った。清代に漢易を治める者は大抵虞翻を宗奉し、このほかには別の説がなかった。《易》説の失伝の甚だしさはなおさら明白である。
同人九三「其の高陵に升る」の解
按《易林》困之無妄云「戴山崔嵬」,無妄互艮為戴,上乾為山,故曰戴山。又大有之幹云「南山大行」,乾為南為山,故曰南山。又巽之姤云「高阜山陵」,姤重乾,故曰阜曰陵,是《易林》以乾為陵也。同人九三云「升其高陵」,乾為山,在上,故曰升其高陵,是易原以乾為山陵也。三陽,乾又純陽,陽遇陽則阻,故下曰「三歲不興」,言三利往之難也。虞仲翔以伏震為陵,震為反艮,象亦有本,惟卽三歲不興之言觀之,易確以乾為陵,故三不利往也,陽遇陽也。
按ずるに《焦氏易林》「困之无妄」の林辞に「山を戴きて崔嵬たり」とある――之卦《无妄》は互体して艮を成して戴であり、上卦は乾で山なので「戴山」と言う。また「大有之乾」の林辞に「南山大行」とある――乾は南でありまた山なので「南山」と言う。また「巽之姤」の林辞に「高阜山陵」とある――《姤》には重畳した乾象があるので「阜」と言い「陵」と言う。これで《易林》は乾をもって陵としていることが分かる。《同人》九三に「其の高陵に升る」とあるのは、乾は山であり上卦に居るので、あの高い山陵に登ると言うのであり、《周易》が本来乾をもって山・陵としていたことが分かる。九三は陽爻であり、上の乾はまた純陽である。陽が陽に遇えば阻まれるので、下文に「三歳興らず」と言う――三年たっても興起できないというのは、九三が前往しようとするのが非常に艱難であることを言う。虞翻は巽の下に伏する震をもって陵としたが、震は反艮であり、このように取象しても全く根拠がないわけではない。しかし「三歳不興」という句から見れば、《周易》は確かに乾をもって陵としており、だから九三は前往に利がない。まさに陽が陽に遇うためである。
謙初六「謙謙の君子、用て大川を渉る、吉」
艮為君子,艮在下,謙矣,初又在艮之下,故曰謙謙君子。經既曰君子,統艮全體言也;用涉大川吉,亦指艮也。蓋謙卦以三為主,猶師以二、豫以四、比以五為主也,故六爻爻詞皆與主爻有關。荀爽不知坤為大川,仍以坎為大川,謂初可用涉。豈知坎陷不能涉,初無應與不能涉,初陰二亦陰,陰遇陰則窒,尤不能涉。用涉大川者,統艮卦言,艮三涉四成豫,涉五成比,得位而往有功,故吉謂艮涉坤水,非初涉坎水。初涉坎而吉,易無此例也。
艮は君子であり、艮は下卦に居り、すでに謙である。初六はまた艮の最も下に処るので「謙謙君子」と言う。経文がすでに「君子」と称した以上、艮の全体について統べて言ったものであり、「用て大川を渉る、吉」もまた艮を指す。《謙》卦は九三を主爻とするのであり、ちょうど《師》が九二、《豫》が九四、《比》が九五を主とするのと同じである。だから六爻の爻辞は皆主爻と関係する。荀爽は坤が大川であることを知らず、依然として坎をもって大川とし、初六をもって川を渉るのに用いることができると言った。しかし坎には陥険の義があり、渉り越すことができない。初六は上に相応する爻がなく、渉り越すことができない。初六は陰であり六二もまた陰であり、陰が陰に遇えば閉塞するので、なおさら渉り越すことができない。いわゆる「用渉大川」とは、艮卦全体について統べて言ったものである。艮の九三が四位に渉れば《豫》を成し、五位に渉れば《比》を成す。位を得て前往すれば功を成すことができるので吉とする。これで言うのは艮が坤水を渉るのであり、初六が坎水を渉るのではないことが分かる。初六が坎水を渉って吉を得るという体例は、《易》にはない。
謙九三「労謙の君子」
三互坎,坎為勞卦,故曰勞謙,是易明用互也。而王弼解易竟不用互,鍾會因倡言易無互卦,以迎合世人解縛去滯、避難就易之心理,至宋遂成為風氣。朱子明知之,而亦不敢言,皆濫觴於弼也。
九三は互体の坎の中に処り、《説卦》は坎を「労卦」と称するので、爻辞に「労謙」と言う。これで《周易》が分明に互体を使用していることが分かる。しかし王弼は《易》を解するに竟に互体を用いず、鍾会はこれによって《易》には本来互卦がないと唱言し、ちょうど世人が束縛から解脱し難を避け易に就こうとする心理に迎合して、宋代に至っては一時の風気となった。朱熹は心の中ではこの点を明らかにしていたが、敢えて明言はしなかった――この風気は皆王弼から発端したものである。
謙六五「不富」の句、「其の隣を以て侵伐を用う」の解
謙六五云「不富以其鄰」,自漢以來皆相連為句,與泰六四同,致經義愈晦,解索愈難。豈知《易林》每以坤為貧,貧卽不富,六五坤體,坤虛,故曰不富,自為句也。以其鄰,義與下屬,鄰者四上,言五率四上勢眾三用以侵伐,則無不利也。
《謙》六五に「富まず其の隣を以てす」とあるが、漢代以来皆この五字を連ねて一句として読み、《泰》六四の情形と同じであり、その結果経義はいっそう晦暗になり、解釈はいっそう困難になった。しかし《焦氏易林》は常に坤をもって貧とし、貧は即ち不富であることを知らない。六五は坤体に処り、坤は中が虚なので「不富」と言い、この三字は自ら一句を成す。「以其隣」の意は下の句に連ねて読むべきである。「隣」は六四と上六を指し、六五が四・上の両爻を率いて声勢が衆盛であり、九三がこの勢力を借りて征伐すれば、利でないことがないと言う。
豫《大象》「殷にして上帝に薦じ、以て祖考に配す」の説
上帝指震,帝出乎震也。《易林》每用震為帝,其多不可勝指。若祖,則互艮也。小過六二云「過其祖」,是經原以艮為祖,故象本之,《易林》本之。詳解見卷七。
「上帝」が指すのは震であり、《説卦》に「帝は震に出ず」と言う。《焦氏易林》は常に震をもって帝とし、例は挙げても挙げ切れないほど多い。「祖」に至っては、互体の艮である。《小過》六二に「その祖を過ぐ」とあるので、《周易》が本来艮をもって祖としていたことが分かる。だから《大象伝》がそれを承用し、《焦氏易林》もまたそれを承用した。詳しい解説は本書の巻七に見える。
焦氏易詁 巻四
行唐尚秉和節之撰。
本巻は行唐(現在の河北省行唐県)の人・尚秉和の撰述で、秉和の字は節之である。
随初九「官渝あり」の解
《易林》履之節云「安上宜官」,節互艮,艮止為安,陽在上而貴,故曰宜官,是以艮為官也。渝,變也,改也。官有渝者,言艮覆變為震也。震為出,艮為門,故出門交有功,言前臨二陰,陽遇陰則通也。舊解謂與四交者,非也。初當位,故象曰「從正吉」。此用覆艮,與革九四改命吉之用反巽同也,故曰渝曰改。又按艮,官之象,虞翻注「百官以治」云「艮為官」,而未言其義,後儒以艮為門闕為解,似非。
《焦氏易林》「履之節」の林辞に「上に安んじ官に宜し」とある――之卦《節》の互体に艮があり、艮は止・安であり、陽爻が上に居り尊貴なので「宜官」と言う。これで艮をもって官としていることが分かる。「渝」は変・改の意である。いわゆる「官有渝」とは、艮が倒れて震に変じたことを言う。震は出であり、艮は門なので、爻辞は続いて「門を出でて交わりて功あり」と言う。その意は初九が前に二つの陰爻に臨み、陽が陰に遇えば通ずるということである。旧注はこれを九四と相交わることと言ったが、誤りである。初九は位に当たるので《象伝》に「正に従えば吉」と言う。この一爻は覆艮を用い、《革》九四の「命を改めれば吉」が反巽を用いるのと同一の手法なので、一方は「渝」と言い一方は「改」と言う。別に按ずるに艮に「官」の象があることは、虞翻が《繫辞》の「百官以て治まる」に注して「艮は官」と言ったが、その中の道理を説明しなかった。後の学者は「艮為門闕」をもって解釈したが、おそらく誤りであろう。
随六二「小子に繫り丈夫を失う」、六三「丈夫に繫り小子を失う」の解
《易林》視正覆象不分,易本如此也。蒙二至上正覆兩艮,艮為童蒙、為求,正視之,童蒙在上,似我求童蒙;反之,則童蒙求我也。艮象來往反覆,故卦詞亦來往反覆。以蒙例隨,初至四正覆皆艮,亦皆震,震為夫,艮為小子。六二近初陽,故繫初失四,曰係小子失丈夫;三承四陽,故繫四失初,曰係丈夫失小子。至其所以失之故,仍陰遇陰則塞之定例:二陰為三陰所阻,故失四;三陰為二陰所隔,故失初。下震亦艮,上艮亦震,體同也,不分也,卦象來往反覆,卦辭亦來往反覆。而虞翻以五為小子,謂兌為少,故曰小子。夫兌為少女,焉得為小子?艮為小子,見於易,見於孟氏逸象,見於《易林》者尤多,未有以兌為小子者也。虞不知覆震為丈夫,謂四為丈夫,而以大過九二之老夫為例。豈知大過九二之老夫,乃謂對象震,非謂本象巽。虞已誤解,而復持其誤解以解隨,不愈誤哉。
《焦氏易林》は正象と覆象を見るに分別を加えない。《周易》はもともとこのようである。《蒙》卦の二爻から上爻までは一正一反二つの艮であり、艮は童蒙でありまた求である。順に見れば童蒙が上位にあり、まるで我が童蒙を求めるようであり、倒して見れば童蒙が来て我を求めることになる。艮象が往来反覆するので、卦辞もまた往来反覆する。《蒙》卦の例をもって《随》卦を推すに:初爻から四爻までは正に見ても倒して見ても艮であり、また震でもある。震は夫であり、艮は小子である。六二は初九のこの陽爻に近く寄るので、初九に繫って九四を失い、爻辞は「小子に繫り、丈夫を失う」と言う。六三は上に九四のこの陽爻を承けるので、九四に繫って初九を失い、爻辞は「丈夫に繫り、小子を失う」と言う。「失う」の所以に至っては、依然として「陰が陰に遇えば閉塞する」という定例である。六二は六三のこの陰爻に遮られるので九四を失い、六三は六二のこの陰爻に隔てられるので初九を失う。下卦の震は同時に艮であり、上卦の艮は同時に震でもある。卦体が同じなので、もともと分別する必要がない。卦象が往来反覆すれば、卦辞もまた往来反覆する。しかし虞翻は九五をもって小子とし、兌は少なので「小子」と言うとした。しかし兌は少女であり、どうして「小子」に当たることができようか。艮が小子であることは《周易》本経に見え、孟喜の逸象に見え、《焦氏易林》にはさらに多く見える。かつて兌をもって小子としたことはない。虞翻は覆震が即ち丈夫であることを解さず、無理に九四が丈夫だと言い、しかも《大過》九二の「老夫」を取って例証とした。しかし《大過》九二の「老夫」が言うのは対卦《頤》の震であり、本卦の巽ではない。虞翻は先ずすでに《大過》を誤解し、またこの誤解を持って《随》を解いたのだから、錯に錯を加えたではないか。
随六二「小子に繫り」、九四「道に在りて以て明らかなり」、上六「王西山に於て享を用う」の象
艮為小子,為道,是易用中爻也。兌為西,兌伏艮,艮為山,震為王,故曰王用享於西山,是本象與對象不分,易本如此,為《易林》所本也。
艮は小子であり、また道路である。これは《周易》が中爻互体を使用していることを示す。兌は西であり、兌の下に伏するものは艮であり、艮は山であり、震は王である。だから上六に「王西山に於て享を用う」と言う――君王が西山で祭享を行う。これで本象と対象が通用して分別を加えないことが分かる。《周易》はもともとこのようであり、《焦氏易林》はまさにそれを承襲して来たものである。
蠱の父母の象
蠱無乾坤,而爻詞言父母,自東漢以來無明其故者。毛奇齡謂壞事有漸,蓋自其祖父而已然,如是解經,經無有不通者矣。其餘皆用卦變,謂蠱原為泰卦,泰坤乾,故言父母,此說也似是矣,然卦之從泰來者多矣,不言父母。杭氏云:「艮居戌亥,則乾位也,消息卦亦坤位也;巽居未申,則坤位也。艮巽既與乾坤先後天同位,故爻象及於父母。」此說也較前說進矣,仍未得也。
《蠱》卦は上が艮・下が巽で、本来乾坤の二体がないのに、爻辞は「父」「母」を言い及んだ。後漢以来、その中の理由を説明できる者がいなかった。毛奇齢は事の壊れ敗れるのは漸進の過程があり、おそらく祖父の輩からすでにそうだったと言う――このように経を解すれば、天下に解き通せない経文はなくなる。その他の人は皆卦変をもって講じ、《蠱》は本来《泰》卦から変じて来たもので、《泰》には坤があり乾があるので父母と言うとした。この説は一見理があるようだが、《泰》卦から変じて来た卦は非常に多く、他の卦は父母を言わない。杭辛斎が言う。「艮は後天において戌亥の位に居り、それはまさに乾の位置であり、消息卦においてはまた坤の位置である。巽は未申の位に居り、それはまさに坤の位置である。艮・巽はすでに乾坤と先天後天において同位なので、爻象が父母に言及した。」この説は前の数種より一歩進んだが、依然として的中していない。
按《易林》大畜之蠱云「一巢九子,同公共母」,蠱艮巢震子,震又為父,故曰同公;巽母,故曰共母。又恆之豐云「監牛之讒,賊其父兄」,豐離為牛、為有言,故曰讒;震為父為兄,互大坎為賊,故曰賊其父兄。又升之兌云「父子相賊」,兌通艮互震,為父為子,坎為賊。又謙之歸妹云「爪牙之志,怨毒祈父,傷不及母」,歸妹兌為爪牙,震為士為言,又為父,故曰祈父;震通巽,巽伏,故不及。又旅之漸云「逶迤四牧,思念父母」,漸上巽,巽母,通震,震父,下互坎,坎思,故曰思念父母。《易林》以震為父,以巽為母,可謂明確矣。巽母尤多,詳在小過六二。蠱上互震,下巽,故前五爻皆言父母;至上爻出震巽,故不言父母,《易林》仍本之易也。易象失傳,無論若何揣測,皆不能得解。豈惟易難解,卽《易林》亦不知所謂也。
按ずるに《焦氏易林》「大畜之蠱」の林辞に「一巣九子、公を同じくし母を共にす」とある――之卦《蠱》の上の艮は巣であり、震は子であり、震はまた父なので「同公」と言い、巽は母なので「共母」と言う。また「恒之豊」の林辞に「監牛の讒、その父兄を賊す」とある――之卦《豊》の下の離は牛であり、また有言なので「讒」と言い、震は父・兄であり、互体の大坎は賊なので「賊其父兄」と言う。また「升之兌」の林辞に「父子相賊す」とある――《兌》は《艮》と通じ、互体に震があり、震は父・子であり、坎は賊である。また「謙之帰妹」の林辞に「爪牙の志、祈父に怨毒す、傷は母に及ばず」とある――《帰妹》の上の兌は爪牙であり、震は士・言であり、また父なので「祈父」と言う。震は巽と通じ巽は伏蔵して見えないので「傷不及母」と言う。また「旅之漸」の林辞に「逶迤たる四牧、父母を思念す」とある――《漸》の上卦は巽であり、巽は母であり、巽はまた震に通じ、震は父であり、下卦は互体して坎を成し、坎は思なので「思念父母」と言う。《易林》が震をもって父とし巽をもって母とするのは、十分に明確と言える。その中で巽を母とする例は特に多く、詳しくは《小過》六二の条に見える。《蠱》卦は上体が互震・下体が巽なので、前五爻は皆父母に言及する。上九に至ってはすでに震巽の外に出たので、もはや父母を言わない――《易林》は依然として《周易》に本づいている。易象が一旦失伝すれば、どのように揣测しても解を得ることができない。もはや《周易》が解し難いだけではなく、《易林》もまたそれがいったい何を言っているか読み取れない。
臨九二「利ならざるなし」
此與利涉大川義同也,仍陽遇陰則通之旨也。凡易象如此者,皆利有攸往,利往卽利涉大川。坤水在前,震船行上,《易林》以震為舟。《易林》一象之闡明,切要如此。而虞翻以二至上體復為說,不知此為周易通例,不祗復也。惟未用其故智,謂二失位宜變陰成復,尚差強人意耳。
《臨》九二に「利ならざるなし」と言うのは、「利渉大川」と同じ一つの意であり、依然として「陽が陰に遇えば通ず」という宗旨である。およそ《易》の中で卦象がこのようなものは皆「往くところあるに利し」と言い、「利往」は即ち「利渉大川」である。《臨》卦は上に坤があって水が前にあり、二から四まで互体して震を成して船がその上を行く――《焦氏易林》はまさに震をもって舟とする。《易林》が一つの卦象を闡明するに、緊要な所はまさにここにある。虞翻は二爻から上爻までが《復》卦の体を成すことをもって解釈したが、これは《周易》の通例であって《復》卦に限らないことを知らない。ただ彼は今回は老手段を使い出さず、九二が位を失い陰爻に変じてはじめて《復》を成すと言わなかったので、まだ強いて人の意に副うと言える。
噬嗑の卦名の解
杭氏曰:「先天離,後天震,皆居東,故曰噬嗑。」合也。彖傳曰「雷電合而章」,亦以先後天相合也。
杭辛斎が言う。「先天の離と後天の震がともに東方に居るので、卦名を『噬嗑』と言う。」「嗑」とは即ち合の意である。《彖伝》に「雷電合して章なり」と言うのも、まさに先天・後天の両象が相合することについて言ったものである。
噬嗑「昔肉」「干胏」「干肉」の象
坎為肉,東漢人無知者。虞翻解噬嗑六三昔肉云:「艮為膚,三在膚裡,當艮中爻,故稱肉。」荀爽則以四為昔肉,其不當與虞也。按《易林》咸之屯云「哺以酒脯」,屯上坎,坎為酒為脯。孟氏逸象「坎為酒為內」,內象不合,說者以納為解,吾疑內為肉之訛字。震口為哺也。蒙之艮云「攫飯把肉」,艮手,為攫為把,中爻坎,為飯肉。又師林云「鳥鳴呼子,哺以酒脯」,震為鳴為子,為鳥為哺,坎為酒脯,師無艮象,坎為肉脯之象益明。然後知噬嗑三爻之昔肉、四爻之乾胏、五爻之乾肉,皆坎象也,噬嗑三至五互坎也。餘前謂吾人有不知其象者矣,斷無象外之詞者,此也。有清一代之究治漢易者,如惠棟,如張惠言,宗王荀虞,固無論矣,他如毛西河、惠士奇、焦循、姚配中、王引之等,皆矯矯立異者,而訖不知此三象之何屬,徒以能尋摭昔字胏字之音訓為博,則以肉象失傳也。
坎は肉であり、後漢人は一人も知らなかった。虞翻は《噬嗑》六三の「昔肉」(腊肉)を解して言う。「艮は膚であり、六三は膚の中にあり、ちょうど艮の中爻に当たるので肉と称す。」荀爽は九四をもって「昔肉」としたが、その不妥は虞翻と同じである。按ずるに《焦氏易林》「咸之屯」の林辞に「酒脯を以て哺る」とある――之卦《屯》の上卦は坎であり、坎は酒・脯である。孟喜の逸象に「坎は酒、内」とあり、「内」という象は説き通せず、講じる者は「納」の字を持ち出して解釈したが、私は「内」が「肉」の訛字ではないかと疑う。震は口なので「哺」(食べさせる)と言う。「蒙之艮」の林辞に「飯を攫み肉を把る」とある――艮は手なので「攫」・「把」と言い、中爻は互体して坎を成すので「飯」「肉」と言う。また《師》卦本宮の林に「鳥鳴きて子を呼び、酒脯を以て哺る」とある――震は鳴・子・鳥・哺であり、坎は酒脯である。《師》卦には艮象がないので、坎が肉・脯である象はなおさら明白である。こうしてはじめて《噬嗑》六三の「昔肉」、九四の「干胏」、六五の「干肉」は、いずれも坎象であることが分かる――《噬嗑》は三から五爻までちょうど互いに一つの坎を出す。私は前に「我々にはそれが何の象か知らないものはあっても、象の外に出る辞は決してない」と言ったが、指すのはまさにこの類である。清代一代で漢易を研治した人、恵棟・張恵言の如きは王弼・荀爽・虞翻を宗奉したのは言うまでもなく、その他毛奇齢(西河)・恵士奇・焦循・姚配中・王引之らは、皆敢えて標新立異する人々でありながら、終始この三か所の象がいったいどの卦に属するかを知らず、ただ「昔」の字・「胏」の字の音訓を捜索して博学を誇示するにすぎなかった――これは皆「坎為肉」という象が失伝したためである。
剥卦「貫魚以て宮人の寵たり」の解
孟氏逸象,巽為魚,《姤》九二、九四之魚是也。《中孚》魚亦用巽。至坤之??????吉者,虞翻謂剝消《觀》巽,巽為魚為繩,故貫魚。夫巽既消矣,何有魚象?更何有繩象?何妥、崔憬以魚為陰類,宮人、后妃皆坤陰象,故取之。
孟喜が伝えた逸象の中で、巽卦は象を魚に取り、《姤》卦九二爻辞の「包に魚あり」、九四爻辞の「包に魚なし」の言う魚はこの象を用いたものであり、《中孚》卦が魚に講じるのも同じく巽象を取った。そして「坤之□□□□□□吉」のあの条(ここの原文は六字が缺し、敢えて臆補しない)に至っては、虞翻の解釈はこうである。《剥》卦は《観》卦から消息して递変して来たもので、《観》卦の上体は本来巽であり、巽はすでに魚でありまた繩なので、爻辞に「貫魚」と言う、と。しかし巽体は消息推移の中ですでに消え尽きたのに、どこにまだ魚象を留めることができようか。さらにどこにまだ繩象を留めることができようか。何妥・崔憬は象数を打ち捨てて改めて義理から説を立て、「魚」を陰類の通称と見なし、宮人・后妃は皆坤の陰柔の象に属すると考え、だから《剥》卦六五がこのように取譬したとした。
後世如毛奇齡、惠棟、姚配中、王引之、張惠言、朱芹、臧頤煊等,皆祖述此義,更以《禮》注宮人當夕次敘,敷演貫魚之義,其窮窘更甚於何、崔矣。按《易林·革之頤》云:「尼父孔丘,善釣鯉魚,羅罔一舉,得獲萬頭。」《頤》上艮,艮山,故曰尼父、曰孔丘,反震為孔也。艮手為釣,坤為鯉魚,大離為羅罔,坤眾為萬頭。
後世の学者、毛奇齢・恵棟・姚配中・王引之・張恵言・朱芹・臧頤煊らは、皆何妥・崔憬のこの一路の講法を承襲し、さらに一歩進んで《礼記》の旧注の言う宮人が順に侍寝する先後の次序を持ち出して、「貫魚」の意を取り繕った。その牽強局促は何妥・崔憬よりも甚だしい。今按ずるに焦延寿《易林・革之頤》に言う。「尼父孔丘、鯉魚を釣るに善し、羅罔を一たび挙げれば、万頭を獲得す。」《頤》卦の上体は艮であり、《説卦》に艮は山であり、孔子は尼丘の山に生まれたので、林辞は「尼父」と称し「孔丘」と称する。艮を倒して見れば即ち震であり、震は大塗で中が虚にして孔があるので、また一つの「孔」の字を取った。艮は手なので、竿を執りて垂釣する象がある。坤は鯉魚である。《頤》卦の中の四爻が合わさって大離を成し、離は網罟なので「羅罔」と言う。坤は衆多なので「万頭」と言う。これでこの条の林辞の魚は、まさに坤から取象したものであって、巽から取象したものではないことが分かる。
又《訟之比》云:「求我所有,買魴與鯉。」《比》艮為求,重坤,故曰魴、曰鯉。又《小畜之剝》云:「孔鯉伯魚。」至於貫象,《剝》下有三坤,三魚排敘而進,貫象自著。又《洞林》豫之小過曰:「五月晦日,群魚來入州城寺舍。」坤變艮,故魚入城,是郭璞以坤為魚,與《易林》同也。
また《易林・訟之比》に言う。「我が有する所を求め、魴と鯉を買う。」《比》卦は三から五爻まで互体して艮を成し、艮は求取である。《比》卦の下体は坤であり、二から四爻がまた互体して坤を成し、重坤の象を成すので、林辞ははじめて「魴」と言い「鯉」と言う。また《小畜之剥》に「孔鯉伯魚」とある。孔鯉は字が伯魚であり、依然として坤魚の象である。「貫」の字の取象に至っては、《剥》卦の下には三重の坤が畳まれ、三條の魚が順に並んで行くので、貫串の形象が自然に顕現する。さらに郭璞《洞林》の記す豫之小過を占い得た条を見るに、「五月晦日、群魚来りて州城寺舎に入る」とある。坤が変じて艮となり、艮は門闕城邑なので、魚が城の中に入ると言う――これで郭璞もまた坤をもって魚とし、《焦氏易林》の用象と全く一致することが分かる。結論するに、《剥》六五の「貫魚」は坤象を用いたのであって、巽象ではなく、虞翻の説と何・崔の説は皆空しくなった。
復卦「崩来无咎」の解
虞仲翔作朋,兌為朋,以陽息至二成兌為說;京氏作崩,以艮覆為說。後儒從虞者多,從京者鮮,祗惠棟以虞說為不然,謂陽息尚未至二,胡得先言,主京氏說。茲以《易林》證之。《謙之姤》云:「山石朽敝,消崩墮落。」《姤》通《復》,《剝》艮窮上反下,反下則艮覆,山覆地,非崩而何?
虞翻(字は仲翔)は《復》卦辞のこの字を「朋」と書いた。理由は兌が朋であり、陽気が生息して第二爻まで上に長ずれば兌体を成すからである。京房は「崩」と書いた。理由は艮卦が倒覆すればまさに山崩の象だからである。後世の儒者は虞翻に依从する者が多く、京房に依从する者が少なく、ただ恵棟だけが虞説は説き通せないと考えた――《復》卦は一陽が初生し、陽息はまだ第二爻まで長じていないのに、どうして予め兌と言うことができようか。だから彼は京房の説を主とした。今《焦氏易林》をもって検証する。《謙之姤》に言う。「山石朽敝し、消崩して堕落す。」《姤》と《復》の両卦は旁通である。《剥》卦の艮は上爻まで走ってすでに窮極し、窮極すれば反転して下に向かい、一たび反転すれば即ち倒艮となり、山は翻覆して地に在る。「崩」でなくて何であろう。
又《屯之蒙》云:「山崩谷絕。」《蒙》二至五亦《復》體,亦以二至四覆艮為山崩。又《蹇之屯》云:「作室山根,人以為安,一夕崩顛。」《屯》中爻艮,艮為山為室,故曰作室山根。坎為夕,數一。震為覆艮,故曰一夕崩顛。由是證焦氏亦讀朋為崩,與京氏同也。漢人無讀崩者,獨焦讀與京同,授受分明矣。
また《易林・屯之蒙》に言う。「山崩れ谷絶え。」《蒙》卦の二から五爻までもまたまさに《復》の卦体であり、同じく二から四爻までの倒艮を取って山崩の象とした。また《蹇之屯》に言う。「室を山根に作れば、人は以て安しとす、一夕に崩れ顛る。」《屯》卦の中爻は互体して艮を成し、《説卦》に艮は山であり、また門闕宮室であるので、林辞は「作室山根」と言う。坎は夜であり、その数は一なので「一夕」と言う。震は即ち倒した艮なので「崩顛」と言う。この数条によって焦延寿もまた「朋」を「崩」と読んだことが証明でき、京房と全く同じである。漢代のその他の人で「崩」と読んだ者はおらず、ただ焦延寿の読法だけが京房と一致するので、二人の師承授受の脈絡がはっきりと分かる。
惠棟雖主京說,徒以《剝》消艮入坤為崩,至入坤出震之何以仍有崩象,焦、京全用覆象之義,則不詳也。東漢人於覆象偶知之,如謂《中孚》《大壯》有反巽是也。至象覆卽於覆象取義,如《蒙》之「童蒙求我」、《泰》上六之「城覆於隍」及《復》下震之為山崩,則無一人能詳也。惠棟主荀、虞者,故雖用京說,而不詳其義。
恵棟は京房の説を主張したが、ただ《剥》卦の陽が消え、艮体が坤に入るのを崩と言うことだけを講じた。陽がすでに坤に入りまた震に出た後になぜ依然として崩象を保つのか、即ち焦延寿・京房が全く倒覆の象に拠って説を立てた道理については、彼は説き明かせなかった。後漢人は倒覆の象に偶々察知したこともあった。例えば《中孚》《大壮》の中に反巽を含むと言ったのがそれである。しかし卦象が一たび倒覆すれば倒覆の象の上から義を取るということ、《蒙》卦の「童蒙我を求む」、《泰》卦上六の「城隍に覆る」および《復》卦の下体の震を取って山崩とすることの如きを説くとなると、一人も説き明かせる者がいなかった。恵棟は荀爽・虞翻の一派を宗主としたので、京房の読法を採用したものの、その中の道理を説き出すことができなかった。
復卦「出入疾なし」の解
虞謂十二消息不見坎象,故無疾。豈知《復》雖為候卦,十二消息有坎無坎,於《復》義何取乎?凡虞說不顧本經,祗演空象,多類此,故後儒除張惠言宗主虞《易》外,多駁之者,然亦無的解也。近易家杭辛齋謂此疾字為「不疾而速」之疾,似亦未協。
虞翻が言う。十二消息卦の中で《復》卦には坎象が見えないので、卦辞に「无疾」と言う、と。しかし《復》は節候に配応する消息卦ではあるが、十二消息の中にいったい坎象があるかどうかは、《復》卦自体の文義と何の関係があるのか。およそ虞翻が説を立てるのは、往々にして本経の文義を打ち捨て、空洞な象数の上で推演するだけであり、大半がこの類の病である。だから後代の学者は張恵言が虞氏《易》を宗主とした以外は、多く彼を駁斥した。しかし確かな解を持ち出すこともできなかった。近代の易学家杭辛斎はこの「疾」の字を《繫辞》の「疾せずして速し」の疾と解して、快速と講じたが、見るにまた妥帖でない。
按《易林·豐之復》云:「蒙佑諧偶,獲利五倍。」諧偶者,言陽得陰而諧和為偶,偶卽朋也,故能獲利。又《益之復》云:「德施流行,利之四鄰。」乾為德,乾流坤,故之四鄉無不利。震位四,坤為鄉也。又《既濟之復》云:「心願所喜。」《中孚之復》云:「宜利止居。」夫曰喜、曰利、曰諧,卽無疾之疾之義也。疾者,嫉也、患也、害也,坤為害,見於《繫辭》,見於孟氏逸象。
按ずるに焦延寿《易林・豊之復》に言う。「祐を蒙り偶を諧し、利を獲ること五倍。」いわゆる「諧偶」とは、陽爻が陰爻を得て和諧に配対することを言う。配偶は即ち朋友なので、利を獲ることができる。また《益之復》に言う。「徳施流行し、四隣に利あり。」乾は徳であり、乾の陽気は坤の中に流布するので、四方に往けば利でないことがない。震は方位数の中で第四に居り、坤は郷邑なので「四隣」「四郷」と言う。また《既済之復》に「心の願う所喜ばれ」とあり、《中孚之復》に「宜しく利し止居せよ」とある。この数条の林辞の本卦は皆《復》であり、およそ「喜」・「利」・「諧」を言うのは、まさに「无疾」の一语が表そうとする意であり、また反対に「疾」の字の確かな訓釈を点明した。「疾」とは即ち嫉恨であり、憂患であり、禍害である。坤は害であり、《繫辞》に見え、また孟喜の伝えた逸象にも見える。
出入無疾者,言此一陽,入坤出震,得陰為朋友。陰陽之為朋友,自東漢以來無知者,皆以陰遇陰、陽遇陽為朋。近杭辛齋始謂陰以陽為朋,陽以陰為友,與《易林》闇合。餘征之《易》,若《復》之朋,則指陽也;若《豫》之朋,則指陰也,陰陽互為朋友也。惟同性者斷無朋友,故《坤》之「得朋」「喪朋」,自東漢以來皆錯詁。
いわゆる「出入无疾」とは、《復》卦のこの一つの陽爻が、坤に入り震に出て、衆陰を得て朋友とすることを言う。陰と陽が互いに朋友となるというこの層の道理は、後漢以来明らかにした人がおらず、皆陰が陰に遇い陽が陽に遇うのを「朋」とした。近人杭辛斎になってはじめて陰は陽をもって朋とし陽は陰をもって友とすると提起し、ちょうど《焦氏易林》の用法と暗中で相合した。私は《周易》の本文を持って検証する。《復》卦の言う「朋」が指すのは陽であり、《豫》卦の言う「朋」が指すのは陰である――これで陰陽が互いに朋友であることが分かる。ただ同性の間では断じて朋友とは言えないので、《坤》卦辞の「朋を得」「朋を喪う」は、後漢以来皆解き誤ってきた。
無有疾害之者,與《臨》二之「利有攸往」、《大畜》九三之「利有攸往」同也。後人徒見《說卦》坎為病,故以疾字屬坎,民知卦無坎象,胡能於坎上求?又疾字之訓為疾病者,乃疾字訓詁之一,其見於經傳,以患害為訓者尚多也。且坤為害,於象尤切也為甚。無害,彖所謂「順以動」也。
「无疾」とは、それを危害するものがないということであり、これは《臨》卦九二の「往くところあるに利し」、《大畜》九三の「往くところあるに利し」と同じ路数であり、いずれも陽が陰に遇って通暢するものである。後の人はただ《説卦》に「坎為心病」という条があるのを見て、「疾」の字を坎象に繫げた。しかし《復》卦は本来坎象がないのに、どうして坎の上に求めることができようか。ましてや「疾」を疾病と訓するのは、「疾」の字の衆多の訓詁のうちの一種にすぎず、それが経伝において憂患・禍害と訓された例はなお多い。しかも坤は害であり、取象において特に貼切の極みである。「無害」である所以は、まさに《彖伝》の言う「動きて以て順に行く」である。
復卦の大象「先王至日を以て關を閉ず」の解
鄭玄、虞翻、宋衷皆以至日為冬至,王輔嗣、孔穎達皆主二至言。清儒治漢《易》者惡輔嗣之掃象,向不取之,而主鄭、虞。茲《易林·晉之解》云:「二至之戒,家無凶禍。」戒卽商旅不行、后不省方也,而曰二至。又《復之履》云:「先王日至,不利出域。」《履》三至上《姤》,《姤》夏至,不利出域,卽后不省方也。
鄭玄・虞翻・宋衷は皆「至日」を冬至と解した。王弼(字は輔嗣)・孔穎達は冬至・夏至の二つの至日を兼ねると主張した。清代に漢《易》を治める学者は王弼が象数を掃除したことを嫌い、従来彼の説を採らず、鄭・虞の説を主とした。今按ずるに《焦氏易林・晋之解》に言う。「二至の戒め、家に凶禍なし。」いわゆる「戒」とは、まさに《復》卦大象の「商旅行わず、后方を省みず」の意であり、しかし焦延寿はひとえに「二至」と言った。また《復之履》に言う。「先王日至、域を出るに利あらず。」《履》卦の三爻から上爻まではちょうど《姤》を合し、《姤》は夏至に当たり、「不利出域」は即ち「后不省方」である。これで焦氏が《復》象の「至日」を読むに、すでに夏至を兼摂していたことが分かる。
又《夬之頤》云:「二至靈臺,文所止遊。」《頤》下震,體《復》,為冬至;上艮,為反震,震反則夏至而《姤》矣。《易林》用象之神妙,不可思議如此。據此以推,《復》象之至日閉關,《易林》亦以為二至也。
また《夬之頤》に言う。「二至の霊台、文の止まり遊ぶ所。」《頤》卦の下体は震であり、《復》の卦体を含み、冬至に当たる。上体は艮であり、まさに震の反象であり、震が一たび反転すれば即ち夏至となり《姤》となる。一卦の中に冬夏の二至がともに備わるので、林辞は直に「二至」と言う。《焦氏易林》の卦象を運用する神妙は、かくも不可思議の境地に至った。これに拠って推論すれば、《復》卦大象の言う「至日閉關」も、《易林》は冬夏二至として理解したものである。
又《後漢·魯恭傳》:「案《易》,五月《姤》用事,經曰『後以施令』(注亦作『令』,與今本異)『誥四方』,言君以夏至之日施命令,止四方行者,所以助微陰也。」注云:「《復》卦曰:『先王以至日閉關,商旅不行。』故夏至宜止行也。」是魯恭亦以至日為二至,與《易林》同也。
また《後漢書・魯恭伝》に魯恭が上疏して言うと載せる。「《周易》を考えるに、五月は《姤》卦が当令して事を用い、経文に『后以て令を施し』――李賢注の引く所も『令』の字で、今本《周易》の『命』と異なる――『四方に誥す』とあるのは、君主が夏至のこの日に号令を頒布し、四方の行旅を禁止して、剛萌えた微陰を扶助することを言う。」李賢注はまた言う。「《復》卦大象に『先王至日を以て關を閉ず、商旅行わず』と言うので、夏至もまた行旅を停止すべきである。」これで魯恭も同じく「至日」を冬夏二至と理解し、《焦氏易林》と一致したことが分かる。
《復》為冬至,消息卦甚明,鄭、虞不誤也。但謂至日亦祗言冬至,則誤,大象之義,無不推闡言也。況《復》卦卦辭曰「出入無疾」,出者出震,入者入巽,鄭、虞、王無異詁也。出震成乾則《復》,入巽成坤則《姤》,《復》則冬至,《姤》則夏至也。
《復》卦が冬至に配されるのは、十二消息卦の中で十分に明確であり、鄭玄・虞翻は間違っていない。しかしもし大象の「至日」も冬至のみを指すと言えば、それは誤りである。大象の取義は推衍引申しないものがないからである。ましてや《復》卦卦辞に「出入无疾」と言い、「出」は震に出ずること、「入」は巽に入ることであり、この点は鄭玄・虞翻・王弼の三家の解釈に分岐がない。陽が震に出て上に乾を成せば即ち《復》であり、陰が巽に入り上に坤を成せば即ち《姤》である。《復》は冬至に当たり、《姤》は夏至に当たり、一卦の辞がすでに両至を兼ねている。
又曰:「反復其道,七日來復。」《復》七日而反《姤》,《姤》七日而反《復》,《復》而《姤》,《姤》而《復》,循環不已。京房曰:「《復》者,六爻反復之稱也。」《復》一日《臨》,二日《泰》,三日《大壯》,四是《夬》,五日《乾》,六日七日則反《姤》;《姤》一日《遯》,二日《否》,三日《觀》,四日《觀》,五日《坤》,六日七日則反《復》,共十四日,故《復》七日不能來復。故出入反覆,皆兼《復》《姤》言也,《復》《姤》則二至也。卦辭用旁通,《易》恆例也。
卦辞はまた言う。「其道を反復し、七日にして来復す。」《復》は七日を経て返って《姤》となり、《姤》は七日を経て返って《復》となる。《復》より《姤》、《姤》より《復》と、循環して止まない。京房が言う。「いわゆる《復》とは、六爻が反復往還する名称である。」《復》から起算すれば、一日は《臨》、二日は《泰》、三日は《大壮》、四日は《夬》、五日は《乾》、六日・七日にして返って《姤》となる。《姤》から起算すれば、一日は《遯》、二日は《否》、三日は《観》、四日は《観》(消息の序に依れば《剥》と作るべき)、五日は《坤》、六日・七日にして返って《復》となる。前後合わせて十四日なので、単に《復》から起算して七日では真に《復》に帰ることはできない。これで「出入」と「反復」は皆《復》《姤》の両卦を兼ねて言うことが分かり、《復》《姤》は即ち冬夏二至である。卦辞が旁通の卦を兼用するのは、もともと《周易》の通例である。
餘說《易》,向無漢宋之分,然最咎輔嗣掃象,以從此人不知《易》為何物,避難就易,祛實蹈虛。至程伊尹,遂出其大無畏之精神,哆口談空,皆輔嗣作之俑。然輔嗣掃象,輔嗣尚知象,故其注往往由象而生,能與《易林》合,故取之。
私の《易》を講ずるに、従来漢学・宋学の門戸を分たない。しかし最も王弼が象数を掃除したことを責める。彼以後の人が《易》が何物かを知らず、難所を避けて易しきを専ら拾い、実証を抛棄して虚空に蹈むようになったからである。程頤に至っては、さらに彼のあの大無畏の精神を持ち出し、口を開けば空理を談じるようになった。これらは皆王弼が始めたことである。ただし王弼は象を掃いたものの、彼自身は実は象を解していた。だから彼の注解は往々象から生じ、《焦氏易林》と相合することができる。ゆえに私も彼の説を採用する。
朱子晚年《易》說云:「程子謂得其義則象數在其中,吾以為先見象數,方說得理。不然,事無實證,則虛理易差。」又云:「聖王崇《詩》《書》《禮》《樂》以造士,未嘗言《易》,《易》自別是一個道理,某枉費許多年功夫。」蓋深知《易》象之重,然已無及。
朱熹が晚年に《易》を論じて言う。「程子は義理を領会すれば象数は自然にその中に含まれると考えたが、私は先に象数を見てはじめて義理を説き出せると考える。そうでなければ、事に実証がなく、虚懸の義理は偏差しやすい。」また言う。「聖王は《詩》《書》《礼》《楽》を推崇して士人を培養し、かつて《易》を専ら講じたことはない。《易》は自ら別の一套の道理であり、私はこの上に多年の工夫を空費した。」これで朱子が晚年に《易》象の分量を深く知ったことが分かる。ただすでに補救するのに間に合わなかった。
「无妄」の確詁
《史記·春申君傳》作無望,言無所期望也。京房則以為大旱之卦,萬物皆死,無所復望。《漢書·谷永傳》「處無妄之卦運」,《後漢書·崔駰傳》「值無妄之世」,亦皆義取無望,後馬、鄭皆從之。虞翻則訓妄為亡,無妄者,無所亡失也,自謂本《序卦》。何妥、崔憬、王弼,則又妄為虛妄,無妄者,言凡物見雷,盡失其虛妄也。
《史記・春申君列伝》はこの卦名を引くに「无望」と書き、意は指し望むべきものがないことである。京房は《无妄》を大旱の卦と見なし、万物が尽く死し、もはや指望がないとした。《漢書・谷永伝》に「无妄の卦運に処り」、《後漢書・崔駰伝》に「无妄の世に値う」とあり、取ったのも皆「无望」の義であり、後に馬融・鄭玄が皆この説を沿用した。虞翻は「妄」を「亡」と訓し、「无妄」は亡失するものがないことだと言い、自らこれが《序卦》の「復すれば則ち妄ならず」の一句に本づくと称した。何妥・崔憬・王弼はまた「妄」を虚妄と講じ、「无妄」は万物が一たび雷声を聞けば虚妄の心が尽く消失することを指すと言った。
清儒惠士奇、張惠言、姚配中、焦循用虞義,毛西河、俞樾等用王弼義,祗惠棟用西漢說,以妄為望,議論紛歧,莫衷一是。今案《易林·復之無妄》云:「年歲無有。」又《未濟之無妄》云:「秋飢無年。」皆作無望也。因思《彖傳》云:「無妄之往,何之矣。」亦作無望。
清代の学者恵士奇・張恵言・姚配中・焦循は虞翻の義を採用し、毛奇齢(西河)・俞樾らは王弼の義を採用し、ただ恵棟だけが西漢の旧説を採用し、「妄」を「望」と読んだ。衆説が紛紜して帰一する所がない。今按ずるに焦延寿《易林・復之无妄》に言う。「年歳有ることなし。」また《未済之无妄》に言う。「秋に飢えて年なし。」この二条の林辞の変じ至った之卦は皆《无妄》であり、辞意は全く年成が落空し指望が断絶することにあるので、焦氏が読んだのはまさに「无望」であることが分かる。これによって再び頭を回らして《彖伝》の言う「无妄の往、何くにか之く」を見れば、また「无望」と読むべきである――まさにすでに指望がないので、さらに前に進んでも往く所がない。
初九云:「無妄往吉。」言非所期望而吉也。六三云:「無妄之災。」言非所期望而有災也。九五云:「無妄之疾。」言疾已無望而竟愈也。上九云:「無妄,行有眚。」言事已無望,行必有眚也。若作無亡失、無虛妄解,義皆背戾,祗初九爻詞於二義尚可通,然亦不如無望義長。
初九爻辞に「无妄往吉」と言うのは、もともと指望の中にないのに吉を得ることを言う。六三に「无妄の災」と言うのは、もともと指望の中にないのに災に遭うことを言う。九五に「无妄の疾」と言うのは、病情がすでに指望がないのに竟に全癒することを言う。上九に「无妄、行けば眚あり」と言うのは、事がすでに指望がなく、さらに行動すれば必ず禍患があることを言う。もし虞翻に照らして「亡失なし」と解し、王弼に照らして「虚妄なし」と解すれば、この数条の爻辞の文義は皆互いに抵触する。ただ初九の一爻だけがその二種の解釈の下でまだ辛うじて講じ通るが、しかし「无望」の義の貫通するにはるかに及ばない。
虞翻謂《序卦》「復則不妄矣」,故以妄為亡,豈知《雜卦》云「無妄,災也」,亦謂無望,無望故災。韓康伯云:「《序卦》之所明,非《易》之縕,蓋因卦之次,託象以明義。」專以孩卦次之亂,故其上下卦綰合之義,非盡可據以解經。如「物不可以久居其所,故受之以《遯》」,「物不可以終壯,故受之以《晉》」,如「傷於外者必反其家」,如「困乎上者必反下,故受之以《井》」,顯為綰合之詞,其不能據以解經,亦明矣,此虞義之失也。
虞翻は《序卦》の「復すれば則ち妄ならず」に拠って、「妄」を「亡」と訓した。しかし《雑卦》は明らかに「无妄は災なり」と言う。それもまた「无望」の義である――まさに指望がないので、はじめて災がある。韓康伯はかつて言った。「《序卦》の闡明する所は、《周易》の深い蘊ではなく、ただ六十四卦の排列次第に就いて、卦象を仮託して義理を説明するにすぎない。」それは専ら卦序の参差を彌縫するものなので、上下の両卦を串合するあのような説法は、全て経を解するのに用いることはできない。譬えば「物は久しく其の所に居るべからず、故に《遯》を以て受く」、「物は終わりまで壮にすることあたわず、故に《晋》を以て受く」、また「外に傷れる者は必ず其の家に反る」、「上に困む者は必ず下に反る、故に《井》を以て受く」の如きは、明らかに皆前後の卦名を串合する連綴の辞であり、これを拠って経を解することができないこともまた明白である。これがまさに虞翻の立説の失誤の所在である。
若如崔、何等解作無虛妄,無虛妄者,信也,《中孚》也。《中孚》而信,天下豈有不利有攸往者哉?尤與《彖傳》不合。若作無望,則皆協也。西漢時無不如是詁也,非祗《易林》也。至東漢末,《易》失傳,始雜說紛歧矣,乃後儒從東漢者多,則不可解。
もし崔憬・何妥のように「虚妄なし」と解すれば、虚妄がないのは即ち誠信であり、即ち《中孚》の義である。すでに中心に誠信があるなら、天下にどうしてまだ「往くところあるに利あらず」の道理があろうか。これは《彖伝》の明かに言う「不利有攸往」と特に合わない。ただ「无望」と読めば、卦辞・彖伝・六爻が処処に妥帖する。西漢時の人は皆このように訓釈し、《焦氏易林》一家だけではない。東漢末年に至って《易》学が失伝し、はじめて雑説が紛起した。しかし後代の儒者はかえって多く東漢の説に依从した。これは人をして索解し得ないに足らしめるものである。
无妄の大象「天下雷行、物与无妄」の解
物與無妄者,物咸失其所望。京房《易傳》以為大旱之卦,百穀草木咸就枯槁,萬物皆死,無所復望。京氏之解,無一字不從象生:艮為火,大離為火,震為百穀草木,而離為枯槁,無雲而雷,繼以巽風,故萬物咸死。
いわゆる「物与无妄」とは、万物が皆それらの指望を失ったことを言う。京房《易伝》は《无妄》を大旱の卦と定め、百谷草木が一斉に枯槁し、万物が尽く死し、もはや指望がないとした。京房の解釈は一字として卦象から生じないものがない。《无妄》の中爻は互体して艮を成し、艮は火であり、全卦の二から五は合して大離を成し、離もまた火である。下体の震は百谷草木であり、離火がそれを枯槁させる。上が乾・下が震で、雲なくして雷が鳴り、それに続いて巽風が相煽ぐので、万物は悉く枯死する。
是以《易林·復之無妄》云:「踦牛傷暑,不能成畝,草萊不闢,年歲無有。」坤為牛,離亦為牛,伏大坎,坎蹇,故曰踦牛。艮火離火,故傷暑,卽京氏所謂大旱也。年歲無有,卽京氏所謂萬物皆死也,皆以釋物與無望之義也。又《無妄之革》云:「枯旱三年,草萊不生。」《革》通《蒙》,《蒙》上艮為火,互離為火,故曰枯旱,二至上與《無妄》初至四同也。焦、京之言,前後如一,足見京義皆受之焦也。
だから《易林・復之无妄》に言う。「踦牛暑に傷れ、畝を成すこと能わず、草莱辟かず、年歳有ることなし。」坤は牛であり、離もまた牛である。伏卦の中に大坎があり、坎は蹇跛なので「踦牛」(跛脚の牛)と言う。艮は火・離は火なので「傷暑」と言う。これはまさに京房のいわゆる大旱である。「年歳无有」はまさに京房のいわゆる万物皆死である――二句とも「物与无望」の意を解釈している。また《无妄之革》に言う。「枯旱三年、草莱生えず。」《革》は《蒙》と旁通し、《蒙》の上体の艮は火であり、中爻は互体して離を成してこれもまた火なので「枯旱」と言う。《蒙》の二爻から上爻までの卦体は、《无妄》の初爻から四爻までの卦体とまさに同じである。焦延寿と京房の説は前後一轍の如くであり、京房の義は皆焦延寿から承受して来たことが足りて見える。
乃至東漢,《易》象失傳,虞翻等既不知艮火象,又不識大離象,詫大旱之說之無根,謂京氏及俗儒失之遠矣。獨不思孔子《彖傳》,乃章解句釋卦詞者也,傳明曰「不利有攸往」「無妄之往,何之矣」,若作無亡,尚何之而不利?舍《彖傳》不從,而從《序卦》,是所謂舍近取遠、棄明就暗者也。後李道平作《集解》卷疏,又疑京氏大旱之說本於「無妄災」,仍未得也。
東漢に至って《易》象が失伝し、虞翻らは艮が火象を取り得ることを知らず、また大離の象を認識せず、そこで京房の大旱の説が全く根拠がないことに驚き、京房と俗儒が誤ること甚だ遠いと斥責した。彼らはあえて考えようともしない。孔子の《彖伝》はすなわち章ごと句ごとに卦辞を解釈するもので、《彖伝》は明らかに「不利有攸往」「无妄の往、何くにか之く」と言う。もし「无妄」が「亡失なし」なら、どこへ往けば利でないのか。近く眼前にある《彖伝》を舍てて依从せず、かえって《序卦》に依从するのは、これがいわゆる近を舍て遠を求め、明を棄てて暗に投ずるである。後に李道平が《周易集解纂疏》を作って、また京房の大旱の説が《雑卦》の「无妄は災なり」の一句から推し出されたものと猜想したが、依然として的中しなかった。
无妄六二「耕かず獲らず、菑せず畬せず、則ち往くところあるに利し」の説
彖曰「不利有攸往」,傳曰「無妄之往,何之矣」,皆不利也。震為耕穫,為菑畬,艮止,故不耕穫、不菑畬,不利也。前臨三陰,陰遇陰則阻,亦不利。象曰「未富」,亦不利。乃曰「則利有攸往」,後解此者,無論若何斡旋,若何委曲,總不能協。
卦辞の《彖》は「不利有攸往」と言い、《彖伝》は「无妄の往、何くにか之く」と言い、いずれも不利である。下体の震は耕種收穫・開荒墾田であり、中爻は互体して艮を成し、艮は止なので、耕かず獲らず・菑せず畬せずと言う。これもまた不利である。六二は前に三つの陰爻に臨み、陰が陰に遇えば阻まれるので、同じく不利である。《小象》に「未だ富まざるなり」と言うのも、やはり不利である。しかし爻辞はひとえに「則ち往くところあるに利し」と言う。後人がこの一句を解釈するに、どのように斡旋し、どのように委曲遷就しても、ついに講じ順うことができない。
案《禮·坊記》引此云:「不耕穫,不菑畬,凶。」多一凶字。既曰凶,則不利也明矣。《坊記》為七十子所述《易》說之最古者,或據此疑則為凶之訛字,或又疑此五字全為衍文,愚則疑仍彖詞之「不利有攸往」也。
考えるに《礼記・坊記》はこの句の爻辞を引くに「耕かず獲らず、菑せず畬せず、凶」と作し、今本より一つの「凶」の字が多い。すでに「凶」と言う以上、それが不利であることは極めて明白である。《坊記》は孔門七十弟子の伝述した《易》説の中で最も古い一種である。ある人はこれに拠って今本の「則」の字が「凶」の字の訛ではないかと疑い、ある人は「則利有攸往」のこの五字が全て後人の簒入した衍文ではないかと疑う。私はここは依然として卦辞《彖》の言う「不利有攸往」と同じくすべきではないかと疑う。
茲再證之。《易林·復之無妄》云:「踦牛傷暑,不能成畝,草萊不闢,年歲無有。」夫不能成畝、草萊不闢,卽不耕穫不菑畬也;年歲無有,卽無望也。又《未濟之無妄》云:「獨立山顛,求麋耕田,草木不闢,秋飢無年。」艮山,巽高,而乾為首,故曰獨立山顛。艮為求,震為麋為耕,麋非耕田之獸而使之耕,故曰草木不闢,釋不耕不菑也。秋飢無年,仍無妄也,凶也,與《坊記》之義如合符契,皆不利也。
今再び林辞をもって検証する。《易林・復之无妄》に言う。「踦牛暑に傷れ、畝を成すこと能わず、草莱辟かず、年歳有ることなし。」いわゆる「不能成畝」「草莱不辟」は、まさに爻辞の「不耕獲、不菑畬」であり、「年歳无有」はまさに「无望」である。また《未済之无妄》に言う。「独り山の顛に立ち、麋を求めて田を耕す、草木辟かず、秋に飢えて年なし。」《无妄》の中爻は互体して艮を成し、艮は山であり、伏巽は高であり、上体の乾は首なので「独立山顛」と言う。艮は求取であり、下体の震は麋・耕作であり、麋はもともと田を耕す牲畜ではないのに無理にそれに田を耕させるので、自然に田を墾出できず、「草木不辟」と言う。これはまさに「不耕、不菑」を解釈している。「秋飢無年」は依然として「无妄」であり、即ち「凶」である。これは《坊記》の引文と厳密に合致し、いずれも「不利」を指向する。
虞翻謂二應五,故利往,然二五皆當位,不能相升降,謂二孚五則可,謂二往五則不可。況《大畜》九三無應,而亦曰有攸往,則利往之不指應予明甚。又《遯》初六有應予,而爻詞曰「勿用有攸往」,陰遇陰則阻,則攸往之與應予無涉益明。此與《未濟》六三爻詞皆有訛誤,不能強說。
虞翻は六二が九五と相応するので、前往に利があると言う。しかし二・五の両爻は各々位に当たり、互いに昇降することができない。六二が九五に誠信すると言うのはまだよいが、六二が往って五位に居ることができると言うのはいけない。ましてや《大畜》九三には相応する爻がないのに、爻辞はやはり「往くところあるに利し」と言う。これで「利往」が応爻の有無に取决まらないことが分かり、これは極めて明白である。さらに《遯》卦初六には九四が応としてあるのに、爻辞はかえって「往くところあるを用いる勿れ」と言う。それは陰が陰に遇えば阻まれるからである――「有攸往」が応爻の有無と少しも相干らないことが足りて見える。ここの爻辞は《未済》六三の爻辞と同様に、いずれも文字の訛誤が存在し、無理に曲説することはできない。
大畜「利渉大川」の解
此與《蠱》之利涉大川同也。《蠱》彖曰「往有事也」,坤為事,言陽往得二陰為助也;《大畜》彖曰「應乎天也」,五為天位,亦言陽往得五陰為應也。《大畜》《蠱》自三以上體同也,皆以坤陰為大川也。又按《易林》與九家往往以乾為河,《大畜》乾水在下,中爻震為舟,舟在水上,利涉之象,說尤通也。
《大畜》の「利渉大川」は、《蠱》卦の「利渉大川」と同じ一つの道理である。《蠱》の《彖伝》に「往って事あり」と言い、坤は事であり、陽爻が前往して衆陰の助けを得ることを言う。《大畜》の《彖伝》に「天に応ず」と言い、第五爻は天位であり、同じく陽爻が前往して六五の陰とそれに相応することを得ることを言う。《大畜》と《蠱》は第三爻以上が卦体同じであり、両卦とも坤陰を取って「大川」とする。また《焦氏易林》と荀爽ら九家《易》は常に乾をもって河とする。《大畜》の下体の乾水は下にあり、中爻は互体して震を成して舟であり、舟が水上行けば、まさに「利渉」の象である。この講法はいっそう通暢する。
大畜九二「輿輹を説く」
旁通《萃》。《萃》二至四艮,艮為覆震,震為車為輹,震覆,故脫輹。震輹之象,由左氏、《子夏傳》尋得,義則《易林》用覆也。
《大畜》は《萃》と旁通する。《萃》卦は二から四爻まで互体して艮を成し、艮は即ち倒した震である。震は車・車下の伏兎(輹)であり、今震がすでに倒覆したので、車輹は自然に脱落する。だから爻辞に「輿輹を説く」と言う。震が車・輹であるこの象は、《左伝》と《子夏易伝》の中から考え出したものである。倒覆して義を取るというこの層の道理に至っては、《焦氏易林》が慣用する覆象の法である。
大畜九三「日に輿衛を閑す」の解
《晉語》:「震,車也。」《左傳》閔元年《屯》之《比》,卽震變坤,震變坤曰「車從馬」,是以震為車也。《大畜》九三之輿衛,亦以震為車明矣。曰閒輿衛者,乾為日,震利往,故曰日閒。乃自東漢以來,祗知坤為大輿,無以震象詁輿衛者,左氏雖明言,不信也。
《国語・晋語》に言う。「震は車なり。」《左伝》閔公二年に畢万が仕を筮して、《屯》之《比》に遇い、それは震が坤に変じたもので、辛廖の断辞に「車は馬に従う」と言うので、震をもって車としたことが分かる。《大畜》九三の言う「輿衛」も同じく震をもって車とするのであり、これは極めて明白である。「閑輿衛」と言う所以は、上体の乾が日であり、中爻の震が前往に利あるからである。だから「日閑」と言い、即ち毎日車馬守衛の事を練習する。しかし後漢以来、学者は坤が大輿であることだけを知り、震象をもって「輿衛」を解釈する者が一人もいない。《左伝》《国語》は明らかに講じているのに、彼らは信じようとしない。
茲《易》《大畜之明夷》云:「車馳轊擊。」《明夷》上坤,三至五震,坤車震車,故曰轊擊。又《噬嗑之震》云:「車雖駕。」亦以震為車。可見《大畜》亦以互震為車,不必以坤為車,《易》例有明象卽不用伏也。
今按ずるに《焦氏易林・大畜之明夷》に言う。「車馳せ轊撃つ。」《明夷》の上体は坤であり、三から五爻まで互体して震を成す。坤は車であり震もまた車であり、両車が並び馳せるので、車軸頭が相撞撃すると言う。また《噬嗑之震》に「車駕すといえども」とあるのも、震をもって車とする。これで《大畜》も同じく互体の震を取って車とすることが分かる。必ずしも坤を取って車としなくてもよい。《周易》の通例は:本卦にすでに現成して明白な卦象があれば、再び伏卦の象を用いることはない。
大畜九三「上と志を合す」の解
《大畜》九三云「利有攸往」,陽遇陰則通也,利往卽利涉大川也,而知者鮮。至小象「上合志」之義,自東漢以來卽晦而不明:三陽,上亦陽,志如何合?虞翻知其然也,謂五已之正為陽,上覆之正為陰,成坎,坎為志,三應上為合志,一變不足而再變,其為曲解,不待辨矣。然後之治漢《易》者,窘無他說,不得不從也。
《大畜》九三に「往くところあるに利し」と言うのは、陽が陰に遇えば通暢するからである。ここの「利往」は即ち卦辞の「利渉大川」であるが、この層を解する人が少ないのが残念である。《小象》の「上と志を合するなり」の意に至っては、後漢以来晦暗不明である。九三は陽であり、上九もまた陽であり、両陽の志がどうして相合することができようか。虞翻もまた講じ通らないことを知り、便ち六五がまず陽に変じて正を得、上九が再び陰に変じて正を得、ここに三から五までが坎を成し、坎は志であり、九三が上爻と相応すれば即ち「合志」と言った――一度変じて足りなければさらにもう一度変じる。これは曲解であり、弁駁するまでもない。しかし後に漢《易》を治める人は別の説がなく窘められたので、やむを得ず彼に従って講じた。
茲以《易林》陰陽相遇則吉之義推之,三臨二陰,故利往。上謂四五,非上九也,《易》凡在前者皆曰上。《節》六四亨,象曰「承上道也」,上謂九五,陰遇陽故亨;《升》初六大吉,象曰「上合志也」,言初六與九二九三合志,陰遇陽故吉,在前故謂之上。若六四與上六皆陰,不相應,如何合志?
今《焦氏易林》の「陰陽相遇すれば則ち吉」という義例をもって推し求める。九三は上に六四・六五の二つの陰爻に緊臨するので、前往に利がある。《小象》の言う「上」が指すのは四・五の両爻であって、上九ではない――《周易》はおよそ位置が前にあるものは皆「上」と称し得る。《節》卦六四に「亨」と言い、《小象》に「上道を承くなり」と言う。この「上」は九五を指し、陰が陽を承えるので亨通する。《升》卦初六に「大吉」と言い、《小象》に「上と志を合するなり」と言うのは、初六が九二・九三と志を同じくし、陰が陽に遇うので吉であり、二・三がその前にあるので「上」と称する。もし「上」を無理に上爻と講じれば、《升》の六四と上六はともに陰爻で彼此相応せず、どうして合志を論ずることができようか。
知《升》上之指二三,則知《大畜》之上之確指四五也明矣。《升》互坎,故曰志;《大畜》互離,伏坎,故亦曰志。後人不知《易》能解《易》,必以上為上九,故永不能通。又《無妄》初九云「往吉得志」,往吉卽利有攸往,得志卽合志,亦以前臨二陰,非謂應四也。《無妄》初至四,與《大畜》三至上,體同也,仍以《易》解《易》也。
《升》卦の「上」が九二・九三を指すことを明らかにすれば、《大畜》の「上」が確かに六四・六五を指すこともまた明らかである。《升》卦の中爻は互体して坎を成し、坎は志なので「志」と言う。《大畜》の中爻は互体して離を成し、離は坎を伏せるので、また「志」と言うこともできる。後人は《周易》そのものをもって《周易》を解することを解さず、必ず「上」を上九と講じようとするので、永遠に講じ通らない。さらに《无妄》初九に「往けば吉、志を得たり」と言い、「往吉」は即ち「利有攸往」であり、「得志」は即ち「合志」であり、同じく前に六二・六三の二つの陰爻に緊臨するからであり、それが九四と相応すると言うのではない。《无妄》の初爻から四爻までの卦体は、《大畜》の三爻から上爻までの卦体とまさに同じである――これは依然として《易》をもって《易》を解する方法である。
頤卦の命名の解
先天震東北,後天艮東北,故取象上下相合,先動而後止,卽先震後艮也。《易林》說《坎》云:「丑寅不徙。」卽震艮合居,震艮合居卽頤也。
先天八卦では震が東北に居り、後天八卦では艮が東北に居り、両者は同位である。だから《頤》卦は上下相合の象を取る。まず動いて後に止まる。即ち下体が震・上体が艮の次第である。《焦氏易林》が《坎》の条を説いて云う。「丑寅徙らず。」丑寅はまさに艮位であり、震もまたそれと同宮である。これが即ち震艮の合居であり、震艮が合居すれば《頤》卦を構成する。これで焦延寿の命名取象は依然として先後天方位相合の理に本づくことが分かる。
頤の大象「君子以て言語を慎み飲食を節す」の解
荀爽謂:「雷為號令,今在山中閉藏,故慎言語。雷動於下,以陽食陰,艮以止之,故節飲食。言出乎身,加乎民,慎言語,所以養人也。飲食不節,殘賊群生,故節飲食以養物。」其詁既膚淺不當,清儒多祖述荀氏者,更無他解。
荀爽の解釈はこうである。「雷は号令であり、今震雷が山の中に閉蔵するので、言語を慎むべきである。雷が下に動き、陽気をもって陰気を吞食し、上体の艮がまた止禁を加えるので、飲食を節制すべきである。言語は自身から出て百姓に加わるので、言語を慎むのはまさに人を養うためであり、飲食に節制がなければ衆生を残害するので、飲食を節制するのは物を養うためである。」このような訓釈は浅溥にして切当でないが、清代の学者は大半が荀爽を承襲し、さらに別の講法を持ち出すことができない。
茲以《易林》證之。宜慎宜節之故,則以正覆兩震相對也。震為言語,人知之;震為口舌,能飲食,或疑之。乃《易林·井之師》云:「長舌作凶。」是震亦為舌,與兌同,特形較長耳。言語飲食之象既定,則慎節可得言矣。
今《焦氏易林》をもって印证する。「慎」み「節」する所以は、《頤》卦が一正一覆の二つの震を含み相対峙するからである。震が言語であることは、誰でも知っている。震が口舌であり飲食を主ると言えば、疑う人が出てくる。しかし《易林・井之師》に言う。「長舌凶を作す。」《師》卦は二から四まで互体して震を成すので、震もまた舌象を取ることが分かり、兌と同じである。ただ形狀が兌より長いだけである。言語・飲食の二つの象がすでに坐実したので、「慎」と「節」の道理がはじめて論じられる。
按《易林·復之頤》云:「噂噂所言。」《詩》毛傳:「噂,對語也。」頤象也。《晉之艮》云:「學靈三年,聖且聰明。」學靈者,小兒學言語也,艮為小子,艮三至上兩震相對,亦頤也。下言一出,上卽如言而反,君子出言為天下法,安得不慎?
按ずるに《易林・復之頤》に言う。「噂噂たる所言。」《詩経》毛伝は「噂」を向かい合って交談することと解す。両口が相対して語るのは、まさに《頤》卦の象である。また《晋之艮》に言う。「霊を学ぶこと三年、聖にして且つ聡明なり。」いわゆる「学霊」とは、小児が話を学ぶことである。艮は小子であり、《艮》卦の三爻から上爻までは両震が相対し、即ち《頤》体である。下の一句の話を言い出せば、上が即座にそのまま返って来る。君子が言を出すは天下の取法となるべきものであり、どうして慎まないことができようか。これが即ち「慎言語」の象の出どころである。
又《履之蒙》云:「兩人相伴。」震為人,正覆震,故曰兩人。「相與悖戾,心乖不同,訟爭訩訩。」《蒙》二至上亦兩震相對,亦頤也,相對卽相背,故曰背戾、曰訟爭。悖戾訟爭,又安得不慎?故曰慎言語。
また《履之蒙》に言う。「両人相伴う。」震は人であり、一正一覆の二つの震なので「両人」と言う。林辞は続いて言う。「相与に悖戾し、心乖りて同じからず、訟争して讻讻たり。」《蒙》卦の二爻から上爻までもまた両震が相対し、同じく《頤》体である。相対するは即ち相背くことなので、乖戾と言い争訟と言う。すでに両口が相向すれば乖戾争訟が生ずるので、言語はどうして慎まないことができようか。だから大象に「慎言語」と言う。
至節飲食,按《易林·未濟之頤》云:「齗齗囓囓,貧鬼相責。」以上下兩震口相對,故曰齗囓。又《豐之坎》云:「兩狗同室,相囓爭食。」以《坎》二至五正反兩艮,卽兩震,亦頤也,故曰兩狗,故曰相齧。蓋飲食者,人之所爭,兩口相對,爭象尤著,爭則怒,怒則斗,能節則爭端息矣,故節飲食。
さらに「節飲食」を言う。《易林・未済之頤》に言う。「齗齗囓囓、貧鬼相責む。」これは上下二つの震口が彼此相対するので、齦牙が咬嚙すると言う。また《豊之坎》に言う。「両狗同室、相囓みて食を争う。」《坎》卦の二から五爻までは一正一反の二つの艮であり、即ち二つの震であり、同じく《頤》体を成すので「両狗」と言い「相嚙」と言う。飲食はもともと人の争奪するものであり、両口が面と向かえば争奪の象はなおさら顕著である。一たび争えば即ち怒り、一たび怒れば即ち相闘う。節制できれば争端は自ずから息むので、大象に「節飲食」と言う。
至慎與節之象,艮多節,見《說卦》;艮止為慎,學《易》者類能知之。然謂慎與節之象由艮而取則可,專以艮為義則膚末矣。《損》象云:「君子以懲忿窒欲。」懲忿卽慎言語,窒俗卽節飲食,《損》二至上亦頤也,可互為註腳也。焦循作《易通釋》,徒牽攣卦變,至於《易》旨真通者,反多不釋,豈不異哉!《頤》象曰「道大悖也」,卽謂正反兩艮震相背。
「慎」と「節」自体の取象に至っては、《説卦》に艮は多節の木と言い、艮はまた止を主りて謹慎の義があることは、《易》を学ぶ者は大抵知っている。ただし慎・節の象を艮の上から取り得ると言うのは、それは正しい。しかし専ら一つの艮を取って義を立てれば、あまりに浅溥である。《損》卦の大象に「君子以て忿を懲し欲を窒ぐ」と言う。忿を懲すはまさに言語を慎むに相当し、欲を窒ぐはまさに飲食を節するに相当し、《損》卦の二爻から上爻までもまた《頤》体であり、二条の大象は互いに注脚を為すことができる。焦循が《易通釈》を著して、ただ卦変に死にもの狂いで纏わることを知り、《易》旨の真に貫通する所に対してはかえって大半は解釈を加えない。なんと奇怪ではないか。《頤》六三の《小象》に「道大いに悖るなり」と言うのは、言うのはまさに一正一反の両組の艮震が彼此相背くことである。
頤初九「霊龜」の象
自《易》象失傳,於是虞翻等拘於《說卦》:以坎為水,不知坤亦為水;以乾為金,不知艮亦為金;以坎為月,不知兌亦為月;以坤為牛,不知離亦為牛,離牛雖見於卦辭、見於《左傳》,不信也;以坤為輿,不知震亦為輿,震車雖見於爻辭、見於左氏內外傳,不信也。
《易》象が失伝して以来、虞翻らは《説卦》の現成の項目を死守するようになった。ただ坎が水であることを知り、坤もまた水であることを知らず。ただ乾が金であることを知り、艮もまた金であることを知らず。ただ坎が月であることを知り、兌もまた月であることを知らず。ただ坤が牛であることを知り、離もまた牛であることを知らず――離牛の説はすでに《離》卦卦辞の「牝牛を畜すれば吉」に見え、また《左伝》の筮例にも見えるのに、彼らは依然として信じない。ただ坤が輿であることを知り、震もまた輿であることを知らず――震車の説はすでに爻辞に見え、また《左伝》《国語》にも見えるのに、彼らは同じく信じない。
以離為甲兵,因而以離為斧為矢,不知《易》凡言斧者皆指兌,言矢皆指坎;以離為雉,因而以離為鴻為鶴,不知《易》之言鴻指艮震,言鶴專指震;以離為火,不知艮亦為火;以離為日,不知乾亦為日;以離為龜,不知艮陽在上亦為龜。
彼らは離を甲胄兵戈とし、そこでまた離が斧であり離が箭矢であると推し出した。しかし《周易》はおよそ斧を言う所は皆兌を指し、矢を言う所は皆坎を指す。離を雉鳥とし、そこでまた離が鴻であり離が鶴であると推し出した。しかし《周易》が鴻を言うのは艮と震を指し、鶴を言うのはさらに専ら震を指す。ただ離が火であることを知り、艮もまた火であることを知らず。ただ離が日であることを知り、乾もまた日であることを知らず。ただ離が亀であることを知り、艮が一陽を以て二陰の上に覆うこと、外は剛で内は柔で、同じく亀象であることを知らない。
至於《易》用旁通,漢魏人察見者已少,然尚偶有之;若覆象,則無一人能知矣。自覆象失傳,於是《革》九四改命之改字、《巽》上九喪斧之喪字、《隨》初九官有渝之渝字、《頤》初九舍爾靈龜之舍字,其義遂無有通者。
《周易》が旁通の法を使用することに至っては、漢魏の際に察知できた人はすでに少なかったが、しかし畢竟偶にはいた。倒覆して象を取ると言えば、それは一人も解する者がいなかった。覆象が失伝して以来、そこで《革》九四「改命」の「改」の字、《巽》上九「其の資斧を喪う」の「喪」の字、《随》初九「官有渝」の「渝」の字、《頤》初九「爾の霊亀を舍する」の「舍」の字、これらの字の着落はもはや講じ通せる人がいない――それらは全て本象が倒覆して来たものだからである。
茲按《易林》靈龜之象,正以艮耳。《易林·歸妹之剝》云:「靈龜陸處。」以艮為龜也。又《需之觀》云:「魚鱉傾倒。」則以《觀》之互艮為鱉。又《復之咸》云:「買鱉失魚。」則以《咸》之下艮為鱉。又《乾之井》云:「黿鳴歧山,鱉應山淵。」《井》通《噬嗑》,《噬嗑》初至四正覆震,故曰鳴、曰應;正覆艮,故曰黿、曰鱉、曰山;坤為淵,陽居在下,故曰山淵。
今按ずるに《焦氏易林》の用いる霊亀の象は、まさに艮を取っている。《易林・帰妹之剥》に言う。「霊亀陸に処る。」《剥》の上体は艮であり、これは艮をもって亀としたものである。また《需之観》に言う。「魚鼈傾倒す。」これは《観》卦の互艮を取って鼈としたものである。また《復之咸》に言う。「鼈を買いて魚を失う。」これは《咸》卦の下体の艮を取って鼈としたものである。また《乾之井》に言う。「鼋岐山に鳴き、鼈山淵に応ず。」《井》は《噬嗑》と旁通し、《噬嗑》の初爻から四爻までは一正一覆の両震なので「鳴」と言い「応」と言う。また一正一覆の両艮なので「鼋」と言い「鼈」と言い「山」と言う。坤は深淵であり、陽爻が下に居るので「山淵」と言う。
言艮黿鳴用反震於山上,艮鱉用反艮應於坤淵之下也,與《中孚》之「鳴鶴在陰,其子和之」義同也,全用覆也。《頤》初九之舍爾靈龜,艮為龜,初九艮覆,故曰舍爾靈龜,與《巽》上九之喪斧、《革》九四之改命義同也,皆用覆也。至於《損》六五之龜、《益》六二之龜,亦皆以艮為龜,而六五六五皆有應,故曰益。
艮の鼋が鳴くのは反震の象を用い、山上で鳴く。艮の鼈が応ずるのは反艮の象を用い、坤淵の下で応ずる。その取義は《中孚》九二の「鳴鶴陰に在り、其の子これに和す」と同じであり、全て倒覆の象に依拠する。《頤》初九の「爾の霊亀を舍す」もまたこのようである。艮は亀であり、初九は艮体が倒覆する位に処り、亀象が一たび覆れば即ち舍弃となる。だから「爾の霊亀を舍す」と言い、《巽》上九の「斧を喪う」、《革》九四の「命を改む」と同じ一つの道理であり、いずれも覆象を用いる。《損》六五の「十朋の亀」、《益》六二の「十朋の亀」に至っても、いずれも艮をもって亀とする。しかしこの両爻は各々応爻があり、亀象は覆らないので「或いはこれを益す」と言う。
自艮龜之象失傳,於是虞翻謂《頤》初從《晉》四來,《晉》離象毀,故曰舍;《益》則命三變成成離龜;《損》則先使二變五變,再使三變成離為龜。聖人制詞,不取原有象,而取一變再變三變後之象,非虞氏無此說矣,此亦王弼《易》風行之一因也。然虞氏必如此者,則以《易》無象外字也。《易》無象外字,東漢人尚知之,王弼以後則微茫矣。《鼎》九三當位,虞氏竟背其之正之說,令三變陰。
艮が亀である象が失伝して以来、虞翻は《頤》初九が《晋》卦九四から変じて来たものと言い、《晋》の離象が壊れたので「舍」と言うとした。《益》卦を講ずる時はまた第三爻を変じて離を成して亀とさせ、《損》卦を講ずる時はさらにまず二爻を変じ、五爻を変じ、さらに三爻を変じさせて、やっと離亀を凑えた。聖人が卦爻辞を制作するに、現成して已有する象を取らず、ひとえに一変・再変・三変の後にはじめて現れる象を取る――虞翻のほか、このように説を立てる人はいない。これもまた王弼《易》が後に一時風行した原因の一つである。ただし虞翻がどうしてもこのようでなければならなかったのは、彼が《周易》には一字として象の外にあるものがないと堅信したからである。「《易》に象外の字なし」というこの道理は、後漢人はまだ知っていたが、王弼以後は渺茫として尋ね難くなった。《鼎》卦九三はもともとすでに位に当たっていたのに、虞翻は竟に自分の「位に当たらざる者の正」の義例に背き、無理に三爻を変じて陰とさせた。
頤六五「大川を渉るべからず」、上九「大川を渉るに利し」の解
此與《大畜》三與上合志義通。《大畜》三臨二陰,故利往;上乘二陰,故道大行,陽遇陰則通也。《頤》六二前臨三陰,故征凶;六五下乘三陰,故不可涉,陰遇陰則阻也,故象只戒其順上,順上,陰遇陽也。至上九下乘四陰,故利涉,與《大畜》上九同,陽得陰則通也。
この条は前の《大畜》九三「上と志を合す」の道理と相通ずる。《大畜》九三は上に六四・六五の両陰に臨むので前往に利があり、上九は下に両陰に乗るので《小象》に「道大行するなり」と言う――いずれも陽が陰に遇えば通暢する。《頤》卦六二は前に三つの陰爻に臨むので「征めば凶」と言い、六五は下に三つの陰爻に乗るので「大川を渉るべからず」と言う――いずれも陰が陰に遇えば阻まれる。だから《小象》はただそれに「順にして上に従う」ことを告誡する。上九に順従すれば、それは即ち陰が陽に遇うことである。上九に至っては、下に四つの陰爻に乗るので「大川を渉るに利し」と言い、《大畜》上九と同じく、陽が陰を得て通暢するものである。
此以坤為大川,至為明白矣。乃二千年來坤水之象失傳,必以坎為大川:五變不能成坎,上變亦不能成坎,必五上全變乃成坎,坎象成而利涉不利,小不知屬何爻。後儒治漢《易》者雖多,不主虞翻不能解也。《易》義晦茫至此,非《易林》,孰能正之?
ここは明らかに坤陰を取って「大川」としたもので、これほど明白なことはない。しかし二千年の間、坤が水である象が失伝し、学者は必ず坎を取って大川としようとした。単に五爻を変じても坎を凑えることはできず、単に上爻を変じても坎を凑えることはできず、必ず五爻・上爻を全て変じてはじめて坎を成す。坎象は確かに凑えられたが、しかしいったい「利渉」がどの爻に属し、「不可渉」がどの爻に属するかは、かえって一点も説き明かせない。後代に漢《易》を治める人は多いが、虞翻に依傍しなければ措手する所がない。《易》義がこの地步まで晦暗したのに、《焦氏易林》がなかったなら、誰がまたそれを糾正できようか。
大過九二「枯楊稊を生じ、老夫其の女妻を得」の解
此其義亦二千年長夜矣。因《易》說失傳,旁通之義不明,不知雷風相薄,凝合為一,遇其雌必獲其雄,此立竿而彼必有影也。《大過》對象《頤》,《頤》為大離,離「科上槁」,故曰枯,非以乾老為枯也。
この两句の爻辞の意義もまた二千年の長夜の中にある。原因は《易》説が失伝し、旁通の義が明らかでなく、学者が雷と風が互いに逼薄し凝合して一となること、雌に遇えば必ず同時に雄を得ることを解さないからである――ちょうどこちらに竿を立てれば、かならずあちらに影があるようなものである。《大過》の対卦(旁通の卦)は《頤》であり、《頤》卦は二から五爻まで合して大離を成し、《説卦》に離は「其の木に於ては科上槁なり」と言い、中が空して上端が枯槁するので、爻辞に「枯」と言う。虞翻のように乾の老を取って枯とするのではない。
凡《易林》言枯者,無不屬離。《豫之履》云:「枯槁腐蠹。」《謙之漸》云:「萬物空枯。」皆指離象。然猶可曰此非大離也。乃《泰之節》云:「自令枯槁。」《泰之艮》云:「物病焦枯。」《節》二至五、《艮》三至上皆大離,亦皆曰枯。然猶可謂卦象與《頤》與《大過》不同也。
およそ《焦氏易林》が「枯」を言う所は、離に属さないものがない。《豫之履》に言う。「枯槁して腐蠹す。」《謙之漸》に言う。「万物空枯す。」いずれも離象を指す。ある人はあるいは言うかもしれない、これらはただ本体の離であって大離ではないと。ならばさらに《泰之節》を見れば言う。「自ら枯槁せしむ。」《泰之艮》に言う。「物病めて焦枯す。」《節》卦の二から五爻まで、《艮》卦の三から上爻までは皆大離であり、いずれも「枯」と言う。ある人はさらに言えるかもしれない、これらの卦象は《頤》や《大過》と畢竟異なると。
乃《泰之咸》云:「老楊日衰,條多枯枝。」《咸》與《損》對,《咸》二至上《大過》,《損》二至上《頤》也。前數卦皆以離為枯,此枯枝亦用《損》之大離也明矣,象同語同,此不啻焦氏之特解《大過》爻詞矣。虞翻等誤用象,以乾老為枯,豈知必以離為枯者,離中虛故枯,乾為實為金玉,雖老不枯也。虞又謂卦為《大過》,故五過二應初,二過五應上,尤為荒謬,失古《易》例。
ならばさらに《泰之咸》を見れば言う。「老楊日に衰え、条多く枯枝あり。」《咸》は《損》と旁通し、《咸》卦の二爻から上爻まではまさに《大過》であり、《損》卦の二爻から上爻まではまさに《頤》である。前の数条の林辞は皆離をもって枯とし、この条の「枯枝」も明らかに《損》の大離を用いたものである――卦象が同じ、用語が同じ、これはまさに焦延寿が専ら《大過》爻辞のために下した注脚である。虞翻らは卦象を誤用し、乾の老を取って枯とした。しかしどうしても離をもって枯としなければならないのは、離の中爻が虚で、虚なので枯槁するからである。乾は堅実・金玉なので、たとえ年久しくても枯れることはない。虞翻はまた卦名が《大過》なので、九五が九二を越えて初六に応じ、九二が九五を越えて上六に応じると言ったが、それはなおさら荒謬であり、古《易》の義例に全く違失している。
至於老夫,則用對象震也。《易林·夬之復》云:「姬姜歡悅,二姓為婚。」《復》震為周,故曰姬;姜者齊姓,巽齊,故曰姜,是《易林》見震卽言巽也。又《坎之革》云:「少女無夫。」《革》互巽,故曰少女;震伏,故曰無夫。又《坤之同人》云:「長男少女,相向共語。」《同人》中爻巽,伏震,故曰長男少女,是《易林》見巽卽言震也。
「老夫」に至っては、対卦《頤》の中の震を用いる。《易林・夬之復》に言う。「姫姜歓悦し、二姓婚を為す。」《復》卦の下体の震は周であり、周室は姫と姓するので「姫」と言う。姜は斉国の姓であり、巽は方位において斉を主るので「姜」と言う――これで《易林》は震を見れば連帯して巽を説き出すことが分かる。また《坎之革》に言う。「少女夫なし。」《革》卦の中爻は互体して巽を成し、巽は長女なのにここでは少女を取るので「少女」と言う。それと相配する震は潜伏して見えないので「无夫」と言う。また《坤之同人》に言う。「長男少女、相向かい共に語る。」《同人》の中爻は巽であり、伏卦は震なので「長男少女」と言う――これで《易林》は巽を見ても連帯して震を説き出すことが分かる。
震夫巽婦,合而不分,以是推《大過》之老夫女妻,《易》亦見巽卽言震也。震為夫,坤逆行,見前,自上而下,在上者少,在下者老,時有異也,故曰老夫。《易林》云「二姓為婚」,正釋此也。故曰「老夫得其女妻」,女妻者,少妻巽也。
震は夫であり、巽は婦であり、二者は合して分かつべからず。これに拠って《大過》九二の「老夫」「女妻」を推し求めれば、《周易》もまた巽を見れば連帯して震を取ることが分かる。震は夫であり、しかも坤は逆行するものである(説は前文に見える)。上から下へ推し数え、上位に居る者を少とし、下位に居る者を老とする。先後の時序が異なるので、九二が下にあれば即ち「老夫」と称する。《易林》が「二姓為婚」と言うのは、まさにこの一句を解釈している。だから爻辞に「老夫其の女妻を得」と言う。いわゆる「女妻」とは、即ち年少の妻であり、取るのは本卦の巽である。
《易林》《觀之屯》《革之復》皆云:「愧我少姬。」是皆以對象巽為少姬也。他若《同人之渙》云「少齊在門」,《無妄之大壯》亦云,《大壯》通《觀》,是皆以巽為少。少齊者,《左傳》昭二年晉人謂之少齊是也,是巽為女妻之確解也。《易》合本象對象言,《易林》每本之以為常例。二千年來解此者,惟一俞樾知用旁通,識過前儒甚遠,而於老少之故仍不能通,則以乾順坤逆之理不明也。
《易林》の《観之屯》《革之復》は皆言う。「我が少姬に愧ず。」これらは皆対卦の巽を取って少姬としたものである。その他《同人之渙》の「少斉門に在り」、《无妄之大壮》にも同じ説法がある――《大壮》は《観》と旁通し、《観》の上体は巽である――これでいずれも巽をもって少としたことが分かる。いわゆる「少斉」とは、即ち《左伝》昭公二年に晋人が称呼した「少斉」である。これが即ち巽が「女妻」であることの確解である。《周易》はもともと本卦の象と旁通の象を併せて言を立て、《易林》は毎々これを常例とする。二千年の間この两句を解釈した人の中で、ただ俞樾一人だけが旁通を用いることを解り、見識は前代の学者をはるかに超えた。惜しいのは、彼がどうして下にあれば老であり上にあれば少なのかというこの層について依然として講じ通せなかったことである。それは乾が順行し坤が逆行するという道理を明らかにしなかったためである。
大過九五「枯楊華を生じ、老婦其の士夫を得」の解
自虞翻不知華象,清惠棟以柔在上為華,焦循以震敷為華,皆於象不合。按《易林·大壯之夬》云:「桃李華實。」是以反巽為桃李,伏艮為果實,兌為華也,《夬》與《大過》二至上體同也。又《咸之噬嗑》云:「枯」(亦以離為枯)「樹不華」,言兌象伏也。又《巽之兌》云:「華葉將將。」重兌,故曰將將,亦以兌為華。蓋兌悅,華形又象兌也,故以兌為華。《易》象失傳,東漢人不知,後治漢《易》者亦不知矣。
虞翻が「華」(花)の取象を解さなかった以来、清代の恵棟は柔爻が上にあることをもって華とし、焦循は震の敷布をもって華としたが、いずれも卦象と合わない。按ずるに《易林・大壮之夬》に言う。「桃李華実なり。」これは反巽をもって桃李とし、伏艮をもって果実とし、兌をもって花としたものである。《夬》卦と《大過》は二爻から上爻まで卦体が同じである。また《咸之噬嗑》に「枯」と言い――ここも同じく離をもって枯とする――「樹華せず」と言うのは、兌象が潜伏して見えないので開花しないことを言う。また《巽之兌》に言う。「華葉将将たり。」重兌が相畳するので「将将」と言う。これも兌をもって花とする。大概兌は喜悦を主り、しかも花の形狀はまた兌卦の上に開く形に似るので、兌を取って花とする。《易》象が失伝し、後漢人はすでに知らず、後に漢《易》を治める者も同じく知らなかった。
至老婦,荀爽但以數多少為老少,固非;虞翻以巽初為老婦,尤謬。乃虞翻不自知其謬,反詈馬、荀為俗儒,南遷不返,禍有由矣。揆其故,皆由旁通之說失傳也。按《易林·旅之大壯》云:「獨夫老婦,不能生子。」《大壯》上震,故曰獨夫;互兌,故曰老婦。又《需之剝》云:「孤竹之墟,老婦亡夫。」《剝》通《夬》,《夬》上兌,亦以兌為老婦,此皆《大過》兌為老婦之確詁也。
「老婦」に至っては、荀爽はただ爻数の多少を取って老少を分けたが、もともと誤りである。虞翻は巽卦の初爻を取って老婦に当てたが、なおさら荒謬である。虞翻は自らその謬を覚えず、かえって馬融・荀爽を罵って俗儒とし、後に南方に貶されて一たび行って返らなかった。その禍端もまた由来がないわけではない。彼らの出錯の所以を推究すれば、皆旁通の説が失伝したためである。按ずるに《易林・旅之大壮》に言う。「独夫老婦、子を生むこと能わず。」《大壮》の上体は震なので「独夫」と言い、中爻は互体して兌を成すので「老婦」と言う。また《需之剥》に言う。「孤竹の墟、老婦夫を亡す。」《剥》は《夬》と旁通し、《夬》の上体は兌であり、これも兌をもって老婦とする。これらは皆《大過》が兌をもって老婦とする確証である。
兌雖為少女,而與干連,乾順行,自下而上,在下者少,在上者老,時不同也,非乾坤概稱老,初與上無別也。故曰「老婦得其士夫」,士夫者,對象艮也。凡男女六子,無不為夫婦,艮為小子為少男,故稱士夫。虞翻謂兌為少,《大壯》震為夫,故稱士夫,似不然也。《易林》每以兌為老婦,巽為少姬,皆本《大過》。
兌は少女ではあるが、しかしそれは乾と相連なっている。乾は順行であり、下から上へ推し数え、下にあるものを少とし、上にあるものを老とする。先後の時序が異なるので、九五が上にあれば即ち「老婦」と称する――旧説のように乾坤が一概に老と称され、初爻と上爻に分別がないのではない。だから爻辞に「老婦其の士夫を得」と言う。いわゆる「士夫」とは、取るのは対卦《頤》の中の艮である。およそ六子の卦は、男女相配って夫婦とならないものがない。艮は小子・少男なので「士夫」と称する。虞翻は兌が少であり《大壮》の震が夫であるので、よって士夫と称すると言ったが、見るに正しくない。《焦氏易林》は常に兌をもって老婦とし、巽をもって少姬とするが、皆《大過》のこの二爻に本づく。
此二爻義之所以晦茫至今者:一由於旁通之失傳,徒於本象求,而忘本象之有對象;次由於陽順陰逆之理失傳,陽順行,故下少上老,陰逆行,故上少下老,順逆之理不明,故說九二而合者,推之九五則齟齬矣,說九五而合者,施之九二則背戾矣。
この二爻の意義が今に至るまで晦暗である原因は三つある。第一は旁通の法が失伝し、学者はただ本卦の象の上に求め、本卦の外にさらに旁通の対卦があることを忘れたこと。第二は陽順陰逆の道理が失伝したこと。陽は順行するので、下から上へは下が少で上が老となる。陰は逆行するので、上から下へは上が少で下が老となる。順逆の理が明らかでないので、九二を講じて通る者は九五に推せば抵牾し、九五を講じて通る者は九二に用いればまた相背する。
次由於不知《易》象正覆之妙用。凡《易》象有迴環往復者,《易》詞亦必迴環往復。《蒙》二至上正覆兩艮相對,故《易》曰「非我求童蒙,童蒙求我」;《泰》「小往大來」,《否》「大往小來」;《隨》初至四正反皆艮震,故六二曰「係小子失丈夫」,六三則曰「係丈夫失小子」。《大過》正反皆巽,故皆曰楊,九二在下則生稊,九五在上則生華。對象《頤》體坤,坤逆,故下震為老夫,上艮為士夫;《大過》體乾,乾順,故在下為女妻,在上為老婦。二千年之疑獄,劃然而解,非《易林》,孰能闡明之?
第三は《易》象の一正一覆の妙用を解さないことである。およそ卦象に回環往复するものがあれば、卦爻辞もまた必ず回環往复する。《蒙》卦の二爻から上爻までは一正一覆の両艮が相対するので、卦辞に「我の童蒙を求めるに非ず、童蒙我を求む」と言う。《泰》に「小往大来」と言い、《否》に「大往小来」と言う。《随》卦の初爻から四爻までは正反ともに艮震を含むので、六二に「小子に繫り丈夫を失う」と言い、六三に反対に「丈夫に繫り小子を失う」と言う。《大過》は正に見ても反に見ても巽であり、巽は木・楊なので、九二・九五ともに「楊」と言う。九二は下に居れば「稊を生ず」(根部に芽を生ず)と言い、九五は上に居れば「華を生ず」(梢頭に花を開く)と言う。対卦《頤》の卦体は坤に属し、坤は逆行するので、下の震は「老夫」、上の艮は「士夫」である。《大過》本卦の卦体は乾に属し、乾は順行するので、下にあるのは「女妻」、上にあるのは「老婦」である。一正一反・一順一逆で、両爻の文辞の参差はすべて落着する。二千年の疑案がここに至って涣然として氷釋する――《焦氏易林》がなかったなら、誰がそれを闡明できたであろうか。
大過が死卦であること及び大象の坎であることの証
東漢人因《繫辭》以《大過》象棺槨,故謂《大過》為死卦。茲《易林·明夷之大過》云:「言笑未畢,憂來暴卒。」是亦以《大過》為死卦也。坎為憂,並以《大過》為大坎也。他若遇《大過》言雨、言憂、言水者,尚不可勝數,皆指大坎。故吾謂漢儒不言大象者,祗東漢儒也。
後漢人は《繫辞》が上古の葬礼に「蓋し《大過》に取らん」と言い、《大過》が棺椁を象ったために、《大過》を死卦と称した。今按ずるに《易林・明夷之大過》に言う。「言笑未だ畢らざるに、憂来たり暴卒す。」これもまた《大過》を死卦としたものである。そして「憂」の取象は坎であるので、焦延寿が同時に《大過》の全卦を一つの大坎としたことが分かる(初・上の二陰が四陽を挟み、外は柔で内は剛で、坎と形同じ)。その他およそ《大過》に変じて林辞に雨を言い憂を言い水を言うものは、数えても数え切れず、皆この大坎を指す。だから私は言う。漢代の儒者で大象を講じないのは、ただ東漢のあの一輩だけである。
大過上六「渉り過ぎて頂を滅す」
此《易》明以《大過》為大坎也。六在上,故曰過涉;乾為首,故曰頂;乾為陰所包不見,故曰滅頂。《易林·夬之大過》云:「久陰霖雨。」坎為雨,卽以《大過》為大坎,仍本之《易》也。
この一爻は《周易》自体が明白に《大過》を大坎とした証拠である。上六は全卦の上に居り、水を渉ってすでにその頂を過ぎたので「過渉」と言う。二から四まで互体して乾を成し、乾は首なので「頂」と言う。この乾がまた初・上の二つの陰爻に包まれて顕露を得ないので「滅頂」と言う。《易林・夬之大過》に言う。「久陰霖雨。」坎は雨であり、まさに《大過》を大坎と見なしたものであり、この見方は依然として《周易》本経に本づく。
坎上六「徽纆を用いて繫き、叢棘に寘く」の解
虞云:「徽纆,黑索也。叢棘,獄外種九棘。坎為獄,言拘繫入獄也。」後來解者,大概皆從虞說。惟張惠言謂獄外種棘,於經無考,不知虞何據。按《易林·復之坎》云:「桎梏拘獲,身入牢獄,髡刑受法,終不得釋。」不啻特解此爻詞也。
虞翻が言う。「徽纆とは即ち黒色の繩索である。叢棘とは牢獄の外に九棵の棘樹を植えたものを指す。坎は牢獄であり、この句は拘繫されて獄に入ることを言う。」後にこの爻を解した者は大体皆虞説に依从した。ただ張恵言だけが、獄外に棘を植えた一事は経書に稽考の術がなく、虞翻が何に拠ったか知らないと指摘した。今按ずるに《易林・復之坎》に言う。「桎梏に拘獲され、身は牢獄に入り、髡刑して法を受け、終に釈を得ず。」この条の之卦はまさに《坎》であり、まったく専らこの句の爻辞のために作った解釈である。
桎梏拘獲,卽係用徽纆也;身入牢獄,卽寘于叢棘也;終不得釋,卽三年不得也。虞解與《易林》同也。寘于叢棘,言牢獄之危苦似之,不必定獄外有棘,坎象本為棘也。至徽纆之象,坎為矯揉,物之能矯揉者,莫過於繩索,不必若仲翔以卦變為穿鑿,用《觀》巽也。
「桎梏拘獲」とは即ち爻辞の「繫用徽纆」であり、「身入牢獄」とは即ち「寘于叢棘」であり、「終不得釋」とは即ち「三年不得」である。これで虞翻の解釈と《焦氏易林》が一致することが分かる。いわゆる「寘于叢棘」とは、ただ牢獄の危険困苦が叢棘のように人を刺すことを言うにすぎず、必ずしも獄外に真に棘樹を植えたという必要はない――坎卦はもともと棘叢の象を取る。「徽纆」の取象に至っては、《説卦》に坎は「矯揉を為す」と言い、よく弯曲し揉み直すことができるものは繩索ほど典型なものはない。虞翻のように卦変に牽合して、無理に《観》卦の巽繩に取ったと言う必要はない。
此爻自來皆以罪人入獄為解,然雲三年不得,不得者,事無功也,似非罪人入獄之象,張惠言亦疑其非入獄。按虞氏云「徽纆,黑索也」,黑索卽繩墨也。《書》「木從繩則正」,《離騷》「循繩墨而不頗」,又《抽思》「章畫志墨」,《戰國策》「匠人且以繩墨按規矩刻鏤我」,《齊書·孔稚珪傳》「匠萬物者以繩墨為正」。
この一爻は従来皆罪人の入獄として解釈してきた。しかし爻辞に「三年不得」と言う――「不得」とは事が成し遂げられず成效がないという意であり、罪人の入獄の象には似ないようである。張恵言もまたそれが入獄を講じていないのではないかと疑った。按ずるに虞翻は「徽纆とは黒索なり」と言うが、いわゆる黒索とは即ち木工の用いる繩墨である。《尚書》に「木は繩に従えば則ち正し」、《離騒》に「繩墨に循いて頗けず」、《九章・抽思》に「画を章して墨を志す」、《戦国策》に「匠人は且つ繩墨を以て規矩に按りて我を刻鏤す」、《南斉書・孔稚珪伝》に「万物を匠する者は繩墨を以て正とす」とある――いずれも木工の墨線を指す。
蓋匠人以繩正木,以墨為志,繩墨卽黑索也,宜施於大木之上,因以施刀鋸。乃不施於木而施於叢棘,故三年不得。象曰「失道」,言寘之失道,亦非罪徒入獄之詞。此雖非焦義,然心有所疑,故附記於此。
大概工匠は繩を用いて木材の直を取り、墨を用いて記号を作る。繩墨とは即ち黒索であり、それは大木の上に施すべきもので、それによって刀鋸を下す。今は良木に施さず、叢生する荆棘に施すので、三年たっても器を作ることができない。これが即ち「三年不得」である。《小象》に「道を失う」と言うのは、安置した場所が誤っていることを言うのであり、やはり罪徒の入獄を講じた話には似ない。この層は焦延寿の本義ではないが、私は心に疑いを存するので、ここに附記する。
離九四「突如として其の来ること如し」二句の解
此爻舊說皆近於穿鑿,則以不求中爻象也。四為巽體,亦為兌體,巽為風為躁,兌剛魯(《易林》作魯),故曰突如其來如。四居上下離之間,故曰焚如。《易林·大壯之離》云:「辰巳有咎。」兌巽先後天皆居辰巳,兌上巽下為《大過》,《大過》死,故曰死如棄如。凡所取象,皆用中爻,亦猶《豐》中爻互大坎,故象皆闇也。
この一爻の旧説は皆穿鑿に近い。その原因は中爻互体の上に象を求めようとしないことである。九四はすでに互巽の体に属し、また互兌の体にも属する。巽は風・躁動であり、兌は《説卦》に「剛鹵を為す」と称し(《易林》は「魯」と作る)、性情は粗猛である。だから爻辞に「突如として其の来ること如し」と言う。九四はまさに上下二つの離体の間に挟まるので「焚如」と言う。《易林・大壮之離》に言う。「辰巳咎あり。」兌と巽は先天・後天の方位の中でともに辰巳に居り、兌が上・巽が下であれば合して《大過》を成し、《大過》は死卦なので、爻辞に「死如・棄如」と言う。これでこの爻の取る象が全て中爻互体にあることが分かる。ちょうど《豊》卦の中爻が互いに大坎を成すので、全卦の取象が皆昏暗に帰するようなものである。
離六五「涕を出だして沱たるが若く、戚にして嗟くが若し」及び象曰「王公に離るるなり」の解
離為目,目出泣曰涕,旁通坎,故曰涕沱。沱者,江支流也。坎為憂,兌口,故曰戚嗟,皆本象與對象並用,《易林》所本也。至象曰「離王公也」,王卽指上,上九「王用出征」是其證;公謂四,四為諸侯,諸侯與三公不分,卽言六五附麗於乾中,承乘皆陽也。朱震謂四位通三是也。《益》六四、《鼎》九四皆言公,是四亦可為公之證。
離は目であり、眼が涙を流すのを「涕」と言う。《離》は《坎》と旁通し、坎は水にして滂沱なので「涕沱」と言う――「沱」はもともと長江の支流である。坎はまた憂であり、中爻は互体して兌を成して口なので「戚嗟」(悲戚し嘆息する)と言う。これらは皆本卦の象と旁通の対象を併用するものであり、まさに《焦氏易林》の依拠する方法である。《小象》の言う「王公に離るるなり」に至っては、「王」は上九を指し、上九爻辞の「王用て出征す」が即ち明証である。「公」は九四を指し、四は諸侯の位であり、しかも諸侯と三公は古より分別しなかった。全句は六五が乾体の中に附麗し、上に承け下に乗るのが皆陽爻であることを言う。朱震は四位が三公に通ずと言い、講じて正しい。《益》卦六四、《鼎》卦九四ともに「公」に言及しており、これは即ち第四爻もまた公と称し得る旁証である。
離上九「王用て出征し、嘉ありて首を折り、其の醜に匪ざるを獲」の解
此本乾卦,坤入之。乾為王,九居上,六五象曰「離王公」,王卽指此爻,出大坎,故曰王用出征。《易林》以坎為大頭,坎伏,故曰折首。兌為折為口,故曰有嘉。或曰:坤二五之幹,乾為首,陰麗陽中,故折首,與坎折坤同義,亦通。《詩·小雅》「執訊獲丑」,鄭箋:「丑,眾也。」獲匪其醜者,言罪只首惡,刑不及眾也。坎為眾,坎伏,故不獲。各家皆從虞,詁丑為類,非。
《離》卦はもともと乾卦であり、坤の陰爻がその中に入り居して成った。乾は王であり、上九は陽で上位に居り、六五の《小象》に「王公に離るるなり」と言う。その「王」が指すのは即ち上九のこの一爻である。上九は大坎の外に出たので「王用て出征す」と言う。《焦氏易林》は坎をもって大頭とし、ここでは坎象が潜伏して見えないので「折首」(首級を斬る)と言う。兌は毀折・口なので「有嘉」(嘉美の功あって称すべし)と言う。また一つの講法もある。坤の二・五の爻が乾中に入り、乾は首であり、陰爻が陽中に附麗するので「折首」と言い、坎が坤を折るのと同一の義例であり、これも講じ通る。《詩経・小雅》に「訊を執り醜を獲」と言い、鄭玄の箋注に「丑とは衆なり」とある。いわゆる「其の醜に匪ざるを獲」とは、罪を治するのは首悪に及ぶのみで、刑罰は衆人に牽連しないことを言う。坎は衆であり、ここでは坎が伏して見えないので「不獲」と言う。各家が皆虞翻に従って「丑」を「類」と訓したのは、誤りである。
焦氏易詁 巻五
行唐尚秉和節之撰
直隷行唐の人・尚秉和、字は節之、撰述。
遯上九「肥遯」の解
凡漢人說之,皆作飛遯。《淮南九師》云:「飛而能遯,吉孰大焉。」張平子《思玄賦》:「欲飛遯以保名。」曹植《七啟》:「飛遯離俗。」毛西河、惠棟、朱芹、洪頤煊皆從之。卽王弼雖未明釋,然云「矰繳不能及」,似亦讀為飛。惟《子夏易傳》釋肥為饒裕,虞氏謂乾盈為肥,莫衷一是。
およそ漢代の人がこの一爻を講ずるに、皆「肥遯」を「飛遯」と読んだ。《淮南九師道訓》に言う。「飛んで能く遯るれば、吉は孰れよりか大ならん。」張衡(字は平子)の《思玄賦》に言う。「飛遯して名を保たんと欲す。」曹植の《七啓》に言う。「飛遯して俗を離る。」毛奇齢・恵棟・朱芹・洪頤煊は皆この読法に依从した。王弼でさえ明言はしなかったものの、彼の注の中に「矰繳も及ぶこと能わず」と講じているので、見るに彼もまた「飛」と読んだのであろう。ただ《子夏易伝》だけが「肥」を豊饒寛裕と解釈し、虞翻は乾体が盈満するのを即ち肥と言い、各々一詞を執って帰一する所がない。
茲《易林·需之遯》云:「去如飛鴻。」又《節之遯》云:「奮翅鼓巽。」又《革之遯》云:「退飛見祥。」是焦氏亦讀肥為飛,與《淮南九師》同也。又朱芹《易札記》引姚寬《西溪叢語》云:「肥,古作?[上非下巴],?[上非下巴]蜚同字。」是肥卽蜚,蜚卽飛也,虞翻誤也。蓋上九居極,上乾為行,飛亦乾象,不必以乾盈為象。
今按ずるに《易林・需之遯》に言う。「去ること飛鴻の如し。」また《節之遯》に言う。「翅を奮いて巽を鼓す。」また《革之遯》に言う。「退飛して祥を見る。」この三条の之卦は皆《遯》であり、辞意は全く翅を振いて高く飛び、退避して遠く挙がることにあるので、焦延寿もまた「肥」を「飛」と読み、《淮南九師》と一致したことが分かる。また朱芹《易札記》は姚寛《西溪叢語》を引いて言う。「肥は、古は『上非下巴』の字と書き、この字と『蜚』とは同じ一字である。」(この字は原書に缺刻し、ただ字形の描述のみ存す)これで「肥」は即ち「蜚」であり、「蜚」は即ち「飛」であり、虞翻は誤っていたことが分かる。上九は全卦の極に居り、上体の乾は健行を主り、「飛」もまたまさに乾象である。必ずしも乾体盈満を取って象を立てる必要はない。
遯九三「臣妾」の象
《遯》九三云「畜臣妾吉」,自來解者莫知艮之為臣,虞翻以三變坤為臣當之,後易家皆遵用之。豈知《易》《蹇》六二云「王臣蹇蹇」,《蹇》下艮,故亦曰臣;《小過》六二云「遇其臣」,亦以艮為臣。焦氏《易林》本之,凡遇艮卽言臣。後人不解《易》象,於是《易林》艮臣之象,初覩之亦不知其所謂矣。卽妾象,疑亦指艮,古於僮僕臣妾實不分,如以艮妾為不合,則坤臣亦不合矣。
《遯》九三に「臣妾を畜えば吉」と言うが、従来解釈する人は皆艮が臣象を取り得ることを知らず、虞翻は三爻を変じて坤を成して臣として数に充て、後の易学家は皆彼の講法を沿用した。彼らがどうして思い至ろうか。《周易》《蹇》卦六二に「王臣蹇蹇たり」と言い、《蹇》の下体はまさに艮なので、臣と称した。《小過》六二に「其の臣に遇う」と言い、同じく艮をもって臣とした。焦延寿の《易林》はこの例に本づき、およそ艮に遇えば即ち臣と言う。後人は《易》象を解さず、そこで《易林》の中の艮を臣とする象を、初めて見てもそれが何を言っているか分からなかった。「妾」の象に至っては、私は同じく艮を指すのではないかと疑う――古は僮僕・臣妾に分別を加えなかった。もし艮が妾となれないと言えば、坤が臣であることも同じく講じ通らない。
大壮初九「征めば凶、孚あり」及び象「其の孚は窮なり」の解
既曰征凶,則不孚也,乃曰有孚,義自違反,且與象語不協。象曰孚窮者,初陽四亦陽,二三又陽,故曰孚窮,《易林》陽遇陽則塞之旨,本此也。乃虞翻解有孚,謂四與五易位成陰,則初孚於四,豈知卦為《大壯》,不為《需》,虞說若當,象尚言孚窮乎?
爻辞がすでに「征めば凶」と言う以上、それは相孚応しないことである。それなのにまた「孚あり」と言うのは、文義が自ら相違反し、しかも《小象》の話とも協調しない。《小象》に「其の孚は窮なり」と言うのは、初爻が陽であり、それと相応する九四もまた陽であり、中間の九二・九三もまた皆陽なので、孚応が窮尽すると言う――《焦氏易林》の「陽が陽に遇えば窒塞する」という義旨は、まさにこれに本づく。しかし虞翻は「有孚」を解釈して、九四と六五が位置を交換して陰を成し、そこで初九は四と相孚すると言った。彼はどうしてこの卦が《大壮》であって《需》ではないことを思い至らなかったのか。もし虞説が成立するなら、《小象》はなお「其の孚は窮なり」と言うだろうか。
象言孚窮,確指四陽。王弼知其然,以窮凶可信為解,上下語不違反矣。然象曰孚窮,確指二三與四言,則爻詞之孚,似不得以閒文為解,亦未協也。案《說文》「有」字云:「不宜有也。《春秋傳》曰『有食之』是也。」然則初九之有孚,謂不宜於孚也,正與象之孚窮合也。
《小象》に「孚窮」と言うのは、明らかに四つの陽爻が一か所に聚まることを指す。王弼はこの点を見抜き、便ち爻辞を「困窮して凶を致すことは確信し得る」と解した。これで上下文は相違背しなくなる。しかし《小象》の言う「孚窮」は、確かに九二・九三と九四を指して言ったものである以上、爻辞の中の「孚」の字は関係のない閑字と見なすことができないようであり、王説もやはり妥でない。今考えるに《説文解字》は「有」の字を訓して言う。「宜しく有すべからざるなり。《春秋伝》に『日これを食するあり』とはこの用法である。」これに照らせば、初九の「有孚」はまさに相孚すべきでないことを言い、ちょうど《小象》の「其の孚は窮なり」と相合する。
大壮九四「大輿の輹に壮んなり」の説
解《易》之書,莫古於《左傳》。閔元年畢萬筮仕,遇《屯》之《比》,辛廖曰:「震為土,車從馬。」又《晉語》:「震,車也。」是左氏內外傳皆以震為車,《易林》本之,遇震卽言車。《大壯》下乾,乾為大,震車,故曰大輿。乃二千年學者,舍左氏不從,而以卦變為穿鑿,祗一王引之能覺察其非,以震為車,還周時之舊家,而詈虞氏之曲為穿鑿,真能獨立為說者也。
《周易》を解説する書で、《左伝》より古いものはない。閔公元年に畢万が出仕を卜問し、《屯》之《比》を筮し得て、辛廖の断辞に言う。「震は土であり、車は馬に従う。」《国語・晋語》にもまた言う。「震は車なり。」これで《左伝》《国語》の両書がともに震をもって車としたことが分かる。《焦氏易林》はこの例に本づき、震に遇えば即ち車と言う。《大壮》の下体は乾であり、乾は大であり、中爻の震は車なので、九四に「大輿」と言う。しかし二千年以来の学者は《左伝》を舍てて従わず、ひとえに卦変を用いて穿鑿附会した。ただ王引之の一人だけがその非を察知し、震をもって車とし、周代の旧説をもとの主に帰し、しかも虞翻の曲説穿鑿を斥責した。真に独立して説を立て得る人である。
惟輹為震象,王氏仍知之不真。按左氏僖十五年晉筮嫁伯姬,遇《歸妹》之《睽》,卽震變離也,震為車,變離形毀,故曰車脫其輹。孔疏引《子夏易傳》云:「輹,車下伏兔,今謂之車屐,以縛於軸。」據是,則輹為震象益明,因輹在車下而形若屐,屐者履屬,震象也。震形滅,故曰車脫輹。由是推大小畜之車脫輹,皆以旁通覆震故也。左氏所說,其真諦也。《大壯》九四「壯于大輿之輹」,卽以震為輿為輹,虞氏所說未當也。
ただ「輹」もまた震象であるというこの層は、王引之は依然として真切に知らなかった。按ずるに《左伝》僖公十五年に晋国が伯姫の出嫁のために占筮し、《帰妹》之《睽》に遇い、それは震が離に変じたものである。震は車であり、離に変じた後は震形が毀壊するので、繇辞に「車其の輹を脱す」と言う。孔穎達《正義》は《子夏易伝》を引いて言う。「輹は車廂の下の伏兎であり、今は車屐と呼び、用いて車廂を車軸に縛り付ける。」これに拠れば、「輹」が震象であることはなおさら明白である。輹は車底にあって形狀が木屐に似て、屐は鞋履の類に属し、《説卦》に震は足・動であり、まさに履属の象である。震形が一たび泯滅すれば、「車輹を脱す」と言う。これによって《大畜》九二、《小畜》九三の言う「輿輹を説く」を推し求めれば、いずれも旁通の卦の中の震が倒覆したためである。《左伝》の講法こそ真諦である。《大壮》九四に「大輿の輹に壮んなり」と言うのも、同じく震をもって輿・輹とするものであり、虞翻の解釈は適当でない。
大壮の羊象は中爻を用いる
自王弼及鍾會反古,謂《易》無互象,宋人承之,不敢言互。且無論左氏言互,卽本經考之,《大壯》三至五互兌,兌為羊,故九三卽言羊,是《易》已用互也。
王弼と鍾会が古法に一たび反し、《周易》に互体の象がないと宣言して以来、宋代の学者はその説を承襲し、敢えて互体を講じなくなった。《左伝》の筮例がもともと互体を講じていたことは姑く論じないとしても、ただ本経を考察するに:《大壮》は三から五爻まで互いに兌を成し、《説卦》に兌は羊なので、九三の爻辞はすなわち羊に言及する。これで《周易》自体がすでに早く互体を用いていたことが分かる。
晋卦は中爻を用いる
六二云「晉如愁如」,坎為憂,三至五互坎,故曰愁如;九四云「晉如鼫鼠」,艮為鼠,二至四艮,故曰鼫鼠,是用互也。此與《大壯》之羊,必謂為偶然,與中爻無關,豈可得哉?
《晋》卦六二に「晋として愁えるが如し」と言い、坎は憂であり、しかも三から五爻まで互いに坎を成すので「愁如」と言う。九四に「晋として鼫鼠の如し」と言い、艮は鼠であり、しかも二から四爻まで互いに艮を成すので「鼫鼠」と言う――これらは皆互体を用いている。この二条と《大壮》の羊象を併せて、もし必ず偶然の符合で中爻互体と関係ないと強いて言うなら、どうして言い得られようか。
晋六二「王母」の象
朱子謂六五為王母,六二受福,因與焦氏陰遇陰則阻之旨背,違《易》定例。虞翻謂五已正中,五陽應二,五王,坤母,故曰王母,不肯易旨矣,然《晉》尚未為《否》,豈能預言?
朱熹は六五が即ち「王母」であり、六二がそれから福を受けると考えた。これは焦延寿の「陰が陰に遇えば阻まれる」という義旨と相背し、《周易》の定例に違反する。虞翻は六五がすでに中に居り正を得ており、陽に変じた後に六二と相応し、五は王・坤は母なので「王母」と言うとした――これはなおさら《易》旨に合わない。ましてや《晋》卦はこの時まだ《否》に変じていないのに、どうして予めあの卦象に照らして言を立てることができようか。
茲以《易林》本象與對象相通之理推之,王母之象,實合對象《需》乾言也。乾為王,坤為母,坤伏乾,故曰王母;乾為福為大,故曰介福;坤虛艮手,故曰受。而二又為坤本位,居正中,黃中通理,故能受茲介福。象所謂「以中正」者,謂二中正,非謂五中正也,五為陰,固不能福二也。
今《焦氏易林》の本卦の象と旁通の対象が相通ずるという道理をもって推し求める。「王母」の象は実は対卦《需》の乾と合わせて言ったものである。乾は王であり、坤は母であり、坤の下に乾が伏しているので「王母」と言う。乾は福・大なので「介福」(大福)と言う。坤は中が虚で中爻の艮は手なので「受」と言う。しかも六二はまたちょうど坤の本位に当たり、下卦の正中に居る。《坤》六五のいわゆる「黄中にして理に通ず」なので、この大福を承受することができる。《小象》に「中正を以てすなり」と言うのは、六二が中正であることを指すのであり、六五が中正であると言うのではない――六五は陰爻であり、もともと六二に福を降すことができない。
明夷の用象は易林の法則たり
《易林》凡用地名、人名、國名,無不與象密合。但以人名論,如《解之井》云:「荷蕢隱居。」《井》通《噬嗑》,《噬嗑》震為蕢,中爻艮為荷,故曰荷蕢。又《家人之旅》云:「管叔遇桓。」《旅》通《節》,《節》震為管,艮為叔,故曰管叔。《大有之震》云:「楚亭晨食,韓子低頭。」震為子為乾,故曰韓,韓子者,韓信也,中爻坎為信,故曰韓子。
《焦氏易林》はおよそ地名・人名・国名を用いるに、卦象と密合しないものがない。ただ人名について論ずれば:例えば《解之井》に「蒉を荷いで隠居す」と言い、《井》は《噬嗑》と旁通し、《噬嗑》の下体の震は草器の蒉であり、中爻の艮は手にして肩荷の象があるので「荷蒉」と言う。また《家人之旅》に「管叔桓に遇う」と言い、《旅》は《節》と旁通し、《節》の下体の震は管であり、艮は叔なので「管叔」と言う。《大有之震》に「楚亭晨食し、韓子頭を低す」と言い、震は子・干であり(「韓」の字は「倝」から声を得て「干」と通ず)、だから「韓」と言う。「韓子」は即ち韓信であり、中爻は互体して坎を成して信なので、合して「韓子」と称する。
《小畜之剝》云:「孔鯉伯魚。」坤為魚,反震為孔為伯,故曰孔鯉伯魚。又《泰之幹》云:「伯夷叔齊。」震為伯,艮為叔,震艮不見,故曰夷曰齊。又《泰之剝》云:「干叔殞命,箕子為奴。」《剝》艮為求為少男,故曰干叔;反震為箕為子,故曰箕子,無不密切。
《小畜之剥》に「孔鯉伯魚」と言い、坤は魚であり、反震は孔・伯なので「孔鯉伯魚」と言う(孔鯉は字が伯魚)。また《泰之乾》に「伯夷叔斉」と言い、震は伯、艮は叔である。しかしここでは震・艮がともに隠伏して見えないので、名字の中に「夷」(滅)・「斉」(尽)を用いる。また《泰之剥》に「干叔命を殞し、箕子奴を為す」と言い、《剥》の上体の艮は求・少男なので「干叔」(比干)と言う。反震は箕・子なので「箕子」と言う――一处として絲絲入扣でない所がない。
茲《明夷》彖傳云「文王以之」,《明夷》上坤為文,中爻震為王,故曰文王;又曰「箕子以之」,《明夷》中爻震為子為箕,故曰箕子。文王、箕子之用象,雖重象如東漢人,無有言者,非《易林》,孰能證明之?《易林》無象外字,用以推《易》,始知《易》亦無象外字也。乃東漢人皆不知,故余謂西漢《易》說至東漢失傳也。
今《明夷・彖伝》の言う「文王これを以てす」を見るに:《明夷》の上体の坤は文であり、中爻の震は王なので「文王」と言う。また「箕子これを以てす」と言うに:《明夷》の中爻の震は子・箕なので「箕子」と言う。文王・箕子のこの二人名の取象は、たとえ東漢人のように卦象を看重する者でも、講じ出した者が一人もいなかった――《焦氏易林》がなかったなら、誰がそれを証明できたであろうか。《易林》には一字として象の外にあるものがない。この法則を取って《周易》を推し求めれば、はじめて《周易》にもまた一字として象の外にあるものがないことを知る。しかし東漢人は竟に全く知らず、だから私は西漢の《易》説が東漢にはすでに失伝したと言うのである。
明夷上六「初め天に登り、後に地に入る」の解
此與《復》崩來無咎,皆用覆象也。《剝》覆卽為《復》,艮倒故曰崩來;《晉》離在上,故曰初登于天,《晉》覆成《明夷》,離在下,故曰後入于地。此其義東漢人皆知之,至用覆為《易》通例則不知。後惟朱震、來矣鮮真知之,他皆半信半疑也。
この一爻は前の《復》卦の「崩来无咎」と同じく、いずれも倒覆の象を使用したものである。《剥》卦が一たび倒れれば即ち《復》卦となり、艮体が既に倒れたので「崩来」と言う。《晋》卦は離日が上にあるので「初め天に登る」と言い、《晋》が一たび倒覆すれば即ち《明夷》を成し、離日は下に落ちるので「後に地に入る」と言う。この層の意は東漢人もまだ知っていたが、「用覆」を《周易》の通例とすることについては、彼らは知らなかった。後にただ宋代の朱震と明代の来知徳(字は矣鮮)だけが真に解り、その余の人は皆半信半疑であった。
明夷初九「往くところあり、主人言あり」の解
中爻震為人為主,三則為震之主,而與初相對成離。初至二形兌,三至二覆兌,正反兩兌相對卽相背,故有言。有言者,相爭相訟,非祗有無也。此以離為有言,亦由《易林》推出也。
《明夷》の中爻は互体して震を成し、震は人・主であり、第三爻はまさにこの震の主爻である。それは初九と相対して合して離体を成す。初爻から二爻までが兌の半象を構成し、三爻から二爻までが倒兌の半象を構成し、一正一反の二つの兌口が相対する。相対とは即ち相背くことなので、爻辞に「言あり」と言う。いわゆる「有言」とは、彼此争執訴訟する意であり、ただ「有」と「無」の有ではない。ここで離をもって「有言」とするのも、《焦氏易林》の中から推し出したものである。
《易林·蠱之明夷》云:「讒佞亂政。」讒佞卽有言也。又《困之同人》云:「言多反覆。」亦以《同人》下離,離上下兩兌口相背,故曰言多反覆。有言確解,且離為有言之確解,此不啻焦氏特解《明夷》之有言也。又《離之明夷》云:「使伯采桑,狠不肯行,與叔爭訟,更相毀傷。」爭訟卽有言也。
《易林・蠱之明夷》に言う。「讒佞政を乱す。」讒言佞語は即ち「有言」である。また《困之同人》に言う。「言多く反復す。」これもまた《同人》の下体が離であり、離体の上下二つの兌口が相背するので、話が反復するのである。これはすなわち「有言」の確解であり、また「離為有言」の確解でもあり、まったく焦延寿が専ら《明夷》の「有言」のために下した注脚である。また《離之明夷》に言う。「伯をして桑を采らしむるも、狠として肯んじて行かず、叔と争訟し、更に相毀傷す。」ここの「争訟」はまさに即ち「有言」である。
此其義亦二千年長夜矣。第一不知有言為爭訟,解為有無之有;第二不知有言之故,由兩震言或兩兌口相背。此等《易》說,至東漢卽失傳,故解《困》之有言、《震》之有言,無一有當。豈知焦氏《易林》會一一為講說之,至明白也,而東漢人不解,後之說《易》者無慮千百家,遂皆不解。
この句の意義もまた二千年の長夜の中にある。第一に、「有言」が即ち争訟であることを知らず、かえって「有無」の「有」と解した。第二に、「有言」の成因が二つの震(言)あるいは二つの兌(口)が彼此相背することから来ることを知らない。この類の《易》説は東漢に至って失伝したので、後人が《困》卦の「有言」、《震》卦の「有言」を解するに、妥当に講じた所が一か所もない。彼らがどうして思い至ろうか、焦延寿の《易林》はすでに早く一条一条のために講明し、しかも講じること再び明らかなことこの上ないのに、東漢人は領会できず、後世に《易》を説く者は千百家を下らず、そこでまた揃って領会できなかったのである。
明夷九三「明夷南に狩りて、其の大首を得」の解
九家以三可升上而獵於五,得據大陽首位為得其大首,後說《易》者皆不能出其範圍。獨俞樾謂九家以大陽首位為大首,甚為不詞,可謂善疑矣。特俞樾首當為道,古首道通用,獲其大首卽獲其大道,義亦不協。
荀爽ら九家《易》は、九三が上位に上昇して第五爻で畋猟し、陽剛の首の高位に占拠することができると考え、これが即ち「其の大首を得」だとし、後に《易》を説く者は皆この範囲を跳び出せない。ただ俞樾だけが、九家が「陽剛之首位」を取って「大首」としたのは、甚だ話にならないと指摘し、よく疑いを生ずる者と言える。ただし俞樾は「首」は「道」と読むべきと主張し、古は「首」「道」が通用し、「其の大首を獲」は即ち大道を獲ることだと言ったが、この講法は文義において同じく合わない。
茲以《易林》證之,大首者坎也。《易林·大有之既濟》云:「大頭明目。」《既濟》上坎下離,是以坎為大頭,大頭卽大首。又《小過之豫》云:「低頭竊視。」《豫》中爻坎,坎為頭,坎陷,故低頭。又《大有之震》云:「韓子低頭。」亦以震互坎為低頭。由是證《明夷》九三之大首,亦謂坎也。
今《焦氏易林》をもって検証する。いわゆる「大首」とは、坎を指す。《易林・大有之既済》に言う。「大頭明目。」《既済》の上体は坎・下体は離であるので、坎をもって大頭としたことが分かる。大頭は即ち大首である。また《小過之豫》に言う。「頭を低して窃かに視る。」《豫》卦の中爻は互体して坎を成し、坎は頭であり、しかも坎はまた陥落を主るので頭を低すると言う。また《大有之震》に言う。「韓子頭を低す。」これも《震》卦の互坎をもって頭を低すとしたものである。これに拠って《明夷》九三の言う「大首」も、同じく坎を指すことが証明できる。
三體震,震南坎黑,故明夷於南;坎為獲,亦見《易林》;《左傳》震為殺、為威武,故震為狩。南既闇昧不明,故獲其大首,言獲其主惡也,非謂五也。凡古來《易》說,初視之而是,細按之而非,如此者十蓋六七也,幸《易林》尚存,能正之也。離亦為南,然曰南狩,則似非用離南,而用震南,與《左傳》「南國蹙」義同。
九三の処する所は震体であり、震は方位において南を主り、坎の色は黒を主るので「明夷于南」(光明が南方において傷れて昏暗する)と言う。坎は擒獲であり、これも《易林》の用例に見える。《左伝》は震をもって誅殺・威武とするので、震はまた田狩と為り得る。南方がすでに昏昧不明なので、そこで「其の大首を獲」と言い、その意は首悪元兇を擒獲したことを謂い、六五を指すのではない。およそ自古以来の《易》説で、乍見すれば是に似て細究すれば非なるものは、十条の中に常に六七条ある。幸いに《焦氏易林》がなお存し、なおそれらを糾正することができる。離もまた南を主るが、しかしここでは「南狩」と言うので、見るに離の南を用いたのではなく、震の南を用いたのであり、《左伝》の「南国蹙し」(南方の国が日に局蹙する)と取義が同じである。
明夷は中爻象を用いること独り多し
《明夷》中爻坎,坎為患難、為志、為大首、為疾、為心意,《易》皆用之;中爻震為言、為主、為人、為行、為往、為左、為馬、為壯、為狩、為出,《易》皆用之。謂《易》無互象者,其謂之何?
《明夷》卦の中爻は互体して坎を成し、坎は患難・心志・大首・疾病・心意であり、これらの象を《周易》は本卦の爻辞の中ですべて用いた。中爻は互体して震を成し、震は言・主・人・行・往・左・馬・壮・狩・出であり、これらの象を《周易》もまたすべて用いた。《周易》に互体の象がないと声言する者は、これに対してまたどのように解釈するのであろうか。
家人九三「家人嗃嗃たり、悔して厲しければ吉、婦子嘻嘻たれば終に吝」の解
侯果曰:「嗃嗃,嚴也;嘻嘻,笑也。」後儒解此,大概無出此義者。馬融謂嗃嗃為和樂者,非,和樂則與嘻嘻無別矣。後儒偶有異解,如王夫之以嗃、嘻為火聲,皆不協洽。獨同此一爻,忽嗃嗃而吉,忽嘻嘻而吝,忽曰失節,忽曰不失,此中必有故。不於象求其故,但曰嚴厲故吉,怠慢故吝,胡可哉?乃自東漢以來之說經者,鮮有及此,等於不說也。
侯果が言う。「嗃嗃とは厳厳の貌、嘻嘻とは嬉笑の貌である。」後代の儒者がこの一爻を解釈するに、大体この意を跳び出せない。馬融は「嗃嗃」を和楽と講じたが、誤りである――もし和楽なら、「嘻嘻」と分別がなくなる。後儒に偶に別解があり、王夫之が「嗃」「嘻」を火が燃焼する声とした如きは、いずれも貼切でない。問題は:同じ一爻の中で、忽ち嗃嗃として吉を得、忽ち嘻嘻として吝を致し、忽ち「家節を失う」と言い、忽ち「未だ失わざるなり」と言う。この中には必ず別の縁故がある。卦象の上に縁故を求めず、ただ厳厳なので吉、怠慢なので吝と言うだけでは、どうして講じ通せようか。しかし後漢以来の説経者でこの層に渉った者は少なく、解釈がないに等しい。
而張惠言理惠棟等,求其說而不得,乃本虞《漸》上九之說,謂三變受上成《既濟》,故吉。三變受者,謂三變陰,與上升降,上來居三,三往上,成《既濟》也。夫三當位,動則之不正,虞氏已自亂其之正之例,恐人嗤之,自謂行權宜無怪,是虞氏已自知其不當。然所以為此曲解者,以《家人》《漸》上九皆不當位而皆吉故也。乃惠氏等不知其謬,用其說以解吉義,以訛承訛,疑誤後學,莫此為甚。
張恵言・恵棟らは解を求めて得られず、便ち虞翻が《漸》上九を解した方法を搬用し、九三が変じて上爻と相受し、《既済》を成すので吉だと言った。いわゆる「三変上を受く」とは、三爻が変じて陰となり、上爻と互いに昇降し、上爻が下って三位に居り、三爻が上って上位に居り、そこで《既済》を成すことを言う。しかし九三はもともと位に当たっており、一たび動けばかえって正を失うので、虞翻はここに自ら「正ならざる者の正」という自分の義例を打ち乱した。彼は人に笑われることを恐れ、自らこれは権宜の計であって怪しむに足りないと称した――これで虞翻自身も説が通らないことを知っていたことが分かる。彼がどうしてもこのように曲解したのは、《家人》と《漸》の上九がいずれも位に当たらないのに爻辞がともに吉と言ったためである。恵棟らはその中の謬誤を明らかにせず、なおこの一套の説法を取って「吉」の義を解釈し、訛を以て訛を伝え、後学を貽誤した。これより甚だしいものはない。
茲《易林·未濟之家人》曰:「言與心詭,佞賊為禍。」夫曰心、曰賊,則以《家人》中爻互坎也;坎上下正反兩兌口相背,故曰言與心詭,曰佞賊,皆取象兌口也。九三之嗃嗃嘻嘻,亦以此也。
今按ずるに《易林・未済之家人》に言う。「言は心と詭れ、佞賊禍を為す。」すでに「心」を言い「賊」を言ったのは、《家人》の中爻が互体して坎を成すためである――《説卦》に坎は心・盗である。しかも坎体の上下はまさに一正一反の二つの兌口が彼此相背するので、「言は心と詭る」(言うことと思うことが相違する)と言い「佞賊」と言い、いずれも兌口から象を取った。九三の「嗃嗃」「嘻嘻」の二種の声口もまた、まさにこれより来る。
而三下據陰,形艮,艮為制為慎、為篤實、為尊貴,見林林,有尊嚴之象,故其聲嗃嗃;艮為家,故曰家人嗃嗃,由三視下取象也,故吉而不失。三上比陰形震,震為笑樂,有怠慢之聲,故其聲嘻嘻;震為子,四巽婦,故曰婦子嘻嘻,由三視上取象也,故吝而失節。
九三が下に向かって初・二の陰に拠れば、艮の形体を構成する。艮は節制・謹慎・篤実・尊貴であり(これらの象は《易林》の林辞に屡々見える)、一種の尊厳の気象があるので、その声口は「嗃嗃」である。艮はまた家なので「家人嗃嗃」と言う――これは九三から下を見て取った象であり、だから吉を得て「未失」である。九三が上に向かって六四の陰に比すれば、震の形体を構成する。震は笑楽であり、怠慢の声気を帯びるので、その声口は「嘻嘻」である。震は子であり、六四は巽に属して婦なので「婦子嘻嘻」と言う――これは九三から上を見て取った象であり、だから吝を致して「失家節」である。
其故全在九三上比下據之不同也。不然,以一爻忽吉忽吝,忽失忽不失,有是理哉?然非《易林》半象(《易林》於《既濟》每作三震,於《未濟》每作三艮)及正覆之例,孰能證明哉?
縁故は全く九三が上に向かって相に比するか、下に向かって相に拠するかで取る象が異なることにある。そうでなければ、同じ一爻でありながら、忽ち吉で忽ち吝、忽ち節を失い忽ち節を失わないという、このような道理があるだろうか。しかし《焦氏易林》の半象の法(《易林》は《既済》に遇えば毎々三つの震と見なし、《未済》に遇えば毎々三つの艮と見なす)および正覆して象を取る義例がなければ、誰がそれを証明できたであろうか。
蹇六二「王臣蹇蹇」の象
《易林》以艮為臣,初不知其用何象,後思《易》《遯》九三云「畜臣妾吉」,《小過》六二云「遇其臣」,皆以艮為臣,而《蹇》下艮,亦曰王臣。《易》之以艮為臣,可謂至明矣。後之人不解林詞者,因《易》象至東漢失傳故也。《易林》,字字步趨《周易》者也。
《焦氏易林》は艮をもって臣とするが、はじめ私はそれが何の象に拠るか明らかでなかった。後に《周易》《遯》卦九三に「臣妾を畜えば吉」、《小過》六二に「其の臣に遇う」とあるのを思い至り、いずれも艮をもって臣としており、《蹇》卦の下体はまさに艮なので、「王臣」とも言う。これで《周易》が艮をもって臣とするのは、これほど明白なことはないと分かる。後人が林辞を読み解けないのは、《易》象が東漢に至って失伝したためである。《焦氏易林》は、一字一句が皆《周易》に緊密に随っている。
睽六三の爻詞の解
三體坎,坎為輿為曳,三在坎末,兌見,故曰輿曳。離為牛。「掣」,鄭作「?」,「牛角皆踴」也,案此最得解。兌之為羊,亦取象於角,牛角與羊等耳。又《易林·大畜之睽》云:「傷破妄行,觸壁觗牆。」亦以角踴為說,不以牽掣為訓。踴者,起也,言牛角騰踴上出也。
六三の処する所は坎体であり、坎は車輿・拖曳であり、六三は坎体の末位に居り、しかも兌象が顕現するので、爻辞に「輿の曳かるるを見る」と言う。離は牛である。「掣」の字は鄭玄が別の字に作り(原書はこの字缺刻)、「牛角皆踊る」と注したが、私はこの解釈が最も得当だと思う。兌が象を羊に取る所以も、まさに角の上から取ったものであり、牛角と羊角は同じ一類である。また《易林・大畜之睽》に言う。「傷破して妄に行き、壁に触れ墻に觗る。」これもまた角が上に聳えることを取って説を立てたもので、「掣」を牽引と訓しない。いわゆる「踊」とは、即ち聳起であり、牛角が高く上に翹出することを言う。
「天」,馬融云:「剠鑿其額曰天。」鄭注《周禮·司刑》云:「截鼻曰劓。」虞詁亦與馬同。惟此用旁通,東漢人則無一能知者,而以《無妄》二五上下為穿鑿。豈知二陰之卦多矣,若用卦變,《中孚》又何不可,何必《無妄》?又東漢人知艮為鼻,不知額亦為艮,艮陽在上,《易林》凡言面、言額鼻者皆謂艮。《睽》兌通艮,今艮伏兌,見而上毀,故曰剠額;艮形滅,故曰截鼻,全用旁通,非由卦變。
「天」の字に至っては、馬融が言う。「額頭に黥刺して字を鑿つのを『天』と言う。」鄭玄は《周礼・司刑》に注して言う。「鼻を割くのを『劓』と言う。」虞翻の訓釈は馬融と同じである。ただここで用いたのは旁通の法であり、後漢人は竟に一人も解る者がなく、かえって《无妄》の二・五の両爻を上下昇降させて穿鑿した。彼らがどうして思い至ろうか、二陰の卦は非常に多く、もし卦変を用い得るなら《中孚》はなぜ不可なのか、何のために必ず《无妄》でなければならないのか。さらに後漢人は艮が鼻であることを知っていたが、額頭もまた艮に属することを知らなかった――艮は一陽が上にあり、ちょうど人面の上部に当たる。《易林》はおよそ面を言い、額と鼻を言う所は皆艮を指す。《睽》の上体の兌は艮と旁通し、今艮は潜伏して兌が顕現し、兌は毀折を主りて上端が殘缺するので「額を黥す」と言う。艮の形体は泯滅するので「鼻を截る」と言う。これは全て旁通を用いたもので、卦変から来たのではない。
又俞樾云:「凡《易》皆以天為陽,今忽詁為剠額,無乃太異。考《荘子·德充符》篇『魯有兀者』,《釋文》曰:『李云:刖足曰兀。』其人兀且劓,猶《困》九五曰『劓刖』也。古文天作『?[上兀下兀]』,見《玉篇》,故兀誤為天。」案俞氏此詁,於象尤合,震為足,三震象半見,故刖足。又以天為刑,愚亦心異之,而不能求得馬氏之所本。朱漢上云:「《易傳》髡曰天。」以《易》象考之,《易傳》是也。漢上善用覆,兌覆巽,巽寡髮,故曰髡,亦切於馬詁也。
別に俞樾が言う。「《周易》はおよそ『天』の字を用いれば皆陽を指すのに、今忽然として額を黥すると訓するのは、未免甚だ離奇である。考えるに《荘子・徳充符》篇の『魯に兀者有り』に、陸徳明《経典釈文》は『李頤曰く、足を断つのを兀と言う』と言う。然らば『其の人兀かつ劓り』とは、《困》卦九五の言う『劓刖』の如きである。古文の『天』の字は上下二つの兀と書き(この字は《玉篇》に見え、原書は缺刻)、だから『兀』が誤って『天』となった。」私は俞樾のこの訓釈が卦象と特に相合すると思う。震は足であり、六三は震象が半ば見える位に処るので足を断つと言う。「天」を一種の刑名とすることに至っては、私も心に怪しいと思うが、しかし馬融の本づく所を探し出せない。朱震(号は漢上)が言う。「《易伝》は髪を剃ることを『天』とする。」《易》象をもって考察すれば、《易伝》の説法は正しい。朱震は覆象の運用に善い。兌を倒せば即ち巽であり、《説卦》に巽は寡髪なので髡(髪を剃る)と言う。これは馬融の訓釈ともまた貼切する。
睽上九は対象を用いる
《睽》上離,離對坎,坎為豕、為塗、為鬼、為車、為弧、為寇、為雨,《易》見離而象盡用坎,水火相逮不分也。後儒惟來知德氏窺見此旨,曰「此用錯象坎」,餘皆以中爻坎為說。不本《易林》,皆與《易林》闇合,故夫來氏真有心得者也。後儒因不明此旨,因而不解《易林》。《易林》說巽而詞象用震,說兌而詞象用艮,如此者十蓋五六也。後儒不解《易》,故亦不解《易林》矣。
《睽》卦の上体は離であり、離の対卦(旁通)は坎である。坎は豕・泥塗・鬼・車・弓弧・寇盗・雨である。《周易》のこの爻が見るのは離であり、しかし取る象は全て坎を用いる。これは水火が相互に及逮し、もともと分かつべからざるためである。後代の儒者ではただ来知徳だけがこの層の意を看破し、「ここは錯象の坎を用いた」と言い、その余の各所でも彼は皆中爻互坎を取って説を立てた。彼は《焦氏易林》に依拠しなかったのに、言う所が処処《易林》と暗合するので、来知徳は真に心得のある人である。後儒はこの道理を明らかにしないので、《易林》もまた読み解けない――《易林》の中で説くのは巽なのに辞象は震を用い、説くのは兌なのに辞象は艮を用いる。このような情形は十条の中に常に五六条ある。後儒はすでに《周易》を解さないので、自然に《易林》もまた解さない。
餘因《易林》無一字不根於象,而悟《易》亦然也。蓋古聖人之制《易》詞,皆澄心凝慮,目視卦象而為之,忽於甲有觸卽生甲象,忽於乙又有觸卽生乙象,而上下文不必相屬,吉與凶不必其齊一。
私は《焦氏易林》に一字として卦象に根ざさないものがないのを見て、そこで《周易》もまたこのようであると悟った。大概古代の聖人が卦爻辞を制作した時は、皆心思を澄まし神慮を凝らし、目を卦象に注いで書いた。忽然として甲の所に触発される所があれば、甲象の辞を生じ、忽然として乙の所にまた触発される所があれば、乙象の辞を生じた。ゆえに上下文は必ずしも互いに連属せず、吉と凶もまた必ずしも前後が画一でない。
如《睽》卦之詞,至易見矣:方喜馬復,忽又見惡人;方見輿牛,忽又見人之天且劓;方見豕,又見鬼;方慮張弧,又喜遺壺;方慮寇,又冀雨。迷離閃灼,其詞若不從卦象生,不發狂乎?而執者解《困》之有言不信,必與上文大人吉相屬;解《震》上六「震不于其躬,于其鄰」,必與下「婚媾有言」相屬,胡能通乎?
《睽》卦の爻辞の如きは、最もこの点を見やすい。剛に「馬を喪うも逐う勿れ、自ら復る」と喜んでいたかと思えば、忽然また「悪人を見る」。剛に「輿曳かれ牛掣かる」を見たかと思えば、忽然また「其の人天かつ劓り」を見る。剛に「豕の塗を負うを見る」を見たかと思えば、また「鬼を一車に載る」を見る。剛に「先づ弧を張る」を憂えたかと思えば、また「後に壺を説く」に欣喜する。剛に「寇に匪ず」を憂えたかと思えば、また「雨に遇えば則ち吉」に指望する。辞意は迷离閃爍して、もし卦象から一々生じたのでなければ、発狂の囈語となったではないか。しかし拘執する人は《困》卦の「言ありて信ぜられず」を解するに、必ずそれを上文の「大人吉」と一気に連ねようとし、《震》上六の「震其の躬に於いてせず、其の隣に於いてす」を解するに、必ずそれを下文の「婚媾言あり」と一気に連ねようとする――これはどうして講じ通せようか。
解六三「負い且つ乗り、寇を致して至らしむ」の解
《易林》於《解》,往往用半象。茲按《解》六三云「負且乘,致寇至」,卽用半象也。六三體離,離上艮下震,艮為負,震為乘,三正當其間,故負且乘。三上下皆坎,坎為寇,故曰致寇。自來說者皆不協,蓋《易》原用半象,故《易林》本之也。
《焦氏易林》は《解》卦に遇えば、往々にして半象を使用する。今按ずるに《解》六三に「負い且つ乗り、寇を致して至らしむ」と言うのは、まさに半象を用いている。六三は離体の中に処り、この離の上半は艮の半象、下半は震の半象である。艮は背負、震は乗車であり、六三はちょうど両者の間に挟まるので「負且乗」(ものを負いつつ車に乗る)と言う。六三の上下は皆坎であり、坎は寇盗なので「致寇至」と言う。従来この爻を解した者は皆講じて妥帖でなかったが、実は《周易》はもともと半象を用い、《易林》はただそれを沿用したにすぎない。
解上六「公隼を高庸の上に射る」の解
《小過》六五曰「公弋」,卽以震為公。《易林·需之歸妹》云:「同公共母。」《歸妹》上震為公,故曰同公。又《泰之豫》云:「莊公築館。」亦以《豫》上震為公。《解》之上體震,故曰公。射亦震象,《左傳》晉筮遇《復》,云「射其元」,卽以震為射,《易林》本之。
《小過》六五に「公弋にて彼を穴に在るを取る」と言うのは、それは震をもって公としたものである。《易林・需之帰妹》に言う。「公を同じくし母を共にす。」《帰妹》の上体は震であり、震は公なので「同公」と言う。また《泰之豫》に言う。「荘公館を築く。」これも《豫》卦の上体の震をもって公とした。《解》卦の上体はまさに震なので、爻辞に「公」と言う。射ることもまた震象である。《左伝》は晋国が占筮して《復》卦に遇い、繇辞に「其の元を射る」と言ったのを記しており、これは震をもって射としたもので、《焦氏易林》はこの例に本づく。
《艮之姤》云:「荷弓射魚。」《姤》通《復》,《復》下震為射,坤為魚,故曰射魚。又《巽之鼎》云:「矢石所射。」《鼎》通《屯》,《屯》下震為射,上坎為矢,艮為石,故曰矢石所射。《解》上震,故曰射;震為鵠,故亦為隼;伏巽為庸為高。蓋《解》有重險,上六出重險之外,故象曰「解悖」,坎為悖也。公用射隼于高庸之上者,言居高庸之上而射隼,象卦形,故獲(坎為獲)之無不利,非自下射上也。虞翻以三為公,以離為隼,皆因卦象失傳,故誤也。
《艮之姤》に言う。「弓を荷いて魚を射る。」《姤》は《復》と旁通し、《復》の下体の震は射であり、坤は魚なので「射魚」と言う。また《巽之鼎》に言う。「矢石の射る所。」《鼎》は《屯》と旁通し、《屯》の下体の震は射、上体の坎は矢、中爻の艮は石なので「矢石所射」と言う。《解》卦の上体は震なので「射」と言う。震は鵠鳥であり、よってまた隼と為り得る。伏巽は墻垣・高なので「高庸」と言う。《解》卦はもともと重畳の険阻があり、上六はすでに重険の外に出たので、《小象》に「以て悖を解くなり」と言う。坎は即ち悖乱である。「公隼を高庸の上に射る」とは、高墻の上に立って隼を射ることを言う――これはまさに卦の形体に象を取ったもので、だから射獲し(坎は獲取)て利ならざるなしと言えるのであって、下から上に向かって射るのではない。虞翻は九三をもって公とし、離をもって隼としたが、皆卦象が失伝したため、誤った。
《損》卦の大象「君子以て忿を懲し欲を窒ぐ」
損大象君子以懲忿窒欲。此與頤之慎言語、節飲食同也。損二至上亦頣也,此易用五爻互也。二至上正反兩震言相對,有爭訟象,故懲忿;懲忿卽慎言語也。正反兩艮手、兩震口相對,有爭食相制象,故窒慾;窒慾卽節飲食也,皆易林義也。易林《萃》之《損》云:「張王子張,爭財相制。」坤為財,兩艮手相對,故曰爭、曰制。又《大畜》之《損》云:「兩虎爭鬥。」艮為虎,正覆兩艮,故曰兩虎相鬥。夫曰相制、曰相鬥、曰爭,卽懲忿窒欲之反也,皆以正覆對象也。而虞仲翔等以乾為忿,以泰乾初居上為懲忿,坤為欲,艮止為窒慾。後治漢易者奉此說,不敢異詞。由易林證之,皆穿鑿也。乾形破卽為懲忿,說尤可哂。
《損》卦の《大象伝》に「君子以て忿を懲し欲を窒ぐ」と言う。この条は《頤》卦の《大象伝》の言う「君子以て言語を慎み飲食を節す」と同じ一つの道理である。《損》卦は第二爻から数えて上爻まで、また一つの《頤》卦の形を構成する。これは《周易》が五爻互体を使用する例である。二爻から上爻までの間に、一正一反の二つの《震》が彼此相対する。《震》は言・口であり、両口が相向かいして言えば、争訟の象があるので、「忿を懲する」べきである――忿を懲すとは即ち《頤》卦の言う「言語を慎む」である。同様に、一正一反の二つの《艮》は手、二つの《震》は口であり、彼此相対すれば、食を争い相い制する象があるので、「欲を窒ぐ」べきである――欲を窒ぐとは即ち「飲食を節する」である。これらは皆《焦氏易林》の用象の義例である。《易林》《萃》之《損》の条に「張王子張、財を争い相制す」と言う。《損》卦には《坤》があり、《坤》は財貨であり、二つの《艮》の手が相対して争うので「争」・「制」と言う。《大畜》之《損》の条にまた「両虎争闘う」と言う。《艮》は虎であり、《損》卦の中で正反の両《艮》が相畳するので「両虎相闘」と言う。およそ「相制」・「相闘」・「争」と言うのは、まさに「懲忿窒欲」の反面である――ただ本来忿があり欲があるからこそ、懲する必要があり窒ぐ必要があるのである。しかもこれらの取象は一律に正反相覆の対象を用いている。虞翻(字は仲翔)らに至っては、《乾》を「忿」と解し、《損》卦は《泰》卦から来て《泰》の《乾》初爻が上位に昇れば即ち「懲忿」と言い、また《坤》を「欲」と解し、《艮》の止を「窒欲」と解した。後世に漢《易》を治める者はこれを定説として奉じ、異議を唱えることを敢えてしなかった。しかし《易林》を取って印证すれば、これらの講法は皆穿鑿附会である。《乾》の卦形が破壊されたのを即ち「懲忿」と言う説に至っては、なおさら可笑しい。
《益》卦「往くところあるに利し、大川を渉るに利し」の解
益利有攸往、利涉大川解。此與蹇解之利西南同也。蹇陽居五,曰往得中,又居坤中,坤西南,故曰利西南。解陽居四,前臨二陰,曰往得眾,坤為眾,位西南,故亦曰利西南。益陽居五中,下乘三陰,故曰利往,兼蹇解二義也。毛西河謂利往指否初之四,豈知彖明曰:「利有攸往,中正有慶。」五乃中正,四不中正也。而尚詡詡自得曰:「攸往從來未解。」然如此等解,不如不解也。
《益》卦卦辞「利有攸往、利渉大川」の解。この条は《蹇》《解》両卦の言う「西南に利し」と同じ一つの道理である。《蹇》卦の陽爻は第五位に居るので《彖伝》に「往きて中を得」と言い、五爻はまた《坤》体の中に処り、《坤》の方位は西南にあるので「利西南」と言う。《解》卦の陽爻は第四位に居り、前にちょうど二つの陰爻に対するので《彖伝》に「往きて衆を得」と言い、《坤》は衆であり方位は西南にあるので、また「利西南」と言う。《益》卦の陽爻は第五位に居り中を得、下に三つの陰爻を乗るので「利有攸往」と言う――それは《蹇》《解》両卦の義理を兼ねている。毛奇齢(号は西河)は「利往」が指すのは《否》卦の初爻が四位に昇ることだと言う。彼はどうして《彖伝》が明らかに「利有攸往、中正慶あり」と言うのを思い至らなかったのか。五爻こそ既に中であり且つ正であり、四爻は中正でない。毛氏はなお洋洋自得して「『攸往』の二字は従来よく解した人がいない」と言う。このような解釈は、解しないにも及ばない。
至利涉大川,則指初言。初陽臨坤,坤為大川,陽遇陰則通,故曰利涉大川,與損二之利有攸往同也。損二前臨三陰,故利往。凡易言利往、利涉者,義無不通,特坤水象至東漢失傳,必以坎為大川,●●歧誤,而解益之大川尤扞格難通。虞翻云:「三失正,動成坎,坎為大川,故利涉大川。」大川象得矣,而利涉不知屬誰。坎陷,初不利,五亦不利,又陽遇陽則窒,尤不利也。
「利渉大川」に至っては、初爻について言う。初爻は陽爻であり、上に緊臨して《坤》体があり、《坤》は大川である(これは尚氏の主ずる「《坤》為水」の象)。陽が陰に遇えば道路が通暢するので「利渉大川」と言う――これは《損》卦九二に「利有攸往」と言うのと同じ一つの道理である。《損》九二は前に三つの陰爻に対するので、前往に利がある。およそ《周易》が「利往」「利渉」と言う所は、この条の義例に照らして講じて通らないものがない。ただ「《坤》為水」というこの象が東漢に至って失伝し、注家は必ず《坎》を取って「大川」に充当しようとして(ここの原文二字が缺す)、歧出して訛誤を致した。《益》卦の「大川」を解釈するに特に扞格して通じ難い。虞翻が言う。三爻が位を失い正しくなく、変動した後に《坎》を成し、《坎》は大川なので「利渉大川」と言う。このように「大川」の象は確かに求め得られたが、しかし「利渉」するのはいったいどの爻かは説き出せない。《坎》の卦徳は険陥であり、初爻がそれを渉れば利でなく、五爻が渉っても利でない。ましてや陽爻が陽爻に遇えば窒塞して通ぜず、なおさら利を論じるに及ばない。
《益》卦《彖伝》「木の道すなわち行く」の解
益彖木道乃行解。虞翻謂三動成渙,渙舟楫象,巽木得水,故木道乃行,可謂●極。然坤卽為水,依其解,巽木得坤水,豈不益當乎?惜虞不知此象,必變坎始得水,多此波折。蓋木道乃行者,卽月令所謂行春令也。震木巽木,震為春,巽為夏初,正木德昌王之時。而中爻艮亦為木,反震亦為木,故曰木道乃行,不必因涉川而得舟楫為行也。以此為行,義小甚矣。
《益》卦《彖伝》「木道乃行」の解。虞翻は三爻が変動した後に《渙》卦を成し、《渙》には舟楫の象があり、《巽》木が水を得たので「木道乃行」と言うと考えた。これは真に(ここの原文一字が缺す)の極みと言える。実は《坤》はもともと水であり、彼の講法に照らせば《巽》木が《坤》水を得るのでは、なおさら妥当ではないか。惜しいのは虞翻がこの象を解さず、必ず爻を変じて一つの《坎》を出してはじめて水を得たとすることで、徒らにこれだけの回り道をしたことである。実はいわゆる「木道乃行」とは、即ち《礼記・月令》の言う「春令を行う」である。《震》は木に属し、《巽》もまた木に属する。《震》は春季に当たり、《巽》は初夏に当たり、まさに木徳が昌盛して王となる時節である。しかも《益》卦の中爻は互体して《艮》を成し、《艮》もまた木である。反《震》も同じく木なので「木道乃行」と言い、必ずしも川を渉るために舟楫を得てはじめて「行」とする必要はない。「行」を行舟と講じれば、義理はあまりに狭小である。
《益》卦《彖伝》「其の道大いに光」の解
益彖其道大光解。大光之象,因互艮也。此與大畜彖之輝光、艮彖之其道光明,皆指艮言也。此其義,易林最多,乃至東漢而失傳。鄭康成解困卦,謂兌為闇昧。兌與艮對,兌為闇昧,艮當然為光明,乃康成知兌暗而不知艮光。至宋張浚說隨九四、徐幾說艮、吳澄說謙,始知之,乃至清又失。清治漢易者篤守東漢人說,不敢越軌,遂以家法自囿矣。
《益》卦《彖伝》「其道大光」の解。「大光」の象は、《益》卦の中爻が互いに《艮》体を出すためである。これは《大畜》《彖伝》の言う「輝光」、《艮》卦《彖伝》の言う「其道光明」と同じく、皆《艮》について言ったものである。この義例は《焦氏易林》の中で用いること最も多いが、しかし東漢に至って失伝した。鄭玄(字は康成)が《困》卦を解して《兌》が暗昧と言った。《兌》と《艮》はまさに相対の卦であり、すでに《兌》が暗昧なら、《艮》は自然に光明であるべきである。しかし鄭玄はただ《兌》が暗いことを知り、《艮》が光ることを知らなかった。宋代の張浚が《随》卦九四を講じ、徐幾が《艮》卦を講じ、呉澄が《謙》卦を講じて、はじめて再びこの象を明らかにした。清代に至ってはまた失伝した。清代に漢《易》を治める者は東漢人の旧説を死守し、敢えて雷池を一歩も越えず、そこで師法家法に自ら囚禁された。
《損》《益》の「十朋の亀」と《夬》《姤》の「臀に膚なし」の解
損益十朋龜夬姤臀無膚解。易用覆象,莫此為著矣。損六五覆之,卽益六二,故皆曰十朋龜。夬九四覆之,卽姤九三,故皆曰臀無膚、其行次且。既濟三卽未濟四,故皆曰伐鬼方。此與明夷上六之用晉覆、復彖之用剝覆、泰上六之用艮覆、大過九五之用巽覆,義通也,此皆由易林而得其會通也。乃東漢人除荀爽謂中孚兩巽相對、虞翻謂大壯有反巽,餘用者甚少,故吾謂東漢人於覆象半信半疑也。至龜象,則以損益皆互艮象,故皆曰龜。兩貝為朋,言此龜值十朋也。
《損》《益》の「十朋之亀」と《夬》《姤》の「臀無膚」の解。《周易》が覆象(卦体を上下顛倒して象を取る)を使用するのに、これら数か所ほど顕著なものはない。《損》卦の六五爻を顛倒すれば、即ち《益》卦の六二爻なので、二か所とも「十朋之亀」と言う。《夬》卦の九四爻を顛倒すれば、即ち《姤》卦の九三爻なので、二か所とも「臀無膚、其の行次且たり」と言う。《既済》の三爻は即ち《未済》の四爻なので、二か所とも「鬼方を伐つ」と言う。これは《明夷》上六が《晋》の覆象を用い、《復》卦《彖伝》が《剥》の覆象を用い、《泰》卦上六が《艮》の覆象を用い、《大過》九五が《巽》の覆象を用いるのと、道理が相通ずる。しかもこれらは皆《焦氏易林》によってはじめて貫通した。しかし東漢人の中では、荀爽が《中孚》に两《巽》が相対すると言い、虞翻が《大壮》の中に反《巽》があると言った以外、覆象を用いた者は極めて少ない。だから私は東漢人は覆象に対して半信半疑だと言う。「亀」というこの象に至っては、《損》《益》両卦がともに互いに《艮》体を出し、《艮》は亀なので、ともに「亀」と言う。古代は二貝をもって一朋とし、「十朋之亀」とはこの亀が十朋の価値があることを言う。
《夬》卦九四「言を聞きて信ぜず」及び《象伝》「聡明ならず」の解
夬卦九四聞言不信及象聰不明解。此其義亦晦茫二千年矣。虞翻謂震為言,坎為耳,震坎不正,用半象,故聞言不信也。夫以震坎半見為不信,如此解經,謂之為通,其誰信之?清毛西河、焦循、姚配中、惠氏父子之所釋,愈不協矣。易說易象之失傳,此尤顯著。
《夬》卦九四「聞言不信」及び《象伝》「聡不明」の解。この条の意義もまたすでに二千年晦暗不明である。虞翻は《震》が言であり、《坎》が耳であり、しかも《夬》卦の中の《震》《坎》は皆完整せず、ただ「半象」なので「聞言不信」と言うとした。《震》《坎》が半分しか露呈しないことをもって「不信」を解釈するのでは、このように講じて経文がまだ通じると言えるか。誰が信じるだろうか。清代の毛奇齢・焦循・姚配中および恵周惕・恵棟父子の解釈は、なおさら合わない。《易》説と《易》象の失伝は、この一处において特に明らかに表れている。
夫乾為言為信,而兌口在上,與下乾相背,相背卽不信矣。是以易林姤之夬云:「兩人俱醉,相與背戾,心乖不同,訟爭恟恟。」夬乾為人,兌先天居二,故曰兩人;兌口與乾背,故曰背戾;相背卽相爭相訟,故曰訟爭恟恟。又坤之夬云:「一簧兩舌,妄言謬語。」夬下乾先天居一,故曰一簧;兌先天居二,故曰兩舌;兌口與乾言背,故妄言謬語。夫曰爭訟、曰謬妄,卽不信也,此不啻焦氏特解此爻詞矣。
実は《乾》が言・信であり、《夬》卦の上体の《兌》は口で上方に居り、下の《乾》とまさに相背离する。相背とは即ち信じないことである。だから《焦氏易林》《姤》之《夬》の条に言う。「両人俱に醉い、相与に背戾し、心乖りて同じからず、訟争して恟恟たり。」《夬》卦の《乾》は人であり、《兌》は先天卦序において第二位に居るので「両人」と言う。《兌》の口は《乾》と相背するので「背戾」と言う。相背とは即ち相争い相訟えることなので「訟争恟恟」と言う。《坤》之《夬》の条にまた言う。「一簧両舌、妄言謬語。」《夬》卦の下体の《乾》は先天卦序において第一位に居るので「一簧」と言い、《兌》は先天で第二位に居るので「両舌」と言う。《兌》の口は《乾》の主る言と相背するので、「妄言謬語」である。およそ「争訟」と言い「謬妄」と言うのは、即ち「不信」である。焦延寿のこれら数条の林辞は、まったく専ら《夬》卦九四のこの句の爻辞のために作った注解に等しい。
又井之姤云:「各引是非。」姤反兌,與上乾亦相背,故曰各引是非。又震之泰云:「心與言反。」泰中爻震兌,皆與下乾言相背,故曰心與言反,亦不信之註解也。千年之霧障,一旦而祛,能不於焦氏易林馨香祝之哉!
《易林》《井》之《姤》の条にまた言う。「各々是非を引く。」《姤》卦の下体の《巽》は《兌》の反覆の体であり、上の《乾》ともまた相背するので「各引是非」と言う。《震》之《泰》の条にまた言う。「心は言と反す。」《泰》卦の中爻は互いに《震》《兌》を出し、いずれも下体の《乾》の主る言と相背するので「心與言反」と言う――これも同じく「不信」の二字の注脚である。千年の迷雾障蔽が一旦廓清された今、焦延寿の《易林》に対してどうして香を焚いて礼拝し、心に感激を懐かないことができようか。
至聞之為象,指半坎無疑,故象曰聰不明也。聰卽聞,管子宙合篇「聞審謂之聰」是也。半坎耳不足,故曰聰不明,卽俗所謂不明白。不明仍謂耳,非謂目。舊注謂耳曰聰、目曰明,各有所司。若聰謂耳、明又謂目者,豈知噬嗑上九象曰:「何校滅耳,聰不明也。」耳滅坎伏,故聰不明,專指耳言,亦不指離目,舊注誤也。
「聞」というこの象に至っては、疑いなく半ばの《坎》を指すので、《象伝》に「聡不明」と言う。「聡」とは即ち「聞」であり、《管子・宙合》篇に「聞して審かなるを聡と謂う」と言うのは、まさにこの意である。半ばの《坎》は耳象が完足しないので「聡不明」と言い、即ち俗に言う聞き明らかにならないことである。ここの「不明」は依然として耳について言うのであって、目について言うのではない。旧注は耳を「聡」、目を「明」とし、各々分司すると考えた。もし「聡」が専ら耳を指し、「明」がまた専ら目を指すなら、《噬嗑》上九の《象伝》に「校何れか耳を滅す、聡不明なり」と言うのはまたどう講じるか。あそこは耳が枷に滅せられ《坎》象が潜伏するので「聡不明」と言い、専ら耳について言うのであり、《離》の目象には渉らない。これで旧注が誤りであることが分かる。
焦氏易詁 巻六
行唐尚秉和節之撰
直隷行唐(今の河北行唐県)の人・尚秉和、字は節之、撰述。
《姤》卦《大象》「后以て命を施し四方に誥す」の解
姤象后以施命誥四方解。虞翻、翟玄、王弼皆以天下有風,風無不周,故天子法之,申命誥四方。豈知姤為夏至之卦,天子施命令多在歲首。周禮天官及秋官所謂「正月之吉,縣法象於象魏,使萬民觀治」,並宣佈於四方,是也,不聞夏至。鄭玄、王肅則又作誥四方,蓋以夏至微陰初生,奸慝潛匿,詰奸摘伏,端在此時。然觀周禮,詰奸之職多矣,於夏至無關也,似亦未協。
《姤》卦《大象伝》「后以施命誥四方」の解。虞翻・翟玄(翟子玄)・王弼は皆天下に風があり、風は至らない所がないので、天子はそれを倣い、命令を申布し四方に告諭すると考えた。彼らはどうして《姤》が夏至の卦であり、天子が命令を頒布するのは多く歳首であることを知らなかったのか。《周礼》の天官・秋官の言う「正月の吉、法象を象魏に県げ、万民をして治を観せしむ」、かつ四方に宣布するのは、まさにこの種の制度であり、夏至に挙行したとは聞かない。鄭玄・王粛はまた「四方を詰す」と読むべきと主張し(今本はこの字を「誥」と作る)、大概は夏至の時に微陰が剛に生じ奸邪が潜蔵するので、奸慝を査究し隠伏を掲発するのはまさにこの時に当たると考えたのである。しかし《周礼》を考察すれば、奸邪を査究する職官を掌るものは多く、皆夏至とは関係がない。この説もまた妥当でないようである。
案後漢魯恭傳:「五月姤用事,經曰『後以施令(注引亦作令)誥四方』,言君以夏至之日施命令,止四方行者。」章懷注云:「復卦曰『先王以至日閉關,商旅不行』,故夏至宜止行。」據此,是魯恭及章懷皆以誥四方為禁止四方行旅,與易林二至之戒「家無凶禍」說合,又與復象義通也,復象卽兼夏至言也。恭,東漢初人,疑其說近古。又漢書薛宣傳「至日休吏,由來已久」,注:「至日,冬夏至也。」夫曰休吏,則不治事也;官吏不治事,則行旅可知。疑此俗仍周之舊也。
按ずるに《後漢書・魯恭伝》に言う。五月に《姤》卦が当令して事を用い、経文に「后以て令を施し四方に誥す」と言い(李賢注の引く所も「令」の字と作る)、その意は君主が夏至のこの日に命令を頒布し、四方の行旅の出行を禁止することである。章懐太子李賢注に言う。《復》卦《大象》に「先王至日を以て關を閉ず、商旅行わず」と講じるので、夏至もまた出行を停止すべきである。これに拠って知るに、魯恭と李賢は皆「誥四方」を四方の行旅を禁止することと理解し、これは《焦氏易林》の冬夏二至に関する戒辞「家に凶禍なし」の説と相合し、《復》卦《大象》の意とも相通ずる――《復》卦《大象》はもともと夏至を兼ねて言うものである。魯恭は東漢初年の人であり、私は彼の説法が比較的古義に近いのではないかと疑う。また《漢書・薛宣伝》に「至日に吏を休めるは由来久し」と言い、注解に言う。「至日とは冬至・夏至を指す。」すでに「吏を休める」と言う以上、公事を為さないことであり、官吏が公事を為さなければ、行旅が停止するのもまた推して知れる。私はこの種の風俗はなお周代の旧制に沿襲したものではないかと疑う。
《升》卦「南に征すれば吉」の解
升南征吉解。虞氏謂二升五成離,為南。然經曰南征,則非指變後之離也,後來說者愈不協。茲以易林解之,則南為震象也。易林咸之升云:「南與凶俱。」升上坤,為凶;震南,故曰南與凶俱。又無妄之升云:「三鶴南飛。」升中爻震,為鶴,數三,又為南,故曰南飛。是易林明以震為南也。
《升》卦卦辞「南征吉」の解。虞翻は二爻が五位に昇れば《離》を成し、《離》は後天方位において南に属すると考えた。しかし経文が言うのは「南征」であって、変卦した後の《離》を指すのではない。後の各家の説はなおさら合わない。今《焦氏易林》を取って解すれば、「南」はすなわち《震》の象である。《易林》《咸》之《升》の条に言う。「南は凶と俱なり。」《升》卦の上体は《坤》であり、《坤》は凶である。《震》は南なので「南与凶俱」と言う。《无妄》之《升》の条にまた言う。「三鶴南に飛ぶ。」《升》卦の中爻は互体して《震》を成し、《震》は鶴であり、その数は三であり、また南なので「南飛」と言う。これで《易林》は明らかに《震》をもって南としていることが分かる。
然猶可曰因卦詞也。乃小畜之謙云「南國虐亂」,之師云「南至嘉國」,既濟之蠱云「冠帶南行」,睽之中孚云「南向陋室」,損之豫云「南厯玉山」,易林凡遇震卽曰南。初觀其詞,皆不知其所指;後思易升卦曰南征、明夷九三曰南狩,是易原以震為南也。
ある人はあるいはなお言うかもしれない、これは《升》卦卦辞にもともと「南征」の二字があるからだと。しかし《易林》《小畜》之《謙》に「南国虐乱す」と言い、《小畜》之《師》に「南は嘉国に至る」と言い、《既済》之《蠱》に「冠带南に行く」と言い、《睽》之《中孚》に「南は陋室に向かう」と言い、《損》之《豫》に「南は玉山を歴る」と言う――これらの卦はあるいは本体、あるいは中爻互体が皆《震》を含むので、《易林》はおよそ《震》に遇えば即ち「南」と言うことが分かる。はじめこれらの林辞を見るに、皆「南」の字がどこから来るかを知らなかった。後に《周易》《升》卦卦辞に「南征」と言い、《明夷》九三に「南狩」と言うのを思い至り、はじめて《周易》がもともと《震》をもって南としていたことを明らかにした。
又左傳:晉與楚戰,筮得復,繇曰「南國蹙」。坤為國,震南,南行推陰,故南蹙,是春秋時說易卽以震為南也。自東漢以來解易誤者,由震南之象失傳也。餘前謂易林字字步趨周易,易說易象至東漢末而失傳,於是不能解易,遂亦不能解易林者,正謂此也。
また《左伝》に記す。晋国と楚国が交戦し、占筮して《復》卦を得、繇辞に「南国蹙す」と言う。《復》卦の《坤》は国であり、《震》は南であり、《震》は下から上へ陰を推して行くので、南方の国が挫折すると言う。これで春秋時代に《易》を講じるに、すでに《震》をもって南としていたことが分かる。後漢以来《易》を解するに出錯した所以は、まさに「《震》為南」というこの象が失伝したためである。私はかつて《焦氏易林》は字字《周易》に緊随し、《易》説・《易》象が東漢末年に至って失伝したので、《周易》を解することができず、したがって《易林》もまた解することができないと言った――言うのはまさにこの類の情形である。
《升》卦初六「允升大吉」及び《小象》「上と志を合す」の解
升初六允升大吉及小象上合志解。允,說文引作?,進也。陰遇陽則通,故能隨陽進而上升,而大吉也。易林恆例,陽遇陰則吉,無妄初九之往吉、大畜九三之利有攸往、升九三之無所疑皆是也;陰遇陽亦吉,如革六二之征吉、巽六四之有功、渙六四之元吉、升初六之大吉皆是也。惟不當位者不盡吉,陰消陽者不與以吉。升初六雖不當位,然前臨二陽,二陽必上升,初升二得中,彖所謂柔以時升也。京氏曰:「上下見木,內外俱順。」故大吉也。
《升》卦初六「允升、大吉」及び《小象》「上合志」の解。「允」の字は、《説文解字》が《周易》を引くに「?」と作し(この字は源本に缺し、敢えて臆補しない)、「進」と訓する。陰爻が陽爻に遇えば道路が通暢するので、初六は陽爻に随って前進し上昇することができ、よって「大吉」である。《焦氏易林》には一条の通例がある。陽が陰に遇えば吉で、《无妄》初九の「往吉」、《大畜》九三の「利有攸往」、《升》九三の「疑う所なし」が皆それである。陰が陽に遇っても吉で、《革》六二の「征吉」、《巽》六四の「功あり」、《渙》六四の「元吉」、《升》初六の「大吉」が皆それである。ただ爻位が当たらない者は必ずしも全て吉でなく、陰をもって陽を消するものはさらに吉辞を与えない。《升》卦初六は陰をもって陽位に居り位に当たらないが、しかしその前に緊臨する二つの陽爻があり、両陽は必ず上昇し、初爻はそれに随って二位に昇れば中位を得る。これが即ち《彖伝》の言う「柔時を以て升る」である。京房は「上下木を見、内外俱に順う」と言うので、大吉である。
至象曰上合志,自東漢以來皆不知上之所指。九家謂與二陽合志,略為得之;惟又謂陽升五,謂上為五,則又不協。惠氏士奇知其不安,則又以京氏八宮世應為合志,謂升世在四,應在初,上謂四也。信如是也,大畜之世應在二五,而大畜於九三曰上合志,不及二五也;小畜之世應在初四,而小畜於六四曰上合志,不及初也。則升之合志不在世應亦明矣。其餘惠棟、姚配中、張惠言等,皆遵九家說,謂上謂五,以訛承訛,經義愈晦,則以易例不明也。
《象伝》の言う「上合志」に至っては、後漢以来皆この「上」の字が何を指すかを知らなかった。《九家易》は上の二つの陽爻と志を合すと言い、大致正しかった。ただまた陽爻が五位に昇り、「上」を五爻としたのは、また合わない。恵士奇はこの講法が妥でないことを察覚し、便ち京房の八宮卦の世応を用いて「合志」を講じ、《升》卦は世爻が四・応爻が初にあり、「上」とは即ち四爻を指すと言った。もし真にこのようであれば、《大畜》の世応は二爻と五爻にあるのに、《大畜》は九三において「上合志」と言い、二・五に渉らない。《小畜》の世応は初爻と四爻にあるのに、《小畜》は六四において「上合志」と言い、初爻に渉らない。これで《升》卦の「合志」が世応に在らないこともまた明白である。その余の恵棟・姚配中・張恵言らは、皆《九家易》の説法に遵従し、「上」は五爻を指すと考え、訛を以て訛を伝え、経義は講じるほど晦渋になった。これは皆《周易》の義例を明らかにしないためである。
小畜六四之上合志,以六四前承二陽也;大畜九三之上合志,以九三前臨二陰也;升初六之上合志,亦以初六前承二陽也。易以在前者為上,不專指上,亦不專指五也。王弼云:「雖無其應,處升之初,與九二九三合志俱升。」較九家說尤適,而治漢易者不取之,則以門戶之見蔽之也。
《小畜》六四に「上合志」と言うのは、六四が前に二つの陽爻を承接するからである。《大畜》九三に「上合志」と言うのは、九三が前に二つの陰爻に対するからである。《升》卦初六に「上合志」と言うのは、同じく初六が前に二つの陽爻を承接するからである。《周易》は前にある者をもって「上」とし、専ら上爻を指すこともなく、専ら五爻を指すこともない。王弼が言う。「相応する爻はないが、《升》卦の始めに処り、九二・九三と志向が相合し、共に上昇する。」これは《九家易》の説法より貼切であるが、しかし漢《易》を治める者は採用しようとしない。それは門戸の見に蒙蔽されたためである。
《升》卦九三「虚邑に升る」
升九三升虛邑。虛,祗馬訓為丘,餘皆訓為空虛,謂五虛無君,陽宜升五。按詩邶風「升彼虛矣,以望楚矣」,毛傳:「虛,漕虛也。」鄭箋:「蓋地有故墟,可登以望。」然則虛卽墟也,故釋文云「或作墟」,說文云「大丘也」。又國語實沈之虛、禮記墟墓之間、竹書紀年遂曰殷墟,益足證虛墟同為一字。此虛邑之虛,自以從毛詩為最當,而訓為墟落或殷墟之墟也。
《升》卦九三「升虚邑」。「虚」の字は、ただ馬融だけが「丘」と訓し、その余の各家は皆「空虚」と訓し、五位が空虚にして君がないので、陽爻は五位に昇るべきと言った。按ずるに《詩・邶風》の「彼の虚に升り、以て楚を望ぐ」(今の《毛詩》は《鄘風・定之方中》に列する)に、《毛伝》は「虚とは漕虚なり」と言い、鄭玄《箋》は「大概地上に旧日の廃墟があり、登って遠望するに便りあり」と言う。このように見れば、「虚」は即ち「墟」である。だから陸徳明《経典釈文》はこの字が或いは「墟」と作ると言い、《説文解字》は「墟とは大丘なり」と言う。さらに《国語》に「実沈の虚」、《礼記》に「墟墓の間」、《竹書紀年》に直に「殷墟」と称するがあり、なおさら「虚」「墟」はもともと一つの字であることを証明するに足る。ここの「虚邑」の「虚」は、自然に《毛詩》の訓解に依从するのが最も恰当であり、村落の廃墟あるいは殷墟のような「墟」と訓すべきである。
舊多訓為空虛,以與坤虛象合,豈知坤為邑,虛亦坤象也。易林遇升卽曰登山、曰登高,亦不訓為空虛也。又易林噬嗑之屯云:「破亡之虛,神所哀憂。」此虛字義亦同墟,與虛邑同,亦取屯中爻坤象。然則升之虛亦取象於坤明矣。
旧説は多く「空虚」と訓したが、それは《坤》の虚象と合わせるためである。彼らはどうして《坤》がすでに邑であり、「墟」もまた同じく《坤》の象であることを知らなかったのか。《焦氏易林》はおよそ《升》卦に遇えば即ち「山に登る」「高きに登る」と言い、この字を空虚と訓することもない。また《易林》《噬嗑》之《屯》の条に言う。「破亡の虚、神の哀しみ憂える所。」ここの「虚」の字の意もまた「墟」と同じく、「虚邑」の用法と一致し、同じく《屯》卦の中爻互《坤》の象を取った。このように見れば、《升》卦の「虚」もまた《坤》に象を取ったものであることは、極めて明白である。
《升》卦六四「王岐山に於て享を用う」
升六四王用享于岐山。此以易林本象與對象雜用之例推之。四體兌,對艮,故曰山;兌西,故曰岐山。六四震體,震為王,兌食,為享,在山下,故王享於岐山。荀爽謂二升五,五為王,下成艮,故曰山,皆曲說也。
《升》卦六四「王用亨于岐山」。この条は《焦氏易林》の本象と対象を交錯併用する義例をもって推し求めるべきである。六四は中爻の互いに出す《兌》体の中に処り、《兌》の対卦は《艮》であり、《艮》は山なので「山」と言う。《兌》の方位は西なので「岐山」と言う(岐山は西土に在り)。六四はまた同時に三から五までの互いに出す《震》体の中に処り、《震》は王である。《兌》は口食であり、よって「享」(祭享)となる。祭享する所は山の下なので「王用亨于岐山」と言う。荀爽は二爻が五位に昇り五は王であり、下が変じて《艮》を成したので「山」と言うとしたが、これらは皆牽強附会の曲説である。
《困》卦「言ありて信ぜられず、口を尚べば乃ち窮す」の解
困有言不信尚口乃窮解。此其義亦誤解者二千年矣。虞翻謂震為言,折入兌,故有言不信、尚口乃窮。荀爽謂陰從二升上,用否推,成兌為有言,失中為不信。張惠言謂乾為信,乾滅故不信,惠棟同。毛奇齡謂:「荀爽以否陽降成險,陰升為悅,善推易之法;虞氏以震折入兌為不信,則並以恆推易,尤為近代所罕識。」夫以震變兌為不信、否陰升上失中為不信、乾體滅為不信,為是說者,恐自審亦心謂不愜洽矣,乃二千年來不能不用其說,且驚以為神奇者,則以易象失傳,無可如何也。
《困》卦卦辞「有言不信」、《彖伝》「尚口乃窮」の解。この条の意義もまた二千年誤解されてきた。虞翻は《震》が言であり、《震》が折れて《兌》に入るので「有言不信、尚口乃窮」と言った。荀爽は陰爻が二位から上位に昇る――《否》卦を用いて推衍する――ことで《兌》を成すのを「有言」とし、中位を失うのを「不信」とした。張恵言は《乾》が信であり、《乾》体が消滅したので「不信」と言い、恵棟の講法は彼と同じである。毛奇齢は言う。荀爽が《否》卦の陽爻下降して険を成し陰爻上昇して悦を成すことを用いて講じたのは、《易》理を推衍するに善い方法である。虞翻が《震》が折れて《兌》に入ることを用いて「不信」を講じたのは、《恒》卦までも併せて推衍するもので、特に近代人の見ること少ない所である。しかし《震》が変じて《兌》となるのを取って「不信」とし、《否》卦の陰爻が上昇して中を失うのを取って「不信」とし、《乾》体が消滅するのを取って「不信」とするのは、これらの話を言う人もおそらく自分の心にも愜当でないと感じているであろう。しかし二千年の間、彼らの説法を沿用せざるを得ず、甚だしくは驚きて神奇となしたのは、《易》象が失伝して実に奈何しようがなかったためである。
茲證之易林。坤之離云:「齊魯爭言,戰於龍門。」離中爻巽齊兌魯(兌魯說見後),故曰齊魯;離二至五正覆兩兌口相背,相背幫爭言;龍門用對象坎。離二至五與困三至上同也。又中孚之巽云:「一言不同,乖戾生訟。」巽初至四亦正覆兩兌口相背,相背故生訟;巽初至四與困三至上亦同也。夫至於相爭相訟,則言之不信也決矣。
今《焦氏易林》を取って印证する。《坤》之《離》の条に言う。「斉魯言を争い、龍門に戦う。」《離》卦の中爻は互体して《巽》を成し、《巽》は斉である。《兌》は魯である(《兌》が魯である説は後文に見える)。だから「斉魯」と言う。《離》卦の二爻から五爻までは、一正一反の二つの《兌》口が相背し、相背するので「争言」となる。「龍門」は《離》の対象《坎》を用いたものである(《坎》は水・川)。《離》卦の二から五までのこの一段の卦体は、《困》卦の三から上までのこの一段と同じである。《中孚》之《巽》の条にまた言う。「一言同じからず、乖戾訟を生ず。」《巽》卦の初爻から四爻までもまた一正一反の二つの《兌》口が相背し、相背するので争訟を生ずる。《巽》卦の初から四までのこの一段は、《困》卦の三から上までと同じである。すでに相争い相訟える地步に至った以上、言語の信じるに足らないこともまた確定して疑いない。
故彖曰尚口乃窮。兌為口,口出言,反正皆口,故曰尚口;尚口則有言不信,不信則窮矣。此文王在獄中審視卦象,以陽皆得中,故曰亨、曰大人吉;又審視初至三正反兩兌口相背,三至上亦正反兩兌口相背,口能言,一言南,一言北,一言上,一言下,故終曰有言不信。後人每欲以此句與上大人吉連屬為義者,誤之遠矣。
だから《彖伝》に「尚口乃窮」と言う。《兌》は口であり、口は言を出すことができ、正体も反体も皆口なので「尚口」(口舌を崇尚する)と言う。一味に口舌を逞しゅうすれば、「有言不信」となり、信じられなければ即ち窮困する。これは文王が獄中に囚われて卦象を審視して得たものである。《困》卦の陽爻が皆中位に居るので「亨」と言い「大人吉」と言う。また審視して初爻から三爻までは一正一反の二つの《兌》口が相背し、三爻から上爻までもまた一正一反の二つの《兌》口が相背することを見、口は話すことができ、このは南を言いあのは北を言い、このは上を言いあのは下を言うので、最後に「有言不信」の一句を繫げた。後人は常にこの句を上文の「大人吉」と一つの意に連綴しようとするが、それは誤ること甚だ遠い。
《困》卦六三「石に困み、蒺藜に拠る」の解
困六三困于石據于蒺藜解。巽為石,見前;坎為蒺藜。六三下據坎,故曰蒺藜;上承巽,故曰困于石。自東漢以來,皆以兌伏艮為石,豈知巽卽為石也。然非易林,不能證明易以巽為石,並不知邵子巽石之象之本於易也。
《困》卦六三「困于石、拠于蒺藜」の解。《巽》は石であり、前文にすでに言った。《坎》は蒺藜である。六三は下に《坎》体に踞るので「拠于蒺藜」と言い、上に《巽》体を承けるので「困于石」と言う。後漢以来、注家は皆《兌》の伏蔵する《艮》をもって石とした。彼らはどうして《巽》自体がもともと石であることを知らなかったのか。しかし《焦氏易林》がなければ、《周易》が《巽》をもって石とすることを証明することができず、邵雍の「《巽》為石」というこの象がもともと《周易》に本づくこともまた知ることができなかったであろう。
《困》卦九五「劓刖」の解
困九五劓刖解。以易林言劓刖之例推之,則用對象也。困上兌,通艮,艮為鼻,今艮伏兌見,鼻象不見,則劓矣。三至五巽,巽通震,震為足,今震伏巽入,足形不見,則刖矣。而九五當兌巽之間,故上象劓,下象刖。虞翻不用旁通,以四動成艮震為說,非也。
《困》卦九五「劓刖」の解。按ずるに《焦氏易林》が「劓刖」を講ずる義例によって推し求めれば、用いるのは対象(旁通の象)である。《困》卦の上体は《兌》であり、《兌》は《艮》と旁通し、《艮》は鼻である。今《艮》は潜伏して《兌》が顕現し、鼻の象が見えない。これが即ち「劓」(鼻を割く)である。三爻から五爻まで互体して《巽》を成し、《巽》は《震》と旁通し、《震》は足である。今《震》は潜伏して《巽》が入って来て、足の形が見えない。これが即ち「刖」(両足を斬る)である。しかも九五はちょうど《兌》と《巽》の間に処るので、上に「劓」の象を取り下に「刖」の象を取る。虞翻は旁通を用いず、かえって四爻を変動して《艮》を成し《震》を成すことを取って解説したが、誤りである。
《井》卦の卦名の解
井卦名解。井上坎,坎,窞也,而初至四又互大坎,則窞愈深而為井矣。雜卦云「井,通也」,卽釋此義也。自大象失傳,於是井之義愈說愈晦矣,此不可不知也。
《井》卦卦名の解。《井》卦の上体は《坎》であり、《坎》は即ち坑穴である(「窞」は即ち坎中の穴)。しかも初爻から四爻までがまた互いに一つの「大坎」を成し、坑穴はなおさら深邃となり、ここに井となる。《雑卦伝》に「井とは通なり」と言うのは、まさにこの層の意を解釈したものである。「大象」(数爻が合して大《坎》大《離》を成す)というこの義例が失伝して以来、《井》卦の取義は講じるほど晦渋となった。これは知らないわけにはいかない。
《井》卦初六「井泥食らわれず、旧井禽なし」の解
井初六井泥不食舊井無禽解。虞翻、干寶、王弼皆以禽為禽鳥,祗崔憬謂禽獲也,禽擒同字。後說易者如朱子,如來知德、毛西河、惠棟、張惠言之屬,亦皆以禽鳥為訓。祗王夫之、王引之謂古禽擒同字,禽者獲也。引之並謂:「易凡言田有禽、田無禽、失前禽者,皆指獸言之,此禽字不當有異。」按引之所說是也。舊井有禽鳥、無禽鳥,有何義意?而各家就禽鳥穿鑿,說雖不同,而無當則一。
《井》卦初六「井泥不食、旧井无禽」の解。虞翻・干宝・王弼は皆「禽」を禽鳥としたが、ただ崔憬だけが「禽」は擒獲の意であり、「禽」「擒」はもともと一つの字であると言った。後に《易》を講じる者、朱熹、来知徳・毛奇齢・恵棟・張恵言の類も、皆禽鳥と訓した。ただ王夫之・王引之だけが古代に「禽」「擒」が同字で、「禽」は即ち獲取であると考えた。王引之はしかも言う。《周易》がおよそ「田に禽あり」(《師》六五)、「田に禽なし」(《恒》九四)、「前禽を失う」(《比》九五)と言うのは、皆田猟の獲得した野獣について言ったもので、ここの「禽」の字は別の解を立てるべきでない、と。按ずるに王引之の言は正しい。一箇の廃弃した旧井に、禽鳥が栖息するかどうかで、何の意義があろうか。各家が禽鳥をめぐって穿鑿附会し、説法は人それぞれ異なるが、講じ通らないのは同じである。
以為焦氏易斷不如此,果於易林最後未濟之井獲其義,曰:「天旱水涸,枯槁無澤,困於沙石,未有所獲。」夫曰天旱、曰枯槁,則無水而泥矣;沙石者泥也,困於沙石則井泥,不能食也。井原以取水,今無水而泥,故曰無獲,無獲卽無禽也,易林特為此爻解也。故象曰時舍,井而不能得水,則人必棄之矣,此與田有禽、田無禽之義皆合也。然能知此者,在魏晉惟崔憬,在清惟二王。故夫二千年來,經說之多莫如易,經說之晦亦莫如易。
私は焦延寿の《易》学は断じてこのようでないと認定し、果たして《焦氏易林》の最後の卦《未済》之《井》の条の中にその本義を尋ね得た。「天旱して水涸れ、枯槁して沢なし、沙石に困み、獲る所未だ有らず。」すでに「天旱」と言い「枯槁」と言うのは、水がなくて泥のみが残ったことである。「沙石」は即ち泥であり、沙石に困まるは即ち「井泥」であり、よって食用することができない。井はもともと水を取る用に供するものであり、今水がなく泥のみがあるので「未有所獲」と言う――「無獲」は即ち「無禽」である。《易林》のこの条はまったく専らこの条の爻辞のために作った解説である。だから《象伝》に「時に舍かる」(その時に舍弃された)と言う。井であるのに水を打ち上げられなければ、人は必ずそれを廃弃する。これは「田有禽」「田無禽」の用法とも皆吻合する。しかしこの点を解ることができたのは、魏晋の時は崔憬のみ、清代は王夫之・王引之の両王氏のみである。だから言う。二千年以来、経説の多いのは《易》に比べるものなく、経説の晦暗もまた《易》に比べるものがない。
《井》卦九二「井谷鮒を射る」「瓮敝り漏る」の解(附「其の瓶を羸す」)
井九二井谷射鮒甕敝漏解羸其瓶附。二至四兌,兌通艮,故曰谷,易林凡遇艮卽曰谷,其證也。巽為魚,二體巽,故曰鮒。巽對震,故曰射。自左氏震為射之象失傳,於是易之言射,自東漢以來皆不知射象何屬。豈知解上震,解上六曰射隼,卽謂震也,左氏復射之所本也,而易林用之尤多。
《井》卦九二「井谷射鮒、瓮敝漏」の解(附卦辞「羸其瓶」)。《井》卦は二爻から四爻まで互体して《兌》を成し、《兌》は《艮》と旁通し、《艮》は山谷なので「谷」と言う――《焦氏易林》はおよそ《艮》に遇えば即ち「谷」と言う。これが即ち明証である。《巽》は魚であり、九二は下体《巽》の中に処るので「鮒」(小魚)と言う。《巽》の対卦は《震》であり、《震》は射なので「射」と言う。《左伝》の用いた「《震》為射」というこの象が失伝して以来、《周易》の中でおよそ「射」に講じ及ぶところは、後漢以来皆射象がどの卦に属するかを知らなくなった。彼らはどうして《解》卦の上体が《震》であり、《解》上六に「隼を射る」と言うのはまさに《震》を指すことを知らなかったのか。これが即ち《左伝》の載せる《復》卦繇辞「其の元王を射る」の取象の根拠であり、《易林》はこの象を用いること特に多い。
又易林每遇震,則以為盆、為尊、為瓶,則甕之為震無疑也。敝漏者,巽下斷也。易林大壯之萃云「空穿漏敝」,又夬之姤云「山石朽敝」,姤下巽,巽下虛,故朽敝;萃互巽,巽下斷,故漏敝。由易林推之,易敝漏之象非巽莫屬矣。
《焦氏易林》は毎《震》に遇うごとに、取って盆・尊・瓶とする。ならば「瓮」が《震》象に属することもまた疑いない。「敝漏」に至っては、《巽》卦の下爻が断裂するためである(《巽》の下爻は陰なので下が虚)。《易林》《大壮》之《萃》の条に「空穿漏敝」と言い、《夬》之《姤》の条に「山石朽敝」と言う。《姤》卦の下体は《巽》であり、《巽》は下が虚なので「朽敝」と言う。《萃》卦の中爻は互体して《巽》を成し、《巽》は下が断れるので「漏敝」と言う。《易林》によって推し求めれば、《周易》の「敝漏」の象は《巽》に属さないものがない。
九二上無應與,鮒者小魚,谷者幽隱之地,井谷射鮒,必無得矣。震甕原可汲井水,今為巽甕而無當,必敝漏矣。象曰無與,釋其故也。自東漢以來,祗知鮒象,其餘各象皆未能知,故詁之皆誤。又彖曰羸其瓶,亦以對象震為瓶,巽下虛為羸。羸,敗也。舊說以離為瓶,非也。
九二の上には相応する爻がなく、「鮒」は小魚であり、「谷」は幽深隠蔽の所であり、井谷の中で小魚を射れば、必ず一も得る所がない。《震》の象る瓮はもともと井水を汲むことができたが、今《巽》の象る瓮に換えて用に堪えなければ、必ず破漏する。《象伝》に「与るなし」(応与するものがない)と言うのは、まさにその中の縁故を解釈したものである。後漢以来、注家はただ「鮒」の象だけを知り、その余の各象は皆明らかにできず、だから解釈は全て誤った。また卦辞に「其の瓶を羸す」と言うのも、同じく対象《震》をもって瓶とし、《巽》の下虚をもって「羸」とする――「羸」は即ち破敗である。旧説は《離》をもって瓶としたが、誤りである。
《革》卦九五「虎変」、上六「豹変」の解
革九五虎變上六豹變解。此以易林旁通之例證之,虎豹之象皆謂對象艮也。後獨來知德說與易林合。左傳史蘇云「震之離,亦離之震」,卽此義也。
《革》卦九五「大人虎変」、上六「君子豹変」の解。これは《焦氏易林》の旁通の義例をもって印证すべきである。虎・豹の象は皆対象《艮》を指して言う(《革》卦の上体は《兌》、旁通は《艮》、《艮》は虎豹)。後世にはただ来知徳の説だけが《易林》と相合する。《左伝》僖公十五年に史蘇の占筮して言う「震之離、亦た離之震」を記すのは、まさにこの種の卦体が往来して互通する意である。
《革》卦《彖伝》「水火相息」「二女同居、其の志相得ず」の解
革彖傳水火相息二女同居其志不相得解。舊解此者,皆謂火炎上、澤潤下為志不相得。若以泰、既濟例之,此正相得也,舊說誤也。又彖傳曰水火相息,亦正謂澤潤下火火上為相息,相息卽既濟也,與水火相逮、水火不相射同也。幾見易謂水火有相滅者乎?虞氏以火志上、水志下詁不相得,失易旨矣。
《革》卦《彖伝》「水火相息」「二女同居、其志不相得」の解。旧来これらの句を解する者は、皆火が上に炎がり沢が下に潤すので「志不相得」と言うとした。しかし《泰》卦・《既済》卦の義例をもって比照すれば、これはまさに「相得」であるべきで、旧説は誤りである。しかも《彖伝》が「水火相息」と言うのも、まさに沢が下に潤し火が上に炎がりて彼此交息し相成ずることを言う――「相息」は即ち《既済》の義であり、《説卦伝》の言う「水火相逮」「水火不相射」と同一の事である。かつて《周易》が水火に互いに消滅することがあると言ったのを見たことがあろうか。虞翻は火の志は上に向かい水の志は下に向かうことを取って「不相得」を解したが、これは《易》の本旨を失ったものである。
不相得之故,據易林晉之革云「邯鄲反言」,以二至上正反兩兌相背,故曰反言。又履之革云「訛言妄語,轉相詿誤」,亦以兩兌相背,故曰訛妄。夫曰反言、曰訛妄,則志不相得矣。坎為志,二至上互大坎,上下卦共之,故曰志不相得,不必如虞說,使四變陰成兩坎然後為志也。此亦二千年之誤解,由易林而明也。
「志不相得」の縁故に至っては、《焦氏易林》《晋》之《革》の条に「邯鄲言を反す」と言うのに拠れば、これは《革》卦の二爻から上爻までが一正一反の二つの《兌》が相背するので「反言」と言う。《履》之《革》の条にまた「訛言妄语、転々相い誖誤す」と言うのも、同じく両《兌》が相背するので「訛妄」と言う。すでに「反言」と言い「訛妄」と言う以上、それは心志が相投合しないことである。《坎》は志であり、《革》卦の二爻から上爻までが互いに一つの「大坎」を成し、上下両卦の共有するところなので「其志不相得」と言う。虞翻のように必ず四爻を変じて陰爻とし、二つの《坎》を成してはじめて「志」の象を有するようにする必要はない。これもまた二千年以来の誤解であり、《易林》に依ってはじめて明らかになった。
《革》卦九三「革言三就」、九四「改命吉」は皆覆象を用いる
革九三革言三就九四改命吉皆用覆象。此以易林用覆之例推之。革中爻乾為言,兌為口為言,而二至四覆兌亦為言。就者,至也,言上下往反,人皆以為宜革也,故曰有孚。巽為命,改命者,言四至上反巽為兌,故曰改命,卽湯武革命也。
《革》卦九三「革言三就」、九四「改命吉」は皆覆象を使用する。これは《焦氏易林》が覆象を使用する義例をもって推し求めるべきである。《革》卦の中爻は互体して《乾》を成し、《乾》は言である。《兌》は口でありまた言である。しかも二爻から四爻までは《兌》の覆体(覆《兌》は即ち《巽》)であり、同じく言である。「就」とは即ち「至」であり、言語が上下に反覆往来し、人人が皆変革すべきと認めるので「孚あり」(衆に信ぜられる)と言う。《巽》は命であり、いわゆる「改命」とは、四爻から上爻までがすなわち《巽》の反覆の体であって《兌》を成したものであり、《巽》の命がすでに反覆したので「改命」と言う――即ち商湯・周武王の革命の意である。
《革》卦「己日に乃ち孚あり」の説
革己日乃孚說。吳虞翻卽讀為戊己之己,至王弼乃讀為卒事之已,後王夫之又讀為辰巳之巳。然傳曰「己日乃孚,革而信之」,則傳似亦讀為戊己之己。古人萬事皆麗於五行,信屬土,土居中央,說文「己,中宮也」,洪範以思屬土,離納己,己土,故曰革而信。又爻詞獨六二曰己日乃革,二,離之正中也。又三至五干,乾亦為信,故三五皆當位有應予,皆孚而吉;四不當位無應予,亦有孚而吉,則以信於己日也,卦信而後革也。己土為信,乾亦為信,故六爻皆吉,此可以定其讀也。
《革》卦「己日乃孚」の説。三国呉の人虞翻は「戊己」の「己」と読んだが、王弼に至ってはじめて「卒事」の「已」(已に)と読み、後に王夫之がまた「辰巳」の「巳」と読んだ。しかし《彖伝》に「己日乃孚、革してこれを信す」と言うので、見るに《彖伝》もまた「戊己」の「己」と読んだのであろう。古人は万事を皆五行に附麗し、「信」は土に属し、土は中央に居る。《説文解字》に「己とは中宮なり」と言い、《尚書・洪範》は「思」を土に属させ、《離》卦の納干は「己」であり、己は即ち土なので「革して信」と言う。さらに爻辞を見れば、ただ六二だけが「己日乃ち革す」と言い、しかも二爻はまさに《離》体の正中である。また三爻から五爻まで互体して《乾》を成し、《乾》もまた信なので、九三・九五は皆位に当たり相応する爻があり、いずれも孚がありて吉である。九四は位に当たらずまた相応する爻もないが、それでも孚がありて吉である。それは「己日」に信を取るためであり、全卦は先に信がありて後に変革する。「己」の土は信であり、《乾》もまた信なので、六爻が皆吉である。これに拠ってこの「己」の字の読法を断定することができる。
《鼎》卦の取象の解
鼎象解。彖傳曰「鼎,象也」,言卦之命名取卦象也。而二千年來說鼎象者無一能合,獨端木國瑚說能與易林例合。易林固視本象與對象相通也,故見巽鼎下卦,卽如見震,屯下震為鼎足,震數又三,尤合;遇乾鼎下互,卽如遇坤,坤為鼎腹;通兌鼎上互,卽如遇艮,艮為鼎肩;遇離鼎上卦,卽如遇坎,坎為鼎耳。凡鼎之象,自下而上,無一不合。
《鼎》卦取象の解。《彖伝》に「鼎とは象なり」と言う。その意はこの卦の命名が卦象から取られたことを言う。しかし二千年の間《鼎》卦の取象を講じて通じた一家がなく、ただ端木国瑚の説法だけが《焦氏易林》の義例と相合する――《易林》はもともと本象と対象を彼此相通ずるものと見なす。だから《鼎》卦下体の《巽》を見るは、即ち《震》を見るに等しい。《屯》卦の下体はまさに《震》であり、《震》は鼎足であり、しかも《震》の数はまた三であり、鼎に三足あると特に吻合する。《鼎》卦の下に互う《乾》に遇うは、即ち《坤》に遇うに等しく、《坤》は鼎腹である。《鼎》卦の上に互う《兌》に遇うは、即ち《艮》に遇うに等しく、《艮》は鼎肩である。《鼎》卦の上体の《離》に遇うは、即ち《坎》に遇うに等しく、《坎》は鼎耳である。およそ鼎の形象は、下より上に至るまで、吻合しない所がない。
自旁通失傳,人不知鼎象全在屯。鄭玄以乾金兌澤中含水為說,信如是也,大過亦可象鼎,革亦可象鼎矣。大過乾金兌澤,亦中含水也;革下火巽木乾金兌澤,亦中含水也。乃易不以為象者,誠以大過與革,皆與鼎足鼎耳之象不合也。彖傳曰「鼎,象也」,以無第二二卦可以為象也。
旁通の例が失伝して以来、人は《鼎》卦の象が実は全て《屯》卦の上に落ちていることを知らなかった(《鼎》の各体の旁通の象を合わせればまさに《屯》の構造である)。鄭玄は《乾》金・《兌》沢であって中間に水を含むをもって解説した。もし真にこのようであれば、《大過》もまた鼎を象ることができ、《革》もまた鼎を象ることができる。《大過》には《乾》金・《兌》沢があり、中間にも水を含む。《革》卦の下体は火であり、また《巽》木・《乾》金・《兌》沢があり、中間にも水を含む。しかし《周易》がそれらを取って鼎象としないのは、実は《大過》と《革》がともに鼎足・鼎耳の象と合わないためである。《彖伝》に「鼎とは象なり」と言うのは、まさに再び第二の卦があって鼎象を充当し得ないからである。
此其義創於端木國瑚,而引而申之者杭辛齋也。惟杭氏尚不知易與易林視本象與對象往復相通之旨,其所駁舊說則是,所說鼎象亦是,至鼎象之何以在屯,則未明澈也。然端木氏之靜悟優矣。毛西河以巽股兩開為趾,尤非。
この見解は端木国瑚が首創し、それに引申発揮を加えたのは杭辛斎である。ただ杭氏はなお《周易》と《易林》が本象と対象を往复相通のものと見なす宗旨を解さず、彼が旧説を駁斥したのは正しく、講じた鼎象もまた正しいが、鼎象がなぜ《屯》卦の上に落ちるかについては、講じ透徹しなかった。ただし端木国瑚の静心して体り悟って得た所は、確かに高明である。毛奇齢は《巽》の両股が張り開くのを取って鼎足としたが、それはなおさら誤りである。
《鼎》卦初六「鼎趾を顛す、否を出すに利し、妾を得るは其の子を以て」及び《象》「貴に従う」の解
鼎初六鼎顛趾利出否得妾以其子及象曰從貴解。自東漢至清,皆宗虞義,謂初應四,大壯震為趾,折入大過(鼎初至五大過,兌毀折,故曰折入大過),大過顛也,故鼎顛趾。後之說者小有異同,總不出此義。豈知鼎之象在屯,鼎之爻詞亦時時取象於屯。
《鼎》卦初六「鼎顛趾、利出否、得妾以其子」及び《象伝》「従貴」の解。後漢から清代に至るまで、皆虞翻の説法を宗奉した。初爻と四爻が相応し、《大壮》に《震》があり趾であり、折れて《大過》に入る(《鼎》卦の初爻から五爻までが《大過》を構成し、《兌》は毀折なので「折入《大過》」と言う)。《大過》には傾覆の義があるので「鼎顛趾」と言う。後に講じる者はやや出入りがあるが、つねにこの路数を出ない。彼らはどうして《鼎》卦の象が《屯》にあり、《鼎》卦の爻辞もまた時々《屯》に象を取ることを知らなかったのか。
按易林乾之鼎云「弱足刖跟」,鼎下巽,對震,震為足,震形滅,故曰刖足。又謙之鼎云「狗無前足」,亦以震伏為無足;初二形艮,艮為狗,艮無下爻,形短,故曰無前足,神妙。夫足而曰刖、曰無,則顛趾矣。顛,隕也,落也,易林每以巽為隕落,是其義也。鼎趾顛則鼎僕,故利出否。否者,惡也,坤為惡,震出,皆指對象也。巽為反兌,兌為妾,而巽伏震,震子,故曰得妾以其子,言遇巽卽遇震,仍用旁通,非如虞說四動成震為子,祇演空象,不顧經義也。
按ずるに《焦氏易林》《乾》之《鼎》の条に「弱足跟を刖る」と言う。《鼎》卦の下体は《巽》であり、対象は《震》であり、《震》は足である。今《震》の形は隠滅するので「刖足」と言う。《謙》之《鼎》の条にまた「狗前足なし」と言うのも、《震》が潜伏するのをもって足なしとする。初・二の両爻は《艮》形を成し、《艮》は狗であり、しかも《艮》は下爻を缺いて形体が短缺するので「无前足」と言う――取象の精妙がかくの如し。すでに足が刖られたと言い足なしと言う以上、それは即ち「顛趾」である。「顛」は隕落・墜落の意であり、《易林》は常に《巽》をもって隕落とする。即ちこの義例である。鼎足が顛仆すれば鼎は翻倒するので「否を出すに利し」と言う――「否」は汚穢の物であり、《坤》は悪であり、《震》は出であり、これらは皆対象を指して言う。《巽》は《兌》の反体であり、《兌》は妾である。しかも《巽》の伏蔵する所は《震》であり、《震》は子なので「得妾以其子」と言う。これは《巽》に遇えば即ち《震》に遇うに等しいと言うのであり、依然として用いるのは旁通の法であり、虞翻の言うように四爻を変動して《震》を成してはじめて子象を有するのではない――あのようではただ一つの空洞な卦象を演出するのみで、全く経文の本義を顧みない。
至象曰「利出否,以從貴也」,乃謂初陰從二陽為從貴。貴不必五,凡陽皆可謂為貴,屯初九曰「以貴下賤,大得民也」,初陽亦可謂貴。乃虞氏必使五變為陽,以實從貴之義。洵如虞說,六十四卦必皆變為既濟而後能說也,有是理乎?又此爻之義皆兼對象言,而以震伏為顛趾,遇巽卽遇震為得子,象尤明晰,乃仲翔竟不用旁通,以初應四大壯震為說,則以師傳中絕也。非易林,孰能正之?
《象伝》の言う「利出否、以て貴に従うなり」に至っては、初爻の陰が二爻の陽に順従することを言い、即ち「従貴」と称する。「貴」は必ずしも五爻を指さず、およそ陽爻は皆貴と称し得る。《屯》卦初九の《象伝》に「貴を以て賤に下る、大いに民を得るなり」と言うので、初位の陽爻もまた貴と称し得ることが分かる。しかし虞翻は必ず五爻を変じて陽爻とし、もって「従貴」の義を坐実しようとする。果たして虞翻の講法に照らせば、六十四卦は皆《既済》に変じてはじめて解説できるではないか。どうしてこのような道理があろうか。ましてやこの条の爻辞の取義は皆対象を兼用する。《震》の潜伏をもって「顛趾」とし、《巽》に遇えば即ち《震》に遇うことをもって「得子」とし、取象は格別に清晰である。しかし虞翻は竟に旁通を用いず、かえって初爻が四爻に応じ、《大壮》に《震》があることを取って解説した。これは師伝が中断したためである。もし《焦氏易林》がなければ、誰がそれを糾正できるであろうか。
《鼎》卦九二「鼎実あり、我が仇疾あり、我に即く能わず」の解
鼎九二鼎有實我仇有疾不我能卽解。此以易林陰陽相遇為朋友及陽遇陽則阻之例推之,至易解也。乾為實,二之前皆陽,陽遇陽則阻,故象曰慎所之。仇,匹也,詩君子好逑,匡衡引作好仇,是其證,謂五也,陰陽為仇匹。初至五大坎,坎為疾。不我能卽者,言二為三四所疾害,不能應五,故曰不我能卽。然二五究為正應,終得相應而吉也。
《鼎》卦九二「鼎有実、我仇有疾、不我能即」の解。この条は《焦氏易林》の「陰陽相遇えば朋友となる」と「陽遇陽則ち阻まる」の二条の義例をもって推し求めれば、極めて講じ通り易い。《鼎》卦は互体して《乾》を成し、《乾》は実なので「鼎有実」と言う。九二の前は皆陽爻であり、陽が陽に遇えば阻まれるので、《象伝》に「其の之くを慎め」(往く所を慎しむ)と言う。「仇」とは即ち匹配であり、《詩経》の「君子好逑」を匡衡が引用する時に「好仇」と作したのは即ち明証である。ここの指す所はすなわち六五である。陰と陽は互いに仇匹である。《鼎》卦は初爻から五爻まで互いに「大坎」を成し、《坎》は疾病である。いわゆる「不我能即」とは、九二が三・四の両爻に疾害され、上って六五に応ずることができないことを言うので、「不我能即」と言う。ただし二と五は畢竟正応であり、終に相応して吉を獲ることができる。
乃虞仲翔解仇為讎敵,謂二據初,奪四之婦,故四為二仇;乃三動,四體坎,坎為疾,四之二歴險,故不我能卽。夫以二奪四婦,四為坎險所隔,不能報奪婦之仇,以能卽為尋仇,其說既可哂,而忘二陽五陰相應為相卽,詁亦疏甚矣。且何以解於利涉大川?虞凡遇大川,必以坎當之,此處坎險既能阻四,則彼之坎險不能利涉,亦已明矣,虞不啻自供其誤矣,而後之說易者多用虞說。又陽遇陽則阻之義,自東漢以來知之者鮮,故詁慎所之三字,二千年來皆不知其所謂,殊可慨也。
しかし虞翻は「仇」を仇敵と解し、九二が初爻を占拠して九四の婦を奪ったので、四は二をもって仇とすると言い、また三爻が変動した後、四爻は《坎》体に処り、《坎》は疾であり、四が二の所に行くには険阻を経歴しなければならないので「不我能即」と言った。九二が四の婦を奪い、四が《坎》険に隔てられて婦を奪った仇を報じられず、「能即」を尋仇と講じる――このような説法はもともとすでに可笑しい上に、九二の陽と六五の陰が相応するのが即ち「相即」であることを忘れており、訓詁もまた未免あまりに粗疎である。ましてや彼はまたどのように「利渉大川」を解釈するのか。虞翻はおよそ「大川」に遇えば必ず《坎》を取って充当する。ここの《坎》険がすでに四爻を阻隔し得るなら、別の所の《坎》険もまた「利渉」することができない。道理はすでに極めて明白であり、虞翻は自ら錯誤を招認したに等しい。しかし後に《易》を講じる者は多く虞説を用いた。さらに「陽遇陽則ち阻まる」というこの条の義例は、後漢以来知る者が極めて少なく、だから「慎所之」の三字は、二千年の間その講じる所を明白にした人がいない。実に感慨させられる。
《鼎》卦九三「鼎耳革」「方に雨、悔を虧く」の説
鼎九三鼎耳革方雨虧悔說。此以易林用象例之。坎為耳,乃三爻為陽,坎形革,故曰鼎耳革,猶四爻之鼎折足也。四陰位,宜為陰爻成震,乃竟為陽,折入兌,震足毀,故曰鼎折足。乃折足之義人多不知之,耳革之義則不知,多用虞翻說,使三變成兩坎以取耳象。豈知三當位,胡可使之不正?且動成兩坎,耳方多矣,胡云革哉?
《鼎》卦九三「鼎耳革」「方雨虧悔」の説。これは《焦氏易林》の用象の義例をもって比照すべきである。《坎》は耳であり、しかし三爻は陽爻であり、《坎》の形体がこれによって変異するので「鼎耳革」(鼎の耳が変じた)と言う。ちょうど四爻に「鼎足を折る」と言うのと同じである。四は陰位であり、もともと陰爻であるべきで《震》を成すはずが、竟に陽爻であり、そこで折れて《兌》体に入り、《震》の象る足が毀されたので「鼎折足」と言う。しかし「折足」の意義もまた多数人が講じ明らかにできず、「耳革」の意義はなおさら明らかでない。そこで多く虞翻の説法を採用し、三爻を変動して二つの《坎》を成して耳象を取得しようとした。彼らはどうして三爻がもともと位に当たることを思い至らなかったのか。どうして強いてそれを変じて不正とすることができようか。しかも変動した後に二つの《坎》を成せば、耳はかえってなお多くなり、どうして「革」(変異)を論ずることができようか。
至方雨虧悔,自來詁者尤不合。吳摯甫先生易說云:「悔,晦也。」證以易林復之鼎云「陰霧作匿,不見白日」,不見白日,虧也;陰霧作匿,晦也。吳讀是也。卦互大坎,故曰曰匿。又按司馬相如子虛賦云「岑崟參差,日月蔽虧」,枚乘七發云「覆虧丘陵」,似皆義取蔽覆虧晦。然則方雨虧悔者,卽方雨晦冥也,易原用大坎也。
「方雨虧悔」に至っては、従来の解釈は特に合わない。呉汝綸(字は摯甫)の《易説》に講じていう。「悔」とは即ち「晦」である。《焦氏易林》《復》之《鼎》の条の「陰霧匿を作し、白日を見ず」をもって印证すれば、「不見白日」は即ち「虧」であり、「陰霧作匿」は即ち「晦」である。呉氏の読法は正しい。《鼎》卦は互いに大《坎》を成すので「作匿」と言う。さらに按ずるに司馬相如《子虚賦》に「岑崟参差、日月蔽虧」と言い、枚乘《七発》に「丘陵を覆い虧す」と言う。見るに皆遮蔽覆蓋・虧損晦暗の義を取る。このように言えば、「方雨虧悔」とはまさに雨が降って天色が晦冥することであり、《周易》はもともと大《坎》の象を用いたものである。
《鼎》卦初六「《震》為子」の説
鼎初六震子說。易林遵說卦之義,凡但言子者皆指震,無指艮坎者,察之易亦然。易凡言子者四:蒙九二云子克家,以互震也;蠱初六有子考無咎、鼎初六得妾以其子,子皆謂伏震,卽易林本象與對象相通之旨也;中孚九二鶴鳴在陰,其子和之,此子亦謂三至五之覆震也。若易林言小子乾,必專指艮,後察之易亦然。
《鼎》卦初六「《震》為子」の説。《焦氏易林》は《説卦伝》の義例に遵循し、およそ単に「子」と言うのは皆《震》を指し、《艮》《坎》を指すことはない。《周易》を考察してもまたこのようである。《周易》が「子」に講じ及ぶのは全部で四か所ある。《蒙》卦九二に「子家を克す」と言うのは、互体に《震》があるためである。《蠱》卦初六に「子あり、考咎なし」と言い、《鼎》卦初六に「妾を得るは其の子を以て」と言うのは、二か所の「子」は皆潜伏する《震》を指し、まさに《易林》の本象と対象が相通ずる宗旨である。《中孚》九二に「鶴陰に鳴く、其の子これに和す」と言う、この「子」もまた三爻から五爻までの覆《震》を指す。《易林》が「小子干」の類の林辞を言うのに至っては、必ず専ら《艮》を指す(《艮》は少男なので小子となる)。後に《周易》を考察してもまたこのようである。
故易林之所有,無不本之易,非得孔氏嫡傳如孟喜者以為授受,胡能如斯?而施梁二家之徒黨,既妬孟喜之能陰陽(易本以道陰陽),以形其短,謂田生不絕於孟喜手中,並誣焦延壽之易為得隱士之說,若其傳不自孔門者,而劉向誤信之,班書照書之,豈知皆二家護短之詞哉!宋晁景迂常疑之,而不知皆二家之妬語。
だから《易林》の中のすべての用象は、《周易》に本づかないものがない。もし孟喜のように孔門の嫡伝の授受を得たのでなければ、どうしてこの地步に至ることができたであろうか。しかし施讐・梁丘賀の両家の門徒は、孟喜が陰陽の学に精通するのを嫉妬し(《周易》はもともと陰陽を講ずるもの)、自分の短所を掩飾するために、田王孫の伝授は孟喜の手中で断絶していないと言い、また焦延寿の《易》学はある隠士から得たもので、あたかも彼の伝承が孔門から出たのではないかのように誣蔑した。劉向は誤ってこの種の話を信じ、班固の《漢書》がまたそれをそのまま写した。どうしてこれらが皆施・梁の両家が自ら短を護るための説辞であることを知らなかったのか。宋代の晁説之(号は景迂)はかつて疑ったことがあるが、ただこれらが全て両家の嫉妬から出た誣語であることをまだ知らなかった。
《震》卦上六「婚媾言あり」の解
震上六婚媾有言解。此其義亦二千年長夜矣。第一,不知婚媾之義,而以為姻婭,以為親戚;第二,不知有言為爭訟,及爭訟之象從何而來;第三,更不知婚媾何以有言。易象失傳之害如是。
《震》卦上六「婚媾有言」の解。この条の意義もまた二千年の長夜である。第一に、「婚媾」がもともと男女の婚配求偶を指すことを解らず、かえって姻親と誤認し、親戚としたこと。第二に、「有言」が即ち彼此争執訴訟であることを解らず、しかもこの争訟の象がいったいどの卦体から来るかを説き出せないこと。第三に、さらに婚配の事がなぜ「有言」を牽扯して出すのかを解さないこと。《易》象が失伝したことの造成した禍害は、竟にこの地步に至った。
按易林姤之震云「二桃三口」,三口者,上下震,二至四反震,震為口,共三口也。又隨之震云「驪姬讒嬉,譖我恭子」,震二至四反震,與上震相背,故曰讒、曰譖。又蠱之艮云「眾口嘈嘈,雖貴必危」,艮初至五與震二至上同,亦兩震言相背,故曰眾口嘈嘈。凡此皆震為有言之的解也。
按ずるに《焦氏易林》《姤》之《震》の条に「二桃三口」と言う。いわゆる「三口」とは、上下二つの《震》に、二爻から四爻までの反《震》を加え、《震》は口であり、合わせて全部で三つの口である。《随》之《震》の条にまた「驪姬讒嬉し、我が恭子を譖る」と言う。《震》卦の二から四までは反《震》であり、上体の《震》と相背するので「讒」と言い「譖」と言う。《蠱》之《艮》の条にまた「衆口嘈嘈、貴なりといえども必ず危し」と言う。《艮》卦の初爻から五爻までの卦体は《震》卦の二爻から上爻までと同じであり、これもまた両《震》の主る言が彼此相背するので「衆口嘈嘈」と言う。およそこれらの種種は、皆「《震》為有言」の確切な注解である。
婚媾有言者,震長中少三男俱備,無一女象,不能婚媾;又六爻無一爻有應與,尤不能婚媾。故聖人察其象,於最後繫之曰婚媾有言,言陰陽常相求,今三男俱求,故有言。有言者,相爭相訟也。先儒必欲與上文詞義相屬,所以難通也。
いわゆる「婚媾有言」とは:《震》卦は長男・中男・少男の三男が俱に備わり(上下体の《震》は長男、二から四まで互《艮》は少男、三から五まで互《坎》は中男)、しかし一つの女象もなく、婚配することができない。ましてや六爻の中に相応する爻を有するものが一爻もないので、なおさら婚配することができない。だから聖人はこの卦象を観察して、最後の一爻に「婚媾有言」の一语を繫げた。その意は、陰陽はもともと常に相追求するが、今三つの男子が同時に偶を求めて配すべき女がないので、そこで「有言」となる――「有言」とは即ち彼此争執訴訟である。前代の儒者は必ずこの一句を上文の詞義と一つの意に連綴しようとしたので、つねに講じ通らなかった。
《艮》卦彖辞は中爻を用い、九三は中爻を用い且つ対象を兼用する説
艮彖用中爻九三用中爻兼用對象說。彖云「行其庭,不見其人」,中爻震,為人為行;坎隱伏,故不見。九三云厲熏心,坎為心,亦中爻象;來矣鮮雲坎錯離,故曰熏,則兼用對象也,易林每如此也。
《艮》卦彖辞は中爻を用い、九三は中爻を用い且つ対象を兼用する説。《艮》卦辞に「其の庭に行きて、其の人を見ず」と言う。中爻は互体して《震》を成し、《震》は人・行である。中爻はまた互体して《坎》を成し、《坎》は隠伏なので「不見」と言う。九三に「厲心を熏す」と言う。《坎》は心であり、これもまた中爻の象である。来知徳(字は矣鮮)は《坎》の錯卦は《離》である(《離》は火)と言い、だから「熏」と言う――これは即ち対象を兼用したものであり、《焦氏易林》は常にこのように用いる。
《艮》卦《彖伝》は覆象を用いる
艮彖傳用覆象。凡易象,同體者無不相往來反覆。革九四云改命吉,謂巽覆也;小畜大畜雲輿脫輹,震為輹,卦皆旁通,艮為覆震,故曰脫輹。艮震同體,震為辰,故為時。時在震,故行;時在艮,震反,故不行。震動艮靜,隨時故不失。純以艮震反覆言,與巽之先庚後庚同也。虞氏以上九為靜,九三為動,互震為說,善矣,若以易林往來反覆之旨推之,義未盡也。
《艮》卦《彖伝》は覆象を使用する。およそ《易》象は、同一卦体の正体と覆体が彼此往来反覆しないものがない。《革》卦九四に「命を改めれば吉」と言うのは、《巽》の覆体を指す。《小畜》《大畜》に「輿輹を説く」と言い、《震》は車輹であり、両卦とも旁通を取り、《艮》はまさに《震》の覆体である。《震》が一たび顛倒すれば車輹は脱落するので「輿説輹」と言う。《艮》と《震》はもともと同一の卦体であり(一正一覆)、《震》は辰であり、よって「時」となる。時が《震》にあれば「行」となり、時が《艮》にあれば《震》の反覆なので「不行」となる。《震》は動を主り、《艮》は静を主り、時に随って動静するので、その時を失わない。《彖伝》は全く《艮》《震》の反覆について説を立てたもので、《巽》卦が「先庚三日・後庚三日」を講ずるのと同じ一路数である。虞翻は上九をもって静とし九三をもって動とし互体に《震》があることをもって解説したが、すでにまあよい方である。しかし《易林》の往来反覆の宗旨をもって推し求めれば、義理はまだ講じ尽くしていない。
《艮》卦六五「言序あり」の解
艮六五言有序解。王弼作序,虞作孚,序孚形近,故訛。然六五與六二皆陰,不相應與,彖傳云上下敵應,敵應卽不孚也。然易林晉之艮云「學靈三年,聖且聰明」,則以艮三至上正反兩震言相對,下言如何出,上卽如言而反,故曰學靈。學靈者,學言語,謂下震孚於上震也。又中孚之艮云「噂噂囁囁」,噂囁者,對語貌,似皆於有孚義近。誠以艮三至五之震言,與初至三之覆震體同也,故曰有孚。然則作孚者與易林合也。
《艮》卦六五「言有序」の解。王弼本は「序」と作り、虞翻本は「孚」と作す。「序」「孚」の字形は相近いので訛を致した。しかし六五と六二は皆陰爻であり、彼此相応与せず、《彖伝》に「上下敵応」と言う。敵応とは即ち相孚しないことである。しかし《焦氏易林》《晋》之《艮》の条に「霊を学ぶこと三年、聖にして且つ聡明なり」と言うのは、これは《艮》卦の三爻から上爻までが一正一反の二つの《震》の主る言が彼此相対するためである。下の《震》がどのように発声すれば、上の《震》はそのまま声を應じて返すので「学霊」と言う。「学霊」とは即ち話を学ぶことで、その意は下《震》と上《震》が相孚するということである。《中孚》之《艮》の条にまた「噂噂囁囁」と言い、「噂囁」とは両人が対語する貌であり、見るに皆「有孚」の義と近い。実に《艮》卦の三から五までの互いに出す《震》の言は、初から三までのこの一段の覆《震》と体式が同じなので「有孚」と言う。このように見れば、「孚」の字を作す本子は《易林》と相合するものである。
《漸》卦初六「言あり」の解
漸初六有言解。易林屯之漸云「二人俱東,道路爭訟」,賁之漸云「讒佞所言,語不成全」,益之漸云「伯仲言留,叔子云去」,易林之釋漸有言,可謂明晰矣。有言者,相爭相訟也,故一言留,一言去;否則為讒,左氏云敗言為讒。誠以震為言,震覆為艮,則言敗矣。又三四形兌,兌為言,與下震言相背;而上卦反兌,與下反震復相對;又初與四不相應,故言不一致而爭也。舊詁皆不得解,而虞氏尤非。
《漸》卦初六「有言」の解。《焦氏易林》《屯》之《漸》の条に「二人俱に東し、道路に争訟す」と言い、《賁》之《漸》に「讒佞の言う所、語成全らず」と言い、《益》之《漸》に「伯仲は留と言い、叔子は去と云う」と言う――《易林》の《漸》卦の「有言」に対する解釈は、十分に清楚と言える。「有言」とは即ち彼此争執訴訟であり、だから一人は留と言い一人は去と言う。さもなくば讒言となる――《左伝》に「言を敗るを讒と為す」と言う。これは実に《震》が言であり、しかも《震》が一たび顛倒すれば即ち《艮》となり、言語もまた敗壊するためである。さらに三・四の両爻は《兌》形を顕出し、《兌》は言であり、下体に伏する《震》(《艮》は覆《震》)の言と相背する。しかも上卦の《巽》は《兌》の反体であり、また下の反《震》と彼此相対する。加えて初爻と四爻が相応しないので、言語が一致せず争執を生ずる。旧注は皆講じ通らず、虞翻の説法は特に誤りである。
《漸》卦九三「征めて復らず」三句の解
漸九三征不復三句解。此用覆也。震為夫、為徵、為復,震覆,陽在上,故不復。震為孕育,易林晉之益云「胎卵不生」,震為胎為生,坤殺,故不生,是以震為胎也,胎卽孕也。又震之觀亦云「胎卵不生」,觀互艮,為反震,故曰不生。由是證漸之婦孕不育,亦以震為孕育,震覆坎破,故不育,易皆用覆也。坎為寇,三上下皆陰,附之者眾,故利禦寇。象曰順相保,坤為順,卽謂陰也。舊解不知覆象,以離大腹為孕,由易林證之,離虛不孕也。
《漸》卦九三「夫征不復」等三句の解。ここで用いるのは覆象である。《震》は夫・征・復である。《漸》卦の下体《艮》は《震》の覆体であり、陽爻が上に走ったので「不復」である。《震》はまた孕育である。《焦氏易林》《晋》之《益》の条に「胎卵生せず」と言い、《震》は胎・生であり、《坤》は殺を主るので「不生」と言う――これで《震》をもって胎とし、胎は即ち孕であることが分かる。《震》之《観》の条にもまた「胎卵不生」と言い、《観》卦は互《艮》であり、《艮》は反《震》なので「不生」と言う。これによって《漸》卦の言う「婦孕みて育たず」も、同じく《震》をもって孕育としたことが証明できる。《震》がすでに反覆したので、中爻の《坎》もまたこれに随って破壊され、だから「不育」である――《周易》のこれらの所は皆覆象を用いたものである。《坎》は寇であり、九三の上下は皆陰爻であり、それに依附する者が多いので「寇を御ぐに利し」と言う。《象伝》に「順にして相保す」と言い、《坤》は順であり、指すのはこれらの陰爻である。旧注は覆象を解らず、《離》を取って大腹を「孕」とした。《易林》をもって検証すれば、《離》は中が虚で、まさに不孕の象である。
《漸》卦九五「婦三歳孕まず」
漸九五婦三歲不孕。易林遇巽,卽以為漏敝、為枯,下虛故也。九五巽體下虛,故不孕。巽為婦,離數三,故婦三歲不孕。易林震之觀云「缺破不成,胎卵不生」,觀上巽,正釋此也。
《漸》卦九五「婦三歳不孕」。《焦氏易林》は《巽》に遇えば取って漏破・枯槁とする。《巽》の下爻が虚断するためである。九五は上体《巽》の中に処り、《巽》は下が虚なので孕まない。《巽》は婦である。《漸》卦は三から五まで互《離》を成し、《離》の数は三なので「婦三歳不孕」と言う。《易林》《震》之《観》の条に「缺破して成らず、胎卵生ぜず」と言い、《観》卦の上体はまさに《巽》である。これはまさにこの条の爻辞に対する解釈である。
《帰妹》上六「女筐を承くるも実なし、士羊を刲るも血なし」の解
歸妹上六女承筐無實士刲羊無血解。震為筐,兌女,在下,故曰女承筐。震為竹為葦,中虛,故無實;又下無應,亦無實也。震為士,兌為,易林本左傳,每以震為殺為誅,故曰士刲羊。陰陽類為血,血者,天地之雜,今上六無應,離其類,故無血;又離虛,亦無血也。此爻曾見於左傳,服虔?謂上六變成離,離為戈兵,故曰刲。豈知震為殺,左氏有明文。又各家詁承字尤不協。
《帰妹》上六「女承筐无実、士刲羊无血」の解。《震》は筐であり、《兌》は女であって下体に居るので「女承筐」と言う。《震》は竹・葦であり、中間が空虚なので「无実」である。上六の下にはまた相応する爻がなく、これもまた「无実」である。《震》は士であり、《兌》は(この下に源本一字を脱す、「羊」と作るべき)である。《焦氏易林》は《左伝》に本づき、常に《震》をもって殺・誅とするので「士刲羊」と言う。陰陽は同類相合して血を成し、血は天地陰陽が交雑して生ずる。今上六には応爻がなく、その同類を脱離したので「无血」である。ましてや《離》は中が虚であり、これもまた無血の象である。この条の爻辞はかつて《左伝》僖公十五年の史蘇の占辞に見える。服虔(ここに源本一字を缺す)は上六が変動して《離》を成し、《離》は戈兵なので「刲」と言うと考えた。彼はどうして《震》が殺であり、《左伝》の中に明文の証拠があることを知らなかったのか。このほか各家が「承」の字を訓解したのは、なおさら合わない。
《豊》卦卦名の解
豐卦名解。離先天東,震後天東,同居一位,故曰豐,猶火天大有、水地比之義也。象曰「雷電皆至」,卽皆至東方也,皆至,故豐。
《豊》卦卦名の解。《離》は先天方位において東に属し、《震》は後天方位において東に属し、両者は同じ一つの方位に居るので「豊」(豊盛)と言う。これは《大有》が火天同位、《比》が水地同位であるのと同じ取義である。《大象伝》に「雷電皆至」と言うのは、雷と電が皆東方に至ったことを言う。皆一か所に聚まるので豊盛である。
《豊》卦は大象を用いる
豐卦用大象。豐上震,震旦;下離,離為日為午,皆光明象。乃二三四五上象皆黑闇,則以中爻互大坎也。坎為雲,虞氏謂日蔽雲中稱蔀,正謂下離日為大坎雲所蔽也。乃易象失傳,虞氏得其義而不知大象坎,以噬嗑為穿鑿,甚無謂也。
《豊》卦は大象を使用する。《豊》卦の上体は《震》であり、《震》は旦(日出)である。下体は《離》であり、《離》は日・午であり、いずれも光明の象である。しかし二・三・四・五・上の各爻の取象は皆黑暗である。それは中爻が互いに一つの「大坎」を成すためである。《坎》は雲であり、虞翻は日光が雲に遮蔽されるのを「蔀」と言うとし、まさに下体の《離》の日が大《坎》の雲に遮蔽されることを言う。ただ《易》象が失伝し、虞翻はこの層の意を得たものの、「大象《坎》」というこの一回事があることを知らず、かえって《噬嗑》を取って穿鑿附会した。甚だ理がない。
觀於彖言憂,二爻言蔀、言志、言疑、言疾、言孚,三爻言沛,四爻言蔀、言幽不明,上爻言不覿、言藏,皆坎象也。祗六五憂其隱,章顯而有慶也;未來之時,仍黑闇也,則其用大坎也復何疑哉!乃東漢人不知易用大象,至朱漢上始悟得之,來矣鮮始昌言之,而解豐卦則不用此義,則以嚇於大師皆不如此言也。
《豊》卦《彖伝》が「憂」を講じ、二爻が「蔀」・「志」・「疑」・「疾」・「孚」を講じ、三爻が「沛」を講じ、四爻が「蔀」・「幽不明」を講じ、上爻が「不覿」・「蔵」を講じるのを見れば――遮蔽・憂疑・疾患・幽暗・隠蔵は、全て《坎》の取象である。ただ六五だけが「章を来す」ために憂患が潜隠し文采が顕現し、よって慶誉がある。「来章」する以前の時に至っては、全卦は依然として一片の黑暗である。このように見れば、《豊》卦が用いたのは大《坎》であり、まだ何の疑うべきことがあろうか。しかし東漢人は《周易》が大象を使用することを知らず、朱震(世に朱漢上と称す)に至ってはじめて領悟し、来知徳に至ってはじめて公に申明した。しかし来氏が《豊》卦を解するにこの義例を用いなかったのは、「大師たちは皆このように講じない」に嚇されたためである。
豈知易林泰之豐云「龍蛇所聚,大水來處,滑滑沛沛,使我無賴」,豐震龍巽蛇,坎為水,大坎故曰大水,曰滑滑沛沛。又大壯之豐云「遭離滿沸,河川決潰」,亦謂大坎也。他若遇豐卽言病、言北、言豕者尤多,皆指大坎,特東漢人不知耳。東漢人不知,後治漢易者遂皆不知,亦以卦變為說矣。豈知祗五爻來章可用卦變,未來則本象仍存,易固以本象為體也。後言卦變者直滅本象,則入魔矣。
彼らはどうして《焦氏易林》《泰》之《豊》の条に「竜蛇の聚まる所、大水の来る処、滑滑沛沛、我をして頼なからしむ」と言うのを知らなかったのか。《豊》卦の《震》は竜、互《巽》は蛇であり、《坎》は水であり、大《坎》なので「大水」と言い「滑滑沛沛」と言う。《大壮》之《豊》の条にまた「離に遭い満沸し、河川決潰す」と言うのも、言うのは大《坎》である。その他およそ《豊》卦に遇えば即ち病を言い北方を言い猪を言うものはさらに多く、皆大《坎》を指し、ただ東漢人が知らなかっただけである。東漢人が知らなかったので、後に漢《易》を治める者もまた皆知らず、そこでまた卦変をもって解説した。彼らはどうしてただ五爻の「来章」の一句だけが卦変を用いることができ、「来章」の以前には本象が依然として存在し、《周易》はもともと本象をもって体とすることを知らなかったのか。後世に卦変を講ずる者は直ちに本象を取消し、それは走火入魔したものである。
焦氏易詁 巻七
行唐尚秉和節之撰
直隷行唐(今の河北行唐県)の人・尚秉和、字は節之、撰述。
《旅》卦卦名の解
旅卦名解。旅之命名,自來詁者皆於卦象不切。觀爻辭曰得資、曰喪童僕、得童僕、得資斧,古童僕亦財物之一,似皆以商旅販貿資財為說。易林本之,剝之旅云:「三奇六耦,相隨俱市,王孫善賈,先得利寶,居止不安,大盜為咎。」蓋卦一陰從一陽,二陰隨二陽,故曰三奇六耦。陰陽相隨,有若行旅,故曰旅,純以卦形命名。
《旅》卦卦名の解。《旅》卦の命名は、従来解釈する者が皆卦象と貼切しなかった。その爻辞が「其の資を得」と言い、「其の童僕を喪う」「童僕を得」「其の資斧を得」と言うのを見れば、古代の童僕もまた財物の一つと数え、皆商旅が財貨を販運することについて説を立てたと見える。《焦氏易林》はこの義に本づき、《剥》之《旅》の条に言う。「三奇六耦、相随い俱に市し、王孫善く賈り、先だって利宝を得、居止安からず、大盗咎を為す。」もともと《旅》卦は一つの陰爻が一つの陽爻に跟い随い、二つの陰爻が二つの陽爻に跟従する(六五は上九に従い、初六・六二は九三・九四に随う)。陽画は奇であって合わせて三、陰画は耦であって合わせて六なので、「三奇六耦」と言う。陰陽が彼此相随いて行くのは、あたかも伴を結んで出行する旅人のようである。だから「旅」と言う――全く卦形について取名したものである。
又易林晉之旅云「逐旅失群」,又履之旅云「願慕群旅」,又噬嗑之姤云「失儷後旅」,皆以旅為行旅中之伴侶為說,深與一陰一陽耦行之義梧。後儒以火炎於上、去所止而不居,並以獲罪去邦、羈旅於外釋卦名者,於卦象皆不切也,而易林逐旅之詁,尤酷肖卦形。
《易林》《晋》之《旅》の条にまた「旅を逐いて羣を失う」と言い、《履》之《旅》に「羣旅を願い慕う」と言い、《噬嗑》之《姤》に「儷を失いて旅に後る」と言う――同伴を追随し、同羣を思慕し、配偶を失って隊の後に落ちるのは、皆「旅」を行旅途中の伴侶として講じたもので、《旅》卦が一陰一阳対を成して行く取義と深く相契合する。後世の儒者はあるいは《離》火が上に炎がり居る所を離れて居らないことを用いて解し、あるいは罪を獲て国を離れ羈旅として外にあることを用いて卦名を解釈したが、皆卦象と貼切しない。しかも《易林》の「逐旅」の類の訓解は、特に《旅》卦の卦形に酷似する。
《旅》卦初六「旅瑣瑣たり、斯れ其の災を取る所なり」の解
旅初六旅瑣瑣斯其所取災解。有以斯為語助者,陸績是也;有以斯為斯役卑賤者,王弼、王應麟是也;又有本詩經、爾雅釋言「斯,離也」,說文斤部「斯,析也」,史記張耳陳餘傳有「斯養卒」,韋昭曰「析薪為斯」,列子黃帝篇「不知斯齊國幾千萬里」,張湛注「斯,離也」,以離析訓斯者,嚴元照、俞樾、吳冀州是也。
《旅》卦初六「旅瑣瑣、斯其所取災」の解。この句の「斯」の字は、従来三種の読法がある。一つは「斯」を実義のない語助詞とするもので、陸績はこの説を主とする。二つは「斯」を厮役と解し、卑賤の人を指すもので、王弼・王応麟はこの説を主とする。三つは《詩経》および《爾雅・釈言》の「斯とは離なり」、《説文解字》斤部の「斯とは析なり」に拠り、また《史記・張耳陳余列伝》に「斯養卒」がありて韋昭が「薪を析るを斯と為す」と言い、《列子・黄帝》篇に「斉国を斯くして幾千万里を知らず」がありて張湛注に「斯とは離なり」と言うのに拠り、よって「離析」をもって「斯」を訓するもので、厳元照・兪樾・呉汝綸(かつて冀州知州を官した)はこの説を主とする。
茲按易林履之旅云「願慕群旅,不離其巢」,不離其巢,正斯其所之反也。斯其所者,離其所也,卽離其巢之義也。又大畜之旅云「安其室盧,傳母何憂」,安其室盧仍斯其所之反。又復之旅云「二人輦車,徙去其家,井沸釡鳴,不可以居」,徙家正斯其所也,不可居卽取災也。蓋艮為巢、為室盧、為家,而艮以止為義,能艮止,故不離其巢、安其室家而吉;不能艮止,則徙去其家而凶,凶則災也。易林之解此語,可謂至明晰矣。
今按ずるに《焦氏易林》《履》之《旅》の条に「羣旅を願い慕い、其の巢を離れず」と言う。「不離其巢」はまさに「斯其所」の反面である。「斯其所」とは即ち自分の処所を離れることであり、すなわち「離其巢」の意である。《大畜》之《旅》の条にまた「其の室盧を安んじ、傅母何の憂えあらん」と言う。「安其室盧」は依然として「斯其所」の反面である。《復》之《旅》の条にまた「二人輦車、其の家を徙し去り、井沸き釡鳴り、以て居るべからず」と言う。「徙去其家」はまさに「斯其所」であり、「不可以居」は即ち爻辞の言う「取災」である。この三条の林辞が占するのは皆《旅》卦であり、《旅》卦の下体は《艮》である――《艮》は巢・室盧・家であり、しかも《艮》はまた「止」をもって卦徳とする。艮止して動かなければ、その巢を離れず室家に安居して吉を得る。艮止できなければ、その家を遷離して凶を致し、凶は即ち災である。《易林》のこの句の爻辞に対する解釈は、明白の極みと言える。
由易林以證前解,陸績讀斯為語助,所亦為語助,於易象無根;王弼、王應麟詁斯為卑斯賤役,於艮象合矣,而所字亦作為語助,於文理不適,正定王定柱常駁之矣(見翁注困學紀聞);獨最後之俞氏、吳氏,與易林旨吻合。
《易林》を用いて前の各家の解釈を検験するに、陸績は「斯」を語助詞と読み、「所」の字もまた語助詞としたが、《易》象上に少しも根拠がない。王弼・王応麟は「斯」を卑賤の厮役と訓し、《艮》象と相合するが、しかしまた「所」の字をも語助詞とし、文理上講じ通らない。正定の人王定柱がかつて駁斥したことがある(翁元圻の注《困学紀聞》に見える)。ただ最後の兪樾・呉汝綸の両家だけが、《易林》の旨意と吻合する。
易林謂斯其所為離其所,是以三字為句也。俞氏亦謂斯其所句,並謂斯其所與下旅卽次對文。愚按,與三爻焚其次亦對文。吳謂斯其所句與上旅瑣瑣為韻,尤能還西漢以前之舊讀。皆不本易林而能與易林闇合,二千年之誤詁由斯而明,二千年之錯讀由斯而正。然非易林,孰能證俞吳二家之詁之當哉!
《易林》が「斯其所」を「其の所を離る」と理解したのは、まさにこの三字をもって自ら一句を成したものである。兪樾もまた「斯其所」を断じて一句とすることを主張し、しかも「斯其所」と下文の二爻の「旅次に即く」とは相対して文を成す句であると言う。私が按ずるに、それは三爻の「其の次を焚く」ともまた対文である。呉汝綸は「斯其所」の一句が上文の「旅瑣瑣」と押韻すると考え、これは特に西汉以前の旧読法を回復し得る。この両家は皆《易林》に依拠して説を立てたのではないのに、《易林》と暗中で吻合することができた。二千年の誤解はこれによって昭明となり、二千年の錯読はこれによって訂正された。しかしもし《焦氏易林》がなければ、誰が兪・呉両家の訓解が正しいことを証明できるであろうか。
至斯之為賤役,易林每用之。渙之大畜云「卑斯內侍」,既濟之坎云「更為斯吏」,姤之需云「卑斯似鬼」,皆以艮為斯役。然按韋昭注,斯養離析,義實一也。後來以斯為撕,或作廝,皆俗字,失古義。又斯為離析,至今土語仍用之,凡裂物皆曰斯;至市肆市布,亦曰斯若干,而俗遂加手作撕,尤失古義。
「斯」を賤役と講ずることに至っては、《焦氏易林》もまた常に使用する。《涣》之《大畜》に「卑斯内侍」と言い、《既済》之《坎》に「更に斯吏と為る」と言い、《姤》之《需》に「卑斯鬼に似たり」と言うのは、皆《艮》をもって厮役とする。ただし韋昭の注に拠れば、「斯養」の「斯」と「離析」の「斯」は、意義は実は一つである。後に「斯」を「撕」と書き、或いは「厮」と書くのは、皆俗字であって古義を失った。さらに、「斯」を離析と講ずるのは、今に至るまで方言土語の中になお使用している。およそ物を撕裂するのを皆「斯」と言い、市に行って布を買うにも「斯若干」と言う。しかし俗書が手偏を加えて「撕」と作せば、なおさら古義を失う。
《旅》卦九三は《艮》をもって火とする
旅九三以艮為火。艮火之象,至東漢卽不知,祗邵子皇極經世以艮為火,為後儒所疑。乃邵子坤水之象,既與易合、易林合、九家合,則知其它亦皆有本,非自創也。後征之易林,解之謙云「三火起明,雨滅其光」,是以艮為火,艮納丙,數三,故曰三火;謙互艮,故雨滅其光。
《旅》卦九三は《艮》をもって火とする。《艮》為火というこの象は、東漢に至ってこれを知る人がいなくなり、ただ邵雍の《皇極経世》だけが《艮》をもって火としたが、なお後儒に疑われた。しかし邵雍の主ずる「《坤》為水」の象は、すでに《周易》と相合し、《焦氏易林》と相合し、《九家易》と相合している。ならば彼のその余の取象もまた皆本づく所があり、自ら杜撰したのではないことが知れる。後に《易林》を取って検証するに、《解》之《謙》の条に「三火起きて明となり、雨其の光を滅す」と言う。これは即ち《艮》をもって火とするものである――《艮》の納干は丙(丙は火に属し)、その数は三なので「三火」と言う。《謙》卦は互《艮》なので「雨其の光を滅す」と言う。
又大壯之遯云「火爛銷金」,遯上乾,金;下艮,艮火,故銷金。他若坎之謙云「門燒屋燔」,蹇之渙云「從風放火」,皆以艮為火。而火爛銷金、三火起明,尤以艮為火之確證,以數定之。因由易林而求之易,旅九三云「旅焚其次」,次者舍也,艮為舍為火,故焚其次。離火在上,非艮火,不能焚次也。
《大壮》之《遯》の条にまた「火爛して金を銷す」と言う。《遯》卦の上体は《乾》であり、《乾》は金である。下体は《艮》であり、《艮》は火であるので、金属を銷熔し得る。その他《坎》之《謙》に「門を焼き屋を燔く」と言い、《蹇》之《涣》に「風に従いて火を放つ」と言うのは、皆《艮》をもって火とする。しかも「火爛銷金」「三火起明」の二条は特に《艮》為火の確証である。なぜならなお《艮》の数目をもってそれを坐実し得るからである。そこで《易林》から回頭して《周易》に求めるに、《旅》卦九三に「旅其の次を焚く」と言う。「次」とは即ち旅舎であり、《艮》は舎でありまた火なので「焚其次」と言う。《離》火は上体にあり、もし《艮》火が下になければ、旅舎に焼き及ぼすことはできない。
《巽》卦九二「史巫を用うること紛若たり」の解
巽初至四,正反兩兌口相背,兌為口舌,史巫皆以口舌為用者也,故曰用史巫。史巫既並稱,當然為祝史。左傳桓六年「祝史正詞」,昭十八年「吾事鬼神而疾病,是祝史之罪也」,周官大祝史四人、司巫史一人是也。乃荀爽以書勳之史當之,失易象矣。書勳之史,乃南狐之流,胡能與巫並列?後注家遵用不改,則以易象失傳,不知史巫皆取象於口舌也。
《巽》卦の初爻から四爻までは、一正一反の二つの《兌》口が彼此相背する。《兌》は口舌であり、史官と巫祝は皆口舌に倚って事を行う人なので、九二の爻辞に「史巫を用う」と言う。すでに「史」「巫」を併称する以上、この「史」は当然祝史を指す。《左伝》桓公六年に「祝史詞を正しくす」と言い、昭公十八年に「吾鬼神に事えて疾病するは、是れ祝史の罪なり」と言い、《周礼》の大祝の下に史四人あり、司巫の下に史一人あり――即ちこの類の職官である。しかし荀爽は記功書事の史官を取ってそれに充当した。それは《易》象を失ったものである。記功書事の史官は、南史氏・董狐のあの一流の人物であり、どうして巫と並列することができようか。後の注家が沿用して改めないのは、《易》象が失伝して「史」「巫」が皆口舌に象を取ることを知らないためである。
茲證以易林,萃之巽云「眾口銷金,愆言不驗」,巽正反三兌,故曰眾口、曰愆言。又大壯之巽云「犬吠非主,上下膠擾」,巽二至四兌,伏艮,故曰犬吠;震為主,震伏,故曰非主;膠擾卽紛若也。又剝之巽云「三人俱行,一人言北,伯仲欲南,少叔不得」,亦以巽正反兩兌口為說。凡此皆史巫紛若之義也。自易象失傳,荀爽卽不知此用覆象,故紛若之義,二千年來無一人能覺察者。非易林,孰能證明之?又孰肯信之?
今《焦氏易林》を用いて印证する。《萃》之《巽》の条に「衆口金を銷し、愆言験なし」と言う――《巽》卦には正反三つの《兌》があるので「衆口」と言い「愆言」と言う。《大壮》之《巽》の条に「犬吠ゆるも主に非ず、上下膠擾す」と言う――《巽》卦の二爻から四爻まで互《兌》を成し、《兌》の伏蔵する所は《艮》であり、《艮》は狗なので「犬吠」と言う。《震》は主であり、《震》が潜伏して見えないので「非主」と言う。「膠擾」とは即ち爻辞の言う「紛若」である。《剥》之《巽》の条にまた「三人俱に行き、一人は北と言い、伯仲は南を欲し、少叔得ず」と言うのも、《巽》卦の正反両《兌》口について説を立てたものである。およそこれらの種種は皆「史巫紛若」の意である。《易》象が失伝して以来、荀爽はここで用いるのが覆象であることを知らず、だから「紛若」の意義は二千年の間それを察覚し得た人が一人もいない。もし《易林》がなければ、誰がそれを証明できるであろうか。また誰が肯んじて信じるであろうか。
《巽》卦九五「初なし終あり、先庚三日、後庚三日」の解
巽九五無初有終先庚三日後庚三日解。此其義,余曾說之,載周易古筮考中,然仍按十干生克之理為解,雖於初終之義有合,然以易林本象與對象往來返復之義證之,其無當與舊解等也。按易林夬之巽云「與神往來,長樂以安」,震為帝為神,言巽與震常往來返復也。蓋震究為巽,巽之初原為震,終成巽,故曰無初、曰有終。震主庚,一爻當一日,先庚三日者,言巽之前三日為震也;今成巽,而巽之究仍為震,後庚三日者,言巽之後三日仍將復於震也。
《巽》卦九五「無初有終、先庚三日、後庚三日」の解。この条の意義は、私はかつて講じたことがあり、《周易古筮考》に載せたが、ただ当時も依然として十天干の生克の理に按じて解釈し、「初」「終」の義とはやや吻合したものの、《焦氏易林》の本象と対象が往来反覆する義例をもって印证すれば、旧説と同じく講じて中肯でなかった。按ずるに《易林》《夬》之《巽》の条に「神と往来し、長く楽しみ以て安し」と言う。《震》は帝・神であり、この条はまさに《巽》と《震》が時々往来反覆することを言う。もともと《震》は究極すれば《巽》に変じ、しかも《巽》の起初はもともと《震》であり、最後に《巽》を成した。起初の《震》はすでに在らないので「無初」と言い、末後に《巽》を成して終わる所有るので「有終」と言う。《震》の納干は庚なので、「庚」は即ち《震》である。一爻をもって一日とすれば、いわゆる「先庚三日」とは、《巽》の前のあの三日はもともと《震》であったことを言う。今すでに《巽》を成したが、《巽》を推究し尽くせば依然として《震》に帰する。いわゆる「後庚三日」とは、《巽》の後のあの三日がまた再び《震》に回復することを言う。
震巽相往來反覆,故易林否之巽云「代伯受患」,小畜之巽云「伯氏失利」,伯者,震也,言此時震伏,巽暫代震受事也。說卦云「其究為躁卦」,朱震云「巽三變成震,震三變成巽,震,躁卦也」,正釋此也。後解此者,惟虞仲翔謂庚為震,與易林旨合。而後之人見聖人言庚,便於十干中討生活,錘幽鑿險,刻剔玲瓏,豈知聖人言庚,祗以代震耳,並無其它深奧。至其義理,祗震巽相往復耳,尤顯近易解。其以幽深相錘鑿者,則以易說失傳,不知本象與對象常往來反覆之理也。
《震》《巽》が彼此往来反覆するので、《易林》《否》之《巽》の条に「伯に代りて患を受く」と言い、《小畜》之《巽》の条に「伯氏利を失う」と言う――「伯」とは即ち《震》である(《震》は長男なので伯と称す)。これはこの時《震》が潜伏し、《巽》が暫く《震》に代って事務を承当することを言う。《説卦伝》に《巽》は「其の究めば躁卦と為る」と言い、朱震は「《巽》は三爻を変じて《震》を成し、《震》は三爻を変じて《巽》を成す。《震》は即ち躁卦である」と言う。まさにこの句を解釈したものである。後にこれらの句を解する者は、ただ虞翻だけが「庚」は即ち《震》と言って《易林》の旨意と相合した。しかし後の人は聖人が「庚」に言及するのを見るや、十天干の中で討生活し、幽深険奥の処に向かって錘鑿し、玲瓏剔透に彫琢した。彼らはどうして聖人が「庚」と言うのはただ《震》を代指するためのものにすぎず、別に深奥があるのではないことを知らなかったのか。その中の義理に至っても、ただ《震》《巽》が相往复するのみで、特に浅近で解し易い。それを錘鑿して幽深難測にした者は、《易》説が失伝し、本象と対象が常に相往来反覆する道理を解さないためである。
附「先甲三日、後甲三日」の解
附先甲三日後甲三日解。此二句義,餘亦曾說之,載古筮考中,今以易林推之,義極簡也。蠱者否之始,蠱通隨,隨者泰之始,否泰皆有乾,乾納甲,故以甲代乾。蠱為否始,而蠱之先為泰,泰下乾,為先甲三日。乃泰初升上成蠱,為反否之始一日;二升成漸為二日;三升成否為三日。至三日而否運終矣,先甲變為後甲矣。
附:《蠱》卦「先甲三日、後甲三日」の解。この二句の意義も、私はかつて講じたことがあり、《周易古筮考》に載せた。今《焦氏易林》を用いて推し求めれば、道理は極めて簡明である。《蠱》は《否》の開端であり、《蠱》は《随》と旁通し、《随》は《泰》の開端である。《否》《泰》は皆《乾》を含み、《乾》は甲を納するので、「甲」を用いて《乾》を代指する。《蠱》はすでに《否》の開端であり、しかも《蠱》の前は《泰》であり、《泰》の下体は《乾》である。これが即ち「先甲三日」である。具体的に言えば、《泰》の初爻と上爻が互いに易りて《蠱》を成すのは、《否》に向かう第一日である。二爻と五爻が互いに易りて《漸》を成すのは、第二日である。三爻と四爻が互いに易りて《否》を成すのは、第三日である。第三日に至って《否》運は便ち告げ終り、「先甲」もまた「後甲」に変じる。
隨為泰始,隨之先為否,否上乾,為後甲三日。乃否上返初成隨,為返泰之始一日;五隨返成歸妹為二日;四隨返成泰為三日。至三日而泰運終矣,後甲復為先甲矣。始而終,終而始,循環不已,故彖傳曰「終則有始,天行也」。後解此者,惟虞氏謂甲為乾,惟姚配中說始終得解,而解先庚後庚則非。
《随》は《泰》の開端であり、しかも《随》の前は《否》であり、《否》の上体は《乾》である。これが即ち「後甲三日」である。具体的に言えば、《否》の上爻が初位に返って《随》を成すのは、《泰》に回帰する第一日である。五爻がこれに随いて返って《帰妹》を成すのは、第二日である。四爻がこれに随いて返って《泰》を成すのは、第三日である。第三日に至って《泰》運は便ち告げ終り、「後甲」はまた「先甲」に変じて戻る。始めあれば必ず終わりがあり、終わりあればまた始めがあり、循環して止まない。だから《蠱》卦《彖伝》に「終われば則ち始めあり、天の行なり」と言う。後にこの二句を解する者は、ただ虞翻だけが「甲」は即ち《乾》と言ったのが正しく、また姚配中だけが「終始」を講じて通じた。ただ彼が「先庚」「後庚」を解したのは誤りである。
《兌》卦《大象》「朋友講習」の解
兌大象朋友講習解。凡易言小有言、聞言不信、有言不信、慎言語節飲食、鶴鳴子和及講習者,無不以正覆兩震或兩兌相對(相對卽相背)為說,乃虞氏皆不用,獨解此曰兌兩口對為講習。相對者,以二至四正覆兩兌口相對,非謂上兌下兌為相對;上兌下兌,口皆外向,如何對乎?
《兌》卦《大象》「朋友講習」の解。およそ《周易》が「小言あり」「言を聞きて信ぜず」「言ありて信ぜられず」「言語を慎み飲食を節す」「鶴鳴き子和す」および「講習」を講ずるのは、一正一覆の二つの《震》あるいは二つの《兌》が相対する(相対とは即ち相背すること)を取って説を立てないものがない。しかし虞翻は一概にこれを用いず、ただここの一か所を解するにのみ「《兌》の両口が相対するは即ち講習なり」と言った。いわゆる相対とは、二爻から四爻までのこの一段の中の一正一覆の二つの《兌》口が彼此相対することを指すのであって、上体の《兌》と下体の《兌》が相対することを言うのではない。上《兌》下《兌》の口は皆外に向かうので、どうして相対することができようか。
虞此說似用覆象,與易林合,乃後儒釋者竟以上下兌為相對。後安陸李道平作集解篡疏,覺其不安,又以兌上陰開兩口為相對,則以易說失傳,東漢人耳聞覆象之例,不敢通用,偶用之,後儒卽不知所謂矣。惟虞謂兌二陽同類為朋,絕不知陰陽相遇為類為朋之義,故所詁又誤也。
虞翻のこの説法は覆象を用いたようで、《焦氏易林》と相合する。しかし後の解経者は竟に上下の両《兌》をもって相対とした。さらに後に安陸の人李道平が《周易集解纂疏》を作り、このように講じるのが妥でないことを察覚し、また《兌》の上爻の陰画が分かれて二つの口に象るのを取って「相対」とした。これらは皆《易》説が失伝したためである。東漢人はただ覆象の義例を耳聞したことがあるのみで、敢えて普遍に使用せず、偶々一たび用いても、後の儒者は言う所が何かを知らなくなった。別に虞翻は《兌》の二つの陽爻が同類であるのを「朋」としたが、全く陰陽相遇えばはじめて同類・朋となる義例を解さず、だからここの一か所の訓解はまた誤った。
《涣》卦「大川を渉るに利し」の解
渙利涉大川解。彖傳曰「乘木有功也」,巽木,中爻震木,木在水上,故利涉。易凡言大川者,獨此似可以坎為大川也。然二居坤水之中,前臨二陰,陽遇陰遇通,故利涉。必以坎為大川,坎險坎陷,誰利涉乎?仍不如以坤為水之義長也。
《涣》卦「利渉大川」の解。《彖伝》に「木に乗りて功あればなり」と言う。上体の《巽》は木であり、中爻は互体して《震》を成しこれもまた木である。木が水の上に浮かぶので「利渉」である。《周易》がおよそ「大川」を講ずる所は、ただこの一か所だけが《坎》を取って大川に充当できそうである。ただし九二は《坤》水の中に処り、前に二つの陰爻に臨み、陽は陰に遇えば通ずるので「利渉」である。もし必ず《坎》を取って大川とするなら、《坎》の卦徳は険・陥であり、誰が渉渡に利を得られようか。これで依然として《坤》をもって水とする講法がなお通暢であることが分かる。
《節》卦卦名の解
節卦名解。水澤亦先後天同位,故曰節。節者,符節,以相合為用,言坎居西,兌亦居西,若合符節也。節者,信也,言凡事皆有一定制節,不容改變,故君子以制度數,天地以成四時。天地節者,天地信也,全以先後天同位取義也。虞翻以泰三之五艮止為節,失古義矣。
《節》卦卦名の解。水と沢もまた先天・後天が同じ一位に居るので「節」と言う。「節」とは即ち符節であり、両半が相合することをもって用とする。《坎》は先天方位において西に居り、《兌》は後天方位においても西に居り、まさに符節の相合するが如し。「節」はまた信の意である。およそ事には一定の節制があり、更改を容れない。だから《大象伝》に「君子以て数度を制す」と言い、《彖伝》に「天地節して四時成る」と言う。いわゆる「天地節」とは、すなわち天地に信があることである。これは全く先後天が同位であることについて義を取ったものである。虞翻は《泰》卦の三爻が五位に昇り、《艮》の止をもって「節」としたが、それは古義を失ったものである。
《節》卦初九・九二の爻辞の解
節初九九二爻詞解。吳冀州易說說此云:「易以陽在前為塞,陰在前為通。初之不出,以九二在前,故曰知通塞;二則可出而不出,故有失時之凶。」此發前人所未發,與易林大旨合若符契。節初九何以不宜出?陽在前為阻也。九二何以宜出?陰在前則通也。不宜出而靜,故無咎;宜出而不出,故失時。
《節》卦初九・九二爻辞の解。呉汝綸《易説》はこの二爻を講じて言う。「《周易》は陽爻が前にあるをもって阻塞とし、陰爻が前にあるをもって通暢とする。初九が戸庭を出でない所以は、九二というこの陽爻がその前にあるからであり、だから《象伝》に『通塞を知る』と言う。九二はもともと出ることができるのに出ないので、時を失うの凶がある。」これは前人の発したことのない所を発したもので、《焦氏易林》の大旨と吻合すること符節の如し。《節》卦初九はなぜ出るに宜しくないか。陽爻が前にあって阻まれるからである。九二はなぜ出るに宜しいか。陰爻が前にあれば通ずるからである。出るに宜しくなくて安静に自守するので「无咎」(過咎をこうむらない)である。出るに宜しいのに出ないので「時を失う」である。
此與說大畜初二三三爻云:「凡陽之行,遇陰則通,遇陽則阻,故初二皆不進而三利往也。」初二何以不進?陽遇陽也。三何以利往?陽遇陰也。自東漢以來,以此旨解經者少,豈知此實全易之精髓、陰陽之樞機。學者試就其言求之全易,但玩卦象,不讀爻詞,而何爻吉、何爻凶,已瞭然在目矣。
これは呉氏が《大畜》の初・二・三のこの三爻を講じた話と一致する。彼は言う。「およそ陽爻が行進するに、陰爻に遇えば通じ、陽爻に遇えば阻まる。だから《大畜》の初・二の両爻は皆前進せず、三爻は『往くところあるに利し』である。」初・二はなぜ進まないか。陽が陽に遇うからである。三爻はなぜ往に利があるか。陽が陰に遇うからである。後漢以来、この宗旨を用いて経を解する者は少ない。彼らはどうしてこれが実に全部の《周易》の精髓であり、陰陽消長の枢機であることを知らなかったのか。学者は彼の話に照らして全部の《周易》の中で印证してみるがよい。ただ卦象を玩味して爻辞を読まなくても、どの爻が吉でどの爻が凶かは、すでに目に了然としている。
《中孚》卦卦名の解
中孚卦名解。杭氏曰:「後天東南巽,卽先天兌位,故風澤曰中孚。」孚者,交相孚也。
《中孚》卦卦名の解。杭辛斎が言う。「後天方位の東南は《巽》であり、まさに先天《兌》の位置である。だから風上沢下の卦を『中孚』と称す。」「孚」とは即ち彼此が交相信頼することである。
《中孚》卦「豚魚」の解
中孚豚魚解。自易象失傳,東漢人不知魚象。荀爽謂豚處艮山、魚止兌澤,皆不能確指其象,是其證。至虞翻知巽魚象,仍不知豚象,乃讀豚為遯,後儒非之者多矣,而至今仍不得其象。按易林賁之中孚云「騎豚逐羊」,中孚震為騎,艮為豚。又師之旅云「豚彘不至」,亦以艮為豚,艮止,故不到;艮少,故為豚。自艮豚之象失傳,於是虞、黃以豚魚為遯魚,毛奇齡以豚魚為江豚,王引之謂為士庶禮品,遂以次穿鑿矣。
《中孚》卦「豚魚」の解。《易》象が失伝して以来、東漢人は魚の象を知らなくなった。荀爽は豚は《艮》山に処り魚は《兌》沢に止まると言ったが、皆その象の出る所を確指できなかった。これが即ち明証である。虞翻に至っては、《巽》に魚の象があることを知ったが、依然として豚の象を知らず、そこで「豚」を「遯」と読んだ。後世の儒者が彼を駁斥したのは多いが、しかし今に至るまでなおその象を求め得ていない。按ずるに《焦氏易林》《賁》之《中孚》の条に「豚に騎りて羊を逐う」と言う。《中孚》は互《震》を成して騎であり、互《艮》を成して豚である。《師》之《旅》の条にまた「豚彘至らず」と言うのも、《艮》をもって豚とする。《艮》は止を主るので「不至」と言い、《艮》は少男なので小豚の「豚」を取る。「《艮》為豚」の象が失伝して以来、そこで虞翻・黄頴は「豚魚」を「遯魚」と講じ、毛奇齢は「豚魚」を江豚と講じ、王引之は士庶の用いる礼品とし、次から次へと穿鑿し出した。
《中孚》卦「大川を渉るに利し」の解
中孚利涉大川解。彖曰「乘木舟虛也」,王肅曰「外實內虛,有似可乘虛木之舟」,最為得之。有舟卽可利涉大川,乃虞翻不知坤水在中、九二臨之、陽遇陰則通之理,必以坎為大川。二變不成坎,須三再變始能成坎,坎象成而利涉不辨為何爻。豈知易凡言利涉者皆確有所屬,如中孚之利涉則指二也。二前臨坤水,陽遇陰則通也,所謂乘木也,與大畜之九三同也。中孚二至五,卽大畜三至上也。然非易林坤水之象,孰能正虞氏之誤哉!
《中孚》卦「利渉大川」の解。《彖伝》に「木舟の虚に乗るなり」と言い、王粛は「外実内虚で、乗るべき中空の木舟のようである」と言う。この話は最も中肯である。舟があれば、「利渉大川」し得る。しかし虞翻は《坤》水が中間にあり九二がそれに緊臨し、陽が陰に遇えば通ずる道理を解らず、必ず《坎》を取って大川とした。二爻を変じても《坎》を成さず、三爻をさらに変じてはじめて《坎》を成すことができる。《坎》象は奏でて成したものの、「利渉」するのはいったいどの爻かを分辨できない。彼はどうして《周易》がおよそ「利渉」と言うのは皆確かに属する所があり、《中孚》の「利渉」の如きは即ち九二を指すことを知らなかったのか。九二は前に《坤》水に臨み、陽が陰に遇えば通ずる。これが即ちいわゆる「乘木」であり、《大畜》九三と同じである――《中孚》の二爻から五爻までのこの一段は、まさに《大畜》の三爻から上爻までのこの一段である。しかしもし《焦氏易林》の「《坤》為水」というこの象がなければ、誰が虞翻の錯誤を糾正できるであろうか。
《中孚》九二「鶴陰に鳴く、其の子これに和す。我に好爵あり、吾れ爾とこれを靡かん」の解
中孚九二鶴鳴在陰其子和之我有好爵吾與爾靡之解。此其義二千年長夜矣,則以不知覆象也。不知覆象,卽不知其子為誰、和聲從何而出、陰為何象。按易林晉之艮云「學靈三年,聖且聰明」,學靈者,學語也。艮三至上,正反兩震言相對,下言如何出,上卽如言而返,故曰學靈,學靈卽和也。中孚二至五,亦正反兩震言相對。
《中孚》九二「鶴鳴在陰、其子和之。我有好爵、吾與爾靡之」の解。この条の意義はすでに二千年の長夜の如く晦い。その原因はまさに覆象を解さないことにある。覆象を解さなければ、「其子」が誰であるか、応和の声がどこから出るか、「陰」がまた何の象であるかを知ることができない。按ずるに《焦氏易林》《晋》之《艮》の条に「霊を学ぶこと三年、聖にして且つ聡明なり」と言う。「学霊」とは即ち話を学ぶことである。《艮》卦の三爻から上爻までは、一正一反の二つの《震》の主る言が彼此相対する。下の《震》がどのように発声すれば、上の《震》はそのまま声を應じて返すので「学霊」と言う。「学霊」とはすなわち「和」である。《中孚》卦の二爻から五爻までも、同じく一正一反の二つの《震》の主る言が彼此相対する。
震為鶴,九家逸象震為鵠,項氏云「鵠鶴古通用,當作鶴」。按呂覽「鵠乎其羞」,注「讀如浩,大也」,音正與鶴通。劉孝標辯命論「龜鵠千秋」,費昶搗衣詩「開韞舒龜鵠」,皆鶴鵠通用之證。正字通謂為?[言為]字者,非也。吳草盧曰「黃鶴樓因黃鵠山而得名」,亦鵠鶴通用之證。
《震》は鶴である。《九家易》の逸象は「《震》為鵠」と作し、項安世は「鵠・鶴は古時通用する。ここでは鶴と作すべきである」と言う。按ずるに《呂氏春秋》の「鵠乎その羞み」に、注に「浩の如く読む。これ大の意なり」と言い、読音はまさに「鶴」と相通ずる。劉孝標《辯命論》に「亀鵠千秋」と言い、費昶《擣衣》詩に「韞を開きて亀鵠を舒す」と言うのは、皆鶴・鵠が通用する証拠である。《正字通》はこれを「?〔言為〕」の字と考えるが(源本はこの字が残缺し、ただ偏旁をもって標出し、敢えて臆補しない)、誤りである。呉澄(号は草廬)は「黄鶴楼は黄鵠山に因って名を得た」と言う。これもまた鵠・鶴が通用する証拠である。
為鳴,為子,下震出聲,上震卽如聲而反,故曰和。子指三至五之覆震也。在陰者,仍用覆象,二至五正反兩震,卽兩艮,子指上之覆震,陰則指下之覆艮也。易林頤之中孚云「熊羆豺狼,在山陰陽」,艮為山,納丙,丙南,故曰山陽;艮之反卽山北矣,山北曰陰,故又在山陰。而下之震鶴正當反艮,故曰鳴鶴在陰,言鶴鳴于山陰也。
《震》はまた鳴・子である。下の《震》が声を発すれば、上の《震》はそのまま声を應じて返すので「和」と言う。「子」が指すのは三爻から五爻までの覆《震》である。「在陰」に至っては、依然として覆象を用いる。二爻から五爻までの一正一反の二つの《震》は、反して見ればすなわち二つの《艮》である。「子」は上の覆《震》を指し、「陰」は下の覆《艮》を指す。《焦氏易林》《頤》之《中孚》の条に「熊羆豺狼、山の陰陽に在り」と言う。《艮》は山であり、納干は丙であり、丙の位は南にあるので「山陽」と言う。《艮》が一たび反覆すれば即ち山の北面を成し、山北を「陰」と称するので、また「在山陰」と言う。しかも下の《震》の象る鶴はまさに反《艮》の位に当たるので「鳴鶴在陰」と言う――鶴が山の北面で鳴くことを言う。
周易用覆之妙,匪夷所思,至東漢卽不知此義。見孟氏逸象以離為鶴也,而以訟之離當之,其誤一;不知陰象用反艮,而以訟之坎夜當之,其誤二;不知易無以艮坎為子之例,又不知子指覆震,而以二動成益、艮為子當之,其誤三;不知和為反震,而以益之震巽同聲相應解之,其誤四也。上亦失位,若再不能解,則將用節,豈有窮哉!
《周易》が覆象を運用する精妙さは、実に常人の思い及ぶところではなく、東漢に至ってはこの義例を解する人がいなくなった。注家は孟喜の逸象に「《離》為鶴」とあるのを見て、便ち《訟》卦の《離》を取って充当した。これが第一の誤りである。「陰」の象が反《艮》から取られたことを知らず、かえって《訟》卦の《坎》を夜として充当した。これが第二の誤りである。《周易》に《艮》《坎》をもって子とする義例がないことを知らず、また「子」が覆《震》を指すことを知らず、かえって二爻を変動して《益》を成し《艮》を子として充当した。これが第三の誤りである。「和」が反《震》から出ることを知らず、かえって《益》卦の《震》《巽》が同じ声に相応するを用いて解釈した。これが第四の誤りである。彼らはまた上爻もまた位を失うと言う。このようにしていけば、もしなお講じ通らなければ、将に改めて《節》卦を用いて湊合するであろう。どこに尽きるところがあろうか。
至於爵象,原屬大離,不必用訟離。兌爵為酒器,坎六四以震為樽,易林本之,凡遇震卽以為酒樽酒杯,則爵亦震象也。以貞悔言之,下貞上悔,貞我悔彼,而正反兩震要皯,則爾我也。爾我同此器,則共之矣。
「爵」というこの象に至っては、もともと大《離》に属し、必ず《訟》卦の《離》を用いる必要はない。「兌爵」は一種の酒器であり、《坎》卦六四は《震》をもって樽とし、《焦氏易林》はこれに本づき、およそ《震》に遇えば取って酒樽・酒杯とする。ならば「爵」もまた《震》象である。もし貞悔をもって言えば、下卦は貞・上卦は悔であり、貞は「我」・悔は「彼」であり、しかも一正一反の二つの《震》が相要するのは、すなわち「爾」と「我」である。你我がこの同じ一件の酒器を共用すれば、それは即ち「吾與爾靡之」――彼此が共にこれを有する――である。
中孚六三「或いは鼓し或いは罷み、或いは泣き或いは歌う」
此亦用覆也。震為鼓也,乃三至五震覆,則罷矣。震為歌笑,震覆則泣矣。而三當震與覆震之間,故其詞如此。舊解但謂不當位,故有此象者,義殊未盡也。與二爻用覆象詞也。
《中孚》六三のこの条の爻辞は、同じく「覆象」(一つの卦を倒転して象を取る)を運用して説を立てたものである。《中孚》の二から四爻まで互体して震を成し、震には鼓の象があるので「或鼓」と言う。さらに上を見れば、三から五爻までは震卦を倒転した形状(即ち艮)であり、鼓の象が一たび倒れれば鼓声は停まるので「或罷」と言う。震にはまた歌唱歓笑の象があり、震が一たび倒転すれば、歓笑は便ち反って哭泣に変ずるので「或泣」「或歌」と言う。六三のこの一爻はまさに互震と覆震の交接する処に処り、両象を兼ね備えるので、爻辞がこのように忽ち鼓し忽ち罷み、忽ち泣き忽ち歌うのである。旧注はただ六三が陰をもって陽に居り位置が当たらないためにこの象があると言うのみで、講ずることはるかに透徹に足りない。これは九二の爻と同じく、皆覆象を用いて措辞したものである。
小過「飛鳥音を遺す、上に宜しくなく下に宜し」の解
考《左傳》昭五年明夷之謙曰:「日之謙當鳥。」日之謙卽離變艮,艮為鳥,故曰當鳥。若以離為鳥,卽離當離矣,有是理乎?故知杜注誤也。《易林》本之,《恆》之《小過》云:「燕雀銜茅。」是以艮為燕雀。又《困》之《小過》云:「鳳有十子。」亦以艮為鳳。又《明夷》之《艮》云:「鴟鴞娶婦。」又《噬嗑》之《漸》云:「鸋鴂鴟鴞。」皆以艮為鴟鴞,是艮之為鳥明矣。《小過》之飛鳥亦謂艮也,音則謂震也。不宜上宜下者,上謂五,下謂二。五乘剛,《屯》六二日:「六二之難,以乘剛也。」柔乘剛不順,故《傳》曰上逆;二承陽勢順,故《傳》曰下順。又《小過》為正覆兩艮,上震為覆艮,以飛鳥言,首向下,故亦曰上逆也。
《左伝》昭公五年の筮例を考察するに、《明夷》之《謙》を卜得して、占辞に「日之謙、鳥に当たる」と言う。いわゆる「日之謙」とは、《明夷》の下体の離が《謙》の下体の艮に変じたことであり、艮は鳥の象があるので「当鳥」と言う。もし杜預のように離をもって鳥とするなら、それは離が離に変じたことになり、天下にどうしてこのような道理があろうか。これによって杜預の注は誤りであることが知れる。《焦氏易林》はまさにこの一つの取象を沿用する。《恒》之《小過》に「燕雀茅を銜む」と言うのは、《艮》をもって燕雀とする。《困》之《小過》に「鳳に十子あり」と言うのも、《艮》をもって鳳とする。《明夷》之《艮》に「鴟鴞婦を娶る」と言い、《噬嗑》之《漸》に「鴂鴟鴞」と言うのは、皆《艮》をもって鴟鴞とする。これで艮が象を取って鳥とするのは明明白白である。ならば《小過》卦辞の「飛鳥」が指すのは艮であり、「遺之音」の「音」が指すのは震である。いわゆる「不宜上、宜下」とは、「上」は六五を指し、「下」は六二を指す。六五は陰柔をもって九四の陽剛の上に凌駕し、《屯》六二《象》に「六二の難は、剛に乗ればなり」と言う。柔が剛に乗るは順でないので《彖伝》に「上逆」と言う。六二は下に在って九三・九四の陽を承接し、その勢は順なので《彖伝》に「下順」と言う。さらに《小過》の全卦は一つの正艮に一つの覆艮を加えて相畳したものであり、上体の震はまさに艮の倒形であり、飛鳥について言えば頭が下に向くに等しいので、また「上逆」とも言う。
自艮為黔喙,《易林》作黔啄,純指鳥,東漢人誤以為獸類,而艮鳥之象失傳。於是《小過》之飛鳥、《左傳》之當鳥,皆不知其屬艮而誤解矣。宋衷以卦二陽在內、四陰在外象飛鳥,固誤;虞翻用卦變,謂飛鳥指《晉》離者尤穿鑿,則以不知艮鳥之象也。又上下專指二五,不指三四。四為陽遇陰則利往,《豫》九四、《大壯》九四、《豐》九四皆利,是其證也。三居艮終,《蹇》彖曰「其道窮」,正與上逆下順之言相反。乃自來解者往往涉及三四,不能分明,故經義愈晦也。然非《易林》艮鳥之象,孰能知《小過》及《左傳》之舊解皆誤哉!
艮「為黔喙」(《易林》は「黔啄」と書く)はもともと専ら鳥類を指したが、東漢人が誤って豺狼の類の走獣と認めて以来、艮為鳥の象はここに失伝した。そこで《小過》卦辞の「飛鳥」、《左伝》占辞の「当鳥」は、後人が皆それらが艮から出たことを知らず、よって全て講じ誤った。宋衷は卦画について説を立て、《小過》は両陽爻が内に居り四陰爻が外にあり、形状が飛鳥の翼を展げるに象ると考えたが、もともとすでに誤りである。虞翻は改めて卦変を用い、飛鳥は《晋》卦の離を指すと言ったが、なおさら穿鑿である。その根源は皆艮に鳥の象があることを知らないことにある。また、「上」「下」の二字は専ら六五と六二を指し、九三・九四に渉らない。九四は陽爻であって上に陰爻に遇い、その行は利がある。《豫》九四・《大壮》九四・《豊》九四は皆利往の義を取り、即ち明証である。九三は下艮の終位に処り、《蹇・彖》に「東北に利からず、其の道窮まればなり」と言う。東北はまさに艮であり、これで艮終は道窮の象であることが分かる。「上逆下順」の説と正に相反する。しかし従来の注家は動もすれば三・四の両爻もまた引き入れ、界限が明らかでなく、経義は講じるほど晦渋になった。しかしもし《易林》の艮為鳥というこの象が依拠となければ、誰が《小過》卦辞と《左伝》占辞の旧解が全て誤っていたことを見出すことができたであろうか。
小過六二「其の祖を過ぎ、其の妣に遇う。其の君に及ばず、其の臣に遇う」の説
悲哉易象之失傳也!象既失傳,故竭數千年學者之力而不能通其詞。此爻祖象,據《易林》則謂艮也。《易林》《乾》之《蠱》云:「彭祖九子。」《蠱》上艮,艮為壽,故曰彭祖。又《隨》之《節》云:「思吾皇祖。」《節》上坎為思,中爻艮為祖。又《大壯》之《渙》云:「亡其祖考。」《渙》中爻艮,艮為祖,坎伏故亡。又《既濟》之《漸》云:「疆場有瓜,獻進皇祖。」是《易林》以艮為祖也。後思《易》《豫》象云:「以配祖考。」《豫》下互艮,故曰祖考。《易》原以艮為祖也。
易象が失伝したのは、実に悲しむべきである。象がすでに失伝したので、ここに数千年の学者が心力を尽くしても、なおこの条の爻辞を読み通せない。この一爻の中の「祖」の象は、《焦氏易林》によって見れば指すのは艮である。《易林》《乾》之《蠱》に「彭祖九子」と言う。《蠱》卦の上体は艮であり、艮は長寿の象があるので彭祖を挙げた。《随》之《節》に「吾が皇祖を思う」と言う。《節》卦の上体の坎は思であり、中間に互いに艮を出し、艮は即ち祖である。《大壮》之《涣》に「其の祖考を亡くす」と言う。《涣》卦の中間に互いに艮を出し、艮は祖であり、下体の坎は隠伏を主るので「亡」と言う。《既済》之《漸》に「疆場に瓜あり、皇祖に献進す」と言う。《漸》卦の下体はまさに艮である。これで《易林》は艮をもって祖とすることが分かる。後に再び回頭して《周易》を思い求めるに、《豫》卦《大象》に「殷に上帝に薦じ、以て祖考に配る」と言い、《豫》卦の下面に互いに艮体を出すので「祖考」と称する。これで《周易》はもともと艮をもって祖としたことが分かる。
妣象,據《易林》則謂巽也。《易林》《萃》之《渙》云:「公劉文母。」《渙》上巽,巽母,互大離,故曰文母。又《益》之《困》云:「二母不親。」《困》互巽,巽為母,上兌為反巽,故曰二母;兌先天數二,正反兩巽相背,故曰不親。又《損》之《巽》云:「太姒文母。」巽為母,互離為文,故曰文母。又《訟》之《隨》云:「入門見母。」《隨》艮為門,巽母,兌見,故曰見母。是《易林》顯以巽為母。後思《蠱》九二云:「幹母之蠱。」《蠱》下巽,是《易》原以巽為母也。
「妣」の象は、《易林》によって見れば指すのは巽である。《易林》《萃》之《涣》に「公劉文母」と言う。《涣》卦の上体は巽であり、巽は母であり、全卦の二から五爻までまた合して一つの大離を成し、離は文なので「文母」と称す。《益》之《困》に「二母亲しまず」と言う。《困》卦は互体して巽を出し、巽は母であり、上体の兌はまた巽の反体であり、一正一反でちょうど二つの巽なので「二母」と言う。兌は先天卦序において二を数え、しかも両巽が背を向けて立つので「不親」と言う。《損》之《巽》に「太姒文母」と言う。巽は母であり、互体の離は文なので「文母」と称す。《訟》之《随》に「門に入りて母を見る」と言う。《随》卦は互体して艮を成し門であり、上体の兌は即ち巽の反体であって母であり、兌はまた「見」と訓するので「見母」と言う。これで《易林》は明明白白巽をもって母とすることが分かる。後に再び回頭して《周易》を思い求めるに、《蠱》九二に「母の蠱を干す」と言い、《蠱》卦の下体はまさに巽である。これで《周易》はもともと巽をもって母としたことが分かる。
過其祖遇其妣者,《小過》下艮,六二前承二陽,利往,故曰過其祖,言二過艮也,艮為祖也;中爻巽為妣,六二正當巽初,故曰遇其妣。妣卽母也。虞翻本《禮記》以母死為妣,取中爻大過死為義,後儒不察而盲從之。豈知《尚書》曰「如喪考妣」,夫母既死矣,尚何言喪?且又胡能遇之?況父考母妣,無死生之別,郭璞注《爾雅》論之詳矣,《禮記》之言不必拘也。
いわゆる「過其祖、遇其妣」とは:《小過》の下体は艮であり、六二は前に向かって九三・九四の二つの陽爻を承接し、その勢は前往に利があるので「過其祖」と言う。その意は六二が艮を越え過ぎたことであり、艮は即ち祖である。二から四爻まで互体して巽を成し、巽は妣であり、六二はちょうどこの巽体の最下の一爻に処るので「遇其妣」と言う。妣とは即ち母である。虞翻は《礼記》の「生には母と称し死には妣と称す」の説に依り、また中爻から《大過》の棺椁死喪の義を取って解を立てた。後の学者は考察を加えずに盲目に跟従した。彼らはどうして《尚書》に「如喪考妣」の語があることを思い至らなかったのか。母がすでに死んだ以上、なお何の「喪」を言うことがあろうか。またどうして「遇」えることができようか。ましてや「父曰く考、母曰く妣」はもともと生死を分かたず、郭璞が《爾雅》に注してすでに辨析すること極めて詳しい。《礼記》のあの句に拘泥する必要はない。
至君與臣象,據《易林》則以震為君,以艮為臣。《夬》之《小過》云:「終不見君。」《小過》震為君,互大坎,故不見。又《夬》之《坎》云:「君臣擾憂。」《坎》中爻艮震,震君艮臣,坎憂震動,故曰擾憂。又《兌》之《艮》云:「臣圍其君。」亦以艮為臣,震為君。蓋震為帝為王,故為君;艮為僮為僕,故為臣,臣與僕古不分。不及其君者,言震在上,二艮止而無應,故不及;二居艮中,故遇其臣。後思《易》《蹇》六二云:「王臣蹇蹇。」《蹇》下艮,以艮為臣。又《遯》九三云:「畜臣妾吉。」《遯》下艮,故曰臣妾。是《易》本以艮為臣。而自東漢以來,知乾君坤臣,不知震艮亦為君臣,故愈解愈晦也。
「君」と「臣」の象に至っては、《易林》によって見れば、震をもって君とし艮をもって臣とする。《夬》之《小過》に「終に君を見ず」と言う。《小過》の上体の震は即ち君であり、全卦の二から五爻まで合して一つの大坎を成し、坎は隠伏を主るので「不見」と言う。《夬》之《坎》に「君臣擾憂す」と言う。《坎》卦の中間に互いに艮と震を出し、震は君・艮は臣であり、坎は憂を主り震は動を主るので「擾憂」と言う。《兌》之《艮》に「臣其の君を囲む」と言うのも、同じく艮をもって臣とし震をもって君とする。大概震は帝・王なので取って君とし、艮は僮・僕なので取って臣とする――古時は「臣」と「僕」はもともと分かれなかった。いわゆる「不及其君」とは、震が上体にあり、六二は自身艮の中に処り、艮は静止を主りしかも応爻がないので及ぶことができないことを言う。六二は下艮の中に居るので「遇其臣」と言う。後に再び回頭して《周易》を思い求めるに、《蹇》六二に「王臣蹇蹇」と言い、《蹇》卦の下体は艮であり、まさに艮をもって臣とする。《遯》九三に「臣妾を畜えば吉」と言い、《遯》卦の下体もまた艮なので「臣妾」と言う。これで《周易》はもともと艮をもって臣としたことが分かる。しかし東漢以来、学者はただ乾為君・坤為臣だけを知り、震・艮もまた君臣たり得ることを知らなかったので、この条の爻辞は解するほど晦渋になった。
既済九五東隣西隣の解
自易象失傳,東漢人不知先天象,故解東鄰西鄰者靡不錯誤。祗鄭玄、崔憬能覺察離東坎西方合,以離為日,日出東;以坎為月,月生西為說,而不知先天象離坎本東西也,無庸以日月為解。按《易林》《復》之《未濟》云:「東鄰西國,福喜同樂。」是以上離為東鄰,下坎為西國。又《履》之《訟》云:「受福西鄰。」《訟》下坎,故曰西鄰,是不啻明解禴祭受福也。《升》之《歸妹》云:「東鄰西家。」謂《歸妹》中爻離坎也。《易林》之言離東坎西,可謂至明白矣。乃宋後之治漢易者,既知先天方位,猶申述東漢之誤解,是誠何心哉!
易象が失伝して以来、東漢の学者は先天卦位を解らず、だから《既済》九五の「東隣」「西隣」を解釈して誤らないものがなかった。ただ鄭玄・崔憬だけが必ず離が東にあり坎が西にあってはじめて講じ通ることに察覚したが、彼らは離をもって日とし日が東より出ず、坎をもって月とし月が西に生ずるをもって説を立てたのであって、先天方位において離坎がもともと東・西に居ることを知らず、根本から日月に回り道する必要がなかった。按ずるに《易林》《復》之《未済》に「東隣西国、福喜同じく楽しむ」と言うのは、まさに上体の離をもって東隣とし下体の坎をもって西国としたものである。《履》之《訟》に「西隣に福を受く」と言い、《訟》卦の下体は坎なので西隣と称す――これはまったく明らかに《既済》九五の「西隣の禴祭、実に其の福を受く」を言っているのである。《升》之《帰妹》に「東隣西家」と言うのは、《帰妹》の中間に互いに出る離と坎を指す。《易林》が離をもって東とし坎をもって西とするのは、これ以上清楚なものはないと言える。しかし宋代以後漢易を研治する人は、明らかにすでに先天方位を知っていたのに、なお東漢の錯解に照らして下へ申説した。その居心はいったい何であろうか。
未済六三利渉大川の説
上既曰征凶,下又言利涉,義自違反。朱子疑「利」上有「不」字,吳摯父先生疑「徵」為「貞」,二者必有一當,義始能通。經文既有缺誤,故此之大川遂不能解。此與《無妄》六二云「不耕穫,不菑畬,則利有攸往」,上下語皆不能通,不能強說也。
《未済》六三は前にすでに「征凶」と言い、後にまた「利渉大川」と言う。前後の意思は自ら相违背する。朱熹は「利」の字の上に一つの「不」の字を脱したと疑い、呉摯父先生(呉汝綸)は「征」は「貞」の字の誤りと疑った。両説は必ず一説が講じ通って、文義が順暢になるはずである。経文にすでに缺文誤字がある以上、ここの「大川」がいったい何の象を取るかもまた索解する由がない。これは《无妄》六二の言う「耕まずして獲せず、菑せずして畬せず、則ち往くところあるに利し」と同じく、上下両截の話が皆接ぎ合わさらず、ただ疑を存するのみで、強いて説を立てるべきでない。
既済・未済上爻「其の首を濡らす」の解
《易林》以坎為大首。坎為水,一陽陷四、上二陰之中,而上六居坎之上,故曰濡其首。《未濟》上九亦曰濡其首,則用旁通也。虞翻以乾為首,說《既濟》上六尚可,說《未濟》上九遂不能通,則以旁通之說不明也。
《易林》は坎をもって大首とする。坎はまた水であり、一つの陽爻が六四・上六の二つの陰爻の中間に陥り、しかも上六はちょうど坎体の最上に圧するので、《既済》上六に「其の首を濡らす」と言う。《未済》上九にもまた「其の首を濡らす」と言うのは、それは《未済》と《既済》の六爻の陰陽が全て反し互いに旁通するので、取るのは相手方の象である。虞翻は乾をもって首とし、用いて《既済》上六を解するにはまだ無理に言い得るが、用いて《未済》上九を解すれば講じ通らない。その原因はまさに彼が旁通の例を明らかにしなかったことにある。
焦氏易詁 巻八
行唐尚秉和節之撰。
本巻は直隷行唐(今の河北行唐県)の人・尚秉和の撰述、尚氏の字は節之。
重門柝を撃つの解
九家專以艮為柝象,似不協。震為鳴、為口、為聲,形又宛然一柝也。艮為手、為小木,手持小木擊之,則口出聲而鳴矣。柝之象固非震莫屬,艮方為擊也。然九家云「從外示之艮」,此最與《易林》用覆象旨合。
《繋辞》に「重門撃柝、以て暴客を待つは、蓋し《豫》に取る」と言う。《九家易》は単に「柝」(更を打つ木梆)を艮象に帰したが、似乎合わない。震は鳴・口・声であり、卦形そのものもまた生き生きと一隻の木柝に象る。艮は手・小木であり、手が小木を持って敲撃すれば、即ち口に声を出して鳴り響く。これで柝の象は震に属さないものがなく、艮が当たるのはただ「撃」というこの動作である。ただし《九家易》の言う「外より之を示すに艮」(外から倒して見て来てはじめて艮体を顕す)というこの点は、却って最も《易林》が覆象を使用する宗旨に合する。
艮は東北の卦、終を成し始を成すの解
《易林》《大壯》之《離》云:「丑寅不行。」是艮居丑寅也。丑者一歲之終,故艮成終;寅者一歲之始,故艮成始。成始成終,故曰「成言乎艮」。
《易林》《大壮》之《離》に「丑寅行かず」と言うので、艮の居する所がまさに丑・寅の二つの方位であることが分かる。丑は一年十二月の収尾なので艮が「成終」と言い、寅は一年正月の開頭なので艮が「成始」と言う。すでに終を成しまた始を成すので、《説卦》に「万物の成終し所成始する所なり、故に艮に成言すと曰う」と言う。
説卦の帝・神の象の解
帝出乎震,凡《易林》言帝者無不屬震。至於神,則人不知其象。虞翻謂神卽《易》,韓康伯以八卦當之,謂八卦變化推遷,莫有使之然者;惠棟、張惠言等皆用虞說,李道平謂卽乾坤,豈知仍謂震也。帝卽神,神卽帝也。《易林》《蒙》之《節》云:「眾神集聚。」《節》互震,震為神,坎眾,故曰眾神。《夬》之《巽》云:「與神往來。」言震究為巽,巽反為震,常相往來,故曰與神往來。
《説卦》に「帝震に出ず」と言い、およそ《焦氏易林》の中で「帝」に言及する所は、震に属さないものがない。「神」に至っては、後人はその象がどこにあるかを知らなかった。虞翻は「神」は即ち《易》そのものと言い、韓康伯は八卦を取ってそれに当て、八卦が変化推移するのに背後で駆使する者がいないと言い、恵棟・張恵言らは皆虞翻の説を採用し、李道平は「神」は即ち乾坤と言った。彼らはどうして「神」が依然として震を指すことを知らなかったのか――帝は即ち神であり、神は即ち帝である。《易林》《蒙》之《節》に「衆神集聚す」と言う。《節》卦は互体して震を出し、震は神であり、上体の坎は衆なので「衆神」と言う。《夬》之《巽》に「神と往来す」と言う。これは震が極処に至れば巽に変じ、巽が反ればまた震となり、両者が常に相往来することを言うので、「与神往来」と言う。
又《大有》之《觀》云:「神明所伏。」言《觀》上巽,巽伏震,故曰神伏。又《履》之《漸》云:「聖哲且神。」《漸》坎為聖,離為哲,巽通震,故曰聖哲且神。又《需》之《萃》云:「神使伸言。」《萃》通《大畜》,《大畜》中爻震,震為神,震言,故曰神使伸言。凡此皆以震為神之確證。蓋震之為卦,一陽復始,萬物由此出生,變化推移,有莫知其然而然者,無能形容,祗可謂之帝、謂之神也。
《大有》之《観》に「神明の伏する所」と言う。これは《観》卦の上体が巽であり、巽はまさに震の伏卦なので、神が潜伏すると言う。《履》之《漸》に「聖哲にして且つ神なり」と言う。《漸》卦は互体して坎を成し聖であり、離を成し哲であり、上体の巽は震と相通ずるので「聖哲且神」と言う。《需》之《萃》に「神使いて言を伸ばさしむ」と言う。《萃》卦は《大畜》と旁通し、《大畜》の中間に互いに震を出し、震は神であり、震はまた言語を主るので「神使伸言」と言う。およそこれらの種種は皆震をもって神とする確証である。大概震というこの一卦は、一陽が下より復生し、万物がこれによって発端出生し、変化推移の間に、あえてその所以然を知るものなしに自然このようである一種の力量があり、形容する由がなく、ただそれを「帝」と称し「神」と称するのみである。
兑に説言するの解
震言兌口,皆見於《易》,而《易林》每以兌為言,以震為口。蓋兌二動卽成震,震二動卽成兌,而言從口出,故二卦關於言語口舌之象,實不能分,故《易林》每混合用之。「說言乎兌」,實其所本。
震は言を主り、兌は口である。これは皆《周易》自体に見える。しかし《易林》は往々にして反対にし、兌を用いて言語を表し、震を用いて口を表す。これは兌卦の第二爻が一たび変ずれば震を成し、震卦の第二爻が一たび変ずれば兌を成し、しかも言語はまた口の中から発するので、この両卦はおよそ言語口舌の象に渉れば実に分かつことができず、《易林》が常に混じて用いるのはこのためである。《説卦》の「兌に説言す」の一句は、まさに彼らのこの種の用法の根拠である。
「干に戦う、干は西北の卦なり、陰陽相薄するを言うなり」の解
虞翻云:「薄,入也。」言陽入陰,陰牝陽也,故曰相薄。是以《易林》《夬》之《坤》云:「歲暮花落,陽入陰室。」《坤》十月卦,故歲暮花落;陽伏陰下,故曰陽入陰室,則陰牝陽也。又《中孚》之《坤》云:「符左契右,相與合齒。」夫合齒若符契,則陰陽交也,皆相薄之義也。薄卽戰,戰卽交也。
虞翻が解釈して言う。「薄とは即ち入るなり。」その意は、陽が陰の中に入り、陰が陽を納めて己の有とする(「牝」は即ち雌が伏して承受すること)ので「相薄」と言う。だから《易林》《夬》之《坤》に「歳暮花落ち、陽陰室に入る」と言う――《坤》は十二辟卦において十月に当たるので歳末に花が謝すと言う。この時陽気は陰の下に潜伏するので「陽入陰室」と言う。これが即ち陰が陽を牝することである。《中孚》之《坤》に「符左に契右にし、相与に歯を合す」と言う――符と契の左右両半が合わさって厳丝合縫するのは、まさに陰陽交合の象である。これらは皆「相薄」の意である。だから「薄」は即ち「戦」であり、「戦」は即ち「交」である。
蓋《坤》闢於亥,而《乾》原居亥位,至十月,乾消剝入坤,則不見矣。胡以不見?為陰所牝也。陰牝陽則交矣,故曰合齒,故曰入室。後人因《坤》上六曰「龍戰于野,其血玄黃」,若陰陽實行戰爭而相傷者;由《易林》合齒之言釋之,實相交也,交卽戰也。《坤》彖曰:「西北喪朋,乃終有慶。」慶此也。
もともと《坤》は十二辟卦において亥月を主り、《乾》は先天方位においてもともと亥位(西北)に居る。十月に至って乾陽は消剥し尽くして坤の中に没入し、見えなくなる。なぜ見えないか。陰に包納されたからである。陰がすでに陽を包納した以上、それは即ち交合であるので、《易林》は「歯を合す」と言い「室に入る」と言う。後人は《坤》上六に「龍野に戦う、其の血玄黄」と言うのに因り、便ち陰陽が真に厮杀して彼此損傷するものと考えた。もし《易林》の「合歯」というこの句を取って解釈すれば、あれは明らかに相交である――しかも交合はまさにいわゆる「戦」である。《坤・彖》に「(東)西北朋を喪うも、乃ち終に慶あり」と言う。いわゆる慶すべき事とは、指すのはまさにこれである。
附:坤上六「龍野に戦う、其の血玄黄」の解
此爻不以闢卦解之,不能明也。龍者,陽也,何以至《坤》上六而戰?則以闢卦《剝》當戌,至亥消剝入坤,至上六而純陰。乃陽本居亥,陽伏陰下,陰牝陽,故《易林》曰:「陽入陰室,相與合齒。」陽求出,出震則《復》矣,仍闢卦。當其未出,乾元坤元靜默感通,氤氳姤合,無以名之,強名曰龍戰而已。其血玄黃者,卽出震時天地所遺氤氳之氣也。震為玄黃、為出,六子之生以此也。此血非陰非陽,乃天地之雜也。然非卽《易林》「陽入陰室,相與合齒」之言以求之,鮮不為聖人神化之筆所迷矣。
この一爻は十二辟卦を用いて解さなければ、説き明かすことができない。龍は陽を代表するのに、なぜ《坤》上六に至ってかえって「戦」するのか。辟卦において《剥》は戌月に当たり、亥月に至れば陽気は消剥し尽くして坤の中に没入し、上六に至れば便ち一片の純陰となる。しかし乾陽はもともと亥位に居り、この時陽は陰の下に潜伏して陰に包納されるので、《易林》に「陽陰室に入り、相与に歯を合す」と言う。陽は出ることを求め、一たび出て震となれば即ち《復》卦であり、依然として辟卦の循環の中にある。それがまだ出でない時、乾元と坤元は静默に相感じ氤氳交合し、それに命名する由がなく、やむを得ず「龍戦」と称するのみである。「其の血玄黄」に至っては、陽が震に出る際に天地の遺留したあの一団の氤氳の気である。震は玄黄の色があり出生の義があり、六子が生成する所以は、まさにこれに憑る。この「血」は陰に属さず陽にも属さず、天地二気が交雑して成ったものである。しかしもし《易林》の「陽入陰室、相与合歯」というこの句を取って追索しなければ、聖人の神妙莫测の筆法に迷わされない人は少ない。
附:文言「陰陽に凝るは必ず戦う、其の陽なきを嫌うが為なり」の解
「疑」之與「凝」,自漢以來不能決,而「嫌」字之異讀尤多:鄭作「謙」,荀、虞、陸、董作「隒」,《九家》作「兼」,少「無」字。以文理言,《九家》似順,清儒治漢《易》者各有所主。今以《易林》證之,《夬》之《坤》曰:「陽入陰室。」是陽為陰為凝也,卽陽為陰所牝也。陰牝陽,陽伏不見,有無陽之嫌,故稱龍以明之,明非無陽,特伏耳。伏必求出,出必戰。
《文言》のこの句は、「疑」の字がいったい「疑」と読むべきか「凝」と読むべきか、漢代以来ずっと定まらなかった。しかも「嫌」の字の異文異読はなおさら多い。鄭玄は「謙」と作し、荀爽・虞翻・陸績・董遇は「隒」と作し、《九家易》は「兼」と作し、しかも一つの「无」の字が少ない。単に文理の上から見れば、《九家易》の読法が更に順なようであり、清代に漢《易》を研治する学者は各々主張がある。今《易林》を取って印证するに、《夬》之《坤》に「陽陰室に入る」と言う。これはまさに陽が陰に凝聚され、すなわち陽が陰に包納されたことである。陰がすでに陽を包納すれば、陽は潜伏して見るべからず、そこで「陽がないようである」の嫌疑を有する。だから特に一つの「龍」の字を標出して点明する――陽がないのではなく、ただ潜伏したのみであることを表明する。すでに潜伏すれば、必ず出ることを求め、一たび出ることを求めれば、必ず「戦」がある。
故《易林》《中孚》之《坤》云:「乾坤利貞,乳生六子。」利貞卽凝也,六子之生,凝之功也。夫子生則出震矣。又曰:「長大成就,風言如母。」夫不曰如父而曰如母,曰風言,正釋嫌於無陽也。後儒謂王弼從俗本增「無」字,又有謂「嫌於無陽」與下「稱龍」句文不順者,豈知自西漢已然哉!
だから《易林》《中孚》之《坤》に「乾坤利貞、乳に六子を生ず」と言う――「利貞」は即ち「凝」であり、震坎艮巽離兌の六つの子卦が生成する所以は、まさに「凝」の功效である。子がすでに生出した以上、即ち陽が震に出たことである。《易林》は続いてまた言う。「長大成就し、風言母の如し。」――「如父」と言わずして「如母」と言い、またわざわざ「風言」と言う(巽は風であり、巽はまさに震の潜伏する処)。これはちょうど「其の陽なきを嫌うが為」のこの句を解釈しているのである。後の学者は王弼が俗本に依って一つの「无」の字を添えたと言い、またある人は「嫌于无陽」は下文の「龍を称す」の一句と文気が順でないと言う――彼らはどうして早くも西汉の焦延寿の時に、経文がすでにこのようであったことを知らなかったのか。
辟卦は周易の前にあった説
餘向疑《坤》上六稱龍,《文言》釋此,謂「陰凝於陽必戰,為其嫌於無陽,故稱龍」。及《說卦》云:「戰乎乾。乾,西北之卦也,言陰陽相薄也。」夫若無闢卦坤居亥之說,則《坤》上六純陰耳,胡得言龍?乾獨居西北耳,胡得言陰陽相薄?是文、孔心目中皆有坤居亥之象也。又《臨》「八月有凶」,謂《臨》《遯》也;《復》「七日反覆」,謂《復》《姤》也。
私は従前より《坤》上六がなぜ「龍」と称するかに疑惑を懐いていた。《文言》がこの一句を解釈して「陰陽に凝るは必ず戦う、其の陽なきを嫌うが為に、故に龍と称す」と言い、《説卦》にまた「干に戦う。干は西北の卦なり、陰陽相薄するを言うなり」と言う。試みに思うに、もし十二辟卦において坤が亥位に居るというこの一説がなければ、《坤》上六はただ一片の純陰にすぎないのに、どうして「龍」を論じ得ようか。乾はただ単独で西北に居るにすぎないのに、どうして「陰陽相薄」を論じ得ようか。これで周文王と孔子の心目中には、もともと坤が亥位に居るというこの象があったことが分かる。さらに《臨》卦辞に「八月に至れば凶あり」と言うのを見れば、指すのは《臨》と《遯》の両卦が八月を相距ることである。《復》卦辞に「七日にして来復す」と言うのは、指すのは《復》と《姤》の両卦が相反し相生することである。
《左傳》晉與楚戰,筮得《復》,曰:「南國蹙,射其元王中厥目。」是亦以《復》居正北也,闢於子也,是十二闢自古有也。餘持是說既久,後見干寶《周禮》注引《歸藏》云:「《復》子、《臨》丑、《泰》寅、《大壯》卯、《夬》辰、《乾》巳、《媾》午、《遯》未、《否》申、《觀》酉、《剝》戌、《坤》亥。」正十二闢也,無惑乎《易》與《左氏》皆用之也。卽漢人注《易》,往往用闢卦而不明言,若其例為人所共知者,亦足以證其說之古矣。
《左伝》は晋国と楚国が交戦し、筮して《復》卦を得て、占辞に「南国蹙す、其の元王を射て、厥の目を中てたり」と言うのを記す。これもまた《復》卦を正北方位に安放し、即ち辟卦において子月に当たるものである。これで十二辟卦は古より有ったことが分かる。私はこの見方を堅持すること久しく、後に干宝が《周礼》に注して引く所の《帰蔵》を見て言う。「《復》は子に当たり、《臨》は丑に当たり、《泰》は寅に当たり、《大壮》は卯に当たり、《夬》は辰に当たり、《乾》は巳に当たり、《媾》(即ち《姤》)は午に当たり、《遯》は未に当たり、《否》は申に当たり、《観》は酉に当たり、《剥》は戌に当たり、《坤》は亥に当たる。」これはまさに十二辟卦である。《周易》と《左伝》が皆それを使用したのも怪しむに足りない。漢代人が《易》に注するに至っても、往々にして辟卦を暗に用いて点破しない。あたかもこれが人人皆知の通例であるかのようであり――これもまた辟卦の説が由来久遠であることを証明するに足る。
後天方位はすでに連山に見える
文王演《易》,蓋多因襲舊義,而今無可考。如《坤》上六不以闢卦解卽不能通,是文王用闢卦也。乃干寶《周禮》注引《連山》云:「帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。」與今《說卦》文多同。又朱漢上引《歸藏》易,有乾大亦、乾為天、為君、為父、為闢、為卿、為馬、為禾,又為血卦。可見《說卦》之文皆自古相傳之易說,又以見後天方位不始於文王,古連山氏已有。然則《周易》之文因襲於二易明矣。
周文王が《周易》を推演したのは、大概多くは前代の旧有の義例を沿袭したのであろうが、ただ今ではすでに考证する由がない。譬えば《坤》上六は十二辟卦を用いて解さなければ講じ通らないので、文王が辟卦を用いたことが分かる。しかも干宝が《周礼》に注して引く所の《連山》に言う。「帝は震に出で、巽に斉し、離に相見え、坤に役を致し、兌に説言し、干に戦い、坎に労し、艮に成言す。」これは今本《説卦》の文字と大体同じである。朱震(世に漢上先生と称す)はまた《帰蔵》易を引き、その中に「乾大亦」および乾為天・為君・為父・為辟・為卿・為馬・為禾、また血卦を為す等の条がある。これで《説卦》の中の文字は皆古より相伝えた易説であることが分かる。また後天八卦方位が文王から始まったのではなく、上古の連山氏の時にすでに有ったことも分かる。このように見れば、《周易》の文辞が《連山》《帰蔵》の二易を沿袭したことは、極めて明白である。
坎為耳の解
坎之為耳,古今說者極錘鑿之能,無一有當,則以求之過深也。《坎》初云:「入于坎窞。」《說文》云:「窞,坎內之坎也。」又曰:「旁入也。」案耳空旁入,屈曲難通,正坎內之坎也,《說文》正釋坎為耳之義也。學者能卽《說文》坎窞之義求之,則坎為耳象如繪出矣。
坎がなぜ象を取って耳とするか、古今解説する者は牽強附会の本事を窮め尽くしたが、妥当に説いた一家がない。その毛病は求めること過度に深かったことにある。《坎》卦初六に「坎窞に入る」と言い、《説文解字》は解釈して言う。「窞とは、坎中の小坎なり。」また言う。「(窞は)旁より入るなり。」按ずるに耳孔はまさに旁側より入り、曲折幽深にして通達し難い。ちょうど「坎中之坎」である。《説文》のこの条の訓釈は、実はちょうど坎が象を取って耳とする道理を説明している。学者はただ《説文》の「坎窞」に対する解釈に沿って体会すれば、坎為耳の象は画いたように明白である。
茲再證之《易林》。《同人》之《坎》云:「孔德如玉,出於幽谷。」《坎》中爻震,為孔、為玉、為出,震在坎上,故曰出於幽谷。幽谷卽坎窞也,卽耳象也,純以形言,並無他義。後儒謂北方主聰,故為耳;又有以坎屬腎,腎水衰則耳聾為說者,皆賢者失之過也。
さらに《易林》を取って印证する。《同人》之《坎》に「孔徳玉の如く、幽谷より出ず」と言う。《坎》卦の中間に互いに震を出し、震は孔竅の象・玉の象・出の象があり、しかもこの震体はまさに坎の上方に圧するので「出于幽谷」と言う。「幽谷」とは即ち坎窞であり、すなわち耳の象である――これは純粋に形状について言うのであって、別に深意はない。後の学者は北方が聴覚の聡敏を主るので坎為耳と言い、またある人は坎が人身において腎に属し腎水が衰竭すれば耳聾するを取って説を立てた。これらは皆賢者が心を用いること過度にして、かえって説き過ぎたものである。
震為長子の説
《說卦》獨以震為長子,坎、艮卽不言。《易林》本之,凡單言子者皆指震;若言艮,則小子、少子也。反而求之《易》亦然,詳見首卷。此義至東漢卽失傳。虞翻往往以艮為子,又往往以震為子,恐與艮、坎不分而必曰長子,皆不知此例之證也。
《説卦》はただ震を「長子」と称し、坎・艮に対してはこのように称しない。《易林》はこの体例を沿用した。およそ単に一つの「子」の字を言うのは皆震を指し、もし艮を指せば「小子」「少子」と言う。反って《周易》の中に求証すれば、情形もまた同じである。詳しくは本書首巻に見える。この義例は東漢に至って失伝した。虞翻はある時は艮をもって子とし、ある時はまた震をもって子とした。しかし《説卦》は大概まさに震と艮・坎が混淆して明らかでないことを恐れて、こそ必ず一つの「長」の字を加えて「長子」と言ったのであろう。虞翻のこれらのやり方は、皆この条の義例を解さない明証である。
易林は震をもって尨とする説
前已為龍,此不應作龍審矣。虞翻、干寶皆作「駹」,雲蒼色;鄭作「尨」,雲取日出色。案《左傳》閔二年「尨奇無常」,又「衣之尨服」,注:「尨,雜也。」是鄭義與虞、乾義同,後儒多從之。案《易林》《觀》之《頤》云:「尨降庭堅。」《頤》上艮,艮為庭、為堅;下震,震為尨、為出,故曰尨降。又《謙》之《頤》、《需》之《大畜》語同,是《易林》亦作「尨」,讀與鄭同,但取象則異。
《説卦》は前にすでに震を「為龍」と言った以上、ここでは断じて再び「龍」と書くべきではない。これは明白である。虞翻・干宝は皆「駹」と書き、青蒼色と解した。鄭玄は「尨」と書き、日出の時の雑色を取ると言った。按ずるに《左伝》閔公二年に「尨奇无常」があり、また「之に尨服を衣せしむ」があり、注に言う。「尨とは即ち雑なり。」これで鄭玄の訓義は虞翻・干宝と同じであることが分かり、後の学者は多くこれに跟従した。さらに《易林》《観》之《頤》に「尨降庭堅」と言うのを見れば、《頤》卦の上体は艮であり、艮は庭・堅である。下体は震であり、震は尨・出であるので「尨降」と言う。《謙》之《頤》、《需》之《大畜》の中にも同じ話がある。これで《易林》もまた「尨」と書き、読法は鄭玄と同じであるが、取象は同じでないことが分かる。
鄭作雜,此則訓為犬類。《詩·召贈》「無使尨也吠」,《說文》云:「尨,多毛犬。」案震、巽相對,巽為寡髮,震當然為多毛。《易林》《節》之《謙》云:「首髮如蓬。」是以震為長髮也,故曰尨降。尨降庭堅雖皆人名,此則象取多毛犬也。尨多而狀善吠,無一不與震象合,較以尨為蒼雜者義似勝矣。艮為狗取其守,此則取多毛而善吠,義絕不復也。
鄭玄は「尨」を雑色と訓したが、ここではそれを狗の一類と訓する。《詩経・召南》に「尨に吠えしむること無かれ」があり、《説文解字》に言う。「尨とは多毛の狗なり。」按ずるに震と巽の両卦は相対し、巽がすでに「為寡髪」(頭髪が稀少)なら、震は自然に多毛である。《易林》《節》之《謙》に「首髪蓬の如し」と言うのは、まさに震をもって長髪としたもので、だから「尨降」と言う。「尨降」「庭堅」は皆古人の名であるが、ここでは取るのは多毛犬の象である。狗は毛が多く、様子が凶で善く吠え、震象に合わないものがない。これは「尨」を青蒼雑色と解するより、義理が一層勝るようである。艮が狗と為る所以は、看守の義を取る。ここでは多毛にして善く吠えるの義を取り、両者は絶対に重複しない。
九家逸象の震為玉の説
《九家》逸象震為玉,是以《易林》每遇震卽言珠玉、珪璋、瑚璉。而「玉」或訛作「王」,《釋文》從之。豈知《易林》凡遇震言堯、舜、湯、武者,皆本帝出乎震,以帝為象也。「玉」不訛也。
《九家易》の載せる逸象の中に「震為玉」があり、だから《易林》は毎震卦に遇うごとに、珠玉・珪璋・瑚璉の類の話を言う。しかし「玉」の字はある本子では「王」に訛り、陸徳明《経典釈文》もまた訛字に照らして読んだ。彼らはどうして《易林》がおよそ震に遇って堯・舜・湯・武に言及する所は、依拠するのが《説卦》の「帝出乎震」であり、取るのが「帝」の象であって「王」の字と渉らないことを知らなかったのか。これで「震為玉」の「玉」の字は書き誤っていないことが分かる。
易林の旉の義
震為旉,虞作專靜之專,延叔堅作敷布,干寶以旉為花之通名,後儒各有所主,莫衷一是。案《易林》每遇巽卽言花葉落去,以震伏也;又每遇震卽曰桃李生華,是亦訓旉為華也,象形也。後儒多駁乾說,豈知乾說與焦氏同也。其作專、作敷者,於卦象殊空泛不切;旉為花萼,則於震象恰合也。
《説卦》の「震為旉」というこの条は、虞翻は「専一静止」の「専」と読み、延篤(字は叔堅)は「敷布」の「敷」と読み、干宝は「旉」は花の通称と考え、後の学者は各々一説を執して定まらない。按ずるに《易林》は毎巽卦に遇うごとに花葉の凋落を言う。それは巽の中に震象が潜伏するためである(花は便ち謝す)。毎震卦に遇うごとに桃李の開花を言う。これで《易林》もまた「旉」を花と訓し、取るのは象形の義であることが分かる。後の学者は多く干宝の説を駁斥したが、干宝の講法がまさに焦延寿と同じであることを知らなかった。「専」と読み「敷」と読むのは、卦象に用いれば空泛にして貼切でない。「旉」を花萼と解してこそ、震象と絲絲入扣する。
易林が易より推演した震象
《說卦》震為竹、為葦,《易林》本此,凡遇震卽言周、言孔、言管。《坎》六四以震為樽、為簋、為缶,《易林》遇震卽以為酒杯、為盈。《明夷》以震為箕,《歸妹》以震為筐,《易林》遇震卽言蕢、言筥、言籩豆,凡竹器之屬皆象之。《說卦》言鳴,《易林》遇震,凡物之能鳴者皆屬之。《中孚》言鼓,《豫》卦言樂,《易林》遇震,凡一切樂器皆屬之。《說卦》言稼,《易林》遇震,凡一切黍稷菽豆禾麻之類皆屬之。《說卦》言蕃鮮,《易林》遇震,凡草萊之屬皆屬之。
《説卦》に震為竹・為葦と言うと、《易林》は即ちこの条に依る。およそ震に遇えば「周」を言い「孔」を言い「管」を言う(竹葦は中空にして孔あり、之を截れば即ち管を成す)。《坎》六四の「樽酒簋貳用缶」は震をもって樽・簋・缶とし(《坎》の中に互震あり)、《易林》は震に遇えば取って酒杯・盛満とする。《明夷》六五の「箕子」は震をもって箕とし、《帰妹》上六の「女筐を承く」は震をもって筐とし(両卦に皆震あり)、《易林》は震に遇えば蕢(草編の筐)を言い筥(円形の竹器)を言い籩豆を言い、およそ竹器の一類は全て震に帰する。《説卦》に震は馬において「為善鳴」と言うと、《易林》は震に遇え、およそ声を発して鳴くこと能くする物は皆それに帰する。《中孚》六三に「鼓」と言い、《豫》卦《大象》に「楽を作す」と言うと、《易林》は震に遇え、一切の楽器は皆それに帰する。《説卦》に震「為稼」と言うと、《易林》は震に遇え、一切の黍・稷・菽・豆・禾・麻の類は皆それに帰する。《説卦》に震「為蕃鮮」と言うと、《易林》は震に遇え、およそ草莽の属は皆それに帰する。
《說卦》言足、言決躁,於是如鹿、如兔、如蝗蟲,凡以足見長而躁急者,《易林》皆屬之。又《易林》於國名,凡言晉者取震往也,言荊楚者取叢木也,陳者震出,亦取戰陳也,衛者震為警衛也,韓者乾也,亦取震木也,英蓼取草莽也。于姓氏言張者,震健也;蘇李者,震為草木也;言白者,本馵足的顙義也。然不能以此為增象,以皆由《說卦》推演而出。若坤水、坤魚、艮火、巽石之類,方謂之增象,以其至東漢卽失傳。然不明其推演之象,讀《易林》卽不解其所謂也。
《説卦》に震「為足」「為決躁」と言うと、そこで鹿の如く兔の如く蝗虫の如く、およそ脚力をもって長とし性情が躁急なものは、《易林》は皆震に帰する。また《易林》は国名を用いる。およそ「晋」と言うのは、震が前往を主る(晋は即ち進)の義を取る。「荆楚」と言うのは、震が叢生の木であるを取る。「陳」と言うのは、震が出を主るに因り、また兼ねて「戦陳(陣)」の義を取る。「衛」と言うのは、震が警衛であるを取る。「韓」と言うのは、「韓」が即ち井干の「干」であるを取るのであり、依然として震為木を外れない。「英」「蓼」と言うのは、草莽の義を取る。姓氏を用いるに、「張」と言うのは、震の剛健を取る。「蘇」「李」と言うのは、震が草木であるを取る。「白」と言うのは、《説卦》の震「為馵足」「為的顙」(馬足が白、馬額が白)の義に本づく。ただしこれらは皆新增の象と算することはできない。全て《説卦》から推演して出たためである。坤為水・坤為魚・艮為火・巽為石の類の如きこそ、増象と称する。それらは東漢に至って失伝したためである。しかしもしこれらの推演して出た象を明らかにしなければ、《易林》を読んでもそれがいったい何を言っているのかが分からない。
易林寡髪の解
寡之於宣,字形本近。虞翻讀為宣,以白為義,並謂馬融讀寡之非,後儒多從之。按《易林》《隨》之《豐》云:「身多禿癩。」《豐》二至四巽,巽為寡髮,故曰禿。又《復》之《坎》云:「髠刑受法。」《坎》通《離》,《離》中爻巽,故曰髠。又《蒙》之《漸》云:「鳥飛無翼。」《漸》上巽,巽為毛羽、為寡,故無翼。又《需》之《否》云:「毛羽憔悴。」《否》中爻巽,為毛羽、為寡,故憔悴。夫曰禿、曰髠、曰無翼,皆以寡為義,不以白為義。又《需》之《小畜》云:「紝績獨處,寡居無夫。」是焦贛明明讀為寡也。
《説卦》の巽「為寡髪」の「寡」の字は、「宣」の字形ともともと相近い。虞翻は「宣」と読み、白色の義を取り、しかも馬融が「寡」と読むのが誤りであると指摘し、後の学者は多く虞説に跟従した。按ずるに《易林》《随》之《豊》に「身に秃癩多し」と言う。《豊》卦の二から四爻まで互いに巽を出し、巽は寡髪なので「秃」と言う。《復》之《坎》に「髡刑法を受く」と言う。《坎》は《離》と旁通し、《離》卦の中間に互いに巽を出すので「髡」(髪を剃る刑)と言う。《蒙》之《漸》に「鳥飛ぶも翼なし」と言う。《漸》卦の上体は巽であり、巽は毛羽でありまた寡少なので、翼がないと言う。《需》之《否》に「毛羽憔悴す」と言う。《否》卦の中間に互いに巽を出し、毛羽でありまた寡なので憔悴と言う。秃と言い髡と言い無翼と言うのは、全て「寡少」の義を取り、「白色」の義を取る所が一か所もない。さらに《需》之《小畜》に「紝績独り処り、寡居して夫なし」と言うのを見れば、焦贛(焦延寿)が分明に「寡」と読んでいたことが分かる。
乃《易林》《節》之《井》云:「宣髮龍叔。」各本皆作宣勞就力,祗宋本如此,是又明明讀為宣髮也。然《易林》全部觀之,凡遇巽卽言禿、言髠、言落者不可勝數,皆主寡言,而宣髮祗此一見,故吾深疑《易林》原作寡髮龍叔,後人改寡為宣,以就虞義。清惠棟得此,據為宣發之確證,而不知《易林》言此者至多,皆以寡為義,無以宣為義者。又李道平謂寡於巽無取,豈知巽內虛,《易林》遇巽,不曰耗減寡薄,卽曰花葉落去,於風散之義取象最切,較宣義深遠矣。
しかし《易林》《節》之《井》には「宣髪龍叔」の一句がある――この一句は各本とも「宣労就力」と作し、ただ宋本だけが「宣髪龍叔」と作し、それはまた分明に「宣髪」と読んだものである。しかし《易林》全書を通観すれば、およそ巽に遇って秃と言い髡と言い凋落と言うのは数え切れないほど多く、全て「寡少」の義を取り、しかも「宣髪」はただこの一見のみである。だから私は《易林》の原文はもともと「寡髪龍叔」と作したのであって、後人が「寡」を「宣」に改めて、もって虞翻の読法に遷就したのではないかと甚だ疑う。清代の恵棟はこの一句を見て、便ちそれを取って「宣髪」の鉄証としたが、《易林》の中でこの類の話を言う所は極めて多く、「寡少」の義を取らないものがなく、「宣(白)」の義を取る所が一か所もないことを知らなかった。李道平はまた「寡」の字は巽卦において取象する所がないと言う――彼はどうして巽の卦体の内爻が空虚であり、《易林》が巽に遇えば、耗損減少・寡薄を言うか、さもなくば花葉の凋落を言い、これが「風吹いて散ず」というこの層の意において取象最も貼切で、「宣(白)」の解釈に比べて深遠なこと甚だしいことを知らなかったのか。
易林離為乾卦の説
鄭作乾,虞讀為乾溼之幹。案《易林》《巽》之《艮》云:「使乾口來。」《艮》中爻震為口,互離,故曰乾口。又《乾》之《訟》云:「喉焦唇乾,舌不能言。」亦以互離為乾,是虞讀與焦同也。蓋以《噬嗑》九四干胏、九五乾肉為義也。
《説卦》の「離為乾卦」というこの条は、鄭玄は「乾」と書き、虞翻は乾湿の「乾」と読んだ。按ずるに《易林》《巽》之《艮》に「乾口をして来らしむ」と言う。《艮》卦の中間に互いに震を出し、震は口であり、卦中にまた互いに離を出し、離は即ち乾燥なので「乾口」と言う。《乾》之《訟》に「喉焦り唇乾き、舌言うこと能わず」と言う。《訟》卦の二から四爻まで互いに離を出し、同じく離をもって乾とする。これで虞翻の読法は焦延寿と同じであることが分かる。大概彼らは皆《噬嗑》九四の「乾胏を噬う」、九五の「乾肉を噬う」(《噬嗑》の上体はまさに離)に依って義を立てたものである。
易林艮為黔啄の説
馬、鄭、王肅皆讀為黔喙,皆以為豺狼之屬、山居之獸。按《易林》《賁》之《否》云:「東風啟戶,黔啄翻舞。」《否》互艮,故曰黔啄;互巽,故曰翻舞。無惟鳥稱啄,能翻舞空中,獸則不能,故《易林》遇艮卽言鷹隼鷂。蓋艮剛在上,為堅,故《易》與《易林》常以艮為角,鳥啄之堅與角同耳。若豺狼之喙,與堅義不合也。又獸屬黔喙者少,若中原之鳥,十九黔啄,故《易林》獨以鳥當之。
《説卦》の艮「為黔喙之属」というこの条は、馬融・鄭玄・王粛は皆「黔喙」と読み、皆豺狼の類の山中に居る野獣を指すと考えた。按ずるに《易林》《賁》之《否》に「東風戸を啓き、黔啄翻舞す」と言う。《否》卦の二から四爻まで互いに艮を出すので「黔啄」と言い、三から五爻まで互いに巽を出し、巽は風・進退なので「翻舞」と言う。ただ鳥だけが「啄」と称し、またただ鳥だけが空中で翻飛起舞することができ、野獣にはできない。だから《易林》は一たび艮に遇えば即ち鷹を言い隼を言い鷂を言う。大概艮は一つの陽剛爻が上に居り、象を取って堅硬とするので、《周易》と《易林》は常に艮をもって角とする。鳥喙の堅硬は角ともともと一類である。もし豺狼の喙と言えば、「堅」の意と合わない。ましてや黒い嘴の走獣はもともと少なく、しかも中原の鳥は十に八九が皆黒喙であるので、《易林》は単に鳥を用いてこの象に当てた。
由斯證喙為啄之訛字,在西漢時尚未訛也。後儒有覺其不安,兼鳥獸言者,亦誤也。且艮既為狗、為鼠、為虎、為狐,此不宜重言獸也。此有確證:《左傳》昭五年明夷之謙云:「日之謙當鳥。」日之謙卽離變艮,變艮而云當鳥,則艮為鳥明矣。又《小過》云:「飛鳥遺之音。」亦以艮為鳥。自艮鳥之象失傳,後儒謂《小過》卦形象飛鳥,虞翻謂離為鳥,於是解《易》而誤,解《左氏》亦誤矣。
これによって証明し得る、「喙」は「啄」の訛字であり、西汉の時にはまだ訛誤していなかった。後にある人はこの説が不安であることを察覚し、便ち折衷して黔喙は鳥獣を兼指するとしたが、それもまた誤りである。ましてや艮にはすでに狗・鼠・虎・狐等の獣象があるので、ここで再び重ねて獣を言うべきでない。ここにまた鉄証がある。《左伝》昭公五年に《明夷》之《謙》を記して、占辞に「日之謙、鳥に当たる」と言う――「日之謙」とは即ち離が艮に変じたことである。艮に変じて「当鳥」と言うので、艮為鳥は明明白白である。また《小過》卦辞に「飛鳥音を遺す」と言うのも、同じく艮をもって鳥とする。艮為鳥の象が失伝して以来、後の学者は便ち《小過》の全卦形が一隻の飛鳥に象ると言い、虞翻は離為鳥と言った。そこで《周易》を解して誤り、《左伝》を解してもまた誤った。
易林艮為拘の解
前已為狗,當然義復,故虞氏作拘。按《易林》《坤》之《艮》云:「入我邦郭,妻子係獲。」係獲卽拘也。《隨》上六云:「拘係之。」上六伏艮,是《易》亦以艮為拘也。虞讀與焦同也,皆以《易》為本也。
《説卦》は前にすでに艮「為狗」と言ったので、もしここで再び「狗」と作せば義は重複する。だから虞翻は「拘」と書いた。按ずるに《易林》《坤》之《艮》に「我が邦郭に入り、妻子係獲さる」と言う――「係獲」とは即ち拘執である。《随》上六に「之を拘係す」と言い、上六の居る上体は兌であり、兌の伏卦はまさに艮である。これで《周易》もまた艮をもって拘としたことが分かる。虞翻の読法は焦延寿と同じであり、両家とも《周易》自体をもって依拠とした。
易林艮堅多節の解
《易林》凡遇艮,卽以為壽考、為仙道、為長生、為松喬,皆取象于堅,此以人為說也。若於木,《節》之《萃》云:「千歲槐根,身多斧瘢。」蓄謀互艮,千歲謂堅,斧瘢謂多節,是焦讀本有堅字也。乃《釋文》云本無堅字,《集解》亦無,虞氏亦祗訓節,不及堅,是虞讀亦無堅字也。若《易林》則有也。
《易林》はおよそ艮に遇えば、取って寿考・仙道・長生・赤松子と王子喬とする。これらは皆艮の「堅」に象を取り、人事の一面について言ったものである。もし樹木の一面について言えば、《節》之《萃》に「千歳の槐根、身に斧瘢多し」の一句があり、その卦中に互いに艮体を出す(原文の「蓄謀」二字は訛脱がある疑い)。「千歳」はまさに艮の堅を言い、「斧瘢」はまさに艮の多節を言う。これで焦延寿の拠った《説卦》本子にはもともと「堅」の字があり、「為堅多節」と作していたことが分かる。しかし陸徳明《経典釈文》は本に「堅」の字がないと言い、李鼎祚《周易集解》にもなく、虞翻も同じくただ「節」を訓するのみで「堅」に及ばない。これで虞翻の拠った本にも「堅」の字がなかったことが分かる。《易林》の拠った本に至っては、それは有ったのである。
艮止は覆象を用いる説
舊謂陽在上故止者,非也。《雜卦》云:「震起也,艮止也。」此互文也,解最有味。蓋艮震同體,震為行故起,震反則不行而止矣。《艮》彖云「時行則行」,謂震也;「時止則止」,謂震覆為艮也。《易》用覆象,莫明於止,莫妙於此,可互為註腳也。自覆象失傳,真詁遂晦。
旧説は艮は一陽が上位に居るので静止を主ると考えたが、これは正しくない。《雑卦伝》に言う。「震とは起なり、艮とは止なり。」この二句は互文見義であり、体味すれば最も意趣がある。もともと艮と震はもともと同一の卦体である。震は行動なので「起」と言い、震を倒転すれば(艮を成す)行かずして止まる。《艮・彖》に「時行すれば則ち行す」と言うのは震を指し、「時止すれば則ち止す」と言うのは震が倒転して艮を成したことを指す。《周易》が覆象を運用するのに、この「止」の字より顕豁なものはなく、またこの用法より精妙なものもなく、二句はまさに互いに注脚を為し得る。覆象の例が失伝して以来、この層の真の訓詁もまた晦渋不明となった。
易林兌為剛魯の説
《易林》凡遇兌則曰魯。《坤》之《離》云:「齊魯爭言。」《離》中爻兌巽,巽齊兌魯,通《易林》凡數十用,無作滷者。又鹽滷之地,皆湖澤之舊陂,或近湖澤者始生鹽滷,皆因溼潤,非因剛堅。《書·洪範》「潤下作鹹」,疏云:「水性本甘,久浸其地,變而為鹹。」是其證。又《左傳》襄三十五年,楚子木使表淳滷,注:「淳滷,埆薄之地。」淳者,漬也,沃也。夫必漬而後咸鹵,剛保能咸鹵?
《易林》はおよそ兌卦に遇えば即ち「魯」と言う。《坤》之《離》に「斉魯言を争う」と言う。《離》卦の中間に互いに兌と巽を出し、巽は斉を代表し兌は魯を代表する。《易林》を通検すれば、このように用いる所は数十か所あり、「鹵」と書く所が一か所もない。さらに言えば、塩鹵を出産する土地は皆湖沢の旧堤岸であり、あるいは湖沢に近い所でこそ塩鹵を生じ、その成因は潮湿浸潤であって、土質が剛硬堅実なためではない。《尚書・洪範》に「潤下は鹹を作す」と言い、孔穎達《正義》は解釈して言う。「水の性はもともと甘く、久しく土地に浸泡して、はじめて鹹に変ずる。」これが即ち証拠である。また《左伝》襄公三十五年(二十五年と作るべき)に楚国の令尹子木が人を遣わして「淳鹵」の地を標記せしめたのを記し、杜預注に「淳鹵とは、瘠薄の土地なり」と言う。「淳」とは即ち浸漬・沃灌である。これで必ず先ず水の浸漬を経て後にはじめて鹹鹵があることが分かる。剛硬の土地にどうして鹹鹵が生じようか。
又案《漢官儀》,天子出入後衛甲楯曰鹵簿;《高帝紀》「毋得掠滷」,皆以威猛強暴取義。又《莊子·則陽篇》:「昔予為禾,耕而鹵莽之,則其實亦鹵莽而報。」注:「鹵莽,麁粗也。」又《釋名》:「地不生物曰滷。」若依《莊子》《釋名》為訓,剛滷二字方可連屬。剛者,堅也勁也;滷者,粗也。剛滷者,謂土地磽确,粗疏而不柔和也。《易林》之訓,蓋與《莊子》《釋名》同也。然不作滷而作魯者,滷魯古通用。
さらに《漢官儀》を考えるに、天子が出行する時に殿後し護衛する甲士盾牌の列を「鹵簿」と称す。《漢書・高帝紀》に「掠鹵することを得ること勿れ」と言い、これらの「鹵」の字は皆威猛強暴の義を取る。《荘子・則陽篇》に言う。「昔者吾が禾を為すに、耕するに鹵莽し、禾は吾に報いる収穫もまた粗劣なり。」注家は解釈して言う。「鹵莽とは即ち粗疎なり。」《釈名》はまた言う。「土地が物を生ぜざるを鹵と曰う。」もし《荘子》と《釈名》に依って訓釈すれば、「剛鹵」の二字こそ連なることができる。「剛」は堅硬勁実であり、「鹵」は粗疎であり、「剛鹵」とは即ち土地が磽薄堅硬にして粗疎で柔和でないことを言う。《易林》の訓義は、大概《荘子》《釈名》と同一路である。《易林》が「鹵」と書かずして「魯」と書くに至っては、「鹵」「魯」の二字が古時通用したためである。
《史記·遊俠傳》滷公孺,《漢書》作魯公孺,是其證。虞翻訓滷為鹹,不誤也;但以訓剛滷之滷亦為鹹,則誤矣。後人不察,作為定詁。今以《史記》《漢書》證《易林》,由《易林》證《易》,知剛滷之滷確訓為粗鹵,而不訓為鹹。若訓咸,則《易林》不作魯矣。至於《說文》以西方咸地訓滷,殆亦因《說卦》兌西而誤。不然,西方咸地不如東方多也明矣。《禹貢》云:「海濱廣斥。」《史記》釋之云:「海濱廣舄,厥田斥鹵。」是其證也。
《史記・游侠列伝》の中の「鹵公孺」は、《漢書》では「魯公孺」と書く。これが即ち明証である。虞翻は「鹵」を鹹と訓したが、それ自体は誤りでない。しかし《説卦》の「剛鹵」の「鹵」までも鹹と訓したのは誤りである。後人は考察を加えず、竟にそれを定論とした。今《史記》《漢書》を取って《易林》を印证し、また《易林》によって《周易》を印证すれば、「剛鹵」の「鹵」は確かに粗劣と訓すべきであり、鹹と訓すべきでないことが知れる。もし鹹と訓すれば、《易林》は「魯」と書かないであろう。《説文解字》が「西方の鹹地」を取って「鹵」を解釈したに至っては、おそらく《説卦》の兌が西方に居るに因って誤を致したのであろう。さもなくば、西方の塩鹸地は東方より多くないことは極めて明白である。《尚書・禹貢》に「海浜広斥なり」と言い、《史記》は「海浜広舄、厥の田斥鹵なり」と解釈する。これが即ち証拠である。
易林兌為羔の解
上已為羊,此不應復,虞作羔是也。但虞謂羔仍與羊無別,訓為女使,其義甚澀。治虞易者謂鄭作陽,與養通,謂養無家女,行賃炊爨,賤於妾,虞訓女使,正與鄭合。若然,謂羔為養之訛字則可,趕訓羔為斯養,則義不能通也。茲《易林》《晉》之《臨》云:「羔羊皮弁。」是以兌為羔也。羔者小羊,兌少,故為羔。虞訓為女使,非也。艮為手復為指,兌為羊復為羔,與艮指同耳。疑與羊無別者非也。
《説卦》は上文にすでに兌「為羊」と言ったので、ここでは重複すべきでなく、だから虞翻が「羔」と書いたのは正しい。しかし虞翻はまた「羔」と「羊」は実は区別がないと言い、それを女僕と訓した。この解釈は甚だ拗強である。虞氏《易》を研治する人は、鄭玄本は「陽」と作し、「陽」と「養」は相通じ、指すのは家に帰る所なき雇われて炊飯する女子で、地位は妾よりなお低いと言い、虞翻が女僕と訓したのはまさに鄭玄と相合する。もし真にこのようであれば、「羔」は「養」の訛字と言うのはまだ講じ通るが、しかし直ちに「羔」を「斯養」(人に役使される賤者)と訓せば、意思は説き通らない。今《易林》《晋》之《臨》に「羔羊皮弁」と言うのは、まさに兌をもって羔とする。羔は即ち小羊であり、兌は《説卦》において少女であって少小の義を取るので羔となる。虞翻が女僕と訓したのは誤りである。艮はすでに手であり、さらに進んで指となる。兌はすでに羊であり、さらに進んで羔となる――道理は艮為指と全く同じである。羔と羊に区別がないと疑う説は、誤りである。
易林は艮をもって貴とする
《易林》《履》之《節》云:「安上宜官,一日九遷。」《節》互艮,艮陽在上而貴,故曰宜官。又《豫》之《艮》云:「厄窮上通,與堯相逢,登升大麓,國無凶人。」厄窮者坎,上通者艮,陽在上,故曰上通;互震為帝,故曰堯;艮山為大麓,震為登為升,亦以艮為貴也。後思《易》《蠱》上九云「不事王侯,高尚其事」,《賁》六五云「束帛戔戔,賁于丘園」,《大畜》上九何天之衛,《剝》上九君子得輿,皆艮象,皆有在上而貴之象,是《易》本以艮為貴,故《易林》本之。
《易林》《履》之《節》に「上に安んじ官に宜しく、一日に九遷す」と言う。《節》卦の中間に互いに艮を出し、艮は一陽が高く上位に居り尊貴なので、官に宜しいと言う。《豫》之《艮》に「厄窮して上通し、堯と相逢い、大麓に登升し、国に凶人なし」と言う。「厄窮」は互体の坎から取り(坎は険陥)、「上通」は艮から取る。陽爻が上にあるので上通と言う。卦中にまた互いに震を出し、震は帝なので堯を挙げる。艮は山であり、まさに「大麓」であり、震は登・升である――これもまた艮をもって貴とする。後に再び回頭して《周易》を思い求めるに、《蠱》上九に「王侯に事えず、其の事を高尚にす」と言い、《賁》六五に「束帛戔戔たり、丘園に賁り」と言い、《大畜》上九に「何の天の衛(衢)ぞ」と言い、《剥》上九に「君子輿を得」と言う――これらの数条の在る所は皆艮体であり、皆上に居りて尊貴の意を含む。これで《周易》はもともと艮をもって貴としたことが分かり、《易林》はまさにそれに依拠したのである。
易林は震をもって姫とし旗とする、左氏と同じ
《左傳》僖十五年,晉筮嫁伯姬於秦,遇《歸妹》之《睽》,卽震變離也。乃曰:「為雷為火,為嬴敗姬,車脫其輹,火焚其旗。」自服虔?杜預,不知姬與旗之象而誤釋。茲《易林》《賁》之《復》云:「姬伯出走。」震為伯、為走。《易林》以震為周,姬者周姓,故震亦為姬,亦猶巽為齊、亦為姜也。為嬴敗姬者,兌西,嬴西方國,震為姬,震變離形毀,故曰敗姬。火焚旗者,震為旗,震變離,故火焚旗。《易林》《豫》之《中孚》云:「干旄旌旗。」他若《師》之《隨》、《履》之《解》,亦皆以震為旗,是其證也。
《左伝》僖公十五年、晋国が伯姬を秦国に嫁がせるために占筮し、《帰妹》之《睽》を得た。即ち上体の震が離に変じたものである。占辞に言う。「雷と為り火と為り、嬴の為に姬を敗り、車其の輹を脱し、火其の旗を焚く。」服虔から杜預に至るまで(原文ここに缺字あり)、皆「姬」と「旗」の取象を知らず、よって解を誤った。今《易林》《賁》之《復》に「姬伯出走す」と言う。震は伯・走であり、《易林》はまた震をもって周とし、しかも「姬」はまさに周朝の国姓なので、震は即ち姬である――これは巽をもって斉国とし、よって巽が即ち姜姓であるのに譬えるに等しい。いわゆる「為嬴敗姬」とは、兌は西方に居り、嬴は西方の秦国の姓であり、震は則ち姬である。震が一たび変じて離となれば、震の卦形は毀れるので「敗姬」と言う。いわゆる「火焚其旗」とは、震は旗であり、震が変じて離となり離は火なので、火が旗幟を焼くと言う。《易林》《豫》之《中孚》に「干旄旌旗」と言い、その他《師》之《随》、《履》之《解》の如きも、皆震をもって旗とする。これが即ち明証である。
總《左傳》所用之象,為東漢人所不知者,《易林》無不用之,此又易象至東漢失傳之證也。又車說其輹者,孔疏引《子夏傳》云:「輹,車下伏兔,今謂之車屐。」案震為車、為履,屐與履同,然則輹亦震象也。車脫其輹者,言震變離,震象毀,故脫輹。孔疏知為車屐,而不言其為震象,則以賈、服、杜諸儒皆不言而不敢決也。豈知《大壯》九四云「壯于大輿之輹」,卽以震為輿、為輹,輹在車下,正震履也。
総じて見れば、《左伝》が用いるも東漢人がすでに識らなくなったあの象たちは、《易林》に用いていない一条がない――これもまた易象が東漢に至ってはじめて失伝した一つの証拠である。さらに「車説(脱)其の輹」について言えば、孔穎達《正義》は《子夏易伝》を引いて言う。「輹とは、車底の伏兎であり、今は車屐と呼ぶ。」按ずるに震は車・履であり、「屐」と「履」は同一の事である。ならば「輹」もまた震の象である。いわゆる「車脱其輹」とは、震が一たび変じて離となり、震象が毀壊したので車輹が脱落することを言う。孔穎達は輹が即ち車屐であることを知りながら、それが震象に属するとは言わなかった。それは賈逵・服虔・杜預の諸家が皆講じなかったので、彼は自ら判断することを敢えてしなかったためである。彼はどうして《大壮》九四に「大輿の輹に壮んぶ」と言うのが、まさに震をもって輿・輹としたことを知らなかったのか。輹は車底に装著し、ちょうど震の「為履」の象である。
焦氏易詁 巻九
行唐尚秉和節之撰。
本巻も依然として直隷行唐(今の河北行唐県)の人・尚秉和の撰述、尚氏の字は節之。
易林より尋ね得た東漢失伝の象、全部で四十三
一、乾南坤北。目得此象,而天尊地卑、天地定位等詞始能解。東漢人不知此象,故以卦變為解。然東漢人深疑其有此象,管輅云:「吾不解古之聖人何以位乾於西北、坤於西南?夫乾元資始統天,何由有別位也。」是疑乾在南也,而訖無如何。豈知《左傳》大有之幹,卽離變乾,而曰「敬如君所」,所者,位也,古人敬離位如干位也,是《左傳》卽以乾為南也。又晉與楚戰,筮遇《復》,云:「南國蹙,射其元王中厥目。」元者首也,乾為首為王。乾若不居南,自北射南,祗中離目可矣,如何能射中王首哉?
第一、乾は南にあり、坤は北にある。この象を得れば、《繋辞》の「天尊地卑」、《説卦》の「天地定位」の類の話がはじめて講じ通る。東漢人はこの象を知らなかったので、やむを得ず卦変を用いて解釈した。ただし東漢人もまた本来この象があるべきことを甚だ疑っていた。管輅はかつて言った。「私は古代の聖人がなぜ乾を西北に安放し、坤を西南に安放したのか明らかにしない。乾元は上天を統摂して万物の始と為るのに、どうして別に一つの偏位があろうか。」これは即ち乾がもともと南方にあることを疑ったものであるが、しかし彼は終に奈何しようがなかった。彼はどうして《左伝》の記す《大有》之《乾》の筮例、即ち下体の離が乾に変じて、占辞に「君所の如く敬す」と言うのを知らなかったのか。「所」とは即ち位次であり、古人は離の方位を乾の方位として敬奉したので、《左伝》が乾をもって南としたことが分かる。また晋楚が交戦し、筮して《復》卦を得て、占辞に「南国蹙す、其の元王を射て、厥の目を中てたり」と言う。「元」とは即ち頭であり、乾は首・王である。乾がもし南方に居らなければ、北より南に向かって射れば、ただ離の主る眼に中てることができるのみで、どうして王の頭に射中することができようか。
管輅徒知乾位西北,不知春秋時卽以乾為南,卽西漢末仍以乾為南。《太玄》云「南北定位」,是以南北代天地也,仍以乾為南也。《說卦》明言後天方位者,恐人生疑,管輅卽其一人。至先天方位,為法象所固有,在春秋時人人皆知,故無須明言,況天地水火雷風山澤一再對舉之,無異於明言哉!然至東漢末竟失傳,故雖神於《易》若管輅,亦祗心疑其如是,而不敢定其如是也。
管輅はただ後天方位において乾が西北に居ることだけを知り、春秋時の人がもともと乾をもって南としたことを知らなかった。西汉末年に至っても、依然として乾をもって南とした――揚雄《太玄》に「南北定位」と言うのは、南北を取って天地に代えたもので、依然として乾をもって南としたことが分かる。《説卦》が後天方位を明らかに点出した所以は、人の疑を生ずることを恐れたためであり、管輅はまさに疑を生じた人の一人である。先天方位に至っては、もともと卦画法象の中に固有のものであり、春秋時は人人皆知だったので、明言する必要がなかった。ましてや《説卦》は天地・水火・雷風・山沢を屡々対挙するので、これは明言するのと何の差異があろうか。しかし東漢末年に至って竟に失伝したので、管輅のように《易》に精した人であっても、ただ心の中に事がもともとこのようであるべきと疑うのみで、それが即ちこのようであると断定することを敢えてしなかった。
二、離東坎西。自得此象,而《既濟》九五爻詞始能解。東漢人亦疑其必離東坎西方合,而不敢竟言,以日東月西當之,用心良苦,而不知離坎之象本如此也。三、艮西北兌東南震東北巽西南。自得此象,而山澤通氣、雷風相薄如能解,而東漢人不知,故祗以同氣同聲為解。
第二、離は東にあり、坎は西にある。この象を得れば、《既済》九五の「東隣」「西隣」の爻辞がはじめて講じ通る。東漢人もまた必ず離東坎西でなければ講じて合わないことを疑ったが、敢えて直ちにこのように言わず、やむを得ず日が東より出で月が西に生ずるを取って比附した。心を用いた苦衷と言うべきであるが、離坎の方位がもともとこのようであることを知らなかった。第三、艮は西北にあり、兌は東南にあり、震は東北にあり、巽は西南にある。この象を得れば、《説卦》の「山沢通気」「雷風相薄」がはじめて講じ通る。東漢人は知らなかったので、ただ「同気」「同声」を取って籠統に敷衍して過ごすしかなかった。
四、乾日兌月。自得此象,《乾》三終日乾乾之終日,及《大畜》日閒輿衛之日,始得解。《恆》彖傳「日月得天而能久照」,始知日月指互兌互乾。他若《小畜》上九、《歸妹》六五、《中孚》六四之月幾望,及《離》卦《蠱》卦彖傳之言月,始知其皆指兌,舊解皆曲說也。
第四、乾は日であり、兌は月である。この象を得れば、《乾》九三の「君子終日乾乾」の「終日」、および《大畜》九三の「日に輿衛を閑す」の「日」がはじめて落着する。《恒・彖伝》に「日月天を得て能く久照す」と言う。これではじめてその中の日月は卦中に互いに出る兌と乾を指すことを知る(《恒》は二から四まで互乾、三から五まで互兌)。その他《小畜》上九・《帰妹》六五・《中孚》六四の言う「月幾望」の如き、および《離》卦・《蠱》卦《彖伝》の中で言及する月は、これではじめて全て兌を指すことを知る。旧注は皆曲解である。
五、離星震辰。自得離星象,《豐》六二之見斗、九三之見沬,始知斗沬之取象於離。自得震辰象,《艮》彖之時止則止、時行則行、動靜不失其時,始知時之為震。蓋艮震相反覆而體則同,故艮亦為時,時卽辰也。此與《左傳》艮為言、以艮為覆震同也。又按《漢上易》引虞翻云:「離艮為星。」是離星之象虞氏亦知,而解《豐》不用,何哉?
第五、離は星であり、震は辰である。離為星の象を得れば、《豊》六二の「日中に斗を見る」、九三の「日中に沬を見る」において、斗星・沬星が皆離に象を取ったことをはじめて知る。震為辰の象を得れば、《艮・彖》の「時止すれば則ち止し、時行すれば則ち行し、動靜其の時を失わず」において、その中の「時」が即ち震であることをはじめて知る。もともと艮と震は互いに倒卦であって卦体は相同じであるので、艮もまた時と為り得る。しかも「時」は即ち「辰」である。これは《左伝》が艮をもって言とし、艮を震の倒体と見做したのと同一の道理である。また按ずるに朱震《漢上易伝》は虞翻を引いて「離艮為星」と言うので、離為星の象は虞翻もまた知っていたことが分かる。しかし彼が《豊》卦を解するに偏ってこれを用いなかったのは、なぜであろうか。
六、坤水艮火。自得坤水象,凡《易》言利涉大川者皆可解;自得艮火象,《旅》九三之旅焚其次始得解,《旅》火在外,炎上不能焚次也。坤水之象,除《易林》用之外,《九家易》獨知之,《九家》又以乾為南,故吾謂《九家》必西漢易師。七、坎土巽石。坎土之象,在《易》祗《震》九四云震遂泥,九四互坎,坎為泥,於為土之義較近,蓋坎為塞而中實,自然土象,故《易林》用之,邵子本之。至巽石之象,《易》《困》六三曰:「困于石,據于蒺藜。」蒺藜者下坎,石則自東漢以來皆用伏艮,向疑其於六三無涉,今得巽石之象,於是困于石三字始得真解。
第六、坤は水であり、艮は火である。坤為水の象を得れば、《周易》がおよそ「利渉大川」と言う所は皆解し通ることができる。艮為火の象を得れば、《旅》九三の「旅其の次を焚く」がはじめて講じ通る――《旅》卦の離火は上体外卦にあり、火性は上に向かって燃えるので、下の旅舎に焼き及ぼすことができない。これで舎を焚く火は下体の艮から出たことが分かる。坤為水というこの象は、《易林》が使用するほか、ただ《九家易》だけがなお知っていた。《九家》はまた乾をもって南とするので、私は《九家易》が必ず西汉の易学師伝から出たと断定する。第七、坎は土であり、巽は石である。坎為土の象は、《周易》の中でただ《震》九四に「震遂に泥む」と言うのみで、九四の処する所はまさに互いに坎を出し、坎は泥であり、「土」の意と較べて近い。大概坎は閉塞して中爻が充実するので、自然に土象がある。だから《易林》はそれを用い、邵雍もまたそれを承襲した。巽為石の象に至っては、《困》六三に「石に困み、蒺藜に拠る」と言う。「蒺藜」は下体の坎を取り、しかも「石」は後漢以来皆伏艮を用いて解釈した。私は一向にそれが六三と少しも相関しないことを疑っていた。今巽為石の象を得て(《困》は三から五まで互巽、六三はまさに巽の初爻に当たる)、「困于石」の三字にはじめて真解を得た。
八、乾山乾河。自得乾山象,《同人》九三升其高陵始得解;自得乾河象,《同人》利涉大川始得解。而乾河之象,亦《九家》知之。九、坤魚兌華。自得此象,《剝》六五貫魚始得解,《大過》九五枯楊生華亦得解,知舊說皆誤也。十、震神震南震父震公震翁同。自得震神象,始知《繫詞》所謂神、《說卦》所謂神皆謂震;自得震南象,始知《易》《明夷》九三明夷於南,及《升》卦詞之甫征吉、《左傳》之南國蹙,皆指震為南;自得震父震公象,始知《蠱》之幹父,《解》及《小過》上卦之公之皆指震。余初解《易林》《復》之《巽》,有伯仲欲南之語,以為巽通震,震上升為南;又閱惠氏《易說》,說《允升》云「進升向南,故曰南征」,亦以上進為南,方喜餘說之不孤,後知《易林》卽以震為南,然後悟前說之皆非。易象失傳之難於索解如此,詳皆見前。
第八、乾は山であり、乾は河である。乾為山の象を得れば、《同人》九三の「其の高陵に升る」がはじめて講じ通る。乾為河の象を得れば、《同人》卦辞の「利渉大川」がはじめて講じ通る。乾為河というこの象は、《九家易》もまた知っていた。第九、坤は魚であり、兌は華である。この二つの象を得れば、《剥》六五の「魚を貫く」がはじめて講じ通り、《大過》九五の「枯楊華を生ず」もまた講じ通り、旧説が全て誤っていたことをはじめて知る。第十、震は神・南・父・公であり、「翁」と「公」は同じである。震為神の象を得れば、《繋辞》の言う「神」、《説卦》の言う「神」が皆震を指すことをはじめて知る。震為南の象を得れば、《明夷》九三の「明夷南に狩る」、《升》卦辞の「南(甫)征吉」、《左伝》の「南国蹙す」が皆震をもって南としたことをはじめて知る。震為父・為公の象を得れば、《蠱》卦の「干父」および《解》と《小過》の上体震が言う「公」が皆震を指すことをはじめて知る。私ははじめ《易林》《復》之《巽》を解するに、「伯仲南を欲す」の語があるのを見て、巽と震が相通じ震が上に向かい升れば即ち南と考えた。また恵棟《易説》を読むに、彼は《升》初六の「允升」を解して「進升して南に向かう、故に南征と曰う」と言い、これもまた上進をもって南としたので、私はちょうど自分の見方が孤单でないことに喜んでいた。後にはじめて《易林》が直ちに震をもって南とすることを知り、これに先前のあの説法が皆正しくなかったと悟った。易象が失伝した後、索解すること竟にこの地步まで難しい。詳細は皆前文に見える。
十一、艮壽艮貴艮鳥。自得艮壽象,知堅多節確有堅字;自得艮貴象,知《蠱》上九、《剝》上九、《賁》與《大畜》上九爻詞皆指艮貴也;自得艮鳥象,《小過》之飛鳥、《說卦》之黔喙、《左氏》日之謙當鳥,始俱得解。十二、坎為大首為肉。自得大首象,而《明夷》九三、《既濟》上六爻詞皆可解;自得肉象,而《噬嗑》三四五爻詞皆可解,而知舊解之皆誤也。
第十一、艮は寿・貴・鳥である。艮為寿の象を得れば、《説卦》の艮「其の木に於いても堅多節と為る」の一句に確かにもともと「堅」の字があったことを知る。艮為貴の象を得れば、《蠱》上九・《剥》上九・《賁》と《大畜》上九のこれら数条の爻辞が皆艮の尊貴を取ったことを知る。艮為鳥の象を得れば、《小過》卦辞の「飛鳥」、《説卦》の「黔喙」、《左伝》の「日之謙、鳥に当たる」が全て講じ通る。第十二、坎は大首・肉である。坎為大首の象を得れば、《明夷》九三の「其の大首を得」、《既済》上六の「其の首を濡らす」の爻辞が即ち皆解し得る。坎為肉の象を得れば、《噬嗑》の三・四・五の三爻の爻辞が即ち皆解し得、また旧注が全て誤っていたことをはじめて知る。
十三、巽母艮臣艮祖。自得此三象,《小過》六二爻詞始能解。自東漢迄今,治《易》者不啻千百,震君之象知之者已少,至巽母艮臣艮祖三象知者尤少,故竭群儒之力不能通此爻,不能通而強說,於是以初六為祖而穿鑿矣,虞氏其尤也。及《易林》揭出此象,詳卷三,遂迎刃而解,又甚易也。十四、震射震孕。自得射象,《解》上六爻詞、《井》九二爻詞之言射,及《左氏》之射其元,始知射皆指震;自得孕象,始知《漸》九三九五婦孕之皆指震。
第十三、巽は母・艮は臣・艮は祖である。この三つの象を得れば、《小過》六二の爻辞がはじめて講じ通る。東漢から今日に至るまで、《周易》を研治した者は千百家を下らないが、震為君を知る者はすでに少なく、巽母・艮臣・艮祖のこの三つの象に至っては、知る者はなおさら少ない。だから群儒が気力を尽くしてもこの一爻を読み通せない。読み通せないのに強いて説を立てるので、そこで或る人は初六を「祖」と説き、なおさら穿鑿であり、虞翻は特に甚だしかった。《易林》がこの幾つかの象を掲示するに及んで(詳しくは本書巻三に見える)、便ち迎刃而解し、かえって極めて容易となった。第十四、震は射・孕である。震為射の象を得れば、《解》上六の「公用て隼を射る」、《井》九二の「鮒を射る」の言う射、および《左伝》の「其の元を射る」において、「射」が皆震を指すことをはじめて知る。震為孕の象を得れば、《漸》九三・九五の言う「婦孕」が皆震を指すことをはじめて知る。
十五、震姬震旗。自得此象,《左傳》為嬴敗姬、火焚其旗,姬與旗之象始能解,而知杜注之不當。凡《易林》云姬姜者,皆謂震巽也,震為周,故為姬,猶之以巽為齊、亦為姜也。初讀《易林》,皆不知姬與旗之所指,後由《左氏》證《易林》,由《易林》證《左氏》,始確知其象,覺杜注孔疏之空泛無根。十六、巽敝巽落。自得此象,《井》卦之甕敝漏、《鼎》初六之鼎顛趾始得解。十七、震車震輹。自得此象,《小畜》九三、《大畜》九二之輿脫輹,《大壯》九四之輿輹,始皆得解。
第十五、震は姬・旗である。この二つの象を得れば、《左伝》の「為嬴敗姬」「火焚其旗」の中の姬と旗の取象がはじめて講じ通り、また杜預の注解が不当であったことをはじめて知る。およそ《易林》が「姬」「姜」を言う所は皆震と巽を指す。震は周なので姬となり、これは巽をもって斉とし、よって巽がまた姜となるに譬えるに等しい。私がはじめて《易林》を読んだ時は、全く姬と旗が何を指すかを知らなかった。後に《左伝》を用いて《易林》を印证し、また《易林》を用いて《左伝》を印证して、はじめてそれらの象を確かに知り、また杜預注・孔穎達疏が空泛にして根拠がないことを覚えた。第十六、巽は敝・落である。この二つの象を得れば、《井》卦の「瓮敝漏」、《鼎》初六の「鼎顛趾」がはじめて講じ通る。第十七、震は車・輹である。この二つの象を得れば、《小畜》九三・《大畜》九二の「輿説(脱)輹」、および《大壮》九四の「大輿之輹」が、はじめて全て講じ通る。
十八、艮角巽羸。自《易林》以艮為角,始知《晉》《姤》上九之角、《大壯》九三之角,皆以陽在上而取象。虞氏祗以乾首為說,豈知陽在下,《易》無言角者,《易林》所本也。自得巽羸象,始知《姤》初之羸豕、《井》卦之羸瓶皆指巽,《大壯》九三之羸角,則以上卦之伏巽。十九、震飛震翼。《易林》每以震為飛為翼,因是推之,《易》《泰》六四之翩翩、《小過》飛鳥之飛,皆以震也。
第十八、艮は角・巽は羸である。《易林》が艮をもって角とするに及んで、《晋》上九の「晋其の角」、《姤》上九の「姤其の角」および《大壮》九三の「角」が、皆陽爻が上に居るの象を取ったことをはじめて知る。虞翻はただ乾を取って首として解説したが、およそ陽爻が下にある卦においては、《周易》はかつて「角」を言ったことがないことを、彼はどうして知らなかったのか――これはまさに《易林》が依拠した道理である。巽為羸弱の象を得れば、《姤》初六の「羸豕」、《井》卦の「其の瓶を羸す」が皆巽を指すことをはじめて知る。《大壮》九三の「其の角を羸す」は、上体の震が伏する巽を取ったものである。第十九、震は飛・翼である。《易林》は常に震をもって飛・翼とする。これによって類推すれば、《周易》《泰》六四の「翩翩」、《小過》の「飛鳥」の「飛」も、皆震に象を取ったものである。
右四十三象,於《易林》之多年矣,而訖不知其所謂。後由各書推《易林》,由《易林》推《易》,反覆推勘,勞精弊神者數年,始通《易林》之詞,始得此四十三象,而經義始通,誤解如黜。鉤深索隱,厥維艱哉!然失傳而未尋得者尚不知有幾也。
以上の四十三の象は、私は《焦氏易林》の中で多年に読んだが、終始それらがいったい何を指すか明らかにしなかった。後に各种の典籍を用いて《易林》を推し求め、さらに《易林》を用いて《周易》を推し求め、反覆勘験し、心神を数年間耗費して、はじめて《易林》の林辞を読み通し、はじめてこの四十三の象を得た。経文の義理はこれによってはじめて通じ、旧日の誤解もまたこれに随って掃除された。幽を探り隠を索めることは、実に艱難である。しかし失伝して今に至るまでなお尋ね得ていない象は、なおどれほどあるか知れない。
至以巽為齊,以兌為魯,以艮為宋,《說文》以木架屋曰宋,正艮象也;為燕,取東北;為魏,魏闕,艮象;以坎為鄭,坎為平,鄭者,《說文》:地町町然平也;以兌為秦,以震為朝鮮、為趙,《說文》:趨也;為韓等,以及人名、地名、鳥獸蟲魚名、蠻夷名,脫口而出,若不經意,然無不與卦象密合。不惟見其用象之能,且證其小學之精。然皆由《說卦》推演之象,而非失傳之象。
《易林》が巽を用いて斉国を代表し、兌を用いて魯国を代表し、艮を用いて宋国を代表するに至っては――《説文解字》に「木を用いて架屋するを宋と曰う」と言うのは、まさに艮の象である。燕国を代表するのは、艮が東北に居るを取る。魏国を代表するのは、「魏闕」が高く聳えて艮象に合するに因る。坎を用いて鄭国を代表する――坎は平であり、《説文》は「鄭」を「地町町然として平かなり」と釈す。また兌を用いて秦国を代表し、震を用いて朝鮮・趙国を代表する――《説文》は「趙」を「趨」と釈し、まさに震が動を主るの義に合す。および韓国を代表する等である。このほかまた人名・地名・鳥獣虫魚の名・四夷の名があり、皆脱口而して出で、あたかも漫るまま経心せざるが如くであるが、卦象と厳密に契合しないものが一つもない。これはただ焦氏が卦象を運用する本领を見るに足るのみならず、彼の文字訓詁の学の精深であることも証明し得る。ただしこれらは皆《説卦》から推演して出た象であり、失伝の象ではない。
易林は兌・巽の二象において経を用いること多く説卦を用いること少なし
《說卦》巽為長女,兌為少女,乃《易林》遇兌則謂為老婦。《旅》之《大壯》云:「獨夫老婦。」獨夫謂震,老婦則兌也。《需》之《剝》云:「老婦無夫。」《剝》通《夬》,《夬》上兌,故曰老婦。又《觀》之《睽》云:「老女無夫。」亦以兌為老女,是與《說卦》反也。至遇巽則謂之少。《同人》之《渙》云:「少齊在門。」《渙》上巽,故曰少齊。
《説卦》は巽を長女・兌を少女と言うが、しかし《易林》は一たび兌に遇えば即ち「老婦」と称す。《旅》之《大壮》に「独夫老婦」と言う。「独夫」は震を指し、「老婦」は即ち兌である。《需》之《剥》に「老婦夫なし」と言う。《剥》は《夬》と旁通し、《夬》の上体は兌なので老婦と言う。《観》之《睽》に「老女夫なし」と言うのも、同じく兌をもって老女とする。これは《説卦》と正に相反する。巽に遇うに至っては、かえって「少」と称す。《同人》之《涣》に「少斉門に在り」と言う。《涣》卦の上体は巽なので「少斉」と言う。
齊卽姜也,《左傳》晉人謂之少齊是也。又《革》之《復》、《觀》之《屯》皆曰少姬,亦皆以伏巽為少,是皆用《大過》象也。《大過》以巽為女妻,兌為老婦也。東漢人不知,詁皆誤,而虞以二應上、以五應初,尤顛倒錯亂。至《易林》以巽為長女、兌為少女,偶有之,甚少也。
「斉」とは即ち姜姓であり、《左伝》は晋国の人が某人を「少斉」と称したのを記す。まさにこの用法である。また《革》之《復》、《観》之《屯》に皆「少姬」と言うのも、同じく伏蔵する巽をもって「少」とする。これらは皆《大過》卦の象を採用したものである。《大過》九二の「老夫其の女妻を得」は下体の巽をもって女妻とし、九五の「老婦其の士夫を得」は上体の兌をもって老婦とする。東漢人はこの一層を明らかにせず、訓釈は全て出錯した。虞翻はさらに九二と上六が相応し九五と初六が相応するともって講じ、特に顛倒錯乱した。《易林》が《説卦》に依って巽をもって長女とし兌をもって少女とする所に至っては、偶々あるが、極めて少ない。
易林の類の字を詁す
《易林》《賁》之《否》云:「各樂其類,咸得生處。」是以《否》陰陽相應與分類也。由《易林》推之,《易》《頤》六二象云:「六二征凶,行失類也。」謂三四五皆陰,故曰失類,故曰征凶。由是推《文言》曰各從其類、未離其類,《坤》傳曰乃與類行,《繫辭》云方以類聚,皆以陰陽相遇為類,非如常詁以陰與陰、陽與陽為類也。端木國瑚以對卦為類卦,真深於易詁者也。
《易林》《賁》之《否》に「各々其の類を楽しみ、咸ら生処を得」と言う。これは《否》卦の中の陰陽相応する爻を取って同類として区分したものである。《易林》のこの一条から推し広げれば、《頤》六二《象伝》に「六二征めば凶、行して類を失えばなり」と言うのは、三・四・五爻が皆陰であり、六二が上行して遇う所は依然として陰なので「失類」と言い、だから「征凶」と言う。さらにこれによって《文言》の言う「各々其の類に従う」「未だ其の類を離れず」、《坤・彖伝》の言う「乃ち類と行う」、《繋辞》の言う「方類を以て聚まる」を推し求めれば、それらが皆陰陽相遇うをもって「類」とし、通常の訓釈のように陰と陰・陽と陽を同類と算したのではないことが知れる。端木国瑚は爻爻相対反する対卦を「類卦」と称した。真に易学訓詁に深く通じた人と言える。
易林の朋友の確詁
《易林》不見朋字,疑其有所諱,疑其家諱,而友字則數十見。《兌》象云:「君子以朋友講習。」是《易》於朋友不分也。但《易林》詁朋友,不與荀、虞同。《大有》之《同人》云:「可以享老,樂我嘉友。」謂《同人》二陰與五陽為友也。《解》之《坎》云:「失時無友。」《坎》中爻艮,艮為時,坎失,故曰失時;五陽二亦陽,六爻無相應者,故曰無友。
《易林》全書に「朋」の字が見えない。私は焦延寿が避ける諱があったのではないかと疑う。或いは彼の家諱であろうか。しかし「友」の字は数十回現れる。《兌・大象》に「君子以て朋友講習す」と言うので、《周易》は「朋」と「友」を区別しないことが分かる。しかし《易林》が朋友を訓釈するのは荀爽・虞翻と同じでない。《大有》之《同人》に「以て老を享く可し、我が嘉友を楽しむ」と言うのは、《同人》六二の陰と九五の陽が互いに友と為ることを指す。《解》之《坎》に「時を失いて友なし」と言う。《坎》卦の中間に互いに艮を出し、艮は時であり、しかも坎は陥失の義があるので「失時」と言う。九五は陽であり、九二もまた陽であり、六爻の間に一対の陰陽相応するものがないので「无友」と言う。
又《無妄》之《噬嗑》云:「戴喜抱子,與利為友。」《噬嗑》下震,震通巽,巽為利,故與為友,是又以陽遇陰為友也。無以同性為友者,與類同也。蓋《易》之道如電然,同性則相違,異性則相感,相感者類也,朋友也。陽遇陽、陰遇陰,則相敵相讎而不相友,《革》彖云「二女同居,其志不相得」,《艮》彖云「上下敵應」是也。全《易》大旨畢於斯矣。乃自東漢以來幾兩千年,皆以同性為朋,設無《易林》,誰復知朋友之定詁哉!
《无妄》之《噬嗑》に「喜を戴き子を抱き、利と友を為す」と言う。《噬嗑》の下体は震であり、震は巽と相通じ、巽は利なので「利」と友を為すと言う。これもまた陽が陰に遇うをもって友とする。《易林》の中に同性の爻を取って友とする所は一か所もない。これは前文に言った「類」と同一の道理である。大概《周易》の道理は電の如く、同性は相斥き异性は相吸する。相吸引する者を即ち「類」と言い即ち「朋友」と言う。陽が陽に遇い陰が陰に遇うは、ただ相敵し相仇するのみで友と為ることができない。《革・彖》に「二女同居し、其の志相得ず」と言い、《艮・彖》に「上下敵応し、相与せざるなり」と言うのは、即ちこの意である。全部の《周易》の大旨は、尽くここにある。しかし東漢以来二千年に近く、人人が皆同性をもって「朋」とした。もし《易林》がなければ、誰がなお「朋友」の二字の確詁を知ることができたであろうか。
朋友之詁既定,全《易》之朋友可得言矣。案朋字始見於《坤》彖之西南得朋、東北喪朋。虞翻以月生明於庚,至丁上弦,兌納丁,兌二陽同類為朋,讒馬、荀以陰遇陰為朋之非。豈知陰與陰固不為朋,陽與陽尤不為朋,與馬、荀之陰與陰為朋同也。其它朋解,皆以兌朋為搪塞,絕不知陰陽互為朋友之義。《坤》正伏皆無兌象,胡以月生明至兌丁為穿鑿,只大言嚇人耳,於經義毫未得解也。
「朋友」の訓詁がすでに確定した以上、全部の《周易》の中の朋友は講ずることができる。按ずるに「朋」の字は最も早く《坤・彖》の「西南に朋を得、東北に朋を喪う」に見える。虞翻は月体納甲の説を用い、月は庚方に於いて初めて明光を生じ、丁方に至って上弦を成し、しかも兌は丁を納し、兌に二つの陽爻があって同類相聚するが即ち「朋」であると謂い、しかも馬融・荀爽が陰に遇陰をもって朋とするのが誤りであると譏斥した。彼はどうして、陰と陰は固より朋と為ること能わざるが、陽と陽はさらに朋と為ることができないことを知らなかったのか――彼自身のあの一套の説法は、実は馬融・荀爽の「陰与陰為朋」と同じく立つことができない。その余「朋」を講ずる者も、一概に「兌為朋」を取って搪塞し、全く陰陽が互いに朋友と為る道理を解さなかった。ましてや《坤》卦は正体であれ伏体であれ兌象がないのに、何に凭って「月庚に於いて明を生じ、上弦兌丁に在り」のあの一套の穿鑿の説に回り道して及ぼさなければならないのか。あれはただ大言で人を唬かすのみで、経義に対して少しも講じ通っていない。
案《泰》九二朋亡,得尚于中行,言陽往居五也。《復》彖云朋來無咎,言陽復也。《損》《益》之十朋,亦謂陽也。《蹇》九五之大蹇朋來、《解》九四之朋至斯孚,亦謂陽入陰,是陰以陽為朋也。《豫》九四云大有得,無疑朋盍簪,言陽往居四,得群陰為助而聚合也。《咸》九四之朋從爾思,言初六應九四也,是陽以陰為朋也。至友義,《損》六三云一人行則得其友,言《泰》三往上得二陰為友,是陽以陰為友也。《兌》象云君子以朋友講習,似又以一陰遇二陽為友也。
按ずるに《泰》九二の「朋亡く、中行に尚るを得」と言うのは、九二の陽が前往して六五の位に居ることを言う。《復・彖》に「朋来たりて咎なし」と言うのは、陽気が復帰することを言う。《損》六五・《益》六二の「十朋之亀」は、「朋」もまた陽を指す。《蹇》九五の「大蹇朋来」、《解》九四の「朋至り斯れ孚」の如きは、同じく陽が陰の中に入ることを言う。これらは皆陰が陽をもって朋とする。《豫》九四に「大有得、疑う勿れ朋盍に簪る」と言うのは、陽が前往して四位に居り、衆陰の輔助を得て聚合することを言う。《咸》九四の「朋爾の思に従う」と言うのは、初六が九四と相応することを言う――この二条は則ち陽が陰をもって朋とする。「友」の意に至っては、《損》六三に「一人行けば則ち其の友を得」と言うのは、《泰》卦の九三が上行して上位に至り、二つの陰爻を得て友としたことを言う。これは陽が陰をもって友とする。《兌・大象》に「君子以て朋友講習す」と言うのを見れば、また一つの陰爻が二つの陽爻に遇うをもって友とするようである。
全《易》之朋友既明,《坤》彖之得朋喪朋可得而解矣。蓋陰陽常相求,而坤逆行,自西而南,由《剝》《觀》厯《否》《遯》《姤》,陽日增,故曰得朋。彖傳曰乃與類行,謂逆行而得其類也,《頤》六二行失類是其證,類謂陽也。自東而北,由《夬》《大壯》厯《泰》《臨》《復》,陽遞滅,故曰喪朋。夫朋既喪矣,而《傳》反曰終有慶者,何也?終謂亥,謂坤自東而北,至亥而終也。坤行至亥,陽喪盡矣,乃乾本居亥,純陰與純陽相遇,陰陽合居,天地合德,萬物資始,六子由此出生。
全部の《周易》の朋友の義がすでに明らかになった以上、《坤・彖》の「得朋」「喪朋」もまた講じ通ることができる。大概陰陽はつねに互いに寻求する。しかも坤は逆行である。それは西より南に自り、《剥》(戌)、《観》(酉)、《否》(申)、《遯》(未)、《姤》(午)を経過し、陽爻は一路増逓するので「得朋」と言う。《彖伝》に「乃ち類と行う」と言うのは、まさに逆行してその同類に遇ったことを言う。《頤》六二の「行して類を失う」は即ち反面の証拠である――いわゆる「類」とは、指すのは陽である。反って東より北に自り、《夬》(辰)、《大壮》(卯)、《泰》(寅)、《臨》(丑)、《復》(子)を経過すれば、陽爻は逐步消滅するので「喪朋」と言う。朋がすでに喪失したのに、《彖伝》はかえって「乃ち終に慶あり」と言うのは、なぜか。「終」は亥位を指し、坤が東より北に自って亥に行くに至れば、即ち尽頭に至ることを言う。坤が亥に行けば、陽はすでに喪尽した。しかし乾はもともと亥位に居り、そこで純陰と純陽が相遇い、陰陽が一処に合居し、天地の徳が相合し、万物はこれによって資始し、震坎艮巽離兌の六子もまたこれによって出生する。
《坤》上六曰:「龍戰于野,其血玄黃。」《文言》曰:「陰凝於陽必戰。」《易林》曰:「陽入陰室,相與合齒。」又曰:「乾坤利貞,乳生六子。」有慶者,慶此也。文孔皆目視消息卦而為之辭 也。此用消息,杭辛齋常言之,特杭必謂陰以陽為朋、陽以陰為友,征之全《易》實不盡然;又謂有慶乃坤行至兌,兌有慶也,豈知有慶乃《兌》九四一爻之象,非兌全旨。此等尖巧之詁,實得虞氏之秘傳,而非《易》之真諦也,故不敢盡從其說。
《坤》上六に「龍野に戦う、其の血玄黄」と言い、《文言》に「陰陽に凝るは必ず戦う」と言い、《易林》に「陽陰室に入り、相与に歯を合す」と言い、また「乾坤利貞、乳に六子を生ず」と言う――いわゆる「有慶」とは、慶するのはこの事である。周文王と孔子は皆消息卦を眼見てこれらの文辞を写したのである。消息卦を用いてこの一段を講じることは、杭辛斎が常に言及した。ただ杭氏は必ず陰は陽をもって朋とし陽は陰をもって友とすると言い、分けることかくの如く死板であるが、全部の《周易》を取って検証すれば、実は尽くそうではない。彼はまた「有慶」は坤が兌に行き兌に喜慶があるためと言う――彼はどうして「有慶」がただ《兌》九四の一爻の象であって、兌卦の総義ではないことを知らなかったのか。この一類の機巧纎細な訓解は、実は虞翻の秘伝を得たものであって、《周易》の真諦ではない。だから私は敢えて彼の説法を完全に聴従しない。
彖曰行、曰終,則非以西南東北相對為義,而以自西而南、自東而北流行為義,故至亥而終有慶。謂陽,言坤行至亥,純陰與純陽相遇,天地合德,故有慶。乃虞氏謂過西北,月又將出庚生明,為有慶。就如虞說,乾盈甲乃有慶耳,出庚胡足言慶?
《彖伝》はすでに「行」を言いまた「終」を言うので、それは西南・東北の二つの方位を対挙して義を立てたのではなく、坤が西より南に自り東より北に自るという流転運行について義を立てたことが分かる。だから亥位に行って「終に慶あり」と言う。この「慶」が指すのは陽である。坤が亥に行けば、純陰と純陽が相遇い、天地の徳が相合するので有慶と言う。虞翻は月が西北を過ぎた後、また将に庚方より新月の光を露すので「有慶」と言うとした。仮に虞翻の説法に照らしても、月が甲に於いて円する時(乾は甲を納す)こそ有慶と称すべきであって、剛に庚方に於いて一線の新月を露すのに、どうして「慶」と言うに足りようか。
易林より推して焦氏が韓詩を習ったことを知る
《易林》《噬嗑》之《漸》云:「鸋鴂鴟鴞,治成遇災,周公勤勞,綏德安家。」毛傳:「鴟鴞,鸋鴂也。」陸機云:「似黃雀而小,幽州人謂之鸋鴂。」則非惡鳥也。《韓詩》:「鴟鴞所以愛其子者,適以害之。」說周公《鴟鴞》詩意也。依《韓詩》意,則以鴞為梟,《說文》所謂不孝鳥,陸機所謂其子長大還食其母也,故曰愛子適以害之。
《易林》《噬嗑》之《漸》に言う。「鴂鴟鴞、治成して災に遇う。周公勤労し、徳を綏め家を安んず。」《毛伝》は解釈して言う。「鴟鴞とは即ち鴂なり。」陸璣《毛詩草木鳥獣虫魚疏》に言う。「様子は黄雀に似て更に小さく、幽州人はそれを鴂と呼ぶ。」このように言えば、それは悪鳥ではない。しかし《韓詩》は言う。「鴟鴞が其の子を疼愛する所以は、恰恰として自らを害す。」これは周公が作ったと伝えられる《詩経・豳風・鴟鴞》の一篇の詩意を解説したものである。《韓詩》の意に依れば、「鴞」を梟とするもので、即ち《説文解字》の言う不孝の鳥、陸璣の言う雛鳥が長じて反って母鳥を食らうものである。だから子を疼愛するが恰恰自らを害すと言う。
按《詩·大雅·瞻卬》云有梟有鴟,毛傳:「梟鴟,惡聲鳥。」《魯頌》翩彼飛鴞,毛傳亦訓為惡聲鳥。《巴蜀異物志》:「鵬鴞又名訓狐,一作梟。」是鴞卽梟。然毛傳不訓《鴟鴞》詩之鴞為梟者,以周公不宜以梟喻所親也,《韓》則不然。《易林》云治成遇災,正母被子害之意,故知焦習《韓詩》。
按ずるに《詩経・大雅・瞻卬》に「(梟と為り)(鴟と為る)」の句があり、《毛伝》に言う。「梟・鴟は皆声の悪い悪鳥なり。」《魯頌・泮水》の「翩として彼の飛鴟」にも、《毛伝》は同じく悪声の鳥と訓す。《巴蜀異物志》に言う。「鵬鴞はまた訓狐と称し、梟とも書く。」これで「鴞」は即ち梟であることが分かる。しかし《毛伝》は偏に《豳風・鴟鴞》の一詩の「鴞」を梟と訓しない。それは周公が梟を取って自分の至親に譬えるのが不便だったためである。《韓詩》は則ちこの層を顧みない。《易林》に「治成して災に遇う」と言うのは、まさに母鳥が反って子鳥に害される意である。これによって焦延寿が研習したのは《韓詩》であることが知れる。
同じ声に相応じ同じ気に相求むるの説
凡說《易》,以前後能通為貴。雷風為同聲,山澤為同氣,漢儒無異說也,至當也。然震與巽、艮與兌,皆陰陽相對之卦,而聲氣相同,同則通矣,《文言》所謂旁通也。乃東漢人於此則能解,至《易》遇巽卽言震、遇兌卽言艮,如《大過》九二九五、《鼎》初六、《履》彖之類,則不能解。《易林》,字字步趨《周易》者也,於是後人亦不能解《易林》。
およそ《周易》を講ずるには、前後が貫通し得ることを貴ぶ。雷と風は声気が同じく、山と沢は気息が相通ずる。漢儒はこれに対して異説がなく、講じること極めて妥当である。しかし震と巽・艮と兌は、皆爻爻陰陽相対反する対卦であるのに、偏に声気が同じである。すでに同じであれば、互いに貫通することができる。これが即ち《文言》の言う「旁通」である。東漢人はこの層をなお理解することができたが、しかし一たび《周易》が巽に遇って震象を言い兌に遇って艮象を言う所に碰到すれば、例えば《大過》九二・九五、《鼎》初六、《履》卦《彖伝》の類の如き、彼らは講じ通らなくなった。《易林》は一字一句が《周易》に緊密に随うものであるので、そこで後人は《易林》さえも読み解くことができなくなった。
又異性者始同聲氣,同性者絕不同聲氣。由是推《易》之所謂類、所謂朋友,義皆如此也。《頤》六二象云行失類也,謂三四五皆陰,陰遇陰,故失類。《復》彖云朋來無咎,陰以陽為朋,至為明白矣。乃自東漢以來,皆以陰遇陰、陽與陽為類為朋,豈知與同聲相應、同氣相求義同也。卽所謂各從其類,亦謂陰從陽、陽求陰為類也。姚配中詁失類,顯謂陰遇陰為類,非。
さらに言えば、ただ异性のみが声気相通ずるを論じ得るのであって、同性は決して声気相通じない。これによって《周易》の言う「類」、言う「朋友」を推し求めれば、道理は全て同じである。《頤》六二《象伝》に「行して類を失えばなり」と言うのは、三・四・五爻が皆陰であり、陰が陰に遇うので「失類」と言う。《復・彖》に「朋来たりて咎なし」と言うのは、まさに陰が陽を取って朋とするもので、これ以上明白なことはない。しかし東漢以来、人人が皆陰遇陰・陽遇陽をもって「類」・「朋」とした。彼らはどうしてこれが《乾・文言》の「同じ声に相応じ、同じ気に相求む」と同一の道理であることを知らなかったのか。いわゆる「各々其の類に従う」に至っても、言うのは陰が陽に従い陽が陰を求めるをこそ同類と称するのである。姚配中が「失類」を訓釈して、明らかに陰遇陰をもって同類としたのは誤りである。
先天は天に違われず、後天は天時を奉ずるの説
先天者,天地自然之法象也。天尊地卑,而盈天地之間皆物,物無不有陰陽,無不有牝牡,相對待於兩大之間,莫之為而為,莫之致而致,故曰先天而天弗違。而先天八卦方位,則專闡明此弗違之理者也。乃乾坤一動則坎離矣,坎離一動則震兌矣。坎離震兌為四時,四時錯行,日月代明,陰陽往來,流行不息,時而少則少,時而壯則壯,老則老,死則死,來往循環,雖天地不能違其例,何況於人,故曰後天而奉天時。而後天八卦方位,則專申明此宜奉天時之故者也。
いわゆる「先天」とは、天地が自然に本有する法象である。天は上にあって尊く、地は下にあって卑く、天地の間に充満するは皆物であり、物は陰陽を含まないものがなく、雌雄を分かたないものがなく、両両として天地というこの両大の間に相対待し、為す者なくして自然に成し、促す者なくして自然に至る。だから《乾・文言》に「先天にして天違わず」と言う。先天八卦方位とは、即ち専らこの「天弗違」の理を闡明するものである。しかも乾坤が一たび動けば坎離を生じ、坎離が一たび動けば震兌を生ずる。坎・離・震・兌は四時を代表し、四時は交錯運行し、日月は番いに照らし、陰陽は往来して流転し息まない。幼小すべき時は幼小し、壮盛すべき時は壮盛し、衰老すべき時は衰老し、死亡すべき時は死亡し、往复循環して、天地でさえもこの定例に違うことができない。ましてや人に於いてをや。だから「後天にして天時を奉ず」と言う。後天八卦方位とは、即ち専らこの必ず天時を奉承すべき所以を申説するものである。
乾坤二象,先天也;摩而為八,蕩而為六十四,後天也。乾坤定,卑高陳,貴賤位,先天也;變化見,剛柔斷,吉凶生,後天也。《易》無思也,無為也,寂然不動,先天也;感而遂通,後天也。天命之謂性,銜天也;率性之謂道,後天也。喜怒哀樂之未發,先天也;發而皆中節,後天也。孔子曰性相近,先天也;習相遠,後天也。孟子曰性善,先天也;荀子曰性惡,後天也。《大學》曰明德,先天也;明明德,後天也。
乾坤の二つの基本卦象は先天に属する。両両として相摩して八卦を成し、往复相蕩して六十四卦を成すのは後天に属する。《繋辞》に「乾坤定まりて、卑高以て陳し、貴賤位く」と言うのは先天に属し、続いて「変化見え、剛柔相い断じ、吉凶生ず」と言うのは後天に属する。《繋辞》に「《易》は思なきなり、為なきなり、寂然として動かず」と言うのは先天に属し、「感じて遂に天下の故を通ず」は後天に属する。《中庸》に「天の命これを性と謂う」と言うのは先天に属し(原文の「銜天」は「先天」と作るべき)、「性に率うを道と謂う」は後天に属する。《中庸》に「喜怒哀楽の未だ發せざる」は先天に属し、「發して皆節に中る」は後天に属する。孔子に「性相近し」と言うのは先天に属し、「習相遠し」は後天に属する。孟子に「性善」と言うのは先天に属し、荀子に「性悪」と言うのは後天に属する。《大学》に「明徳」と言うのは先天に属し、「明徳を明らかにす」は後天に属する。
道家釋家以後天為可畏,必欲盡棄其後天,以返於先天,不奉天時者也。儒家知先天之可貴,修而明之,率而行之,至否泰剝復之屬於後天者,乃天道之自然,陰陽之定理,不惟不畏而避之,且居而安之,則以《易》本如此,天且弗違也。此悟儒之所以與二氏異也。
道家と仏家は後天をもって恐るべきものと見做し、必ず後天を全部抛棄して、もって先天に返回することを求める。これは天時を奉じないやり方である。儒家は先天の貴ぶべきを知り、即ちそれを修養しそれを彰明し、本性に順ってそれを践行する。至於《否》《泰》《剥》《復》の類の後天に属する変化は、あれは天道が自然このようであり陰陽の一定の理であるので、儒者はただ畏惧躲避しないのみならず、かえってその中に安居して处之泰然とする――《周易》がもともとこのようであり、天ですらそれに違わないからである。これが即ちわれわれ儒家と釈・道の二家と異なる所である(原文の「悟儒」は「吾儒」と作るべき)。
先天也,後天也,一而二,二而一者也。瞬息卽先天,瞬息卽後天,合之固不能,分之亦不可。此本難以跡象求,然舍邵子之稱天圖、後天圖,則不能得其彷佛矣。只有《易》卽有先天、有後天,伏羲與文王不異也,文王與伏羲無二也,奈之何欲分屬乎?奈之何有先天之學之名,欲專屬之邵子乎?使邵子而祗明先天也,邵子為不知《易》者也。反之,謂《易》有後天無先天者,其於《易》亦可知矣。
先天と後天は、一にして二、二にして一の関係である。この一瞬息が即ち先天であり、あの一瞬息が即ち後天である。強いて合して一物とするは固より不可であり、強いて拆して両截とするもまた不可である。これはもともと形跡の上から求めることは甚だ難しいが、しかしもし邵雍の先天図・後天図を舍開すれば、一つの大概の影さえも把握することができない。自ら《周易》ありてより、即ち先天あり後天あり、伏羲と文王は異なることなく、文王と伏羲もまた両様なかった。どうして必ずそれらを両家に分属させなければならないのか。どうして一つの「先天之学」の名目を立て、それを専ら邵雍に帰しようとするのか。仮使邵雍がただ先天のみを解したとすれば、邵雍は即ち《易》を解さない人である。反対に言えば、《周易》には後天のみがあって先天がないと考える者は、彼らの易学の水平もまた想い知ることができる。
東漢人處易象失傳之後,不知先天象,然管輅深疑其有先天,謂後天方位為不合,輅真神於《易》哉!使《易》而無先天方位也,則後天乾坤所處真不合矣,以祗得《易》之半也。輅之言曰:「乾統天,豈容有別位也。」又曰:「《易》之道,水火而已。」彼夫先天象,乾上坤下,水火在中,正與輅言合也。
東漢人は易象が失伝した後に身を処し、すでに先天の象を知らなかった。しかし管輅は却って本来先天があるべきことを深く疑い、後天方位は講じ通らないと考えた――管輅は真に《易》道に精通した人と言える。仮使《周易》に真に先天方位がなければ、後天卦位の中で乾坤の処する位置は確かに講じ通らない。あれはただ《周易》の半分を得たにすぎないからである。管輅はかつて言った。「乾は上天を統摂するのに、どうして別に一つの偏位が容れられようか。」また言った。「《易》の道理は、水火の二者に過ぎない。」しかも先天卦象はまさに乾が上にあり坤が下にあり、坎水・離火が東西に分居してその中に処する。ちょうど管輅の話と相合する。
史謂輅輕視何晏、鄧揚、鍾毓諸人,為不知《易》,並謂晏說《易》美而多偽。由是觀之,輅之於《易》,東漢人不惟遜其學,能喻其言者蓋亦寡也。嗚呼!古之人不知先天象,疑其有而苦求之;乃後之人既已知之,謂為妄而排擯之,則其意固不在於經學之是非,而在黨爭之勝敗。《易》曰有孚失是,夫至於失是而不惜也,尚何言學乎?
史書は管輅が何晏・鄧飈・鍾毓のこれらの人を見下し、彼らが《易》を解さないと考え、また何晏が《易》を講ずるに辞采は漂亮であるが多く虚妄であると言ったのを記載する。これによって見れば、管輅の易学は、東漢人は学問上で彼に及ばないのみならず、彼のあの話を聴き懂り得る者もまたおそらく少ない。ああ!古人は先天の象を知らなかったが、それが存在することを疑い苦しみ追い求めた。後の人は明らかにすでにそれを知ったのに、それを荒诞と指して排斥した――ならば彼らの用心はもともと経学の是非に在らずして、門戸党争の勝負に在った。《未済》上九に「孚ありて是を失う」(信誠はあるが正道を失った)と言う。一人が是非さえ顧惜しない地步に至っては、なお何の学問を論ぜん。
否泰は其の類を反するの解
陰陽遇為類。《否》上乾下坤,《泰》上坤下乾,又泰極而否,否極而泰,反覆無窮,故曰反其類。言在《泰》則干與坤為類,在《否》則坤與乾為類,乾坤上下當相反覆也。此與《文言》不離其類,自來說者皆模糊影響,不詁其所以然,則誤以陰與陰為類之蔽也。
陰と陽が相遇えばこそ「類」と言う。《否》卦の上体は乾・下体は坤であり、《泰》卦の上体は坤・下体は乾である。しかも泰が極処に至れば否に転じ、否が極処に至れば泰に転じ、反覆すること窮まりなし。だから《雑卦伝》に「否泰其の類を反するなり」と言う。その意は、《泰》卦の中では乾が坤をもって類とし、《否》卦の中では坤が乾をもって類とし、乾坤上下の位置はまさに反覆互易すべきである。この一句は《乾・文言》の「其の類を離れず」と同じく、従来解説する者が皆含糊籠統にして捕風捉影し、所以然を説き出すことができなかった。その毛病は誤って陰と陰をもって同類としたことにある。
天に本ずる者は上に親しみ地に本ずる者は下に親しむの解
乾陽上升,坤陰下降。天者陽,地者陰。本乎天者親上,言凡為陽者必上升,如干二升坤五是也;本乎地者親下,言凡屬陰者必下降,如坤五下居乾二是也。親上者由下而上,故下少上老,此《大過》所以以巽為女妻、以兌為老婦也;親下者由上而下,故上少下老,此《頤》對《大過》,所由以艮為士夫、以震為老夫也。而皆為《易林》之所本。又上升者順,下降者逆,《易林》謂乾順行、坤逆行,亦本此也。
乾の陽は上に向かって升り、坤の陰は下に向かって降る。天は陽に属し、地は陰に属する。《乾・文言》に「天に本ずる者は上に親しむ」と言うのは、およそ陽に属するものは必ず上昇することを言い、例えば乾の九二が上昇して坤の五位に至る如し。「地に本ずる者は下に親しむ」と言うのは、およそ陰に属するものは必ず下降することを言い、例えば坤の六五が下って来て乾の二位に居る如し。「親上」は下より上に向かって走るので、下面のは年少で上面のは年老いる――これが即ち《大過》がなぜ下体の巽をもって「女妻」とし上体の兌をもって「老婦」とするかの縁故である。「親下」は上より下に向かって走るので、上面のは年少で下面のは年老いる――これが即ち《大過》と互いに対卦を為す《頤》が、なぜ上体の艮をもって「士夫」とし下体の震をもって「老夫」とするかの縁故である。これらは皆《易林》が取象する根拠である。さらに、上昇は順であり下降は逆であり、《易林》が乾は順行し坤は逆行すると言うのも、この道理に本づく。
乃學者於親上親下之旨多知之,至乾順坤逆則知之者鮮;順行者下少上老,敢行上少下老,則知之者尤鮮。後惟俞樾說震起艮止云:「陽始於下而極於上,故震起艮止。」說兌見巽伏云:「陰始於上而極於下,故兌見巽伏。」又云:「冬至之日,一陽自地而升;夏至之日,陰自天而降。此陽升陰降之定理也。」案陽升陰降,卽乾順坤逆,卽親上親下也。俞氏自謂發前人所未發,豈知東漢人誠不知,若西漢焦氏則知之悉也。然俞氏之《易貫》,所獲多矣,惟俞氏仍不能以此理推及於《大過》也,何哉?
しかし学者は「親上」「親下」の意旨を多くは解するが、乾順行・坤逆行に至っては、知る人は甚だ少ない。さらに進んで言えば、順行は下少し上老い、逆行は上少し下老いる(原文の「敢行」は「逆行」と作るべき)については、知る人はなおさら少ない。後にただ兪樾が《雑卦》の「震起艮止」を解釈して言う。「陽は下より起りて上に至って極点に達す。だから震は起・艮は止なり。」「兌見巽伏」を解釈して言う。「陰は上より起りて下に至って極点に達す。だから兌は顕現・巽は潜伏なり。」彼はまた言う。「冬至のこの日、一陽は地下より上昇す。夏至のこの日、陰は天上より下降す。これは陽升陰降の一定の理なり。」按ずるに陽升陰降は即ち乾順坤逆であり、すなわち「親上」「親下」である。兪樾は自ら前人の発したことのない所を発したと考えたが、東漢人は固より解らなかったが、西汉の焦延寿は全く明白であったことを知らなかった。ただし兪樾の《易貫》の得る所はすでに少なくないが、ただ惜しいのは彼が依然としてこの道理を《大過》卦の上に推広することができなかったことである。なぜであろうか。
猶お其の類を離れず、故に血と称す
此其義,自來說者皆不能明,則以不知「類」字之確詁也。類說見前。未離其類者,言陰陽相遇方為類;既為類,卽相合而不能相離,故凝而為血。血者,坎也。坎得乾之中爻而居坤中,陰牝陽,乾流坤,合而不分,故又曰「天地之雜」。《說文》:雜者,合也。言此血非乾非坤,亦乾亦坤。震之生由於血,血之凝由於類。設離其類而為純陽純陰也,則出震無由矣。
《坤・文言》に「猶未だ其の類を離れざるなり、故に血と称す」と講じる。この句の含義は従来《易》を解する者が皆講じ明らかにできなかった。その癥結は「類」の字の確切な訓釈を解さないことにある。「類」に関する解説は前文に見える。いわゆる「未離其類」とは、陰と陽が相遇えばはじめて同類を結成することを言う。すでに同類を成した以上、即ち相合して分離し得ず、そこで凝聚して血を成す。血とは即ち坎象である――坎は乾の中爻が坤の中に落入して成ったものであり、陰は陽をもって牝とし、乾陽は坤に流注し、合して分かれない。だから《坤・文言》はまたそれを「天地之雑」と称す。《説文解字》は「雑」を「合」と訓す。この血は乾に属さず坤にも属さないが、しかもまた乾を兼ね坤を兼ねる。震の生発は血に由り、血の凝結は同類に由る。仮使同類を脱離して純陽あるいは純陰となれば、震象の萌生は論ずる由がない。
雑卦は先天象を言う
雜卦之語,有不以先後天卦位萬不能解者。如「大畜,時也」,凡卦皆有時義,豈祗大畜?後儒強說,如何通說?時者,時而先天則居戌亥,時而後天則乾居戌亥,故曰時。而天山則為遯,遯則退也。以退詁卦名則可,然卦名從卦象生,卦象乾健艮止,胡有退義?退者,言天山先後天皆退居戌亥也。戌亥數無,幽潛無用之地。《後漢·杜林傳》「上下相遯」,遯者隱也,同退隱於西北也。
《雑卦伝》の中の話には、あるものは先天・後天の二套の卦位を藉さなければ絶対に講じ通らない。例えば「大畜とは時なり」――六十四卦のどの卦に「時」の意義がないのか、どうして《大畜》の一卦のみならん。後代の学者は無理に解説するが、どうして説き通すことができようか。いわゆる「時」とは、《大畜》の下乾上艮について言う。先天卦位において艮は西北の戌亥に居り、後天卦位において乾は西北の戌亥に居り、同一の方位であって先天後天に随って変換するので、「時」と称する。しかも天と山が相重ねればまた《遯》卦を成し、遯は即ち退である。「退」を用いて卦名を解釈するのは固より可であるが、しかし卦名は卦象から生じたものであり、乾の卦徳は健・艮の卦徳は止であるのに、どこに「退」の意があろうか。いわゆる退とは、天(乾)と山(艮)が先天・後天の二套の方位の中で皆戌亥に退居することを言う。戌亥は数において「無」であり、幽隠潜蔵して施用する所なき地である。《後漢書・杜林伝》に「上下相遯す」の語があり、遯は即ち隠であり、乾と艮は同じく西北に退隠する。
又曰「困,相遇也」。夫兌坎胡有遇義?說者謂為剛柔相遇,凡卦有陰陽爻者皆可以此為說,其不當可知。相遇者,言兌坎先後天相遇於西方也。又如「節,止也」「中孚,信也」,皆於卦象無關,亦謂水澤同止於西,如符節之合;風澤同居東南,不失信也。又如「大有,眾也」「同人,親也」,夫一陰五陽之卦多矣,胡以獨此謂之眾、謂之親?則以天火同居於南,同居故親,猶水地比於北也;同居勢眾,猶地水之謂師也。
《雑卦伝》にまた「困とは相遇うなり」と言う。《困》卦は上兌下坎であり、兌と坎は自身どこに「相遇」の意があろうか。或る人は剛爻と柔爻が相遇うと解釈したが、しかしおよそ陰爻陽爻ある卦は皆このように講じ得るので、その不妥当は明らかである。いわゆる相遇とは、兌と坎が先後天の二套の方位の中で同じく西方に会することを言う。先天は坎が正西に居り、後天は兌が正西に居る。また「節とは止なり」「中孚とは信なり」の如きも、卦象自身からもこの層の意を見出すことができず、同じく方位の上に帰して講ずべきである――《節》は上坎下兌で、水と沢が同じく西方に止まり、あたかも符節の両半が相合するが如し。《中孚》は上巽下兌で、風と沢が同じく東南に居る(先天は兌が東南、後天は巽が東南)、彼此信約を失わない。さらに「大有とは衆なり」「同人とは親なり」の如き、一陰五陽の卦はこの二つに止まらないのに、なぜ偏にそれらが「衆」・「親」と言うのか。ただ天(乾)と火(離)が同じく南方に居ればこそである――先天は乾が南、後天は離が南――同居するので相親し、まさに水(坎)と地(坤)が同じく北方に居って《比》と称するが如し。同居すれば声勢が衆多となり、またまさに地と水が相重ねて《師》と称するが如し。
易林は八月に凶ありを釈す
以八月為遯者,鄭康成、虞翻也;以八月為否者,荀爽、蜀才也;以八月為觀者,禇仲都也。茲以《易林》決之,則鄭虞說合也。《易林·恆之臨》云:「神之在丑,逆破為咎,不利西南,商人休止。」臨震為神,月卦值丑,而沖丑者未也,故曰逆破,早不利西南。申與未雖皆在西南,然既曰神之在丑,則害丑者未,而非申明矣,酉觀更無涉也。鄭虞說與《易林》合也。
《臨》卦辞に「八月に至れば凶あり」と言う。この八月を《遯》卦と解するのは鄭康成(鄭玄)と虞翻であり、《否》卦と解するのは荀爽と蜀才であり、《観》卦と解するのは禇仲都である。今《焦氏易林》を用いて判定すれば、鄭玄・虞翻の説こそ相合する。《易林・恒之臨》の林辞に言う。「神の丑に在るや、逆破咎を為し、西南に利からず、商人休止す。」《臨》卦の二から四爻まで互体して震を成し、震は神である。《臨》は十二月卦の中で丑位に値し、しかも丑と相冲する地支は未であるので、林辞に「逆破」と言い「不利西南」と言う。申と未は固より同じく西南方にあるが、林辞がすでに「神之在丑」と言う以上、丑を傷めることができるのは丑と相冲する未のみであって申ではない。これは極めて明白である。酉位に居る《観》卦に至っては、なおさら関係を扯げつけることができない。これで鄭玄・虞翻の説法が《易林》と相合することが分かる。
先儒避丑未沖之說,而以遯子弒父、否臣弒君為凶。若然,自姤至剝皆陰消陽,皆凶也,胡獨八月?又先儒數八月,往往糾纏建子、建丑、建寅為說,豈知此自言爻數,與七日來復同。復以一爻為一日,六爻畢,來復則七日矣;臨以一爻為一月,月卦始子復,丑臨為二月,至未遯則八月矣。此泛言爻數消息循環之理。陽爻六,陰爻六,正與十二月律呂相合,故謂之月卦,與某帝王建某辰為正者無涉也。
前代の学者は丑未相冲のこの層を回避し、改めて《遯》をもって子が父を弑し、《否》をもって臣が君を弑すともって「凶」を解釈した。もしこのように講じれば、《姤》から《剥》まで皆陰が陽を消するので、皆凶と称すべきであり、どうして単に八月のみを言うのか。また、前人はこの八月を推算するに、往々にして三代の建子・建丑・建寅のどの辰を正月とするかに糾纏し、ここで言うのはただ爻数であって、《復》卦辞の「七日にして来復す」と同一の道理であることを知らなかった。《復》は一爻をもって一日に当て、六爻が走り尽くして、本卦に帰れば即ち第七日である。《臨》は一爻をもって一月に当て、十二月卦は子位の《復》から起算し、丑位の《臨》が第二月となり、未位の《遯》に数え至ればちょうど第八月である。これはただ泛く爻数の消息循環の理を論ずるにすぎない。陽爻は六・陰爻は六で、まさに十二箇月の六律六吕と相配するので「月卦」と称する。どの朝の帝王がどの辰をもって正月としたかとは少しも相干わない。
文言「乾道乃ち革す」の解
後儒解此者,謂乾二上變為革,然此與九四何涉?又有以乾坤交成否泰為說者,其無理與二上變同。夫乾道至四而革者,因乾貞子午,陽盡午中,而四正值午,言陽道至此終,而陰始用事也,仍消息卦之理也。先儒避丑未沖之說,故說八月有凶永不能通;避納甲之說,故解此句亦永不能合。豈知干甲坤乙、震庚離己,經並未諱言也。
《乾・文言》九四に「乾道乃革」と言う。後代この句を解する者は、乾卦の二爻・上爻が変動して《革》卦を成すと言うが、しかしこれは九四爻と何の相干もない。また或る人は乾坤が相交して《否》《泰》を成すを用いて解説したが、その無理は前一説と同じである。乾道が第四爻に至って「革」するのは、乾卦の爻辰が子午に貞するためである。初九の爻辰は子にあり、九四の爻辰は午にあり、陽気は午中に至って窮尽し、九四はまさに午位に当たるので、陽道がここに至って終結し陰気がはじめて当令すると言う――これは依然として十二消息卦の道理である。前代の学者は丑未相冲の説を回避したので、《臨》卦の「八月有凶」を講じて永遠に講じ通らず、納甲の説を回避したので、この一句を解しても永遠に合うことがない。殊に知らないのは、乾は甲を納し坤は乙を納し震は庚を納し離は己を納するのであり、《易》の経文(《蠱》が先甲後甲を言い、《巽》が先庚後庚を言い、《革》が己日乃孚を言う如き)は明言を避諱していない。
易の対象の意義
乾坤坎離頤大過中孚小過八卦,正覆不變,而聖人卽使之相對,此示人以本象對象常相通也。《文言》曰「旁通情也」,情者感也,言陰陽常相感而不能相離。《繫辭》云「齊大小者存乎卦」,言本卦陽少,對象必多,惟陰亦然。又曰「鉤深索隱」,言顯於此者必伏於彼。故既濟其顯,尚須察其隱。全易之辭,如此者甚多,而漢儒察見者少,此《易林》之所以獨異也。
《乾》《坤》《坎》《離》《頤》《大過》《中孚》《小過》のこの八卦は、倒して見ても原状と同じである(正覆して変わらず)。聖人はそこでそれらを兩兩として相対に排列させた。これはまさに人に提示するものである――本卦の象とその「対象」(毎爻を反転した旁通の卦)は常に互いに貫通することを。《乾・文言》に「六爻発揮し、旁通の情なり」と言う。「情」とは即ち感であり、陰と陽が常に相感応して分離し得ないことを言う。《繋辞伝》に「大小を斉うするは卦に存す」と言うのは、本卦の陽爻が少なければ、その対象の陽爻は必ず多く、陰爻もまた同じ道理であることを言う。《繋辞伝》にまた「深を鈎き隠を索む」と言うのは、あちらの辺に顕現するものは、必ずこちらの辺に潜伏することを言う。だからすでに顕露した一面を看清した以上、なお潜伏した一面を体察しなければならない。全部の《易経》の卦爻辞にこの類の情形は甚だ多いが、漢代の学者で察覚した者は少ない。これがまさに《焦氏易林》の衆と異なる所である。
易の覆象の意義
除上列八列外,餘五十六象,正為一卦,覆為一卦,而實一體,故祗二十八卦。聖人必使此一正一覆相次者,卽示人以覆象也。乃漢儒於易用覆之語,察見者尤少,此《易林》之所以獨異也。
上に列挙した八つの正覆不変の卦を除くほか、その余の五十六卦は、正しく見れば一つの卦であり、倒して見ればまた一つの卦であるが、実は同属一つの卦体である。だから実際にはただ二十八の卦体しかない。聖人が必ずこの一正一覆の両卦を一緒に排したのは、まさに人に提示して「覆象」を用いさせるためであり、即ち卦を倒転して象を取るのである。しかし漢代の学者は《易》の中で覆象を運用する文句に対して、察覚した者はなおさら少ない。これがまさに《焦氏易林》の衆と異なる所である。
易の大象の意義
困傳云「剛掩也」,言剛皆為陰爻所掩也。故井彖云「往來井井」,言往來皆坎窞也,並大坎言也。又上經終坎離,先之以頤大過,頤離,大過坎;下經之中孚小過亦然。乃漢人於易卦爻辭用大象者,概未察見,此《易林》之所以獨異也。
《困》卦の彖伝に「剛掩なり」と言うのは、剛爻が皆陰爻に遮掩されることを言う。だから《井》卦の彖辞に「往来井井たり」と言うのは、往来上下が皆坎陷の中に落ちることを言い、これは全卦の成した「大坎」を併せて言ったものである。さらに見れば上経は《坎》《離》をもって收尾し、しかもそれらの前に先ず《頤》《大過》を安排する。《頤》は両端が陽・中間に四陰であって大離の象であり、《大過》は中間に四陽・両端が陰であって大坎の象であり、下経の《中孚》は大離・《小過》は大坎であって、これもまた同じ安排である。しかし漢代人は《易》の卦爻辞が「大象」を取用する所に一概に察覚がなかった。これがまさに《焦氏易林》の衆と異なる所である。
易は水火を重んず
管輅曰:「易之道,水火而已。」由輅言推之,坎中爻互艮震,離中爻互兌巽,山澤通氣,雷風相薄,皆在坎離之中。且坎中爻互離,示水中有火也;離中爻互坎,示火中有水也。此易所由以水火終也。
三国時の管輅は言った。「《易》の道理は、水火に過ぎない。」管輅のこの句に順って推し求めれば、重坎卦の中間の各爻は互いに震・艮の両象を出し、重離卦の中間の各爻は互いに巽・兌の両象を出す。そこで《説卦伝》の講ずる「山沢通気」「雷風相薄」は、全て坎・離の中に含まれる。しかも坎卦の二爻から五爻まで合して大離を成すのは、水中に火があることを表明し、離卦の二爻から五爻まで合して大坎を成すのは、火中に水があることを表明する。これが即ち《易経》の上経が《坎》《離》に終わり、下経が《既済》《未済》に終わる縁由である。
焦氏易詁 巻十
行唐尚秉和節之撰
本巻は行唐(今の河北行唐県)の人・尚秉和、字は節之の撰著。
震の武人の象
震武人象以下皆續行摭拾易林之象。
「震為武人」のこの条以下は、皆引き続き《焦氏易林》の中で用いられた易象を搜求采拾したものである。
履六三、巽初六皆言武人。虞翻以乾健為象,毛奇齡以巽躁為象,自來無確詁。按《易林·大畜之中孚》云「武王不豫」,中孚震為王,又為武;又《臨之旅》云「篤生武王」,旅通節,震為王,又為武。按《國語》,重耳筮,遇貞屯悔豫,皆有震象,曰「車有震武」,故震為武為人。履六三之武人,以伏震也;巽初六之武人,以初至四正反伏震,正為進,反則退,故曰「進退,利武人之貞」,言正反皆震,進退皆利也。且易獨於履六三之陰爻曰武人,則非指乾明甚。至於巽為進退不果,以巽順為義,毛氏所用象尤非。
《履》卦六三と《巽》卦初六は皆「武人」に言及する。虞翻は乾の剛健を取ってこの象を解し、毛奇齢は巽の躁動を取って解し、従来確切な訓釈がなかった。按ずるに《易林・大畜之中孚》の林辞に「武王不豫す」と言う。《中孚》は二から四爻まで互震であり、震は王でありまた武である。《臨之旅》の林辞に「篤く武王を生ず」と言う。《旅》は《節》と旁通し、《節》の中に震を含み、震は王でありまた武である。また按ずるに《国語》の載する所、晋公子重耳が出亡した時に占筮して、本卦《屯》・之卦《豫》を得、両卦に皆震象があり、占者は「車に震武あり」と言うので、震がすでに武でありまた人であることが分かる。《履》六三に「武人」と言うのは、その伏する震象を取ったものである――《履》は《謙》と旁通し、《謙》は三から五爻まで互震。《巽》初六に「武人」と言うのは、《巽》が《震》と旁通するためである。初爻から四爻まで正しく見れば震であって震は進であり、倒して見れば即ち艮であって艮は止・退である。だから爻辞に「進退、武人の貞に利し」と言う。その意は正覆ともに震象を成し、進むも退くも皆利ありということである。ましてや《易経》は偏に《履》六三のこの一本の陰爻の上に「武人」を言う。ならばそれは決して乾を指すのではなく、これは極めて明白である。《説卦伝》が巽「為進退」「為不果」と講じたに至っては、巽の柔順の義を取ったもので、毛奇齢の用いた象はなおさら正しくない。
艮は斯析を為す
《詩·陳風》「斧以斯之」,毛傳「斯,析也」。《易林·賁之遯》云「析薪熾酒」,以遯艮為析也。自得此象,旅初六之「斯其所」,始知斯為艮象。斯者,析也,離也。詳卷七。
《詩経・陳風・墓門》に「斧を以て之を斯す」の句があり、《毛伝》は解釈して「斯とは即ち析なり」、即ち劈開すると言う。《易林・賁之遯》の林辞に「薪を析き酒を熾す」と言うのは、まさに《遯》卦下体の艮を取って「析」としたものである。この象を取得して以来、《旅》卦初六爻辞の「其の所取災を斯す」の「斯」が、また艮象であることをはじめて知る。斯とは即ち劈開・分離の意である。詳しくは本書巻七に見える。
震の瓶
《易林·復之豫》云「挈瓶之使,不為憂懼」,豫艮手為挈,震為瓶,故曰挈瓶。又《損之剝》云「毀罌傷瓶」,震為罌瓶,剝上艮震覆,故毀傷。自得此象,始知井彖之羸瓶,指伏震,與甕同。
《易林・復之豫》の林辞に「瓶を挈げるの使、憂懼を為さず」と言う。《豫》卦は二から四爻まで互艮であり、艮は手なので「挈」(提げる)を取る。《豫》の上体は震であり、震は瓶なので「挈瓶」と言う。また《損之剥》の林辞に「罌を毀り瓶を傷つく」と言う。震は罌・瓶であり、しかも《剥》卦上体の艮はまさに震を倒転した覆象であり、倒転すれば則ち傾覆するので「毀」と言い「傷」と言う。震為瓶のこの象を取得して以来、《井》卦彖辞の言う「其の瓶を羸す」が、《井》の伏する震を指すことをはじめて知る――《井》は《噬嗑》と旁通し、《噬嗑》の下体はまさに震である――九二爻の「瓮敝漏」の瓮と同じ一路の取象から出たものである。
未済は半象を用いる
《易林·謙之鼎》云「狗無前足」,鼎初二形艮,艮為狗,艮無初爻,故無前足,用半象也。又《渙之未濟》云「三虎上山」,謂三半艮也。由是推未濟彖曰小狐,艮為狐,半艮形矮,故曰小狐;艮為尾,尾短,故似濡於水。又九四曰「震用伐鬼方」,四五形震,故曰震,曰伐,曰三年,皆半象。
《易林・謙之鼎》の林辞に「狗に前足なし」と言う。《鼎》卦の初六・九二の一陰一陽は、艮の上半截を構成する(艮は一陽が二陰の上にある)。艮は狗である。この艮は最も下の一爻を缺くので「无前足」と言う。これが即ち「半象」を運用したものである。また《涣之未済》の林辞に「三虎山に上る」と言うのは、《未済》の六爻が陰陽相間して、三つの半艮を含むことを指し、艮は虎である。これによって《未済》卦辞の言う「小狐汔く済る」を推知し得る。艮は狐であり、しかも半艮は形体が低矮なので「小狐」と称す。艮はまた尾であり、半艮の尾は短促なので「其の尾を濡らす」と言い、水に浸ったが如し。また九四爻辞に「震鬼方を伐つに用い」と言うのは、九四・六五の一陽一陰が半個の震を構成するためで、「震」と言い「伐」と言う。「三年」と言うのも同じく半象から出たものである。
婦其の茀を喪うの解
既濟六二「婦喪其茀」。茀,馬融謂為首飾,干寶作馬髴,鄭玄作車蔽,子夏傳、虞翻作髴,董遇作髢。凡易如此等字,皆從卦象生,無無因而至者。而既濟正互皆無此象,以半象考之,則作髮飾者合。二三形巽,巽寡髮,胡喪茀?虞以坎玄雲為象,非也。
《既済》六二爻辞に「婦其の茀を喪う」と言う。この「茀」の字は、馬融は婦人の首飾と考え、干宝は「馬髴」と書き、鄭玄は「車蔽」と書き、《子夏易伝》と虞翻は「髴」と書き、董遇は「髢」(假发)と書いた。およそ《易》の中のこの類の字は皆卦象から生じたもので、無縁無故に湧き出たものはない。しかも《既済》の本卦の象と互卦の象には相応する象を見出すことができない。改めて「半象」を用いて考察すれば、髪飾りと解する説こそ合することが知れる。六二・九三の一陰一陽は巽の下半截を構成し、巽は頭髪稀少である。頭髪がすでに稀少な以上、あの髪飾りがなお存留し得ようか。だから「其の茀を喪う」と言う。虞翻が坎為玄・為雲を取って象を立てたのは誤りである。
高宗の鬼方を伐つ
二三形巽,為高;三四形震,震為王為宗為伐;坎為鬼,故曰高宗伐鬼方。
《既済》九三に「高宗鬼方を伐つ」と言う。二爻・三爻は半個の巽を構成し、巽は高である。三爻・四爻は半個の震を構成し、震は王・宗・征伐である。上体は坎であり、坎は鬼である。合わせればちょうど「高宗鬼方を伐つ」である。
繻に衣袽あり
繻襦同。《易林·復之益》云「襦燒袴燔」,益下震為襦,上巽為袴,艮火,故燔燒,是以震為襦也。既濟三四形震,為襦,故曰襦有;四五形巽,巽為敝為絮,袽,敗絮也,言有襦而衣敗絮,故下曰戒也。戒之故,以四上下皆陽,故象曰有所疑。以上既濟數象,與家人之嘻嘻嗃嗃、困之困于石據于蒺藜、解之負且乘,皆由本爻視上下爻取象,皆半象也。
「繻」と「襦」(短衣)は同一の字である。《易林・復之益》の林辞に「襦焼け袴燔く」と言う。《益》卦の下体は震であり、震は襦である。上体は巽であり、巽は袴である。三から五爻まで互艮であり、艮は火なので焚焼すると言う――これで震をもって襦としたことが分かる。《既済》六四のこの一爻は、三・四の両爻が半個の震を構成し、震は襦なので「繻(襦)有り」と言う。四・五の両爻は半個の巽を構成し、巽は破敝・絮であり、「袽」とは即ち爛れた棉絮である。短衣があって中に敗絮を襯ていることを言うので、下文に続いて「終日戒めよ」と言う。戒懼する所以は、六四の上下が皆陽爻(九三と九五)にあるためであり、だから《象伝》に「終日戒むとは、疑う所有ればなり」と言う。以上《既済》一卦の幾つかの象は、《家人》の「嘻嘻」「嗃嗃」、《困》の「石に困み蒺藜に拠る」、《解》の「負いて且つ乘る」と同じく、皆本爻より上下相隣の爻に連なって象を取ったもので、即ち皆半象を用いたものである。
飛鳥音を遺す
小過飛鳥遺之音。遺字自來無的解,由卦象失傳故也。今既得其象,艮震皆為鳥,而震為音。下艮為覆震,震口向下,若遺音於人者。遺者送也。易之用覆,有非目視其象而不能得其意者,此也。
《小過》卦辞に「飛鳥音を遺す」と言う。この「遺」の字は従来確解がなく、卦象が失伝した故である。今すでにその象を求得した。艮と震は皆鳥と為り得るが、しかも震はまた音である。《小過》下体の艮はまさに震を倒転して成った覆象であり、覆震すれば則ち震の口が下に向かい、あたかも声を下の人に送るが如し。「遺」とは即ち贈送である。《易経》が覆象を運用するに、ある所は親しく卦を倒して見なければその用意を領会し得ない。これが即ち一例である。
漸の鴻・小過の飛鳥の対象説
《易林》以艮震皆為鴻為鳥。小過下艮上震,故彖與初上爻皆言飛鳥。漸卦下艮上巽,艮為鴻,巽通震,震亦為鴻,故六爻皆言鴻。杭辛齋謂卦有半對者,如雷澤歸妹上震對巽,成風澤中孚,故兩卦皆曰月幾望。以此例小過漸,亦上卦震巽對易也,故兩卦皆言鳥。本象與對象不分,觀此益明。
《焦氏易林》の中で艮と震は皆鴻・鳥と為り得る。《小過》は下艮上震なので、卦辞と初六・上六に皆「飛鳥」を講ずる。《漸》卦は下艮上巽で、艮は鴻であり、しかも巽は震と旁通し、震もまた鴻であるので、六爻に皆「鴻」を講ずる。杭辛斎は卦に「半対」の情形があると言う。例えば雷沢《帰妹》は上体の震をそれと相対する巽に換えれば、即ち風沢《中孚》を成すので、この両卦に皆「月幾望」の話がある。この例を取って《小過》と《漸》を衡量すれば、まさに上卦の震と巽が彼此対易したもので、だから両卦に皆鳥を講ずる。本卦の象と対卦の象はもともと彼此を分かたない。この例を見ればなおさら明白である。
離九三は旁通を用い兼ねて覆を用いる
離對坎,坎中爻艮震,震為鼓為缶為歌,故曰鼓缶而歌;艮為壽,故曰大耋;震為樂,震之反則嗟也,言三至五震覆也。舊解用象多誤。
《離》卦九三に「缶を鼓して歌わざれば、則ち大耋の嗟なり」と言う。《離》の対卦(旁通)は《坎》であり、坎卦の中間の各爻は互いに艮・震を出す。震は鼓・缶・歌であるので「缶を鼓して歌う」がある。艮は寿であるので「大耋」と言い、即ち八十の高齢である。震は歓楽であり、しかも震が一たび倒転すれば即ち嘆息に変ずる。ここで指すのはまさに坎卦の三から五爻までの成した覆震である。旧注はこの一爻において取象が多く誤っていた。
大畜六四「童牛之牿」の説
或作告,或作梏,或作角,漢儒與漢儒卽聚訟,故至今不決。若以《易林》釋之,則陸續作角者是也。《易林·乾之屯》云「蒼龍單獨,與石相觸,折其兩角」,屯互坤,數二,互艮,為角,故曰兩角,坎為折也。大畜上艮,艮為童,坤為牛,乃坤上變剛,則牛之童者已角矣,是易亦以艮上剛為角也。四為艮初而柔,故曰童牛之角,言角初生而柔。柔當位有應,故吉。
《大畜》六四の「童牛之牿」の「牿」の字は、「告」と書く者あり、「梏」と書く者あり、「角」と書く者あり、漢代の学者は彼此争論不休したので、今に至るまで決断し得ない。もし《焦氏易林》を用いて印证すれば、陸績が「角」と書いた説こそ正しい。《易林・乾之屯》の林辞に「蒼龍単独し、石と相触れて、其の両角を折る」と言う。《屯》卦は二から四爻まで互坤で、坤の数は二である。三から五爻まで互艮で、艮は角であるので「両角」と言う。《屯》の上体は坎であり、坎は折である。《大畜》の上体は艮であり、艮は童(幼小)であり、坤は牛であり、しかも艮はまさに坤の上爻が剛爻に変じて来たものである。これであの小牛はすでに角を長じ出したことが分かる――これは即ち《易経》も同じく艮の上の一本の剛爻をもって角とすることを説明する。六四は艮の頭一爻であって陰柔に属するので「童牛之角」と言い、角が剛に長じ出してなお柔嫩であることを言う。この一爻は柔をもって陰位に居って当位し、また初九と相応するので吉である。
大畜「何天之衢」の説
鄭康成詁何為荷,雲艮為手,手上,肩也;乾為首,首肩之間,荷物處也。虞翻、何妥則以何為當,王弼以為語辭,而宋儒竟從之。今以《易林》決之,王弼掃象演空理固誤,虞何以何為當仍誤,鄭讀何為荷,與噬嗑「何校滅耳」、《詩》「何蓑何笠」同,詁確定矣,故清儒治漢易者皆從之。惟康成詁何字是,而取象則非,從無一人能知之。
《大畜》上九に「何天の衢」と言う。鄭康成は「何」を「荷」と訓し、即ち負担とし、艮は手であり手の上面は即ち肩であり、乾は首であり、首と肩の間はまさに物を負う所であると言う。虞翻・何妥は則ち「何」を「当」と講じ、王弼は干干脆脆にそれを語気助詞とし、しかも宋代の学者は竟にまた王弼に跟って行った。今《焦氏易林》を用いて判定すれば、王弼が卦象を掃除して義理を空談したのは固より誤りであるが、虞翻・何妥が「何」を「当」と講じたのも依然として誤りであり、ただ鄭玄が「何」を「荷」と読んだのみが、《噬嗑》上九の「何校耳を滅す」(肩に枷を扛いで耳に傷る)や《詩経》の「何蓑何笠」の用法と同じで、この訓釈は確定することができる。だから清代に漢易を治める学者は皆彼に依従した。ただし鄭玄は「何」の字を訓するは正しいが、取った象は正しくなく、しかもこの層は従来一人もそれを見出した者がなかった。
按《易林·鼎之萃》云「聚蹠荷兵」,《咸之萃》云「擁兵荷糧」,是焦氏皆以艮為何;又《同人之無妄》云「負牛上山」,《需之屯》云「恃強負力」,皆以艮為負也;又艮彖云「艮其背」,易卽以艮為背也。為背為負,故曰荷也。乃康成不知此象,以艮為手,手上肩,乾為首,首肩之間,詁何字,迂曲甚矣。故夫卦象失傳,雖象在目前而不能覩也。又何天之衢者,形容畜極忽通之意,而不能泥其詞。凡易詞如此者,十蓋八九也。如泥其詞,謂衢如何荷,而訓為語辭,則天又何有衢哉?
按ずるに《易林・鼎之萃》の林辞に「跖を聚め兵を荷う」と言い、《咸之萃》に「兵を擁し粮を荷う」と言うので、焦延寿は皆艮をもって「何(荷)」としたことが分かる。また《同人之无妄》に「牛を負いて山に上る」と言い、《需之屯》に「強を恃み力を負う」と言うのも、皆艮をもって「負」とする。さらに見れば《艮》卦の彖辞に「其の背を艮にす」と言うので、《易経》はもともと艮をもって背としたことが分かる。すでに背と為しまた負と為すので、「荷」と訓し得る。鄭康成はこの象を知らなかったので、こそ回り道して艮為手・手上是肩・乾為首・首肩之間に物を担いで可というような路子を講じて「何」の字を訓した。実に迂曲甚だしい。これで卦象が一たび失伝すれば、象が眼前に摆放されても見出すことができないことが分かる。さらに「何天之衢」のこの句は、蓄積が極点に至って忽然として暢通することを形容したもので、字面に拘泥してはならない。《易経》の中のこの類の文辞は、十に八九は皆このようである。倘若字面を死抠して、天上の大路をどうして肩に扛ぐことができるかを追問し、それによって「何」を語気助詞と訓するならば、ならば天上にまたどこに大路があろうか。
震為輹の確証
孔疏引子夏傳,以輹為車屐,由是知輹為震象,推之易與左氏皆合,說已詳前矣。茲按釋名云「輹似人屐,在軸上」,仍以輹為車屐也。震為車為履,則震之為輹益明矣。
孔穎達《周易正義》は《子夏易伝》を引き、「輹」(車下の伏兎)を車の木屐と解した。これによって輹が震象であることを知り、それを取って《易経》と《左伝》の筮例に印证して皆相合する。この点は前文ですでに甚だ詳しく言った。今さらに按ずるに《釈名》に「輹は人の穿く木屐に似て、車軸の上に装著す」と言うのも、依然として輹を車屐とする。震は車でありまた履(鞋)である。ならば震が輹象を取り得ることはなおさら明白である。
坤の魚象は郭璞のみが知る
郭璞洞林筮避亂,遇明夷,曰「桑梓之邦,其為魚乎」,明夷震為桑梓,坤為邦為魚也,故曰為魚。又漢上易引郭璞洞林云,筮得豫之小過,曰「五月晦日,群魚來入州城寺舍」,是亦以坤為魚也。坤之艮,艮為城舍,故魚入州城寺舍。原注以乙未為魚,坤貞未也。乃朱漢上不知坤魚象,謂原注為非,而以小過巽為魚。巽固為魚,而此則用坤魚也,漢上不知此象也。
郭璞《洞林》は彼が乱を避けるために占筮して《明夷》卦を得て、断語に「桑梓の邦、其れ魚と為らんか」と言うのを記載する。その意は故郷が将に水国と成らんとするを謂う。《明夷》は三から五爻まで互震で、震は桑梓である。上体は坤で、坤は邦・また魚であるので「其れ魚と為らん」と言う。また朱震《漢上易伝》は郭璞《洞林》を引いて言う。占して《豫》之《小過》を得て、断語に「五月末の日、群れなす魚が州城の官舎寺庙に游び入るであろう」と言う。これもまた坤をもって魚とする。《豫》が《小過》に変ずるは、まさに下体の坤が艮に変じたもので、艮は城・舎であるので、魚が州城寺舎に入る。原注は乙未をもって魚としたが、それは坤の内卦が乙未を納するためである。しかし朱震は坤に魚象があることを解せず、かえって原注が正しくないと言い、改めて《小過》の含む巽をもって魚とした。巽は固よりまた魚と為り得るが、この一条の用いたものは坤魚であり、朱震はこの象を知らなかった。
震巽は小父母を為す
朱漢上曰:「乾坤為大父母,故能生八卦;姤復為小父母,故能生六十四卦。」是以震巽為父母,與《易林》合。然朱漢上知姤復為父母,而不知姤復為父母之故由於震巽,故於蠱之父母、小過之妣,皆不得其象。
朱震(世に朱漢上と称す)は言う。「乾坤は大父母なので、能く八卦を生出する。《姤》《復》は小父母なので、能く六十四卦を生出する。」これは実は即ち震・巽をもって父母とするもので、《焦氏易林》の用象と相合する――《復》の下体は震であり、《姤》の下体は巽である。しかし朱震はただ《姤》《復》が父母であることのみを知り、《姤》《復》が父母たり得る所以は、まさにそれらが震と巽を含むに由ることを知らなかった。だから《蠱》卦爻辞が「父」を講じ「母」を講じ、《小過》六二が「妣」を講ずるに碰到して、彼は皆対応する象を探し出すことができなかった。
先天象の乾南坤北に関する荀注
胡渭謂唐以前無言先天象乾,曾於首卷證其不然矣。茲按荀爽注「陰陽之義配日月」云:「乾舍於離,配日而居;坤舍於坎,配月而居。」是乾南坤北,荀氏已一再言之。注同人亦云,與管輅之幹無別位同也。
胡渭は唐代以前に先天卦位の中で乾が南方に居る象を講じた人がいないと言うが、私は本書首巻ですでにそうでないことを証明した。今さらに見れば荀爽は《繋辞伝》の「陰陽の義は日月に配するなり」の句に注して言う。「乾は離に寄居して、太陽に配して居る。坤は坎に寄居して、月亮に配して居る。」乾がすでに離位にあり坤がすでに坎位にあり、しかも先天は離が南・坎が北である。ならば即ち乾南坤北である。荀爽はすでに度々このように講じた。彼が《同人》卦に注する時もまたこのように言う。これは管輅の謂う乾に別の方位がない(乾は即ち離位に居る)と同一の意である。
黃梨洲等謂易無先天象,恃說卦未明言為護符。豈知離南坎北,說卦祗明言六卦方位耳,坤兌皆未言也,而何以治漢易者皆以坤為西南、兌為西,是何據耶?梨洲則曰由卦爻推得。後天卦位可由卦爻推得,先天卦位獨不可由卦爻推得耶?既濟九五言東西,正離坎方位也,胡又不推乎?真王氏所謂無理取鬧也。
黄宗羲(号は梨洲)らは《易》の中に先天卦象がないと言い、《説卦伝》が明らかに講じ出していないことを恃んで護身符とした。殊に知らないのは《説卦伝》が離南坎北を講じても、ただ六つの卦の方位を明らかに交代したのみで、坤と兌の方位は皆講じなかった。ならば漢易を治める人はなぜ皆坤を西南・兌を正西に在りとし、また何に根拠したのか。黄宗羲は卦爻から推し求めて得たと言うであろう。後天卦位は卦爻によって推得し得る。ならば先天卦位は偏に卦爻によって推得し得ないとでもいうのか。《既済》九五に「東隣牛を殺すは、西隣の禴祭に如かず」と言うのは、まさに先天の離が東・坎が西の方位を講じたもので(《既済》は下離上坎)、どうしてここではまた推し求めに行かないのか。これは真に王氏の言う無理取閙である。
惠棟於荀此注,謂荀用鬼易,而以乾歸合離、坤歸合坎為解。夫乾坤歸魂為大有比,荀注所言乃同人師,同人師為離坎歸魂,非乾坤歸魂。荀曰舍離舍坎,則乾坤正居離坎之位也,非離坎居乾坤之位也。惠氏非不知其說之顛倒,冀崑崙其詞以愚初學而滅其證,故不得不釋之。
恵棟は荀爽のこの条の注に対して、荀爽は京房の「鬼易」八宮の法を用い、それによって乾宮の帰魂が離に合し坤宮の帰魂が坎に合するともって解釈したと言う。実は乾宮の帰魂卦は《大有》であり、坤宮の帰魂卦は《比》である。しかも荀爽の注の言う所は《同人》と《師》であり、《同人》は離宮の帰魂・《師》は坎宮の帰魂であって、乾坤両宮の帰魂ではない。荀爽が乾を「離に舎す」・坤を「坎に舎す」と言うのは、その意はまさに乾坤が離坎の方位の上に居ることであって、離坎が乾坤の方位の上に居るのではない。恵棟は自分のこの番の話が本末顛倒していることを知らないのではなく、ただ話を含混籠統に言いたくて、もって初学の人を蒙らせこの条の証拠を抹去しようとしたのである。だから私は之を辨明せざるを得ない。
易林より推し得た雑卦の意義
凡卦之相反者,義必反。如巽為寡髮,《易林》見震則以為多髮多羽翰;艮為鼻,《易林》遇兌則以為劓;震為足,《易林》遇巽則以為刖;艮為山,艮覆則山崩;艮為山陽,艮覆則為山陰。由《易林》推之,易卦爻辭如此者不可勝數,而其義甚隱。彖象傳只渾言大義,而未明言,因之後儒於對象偶識之而不能盡,若覆象則十未察及一二也。聖人蓋已慮及此,故又於最後之雜卦明申其義。
およそ両卦が彼此相反する者は、取義もまた必ず相反する。例えば巽は頭髪稀少であり、《焦氏易林》は巽と相反する震に遇えば、頭髪が濃密し羽毛が豊盛の象を取る。艮は鼻であり、《易林》は艮と相反する兌に遇えば、鼻を割る「劓」を取る。震は足であり、《易林》は震と相反する巽に遇えば、足を断ずる「刖」を取る。艮は山であり、艮が一たび倒転すれば即ち山崩である。艮は山の南面であり、艮が一たび倒転すれば即ち山の北面を成す。《易林》から推し求めて広げれば、《易経》の卦爻辞のこの種の情形に属するものは数え尽くせぬほど多く、しかもその中の道理は十分に隠晦である。《彖伝》《象伝》はただ籠統に大意を講ずるのみで明言せず。それに因って後代の学者は「対象」(旁通)に対してただ偶々一両処を認出し得ても窮尽することができず、「覆象」に至っては、十分の中で一二分も察覚していない。聖人は大概すでにこの一点に顧慮して、だからまた《十翼》の最も末の《雑卦伝》の中でこの層の意を明らかに申説した。
雜卦曰:乾剛坤柔,離上坎下,小過過也,中孚信也,信則無過,過則不信矣;大過顛也,頤養正也,顛則失養,養則不隕矣。皆言本象對象相反之義也。曰比樂,反之則憂;曰臨與,反之則求;曰屯不失其居,言陽當位也,乃屯反則雜而不當位;曰震起,震反則止;曰損衰始,損反則盛始;曰大畜時,反之則災而不時;曰萃聚,反之則不聚;曰謙輕,輕者不足也,乃謙反則自足而怡矣;曰噬嗑食,食者實也,頤中有物也,乃噬嗑反則空而為色矣。
《雑卦伝》に「乾剛坤柔」「離上にして坎下なり」「小過とは過なり、中孚とは信なり」と言う――信を守れば過差がなく、過差があれば信を守ったと言えない。また「大過とは顛なり、頤とは正を養うなり」と言う――顛覆傾倒すれば即ち養を失い、正を養うことができれば隕墜しない。これらは皆本卦の象と対卦の象の取義が相反することを講ずる。また「比楽」と言う――《比》を倒転すれば《師》を成して即ち憂である。「臨与」と言う――《臨》は施与であり、倒転して《観》を成せば即ち求である。「屯は其の居を失わず」と言う――《屯》の陽爻が各々其の位に当たり、しかも《屯》が一たび倒転して《蒙》を成せば即ち雑乱して位に当たらない。「震とは起なり」と言う――震が一たび倒転して艮を成せば即ち止である。「損とは衰の始なり」と言う――《損》が一たび倒転して《益》を成せば即ち盛の始である。「大畜とは時なり」と言う――倒転して《无妄》を成せば即ち災であって時を失う。「萃聚」と言う――倒転して《升》を成せば即ち聚まらない。「謙軽」と言う――軽とは自ら足らざるを覚えることであり、《謙》が一たび倒転して《豫》を成せば即ち自満して怡然である。「噬嗑とは食なり」と言う――食とは即ち充実であり、即ち口中に物があることであり、《噬嗑》が一たび倒転して《賁》を成せば、口中は即ち空虚にしてただ文飾のみが残る。
曰兌見,反之則伏;曰隨無故,故者事也,反之則有事;曰剝爛,反之則不爛;曰晉晝,反之則夜而光滅,誅者滅也;曰井通,反之則不通;曰咸速,反之則不速而久;曰渙離,離,去也,反之則不去而止;曰解緩,反之則不舒緩而急難;曰睽外,反之則內;曰大壯則止,反之則不止而退;曰革去故,反之則取新;曰豐多,反之則寡。凡此皆言正象覆象相反之義也,故於否泰明揭其義,曰反其類也。
《雑卦伝》にまた「兌見」と言う――《兌》を倒転して《巽》を成せば即ち潜伏である。「随無故」と言う――「故」とは即ち事であり、倒転して《蠱》を成せば即ち事ありである。「剥とは爛なり」と言う――倒転して《復》を成せば即ち爛れない。「晋とは昼なり」と言う――倒転して《明夷》を成せば即ち夜であって光明が熄滅する。いわゆる「明夷とは誅なり」とは、誅は即ち滅である。「井通」と言う――倒転して《困》を成せば即ち通じない。「咸速」と言う――倒転して《恒》を成せば即ち迅速でなくして長久である。「涣とは離なり」と言う――離とは即ち去であり、倒転して《節》を成せば即ち去らずして止まる。「解とは緩なり」と言う――倒転して《蹇》を成せば即ち寛緩でなくして急難である。「睽とは外なり」と言う――倒転して《家人》を成せば即ち内である。「大壮則ち止」と言う――倒転して《遯》を成せば即ち止でなくして退である。「革とは故を去るなり」と言う――倒転して《鼎》を成せば即ち新を取る。「豊とは故多きなり」と言う――倒転して《旅》を成せば即ち寡である。およそこれらの種種は、皆正象と覆象の取義が相反することを講じたので、だから《雑卦伝》は《否》《泰》の両卦の上においてこの層の道理を明らかに掲出して「否泰其の類を反するなり」と言う。
韓康伯解雜卦曰,或以同根類,或以異相明。以異相明是也,以同相類無有也。後,來知德知其言反象,至卦反則義亦反之意,來氏毫未察知,故詁經多誤。如以坎為孕,較虞氏以離為孚勝矣,乃漸三尚可,漸五遂不合。雜卦之言易象,正如此,反如彼,可謂活潑飛舞,示人讀易當作如是觀、作如是解也。
韓康伯は《雑卦伝》を解して、それは或いは同類の卦を取って一緒に帰し、或いは相異の卦を用いて互いに映照すると言う。相異の卦を用いて互いに映照するこの一点は講じて正しいが、同類の卦を相帰併するに至っては、実際にこの種の情形はない。後に明代の来知徳は《雑卦伝》の講ずる所が反象であることを知ったが、しかし卦が一たび倒転すれば卦義もまたこれに随って相反するというこの層の意に至っては、来知徳は却って少しも察覚しなかった。だから彼の経を解するに多く謬誤がある。譬えば彼が坎をもって孕とするは、虞翻が離をもって孚とするに比べてすでに高明であるが、しかしそれを用いて《漸》九三の「婦孕みて育せず」を解すればなお強いて講じ通り、《漸》九五の「婦三歳孕まず」を解すれば合わない。《雑卦伝》が易象を講ずるに、正しく見ればこのようであり倒して見ればあのようであり、霊動飛揚と言うべく、人に提示して《易》を読むにまさにこのように見、このように解すべきことを教えるものである。
又以示文王所以必使此四對象相次、二十八正覆象相次者,卽具有此意。故於序卦之外,離其舊序,俾義愈明。不然,人或疑蒙與需、此與小畜有涉也。自雜卦之義不明,於是易之言反象者遂不解矣。
《雑卦伝》はまたこれを借りて提示する。文王があの四組の対象を必ず兩兩相次させ、二十八組の正覆の象を兩兩相次させた所以は、まさにこの層の用意を含む。だから《雑卦伝》は《序卦伝》の外において、故意に旧有の次序を打乱し、もってこの層の意義を一層顕豁ならしめた。さもなくば、人は或いは《蒙》と《需》が相接しこの卦と《小畜》が相接するに彼此何の関連があるかを疑うかもしれない。《雑卦伝》の用意が明らかでなくなって以来、そこで《易経》の中でおよそ反象を講ずる所もまた解する人がいなくなった。
十翼の易を解するは浅より深に及ぶ
愚嘗卽十翼考之,是否為孔子所作則不敢知,然為一人之文無疑也。其釋經由淺及深,漸次而進。文言釋乾坤,六十四卦之本也;至彖傳則釋上下卦往來上下之義,教初學識本象矣;象傳則言及中爻,教人識互象也;繫傳初言剛柔動靜,次言錯綜變化,無義不備,無象不包,然皆崑崙言之。至說卦,遂明言八卦方位矣。方位者,易之本,乾鑿度所謂「八卦成列,天地之道立,雷風水火山澤之象定」也,先天而天弗違也;又為易之用,乾鑿度所謂「及其散佈用事,四時迭終,五行更廢」也,後天而奉天時也。
私はかつて《十翼》に就いて考察を加えた。それが孔子の作であるかどうかは、敢えて断定しないが、一人の手から出たことは疑いがない。それは経文を解釈するに浅より深に入り、逐步推進する。《文言》はただ《乾》《坤》の両卦を解するのみである。この両卦は六十四卦の根本だからである。《彖伝》に至れば上下両体の往来升降の意義を解釈し、初学の人に本卦の象を認識せしめる。《象伝》は中間の各爻に講じ及び、人に互卦の象を認識せしめる。《繋辞伝》は先ず剛柔動静を講じ、次いで錯綜変化を講じ、義理は備わらざるなく卦象は包含せざるなく、ただ皆籠統に渾言したのみである。《説卦伝》に至って、はじめて八卦の方位を明らかに講じ出した。方位は《易》の根本であり、《乾鑿度》のいわゆる「八卦列を成し、天地の道立ち、雷風水火山沢の象定まる」とは、講ずるは先天卦位であり、即ち《文言》のいわゆる「先天にして天違わず」である。方位はまた《易》の功用であり、《乾鑿度》のいわゆる「其の散布して事を用いるに及び、四時迭終り、五行更に廃す」とは、講ずるは後天卦位であり、即ちいわゆる「後天にして天時を奉ず」である。
方位不明,易不能通。至對象,較互象又進矣。互象有形可察,對象則伏於虛,無形可據,明言之,俾人知象之顯於此者尚有隱於彼。雜卦明申其義。互象漢魏人皆知,對象則不盡知,覆象則知者益少,果不出聖人之所略焉。
方位を弄清楚しなければ、《易》は読み通すことができない。「対象」に至っては、互象よりまた一層進んだ。互象には形跡あって察看し得るが、対象は却って虚処に潜伏して、依拠し得る形跡がない。だから必ず明らかに説き出さなければならない。もって人にこの一卦に顕現する象には、なおあの一卦に潜伏する一面があることを知らしめる。《雑卦伝》はまさにこの層の意を明らかに申説したものである。互象は漢魏の人が皆解したが、対象は即ち人人皆解するにあらず、覆象を解する人はなおさら少ない。果たして皆聖人がすでに顧慮していた疏略の中に落ちた。
易の演ずる所は皆公例公理
凡易之所言,皆天地間之公例公理,為萬物萬事所不能逃。先儒謂其專言天道,或專言人事者,皆不知天道不如人事者也。天道與人事,無二理也。仁者見之謂之仁,智者見之謂之智,如執其辭,將一句不能通。
《易経》の講ずる所は、皆天地の間の公例公理であって、万事万物が逃脱すること能わざるものである。前代の学者には或いは《易》は専ら天道を講ずると言い、或いは専ら人事を講ずると言う者があるが、これは皆天道と人事がもともと两途でないことを明らかにしない説である。天道と人事には、並び二種の道理がない。《繋辞伝》に「仁者之を見てこれを仁と謂い、知者之を見てこれを知と謂う」と言う。もし字面を死抠すれば、即ち一句も講じ通らない。
易辞は皆象より生ず
凡易辭無不從象生。如舍象不求,而只演空理,則聖人之立言,無乃太怪奇乎?且如睽六三上九、小過六二等詞,如不從象生,直謂之發狂可也,尚何聖之足云,是誣聖也。故夫王弼反古,避難就易,去實蹈虛,以諛媚後學,真易之罪人也。
《易経》の文辞に一句として卦象から生じないものがない。倘若卦象を舍開して追究せず、ただ空洞の義理を推演するならば、聖人の立言はあまりに離奇怪古ではないか。譬えば《睽》六三の「其の人天にして且つ劓る」、上九の「鬼を一車に載せ、先ず之に弧を張る」、《小過》六二の「其の祖を過ぎ、其の妣に遇う」の類の文辞は、もし象から生じたものでなければ、直ちに発狂の呓語と言うべく、なお何の聖人を論ずることがあろうか。それは即ち聖人を誣蔑するものである。だから王弼が古法に違背して難を避け易に就き、実象を拋開して虚談に蹈み入り、これを借りて後学を取り悦ばせたのは、真に《易》学の罪人である。
凡象用於此而合,用於彼而不合,必誤,如以離為斧是也。又象用於此而合,於彼不合,所取必誤。誤而不求其故,須再三變而始得其象者,皆曲說也。二千年易解之晦,由此也。茲有一證,述之如下。
およそ一つの象がこの一処に用いれば講じ通り、別の一処に用いれば講じ通らないならば、それは必ず取り誤ったものである。例えば離を取って斧とするのがこのようである。同じく、一つの象がここでは相合しあそこでは合わないならば、取った所に必ず誤りがある。取り誤ってまたその縁故を追究せず、必ず卦爻を輾転して両三次変じてはじめて勉强あの象を凑出させる。これらは皆曲解である。二千年以来《易》の解説が晦暗不明である所以の癥結は、即ちここにある。ここに一つの証例があり、以下に叙述する。
易の牛象
離彖離為牝牛,說卦坤為牛,左傳云純離為牛,此半象之本也。乃人於睽六三年之牛、革初九之牛、旅上九之牛,除遵用虞氏誤解、不取左氏外,餘皆知此以離為牛,詁甚得也。乃於無妄六三之牛、大畜六四之牛、遯六二之牛,皆知以坤為牛,不誤也,而皆不得解者何也?所取誤也。明之如下。
《離》卦辞に「牝牛を畜すれば吉」と言い、《説卦伝》は坤為牛と言い、《左伝》昭公五年の筮例に「純離為牛」と言う。これが即ち半象を用いて牛を取る根拠である。《睽》六三・《革》初九・《旅》上九の各爻の言う牛に至っては、虞翻の錯解を照搬して《左伝》の説を取らない人を除くほか、その余の人は皆この数処が離をもって牛とすることを知り、訓釈は甚だ当を得ていた。しかし《无妄》六三の牛・《大畜》六四の牛・《遯》六二の牛に対しては、大家も皆坤をもって牛とすることを知り、取り誤ってはいなかったが、しかも皆その所以然を講じ出せなかった。なぜか。取象する位置が誤っていたからである。以下に説明を加える。
无妄六三「或いは之に牛を係く、行人の得、邑人の災」の解
六三巽體,巽為繩,故曰繫;坤為牛,乃坤下剛成震,震為行為人,則牛之繫者已行矣,故曰行人之得。此雖以坤為牛,因坤形滅,故牛亦亡。其措詞之妙,有非凝目注視卦象而不能喻者,徒捃拾舊解無益也。大畜六四之牛,解已見前。
《无妄》六三に「或いは之に牛を係く、行人の得、邑人の災」と言う。六三は三から五爻までの互いに出る巽体の中に処り、巽は縄なので「係」と言う。坤は牛であるが、しかし坤の最も下の一爻が剛爻に変じれば即ち震を成し、即ち《无妄》の下体である。震は行・人である。ならば係いだ牛はすでに人に牽き去られたので「行人之得」と言う。ここでは坤をもって牛とするが、しかし坤の形体がすでに消失したので、牛もまたこれに随って見えなくなった。その措辞の巧妙は、神を凝して卦象を盯住して見なければ領会し得ない。ただ旧注を拾いに行くのみでは用がない。《大畜》六四のあの牛は、解説はすでに前文に見える。
遯六二「之を執るに黄牛の革を用い、之に勝いて説ぐ莫し」の解
坤為黃為牛,乃坤上而剛,則牛之革也,此艮之所以為膚也。艮為手,故曰執;艮為守為拘,故莫能脫。
《遯》六二に「之を執るに黄牛之革を用い、之に勝いて説ぐ莫し」と言う。坤は黄・牛であり、しかも《遯》の下体の艮はまさに坤の上爻が剛爻に変じて成ったものである。牛がすでに形を変えた以上、残るはただ牛皮のみである。これもまた艮が「肤」の象を取り得る所以である。艮は手なので「執」と言い、即ち捉える。艮は守・拘禁なので、誰も挣脱することができないと言う。
以上牛象,倏有倏無,若隱若見,於卦象恰合,胡用強變成坤以取象哉?坤為牛,乃坤之震,則牛之繫者已行矣(無妄);坤之艮,則牛之童者已角矣(大畜);坤之艮,則牛而成革矣(遯卦)。此雖非焦義,乃由焦用象推測,其神妙如此也。
以上のこの数処の牛象は、忽ちあり忽ちなく、若い隠れ若い顕れ、卦象と絲絲入扣する。どうして無理に爻を坤に変じて象を凑せる必要があろうか。坤為牛において、坤が震に変じれば、係いだ牛はすでに人に牽き去られた。これは《无妄》六三である。坤が艮に変じれば、小牛はすでに角を長じ出した。これは《大畜》六四である。同じく坤が艮に変じれば、牛は便ち皮革のみが残る。これは《遯》卦六二である。この数条は焦延寿本人の原話ではないが、しかし焦氏が象を用いる路数によって推し求めて出たもので、その神妙は一至このようである。
明夷六五・易林の箕子の確詁
《易林》雖以震為箕、為箕子,本明夷彖傳也。至六五箕子之明夷,自西漢以來無作紂臣解者。蜀趙賓讀箕子為荄茲,荄茲者,萬物方荄茲也,師古云「言根荄方滋茂也」,見孟喜傳,蓋古文原如此。而班固非易家,不知其為確詁,反摭拾梁邱施二家毀謗孟喜之詞,謂孟喜喜為名之,後賓死,因不肯仞云云。
《焦氏易林》は震をもって箕・箕子とするが、それは《明夷》彖伝の言う「内に難あって能く其の志を正しくす、箕子之を以てす」に本づく。六五爻辞の「箕子之明夷」に至っては、西汉以来それを殷紂の臣子箕子と解した人がいない。蜀人趙賓は「箕子」を「荄茲」と読み、いわゆる荄茲とは、万物がまさに草根に於いて萌発滋長することを言い、顔師古の注に「これは草根がまさに滋茂することを講ず」と言う。この事は《漢書・儒林伝》の孟喜本伝に見える。これで古文本はもともとこのように書いていたことが分かる。しかも班固は《易》を治める行家ではなく、これが確詁であることを知らず、反って梁丘賀・施讐の両家が孟喜を詆毀した話を撿起して、孟喜はこの説法を取って自ら標榜するのを好み、後に趙賓が死ぬと、孟喜は便ち承認することを肯んじなかったという等を言った。
若讀箕子為荄茲,為趙賓創解且大誤者,豈知劉向云「今易箕子作荄滋」,與賓讀同也。向所據皆中古文,非依賓讀,可見賓讀之為舊詁,非所自創,更可見孟喜傳嘲譏孟喜之語之為誣詞。宋晁景迂嘗再四不平,欲為孟喜辨誣,而不能求得其故,至惠定宇始昌言之,惠氏真善於讀史者也。
或る人は「箕子」を「荄茲」と読んだのは趙賓の創解であってしかも大錯であると考えるが、殊に知らないのは劉向がかつて「今本《易》の箕子は荄滋と書く」と言い、趙賓の読法と同じであったことである。劉向の依拠したものは皆中秘の蔵する古文本であって、趙賢に跟って行ったのではない。これでこの読法はもともと旧有の訓詁であって、趙賓の自創ではないことが分かる。さらに《漢書》孟喜本伝の中で孟喜を譏嘲した話が純粋に誣詞であることが分かる。宋代の晁説之(号は景迂)はかつて再三このために不平を鳴らし、孟喜のために誣を弁しようとしたが根拠を探し出せず、清代の恵棟(字は定宇)に至ってはじめてこの層の道理を公開申明した。恵棟は真に史を読むに善い人である。
至東漢馬融,始詁六五之箕子亦為殷太師。豈知彖傳所言之箕子,與六五所言之箕子,在當時字必不同,蜀才箕作其,是其證;卽王弼亦讀子為茲,與趙賓同,後人以其音近混同之耳。設六五之箕子卽為殷之箕子,彖傳萬不能引以解易,六十四卦彖傳之辭,有一例如是者乎?可覆按也。凡彖傳皆自出新義,無有引爻詞以解彖者。是皆因卦象失傳,故駭怪荄滋之讀。豈知明夷六五,震體也,震為生,故曰滋;震為萌芽,故曰荄。請還以《易林》明之。
東漢の馬融に至って、はじめて六五の「箕子」をもまた殷朝の太師箕子と訓した。殊に知らないのは、彖伝の言う箕子と六五の言う箕子は、当時の用字が必ず同じでなかったことである――蜀才本は「箕」を「其」と書き、即ち明証である。王弼でさえも「子」を「茲」と読み、趙賓と一致した。ただ後人が音が近いために両者を混同したにすぎない。仮使六五の箕子が即ち殷朝の箕子であれば、彖伝は決してそれを引いて卦を解すること能わざる。六十四卦の彖辞の中に、どの一条にこのような先例があろうか。全く复核することができる。およそ彖伝は皆自ら新義を出すもので、爻辞を引用して卦体を解釈することはない。これらの誤解は皆卦象が失伝したためで、だから一たび「荄滋」の読法を見れば即ち大驚小怪する。殊に知らないのは《明夷》六五は互震の中に処り、震は生なので「滋」と称し、震は萌芽なので「荄」と称したことである。請うてさらに《焦氏易林》を取って証明を加えん。
《易林·升之中孚》云「百草嘉卉,萌芽將出」,以震為萌芽也;《小畜之睽》云「芽櫱生達,陽昌於外」,震為芽櫱,睽通蹇,陽居五,故曰生達,故曰陽昌於外。夫所謂芽櫱,卽荄也;生達,卽滋也。明夷互震,陽在下,不得昌於外,故曰荄滋之明夷,言根荄芽櫱,正當坎冬,不得生達,故明夷也。
《易林・升之中孚》の林辞に「百草嘉卉、萌芽将に出ざらんとす」と言うのは、震をもって萌芽とする――《中孚》は二から四爻まで互震。《小畜之睽》に「芽蘖生達し、陽外に昌んなり」と言う。震は芽蘖であり、《睽》は《蹇》と旁通し、《蹇》の陽爻は第五位に居るので「生達」と言い「陽外に昌んなり」と言う。いわゆる芽蘖とは即ち「荄」であり、いわゆる生達とは即ち「滋」である。《明夷》の互体に震はあるが、しかし陽爻が下にあって外に昌盛することができないので、「荄滋之明夷」と称する。草根の嫩芽がまさに坎水寒冬に碰上し、抽発して生長することができないので、それによって光明が傷ると言う。
又《坎之解》云「寒露所凌,漸至堅冰,草木瘡瘍,華葉落亡」,解下坎,為寒露為堅冰,震為草木,陽在下,故瘡瘍。瘡瘍卽明夷,草木瘡瘍,華葉落亡,卽荄滋明夷也。解與明夷二至上同,說解卽說明夷,與賓詁同也,紛紜之聚訟可以解矣。惠定宇於此爻厯史,辨之綦詳,有功先儒,嘉惠後學,惟不知震為萌芽為胎為孕,故不知荄滋之象,乃讀荄滋為亥子。易明言天干則有之,言十二辰則未見也。
また《易林・坎之解》の林辞に「寒露の凌ぐ所、漸く堅氷に至り、草木瘡瘍し、華葉落亡す」と言う。《解》卦の下体は坎であり、坎は寒露・堅氷である。上体の震は草木であり、陽爻が下にあるので、草木は瘡を生じ潰爛する。瘡瘍とは即ち「明夷」であり、即ち傷を受けてその光明を失うことである。草木が瘡を生じ花葉が凋落するは、まさに「荄滋明夷」である。《解》卦は二爻から上爻まで《明夷》と同じく皆下坎上震の体なので、《解》を講ずるは即ち《明夷》を講ずるに等しく、趙賓の訓釈と完全一致する。紛紛擾擾の争訟はここに至って了結し得る。恵棟はこの一爻の原委を考辨すること極めて詳尽で、前賢に功あり後学に恵ありであるが、ただ彼は震が萌芽・胎・孕であることを知らず、よって「荄滋」の象がどこから来たかを明らかにせず、竟に「荄滋」を地支の「亥子」と読んだ。《易経》が明白に天干に言及したものは確かにあるが、明白に十二地支に言及したものはまだ見たことがない。
賁の初九・六二は皆半象を用いる
賁下離,離下震上艮,故初九曰趾,曰舍車而徒,徒,徒步行也,趾與徒皆震象。六二曰賁其須,艮為須也。《易林·同人之否》云「繫於虎鬚」,否巽為繫,艮為虎為須;又《蹇之旅》云「棘掛我須」,亦以旅艮為須。賁其須與賁其趾對文,治虞易者詁須為待,非也。易皆用半象也。
《賁》卦の下体は離であり、しかも離の下の両爻は半個の震を構成し、上の両爻は半個の艮を構成する。だから初九に「其の趾を賁る」と言い「車を舍てて徒たり」と言う――徒とは即ち徒歩で行走することであり、「趾」と「徒」は皆震象から出たもので、震は足・行である。六二に「其の須を賁る」と言うのは、則ち艮を取って須とする。《易林・同人之否》の林辞に「虎須に係る」と言う。《否》は三から五爻まで互巽で、巽は繩係であり、二から四爻まで互艮で、艮は虎・須である。《蹇之旅》に「棘我が須に挂かる」と言うのも、《旅》下体の艮を取って須とする。「賁其須」と上文の「賁其趾」はまさに対偶して文を成す。虞翻の易学を治める人は「須」を等待と訓するが、誤りである。この両爻が用いたのは皆半象である。
豫九四「朋盍簪」の象
京作撍,子夏傳作簪,雲疾也,鄭云速也,馬作臧,荀作宗,虞作戠,雲聚會也,獨侯果訓為括髮之簪。清之毛奇齡惠士奇惠棟孫星衍錢大蚚焦循王引之翁元圻等,各有所主,大抵皆駁侯果之說,惟毛奇齡翁元圻用侯說,謂簪為冠簪,所以括髮固冠。
《豫》九四に「朋盍簪」と言う。この「簪」の字は、京房本は「撍」と作し、《子夏易伝》は「簪」と作して「疾」と訓し、鄭玄は「速」と訓し、馬融本は「臧」と作し、荀爽本は「宗」と作し、虞翻本は「戠」と作し且つ聚会と訓し、ただ唐人侯果のみがそれを髪を束うる簪子と訓した。清代の毛奇齢・恵士奇・恵棟・孫星衍・銭大蚚・焦循・王引之・翁元圻らは各々一説を持し、大体皆侯果を駁する中に在り、ただ毛奇齢・翁元圻のみが侯果の説を採用し、簪は即ち冠簪であって、髪を束え帽子を固定するのに用いると考えた。
其駁侯說者,謂古祗有笄,無有簪,簪之名至漢始有。儀禮士喪禮「簪衣於裳」,鄭注云「簪,連也」,儀禮仍漢世之書,不足據也,簪於冠無涉也。繁徵博引,以炫其博,豈知六經何者非漢儒所傳,而能謂六經皆漢世書乎?況簪之與笄,名異而實同,在周則多稱曰笄,在漢則多稱曰簪。說文:笄,簪也;簪,無首笄也。鄭注士冠禮云「笄,今之簪」,其為一物甚明,而惠棟必謂漢時始有簪名。豈知儀禮外,李斯諫逐客書云「宛珠之簪」,韓非子「周主亡玉簪」,其不始於漢甚明。
あの侯果を駁斥する者は言う。古代にはただ「笄」があるのみで「簪」はなく、簪のこの名称は漢代に至ってはじめて出現した。《儀礼・士喪礼》に「裳に衣を簪す」の語があり、鄭玄の注に「簪とは即ち連綴なり」と言う。しかも《儀礼》は依然として漢代に伝えられた書であって、拠るに足らない。ましてやこの簪は帽子と関係がない。彼らは旁徴博引して自らの博洽を炫耀するが、しかし六経のどの一部が漢代の学者の伝えたものでないのかを思いもしない。豈に六経が皆漢代の書であると言うことができようか。况且簪と笄は名称は異なるが実は一物である。周代は多く笄と称し、漢代は多く簪と称した。《説文解字》に「笄とは即ち簪なり」「簪とは頭飾なき笄なり」と言い、鄭玄が《儀礼・士冠礼》に注して「笄とは即ち今の簪なり」と言う。両者が同じ一件の物であることはこれ以上明白なことはない。しかも恵棟は偏に漢代にはじめて簪のこの名称があったと言う。殊に知らないのは《儀礼》を除くほか、李斯《諫逐客書》に「宛珠之簪」に講じ及び、《韓非子》に「周主玉簪を亡す」に講じ及ぶので、簪は漢代に始まらないことが分かる。これは極めて明白である。
又後儒見漢人訓簪為連為聚,必謂與笄異物,以駁侯說。豈知釋名云「笄,繫也,所以繫冠,使不墮也」,繫之與連,有以異乎?笄貫紐武,注「冠鼻,使與髮連,繫冠不墜」,簪之用猶是也。漢之時冠式或與周小異,其固冠之法則不異也。
後代の学者はまた漢人が「簪」を連・聚と訓したのを見て、便ちそれが笄と両樣の物であると断定し、もって侯果を駁した。殊に知らないのは《釈名》に「笄とは即ち繋なり、もって帽子を繋いでそれを墜ちざらしむ」と言うにあり、「繋」と「連」に何の区別があろうか。笄は冠上の紐と武(帽圏)を穿ち通さなければならず、注文はそれを冠上の鼻紐と言い、帽子を頭髪と相連させ帽子を繋いで墜落せざらしめる。簪の用処もまさにこのようである。漢代の冠式は或いは周代と稍々異なっていたかもしれないが、帽子を固定する弁法は並び二致なかった。
後儒徒執簪哀於裳之鄭注,訓簪為連,豈知連衣於裳之必有物乎?物卽簪也。又簪衣於裳者,乃死者之衣裳,非復者招魂之衣裳。死者之衣裳上下殊,故以簪連之;復者持以招魂。今必謂簪為連衣裳之物,更不可用以括冠髮,有是理乎?況易如此等字,無不從象生。後儒訓此字,動至千言,然從無有返本歸根、求之卦象者,故愈說愈晦也。
後代の学者はただ《儀礼》の「裳に衣を簪す」の鄭玄注を抓住して、簪を連綴と訓したが、しかし思いもしなかった。上衣を下裳の上に連げようとするには、総じて一つの物件がなければならないだろう。あの物件はまさに簪である。さらに「裳に衣を簪す」の指す所は死者の衣裳であり、行「復礼」の人が取って招魂するあの套の衣裳ではない。死者の衣裳は上下分開するので、簪を用いて連げる。招魂の人は則ち衣裳を執って招魂に行く。今強いて簪はただ衣裳を連綴するものであって、決して髪を束え冠を固めるのに用いることができないと言う。天下にこのような道理があろうか。ましてや《易経》の中のこの類の字に卦象から生じないものが一つもない。後代の学者がこの一つの字を訓釈するに、動もすれば千言を写すが、しかし従来本に返り根に帰って卦象の中に寻求した人がいない。だから説けば説くほど晦暗となる。
按《易林·恆之咸》云「簪短帶長」,咸互巽,為帶為長,艮為簪也,兌折,故簪短;又《復之節》語同,節三至五互艮,亦以艮為簪。豫九四艮以一陽統率群陰,若簪之穿物,故曰盍簪;陽以陰為朋,震為髮,言群朋附四,若簪之括冠髮也,故曰朋盍簪。此有一確注,杜詩云「盍簪喧櫪馬」,艮為小木為簪,言群馬之韁共繫於橫木之上,故曰盍簪。能解杜詩,則朋盍簪三字之形容如繪出矣。又艮為小木,古士庶之家嘗以桑為笄,見儀禮;以蓍為簪,見韓詩外傳;以荊為釵,見列女傳,故艮為簪。自艮簪震髮之象失傳,於是此語之神妙都不解,而為無味之聚訟。
按ずるに《易林・恒之咸》の林辞に「簪短く帯長し」と言う。《咸》卦は二から四爻まで互巽で、巽は帯・長である。下体の艮は簪である。上体の兌は毁折なので簪短し。《復之節》の林辞はこれと同じで、《節》卦は三から五爻まで互艮であり、これもまた艮をもって簪とする。《豫》卦の九四のこの一本の陽爻は上下の五本の陰爻を統率し、あたかも簪子が衆物を穿ち通すが如し。だから「盍簪」と言う。陽は陰をもって朋とし、上体の震は頭髪である。衆朋が九四に依附して、あたかも簪子が冠髪を束えるが如しと言うので「朋盍簪」と言う。ここに一条の確切な旁証がある。杜甫の詩句「盍簪櫪馬を喧からす」――艮は小木・簪であり、群馬の繮繩が一斉に一本の横木に係ることを言うので「盍簪」と称する。杜詩を解し通れば、「朋盍簪」の三字の描摹する情景は画き出したが如くである。艮はまた小木であり、古の士人庶人の家はかつて桑木を用いて笄を作ったことが《儀礼》に見え、蓍草を用いて簪を作ったことが《韓詩外伝》に見え、荊条を用いて釵を作ったことが《列女伝》に見える。だから艮は簪と為り得る。艮為簪・震為髪のこの二つの象が失伝して以来、この句の爻辞の神妙は理会する人がなく、ただ一場の意味なき争訟が残るのみである。
又杜詩蔡註解此句雲朋友燕會,可謂大誤。題為杜位宅守歲,時子美尚未官京師,故在從弟家守歲。曰「四十明朝過」,則除夕也;曰「列炬散林鴉」,則深夜也。以唐時風俗,豈有此時會朋友哉?而王應麟謂杜詩注詳博,但不知詩用侯果注,亦未察知蔡注大誤之所在,以此嘆解人千古難索。
さらに杜詩の蔡氏注は、この一句を朋友の宴会と解したが、大錯と言うべきである。この詩は題して《杜位宅守歳》と作し、当時杜甫(字は子美)はまだ京城で官を為していなかったので、堂弟の家中で歳を守ったのである。詩の中に「四十明朝過ぎん」と言うので、これが除夕であることが分かる。「列炬林鴉を散ず」と言うので、すでに深夜に至ったことが分かる。按ずるに唐代の風俗において、どうしてこのような時候に朋友を聚会しようか。しかも王応麟は杜詩注が詳実博洽であると称賛したが、この句の詩が用いたのはまさに侯果の注であり、また蔡注の大錯がどこにあるかも察覚しなかった。これによって真の解人は千古求め難いことを嘆じ得る。
艮の邦
漢魏人但知坤為邦國,於是卦無坤象者遂不能解。茲按《易林·師之賁》云「惠我邦國」,《乾之艮》云「寇賊大至,入我邦國」,皆以艮為邦。以是推坎蹇漸中孚彖傳皆曰邦,皆以正互艮為邦,非以坤為邦。
漢魏人はただ坤為邦国を知るのみで、そこで卦の中に坤象がない所に碰到すれば講じ通らなくなった。現に按ずるに《易林・師之賁》の林辞に「我が邦国に恵む」と言い、《乾之艮》に「寇賊大いに至り、我が邦国に入る」と言うのは、皆艮をもって邦とする。これに拠って《坎》《蹇》《漸》《中孚》の幾卦の彖伝の中で言及する「邦」は、皆本体あるいは互体の中の艮をもって邦とし、坤をもって邦とするのではないことを推知する。
剥が艮をもって床とするの解
《易林·姤之遯》云「展轉空床」,以遯艮為床也;《旅之同人》云「床傾簀折」,同人通師,師二至四艮覆,故曰床頭。自得此象,始知剝初六六二六四之床之皆以艮,易原以剝為大艮也。舊解統以巽為床,解巽卦尚可,解剝卦遂不合矣。
《易林・姤之遯》の林辞に「空床に展転す」と言うのは、《遯》下体の艮をもって床とする。《旅之同人》に「床傾き簀折る」と言い、《同人》は《師》と旁通し、《師》卦は二から四爻まで互震で、震はまさに艮を倒転した覆象であり、倒転すれば則ち傾覆するので、林辞に床の傾倒に講じ及んだ。この象を取得して以来、《剥》卦の初六「床を剥ぐに足を以てす」・六二「床を剥ぐに辨を以てす」・六四「床を剥ぐに肤を以てす」の言う床が皆艮から取ったことをはじめて知る――《易経》はもともと《剥》の整卦を一つの大艮と見做し、五陰の上に一陽を覆する。旧注は一概に巽をもって床とし、もって《巽》卦を解するはなお勉强であるが、もって《剥》卦を解すれば合わない。
革の「小人革面」
虞翻謂面指四,非也,伏艮為面也。《易林·遯之蒙》云「雲過吾面」,蒙坎為雲,艮為面也;又《泰之觀》云「無面有頭」,亦以艮為面。革上六艮伏,故曰革面。面者,向也,史記項羽本紀「馬童面之」是也。
《革》上六に「小人革面」と言う。虞翻はこの「面」は九四を指すと言うが、正しくない。実は潜伏する艮象を取ったものである。《易林・遯之蒙》の林辞に「雲我が面を過ぐ」と言う。《蒙》の下体の坎は雲であり、上体の艮は面である。《泰之観》に「面なくして頭あり」と言うのも、艮をもって面とする。《革》卦は《蒙》と旁通し、《蒙》の上体は艮であるので、《革》上六は艮象を伏有し、それによって「革面」と言う。「面」とは即ち面向であり、《史記・項羽本紀》は呂馬童が「之に面す」と言うのは、即ち顔を転じて彼に対するもので、まさにこの用法である。
震六二の貝象
舊解皆以離為貝。茲按《易林·剝之蒙》云「齎貝贖狸」,蒙艮為手為貝,故曰齎貝;又《謙之蠱》《訟之大畜》皆曰喪貝,亦皆以艮為貝。蓋艮剛在上,亦可為貝。震六二艮體,故曰貝;坎失,故曰喪貝。
《震》六二に「億貝を喪う」と言う。旧注は皆離をもって貝とする。現に按ずるに《易林・剥之蒙》の林辞に「貝を賷いて狸を贖う」と言い、《蒙》の上体の艮は手・また貝であるので「賷貝」と言い、即ち貝を持って行く。《謙之蠱》《訟之大畜》の両条に皆「貝を喪う」と言うのも、皆艮をもって貝とする。大概艮は一本の剛爻が上に覆し、形状が貝殻に象るので、また貝象を取ることができる。《震》卦は二から四爻まで互艮で、六二はまさにこの艮体の中に処るので「貝」と言う。三から五爻まで互坎で、坎は喪失なので「喪貝」と言う。
震の髪・艮の須
《易林·節之謙》云「伯去我東,首髮如蓬」,以震為髮也;《訟之需》云「引髯牽須」,需通晉,晉艮為髯須為手,故曰牽須,以艮為須也。蓋震為生,髮向上生,故震為髮;而震反為艮,鬚髯皆向下生,故艮為須。其取象皆以卦形。
《易林・節之謙》の林辞に「伯我を去り東に、首髪蓬の如し」と言うのは、震をもって頭髪とする――《謙》は三から五爻まで互震。《訟之需》に「髯を引き須を牽く」と言い、《需》は《晋》と旁通し、《晋》は二から四爻まで互艮で、艮は髯須・また手であるので「牽須」と言う。これは艮をもって須とする。大概震は生発を主り、頭髪は上に向かって長ずるので、震は髪となる。しかも震が一たび倒転すれば即ち艮となり、鬍鬚髯毛は皆下に向かって長ずるので、艮は須となる。この二つの象は皆卦画の形状に就いて取って来たものである。
自得震髮象,始知既濟九二之喪髴,從子夏傳,謂半震也。震為髮,髴者髮飾,二四又形巽,巽寡髮,故喪髴。又自得艮須象,始知賁六二之賁其須,為鬚髯之須,與上賁其趾對文。虞氏訓須為待,固非;惠士奇謂須當為斑,尤非;毛西河惠棟本說文,謂須為面毛,得解矣,而皆不知須究為何象,於是毛西河以口上頤下為說,易焉有如此取象者哉?賁上艮為須,下離為文,而二為離中,言下離文上艮也,故象曰「與上興也」。上謂上卦艮,諸儒謂指六五或指上九言者,皆非也。
震為髪のこの象を取得して以来、《既済》九二の言う「髴を喪う」(《子夏易伝》の写法に依る)が、半個の震象を指すことをはじめて明らかにした。震は髪であり、「髴」は髪飾りである。二爻から四爻の間にまた巽形が現れ、巽は頭髪稀少なので、髪飾りを喪失すると言う。また艮為須のこの象を取得して以来、《賁》六二の「其の須を賁る」の「須」が須髯の須であることをはじめて明らかにし、上一爻の「其の趾を賁る」と正に対文を成す。虞翻は「須」を等待と訓したが、もともと正しくない。恵士奇は「須」は「斑」と作すべきと言い、なおさら正しくない。毛奇齢(号は西河)・恵棟は《説文解字》に依拠して須は面上の毛であると言い、解して正しかったと言えるが、しかし彼らは皆須がいったい何の象から出たかを知らなかった。そこで毛奇齢は「口以上、頤以下」のような部位を用いて説解した――《易経》にどうしてこのように象を取ることがあろうか。実は《賁》の上体の艮は須であり、下体の離は文飾であり、六二はまさに下離の中に在り、下面の離の文采を用いて上面の艮を文飾することを言うので、《象伝》に「其の須を賁るとは、上と興ればなり」と言う。「上」は上卦の艮を指し、各家がそれを六五と指すと言いあるいは上九と指すと言うのは、皆正しくない。
震の翰象
《易林·坤之謙》云「修其翰翼」,《大壯之震》云「晨風文翰」,皆以震為翰也。自得此象,賁六四之白馬翰如,始知翰為羽翰之翰,言馬行迅速,其形容似之。馬荀作高,鄭作白,清儒作乾,皆失翰如形容之妙。又自得此象,中孚上九之翰音登于天,人知翰音之為巽雞,而不知翰音之用伏。中孚上巽伏震,震為音為翰,故曰翰音。虞氏謂翰為高音,指互震,非。
《易林・坤之謙》の林辞に「其の翰翼を修す」と言い、《大壮之震》に「晨風文翰」と言うのは、皆震をもって翰とし、即ち羽毛である。この象を取得して以来、《賁》六四の「白馬翰如」において、「翰」は羽翰の翰であることをはじめて知る。馬が疾く走ることを言い、その形容はまさに鳥羽が疾飛するに象る。馬融・荀爽本は「高」と作し、鄭玄本は「白」と作し、清代の学者は「干」と作したが、皆「翰如」のこの形容の妙処を失った。またこの象を取得して以来、《中孚》上九の「翰音天に登る」もまた着落した。人はただ「翰音」が巽為鶏であることを知るのみで、ここで用いたのは伏象であることを知らない。《中孚》の上体は巽であり、巽の伏する所(旁通する所)はまさに震であり、震は音・翰であるので「翰音」と称す。虞翻は「翰」は高音で互体の震を指すと言うが、誤りである。
坤の雲
《易林·困之泰》云「陰雲四方,日在中央」,以泰上坤為雲也;又《未濟之升》云「雲興蔽日」,亦以升上坤為雲。自得此象,始知小畜小過之密雲,皆以重陰,而非取象於坎,故曰不雨。不雨之故,皆以下有艮火也。
《易林・困之泰》の林辞に「陰雲四方、日中に在り」と言うのは、《泰》上体の坤をもって雲とする。《未済之升》に「雲興り日を蔽う」と言うのも、《升》上体の坤をもって雲とする。この象を取得して以来、《小畜》と《小過》の言う「密雲雨せず」が、皆重ね重ねの陰爻を取って雲としたことをはじめて知る。坎に象を取ったのではない。だからこそ「不雨」と言う――もし真に坎水であれば、雨が降るべきである。雨しない所以は、皆下に艮があって、しかも艮は火であるためである。
艮の鴻・震の鴻
《易林·師之萃》云「鴻雁啞啞,以水為家」,以艮為鴻雁也;《臨之師》云「鴻鵠失珠」,以震為鴻也。自得此象,漸之六鴻遂能解。漸下艮為鴻,上巽通震,震亦為鴻,故六爻皆言鴻。此見巽卽言震,亦猶解上六見震卽言巽高墉也。易原視本象與對象不分也。自此象失傳,後儒以互離為鴻,互離不能及六爻也。
《易林・師之萃》の林辞に「鴻雁啞啞として、水を以て家と為す」と言うのは、艮をもって鴻雁とする――《萃》は二から四爻まで互艮。《臨之師》に「鴻鵠珠を失う」と言うのは、震をもって鴻とする――《師》は二から四爻まで互震。この象を取得して以来、《漸》卦の六爻に皆「鴻」と言うのがはじめて講じ通る。《漸》の下体の艮は鴻であり、上体の巽は震と旁通し、震もまた鴻であるので、六爻に皆鴻と言う。これが即ち巽を見れば即ち震を連ねて併せて取用するもので、まさに《解》上六が震を見れば即ち巽を連ねて併せて取用して「高墉」(巽は高)と言うに等しい。《易経》はもともと本卦の象と対卦の象を彼此を分かたぬものと見做す。この象が失伝して以来、後代の学者は改めて互体の離を用いて鴻としたが、しかし互離は全部の六爻に照顧し及ばない。
艮の鳥・震の鳥
艮鳥震鳥。《易林·履之咸》云「鳥升鵲舉」,以咸下艮為鳥也;《蠱之解》云「鳥返故巢」,以解上震為鳥也。自得此象,始知小過上下卦皆有鳥象,故彖與上初稱飛鳥,舊解皆誤。
艮は鳥であり、震もまた鳥である。《易林・履之咸》の林辞に「鳥升び鵲挙ぐ」と言うのは、《咸》下体の艮をもって鳥とする。《蠱之解》に「鳥故巢に返る」と言うのは、《解》上体の震をもって鳥とする。この象を取得して以来、《小過》の上下両体が皆鳥象を含むことをはじめて知る――下艮上震なので、卦辞と上六・初六に皆「飛鳥」と称す。旧注は全て錯えた。
震は商旅を為す
《易林·恆之臨》云「商人休止」,又旅林云「不利旅客」,以震為商旅也。震為行,故為商旅。因思復象云「商旅不行」,以震為商旅也,坤閉,故不行。舊說非。
《易林・恒之臨》の林辞に「商人休止す」と言い、《旅》卦の林辞に「旅客に利からず」と言うのは、皆震をもって商旅とする――《臨》は二から四爻まで互震であり、《旅》は《節》と旁通して震を含む。震は行走なので商旅と為り得る。これによって《復》卦《象伝》の「先王至日を以て関を閉じ、商旅行わず」と言うを思い、まさに震をもって商旅とする――《復》の下体は震である。上体の坤は閉塞を主るので「不行」と言う。旧説は正しくない。
離の枯
自得此象,大過枯楊、離科上槁皆得解,詳卷四。統易林凡言枯者,不啻數十,無以乾老為枯者,虞翻用象誤也。
離為枯のこの象を取得して以来、《大過》九二・九五の言う「枯楊」、および《説卦伝》が離を講じて「其の木に於いても科上槁と為す」と言うのが皆講じ通る。詳しくは本書巻四に見える。《焦氏易林》を通検すれば、およそ「枯」と言う所は数十処を下らず、乾を取って老とし老によって枯を取る所は一か所もない。これで虞翻の用象が誤っていたことが分かる。
巽の隙
《易林·剝之中孚》云「隙大牆壞」,以巽為隙也。自得此象,井九二甕敝漏之義愈明,詳卷六。
《易林・剥之中孚》の林辞に「隙大きくて牆壊る」と言うのは、巽をもって縫隙とする――《中孚》の上体はまさに巽である。この象を取得して以来、《井》卦九二の「瓮敝漏」の意は一層顕豁となった。《井》の下体は巽であり、巽に縫隙があるので瓦瓮が破裂して水を漏らす。詳しくは本書巻六に見える。
震の鶴
自得此象,中孚正覆震,於是和字始能解;正覆艮,於是陰字始知為山陰,覆艮,詳見前。
震為鶴のこの象を取得して以来、《中孚》九二の「鳴鶴陰に在り、其の子之に和す」にはじめて着落した。《中孚》は二から四爻まで震を成し、三から五爻まで艮を成す。艮は即ち倒した震であり、一正一覆の二つの震が彼此呼応するので「和」の字はそこで講じ通ることができる。同じく、この一正一覆はまた二つの艮であり、「陰」の字は山の北面を指すことをはじめて知る――覆艮は山陰となる。詳しくは前文に見える。
震の舟・中孚の舟は確象を得た
舊解皆本繫辭,以渙為舟。豈知刳木為舟,指渙之互震也;剡木為楫,指渙之上巽也,非以重卦渙為舟也。解繫辭而誤,於是中孚之乘木舟虛,遂不知舟象之何屬。按《易林·大有之謙》云「方船備水」,謙上坤為方,互震為船。自得此象,於是中孚之舟虛遂能解。
旧注は皆《繋辞伝》の「木を刳いて舟を為し、木を剡して楫を為す……蓋し《涣》に取る」に依拠して、《涣》の整卦を取って舟とした。殊に知らないのは「木を刳いて舟を為す」が指すのは《涣》の二から四爻までの互いに出る震であり、「木を剡して楫を為す」が指すのは《涣》上体の巽であり、《涣》のこの重卦を取って舟としたのではない。《繋辞伝》を解してすでに誤ったので、そこで《中孚》彖伝の言う「木舟の虚に乘る」もまた舟象がどこから来るかを知らなくなった。按ずるに《易林・大有之謙》の林辞に「方船水を備う」と言う。《謙》の上体の坤は方であり、三から五爻まで互震は船である。震為船のこの象を取得して以来、《中孚》の「舟虚」ははじめて講じ通る。
震船之象,自來人不知。杭辛齋謂日本學易者有意象,以震為船,若中國無此象者。豈知《易林》有且多,至東漢失之耳。又意象以離為鏡,杭亦稱之,豈知《易林·恆之未濟》云「蔽鏡無光」,以離為鏡;又《升之賁》云「日鏡不明」,亦以賁下離為鏡。
震為船のこの象は、従来知る人がいない。杭辛斎は日本で《易》を治める人に《意象》の説があり、震をもって船とすると言い、あたかも中国にこの象がないかのようである。殊に知らないのは《焦氏易林》の中にただあるのみならず、しかも用いることが甚だ多いので、ただ東漢に至って失伝したのみである。《意象》はまた離をもって鏡とし、杭辛斎もまた之を称許するが、殊に知らないのは《易林・恒之未済》の林辞に「鏡を蔽えば光なし」と言うのは、まさに離をもって鏡とする。《升之賁》に「日鏡明らかならず」と言うのも、《賁》下体の離をもって鏡とする。
艮の隼
《易林·無妄之中孚》云「有兩赤鷂,從五隼噪」,兩鷂謂兌震,五隼謂巽艮也,兌數二,巽數五也,是以艮為隼也。因思解上六「射隼高墉之上,獲之,無不利」,艮隼覆,故獲也。唐黃賀說小過云「鳥墮雲間」,亦以艮鳥覆為墮,墮卽獲矣。
《易林・无妄之中孚》の林辞に「両の赤鷂あり、五隼に従い噪ぐ」と言う。両隻の鷂は兌と震を指し、五隻の隼は巽と艮を指す――先天卦数において兌は二・巽は五であるので、「両」は兌から出て鷂は震から出、「五」は巽から出て隼は艮から出る。これが即ち艮をもって隼とする。これによって《解》上六の「公用て隼を高墉の上に射て、之を獲、利ならざることなし」と言うを思う。艮は隼であり、しかもここの艮は倒転した覆艮である。隼がすでに倒墜したので「之を獲」と言う。唐人黄賀は《小過》を解して「鳥雲間に堕つ」と言うのも、艮鳥を倒転して墜落と見做したもので、墜落は即ち擒獲されるに等しい。
巽の虫
左氏云「三蟲為蠱」,蠱者,壞也。壞之故,以蠱多;多之故,以風止山下也。《易林》每以巽為蠱,本之左氏也。
《左伝》は「蠱」の字は皿の上に三虫が会意であり、蠱は即ち敗壊であると言う。敗壊する所以は、虫が過度に多いためである。虫が多い所以は、風が山に挡かれて山の下に停まるためである――《蠱》卦はまさに上艮が山・下巽が風であり、風が山の下に止まり、鬱積して通ぜず即ち虫を生ずる。《焦氏易林》は常に巽をもって蠱とするのは、まさに《左伝》のこの説法に本づく。
資斧の確象
《易林·漸之臨》云「斧斤卽折」,臨兌為斧,兌毀,故折;又《節之萃》云「千歲槐根,身多斧瘢」,萃中爻艮,艮多節,故曰瘢,兌斧,故曰斧瘢。統《易林》凡十數用,皆以兌為斧,無以離為斧者。蓋兌為剛魯,為附決,為毀折,斧者決物之器,亦折物之器,故為斧。虞翻以離為斧說旅九四之得斧,尚可通;說巽上九之喪斧,遂不合。於是虞翻命三變離毀,以詁喪字,其為曲解,尚足辨乎?旅九四之得斧,以互兌也;巽上九之喪斧,以兌覆也。《易林·萃之訟》云「亡錐失斧」,訟兌覆,故失斧,正注此也。凡象反者,義必反,雜卦所釋,至明白也。此亦二千年之誤象,由《易林》而明也。至資為齊,舊解甚詳,茲略。
《易林・漸之臨》の林辞に「斧斤即ち折る」と言い、《臨》の下体の兌は斧であり、兌はまた毁折を主るので折ると言う。《節之萃》に「千歳の槐根、身に斧瘢多し」と言い、《萃》は二から四爻まで互艮で、艮は枝節が多いので「瘢」と言い、上体の兌は斧なので「斧瘢」と言う。《焦氏易林》の十数処の用例を通検すれば、皆兌をもって斧とし、離をもって斧とする所は一か所もない。大概兌は剛強粗猛で、附決・毁折であり、しかも斧はまさに物を砍断し物を折断する器具であるので、兌は斧と為り得る。虞翻が離を用いて斧として《旅》九四の「其の資斧を得」を解するはなお勉强講じ通るが、《巽》上九の「其の資斧を喪う」を解すれば合わない。そこで虞翻は爻を輾転して第三次に変じさせ、離がすでに毀壊したと言い、これを借りてあの「喪」の字を訓釈した。このような曲解はなお弁駁する価値があろうか。《旅》九四に「斧を得」と言うのは、三から五爻まで互兌するためである。《巽》上九に「斧を喪う」と言うのは、あそこの兌がすでに倒転したためである。《易林・萃之訟》に「錐を亡し斧を失う」と言う。《訟》卦の三から五爻までがまさに倒転した兌であるので失斧と言う。ちょうどこの一爻のために注を作ることができる。およそ卦象が一たび倒転すれば取義は必ず相反し、《雑卦伝》の解釈した所はまさにこの道理であって、極めて明白である。これもまた二千年来の一つの誤象で、《焦氏易林》に頼ってはじめて澄清し得た。「資」は「斉」と訓すべきに至っては、旧注が言うこと甚だ詳細なので、ここでは略する。
艮は豚豕を為す
《易林·師之旅》云「空槽住豬,豚彘不到」,旅下艮為豬豚,艮止故不到;又《頤之遯》云「豶豕童牛」,遯下艮,艮為豕,是《易林》顯以艮為豚豕,與坎同也。自得此象,凡易之言豕,除睽上九用伏坎外,餘大畜六五之豶豕,謂艮為豕也,艮少,故曰豶豕;姤初六羸豕孚躑躅,艮為豕,初二半艮,足短,《易林·謙之鼎》云「狗無前足」,鼎初二半艮,故足短,又體巽,故曰羸豕;中孚彖曰豚魚吉,亦以互艮為豚。蓋艮為虎為狐,故亦為豚豕,不必再三變成坎也。
《易林・師之旅》の林辞に「空槽に猪を住め、豚彘至らず」と言い、《旅》の下体の艮は猪・豚であり、艮はまた静止を主るので至らずと言う。《頤之遯》に「豮豕童牛」と言い、《遯》の下体は艮であり、艮は豕である。これで《焦氏易林》が明白に艮をもって豚豕としたことが分かる。坎為豕と同じである。この象を取得して以来、およそ《易経》が豕を言及する所は、《睽》上九の「豕の涂を負うを見る」がその伏する坎を用いたのを除くほか、その余《大畜》六五の「豮豕之牙」の如きは、即ち艮をもって豕とし、艮は少男なので「豮豕」と称し、即ち閹した小猪である。《姤》初六の「羸豕孚蹢躅」は、艮は豕であり、しかも初六・九二はただ半個の艮を成すのみであるので、足が短い。まさに《易林・謙之鼎》の言う「狗に前足なし」の如し――《鼎》の初二の両爻は半艮なので足が短い――加えて《姤》の下体は巽で、巽は瘦弱を主るので「羸豕」と言う。《中孚》卦辞に「豚魚吉」と言うのも、互体の艮をもって豚とする。大概艮はすでに虎・狐と為り得れば、自然にまた豚・豕と為り得る。爻を輾転して両三次変じて一つの坎を凑出させる必要はない。
艮の邑
《易林·無妄之益》云「東之樂邑」,益下震為東為樂,艮為邑也;又《需之離》云「中留北邑」,離中爻伏艮,為邑也。自得此象,無妄行人之得、邑人之災,始知人謂震、邑謂艮。蓋艮為居為止為室廬,故為邑;又艮為火,故曰焚。舊說取象皆誤。
《易林・无妄之益》の林辞に「東の楽邑」と言う。《益》の下体の震は東・楽であり、三から五爻まで互艮は邑である。《需之離》に「中留北邑」と言い、《離》卦の中間の各爻の伏する所は艮であり(離は坎と旁通し、坎の中に艮を含む)、艮は邑である。この象を取得して以来、《无妄》六三の「行人之得、邑人之災」において、「人」は震を指し「邑」は艮を指すことをはじめて知る。大概艮は居処・静止・房舎なので、邑と為り得る。艮はまた火なので、邑人之災が指すのは焚焼である。旧説はここの取象が皆誤っていた。
震の翼・震の羽
《易林·同人之坎》云「鼓其羽翼,飛上喬木」,坎中爻震,為鼓為飛為羽翼;又《坤之謙》云「修其翰翼」,亦以謙中爻震為羽翼。自得此象,始知漸上九之羽之指伏震;明夷初九之飛翼象似指明夷之六四,六四應初,且震體也,而未必為離。離在地下,尚何言飛?然舊解俱如此。今既得震飛震翼象,心有所疑,故指出以俟知者。
《易林・同人之坎》の林辞に「其の羽翼を鼓して、喬木に飛び上がる」と言い、《坎》卦の中間の各爻は互震であり、震は鼓・飛・羽翼である。《坤之謙》に「其の翰翼を修す」と言うのも、《謙》の中間の各爻の互いに出る震をもって羽翼とする。この象を取得して以来、《漸》上九の「其の羽は以て儀と為す可し」の羽が、その伏する震を指すことをはじめて知る――《漸》の上体は巽であり、旁通すれば即ち震である。《明夷》初九の「明夷飛ぶに於いて、其の翼を垂る」の飛翼の象に至っては、《明夷》六四を指すようである――六四は初九と相応し、しかも互震の中に処り、必ずしも離に帰せずともよい。離は地下にあり(《明夷》は下離上坤)、なお何の飛ぶを論ずるか。しかし旧注は皆そのように講じた。今すでに震為飛・震為翼の象を求得したが、心中に疑問を存するので、それを指出して、通達の人が判定するのを待つ。
坤は薪を為す
《易林·屯之坤》云「采薪得麟」,以坤為薪也;《剝之坤》云「荻芝俱死」,亦以坤為荻薪。荻卽茅茹也。自得此象,否泰初爻之拔茅茹,始知其為坤象,拔茅茹卽采薪也。泰用旁通,詳卷三。
《易林・屯之坤》の林辞に「薪を采って麟を得」と言うのは、坤をもって薪柴とする。《剥之坤》に「荻芝俱に死す」と言うのも、坤をもって荻・薪とする。荻とは即ち茅茹の一類の草である。この象を取得して以来、《否》初六と《泰》初九の言う「茅茹を拔く」が、坤象から出たことをはじめて知る。茅茹を拔くは即ち薪を采るに等しい。《泰》卦の下体は乾であり、用いるのはその旁通する坤である。詳しくは本書巻三に見える。
坎の鬼
虞翻但知坤為鬼,豈知坎為隱伏,亦鬼象也。既濟九三曰鬼方,未濟九四曰鬼方,皆以互坎也,而虞氏必以為坤象,誤之遠矣。《易林·姤之需》云「卑斯似鬼」,以需坎為鬼,是其證。
虞翻はただ坤為鬼を知るのみで、殊に知らないのは坎は隠伏を主り、これもまた鬼象であることである。《既済》九三に「高宗鬼方を伐つ」と言い、《未済》九四に「震鬼方を伐つに用い」と言うのは、皆互体の坎を取って鬼とする。しかも虞翻は必ず坤象と言わなければならず、錯えたこと甚だ遠い。《易林・姤之需》の林辞に「卑斯鬼に似たり」と言うのは、《需》上体の坎をもって鬼とする。これが即ち証拠である。
震の簋
《易林·坤之隨》云「衣裳簋簋」,以隨震為簋也。自得此象,始知坎六四之簋、損彖之二簋皆謂震,而漢魏人皆不知。
《易林・坤之随》の林辞に「衣裳簋簋」と言うのは、《随》下体の震をもって簋とする。この象を取得して以来、《坎》六四の「樽酒簋貳」の簋、《損》卦辞の「二簋以て享す可し」の簋が、指すのは皆震であることをはじめて知る――《坎》は二から四爻まで互震、《損》は二から四爻までも互震――しかも漢魏人は皆知らなかった。
震の袂
《易林·坤之隨》云「舉袂覆目」,以震為舉為袂也。自得此象,始知歸妹六五之袂之謂震也。袂,袖口也。歸妹上震下兌,皆有口象,而六五陰,九二陽,故五不如二良。
《易林・坤之随》の林辞に「袂を挙げて目を覆う」と言うのは、震をもって挙・袂とする。この象を取得して以来、《帰妹》六五の言う「袂」が指すのはまさに震であることをはじめて知る。袂とは即ち袖口である。《帰妹》は上体震・下体兌で、皆口の象がある。しかも六五は陰爻・九二は陽爻で、陰は陽に及ばないので、爻辞に君主の衣袖は陪嫁の娣の衣袖に及ばないと言う。
震の君
歸妹六五曰「其君之袂」,以震為君也;小過六五不及其君,亦以上震為君。《易林》本之,凡遇震卽言君,而二千年不知其象,故小過六二不能解。
《帰妹》六五に「其の君の袂」と言うのは、震をもって君とする。《小過》に「其の君に及ばず、其の臣に遇う」と言うのも、上体の震をもって君とする。《焦氏易林》はこれに本づき、およそ震に遇えば即ち君に言及する。しかし二千年来この象を知る人がいなかったので、《小過》六二のあの一爻は終始解し通らなかった。
兌の牙
《易林·大有》云「白虎張牙」,以兌為牙也。自得此象,始知大畜六五豶豕之牙,易原以兌為牙。五應二,二體兌也。鄭玄讀牙為互,清儒治漢易者多宗之,此卦象失傳之過也。艮為角,故曰牛角;兌為牙,故曰豶牙。若以牿為告,以牙為互,則非對文矣。
《易林》《大有》の一卦の林辞に「白虎牙を張る」と言うのは、兌をもって牙とする。この象を取得して以来、《大畜》六五の「豮豕之牙」において、《易経》はもともと兌をもって牙としたことをはじめて知る。六五は九二と相応し、しかも九二はまさに二から四爻までの互いに出る兌体の中に処る。鄭玄は「牙」を「互」と読み、即ち牲口を繋ぐ横木としたが、清代に漢易を治める学者は多く彼に依従した。これらは皆卦象が失伝して造出した過失である。艮は角なので、六四に牛角を言う。兌は牙なので、六五に豮豕之牙を言う。もし「牿」を「告」と読み「牙」を「互」と読み改めれば、この両爻は対文を成さなくなる。
震の尊
《易林·同人之豫》云「玉杯文案」,又《益之大壯》云「罍尊重席」,杯尊皆謂震也。自得此象,始知坎六四之尊之為互震,自漢迄清,皆不知其象。
《易林・同人之豫》の林辞に「玉杯文案」と言い、《益之大壮》に「罍尊重席」と言う。杯と尊が指すのは皆震である――《豫》の上体は震であり、《大壮》の上体もまた震である。この象を取得して以来、《坎》六四の「樽酒簋貳」の樽が互体の震から出たことをはじめて知る。漢代から清代に至るまで、この象を知る人がいない。
震の乗・艮の負
解負且乘,以震為乘,艮為負也。《易林·乾之隨》云「乘龍上天」,以震為龍為乘;《同人之無妄》云「負牛上山」,以艮為負,是其證。
《解》卦六三に「負いて且つ乘り、寇の至るを致す」と言うのは、震をもって乘とし艮をもって負とする。《易林・乾之随》の林辞に「龍に乘り天に上る」と言うのは、震をもって龍・乘とする――《随》の下体はまさに震である。《同人之无妄》に「牛を負いて山に上る」と言うのは、艮をもって負とする――《无妄》は二から四爻まで互艮。これらが即ち証拠である。
震は箕子を為す
《易林·大畜之履》云「箕子佯狂」,履通謙,以震為箕子為狂。自得此象,知明夷彖傳之箕子之為震象,六五則字異。並知易於人名皆取卦象,如明夷文王、泰帝乙皆是也。
《易林・大畜之履》の林辞に「箕子佯狂す」と言い、《履》は《謙》と旁通し、《謙》は三から五爻まで互震である。これは震をもって箕子・佯狂とする。この象を取得して以来、《明夷》彖伝の言う箕子が取ったのはまさに震象であることをはじめて知る。六五爻の「箕子」に至っては、もともとは別の字であって、「荄茲」と読むべきである。同時に《易経》の中の人名は皆卦象から取って来たことも知る。例えば《明夷》彖伝の文王、《泰》六五の帝乙は皆このようである。
易の金象・艮もまた金を為す
說卦乾為金,而易言金者五,皆非乾象,於是虞氏謂陽為金,毛奇齡謂兌為金,種種揣測,皆不得其象。按《易林·隨之屯》云「金玉滿堂」,以屯艮為金;《剝之蒙》云「齎金贖狸」,以蒙艮為金;又《升之噬嗑》云「金城鐵郭」,亦以噬嗑互艮為城郭為金鐵。蓋艮為堅,故為金。
《説卦伝》は乾為金と言うが、しかし《易経》が金に講じ及ぶ所は共に五処あり、皆乾象ではない。そこで虞翻は陽爻を金と言い、毛奇齢は兌を金と言い、種種の揣测は皆真の象を探し当てなかった。按ずるに《易林・随之屯》の林辞に「金玉堂に満つ」と言うのは、《屯》の三から五爻までの互いに出る艮をもって金とする。《剥之蒙》に「金を賷いて狸を贖う」と言うのは、《蒙》上体の艮をもって金とする。《升之噬嗑》に「金城鉄郭」と言うのも、《噬嗑》の二から四爻までの互いに出る艮をもって城郭・金鉄とする。大概艮の性は堅実なので、金と為り得る。
說卦本為不完之書,如干為馬,震坎亦為馬;坤為輿,坎亦為輿;乾為亦,坎亦為赤,說卦皆言之。至坎為水坤亦為水,坎為月兌亦為月,乾為金艮亦為金,則不兼詳也。虞翻等知其一,不知其二,於是遇此等象,遂穿鑿百出。而易漢注存今者,虞氏獨多,於是治漢易者所當猛醒也。
《説卦伝》はもともと一部の不完備の書である。譬えば乾は馬であり、震・坎もまた馬である。坤は輿であり、坎もまた輿である。乾は赤であり、坎もまた赤である――これらは《説卦伝》が皆講じ及んだ。坎が水であり坤もまた水であり、坎が月であり兌もまた月であり、乾が金であり艮もまた金であるに至っては、併せて交代していない。虞翻のこの班の人はただその一を知りその二を知らず、それに因ってこの類の象に碰到すれば穿鑿附会して花様百出した。しかも漢人の《易》注の今日まで保存されたものはまた虞翻を数えて最も多い。これはまさに漢易を治める人が猛然警醒すべき所である。
自得艮金象,於是易之言金者皆得解。蒙六三云「見金夫」,三應上,上艮,故曰金;三體震,震為夫,故曰金失。而三至五坤,坤為躬,坤死,故不有其躬。噬嗑九四云「得金矢」,亦以艮為金,坎為矢,故曰得金矢;六五云得黃金,離為黃,艮為金,故曰得黃金。
艮為金のこの象を取得して以来、《易経》の中でおよそ金に言及する所は皆講じ通る。《蒙》六三に「金夫を見て、躬を有せず」と言う。六三は上九と相応し、上九は艮体に在るので「金」と称す。六三はまた二から四爻までの互いに出る震体の中に処り、震は夫であるので、合わせれば即ち「金夫」と称す。しかも三から五爻まで互坤で、坤は身躬であり、坤はまた死を主るので「其の躬を有せず」と言う。《噬嗑》九四に「金矢を得」と言うのも、艮をもって金とする――《噬嗑》は二から四爻まで互艮で、坎をもって矢とするので「得金矢」と言う。六五に「黄金を得」と言うのは、離は黄であり艮は金なので「得黄金」と言う。
困九四云「困于金車」,困通賁,四體艮,互震為車,故曰金車。鼎六五云「金鉉利貞」,鼎通屯,五體艮,故曰金;坎為木,為穿,故曰鉉。鉉,鼎扛也,卽貫耳以舉鼎者也,卽士喪禮「左執匕抽扃」之扃。扃者,橫木關於鼎耳,左傳宣十二年「楚人惎之脫扃」是也。而此則不為木而為金,故曰金鉉。總此爻全用旁通,上句曰鼎黃耳,耳卽用屯坎。
《困》九四に「金車に困む」と言う。《困》は《賁》と旁通し、九四は《賁》の中においてまさに艮体に処り、艮は金であり、《賁》は三から五爻まで互震は車なので「金車」と言う。《鼎》六五に「鼎黄耳金鉉、貞に利し」と言う。《鼎》は《屯》と旁通し、六五は《屯》の中において三から五爻までの互いに出る艮体に処るので「金」と称す。《屯》の上体の坎は木・穿透なので「鉉」と言う。鉉とは即ち鼎を擡ぐ杠子であり、即ち鼎耳に穿ち通して鼎を挙起するあの横木であり、すなわち《儀礼・士喪礼》の「左に匕を執り扃を抽く」の「扃」である。扃は一本の横木で、鼎耳の上に貫かれる。《左伝》宣公十二年の「楚人惎之脱扃」が言うのはまさにそれである。ここの扃は木質ではなく金質なので「金鉉」と言う。要するにこの一爻は全て旁通を用いて象を取り、上一句に「鼎黄耳」と言うのも、あの「耳」が用いたのはまさに《屯》の坎である。
帰妹以須の説
凡易辭,有其象而不必有其事。昔儒謂豚魚無知,焉能感格,易若如此解,將無一句可通矣。艮之為須,既從《易林》得其象,歸妹六三之須,疑亦用伏艮,為鬢毛之須,而未必為待。何以知之?下九四象曰「有待而行也」,知六三無待義。六三象曰「歸妹以須,未當也」,言女不應有須也;若訓為待,有何不當,且與九四義復矣。惟其未當,故反歸以娣。反者,退也,言以須之故,降而為娣也。娣者本象,須者伏象,本象與對象雜用,易恆列也。愚向持是說,而不敢定,後讀《易林·渙之歸妹》云「妹為貌慹,敗君正色」,莊子「慹然似非人」,言可怖也。貌慹謂須,《易林》原有此訓也。慹,之涉切,與色韻。
《易》の文辞は、往々にしてただあの象があるのみで、必ずしも真にあの事があるわけではない。従前有学者が猪と魚には知覚がなく、どうして信誠に感格されることができようかと言ったが、《易》をもしこのように解すれば、一句として講じ通るものがない。艮為須は、すでに《焦氏易林》からこの象を求得した以上、ならば《帰妹》六三の言う「須」は、疑わしいことにその伏する艮を用いたもので(《帰妹》は《漸》と旁通し、《漸》の下体は艮)、鬢辺の須髯を指し、必ずしも「等待」の意ではない。どうして知るか。下面の九四の《象伝》に「愆期の志は、待つ有りて行うなり」と言うので、六三には「待」の意がなかったことが分かる。六三の《象伝》に「帰妹以須とは、未だ当ならざるなり」と言うのは、女子が須を長ずるべきでないことを言う。もし等待と訓すれば、等待に何の不妥当があろうか、しかも九四の意と重複する。まさに須が長ずるが合宜でないために、こそ「反りて娣を以て帰る」――「反」とは即ち退であり、須あるの故に因って、やむを得ず格を降して陪嫁の娣と為ることを言う。娣は本卦の象から出、須はその伏する象から出て、本象と対象が交錯併用されるは、《易経》の中の常有の体例である。私は従前この見方を持しながら敢えて確定しなかったが、後に《易林・涣之帰妹》の林辞に「妹は貌慹して、君の正色を敗る」と言うのを読んだ。《荘子》に「慹然として人に非ずに似たり」の語があり、これはその可怖を形容したもので、「貌慹」とはまさに須を長ずることを指す。これで《易林》に本來この訓釈があったことが分かる。「慹」の字は之渉切で、「色」の字と押韻する。
易における矢の確象
舊解皆以離為矢,說噬嗑九四之金矢、解九二之黃矢尚可通,至旅六五之矢亡,亡字遂不能解,其誤與以離為斧同也。按《易林·豐之坎》云「枉矢西流」,坎為矢為矯輮,故曰枉矢;又《遯之師》云「鹿下西山,欲歸其群,逢羿箭鋒,死於矢端」,師互震為鹿,坎為箭矢,坤死,故曰死於矢端;又《大有之賁》云「楚烏逢矢」,賁離為鳥,坎為矢,坎在離前,故曰楚烏逢矢,說文「楚烏,雅也」。《易林》之以坎為矢,可謂明白矣。
従来の注釈は皆離をもって矢とし、《噬嗑》九四の「金矢」、《解》九二の「黄矢」を解するにはまだ通じるが、《旅》六五の「雉を射て一矢亡くす」となると、あの「亡」の字がとうとう解せなくなる。この誤りは離を斧とするのと同類である。按ずるに《易林・豊之坎》の林辞に「枉矢西に流る」と言い、坎は矢・また矯輮屈曲なので、曲がった矢と言う。《遯之师》に「鹿、西山を下り、其の群に帰らんと欲し、羿の箭鋒に逢い、矢端に死す」と言い、《師》は二から四爻まで互震は鹿であり、上体の坎は箭矢であり、坤は死を主るので、矢端の下に死すと言う。《大有之賁》に「楚烏、矢に逢う」と言い、《賁》の下体の離は鳥、互いに出る坎は矢であり、坎は離の前に在るので、楚烏が矢に迎い当たったと言う。《説文解字》に「楚烏は鴉である」と言う。《焦氏易林》の坎をもって矢とすることは、これ以上なく明白と言える。
蓋坎為棘為七為穿,故為矢。矢象既得,於是凡易之言矢者皆得其解。噬嗑九四曰「得金矢」,艮為金,互坎為矢;解九二曰「得黃矢」,互離為黃,下坎為矢,坎為獲,故曰得;旅六五云「射雉一矢亡」,則以伏坎為矢,坎伏,故曰矢亡。繫辭說睽象云「剡木為矢」,坎為木為矢,兌斧,故曰剡矢。
おおよそ坎は棘刺・「七」・穿透なので、矢の象を取ることができる。矢の象は既に求め得られたので、およそ《易経》が矢に言及する所は皆解釈を得た。《噬嗑》九四に「金矢を得」と言い、艮は金、互体の坎は矢である。《解》九二に「黄矢を得」と言い、二から四爻まで互離は黄、下体の坎は矢であり、坎はまた擒獲なので「得」と言う。《旅》六五に「雉を射て一矢亡くす」と言うのは、伏する坎をもって矢とする――《旅》は《節》と旁通して坎を含み、坎は既に潜伏して見えないので「矢亡」と言う。《繋辞伝》が《睽》卦の取象を講じて「木を剡めて矢を為す」と言い、坎は木・矢であり、兌は斧なので、木を削って矢を作ると言う。
凡易象用於此而合,施之全易而或有不能通者,其取象必誤。漢魏人以離為矢,噬嗑及解已不如用坎之親切,然猶可強說;獨旅卦上離,而反曰一矢亡,於是二千年人不知亡字之義,且不知一數之何指。豈知易原以坎為矢,坎後天數一,坎伏,故曰一矢亡。二千年易家之大誤,見說卦以離為雉,所有鳥象皆欲屬之;以離為甲兵,所有兵器皆欲屬之;以離為蚌蟹,所有介族皆以專屬之。豈知不若是之專一哉?
およそ一つの易象はこの所に用いて合い、全経に推し及ぼして通じない所があれば、その取象は必ず誤っている。漢魏の人は離をもって矢とし、《噬嗑》と《解》に用いては既に坎を用いるほど親切ではないが、まだ強いて説くことはできる。ただ《旅》卦の上体はまさに離なのに、爻辞はかえって「一矢亡」と言う。ここにおいて二千年の人々は「亡」の字の意味を知らず、また「一」という数が何を指すかも知らなかった。あに知らん、《易経》はもとより坎をもって矢とし、坎は後天の数で一であり、《旅》の中の坎は潜伏しているので「一矢亡」と言うことを。二千年の易学家の大いなる誤りは、《説卦伝》に離は雉と言うのを見て、すべての鳥象を離に帰そうとし、離は甲冑戈兵と言うのを見て、すべての兵器を離に帰そうとし、離は蚌・蟹と言うのを見て、すべての介甲の類を専ら離に帰そうとした点にある。あに知らん、《易》の取象はこのように単一ではないことを。
坎の夫象
震為夫,見孟氏逸象,於是解易者皆用之,豈知坎亦為夫。左傳坎變巽,曰「夫從風,風隕不可娶」,是以坎為夫也。《易林·觀之訟》云「讒夫在堂」,亦以訟坎為夫,坎上下兌口相背,故曰讒夫;又《無妄之比》云「夫亡從軍」,亦以比坎為夫,夫在外,故曰亡。亡者,往也。
震は夫であるとは孟喜の逸象に見え、ここにおいて《易》を解する者は皆それを採用した。あに知らん、坎もまた夫であることを。《左伝》に載せる筮例では、坎は巽に変じ、断辞に「夫、風に従い、風陨りて娶るべからず」と言い、これはすなわち坎をもって夫とする。《易林・観之訟》の林辞に「讒夫、堂に在り」と言うのも、《訟》の下体の坎をもって夫とする。坎の上下の両半は各々一つの兌口を成して互いに背き、口舌が背くので「讒夫」と称す。《无妄之比》に「夫亡びて軍に従う」と言うのも、《比》の上体の坎をもって夫とする。夫は外卦に処るので「亡」と言う。亡とは往であり、門を出て外に在ることを指す。
自得此象,知比後夫,以上坎為失;蒙六三曰見金夫,以下坎為夫;大過九二曰老夫,以伏震為夫;至小畜九三曰夫妻反目,則以伏坎為夫;睽九四曰遇元夫,則以互坎為夫;漸九三曰夫征不復,亦正以互坎為夫。乃知左氏與《易林》仍本之易也。夫妻反目、夫征不復,解並見前,皆以震為夫,乃得坎夫象,故並著之,以資商搉。
坎を夫とするこの象を取得して以来:《比》の卦辞に「後夫は凶」と言うのは、上体の坎をもって夫とする。《蒙》六三に「金夫を見る」と言うのは、下体の坎をもって夫とする。《大過》九二に「老夫、其の女妻を得」と言うのは、伏する震をもって夫とする。《大過》は《頤》と旁通し、《頤》の下体は震であるからである。《小畜》九三に「夫妻反目」と言うに至っては、伏する坎をもって夫とする。《小畜》は《豫》と旁通し、《豫》は三から五爻まで互坎であるからである。《睽》九四に「元夫に遇う」と言うのは、互体の坎をもって夫とする。《漸》九三に「夫、征して復らず」と言うのも、まさに互体の坎をもって夫とする。これにより《左伝》と《焦氏易林》は依然として《易経》に本づくことを知る。「夫妻反目」「夫征して復らず」の二条は、解説は皆前文に見え、前は皆震をもって夫としていたが、今また坎を夫とする象を求め得たので、併せて記して商搉に資する。
震は口・食を為す
說卦兌為口,而頤無兌,象曰自求品食,於是後人以伏兌為口。至飲食象,說卦無明文,於是荀氏以坎為飲食,後儒多從之,乃以坎說需漸之飲食皆當,而於大畜之不家食、頤之口食、節飲食、明夷之不食,皆不合。豈知震亦為口為飲食也。
《説卦伝》は兌は口と言うが、《頤》卦には兌がなく、卦辞はまた自ら口中の食を求めると講じたので、後人はやむを得ず伏する兌をもって口とした。飲食の象に至っては《説卦伝》に明文がなく、ここにおいて荀爽は坎をもって飲食とし、後代の学者は多く彼に依った。坎を用いて《需》《漸》両卦の飲食を解するのは皆妥当だが、《大畜》の「家食せず」、《頤》の「口食」と「飲食を節す」、《明夷》の「食せず」を解するには皆合わない。あに知らん、震もまた口・飲食であることを。
《易林·需之解》云「一指食肉,口無所得」,以解震為口為食,坎為肉;《蒙之艮》云「攫飯把肉,以就口食」,亦以艮中爻震為口為食。自得此象,於是大畜頤明夷之口象食象皆得解。大畜曰不家食,艮為家,震為食,故曰家食,皆在外,故不家食。
《易林・需之解》の林辞に「一指、肉を食らい、口は得る所なし」と言うのは、《解》の上体の震をもって口・食とし、下体の坎をもって肉とする。《蒙之艮》に「飯を攫み肉を把り、以て口食に就く」と言うのも、《艮》卦の中間の各爻が互いに出る震をもって口・食とする。この象を取得して以来、《大畜》《頤》《明夷》の数卦の口象・食象は皆講じ通る。《大畜》の卦辞に「家食せず、吉」と言う。艮は家、震は食なので「家食」と言う。しかもこれらの象は皆外卦に落ちるので「家食せず」と言う。
頤曰自求口實,阮氏校謂閩本監本汲古本皆作食,非。然詩曰「以就口食」,管子曰「並口而食」,《易林》亦每以口食連文。洪頤煊雲山井鼎《周易考文》作口食,然則汲古等本必有據,未必非。坤為目,艮為求,震為口食。鄭作食,鄭注云「坤載養物,而人所食之物存焉,觀其求可食之物,而貪廉之情可別也」,是鄭原讀為食。食亦震象,故曰自求口食。若作實,則卦無其象。
《頤》の卦辞に「自ら口実を求む」と言い、阮元が校勘する時に閩本・監本・汲古閣本は皆「口食」と作るのは誤りと言った。しかし《詩》には「以て口食に就く」の言い方があり、《管子》には「口を並べて食う」の言い方があり、《焦氏易林》も常に「口食」を連用する。洪頤煊は日本の山井鼎の《周易考文》も同様に「口食」と作ると言う。されば汲古閣等の本は必ず拠る所があり、必ずしも誤りではない。《頤》卦は互坤、坤は目、上体の艮は求、下体の震は口・食である。鄭玄本はまさに「食」と作り、鄭注に「坤は万物を載せ養うことができ、人の食らう物は皆その中に存す。其のどのような食物を求めるかを観れば、貪と廉の心性は分別できる」と言う。鄭玄はもとより「食」と読んでいたことが見える。「食」もまた震象なので「自ら口食を求む」と言う。もし「実」と作れば、卦の中に相応する象を見出せない。
象曰節飲食,亦以震為食。須知頤者口旁肉,必正覆震口相合,然後為頤。虞氏以伏兌為口,取象似得矣,豈知必正覆震口上下相合,方為頤;若大過正覆兌,則不為頤,仍誤也。明夷初九曰三日不食,亦以互震為食,震在外,初離虛,故不食,離卦數三,故曰三日不食。
《頤》卦《象伝》に「君子は言語を慎み、飲食を節す」と言うのも、震をもって食とする。知るべきは、「頤」とは口の旁らの腮頬であり、必ず一つの正震の口と一つの覆震の口が上下合い閉じて、はじめて頤となる。虞翻は伏する兌をもって口とし、取象は正しいようであったが、あに知らん、必ず正覆二つの震口が上下相合してはじめて頤となることを。もし《大過》のように一正一覆の二つの兌であれば、頤とならない。虞翻は依然として誤っていることが見える。《明夷》初九に「三日食せず」と言うのも、互体の震をもって食とする。震は外に在り(三から五爻)、初九の在る下体の離は中が空虚なので「食せず」と言う。離は先天卦数で三なので「三日食せず」と言う。
艮の観象
說卦離為目,故為觀。乃頤曰觀頤,曰觀我,曰虎視,觀六爻皆言觀,而皆無離象。按《易林·蒙之謙》云「日月相望」,則以艮為望,謙正反艮,故曰相望;又《蒙之大壯》云「千里望城」,大壯通觀,觀艮為城為望;又《坤之渙》云「舉首望城」,《乾之隨》云「遊觀四海」,亦皆以艮為觀望。乃知頤卦觀卦之方觀言視,皆取象於艮。蓋艮陽在上,故為明為觀,能居高以視下也。《易林》如此等逸象,遇之多年,皆不知其所謂,今以《易林》注易耶,抑以易注《易林》耶,吾亦不知也。
《説卦伝》は離は目と言うので、離をもって観とする。しかし《頤》の卦辞に「頤を観る」と言い、初九に「我が朵頤を観る」と言い、六四に「虎視耽耽」と言い、《観》卦の六爻はさらに句句に「観」を言うが、この二卦にはいずれも離象がない。按ずるに《易林・蒙之謙》の林辞に「日月相望」と言うのは、艮をもって望とする。《謙》卦には一正一覆の二つの艮があるので「相望」と言う。《蒙之大壮》に「千里、城を望む」と言い、《大壮》は《観》と旁通し、《観》は三から五爻まで互艮、艮は城・望である。《坤之渙》に「首を挙げて城を望む」と言い、《干之随》に「四海を游観す」と言うのも、皆艮をもって観・望とする。これにより《頤》卦・《観》卦でおよそ「観」を講じ「視」を言う所は、皆艮象を取ることを知る。おおよそ艮は陽爻が最上に居るので、明・観となり、高く居て下を俯視することができる。《焦氏易林》のこの類の逸象は、私が多年遇っても何を言うのか分からなかった。今や果たして《易林》をもって《易》に注するのか、それとも《易》をもって《易林》に注するのか、私自身にも言い分けられない。
艮は光・明を為す
離為日為光明,乾為大明,故坤曰光大,謂伏乾也;需曰光亨,履曰光明,謂互離也。泰九二象曰光大,同人彖傳曰文明以健,夬彖傳曰其危乃光,皆謂乾也。大有九四象曰明辨,噬嗑象曰明罰,賁曰文明,晉彖傳曰大明,此為乾日之確解,故乾彖傳曰大明,與此以離為大明同。明夷曰明,井九三曰王明,皆謂離也。屯九五曰未光,困初六曰幽不明,謂離伏也。漢魏人皆知也。
離は日・光明であり、乾は大明である。ゆえに《坤》卦彖伝に「含弘光大」と言うのは、伏する乾を指す。《需》卦彖伝に「光亨」と言い、《履》卦彖伝に「光明」と言うのは、互体の離を指す。《泰》九二《象伝》に「以て光大なり」、《同人》彖伝に「文明にして健なり」、《夬》彖伝に「其の危くして乃ち光なり」と言うのは、皆乾を指す。《大有》九四《象伝》に「明辨するなり」、《噬嗑》《象伝》に「先王以て罰を明らかにし法を敕す」、《賁》彖伝に文明と言い、《晋》彖伝に「順いにして大明に麗く」と言うのは、これらは皆乾を日とする確かな解である。ゆえに《乾》卦彖伝も「大明終始」と言い、ここで離をもって大明とするのと同じ路数である。《明夷》に「明」と言い、《井》九三に「王明」と言うのは、皆離を指す。《屯》九五《象伝》に「施未だ光らざるなり」、《困》初六《象伝》に「幽にして明ならざるなり」と言うのは、離が潜伏して見えないことを指す。これらは漢魏の人は皆分かっていた。
乃《隨》九四曰「在道以明」,《大畜》彖傳曰「輝光」,《頤》九四象曰「上施光也」,《益》彖傳曰「其道大光」,《謙》《艮》彖傳皆曰「光明」,《觀》《渙》六四皆曰「光」。卦無干離,而亦曰光明。虞翻求其象不得,遂曰:謂某爻已變成離,故曰光明。凡清儒解易者皆宗之。此端一開,易尚有不解者哉?甚矣其自欺也。愚初解易,而知其為曲說,謂《隨》《益》《艮》《渙》之言光明之皆以大離也。
しかし《随》卦九四に「孚有りて道に在り、以て明なり」、《大畜》彖伝に「剛健篤実、輝光」、《頤》卦九四象辞に「上、施すこと光なり」、《益》卦彖伝に「其の道大いに光なり」、《謙》《艮》両卦の彖伝は皆「光明」と言い、《観》卦六四に「国の光を観る」、《渙》卦六四象辞に「光大なり」と言い、いずれも「光」に及ぶ。これらの卦には乾も離もないのに、同じく光明を講ずる。虞翻は対応する卦象を見出せず、便ちある爻が既に離に変じたので光明と言うのだと言った。清代に《易》を解する学者はおおよそこれを奉じて準則とした。この端が一たび開けば、《周易》に解釈できない所があろうか。このような自欺もはなはだしい。私が当初《易》を解した時、この曲説であることを知り、《随》《益》《艮》《渙》の数卦が光明を講ずるのは皆「大離」の象を取る――即ち六爻の全体の形を放大して見ると一つの離卦のようである――と考えた。
乃《謙》彖傳曰「天道下濟而光明」,《觀》六四曰「觀國之光」,二卦皆不互大離,而亦曰光明,愚心始疑之,乃返求之《易林》。《易林》《訟》之《觀》云「欽明之德」,以艮為明也;《訟》之《震》云「六位光明」,亦以互艮為位為光明;又《蒙》之《謙》云「光明盛昌」,亦以《謙》下艮為光明。蓋艮陽在上,故為火為光為明為觀,乃恍悟得艮為光明,凡《易林》之言光明者皆渙然永釋。此以《易》注《易林》也。易象失傳之難於摸索如此。
しかし《謙》卦彖伝に「天道下に済して光明なり」、《観》卦六四に「国の光を観る」と言い、この二卦は「大離」の象すら互い出せないのに、同じく光明を講ずる。私の心にここに始めて疑いが起き、ここにおいて《焦氏易林》の中に返り求めた。《易林》「訟之観」の条に「欽明の徳」と言う。之卦《観》は四陰が下・二陽が上に在り、全卦の大象はまさに一つの艮であり、艮をもって明としていることが見える。「訟之震」の条に「六位光明」と言う。之卦《震》の二から四爻まで互いに艮を出し、これも艮をもって「位」・「光明」とする。また「蒙之謙」の条に「光明盛昌」と言う。之卦《謙》の下体はまさに艮であり、依然として艮をもって光明とする。もとは艮は一陽が高く上に居り、二陰は其の下に伏し、陽爻は外に在るので、火・光・明・観となることができる。これに至り私ははじめて恍然大悟した:艮には「光明」の象がある。《易林》の中でおよそ光明を講ずる林辞は、これより皆涣然氷釈して永く疑滞なし。これは《周易》をもって《易林》に注するものである。易象が失伝した後、摸索するのがこのほど難しいとは。
震の瓮・震の缶
《易林》《未濟》之《恆》云「甕破缶缺」。《恆》上震,為甕為缶;互兌,為破缺,自得此象。《井》九二之甕,乃知其確指伏震;《坎》六四之缶,乃知其指互震。舊解以離為甕,離無口,為大腹則可,為甕似非。至缶象,舊解皆以坤為缶,豈知《比》初六可以坤為缶,《坎》六四則以互震為缶,與樽、簋皆象震形,為最切也。
《焦氏易林》「未済之恒」の条に「瓮破れ缶缺く」と言う。その之卦《恒》は巽下震上であり、上体の震はすなわち瓮・缶であり、三から五爻まで互いに兌を出し、兌は毁折を主るので、すなわち「破」・「缺」である。林辞の象は全てここから得る。この一条があって、《井》卦九二「瓮敝漏」の瓮は、確かに伏震を指すと知られ(《井》の下体は巽、巽の陰陽が全て変ずれば即ち震となる)、《坎》卦六四「樽酒簋貳、缶を用う」の缶は、互震を指すと知られた(《坎》は二から四爻まで互いに震を成す)。旧注は離をもって瓮とし、離は中虚なので、大腹と言うならまだよいが、瓮と言うのはおそらく誤り。缶象に至っては、旧注は一概に坤をもって缶とする。あに知らん、《比》卦初六「孚有りて缶に盈つ」は坤をもって缶とできても、《坎》卦六四は互震をもって缶としなければならないことを。震は一陽が下・二陰が上に在り、樽・簋と同じく皆器皿の形に象るので、これを用いて取象するのが最も親切である。
焦氏易詁 巻十一
行唐尚秉和節之撰。
本巻は直隷行唐(現在の河北省行唐県)の人・尚秉和(字は節之)の撰述である。
焦氏の象数
象者,易辭之所本;數者,易道所由成也。故自春秋以迄東漢,靡不重之。自王弼解縛去滯,避難就易,掃象不言,專演空理,是終日期菽粟豆麥之佳善,而不知其生於地也。象且不言,何有於數?
「象」とは《周易》の卦爻辞が拠る所の根本であり、「数」とは《周易》の道が依って成立する憑藉である。ゆえに春秋から東漢に至るまで、《易》を説く者で象数を重んじない者はいなかった。王弼が束縛を解き滞碍を掃除しようとしてから、難所を避けて易きに就き、卦象を一概に掃き去って言わず、専ら空洞の義理を推演した。これは終日、菽・粟・豆・麦がいかに良いかを称説しながら、それらがもとより土地から生えたことを知らないようなものである。象すら言おうとしないのに、数にあって何があろうか。
凡數有十,而實盡於五,參天兩地也。五合一為六,合二為七,合三作八,合四為九,合五為十。十不能變,仍與一同,故易祗用六、七、八、九,以六、七、八、九包一、二、三、四、五於其中也。此《大玄》所由以第一首當水,第二首當火,第三首當木,四首當金,五首當土;至六、七、八、九,復為水火木金也。可見一、二、三、四與六、七、八、九同,祗以五為樞紐耳。故卽此六、七、八、九之數,參伍之,錯綜之,而策數之變化以見,而易道之根本以成。茲卽《易林》所用者分晰言之:一曰卦數,二曰爻數,三曰五行數,四曰十日數,五曰九宮數,六曰策數,七曰十二辰數。
数目は一共に十あるだけで、実は五に至って窮まる。これは《説卦伝》の言う「天を参じ地を両とす」の理である。五に一を加えて六、二を加えて七、三を加えて八、四を加えて九、五を加えて十。十はもはや変ずることができず、再び一と同じに帰る。ゆえに《周易》は六・七・八・九の四つの数のみを用いる。六・七・八・九の中に既に一・二・三・四・五を包含しているからである。揚雄《太玄》が第一首に水を配し、第二首に火、第三首に木、第四首に金、第五首に土を配し、第六・七・八・九首に至ってまた水・火・木・金に輪回するのは、まさにこの故である。一・二・三・四と六・七・八・九はもとより一事であり、ただ五をもって転換の枢紐とするだけであることが見える。ゆえにこの六・七・八・九の数を取り、或いは三或いは五に参合し、或いは錯或いは綜に推排すれば、蓍策の数の種々の変化が顕現し、《易》道の根本もここから建立する。以下に《焦氏易林》が用いた数を分かち講ずる:第一は卦数、第二は爻数、第三は五行数、第四は十日数、第五は九宮数、第六は策数、第七は十二辰数。
一に曰く卦数
先天八卦圖(略)。朱漢上以九宮為卦數者,非也。卦數者,八卦之次第,故數祗有八,不及九,然相對者皆九也,亦猶十日數卽以其次為數也。《周易》定位首乾,乾始坤終,乾作坤成。《繫傳》曰:「易有太極,是生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦。」八卦之次皆出於自然:乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八。凡《易林》所用之數,卦數幾居其半,乃至東漢卽失傳。及邵子揭出此數,後人拘於河洛之數,謂與法象不合。豈知爻尚有數,卦之次又何不可為數哉?其詳已見卷一。
ここにもと先天八卦図があるが、この本では略す。朱震(人は漢上先生と称す)は九宮の数をもって卦数としたが、誤りである。卦数とは八卦の排列の次第を指すので、数は八しかなく、九には及ばない。ただ両々相対する卦は、数字を加えれば皆九に等しい。これは十日の数がその序次によって数を定めるのと同じである。《周易》は方位を定めるに乾を首とし、乾から始まり坤で終わり、乾は創始を主り坤は成物を主る。《繋辞伝》に「易に太極あり、太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」と言う。八卦の次第は全く自然に出る:乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八。《焦氏易林》の用いた各種の数のうち、卦数はほとんど半分を占めるが、東漢に至り失伝した。後に邵雍がこの数を掲げ出すと、後人は河図洛書の数に拘泥し、法象と合わないと言った。あに知らん、爻ですらなお数があり、卦の次序がなぜ数とできないことがあろうか。詳細は既に本書巻一に見える。
二に曰く爻数
爻數圖(略)。右圖爻數,自初數之。或以一爻為一歲一年,《同人》九三「三歲不興」,《既濟》九三「三年克之」;或以一爻為一月,《臨》「至于八月有凶」;或以一爻為一日,《復》「七日來復」;或以一爻為一人,《損》六三「三人行則得其友」。皆爻數也。
ここにもと爻数図があるが、この本では略す。上図に列する爻数は、初爻から上に数える。或いは一爻をもって一歳・一年とし、例えば《同人》九三「三歳興らず」、《既済》九三「三年之に克つ」。或いは一爻をもって一月とし、例えば《臨》卦卦辞「八月に至りて凶有り」。或いは一爻をもって一日とし、例えば《復》卦卦辞「七日来復す」。或いは一爻をもって一人とし、例えば《損》卦六三「三人行けば則ち一人を損し、一人行けば則ち其の友を得」。これらは皆爻数である。
若《易林》所用,如《乾》之《晉》云「三痴俱走」,坤為痴,三則用爻數,故曰三痴。《恆》之《節》云「一華千葉」,《節》震一,兌為華,故曰一華,用爻數也。又《恆》之《小過》云「一息十子」,一仍震之爻數也。又《易林》或以巽為七,疑與《復》七日同例:自《姤》而《復》七日,自《復》而《姤》亦七日,所謂反覆也;《姤》則下巽,亦爻數也。
《焦氏易林》の用いた爻数に至っては、例えば「干之晋」の条に「三痴俱に走る」と言う。之卦《晋》の下体は坤、坤は痴愚であり、坤は下の三爻を占めるので「三」は即ち爻数を取り、ゆえに「三痴」と言う。「恒之節」の条に「一華千葉」と言う。之卦《節》は二から四爻まで互いに震を出し、震の一陽は最下に居り、爻数は一。《節》の下体は兌、兌は花なので「一華」と言う。これも爻数を用いる。また「恒之小過」の条に「一息十子」と言い、あの「一」は依然として震の爻数である(《小過》の上体は震)。また《易林》は或いは巽をもって七とする。おそらく《復》卦「七日来復す」と同例であろう。《姤》から一陰始まり生じるところから数えて、姤・遯・否・観・剥・坤を経て《復》に一陽来復するまで、ちょうど七位。逆に《復》から《姤》まで数えても七位。これがいわゆる「反復」である。《姤》の下体はまさに巽なので、巽は七の数を得る。これも爻数に属する。
三に曰く五行数
五行數圖(略)。上圖,朱漢上謂之洛書數,朱子則謂為河圖數。郭璞《洞林》云「坎數六,木數三」,是也。《易林》《晉》之《節》云「四壁無戶,三步一止」,《節》震木數三,坎水數一,皆用五行數也。又按:《易》《震》六二曰「九陵」,虞仲翔以初九當之,《易》無如此用數者;而《易林》遇震亦往往本《易》言九。震納庚,疑用金數也。
ここにもと五行数図があるが、この本では略す。上の図は、朱震はこれを洛書数と称し、朱熹はこれを河図数と称した。郭璞《洞林》に「坎数六、木数三」と言うのは、まさにこの図と相合する。《焦氏易林》「晋之節」の条に「四壁戸無し、三步一止」と言う。之卦《節》の中に互いに震を出し、震は木に属し木数は三なので「三步」と言い、《節》の上体は坎、坎は水に属し水数は一なので「一止」と言う。これらは皆五行の数を用いる。又按ずるに:《周易・震》卦六二に「九陵に躋く」と言い、虞翻は初九の一爻をもってあの「九」を解釈したが、《周易》にはこのように数を用いる例はない。しかし《易林》は震卦に遇えば、往々《周易》に依って「九」と言う。震は納甲において庚を納れ、庚は金に属し、金の成数は九である。この「九」はおそらく五行の金数を用いたのであろう。
四に曰く十日数
十日數圖(略)。上卽納甲數:乾納甲壬,配一九;坤納乙癸,配二十;震納庚,配七;巽納辛,配八;坎納戊,配五;離納己丁六;艮納丙,配三;兌納丁,配四。《易林》《解》之《謙》云「三火起明」,《謙》下艮納丙,數三,用日數也。又《易林》及虞翻等往往以兌為十,則以後天兌位當癸十之終,仍用日數,而非納甲也,祗兌如此用,他卦則未見。
ここにもと十日数図があるが、この本では略す。上図はすなわち納甲の数:乾は甲と壬を納れ、一と九に配す。坤は乙と癸を納れ、二と十に配す。震は庚を納れ、七に配す。巽は辛を納れ、八に配す。坎は戊を納れ、五に配す。離は己を納れ、六に配す。艮は丙を納れ、三に配す。兌は丁を納れ、四に配す(十干の順序は甲一・乙二・丙三・丁四・戊五・己六・庚七・辛八・壬九・癸十)。《焦氏易林》「解之謙」の条に「三火起き明らか」と言う。之卦《謙》の下体は艮、艮は丙を納れ、丙は十干の第三に居るので「三火」と言う。これは十日の数を用いる。また《易林》及び虞翻等は往々兌をもって十とする。それは後天八卦において兌は西方に居り、まさに癸水が十干の末に居る位に当たるので、依然として十日数を用いるのであり、納甲ではない(兌が丁を納るのはもとより四であるべき)。兌のみこのように用い、他の卦では見ない。
五に曰く九宮数
九宮數圖(略)。上圖,劉牧、朱震等謂之河圖,朱子謂之洛書,於古皆無確徵,故其名無定。考《大戴禮·明堂篇》曰「明堂凡九室」,「二九四七五三六一八」,與茲數正同。九室者,九宮也。是以《乾鑿度》、張衡、鄭康成等皆謂為九宮,故名曰九宮數。
ここにもと九宮数図があるが、この本では略す。上の図は、劉牧・朱震等はこれを河図と呼び、朱熹はこれを洛書と呼んだが、古書にいずれも確かな徴証を見出せないので、名称は終始定まらない。《大戴礼記・明堂篇》に「明堂はおよそ九室」と言い、また「二九四七五三六一八」の次序を列するのを考えると、この図の数と全く同じである。いわゆる九室とはすなわち九宮である。ゆえに《易緯・乾鑿度》及び張衡・鄭玄(字は康成)等は皆これを九宮と称した。ゆえにここで名づけて九宮数とする。
惟九宮之數皆以後天八卦配之。《易林》《蠱》之《師》云「二人共路」,後天坤位值二,《師》上坤,互震,震人,故曰二人。又《大壯》之《否》云「三痴六狂」,《否》下坤為痴,三用爻數;乾位值六,故曰六狂。二與六皆用九宮數也。其見於別書者,朱漢上云:郭璞謂巽別數四,兌數七。又曰:坎為一年,《易鑑》所謂震三、艮八也。惟朱漢上謂此為卦數,殊非。卦數須從定位起,此入用位,故以配九宮。
九宮の数は皆後天八卦をもってこれに配する(後天の方位:坎一・坤二・震三・巽四・中五・乾六・兌七・艮八・離九)。《焦氏易林》「蠱之師」の条に「二人、路を共にす」と言う。之卦《師》の上体は坤、後天の坤位は九宮の二に当たる。《師》は二から四爻までまた互いに震を出し、震は人である。合わせてゆえに「二人」と言う。また「大壮之否」の条に「三痴六狂」と言う。之卦《否》の下体は坤、坤は痴愚であり、「三」は爻数を取る(坤は下の三爻を拠る)。乾は九宮において六に当たるので「六狂」と言う。ここの二と六は、用いたのは皆九宮数である。他の書に見えるものでは、朱震は言う:郭璞は別に巽の数を四・兌の数を七とし、また坎は一年と言い、《易鑑》のいわゆる震三・艮八である。ただ朱震はこれらを卦数としたのは甚だ妥当でない。卦数は必ず先天定位から算し起こさなければならないが、この一組は入用の位なので、九宮に配するしかない。
六に曰く大衍数
大衍數,卽策數。《漢上易》云:「四因九,得三十六」,「四因六,得二十四」。太極不用,所用者四象,故以四因九六。九者陽數,六者陰數也。陽用極數,故九;陰用中數,故六。九而四之,得三十六,為乾一爻之策;六而四之,得二十四,為坤一爻之策。
大衍の数とは、すなわち蓍策の数である。朱震《漢上易伝》に「四は九を因して、三十六を得」、「四は六を因して、二十四を得」と言う。これは太極自体は揲算に参与しないので、用いるのはただ四象であり、ゆえに四をもって九と六を因す。九は陽数、六は陰数である。陽は極数を取るので九を用い、陰は中数を取るので六を用いる。九を四すると三十六を得、これを乾卦一爻の蓍策の数とする。六を四すると二十四を得、これを坤卦一爻の蓍策の数とする。
「六因三十六,得二百一十有六。」六者,一卦有六爻。乾一爻之策三十有六,以三十六而六之,則二百一十有六,為乾一卦之策。「六因二十四,得百四十有四。」六者,一卦有六爻。坤一爻之策二十有四,以二十四而六之,則百四十有四,為坤一卦之策也。
朱震はまた言う:「六は三十六を因して、二百一十六を得」。ここの「六」は一卦に六爻あるためである。乾卦の毎一爻の策数は三十六であり、三十六をもって六爻を乗すれば、便ち二百一十六を得る。これがすなわち乾一卦の策数であり、まさに《繋辞伝》の言う「乾の策二百一十有六」である。また言う:「六は二十四を因して、百四十四を得」。ここの「六」も同じく一卦に六爻あるためである。坤卦の毎一爻の策数は二十四であり、二十四をもって六爻を乗すれば、便ち百四十四を得る。これがすなわち坤一卦の策数であり、まさに《繋辞伝》の言う「坤の策百四十有四」である。
「乾坤之策凡三百有六十。」二百一十有六合百四十有四,則三百六十也。按九六策數六因之,共得三百六十,當期之日;若二十八、三十二,七八之數,各以六因之,亦共得三百六十,當期之日也。「三十二因二百一十有六,得六千九百一十二。」陽卦有三十二卦,以二百一十有六而三十二之,則六千九百一十二,為三十二陽卦之策數也。「三十二因百四十有四,得四千六百八。」陰卦有三十二卦,以百四十有四而三十二之,則四千六百八,三十二陰卦之策數也。
《繋辞伝》に言う:「乾坤両卦の策数は共に三百六十」。二百一十六に百四十四を加えれば、まさに三百六十。按ずるに:九と六のこの二つの策数は各々六爻を乗し、合わせて三百六十を得、ちょうど一年の日数に相当する。もし七・八の両数に改め用いれば(七を四すると二十八策、八を四すると三十二策)、一爻二十八策・一爻三十二策、各々六爻を乗じて百六十八と百九十二を得、合わせて同じく三百六十、やはりちょうど一年の日数に相当する。朱震はまた言う:「三十二は二百一十六を因して、六千九百十二を得」。六十四卦の中に陽卦は三十二卦あり、二百一十六をもって三十二を乗じれば、便ち六千九百十二を得る。これがすなわち三十二個の陽卦の策数である。「三十二は百四十四を因して、四千六百八を得」。陰卦も同じく三十二卦あり、百四十四をもって三十二を乗じれば、便ち四千六百八を得る。これがすなわち三十二個の陰卦の策数である。
「二篇之策,萬有一千五百二十。」三十二陽卦之策六千九百一十二,三十二陰卦之策四千六百八,合而為萬有一千五百二十,所謂二篇之策也。按全易三百八十四爻,陰陽爻各一百九十二,以九六策數因之,仍合為萬有一千五百二十。
「上下二篇の策数は、万有一千五百二十」。三十二個の陽卦の策数六千九百十二に、三十二個の陰卦の策数四千六百八を加え、合わせてまさに一万一千五百二十。これがすなわち《繋辞伝》の言う「二篇の策」である。按ずるに:《周易》全部は共に三百八十四爻、陰爻・陽爻各々百九十二。九・六の策数を用いて分けて乗じれば(陽爻は毎爻三十六策、陰爻は毎爻二十四策)、得る所は依然として合わせて一万一千五百二十。
右大衍數,邵康節傳其子伯溫。按此必傳其用,若數則人共知。按《易林》《萃》之《夬》云「千歡萬悅」,用乾策也;《噬嗑》之《損》云「遠望千里」,用坤策也;《萃》之《大畜》云「大樹百根」,用震策也。惟祗遇乾坤震三卦言之,他卦則不見也。
以上は大衍の数である。邵雍(諡は康節)はこれを息子の邵伯温に伝えた。按ずるに:彼の伝えたのは必ずこの数の用法であり、数目自体に至っては人々が皆と知っている。また按ずるに《焦氏易林》「萃之夬」の条に「千歓万悦」と言うのは、乾の策数を用い、「噬嗑之損」の条に「千里を遠望す」と言うのは、坤の策数を用い、「萃之大畜」の条に「大樹百根」と言うのは、震の策数を用いた。おおよそ陽卦の策は千をもって計し、二篇の策は万をもって計するので、林辞は「千」を挙げ「万」を挙げる。震一卦の策は百餘に過ぎないので「百」を挙げる。ただ《易林》は乾・坤・震の三卦に遇う時のみこのように用い、他の卦では見られない。
七に曰く十二辰数
十二辰數圖(略)。朱震云:十二辰卽月數,月數卽消息數,或用之為日數,則京房之積算也。《易林》《大壯》之《離》云「丑寅不徙,辰巳有咎」,則以坎互艮震,先後天皆居丑寅;離互兌巽,先後天皆居辰巳。又《革》之《賁》云「亥午相錯」,則以艮居亥,丑居午,皆論十二辰也。
ここにもと十二辰数図があるが、この本では略す。朱震は言う:十二辰とはすなわち月数、月数とはすなわち消息卦の数である。或いはこれを日数として用いれば、それはすなわち京房の積算法である。《焦氏易林》「大壮之離」の条に「丑寅は徙らず、辰巳は咎有り」と言う。之卦は《離》であり、《離》の伏卦(陰陽が全て変ずる)は《坎》であり、《坎》は二から四爻まで互震・三から五爻まで互艮であり、震は先天において東北に居り、艮は後天において東北に居り、先天後天ともに丑寅の位を占めるので「丑寅」と言う。《離》自体は二から四爻まで互巽・三から五爻まで互兌であり、兌は先天において東南に居り、巽は後天において東南に居り、先天後天ともに辰巳の位を占めるので「辰巳」と言う。また「革之賁」の条に「亥午相錯す」と言う。之卦《賁》の上体は艮、艮は先天において西北に居り、まさに亥位に当たる。下体は離、後天において正南に居り、まさに午位に当たる。これらは皆十二辰に就いて立論するものである。
焦氏易林は象学の大成を集む
由《左氏》證之,象至東漢卽失傳;西漢失傳與否,無從證明。然由《易林》考之,凡《左氏》所謂者,《易林》皆有也;其它各逸象所有者,《易林》無不有。若各逸象所無、為《易林》所獨有者,則象之失傳者也。其實此象皆在易辭中,易象失傳,後人遂瞠目莫覩矣,如坤魚、兌月,其著者也。故《易林》實集象學之大成。由斯推西漢時,象似未失傳也。茲分別述之於下。
《左伝》をもって検証すれば、易象は東漢に至り既に失伝したことが分かる。西漢に失伝したか否かは、証明するに由なし。しかし《焦氏易林》をもって考察すれば、およそ《左伝》の中で用いた象は《易林》に全てあり、その他各家の輯した逸象の有する所も、《易林》に具わらないものはない。各家の逸象に無く《易林》に独り有するものに至っては、それこそが失伝した象である。実はこれらの象はもとより《周易》の卦爻辞の中に在ったのであり、ただ易象が失伝したために、後人は目を瞠っても見出せなくなった。坤を魚・兌を月とするようなのが、その最も顕著な例である。ゆえに《易林》は実に象学の大成を集めた作である。これにより推せば、西漢の時には易象はまだ失伝していなかったようである。今、門類を分けて叙述する。
甲・六十四卦に用いられた象
凡卦爻辭皆從象生,其見於《說卦》及各家逸象者,人能解;其不見者,則不能解,如干日、兌月、坤魚、乾南、坤北、離東、坎西等是也。而《易林》則無不知之。
およそ卦辞・爻辞は皆卦象から生ずる。その中で《説卦伝》及び各家の輯した逸象に見えるものは、人々はなお解釈できる。これらの書に見えないものは、解き開く人がいない。例えば乾は日・兌は月・坤は魚・乾は南に居り坤は北に居り離は東に居り坎は西に居るという類は、皆このようである。しかし《焦氏易林》はこれらの象に対し知らないものはない。
乙・説卦の百五十象
乾健坤順,言八卦性情者八象;乾馬坤牛,遠取諸物者八象;乾首坤腹,近取諸身者八象,共二十四象。及下所廣之百十有四家,後天八卦象、中男少男二象,共百五十象,《易林》無不用也。
《説卦伝》の中で「乾健・坤順」の類の八卦の性情を講ずるものは八象あり、「乾は馬・坤は牛」の類の遠く物に取るものは八象あり、「乾は首・坤は腹」の類の近く身に取るものは八象あり、合計二十四象。さらに後文の推し広めた一百十四象、および後天八卦の方位の象・中男少男の二象を加え、全部で一百五十象。これらの象は《焦氏易林》で用いないものは一つもない。
丙・荀九家の逸象
共三十有一象。此本非逸象,徒以傳流之本字多寡不同,後儒慎之,命為逸象。此亦唯《易林》知之,若東漢人則不盡知。
荀爽等九家の伝えた逸象は、一共に三十一個。これらはもとより「逸象」と算えるものではなく、ただ伝流して来た本の文字の多少が同じでないため、後の学者は敢えて決断せず、彼らに「逸象」の名を安じた。この一批の象もまた《焦氏易林》のみが全て知っており、東漢人ならば必ずしも皆は知らない。
丁・左伝に用いられた象
其普通皆知之象不録。除十翼外,詁易者莫先於《左傳》。其說易,無一字不從象生。惟其所用之象,為《說卦》及各逸象所有者,杜注孔疏能解;無者遂不能解。杜孔之時,賈逵服虔之注皆在,可見賈服卽不知,象至東漢而失傳,此最明確矣。茲將《左傳》失傳之象,分述如左。
その中の人々が皆分かる普通の象は再び収録しない。《十翼》以外で、《周易》を解説するのに最も早いのは《左伝》に過ぎない。《左伝》の《易》を講ずるに、一文字とて卦象から生じないものはない。ただその用いた象は、およそ《説卦伝》及び各家の逸象の中に有るものは、杜預の注・孔穎達の疏はなお解釈できる。無いものは遂に解釈できない。杜預・孔穎達の時、賈逵・服虔の旧注は皆なお在った。連中の賈逵・服虔すら既に分からなかったことが見える。易象は東漢に至り即ち失伝した。この一点は最も明確である。今、《左伝》の中のあの失伝した象を、分けて叙述する。
一、閔元年,畢萬筮仕於晉,遇《屯》之《比》,震變坤也,而曰「車從馬」,以震為車。又《晉語》:「震,車也。車有震武。」是以震為武。而漢魏人解《易》《履》《巽》之武人,無以震為武者。若《易林》則遇震卽言武。又震殺之象,孔疏能解,漢人解《易》亦無用者,而《易林》每用之。
第一条:《左伝》閔公元年、畢万は晋国に仕官を求めて占筮し、《屯》之《比》を得、即ち《屯》卦下体の震が坤に変じた。占辞に「車、馬に従う」と言うのは、まさに震をもって車とする。また《国語・晋語》に「震は車である。車には震の威武あり」と言う。これは震をもって武とする。しかし漢魏の人が《周易》《履》卦六三・《巽》卦初六の両所の「武人」を解するに、震をもって武とする者は一人もいない。《焦氏易林》は震に遇えば即ち武と言う。また震は殺伐を主る象は、孔穎達の疏はなお講じ出せるが、漢人の《易》を解する者には用いた者がなく、《易林》は則ち常に用いる。
二、閔二年筮季友生,遇《大有》之《乾》,卽離變乾,而曰「同復於父,敬如君所」,言離所在南與乾南同也,而杜注不能解。若《易林》則每以乾為南。三、莊二十二年筮敬仲生,遇《觀》之《否》,曰「若在異國,必姜姓也」,因遇卦之卦皆有巽,巽為齊,姜者齊姓,故巽為姜,而漢魏人皆不知此象。若《易林》遇巽卽言姜,初讀之不知其所指,後乃知其本於《左氏》。
第二条:閔公二年、季友の出生のために占筮し、《大有》之《乾》を得、即ち《大有》下体の離が乾に変じた。占辞に「父に同じく復り、君の所のごとく敬す」と言うのは、離の居る方位が南であって、乾の居る南方と同じであると言う(先天は乾は南に居り、後天は離は南に居る)。杜預の注は解釈できない。《焦氏易林》は則ち常に乾をもって南とする。第三条:荘公二十二年、陳敬仲の出生のために占筮し、《観》之《否》を得、占辞に「もし異国に在らば、必ず姜姓ならん」と言う。これは本卦《観》の上体は巽であり、之卦《否》は三から五爻までまた互いに巽を出し、本卦・之卦ともに巽があるためである。巽は斉国、姜はまさに斉国の国姓なので、巽は姜となる。漢魏の人は皆この象を知らない。《焦氏易林》は巽に遇えば即ち姜と言う。私は初め読んだ時それが何を指すか分からず、後になってはじめてそれが《左伝》に本づくことを知った。
四、僖十五年晉筮嫁伯姬於秦,遇《歸妹》之《睽》,卽震變離,曰「為嬴敗姬,車說其輹,火焚其旗」。姬、輹、旗皆震象,震形毀,故曰敗、曰脫、曰焚,詳見卷七。乃杜注不知,解之皆誤。若《易林》則以震為姬為旗,皆與《左氏》合。又曰「敗於宗丘」,震為主,故為宗;為反艮,故曰丘;震形毀,幫敗。兼用覆象,尤與《周易》《易林》合,而杜注不解。
第四条:僖公十五年、晋国は伯姫が秦国に嫁ぐのために占筮し、《帰妹》之《睽》を得、即ち《帰妹》下体の震が離に変じた。占辞に「嬴のために姫を敗り、車は其の輹を説(脱)げ、火は其の旗を焚く」と言う。ここの「姫」「輹」「旗」は皆震象である。震は一変すれば形体は便ち毀壊するので「敗」と言い「脱」と言い「焚」と言う。詳細は本書巻七に見る。杜預の注はこの一層を知らず、解釈は全て誤った。《焦氏易林》は則ち震をもって姫・旗とし、処処《左伝》と相合する。占辞はまた「宗丘に敗る」と言う。震は主なので宗となり、震は倒して見れば艮となるので丘と言い、震の形体が毀壊するので敗と言う。ここでは覆象まで兼ねて用い、《周易》と《易林》に殊に吻合するが、杜預の注は解釈できない。
五、襄二十五年筮娶棠姜,遇《困》之《大過》,卽坎變巽,曰「夫從風,風隕,不可娶也」,巽為隕。東漢人不知,故虞仲翔《鼎》初六「鼎顛趾」,不知其故在巽,而以《大過》顛為說。又秦筮伐晉,遇《蠱》,曰「歲云秋矣,我落其實」,以艮為果實,巽為落也,而杜注不詳。若《易林》,則遇巽言隕落者,不可勝數也。至坎夫象,亦失傳。
第五条:襄公二十五年、崔杼は棠姜を娶るために占筮し、《困》之《大過》を得、即ち《困》卦下体の坎が巽に変じた。占辞に「夫、風に従い、風陨る、娶るべからず」と言う。これは巽をもって陨落とする。東漢の人はこの象を知らないので、虞翻が《鼎》卦初六「鼎、趾を顛す」を解するに、「顛」の故がまさに巽に在ることを知らず(《鼎》の下体は便ち巽)、かえって《大過》の「顛」をもって附会した。また秦国は晋国を討伐するために占筮し、《蠱》卦を得、占辞に「歳は云々秋なり、我は其の実を落す」と言う。《蠱》の上体の艮は果実、下体の巽は陨落であるが、杜預の注ははっきり講じない。《焦氏易林》は則ち巽に遇えば陨を言い落を言い、数え切れないほど多い。坎が「夫」となる象に至っても、同じく失伝した。
六、昭五年筮穆子生,遇《明夷》之《謙》,卽離變艮,曰「日之謙當鳥」,艮為鳥,故曰當鳥。乃杜注不知艮鳥象,以離鳥當之,是離當離矣,於之《謙》何涉?是不通也。若《易林》,則以艮為鳥,故讀「黔喙」為「黔啄」。又曰「於人為言,敗言為讒」。「於人為言」者,謂三至五互震也,震為人為言;乃震覆為艮,則言敗矣;《謙》正覆雨震言相背,則讒言矣,全用覆也。乃杜注不知。若《易林》,則遇《謙》卽曰讒也。
第六条:昭公五年、叔孫穆子の出生のために占筮し、《明夷》之《謙》を得、即ち《明夷》下体の離が艮に変じた。占辞に「日の謙は、鳥に当たる」と言う。艮は鳥なので「当鳥」と言う。杜預の注は艮に鳥象あることを知らず、離の鳥をもって解釈した。されば離が離に当たることになり、変じ出た《謙》卦と何の相干があろうか。根本的に講じ通らない。《焦氏易林》は則ち艮をもって鳥とするので、《説卦伝》「艮は黔喙の属を為す」の「黔喙」を「黔啄」(黒い嘴の飛鳥)と読む。占辞はまた「人に於いて言を為し、言を敗るは讒を為す」と言う。いわゆる「人に於いて言を為す」とは、《謙》卦の三から五爻まで互いに震を出し、震は人・また言を指す。しかし震は一倒して見れば艮となるので「言」も敗壊する。《謙》卦は正しく見れば震、倒して見てもやはり震で、二つの「言」は互いに背き、讒言となる。この一段は全篇が皆覆象を用いる。杜預の注は分からないが、《焦氏易林》は則ち《謙》卦に遇えば即ち讒と言う。
七、成十六年晉筮與楚戰,遇《復》,曰「南國蹙,射其元王,中厥目」。《復》下震為南,坤為國,故曰南國;震為射,故射其元。震南震射之象,解易者皆不知。又乾為元、首也,為王,乾位南,故自北射中元王,而杜注不知。若《易林》則均知之。
第七条:成公十六年、晋国は楚国と交戦するために占筮し、《復》卦を得、占辞に「南国蹙まり、其の元王を射、厥の目に中る」と言う。《復》卦の下体は震、震は南方。上体は坤、坤は国なので「南国」と言う。震はまた射なので「其の元を射」と言う。震は南・震は射のこの二つの象は、《易》を解する者は皆知らない。さらに乾は「元」(元とはすなわち首)・また「王」であり、乾の方位は南に在るので、北面から南方の元王を射中したのである。杜預の注はこれらを知らないが、《焦氏易林》は全て知っている。
戊・孟氏の逸象
孟氏逸象,傳者多寡不同,一三百餘象,一四百餘象。杬氏云:以兩漢經師各守師說,故多寡不同。惟先儒謂此象傳自焦氏,今以《易林》考之,焦氏所用極要之象,此皆無之,傳自焦氏似不然也。又此象採自本經,頗有誤者,推其解皆虞義。如焦以艮為虎,與九家合,此以坤為虎;焦以震為鶴,此以離為鶴;焦以震為孕,此以離為孕,顯皆虞氏詁經之誤解。故吾疑此象純為虞仲翔所輯,否則後儒採自虞注中,而未必為孟氏也。焦氏易傳自孟氏,如此象為孟氏所輯,豈有《左傳》之象焦氏皆知,孟氏反不知哉?此其證也。茲從其多者録之,至其義有可疑,或與《易林》異者,則隨文注出,以資參考。
孟喜の伝えた逸象は、各々伝えた多少が同じでない。或る本は三百餘象、或る本は四百餘象。杬氏は言う:これは両漢の経師が各々自家の師説を守った故で、ゆえに多少が同じでない。先輩の学者はこの批の象は焦延壽から伝わったと認めた。今《焦氏易林》をもって考察すれば、焦氏の最も要緊に用いたあの象はここには一つもなく、焦氏から伝わったと言うのはおそらく誤り。またこの批の象は《周易》本経の中から採り出したものだが、かなり採り誤った所があり、その解釈を推究すれば、用いたのは皆虞翻の説法である。譬えば焦延壽は艮をもって虎とし、荀爽九家の説と相合するのに、ここでは坤をもって虎とする。焦氏は震をもって鶴とするのに、ここでは離をもって鶴とする。焦氏は震をもって孕とするのに、ここでは離をもって孕とする。明らかに皆虞翻が経を詁する時の誤解である。ゆえに私はこの批の象は純粋に虞翻が輯録したものと疑う。さもなければ後の学者が虞翻の注の中から採り出したもので、必ずしも真に孟喜に出たものではない。焦延壽の《易》学は孟喜から伝わった。もしこの批の象が果たして孟喜の輯したものならば、《左伝》の中の象を焦氏は全て知り、孟喜はかえって知らないという理があろうか。これが証拠である。今、象数の多い本に依って照らして録し、其中で義が可疑なもの、或いは《易林》と異なるものは、文に随って注し出して参考に資する。
乾為王、先王、明君、人、大人、聖人、賢人、君子、武人、行人、物、易、立、直(九家)、敬、畏、威、嚴、剛堅、道、德、盛德、行、性(卽乾元)、精、言(九家)、信、揚善、善、積善、良、仁、愛、忿、生、祥、慶、天休、嘉、福、介福、祿、先、始、知、大、盈、蔑、肥(此與上武人皆虞氏誤象)、好施、利、清、治、大謀、高、揚、宗、族、高宗、甲、老、舊、古、大明(乾,日也,兼月言者非)、遠、郊、野、門、道門、百歲、頂、朱、衣(九家)、圭、蓍、瓜、龍(九家)。
今、象数の多い本に依って照らし録し、まず乾卦を列する。乾の逸象は計有り:王、先王、明君、人、大人、聖人、賢人、君子、武人、行人、物、易、立、直(この象は荀爽九家もまた有る)、敬、畏、威、厳、剛堅、道、徳、盛徳、行、性(すなわち《乾》卦の「元」)、精、言(九家もまた有る)、信、揚善、善、積善、良、仁、愛、忿、生、祥、慶、天休(上天の降す美善)、嘉、福、介福(大福)、禄、先、始、知、大、盈、蔑、肥(「肥」と上の「武人」は、皆虞翻の取り誤った象)、好施、利、清、治、大謀、高、揚、宗、族、高宗、甲、老、旧、古、大明(乾はすなわち日であり、月をも牽連させて解説するのは誤り)、遠、郊、野、門、道門、百歳、頂、朱、衣(九家もまた有る)、圭(玉圭)、蓍(占筮に用いる蓍草)、瓜、竜(九家もまた有る)。
坤為臣、順臣、民、萬民、姓、小人、邑人(誤)、鬼、形、身、牝、母、躬、我、自、至、安、康、富、財、積、聚、萃、重、致、用、包、寡、徐、營、下、容、裕、虛、書、邇、近、疆、無疆、思、惡、理、體、禮、義、事、業、大業、庶政、俗、度、類(誤象)、閒、藏、密、默、恥、欲、過、丑、積惡、迷(九家)、弒、亂、怨、害、遏惡、終、永終、敝、死、喪、冥、晦、夕、莫夜、暑、乙、年、十年、戶、義門、闔戶、閉關、盍、土、階、積、土田、邑、國、邦、大邦、萬國、異邦、方(九家)、鬼方、裳(九家)、紱、車、器、缶、輹(誤象)、囊、虎(虞氏誤象)、兕、黃牛、牝牛。九家帛、漿象,此無。
次は坤卦。坤の逸象は計有り:臣、順臣、民、万民、姓、小人、邑人(この象の採録は誤り)、鬼、形、身、牝(雌性)、母、躬(自身)、我、自、至、安、康、富、財、積、聚、萃(聚集)、重、致、用、包、寡、徐(遅緩)、営、下、容、裕、虚、書、邇(近)、近、疆、无疆、思、悪、理、体、礼、義、事、業、大業、庶政(各種の政事)、俗、度、類(誤象)、閑(防閑)、蔵、密、黙、恥、欲、過、醜、積悪、迷(九家もまた有る)、弑、乱、怨、害、遏悪(悪行を遏止する)、終、永終、敝(破敝)、死、喪、冥、晦、夕、莫夜(即ち「暮夜」、日が落ちて天黑まる時を指す)、暑、乙、年、十年、戸、義門、闔戸(門を閉じる)、閉関、盍(合)、土、階、積、土田、邑、国、邦、大邦、万国、異邦、方(九家もまた有る)、鬼方、裳(九家もまた有る)、紱(印を繋ぐ絲帯)、車、器、缶、輹(車軸の下の伏兎、これは誤象)、嚢(口袋)、虎(これは虞翻の取り誤った象)、兕(牛に似た独角の猛獣)、黄牛、牝牛。荀九家には別に帛・漿の二象があるが、ここにはない。
震為帝、主、諸侯、人、士、兄、夫、元夫、趾、出、行、徵、作、遂、驚走、警衛、定、百、言、講議、問、語、告、響、聲、音、鳴、夜、交(疑)、徵、反、後、後世、從、守、左、生、嘗、緩、寬仁、樂、笑、喜笑、笑言、道、際、祭、鬯、禾稼、草莽、鼓(九家)、筐、馬、麋鹿。九家有玉、鵠,此無。巽為命、命令、號令、教令、誥、號、號咷、處女、婦、妻、商旅、隨、入、處、伏、列、齊、同、交、進、退、舞、谷、長木、苞、楊、果木、芽、白芽、蘭、草木、草莽、杞、葛藟、薪、庸(卽墉)、床、繩、帛、腰帶、繘、蛇、魚、鮒。九家有鸛象,此無。
再次は震卦と巽卦。震の逸象は計有り:帝、主、諸侯、人、士、兄、夫、元夫(大丈夫)、趾(足)、出、行、征、作、遂、驚走、警衛、定、百、言、講議、問、語、告、響、声、音、鳴、夜、交(この象は可疑)、征、反、後、後世、従、守、左、生、嘗、緩、寛仁、楽、笑、喜笑、笑言、道、際(交接の処)、祭、鬯(祭祀に用いる香酒)、禾稼、草莽、鼓(九家もまた有る)、筐、馬、麋鹿。荀九家には別に玉・鵠の二象があるが、ここにはない。巽の逸象は計有り:命、命令、号令、教令、誥、号、号咷(声を放って大哭する)、処女、婦、妻、商旅、随、入、処、伏、列、斉、同、交、進、退、舞、穀、長木(高木)、苞(叢生の草木)、楊、果木、芽、白芽、蘭、草木、草莽、杞(杞柳)、葛藟(藤蔓)、薪、庸(すなわち城墉)、牀、縄、帛、腰帯、繘(水を汲む繩索)、蛇、魚、鮒(小魚)。荀九家には別に鸛象があるが、ここにはない。
坎為聖(鄭玄《周禮》注:聖,通也。《洪範》「睿作聖」,睿,明也,水明而無不通,故為聖。張惠言謂得乾二,非)、雲、玄雲、川、大川(紀磊謂此象非)、河、心、志、思、慮、憂、謀、惕、疑、艱、蹇、恤、悔、逖(此以逖為憂,顯為虞義)、忘、勞、濡、涕、洟、眚、病、疾病、疑疾、災、破、罪、悖、欲、淫、寇盜、暴、毒、瀆(《說卦》)、孚、平、法、罰、獄、則、經、習、入、內、聚、脊、要、臀、膏、陰夜、歲、三歲、尸、酒、木、叢木、叢棘(九家)、棘匕、穿木、校、弧、弓彈、車、馬。九家有為宮、為律、為可、為棟、為狐、為桎梏,此無。
坎の逸象は計有り:聖(鄭玄《周礼》注に言う:聖とはすなわち通。《尚書・洪範》に「叡、聖を作す」と言い、叡とは明である。水は明澈にして通ぜざる所なし、ゆえに坎は聖となる。張恵言は坎が乾の第二爻を得たためと言うが、誤り)、云、玄云、川、大川(紀磊はこの象は確かでないと認める)、河、心、志、思、慮、憂、謀、惕、疑、艱、蹇、恤、悔、逖(これは「逖」を憂と講じたもので、明らかに虞翻の説に出る)、忘、労、濡(沾湿)、涕、洟(鼻涕)、眚(災眚)、病、疾病、疑疾、災、破、罪、悖、欲、淫、寇盗、暴、毒、瀆(《説卦伝》に見る)、孚、平、法、罰、獄、則、経、習、入、内、聚、脊、要(腰)、臀、膏、陰夜、歳、三歳、尸、酒、木、叢木、叢棘(九家もまた有る)、棘匕(酸棗木で作った匕匙)、穿木、校(枷械)、弧(木弓)、弓弾、車、馬。荀九家には別に為宮・為律・為可・為棟・為狐・為桎梏の六象があるが、ここにはない。
離為女子、為婦、孕(《易林》以震為孕,此似誤)、惡人、見、飛、爵、日、明、光、甲、黃、戎、折首、刀、斧(《易林》以兌為斧詁易,義長)、資斧、矢、飛矢、黃矢、綱、罟、甕(《易林》以震為甕)、鳥、飛鳥、鶴(此誤解《中孚》而取)、隼(此誤解《解》上六而取)、鴻(此誤解《漸》鴻而取)。九家有牝牛象,此無。虞翻注《離》彖,謂以離為牝牛為俗說,豈知《左氏》明曰純離為牛,《左氏》亦俗說乎?由此證虞翻未見《左傳》,又以證孟氏逸象純為虞氏逸象。
離の逸象は計有り:女子、婦、孕(《易林》は震をもって孕とするので、ここは誤ったようである)、悪人、見、飛、爵、日、明、光、甲、黄、戎、折首、刀、斧(《易林》は兌をもって斧として経を解くので、義理はより長い)、資斧、矢、飛矢、黄矢、綱、罟、瓮(《易林》は震をもって瓮とする)、鳥、飛鳥、鶴(これは《中孚》を誤解して取ったもの)、隼(これは《解》卦上六を誤解して取ったもの)、鴻(これは《漸》卦の鴻を誤解して取ったもの)。荀九家には別に牝牛の象があるが、ここにはない。虞翻が《離》卦彖辞に注して、離をもって牝牛とするのは俗説と言うが、あに知らん、《左伝》は明らかに純離(離下離上)は牛と講ずる。まさか《左伝》も俗説であろうか。これにより虞翻は《左伝》を見たことがないことを証明でき、またいわゆる孟氏逸象は実は純粋に虞氏一家の逸象であることをも証明できる。
艮為弟、小子、君子、賢人、童、童蒙、僮僕、官、友、閽、時、豐、星、沫、霆、果、慎、節、待、制、執、小、多、厚、取、舍、求、篤實、道、門庭、宗廟、社稷、鼻(九家)、肱、背、腓、皮、膚、小木、碩果、豹、狼、小狐、尾。九家有為虎、為狐二象,此無。虞氏以坤為虎,訖不知艮虎象,豈知《易林》及九家皆以艮為虎。後郭璞又以兌為虎,兌西方虎宿,又兌為剛魯、為毀折,義亦勝於坤。兌為妹、妙、妻、朋友(此虞氏不知朋友真詁誤取,與類同)、講習、小、少、刑人、密、通、見、右、下、少知、契。九家有為常、為輔頰二象,此無。
艮の逸象は計有り:弟、小子、君子、賢人、童、童蒙、僮僕、官、友、閽(門を守る人)、時、豊、星、沫、霆、果、慎、節、待、制、執、小、多、厚、取、捨、求、篤実、道、門庭、宗廟、社稷、鼻(九家もまた有る)、肱、背、腓、皮、膚、小木、碩果、豹、狼、小狐、尾。荀九家には別に為虎・為狐の二象があるが、ここにはない。虞翻は坤をもって虎とし、終始艮に虎象あることを知らなかった。あに知らん、《焦氏易林》と九家は皆艮をもって虎とすることを。後に郭璞はまた兌をもって虎とした。兌は西方の白虎星宿の位に当たり、しかも兌は剛魯(《説卦》は「剛鹵」と作る)・毀折なので、講じれば坤をもって虎とするより一層勝る。兌の逸象は計有り:妹、妙、妻、朋友(これは虞翻が「朋友」の真の訓解を知らずに誤取したもので、上文の坤の「類」象と同例)、講習、小、少、刑人、密、通、見、右、下、少知、契。荀九家には別に為常・為輔頬の二象があるが、ここにはない。
除《說卦》外,凡《左氏》所用之象、九家逸象,《易林》無不知之,無不用之。至孟氏逸象,則《易林》不與盡同。然較其義於經,則《易林》無滯義;而孟氏逸象,則用於此而合者,用於彼常不合,如以離為斧,《旅》斧可解,《巽》斧遂不合,於是虞翻命卦再三變,以就其象。夫一卦可變為六十四卦,尚何求而不得乎?經義之不明,此等曲說障之也。
《説卦伝》以外、およそ《左伝》の用いた象・荀爽九家の逸象は、《焦氏易林》に知らないもの・用いないものはない。孟喜逸象に至っては、《易林》とは全く同じではない。しかしそれらを経文の上に置いて比較すれば:《易林》の象は処処講じ通って毫も滞碍なし。孟氏逸象はここに用いて合い、そこに用いれば常に合わない。譬えば離をもって斧とすれば、《旅》卦九四「其の資斧を得」はなお講じ通るが、《巽》卦上九「其の資斧を喪う」(当該卦は上下とも巽で、離がない)に至っては合わない。ここにおいて虞翻はやむを得ず一卦を再三変化させ、彼の象に遷就させた。しかし一卦は六十四卦に変じ得るので、まだどんな象が求めて得られないことがあろうか。経義の晦く明らかでない所以は、まさにこの類の曲説に遮蔽されたのである。
焦氏易傳自孟氏,以西漢時之重師承,豈有焦氏故背其說而立異如此哉?故夫孟氏逸象,純為虞氏一家之說,可斷言也。乃先儒又有謂此逸象傳自焦氏者,今以《易林》考之,重要之象迥不相同,傳自焦氏之說,似尤無稽。茲將《易林》失傳之象,標出如左。
焦延壽の《易》学は孟喜から伝わった。西漢の時人の師承を重んじることのようであれば、焦氏が故に師説に背き、異を立ててこの地步に至る理があろうか。ゆえに孟氏逸象は純粋に虞翻一家の言であり、断言できる。しかし先輩の学者の中にまたこの批の逸象は焦氏から伝わったと言う者がある。今《焦氏易林》をもって考察すれば、最も要緊なあの象は彼此迥と同じでない。「焦氏から伝わった」の説は、さらに根拠がない。今《易林》の中に保存されたあの失伝の象を、標挙して下に示す。
易林に存する失伝の象
乾:為日、河、海、山、陵、南、順。坤:為水、江、淮、河、海、魚、淵、雲、虛(同墟)、薪、逆、北。震:為武、旗、鴻、隼、鳥、箕子、南、射、爵、樽食、鶴、君、伐、姬(周姓)、甕、胎(卽孕)、舟船、飛、翼、老夫、商旅、公(父同)、口、神、襦、缶、瓶、辰、簋、登、狩、乘、華、羽、東北、萌芽、翰、髮、袂。巽:為母、齊、姜、少姜、寡、隕、落、羸、蠱、石、隙、袽。
乾(これらは皆《易林》にのみ見え後世に失伝した象):日を為し、河、海、山、陵、南方、順を為す。坤:水・江・淮・河・海・魚・淵・雲・虚(「墟」に同じ、廃墟)・薪・逆・北方を為す。震:武・旗・鴻・隼・鳥・箕子・南方・射・爵(飲酒の器)・樽食・鶴・君・伐・姫(周朝の国姓)・瓮・胎(すなわち孕)・舟船・飛・翼・老夫・商旅・公(「父」と同義)・口・神・襦(短衣)・缶・瓶・辰・簋・登・狩・乗・華・羽・東北・萌芽・翰・髪・袂(衣袖)を為す。巽:母・斉国・姜姓・少姜・寡・陨・落・羸・蠱・石・隙・袽(破敝の絮帛)を為す。
坎:為大首、肉、土、眾、胏、楫、西、脯、鬼、矢、夫。離:為枯、星、東。艮:為火、鳥、鴂、隼、面、簪、須、祖、臣、臣妾、角、啄、豚、負、何、壽、貴、邑、邦、床、西北、斯析、貝、金、觀、光、明、龜、視。兌:為月、華、老婦、魯、資斧、牙。右從《易林》尋得失傳之象,共百廿一;又有為《易林》所無,祗見於《左傳》者一象:震為輹(詳卷七)。
坎:大首・肉・土・衆・胏(骨付きの干肉)・楫(船櫂)・西方・脯・鬼・矢・夫を為す。離:枯・星・東方を為す。艮:火・鳥・鴂・隼・面・簪・須・祖・臣・臣妾・角・啄・豚・負・何(担荷)・寿・貴・邑・邦・牀・西北・斯析(劈開する)・貝・金・観・光・明・亀・視を為す。兌:月・華・老婦・魯国・資斧・牙を為す。以上は《焦氏易林》の中から尋繹し出した失伝の象で、全部で一百二十一個。この外にまた《易林》に無く、《左伝》にのみ見える象が一つあり、即ち震は輹を為す(詳しくは本書巻七に見る)。
共百廿二象,至漢魏皆失傳。除姬、旗、姜數象可釋《左傳》外,餘無一字不與《易》有關,可據以更正昔儒誤解誤象,如撥雲霧而見青天,如闇夜之逢華燭也。至其所推廣之象,奇詭百出,如一一列舉,雖數倍於孟氏逸象而不能盡也。
両項合計一百二十二象は、漢魏の時に至り全て失伝した。姫・旗・姜等の数個の象は《左伝》を解釈するに用いるだけの外、その余は一文字とて《周易》と関わらないものがなく、皆拠って前人の経文への誤解と誤取の象を訂正できる。これは雲霧を撥いて青天を見るがごとく、また暗夜で明るい燭に逢うがごとし。《易林》がこれらの象の上にさらに推衍した部分に至っては、さらに奇詭百出であり、もし一々列挙しようとすれば、篇幅は孟氏逸象の数倍としても挙げ尽くせない。
而尤要者,《易林》視本象與對象不分,由是易用旁通之處始明;《易林》以覆象與正象雜用,妙不可階,由是易用覆象之處,其神妙亦漸解;推之半象大象,無不皆然。初觀其辭,妙義環生,玲瓏剔透,不可端倪,若焦氏用象,獨擅天機;及推求其例,無不源本於經,無絲毫之逾越規矩也。昔人知《太玄》擬易,故往往卽玄首以解經,而不知焦氏《易林》之亦擬易也。嗚呼!後之人有究心易數者乎?愚以為《太玄》其階。有究心易象者乎?《易林》其數也。
殊に要緊なのは:《焦氏易林》は本卦の象と対卦(旁通)の象を一体と見做して分別せず、これにより《周易》が旁通で象を取る所がはじめて明らかになった。《易林》はまた覆象(整卦を倒して見る)と正象を挟み雑えて用い、巧妙で企及する由なし。これにより《周易》が覆象を用いる所の、その神妙も漸く解くことができる。さらに半象・大象に推しても、皆このようでないものはない。初めて《易林》の林辞を読むと、妙義が層出し玲瓏剔透で、端倪を摑ませず、焦延壽の用象は独り天機を得たかのようである。彼の義例を推求し出してから、はじめて一つとして経文に本づかないものがなく、毫も規矩を逾越しないことを知る。昔の人は揚雄《太玄》が《周易》を摹擬して作ったことを知っていたので、往々《太玄》の「首」に就いて経を解いたが、焦氏《易林》も同じく《周易》を摹擬したことを知らなかった。嗚呼!後世に肯んじて易数に専心して研究する人がいるか。私は《太玄》は彼の階梯と思う。肯んじて易象に専心して研究する人がいるか。《易林》は彼の入門の憑借である。
