Libo

自序・天門金虎、讖歌乱を示す

汉 · 徐岳(北周甄鸾注)

作盤ガイド: 暦注(黄暦), 万年暦

自序・羽檄星馳し、帙を負いて山に遊ぶ

綜合類典籍

通読するより工具書として引くほうが実用的である。他の門類で分からない暦法術語に出会ったら、たいていここで出所をたどれる。

餘以天門金虎,呼吸精泉,按《星經》云:昴者,西方白虎之宿;太白者,金之精也。太白入昴,金虎相薄,法有兵亂。周宣王時有人采薪於郊,聞歌曰:「金虎入門,呼長精,吸玄泉。」時人莫能知其義。老君曰:「太白入昴,兵其亂。」徐氏名嶽,東萊人。蓋以漢室版蕩,又譎詭見於天,將訪名山,自求多福也。

私徐岳は、「天門金虎」が空に当たり、「呼吸精泉」の讖歌が世に流布する時に生を受けた――甄鸞注:《星経》にいう、「昴」は西方白虎七宿の一つ、「太白」は金星で、金気の精が結んだものである。太白星が昴宿に侵入すると、「金」と「虎」の二重の金気が互いに迫り合い、占候の法によれば兵乱があるとされる。周の宣王の時、郊野で薪を拾う者があって、歌う声を聞いた――「金虎門に入り、長精を呼び、玄泉を吸う」と。当時これらの句の意味を解き得た者は一人もいなかった。老君の占語にいう、「太白昴に入れば、兵乱まさに起こらん」と。本書の作者は徐の姓、岳の名で、東莱郡の人である。彼はおそらく漢室の板蕩・傾危を目の当たりにし、天にまた詭譎の異象が相次いで現れるのを見て、名山を遍訪し、自ら多福免禍の道を求めようとしたのであろう。

自序・羽檄星馳し、帙を負いて山に遊ぶ

羽檄星馳,郊多走馬,按:漢徵天下兵,必露檄插羽也。老君曰:「天下有道,卻走馬以糞;天下無道,戎馬生於郊也。」遂負帙遊山,蹠跡志道,蹠跡者,兩足共躡一足跡也。漢文(帝)〔時〕河上公蹠跡為士。傋歷丘嶽,林壑必過。乃於太山,見劉會稽博識多聞,於數術。餘因受業,頗染所由。

羽を挿した緊急の軍書が流星のように飛び交い、郊野には奔走する戦馬があふれていた――甄鸞注:漢代に天下の兵馬を徴発するには、必ず檄文を露わにして羽を挿し、十万火急を示した。これを「羽檄」という。《老子》にいう、「天下に道あれば、走馬を却けて以て糞す;天下に道なければ、戎馬郊に生ず」と。そこで徐岳は書箱を背負って名山を遍遊し、前人の足跡を踏んで道に志した――甄鸞注:「跖跡」というのは、両足が同じ一連の足跡を踏むことで、先賢に一歩一歩随うさまを形容する。漢文帝の時の河上公は、このように「跖跡」して高士となった(底本の「帝」の字は「時」と作るべきである)。彼は丘陵高岳を遍歴し、山林沟壑あるところ必ず足を運んだ。ついに泰山で劉会稽に遇った。この人は博学多識で、とりわけ数術に精通していた。私は彼に師事して業を受け、数術の由来沿革にも多少染まるところがあった。

泰山で劉洪に受業す・数に窮まりありや

餘時問曰:「數有窮乎?」會稽曰:「吾曾遊天目山中。」會稽,官號,漢中人也。按:《歷志》稱靈帝光和中,穀城守門候太山劉洪造《乾象歷》,又制月行遲疾陰陽(歷)〔歷〕,自洪(治)〔始〕也。方於《太初》、《四分》,轉精密矣。洪後為會稽太守。劉洪付《乾象》於東萊徐嶽,又授吳中書令闞澤,澤甚重焉,為註解。今案《地記》,天目山在吳興之界。

私はその時彼に問うた、「数に窮尽はあるか」と。劉会稽は答えた、「かつて天目山中を遊歴したことがある……」と。甄鸞注:「会稽」は官号で、この人はもと漢中の人である。《暦志》の記すところによれば、漢の霊帝光和年間、穀城守門候を務めた泰山の人劉洪が《乾象暦》を造り、また月行の遅疾と陰陽の変化を推算する暦法を定めた。これはみな劉洪から始まる(底本の「治」は「始」と作るべきである)。これを《太初暦》《四分暦》と比べれば、推歩はさらに精密である。劉洪は後に会稽太守となり、ゆえに「劉会稽」と称する。劉洪は《乾象暦》を東莱の人徐岳に伝え、また呉の中書令闞沢に授けた。闞沢はこの書をいたく重んじ、注解を作った。いま《地記》を案ずるに、天目山は呉興郡の境内にある。

天目先生・捐悶と四維の戯

見有隱者,世莫知其名,號曰天目先生。餘亦以此意問之。先生曰:世人言三不能比兩,乃云捐悶與四維。《藝經》云,捐悶者周公作也。先〔布〕本位,以十二時相從。其文曰:「(周)〔同〕有文章,虎不如龍。豕者何為,來入兔宮。王孫出卜,乃造黃鍾。犬就馬廄,非類相從。羊奔蛇穴,牛入雞籠。」

劉会稽は続けて言った。私は天目山の中で一人の隠士に会った。世の人はその姓名を知らず、ただ「天目先生」と称する。私もまた「数に窮尽があるか」という問いを持って彼に請教した。先生は言った、世人のいう「三は両に比すべからず」とは、「捐悶」と「四維」という二種の数戯を指す、と。甄鸞注:《芸経》にいう、「捐悶」は周公が創制したもので、遊び方はまず本位を布定し、次に十二時(十二支)の次序に従って順に相配する(底本は「布」の字一つを脱す)。その口訣にいう、「同く文章あれば、虎は竜に如かず。豕なる者何をか為さん、来たりて兔宮に入る。王孫卜を出ずれば、乃ち黄鐘を造る。犬は馬厩に就き、類ならずして相従う。羊は蛇穴に奔り、牛は鶏籠に入る」と。これは十二属を二つずつずらして配した隠語で、虎は竜に、猪は兔に、猴(王孫すなわち猴)は鼠に(黄鐘は子に属す)、犬は馬に、羊は蛇に、牛は鶏に配し、十二属がちょうど六対をなす(底本の「周」は「同」と作るべきである)。

徐援稱,捐悶乃是奇兩之術。發首即奇一,後乃奇兩者,即為疑更調曰:「大豬東行遁虎坑,兔子欲宿入馬廄,羊來入村狗所屯,大牛何知乘龍上,蛇往西方人猴鄉,雞鳥不止夜〔鼠藏〕。」

徐援は、「捐悶」は実は「奇両」(単双の対)の術であると考えた。冒頭の一句は一属のみを出して「奇一」とし、後に初めて二つずつ相配して「奇両」とする。彼は旧訣に疑いを抱き、別に一套の調子を換えて言う、「大猪東行して虎坑に遁れ、兔子宿らんと欲して馬厩に入り、羊来たりて村に入れば狗の屯する所、大牛何を知りてか竜に乗りて上らん、蛇は西方に往きて猴郷に入り、鶏鳥止まらず夜に鼠は蔵る」と。その用意はなお猪は虎に、兔は馬に、羊は犬に、牛は竜に、蛇は猴に、鶏は鼠に配して、十二属を二つずつずらして相配することにある(底本の「人猴郷」の「人」は「入」と作るべきで、末句は「鼠蔵」の二字を脱す)。

其言三不能比兩者,孔子所造也。布十干於其方,戊巳在西南維。其文曰:「火為木生甲呼丁,夫婦義重巳隨壬,貴遺則統領幸參南丙妻則須守乙後火戊子天癸就庚。」四維,東萊子所造也。布十二時,四維之一。其文曰:「天行星紀,石隨龍淵,風吹羊圈,天門地連,兔居蛇穴,馬到猴邊,雞飛豬鄉,鼠入虎廛。」摰亦有四維之戲,與此異焉。

いわゆる「三は両に比すべからず」は、伝えるところでは孔子の創るところである。その並べ方は十干をそれぞれ自己の方位に布き、戊・己の両干を西南維(西南の隅)に安ずる。その口訣にいう、「火は木の生ずる所にして甲は丁を呼び、夫婦の義重くして巳は壬に随い、貴遺は則ち統領して幸いに丙南に参じ、妻は則ち乙後の火を守るべく、戊子天癸庚に就く」と。この口訣は底本の訛脱が多く、すでに句句に講じ通すことは難いが、大意はなお十干が方位に依って互いに呼応して相配することにある。「四維」の一種は東莱子の創るところで、並べ方は十二時(十二支)を布き開き、その一位を東北・東南・西南・西北の四維の一つに落としめる。その口訣にいう、「天は星紀を行き、石は竜淵に随い、風は羊圏を吹き、天門地に連なり、兔は蛇穴に居り、馬は猴辺に至り、鶏は猪郷に飛び、鼠は虎廛に入る」と。これも十二支をずらして相配する隠語である。別に摯氏も一種の「四維」の戯を伝えたが、遊び方は東莱子のこれと同じでない。

数、三を識らず・司方指南の惑い

數不識三,妄談知十。三者,上、中、下也。十數昴一數也。於筅之意非止十等之名,將關大衍之旨事一也。猶川人(事)〔士〕,迷其指歸,乃恨司方之手爽。司方者,指南車也。

天目先生は続けて言った、世人は「三」をも弁え得ずして、妄りに「十」を解すると自称する、と。甄鸞注:ここにいう「三」とは、上数・中数・下数の三種の進位法である。いわゆる「十数」は名目は十個あるが、その理路は実は一貫に帰する(底本の「昴」の字は訛あり)。算法の用意はこの十個の数名に止まらず、《周易》の「大衍の数」の旨趣にも渉り、両者の道理はもと一事である。これはちょうどあの川中の人がみずから方向を迷いながら、かえって指南車の指し方が違うと怨むに似ている(「手爽」は手法に差失があったことをいう。底本の「事」は「士」と作るべきである)。甄鸞注:いわゆる「司方」とは指南車のことである。

《狐疑論》稱:「黃帝將見大隗於具茨之山,至襄城之野,川谷之(山)〔形〕率多斜曲。川人曰:『積數之常,乃固以之,非指南車之為爽。』乃指謂〔曰〕:『擢司方所指者乃為我等之西也,然則指南豈其謬也?』乃行數里,川人又曰:『司方所指我等之東也。』眾共論之,為疑笑於時。容成子怪而問之,川人以其將白對。

《狐疑論》に記す、「黄帝が具茨山に至りて大隗に会わんとするや、襄城の郊野に至る。その一帯の河谷の地形は多く斜めに曲がっていた(底本の「山」は「形」と作るべきである)。随行の川人が言うには、『車上に積む常数はもとかくのごとく設けたるもので、指南車が指し違えたのではない』と。彼はすなわち車を指して言う、『指南車の指すところを見よ、まさに我らの西方なり。然れば指南車がどうして誤ることがあろうか』と。また数里行くと、川人は口を改めて言う、『指南車の指すところ、我らの東方となった』と。衆人ともにこのことを議論し、しばらくみな疑惑して解せず、笑談と伝えられた。容成子はこれを怪しみ、来たりて査問すると、川人は経過をありのまま彼に禀告した」と。

容成曰:『在此望之,具茨之山於汝住所復在何方?』川人又曰:『在我之東。』容成曰:『汝向言在西,今更在東,何言不常也!此非山川之移,〔蓋〕川曲之斜,人心之惑耳。』川人乃請於斜曲之以定東西南北之術。

容成子は彼に問うた、『ここから望めば、具茨山はお前の住処のどちらの辺にあるか』と。川人は答えた、『私の東にあります』と。容成子は言う、『お前は先には西にあると言い、いままた東にあると言う。どうしてかえって指南車の指し方が定まらないと怨むのか!これは山川がみずから位置を移したのではなく、道路が曲折斜歪して人を転向せしめるので、帰する所ただ人心がみずから惑うだけである』と。川人はすなわち彼に請教した、このような曲折斜歪の地において、どの方法を用いれば東西南北を定め得るか、と。

容成曰:『當豎一木為表,以索繫之表,引索繞表畫地為規。日初出影長則出圓規之外,向中影漸短,入規之中。候西北隅影初人規之處則記之。乃過中,影漸長出規之外。候東北隅影初出規之處又記之。取二記之所,即正東西也。折半以指表,則正南北也。』川人志之,以為知方之術。」

容成子は言う、『木杆一本を立てて「表」(影を測る標竿)とすべし。縄を表に繋ぎ、縄を牽いて表を繞りて地上に円を画く。この円を「規」という。太陽が初めて出た時は影が最も長く、影端は円圏の外に落ちる。正午に近づけば影は漸々短くなり、影端は円圏の内に縮まる。西北の側に守り、影端が剛に円圏に跨ぎ入るその一点を待ち、地上に記号を作れ(「人」は「入」と作るべきである)。正午を過ぎれば影はまた漸々長くなり、影端は円圏の外に伸出する。東北の側に守り、影端が剛に円圏を跨ぎ出るその一点を待ち、再び一つの記号を作れ。この二つの記号を連ねて一線とすれば、これすなわち正東正西の方向である。この連線の中点を取り、表杆と連ねれば、指す所すなわち正南正北である』と。川人はこの方法を記し取り、方向を弁識する法門とした」と。

刹那の促と麻姑桑田

未識剎那之促,安知麻姑之桑田。按:《楞伽經》云:「稱量長短者,積剎那數以成日夜。」剎那量者,壯夫一彈日指過頃遙六十四剎那。二百四〔十〕剎那名一(恆)〔怛〕剎那,三十(恆)〔怛〕剎那名一婆羅,三十婆羅名一摩羅多,三十摩羅多(子)為一日一夜。其一日一夜有六百四十八萬剎那。

天目先生はまた言った、世人は「刹那」のごとき極めて短い時間単位さえ認識せず、どうして麻姑のいう滄海の桑田と変わるごとき悠長の歳月を解し得ようか、と。甄鸞注:《楞伽経》にいう、「時間の長短を衡量するには、一つ一つの『刹那』を累積して一昼夜を成す」と。「刹那」の量度はかく定める――壮年の人が指を一弾きする工夫に、すでに六十四刹那が過ぎ去る。二百四十刹那を一「怛刹那」とし、三十怛刹那を一「婆羅」とし、三十婆羅を一「摩羅多」とし、三十摩羅多を一昼夜とする(底本の「恒」は「怛」と作るべきで、「二百四」の下に「十」の字を脱し、「摩羅多」の下に「子」の字一つを衍す)。かく層層相乗して、一昼夜は合わせて六百四十八万刹那となる。

《神仙傳》稱:「麻姑謂王方平曰:『自接(待)〔侍〕以來,見東海為桑田。向到蓬萊,水乃淺於往者略半也。豈復將為陵乎?』方平乃曰:『東海行復揚塵耳。』」

甄鸞はまた《神仙伝》を引いて記す、「麻姑が王方平に言うには、『私が仙班に接侍して以来、すでに東海の桑田と変わるを目に見た。先ほど蓬莱に至れば、そこの海水はまた従前よりほぼ半ば浅くなっている。まさにまた陸地(陵)と変わらんとするか』と。王方平はすなわち言う、『東海はほどなくまた塵土を揚げん』と」と。これはまさに歳月の久しきを形容するもので、「刹那」の促とちょうど両極をなす(底本の「待」は「侍」と作るべきである)。

微を積みて量を成す・阿耨・由旬の折算

不辨積微之為量,詎曉百億與大千。按《楞伽經》云:「積微成一阿耨,七阿耨為一銅上塵,七銅上塵為一水上塵,七水上塵為〔一〕兔毫上塵,七兔毫上塵為一羊毛上塵,七羊毛上塵為一牛毛上塵,七牛毛上塵為一向中由塵,七向中由塵成一蟣,七蟣成一蝨,七蝨成一麥橫,七麥橫成一指節,二十四指節為一肘,四肘為一弓,去(肘)〔村〕五百弓為阿蘭若。」

天目先生はまた言った、世人は微塵がいかに累積して度量を成すかさえ分別せず、どうして「百億」「大千」のごとき巨数に通暁し得ようか、と。甄鸞注:《楞伽経》にいう、「極微を聚集して一『阿耨』(極微塵)を成す。七つの阿耨を一『銅上塵』とし、七つの銅上塵を一『水上塵』とし、七つの水上塵を一『兔毫上塵』とし、七つの兔毫上塵を一『羊毛上塵』とし、七つの羊毛上塵を一『牛毛上塵』とし、七つの牛毛上塵を一『向中由塵』(日光中に漂遊する浮塵)とする。七つの向中由塵は一『虮』を成し、七虮は一『虱』を成し、七虱は一『麦横』(麦一粒の幅)を成し、七麦横は一『指節』を成す。二十四指節を一『肘』とし、四肘を一『弓』とし、村を離れて五百弓の遠き所を『阿蘭若』(僧の静修する寂静処)と名づく」と(底本「水上塵をして兔毫上塵と為す」の句は「一」の字を脱し、「肘を去る五百弓」の「肘」は「村」と作るべきである)。

據若摩竭國人,一拘盧舍為五里,八拘盧舍為一由旬,一由旬計之為四十里也。及以算校之,正得一十七里。何者?計二尺為一肘,四肘為一弓,弓長八尺也。計五百弓,有四千尺也。八拘盧舍則有三萬二千尺。除之,得五千三百三十三步。以裡法三旦步除之,得一十七里,餘二百三十三步。

甄鸞は続けて言う、摩竭陀国人の算法によれば、一「拘盧舎」は五里に等しく、八拘盧舎を一「由旬」とし、かくのごとく一由旬は四十里に合すべきである。しかるに上の尺度をもって実算核对すれば、一由旬はわずかに十七里を得るのみ。なぜか。前法に依り二尺を一肘とし、四肘を一弓とすれば、一弓の長さは八尺。五百弓(すなわち一阿蘭若、一拘盧舎)は四千尺に合し、八拘盧舎はすなわち三万二千尺ある。六尺を一歩としてこれを除せば、五千三百三十三歩を得(なお二尺を余す)。さらに「三百歩を一里とする」の里法をもってこれを除せば、十七里を得、二百三十三歩を余す――両説の相去ること甚だ遠きを見るべし(底本の「三旦歩」は「三百歩」と作るべきである)。

百億と大千・華厳日月の数

《華嚴經》云:「四天下共一日月,為一世界。有千世界有一小鐵圍山遶之,名曰小千世界。有一千小世界有中鐵圍山遶之,名曰中千世界。有〔一千〕中千世界有大鐵圍山遶之,名曰大千世界。此(三千)大千世界之中,有百億須彌山。」

甄鸞はまた《華厳経》を引いていう、「四大部洲は共に一つの日月を用い、合わせて一つの『世界』と称す。一千の世界の外に一重の小鉄囲山が環繞し、これを『小千世界』という。一千の小千世界の外に中鉄囲山が環繞し、これを『中千世界』という。一千の中千世界の外に大鉄囲山が環繞し、これを『大千世界』という。この一つの大千世界の中に、合わせて一百億の須弥山がある」と(底本は「中千世界」の上に「一千」の二字を脱し、「大千世界」の上に「三千」の二字を衍す)。

乃今校之,世有十億日月,十億須彌山。何者?置小千世界之中有一千日月,以一千乘之,得一百萬,即中千世界中日月數也。置中千(乘)〔世〕界日月之數以一千乘之,得即大千世界日月之數也。

甄鸞は算法をもって核校していう、かく層層に千倍して推算するに、一つの大千世界は十億の日月、十億の須弥山を有すべきのみで、一百億ではない。なぜか。まず小千世界の日月の数を出す――一千の世界はすなわち一千の日月。一千をもってこれに乗ずれば一百万を得、これが一つの中千世界の中の日月の数である。さらに中千世界の一百万の日月に一千をもって乗ずれば、得る所の十億が大千世界の日月の数である(底本の「乗」は「世」と作るべきである)。

又云:「四天下者,須彌山南曰閻浮提,山北曰鬱丹越,山東曰〔浮〕提,山西曰俱瞿耶尼山。其日月一日一夜照四天下,山南日中,山北夜半,山東日中,山西夜半。」及以成事驗之,則有疑矣。何者?按閻浮提人在須彌山南,及至二月、八月春、秋分畫夜停,以漏刻度之,則晝夜各五十刻也。然則日初出時,東向視日之當我之東,即漏刻,及其日(浸)〔沒〕當我之西〔則〕五十刻。其一日一迄之中,遶三天下而來,所以至曉亦得五十刻也。胡以十萬為億,有百倍日月,四天下等事,有所未詳也。

《華厳経》はまたいう、「いわゆる四大部洲とは、須弥山の南面を『閻浮提』(南赡部洲)とし、山の北を『郁丹越』(北倶盧洲)とし、山の東を『弗婆提』(東勝身洲)とし、山の西を『倶瞿耶尼』(西牛貨洲)という。この一つの日月は一昼夜の間に四大部洲を遍照する。須弥山の南が正午の時、山の北はまさに半夜であり、山の東が正午の時、山の西はまさに半夜である」と(底本の「山東曰提」は「浮」の字一つを脱す)。甄鸞は実測の事をもって検証すれば、すなわち疑わしきを覚えた。なぜか。閻浮提の人は須弥山の南に住み、二月・八月の春分秋分のこの二日には昼夜均しく、漏刻をもって量度すれば昼・夜それぞれ五十刻を得る。然れば太陽が剛に出た時、東に向かって望めば日の頭はまさに我が東方にあり、この時より漏を計る。日が落ちて西に沈み、日の頭がまさに我が西方に当たるを待てば、ちょうど五十刻を満ず。この一昼夜の中に、太陽はなお残りの三つの部洲を繞行して転じ戻るを要し、ゆえに日没より天亮までもまたちょうど五十刻である――かく推せば、四洲の昼夜は経文のいうごとく両両対分し得ない。西域の人が「十万」を一億と算えること(因りて百億須弥山と説き、十億より百倍の日月を多く出す)、および四天下の昼夜分配の類の説は、その道理になお講じ明らかにし得ざる所がある(底本の「浸」は「没」と作るべきで、「我が西に当たる」の下に「則」の字を脱す)。

黄帝十等数・上中下三等

黃帝為法,數有十等。及其用也,乃有三焉。十等者,億、兆、京、垓、秭、壤、溝、澗、正、載。三等者,謂上、中、下也。其下數者,十十變之,若言十萬曰億,十億曰兆,十兆日京也。中數者,萬萬變之,若言萬萬曰億,萬萬億曰兆,萬萬北曰京也。上數者,數窮則變,若言萬萬曰億,億億曰兆,兆兆曰京也。

天目先生は言う、黄帝が数法を創制するや、大数の名目は合わせて十等あり。実際に使用するに及んで、進位の方式は三種ある。いわゆる「十等」とは、億・兆・京・垓・秭・壌・溝・澗・正・載の十個の数名である。いわゆる「三等」とは、上数・中数・下数の三種の進位法である。「下数」は十に満つごとに一等に進み、たとえば十万を「億」とし、十億を「兆」とし、十兆を「京」とする。「中数」は万々(すなわち一億)に満つて初めて一等に進み、たとえば万々を「億」とし、万々億を「兆」とし、万々兆を「京」とする(底本の「北」は「兆」と作るべきである)。「上数」は本等の数が窮尽に至りて初めて変わり、実は自乗進位で、たとえば万々を「億」とし、億億を「兆」とし、兆兆を「京」とする。

按:《詩》云:「胡取禾三百億兮。」毛注曰「萬萬曰億」,此即中數也。鄭注云「十萬曰億」,此即下數也。徐援《受記》云:「億億曰兆,兆兆曰京也」,此即上數也。鄭(注)〔蓋〕以數為多,故合而言之。

甄鸞注:《詩経・魏風・伐檀》にいう、「何をもってか三百億の禾を取るや」と。毛亨が伝を作るに「万々を億とす」とし、用いる所はまさに「中数」である。鄭玄が箋を作るに「十万を億とす」とし、用いる所はまさに「下数」である。徐援《受記》に「億億を兆とし、兆兆を京とす」とし、用いる所はまさに「上数」である。見るべし、同じ一つの「億」の字にして、各家の指す大小は同じからず。鄭玄はおそらく数目が大きすぎて称説に便ならざるを嫌い、これを併合簡省して講じたのであろう(底本の「注」は「蓋」と作るべきである)。

億より載に至り、大衍に終わる

從億至載,終於大衍。按《易》(經)「大衍之數五十,其用四十有九」。又云,「天一、地二、天三、地四、天五、地六、天七、地八、天九、地十」。天數五,地數五。天數二十有五,地數三十。凡天地之數,五十有五也。

天目先生は言う、「億」より直に「載」に数える十等の大数は、最終にやはり《周易》の「大衍の数」に帰結する、と。甄鸞注:《周易・繋辞上》に「大衍の数は五十、その真に動用する所は四十九」といい、また「天一、地二、天三、地四、天五、地六、天七、地八、天九、地十」という。すなわち一・三・五・七・九のこれらの奇数は天に属し、二・四・六・八・十のこれらの偶数は地に属す。天数は五つあり、地数も五つあり、天数を相加えれば二十五を得、地数を相加えれば三十を得、天地の数を合わせれば、総じて五十五である(底本は「易」の下に「経」の字一つを衍す)。

下數淺短,計事則不盡。上數宏廓,世不可用。故其傅業,推以中數耳。餘時問曰:「先生之言上數者數窮則變,既云終於大衍,大衍有限,此何得〔無〕窮?」先生笑曰:「蓋未之思耳。數之為用,言重則變,以小兼大,又加循環。循環之理,豈有窮乎。」小兼大者,備加董氏《三等術數》。加更載為煩,故〔略〕焉。

「下数」の十進は、表し得る数が浅く短すぎて、大事に遇えば計算し尽くせず、「上数」の自乗進位は、得る数がまた宏闊に過ぎて、世間の実用に適わない。ゆえにこの学業を伝授するに、通行する所はやはり「中数」である(「傅」は「伝」と作るべきである)。私はその時追って問うた、「先生は上数は数え窮尽して初めて変わると言い、また十等数は最終に大衍に帰すると言う。しかるに大衍の数は五十五のみ、有限である。これがどうして無窮と談じ得ようか」と。先生は笑って言う、「これはお前がまだ想い透らざるところだ。数の用は、数目が一定の地步に重叠すれば一位に進み、小単位をもって大単位を統摂し、これに循環往復の推衍を加うるに在り。循環のこの道理、どこに窮尽があらんや」と(底本の「此れ何の得るか窮まらん」は「無」の字一つを脱す)。甄鸞注:「小をもって大を兼ぬ」については、董氏の《三等術数》に講じて甚だ完備している。ここに再び一々録入すれば煩瑣を嫌うがゆえに、従って略す(底本は「略」の字一つを脱す)。

隷首十四算法・積算より計数に至る

餘又問曰:「為算之體皆以積為名為復,更有他法乎?」先生曰:隸首注術乃有多種。及餘遺忘,記憶數事而已。其一積(等)〔算〕,其一太乙,其一兩儀,其一三才,其一五行,其一八卦,其一九宮,其一運(算)〔籌〕,其一了知,其一成數,其一把頭,其一龜算,其一珠算,其一計(算)〔數〕。

私はまた問うた、「算法の体式は皆『積』を名とし、反復累加進位に依る。これ以外にまた別の門径はあるか」と。先生は言う、伝える所では隷首の伝えて加注した算法はもと多くの種があったが、ただ私は大半すでに忘れ、記憶し得る所は十四種に過ぎない(底本の「積等」は「積算」と、「運算」は「運籌」と、「計算」は「計数」と作るべきである)。この十四種の分別は、主に算具の形制と算位の多少に在る。一「積算」は、当時通行の籌算で、竹製の算籌を纵横に布位し層層累加する。二「太乙算」は、板上に九道を刻み、一顆の算珠が九道の間を上下往来するがゆえに「来去九道」と称す。三「両儀」・四「三才」・五「五行」・六「八卦」の諸算は、それぞれ両儀(天地)・三才(天地人)・五行・八卦の数に按じて、二位・三位・五位・八位を刻み出して算珠を安放する。七「九宮算」は、「九を戴き一を履み、左三右七、二四は肩を為し、六八は足を為し、五は中央に居る」の九宮方位に依って数を布き、位置は固定して動かず、ゆえに下文に「一を守りて移らず」という。八「運籌算」は、算籌を指掌の間に運転し、小をもって大を御する。九「了知」・十「成数」・十一「把頭」・十二「亀算」は、あるいは手掌身位をもって算位に充当し、あるいは器形をもって象を取り、算珠を一停すればすなわち一望に数を読み、逐次累加の煩を省く。十四「計数」は器具を捨てて、直ちに心算する。その中で最も緊要なるは十三「珠算」で、これは中国算盤の現存最早の文献記載である――木板一枚を取り三格に刻み、上下両格は游走し得る算珠を停放するに用い、中間の一格は算位を標定するに用いる。各位に珠五顆を安じ、上格の一顆と下格の四顆は顔色を別にし、上の一顆は五に当たり、下の四顆は毎顆一に当たる。珠を上下に撥すれば加減し得る――まさに後世の算盤の「一梁隔て、上一に下四」形制の雛形である。

九宮算・位は五行行色に依る

此等諸法隨須更位。唯有九宮守一不移,位依行色,並應無窮。從積〔算〕以來至珠算,從一至於百、千巳上,位更不變改。位依行色者,位依五行之色。北方水色黑,數一。東方木色青,數三。南方火色赤,數二。西方金色白,數四。中央土色黃,數五。

これらの算法が運算する時は、皆数の大小に随って算位を変換する。ただ「九宮算」のみ本位を固守して移動せず、算珠の顔色に依って位次を区分するがゆえに、ずっと無窮大の数に応じ得る。「積算」より下って「珠算」に至るまで、算ぶ所が個位であれ十位であれ、あるいは百位・千位以上であれ、算位自体の形制はもはや更改せず、位数が多ければ別に算位を添えるを要す(底本は「算」の字一つを脱し、「巳」は「已」と作るべきである)。甄鸞注:いわゆる「位は行色に依る」とは、五行の配する顔色に按って算位を定めることである――北方は水に属し、その色は黒、その数は一。東方は木に属し、その色は青、その数は三。南方は火に属し、その色は赤、その数は二。西方は金に属し、その色は白、その数は四。中央は土に属し、その色は黄、その数は五。

言位依行色〔者〕,各一位第一用玄珠,十位第二用赤珠,百位第三用青珠,千位第四用白珠,萬位第五用黃珠〔十萬位以赤線繫黃株,百萬位以青蜒繫黃珠〕,千萬位以白綖繫黃珠,萬萬位曰億,以黃綖繫黃珠。自餘諸位唯兼之,故曰並應無窮也。

甄鸞は続けて「位は行色に依る」の具体的用法を講じる。個位は第一位で、黒珠(玄珠)を用いる。十位は第二位で、紅珠を用いる。百位は第三位で、青珠を用いる。千位は第四位で、白珠を用いる。万位は第五位で、黄珠を用いる――ちょうど水黒一・火赤二・木青三・金白四・土黄五という五行の色の一組に合する。さらに上りて、十万位は紅絲線をもって黄珠一顆を繋ぎ、百万位は青絲線をもって黄珠を繋ぎ、千万位は白絲線をもって黄珠を繋ぎ、万万位は「億」と称して黄絲線をもって黄珠を繋ぐ(底本の「株」は「珠」と、「蜒」は「綖」すなわち絲線と作るべきである)。このほかさらに高い各位も、この方法を照らして珠色と線色を搭配して兼用するに過ぎず、ゆえに九宮算は「無窮の数に応じ得」という。

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