潜虚総論
《潜虚発微論》は宋代の張敦実の撰。全書は司馬光《潜虚》一書のために作った闡発の論で、《潜虚》の気・体・性・名・行・変・命・蓍の諸図に依り、篇…
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
潛虛發微論﹝宋﹞張敦實撰
《潜虚発微論》は宋代の張敦実の撰。全書は司馬光《潜虚》一書のために作った闡発の論で、《潜虚》の気・体・性・名・行・変・命・蓍の諸図に依り、篇ごとにその宗旨を発明する。
有物混成,先天地生,強而名之,是為道。太極元氣,函三為一,衍而伸之,是為數。兩儀之所以奠位,萬類之所以成形,天下國家之所以致治,悉不外乎道與數。聖人筆而載之,是為《易》。子云作《太玄》,所以明《易》也;溫公作《潛虛》,所以明《元》也。
一つのものが渾然として成り、天地生成の前にすでに存在し、強いて名を立てれば、これを「道」と呼ぶ。太極の元気は天・地・人の三者を包容して混同し一と為し、それを推衍し伸展すれば、これを「数」と呼ぶ。天地両儀が各々その位に就き得るのも、万類品物が各々その形を成し得るのも、天下国家が治理を得られるのも、みな「道」と「数」の二端を出ない。聖人がこれを筆録して典冊に載せれば、《易》となる。揚子雲(揚雄)の《太玄》は《易》を闡明するためのもの、司馬温公(司馬光)の《潜虚》は《太玄》を闡明するためのものである(宋人は避諱のため、書中では一率して《太玄》を《元》と称す)。
《易》之作,出於不得已;《元》《虛》之作,豈亦出於不得已乎?自雄之作《元》,議者已紛然矣,獨有於《虛》乎?曰:《易》者,經之原也,其道奧而難知。溫公固嘗云:《易》,天也;《元》者,所以為之階也。將昇天而可廢其階乎?又嘗譬之:扶大廈者資眾木,明大道者資眾說。蓋非特《元》論,亦《虛》論也。學者由《虛》而曉《元》,由《元》而究《易》,斯無躐等之患,而有漸進之益矣,是豈得已而不已哉?
《易》の成書は聖人の已むを得ざるに出でたもの、然らば《太玄》と《潜虚》の成書もまた已むを得ざるに出でたのではないか。揚雄が《太玄》を写してより、非議する者はすでに紛紛攘攘、いわんや《潜虚》をや。私の答はこうだ。《易》は群経の本原で、その道理は深奥にして窺知し難い。司馬温公はもともと言った――《易》は天のごとく、《太玄》は天に登るに憑る階梯である、と。天に升らんとする以上、どうして階梯を廃できようか。温公はまた譬えを打った――一座の大廈を撐るは多くの木料に恃み、一条の大道を闡明するは多くの学説に恃む、と。この言は《太玄》のための弁護のみならず、同じく《潜虚》のための弁護でもある。学者はまず《潜虚》により《太玄》に通暁し、《太玄》により上遡して《易》を窮究すれば、「躐等」(越級躁進)の弊なく、循序漸進の益がある。こうであれば、温公の《潜虚》著述は、本なら擱筆し得たのにあえて擱筆しなかったのか。
抑又以溫公平生著述論之:其考前古興衰得失之跡,作為《通鑑》,自《潛虛》視之,則筆學也;留心《太元》三十年,既集諸說而為注,又作《潛虛》之書,自《通鑑》視之,則心學也。今世於筆力之所及者,家傳人誦,無閒四夷;至於心思之所及,則見者不傳,傳者不習,誠可怪也。豈後世之子云,於溫公見之?後世之溫公,自有時乎?
更に温公一生の著述をもって衡量すれば、彼は上古以来の興衰得失の踪迹を考訂して《資治通鑑》を成した。《潜虚》の角度から見れば、それは「筆学」に属し、筆墨に形する学問である。彼は《太玄》に留意すること三十年、各家の説を彙集して注を作り、また別に《潜虚》一書を撰した。《通鑑》の角度から見れば、それは「心学」に属し、心思に存する学問である。今、世人は彼の筆力の及ぶ《通鑑》については、家家に收藏し人人に誦読し、四方辺遠の地まで隔たりがない。彼の心思の及ぶ《潜虚》については、見た者は伝布しようとせず、伝本を得た者は研習しようとしない。実に費解である。後世の揚子雲は、温公の身に於てのみ見出さねばならず、後世の温公は、なお別の時運を待たねば出現しないのか。
敦實自幼得《潛虛》稿本於其裔孫伋,首尾多闕,尋訪數年始得全文。初若聱牙漫漶,不可測識,深思熟讀,乃知立辭命意,左右前後,橫斜典直,皆有成理。因即其圖,各為總論,庶幾學者易覽,少見溫公之用心焉。
私、張敦実は幼くして温公の後裔司馬伋から《潜虚》の稿本を得たが、惜しいことに首尾の残缺が多く、後に尋訪すること数年にしてようやく全文を凑えた。初め読めば文句は佶屈聱牙・字跡漫漶して、測度・理解するに由なし。深思熟読したのち、ようやく書中の遣詞命意が、左であれ右であれ、前であれ後であれ、横列・斜貫・正体・変体、いずれも各々一定の条理を有すと悟った。そこで私は《潜虚》の各幅の図に依り、分かれて総論を写し、学者が読んで明白に看やすく、以て温公著書の一片の苦心を略々窺見せんことを願う。
難然,《詩》三百篇而聖人蔽之以一言。若道極於微妙,而不見於日用之閒,則亦何貴於道哉?是故《易》之所謂人道者,不過乎仁義;《元》之所謂大訓者,不過乎忠孝;《虛》之所謂人之務者,不過乎五十五行。仰而推之,以配三百六十五度,日月不能越一度以周天,人不能越一行以全德,茲又述作之深意也。學者以是求之,思過半矣。若夫大衍、五行、律曆之至數,又何患其難知焉。
とはいえ、《詩》は三百篇の多きも、孔子は「思无邪」の一句でそれを統括した。もし道が精微の極に至りながら、日常人事の間にその用を見なければ、道の何が貴かろうか。ゆえに《易》の講ずる「人道」は仁と義に外ならず、《太玄》の講ずる「大訓」は忠と孝に外ならず、《潜虚》の講ずる「人之所務」はあの五十五の「行」に外ならない。頭を擡げて上に推算し、この五十五行を周天三百六十五度に配すれば、日月は一度を踰えて天を周行することができず、人も一行を踰えてその徳を成全することができない。これもまた温公著書の深意の存する所である。学者がこの路に順って探求すれば、全書の領会はすでに半ばを過ぎた。大衍之数・五行之数・律暦之数といった最も精微の数理も、また何を愁えて弄懂し難しとしようか。
元以准易虚以擬元論
切觀《元》之準《易》、《虛》之擬《元》,非謂卦爻象數求以相合也。反覆其序,軫轉其道,雖若與之相戾,而終實與之為表裡者,乃所以為有得也。故《易》之為卦六十有四,而《元》之首則八十有一,《虛》之名則五十有五;《易》之爻有六,《元》之贊則有九,《虛》之變則有七;《易》之卦有內外,《元》之首有四位,《虛》之體有十等;《易》有八物,《元》配五行,《虛》則兼之以生成之數。《易》始於乾,《元》則始於中,《虛》則始於元也;《易》終於未濟,《元》則終於養,《虛》則終於餘也。
私は《太玄》が《易》に比照し、《潜虚》が《太玄》を摹擬するこの事を仔細に体察して、卦爻象数の上で一一その吻合を求めるのではないと見出した。それらは次序を翻転し、道理を別に推転して、見るからに《易》に相い违背するがごとく、最終的には実に《易》と互いに表裏を為す。これこそまさにそれらの独得の所である。ゆえに《易》の卦は六十四、《太玄》の「首」は八十一、《潜虚》の「名」は五十五。《易》の一卦は六爻、《太玄》の一首は九「賛」、《潜虚》の一名は七「変」。《易》の卦は内卦・外卦に分かれ、《太玄》の首は方・州・部・家の四位に分かれ、《潜虚》の「体」は十等に分かれる。《易》は乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌の「八物」を取り、《太玄》は水火木金土の「五行」を配し、《潜虚》は兼ねて五行の生数と成数を用いる。《易》は乾卦に起り、《太玄》は「中」首に起り、《潜虚》は「元」名に起る。《易》は未済卦に終わり、《太玄》は「養」首に終わり、《潜虚》は「余」名に終わる。
《易》之蓍策用四十有九,《元》之蓍策用三十有三,《虛》之蓍策用七十。《易》之揲也以四,《元》之揲也以三,《虛》之揲也以十。《易》之占也以動,《元》之占也以逢,《虛》之占也以變。是三者固若相戾而不合也,及要而語極,則實相表裡,豈有異哉?
《易》の占筮に用いる蓍草は四十九本、《太玄》の用いるは三十三本、《潜虚》の用いるは七十本。《易》は蓍草を四本ずつ一組とし、《太玄》は三本ずつ一組とし、《潜虚》は十本ずつ一組とする。《易》は爻の「動」(老陽老陰の変爻)を恃りて占を断じ、《太玄》は「逢」(逢う所の陽星・陰星)を恃りて占を断じ、《潜虚》は「変」を恃りて占を断ずる。この三家の做法は、表面から見れば確かに互いに抵牾し彼此合わざるがごとく、しかしいったん提要鉤玄して根柢まで説至れば、それらは実は互いに表裏を為すので、どこに両様のところかあらん。
《易》之為卦也,始於太極,太極生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦,八八而乘之,故極為六十有四焉。若《元》之為首,由一以生三,由三以生九,九九而乘之,斯為八十有一焉。至《虛》之為名,則始於五行,以天之中數五五而乘之為二十有五,以地之中數五六而乘之為三十,合而言之為五十有五焉。然則《易》之卦、《元》之首、《虛》之名,無以異也。
《易》が卦を成す所以は、太極に起る。太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生じ、八と八相い乗ず、ゆえに卦数の極はすなわち六十四。《太玄》が「首」を立てる所以は、一より三を生じ(方)、三より九を生じ(州)、再び九と九相い乗じ、ここに八十一首を得る。《潜虚》が「名」を立てる所以は、五行に起る。天の中数五を自乗して二十五を得、地の中数六を五と相乗して三十を得、両者合わせてまさに五十五。このように見れば、《易》の卦・《太玄》の首・《潜虚》の名は、生成の理に於て分別あるなし。
《易》之為爻,守金木水火而為一,分土而為二,於是有六爻,六六乘之,故六十四卦而三百八十四爻具焉。若《元》之為贊,則分金木水火而為二,守士而為一,於是有九贊,九九而乘之,故八十一首而七百二十九贊設焉。至《虛》之有變,以金木水火土生成之合,旋相為宮而生商角徵羽及變宮變徵,於是有七變,七七而乘之,以「元」「餘」「齊」之無變,故五十二名、三百六十四變生焉。《易》之爻、《元》之贊、《虛》之變,無以異也。
《易》の爻を確立する法は、金・木・水・火を各々一位に守らせ、土を分かちて两位と為し、ここに一卦六爻あり。六と六相い乗ず、ゆえに六十四卦は共に三百八十四爻を具える。《太玄》の「賛」を確立する法は、金・木・水・火を各々二に分かち、土を独り一に守らせ、ここに一首九賛あり。九と九相い乗ず、ゆえに八十一首は共に七百二十九賛を設く。《潜虚》に「変」の有るは、金・木・水・火・土の生数・成数の配合を取り、律呂の旋相為宮に仿って商・角・徴・羽および変宮・変徴を生じ、ここに七変あり。七と七相い乗じ、更に「元」「余」「斉」の三名は変なく占に入らざるを除き、ゆえに五十二名・三百六十四変を生ず。見れば《易》の爻・《太玄》の賛・《潜虚》の変も、道理の上では分別あるなし。
《易》之為書也,卦有內外以別正悔,於是有二體。故有以乾為主而重卦者,若健而說之為夬是也;有以坤為主而重卦者,若順而說之為萃是也;以震為主,若動而說之為隨;以巽為主,若巽而說之為大過:皆以其有二體故也。若《元》之為書,則方州部家以別遠近,於是有四位焉。故一元象辭都覆三方,而方者三公之象也;方同九州,而州者九卿之象也;杖載庶部以象大夫,分正部家以象元士:凡此皆以其有四位故也。
《易》という書は、卦ごとに内卦・外卦を分かち、以て「正」(内卦は貞)と「悔」(外卦は悔)を区別し、ここに上下二体あり。ゆえに乾を主として重ねて一卦を成すものあり、例えば下に乾は剛健、上に兌は和説とすれば、夬卦と成る。坤を主として重ねて一卦を成すものあり、例えば下に坤は柔順、上に兌は和説とすれば、萃卦と成る。震を主とするものは、例えば下に震は動、上に兌は和説とすれば、随卦と成る。巽を主とするものは、例えば下に巽は入、上に兌は和説とすれば、大過卦と成る――これらはみな卦に二体あるが故である。《太玄》という書は、方・州・部・家をもって遠近親疎を区別し、ここに四位あり。ゆえに一玄は総統して遍く三方を覆い、「方」は象を三公に取る。一方はまた各々九州を領し、「州」は象を九卿に取る。更に下の「部」は以て象を大夫に取り、最も細分する「家」は以て象を元士に取る――これらはみな四位あるが故である。
至《虛》之為書,則體分十等以表尊卑。故一等象王,二等象公,分嶽、牧、率、侯、卿、大夫、士、庶,次為等降。先設十純,各分其位;其次降一,王引三公也,其名為裒;其次降二,王引四嶽也,其名為柔;其次降三,王引九牧也,其名為剛;其次降四,王引連率也,其名為雍。凡此皆以其有十等故也。合而論之,二體、四位、十等,同為卦象而已,果且有異乎哉?
《潜虚》という書は、「体」を十等に分かちて以て尊卑高下を標示す。ゆえに第一等は象を王に取り、第二等は象を三公に取り、以下更に岳・牧・率・侯・卿・大夫・士・庶人を分かち出し、依次に遞降す。まず十の「純」体を立て、各々その位を占め、続いて一等を降るは、王が三公を統領し、この一名を「裒」と言う。更に二等を降るは、王が四岳を統領し、この一名を「柔」と言う。更に三等を降るは、王が九牧を統領し、この一名を「剛」と言う。更に四等を降るは、王が連率を統領し、この一名を「雍」と言う。これらはみな十等あるが故である。合わせて言えば、《易》の二体・《太玄》の四位・《潜虚》の十等は、同じく取象して卦を立つるに過ぎず、果たして何の両様かあらん。
《易》之為書也,始於乾坤而分於六子,於是有八物焉。天地奠位,知其為乾坤;山澤通氣,知其為艮兌;雷風相薄,震巽以辨;水火不相射,坎離以濟:凡此以其體乎八物故也。若《元》之為書,則始於一水,終於五土,於是有五行焉。故首性屬水,知其為中;首性屬火,知其為周;礥之為首,性得天三之木;閒之為首,性得地四之金;少之為首,性得天五之土:凡此皆以其配五行也。
《易》という書は、乾・坤の两卦に起り、更に乾坤が交索して震・坎・艮・巽・離・兌の六つの子卦を分かち出し、ここに八種の物象あり。天地各々その位を定むれば、それは乾と坤と知る。山沢の気相通ずれば、それは艮と兌と知る。雷風は彼此激盪し、震と巽を恃りて分辨す。水火は互いに相い厭わず、坎と離を恃りて相い済す――これらはみな《易》が八物を以て体と為す故である。《太玄》という書は、「一」の水に起り「五」の土に終わり、ここに五行あり。ゆえに某首の性水に属すれば、それは「中」首と知る。某首の性火に属すれば、それは「周」首と知る。「礥」这一首は、その性天三の木を得、「閑」这一首は、その性地四の金を得、「少」这一首は、その性天五の土を得る――これらはみな五行を以て相配する故である。
至《虛》之為書,始於天一,終於地十,於是備五行生成之數。一六置後,自泯至昧;二七置前,自蠢圭考;三八置左,自容至前;四九置右,自徒至乂;五十分置於四隅,艮昭、巽庸、坤範、乾績,各有所隸。若此,以其備五行生成之數也。合而論之,八物、五行及五行生成之用,同於取象而已,果且有異乎哉?
《潜虚》という書は、天一に起り地十に終わり、ここに五行の生数・成数の全副の数目を備斉す。一と六は後方(北)に安放し、「泯」名より「昧」名に至る。二と七は前方(南)に安放し、「蠢」名より「考」名に至る。三と八は左方(東)に安放し、「容」名より「前」名に至る。四と九は右方(西)に安放し、「徒」名より「乂」名に至る。五と十は別々に四つの角上に安放し、艮位に「昭」あり、巽位に「庸」あり、坤位に「範」あり、乾位に「績」あり、各々その隷属あり。このごとく布置するは、まさに五行生成の数を備足せんがためである。合わせて言えば、《易》の八物・《太玄》の五行および《潜虚》の五行生成之数の運用は、同じく取象に過ぎず、果たして何の両様かあらん。
《易》次其卦,以陰陽消息、人事盛衰相受其義;《元》次其首,以日之躔、宿之分度以周其數;《虛》次其名,以周天之度,用三百六十四變,變尸一日。故《易》始於乾,則以萬物之所資始,所謂「有天地然後有萬物」是也;終於未濟,則以變故之不可測,所謂「易不可窮,故以未濟終焉」是也。
《易》の卦の次序を排列するは、陰陽の消長と人事の盛衰の前後相承に按じてその義理を定む。《太玄》の首の次序を排列するは、太陽の行く躔次・星宿の分かつ度数に按じてその数目を周遍す。《潜虚》の名の次序を排列するは、周天の度数に按じ、三百六十四の「変」をもって分配し、一変は一日を主管す(原文「変尸一日」の「尸」はすなわち主の義)。ゆえに《易》は乾卦を以て開端とし、取る所は万物みなそれに恃りて始め有ること、即ち《序卦伝》の言う所の「天地有りて後万物有り」。未済卦を以て収尾とし、取る所は世事変故は測度すべからず、即ちいわゆる「《易》道は窮尽すべからず、ゆえに未済を以て結と為す」。
《元》始於中,則以一元之氣所由基,所謂「一氣潛萌於黃鐘,信無不在其中」是也;終於養,則以一歲之氣所由復,所謂「星如歲如,復繼之初」是也。《虛》始於元,則以元始也,所謂「冬至之氣起於元」是也;終於餘,則餘終也,所謂「天地無餘,不能成變化」是也。即是推之,則卦、首、名之終始,無以異也。
《太玄》は「中」首を以て開端とし、取る所は一元の気ここより根基を奠むる、即ちいわゆる「一気は黄鐘の律に潜蔵萌動し、その信実は其中に在らざるなし」。「養」首を以て収尾とし、取る所は一年の気ここより回復す、即ちいわゆる「星象此のごとく、歳功此のごとく、回復してまた最初に接続す」。《潜虚》は「元」名を以て開端とし、取る所は「元」はすなわち開始、即ちいわゆる「冬至の一陽の気は元に起る」。「余」名を以て収尾とし、取る所は「余」はすなわち終了、即ちいわゆる「天地に此の余分なくんば、変化を成就する能わず」。このごとく推して行けば、《易》卦・《太玄》首・《潜虚》名の起訖の安排に於ても、また分別あるなし。
《易》之蓍策本乎大衍而虛其一,《元》之蓍策本乎天地而虛其三,《虛》之蓍策本乎王行而虛其五。故乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四,合而計之凡三百有六十,以當期之日;衍而積之,凡萬有一千五百二十,以當萬物之數:此《易》之蓍所以用四十有九也。
《易》の蓍策は大衍之数五十に本づき其中の一を虚去し、《太玄》の蓍策は天地之数三十六に本づき其中の三を虚去し、《潜虚》の蓍策は五行之数七十五に本づき其中の五を虚去す(原文の「王行」はすなわち「五行」の誤)。ゆえに乾卦之策は二百一十六、坤卦之策は一百四十四、両者合計して共に三百六十、まさに一周年の日数に当たる。更に之を推衍累積すれば、共に一万一千五百二十、まさに万物の数に当たる――これは《易》占が四十九本の蓍草のみを用いる所以の道理である。
天之數十有八,地之數十有八,合而計之凡三十有六,以律七百二十九贊;衍而積之,凡二萬六千二百四十四策,以當歲之日:此《元》之蓍所以用三十有三也。五行相乘得二十有五,又以三才乘之得七十有五,以占五十五名;衍而積之,凡三千八百五十策,以成變化之用:此《虛》之蓍所以用七十也。即是推之,則策算之無窮,無以異也。
天の数は十八、地の数は十八、両者合計して共に三十六、以て七百二十九賛を統率す。推衍累積して共に二万六千二百四十四策、まさに一年の日数に当たる――これは《太玄》の占筮が三十三本の蓍草のみを用いる所以の道理である。五行は自ら相乗じて二十五を得、更に天・地・人の三才を乗じて七十五を得、以て五十五の名を占断す。推衍累積して共に三千八百五十策、以て変化の功用を成就す――これは《潜虚》の占筮が七十本の蓍草のみを用いる所以の道理である。このごとく推して行けば、三家の策数推算の無窮無尽も、また分別あるなし。
分而為二,掛一於指,揲之以四,歸奇於扐,此則《易》之揲法也。先掛其一,半分其餘,揲之以三,並餘於扐,此則《元》之揲法也。分而為二,右掛左一,揲在以十,歸餘於扐,再分揲右皆如左法,此則《虛》之揲法也。《易》揲以四,故取七八九六以定六爻之法;《元》揲以三,故取七八九以定四位之畫;《虛》揲以十,故取左右生成之數以定合體之名:是則揲法之同也。
蓍草を随手に分かちて两堆と為し、中より一本を取りて指間に掛け、四本ずつ一組に数え過ぎ、余る零頭を手指の縫に挟む――これは《易》の揲蓍法。まず一本を掛け出し、更にその余の半分を分かち、三本ずつ一組に数え過ぎ、零頭を并せて指縫に挟む――これは《太玄》の揲蓍法。蓍草を分かちて两堆と為し、右堆より一本を取りて左手に掛け、十本ずつ一組に数え過ぎ、零頭を指縫に挟み、しかるのち再び分かちて右堆を数え、办法は左堆を数えると同じ――これは《潜虚》の揲蓍法。《易》は四を一組とす、ゆえに七・八・九・六を取りて六爻の少陽・少陰・老陽・老陰を定む。《太玄》は三を一組とす、ゆえに七・八・九を取りて方州部家四位の爻画を定む。《潜虚》は十を一組とす、ゆえに左右両辺の生数・成数を取りて合体の名を定む――これは三家の揲法の相通ずる所である。
七為夕陽,八為少陰,而七八為無變;九為老陽,六為老陰,而九六為有變。不變者靜而守其位,有變者動而有所之,此則《易》之占法也。旦筮用經,夕筮用緯;休則逢陽星,時、數、辭從;咎則蓬陰星,時、數、辭違:此則《元》之占法也。左為主,右為客,先主後客者陽,先客後主者陰;陽則用其顯,陰則用其幽:此則《虛》之占法也。《易》取其變,故以九六而辨其吉凶;《元》取其逢,故以從違而別其休咎;《虛》用其變,故以幽顯而辨其否臧:是則占法之無以異也。
七は少陽(原文の「夕阳」はすなわち「少陽」)、八は少陰、七と八はいずれも変わらず。九は老陽、六は老陰、九と六はいずれも変ずる要あり。変わらざるは静止して本位を守り、変ずる要あるは活動して往く所有り――これは《易》の占法。早朝の占筮は「経」(首辞)を用い、傍晚の占筮は「緯」(賛辞)を用いる。吉慶に逢えば、即ち陽星に遇い、時令・数位・辞義いずれも順従す。災咎に逢えば、即ち陰星に遇い、時令・数位・辞義いずれも違逆す――これは《太玄》の占法。左を主とし右を客とし、先主後客は陽に属し、先客後主は陰に属す。陽に属すれば則ちその顕明の一面を用い、陰に属すれば則ちその幽隠の一面を用いる――これは《潜虚》の占法。《易》は「変」に着眼す、ゆえに九・六を以て吉凶を辨别す。《太玄》は「逢」に着眼す、ゆえに順従・違逆を以て休咎を分別す。《潜虚》はその「変」を運用す、ゆえに幽隠・顕明を以て善悪を辨别す――これは三家の占法の並びに分別なき所である。
夫以首準卦,以名擬首,以贊準爻,以變擬贊,以四位準二體,以十等擬四位,以五行準八物,以生成演五行。至於卦、首、名之相次,策算之無窮,蓍之數,占之法,未有不同者。自非好古樂道,用心於內,超然自得於犧《易》之旨者,孰能進此?知揚子雲深湛之思、司馬君實專精之見,皆有以臻大《易》之奧也。
総じて言えば。《太玄》は「首」を以て《易》の卦に比照し、《潜虚》はまた「名」を以て《太玄》の首を摹擬す。「賛」を以て《易》の爻に比照し、また「変」を以て「賛」を摹擬す。方州部家の四位を以て《易》の上下二体に比照し、また十等を以て四位を摹擬す。五行を以て《易》の八物に比照し、また生数・成数を以て五行を推演す。卦・首・名の彼此相次の序列、策数推算の無窮、蓍草の根数、占断の方法に至るまで、一样として相通ぜざるはなし。もし古を好み道を楽しみ、心思を其中に用い、超然として伏羲の《易》を画ける本旨に自得し得る者にあらずんば、誰かこの歩みまで推究し得んや。これによりて揚子雲の沈潜深湛の思慮、司馬君実(司馬光の字は君実)の専一精純の見解は、いずれも《周易》の奥義に抵达するに足ると知る。
気論
五行之在天地閒,一水、二火、三木、四金、五土,生數也。所謂生數者,五行具天地自然之氣也,故五行生數各含一陰一陽之性。在九疇,則五行一曰水、二曰火、三曰木、四曰金、五曰土,有自然之象也;在《易》,則天一、地二、天三、地四、天五,有自然之數也。物生而後有象,至滋而後有數,則生數一十有五兆於此也。
五行は天地の間に存し、一は水、二は火、三は木、四は金、五は土、この五つの数を「生数」と叫ぶ。いわゆる生数とは、五行が天地の自然の気を禀具するを説く、ゆえに五行の生数は各々一陰一陽の性を含む。《尚書・洪範》の九疇の裡では、五行は「一曰水二曰火三曰木四曰金五曰土」、これは自然然たる物象。《易・繋辞》の裡では、「天一地二天三地四天五」、これは自然然たる数目。事物はまず生成して後に象の睹うべきあり、滋長繁衍して後に数の計るべきあり。然らば一・二・三・四・五相加えて共に十五なる生数の総は、まさにここより端倪を顕露するものである。
天一居北方坎位為水,地二居南方離位為火,天三居東方震位為木,地四居西方兌位為金,天五居中而為土。在《虛》則有原、有熒、有本、有廾、有基焉。至土則本無方隅,分王四正之方,能生萬物。故北方水一得土五而成六,南方火二得土五而成七,東方木三得土五而成八,西方金四得土五而成九,中央五土合而成十,則成數四十成於此也。
天一は北方坎位に居りて水と為り、地二は南方離位に居りて火と為り、天三は東方震位に居りて木と為り、地四は西方兌位に居りて金と為り、天五は中央に居りて土と為る。この五者は《潜虚》の裡では「原」「熒」「本」「廾」「基」の五つの名に対応す。土に至りては、本来固定の方位角落なく、分かちて東西南北四正の方に旺し、因って万物を生長し得。ゆえに北方水の一は中央土の五を得て六と成り、南方火の二は土五を得て七と成り、東方木の三は土五を得て八と成り、西方金の四は土五を得て九と成り、中央の五土は自ら相合して十と成る――六・七・八・九・十相加えて共に四十なる成数の総は、まさにここより凑成するものである。
生數一十有五,成數四十,生成之數五十有五,所以其天地終始之道,在太虛之中能成變化而行鬼神也。《白虎通》曰:土可以王四季者何?木非土不生,火非土不榮,金非土不成,水非土不高,土扶微助衰,歷成其道。故五行更生得土以助之,所以昔之原者今有委,昔之熒者今有焱,昔之本者今有末,昔之廾者今成刃,昔之基者今成冢矣。
生数は合計して十五、成数は合計して四十、生数・成数相加えて共に五十五、ゆえにこの数は天地始終の道理を承載し、太虚の中に於て変化を成就し鬼神の功用を推行し得。《白虎通》に曰く、土はなにゆえ四季に旺し得るか。木は土なくんば生ずる能わず、火は土なくんば旺する能わず、金は土なくんば成る能わず、水は土なくんば升る能わず、土は微弱を扶助し衰敗を匡救し、一路衆行の道を成全す。ゆえに五行は更迭相い生ずといえども、いずれも土を得て助成すを要す。これに由りて、従前ただ「原」(水の発源)のみなりしが、今は「委」(水の帰流)有り。従前ただ「熒」(火の微明)のみなりしが、今は「焱」(火の熾盛)有り。従前ただ「本」(木の根干)のみなりしが、今は「末」(木の枝梢)有り。従前ただ「廾」(金の朴質)のみなりしが、今は「刃」(金の鋒利)と成れり。従前ただ「基」(土の根基)のみなりしが、今は「冢」(土の高厚)と成れり。
体論
天地之數,一三五七九,陽之奇也,故為天之數,天秉陽也;二四六八十,陰之偶也,故為地之數,地秉陰也。陰陽合德而剛柔有體,此五位所以貴乎相得也。五位相得而各有合者:天一與地六相得合而生水,有原而有委;地二與天七相得合而生火,有熒而有焱;天三與地八相得合而生木,有本而有末;地四與天九相得合而生金,有廾而有刃;天五與地十相得合而生土,有基而有冢。
天地之数の中、一・三・五・七・九は陽の奇数、ゆえに天之数と算う、天の秉受するは陽気を以ての故。二・四・六・八・十は陰の偶数、ゆえに地之数と算う、地の秉受するは陰気を以ての故。陰陽各々その徳に合い剛柔各々その体有り、これは《易・繋辞》の言う五位の「相得」が貴ぶ所以の道理。五位相得して各々配合有るの情形は、天一と地六相得して合し、水を生じ、ここに「原」あり「委」あり。地二と天七相得して合し、火を生じ、ここに「熒」あり「焱」あり。天三と地八相得して合し、木を生じ、ここに「本」あり「末」あり。地四と天九相得して合し、金を生じ、ここに「廾」あり「刃」あり。天五と地十相得して合し、土を生じ、ここに「基」あり「冢」あり。
以五行生成合而言之則有五,以五行生成分而言之則有十,故一等象王至十等象庶人,總五十有五體。體有左右,所以辨賓主也;體有上下,所以辨尊卑也。左為主,右為客,上為尊,下為卑。
五行の生数・成数を合わせて講じればただ五、分かちて講じれば便ち十と為る、ゆえに《潜虚》は第一等より象を王に取り、一直に排して第十等に至りて象を庶人に取り、総計して五十五の「体」を立出す。毎体は左右の分あり、以て賓と主を辨别す。上下の分あり、以て尊と卑を辨别す。左辺のは主、右辺のは客、上面のは尊、下面のは卑。
一等象王,尊無二上,故體之左右純乎一也。二等象公,下王一等,故右純乎二,左事王也。三等象嶽,下公一等,故右純乎三,左事王公也。四等象牧,下嶽一等,右純乎四,左事王公四嶽也。五等象率,下牧一等,右純乎五,左事王公嶽牧也。自一至五,皆用五行之生數以興天下之治者也。
第一等は象を王に取る、尊貴して第二の人その上に在ることなし、ゆえにこの一体の左右両辺はいずれも純に「一」を用う。第二等は象を三公に取る、王より低き一等、ゆえに右辺は純に「二」を用い、左辺は則ち王に事奉す。第三等は象を四岳に取る、公より低き一等、ゆえに右辺は純に「三」を用い、左辺は則ち王と公に事奉す。第四等は象を九牧に取る、岳より低き一等、右辺は純に「四」を用い、左辺は王・公・四岳に事奉す。第五等は象を連率に取る、牧より低き一等、右辺は純に「五」を用い、左辺は王・公・岳・牧に事奉す。第一等より第五等に至るまで、用いるは皆五行の生数一至五、これに藉りて天下の治道を興起す。
六等象侯,下率一等,右純乎六,左事王公嶽牧率也。七等象卿,下侯一等,右純乎七,左事公嶽牧率侯,詘乎一者,不及左事王也。八等象大夫,下卿一等,右純乎八,左事嶽牧率侯卿,詘乎二者,不及左事王公也。
第六等は象を諸侯に取る、率より低き一等、右辺は純に「六」を用い、左辺は王・公・岳・牧・率に事奉す。第七等は象を卿に取る、侯より低き一等、右辺は純に「七」を用い、左辺は公・岳・牧・率・侯に事奉す――事奉する者は上一等より一位少なし、位分すでに卑しく、直接王に事奉するに及ばざるを以ての故。第八等は象を大夫に取る、卿より低き一等、右辺は純に「八」を用い、左辺は岳・牧・率・侯・卿に事奉す――事奉する者は上一等より両位少なし、直接王と公に事奉するに及ばざるを以ての故。
九等象士,下大夫一等,右純乎九,左事牧率侯卿大夫,詘乎三者,不及左事王公四嶽也。十等象庶人,下士一等,右純乎十,左事率侯卿大夫士,詘乎四者,不及左事王公嶽牧也。自一至十,皆用五行之成數以成天下之治者也。上下相承若此,故能使天下之大若網在綱,若臂使指,無末大必折、尾大不掉之患矣。
第九等は象を士に取る、大夫より低き一等、右辺は純に「九」を用い、左辺は牧・率・侯・卿・大夫に事奉す――事奉する者は上一等より三位少なし、直接王・公・四岳に事奉するに及ばざるを以ての故。第十等は象を庶人に取る、士より低き一等、右辺は純に「十」を用い、左辺は率・侯・卿・大夫・士に事奉す――事奉する者は上一等より四位少なし、直接王・公・岳・牧に事奉するに及ばざるを以ての故。第一等より第十等に至るまで、用いるは皆五行の成数六至十、これに藉りて天下の治道を成就す。上下このごとく一層一層相承接すれば、ゆえに偌大の天下をして漁網の綱縄に繋がるがごとく、手臂の手指を指揮するがごとく如意ならしめ、「末大必折尾大不掉」なる枝強干弱の禍患有ることなし。
性論
五行之性,其相生也不失其為相繼,其相剋也不失其為相成。相繼者,四時之次也;相成者,六府之敘也。四時之次:金生水而冬承秋,水生木而春繼冬,木生火而夏繼春,皆相生以相繼也。六府之修:以土治水,以水治火,而水火為用;以火治金,以金治木,而金木為器;以木治土,以土治穀,而土穀為利:此皆相剋以相成也。
五行の性は、相生の時はその「相継」たるを失わず、相克の時はその「相成」たるを失わず。相継とは四時の次序を指し、相成とは水・火・金・木・土・穀の「六府」の条理を指す。四時の次序は、金は水を生じ、ゆえに冬は秋を承接す。水は木を生じ、ゆえに春は冬を承継す。木は火を生じ、ゆえに夏は春を承継す――これらは皆相生に恃りて相継す。六府の修治は、土を以て水を治め、水を以て火を治め、ここに水火は日用に供せらるべし。火を以て金を治め、金を以て木を治め、ここに金木は器具を制すべし。木を以て土を治め、土を以て穀を種え、ここに土穀は利益を生ずべし――これらは皆相克に恃りて相成す。
《虛》之合德,雖存二體,合為一用,大率不出相生相剋,不失其性,故能其用無方焉。始於十純,其體立而不改;其次降一,故水與火配;其次降二,故水與木配;其次降三,故水與金配;其次降四,故水與土配。自降一至降四,其下亦降次以相配焉。最後五行生成各自為配,皆不出以相生相繼、相剋以相成。是乃五行之性,在天地之閒未嘗或乖且戾也。
《潜虚》の講ずる「合徳」は、一名の中に上下両体を存すれども、合わせてただ一つの功用を成就す、大体相生と相克を出ず、各々本性を失わず、ゆえに功用は変化して窮まりなく方なく。それは十の「純」体より始まり、この十体は一経確立すれば即ち更改せず。続いて一等を降りて、ここに水と火相配す。更に二等を降りて、ここに水と木相配す。更に三等を降りて、ここに水と金相配す。更に四等を降りて、ここに水と土相配す。降一より降四に至るまで、その下の各等もまた照様に依次に遞降して両両相配す。最後に至りて、五行の生数・成数は各々自身と相配す。およそ此の種々は、いずれも相生にして相継ぎ、相克にして相成すを出ず。これはすなわち五行の性、それは天地の間に於て従来曽て乖違悖戾有ることなし。
名論
周天三百六十五度四分度之一,五行生成合體而立名,不過五十有五,齊於天地之中,包斡萬物,故有名而無位。冬至之氣起於元,轉而周三百六十四變,變尸一日,乃授於餘而終之。一六居後,在天則斗、牛、女、虛、危、室、壁之分焉;三八居左,在天則角、亢、氐、房、心、尾、箕之分焉;二七居前,在天則井、鬼、柳、星、張、翼、軫之分焉;四九居右,在天則奎、婁、胃、昴、畢、觜、參之分焉。
周天は共に三百六十五度四分度之一。五行の生数・成数両両合体して立出す「名」は、総計して五十五に過ぎず、それらは均斉に天地の中に安処し、万物を包羅斡運す、ゆえに名のみ有りて固定の爵位なし。冬至の一陽の気は「元」名に起り、運転一周して共に三百六十四の「変」を経、一変は一日を主管し、最後に「余」名に交付して一歳を終結す。一と六は後方即ち北方に居り、天上ではまさに斗・牛・女・虚・危・室・壁の北方七宿の分野に当たる。三と八は左方即ち東方に居り、天上ではまさに角・亢・氐・房・心・尾・箕の東方七宿の分野に当たる。二と七は前方即ち南方に居り、天上ではまさに井・鬼・柳・星・張・翼・軫の南方七宿の分野に当たる。四と九は右方即ち西方に居り、天上ではまさに奎・婁・胃・昴・畢・觜・参の西方七宿の分野に当たる。
自泯至昧十有一名,在北而屬水;自容至前十有一名,在東而屬木;自蠢至考十有一名,在南而屬火;自徒至乂十有一名,在西而屬金。昭一土也,處報德之維,分王於丑;卻、庸、妥三土也,處常陽之維,分王於辰;範一土也,處背陽之維,分王於未;績、育、聲、興、痡五土也,處蹄通之維,分王於戌;齊,中土也,處大中之內,在天其北極之任乎。
「泯」名より「昧」名に至るは共に十一の名、位は北方にして水に属す。「容」名より「前」名に至るは共に十一の名、位は東方にして木に属す。「蠢」名より「考」名に至るは共に十一の名、位は南方にして火に属す。「徒」名より「乂」名に至るは共に十一の名、位は西方にして金に属す。「昭」は一つの土名、東北の「報徳之維」に処り、分かちて丑に旺す。「却」「庸」「妥」は三つの土名、東南の「常陽之維」に処り、分かちて辰に旺す。「範」は一つの土名、西南の「背陽之維」に処り、分かちて未に旺す。「績」「育」「声」「興」「痡」は五つの土名、西北の「蹄通之維」に処り、分かちて戌に旺す。「斉」は則ち中央の土、大中の内に処り、天上ではほぼ北極の居る所の位置に相当すべきか。
変論
律呂之生,始於黃鐘,下生林鐘;林鐘上生太簇,太簇下生南呂,南呂上生姑洗,姑洗下生應鐘,應鐘上生蕤賓,蕤賓上生大呂,大呂下生夷則,夷則上生夾鐘,夾鐘下生無射,無射上生中呂。陽六為律,陰六為呂。以黃鐘為宮,則林鐘為徵,太簇為商,南呂為羽,姑洗為角,應鐘為變宮,蕤賓為變徵。至十二律旋相為宮,各以七變而乘之,則盡八十四調,此聲之元、五聲之正也。
十二律呂の産生は、黄鐘より始まる。黄鐘は八を隔てて下に林鐘を生じ、林鐘は上に太簇を生じ、太簇は下に南呂を生じ、南呂は上に姑洗を生じ、姑洗は下に応鐘を生じ、応鐘は上に蕤賓を生じ、蕤賓は上に大呂を生じ、大呂は下に夷則を生じ、夷則は上に夾鐘を生じ、夾鐘は下に无射を生じ、无射は上に中呂を生ず。其中の陽に属する六つを「律」と叫び、陰に属する六つを「呂」と叫ぶ。もし黄鐘を宮音と為せば、林鐘は即ち徴、太簇は即ち商、南呂は即ち羽、姑洗は即ち角、応鐘は即ち変宮、蕤賓は即ち変徴。十二律が輪番に各々一度宮音に当たるに及び、毎律また各々七声を以て相乗ずれば、即ち八十四の調を窮尽す――これは声音の本原・五声の正法。
至六十律旋相為宮,有執始、去滅等名,終於南事,又以七變而乘之,則變盡週期,各統一日,盡三百六十四變。於《潛虛》之中,始於裒之初,終於散之上,以定天下之吉凶,成天下之亹亹者,其用大矣。
更に推進して京房六十律の輪番為宮に至り、「執始」「去滅」等の名より一直に排して最末の「南事」に至るまで、また各々七声を以て相乗ず、ここに変化は一周期を窮尽し、毎一変は一天を統管し、共に三百六十四変を得。《潜虚》一書の中に落とせば、これらの変は「裒」名の初位より起り、「散」名の上位に止まり、以て天下の吉凶を判定し、天下の勤勉不息の事業を成就す――その功用は大極といえり。
行論
五行之在天地之閒也,非特可以成變化而行鬼神,抑亦可以開物成務,冒天下以道者也。故《虛》敘人之生本於虛,虛然後形,形然後性,性然後動,動然後情,情然後事,事然後德,德然後家,家然後國,國然後政,政然後功,功然後業。
五行は天地の間に存し、但だ変化を成就し鬼神の妙を推行し得るのみならず、且つ「開物成務」、即ち万物を開通し事業を成就し、大道を以て天下を覆う能う。ゆえに《潜虚》は人の生成を叙述して、人は「虚」に本原すと言う。虚有りて後に形有り、形有りて後に性有り、性有りて後に動有り、動有りて後に情有り、情有りて後に事有り、事有りて後に徳有り、徳有りて後に家有り、家有りて後に国有り、国有りて後に政有り、政有りて後に功有り、功有りて後に業有り。
是數者其用各有五,故終於五十五名。其修為之序,可以治性,可以修身,可以齊家,可以治國,可以平天下也。故《虛》曰:行者,人之所務也。繫之辭以明其義,用之變以尚其占,皆所以前民用也。
虚・形・性・動・情・事・徳・家・国・政・功・業のこの一串の条目は、毎項の功用また各々五種に分かれ、ゆえに最終的に帰結して五十五の「名」となる。この修為の次第に依りて做せば、以て性を治め、以て身を修め、以て家を斉え、以て国を治め、以て天下を平らぐべし。ゆえに《潜虚》に曰く、「行」とはすなわち人の当に致力すべき事、之に文辞を繋げて以て義理を闡明し、その「変」を運用して以て占断を重んずるは、これは皆先導して百姓の日用の需と為さんがためなり。
命論
命者,時之所遇也。吉凶否臧雖惟命是遇,然禍兮福所倚,福兮禍所伏,禍福特未定也。以其禍福之未定,則稽疑之占不可後也。元、餘、齊三者無變,皆不占;初、上者,事之始終,亦不占。
いわゆる「命」とは、人が時運の中に遭遇する境況である。吉・凶・否・臧は説くも皆ただ命运の遭遇に聴憑すのみ、然るに《老子》の説は善し、「禍兮福の倚る所、福兮禍の伏する所」、禍と福は元来定准なし。正に祸福に定准なきを以て、占卜を以て疑難を考究するこの事は後に拖延する能わず。《潜虚》五十五名の中、「元」「余」「斉」のこの三名は「変」なく、皆占断に用いず。毎名の初位と上位は、一事の開端と終結、また占断に用いず。
所占者,自裒至散五十二名,以二三四五六之變,觀其吉凶臧否平之所遇而決之。陽則用其顯,陰則用其幽,然後知其吉之大,則身其康強,子孫其逢吉;其次常吉之外,或作內吉作外凶,或用靜吉用作凶,可以觀變而避就也。
真に占断に用うるは、「裒」名より「散」名に至るこの五十二の名、其中の第二・三・四・五・六の五つの位次の「変」を取り、それの遭遇する所は果たして吉か・凶か・臧か・否か・それとも平かを見て、これにより判断を作す。陽に属すれば即ち顕明の一面を取り、陰に属すれば即ち幽隠の一面を取る。このごとく断じて下れば、便ち知るべし。大吉を得る者は、本身は康健全盛、子孫も并せて吉に逢う。次の一等は、尋常の吉以外、あるいは内に処れば吉にして外に出れば凶、あるいは静を守れば吉にして挙動有れば凶――占者はまさにこれらの変化を観察して、以て吉に趨り凶を避け、去就有るべし。
蓍論
《虛》數七十有五,其用七十,分二掛一,揲之以十,先左後右,徐觀其餘,以命卦名,分客主而定陰陽。且如裒之一卦,I為主,II為客,左揲先餘一,右揲後餘二,是先主後客者陽;若左揲先餘二,右揲後餘一,是先客後主者陰。由是觀其所合,以裒命之。
《潜虚》の蓍数は共に七十五本、実際に動用するは七十本。その法は、蓍草を分かちて两堆と為し、一本を掛け出し、十本ずつ一組に数え、先ず左堆を数え後に右堆を数え、徐徐に左右の余る零数を察看し、これにより得る所の名を定め、并せて客と主を分かちて陰陽に属するを判定す。譬えば「裒」这一名は、左辺一画を主とし右辺両画を客とす。もし左堆先ず数えて余一を得、右堆後に数えて余二を得れば、これは便ち先主後客、陽に属す。もし左堆先ず数えて余二を得、右堆後に数えて余一を得れば、これは便ち先客後主、陰に属す。このごとく左右両数の配合を見て、「裒」を以て之に命名す。
既得其名,又合蓍而復分之,陽則置右而揲左,陰則置左而揲右,揲之以七,用所揲之餘為所得之變,觀其命圖之上吉凶臧否平而決之。陽則用其顯,如裒之六吉三凶不易也;陰則用其幽,與顯戾也,如裒之六吉當為凶,三凶當為吉也。
すでに名を得出せば、便ち蓍草を合攏して重新に两堆と分かつ。陽に属すれば右堆を擱下してただ左堆のみを数え、陰に属すれば左堆を擱下してただ右堆のみを数える。この一回は改めて七本を一組として数え、数え余る零数を取りて得る所の「変」と為し、更にこの一名の図上に注する吉・凶・臧・否・平に対照して決断を作す。陽に属すればその顕明の一面を採用し、例えば「裒」名の六位は吉を注し三位は凶を注すれば、即ち本注に照りて改めず。陰に属すればその幽隠の一面を採用し、顕明とちょうど相反す、例えば「裒」名の六位は本注吉と為るを凶と断じ、三位は本注凶と為るを吉と断ずべし。
假如元11、蠢ΠΠ、容ШШ、徙ШIIШ、齊XX,生數純者不可分陰陽,當置右而揲左;造TT、考TTTT、前TTTTTT、乂TTTTTTTT、績++,成數純者亦不可分陰陽,當置左而揲右。皆揲之以七,以所揲之余觀其吉凶臧否平爾。
假如「元」「蠢」「容」「徙」「斉」这一類の左右画数相同・純に生数を用うの名に遇えば、即ち陰陽を分辨するに由なし、一律して右堆を擱下してただ左堆のみを数う。「造」「考」「前」「乂」「績」这一類の純に成数を用うの名に遇えば、同じく陰陽を分辨するに由なし、一律して左堆を擱下してただ右堆のみを数う。両種の情形はいずれも七本を一組として数え、数え余る零数に憑りてそれが果たして吉か・凶か・臧か・否か・それとも平かを査看する、如此のみ。
