读易详说
『読易詳説』は全十巻からなる。現在伝わる本は、清代の四庫館臣が『永楽大典』から輯録・抄出して再び編み直したものであって、宋元時代から伝わる旧…
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
『読易詳説』提要
△《讀易詳說》十卷(永樂大典本)
『読易詳説』は全十巻からなる。現在伝わる本は、清代の四庫館臣が『永楽大典』から輯録・抄出して再び編み直したものであって、宋元時代から伝わる旧刻本ではない。
宋李光撰。光字泰發,上虞人。崇寧五年進士。官至參知政事。諡莊簡。事蹟具《宋史》本傳。光為劉安世門人,學有師法。紹興庚申以論和議忤秦檜,謫嶺南。自號讀《易》老人,因攄其所得,以作是書。故於當世之治亂,一身之進退,觀象玩辭,恆三致意。
本書は南宋の李光(りこう)の撰である。李光は字を泰発といい、越州上虞(今の浙江上虞)の人である。宋徽宗崇寧五年に進士に及第し、官は参知政事――すなわち副宰相――に至り、没後に朝廷から「荘簡」の諡を賜った。その一生の事蹟は『宋史』本伝に詳しく記されている。李光は元祐の名臣劉安世の門人で、学問に師承と家法があった。宋高宗紹興十年庚申、金人との議和に反対して宰相秦檜(しんかい)の忌みに触れ、嶺南に謫された。自ら「読『易』老人」と号し、謫居中に『易』を読んで得た心得更を書き表してこの書を成した。だから書中で当世の治乱や一身の出処進退に言及する時は、つねに卦象を観、卦爻辞を玩味することに再三の意を致している。
如解《坤》之六四云:“大臣以道事君,苟君有失德而不能諫,朝有闕政而不能言,則是冒寵竊位,豈聖人垂訓之義哉!故《文言》以括囊為賢人隱之時,而大臣不可引此以自解。”又解《否》之初六云:“小人當退黜之時,往往疾視其上。君子則窮通皆樂,未嘗一日忘其君。”
たとえば『坤卦』六四爻を解して言う。「大臣は正道をもって君に仕えるもので、もし君に失徳があっても諫めず、朝廷に闕政があっても言わなければ、それは寵を冒して位を窃むことであり、どうして聖人が垂訓を残した義であろうか。だから『文言伝』は『括囊』――袋の口を結んで黙していること――を賢人が隠退する時の処遇と言うのだが、大臣たる者はこの句を引いて自らの沈黙を弁解してはならない。」また『否卦』初六爻を解して言う。「小人は退黜される時にあたって、しばしば上の者を疾く見て憎む。君子は困窮でも顕達でも自ら楽しむことができ、一日たりともその君を忘れたことがない。」
解《蠱》之初六云:“天下蠱壞,非得善繼之子堪任大事,曷足以振起之?宣王承厲王后,修車馬,備器械,復會諸侯於東都,卒成中興之功,可謂有子矣,故考可以無咎。然則中興之業,難以盡付之大臣,《蠱卦》特稱父子者以此。”其因事抒忠,依經立義,大旨往往類此。
『蠱卦』初六爻を解して言う。「天下の局面がすでに蠱乱の域にまで壊れているのに、善く父の業を継ぎ大事を任せられる子がいなければ、どうしてこれを振起することができよう。周宣王は周厲王の残した局面を継ぎ、車馬を整え器械を備え、改めて東都に諸侯を会して、ついに中興の功を成した。立派な子がいたと言うべきで、だからこそ『蠱卦』は『考は咎なかるべし』と言う――亡き父も過ちに問われなくなるのだ。これで見れば、中興の大業をすべて大臣に任せきることは難しく、『蠱卦』がことさら父子を称するのはこの意による。」彼は経を解く機に乗じて一片の忠悃を披瀝し、経文に依拠して義理を立てている。全書の大旨はおおむねこの類である。
史載其紹興中奏疏云:“淮甸咫尺,了不經營。長江千里,不為限制。晉元帝區區草創,猶能立宗社,修宮闕,保江浙,未聞專主避敵如今日也。”其退而著書,蓋猶此志矣。光嘗作胡銓《易解序》曰:“《易》之為書,凡以明人事。學者泥於象數,《易》幾為無用之書。邦衡說《易》,真可與論天人之際。”又曰:“自昔遷貶之士,率多怨懟感憤。邦衡流落瘴鄉,而玩意三畫,可謂困而不失其所亨,非聞道者能之乎?”其《序》雖為銓作,實則自明其著述之旨也。
史書には彼が紹興年間に上した奏疏を載せる。「淮甸は咫尺の間にあるのにまったく経営せず、長江千里の天険も防線としない。晋の元帝は僅かな草創の勢いで、なお宗廟社稷を立て、宮阙を修め、江浙を保った。今日のようにひたすら敵を避けることを国策としたとは聞かない。」彼が後に退いて著書したのも、胸中になおこの志を抱いていたからであろう。李光はかつて胡銓(こせん)の『易解』に序を作って言った。「『易』という書は、ひとえに人事を明らかにするためのものである。『易』を学ぶ者が象数に拘泥してばかりいると、『易』はほとんど無用の書となってしまう。邦衡が『易』を説くのは、まさに彼と天人の際の理を論ずるに足る。」また言った。「昔から遷謫された士は、多く怨怼感憤を抱く。邦衡は瘴癘の郷に流れ落ちながら、意を三画の卦に玩ばせた。困にあってその亨通を失わないと言うべきで、道を聞いた者でなければできようか。」この序は胡銓のために作ったものだが、実は自らの著述の趣旨を明らかにしたものである。
書中於卦爻之辭,皆即君臣立言,證以史事,或不免間有牽合。然聖人作《易》以垂訓,將使天下萬世無不知所從違,非徒使上智數人矜談妙悟,如佛家之傳心印,道家之授丹訣。自好異者推闡性命,鉤稽奇偶,其言愈精愈妙,而於聖人立教牖民之旨愈南轅而北轍,轉不若光作是書,切實近理,為有益於學者矣。
書中では卦辞・爻辞について、すべて君臣の関係に即して論を立て、さらに史事をもって証する。そのため時にやや牽強附会を免れないところもある。しかし聖人が『易』を作ったのはもともと訓戒を垂示するためで、天下万世の人に何に従い何を避けるべきかを知らしめようとしたのであって、少数の上智の者に玄妙な悟りを誇らせるためではない――仏家が心印を伝え、道家が丹訣を授けるようなものではない。異説を好む者が性命の理を推し演べ、奇偶の数を鉤考して以来、その言はますます精微に、ますます玄妙になるが、聖人が教を設け民を啓導した本旨からはますます南轅北轍に遠ざかった。これと比べれば、かえって李光のこの書のほうが切実で理に近く、学者に益がある。
自明以來,久無傳本,朱彝尊《經義考》亦云“未見”。茲從《永樂大典》薈萃成編。原闕《豫》、《隨》、《無妄》、《睽》、《蹇》、《中孚》六卦及《晉卦》六三以下,其《復》與《大畜》二卦《永樂大典》本不闕而所載光解《復卦》闕《大象》及後四爻,《大畜》則一字不存,《繫辭傳》以下亦無解。其為原本如是,或傳寫佚脫,均不可知,姑仍其舊。其書《宋史》作《易傳》,諸家書目或作《讀易老人解說》,或作《讀易詳說》,殊不畫一,而十卷之數則並同,殆一書而異名也。今從《永樂大典》題為《讀易詳說》,仍析為十卷,存其舊焉。
この書は明代以来久しく伝本がなく、朱彝尊『経義考』にも「未見」と著録されるだけだった。現在のものは『永楽大典』から捜輯して編成し直したものである。原書は『豫』『随』『无妄』『睽』『蹇』『中孚』の六卦と、『晋卦』六三爻以下の部分を欠く。『复』『大畜』の二卦については『永楽大典』本には缺がないが、載せる李光の『复卦』の解は『大象伝』と後の四爻を欠き、『大畜卦』は一字も存せず、『繋辞伝』以下にもまったく解がない。これが原本からそうであったのか、伝写の過程で佚脱したのかはいずれも知る由もなく、姑くその旧態のままとする。この書は『宋史』には『易伝』と作り、諸家の書目にはあるいは『読易老人解説』、あるいは『読易詳説』と作って、名称が甚だ統一しない。しかし十巻の数は皆同じであり、おそらく同一書の異名であろう。今は『永楽大典』の題に従って『読易詳説』と定め、なお十巻に析って旧の面貌を存する。
巻一
乾卦(乾下乾上)
上經。乾下乾上。乾:元亨利貞。乾,天也。以廣大無所不包謂之天,以剛健運行不息謂之乾。乾,純陽之卦,人君之象也。夫以區域之大,非有以主宰之,則強弱相陵,眾寡相併,髙下相傾,紛紛者何時而巳邪?聖人作《易》之意,首立《乾》《坤》兩卦,以明君臣之大分。孔子繫之曰:“天尊地卑,乾坤定矣;卑髙以陳,貴賤位矣。”言君臣之位如天地之不可易也。有一言以盡乾之功用者,健而巳。執大象以御神器,非天下之至健孰克勝任,故以象人君之徳。賞罰威福之柄,利害生殺之權,皆自我出而不移於臣下,則乾綱立矣。
『周易』上経。『乾卦』は下卦が乾、上卦も乾である。卦辞に「元・亨・利・貞」と言う。乾はすなわち天である。広大無辺で包まないものがないので「天」と称し、剛健に運行して止まることがないので「乾」と称する。乾は純陽の卦で、人君に象を取る。天下の疆域がこれほど広大で、それを主宰する者がいなければ、強き者は弱き者を陵し、衆き者は寡き者を併せ、高き者は下き者を傾けて、紛紛として終わる日があろうか。聖人が『易』を作った用意は、まず『乾』『坤』の二卦を立てて君臣の大名分を明らかにすることにあった。孔子は『繋辞伝』でこれに繋げて言う。「天は尊く地は卑し、乾坤定まる。卑高陳らば、貴賤位す。」君臣の名位が天地のように改易できないことを言うのである。乾の功用を一字で言い尽くせば「健」に尽きる。天地の大象を執って国家の神器を御するのは、天下の至健でなければ誰が堪えられよう。だから乾をもって人君の徳に象るのである。賞罰威福の柄、利害生殺の権は皆君主自身から出て臣下に移さず、こうして「乾綱」が立つのである。李光は秦檜が独相となり威福が下に移った時局に身を置いていたので、巻を開く第一の義として大権の旁落を許さぬことを強調したのであり、その指向は明らかである。
元亨利貞,乾之四徳,猶四時之運,施之於人則仁義禮智,而信行乎其中矣。天之道,一噓為春夏(乾至蒙),而物以生長;一吸為秋冬,而物以肅殺。《文言》曰:“元者,善之長也”,故體乾之元足以長人;“亨者,嘉之會也”,故體乾之亨足以合禮;“利者,義之和也”,故體乾之利足以和義;“貞者,事之乾也”,故體乾之貞足以乾事。
元・亨・利・貞は乾の四つの徳性で、春夏秋冬の四時の運行に譬えられる。人に施せば仁・義・礼・智の四徳となり、「信」がその中を貫いて行き来する。天道は呼吸のようだ。一嘘となれば春夏となって万物が生長し、一吸となれば秋冬となって万物が粛殺する。(本文中の「乾至蒙」の三字は旧刻本の版心に標した本巻の起訖を示すもので、巻一が『乾』卦から『蒙』卦までを説くことを表し、李光の原文ではない。ここでは底本のままに留める。)『乾・文言伝』に言う。「元は善の長である。」だから乾の「元」を体する者は人の長たるに足る。「亨は嘉の会である。」だから乾の「亨」を体する者は礼に合するに足る。「利は義の和である。」だから乾の「利」を体する者は義を和するに足る。「貞は事の幹である。」だから乾の「貞」を体する者は事を幹するに足る。
“乾元者,始而亨者也;利貞者,性情也。”乾之徳,析而為四,則元也、亨也、利也、貞也,各主一時之事也;合而為二,則元亨者始而亨者也,利貞者性情也。乾始萬物而亨之,利者情也,貞者靜而正,靜而正則性也。“六爻揮旁通”為情,則情者性之動也;以發揮為情,則“剛健中正純粹精”為性可知矣。
『乾・文言伝』に言う。「乾元は始めて之を亨らしめる。利貞とは性情を言う。」乾の徳性は分けて言えば四項目、すなわち元・亨・利・貞で、それぞれ一時節の事を司る。合わせて言えば二項目で、「元亨」は始めて通じること、「利貞」は性と情である。乾は万物を始めて之を亨らしめるが、その中で「利」は情に属する。「貞」は静かにして正を守ることで、静かにして正を守るのはすなわち性である。『文言伝』の「六爻発揮、旁通」と言うのは情を言うので、情が性の発動であることが見える。発揮をもって情とする以上、『文言伝』の言う「剛健中正、純粹精」が性であることもまた明らかである。
《彖》言“大哉乾元”,終之以“萬國咸寧”;《文言》稱“大哉乾乎”,終之以“天下平”。文王之言本之乾元,孔子之言本之聖人。聖人體天以立徳,帝王之道以剛健中正純粹精為體,以變化隨時、施澤利物為用,言各有所主。“乾始能以美利利天下,不言所利,大矣哉”者,餘卦皆指名所利,如《坤》“利牝馬之貞”、《屯》“利建侯”之類是也;乾道無所不利,故不言所利,以見乾道之大也。
『乾・彖伝』は冒頭に「大なるかな乾元」と言い、結びは「万国咸寧」に帰する。『乾・文言伝』は「大なるかな乾」と称し、結びは「天下平」に帰する。文王の言は乾元という天道から説き起こし、孔子の言は聖人という人事から説き起こした。聖人は天に法って己の徳性を立て、帝王の道は「剛健中正、純粹精」をもって本体とし、時に随って変化し恩沢を施して万物を利することをもって功用とする。二つの説はそれぞれ重点がある。『文言伝』の「乾は始めて美利をもって天下を利す。其の利する所を言わず、大なるかな」と言うのは、他の諸卦は皆利する対象を指名して言う――例えば『坤卦』の「牝馬の貞に利あり」、『屯卦』の「侯を建るに利あり」など――のに対し、乾道だけは利さない所がないので、わざわざ利する所を指名する必要がなく、まさにこれをもって乾道の大なるが見えるのである。
“時乗六龍以御天”者,乗此六爻之時,則可以御造物之大權,而出乎造物之外矣。“雲行雨施,天下平”者,徳澤旁流,如雲行雨施,物各適其平,天下孰有泮渙者乎?此反覆以盡乾徳之妙也。乾道至此,孰知乾之為聖人,聖人之為乾乎!
「時に六龍に乗りて天を御す」というのは、六爻それぞれの時勢に乗って行けば造化の大権を握り、かえって造化の外に超然と立つことができるということである。「雲行き雨施して天下平」というのは、恩徳の沢惠が四方に流布して、雲が行き雨が降るがごとく、万物がそれぞれ応分の均平を得れば、天下に渙散離析するものがあろうか、ということである。これは乾徳の微妙を反復して言い尽くしたものである。乾道をここまで説き尽くせば、乾が聖人なのか聖人が乾なのか、誰に分けられよう。
《彖》曰:“大哉乾元,萬物資始,乃統天。雲行雨施,品物流形。大明終始,六位時成,時乗六龍以御天。乾道變化,各正性命,保合太和,乃利貞。首出庶物,萬國咸寧。”乾道大矣,惟元亨利貞四者足以盡之。乾以一元之氣生飬萬物,物莫不稟氣於元,天何為哉?故曰“大哉乾元,萬物資始,乃統天”也。皷之以雷霆,潤之以風雨,雲行雨施,然後蟄者以奮,甲者以坼,草木鳥獸流動分形,形質呈露矣。此釋乾之所謂元亨也。
『乾・彖伝』に言う。「大なるかな乾元。万物は之に資って始まり、乃ち天を統ぬ。雲気流行して雨沢施降し、品物は流れて形を成す。終始を大明して六位時に成り、時に六龍に乗りて天を御す。乾道変化して万物各々その性命を正しくし、太和の気を保ち合して、乃ち利ありて貞なり。衆物の上に首出でて万国咸寧なり。」乾道は偉大であり、元・亨・利・貞の四字だけで言い尽くすに足る。乾は一元の気をもって万物を生養し、万物は「元」から気を禀けないものはなく、天自身に何らの作為があろうか。だから『彖伝』は「大なるかな乾元、万物資って始まる、乃ち天を統ぬ」と言う。雷霆をもって之を鼓動し、風雨をもって之を潤沢し、雲行き雨施した後、蟄伏の虫豸は奮い起こり、甲殻を帯びた種子は綻裂し、草木鳥獣は流れ生長して各々形体に分化し、形質が皆顕れる。この一段は乾の言う「元」と「亨」を解釈するものである。
“大明終始,六位時成,時乗六龍以御天”者,聖人體元亨之徳,運用造化,以成位乎其中也。天之道有終有始,四時之代謝,六子之運動,循環無窮。聖人大明乎終始之運,故卦之六爻以時而成,潛、見、飛、躍不失其幾,然後可以乗天地之正,御六氣之辨也。
「大明終始、六位時成、時乗六龍以御天」というのは、聖人が元・亨の徳性を体現して造化の功を運用し、それによって天地の間に自己の位置を確立することを言う。天道には終りがあり始まりがあり、春夏秋冬の四時の更迭、震坎艮巽離兌の六子卦の表す運動は循環往復して窮まりがない。聖人はこの終りて復た始まる運転を透徹に明らめたので、『乾卦』の六爻は時序に随って成るのである。潜蔵・顕現・飛騰・跳躍のいずれもその関鍵の時機を逸しない。こうしてこそ天地の正道に乗り、陰陽風雨晦明の六気の変化を駕御することができる。
“乾道變化,各正性命,保合太和”,此釋乾之所謂利貞也。天地絪縕,萬物化醇,物有因形而移易者,亦有自有而入無、自無而入有者,此乾道變化之妙,故物各得正其性命以保合太和也。與生俱生者性也,命則所稟受於天者。保謂存之而不亡,合謂聚之而不散;保之合之,不失其太和,故能利且貞也。乾備此四徳,以統御群形而為萬物之宗;聖王體乾之四徳,以臨制海內而為庶邦之長。乾與聖人各盡其剛健之徳,同功而異用,所以俱為域中之大歟。
「乾道変化、各正性命、保合太和」の数句は、乾の言う「利」と「貞」を解釈するものである。天地の二気が交密纏綿し、万物はこれにより化育醇厚となる。その中には形体によって転移変易する物類もあり、有から無に向かいまた無から有に向かうものもある。これこそ乾道変化の奥妙であり、だから万物は各々その性命を正しくして太和の気を保ち合することができる。生命とともに生成するものを「性」と言い、「命」は天から禀け受けたものである。「保」は存して失わせないこと、「合」は聚して散らせないことを言う。保ち聚めることができて太和の気を失わないので、利がありて正く固いのである。乾は元亨利貞の四徳を備え、もって衆多の形体を統御して万物の宗主となる。聖王は乾の四徳を体現し、もって天下に君臨し節制して万邦の長となる。乾と聖人は各々その剛健の徳性を尽くし、功效は同じで作用は異なる。だから両者とも天地の間の偉大なる存在なのであろう。
《象》曰:“天行健,君子以自強不息。”《易》無非象,乾坤至大之物不可形容,故但言其用而巳。至健者,乾之用也;自強不息者,君子取法於乾也。天所以歴萬古而無敝者,以息息不停,運而無跡也。君子體之以進徳修業,如成湯之昧爽丕顯,坐以待旦;文王日昃不暇食,固足以繼天道矣。蓋處尊崇富貴之地,內有滛聲美色之蠧,外有臺池苑囿之觀,自非以道制欲,未有不荒怠者。《中庸》曰“至誠無息”,不息則乆,非體本剛健,安能無作輟者乎?
『乾・大象伝』に言う。「天の行は健にして息まず、君子は之に法って自ら奮い励まして止まない。」『易』に象でないものは一つもないが、乾・坤は極めて広大なもので、具体的な形状で描摹できないので、その功用を言うだけである。「至健」は乾の功用であり、「自彊息まず」は君子が乾から法り取るものである。上天が万古を経て衰敗しないのは、一息一息止まることがなく、運転して痕跡を留めないからである。君子はこれを体して徳性を進め功業を修める。商湯が夜明け前からその徳を昭明にして端坐して天明を待ち、周文王が日が傾くまで食事を顧みなかったように、これでこそ真に天道を承続するに足る。当知るべきは、人はひとたび尊貴富厚の地位に居れば、内には淫声美色の類の蠹害があり、外には楼台池沼苑囿の類の玩賞がある。道義をもって欲望を節制できなければ、荒怠しないものはない。『中庸』に「至誠息まず」と言う。息まないからこそ久しい。本体に剛健な人でなければ、時に作し時に輟むことをなくせようか。李光のこの言は、実は高宗の偏安享楽と政事の時作時輟に対する諷切である。
夫子於彖辭之外,別以八卦錯綜取義,謂之《大象》。惟乾、坤、坎、離、震、兌、艮八純卦無互體、合體、卦變之異,故坎曰“洊至”,離曰“明兩”,震曰“洊雷”,兌曰“麗澤”,艮曰“兼山”,曰“隨風”,各取一物以為象。而乾坤至大之物又異乎六子,故但云“天行健”“地勢坤”而巳。此無象之象,眾象之所宗也。
孔子は卦辞・彖辞の外に、別に八卦を交錯綜合する方法で義を取った。これを『大象伝』という。乾・坤・坎・離・震・兌・艮の八純卦だけは互体・合体・卦変の種々の差別がないので、『坎卦』の大象は「水洊び至る」と言い、『離卦』は「明両つ作る」と言い、『震卦』は「洊雷」と言い、『兌卦』は「麗沢」と言い、『艮卦』は「兼山」と言い、『巽卦』は「風に随う」と言い、各々具体的な物一つを取って象を立てる。乾・坤は極めて広大なもので、また六子卦と同じではないので、「天行健」「地勢坤」と言うだけである。これは具体的物象のない象でありながら、一切の物象が共に宗主とするものである。
初九:潛龍勿用。《象》曰:“潛龍勿用”,陽在下也。龍之為物,變化不測,因時而飛潛,故龍全其神;聖人渉世,消息盈虛,觀時而進退,故能合於道。乾體純陽,方群陰在上,則退遁而潛伏。乾之初九,一陽之氣方伏而未動,於卦為《復》,乃神龍蟄藏之時。猶聖賢君子當小人道長,則以儉徳避難,消聲滅跡,惟恐入林之不深,況可求用於世而榮以祿哉?象言“陽在下”者,陽伏而在下,是陰方為主之時。
『乾卦』初九の爻辞。「潜龍、用いる勿れ。」『小象伝』に言う。「『潜龍勿用』は陽が下に在れば也。」龍というものは変化を測れず、時勢に随ってあるいは飛びあるいは潜む。だから龍はその神妙を保ち全うできる。聖人は世間に身を渉らせ、消長盈虚の勢いに随って時機を観て進退を決する。だから道に合できるのである。乾卦は純陽の爻で、衆多の陰気がなお上に圧している時には退避隠遯して潜伏する。『乾卦』初九は一陽の気がちょうど伏蔵して未だ発動しない段階で、卦象で言えば『复卦』に相当し、まさに神龍が蟄伏収蔵する時である。これは聖賢君子が小人の勢力がまさに滋長しようとする時に当たるようなもので、徳行を収斂して禍難を避け、声跡を消して、山深く入ること足りないを恐れるばかりで、どうして世用を求め俸禄をもって自らを栄顕する暇があろうか。『小象伝』の「陽在下も」は、陽気が潜伏して下位に居ると言うのであり、まさに陰気が権を当て主を為す時である。李光が嶺南に謫した時にこの一段を書いたのは、自らを言ったのであり、同時に秦檜が国を当て正人が退避した南宋の朝局を言ったのでもある。
《文言》曰:“龍徳而隱者也。不易乎世,不成乎名,遯世無悶,不見是而無悶,樂則行之,憂則違之,確乎其不可,潛龍也。”蓋有龍徳而潛隱,則當不易乎世者,不為時世所易也;不成乎名者,不為名髙之所累也;遯世無悶者,身否而心亨也;不見是而無悶者,舉世非之而不見沮也;樂則行之,憂則違之,確乎其不可者,能順乎消息之理而不為萬物之所移也。
『乾・文言伝』に言う。「これは龍のような徳性を有して隠居して出ない人である。世俗に因って己を変えず、刻意して名を成さず、世を避けて隠居して煩悶せず、人に認められなくても煩悶しない。意に合う事は之を行い、憂疑する事は之を避け、確乎として動かし難い。これが潜龍である。」おおよそ龍徳を具えて潜蔵隠居する者の、所谓「世に易わらず」とは当時の世風に変えられないことを言い、所谓「名を成さず」とは高名に累われないことを言い、所谓「遯世悶なし」とは困頓に身を処して内心が通泰であることを言い、所谓「是と見られずとも悶なし」とは挙世が皆その人を非議しても沮喪しないことを言い、所谓「楽ならば則ち之を行い、憂ならば則ち之に違う、確乎として其れ不可」は、消長盈虚の理に順応して外物に動揺されないことを言う。
又曰:“潛龍勿用,下也。”龍之潛隱,非得巳也,時尚未可而不強行,故伏而在下也。又曰:“潛龍勿用,陽氣潛藏。”一陽之氣方潛藏於九淵之下,是其時之未可有為也。又曰:“君子以成徳為行,日可見之行也。潛之為言也,隱而未見,行而未成,是以君子弗用也。”聖人觀時為隱顯,雖有成徳形於可見之行,方時屯否,故隱而未見,非終不見也;君子以成徳為行,行而未成,非卒不成也。聖人豈真無意於世哉?時未可用故也。聖人用時而不用於時,故不先時而動,亦不後時而縮也。其潛而勿用也,待時而巳;弗用者,非為時之所棄也,聖人當斯時而弗之用也,則用在我矣。
『文言伝』また言う。「『潜龍勿用』は下に在れば也。」龍が潜蔵隠伏する所以は、情願そうするのではなく、時機がまだ許さないので強いて動かず、だから下に伏処する。また言う。「『潜龍勿用』は陽気がなお潜蔵すれば也。」一陽の気がまさに深淵の下に潜蔵しているので、この時はまだ有為にできないことが見える。また言う。「君子は養い成した徳性を行為に表す。毎日見える行為である。所谓『潜』は隠れて未だ顕れず、行為が未だ成就しないので、君子は暫く施展しない。」聖人は時勢を観て隠か顕かを決し、すでに成就した徳性は見える行為に表れるが、ちょうど艱難閉塞の時局に当たっているので隠れて顕れない――永遠に顕れないのではない。君子は成徳を行為に表すが、行為がまだ成就しないだけで――終竟成就できないのではない。聖人は本当に世事に意がないのか。ただ時機が用いられないだけである。聖人は時勢を運用する人であり、時勢に翻弄される人ではない。だから時機の前に抢って妄動せず、時機の後に落ちて退縮もしない。其の潜蔵して用いない所以は、ただ時機を待っているだけである。所谓「不用」は時代に棄てられたのではなく、聖人がこの種の時に自ら用いることを選ばないのである――かくて用と不用の主動権は依然として我に在り。この数句は李光が自ら心迹を明らかにしたもので、謫居は棄てられたのではなく時を待つのである。
九二:見龍在田,利見大人。《象》曰:“見龍在田”,徳施普也。乾之六爻無人臣之位,聖人乗六爻以御天,升降上下,因時而飛潛。當初九陰長之時,不得不潛;九五陽盛之時,不得不飛,豈冇二哉?九二群陰退聽,出潛離隱,居中漸大,是聖人將有為有行之時,利澤可以及物矣。《象》曰“見龍在田,徳施普也”,田者,農所興作以飬利萬物者也。聖人居及物之地,可以施恩澤於天下,如田畤之利,其施普矣。
『乾卦』九二の爻辞。「龍、田野に見る。大人を見るに利あり。」『小象伝』に言う。「『龍を田に見る』は徳施普し也。」『乾卦』六爻に人臣の位は一爻もない。聖人は六爻の時勢に乗って天道を駕御し、あるいは升りあるいは降り、あるいは上りあるいは下り、時機に随って飛騰しあるいは潜蔵する。初九の陰気滋長の時に当たっては潜せざるを得ず、九五の陽気極盛の時に当たっては飛ばざるを得ない――二人の異なる人であろうか。九二に至って衆陰は退き命を聴き、龍は潜蔵を出で隠伏を脱して、下卦の中に居り気象が漸く大きくなる。これは聖人がまさに有為にしようとする時であり、恩沢利益はすでに万物に及びうるのである。『小象伝』の「龍を田に見る、徳施普し也」の「田」は農夫が耕作して万物を養い利する所である。聖人は恩沢が物に及びうる地位に居り、恩惠を天下に施すことができる。田地の利のように、その施与は普遍的である。
《文言》曰:“龍徳而正中者也。庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,善世而不伐,徳博而化。《易》曰‘見龍在田,利見大人’,君徳也。”餘卦皆以二為臣位,乾之六龍皆君徳也,故九二以龍徳而處正中之位,與五雖非相應,而或飛或見,各因其時。庸者,中之用也。孔子曰:“中庸之為徳也,其至矣乎!”庸言之信,庸行之謹,閒邪存其誠,所以修胸中之誠,發而為言行者無非中庸也。此聖人居正中之地而能履正中之徳者,有此功徳足以善世,未嘗自伐,故其徳溥博而能化治;至於能化,則雖頑獷者無不服從矣。
『乾・文言伝』に言う。「これは龍徳を有して中に居り正を守る人である。平常の言語は信実を講じ、平常の行為は謹慎を講じ、邪念を防閑して誠意を保存し、世を善に向かわせて自ら誇らず、徳性は広博にして人を感化しうる。『易』に『龍を田に見る、大人を見るに利あり』とは、君主の徳性を言う。」他の諸卦は皆第二爻を臣位とするが、独り『乾卦』の六龍は皆君徳である。だから九二は龍徳を憑にして中に居り正を得る位置に処する。九五とは正応を構成しないが、一つは飛び一つは見えて、各々その時勢に順う。「庸」とは中道の運用である。孔子が言う。「中庸を徳とするは、其れ至れるか。」平常の言語に信実を講じ、平常の行為に謹慎を講じ、邪念を防閑して誠意を保存することは、皆胸中の誠を涵養するためであり、発して言語行為となれば中庸に合しないものはない。これは聖人が中正の地に処して中正の徳を践履できる様子である。このような功徳があって世を善に向かわせるに足りても、けっして自誇しないので、その徳性は広博にして化育治理できる。人心を化育する域に至れば、頑劣粗野な人でも従わない者はない。
又曰:“君子學以聚之,問以辨之,寛以居之,仁以行之。《易》曰‘見龍在田’,君徳也。”九二一爻,稱龍徳者一,稱君徳者二,聖人深著其非人臣之位,能進徳修業則可漸躋乎大君之道也。聚者,儲蓄其見聞也;辨者,辨析其義理也;寛者,不狹其所居也;行者,非獨善其身也。利見大人者,非獨利見九五之大人,能以利澤及物,則天下皆利見之矣,豈特二五自相求哉!
『文言伝』また言う。「君子は学問をもって知を蓄え、問いかけをもって是非を弁じ、寛厚な心をもって自ら処り、仁愛の態度をもって事を行う。『易』に『龍を田に見る』とは、君主の徳性を言う。」九二の爻について、「龍徳」と称する所が一か所、「君徳」と称する所が二か所あり、聖人は再三それが人臣の位ではないと明らかにする――徳性を増進し功業を修治できるなら、一歩一歩大君の道に登ることができるのだ。所谓「聚」とは己の見聞を蓄積すること、所谓「弁」とはその中の義理を辨析すること、所谓「寛」とは自らの胸襟の居処を狭くしないこと、所谓「行」とはただ独善を顧みないことである。所谓「大人を見るに利あり」は、九五のあの大人を見るのに利するだけを指すのではない。恩沢利益を万物に施し及ぼすことができれば、天下の人は皆彼を見ることによって利を得る。どうして九二と九五の二爻が互いに求め合うだけのことであろうか。
九三:君子終日乾乾,夕惕若厲,無咎。《象》曰:“終日乾乾”,反復道也。乾之六爻皆龍也,三獨稱君子,以得人位之正,不待象而明。當二卦之際,處重剛之中,上下皆乾,故曰“乾乾”。以九居三,至健也,稍進則登乎君位矣,禍福存亡之幾間不容髮。聖人處此時也,則憂勞畏慎,不敢自暇自逸,故《象》曰“終日乾乾,反復道也”。三居下卦之極、上卦之下,終始之際,終則有始,天行也,反覆皆不離乎道。君子體此剛健之徳,自強不息,雖宴息休暇安身之時,惕然有臨深履薄之危,敬慎如此,故得無咎也。
『乾卦』九三の爻辞。「君子は終日勤勉して怠らず、夜になっても危険に臨むように警惕する。こうすれば咎なし。」『小象伝』に言う。「『終日乾乾』とは、反復して正道を行くことである。」『乾卦』六爻は皆龍であるが、独り第三爻だけが「君子」と称されるのは、人位の正を得ているので、物象を借りなくてもすでに明らかだからである。九三はちょうど上下二つの乾卦の交接する際にあたり、重なった剛爻の中に処し、上は乾で下も乾である。だから「乾乾」と言う。陽爻の九が第三位に居るのは極めて剛健で、もう一歩進めば君位に登る。禍と福、存と亡の分際は、中に髪一筋も容れない。聖人がこの種の時に処すれば、憂勤畏慎して自らに片刻の安逸も許さない。だから『小象伝』に「終日乾乾、反復道也」と言う。第三爻は下卦の頂点・上卦の下端に位し、まさに終と始の交接する所であり、終ればまた始まる。これが天道の運行で、往き来たりして正道を離れない。君子はこの剛健の徳を体して自彊息まず、燕居休息して身を安んずる時でさえ、なお惕惕として深淵に臨み薄氷を履むがごとく戒惧する。敬慎がこの域に至るので、咎なきを得るのである。
《文言》曰:“君子進徳修業。忠信所以進徳也;修辭立其誠,所以居業也。知至至之,可與幾也;知終終之,可與存義也。是故居上位而不驕,在下位而不憂,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。”聖人處危疑之時,非孔子反覆其辭,安知“終日乾乾,夕惕若厲”為進徳修業乎?忠信者,進徳之階也;修辭立誠者,居業之具也。至與終,皆謂三也。知至而能至之,則居下卦之上而不失其幾;知終而能終之,則處上卦之下而不廢其義。故居上位而不驕,在下位而不憂,因時而惕,雖危無咎也。
『乾・文言伝』に言う。「君子は徳性を進め、功業を修める。忠実信実は以て徳性を進めるものであり、言辞を修飾し誠意を立てるのは、以て功業を守るものである。到達すべき目標を知って努力して到達すれば、之と幾微の理を論ずべし。終止すべき限界を知って時に終止すれば、之とともに義理を守るべし。それ故、上に居て驕らず、下に居て憂えず、勤勉して怠らず時に随って警惕する。危険に処っても咎なし。」聖人が危険で疑わしい時に処する時、孔子のように反復して申説する者がいなければ、誰が「終日乾乾、夕惕若厉」がまさに徳性を進め功業を修めることを説いていると分かろうか。忠信は徳性を進める階梯であり、修辞立誠は功業を守る憑藉である。「至」と「終」はどちらも第三爻を言う。到達すべきを知って到達できるのは、下卦の頂点に居て時機を逸しないことであり、終止すべきを知って終止できるのは、上卦の下端に処して義理を廃しないことである。だから上に居て驕らず、下に居て憂えず、時機に随って戒惧する。危うけれども咎なし。
又曰:“終日乾乾,行事”者,乾以剛健之道進而行事,非潛隱之時也。又曰:“終日乾乾,與時偕行”者,乾生於子,統三男而長子用事,雖欲退遁不可得也,故知終曰乾乾者,與時而偕行也。又曰:“重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危無咎。”三處重剛不中之位,又以陽居陽,髙亢之甚,巳過九二之中庸,故下不在田;未登九五之大位,故上不在天。當斯時也,欲進則有逼上之嫌,欲退則有失位之懼,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。聖人慮患之意,纎悉周盡如此。
『文言伝』また「終日乾乾、行事」と言うのは、乾が剛健の道をもって前に推し進めて事をなすことで、これはもはや潜蔵隠伏の時ではない。また「終日乾乾、与時偕行」と言うのは、乾の気が子位に生じて、震・坎・艮の三つの男卦を統領し長男が事を当たるので、退避隠遯しようとしてもできない。だから「乾乾」と言うのは、時勢とともに前行するのだと知るべきである。また言う。「重ねて剛で中に居らず、上は天位に在らず、下は田位に在らず、だから勤勉して怠らず時に随って警惕する。危うけれども咎なし。」第三爻は重ねて剛で中に居らない位に処し、また陽爻で陽位に居るので高亢が甚だしく、すでに九二の中庸の地を越えた。だから「下は田に在らず」と言う。しかしまた九五の大位にまだ登っていないので「上は天に在らず」と言う。この種の時にあっては、進もうとすれば君上を逼る嫌疑があり、退こうとすれば位を失う恐れがある。だから勤勉して怠らず時に因って戒惧するしかなく、危うけれども咎なしである。聖人が人の患を慮る用心は、細密周到がこの域に至る。これはまさに近臣の位に身を置く者の進退両難についての、李光の現身の論である。
九四:或躍在淵,無咎。《象》曰:“或躍在淵”,進無咎也。九四雖以陽剛處陰爻,然巳在下卦之上,有進而巳。淵者,神龍所居,物所不能害也。在淵而能躍,則升降變化舉皆在我,孰能制之?故不如九三之危,直曰無咎也。四為陰位,有淵之象;與五同體,有躍之象。勢既至此,雖欲退就安全之地不可得也,故《象》曰“進無咎也”。湯伐桀,升自陑;武王師逾孟津,斯其時乎!
『乾卦』九四の爻辞。「あるいは躍り上がり、あるいはなお深淵に在る。咎なし。」『小象伝』に言う。「『或いは躍り淵に在る』とは、進んでも咎なきことである。」九四は陽剛の爻で陰位に処しているが、すでに下卦を越えてその上に居り、進む一路しかない。「淵」は神龍の居る所で、外物は彼を傷つけ得ない。身は深淵に在りながら能く躍り上がれば、上昇下降・変化進退はすべて我が主となし、誰が之を制約できよう。だから九三のように危疑ではなく、直ちに「無咎」と言う。第四爻は陰位で深淵の象があり、第五爻と同じく上卦に在るので騰躍の象がある。形勢がすでにこの歩みに至れば、安全な所に退こうとしてもできない。だから『小象伝』は「進みて咎なき也」と言う。商湯が夏桀を討って陑の地から進兵し、周武王の軍が孟津を渡ったのは、およそこの種の時であろう。
《文言》曰:“上下無常,非為邪也;進退無恆,非離群也。君子進徳修業,欲及時也,故無咎。”九四位升於外,履重剛之險,居不中之地,一上一下,疑於為邪;一進一退,疑於離群。聖人方進徳修業,欲乗可為之時,時不可失,故上下進退,使人莫得而測也。又曰“自試”者,此舜之歴試諸艱也。曰“乾道乃革”者,四近九五之位,與上同體,此湯武革命,應乎天而順乎人也。
『乾・文言伝』に言う。「或いは上り或いは下り常なく、邪僻の事を為さんとするに非ず。或いは進み或いは退き恒なく、群を離れるに非ず。君子は徳を進め業を修め、時に及ばんと欲して咎なし。」九四の位はすでに外卦に升り、重剛の険境を踏み、中に居らぬ位に処している。一上一下は人に邪僻と疑われやすく、一進一退は人に同類を離れると疑われやすい。実は聖人はこの時まさに徳を進め業を修め、有為にできる時機に乗じようとしており、時機は逸してはならないので、彼の上下進退は人に測らせない。『文言伝』がまた「自試」と言うのは、舜が種々の艱難の試錬を経たことを指す。「乾道乃ち革」と言うのは、第四爻が九五の位に近く上卦と同体であるので、これはちょうど商湯・周武の革命のように、上は天心に応え下は人意に順うのである。
又曰:“九四重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人。”此正聖人危疑之時,故曰“或躍”,或者,疑之也。居危疑之地,能以道消息而卒不為人所疑,故得無咎也。乾至九四,舜、禹居攝之時也,孔子於此反覆周慎如此,不然,其能免乎?
『文言伝』また言う。「九四は重ねて剛で中に居らず、上は天位に在らず、下は田位に在らず、中は人位に在らず。」これはまさに聖人が危疑の境に処する時である。だから爻辞は「或いは躍る」と言う――「或」の字はすなわち遲疑不定の意である。危疑の地に身を処して、理によって進退消長を把握でき、終に人に猜疑されなければ、咎なきを得られる。『乾卦』が九四に至るのは、舜と禹が天子に代わって摂政した段階に相当し、孔子がここで反復丁寧・周密審慎にこの域に至ったのは、こうでなければ彼らはどうして禍患を免れられよう。
九五:飛龍在天,利見大人。《象》曰:“飛龍在天”,大人造也。九五以剛健履正中之位,變化不測,故曰“飛龍在天”者,位乎天徳,升乎天位也。當草昧雲擾之時,則天地閉而賢人隱;有聖人出,豪傑智謀翕然響應,天下莫不利見之也。有堯舜之君,則有皋、稷、契之臣;有湯武之師,則有伊尹、太公之佐。故二五兩爻皆曰“利見大人”,以見上下之相湏也,故《象》曰“飛龍在天,大人造也”。造者,至也;聲氣之同,不約而,故曰造也。
『乾卦』九五の爻辞。「龍飛んで天に在り。大人を見るに利あり。」『小象伝』に言う。「『飛龍在天』とは大人が来たことである。」九五は剛健の徳をもって中正の位を踏み、変化は測れない。だから「飛龍在天」と言う。その徳性が天徳に合い、その地位が天位に升ったことを意味する。天下が草創して昏乱し雲のように擾攘する時は、天地閉塞して賢人は隠退する。いったん聖人が世に出れば、豪傑の士・智謀の臣が一斉に応じ、天下に彼を見て利を得ない者はいない。尭舜のような君主があれば皋陶・后稷・契のような臣子があり、商湯・周武のような統帥があれば伊尹・太公のような輔佐がある。だから九二・九五の両爻とも「大人を見るに利あり」と言い、上下が互いに相需ることを表明する。だから『小象伝』は「飛龍在天、大人造也」と言う。「造」はすなわち「至」で、声気の同じ者は約せずして同じくなるので「造」と言う。(「不約而」の下に底本は一字脱す。)
張良、韓信之從漢王,耿弇、鄧禹之從光武,房玄齡、杜如晦之輔唐太宗,皆心徳之同,如水火之就燥溼,風雲之從龍虎。故《文言》曰:“同聲相應,同氣相求,水流溼,火就燥,雲從龍,風從虎,聖人作而萬物睹。本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。”
張良・韓信が漢高祖に随い、耿弇・鄧禹が漢光武帝に随い、房玄齢・杜如晦が唐太宗を輔佐したのは、皆内心の徳性が同じだったからで、水が湿った所に流れ火が乾いた所に燃え、風が虎に随って起こり雲が龍に随って生ずるがごとしである。だから『乾・文言伝』は言う。「同じ声は互いに応和し、同じ気は互いに求め合う。水は低湿に流れ、火は乾燥に燃える。雲は龍に随い、風は虎に随う。聖人が興れば、万物は皆彼を観る。天に本する者は上に親しみ、地に本する者は下に親しみ、各々その類に従う。」
蓋君子則有君子之類,小人則有小人之類,資適相逄。故邪臣不能事明君,暗主不能容正士。上有九五中正之君,則下有九二剛直之臣。君臣相遇,古人謂之千載一時,詎不然哉!又曰:“飛龍在天,上治”者,在上而可以致治,勢足以有行也。
おおよそ君子には自ら君子の類があり、小人には自ら小人の類がある。禀性の近い者は自然と一か所に湊る。だから邪佞の臣は英明の君に仕えられず、昏暗の主も正直の士を容れられない。上に九五のような中正の君主があれば、下には九二のような剛直の臣子がある。君臣が相遇えること、古人は之を「千載一時」と称す。まさにこの通りではないか。李光のこの嘆は、実は南宋の君相が明ならず正士が斥けられることに対して発したものである。『文言伝』がまた「飛龍在天、上に治む」と言うのは、上位に身を居せば治世を成し遂げられ、権勢が自説を推行するに足ることを言う。
又曰:“飛龍在天,乃位乎天徳”者,九五之君如飛龍在天,則造乎神聖之域,合散消息與天同徳矣。故終之曰:“夫大人者,與天地合其徳,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶。先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?”此皆仲尼盛讚九五之徳,而正名曰大人,宜天下之所利見也。
『文言伝』がまた「飛龍在天、乃ち天徳に位す」と言うのは、九五のこの君主が飛龍の天に在るがごとく、すでに神聖の境界に入り、聚合離散・消長盈虚が皆上天と同徳となったことを言う。だから最後に総括して言う。「所谓大人とは、その徳性が天地と合し、その光明が日月と合し、その秩序が四時と合し、その定める吉凶が鬼神と合する。天時の先に行動しても天は彼に違わず、天時の後に行動しても彼は天の時序を奉ずる。天なお彼に違わないのに、何况して人をや、何况して鬼神をや。」これらは皆孔子が九五の徳性を極力称賛し、正式に彼を「大人」と命名したもので、天下人は自ずと皆彼を見るを利とするのである。
上九:亢龍有悔。《象》曰:“亢龍有悔”,盈不可久也。乾剛至上九,則位已極矣。陰陽之理,未有極而不反者。揚雄曰:“聖人之道猶日中。”日之既中,無不昃者。處天位之尊,據崇髙富貴之極,茍不知消息盈虛之理,雖以聖人居之,未有無悔吝者。蓋四時之運,功成者去。老氏曰:“功成名遂身退,天之道也。”《泰》之上六“城復于隍”,《剝》之上九“碩果不食”,以見窮上者未有不反下者也。
『乾卦』上九の爻辞。「亢る龍は悔い有り。」『小象伝』に言う。「『亢龍有悔』とは盈満の状態が長く持たないことである。」乾の剛健は上九に至れば位はすでに頂点に達する。陰陽の理は、極点に達して返転しないことは嘗てない。揚雄が言う。「聖人の道は正午の太陽のようだ。」太陽はいったん正中に至れば、続いて西に偏らないことはない。天位の尊貴に身を処し、崇高富貴の頂点を占めながら、消長盈虚の理を知らなければ、聖人がその位に処しても悔いを生じないことはない。当知るべきは、四季の運行は功を成した者が退くべきだということである。老子が言う。「功を成し名を遂げて身を退くは、これ天の道なり。」『泰卦』上六に「城は隍に復す」と言い、『剥卦』上九に「碩果食われず」と言うのは、皆これを明らかにするためである。最上に至った者は、下に返らないものはない。
故《文言》曰:“貴而無位,髙而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。”上九亢陽之地,六爻雖統謂之六位,初、上者事之終始而非位也。《繋辭》但稱二四、三五同功而異位,不及初、上,可識矣,故曰“貴而無位”也。乾,純陽之卦,下皆無應,無民之象也。無位無民,賢人在下而不為之用,此可退之時也。
だから『乾・文言伝』は言う。「位は尊貴だが実の爵位なく、高所に身を居すが百姓なく、賢人は下位に在るも来て輔佐しない。それ故一挙動あれば悔いを生ず。」上九は陽気が亢極する地である。六爻は総じて「六位」と称するが、初爻と上爻は一つの事の始めと終りに過ぎず、真の「位」とは算えない。『繋辞伝』はただ第二爻と第四爻、第三爻と第五爻が功用同じくして位次が異なると言うだけで、初爻と上爻には言及しない。これより明らかなので「貴にして位なし」と言う。『乾卦』は純陽の卦で、下の各爻に相応する陰爻がない。これが「民無し」の象である。実位もなく百姓もなく、賢人は下に在って彼の用に供しない。これはまさに引退すべき時である。
又曰:“亢龍有悔,窮之災也。”蓋陽數窮於九,六位窮於上,茍不知變,則災禍隨之。又曰:“亢龍有悔,與時偕極。”偕極者,不能消息盈虛,與時偕行,昧乎變通之機,窮而不知變也。故堯老不得不傳之舜,舜老而不得不傳之禹。觀其命舜、禹之辭曰:“天之厯數在爾躬,執其中,四海困窮,天祿永終。”若堯舜者,可謂知此矣。故曰:“知進退存亡而不失其正者,其唯聖人乎!”
『文言伝』また言う。「『亢龍有悔』とは窮極に走り抜いて招いた災いである。」陽の数は九に至って窮まり、爻位は上爻に至って窮まる。変通を知らなければ災いが随って来る。また言う。「『亢龍有悔』とは時勢とともに極点に至ったことである。」所谓「偕極」とは、彼が消長盈虚に随って時とともに進めず、変通の関鍵に昧く、窮処に至って改めることを知らないことである。だから尭は年老いて天下を舜に伝えざるを得ず、舜は年老いて禹に伝えざるを得なかった。彼らが舜と禹を任命した時の言を見よ。「天の暦数は爾の躬に在り。中を執れ。四海困窮せば、天の禄は永く終らん。」尭舜のような人は、この理を知ったと言うべきである。だから『文言伝』は言う。「進退存亡の分寸を知ってその正道を失わない者は、それ聖人のみか。」
雖然,“悔吝者,言乎其小疵也”。亢之為言,謂力足以抗彼也。以乾徳之剛健,若久居大位,威福自我,孰能傾之?自禹湯而下,皆傳諸子孫,歴年數百,豈必盡逃禍敗也哉?故曰:“亢之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知,其惟聖人乎!”
そうは言っても、『繋辞伝』に「悔と吝とは、ただ小さな瑕疵を言う」とある。「亢」という字は、力が相手に抗衡するに足ることを言う。乾徳の剛健を憑って、もし長く大位に居れば、威権賞罰は皆己より出る。誰が彼を動揺させられよう。禹と湯以来自ずと天下を子孫に伝え、数百年を歴した。どうして皆必ずしも禍敗を免れないと言えよう。だから『文言伝』は言う。「所谓『亢』とは、ただ進むを知って退くを知らず、ただ存するを知って亡するを知らず、ただ得るを知って〔喪うを〕知らざるを言う。能く然らざる者は、それ聖人のみか。」(「知得而不知」の下に底本は「喪」の字を脱す。)
仲尼之意,以為非夫聖人不能升降變化,握其機權,使合散消息常在我而不在彼也,豈非天下至剛至健之徳哉!如使後世之君懼亢龍之有悔,必求賢人而授以天下,則是啟攘奪之風,開覬覦之門,天下紛紛,何時而定乎?善乎韓愈之言曰:“堯舜之傳賢也,欲天下之得其所也;禹之傳子也,憂天下後世爭之之亂也。”其知此乎!
孔子の用意するところは、聖人でなければ自ずと昇降変化して関鍵の権柄を掌握し、聚合離散・消長盈虚の主動権を終始自己の手に握って他人の手に落とさないことができない――これはまさに天下の最剛最健の徳性ではないか、ということである。もし後世の君主が「亢龍有悔」を惧れて、必ず賢人を物色して天下を彼に譲るとすれば、争奪の風気を啓き覬覦の門径を開くに等しく、天下は紛紛擾擾していつ安くなろう。韓愈の言は善い。「尭舜が天下を賢人に伝えたのは、天下人を各々其の所を得しめんがため。禹が天下を子に伝えたのは、後世が争奪して禍乱を生ずるを憂えたのである。」彼はおよそこの理を知ったのであろう。李光が禅譲を軽々しく言うことに反対するのは、まさに当時の朝廷内外で君権をめぐる種々の非分の想いに対するものである。
用九:見群龍無首,吉。《象》曰:“用九”,天徳不可為首也。乾體純剛,六爻皆以九為用,聖人能用此純剛以御天下,故群剛莫不為我用。乾之六爻莫相統一,非如餘卦可舉一而明、立主以定也。方群雄角逐之時,善用陽剛者必不為稱首,不善用者則為世所指名;為世指名,必將合而攻我矣。漢祖卒滅項氏,光武卒降劉盆子,皆不為之首也;陳勝首事,則禍不旋踵矣。故《象》曰“天徳不可為首也”。天之道虛而不屈,應而不藏,未嘗先物而動也;能體乎天徳,故不為之首也。《文言》曰:“乾元用九,天下治也。”乾元者,萬物之始,眾善之長也,能體乾元而用此剛直之徳,則天下治也。又曰:“乾元用九,乃見天則。”天之法象莫大於用九,聖人能盡其道,則不違乎天則而與乾同功矣。
『乾卦』用九の爻辞。「群龍が皆首とならんと争わぬを見る。吉。」『小象伝』に言う。「所谓『用九』とは、天徳は先んじて首とならしめぬことである。」乾卦は通體純剛の爻で、六爻は皆「九」を以て用とす。聖人はこの純剛の道を運用して天下を駕御するので、衆多の剛強の人は我が用に供されない者がない。『乾卦』六爻は互いに統属せず、他の卦のように一爻を挙げて主とし全卦の意義が定まるのではない。まさに群雄が角逐する時にあって、陽剛を善く運用する人は必ず先頭に立つことを肯じない。善く運用しない人は天下人に名指しされ、いったん名指しされれば衆人は必ず連合して我を攻める。漢高祖が終に項羽を滅ぼし、漢光武帝が終に劉盆子を迫降したのは、皆彼らが先頭に立つことを肯じなかったからである。陳勝は最初に起事したので、禍患は転瞬に臨んだ。だから『小象伝』は「天徳は首と為すべからず」と言う。天道は虚にして屈竭せず、感応して蔵れず、嘗て万物の先に立って行動しない。この種の天徳を体会できるので、先頭に立つことを肯じないのである。『乾・文言伝』に言う。「乾元は九を用いて剛の道を行い、天下は治まる。」所谓乾元とは、万物の開端・衆善の首領である。乾元を体現してこの剛直の徳性を運用できれば、天下は自ずと治まる。『文言伝』また言う。「乾元が九を用い、乃ち天の法則を顕現す。」上天の法象で「用九」より大きいものはなく、聖人がこの道理を極致に尽くせば、天の法則に違わず、乾と同じ功效を具えるのである。
坤卦(坤下坤上)
坤下坤上。坤:元亨,利牝馬之貞。君子有攸往,先迷後得主,利西南得朋,東北喪朋,安貞吉。乾坤二物,異體而同用,異位而同功,故乾元資始而坤元資生,有君臣之象焉,故四徳者乾坤之所同也。然乾以不言所利為大,自坤以下各指一事以為利。坤雖與乾合體,亦指言利牝馬之貞。坤之致用,尤以柔順而貞為所利之大,人臣之道也。
『坤卦』は下卦が坤、上卦も坤である。卦辞に言う。「元亨。牝馬のごとく正を守るに宜し。君子往く所有り。先んずれば迷い、後れれば主を得る。西南に行けば利あり、類を得る。東北に行けば類を喪う。安く正を守れば吉。」乾と坤の二つは、形体は異なるが功用は同じく、位置は異なるが功效は一致する。だから乾元は万物をして之に借りて始まらしめ、坤元は万物をして之に借りて生成せしめる。その中に君と臣の象を含むので、元亨利貞の四徳は乾坤の共有するものである。ただし乾は利する所を指名しないことを以て大となし、坤以下の各卦は皆各々一事を指して利する所とする。坤は乾と同体だが、やはり「牝馬の貞に利あり」と指名する。坤が作用を発するのは、とりわけ柔順でありながら正を守ることを最大の利の在りどころとする――これはまさに人臣たる者が守るべき道理である。
“君子有攸往”者,臣道固以柔順為主,然不以正濟,則枉道偷合,為鄙夫妾婦之道者多矣。有攸往者,如伊尹之就桀,孟子見齊、梁之君是也,有辭受可否之義焉,故道合則從,不合則去。小人枉道乾祿,一於求合而巳,故惟君子為可。蓋君子能敬以直內,義以方外,如六二之動,則不疑其所行也。
卦辞に「君子往く所有り」と言うのは、臣道はもとより柔順を主とするが、正道をもって調剤しなければ、正道を歪曲して苟合取容し、鄙夫や妾婦の路数に落ちる者が甚だ多いからである。所谓「往く所有り」とは、伊尹が夏桀に奔るのに往き、孟子が斉宣王・梁恵王を見に行くようなもので、その中に辞受と可否の義理を含む。道が合えば従い、合わなければ去る。小人は正道を歪曲して俸禄を求め、ひたすら迎合のみを想う。だから君子のみがかくのごとく往くことができる。君子は敬をもって内を直くし、義をもって外を方くすることができる。『坤卦』六二のように行動すれば、自らの為す事に疑慮はないであろう。
“君子有攸往”,繼之以“先迷後得主”,人臣之道雖志在得君,又惡不由其道。如伊尹耕有莘之野,必待三聘而後行;諸葛亮臥草廬之中,必待三顧而後見。蓋先則迷惑而失道,後則順而得常,此人臣進退去就之大節也。
卦辞に「君子往く所有り」と言い、続けて「先れれば迷い後れれば主を得る」と言う。人臣たるの道理は、君主の知遇を得ることを志としながらも、正道を循らずして取得することを悪む。伊尹が有莘の野で田を耕したように、必ず成湯が三度聘してようやく山を出るのを待った。諸葛亮が草廬に高く臥したように、必ず劉備が三度門を訪れてようやく見るのを待った。前に抢えば迷惑して正道を失い、後れて応じれば順当で常理に合う。これは人臣たる者の進退去就の大節の在りどころである。
“利西南得朋,東北喪朋”何也?坤,純陰之卦也。西南陰位,朋者其同類也;東北陽位,陰非陽不能獨成其功,臣非君不能獨成其道。故喪其同類之陰,以從剛徳之陽,然後可與有為,無躁求失守之嫌,而獲安貞之吉也。王弼云:“行之不以牝,利之不以永貞,方而又剛,柔而又圓,求安難矣。”蓋坤雖以順為主而有貞焉,雖以柔為體而有剛焉,則不入於邪矣。先儒皆以“先迷後得主”“利西南得朋”,利字屬下文;程氏欲以利字屬上文,云“先迷後得主利”,至《文言》“先迷後得主”,則云主字下脫利字。不若從其舊之為愈。觀《蹇》《解》二卦皆曰“利西南得朋”,何獨於此而疑之哉?
卦辞に「西南に利ありて朋を得、東北に朋を喪う」と言うのは、何の理か。坤は純陰の卦である。西南は陰の方位で、「朋」はその同類を指す。東北は陽の方位である。陰は陽を離れて独自に功業を成就できず、臣子も君主を離れて独自にその道を成就できない。だから同類の陰を捨てて剛徳の陽に追従し去り、然るのちに有為にでき、急躁に進み操守を失う嫌いなく、「安貞」の吉を得ることができる。王弼が言う。「行動するに牝馬の柔順を取らず、利を得るに長久の正固を守らず、方正の外にさらに剛硬を添え、柔弱の外にさらに円滑を添えれば、安穏を求めようとしても難しい。」およそ坤は順を主としながらその中に「貞」を含み、柔を体としながらその中に「剛」を含む。こうしてこそ邪路に流れ込まない。昔の儒者は皆「先迷後得主」と「利西南得朋」を断ち切って読み、「利」の字を下句に属させた。程頤は「利」の字を上句に属させて「先迷後得主利」と読もうとしたが、『坤・文言伝』にはただ「先迷後得主」と作るので、彼は「主」の字の下に「利」の字を脱漏したと言った。このように改めるよりは、旧読に従うほうが穏当である。『蹇』『解』の二卦を見ても皆「西南に利あり」と言う。どうして独り『坤卦』でここに疑いを生ずるのか。
《彖》曰:“至哉坤元,萬物資生,乃順承天。坤厚載物,徳合無疆,含光大,品物咸亨。牝馬地類,行地無疆,柔順利貞。君子攸行,先迷失道,後順得常。西南得朋,乃與類行;東北喪朋,乃終冇慶。安貞之吉,應地無疆。”坤元雖不若乾之大,然其資生萬物亦不可有加矣,故曰“至哉坤元”也。蓋天以氣始而地以形生,天道日運而不窮,一噓一吸而歲功成;地隤然而處乎下,豈能違之哉?天之覆燾萬物,四維上下不可測度,古往今來無有窮盡,可謂無疆矣。地能以厚徳持載之,則與天合矣;天地合徳,故能含光大、品物咸亨也。
『坤・彖伝』に言う。「至れるかな坤元。万物は之に資って生じ、順に承けて天を載す。坤は厚くして物を載せ、徳は無疆に合し、弘光を含み大きくして品物は咸く亨る。牝馬は地の類に属し、地を行って疆なし、柔順にして正固に利し。君子の行あるは、先んずれば道を迷い、後れて順えば常を得る。西南に朋を得は、乃ち類と偕に行く。東北に朋を喪うは、乃ち終に慶有り。安貞の吉は、地の無疆に応ず。」坤元は乾のように広大ではないが、万物を生成する功は加えるものがない。だから「至れるかな坤元」と言う。当知るべきは、天は気を以て開創し、地は形を以て生育する。天道は日々運転して窮まらず、一呼一吸の間に一年の功効が成就する。大地は厚く安く下に処して、どうしてそれに違えよう。上天は万物を覆い庇い、四方上下は測度する所なく、古から今に窮りなし。「無疆」と言うべきである。大地は深厚の徳性を以てそれを載せることができ、天と合する。天地の徳性が相合するので、弘光を含み大きくして品物を皆亨通せしめることができる。
地以柔順為正,故有牝馬之象。然行天莫如龍,行地莫如馬,行地無疆,非有剛健之材不能也。牝馬雖柔順而利於貞固,是柔而能剛、弱而能強;若一於柔順,則妾婦之道爾,非君子之所行也。蓋坤之道専以象人臣,雖以柔順為體而有貞焉,則剛健矣。如此乃能與坤徳相應,故安貞之吉應地無疆也。此三無疆所以各不同也。
大地は柔順を正とするので、牝馬を取って象とす。しかし天に飛行するは龍に及ぶものなく、地に行くは馬に及ぶものない。大地に行って辺際なきを得るには、剛健の材を具えなければできない。牝馬は柔順だが、貞正堅固に利する。これが柔にして能く剛、弱にして能く強である。もし一たび柔順のみならば、それは妾婦の路数であって、君子の行うべきではない。坤の道は専ら人臣に象を取る。柔順を本体としながらその中に「貞」を含めば、それが剛健である。こうしてこそ坤の徳性に相応するので、「安貞の吉」はまさに大地の無疆に応ずる。『彖伝』に三か所「無疆」と言うが、含義は各々同じではない。理はここに在る。李光のこの説は、まさに人臣のために「順にして能く貞、柔にして守有り」の一条の界線を立て、柔順を一味の逢迎に読ませないためである。
《象》曰:“地勢坤,君子以厚徳載物。”乾《大象》曰“天行健,君子以自強不息”,坤《大象》曰“地勢坤,君子以厚徳載物”,乾坤之道皆聖賢所取法也。天地者,乾坤之體也。乾健而坤順,地勢非止於順,而大體則順也。人臣非體坤之厚徳,曷足以任重致逺,以當國之大事哉!
『坤・大象伝』に言う。「地の勢は坤順なり。君子は之に法り、厚き徳を以て物を載す。」『乾卦』大象は「天行健、君子以自彊不息」と言い、『坤卦』大象は「地勢坤、君子以厚徳載物」と言う。乾坤二卦の道理は皆聖賢の法り取る対象である。天と地は、乾と坤の実体である。乾の性は健、坤の性は順。大地の形勢は順の一面のみではないが、大体に就いて言えば順である。人臣たる者が坤のような深厚の徳性を体現できなければ、どうして重任を担い遠路を行き、国家の大事を引き受けるに足りよう。
初六:履霜,堅冰至。《象》曰:“履霜堅冰”,陰始凝也,馴致其道,至堅冰也。履霜者,寒之始也;堅冰者,寒之極也。方履霜而有堅冰之象。蓋柔順者,坤之道,人臣之象也。臣道固貴乎柔順,然順而不巳,則阿諛迎合,其始甚比,其終也禍有不可勝言者。唐髙宗欲立武氏,大臣皆力爭,長孫無忌、褚遂良相繼以死,李績獨曰:“此陛下家事,何湏問外人?”武氏立而唐之社稷幾殱焉。秦二世專任趙髙,卒有望夷之禍。
『坤卦』初六の爻辞。「霜を履めば堅氷至る。」『小象伝』に言う。「『履霜堅氷』とは、陰気が凝結し始めたことである。この道に順って一歩一歩発展していけば、堅氷の地歩に至る。」霜を履むは寒さの始まりで、堅氷は寒さの極点である。いま霜を履んだばかりなのに、すでに堅氷の兆しを含んでいる。柔順は坤の道理であり、人臣の象である。臣道はもとより柔順を貴ぶが、順従に止まりがなければ阿諛迎合に変わる。初めはただ格別に親附するに過ぎなかったのが、終りに醸成された禍患は言い尽くせない。唐高宗が武則天を后に立てようとした時、大臣は皆極力諫争し、長孫無忌・褚遂良が相次いでこのため命を落とした。ただ李勣ひとりが言った。「これは陛下の家事で、どうして外人に問う必要があろう。」その結果武氏が皇后に立てられ、唐朝の社稷はほとんど断たれた。秦の二世は専ら趙高を信任し、ついに望夷宮の禍を醸した。李光がこの二つの例を挙げたのは、陰に当朝の秦檜に順従する一類の人々を言ったのである。
故孔子曰:“臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辨之不早辨也。《易》曰‘履霜堅冰至’,蓋言順也。”夫始於順,其極至於窮凶極惡而不可制,故《易》之初六首以為戒也。雖然,乾坤合體,一剛一柔,本以相濟,以剛健之主而御柔順之臣,天下之常理也,聖人之意蓋為後世之慮如此。
だから孔子は『坤・文言伝』で言う。「臣が君を弑し、子が父を弑するは、皆一朝一夕の故ではない。その由来は漸く積んで成ったもので、ただ弁ずべき時に早く弁じなかったからである。『易』に『履霜堅氷至る』とは、まさに一つの『順』の字を説く。」初めはただ順従だったのが、極点に発展すれば凶悪を極めて制御できなくなる。だから『坤卦』初六は冒頭にこれを取り上げて警戒とするのである。とは言うものの、乾坤はもともと一体で、一剛一柔、もともと互いに調剤するためのものである。剛健の君主が柔順の臣子を駕御する。これが天下の常理である。聖人の用意は、まさにこのように後世のために長遠の計を為したのである。
六二:直方大,不習無不利。《象》曰:六二之動,直以方也;“不習無不利”,地道光也。《易》以五為君位,二為臣位,以六居二,人臣而處陰位,位之正中者也,故無初六馴致之漸、六四逼上之嫌,可以守道而行志矣。夫盡道事主,既直且方,鮮有不蹈禍悔者;惟六二以陰柔處下,故得任其直方,引其黨類,而朝無忌惡之者。唐虞之際,皋、夔、稷、契之徒咸聚之朝廷,此臣道之大也,以此事上,往無不利矣,何疑之有哉?故曰“敬義立而徳不孤”,“直方大,不習無不利”,則不疑其所行也。
『坤卦』六二の爻辞。「直く、方く、大きく、習わずとも利あらざるなし。」『小象伝』に言う。「六二の動は、直くして方なり。『不習无不利』とは、地道が光を放つことである。」『易』は第五爻を君位とし、第二爻を臣位とする。陰爻の六をもって第二位に居るのは、人臣が陰位に処するので、位置はまた中にして正しい。だから初六のような一歩一歩積んでゆく隐患もなく、六四のように君上に逼る嫌疑もなく、正道を守って自らの志を施行することができる。当知るべきは、道理を尽くして君主に仕える直くして方き者は、禍に遭い悔いを招かないことは少ない。ただ六二は陰柔の質を以て下位に処するので、その直方を放手に施展し、その同道を援引することができて、朝廷上に猜忌厭悪する人がない。唐尭虞舜の時代、皋陶・夔・后稷・契の人々は皆朝廷に聚集した。これが臣道の極致である。このような態度を以て君上に事えば、どこに往っても利ならないことはなく、何を疑慮することがあろうか。だから『文言伝』は「敬義立てば徳孤ならず」と言う。「直方大、不習无不利」とは、すなわち自らの為す事に毫も疑慮しないことである。
六三:含章可貞,或從王事,無成有終。《象》曰:“含章可貞”,以時發也;“或從王事”,知光大也。人臣積善在巳,瞭然使家喻戶曉,必有忌惡之者,惟深自晦匿,然後可以守正而行志。故竭力以從王事,有功而不敢成,亦不敢貽患於後,而卒能終之,但歸羙以報其上爾。如此,庶免於咎悔,周公之事成王是也。
『坤卦』六三の爻辞。「章を含んで貞にすべし。或いは王事に従い、成を居らずして終り有り。」『小象伝』に言う。「『含章可貞』とは、時機の熟するを待って発するのである。『或従王事』とは、その智が光大である。」人臣たる者が善行を己の身に積み、もし明白にして家に諭し戸に暁させれば、必ず忌恨厭悪する人を招く。ただ自己を深く蔵して、然るのちに正道を守って志向を施行できる。だから彼は全力を尽くして君王の事を辧じ、功労があっても敢えて己のものとせず、また敢えて後日に禍患を残さず、終に事を成し遂げて、ただ美名を君上に帰して報酬とするだけである。こうすれば、災咎と悔恨を免れる望みがある。周公が周成王に事えたのはこの通りである。
蓋六三處下卦之上,以陰居陽,人臣之極位也;又坤無正主,其道弱,此正大臣嫌疑危懼之時,故致其曲折如此。使君臣道合,無所疑間,任之專而付之重,有功而見知,則臣豈當蔵其智謀,不以時發哉?孟子曰:“人有所不為,然後可以有為。”人臣內有積羙之徳,當可行之時,則動而不括矣;外有能為之才,盡恭順之道,則功業見乎時矣。故《象》曰“含章可貞,以時發也;或從王事,知光大也”。
六三は下卦の頂点に処し、陰爻で陽位に居る。人臣の到達しうる極高の位置である。加えて『坤卦』には真の君主がなく、臣道は単弱に見える。これはまさに大臣が最も猜嫌を受けやすく、最も危惧を覚える時である。だから爻辞は話をこのように曲折させた。仮に君臣の道が相合し、間に猜疑離間がなく、君主が専一に信任し鄭重に託付し、功労があってまた知られるならば、臣子たる者はどうして自らの智謀を蔵し、時に施すことを肯じない必要があろうか。孟子が言う。「人は為さざる所有りて、然るのちに為す所有り。」人臣の内心に美しい徳性を積蓄し、施行しうる時に遭えば、一たび動けば通暢して阻まない。外にはまた事を辧ずる才干があり、さらに恭敬順従の道理を尽くせば、功業は自ずと当世に顕現する。だから『小象伝』は「含章可貞、時を以て発す也。或従王事、知光大也」と言う。
六四:括囊,無咎無譽。《象》曰:“括囊無咎”,慎不害也。坤,臣道也。六五得人臣正位,而四為未得位、得時者,否泰之分繋乎四之用否,其責任甚大;進而至五,則發為事業有不可掩者矣。括囊,蓋內充其徳、靜以待時之義,漢儒乃以“括囊不言”為訓,豈不陋哉!坤在內為括囊,孔子釋之曰“蓋言謹也”,謹於養徳,謹於正巳也。六四一爻最近君位,乃人臣居髙履危、處嫌疑之地,當閉藏知謀,如囊之括結其口,不復出納,以為明哲保身之謀,聖人發此爻為萬世人臣之戒,則善矣。
『坤卦』六四の爻辞。「囊を括するが如し。咎なく誉れなし。」『小象伝』に言う。「『括囊无咎』とは、慎しめば害を招かぬことである。」坤は臣道を説く。六五は人臣の正位を得たが、六四はまだ位を得ず、ただ時を得た爻である。国勢が閉塞するか通泰するかは、まさに六四の用不用の間に繋がる。その責任は非常に重大である。それが第五爻の位置まで前進すれば、発揮する事業には掩蔵できないものがある。「括嚢」は本来、内に己の徳性を充実させ静かに時機を待つ意であるが、漢代の儒者はこれを「袋の口を括って語らず」と訓解した。なんと浅陋であろうか。坤は内卦に「括嚢」の象を持ち、孔子がこれを解して「大概慎を言うのであろう」と言った――慎んで徳性を涵養し、慎んで自身を端正する。六四この爻は最も君位に近く、まさに人臣が高所に居り、危地を踏み、嫌疑の境に身を処する時である。才智謀略を収蔵して、袋の口を括って物の出し入れをやめるが如く、明哲保身の計とすべきである。聖人がこの爻を発明したのは、万世人臣の鑑戒とするためであり、好意と言うべきである。
雖然,大臣以道事君,不可則止。若君有失徳而不敢諌,朝有闕政而不敢言,則是冐寵竊位、持祿養交,豈聖人垂訓萬世之意哉?蓋坤之六五,非女君則攝主也,斯正屯否隔絶、賢人隱遁避禍之時。故《文言》曰:“天地變化,草木蕃;天地閉,賢人隱。”若巳在髙位,如《遯》之初六,危至而後求行,是速其禍,故《遯》尾之厲,不往何災也。方其時也,雖循黙可也;不然,則是凡為大臣皆當坐視國之顛覆,孰任其咎?學《易》者不觀其時、不悟其幾,曷足以聖人之言哉!
とは言うものの、大臣は正道をもって君主に事えるべきで、行えなければ辞職すべきである。もし君主に失徳があっても敢えて諫めず、朝廷に闕政があっても敢えて口を開かなければ、それは寵を冒して位を窃み、俸禄を守り権貴と交結することである。どうして聖人が万世に垂訓した本意であろうか。须知べきは、『坤卦』六五の指す所は、女主が朝に臨むか権臣が摂政するかであり、それはまさに艱難閉塞・上下隔絶・賢人の隠退避禍の時である。だから『坤・文言伝』は言う。「天地交感して変化すれば草木は蕃り、天地閉塞して通ぜざれば賢人は隠退す。」もし自己がすでに高位に身を居せば、『遯卦』初六のように、危険が臨んでから身を抽こうとしても、それは禍患を速めるだけである。だから『遯卦』初六は「遯尾の厉」を説く。前に往かなければ災禍もないのである。あのような時においては、因循して沈黙してもなお言い訳が立つ。そのような時でないのに沈黙すれば、凡そ大臣たる者は皆坐して国家の傾覆を見るべきだということになり、責任は誰が担うのか。『易』を学ぶ人が処する時勢を見ず、その中の幾微を悟らなければ、どうして聖人の言を論ずるに足りよう。この一段は李光の全書で最も血性の見える所である。彼は「括嚢」を賢人の退隠の時にだけ許し、権を当てる大臣が取り上げて自らの緘黙を弁解することを決して許さない。
六五:黃裳,元吉。《象》曰:“黃裳元吉”,文在中也。乾無臣位,故九二稱“見龍在田”;坤雖無君位,然五實君位,曰“黃裳元吉”者,凡以為戒云。黃,中央之色;裳,下體之飾。是人臣據南向之位,秉大君之權,而能居中守正,不失臣節,吉莫大焉,文孰甚焉!伊尹、周公是也。故《文言》曰:“君子黃中通理,正位居體,羙在其中,而暢於四支,發於事業,羙之至也。”
『坤卦』六五の爻辞。「黄裳、元吉。」『小象伝』に言う。「『黄裳元吉』とは、文が中位に含まることである。」『乾卦』には臣位がないので九二は「龍を田に見る」と称する。『坤卦』には君位がないが、第五爻は実はすなわち君位である。爻辞が「黄裳元吉」と言うのは、すべて警戒を為すためである。黄は中央の色、裳は下身の服飾である。これはつまり、人臣が南面して坐する位置を占め、大君の権柄を掌握しながら、なお中に居り正を守り、臣子の名節を失わなければ、吉はこれより大きいものなく、文もこれより盛んなものがない――伊尹・周公はこのような人である。だから『坤・文言伝』は言う。「君子は中に和の徳を懐き文理に通達し、正位に居って其の體に安んじ、美しさを裡面に含んで四肢に暢達し、事業に発揮す。これ美の至るなり。」
上六:龍戰于野,其血黃。《象》曰:“龍戰于野”,其道窮也。人臣久據大位,操生殺之權,內有震主之威,下有非覬之望,自非伊尹、周公,一旦欲釋位而去,則禍不旋踵矣。以霍光之忠,身死之後猶不免滅族之禍,故其勢必至於戰;戰則冇勝冇負,君臣兩傷。
『坤卦』上六の爻辞。「龍、野に戦い、その血は玄黄なり。」『小象伝』に言う。「『龍戦于野』とは、その道が窮まり尽きたことである。」人臣たる者が長く高位を占め、生殺の大権を掌握し、内には君主を震懾する威勢があり、下にはまた一類の非分の指望を懐く者がある。伊尹・周公のような人でなければ、いったん権位を放して身を抽こうと思えば、禍患は転瞬に至る。霍光の忠誠を以てしても、死後なお滅族の禍を免れない。だから形勢は必ず「戦」の地歩に発展する。一たび交戦すれば勝負があり、君と臣は両敗俱傷する。
坤之上六,其見於初爻:“臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辨之不早辨也。《易》曰‘履霜堅冰至’,蓋言順也。”小人事主,其初但阿順而巳,人主利其順適之快,任之必專,至於威柄潛移而不悟,陰盛傷陽而卒不可制,雖欲就臣位不可得也,故《象》曰“龍戰于野,其道窮也”。
『坤卦』上六のこの結末は、初六爻にすでに早く見えていた。「臣が君を弑し、子が父を弑するは、皆一朝一夕の故ではない。その由来は漸く積んで成ったもので、ただ弁ずべき時に早く弁じなかったからである。『易』に『履霜堅氷至る』とは、まさに一つの『順』の字を説く。」小人が君主に事えるのは、初めはただ阿諛順従に過ぎない。君主はその順従の称心快意を貪り、任用は必ず専一で、威権が知らぬ間に移転したことに毫も覚えず、陰気が盛んになりすぎて陽気を傷つけるに至り、終に制服することができない。その時小人は臣子の本位に退き返ろうとしてもできない。だから『小象伝』は「龍戦于野、其道窮也」と言う。
戰必寛閒之鄉,故云野。湯伐桀,戰於鳴條之野;武王伐紂,戰於牧野。湯武之師雖應乎天而順乎人,然以臣伐君,亦由威權不立,積習以致之也。坤卦專主人臣,其防杜漸之戒,豈不深且逺哉!天而地黃,其血黃者,非君傷臣則臣必傷君也。
交戦は必ず空曠開闊の所で行う。だから「野」と言う。商湯が夏桀を討ったのは鳴條の野で交戦し、周武王が商紂を討ったのは牧野で交戦した。湯・武の軍隊は上は天心に応え下は人意に順ったが、臣子の身分を以て君主を討伐するのは、君主の威権が立てられず、日積月累してようやく成ったからでもある。『坤卦』は専ら人臣を主とし、その防微杜漸の告戒は、深く長遠ではないか。天は玄にして地は黄なり。「其の血黄」と言うのは、この地歩に至れば、君主が臣子を傷つけないでは、必ず臣子が君主を傷つけるのである。(爻辞「其血黄」の上に、底本は「玄」の字を脱す。)
用六:利永貞。《象》曰:“用六永貞”,以大終也。用六之道,用此眾爻之六而長守以正固,是能以大終也。人臣立朝,非失之邪佞則失之剛強;坤以柔順為體,終守以正固,上能尊君,下不失臣節,功成名遂則奉身而退,是能以大終也。
『坤卦』用六の爻辞。「永く貞に利し。」『小象伝』に言う。「『用六永貞』とは、大を以て終ることである。」用六の道理は、衆爻のこの「六」を運用して、永く正固を守ることであり、これがすなわち大を以て終ることができることである。人臣たる者が朝廷に身を立てるには、邪佞諂媚に失するか、剛硬強横に失するかである。坤は柔順を本体とし、終にまた正固を守る。上に対しては君主を尊崇でき、下に対しては臣子の名節を失わない。功を成し名を遂げれば身を抽いて引退する。これを以て大を終ることができると言う。
屯卦(震下坎上)
震下坎上。屯:元亨利貞,勿用有攸往,利建侯。《彖》曰:屯,剛柔始交而難生,動乎險中,大亨貞。雷雨之動滿盈,天造草昧,宜建侯而不寧。屯異於否。否則小人在內,君子在外,上下不交而天下無邦;屯則陰陽始交而難生,賢人君子經綸事業之時。經綸事業,非備此元亨利貞之四徳,曷足以戡難觧紛,致康濟之效,與乾同其功用哉!
『屯卦』は下卦が震、上卦が坎である。卦辞に言う。「元亨利貞。往く所有るを用いず、侯を建るに利し。」『彖伝』に言う。「屯とは、剛柔の二気が始めて交合して艱難が之に随って生ずる。険境の中にして能く動き、大いに亨りて貞なり。雷雨の動は天地の間に満ち、天地はまさに草創蒙昧の段階に在り。侯を建てて逸安すべからず。」『屯』と『否』とは異なる。『否卦』は小人が朝廷の内に、君子が朝廷の外にあり、上下が相い交通せず天下は国なきがごとしである。『屯卦』は陰陽がちょうど交合して艱難が之に随って生ずる。まさに賢人君子が出て経営治理の事業を為す時である。このような事業を経営治理するに、元・亨・利・貞の四徳を具えなければ、どうして禍難を平定し紛乱を解き、安定救済の効を収めて、乾と同じ功用を有するに足りよう。
屯難之世,英豪競逐,靜以觀變,徐起而應之可也,故“勿用有攸往”。自唐虞三代,莫不建侯樹屛,內以蕃王室,外以寧萬民;況屯難之世,干戈日尋,斯民離散泮渙,強弱相陵,眾寡相暴,非立主以定之,孰與保其生業哉?故“利建侯”也。
屯難の時世に処すれば、英雄豪傑は紛紛と角逐する。最も良いのは安く形勢の変化を観察し、従容として起って応対することである。だから卦辞は「有攸往を用いる勿れ」と言う。唐尭虞舜より夏商周の三代に至り、諸侯を分封して屏藩を樹立しないことはなかった。内は以て王室を護衛し、外は以て万民を安定した。何况して屯難の時世においては、兵戈は日々相い尋ね、百姓は流離渙散し、強きは弱きを陵し、衆きは寡きを欺く。もし主宰を立てて局面を安定しなければ、誰を頼って彼らの生計産業を保とうか。だから「侯を建るに利あり」と言う。李光は南渡の後に身を在し、まさに当時に藩屏を経営し流民を安集すべきなのに朝廷が一味に退避する現実を言ったのである。
《象》曰:“雲雷,屯;君子以經綸。”諸卦多以坎為水、為雨、為澤、為泉,其功用皆足以及物;以坎為雲,獨《需》《屯》二卦耳。屯未行,需有所待,故以象云。雲上於天,未必成雨,惟地氣上騰、天氣下降,畜而成雨。若陰陽始交,雲雷方作,此正聖賢經綸馳騖之秋也。經謂有定制,綸謂有端緒;經綸天下事業,必先定其規模,然後緝理之,如治絲棼,詎可遽為之哉!
『屯・大象伝』に言う。「雲と雷は『屯卦』を成す。君子は之に法り、以て天下を経綸す。」各卦は大抵坎を以て水・雨・沢・泉に象る。その功用は皆外物を沢被するに足る。坎を以て雲に象るのは、『需』『屯』の二卦のみである。屯は未だ施行せず、需は待つ所有る。だから皆雲を取って象とす。雲が天に升れば、必ずしも雨を成せない。ただ地気が上騰し天気が下降し、蓄積してこそ雨を成せる。陰陽が剛く交合し始め、雲雷がまさに興る時に至れば、これが聖賢の経営治理し奔走して事を用いる時節である。「経」とは一定の制度あるを言い、「綸」とは尋ねるべき頭緒あるを言う。天下の事業を経営治理するには、必ず先ずその規模格局を確定し、然るのちに一条一条を整理する。一団の乱糸を整治するが如く、どうして急いで手を下せよう。
初九:盤桓,利居貞,利建侯。《象》曰:雖盤桓,志行正也;以貴下賤,大得民也。九五本一卦之主,今民心所歸乃在初九,何也?屯難之世,居大位者非昏庸即主也。昏之主多刼於強臣,身險難,非能濟難者也。君子之遇斯時也,宜覩其機,徐起而應之,與天下同其利,故“盤桓,利居貞,利建侯”也。
『屯卦』初九の爻辞。「磐桓し進まず。居貞に利し、侯を建るに利し。」『小象伝』に言う。「磐桓すと雖も、志行は正しき也。貴きを以て下賤に居る、大いに民を得る也。」九五は本来一卦の主である。いま民心の帰する所は初九に在る。これは何の故か。屯難の時世にあって、高位を占める者は昏庸か幼弱の主かでないからである。昏弱の君主は多く強臣に挟制され、自身は険難の中に陥り、難を済せる人ではない。君子はこのような時に当たり、その中の機微を看清し、従容として起って応対し、天下人とその利を共享すべきである。だから「磐桓、居貞に利し、侯を建るに利し」と言う。(「非昏庸即主也」「昏之主」の二か所、底本に脱字有り。)
守節居貞非為邪也,列爵分土非為利也,故《象》曰“雖盤桓,志行正也;以貴下賤,大得民也”。蓋得乎丘民而為天子,得乎民者,得其心也。初九以剛陽之才處群陰之下,屈巳禮賢,卑以自牧,方民思真主而為人望所歸,孰能違之哉?武王觀政於商之時也。
節操を守り安く正に居るのは、邪僻の目的のためではない。爵位を排列し土地を分封するのも、個人の私利のためではない。だから『小象伝』は「磐桓すと雖も、志行正き也。貴きを以て下賤に居る、大いに民を得也」と言う。当知るべきは、田野の百姓の擁戴を得てこそ天子となることができ、所谓「民を得」とは、得るのはまさに民心である。初九は剛陽の才具を以て衆陰爻の下に処し、能く己を屈して礼を以て賢人に待し、謙卑を以て自らを修養する。百姓がまさに真の主を盼望し衆望が皆彼に帰する時、誰が違逆できよう。これは周武王が商朝に至って政情を観察したあの時に譬えられる。
六二:屯如邅如,乘馬班如,匪婚媾,女子貞不字,十年乃字。《象》曰:六二之難,乘剛也;十年乃字,反常也。六二上應九五,乃人臣居中守正者也。然初九陽剛在下,為群陰所歸,方天下板蕩,國勢弱,下有一撥亂之主,天下將靡然從之。二獨憑陵而不肯為之下,志欲逺應九五而逼近於初,不敢遽進,此大臣之居正守節者也,故“屯如邅如,乘馬班如”也。
『屯卦』六二の爻辞。「屯如邅如、馬に乗りて班如。匪く寇に非ず婚媾なり。女子貞にして字せず、十年乃ち字す。」『小象伝』に言う。「六二の難は、剛爻の上に乘れば也。十年乃ち字するは、形勢が常態に返れば也。」六二は上に九五と相応じ、人臣の中に居中守正する類である。しかし初九は陽剛を以て下位に居り、衆陰は皆之に帰附する。天下が動盪し国勢が衰弱し、下に撥乱の主が現れた時、天下人は皆風を聞いて帰附する。独り六二だけが挺立してその下に屈するを肯じず、心志は遥かに九五に応じようと想うが、身は初九に緊挨して敢えて貿然と前進しない。これはまさに大臣が正を居し節を守る様子である。だから「屯如邅如、乗馬班如」と言う。
然初之難二,非有侵害之意,以二守正,欲使歸巳,故幣聘雖行而志不從,如女子之不踐二庭也。字,生育也。女子得所歸,則能遂其生育;賢人君子有所從,則能行其志願。十者,數之終,君子阨窮禍患至於十年,亦巳極矣,故曰“女子貞不字,十年乃字”也。
ただし初九が六二を難しめたのは、侵害する意があったのではなく、ただ六二が正道を守り、初九がそれを己に帰附させたいだけである。だから聘問の礼幣は送られてきても、六二の心志は従うことを肯じない。貞節の女子が第二家の門庭に踏み入るを肯じないが如しである。「字」とはすなわち生育である。女子は帰宿を得て、はじめて順遂に児女を生育できる。賢人君子は追従する対象を得て、はじめて自らの志愿を施行できる。「十」は数目の終点である。君子が困厄窮苦して禍患に遭い十年に至れば、極点に至ったと算える。だから「女子貞にして字せず、十年乃ち字す」と言う。
士當亂世,退處寛閒之鄉、寂寞之濵,消聲滅跡,所以遺寵榮而避世患也,何危難之有?蓋六二嘗為大臣者,如管寧之流是巳。夫守節固志,十年之久,天下之勢必定於一,上無可為之君,下有厭亂之民,理必反常,君子則必能觀通以行其道,此聖人之意也。故《象》曰“六二之難,乗剛也;十年乃字,反常也”。
士人は乱世に逢えば、寛閑の郷野・寂寞の水辺に退隠し、声跡を消して、恩寵栄華を抛却し世間の禍患を避けるためである。それにまた何の危難があろうか。六二はおよそかつて大臣を為した人を指し、三国時の管寧のごときがこの類である。節操を守り志向を堅定にして十年の久しきに達すれば、天下の形勢は必ず統一に帰する。上に有為できる君主なく、下に動乱を厭う百姓あれば、事理は必ず常態に返り、君子はこの時必ず変通の道を看清して自らの主張を施行できる。これが聖人の用意である。だから『小象伝』は「六二之難、乗剛也。十年乃字、反常也」と言う。李光は海南に謫居して多年ながらその守を改めず、この一段は実は夫子自道である。
六三:即鹿無虞,惟入于林中,君子幾不如舍,往吝。《象》曰:“即鹿無虞”,以從禽也;君子舍之,往吝窮也。屯之時,固聖賢馳騖有為之時,然外內無應,當盤桓居貞以待幾。如獵者之即鹿,非得虞人熟于山林、知鹿之所在,而徒往入于林中,何所得乎?知幾之士不如舍之;若急於有獲,弗慮而妄動,往則愈屯耳。故《象》曰“即鹿無虞,以從禽也;君子舍之,往吝窮也”。
『屯卦』六三の爻辞。「鹿を即うも虞人なく、ただ林中に入る。君子は幾を見て事を為し、之を捨つるに如かず。往かんと欲すれば憾惜有り。」『小象伝』に言う。「『即鹿无虞』とは、一味に禽獣を逐うに貪着することである。君子は之を捨てるを肯ず、往かんとすれば憾惜して困窮す。」屯の時は本来聖賢が奔走して有為にする時であるが、六三は内外に相応ずる爻がない。だから徘徊して正を守り、機会を待つべきである。これは猟人が鹿を逐うようなもので、もし山林に熟悉し鹿の在所を知る虞人に率いられなければ、ただ徒らに林中に入るのみで、何を得られよう。幾微を知る人は之を捨てるに如かない。もし収穫あることを急いで思慮を加えず軽挙妄動すれば、往くはただ艱難を加えるのみである。だから『小象伝』は「即鹿无虞、以従禽也。君子捨之、往吝窮也」と言う。
六四:乘馬班如,求婚媾,往吉,無不利。《象》曰:求而往,明也。六四逼近九五,輔弼之臣也。當屯之時,九五之君無大有為之志,四雖與初為正應,志欲求初,不敢遽進,必待求而後往,往必合矣。班者,遲迴不進之貌。蓋屯難之世“勿用有攸往”,雖以正應,理無不從,猶當遲迴顧望,察其誠心相與,可以同濟時難,然後往則吉無不利也。
『屯卦』六四の爻辞。「馬に乗りて班如、婚媾を求めて往けば吉、利あらざるなし。」『小象伝』に言う。「相手の求めを待って然るのちに往くは、明なる也。」六四は九五に緊挨し、輔弼の臣である。屯難の時にあって、九五のこの君主は大有為の志向なく、六四は初九と正応を構成するが、心は初九に投奔しようと想いながらも、敢えて貿然と前進せず、必ず相手が来て求めるを待って然るのちに往く。往けば必ず合しうる。「班」とは遲疑回旋して前進を肯じない様子である。屯難の時世は本来「有攸往を用いる勿れ」と言う。正応の関係があって理には相従わざるなしとしても、なお遲疑して观望し、相手が誠心を以て相待するか、ともに時艱を渡りうるかを察看してから然るのちに往く。それならば吉にして利あらざるなしである。
九五:屯其膏,小貞吉,大貞凶。《象》曰:“屯其膏”,施未光也。當屯之時,居九五之位,處乎險中,漢獻帝、魏髙貴鄉公、唐昭宗之流是也。威福賞罰巳不自巳出,又群陰下歸於初,人主擁虛器而巳。方是時,從容以求濟可也;若輕意肆志,不能以道消息,而欲大有所為,是速其禍耳,故曰“屯其膏,小貞吉,大貞凶”也。屯其膏者,非吝之也,人不以為榮也,故《象》曰“屯其膏,施未光也”。
『屯卦』九五の爻辞。「其の膏を屯む。小さき貞は吉、大きき貞は凶。」『小象伝』に言う。「『屯其膏』とは、恩沢の施与が未だ光大ならざる也。」屯難の時に九五の位に居り、身は険境の中に処する。漢献帝・魏の高貴郷公曹髦・唐昭宗のこの類である。威権賞罰はすでに己より出ず、衆陰爻はまた皆下の初九に帰附し、君主はただ一つの空名器を抱くのみである。この種の時にあっては、従容不迫に難関を渡るを謀るは可なり。もし軽率放纵で道理を以て進退消長を把握できず、一心に大有為を想えば、それは自らの禍患を速めるのみである。だから「屯其膏、小貞吉、大貞凶」と言う。所谓「屯其膏」とは、君主が恩沢を吝嗇するのではなく、人々がすでにその恩賞を栄耀とせぬことである。だから『小象伝』は「屯其膏、施未光也」と言う。李光が権臣に制せられたこの三位の天子を挙げたのは、まさに南渡後に大権が旁落した朝廷のために言ったのである。
上六:乘馬班如,泣血漣如。《象》曰:“泣血漣如”,何可長也。屯難之世,人有濟難之志,上六以陰柔在上,乗險而下無應援,又才非剛健,道巳上窮,雖欲有為,孰肯從之?處屯之極,窮阨巳甚,故“乗馬班如,泣血漣如”也。夫君道屯阨,危而必亡,非可以逃難而茍免也,故《象》曰“泣血漣如,何可長也”。何可長,則非特凶悔吝而巳。
『屯卦』上六の爻辞。「馬に乗りて班如、血を泣き漣如とす。」『小象伝』に言う。「『泣血漣如』とは、この局面どうして長くなり得よう。」屯難の時世には、人々皆危難を渡る志向を有する。上六は陰柔の質を以て最上に居り、険象の上に凌駕して下に応援がなく、本身の才具もまた剛健でない。道はすでに窮まり尽き、たとえ有為を為さんと欲しても、誰が彼に跟従しよう。屯難の極点に処し、困窮はすでに極処に至る。だから「乗馬班如、泣血漣如」と言う。君たるの道がいったん屯阻困厄に陥れば、危亡は必然である。禍難を避けて苟且に禍を免れるに依るのではない。だから『小象伝』は「泣血漣如、何可長也」と言う。「どうして長くなり得よう」と言うのは、すでに単なる凶・悔・憾惜のみではない――亡国せんとするのである。
蒙卦(坎下艮上)
坎下艮上。蒙:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告。利貞。乾為剛健創業之主,蒙為繼體沖之君。人主之尊,雖在童,與臣下之分固懸絶矣,非求師臣以自輔,則聰明不開,古今治亂成敗之跡無自而知。惟尊徳樂道,屈巳以求剛明之賢,以啟廸其性,則蒙固有亨之道。若嚴上下之分,峻亷陛之等,不能遜志務學,則有過而不能改,見善而不能從,驕奢滛佚,為狂為愚矣。
『蒙卦』は下卦が坎、上卦が艮である。卦辞に言う。「亨る。我童蒙を求めるに非ず、童蒙我を求む。初めて筮すれば告ぐ。再三すれば凟なり、凟れば則ち告げず。貞に利し。」『乾卦』は剛健の創業の主に象り、『蒙卦』は先業を継承する年幼の君に象る。君主の尊貴は、たとえまだ童稚の年にあっても、臣下との名分はすでに懸絶して隔たる。もし師傅の臣を訪ね求めて自らを輔佐させなければ、聡明は開けず、古往今来の治乱成敗の史蹟を知る由もない。ただ徳性を尊崇し道を聞くを楽しみ、己を屈して剛正明達の賢人を訪ね求め、以てその天性を啓発開導すれば、蒙昧はもとより亨通の道を含む。もし上下の名分を死守して台阶の等級を高め、虚心に向学できなければ、過ちあっても改められず、善事を見ても従うことができず、驕縦奢侈・淫佚放蕩して、狂人と愚人となる。(「継体冲之君」「雖在童」の二か所、底本は各々一字を脱す。)
筮所以決疑,童蒙之求師,亦以決疑。善學者得師之一言,雖終身行之可也;若再三叩之,則有自疑不信之心,若復改其初意,以他辭告之,則問者將輕吾言而莫知適從,故“再三瀆,瀆則不告”也。蓋師道貴乎剛嚴簡重也如此。利貞者,所利在正,“蒙以養正,聖功也”。童蒙之主樂軟熟而惡剛正,師臣之道,一正君而國定矣,故所聞所行與左右近習之臣無適而非正,則放僻邪侈無自而入矣。
占筮は疑难を決断するためのもので、蒙昧の童子が師を求めるのも、疑难を決断するためである。善く学ぶ者は老師の一言を得て、終身之に照らして行っても足りる。もし反復して追問すれば、それは心に自ら疑い服しないのであり、仮に老師がさらに初めの意を改めて別の説を以て告げれば、発問する人は我が言を軽く見てどれを聴くべきか知らない。だから「再三凟、凟れば則ち告げず」と言う。師たるの道は剛正・厳粛・簡要・荘重を貴ぶ。理はここに在る。所谓「利貞」とは、利する所は一つの「正」の字に在ると言う。『彖伝』に「蒙を以て正を養うは、聖の功なり」とある。年幼蒙昧の君主はいつも柔軟円熟の人を好んで剛正の人を悪む。而して師傅の臣たるの道理は、ただ君主を正しく導けば国家もまた安定する。だから彼の聞く所・為す所、および左右親近侍従の臣に至るまで、一か所も正より出ないものなしとすれば、放縦・偏邪・奢侈の類は入り込む隙がない。
《彖》曰:蒙,山下有險,險而止,蒙。蒙言,以亨行時中也。“匪我求童蒙,童蒙求我”,志應也。“初筮告”,以剛中也。“再三瀆,瀆則不告”,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。水者,天下至潔之物,浚其源則日流而常清,畜而止之則滓穢而不食。山者,泉之所自出,今遇險而止,所以為蒙。人之性猶水之性,其源未嘗不清,蒙者,有物以蔽覆之也,故蒙有亨道,行之不失其時,則可以作聖矣。
『蒙・彖伝』に言う。「蒙とは、山下に険阻有り、険に遇いて止まる。故に蒙と言う。蒙が亨ると言う所以は、亨通の道を以て行い、また時宜の中道に合するからである。『匪我求童蒙、童蒙求我』とは、彼と此の心志が相応ずるである。『初筮告』とは、九二が剛健にして中に居るからである。『再三凟、凟則不告』とは、そのように反復して発問すれば啓蒙の事を凟るからである。蒙昧の時に正道を涵養するは、これ聖人を造就する功夫である。」水は天下の最も清潔なるもので、その源を疏濬すれば日夜奔流して常に清い。蓄えて停滞させれば、沈滓汚穢して飲用できない。山は泉水の発源の処である。いま泉水は険阻に遇って停まるので「蒙」となる。人の天性は水の本性のごとく、その源は嘗て清からぬはない。所谓蒙昧とは、ただ物に遮蓋されただけである。だから蒙昧は本来亨通の道を含み、施行が時機を逸しなければ、聖人を成就できるのである。
夫以人主之尊,雖在童孺,若以勢位自居,則師道廢矣。今六五之君下求九二之臣,是能屈體以尊賢,上下相應,君得發其蒙,師得行其道,理無不順,故曰“匪我求童蒙,童蒙求我,志應也”。師道貴乎剛嚴,舉一隅不以三隅反則不復也。有疑而問,問而應,得一善則拳拳服膺而不失,如此則疑者必釋,應者不煩。若不能專精緻志,退而深思,問而復問,至再至三,則不復告矣,告之適以瀆之也。
君主の尊貴を以て、童稚の年に在るとは言え、もし一味に権勢地位を以て自居すれば、師たるの道は廃れる。いま『蒙卦』六五のこの君主は下に九二のこの臣子に教えを求める。これが能く身を屈して賢人を尊崇することである。上下は互いに感応し、君主はその蒙昧を開発し得て、師傅はその道を施行し得る。事理に順当ならざるなし。だから「匪我求童蒙、童蒙求我、志応也」と言う。師たるの道は剛正厳粛を貴ぶ。一隅を挙げて学生が之により三隅を推知できなければ、重ねて教えない。疑問あれば発問し、問えば応答有り。一つの好い道理を得れば誠懇に心に記して遺失しない。こうすれば、疑問ある者は必ず豁然と開釈し、応答する者も煩労に至らない。假如学生が致心専志できず、退いて深く思索せず、問うてはまた問い、一度二度三度と追問すれば、もはや告げない。告げるはかえってまさにこの事を凟るのである。
《洪範》休徵曰“聖,時風若”,咎徵曰“蒙,恆風若”,蒙者,聖之反也,蒙之與聖,特在學與不學之間耳。傅說告髙宗曰:“惟狂克唸作聖,惟聖罔唸作狂。”狂之與聖,特在克念罔念之間耳。周公相成王,動以沖人、孺子稱之,其告戒之嚴,教督之至,居父師之位而能盡父師之道,卒使成王為守成之賢主,享國四十餘年,豈非蒙以養正、以成作聖之功乎!
『尚書・洪範』は美しい徴応を講じて「君主が聖明ならば、及時の風が之に応ず」と言い、よくない徴応を講じて「君主が蒙昧ならば、久しく刮り止まぬ風が之に応ず」と言う。見るに「蒙」はまさに「聖」の反面であり、蒙と聖の分別は、ただ学ぶを肯ずと学ぶを肯じないとの間にあるだけである。傅説が商高宗に告戒して言う。「狂いし人が思慮を克制し得れば聖人となり、聖明の人が思慮を用いなければ狂人となる。」狂と聖の分別もまた、ただ思慮を克制できるか否かの間にあるだけである。周公が周成王を輔佐した時、動けば「冲人」「孺子」を以て彼を呼び、その告戒はあのように厳厲で、教導督責はあのように周到だった。父師の位に身を居して能く父師の責任を尽くし、終に成王をして守成の賢君たらしめ、在位四十余年に及んだ。これはまさに「蒙以養正」して作聖の功を成就したのではないか。
《象》曰:“山下出泉,蒙;君子以果行育徳。”山澤之氣升而為雲雨,畜而為泉源。泉之出乎山,非疏瀹而利導之,則失其至潔之性;若有物以蔽之,如童蒙未知所適從也。故山下出泉,有蒙之象。君子當法此象,因其性而利導之,使知其所向,則果決而行之;涵容渟蓄以豐其源,源既深而流長矣,故曰“君子以果行育徳”。
『蒙・大象伝』に言う。「山下より泉出づ、これ『蒙卦』なり。君子は之に法り、果決の行を以て徳性を培育す。」山沢の間の水気は上昇して雲雨となり、蓄積して泉源となる。泉水は山の中より湧き出で、もし疏通を加え善く導かなければ、その極めて清潔なる本性を失う。假如物が之を遮蔽すれば、蒙昧の童子がどこへ往くべきか知らないが如し。だから「山下出泉」は蒙の象を含む。君子はこの象を效法すべきである。人の本性に順って彼を導き、方向を知らしめ、然るのちに果決に実行する。同時に涵養包容し停蓄積聚して自らの源を充実せしめれば、源はすでに深く、水流は自ずと久長となる。だから「君子以果行育徳」と言う。
初六:發蒙,利用刑人,用說桎梏,以徃吝。《象》曰:“利用刑人”,以正法也。初六以柔弱之質,屈體以承剛明之師,則蒙蔽之性得以啟發。蒙既發去,則燭理無障,用以刑人,則有罪者必誅而寃枉者獲伸矣。是道也,特有司之職,非人主所獨任也。
『蒙卦』初六の爻辞。「蒙昧を啓発し、人に刑罰を施用するに宜し。人をして脚鎌手銠を解脱せしむ。若し一味に此に由れば憾惜有り。」『小象伝』に言う。「『利用刑人』とは、法度を端正するためである。」初六は柔弱の資質を以て、身を屈して剛正明達の師傅に承事すれば、蒙蔽された天性は啓発を得る。蒙蔽すでに去れば、事理を照察するに障碍なし。このような明察を以て刑を用いれば、罪ある人は必ず懲処を受け、冤を蒙った人は申雪を得る。ただしこの一套の辧法は、関わる官司の職責に過ぎず、君主一人が専任すべきではない。
蓋發蒙之初,姑以試其明決爾。童之君或不足於威權,則眾得而陵犯之,周公戒成王云“亦敢殄戮用乂民,若有功”,故蒙之初爻以刑人為先,則強梗者肅然而有所畏憚矣。雖然,人主當純任徳教而輔以刑名可也;若純任刑名,則商君之術耳,故“利用刑人,用說桎梏”,以往則吝道也。
蒙昧を啓発する初期は、姑く刑罰を以て彼の明察決断の能力を試すだけである。年幼の君主は威権が往々に足りず、衆人は敢えて欺凌冒犯する。周公が成王に告戒して「亦敢て誅殺して以て百姓を治むれば、功有りと算う」と言ったので、『蒙卦』初爻は用刑を最前に置く。こうすれば強横の徒は粛然として畏懼あるを得る。とは言うものの、君主は専ら徳教を主とし、これに刑名を輔えればこそ可なり。もし一味に刑名を専用すれば、それはただ商鞅のあの手段に過ぎない。だから「利用刑人、用説桎梏」と言う。一味にこのまま行けば憾を招く道である。(「童之君」の下に底本は一字を脱す。)
九二:包蒙吉,納婦吉,子克家。《象》曰:“子克家”,剛柔接也。九二以陽剛之才處臣位之中,與六五為正應,五反居陰,是能屈巳以尊師傅之象也。五既屈巳,二當循循善誘,包涵容納,以成其聖質。周公於成王,雖告戒之甚嚴,然所以訓廸之者雍容而不廹,雖居父師之尊,弗敢專也。若童之未有所知、婦人之柔闇,一切容納之,則無不利矣。
『蒙卦』九二の爻辞。「蒙昧を包容すれば吉、婦人を納れれば吉、子は家を克く。」『小象伝』に言う。「『子克家』とは、剛と柔が互相交接することである。」九二は陽剛の才を以て臣位の中間に処し、六五と正応を構成する。而して六五はかえって陰柔を以て尊位に居る。これはまさに己を屈して師傅を尊崇できる象である。六五はすでに己を屈して教えを求めたのだから、九二は循循として善く誘い、包容涵納して、君主の聖徳資質を玉成すべきである。周公の成王に対するは、告戒は極めて厳しいが、訓導開発する時は従容不迫である。父師の尊位に身を居しながら、敢えて独断専行しなかった。童子のごとく一無所知、婦人のごとく柔弱昏昧なる者に至るまで、一概に容納を加えれば、利ならざる所なしである。
“子克家”者,勤勞王家是也。觀《鴟鴞》之詩,其自敘如此。故居東三年而罪人斯得,內則制作禮樂,外以攘卻冦讎,外剛明而內忠順,未有若周公者也。然所以得行其志、遂其功者,亦在成王悔悟之後,君臣之分洞然無疑也,故《象》曰“子克家,剛柔接也”。
所谓「子克家」とは、すなわち王室のために勤労操持することである。『詩経・豳風・鴟鴞』のあの詩を見れば、周公の自述はまさにこの意である。だから彼は東に居ること三年にして終に罪人を査出し、内には礼楽を制作し、外には寇仇を撃退した。外表は剛正明察で内心は忠誠順従。周公に比ぶる者はいない。しかし彼が志を施行し功業を成就できたのは、成王が悔悟した後、君臣の名分が徹底して清楚で再び猜疑なくなってからである。だから『小象伝』は「子克家、剛柔接也」と言う。
六三:勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利。《象》曰:“勿用取女”,行不順也。童蒙之從師,猶女子之從夫也。六三以柔闇而處剛陽之位,非能遜志以受教者,正應在上而下比於二,兩者皆剛,將安從乎?將舍其貞固之道,近從所乗,此女之丑行也。金夫謂九二,九二體剛,故曰金夫。童蒙之主委任不專,舍正應而從非應,則賢者將望望然去之矣,故曰“勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利”也。六五之君能近舍上九而逺求九二,故二五皆吉;六三反此,將下比九二,輕身以從之,何所利哉?六三體本陰柔,性復趨下,故《象》曰“勿用取女,行不順也”。
『蒙卦』六三の爻辞。「この女子を取るを用いず。彼女は金ある夫を見れば、己の身を顧みず。利する所なし。」『小象伝』に言う。「『勿用取女』とは、彼女の行いが正道に順わざれば也。」蒙昧の学童が師傅に跟従するは、女子が丈夫に跟従するが如し。六三は柔弱昏昧の質を以て陽剛の位置上に処し、虚心に教えを受けられる人ではない。その正応は上九に在るのに、彼女は下の九二に緊挨する。上九と九二は二つとも剛爻で、彼女は一体誰に従うのか。様子を見れば、貞固の道を捨てて、近く就いてその凌駕する一つに従おうとしている。これは女子の醜行である。「金夫」は九二を指す。九二は體質が剛強なので「金夫」と称する。年幼蒙昧の君主がもし委任を専一にせず、正応の人を捨てて正応でない人に従えば、賢者は悵然として失望して彼を離れ去る。だから「勿用取女、見金夫、不有躬、无攸利」と言う。六五のこの君主は近くの上九を捨てて遥かに九二を求めることができたので、九二と六五の両爻は皆吉である。六三はまさにその反対で、下に九二に親附し、己の身を軽賤にして彼に従う。何の得があろう。六三の本体は陰柔で、性情はまた一味に下に向かう。だから『小象伝』は「勿用取女、行不順也」と言う。
六四:困蒙,吝。《象》曰:“困蒙”之吝,獨逺實也。困固有亨之理,六四之困於群陰之中,艮之初爻下乗於坎,險而止,困而不能亨者,吝道也。陽竒陰偶,竒實而偶虛,四欲上求上九則礙於六五,欲下求九二則礙於六三,昏蒙之性無自而發,故《象》曰“困蒙之吝,獨逺實也”,實謂九二之陽也。
『蒙卦』六四の爻辞。「蒙昧に困まる。憾惜有り。」『小象伝』に言う。「『困蒙』の憾惜は、独り充実の陽爻を遠く離れたためである。」困頓は本来亨通の道理を含むが、六四は衆陰爻の中に困られ、艮卦の初爻で、下に坎険に凌駕し、険に遇って止まり、困られて亨通できない。これが憾を招く道である。陽数は奇、陰数は偶。奇は実、偶は虚である。六四は上に上九に求助しようとしても六五に遮られ、下に九二に求助しようとしても六三に遮られる。昏昧蒙蔽の天性は啓発を得る由がない。だから『小象伝』は「困蒙之吝、独遠実也」と言う――「実」とは九二のあの陽爻を指す。
六五:童蒙,吉。《象》曰:“童蒙”之吉,順以巽也。六五居尊極之位,而能以童自處,與二為正應,是能虛巳求賢師以自輔,而不為群陰所移,吉孰大焉,故曰“童蒙吉”。《象》曰“童蒙之吉,順以巽”,順為先,順則恱而從之,心不逆也;巽則優而柔之,能順乎剛也。既順且巽,則孰不告以善道乎?
『蒙卦』六五の爻辞。「蒙昧の童子の如し。吉。」『小象伝』に言う。「『童蒙』の吉は、柔順にしてかつ謙遜なるに在り。」六五は至尊の位に身を居しながら、能く童子を以て自ら処り、九二と正応を構成する。これは能く虚心に賢師を求訪して自らを輔佐させ、衆陰爻に動揺されないことである。吉はこれより大きいものなし。だから「童蒙吉」と言う。『小象伝』に「童蒙之吉、順以巽」とある。「順」を以て先とすれば、順は欣然として聴従し、心に抵触を生じない。「巽」は能く寛緩柔和で、剛正の人に順従できる。柔順にしてかつ謙遜ならば、誰が好い道理を彼に告げるを肯じない者があろう。
上九:擊蒙,不利為,利御。《象》曰:“利用御”,上下順也。九二以剛明而居臣位之正,君臣之分不敢失也,故貴乎包容。上九以剛明而居人臣之極位,握威福之柄,擅廢置之權,昏蒙之主卒不開悟,則當擊去其蒙蔽,俟其思庸如太甲悔悟、如成王,然後復子明辟,此伊尹、周公之任也。
『蒙卦』上九の爻辞。「蒙昧を撃破す。〔寇〕を為すに利あらず。〔寇〕を御するに利し。」『小象伝』に言う。「『利用御〔寇〕』とは、上下皆順う也。」九二は剛正明達を以て臣位の中正の処に居り、君臣の名分は敢えて失わない。だから包容を貴ぶ。上九は剛正明達を以て人臣の最高位置に居り、手に威権賞罰の柄を握り、廃立安置の権を独攬する。若し昏昧の君主が終始覚悟できなければ、彼の蒙蔽を撃ち去り、彼が心を回して善に向かうを待つべきである。太甲のように悔悟し成王のように醒転して、然るのちに政権をこの英明の君主に帰す。これはまさに伊尹・周公が担当した責任である。(爻辞及び『象』辞の「為」「御」の下に、底本は各々「寇」の字を脱す。)
若乗時弱,掩神器而有之,如王莽、董卓,則天下英豪將共起而圖之,鮮有不敗者,故曰“不利為”。若能衛護宗社,勤勞王家,如周公之伐三監、誅管蔡,霍光之誅燕王、上官桀等,孰敢不聽命者?故人心向背,特在逆順之間耳。
もし君主の年幼勢弱に乗じて、国家の神器を掩い取って己のものとし、王莽・董卓のようにすれば、天下の英雄豪傑は一斉に起って彼を図謀し、失敗しない者は少ない。だから爻辞は「不利為〔寇〕」と言う。反対に、もし宗廟社稷を護衛して王室のために勤労して事を辧じ、周公が三監を討ち管叔・蔡叔を誅除し、霍光が燕王劉旦・上官桀らを誅除したようにすれば、誰が敢えて聴命しない者があろう。見るに人心の向背は、関鍵はただ一つの「逆」の字と一つの「順」の字の間にあるだけである。
以曹操之勢,雖漢祚已盡,終身不敢失臣節,蓋知內外人心未順故也。桓楷勸操正位,而夏侯惇欲俟呉蜀既定,然後遵舜禹之軌,操卒從其言,蓋亦畏二方有辭,將合而攻我,則曲在我矣。以荀彧之賢,操所信任,謀無不從,欲稍遲迴九錫之命,且不免死;不然,豈惇單辭所能沮之哉?
曹操のごとき権勢を以てしても、漢朝の国運はすでに断絶していたが、彼は終身なお臣子の名節を失うことを敢えてしなかった。まさに彼が内外の人心が未だ帰順していないことを明白に知っていた故である。桓楷は曹操に正位して帝を称するを勧めたが、夏侯惇は呉・蜀の平定を待ってから、舜・禹の受禅の旧軌に循るを主張した。曹操は終に夏侯惇の言に従った。およそこれも呉蜀の两方に口実を与え、連合して己を攻められ、理に屈するのが己になることを恐れたからであろう。荀彧のごとき賢能は、曹操の信任する人で、出す主意に聴従しないことはなかった。ただ九錫を加える事を稍や引き延ばそうとしただけで、なお一死を免れなかった。もし曹操自身の心にこの顧慮がなければ、どうして夏侯惇一人の言だけで彼を阻止できたであろうか。李光が秦檜の政を擅り気炎が天を熏ずる日にこの一段を書いたのは、魏武を評骘するためではなく、権臣に提醍するためである。人心の順逆こそが、最後の裁断なのである。
巻二
需卦(乾下坎上)
上經。乾下坎上。需:有孚,光亨,貞吉,利涉大川。需,須也,待也。上下相需,非特待而巳。君非臣不能自免於險難,臣非君不敢冐進而排難,君臣相需之急如此。今人君負剛明之徳,能以誠實相與,上下皆有孚信,其徳乃光顯而亨通也。既能光顯亨通,又以正濟,所以吉也。九五之君雖在坎窞之中,已正乎天位;三陽雖伏而在下,皆剛健之君子。險雖在前,無所憚也,但觀時度宜,不敢妄進耳。夫君臣同心,內外恊濟,有所不徃,徃必有功矣。世之言險難者莫如涉大川,需之利涉,蓋有所恃矣,三陽是也。
以下は『上経』を解する。『需』卦は下乾上坎で、卦辞に「有孚、光亨、貞吉、利渉大川」と言う。「需」とはすなわち等候・等待である。上下は互いに相需るが、ただ干く待つのではない。君主に臣子なければ自ら険難を脱出できず、臣子に君主なければ敢えて貿然と前進して難を排せない。君臣の相需の迫切はまさにこの如しである。いま君主は剛強明断の徳を懐き、誠実を以て下に待でき、上下ともに誠信を存す。その德行は光大顕揚して亨通する。すでに光大亨通すれば、また正道を以て之を成就する。だから吉祥である。九五のこの君主は坎卦の深坑の中に陥りながら、すでに端正に天子の位に居る。下体の三条の陽爻は下に潜伏するが、皆剛健の君子である。険難が目前にあって畏懼せず、ただ時機を観察し可否を揣度して、敢えて妄動しないだけである。君臣は心を同じくし、朝廷の内外は力を協わす。それ故按兵不動すべき時があり、いったん出動すれば必ず成る。世の中で危険を言えば、大河を渡るより険しいものはない。『需』卦は「利渉大川」と言う。まさに憑恃する所有ればこそである――憑恃するのは下体のあの三条の陽爻である。
彖曰:「需,須也,險在前也。剛健而不陷,其義不困窮矣。需有孚,光亨,貞吉,位乎天位,以正中也。利涉大川,往有功。」需至履也。需,須也者,需之為義,有所須、有所待也。所以須、所以待者,以險在前。乾下坎上,險在前之象。險既在前,若冐昧遽進,則為小人之所傾陷矣。乾之三陽本鋭於進趨,以能觀時而動,才又剛健,雖小人善陷者莫得而害之。道雖否而心未嘗不亨,身雖窮而志未嘗不遂也,故曰「其義不困窮矣」。
『彖伝』に言う。「需は須なり、険は前に在り。剛健にして陥らず、其の義困窮せざる矣。需は孚有り、光亨、貞吉は、天位に位して正中を以てなり。利渉大川は、往けば功有り。」(「需至履」は本巻の所轄諸卦が『需』より『履』に至る巻目で、正文に混入したものである。)所谓「需は須なり」とは、『需』卦の意義が等候し等待する所に在るを説く。等候し等待する所以は、険難がまさに前に在るからである。下乾上坎は、まさに険難が前に当たる象である。険難がすでに前に在るのに、冒昧に一头闖入すれば、小人に傾軋陷害される。乾体の三条の陽爻は本来上進に急ぐが、時機を観察して然るのちに動く能きに加えて、才質は剛健である。たとえ善く陥穽を設ける小人でも彼らを傷つけ得ない。世道は閉塞すれども、彼らの心は嘗て通暢せずはない。処境は困窮すれども、彼らの志向は嘗て伸展せずはない。だから『彖伝』は「其義不困窮矣」と言う。
「位乎天位,以正中」者,此夫子釋「需有孚,光亨,貞吉」之義也。九五處乎尊極,居中正之位,故其道交信於人而光亨貞吉也。聖人雖其道已孚於人,而發揮光亨,乃在履尊居正之後。聖人易上六、九二一爻而成離,離有光明之象,所謂坤以陰交乾而生離也。其徳如是,故涉險濟難,無往而不利也。以剛健之徳待時而動,動則有功矣,何難而不濟乎?
「位乎天位、以正中也」とは、孔子が『彖伝』で「需有孚、光亨、貞吉」の含義を解釈したものである。九五は至尊の位に居り、また中正の位置に処する。だからその道は人と互いに取信しえ、以て光大亨通し正を守って吉を得る。聖人の道はすでに久しく人に取信されていたが、この光明亨通を真に発揮し出すには、なお彼が尊位に登り正位に居るのちを待たねばならない。聖人は『需』卦の上六と九二の両爻を互いに換えれば、下体は離卦となる。離は光明の象を有し、すなわち坤が陰爻を以て乾に交入して離を生ずると言う所である。君徳がこの如きであれば、危険を渉越し禍難を救済するに、一処として順利でないことはない。剛健の徳を憑りて時機を待って然るのちに行動すれば、一動すれば功効有り。何の難関が渡り得ないことがあろう。
象曰:「雲上於天,需。君子以飲食宴樂。」陽上薄陰,陰能固之,然後蒸而為雨,釋疑解難之象也。今雲既上於天而未為雨,則疑未釋而難未解,故為需。須也,待也。物有所須則有所待,君子處此時,則當飲食宴樂以俟,不可亟也。飲食者宴樂之具,宴樂必資於飲食,此君子從容避禍、以禮自娛樂之時也。
『大象伝』に言う。「雲上りて天に在るは需なり。君子は飲食宴楽を以てす。」陽気は上に陰気を迫り、陰気は能く之を凝らして、然るのちに蒸騰して雨となる。これは疑忌を化解し禍難を消解する景象である。いま雲はすでに天に升ったが未だ雨とならない。疑忌は未だ消えず危難は未だ解けないを説明する。だから「需」と言う――すなわち等候・等待である。事物に需る所有れば、待つ所有ることを要す。君子はこの種の時に身を処して、飲食宴楽を以て従容として等候すべきで、急躁してはならない。飲食は宴楽の用いる物で、宴楽は必ず飲食に頼る。これはまさに君子が従容として禍を避け、礼に依って自ら娯悦する時である。
初九:需于郊,利用恆,無咎。象曰:「需于郊,不犯難行也。利用恆無咎,未失常也。」乾下坎上,險難在上,雖有眾君子伏而在下,未能遽進。九五之君位乎天位,處二陰之間而剛健不陷,與下三陽實相需。雖小人在側,終必退聽,但守正不動以待其應耳。初九最處逺外寛閒之鄉,故利用恆無咎。恆,常也。利用於常,則動靜起居未嘗少改其度,迫窮禍患未嘗少易其節,故可以無咎也。初九之陽在下以待六四之應,彼小人方挾主以擅朝權,若不慮患待時而輕躁妄動,則禍不旋踵矣。
初九の爻辞に言う。「郊に需つ。恒を用るに利し、咎なし。」『小象伝』に言う。「郊に需つとは、難に犯して行かざる也。恒を用るに利し咎なしとは、常を失わざる也。」下乾上坎で、険難が上の頭に圧す。一批の君子が下に潜伏するが、すぐには前進できない。九五のこの君主は天子の位に居り、六四・上六の二つの陰爻の間に挟まって剛健にして陥らず、下の三条の陽爻と実に互いに相需る。小人は君側に在ると雖も、終には必ず退いて命を聴く。君子はただ正を守って動かず、己と相応ずる時機を待つのみである。初九は最も遠く最も外の、寛閑清静の所に処する。だから「恒を用るに利し、咎なし」と言う。「恒」とはすなわち常度である。能く常度を守れば、日常の起居動静は毫も法度を改めず、逼迫に遭い禍患に遇っても毫も節操を改めない。それ故咎なきを得る。初九のこの陽爻は下位に在って六四の呼応を待つが、あの小人たちはまさに君主を挟持して朝権を独攬している。この時もし禍患を予慮せず静かに時機を待たず、かえって軽率に妄動すれば、災禍は転瞬に至る。
九二:需于沙,小有言,終吉。象曰:「需于沙,衍在中也。雖小有言,以吉終也。」需卦利涉大川,沙與泥皆近乎水際,所謂險在前,將進而涉難也。涉比泥為饒衍之地,彼不我疑,但小有言而已。二為中位,剛而得中,雖無應於五,小人不能害也。進而涉難,何徃不濟,故終必獲吉也。
九二の爻辞に言う。「沙に需つ。小さき言有り、終に吉。」『小象伝』に言う。「沙に需つとは、衍が中に在る也。小さき言有りと雖も、吉を以て終る也。」『需』卦は「利渉大川」と言う。沙地と泥淖は皆水辺に近く、いわゆる険難が前に在り、まさに前進して険を渉らんとすることである。沙の上を行くは泥の中に陥るより格段に寛绰である。相手は我を猜疑せず、ただ略やかな閑話があるのみである。九二は下体の中位に居り、陽剛にして中道を得る。たとえ九五と正応なくとも、小人は彼を傷つけ得ない。上に往きて険難を渉越すれば、何処に往いて成せぬことがあろう。だから終に必ず吉祥を獲得する。
九三:需于泥,致至。象曰:「需于泥,災在外也。自我致,敬慎不敗也。」坎為水,有川之象。九三在坎窞之下,逼近險難,小人覺悟,有凌犯之意,自我致之也。然三陽以剛健之才,心徳俱同,以此涉難,徃必濟也。然自我致,所以御之者必有豫備,加敬與慎,乃不致反為所乘耳。
九三の爻辞に言う。「泥に需つ。〔寇〕を致すこと至る。」『小象伝』に言う。「泥に需つとは、災が外に在る也。我より〔寇〕を致すも、敬慎すれば敗れざる也。」(原文二か所とも「寇」の字を脱す。)坎は水で、大川の象がある。九三は坎坑の下に処し、険難に緊逼する。小人が察知する所有れば、便ち侵犯の心を生ず。これは自ら招いたものである。ただし三条の陽爻は皆剛健の才があり、心志と德行は完全に一致する。このような陣容を憑りて険を渉れば、往けば必ず成る。しかし既に自ら招いたのだから、防御するにはまず準備が要り、格別恭敬し格別謹慎して、かえって相手に乗ぜられぬに至る。
六四:需于血,出自穴。象曰:「需于血,順以聽也。」六四以陰柔而居君側,三陽既進,必有所傷,能釋位而去,順以聽命,可以免咎矣。君子之去小人,不為巳甚,彼能退聽斯巳耳。況四與上雖處險而皆有內應,故不至甚傷也。穴者陰物之所處,四出自穴,上入于穴,狐鼠依憑城社之象。小人能自竄伏,不窮治之也。李膺破柱以取張朔,激成黨錮之禍,身既不全,卒以亡漢,可不戒哉!
六四の爻辞に言う。「血に需つ、穴より出づ。」『小象伝』に言う。「血に需つとは、順にして聴く也。」六四は陰柔の質を以て君主の身辺に待する。三条の陽爻がすでに上進すれば、必ず傷害あるを要す。六四がもし位置を譲って離れ、順にして命を聴けば、罪咎を免れ得る。君子が小人を駆除するに、あまりに過分にせず、相手が退いて命を聴くを肯ずればそれで已む。況んや六四と上六は険中に身を処するも、各々内応がある。だから傷が甚だ重く至らない。「穴」は陰類の物の居所である。六四は穴の中より出で、上六はまた穴の中に入る。まさに狐狸老鼠が城壁と社廟を倚仗して窩を作るが如し。小人がもし自ら躲蔵するを肯ずれば、尽く殺し絶やすまで追窮する必用はない。東漢の李膺は柱を劈いて張朔を捜し出して処死し、党錮の禍を激成した。自身は既に保全できず、終に漢朝を滅亡せしめた。どうして戒めとせぬことがあろう。
九五:需于酒食,貞吉。象曰:「酒食貞吉,以中正也。」九五陷於坎險上下二陰之間,然三陽在下,將同心以排難,上下相須之時,又材皆剛健,險難必濟,但當從容以應物之求耳。四與上方挾我以握其威權,若不能以道消息,則害必至,故需于酒食,示以閒暇靜正以待之。剛明之賢自下競進,為吾羽翼舟楫之用,則剛中居正,位乎天位,為需之主,吉莫尚焉。
九五の爻辞に言う。「酒食に需つ、貞なれば吉。」『小象伝』に言う。「酒食貞吉とは、中正を以て也。」九五は坎険の中に陥り、上下に六四・上六の二つの陰爻を挟む。しかし三条の陽爻は下に在り、まさに心を同じく力を協わせて禍難を排除せんとする。これはまさに上下が互いに需る時であり、これらの人の材質が剛健なるに加えて、険難は必ず渡り得る。君主はただ従容として衆人の訴求に回応すればよい。六四と上六はまさに君主を挟持して威権を握る。もし正道を以て消長進退できなければ、禍害は必ず至る。だから「酒食に需つ」と言うのは、閑暇安静・正を守って待つ姿勢を顕出せんと欲するである。剛強明達の賢才が下位より競い上進して、我が羽翼・我が舟楫となるを待てば、剛を以て中に居り正を履んで天子の位に処する九五は、『需』卦の主となる。吉はこれより大きいものなし。
上六:入于穴,有不速之客三人來,敬之終吉。象曰:「不速之客來,敬之終吉,雖不當位,未大失也。」上六以陰柔乘剛而居人臣之極位,處險難之終,否極將泰之象。乾之剛陽,豈久為人下哉?需之既久,險難將平,故眾賢不俟號召而皆進。小人自知力不能拒,能以誠敬而待君子,君子豈復窮治之哉?君子之待小人,其恕如此。然三陽在下而一陰反處乎上,今群陽已升而陰能退聽,不忌其進,雖不當位,未大失也。古人以飲食致訟者多矣:宋華元殺羊享士而不及羊斟,鄭靈公解黿而不及子公,皆足以致禍。今三陽健進,雖非己所召,敬以待之,乃獲終吉。聖人為小人計亦深矣,豈必誅絶之哉?
上六の爻辞に言う。「穴に入るに、速かざる客三人来たる。之を敬すれば終に吉。」『小象伝』に言う。「速かざる客来たる、之を敬すれば終に吉は、位に当たらざると雖も、大いに失せざる也。」上六は陰柔の質を以て陽剛の上に凌駕し、人臣の最高位に居り、険難の尽きる所に処する。否極まりてまさに泰に転ぜんとする景象である。乾体の剛陽が、どうして長く人の下に屈居できよう。等候すでに久しく、険難はまさに平息せんとする。だから衆多の賢者は召喚を待たずに一斉に上進する。小人は自ら抗する力なきを知り、誠意恭敬を以て君子に対待できる。君子はまたどうして再び窮追深究しよう。君子の小人に対する寛恕はこの地步に至る。三条の陽爻は下に在りて一つの陰爻がかえってその上に居るが、いま群陽はすでに上昇し、陰爻は退いて命を聴く能き、彼らの上進を猜忌しない。だから位置は当たらざると雖も、大いなる過失はない。古人は飲食の分配不均により争訟を招いた事が多い。宋国の華元は羊を殺して将士を犒労したが車夫の羊斟に漏らし、鄭霊公は黿羹を分食して子公に与えなかった。皆禍患を醸成するに足る。いま三陽は強健に上進し、上六の招いたものではないが、能く恭敬を以て相待てば、終吉を得る。聖人が小人のために打算するも周到と算う。何ぞ必ずしも斬尽殺絶を要せん。
訟卦(坎下乾上)
坎下乾上。訟:有孚窒惕,中吉,終凶,利見大人,不利涉大川。訟者,人所不得已也,非其中心誠寔,不敢訟也。二之與五,皆以陽剛居中,有孚之象也。凡訟必抑塞而不獲伸,然猶惕然而懼,慮有司之未能明辨也。中吉,中止則吉也;終凶,終竟其事則凶也;利見大人,求辨明也;不利涉大川,涉險則危也。入於淵者,沒溺之象,囹圄之謂也。聖人既不能使人無訟,凡為好訟之戒盡於此矣,所以塞其源、窒其流,欲使之無訟也。
『訟』卦は下坎上乾。卦辞に言う。「孚有り窒惕、中吉、終凶、大人を見るに利し、大川を渉るに利あらず。」官司を打つは人の已むを得ずして為すことである。心中に確かに冤屈なくば、誰も敢えて訟を興さない。九二と九五は皆陽剛を以て中位に居る。これが「有孚」――内に誠信を懐く象である。およそ訟を興すは、必ず圧制堵塞されて申雪を得ざるによる。しかしそれにも関わらず、心中はなお惕惧不安で、主審の官吏が明察分辨できぬを患う。「中吉」とは、中途で止まれば吉利である。「終凶」とは、官司を最後まで打ち通せば凶険である。「利見大人」とは、人を求めて自らの是非を辨明せしむるである。「不利渉大川」とは、冒険に往けば危殆であると言う。「入于淵」は沈溺滅頂の象で、指す所は牢獄である。聖人は世に訴訟を全く無くせない以上、好訟の人への告戒もまたここに尽きた――その源を堵塞しその流れを遏止するは、人をして根本より官司を打たせぬためである。
彖曰:「訟,上剛下險,險而健,訟。訟有孚窒惕,中吉,剛來而得中也。終凶,訟不可成也。利見大人,尚中正也。不利涉大川,入于淵也。」訟乾上坎下,乾剛健而坎陰險,健則果於訟而不可制,險則巧於訟而不可測,合此二象,此小人之善訟者也。大抵訟非君子之所樂為也,有孚窒惕中吉,不得已而言之於上也。
『彖伝』に言う。「訟は上剛下険、険にして健、訟なり。訟は孚有り窒惕、中吉は、剛来たりて中を得る也。終凶は、訟成るべからざる也。利見大人は、中正を尚ぶ也。不利渉大川は、淵に入る也。」『訟』卦は上乾下坎。乾は剛強勁健、坎は陰沈険詐である。勁健なれば敢えて訟を興して制止する術なく、険詐なれば善く訟を興して揣测する由なし。二つの卦象が合さるは、まさに最も纏訟を善くする小人である。大体に言えば、訴訟は君子の楽しむ所ではない。所谓「孚有り窒惕、中吉」とは、心中に確かに冤情ありて堵塞され、以て惕惧不安となり、万已むを得ずして上に申訴するである。
九二以剛自外來,居人臣之正位,雖在坎窞而陽剛君子,小人不能加害,乃反為訟主,陽來而得中,此有司之善決獄訟者也。九五為訟主,履尊位而有中正明辨之徳,有罪者刑,無罪者釋,是非曲直所取決也。訟有二主,而爻辭特以自下訟上為言,易固有遺爻以舉二體者,卦體不由乎爻。蓋彖統論一卦之體,爻者適時之變,互見之也。
九二は陽剛の質を以て外卦より来たり、人臣の正位に居る。坎坑の中に陥ると雖も、陽剛の君子で、小人は彼に加害する術なく、かえって訴訟を掌管する主事者となった。陽爻が来たり居して中道を得る。これはまさに官吏中の獄訟を判決するに善い人である。九五もまた訟卦の主で、尊位に居りて中正明辨の徳を具える。罪あるは刑を加え、罪なきは開釈し、是非曲直は皆彼より決断す。一卦に二つの「訟主」がありながら、爻辞は専ら「下より上に訟える」に就いて言を立つ。『周易』は本来爻位を撇きて径に上下二体を取りて論を立つ情形あり。卦体の意義は全て爻より決するに非ず。『彖伝』は一卦の整体を総論し、爻辞は時勢に随って生ずる変化で、二者は互いに補足するだけである。
聖人既不能使人無訟,若有理者獲免,無理者退聽則已耳。健訟者必欲終竟其事,則凶之道也。大人者,有位之大人也。呂刑稱「皇帝清問下民,鰥寡無蓋」,又曰「兩造具備,師聽五辭」「明清於單辭」「察辭於差,非從惟從」。古人於獄訟,其欽慎審克如此,宜乎冤枉者所利見也。訟者必審量事機,理直而主明,乃可訟也;若恃理直,冐昧而進,如涉險難,則有不測之禍矣。
聖人は世に訴訟を無くせない以上、理ある一方が罪を免れ、理なき一方が退いて服すれば、それで足りる。而して纏訟が性と成った人は必ず事を最後まで打ち通さんとする。これが凶を招く路数である。「大人」は職位ある大人を指す。『尚書・呂刑』に「皇帝は下民を清問す、鰥寡に蓋するなし」と言い、また「両造具備せり、師は五辞を聴く」「単辞に明察せよ」「辞を差に察す、従に非ざれば惟だ従のみ」と言う。古人の獄訟を辧理するや、敬慎詳審この地步に至る。冤を蒙った人が「大人を見るに利し」を願うも無怪である。官司を打つ人は必ず事の時機を審度せねばならぬ。道理が自らの辺に立ち、而して主事者がまた明察なれば、こそ訟に往く可し。もしただ自ら理あるを仗りて、冒冒失失に闖り上がれば、険を渉り河を渡るが如く、不可测の禍患あるを得る。
象曰:「天與水違行,訟。君子以作事謀始。」天體極乎上,水性極乎下,天右行而水東注,此形性之相違也。夫相親相友,患難相救,疾病相扶持,此人情之常;至於乖爭而致訟,必由二體之相違也。君子知訟之所由興,凡所作事皆當謀始。如議婚禮者或大小之非耦,恃契劵者或經界之不正,皆始之不慎而終訟者也。水性固下而坎復在下,天體極上而乾復在上,此其相違之甚者。若止以乾坎二體為相違,則需亦以乾坎成卦,乃以雲上於天為需之象,有相須相成之義,猶天地交為泰,不交為否;上火下水為末濟,上水下火為既濟也。
『大象伝』に言う。「天と水は違い行る、訟なり。君子は事を作すに始めに謀るを以てす。」天体は高く極上に居り、水性は極下に趨く。天は右に旋転し水は東に流注す。これは形体と性質が互いに相背する。人と人は相親み相友し、患難の時は互相救助し、疾病の時は互相扶持す。これは人情の常態である。乖違争闘に鬧りて訟を興すに至るは、必ず両方が互いに相背するによる。君子は訴訟の何に因って起こるかを明白に知る。だからおよそ辧まんとする事は皆開頭に於いて籌劃し清楚せねばならぬ。譬えば婚事を議定するも門戸大小が相匹配せず、契券を憑恃するも田界が本来正しく划されず。皆開頭に謹慎せずして終に訴訟を醸成した例である。水性は本来下に向かい坎はまた下に居り、天体は本来極高く乾はまた上に居る。これは相背の最も甚だしきものである。倘若ただ乾・坎二体の相処を相背と見做すならば、『需』卦もまた乾・坎より成るに、かえって「雲上于天」を象と取り、互いに需要し互いに成就するの義を含む――まさに天地交感して『泰』となり、交わらざれば『否』となり、上離下坎は『未済』(原文は「末済」と作る)、上坎下離は『既済』となるが如し。
初六:不永所事,小有言,終吉。象曰:「不永所事,訟不可長也。雖小有言,其辨明也。」初六以險柔居訟之始,然險而不健,故所訟之事雖誣而不敢終執,抑塞而不敢必伸,有惕然畏懼之心,知訟之終凶而不敢竟也。然外有九四為之正應而辨明之,雖有小言,故終獲吉也。
初六の爻辞に言う。「其の事を永くせず、小さき言有り、終に吉。」『小象伝』に言う。「其の事を永くせずとは、訟は長くすべからざる也。小さき言有りと雖も、其れ辨明せり。」初六は陰険柔弱の質を以て訴訟の開端に処する。ただ険にして健ならず。だからその訟する事は誣告に属するも、堅持到底することを敢えてせず。圧抑堵塞されるも、必ず申雪せざるべからずと敢えてせず。心中に惕惧を存し、官司を最後まで打てば凶なるを知る。それ故打ち終えることを敢えてせず。加うるに外卦に九四有りて彼と正応し、彼のために辨白清楚する。だから一点の閑話を招くも、最終にはなお吉祥を獲る。
九二:不克訟,歸而逋,其邑人三百戶,無。象曰:「不克訟歸逋,竄也。自下訟上,患至掇也。」九二以陽剛居險陷之中,初與三恃以為主也。然上無應援,二剛皆居中履正,相違而不相下。五既君位,非二可敵,故不克訟而歸逋其邑人三百戶。蓋三百戶之小邑,儉陋之邦,非人所競,故可免咎而無罪悔也。自下訟上,於理為逆,若非逋竄以寡約自處,則禍患之至猶掇取之也。先儒曰:「大都偶國,固非逋竄之道。」胡翼之曰:「若反據強盛之國,是復有敵上之意,故退避至小之邑,而人三百戶,則可以無災也。」
九二の爻辞に言う。「訟に克たず、帰りて逋る。其の邑人三百戸、〔眚〕なし。」(原文は「眚」の字を脱す。)『小象伝』に言う。「訟に克たず帰り逋るとは、竄る也。下より上に訟えるは、患至ること掇の如し。」九二は陽剛を以て険陷の中に居り、初六と六三は皆彼を倚仗して主と為す。しかし上方に接応なし。九二と九五の二条の陽爻は皆中に居り正を守るも、互いに相背して誰も下に居るを肯じない。九五は既に君位で、九二の抗衡し得る所に非ず。だから官司に勝てず、已むなく退帰して自らの三百戸人家の小邑に躲蔵する。三百戸は極小の采邑で、倹朴簡陋、争奪する人なし。だから罪咎を免れ悔恨なきを得る。在下の者を以て在上の者に訟えるは、理に於いて逆に属す。もし逃避躲蔵せず、微少簡約を以て自ら処らざれば、禍患の到来は手を伸して拾取するが如く易しい。先輩の儒者は言う。「大きい都邑は国と匹敵するに足り、本来逃避藏身の所に非ず。」胡瑗は言う。「若し反って強盛の封国を占拠せば、また君上に対抗するの意有り。だから極小の城邑に退避し、ただ三百戸人家あるのみで、こそ災禍なきを得る。」
六三:食舊徳,貞厲終吉,或從王事無成。象曰:「食舊徳,從上吉也。」六三以陰柔處兩剛之間,失位而居險之終,能以靜正自處,慄慄危懼,則獲終吉而永保其祿位矣。食舊徳,世祿也。古者分田制祿,公卿以下咸有圭田,兩漢子孫猶有世侯爵者,能食其舊徳之祿則能承家矣。六三處四陽之間而柔順不競,雖有失位之危,而正應在上,故能食其舊徳而獲終吉也。
六三の爻辞に言う。「旧徳を食む、貞厲にして終に吉。或いは王事に従うも成なし。」『小象伝』に言う。「旧徳を食むとは、上に従いて吉也。」六三は陰柔の質を以て二条の陽爻の中間に挟まる。位置は当たらずしてまた険境の尽きる所に処す。もし安静に正を守りて自ら処り、時時戒惧すれば、終に吉祥を獲て長く自らの禄位を保ち得る。「食旧徳」とは世代承襲の俸禄を指す。古は田制を按じて俸禄を定め、公卿以下は皆圭田有り、両漢の子孫はなお世代侯爵を承襲した。祖先の旧徳の遺す俸禄を享用し得れば、家業を承継し得る。六三は四条の陽爻の間に挟まるも柔順にして人と相争わず。失位の危険あるも、上九が上に在りて彼と正応す。だから旧徳の禄を享用して終に吉祥を得る。
既能從上,順以聽命,使從王事,竭力赴功,必歸美以報其上而不敢成也,與夫尸祿素餐者異矣。處險難之中能不競如此,豈復蹈禍悔者哉?聖人貴乎明哲保身,居危疑之時,遇剛強之敵,不量已力,動輙相違,其取禍必矣,尚何舊徳之可保乎?
既に上の者に順従し恭順に命を聴く能き、いったん王家の事務を辧理せられんと派遣されれば、全力を竭して功に赴く。成功の後は必ず美名を君上に帰し、敢えてその功を自居しない。これはすなわち俸禄を白取し功なく禄を食む人と異なる。険難の中に身を処してなおこのように人と争わざれば、どこにまた禍患悔咎の裡に踏み入ることがあろう。聖人の看重する所は明哲保身である。危疑の際に処し、剛強の相手に碰上りて、もし自らの力量を掂量せず、動けば人と相抗すれば、禍を招くは必然である。なお祖上旧徳の禄位を保住するを談ずるに足らん。
九四:不克訟,復即命渝,安貞吉。象曰:「復即命渝,安貞不失也。」初與四本為正應,然九四居上卦之下而剛健,初六在下卦之下而陰險,體性相違,爭訟之所由興也。初雖陰險而柔弱,非能與剛健為敵,勢必退聽,故九四不克訟,而反前欲訟之命而變其初心,乃能安其分義而貞且吉也,此則於己無所失矣。
九四の爻辞に言う。「訟に克たず、復りて即ち命を渝る。安貞にして吉。」『小象伝』に言う。「復りて即ち命を渝るとは、安貞にして失わざる也。」初六と九四は本来正応である。しかし九四は上卦の下に居りて剛健、初六は下卦の下に居りて陰険。體質性情は互いに相背し、争訟は此に由って起こる。初六は陰険なれど柔弱で、剛健者と敵する能わず。勢い退いて命を聴くを要す。だから九四は官司を打ち成さず、反って先前の訟を興さんとする成命を収回し、最初の念頭を改変す。ここに於いて能く自らの本分名義に安んじて正を守り吉を獲る。こうすれば自らに対して何ら損失なし。
九五:訟元吉。象曰:「訟元吉,以中正也。」聽訟者,有司之事爾,訟之九五非必履尊位也,蓋聽訟之主,訟者所取決也。體既剛明,又居中而得正,強梗必有所憚,而柔弱者獲伸矣,其獲元吉不亦冝乎?堯之皋陶,周之召伯,漢之於公,唐之徐有功,足以當此爻矣。
九五の爻辞に言う。「訟は元吉。」『小象伝』に言う。「訟元吉とは、中正を以て也。」訴訟を審理するは本来有司の職責である。『訟』卦の九五は必ずしも君位に登る人を指さず、訴訟を主聴する人を指し、官司を打つ者の取決せんと欲する対象である。彼の體質は既に剛強明察、また中に居りて正を得る。強横の徒は必ず忌惮あるを要し、柔弱の人は便ち冤を申するを得る。彼が「元吉」を獲るは当然ではないか。唐堯の手下の皋陶、周代の召伯、漢代の于公、唐代の徐有功は、皆この一爻に当たるに足る。
上九:或錫之鞶帶,終朝三禠之。象曰:「以訟受服,亦不足敬也。」書稱「天命有徳,五服五章哉」,服者所以彰有徳也。人能蘊徳行道藝,修身於隠約之中,一旦錫命於朝,眾人必以為榮。今以剛強善訟而受命服,如小人乘君子之器,盜斯奪之,故有終胡三禠之辱。雖復垂紳正笏,儼然有士大夫之容,見者孰不鄙賤之,又何足敬乎?
上九の爻辞に言う。「或いは之に鞶帯を錫るも、終朝三たび之を禠る。」『小象伝』に言う。「訟を以て服を受くるは、亦敬むに足らざる也。」『尚書・皋陶謨』に「天命は徳有り、五服五章なる哉」と言う。服飾は徳ある人を表彰するためのものである。一人が德行を積蓄し道藝を修習し、困厄隱微の中に自らを修養すれば、いったん朝廷の賜命加服あれば、衆人は皆彼のために光栄と覚える。いま剛強善訟に依って命服を得るは、小人が君子の車器に乗るが如し。盗賊は見れば便ち奪取に来たる。だから一日之内に三度剥が去られる羞辱ある(原文の「終胡」は「終朝」と作るべし)。たとえ彼が大帯を垂れ端正に笏を執りて、儼然たる士大夫の儀容を為すも、見る者誰か彼を鄙薄せざらん。またどこに尊敬するに値する所があろう。
師卦(坎下坤上)
坎下坤上。師:貞,丈人吉,無咎。古者不得已而用兵,常以曲直為勝負。若辭直而理正,非徒眾必為用,而敵人固巳氣矣。行師之道以貞為主。不曰正者,靜而正也。靜而無譁,以聽主帥之命,提三軍之眾,坐作進退,惟命是聽,非人望素為眾心所畏服者,足以當其任哉?李光弼、郭子儀、顏真卿連衡河北,裴度之討淮西,足以當此爻矣。丈人者,宿將老臣之謂也。宿將老臣,方畧必素定乎胷中,雖驅市人而戰可也。吉無咎者,吉而又無咎悔也。如樂毅之伐齊,王浚、王渾之平吳,鄧艾、鍾之滅蜀,雖吉而有咎悔,故知成功名非難,守功名者難也。
『師』卦は下坎上坤。卦辞に言う。「貞、丈人は吉、咎なし。」古人は已むを得ずして兵力を動用する。勝負は常に理曲理直に取决す。もし出師の言辞が正直で道理が端正なれば、自らの部衆が死力を效すを肯ずるのみならず、敵人自体も先ず自ら気を奪わる(原文「気」の上に「奪」の字を脱す)。用兵の道は「貞」を以て根本と為す。「正」と言わずして「貞」と言うは、静かにして然るのちに正しきを要するが故である。全軍は肅静にして譁なく、主帥の号令に聴従し、三軍の衆を統率して坐立進退は一概に命を聴く。素より威望有り、向来衆人の畏敬心服する所の人でなければ、どうしてこの職任を担当できよう。唐代の李光弼・郭子儀・顔真卿が河北諸鎮を聯合し、裴度が淮西を討平したは、皆この一卦に当たるに足る。「丈人」とは久しく戦陣を経た老将・資深の老臣を指す。老将老臣は胸中に早く成算有り、たとえ市井の人を駆使して陣に上がらせるも能く戦う。「吉無咎」とは既に吉祥にしてまた悔咎なきである。楽毅の斉を伐ち、王濬と王渾の呉を平らげ、鄧艾と鍾会の蜀を滅ぼしたる(原文は「会」の字を脱す)は、勝を得たと雖も皆悔咎を留めた。功名を建立するは難しと算えず、功名を保住するはこそ難しと見える。
彖曰:「師,眾也;貞,正也。能以眾正,可以王矣。剛中而應,行險而順,以此毒天下而民從之,吉又何咎矣。」周官六鄉之兵,出則為六師,兵法亦以二千五百人為一師,則師之為言眾也。古者興師動眾必本於正。此卦以九二為主帥,以寡制眾,群陰所從,居險之中,上應六五,蓋稟命以征伐者,正也。用眾之道非出於正,孰肯歸之?
『彖伝』に言う。「師は衆なり、貞は正なり。衆を以て正にする能くば、以て王たる可し。剛中にして応あり、険を行いて順なり。此を以て天下に毒するも民は之に従う。吉、また何の咎かあらん。」『周礼』の載する所の六郷の兵員は、出征の時は六師に編まる。兵法もまた二千五百人を以て一師と為す。「師」のこの字はすなわち「衆」の意と見える。「衆を以て正にする能くば、以て王たる可し」とは、能くこれほど多くの人を率いて一斉に正道の上を行かしむれば、この人は以て王業を成就し得ると言う。古人が師を興し衆を動かすは必ず「正」を以て根本と為す。この一卦は九二を以て主帥と為し、少数を以て多数を統御し、衆陰爻は皆彼に跟従す。彼は坎険の中に身を居し、上に六五と相応ず。君命を奉じて征伐に往く者で、だから「正」に合す。所谓「天下に毒す」とは、用兵は本来天下を苦害する事なれど、百姓はなおなお跟従す。出師の名義が確かに正当なるを見るべし。だから既に吉祥にしてまた過咎なし。衆を統率するの道が正より出でざれば、誰か彼に帰附するを肯ぜん。
九二以剛中之才,應天順人,履險以用眾,雖驅之以萬死一生之地,民皆悅而從之者,正且順也。若違命犯上,師出無名,雖復誘以重賞,孰肯從之?夫履至險者莫甚於行師,毒天下者莫悿於矢石。今師以正行,兵以順動,其害之也乃所以利之,其勞之也乃所以逸之,其毒之也乃所以生之,則民之從之也輕,故能吉且無咎也。
九二は剛強にして中を得る才具を憑り、上は天意に応じ下は人心に順い、険地に踏み入りて衆を統率す。たとえ彼らを万死一生の境地に駆りても、百姓はなお欣然として跟隨す。出師が既に正にしてまた順なるに就いてである。倘若君命に違抗し君上に冒犯し、出兵に名義なければ、たとえ重賞を以て誘引するも、誰か跟従を肯ぜん。極険の事に踏入るは、行軍打仗より険しきはなく、天下を毒害する事は、刀箭交加より惨しきはなし。いま軍隊は正道を按じて出動し、用兵は人心に順乎り、民を害するに似て実は民を利し、民を労するに似て実は民を安逸せしめ、天下を毒害するに似て実は天下に生路を留む。然らば百姓の跟従するや軽快と覚え、だって能く既に吉祥にしてまた過咎なきを得る。
象曰:「地中有水,師。君子以容民畜眾。」坎下坤上,地中有水之象。天一生水,五行之本,在天地之間至多者莫若水,故有民眾之象。卦有五陰,民眾也。水由地中行,江河淮濟何所不受,則水不失其性。君子能體此以容民畜眾,各樂其業。容者,包容之,包容則不擾;畜者,聚畜之,聚畜則不散。此聖人御人群之道,豈獨用兵行師哉?
『大象伝』に言う。「地の中に水有り、師なり。君子は民を容れ衆を畜うを以てす。」下坎上坤は、まさに地裏に水を含む景象である。天一は水を生じ、水は五行の根本。天地の間で数量の最も多きは水に過ぎず。だから民衆の象有り。この一卦は五つの陰爻有り。これが民衆である。水は地の中に流行し、長江・黄河・淮水・済水は容納せざるなし。こうして水はこそその本性を失わず。君子は能く此の一点を体察し、以て百姓を容納し民衆を蓄養して、人々をして本業を楽しましむ。「容」は包容で、能く包容すれば騒擾せず。「畜」は聚養で、能く聚養すれば離散に至らず。これは聖人が人群を統御する通則で、どうして帯兵打仗にのみ用いられん。
初六:師出以律,否臧凶。象曰:「師出以律,失律凶也。」用兵行師,必先繩以紀律,然後可以萬全,縱不大勝,亦不至大敗也。律謂正部曲行伍營陣,進退坐作皆有常法,司馬掌九伐之法是也。韓信多多益辦者,用紀律也。若不知嚴紀律、肅號令,雖復邀幸一勝,軍政必自此壊,後必有受其禍者,故曰否臧凶。否,不然也,出師而不以紀律,雖善猶凶也。初六出師之始,聖人致其戒懼之意深矣。
初六の爻辞に言う。「師出るに律を以てす、否臧は凶。」『小象伝』に言う。「師出るに律を以てすとは、律を失えば凶也。」兵を帯び戦うは必ず先ず紀律を以て約束し、然るのちにこそ万に一つの失もなきを得る。たとえ大勝できずとも、大敗に至らず。「律」とは部曲行伍と営陣を整肅し、進退坐立に皆固定の法度あるを指す。『周礼』の大司馬の掌管する「九伐之法」がこれである。韓信が自ら兵を帯ぶに「多多益善」と称したは、紀律に頼るによる。もし紀律を厳明にし号令を整肅するを懂得せざれば、たとえ僥倖に一仗に勝つも、軍政は必ず此より敗壊し、日后に必ずこの禍害を承受する人あらん。だから「否臧凶」と言う。「否」は「不然」の意である。出師して紀律を用いざれば、たとえ善処あるもなお凶である。初六は出師の開端に処す。聖人は此に於いてその戒惧の意を致す。深く切なると謂うべし。
九二:在師中吉,無咎,王三錫命。象曰:「在師中吉,承天寵也。王三錫命,懐萬邦也。」六二九五,君臣之正位。今九二以陽居陰,六五以陰居陽,雖不可謂正,而得中也。況二與五為正應,有主於中,可以専制於外,以必其成功也,故在師中吉且無咎也。吉者,委任之専,故戰可必勝也;無咎者,君臣意合,間不能移也。
九二の爻辞に言う。「師の中に在れば吉、咎なし、王は三たび命を錫る。」『小象伝』に言う。「師の中に在れば吉とは、天寵を承くる也。王三たび命を錫るとは、万邦を懐くる也。」常例を按ずれば、六が第二位に居り九が第五位に居るこそ君臣各々その正位を得る。いま九二は陽爻を以て陰位に居り、六五は陰爻を以て陽位に居る。「正」と算うべからざるも、皆「中」を得た。況んや九二と六五は正応で、朝中に君主が彼のために主を為せば、彼は外に在りて専断して行事し、以て成功を確保し得る。だって軍中に身を在して吉祥、過咎なし。所谓「吉」とは、君主の委任が専一なれば戦えば必ず勝てるが故。所谓「無咎」とは、君臣の心意が契合して離間の言が挿入らざるが故である。
人主操威福之柄,有功必賞,有罪必討。況戰陳之事,賞不踰時,故三錫命也。按曲禮「一命受爵,三命受車馬」,錫命至於三,所謂功多有厚賞,豈特爵服車馬之間哉?古之為將者,不以成功名為難,能保功名者難也。居功名之際,主不疑而朝不忌者,唐惟郭子儀一人。師之九二以陽剛處中,履險而順,雖外握重權而不失人臣之分,故能吉且無咎也。古者討有罪、命有徳皆稱天,示不敢也。賞一人而千萬人悅,故象言「在師中吉,承天寵也。王三錫命,懐萬邦也」。
君主は威を降し福を施すの権柄を握る。功あれば必ず奨賞し、罪あれば必ず討伐す。況んや戦陣の事は、賞賜は時限を拖び過ぐべからず。だから「王三たび命を錫る」と言う。『礼記・曲礼』を按ずれば「一命は爵を受け、三命は車馬を受く」とあり、賜命が三次に至るは、いわゆる功労多ければ賞賜厚しで、どうして爵位服飾車馬のこれらの物の上にのみ在らん。古の将領たる者は、功名を建立するを難と為さず、功名を保全する能きをこそ難と為す。功名極盛の際に身を処して君主が猜疑せず朝廷が忌恨せざるは、唐代には郭子儀一人のみあり。『師』卦の九二は陽剛を以て中位に居り、険境の中に踏み在るも態度は柔順。外に在りて重兵大権を掌握するも、人臣の本分を逾越せず。だから能く既に吉祥にしてまた過咎なきを得る。古の有罪を討伐し徳あるに命を錫るは、皆天命に托称して自ら専擅せざるを表す。一人を奨賞して千万人が喜悅す。だから『小象伝』は「師の中に在れば吉、天寵を承くる也。王三たび命を錫る、万邦を懐くる也」と言う。
六三:師或輿尸,凶。象曰:「師或輿尸,大無功也。」九二以剛而居柔,故為上所信託,不御之權,専閫外之戰,可必勝,功可必成也。六三體柔而居剛,體柔則其才不足仗也,居剛則其任不可専也。九二為眾陰所歸,三當退聽而受其節制,今乃欲共主其事以分權,其無功必矣。
六三の爻辞に言う。「師は或いは尸を輿す、凶。」『小象伝』に言う。「師或いは尸を輿すとは、大いに功なき也。」九二は陽剛の質を以て柔位に居る。だから君上の信任付託を得、君主が干渉せざる権柄を享有し、国門の外の戦事を独りで当たる。勝利は必ず得られ、戦功は必ず成せる。六三は體質柔弱にして剛位に処す。體質柔弱なれば才能は倚仗するに足らず、剛位に処すれば職任は専断すべからず。九二は本来衆陰爻の帰附する中心で、六三は退いて命を聴き彼の節制を受くべきである。いま彼とともに軍事を主持し権柄を分割せんと欲すれば、それは必ず労して功なし。
自古將相委任不専則號令不一,號令不一則眾莫知所從,如此鮮有不敗北者。漢祖登壇拜韓信,使盡諸將,故能下齊破趙,卒成大功。唐肅宗大舉節度之師以當安史,而無主帥,進退相顧望,雖郭汾陽、李臨淮不免奔潰。將之成敗,在委任之專與不專之間耳。
古より以来自今に至り、将相への委任が専一でなければ、号令は統一できず。号令が統一せざれば、衆人は誰に聴くべきかを知らず。こうあれば敗仗を喫せぬは少なし。漢高祖は壇を築いて韓信を大将に拝し、諸将を統轄せしめた。だから能く斉国を攻め下し趙国を撃破し、終に大功を成した。唐粛宗は大いに各節度使の軍隊を調集して安禄山・史思明を抵当せしめたが、主帥を設けず。進退の間に互いに观望し、郭子儀・李光弼のごとき名将を以てするも潰敗を免れなかった。将領の成敗は、ただ委任の専一なるか否かの間にあるだけである。
六四:師左次,無咎。象曰:「左次無咎,未失常也。」老氏云「君子居則貴左,用兵則貴右」,又曰「吉事尚左,凶事尚右」。天地之道,左陽而右陰,陽生陰殺。兵者,聖人不得已而用之,殺人固非所樂。若知難而不能退,則有覆軍辱國之禍。六四以柔弱而處陰位,內險既終,外體柔順,故堅壁以守,敵不能犯,雖為無功,亦無咎悔,故左次無咎。象曰「左次無咎,未失常也」,用兵行師固以克敵制勝為常,若知難而退,全師以歸,愈於敗亡,未為失常也。晉師救鄭,及河,聞鄭既及楚平,桓子欲還,彘子不可,師遂濟,晉師大敗,是安知用兵之常道哉?
六四の爻辞に言う。「師は左次す、咎なし。」『小象伝』に言う。「左次咎なしとは、常を失わざる也。」『老子』に「君子は居れば則ち左を貴び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ」と言い、また「吉事は左を尚び、凶事は右を尚ぶ」と言う。天地の道は、左は陽に属し右は陰に属す。陽は生を主り陰は殺を主る。兵は聖人の已むを得ずして用うる所で、人を殺すは本来彼の楽しむ所に非ず。しかし難あるを明知しながら退く能わざれば、全軍覆没・国家受辱の禍患を招く。六四は柔弱の質を以て陰位に処し、内卦の険境はすでに過ぎ、外卦の体性はまた柔順。だから塁壁を堅守して出でず、敵人は進犯する術なし。戦功なしと雖も、悔咎もなし。だから「左次咎なし」と言う。『小象伝』に「左次咎なし、未失常也」とある――用兵は固より敵に克ち勝を制するを常道と為すが、若し難を知りて退き、軍隊を保全して帰れば、敗亡に勝ること総じて、常道を失したと算うにも足らず。当年晋軍が鄭を救い、黄河の辺に至り、鄭国がすでに楚国と和を講したと聞き、主帥荀林父は兵を退かんと欲したが、先縠が肯じず、全軍はここに於いて河を渡り、果ては晋師大敗す――これはどうして用兵の常道を懂得せんや。
六五:田有禽,利執言,無咎。長子帥師,弟子輿尸,貞凶。象曰:「長子帥師,以中行也。弟子輿尸,使不當也。」兵法曰「師直為壯,曲為老」。古者興師必有辭,雖湯武之師應天順人,而鳴條牧野之誓,尚聲桀紂之過惡,況餘人乎?執言者非無辭也,執我之辭,聲彼之罪。羲和滛廢時亂日,侯承王命徂徵;葛伯不祀,湯徃征之:皆有辭也。
六五の爻辞に言う。「田に禽有り、言を執るに利し、咎なし。長子師を帥び、弟子は尸を輿す、貞にして凶。」『小象伝』に言う。「長子師を帥ぶとは、中行を以て也。弟子尸を輿すとは、使うに当たらざる也。」兵法に「師は直なれば壮、曲なれば老」と言う。出師に理あれば気壮んとなり、理に屈すれば気衰う。古の兵を興すは必ず説法あるを要し、たとえ商湯・周武の軍隊が上は天命に応じ下は人心に順うも、鳴條の戦と牧野の戦の誓師辞に於いては、なお夏桀・商紂の罪悪を歴数した。況んや其の余の人をや。「執言」とは説辞なきに非ず、我が方の辞令を執持して、往きて相手方の罪状を宣告するである。『尚書・胤征』は羲氏・和氏の沈湎して時を廃し日を乱るを載せ、胤侯が王命を奉じて往きて征討した(原文は「胤」の字を脱す)。葛伯が祭祀せざれば、商湯は前進して征伐した。皆説辞あるのである。
田者,播種百榖,生民之本也。田非鳥獸之所犯,有禽則將害我穡事,以此出狩,非馳騁畋獵荒於禽者。如夷狄侵擾邊陲,諸侯一遵軌度,聖王興師動眾,有不得已者。六五之君以柔弱而居尊位,物來犯我,則以兵應,徃無不克矣。動既有辭,何咎之有?
田地は百谷を播種し百姓を養活する根本である。田里は本来鳥獣に踏躪せしむべからず。禽獣が闖入すれば、我が農事を毀壊する。それ故出でて駆逐捕猟するは、縦情に馳騁し田猟に沈溺するに非ず。譬えば夷狄が辺境を侵擾し、而して諸侯は皆法度を遵守して妄動を敢えてせざれば、聖王はここに於いて師を興し衆を動かす。実に已むを得ざるに出る。六五のこの君主は柔弱の質を以て尊位に居る。外物が来たりて我を侵犯すれば、武力を以て回応す。出兵して勝たざるなし。行動は既に正当の名義有り。なお何の過咎かあらん。
長子帥師,弟子輿尸,貞凶,何也?九二以一陽而為眾陰所歸,長子之象,即繇辭所謂師貞丈人吉也。丈人尊嚴之稱,任帥師者,非得尊嚴之人、人望素著、眾心所歸者以統御之,安能責其成功哉?秦用三帥而為晉襄公所敗,唐用九節度而為史思明所乘,蓋委任不專,軍無統帥,雖用天子之命以伐叛逆,猶凶也。九二在師中,故象言以中行也。人主之職在任將相,不能擇帥而專任之,則是人主之過,故曰使不當也。
何を以てか「長子師を帥び、弟子は尸を輿す、貞にして凶」と言う。九二は一条の陽爻を以て衆陰爻の帰附する中心と為る。まさに「長子」の象、すなわち卦辞の言う所の「師貞、丈人吉」である。「丈人」とは尊厳なる長者への称呼である。統帥を担任する者は、あの尊厳持重・素より声望有り衆心の帰する者でなければ、統率に任ぜず。どうして彼に成功を責求できよう。秦国は同時に三位の主帥を用いて晋襄公に敗れ、唐朝は九節度使を併用して史思明に乗ぜられた。皆委任が専でなく軍中に統帥なきに因る。たとえ天子の命を奉じて叛逆を討伐するも、結果はなお凶である。九二は下卦の中に居る。だから『小象伝』は「中行を以て也」と言う。君主の職責は将相を任用するに在り。もし主帥を挑選して専一に委任できざれば、それは君主の過失である。だから「使うに当たらざる也」と言う。
上六:大君有命,開國承家,小人勿用。象曰:「大君有命,以正功也。小人勿用,必亂邦也。」上六,師之終,以柔弱而居無位之地,蓋功成而退,非久專兵柄者也,故大君有命,量其功之大小以為諸侯大夫。有功者不可不賞,小人不可使有功,故終戒之以小人弗用也。
上六の爻辞に言う。「大君命有り、国を開き家を承く、小人は用うる勿れ。」『小象伝』に言う。「大君命有りとは、功を正すを以て也。小人用うる勿れとは、必ず邦を乱る也。」上六は『師』卦の終点に処し、柔弱の質を以て職位なき所に居る。まさに功成して身を退き、長く兵権を把持せざる人である。だから君主は詔命を頒下し、功労の大小を按じて彼らを諸侯または大夫に分封す。功ある人は賞せざるべからず。しかし小人に功労を得させるべからず。だから全卦の結尾の処に告戒して「小人用うる勿れ」と言う。
象曰:「大君有命,以正功也。小人勿用,必亂邦也。」人主操賞罰利害之權,命自我出,開國承家,所以正功也。茍用小人,或恃功而扈,或開邉而生事,其亂邦必矣。聖人戒之於終,欲後世之君命將謀帥之際,不可不慎始也。始之不慎,至於有功而不賞,則過在我矣。
『小象伝』に言う。「大君命有りとは、功を正すを以て也。小人用うる勿れとは、必ず邦を乱る也。」君主は賞罰利害の権柄を握り、詔命は自己より発し、諸侯を分封し卿大夫の家を立つるは、皆功労を核定するためである。もし小人を用いれば、彼らは或いは功を恃み跋扈し、或いは辺釁を挑き事を生じ、国家を擾乱するは必然である。聖人は全卦の終了の処にこの告戒を提出す。後世の君主をして将帥を任命する際に、開頭に於いて慎重ならざるべからずと思わしめんと欲する。開頭に謹慎せず、以て功ある人がかえって賞賜を得ざるに至れば、その過錯は君主自身の身上に落ちる。
比卦(坤下坎上)
坤下坎上。比:吉,原筮,元永貞,無咎,不寧方來,後夫凶。凡有所比,或為人所比,無不吉者。君子必擇其所比。原筮者,推原所比之人可從可違而決斷之也。元永貞無咎者,惟得剛中之賢君為比之主而親附之,則可無咎悔也。元者,眾善之長,群陰皆附於我,非其善出乎眾人之上,安能翕受而無間言乎?永,謂常久而不變易;貞,謂正固而無傾邪。所親如此,何咎之有?
『比』卦は下坤上坎。卦辞に言う。「吉。原筮、元永貞にして咎なし。寧ならざる方より来たる。後れて来る夫は凶。」およそ自ら進んで別人に親附するか、或いは別人に親附されるか、吉利ならざるなし。しかし君子は必ず親附する対象を慎重に選択せねばならぬ。「原筮」とは、親附せんと欲する人が跟従すべきか或いは避くべきかを推究し、以て決断を作出するである。「元永貞、無咎」とは、ただ剛強にして中道を守る賢明の君主を見出して親附の中心と為し、往きて彼に依附すれば、こそ悔咎なきを得ると言う。「元」は衆善の首である。衆多の陰爻が皆来たりて我に依附す。もし我が善徳が衆人の上に高きに出でざれば、どうして全部接納して閑話なきを得よう。「永」は長久不変、「貞」は端正堅固にして偏邪ならず。親附する対象がこれらの条件を具備せば、なお何の過錯かあらん。
不寧方來,後夫凶者,諸侯之國上無道揆、下無法守,則各相併吞,小大強弱必有受其害者。上有剛中之君以為比主,則不寧之國皆有所恃,且有所畏,莫敢不來享矣。大君在上,朝覲同之禮,其敢後乎?其或懐疑偃蹇,獨後於眾人,此取禍之道也,小則削地黜爵,大則如禹之戮防風氏,凶其宜矣。
「不寧方来、後夫凶」に至っては、諸侯各国がもし上に於いて道を以て衡量せず、下に於いて法度の守る可きなければ、互いに兼併し、大国小国・強邦弱邦を問わず、総じて害を受ける者有り。この時上にもし剛強中正の君主一位あって衆人の帰附する中心と為れば、安寧を得ざるあの邦国は既に倚仗する所有り、また畏懼する所有り。敢えて朝貢に来たらざる者なし。天子は上に在り、朝覲会同の礼节(原文は「会」の字を脱す)、誰か敢えて遅到せん。若し人ありて心怀猶疑・傲慢にして前進せず、独り衆人の後に落ちんば、それは自ら禍患を取るである。軽ければ封地を削減し爵位を貶黜し、重ければ大禹が防風氏を誅殺したが如く、凶に遭うも応当である。
彖曰:「比,吉也;比,輔也,下順從也。原筮,元永貞,無咎,以剛中也。不寧方來,上下應也。後夫凶,其道窮也。」比以一陽統五陰,陽又處尊位,而四陰在下而順從之,所以能吉而眾為之輔也,故曰「比,吉也;比,輔也,下順從也」。此以九五言比道之大也。
『彖伝』に言う。「比は吉也。比は輔也、下順従也。原筮、元永貞、無咎は、剛中を以て也。不寧方来は、上下応ずる也。後夫凶は、其の道窮まる也。」「比」の本義は親附であると同時に輔佐でもある。在下者が在上者に順従するを肯ずればこそ、上下は互いに扶持し得る。『比』卦は一条の陽爻を以て五条の陰爻を統領し、この陽爻はまた尊位に居る。四条の陰爻は下に在りて彼に順従す。だから吉祥を得、而して衆人は皆来たりて彼を輔佐す。それ故「比は吉也。比は輔也、下順従也」と言う。「以剛中也」に至っては、この帰附の中心は必ず剛強にして中道を守るを要すると言う。「其道窮也」とは、遅到する者はすでに自らの路を絶ち尽くしたと言う。この一段は九五一爻に就いて「比」道の宏大を講ずる。
原筮者,卜其所當比、當從之人。以人主之尊,比者雖眾而有正有邪,所比者君子,則眾君子皆進;所比者小人,則群小人皆進。同心同徳,群而不黨者,比也;阿諛順、朋滛狎比者,亦比也。始之不慎而能克終者鮮矣,故慎之於始誠善矣,考之於終能永且貞矣,故無咎悔也。非剛健中正之君,鮮有不暱於者,故曰以剛中也。
「原筮」とは、自ら親附すべき・跟従すべきは何人なるかを占問するである。君主の尊を以てすれば、来たりて彼に親附する人は多しと雖も、其の中に正有り邪有り。彼の親近する所が君子なれば、衆君子は皆進用し、彼の親近する所が小人なれば、一群の小人は皆挤り入る。同心同徳、群を合するも党を結ばざるは「比」であり、阿諛奉承・朋比淫狎もまた「比」と作る(此処の原文は脱字有り)。開頭に謹慎せずして好い結局を得るは少なし。だから開頭に於いて慎重なるは固より好し、また終了の処に於いて考察し、長久にして端正なるを能くせば、こそ悔咎なきを得る。もし剛健中正の君主に非ざれば、小人に親昵せざるは少なし(原文「昵于」の下に脱字有り)。だから『彖伝』は「剛中を以て也」と言う。
不寧方來,上下應者,一陽居中為比之主,而群陰皆應,如人主秉其威權,禮樂征伐自我而出,孰有不聽命者乎?書稱文王曰「大邦畏其力,小邦懐其徳」,有力以制之,有徳以懐之,強不敢陵弱,眾不敢暴寡,不寧者我能寧之,孰有不來享來王者乎?若其偃蹇扈後眾人而來,失比輔之義,則有問罪之師,如啟之徵有扈、文王之伐崇,乃自取困辱之道也,故曰其道窮也。
所谓「不寧方来、上下応也」とは、一条の陽爻が中に居りて帰附の中心と為り、衆陰爻は皆来たりて呼応す。君主が威権を執掌して礼楽征伐皆自ら発するが如し。誰か命を聴かざらん。『尚書・武成』は周文王を称頌して「大邦は其の力を畏れ、小邦は其の徳を懐く」と言う――之を制服する力量有り、之を安撫する德行有り、強き者は弱き者を欺凌するを敢えてせず、人多き者は人少なき者を欺圧するを敢えてせず。本来安寧ならざるも、我は之を安寧ならしめ得る。誰か朝貢に来たらず、朝見に来たらざらん。もし人ありて傲慢跋扈し、衆人の後に落ちて来たれば、親附輔佐の本義を失う。それは則ち罪を問う軍隊を招くに至る。夏啓の有扈氏を征討し、周文王の崇国を討伐したるが如し。これは自ら困辱を取る路子である。だから「其の道窮まる也」と言う。
象曰:「地上有水,比。先王以建萬國,親諸侯。」先王觀地上有水而得比之象,非特地水之相比也。蓋地上有水,非有溝洫畎澮以防範儲蓄之,則氾濫奔沖,反為害矣。聖人觀此象,故建萬國,親諸侯,小大強弱不相陵犯,或以徳懐,或以力制,咸親比於我矣。
『大象伝』に言う。「地の上に水有り、比なり。先王は万国を建て諸侯を親しむを以てす。」先王は地面の上に水あるを見て、中より「比」の卦象を得た。その含義は地と水が互いに挨近するのみならず。地の上に水有るも、若し溝渠田畦有りて疎導蓄存せずば、泛濫冲決して反って災と為る。封建諸侯の天下に於けるは、まさに溝洫の水に於けるが如く、天下の力をして各々帰束有りて横流に至らざらしむるなり。聖人は此の景象を観察す。だから広く万国を建て諸侯に親近し、大小強弱は互いに侵犯せず、或いは德行を以て安撫し、或いは力量を以て節制して、彼らをして皆我に親附せしむ。
自堯舜三代不敢廢也。至秦併吞諸侯而郡縣之,一夫呌號,天下響應,孰有親比於我者?王氏論本朝罷侯置守,則曰「萬一有秦之變,豈可諱哉」。靖康之禍,金人長驅如入無人之境,諸路守臣奔竄迎降之不暇,其間能仗節死難者不過數人,何補於治亂哉?然則眾建諸侯,或大封同姓,以復唐虞三代之制,豈非今日之先務哉?
堯舜より夏商周三代に至り、誰も敢えて封建の制を廃せざるなり。秦朝に至りて諸侯を兼併し郡県を改設し、陳勝一人が臂を振いて呼喊すれば、天下は紛紛として響応し、なお誰か来たりて秦室に親附せん。王氏は本朝の封国を取消し守臣を改派する做法を議論して、「万一秦朝のごとき変故有らば、諱避して談ぜざるを得んや」と言う。靖康の難、金兵は長駆直入して無人の境に入るが如く、各路の守臣は逃竄投降するも及ばず、其の中の節を守り難に死するは数人に過ぎず。国家の治乱に何の補益かあらん。既に此の如しなれば、多く諸侯を分建し、或いは同姓子弟を大封して、以て唐虞三代の旧制を回復せんこと、豈に当今の第一要務ならずや。
初六:有孚比之,無咎。有孚盈缶,終來有它吉。象曰:「比之初六,有它吉也。」初六以陰柔之質為比之始,若不擇所從而急於求比,則有阿附之嫌。惟初無應於上,義之與比而已,故曰有孚比之無咎。人之相與不以誠實,視利之所在則詭隨而茍合,利窮則散矣。惟中懐誠寔,無矯餙之偽,如質素之缶,則眾心所向,始雖難合,終必從之而有它來之吉也。
初六の爻辞に言う。「孚有りて之に比すれば咎なし。孚有りて缶に盈つれば、終に來たりて它の吉有り。」『小象伝』に言う。「比の初六とは、它の吉有る也。」初六は陰柔の質を以て「比」の開端に処す。若し跟従する対象を選択せず、ただ急ぎて攀附に往かば、阿諛依附の嫌有り。幸いに初六は上面と正応なし。ただ道義を按じて親附するのみ。だから「孚有りて之に比すれば咎なし」と言う。人と人の交往は若し誠実を用いず、ただ利益の在る所を見て声に随い苟且に凑合せば、利益一たび尽きれば便ち散ず。ただ心中に真誠を懐き、矯飾虚偽なく、素朴の瓦缶の如くあればこそ、衆人の心は彼に帰向す。開頭は契合し難しと雖も、最終には必ず彼に跟従し、而して意外の人が来たりて帰附するの吉祥有り。
它來者,非獨五服之內而已,雖蠻貊之邦皆不約而自至也。夫比之道如交神明,其始不以誠而徒事繁文末節,曷足以感之?故觀卦言「觀盥而不薦,有孚顒若」,孔子曰「禘自既灌而徃者,吾不欲觀之矣」。故象曰「比之初六,有它吉也」,蓋言慎其始也。
所谓「它来」とは、ただ五服以内の邦国に限らず、蛮貊の邦もまた約せずして自ら来たる。親附の道は神明と交接するが如し。開頭に誠意を用いず、ただ繁文縟節の上に功夫を下せば、どうして相手を感動せしめ得ん。だから『観』卦の卦辞は「盥を観て薦を観ず、孚有りて顒若」と言う――ただあの手を洗い酒を灌ぐの一刻を見、まだ牲を献ずるに至らずして、誠敬の心はすでに顕現す。孔子は『論語・八佾』の裡に「禘は既灌より徃者、吾れ之を観るを欲せず」と言う。だから『小象伝』は「比の初六、它の吉有る也」と言う。講ずる所はまさに開端に於いて慎重たるを要するである。
六二:比之自內,貞吉。象曰:「比之自內,不自失也。」六二與九五為正應,在它卦則吉孰甚焉?盡比之道則狹矣。二處於內,專比於五,於人臣之道為正,雖所比不廣,必免凶咎。自內者,不汲汲馳騖於外以求比者也,故必貞而後吉。象曰「比之自內,不自失也」,夫比之道當惟正之從,若專應於一,則有朋比之嫌,今二能應五,不失正道,故曰不自失也。
六二の爻辞に言う。「内より之に比す、貞にして吉。」『小象伝』に言う。「内より之に比すとは、自ら失わざる也。」六二と九五は正応である。若し他の卦の裡に在らば、これより吉利なるはあらん。ただ「比」道の完備に就いて言えば、こうすれば狭窄と顕れる。六二は内卦に処して、一心にただ九五に親附す。臣たるの道の上に於いては端正と算う。親附する範囲は広からずと雖も、必ず凶咎を免れ得る。「自内」とは、急いで外に奔走し人に親附を求めざるを言う。だから必ず正を守りて然るのちに吉。『小象伝』に「内より之に比す、自ら失わざる也」とある――親附の道は本来ただ正道に跟従すべし。若し専らただ某の一人に応和せば、党を結び私を営むの嫌有り。いま六二は九五に応和すれど、正道を失うことなし。だから「自ら失わざる也」と言う。
六三:比之匪人。象曰:「比之匪人,不亦傷乎!」六三以陰柔而居陽位,上六雖非正應,而逺比之。上六陰柔不中而居髙顯之位,比之無首而無所終者,又處坎之終,此陰險之小人而在髙位者也,而三乃比之。比不以正,而終不為所傷陷者希矣。
六三の爻辞に言う。「之に比するに匪人なり。」『小象伝』に言う。「之に比するに匪人とは、亦傷まざらん乎。」六三は陰柔の質を以て陽位に居る。上六は其の正応に非ざると雖も、它は距離を隔てて上六に親附す。上六は陰柔にして中位に居らず、而して高顕の位置を占む。まさに爻辞の所谓「比之無首」、始有りて終なきのあの種の人であり、しかも坎険の最上端に処す。これは身が高位に居る陰険の小人で、六三は偏偏として彼に親附に往く。親附して正道を循さざれば、最終に彼に傷害せられ陷落せざるは実に少なし。
六四:外比之,貞吉。象曰:「外比於賢,以從上也。」四無應於,而切近君位,雖非正應,而外比於賢君。五又為比主,以臣比君,以下比上,以陰柔而比陽剛,相比以正,其獲吉宜矣。夫人之相比,有敵體而比者,有尊卑相臨而比者,有因勢利而比者,有下比於群邪者。今四之比五,特以君臣之分,義所當從,舍而比五,故象曰「外比於賢,以從上也」。
六四の爻辞に言う。「外に比す、貞にして吉。」『小象伝』に言う。「外に賢に比すとは、上に従うを以て也。」六四と初六は相応せず(原文「無応于」の下に「初」の字を脱す)が、君位に緊挨する。正応に非ずと雖も、外に向かいて賢明の君主に親附す。九五はまた全卦の親附の中心で、臣を以て君に親しみ、下を以て上に親しみ、陰柔を以て陽剛に親しむ。互いの親附は皆正に合す。吉祥を得るは自然応当である。人と人の親附に几種あり。地位対等にして相親しむ有り、尊卑上下相接して相親しむ有り、勢力利益に因りて相親しむ有り、また下に向かいて一群の邪佞に攀附する有り。いま六四は九五に親附す。ただ君臣の名分に就いて言えば、道義上は跟従すべく、だから別人を舎けて九五に親附す。それ故『小象伝』は「外に賢に比す、上に従うを以て也」と言う。
九五:顯比,王用三驅,失前禽,邑人不誡,吉。象曰:「顯比之吉,位正中也。舍逆取順,失前禽也。邑人不誡,上使中也。」九五以一陽而比眾陰,處中正之位,無所偏繫,比之主也,當明示天下以大公至正之道,無親也,無應也。譬之畋獵三驅之禮,取其向順之心,舍其逆犯之意,前去者皆免,故常失前禽也。
九五の爻辞に言う。「顕比。王は三駆を用い、前禽を失う。邑人は誡めず、吉。」『小象伝』に言う。「顕比の吉とは、位正中なり。逆を舎て順を取るは、前禽を失う也。邑人誡めずとは、上中を使う也。」九五は一条の陽爻を以て衆陰爻と相親しみ、中正の位に処し、偏私牽係なし。全卦の親附の中心で、応当に大公至正の道を明白に天下に昭示し、私親を搞せず、また私に相呼応することを搞せず。これは田猟の三面を駆りて網の一面を開く礼制に比するが如し。迎面して順うあの者を接納し、背向して逃走するあの者を放過し、前に逃げ去るは一概に死を免れしむ。だから常に「前禽を失う」と言う。
聖王用此道以親比天下,茍有向順之心則取而用之,曷常陰用智謀以籠絡之哉?聖人於天下一視同仁,固未嘗分逺近親踈之間。此道既明,則邦邑之人不待教誡,咸協於我,如此則吉可知矣。然非上用中正之道以無心感格之,則邦域之內豈能無偏繫之乎?故象曰「邑人不誡,上使中也」,蓋歸美以復其上也。
聖王は此の辧法を用いて天下人に親近す。ただ相手方に帰向順従の心有れば、接納任用す。何ぞ嘗て暗地裡に心机権術を用いて人を籠絡せんや。聖人は天下に対して一視同仁、従来遠近親疎を分たず。この道理既に明白なれば、封邑の内の人は告誡を用いずして、自然皆我と協同一致す。こうすれば吉祥は想うに知られる。しかし、若し在上者が中正の道を用い無私の心を以て彼らに感通せざれば、一国の内にまたどうして偏私牽係なからんや。だから『小象伝』は「邑人誡めず、上中を使う也」と言う。これは美名を上に在る君主に帰するである。
上六:比之無首,凶。象曰:「比之無首,無所終也。」人相親比,貴乎有始有終。上六以陰柔之資處上卦之極,九五以陽剛中正為群陰之主,已獨乘之,失比輔之道,比之無首者也。之無咎,以有孚信,故終來有它吉;上六不能見而作,其來獨後於眾陰,此後夫凶也。始之不慎而能克終者鮮矣,故象曰「比之無首,無所終也」。
上六の爻辞に言う。「之に比するに首なし、凶。」『小象伝』に言う。「比之無首とは、終る所なき也。」人と人が相亲附するは、始有り終有るを貴ぶ。上六は陰柔の質を以て上卦の頂端に処す。九五は陽剛中正を以て衆陰の主と為るに、上六は独り彼の上に凌駕し、親附輔佐の本義を失掉す。まさに「比之無首」である。此処は回頭して初六を説く(原文は脱字有り)。初六の「無咎」の所以は、心中に誠信を懐くればこそ「終に來たりて它の吉有り」を能くす。上六は機を見て動く能わず、来たること全ての陰爻よりも晩し。これが卦辞の言う「後夫凶」である。開頭に謹慎せずして好い結局を得るは少なし。だから『小象伝』は「比之無首、終る所なき也」と言う。
小畜卦(乾下巽上)
乾下巽上。小畜:亨,宻雲不雨,自我西郊。小畜內健外,以一陰而畜五陽,是以大而反為小者所畜,故其卦曰小畜。夫能畜之而已不得行其志,猶善畜財而不能用也。小畜之能亨,以陰處得其正,能用五陽而眾陽從之也。宻雲不雨,自我西郊,何也?雲至於宻,未有不雨者。云,陰氣也;西,陰位也。六四居人臣之極位,上承九五之君,乃欲專其施,不復稟命而行,故云雖宻而不雨,膏澤不下於民之象也。
『小畜』卦は下乾上巽。卦辞に言う。「亨る。密雲雨らず、我が西郊よりす。」小畜は内卦が剛健、外卦が柔巽(原文「外」の下に「巽」の字を脱す)。一条の陰爻を以て五条の陽爻を蓄止するは、大きい者がかえって小さい者に蓄止せらる。だから卦の名を「小畜」と言う。別人を蓄止し得ても、自己は志向を施行できず。会斂して銭財を聚めるも使用を知らざるが如し。『小畜』の亨通し得る所以は、あの陰爻が居位正を得て、五条の陽爻を任用する能く、衆陽もまた彼女に跟従するを肯ずるが故である。何を以てか「密雲不雨、自我西郊」と言う。雲は濃密なること一定の度に至れば、雨らざるなし。雲は陰気、西方は陰位である。六四は人臣の最高位に居り、上は九五の君を承け、而して施予の権を独攬せんと欲し、再び命を禀めて然るのちに行うことをせず。だから雲は濃密と雖も雨と成らず。これは恩沢が百姓に下達し得ざる景象である。
彖曰:「小畜,柔得位而上下應之,曰小畜。健而剛中而志行,乃亨。宻雲不雨,尚徃也;自我西郊,施未行也。」陽大而陰小,柔進而居四,五陽所從,所謂一陰五陽則陰為之主,故四為畜主,卦之所以為小畜也。健而巽者,以成卦言之也。二五皆剛而處中位,故志得行焉。內健而外,雖剛而不過,是以能亨。此以卦爻釋致亨之義也。
『彖伝』に言う。「小畜は、柔は位を得て上下之に応ず、小畜と曰う。健にして〔巽〕、剛中にして志行わる、迺ち亨る。密雲不雨は、尚往く也。我が西郊よりとは、施未だ行われざる也。」(原文「健而」の下、「内健而外」の下に均しく「巽」の字を脱す。)陽は大と為り陰は小と為る。この柔爻は上進して第四位に居り、五条の陽爻は皆彼女に跟従す。いわゆる一陰五陽は則ち陰を以て主と為す。だから六四は蓄止の主と為る。これも本卦が「小畜」と称する縁故である。「健而巽」とは、卦の構成に就いて言う。九二・九五は皆陽爻にして中位に居る。だから志向は施行し得る。内卦は剛健にして外卦は柔順。剛強なれど過分ならず。それ故能く亨通す。これは卦体と爻位を用いて亨に致る道理を解釈するである。
雲宻而不成雨,蓋陰徒尚徃而陽未應也。人臣之道,和而不倡,無成而代有終。陽當先而陰從之可也,自我倡之而上不應,欲膏澤下於民難矣。善畜其君者,必與上同其心徳,定其計謀,如蕭張之於漢祖,諸葛孔明之於蜀先主是也,不然豈足以大有為哉?
雲は濃密なれど雨と成り得ざるは、陰気がただ自ら顧みて上に向かいて走り、而して陽気は並びに回応せざるに因る。臣子たるの道理は附和して首倡せず、其の功を居らずして君主に代わりて事業を完成す。応当に陽を前に在らせ陰を跟従せしむるこそ正し。若し我この臣子より首倡し、而して君上は並びに響応せざれば、恩沢を百姓に下達せんと欲するは難し。善く君主を輔助蓄養する人は、必ず君上と心徳相同じく共に謀劃を定下し、蕭何・張良の漢高祖に於ける、諸葛孔明の蜀先主劉備に於けるが如きはこの然り。然らざれば、どうして一番の大作為を有せん。
象曰:「風行天上,小畜。君子以懿文徳。」風至柔之物也,指者勝,鰍者亦勝,及其蜚大屋、折大木,力莫強焉。今風行天上,非暴厲以擾萬物之時也,君子體之以懿文徳。夫以一陰而畜群陽,此豈力足以制之哉?但以至誠柔順之道以馴擾之耳,此大象之義也。
『大象伝』に言う。「風行く天上、小畜なり。君子は文徳を懿くするを以てす。」風は極柔軟の物で、手に随い一たび挡けば便ち彼に勝ち得る(此の二句の原文は訛脱有り、大意は風の柔弱なる時は抵当し難からずと謂う)。しかし彼が大作するを待てば、大屋を掀翻し巨木を折断し、彼より強き力量なし。いま風はただ天上に運行し、狂暴に万物を擾乱する時に非ず。君子は此の一点を体察し、便ち以て美好の文徳を涵養す。一条の陰爻を以て一群の陽爻を蓄止するは、これはどうして力量を頼みて制し得ん。ただ至誠柔順の道を用いて彼らを馴服するのみ。これが『大象伝』の意思である。
初九:復自道,何其咎,吉。象曰:「復自道,其義吉也。」乾陽剛之物,體本在上,今反處乎下,失其所矣。今有應於四,是能復由其道,非犯難而行也,尚何咎乎?非徒無咎也,乾陽復位,有應於上,其義吉矣。夫物未有徃而不復者,況剛健如乾,豈一陰能終畜之乎?
初九の爻辞に言う。「自らの道に復る。其れ何の咎かあらん、吉。」『小象伝』に言う。「自らの道に復るとは、其の義吉也。」乾は陽剛の物で、本体は原より上に在るべし。いまかえって下位に居るは、其の処すべき位置を失したり。いま初九は六四と相応ず。これは能く正道を循りて返回するに就き、険難を冒して前行するに非ず。なお何の過錯かあらん。過錯なきのみならず、乾陽は本位に帰り、また上面の呼応有り。道理より言えば便ち吉なり。およそ物は往きて返らざるなし。況んや剛健乾の如き、豈に一条の陰爻が能く永遠に之を蓄止せんや。
九二:牽復,吉。象曰:「牽復在中,亦不自失也。」二居下體人臣之位,而乾以陽剛居之,失其所矣。然與五同志,下乘乎初,同志相求,皆從於四,可牽連而復,則免乎凶咎矣。乾以至剛居至柔,能隨時曲折,健而能巽,剛而得中,外不失人,內不失已,所以獲吉也。
九二の爻辞に言う。「牽かれて復る、吉。」『小象伝』に言う。「牽かれて復ること中に在るとは、亦自ら失わざる也。」九二は下体に処し、人臣の位である。而して乾の陽剛は此の処に居る。亦本位を失したと算う。然るに彼は九五と志向相同じく、下面にはまた初九に凌駕す。志同道合の者は互いに招引し、一斉に六四に跟従すれば、便ち牽連して群を成して本位に返回し、以て凶険と過錯を免除し得る。乾は極剛の質を以て極柔の処境に処し、能く時に随い委曲変通す。剛健にして能く柔順、陽剛にしてまた中道を得る。外には人心を失わず、内には自我を失わず。だから吉祥を得る能し。
九三:輿說輻,夫妻反目。象曰:「夫妻反目,不能正室也。」九三以陽居陽,乾剛強而難制,非所能羈縻之者也。然宻比於四,雖剛陽而反為陰柔之所制,如車輿欲進而說其輻,勢不得不與四而共處也。然三與上同志,四自應初,豈能終無悔?夫妻反目之象也。
九三の爻辞に言う。「輿は輻を説す。夫妻目を反す。」『小象伝』に言う。「夫妻目を反すとは、室を正す能わざる也。」九三は陽爻を以て陽位に居り、乾体は剛強にして制服し難く、六四の羈縻し得る所に非ず。然るに彼は六四に緊挨す。陽剛なれど、かえって陰柔に牽制せらる。車子が前進せんと欲するも輻條を脱落するが如く、形勢上は六四と一処に共処せざるを得ず。しかし九三と上九は志向相同じく、六四は自ずから初九有りて彼女と相応ず。どうして終始悔恨なからん。これはまさに夫妻反目の景象である。
夫剛上而柔下,所以為恆,故曰「婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也」。夫夫婦婦而家道正矣。小畜陰既居上,九三之陽為其所畜,以陰制陽,安能正其室家乎?仲尼於小象因推原其意,男女失位,不以責婦人。堯將禪舜,必先觀其刑于二女;文王召南之化,亦始於刑寡妻。末世之君不能制婦人以致亂亡,如唐之髙宗者多矣,況其下者乎?故曰夫妻反目,不能正室也,為戒深矣。
陽剛は上に在り陰柔は下に在る。これこそ『恒』卦を構成す。だから『恒』卦の『小象伝』は「婦人は貞なれば吉、一より終る也。夫子は義を制す、婦に従えば凶也」と言う――婦人は一を守りて終れば則ち吉、男子は応当に義を以て裁断し、若し一味に婦人に聴従せば凶。丈夫は丈夫の如く妻子は妻子の如くあれば、家道は端正す。『小畜』卦の裡に陰爻は既に上に居り、九三の陽爻はかえって彼女に蓄止せらる。陰を以て陽を制すれば、どうして一家の内を端正できよう。孔子が『小象伝』を作る時に其の中の用意を推究して、男女の位置が顛倒するは、ただ婦人を責怪すべからずと認めた。堯が天下を舜に禅譲せんとするに、先ず彼がどう嫁ぎたる二個の女児を治理するかを見る要があった。文王の『召南』一帯の教化もまた「寡妻に刑す」――先ず正妻に表率を做出す――より始まる。末世の君主が後宮を管住し得ずして以て乱亡を招くは、唐高宗の如きが多し。況んや地位更に低き人をや。だから『小象伝』は「夫妻目を反す、室を正す能わざる也」と言う。其の中の告戒は甚だ深切である。
六四:有孚,血去惕出,無咎。象曰:「有孚惕出,上合志也。」四以一陰處近君多懼之地,下之三陽方務於速進,未易畜也,而四卒能畜之者,以誠而已。茍不以誠,則在上者必疑,在下者必忌,疑忌交攻,力不能勝,如此豈能免於憂傷而脫於危懼乎?惟能以至誠孚信而感動之,則才之剛強者必聽命,而勢之威重者必親信於我矣。如此乃可為畜主,為群陽之所宗而無咎也。夫乾雖處下,剛健而鋭於上進,至難畜也,茍能加至誠,由直道,與上合志而假其威權,則群陽安得不從,況敢加害乎?故象曰「有孚惕出,上合志也」。
六四の爻辞に言う。「孚有り、血去り惕出づ、咎なし。」『小象伝』に言う。「孚有り惕出づとは、上に志を合す也。」六四は一条の陰爻を以て君主に緊靠し最多疑惧の位置に処す。下面の三条の陽爻はまさに上に冲せんと急ぐ。本来蓄止し易からず。而して六四は終に彼らを蓄止し得る。頼る所はただ一つの「誠」の字のみ。假使誠意を用いざれば、上面の君主は必ず彼女を猜疑し、下面の臣僚は必ず彼女を忌恨す。猜疑と忌恨は両面より夾攻し、力量は抵当に堪えず。こうすればどうして憂傷を免れ危惧を脱出せん。ただ極端の誠意と信実を用いて彼らを感動せしめばこそ、才質剛強の人は命を聴き、権勢威重の人は親近して我を信任せん。こうしてこそ蓄止の主と為り得、群陽の尊奉する所の人と為りて過咎なし。乾体は下位に居ると雖も、剛健にして鋭意上進す。最も蓄止し難し。若し能く誠懇を加倍し、正直の道を循りて、君上と心志を相合し而して君主の威権を借重せば、則ち群陽はどうして跟従せざらん、またどこに敢えて加害せん。だから『小象伝』は「孚有り惕出づ、上に志を合す也」と言う。
九五:有孚攣如,富以其鄰。象曰:「有孚攣如,不獨富也。」五居尊位,勢豈不足以畜眾?然委成於四,以四為畜主。四能盡人臣之道以承其上,與五合志。五雖不能自畜,而中懐誠寔,居中得正,親於畜主,綢繆膠固而不相去。君臣合徳,雖剛者亦心悅誠服,靡然而徃從之矣。
九五の爻辞に言う。「孚有りて孿如、富は其の鄰を以てす。」『小象伝』に言う。「孚有りて孿如とは、独り富まざる也。」九五は尊位に居る。権勢を論ずれば、豈に衆人を蓄止するに足らざらん。然るに彼は事を六四に付託し、六四をして蓄止の主と為さしむ。六四は能く人臣の道を尽くして君上を奉承し、九五と心志相合す。九五は自ら群陽を蓄止する能わずと雖も、心に誠実を懐き、中に居りて正を得、此の蓄止の主に親近し、両人は纏結牢固にして相離棄せず。君臣の德行相合すれば、たとえ剛強の人も心悦誠服し、紛紛として彼らに倒向し彼らに跟従す。
六爻惟四五有孚,蓋非有孚則君疑於臣而臣疑其君,眾不聽命也。五居崇髙之位,假大臣以威權,富而能用其鄰者也。書曰「臣哉鄰哉」,人主以大臣為鄰,四最近君,鄰之象也。自古帝王未有獨擅其富有而能成功者:武王伐紂之後,列爵惟五,分土惟三;漢祖既滅項氏,亦徧封功臣。韓信王齊,之有三分之勢,特眷戀不忍叛去者,懐其解衣推食之也。故象曰「有孚攣如,不獨富也」。
六爻の中にただ六四と九五のみが「有孚」と言う。誠信なければ、君主は臣子を猜疑し臣子もまた君主を猜疑し、衆人は便ち命を聴くを肯ぜざるに因る。九五は崇高の位に居り、威権を大臣に借して用いしむ。まさに自己は富有して能く近隣に同じく享けしむる人である。『尚書・益稷』に「臣なる哉鄰なる哉」と言う。君主は大臣を以て近隣と為す。六四は最も君位に靠近す。まさに「鄰」の形象である。古より帝王は富貴を独占して能く成功する者なし。周武王は商を滅ぼして後、爵位を分ちて五等と為し、封土を分ちて三等と為した。漢高祖は項羽を消滅して後、亦功臣を遍く封じた。韓信は斉王に封ぜられ、已に天下を三分する形勢有り(原文「之」は「已」と作るべし)が、依戀して背叛するに忍びず。まさに高祖の衣を解きて相贈り食を推きて相与うの恩情を感念する。だから『小象伝』は「孚有りて孿如、独り富まざる也」と言う。
上九:既雨既處,尚徳載,婦貞厲,月望,君子征凶。象曰:「既雨既處,徳積載也。君子征凶,有所疑也。」上九處畜之終,五陽皆為我畜,其道上行,無復危疑矣。如雲氣上升而陰能固之,然後雨自上下,物無不其澤者。物既盡其澤,則無不得其所者,故曰既雨既處。
上九の爻辞に言う。「既に雨り既に処る、徳を尚びて載す。婦は貞なれど厲。月は〔几〕んとして望。君子は征けば凶。」(原文「月」の下に「几」の字を脱す。)『小象伝』に言う。「既に雨り既に処るとは、徳積みて載する也。君子征けば凶とは、疑う所有る也。」上九は蓄止の道の終点に処す。五条の陽爻は皆我に蓄止せられ、我が道は上に向かいて通行し、再び危険疑虑なし。雲気の上昇するが如く、陰気は能く之を凝住し、然るのちに雨は上より降下す。万物は此の潤沢を承受せざるなし(原文此の句は脱字有り)。万物は既に皆滋潤を得れば、各々其の所に安んぜざるなし。だから「既に雨り既に処る」と言う。
夫以一陰柔而畜群剛,非力能制之也,所尚者徳也。莊子曰「福輕於羽,莫之知載」,君子之載徳,猶舟車之載物也,積而載之則徳愈盛矣。乾至上九猶曰亢龍有悔,況以臣畜君,至位尊徳盛,能無疑乎?猶婦之反畜其夫,雖貞猶危也。月之望與日為敵,其勢必虧,故坤之六四貴乎括囊,至上六則龍戰于野;小畜至上九,其勢已逼,動必蹈禍,尚何徃乎?孔子曰「君子征凶,有所疑也」,聖人為固位吝權者之戒,其意豈不深矣乎?
一条の陰柔を以て一群の陽剛を蓄止するに、頼る所は力量の圧制に非ず、而して尚ぶ所の徳なり。『荘子・人間世』に「福は羽より軽し、之を載るを知る莫し」と言う。君子の德行を承載するは舟車の貨物を装載するが如く、積むほど愈々厚く載するほど愈々穩かなれば、徳は愈々盛んなり。乾卦も上九に至れば、尚お「亢龍悔有り」と言う。況んや臣子の身份を以て君主を約束するに、位は人臣に極まり徳望は隆盛の地步に至るや、猜疑を招来せざるを得んや。これは妻子がかえって丈夫を管束するが如し。たとえ彼女が正を守るも、なおなお危険なり。月は満月に至れば太陽と相抗し、其の勢いは必ず転じて虧く。だから坤卦の六四は「括囊」――口袋を扎緊め鋒芒を露さず――を以て可貴と為し、上六に至れば便ち「龍野に戦う」となる。『小畜』は上九に至れば、形勢は既に極点に逼る。一動すれば必ず禍患の裡に踏み入る。なお何処に往くを得ん。孔子は『小象伝』の裡に「君子征けば凶、疑う所有る也」と言う。聖人はこれを禄位を固守し権柄を吝惜する人らのために告戒を立下す。用意は豈に深切ならずや。
履卦(兌下乾上)
兌下乾上。履虎尾,不咥人,亨。彖曰:「履,柔履剛也。說而應乎乾,是以履虎尾不咥人亨。剛中正,履帝位而不疚,光明也。」履,人所踐履也,出而應物則有履踐之跡。君子雖履畏塗而不犯難者,能以天下之至柔馳騁乎天下之至剛也。
『履』卦は下兌上乾。卦辞に言う。「虎の尾を履む、人を咥えず、亨る。」『彖伝』に言う。「履は柔は剛を履む也。説びて乾に応ず、是を以て虎の尾を履むも人を咥えず亨る。剛にして中正、帝位を履みて疚しからずは、光明也。」「履」は人の践行する路である。人は一たび出でて外物に応接すれば、踩踏し過ぎた痕跡を留む。君子はたとえ畏るべき路の上を行くも危難を触犯するに至らざるは、彼が能く天下の最も柔弱の物を用いて、天下の最も剛強の物を駕御するを以てなり。
卦有五剛一柔,則以柔為主,六三是也。三以一柔而乘二剛,故曰柔履剛也。下兌上乾,三既為一卦之主,而能以說而應乎乾之上,剛柔相濟,履道之至善者也。剛中正履帝位而不疚光明者,謂九五也。履帝位,履道之極也。履以五剛而挾一柔,若不能虛巳用眾而獨任其剛決,鮮有不蹈咎悔者,故夬履貞厲,以剛決自任,雖正猶危。故雖中正而又無剛果之失,則其徳日新而有光輝矣。虎者至剛猛之物,今能履其尾而不咥人者,以說而應之也。古語有云「人無害虎之心,虎無傷人之意」。撫我則後,虎猶民也;虐我則讎,民猶虎也。有道之士其知此者乎?
一卦の中に五条の陽爻・一条の陰爻あれば、便ちあの陰爻を以て主と為す。『履』卦の裡では便ち六三なり。六三は一条の柔爻を以て二条の剛爻の上に凌駕す。だから「柔履剛也」と言う。下兌上乾で、六三は既に全卦の主にして、また能和悦の姿態を以て上の乾に呼応す。剛柔は互いに調剤す。これは践履の道の中の最も完善なるものである。「剛中正、帝位を履みて疚しからずは光明也」とは、九五を説く。帝位に登るは践履の道の頂点である。『履』卦は五条の陽爻を以て一条の陰爻を挟む。君主がもし虚心に衆人を任用できず、ただ自らの剛断独行を憑れば、悔咎に踏み入らざるは少なし。だから九五の爻辞は「夬履貞厲」と言う――剛決を以て自ら任ずれば、正を守ると雖もなおなお危険なり。それ故、既に中正なれば、また剛断に過ぐるの毛病なければ、德行はこそ日日更新して光輝有らん。老虎は極めて剛猛の動物である。いま能くその尾を踏みて咬まれざるは、和悦の態を以て之に応対するが故である。古語に「人に虎を害するの心なくば、虎に人を傷るの意なし」と言う。『尚書』に「我を撫すれば則ち后、我を虐ぐれば則ち讐」と言う――我を安撫するは即ち君主、我を虐待するは即ち仇敵。老虎は百姓に好比し、百姓もまた老虎に好比す。有道の士は大概この道理を懂得するか。
象曰:「上天下澤,履。君子以辨上下,定民志。」天體在上,澤最處下,聖人觀此二象,故以禮義治天下,使各安其性分之情,然後天下可得而治也。詩稱「抱衾與裯,寔命不猶」,雖妾媵之賤,知尊卑之不可踰、貴賤之不可易,能安於義命如此,天下豈有誇跂之心哉?秦之失道,禮義消亡,陳勝項籍之徒,或輟耕隴上,或嘆息道傍,自此豪傑並起,天下紛紛,民志何由而定乎?由辨之不早辨也。
『大象伝』に言う。「上に天下に沢、履なり。君子は上下を辨じ民志を定むるを以てす。」天体は高く上に居り、沼沢は最も下に処す。聖人は此の二つの物象を観察し、因りて礼義を用いて天下を治理し、人人をして自らの名分の内の情実に安んぜしめ、然るのちに天下はこそ治め得らる。『詩経・召南・小星』に「衾を抱き裯を與す、寔に命猶わざるなり」と言う。地位卑賤の媵妾に至るまで皆尊卑の逾越すべからざる・貴賤の更換すべからざるを知る。能く此の如く道義と命分に安んずれば、天下にまたどこに非分踮望の心有らん。秦朝は治道を喪失し礼義は消亡し、陳勝・項羽のこれらの人は、或いは田壟の上に耕作を停めて感慨を発し、或いは路旁に始皇の車駕を望見して長嘆す。此より以降豪傑並び起こり天下大乱す。百姓の心志は何を頼りて安定せん。上下の分を及早に辨明せざりしに就いてのみ。
初九:素履,徃無咎。象曰:「素履之徃,獨行願也。」君子居窮隠約,雖陋巷簞瓢而不悔者,守其素節也。以此而徃,不易其素所守者,乃可無咎。君子待聘而徃,豈為利哉?上必欲致君如堯舜之君,下則欲使民如堯舜之民,此其志願也。天下攘攘皆為利徃,吾獨守其志節而務行其道,固非眾人之所測也。象曰「素履之往,獨行願也」,此仲尼之深也。
初九の爻辞に言う。「素履、往けば咎なし。」『小象伝』に言う。「素履の往とは、独り願いを行う也。」君子は困窮隱微の中に処し、たとえ陋巷に住み一簞の食一瓢の飮あるのみも悔いず。自らの一向の節操を守るを以てなり。此の如き操守を憑りて前行し、素より守る所を改変せざれば、こそ過咎なきを得る。君子は礼聘を待ちて然るのちに出仕す。豈に利禄のためならん。彼は上に対して君主をして堯舜の如き君主たらしめ、下に対して百姓をして堯舜の時代の百姓たらしむ。これこそ彼の志愿なり。天下は熙熙攘攘として皆利のために奔走す。独り我は志節を守り専心に自らの道を推行す。本来衆人の揣度し得る所に非ず。『小象伝』に「素履の往、独り願いを行う也」と言う。これは孔子の深切なる用意なり(原文「深」の下に「意」の字を脱す)。
九二:履道坦坦,幽人貞吉。象曰:「幽人貞吉,中不自亂也。」九二無應乎上,不可妄進而躁動也。今能退處陰位,不與陽亢,以此而行,進無逼上之嫌,退有安貞之吉,履道之至善者也。坦坦,平易之象。人之操履,或假隠自名而志在要祿,或陽為亷潔而行實汙穢,是謂作偽心勞,惴惴然掩覆之不暇,豈能履其坦途、守夫安靜者哉?惟君子造道之深,所守之固,能定能應,不為時世所易。若中無所主,臨利害之際,鮮有不失所守者。故象曰「幽人貞吉,中不自亂也」。
九二の爻辞に言う。「道を履むこと坦坦、幽人は貞にして吉。」『小象伝』に言う。「幽人貞吉とは、中自ら乱れざる也。」九二は上面に相応ずる爻なし。冒然として上進し躁動して成を求むべからず。いま彼は能く退きて陰位に居り、上面の陽爻と相抗せず。此に照らして行事すれば、進めば君上に逼迫するの嫌疑なく、退けば正道に安んずるの吉祥有り。これは践履の道の中の最も完善なるものである。「坦坦」は平坦易行の様子である。人の操守に几種あり。或いは隱逸の名を假借して心裡に想う所は禄位を求取する(原文「假隠」の下に「逸」の字を脱す)、或いは表面は廉潔を装作して実際の行為は汚穢――これを弄虚作偽・心机を労費すると作す。終日心を提げ胆を吊りて遮掩するも尚お及ばず。どうして平坦の大道の上を行き安静を守住し得ん。ただ君子は造詣深厚・操守堅固、能く安定に自ら処り、また能く機に随い物に応じ、時世に改変せられざる。倘若心中に主宰なくんば、一たび利害の関頭に至れば、操守を丢掉せざるは少なし。だから『小象伝』は「幽人貞吉、中自ら乱れざる也」と言う。
六三:眇能視,跛能履,履虎尾咥人凶,武人為于大君。象曰:「眇能視,不足以有明也。跛能履,不足以與行也。咥人之凶,位不當也。武人為于大君,志剛也。」履卦以全體言之,則兌處乾下,以說而應乎乾,故履虎尾不咥人亨;以六爻言之,則六以陰處陽,履非其位,又上下五剛,以一陰處乎其間,如眇者寔不能視而自謂能視,跛者寔不能履而自謂能履,以此涉世,其速危害必矣,故如履虎尾咥人凶也。
六三の爻辞に言う。「眇にして能く視、跛にして能く履む。虎の尾を履みて人を咥うは凶。武人は大君の為をす。」『小象伝』に言う。「眇にして能く視とは、以て明有るに足らざる也。跛にして能く履むとは、以て行に与るに足らざる也。人を咥うの凶は、位当たらざる也。武人大君の為をすとは、志剛なり。」『履』卦は整体に就いて講ずれば、兌は乾の下に在り、和悦の態度を以て乾に呼応す。だから「虎の尾を履む、人を咥えず、亨る」と言う。六爻に就いて講ずれば、六三は陰爻を以て陽位に処し、居る所は其の応有の位置に非ず、上下はまた皆陽爻で、一条の陰爻は中間に挟まる。一隻の眼を瞎えたる人が実は看清くできずして自ら能く見ると以為し、腿を跛えたる人が実は走動できずして自ら能く走ると以為するが如し。此の種の態度を以て立身処世すれば、危害を招来するは必然なり。だから「虎の尾を履みて人を咥うは凶」の如し。「武人大君の為をす」に至っては、ただ武夫の勇あるのみの人が偏偏として君主の位置を占拠せんと欲するを説く。才は位に称わず志はまた一味に剛狠。まさに六三の此一爻の写照なり。
離卦曰履不處也,蓋履卦陽爻皆以不處其位為吉,韓康伯得之,王輔嗣其說妙矣。六以陰乾陽位,如武人而欲為大君,徒肆其剛,人孰與之?故象曰「眇能視,不足以有明也。跛能履,不足以與行也。咥人之凶,位不當也。武人為于大君,志剛也」。夫以陽居陽、處中得正如九五,猶不免危懼,況以陰柔而自處於陽剛之地,其能免乎?志剛者,其志雖剛而才智不足,豈足以勝其任哉?使威武之人而挾剛強之才、懐剛武之志,何徃而不利哉?
原文に「『離』卦曰く『履不処也』」(按ずるに此の語は実に『雑卦伝』の「履、不処也」に出づ)――『履』卦の陽爻は大都本位に安んじて処らざるを以て吉と為す。韓康伯は此の層の意思を領会し、王弼の解説もまた甚だ精妙なり。六三は陰爻を以て陽位を侵犯す。一個の武夫が而も君主を為さんと欲するが如く、白白に其の剛強を逞うするに、誰か彼に帰附するを肯ぜん。だから『小象伝』は「眇にして能く視、以て明有るに足らざる也。跛にして能く履む、以て行に与るに足らざる也。人を咥うの凶は、位当たらざる也。武人大君の為をすは、志剛なり」と言う。陽爻を以て陽位に居り中に処りて正を得る九五の如きも、尚お危惧を免れず。況んや陰柔の質を以て自ら陽剛の地に居らんや、どうして幸免し得ん。所谓「志剛」とは、志向は剛なれど才智足らず、どうして此の職任を担当し得んを言う。倘若真に威武の人にして、また剛強の才具を挟み剛武の志向を懐かば、則ち何処に至りて順利ならざることがあらん。
九四:履虎尾,愬愬終吉。象曰:「愬愬終吉,志行也。」九四以剛強有為之才而能以卑遜柔順自處,位既逼上,行非坦途,而終獲吉者,能恭慎畏懼而不以陽剛自處也。象曰「愬愬終吉,志行也」,四居近君之地,大臣也。大臣當近君之地,常能愬愬而不自安,則必有難進易退之節,豈肯戀寵祿貪得而患失哉?蓋遇可行之時,伸欲行之志耳,異乎六三才知不足而徒志乎剛者矣。
九四の爻辞に言う。「虎の尾を履む、愬愬として終に吉。」『小象伝』に言う。「愬愬終に吉とは、志行わる也。」九四は剛強有為の才干を具えるも、能く謙卑柔順を以て自ら処す。彼の位置は君上に緊逼し、走る所の路もまた平坦に非ず。最終に能く吉を獲るは、彼が恭敬謹慎し心に畏懼を存し、陽剛を以て自居せざるが故なり。『小象伝』に「愬愬終に吉、志行わる也」と言う――九四は君主に接近する位置に処し、大臣なり。大臣は近君の地に身を処して、若し能く常に戒惧不安なれば、必ず進取し難く退譲し易きの節操有り。どうして寵信禄位に貪戀し患得患失せんや。彼はただ道を行うべき時機に遇上りて、便ち自ら施行せんと欲する志向を伸展するのみ。これはすなわち六三のあの才智足らずして一味に剛を逞うする人と同じからず。
九五:夬履,貞厲。象曰:「夬履貞厲,位正當也。」九五既以陽爻而處尊位,若以剛決自任,於左右大臣無所詢訪,雖尊履帝位,豈能獨勝其任哉?夬履貞厲者,雖正猶危也。此夬,決也。象言夫履貞厲位正當者,五之專決當犯凶咎,以位正當,止於危厲而已,厲雖近危而未至於凶也。優柔不斷者固昏庸之所為,至於恃其剛明之才,居得致之位,自謂臣下舉莫已若,不復詢謀諮訪,則又上下隔絶,堂下千里,門庭萬里,而其禍有不可勝言者矣。
九五の爻辞に言う。「夬履、貞にして厲。」『小象伝』に言う。「夬履貞厲とは、位正しく当たる也。」九五は既に陽爻を以て尊位に居る。若し剛断独行を憑るのみで、左右の大臣に対して毫も諮詢せざれば、尊く帝位に居ると雖も、またどうして独自に天下の事を勝任し得ん。「夬履貞厲」とは正を守ると雖もなおなお危険なりと言う。此処の「夬」は即ち決断なり(『小象』を引く処の原文は「夬」を「夫」と訛作す)。『小象伝』に「位正当也」と言う。意思は九五の専断は本来凶咎を招来すべきも、ただ位置正しく当たるに因り、こそ僅かに危厲の程度に停留したる。「厲」は危険に接近するも、未だ「凶」に至らず。優柔寡断は固より昏庸の君の作為なり。然るに若し自らの剛明の才具を仗りて、以て有為するに足る高位に居り、自ら臣下は皆己に如かずと以為して、再び徵詢商議せざれば、則ち上下隔絶し、堂下は咫尺に在るも千里の如く、門庭の内は而も万里の遥かの如し。此に由りて生ずる禍患は説くも尽くせず。
上九:視履考祥,其旋元吉。象曰:「元吉在上,大有慶也。」祥者,吉之先見而未定也。作善降之百祥,作不善降之百殃,視其所履則吉凶可知矣。人可欺,天不可欺也。人固有行僻而堅、言偽而辨者,聖賢於此不能無疑;若視其所以,觀其所由,察其所安,則有不可欺者,吉凶可考矣。旋,還也。彼所履誠善,考其歸必獲大吉。象言「元吉在上,大有慶也」,上九處履之終,茍獲元吉則有餘慶必矣。履道至此,非獨身尊榮,子孫其逢吉矣。
上九の爻辞に言う。「履みを視て祥を考う、其の旋は元吉。」『小象伝』に言う。「元吉上に在るとは、大いに慶有る也。」「祥」は吉の先兆で、未だ定局と為らず。『尚書・伊訓』に善事を作せば天は百様の吉祥を降し、悪事を作せば天は百様の災殃を降すと言う。一人の平日の践行する所を見れば、吉凶は以て知るべし。人は欺騙し得れど、天は欺騙し得ず。世の中に確かに行為邪僻にして頑固に堅持し、言語虚偽にして能言善弁の人有り。聖賢も此の種の人に対して疑慮なき能わず。然るに若し孔子の言うが如く、彼の作す所を視、彼の何のためにかく作すを察し、彼の何に安んずるを審すれば、則ち騙し過ぐるべからざる処有りて、吉凶は便ち考察し出す可し。「旋」は回還の意なり。あの人の践行する所が果真に善なれば、彼の帰宿を考察すれば必ず大吉を得る。『小象伝』に「元吉上に在る、大いに慶有る也」と言う――上九は『履』卦の終点に処す。若し元吉を得る能くば、必ず余慶綿長なり。践履の道は此の歩に至れば、自身尊栄なるのみならず、子孫もまた吉慶に遇上らん。
巻三
泰卦(乾下坤上)
上經 乾下坤上 泰:小往大來,吉,亨。彖曰:泰,小往大來,吉,亨,則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也。內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人,君子道長,小人道消也。夫泰之為卦,乾下而坤上,言天地之氣交也。乾,君道也。君能下下以成其政,臣能歸美以報其上,君臣之情通,上下之勢接,此泰之道也。
『周易』上経、『泰』卦は下卦を乾とし上卦を坤とす。卦辞に言う。「小さい者は往き大きい者は来たる。吉祥、亨通。」『彖伝』は解釈して曰く、「『泰』卦の所谓小往大来・吉にして亨通とは、天地の二気が交感して万物通暢し、君臣上下が交流して心志相同ずるに因る。内卦は陽にして外卦は陰、内裏は剛健にして外表は柔順、内に君子を用いて外に小人を置く。だから君子の道は日に漸く生長し、小人の道は日に漸く消退す」と。『泰』の卦と成る所以は、乾が下に在り坤が上に在る。説く所はまさに天地の気が互いに交通するである。乾は「君道」を代表す。君主は能く尊を屈し臣下を礼待して、以て其の政治を成就し、臣子は能く美善を君主に帰して、以て上位に在る者に報答す。君臣の間に情意相通じ、上下の間に形勢相接す。これが『泰』の講ずる道理である。
一氣不頓進,寒暑往來,然後歲功成焉,豈一朝一夕之故哉!治亂存亡、屈伸消長之理,所以致之,莫不有漸。小者往而大者來,然後吉且亨也。小為陰柔,大為陽剛,陰柔為小人,陽剛為君子。小人退聴而君子連彚而來,故為泰。
一股の気は一挙に尽きる所に走らず。寒来暑往は交替して運行し、一年の収成才はこそ完成を得る。これは豈に一朝一夕の間の事ならん。治と乱・存と亡・屈と伸・消と長のこれらの道理が形成し得る所以は、一つとして逐步に積累して来たるに非ざるなし。陰柔の「小者」は退去し、陽剛の「大者」は到来し、然るのちにこそ吉祥にして亨通なり得る。「小」は陰柔を指し、「大」は陽剛を指す。陰柔は小人を代表し、陽剛は君子を代表す。小人は退きて命を聴き、君子は連なり群を成して来たる。だから此一卦を『泰』と呼ぶ。
天地交者,陰陽之氣通而相感也;上下交者,君臣之道合,泰至蠱而無間也。君子小人相為消長,退小人之術,豈在廹逐之哉?陽剛在內,勢足以有為,則陰柔知其不勝而聴命矣。在外者,特不使之在君側、握朝權耳。故一陽在下,其卦為復;二陽在下,其卦為臨。陽雖未盛而浸以長矣,故曰:內君子而外小人,君子道長,小人道消也。
所谓「天地交」とは、陰陽二気が相通じて互いに感応すること。所谓「上下交」とは、君臣の道が相契合し、『泰』卦より一路『蠱』卦に至るまで貫通し、其の間一点の隔閡なきである。君子と小人は互いに消長を為す。小人を排退せんと欲するに、豈に急切に駆逐せざるを得んや。ただ陽剛の気が内卦を占住し、力量は以て作為するに足れば、陰柔の小人は自然に争う能わざるを知り、便ち首を俯して命を聴かん。小人を「外」に置くと言う所谓は、ただ彼らをして君主の身辺に在らしめず朝廷の権柄を把持せしめざるのみ。だから一個の陽爻が下位に居れば、便ち『復』卦と成り、二個の陽爻が下位に居れば、便ち『臨』卦と成る。陽気は未だ強盛ならずと雖も、已に一点ずつ生長し在り。だから『彖伝』は「内君子而外小人、君子道長、小人道消」と言う。
象曰:天地交,泰。后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。天地交泰,以象太平盛極之時,聖王於此時不敢忽也。財成其道,則有節制;輔相其宜,則無過差。故安而不忘危,存而不忘亡,治而不忘亂,然後亂亡無自而至焉。此其幾微不可不戒者。
『大象伝』に言う。「天地交合す、これ『泰』なり。君主は此に由りて天地運行の法度を裁制成就し、天地生養の適宜する処を輔助賛襄し、以て百姓を教導護祐す。」天地交合して『泰』と成るは、太平極盛の時を象徴す。聖明の君王は此の種の時に在りてかえって丝毫の怠慢あるを敢えてせず。天地の道を裁制成就すれば、政事に節度有り。天地の宜を輔助賛襄すれば、措施に過失偏差なし。だから安定の時に危険を忘れず、存続の時に覆亡を忘れず、太平の時に禍乱を忘れず。こうすれば禍乱と滅亡は上門して来る由なし。これはまさにあの細微の苗头で、警戒を加えざるべからざる処である。
「以左右民」者,民至愚而無知,非聖人有以利導扶持而安全之,則其居太平之時也,驕奢滛泆無所不至,而卒蹈於刑辟者多矣。周家之業,至成王,周公始陳后稷先公致王業之艱難。今觀《七月》之詩,所以財成輔相天地、以左右斯民者,可謂至矣。民為邦本,則太平之基也。天心不可見,考之民而已。
「以左右民」を説くに、百姓は極めて愚昧にして見識を缺少す。若し聖人が引導扶持を加え、彼らをして平安周全ならしめざれば、則ち彼らが太平の世に身を処する時、驕縦奢侈・荒淫放蕩は様様皆為し出し、最終に刑法を触犯する人は多し。周朝の基業は成王の手に伝わり、周公はこそ彼に后稷および歴代先公の王業を開創したる艱難を陳述した。今日『詩経・豳風・七月』を読めば、其の中の天地を裁制賛襄し以て百姓を護祐する用意は、極致に至ったと言うべし。百姓は国家の根本にして、即ち太平の根基なり。上天の心意は直接見る能わず、百姓の処境を考察すれば即ち明白なり。
初九:拔茅茹,以其彚,征吉。象曰:拔茅征吉,志在外也。初九最處乾下,為健之始,陽雖長而未盛,陰方退而未逺。聖賢君子欲有所為,非一人之力能獨濟也,必當拔用賢才,引其朋類,同心同徳,萃於朝廷,然後太平之功可得而成也。
『泰』卦初九の爻辞に言う。「茅草を拔き起こすに、其の根鬚を連ね、其の同類と共にす。前進すれば吉祥。」『小象伝』に言う。「茅を拔き前進して吉祥なるは、心志が外に向かうに在るが故に。」初九は下卦乾の最下方に処し、剛健の徳の開端で、陽気は生長し在ると雖も未だ強盛ならず、陰気は剛に退去したれど未だ遠く走らず。聖賢君子が作為有らんと欲するは、決して一人の力量の单独に成し得る所に非ず。必ず賢能の才を提拔任用し、自らの同道を引薦し、心を斉しく一致せしめ德行相同じく、朝廷の上に会聚せしめば、こうすれば太平の功業はこそ成就し得る。
孔子曰:茅之為物薄而用可重也,可羞於王公,可薦於神明,以象賢者有潔白之質也。茹者,根也,茅之生也,根相牽連。彚者,類也。徵者,進也,進必以正,故曰征也。君子小人各有其類,拔其一則皆相連而起,有茹之象。君子進,則所引拔者皆君子;君子眾多,則生民必被其利,宗社必蒙其福,故曰「以其彚征吉」也。
孔子は『繋辞上伝』の裡に言う。「茅草は物品として本身微薄なれど、用いる所は以て重大なるべし。」それは王公に進献し得、神明の前に陳設し得、以て賢者が潔白純正の品質を具えるを象徴す。「茹」は即ち根鬚で、茅草の生長する時、根鬚は互いに牽連して一緒に在り。「彙」は即ち同類。「征」は即ち前進で、前進は必ず正道を循るを要す。だから「征」と呼ぶ。君子と小人は各々自らの同類有り。其の中の一個を拔き起こせば、同類は牽連して一斉に起こる。これが「茹」の取る象である。君子が進用せられれば、彼の引薦提拔する所も皆君子なり。君子の人数は一たび多くなれば、百姓は必ず彼らの好処を蒙り、宗廟社稷は必ず彼らの帯び来る福祉を承受す。だから「其の彙を以て征けば吉」と言う。
象曰「拔茅征吉,志在外」者,小人得路,志於得君而已;君子得路,必搜訪於外,以盡天下之賢才,使野無遺賢,故曰「志在外」也。抑君子之進,常出於不得已,彼其於世未數數然也,故雖享厚祿、握重權,而其志未嘗不惕然以顛覆為懼,而思退身之樂也,豈與貪得患失者同日語哉!
『小象伝』の「茅を拔き征けば吉、志は外に在り」と講ずるは、小人が一旦勢を得れば、心思はただ君主の寵信を博取するに在るのみに因る。君子が一旦勢を得れば、必ず朝廷の外に向かいて広く搜求訪察し、天下の賢才を皆網羅して入れ、民間に遺漏せられた賢人を再び有らざらしむ。だから「志在外」と言う。さらに言えば君子の出仕は、常に已むを得ざるに出る。彼らは世間の功名に対して汲汲として追求せず。だからたとえ優厚の俸禄を享受し甚だ重き権柄を握るも、心裡には嘗て警惕戒惧せざるなく、ただ傾覆を招致せんことを恐れ、而して時時抽身引退の安楽を想う。これは豈にあの禄位を貪求し患得患失の人らと相提並論すべきや。
九二:包荒,用馮河,不遐遺,朋亡,得尚于中行。象曰:包荒,得尚于中行,以光大也。九二以陽剛之才,有應乎五,而處人臣之正。當泰之時,能包含荒,雖狂狷之士、不顧險患如不假舟楫而馮河者,無不容納,此真大臣之任。
『泰』卦九二の爻辞に言う。「荒穢を包容し、能く一身の勇を憑りて徒歩にて河を渡り、疎遠の人を遺棄せず、党を結び私を営まず。こうしてこそ中に居りて行う君主に配合するに足る。」『小象伝』に言う。「能く荒穢を包容して中道を行う君主に配合するは、其の徳光明盛大なるを以て也。」九二は陽剛の才干を具え、上に向かいて六五と相応じ、人臣の応有の正位に処す。『泰』の時に当たりて、彼は能くあの粗疏荒率の人を包容し、たとえ狂放耿介の士か、或いは危険を顧みず舟船を借らずして徒歩にて河を渉るが如き莽撞の人かも、容納し得ざるなし。これこそ真に大臣の担当すべき責任である。
當海內交泰之時,人材眾多,若遴選太精,則豪傑之士或不得其職,則聚而為冦盜者多矣,秦、隋之末是也。當廓其度量,包含荒逺者無所棄遺,則山林之士莫不皆至,近者無所阿比,故朋黨之禍無自而興。如此,乃能配乎九五中行之主而無偏黨之私也。人臣之道至此,則光明盛大不可有加矣。
天下の上下交泰の時に当たりては、人才众多なり。若し選抜が苛細に過ぎれば、則ち豪傑の士に相応の職位を得ざる人有り。此に於いて聚集して盗寇と淪落する人は多し。秦朝末年・隋朝末年は即ち此の如し。此の時は応当に自らの器量を拡大し、粗疏偏遠の人を一併に包容して遺棄を加えざれば、則ち山林隱逸の士は肯んじて前進せざるなし。身辺の親近する人に対しても偏私阿附せざれば、朋党の禍は因りて興る由なし。此の如くに做到すれば、こそ中に居りて行う君主と相配合し、而して偏袒結党の私心なきを得る。人臣の道は此の歩に做到せば、便ち光明盛大にして復加するに無きに至る。
九三:無平不陂,無往不復,艱貞無咎,勿恤其孚,于食有福。象曰:無往不復,天地際也。治亂存亡、安危之相因,如陰陽寒暑之必至,有不可易者。惟聖人為能因其盈虛而消息之,使常治而不亂,常存而不亡,常安而不危也。
『泰』卦九三の爻辞に言う。「一直に平坦にして傾斜に変わらざるなく、一直に前往して返らざるなし。艱難の中に正固を守持すれば過錯なし。別人が己を信ずるや否やを憂慮する勿れ。禄食を享用する上に自ずから福分有り。」『小象伝』に言う。「一直に前往して返らざるなしとは、此処はまさに天地交界の処に因る。」治と乱・存と亡・安と危は互いに因果を為す。陰陽寒暑の必ず輪転するが如く、其の中に更改すべからざる定則有り。ただ聖人のみ能く盈満と虧虚の態勢に順いて調節を加え、天下をして常に太平にして禍乱を生ぜず、常に保全して滅亡に至らず、常に安定して危険に陥らざらしむ。
消息之道豈有他哉?兢業以圗之,危懼以處之,當治安而不忘亂亡之戒,則可以保其治安而無咎矣。「勿恤其孚,于食有福」者,聖人處泰之時,常思艱難而履夫中正,則在我者無愧矣,人之信不信何所恤哉!食者,人之所享也;福者,天之所降也。處泰之世,當乾道將復之時,獨以艱難守正而享其福祿,非徼倖也。象曰「無往不復,天地際」也。九三處乾坤之間,當天地之際,平者當陂,往者當復,惟艱難守正,庶可保其常安耳。聖人知世路之將阻、陽氣之必復,故於此爻特為之戒云。
盈虚消長を調節する辧法は豈に別のあらん。過ぎず兢兢業業として謀劃し、憂危戒惧の心を懐きて自ら処り、まさに太平安定の時に当たるも禍乱覆亡の警戒を忘れず。こうすれば治安を保住して過錯なきを得る。所谓「其の孚を恤うる勿れ、食に於いて福有り」とは、聖人が『泰』の時に身を処して、常に艱難を思慮して中正の道を踏行せば、則ち自らの此一辺に於いては心に愧るなく、別人の信ずるや否やはまた何ぞ憂慮せんを言う。「食」は人の享用する禄養で、「福」は上天の降下する賜与である。泰通の世に身を処し、まさに乾陽の道が回復せんとする時に当たりて、独り彼は艱難を以て自ら守り正道を持定して福禄を享有す。これは僥倖に得来するに非ず。『小象伝』に「往きて復らざるなし、天地際也」と言う。九三は乾と坤の間に処し、まさに天地交接の処に当たる。平坦の将に傾斜と為らんとし、前往の将に返回せんとす。ただ艱難の中に正道を守持せば、こそ長久の安定を保住するの希望有り。聖人は世道の将に受阻せんこと・陽気の必ず回復せんことを預知す。だから此一爻に於いて特に世人のために告戒を提出す。
六四:翩翩,不富以其鄰,不戒以孚。象曰:翩翩不富,皆失實也;不戒以孚,中心願也。地之形頺然而處乎下,今氣雖上行,終必趨下,翩翩然如飛鳥之疾,其勢順也。方泰之時,上下相承,陰陽相應,三陰三陽各安其所。
『泰』卦六四の爻辞に言う。「翩然として下降し、自ら富有せずして能く鄰近の同類を帯動し、告誡を用いずして互いに信従す。」『小象伝』に言う。「翩然として下降して富有せざるは、皆陽剛の充実の質を失したるを以て也。告誡を用いずして互いに信従するは、心の内より発する意願なり。」大地の形体は低垂にして下方に居る。いま坤陰の気は上に運行すと雖も、終に必ず下面に趨向せんことを要す。あの翩然として下る様子は飛鳥の疾落するが如し。これは形勢に順応するが故なり。『泰』の時にまさに当たり、上下は互いに承接し陰陽は彼此に呼応し、三個の陰爻・三個の陽爻は各々自らの位置上に安処す。
然天地之氣往無不復者,今三陽欲上行而三陰下之,上與五無不從者,是不富而能用其鄰也。夫富而能用其鄰,怵於利也;不富而能用其鄰者,利害同也。四以五、上為鄰,利害既同,固不待告戒而孚矣。陽為實,陰為虛,陰雖在上,其性本下。今三陰在上,皆為失實,其相率而趨下,乃其所欲也,故曰「中心願」也。
然るに天地の気は往くあれば必ず返る有り。いま三個の陽爻は上に向かいて行進せんとし、三個の陰爻は便ち下に向かいて退譲す。上六と六五は六四に跟従せざるなし。これが自ら富有せずして能く鄰近の同類を役使するである。富有して能く鄰近の人を役使するは、別人が利益に引動せらるるが故。富有せずして能く鄰近の人を役使するは、彼此の利害相同ずるが故。六四は六五・上六を以て鄰と為し、利害は既に一致すれば、本来告誡を需まずして互いに信従し得る。陽は充実し陰は虚空なり。陰は上位に処すと雖も、本性は下に向かう。いま三個の陰爻は上卦に居りて皆「失実」に属し、彼らは相継いで下に向かいて趨走す。まさに彼ら自らの願う所なり。だから『小象伝』は「中心の願い也」と言う。
六五:帝乙歸妹,以祉元吉。象曰:以祉元吉,中以行願也。六五以陰柔而居中正之位,帝女之象。天地交泰之時,陰雖上進,然樂於趨下,能降尊就卑,順以承夫,其受祉福而獲元吉也宜矣。九二以剛中之賢,上應六五,五能降其尊位,下交九二。天地、陰陽、君臣、夫婦,其道一也。六五為泰之主,故其象如此。女以嫁為歸,堯之二女降於溈汭,周之王姬亦下嫁於諸侯,其得所歸,乃其中心之所願也。人君能屈已求賢,則天下之士皆願立於其朝矣,天地交泰其在茲乎!小人得路,則朋滛下比,壊主心術,蔽君聰明,上下之勢隔絶而不通,馴致禍亂,可勝諱哉!
『泰』卦六五の爻辞に言う。「帝乙は女児を嫁し出だす。此に由りて福沢を獲得し大いに吉祥。」『小象伝』に言う。「此に由りて福沢を獲得して大いに吉祥なるは、中に居りて行い願いを遂ぐるを以て也。」六五は陰柔の質を以て中正の尊位に居り、帝王の女の象徴を具る。天地交通の時は、陰気は上に向かいて行進すと雖も、下方に趨向するを楽しみ、能く尊貴を放下し卑下に俯就し、柔順に丈夫を承事すれば、則ち彼女が福沢を承受し大吉を獲得するも、亦理の当然なり。九二は剛健守中の賢徳を憑りて、上に向かいて六五と相応ず。六五は能く自らの尊位を降下し、下に向かいて九二と結交す。天と地・陰と陽・君と臣・丈夫と妻子、其の中の道理は一致す。六五は『泰』卦の主爻なれば、取象此の如し。女子の出嫁を「帰」と称す。堯は二個の女児を嬀水の弯曲の処の舜の家に下嫁し、周王室の公主もまた諸侯に下嫁す。彼女らは各々帰宿を得、まさに内心の願う所なり。君主が能く己を屈して賢を求めれば、天下の士人は皆彼の朝堂の上に立たんことを願う。天地交泰の気象は大概此処に在らん。反対に、小人は一旦勢を得れば、便ち淫朋を結成し上下に結託し、君主の心術を敗壊し、君主の聡明を蒙蔽し、上下の勢を隔絶不通ならしめ、一歩一歩禍乱を醸成す。此の種の事は豈に諱言し得られんや。
上六:城復于隍,勿用師,自邑告命,貞吝。象曰:城復于隍,其命亂也。坤,土也。城者,土之所積累也,不能増髙倍薄,致其兢業之意,則城將頹圮而復于隍矣。治安之極,人君不能持盈守成,而湛於燕安,狃於侈泰,馴致土崩之勢而不自悟。
『泰』卦上六の爻辞に言う。「城墻は傾覆して城下の乾壕の裡に回填す。軍隊を動用する勿れ。自らの城邑より政令を発布せば、たとえ正を守るも憾惜を免れ難し。」『小象伝』に言う。「城墻傾覆して壕溝に回填すとは、政令の既に紊乱なるを以て也。」坤は土を代表す。城墻は泥土を層層に堆積して成る。若し能く不断に增高加厚し時時兢業戒慎の心意を保持せざれば、城墻は便ち崩塌坍毀し、重ねて壕溝の裡の泥土に変回せん。国家の安定は極点に至るも、君主は既成の基業を守住する能わず、かえって安逸享楽に沉溺し、奢侈驕泰に習慣し、一歩一歩土崩瓦解の勢に走向し、自己はなお毫も察覚せざるなり。
自古奢滛荒怠之主,享國長乆而亟致禍敗,以至滅亡者,皆因用兵開邉,外讎強敵,內動豪傑窺覬之心耳,隋煬帝、唐明皇是也。海內昇平之久,民不識兵革,一旦又欲興師動眾,雖近郡邑,其孰肯聴命?故雖貞而猶吝也。象曰「城復于隍,其命亂」也。城既復于隍,則尊者必降,上者必下,小人得志而執國命,禮樂征伐皆不自天子出,故曰「其命亂」也。
古より以来自今、あの奢侈荒淫・怠惰して政事する君主で、在位甚だ久しいのに迅速に禍敗を招致し以て亡国に至るは、皆対外に用兵拓辺して外に強敵の仇を結び、内にまた豪傑の士の覬覦の心を挑動したに因る。隋煬帝・唐玄宗は即ち此の如し。天下の太平すでに久しく、百姓は兵革の何物たるを知らず。一旦また師を興し衆を動かさば、たとえ近処の郡県城邑も、また誰か号令に聴従せん。だからたとえ動機は正を守るも、依然として憾惜を免れ難し。『小象伝』に「城隍に復る、其の命乱るる也」と言う。城墻は既に傾覆して壕溝に回填せば、則ち尊貴なるは必ず下降し、上に居るは必ず下に淪し、小人は志を得て国家の政令を把持し、礼楽征伐は皆復た天子より出でず。だから「其の命乱るる也」と言う。
否卦(坤下乾上)
坤下乾上 否之匪人,不利君子貞,大往小來。否之卦,天地不交,各復其位,乃「無平不陂,無往不復」之時乎!夫消息盈虛之理,蓋有不能使之常治而不亂、常安而不危者,聖人能使禍不至於深耳。否泰相因,有非人力所能勝,故曰「否之匪人」。
『否』卦は下卦を坤とし上卦を乾とす。卦辞に言う。「否閉の世は人道に合せず、君子の正固を守持するに利あらず。陽の大者は往き陰の小者は来たる。」『否』の此一卦は、天地二気は相交通せず、各々原来の位置に退回す。これはまさに『泰』卦の九三の説く「一直に平坦にして傾斜に変わらざるなく、一直に前往して返らざるなし」の時なり。消長盈虚の道理は、本来一面に天下をして永遠に太平にして乱れず永遠に安定して危くならしめ得ざるあり。聖人の能くする所は、過ぎず禍患をして陷ること深きに至らざらしむるのみ。『否』と『泰』は互いに因果を為し、其の中に確かに人力の勝過し得ざる部分有り。だから卦辞は「否の匪人」と言う。
先儒或以「匪人」為「匪人道」,蓋慮後世庸闇之主以一治一亂皆歸之於天,故紂曰「我生不有命在天」,此最害教之大者。然聖人方論否泰之理,不得不然,抑使後世常兢業畏慎,知治亂無常而不敢忽也。漢光武、唐太宗皆信圖,李淳風言唐中弱有女武代王,其兆既成,天之所命不可去也,學者固難言之,要之一治一亂豈人事哉?君子當天下否閉、小人道長之時,則有奉身而退。茍必欲以正道有為於其間,遇禍決矣,故昔之君子有詭辭以免禍,如叔孫通是也。一君子遇禍,則眾君子必相牽連而去,大者往則小者乗時而來矣。
前代の学者に「匪人」を「非人道」と解釈する人有り。大概後世の昏庸暗弱の君主が一治一乱を統統天意に推诿せんことを擔心す。商紂王の「我が一生は豈に天命を身に在らざらんや」と言えるが如き、これは最も教化に害する大事なり。ただ聖人はまさに否泰交替の道理を論述中なれば、此の如く講ぜざるを得ず。用意は後世をして常に兢業畏慎の心を懐かしめ、治乱は本来常態なくして軽忽するを敢えてせざらしむるに在り。漢光武帝・唐太宗は皆図讖を相信し、李淳風は唐朝が中途衰弱し姓武の女子有りて李唐王室を取代せんと言う。あの徴兆は既に形成せば、上天の命定する所は除去する術なし。学問を為す人は本来断言し難し。総じて一治一乱は豈に全是人事の左右し得る所ならん。君子は天下閉塞不通・小人の道日に益々生長の時に処して、則ち抽身引退すべし。若し必ず此の種の局面の裡に於いて正道を憑りて作為有らんとせば、禍に遭うは必然なり。だから从前の君子に隠晦委婉の辞を用いて禍を免るる者有り。叔孫通は即ち此の如し。一個の君子が禍に遭えば、衆多の君子は必ず牽連せられて一斉に離去す。陽の大者は一たび走れば、陰の小者は便ち機に乗じて入来す。
彖曰:否之匪人,不利君子貞,大往小來,則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下無邦也。內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子,小人道長,君子道消也。萬物盈天地之間,莫不負陰而抱陽,雖根莖之微,未有不假天地之氣而生長成遂者。若天地不交,則陰陽不和,雨、寒、燠、風皆不以時應,萬物何由而通乎?
『彖伝』に言う。「『否』卦の所谓否閉の世は人道に合せず君子の正を守るに利あらず陽の大者は往き陰の小者は来たるとは、天地相交通せずして万物の暢達し得ざるに因り、上下相交通せずして天下の国家と成るを得ざるに因る。内卦は陰にして外卦は陽、内裏は柔弱にして外表は剛強、内に小人を用いて外に君子を斥く。だから小人の道は日に漸く生長し、君子の道は日に漸く消退す。」天地の間に充満する万物は、一様として陰気を背負い陽気を懐抱せざるなし。たとえ細小の根と茎も、一様として天地の気を憑りてこそ生長成熟を得ざるなし。假如天地の気が相交通せざれば、陰陽は便ち調和し得ず、雨水・寒冷・温熱・風力は皆時に按じ節に応じて至る能わず。万物はまた何を憑りて暢通生長せん。
君所以尊安,以臣民愛戴之也;臣所以強固,以君能封殖之也。故君能下下以成其政,臣能歸美以報其上,則治道成矣。否之時,上下之情隔絶而不通,如天之自髙,地之自下,強弱相陵,大小相併而上不恤也。朝廷之勢日以微弱,政化日以陵遲,朝覲同之禮廢,屏衛勤王之義絶,是天下無邦也。三陰來居於內而三陽退處於外,君子往而小人來,小人之道浸以長,君子之道浸以消,此否之時也。
君主の尊貴安穩の所以は、臣民の愛戴に頼る。臣子の強盛穩固の所以は、君主の培植扶助に頼る。だから君主は能く尊を屈し下に礼して以て政治を成就し、臣子は能く美善を君上に帰して以て報答と作す。治国の道は完成す。『否』の時に至れば、上下の間の情意は隔絶不通、天がただ自ら顧みて高高と上に在り地がただ自ら顧みて沈沈として下に在るが如し。強者は弱者を欺凌し、大者は小者を呑併し、而して上位に在る人は竟に体恤を加えず。朝廷の形勢は一天天衰微し、政令教化は一天天敗壊し、諸侯朝覲会同の礼制は廃弛し、王室を屏衛し兵を起して勤王する道義は断絶す。これが「天下邦なし」である。三個の陰爻は進入して内卦を占拠し、三個の陽爻は外卦に退出す。君子は離去して小人は到来し、小人の道は漸漸生長し君子の道は漸漸消退す。これが『否』の時局である。
象曰:天地不交,否。君子以儉徳辟難,不可榮以祿。君子居否之時,當奉身而退,漢管寧之徒是已。寧見天下大亂,遂渡海至遼東,環堵篳門,偃息窮巷,晏然若將終焉,雖三公之位有所不顧,豈以世之榮辱累其心哉!
『大象伝』に言う。「天地相交通せず、これ『否』なり。君子は此に由りて倹約の徳を以て禍難を避け、禄位を以て自ら顕栄とせしむべからず。」君子は『否』の時に処して、応当に抽身引退すべし。漢末の管寧の一類の人は即ち此の如し。管寧は天下大乱なるを見て、便ち海を渡りて遼東に至り、四面土墻・荆條編門の屋子に住み、僻陋の巷の中に安卧し、泰然自若として、まるで彼処に終老せんとするが如し。たとえ三公の如き高位を面前に擺するも屑と顧みず。どうして世俗の栄辱に自らの心を牽累せしめんや。
初六:拔茅茹,以其彚,貞吉,亨。象曰:拔茅貞吉,志在君也。否卦以全體言之,則三陰在內,三陽在外,內小人而外君子也。以六爻之義言之,當否之時,賢人在下,以上應九四之君子,欲使其類牽連而退。故泰之初九,其道利於上行,則「以其彚征吉」,徵者,動而進也;否之初六,其道利於下止,則「以其彚貞吉」,貞者,靜而止也。方時大否,君子卷藏其道,退而窮處,身雖否而道不窮,故不失其吉且亨也。小人當退黜之時,則怨望訕讟,或為戎首,未嘗不疾視其上;君子則能以道義自處,窮通皆樂,雖引類而去,其心曷嘗一日而忘君哉!孔子三月無君則皇皇如也,故象曰「拔茅貞吉,志在君」也。
『否』卦初六の爻辞に言う。「茅草を拔き起こすに、其の根鬚を連ね其の同類と共にす。正固を守持すれば吉祥、亨通。」『小象伝』に言う。「茅を拔き正を守りて吉祥なるは、心志がなお君主の身上に在るを以て也。」『否』卦は整体に就きて言えば、三個の陰爻は内卦に在り三個の陽爻は外卦に在る。内に小人を用いて外に君子を斥くなり。若し六爻各自の含義に就きて見れば、まさに否閉の時に当たり、賢人は下位に処し、上に向かいて九四のあの君子と相応じ、自らの同類を帯びて一斉に引退せんと欲す。だから『泰』卦の初九は、路数は上に向かい進取するに適宜なれば、「其の彙を以て征けば吉」と言い、「征」は行動して前進なり。『否』卦の初六は、路数は下に向かい静止するに適宜なれば、「其の彙を以て貞なれば吉」と言い、「貞」は安静にして止守なり。まさに天下大いに否閉の時に当たり、君子は自らの道を収斂蔵起し、退きて困窮の地に居る。身は困頓すれど道は並びに困窮せず。だから其の吉祥亨通を失わず。小人は貶退罷黜せらるるの時に、便ち怨恨呪罵し、甚至と帯頭して乱を作す。在上位の者を仇視せざるなし。君子は而も能く道義を以て自らを安頓し、困窮顕達を問わず皆自ら其の楽しみを得る。たとえ同類を帯びて一緒に離去するも、彼の心はまた豈に一日も君主を忘記したことあらん。孔子は若し三個月出仕して君に事えざれば、便ち惶惶として安からず。だから『小象伝』は「茅を拔き貞なれば吉、志は君に在る也」と言う。
六二:包承,小人吉,大人否亨。象曰:大人否亨,不亂群也。六二當否之時,處人臣之正位,此暗君奸臣相濟而得路者也。小人方執其權綱,上覆有應,勢未能敵,為君子者當包容而承順之,故小人吉,而大人身雖否而心亨也。
『否』卦六二の爻辞に言う。「包み容れて上の者に承順す。小人に対しては吉祥、大人に対しては否閉の境に処すと雖も心志は亨通す。」『小象伝』に言う。「大人が否閉の世に能く亨通するは、あの一群の小人を攪乱せざるを以て也。」六二はまさに否閉の時に当たり、人臣の正位の上に処す。これは昏暗の君主と奸邪の臣子が互いに結託して勢を得た局面である。小人はまさに朝廷の権柄を握り、上面にはまた九五有りて彼と相応ず。形勢上は未だ之と抗衡する術なし。君子たるは応当に彼らを包容し表面上彼らに承順すべし。だから小人は吉を得、而して大人は否閉の境に身を処すと雖も、内心は亨通せり。
曰「大人」者,包容小人而承順之,非大人不能。孔子恐後世疑於同小人者,故曰「大人否亨,不亂群」也。包承小人而不亂小人之群,尢見其大,蓋從容渾跡於群小之間,未嘗悻悻然懐忿躁不平之氣,故小人莫得目而忌惡之。非獨明哲全身之道當然,亦所以傾否而開泰也。漢之陳太丘足以當之;若李膺、杜喬之流,徒激禍亂耳。
爻辞が「大人」と称するは、能く小人を包容し表面彼らに承順するは、大人の器量有る人でなければ到達し得ざるに因る。孔子は後世の人がこれを小人と同流合汚と懐疑せんことを擔心す。だから『小象伝』は「大人否亨、群を乱らざる也」と言う。小人を包容承順して小人のあの群を攪乱せざれば、更に彼の宏大を見出し得る。彼は従容自若として群小の中に混迹し、従来嘗て気冲冲として憤懣躁急・忿忿不平の神色を懐いたことなし。だから小人もまた彼に盯め附き彼を忌恨する由なし。これはただ明哲保身の応有の做法のみならず、またまさに否閉を傾覆し泰通を開出する途徑なり。漢朝の陳寔は此の如き評価に当たるに足る。李膺・杜喬のあの一類に至っては、過ぎず党錮の禍を激成したのみである。
六三:包羞。象曰:包羞,位不當也。六三以陰柔而據陽位,此小人得路之時,肆其凶險,上以逢迎其君,下以傾害善類,天下切齒,而能包羞忍恥以保寵固位者也。向使不乗時危亂以竊顯位,雖有陰險之才,亦不能窮凶極惡如此之甚也。孔子追論所以致此者,故曰「包羞,位不當」也,言髙位非小人所宜處,故曰「不當」也。
『否』卦六三の爻辞に言う。「羞ず可き事を包蔵す。」『小象伝』に言う。「羞を包蔵すとは、処する位置が恰当ならざるを以て也。」六三は陰柔の質を以て陽剛の位を占拠す。これは小人が勢を得る時なり。彼は肆意に凶狠陰険の手段を施展し、上には君主に逢迎し、下には善良の輩を傾軋陷害す。天下人は皆歯を切り根を噛まざるなし。而して彼は能く羞を包み恥を忍び、以て寵信を保住し地位を穩固にす。假使彼が時局の危乱に乗じて顕要の官位を窃取せざらずば、たとえ陰険の伎倆を懐くも、此の地步に窮凶極悪ならんには至らず。孔子は回頭して此の一切を造成した縁由を追究す。だから「羞を包む、位当たらざる也」と言う。意思は高位は本来小人の居処すべき所に非ざるを言う。だから「不当」と言う。
九四:有命無咎,疇離祉。象曰:有命無咎,志行也。否之時,三陰雖握權居中,然三陽在外,四復居近君之位,以陽剛而能柔巽以濟危難。九五休否之主,與之切近而同心,凡朝廷之命,一以付之,又能承命不違,故得無咎。如此非獨一人受福,凡同類而進者,皆麗於福矣。象曰「有命無咎,志行」也。三陽同心以濟難,小人雖居中用事,然國命在我,勢難乆安,故吾志得行,否將傾而為泰矣。
『否』卦九四の爻辞に言う。「君命を秉承すれば過錯なし。同類は皆福沢に附着し得。」『小象伝』に言う。「君命を秉承して過錯なきは、心志の施行を得る也。」否閉の時に当たりて、三個の陰爻は権柄を握りて内卦に居ると雖も、三個の陽爻は外卦に在り。九四はまた君主に接近する位置上に処し、陽剛の質を以て能く柔順謙遜に危難を紓解す。九五は能く否閉を休止する君主で、九四と貼近して心を同じくす。およそ朝廷の政令は、一概に彼に交付す。彼はまた能く君命を奉承して違逆せず。だから過錯なきを得る。こうすれば福を得るは彼一人に限らず、およそ彼と同類にして一同に進用する人は、皆此の福沢に沾附し得る。『小象伝』に「命有り咎なし、志行わる也」と言う。三個の陽爻は心を同じく力を協わせて危難を紓解す。小人は内卦に居りて権を当たり事を用うと雖も、国家の命脈は已に我らの手中に掌握せり。彼らの勢力は長久安穩なり難し。だから我が心志は施行し得、否閉は将に傾覆して泰通に転ぜん。
九五:休否,大人吉,其亡其亡,繋于苞桑。象曰:大人之吉,位正當也。否道既成,小人方握國命以乆其權,未易廢也;天下禍患,未易息也。惟九五之大人,以剛健之才,居得政之位,勢足以有臨,力足以有制,故能休否而逢吉也。休,廢也,息也,廢小人而息禍患,非大人其孰能之?
『否』卦九五の爻辞に言う。「否閉を止息すれば、大人は吉祥。心に常に『亡びんとす亡びんとす』を念ずれば、こそ叢生の桑根に繫がるが如く牢固たらん。」『小象伝』に言う。「大人の吉祥の所以は、処する位置の正当なるを以て也。」否閉の局面は既に形成せり。小人はまさに国家の命脈を握りて以て長久の権勢を維持す。廃除し易からず。天下の禍患もまた平息し易からず。ただ九五の此の大人、剛健の才干を憑り、政権を掌握する位置に居り、声勢は以て群下に臨制するに足り、力量は以て裁断制約するに足る。だから能く否閉を止息して吉祥に遇う。「休」は即ち廃止・平息の意なり。小人を廃除して禍患を平息するは、大人に非ずしてまた誰か能くせん。
九五雖有休否之勢,然小人尚處於內,君子尚處於外,非兢業以圗之,則治亂存亡猶未定也,故聖人為之戒曰「其亡其亡,繫于苞桑」。否泰將分之際,聖人常以必亡為心。桑者,其植根深,其生叢委,其材堅韌而不可拔,生民之本、國家基業之象也。以危亡為戒而繫於不拔之基,故能長存而不亡也。象曰「大人之吉,位正當」也。所以能休否而獲吉者,以陽剛履中正之位,以制群陰也。小人非能制其死命,孰肯退聴哉!
九五は否閉を止息する形勢を具えると雖も、小人はなお内卦に盤踞し、君子はなお外卦に留まる。若し兢兢業業として図謀せざれば、則ち是治是乱・是存是亡は皆未だ定数ならず。だから聖人は彼のために告戒を立下して「其れ亡びん其れ亡びん、苞桑に繫ぐ」と言う。否と泰が将に分判せんとする関頭に在りて、聖人の心裡には常に「必定要滅亡」の警覚を存す。桑樹の此の樹は、根を扎むこと甚だ深く、生長する時は叢聚盤結し、材質は堅韌にして拔き起こし易からず。まさに百姓の根本・国家の基業の象徴なり。危亡を以て警戒と為し、而して国事を此の拔動せざる根基に繫ぐ。だから能く長久存続して滅亡に至らず。『小象伝』に「大人の吉、位正当也」と言う。能く否閉を止息して吉祥を獲得する所以は、陽剛の質を以て中正の君位に踏み在るを以て、以て衆多の陰爻を制約するに用う。小人に対して、若し彼らの死命を扼住する能わざれば、彼らは豈に退譲して命を聴くを肯ぜんや。
上九:傾否,先否後喜。象曰:否終則傾,何可長也。甚哉,治道之難成、小人之難去也!當否之世,陰邪當路以害治道,雖三陽同心,不能一朝而頓除也。九五以中正得位,特能休之而已;至上九,然後能力傾而顯排之,猶先否而後喜也,其用力多矣。自昔未有常亂而不治者,秦之亂而漢祖取之,王莽之亂而光武興之。茍非聖賢馳騖而經營,則亂之日必長;亂之日長,則君子之受禍必深,生民之被害必酷。故象曰「否終則傾,何可長」也。
『否』卦上九の爻辞に言う。「否閉を傾覆す。先ず閉塞して後に喜悅に転ず。」『小象伝』に言う。「否閉は尽きれば則ち傾く。何ぞ長からんを得や。」実に難し。治世の道の成就し難き、小人の鏟除し難きこと。否閉の世に処して、陰邪の徒は権を当たり道を挡きて以て治道を敗壊す。たとえ三個の陽爻が心を同じく力を協わすも、一個の早朝に彼らを全部清除する能わざるは不可能なり。九五は中正を憑りて君位を得るも、過ぎず其の勢を止息し得るのみ。上九に至ってこそ、能く力を用いて傾覆し公開に排斥し得る。これが所谓先ず閉塞して後に喜悅なり。費した力气の多大なるを見るべし。古より以来長く乱れて治まらざるなし。秦朝は大乱して漢高祖は之に取代り、王莽は篡乱して漢光武は中興す。倘若聖賢の奔走操持なくんば、乱の日子は必ず拖長せん。乱の日子は一たび長ければ、君子の受ける禍害は必ず更に深く、百姓の遭う荼毒は必ず更に烈し。だから『小象伝』は「否は終れば則ち傾く、何ぞ長からん」と言う。
同人卦(離下乾上)
離下乾上 同人于野,亨,利渉大川,利君子貞。否泰者,君子小人相為消長。君子處內則為泰,小人處內則為否。君子欲去小人,小人必欲害君子。故泰之九三已有否之象,至上六則城復于隍矣;否之九四已有泰之理,至上九然後否終則傾矣。
『同人』卦は下卦を離とし上卦を乾とす。卦辞に言う。「曠野に於いて人と和同す、亨通。大川を渉越するに利し。君子の正固を守持するに利し。」否と泰の此の二卦は、君子と小人の互いに消長するを講ず。君子が内卦を占拠すれば『泰』と成り、小人が内卦を占拠すれば『否』と成る。君子は小人を除去せんと欲し、小人もまた必ず君子を陷害せんと欲す。だから『泰』卦は九三に至れば已に否閉の苗头を露出し、上六に至れば「城隍に復る」となる。『否』卦は九四に至れば已に泰通の道理を含み、上九に至りてこそ終に「否終則傾」となる。
凡如此者,皆以黨類相傾,邪正相勝,不能大同乎物,使君子小人各得其所而不競也。同人于野亨,則廣大矣;利渉大川,則可以渉險矣;利君子貞,則無有嫉忌之者矣。古者聖賢相遇,措斯世於三代之隆而不見其治之之跡,用一賢則不肖者自退,用一能則不能者自逺,未嘗挈挈然求異於眾人。如此,故包容廣大,無往而不通也。
およそ此の種の局面が出現するは、皆朋党同類が互いに傾軋し邪と正が互いに争勝し、万物と広泛に和同する能わず、君子小人をして各々其の所を得て再び争闘せざらしむるを做到せざるに因る。「同人于野、亨」とは、心量の広大を言う。「利渉大川」とは、険難を渡越し得るを言う。「利君子貞」とは、嫉妒忌恨する人有るべからざるを言う。古時の聖君と賢臣の相遇は、此の世道を夏商周三代の如き隆盛の中に安置せしめたが、而も彼らの治理する痕跡を看出し得ず。一個の賢人を任用すれば、不肖の輩は自ら退去し、一個の能人を任用すれば、無能の輩は自ら走り遠ざく。従来嘗て急切に自らの衆人と異なるを標榜したことなし。まさに此の如きに因りて、包容宏大にして何処に至るも行き通るを得る。
彖曰:同人,柔得位得中而應乎乾,曰同人。同人曰:同人于野,亨,利渉大川,乾行也。文明以健,中正而應,君子正也,惟君子為能通天下之志。同人以一柔為眾剛之主,以六處二,陰柔而寓陰位,人臣得位者也。二處離中,中也。二五正應,以離中之柔而應乎乾剛,卦之所以為同人也。
『彖伝』に言う。「『同人』卦、柔爻は正位を得中位を得て上に乾体に応ず。だから『同人』と呼ぶ。『同人』卦辞の講ずる『同人于野、亨、利渉大川』は、あれは乾健の徳の運行なり。文明にしてまた剛健、中に居り正を守りて上下相応ず。これは君子の正道なり。ただ君子のみ能く天下人の心志を貫通す。」『同人』は一個の陰爻を以て衆多の陽爻の主爻と為し、第六爻の柔を用いて第二位に居らしむ。陰柔の質が陰柔の位に安処す。これは人臣が其の正位を得るなり。六二は下卦離の中間に処す。これが「中」なり。六二と九五は正に相応じ、離体居中の柔順を用いて乾体の剛健に応合す。これが此の卦の『同人』と称する所以の縁由なり。
同人以無所不同為亨,有所不同為吝。同人于野,以象乾之覆燾;利渉大川,以象乾之剛健,故曰「乾行」也。文明者常失之柔弱,而能濟以健;中正者常失之無助,而能應乎五,故處群陽之間,介然獨立而不懼也。繫辭曰:夫易,聖人所以極深而研幾也。惟深也,故能通天下之志。聖人非能物物而通之,好惡榮辱、是非利害,眾人之所同也,能通乎一,則千萬人之情可見矣,非極乎至深者能如是乎?
『同人』は和同する能わざるなきを以て亨通と為し、和同する能わざる所有るを以て憾惜と為す。「同人于野」は、乾天が万物を覆蓋する広大に取象す。「利渉大川」は、乾徳の剛健に取象す。だから『彖伝』は此を「乾行」と言う。文明の徳を具備する人は、毛病は常に柔弱に過ぐるに在り。而して此の卦は能く剛健を以て補救す。中に居り正を守る人は、毛病は常に孤立無援に在り。而して六二は能く上に九五に応ず。だから衆多の陽爻の間に身を処して、卓然として独立し毫も畏懼せず。『繋辞上伝』に言う。「『周易』は聖人の以て幽深を窮究し幾微を研求する所のものなり。」まさに幽深なるに因りて、能く天下人の心志を貫通す。聖人は並びに毎一件の事物を逐一了解し得るに非ず。喜好と厭悪・栄耀と屈辱・是与非・利与害は、本来衆人の共有する所なり。能く其の中の一人の心を貫通せば、千万人の情実もまた以て見るべし。窮究して極幽深の地步に至らざれば、此の如く做到し得られん。
象曰:天與火,同人。君子以類族辨物。天體在上,火性炎上,性體若同而實異也。聖人處大同之世,於君子小人之間,蓋有甚不同者,但處得其道,無阿比之跡,小人自退聴,故人見其同耳。君子觀乾離二象以類族辨物,若黒白之不可亂也。
『大象伝』に言う。「天と火は相亲しむ、これ『同人』なり。君子は此に由りて族類を分辨し事物を区別す。」天の形体は高く上に居り、火の本性は上に向かいて燃焼す。二者の性質と形体は相同じるに似たれど、実は並びに一样に非ず。聖人は大同の時代に身を処す。君子と小人の間に於いては、実は極大の分別を存す。ただ彼の処置は法を得て、阿附結託の痕跡なければ、小人は自然に退譲して命を聴く。だから旁人はただ彼が人と和同する一面を見るのみである。君子は乾と離の此の二個の卦象を観察し、以て族類を分辨し事物を区別す。黒と白の如く絶対に混淆すべからず。
初九:同人于門,無咎。象曰:出門同人,又誰咎也。門者,人所由以出入,非奧室也。同人于門,則行乎大公至正之道,無所阿比,賞罰予奪、進退黜陟,一付之公議,我無容私焉,何咎之有?諸葛亮之亡,能使廖立垂泣、李平致死,以至公而無私也。故習鑿齒稱之曰:法行於不可不用,刑加乎自犯之罪,爵之而無私,誅之而不怒,天下有不服者乎?象曰「出門同人,又誰咎」也。九居同人之初而無所偏應,能盡同人之至公者,惟初爻為然,蓋無所繫應,則無親疎之間,孰得而議之,故曰「又誰咎」也。
『同人』卦初九の爻辞に言う。「門外に於いて人と和同す、過錯なし。」『小象伝』に言う。「門を出でて人と和同すれば、また誰か罪咎せん。」門は人の進出の経過する所で、深藏の内室に非ず。門口に於いて人と和同するは、即ち大公至正の道を奉行し、偏私阿附なし。賞与罰・给与奪・進用与罷黜は、一概に公論に交付して裁断せしめ、自己は其の中に私心を夾帯せず。なお何の過錯かあらん。諸葛亮の去世する時、能く彼に廃黜せられた廖立をして流涙せしめ、李平(李厳)をして憂憤して死せしめた。まさに彼の至公にして無私なるに因る。だから習鑿歯は彼を称賛して言う。「法度は用いざるを得ざる処に施行し、刑罰は本人自ら触犯した罪行に加え、封爵は私心より出でず、誅殺は憤怒より出でず。天下にまた誰か服せざらん」と。『小象伝』に「門を出でて同人す、また誰の咎かあらん」と言う。陽爻は『同人』の初に居り、偏私の応爻なし。能く和同の道の至公を最後まで発揮し尽くすは、ただ初爻のみ做到し得る。系恋して相応ずる対象なければ、また親近疎遠の分別もなし。誰かまた彼を議論せん。だから「また誰の咎かあらん」と言う。
六二:同人于宗,吝。象曰:同人于宗,吝道也。六二為一卦之主,以一陰而統五陽,非盡至公,何以服天下?今乃係應在五,雖位中正,所應偏也。他卦以有應為善,同人之世當以天下為公,豈得有所偏應哉?咸之為義,當以無心感物,無逺近親疎之間,而九四憧憧往來,朋從爾思。孔子曰:天下何思何慮?天下同歸而殊途,一致而百慮,天下何思何慮?蓋朋從爾思,則往來於心者未離乎黨與之間,故象以憧憧往來為未光大,同人于宗則吝道,其揆一也。
『同人』卦六二の爻辞に言う。「ただ本宗族の人と和同す、憾惜する所有り。」『小象伝』に言う。「ただ本宗族と和同するは、憾惜を致す路子なり。」六二は全卦の主爻で、一個の陰爻を以て五個の陽爻を統領す。若し徹底して至公を做到せざれば、何を憑りて天下人をして心服せしめん。いま它は而も九五との相応の関係を系恋す。位置は中に居り正を守ると雖も、応ずる対象は而も偏私なり。他の卦は相応の爻有るを以て好事と為すが、『同人』の世は応当に天下を以て公と為すべし。どうして偏応する所有るを得ん。『咸』卦の義理は、本来無心を以て万物に感通し、遠近親疎を分たざるべし。而して『咸』卦九四の爻辞はかえって「心思は往来して定まらず、ただ爾の同伙のみ爾の想法に順従す」と言う。孔子は『繋辞下伝』の裡に言う。「天下に何の思慮すべきかあらん。天下の万事は途を殊にして同じく帰し、百般の思慮して一致に帰す。天下に何の思慮すべきかあらん。」所谓「朋従爾思」とは、心裡に往来盤算する所が未だ党羽同伙の範囲を跳出せざるを言う。だから『小象伝』は「憧憧往来」を以て未だ光明盛大ならざると見做す。而して「同人于宗」は憾惜の道と判決せらる。両者の道理は一样なり。
九三:伏戎于莽,升其髙陵,三歲不興。象曰:伏戎于莽,敵剛也;三歲不興,安行也。同人之世,不能以大公同物,而各以私意顯立黨援,則強梁者必起而相圗矣。九三以陽剛而據陽位,則小人之強梁者。五與二為應,而三介乎其間,勢雖不敵而欲陰害之,故伏戎草莽之中。
『同人』卦九三の爻辞に言う。「兵甲を草莽の中に埋伏し、高き丘陵に登りて張望す。三年も敢えて発動せず。」『小象伝』に言う。「兵甲を草莽に埋伏すとは、対する敵手の剛強なるを以て也。三年発動せざるは、安穩にして行わんと欲する也。」和同の世に処して、若し能く大公の心を以て万物と和同せず、かえって各々私意を憑りて公然と党羽奥援を樹立せば、則ち強横の徒は必ず起こりて互いに図謀す。九三は陽剛の質を以て陽剛の位を占拠し、小人中の強横の一類に属す。九五と六二は本来正応なり。九三は横に中間に挿入す。力量は相手に敵し得ざるも、暗中に加害せんと欲す。だから兵甲を草莽の裡に埋伏す。
然二以中正得位而應乎乾剛,三雖有害之之意而不敢輕發也,故升其髙陵以窺伺之,至三歲之乆而卒不敢發,蓋二與五能同心,雖剛者莫能間之。象曰「伏戎于莽,敵剛也;三歲不興,安行」也。九五有剛健之徳,難以顯攻,三非五敵也,故遲迴至於三歲,不敢輕發。既能量敵慮患,則可安行而不蹈乎危難。三雖小人,然九五據崇髙之勢,心所黨比者止在六二,三雖不遜,五亦有以致之。聖人於此不言凶悔吝者,亦所以恕之,以見五之未光大也。
然るに六二は中に居り正を守り其の本位を得、また上に乾体の剛健に応ず。九三は加害の心有ると雖も軽挙妄動を敢えてせず。だからただ高陵に登りて暗中に窺探し、一直に三年の久しきに拖るも、終に敢えて発動せず。六二と九五の能く心を同じくするを以て、たとえ強横の人も彼らを離間する術なし。『小象伝』に「戎を莽に伏するは、敵剛なり。三歳興らざるは、安行なり」と言う。九五は剛健の德行を具え、正面より攻撃し難し。九三は本来九五の敵手に非ず。だから遲疑徘徊して三年に至り、敢えて軽く手を動かさず。既に能く敵手を估量し後患を顧慮せば、便ち安穩にして行い得、危難に踏み入るに至らず。九三は固より小人なれど、九五は崇高の形勢を占據し、心裡に党を結び親附するは而も六二一個のみ。九三は馴服せずと雖も、九五自身もまた此の種の局面を招致するの責任有り。聖人は此処に於いて凶を言わず悔吝を言わざるも、亦意有りて九三を寛恕し、以て九五の心量が未だ光明盛大ならざるを顕出す。
九四:乗其墉,弗克攻,吉。象曰:乗其墉,義弗克也;其吉,則困而反則也。墉,牆垣也。四與五為鄰,三四俱強,各懐異圗以窺伺於五。然四雖陽剛而處陰位,故乗三而承五,非若三之純乎剛暴,能知難而退,故弗克攻而獲吉也。
『同人』卦九四の爻辞に言う。「城墻に登りたれど、進攻を発動せず。吉祥。」『小象伝』に言う。「城墻に登りて進攻せざるは、道義の上に於いて本来攻むべからざるを以て也。吉祥の所以は、困を受けて後法則に回到するを以て也。」「墉」は即ち墻垣なり。九四と九五は相隣す。九三と九四は皆強横にして、各々別様の図謀を懐きて九五を窺伺す。ただ九四は陽剛の爻なれど、陰柔の位に処す。だから能く九三に凌駕して九五に順承す。九三の如く純に剛暴一路ならず。彼は能く難を知りて退く。だから真に進攻せずして吉祥を獲得す。
夫同人之時,君子小人處之宜各當其理。九五無君道,二方為群陽之主,亦不能由公心直道而繫應在五,而五又係應在二,故群小紛然爭為戎首,或伏於草莽俟時而竊發,或顧望形勢乗間而相傾。非二五以中正剛健內外協濟,則處乎二強敵之間,豈不危哉!以四之強,又逼近尊位,然卒不克攻者,君臣之分、上下之勢非順也。知其非順,困而反就臣位,則免乎凶咎矣,故象曰「乗其墉,義弗克也;其吉,則困而反則」也。
和同の時代に処して、君子と小人の安頓は皆応当に各々其の理に合すべし。九五は君たるの道を缺少し、六二はまさに衆陽爻の主爻を為すも、能く公心直道を憑りて行事せず、かえって九五との相応を系恋す。九五はまた六二との相応を系恋す。此に於いて群小は紛紛として争うて帯頭して乱を作さんとす。或いは草莽の裡に埋伏して時機を待ちて偷襲せんとし、或いは形勢を观望して隙を伺いて傾軋せんとす。若し六二と九五が中正と剛健を憑りて内外配合し互いに援助せざらずば、二個の強敵の間に処して、豈に危険ならずや。九四の強横を以てし、また君位に緊逼するも、最終に而も進攻せざるは、君臣の名分・上下の形勢の皆順ならざるに因る。彼は此の形勢の順ならざるを明白に知り、困境の中に於いて臣子の本位に回到すれば、便ち凶険と過咎を免去す。だから『小象伝』は「其の墉に乗ず、義克たざる也。其の吉は、則ち困りて則に反る也」と言う。
九五:同人,先號咷而後笑,大師克相遇。象曰:同人之先,以中直也;大師相遇,言相剋也。君道患不廣大。九五履尊位而握重權,當如天之無不覆燾、地之無不持載,生殺子奪一付之無心可也。五既不能為群陽之主,而三得擅之,此眾之所必爭也。眾既不與,欲下應乎二,而介乎兩強敵之間,孤立而無援,憂憤之切,卒至用大師以摧二冦,然後方得與二相遇,故先號咷而後笑,大師克相遇也。
『同人』卦九五の爻辞に言う。「人と和同す、先ず号啕大哭して後に歓笑す。大軍を動用して戦勝して後に乃ち相遇を得る。」『小象伝』に言う。「和同の初めの号啕する所以は、中を守り正直なるを以て也。大師を用いてこそ相遇を得るは、先ず相手方に戦勝するを要するを言う也。」君たるの道は最も怕れる所は広大ならざるなり。九五は尊位の上に踏み在り重権を握る。本来応当に天の如く覆蓋せざるなく地の如く承載せざるなく、生殺予奪は全て無心より出ずるこそ好し。九五は既に衆陽爻の主と為るを成さず、かえって九三をして衆望を専擅せしめた。これは便ち衆人の必然的に争奪する局面と成る。衆人は既に彼に帰附せず、彼は下に向かいて六二に応合せんと欲すれど、また二個の強敵の間に挟まり、孤立して援なし。憂憤の極に至り、最後には已むなく大軍を動用して九三・九四の此の二股の寇敵を摧破し、然るのちにこそ六二と相会し得る。だから先ず号啕して後に歓笑し、大軍を動用して戦勝して後にこそ相遇すると言う。
克而後相遇,亦已危矣。克如「鄭伯克段」之克,以見敵之強大、取之之難也。人君能以大公至正之道治天下,則逺近俱應,同異咸服,何至竊竊然置號笑於黨與親疎之間哉!象言「同人之先,以中直也;大師相遇,言相剋」也。九五師得中而理直,則非理犯已者若不足慮,然卒至用兵,然後僅能克之,亦可恥矣,何足喜也!以深見三四之強、五無君道而失同人于野之義也。
勝ちてこそ相会し得る。此の局面は已に甚だ危険なり。此の「克」の字は、『春秋』の記する「鄭伯段を鄢に克つ」の「克」の如く、以て敵手の強大・取勝の艱難を顕示す。君主が若し能く大公至正の道を以て天下を治理せば、則ち遠近の人は皆響応し、意見の相同じき・同じからざるも皆心服せん。何ぞ小家子気に号啕と歓笑を党羽親疎の圈子の裡に擺さんや。『小象伝』の講ずる「同人の先は、中直を以て也。大師相遇とは、相克するを言う也」。九五の出兵は中道に合して事理正直なり。あの理なく自己を侵犯する者は看るに憂慮するに足らざるに似たれど、然るに最後に竟に兵力を動用してこそ、勉强に相手方に戦勝せり。これもまた羞耻に足る。どこに高興するに値する所かあらん。此に由りて更に能く九三・九四の強横、および九五の君道を欠乏し「同人于野」の本義を丢失せしを看出す。
上九:同人于郊,無悔。象曰:同人于郊,志未得也。上九處眾陽之上而獨無所爭,亦知其不可爭而悠然逺去,自樂於垧,非無有為之志,但知其紛紛而脫身事物之外,以逺害而已,雖可以無悔而志未得也。九處乾剛之上,其志豈止求免於悔吝哉?吾知其不得已也,故象曰「同人于郊,志未得」也。
『同人』卦上九の爻辞に言う。「郊外に於いて人と和同す、悔恨なし。」『小象伝』に言う。「郊外に於いて人と和同すとは、心志の未だ実現せざる也。」上九は衆陽爻の上に処するも独り争奪する所なし。亦争うべからざるを知るに就いて、悠然として遠く去り、遠郊の地に於いて自ら其の楽しみを得る。彼は並びに作為有らんとする志向なきに非ず。ただ局面の紛乱を看清み、此に於いて事務の外に抽身し、以て禍害を遠離するのみ。此の如くは悔恨なきを得ると雖も、心志は終に実現せざるなり。陽爻は乾体剛健の頂端に処す。彼の志向は豈にただ悔恨憾惜を免れるを求むるのみならん。知るべしこれは已むを得ざるに出る。だから『小象伝』は「同人于郊、志未だ得ざる也」と言う。
大有卦(乾下離上)
乾下離上 大有,元亨。彖曰:大有,柔得尊位大中,而上下應之,曰大有。其徳剛健而文明,應乎天而時行,是以元亨。繋辭曰:富有之謂大業。聖人能通天下之志,以大同乎物,則四海雖廣、萬物雖眾,無不為我有矣。
『大有』卦は下卦を乾とし上卦を離とす。卦辞に言う。「大いに亨通す。」『彖伝』に言う。「『大有』卦、柔爻は尊貴の位を得広大の中に居り、而して上下の各爻は皆来たりて之に響応す。だから『大有』と呼ぶ。其の徳性は剛健にしてまた文明、天道に順応して時に按じて運行す。それ故大いに亨通す。」『繋辞上伝』に言う。「所有する富厚広大は、則ち偉大の功業と作す。」聖人は能く天下人の心志を貫通し、万物と広泛に和同せば、則ち四海は遼闊なれど万物は衆多なれど、一様として我が所有に帰せざるなし。
然非得尊位大中而上下應之,則不能奄海內而有之;非其徳剛健而文明、應天而時行,則不能大亨也。五以陰柔而得尊位,生殺之柄既自我出,五陽雖強不敢違也;體文明而履剛健,應天而時行,造化之權皆自我制,五陽雖眾不能困也。
然るに若し尊位を得広大の中に居りて上下皆来たりて響応せざれば、四海を覆蓋して己が有と為し据うる能わず。若し徳性剛健文明・天道に順応して時に按じて行わざれば、大いに亨通する能わず。六五は陰柔の質を以て尊位を取得す。生殺の権柄は既に我が手より出ずれば、五個の陽爻は強盛なれど敢えて違抗せず。它は文明の体を秉り剛健の徳に踏み、天時に順応して行う。造化の権柄は皆我より裁制す。五個の陽爻は衆多なれど它を困る能わず。
象曰:火在天上,大有。君子以遏惡揚善,順天休命。人君以柔順之徳居極尊之位,體文明而履剛健,則物無不照燭者,故有火在天上之象。大有之世,海內治安,天下極盛之時,物繁事夥,非用刑賞以勸沮之不能齊也。
『大象伝』に言う。「火は天上に在りて照耀す、これ『大有』なり。君子は此に由りて邪悪を遏止し善行を表彰し、上天の美好の命令に順従す。」君主は柔順の徳を以て最も尊貴の位置に居り、文明の体を秉りて剛健の行に踏む。然らば万物は照らさざるなし。だから「火在天上」の卦象有り。『大有』の時代は、四海安定、天下極盛の時なり。事物繁多・政務紛雑にして、若し刑罰と賞賜を用いて勧勉・阻遏せざれば、整斉画一する術なし。
聖人於此當遏惡揚善,使惡者有所憚而不敢為,善者有所恃而日加勸。書曰:天命有徳,五服五章哉!天討有罪,五刑五用哉!又曰:作善降之百祥,作不善降之百殃。此天之休命也。聖人代天理物,則刑賞之行,豈能違乎天道、逆乎天心也哉!
聖人は此の時候に於いて応当に邪悪を遏止し善行を表彰し、悪を為す人をして忌惮あって敢えて再び為さざらしめ、善を行う人をして倚仗あって日に益々勉励せられしめん。『尚書・皋陶謨』に言う。「上天は徳有る人を任命すれば、則ち五等服飾の五種の紋章を用いて彼を表彰す。上天は罪有る人を討伐すれば、則ち五種の刑罰の五種の施用を用いて彼を懲治す」と。『尚書・伊訓』にまた言う。「善事を作せば、上天は百様の吉祥を降す。不善の事を作せば、上天は百様の災殃を降す。」これが即ち上天の美好の命令なり。聖人は上天に代わりて万物を治理す。然らば刑罰と賞賜の施行は、豈に天道に違背し天心を逆らう能わんや。
初九:無交害,匪咎,艱則無咎。象曰:大有初九,無交害也。大有以一陰而主五陽,而四陽各以其才致用於下,故能處治安之時,享全盛之業。陽雖剛健而處卦下,當大有之初,責望者眾,獨離群退處,不出而交物,則有害之者,然非其罪也。惟以艱難節儉自處,以防驕逸之過,則可免乎咎悔矣。
『大有』卦初九の爻辞に言う。「交往なければ妨害なし。過錯と算えず。艱難の中に処りて戒惧すれば、過錯あらじ。」『小象伝』に言う。「『大有』の初九は、未だ交往の害なき也。」『大有』は一個の陰爻を以て五個の陽爻の主と為し、而して其の余の四個の陽爻は各々才干を憑りて下面に於いて作用を施展す。だから能く安定の時世に身を処し、極盛の功業を享有す。初九は剛健なれど、卦の最下方に処し、まさに『大有』の開端に当たる。衆人の彼に対する期望は甚だ高し。彼若し独り衆人を離れて一旁に退居し、出でて外物と交接せざれば、彼に加害する人有らん。ただし此は彼の罪過に非ず。ただ艱難・節倹の態度を以て自ら処り、以て驕縦安逸の過失を防止せば、便ち過錯と悔恨を免れ得る。
雖然,士君子窮居隱約,退處寂寞之濱可也。大有之世,當出而交物,如豐之「勿憂宜日中」,宜照天下也。若乃豐其屋、蔀其家、窺其戶、閴其無人,則有致凶之道,故象曰「大有初九,無交害」也,以言無交則有害之者,非潔身獨往之時也。
話は此の如しと雖も、士人君子が困窮潦倒の時に、寂寞冷落の地に退居するは可なり。『大有』の時代に至れば、便ち応当に出でて外物と交接すべし。まさに『豊』卦の説く「憂慮する必用なし、太陽の空に当たるが如くするに宜し」に如く、即ち普く天下を照耀するに宜しきなり。若しかえって屋子を造ること高大にし、席箔を用いて自家を遮蔽し、門縫より外に向かいて張望し、屋裡は寂静にして空しく一人なからば、則ち凶険を招致する路子なり。だから『小象伝』は「大有初九、交害なき也」と言う。意思は人と交接せざればかえって加害する人を招来するを言う。これは身を潔くし自ら好し、独り往き独り来るの時に非ず。
九二:大車以載,有攸往,無咎。象曰:大車以載,積中不敗也。六五當大有之時而以柔徳處尊位,非責任群臣,安能斡旋天下、運量萬物以成無為之功乎?九二以剛健處人臣之正位而有應於上,如大車之載物,雖負重致逺,轍環天下而無傾覆之患,是足以勝其任矣。
『大有』卦九二の爻辞に言う。「大車を以て装載す。往く所有り、過錯なし。」『小象伝』に言う。「大車を以て装載すとは、貨物が車の中に堆積して傾覆敗壞に至らざるを以て也。」六五は『大有』の時代に処して柔順の徳を以て尊位に居る。若し責任を群臣に交付せざれば、どうして天下を斡旋し万物を調度して、あの無為而治の功業を成就せん。九二は剛健の質を以て人臣の正位に処して上面の六五と相応ず。大車が貨物を装載するが如く、たとえ重きを負いて遠く行き車の轍は天下に遍及するも、傾覆の憂患なし。これは以て勝任するに足る。
象曰「大車以載,積中不敗」也,物積於中而不敗,則其材可知矣。鼎之九四至於折足覆餗,其刑渥凶,言不勝其任也。孔子曰:徳薄而位尊,知小而謀大,力小而任重,鮮不及矣。蓋非有剛健之材、處得其正,使當重任,未有不敗者。觀鼎象、大有二卦,聖人垂戒之意深矣,人主任用大臣,曷可過其分量乎!
『小象伝』に「大車以載、中に積みて敗れざる也」と言う。貨物は車の中に堆積して敗壞に至らざれば、則ち此の車の材質は如何なるかもまた想い知るべし。『鼎』卦の九四は竟に「鼎の足は折断し鼎の中の美食は傾覆し出だし、身は重刑を受け、凶険」に至る。説く所は才力が職任を擔当し得ざるなり。孔子は『繋辞下伝』の裡に言う。「德行浅薄にして尊位に居り、智慧短小にして大事を図謀し、力量微弱にして重任を擔当すれば、禍に遭わざるは少なし。」大凡剛健の材質を具備せず、また正当の位置に処する能わざるに、彼をして重任を擔当せしむれば、事を敗せざるなし。『鼎』卦の象と『大有』の此の二卦を見れば、聖人の告戒を留下する用意は十分に深遠なり。君主が大臣を任用するに、どうして彼の承当し得る分量を超過し得んや。
九三:公用亨于天子,小人弗克。象曰:公用亨于天子,小人害也。九三以陽居陽,在他卦則為強臣;當大有之世,能自亨于天子,則處諸侯上公之位而能效臣節以事其上者也。小人當盛大之時,據富有之地,則勢必扈,而有唐室方鎮之患,其肯以貢賦亨上而自通於王庭乎?
『大有』卦九三の爻辞に言う。「公侯は天子に朝享を進献す。小人は此の一点を做到し得ず。」『小象伝』に言う。「公侯が天子に朝享を進献すとは、小人は此の種の位置上に在れば危害を造成するのみ。」九三は陽爻を以て陽位に居る。他の卦の裡に置けば強横の臣なり。『大有』の時代に処して、彼は能く自ら進んで天子に朝享を進献す。則ち彼は諸侯上公の高位に身を居して能く人臣の礼節を尽くして君上に事奉する人なり。小人は国家盛大の時に、富庶の地盤を占據し、気焔は必ず跋扈す。此に於いて唐朝藩鎮割拠の如き禍患有り。彼らは豈に貢賦を用いて君上に朝献し、自ら進んで朝廷と相通せんことを肯んぜんや。
亨與享意義略同,先儒多作享。書曰:敬識百辟享,亦識其有不享。亨者,能自達於上也;享者,朝覲同以時而享於天子之庭也。九三剛健而處下卦之上,此貴而不敢驕者。小人非獨不知尊朝廷,其或懐忠以奉上者,反以為害已而交惡之也。
「亨」と「享」は意思大致相同。前代の学者は多く「享」と作る。『尚書・洛誥』に言う。「諸侯たちの朝献を恭敬に記住し、また其の中の朝献に来たらざる者を記住せよ」と。所谓「亨」とは、能く自己より君上に通達するなり。所谓「享」とは、朝覲会同の礼制を按じ、時節に依りて天子の朝廷の上に進献するなり。九三は剛健にして下卦の頂端に処す。まさに身は顕貴に居るも敢えて驕縦せざる人なり。小人は自家尊奉朝廷を懂得せざるのみならず、あの忠心を懐きて君上に事奉する人に対して、かえって以て自己を妨害するを為し之と怨を結ぶ。
田正以魏地六州版籍歸朝廷,比鎮皆惡之,禍亂卒不可解,是亨于天子者,小人之所不利也,故曰「小人害」也。李徳裕草鎮魏詔書曰:勿為子孫之謀,欲存輔車之勢。所以誅其意而伐其謀也,故一方作難而諸鎮無敢坐鎮者,卒成昌中興之功,可謂能誅小人之情矣。
唐代の田弘正は魏博六州の戸籍図冊を献じて朝廷に帰せしめた。隣近の藩鎮は皆彼を憎恨し、禍乱は終に化解する術なし。見るに天子に朝献する人は、まさに小人の楽しまざる所なり。だから「小人害也」と言う。李徳裕は魏博鎮に暁諭する詔書を起草して言う。「子孫のために打算せず、唇歯相依・互いに声援する形勢を保存せんことを想え」と。これは彼らの用心を誅討し彼らの図謀を挫敗せんと欲するなり。だから一方が難を発する時、各藩鎮は兵を按じて观望するを敢えてするなし。終に会昌年間中興の功業を成就す。能く小人の隠情を誅討したと言うべし。
九四:匪其彭,無咎。象曰:匪其彭無咎,明辨晳也。九四逼近君位,三居其旁,以乾剛而據陽位,強臣之象也。四以忠順與三為敵,上承柔中之主而為所信,下乗強暴之臣而不敢加害,故得無咎也。象曰「匪其彭無咎,明辨晳」也,蓋言明智之士辨邪正之分、明逆順之理,然後內足以保身,外可以衛上,旁足以抑強也。匪其彭,自子夏作旁字,先儒皆從其說。蓋子夏親授學於孔子,自有易而後世無得其真者,今王弼注易,諸儒皆宗之,則其所從來亦逺矣。
『大有』卦九四の爻辞に言う。「自らの盛勢を張揚せず、過錯なし。」『小象伝』に言う。「盛勢を張揚せずして過錯なきは、能く明察分辨し清楚透彻なるを以て也。」九四は君位に緊挨し、九三は便ち其の旁に在り。乾体の剛健を以て陽位を占拠す。強横の臣の象徴なり。九四は忠順の心を以て九三と対抗し、上に向かいて柔順守中の君主を承奉して信任を得、下に向かいて強暴の臣に凌駕して相手をして加害するを敢えてせざらしむ。だから能く過錯なし。『小象伝』に「其の彭に匪く咎なし、明晳を辨ず也」と言う。明智の士は邪と正の界限を分辨して清く、逆と順の道理を見て明らかにし、然るのちに内は以て自身を保全するに足り、外は以て君上を護衛し得、旁は以て強横を圧制するに足る。「其の彭に匪く」の此の一句は、子夏より已来「旁」の字と作る。前代の学者は皆此の説法を遵従す。子夏は親しく孔子に受学したり。自ら『周易』有りて以降、後世は其の真義を得る人は少なし。いま王弼は『易』に注し、諸家の学者は皆宗主と奉ず。此の説法の来历の亦甚だ久遠なるを見るべし。
六五:厥孚交如,威如,吉。象曰:厥孚交如,信以發志也;威如之吉,易而無備也。六五正應在九二,當大有之世,君臣以至誠交孚而無間者。五以柔而履尊位,二能濟以剛嚴,則仁不至於優柔,剛不至於強暴,諸葛亮所謂「法行而知恩」者,吉孰如之!
『大有』卦六五の爻辞に言う。「其の誠信は人と交接し、また威厳有り。吉祥。」『小象伝』に言う。「誠信は人と交接すとは、信実を以て別人の心志を激発する也。威厳にして吉祥なるは、平易随和にして設防を需まざるを以て也。」六五はまさに九二と相応じ、『大有』の時代に処す。君臣は極誠を以て相待ち、互いに信任して毫も隔閡なし。六五は柔順の質を以て尊位の上に踏み、九二は能く剛正厳明を以て補救す。則ち仁厚は优柔に流れず、剛正もまた強暴に流れず。これはまさに諸葛亮の言う所の「法度は施行して百姓はなお恩を知る」。これより吉祥なるあらんや。
象曰「厥孚交如,信以發志」者,言上下交孚、君臣道合也。且人君豈無有為之志?人臣豈無能為之才?然非心徳之同,則孰與發之!「威如之吉,易而無備」者,大有之世,風俗恬熈,人主能肅以威嚴,使奸宄之心無自而萌,則可簡易而無備矣。
『小象伝』に「厥孚交如、信以て志を発す」と言う。上下は互いに誠信相通じ君臣の道は相契合するを言う。さらに言えば、君主は豈に作為有らんとする志向なからん。臣子は豈に事を成し得る才干なからん。然るに若し心志德行相同じからざれば、また誰を頼りて之を激発し出さん。所谓「威如の吉、易にして備なし」とは、『大有』の時代は風俗安楽和悦にして、君主は能く威厳を以て上下を整肅し、奸邪の徒の念頭をして萌生する由なからしむれば、則ち平易簡約にして処処設防を需まざるを得るを言う。
故議治道者,謂當備禦於太平無事之時,未有易而無備而可以保長存者,是大不然。人主當使威加四海,先以信義結百姓之心,則足以消患於之中,此乃備之大者。秦築長城未畢而劉項之兵已入闗矣,是豈無備者哉!
だから治国の道を議論する人有りて言う。応当に太平無事の時に防備を做好すべし。従来平易簡約にして防備を設けずして尚お長久保全する有らず。此の話は大いに尽くさず。君主は応当に威望を四海に遍加し、先ず信義を用いて百姓の心を収攏せば、則ち以て事情未だ成形せざるの際に禍患を消弭するに足る。これこそ防備の中の最も要緊なり。秦朝の長城は未だ修め完らざるに、劉邦・項羽の軍隊は已に函谷関に攻入せり。あれは豈に防備なかりしにあらずや。
上九:自天佑之,吉,無不利。象曰:大有上吉,自天佑也。大有火在天上之象,火之性固以至明,又處天上,如豐之宜照天下,明之盛也。上九處大有之終,在六五之上,功業成而不居,富貴極而能退,宜乎為上天之所佑也。
『大有』卦上九の爻辞に言う。「上天よりの保佑、吉祥、利あらざるなし。」『小象伝』に言う。「『大有』上爻の吉祥の所以は、上天よりの保佑を来る也。」『大有』は火在天上の卦象有り。火の本性は本来極めて明亮にして、また天の上面に処す。まさに『豊』卦の説く普く天下を照耀するに宜しきに如く、光明は極盛に達す。上九は『大有』の終点に処し、位置はまた六五の上に在り。功業成就すれど自ら居らず、富貴極点に至るも能く引退す。理当に上天に保佑せらるべし。
大臣至於無位,容有怏怏而不順者;進退出處之際,容有詭譎而不情者;蔽賢嫉能,惴惴然懼人之壓已,以薦進所私者多矣。上九之臣,以陽剛而居群臣之上,履柔中之主,勢逼而愈順,失位而愈恭,下之眾陽咸得安其職任而盡其才能,孔子所謂「又以尚賢」也,宜乎自天佑之亨,上吉而無不利也。
大臣は職位なきの時に至れば、往々に怏怏として楽しまず心裡に順服せざる有り。進退出処の関頭に於いては、往々に詭詐虚偽・实情に合せざる有り。賢者を蒙蔽し能人を嫉妒し、惴惴として安からず別人の自己を圧し過ぐるを怕れ、因りてただ自己の私党を推薦提拔するに至っては、更に多し。上九の此の臣子は、陽剛の質を以て群臣の上に居り、脚下は柔順守中の君主に踏む。形勢は愈々相逼すれば彼は愈々恭順し、愈々職位を失えば彼は愈々謙恭す。下面の衆多の陽爻は皆能く自らの職守に安んじ各自の才能を施展す。これが孔子の『繋辞上伝』の裡の説く所の「また能く賢人を尊崇す」なり。上天の保佑を得て亨通し、上位に居りて吉祥・利あらざるなきも無怪なり。
謙卦(艮下坤上)
艮下坤上 謙,亨,君子有終。謙之為卦,艮下而坤上。艮,止也;坤,順也。止者為剛,順者為柔,柔反處乎上,剛反處乎下,是柔而能剛,外順而中止也。外順若卑而能上行,以不失已;內剛若亢而能降體,以不失物。謙徳如是,故能亨通而有始有卒也。世之小人,固有擎跽曲拳、脅肩謟笑、卑佞媚悅若妾婦者,自謂富貴可以長保,而不知幽顯之間舉將害之,則禍不旋踵矣。故惟君子為能保其終而無悔吝也。
『謙』卦は下卦を艮とし上卦を坤とす。卦辞に言う。「謙遜、亨通。君子は能く好い結局を有す。」『謙』の卦と成る所以は、艮が下に在り坤が上に在る。艮の意思は止、坤の意思は順。能く止まるは剛に属し、能く順うは柔に属す。柔はかえって上面に処し、剛はかえって下面に処す。これが即ち柔順の中に剛健有り、外表は順従して内心は守止する所有り。外表順従は卑下に似たれど、能く上に向かいて運行す。それ故自己を失わず。内裏剛強は高亢に似たれど、能く身段を放低す。それ故外物に違逆せず。謙の徳性は此の如き象なり。だから能く亨通し、而して始有り終有り。世上の小人は、本来あの躬を打ち揖を作し膝を屈して下拜し、肩膀を聳えて諂笑し、卑屈奉承・讨好取媚して小妾の如き人有り。自ら以て富貴は長保すべしと為すも、幽冥であれ人世であれ、彼を害せんと来る力量有るを知らず。禍事は眼を転ずれば至る。だからただ君子のみ能く善終を保住して悔恨憾惜なし。
彖曰:謙亨,天道下濟而光明,地道卑而上行。天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙尊而光,卑而不可踰,君子之終也。謙有天地之義焉。天體髙明而下濟於物,地形卑順而上行於天,此所以能亨也。天能降其髙明而其徳愈尊,地能効其柔順而其道愈大,二者固足以盡謙徳矣。
『彖伝』に言う。「謙遜の亨通する所以は、天道は下に行きて施済して光明显耀し、地道は卑下にして気は上に向かいて運行するを以て也。天道は盈満を虧損して謙遜を增益し、地道は盈満を改変して謙遜に流注し、鬼神は盈満を損害して謙遜に福を賜い、人道は盈満を厭悪して謙遜を喜好す。謙遜の人は尊位に処して徳は愈々光耀し、卑位に処して能く超越する人なし。これが君子の善終なり。」謙遜の裡に天地の義理を含む。天の形体は高明にして下に向かいて万物に施済し、地の形体は卑順にして其の気は上に向かいて天に通達す。これはまさに其の能く亨通する縁由なり。天は能く自らの高明を降下すれど其の徳は愈々尊貴、地は能く自らの柔順を献出すれど其の道は愈々広大。此の二点は本来以て謙の徳性を説き尽くすに足る。
天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙,謙尊而光,卑而不可踰,君子之終也。天地鬼神無不以謙為貴。老子曰:天之道其猶張弓乎!髙者抑之,下者舉之,有餘者損之,不足者與之。又曰:江海所以能為百谷王者,以其善下也。又曰:夫惟不爭,故天下莫能與之爭。
「天道は盈満を虧損して謙遜を增益し、地道は盈満を改変して謙遜に流注し、鬼神は盈満を損害して謙遜に福を賜い、人道は盈満を厭悪して謙遜を喜好す。謙遜の人は尊位に処して徳は愈々光耀し、卑位に処して能く超越する人なし。これが君子の善終なり」。見るに天・地・鬼神は謙遜を以て可貴と見做さざるなし。『老子』に言う。「天の道は、大概弓を張るが如きか。高きは之を壓下し、低きは之を抬上し、余り有るは之を減損し、足らざるは之に補給す」と。また言う。「江海の百川衆谷の帰往する王と為り得る所以は、其の善く低下の位置に処するを以て也」と。また言う。「まさに人と争わざるに因りて、天下に彼と争う能くする誰もなし」と。
天地且然,況於人乎?況於鬼神乎?天地無心也,能禍福人者鬼神也,有好有惡者人也。謙尊而光,以能下濟也;卑而不可踰,以能上行也。盡此二者,則剛止乎內,屹然如山之不可動搖;柔順乎外,頹然如地之無不持載。此君子所以能克終也。
天地は尚お此の如し。況んや是れ人をや。況んや是れ鬼神をや。天地は私心なきなり。能く人に禍を降し福を賜るは鬼神なり。喜好有り厭悪有るは人なり。「謙は尊にして光」なるは、能く下に向かいて施済するを以てなり。「卑にして踰うべからず」は、能く上に向かいて運行するを以てなり。此の二点を做尽せば、則ち剛健は内に止守して巍然として高山の如く動揺すべからず、柔順は外に顕現して寛厚として大地の如く承載せざるなし。これが即ち君子の能く善始善終する縁由なり。
象曰:地中有山,謙。君子以裒多益寡,稱物平施。莫卑乎地,莫髙乎山,山處地中,則地在山上,此髙者下之、卑者舉之也。君子觀此象,欲以謙之道行乎天下,故多者裒之,寡者益之。如地失之太卑,則使在山上;山失之太峻,則處於地中,豈奪彼而與此哉?稱物平施,無過不及,適中而已。
『大象伝』に言う。「大地の中に高山を蔵す、これ『謙』なり。君子は此に由りて多きを減損し少なきを増補し、事物を衡量して平均に施予す。」大地より卑下なるはなく、高山より崇高なるはなし。山は地の中間に処す。則ち地は山の上に在ると成る。これはまさに高きを壓し下げ低きを抬げ上ぐるなり。君子は此の卦象を観察し、謙遜の道を以て天下に推行せんと欲す。だから多きに対しては削減を加え、少なきに対しては増補を加う。大地が太も卑下に失すれば、便ち之を山上に居らしむ。高山が太も峻峭に失すれば、便ち之を地中に処せしむ。これは豈にあの一辺を奪い取りて此一辺に送らんをや。事物を衡量して平均に施予し、過分せずも不及せず、恰到の中道のみ。
觀謙之大象,夫豈一於卑弱、失已而趨媚於人哉!聖人深惡夫専務柔佞依阿如孔光、馮道之流,而剛方忠讜之士正色立朝如汲黯者,小人或更相譛讟以為非而卒排去之也,故仲尼於此反覆詳密而致意焉。
『謙』卦の大象を看れば、謙は豈に一味に卑弱にして自我を喪失して別人を讨好せんことをや。聖人は極めてあの専ら柔媚諂佞・依違両可を以て能事と為す人を厭悪す。漢代の孔光・五代の馮道のあの一流の如し。而して剛正忠直の士人は色を正して朝堂に立つ。漢代の汲黯の如し。小人は而も常に輪番に讒言を進め誹謗し、彼の不对と言い、終に彼を排擠して去らしむ。だから孔子は此処に於いて反復詳尽に自らの深意を表達す。
初六:謙謙君子,用渉大川,吉。象曰:謙謙君子,卑以自牧也。謙謙者,謙而又謙,謙之至也。世之小人多能行之而入於卑佞,故特曰君子,惟君子能謙乃可貴也。蓋初六最處卦下,勢雖卑而體則剛峻也。以此渉難,非獨人不忍害,亦不能害也;非獨不能害,亦深知其為君子而不敢加害也。渉難且吉,況安處卑陋、不以辭氣加乎人,其誰敢害之?故象曰「謙謙君子,卑以自牧」也。以卑巽自養其徳義,徳義之盛,乃可進而上行以極乎髙明也。
『謙』卦初六の爻辞に言う。「謙にしてまた謙の君子、此の如き德行を憑りて大河を渡越す、吉祥。」『小象伝』に言う。「謙にしてまた謙の君子とは、卑下の道を用いて自らを涵養する也。」所谓「謙謙」とは、謙遜の上に更に謙遜を加え、謙は極点に至るなり。世上の小人は多半もまた此の一套を做出し得るも、卑屈諂佞に落ち入る。だから爻辞は特に「君子」を標出す。ただ君子の謙遜のみこそ可貴なり。初六は全卦の最下方に処し、位勢は卑下なれど、艮の卦体は剛硬峻厲なり。此の如き品格を憑りて危難を渡越せば、別人は加害するに忍びざるのみならず、また加害し得るにも非ず。加害し得ざるのみならず、また彼が君子なるを深知するに因りて加害を敢えてせず。危難を渡越するも尚お吉祥なれば、況んや卑微簡陋の中に安処し、言辞声気を用いて人を壓せざるをや、また誰か彼に加害するを敢えてせん。だから『小象伝』は「謙謙君子、卑を以て自ら牧る也」と言う。卑下謙遜を用いて自らの徳義を涵養し、徳義の積ること深厚に至れば、こそ上に向かいて行進し得、直ちに高明の境地に達するに至る。
六二:鳴謙,貞吉。象曰:鳴謙貞吉,中心得也。謙者,君子處已接物之道當然,豈欲聲聞於人哉?六二在下而得中位,非謬為恭順以媚於上下者,中心誠實而安行之,發乎聲音笑貌而不可掩也。謙近卑佞,故雜卦曰「謙輕」者,不自重大也。體輕而不自重大,非由正道則入於佞諛矣,謙而非邪,乃獲吉也。象曰「鳴謙貞吉,中心得」者,處不得中而以謙聞,內不失已,外不失物,中無所愧,乃為得也。
『謙』卦六二の爻辞に言う。「謙徳は声音に発す。正固を守持すれば吉祥。」『小象伝』に言う。「謙徳は声音に発し正を守れば吉祥とは、内心に真有りて得る也。」謙遜は君子が自らを安頓し外物を接待する本来応有の態度なり。豈に名声をして別人の耳中に伝わらんと欲せんをや。六二は下卦に居りて中位を得る。あの恭順を假装して上下を讨好する人に非ず。彼は内心誠実にして安然として実行し、自然に声音笑貌の間に流露して、掩蔵し得ず。謙遜は卑屈諂佞と相近し。だから『雑卦伝』は「謙は軽し」と言う。意思は自らを看重せず自ら尊大に居らざるなり。挙止は軽くして自ら尊大に居らずとも、若し正道を循らざれば、便ち諂諛の裡に滑り入る。謙遜にして邪曲ならざれば、これこそ吉祥を獲得し得る。『小象伝』に「鳴謙貞吉、中心の得」と言う。たとえ処する位置が未だ必ずしも中を得ずとも、ただ謙遜を以て著称し、内に自らを失わず、外に外物に違逆せず、心中は問うに愧るなし。これこそ有所得と呼ぶ。
九三:勞謙君子,有終吉。象曰:勞謙君子,萬民服也。舜戒禹曰:汝惟不伐,天下莫與汝爭功。有勞而能謙,則上不疑而眾不忌也,故可保終吉。三以陽剛而處陽位,群陰之所主也。五雖居尊位,亦以柔道行之,非九三之剛健,孰任吾事哉?
『謙』卦九三の爻辞に言う。「功労有りて謙遜の君子は、能く善終を保有す。吉祥。」『小象伝』に言う。「功労有りて謙遜の君子は、万民は皆彼に帰服す。」舜は禹に告戒して言う。「汝ただ自ら誇らざれば、天下に汝と功を争う人なし」と。功労有りて能く謙遜なれば、則ち在上位の者は猜疑せず衆人もまた忌恨せず。だから能く善終の吉を保住す。九三は陽剛の質を以て陽位に居り、衆多の陰爻の帰依する主なり。六五は尊位に居ると雖も、亦柔順の道を用いて行事す。若し九三の此の如き剛健の才に非ざれば、また誰か国家の事務を擔当し得ん。
繫辭曰:勞而不伐,有功而不徳,厚之至也,語以其功下人者也。徳言盛,禮言恭,謙也者,致恭以存其位者也。孔子於此一爻特發明精微,使後學推類而求之,思過半矣。夫大臣有功則氣陵於人,鮮有能自全者,能以其功下人者幾希矣,非盛徳而知禮者能如是乎?謙也者,致恭以存其位者也。存位者,姑存其所有之位,不失舊物而已,蓋身安則社稷可保,非固位也。
『繋辞上伝』に言う。「労績有りて自ら誇耀せず、功勋有りて自ら其の徳を居らざるは、これ敦厚の極点に至るなり。説く所は自らの功労を拿りて人の下に甘んじ居るなり。徳は盛大を説き、礼は恭敬を説くべし。所谓謙とは、恭敬を極尽して自らの位置を保住するなり。」孔子は此の一爻に於いて特に精微の処を点明し、後の学者をして此に拠りて類推探求せしめば、亦大半を領悟する。『易经』の一切の言語、大抵総じて婉転含蓄なるも、独り此処は明白告戒す。凡そ大臣たる者は一たび功労有れば、気焔は便ち人に凌駕す。能く自らを保全するは少なし。能く自らの功労を拿りて人の下に甘んじ居るは更に寥寥として几も無し。徳行盛大にしてまた礼を懂得する人に非ざれば、此の如く做到し得られん。所谓謙とは、恭敬を極尽して自らの位置を保住するなり。所谓「存位」とは、過ぎず姑く已に有る職位を保住し旧有の物を丢掉せざるのみ。自身安穩なるを以て社稷はこそ保障有り。恋栈して位を固くするに非ず。
周公是巳。方成王未知其志,公乃作詩貽王,以明已之勤勞,豈顧戀寵祿者哉?其意特在救亂而已。象曰「勞謙君子,萬民服」者,人臣能使百姓心悅而誠服之,則至矣盡矣。謙卦於繇辭初六、九三皆稱君子,聖人之意深以小人為戒,蓋小人之卑佞或似乎謙,此聖主所宜加察而逺之也。
周公は即ち此の如き人なり。当年成王は未だ彼の心志を了解せず。周公は便ち詩を作して成王に送り、以て自らの勤労辛苦を表明す。これは豈に寵信禄位を貪戀する人ならん。彼の用意はただ危乱を挽救するに在るのみ。『小象伝』に「労謙君子、万民服」と言う。人臣は能く百姓をして心裡に喜悦して真心に帰服せしめば、則ち頂点に至り尽頭に至る。『謙』卦の爻辞は初六・九三の二処に皆「君子」と称す。聖人の用意は深く小人を以て戒と為す。小人の卑屈諂佞は時に見るに謙遜に甚だ似たるを以てなり。これは聖明の君主の応当に明察し而して疎遠を加うべき所なり。
六四:無不利,撝謙。象曰:無不利,撝謙,不違則也。六四處功臣之上,居近主之地,奉上接下,一以柔順,能發撝謙徳者也,故無往而不利也。雖然,以謙持已,故無所不利也,而已為大臣,當存體貌,上下之分不可踰也。象曰「無不利,撝謙,不違則」者,朝廷典禮、上下名分不可違也,故曰「不違則」也。
『謙』卦六四の爻辞に言う。「不利なるなし、能く謙遜の徳を発揮施布す。」『小象伝』に言う。「不利なし謙を撝るとは、法則に違背せざるを以て也。」六四は功有る臣九三の上面に処し、また君主に接近する位置に居る。君上に奉事し下屬を接待するに、一概に柔順の道を用う。能く謙徳を発揮施布し出だす人なり。だから何処に至るも不利なし。話は此の如しと雖も、謙遜を用いて自身を持守するは固より往けば利ならざるなし。然るに自己は既に身を大臣と為せば、便ち応当に応有の体統儀表を保持すべし。上下の名分は逾越すべからざるなり。『小象伝』に「不利なし謙を撝る、則に違らざる也」と言う。朝廷の典章礼制・上下の名分は皆違背すべからざるを説く。だから「則に違らず」と言う。
六五:不富以其鄰,利用侵伐,無不利。象曰:利用侵伐,征不服也。人主操賞罰威福之柄,能降尊位而謙,故上下無不悅應,雖不以利動而眾無不從者,猶不富而能用其鄰也。鄰,臣鄰君,視臣如比鄰,則相親相比,患難相疾病相扶持矣。
『謙』卦六五の爻辞に言う。「自ら富有せずして能く鄰近の同類を帯動す。出兵征伐するに宜しく、不利なるなし。」『小象伝』に言う。「出兵征伐するに宜しきは、往きてあの服せんことを肯ぜざる人を討伐する也。」君主は手に賞罰と威福の権柄を握るも、能く自らの尊位を降下して謙遜を行う。だから上上下下欣悦響応せざるなし。利益を用いて駆動せずと雖も、衆人は追随せざるなし。これは即ち自ら富有せずして能く鄰近の人を役使するに比す。此処の説く「鄰」とは、臣子が君主を以て鄰人と為すなり。君主が臣子を看待するに比隣而居するが如くせば、則ち彼此親近して相輔し、患難の際・疾病の時に互相扶持す。
有鐘鼓曰伐,無鐘鼓曰侵,侵小而伐大也。六五之君以柔道化服天下,彼蠻夷猾夏、冦賊奸宄,獨負固不服,故眾所不與,人自奮勵,則興師動眾,驅之萬死一生之地而人樂為之用也,故曰「利用侵伐」,而象曰「征不服」也。
出兵の時に鐘を鳴らし鼓を撃つを「伐」と呼び、鐘鼓を鳴らさざるを「侵」と呼ぶ。「侵」の規模は小而して「伐」の規模は大なり。六五の此の君主は柔順の道を用いて天下を感化し人を帰服せしむ。独りあの華夏を侵擾する蠻夷・劫掠して乱を作す寇賊奸邪は、険固を仗恃して服せんことを肯ぜず。それ故衆人は皆彼らの一辺に立たず、人人は自ら奮発振作す。此の時に師を興し衆を動かし、将士を万死一生の戦地に駆り遣るも、彼らもまた国のために効力するを楽しむ。だから爻辞は「侵伐するに利を用う」と言い、而して『小象伝』は「服せざるを征する也」と言う。
上六:鳴謙,利用行師,征邑國。象曰:鳴謙,志未得也;可用行師,征邑國也。上六雖處無用之地,而勢尊位極,能謙巽逺下,則聲聞廣逺矣。又下有九三為之正應,鳴躍而從之,故曰「鳴謙」也。然人臣以謙而得名,固無忌惡之者。
『謙』卦上六の爻辞に言う。「謙徳は声音に発す。用いて出兵するに宜しく、自らの封邑の国を討伐す。」『小象伝』に言う。「謙徳は声音に発すとは、心志の未だ実現せざる也。用いて出兵すべしとは、往きて封邑の国を討伐する也。」上六は職位なき所に処すと雖も、形勢は尊貴にして爻位は頂端に至る。若し能く謙遜卑順にして遠く自らを放低せば、声望は便ち広遠に伝播す。加うるに下面に九三有りて彼と正相応じ、歓騰響応して彼に追随す。だから「鳴謙」と言う。ただし人臣は謙遜に因りて名声を得るは、本来忌恨厭悪する人有るべからず。
但上六已居無位之地,雖地望隆重而眾或不為之用,雖利用行師,但使之征邑國可也。夫奸宄竊發,所據不過邑國,上六之臣足以當之。使擁百萬之眾以當夷狄之強盛,則上有震主之威,下無腹心之助,故象言「鳴謙,志未得」也,「可用行師,征邑國」也。非以謙居之,則危疑之禍其可逃乎?
ただ上六は既に職位なき所に処す。声望は隆重なれど、衆人は未だ必ずしも彼のために用いるを肯ぜず。だからたとえ出兵に宜しくも、ただ彼をして封邑の国を討伐せしむるのみ。奸邪の徒の暗中に乱を作すは、占據する所は過ぎず一城一邑。上六の此の如き臣子は以て対付するに足る。假如彼をして百万の大軍を統領して強盛の夷狄を抵当せしむれば、則ち上に対しては君主を震動する威势有り、下に対してはまた心腹の輔助なし。だから『小象伝』は「鳴謙、志未だ得ざる也」「行師に用うべし、邑国を征する也」と言う。若し謙遜を用いて自ら処らざれば、あの猜忌見疑の禍患はまたどうして躲避し得られん。
豫卦(坤下震上)
坤下震上 豫,利建侯行師。象曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎?天地以順動,故日月不過而四時不忒;聖人以順動,則刑罰清而民服。豫之時義大矣哉!象曰:雷出地奮,豫。先王以作樂崇徳,殷薦之上帝,以配祖考。初六:鳴豫,凶。象曰:初六鳴豫,志窮凶也。六二:介于石,不終日,貞吉。象曰:不終日貞吉,以中正也。
『豫』卦は下卦を坤とし上卦を震とす。卦辞に言う。「和楽の時、諸侯を分封し兵を出して征伐するに利し。」『彖伝』に言う。「『豫』卦、陽剛の爻は衆爻の響応を得て心志は施行を得る。事理に順応して行動す、これ『豫』なり。『豫』は事理に順応して行動す。だから天地も亦此の如し。況んや諸侯を分封し兵を出して征伐するをや。天地は規律に順応して運動す。だから日月の運行は過差せず四季の更替は錯乱せず。聖人は事理に順応して行動すれば、則ち刑罰は清明にして百姓は帰服す。『豫』の処する時勢の意義は太も重大なり。」『大象伝』に言う。「雷は地の中より発して奋然として震響す、これ『豫』なり。先王は此に由りて音楽を制作し徳行を崇尚し、隆重に楽を上帝に進献し、并せて先祖先父を以て配享す。」初六の爻辞に言う。「得意和楽して声色に形す、凶険。」『小象伝』に言う。「初六の得意に鳴楽するは、心志の窮極して凶険を招致する也。」六二の爻辞に言う。「操守耿介にして磐石の如く、一日の過ぐるを待たずして機を見て作す。正固を守持すれば吉祥。」『小象伝』に言う。「一日の過ぐるを待たずして正を守れば吉祥とは、中に居りて正を守るを以て也。」
六三:盱豫,悔遲有悔。象曰:盱豫有悔,位不當也。九四:由豫,大有得,勿疑,朋盍簪。象曰:由豫大有得,志大行也。六五:貞疾,恆不死。象曰:六五貞疾,乗剛也;恆不死,中未亡也。上六:冥豫成,有渝無咎。象曰:冥豫在上,何可長也。
六三の爻辞に言う。「眼を大きく睜いて上に向かいて諂媚して楽を求むれば、悔恨有らん。悔悟するに遅れれば、また更に悔恨を添う。」『小象伝』に言う。「諂媚して楽を求めて悔恨有るは、処する位置の恰当ならざるを以て也。」九四の爻辞に言う。「和楽は彼より生ず、大いに得る所有り。疑虑する必用なし。朋友たちは髪簪の髪を聚攏するが如く迅速に会合して来たらん。」『小象伝』に言う。「和楽は彼より生じ大いに得る有るは、心志の広く施行を得る也。」六五の爻辞に言う。「正固を守持して纏綿して疾と成るも、長久にして死せず。」『小象伝』に言う。「六五の正を守りて疾と成るは、陽剛の上に凌乘するを以て也。長久にして死せざるは、居中の道の未だ喪失せざるを以て也。」上六の爻辞に言う。「逸楽に昏冥する已に既成事実と成れり。若し能く变革有らば過錯あらじ。」『小象伝』に言う。「逸楽に昏冥して上位に居るは、これどうして長久を能くせん。」
随卦(震下兌上)
震下兌上 隨,元亨利貞,無咎。彖曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞無咎,而天下隨時。隨時之義大矣哉!象曰:澤中有雷,隨。君子以嚮晦入宴息。初九:官有渝,貞吉,出門交有功。象曰:官有渝,從正吉也;出門交有功,不失也。
『随』卦は下卦を震とし上卦を兌とす。卦辞に言う。「随従、大いに亨通。正固を守持するに利し、過錯なし。」『彖伝』に言う。「『随』卦、陽剛の爻は前来して陰柔の下に居り、震動して喜悦す。これ随従なり。大いに亨通し正を守りて過錯なし。因りて天下は皆時勢に随順す。時勢に随順するの意義は太も重大なり。」『大象伝』に言う。「大沢の中に雷潜伏す、これ『随』なり。君子は此に由りて天色晩に向かう時に入室して休息す。」初九の爻辞に言う。「主守する所の対象に変動有り。正固を守持すれば吉祥。門を出でて人と交往すれば即ち功有る能し。」『小象伝』に言う。「主守するに変動有るとは、正道に跟従すれば則ち吉祥なり。門を出でて人と交往して功有るは、失う所有るべからざる也。」
六二:係小子,失丈夫。象曰:係小子,弗兼與也。六三:係丈夫,失小子,隨有求得,利居貞。象曰:係丈夫,志舍下也。九四:隨有獲,貞凶,有孚在道以明,何咎。象曰:隨有獲,其義凶也;有孚在道,明功也。九五:孚于嘉,吉。象曰:孚于嘉吉,位正中也。上六:拘係之,乃從維之,王用亨于西山。象曰:拘係之,上窮也。
六二の爻辞に言う。「年幼の小子に系恋すれば、成年の丈夫を失去す。」『小象伝』に言う。「小子に系恋すとは、両辺を同時に兼顧する能わざる也。」六三の爻辞に言う。「成年の丈夫に系従し、年幼の小子を舎棄す。此の如く随従すれば便ち求めて得る能有り。安居して正を守るに利し。」『小象伝』に言う。「丈夫に系従すとは、心志の上に於いて下面の人を舎棄する也。」九四の爻辞に言う。「随従して獲取する所有り。正を守るも亦凶険有り。ただ心に誠信を懐き正道に行いてまた事理を明白なれば、なお何の過錯かあらん。」『小象伝』に言う。「随従して獲取する有るは、道理の上に就いて言えば凶険なり。心に誠信を懐きて正道に行うは、これ明智の帯び来る功效なり。」九五の爻辞に言う。「誠信を以て美善の人に対待す、吉祥。」『小象伝』に言う。「美善に誠信して吉祥なるは、位置端正にして居中なるを以て也。」上六の爻辞に言う。「彼を拘禁捆綁し、進んで牢く維繫して彼を住ましむ。君王は西山に於いて祭享を挙行す。」『小象伝』に言う。「彼を拘禁捆綁すとは、随従の道が上位に至りて已に窮尽するを以て也。」
蠱卦(巽下艮上)
巽下艮上 蠱,元亨,利渉大川,先甲三日,後甲三日。蠱,惑也,壞也,有惑必有壞。蠱繼豫,宴安悅豫之後,沒溺於宴安,習染於奢靡,湛玩於聲色,天下事至此未有不敗壊者。非有陽剛之才出乎眾陰之上,振起而一新之,則事之頹敝者未易革也。
『蠱』卦は下卦を巽とし上卦を艮とす。卦辞に言う。「大いに亨通。大川を渉越するに利し。甲日の前三天・甲日の後三天に於いて号令を申明す。」「蠱」の意思は迷惑にして、亦敗壞なり。迷惑有れば必ず敗壞有り。『蠱』卦は『豫』卦の後に緊接す。安逸和楽の後に於いて、人們は安逸に沉溺し奢靡に浸染し声色に耽玩す。天下の事情は此の歩に至れば、敗壞せざるなし。若し陽剛の才有りて衆多の陰柔の上に崛起し、奋然として振作し一挙に更新せざれば、則ち已に頹敗した事情は革除し易からず。
治蠱豈一人之力能獨任之哉?能大通乎天下,使群才皆為我用,然後可渉難而有濟也。彖曰:蠱,剛上而柔下,巽而止,蠱。蠱元亨而天下治也,利渉大川,往有事也,先甲三日,後甲三日,終則有始,天行也。
積弊を整治するは、豈に一人の力量の单独に承当し得る所ならん。必ず能く天下に広く通達し、各種の人才をして皆我に用いられしめ、然るのちにこそ危難を渡越して成就有るを得る。『彖伝』に言う。「『蠱』卦、陽剛は上に在り陰柔は下に在り、謙遜して後に止まるを知る。これ『蠱』なり。『蠱』は大いに亨通すれば、天下は治理を得る。大川を渉越するに利しとは、往けば必ず為すべき事有るを言う。甲日前三天・甲日後三天に申令すとは、一個の終結の後に便ち一個の開端有るを以て、これまさに天道の運行なり。」
以卦體言之,則震剛而巽柔;以爻言之,則艮以一陽在上而二陰在下,巽以二陽在上而一陰在下,陽在上而為主,陰在下而為用,治柔者剛也。蠱之時,必有所矯革,能巽而止,彼巽而我止之,治蠱之道盡矣。蠱至大通,則能革故鼎新而天下治矣。
卦体に就いて言えば、震は剛に属し巽は柔に属す。爻位に就いて言えば、艮は一個の陽爻が上に在り二個の陰爻が下に在り、巽は二個の陽爻が上に在り一個の陰爻が下に在る。陽は上位に居りて主宰を作し、陰は下位に居りて任使に供す。能く陰柔を整治するはまさに陽剛なり。『蠱』の時に処しては、必ず匡正変革する所有るを要す。能く謙遜して後に止まれば、相手方は謙順にして我は之に約束を加う。積弊を整治する辧法は亦説き尽くしたり。積弊は大いに通達の地步に至れば、便ち旧を革除し新を創立し得、天下は此に於いて治理を得る。
利渉大川往有事者,當蠱之時,世必多事,非冐渉險難不能濟也。陽剛在上,陰柔處下,上下理順,雖未能安靜,固無悔咎之可慮。先甲三日、後甲三日終則有始天行者,順乎人情則因而循之,違於人情則革而化之。一治一亂,若環之無端,法令既乆,無不敝者。聖人救敝之道,因革損益與時宜之,此何異四時之運、寒暑之推遷乎?
所谓「大川を渉るに利し、往けば事有り」とは、『蠱』の時に処して、世上は必ず事多し。険を冒し難を渉らざれば事を成す術なし。陽剛は上位に居り陰柔は下位に処す。上下の名分道理は皆順当なり。未だ安寧平静する能わずと雖も、本来悔恨と過咎の担心すべきもなし。所谓「甲に先だつ三日・甲に後るる三日、終れば則ち始まり有り、天の行なり」とは、人情に順応するは便ち依循沿用し、人情に違背するは便ち変革転化す。一治一乱は、円環の如く起点を見出だし難し。法令は久しく実行すれば、弊害を生ぜざるなし。聖人が弊害を補救する辧法は、沿袭と変革・減損と增益が皆時勢に随いて制宜する。これは四季の運行・寒暑の推移とまた何の両様かあらん。
蓋立春日出於甲,故乾成於甲;立秋日入於庚,故坤成於庚。陰陽天地之終始,故經舉甲庚於蠱、巽二卦,以極乎變化之道也。先甲三日、後甲三日,聖人慾大有為以救濫扶衰、一新天下,非創法制令、大有所更革則不能也。然民愚無知,非先期而揭示,則聴命者或不能達其情;非後令而申審,則從命者或不能通其意。
大略に言えば、立春の時に太陽は甲位より昇り、だから乾は甲位の上に於いて完成す。立秋の時に太陽は庚位より落ち、だから坤は庚位の上に於いて完成す。甲と庚は陰陽天地の終点と起点なり。だから『周易』の経文は『蠱』と『巽』の両卦に於いて甲・庚を挙出し、以て変化の道理を窮尽す。所谓「甲に先だつ三日・甲に後るる三日」とは、聖人が大いに作為有らんと欲し、以て泛濫を補救し衰敗を扶持し、天下を一挙に更新せんと欲するなり。若し法度を創制し号令を頒布して大幅度の変革を做出せざれば、做到し得られざるなり。然るに百姓は愚昧無知なり。若し預め揭示し出さざれば、命を聴く人は或いは其の中の实情を明白する能わず。若し命令の頒下の後に申明審察を加えざれば、遵行する人は或いは其の中の用意を通暁する能わず。
夫改更舊法、創制新令,非天下大壞、王道板蕩之時,豈敢易而為之哉!唐虞三代損益更革皆不得已,如天地四時之運、陰陽之極,勢不得不革,故彖辭釋之曰「終則有始,天行」也。以言聖人創法制令,亦如六甲之運,勢不得不有所革。蓋陰不極則陽不生,亂不極則徳不形,予蓋因彖辭而悟其理,非臆說也。
旧法を更改し新令を創立するは、若し天下大壊・王道崩壊動揺の時に非ざれば、どうして軽易に為すを敢えてせん。唐堯虞舜と夏商周三代の損益変革は皆已むを得ざるに出る。天地四季の運行・陰陽の極点に走るが如く、形勢は変革せざるを得ず。だから『彖伝』は解釈して「終れば則ち始まり有り、天の行なり」と言う。これは聖人の法度を創制し号令を頒布するも、亦六甲の循環運行の如く、形勢は逼りて変革有らざるを得ざるを言う。陰は極点に至らざれば、陽は生発せざるに因り。乱は極点に至らざれば、徳は顕現せざるに因り。我は『彖伝』を読むに因りて此の道理を領悟す。空を憑りて臆測するの説に非ず。
諸儒之論,惟陸氏近之。陸氏以謂:居其始以創其制,要其終以慮其敝,敝則復新,終則復始,猶天道之行、四時之運也。鄭氏以謂:甲者,造作新令之日,甲前三日取改過自新,故用辛;甲後三日取丁寧之義,故用丁也。此說固善,不知先庚三日為丁、後庚三日為癸,其義安在?
諸家の学者の議論は、ただ陸氏の説く比較的接近するのみ。陸氏は以為す。開端の上に立ちて制度を創立し、結局を把握して弊病を預慮す。弊病有れば便ち重ねて更新し、一個の終結の後はまた一個の開端なり。天道の運行・四季の循環の如し。鄭氏(鄭玄)は則ち以為す。甲は新令を創制する日子なり。甲日前の三天は「過を改め自ら新たにする」の義を取り、だから辛日を用う。甲日後の三天は「丁寧叮嘱」の義を取り、だから丁日を用う。此の説法は固より不錯なれど、ただ『巽』卦の説く先庚三日は丁日と為し後庚三日は癸日と為すを知らず。其の意思はまた何処に在らん。
程子曰:甲,數之首,事之始也,如辰之甲乙、甲第、甲令皆謂首也。治蠱之道,當思慮其先後三日,蓋推原先後,為救敝可乆之道。先甲,謂先於此究其所以然也;後甲,謂後於此慮其將然也。其說固美,然義則未明。
程頤は言う。甲は数目の開頭・事情の起始なり。干支中の甲乙・科挙の甲第・法令の甲令の如く、皆「首に居る」の意を取る。積弊を整治する辧法は、応当に前三日・後三日の上に用心思慮し、即ち前に往き後に向かいて本原を推究し、以て弊病を補救し持久すべき辧法と為す。「先甲」とは、此の前に於いて事情の何を以て此の如くなるかを追究するを言う。「後甲」とは、此の後に於いて事情の将に如何ならんを考慮するを言う。此の説法は固より精美なれど、義理はなお明白晰たるに足らず。
獨蘇氏以六甲為說,先甲謂子、戌、申也,後甲寅、辰、午也,大槩言君子小人相為進退而治亂因之。陽生於子,盡於已;陰生於午,盡於亥;陽為君子,陰為小人。故蠱、巽二卦皆以甲庚為言,則蘇氏之說獨異諸儒,而非二卦大意,然皆不可廢也。子因備存其意,以俟後之人發明而去取焉。
独り蘇氏は六甲を用いて説を立つ。「先甲」は子・戌・申の三支を指し、「後甲」は寅・辰・午の三支を指す。大意は君子と小人が互いに進退し、治と乱もまた之に随いて定まるを講ず。陽気は子に生じて巳に終り、陰気は午に生じて亥に終る。陽は君子を代表し、陰は小人を代表す。だから『蠱』『巽』の両卦は皆甲・庚を用いて言を立つ。此の如く看れば、蘇氏の説法は諸家と皆相同じからず、亦両卦の大旨に合せず。ただ各家の説は皆廃棄すべからず。我は因りて此れらの見解を一併に保存留下し、後来の人の闡発を加え再び取舍を作すを待つ。
象曰:山下有風,蠱。君子以振民育徳。風行山下,物無不擾亂者,故有蠱之象。君子體此象,以外振窮民,內育已徳。振者,拯救之也;育者,涵養之也。振民所以育吾徳也。當海內離散敗壊之時,能發倉廩、蠲逋負,則田野之間父子相保,其為育徳孰大於此!
『大象伝』に言う。「山下に風刮り起こる、これ『蠱』なり。君子は此に由りて百姓を振済し徳行を培育す。」風は山下に吹行し、万物は攪動擾乱せられざるなし。だから『蠱』の卦象有り。君子は此の卦象を体察し、外に窮困の百姓を振済し、内に自らの徳行を培育す。「振」は即ち拯救、「育」は即ち涵養なり。百姓を振済するは、まさに以て自らの徳行を培育するなり。天下离散敗壞の時に当たりて、能く粮仓を打開して賑済し拖欠の賦税を免除せば、則ち田野の間の父子は以て相互に保全を得る。徳行を培育する事と為せば、これより大きいあらんや。
初六:乾父之蠱,有子,考無咎,厲終吉。象曰:乾父之蠱,意承考也。人君狃於宴安,湛於逸樂,天下蠱壊,非得善繼之子堪任大事,曷足以振起之?宣王承幽王之後,修車馬,備器械,復會諸侯於東都,卒成中興之功;祿山之亂,明皇幸蜀,肅宗即位靈武,以復兩京,可謂有子矣,故考可以無咎。
『蠱』卦初六の爻辞に言う。「父の留下した弊乱を匡正す。此の如き兒子有れば、去世した父は過錯なし。危厲有ると雖も、最終に吉祥。」『小象伝』に言う。「父の留下した弊乱を匡正すとは、用意は先父を承継するに在る也。」君主は安逸に習慣し享楽に沉溺し、天下の事情は敗壊す。若し善く継承する兒子有りて大事を擔当し得るに非ざれば、何を憑りて之を振作し起こさん。周宣王は幽王の後に承接し、車馬を整修し器械を斉備し、重ねて東都に於いて諸侯を会合し、終に中興の功業を成就したり。安禄山は叛乱し、唐玄宗は蜀地に奔往し、粛宗は靈武に於いて即位し、長安・洛陽の両京を收復せり。これは皆「子有り」と言うべし。だから去世した父は過錯なきを得る。
然亂自我致,非吾君之子孰與興之?然則中興之業,難以盡付之大臣,故蠱卦特稱父子者以此。然乾父之事,其間亦有不可盡循者,使為子者能每事加危懼,內常恐傷父之志,外不失責望者之心,意常承順而不見背違之跡,如此乃可終獲其吉也。豈若異姓相代,如湯武應天順人,聲其惡過而無所忌畏者乎?或稱父,或稱考,蓋兼存沒而言。
ただし禍乱は本来自家より招来したもので、若し我らの君主の兒子に非ざれば、また誰か来たりて之を振興し起こさん。此に由りて言えば、中興の大業は完全に大臣に付託し難し。『蠱』卦は特に父と子を称説す。原因はまさに此処に在り。然るに父の事業を匡正するに、其の間にも一味に旧規に依循すべからざる处有り。兒子たる者若し事事に更に戒惧し得れば、内には常に父の心志を傷つけんことを怕れ、外には衆人の期望の心意を辜負せず、用意の上に終始承順して違逆の痕跡を顕出せず。こうしてこそ最終に吉祥を獲得し得る。これは豈に異姓の改朝換代して、商湯・周武の如く上は天命に応じ下は民心に順い、公然と前朝君主の罪悪過失を宣布して忌憚畏懼する所なきに似んや。爻辞は或いは「父」と称し或いは「考」と称す。在世と去世の両種の情形を一併に説く。
九二:乾母之蠱,不可貞。象曰:乾母之蠱,得中道也。臣事君與子事父母,其義一也。母為女君之象,亦陰柔之主也。九二以陽剛中正上應六五,乾母之蠱也。婦人之性雖曰陰柔,然亦有鷙忍強戾、果於為惡者,非能一旦使之翻然以從善也,當從容柔順以輔導之。陳平之事呂后、狄仁傑之事武后,可謂得其道矣。呂后王諸呂,武后廢廬陵王,二人未嘗面折廷爭,然卒安劉氏者平也,卒返廬陵王者仁傑也。若王陵、褚遂良輩,徒至於殺身而巳,何補於治亂哉?
『蠱』卦九二の爻辞に言う。「母の留下した弊乱を匡正す。常規に固執すべからず。」『小象伝』に言う。「母の留下した弊乱を匡正すとは、中道を得るを以て也。」臣子が君主に事奉するは兒子が父母に事奉するに道理は一样なり。母は女性君主に取象し、亦陰柔の一方の主宰なり。九二は陽剛中正の質を以て上に六五に応合す。これが「乾母の蠱」なり。婦人の性情は陰柔に属すと説くと雖も、其の中にも凶狠残忍・強横暴戻・悪を作して果決なる有り。一朝一夕に彼女をして幡然として善に従わしむるは可能ならず。応当に従容柔順を以て輔助引導を加うべし。陳平の呂后に事奉し、狄仁傑の武后に事奉したるは、深く其の道を得たと言うべし。呂后は諸呂を封じて王と為さんと欲し、武后は廬陵王を廃黜したり。此の両人は皆嘗て当面駁斥し朝堂の上に於いて力争せず。然るに最終に劉氏の天下を安定せしめたるは陳平、最終に廬陵王をして回朝して位を復するを得せしめたるは狄仁傑なり。王陵・褚遂良のあの一類に至っては、白白に身を殺されるを落得るのみ。治乱に対してまた何の補益かあらん。
易道所貴,貴乎無咎悔,不以殺身為善。蘇氏解「五十而學易,可以無大過」,以謂非老於憂患之君子未易學也。孔子之意,蓋慮後世學易者有如馮道之流,則比干、伯夷不足貴矣。爻言不可貞,象言得中道,蓋九二以陽剛履臣位之中,陽剛則慮其守正而不知變,故其戒如此。
『周易』の道の看重する所は、過咎悔恨を免るるに在り。身を殺されるを以て最好の選択と為さず。蘇氏は『論語』の「五十歳に『易』を学べば、大きい過失なきを得」を解釈して、憂患の中に歴練老到した君子に非ざれば、容易に学び会すこと難しと以為す。孔子の用意は、大概後世の『易』を学ぶ人の中に馮道のあの一類の人が出現せんことを顧慮す。あの如くなれば、比干・伯夷はかえって推崇するに値せざると顕れん。爻辞は「貞すべからず」と言い、『小象伝』は「中道を得る」と言う。九二は陽剛の質を以て人臣の位の中間に踏むを以てなり。陽剛の毛病はただ正を守るを知りて変通を懂得せざるに在り。だから彼への告戒は此の如し。
九三:乾父之蠱,小有悔,無大咎。象曰:乾父之蠱,終無咎也。子事父、臣事君,雖負剛明之才足以乾正家國之事,然失之太専則子近於不順,臣失之太強,固不能無小悔也,但不至大咎而巳。蓋九居三位,重剛而不中,以此事上,本有大咎悔,而巽能順之,艮能止之,故不至於已甚也。人臣事君如子事父,父有爭子,君有爭臣,其始未嘗無咎悔也,然以剛且正,故得終無咎也。
『蠱』卦九三の爻辞に言う。「父の留下した弊乱を匡正す。稍や悔恨有るも、大きい過錯なし。」『小象伝』に言う。「父の留下した弊乱を匡正すとは、最終に過錯なし。」兒子が父に事奉し臣子が君主に事奉するは、たとえ剛強明達の才干を懐きて以て家国の事を匡正するに足るも、然るに太も専断に失すれば、兒子たるは不順に近く、臣子たるは太も強硬に失すれば、本来小さき悔恨を免れず。ただ大過を醸成するに至らざるのみ。陽爻が第三位に居るを以て、剛に剛を加えてまた中に居らず。此の種の態度を以て君上に事奉すれば、本来応当に大きい過咎悔恨有り。幸いに巽体は能く彼をして柔順ならしめ、艮体は能く彼に止まるを知らしむ。だから過分に至らず。人臣が君主に事奉するは兒子が父に事奉するに同じ。父は直言して争う兒子を有するを要し、君主は直言して争う臣子を有するを要す。起初は嘗て過咎と悔恨なきに非ざれど、然るに彼の既に剛強にしてまた端正なるを以て、だから最終に能く過錯なきを得る。
六四:裕父之蠱,往見吝。象曰:裕父之蠱,往未得也。天下蠱壊之時,非強濟之才不能乾也。乾者,實能扶持其傾危。若寛裕優容,無所矯正而革之,日復一日,以茍延朝夕可也;若有所往以濟時艱,必不勝其任,徒見鄙吝耳。蓋六四陰柔無應,處乎艮下,寛裕自守可也。蓋事有幾,非適當其時不可強行,故象言「往未得」也。
『蠱』卦六四の爻辞に言う。「寛緩を以て父の留下した弊乱に対待す。前往せば便ち憾惜に遭遇す。」『小象伝』に言う。「寛緩を以て父の弊乱に対待すとは、前往すれば得る所有るべからざる也。」天下の積弊敗壞の時に、若し剛強済事の才なければ、之に匡正を加うる能わず。所谓「乾」とは、真に能くあの傾危の局面を扶持し起こすなり。若し只是寛緩優容にして、匡正革除を加えず、一天挨りて一天を過ぐれば、以て眼前を苟且拖延するは可なり。若し前往有りて時局の艱難を紓解せんと欲せば、必ず此の責任を擔當し得ず。白白に鄙陋憾惜を落得るのみ。六四は陰柔の爻にして相応の爻なし。また艮体の下方に処す。寛緩に自ら守るは亦已むのみ。事を為すは時機を講究す。恰好あの時候に赶上るに非ざれば勉强に推行すべからず。だから『小象伝』は「往けば未だ得ざる也」と言う。
六五:乾父之蠱,用譽。象曰:乾父用譽,承以徳也。五為君位,六五為繼體之君,以陰柔而乾父之蠱,是能從容柔順、彌縫蠱壞以濟大業而無矯拂之過,材雖不足而徳可尚也,以此得譽而天下歸之。象言「承以徳」者,九二有中正之徳,奉承以徳,不失子道而已。唐太宗、肅宗非不才之子也,即位之後使其父惴惴然常有意外之患,有徳者固如是乎?
『蠱』卦六五の爻辞に言う。「父の留下した弊乱を匡正す。此に因りて美誉を獲得す。」『小象伝』に言う。「父業を匡正して美誉を獲得すとは、徳行を用いて先人に承接する也。」第五爻は君位なり。六五は先君の位を継承する君主で、陰柔の質を以て父の弊乱を匡正す。則ち能く従容柔順を以て敗壞の処を弥补縫合し、以て大業を成就して、而して強行拂逆の過失なし。才干は足らずと雖も、徳行は推崇するに値す。此の一点を憑りて美誉を得れば、天下もまた彼に帰附す。『小象伝』に「徳を以て承ぐ」と言う。九二が中正の徳行を具備するを以て、六五は徳行を用いて先人に奉承す。人子の道を失わざるのみ。唐太宗・唐粛宗は並びに才干なき兒子に非ざるも、即位の後に、而も自らの父をして惴惴として安からず常に意外の禍に遭遇せんことを担心せしむ。徳行有る人は豈に此の様子ならんや。
上九:不事王侯,髙尚其事。象曰:不事王侯,志可則也。以陽剛有為之才,當蠱之終,處六五之上,若不能遐舉逺引、奉身而退,則禍不旋踵矣。伊尹既復政厥闢,將告歸;漢留侯佐漢得天下,然後從赤松子遊,其知此矣。老子曰:功成名遂身退,天之道也。象言「志可則」者,聖賢君子能知進退存亡之幾,固可為法於後世也。
『蠱』卦上九の爻辞に言う。「王侯に事奉せず、自らの操守を事功より高きに看る。」『小象伝』に言う。「王侯に事奉せざるは、此の如き心志は以て準則と為すべし。」陽剛有為の才干を以て、『蠱』卦の終点・六五の上に処す。若し能く高く飛び遠く走り抽身引退せざれば、禍事は眼を転ずれば至る。伊尹は政権を其の君主に帰して後、便ち老を告げ郷に還るを準備し、漢代の留侯張良は漢室を輔佐して天下を取得したるに随い、便ち赤松子に追随して雲遊す。彼らは皆此の道理を明白に知る。『老子』に言う。「功業成就し名声確立して後に抽身引退するは、これこそ天道に合す」と。『小象伝』に「志は則すべし」と言う。聖賢君子は能く進・退・存・亡の幾微の徴兆を洞察し、本来以て後世の取法する榜様と為り得るを言う。
巻四
臨卦(兌下坤上)
上經。兌下坤上。臨:元亨利貞,至于八月有凶。彖曰:臨,剛浸而長,說而順,剛中而應,大亨以正,天之道也。至于八月有凶,消不久也。凡以上臨下皆謂之臨,人主君臨天下,諸侯君臨一國,皆臨也。《書》言:予臨兆民,懍乎若朽索之馭六馬。孔子曰:居敬而行簡,以臨其民。聖人臨下,其致慎如此,臨所以為大也。
本巻は『周易』上経を講ず。臨卦は下体を兌とし上体を坤とす。卦辞に言う。「元亨利貞、八月に至れば凶有り。」『彖伝』は解釈して曰く。臨卦の「臨」と称する所以は、陽剛の気がまさに一点ずつ生長して上るを以てなり。下卦の兌は和悦、上卦の坤は柔順、九二は陽剛を以て中に居りて六五の君と相応ず。だから能く大いに亨通してまた其の正を失わず。これはまさに天道運行の常理なり。「八月に至れば凶有り」と説くに至っては、陽気消退の日子は久しからずして将に来たらんを言う。およそ上位に居りて在下を撫治するは、皆「臨」と呼ぶ。君主は天下に君臨し、諸侯は一国に君臨す。皆臨なり。『尚書・五子之歌』に言う。「我は億万の百姓を統治す。戒惧すること腐朽の繩索を以て六匹の馬を駕御するが如し」と。孔子は言う。「居心は恭敬にして行事は簡約なり。此の如き態度を以て百姓を治理せよ」と。聖人は下に在る百姓に面して、謹慎すること此の地步に至る。これが「臨」の大と為る所以の縁故なり。
況四陰在上以臨二剛,剛非柔之所能制也,故臨當剛長之初,已有陽消之理,聖人慾使後世為人上者常兢業以圖之也。陰陽消長,君子小人更為進退之象。浸猶浸潤也,一氣不頓進,如草木之長,日加益而人不知也。
況んや臨卦は四個の陰爻が高く上位に居りて下面の二個の陽爻を臨制す。而して陽剛は本来陰柔の钳制し得る所に非ず。だから臨卦はまさに陽気の生長し始める初に当たりて、卦の中に已に陽気の終に消退する道理を埋伏す。聖人は後世の上位に居る君主をして、時時戒慎恐懼して経営治理せしめんと欲するなり。陰陽の消退と生長は、即ち君子・小人の交替して進用と退隱するの象徴なり。「浸」は即ち浸潤で、一股の気は一下子に全て涌き上ることなし。草木の生長するが如く、一天天增添すれど人は察覚せざるなり。
兌說而坤順,臨民之道以說順為本。九二剛而得中,六五以柔應之。既說而順,臨至剝,非濟以剛則強梗者或不可制,故孔子曰:臨之以莊則敬也。如此則能大亨以正,具乎元亨利貞之徳,其大與乾同功,故能斡旋運量以臨制天下也。
下卦の兌は和悦、上卦の坤は柔順なり。君主が百姓を臨撫する辧法は、本来和悦・柔順を以て根本と為す。九二は陽剛を以て下卦の中に居り、六五は柔順を以て上に在りて之と相応ず。ただ一味に和悦柔順を以て臨み下れば、陽剛の剥蝕殆尽するを待ちて、若し剛断を以て輔えざれば、あの強横梗阻の人は恐怕く制服し得ざらん。だから孔子は言う。「荘重の態度を以て百姓に対待せば、百姓は便ち恭敬す」(『論語・為政』に見る)と。能く此の如くなれば、こそ大いに亨通してまた其の正を守り、「元亨利貞」の四徳を具備し、其の宏大は乾卦と功を同じくす。因りて能く斡旋籌劃し統御治理して天下をせん。
然陽剛主進,進而不已則治極必亂,安極必危,故戒以八月有凶也。陽生於十一月為復,十二月為臨,此二陽方長之時,至五月夏至而陽消,六月為遯,自子至未凡歴八月,故云八月有凶也。有凶者,有凶之理,未必皆凶也。
然るに陽剛の本性は前進を主とす。一直に前進して停止せざれば、則ち治理は極点に至りて必ず乱を生じ、安定は極点に至りて必ず危を生ず。だから卦辞は「八月に至れば凶有り」を用いて告戒す。陽気は十一月に生じ、あの一卦は復なり。十二月は便ち臨で、まさに二個の陽爻の方に生長する時なり。五月の夏至に至れば陽気は消退を始め、六月は遯卦と為る。子月より数えて未月に至れば、一共に八個月を経歴す。だから「八月有凶」と言う。「有凶」と言うは、致凶し得る道理の在るを言う。必ず皆凶なりと言うに非ず。
象曰:澤上有地,臨,君子以敎思無窮,容保民無疆。水之性汪洋放肆,無以堤防之則有奔沖決溢之患,澤上有地,所以為臨民之象也。臨民之道,固當有以防範之,豈徒厲以威嚴、驅以刑戮哉?君子體此象,教民以禮義而思其所疾苦,無有窮已;容之則民有以措其手足,保之則不相陵犯,皆臨民之道也。無疆者,如此則其道廣大,無此疆爾界之殊也。
『大象伝』に言う。「沢の上に地有り、これ臨なり。君子は此に由りて領悟す。百姓を教誨するの心思は窮尽なきを要し、容納保養する百姓は辺界なきを要す。」水の本性は汪洋恣肆なり。堤防の約束するなくば、奔冲決口泛濫の禍患有り。沼沢の上に土地有るは、まさに君主の百姓を臨撫する卦象を構成す。百姓を臨撫するは、固より防範有るべし。然るに豈にただ厳厲の威勢を頼りて逼圧し、刑罰殺戮を用いて駆赶せんをや。君子は此の一卦象を体察し、礼義を用いて百姓を教導し、また時時彼らの疾苦を挂念し、永く止息せず。能く彼らを容納すれば、百姓はこそ手と脚を安放する処有り。能く彼らを保養すれば、百姓はこそ互いに欺凌侵犯するに至らず。これらは皆民に臨むの道なり。所谓「無疆」とは、此の如くに做到せば、此の路は広大無辺にして、「これは我が地界・あれは爾が地界」の分別なきを言う。
初九:咸臨,貞吉。象曰:咸臨貞吉,志行正也。咸,感也。臨人必以無心而感格之。蓋一陽在下與四為應,四近君而位尊,不可枉已以乾進也,志在行其正道而已,如此乃可免乎咎悔而趨吉也。九二:咸臨,吉,無不利。象曰:咸臨吉無不利,未順命也。初九、九二二陽在下,六四、六五以為正應。蓋二為剛中之臣,以應柔中之主,君臣之間以無心相感,以成君臨之大,故吉而無不利也。然九二雖不失臣道之正,而才剛任專,以事優柔之主,事固有不可盡從者,或逆其所順,或強其所劣,故象言未順命,乃所以為吉而無不利,聖人致其規戒之意深矣。
初九の爻辞。「咸臨、貞吉。」『小象伝』に言う。「咸臨貞吉とは、其の心志行事の皆端正なるを以て也。」「咸」は即ち感応なり。別人を臨撫するは必ず毫も私心なき誠意を以て相手方に感通するを要す。初九は一個の陽爻が下に在り、六四と相応ず。六四は君位に逼近して地位尊貴なれど、初九は而も自ら委屈して干求進用するを肯ぜず。心志はただ自らの正道を推行するに在るのみ。こうしてこそ過錯悔恨を免去して吉祥に趨向し得る。九二の爻辞。「咸臨、吉、不利なし。」『小象伝』に言う。「咸臨吉不利なしとは、其の一味に君命に順従せざるを以て也。」初九・九二の二個の陽爻は下に在り、六四・六五は上に在りて彼らと各々正応を成す。九二は剛健守中の臣子で、以て柔順守中の君主に応合す。君臣の間は私心を存せざる誠意を以て相感通し、以て天下に君臨する大業を成就す。だから吉祥にして不利なし。然るに九二は臣の正道を失わずと雖も、才性剛強にして擔當専断す。优柔の君主に事奉するに往けば、事情は本来一概に聴従し得ざる有り。或いは君主の順従する所に違逆するを要し、或いは君主の擅長せざる所を勉强するを要す。だから『小象伝』は「未だ命に順わず」と言う。これは恰恰と其の吉を得て不利なきの縁由なり。聖人の此処に於いて寄托する規勧告戒の意は、実に深遠なり。
六三:甘臨,無攸利,既憂之,無咎。象曰:甘臨,位不當也;既憂之,咎不長也。三以陰柔而居陽位,又二剛在下而三直出其上,以勢位臨之,非二陽所能堪也。要之三為小人,乘剛而不中,有負乘致寇之象,不能引身退避,而徒甘言以媚悅於人,其孰肯信之?故無適而可也。若能以憂危自處,日虞禍患之至,而克已下賢,庶幾其免乎!
六三の爻辞。「甘臨、利する攸なし。既に之を憂うれば、咎なし。」『小象伝』に言う。「甘臨とは、処する位置の恰当ならざるを以て也。既に此を憂懼せば、過錯は長久せざらん。」六三は陰柔の質を以て陽剛の位を占拠し、下面にまた二個の陽爻有り。它は偏偏として直ちに両陽の上に凌駕し、権勢地位を憑りて人家を臨制す。これは二個の陽爻の忍受し得る所に非ず。総じて六三は一個の小人なり。陽剛の上に凌駕してまた中位に居らず。まさに『繋辞伝』の「負き且つ乗る、寇を致す」の象に合す。它は既に抽身引退する能わず、ただ甜言蜜語を用いて人を讨好するを会するのみ。誰か肯んじて相信せん。だから何処に至るも行き通る能わず。倘若它能く憂懼危亡の心態を以て自ら処り、天天禍患の降臨を担心し、自己を克制して身を屈して賢者を礼敬せば、則ち大概なお禍を免れ得らん。
然則臨人之道,生殺利害之權咸自已出,六以陰柔之質而據顯位,眾所不與,況二與初皆陽剛君子,方處內而將進,其肯為之下乎?儻不能深自悔悟,惕然有淵氷之懼,而日復一日,禍可既乎?故象言甘臨位不當也,既憂之咎不長也。能憂其所當憂,雖有咎悔,其能久乎?
此の如く看れば、他人を臨撫する権柄は、生殺予奪・興利除害は皆自己の手より出ず。六三は陰柔の資質を以て而も顕要の位を窃據し、衆人は皆彼に帰附するを肯ぜず。況んや九二と初九は皆陽剛の君子で、まさに内卦の中に在りて将に上進せんとす。彼らは肯んじて此の種の人の下に屈居せんや。倘若六三が能く深く自ら悔悟し、警惕すること淵に臨むが如く氷を履むが如くせず、ただ一天拖りて一天を過ぐれば、禍患は豈に完結の時候有らん。だから『小象伝』は「甘臨、位当たらざる也。既に之を憂うれば、咎長からざらん」と言う――能く自らの憂懼すべき事を憂懼すれば、たとえ過錯悔恨有るも、またどうして持久せん。
六四:至臨,無咎。象曰:至臨無咎,位當也。坤體至順,而四位尊居正,與初為應,上比於主而下臨於民,臨之至善者也。餘爻地逺而多懼,四近君而情通,以此臨民,何咎之有?故象言至臨無咎,位當也。六五:知臨,大君之宜,吉。象曰:大君之宜,行中之謂也。臨之道貴乎廣大兼收並用,不忌不嫉而已,得無為用天下之道,此君臨之大者。六五以柔弱之資而履尊位,能知此道,則大君之所宜而無不吉也。五以坤體順而應二,二以剛中之賢悅而應五。然人君駕御群臣當以剛斷,而専以柔順,則強臣或有擅命之漸;人臣事主當有從違可否,而専以媚悅,則奸佞者或得肆其欺。故象言大君之宜行中之謂者,謂順說之道貴得中而無過不及之患,則君臣各盡其任矣。
六四の爻辞。「至臨、咎なし。」『小象伝』に言う。「至臨咎なしとは、処する位置の恰当なるを以て也。」上卦の坤体は最も柔順なり。六四は尊高に位居してまた正を得、初九と相応じ、上に向かいて君主に親附し、下に向かいて百姓を臨撫す。臨卦の中の最も完善の一爻なり。其の他の各爻は君位より離るること遠くして畏懼多し。六四は而も君主に靠近して情意相通ず。此の如き身份を以て百姓を臨撫せば、何の過錯かあらん。だから『小象伝』は「至臨咎なし、位当たる也」と言う。六五の爻辞。「知臨、大君の宜、吉。」『小象伝』に言う。「大君の宜とは、行事の中道に合するを説く也。」天下を臨撫するの道は、心量広大・兼収併用を貴び、猜忌せず賢を嫉まざるのみ。此の一点を做到せば、便ち「無為にして天下を用う」の門径を得る。これこそ天下に君臨するの大者なり。六五は柔弱の資質を以て尊位に登るも、而も此の道理を懂得す。あれはまさに大君の応当に為すべき所なり。因りて吉ならざるなし。六五は坤体の柔順を以て九二に応合し、九二は剛健守中の賢才を以て和悦に六五に応合す。ただし、人君が群臣を駕御するは応当に剛毅決断有るべし。若し一味に柔順なれば、強横の大臣は便ち漸々擅自に権を專らにせん。人臣が君主に事奉するは応当に聴従有り・違逆有り・肯定有り・否定有るべし。若し一味に諂媚取悦せば、奸邪の徒は便ち手を放手して其の欺蒙を行わん。だから『小象伝』は「大君の宜、中を行うの謂なり」と言う。和悦順従の此の路は其の中道を得るを貴び、過と不及の毛病なければ、則ち君臣は各自己の職分を尽くすを得るを説く。
上六:敦臨,吉,無咎。象曰:敦臨之吉,志在內也。上六居坤之終,處上卦之極,順之至也。在上而能以敦厚臨物,不以尊貴驕人;二陽在下而以順受之,雖無應於陽而不妨其進,厚之至也。二陽在內而志常欲佽助之,與夫居上位而蔽賢嫉能者有間矣,故雖居臨之終,宜凶而獲吉,宜有咎而卒無咎也。
上六の爻辞。「敦臨、吉、咎なし。」『小象伝』に言う。「敦臨の吉の所以は、其の心志が内卦の二個の陽爻に系るを以て也。」上六は坤体の終点・上卦の頂端に処し、柔順は極処に至る。它は最上位に居るも能く敦厚の態度を以て万物を臨撫し、尊貴の身份を拿りて人に驕横せず。下面の二個の陽爻はまさに上進し、它は柔順を以て接納す。陽爻と並びに正応なきと雖も、亦彼らの前進を妨げず。これは敦厚の極点に至るなり。二個の陽爻は内卦に在り、上六の心志は而も常に彼らを幇扶せんと欲す。これは即ちあの身は高位に居りて賢才を遮蔽し能人を嫉妒する人と大いに相同じからず。だから它は臨卦の終点に処すと雖も、本来凶険なるべきに而も吉祥を得、本来過錯あるべきに而も終に過錯なし。
觀卦(坤下巽上)
坤下巽上。觀:盥而不薦,有孚顒若。聖人化天下之道,非諄諄然以言語感說之也,以行與事示之,使民得法象焉,故其從也輕。孔子曰:正其衣冠,尊其瞻視,儼然人望而畏之,孰有不敬憚而瞻仰者哉?凡祭必先涗手而後酌獻,盥,涗手也。宗廟之禮莫盛於始盥之時,蓋精誠蘊於內而威儀肅於外。孔子於既灌之後不欲觀者,蓋繁文縟節容有偽焉,有不足觀者矣。惟齋莊恭敬之貌,顒然端委於上,而天下化服之,其道豈不簡且易哉!
觀卦は下体を坤とし上体を巽とす。卦辞に言う。「盥して薦せず、孚有りて顒若たり。」聖人の天下を教化する辧法は、喋喋不休として言語を用いて人を打動するに非ず、而して自らの行為と政事を以て示範を作し、百姓をして取法すべき様子有らしむ。だから百姓の跟従するは毫も費力せず。孔子は言う。「衣冠を端正し、目光を荘重にし、儀容は俨然たり。別人の望見すれば敬畏を生ず。誰かまた恭敬瞻仰せざらん」(『論語・堯曰』に見る)と。およそ祭祀は必ず先ず手を洗いて後にこそ酒を斟りて神に献ず。「盥」は即ち手を洗うなり。宗廟の礼は剛く手を洗いて将に祭せんとする一刻より隆盛なるはなし。此の時は精誠は内心に藴積し、威儀は外表に整肅するを以てなり。孔子は禘祭の灌酒して後は見て下るを願わずと言う。まさに後面の繁文縟節の裡に虚偽を掺入し易きを以て、便ち見るべきなきに至るなり。ただあの斎戒荘敬の儀容、粛然として端正に上位に立てば、天下人は感化せられて心服す。此の路は豈にまた簡単にして容易ならざらん。
彖曰:大觀在上,順而巽,中正以觀天下。觀盥而不薦有孚顒若,下觀而化也。聖人感人心之道莫大乎誠敬,故孔子言使民如承大祭。然則欲民之化服,豈勢力所能驅迫之哉?九五以順之徳履中正之位,為一卦之主,以此觀天下,猶日之方中,赫然在上,有目者咸覩,此觀之所以為大也。能齋莊誠敬,儼然以臨其下,則民皆觀感而化也。若既盥之後,則精意散漫,假物然後見其誠,則所感者末矣。
『彖伝』に言う。「宏大の表率は高く上位に居り、柔順にしてまた謙遜、中正の徳を以て天下に垂示す。『觀は盥して薦せず、孚有りて顒若たり』とは、下面の人の觀仰して感化を受るを説く。」聖人が人心を感動する辧法は、誠と敬より大きいはなし。だから孔子は百姓を役使するに大祭を承当するが如く恭敬すべしと言う(『論語・顔淵』に見る)。既に此の如くなれば、百姓をして感化せられて心服せしめんと欲するは、豈に権勢武力の駆赶逼迫し得る所ならん。九五は柔順の徳を以て中正の位に登り、全卦の主爻なり。此の如き身份を以て天下に垂示するは、太陽のまさに中天に当たるが如く、赫然として上に照耀す。およそ眼晴有る人は皆見るを得る。これが「觀」の大と為る所以の縁故なり。能く斎戒荘敬・儀容俨然として下民を臨撫せば、百姓は便ち皆觀仰感化す。手を洗い礼を行う後に至っては、精誠の心意は漸々散漫し、外在の儀物に借助してこそ誠意を顕出せば、則ち能く人を感動するはただ末节のみ。
觀天之神道而四時不忒,聖人以神道設敎而天下服矣。神也者,妙萬物以為言者也。四時行焉,百物生焉,莫之為而為者,天何言哉?此天之神道也。聖人以此設敎,則不見其治之之跡,故心既悅而誠服之。後世蓋有假天之神道以誑惑百姓,遂謂河圖洛書疑亦神道設教者,若然,則上世帝王亦有時而欺天下耶?其說陋矣。
『彖伝』は続けて言う。「上天の神妙の運行の道を觀察すれば、而して四季は従来差錯せず。聖人は此の神妙の道に依照して教化を設立せば、天下人は便ち皆帰服す。」所谓「神」とは、其の微妙に万物を成就する此の一点に就いて言うなり。四季は照样に運行し、百物は照样に生長し、刻意に作為する誰なくして一切は自然に成就す。上天は何嘗か話を説いたや。これが即ち天の神道なり。聖人は此に依りて教を設くれば、彼の治理する痕跡を看出し得ず。だから人心は先ず喜悦し、進んで真誠に帰服す。後世に竟に上天の神道を假借して百姓を誑騙迷惑する有り。此に於いて或る人は連『河図』『洛書』も過ぎず神道設教の手段なりと懐疑す。若し真に此の如くなれば、あの上古の帝王は豈に亦時に天下を欺騙する有らんや。此の説法は太も浅陋なり。
象曰:風行地上,觀,先王以省方觀民設教。風行天上,則庸有不及物者;風行地上,則物無不鼔動者。聖人體此象以制巡狩之禮,省觀萬方以察民俗,因其土風而設為教化。一遊一豫為諸侯度,則事無不順乎民心者,此堯舜三代之禮。至秦皇漢武巡遊無度,縱其侈心,適所以擾天下而啟英雄窺覬之端,失先王所以省方觀民之意,由上之人事繁文而不務簡易之過也。
『大象伝』に言う。「風は大地の上を行走す、これ觀なり。先王は此に由りて領悟す。四方を巡視し民情を考察し教化を設立するを要す。」風若し天上に行わば、吹きて万物に到らざる処有るを免れず。風は地上に行えば、万物は鼓動せられざるなし。聖人は此の一卦象を体察し、天子巡狩の礼制を制定し、各方を巡視して以て民風民俗を考察し、当地の風土に順って教化を設立す。天子は一たび出游し一たび巡楽すれば皆諸侯の效法する準則と成る。然らば何事を辦ずるも民心に違背せざらん。これが即ち堯・舜と三代の礼なり。秦始皇・漢武帝に至っては、巡游に節制なし、自らの奢侈の心を放縦し、恰恰と天下を擾乱し、英雄の窺伺覬覦する端緒を開啓す。完全に先王の四方を巡視し民情を考察する本意を喪失せり。これは上位に在る人がただ繁文縟節を講究して、而も簡易に致力するを肯ぜざるの過失に由る。
初六:童觀,小人無咎,君子吝。象曰:初六童觀,小人道也。初六以陰柔最處卦下,有童子之象,所見鄙淺,不出卑陋之間,小人亦如之。所見如此,固難抗之使髙明也,故無咎。君子當大觀於天下,如七十二子之觀仲尼,見宗廟之美、百官之富;若以陰柔自守,則吝道也。聖人毎以輕約望小人,故待之不可不恕;以逺大期君子,故責之不可不嚴。象言初六童觀小人道者,固守淺陋,此小人之道耳。
初六の爻辞。「童觀、小人は咎なし、君子は吝。」『小象伝』に言う。「初六の童觀は、小人の路数なり。」初六は陰柔の質を以て全卦の最下方に処し、幼童の象有り。見識粗浅にして、卑下鄙陋の範囲を跳出し得ず。小人もまたまさに此の如し。見識は既に此の如くなれば、本来彼を硬く抬挙して高明の地步に至るは甚だ難し。だから小人に対しては「咎なし」と言う。君子は而も応当に眼を放眼して天下の大処を觀覧すべし。孔門七十二弟子の孔子を仰觀して、宗廟の壮美・百官の富盛を見たるに如し(語は『論語・子張』に本づく)。若しだだ陰柔を以て自ら守らば、則ち鄙吝の路に走上るなり。聖人は小人に対しては総じて較軽較簡の標準を用いて彼を期待し、だから彼に対待するは寛恕せざるを得ず。君子に対しては遠大を以て相期許し、だから彼を責備するは厳格せざるを得ず。『小象伝』に「初六童觀、小人の道なり」と言う。即ち浅陋を死守するは、此は過ぎず小人の路数のみと言う。
六二:窺觀,利女貞。象曰:窺觀女貞,亦可醜也。女子處房奧之中以窺於外,屏幽閒,所見雖小,其貞足道,故窺觀於女貞為利,而非君子達觀之道也。二以陰柔上應陽剛之君,不能觀其大者,當大觀之時而體陰處內,非丈夫之事,為可醜也。
六二の爻辞。「闚觀、女の貞に利し。」『小象伝』に言う。「闚觀は女の貞に利す、これは君子に於いても羞ずべき也。」女子は内室の深くに住み、門縫より外に向かいて窺看し、深居屏処して幽靜嫻雅なり。見る所は狭小なれど、あの貞靜は称道するに値す。だから偷偷に窺看する此の事は、女子の貞徳の上に於いては利有りと算えられるも、君子の豁達通觀する路数に非ず。六二は陰柔の質を以て上に陽剛の君に応合すれど、大処を見る能わず。まさに天下大いに觀るべき時に当たりて、它の本体は陰柔にして内卦に退処す。これは大丈夫の為すべき事に非ず。だから羞ずべしと言う。
六三:觀我生,進退。象曰:觀我生進退,未失道也。聖人既以身觀天下,又當反身而自觀,以為進退去就之義焉。觀天下者,觀乎萬物也;反身而觀者,內觀乎道也。六三以陰柔而據陽位,且有應乎上,若可進之時,而量能審已、度時之宜以為進退焉,如此雖未合道,亦庶幾乎未為甚失矣。
六三の爻辞。「我が生を觀、進退す。」『小象伝』に言う。「我が生の進退を觀るは、未だ正道に背離せざる也。」聖人は既に自身を以て天下に垂示すれば、亦応当に反って自己を省察し、此に拠りて進取或いは退避・就任或いは離去を決定すべし。天下を觀るは、万事万物を觀察するなり。身を反し自ら觀るは、内に向かいて自らの守る所の道を省察するなり。六三は陰柔の質を以て而も陽剛の位を占拠し、また上九と応有り。看るにまさに進取すべきの時に似たれど、然るに它能く自らの才能を衡量し時勢の宜否を審察して以て進退を決定す。此の如く為すは未だ完全に道に合すと談ずるに足らずと雖も、亦差不多大きい過失と算えざるなり。
六四:觀國之光,利用賓于王。象曰:觀國之光,尚賓也。六四得人臣之正,居近君之位,大臣之有道者,可進之時也,故觀國之光,利用賓于王。孟子曰:故將大有為之君必有所不召之臣,其尊徳樂道不如是不足與有為也。九五為大觀之主,而四以大臣來觀國之光,豈遽得而臣之哉?乾之九二九五皆曰利見大人,蓋在下之大人如太公伯夷,則利見在上之大人;在上之大人如文王,則利見在下之大人也。君臣相遇,必能大有為於天下,生民被惠,宗社蒙福,一見一用,交相為利,豈不難哉!尚賓者,賓之而不敢臣也。
六四の爻辞。「国の光を觀る、王に賓たるに利を用う。」『小象伝』に言う。「国の光を觀るとは、君王が賓客の礼を以て相待するを説く。」六四は人臣の正位に居り、また君位に逼近す。道有る大臣にして、まさに進用すべきの時機に碰上す。だから一国の光華を觀仰し、君王の上賓と為るに宜しと言う。『孟子・公孫丑下』に言う。「将に大いに作為せんとする君主は、必ず彼の敢えて召唤せざる臣子有り。君主若し徳行を尊崇し道義を喜好する此の地步に至る能わざれば、彼と共に大事を成すに足らず」と。九五は大觀の卦の主爻なり。六四は大臣の身份を以て前来して国家の光華を觀仰す。九五は豈に立刻に彼を以て臣子として使喚せんや。乾卦の九二と九五は皆「大人を見るに利し」と言う。下位に在る大人は姜太公・伯夷の如く、上位に在る大人に遇うに宜しく、上位に在る大人は周文王の如く、下位に在る大人に遇うに宜しきなり。君臣相遇えば、必ず能く天下に於いて大いに作為有り。百姓は恩惠を蒙り、宗廟社稷は福祉を承受す。然るに一方の肯んじて来見する・一方の肯んじて任用するは、彼此皆利を得る。此の種の遇合は豈に極めて難得ならざらん。所谓「尚賓」とは、即ち賓客の礼を以て彼を尊崇して、而も彼を臣属と看待するを敢えてせず。
九五:觀我生,君子無咎。象曰:觀我生,觀民也。聖人以身觀天下,萬方有罪在予一人,予一人有罪無以爾萬方,能常作是觀,則可以無咎。蓋民生治亂繫於上之舉措,則吾之動作起居可不慎乎?反求諸已而不可見,則考之民俗之善否而已。然則觀民俗者,乃所以觀吾生也。
九五の爻辞。「我が生を觀る、君子は咎なし。」『小象伝』に言う。「我が生を觀るとは、其実百姓を觀察する也。」聖人は自身を以て天下に垂示す。天下万方に罪有れば、責任は皆我が一人の身に在り。我が一人に罪有れば、万方に牽連するを要せず(語は『尚書・湯誥』に本づく)。能く常に此の如く反觀自省せば、過錯あらじ。百姓生活の治と乱は、上位者の一挙一動に係る。然らば我が行動起居はどうして謹慎せざるを得ん。自らの身に向かいて反省するも而も看清楚る能わざれば、則ち民間風俗の好坏を考察するのみ。此の如く言えば、民俗を觀察するは、まさに我が自身の作為を觀察するに在り。
上九:觀其生,君子無咎。象曰:觀其生,志未平也。上九雖不在其位,而以陽剛處九五之上,有應於下,非能恝然出於事任之外也,則民之生理實任其責。伊尹自任以天下之重,有一夫不被其澤者,若已推而納之溝中,能於此作觀,固可免咎。象曰觀其生志未平者,上九在事任之外,非有職守者,特以位髙望重,未能兼善天下,憂世之心志尚未平也。
上九の爻辞。「其の生を觀る、君子は咎なし。」『小象伝』に言う。「其の生を觀るとは、彼の世を憂うる志の未だ平静せざるを説く也。」上九は君位に在らずと雖も、陽剛を以て九五の上に居り、下卦と応有り。漠然として事務責任の外に置身する能わず。然らば百姓の生計は彼が実際上なお責任を擔負するを要す。伊尹は天下の重擔を以て自ら任じ、ただ一人の恩沢を蒙らざる者有らば、彼は便ち自ら人を溝壑の裡に推し入れたが如く覚えたり(語は『孟子・万章上』に本づく)。能く此の如き心態を以て觀察せば、自然に過錯を免れ得る。『小象伝』に「其の生を觀る、志未だ平らかならざる也」と言う。上九は已に職任の外に在りて、並びに具体の職守なし。ただ地位崇高・声望隆重なるに因りて、尚お天下を兼善する能わず。あの時世を憂念する心志は始終未だ平静せざるを言う。
噬嗑卦(震下離上)
震下離上。噬嗑:亨,利用獄。君臣相遇,非道同徳合則不能大有為於天下,然自古迄今毎多不合者,有物間於其間也。欲除去其間,非威明剛斷不能也。離震二卦合而成噬嗑,九四為頤中有物之象,蓋君側之強臣,阨群賢之進而間隔之者。噬者,齧也;嗑者,合也。頤中有物,非齧去之則終不能合;能齧去之,則上下內外亨通而無礙矣。
噬嗑卦は下体を震とし上体を離とす。卦辞に言う。「亨、獄を用うるに利し。」君と臣の相遇合するは、若し道路相同じく徳性契合せざれば、天下に於いて大いに作為有る能わず。然るに古より今に至るまで君臣は多半合わず。原因は中間に東西有りて阻隔するに在り。此の阻隔を除去せんと欲せば、威厳・明察と剛毅の決断有るに非ざれば不可なり。離・震の両卦は相合じて噬嗑と成り、九四の此の一爻は口腔の中に異物を含む象なり。指す所は君主の身辺の強横の大臣で、彼は群賢の進用を阻塞して君臣を隔開す。「噬」は咬、「嗑」は合なり。口の中に物を含みて、之を咬掉せざれば、上下の牙は始終合わる能わず。能く之を咬掉せば、上下内外は通暢して阻るなし。
噬嗑非止用獄,但既明且威,則於用獄為利。又小人強梗,非加以刑辟斧鉞之誅不能除去之,故云利用獄也。周之管蔡、漢之上官桀,此二間也,非成王昭帝明斷而卒除去之,則周公霍光豈能成輔翼之功哉?
噬嗑卦の講ずる所は並びにただ案を断じ刑を用うるに非ず。ただ既に明察有りまた威勢有れば、案を断ずるに用いれば格外有効なり。さらに言えば強横の小人は、刑法斧鉞の誅戮を加えざれば除き去る能わず。だから卦辞は「獄を用うるに利し」と言う。周初の管叔・蔡叔、西漢の上官桀は、即ち此の類の君臣の間に横たわる物なり。若し周成王・漢昭帝の明智決断に非ざれば、終に彼らを除去せず。周公・霍光はまたどうして王室を輔佐する功業を成就し得んや。
彖曰:頤中有物曰噬嗑,噬嗑而亨。剛柔分,動而明,雷電合而章。柔得中而上行,雖不當位,利用獄也。人所以養其氣體,必資於飲食,故頤者,養也。頤中有物,妨於飲食語言,必齧去之,然後乃得亨通。卦體上下二剛,剛主決斷,與柔異體而相湏。噬嗑自否卦而來,九五之剛分而之初,初六之柔分而之五,剛柔分而成離震,震動而離明也。雷必有電,雷動電耀,異體相合而章著也。
『彖伝』に言う。「口の中に物を含むを噬嗑と呼ぶ。咬開いてこそ亨通す。剛と柔は上下に分居し、震動して離明、雷と電は相合じて彰顯す。柔爻は中に居りて上行す。位置は当たらずと雖も、獄を断じ刑を用うるに宜し。」人は自らの気血形体を養うに、必ず飲食に依靠するを要す。だから「頤」は即ち養なり。口の中に異物を含めば、飯を喫し話をするを妨げ、必ず之を咬掉して後にこそ通暢し得る。卦体に就いて言えば、初九・上九の二個の剛爻は上下に分処し、剛は決断を主とし、中間の柔爻と体性は同じからずも而も互いに需要す。噬嗑卦は否卦より変じ来たる。九五の剛爻は分れ下りて初位に至り、初六の柔爻は分れ上りて五位に至る。剛柔は一分して下震上離と成る。震は動、離は明なり。雷有れば必ず電有り。雷は動き電は照る。二種の不同なる物は相合じて一切を顕豁分明ならしむ。
六五以柔而履尊位,得中而上行,不失離明之照,雖九九五為不當位,而有剛明之賢上為之贊助,強梗者卒伏其辜,故利用獄也。象曰:雷電,噬嗑,先王以明罰勅法。雷以震驚之,電以照耀之,則其威明之行,無能遁其情者,噬嗑之象也。聖人觀此象以明其刑罰、謹其法令,使天下曉然易避而難犯也。
六五は柔順の質を以て尊位に登り、中に居りて上行す。離火の明照の徳性を失わず。陰柔を以て九五の位に居るは其の位に当たらずと算うると雖も、剛強明察の賢臣有りて上に於いて之を輔助す。強横の人は終に罪に伏す。だから「獄を用うるに利し」と言う。『大象伝』に言う。「雷と電、これ噬嗑なり。先王は此に由りて領悟す。刑罰を申明し法令を整飭するを要す。」雷は以て彼を震懾し、電は以て彼を照亮す。然らば威勢と明察は一たび施行せば、実情を隠匿し得る誰もなし。これが噬嗑の卦象なり。聖人は此の一卦象を觀察し、因りて刑罰を申明し法令を謹厳にし、天下人をして清清楚楚にして、躲開し易く触犯し難からしむ。
初九:屨校滅趾,無咎。象曰:屨校滅趾,不行也。初上以卦材言之,則為二剛,利於斷獄者也;以六爻言之,則初上二爻無位,為受刑之人。易之取義廣大隨時言,豈一端哉?初最處下,用刑之初,為惡未大,故屨校滅趾無咎。屨,履也;校,桎梏也;趾有止之義。屨校滅趾,校之使沒其趾,但拘囚之刑之至輕者也。
初九の爻辞。「屨校して趾を滅す、咎なし。」『小象伝』に言う。「屨校して趾を滅すとは、彼をして再び前に往かざらしめんと欲する也。」初九と上九は、若し卦の材質の上より言えば、則ち上下の二個の剛爻で、案を断ずるに宜しく、若し六爻の位次の上より言えば、初・上の両爻は皆正位なし。まさに刑を受る人なり。『周易』の取義は広大にして、時勢に随いて言を立つ。豈にただ一種の講法のみあらん。初九は最も下面に処し、刑を用うの開端で、悪を為すは尚お厳重ならず。だから彼に足枷を戴上して脚指を遮没せしむ。過錯なし。「屨」は穿戴、「校」は脚鐐手銬、「趾」は止まるの意を含有す。「屨校滅趾」とは、即ち彼に木枷を戴上して脚指を埋没せしむる。過ぎず拘禁一下するは、刑罰の中の最も軽きなり。
孔子於此二爻特發明其義曰:小人不恥不仁,不畏不義,不見利不勸,不威不懲,小懲而大戒,此小人之福也,故屨校滅趾無咎。上九亦小人之居尊位者也,故以小善為無益而不為,以小惡為無傷而弗去,至惡積而不可掩,罪太而不可解,故何校滅耳凶。此二者皆為受刑之人,自二至五皆取噬為義,則用刑之人也。
孔子は『繋辞下伝』の裡に於いて特に此の両爻のために義理を発明して言う。小人は不仁を以て羞耻と為さず、不義の事を害怕せず、好処を見ざれば肯んじて上進せず、威勢なければ懲戒を受けず。小小に彼を懲罰一下して、彼をして大きい警戒を得しむ。これはまさに小人の福気なり。だから「屨校滅趾」は過錯なし。上九もまた一身に尊位に居る小人なり。彼は小さい善事を以て益処なしと看做して肯んじて為さず、小さい悪事を以て妨害なしと看做して肯んじて改めず。以致罪悪は累積して掩い難く罪過は大きくして解脱し得ざるに至る。だから「何校滅耳」にして凶なり。此の両爻の講ずるは皆刑を受る人なり。六二より六五に至るまで皆「噬」(咬)の意を取り、講ずるは則ち刑を用うる人なり。
六二:噬膚滅鼻,無咎。象曰:噬膚滅鼻,乘剛也。六二雖處人臣中正之位,而材實柔弱,動而乘剛強之小人,非深文峻法以治之未易勝也,故噬膚不足,以之滅鼻,蓋不如是不足以服強梗也。古之斷獄者當以矜恤為先,六二雖失先王欽慎明恕之意,以治小人未為過也,故無咎。象噬膚滅鼻乘剛者,下乘初九,其勢不得不齧去之。用刑者小必傷人之肌膚,故皆以噬為言。
六二の爻辞。「膚を噬して鼻を滅す、咎なし。」『小象伝』に言う。「膚を噬して鼻を滅すとは、其の剛爻の上に凌乘するを以て也。」六二は人臣の中正の位に処すと雖も、才質は而も確かに柔弱なり。一たび動けば剛強の小人の上に凌駕す。厳密苛峻の法条を用いて彼に対付せざれば、彼を制服し易からず。だからただ皮肉を咬開くも尚お足らず、鼻子まで咬みて皆陥没せしむるを要す。此の如くせざれば強横の徒を懾服するに足らず。古人の案を断ずるは本来応当に憐憫体恤を先と為すべし。六二は先王の敬慎明察寛恕の本意を失する有ると雖も、小人に対付するに用いれば尚お過分と算えず。だから「咎なし」と言う。『小象伝』に「膚を噬して鼻を滅す、剛に乘る也」と言う。六二の下に向かいて初九に凌乘するを説く。形勢の上に於いて之を咬掉せざるを得ず。刑を用うる人は多少総じて人の皮肉を傷るを要す。だから各爻は皆「噬」の字を用いて説く。
六三:噬臘肉,遇毒,小吝,無咎。象曰:遇毒,位不當也。臘肉,全體之物,至難齧者也,以喻強梗小人為間之大,未易遽去之。去之不以漸,必遭其怨毒而反受其害。然奉法以制小人,有司之事,雖失威斷之大,何咎之有?但小有悔吝耳。三陽位而陰柔據之,其遭怨毒蓋處不當其位故也。使明足以照奸慝,威足以服強梗,片言可以折其辭,則小人必聴矣。
六三の爻辞。「腊肉を噬す、毒に遇う、小さき吝、咎なし。」『小象伝』に言う。「毒に遇うとは、処する位置の恰当ならざるを以て也。」腊肉は整隻の風干した肉で、最も咬動し難し。以てあの君臣の間に横たわり勢力の甚だ大きい強横の小人を比喻す。一下子に除去し易からず。彼を除去するに若し循序漸進せざれば、必ず彼の怨恨毒害を招来し、反って自己は傷を受く。ただし法令を奉行して小人を制裁するは、本是有司の職分なり。威厳決断の大手筆と算えずと雖も、また何の過錯かあらん。至多畧か悔恨遺憾有るのみ。六三は陽位にして而も陰柔の爻に占拠せらる。其の怨毒に遭う所以は、まさに処する位置の不当なるに因る。假使明察は以て奸邪を照見するに足り、威勢は以て強横を懾服するに足らば、一句の話にして曲直を判定し得、小人は自然に服従あるのみ。
九四:噬乾胏,得金矢,利艱貞,吉。象曰:利艱貞吉,未光也。九四用剛直之道而處柔順之位,位尊而任重,人君恃以擊強梗、除間隙也。脯有骨曰胏,最難齧者,非剛直之材、知難而守正者未易勝之也。暴戾凶愎,小人之剛也。君子欲驅除小人,必操公心,由直道,挾利器,待時而動,動不括,乘間而發,發必中矣。若行不以艱難,守不以正固,恃其剛直,輕易妄動,則反為所齧矣,故利艱貞乃獲吉也。象曰利艱貞吉未光者,去小人之術,當使之退聴,潛消於之中;今道徳之威不足以勝,至於用刑獄以除去,雖免凶咎,未足為光大也。
九四の爻辞。「乾胏を噬す、金矢を得、艱貞に利し、吉。」『小象伝』に言う。「艱貞に利し吉とは、其の功業の尚お光大たらざるを説く。」九四は剛強正直の作風を用いて而も柔順の位に処す。地位は尊崇・責任は重大にして、君主は彼を頼りて強横を打撃し君臣の間の阻隔を清除するを要す。骨を帯びた乾肉を「胏」と呼ぶ。最も咬み難き物なり。剛強正直の材器・艱難を明知して正固に堅守する人に非ざれば、容易に咬動し得ず。凶暴乖戻・剛愎自用は、小人の身上のあの「剛」なり。君子の小人を駆除するは、必ず公心を存し正道を走り鋭利の憑借を握有し、時機を等待して後に行動するを要す。一たび動けば牽絆を受けず、間隙に乗じて難を発し、一たび発すれば必ず命中す。假如行事に艱難を経歴するを肯ぜず、持守は正固する能わず、ただ自らの剛直を仗恃し軽率妄動せば、かえって小人に咬傷せられん。だから「艱貞に利し」にしてこそ吉を得るを得と言う。『小象伝』に「艱貞に利し吉、未だ光ならざる也」と言う。小人を除去する上策は、彼をして自ら退聴せしめ、知らず知らずの中に悄悄と消解せしむるを説く。いま道徳の威望は以て勝を取るに足らず、竟に刑獄を動用して鏟除せんと欲す。凶険過咎を免るると雖も、尚お光明宏大と算えず。
六五:噬乾肉,得黃金,貞厲,無咎。象曰:貞厲無咎,得當也。六五體雖柔弱,而居得政之位,操生殺之權,其去小人若無甚難者,然猶有乾肉之象,以見小人難去如此。五為去間之主,而四以剛正輔贊而彌縫之,用力小而見功多矣。
六五の爻辞。「乾肉を噬す、黄金を得、貞厲、咎なし。」『小象伝』に言う。「貞厲咎なしとは、其の処置の恰当を得るを以て也。」六五の本体は柔弱なれど、政を掌る君位に居り、生殺の大権を握る。小人を除去するは看るに似たく甚だ困難ならず。然るに爻辞は尚お「乾肉」を用いて象と為す。まさに小人の除去し難きが此の地步に至るを見るべし。六五は阻隔を清除するの主爻にして、而して九四は剛強正直を以て旁に在りて輔助し彼のために弥补周旋す。だから力を用うること少なくして効果を収むること多し。
得黃金者,得剛中之賢,足以勝小人。人君駕御大臣,得其道則為腹心股肱之用,不得其道則既任而疑之,扈難制,反為害者多矣。五既以柔弱而乘九四之剛,固賴以濟難,然亦不可不怵惕,常以危懼自處也。如此固可免咎。象言貞厲無咎得當者,能貞且厲而免咎,以見處之當其理也。
所谓「黄金を得」とは、剛健守中の賢臣を得るを説く。以て小人に勝するに足る。君主が大臣を駕御するに、辧法を用い正ければ、大臣は便ち心腹手足の如き助力と成る。辧法を用い正からざれば、便ち既に任用し又心に猜疑を存し、此に於いて跋扈して制し難く反って禍害を醸成する例は太も多し。六五は既に柔弱の身を以て九四の剛爻に凌乘す。固より彼を頼りて難を済するを要するも、亦警愓せざるを得ず。常に危懼の心態を以て自ら処るを要す。能く此の如くなれば、自然に過錯を免れ得る。『小象伝』に「貞厲咎なし、当を得る也」と言う。其の能く正を守りてまた常に危懼を懐くを説く。因此過錯を免る。処置の道理に合するを見るべし。
上九:何校滅耳,凶。象曰:何校滅耳,聰不明也。先王用刑無貴賤之間。上九,強臣也,強臣而無位,雖嘗為大臣而積稔罪惡,至於不可掩覆解免,固可以刑戮加之。驩兠誣人功罪,唐堯戮之;管蔡挾武庚以叛,周公誅之,豈以位尊職重而不敢加以刑辟哉?初九屨校滅趾,趾,止也,欲使為惡者不復行,戒之使入於善也;上九何校滅耳凶,以聦不明故,以校滅耳而懲之,惡積罪大,無自新之理矣。
上九の爻辞。「何校して耳を滅す、凶。」『小象伝』に言う。「何校して耳を滅すとは、其の耳目の不明なるを以て也。」先王の刑を用うるは貴賤を分たず。上九は強横の大臣なり。強横なれど已に実位なし。たとえ嘗て大臣を做したるも、罪悪は日に積り月に累ね、掩い難く解脱し得ざるの地步に至れば、本来以て彼に刑戮を施加すべし。驩兜は別人の功罪を誣陷し、唐堯は彼を誅戮し、管叔・蔡叔は武庚を挟持して叛乱し、周公は彼らを誅殺す。豈に地位尊貴・職任隆重なるに因りて刑法を動用するを敢えてせざらんや。初九の「屨校滅趾」は、「趾」は止の意で、悪を為す人をして再び前に往かざらしめ、彼を警戒して善道に帰らしめんと欲するなり。上九の「何校滅耳、凶」は、其の耳目昏昧にして忠言を聴き入れざるを以て、だから木枷を用いて耳を壓し彼を懲罰す。罪悪の累積は太も大きく、已に自新の余地なし。
賁卦(離下艮上)
離下艮上。賁:亨,小利有攸往。賁飾之事,固非聖賢之所尚也,然質勝文則野,交物之際,文亦不可已。有其質而加賁飾焉,所以能亨通也。譬之車服器械,適用而已,加以雕鏤文采,徒為觀美,雖不可巳,亦不可過也,故小利而已。若涉險難,非文飾所能濟也。
賁卦は下体を離とし上体を艮とす。卦辞に言う。「亨、小さく往く攸有るに利し。」文飾打扮の此の類の事は、本来聖賢の崇尚する所に非ず。然るに質朴は文采を超過すれば便ち粗野と顕れ、人と交接往来する時に、文采もまた完全に廃掉し得ず。内在の質地有りて更に文飾を加えれば、だから能く亨通す。譬えば車馬衣服器物は、本来合用を以て度と為し、更に彫刻花紋・彩絵装飾を加うるは、過ぎず好看の為のみ。これらは完全に無き能わずと雖も、亦過分すべからず。だからただ「小さく利有り」と言う。険艱を渉越せんと欲するに至っては、便ち文飾の救助し得る所に非ず。
彖曰:賁亨,柔來而文剛,故亨;分剛上而文柔,故小利有攸往,天文也;文明以止,人文也。觀乎天文以察時變,觀乎人文以化成天下。乾坤純陰純陽之卦,有父母之象。乾施一陽於坤而成震坎艮,故謂之男;坤施一陰於乾而成巽離兌,故謂之女。六十四卦皆因乾坤而成,非獨六子而巳。
『彖伝』に言う。「賁卦の亨通する所以は、柔爻は下りて来りて剛爻を文飾するを以て、だから亨通す。また剛爻を分ちて上りて柔爻を文飾せしめ、だから小さく往く有るに利す。これは天の文采なり。文采は光明にしてまた節止する所有り。これは人の文采なり。天文を觀察すれば、以て四時の変化を考察し得。人文を觀察すれば、以て天下を教化し風俗を成就し得。」乾・坤は純陽・純陰の卦にして、父母の象有り。乾は一個の陽爻を坤に施与すれば、便ち震・坎・艮と成る。だから三男と呼ぶ。坤は一個の陰爻を乾に施与すれば、便ち巽・離・兌と成る。だから三女と呼ぶ。六十四卦は皆乾坤より生成し、並びにただ此の六個の子卦のみに非ず。
離下艮上為賁。離體本乾坤,以一柔來居其中以文二剛,故剛不至於暴而物無不通也;艮體本坤乾,以一剛分處於上以文二柔,剛柔相雜而相濟,陰陽異位而相成,此卦所以為賁也。二在下卦之中,故言來,來者,來居於內也;來居於內,變而為離則文明矣。九處上卦之極,故言分,分處於外也;分處於外,變而為艮則止靜矣。陰柔無迕,柔來居中而文剛,則可以通物矣,故亨;陽剛至健,剛上而文柔,則可以涉難矣,故小利有攸往也。
離は下に在り艮は上に在れば、便ち賁卦と成る。離体は本来乾より出づ。坤は一個の柔爻を送りて中位に居らしめて上下の二個の剛爻を文飾せしむ。だから剛強は暴烈に至らず、而して万物は通達せざるなし。艮体は本来坤より出づ。乾は一個の剛爻を分ちて最上位に処せしめて下面の二個の柔爻を文飾せしむ。剛と柔は互相錯雑して互相補救し、陰と陽は位置不同にして互相成就す。これが即ち此の卦の「賁」と称する縁故なり。第二爻は下卦の中位に在り。だから「来」と言う。「来」は即ち来りて内卦に居るなり。来りて内卦に居りて離に変ずれば、便ち文明有り。上面のあの陽爻は上卦の頂端に処す。だから「分」と言う。即ち分ち出でて外卦に処るなり。分ちて外卦に処りて艮に変ずれば、便ち静止有り。陰柔は人に抵触せず。柔爻は来りて中位に居りて剛爻を文飾せば、便ち以て万物に通達し得。だから「亨」と言う。陽剛は極めて強健なり。剛爻は上りて柔爻を文飾せば、便ち以て艱難を渉越し得。だから「小利有攸往」と言う。
日月之往來,星辰之佈列,剛柔錯綜,陰陽相交,自然而成理者,天文也。陰麗於下而文明其上,陽止乎上而節制其下,禮樂政刑必假於人為者,人文也。觀乎天文,則四時之代謝可察矣;觀乎人文,則天下之風俗可變矣。聖人推廣賁飾之意,豈徒為觀美而已!仰觀天文,俯察人理,必歸於有用,所以成孝敬而厚人倫、美教化而移風俗者,用此道也,此賁飾之大者也。
日月の来往・星辰の排布、剛と柔は交錯し、陰と陽は相交わり、自然而然に条理を形成するは、即ち天文なり。陰爻は下に附麗して上面を文采光明ならしめ、陽爻は上に静止して下面を節制す。礼楽刑政の此れらは必ず人力を頼りて為すを要す。即ち人文なり。天文を觀察すれば、四季の更替は便ち看清楚なり。人文を觀察すれば、天下の風俗は便ち改変し得る。聖人の文飾の意義を推広するは、豈にただ好看の為のみならん。頭を抬げて天象を觀察し、頭を低くして人事を体察し、最終に必ず実用の上に落到す。能く孝敬の徳を成就して人倫を淳厚ならしめ、教化を美化して風俗を移易するは、頼る所はまさに此の路なり。これこそ文飾の中の大者なり。
象曰:山下有火,賁,君子以明庶政,無敢折獄。山者,鳥獸草木之所由出也,山下有火,則火景所燭,物無不照,故有賁之象。君子體此以明庶政,則凡見於政事者無不加賁焉;獨獄訟之間,當用其誠實,而以法令為師。學未及於古人,其敢以片言折之乎?獄者性命所繫,聖人於此有畏懼之心焉,故曰無敢折獄也。
『大象伝』に言う。「山下に火有り、これ賁なり。君子は此に由りて領悟す。各項の政務を修明するを要すれど、而も敢えて一時の見を憑りて訟案を断決せず。」山は鳥獣草木の生長する所なり。山下に火を燃やせば、火光の照らす所、万物は顕現せざるなし。だから文飾の象有り。君子は此の一象を体察し、以て各項の政務を修明すれば、則ちおよそ政事に見ゆるは、文飾を加えざるなし。独り刑獄訟案は、応当に誠実の心を拿出して、法令を以て準縄と為すべし。自らの学問は尚お古人に趕不上れば、どうして敢えて三言両語を憑りて曲直を判定せん。刑獄は人の性命に関係す。聖人は此の上頭に於いて敬畏の心を存す。だから「敢えて獄を折らず」と言う。
初九:賁其趾,舍車而徒。象曰:舍車而徒,義弗乘也。九居於初,此陽剛君子隱而未見者也,發跡之初尤當自重。原憲之貧,捉襟肘見,納屨踵決,及歌商頌之詩,聲若出金石,髙車駟馬者蓋有愧焉。車固君子之器,小人而乘君子之器,盜斯奪之。君子於辭受進退之際,惟義之從耳。顏斶緩行以當車,君子不以為辱;所治癒下、得車愈多者,君子不以為榮。
初九の爻辞。「其の趾を賁す、車を舎てて徒歩す。」『小象伝』に言う。「車を舎てて徒歩すとは、道義に按じて彼の乗るべからざるを以て也。」陽爻は初位に居る。これは陽剛君子の隠居して未だ顕達せざる時なり。剛く歩を起こす時は尤も応当に自重すべし。原憲のあの如き貧窮にして、衣襟を拉せば便ち手肘を露出し、鞋子を穿けば脚跟は便ち鞋幇を頂破す。然るに彼が『商頌』を唱起すれば、声音は金石の如く鏗鏗たり。あの高車駟馬に坐る人は彼の面前に於いてかえって慚愧すべし(事は『荘子・譲王』に見る)。車子は本来君子の用うべき器物なり。小人は而も君子の器物に乗ずれば、強盗は便ち来たりて奪搶せん(語は『繋辞上伝』に本づく)。君子は辞譲と接受・進取と退避の際に於いて、ただ一個の「義」の字に服従す。顔斶は寧ろ慢慢として歩行し、歩行を以て車に坐ると為し、君子は以て屈辱と為さず(事は『戦国策・斉策』に見る)。治績は愈々差して而も得る車馬は愈々多きは、君子は以て光栄と為さず(事は『荘子・列御寇』に見る)。
賁之初九能自貴重,寧徒行而舍軒車之盛,其為光華賁飾之道莫大焉。初比於二而正應在四,不比於近而逺從正應,故有舍車徒行之象。伊尹耕有莘之野,非其義也,非其道也,祿之以天下弗顧也,繫馬千駟弗視也。君子居窮隱約能自重如此,豈以徒行為辱、乘軒車為榮哉?
賁卦の初九は能く自重自貴し、寧ろ徒歩して華車の盛飾を舎棄す。光華文飾の道と為すは、これより大きいはなし。初九は六二に緊挨すれど、而して其の正応は而も六四に在り。它は近旁の六二に親附せず、かえって遠く正応の六四に追随す。だから車馬を舎棄し徒歩して行くの象有り。伊尹は有莘の郊野に於いて田を耕し、およそ義に合せざる・道に合せざるは、たとえ天下の俸禄を以て彼に与えても回頭せず、千駟の良馬を面前に拴しても一顧もせず(語は『孟子・万章上』に本づく)。君子は困窮隠約の中に処して能く此の如く自重すれば、豈に歩行を以て屈辱と為し車に乗るを以て栄耀と為さんや。
六二:賁其須。象曰:賁其須,與上興也。須附於頤頰,一身之中為最顯,此賁飾之出於自然者。二比於三,同體者賁,雖不能自立,隨質而動,得所麗則相待而成。蓋文質之相湏,非能有所加損也,其動作皆因其所附之質耳,故象曰賁其湏與上興也。
六二の爻辞。「其の須を賁す。」『小象伝』に言う。「其の須を賁すとは、上面に随いて一同に動作する也。」鬍須は下巴と面頬に附着し、全身の中に於いて最も顕眼なり。これは自然より出づる文飾なり。六二は九三に緊挨し、一体に同処する両爻は互相文飾す。鬍須は自ら独立して存在する能わず、ただ附する所の形質に随いて動き、依附する対象を見出だしてこそ彼此配合して成るを得る。文と質は本来互相依待し、誰も相手方に増添或いは減損すること能わず。鬍須の一挙一動は、皆其の附着する所のあの形体に取決するのみ。だから『小象伝』は「其の須を賁す、上と興る也」と言う。
九三:賁如濡如,永貞吉。象曰:永貞之吉,終莫之陵也。賁飾之道常失之華侈而無其實,若有徳以潤其身,而飾以粲然之文,如玉之蘊於石、珠之媚於川,其潤澤光彩有不可掩者,故曰賁如濡如也。永貞吉者,九三以陽剛而居陽位,處離分之極,賁之極者,賁飾之盛則流而為奢淫,故戒以永貞則吉也。永貞者,長守正道,不為群陰之所誘,則小人終莫陵之也。
九三の爻辞。「賁如濡如、永く貞なれば吉。」『小象伝』に言う。「永貞の吉を得る所以は、終に彼を欺凌し得る人なきを以て也。」文飾の道の常に犯す毛病は、華麗奢侈にして実在の内容なきなり。若し徳行有りて自身を滋潤し、更に灿然の文采を加えれば、美玉の石頭の裡に藴蔵し珍珠の河川をして生輝せしむるが如く、あの潤沢光采は掩蓋し得ざるなり。だから「賁如濡如」と言う。「永貞吉」に至っては、九三が陽剛を以て陽位に居り、離体の頂端に処し、文飾の極点に達する一爻なるを以てなり。文飾は太も盛んなれば便ち奢侈淫靡に流る。だから長久に正を守りてこそ吉なるを告戒す。所谓「永貞」とは、即ち長久に正道を守住し、周囲の陰柔小人に引誘せられず。然らば小人は終に彼を欺凌する能わず。
六四:賁如皤如,白馬翰如,匪宼婚媾。象曰:六四當位疑也;匪宼婚媾,終無尤也。四與初為正應,初以陽剛在下,守節義而輕富貴者也,四欲往從,亦當以潔白之操應之,故賁如皤如也。皤,潔白也。白馬翰如者,聘賢必以車馬,馬取其色白者,詩人以皎皎白駒,在彼空谷,生芻一束,其人如玉,亦取潔白之義。
六四の爻辞。「賁如皤如、白馬翰如、寇に匪く婚媾なり。」『小象伝』に言う。「六四の処する位置は当たると雖も、疑虑を免れず。『寇に匪く婚媾』は、終に過失なし。」六四と初九は正応なり。初九は陽剛を以て下位に居り、節操道義を守りて富貴を看軽する人なり。六四は彼に追随せんと欲すれば、亦応当に潔白の操守を拿出して相応ずべし。だから「賁如皤如」と言う。「皤」は即ち潔白なり。「白馬翰如」に至っては、賢者を聘請するは必ず車馬を用うるを要し、而して馬は白色を取るを要するに因る。『詩経・小雅・白駒』の詠ずる「皎皎たる白駒、彼の空谷に在り、生芻一束、其の人は玉の如し」も、亦潔白の意を取る。
翰如,飛翔而往也。聘既以其道,則幡然而來矣。匪宼婚媾者,古之聘賢猶嫁娶之用媒聘,故以婚媾為喻。四之應初,初之從四,乃正應也,而九三以陽剛間乎其間,四又乘之,故與三為仇,所以遲疑而不敢遽進也。非三為難,則四與初合久矣。夫陰陽之相求,剛柔之相賁,乃理之常。六四下應初九,位固當矣,又乘九三之剛,此當位適所以致疑也。初與四既以正道相應,小人為間者終莫能害之,故終無尤也。
「翰如」とは、鳥の飛翔するが如く駆け往くなり。聘請は既に礼数に合せば、賢者は便ち翻然として来たる。所谓「寇に匪く婚媾」は、古人の賢才を聘請するは、娶親の媒妁を用いて聘を行うが如きを以て、だから婚配を拿りて比喻す。六四は初九に応合し、初九は六四に跟従す。本来正応なり。然るに九三は陽剛を以て彼らの中間に横たわり、六四はまた九三の上に凌乘す。因此九三と仇怨を結成し、こそ遲疑不決して即刻前往するを敢えてせず。若し九三の中より作梗せざれば、六四は早く已に初九と会合せし。陰と陽は互相求合し、剛と柔は互相文飾す。本来常理なり。六四は下に向かいて初九に応合し、位置は本来恰当なれど、而もまた九三の剛爻に凌乘す。此の「位に当たる」は恰恰と疑虑を招致する由来と成る。初九と六四は既に正道を以て相応ずれば、あの中より作梗する小人は終に彼らを害する能わず。だから「終に尤なし」と言う。
六五:賁于丘園,束帛戔戔,吝,終吉。象曰:六五之吉,有喜也。六五當全盛之時,為賁之主,固可以崇臺榭、廣苑囿之觀;六五居中正之位,雖賁于丘園而束帛戔戔,不為侈也,故雖吝而終獲其吉。象言六五之吉有喜者,吝道宜有憂虞,當賁之時能以儉約自處,後必獲福,故有喜也。
六五の爻辞。「丘園に賁す、束帛戔戔、吝、終に吉。」『小象伝』に言う。「六五の吉の所以は、喜慶有る也。」六五はまさに全盛の時に当たり、また賁卦の主爻なり。本来大いに高台楼榭を修筑し苑囿を拡広して以て觀賞に供すべし。然るに六五は中正の位に居り、山丘園圃の上に於いて文飾を加えると雖も、用うる所は而もただ薄薄たる几束の繒帛のみ。奢侈と算えず。だから寒儉と顕れると雖も、最終には尚お吉祥を得る。『小象伝』に「六五の吉、喜有り」と言う。吝嗇の此の路を走るは本来応当に憂慮を招来すべきに、而して它は文飾を崇尚する時代に於いて能く倹約を以て自ら処れば、日后必ず福報を得るを以てなり。だから「喜有り」と言う。
又丘園者所寓,如初九之賢,舍車而徒,守其節義而安於貧約者,人君所當聘用也。三二纁謂之束帛,物薄而禮厚。當賁飾全盛之世,菲薄乃如此,以禮為主而非吝也,故終獲其吉。以卦體言之,六五一爻聖人示奢淫之戒,其意深矣;然以丘園為隱者所寓,其從來亦逺矣,姑存二說,不敢決也。
別に一説有り。「丘園」は隠者の居る所の処なり。初九のあの如き賢者の如く、車馬を舎棄して徒歩し、節操道義を守りて清貧に安んず。まさに君主の応当に聘請任用すべき人なり。三玄二纁は合して一束帛と為す。礼物は微薄にして礼意は深厚なり。まさに文飾極盛の時代に当たりて、礼を用うるは而も菲薄なること此の地步に至る。これは礼意を以て主と為して並びに吝嗇に非ず。だから最終に吉を得る。若し卦体に就いて言えば、聖人は六五の此の一爻の上に於いて奢侈淫靡を戒絶するの意思を垂示し、用意は十分に深遠なり。ただし「丘園」を隠者の居る所と講ずるは、此の種の説法の由来も甚だ久し。姑く両説を併存し、敢えて断定せず。
上九:白賁,無咎。象曰:白賁無咎,上得志也。賁之道雖尚乎賁飾,然舜用漆器,群臣諫焉,蓋漆器不已必用犀象,犀象不已必用金玉。觀賁之六爻,雖本於賁飾而常以質素為先。上九賢人處尊位而眾所視效者,故以質素為飾,則其所自奉者無華侈之過、奢靡之失也,故曰白賁無咎。象曰白賁無咎上得志也,所志在於儉約,今已處顯位而能行其所願,則平昔之志遂矣,故曰上得志也。
上九の爻辞。「白賁、咎なし。」『小象伝』に言う。「白賁咎なしとは、上位に居る者の心願を実現したを説く。」文飾の道は装飾を崇尚すると雖も、然るに当年舜は漆器を使用し始め、群臣は便ち進諫して劝阻す。漆器は用い下れば必然に犀角象牙を用いんと欲し、犀角象牙は用い下れば必然に黄金美玉を用いんと欲するを以てなり(事は『韓非子・十過』に見る)。賁卦の六爻を通觀すれば、立意は文飾に在ると雖も、而も常に質朴素浄を以て第一位に置く。上九は身は尊位に処し衆人の仿效する所の賢人なり。だから彼は質朴素浄を以て文飾と為す。然らば彼自身の奉養は便ち奢華過度・靡費失当の毛病なし。だから「白賁咎なし」と言う。『小象伝』に「白賁咎なし、上志を得る也」と言う。其の志向は本来���約に在りて、いま已に顕位に居りて能く自らの心願を実行するを説く。平生の志向は便ち実現せり。だから「上志を得る」と言う。
剥卦(坤下艮上)
坤下艮上。剝:不利有攸往。剝復否泰之循環,固出於君子小人之用舍,然陰陽消長若非偶然者。當否剝之時,能用君子則扶持安全,不至於亡耳,故否卦繇辭言否之匪人,蓋有非人力所能為者,聖人蓋難言之,要當歸之人事,使人主常兢業以圖之。遇災而懼,側身修行,宣王所以致中興也;曰我生不有命在天,此紂之所以亡也。小人道長,君子道消,故曰剝。聖賢君子遐舉逺引,不可榮以祿之時,故利於退遁,不利有攸往也。
剥卦は下体を坤とし上体を艮とす。卦辞に言う。「往く攸有るに利あらず。」剥・復・否・泰の循環は、固より君子・小人の進用と廃棄に取決するも、然るに陰陽の消退と生長はまた似たく全く偶然に非ず。まさに否・剥の此の如き時勢に当たりて、若し能く君子を任用せば、尚お扶持保全し亡国に至らざるを得る。だから否卦の卦辞は「否の人に匪ず」と言う。其の中に並びに人力の左右し得る所に非ざる成分有るを見るべし。此の一層は聖人も明説するに便ならず。総じて帰して人事の上に落到し、君主をして時時戒惧勤勉して経営せしむ。災変に遇うて敬畏を生じ、身を側し自省し徳行を修飭す。これは周宣王の能く中興する所以なり。反って言えば「我が一生は豈に天命の在るなからんや」(語は『尚書・西伯戡黎』に出づ)。これはまさに商紂の滅亡する所以なり。小人の路数は日漸に勢を得、君子の路数は日漸に消退す。だから「剥」と呼ぶ。これはまさに聖賢君子の高く飛び遠く走り抽身引退し、爵禄を拿りて彼らを栄寵する能わざるの時なり。だから退避隠遁するに宜しく、往く所有るに利あらず。
彖曰:剝,剝也,柔變剛也。不利有攸往,小人長也。順而止之,觀象也。君子尚消息盈虛,天行也。剝,如剝之剝,剝落必至於盡也。小人之害君子,非至於盡,則必有所忌憚而不得恣其所為,故剝勢必至於盡也。柔變剛者,剛方者君子也,柔佞者小人也。
『彖伝』に言う。「剥は即ち剥落、陰柔の陽剛を改変するなり。『往く攸有るに利あらず』は、小人がまさに滋長するを以てなり。形勢に順って之を停止せしむるは、これは卦象を觀察して得る所なり。君子は消退・生長・盈満・虧虚の道理を看重す。あれは天道の運行なるを以てなり。」「剥」は即ち剥落のあの「剥」の字なり。剥落し下れば必ず剥尽に至るを要す。小人が君子を殘害するは、君子を清除乾浄に至らざれば、彼らの心裡は便ち総じて忌惮有りて為したい放題する能わず。だから剥落の���は必ず窮尽に発展するを要す。所谓「柔は剛に変ず」とは、剛強方正なるは君子、柔媚諂佞なるは小人なり。
小人得志,則能竊人主威柄,盡去君子而呼吸群小聚之朝廷,則據要路者皆小人矣。小人道長,則知幾之士當引身而去,不然必遭傾,故不利有攸往也。然君子之事無可為,則順適吾意,全身而去。卦有順止之意,順適吾意,小人之凶熖或可止也。坤順而艮止,聖人於剝之時能黙觀此象,以為進退行藏之決,豈復有禍悔哉?
小人は一たび志を得れば、便ち能く君主の威権を窃取し、君子を清除乾浄にし、一呼一吸の間に一群の小人を召来して朝廷の上に聚集せしむ。此に於いて要津を占據するは全て小人なり。小人の勢頭はまさに長ず。識見通達・幾を見て作す能くする人は便ち応当に抽身引退すべし。然らざれば必ず傾覆に遭う。だから「往く攸有るに利あらず」と言う。然るに君子の事は既に作為すべきなければ、則ち自らの心意に順い、身家を保全して去るのみ。剥卦は本来「順いて之を止む」の意有り。自らの心意に順って退避せば、小人の凶焔は或いはかえって止住し得る。下卦の坤は順、上卦の艮は止なり。聖人は剥落の時に於いて能く黙々として此の一卦象を觀察し、拠りて進取或いは退避・出仕或いは隠居を決定すれば、豈になお禍患悔恨有らん。
消息盈虛,天道運行之常理,陽既消則有息,陰既盈則有虛。君子能尚此,則危行言遜,靜觀其復可也。若強亢激拂,如李膺袁安之流,身膺刑戮,不失忠義之節,而非聖人之所尚也。雖然,事固有可以死而不敢茍免者。孟子曰:可以無死,死傷勇。若王子比干,雖知紂不可諫,寧諌而就死;顏真卿知盧杞之得君、李希烈之強暴,然卒以此而蹈大禍,則義重於死故也。使世之學易者専以明哲保身之術求無咎悔以全其身,亦非聖人之所貴也。
消退・生長・盈満・虧虚は、天道運行の常理なり。陽気は既に消退せば、便ち再び生長せん。陰気は既に盈満せば、便ち虧虚有らん。君子は能く此の道理を看重せば、便ち応当に行為端直にして言語謙遜にして、静静と陽気の回復を待つべし。若し李膺・袁安の如く強硬亢直・激烈抵触せば、身は刑戮を受けて忠義の節操を失わずと雖も、而も聖人の崇尚する所に非ず。話は此の如しと雖も、事情は本来亦拼死一博すべき・苟且に免を求むるを敢えてせざる有り。『孟子・離婁下』に言う。「死せずして可なるに而も死するは、則ち勇を傷る」と。王子比干の如く、商紂の勧諫すべからざるを明知しながら、寧ろ進諫して死に赴く。顔真卿は盧杞のまさに君寵を得る・李希烈の強横凶暴を明知しながら、最終に尚お此に因りて大禍に遭う。これは義の生命より重きなるを以てなり。倘若世上の『易』を学ぶ人が専ら明哲保身の手段を拿りて過咎を免れ自らを保全せんを求むれば、あれもまた聖人の看重する所に非ず。
象曰:山附於地,剝,上以厚下安宅。山當峻極於天,今反附地,有剝之象;君子宜處大位以制群小,今反伏而在下,為小人所制,則其時可知矣。人君觀此象,雖未能有所進退,且當培其根本,使基業堅固有不之勢,小人一旦退聴,則易於興復也。
『大象伝』に言う。「山は地の上に依附す、これ剥なり。上位に居る者は此に由りて領悟す。下面の人を厚待して以て自らの居所を安固にするを要す。」山は本来高く雲に聳えるべきに、いまかえって趴伏依附して地の上に在る。まさに剥落の象なり。君子は本来高位に居りて以て群小を節制すべきに、いまかえって屈伏して下に在り、小人に制せらる。然らば時勢は如何なるかもまた想い知るべし。君主は此の一卦象を觀察し、たとえ一時に尚お進退取舍有る能わずとも、亦応当に先ず根本を培植し、基業をして堅固にして動揺すべからざるの勢有らしむべし。小人の一日退聴するを待てば、便ち重ねて振興恢復し易し。
上能厚下安宅,則敦本務農,不失其時,雖當亂世而百姓免離散失業之患。古之聖王毎於此加意焉,七月之詩是也。百姓不失本業,各安其田裡,養生送死而無憾,雖驅之使為亂不可也。秦之苛暴,一夫作難而社稷傾隕矣。剝之六爻皆有剝下之象,聖人垂戒後世之意,豈不深逺哉!
上位に居る者は能く下民を厚待し居所を安固にせば、便ち農を以て本と為し農時を誤らず。たとえ乱世に遇上するも、百姓は亦流離失所・生計を失去するの禍患を免れ得る。古代の聖王は毎々此の上頭に於いて用心す。『詩経・豳風・七月』は即ち明証なり。百姓は本業を失わず、各々自らの田地村舎に安居し、生者を養い死者を送葬するも遺憾なし。此の時はたとえ彼らを駆赶して乱を作さしめんとするも辦じ得ず。反觀すれば秦朝は苛刻暴虐にして、一個の匹夫が臂を振いて難を発すれば、社稷は便ち傾覆せり。剥卦の六爻は皆下民を剥削するの象を含有す。聖人の後世に垂示する告戒の意は、豈に深遠ならざらん。
初六:剝床以足,蔑貞,凶。象曰:剝床以足,以滅下也。自昔媒櫱禍亂,未有不自人主致之。蓋上有奢淫之主,則下必有刻剝之臣,其致禍亂之術如循一軌。剝者,剝下以媚上也;剝下媚上,其勢必至於大亂。床者人所安處,小人竭民之力、斂民之財以奉其上,使斯民離散泮渙,失其所常處而莫之也。如剝床以足,正道將傾,又輕視而不也。蔑,無也,視正道若無有也。蓋小人得路則蔑視君子,其蹈凶禍必矣。
初六の爻辞。「床を足を以て剥す、貞を蔑る、凶。」『小象伝』に言う。「床を足を以て剥すとは、下面の根基を毀滅せんと欲する也。」古より以来禍乱を醸成するは、一件として君主自ら招来せざるに由るなし。上面に奢侈淫佚の君主有れば、下面に必ず搜刮盤剥の臣子有り。彼らの禍乱を招致する路数は、简直として同一の車轍に順うが如し。所谓「剥」とは、即ち下民を剥削して上面を讨好するなり。下を剥して上に媚びれば、形勢は必ず大乱に発展す。床は人の安身する処なり。小人は百姓の気力を榨干し百姓の銭財を搜刮して以て君上に奉承す。百姓をして流離涣散し平日の安身する処を失去して人体恤するなからしむ。床を剥すは先ず床脚より剥り起こすが如く、正道は眼を見て傾倒せんとするも、彼らは尚お軽慢にして眼裡に置かず。「蔑」は即ち無なり。正道を存在せざるが如く看做す。小人は一たび勢を得れば便ち君子を軽蔑す。彼らの凶禍の路に踏上るは必然なり。
象曰剝床以足以滅下者,滅,盡也。小人於正道則蔑視而不,於細民則竭其膏血至盡而不顧,知固寵保位而已,卒至天下土崩,首領莫保,雖悔何及哉?故易以損上益下謂之益,損下益上謂之損,然則滅下者,乃所以自滅也。
『小象伝』に「床を足を以て剥す、下を滅するを以て也」と言う。「滅」は即ち窮尽なり。小人の正道に対してはただ軽蔑して心に置かず、小民に対しては則ち彼らの血汗を榨干して一滴も残さざるに至るまで毫も顧惜せず。心裡はただ寵を固め位を保つを知るのみ。結果は天下をして土崩瓦解に鬧らしめ、自らの腦袋すら保住する能わず。あの時に再び後悔すればまた豈に来たるに及ばん。だから『周易』は上に在る者を減損して以て下に在る者を增益するを『益』卦と呼び、下に在る者を減損して以て上に在る者を增益するを『損』卦と呼ぶ。此の如く看れば、下面の人を毀滅するは、恰恰と自らを毀滅するに在り。
六二:剝床以辨,蔑貞,凶。象曰:剝床以辨,未有與也。先儒以辨當第足之間,近於床身,故曰辨。剝道漸進,蔑視正道若無足畏者,而卒蹈凶禍,如裴延齡、皇甫鎛之流是已。象曰剝床以辨未有與者,六二上無應援,天下莫與之象。梁襄王問孟子曰:天下烏乎定?曰:定於一。曰:孰能一之?曰:不嗜殺人者能一之。曰:孰能與之?曰:天下莫不與也。刻剝之臣,其殺人也甚於宼盜,豈有與之者哉?小人得路,雖不為天下公論所與,然方操生殺利害之權,好爵重祿足以誘之,豈能使其類盡不與之哉?特不為君子所與耳。
六二の爻辞。「床を辨を以て剥す、貞を蔑る、凶。」『小象伝』に言う。「床を辨を以て剥すとは、未だ彼を支援する人来たらざるを以て也。」前代の儒者は「辨」は床笫と床脚の間に在り、床身に靠近すと以為す。だから「辨」と呼ぶ。剥落の勢は逐步に上に向かいて推進し、小人は正道を軽蔑して、仿佛として畏懼するに値せずと為すも、最終に而も凶禍に踏み入る。唐代の裴延齢・皇甫鎛の流は即ち此の如き人なり。『小象伝』に「床を辨を以て剥す、未だ与有らざる也」と言う。六二の上に向かいて応援なきを説く。まさに天下の彼に帰附する人なきの象なり。梁襄王は孟子に問う。天下は怎様にしてこそ安定せん。孟子は言う。統一してこそ安定す。また問う。誰か統一し得る。答えて曰く。人を殺すを喜好せざる人は統一し得。また問う。誰か彼に帰附せん。答えて曰く。天下に帰附せざる人なし(『孟子・梁恵王上』に見る)。あの搜刮盤剥の臣子は、人を殺すこと強盗よりも甚だし。豈に彼らに帰附する人有らん。ただ小人は一たび勢を得れば、天下の公論の認同を得る能わずと雖も、然るに彼の手裡はまさに生殺予奪の大権を握り、高官厚禄は以て人を引誘するに足る。またどうして彼の同類をして全て彼に帰附せざらしめ得ん。ただ君子の認同を得る能わざるのみ。
六三:剝之,無咎。象曰:剝之無咎,失上下也。剝之時,群陰用事,獨一陽在上,又處無位之地,三亦處陽位而正應在上,此小人陰交乎君子者,故得無咎。處剝之時,居群陰之間,不能遐舉逺引,但能陰通乎在上陽剛之君子,特免乎凶禍而已。
六三の爻辞。「之を剥す、咎なし。」『小象伝』に言う。「之を剥して咎なきは、其の上下の同類を離れたるを以て也。」まさに剥落の時に当たり、衆多の陰爻は権を当たり事を用う。ただ一個の陽爻のみ高く上位に居り、しかも職位なき処に処す。六三もまた陽位に処し、其の正応は恰好として上九なり。これは小人の暗中に於いて君子と交結するなり。だから能く過錯なし。剥落の時代に処して、身は群陰の中に陥り、既に高く飛び遠く走り抽身引退する能わず。ただ暗中に上に在る陽剛君子と相通ずる能くするのみ。亦過ぎず凶禍を免るるのみ。
孔子曰:中人以上可與語上,中人以下不可以語上。蓋正道勝則小人亦有悔過從善之心;正道不勝,介乎陰邪之間能知君子而失其黨類之心,聖人亦恕之,免誅殛之禍。此待小人之術,容其悔過不為己甚者也。處群陰之間,上下皆陰,故曰失上下也。
孔子は言う。「中等資質以上の人は、彼と高深的道理を講ずべし。中等資質以下の人は、便ち彼と高深的道理を講ずべからず」(『論語・雍也』に見る)と。大抵正道が上風を占むる時は、小人もまた悔過向善の心を生ず。正道が上風を占めざる時は、一人が陰邪の中に挟まれて而も尚お君子を認得し同党と一条心せざるを肯ぜず。聖人もまた彼を寛恕し、彼の誅戮せらるるの禍を免ず。これは小人に対待するの辧法で、彼の悔過を容許して、而も事情を太も絶えたるまで做さず。六三は身は群陰の間に処し、上下は皆陰爻なり。だから「上下を失う」と言う。
六四:剝床以膚,凶。象曰:剝床以膚,切近災也。剝床以足、剝床以辨,此皆身外之物失其本業之象;至於剝床以膚,則鬻妻賣子,身填溝壑矣,正道剝盡,直凶而已。六四近君之大臣,小人之處乎顯位者,勢足以有行,故剝之為甚。象曰剝床以膚切近災也,禍切於身,不可避免。蓋民為邦本,剝民及膚,則君臣皆受滅身之禍,故曰切近災也。
六四の爻辞。「床を膚を以て剥す、凶。」『小象伝』に言う。「床を膚を以て剥すとは、災禍の已に自身に逼近する也。」「床を足を以て剥す」「床を辨を以て剥す」は、皆尚お身外の物・百姓の生計を失掉する象なり。「床を膚を以て剥す」に至れば、便ち妻を売り兒を売り自身は溝壑に填め入るなり。正道は剥蝕乾浄せられ、ただ一個の凶の字を残すのみ。六四は君位に靠近する大臣で、身は顕要の位に居る小人なり。権勢は以て手を放し施為するに足る。だから剥削するは格外に厳しきなり。『小象伝』に「床を膚を以て剥す、災に切近なり」と言う。禍患の已に自己身上に貼り、躲避する術なきを説く。百姓は国家の根本なり。百姓を剥削して一直に皮肉に至るまで剥れば、則ち君と臣は皆亡身の禍に遭受せん。だから「災に切近なり」と言う。
六五:貫魚以宮人寵,無不利。象曰:以宮人寵,終無尤也。六五陰柔為剝之主,小人恣為奸欺以剝正道而致亂亡者,皆五為之。剝道至此,雖處尊位,勢已不能制;若一旦悔悟欲盡去之,則反受其禍矣。為六五之計者,莫若姑順適其意而稍奪其大權,如此則於人主無不利。
六五の爻辞。「魚を貫きて宮人に寵せられ、不利なし。」『小象伝』に言う。「宮人を以て寵すとは、終に過失なし。」六五は陰柔の質を以て剥卦の主爻を為す。小人の肆意に奸詐欺蒙し正道を剥蝕して以て禍乱亡国を招来するに至るは、皆六五の造成する所なり。剥落の勢は此の地步に至れば、六五は身は尊位に居ると雖も、形勢の上に於いて已に圧制する能わず。若し忽然として悔悟し、小人を一挙に清除乾浄せんと欲せば、かえって彼らの報復の禍を招来せん。六五の為に打算すれば、姑く彼らの心意に順い、而して慢慢に彼らの大権を削奪するに如かず。此の如く為せば、君主に対しては不利なきなし。
宮人者,婢妾宦寺之象也。小人既久用事,不無憂危之心,人主不能以道消息,顯排而亟治之,則計生無聊,禍有不可勝言者。能以婢妾宦寺待之,使之駢頭而進,不見嫌惡之跡,則可終無尤悔,以俟君子之進、正道之復也。聖人為後世之慮如此。漢之獻帝蓋粗知此者,至魏髙貴鄉公、唐昭宗欲於剝盡之時稍立權綱,遂不免於禍,此足以為後世鑑矣。
所谓「宮人」とは、婢妾宦官の一類の人の象徴なり。小人は既に長期に権を当たれば、心裡は不免に憂懼危亡の感有り。君主若し能く合宜の辧法を用いて慢慢に消解せずして、而も公開に排斥し急切に彼らを收拾せば、彼らは路を走るなく便ち鋌りて険を走らん。禍患は大きくして説き尽くし得ず。若し能く彼らを以て婢妾宦官と看待し、彼らをして一個挨ぎ一個に依次進見せしめ、嫌悪の痕跡を流露せざれば、便ち以て始終過失悔恨なからしめ、以て君子の進用・正道の回復を等待し得る。聖人は後世の為に考慮すること此の如く周密なり。漢献帝は大概畧か此の道理を懂得せり。曹魏の高貴郷公曹髦・唐昭宗に至っては、剥落殆尽の時に於いて勉强に権綱を重建せんと欲し、結果は皆不免に禍に遭う。これは以て後世の鑑戒と為るに足る。
上九:碩果不食,君子得輿,小人剝廬。象曰:君子得輿,民所載也;小人剝廬,終不可用也。陰陽二氣不能頓進,猶君子小人不能頓長。陰之剝陽,自足至膚,為害加甚,則小人道長亦極矣。上九處群陰之上,雖不任事,然卒消小人,變剝為復也。果至於碩大不食,則能反於土而為生出之漸,此一陽之在下者也。
上九の爻辞。「碩果は食われず、君子は輿を得、小人は廬を剥す。」『小象伝』に言う。「君子の輿を得るは、百姓の彼を擁戴する也。小人の廬を剥すとは、小人の終に任用すべからざるを説く。」陰陽の二気は一下子に全部推進せず。君子・小人の一下子に全部滋長せざるに如し。陰爻は陽爻を剥蝕し、床脚より一直に皮肉に至るまで剥れ、為害は愈々深し。然らば小人の勢頭もまた極点に至る。上九は群陰の上に処し、実職を擔任せずと雖も、而も終に能く小人を消解し、剥卦をして復卦に転変せしむ。果実は長じて碩大にして而も食われざれば、便ち土中に落回して再度萌生の開端と為るを得る。これが即ち復卦のあの最下に居る陽爻なり。
君子能以百姓為心,故民所愛戴。卦以五陰而乘一陽,君子得眾而民戴之,有車輿之象;小人但知刻剝百姓以為進身之計耳,故象言君子得輿民所載也,小人剝廬終不可用也。聖人之意,蓋謂剝之極,君子之道幾絶而僅存,賴有一君子以扶持之耳。若於斯時尚或參用小人,小人浸長復消君子,則斯民受弊,必致流散失業之禍,故云終不可用,以為萬世之大戒也。
君子は能く百姓を心の上に置けば、だから百姓は彼を愛戴す。此の卦の五個の陰爻は一個の陽爻を承載す。まさに君子の衆人の擁護を得、百姓の彼を抬挙し起こす様子にして、車輿の人を載るの象有り。小人は而もただ百姓を搜刮するを知り、之を以て自らの進身の手段と為すのみ。だから『小象伝』は「君子輿を得る、民の載する所也。小人廬を剥す、終に用うべからざる也」と言う。聖人の用意は、大概剥落は極点に至り、君子の道は几ほど断絶して而も僅かに一線を存し、全て此の一位の君子を頼りて扶持するを説く。倘若此の如き時刻に於いて尚お小人を掺用せんと欲せば、小人は漸漸滋長し、再一次君子を消磨し掉れば、則ち百姓は害を受け、必然に流離失所・生業を失去する大禍を招致せん。だから「終に用うべからず」と言い、以て万世の大戒と為す。
巻五
復卦(震下坤上)
上經。震下坤上。復:亨,出入無疾,朋來無咎,反復其道,七日來復,利有攸往。剝、復二卦,聖人専論君子小人相為消長之理。然否、泰二卦先泰而後否,以言治極必亂也;剝、復二卦先剝而後復,以言亂極則治也。居泰之時,無小人以害政,雖長存可也;當剝之極,有一君子扶持而安全之,其勢必復。
以下は『周易』上経を講ず。『復』卦は下体を震とし上体を坤とす。卦辞に言う。「亨通。出で入りするも損傷に遭わず、同類の朋友の前来するも過錯なし。往復運行は自ら其の規律有り、七天を経過すれば原処に返回す。往く所有るに宜し。」『剥』『復』の両卦は、聖人が専ら以て君子と小人の朝廷の上に於いて此れ消え彼れ長ずるの理を闡明する所なり。『否』『泰』の両卦は先ず『泰』にして後に『否』、以て太平は極点に至りて必然に禍乱に転向するを説明す。『剥』『復』の両卦は而も先ず『剥』にして後に『復』、以て禍乱は極点に至れば便ち治平に転向するを説明す。『泰』卦のあの如き時に処しては、朝政を敗壞する小人なければ、太平の局面は長く保持し続くるも亦可能なり。而して『剥』卦の陽気将に尽きんとする極点に処しては、ただ尚お一位の君子有りて維繫を支撑し大局を保全せば、形勢は便ち必ず重ねて回復する。
復亨者,復則小人退聴,世道無阻而亨通也。出入無疾者,一陽生於下而群陰莫能害之。出者外也,入者內也,陽剛雖而在內,蓋剝極成坤則陽入在內。出入雲者,言陰陽消長反覆之常也。君子出處之間,經營世務,無有疾惡之者,故得行其志也。
所谓「復、亨」とは、陽気は一たび回復すれば、小人は便ち退避して命を聴き、世道は再び阻塞なくして通達に帰すを言う。所谓「出入疾なし」とは、一陽は初めて下位に生じ、衆多の陰爻は皆彼を傷害する能わざるを言う。「出」は外に向かい、「入」は内に向かう。陽剛の気は尚お甚だ微弱なれど、已に内部に居る。『剥』卦の剥尽して『坤』卦と成りて後に、陽気は便ち退きて内裏に入りて潜蔵するを以てなり。「出入」と言うは、まさに陰陽の消長往復の常道を講ず。君子は出仕と退隱の間に於いて、天下の事務を経営し、彼を嫉恨阻橈する人なし。だから能く自らの志向を実現す。
復之初爻,陽雖生而甚,陰雖消而尚眾,如君子雖進復至離,方伏而在下,必當從容求濟,以俟眾陽之升進,勢足以勝小人,然後可以大有為而免咎悔也。反復其道,七日來復者,自陰柔而反覆於陽剛,必更俟之七日,則坤之陰氣盡矣。
『復』卦初九の一爻は、陽気は已に萌生したれど尚お極めて微弱、陰気は消退する在りと雖も依然として衆多なり。これは君子が已に重ねて進用せられ、剛く潜伏の地を脱離したれど、尚お下位に屈処するに似たり。必ず従容不迫を以て成功を謀求し、衆陽の逐漸上昇進用し力量は以て小人に勝るに足るの後を待たば、こそ大いに作為有りて災禍悔恨を免れ得る。卦辞に「其の道を反復す、七日にして來復す」と言う。陰柔より一歩々々阳刚に返回するを講ず。必ず再び七次の変化を等待してこそ、坤卦の純陰の気は耗盡せん。
夫陰陽之循環,未有往而不反者。乾坤交錯而成六十四卦,卦有六爻,爻各主一日,八卦循環,至極則反易,天下之至變者六位逓遷。陰自五月而生,其卦為姤;陰進而陽消,九月於卦為剝;至十月六陰數極,其卦為坤;十一月一陽復生,剛來反初,復於本位,凡厯七變而為復,故曰七日來復也。
陰陽の循環は、従来往きて返らざる有らず。乾・坤の両卦は交錯配合して六十四卦を生成す。毎卦に六爻有り、毎一爻は各々一日を主とす。八卦は循環推移し、極点に至れば便ち翻転変易す。天下の変化の最も劇烈なるは、即ち六個の爻位の依次に遷移するなり。陰気は五月より滋生を始め、配当する卦は『姤』なり。陰気は漸進し陽気は漸消し、九月に至れば配当する卦は『剥』なり。十月に至れば六爻は純陰にして陰数は極点に至り、配当する卦は『坤』なり。十一月に至れば一陽は重ねて萌生し、剛気は回来して初位に返帰し、本来の位置に復帰す。前後は七次の変化を経歴して『復』卦と成る。だから「七日來復」と言う。
諸家之說雖辭有異同,至言陰陽反覆之義,其理則一也。復之時,君子道長,小人不敢加害,可以進為於世,故利有攸往也。彖曰:「復亨,剛反,動而以順行,是以出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復,天行也。利有攸往,剛長也。復其見天地之心乎!」
各家の「七日」に対する解説文字は出入有ると雖も、陰陽往復の義理に講じ至っては、道理は而も一致す。『復』の時節に処して、君子の道はまさに生長し、小人は加害を敢えてせず。君子は以て身を進め世に為す有るを得る。だから「往く攸有るに利し」と言う。『彖伝』に言う。「『復』の亨通する所以は、剛気の返回するを以て也。震動を以て道理に依順して運行すれば、だから出入するも損傷を受けず、朋類の前来するも過錯なし。往復運行は自ら規律有り、七天にして原処に返回す。これは天道の運行なり。往く所有るに宜しきは、剛気のまさに生長するを以て也。『復』卦は大概天地の生生の心を見るべきか。」
復所以能亨者,以剛反而復其本也。夏至一陰生,則剛既往矣,至七日為反,謂陽剛消極而來反也。下震上坤,動而順之象,震動而坤以順行,是以出入無疾,朋來無咎。蓋剝、復者,陽氣出入之始,一出一入,群陰莫能害之;朋類皆至,小人莫能間之。
『復』の能く亨通する所以は、剛気の返回して其の本位に復帰するを以てなり。夏至は一陰初生し、剛気は便ち外に向かいて消退し始め、第七変に至れば「反」と称す。陽剛の消退して極点に至りて重ねて返回するを説く。此の卦は下体を震とし上体を坤とす。これは「震動して依順する」の卦象なり。震は動を主とし、坤は順を主とす。道理に依順して行えば、だから出入するも損傷を受けず、朋類の前来するも過錯なし。『剥』『復』の両卦は、まさに陽気出入の起点なり。一出一入の際に、衆陰爻は皆彼を傷害する能わず。同類の君子は紛紛として到来し、小人もまた彼らを離間する術なし。
反復其道,七日來復,天行者,周天三百六十五度四分度之一,一晝夜日行一度,終坤之七日而復其始,陰陽消復,天道之常,故曰七日來復天行也。利有攸往,剛長也,剛長則陰消,故利有攸往也。復其見天地之心者,於復之時,君子道長,小人道消,天地之心於此可見矣。
『彖伝』に「其の道を反復す、七日にして來復す、天の行なり」と言う。周天は共に三百六十五度又四分の一度にして、一昼夜に太陽は一度を運行し、『坤』卦の主ずる七変を走完すれば便ち起点に回到するを以てなり。陰陽の消退と回復は、本来天道の常規なり。だから「七日來復、これは天道の運行」と言う。「往く攸有るに利し、剛長なり」とは、剛気は生長すれば則ち陰気は消退す。だから往く所有るに宜しきなり。「復は其れ天地の心を見る」に至っては、『復』の時節に於いて、君子の道は生長し小人の道は消退し、天地の生生不息の用心は、此処に於いて便ち見るべしを言う。
天地豈有心哉?而禍福休祥之證,皆有以窺見天心。至天地之變,五緯失其常度,五行失其常性,皆逆知其過。董仲舒言天心之仁愛人君,故出災異以譴告之,以天地為漠然無心可乎?復之時,君子之道長,小人之道消,天地之心於此可見矣。
天地は豈に真に一顆の心有らん。然るに災禍・福祥の種種の徵驗は、皆人をして天心の所在を窺見せしめ得。天地の変異の出現・金木水火土の五星の正常の運行度数を失い五行の正常の性能を失うに至っては、人は皆此に由りて預め過失の所在を推知し得。漢代の董仲舒は天心は人君を仁愛し、だから災異を降して以て彼を譴責告戒すと言う。此の如く照らせば、尚お能く天地を以て漠然として心なしと看做さんや。『復』の時節に処して、君子の道は生長し小人の道は消退し、天地の用心は此処に於いて便ち見るべし。
象曰:「雷在地中,復。先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。」雷者,陽氣壯動,陰不能固,擊搏而有聲。當復之時,雷在地中,陽氣伏藏於下,陰能固之。先王以至日閉闗,商旅不行,后不省方,所以助天地之閉蔵也。月令曰仲冬行夏令,則氛霧冥冥,雷乃發聲,然則天地生成萬物之功,實有頼於聖人燮調而佐理之也。
『象伝』に言う。「雷は地の中に伏す、これ『復』卦の象なり。先王は此に因りて冬至の此の日に関口を閉鎖し、商旅は通行を停止し、君主もまた四方を出巡せず。」所谓雷とは、陽気壮盛にして鼓動し、陰気は之を封固する術なく、衝撃搏動して声响を発出するなり。『復』の時節に処して、雷は尚お地の中に伏し、陽気は下面に潜蔵し、陰気は尚���能く之を封固し住る。先王は冬至の日に関口を閉鎖し、商旅をして通行を停止せしめ、君主は四方を出巡せず。まさに以て天地の閉蔵の功を幇助するなり。『礼記・月令』に言う。仲冬の月に若し夏季の政令を施行せば、便ち陰霾昏暗にして雷は早く声を発す。見るに天地の萬物を生養成就する功用は、実に聖人の陰陽を調和し旁より輔佐治理するに頼る。
初九:不逺復,無祗悔,元吉。象曰:不逺之復,以修身也。陰盡陽來,天地之復也;知不善之不可為而復於善,君子之復也。初九居群陰之下,而陽氣獨先群陰而萌,復於動初,此復之速而不至於悔也,其為吉大矣。
初九の爻辞に言う。「遠からずして返回す、大きい悔恨有らず、最も吉祥。」『象伝』に言う。「遠からずして返回すとは、以て自身を修養するなり。」陰気は耗盡して陽気は回来す。これは天地の回復なり。不善の事の為すべからざるを知りて善に返帰す。これは君子の回復なり。初九は衆陰爻の下に処し、陽気は独自に衆陰の先に搶って萌発す。震動の初に於いて便ち回復し来る。これは回復の快くして悔恨を留下するに至らず。其の吉祥は大と説くべし。
孔子於此爻獨曰:「顏氏之子,其殆庶乎!有不善未甞不知,知之未甞復行也。」然則不逺復者,言復之速也。人有不善在身,巧自掩覆,謂人不知者多矣;惟顏子有不善則知之,知之而未甞復行,則善日積而不善無自而萌矣。修身之道莫大乎此,故象言不逺之復,以修身也。
孔子は『繋辞下伝』の裡に於いて単に此の一爻に就いて言う。「顔家のあの孩子は、大概道に接近したか。不善有れば自ら察覚せざるなし、察覚の後に再び第二回を犯すなし」と。此の如く看れば、「遠からず復す」はまさに回復の快きを説く。世人の身上に不善有れば、往々に巧妙に自我掩飾して、以て別人の知らざる多しと為す。独り顔回のみ一たび不善有れば便ち能く自ら察覚し、察覚の後に便ち重ねて犯さず。此に於いて善行は一天天積累し、而して不善は再び滋生する由頭なし。自身を修養する方法はこれより要緊ならざるなし。だから『象伝』は「遠からずの復、以て身を修む也」と言う。
孔子稱其不貳過,韓子以為見不善之端而能止之也,與此意同。六二:休復,吉。象曰:休復之吉,以下仁也。復卦以初九為主,處群陰之中而能速復者也。二雖陰柔在上,而切近於初,能因之而復,不忌不嫉,知善之可從,屈已以下之,美之至也,吉孰如之!故象言休復之吉,以下仁也。
孔子は顔回を称賛して「過を貳せず」と言い、唐代の韓愈はこれは彼が不善の苗头を見れば便ち立刻に止住し得るを説くと以為す。孔子の意思と相同ず。六二の爻辞に言う。「美善に回復す、吉祥。」『象伝』に言う。「美善回復の吉祥の所以は、能く仁者の下に屈居するを以て也。」『復』卦は初九を以て一卦の主と為す。它は衆陰の中に処して能く迅速に回復す。六二は陰柔の爻にして其の上に居ると雖も、而も初九に緊挨し、能く它に依憑して回復す。猜忌せず嫉妒せず、善は追随すべきを知り、肯んじて自らを降低して其の下に居る。これは美徳の極致なり。なお何の吉祥か之に比せん。だから『象伝』は「休復の吉、仁を下るを以て也」と言う。
六三:頻復,厲,無咎。象曰:頻復之厲,義無咎也。六四:中行獨復。象曰:中行獨復,以從道也。六五:敦復,無悔。象曰:敦復無悔,中以自考也。上六:迷復,凶,有災眚。用行師,終有大敗,以其國君凶,至于十年不克征。象曰:迷復之凶,反君道也。
六三の爻辞に言う。「屢々回復してまた屢々失去す、危険有るも、而も過錯あらじ。」『象伝』に言う。「屢々回復するの危険は、道義の上に就いて言えば過錯なきなり。」六四の爻辞に言う。「衆陰の中間を行走して、独自に正道に回復す。」『象伝』に言う。「中に居りて独自に回復すとは、其の正道に追随するを以て也。」六五の爻辞に言う。「敦厚篤実に回復す、悔恨なし。」『象伝』に言う。「敦復悔なしとは、中に居りて能く自我省察するを以て也。」上六の爻辞に言う。「方向を迷失して回復するを知らず、凶険、天灾人禍有らん。若し以て出兵作戦せば、終に大敗し、国君を牽連して凶に遭わしめ、十年の久しきに至るまで皆出征する能わず。」『象伝』に言う。「迷復の凶険は、其の君たるの道に違反するを以て也。」
无妄卦(震下乾上)
震下乾上。無妄:元亨利貞,其匪正有眚,不利有攸徃。彖曰:無妄,剛自外來而為主於內,動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也。其匪正有眚,不利有攸往,無妄之往何之矣?天命不佑,行矣哉!象曰:天下雷行,物與無妄,先王以茂對時育萬物。
『无妄』卦は下体を震とし上体を乾とす。卦辞に言う。「大いに亨通。正固を守持するに利し。若し行う所正からざれば便ち災患有り。往く所有るに宜しからず。」『彖伝』に言う。「『无妄』卦、剛爻は外面より来りて内卦の主と成り、震動して剛健、九五の陽剛は中に居りて六二と相応ず。大いに亨通してまた能く正を守る。これは上天の命令なり。行う所正からざれば災患有り往く有るに宜しからず。然らば真実无妄の道に背離して妄行する人は、尚お何処に至るを得ん。上天の命令は保佑を加えざれば、尚お行き通るを得ん。」『象伝』に言う。「雷は天下に於いて運行し、万物は皆之に随いて各々其の真実无妄の本性を得。先王は此に因りて奋勉して天時に順応し、万物を養育す。」
初九:無妄,往吉。象曰:無妄之往,得志也。六二:不耕穫,不菑畬,則利有攸往。象曰:不耕穫,未富也。六三:無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。象曰:行人得牛,邑人災也。九四:可貞,無咎。象曰:可貞無咎,固有之也。九五:無妄之疾,勿藥有喜。象曰:無妄之藥,不可試也。上九:無妄,行有眚,無攸利。象曰:無妄之行,窮之災也。
初九の爻辞に言う。「真実无妄の道を秉持し、前往すれば吉祥。」『象伝』に言う。「无妄にして前往すとは、志向を実現し得る也。」六二の爻辞に言う。「収穫を求める為に耕さず、熟田を求める為に開墾せず。此の如くは便ち往く所有るに宜し。」『象伝』に言う。「収穫を求める為に耕さずとは、未だ嘗て心に富を求むるを存せざるを以て也。」六三の爻辞に言う。「无妄の中の意外の災禍。或る人は牛を此処に拴し、過路の人は牛を牽き去り、同邑の人は而も牛を失うの災を蒙受す。」『象伝』に言う。「過路の人は牛を得、同邑の人は便ち災に遭う。」九四の爻辞に言う。「以て正固を守持すべし、過錯なし。」『象伝』に言う。「貞すべし咎なしとは、これ本来其の固有の徳性なるを以て也。」九五の爻辞に言う。「无妄の中に偶々染めた疾病は、薬を吃せずとも自ら愈えて喜有り。」『象伝』に言う。「无妄の疾を治する薬は、軽易に試用すべからざるなり。」上九の爻辞に言う。「已に无妄の尽頭に至り、再び行動有らば便ち災患有り、宜しき所なし。」『象伝』に言う。「无妄は尽頭に至りて尚お行動するは、あれは路を走るなくして招来した災禍なり。」
大畜卦(乾下艮上)
乾下艮上。大畜:利貞,不家食吉,利渉大川。彖曰:大畜,剛健篤實輝光,日新其徳,剛上而尚賢,能止健,大正也。不家食吉,養賢也。利渉大川,應乎天也。象曰:天在山中,大畜,君子以多識前言往行,以畜其徳。初九:有厲利已。象曰:有厲利已,不犯災也。
『大畜』卦は下体を乾とし上体を艮とす。卦辞に言う。「正固を守持するに利し。賢者は家の中に在らず自ら其の力を食して朝に禄を受く、吉祥。大河を渡渉するに宜し。」『彖伝』に言う。「『大畜』は、剛健・篤実にして光輝煥発、徳行は日日更新す。上九の陽剛は上に居りて賢才を崇尚し、能く剛健の徳を止畜す。これは極大の正道なり。『家に食わず吉』とは、国家が賢才を蓄養するを説く。『大川を渉るに利し』とは、行う所上に天道に応ずるを説く。」『象伝』に言う。「天は山の中に藴含す、これ『大畜』の象なり。君子は此に因りて広く前代の嘉言善行を記取し、以て自らの徳性を畜養す。」初九の爻辞に言う。「危険有り、停止して前らざるに宜し。」『象伝』に言う。「危険有り停止するに宜しとは、災禍に触犯せざるを以て也。」
九二:輿說輹。象曰:輿說輹,中無尤也。九三:良馬逐,利艱貞,曰閒輿衛,利有攸往。象曰:利有攸往,上合志也。六四:童牛之牿,元吉。象曰:六四元吉,有喜也。六五:豶豖之牙,吉。象曰:六五之吉,有慶也。上九:何天之衢,亨。象曰:何天之衢,道大行也。
九二の爻辞に言う。「大車は車軸の上の伏兎を脱掉し、停下して行かず。」『象伝』に言う。「輿は輹を説りて進まずとは、九二の中に居るを以て、だから過失なし。」九三の爻辞に言う。「良馬は競りて馳逐す、艱難の中に正を守るに利し。毎日車馬防衛の事を操練し、往く所有るに宜し。」『象伝』に言う。「往く所有るに宜しきは、其の上九と心志相合するを以て也。」六四の爻辞に言う。「小牛の角の上に横木を加えて以て抵触を防げば、最も吉祥。」『象伝』に言う。「六四の最も吉祥なる所以は、喜慶の事有るを以て也。」六五の爻辞に言う。「閹された猪は利牙有ると雖も再び人を傷らず、吉祥。」『象伝』に言う。「六五の吉祥は、福慶有るを以て也。」上九の爻辞に言う。「上に天に通ずる四通の大道を承載す、亨通。」『象伝』に言う。「何ぞ天の衢やとは、畜養の道の世に大行し得るを説く。」
頤卦(震下艮上)
震下艮上。頤:貞吉,觀頤,自求口實。彖曰:頤貞吉,養正則吉也。觀頤,觀其所養也;自求口實,觀其自養也。天地養萬物,聖人養賢以及萬民,頥之時大矣哉!頥之為卦,蓋取人之頥頷以為象。震下艮上,上止而下動,止者無為以飬下,動者有為以養上,上止下動,各得其正則吉。
『頤』卦は下体を震とし上体を艮とす。卦辞に言う。「正固を守持すれば則ち吉祥。一人の其の奉養する対象を觀察し、彼の如何に自ら口の中の食物を求むるを觀察せよ。」『彖伝』に言う。「『頤』卦は正を守れば吉とは、養う所其の正道を得れば則ち吉祥を説く。『頤を觀る』とは、其の奉養する所の是れ何なるを觀察するなり。『自ら口実を求む』とは、彼の如何に自らを奉養するを觀察するなり。天地は万物を養育し、聖人は賢才を奉養して万民に推及す。『頤』の処する時勢は真に重大なり。」『頤』の卦と成る所以は、大概人の腮頰下頷を取りて象徴と為す。震は下に在り艮は上に在り、上辺は静止して下辺は活動す。静止する一方は清靜無為を以て在下を奉養し、活動する一方は有所作為を以て在上を奉養す。上は止まり下は動き、各々其の正当を得れば、便ち吉祥なり。
孟子曰:「無君子莫治野人,無野人莫養君子。」治所以養之也,教化政刑皆所以養人。能知治人為養人之大,則可與言頥之義矣。人之所養,或養其大體,或養其小體,如孟子所謂至大至剛、充塞乎天地之間者,其所養可知。觀頥之義,則人之邪正善惡斷可識矣。
『孟子・滕文公上』に言う。「位に在る君子なければ便ち郷野の百姓を治理する人なし。郷野の百姓なければ便ち君子を供養する人なし」と。治理はまさに百姓を奉養する方式なり。教化と政令刑罰は皆以て人を養うなり。能く人民を治理するは即ち最大の人を養うの道なるを明白にせば、こそ彼と『頤』卦の義理を談ずべし。人の奉養する所は、或いは其の「大体」即ち心志を養い、或いは其の「小体」即ち口腹を養う。『孟子・公孫丑上』の説く所の「至大至剛・天地の間に充塞す」の浩然の気の如きは、彼の奉養する所の是れ何なるかは便ち想い知るべし。「頤を觀る」の意義を懂得せば、則ち一人の邪正善悪は、断然として識別し出だし得る。
自求口實者,自養也,養其口體而已,此資飲食以養形者也。窮而在下,未能博施濟眾,所以獨善其身者,其自奉養必有道,豈特飲食之間哉!頥貞吉,所養者正則吉隨之。善觀人者,苐觀其所養而已。器量大財所養亦大,器量小則所養亦小。自求口實,觀其自養者,如顏子簞食瓢飲,則其自養何如哉!
所谓「自ら口実を求む」とは、即ち自我奉養で、過ぎず自らの口腹形体を養うのみ。これは飲食を頼りて形を養うの一層なり。困窮して下位に処し、尚お能く広く恩惠を施し衆人を周済する能わず。だからただ独り其の身を善くする人は、彼の自我奉養もまた必ず一套の道理有り。豈にただ飲食の此の点の小事ならん。「頤、貞吉」、奉養する所は正道に合せば、吉祥は便ち之に随いて来たる。善く人を觀察するは、ただ彼の奉養する所の是れ何なるを見るに足る。器量は大なれば養う所も亦大なり。器量は小なれば養う所も亦小なり。「自ら口実を求む」にして彼の如何に自ら養うを觀察せば、顔回の一簞の飯・一瓢の水にして其の楽しみを改めざるが如きは、彼の自我奉養はまたどう評価すべきか。
聖人推廣頥之義,天地養萬物,動植飛潛咸遂其性,以成生育之功;聖人養賢,髙爵厚祿咸當其位,而已享無為之治,則頥之為義,豈不大哉!象曰:「山下有雷,頤,君子以慎言語,節飲食。」上止下動,山止而雷動,頥之象也。君子體此以修身,於動之中有止靜之義。
聖人は『頤』の意義を推広す。天地は万物を養育し、飛禽走獣・草木魚虫は皆能く其の本性に順遂し、以て生養化育の功を成就す。聖人は賢才を奉養し、高爵厚禄を享受する人をして皆其の位に当たらしめれば、自らは便ち安んじて無為而治を享くべし。此の如く言えば、『頤』の意義は豈に重大ならざらん。『象伝』に言う。「山下に雷有り、これ『頤』卦の象なり。君子は此に因りて言語を謹慎し飲食を節制す。」上辺は静止し下辺は活動し、山は静止して雷は震動す。まさに頤頷の形象なり。君子は此の象を体察して以て自身を修養し、活動の中に於いて止息安静の意味を保有す。
言語之出乎口,飲食之入乎口,皆當動其頥頷,不有以節慎之,則言語出而招憂虞,飲食入而害性命者多矣。二者古人之所深戒而不可忽也。初九:舍爾靈,觀我朶頤,凶。象曰:觀我朶頤,亦不足貴也。之為物,以鼻引氣,可以不食而長生,物之至靈而無求於外者。
言語は口より説き出だし、飲食は口より喫進し、皆腮頰下頷を牽動す。若し節制謹慎を加えざれば、則ち言語は口を出でて憂患を招来し、飲食は口に入りて性命を戕害する事は便ち多し。此の两件の事は古人の深く警戒し軽忽すべからざるなり。初九の爻辞に言う。「爾自らのあの霊験の神亀を舎棄して、而も我が腮頰を垂動して食を求むるを盯めす。凶険。」『象伝』に言う。「我が腮頰を垂動して食を求むるを盯むとは、本来亦看重するに足らざる也。」神亀の此の種の動物は、鼻を用いて気息を吸納し、進食せずして長生し得。万物の中の最も霊性有りて外に求むるなきなり。
九以陽居初,伏而在下,有靈之象。然於卦為震,而正應在四,不能靜守而貪於所欲,急於上進,心所慕悅,朶其頥而從之,舍已逐物,忘在我之至貴,自投茍賤之域,非君子之所尚也,故象曰亦不足貴也。士能知至貴之在我,守志勵操,若顏氏之子,雖簞食瓢飲不改其樂,豈見可欲而輕動其心哉!
初九は陽爻を以て最下の位に居り、潜伏して下に在り。神亀のあの如き霊性の象有り。ただし它は下卦に於いて震に属し、動を主とし、而して正応の爻は六四に在り。此に於いて安静に自ら守る能わず、かえって所慾を貪求し急ぎて上進す。一たび心中の艶羨する物を見れば、便ち腮頰を垂動して追随して往く。自己を舎棄して外物を追逐し、本来自身に在る至貴の処を忘掉し、自ら甘んじて苟且卑賤の境地に投入す。これは君子の崇尚する所に非ず。だから『象伝』は「亦貴ぶに足らざる也」と言う。士人若し能く最も尊貴の物は本来自らの身上に在るを懂得し、志向を堅守し節操を砥礪し、顔回のあの如き一簞の飯・一瓢の水も其の快楽を改めざるに如くせば、またどうして一たび可慾の物を見れば軽易に心を動かさん。
六二:顛頤,拂經於丘,頤征凶。象曰:六二征凶,行失類也。六二無應於上而比於初,下者上之所養也,今以陰乗陽,反求養於下,於理為倒,故曰顛頥也。經,常也;丘園,隱者之所盤旋也。不能退守亷節,而拂其常理於安處之地而求養焉,以此求養,往則凶矣。
六二の爻辞に言う。「顛倒して下に向かいて養いを求め、常理に違背し、丘園に跑りて人に奉養を求む。此の如く前行すれば必ず凶険有り。」『象伝』に言う。「六二の前行するに凶有るは、其の行為が同類の援助を失去するを以て也。」六二は上に於いて正応なきも、而も初九と親比す。在下は本来在上に奉養せらるべきに、いま六二は陰爻を以て陽爻に凌乘し、かえって下に向かいて養いを求む。道理の上に於いては顛倒なり。だから「顛頤」と呼ぶ。「経」は即ち常理、「丘園」は隠居の士の盤桓栖止する地なり。它は能く退居して廉して廉潔の節操を守住せず、かえって常理に違背し、本来貧に安んじ自ら処るべき地に跑りて供養を乞求す。此の種の方式を用いて養いを求めれば、前行すれば便ち凶険なり。
象言六二征凶,行失類者,六二以柔弱居下,雖得中而無應,此士君子不遇之時,當安貧守道,今動而躁求,人所鄙賤而不與也。類謂五也,二五本相應之地而皆處陰柔,故為失類,故曰行失類也。六三:拂頤,貞凶,十年勿用,無攸利。象曰:十年勿用,道大悖也。
『象伝』に「六二征凶、行は類を失う」と言う。六二が柔弱の質を以て下卦に居り、中位を得ると雖も而も相応の爻なきを以てなり。これはまさに士君子の時に遇わざるの処境で、本来貧困に安んじ正道を固守すべきに、いま而も躁動して急切に人に向かいて求取し、人に鄙薄軽賤せられて而も与えるを肯ぜず。「類」の指すは六五なり。二と五は本来相応の位置なれど、而も皆陰柔の爻なり。だから同類を失去すと呼び、因此「行は類を失う也」と言う。六三の爻辞に言う。「頤養の道に違背す。たとえ正を守るも凶険、十年の久しきも任用せられず、宜しき所なし。」『象伝』に言う。「十年任用せられずとは、其の作為する所の大いに正道に違背するを以て也。」
六三正應在上九,當受飬於上者,而六以陰柔而處陽剛之位,此陰邪不正之人也。既拂違正道,則於自養、養人與夫求養於人,無適而可,故困阨窮悴,至十年而不用,是終不復可用於世,此天下之棄人也。廢棄至於十年,頥道大悖,蓋自取之,非時之罪也。
六三の正応は上九に在り。本来上位者の奉養を接受すべき人なり。然るに它は陰柔の質を以て陽剛の位を占拠す。これは陰邪不正の人なり。既に正道に違背せば、則ち自我奉養であれ・別人を奉養するであれ・人に奉養を求むるであれ、一様として行き通るなし。だから困頓窘迫・窮愁憔悴し、十年の久しきに至るまで尚お任用せられず。これは終身再び世に見用せらるる能わざるにして、天下の遺棄する人と成れり。廃棄せらるること長くして十年に達し、頤養の道は大いに悖乱す。これは自ら招来せるにして、並びに時勢の過錯に非ず。
士固有不用於世者,若昏佞在上,度不可以有為,君子欲全身逺害,雖終身不用,又何戚焉!而六三之困阨乃自已取,此以貧賤之道而得貧賤者,故可恥也。六四:顛頤,吉,虎視耽耽,其欲逐逐,無咎。象曰:顛頤之吉,上施光也。
士人は本来世に任用せられざる有り。若し昏庸奸佞の人が上に在りて権を当たれば、作為有る能わざるを估量し、君子は自らを保全し禍害を遠離せんと欲すれば、則ちたとえ終身任用せられずとも、また何の悲傷すべきかあらん。而して六三の困頓窘迫は而も自ら招来せるなり。これは貧賤を取致する方式を用いて而も果して貧賤を得るなり。だから恥ずべし。六四の爻辞に言う。「顛倒して下に向かいて養いを求む、吉祥。老虎の如く威厳に注視し、慾求は接続不断なれど、過錯なし。」『象伝』に言う。「顛頤の吉祥の所以は、上に在る者の下に恵を施すに其の徳の光大なるを以て也。」
天地養萬物,聖人養賢以及萬民,下固上之所當養也。卦以一陽在上而養四陰,正也,故以下養上為顛。六四正應在初,反求養於下,於理雖為倒置,然四居人臣尊位,出教施令以治野人者。蓋卦體震艮,則上止下動,野人之養君子,於理若反而順,故六四顛頥則吉也。
天地は万物を養育し、聖人は賢才を奉養して万民に推及す。在下は本来在上の応当に奉養すべき所なり。此の卦は上九の一陽を以て上に居りて四個の陰爻を畜養す。これは正常なり。だから下より上を養うを「顛倒」と称す。六四の正応は初九に在り、かえって下に向かいて養いを求む。道理の上に於いては倒置に属すと雖も、然るに六四は身は人臣の尊位に居り、教令を発布して以て郷野の百姓を治理する人なり。卦体は震下艮上にして、上は止まり下は動く。郷野の百姓は上に在る君子を奉養す。道理の上に於いては顛倒に似たれど其実順当なり。だから六四は「顛頤」なれど而も吉祥を得る。
虎視耽耽,威重之貌。大臣臨下有威重,則可以折衝萬里外矣。以威重之勢,欲以掊取於民,何求而不獲?然聖人立法,取於民有制,逐逐而求,則必至竭民之財而難繼矣。象曰顛頥之吉,上施光者,四能致飬於下,蓋無一物不被其澤,所施可謂光大矣,顛頥所以獲吉,由此也夫。
「虎視眈眈」とは、威厳凝重の様子を形容す。大臣は上に居りて下に臨んで威望気度有れば、便ち能く敵人を万里の外に折服せしむ。ただし、威重の勢を憑りて百姓に向かいて搜刮せんと欲せば、あれは何の求めて到らざるかあらん。然るに聖人は法度を制定し、百姓に向かいて徵取するは皆節制有り。若し接続不断に索求せば、必ず民財を耗盡して継続し難からしむ。『象伝』に「���頤の吉、上に施す光なり」と言う。六四の能く奉養を下民に推及し、一物として其の恩沢を蒙らざるなきを説く。施す所の恩惠は光明広大と謂うべし。「顛頤」の吉祥を獲得する所以は、まさに此の縁故に由る。
六五:拂經,居貞吉,不可渉大川。象曰:居貞之吉,順以從上也。六五雖處尊位而下無其應,不能養下而反求養於上,是謂拂其常理。蓋其才柔弱不足以有為,能靜貞自處,委任於在上之大臣,則可以獲吉也。上九,在上之大臣也。渉險濟難必頼剛明之才,六五之君守成之主,能守其道以委任大臣可也,責以大有為以濟天下,則非其任矣,故不可渉大川。
六五の爻辞に言う。「常理に違背す。安居して正を守れば則ち吉祥、但し大河を渡渉すべからず。」『象伝』に言う。「貞に居るの吉とは、其の柔順に上に在る上九に聴従するを以て也。」六五は尊位に居ると雖も、下面に相応の爻なく、下民を奉養する能わずかえって上に向かいて養いを求む。これを常理に違背すと呼ぶ。大概其の才質柔弱にして、大いに作為有るに足らざるを以てなり。ただ能く安静に正を守りて自ら処り、政事を上に在る大臣に委任すれば、便ち吉祥を獲得し得る。上九は、即ちあの上に居る大臣なり。険難を渉越し時の艱を救済するは、必ず剛強明叡の人才に依靠するを要す。六五の此の君主は守成の主にして、能く自らの本分を守住して大臣を委任すれば便ち可なり。若し彼に大いに作為して天下を拯救せんことを求むれば、則ち彼の勝任し得る所に非ず。だから「大川を渉るべからず」と言う。
象言居貞之吉,順以從上者,中才之主不能敬憚大臣,虛心而委任之,徒樂阿諛順適之快以濟其私慾,鮮有不敗亡者。禍福存亡,特在人主逆順之間耳。能順以從上,則逆心之言必求諸道而敬聴之矣。上九:由頤,厲吉,利渉大川。象曰:由頤厲吉,大有慶也。
『象伝』に「貞に居るの吉、順を以て上に従う」と言う。中等才具の君主が若し能く大臣を敬重顧忌し虚心に政事を彼らに托付せずして、ただ阿諛奉承・事事心に順うの快意を貪図して以て自らの私慾を満足せしむれば、敗亡せざるは少なし。禍と福・存と亡は、ただ君主の耳に逆うか心に順うかの此の一念の間に在るのみ。能く柔順に上に在る賢臣に聴従せば、則ち耳に逆う言を聴くも、亦必ず之を拿りて正道に対照して恭敬に採納せん。上九の爻辞に言う。「天下は皆彼に由りて奉養を得、心に危懼を存せば則ち吉祥、大河を渡渉するに宜し。」『象伝』に言う。「頤に由る厲吉とは、将に大いに福慶有らんとする也。」
六五本頥主而柔弱不勝其任,故上九得用其權,下之眾陰由之以得其飬。然權重勢専,威能震主,非愓然常有危懼之心,則主疑於上,眾忌於下,而禍不旋踵矣,惟能深自惕厲,則可獲吉也夫。上九負剛明之材,上所委任者専,眾所責望者重,非能排難渉險以利飬天下,孰克勝任哉!髙宗命傅說以若濟巨川,用汝作舟楫,古之大臣能勝是任者,傅說是已。髙宗能委任傅說,為商中興之主,社稷生靈咸被其福,豈特一人之慶哉!故象言大有慶也。
六五は本来『頤』卦の人を養うの主なれど、而も柔弱にして勝任する能わず。だから上九は大権を執掌するを得、下面の衆陰爻は皆彼を頼りて奉養を得る。然るに権位は太も重く勢力は專擅し、威望は以て君主を震動するに足る。若し時時警惕し常に危懼の心を懐かざれば、便ち上には君主に猜疑せられ下には衆人に忌恨せられ、禍患は眼を転ずれば至る。ただ能く深く自ら警惕戒惧するのみ、こそ吉祥を獲得し得る。上九は身に剛強明叡の才を負い、君主の彼に対する委任は専一にして、衆人の彼に対する期望は深重なり。若し能く危難を排除し険阻を渉越して、以て天下を利益奉養せざれば、誰か此の如き責任を勝任せん。殷高宗は傅説を任命するに言う。「若し大河を渡らんと要せば、爾を用いて船槳と為さん」と。古代の大臣の中に能く此の種の重托を勝任するは、傅説は即ち是れなり。高宗は能く傅説を委任し、因りて商朝の中興の主と成り、社稷と百姓は皆其の福を蒙受す。これは豈にただ彼一人の福慶ならん。だから『象伝』は「大いに慶有り」と言う。
大過卦(巽下兌上)
巽下兌上。大過:棟橈,利有攸往,亨。彖曰:大過,大者過也。棟橈,本末弱也。剛過而中,巽而說行,利有攸往,乃亨。大過之時大矣哉!大者能立非常之事,故其過亦非常。過在大者,非陰小所能為,亦不敢為也,故曰大過,大者過也。
『大過』卦は下体を巽とし上体を兌とす。卦辞に言う。「棟梁は彎曲下垂す、往く所有るに宜しく、亨通。」『彖伝』に言う。「『大過』は、陽の大なる者の過盛なり。棟梁の彎曲するは、首尾両端の柔弱なるを以て也。陽剛は過盛なれど中に居り、謙遜にして和悦の態度を以て行事すれば、往く所有るに宜しく、此に於いて亨通す。『大過』の処する時勢は真に重大なり。」陽の大なる者は能く非常の事を建立す。だから其の「過」も亦非常の過なり。此の種の「過」は陽の大なる者の身上に出ず。陰柔弱小の輩の做到し得る所に非ず、彼らもまた為すを敢えてせず。だから「大過、大なる者の過なり」と言う。
夫大過之時,朝廷衰,百姓離散,主昏於上,臣強於下,故云棟橈,本末弱也。本末謂上下皆陰,四陽無所託,顛也。剛雖過而不失二五之中正,欲以有濟,不可也。大過之世,豈純任剛強以違拂人心哉!以卦體言之,巽下兊上,巽而說行,則天下翕然從之矣。武王伐紂,不期而者八百餘國;漢祖入闗,父老皆牛酒迎勞。
『大過』の時代に処して、朝廷は衰敗し、百姓は流離失散し、君主は上に在りて昏聵、権臣は下に在りて強横なり。だから『彖伝』は「棟橈、本末弱なり」と言う。「本末」とは初六と上六の上下両端が皆陰爻なるを指す。中間の四個の陽爻は依托する所なく、勢い必ず傾覆せん。陽剛は過盛なれど、而も九二・九五の中に居る正位を失わず。但し若し単に此の一点を憑りて世を済せんと欲せば、行けざるなり。『大過』の時世に処して、豈に一味に剛強を憑恃して人心に違逆する能わん。卦体に就いて言えば、巽は下に在り兌は上に在り、謙遜にして和悦の姿態を以て行事すれば、天下は便ち一致に帰附せん。周武王は商紂を討伐す、嘗て期を約せずして自ら会集せしは八百餘国有り。漢高祖は関中に入り、父老たちは皆牛肉美酒を帯びて迎接慰労せり。
大過之時,聖賢君子為過絶之行以成非常之功,故利於作為,往無不濟,孔子所以贊其大也。象曰:「澤滅木,大過,君子以獨立不懼,遯世無悶。」澤所以悅萬物,至於滅木,則物或有被其害者,然物以惟悴枯槁之乆,有非尋常雨露之潤所能沾溉者,故澤滅木為大過之象也。
『大過』の時節に処して、聖賢君子は超絶常人の行為を做出して以て非常の功業を成就す。だから奋发作為するに利有りて、往けば成功せざるなし。孔子は因りて『大過』の時の重大を讃嘆す。『象伝』に言う。「大沢は樹木を淹没す、これ『大過』の象なり。君子は此に因りて特立独行して畏懼する所なく、世を避け隠居するも苦悶と覚えず。」水沢は本来以て万物を潤沢し之を欣悦せしむるなれど、然るに樹木を淹没するの地步に至れば、便ち些かの物はかえって其の害を受く。然るに万物の憔悴枯槁するは太も久しく、亦確かに尋常の雨露の滋潤の澆灌復蘇し得る所に非ず。だから「沢は木を滅す」はまさに『大過』の卦象なり。
夫天下衰亂,海內雲擾,惟賢人君子出以濟難,則解紛撥亂,有兵有戎而無所顧避;退而窮處,則啜菽飲水,耕巖釣渭,而不改其樂,豈世之是非譭譽所能輕動其心哉!是二者皆非中道,處大過之世,理則然爾。
天下衰敗動乱・四海紛擾不安の時に当たりては、ただ賢人君子のみ挺然として身を出し危難を救済す。彼らは紛乱を澄清し顛倒を撥正し、たとえ戦事兵戈有るも毫も回避せず。一たび退隱して窮居すれば、便ち豆羹を喫し清水を喝し、山岩野田の間に於いて耕作し渭水の濱に於いて垂釣し、依然として其の中の楽趣を改めず。世間の是非毀誉は、豈に彼らの心を軽易に動揺せしめん。此の両種の做法は皆中庸常道に合せずと雖も、但し『大過』の時世に処しては、道理は本来応当に此の如し。
初六:藉用白茅,無咎。象曰:藉用白茅,柔在下也。聖人當大過之世,為眾人之所不敢為,成眾人之所不能成,宜其輕易妄動,率意而行,今乃如置器於地,既已安全矣,又藉之以茅,慎之至也,何咎之有!以見聖人立大事、成大功,未甞敢易而為之也。
初六の爻辞に言う。「潔白の茅草を用いて襯墊と為す、過錯なし。」『象伝』に言う。「白茅を用いて襯墊と為すとは、柔順の者が下位に処するを以て也。」聖人は『大過』の時世に処して、衆人の敢えて為さざる事を為し、衆人の成就し得ざる功業を成就す。理に照らせば応当に軽率妄動・任意に行うべきに、然るに彼はかえって器物を地の上に置くが如く――已に甚だ安穩なれど、尚お下面に茅草を墊し、謹慎の極点に至る。豈になお過錯有らん。此に由りて見れば聖人の大事を創立し大功を成就するは、従来敢えて軽易に手を下さず。
況初體柔弱,承二而應四,以橈弱之勢方賴二剛扶持而安全之,其敢易乎!孔子於此爻釋其大畧曰:「藉之用茅,何咎之有?慎之至也。夫茅之為物薄,而用可重也。慎斯術也以往,其無所失矣。」蓋聖人濟難之初,其慎重如此,則何往而不利哉!
況んや初六の本身は柔弱にして、上に九二を承け下に九四に応ず。まさに柔弱傾危の勢を以て九二の陽剛に依頼して扶持保全せらる。它は豈に軽率に行事するを敢えてせん。孔子は『繋辞上伝』の裡に於いて此の一爻の大意を解釈して言う。「茅草を用いて襯墊と為すは、何の過錯かあらん。これは謹慎の極点に至るなり。茅草の此の物は本身微薄なれど、然るに其の用処は而も甚だ貴重なり。能く此の種の謹慎の道を推行し下れば、便ち何の閃失もあらじ」と。見るに聖人の危難を救済するの開端に於いて、謹慎持重すること此の地步に至れば、則ち何処に往くも順利ならざるあらん。
九二:枯楊生稊,老夫得其女妻,無不利。象曰:老夫女妻,過以相與也。大過之時無非過者,陽不過則無以濟弱陰,陰不過則無以益衰陽。惟九二剛過而中,以陽而居陰,老夫之象;初以陰柔伏而在下,女妻之象。
九二の爻辞に言う。「枯干の楊樹は重ねて嫩芽を生じ、年老の男子は年輕の妻子を娶る。不利ならざるなし。」『象伝』に言う。「老夫は少妻に配すとは、過分の結合を以て相互に親与する也。」『大過』の時節に処して、一つとして「過」ならざるなし。陽は過盛せざれば衰弱の陰を救済する術なく、陰は過分せざれば衰竭の陽を補益する術なし。ただ九二の陽剛は過盛して中位に居り、陽爻を以て陰位に居る。まさに「老夫」の象なり。初六は陰柔の質を以て潜伏して下に在り。まさに「女妻」の象なり。
二既無應於上而宻比於初,勢固不得不相與也。相與而俱受其益,以老益少,則少者日以長;以少益老,則衰者日以壯。當棟橈之時,君臣上下各協力以相與,何往而不利哉!故象言老夫女妻,過以相與也。九三:棟橈,凶。象曰:棟橈之凶,不可以有輔也。
九二は上に於いて相応の爻なきも、而も初六と緊密に相隣す。形勢の上に於いては本来相互に結合せざるを得ず。相互に結合して双方は皆好処を得る。年老の者を以て年少の者を補益すれば、年少の者は便ち一天天成長す。年少の者を以て年老の者を補益すれば、衰弱の者は便ち一天天強壮す。棟梁彎曲の危局に処して、君臣上下は各自に協力して相互に扶持せば、あれは尚お何の去処にして順利ならざるかあらん。だから『象伝』は「老夫女妻、過を以て相与する也」と言う。九三の爻辞に言う。「棟梁は彎曲す、凶険。」『象伝』に言う。「棟橈の凶険は、其の何の輔助も得ざるを以て也。」
大過之時,方藉眾力以扶危拯弱,則當卑遜下已,以群賢之助,然後大功可成。九三雖有上六為正應,而以陽居陽,方以髙亢自處,違拂眾情,上不復為之應援,安能濟天下之傾危、任朝廷之委哉!夫屋之有棟,榱桷桓楹所恃以不傾,居者所頼以安也。今棟既橈矣,則本末皆弱,顛仆摧敗,凶可知矣。
『大過』の時節に処して、まさに衆人の力量を借助して危局を扶持し衰弱を拯救せんと欲すれば、便ち応当に謙卑退譲し自らを放低し、衆多の賢者の幇助を取得して後に、こそ大功は告成し得る。九三は上六有りて以て正応と為すと雖も、而も陽爻を以て陽位に居り、一味に高傲に自ら居り、衆人の心意に違逆す。上六もまた彼に接応支援を与えず。此の如くはまたどうして天下の傾危を挽救し朝廷の重托を擔當せん。房屋は棟梁有れば、椽子・木柱はこそ依靠有りて傾倒に至らず、裡面に住む人はこそ安居を得る。いま棟梁は已に彎曲せり。然らば首尾両端は皆虚弱にして、傾覆摧折、凶険は以て預料すべし。
其材如此,安能勝其任乎?故象言不可以有輔者,蓋言上六不為之輔助,以不足輔助故也。九四:棟隆,吉,有它吝。象曰:棟隆之吉,不橈乎下也。九四切近君位,此大臣獨當拯溺扶危之任者。以九居四,以剛陽而寓陰柔,得人臣之正,如棟之穹隆,足以任群材之而勝其任者,吉孰如之!
其の材質は此の如くなれば、どうして重任を擔當し得ん。だから『象伝』は「輔有るべからず」と言う。意思は上六が彼に輔助を与えるを肯ぜず、其の本身が輔助するに値せざるを以てなり。九四の爻辞に言う。「棟梁は上に向かいて隆起す、吉祥。若し別に他求有れば則ち憾惜有り。」『象伝』に言う。「棟隆の吉祥は、其の下に向かいて彎曲せざるを以て也。」九四は君位に緊挨す。これは大臣の独自に溺を救い危を扶くの責を擔當する位置なり。陽爻九を以て第四の此の陰位に居るは、剛陽を陰柔の中に寄寓するを以て、人臣の正道に合す。棟梁の高く隆起して、以て衆多の木料の重量を承擔して其の職を勝任するに足るに如し。なお何の吉祥か之に比せん。
當斯任者,宜盡大公至正之道,若有所偏私,則眾必解體而不為之用矣。四與初雖為正應而不橈乎下,是以獲吉。若其用心不廣,繫應在初,豈能収攬豪傑,使逺近內外莫不響應,以成大過之功乎!九五:枯楊生華,老婦得其士夫,無咎無譽。象曰:枯楊生華,何可乆也?老婦士夫,亦可醜也。
此の重任を擔當する人は、応当に力を尽くして大公至正の道を奉行すべし。若し偏私有れば、衆人は必ず心を離れ徳を離れて彼のために用いるを肯ぜず。九四と初六は正応なれど、而も下に向かいて彎曲遷就せず。因此吉祥を獲得す。倘若其の用心が宏闊に足らずして、ただ初六の此の一処の相応に牽系すれば、またどうして天下の豪傑を招揽し、遠近内外に響応せざるなからしめ、以て『大過』の世を救うの功業を成就せん。九五の爻辞に言う。「枯干の楊樹は花を開き出だし、年老の婦人は年輕の丈夫を嫁する。過錯なし、亦称誉なし。」『象伝』に言う。「枯楊は花を開く、どうして長久せんや。老婦は少夫に配す、亦実に看るに難し。」
九五以剛陽之才履尊極之位,處大過之世,若可以有為,然無應於下而為老陰所乗,故無能為也。如士夫而為老婦所得,反有資於老婦。陰處上極,老婦之象也;枯楊,老婦也,以盛陽而益衰陰,生華之象也。以卦體言之,巽為長女,兊為少女,今乃反此者,以六爻之義言之也。
九五は陽剛の才を以て至尊の位に登り、『大過』の時世に処す。看るに以て作為有るべしに似たれど、然るに下面に相応の爻なく、また上六の此一の老陰に凌乘せらる。だから力を為す能わず。年輕の丈夫がかえって老婦に得られ、かえって老婦に仰仗するを要するに比す。陰爻は最上の一位に処す。まさに「老婦」の象なり。枯干の楊樹は亦即ち老婦にして、旺盛の陽気を以て衰敗の陰を補益すれば、便ち「華を生ず」の象なり。若し卦体に就いて言えば、巽は長女・兌は少女なり。此処は而もかえって老婦少夫を講ず。六爻の各自の爻義に就いて言うなり。
方時大過,則危者易而為安,亂者變而為治,衰者使強,弱者使壯,故六爻有升降,卦體有反覆,不可與餘卦同日而論也。蓋初、上二爻俱陰而衰弱,故有老婦、女妻之象。楊雖易生之木,其生華必當茂盛之時,既枯而生華,豈能乆乎?男長而女少,足以相感;老婦而得士夫,豈人情哉!故爻無咎無譽而已,至象則云枯楊生華,何可乆也?老婦士夫,亦可醜也。
まさに『大過』の時に当たりて、危険を扭転して安定と為し、禍乱を転変して治平と為し、衰敗の者をして強盛ならしめ柔弱の者をして壮健ならしむ。だから六爻に昇有り降有り、卦体に正有り反有り、其の余の各卦と一概に論ずる能わず。初六と上六の両爻は皆陰爻にして衰弱なり。だから「老婦」「女妻」の取象有り。楊樹は容易に生長する樹木なれど、其の開花は必ず枝葉茂盛の時に在り。已に枯干して而も花を開き出だすは、豈に長久を能くせん。男子は年長にして女子は年少なれば、尚お相互に感応するに足る。老婦は而も少夫を嫁するは、豈に人の常情ならん。だから爻辞はただ「咎なし誉なし」と言うのみ。『象伝』に至っては便ち「枯楊は花を開く、どうして長久せん。老婦は少夫に配す、亦実に看るに難し」と言う。
上六:過渉滅頂,凶,無咎。象曰:過渉之凶,不可咎也。當天下傾危之際,非挾剛健之才、懐救世之志,不能濟也。上六以陰柔而處過極之位,不能量力度徳,渉難既深,必蹈凶禍,故過渉滅頂凶,其凶蓋自取之,何所歸咎乎!
上六の爻辞に言う。「水を渉ること深きを過して以て頭頂を淹没するに至る、凶険、然るに責怪すべきなし。」『象伝』に言う。「過渉の凶険は、人に帰咎すべからざるなり。」天下傾危の際に当たりては、若し剛強健毅の才を挟有し救世の志を懐抱せざれば、事を成す能わざるなり。上六は陰柔の質を以て「過」の極点に処し、能く自らの力量と徳行を衡量せず、危難に渉入する既に深し。必ず凶禍に遭遇せん。だから「過渉頂を滅す、凶」と言う。此の凶険は原来自ら招来せるにして、尚お誰に帰咎せん。
雖然,當棟橈之世,志在濟難,雖至殺身,何咎之有?故曰無咎。而象言過渉之凶,不可咎者,人能捐軀濟難,其成與不成,天也;既以蹈禍,又從而追罪之,則人懐保身之術,緩急之際孰肯用命者乎!故聖人從而恕之曰不可咎也,意義兩通,抑以見大過之世不可無過絶之行。
話は此の如しと雖も、棟梁彎曲の危亡の世に処して、志は危難を拯救するに在れば、たとえ此に因りて命を喪うも、また何の過錯かあらん。だから爻辞は「咎なし」と言う。而して『象伝』に「過渉の凶、咎すべからざる也」と言うは、一人の能く身を捐して難に赴くは、事の成ると成らざるは、あれは天意なり。既に禍に遭うてまた其の罪責を追究せば、則ち人人は皆ただ自らを保全する辧法を盤算し、一旦危急の関頭に至れば、誰か尚お死を效して命を用うるを肯ぜん。だから聖人はかえって彼を寛恕して「帰咎すべからず」と言う。両種の解釈は意義の上に於いて皆講じ通ず、而して更に以て見出だし得。『大過』の時世に処しては、あの超絶常人の行為なかるべからざるなり。
坎卦(坎下坎上)
坎下坎上。習坎:有孚維心亨,行有尚。彖曰:習坎,重險也。水流而不盈,行險而不失其信。維心亨,乃以剛中也。行有尚,往有功也。習,重也;坎,險也。習坎者,重險也,上下皆坎,故為重險。然乾、坤、震、兊、坎、離、艮、巽八卦皆重,獨坎加習字者,亦有便習之義。
『坎』卦は上下両体皆坎なり。卦辞に言う。「重重の陥陷の中に於いて、ただ心に誠信を懐けば、内心は便ち亨通し得、行動は便ち崇尚せらるる能し。」『彖伝』に言う。「『習坎』は、重重の陥陷なり。水は流動して盈満せず、険境を行走して而も其の信実を失わず。『心を維りて亨』とは、九二・九五の陽剛が中に居るを以て也。『行に尚有り』とは、往けば功效有らんを説く。」「習」は重曡の意、「坎」は陥陷の意、「習坎」は即ち重重の陥陷なり。上下両体は皆坎、だから重険なり。ただし乾・坤・震・兌・坎・離・艮・巽の八卦は皆上下重曡して卦と成る。独り坎卦のみ一個の「習」の字を加う。此処は尚お熟習慣練の意思を含有す。
蓋履險難,非習熟其事,則顛沛失錯,跡愈而道愈屯矣。呂梁丈人與齊俱出,與汨皆入,從水之道而無容私焉,此履險而習熟其事者也。君子當險難之時,其心超然出乎險難之外,蓋誠信之道素定乎胷中,而非一旦可以強勉而偽為之也。
身は険難に処するに因り、若し此の事に対して熟習慣練せざれば、便ち顛僕失措し、行跡は愈々挣扎して道路は愈々艱難なり。『荘子・達生』の記する呂梁のあの老丈は、漩渦に随いて一同に浮出し、涌流に随いて一同に没入し、水の規律に順従して一点の私意を掺入せず。これが即ち険境に身を処して其の事に熟習する人なり。君子の険難の時に処するに、其の心は能く険難の外に超然たり。あれは誠信の道が平素より已に胸中に確定するを以てなり。並びに一朝一夕に勉强偽装し出だし得るに非ず。
坎以一陽居二陰之間,陽實陰虛,實者處中,有孚心之象。心者神明之舍,古之學者明其心而已,方寸既明,則生死之變不能亂也,而況窮逹禍福利害之端乎!故有孚維心亨也。以此誠信之道而行於世,故為人所貴尚,何往而不利哉!商之三仁當紂之世,其謀國已素定矣。
坎卦は一個の陽爻が二個の陰爻の間に処す。陽は実、陰は虚にして、実者は中に居る。まさに心の中に誠信有るの象徴なり。心は神明の居る所の処なり。古代の学者は過ぎず自らの心をして明徹ならしめんと欲するのみ。方寸の地は既に明徹せば、則ち生死の変故すら彼を擾乱する能わず。況んや困窮顕達・禍福利害の此れらの頭緒をや。だから「孚有りて心を維りて亨」と言う。此の種の誠信の道を用いて世を行走すれば、因此人に看重推崇せらる。何処に往くも順利ならざるあらん。商末の微子・箕子・比干の此の三位の仁人は紂王の乱世に処し、彼らの国家の為に作した謀劃は、平素早已に心中に定まり在り。
天險不可升也,地險山川丘陵也,王公設險以守其國,險之時用大矣哉!坎之為卦,上下皆坎,坎所以為險也,重險則深。水流而不盈者,深也。君子陷於險難,既險且深,未能遽出乎險難者也;行乎險難而不失其信者,所以濟險難也。
『彖伝』は続けて言う。「天の険は、其の攀じ得ざる高きに在り。地の険は、山川丘陵に在り。王公は険要に依憑して以て其の国家を守衛す。険の時勢と功用は真に重大なり。」『坎』の卦と成るは、上下皆坎にして、坎は以て険を表示す。重重の険は便ち深と顕る。「水は流れて盈たず」とは、まさに深を説く。君子は険難の中に陥落し、険にして且つ深く、一下子に険難を脱出する能わざるなり。而して険難の中を行走して而も信実を喪失せざるは、まさに以て険難を渡過する辧法なり。
上下二陰而一陽處乎中,剛而得中,二五是也。陰柔也,陽剛也,外柔者善陷者也,內剛者為所陷者也。處燕閒而心常險者,小人也;身屯否而心常亨者,君子也。小人柔佞陰險,故善陷君子;君子剛方正直,故常為所。上下二陰,小人協力而共擠之象也;一陽在中,君子獨立無援之象也。
上下二個の陰爻にして一個の陽爻は中に居り、陽剛にして中位を得。説く所は九二と九五なり。陰は柔、陽は剛なり。外表柔順なるは、人を陷害するを善とする一方なり。内裏剛直なるは、陷害せらるる一方なり。身は安閑の境に処して而も心中常に険悪を存するは、小人なり。身は困頓否塞に陥りて而も内心常に通泰を保つは、君子なり。小人は柔媚諂佞・陰狠険毒にして、だから君子を陷害するに善し。君子は剛正方直にして、だから常に彼らに陷害せらる。上下の二個の陰爻は、まさに小人の力を合せて一同に君子を排擠する象なり。一個の陽爻は中に居る。まさに君子の孤立無援の象なり。
陽雖於群陰之中而剛健篤實,其心坦然,無所憂懼,有所不往,往無不濟,故能卒脫乎坎陷而成濟險之功。雖然,險固君子之所惡也,専於傾害君子者,小人之險也;君子亦有時而用險者,所以杜陵犯之漸而防傾覆之禍也。
陽爻は身は衆陰の中に陥ると雖も、而も剛健篤実にして、内心坦然として、何の憂懼もなし。動かざれば已む、一たび動けば成功せざるなし。だから終に能く坎陥を脱離して険難を渡過する功業を成就す。話は此の如しと雖も、険は終に君子の厭悪する所なり。一心に君子を傾軋陷害するは、あれは小人の険なり。君子もまた時に「険」を用うるは、あれは以て欺凌冒犯の苗头を杜絶し傾覆の禍の発生を防備するなり。
如天險之不可升,知不可測度而退聴也;如地險之有山川丘陵,知其險峭而不可犯也。王公設險以守其國,浚城池,修障塞,所以設險也。人主當深居九重,如神龍之不可脫於淵。秦之無道,廵逰天下,博浪之禍至不免;劉、項嘆息道傍,或曰彼可取而代,或曰大丈夫當如此,所以動豪傑之心,萌非覬之望,二人起而秦卒以亡。然則險之時用,豈不大矣哉!
天の険は高くして升るべからざるに在るに如し、人は其の測度すべからざるを知りて退避して命を聴く。地の険は山川丘陵に在るに如し、人は其の険峻陡峭を知りて侵犯するを敢えてせず。王公は険要に依憑して国家を守衛し、城池を疏濬し関塞��修筑すれば、即ち所谓「険を設く」なり。君主は応当に九重の宮禁の内に深居し、神龍の深淵を脱離すべからざるに如くすべし。秦朝は道無く、秦始皇は天下を巡游し、終に博浪沙に於いて刺されるの禍事を免れず。劉邦・項羽は道旁に於いて車駕を看て嘆息す。一個は「あの位子は以て取代るべし」と言い、一個は「大丈夫は即ち此の如くあるべし」と言う。これは便ち豪傑の心を撩動し、非分の覬覦を萌生せしめ、両人は一たび兵を起こせば、秦朝は終に滅亡せり。此の如く看れば、「険」の時勢と功用は、豈に重大ならざらん。
象曰:「水洊至,習坎,君子以常徳行,習教事。」水之傾注相仍不絶,其澗壑必有深峭之處,水洊至所以為重險也。君子體此象以常其徳行,故處富貴貧賤、死生禍福之際,未甞少易其節,如水之流行,雖萬折而必東也。習教事者,習為教誨人之事。夫以身教者從,能常其徳行,則觀感而化者疾於影響之應形聲,豈諄諄然訓誨以言哉!
『象伝』に言う。「水は接続不断に涌来す、これ『習坎』の象なり。君子は此に因りて自らの徳行をして恒常変わらざらしめ、反復して教化の事を熟習施行す。」水は傾瀉奔注して相継いで絶えず、其の経る所の澗谷は必ず幽深陡峭の処有り。「水は洊びて至る」の重険の象徴と成る所以なり。君子は此の象を体察して以て徳行を恒常ならしむ。だから身は富貴と貧賤・生死と禍福の際に処して、未だ嘗て稍々自らの節操を改変せず。水の流行するが如く、たとえ千回万転するも必ず東に帰して大海す。「習教事」とは、反復して他人を教誨する事を練習するなり。およそ自身を以て則を作して教を施すは、人は便ち服従す。能く徳行を恒常変わらざらしむれば、則ち旁人は觀感受化し、影子の形に随う・回声の声に応ずるよりも迅速なり。豈に嘮嘮叨叨として言語を用いて訓誨せんことを要せん。
初六:習坎,入于坎窞,凶。象曰:習坎入坎,失道凶也。初六以陰柔而處重險,此小人之陷於險難,以邪佞陰險而入于坎窞而凶。窞在兩坎之下,故曰習坎,由失道而非能脫乎險難者,故象言習坎入坎,失道凶也。
初六の爻辞に言う。「身は重重の陥陷に処し、坎の中の深穴に落入す。凶険。」『象伝』に言う。「重険の中に又た坎穴に墜入すとは、正道を迷失してこそ凶なり。」初六は陰柔の質を以て重重の陥陷の中に処す。これは小人の険難に陥落するなり。邪僻諂佞・陰狠険毒なるに因りて坎底の深穴に掉込む。だから凶険なり。「窞」は上下両坎の下に在る深穴なり。だから「習坎」と言う。これは正道を迷失するに由り、並びに険難を脱出し得る人に非ず。だから『象伝』は「習坎は坎に入る、道を失う凶也」と言う。
君子固有不幸而入險難者,如文王之拘羑里、孔子之阨陳蔡,初非失道,故卒脫乎險難,而小人卒不能加害也。九二:坎有險,求小得。象曰:求小得,未出中也。九二以剛陽而於二陰,君子處坎之時而行乎患難者。
君子も亦当然不幸にして険難に落入する有り。周文王の羑里に囚禁せられし・孔子の陳蔡の間に困せられし如し。彼らは起初は並びに正道を迷失せざるに非ず。だから終に険難を脱出し、小人は到頭彼らに加害する能わず。九二の爻辞に言う。「坎陥の中に確かに危険有り、ただ小さく得る有るのみ。」『象伝』に言う。「求めて小さく得る有るは、未だ陥陷の中を走出せざるを以て也。」九二は陽剛の質を以て二個の陰爻の間に陥る。まさに君子の坎険の時に処して患難の中を行走するなり。
二與五位本相應,今既俱於群陰之間,上下各無應援,二猶欲有求於五,勢雖不能援,然居中履尊,小人尚有畏憚之心,故二往求焉,尚可小有所得也。五之於群陰,如末世人君阨於強臣,威福之柄不自我出。
九二と九五は本来相応の爻位なれど、いま而も一同に群陰の中に陥り、上下各自に接応支援なし。九二は尚お九五に向かいて求取有らんと欲す。九五の形勢は彼に援助を与うる能わずと雖も、但し畢竟中に居りて尊位に処す。小人は彼に対して尚お畏懼忌惮の心を存す。だから九二は往きて求助すれば、尚お以て小さく得る有り。九五は満卦の陰爻に対して、末世の君主が強横の権臣に受制するに如く、賞罰予奪の権柄は再び自らの手中より出でず。
象言求小得,未出中者,未能出乎險中也。二之剛陽出乎險中,小人退聴,必有濟險復辟之功,何求而不獲哉!然則求小得者,是未出乎坎也。六三:來之坎坎,險且枕,入于坎窞,勿用。象曰:來之坎坎,終無功也。來,自外來;之,有所在也。
『象伝』に「小さく得るを求む、未だ中を出でざる也」と言う。尚お陥陷の中を走出する能わざるを説く。九二の陽剛は一たび険中を脱出せば、小人は退避して命を聴き、必ず能く険難を渡過し君権を恢復する功業を建立せん。あの時は尚お何の求めて得ざるかあらん。此の如く看れば、「小さく得るを求む」はまさに其の未だ坎険を走出せざるを説明す。六三の爻辞に言う。「来るも坎、去るも坎、危険にして且つ険の上に枕靠し、坎の中の深穴に落入す。施用する所有るべからず。」『象伝』に言う。「来去は皆坎陥なり、終に功效あらじ。」所谓「来」とは、外面より進入す。所谓「之」とは、或る処に往くなり。
六三陰柔之中而據陽位,造坎險者,今乃反於重險之中,以上無援而下乗剛,往來皆無適而可,故來與之皆險也。君子處乎險難,心亨可也,而晏然若燕安之時,無畏懼惕厲之心,故患難愈深而身愈也。六三既不能退處幽隠為自全之討,故聖人戒以勿用此爻也。
六三は陰柔の質を以て而も陽剛の位を占拠す。本来坎険を製造する人なり。いまかえって重重の陥陷の中に落入す。上に向かいて援助なく、下に向かいてまた陽剛に凌乘す。来と去は皆容るべき処なし。だから来るも険、去るも険なり。君子は険難に身を処し、内心通泰は可なり。然るに六三は而も安然自得以て、燕居安逸の時に処するが如く、全く畏懼警惕の心なし。だから患難は愈々深くして自身は愈々陥溺す。六三は既に退居して幽隱の処に於いて自我保全の打算を作す能わず。だから聖人は此の一爻の上に於いて「用うる勿れ」と告戒す。
象言來之坎坎,終無功者,進退皆遇凶禍,豈能成濟險之功哉!六四:樽酒簋貳,用缶,納約自牖,終無咎。象曰:樽酒簋貳,剛柔際也。聖人當重坎之時,處險之道以有孚為大,蓋非智力巧詐所能為也。六四切近君位,人主恃以出乎險難者,惟中誠實而外素儉,乃可免禍。
『象伝』に「来之坎坎、終に功なし」と言う。進むも已む退くも已む皆凶禍に遭遇す。豈に尚お険難を渡過する功業を成就し得ん。六四の爻辞に言う。「一樽の薄酒・两簋の淡飯、瓦缶を用いて盛り、窓口より此の倹約の誠意を送り入る。終に過錯なし。」『象伝』に言う。「一樽二簋とは、剛と柔の相交接するを説く。」聖人は重重の坎険の時に処して、険境に応付するの道は心に誠信を懐くを以て最も要緊と為す。決して智謀巧詐の辧じ得る所に非ず。六四は君位に緊挨し、君主の頼りて険難を脱出する人なり。ただ内心誠実にして外表朴素倹約なるのみ、こそ禍患を免れ得る。
故一樽之酒、二簋之食、瓦缶之器,物之至儉陋者,當險難之世,能深自貶損,發於至誠,固可薦王公而交神明也。老子曰不窺牖見天道,牖者奧室之間通乎至明之處。人臣欲濟險難,非君臣道合則不能也。君臣之分,上下之勢固殊絶矣,故以祭祀為喻,以菲薄之物將潔素之誠,固足以通幽而逹明也,況人主乎!
だから一樽の酒・两簋の飯・瓦缶の做した器皿は、皆最も倹朴粗陋の物なり。険難の時世に処して、能く深く自らを貶抑降損し、至誠より出でて行えば、本来以て王公に進献し神明に感通するに足る。『老子』に「窓戸を窺看する必用なくして天道を見る」と言う。「牖」は幽深の内室の中に於いて最も明亮の処に通ずる所なり。人臣は険難を渡過せんと欲せば、若し君臣の道義相合せざれば辧じ得ず。君臣の名分・上下の勢位は本来懸絶す。だから祭祀を借りて比喻を作す。微薄の祭品を用いて潔淨素朴の誠心を奉上すれば、尚お以て幽冥に感通して神明に上達するに足る。況んや君主に感通するをや。
當險難之世,僅能免乎咎悔而巳,豈能濟難而獲福哉!故曰終無咎也。象言樽酒簋貳,剛柔際者,繫辭曰剛柔者晝夜之象,晝夜者幽明之象。交神明之道,蓋將和同乎天人之際,納此約質,從此戶牖,所以通乎幽明,以喻君臣之大分也。四五無應而以剛柔宻相承比,君臣道合,固足以濟險難矣。
険難の時世に処しては、亦ただ過錯悔恨を免るるのみ。豈に危難を渡過して福慶を獲得すると談ぜん。だから爻辞は「終に咎なし」と言う。『象伝』に「樽酒簋貳、剛柔の際なり」と言い、『繋辞上伝』に「剛と柔は、昼と夜の象徴なり」と言う。昼夜は又た幽と明の象徴なり。神明に感通するの道は、本来天と人の間を調和溝通するを要す。此の倹約質朴の心意を献上し、此の扇の窓戸より送り入るは、まさに以て幽と明を貫通し、借此君臣の間の大名分に比喩す。六四と九五は正応なきと雖も、而も柔を以て剛を承け緊密に相隣す。君臣の道義契合す。本来以て険難を渡過するに足る。
九五:坎不盈,祗既平,無咎。象曰:坎不盈,中未大也。九五以中正而履尊位,勢固足以有為,當險難之世,小人眾多,坎窞尚深,下無應援,如水流而不盈,未能出乎險中也。人主既制於小人,左右前後皆其黨與,雖負剛健之才,未能有所為也。
九五の爻辞に言う。「坎陥は未だ填満せず、ただ剛く平満に達するのみ、過錯なし。」『象伝』に言う。「坎は盈たずとは、中に居りて成就する所の尚お広大ならざるを以て也。」九五は中正の徳を以て尊位に登り、形勢は本来以て作為有るに足る。但し険難の時世に処して、小人は衆多にして、坎穴は尚お甚だ深く、下面に又た接応支援なし。水の流動して盈満する能わざるに如く、尚お陥陷の中を脱出する能わず。君主は既に小人に受制せられ、左右前後は皆彼らの党羽なり。身に剛強健毅の才を負うと雖も、亦作為する術なし。
當深自晦匿,以道消息之,勿使見憤疾不平之跡,適至於平可也,如此然後可以免禍。象言坎不盈,中未大者,履九五之尊位,不能大有所為,但適至於平耳,豈足為濟險之主而成中興之功哉!上六:係用徽纆,寘于叢棘,三歲不得,凶。象曰:上六失道,凶三歲也。
此の時は応当に深く自らを隠晦收斂し、合宜の方式を用いて慢慢に消解し、憤恨不平の形跡を顕露せしめず、ただ勉强に持平に達するを求むれば便ち可なり。此の如くして後にこそ禍患を免れ得る。『象伝』に「坎は盈たず、中未だ大ならざる也」と言う。身は九五の尊位に居るも、而も大いに作為する能わず、過ぎず恰好に持平に達するのみ。豈に険難を渡過する君主を做して中興の功を成就するに足らん。上六の爻辞に言う。「繩索を用いて捆綁し、荆棘の叢中に囚置す、三年も解脱する能わず、凶険。」『象伝』に言う。「上六は正道を迷失し、だから凶険は三年の長きに達す。」
上六小人之居大位而尤陰險,乗剛犯上,有無君之心,勢固難以兩立。然陰柔而居險之極,眾莫有應者,九五之君卒有以制其死命。蓋君子遇險而卒脫,小人遇險而愈,故係用徽纆,寘於叢,雖三歲之乆而不得脫,其凶可知。
上六は身は高位に居りて格外に険険なる小人なり。陽剛に凌乘し上に在る者を冒犯し、目に君主なきの心を懐く。形勢の上に於いては本来君主と並立し難し。然るに它は陰柔の質を以て険の極点に処し、彼と相応ずる人なし。九五の此の君主は終に能く彼を死命に制す。大抵君子は険難に遇うて最終に身を脱するを得、小人は険難に遇うて而も愈々陥れり。だから「繩索を用いて捆綁し、荆棘の叢中に囚置す」と言い、たとえ三年の長きに達するも解脱する能わず。凶険は想い知るべし。
蓋小人方在大位,勢能害物,盡力而為之,其傾善類多矣,雖人主之尊,亦將憑陵而無所憚,其凶熖可知。一旦罪惡顯露,其治不得不嚴,其拘係之不得不乆。象言上六失道,凶三歲者,其蹈禍患蓋自取之,固足以快天下之公論,雖寘之叢之下可也。噬嗑上九曰何校滅耳,凶。孔子曰:惡積而不可揜,罪大而不可解。小人積稔凶惡,雖人主有不能堪其極,未甞不至於此,如唐元載之流是已。
大抵小人はまさに高位の時に当たり、勢力は以て人に為害するに足り、彼らは全力を竭くして為す。傾覆する善良の士は太も多し。たとえ至尊の君主なるも、彼らもまた之を欺凌逼迫して毫も忌惮なし。あの囂張の凶焔は想い知るべし。一旦罪悪敗露せば、彼への懲治は厳厲ならざる能わず、彼への拘禁は長久ならざる能わず。『象伝』に「上六は道を失う、凶三歳也」と言う。其の禍患に遭遇するは原来自取なりを説く。本来以て天下の公論をして大快人心ならしむるに足り、たとえ彼を荆棘の叢下に囚置するも亦応然なり。『噬嗑』卦上九の爻辞に「枷械を肩負して耳を遮没す、凶」と言い、孔子は『繋辞下伝』の裡に解釈して曰く。「悪行の積累多ければ便ち掩盖する術なく、罪過大なれば便ち解脱する術なし」と。小人は悪を積むこと日久く凶暴は性と成り、君主すら彼を忍受する極点に至る能わざる時有り。此の一歩に落到せざるなし。唐代の元載の流の如きは即ち此の如し。
離卦(離下離上)
離下離上。離:利貞,亨,畜牝牛吉。坎離水火之象,在人為心腎,心蔵神,腎蔵精,精與神合而不離,則變化之所為在我而已。坎,陰也,而一陽在內;離,陽也,而一陰居內。故心液為真水而下,腎水含真火而上升,故火下水上為既濟,火上水下為未濟。
『離』卦は上下両体皆離なり。卦辞に言う。「正固を守持するに利し、亨通。母牛を畜養すれば則ち吉祥。」坎と離は水と火の象徴にして、人の身上に於いては即ち心と腎なり。心は神を蔵し、腎は精を蔵す。精と神は相合して分離せざれば、則ち造化変化の作用は皆自らの手裡に掌握せり。坎は陰に属すれど、而も一個の陽爻は内に在り。離は陽に属すれど、而も一個の陰爻は内に居る。だから心の中の津液は真水と化して下行し、腎の中の水は真火を含んで上昇す。因此火は下に在り水は上に在れば則ち『既済』卦と成り、火は上に在り水は下に在れば則ち『未済』卦と成る。
此飬生者有五行顛倒術,龍從火裡出;五行不順行,虎向水中生之說,古之至人以為長生不死之藥也。離,麗也。火無正體,因物以為體,太空之中惟所取之。君子體離善附物之性,附物則失已,當以正為主,故利貞然後能亨也。
これが即ち養生家の説く所の「五行顛倒の法門、龍は火の裡より生出す。五行は常序に按らず運行し、虎は水の中に向かいて産生す」の道理で、古代の至人は之を以て長生不死の丹薬と為す。「離」は即ち附麗依附の意なり。火は固定の形体なく、別の物に依附してこそ其の体と為る。茫茫たる太空の中に於いて、ただ其の取用する所を見る。君子は離卦の外物に依附するを善とする特性を体会し、外物に依附すれば容易に自我を喪失するを明白にす。だから応当に「正」を以て主と為し、因此「貞に利し」と言い、然る後にこそ亨通し得る。
貞而能亨者,言君子之道亨,非富貴利逹之謂也。在我者既正,則當飬成其正順之徳。牛善觸物,惟牝牛正而能順,六二以陰居陰,至順者也,故有牝牛之象。君子以剛正涵飬成就其徳,又麗乎中正,其逢吉也,豈不宜哉!
所谓正を守りて能く亨通すとは、君子の道が行き通るを説くにして、並びに富貴顕達を指すに非ず。自らの身上の既に端正なるは、便ち応当にあの既に正しく且つ順なる徳性を涵養成就すべし。牛は角を用いて外物を抵触するを好むも、ただ母牛のみ既に正しく而もまた柔順なり。六二は陰爻を以て陰位に居る。最も柔順なるなり。だから「牝牛」の象有り。君子は剛健中正を以て自らの徳性を涵養成就し、また能く中正の道に依附すれば、則ち其の吉祥に遇うは、豈に理の応当に非らん。
彖曰:「離,麗也。日月麗乎天,百穀草木麗乎土,重明以麗乎正,乃化成天下。柔麗乎中正,故亨,是以畜牝牛吉也。」物生於天地之間,凡麗於有形,渉於有數,與夫動植飛潛,未有無所麗者。日月麗乎天,百榖草木麗乎土,可謂得所麗矣。
『彖伝』に言う。「離は、即ち附麗なり。日月は天に附麗し、百穀草木は地に附麗す。重曡の光明を以て正道に附麗すれば、此に於いて能く教化して天下を成就す。柔順の者は中正の位に附麗す。だから亨通し、因此母牛を畜養すれば則ち吉祥と言う。」万物は天地の間に生ず。およそ形体を具有し数量の中に落入する、および一切の飛禽走獣・草木魚虫は、一様として依附する所なきはなし。日月は天に附麗し、百穀草木は地に附麗す。以て各々其の依附する所を得たと説くべし。
重明以麗乎正,乃化成天下者,重明,上下皆離,明之盛也。人君非至明無以照天下。彖以卦體言,故曰重明;象以卦材言,故曰繼明。重明者,同體相重而不可掩也;繼明者,異體相續而不絶也。六五雖非剛健,而以一陰處乎二陽之間,居尊履正,故能化成天下也。
「重明を以て正に麗し、乃ち天下を化成す」、所谓「重明」とは、上下両体皆離にして、光明は極盛に達す。君主は極めて明叡ならざれば、天下を照察する術なし。『彖伝』は卦体より説く、だから「重明」と称す。『象伝』は卦の材質より説く、だから「継明」と称す。「重明」とは、同一の体質が重曡し在一起して而も遮掩すべからざるなり。「継明」とは、不同の個体が相接続して断絶せざるなり。六五は並びに剛健の質に非ずと雖も、而も一個の陰爻を以て二個の陽爻の間に処し、身は尊位に居りて処する所は正を得。だから能く教化して天下を成就す。
柔麗乎中正者,二以柔而得中,五以柔而得正,上下皆處中正之位,故君臣道合,乃底於亨嘉之也。離之性必有所麗,有所麗者皆托體於異物,非能超然而獨立也。離以柔為主,柔弱則性順,剛強則性逆,能飬其至順之徳而不與物忤,如畜牝牛,故獲吉也。
「柔は中正に麗す」とは、六二の柔順を以て中位を得、六五の柔順を以て正位を得るを説く。上下は皆中正の位に処す。だから君臣の道義は契合し、終に亨通嘉美の境地に達す。離の性質は必ず依附する所有るを要し、およそ依附する所有るは、皆自らを別の物の上に寄托し、超然として独立する能わず。離卦は柔を以て主と為す。柔弱なれば則ち性情は和順、剛強なれば則ち性情は違逆なり。能くあの極めて柔順の徳性を涵養して外物と相抵触せざれば、母牛を畜養するに如し。だから吉祥を獲得す。
象曰:「眀兩作,離,大人以繼明照于四方。」明兩作,兩明相繼而起然後為離,明兩作則前後相繼之義,故大人以繼明照于四方。繼體之君以明繼明,其光不息,故能無逺弗屆,無幽不燭也。孟子以充實而有光輝為大,方言繼明,故特稱大人,能相繼而明,所以為大。若以昏繼明,則明入地中為明夷,暗君之象也。
『象伝』に言う。「光明は両度昇起す、これ『離』卦の象なり。大人は此に因りて相継いで絶えざる光明を以て四方を照臨す。」所谓「明は両たび作す」とは、両重の光明が相継いで起りて後に離と為る。「明は両たび作す」は便ち前後相接続の意思を含有す。だから「大人は継明を以て四方を照す」と言う。先君の位を継承する君主は、自らの賢明を以て先君の賢明に接続し、光輝は永く止息せず。だから能く遠く至らざるなく幽く照らさざるなし。『孟子・尽心下』は「充実して而も光輝有る」を以て「大」と為す。此処はまさに「継明」を説く。だから特に「大人」と称す。能く代々相継いで賢明を保持するを以て、因此之を大と称す。倘若昏庸を以て賢明に接続せば、則ち光明は地の中に沈入して『明夷』卦と成る。あれは昏君の象徴なり。
初九:履錯然,敬之,無咎。象曰:履錯之敬,以辟咎也。陰陽升猶五行之循環,王相休囚時為貴賤,本無一定之體。一陰而二陽,則以陰為主,柔麗乎中正者,位也。然二五之陰皆為群陽所麗,蓋賤必麗於貴,卑必麗於尊。
初九の爻辞に言う。「踏む所は錯雑紛乱す。心に敬慎を存せば、過錯なし。」『象伝』に言う。「履錯して能く敬慎すとは、以て災禍を避開するなり。」陰陽の昇降は五行の循環に如く、旺・相・休・囚は時節に随いて其の貴賤を定め、本来固定不変の格局なし。一個の陰爻に二個の陽爻を配すれば、便ち陰爻を以て主と為す。「柔は中正に麗す」の講ずるは爻位なり。然るに六二・六五の此の二個の陰爻は皆衆陽に依附せらる。卑賤の者は必ず尊貴の者に依附し、位下の者は必ず位上の者に依附するを以てなり。
初最處下,居九位之地,上承於二以求麗焉。以發跡之初,上之諸陰皆非其應,所履錯愕,未知適從,二方處中為主,勢不能抗,能敬承於二,是以陽剛而下陰柔,故可免咎。象言履錯之敬,以辟咎者,火性炎上而善麗,非能守其亷靜,安其分義者也。處離之初,能錯然敬畏,介然獨守,非得已也,姑避咎悔耳。
初九は最も下方に処し、陽爻の応当に居るべき位を占拠し、上に向かいて六二を承接して以て依附を求む。其の起步発跡の初めに於いて、上面の幾個の陰爻は皆其の正応に非ず。脚下の踏む所は紛雑錯愕として、帰向すべき何方なるを知らず。而して六二はまさに中位に居りて一卦の主と為る。形勢の上に於いて之と抗衡する術なし。だから它能く恭敬に六二を承奉す。これは陽剛を以て陰柔の下に屈居するを以て、因此以て過錯を免れ得る。『象伝』に「履錯の敬、咎を辟るを以て也」と言う。火の本性は上に向かいて燃焼して攀附を善とするを以て、本来能く廉静を安守し本分名義に安んずるに非ず。『離』卦の開端に処して、能く紛雑の中に於いて敬慎畏懼し、耿介に独自に持守するは、亦已むを得ず、姑く以て過錯悔恨を躲避するのみ。
六二:黃離,元吉。象曰:黃離元吉,得中道也。彖曰柔麗乎中正,即五與二也。離,文明也;黃為中色。二五俱以文明中正為群陽所附,君臣上下道同徳合,吉孰大焉!象言黃離元吉,得中道者,離體雖文明,若日昃之離,明將入於地中矣;惟大明中天,則無幽不燭,容光必照,如聖人居中得位,故能成大善之吉也。
六二の爻辞に言う。「中和の黄色を以て正道に依附す、最も吉祥。」『象伝』に言う。「黄離元吉とは、中庸の道を得るを以て也。」『彖伝』の説く所の「柔は中正に麗す」、指す所は���五と六二なり。離は、文采光明を代表す。黄は五色の中の居中の色なり。六二と六五は皆文明中正の徳を以て衆陽の依附する所と為る。君臣上下は道路相同しく徳性契合す。なお何の吉祥か此より大ならん。『象伝』に「黄離元吉、中道を得る也」と言う。離体は文明なれど、若し太陽の西に偏る時の光明の如くなれば、便ち地の下に沈入せんと欲す。ただ太陽の大いに光明を放ちて空に当たり高く照るのみ、こそ幽暗に照らさざるなく凡そ縫隙有れば必ず照る能くするなり。聖人の中に居りて其の位を得るに如し。だから能く極大の善果と吉祥を成就す。
九三:日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。象曰:日昃之離,何可乆也?古之有道者,觀乎陰陽消長之理,則進退去就、死生禍福皆能順受之。上下二離有繼之象,功成名遂身退,天之道也。自昔帝王享國日乆,既老而當或授之子,或授之賢,故能身享安榮而其明不息也。
九三の爻辞に言う。「太陽の西に偏る時の光明、若し能く瓦缶を敲きて歌唱して自ら楽しむ能わざれば、便ち年老将至の悲嘆を発出す。凶険。」『象伝』に言う。「太陽の西に偏る時の光明は、どうして長久せんや。」古代の道有る人は、陰陽消長の道理を看透せば、則ち進と退・去と留・生死と禍福は、皆能く其の自然に順いてい承受す。上下二個の離体に相承継の象有り。功成名の就たるの後に身を引きて退くは、これは天道なり。古より以来帝王は位に在ること日久く、年老の時は理当に或いは位を兒子に伝え、或いは賢者に禅譲すべし。だから能く自らは安んじて尊栄を享けて而も其の光明は止息に至らず。
離火也,火性炎上,九又以陽剛而據陽位,雖過中當退而不能以禮自娛,年至大耋,顧戀諮嗟,此取禍之道也,聖人垂戒之意深矣。象言日昃之離,何可乆者,人之既老,譬之漏盡鐘鳴而夜行不止,其能乆乎!九四:突如其來如,焚如,死如,棄如。象曰:突如其來如,無所容也。
離は火、火性は上に向かいて燃焼す。九三はまた陽剛の質を以て陽位を占拠す。已に中位を過ぎ理に按れば応当に退くべきに、而も礼法を以て自ら安んじ自ら楽しむ能わず。年紀は七八十歳の高齢に至りて、尚お権位に眷戀し咨嗟嘆息す。これは禍を招くの道にして、聖人の垂示告戒する用意は甚だ深し。『象伝』に「日昃の離、何ぞ久しからんや」と言う。人は既に衰老せば、刻漏は已に尽き晨鐘は已に響けるに比すれば、而も尚お夜行して止まざるは、あれは能く長久せんや。九四の爻辞に言う。「突然として闖来し、烈火の焚焼するが如く、死去するが如く、拋棄せらるるが如し。」『象伝』に言う。「突如其来とは、其の容身する処なきを説く。」
離之重明有繼體之象,九四以陽剛逼近君位,此嫌疑之際,當深自退避,不使至於不容之地,則為善處。今下離既終,上離乃突然而進,勢猶焚灼不可禁遏,如此乃有取死之道,眾之所棄也。昔者堯崩,三年之喪畢,朝覲訟獄者不歸堯之子而歸舜,舜、禹皆然。蓋神器之重,惟不求者能得之,實有以服人心、厭人望也。
『離』卦の重明は君位を継承するの象を含有す。九四は陽剛の質を以て君位に逼近し、まさに人に猜嫌を招来し易き処境に処す。応当に深く自ら退避し、自らをして容身する処なきの地步に落到せしめざるべし。これがこそ自ら処るに善し。いま下離は已に走完し、上離は而も突然として進逼し来る。気勢は烈火の焚焼するが如く遏止すべからず。此の如くは便ち自ら死亡を取るの道にして、衆人に拋棄せらるる所なり。従前唐堯の去世し、三年の喪期満了の後に、朝覲に来ると官司を打つ人は堯の兒子に帰向せずして舜に帰向せり。舜は位を禹に伝えるも亦此の如し。見るに帝位の此の如き重大の名器は、ただ爭求せざる人のみこそ之を得る能くするなり。其の確実に人心をして悦服せしめ衆人の期望を満足せしむるを以てなり。
末世之君不早自定,至倉猝之際爭立而相屠滅者,其禍變可勝言哉!象曰突如其來如,無所容者,其陵犯如此,雖四海之廣將無所容,理勢然也。六五:出涕沱若,戚嗟若,吉。象曰:六五之吉,離王公也。聖人不畏多難,畏無難。蓋無難之世,上下恬嬉致亡國;多難之世,殷憂戒懼或能興邦。
末世の君主は早く継嗣を確定せざるに及ばず、以て倉促の際に衆人は爭立して相互に屠戮す。あの禍乱変故は尚お説き尽くし得んや。『象伝』に「突如其来如、容る所なし」と言う。其の此の如く欺凌冒犯すれば、たとえ四海の広き有るも亦容身する処なからん。これは事理と形勢の必然なり。六五の爻辞に言う。「涕涙は滂沱として流下し、憂傷嗟嘆す、吉祥。」『象伝』に言う。「六五の吉祥は、其の王公の位に附麗するを以て也。」聖人は多難を怕れず、ただ難なきを怕る。難なきの時世は上下安逸嬉遊して亡国を招致す。多難の時世は深く憂い戒懼してかえって国家をして興盛ならしめ得るを以てなり。
六五柔弱之君,介乎上下二強臣之間,為所脅制,雖履尊位,擁虛器而已,亡聊之極,故出涕沱若也。然以身處多難,能臨事而懼,憂戚傷嗟發於辭色,故能不蹈禍災,有中興之象。象言六五之吉,離王公者,履尊居正,麗於王公之位,雖遭屯否,莫或害之而履終吉也。
六五は柔弱の君主にして、上下両位の強臣の間に挟まれ、彼らに挟制せらる。身は尊位に居ると雖も、亦過ぎず一個の空名を擁するのみ。無聊無奈の極点に至る。だから「涕涙滂沱」と言う。然るにまさに多難の中に身を処するに因り、它能く事に臨みて戒懼を知り、憂傷嗟嘆の情は言辞神色の間に流露す。だから能く禍災に蹈入せずして、中興の象を具有す。『象伝』に「六五の吉、王公に離る也」と言う。其の尊位に居りて処する所は正を得、王公の位に附麗すを説く。艱難困頓に遭遇すると雖も、而も彼を傷害する能くするなし。因りて始終吉を得る。
上九:王用出征,有嘉折首,獲匪其醜,無咎。象曰:王用出征,以正邦也。六五之君雖麗乎中正之位而柔弱無斷,故上九之大臣文明剛健以行其權,銜命出征,徵無不服,君臣之道剛柔相濟,不廣行殺戮,但折伏其首惡而已。
上九の爻辞に言う。「君王は彼を遣わして出兵征伐せしめ、美善の戦功有り。ただ首悪を斬折して、俘獲するは又た其の党衆に非ず。過錯なし。」『象伝』に言う。「王の用い出征すとは、以て邦国を匡正するなり。」六五の此の君主は中正の位に附麗すると雖も、而も柔弱にして決断する能わず。だから上九の此の大臣に由りて文明剛健の徳を以て大権を執掌し、命を奉じて出征す。征討する所は降服せざるなし。君臣の道は剛柔互相に調剤し、大いに殺戮せず、ただ首悪を折服するのみ。
其功既美,人主之所嘉尚也。獲匪其醜,丑,眾也。弔民伐罪,但殱其渠魁,豈復深究黨與,橫及脅從無辜之人哉!用兵如此,尚何咎乎!象言王用出征,以正邦者,諸侯併吞陵暴,非人君有以節制之,則弱國小邦何自而立?非貪其土地,虜其人民也,凡以正邦國之侵爾。出征必稱王者,周公東征未甞不稱王命,蓋征伐當自天子出也。
其の功業は既に美善なれば、自然に君主の嘉許推崇する所なり。「其の醜に匪るを獲る」の「丑」は、衆多・党衆の意なり。百姓を撫慰し有罪を討伐すれば、ただ為首の元凶を殲滅するのみ。豈に尚お其の党羽を深究し、あの脅迫せられて跟従する無辜の人に株連せん。兵を用うること此の地步に至れば、尚お何の過錯かあらん。『象伝』に「王の用い出征す、以て邦を正す也」と言う。諸侯の間の互相呑併し強を恃みて暴を凌ぐは、若し天子の節制を加えざれば、弱国小邦は何を憑りて立国せん。出兵は並びに彼らの土地を貪図し彼らの人民を擄掠するに非ず、全て皆邦国の間の侵犯を匡正する為のみ。出兵征討するは必ず「王」と称す。周公の東征する時に嘗て王命を奉じて行わざるなし。征伐の事は応当に天子より発出するを以てなり。
巻六
咸卦(艮下兌上)
下經。艮下兊上,咸:亨,利貞,取女吉。無心感物曰咸。卦以艮、兊為象,言少男少女之相感,以見所感之深,蓋天理之自然而非人為也。聖人感人心以此,何徃而不通哉!夫男女相感常失於不正,不正則有不待媒妁之言者。能相感以正,則夫夫婦婦而家道正矣,故利貞然後取女吉也。利貞者,止乎禮義也。
以下は『周易』下経に入る。『咸』卦は艮は下に在り兌は上に在り、卦辞に「亨、貞に利し、女を取る吉」と言う。心中に機心を存せずして能く外物と相感通すれば、これを「咸」と呼ぶ。此の卦は艮を取りて少男・兌を取りて少女の象と為し、講ずる所は少男少女の彼此相感す。以て感応の深きを顕示す。此の種の相感は天理の自然より出づ。並びに人力の造作し出だせるに非ず。聖人の天下の人心を感動するは、憑る所はまさに此の種の無心の感なり。なお何の処にして行き通らざるあらん。男女の相感は、最も正ならざるに失し易し。一たび正ならざれば、便ち媒妁の言を待たずして私に相結合する事を出現す。若し能く正道を以て相感せば、則ち丈夫は丈夫の本分を尽くし妻子は妻子の本分を尽くし、一家の倫常は便ち端正なり。だから卦辞は先ず「貞に利し」と言い、然る後にこそ「女を取る吉」と言う。所谓「貞に利し」とは、男女の感を礼義の範囲の内に約束するを以てなり。
彖曰:咸,感也。柔上而剛下,二氣感應以相與,止而說,男下女,是以亨,利貞,取女吉也。天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平。觀其所感,而天地萬物之情可見矣。咸之為義,蓋言無所不感。男女交感而志通,本乎情。(咸至蹇)性非有心也,非有言也。《易》以艮、兊為象,故有男女之義。柔上而剛下,所以能感也。若柔巽隱伏而剛陽居上,二氣各行,豈能相感?故坤上而乾下為《泰》,坎上而離下為《既濟》,皆有交感之義。此感而彼應,蓋有感而不應者;惟二氣感應,然後相與而無間也。
『彖伝』に言う。「咸は即ち感なり。柔爻は上昇して剛爻は下に居り、陰陽二気は互相感応して彼此親附す。艮は止まり兌は悦び、男子は女子の下に屈身す。だから亨通・正を守るに利し・女を娶りて吉を得。天地は互相感応し、万物は便ち化育生長す。聖人は人心を感動し、天下は便ち和平に帰す。万物の感ずる所の理を觀察せば、天地万物の実情は便ち皆見るべし。」「咸」の意義は、一物とて感通の中に在らざるなしを説く。男女は交相感応して心志相通ず、根源は情性に在り。(原文は此処に「咸至蹇」の三字を夾入す。これは本巻の版心の標目にして、巻六は『咸』卦より『蹇』卦に至るまで講ずるを表明し、並びに正文に非ず。文意は応当に連読して「情性に本づく」と為すべし。)此の種の感通は用心より出でず、亦言語に假らず。『周易』は艮・兌を以て象を立つ。だから少男少女の意味を含有す。柔爻は上に在り剛爻は下に在り、まさに此に因りてこそ相感し得る。假使陰柔は卑伏して下に在り陽剛は高踞して上に在らば、二気は各々其の是を行えば、どうして能く互相感応せん。だから坤は上に在り乾は下に在してこそ『泰』卦と成り、坎は上に在り離は下に在してこそ『既済』卦と成る。皆陰陽交感の義を取る。此の一方は感ずる所有れば、あの一方は便ち回応有り。世上は固より感じて応応ぜざる有り。独り陰陽二気の感応のみ、こそ彼此親附して毫も阻隔なし。
止而說,男止而女說也。夫女子處乎幽閒之中,非有求焉則不應也;如士以道義自重,非幣聘先焉則不徃也。故男止乎下而女說乎上,然後通亨,又惡不由其道。利貞者,相感不可不出於正。親迎之禮,男常下女,所以為正。取女以此,則家道之吉可知矣。天地以氣相感而成化育之功,聖人以道感人而致和平之治。聖人極論咸之感物,其大如此。達觀之士閱造化之變,黙觀其所感,則天地萬物之情,舉一物足以盡之矣。聖人慾窺造化之妙,則自其至近且易見者觀之,故咸之辭以男女為象,豈非眾情之所同、近而易見者乎?
「止まりて説ぶ」とは、男方は礼を守りて止まり女方は欣悦して応ずるを説く。女子は身は閨門幽静の中に処し、求聘し来る人なければ便ち応許せず。士人が道義を以て自ら重んじ、礼幣の先行して相聘せざれば出仕するを肯ぜざるに正に如し。だから男方は下に在りて礼を守りて止まり、女方は上に在りて欣然として相許す。然る後にこそ亨通し得、同時に亦あの正道に循わざる結合を厭悪す。所谓「貞に利し」とは、彼此相感するは正より出でざる能わざるを説く。親迎の礼の中に於いて、男方は総じて女方の下に屈身す。まさに以て正を得んが為なり。此の種の礼数に依りて妻子を娶れば、一家の吉慶は便ち以て預知すべし。天地は陰陽二気の相感を憑りて万物を化育する功を成就し、聖人は道義の人心を感動するを憑りて太平の治を成就す。聖人は極力して『咸』卦の物に感ずる理を論説す。其の規模の宏大なる此の如し。識見通達の士は造化の変遷を遍觀し、黙々として万物の感ずる処を体察せば、則ち天地万物の実情は、一物を随挙するも以て概括して遺さざるに足る。聖人は造化の奥妙を窺探せんと欲し、便ち最も切近・最も見易き処より入手す。だから『咸』卦の辞は男女を取りて象と為す。これは豈に人人の共有する・切近にして見易き情感に非らんや。
象曰:山上有澤,咸;君子以虛受人。《易》言山澤通氣,山之與澤,氣自相感。澤本居下,今反在山上,尤見相感之深。蓋山氣上騰,澤性下潤;上騰者受澤之潤,蒸而為雲雨;下潤者資山之氣,畜而為淵泉。君子體此象,故能以虛受人,如山藪之廣大,無所不容,無所不納也。我能以虛受人,人之資於我者必眾矣,故智者獻其謀,勇者效其力,翕受敷施,如山澤之相資也。
『大象伝』に言う。「山上に沢有り、これ『咸』卦の象なり。君子は之に法り取り、虚懐を以て衆人を接納す。」『周易・説卦』は「山沢は気を通ず」と講ず。山と沢の気は本来互相感応す。沢は本来低下の地に処すべきに、いまかえって山上に在り。更に相感の深きを顕出す。山の中の気は上に向かいて昇騰し、沢水の性は下に向かいて浸潤す。上騰の気は沢水の滋潤を承受して、蒸騰して雲雨と化す。下潤の水は山の中の気を憑借して、蓄積して深泉と為る。君子は此の一卦象を体察す。だから能く虚心を以て他人を接納し、山林藪沢のあの如き広大にして、容るるなく納るるなし。我は能く虚心にて人を待てば、依托し来る人は必ず衆多にして、此に於いて智慧有る人は謀略を献上し、勇力有る人は気力を貢献す。広く収め博く施すは、山と沢の互相憑借するに如し。
初六:咸其拇。象曰:咸其拇,志在外也。物之相感,以精誠為主,不精不誠,不能動人。咸之為卦,本以無心感物,而六爻所感,各以所遇之時為深淺。一人之身,拇最居下體,咸其拇,所感至末也。象言志在外者,艮下為內,兊上為外,初應在四,故心之所繫者専於四而已。
初六の爻辞に「其の拇に感ず」と言い、『小象伝』に「拇に感ずとは、心志は外面に向かう」と言う。万物の互相感応するは、精誠を以て根本と為し、精せず誠ならざれば便ち別人を打動する能わず。『咸』卦は本来無心を以て外物に感通するを講ずれど、但し六爻の感ずる深浅は、各々其の処する時位に随いて同じからず。一人の身体に就いて言えば、大拇指は最も下部に処す。「其の拇に咸す」とは、感応する所はただ最も末梢の部位なるを説く。『小象』に「志は外に在り」と言う。下卦の艮は内・上卦の兌は外と為るを以て、初六と九四は相応ず。だから其の心の牽掛する所はただ九四の一爻に専注するのみ。
六二:咸其腓,凶;居吉。象曰:雖凶居吉,順不害也。腓雖拇上,猶在下體之中,體既躁動,豈能趨安貞之吉哉?咸其腓,本蹈凶禍,而能退以靜處,則可轉凶而獲吉也。二得中正之位,故能變凶為吉,餘爻欲免悔吝難矣。象言雖凶居吉、順不害也,二正應在五,五履尊位,臣子之道順以相感,於義無害也;順而害於義,則妾婦之道耳。
六二の爻辞に「其の腓に感ず、凶険有り。安居して動かざれば則ち吉」と言い、『小象伝』に「凶なれど而も安居して吉を得とは、柔順にして害に至らざるを以て也」と言う。小腿は大拇指の上に在ると雖も、尚お下体の中に処す。此の部位は一たび動けば便ち浮躁す。どうして正道を安守するの吉慶に趨向し得ん。「其の腓に咸す」は本来凶禍に踏向するなれど、但し若し能く退守して安静に自ら処れば、便ち以て凶を転じて吉と為すを得る。六二は中に居りて正を得。だから能く凶を変じて吉と為す。其の余の各爻は悔恨と羞吝を免除せんと欲せば便ち難し。『小象』に「凶と雖も居て吉、順にして害ならざる也」と言う。六二と九五は正相応し、九五は身は尊位に居り、臣子の道は柔順を以て君上に感通するに在り。道義の上に於いては並びに妨害なし。若し一味に順従して道義を妨害せば、則ちただ妾婦の行従のみ。
九三:咸其股,執其隨,徃吝。象曰:咸其股,亦不處也;志在隨人,所執下也。九三以剛陽之才,不能特立獨行,而繫應在上,雖所進愈上,而所執每下,隨人而已。徃則為所鄙賤,是吝道也。三雖處下卦之上,而未離下體,當斯時也,能安貧守道,退而窮處,非其招不徃,徃無不利矣,故象曰:咸其股,亦不處也;志在隨人,所執下也。
九三の爻辞に「其の股に感ず、抱定する所はただ人に随いて動くのみ、前往すれば羞吝有らん」と言い、『小象伝』に「其の股に感ずとは、亦安処する能わざる也。心志は人に随るに在り、守持する所は太も卑下也」と言う。九三は本来剛陽の才を有すれど、而も独立自存する能わず、かえって上六を牽系して之と相応ず。攀附する所の地位は愈々高きと雖も、守持する所の品格は而も愈々低く、過ぎず人に随いて俯仰するのみ。此の如く走出せば必ず人に軽賤せられ、まさに羞吝を招致する路数なり。九三は下卦の上に在ると雖も、而も未だ下体を脱離せず。此の種の時位に処して、若し能く清貧に安んじ正道を守住し、窮困の地に退居して、礼に合する徵召に非ざれば便ち出仕せざれば、則ち何処に往くも不利ならざるなし。だから『小象』は言う。其の股に感ずとは、亦安処する能わざる也。心志は人に随るに在り、守持する所は太も卑下也。
九四:貞吉,悔亡,憧憧徃來,朋從爾思。象曰:貞吉悔亡,未感害也;憧憧徃來,未光大也。九四兊體居下,為說之始,女說而有應,非貞則入於邪矣,故貞然後獲吉而悔亡。悔至於亡,非獨無悔而已。餘爻皆近取諸身,故以拇、腓、股、脢、輔、頰、舌見所感之深淺,四獨不言所感者,四居股之上、拇之下,則所感者心也。心居中虛,以貞感物,則無所不通,故九四一爻專以貞為主。
九四の爻辞に「正を守れば則ち吉、悔恨は消失す。心神定まらず往来奔走すれば、朋類はただ爾の心思に跟従す」と言い、『小象伝』に「正を守りて吉を得悔恨消失すとは、未だ私感に害せられざるを以て也。心神定まらず往来すとは、心量の未だ光明広大ならざるを以て也」と言う。九四は兌卦の体に属して上卦の下に居る。欣悦の開端なり。女子は欣悦して而もまた応有り。若し正を守らざれば便ち邪僻に陥入せん。だから必ず正を守りて後にこそ吉を獲・悔恨の消失せん。悔恨は消失の地步に至れば、便ち本来悔なしに止まるに非ず。其の余の各爻は皆就近く人身に於いて象を取る。だから大拇指・小腿・大腿・背脊肉・牙牀・面頰・舌頭を用いて感応の深浅を顕示す。独り九四のみ感ずる所の部位を説かず。九四は大腿の上・足趾の遠く、人身の部位に按ずれば正に心の所在に当たる。だから其の感ずる所は乃ち心なり。心は胸中に居りて虚なり。貞正を以て外物に感通せば、便ち通達せざるなし。だから九四の此の一爻は専ら「貞」を以て主と為す。
大哉貞乎!天地之道,貞觀者也;日月之道,貞明者也;天下之動,貞夫一者也。咸之感物以貞,則無適莫偏繫之私,精神心術,黙而運之,神而化之,豈有心哉?孔子釋此爻,特盡其精微,以見所感之大。日月寒暑之徃來以成歲也,尺蠖之屈以求伸也,龍蛇之蟄以存身也。屈而未信者,如蠖之初行,必屈以求在後之伸也;龍蛇遇冬,必蟄以待春夏之奮也。
「貞」の意義は真に宏大なり。『繋辞伝』に言う。天地の道は貞正を憑りて恒久に顕示し、日月の道は貞正を憑りて恒久に照明し、天下の一切の運動は皆貞正を憑りて統一に帰す。『咸』卦は貞正を以て万物に感通せば、便ち偏愛偏憎・私相牽系の成心なし。精神与心思は黙々として運行し、神妙に万物を化育す。豈に何の用心を存せん。孔子は九四の此の一爻を解釈し、特意に其の中の精微の処を説き透して、以て感応の宏大を顕示す。日月は往來し寒暑は交替し、此に於いて一年を成就す。尺蠖は先ず身体を彎曲す、以て伸展を求得せんが為なり。龍蛇は冬に蟄伏す、以て生機を保存せんが為なり。屈曲して未だ伸展せざるは、尺蠖の起步するに必先ず身を屈して、以て日后の伸直を求むるに如し。龍蛇は一たび冬に到れば必ず蟄蔵し、以て春夏の時の奮起を等待す。
聖人觀萬化之源,精義入神以致用,則退藏於宻者,非獨善其身也;利用安身以崇徳,則出而應物者,非危其身也。咸之感物,至此則盡矣。又曰窮神知化,何也?蓋窮神則知神之所為矣,知化則造物之權在我矣,豈非徳之盛耶?故以此終之也。象曰:貞吉悔亡,未感害也;憧憧徃來,未光大也。蓋能貞則吉而悔亡,未能有所感則悔吝隨之,故曰貞吉悔亡,未感害也。咸之感物,何容心哉!今乃憧憧徃來於心者,特其平昔之儔類耳,非能出乎思慮之表,則所感者狹矣,故曰憧憧徃來,未光大也。若文王之不識不知、順帝之則,豈有此疆爾界之殊哉?
聖人は万物変化の根源を觀察し、義理を精研して神妙の境に深入して以て実用を求むれば、則ち退隠して身を幽密の処に蔵する人は、並びにただ独り其の身を善くするに非ず。時に因りて致用し身を安頓して以て徳業を増崇するを善とすれば、則ち出仕して世に応ずる人は、亦自らを危地に置くに非ず。『咸』卦の物に感ずる道理は、講じて此処に至れば便ち窮尽す。『繋辞伝』は又た「神を窮め化を知る」と言う。これは何の縁故か。神妙を窮究すれば、便ち神明の作為を明白にす。変化を洞知すれば、造化の権柄は便ち自らの手裡に掌握せり。これは豈に徳性の極盛に非らんや。だから此の句を用いて結びと為す。『小象伝』に「正を守りて吉を得悔恨消失すとは、未だ私感に害せられざる也。心神定まらず往来すとは、心量の未だ光明広大ならざる也」と言う。能く正を守れば便ち吉にして悔なし。若し能く真に感通有らざれば、悔恨と羞吝は便ち之に跟って来る。だから正を守りて吉を得悔恨消失すとは、未だ私感に害せられざる也と言う。『咸』卦は物に感ずるを講ず。豈に私心を容れん。いま心裡の念々として忘れず往来牽掛するは、過ぎず平日の相交するあの一伙の人のみ。能く個人の思慮の外に超出せざれば、感ずる所の範囲は便ち狭小なり。だから心神定まらず往来す、心量の未だ光明広大ならざる也と言う。文王のあの如き「識らず知らず、帝の則に順う」、私智を憑らずして自然に天理に合せば、豈に尚お「これは我が地界・あれは爾が地界」の此の種の分別有らん。
九五:咸其脢,無悔。象曰:咸其脢,志末也。五履尊位,當為咸主,可以感人心而致和平之功;今反一趨於靜黙,無所作為,故得無悔而已。先儒以脢為脊肉,《子夏易》曰在脊曰脢,皆居無用之地,雖無競躁之累,而志應在二,所感者末矣,故象曰:咸其脢,志末也。
九五の爻辞に「其の脢に感ず、悔恨なし」と言い、『小象伝』に「其の脢に感ずとは、心志はただ末梢に在る」と言う。九五は身は尊位に居り、本来応当に『咸』卦の天下に感通する主体を做すべし。以て人心を感動して太平の功を成就すべしに、いま而も一味に沉静緘黙に帰し、作為する所なし。だから亦過ぎず悔恨なしのみ。前代の儒者は「脢」は背脊の上の肉と以為し、『子夏易伝』は脊背の上に在るを「脢」と呼ぶと言う。皆施用する所なき部位に処す。争競浮躁の牽累なきと雖も、但し心志の応ずる所はただ六二に在り、感ずる所は仍お末梢なり。だから『小象』は言う。其の脢に感ずとは、心志はただ末梢に在る。
上六:咸其輔、頰、舌。象曰:咸其輔、頰、舌,滕口說也。上六處說之終,不能以誠意感格天下,而區區口舌之間,曷足以感人心乎?輔也,類也,舌也,皆語言之所自出。夫以身教者從,以言教者訟;其身正,不令而行;其身不正,雖令不從。上六感人心以此,眾所鄙賤,特以處尊位,能以柔說待物,故不著凶咎之應,然小人之態亦可見矣。聖人之所棄,凶咎不足以言之。象言滕口說者,騰播其言語以媚說上下,冀以感人,聖人所深惡而鄙賤之矣。
上六の爻辞に「感ずるはただ牙牀・面頰と舌頭に在るのみ」と言い、『小象伝』に「感ずるはただ牙牀・面頰と舌頭に在るとは、過ぎず口舌の説を逞しゅうするのみ」と言う。上六は兌悦の終極に処し、能く誠意を以て天下に感通せず、ただ区区たる口舌の間に於いて力を用う。豈に人心を打動するに足らん。「輔」は牙牀、「類」は応当に「頰」と為し、面頰を指す。舌頭を加えて、皆言語の発出する所なり。自らの行為を用いて教化するは、別人は自然に跟従す。ただ言辞を用いて教化するは、別人はかえって彼と争弁す。自身端正なれば、命令を下さずとも事は亦能く推行す。自身正からざれば、たとえ下令するも別人は服従せず。上六は此の種の方式を用いて以て人心を感動せんと欲す。本来衆人の軽賤する所なれど、ただ其の身は尊位に居り、又能く柔和悦人の態度を以て物に接するを以て、だから爻辞は凶咎の断語を繋がず。然るに小人の情態は已に顕露し尽くせり。これは已に聖人の摒棄せんと欲���る人にして、凶咎の二字すら彼の身上に用うるに値せず。『小象』に「口を滕りて説ぶ」と言う。即ち言語を四処に伝揚して、以て上下に諂媚討好し、此を指望して以て別人を打動せんと欲す。これはまさに聖人の深く悪み鄙視する所なり。
恒卦(巽下震上)
巽下震上,恆:亨,無咎,利貞,利有攸徃。常,固君子之所貴也。常而不通,則執中而暗於權,遭變而失其機,合散屈伸與體相乖,故恆亨然後無咎,無咎然後利貞。既通而正,則涉險犯難而無不利也。彖曰:恆,久也。剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔皆應,恆。恆亨無咎利貞,久於其道也。天地之道,恆久而不已也。利有攸徃,終則有始也。
『恒』卦は巽は下に在り震は上に在り、卦辞に「亨通、過錯なし、正を守るに利し、往く所有るに利し」と言う。恒常は本来君子の看重する所なり。但し若しただ恒常を知りて能く通変せざれば、便ち中道を死守して権変に昧く、変故に遇えば便ち時機を錯失し、聚散屈伸は皆実際の情勢と相違背す。だから必ず先ず亨通して然る後にこそ過錯なく、過錯なき然る後にこそ正を守るに利しと談ずべし。既に能く通達して又能く正を守れば、則ち険阻を渉歴し艱難を冒犯するも往きて利ならざるなし。『彖伝』に言う。「恒は、即ち長久なり。剛爻は上に居り柔爻は下に居り、雷と風は互相に助成し、巽順して而る後に奮動し、剛柔は各々其の応を得。これ即ち恒なり。『恒亨咎なし貞に利し』とは、能く長久に其の正道を行うを説く。天地の運行する道は、即ち恒久にして停息せざるなり。『往く攸有るに利し』とは、一段の終結するは又た新たなる開始有るを説く。」
天尊而地卑,陽尊而陰卑,君尊而臣卑,夫尊而婦卑,此天下之常理而不可易。若尊者守其常尊,卑者守其常卑,天地不交,上下情隔,非常久之道也,故剛上而柔下者貞也。雷以動之,風以散之,雷風相與,巽順而震動,剛柔相濟而皆應,雷風相與而不相悖如此,異乎執一而不知變者,是乃所謂貞常而能久者也。
天は上に在り地は下に在り、陽は尊と為し陰は卑と為し、君は尊と為し臣は卑と為し、夫は尊と為し婦は卑と為す。これは天下の更易すべからざる常理なり。但し若し上に在る者が一味に自らの尊を守り下に在る者が一味に自らの卑を守らば、天地は相交通せず上下の情意は隔絶す。則ち以て長久なるべき道に非ず。だから剛爻は上に在り柔爻は下に在りて而も尚お相応ずる能くするを、こそ「貞」と呼ぶ。雷は来りて万物を震動し、風は来りて万物を吹散す。雷と風は互相に助成し、巽順は随後に奮動し、剛柔は互相に補済して処処相応ず。雷風は相助して相違背せざること此の地步に至る。まさにあの一端を死守し変通を知らざるの做法と相同じからず。これがこそ所谓既に貞正にして又能く長久なるの道理なり。
彖辭以此數者釋一恆字,固足以盡之。恆固可以致亨,亨則無復過咎矣;亨而不已,則或失其所守,故又欲其趨於正。亨通而能不失其正,其道可久。固守其常而不知變,與夫通物而不已則入於邪,皆非可久之道也。天地所以能長且久者,其位不易,變化無窮也。使天地固守其卑髙之位,而無相感相應之道,則天地之道或幾乎息矣。
『彖伝』は此の幾層の意思を用いて一個の「恒」の字を解釈す。本来已に十分に周備と説くべし。恒常は固より亨通を帯来し得、亨通せば便ち再び過錯ならず。然るに一味に亨通して而も收束を加えざれば、又た自らの分寸を失守し得。だから尚お它をして正に帰せしむるを要す。既に能く亨通して而も其の正を失わざれば、此の路はこそ長久を得る。ただ常規を死守して変通を知らざると、ただ外物に通達するを求めて漫々として節制なくして以て邪僻に流入するは、此の両者は皆以て長久なるべき道に非ず。天地の能く長く且つ久しき所以は、其の位置の変わらざるを以て、而して変化は而も窮尽すれば、則ち天地の道は大概亦将に停息せんと欲す。
四時之變,終而復始,息息不停,故生殺代謝若環之無端而不可窮。聖人惡夫執滯不通若膠柱而調瑟者,故於恆卦特曰利有攸徃,言利有所徃,則可以濟物而其道無方,乃不失其所謂常也,故釋之曰:利有攸徃,終則有始也。
四季の更替は、終結の後に又た重ねて開始し、生生して停まらず。だから生長と粛殺の交替は円環に如く起点終点なくして窮尽すべからず。聖人はあの拘泥不通・琴柱を粘死して尚お弦を調せんと欲するが如き做法を厭悪す。だから『恒』卦の中に於いて特意に「往く攸有るに利し」と説く。往く所有るに利しと言うは、即ち能く万物を済助して而も其の道は一格に拘らざるを要す。これがこそ所谓「常」を失わざるなり。だから『彖伝』は解釈して曰く。往く攸有るに利しとは、終結の処がまさに新たなる開端なるを以てなり。
日月得天而能久照,四時變化而能久成,聖人久於其道而天下化成。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣。恆,久也。天以運轉不窮為恆,故日月麗乎天而能久照;地以安靜不變為恆,故百穀草木麗乎土而能久成。天假日月以為晝夜,故日月有徃來,天之體穹然乎其上者未嘗變也;地假四時以成寒暑,故四時有代謝,而地之形隤然乎其下者未嘗變也。觀乎天地,則恆之義可見矣。
『彖伝』は続けて言う。「日月は天道に依循して能く長久に照耀し、四時は断えず変化して能く長久に万物を成就し、聖人は長久に其の道を推行して天下の教化は大成す。万物の恒守する所の道理を觀察せば、天地万物の実情は便ち皆見るべし。」恒は即ち長久なり。天は運転不息を以て恒常と為す。だから日月は天に附麗して能く長久に照耀す。地は安静不遷を以て恒常と為す。だから百穀草木は土に附麗して能く長久に生成す。天は日月を借りて以て昼夜を分かつ。だから日月に往来出没有るも、而して穹隆として上に覆う天体の本身は従来未だ改変せず。地は四時を借りて以て寒暑を成す。だから四季に代謝更替有るも、而して厚重として下に承載する地形の本身は従来未だ改変せず。天地を觀察すれば、「恒」の意義は便ち顕現す。
聖人黙觀天地造化之變,如日月四時徃來變化而得貞恆之理,故能達乎天地萬物之情,位乎兩間而成三才之功也。周室之興本乎后稷,十五王而文基之,十六王而武居之,其積徳累仁可謂久矣,故成周之治獨冠百王,功徳之被海隅者廣,仁恩之浹生靈者深,故曰聖人久於其道而天下化成也。
聖人は黙々として天地造化の変遷を觀察し、日月四時の往来変化の中より貞正恒久の道理を体会す。だから能く天地万物の実情に通達し、身を天地の間に立てて天地と並列して三才を為すの功業を成就す。周朝の興起の根本は后稷に在り、第十五代に伝えて文王に由りて基業を奠定し、第十六代に武王に由りて天下を据有す。徳を積み仁を累ねるは以て久しきに足ると説くべし。だから成周の治世は独り歴代の帝王に冠り、功徳は海辺の荒遠の地に覆被するが如く広く、仁恩は百姓の身上に浸潤するが如く深し。だから聖人は長久に其の道を推行して天下の教化は大成すと言う。
象曰:雷風,恆;君子以立不易方。雷風所以為恆者,以異體而相成也。大象統言二卦恆久之道,故以雷風為喻。蓋天之有雷風,猶朝廷之號令,其震動萬物必以其時。君子體夫雷風相與有恆之理,故能特立獨行而不為窮達禍福所移。古人有行之者:伯夷、叔齊至餓死不食周粟,雖斧在前而不顧,此能恆其徳行而立不易方者。若夫達權適變,則有六爻之義存焉,故初六以浚恆而凶,六五以恆其徳貞,婦人吉而夫子凶,上六又以振恆而凶也。
『大象伝』に言う。「雷と風は相薄る、これ『恒』卦の象なり。君子は之に法り取り、卓然として自立して自らの方向を改変せず。」雷と風の恒久の象と成る所以は、二者は体性を同じくせずして而も能く相輔相成するを以てなり。『大象』は上下両卦を総括して恒久の道を講ず。だから雷風を用いて比喻を作す。天に雷風有るは、朝廷に号令有るに比すべし。其の万物を震動するは必ず時令に合するを要す。君子は雷風の相助して常有るの道理を体察す。だから能く卓然として自立し其の志を独行して、困厄通達・災禍福気に動揺せらるなし。古人の中に確かに此の一点を做到せる有り。伯夷・叔斉は寧ろ餓死しても周朝の糧食を喫せず、たとえ刀斧を面前に擺うも回頭せず。これが即ち能く徳行を恒久にし立身して方向を改めざる人なり。権を通じ変に達するの一面に至っては、則ち六爻の爻義の裡に寄寓す。だから初六は「恒を浚う」に因りて凶、六五は「其の徳貞を恒にす」を固守して、婦人に於いては吉にして男子に於いては凶、上六は又た「恒を振る」に因りて凶なり。
初六:浚恆,貞凶,無攸利。象曰:浚恆之凶,始求深也。人之相與,皆自淺而馴致於深,故可久也。君臣之分,朋友之義,夫婦之情,莫不皆然。六以陰柔居恆之始,雖與四為應,遽求深交,故雖貞而猶凶也。以此為恆,何所利哉?浚者,始而深之也。恆,久也,久於其道,日以浸深,故恆久而不變也。
初六の爻辞に「一開頭より深く恒久を求む、正を守るも凶、何の好処もなし」と言い、『小象伝』に「恒を浚うの凶の所以は、一開頭より之を求むること過ぎて深きを以て也」と言う。人と人の相交するは、皆浅きより逐漸に深みを加え、だからこそ長久を得る。君臣の名分・朋友の道義・夫婦の情意は、此の如からざるなし。初六は陰柔を以て『恒』卦の開端に居り、九四と相応ずと雖も、而も急ぎて深交を要求せんと欲す。だからたとえ正を守るも仍お凶険なり。此の種の方式を用いて恒久を求めば、能く何の好処かあらん。「浚」とは、即ち一開頭より之を深く挖るなり。「恒」は長久、長久に其の正道を行い、交情は一天天漸々に加深す。だから能く恒久にして変わらず。
六處巽初,巽性深入,不俟情義之合,凶其宜矣。以此為恆,何徃而利哉?古人應上之求,必待三聘而後徃、三顧而後見者,慎其始也。始而求深,未有不蹈凶禍者。彭寵初見光武,自負其功,意望甚髙,謂當迎合握手交歡並坐,而帝接之不能滿意,至反叛以取滅亡,故象傳曰:浚恆之凶,始求深也。
初六は巽卦の最下位に処し、巽の性情は深入にして下に向かう。尚お情義の自然契合を待たずして一味に深入すれば、凶険は理の応然なり。此の種の態度を用いて恒久を求めば、何処に走るに好処有らん。古人が君上の徵召に応答するは、必ず三次の礼聘に至ってこそ前往し三次の登門に至ってこそ相見すを要す。即ち開端に於いて慎重するなり。一開頭より之を求むること過ぎて深きは、凶禍に踏み入らざるなし。彭寵は初めて漢光武帝を見るに、功有るを自恃し、期望は極めて高く、以て光武は応当に迎え上がりて握手して歓を言い並坐して相待すべしと為す。結果光武の接待は彼をして満意せしめず、彼は竟に反叛して滅亡を招来するに至れり。だから『小象伝』は言う。恒を浚うの凶の所以は、一開頭より之を求むること過ぎて深きを以てなり。
九二:悔亡。象曰:九二悔亡,能久中也。九二以陽居陰,固當有悔,然二處巽之中,順而得中,則悔可亡也。夫以陽剛之才,正應乎六五柔弱之主,能久於中道,得人臣之正而無犯上之嫌,何悔之有哉?
九二の爻辞に「悔恨消失す」と言い、『小象伝』に「九二の悔恨消失すとは、能く長久に中道を守住するを以て也」と言う。九二は陽爻を以て陰位に居る。本来応当に悔恨有るべし。但し它は巽卦の中位に処し、柔順にして而もまた中を得。悔恨は便ち以て消失し得る。陽剛の才を以て、六五の此の柔弱の君主と正相応し、能く長久に中道を守住すれば、既に人臣の正道を尽くして而も君上を冒犯するの嫌疑なし。なお何の悔恨すべきかあらん。
九三:不恆其徳,或承之羞,貞吝。象曰:不恆其徳,無所容也。巽以柔順為體,巽入為用,而九三以剛而處陽位,正應在上而下牽於初,進退無常,無常而剛柔失位,可謂不恆其徳矣。故有以隱逸自名而志在要祿,以廉儉飭身而終於貪競者,謂可以欺愚惑眾,而世固有不可欺者,若察知其奸,適足為辱,故曰或承之羞。以此為恆,雖正而吝,況以不正處之乎?象曰不恆其徳無所容者,不恆之人,善人固惡其矯妄,不善之人亦疑其反覆,眾所不與,殆將無所容於天地之間也。
九三の爻辞に「能く自らの徳行を恒久ならしめざれば、便ち羞辱を蒙受する可し、たとえ正を守るも羞吝有り」と言い、『小象伝』に「能く徳行を恒久ならしめざれば、天下に容身する処なし」と言う。巽卦は柔順を以て体と為し、深入を以て用と為す。而して九三は陽剛の才を以て陽位に居り、上に上六と正相応し、下に又た初六に牽扯せらる。進退定まらず。進退定まらずして剛柔は又た各々其の位を失う。真に以て「其の徳を恒にせず」と呼ぶべし。此に於いて世上は便ち隠逸を以て名声を博取して而も心裡は俸禄を謀取せんと盤算する人、廉潔倹朴を靠みて門面を装点して而も到頭に貪競已まざる人有り。彼らは自ら以て愚人を欺騙し衆人を迷惑し得と為すも、然るに世上は総じて騙し得ざる明眼人有り。一旦彼らの奸詐を看穿せば、恰好として自ら羞辱を取ると成る。だから「或いは之に羞を承けん」と言う。此の種の反復無常の態度を用いて常道と為せば、たとえ本心は尚お端正と算うるも羞吝を免れず。況んや本来心術正からざる人をや。『小象』に「其の徳を恒にせず、容る所なし」と言う。反復無常の人は、正派の人は其の矯飾虚妄を厭悪し、不正派の人も亦其の翻覆無信を懐疑し、衆人は皆彼と事を共にするを肯ぜず。几ほど天地の間に於いて容身する処なからんと欲すを以てなり。
九四:田無禽。象曰:久非其位,安得禽也。人臣居近君之位,必有以効其職、勝其任,故雖久而無竊位之譏也。九四以陽居陰,雖才足有為,而處非其地,欲以久安其位為恆,豈能有所獲乎?夫禽獸之害稼穡則當獵取而除去之,今既不能為國攘卻冦患,乃偃然據非其位,無功受祿,如田獵而無獲也,故象曰久非其位,安得禽也。既據非其位,雖久而徒勞,禽何可得也。
九四の爻辞に「打猟して而も禽獣を打ち得ず」と言い、『小象伝』に「長久に占まるべからざる位置を占めて、どうして禽獣を打ち得ん」と言う。臣子を做すは身は君主に接近する高位に処し、必ず能く職守を尽くし托付する所を勝任するを要す。此の如くはたとえ久しく其の位に居るも「官位を窃据す」の譏評を招来せず。九四は陽爻を以て陰位に居る。以て作為有るに足る才干有ると雖も、所処の位置は而も対ならず。長久に位を保住するを靠みて以て「恒」と為さんと欲すれば、豈に何の収穫有らん。禽獣は庄稼を糟蹋すれば便ち猟取して除掉すべきに、いま既に国家の為に外患を駆除する能わず、かえって安然として自らに属せざる位置を占居し、功なくして俸禄を受く。半日打猟して一獲なきが如し。だから『小象』は言う。長久に占まるべからざる位置を占めて、どうして禽獣を打ち得ん。既に占むるは占むべき位置に非ざれば、時間は再び久しきも亦ただ徒労なり。禽獣は豈に得るを得ん。
六五:恆其徳,貞,婦人吉,夫子凶。象曰:婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。聖人所謂恆者,以能變為常;若固守而不知變,但趨於靜貞而已,豈能通其變、極其數以成天下之務哉?婦人以貞順為恆,故孟子曰無違夫子、以順為正者妾婦之道也,故婦人則吉也。丈夫則當從權制變,操縱在我,若委曲循物而為婦人之行,則失其剛陽之才,反蹈於凶禍矣。
六五の爻辞に「自らの徳行を恒久ならしめ、正を守る。婦人に於いては吉、男子に於いては而も凶」と言い、『小象伝』に「婦人の正を守りて吉を得とは、一より終わるを以て也。男子は義理を按じて事情を裁断すべし。婦人に跟って走れば便ち凶なり」と言う。聖人の説く所の「恒」は、能く変に応ずるを以て常道と為すなり。若しただ固守を知りて変通を懂らざれば、一味に安静守成に趨向して、どうして変化を通暁し事理を窮尽して天下の事業を成就せん。婦人は貞静柔順を以て常道と為す。だから『孟子』は「丈夫に違逆する勿れ」と言い、又た一味の順従を以て正道と為すは、あれは妾婦の道なりと言う。だから婦人に於いては吉なり。男子は而も応当に権を通じ変に達し、主動権は自らの手裡に掌握すべし。若し意を曲げて外物に迎合して、婦人のあの如き行従を做出せば、便ち陽剛の才を喪失し、かえって凶禍の裡に踏み入らん。
象曰:婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。六五以柔弱而履中位,其象以婦人則吉,夫子則凶。蓋婦人以幽閒柔靜為徳,守志厲操,不踐二庭,故貞而獲吉。丈夫制義,有權有變,適於義而已,義苟不可,雖君父之命有不得而從者;若反從婦人之行則凶矣。抑婦人當以從夫為正,夫而從婦,則牝雞司晨,家道亂矣,唐之髙宗是已。
『小象伝』に言う。「婦人の正を守りて吉を得とは、一より終わる也。男子は義理を按じて事情を裁断し、婦人に跟って走れば便ち凶。」六五は柔弱の質を以て上卦の中位に居る。象に就いて言えば、婦人に於いては吉、男子に於いては凶なり。婦人は幽静柔和を以て徳と為し、志節を守定し操守を砥礪して、改嫁して二門にせず。だから正を守りて吉を獲得す。男子は義理を按じて事情を裁断し、既に権衡を要して而もまた変通を要し、一切は義に合するを以て准と為す。若し道義の上に於いて許可せざれば、たとえ君父の命令なるも亦聴従し得ざる時有り。假如かえって婦人のあの一套を学ばば、便ち凶なり。更に言えば、婦人は応当に丈夫に順従するを以て正と為す。丈夫はかえって婦人に順従すれば、則ち雌鶏の鳴きて暁を報ずると成り、一家の規矩は全て乱る。唐高宗は即ち眼前の例子なり。
上六:振恆,凶。象曰:振恆在上,大無功也。震,動也。上六處震之終,理宜靜復,而反振動之,以振為恆,其動無節,失時而凶矣。象曰振恆在上,大無功也。夫處恆之極,當震之終,不能安靜以復其恆,尚欲有所作為以振動天下,其誰肯從之?故大無功也。
上六の爻辞に「一味に振動して恒久を求む、凶」と言い、『小象伝』に「振動を以て恒久と為して而も高位に居れば、終に毫も功效なし」と言う。震の意思は動なり。上六は震卦の最上に処し、理に按れば応当に安静して常態に回復すべきに、它は而もかえって揺撼已まず、躁動を以て恒常と為し、行動に節制なく、時宜を失えば便ち凶険を招致す。『小象』に「恒を振ること上に在り、大いに功なし」と言う。身は恒久の道の尽頭に処し、又た震動の終に当たり、能く安静に常態に回復せずして、尚お大いに挙動して天下を揺撼せんと欲せば、誰か彼に跟従するを肯ぜん。だから毫も功效なしと言う。
予竊考恆之一卦,聖人於六爻反復詳論,以深明其義,蓋慮後世昧乎真恆之禮,而以妄為恆者多矣。自初至上,多凶而少吉,雖九二一爻處乎中正之位,僅能免乎凶禍;六爻雖居尊位,恆其徳貞,獨婦人吉而夫子猶不免乎凶也。周公作《立政》,以用常人為先;孔子曰:人而無恆,不可作巫醫。大哉恆乎!初之浚恆,上之振恆,九四之久非其位為恆,是有心於為恆者,皆不免凶悔吝也,況乎不恆其徳若九三者乎?嗚呼!非通其變、窮於理者,曷足以語聖人之真恆哉!
我は私に『恒』の此の一卦を考究す。聖人は六爻の間に於いて反復詳論す。以て「恒」の意義を講き透さんが為なり。大概後世の人が真の恒久の道理を明白にせずして、而も妄作を以て恒常と為すの多きを擔憂す。初爻より上爻に至るまで、凶は多く吉は少し。たとえ九二の此の一爻の中正の位に居るも、亦過ぎず勉强に凶禍を避開するのみ。六五は尊位に居りて能く「其の徳貞を恒にす」と雖も、而もただ婦人に於いて吉にして、男子に於いては仍お凶を免れず。周公は『尚書・立政』を作り、常德有る人を任用するを第一位に置く。孔子は「一人に恒心なければ、巫医すら做さる能わず」と言う。「恒」の意義は真に宏大なり。初六の深く恒久を求む、上六の揺撼して恒を求む、九四の長久に占まるべからざる位置を占むるを以て恒久と為す。およそ心を存して「恒」の様子を做出せんと欲するは、皆凶険・悔恨と羞吝を免れず。況んや九三の如き徳行の反復無常の人をや。噫。能く変化を通暁し事理を窮究する人に非ざれば、豈に聖人の説く所の真の恒久を談ずるに配せん。
遯卦(艮下乾上)
艮下乾上,遯:亨,小利貞。孔子曰:幾者動之微,吉之先見者也;君子見幾而作,不俟終日。遯之時,雖四陽處上,而二陰在內為主,此小人浸長之征也。君子覩其幾微,察其徵兆,則釋位而去,乃可免禍。故隠居求志,志得而心亨,萬鍾之祿有所不顧,卿相之貴有所不屑,身雖屈而道愈伸,故遯然後乃亨也。否之匪人,不利君子貞;遯未至於否,有否之漸,能以貞固自守者但小利耳,不可大有為也。
『遯』卦は艮は下に在り乾は上に在り、卦辞に「亨通、稍稍正を守るに利し」と言う。孔子は『繋辞伝』の裡に言う。所谓「幾」とは、事物変動の最初の跡象にして、吉凶は未だ形を顕さざる時に最先に露出する一点の端倪なり。君子は此の点の端倪を見れば便ち立刻行動し、一日の結束に拖到せず。『遯』の処する時勢は、四個の陽爻は高居上位なれど、然るに二個の陰爻は已に内卦に盤踞して一卦の主と為る。これはまさに小人の勢力の逐漸滋長の徴兆なり。君子は此の一点の細微の苗头を観出し、此れらの徴兆を察覚し、便ち官位を辞して身を抽きて退き、こそ禍患を免れ得る。だから隠居して以て自らの志向を涵養し、志向は遂げられて心境は亨通す。万鍾の厚禄は一瞥を往かず、公卿宰相の尊貴は一顧屑とせず。身は下位に屈居すると雖も、守る所の道はかえって更に伸張す。だから退隠して然る後にこそ亨通を談ずべし。『否』卦の卦辞に「否の人に匪ず、君子の貞に利あらず」と言う。『遯』は尚お『否』のあの地步に壊れずと雖も、而も已に『否』に走向する苗头有り。能く貞固を靠みて自守するは、亦過ぎず点の小利を得るのみ。大いに作為有る能わず。
彖曰:遯亨,遯而亨也。剛當位而應,與時行也。小利貞,浸而長也。遯之時義大矣哉。夫立人之朝,一旦欲奉身而退,豈可遽哉?故剛當位而有應,此可遯之時也。昔人謂進身非難,乞身之難者如此。方小人浸長之時,當委曲沉黙,使不見其欲去之跡,但卒歸於正可也。
『彖伝』に言う。「遯びて亨通すとは、退避に靠りてこそ亨通を得るなり。陽剛は位に居りて当を得て下に応与有るは、能く時勢に随いて行うなり。『小利貞』は、陰柔のまさに逐漸滋長するを以て也。『遯』の処する時勢の意義は太も重大なり。」朝廷の上に於いて官を做る人は、忽然として身を抽き引退せんと欲するも、豈に走れば便ち走ると言わん。だから必ず陽剛は位に居りて当を得て而もまた相応有りてこそ、これが退隐すべきの時機なり。前人は説過せり。出仕を謀求するは難からず、難きは辞官引退を請求するなり。まさに此の意思なり。小人の勢力の逐漸滋長する時に当たりては、応当に委婉含蓄・沈黙して自ら処り、人に自らの走らんと欲する痕跡を見出ださしめず、ただ最終に正道に帰すれば便ち可なり。
彖曰浸而長者,蓋知幾之士知四陽雖眾而已徃,陰柔雖微而處內,小人之道必浸而長。浸猶水之潤物,漸漬而日眾也。遯之時,謂可遯之時;遯之義,謂當遯之義。觀其時,察其義,二者皆當遯,則可以全身逺害,以俟天道之復。國之治亂、民之休慼繫焉,故曰遯之時義大矣哉。
『彖伝』に「浸りて長ず」と言う。能く幾微を察見する人は知る。四個の陽爻は多しと雖も、気数は而も已に消退する在り。陰柔は尚お微弱なれど、而も已に内卦を占據し、小人の勢力は必ず一天天に滲透滋長せん。「浸」は水の物を浸潤するに如く、一点点に滲透して日益拡大す。「遯の時」の指すは退隐すべきの時機を言い、「遯の義」の指すは応当に退隐すべきの道理を言う。時機を觀察し道理を審度すれば、両方面は皆退くべし。則ち以て自身を保全し禍害を遠離して、以て天道の重ねて転回するを等待し得る。一国の治乱・百姓の安危は皆此に繋る。だから『遯』卦の時と義の意義は太も重大なりと言う。
程氏以謂聖賢之於天下,雖知道之將廢,豈肯坐視其亂而不救?必區區致力於未極之間,不可大貞而尚利小貞也。竊為不然。聖賢所貴乎知幾者,謂當辨之於早,脫之於眾人未覺之時,故可免也,故曰知幾其神乎。若如漢王允之徒,遲迴顧戀,不免殺身,徒速其禍耳,何於治亂哉?
程頤は以為す。聖賢の天下に対しては、正道の将に廃棄せんとするを明知すると雖も、豈に坐して其の乱れ下るを看て而も挽救せざらんや。必ず局面の未だ極点に壊れざる時に於いて一点の綿薄の力を尽くすを要す。だから能く大いに正を守るの為有らず、ただ尚お点の小正を守り得るのみ。我は私に以て然らずと為す。聖賢の「幾を知る」を看重する所以は、まさに及早に形勢を辨明し、衆人の未だ察覚せざる時に於いて身を抽きて出づべしを説くを以て、こそ禍を免れ得る。だから『繋辞伝』は「幾を知るは其れ神ならん」と言う。東漢の王允のあの一類の人の如く、遲疑徘徊・戀戀として去らざれば、終に身を殺されるの禍を免れず、白白に災難の到来を加速して、国家の治乱に対してまた何の補益か有らん。
象曰:天下有山,遯;君子以逺小人,不惡而嚴。天積氣而在上,山積形而在下。天,陽也;山,陰也。山雖峻極,豈能侵逼於天?小人雖長,固不能害君子,此天下有山所以為遯也。君子處身於不可犯之地,如天之不可階而升也。逺小人之道,使之有所畏憚而不能陵犯可也,豈悻悻然懐憤含怒,遽以惡聲加之哉?有如顏真卿、段秀實之徒,一旦忠義奮發,雖蹈大難而成仁者,是固聖人之所取也,言豈一端而已哉。
『大象伝』に言う。「天下に山有り、これ『遯』卦の象なり。君子は之に法り取り、小人を疏遠す。疾言厲色を必用とせずして自ら厳にして犯すべからざるなり。」天は清気の積聚して高く上に懸る。山は形質の堆積して下に盤踞す。天は陽に属し、山は陰に属す。山は高峻の極点に至ると雖も、而も豈に能く天に侵逼せん。小人の勢力は滋長する在りと雖も、終に君子を加害する能わず。これが即ち「天下に山有り」の『遯』象と成る所以の縁由なり。君子は自己を侵犯すべからざる地位の上に安置す。天のあの如き梯を架して攀登する術なきが如し。小人を疏遠する辧法は、彼をして心に忌惮を存して冒犯するを敢えてせしむるなり。豈に気冲冲として満懐に憤懣を抱き、口を張れば便ち悪言を以て相加えるを用いん。顔真卿・段秀実のあの如き人に至っては、一旦忠義激発せば、たとえ身は大難に蹈みて殺身して仁を成すも、あれは本来亦聖人の取る所なり。見るに身を立て世に処するの道理は豈に一端に止まらん。
初六:遯尾,厲,勿用有攸徃。象曰:遯尾之厲,不徃何災也。小人將進,亡徵已見,非眾人所知也,故聖人於此察其幾微,髙舉逺引,故能保身全家以免乎世患。若幾事不先,遯者已眾,然後欲去,是為遯尾。尾者,後眾人而遯,讒間乗之,此危道也。遯既後時,故勿用有攸徃。書稱微子去之,去之速也;箕子為遯尾,故有囚奴之災。雖然,如漢孔光、張禹之徒,居昏暗之朝,知不可脫而括囊全身者,蓋妄有見於不徃何災之義,此又學者不可不辨。
初六の爻辞に「退避は最後に落後す、危険、往く所有るに宜しからず」と言い、『小象伝』に「退避落後の危険の所以は、ただ冒然と前往せざればまた何の災禍か有らん」と言う。小人はまさに勢を得んと欲す、敗亡の徴兆は其の実已に顕露す。ただ衆人の看り出だし得ざるなり。だから聖人は此の時に於いて便ちあの点の細微の苗头を察覚し、高く飛び遠く走り、因りて能く自身を保住し家族を保全して世乱を免る。若し能く事機の未だ発せざる時に搶いて身を動かさざれば、退隐する人の已に甚だ多きを待ってこそ走らんと欲す。これを「遯尾」と呼ぶ。所谓「尾」とは、即ち衆人の後に落ちて退くなり。讒言中傷は虚に乘じて入る。これは危険の路子なり。既に退くるは已に時を過ぎれば、便ち再び往く所有るに宜しからず。『尚書』は微子の殷商を離るるを記載す。あれは走るの快きなり。箕子は退くるの晚く、後に落ちたり。だから囚せられて奴と為るの災禍有り。話は此の如しと雖も、漢代の孔光・張禹のあの一流の人の如く、身は昏暗の朝廷に処し、身を脱し得ざるを明知して便ち口を閉じて言わずして以て保全を求むれば、あれは過ぎず「往かずば何の災か」の意思を曲解するなり。此の一点は学者の加えて辨別すべからざる能わず。
六二:執之用黃牛之革,莫之勝說。象曰:執用黃牛,固志也。遯以二陰在內為陰長之漸,知幾之士及其未盛,皆為遯藏之計;獨二以陰柔處內,上有九五之應,君臣志合,膠固如黃牛之革,說者雖多,莫之能勝,此小人挾君寵以害君子之術也。
六二の爻辞に「黄牛の皮繩を用いて之を捆住せば、誰も解開する能わず」と言い、『小象伝』に「黄牛の皮繩を用いて捆住すとは、心志の牢固なる也」と言う。『遯』卦は二個の陰爻を以て内卦に在り、陰気の漸長を標志す。能く幾微を察見する人は其の未だ壮大ならざるに趁りて、皆退避隠蔵の計を盤算す。独り六二のみ陰柔の質を以て内卦に盤踞し、上面に又た九五有りて之と相応ず。君臣の意気相合し、胶着牢固なること黄牛の皮繩の如し。此の層の関係を解開せんと欲する人は再び多しとも、誰か能く之を解開せん。これはまさに小人の君主の寵信を挟持して以て君子を加害する手段なり。
自古小人慾害君子,必先順適其君,深得其所欲,然後得以逞其私也。人主利其順適之快,故排眾議而用之,天下之勢雖土崩瓦解而不悟也。牛性至順,黃為中色,順之至也。以至順而膠固其君,脅持內外,其勢必至於牢不可拔也,故象曰執用黃牛,固志也。
古より以来、小人は君子を陷害せんと欲すれば、必ず先ず君主を侍候して舒舒服服ならしめ、君主の心思を摸りて透透とせしめ、然る後にこそ其の私意を逞しゅうするを得る。君主は此の種の事事心に順うの痛快を貪図し、此に於いて衆人の議論を排斥して彼を重用し、天下の形勢の已に土崩瓦解に至るも尚お覚悟せず。牛の性情は最も柔順にして、黄は五色の中の中央の色にして、柔順は極処に至る。此の種の極致の柔順を憑りて君主を牢牢に黏住し、内外挟制す。其の勢は必ず牢として抜くべからざるの地步に至る。だから『小象』は言う。黄牛の皮繩を用いて捆住すとは、心志の牢固なる也。
六三:係遯,有疾厲,畜臣妾吉。象曰:係遯之厲,有疾憊也;畜臣妾吉,不可大事也。君子知天下將亂,小人必得路,人主不足與有為,則悠然長徃,然後可以保身而全家。若顧戀寵祿,懐其惠以繫累其心,未有能超然獨徃者也。如此,未有不反受其危害者。
六三の爻辞に「心に牽系有る退避は、疾患危殆有らん。ただ奴僕侍妾を蓄養するに宜しくして則ち吉」と言い、『小象伝』に「牽系して退避するの危殆の所以は、病を害するが如き疲憊なり。奴僕侍妾を蓄養して吉を得とは、大事を擔當する能わざるを説く」と言う。君子は天下の将に乱れんとし小人の必ず勢を得んとし君主の已に以て共に作為を圖るに足らざるを知れば、便ち悠然として遠行し、こそ自身を保住し家族を保全し得る。假如寵信と俸禄に戀戀し、あの点の恩惠に感念して心を牽住せしめば、便ち誰か超然として独往する能くせん。此の如く為すは、かえって其の危害を受けざるなし。
九三處下卦之極,無應於上,而宻比於六二陰柔處中當權之小人,冀以私意深交而固結之,亦已疎矣。小人在位,方挾君寵以害君子,特未得其處耳,豈可恃哉?若家臣婢妾,以私恩畜之,固可得其死力,故畜臣妾則吉也。象言係遯之厲,有疾憊也;畜臣妾吉,不可大事。夫有所偏繫,則心力俱疲矣。當可遯之世,與豪傑謀之未必盡濟,況區區私惠,豈足以當大事哉?
九三は下卦の頂端に処し、上面に応与なきも、而も六二の此の陰柔を以て中に居りて権を当たる小人に緊挨す。私人の交情を靠みて深く相結納し牢牢に綁り在一起せんを指望す。未免太も不明智なり。小人は一たび位に在れば、まさに君主の寵信を挟して君子を陷害せんと欲す。ただ未だ手を下すの機会を見出ださざるのみ。どうして彼に倚仗せん。家中の僕役婢妾に至っては、私恩を用いて以て豢養すれば、本来以て彼らの死を效する力を換え得。だから「臣妾を畜す」は吉なり。『小象』に言う。牽系して退避するの危殆は、病を害するが如き疲憊なり。奴僕侍妾を蓄養して吉を得とは、大事を擔當する能わざる也。心裡に偏私の牽掛有れば、精神気力は便ち皆耗盡す。応当に退隐すべきの世道に処しては、即ち天下の豪傑と一起に謀劃するも未必に事を済す。況んや区区一点の私恩小恵は、豈に大事を擔えん。
九四:好遯,君子吉,小人否。象曰:君子好遯,小人否也。好與好惡之好同。四有應於初,為初所好,亦好於初,能不顧戀於寵祿,遐舉逺引而去,故獲吉也。小人泥於私恩,朋淫相比,豈能見幾而作、不俟終日哉?雖未蹈凶禍,聖人之所鄙也。揚雄曰鴻飛冥冥,弋者何慕焉,蓋言違患之逺也。孔子言棖也欲,焉得剛,非九四之剛決,安能不牽於私慾哉?
九四の爻辞に「心に愛する所有りて而も尚お退避す、君子は吉を得、小人は做到する能わず」と言い、『小象伝』に「君子は愛する所有る時に退避する能くし、小人は則ち能わず」と言う。此処の「好」は「好悪」の「好」と同義なり。九四と初六は相応じ、初六に喜愛せられ、自らも亦初六を喜愛す。而も能く寵信俸禄に留戀せず、高く飛び遠く走りて去る。だから吉を得。小人は私人の恩情に拘泥し、党を結びて相亲れ沆瀣一气す。どうして能く苗头を見れば便ち立刻行動し一日の過ぎるを待たざらん。此の種の人はたとえ未だ凶禍に踏み入らざるも、亦聖人の鄙薄する所なり。揚雄は言う。「鴻雁は高く蒼冥の上に飛び、射猟する人は尚お何を指望せん」と。講ずる所はまさに禍患を遠離するなり。孔子は申棖の此の人は慾望太も多く、どうして剛強と算えんと言う。若し九四のあの如き剛毅決断なければ、どうして能く私慾に牽住せられざらん。
九五:嘉遯,貞吉。象曰:嘉遯貞吉,以正志也。九五居尊為遯之主,非自遯也,旌賁巖穴,招聘隠淪,故曰嘉遯。聖人嘉與隱遯之士共濟艱難,故貞則獲吉也。九五取中正之位,其可不正乎?不正則遯者亦逺矣。
九五の爻辞に「嘉美の退避、正を守りて吉を得」と言い、『小象伝』に「嘉美の退避は正を守りて吉を得とは、自らの心志を端正するを以て也」と言う。九五は尊位に居り、『遯』卦の主爻なり。它は並びに自ら退隐するに非ず、而も旌旗礼幣を以て山岩洞穴の中の隠者を光寵し隠居して出でざる賢人を徵聘す。だから「嘉遯」と称す。聖人は君主が退隐の士と共同に艱難の時局を渡過するを嘉許す。だから正を守れば便ち吉を得る能し。九五は中正の位を占據す。どうして正ならざるを得ん。自ら正からざれば、隠者も亦便ち遠く避開す。
象曰嘉遯貞吉,以正志也。夫有道之士,知小人之浸長,海內之必亂,人主不足與有為也,故寧憔悴江湖之上,甘心寂寞之濱,若將終身。為此嘉遯之主,側席幽人,旌車蒲輪相望於巖穴中者,豈徒為觀美哉?將以正吾之心術,有補於治道而已,故曰嘉遯貞吉,以正志也。
『小象伝』に「嘉美の退避は正を守りて吉を得とは、自らの心志を端正するを以て也」と言う。道有る士は小人の勢力のまさに滋長し天下の必ず大乱し君主は以て共に作為を圖るに足らざるを観出す。だから寧ろ江湖の間に於いて形容憔悴し、冷落寂寞の水辺に甘心して待在ち、好似として此を以て一生を過ごし了さんと欲す。「嘉遯」の主を做す君主は、席を虚しくして幽隠の士を以待し、礼聘の旌旗と蒲草を裹む安車は絡繹として山岩洞穴の間に往来す。豈にただ人に看せる排場を做すのみ。あれは借此自らの心術を端正し、治国の道に対して補益有らんと欲するのみ。だから言う。嘉美の退避は正を守りて吉を得とは、心志を端正するを以てなり。
上九:肥遯,無不利。象曰:肥遯無不利,無所疑也。自昔隱遯之士,皆樂枯槁,處閒曠,飢寒切身而不悔者,蓋明乎消長之幾,濟以剛決之勇,處身逺外而無上下之交,混跡編氓而無聲名之累,則其進退豈不綽綽然有餘裕哉?
上九の爻辞に「寛綽従容に退避す、往きて利ならざるなし」と言い、『小象伝』に「寛綽従容に退避して往きて利ならざるなきは、心中に毫も疑虑なきを以て也」と言う。古より以来退隐する人は、皆清苦に甘んじ、身を閑散空曠の地に処し、飢寒交迫は身上に加わるも後悔せず。あれは彼らの消長盛衰の先兆を明白にし、又た剛毅決断の勇気有るを以てなり。身を朝廷の外に置き、上下の権貴と往来せず、編戸斉民の中に混同し、名声の拖累を受けず。則ち彼らの進退は便ち寛寛綽綽にして余地十足ならざらん。
古人避世而遯,未有不阨窮者;上九獨能饒裕者,蓋去不為尾,故不蹈初六之厄;義不反顧,故無九三之繫;內不忌於小人,上不咈於人主,故象言肥遯無不利,無所疑也。言上下內外無纎芥之疑,此最善遯而無形跡者也。遯既以初為尾,則上九豈非首遯者乎?
古人が乱世を避けて退隐するは、困厄に陥入せざるは少なし。独り上九のみ能く従容寛裕す。其の衆人の先を走りて尾に落ちざるを以て、だから初六のあの如き困厄に遭受するに至らず。断然として身を抽きて回頭せざるを以て、だから九三のあの種の牽系なし。内に於いて小人に猜忌せられず、上に於いて君主の心意に違逆せず。だから『小象』は寛綽退避して往きて利ならざるなきは、心中に毫も疑虑なき也と言う。これは上下内外に一糸一毫の猜疑もなきを説く。これがこそ最も退隐するに善くして痕跡を留下せざる人なり。『遯』卦は既に初六を以て「尾」と為せば、則ち上九は豈にまさに第一個に身を抽きて退くる人に非らんや。
大壮卦(乾下震上)
乾下震上,大壯:利貞。彖曰:大壯,大者壯也,剛以動,故壯。大壯利貞,大者正也。正大而天地之情可見矣。象曰:雷在天上,大壯;君子以非禮弗履。初九:壯于趾,征凶,有孚。象曰:壯于趾,其孚窮也。九二:貞吉。象曰:九二貞吉,以中也。
『大壮』卦は乾は下に在り震は上に在り、卦辞に「正を守るに利し」と言う。『彖伝』に言う。「大壮は、陽の大なる者の強盛なり。陽剛を以て奮動すれば、だから強盛す。『大壮貞に利し』とは、陽の大なる者は応当に正に帰するを説く。既に正しく且つ大なれば、天地の実情は便ち以て見るべし。」『大象伝』に言う。「雷は天上に響く、これ『大壮』の象なり。君子は之に法り取り、凡そ礼に合せざる事は一概に為さず。」初九の爻辞に「強壮はただ脚趾の上に在るのみ、出征すれば凶有り、此の事は確実に信ずべし」と言い、『小象伝』に「強壮はただ脚趾の上に在るとは、以て其の必ず困窮に陥入すると断定すべし」と言う。九二の爻辞に「正を守りて吉を得」と言い、『小象伝』に「九二の正を守りて吉を得とは、中に居りて偏らざるを以て也」と言う。
九三:小人用壯,君子用罔,貞厲;羝羊觸藩,羸其角。象曰:小人用壯,君子罔也。九四:貞吉,悔亡;藩決不羸,壯于大輿之輹。象曰:藩決不羸,尚徃也。六五:喪羊于易,無悔。象曰:喪羊于易,位不當也。上六:羝羊觸藩,不能退,不能遂,無攸利;艱則吉。象曰:不能退,不能遂,不詳也;艱則吉,咎不長也。
九三の爻辞に「小人は一味に蛮力を使用し、君子は而も強壮を無物と視す。固執し下れば危険有り。公羊は籬笆を衝撞し、角を纏住せらる」と言い、『小象伝』に「小人は一味に蛮力を使用すとは、君子は則ち強壮を事と為さざる也」と言う。九四の爻辞に「正を守りて吉を得、悔恨消失す。籬笆は衝開せられ、角は再び纏住せられず、強壮は大車の車軸伏兎の一般の堅実に如し」と言い、『小象伝』に「籬笆は衝開せられて角は纏住せられずとは、以て繼続前進し得る也」と言う。六五の爻辞に「田畔に於いて軽易に羊を失う、悔恨なし」と言い、『小象伝』に「田畔に於いて羊を失うとは、処する位置の相応当ならざるを以て也」と言う。上六の爻辞に「公羊は籬笆を衝撞し、退くるも退き回る能わず、進むも進み過ぎる能わず、何の好処もなし。能く艱難謹慎を守持すれば則ち吉」と言い、『小象伝』に「退き回る能わずまた進み過ぎる能わずとは、行事の審慎ならざる也。能く艱難謹慎を守持すれば便ち吉とは、過錯の長く拖到せざるを以て也」と言う。
晋卦(坤下離上)
坤下離上,晉:康侯用錫馬蕃庶,晝日三接。康侯,能康濟天下之侯也。人臣孰無康濟天下之心?亦孰無康濟天下之才?然志或不得伸,才或不得展者,不遇其時也。明出地上為晉,故晉為明主之象。明主在上,故有康濟之侯也。侯,諸侯也。諸侯雖有土地人民,亦臣道也;然侯皆兼人臣,人臣未必皆侯也。
『晋』卦は坤は下に在り離は上に在り、卦辞に「康侯は大批の車馬の賜を獲て、一日の内に三度接見せらる」と言う。所谓「康侯」とは、即ち能く天下を安定救済する諸侯なり。臣子を做すは、誰か天下を安定救済するの心願なからん。誰か又た天下を安定救済するの才具なからん。然るに志向は時に伸展し開かず、才干は時に施展し出ださず。あれは合適の時勢に遇上せざるなり。光明は地面より升出するは即ち『晋』なり。だから『晋』は英明の君主の上に在るの象徴なり。英明の君主は上に在りてこそ、天下を安定救済する諸侯有らん。「侯」は諸侯を指す。諸侯は土地と人民を擁有すると雖も、走る所は仍お臣たるの道なり。諸侯は人人兼ねて人臣の身分を具すれど、而して人臣は而も未必に個個皆諸侯なり。
自昔帝王之興,皆建侯樹屏以藩王室,既有社有民,常失之不順。漢雖分王子弟,終至七國之亂;至唐假節藩鎮,山東奧壤化為戎墟,征伐禮樂不自朝廷出,是諸侯之貴乎柔順也。離上者,大明之君也;坤下者,柔順之臣也。上有大明之君,則下有柔順之臣。用錫馬蕃庶,晝日三接,以見明良相遇,恩意浹洽,無復疑閒,故錫賚之繁、燕見之數如此也。
古より帝王の興起するは、皆諸侯を分封し屏障を樹立して以て王室を衛護すを要す。諸侯は既に社稷有り百姓有れば、弊病は常に柔順服従を肯ぜざるに出づ。漢朝は子弟を分封して王と為すと雖も、終に七国の乱を鬧出す。唐朝に至って藩鎮に節鉞を授予すれば、崤山以東の膏腴の地は胡兵の蹂躪する廃墟と変り、征伐と礼楽は再び朝廷より出でず。見るに諸侯の最も可貴なるはまさに柔順なり。上卦は離にして、光明偉大の君主を象徴す。下卦は坤にして、柔順の臣子を象徴す。上面に光明偉大の君主有れば、下面に便ち柔順の臣子有り。「馬を錫りて蕃庶なり、昼日三接す」は、まさに賢明の君主と善良の臣子の相遇い、恩義情意の融洽無間にして、再び猜疑隔閡なきを顕出す。だから賞賜はこそあの如く豊厚、私下の接見はこそあの如く頻繁なり。
彖曰:晉,進也。明出地上,順而麗乎大明,柔進而上行,是以康侯用錫馬蕃庶,晝日三接也。晉,進者,日之始出乎地上而尚進也。蓋晨明不及於朏明,朏明不及於旦明,其進必有漸也。晉者,日之始進而未遽昃也,此曰之方進而盛也,故有明出地上之象。
『彖伝』に言う。「晋は即ち前進なり。光明は地面より升出し、柔順にして偉大の光明に依附し、柔爻は上進して上位に居る。だから康侯は大批の車馬の賜を獲て、一日の内に三度接見せらる。」「晋」は進と訓ず。太陽の剛く地平線を露出して而も尚お上昇するを指す。清晨微明は天色の漸白に如かず、天色漸白は天光の大亮に如かず。其の上昇は必ず循序漸進なり。「晋」は太陽の剛く上行し始めて而も未だ西に偏らざるの時にして、まさに日光の方に進みて旺盛に趨くの時なり。だから光明は地面より升出するの卦象有り。
順而麗乎大明,諸侯能恭順而麗乎大明之君也。柔進而上行者,六五之君以柔道而升乎中正尊極之位,故柔能進而上行也。人臣竭恭順以事上,故亨其便蕃之錫而不辭;人主屈已以接下,故盡其勞謙而不倦也。
「順にして大明に麗す」とは、諸侯の能く恭敬柔順に英明偉大の君主に依附するを説く。「柔は進みて上行す」とは、六五の此の君主が柔順の道を以て中正にして至尊の位置に升到するを説く。だから柔爻は能く上進して高位に居る。臣子を做すは恭順を竭くして以て君上に事奉す。だから坦然としてあの如く頻繁豊厚の賞賜を接受して推辞せず。君主を做すは尊を屈し貴を降して以て臣下を礼待す。だから勤労謙抑を竭くして而も疲倦を知らず。
象曰:明出地上,晉;君子以自昭明徳。明出地上,如日之升。晉者,明之漸進也,以明為主,故於卦為晉。君子觀此象以自明其明徳。昭者,使吾之徳明照天下,萬物無不覩也。明徳在我,非自外入,故曰自昭明徳也。
『大象伝』に言う。「光明は地面より升出す、これ『晋』卦の象なり。君子は之に法り取り、自ら彰明して自らの光明徳性と為す。」光明は地面より升出すは、太陽の上昇するに如し。「晋」は光明の逐漸上進して、光明を以て主体と為す。だから此の一卦を『晋』と呼ぶ。君子は此の一卦象を觀察し、以て自ら彰明して自らの光明徳性と為す。所谓「昭」とは、即ち我が徳行をして光明に天下を照耀せしめ、万物は見えざるなからしむるなり。光明の徳性は本来我が身上に在り、並びに外面より装い入れるに非ず。だから「自ら明徳を昭らかにす」と言う。
初六:晉如摧如,貞吉;罔孚,裕無咎。象曰:晉如摧如,獨行正也;裕無咎,未受命也。古之君子,未嘗不欲立人之朝,然其進非冐寵也,必將使是君為堯舜之君,使是民為堯舜之民。其任既重,其責亦深,安得不惕然思所以稱其職、勝其任乎?方其進也,非敢自肆也,故曰晉如摧如也。摧者,摧抑恐懼之貌也。
初六の爻辞に「上進の様子、又た摧抑せらるるが如き様子、正を守りて吉を得。人に信任せられず、寛裕に自ら処れば便ち過錯なし」と言い、『小象伝』に「上進して又た自ら摧抑すとは、独自に正道を守るなり。寛裕に自ら処りて過錯なきは、未だ正式に受命して職に任ぜざるを以て也」と言う。古代の君子は、朝廷に立身せんと欲せざるなし。然るに彼らの出仕するは、並びに恩寵を冒求する為に非ず。必ず自らの君主をして堯舜のあの如き君主と成らしめ、自らの百姓をして堯舜の治下の百姓と成らしめんと欲するを要す。擔子は既に重く、責任も亦深し。どうして惕然として警懼せず、怎様にしてこそ此の職位に配得上し此の重托を擔當し得るを想わん。だから其の剛く出仕するの時に、絶えて放縦自恣するを敢えてせず。因此「晋如摧如」と言う。「摧」とは、即ち自ら抑制し心に畏懼を懐くの様子なり。
雖能摧抑恐懼,而不知以堅正自守,安能一正君而定天下乎?初六坤體在下,以順為正,則妾婦之道耳,故居貞然後獲吉也。人臣得君之初,體既柔順,疑者必眾,其心志之所存,安能使內外交信而不疑乎?
但し若しただ自ら抑制し心に畏懼を懐くのみ、而も堅貞正直を用いて自らを守住するを懂らざれば、またどうして君主を匡正して天下を安定せん。初六は坤体に属して下位に居る。若しただ柔順を以て正道と為せば、あれは過ぎず妾婦の路数のみ。だから必ず正を守りて然る後にこそ吉を獲る。臣子の剛く君主の信任を獲得する時に、本身は柔順にして顕れず、彼を猜疑する人は必ず多し。彼の心裡は究竟何の志向を存するか、またどうして朝廷内外をして皆相信して毫も懐疑せざらしめん。
方危疑之際,若竊竊然懼人之莫我知,而不能寛裕自處,阿意者必喜,議已者則怒,其招咎悔必矣。周公之相成王,逺則四國流言,近則王不知,及居東三年,然後罪人斯得,則罔孚而能裕者,周公一人而已。子產不毀鄉校,謗者自息,則其次也。
まさに処境危険・衆口疑を生ずる時に当たりて、若し心裡惴惴として安んぜず、ただ別人の自己を了解せざるを怕れ、因りて能く寛舒従容に自ら処る能わず。此に於いて自己に逢迎する人は便ち高興し、自己を議論する人は便ち恼怒す。則ち災咎と悔恨を招来するは必然なり。周公は成王を輔佐す。遠処に管・蔡等の四国は流言を散布し、近処は成王すら彼を理解せず、東征三年の後に至りて、乱を作した人はこそ査実せられし。見るに信任せられずして而も尚お寛裕に自ら処り得るは、ただ周公の一人のみ。子産は郷校を拆毁するを肯ぜず、衆人の議論するに任憑し、毁謗は自然に平息す。あれは便ち次一等と算うべし。
象曰:晉如摧如,獨行正也;裕無咎,未受命也。人臣方進用之初,已有輕去就之義,非獨行其正而不慊於心者,能如是乎?初六雖正應在四,然最處卦下,如人臣始進而未受命者,其進退豈不有餘裕哉?
『小象伝』に言う。「上進して又た自ら摧抑すとは、独自に正道を守るなり。寛裕に自ら処りて過錯なきは、未だ正式に受命して職に任ぜざるを以て也。」臣子の剛く任用せらるる時に、心裡は便ち已に去留を看ること甚だ軽し。若し独自に正を守りて心に愧づるなき人に非ざれば、此の一歩を做到し得んや。初六は九四と正相応ずと雖も、而も全卦の最下位に処す。臣子の剛く出仕して而も未だ正式に受命せざるに比すれば、其の進退は寛綽にして余地有らざらん。
六二:晉如愁如,貞吉;受茲介福于其王母。象曰:受茲介福,以中正也。君子之進也,欲以行其道也。晉如愁如,憂道之雖行也。蓋六二雖處中正之位而無應於上,君臣之情未通,故當進用之初,憂思之深也。貞吉者,正則獲吉也。
六二の爻辞に「上進の様子、又た憂愁の様子を帯び、正を守りて吉を得。王母の彼処より此の大福を承受す」と言い、『小象伝』に「此の大福を承受すとは、中に居りて正を守るを以て也」と言う。君子は出仕して上進す。以て自らの道を推行せんが為なり。「晋如愁如」とは、憂うる所はまさに自らの道の能く推行せんや否やなり。六二は中正の位に処するも、上面に応与なく、君臣の間の情意は未だ溝通せず。だから剛く任用せらるる時に、憂思は特別に深し。所谓「貞吉」とは、即ち正を守れば便ち吉を得るなり。
人臣事君,當以正為主,能以貞正自處,道合則從,不合則去。晉之為卦,專主乎晉,故不可以不正也。人臣能守正,則宜享其福祿,故爵命之便蕃,不期而自至矣,故受茲介福于其王母也。二在坤之中,六五又處離之中,皆重陰也,以柔居尊,故以王母為象。象言受茲介福以中正者,處中居正,上有至明之主,群邪退聽,讒間不行,所以能受福也;不然,守正者必受禍矣。
臣子は君主に事奉す。応当に正道を以て主と為し、能く貞正を用いて以て自ら処り、道は相合せば便ち留下し、相合せざれば便ち離去す。『晋』の此の一卦は専ら上進を講ず。だから尤其として正ならざるべからず。臣子は能く正を守れば、便ち理応に相応の福禄を享有すべし。だから爵位任命の頻々として身上に加わるは、期せずして自ら来る。これが即ち「王母の彼処より此の大福を承受す」なり。六二は坤卦の中に居り、六五は又た離卦の中に居り、皆陰爻にして、柔順を以て尊位に居る。だから「王母」を取りて象と為す。『小象』に大福を承受すとは中正に靠る也と言う。身は中位に処し立身端正にして、上面に又た極めて英明の君主有り、群邪は跡を斂して退避し、讒言離間は行き通らず。だから能く福沢を享受す。然らざれば、正を守る人はかえって必ず禍に遭わん。
六三:眾允,悔亡。象曰:眾允之志,上行也。九四:晉如鼫鼠,貞厲。象曰:鼫鼠貞厲,位不當也。六五:悔亡,失得勿恤,徃吉,無不利。象曰:失得勿恤,徃有慶也。上九:晉其角,維用伐邑,厲吉無咎,貞吝。象曰:維用伐邑,道未光也。
六三の爻辞に「衆人の信従を獲得す、悔恨消失す」と言い、『小象伝』に「衆人の信従する心志は、上に向かいて行進する也」と言う。九四の爻辞に「上進するは只の碩鼠の如し、固執し下れば危険有り」と言い、『小象伝』に「碩鼠のあの如く固執するは危険有りとは、処する位置の相応当ならざるを以て也」と言う。六五の爻辞に「悔恨消失す、得失は皆憂慮するに及ばず、前往すれば吉利、利ならざるなし」と言い、『小象伝』に「得失は皆憂慮するに及ばずとは、前往すれば喜慶有らん」と言う。上九の爻辞に「上進は角の上に至る、ただ以て自らの封邑を討伐するに宜しく、危険有ると雖も吉にして而も過錯なし、固守し下れば則ち羞吝有り」と言い、『小象伝』に「ただ以て自らの封邑を討伐するに宜しとは、行う所の道の尚お光大ならざるを以て也」と言う。
明夷卦(離下坤上)
離下坤上,明夷:利艱貞。日月麗乎天則明,今反入於地中,有暗君之象。暗君在上,明者必傷,君子當隱遯退藏之時也。若露其光景,耀其聰明,則傷之者至矣,故利在艱難而守正,然後免乎禍患也。彖曰:明入地中,明夷。內文明而外柔順,以蒙大難,文王以之。利艱貞,晦其明也。內難而能正其志,箕子以之。
『明夷』卦は離は下に在り坤は上に在り、卦辞に「艱難の中に於いて正を守るに利し」と言う。日月は天に附麗すれば便ち光明有るも、いまかえって地の下に没入す。これは昏君の位に在るの象徴なり。昏君は高く上位に居り、明智の人は必ず傷を受く。まさに君子の応当に隠退して身を蔵すべき時なり。若し自らの光彩を顕露し自らの聡明を炫耀せば、則ち加害する人は便ち来る。だから利有る所は身は艱難に処して正道を堅守するに在りて、然る後にこそ禍患を免れ得る。『彖伝』に言う。「光明は地の中に没入す、これ即ち明夷なり。内裏は文采光明にして外表は柔順、因りて能く大難を承受す。文王は即ち此の如く為せり。『艱貞に利し』とは、自らの光明を隠晦せんと欲するなり。身は骨肉の間の禍難に処して而も能く自らの志向を端正す、箕子は即ち此の如く為せり。」
內文明而外柔順,以蒙大難,此文王用此道以處昏亂之時也,故曰文王以之。利艱貞,晦其明也;內難而能正其志,此箕子用此道以立昏亂之朝也。知時未可伐,雖三分天下有其二,猶服事殷,故大難而卒免於禍也;知君不可諫而晦其聰明,履險難而不易其所守,故為之奴而卒歸於周也。
内裏は文采光明にして外表は柔順、因りて能く大難を承受す。これは文王が此の套の辧法を用いて以て昏乱の時局に応付するなり。だから「文王は之を以てす」と言う。「艱貞に利し、其の明を晦むなり。内難にして能く其の志を正しくす」とは、これは箕子が此の套の辧法を用いて昏乱の朝廷に立身するなり。文王は時機の尚お商紂を討伐するに至らざるを明白にす。天下三分は已に其の二を占むると雖も、仍お殷商に服事す。だから身は大難に遭いて終に禍を免る。箕子は紂王の已に勧諫すべからざるを明白にし、便ち自らの聡明を隠蔵し、身は険難を履むも所守を改変せず。だから寧ろ狂を装い奴と為りて、最終に周朝に帰す。
此古之聖賢當昏亂之時,出處去就其精微如此,非深達乎天下之事變、明乎象數之幾深者,孰能與於此哉?箕子,商之宗臣,故言內難。象曰:明入地中,明夷;君子以蒞眾用晦而明。大象因義以取象,方明出地上,晉,則曰君子以自昭明徳;方明入地中,明夷,則曰君子以蒞眾用晦而明。各以類求,言豈一端而已。
これが即ち古代の聖賢の昏乱の世に身を処する時の、出仕と退隐・離去と留下の間の精微の権衡なり。若し深く切に天下の世事変化に通達し卦象数理の中の細微深隠の先兆を洞明せざれば、誰か此の一歩を做到せん。箕子は商朝の宗室大臣なり。だから其の遭遇するは「内難」なりと言う。『大象伝』に言う。「光明は地の中に没入す、これ『明夷』の象なり。君子は之に法り取り、衆人を治理する時は鋒芒を收斂して而も心は自ら明察す。」『大象』は卦義に按りて以て象を取る。光明は地面より升出して『晋』卦と成るに当たりては、便ち君子は自ら彰明して光明の徳性と為すべしと説き、光明は地の中に没入して『明夷』卦と成るに当たりては、便ち君子は鋒芒を收斂して而も心は自ら明察すべしと説く。各々其の類別に按りて求取す。見るに言を立つるは豈に一端に止まらん。
夫明入地中,明之傷也。然君子方其蒞眾,則惡於太察,昭昭若揭日月而行,則非容眾之道,故貴乎用晦。用晦,不自用其聰明也。我之觀天下也,如處乎壼奧之內以觀門庭之外,則無不見也。夫以一人之聰明而欲察眾人之情偽,儻非用晦,則明有所不至矣。
光明は地の中に没入すは、光明の損傷を受くるなり。然るに君子の衆人を治理する時に、最も忌諱するは過分に苛察するなり。自己を弄りて亮堂堂ならしめ、日月を挙げて走路するが好似なれば、則ち衆人を容納する辧法に非ず。だから鋒芒を收斂するを貴ぶ。所谓「晦を用う」とは、即ち自らの聡明を自恃せざるなり。我は天下を觀察す。身は内室の深処に処して外に向かいて門庭を看るに比すれば、かえって見えざるなし。一人の聡明を憑りて衆人の真偽虚実を察験すれば、倘若收斂するを懂らざれば、則ち明察はかえって照らし到らざる処有り。
初九:明夷于飛,垂其翼;君子于行,三日不食,有攸徃,主人有言。象曰:君子于行,義不食也。君子仕昏亂之朝,欲為脫身之計,不可不速,緩則受禍矣。明夷于飛者,雖欲去之速,非匿跡戢影,則懼有矰之患,故垂其翼也。
初九の爻辞に「明夷の時に翅を振りて飛行し、翅膀を低垂す。君子は路上に於いて奔走し、三天も飯を喫うを顧みず。往く所有れば、主人は尚お閑話を言う」と言い、『小象伝』に「君子は路上に於いて奔走すとは、道義に按りて飯を喫うを顧みざる也」と言う。君子は昏乱の朝廷に於いて官を做し、脱身を謀劃せんと欲せば、快からざる能わず。慢ければ便ち禍に遭わん。所谓「明夷の飛ぶ」とは、快く離去せんと欲すると雖も、但し若し蹤跡を隠蔵し形影を收斂せざれば、便ち弋射の暗箭に遭うを怕る。だから翅膀を低垂するを要す。
初九為明夷之始,然身已在內,九雖剛決,有必去之志,然不可亟也。雖君子遭難阨窮,脫身避禍,蓋有行不及食者矣。方其欲去也,故當垂其翼以示遲迴不去之意;及其既去也,則三日不食,以見去之之亟,馮道之脫虜庭,用此道也。
初九は『明夷』の開端に処すれど、然るに身子は已に裡面に陷り在り。陽爻は剛毅果斷なれど、非走不可の心志を抱定すると雖も、而も亦操之過急する能わず。君子は禍難困厄に遭遇し、脱身して禍を避くる時に、確かに飯すら喫うに及ばざる有り。其の離去を打算するに当たりては、だから翅膀を低垂し、徘徊して去らざるの様子を做出すを要す。真に走脱するを待てば、便ち三天飯を進せず、以て走るの急迫を顕出す。馮道は北方胡人の朝廷より脱身す、用うる所は即ち此の套の辧法なり。
有攸徃,主人有言,何也?當危難之時,倉皇而去國,若逋逃然,故有徃則人必疑之,但有言而已,未至於害也。象曰:君子于行,義不食也。既意在必去,雖餓其體膚有不暇恤者;亦去國之初,知社稷之必亡,有不忍獨全之意,其憂憤不食,亦義所當然也。
「攸往有り、主人に言有り」とは何の意思か。危難の時に於いて倉皇として都城を離る。様子は逃亡の一般に似たり。だから一たび走動すれば別人は必ず疑を生ず。過ぎず几句の閑話を招来するのみ、尚お害を受けるに至らず。『小象伝』に「君子は路上に於いて奔走す、道義に按りて飯を喫うを顧みざる也」と言う。既に心裡に主意を打定して非走不可なれば、たとえ身子を餓かすも亦顧みず。再者剛く故国を離るるの時に、社稷の必ず滅亡せんを明知して、心に独り保全するを忍びざるの意有り。憂憤して飯を喫い下す能わず。道義の上に於いても亦理の応当なり。
六二:明夷,夷于左股,用拯馬壯,吉。象曰:六二之吉,順以則也。六二居中得正而以柔順為徳,當明夷之時,傷不至甚,但夷于左股而已,雖害於行,而能極其壯馬,從容求去,逺其危邦闇主而獲吉也。人之手足,右強而左弱,夷于左股,弱者傷也。象曰六二之吉,順以則者,六二所以獲吉,以能柔順而不至失已也;則者,行有準繩也。
六二の爻辞に「明夷の時に、左辺の大腿は傷を受く。健壯の馬を靠りて救助せば、吉利」と言い、『小象伝』に「六二の吉を得とは、柔順にして而も又た法度を守住するを以て也」と言う。六二は中に居りて正を得、柔順を以て徳と為し、『明夷』の時局に処す。受くる所の傷は重きと算えず、過ぎず左腿に傷を受くるのみ。妨げて行走するに障ると雖も、而も能く力を尽くして強壮の馬を駆使し、従容として設けて離去し、遠く此の危邦昏君を躲開して吉慶を獲得す。人の手足は総じて右辺は強く左辺は弱し。左腿に傷を受くるは、較弱の一辺の傷を受くるなり。『小象』に六二の吉を得は「順にして則る」と言う。六二の獲吉の所以は、能く柔順にして而も自我を喪失せざるに至らざるに在りを説く。「則」とは、即ち行事に準縄有るなり。
九三:明夷于南狩,得其大首,不可疾貞。象曰:南狩之志,乃大得也。暗君在上而下有剛明之臣,其相應也非相合也,乃相敵也,殷紂、武王是也。不以六五為君位而以上六為昏主之象,何也?紂之無道,民怨神怒,雖在上而已失中正之位矣。以失位之暗君而當剛明之聖臣,天人之心蓋可見矣。
九三の爻辞に「明夷の時に南行して征討し、元凶首悪を擒獲す。操之過急すべからずして而も正を守るを須す」と言い、『小象伝』に「南行征討の志向は、終に大いに得る所有り」と言う。昏君は上に在りて下面に剛強明智の臣子有り。両者の相応するは並びに相合に非ず、而も相敵なり。殷紂王と周武王は即ち此の如し。何故に六五を以て君位と為さずして、かえって上六を以て昏君の象と為すか。紂王は暴虐無道にして、百姓は怨恨し神明は震怒す。尚お上に坐すと雖も、其の実已に中正の位を喪失せり。一個の已に位を失える昏君をして剛強明智の聖臣に対上せしむれば、天意と人心の向背は亦便ち想い知るべし。
故明夷于南狩,得其大首,此武王克商之時也。大首者,渠魁;得者,言取之之易也。周之伐商,應乎天而順乎人,其興也勃焉。然猶觀政於商,師踰孟津,遲迴不亟進者,蓋有待焉耳,故正之不可疾也。
だから明夷の時に南行して征討し元凶首悪を擒獲すと言うは、講ずる所はまさに武王の商朝を攻克せるあの一刻なり。「大首」の指すは首悪魁首を言い、「得」と言うは、取勝の容易を形容す。周朝は商朝を討伐す、上には天命に応え下には人心に順い、興起するは極めて迅猛なり。然るに武王は仍お先ず往きて商朝の政情を考察し、大軍は孟津を渡るの後に又た徘徊して急進するを肯ぜず。あれは時機を等待するのみ。だから天下を匡正するは操之過急すべからずと言う。
象言南狩之志乃大得者,武王伐紂若田獵然,去其害民者而已。南狩者,自北而南。武王都鎬,商自成湯皆都於亳。《詩》云宅是鎬京,武王成之;《書》曰湯始居亳,從先王。伐紂之志決矣,至此乃始克商,故曰南狩之志,乃大得也。
『小象』に南行征討の志向は終に大いに得る所有りと言う。武王の紂王を討伐するは出猟するに如く、過ぎずあの百姓を殘害する人を除掉するのみを説く。所谓「南狩」とは、北より南に向かいて進軍す。武王は都を鎬京に建て、商朝は成湯より以来皆都を亳に建つ。『詩経・大雅・文王有声』に「此の鎬京に宅す」と言う。鎬京は武王の完成する所なり。『尚書・立政』に成湯は最初亳に居り、先王の旧制を遵循せりと言う。紂を伐つの決心は早已に下定せり。此の時に至りてこそ真に商朝を攻克す。だから南行征討の志向は終に大いに得る所有りと言う。
六四:入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。象曰:入于左腹,獲心意也。當明夷之時,昏佞相濟,故六四以陰柔在髙位而獲見容也。知幾之士處暗君之朝,皆遐舉逺引,惟恐前去之不速,其次相招為祿仕可也。奸佞之臣方且乗時昏亂,陰揣其私,使卒得所欲,故能入其腹而獲其心意,雖出入門庭而無所憚也。
六四の爻辞に「深入して左辺の腹心に至り、明夷の君の心思を摸透し、門庭より走り出ず」と言い、『小象伝』に「左辺の腹心に深入すとは、君主の心意を摸透するを獲る也」と言う。『明夷』の時局に処して、昏君と佞臣は互相に成全す。だから六四は陰柔の質を以て高く上位に居るもかえって容納せらる。能く幾微を察見する人は昏君の朝廷に身を処し、皆高く飛び遠く走り、ただ走るの快ならざるを怕る。次一等のは、人に招引せられて俸禄の為に出仕するも、亦尚お説き過ごし得る。奸佞の臣は而も恰好として昏乱の時勢に趁りて、暗中に君主の私慾を揣摩して、彼をして終に如願以償ならしむ。だから能く君主の腹心に鑽り入りて其の心意を摸透し、宮廷門庭を出入して而も毫も顧忌なし。
夫正臣不可事邪主,明良、昏佞之相遇,豈偶然哉?有堯舜之君,則有皋、稷、契之臣;有桀紂之君,則有飛亷、惡來之臣,資適相逢耳。左,非正也,小人以非道事君,故曰左腹。既以非道深入其隱奧,又得其心意精微之處,君臣各遂所欲,則威福之柄遂得而擅之於外矣,故象曰入于左腹,獲心意也。不然,何遽至於亡哉?
正直の臣子は能く邪僻の君主に事奉する可からず。賢明の君主は善良の臣子に配し、昏庸の君主は奸佞の臣子に配す。此の種の相遇は豈に偶然ならんや。堯舜のあの如き君主有れば、便ち皐陶・后稷・契のあの如き臣子有り。桀紂のあの如き君主有れば、便ち飛廉・悪来のあの如き臣子有り。過ぎず資質の恰好相投ずるのみ。「左」は不正を表示す。小人は不正当の手段を用いて君主に事奉す。だから「左腹」��言う。彼は既に不正当の手段を用いて君主の内心の隠秘の処に深入し、又た君主の心思の中の最も精微の地を摸清せり。君臣は各自に称心如意して、此に於いて威を作し福を作すの権柄は便ち彼の手裡に落到し、以て外面に於いて独断専行し得る。だから『小象』は言う。左辺の腹心に深入すとは、君主の心意を獲る也。然らざれば、国家はどうして一下子就に亡びん。
六五:箕子之明夷,利貞。象曰:箕子之貞,明不可息也。箕子,商之宗臣也,去商歸周,為武王陳《洪範》,存皇極之道,故以六五中位處之。箕子以父師為囚奴,是晦其明、內難而能正其志也。《書》稱囚奴正士,謂箕子也。比干之死,非沽名也;微子之去,非忘君也;箕子之狂,非偷生也,各行其志云耳。
六五の爻辞に「箕子は明夷の世に処す、正を守るに利し」と言い、『小象伝』に「箕子の正を守るとは、光明の熄滅すべからざるを説く」と言う。箕子は商朝の宗室大臣にして、商朝を離れて周朝に帰附し、武王の為に『洪範』九疇を陳述し、「皇極」の大中の道を保全す。だから六五の此の中位を用いて彼を安置す。箕子は身は太師と為るも而も囚禁せられて奴と為る。まさに自らの光明を隠晦し、身は内難に処して而も能く志向を端正するなり。『尚書・泰誓』に紂王は正直の士を囚禁して奴と為すと言う。指す所は箕子なり。比干の死は名を沽くる為に非ず、微子の離去は君主を忘れるに非ず、箕子の狂を装うは苟且に生を偸むに非ず。過ぎず各自に自らの志向を実行するのみ。
聖人於明夷獨稱箕子者,其存大法尤有補於天下後世,其功為最大,故象言箕子之貞,明不可息也。道之在天下,非人不當;昏君之朝,明雖入於地中而非滅也,然則續而不絶、隱而不終喪者,其在於聖人乎?堯之命舜,舜之命禹,皆曰天之歴數在爾躬。紂之失道,而箕子之,其處以六五之位,皇極之道存焉故也。
聖人は『明夷』卦の中に於いて独り箕子を称道す。其の治国の大法を保存し、天下後世に対して格外に有益にして、功労は最大なるを以てなり。だから『小象』は箕子の正を守るは、光明の熄滅すべからざる也と言う。大道は天下に存在す、あの人に非ざれば擔當し起こす能わず。昏君の朝廷の裡に於いて、光明は地の下に沈入すると雖も而も並びに熄滅せず。則ち大道をして接続不断にして隠れると雖も終に亡失せざらしむるは、大概聖人の身上に在るか。堯は天下を舜に托付し、舜は天下を禹に托付して、皆「上天の暦数は爾が身上に在り」と言う。紂王は君道を喪失し、而して箕子は此の伝道の責を承擔し起こせり。(此の句の原文に脱字有り。)其を六五の此の中位の上に安置する所以は、まさに「皇極」の大中の道の其の身上に保存するを以てなり。
上六:不明晦,初登于天,後入于地。象曰:初登于天,照四國也;後入于地,失則也。紂之無道,雖尚擁虛器,已不為人心所歸,是貴而無位、髙而無民也,故以上六處之。上六體至陰之極,當明夷之終,其傷已甚,故不明而晦,昏君之象也。人主居尊極之位,如日之升於天,一旦沉溺聲色,嗜慾所昏,如日之入於地。象曰:初登于天,照四國也;後入于地,失則也。失則者,以欲敗度、縱敗禮而失其典則也。
上六の爻辞に「但だ明らかならず、かえって昏暗す。起初は天上に升り、後来は地下に沈入す」と言い、『小象伝』に「起初は天上に升るとは、四方の国を照耀する也。後来は地下に沈入すとは、法度を喪失する也」と言う。紂王は暴虐無道にして、尚お一個の空架子を抱くと雖も、人心は早已彼に帰附せず。これが即ち尊貴なれど而も実位なし、高く上に在ると雖も而も百姓なし。だから上六を用いて彼を安置す。上六は純陰の極点にして、又た『明夷』の終末に当たり、受くる所の損傷は已に極めて重し。だから但だ明らかならずかえって昏暗す。まさに昏君の象徴なり。君主は身は至尊の位に居り、本来太陽の天上に升るに如し。一旦声色に沈溺し、嗜好情欲に昏頭せしめらるれば、便ち太陽の地下に沈入するに如し。『小象伝』に言う。起初は天上に升るとは、四方の国を照耀する也。後来は地下に沈入すとは、法度を喪失する也。所谓「則を失う」とは、即ち『尚書・太甲』の説く所の「慾を以て度を敗り、縦を以て礼を敗る」、放縦して嗜慾を以て法度を敗壊し常典を喪失するなり。
家人卦(離下巽上)
離下巽上,家人:利女貞。婦人以幽閒靜正為徳。離下巽上,內明而外順也。自天子達於庶人,未有身不正而能正家者也,故二南之化皆託言后妃,以見文王之徳。女子之正本乎君子,故卦止言利女貞也。彖曰:家人,女正位乎內,男正位乎外,男女正,天地之大義也。家人有嚴君焉,父母之謂也。父父子子,兄兄弟弟,夫夫婦婦,而家道正,正家而天下定矣。
『家人』卦は離は下に在り巽は上に在り、卦辞に「女子の正を守るに利し」と言う。婦人は幽静嫻雅・貞静端正を以て徳と為す。離は下に在り巽は上に在るは、内裏光明にして外表柔順なり。上は天子より下は平民に至るまで、従来自身正からずして能く家庭を整粛する有らず。だから『詩経』周南・召南の教化は皆后妃を借りて言を立て、以て文王の徳を顕示す。女子の端正の根源は男子に在り。だから卦辞はただ「女の貞に利し」と言う。『彖伝』に言う。「『家人』卦、女子は内に於いて自らの位置を摆正し、男子は外に於いて自らの位置を摆正す。男女は各々其の正を得。これは天地の間の大義なり。一家の中に威厳の君長有り、説く所は父母なり。父は父道を尽くし兒は兒道を尽くし、兄は兄道を尽くし弟は弟道を尽くし、丈夫は夫道を尽くし妻子は婦道を尽くせば、一家の倫常は便ち端正なり。家家端正なれば、天下も亦便ち安定す。」
人倫之道自夫婦始。《詩》言先王以是經夫婦、成孝敬、厚人倫、美教化、移風俗。女正位乎內謂六二也,男正位乎外謂九五也。六二九五得陰位陽位之正,二爻正應在五,男女各得其正,如天地處上下之位而不可亂也。
人倫の道理は夫婦より開始す。『毛詩序』に先王は『詩』を用いて以て夫婦の倫を規範し孝敬の心を成就し人倫を敦厚にし教化を美化し風俗を移易すと言う。「女は内に於いて位を正しくす」の指すは六二を言い、「男は外に於いて位を正しくす」の指すは九五を言う。六二は陰位に居り九五は陽位に居り、各々其の正を得、六二は又た九五と正相応ず。男女は各々其の正を得、天地の各々上下の位に処して而も顛倒錯乱すべからざるに如し。
家有嚴君,則上下內外莫不肅治。父母雖以恩為主,然於辨內外、別上下尤以威嚴為貴,故通謂之嚴君焉。父子、兄弟、夫婦,此三者皆人倫之大端也。上下內外之分嚴,則家道正而天下定也。
一家に威厳の君長有れば、則ち上下内外に粛然として整飭せざるなし。父母は恩情を以て主と為すと雖も、但し内外を辨明し上下を区別する此れらの事の上に於いては尤其として威厳を看重す。だから父母を合せて「厳君」と称す。父子・兄弟・夫婦、此の三者は皆人倫の大綱なり。上下内外の名分は厳明なれば、一家の倫常は便ち端正、天下も亦便ち安定す。
文王之治,刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦。二南之化自后妃始,然則定天下之道,在乎修身齊家而已。唐髙宗之不君,百司奏事多決於武氏,其後遂不能制,以至毒流天下,幾危社稷,蓋由不能正其家也。聖人立言垂訓,為後世慮,豈不深且逺哉。
文王の治道は、先ず自らの妻子に榜样を作出し、兄弟に推広し、再び家国を治理するに推広す。周南・召南の教化は后妃より開始す。見るに天下を安定する辧法は、過ぎず自身を修養し家庭を整粛するに在るのみ。唐高宗は君主に似ず、百官の奏事は大多武后に由りて裁決せられ、後来は竟に管束する能わず、以て流毒は天下に及び、几ほど社稷を傾覆せんとせり。根源は便ち能く自らの家を端正せざるに在り。聖人は書を著わし説を立てて垂訓を留下し、後世の為に着想す。豈に深切にして且つ長遠ならざらん。
象曰:風自火出,家人;君子以言有物而行有恆。風與火相因之物也,身正則可以齊家,家之齊由我而致也,故有風自火出之象。言有物則可法,行有恆則可則。孔子曰:言出乎身,加乎民;行乎邇,見乎逺。有物則言可法而不為利害所移,有恆則行可則而不為時世所變,修身齊家之道,孰大乎此。
『大象伝』に言う。「風は火の中より生出す、これ『家人』の象なり。君子は之に法り取り、説話に実際の内容有り、行事に恒常の準則有るべし。」風と火は互相に依存し生発する物なり。自身端正なれば便ち以て家庭を整粛し得、家庭の整粛は我が処より推し出だすに由る。だから「風は火より出づ」の卦象有り。言語に実在の内容有れば、別人はこそ法り取るを得。行為に恒常の準則有れば、別人はこそ仿効するを得。孔子は『繋辞伝』の裡に言う。話は自らの嘴裡より説き出だせば、便ち百姓に影響す。行為は近処に於いて発生すれど、效験は而も遠処に顕現す。言語に実際の内容有れば、便ち以て効法すべき準則と為りて利害得失に因りて口を改めず。行為に恒常の準則有れば、便ち以て仿効すべき榜样と為りて時勢風気に随いて節を変ぜず。身を修め家を斉くるの道は、尚おこれより要緊ならんや。
初九:閒有家,悔亡。象曰:閒有家,志未變也。婦人之性,剛則必悍,弱則易流,故不可不慎其始也。能慎其始,而使之知禮義、循法度,則可免乎悔吝矣。象言閒有家、志未變者,夫驕奢滛逸,所自邪也,若訓之不以漸,習之不以素,其志已變,已而矯革之,則夫婦之間必將反目矣。蓋治家之道自夫婦始,夫婦正則一家無不正矣。初九以剛明之才為家人之始,是能防閒於未然,使上下內外習熟而安行之也。
初九の爻辞に「一開始より家庭の為に防範を立下す、悔恨消失す」と言い、『小象伝』に「家庭の為に防範を立下すとは、心志の未だ変壊せざる時に趁る也」と言う。婦人の性情は、剛強なれば便ち凶悍なり易く、柔弱なれば又た波に随い流に逐い易し。だから開頭に於いて謹慎せざる能わず。能く開頭に於いて謹慎し、彼女をして礼義を懂得し法度を遵循せしめば、便ち以て悔恨と羞吝を免除し得る。『小象』に「家を閑ぐ有り、志未だ変わらず」と言う。驕縦奢侈・淫佚放蕩は、まさに邪僻の此に由りて生ずる処なり。若し循序漸進に教導するに非ず、平素に習慣を養成するに非ざれば、心志の已に変壊せるの後に至りて再び矯正革除せば、則ち夫婦の間は必ず反目せん。家を治むるの道は夫婦より開始す。夫婦端正なれば、一家に正ならざるなし。初九は剛強明達の才を以て『家人』の開端に処す。まさに能く事情の未だ発生せざる時に於いて防範を設下し、上下内外をして習慣して自然と成りて安然として遵行せしむるなり。
六二:無攸遂,在中饋,貞吉。象曰:六二之吉,順以巽也。六二以陰柔而居中正之位,又上應九五,得婦人之正也。婦人以貞順為徳,主閫內之事而職在中饋,志在承夫,不敢専也。《詩》美大夫妻能循法度,則可以承先祖、供祭祀矣。然則祭祀賓客之奉,婦人之職也,能盡此道,則貞而獲吉。象言六二之吉,順以巽也。合離巽二卦謂之家人,六二一爻専主婦道,其獲吉則以能巽順故也。
六二の爻辞に「擅らに主を作して何かを成就せず、ただ家の中に於いて飲食の事を主持す、正を守りて吉を得」と言い、『小象伝』に「六二の吉を得とは、柔順にして而もまた謙遜なるを以て也」と言う。六二は陰柔の質を以て中正の位に居り、上面に又た九五と相応ず。まさに婦人の正道に合す。婦人は貞静柔順を以て徳と為し、家門以内の事務を主管す。職責は飲食を操辦するに在り、心志は丈夫を承奉するに在り、敢えて自ら主張を作さず。『詩経・召南・采蘋』は大夫の妻子の能く法度を遵循するを賛美し、因りて以て先祖を承奉し祭祀を供給し得。見るに祭祀を操辦し賓客を接待するの事は、まさに婦人の職分なり。能く此の職分を尽くせば、便ち正を守りて吉を獲る。『小象』に六二の吉を得とは、柔順にして謙遜なるを以て也と言う。離・巽の両卦は合せて『家人』と呼ぶ。六二の此の一爻は専門に婦道を講ず。其の吉を得る所以は、まさに能く謙遜柔順なるを以てなり。
九三:家人嗃嗃,悔厲吉;婦子嘻嘻,終吝。象曰:家人嗃嗃,未失也;婦子嘻嘻,失家節也。九三處內卦之上,以陽居陽,近於髙亢,威嚴傷父子之恩,失夫婦之愛,故悔且厲。然威嚴之過,則有所畏憚,而上下內外必肅而無瀆亂之失,故雖悔且厲而獲吉也。嗃嗃雖為威嚴之過,過乃獲吉;婦子嘻嘻,失嚴敬之貌,戒在終吝也。
九三の爻辞に「一家人は管められて声色倶に厲し、悔恨危厲有ると雖も仍お吉を得。婦人孩子は嘻嘻哈哈なれば、最終に羞吝有り」と言い、『小象伝』に「一家人は管められて声色倶に厲しとは、尚お大きい過失と算えず。婦人孩子は嘻嘻哈哈なれば、便ち家を治むるの節度を喪失す」と言う。九三は内卦の頂端に処し、陽爻を以て陽位に居り、高亢に接近す。一味に威厳なれば便ち父子の間の恩情を傷害し夫婦の間の和愛を失掉す。だから悔恨有り危厲有り。然るに威厳は頭を過ぎれば、家人は便ち畏懼忌惮する所有り、上下内外は必ず粛然として而も軽慢混乱に至らず。だから悔恨危厲有ると雖も而も尚お能く吉を獲る。「嗃嗃」は威厳の過分なれど、過分にかえって吉を得。「婦子嘻嘻」とは、荘敬の様子を喪失するにして、警戒は便ち最終に羞吝を招来するに在り。
象曰:家人嗃嗃,未失也;婦子嘻嘻,失家節也。夫以嚴毅治家,雖非中道,未至大失;若婦子以嘻嘻為常,無嚴憚恐懼之意,則失其家節,乃吝道也。又嘻者,歡聲也,嚴而至有憚惜之聲,亦非中道也。
『小象伝』に言う。「一家人は管められて声色倶に厲しとは、尚お大きい過失と算えず。婦人孩子は嘻嘻哈哈なれば、便ち家を治むるの節度を喪失す。」厲く剛毅の辧法を用いて家を治むれば、中道に合せずと雖も、尚お大錯を鋳成するに至らず。若し婦人孩子が嘻笑打鬧を以て常態と為し、毫も敬畏懼怕の意なければ、則ち家を治むるの節度を喪失す。まさに羞吝を招致する路数なり。更に言えば、「嘻」は歓笑の声なり。厲しきこと家人に畏れ惋惜の声のみ残るに至れば、同様に亦中道に合せず。
六四:富家,大吉。象曰:富家大吉,順在位也。《洪範》五福一曰富而不及貴,孔子曰崇髙莫大乎富貴,富貴一也,然貴不可常也,富可保也,能保其富則大吉也。六四處中正而能巽,居近君之位而能順,故象曰富家大吉,順在位也。
六四の爻辞に「家道をして富足ならしむ、大吉」と言い、『小象伝』に「家道をして富足ならしめて大吉とは、柔順にして而もまた位に居りて当を得るを以て也」と言う。『尚書・洪範』は五福を講じ、第一条は「富」にして而も「貴」に提及せず。孔子は『繋辞伝』の裡に崇高は富貴より大きいなきと言う。富と貴は本来一体なれど、然るに「貴」は長保する可からず、「富」は而も守住し得。能く此の富足を守住せば便ち大吉なり。六四は位に処りて正を得て能く謙遜なり、身は君主に接近する位置に居りて能く柔順なり。だから『小象』は言う。家道をして富足ならしめて大吉とは、柔順にして而もまた位に居りて当を得るを以てなり。
昔楚襄王問陽陵君曰:君子之富何如?對曰:假人不徳,不責;食人不使,不役。親戚愛之,眾人善之。蓋為富不仁,為仁不富,世之小人至乗時射利、取倍稱之息者,其違人心多矣。今六四能順以在位,故履大吉,所謂君子之富也歟。
従前楚襄王は陽陵君に問う。君子式の富有は怎様の様子か。答えて曰く。物を借りて人に与えて自ら恩有りと以為せず、亦催討しに往かず。飯を人に喫わしめて駆使を加えず、亦人を役使せず。此の如くは親族は彼を愛戴し、衆人は彼を称許す。大抵一心に富を求めれば便ち仁を行うこと難く、一心に仁を行えば便ち富を致ること難し。世上の小人は甚だしきは時機に趁りて暴利を牟取し、加倍に息を取る高利貸を放出す。則ち大いに人心に違背す。いま六四は能く柔順にして位に居りて当を得。だから大吉を享有す。これは大概所谓君子式の富有ならん。
九五:王假有家,勿恤,吉。象曰:王假有家,交相愛也。九五君位,與二為正應,五居乎外,二處乎內,皆有中正之徳,故為有家之象。王者家天下,如唐堯之親九族,卒能恊和萬邦;文王之刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦;孟子所謂言舉斯心加諸彼而已。治天下之道,蓋自正身齊家始,茍得其道,遑恤其它哉。
九五の爻辞に「君王は至誠を以て感格して一家を擁有す、憂慮するに及ばず、吉利」と言い、『小象伝』に「君王の感格して一家を擁有すとは、上下交わりて相亲愛する也」と言う。九五は君位に処し、六二と正相応し、九五は外卦に居り、六二は内卦に処す。皆中正の徳を具備す。だから「家有り」の象を構成す。君王は天下を以て一家と為す。唐堯の先ず九族を親睦して、最終に能く万邦を協和するに如し。文王は先ず妻子に榜样を作出し、兄弟に推広し、再び家国を治理するに推広す。孟子の説く所は、亦過ぎず此の心思を他人の身上に推広するのみ。天下を治理する路数は、本来便ち自身を端正し家庭を整粛するより開始す。果真に此の路数を掌握せば、豈に尚お別のを憂慮するに顧みん。
聖人之於天下,戒慎恐懼,其蒞事未嘗不惕然也。至事無可疑而眾未喻其理,則有時而勿恤也。如《升》之不當位,用見大人,乃勿恤也;夫九二以剛健而履中正,雖惕號暮夜有戎,度必有以制之,故勿恤也。九五履尊居正,以化民成俗,復何所疑,故勿恤然後吉也。
聖人の天下に対待するは、総じて戒惧謹慎にして、事務を処理するは警惕小心せざるなし。事情の本身に於いて已に疑うべきなきを待てば、ただ衆人の尚お其の中の道理を明白にせざれば、則ち時に以て「恤る勿れ」、顧慮するに及ばず。譬えば『升』卦の処する位置は並びに当たらずと雖も、卦辞は而も「大人を見るを用いて、恤る勿れ」と言う。又た『夬』卦の九二の如きは剛健の才を以て中に居りて正を得、警惕呼号して傍晚に敵兵の来襲有らんを防備するも、但し自らを估量して必ず之を制服する辧法有り。だから「恤る勿れ」と言う。九五は身は尊位に居り立身端正にして、以て百姓を教化し風俗を養成すれば、尚お何の疑慮すべきか有らん。だから憂慮するに及ばず、然る後に吉を得。
象曰王假有家,交相愛者,蓋言有應也。治家之道與治天下一也。夫義婦順,父慈子孝,兄友弟恭,未常不相因也。視民如子,則民之愛之甚於父母也;厲民以自養,則民之疾之甚於仇讎也。孔子所謂先王有至徳要道,以順天下,民用和睦,上下無怨者,其理如此。
『小象伝』に君王の感格して一家を擁有し上下交わりて相亲愛すとは、九五と六二の応有るを講ず。家を治むるの道理と天下を治理するの道理は一回事なり。丈夫は道義に合せば、妻子は柔順にて相従す。父は慈愛、兒は孝順。兄は友善、弟は恭敬。此れらは従来互いを以て因果と為す。君主は百姓を看待すること自らの孩子を看待するに如けば、百姓の彼を愛戴するは父母を愛戴するに勝る。反って百姓を盤剥して以て自らを供養せば、百姓の彼を憎恨するは仇讐を憎恨するに勝る。孔子は『孝経』の裡に先王は至高の徳行・精要の道理有りて、以て天下を順化し百姓をして和睦し上下怨なからしむと言う。道理はまさに此の如し。
上九:有孚威如,終吉。象曰:威如之吉,反身之謂也。治家之道,威信而已。有信則內外不欺,有威則上下必肅。上九在家人之終,處柔順之極,聖人蓋慮夫不能常久而不變,有孚威如,常久之道,父子夫婦之間交孚而不欺、有禮而不瀆,則家道成矣,故獲終吉也。象曰威如之吉,反身之謂也。父子夫婦以恩為主,加之威嚴則怨讟而傷恩,必先正其身,以身教者從,故中心恱服,雖威如而不失歡然之恩也。
上九の爻辞に「誠信を懐きて而もまた威厳荘重なれば、最終に吉を得」と言い、『小象伝』に「威厳にして吉を得とは、反って自身を端正するを説く」と言う。家を治むるの辧法は、過ぎず威と信の両条のみ。誠信有れば、内外は便ち互相欺瞞せず。威厳有れば、上下は便ち必ず粛然たり。上九は『家人』卦の終末に処し、又た柔順の極点に処す。聖人は大概此の如き局面の能く長久に保持せずして変を生ぜんを擔憂す。だから「孚有り威如」はこそ長久の道なりと言う。父子の間・夫婦の間は彼此誠信にして欺瞞せず礼節有りて軽慢せず。一家の規矩は便ち成ると算す。だから最終に吉を得。『小象伝』に威厳にして吉を得とは、反って自身を端正するを説く。父子夫婦の間は恩情を以て主と為す。一味に威厳を加えれば便ち怨恨を招来して恩情を傷る。だから必ず先ず自己を端正するを要す。自身を用いて榜样を作して教化すれば、別人は自然に跟従し、因りて内心は悦服す。威厳荘重なれど而もあの融融たる恩情を失掉せず。
睽卦(兌下離上)
兊下離上,睽:小事吉。象曰:睽,火動而上,澤動而下,二女同居,其志不同行。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉。天地睽而其事同也,男女睽而其志通也,萬物睽而其事類也,睽之時用大矣哉。象曰:上火下澤,睽;君子以同而異。
『睽』卦は兌は下に在り離は上に在り、卦辞に「小事は吉を得」と言う。『彖伝』に言う。「睽は、火は動きて上に向かい���は動きて下に向かい、二個の女子は一屋に同住して而も心志は各々相同じからず。欣悦して光明に依附し、柔爻は上進して上位に居り、中に居りて剛爻と相応ず。だから小事は以て吉を得。天地は相互に睽違すれど、万物を化育する事は而も相同ず。男女は相互に睽違すれど、求合の心志は而も相通ず。万物は彼此睽違すれど、各自の情状は而も同類なり。『睽』卦の時勢の功用は太も重大なり。」(此の段の原書は「象曰」と作す、実は『彖伝』の文なり。)『大象伝』に言う。「上面は火、下面是沢、これ『睽』卦の象なり。君子は之に法り取り、大処に於いては同を認め小処に於いては異を存す。」
初九:悔亡,喪馬勿逐自復,見惡人無咎。象曰:見惡人,以辟咎也。九二:遇主于巷,無咎。象曰:遇主于巷,未失道也。六三:見輿曳,其牛掣,其人天且劓,無初有終。象曰:見輿曳,位不當也;無初有終,遇剛也。
初九の爻辞に「悔恨消失す。走失の馬は追うに及ばず、它は自ら回来せん。厭悪する人に一見す、過錯なし」と言い、『小象伝』に「厭悪する人に一見すとは、以て咎害を避開する為なり」と言う。九二の爻辞に「小巷の裡に於いて君主に遇上す、過錯なし」と言い、『小象伝』に「小巷の裡に於いて君主に遇上すとは、並びに正道に背離せざる也」と言う。六三の爻辞に「大車の拖住せらるるを見、車を拉く牛の牽掣せらるるを見、車を赶く人は黥額割鼻の刑を受く。起初は順ならず、最終に好結果有り」と言い、『小象伝』に「大車の拖住せらるるを見るは、処する位置の相応当ならざるを以て也。起初は順ならずして而も最終に好結果有るは、剛爻に遇上するを以て也」と言う。
九四:睽孤,遇元夫,交孚,厲無咎。象曰:交孚無咎,志行也。六五:悔亡,厥宗噬膚,徃何咎。象曰:厥宗噬膚,徃有慶也。上九:睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪冦婚媾,徃遇雨則吉。象曰:遇雨之吉,群疑亡也。
九四の爻辞に「乖離して孤单なり、陽剛の同道に遇上し、彼此誠信を以て相交わり、危厲有ると雖も而も過錯なし」と言い、『小象伝』に「誠信を以て相交わりて過錯なきは、心志の施行し得るを以て也」と言う。六五の爻辞に「悔恨消失す、其の宗族親党は嫩肉を吃するが如く容易に親合し、前往すれば尚お何の過錯か有らん」と言い、『小象伝』に「宗族親党は嫩肉を吃するが如く容易に親合すとは、前往すれば喜慶有らん」と言う。上九の爻辞に「乖離して孤单なり、猪背の上に満ちて汚泥有るを見、又た一車は鬼怪を載るを見。起先は弓を張りて射せんと欲し、随後に又た弓を放下す。原来は強盗に非ずして而も婚を求めに来るなり。前往して雨に遇えば則ち吉」と言い、『小象伝』に「雨に遇えば吉を得とは、種種の猜疑の皆消散するを以て也」と言う。
蹇卦(艮下坎上)
艮下坎上,蹇:利西南,不利東北,利見大人,貞吉。彖曰:蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉。蹇利西南,徃得中也;不利東北,其道窮也。利見大人,徃有功也;當位貞吉,以正邦也。蹇之時用大矣哉。象曰:山上有水,蹇;君子以反身修徳。
『蹇』卦は艮は下に在り坎は上に在り、卦辞に「西南に往くに利し、東北に往くに利あらず。大人を見るに利し、正を守りて吉を得」と言う。『彖伝』に言う。「蹇は、即ち艱難にして、険阻は前面に横たわる。険阻を見て而も能く止まるは、真に明智なり。『蹇は西南に利し』とは、前往すれば以て中道を得る也。『東北に利あらず』とは、あの路は已に尽頭に走り至る也。『大人を見るに利し』とは、前往すれば功效有らん。位に居りて当を得て正を守りて吉を得とは、以て邦国を匡正し得る也。『蹇』卦の時勢の功用は太も重大なり。」『大象伝』に言う。「山上に水有り、これ『蹇』卦の象なり。君子は之に法り取り、反って自身を検査し徳行を修養す。」
初六:徃蹇來譽。象曰:徃蹇來譽,宜待也。六二:王臣蹇蹇,匪躬之故。象曰:王臣蹇蹇,終無尤也。九三:徃蹇來反。象曰:徃蹇來反,內喜之也。六四:徃蹇來連。象曰:徃蹇來連,當位實也。九五:大蹇朋來。象曰:大蹇朋來,以中節也。上六:徃蹇來碩,吉,利見大人。象曰:徃蹇來碩,志在內也;利見大人,以從貴也。
初六の爻辞に「前往すれば難有り、回来すれば則ち美誉を得」と言い、『小象伝』に「前往すれば難有りて回来して誉を得とは、応当に時機を等待すべき也」と言う。六二の爻辞に「王臣は国事の為に艱難を歴尽す、並びに自身の縁故の為に非ず」と言い、『小象伝』に「王臣は国事の為に艱難を歴尽すとは、終に過失あらじ」と言う。九三の爻辞に「前往すれば難有り、頭を回して返帰す」と言い、『小象伝』に「前往すれば難有りて頭を回して返帰すとは、内卦の二個の陰爻の皆彼を喜ぶ也」と言う。六四の爻辞に「前往すれば難有り、回来すれば則ち人と連結す」と言い、『小象伝』に「前往すれば難有りて回来して連結すとは、位に居りて当を得て而も誠実なるを以て也」と言う。九五の爻辞に「身は大難の中に処し、朋友は前来して相助す」と言い、『小象伝』に「身は大難に処して朋友は来りて助くとは、能く中に居りて而も節度有るを以て也」と言う。上六の爻辞に「前往すれば難有り、回来すれば則ち大いに成有り、吉利、大人を見るに利し」と言い、『小象伝』に「前往すれば難有りて回来して大いに成有るは、心志の内卦に在るを以て也。大人を見るに利しとは、尊貴の九五に追随せんと欲する也」と言う。
巻七
解卦(坎下震上)
下經。坎下震上。解:利西南,無所往,其來復吉;有攸往,夙吉。解者,散也,散險阻而為平易,而卦體不離乎險阻,但解散之耳。蓋東北為險阻,而解坎下而震上。在蹇為水,解則散而為雨;在蹇為艮,解則變而為震。故解體為東北,其用則利於西南。聖人當蹇解之世,非能出乎險難以求解散也。
以下は下経に入る。『解』卦の下体は坎、上体は震なり。卦辞に言う。「西南に利し、往く所なし、其れ来復すれば吉。往く攸有れば、夙に吉。」所谓「解」とは、即ち解散なり。険阻を消散開きて、平坦易行と化す。然るに卦体の本身は並びに険阻を離れず、ただ険阻を一層層に解开するのみ。方位に按れば、東北は険阻の地にして、而して『解』卦はまさに坎は下に在り震は上に在り。『蹇』卦の中に於いて坎は水にして、『解』卦に至れば、水は便ち消散して雨と化す。『蹇』卦の中に於いて下体は艮にして、『解』卦に至れば、艮は便ち変じて震と為る。だから『解』卦の卦体は東北に属すれど、而して其の功用は而も西南に宜し。聖人は艱蹇より解散に転向する時局に身を処し、並びに険難を硬闖して出でて解散を強求するに非ず。
故坎不能,而艮不能止,如冰解凍釋、龍蛇之奮迅也。西南為坤,廣大平易之象也。當解之時,險阻既除,憂虞既散,則以平易治之。秦不能然,既平六國之後,首用商君刑法,苛急,其亡也忽焉;漢祖入闗,但約法三章耳,其興也勃焉。故解之時利西南也。
『解』の時に至れば、坎険は再び人を陷る能わず、艮止も亦再び阻擋する能わず。堅氷の消融し凍土の開解するに如く、蟄伏の龍蛇は一斉に振奋騰躍す。西南は方位の上に於いて坤に属し、広大平坦・通行し易きの象なり。解散の時に当たりて、険阻は已に清除し憂患は已に消散せば、便ち応当に寛平簡易の辧法を用いて以て治理すべし。秦朝は此の一点を做到せず。六国を平定の後に、首先に商鞅のあの一套の刑法を起用し、苛刻急迫にして、だから滅亡するやあの如く突然なり。漢高祖は関中に入り、ただ父老と約法三章するのみ、だから興起するやあの如く勃然なり。これが即ち『解』卦の時の「西南に利し」の道理なり。
外難既除,故無所往,但退而修其政刑耳。宣王中興,覆文武之境土,故天下喜於王化復行,吉解至姤,孰如之?故曰「無所往,其來復吉」也。禍患雖已散解,其間亦有負固不服者,不亟除之則滋蔓而難圗,故「有攸往,夙吉」也。解有解緩之義,故戒以當夙則吉也。
外部の禍難は既に除去せれば、だから「往く所なし」と言い、ただ退き回来して自らの政令刑法を整頓するを須すのみ。周宣王は中興して、文王・武王の時の疆土を収復し、天下は皆王道教化の重ねて推行せらるるに欣喜す。此の一份の解散より遇合に帰するの吉慶は、尚お何の之に比するかあらん。だから卦辞は「往く所なし、其れ来復すれば吉」と言う。禍患は已に消散解开せると雖も、其の間に尚お険固を憑恃して服帰を拒む人有り。早く鏟除せざれば、便ち蔓草の如く滋長蔓延して收拾し難からん。だから「往く攸有れば、夙に吉」と言う。「解」の字は又た松懈遲緩の意思を含有す。だから聖人は特地に告戒す。要するに早く手を動かしてこそ吉利なり。
彖曰:解,險以動,動而免乎險,解。解利西南,往得眾也;其來復吉,乃得中也;有攸往夙吉,往有功也。天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲坼,解之時大矣哉!蹇之時,險難在外,故見險而能止;解之時,險難在內,故乘險而動,則出乎險中,此聖人觀時而動靜者也。西南坤位,卦言坤厚載物,徳合無疆,含光大,品物咸亨。解之利西南,西南得朋,故彖言往得眾也。方險難解散之時,如雷雨之作,物無不被其膏潤者,豈獨一身能脫乎險難哉!
『彖伝』に言う。「解は、険にして動き、動いて険を免る。解は西南に利し、往けば衆を得。其れ来復すれば吉、乃ち中を得る也。往く攸有れば夙に吉、往けば功有る也。天地は解れて雷雨作り、雷雨作りて百果草木は皆甲坼す。解の時は大なり。」『蹇』卦の時は、険難は外卦に在り。だから『蹇・彖伝』は人に「険を見て能く止まる」を教えり。『解』卦の時は、険難は内卦に在り。だから険に乘りて奋起行動するを要し、こそ険の中より脱き出づべし。これはまさに聖人の時勢を觀察して以て或いは動或いは静を決定するの道理なり。西南は坤の方位にして、『坤』卦は坤徳の厚重にして万物を承載し、徳行は広合して而も辺際なし、光明博大を含蔵し、万物は皆此に因りて亨通すと講ず。『解』の「西南に利し」の所以は、まさに『坤』卦辞の「西南は朋を得」に由りて、だから『彖伝』は「往けば衆を得也」と言う。険難の解散する際に当たりて、雷雨の驟然として作るに如く、万物は其の膏沢滋潤を蒙受せざるなし。豈にただ自己一身の険難を脱離するのみならん。
險難解散,外無憂虞,故無所往,其來復吉。解雖赦過宥罪,其間亦有怙惡不悛者,如蔓草然,勿使滋蔓難圗也,故有攸往則不可緩也。若出其不意,掩其不偹,則無能為矣。非若蹇難之世往則愈蹇也,故曰徃有功。當解之時,復與往皆吉,蓋時適然耳。方天地否閉而成冬,則雷在地中,於卦為復;天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲坼,則於時為春,於卦為解。聖人贊天地之化育,故發政施仁、刑威慶賞,未有不因乎天者,然則解之時豈不大矣哉!
険難は已に解散し、外面に憂患の慮るべきなし。だから「往く所なし」、頭を回して内政を修治すれば便ち吉利なり。解散の世は赦免過失・寛宥罪人を以て常法と為すと雖も、其の中に尚お悪を憑って改めざる人有り。蔓草の如く、絶えて其れを滋長蔓延して収拾し難きに至らしめず。だから「往く攸有り」は一刻も遅緩する能わざるなり。若し能く其の意に出でざり其の備えなきに乘ぜば、あれらの人は便ち作為する所なし。これは『蹇』卦の世と相同じからず。『蹇』の世は愈々前に往けば愈々艱難にして、『解』の世は前往すれば而も功を建つべし。だから「往けば功有り」と言う。解散の時に当たりて、返回と前往は同様に吉利なり。あれは時勢の恰好此の如しを以てなり。天地の閉塞して冬と成るに当たりては、雷は地の中に潜伏して、卦に於いては『復』なり。天地は解散して雷雨は興作し、雷雨は興作して百果草木は皆甲を破りて発芽す。時令に於いては春、卦に於いては『解』なり。聖人は天地を輔助して万物を化育す。だから其の政令を頒布し仁恩を施行し刑威を動用し慶賞を頒賜するは、一様として天時に依循せざるなし。此の如く見れば、『解』卦の時は豈に極めて重大ならざらん。
象曰:雷雨作,解,君子以赦過宥罪。當春之時,蟄蟲始振,雷乃發聲,天地之難解矣。聖人體解之時,順其發生之徳,過則赦之,罪則宥之。過者未罹於法,容其自新,故赦之;罪者已入於刑,量其罪之大小,有所殺,非直縱而釋之也。
『大象伝』に言う。「雷雨作りて解、君子は以て過を赦し罪を宥す。」春天に到来すれば、蟄伏の虫豸は活動を開始し、雷はこそ声響を発す。天地の間の凝滞する艱難は便ち解开す。聖人は『解』卦の時を体察し、上天の万物を生発する徳性に順応し、過失に於いては便ち赦免し、罪愆に於いては便ち寛宥す。所谓「過」とは、未だ刑法に触犯せざるにして、彼を容して自ら改過更新せしむ。だから赦免す。所谓「罪」とは、已に刑律に落入せるにして、便ち其の罪行の軽重を衡量し、酌情して等を減じて発落す。並びに一味に放縦して開釈するに非ず。
初六:無咎。象曰:剛柔之際,義無咎也。六以陰柔憂慮,居解散之始,宜未能免咎,然上承九二之剛陽,正應在四,以柔承剛,以陰應陽,剛柔之際於理為順,故得無咎也。難既解散,尊卑各正其位,上下各安其分,不相凌犯,尚何悔咎之有哉?
初六の爻辞。「咎なし。」『小象伝』に言う。「剛柔の際は、義に咎なし。」初六は陰柔の質を以て憂懼を多くし、又た解散の世の開端に処す。理に照らせば災禍を免れ難し。但し它の上面は九二の剛陽を承接し、又た九四と正相応し、柔順を以て剛健を承奉し、陰気を以て陽気に応合す。剛と柔の交接する処は、情理の上に於いて和順に属す。だから能く差錯を出ださず。艱難は既に解散せれば、尊貴と卑下は各自に自らの位置を摆正し、上に在り下に在りは各自に自らの本分を安守し、互相に侵犯せず。尚お何の悔恨と災禍か有らん。
九二:田獲三狐,得黃矢,貞吉。象曰:九二貞吉,得中道也。狐隠伏多疑,如小人之邪佞狙詐以害正道。獲三狐,則小人之情得,正直之道伸矣,故吉。九二正應在五,以剛應柔,為五所任,雖處乎險中而得中直之道,故能解散險難而獲眾邪,可謂能勝其任矣。九二體坎,本於險中,非能解散險難者也,然六五之君為之正應,因險用中以濟危難,故邪佞狙詐者不能逃也。故象言九二貞吉得中道也。二雖性險,用以解難,適時得正,吉其宜矣。
九二の爻辞。「田は三狐を獲、黄矢を得、貞吉。」『小象伝』に言う。「九二の貞吉は、中道を得る也。」狐狸は隠伏を善くして而も生性多疑なり。まさに小人の邪僻諂佞・狡詐にして窺伺し、専門に正道を敗壊するに如し。三匹の狐狸を猟獲すれば、即ち小人の底細は識破せられ、正直の道は伸張を得。だから吉利なり。九二と六五は正相応し、剛健を以て柔順に応え、六五に倚任せらる。身は険陷の中に処するも、而も中正剛直の道を守住す。だから能く険難を解散して衆多の邪佞を擒獲す。以て自らの職責を勝任せりと説くべし。九二は坎体に属し、本来便ち険の中より出身す。並びに天生より能く険難を解散する人に非ず。然るに六五の君は之と正相応し、它は便ち険境に就着して中道を運用して危難を救済す。だからあの邪佞狡詐の徒は逃るる可き処なし。因此『小象伝』は「九二の貞吉は、中道を得る也」と言う。九二は禀性は険を帯ぶと雖も、而も之を用いて以て禍難を解除す。時宜に合して而も其の正を守り得れば、吉利は本来応当なり。
六三:負且乗,致冦至,貞吝。象曰:負且乗,亦可醜也;自我致戎,又誰咎也。六三以陰柔而居二剛之間,負上而乗下。負者,小人之事也;乗者,君子之器也。小人而乗君子之器,盜斯奪之矣。孔子於此一爻著之繫辭,特加詳焉,言作易者其知盜乎。蓋盜亦有道,若無隙之可乗、無間之可入,雖善盜者莫能犯也。
六三の爻辞。「負い且つ乗ず、寇を致さしむ、貞吝。」『小象伝』に言う。「負い且つ乗ずとは、亦以て醜しき也。自ら戎を致す、又た誰を咎めん。」六三は陰柔の質を以て九二・九四の二個の剛爻の中間に夾まり、上面の陽爻を背負して而も下面の陽爻の上に凌駕す。重担を背負するは、小人の干る差事なり。車乗輿服は、君子はこそ配して用る器物なり。小人は而も君子の車乗に坐上せり。強盗は自然に来りて彼を搶奪せん。孔子は『繋辞伝』の裡に此の一爻を特地に拈じ出だして詳しく発揮を加え、『易』を作る人は大概盗賊の理を懂得せるかと言う。原来賊を做すも亦賊を做すの門道有り。若し乗ずべき空隙なく鑽るべき縫隙なければ、たとえ最も盗偸を擅長する人なるも亦手を下すに由なし。
上慢下暴,所以致冦而招盜也。如此者雖貞猶吝,況以不正處之乎?象言負且乗亦可醜也、自我致戎又誰咎也,言負擔之小人而乗軒車,人固不以為榮,故可醜也。小人之盜猶女子之滛,滛盜一也。自我致,慢蔵誨盜,猶冶容之誨滛,皆自已取之,何所歸咎乎?故曰又誰咎也。
上位に在る者は傲慢にして、下位に在る者は残暴なり。これが即ち寇兵を招来し盗賊を引来るの縁由なり。此の如き人はたとえ正を守るも仍お憾惜を免れず。況んや彼は本来処身正からざるをや。『小象伝』に「負い且つ乗ずとは、亦以て醜しき也。自ら戎を致す、又た誰を咎めん」と言う。一個のただ重担を背負するに配する小人は而も軒車に坐上せり。人々は本来此を荣耀と看作せず。だから以て醜しき也。小人の盗窃は、女子の淫乱に如し。淫と盗は其の実一回事なり。所谓「自ら致す」とは、まさに『繋辞伝』の説く所に如く、収蔵の謹慎ならざるは人に教えて偸ましむるに等しく、妝扮の太も妖冶なるは人に教えて淫らしむる���等し。皆自らの招来する所にして、尚お過過錯を誰に推し委ねん。だから「又た誰を咎めん」と言う。
九四:解而拇,朋至斯孚。象曰:解而孚,未當位也。拇,足大指也,在一身之中最為微賤。解之時赦過宥罪,恩施所及,雖賤者皆獲解散,則其黨類無不信服矣。九四正應在初,初為解始,聖人施徳恵於天下,當一視而同仁,今所解者特其所應而已,蓋四之陰柔非陽剛之所當寓也。故象言解而拇未當位者,當位謂三五也。使九而寓三,則車服必稱而無負乗之累矣;使九而寓五,則履尊居正而所及者必廣矣。
九四の爻辞。「其の拇を解らば、朋至して斯に孚有り。」『小象伝』に言う。「解れて孚有るは、未だ位に当たらざる也。」「拇」は脚の大趾にして、人の一身の中に於いて最も卑微低賤なり。解散の時に過失を赦免し罪人を寛宥せば、恩沢の到る所は、最も卑賤の人に至るも解脱を得。則ち其の同類は便ち心に悦び誠に服せざるなし。九四と初六は正相応し、初六は解散の開端なり。聖人は徳沢恩惠を天下に施すは、本当に同仁に一視すべしに、いま九四の解脱する所は而もただ自己と相応するあの一個のみ。これは四の此の陰柔の位は並びに陽剛の身を寄すべき地に非ざるを以てなり。だから『小象伝』は「其の拇を解るは、未だ位に当たらず」と言う。所谓「位に当たる」の指すは三・五の二個の陽位を言う。假使此の陽爻が三位に身を寄せば、則ち車馬服飾は便ち身分と相称し、「負い且つ乗ず」の拖累有らじ。假使此の陽爻が五位に身を寄せば、則ち尊に居りて正を守り、恩沢の及ぶ所は必ず広遠ならん。
六五:君子維有解,吉,有孚于小人。象曰:君子有解,小人退也。六五柔弱之君,非能威制海內,所以服強梗亂治之小人、以解散禍亂者,惟有解而已。解非聖人之得已也,蓋力不足以制小人,行姑息之政以解一時之禍患可也。故解然後獲吉,而小人知其必貸,咸有自親之志,如雷雨之作而草木枯悴者無不甲坼矣,龍蛇之閉蟄者無不奮迅矣。聖人與天下更始,赦宥之行有不得已者。象曰君子有解、小人退者,小人一旦盪滌瑕垢,齒於平民,孰有不退聴者乎?古人以赦令為小人之幸者,豈不然哉!
六五の爻辞。「君子は維れ解有り、吉、小人に孚有り。」『小象伝』に言う。「君子は解有るは、小人退く也。」六五は柔弱の君にして、威勢を憑りて天下を制服する力量なし。則ち其の強横不馴・政治を擾乱する小人を降伏するに用い、禍乱を解散するの辧法は、便ちただ一個の「解」の字のみ。「解」を用うるは並びに聖人の心甘情願の選択に非ず、実在は力量の小人を制服するに足らずして、好んで姑息寛縦の政策を施行し、以て一時の禍患を解除するなり。だから解散して然る後に吉利を獲得す。而して小人は自らの必ず寛貸せられんを知りて、人人は朝廷に親附するの心思を生出す。雷雨の驟然として作り、枯槁憔悴の草木すら甲を破りて芽を抽き、蟄伏の龍蛇すら振奋騰躍せざるなきに如し。聖人は天下人と一同に重ねて開始し、赦宥を頒行す。其の中に実に已むを得ざる苦衷有り。『小象伝』に「君子は解有るは、小人退く」と言う。小人は一たび身上の汚点を洗刷して、重ねて平民と並列せば、豈に退避して聴命せざらんや。古人は大赦の令を看作して小人の僥倖と為す。豈にまさに此の如くならざらん。
上六:公用射隼于髙墉之上,獲之,無不利。象曰:公用射隼,以解悖也。鷙鳥之搏也,必匿其影然後能獲物,今在髙墉之上,宜乎為人所獲也。以象小人在當位而善害物者,上六是已。方解之時,不能逺跡退聽,猶竊據寵榮而在髙位,聖人之所必不赦也。獲者,得之難,如獲其大首也。蓋赦宥盪滌之後,猶負固不服,此小人之桀黠者,故射之。射者,用干戈以取之也。
上六の爻辞。「公は隼を高墉の上に射て、之を獲、利ならざるなし。」『小象伝』に言う。「公の隼を射るは、以て悖を解く也。」凶猛の鷲鳥は捕食するは、必ず先ず自らの形影を蔵起し、然る後にこそ猟物を捕え得。いま此の隼は而も高墻の上に停り、怪しむなかれ人に射獲せらる。之を用いてあの身は其の位に居りて害を擅長する小人に比擬すれば、上六はまさに此の如き角色なり。解散の世に当たりて、彼は遠く退避し俯首して聴命するを肯ぜず、反って仍お恩寵栄位を窃据して上位に高踞す。これは聖人の絶えて赦免するを肯するを肯ぜざるなり。「獲」の字は擒獲の難を説く、敵方の元凶首領を擒住せるが一般なり。大凡赦宥滌蕩の後に於いても、尚お険固を憑恃して服帰を拒むは、即ち小人の中の最も凶悍狡黠の一類なり。だから箭を用いて彼を射るを要す。所谓「射」とは、即ち兵戈を動用して彼を拿下す。
上六當解難之極,而小人終不知變,將復害君子,於此能獲之,則天下之難解矣,故曰獲之無不利也。象言公用射隼以解悖者,夫為治而不能終去悖亂之小人,天下何時而定乎?公者,人臣之極位也,悖亂之人非假威望之大臣孰能制之?成王之時,三監及淮夷叛,周公東征,則罪人斯得矣。孔子於繫辭復詳言之,曰:弓矢者器也,射之者人也,君子藏器於身,待時而動,何不利之有?動而不括,是以出而有獲,語成器而動者也。以見取之難,而動之不可妄也。
上六は解難の極点に処し、而して小人は終始改変するを肯ぜず、尚お頭を転じて君子を加害せんと欲す。此の時に於いて能く彼を擒獲せば、天下の禍難は便ち真に解开す。だから「之を獲、利ならざるなし」と言う。『小象伝』に「公の隼を射るは、以て悖を解く」と言う。見るに天下を治理して而も能く悖逆して乱を作す小人を最終に除掉せざれば、天下は何時かこそ安定せん。「公」は人臣の中の最高の爵位なり。悖逆して乱を作す人は、若し威望有る大臣に借重せざれば、誰か能く彼を制服せん。周成王の時に、三監は淮夷と聯合して叛乱し、周公は東征し、罪人はこそ擒獲せられし。孔子は『繋辞伝』の裡に又た詳しく此の一爻を申説して言う。弓箭は器械にして、之を用いて射るは人なり。君子は器械を身上に蔵して、時機を等待して而る後に動けば、豈に不利有らん。行動し起こせば毫も窒礙なし。だから一たび手を出だせば便ち擒獲する所有り。これは先ず器械を備えて然る後に行動するを講ず。此に由りて見れば擒獲の難を知る、而して行動は軽挙妄動すべからざるなり。
損卦(兌下艮上)
兌下艮上。損:有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。損之道莫大乎有孚。蓋損已以益物,損上以益下,損剛以益柔,人之所甚難也。世之人固有矯激而為之者,其損也志在乎求益而已。惟君子能以至誠格物,勝其私心,以就理義之正。
『損』卦の下体は兌、上体は艮なり。卦辞に言う。「孚有り、元吉、咎なし、貞すべし、往く攸有るに利し。曷ぞ之を用いん、二簋は以て享する可し。」損の道は、「孚有り」即ち内心の誠信より要緊なるなし。自己を減損して以て他人を増益し、上に在る者を減損して以て下に在る者を増益し、剛強を減損して以て柔弱を増益するを以て、皆人の最も做到し難き事なり。世上は固より矯情激切・勉强して為す人有れど、彼らの所谓「損」の用心は、過ぎず更に大きい回報を求取するに在るのみ。ただ君子のみ能く至誠を以て外物に感通し、自らの私心を克制して、義理の正道に帰就到さしむ。
富貴者,人之所欲也,不以其道得之不處也;貧賤者,人之所惡也,不以其道得之不去也。患難不茍避也,勞苦之事必爭先也。以誠意行之,故獲元吉,然後乃無咎。既獲元吉,內外交孚,固無咎之者,故退而窮處則其道可貞,逹而有為則所往皆利。
『論語・里仁』に言う。富と貴は人人の欲する所にして、若し正道を用いて得るに非ざれば、君子は便ち安享せず。貧と賤は人人の厭悪する所にして、若し正道を循りて擺脱するに非ざれば、君子は便ち擺脱せず。患難に遇えば苟且に躲避せず、労苦の事に遇えば必ず人の前に搶う。真誠の心意を以て此の一切を為せば、だから大吉を獲得し、然る後にこそ過錯なしと談ずべし。既に大吉を獲得せれば、内心と外物は彼此信従し、本来彼に帰咎する人なし。だから窮困の地に退居するも、操守は尚お以て堅正不移と為り得。顕達して作為有れば、則ち何処に往くも順利ならん。
曷之用二簋可用享者,損之益上,豈貴乎備物哉?澗溪沼沚之毛、潢汙行潦之水可薦於神明者,亦以誠為主耳。曷之用者,聖人慾盡損之理,則曰何所用之乎?二簋可用享,言菲薄之物可交神明、格天地也。以上下二卦言之,兊下艮上為損。陽能益物者也,兊本乾剛也,坤以陰柔損之而成兌,所謂損下也;陰受益者也,艮本坤柔也,乾以陽剛益之而成艮,所謂益上也。
卦辞に「曷ぞ之を用いん、二簋は以て享する可し」と言う。減損して下に在る者を以て上に在る者を増益すは、豈に祭品の豊備に在らん。『左伝』の裡に説過せり。山澗渓溝の中の野菜・窪地路面の上の積水も亦以て神明に進献し得。関鍵は同様にただ一個の「誠」の字に在るのみ。所谓「曷ぞ之を用いん」とは、聖人は「損」の道理を講き透さんと欲して、便ち一句を反問す。究竟何を用いるを要せん。所谓「二簋は以て享する可し」とは、菲薄の祭品も亦以て神明に交通し天地に感格するに足るを説く。上下両体に就いて言えば、兌は下に在り艮は上に在りて便ち『損』と成る。陽は能く別物を増益する者なり。兌は本乾の剛より出づ、坤は陰柔を用いて之を減損して兌と為る。これが即ち所谓「下を損す」なり。陰は増益を接受する者なり。艮は本坤の柔より出づ、乾は陽剛を用いて之を増益して艮と為る。これが即ち所谓「上を益す」なり。
世之人皆知損之為損,而不知損之為益,故損下益上則謂之損,而損上益下則謂之益。向子平讀損益二卦,然後知貴之不如賤、富之不如貧,但未知死何如生耳。然則損益盈虛之理,非聖人孰能逹其精微哉!堯之土階茅茨、漢文之弋綈革舄,人主之尊能深自貶損。若武王克商之後,散鹿臺之財,發巨橋之粟,大賚四海而萬姓悅服,此當損之時益莫大焉。唐明皇用宇文融、韋堅之流,行聚斂刻剝之政,歲進羨餘為天子私蔵,百姓流亡,海內耗竭,致祿山之禍,損莫大焉。
世人は皆ただ「損」は虧損なりと知りて、而も「損」のまさに増益なるを知らず。だから減損して下に在る者を以て上に在る者を増益するはかえって『損』と呼び、減損して上に在る者を以て下に在る者を増益するはかえって『益』と呼ぶ。東漢の向子平は『損』『益』の両卦を読みて、これ才く顕貴は卑賤に如かず富有は貧窮に如かずを明白にす。ただ尚お死と生は究竟何様が更に好きかを明白にせざるのみ。此の如く見れば、損と益・盈と虚の道理は、聖人に非ざれば誰か能く其の中の精微に通達せん。唐堯の宮室は過ぎず土築の台階・茅草の屋頂、漢文帝は身は粗厚の黒繒を身穿ち脚は皮革の履を着して、人君の尊を以て能く深く自らを貶抑す。周武王の商朝を攻克の後に至っては、鹿台の銭財を散発し巨橋の糧倉を開放し、普遍に四海を賞賜して万姓は心に悦び誠に服す。これはまさに「損」の時に当たりて而も收益最大なるの例子なり。唐明皇は宇文融・韋堅の一流の人物を任用し、捜刮聚斂・百姓を刻剥するの政策を推行し、每年は所谓「羡余」を進献して天子の私房に充とす。結果は百姓は流亡し海内の財力は枯竭し、安禄山の禍を招来す。これが即ち最大の虧損なり。
彖曰:損,損下益上,其道上行。損而有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。二簋應有時,損剛益柔有時,損益盈虛,與時偕行。損下益上、其道上行,以卦體言之也。兊處艮下,艮者坤之變也,乾剛也,損其三以益上而成艮,故曰其道上行。上行者,上通乎君也。
『彖伝』に言う。「損は、下を損して上を益す、其の道は上行す。損して而も孚有れば、元吉、咎なし、貞すべし、往く攸有るに利し。曷ぞ之を用いん、二簋は以て享する可し。二簋は応に時有るべく、剛を損して柔を益すも時有り、損益盈虚は、時と偕に行う。」「下を損して上を益し、其の道は上行す」は卦体に就いて説く。兌は艮の下面に処す。艮は坤より変じて来るにして、乾は剛なり。下体乾の第三爻を上に減損して上体を増益せば、此に於いて上体は艮と成る。だから「其の道は上行す」と言う。所谓「上行」とは、即ち下面より向上して君主に通達す。
曷之用二簋可用享者,籩豆簠簋皆祭祀之器,特言簋者,物不必備也。享祀之禮以誠敬為主,當損之時非豐大之世,特禮有不可闕者,掃地而祭可也。象車玉輅用於太平之世猶以為非,若徒為觀美以誇耀閭閻之耳目,非獨欺其君,上則欺天,下則欺民,內必欺心,神其吐之矣。聖人觀通以行典禮,二簋之祭適時而已。
卦辞は「曷ぞ之を用いん、二簋は以て享する可し」を講ず。籩・豆・簠・簋は皆祭祀に用うの器皿にして、此処に偏偏としてただ「簋」を説く。まさに祭品は様様斉備するを必須とせざるを表示す。祭享の礼は誠心敬意を以て根本と為す。減損の時に当たりては、本来並びに豊盛盛大の年月に非ず。ただ礼節に缺廃すべからざる有れば、則ち一塊の干凈の地面を掃き出だして以て祭祀するも亦足れり。装飾華美の象車・玉輅は太平の世に用いるも、尚お以て応当ならざると為す人有り。況んやただ好看の為にして、拿来して街巷の百姓に向かいて耳目を夸耀するをや。則ち単に自らの君主を欺騙するに非ず。上に対しては天を欺き、下に対しては民を欺き、内に於いては一定に心を欺き、神明も亦此の如き祭品を吐き出ださん。聖人は事理の会通を体察して以て典礼を制定す。二簋を用いて祭祀するは、過ぎず当時の情勢に合するのみ。
損剛益柔、損下益上,亦豈可常哉?聖人亦有不得已而行之者。損益盈虛與時偕行,則民且信之,損之貴乎有孚者如此。若時有可為而不為,或未可為而強為,逆天違民,叛道而悖理,謂之矯誣可也,欲以求福而禍必隨之。三代損益,皆因時而已。
剛強を減損して以て柔弱を増益し、下に在る者を減損して以て上に在る者を増益すは、豈に以て長久不変の常法と為すべけんや。聖人も亦已むを得ざるより出でてこそ此の如く為すの時有り。「損益盈虚は、時と偕に行う」は、百姓はこそ信従す。見るに「損」の内心の誠信を看重する所以は、道理はまさに此処に在り。若し時機の以て作為有るべきに而も為さざれば、或いは時機の尚お許可せざるに而も硬く為さんと欲せば、即ち天道に違逆し民心に背離し、正道に叛離して事理に悖乱す。之を「矯誣」と称するも亦過分と算えず。本は借此福を求めんと欲して、災禍はかえって必ず跟って来る。夏・商・周の三代の因革損益は、皆過ぎず各自に其の時に随うのみ。
象曰:山下有澤,損,君子以懲忿窒欲。孔子曰山澤通氣,山之峻極必假澤之滋潤,然後能生長萬物,使之條逹而茂遂。山下有澤所以為損者,損下以益上也。君子體此象以修徳,則在我者必有所損乃能有益。忿欲,害徳之大者也。人生不能無忿,懲之則忿氣不作;人生不能無慾,窒之則欲心不萌。顏子不遷怒、不貳過,皆損已之道也。一日克已復禮而天下歸仁,則損已者乃益已之大者也。澤之潤雖上泝于山,而山之氣亦下通於澤,故噓而為雲者必降而為雨也。茍逹乎此,則知一人之瘠而天下肥矣;府庫充實者,海內必減耗矣。君子修身治國之道如損之為益,庻乎其不厲民以自養也。
『大象伝』に言う。「山下に沢有り、損、君子は以て忿を懲え慾を窒く。」孔子は『説卦伝』の裡に「山沢は気を通ず」と言う。山は高峻の極点に至り、必ず沢水の滋潤に借助して然る後にこそ万物を生長し草木をして条達茂盛ならしめ得。山下に沢有るの『損』と成る所以は、下面を減損して以て上面を増益するを以てなり。君子は此の卦象を体察して以て徳行を修養せば、便ち自己の身上に於いて必先ず減損する所有りて然る後にこそ増益する所有るを懂得す。忿怒と嗜慾は、徳行を敗壊する最も厲しきの両様なり。人は活きて忿怒なからん可からず。能く之を懲戒せば、忿気は便ち発作せず。人は活きて嗜慾なからん可からず。能く之を窒塞せば、欲念は便ち萌生せず。顔回は怒気を別人の身上に遷さず同一の過失を重犯せず。皆自らを減損するの功夫なり。孔子は一旦自らを克制して礼に復帰せば、天下は便ち仁に帰すと言う。見るに自らを減損するは、まさに自らを増益する最大の途径なり。沢水の潤沢は上に向かいて山に浸潤すと雖も、而して山の中の気も亦下に向かいて沢に貫通す。だから山気は嘘吐して雲と成り、必ず又た降り下りて雨と化す。若し能く此の層の道理に通暁せば、便ち国君の一人は清瘦して而も天下は豊肥なるの意思を明白にす。府庫は堆みて愈々満てば、海内の民力は便ち愈々捜刮せられて空虚なり。君子の身を修め国を治むるの道理は、まさに「損」は其の実「益」なりに如し。こそ差不多以て百姓を虐取して以て自らを奉養せざるを做到すべし。
初九:已事遄往,無咎,酌損之。象曰:已事遄往,尚合志也。初九正應在六四,以下而應上,以剛而應柔,上所頼以益已者也。人臣之道,無成而代有終,若已事而顧戀寵榮,遲迴不去,未有能善終者,故已事而速往則可免咎。酌損之者,量其時之所宜,斟酌而貶損者也。人臣竭智力謀猷以益上,功名遂而身退,天之道也。
初九の爻辞。「事を已めて遄に往く、咎なし、酌みて之を損す。」『小象伝』に言う。「事を已めて遄に往くとは、尚お志に合する也。」初九と六四は正相応し、下に在るの位を以て上に在るの位に応え、剛健を以て柔順に応ず。まさに上位に在る者の倚頼して以て自己を増益する人なり。臣子を做すの道理は、自ら其の功に居らずして君主に代わりて善始善終するなり。若し事情の弁じ了わるも尚お恩寵栄華に留戀して、徘徊して離去するを肯を肯ぜざれば、従来善終を得る有らず。だから事情は一たび了結すれば便ち急ぎて身を抽きて、こそ災禍を免れ得る。所谓「酌みて之を損す」とは、当時の情勢の宜しき所を衡量して、斟酌して自らを貶抑減損す。臣子は才智謀略を竭くして以て君上を増益し、功成名を就けたるの後に便ち身を抽きて退く。これがこそ天道に合するなり。
象言已事遄往上合志者,功成不居而知退避,庶乎合上之心志也,人主所願乎臣下者如此。漢惟張子房一人,既佐沛公以有天下,則願與赤松子遊,封留足矣,是能亟退而酌損之也。後世貪沓之士,欲以諛說人主,至竭百姓膏血為淫荒之用,自謂益上,而竊位冐寵,不知紀極,豈有不喪身覆族者哉!
『小象伝』に「事を已めて遄に往く、上の志に合す」と言う。功を成して而も功に居らず退避を懂得するを説く。こそ君上の心意に合するなり。君主の臣下に対して期望する所は、まさに此の如き人なり。漢初はただ張良の一人は做到せり。劉邦を輔佐して天下を取得するの後に、便ち赤松子に跟従して仙を修めんと願うと言い、留県に封ぜられて便ち心に満ち意に足る。これが即ち能く急ぎて引退し斟酌して自らを損する人なり。後世のあの貪求して厭足なき徒は、一心に阿諛の詞を用いて君主を討好せんと欲し、甚だしきは百姓の血汗を搾干して以て淫楽荒遊の用に供し、尚お自ら称して是れ君上を増益する在りと為す。彼らは高位を窃据し恩寵を冒受して、尽頭有るを知らず。豈に身を喪い族を滅ぼすの地步に落到せざらんや。
九二:利貞,征凶,弗損益之。象曰:九二利貞,中以為志也。人臣事主,無非損已以益上者。二五又君臣之位,九雖陽剛而二位逺君,無凌犯之嫌,所患者不能靜止而枉道媚悅其上以乾進耳,故所利在貞。貞者,守道堅正之謂,正不足以盡之。不能守正,必枉道乾進,故有攸往則凶也。
九二の爻辞。「貞に利し、征すれば凶、損せずして之を益す。」『小象伝』に言う。「九二は貞に利し、中を以て志と為す也。」臣子は君主に事奉す。過ぎず自己を減損して以て君上を増益するのみ。二と五は又たまさに臣位と君位なり。九二は陽剛なれど、但し二の此の位置は君主より較遠にして、冒犯の嫌疑なし。憂慮すべき所はただ其の能く安静に自守せずして、かえって正道を歪曲して君上を討好して以て身を進まんを求むるなり。だから其の利有る所は「貞」に在り。「貞」は正道を堅守し堅定不移の意思にして、単に一個の「正」の字は尚お以て説き尽くすに足らず。能く正を守らざれば、便ち必ず正道を歪曲して以て鑽営進取す。だから一たび往く所有れば便ち凶険なり。
弗損益之者,事固有益之而損、損之而益者。以六五陰柔之主,二以剛中應之,故在下者得以行其志,固有弗損而益之者。逆其所順,強其所劣,彌縫輔贊,在我實無所損,其増益人主之智慮多矣。象言九二利貞中以為志者,九二處人臣之中位,其事上也,曷可不由乎中道哉?志者,心之所之;中以為志者,志常存乎中道而無過不及之患也。
所谓「損せずして之を益す」とは、事情は本来便ち増益してかえって虧損と成る、減損してかえって増益と成る有るを説く。六五は陰柔の君主にして、九二は剛健にして中を守るの徳を以て彼に応ず。だから下位に居る人は能く自らの抱負を施行して、本来便ち並びに自己を減損せずして而も君上を増益したるの情形を存在す。君主の一味に私意に順従する処に於いて彼に違逆し、君主の薄弱の処に於いて彼を勉励し、彼に代わりて缺漏を彌補し贊襄を輔助すれば、自己の此の辺に於いては其の実何の損失もなし。而して君主の智慮の増益するは而も極めて多し。『小象伝』に「九二は貞に利し、中を以て志と為す」と言う。九二は人臣の中位に処し、其の君上に事奉するは、どうして中道に遵循せざるを得ん。「志」は心の向かう所なり。「中を以て志と為す」とは、心志は常常に中道の上に安放して、頭を過ぎ或いは及ばざるの毛病なきを説く。
六三:三人行則損一人,一人行則得其友。象曰:一人行,三則疑也。一陰一陽之謂道,惟至精故能合乎至神,豈容有二哉?兌之三爻惟六三為獨陰,艮之三爻惟上九為獨陽,上下陰陽二爻又為正應,故雖逺而心相得也,雖踈而道相應也,豈餘爻所能間哉!
六三の爻辞。「三人行けば則ち一人を損し、一人行けば則ち其の友を得。」『小象伝』に言う。「一人行くは、三は則ち疑う也。」『繋辞伝』は「一陰一陽之を道と謂う」を講ず。惟れ其の純粋専精は極点に至りて、こそ至神と相契合し得。どうして二個の心思を容れ得ん。兌卦の三爻の中は、ただ六三は唯一の陰爻なり。艮卦の三爻の中は、ただ上九は唯一の陽爻なり。上下の此の一陰一陽の両爻は又た互いを以て正応と為す。だから遥かに相隔てると雖も而も心意は相投じ、疏闊に関係すると雖も而も道義は相応ず。豈に其の余の各爻の離間し得る所ならんや。
兊艮二卦三陰三陽各有所應,獨於六三言三人者,以見一陰一陽精誠之至,故孔子於繋辭特舉天地男女交感之象以明致一之道。損一人者,損已以益上也,陰爻雖多,卒能損已以益上者一陰而已。象曰一人行三則疑也,天下之理多則惑,少則得,況乎天地陰陽與夫人道交感之際,君臣朋友夫婦之間,其可不致於一乎?不致於一,則其疑有不可勝言者矣。蓋一介之士必有宻友,君不宻則失臣,臣不宻則失身。古之事主者,造膝而言,詭辭而出,所以防其疑也。
兌・艮の両卦は共に三陰三陽有りて、各自に皆相応する爻有り。独り六三の此の一爻に於いて「三人」を講ずるは、まさに一陰一陽の精誠専一は極点に至るを顕出せんと欲す。だから孔子は『繋辞伝』の裡に天地絪縕・男女構精の此の交感の象を特地に拈じ出だして、以て「専一」の道理を闡明す。所谓「一人を損す」とは、即ち自己を減損して以て君上を増益す。陰爻は一個に止まらずと雖も、最終に能く自己を減損して以て君上を増益するは、亦ただ此の一個の陰爻のみ。『小象伝』に「一人行くは、三は則ち疑う也」と言う。天下の事理は、頭緒は多ければ便ち迷惑し、専一なればこそ得る所有り。況んや天地陰陽と人道の彼此交感する際に於いて、君臣・朋友・夫婦の間に於いては、どうして以て専一に帰せざるを得ん。専一に帰せざれば、あの種の猜疑は便ち説いても説き尽くす能わず。即ち一個の普通の士人なるも亦必ず心を推し腹に置くの密友有り。『繋辞伝』は更に君主は言語の厳密ならざれば便ち臣子を失い、臣子は言語の厳密ならざれば便ち性命を丟うと言う。古人の君主に事奉するは、膝前に湊りて密奏し、出でては而も別の話を用いて搪塞す。まさに以て猜疑を防止せんが為なり。
六四:損其疾,使遄有喜,無咎。象曰:損其疾,亦可喜也。凡損之道,皆損已以益物者也,惟六四一爻乃損已以求益者。已之有疾為已之害,能使速愈,則其喜可知。初以陽剛為已正應,四所求益以損已之疾者也,所謂損剛益柔、損有餘以補不足也。
六四の爻辞。「其の疾を損し、遄に喜有らしめば、咎なし。」『小象伝』に言う。「其の疾を損すとは、亦以て喜ぶべき也。」大凡「損」の道理は、皆自己を減損して以て別人を増益す。独り六四の此の一爻のみ自己を減損して以て別人の増益を求得す。自己の身上に病有れば、即ち自らの禍害なり。能く之を迅速に痊愈せしめば、あの欣喜は便ち想い知るべし。初九は陽剛の質を以て之と正相応す。まさに六四の求めて以て自己を増益し以て自身の病痛を除去するの対象なり。即ち『彖伝』の説く所の剛強を減損して柔弱を増益し有余を減じて以て不足を補足するなり。
當損之時,四居近君之位,以柔弱之才不能勝其任,危而不能持,顛而不能扶,此四之所甚病也。初以剛健在下為已之助,扶顛持危而損其偏柔之疾,使速有喜,然後可以無咎也。象曰損其疾亦可喜也,人方疾痛,能使之脫然去體,豈非切身可喜之事哉!
減損の時に当たりて、六四は身は君主に靠近する大臣の位に居るも、而も柔弱の才具を以て此の擔子を擔當し起こす能わず。局勢は危殆にして而も扶持する能わず、傾覆は即ち在りて而も挽救する能わず。これはまさに六四の最も深き病根なり。初九は剛健の質を以て下面に於いて其の助手を充当し、彼に代わりて危を扶け顛を持し、其の柔弱に偏るの毛病を除掉して、彼をして速く喜慶有らしむ。こそ差錯を出ださざるを得る。『小象伝』に「其の疾を損すとは、亦以て喜ぶべき也」と言う。人はまさに病痛の中に在りて、能く病痛をして豁然として体を離れしめば、豈に身に切なる可喜の事ならざらん。
六五:或益之十朋之弗克違,元吉。象曰:六五元,自上佑也。當損之時,非六五柔弱之君能虛心克已,則孰肯告以善道者?益之,言智畧輻湊,益我者非一人也。十朋之,周禮、爾雅皆云神靈其類有十,言助我者既眾,神靈之物無不協從也,此所以能享元吉也。
六五の爻辞。「或いは之を益して十朋の違う能わざらしむ、元吉。」『小象伝』に言う。「六五の元は、上より佑する也。」減損の時に当たりて、若し六五の此の柔弱の君が能く虚心自克せざれば、誰か善道を拿りて彼を勧告するを肯ぜん。「之を益す」と言うは、智謀才略の車輻の車轂に湊り向かうが如く四方より匯集して来るを講ず。我を増益するは並びに一人に止まらず。「十朋の」と言うは、『周礼』と『爾雅』は皆神霊の物は共に十類有りと講ずるを以て、意思是れ我を幇助する人は既に衆多にして、神霊の物すら協力順従せざるなし。これが即ち能く大吉を享有するの縁故なり。
然六三以三人而疑,今益我者既眾,能無疑乎?故以十朋之弗克違為大吉,以見聖人居尊履正,人謀鬼謀,百姓與能也。象曰六五元吉自上佑者,人主能謙恭損已以來天下之善,則海內必蒙其福。民之所願,天必從之,故言自上佑也。
不過六三のあの一爻は「三人」に因りて猜疑を生ぜり。いま我を増益しに来る人は此の如く多し。豈に疑を生ぜざらんや。だから「十朋の違う能わざる」と以て大吉と判を下すを要す。此に由りて見れば聖人は尊位に居りて正道を踐行すれば、人の謀劃と鬼神の謀劃は彼此相合し、百姓すら一同に其の能に参与す。『小象伝』に「六五の元吉は、上より佑す」と言う。君主は能く謙恭にして自らを抑え自らを減損して、以て天下の善言善行を招徠せば、則ち海内は必ず其の福沢を蒙受せん。百姓の願望する所は、上天は一定に依従す。だから「上より佑す」と言う。
上九:弗損益之,無咎,貞吉,利有攸往,得臣無家。象曰:弗損益之,大得志也。上九處損之終,勢力足以制服海內,而恣其裒斂剝下以媚上者也,如此雖才如劉晏不能以善終。故弗損於下而能反益之,庶其免乎咎戾,全其剛貞而獲吉也。
上九の爻辞。「損せずして之を益す、咎なし、貞吉、往く攸有るに利し、臣を得て家なし。」『小象伝』に言う。「損せずして之を益すとは、大いに志を得る也。」上九は『損』卦の終点に処し、権勢は以て天下を制服するに足る。まさにあの手を放して以て捜刮聚斂し下民を剥削して以て君上を討好し得るの位置なり。此の如く為し下れば、たとえ才干の唐代の劉晏のあの如き出衆なるも、亦善終を得る能わず。だから彼は再び下に向かいて減損せずして、かえって能く百姓を増益す。こそ罪咎を免れ自らの剛正の操守を保全して吉利を獲得するを望むべし。
上九人臣之極位,上能増主之明,下能民之財,然後可以大有為於世。以身狥國,得為臣之正,何以家為哉!象言弗損益之大得志也,人臣能斂不及民而用度足,必有生財裕民之道,如古稷契管蕭之徒,乃可大得志於天下也。
上九は人臣の最高の爵位に処し、上に対しては君主の明察を増益し、下に対しては百姓の財用を経理し得。こそ以て世上に於いて大いに作為有るを得る。身を以て国に許す、こそ臣子を做すの正道を尽くせりと算う。豈に尚お自らの一家に顧みん。『小象伝』に「損せずして之を益すとは、大いに志を得る也」と言う。臣子は能く賦斂を百姓に加えずして而も国家の用度は依然として充足するを做到せば、必ず財を生じ民を富ませるの辧法有り。上古の后稷・契、および管仲・蕭何のあの一流の人物の如き、こそ以て天下に於いて抱負を大展するを得る。
益卦(震下巽上)
震下上益:利有攸往,利渉大川。彖曰:益,損上益下,民說無疆;自上下下,其道大光。利有攸往,中正有慶;利渉大川,木道乃行。益動而巽,日進無疆;天施地生,其益無方;凡益之道,與時偕行。損上益下,興利以益民也;自上下下,謙虛以受益也。能損已以益下,則民獲其利而說我者眾也;虛已以接物,則已受其益而其道光顯也。
『益』卦の下体は震、上体は巽なり(原文此処に一「巽」の字を脱す)。卦辞に言う。「往く攸有るに利し、大川を渉るに利し。」『彖伝』に言う。「益は、上を損して下を益す、民は説びて疆なし。上より下に下る、其の道は大いに光なり。往く攸有るに利し、中正にして慶有り。大川を渉るに利し、木の道は乃ち行わる。益は動きて巽なり、日に進みて疆なし。天は施し地は生ず、其の益は方なし。凡そ益の道は、時と偕に行う。」所谓「上を損して下を益す」とは、有利の事を興辦して以て百姓を増益す。所谓「上より下に下る」とは、上位に居る者は謙虚にして自ら下り、以て別人の増益を接受す。能く自己を減損して以て下民を増益せば、則ち百姓は実恵を得、我を喜悦して擁戴する人は便ち多し。能く虚心にて外物を接待すれば、則ち自己はかえって受益し、自らの道も亦此に因りて光大顕揚す。
陽當在上,今乃下居於初;陰當處下,今乃反居於四。以見陽能抑損其綱,以柔弱自處,故名譽愈逺,徳義愈尊,其道大光顯於天下也。利有攸往,中正有慶,二與五君臣之位,六二九五為正應,君臣道合,各位乎中正,故能流福天下,無所往而不利也,豈獨一人之慶哉!
陽は本来応当に上位に居るべきに、いま而も下りて初爻を占據す。陰は本来応当に下位に処すべきに、いまかえって四爻に居る。此に由りて見れば陽は能く自らの剛強を抑制減損して、柔弱の姿態を用いて自ら処す。だから声名は伝わること愈々遠く、徳義は愈々尊崇を受け、其の道も亦便ち天下に於いて光彩を大放す。「往く攸有るに利し、中正にして慶有り」に至っては、二と五は分別に臣位と君位にして、六二と九五は互いを以て正応と為し、君臣の道は相合し、又た各自に中正の位に居る。だから能く福沢を天下に流布し、何処に往くも順利なり。豈にただ君主一人の喜慶ならんや。
利渉大川木道乃行者,舟楫之利以濟不通,聖人能渉險濟難,所以行木道也。髙宗命傅說曰若濟巨川用汝作舟楫,故濟川莫利乎舟楫,濟險莫髙乎聖人也。益動而巽民說無疆者,聖人慾大利於天下,因以自益,在乎順動而已。時茍未可,動而不順,則與物多忤,我之益物有時而窮,物之益我有時而既,豈能日進無疆乎?
所谓「大川を渉るに利し、木の道は乃ち行わる」とは、舟船の便利は以て本来通行する術なき水面を渡り得るを説く。聖人は能く険阻を跋涉し危難を救済す、まさに此の一条の「木道」を推行するに在り。『尚書・説命』に記載す、殷高宗は傅説を任命するに当たりて言う。「若し巨川を済らば、爾を用いて舟楫を作さん。」だから河を渡るは舟船より便利なるなし、険を済すは聖人より高明なるなし。所谓「益は動きて巽なり、民は説びて疆なし」とは、聖人は大いに天下に利有らんと欲すれば、順帯に亦自己を増益す。関鍵はただ時勢に順いて動くに在るのみ。時機は若し尚お許可せざれば、行動し起こせば又た順に合せずして、便ち処処に外物と抵触す。あの如く一来すれば、我は外物を増益するは総じて窮尽の時有り、外物は我を増益するも亦総じて完結の時有り。豈に尚お日日増進して辺際なしと談ずべけん。
天施地生其益無方者,天以氣施,地以形生,萬物皆受氣於天,成形於地,故天地於萬物四時循環無有窮也,其為益也豈有限量哉!聖人成位乎兩間,其益下之道亦若是而已。凡益之道與時偕行者,時變無窮,聖人趨時之變亦與之為無窮,如黃帝堯舜作法制器、夏商周所損益之類是也。
所谓「天は施し地は生ず、其の益は方なし」とは、天は気を用いて以て施与し、地は形を用いて以て生育す。万物は皆天より気を禀受し地の上に於いて形体を成就す。だから天地は万物に対しては、四季は循環往复して永く窮尽なし。其の増益は豈に何の限量か有らん。聖人は天地の間に於いて自らの位置を確立す。其の下民を増益するの道理も亦過ぎず此の如し。所谓「凡そ益の道は、時と偕に行う」とは、時勢の変化は窮尽なければ、聖人は時勢を追随して変われば、便ち之に随いて窮尽なし。例如黄帝・唐堯・虞舜は法度を創制し器物を発明し、および夏・商・周の三代は各自に因革増減有り。皆此の一類に属す。
凡為上之道,必能憂勤損已以利天下,故興大利、除大患,有所不動,動則民皆悅而從之,雖履危渉險,無往而不濟也。古之聖王興事造業,至手胼足胝,播奏庶艱食鮮食,無非益天下之道,故繫辭言耒耜之利以教天下蓋取諸益,又曰益以興利。蓋損上益下,民說無疆,何往而不利哉!
大凡上位に居るの道理は、必ず能く憂労勤勉・自己を減損して以て天下に福を造るを要す。だから大利を興辦し大患を除去すれば、動かざれば則ち已み、一たび動けば百姓は便ち皆歓喜して跟従す。たとえ危地に踏み険境を渉るも、成功せざるなし。古代の聖王は事業を興辦して、手掌脚底に皆老繭を磨き出だすに做到せり。『尚書・益稷』は彼らの百姓を教えて播種し、衆人の艱難の時節の糧食と鳥獣魚鱉の食を供給せるを説く。一様として天下を増益するの辧法に非ざるなし。だから『繋辞伝』に言う。耒耜の便利を制作して以て天下を教導すとは、大概『益』卦より象を取る。又た『益』卦は以て利益を興辦するに用うと言う。既に上に在る者を減損して以て下に在る者を増益せば、百姓の喜悦は辺際なし。則ち何処に往くも尚お何の順利ならざるか有らん。
象曰:風雷益,君子以見善則遷,有過則改。風雷善益萬物者也,非相資以相益也。風以散之則鬱結者必解,雷以動之則蟄蔵者必奮。君子見善則遷、有過則改,皆損已之道也。損已者所以益物,亦所以自益也。顏子得一善則拳拳服膺而弗失之矣,然則見善則遷,顏子足以當之。周公之過也如日月之食焉,人皆見之;及其更也,人皆仰之。然則有過則改,周公足以當之。是皆損已以自益之道也。
『大象伝』に言う。「風雷益、君子は以て善を見れば則ち遷り、過有れば則ち改む。」風と雷は最も万物を増益するを善くするにして、並びにそれらは彼此に憑借するを以て互相に増益するに非ず。風は鬱気を吹散せば、凝滞鬱結するは便ち必ず解开す。雷は万物を震動せば、蟄伏潜蔵するは便ち必ず振起す。君子は善を見れば便ち遷り従い過ぎて行き、過失有れば便ち改正す。皆自らを減損するの功夫なり。自らを減損するは、既に以て別人を増益するにして、亦まさに以て自己を増益するなり。『中庸』に顔回は一句の善言を得れば、便ち牢牢として胸中に捧げて失うを肯ぜずと言う。則ち「善を見れば則ち遷る」は、顔回は以て之に当たるに足る。『孟子』に周公の過失は日食月食に如く、人人は皆之を見るを得。其の改正するを待てば、人人は又た皆彼を仰望すと言う。則ち「過有れば則ち改む」は、周公は以て之に当たるに足る。此れらは皆自らを減損して以て自らを増益するの道理なり。
初九:利用為大作,元吉,元咎。象曰:元吉無咎,下不厚事也。益下之道莫大乎興事造業,大作者,大有所為也。九以剛健之才居於初,為益之始,上有六四大臣為之正應,以有為之才當可為之時,故利用為大作也。能任其大事以有天下,使海內蒙其益,故能獲大吉而無咎也。
初九の爻辞。「以て大作為すに用うべし、元吉、元咎。」(其の中の「元咎」は、『小象伝』に据りて「无咎」と作るべし。)『小象伝』に言う。「元吉にして咎なしとは、下は事を厚くせざる也。」下民を増益するの辧法は、事業を興辦するより大きいなし。所谓「大作」とは、即ち大いに作為有るなり。初九は剛健の才具を以て初位に居り、まさに増益の開端にして、上面に又た六四の此の大臣有りて之と正相応す。事を幹るに能うの才具を憑りて、事を幹るべきの時機に赶上す。だから「以て大作為すに用うべし」と言う。它能く此の如き大事を擔當して天下をして治を得せしめ、四海の内をして皆其の好処を蒙受せしむ。だから能く大吉を獲得して而も差錯を出ださず。
象言元吉無咎下不厚事者,人臣之道,無成而代有終,況居益之初最處底下,雖任上之事而能不有其功,乃可獲吉而無咎耳,故曰元吉無咎下不厚事也。厚事,重大之事也。雖利用為大作,而不敢以重大之事自居,此人臣之正也。
『小象伝』に「元吉にして咎なし、下は事を厚くせざる也」と言う。臣子を做すの道理は自ら其の功に居らずして君に代わりて善終するに在るを以てなり。況んや初九は『益』卦の最初に処して位置は最も低し。たとえ上面の交付する大事を承擔するも、亦能く功労を自らの頭上に算入せず。こそ以て吉を獲得して而も差錯を出ださざるを得る。だから「元吉にして咎なし、下は事を厚くせざる也」と言う。「厚事」は即ち重大の事なり。「以て大作為すに用うべし」と雖も、而も敢えて重大の功業を拿りて自ら居るせず。これはまさに臣子を做すの正道なり。
六二:或益之十朋之弗克違,永貞吉,王用享于帝,吉。象曰:或益之,自外來也。六二震體居中,有所不動,動則天下莫不助之矣,故曰或益之十朋之弗克違也。聖人有所興作,必得天人之助,人謀鬼謀,百姓與能,十朋之弗克違則人心可知矣。損之六五,君道也,故獲元吉;益之六二,臣道也,故永貞吉。貞者,靜而正也。六二雖中正有應而體本柔弱,能永守貞固則無邪佞之失,故吉也。
六二の爻辞。「或いは之を益して十朋の違う能わざらしむ、永く貞にして吉、王は以て帝に享す、吉。」『小象伝』に言う。「或いは之を益すとは、外より来る也。」六二は震体に属して而もまた中位に居る。動かざれば則ち已み、一たび動けば、天下は便ち来りて相助せざるなし。だから「或いは之を益して十朋の違う能わざる」と言う。聖人は凡そ興作有れば、必ず天と人の両方面の幇助を得、人の謀劃と鬼神の謀劃は彼此相合し、百姓も亦共に其の能を襄す。既に「十朋の違う能わざる」なれば、人心の向背は便ち想い知るべし。『損』卦の六五は君主の道を講ず。だから「元吉」と断ず。『益』卦の六二は臣子の道を講ず。だから「永く貞にして吉」と断ず。「貞」は安静にして正を守るなり。六二は中に居りて正を得て而もまた応爻有ると雖も、但し体質は本来柔弱なり。能く長久に貞固を堅守せば、便ち邪僻諂佞の過失有らず。だから吉利なり。
王用享于帝吉者,益之六二即損之六五,能損已益物,得天下之助,非獨人臣也,王者能用此道亦可享上帝而獲福也。蓋人心之所與則天意之所歸,未有咈人心而可以合天意者。堯之試舜,納於大麓,烈風雷雨弗迷,故付以天下而不疑也。
所谓「王は以て帝に享す、吉」とは、『益』卦の六二はまさに『損』卦の六五に相応当するを説く。能く自己を減損して以て万物を増益し、因りて天下人の幇助を得るなり。此の道理はただ臣子に適用するに止まらず。君王は若し此の一条の道理を運用し得れば、同様に以て上帝を祭享して福佑を獲得し得る。人心の許賛する所は、まさに天意の帰向する所にして、従来人心に違逆して而も能く天意に合する事なし。唐堯は虞舜を考験して、彼をして山林川沢に入らしめ、暴風雷雨に遇うも方向を迷失せざりき。だからこそ放心して天下を彼に交附して而も毫も遅疑せざりき。
彼欺君罔上、徒欲誇耀以欺天下者,雖盛其輿服,豐其牢醴,簠簋籩豆之飾有加於前,恩典儀物之數踰其常度,儻非其時,曷足以荅天意乎?故損之彖曰:曷之用?二簋可用享,二簋應有時,損剛益柔有時。然則非當盛大之時、得天下之助者,安可矯誣以欺天哉!象曰或益之自外來者,能虛中損已以益下,則助我者非獨四海之內也,雖髮左袵逺在荒服之外者莫不愛戴之矣,故曰自外來也。
あの君主を欺瞞し上級を蒙蔽して、ただ鋪張夸耀を靠みて以て天下を欺騙せんと欲する人に至っては、たとえ車馬服飾を弄りて再び気派ならしめ、祭祀の牲牢酒醴を弁じて再び豊盛ならしめ、簠・簋・籩・豆の装飾は従前より更に華美にして、恩典礼数は常規を超出すも、倘若時勢の根本応当此の如くならざれば、またどうして以て天意に回应するに足らん。だから『損』卦の『彖伝』に言う。「曷ぞ之を用いん、二簋は以て享する可し。二簋は応に時有るべく、剛を損して柔を益すも時有り。」此の如く見れば、若し正当盛大の時に非ざれば、又た確実に天下人の擁護を得ざれば、どうして以て虚を弄し假を作して上天を欺騙せん。『小象伝』に「或いは之を益すとは、外より来る也」と言う。上位に在る者は能く虚心にして自らを損して以て下民を増益せば、則ち彼を幇助するはただ四海の内の人に止まらず。たとえ披髪左衽・遠く荒服の外の族群なるも亦彼を愛戴せざるなし。だから「外より来る」と言う。
六三:益之用凶事,無咎,有孚中行,告公用圭。象曰:益用凶事,固有之也。六三處上卦之下、下卦之上,逺君而近民也。凶年饑歲,欲為損上益下之道,則發倉廩,損逋負,使老弱無轉徙溝壑之患,雖矯制専輙,何咎之有?
六三の爻辞。「之を益すに凶事を以てす、咎なし、孚有りて中行し、公に告ぐるに圭を用う。」『小象伝』に言う。「益すに凶事を以てすとは、固より之を有する也。」六三は上卦の最下・下卦の最上に処し、君主よりは遠くして百姓よりは近し。災荒飢饉の年頭に碰上して、若し減損して上に在る者・増益して下に在る者の辧法を施行せんと欲せば、便ち糧倉を打開し、拖欠の賦税を蠲免して、老弱をして流離転徙せずして溝壑に餓死せざらしむるを要す。此の如く為せばたとえ君命を假托し擅自に決断するも、又た何の過錯か有らん。
凡易稱無咎,有無過咎者,有人不以為咎者。三之用凶事,蓋君子遭變之時以身任之,無所歸咎也。聖人又戒以有孚中行者,若未見信於上下而行之不以中道,則有傷財難繼之事,故上下信而行之以中道,則上必旌賞之矣。故告公用圭者,錫之圭組以報其民之功也。象曰益用凶事固有之者,以見人臣於凶荒之歲能以身任責而不恤禍患者,非愛民之誠素定乎胷中,能若是乎?故曰固有之也,漢之汲黯是已。
大凡『周易』の裡に「咎なし」と説くは、或いは本来便ち過失なきを指し、或いは其の事有ると雖も而も旁人は以て過失と認めざるを指す。六三は災荒の年に於いて非常の手段を動用す。まさに君子の変故に遭遇する時に身を挺して承擔するにして、彼に帰咎するに由なし。聖人は又た「孚有りて中行す」を用いて彼を告戒す。若し尚お上下の信任を取得せざれば、行事は又た中道に合せずして、便ち財力を耗損して継続し難きの後果を招来せん。だから必ず上下信従して而もまた中道に依りて行うを要す。則ち君上は一定に彼を表彰奨賞せん。「公に告ぐるに圭を用う」とは、即ち彼に圭玉綬組を賜与して、以て其の百姓を救活するの功労に酬報す。『小象伝』に「益すに凶事を以てすとは、固より之を有す」と言う。顕出せんと欲するは、臣子は災荒の年に於いて能く身を挺して責を擔當して自らの禍福を顧みざるは、若し民を愛するの誠心の早已に胸中に扎根せざれば、どうして能く此の一歩を做到せん。だから「固より之を有する也」と言う。漢代に擅自に倉を開きて河内の災民を賑済せる汲黯は、即ち此の如き人なり。
六四:中行告公從,利用為依遷國。象曰:告公從,以益志也。六四近君之大臣,九五之君所信任者,所行有得中道,雖國之大事詎有不從乎?周公卜洛邑,澗水東水西,四方道里均焉,必有所依,故可遷不疑也。左氏曰周之東遷晉鄭焉依,是也。大臣雖以身任責,亦侍君命而後敢行,故告公從必有文告之辭矣。
六四の爻辞。「中行して公に告げば従わん、以て依りて国を遷すに用うに利し。」『小象伝』に言う。「公に告げば従わんとは、以て志を益する也。」六四は君主に靠近する大臣にして、九五の君に信任せられ、為し作す所は又た中道に合す。則ちたとえ遷都の此の如き国家の大事なるも、豈に批准を獲せざらんや。周公は洛邑を占卜して、澗水以東・澗水以西に皆吉兆を得。あの処は四方の道路の里程は均等にして、又た必ず以て憑依すべき形勢有り。だから遷都するは遅疑するに及ばず。『左伝』に「周の東遷は、晋・鄭は焉れに依れり」と言う。まさに此の「依」の字の意思なり。大臣は身を以て責任を承擔すると雖も、亦君命の下達するを待ってこそ施行するを敢えてす。だから「公に告げば従わん」は、一定に正式の詔告文書を伴随す。
盤庚之遷,不從者民也,故敷心腹腎腸,丁寧訓告,僅能從之,蓋當時無一中行之大臣若周公者以身任之也。象言告公從以益志者,九五之君實為益主,志在益下,大臣知遷國之事必有以利社稷、安百姓,故告公必從,以成其益下之志也。
商代の盤庚は都を遷すに、聴従するを肯ぜざるは百姓なり。だから彼は心肝腸肺を皆掏き出だして、反復に訓戒を叮嚀して、こそ勉强に人をして跟従せしめし。あれは当時に於いて周公のあの如き中道を守る大臣の身を挺して擔當する一員なきを以てなり。『小象伝』に「公に告げば従わんとは、以て志を益す」と言う。九五の君は本来便ち『益』卦の増益する主体にして、心志は下民を増益するに在り。大臣は既に遷都の此の事は一定に社稷に利有り百姓を安頓するを明白にすれば、だから一たび君主に奏請すれば必ず獲准を獲て、従りて君主の下民を増益するの心願を成全す。
九五:有孚恵心,勿問元吉,有孚恵我徳。象曰:有孚恵心,勿問之矣;恵我徳,大得志也。人主有恵利天下之心,非出於矯偽,則獲元吉不問可知矣,故恵心貴乎有孚也。人固有行姑息之政以儌福干譽者,雖竭府庫倉廩不足以得民心;使其中誠惻怛,有愛民之誠心,則四海之內莫不愛戴而允懐之。得乎民者得乎天也,故自天佑之,吉無不利,尚何疑乎?
九五の爻辞。「孚有りて恵心なれば、問わずして元吉、孚有りて我が徳を恵す。」『小象伝』に言う。「孚有りて恵心なれば、之を問うに及ばず。我が徳を恵すとは、大いに志を得る也。」君主は天下に施恵するの心有りて、ただ矯飾虚偽より出でざれば、則ち其の大吉を獲得するは、問わずして亦知る。だから施恵の心の最も可貴なるは便ち誠信に在り。世上は固より姑息遷就の政策を推行して、以て福を僥倖して求め名誉を猟取する人有れど、あの如くはたとえ府庫倉廩を掏空するも、亦民心を換え来る能わず。假使彼の内心は真摯懇切にして、百姓を愛護するの誠意を懐抱せば、則ち四海の内に彼を愛戴して誠心に帰附せざるなし。民心を得るは亦即ち天意を得るなり。だから上天は彼を保佑して、吉利にして宜しからざるなし。尚お何の疑慮すべきか有らん。
有孚恵我徳者,上以有孚恵下,下以有孚應我,故恵我以徳也。心與徳皆無形也,君與民相感於無形之間,故恵者不費而應上者無窮,其為益豈有既乎?象言有孚恵心勿問之矣、恵我徳大得志者,人君志於益下,其效如此,故得志也。後世之君以處富貴、縱聲色為得志,以唐太宗之賢,尚以破西域為帝王之樂,喜而見群臣曰朕今樂矣,遂徧觴之。嗚呼!是焉知帝王得志之真樂哉!
所谓「孚有りて我が徳を恵す」とは、上位に在る者は誠信を以て下に施恵し、下位に在る者も亦誠信を以て上位に在る者に回应す。だから徳を拿りて以て我が恩惠に回報す。心と徳は皆無形にして、君と民はまさに此の無形の間に於いて彼此感通す。だから施恵する人は並びに破費せざるも、而して君上に回应する人は而も源源として絶えず。此の如き増益は豈に窮尽有らん。『小象伝』に「孚有りて恵心なれば、之を問うに及ばず。我が徳を恵すとは、大いに志を得」と言う。君主は一心に下民を増益して、成效は便ち此の如し。だから「志を得」と呼ぶ。後世の君主は而も安享富貴・放縦声色を以て志を得と当成す。即ち唐太宗のあの如き賢明なるも、尚お西域を攻破するを看作して帝王の楽と為し、歓喜して群臣に対して「朕は今に真に快楽なり」と言って、便ち遍く群臣を賜いて酒を飲ましむ。噫。此の如き人は豈に帝王の志を得るの真の快楽を懂得せん。
上九:莫益之,或繋之,立心勿恆,凶。象曰:莫益之,偏辭也;或擊之,自外來也。上九大臣釋位而去者,既無以益人,將豐殖自益,有無厭之求,眾所不與,故群起而攻之也,故莫益之則或擊之矣。夫大臣之處髙位,眾所求益,今乃反求益已,故莫有益之者而或擊之,反蹈於凶禍,是其立心勿恆之所致也。
上九の爻辞。「之を益するなし、或いは之を繋ぐ、心を立てるに恒なし、凶。」『小象伝』に言う。「之を益するなしとは、偏辞なり。或いは之を撃つは、外より来る也。」上九の指すは職位を卸下して離去する大臣なり。彼は既に別人を増益するに出だすべき何かを拿たず、反って大いに聚斂して以て自己を増益せんと欲し、需索は満足の時なく、衆人は皆彼に依附するを肯ぜず。だから群起して彼を攻撃す。これが即ち先ず「之を益するなし」有りて、随後に必ず「或いは之を撃つ」有るなり。大臣は身は高位に居り、本来衆人の彼の処より増益を得るを指望する所なり。いま彼は反って衆人に向かいて増益を索取す。だから彼を増益するを肯ずる人なし。反って彼を攻撃しに来る人有り。結果は自己は凶険禍患の中に踏み入る。これはまさに彼の「心を立てるに恒なし」の招致する所なり。
孔子曰:君子安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求,君子修此三者故全也。危以動則民不與也,莫之與則傷之者至矣。君子於動靜語黙之間,可不慎哉!大臣至於傷之者至,則首領將不暇保矣。象言莫益之偏辭也、或擊之自外來也,偏辭者,一偏之辭也。人心不與,則一偏之辭足以激天下之怒心,故或擊之則不可解矣。自外來者,千里之外莫不應之,此聖人戒慎之深意也。
孔子は『繋辞伝』の裡に言う。君子は先ず自身を安頓して然る後に行動し、先ず心気を平和して然る後に発言し、先ず交情を確定して然る後に求むる所有り。君子は此の三件の事を修好すれば、だから能く自己を保全す。処境は危殆にして尚お妄動すれば、百姓は便ち彼を支持するを肯ぜず。支持する人なければ、彼を加害する人は便ち来る。君子は一動一静・一言一黙の間に於いて、どうして謹慎せざるを得ん。大臣は一旦加害する者の紛至沓来するの地步に落到せば、頭腦すら保住するに及ばず。『小象伝』に「之を益するなしとは、偏辞なり。或いは之を撃つは、外より来る也」と言う。「偏辞」とは即ち一面に偏るの言論なり。人心は一旦依附するを肯ぜざれば、一句の偏頗の話は即ち以て天下人の怒火を激起するに足る。だから攻撃は一旦発動せば、便ち再び化解し開く能わず。所谓「外より来る」とは、千里の外に応ぜざるなしを説く。これはまさに聖人の人々に告戒して戒惧謹慎せしむるの深意なり。
夬卦(乾下兌上)
乾下兌上。夬:揚于王庭,孚號有厲,告自邑,不利即戎,利有攸往。乾下兊上,下健而上說,五陽而一陰。陽雖在下,然眾方向進而據中正之位;陰雖在上而權勢已去,故無內外之助,是君子道長而小人道消之時也,故於義為夬。夬者,以剛果而決斷小人也。
『夬』卦の下体は乾、上体は兌である。卦辞に言う。「王庭に揚げられ、孚号して厲あり、邑より告げ、戎に即くに利あらず、往くところ有るに利あり。」乾が下、兌が上に在り、下は剛健にして上は和悦、五つの陽爻に一つの陰爻が配される。陽はなお下にあるけれども、衆陽は齊しく進み、中正の位を據えている。陰は高く上に踞るけれども、権勢はすでに去り、内外ともに援けを得ない。これ正に君子の道が日に長じ、小人の道が日に消える時である。だから義理の上で「夬」と称する。所謂「夬」とは、剛強果断を以て小人を裁決することである。
小人衰微,不能同心協力乗時而顯誅之,方且依違牽制為自然之計,而陰為內應,則將復出為惡而反為所擠矣。故於王庭者,使天下顯然知其為小人也。孚號有厲者,雖號令之必信,然猶懼天下有不吾與者,不得不惕然以危懼自處也。
小人はすでに衰微している。この時君子が同心合力し、勢いに乗じて公然と誅除しなければ、却って含糊敷衍・彼此牽制し、これを自然に任す良策とし、陰にこれの内応を為す者があれば、小人は再び出て悪を為し、君子は却ってその排擠するところとなる。だから「王庭に揚ぐ」とは、天下に明白に彼が小人であることを知らしめることである。所謂「孚号有厲」とは、号令は必ず信を取るけれども、なお天下に己に与せざる者あるを惧れ、惕然として危惧を以て自ら処らざるを得ないのである。
告自邑者,誅朝廷之大奸,使海內曉然知其為天下之害也。邑,郡邑也,告命之下自朝廷而逹之郡邑也。凡此皆治內之道也,治內之道自朝廷逹之郡邑足矣。不利即戎者,戎中國之外也。聖人於戎狄猶四肢之於外物,叛服不常,覊縻之耳,非如朝廷之小人剛決而力除之也。利有攸往者,二五各以剛健之才處中正之位,可以大有為之時也,雖不利即戎而治內之道無往而不利也。
所謂「邑より告ぐ」とは、朝廷の大奸を誅除し、海内に明白に彼が天下の害であることを知らしめることである。「邑」とは郡邑である。告命が下れば、朝廷より郡邑に伝布される。これは皆内部を治める法であり、内を治める道は朝廷から郡邑に通ずれば足りる。所謂「戎に即くに利あらず」――「戎」とは中原以外の外族を指す。聖人が戎狄に対するは、四肢が身外の物に対するが如く、彼らの叛服は常なく、羈縻牽制を加えるのみで、朝廷の小人に対するが如く剛断果決・全力を以て剷除しなければならないものではない。所謂「往くところ有るに利あり」とは、九二と九五が各々剛健の才を以て中正の位に処り、正に大いに有為すべき時であり、対外に兵を用うるは宜しからざれども、内を治める道は往く所順利でないことなし。
彖曰:夬,決也,剛決柔也。健而說,決而和。揚于王庭,柔乗五剛也。孚號有厲,其危乃光也。告自邑不利即戎,所尚乃窮也。利有攸往,剛長乃終也。去小人固貴乎剛,然不可獨任也,故以乾兊成卦然後為夬。剛固可以決柔,健而能說,則不動聲氣而海內安矣;決而能和,則不勞斧鉞而天下服矣。
『彖伝』に言う。「夬は決なり、剛が柔を決するなり。健にして説び、決して和す。王庭に揚ぐは、柔が五剛に乗るなり。孚号して厲ありは、その危うき乃ち光なり。邑より告げ戎に即くに利あらずは、尚ぶ所乃ち窮まるなり。往く所あれば利ありは、剛長じて乃ち終るなり。」小人を清除するは固より剛強を貴ぶが、剛強のみに倚りて一味に強行する能わず。だから乾・兌の両体を合して成り、然る後に『夬』と為す。剛強は固より柔邪を裁決し得るが、剛健の中に又和悦あれば、声厳色勵せずとも海内自ずから安んず。裁決の中に又和順あれば、刀斧を動かさずとも天下自ずから帰服す。
揚于王庭柔乗五剛者,小人雖日微弱,然猶據髙位以憑陵君子,不假大君之命戮之於朝,其肯退聴乎?孚號有厲者,雖號已信眾,審知其小人,未甞敢以盛氣加之,惴惴然常慮其圗已而反為所擠也。如此然後其功可成,其道愈光顯於天下矣,是晦其明者乃所以為光也,戒懼矜慎之至也。
所謂「王庭に揚ぐは柔が五剛に乗る」は、小人は日に衰弱すると雖も、なお高位に盤踞して君子を凌侮し、若し君主の詔命を仮借して朝堂に公然と処置せざれば、彼は豈に肯んじて退き聴命せんや。所謂「孚号有厲」は、号令はすでに衆人の信を取り、衆人も皆彼が小人なるを看清しけれども、君子はなお敢えて盛気凌人せず、却って戦戦兢兢、時々相手の己を図るを防ぎ、己が反って排擠せられんことを慮る。此の如く謹慎してこそ功業成り、正道愈々光りて天下に顕揚す。これ即ち己が明智を収斂することが、恰もその光明の在る所であり、戒惧持重極まるなり。
告自邑不利即戎所尚乃窮者,剛武非聖人之所尚也。去朝廷之小人,不得已而用其剛果可也;恃其剛果,至於誅伐不已,勤兵於逺,則取困窮之道也。剛武之道雖不可尚,至於在內之小人足以害治道者,去之不可不盡也。譬之農夫之務去草,不除其根本,使之滋蔓難圗,則悔無及矣。唐之五王特以留一武三思為天子藉手,故反受其禍,是五剛不能勝一陰而卒為所圖,剛長而不能終之效也,可不戒哉!
所謂「邑より告げ戎に即くに利あらずは、尚ぶ所乃ち窮まる」は、剛強武力は聖人の尚ぶ所にあらざるなり。朝廷の小人を清除するに、已むを得ず剛断果決を動かすは可なり。若し剛断果决に倚仗し、誅伐止まず長年遠方に兵を用うるに至らば、これ自ら困窮を取る路数なり。剛強武力の道は尚ぶべからざれども、朝廷内部の政治を敗壊するに足る小人は、剷除するに徹底せざるべからず。これ譬えば農夫の必ず草を鋤き、草根を挖り尽さざれば、蔓延して収拾し難きに至らしめ、悔ゆるも及ばざるが如し。唐代の張柬之等五王は、ただ一つの武三思を留めて天子の帮手と為したが為に、却って大禍を蒙った。これ正に五つの陽剛が一つの陰柔を制し得ず、終にその算計するところとなり、即ち「剛長じて終る能わず」の験なり。李光が此を挙ぐるは、正に当朝を警告するに在り:権奸除き尽さざれば、忠臣終に必ず反ってその害を受く、豈に戒めと為さざらんや。
象曰:澤上於天,夬,君子以施祿及下,居徳則忌。山澤之氣上升則下降,蓋未有升而不降者,其理可決也。眾陽並進以決一陰,則朝廷無害治之人,其能施澤於天下無可疑者。君子體此象,則施祿及下,使天下蒙其恵利,如澤之上於天,復降而為雨露也。
『大象伝』に言う。「沢天の上に上る、夬。君子以て禄を施し下に及ぼし、徳に居れば則ち忌む。」山沢の気は上がれば必ず降り、升るのみて降らざるは未だ嘗て有らず、この理は断定し得べし。衆陽は斉しく并進して彼の一陰爻を裁決すれば、朝廷に政治を妨害する者なく、然らば恩沢の天下に施及するも毫も疑う可からず。君子は此の卦象を體察し、俸禄恩賞を施し下に及ぼし、天下人をして皆その恵利を蒙らしむ。正に沢水の天に升り、又降りて雨露と化するが如し。
若屯其膏,施獨擅富有而不與眾共之,則眾皆忌嫉之矣。武主伐紂,誅一獨夫耳,周公太公之徒為輔佐,克商之後分土列爵,散鹿臺之財,發巨橋之粟,大賚四海而萬姓悅服。項羽使人有功當封爵,刻印刓忍不能予,豈足以成大功哉!武王所以長有天下,項氏卒為漢所滅,成敗之效豈不昭然哉!
若し己が膏沢を吝嗇し、富有を独占して衆人と共享するを肯ぜざれば、衆人皆彼を忌恨せん。周武王が商紂を討つは、ただ一つの独夫を誅除するのみ、周公・太公の一班人がその輔佐を為し、殷商を克して後、土地を分封し爵位を排定し、鹿台の財を散じ、巨橋の倉を開き、四海に普く賞賜し、因りて万姓心より悦服せり。項羽はこれに反す:部下功を立て爵を封ずべきに、官印皆刻み成れども、なお手に摩挲して棱角皆磨平するまで与うるに忍びず、此の如くにて豈に大功業を成さんや。武王の久しく天下を有する所以、項氏の終に漢に滅ぼさるる所以、成敗の效験豈に明白ならざらんや。
初九:壯于前趾,往不勝為咎。象曰:不勝而往,咎也。乾雖剛健,然方伏而在下,欲動而勝物不可易也,故壯于前趾,急於躁進,理必不勝而反獲咎也。以五君子而決一小人,宜若易然,然陰方在上,據其髙位,眾陽為其所乗,欲決去之必以謀濟。雖五之得尊位,尚須中行然後無咎,況初為發足之始乎?
初九の爻辞に言う。「前趾に壮んなり、往きて勝たざれば咎と為る。」『小象伝』に言う。「勝たずして往くは咎なり。」乾は剛健なれども、初九はなお最下に潜伏し、一動すれば即ち相手を圧倒せんと欲するも容易ならず。だからそれが足趾に強がり、冒進を急ぐは、理に必ず勝つ能わず、却って過錯を招来す。五位の君子を以て一人の小人を裁決するは、見るに甚だ軽易なるべしとすれども、然るに陰爻は正に上位に高踞し、尊顕の地位を占め、衆陽皆その凌駕するところと為り、これを清除せんとすれば、必ず周密の謀画を以てせざれば事を成さん。尊位に居る九五と雖も、なお中道に依りて行い始めて過錯なからん、況んや初九はただ剛く第一步を邁出したるのみ、をや。
象言不勝而往咎也,度其勢不能決勝,乃冒昧而往,其蹈凶咎必矣。湯武之事,應乎天而順乎人,然成湯尚雲慄慄危懼若將隕於深淵,武王師渡孟津,觀政於商,二王所以卒勝有天下也。自古勝敵之道,如鷙鳥之擊、猛獸之搏,必戢翼匿形然後有獲,豈可遽進而躁動哉!
『小象伝』に「勝たずして往くは咎なり」と言う――形勢を估量して明らかに勝つ能わざるを、冒然として往けば、凶険災禍に踏み入るは必然なり。商湯・周武の挙事は、上は天命に応じ下は人心に順うけれども、成湯はなお自ら戦戦兢兢・将に深淵に墜入せんとするが如しと言い、武王は師を率いて孟津を渡り、先ず商朝の政情を観察したり。此の二王者の終に勝ちて天下を有する能くせるは、正に此の戒慎に倚る。古来自より敵に勝つの門道は、猛禽の撲撃・猛獣の搏噬するが如く、必ず先ず翅膀を収め形跡を隠し、然る後に収獲あらん、豈に一上来より冒進躁動せんや。
九二:惕號,莫夜有戎,勿恤。象曰:有戎勿恤,得中道也。小人為冦,戎必在暮夜幽闇之時,君子於此時能惕然思懼,常若冦賊之至,必有以御之,夫何憂何懼哉?故可勿恤也。象言得中道者,二在乾之中爻。蓋去小人之道,用其剛壯而直前固不可也,依違不決而陰與之相應愈不可也。初與三所以不免乎咎悔,而二獨得中道,故小人無所能為而卒勝之也。
九二の爻辞に言う。「惕号す、莫夜戎あり、恤うる勿れ。」此の「莫夜」は即ち暮夜、天暗くなった後を指す。『小象伝』に言う。「戎ありて恤うる勿れとは、中道を得るなり。」小人が兵を興し乱を作すは、必ず傍晚幽暗の時を挑む。君子は此の如き時に警惕戒惧し、時々敵寇の将至らんとするが如く預め設防せば、又何の憂うべく懼るべきがあらん。だから憂うる必しからずと言う。『小象伝』の「中道を得」と言うは、九二が乾体の中爻に処るが為なり。小人を清除する办法は、一味に剛猛の気に憑りて直冲せば固より行かず、含糊敷衍して決心を下さず、暗に又小人と声気を通ずれば尚更行かず。初九と九三の咎悔を免れざる所以、惟だ九二のみが中道を守ったが故に、小人展施する所なく、終にそれに勝たれたり。
九三:壯于頄,有凶,君子夬夬,獨行遇雨,若濡有慍,無咎。象曰:君子夬夬,終無咎也。九三居下卦之上,處至顯之地,有頄之象焉,先儒以頄為面顴,上六也。九三居君子之中,獨與上六小人為應,眾所不與,宜其凶也。君子知與上合則為群賢所疑,故能不牽於暱比之私,不暴其欲去之跡,能決其所當決,故曰君子夬夬也。
九三の爻辞に言う。「頄に壮んなり、凶あり。君子夬夬、独り行きて雨に遇い、濡るるが若く愠あり、咎なし。」『小象伝』に言う。「君子夬夬は、終に咎なきなり。」九三は下卦の最上に居り、最も顕露の地に処す。だから「頄」の象あり。前代の学者は「頄」を面頰顴骨と為し、即ち上六を指す。九三は身を衆君子の中に在りながら、惟だ独り上六の小人と相応し、衆人皆彼に親附することを肯ぜず、凶険は応にあるべし。君子は己が一旦上六と結合せば衆賢に懐疑せらるるを明白に知り、だから能く私に相親昵する情面に牽かれず、又小人を除かんと欲する意図を顕露せず、決断すべき時に決断し下し得る。だから「君子夬夬」と言う。
獨行遇雨若濡有慍無咎者,眾方乗時並進,欲決去一小人,已獨陰為內應,宜乎為眾所慍也。然因其合已而陰與眾圗之,則彼不疑而吾之謀得行焉,眾雖有慍見之色而卒去小人,故無咎也,陳平周勃之用酈寄是已。象言君子夬夬終無咎者,於此能行其剛決,又何咎焉?陸氏以比陳太丘之吊張讓,庶其是乎。
所謂「独り行きて雨に遇い、濡るるが若く愠あり、咎なし」は、衆君子は正に時勢に乗じて斉しく并進し、彼の一小人を清除せんとす。惟だ九三のみ暗中に小人の内応を為せば、衆人に怨恨せらるる無怪なり。然るに彼は正に小人と相合するが故にこそ、暗に衆人と合謀し、小人をして疑心を起さずして己が計謀の施行を得せしむ。衆人は彼に対し愠色を面に帯ぶと雖も、最終には小人を除掉し、だから過錯なし。漢初の陳平・周勃が呂禄と相好する郦寄を利用して兵権を騙取せしは、即ち此の如き例なり。『小象伝』の「君子夬夬、終に咎なし」と言うは、此の如き処境に在りてなおその剛断を施行する能くば、又何の過錯かあらん。陸氏これを陳寔の前に往きて宦官張譲の父を弔唁せしに比す、大概言うところ是ならん。
九四:臀無膚,其行次且,牽羊悔亡,聞言不信。象曰:其行次且,位不當也;聞言不信,聰不明也。陽剛君子而寓於陰柔之地,不足於剛決者也。其行次且而不進,如臀之無膚,其可與有為乎?羊雖喜觸而善群,眾陽方進,能牽連以行則可免後時之悔矣。四方樂於靜退,居不競之地,雖聞斯言,未必能信之而行之也。
九四の爻辞に言う。「臀に膚なし、その行次且たり、羊を牽けば悔亡ぶ、言を聞きて信ぜず。」『小象伝』に言う。「その行次且なるは、位当らざるなり。言を聞きて信ぜざるは、聡明ならざるなり。」陽剛の君子が陰柔の位置に寄身するは、剛断足らざる者なり。彼は步履蹣跚・遅疑不前、譬えば臀部に皮肉なくして坐立安んぜざるが如し。此の如き人、豈に彼と大事を共に図る可けんや。羊は抵触を愛すと雖も、亦た群れを合すに善し。衆陽は正に斉しく向前す。彼若し牽連して一同に前行する能くば、後に落つるの懊悔を免れん。然るに九四は偏に安静退譲を楽しみ、世と争わざる地位に安処す。此の言を聞くと雖も、未だ必ずしも肯んじて信じて照らし行わんや。
聖人深著去小人非難,能同心同徳之難也。君子能同其心徳,何事而不可成乎?方小人在上,眾欲去之,蓋有懐疑畏而不敢進者,亦有賣我而自售者。使其居得志之位,稟聰明之才,其去小人不啻摧枯拉朽之易耳,故象曰其行次且位不當也,聞言不信聰不明也。
聖人は此に於いて深刻に点明す:小人を清除するは難からず、難きは君子の能く同心同徳たり得るか否かに在り。君子若し心志徳性一致する能くば、又何の事か成さざらん。小人が高位に高踞し衆人皆彼を除かんと欲する時に当たり、その中に固より心に懐疑畏懼して敢えて挺身せざる者あり、又同伴を出売して己が前程を換取する者もあり。仮に此の如き人をして得志の位置に処らしめ、又聡明の才具を禀有せば、小人を除くは摧枯拉朽の如く容易なるのみ。だから『小象伝』に「その行次且なるは位当らざるなり、言を聞きて信ぜざるは聡明ならざるなり」と言う。
九五:莧陸夬夬,中行無咎。象曰:中行無咎,中未光也。甚哉,小人之難去也!以九五剛陽之君而下有群賢之助,一小人在上而反比之,若有所畏然,雖能用其剛斷而卒去之,僅能免咎耳。莧陸,莧之生陵陸者,莧柔脆之物而生於陵陸之上,如小人而在髙位者。中行謂典刑不及,非若舜之去四凶也。蓋小人必有以甞君之慾而得其心,若徳宗之於盧杞是也,故象言中行無咎中未光也。聖明之主欲使其道光顯於天下,非藁街之戮、兩觀之誅,豈足以快天下之論、服海內之心乎?
九五の爻辞に言う。「莧陸夬夬、中行すれば咎なし。」『小象伝』に言う。「中行して咎なきは、中未だ光ならざるなり。」小人は誠に除き難し!九五の如き剛健陽明の君主を以てし、下に又众多の賢臣の相助あり、偏に上に一小人あり、彼は却って往きてこれに親しみ、心に忌惮存するが如し。最後も能く剛断を動かして小人を除掉し得ると雖も、僅かに差錯出でざるを致すのみ。「莧陸」は丘陵高地に長ずる莧菜なり。莧は本は柔脆の物なれど、高地に生ず、正に小人が高位を占むるが如し。「中行」と言うは、刑典の彼が身に加えられざるを言い、虞舜の四凶を流放了るが如く徹底ならず。元来小人は必ず君主の嗜好を揣摩してその心を把捉する办法あり、唐徳宗の盧杞に対するが如し。だから『小象伝』に「中行して咎なきは、中未だ光ならざるなり」と言う。聖明の君主は己が正道を光りて天下に顕揚せしめんと欲す。若し漢代の郅支単于の首級を藁街に懸け、孔子の両観の下に明かに典刑を正するが如くする能わざれば、怎んぞ天下の公論を快せしめ、海内の人心を折服するに足らん。
上六:無號,終有凶。象曰:無號之凶,終不可長也。上六以陰柔之小人,以非道媚悅於上,蠱惑其心,上所宻比,其極至無所忌憚,固寵保位,乗五以抗眾陽,無禮之甚,眾所忿激,故不假號令而誅鋤之。象曰無號之凶終不可長也,眾剛雖在下而方進,此君子道長之時,小人雖據髙位,詎能乆乎?
上六の爻辞に言う。「号する无し、終に凶あり。」『小象伝』に言う。「号する无きの凶は、終に長からざるべからざるなり。」上六は陰柔の小人、不正の手段を以て君上に討好し、君主の心志を迷惑し、君主最親近の寵幸と成り、極点に至りて便ち肆无忌惮、恩寵を牢牢に抓住し位置を死死に保住し、九五の上に凌駕して衆陽と対抗し、無礼極点に至り、衆人憤慨激憤せざる无し。だから号令を発施するを用いず、自然に彼を剷除す。『小象伝』に「号する无きの凶は、終に長からざるべからざるなり」と言う――衆陽はなお下に在ると雖も、正に上に向かい推進し、これ正に君子の道日に長ずる時なり。小人縦い高位を占むるも、又能く長からんこと幾時ぞや。
姤卦(巽下乾上)
下乾上姤:女壯,勿用取女。艮下坤上為復,巽下乾上為姤。冬至之日一陽生乎下,故為復;夏至之日一陰生乎下,故為姤。五陽而一陰,則一陰為之主。陰雖復而在下,其勢必盛,故有壯女之象。勿用取女者,小人勿用也。
『姤』卦の下体は巽、上体は乾である(原文此処「下乾上」は脱文あり)。卦辞に言う。「女壮んなり、女を取るを用うる勿れ。」原文に「艮下坤上は復と為る」と言う――按ずるに『復』卦は当に震下坤上たるべし。巽が下、乾が上に在れば即ち『姤』なり。冬至の日、一陽下に萌生す。だから『復』卦なり。夏至の日、一陰下に萌生す。だから『姤』卦なり。五つの陽爻に一つの陰爻が配され、然らば此一陰爻は却って全卦の主と成る。陰は剛く萌生して下位に処ると雖も、その勢い必ず愈々盛んならん。だから「壮女」の象あり。所謂「女を取るを用うる勿れ」は、即ち小人任用すべからずと言うなり。
善明治道者,察乎微而巳。陰邪處內,雖寡足以勝眾陽,是一小人足以敵眾君子也。然則君子小人相為消長,特在內外之間耳,否泰二卦是也。人君能審知其小人勿用可也。唐明皇用一李林甫,去一張九齡,治亂於此分矣。君明臣良,古人謂千載一遇,當姤陰長之時,聖人致其戒慎之意深矣。
真に治道を懂得する人は、功夫ただ細微の苗头を察覚するに在るのみ。陰邪の気は内卦に盤踞し、人数少なしと雖も衆陽を圧倒するに足る。これ即ち一小人が一群の君子に抵挡するに足るなり。見るべし、君子と小人は此消彼長、関鍵ただ誰が内に居り誰が外に居るかに在るのみ。『否』『泰』両卦は即ち明証なり。君主たる者ただ能く誰が小人なるかを明察して任用せざれば、即ち足れり。唐明皇は一人の李林甫を任用し、一人の張九齢を罷黜し、治と乱は便ち此より分界せり。君主賢明・臣子良善は、古人は千載難逢と言う。正に『姤』卦一陰漸長の時に当たり、聖人反復して戒惧謹慎に意を致す、その用心深遠と謂うべし。
彖曰:姤,遇也,柔遇剛也。勿用取女,不可與長也。天地相遇,品物咸章也。剛遇中正,天下大行也。姤之時義大矣哉!柔之遇剛、陰之遇陽、臣之遇君,其理一也,姤之所以為遇也。君子小人雖異趣,未有無所遇者,君子之遇明君、小人之遇暗主,資適相逄耳。勿用取女不可與長者,當姤陰長之時,君子道消,故勿用取女,必有敗國亡家之道,故不可與長也。
『彖伝』に言う。「姤は遇なり、柔が剛に遇うなり。女を取るを用うる勿れは、与に長くすべからざるなり。天地相遇えば品物咸に章なり。剛が中正に遇えば天下大行なり。姤の時義大なるかな!」柔が剛に碰上し、陰が陽に碰上し、臣子が君主に碰上するは、道理は一なり。これ即ち『姤』が「遇」と解せらるる所以なり。君子と小人は志趣同じからざると雖も、遇合する所なき者はなし。君子は明君に遇い、小人は昏主に遇う、ただ彼此の資質恰好相投ずるのみ。所謂「女を取るを用うる勿れ、与に長くすべからず」は、正に『姤』卦一陰漸長の時に当たり、君子の道正に消退しつつあり、だから此の如き女子を迎娶する勿れ――此の類の人を任用せば、必ず敗国亡家の下場を招来す。だから彼と長久に相処する能わず。
天地相遇品物咸章者,天地之氣不交感則不能生育萬物,天氣下降,地氣上升,寒往則暑來,暑往則寒來,然後飛潛動植之物職職呈露,故品物咸章也。剛遇中正天下大行者,姤雖陰長之時,然二五各據中正之位,雖非正應,體實剛健,足以大有為於天下,此遇之至善者也。姤之時義大矣哉者,以天地陰陽之理觀之,則聖賢相遇必能易亂為治、去危為安,社稷生靈皆蒙其福,則姤之時與義豈不大哉!姤之時,言陰長之時也;姤之義,則陰陽相遇之義也。
所謂「天地相遇えば品物咸に章なり」は、天地二気交相感応せざれば、万物を生育する能わざるを言う。天気下降し、地気上昇し、寒気過ぎれば暑気来り、暑気過ぎれば寒気又来り、然る後に飛禽走獣・水族草木乃ち一々繁盛に顕現す。だから万物皆焕然として観る可しと言う。所謂「剛が中正に遇えば天下大行なり」は、『姤』は一陰漸長の時に処ると雖も、九二と九五は各々中正の位を占據し、両者正応にあらざると雖も、体質は確かに剛健にして、天下に大いに有為なるに足る。これ「遇」の中最好の一種なり。所謂「姤の時義大なるかな」は、天地陰陽の道理を以て之を見れば、聖君と賢臣一旦相遇えば、必ず能く乱を化して治と為し、危を転じて安と為し、社稷と百姓皆福沢を蒙る。然らば『姤』卦の「時」と「義」は豈に重大ならざらんや。「姤の時」と言うは一陰漸長の時を言い、「姤の義」と言うは則ち陰陽相遇うの意義を言う。
象曰:天下有風,姤,后以施命誥四方。卦以巽下乾上為姤,其象為天下有風。夫風在天下,則萬物無不遇者,聖王體此以施令誥於四方,孰敢不聽從者?人君舉措未有無所法象者,風雷皆號令之象也。凡可以動物者皆風也,風以動之則物無不遇者,故朝廷之命令猶天之有風也。風行草偃,則物無不披靡者。聖人發號施今以播誥四方,取象於姤,義無餘蘊矣。
『大象伝』に言う。「天下に風あり、姤。后以て命を施し四方に誥ぐ。」此の一卦は巽を下、乾を上に以て『姤』と為り、卦象は天の下に風が吹くなり。風天下に行えば、万物それと相遇わざるなく、聖王此れを體察し、政令詔告を四方に推行せば、誰か敢えて聴従せざらん。君主の一挙一動、天象に取法せざるなく、風と雷は皆号令の象なり。凡そ能く万物を鼓動するは皆風に属し、風一たび鼓動せば万物それと相遇わざるなし。だから朝廷の命令は譬えば天上に風あるが如し。風一吹き過ぐれば草便ち伏倒し、万物それに随い披靡せざるなし。聖人が号令を発布し詔告を四方に頒行するに、『姤』卦に取象す。その中の意思、発揮し遺さずと謂うべし。
初六:擊於金柅,貞吉,有攸徃見凶,羸豕孚蹢躅。象曰:繋於金柅,柔道牽也。姤之時,陰方長而未盛,如小人在內而黨與未應,制之不於其漸,則滋蔓難圗矣,故繋於金柅。金柅者,在車之下,以金為之,所以止輪令不動也。九二陽剛而位乎中正,比近於初,與初同體,能止初者也,故以為象。
初六の爻辞に言う。「金柅に繫げ、貞にして吉、往く所有りて凶を見る、羸豕孚に蹢躅す。」『小象伝』に言う。「金柅に繫ぐは、柔道牽かるるなり。」『姤』卦の時、陰気剛く生長して未だ強盛ならず、譬えば小人すでに朝廷之内に混入したれど党羽未だ呼応せざるが如し。若しそれが剛く苗头を露す時に趁えて制約を加えざれば、蔓延して図謀し難き地步に至らん。だからこれを「金柅」に繫ぐ。「金柅」は車下に装し金属を以て作れる制動器にして、車輪を卡住して転動せしめざるに用う。九二は陽剛にして中正の位に居り、初六に紧挨し、又初六と同属巽体、正に初六を制止し得る者なり。だからこれを以て象を取る。
如小人寖長之始,其勢未盛,有剛陽得位之君子以正道格之,使其私慾不行,則貞而獲吉矣。有攸往見凶者,小人之性猶女子也,無所繋而任其所之,恣其所覩,則凶之道也。羸豕孚蹢躅者,豕方羸弱之時若無能為者,及其羸而制之則易。初六陰豕之羸者也,小人之初其勢未盛,然其中誠有一跳踉之志矣,不能有所繋而恣其所往,何所不至乎?象言繋於金柅柔道牽也,小人之初,必有牽制之,使繋於一則無能為矣。
譬えば小人剛く漸々勢いを得る時、気勢未だ強盛ならず、若し剛陽位を得たる君子ありて正道を以て彼を矯正し、その私欲を行き通らざらしめば、則ち正を守りて吉利を獲す。所謂「往く所有りて凶を見る」は、小人の秉性は主見なき女子の如く、約束を加えずして彼を憑に随所に走動せしめ、放縦して心の欲するままにせしめば、則ち凶を招く道なり。所謂「羸豕孚に蹢躅す」は、猪正に瘦弱の時は見るに能なきが如く、それが瘦弱の時に趁えて制服すれば容易なり。初六は即ち彼の陰柔瘦弱の猪なり。小人は起初に於いて気勢未だ盛んならざれど、彼の心は確かに早くも一副の躁動跳踉の心思を蔵す。若し牽繋する所有る能わずして彼の為さんと欲するままに任せば、到らざる所何れかあらん。『小象伝』に「金柅に繫ぐは柔道牽かるるなり」と言うは、正に小人剛く頭を露す時、必ず彼を牽制する物を有せざればならず、彼を繫ぎて一処に乱動せしめざれば、彼は能為なしと言うなり。
九二:包有魚,無咎,不利賓。象曰:包有魚,義不及賓也。二逺君而近民,五陽在上,一陰在下,故初有民之象。初六陰未有主而二先得之,四雖正應,然初已從二,四不能主而反為賓。如陳勝所遣將相,得其地即王其地,有其民;武臣至邯鄲自立為趙王,韓廣得燕自立為燕王,如此豈賓之利哉!
九二の爻辞に言う。「包に魚あり、咎なし、賓に利あらず。」『小象伝』に言う。「包に魚ありは、義賓に及ばざるなり。」九二は君主に遠く百姓に近し。五つの陽爻上に在り、一つの陰爻下に在る。だから初六に百姓の象あり。初六の此の陰爻本来未だ帰属なきも、九二は先んじてこれを得たり。九四は初六と正応なりと雖も、初六すでに九二に跟従せり。九四は主人を成さず、却って客人と成る。これ譬えば陳勝の派出去る将相、何れの地を打下すれば即ちその地に於いて王を称し、その処の百姓を占有するが如し。武臣は邯鄲に至りて便ち自ら立ちて趙王と為り、韓広は燕地を取得して便ち自ら立ちて燕王と為れり。此の如くなれば、彼の「客人」に対して又何の好処かあらん。
稱賓則體敵而無君臣之分矣。二擅有其民,宜其有咎也。方民思其主之時,五剛莫適為主,雖有正應,不能禁二之自専,故曰包有魚無咎。包謂包裹之,易之取象言豈一端。象言包有魚義不及賓者,既王其地、有其民,豈復顧其賓哉?
一旦「賓」と称せられれば、双方即成ちて対等の敵体と為り、君臣の名分亦た无きなり。九二が百姓を独占するは、本応に過錯あるべし。然るに百姓正に帰属あるを盼み、五陽爻の中誰も確定の主人と算えざる時に当たり、九四正応の名ありと雖も、九二の独断専行を禁止する能わず。だから爻辞乃ち「包に魚あり、咎なし」と言う。「包」は包裹の意なり。『周易』の取象、従来一の角度のみならず。『小象伝』に「包に魚ありは義賓に及ばざるなり」と言うは、彼すでにその土地に於いて王を称しその処の百姓を占有せる以上、豈に尚お彼の「客人」を顧念せんや。
九三:臀無膚,其行次且,厲無大咎。象曰:其行次且,行未牽也。三與初同體,皆處下卦,初切近於二,為二所得,故九三失據,如臀之無膚也。退而從初則礙於二,舍之而進則三陽阨於上,故其行次且,次且難進之象,處此勢者其凶可知。
九三の爻辞に言う。「臀に膚なし、その行次且たり、厲にして大咎なし。」『小象伝』に言う。「その行次且なるは、行未だ牽かれざるなり。」九三は初六と同属巽体、皆下卦に在り。初六は九二に紧挨し、すでに九二に占有せられ、だから九三は依托を失い、譬えば臀部に皮肉なきが如く坐立安んぜず。後に退きて初六に親附せんとすれば、九二に遮られ、それを撇いて前に進まんとすれば、上に又三つの陽爻の壅塞あり。だから彼は步履蹣跚、「次且」は正に前行し難きの象なり。此の如き形勢の中に処る者、凶険知る可し。
然三以剛健而寓陽位,非闇弱之人,必能惕厲自強,故無大咎也,咎不至大者,小或不免耳。象言其行次且行未牽者,不為上下所牽制也。知初之不可據而義不反顧,知上未易犯而不敢直前,此所以獲免乎咎悔也。
然るに九三は剛健の質を以て陽位に居り、昏暗軟弱の人に非ず、必ず能く警惕自励し発奮自強す。だから「大咎なし」。過錯大に至らずと言うは、小なる過失或いは仍お免れざるを言う。『小象伝』に「その行次且なるは、行未だ牽かれざるなり」と言うは、彼が上下両頭に牽制せられざるを言う。彼は初六すでに靠む可からざるを明白に知り、道義の上に於いて便ち再び回頭張望せず。上面は冒た易からざるを明白に知り、便ち敢えて一直線に前に硬闖せず。これ正に彼が咎悔を免れ得る所以なり。
九四:包無魚,起凶。象曰:無魚之凶,逺民也。九四與初六為正應,位尊而近君,然初已為二所據,是不得乎民,如包之無魚,有所作為則凶矣。起者,興事造業之謂,上欲興事造業而百姓不與,孰與成功哉?易之師曰剛中而應,行險以順,而民從之。夫用兵行師,驅民於萬死一生之地而民不敢不從者,以吾能有其眾也。
九四の爻辞に言う。「包に魚なし、起これば凶。」『小象伝』に言う。「魚なきの凶は、民に遠きなり。」九四は初六と正応にして、地位尊顕にして又君主に近し。然るに初六すでに九二に占拠せらる。これ即ち百姓を得る能わざるに等しく、譬えば包裹の中に魚なきが如し。此の時若し尚お挙動する所有らば、則ち凶なり。「起」は事業を興すの意なり。上の者事業を興さんと欲して百姓肯んじて参與せざれば、誰に倚りて功業を成就せん。『周易・師』卦『彖伝』に言う。「剛中にして応あり、険を行うに順を以てすれば、民これに従う。」兵を用い戦うに、百姓を九死一生の境地に駆りて而も百姓敢えて従わざるなきは、正に将帥の能く真に此の队伍を拥有するが為なり。
故地中有水為師,師,眾也,吾能包而有之,然後可以大有為於天下。湯伐桀、武王伐紂,順乎天而應乎人,不有其民,豈足以興師動眾乎?象言包無魚逺民也,以九四近君而逺民,雖勢足以有行而民不與,故凶也。
だから地中に水ありて便ち『師』卦と為る。「師」は即ち衆人の意なり。我れ能く衆人を包容して真に彼らを拥有し、然る後に乃ち天下に大いに有為すべし。商湯の夏桀を討ち、周武王の商紂を討つは、上は天命に順い下は人心に応じたり。仮に己が百姓を連れて有さざれば、豈に興師動衆に足らんや。『小象伝』に「魚なきの凶は民に遠きなり」と言うは、九四君主に近しと雖も、百姓に疏远せり。縦い権勢挙動するに足るも、百姓肯んじて附従せず。だから凶なり。
九五:以杞包,含章,有隕自天。象曰:九五含章,中正也;有隕自天,志不舍命也。杞,剛勁之木,柔弱蔓延而善附物。杞,九二也;初六也。九五為姤之主,與二同徳,所謂剛遇中正也。當陰長之時,小人慾傾搖君子,聖人思有以制之,豈自用其聰明哉?必有剛果之臣折其芽櫱而包容之,不使滋蔓難圗也,故九五之君但含章而已。含章者,含畜其至美之徳而不暴露也,此制小人之道也,故福慶自天而降,小人無能為矣。
九五の爻辞に言う。「杞を以て包む、章を含み、隕る所天より有り。」(通行本は「杞を以て瓜を包む」、原文此処「瓜」の一字を脱す。)『小象伝』に言う。「九五章を含むは、中正なり。隕る所天より有りは、志命を舎てざるなり。」杞は剛硬強勁の樹木にして、彼の柔弱蔓延・別物に攀附するに善きは瓜なり。杞は九二を指し、柔蔓の瓜は初六を指す。九五は『姤』卦の主にして、九二と同徳、これ即ち『彖伝』の所謂「剛が中正に遇う」なり。正に一陰漸長の時に当たり、小人は君子を動揺傾覆せんと欲す。聖人は何の办法を以て彼を制服すべきかを考慮す、豈に己一人の聡明に憑らんや。必ず剛断果決の大臣ありて小人の萌芽を折断して彼を包裹し、彼をして蔓延して收拾し難きに至らしめざるべし。だから九五の此の君主はただ「章を含む」れば足れり。「含章」とは己が最も美好なる徳性を含蓄涵養して顕露せざるなり。これ正に小人を制服する办法なり。だから福慶天より降り、小人亦た能為なし。
象言九五含章中正者,位乎中正而用中正之道,故可端拱無為,晦跡蔵用,小人自退聴矣。有隕自天志不舍命者,天之所令謂之命。當陰陽代謝、君子小人相為傾奪之時,但任賢使能,一聴天命而我無容私焉,故天弗能違而降之福慶也。
『小象伝』に「九五章を含むは中正なり」と言うは、彼中正の位に身を処して而又中正の道を施行せり。だから能く垂拱無為・韜光養晦し、小人自ずから退避聴命す。所謂「隕る所天より有りは、志命を舎てざるなり」――上天の命令する所を「命」と謂う。陰陽交替・君子と小人彼此傾軋争奪の時に当たり、君主はただ賢能を任用し、一概に天命に聴憑し、自ら半点の私意をも摻入せず。だから上天も彼に違逆する能わず、却って彼に福慶を降下す。
上九:姤其角,吝,無咎。象曰:姤其角,上窮吝也。角者,剛而上窮之象。姤以遇為主,物之交感無非遇者,而君臣為大。九以陽剛乗五而處姤之終,此大臣位極乎人臣,有凌犯之志者。小人乗權勢之乆,貪得無已,如坤之上六龍戰于野,理必傾覆,則吝道也,禍自已取,何咎於人乎?象曰姤其角上窮吝者,姤至於上窮而吝,其始在乎患失而已,終至覆族滅頂之禍,悔可及乎?
上九の爻辞に言う。「その角に姤う、吝、咎なし。」『小象伝』に言う。「その角に姤うは、上窮まりて吝なり。」「角」は剛硬にして最上端に処り、尽頭に走到るの象なり。『姤』卦は「遇」を主旨と為し、万物交相感通せり、一として「遇」にあらざるなし。その中最も重大なるは君と臣の遇合に若くはなし。上九は陽剛の質を以て九五の上に凌駕し、又『姤』卦の終点に処す。これ即ち位人臣を極めて而も心に冒犯の志を存する大臣なり。小人は長久に把持する権勢に憑り、貪求止境なし。正に『坤』卦上六の「竜野に戦う」が如く、理に必ず傾覆す。これ即ち「吝」の路数なり。禍は自ら招来せる、尚お誰に帰咎せん。『小象伝』に「その角に姤うは上窮まりて吝なり」と言うは、『姤』窮極の処に至りて憾惜を生ず。その起因を追究するに、ただ患得患失の心のみ、到頭来却って族を滅ぼし頂を没するの大禍を落とす。彼の時悔ゆるも尚お及ぶや。
巻八
萃卦(坤下兌上)
下經。坤下兌上。萃:亨,王假有廟,利見大人,亨,利貞。用大牲吉,利有攸往。萃,聚也,物萃則聚也。民猶水也,性無不下,澤所以能蓄者,以善下之也。畜眾之道無他,不以威強刼制之耳。好生而惡殺,好利而惡害,民之性也。以逸道使之,能生之而不傷,興利而去其害,則下無不順者。二五以正應,又居中正之位,上下悅順,故能容民畜眾,而萃道成矣。
以下は『周易』下経を講ず。『萃』卦の卦体は坤を下、兌を上とす。卦辞に言う。亨通し、君王自ら宗廟に臨み祭祀す。大人に見ゆるに宜しく、亨通、正を守るに宜しく、牛羊の大牲を用いて献祭して吉を得、往く所有るに宜し。「萃」は即ち聚集、万物匯攏して一処に至れば便ち「聚」と為る。百姓は譬えば水の如し。水性は低処に流れざるなし。沼沢の水を蓄住し得る所以は、正にそれが卑下に居るを肯ずるが為なり。民衆を畜養するに別の門道なく、ただ威勢強力を用いて彼らを劫奪鉗制せざるに在るのみ。命を活くるを願い殺さるるを悪み、利を得るを願い害せらるるを悪むは、百姓の本性なり。百姓を安逸ならしめる方式を以て彼らを役使し、彼らを養う能くして損傷を加えず、有利の事を興して有害の事を除去せば、則ち下の者帰順せざるなし。本卦の六二と九五は陰陽正に相応じ、又各々中位に居り正を得、加うるに下卦の坤は順、上卦の兌は悦、上下既に悦かつ順なり。だから能く百姓を包容し民衆を畜養し、聚合の道此に由りて成就す。
甚哉,民之難萃而易散也!太王居邠,狄人侵之,去之岐山之下居焉,從之者如歸市,豈以勢力驅之哉?秦専任強威,併吞席捲,非不能聚民也,而陳勝奮臂一呼,天下響應。聖人設卦觀象之意,則上悅然後下順,是知勢力之不可恃也;剛中而應,是知偏任威強則民不與也。
誠に難し、百姓は聚攏し難く而も極めて離散し易し!当年周の太王は邠地に住み、狄人来り侵犯せば、他便ち邠地を離れ岐山の下に遷りて居す。彼に跟従する百姓、赶集するが如く成群して至る――これ豈に権勢武力を以て駆り来らせたるか。秦朝は専ら強横威勢を用い、六国を呑并し天下を席卷し、百姓を聚攏する能わざるにあらざれども、陳勝一たび臂を振り呼ばわれば、天下便ち群起して応響す。聖人の卦象を設立し物象を観察する用意は:上位の者先ず喜悦親和すれば、下面乃ち順従せん。見るべし、権勢は靠む可からざるを。卦辞又「剛中にして応あり」を取れば、見るべし、一味に威勢強力に倚仗せば、百姓便ち汝を擁護せざるを。
萃至鼎。彖曰:萃,聚也。順以說,剛中而應,故聚也。王假有廟,致孝亨也。利見大人亨,聚以正也。用大牲吉,利有攸往,順天命也。觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。王者致治至萃,則人道盡矣,可以格祖考矣。蓋建邦設都,必先立宗廟,所以致孝亨也。夫以孝治天下者,四海雖大,萬民雖眾,舉無不順者,以合乎人心也。合乎人心,則民之從之也輕,此要道也。
(「萃至鼎」は原書版心の標目にして、本巻の講ずる所は『萃』卦より起こり『鼎』卦に至るを標明す。)『萃』卦『彖伝』に言う。萃は即ち聚なり。下卦の坤は順、上卦の兌は悦、九五は陽剛中に居りて又六二と相応ず。だから能く聚む。「王假に廟有り」は、孝心を極致に推して神明に通達す。「大人に見ゆるに利あり亨」は、聚合は必ず正道に依循せざればならず。「大牲を用いて吉、往く所有りに利あり」は、天命に順応す。一時代の聚合する所を観察せば、天地万物の実情便ち看るに清楚なり。君王が天下を治理して「萃」の此の一步を做到すれば、人事の道便ち尽したりと算え、祖先神霊を感通する可し。大凡そ邦国を建立し都城を営建せば、必ず先ず宗廟を設立す。為す所は孝心を推達して上に致すに在り。孝道を以て天下を治むる人は、四海広しと雖も万民多しと雖も、順服せざる者なし。孝道は正に人心に合乎するを以てなり。人心に合乎せば、百姓の帰附は軽而易挙なり。これ治国の緊要の道なり。
利見大人亨,聚以正者,大人謂九五也。九得剛中之位而為萃主,此人君能以正道聚天下者,故天下皆利見之。用大牲吉,利有攸往,順天命者,享祀之禮皆報也,非祈也。周公行郊祀之禮於治定功成之後,非豐萃之時而行盛大之禮,則是矯誣上天也。因萃時用其禮,則天必親而享之,如此然後可以大有為於天下。此聖人先天而天弗違,後天而奉天時,故彖言用大牲吉,利有攸往,順天命也。反此則逆天理矣。
「大人に見ゆるに利あり亨、聚は正を以てす」の中の「大人」は、九五を指す。九五は陽剛を以て中位に居りて聚合の主宰と為る。これ正に人君の能く正道を以て天下を聚合するの様子なり。だから天下人皆彼を見るを楽しむ。「大牲を用いて吉、往く所有りに利ありは、天命に順う」は、祭祀の礼は皆神恩に報答するものにして、神に向かい祈求するにあらず。周公の郊祀大典を挙行するは、天下安定・功業既成の後に在り。若し豊盛聚合の時にあらずして盛大典礼を挙行せば、則ち上天を欺誑するなり。聚合豊盛の時に趁えて此の大礼を行えば、上天必ず親近してこれを享用し、此の如くして後に乃ち天下に大いに有為すべし。これ即ち『乾・文言』の所謂聖人「先天にして天違わず、後天にして天時を奉ず」、だから『彖伝』に「大牲を用いて吉、往く所有りに利ありは、天命に順うなり」と言う。反って之を為せば、即ち天理に違逆するなり。
觀其所萃,而天地萬物之情可見者,天地至大,萬物至眾也,欲以一人之私智而徧察之,則吾之智有時而窮矣。聖人坐觀萬化之變,必自其近而易見者始,民同是心也,能同民心,則天地萬物之情舉在此矣,豈有它道哉?
「聚合する所を観察せば、天地万物の実情便ち見る可し」と言うは、天地極めて広大、万物極めて众多、若し一人の私智を憑りて一一遍査せんと欲せば、己が智力は終に窮尽の時あらんを以てなり。聖人は静かに万物万事の変化を観、必ず最も切近・最も見易き処より入手す――百姓は我と同じく此の一颗心を有し、能く百姓と同心せば、天地万物の実情便ち皆此に在り、豈に尚お別の門路かあらん。
象曰:澤上於地,萃。君子以除戎器,戒不虞。師之象曰:地中有水,師。師亦眾也。萃者聚於治安之時,師者用於險難之世。方聚於治安,禍患潛伏,故君子體此象以除戎器,戒不虞也。除者,除治其虧鈍也;戒者,戒慎其未形也。此聖人於治安之時,不忘乎危亂之道也。後世君臣茍玩歲時,因循朝夕,銷兵撤警以幸一旦之安,及夫事至而應,則已無及,其亦昧於萃之道矣。
『大象伝』に言う。沼沢の水地の上に積聚す、これ即ち『萃』。君子此に由りて領悟し、兵器を修治し意外を防備す。『師』卦『大象伝』に言う。地中に水を蓄有す、これ即ち『師』。「師」も亦た众多の意なり。『萃』は太平安定の時に衆人を聚合し、『師』は艱険患難の世に衆人を動用す。正に太平の時に当たりて聚合すれば、禍患実に下に潜伏す。だから君子は此の卦象に取法して兵器を修治し意外を防備す。「除」は残欠缺鈍壊の兵器を修治し、「戒」は禍端未だ成形せざる時に於いて謹慎防備す。これ聖人が太平の時に於いても危乱の道を忘れざるなり。後世の君臣は却って苟且玩忽して歳月を過し、苟且且過して軍隊を裁撤し警備を撤除し、ただ眼前一時の安穏を図る。事変一起りて然る後応付せば、已に及ばざるなり。李光の此の論、正に当日朝廷の戦備を諱言し苟安し和を求むる局面を指向す:此らの人亦た全然『萃』卦の衆を聚め患に備ゆるの道理を懂さざるなり。
初六:有孚不終,乃亂乃萃,若號一握為笑,勿恤,往無咎。象曰:乃亂乃萃,其志亂也。初六以柔弱之才而處萃之始,物之所萃,非能萃物者也。在下而為所萃,非其中心誠實則物不與也,故宜有孚。然初之正應在四,而二陰在上,初以柔道為物所萃,非能卓然獨立也,是以知其決不能克終,而乃亂乃萃也。乃亂者,其志紛亂不能定於一也;乃萃者,不能守其誠實而輕有所萃,此小人女子之象也。若號一握為笑,勿恤,往無咎者,若能翻然悔悟,號咷求附於四則正矣。雖群聚而譁笑之,勿恤而往,則可終免咎悔也。象曰乃亂乃萃,其志亂者,初本應四,四止而不能下應,故初無所適從,是其心志之亂也。
初六の爻辞に言う。誠信有れども到底保持する能わず、於是に心志紛乱して胡乱に聚合す。若し能く号啕呼求せば、一握の間衆人却って彼を譏笑す、憂うる勿れ、往きて過錯なからん。『小象伝』に言う。「乃ち乱れ乃ち萃む」は、それが心志乱れたるなり。初六は柔弱の質を以て聚合の初に処す。それは人に聚めらるる対象にして、人を聚むる能くする者にあらず。身下位に居りて人に聚めらるれば、内心誠実ならざれば、人亦た帰附せず。だから誠信有るべし。然るに初六の正応は九四に在り、中間に又六二・六三の二陰爻を隔つ。初六は柔順を以て人に聚めらるれど、卓然として自立する能わず。因此に断定し得べし、それは決して有始有終する能わずと。於是に心志紛乱・胡乱に依附す。所謂「乃ち乱る」は、心志紛雑して専一する能わざるなり。所謂「乃ち萃む」は、己が誠実を守住する能わずして軽率に人に依附するを言う。これ小人と女子の様子なり。「号すれば一握にして笑わん、恤うる勿れ、往けば咎なし」と言うは、倘若能く幡然として悔悟し、号啕呼求して往きて九四に依附せば、便ち正路に走上り、一群众聚りて傍に哄笑すと雖も、亦た理する必しからず、ただ往かん、最終に便ち過咎悔恨を免れん。『小象伝』に「乃ち乱れ乃ち萃むは、その志乱るなり」と言うは、初六本応に九四に応合すべきに、而も九四上に停在して肯んじて下応せず。だから初六適従する所なし。これ即ちその心志混乱の縁由なり。
六二:引吉,無咎,孚乃利用禴。象曰:引吉無咎,中未變也。萃之時,群陰在下,二雖陰柔而與五為正應,二五各處中正之位。二在坤中,上下皆陰,莫知適從,既正應在五,則當從所應,然非其招不往也,必待五招聘然後往,乃吉而無咎也。孚乃利用禴者,初以有孚不終,故乃亂乃萃;二獨得柔中以應剛陽,君臣道合,誠實無間,雖菲薄之物可交於神明也。
六二の爻辞に言う。牽引せられて往かば則ち吉、過錯なし。心に誠信存せば、便ち薄祭の「禴」祭を用うるに宜し。『小象伝』に言う。「引かれて吉にして咎なし」は、それが中を守るの操改まらざるなり。聚合の時に当たり、众多の陰爻皆下に在り。六二陰柔なりと雖も、九五と正応を為し、二・五又各々中に居りて正を得たり。六二坤卦の中に処り、上下皆陰爻、一時誰に跟従すべきかを知らず。正応すでに九五に在れば、応ずる所の人に跟従すべし。但し人家の招請来るに非ざれば動身せず、必ず九五の招聘したる後に乃ち前往すべし。此の如くして乃ち吉利にして過錯なし。「孚あれば則ち禴を用うるに利あり」と言うは、初六誠信有りて底に守る能わず、だから心乱れ妄りに聚む。惟だ六二のみ柔順を以て中を守りて陽剛の君に応合し、君臣の道相合し、誠実の心毫も間隔なし。即ち微薄の祭品を用うるも亦た神明を感通するに足れり。
禴,春祭之名,方春之時,品物未備,故其祭曰禴,精潔之義也。茍有誠實,雖二簋可用亨,損所以貴有孚也。象曰引吉無咎,中未變者,守其孚誠而不變也。君子小人各以類聚,小人之與小人,其志趣蓋有不約而同者,非得位處中、內含誠實,未有不反為朋類所引而變者。二能應五之招聘以從正應,故吉且無咎,以中心有所執守而不為群邪所變易也,豈非特立獨行之士哉!
「禴」は春季祭祀の名称なり。正に春天に当たり、各種の祭品未だ斉備せず。だから此の祭祀を「禴」と謂い、その精潔の義を取る。ただ心裡誠実ならば、即ち二簋の飯食を用うるのみも亦た献祭し得べし。『損』卦の「孚あり」を看重する所以は、正に此の道理なり。『小象伝』に「引かれて吉にして咎なきは、中未だ変わらざるなり」と言うは、六二が誠信を固守して改変せざるを言う。君子は君子と、小人は小人と、各々同類に按りて相聚し、小人と小人の間の志趣往往として約せずして同じ。若し其の位を得、又中に居りて正を守り、内心確かに誠実有るに非ざれば、反って同類に拉扯せられて変節せざる者なし。六二は能く九五の招聘に応じて正応に跟従せり。だから既に吉利にして又過錯なし。正にそれが心裡に執守する所有り、一群の邪佞の徒に改易せられざるを以てなり――これ豈に特立独行の士ならざらんや!
六三:萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。象曰:往無咎,上也。六三體陰柔而據陽剛之位,小人之桀黠者也。卦四陰而二陽皆非已應,莫適所從,故萃如嗟如,無攸利也。上與三皆居本卦之上,雖失陰陽正應之理,而上說下順,勢必相合,故往則無咎。小吝者,往雖無咎,而上處大位,三乃順從之,勢利之交,古人所羞,故小吝也。象言往無咎上者,三與四五變而成三之從上,上能說而無違拒之意,故無咎也。
六三の爻辞に言う。聚合せんと欲して而も嘆息するのみ、好処を得るなし。往かば則ち過錯なけれど、略ば遺憾有り。『小象伝』に言う。「往きて咎なし」は、上面に上六の依る可き有るを以てなり。六三本是陰柔の質にして陽剛の位を占拠し、小人中の凶悍狡黠の一類なり。全卦四つの陰爻、二つの陽爻又皆その正応にあらず。それ適従する所なく、だからただ「萃如嗟如」なるのみ、好処を得るなし。上六は六三と同じく各々卦体の上位に処り、陰陽正応の理に合せざると雖も、上六は兌に属し悦を為し、六三は坤に属し順を為し、形勢上必然相合す。だから前往すれば便ち過錯なし。「小吝」と言うは、前往すれば過錯なしと雖も、上六は高位に身居し、六三は却って往きてそれに順従す。これ是れ勢利を以て相交わるなり。古人これを羞と為し引く。だから略ば遺憾有り。『小象伝』に「往きて咎なきは上なり」と言うは、三と四・五の変に就きて成じて六三の上六に跟従するを言うに就てなり。上六能く欣悦を以て相待して拒絶の意なし。だから過錯なし。
九四:大吉,無咎。象曰:大吉無咎,位不當也。四居近君之地,下據三陰,當萃聚之時,為說之始而眾之所歸,此爻之最善者,故大吉也。然以陽居陰,是能柔以奉上接下者,故大吉而無咎悔也。象言位不當者,本以逼上有咎,然既得上下之歡心,上為君所萃,下為眾所萃,故雖免於咎悔而其位終不當也。聖人不以大吉無咎而廢其不當之位,亦不以位之不當為必蹈凶禍也。
九四の爻辞に言う。大吉、過錯なし。『小象伝』に言う。「大吉にして咎なし」、然るにその位置並びに恰當ならず。九四は君位に紧靠の処に処り、下に三つの陰爻を統領し、正に聚合の時に当たり、それは既に上卦兌悦の開端にして、又衆人の帰附する所、全卦最好の一爻なり。だから「大吉」。而且それは陽爻を以て陰位に居り、説明するに它能く柔順の道を以て上は君主に奉じ下は衆人に接す。だから大吉にして過咎悔恨なし。『小象伝』の所謂「位当らず」は、本是それが君位に逼近するは咎有るべしを指す。但し上下既にそれに心より悦服せり。上は君主に聚められ、下は衆人に聚めらる。だから咎悔を免れ得ると雖も、而もその位置は終に当らず。聖人はそれが「大吉無咎」なるを以て位置不当の事実を抹去せず、亦た位置不当を以てそれが必然に禍を遭うと断定せず――禍福の間は、全て当事者の如何に自ら処るかを看る。
九五:萃有位,無咎,匪孚,元永貞,悔亡。象曰:萃有位,志未光也。人主居域中之大,臨海內之眾,總其權綱,設官分職以統治之耳。有位者,百官有司之位也。分民分土,大小尊卑各任其職,垂拱以視天民之阜而已,故黃帝堯舜垂衣裳而治天下也。如此然後可以無咎。
九五の爻辞に言う。聚合してその位に居りて過錯なし。若し未だ人の信を取る能わざれば、便ち長久に正を守るを須ち、悔恨方に消失せん。『小象伝』に言う。「萃むに位あり」は、それが心志未だ光り得ざるを言う。人君は天地間最尊の位を占拠し、四海の衆に君臨す。ただ権柄綱紀を総攬し、官を設け職を分ちて統轄治理すれば已り。所謂「位あり」は、百官有司各々の職位を指す。民衆を划分し土地を划分し、大小尊卑各々其の職を尽くさば、君主は衣を垂れ手を拱き、百姓の生息繁盛するを看るのみで足れり。だから黄帝・堯・舜は衣裳を垂れて天下大治せり。此の如く為して然る後に乃ち過錯なからん。
匪孚,元永貞,悔亡者,九五正應在六二。人主患不廣大,不能泛應曲當而心有偏繫之私,豈能使海隅之眾罔不是孚哉?能元永貞,則匪孚之悔可以亡矣。元,善之長也;永,久也;貞,正也。是三者,大君之道也。有其大善如乾剛之獨運,又久於其道而以正固守之,則可以亡其匪孚之悔矣。象言萃有位,志未光者,象辭獨舉爻中一句以包下文,誠信之徳未著,則於萃為未光大,故云志未光也。
「匪孚、元永貞、悔亡ぶ」と言うは、九五の正応は六二に在るを以てなり。人君の最も怕るるは心量広大足らずして、万事を周遍に応接する能わずして心に偏私牽挂有ること――然らば又怎んぞ海角天辺の百姓をして信伏せざる无からしめんや。「元永貞」を做到する能くば、信服せられざるの悔恨便ち消除す可し。「元」は衆善の首、「永」は長久、「貞」は端正、此の三様は正に大君の道なり。『乾』卦の如き剛健独運の大善を具備し、又能く長久に此の道を行い且つ正道を以て固守せば、便ち「匪孚」の悔恨を消掉す可し。『小象伝』はただ「萃むに位あり、志未だ光ならざるなり」の一句を挙ぐるは、爻辞中の一句を以て下文を統摂するなり。誠信の徳未だ彰顕せざれば、則ち聚合と言う上に於いて光と算うに足らず。だから「志未だ光」と言う。
上六:齎諮涕洟,無咎。象曰:齎諮涕洟,未安上也。上六以陰柔之才而處髙位,當萃之時,進不知止,有顛覆之勢,然能恐懼憂危,尚可免咎,況乎知進退存亡之道,以功名為餘事,視富貴如浮雲者乎?象曰齎諮涕洟,未安上者,六處說之上,居萃聚之終,下無應援而又乘五,其能一日安於上乎?以見危懼之甚也。後世貪沓愚闇之人,一旦得路,自以子孫常握重權,繼世不離廊廟,況復能惕然知禍患之在後而齎諮涕洟以自危懼乎?
上六の爻辞に言う。嗟嘆流涕、過錯なし。『小象伝』に言う。嗟嘆流涕は、それが上位に安んぜざるを以てなり。上六は陰柔の質を以て高位に処す。正に聚合の時に当たり、ただ前進を知りて停止を知らず、本は傾覆の勢有り。然るに它能く心に恐懼を懐き危亡を憂慮すれば、尚お過咎を免れん――況んや彼らの進退存亡の道を懂得し、功名を分外の事と看做し、富貴を浮雲の如く視る者をや。『小象伝』に「賚咨涕洟は、未だ上に安んぜざるなり」と言うは、上六兌悦の最上端に処り、又聚合の終に居り、下に応援なく、尚お九五の上に凌駕す。它能く一日上位に安坐せんや。此に由りてその畏懼の深きを見るべし。後世の彼ら貪婪昏聵の輩は、一朝勢いを得て高位に攀上すれば、便ち自ら以て子孫長久に大权を執掌し、世々代々朝堂を離れざると為し、豈に尚お警惕して意識するに禍患便ち後頭に在るを言わんや、而も嗟嘆流涕・自ら危惧を感ぜんや。李光の当朝の権臣を譏切するは、意正に此に在り。
升卦(巽下坤上)
下坤上,升:元亨,用見大人,勿恤,南征吉。下坤上而升,下者求升之道也;上順者,可升之時也。以求升之道遇可升之時,所以能大亨也。用見大人,勿恤,南征吉者,大人者,道隆徳駿,可與大有為之人也。乾之二五皆曰利見大人,今二五相應,自二之五,自下而升上之象,文王太公相遇,當其時矣。
『升』卦の卦体は巽を下、坤を上とす(原書此処「巽」の字を脱し、ただ「下坤上」と作す、下文凡そ巽を言う処多く此の例に同じ)。卦辞に言う。大いに亨通し、大人に見ゆるに宜しく、憂うる勿れ、南へ征伐して吉利。巽下坤上にして「升」と為る:下位に処る巽は謙遜を為し、これ是れ上進を求むの道。上位に居る坤は柔順を為し、これ是れ上進すべきの時。進を求むの道を以て進む可きの時に遇えば、だから能く大いに亨通す。「用いて大人に見ゆ、恤うる勿れ、南征吉」と言う。所謂「大人」は、道徳隆盛にして之と大いに有為すべき人なり。『乾』卦九二・九五皆「大人に見ゆるに利あり」と言う。如今『升』卦二・五相応じ、九二より六五に上升至るは、正に下より上に升るの象。文王と太公望の相遇えりしは、恰好此の如き時機に赶上せるなり。
勿恤,無所憂慮。五雖陰柔而得尊位,下有陽剛之臣為之輔翼,何往而不濟乎?以此求升,故不足憂也。南征吉者,此文王伐紂之志也。西伯戡黎,祖伊恐,詩頌武王能卒其伐功,則文王南征之志未嘗一日而忘也。渭濱之獵,非熊非羆,帝王之師,則知南征之必吉也。然卦以柔為主者,時或未可,柔所以避時之艱而有待也。
「恤うる勿れ」は、即ち憂慮すべきなきなり。六五陰柔なりと雖も、尊位に居り、下に陽剛の臣の輔佐羽翼あり、何れの処に往かば事を成さざらん。此の如くを以て上進を求む、だから憂慮に値せず。「南征吉」と言うは、これ正に文王の紂を伐つ志なり。『尚書』は西伯の黎を戡めるを記載し、祖伊これが為に震恐せり。『詩経』は武王の終に商を伐つの功を完成せるを頌揚す。見るべし、文王南征の志は未だ嘗て一日も忘れざりしことを。当年渭水の濱に田猟し、卜辞に獲る所は熊にも罴にも非ずして、帝王を輔佐する師なりと言う。此に由りて南征必ず吉利を知れり。然るに此の卦は柔を主と為すは、時勢有りて尚お硬来を容さざるが為なり。柔順は正に時局の艱険を避けて静かに時機を待つに用うるなり。
彖曰:柔以時升,而順,剛中而應,是以大亨。用見大人,勿恤,有慶也。南征吉,志行也。坤以柔而升乎上,以剛中而應乎上,所以為升,君臣道合乃能升也。為上之道不順,則不能虛心屈已逮下;下之求升,一於卑則近於佞媚而入於邪,故應者貴乎剛中也。體雖卑而枉道以求升,則不可也。以九二之剛應六二之柔,此所以能大亨也。
『彖伝』に言う。柔順の者時機に順応して上升し、謙巽にして柔順、陽剛中に居りて上下相応ず。だから大いに亨通す。「用いて大人に見ゆ、恤うる勿れ」は、福慶有るなり。「南征吉」は、志向施行するを得るなり。坤は柔順を以て上に居りて下の者をして升らしめ、巽は陽剛中に居りて上は君に応ず、これ乃ち其の「升」を成するなり。君臣の道相合し、乃ち上升する能くばし。上の位に居る人若し柔順ならざれば、虚心屈己を以て下情を體察する能わず。下の位に居る人の上進を求む、若し一味に卑屈ならば、便ち諂媚に近くて邪路に堕入す。だから上に応ずる者は陽剛にして中を守るを貴ぶ。身分卑下なりと雖も、若し正道を歪曲して上進を求めば、それは可ならず。九二の陽剛を以て上は柔順の君に応ず(原文「六二」と作すは、当に「六五」の誤たるべし)、これ乃ち能く大いに亨通する所以なり。
用見大人,勿恤,有慶者,君臣相遇,無復憂虞,天下必賴其慶矣。南征吉,志行也。南征者,文王之志也。當升之時,聖賢相遇,諸老咸歸,以往則無不利矣,故其志得行也。象曰:地中生木,升。君子以順徳,積小以髙大。木生地中,其本深固,則其末必茂,雖資地氣,必有其本,地能順而生之耳。
「用いて大人に見ゆ、恤うる勿れ、慶あり」と言うは、君臣相遇うの後更に憂慮すべきの事なく、天下必定に此の福慶を仰頼せん。「南征吉、志行なり」、所謂南征は、即ち文王の志向なり。正に上升の時に当たり、聖君賢臣相遇い、伯夷・太公此等の年高德ある人皆来り帰附す。此の如く往かば利あらざるなし。だからその志向施行するを得るなり。『大象伝』に言う。地中に樹木生ず、これ即ち『升』。君子此に由りて領悟し、徳性に順循し細微を積累して高大を成就す。樹木地中に生じ、根本は扎めて深牢なれば、枝葉必ず繁茂す。地気の滋養を憑借せんと要すと雖も、亦た必ず先ず己が根本有るを須ち、土地は不過それに順応しそれを生長するのみ。
君子以順徳,積小以髙大者,順徳則坤之象也。書稱為學遜志,務時敏,厥修乃來,是知修身進學必本於順徳,能順則人必樂告以善道,乃能自微小以成其髙大也。初六:允升,大吉。象曰:允升大吉,上合志也。初以柔而復處卦下,至卑者也。雖於上無應而承九二之剛,與之俱升而應乎六五中正之位,以柔承剛,與二同心合意以進於上,故獲大吉也。象言允升大吉,上合志者,與二中心孚信,不相疑忌,能上合六五之志也。君臣志合而升道得矣。
「君子は徳に順い、小を積みて以て高大と為す」、此の「順徳」は正に坤卦の象なり。『尚書・説命』は学を求めて其の志を謙遜にし時々勤勉せよと言い、学業乃ち長進有らんとす。見るべし、身を修め学に進むは必ず柔順の徳を以て根本と為すを。能く柔順ならば、人便ち善道を汝に告ぐるを楽しみ、於是に細微の処より積累して高大を成就す能くべし。初六の爻辞に言う。誠信を以て上升せば、大吉。『小象伝』に言う。「允升大吉」は、上面と志同道合なり。初六は陰柔の爻にして又全卦の最下に処り、最も卑下なり。それは上面に正応なしと雖も、九二の陽剛を承接し、九二と一同に上升して六五中正の位に応合す。柔順を以て剛強を承接し、九二と同心合意して向上推進す。だから大吉を獲す。『小象伝』に「允升大吉は上と志を合すなり」と言うは、それが九二と内心誠信相孚し、彼此猜疑忌恨せず、因りて能く向上して六五の心志に合すを言う。君臣志向相合せば、上升の道亦た之を得たり。
九二:孚乃利用禴,無咎。象曰:九二之孚,有喜也。九二得人臣中正之位而上應六五,升道之最善者也。君臣相與,以孚信為主,君未深信其臣,雖周公未免成王之疑。九二雖剛陽,以處臣位之中,君臣交孚,故雖菲薄之禮無所疑也。禴,薄祭也。祭祀之禮莫大於誠敬。傳曰:蘋蘩薀藻之菜,潢汙行潦之水,可薦於鬼神,可羞於王公。茍不以誠敬為先,雖品物之多、樂舞之盛,神其吐之矣。
九二の爻辞に言う。心に誠信を懐けば、便ち薄祭の「禴」祭を用うるに宜しく、過錯なし。『小象伝』に言う。九二の誠信は、喜ぶ可きなり。九二は人臣中正の位を得て上は六五に応ず、上升の道中最好の一爻なり。君臣相処するは誠信を要と為す。君主若し自らの臣子を深信せざれば、即ち周公と雖も成王の猜疑を免れん。九二陽剛なりと雖も、臣位の中に処り、君臣彼此誠信相通ず。だから即ち礼数微薄なりとも疑慮を招来せず。「禴」は薄祭なり。祭祀の礼は誠敬より重要なるなし。『左伝』に言う。苹・蘩・薀・藻の如き野菜、路旁積水・地面流潦の如き水、皆以て鬼神に奉献し、王公に進献す可し。仮に誠敬を首位に置かざれば、即ち祭品再び多く楽舞再び盛んなりとも、神明もそれを吐き出さん。
惟中誠實,乃能通乎神明而亨福祿之報,何咎悔之有乎?象言九二之孚有喜者,上下交孚,志得而道行,天下皆喜樂之矣。萃與升相反而相同,萃之六二、升之九二皆以有應而交孚,故二爻皆云孚乃利用禴。君之深信其臣與臣之深文其君,其理一也。
惟だ内心誠実あるのみ、乃ち神明に通達して福禄の報答を享有し、尚お何の過咎悔恨かあらん。『小象伝』に「九二の孚は、喜有るなり」と言うは、上下彼此誠信、志向遂行を得て正道行わるを得、天下人皆之が為に歓喜するを以てなり。『萃』と『升』両卦卦体上下相反し而も義理相通ず。『萃』の六二、『升』の九二、皆正応有るを以て彼此誠信す。だから両爻皆「孚あれば則ち禴を用うるに利あり」と言う。君主の其の臣子を深信する、臣子の其の君主を深信する(原文「深文」は当に「深信」と作すべし)、道理は一なり。
九三:升虛邑。象曰:升虛邑,無所疑也。九三以剛陽之才而處陽位,體既卑,與物無競,非眾陰所能遏也,又有上六為之正應,故如入空虛之地,物無不順從者。象曰升虛邑,無所疑者,紂有臣億萬,離心離徳,故孟子有獨夫之號,雖商邑之大猶空虛也,以往則無所疑矣。此文王必伐之志,武王卒其伐功,牧野之戰,卜之人心,無可疑者也。
九三の爻辞に言う。空城に入るが如く上升す。『小象伝』に言う。「虚邑に升る」は、遅疑すべきなきなり。九三は陽剛の才を以て陽位に処り、巽体本は自卑順、人と争競する所なく、衆陰爻の阻遏する所にあらず。又有るに上六其の正応を為す。だから一座の空城に入るが如く、それに順従せざるなし。『小象伝』に「虚邑に升るは、疑う所なきなり」と言うは、商紂億万の臣民有りと雖も、離心離徳せり。だから孟子彼を「独夫」と称す。商都大なりと雖も、実は空城に同じ。前往せば遅疑すべきなきなり。これ正に文王の必ず紂を伐たんとする心志なり。武王は終に此の征伐を完成し、牧野の一戦、卜問する所は原是人心向背にして、本は疑う可きの処なし。
六四:王用亨于岐山,吉,無咎。象曰:王用亨于岐山,順事也。六四處近君之位,上承於五,處尊位而無陵犯之志者,文王是也。太王居,狄人侵之,去之岐山之下居焉,從之者如歸市,文王因之,此周家王業之所基也。居六四之地,勢足以亨於天下,然止於岐山者,此文王之至徳也。
六四の爻辞に言う。君王岐山に於いて祭享を挙行し、吉利、過錯なし。『小象伝』に言う。「王用いて岐山に亨す」は、柔順を以て君上に事うるなり。六四は君位に紧靠の処に処り、上は九五を承奉し、身尊位に居りて而も凌駕冒犯の心なきは、正に文王なり。当年太王邠地に住み、狄人来り侵し、他便ち邠地を離れ岐山の下に遷りて居す。彼に跟従する百姓、赶集するが如く涌来せり。文王は此の基業を承襲す。これ即ち周朝王業の根基なり。六四の処する地位を以てすれば、勢力已に天下に通行するに足る。然るに彼はただ祭享を岐山の一隅に止む。これ正に文王至高の徳行なり。
在升之時,當升而不進,孔子所謂三分天下有其二猶服事殷也,故能吉且無咎,而象言王用亨于岐山,順事也。至武王則逆取而順守之,詩人謂之卒伐功,則亨于岐山者,將時之未可乎?然則聖賢出處進退之際,易地皆然,善學易者當察其變通之際則得之矣,言豈一端而巳哉!
正に上升の時に当たり、本応に上升すべきに而も按して進まざれば、即ち孔子の所謂「三分天下其の二を有ちて、猶お殷に服事す」、だから能く吉利にして過錯なし。『小象伝』乃ち「王用いて岐山に亨すは、順事なり」と言う。武王に至りては、則ち征伐を以て天下を取り、而も順道を以て天下を守る。『詩経』は彼を称して終に商を伐つの功を完成せりとす。然らば文王のただ岐山に於いて祭享するは、大概時機尚お容さざるならん。見るべし、聖賢の出処進退の際は、彼此位置を換えても亦た同じく此の道理なり。『易』を学ぶに善き人は、当に此の変通の処より體察すべし、乃ち真に所得あるを算えん――道理豈に一端のみならんや。
六五:貞吉,升階。象曰:貞吉升階,大得志也。貞者,靜而正也。能靜而正,則獲吉而終陟元后之位矣。六五下有剛正之賢為之正應,如太公之流,此文王所以卒登王位也。然猶服事殷者,六為柔順,又體坤徳,雖位極人臣,然猶守其貞固,但升階而巳,未及九五之飛龍也。象言大得志者,升道至此,其志可謂得矣。或以升階歸之九二,夫九二在下之賢人,階至而升可也,便以升階歸之九二,豈理也哉?程氏以謂任剛中之賢輔之而升,陸氏謂文王受命之象,是也。
六五の爻辞に言う。正を守れば吉、階を登りて上る。『小象伝』に言う。「貞吉升階」は、大いに志向を実現したるなり。所謂「貞」は、安静にして端正なり。能く安静端正ならば、吉利を獲て最終に君主の位に登る。六五は下に剛健正を守る賢臣ありてそれと正応す。譬えば太公一流の人物、これ正に文王の最終に王位に登るの縁由なり。然るに彼は仍お殷商に臣事す。六は柔順の爻にして又坤卦の徳を秉り、位人臣に極むると雖も、仍お其の貞正を固守し、ただ階を登りて上るのみ、未だ『乾』卦九五の「飛竜天に在り」の地步に至らず。『小象伝』に「大いに志を得」と言うは、上升の道此の一步に至れば、志向算えて実現せりと言う。「升階」を九二の身に帰する者有り――九二は下位の賢人、階梯面前に舗到るを待ちて然る後上るは可なり。然るに此に就きて「升階」を九二に判与せん、豈に此の理あらん。程頤はこれを剛中の賢臣を任用して輔佐して然る後上升するなりと為し、陸氏はこれを文王が天命を受くの象と為す。此の両説乃ち対なり。
上六:升,利于不息之貞。象曰:升在上,消不富也。上六以陰柔處升之終而不知止者也,然而行,不知陰陽消息盈虛之理、聖賢進退存亡之道,至於敗國亡家而不知悔者。大哉貞乎!茍正矣,雖知進而不知止,富貴功名不足累之也。聖賢出處固非眾人之所測也,若利社稷、安生靈,以宗臣自任,終始以正道自持,如周公者,雖進不知止,又何訾焉?
上六の爻辞に言う。昏冥に一味に上升し、止息せざるの貞を堅持するに宜し。『小象伝』に言う。(冥にして)頂端に升りて、徳行消減して再び富有ならず。上六は陰柔を以て上升の尽頭に処りて停止を知らず、昏昧に一路前行し、陰陽消長盈虚の道理を懂さず、亦た聖賢進退存亡の分寸を懂さず、以て国を敗り家を亡ぼして尚お悔改を知らず。「貞」の此の一字は誠に了不起なり!ただ走る所が正道ならば、即ちただ前進を知りて停止を知らずとも、富貴功名も彼を拖累する能わず。聖賢の出処進退は、本は常人の揣度する所にあらず。若し是れ社稷の為に利を謀り蒼生の為に安を求め、国の重臣を以て自ら任じ、始終正道を以て自ら守り、周公の如き者ならば、縦い一味に前進して止を知らずとも、又何の指摘すべきかあらん。
經於上六既戒以升,而繼以利不息之貞,豈慮萬世之下亦有如周公者眾或責以不釋位而去乎?象曰升在上,消不富者,小人無正固之徳,貪冐寵祿,然而升則其徳日消而窮極繼之。洪範五福,一曰富,今上六處升之極而不知止,失富之道也。程氏曰:以小人貪求之心移之於進徳,則何利如之。故其說曰:君子於貞正之徳終日乾乾,自強不息,以上六不己之心用之於此則利也。以小人貪求無己之心移於進徳,則何善如之。
経文は上六に於いて既に「冥升」を以て戒と為し、又接続して「息まざるの貞に利あり」と言う。豈に万世の後も亦た周公の如き人有らんことを慮及し、而も衆人或いは彼を責備して久しく其の位に居りて、肯んじて位を譲り引退せざるを言わんとするか。『小象伝』に「升は上に在り、消して富ならず」と言うは、小人は正道を堅守する徳性なく、寵信禄位を貪求し、此の如く一路攀升せば、徳行便ち一天一天消減し、最後に窮途末路接踵而至す。『尚書・洪範』の列する五福、第一件は即ち「富」。如今上六は上升の頂点に処りて停止を知らず、正に致富の道を喪失せり。程頤に言う。小人の貪求する彼の心思を進徳修業の上に移せば、尚お此れより有利なる有らんや。だから彼は講じて言う。君子は貞正の徳に於いて終日乾乾・自強不息す。若し上六の彼の肯んじて止息せざるの心を此の上に用いれば利有らん。小人の貪求無厭の心思を進徳の上に移すに、尚お此れより好き有らんや。
困卦(坎下兌上)
坎下兌上,困:亨,貞,大人吉,無咎,有言不信。彖曰:困,剛揜也。險以說,困而不失其所亨,其惟君子乎!貞大人吉,以剛中也。有言不信,尚口乃窮也。亨,困之反也。君子不以貧賤之道而得貧賤,雖身困而道亨;小人不以富貴之道而得富貴,雖身亨而道則否也。
『困』卦の卦体は坎を下、兌を上とす。卦辞に言う。亨通し、正を守り、大人吉利、過錯なし。此の時言を言えば人信ぜず。『彖伝』に言う。困は、陽剛が陰柔に掩蔽せらるるなり。身険難に処りて而も尚お欣悦し、困頓の中に於いて而も其の亨通の道を失わざるは、大概君子のみ能く做到せん!「貞にして大人吉」は、陽剛中に居るを以てなり。「言有りて信ぜられず」は、此の時口舌弁説を崇尚すれば却って走投無路たるを言う。「亨」は正に「困」の反面なり。君子は並びに貧賤を招致する做法に倚りて貧賤を得るにあらず。だからその身困頓なりと雖も道は却って亨通す。小人も亦た富貴を得るべき做法に倚りて富貴を得るにあらず。だからその身顕達なりと雖も道は却って閉塞す。
困亨者,在困而能亨,則不隕穫於困窮矣。文王居羑里而衍易,孔子阨陳蔡而歌,顏淵居陋巷而不改其樂,此聖賢處困之道也。貞大人吉無咎者,小人得路必阨居子,當斯時也,欲以貞固自處,鮮有不蹈禍悔者,故貞而吉非大人不能,吉然後可以無咎。有言不信者,國之無道,是非曲直顛倒錯謬,君子可以忘言之時也。
所謂「困亨」は、困頓の中に於いて尚お亨通する能くば、則ち困窮を以て頹喪失志せざるなり。文王は羑里に囚われて『周易』を推演し、孔子は陳蔡の間に受困して弦歌輟まず、顔淵は陋巷に住みて其の楽を改めず。これ即ち聖賢が困に処るの道なり。「貞にして大人吉、咎なし」と言うは、小人一旦勢いを得れば、必ず君子を困厄す(原文「居子」は当に「君子」と作すべし)。正に此の如き時に当たり、貞正を憑りて固守自処せんと欲せば、禍を招き悔を招かざる者少なし。だから能く正を守りて吉を得るは、大人に非ざれば做到する能わず。吉を得たる後、乃ち過錯なしと言うに談ず。「言有りて信ぜられず」と言うは、国家政治昏乱し、是非曲直全て顛倒錯乱せられ、これ正に君子が口を閉じて言わざるべきの時を指す。李光は身貶謫を遭いて此の語を作す、その指する所は古事のみに止まらず。
象曰:澤無水,困。君子以致命遂志。澤,水所積也。水性趨下,澤上而水下,則澤必枯竭,無以說潤萬物,困之象也。君子體此象以致命遂志,雖處困阨之時,未嘗不得其樂也。致命者,不以窮達禍福死生動其心也;不以窮達禍福死生動其心,則吾志何往而不遂哉?伊尹耕於有莘之野,樂堯舜之道;伯夷叔齊餓於首陽之山,不食周粟。彼各行其志而已。
『大象伝』に言う。沢中に水なし、これ即ち『困』。君子此に由りて領悟し、性命を捨棄して志向を成全せんとす。沢は、水の積聚する所なり。水性は下に向かい、沢は上に在りて水は下に漏れば、沢便ち必然に枯竭し、万物を潤沢するに法なく、これ正に困頓の象なり。君子は此の卦象に取法して命を舎て志を遂げんとす。困厄の時に処ると雖も、亦た嘗て自ら其の楽を得る能わざるならず。所謂「致命」は、窮達・禍福・生死を以て本心を動揺せざるなり。心既に窮達禍福生死に動かされざれば、我が志向に尚お実現せざる所何れかあらん。伊尹は有莘の野に田を耕して堯舜の道を楽しみ、伯夷・叔齊は首陽山の上に餓死して周朝の糧食を肯んじて食さず。彼らは不過各々其の志を行うのみ。
初六:臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。象曰:入于幽谷,幽不明也。困者,君子小人所不能免也,得所援則不困矣。初六以陰柔最處坎下,為困之始,有臀之象。九四雖處近君之位,為吾之應,然以陽剛而揜於群陰之中,力不能有所援也,如株枿之木,自不能芘其身,安能芘人哉?初既無所芘覆,又陰柔之才不能自遂顯明之地,如入于幽谷,愈以困窮耳,故至於三歲之久,卒不能自見於世也。
初六の爻辞に言う。臀部断木の樹桩に困せられ、幽深の山谷に落入り、三年人に見えず。『小象伝』に言う。「幽谷に入る」は、幽暗にして明ならざるなり。困頓は君子小人皆免れざる所、一旦援手を得れば便ち困ならず。初六は陰柔の質を以て坎卦の最下に処り、困頓の開端なり。だから「臀」を取りて象と為す。九四は君位に靠近の処に処り、又初六の正応なりと雖も、然るに它は陽剛の身を以て衆陰に掩蔽せられ、援手を施すに力なし。譬えば斬剩されたる樹桩、己自身をも遮蔽する能わず、豈に尚お他人を庇護せんや。初六は既に庇覆する所なく、又陰柔の才を以て自ら顕明の地に走到る能わず、便ち幽深の山谷に落進するが如く、愈々困窮す。だから久しく三年に至りて、終に世上に於いて頭角を顕露する能わず。
初寓坎下,陰險底滯,趣下而善物,其困也實有以自取之,所謂小人以困窮之道而得困窮者也。四雖勢足以應援,非徒不能援,亦莫之也。詩言在彼空谷,其人如玉,蓋君子當窮獨之時,困而不失其所亨。象言入于幽谷,幽不明者,特以陰柔之才不善處困,識慮昏,自趣於幽暗耳。
初六は坎卦の下に寄身し、陰険沈滞し、一味に下に沈淪して物に随い俯仰す。その困頓は実に自ら招来せる、即ち前面の言う所の「小人は困窮を招致する做法を以て困窮を得る」彼の一類なり。九四は勢位援手を施すに足ると雖も、却って援救する能わざるのみならず、亦た援救するに従由なし(原文此処一字を脱す)。『詩経』に「彼の空谷に在り」「その人玉の如し」と言う。見るべし、君子の窮居独处の時に当たり、困頓なりと雖も其の内心の亨通を失わざるを。『小象伝』に「幽谷に入るは、幽にして明ならざるなり」と言うは、ただ初六の陰柔の才を以て困に処るに善からず、見識思慮昏昧にして、自ら幽暗に走向するのみなり。
九二:困于酒食,朱方來,利用亨祀,征凶,無咎。象曰:困于酒食,中有慶也。九二以陽剛處人臣中正之位,又上有九五同徳之君,若可與有為。然當困世,君臣俱為群陰所揜,勢不能及物,但有厭飽於酒食而巳,豈其志哉?朱,天子飾下體之服。九二以剛中之賢,雖為群陰所揜,而位處中正,不為貧賤所移,此有道之主所以不忍遺也,錫命之至,其誰御之?故曰朱方來也。方來者,以言寵命之至方來而未巳。
九二の爻辞に言う。酒食の中に困せられ、朱色の祭服剛く賜来る(原文「紱」字を脱す)。祭享を挙行するに宜しく、出征すれば則ち凶、但し過錯なし。『小象伝』に言う。「酒食に困まる」は、中に居りて福慶有るなり。九二は陽剛を以て人臣中正の位に居り、上に又九五同徳の君あり、見るに有所作為すべきに似たり。然るに正に困頓の世に当たり、君臣皆群陰に掩蔽せられ、勢力万物に恵及する能わず、ただ酒食の上に於いて飽足を求むるのみ。これ豈に彼が本志ならんや。「朱紱」は天子の下身を装飾する礼服なり。九二は剛健中を守るの賢者を以てし、群陰に掩蔽せらると雖も、而も処する所の位は中正にして、貧賤に動揺せられず。これ正に有道の君の遺棄するに忍びざる所、賜命一到れば誰か阻挡する能くせん。だから「朱紱方に来る」と言う。所謂「方来」は、恩寵の命正に源源として来りて止息なきを言う。
亨祀者,兼天神人而言也。九二以剛中之徳,雖在險難之中,所守正固,在困而心亨,固可交於神明矣。然在困守正,僅能以貞固自守,飲食燕樂可也,非大有為之時。若強聒妄動,必有悔吝,知未可動而動,則凶禍之來將誰咎乎?故曰征凶也。徵者,有所往也。象言困于酒食,中有慶者,君子能守其中正之徳,非能終困者也,困而必亨,積善於身,必有餘慶矣。
「亨祀」と言うは、兼ねて天神・地祇と人鬼を指して言う。九二は剛健中を守るの徳を以てし、身険難の中に処ると雖も、守る所は正固にして移らず、身困みて心亨す。本来便ち神明を感通す可し。然るに困境の中に於いて正を守るも、亦たただ貞固を以て自ら守るのみ。飲食宴楽は尚お可なりとするも、大いに有為の時にあらず。若し強聒して舎てず軽挙妄動せんと要せば、必ず悔恨を招来す。動く可からざるを明知して而も偏に動かば、則ち凶禍到来して又誰に帰咎せん。だから「征凶」と言う。「征」は即ち往く所有るなり。『小象伝』に「酒食に困まるは、中にして慶有るなり」と言うは、君子能く其の中正の徳を守住し、終身困頓の人にあらざるを以てなり。困頓の後必ず亨通し、善徳自身に積めば、必ず余慶有らん。
六三:困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。象曰:據于蒺藜,乘剛也;入于其宮不見其妻,不祥也。六三以陰柔而處尊顯之位,二陽在上而欲進焉,一陽處下而巳乘焉,可謂不量力矣。堅重難入而不可動搖者,石也,九四九五是也;負芒刺而不可枕藉者,蒺藜也,九二是也。
六三の爻辞に言う。石頭に困せられ、又蒺藜に靠り、家に帰りて妻に見えず、凶険。『小象伝』に言う。「蒺藜に拠る」は、それが陽剛の上に凌駕するを以てなり。「其の宮に入りて其の妻に見えず」は、不祥の兆なり。六三は陰柔の質を以て而も尊顕の位を占拠し、上に二つの陽爻ありて而も尚お上に挤らんと欲し、下に一つの陽爻ありて而も已にそれに騎在せらる。真に自ら量力せざると謂うべし。堅硬沉重・鑽進する能わず推動する能わざるは、石頭なり、九四・九五を指す。浑身芒刺・倚靠躺臥するに法なきは、蒺藜なり、九二を指す。
小人之害君子,方其處下,巧為攻擊,雖負凶惡之名不也;方其在上,則肆其憑陵,雖嬰刀鋸之戮不避也。蓋君子當困蹇之時,以道義自處,視軒冕猶桎梏,於富貴如浮雲,小人雖欲陵藉摧辱之,卒不可得。故孔子曰:非所困而困焉,名必辱;非所據而據焉,身必危。以見小人卒不能勝君子,而反受危辱也。
小人は君子を陷害す:それが尚お下位に在る時は、便ち法子を変えて攻撃し、即ち凶悪の名声を背負うも亦た顧みず(原文此処一字を脱す)。それが一朝上に居れば、便ち肆意に凌逼し、縦い刀鋸の刑を冒さんとするも回避せず。然るに君子は困頓蹇難の時に当たり、道義を以て自ら処り、高官顕爵を枷鎖と看做し、富貴を浮雲と看做す。小人縦い彼を凌辱摧折せんと欲するも、終に做到する能わず。だから孔子は『繫辞』の裡に言う。困処すべからざる所に偏に困処せば、名声必ず汚辱を受けん。占拠すべからざる位置に偏に占拠せば、身家必ず危殆ならん。此に由りて小人は終に君子に勝たず、却って自ら危辱を取るを見るべし。
方是時也,雖知退處燕閒,為自全自安之計,則已晚矣。故曰:既辱且危,死期將至,妻其可得見耶?死期將至,則凶可知矣。象言據于蒺藜,乘剛也;不見其妻,不祥也,以見作不善之報。仲尼於繫辭發明此爻,使一卦之義渙然明白,故予妄欲發明仲尼之旨,以袪諸儒紛紜異同之論,而不敢自謂然也。
此の地步に到りては、縦い退居閑散を懂得して、自保自安の打算を作るも、已に晩し。だから『繫辞』に言う。既に汚辱を受け又危境に処すれば、死期将に到らんとす、妻子豈に尚お見るを得んや。死期将に到らんとせば、凶険亦た想見する可し。『小象伝』に「蒺藜に拠るは、剛に乗るなり」「其の妻に見えずは、祥ならざるなり」と言うは、正に悪を作すの報応を顕明せんと欲するなり。孔子は『繫辞』の中に此の一爻を闡発し、全卦の義理をして豁然として明白ならしむ。だから我れ冒昧を揣まずして、孔子の意旨を闡発出さんと欲し、以て諸家紛紜不一の争論を廓清せんとす、而も敢えて自ら必ず是なりと為さず。
九四:來徐徐,困于金車,吝,有終。象曰:來徐徐,志在下也;雖不當位,有與也。解紛濟難,固以速往為吉,故解卦言有攸往夙吉。困之初六最處卦下,至困者也,其望在外有力之援,甚於倒懸之求解也。九四為正應,宜亟往赴之,而其來反徐徐者,以九處坎之中,疑其深險而不敢進也。況四居多懼之地,以有強敵,不敢輕犯,其慮患深矣。
九四の爻辞に言う。来ること遅遅疑疑として、金車に困せられ、些か遺憾有れど、終に結果有らん。『小象伝』に言う。「徐々に来る」は、心志下に繫在す。位置当らざると雖も、相助する人有り。紛乱を排解し危難を救済するは、本は迅速に赴くを以て吉と為す。だから『解』卦に「往く所有り夙に吉」と言う。『困』卦の初六は全卦の最下に処り、最も困頓なり。それの外面の有力の援手を盼望するは、倒懸の人の解救を盼むより尚お急切なり。九四は其の正応にして、本応に赶紧に前往赴援すべきに、它は却って来ること遅疑す。九二が陽剛を以て坎険の中に居り、九四は彼の処の深険を疑心して敢えて進まざるを以てなり。況んや九四は多疑多懼の地に処り、前に強敵あり、軽易に冒犯するを敢えてせず。その憂患考慮は甚だ深し。
九二剛而處中,運動適變,有金車之象。以九四大臣有濟國之志而不得伸,誠可鄙也。二剛當困世,宜同心以濟困者,況二為剛中之賢,豈能終阨之哉?故雖吝而有終也。夫四與初為正應,其援初之志未嘗忘也,所以徐徐者,將以有濟焉耳。九四以陽剛而處陰位,然卒無咎悔者,有濟困之志,為眾所與也,孔子所謂困以寡怨者也。
九二は陽剛にして中位に居り、行動能く宜に随い応変す。だから「金車」の象有り。九四の如き大臣を以てし、救国の志を懐きて而も伸展する能わざるは、実に人をして鄙嘆せしむ。九二同じく陽剛にして、正に困頓の世に当たり、本応に九四と同心協力して困に済すべきに、況んや九二は剛健中を守るの賢者、怎んぞ終に彼を阻厄せんや。だから遺憾有りと雖も終に結果有らん。九四は初六と正応にして、それが初六を援救するの心志未だ嘗て忘れず。来ること遅緩なる所以は、正に真に救済する所有らんことを謀求するなり。九四は陽爻を以て陰位に居りて、却って終に咎悔有らざるに至るは、それに済困の志有りて衆人に贊許せらるるを以てなり。これ即ち孔子の所謂「困以て怨を寡くす」の道理なり。
九五:劓刖,困于赤,乃徐有說,利用祭祀。象曰:劓刖,志未得也;乃徐有說,以中直也;利用祭祀,受福也。九五處中正之位,有剛健之徳,若可以有為,然當困世,強臣在側,為所脅制,欲濟天下之大困,必以去小人為先,此劓刖之刑不得巳而用也。上六、六三、初六皆小人而據其上,善揜剛者,故當刑而去之。赤,諸侯之服。三陰未去,威令不専,勢必降殺,僅同諸侯之位耳。
九五の爻辞に言う。劓刖の刑を施用し、赤色の礼服に困せられ(原文「紱」字を脱す)、緩々として乃ち舒解を得、祭祀を挙行するに宜し。『小象伝』に言う。「劓刖」は、志向未だ実現せざるなり。「乃ち徐に説有り」は、中に居りて正直なるを以てなり。「祭祀を用うるに利あり」は、福祐を承受する能くするなり。九五は中正の位に処り、剛健の徳を具備し、見るに有所作為すべきに似たり。然るに正に困頓の世に当たり、強臣側に在り、却って其の挟制を受く。天下の大困を救わんと要せば、必ず先ず小人を剷除せざればならず。此の劓刖の刑は不得已にして乃ち動用す。上六・六三・初六皆小人にして而も上に盤踞し、最も陽剛を掩蔽するに善し。だから刑を加えて除掉すべし。「赤紱」は諸侯の礼服なり。三つの陰爻未だ除去せられざれば、君主の威令便ち専行する能わず、権勢必然に削減せられ、僅かに諸侯の地位に相当するのみ。李光の強臣の人主を脅制するを論ずるは、語意の向かう所甚だ明なり。
聖人處困有道,能盡消息之理,然後從容有濟,不以困於侯位為慊而輕躁妄動也,故徐乃有說也。五居兌中,小人既去,志得而道行,天下皆喜樂之矣。如此然後可以祭祀宗廟,以膺受多福也。自古聖王郊天告廟,未嘗不在小人既去、憂虞既釋之後,故萃渙二卦皆曰王假有廟,而閔予小子嗣王朝廟之詩,亦在成王釋即政之始,故此卦九五亨困之道莫利用於祭祀也。
聖人の困に処るは自ら法度有り、能く陰陽消長の理を窮尽し、然る後従容不迫にして事を成せり。権勢諸侯一級に淪落するを以て心に不満を懐き軽躁妄動せず。だから「乃ち徐に説有り」と言う。九五は兌卦の中に居り、小人既に除去せられ、心志遂行を得て正道行わるを得、天下人皆之が為に歓欣す。此の如くして後に乃ち宗廟を祭祀し、众多の福祐を承受す可し。自古以来、聖王の上天を郊祭し宗廟を告祭するは、皆小人已に去り憂患已に解けたる後に在らざるなし。だから『萃』『涣』両卦皆「王假に廟有り」と言う。而も『詩経・閔予小子』の写す所の嗣王の宗廟を朝拜するも、亦た成王が喪服を除去して親政を開始するの初に在り。因此に本卦の九五が困局を打通せんと要するは、祭祀より有利なるなし。
象曰劓刖,志未得也;乃徐有說,以中直也;利用祭祀,受福也。小人為害則志不伸,志不伸則劓刖之刑所不得巳而用也。九二雖非正應,而處相應之地,俱為陰柔所乘,道同徳合,能以中道輔贊彌縫,使不見去之之跡,故九五之說以二能以中直相濟也。祭祀非以祈福,時適當然,則為神天所佑,故祭祀則受福也。當困之時,下能施刑于小人,中得賢人之助,上為神天之所福,則不困而可以亨天下之困矣。
『小象伝』に「劓刖は、志未だ得ざるなり」「乃ち徐に説有りは、中直を以てなり」「祭祀を用うるに利ありは、福を受くるなり」と言う。小人の為害すれば、君主の志向便ち伸展する能わず。志向伸展する能わざれば、劓刖の刑便ち不得已にして用うる手段と為る。九二は九五の正応にあらざると雖も、之と相応ずる位置に処り、両者同じく陰柔に凌駕せられ、道相同じ徳相合し、能く中正の道を以て傍より輔助補救し、小人を剷除するに痕跡を露さざらしむ。だから九五の舒解を得る能くする所以は、正に九二の居中正直を以て相助するに倚る。祭祀は並びに神に福を祈る為にあらず、ただ時機恰好此の如くなるべき、於是に上天神明に佑せられ、だから一たび祭祀せば便ち福を得るなり。正に困頓の時に当たり、下は小人に刑罰を施す能く、中は賢人の輔助を得る能く、上は神明の福佑を得る能くば、則ち自身困まらず、而且天下の困局を打通す可し。
上六:困于葛藟,于臲卼,曰動悔,有悔,征吉。象曰:困于葛藟,未當也;動悔有悔,吉行也。上六以陰柔居困極之地,三雖非正應,小人之同道者也。柔之為道,雖假援而濟,然六三自以陰柔處險,非有剛健之才能挽巳於困阨者,徒能纒繞之耳。困于葛藟者,反為三所困也。六處上極,下乘九五之剛,不知進退存亡之道,髙而必危,故困于臲卼也。
上六の爻辞に言う。葛藤に纏困せられ、動揺不安の中に処す。一動すれば即ち悔有らんと曰う、悔改の心有る能くば、前往すれば則ち吉。『小象伝』に言う。「葛藟に困まる」は、処する所当らざるなり。「動けば悔あり悔有り」は、此の如く行動すれば便ち吉利なり。上六は陰柔を以て困頓の頂点に居り、六三は其の正応にあらざると雖も、却ってそれと同道の小人なり。柔弱者の行事は、外援を借りて乃ち事を成すを要すと雖も、然るに六三自身も亦た陰柔を以て険中に陷り、剛健の才上六を困厄の裡より拉出す能くするなし。ただ藤蔓の如くそれを纏住する能くするのみ。所謂「葛藟に困まる」は、正に却って六三に困せらるなり。上六は最上端に処り、下に又九五の陽剛を凌駕し、進退存亡の道理を懂さず、站ること愈々高ければ則ち愈々危険なり。だから「臲卼に困まる」と言う。
曰動悔有悔吉行者,當困極之時,若曰動必有悔而不思變動,則益入於困耳;若能悔前之失,窮而思通,必濟矣。君子未嘗無過,過而能悔,善莫大焉。書稱慮善以動,動惟厥時。若時未可動,則以安貞為貴;時可動而不動,則有後時之悔,非困而求通之道也。象言困于葛藟,未當也,言處困之道未當於理也。動悔有悔,吉行者,若慮動必有悔而不復思動,則終於困窮矣;思變而行,慮善以動,理當吉,不失其幾也。
「動けば悔ありと曰い、悔有りて吉に行く」と言うは、正に困極の時に当たり、若し「一動すれば即ち悔有らん」のみ言うて而も変通を思わざれば、則ち愈々陷りて愈々困まらん。若し能く従前の過失を悔悟し、窮極して通达を思求せば、必ず能く難関を渡過せん。君子未だ嘗て過失なきにあらず、過有りて能く悔改するは、此れより好きなし。『尚書』に謀慮妥善して然る後行動し、行動は時機に合乎するを要すと言う。仮に時機尚お行動を容さざれば、便ち安守貞正を以て貴と為す。仮に時機行動すべくして而も兵を按じて動かざれば、便ち時機を錯失するの懊悔有らん。それは身困境に処りて通达を求むの办法にあらず。『小象伝』に「葛藟に困まるは、未だ当らざるなり」と言うは、それが困に処るの道理に合乎せざるを言う。「動けば悔あり悔有りは、吉に行くなり」は、若しただ一動すれば必ず悔有らんを顧慮して再び変を思うを肯肯ぜざれば、便ち終に困死せん。能く変を思いて行い善を謀いて動かば、理に応に吉利たるべし。時機を錯過せざるを以てなり。
井卦(巽下坎上)
下坎上,井:改邑不改井,無,無得,往來井井,汔至亦未繘井,羸其瓶,凶。井以象有常徳之君子也。改邑不改井,邑,人民所聚,聚散無常,而邑有時而遷,井無變也。夫有則有得,若本無,何所得乎?汲者常滿而我無所損,物賴以濟而我無所増,或汲已而往,或方汲而來,出入往來,其應無窮,而井固自若也,此井之功用也。
『井』卦の卦体は巽を下、坎を上とす(原書「巽」字を脱し、ただ「下坎上」と作す)。卦辞に言う。城邑を遷移して而も水井を遷移せず、喪失する所なく(原文「喪」字を脱す)、亦た所得なし。往来皆井の上に至りて水を取り、井縄幾ばく底に放尽すれど仍お未だ水面に触れず、却って汲水の瓶子を打破す、凶。井は以て徳行恒常有る君子を象徴するに用う。「邑を改めて井を改めず」――「邑」は人民の聚居する所にして、聚散定準なし。城邑は時に遷移有るも、而も井は変動せざるなり。喪失する所有りて乃ち所得を談ず、若し本来便ち喪失なからば、又何の得るを談ぜんや。水を汲む人天天桶を満装するも、井水は減少を見ず。万物それに倚りて救済を得るも、井水は増多を見ず。或る人は汲み了りて走り去り、或る人は正に来りて汲取せんとす。出出入入・来来往往、その応接窮尽なく、而も井は始終安然として故の如し。これ即ち井の功用なり。
井之功用如此,而汲者當致力以求之。汔,幾也;繘,綆也;瓶,所汲之器也。若幾至而不及泉,與不汲同,以象君子之進徳修業,當力行而不怠也。若半途而畫,非徒不能成濟物之功,而吾之器業亦隨矣。羸者,敗之象也。人之器業至於敗,豈有不蹈凶禍者哉?故羸其瓶凶也。
井の功用は此の如くにして、而も水を汲む人は尽力して求取するを当とす。「汔」は幾ばく・将近、「繘」は井縄、「瓶」は汲水の器具なり。若し縄子幾ばく底に放尽すれど仍お未だ泉水に触れざれば、則ち汲まざると同じ。以て君子の進徳修業を象徴し、当に努力実行して懈怠せざるべし。若し半途にして廃すれば、物を済うの功業を成さざるのみならず、己が器識事業をも跟着して毀す。「羸」は敗壊の象なり。一人の器識事業此の地步に敗壊せば、凶禍を遭わざる有らんや。だから「其の瓶を羸す、凶」と言う。
彖曰:乎水而上水,井,井養而不窮也。改邑不改井,乃以剛中也。汔至亦未繘井,未有功也。羸其瓶,是以凶也。木也;坎,水也。下坎上,木下而水上,舉水而上之,汲之象也,此合二卦之體言井之用也。井之為用,泉源渾渾,不舍晝夜,取之無盡,汲之愈新,養物而無窮者也。人物有代謝也,墟落有時而變遷也,而井不可易也。
『彖伝』に言う。(巽は)水中に入りて水を提上来す、これ即ち井なり。井は万物を養育して窮尽なし。「邑を改めて井を改めず」は、二・五陽剛中に居るを以てなり。「汔りて至るも亦た未だ井に繘れず」は、尚お未だ功用を成就せざるなり。「其の瓶を羸す」は、所以凶なり。巽は木、坎は水。巽下坎上は、木下に在りて水上に在り、水を挙提上来す。正に水を汲むの象なり。これ上下両卦の卦体を合せて井の功用を講ずるなり。井此の如きもの、泉源滚滚・昼夜不停、取ること尽きず、汲むほど愈々新たにして、万物を養育して而も窮尽有らず。人和物に新陳代謝有り、村落も時に遷移有るも、而も井は変換する能わざるなり。
二與五皆有剛中之徳,故能有常如此,以象君子獨立而不變者。爵祿可辭也,名節不可移也;身可殺也,而道不可屈也,非剛中者能之乎?二五皆以剛陽為徳而非應也,有應則可以濟物而有功於天下矣,故汔至亦未繘井者,未有功也。上下各以剛陽,君臣各行其意,豈能成功哉?羸瓶之凶,何所逃乎?
九二と九五は皆陽剛中に居るの徳を具備す。だから能く井の如く恒常不変、以て君子の卓然自立して改易せざるを象徴す。爵位俸禄は推辞する可し、名節は移易する可からず。身軀は被殺する可し、而も道義は屈折する可からず――陽剛中を守るの人に非ざれば、誰か此の一步を做到せん。然るに二・五同じく剛陽を以て徳と為すと雖も、却って正応にあらず。若し能く相応ずれば、便ち万物を救済して天下に功有らん。だから「汔りて至るも亦た未だ井に繘れず」と言うは、尚お未だ功用を成就せざるを言う。上下各々剛強を持し、君臣各々其の是を行えば、豈に尚お事を成さんや。彼の水瓶を打破するの凶険は、又何れの処に往きて躲るかあらん。
象曰:木上有水,井。君子以勞民勸相。木本在上,欲汲水則反下;水本趨下,欲濟物則反上,二者皆勞也。君子欲兼善天下以成濟物之功者,未有不始於勤勞者也,故觀乎井之用以勞民勸相。勞民者,非驅之死地也。東作西成,不失其時;春耕秋斂,不遺其力。以是而勸民,使不怠於生養之業;以是相民,使不乏於衣食之原,皆所以法井之功用也。
『大象伝』に言う。木の上に水有り、これ即ち『井』。君子此に由りて領悟し、百姓を勉勵して勤労せしめ、彼らを勧導して互助せしむ。木は本は上に在り、水を汲まんと要せば便ち反って下に向かい探るを要す。水は本は下に流れ、万物を救済せんと要せば便ち反って提上去せらるを要す――両者皆力気を費やすを要す。君子は天下を兼善し済物の功を成就せんと欲すれば、勤労より做起せざる者なし。だから井の功用を観察して「民を労し相を勧む」なり。所謂「民を労す」は、百姓を死地に駆込むにあらず。春は東に耕し秋は西に成し、農時を錯過せず。春は耕種し秋は収斂し、気力を吝惜せず。此等を以て百姓を勧勉し、彼らをして生養の業に懈怠せざらしめ、此等を以て百姓を輔助し、彼らをして衣食の源を缺かざらしむ――これ皆井の功用を效法するなり。
初六:井泥不食,舊井無禽。象曰:井泥不食,下也;舊井無禽,時舍也。井以潔清為貴,汲多則日新無窮。六處井下而上無其應,不汲之井也,汙泥所聚,不可食也。不食則井之用廢矣,雖禽鳥亦將棄而逺之,況於人乎?如人不能致身髙逺之地而自處卑,誰復汲引之者?其極至於無禽,則為時所舍棄可知矣。
初六の爻辞に言う。井裡汚泥満ちて、水飲む可からず。廃棄の旧井は禽鳥をも来らず。『小象伝』に言う。「井泥食われず」は、それが最下に処るを以てなり。「旧井禽なし」は、時代に捨棄せらるるなり。井は潔浄清澈を以て貴と為し、汲取多ければ便ち日日更新して窮尽なし。初六は井の最底下に処りて而も上面に正応なし、是れ一つの人の汲み来るなき井にして、汚泥積聚し、水飲む可からず。水飲む可からざれば、井の功用便ち廢す。禽鳥をもそれを抛下して遠く走開せん、況んや人をや。譬えば一人の能く己を高遠の地に送到せずして、甘心して自ら卑汚に処る、尚お誰の来りて彼を提携せん。禽鳥をも来らざる地步に到れば、時代に捨棄せらるるも亦た想知する可し。
九二:井谷射鮒,甕敝漏。象曰:井谷射鮒,無與也。水性本下,其流為江河,畜為沼沚,卒歸於海者,以善下故也。而井之為用,乃以上出為功,非其性也。九二雖以陽剛處中而無應於上,乃下比於初,不能及物,故旁出為谷,徒能射鮒而已,井之功用廢矣,如敝漏之甕,何所用哉?故象言井谷射鮒,無與也。無與者,不為九五所與也。君子有剛陽之才,既不為上所汲引,當以靜自守,歸潔其身可也。而朋比於下,自投汙之地以抗其上,其顛覆必矣,故如甕之敝漏而無用於時也。
九二の爻辞に言う。井水旁の缺口より漏出し、ただ小魚を澆灌するに足るのみ。汲水の瓮は又破れ又漏る。『小象伝』に言う。「井谷鮒を射る」は、それと相応ずる人なきなり。水性は本は下に向かい、流出して江河と為り、蓄起して池沼と為り、最終に大海に帰す。皆それが卑下に処るに善きを以てなり。然るに井の功用は却って向上涌出を以て成就と為す。これ並びに水の本性に合乎せず。九二は陽剛を以て中に居ると雖も、上面に正応なく、却って下に向かい初六に親比し、万物に恵及する能わず。だから井水は旁より漏りて溪谷と為り、ただ小魚を澆澆するに足るのみ。井の功用便ち廢掉せり。一只の破漏の瓮の如く、尚お何の用処かあらん。だから『小象伝』に「井谷鮒を射るは、与えらるるなきなり」と言う。所謂「无与」は、九五の支持認可を得ざるなり。君子は陽剛の才有り、上位の人に提拔汲引せられざる以上、当に安静自守して己が清白を保全すれば已り。若し反って下に於いて党を結び、自ら汚濁の地に投じて上面に対抗せば、則ち必定に傾覆せん。だから破漏の瓮の如く、当世に於いて毫も用処なし。
九三:井渫不食,為我心惻,可用汲,王明,並受其福。象曰:井渫不食,行惻也;求王明,受福也。渫,治井去其汙,其泉清潔可食也。三居坎水之下、木之上,汲之象也。治井至於清潔可食,如君子修徳潔行於幽隱之中,非在上者有以汲引之,亦將廢而不用矣,故為眾心之所憫惻也。君子豈以不見用輕動其心哉?為我心惻者,眾人也。
九三の爻辞に言う。井已に淘洗し浄潔せれど人の飲み来るなし、我が心をして恻然たらしむ。此の井本是汲用すべく、君王若し明察ならば、大家皆其の福を受けん。『小象伝』に言う。「井渫して食われず」は、路を過ぐる人皆之が為に恻然たるなり。「王明を求む」は、その福を受くる能くするなり。「渫」は水井を淘治して汚穢を除去し、泉水をして清潔にして飲む可からしむ。九三は坎水の下・巽木の上に処り、正に水を汲むの象なり。井を淘洗して清潔にして飲む可からしむるに到るは、譬えば君子幽隠の中に於いて徳行を修養し操守を潔浄するが如し。若し上位の人の提拔汲引を加うるに非ざれば、亦た只好廃棄して用いざらん。だから衆人心中に怜惜する所と為る。君子は豈に任用せられざるを以て軽易に心を動かさんや。「我が心恻たるを為す」の此の「我」は、衆人を指す。
水至於渫治清潔則可用汲,汲不汲者,上也。君子有可用之才,非明主孰能知而任用之?知人惟帝其難之,故稱王明。王而明,則浸潤之譖、膚受之愬不行焉,君臣上下俱其福利。井之功既成而汲者以濟,非獨在上者受其福而巳;若渫而不食,則行道之人皆為之傷惻也。君子之不見用,豈當有求哉?求王明者,量而後入也。王而明,吾之所求也;不明之王,可與有為哉?
水を淘治して清潔に到れば便ち汲用す可し。然るに汲むか汲まざるかは、決定権上面に在り。君子は可用の才有り、英明の君主に非ざれば、誰か彼を識得して且つ彼を任用せん。『尚書』に人材を識別するは帝堯をも為難を感ぜしむと言う。だから此処に特地「王明」の二字を標出す。君王若し英明ならば、則ち日積月累の谗言・切肤逼人の誣告は行き通らず、君臣上下皆同じく其の福利を同享せん。井既に修成せられて水を汲む人救済を得れば、福を受くるは並びに上位者一人のみに止まらず。若し淘洗し浄潔せれど人の飲み来るなからば、路を過ぐる人をも之が為に傷感せしめん。君子任用せられざれば、豈に干求に往くべからんや。所謂「王明を求む」は、先ず掂量清楚して然る後進身す。君王英明にして、乃ち我が求むる所なり。英明ならざる君王は、尚お彼と有所作為せんや。
六四:井甃,無咎。象曰:井甃無咎,修井也。井之畜泉,泥或汨之,甃所以潔其泉也。君子進徳修業,必有致力之處,雖未能及物,然徳業之盛必由此而致焉。六四以柔弱之才居近君之位,不能以剛健上輔人主,從容禆贊,期於無過而巳,此大臣之任也,故象曰井甃無咎,修井也。井非修治,則汙所聚,或為棄井;朝廷之不治,則綱紀廢弛,豈非大臣之咎哉?
六四の爻辞に言う。磚石を以て井壁を修砌す、過錯なし。『小象伝』に言う。「井甃咎なし」は、水井を修治する中なり。井裡泉水を蓄え、泥沙時にそれを攪渾す。井壁を砌るは正に泉水の潔浄を保持する為なり。君子の進徳修業は、必ず功夫を下すの処有り。尚お他人に恵及する能わざると雖も、然るに徳業の豊盛必ず此に由りて来らん。六四は柔弱の才を以て君位に靠近の処に処り、剛健の道を以て君主を輔佐する能わず、ただ能く従容にして傍より補益賛助し、過失なきを求むるのみ。これ正に大臣の職分なり。だから『小象伝』に「井甃咎なきは、井を修するなり」と言う。井修治を加えざれば、汚穢便ち積聚し、甚至一口の廃井と変成せん。朝廷整治を加えざれば、綱紀便ち廃弛松懈せん。これ豈に大臣の過錯ならざらんや。
九五:井冽寒泉食。象曰:寒泉之食,中正也。九五君位,人君履中正之位,其利澤可以及物矣。冽,清也,井至清而寒泉之可食者也,以象人君博施濟眾,物所賴以生養者也。人孰無濟物之心?困於無位而利澤不加於百姓者,則勢不足以有行也,故象曰寒泉之食,中正也。
九五の爻辞に言う。井水清冽、寒泉飲む可し。『小象伝』に言う。寒泉飲む可きは、中に居りて正を得るを以てなり。九五は君位なり。人君は中正の位の上に踏在せば、その恩沢利益便ち万物に恵及す可し。「冽」は清澈。井水極めて清にして泉寒にして飲む可し。以て人君の広く恩惠を施して衆人を救済し、万物皆彼に倚りて生養せらるるを象徴す。誰か一点の済物の心なからん。ただ権位なきを苦しみ、恩沢百姓の身に加わらざるは、それは勢位推行するに足らざるのみ。だから『小象伝』に「寒泉の食わるるは、中正なり」と言う。
上六:井收勿幕,有孚,元吉。象曰:元吉在上,大成也。井收,汲也,收其綆以上水也。縱而下之,收而上之,所以汲也。幕者,以幕障之,使不得汲,則井之用廢矣。上六正應在九三,井之為利當與眾共,乃偏於所應而幕之,使不得妄汲,非居上博施之道,故戒之如此。有孚元吉者,而勿幕則逺近內外、居者行者咸其利,故有孚而大善之吉也。象言元吉在上大成者,井之功用至此而大成,則在下者得其所濟,而在上者其元吉矣。
上六の爻辞に言う。井縄収上来して而も遮蓋を加えず、誠信有り、大吉。『小象伝』に言う。大吉にして上位に居るは、井道大功告成なり。「井收」は即ち水を汲むこと、井縄を収上来して水を提ぐ。縄を放して下し、縄を収めて上る、これ即ち水を汲むなり。所謂「幕」は、布幕を以て井口を遮住し、人をして汲取する能わざらしむ。則ち井の功用便ち廢せん。上六の正応は九三に在り、井の帯来する利益本応に衆人と共享すべきに、それは却って己が正応に偏向して井口を蓋上し、他人をして随意に汲取するを許さず。これ上位に居る者の広く恩惠を施すの道にあらず。だから経文此の如くにそれを告誡す。「孚有り元吉」と言うは、遮蓋を加えざるを以てなり。則ち遠の近の・内の外の・本地に住むと路を過ぐると、皆同じく其の利を得(原文「咸に其の利」は当に「咸に其の利を受く」と作すべし)。だから既に誠信有りて又大善の吉を得たり。『小象伝』に「元吉上に在りては、大成なり」と言うは、井の功用到此に大功告成す:下の人救済を得、上の人亦た便ち大吉なり。
革卦(離下兌上)
離下兌上,革:已日乃孚,元亨,利貞,悔亡。革,變革也。澤火二物本不相得,非水滅火則火必涸水,然亦相資而為用者,能革剛為柔,革生為熟,水火之用不可闕一也。離下兌上,此水火相資而為用者,故易曰窮則變,變則通,通則久。欲久而無弊,則革之道不可巳也。
『革』卦の卦體は離を下にし兌を上とす。卦辞に言う。變革は事成るの日に至りて乃ち人に信服せられ、大いに亨通し、正しきを守るに宜しく、悔恨消失せんとす。「革」は即ち變革なり。澤と火の二物は本より相容れず、水が火を滅ぼさざれば火は必ず水を涸す、然れども亦た相資して用を為す者あり――剛硬を變じて柔軟と為し、生を變じて熟と為す、水と火の功用は一も缺く可からず。離下兌上は、正に水火が相互に憑藉して用を為すの狀なり。だから『繫辭』に言う。盡きるに及んでは變じ、變じて乃ち通ず、通じて乃ち久しきを得んとす。長久にして弊病無からんと欲せば、變革の道は止め可からざるなり。
其大者莫如革命,湯武之事,聖人所不得巳也。其次則法度有不適於時、不便於民者,勢不可不革也。三代之政有不得而盡循者,莊周曰:今期行周與魯,是猶推舟於陸也。此勢之不可不革者。革之必駭人之耳目,非常之原,黎民懼焉。聖人覩利害之未然,而眾人見利害之巳然。漢之賈生欲改正朔、易服色,知七國之必變,而大臣絳灌尚不能用,況無知之愚民乎?故已日乃孚者,見其利害之形而無可疑者也。
變革の中で最大なるは革命に如くは無し。商湯・周武の事業は、聖人の已むを得ずして之を為す所なり。其の次は、法令制度に時宜に合せず民に不便なる者有りて、勢いに於て革せざる可からざるなり。夏商周三代の政制に盡く循うを得ざる者有り、莊子に言う。今魯國に周代の一套を行はんと欲せば、譬えば陸地に於て船を推すが如しと。これ即ち勢いに於て革せざるを得ざるなり。然るに一たび變革せば、必ず衆人の耳目を驚動す、非常の擧動は始めに於て百姓懼る。聖人は利害未だ顯現せざる時に見て、衆人は利害已に顯現し到て乃ち見るを得るなり。漢代の賈誼は正朔を改正し服色を換へんと欲し、又た吳楚七國の必ず變を生ずるを豫知す、然るに周勃・灌嬰の如き大臣なほ尚且つ彼を采用する能はず、況んや無知の愚民をや。だから「已日乃孚」と曰うは、利害の形跡の顯露し到て再び疑ふ可き無きを待ちて、人乃ち肯んじて信ずるなり。
雖然,革之道天下之至難,非具元亨利貞之四徳,未有革之而不悔者。有此四徳,則體與乾合,可以大有為於天下,有所不革,革之無不當;革之無不當,則悔可亡矣。彖曰:革,水火相息,二女同居,其志不相得,曰革。已日乃孚,革而信之。文明以說,大亨以正,革而當,其悔乃亡。天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人,革之時大矣哉!
然りと雖も、革の道は天下の至難なり。元・亨・利・貞の四德を具備せざれば、未だ革して悔ざる者有らざるなり。此の四德有れば、本體は便ち『乾』卦と合し、天下に於て大有為する可し。或いは革せずして、一たび革せば宜ならざる無し、革して宜ならざる無ければ、悔恨は以て消除す可し。『彖傳』に言う。革は、水火が相互に消滅し、二つの女子同居して心志各々異なるが故に「革」と曰うと。「已日乃孚」は、變革の後に人乃ち信ずるなり。文明にして喜悅し、大いに亨通して正道に合し、變革當りを得て、悔恨乃ち消失せんとす。天地變革して四時形成を得、商湯・周武は天命を革除し、上は天道に順ひ下は人心に應ず――變革の時の意義は真に重大なる哉!
坎為水,兌為澤,兌非水也,然離下坎上則為既濟,而離下兌上則為革者,何也?澤最處汙下,與火尤相戾也,非若坎離之配合以致用也,但能相息而巳。息,止也,非生息之息也。雖然,水之息火,理之必然者,火安能息水哉?蓋從其所勝言之,火在下而澤處上,則水必減耗,耗而不巳則必涸竭,理之不可不革也。
坎は水と為し、兌は澤と為す、兌は即ち水に非ず。然れども離下坎上なれば則ち『既濟』と為り、離下兌上なれば則ち『革』と為るは、何ぞや。澤は最も汚下の地に處り、火と尤も相戾れり、坎と離の配合して用を致すに若かざればなり、兩者はただ彼此に對方を消滅するのみ。「息」は止息にして、生息の「息」に非ず。然りと雖も、水の火を滅ぼすは理の必然なるも、火は又た怎んぞ水を滅ぼすを得んや。これは相克の一面に就きて言うなり。火は下に在りて澤は上に在れば、水は必ず烤へ損耗せられ、損耗已まざれば必ず乾涸す――これ即ち道理上革せざるを得ざるの處なり。
離為中女,兌為少女,中少二女雖同居而不相得者,志各有所行也。雖中女處內而少女反處乎外,其勢不得不革,離下兌上所以為革也;少女處內,中女處外,其勢不得不睽,故兌下離上所以為暌也。聖人固重於改作,愚民亦樂於因循,自非燭見利害之原,革之而當,豈能使天下曉然心悅而信服之哉?
離は中女と為し、兌は少女と為す。中女・少女の二人は同居すと雖も相得ざるは、志の行く所各々有ればなり。中女は内に處りて少女は却って外に居れば、其の勢い革せざるを得ず、だから離下兌上は以て『革』と為す。反つて少女内に在りて中女外に在れば、其の勢い乖離せざるを得ず、だから兌下離上は即ち『睽』なり。聖人は本より改作を慎重にし、愚昧の百姓も亦た因循守舊を樂しむ。利害の根源を看徹し、變革又た恰好に當るに非ざれば、怎んぞ天下人をして豁然として心悅誠服せしめんや。
文明以說,大亨以正,革而當,其悔乃亡者,合離兌二卦之體以盡革之理也。文明則不昧於事幾,說則不違咈乎百姓,又能大亨而盡正固之道,以此變更天下之事,所謂革而化之,與時宜之,尚何悔吝之有哉?悔亡者,凡革之道本有悔,革之而當,故悔可亡也。湯以寛仁而革桀之威虐,武王以聖徳而革紂之淫酗,漢王入闗約法三章以革秦之苛暴,昭帝以靜治而革漢武之窮兵,豈有悔乎?
「文明以て説び、大亨以て正しく、革めて當りを得れば、其の悔乃ち亡ぶ」は、離・兌の二卦の卦體を合し、以て革の理を盡くすなり。文明なれば事の幾に昧からず、説べば百姓の心願に違咈せず、又た能く大亨して正固の道を盡くさば。此の如きの態度を以て天下の事を變更せば、即ち所謂「革めて之を化し、時に之を宜しくす」なり、又た何の悔恨遺憾か有らんや。「悔亡」と曰うは、凡そ變革の事は本より悔を帶ぶればなり、變革當りを得れば、悔乃ち消除す可し。商湯は寬厚仁愛を以て夏桀の威虐を革除し、武王は聖德を以て商紂の荒淫酗酒を革除し、漢高祖は入關して法三章を約して以て秦朝の苛暴を革除し、漢昭帝は清靜の治を以て漢武帝の窮兵黷武を革除す――此れら豈に何の悔恨か有らんや。
天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人,革之時大矣哉者,聖人深言天地萬物之理,茍或當革,有不可得而已者。天地所以亙萬古而無弊壊者,以造化密移,新新而不停也。觀夫陰陽之消長、日月之往來而四時行焉,此革之見乎天地者也。桀之無道而湯放之,紂之無道而武王伐之,天道助順,人心歸仁,有不可已者。然則革之而當,則天下蒙其福,百姓亨其利,治亂存亡繫焉,此革之時所以為大也。
「天地革めて四時成り、湯武革命し、天に順ひ人に應ず、革の時大なる哉」は、聖人深く天地萬物の道理を言うなり。茍しくも或る當に革むべきあらば、變ざるを得ざるの勢い有るなり。天地の萬古を亘りて敝壞せざる所以は、正に造化の暗中に推移し、日新又新して停歇せざるが故なり。彼の陰陽の消長、日月の往來を看れば、四季は便ち此に由りて運行す、これ即ち變革の天地間に於ける顯現なり。夏桀無道にして商湯之を放逐し、商紂無道にして武王之を討伐す、天道は理に順ふ者を助け、人心は仁德ある者に歸す、これも亦た為さざるを得ざるなり。此の如くなれば、變革當りを得れば、天下は便ち福祉を蒙り、百姓は便ち利益を享受し、治亂存亡は皆此に繫る、これ即ち變革の時の大たる所以なり。
象曰:澤中有火,革。君子以治厯明時。水性潤下,火性炎上,物之至異者也。澤中非有火之所,澤中有火必相滅息,其勢不可不革也。君子體此象以治厯明時,則陰陽消息之理不能逃矣。記曰:聖人慎守日月之數,以察星辰之行,以敘四時順逆,謂之厯。蓋日月之運、星辰之行雖有常度,然積久則不能無差,差則厯法壊而四時或不得其正矣。
『大象傳』に言う。澤中に火有るは、即ち『革』なり。君子は此に由りて領悟し、曆法を修治し、時令を明辨せんとす。水性は潤澤して下行し、火性は炎熱して上昇す、萬物の中で最も相異れる兩樣なり。澤中は本より火の在るべき所に非ず、澤中に火有れば、兩者必ず相互に滅息し、勢いに於て變革せざるを得ず。君子は此の卦象に取法して曆法を修治し時令を明辨すれば、陰陽消長の道理は便ち其の掌握を逃れざるなり。『禮記』に言う。聖人は日月運行の度數を謹守し、以て星辰の行度を考察し、以て四時の順逆を排定す、これを「曆」と謂ふと。日月の運轉、星辰の行度は常規有りと雖も、然れども積累久しければ偏差無き能はず。一たび偏差有れば、曆法は便ち壞れ、四時も亦た其の正位を失ふを得ん。
自黃帝迎日推策,降而唐虞三代,下而漢唐,其詳見於天文厯書,莫不以五行為本。聖人取象水火之相息,以明厯法之必當革也。初九:鞏用黃牛之革。象曰:鞏用黃牛,不可以有為也。初以陽剛為革之始,疑于堅頑而難革者也,然能以中順之道自固,雖無應於上,然順而得中。為革之始,雖非強狠難化之人,然能守其貞不狥於物,如黃牛之革而體不變也。
黃帝の迎日推策して曆を定めしより、下りて唐堯・虞舜及び夏商周三代を經、再び下りて漢・唐に至るまで、曆法の詳細は皆歷代の『天文志』『曆志』に載せ、五行を根本と為さざる莫し。聖人は水火相滅するの物象を取るは、正に曆法の必ず時に適ひて改革すべきを說明せんと欲するなり。初九の爻辞に言う。黃牛の皮を以て堅く固く捆縛せしむ。『小象傳』に言う。「黃牛を用ゐて鞏めん」は、此の時作為する可からざるなり。初九は陽剛を以て變革の始めに居り、看れば堅硬頑固にして變革し難きに似たり。然れども它能く柔順守中の道を以て自ら持守し、上に正應無しと雖も、柔順にして中を得たり。它は變革の開端に處り、強橫難化の人に非ずと雖も、能く己が貞正を守りて外物に遷就せず、譬えば黃牛の皮の堅韌にして形體變らざるが如し。
象言鞏用黃牛,不可以有為者,守其貞固,不為時所變易,從道而不從時者也。此陽剛君子伏而在下,自處則善矣,未可以大有為於天下也。必欲大有為於天下,非幾足以通天下之志、權足以通天下之變者,未易任此,故曰不可以有為也。
『小象傳』に「黃牛を用ゐて鞏めん、以て有為する可からざるなり」と言うは、它が己が貞正を固守し、時勢に改易せられず、ただ道義に從ひて時俗に從はざるを言うなり。これ陽剛の君子が下位に潛伏するの狀なり、自處は固より善しと雖も、未だ天下に於て大有為する可からず。真に天下に於て大有為せんと欲せば、見識以て天下人の心志に通達するに足り、權變以て天下の變化に應付するに足るに非ざれば、此の擔子を擔當するは易からず、だから「以て有為する可からず」と曰う。
六二:已日乃革之,征吉,無咎。象曰:巳日乃革之,行有嘉也。六二以陰柔處中正之位,而上有九五陽剛之君為之正應,非敢先時而動於悔,亦不敢後時而失其幾,又陰非倡始,故巳日乃革之,能應上之命,以中正之道從其所革,如此然後進而有為,則吉無咎矣。象言行有嘉者,巳日革之,革之而當,故為上所嘉美也。人臣進退,度時而已,可則行,不可則止。二五各據中正之位,而君臣道合,可與有為之時也。
六二の爻辞に言う。已日に至りて乃ち之を革め、往けば吉利にして、過錯無し。『小象傳』に言う。「已日乃ち之を革む」は、此の如く行動すれば嘉許を得ん。六二は陰柔を以て中正の位に居り、上に又た九五陽剛の君有りて它と正應す。它は敢えて時機に先んじて妄動して悔を招かず、又た敢えて時機の後に落ちて機會を錯失せず。況んや陰柔は本より首倡に宜しからず、だから「已日」を待ちて乃ち變革せんとす。它能く君上の命令に響應し、中正の道を以て變革せんとする所の事に從ひ、此の如くして然る後に進取有為せば、便ち吉利にして過錯無し。『小象傳』に「行に嘉有り」と言うは、已日に到りて乃ち變革し、變革當りを得れば、だから君上に嘉許せらるるを以てなり。人臣の進退は、不過時勢を權衡するのみ。行ふ可ければ行ひ、行ふ可からざれば止む。二・五は各々中正の位を占め、君臣の道相合す、正に作為有る可きの時なり。
九三:征凶,貞厲,革言三就,有孚。象曰:革言三就,又何之矣。革非聖人之得已也,其弊極矣。堯舜三代之法有不得盡循者,然皆非聖人之得巳也。九三以剛健之才而處陽剛之位,過乎剛者也。革之道,中而巳,茍過乎中,則一動一靜無適而可。蓋革之不當,則天下將起而非我矣,往固凶也;將退而窮處,其身益危,若之何?在察乎人情之向背而已。
九三の爻辞に言う。往けば凶にして、正しきを守るも危厲有り。變革の議再三公論に合せば、信憑依據有らん。『小象傳』に言う。變革の議再三公論に合せば、又た何れの處か之かんと。變革は聖人の願はん所の事に非ず、實に積弊極點に到ればなり。堯・舜及び三代の成法に盡く循はるを得ざる者有り、然れども之を改動するも皆聖人の已むを得ずなり。九三は剛健の才を以て陽剛の位に處るは、剛過ぎたるなり。變革の道は、不過一つの「中」の字なり。一たび中を過ぎれば、則ち動と雖も靜と雖も安んずる所無し。變革若し恰當ならざれば、天下人便ち起ちて我を非議し、往くは固より凶險なり。然るに退きて窮居自處せんと欲せば、處境却って更に危殆なり、則ち如何ともすべきや。ただ人情の向背を考察するに在るのみ。
聖人將欲革天下之大害,以興天下之大利,必有勞民動眾之事,非灼見利害之原者,豈能使眾人翕然從我而無疑乎?故革言三就,則從我者眾矣。聖人慾有所革,黙觀天下之公論,言可革者三,然後中外孚信而無復橫議者矣。如此,舍我將安之乎?故象言革言三就,又何之矣。
聖人は將に天下の大害を革除し、以て天下の大利を興起せんと欲すれば、必ず百姓を勞動し衆人を發動するの擧措有り。利害の根源を看徹せざる者に非ざれば、豈に衆人をして齊しく我に從ひて毫も疑慮無からしめんや。だから「革言三就」なれば、我に從ふの人は便ち多し。聖人は變革有らんと欲するを想ひ、先ず默默として天下の公論を察看し、變革すべきと曰ふの意見再三相合するを待ちて、然る後に朝廷内外皆信服し、再び橫生の異議無し。此の地步に到れば、我を舍てて彼らは又た何れの處か之かんや。だから『小象傳』に「革言三就、又何の之かんや」と言う。
九四:悔亡,有孚改命,吉。象曰:改命之吉,信志也。九四無應於下,宜其悔也,然上承九五之君,為革之主,勢足以有行,有所不革,革之而天下莫敢不從,故無復可悔之事也。湯伐桀而伊尹相之,武王伐紂而周公輔之,上下內外有不信乎?天下既已信服,則順天應人,以膺受天命而無疆之福矣。此九四之任,惟伊尹周公足以當之。象曰改命之吉,信志也,革之而吉,則湯武之志信於天下,亦九四之功也。
九四の爻辞に言う。悔恨消失し、誠信有りて天命を更改すれば、吉利なり。『小象傳』に言う。命を改めて吉を得るは、其の志向人の信と為る所なり。九四は下に正應無し、本應に悔有るべし。然れども上に九五の君を承け、變革の主持者と為り、勢力以て推行するに足り、或いは變せずして、一たび變革せば天下に敢えて服從せざる者無し、だから再び悔ふ可き事無し。商湯が桀を伐つに伊尹之を輔佐し、武王が紂を伐つに周公之を輔佐す、上下内外に又た信服せざる者誰か有らん。天下既に信服せば、便ち天に順ひ人に應じ、天命と無邊の福祉を承受す可し。九四の此の擔子は、ただ伊尹・周公の一流のみ配して擔當す。『小象傳』に「改命之吉、信志也」と言うは、變革して吉を得れば、則ち湯・武の志向天下に取信せられ、これも亦た九四の功勞なりと言うなり。
九五:大人虎變,未占有孚。象曰:大人虎變,其文炳也。乾之九五曰飛龍在天,利見大人;革之九五曰大人虎變,未占有孚。龍虎皆大人之象,在乾則為龍,革則為虎,何也?龍能飛能潛,升降自如,故有乾之象;虎以剛猛之威、炳煥之文,故有革之象。易雲從龍,風從虎,聖人作而萬物覩,龍興虎變皆取象於聖人也。
九五の爻辞に言う。大人は虎の如く毛色を變換し、占問せずして已に人に取信せらる。『小象傳』に言う。大人虎變は、其の文采光明燦爛なり。『乾』卦の九五に「飛龍天に在り、大人を見るに利あり」と曰い、『革』卦の九五に「大人虎變、占ふに及ばず孚有り」と曰う。龍と虎は皆大人の象徵なり、『乾』に於て龍を取り、『革』に於て虎を取るは、何ぞや。龍は能く飛び能く潛み、昇降自如なれば、だから『乾』の象に合す。虎は剛猛の威勢・斑斕の花紋有れば、だから『革』の象に合す。『周易・文言』に「雲は龍に從ひ、風は虎に從ふ、聖人作して萬物覩る」と言う。龍の興起、虎の變化は、皆聖人に取象す。
當革命之際,非剛猛之威不足以服天下,非炳煥之文不足以化天下,舍湯武其誰哉?未占有孚者,九五之君威望素著,革道巳成,應天順人,無可疑者,不待占筮而天下固已信服矣。象曰大人虎變,其文炳也,革道明著,必有粉飾顯設之事以化成天下,有目者無不覩也,故曰其文炳也。
革命の際に當りて、剛猛の威勢に非ざれば天下を畏服せしむるに足らず、炳煥の文采に非ざれば天下を感化するに足らず、湯・武を舍てて其れ誰か有らんや。「未占有孚」と曰うは、九五の此の君主は威望素より卓著し、變革の道已に完成し、上は天心に應じ下は人意に順ひ、疑ふ可き何も無く、占筮せずして天下本より已に信服せり。『小象傳』に「大人虎變、其の文炳なり」と言うは、變革の道彰顯顯著にして、必ず一番の文飾興作の擧措有りて以て天下を化成し、凡そ眼睛有る者は見えざる莫し、だから「其の文炳なり」と曰う。
上六:君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。象曰:君子豹變,其文蔚也;小人革面,順以從君也。革之六爻,二陰而四陽,陰柔也,陽剛也,陽能變陰,剛能變柔。大人虎變,自變也;君子豹變,從所變也。上六之時,革道已成,人無賢愚,莫不咸化其上,特淺深之異耳。豹變者,質性之皆變,與五同徳,若箕子微子是也;革面則其心未必然也,商之頑民是也。
上六の爻辞に言う。君子は豹の如く毛色を變換し、小人はただ面孔を改換す。往けば凶にして、安居正しきを守れば吉なり。『小象傳』に言う。君子豹變は、其の文采茂盛なり。小人革面は、順服して君上に從ふなり。『革』卦の六爻は、二陰にして四陽なり。陰は柔、陽は剛、陽は能く陰を改變し、剛は能く柔を改變す。「大人虎變」は自ら變ずるなり、「君子豹變」は變ずる所の人に跟つて變ずるなり。上六の時に到れば、變革の道已に完成し、人賢愚と論ぜず、上に感化せられざる者無し、ただ深淺の不同有るのみ。所謂「豹變」は、本性をも連ねて變ぜるにして、九五と同德、箕子・微子の如きの人なり。「革面」は則ち不過表面の順從、內心必ずしも然らず、商朝の頑固不化の遺民の如し。
聖人之化小人,革面足矣。觀酒誥一篇,其待商之諸臣,惟工乃湎於酒,勿庸殺之,姑惟敎之,如此,豈暇革其心哉?非獨不暇,亦不能也。上六以陰柔而處革之終,不可以有為也,以靜正守之則無事矣。吉凶禍福特在動靜之間耳,可不慎哉!君子與上同其心徳,革而化之,故其文蔚然;小人特畏吾之威刑,所革者不過外而巳,其心未必然也。
聖人の小人を感化するは、「革面」に做到すれば即ち足る。『尚書・酒誥』の一篇を看るに、周公の商朝の舊臣を待つや、彼の百工の酒に沈湎する者、之を殺すを用ゐず、姑くただ之を教導せんとす。此の如く看れば、豈に彼らの心を改變するを顧みる暇有らんや。獨り顧みる暇無きのみならず、實に亦た做る能はざるなり。上六は陰柔を以て變革の終點に處り、以て作為有る可からず、安靜に正しきを守れば便ち事無し。吉凶禍福はただ一動一靜の間に在るのみ、能く謹慎せざる可けんや。君子は上位者と心德相同じく、一たび變革すれば便ち感化せられ、だから文采蔚然たり。小人はただ我が威勢刑罰を畏懼し、改むる所は不過外表のみ、其の心未だ必ずしも真に順從せず。
鼎卦(巽下離上)
下離上,鼎:元吉,亨。易無非象也,蓋制器所以尚象,立象所以明義也。鼎之為卦,以全體言之,則下上離,以木火,中虛而下實,此制器所以尚象也。以六爻言之,則中實為腹,所以受物;下植為足,所以承鼎;對峙於丄以為耳,橫亙於耳中以為,此立象以明義也。有其義,有其象,則夫運動其器以致用者,聖人也,此鼎之所以謂象也。
『鼎』卦の卦體は巽を下にし離を上とす(原書「巽」字を脱し、ただ「下離上」と作る)。卦辞に言う。大いに吉にして、亨通す。『周易』は一處として象ならざる無し。器物を制作するは象に取法するを以てし、卦象を設立するは義理を闡明するを以てするなり。『鼎』卦の全體に就きて言へば、巽下離上にして、木を以て順に火中に入り、中間虛空にして底下堅實なり、これ即ち器を制して象に取法するなり。六爻に就きて言へば、中間三爻充實して鼎腹と為し、以て物を盛載し、最下の一爻直立して鼎足と為し、以て鼎身を承托し、上の兩兩相對するは鼎耳、兩耳の中に横貫するは鼎鉉なり(原文「鉉」字を脱す)――これ即ち象を立てて以て義を明らかにするなり。此の義有り、此の象有れば、則ち此の器物を運用して以て其の用を致す者は、便ち聖人なり、これ即ち『鼎』卦の「象」と稱する所以なり。
鼎之為象如此,故大吉而亨。曰元吉亨者,大吉然後能亨也。聖人立成器以為天下式,鼎之為器,通上下用之,而聖人用之,非欲眾人之養口體而巳。彖曰:鼎,象也。以木火,亨飪也。聖人亨以亨上帝,而大亨以養聖賢,而耳目聰明。柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。鼎之為卦,専取其象,則其義自見矣,所謂立象以明義也。
鼎の取象は此の如くなれば、だから大吉にして亨通す。「元吉亨」と曰うは、大吉なりて然る後に能く亨通す。『彖傳』に言う。鼎は、象を取るの卦なり。木を用ゐて順に火中に入りて食物を烹煮す。聖人烹煮して以て上帝を祭享し、又た大規模に烹煮して以て聖賢を奉養し、因りて耳聰目明たり。柔順の者前進して上行し、中に居りて陽剛と相應ず、だから大いに亨通すと。『鼎』卦は專ら器物の象を取り、其の義理は自然に顯現す、これ即ち所謂「象を立てて以て義を明らかにす」なり。
如頤之下動上止,有頤頷之象;噬嗑震下離上,頤中有物之象,此自然之象。若鼎之為象,則假於人為然後成器以致用者也,鼎所以正名曰象者如此。鼎固重寶大器也,非無用之器也,有鼎之象必有鼎之用,非若珙璧琬琰徒為寳器而已。以木火,所以為亨飪之用;亨飪,所以為祭祀賓客之用。祭祀莫重乎亨上帝,賓客莫大乎養聖賢,此二者聖人運動大器之道也。
『頤』卦の下動上止の如く、口頰咀嚼の象有り。『噬嗑』震下離上にして、口中に物を含むの象有り――此れらは皆自然の象なり。『鼎』の取る所の象に至りては、則ち人工の制作を假りて然る後に器を成じて用を致すなり、『鼎』卦の正名を「象」と為す所以の道理は、此に在り。鼎は固より貴重の寶器・莊嚴の大器なれど、然れども無用の器に非ず。鼎の象有れば、必ず鼎の用有り、珙璧・琬琰の類のただ擺設して美觀なるのみの寶器に若かざればなり。木を以て順に火に入るは、烹煮の用を為すなり。烹煮は、祭祀と待客の用を為すなり。祭祀の中には上帝を祭享するより重きは無く、待客の中には聖賢を奉養するより大なるは無し、此の兩件は正に聖人の國の大器を運用するの正道なり。
而耳目聰明,上離下,屈體以尊賢,則賢者必樂告以善道,故能合天下耳目以為聰明。而六五柔弱之君能進而上行,以登尊極之位者,以在下有剛健之臣應乎我者眾也,此所以能大亨也。繇辭言元吉亨,彖言元亨而已,能致大亨則吉不足道也。
「耳目聰明」と說くは、上卦は離を為し下卦は巽を為すを以てし、巽は遜順を為し、正に己を屈して以て賢者を尊崇するなり。能く此の如くなれば、賢者必ず樂しんで善道を以て彼に告げ、だから能く天下人の耳目を匯合して以て自らの耳目と為す。而して六五の此の柔弱の君の能く前進上行し、至尊の位に登るを得るは、下に剛健の臣有りて己に響應するの人甚だ多きを以てなり、これ即ち能く大いに亨通する所以なり。卦辞は「元吉亨」と言うも、『彖傳』は却ってただ「元亨」のみ言うは、能く大亨を招致せば、吉利も亦た提起するに足らざるを以てなり。
象曰:木上有火,鼎。君子以正位凝命。鼎雖假於人為,及其成功則有自然之象,非若餘卦但取其象而巳,故木上有火者,鼎之所以成器,亦所以成物而致亨飪之功焉。君子體此以正位,則位一定而不可踰;體此凝命,則命一成而不敢變。夫鼎所以革故而取新也,其為器也重,其為寶也大,國之存亡繫焉,宜為歴代受命之君所寶用歟!
『大象傳』に言う。木上に火有るは、即ち『鼎』なり。君子は此に由りて領悟し、名位を端正し、使命を凝定せんとす。鼎は人工の制作を假ると雖も、其の成工に及べば則ち自然の象有りて、餘卦のただ其の象を取るのみに若かず。だから「木上に火有る」は、既に鼎の器を成ずるを得るの緣由にして、亦た其の萬物を成就し、烹煮の功を完成するを得るの緣由なり。君子は此の點を體察して以て名位を端正し、名位一たび確定すれば踰越す可からず。此の點を體察して以て使命を凝定し、使命一たび形成すれば更改するを敢えてせず。鼎は用ゐて舊を革除し、新を取來るを以てし、其の器物と為るや甚だ貴重にして、其の寶物と為るや甚だ尊大なり、國家の存亡は皆其の身に繫る、歷代の天命を受くるの君主の皆之を寶物として使用せしも怪しむに足らず。
聖人置此卦於革震之間者,豈無意哉?蓋革命則鼎取新,而震為長子守器之主也。武王克商,遷九鼎於洛,非以其器大故邪?蘇氏曰:五帝三代及秦漢以來受命之君,靡不有此鼎,鼎存而昌,鼎亡而亡,蓋鼎必先壊而國隨之,豈有易姓而猶傳者乎?此合大易取新之義。
聖人の此の卦を『革』『震』の間に安置するは、豈に用意無からんや。蓋し革命の後は、鼎は便ち新を取り、而して『震』は長子を為し、國の重器を守護するの主人なり。武王は商朝を克して、九鼎を洛邑に遷す、其の器物の關係重大なるを以てするに非ずや。蘇氏に言う。五帝、三代及び秦漢以來天命を受くるの君主は、此の鼎を擁有せざる莫し。鼎在れば則ち國昌んで、鼎亡べば則ち國亡び、大抵鼎は必ず先に毀壞して然る後に國家之に隨ひて覆滅す、豈に改朝換姓して鼎はなほ照舊傳はる者有らんや。これ正に『周易』の「新を取る」の義旨に合す。
觀乎彖辭,以木火亨飪也,此蘇氏所謂用器也。戰國之時,鼎為周患,秦與齊楚皆欲之,三國之君未嘗一日而忘周者,以鼎在焉故也,是惡知聖人立器觀象之哉?初六:鼎顛趾,利出否,得妾以其子,無咎。象曰:鼎顛趾,未悖也;利出否,以從貴也。卦有専取乎象者,鼎是也。以上九為,六五為耳,四三二為腹,則初六者趾也。
『彖辭』を觀るに「木を以て巽に火に入りて、亨飪するなり」と言うは、これ蘇氏の所謂「用器」なり。戰國の時、九鼎は却って周室の禍患と為り、秦と齊・楚は皆之を得んと欲し、三國の君は未だ嘗て一日も周室を忘れざるは、鼎の周室の手裡に在るが故なり――彼らは豈に聖人の器物を設立し、物象を觀察するの深意を懂得せんや。初六の爻辞に言う。鼎足は翻倒過ぎ、正に污穢を倒出するに便にして、妾室を娶得して且つ彼女に因りて兒子を生めば、過錯無し。『小象傳』に言う。「鼎趾を顛す」は、並び常理に違背せず。「否を出すに利あり」は、尊貴の者に跟從するを為すなり。卦中に專ら器物の象を取る者有り、『鼎』即ち是れなり。上九を以て鼎鉉と為し(原文「鉉」字を脱す)、六五を鼎耳と為し、四・三・二を鼎腹と為せば、則ち初六は即ち鼎足なり。
鼎以安靜不動為體,趾所以承鼎也。鼎而顛其趾,則所以為鼎者覆矣。鼎不覆則不能去而納新,故利在出否。否者,濁也。鼎以取新為義,不可不潔也,濁者出則可以受實矣。妻者,嫡也,尊且正也,正家而天下定矣;妾非正也。得妾者,匹嫡也,如趾之顛而反處乎上也。然有時而不得已者,春秋之義,母以子貴,是出否惡也。
鼎は安穩不動を以て本體と為し、趾は鼎身を承托するを以てする所なり。鼎にして其の趾を顛倒せば、則ち鼎と為る所の者は傾覆せり。然るに鼎は傾覆せざれば陳舊を倒去し新物を納入する能はず、だから利は污穢を倒出するに在り。「否」は即ち污浊なり。鼎は新を取るを以て義と為し、潔淨ならざる可からず、污浊倒出去りて、始めて實物を盛進す可し。「妻」は嫡配にして、既に尊貴にして又た名正なり、家道端正なりて然る後に天下安定す。「妾」は則ち名分正ならず。「妾を得」は妾をして嫡配と並列せしむるにして、譬えば鼎足の翻轉して却って上に處るが如し。然れども有時は亦た已むを得ざるなり。『春秋』の義例に「母は子を以て貴し」と講ず、これ即ち污穢を倒出するに等し。
否惡既出,所以為利,如妾之至賤,越嫡而上配乎主者,悖也;以子而貴,則非悖也。初六上應九四,有從貴之象,如鼎顛而出否,固有以顛為貴者。夏之鼎覆而商受之,商之鼎覆而周受之,然則出否者其在鼎初乎!若大臣不勝其任,不過折足,所覆者美實而已,未繫於存亡也。聖人寓不盡之意於卦初,姑言其小者耳。
否惡既に倒出せば、だから「利」と曰う。妾の至賤なるが如く、嫡配を越えて家主に上配するは、悖亂なり。然るに子に因りて貴くなれば、則ち悖亂に非ざるなり。初六は上に九四に應じ、尊貴の者に跟從するの象有り、鼎の翻轉して污穢を倒出するに同じく、本より「顛」を以て貴しと為すの道理有るを見べし。夏朝の鼎は傾覆して商朝之を承受し、商朝の鼎は傾覆して周朝之を承受す――則ち「否を出す」の此の一事は、蓋し即ち鼎の初爻に應ぜん。大臣の其の職に勝任せざるに至りては、亦不過鼎足を折斷し、傾覆する所はただ一鼎の美食のみ、なほ國家の存亡に牽扯するに及ばず。聖人は無窮の意思を初爻の上に寄託し、姑く先ず彼の小なる一面を講論す。
九二:鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。象曰:鼎有實,慎所之也;我仇有疾,終無尤也。陰虛而陽實,以九居二,二於鼎為腹,受實者也。自二之四為乾,乾,陽物,是鼎有實也。九二正應在五,五之於二,仇匹也。五欲下應於二,而四三以剛強塞其往來之路,九五之所甚病而不於下者也。九二居中正之位,為臣而盡臣道,不可加矣,六五欲增益之,適以累之耳,故不我能即然後乃吉也。
九二の爻辞に言う。鼎中に實物盛滿し、我が配偶疾病有りて、能く我に就來する能はず、吉利なり。『小象傳』に言う。「鼎實有り」は、謹慎して往く所を選擇するを要すと。「我が仇疾有り」は、終に過失無し。陰爻は虛と為し、陽爻は實と為す。九を以て二に居る、二は鼎象の中に於て鼎腹にして、實物を盛納するの處なり。二より四の三爻互に乾體を成し、乾は陽剛の物なり、これ即ち「鼎實有り」なり。九二の正應は六五に在り、六五は九二に對し言へば即ち配偶なり。六五は本より下に九二に應ぜんと欲するも、然るに九四・九三は剛強を以て往來の通路を杜絕し、此れ正に六五の(原文誤って「九五」と作る)深く患と為して下達する能はざる所なり。九二は中正の位に居り、臣子として臣道を盡くすこと已に復た加ふる無し。六五なほ再び彼に恩を加へんと欲するは、恰も彼の累贅と成る、だから「我に即く能はず」を待ちて、然る後に吉を為すなり。
鼎有實,非虛器也,人臣負其實才之象。即,就也。伊尹耕於萃野,孔明處於草廬,二主能輕身而往從之,然後可以出而有為。今二已處人臣中正之位,非不召之臣也,正其君臣之分可也,故不我能即乃二之福也。象曰鼎有實,慎所之也;我仇有疾,終無尤也。人臣有可用之才,當擇其所從則不枉道矣,故曰慎所之也;能守其職任則免乎悔吝矣,故終無尤也,此人臣自處於中正之道也。
「鼎實有り」は、空器ならざるを言うにして、人臣の真才實學を身負ふの象徵なり。「即」は趨就なり。伊尹は莘野に耕田し、諸葛亮は草廬に住す、成湯と劉備の兩君主は能く身を屈して親ら往きて之に從ひ、然る後に彼らは乃ち出でて一番の事業を為さんと肯んず。今九二は已に人臣の中正の位に居り、再び「召する可からざるの臣」なる者に非ず、君臣の名分を擺正すれば即ち可なり、だから「我に即く能はず」は却って九二の福なり。『小象傳』に「鼎實有り、之に慎む所なり」「我が仇疾有り、終に尤無し」と言う。人臣用ふ可きの才有れば、應に追隨する所の人を謹慎選擇して、正を枉屈するに至らざるべし、だから「之に慎む」と曰う。能く己が職分を守れば、悔恨遺憾を免れ、だから「終に尤無し」と曰う――此れ正に人臣の中正の道を以て自處するの辦法なり。
九三:鼎耳革,其行塞,雉膏不食,方雨虧悔,終吉。象曰:鼎耳革,失其義也。鼎以象言,九三居之上,處離之下,與二四皆腹也,非耳也。曰鼎耳革者,言六五之道至此而變革也。六五,君道也,君易其常道,則賢臣在下者於是否隔而不通矣。三,陽也,以九居三,人臣過乎剛則強臣也,宜乎在上者有不能堪也。人臣孰不欲行其志?若君疑其臣,則退而窮處可也,故曰其行塞也。
九三の爻辞に言う。鼎耳變異を發生し、行動阻塞を受け、肥美の野鶏肉食ふを得ず。降雨を待てば、悔恨便ち虧損消減し、最終吉利なり。『小象傳』に言う。鼎耳革は、其の應有の意義を失ふなり。鼎象に就きて言へば、九三は巽體の上・離體の下に處り、二・四と同じく鼎腹に屬し、並び鼎耳に非ず。「鼎耳革」と曰うは、六五の道此處に到りて變異を發生せるを講ずるなり。六五は君道を代表す。君主は其の常道を改變せば、則ち下に在るの賢臣は從此に阻隔不通せり。三は陽位にして、又た九を以て之に居る、人臣剛強過ぎれば便ち強臣と成る、上に在る者の些か喫消し難きも怪しむに足らず。人臣誰か其の抱負を施行せんと欲せざる者有らんや。然るに若し君主其の臣子を猜疑せば、則ち退きて窮居自處するも亦た是れのみ、だから「其の行塞がる」と曰う。
雉膏,鼎中之美實也,以象美徳,謂有美徳而不進也。不食者,謂人主懸美祿以待天下之賢,而三乃自守窮獨而不復貪冒者,良由君臣始交之際,其情未通,雖明良相遇,亦不能大有為於天下也。方雨虧悔終吉者,陽氣升而陰固之,則為密雲耳;雨者,陰陽和也;方雨者,陰陽方欲和也,以象君臣方情通道合,則前之所悔者既虧而終吉矣。上下疑阻而不交者,悔也,既交則悔虧矣。象言鼎耳革,失其義者,人君不能體離明之照,虛已聴納,則失其為耳之義矣。
「雉膏」は鼎中の肥美の食物にして、用ゐて美好の德行を象徵し、美德有りて而も進用を肯んぜざるを言うなり。「食はず」は、人君の高く厚祿を懸けて天下の賢人を待つに、而して九三は却って窮居獨處に安んじ、再び貪求せざるを言うなり、實に君臣初交の際、情意未だ溝通せざるに由良す。賢君良臣相遇すと雖も、亦た天下に於て大有為する能はず。「方に雨に虧して悔終に吉」と曰うは、陽氣上昇して陰氣之を凝滯せば、則ちただ密雲を成すのみを以てす。「雨」は陰陽調和にして、「方雨」は陰陽正に調和せんとす、用ゐて君臣の情意正に溝通し、道義正に契合せんとするを象徵せば、則ち先前の悔ふ可き事は便ち消減して終に吉利に歸す。上下彼此に猜疑阻隔して相交はらざれば、これ即ち「悔」なり。一たび相交はれば、悔も亦た虧損消失す。『小象傳』に「鼎耳革、其の義を失ふなり」と言うは、人君若し離明の照察を體現し、虚心して聽取采納する能はざれば、則ち其の「鼎耳」と為るの意義を失ふを言うなり。
九四:鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。象曰:覆公餗,信如何也。鼎之恃足,猶宮室之恃柱礎也,未有柱礎傾折而宮室不摧者。南山有臺之詩,樂得賢也,得賢則能為家之光,立太平之基矣。鼎之九四處大臣之位,當腹心之寄,國之廢興存亡繫焉,可以非其人乎?下有二陽不能引而進,獨與初六為內應,是忌其同列而締交乎小人也,是折其足而覆其養賢之資也。
九四の爻辞に言う。鼎は足を折斷し、王公の美食を傾覆し、鼎身污漬に沾滿し、凶險なり。『小象傳』に言う。公の餗を覆すは、實に之を如何ともせんと。鼎の足に恃るは、猶お宮室の柱礎に恃るが如し、未だ柱礎傾折して宮室摧倒せざる者有らず。『詩經・南山有臺』の一篇は、賢才を喜得するを寫す。賢才を得れば、便ち國家の光榮と為り、太平の根基を奠定する能はし。『鼎』卦の九四は大臣の位に處り、腹心の重託を擔ふ、國家の興廢存亡は皆此に繫る、怎んぞ人を用錯るを以てせんや。它は下に九二・九三の兩個の陽爻有りて而も援引進用する能はず、偏にただ初六と內應を結成す、これ同列の賢者を猜忌して小人を結交するにして、己が鼎足を折斷し、賢を養ふの資本を傾覆するに等し。
其形渥者,言汙之甚也。汙之狀見於面目形骸之外,甚者或至刀鋸之戮、原野之刑加焉,其凶甚矣。象言覆公餗,信如何者,大臣不能量力事主,而固寵保位,至不勝任而顛覆戮辱隨之,尚何救哉?孔子曰:不曰如之何如之何者,吾末如之何也已。信如何者,信乎無如之何也。先儒以形為刑,渥為剭,言大臣不勝任則受其大刑。王曰:古之大刑有剭誅之法。然則刑者誅及其身而巳,至其形渥凶,豈獨戮辱其身而巳哉?
「其の形渥なり」は、污辱極點に到るを言うなり。此の污辱の形狀は面目形骸の外に顯露し、甚だしきは或いは刀鋸の戮・原野の刑に加はるに至り、其の凶甚だし。『小象傳』に「公の餗を覆す、信に如何せん」と言うは、大臣の能く力量を測りて君主に事奉せず、ただ寵を固め位を保つを顧みて、力勝任せざりて傾覆戮辱踵を接して至るに及びて、又た何の辦法か救ふ可き有らん。孔子に言う。「如何せん、如何せん」と自ら問はざるの人に、吾も亦た之を如何ともする術無しと。所謂「信に如何せん」は、真に之を如何ともする術無きなり。先儒は「形」を「刑」と讀み、「渥」を「剭」と讀み、大臣勝任せざれば重刑を受くべしと曰う。王氏に言う。古代の大刑に「剭誅」の法有りと。然れども刑罰は不過其の身に誅及するのみ。『其の形渥なりて凶』に至りては、豈にただ一身を殺戮污辱するのみならんや。
六五:鼎黃耳金,利貞。象曰:鼎黃耳,中以為實也。五居鼎上,中虛而無為,雖不若足之任重、腹之受實,若無用,而鼎用以之成也。以扛鼎,耳以受,而鼎始成運動之功。六五為鼎之得中,而能虛己以受物,有君之象,故為耳。黃者,中也;金,上九也。耳處鼎上,又處耳上,耳無為而有為也。雖在卦上,居鼎之終而不得中正之位,故為而已,貴而無位。
六五の爻辞に言う。鼎に黃色の耳・金質の鉉を配し(原文「鉉」字を脱す)、正しきを守るに宜し。『小象傳』に言う。鼎に黃耳有るは、中に居るを以て其の充實と為すなり。六五は鼎の上部に處り、中間虛空にして作為無し、鼎足の重量を擔ふ・鼎腹の實物を盛るに若かずと雖も、看れば無用に似たり、然るに鼎の功用は正に之に倚りて乃ち完成を得る。鉉は用ゐて鼎身を扛擡し、耳は用ゐて鉉を承受し、鼎是れ乃ち搬運の功用を成就す。六五は鼎象の中に中に居るの一爻にして、又た能く己を虛して以て外物を容納し、人君の象有り、だから鼎耳と爲して取るなり。「黃」は中色なり。「金」は、上九を指す。鼎耳は鼎の上面に處り、鼎鉉は又た鼎耳の上面に處る。耳は看れば作為無きに似たり、實則ち作為有る所なり。上九は全卦の上に在ると雖も、然れども鼎道の終點に處りて中正の位を得ず、だからただ「鉉」として作るのみ、尊貴にして實位無し。
利貞者,為利也。體本柔弱,介乎強臣之間,能虛巳無為,以正道格之,則眾陽皆為我用矣。象曰黃耳金,中以為實,非虛名也。上九:鼎玉,大吉,無不利。象曰:玉在上,剛柔節也。上九之為不可易也。上處卦之極,體柔而用剛,鼎道既成,不為燥溼之所變易,有玉之徳焉。
「利貞」と曰うは、正しきを守りて乃ち利有るを為すなり。本體は本より柔弱にして、強臣の間に介在し、能く虚心無爲にして、正道を以て彼らを感格せば、則ち衆陽爻は皆我に用ゐらるる所と爲らん。『小象傳』に「黃耳金鉉、中を以て實と為す」と言うは、其の「實」の虚名ならざるを見べし。上九の爻辞に言う。鼎に玉鉉を配し、大吉にして、利ならざる無し。『小象傳』に言う。玉鉉上に在るは、剛柔の配合節有るなり。上九の擔當する所の角色は更換す可からざるなり。它は全卦の頂端に處り、體質柔和にして作用剛勁なり。鼎道既に完成せば、它は乾燥潮濕に因りて變形改質せず、美玉の德性を具備す。
金從革者也,玉不可革也。固鼎之所用,非虛器也。在五為金,在上為玉,則益貴矣。以玉為,又所以飾鼎,而鼎道大成,故大吉而無不利也。象曰玉在上,剛柔節者,上九以剛乘柔,居鼎之上而用之有時,且六五之柔非不行,是相資而為用、相待而成功者也。又玉之為徳,其溫潤有似乎仁而非柔也,縝栗有似乎義而非剛也,故曰剛柔節也。
金屬は鎔鑄改變す可き者にして、玉は改變す可からざるなり。固より鼎の用ふる所にして、虛設の器に非ず。六五に於て金鉉にして、上九に到りて玉鉉と成れば、則ち益〻貴重なり。玉を以て鉉を作るは、又た以て鼎身を裝飾す可きにして、而して鼎道此に於て大成す、だから大吉にして利ならざる無し。『小象傳』に「玉上に在り、剛柔節なり」と言うは、上九が剛爻を以て柔爻に凌駕し、鼎の最上端に居りて使用其の時機有るを以てなり。況んや六五の柔は鉉無くば運行する能はず(原文「鉉」字を脱す)、兩者は相互に憑藉して用を為し、相互に依待して成功を爲すなり。更に言へば玉の德性は、溫潤して仁に近似く、然れども並び軟弱ならず。堅密にして義に近似く、然れども並び剛戾ならず――だから「剛柔節なり」と曰う。
卷九
震卦(震下震上)
下經。震下震上。震:亨。震來,笑言啞啞,震驚百里,不鬯。彖曰:震,亨。震來,恐致福也;笑言啞啞,後有則也;震驚百里,驚逺而懼邇也;出可以守宗廟社稷,以為祭主也。震,動也。動萬物者莫疾乎雷。蓋雷發聲,則蟄者皆奮,甲者皆坼,屈者皆伸,故震然後能亨也。人之處乎燕安,無以警畏之,則怠惰驕慢,惟湛樂之從,卒而困窮者多矣,故震然後能亨也。懼也。震來而知懼,則可以不懼矣,故笑言啞啞也。
以下は『周易』下經の諸卦なり。震卦の下體は震、上體も亦た震なり。卦辞に言う。震は亨通す。雷震到來して(而して人戒懼を知り)、説笑の聲啞啞として絕えず。雷聲百里の遠さに驚動して、主祭者の手中の匕鬯は未だ嘗て失落せず。『彖傳』に解釋して言う。震卦の亨通する所以は、雷震到來能く人をして恐懼せしむるを以てし、恐懼は正に福慶を招致するの緣由なり。説笑啞啞たるは、恐懼の後自から循ふ可き法度有ればなり。雷聲百里を驚動するは、遠處の人震駭し近處の人戒懼するを言うなり。長子は能く匕鬯を守りて失はず、出づれば以て宗廟社稷を守護し、祭祀の主を充當する可し。「震」の意思は即ち動なり、萬物を鼓動するは雷より迅疾なる莫し。雷は一たび發聲すれば、蟄伏の蟲豸は皆振作して起き、甲殼を帶ぶるの種子は皆外殼を裂き、蜷曲の草木は皆伸展開來す、だから必ず先に震動有りて然る後に萬物乃ち亨通する能はし。人は安逸の中に處りて、若し彼を警惕畏懼せしむるの物無ければ、便ち怠惰驕慢し、一味に享樂を追逐し、最終に困窮に陷るの人甚だ多し、だから必ず先に震動有りて然る後に人事乃ち亨通する能はし。「虩」の此の字は恐懼と解す。雷震到來して恐懼を懂得すれば、却って以て恐懼せざる可し、だから能く説笑啞啞たるなり。
字不見於經傳,惟許慎《說文》云:蠅虎也。諸儒皆承此說。蓋蠅虎之物,必周旋而進退,故震來而能者,恐懼之象也。啞啞,和樂之聲也。震驚百里不鬯,何也?雷之震驚,震至逺及百里,而不失其鬯,以見倉卒之際,精誠專一,不為外物所移奪,可以付重器矣。者,載鼎實之器;鬱鬯,所以灌也。
「虩」の此の字は經傳に見えず、ただ許愼『說文解字』に之を「蠅虎」、即ち一種の跳撲を善とする小蜘蛛と曰ふのみ。歷來の諸儒は皆此の一說に沿襲す。蓋し蠅虎の此の小蟲は、行動する時必ず盤旋顧眄し、進退小心なり、だから雷震到來して能く其の如く戒慎する者は、正に恐懼の心の象徵なり。「啞啞」は和悅歡笑の聲なり。何を以て雷聲百里を驚動して而も匕鬯失はざると曰うや。雷の震動驚駭は、遠く百里の外に達すれど、而して主祭者の手中の鬯酒はなほ灑落せず、彼の倉卒變故の際に於て精誠專一にして、外物に心志を奪はれざるを見るべし、此の如きの人は以て國家の重器を託付す可し。「匕」は鼎中より牲體を取出するの器具にして、「郁鬯」は地を灌めて神を降すに用ふる所の香酒なり。
彖言震來恐致福者,恐懼則能致福,此聖人所以畏無難而不畏多難也。眾人當震擾之時,鮮有不失其常度者,惟君子雖恐懼畏慎,若無所容,而其中實從容燕笑,不失其常度也,故曰笑言啞啞,後有則也。震驚百里,驚逺而懼邇者,邇者懼,逺者驚,則威之所加者廣矣。雷之震發,猶人君威令,必能驚逺而懼邇,然後可以震動萬方而無不肅也。
『彖傳』に「震來、恐れて福を致す」と言うは、心に恐懼存せば便ち福慶を招来する能はし、此れ正に聖人の天下の患難無きを畏れて、患難多きを畏れざる所以なり。常人は震動騷擾の時に遇へば、失態を慌てざる者鮮し。ただ君子は恐懼戒慎すと雖も、表面上は髣髴として局促して容身する處無きに似たれど、內心は從容自若にして談笑常の如く、平日の法度を失はず、だから「笑言啞啞、後に則有り」と曰う。「震百里を驚かし、遠を驚かし近を懼れしむ」は、近處の人畏懼し、遠處の人震駭すれば、則ち威勢の及ぶ所の範圍便ち廣大なるを言うなり。雷の發作は、譬えば人君の威嚴の號令を發布するに同じく、必ず能く遠方を震駭せしめ近處を畏服せしめて、然る後に四方を震動して人の肅然として聽命せざる無きを致す可し。
震為長子,長子主器者也。古者天子之出,太子監國,當震動之際,能不鬯,是其器業之大,必能守宗廟社稷之重,蓋自其微者而察之也。孔子曰:禘自既灌而往者,吾不欲觀之矣。祭祀之道,誠敬為先,灌其始也。不誠不敬,鮮有不所守者,故不鬯,聖人知其可以守宗廟社稷而為祭主也。自古居儲君之位,任主器之重,上既嫌疑,下亦窺伺,鮮有不蹈禍敗者。以秦皇、漢武之英果,而扶蘇、戾園卒以見殺,況其下者乎?聖人於卦、彖、爻、象,皆反覆致其恐懼戒慎之意,其為後世慮,豈不深逺哉!
震卦は長子を象徵し、長子は宗廟の祭器を主持する者なり。古の天子の出づるや、太子國を監守す。震動驚變の際に當りて、太子なほ手中の匕鬯を失はざる能はれば、其の器局事業の宏大にして、必ず能く宗廟社稷の重任を擔當するを見るべし――これ細微の處より一人を考察するを以てなり。孔子に言う。「禘祭は灌禮以後の儀節より、吾は願はくは再び看ざるなり」と。祭祀の道は誠敬を以て先と為し、灌禮は祭祀の開端なり。心誠ならず貌敬ならざるの人は、其の守る所を喪失せざる鮮し。だから能く匕鬯を失はざれば、聖人は便ち彼の以て宗廟社稷を守りて祭主を充當す可きを知るなり。自古より儲君の位に身居し、主器の重任を擔當する者は、上は君父の猜疑を受け、下は群小の窺伺せらる、禍敗に蹈入せざる者鮮し。秦始皇・漢武帝の如き英明果決を以てするも、扶蘇與戾太子劉據は尚且つ終に殺せられ、況んや才具彼らの下に在る者をや。聖人は卦辞・彖辞・爻辞・象辞の中に反復して恐懼戒慎の意思を申明す、其の後世を憂ふるや、豈に深遠ならざらんや。
曰:洊雷,震。君子以恐懼修省。洊者,如水之洊至;雷聲相繼而至曰洊,蓋威怒之。孔子當迅雷風烈必變,所以敬天怒、畏天威也。恐懼則知所修省矣。雷之洊至,非變異之大者,君子必惕然有敬畏之心焉,聖人防患必於其微。《詩》:敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。況于山冡崒崩、日月薄蝕、彗孛飛流,而恬然不為之警懼乎?成王惑管、蔡,疑周公,天乃雷電以風,雷之變豈無自而然哉?君子所當恐懼而修省也。
『象傳』に言う。「雷聲一重に一重を接續して傳來す、これ即ち震卦なり。君子は之に取法して、因りて恐懼戒慎し、修身省過す。」「洊」は水の一波に一波を接して涌來するに似たり、雷聲一聲に一聲を接して傳來するを「洊」と曰ふ、彼は威怒極點に到れるの狀なり。孔子は迅雷烈風に遇へば必ず容を改め色を變ぜしは、正に上天の震怒を敬畏し、上天の威嚴を畏懼するなり。心に恐懼存せば、便ち修身省過すべきを懂得す。雷聲相繼いで來るは、本より災變の中の大者と算す可からず、君子はなほ警惕して敬畏の心を生ぜんと欲す、聖人の禍患を防範するは必ず細微の處より着手するを見るべし。『詩經・大雅・板』に言う。「上天の震怒を敬畏して、戲樂逸豫を敢えてせず。上天の變異を敬畏して、放縱馳驅を敢えてせず」と。況んや山陵崩塌・日月食蝕・彗星孛星飛流の如き大變に遇ふや、なほ安然自若として、之を警懼せざるを得んや。周成王は管叔・蔡叔の流言に惑はされ、周公を猜疑す、上天是れに於て雷電大風を降下す。雷の變異は豈に縁故無くして發生する者ならんや。此れ正に君子の應に恐懼して修身省過すべきの處なり。
初九:震來,後笑言啞啞,吉。象曰:震來,恐致福也;笑言啞啞,後有則也。繇辭統論一卦之體,而初爻為眾爻之主,故其辭皆同。蓋震為長子,乾統三男,而長子用事,震所以代乾也。然當震之時,陽欲奮而二陰阨之,則其勢必有危我者,能自警懼,然後可以吉,故於初爻特加一後字,以見非有之懼,則不能致啞啞之吉也。
初九の爻辞に言う。「雷震到來して(而して戒懼し)、其の後説笑啞啞、吉祥なり。」『象傳』に言う。「雷震到來、恐懼能く福慶を招致す。説笑啞啞は、恐懼の後自から法度有るなり。」卦辞は總じて一卦の全體を論じ、而して初九の一爻は衆爻の主爻なり、だから其の爻辞は卦辞と相同じ。震卦は長子を象徵し、乾は三個の男卦を統率し、而して長子に由りて權を當り事を任じ、震は正に乾に代はりて事を行ふなり。然るに正に震動の時に當りて、陽氣は奮起せんと欲するも、然れども上面の兩個の陰爻に阻遏せられ、形勢上必ず己が力量に危害する有り。能く自ら警惕戒懼して、然る後に乃ち以て吉を獲る可し、だから初爻に於て特に一個の「後」の字を加へ、若し彼の戒慎恐懼の先に在る無ければ、説笑啞啞の吉祥を得ざるを表明す。
六二:震來厲,億貝,躋于九陵,勿逐,七日得。曰:震來厲,乘剛也。彖辭以震驚百里不鬯,知可以守宗廟社稷以為祭主,蓋以卦之全體言之。震以陽剛為主,陽雖在下,陰以退聽,故處震之時能安靜不動,惟剛者能之。六以陰而處二,其時與位皆純乎陰者也,故震來則危厲而失其所守。其所資,億言所之多也。
六二の爻辞に言う。「雷震到來危厲有り、大量の財貨を喪失し、九重の高陵に登上る。追尋するを要せず、七天の後自から復た得ん。」『象傳』に言う。「震來厲なりは、六二の剛爻の上に凌乘するを以てなり。」卦辞は「百里を震驚して而も匕鬯失はず」を用ゐて以て此の如きの人は以て宗廟社稷を守護し祭主を充當す可きを說明す、彼は一卦の全體に就きて言ふなり。震卦は陽剛を以て主と為し、陽は下位に居ると雖も、陰は却って退讓して聽命す。だから震動の時に處りて能く安靜不動なるは、ただ剛健の人のみ做到するを得るなり。六二は陰柔の質を以て第二位に居り、其の時與位は皆純陰なり、だから雷震一たび來れば便ち危厲不安にして、己が操守を失ふ。「貝」は彼の賴りて以て生を為すの資財にして、「億」は喪失する所の數量の多きを言うなり。
躋于九陵者,有所避也。九,陽數之極,言所避遐逺也。古人於至崇至深之地,皆以九為言,如九天、九地、九淵,以見崇深之極處也。勿逐七日得者,既能危懼遁避,則在我者盡矣,可以勿逐而自得也。宣王遇烖而懼,側身修行,以致中興之治,覆文武之業,豈必外務而馳逐之乎?
「九重の高陵に登上る」は、躲避する所有るを言うなり。「九」は陽數の極點にして、躲避するの遐遠なるを表示す。古人は凡そ極高極深の處に到るを說くや、皆「九」を以て稱說す、「九天」「九地」「九淵」の如く、用ゐて崇高幽深の極致を表明す。「追尋するを要せず、七天の後自から復た得ん」は、既に能く戒懼退避し、己が盡くすべきの道理已に盡くし到れば、便ち以て追尋せずして自然に復た得る可きを言うなり。周宣王は災異に遇ひて心に恐懼を生じ、側身して自省し德行を修飭し、因りて中興の治を成就し、文王武王の基業を恢復す、豈に必ず外面に奔走追逐して乃ち所得有らんとするを要せんや。
復卦言反復其道,七日來復,天行也。以卦氣言之,爻各主一日,卦位有六,七日乃更始。自二至上,復反於初;復自初之二,則所歴七爻,乃七日也。陰陽得之理,循環無窮,豈有常哉?未有常治而不亂、常否而不泰者,故知七日卦氣之終,不俟追逐而自復也。曰震來厲乘剛者,六二處中正之位,在他卦為吉,今震來而厲,則以乘初九陽剛也。陽上陰下,陽尊陰卑,今以陰乘陽,則危道也。
『復卦』の卦辞に「其の道を反復し、七日にして來復す、天の行なり」と言う。若し卦氣に按じて推算せば、一爻は各々一日を主り、一卦は六位にして、第七日に到れば便ち重新開始す。第二爻より上爻に數へ、再び初爻に返回す。初爻より再び第二爻に數へば、經歷する所は正に七爻にして、即ち七日なり。陰陽得失の道理は循環して息まず、豈に一成不變の有らんや。從來長治して亂れず、長否して泰ならざるの事有らず、だから七日は卦氣の一個の終結なるを知り、追尋せずして自然に復た得るに足るなり。『象傳』に「震來厲、剛に乘るなり」と言う。六二は本より中正の位に居り、別の卦の裡に於ては吉利なるも、今雷震到來して却って危厲なるは、其の初九の陽剛の上に凌駕するを以てなり。陽は應に上に居り、陰は應に下に居るべく、陽尊にして陰卑なり。今陰を以て陽に凌乘せば、即ち危險の道なり。
六三:震蘇蘇,震行無眚。曰:震蘇蘇,位不當也。六以陰柔而居陽剛不中之位,非處震之道,故震至而蘇蘇也。王弼曰:震者,驚駭怠惰,以肅懈慢者也。震動而至於蘇蘇,則驚懼甚矣,以此而行,可以無過。又四為震主,而三能承之,當震之時,知敬順之道,故可無眚也。言震蘇蘇位不當者,震為長子,以不鬯為善,今蘇蘇然若無所容者,由所處非其位也。為長子而處非其位,可不畏哉!
六三の爻辞に言う。「雷震の下に神魂定まらず、能く震懼の中に前行すれば災眚無し。」『象傳』に言う。「震蘇蘇たるは、處する所の位置當らざるを以てなり。」六三は陰柔の資質を以て陽剛にして而も中に居らざるの位置に居り、震に處るの道に合せず、だから雷震一たび到れば便ち恍惚不安なり。王弼に言う。震は驚駭を用ゐて怠惰の人を震動し、嚴肅を用ゐて懈慢の心を整飭するなりと。震動して神魂不定の地步に到れば、驚懼已に極まるを見べし。此の戒懼を帶びて以て行事すれば、便ち以て過失無からん。況んや九四は震卦の主爻にして、而して六三は能く之に順承す。正に震動の時に當りて恭敬順從の道理を懂得す、だから能く災眚無きなり。『象傳』に「震蘇蘇、位當らざるなり」と言う。震は長子を象徵し、匕鬯を失はざるを以て美德と為す。今惶惶然として容身する處無きが如きは、正に處する所の應有の位置に非ざればなり。身長子として而も處する所位に非ざれば、能く人をして畏懼せしめざるを得んや。
九四:震遂泥。曰:震遂泥,未光也。九四陷於重陰,逼於尊極,未能超然處於物上。當震之時,以剛健之才,處嫌疑之地,如陽欲出地,而上下二陰壅遏之,其勢不能致逺而大有所為也,故曰震遂泥,未光也。震本主動而有能行之,其道本當光亨,以阨於二陰,故未能也。
九四の爻辞に言う。「雷震終に泥淖に陷入す。」『象傳』に言う。「震遂に泥なるは、其の道未だ光大する能はざるを言うなり。」九四は重重の陰爻の中に陷り、又た至尊の位に逼近し、超然として萬物の上に處る能はず。正に震動の時に當りて、彼は剛健の才を以て人の猜嫌を受くるの地位に處り、譬えば陽氣の地面より衝出せんと欲するに、上下の兩個の陰爻は却って之を壅塞阻遏し、形勢上能く遠大に致力して作為有る能はず、だから「震遂に泥、未だ光ならず」と曰う。震は本より行動を以て主と為し、而して彼も亦た能く行ふの才有り、其の道本應に光明亨通すべきに、ただ兩個の陰爻に困阨せらるるを因りて、未だ施展する能はざるなり。
六五:震往來厲,億無,有事。曰:震往來厲,危行也;其事在中,大無也。古之聖王處尊極之位,能慄慄危懼而無荒怠之失,則可以永保其位矣。當震之時,下有九四之強臣,五無應而來乘剛,或往或來,能自危懼,則可以萬萬無失矣。無有事者,不其所有之事也;無非事者,所有之事未易概舉,不鬯則事之大者也。震之時,往來皆危行也,能履於危,則可安其位而無失矣。六五為動主,雖居中正之位,其才柔弱,非能濟乎險難者,本有失也;以位處中正,故得大無也。
六五の爻辞に言う。「雷震或いは往き或いは來る皆危厲有り、巨大の震動有りと雖も而も喪失する所無く、宗廟の事はなほ照常在りて舉行す。」『象傳』に言う。「震往來厲なりは、危險の中に行事するなり。其の主持する所の事は中道に居れば、だから終に大の喪失無し。」古代の聖王は至尊の位に身居し、能く戰戰栗栗として心に危懼を存して荒怠の過失無ければ、便ち以て長く其の位を保つ可し。正に震動の時に當りて、下面に九四の如き強臣有り、六五は既に正應無く、強臣は又た上に來りて剛位に凌乘す。往くと論ぜず退來すると論ぜず、ただ能く自ら戒懼すれば、便ち萬無一失なり。所謂「喪ふ無く事有り」は、其の主持する所の事を喪失せざるを言うなり。所謂「喪ふ無く非ず事無し」は、其の主持する所の事は一時盡く舉ぐるに難しと雖も、而も匕鬯を失はざるは乃ち其の中の最大の一件なり。震動の時に處りて、往きと來るとは皆危險の中に行走するに在り。能く危險の中に站穩せば、便ち以て其の位に安居して閃失無からん。六五は震動の主にして、中正の位に居ると雖も、然れども才質柔弱にして、本より能く險難を濟渡するの人に非ず、原應に損失有るべし。ただ處する所中を得正を得るを因りて、だから終に能く大いに喪ふ所無きなり。
上六:震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎,婚媾有言。曰:震索索,中未得也;雖凶無咎,畏鄰戒也。處震之極,其勢必危,故氣索索而幾盡,視矍矍而無主也。居嫌疑之地,當危懼之時,能以安靜退縮自處,庶可免禍;而上六陰柔之質,性復動躁,急於有行,其凶必矣。上既無應,而下比於五,五其鄰也。上雖處震動之極而無其位,方海內震擾之時,而六五實任其責,又禍非已致,故震不于其躬而于其鄰,則在我為無咎也。
上六の爻辞に言う。「雷震の下に氣索神消し、兩眼驚惶して四顧し、往けば凶有り。震動は己が身に落ちず、而も鄰人の身に落つ、過錯無し、ただ姻親の間に怨言有らん。」『象傳』に言う。「震索索たるは、中道を得ざるを以てなり。凶有りと雖も過錯無きは、鄰人の遭遇を以て戒と為すに由るなり。」上六は震動の頂點に處り、形勢必然危險なり、だから氣息索然として將に盡き、目光驚惶にして心中主無し。身人の猜嫌を受くるの地位に處り、正に危懼の時に當りて、若し能く安靜退縮して自處せば、或いは以て禍を免る可し。然るに上六は本より陰柔の質にして、性情又た躁動し、急ぎて行動有らんと欲すれば、則ち凶險は免れ難き所と在らん。上六は下に正應無きも、然れども六五と相比鄰す、六五は即ち其の「鄰」なり。上六は身震動の極に處ると雖も、然れども相應の職位無し。海內震蕩騷擾の時に當りて、實際に責任を擔負するは六五にして、しかも禍患も亦た自ら招來するに非ず、だから震動は自身に落ちずして鄰人の身に落ち、己が此の一邊に於ては便ち過錯無し。
婚媾有言者,上六雖不任責,既處上極,望我者亦眾,方天下震擾,豈得盡歸于其鄰,恝然忘情若秦越之人哉?雖所親者且有怨懟之言,況他人乎?言震索索中未得也、雖凶無咎畏鄰戒也,以所處上極,未得中道,故驚懼之甚,至索索然也。上六有往雖凶,而能恐懼修省,以鄰為戒,則可以免咎矣。
「婚媾に言有り」と曰うは、上六は實際の責任を擔はずと雖も、然れども最上の位に身處し、我に指望する者亦た衆し。正に天下震蕩騷擾の際に當りて、怎んぞ責任を盡く鄰人に推し與へ、冷漠として秦人の越人を視るが如く毫も動心せざるを得んや。至親の人なほ尚且つ埋怨の言有り、況んや旁人をや。『象傳』に「震索索、中未だ得ざるなり」「凶有りと雖も咎無し、鄰を畏れて戒むなり」と言うは、上六の處する所已に極上に到り、中道を得ざれば、だから驚懼の甚しき、氣索神消の地步に到るに至るを以てなり。上六は往けば凶有りと雖も、然れども若し能く恐懼戒慎し修身省過し、鄰人の遭遇を拿りて以て鑑戒と作せば、便ち以て過咎を免る可し。
艮卦(艮下艮上)
艮下艮上。艮其背,不其身;行其庭,不見其人,無咎。彖曰:艮,止也。時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。艮其止,止其所也。上下敵應,不相與也,是以不其身,行其庭不見其人,無咎也。道之廢興,繫乎聖人出處之間。艮之為卦,一陽極乎上,二陰處乎內,群陰為主而一陽在外,此可止之時也。時茍當止,不可強行,故艮其背者,得所止也。人之相面,所以盡交際之道;背者陰也,非交物者也。能止於所當止,非獨忘物也,而至於忘我,故不其身,不見其人,雖戶庭之內,而人我俱忘矣。
艮卦の下體は艮、上體も亦た艮なり。卦辞に言う。「己が背に止まり、己が身を覺察せず。己が庭に行きて、其の人を見ず、過錯無し。」『彖傳』に言う。「艮は即ち止なり。止むべき時に止まり、行くべき時に行けば、動與靜皆其の時機を錯失せず、其の道便ち光明なり。其の止まる所に艮すとは、應に止まるべきの處に止まるなり。上下各爻兩兩相敵して相應せず、彼此相往來せず、だから己が身を覺察せず、庭院に行きて其の人を見ず、過錯無し。」道の廢興は、聖人の出仕與退處の間に繫る。艮の此の一卦は、一個の陽爻上に窮極し、兩個の陰爻內部に處り、群陰權を當りて一陽外に在り、此れ正に以て止息す可きの時なり。時勢若し應に止むべければ、便ち勉强して行ふ可からず、だから「背に止まる」は、正に應に止まるべきの處を尋得せるなり。人與人相對して面するは、交際の禮を盡くすを為すなり。背は陰に屬し、外物と打交道せざるの部位なり。能く應に止まるべきの處に止まれば、獨り外物を忘掉するのみならず、甚至て自我をも一倂に忘掉す、だから己が身を覺察せず、其の人を見ざるなり。同じ一門一庭の內に在ると雖も、人與我は已に皆相忘れたり。
當可止之時,猶出而交物,則咎悔隨之;於可止之時而能止,是真止矣。行於有人之境,如入無人之境,物與我無相尤也,故無咎。彖言艮止者,釋艮之義,一言可盡者,止而已。聖人又惡夫一往而不返者,故曰時行則行,時止則止,動靜不失其時,其道光明也。聖人動與陽同波,靜與陰同徳,豈滯於一隅,若聚塊積塵哉?一動一靜,適於義而巳,故能大有為於天下,而其道光明也。
正に應に止息すべきの時に當りて、猶お出でて外物と交接せんとすれば、過錯悔吝便ち之に隨ひて來らん。以て止息す可きの時に於て能く止まれば、此乃ち真の「止」なり。人有るの境に行くに、無人の境に入るが如く、外物與自我彼此尤怨する所無し、だから過錯無し。『彖傳』に「艮、止なり」と言うは、艮字の含義を解釋するにして、一句の話説き盡くすに不過一個の「止」の字なり。然るに聖人は又た彼の一往にして返らず、ただ止を知りて行を知らざるの人を厭惡す、だから「應に行くべければ行き、應に止むべければ止まり、動靜皆時機を失はず、其の道便ち光明なり」と曰う。聖人は行動する時は陽氣と同じく其の波動し、靜處する時は陰氣と同じく其の德性す、豈に一個の角落に滞留して、堆起せる土塊・積起せる灰塵の如くならんや。一動一靜、ただ義に合せんを求めるのみ、だから能く天下に於て大有為にして、而も其の道光明なり。
艮,震之反也。九三為震。艮,東北之卦,有震動之焉。卦之反合,爻之升降,豈有常哉?艮其止,止其所者,止得其所,謂艮其背也。若止於前,則有所見,而聲音接於耳目者擾擾矣,故惟止於背為得其所也。上下敵應,不相與者,一陰一陽,上下不敵,所以相與。故形躁好靜,質柔愛剛;二女同居,雖近而不相得;鳴鶴在陰,雖逺而相求。故近不必比,而逺不必乖,特在應與耳。今六爻既相敵而非應,如人之相背而行,雖眾而各不相知,是以不其身,行其庭不見其人,無咎也。
艮卦は震卦の倒轉過來せる象なり。九三の一爻は象を取りて震と為す。艮は東北に位居するの卦にして、其の中に震動の意味を含む。卦體の反覆離合、爻位の上升下降は、豈に一成不變の有らんや。「其の止まる所に艮す、其の所に止まるなり」は、止まること其の所を得るを言うにして、即ち「背に止まる」なり。假如身前に止まれば、便ち見聞する所有り、聲色耳目に接し、紛擾休まざらん、だからただ背に止まるのみ其の所を得たりと算す。「上下敵應、相與せざるなり」。一陰一陽に對し、上下相敵せず、だから能く彼此感應相與す。是を以て形體躁動する者は安靜を喜び、質地柔弱なる者は剛強を愛慕す。兩個の女子同一處に住するに、相近きと雖も而も相投合せず。『中孚』の九二に「鳴鶴陰に在り」と言う、相隔たる遙遠なると雖も而も彼此感應相求す。相近きは未だ必ずしも親比ならず、相遠きは未だ必ずしも乖離ならざるを見べし、關鍵はただ相應有るか否かに在るのみ。今艮卦の六爻は兩兩相敵して正應を成さず、譬えば人の背に背を對して各々行くが如く、人多しと雖も、然れども彼此互に相知らず、だから己が身を覺察せず、庭院に行きて其の人を見ず、過錯無しと曰う。
曰:兼山,艮。君子以思不出其位。上能兼下,大能兼小,尊能兼卑。艮以兩山相重,勢均而力敵,非相應也,而相兼也。兼非異體也,各止於其所止而巳。君子體此以思不出其位,謂安其分守,無躁妄也。夫止者施於其背,則真止矣,是猶山兼山,豈復有動乎?聖人以此示人,則物各安其性命之正矣。
『象傳』に言う。「兩山相重なるは、これ即ち艮卦なり。君子は之に取法して、因りて思慮己が職位を越出せず。」上位に在る者は能く下位に在る者を包容し、大なる者は能く小なる者を包容し、尊貴の者は能く卑微の者を包容す。艮卦は兩座の山の重叠に由りて成り、勢力均等にして彼此相當し、互に感應するに非ずして、而も互に包含するなり。所謂「兼」は並び別に一個の不同なる形體有るに非ず、ただ各々己が應に止まるべきの處に止まるのみ。『象傳』に言う。君子は此の一卦の象を體察し、思慮本位を越出せざらしむとは、即ち己が本分を安守し、躁進妄動せざるを言うなり。「止」の功夫若し能く己が背の上に施用せば、則ち彼は真の止なり、正に山與山の相重なるが如く、豈に更に何の動搖か有らんや。聖人は此の道理を用ゐて世人に開示し、天下萬物は便ち各々性命の正道に安んずるなり。
初六:艮其趾,無咎,利永貞。曰:艮其趾,未失正也。足本主動,曰趾者,固以止為義,況艮之時而以陰柔處下,動則悔吝生矣。於艮而能止,是不失其幾,故得無咎也。利永貞者,當艮之初,動則入於邪矣,故利在永貞。貞者,靜而正也。當止而止,卷懐其道,若將終身焉,故以永貞為利,此聖人肥遁之時也,故曰艮其趾,未失正也。止於其初,雖未可語權,於正道為未失也。
初六の爻辞に言う。「己が脚趾に止まり、過錯無し、長く正しきを守るに利有り。」『象傳』に言う。「其の趾に艮すとは、未だ正道を失はざるを言うなり。」脚は本より行動を主管し、「趾」と曰うは、固より「止」を以て義と取るなり。況んや正に艮止の時に當りて、又た陰柔を以て最下に居れば、一たび動けば便ち悔吝を生ず。應に止むべきの時に於て能く止まれば、これ時機を錯失せざるなり、だから能く過錯無からん。「利永貞」と曰うは、艮止の初に處りて、一たび動けば便ち邪路に陷入するを以てなり、だから利は長久に正しきを守るに在り。「貞」は即ち安靜にして正に合するなり。止むべくして止まり、己が道術を收斂懷藏し、髣髴として以て此を終身せんとするが如し、だから長久に正を守るを以て利と爲す、此れ正に聖人の高蹈遠引・優游退隱するの時なり、だから「其の趾に艮す、未だ正を失はざるなり」と曰う。事の開端に止まるは、通權達變に及ぶと談ずるに足らずと雖も、然れども正道に就きて言へば並び失誤無し。
六二:艮其腓,不拯其隨,其心不快。曰:不拯其隨,未退聽也。趾也,腓也,股也,一體而相為用者,其行其止,皆非三者所得專也。然腓在足上,其形雖動躁,未有足行而腓不應者,故腓之從足,猶股之隨腓,觀乎咸卦則可見矣。咸以動而感,而艮則靜而止。六二體既躁動,而上下拘制,不能自專以有為,安能拯其隨乎?隨為三也。二既不應五而上承於三,三雖以陽剛處上,當艮之時,志在隨人而已,無能為也。雖欲用其智謀以拯救之,而其志卒不得伸,故其心不快也。象言不拯其隨未退聽者,二處人臣中正之位,志在有為,非能終止也,其肯恝然情於斯世哉?
六二の爻辞に言う。「己が小腿肚に止まり、其の隨從する所の部位を拯救する能はず、心中痛快ならず。」『象傳』に言う。「其の隨を拯はざるは、上面の九三なほ肯んじて退讓聽從せざるを以てなり。」脚趾・小腿肚・大腿は、本より一個の身體上互に用を為すの部分にして、是れ行くや是れ止まるや、皆此の三者の中の如何なる一個も單獨に主を作す能くするに非ず。不過小腿肚は脚の上面に長ぜり、其の形體は躁動すと雖も、然れども從來脚已に邁開して而も小腿跟動せざるの有らず。だから小腿の脚に隨從するは、猶お大腿の小腿に隨從するが如し、『咸卦』の各爻の取象を看れば便ち明白なり。『咸』は動に因りて感應を生じ、『艮』は却って安靜にして止息す。六二の形體は本より躁動なれど、然れども上下に牽制せられ、自作主張して作為有る能はず、怎んぞ其の隨從する所を拯救する能はせんや。其の隨從する所は即ち九三なり。六二は既に六五と相應せず、便ち上に九三を承奉す。九三は陽剛を以て上位に居ると雖も、然るに正に艮止の時に當りて、亦不過人に隨はんと志すのみ、何事か成す能はざるなり。六二は縱い智謀を施展して彼を拯救せんと想ふも、志向終に伸展する能はず、だから心裡痛快ならず。『象傳』に「其の隨を拯はざる、未だ退聽せざるなり」と言うは、六二の身人臣中正の位に處り、作為有らんと志し、並び能く始終止息するの人に非ざるを以てなり。彼は豈に冷漠として此の世道に對して全然忘情なるを肯んぜんや。
九三:艮其限,列其夤,厲熏心。象曰:艮其限,危熏心也。夫一人之身,四肢百骸,動靜相為用者也。今艮其限,上下內外隔絶而不相通,猶裂其膂脊而為二物也,其危厲甚於熏灼其心也。限,身之中;夤,脊膂肉也。自其限而止之,猶裂其脊膂,言君臣上下各止其止而不相通也。三居下卦之極,而九以陽剛處之,施止於限,果於靜止而不知變以趨時者也,昧乎時行時止之義,故聖人以為戒焉。古之人有行之者,如漢二龔、魏範粲,雖全大節,當時處之,其危厲熏灼痛忿之狀,豈人所能堪哉?
九三の爻辞に言う。「腰間に止まり、夾脊の肌肉を撕裂し、危厲烈火の心を熏灼するが如し。」『象傳』に言う。「其の限に艮すとは、危險其の心を熏灼するなり。」それ一人の身は、四肢百骸本より動靜互相配合して用を為すなり。今腰間に止まりて、上下內外を隔絕して通ぜざらしむれば、譬えば脊背を撕裂して兩截と爲すが如く、彼の危厲は烈火の心を熏るよりなほ厲し。「限」は身體の中段にして、「夤」は夾脊の肌肉なり。腰間より之を截斷すれば、脊梁を撕裂するに等し、君臣上下各々一處に止まりて彼此相通ぜざるを言うなり。九三は下卦の頂端に居り、又た陽剛の質を以て之に居り、「止」を腰間の上に施用し、一味堅決に靜止して變通して時勢に趨合するを懂得せず、「應に行くべくば行き應に止むべくば止まれ」の道理に昧し、だから聖人は之を拿りて以て戒鑑と作す。古人の中に確かに此の如く爲す者有り、漢代の龔勝・龔舍、魏代の范粲の如し、彼らは大節を保全すと雖も、然れども當時其の境に身處し、彼の危厲熏心・痛憤當り難きの情狀は、豈に常人の忍受する能くする所ならんや。
六四:艮其身,無咎。曰:艮其身,止諸躬也。六四已進而達乎下卦之上,能兼乎上下者也,故以全體言之,曰艮其身也。處近君之位,不能以道濟天下,蓋六五柔弱之君,非有剛健勇決之臣以輔翼之,不足以大有為也。四能量其君,度其才,止於所當止,故得無咎而已。象曰艮其身止諸躬者,躬有致恭之義。人臣之節,行止進退,不失恭順,雖不能止天下之所當止,而為全身之計則善矣,故爻以為無咎,而象言止諸躬而已。夫身為大臣,宜兼濟天下,而為獨善之行,聖人之所深鄙而可以忘言者也。
六四の爻辞に言う。「己が全身に止まり、過錯無し。」『象傳』に言う。「其の身に艮すとは、躬に止まるのみなり。」六四は已に上進して下卦の頂端を越過し、上下を兼通する能くするの一爻なり、だから全體の身體に就きて言へば、「其の身に艮す」と曰ふ。彼は君主に接近するの地位に身處し、然れども能く正道を以て天下を救濟する能はず。六五は柔弱の君にして、若し剛健勇決の大臣の傍より輔佐する無ければ、以て大有為するに足らず。六四は能く其の君主を估量し、己が才具を揣度し、應に止まるべきの處に止まり、だからただ一個の過錯無しを落着せるのみなり。『象傳』に「其の身に艮す、諸を躬に止むるなり」と言う、「躬」は恭敬自持の意思を含む。臣子たるの節操は、擧止進退の間に恭順を失はざるに在り。天下の應に制止すべきの亂局を制止する能はずと雖も、然れども自身を保全するの打算としては已に好しと算す可し、だから爻辞はただ彼の過錯無きを言ふのみ、而して『象傳』も亦たただ彼の躬に止まるのみと言ふなり。身大臣として、本應に天下を兼濟すべきに、然れどもただ己が身を獨善するの行徑を做す、これ聖人の深く鄙薄して多く言ふを願はざる所なり。
六五:艮其輔,言有序,悔亡。象曰:艮其輔,以中正也。六五在六爻為君位,君無為也,出言則為號令;輔者,言之所出也。王者之言,其出如綸,能艮其輔,則言不妄發而悔可亡矣。夫下卦為趾、為腓、為限,得其一體而已;進至六四則為身,然猶局於形體,非能超乎形體之外也。惟六五處中正之位,有輔頰之象,一言之善則千里應之,一言之失則千里違之,能運乎形體而不為形體所拘,故吾欲止天下之當止,孰有不從者?五為艮主,故所止如此。
六五の爻辞に言う。「己が口輔を管住し、言語條理有れば、悔恨消失せん。」『象傳』に言う。「其の輔に艮すとは、中に居りて正を得るを以てなり。」六五は六爻の中に於て君位に處り、君主は本應に清靜無爲たるべく、一たび口を開けば便ち號令と成り、而して「輔」は正に言語の發出する所なり。王者の話は口を出でれば便ち絲綸の如く天下を牽動す。能く己が口輔を管住せば、則ち言語輕易に發出せず、悔恨は以て消失す可し。下卦の取る所の象は脚趾・小腿・腰間にして、各々身體の一部分を得るのみ。上進して六四に至りて始めて全個の身體なれど、然れどもなほ形體の內に局限し、能く形體の外に超出する能はず。ただ六五のみ中正の位に居り、口輔頰頤の象有り。一句の話説き善ければ、千里之外皆響應し、一句の話説き錯れば、千里之外皆背離す。彼は能く形體を駕馭して而も形體に拘束せられず、だから彼の天下の應に制止すべきの事を制止せんと想へば、誰か聽從せざる者有らんや。六五は艮卦の主爻なり、だから其の止まる所の境界此の如し。
上九:敦艮,吉。故曰:敦艮之吉,以厚終也。上九,重艮之終也,二山相重,敦厚之至。人能靜止如山之相重,出乎萬物之上,其孰能動搖之?故曰敦艮吉也。曰敦艮之吉以厚終者,夫以靜止為徳,終之實難;上以剛健為徳,至誠而不息者也,與夫作輟者異矣,故曰以厚終也。
上九の爻辞に言う。「敦厚に止息して、吉祥なり。」だから『象傳』に言う。「敦艮の吉なる所以は、能く敦厚を以て其の事を終ふるを以てなり。」上九は重艮の卦の終點にして、兩座の山相重なり、敦厚の至なり。人若し能く重なり合ふ山の如く安靜自守し、超然として萬物の上に處せば、更に誰か彼を動搖する能はせんや。だから「敦艮吉」と曰う。『象傳』に「敦艮之吉、以厚終也」と言う。安靜止息を以て德行と爲すは、善始善終せんと欲するは實に甚だ難し。上九は剛健を以て德と爲し、至誠息まず、彼の時に作り時に輟め半途にして廢するの人と大いに相同じからず、だから彼の能く敦厚を以て其の事を終ふるを言うなり。
漸卦(艮下巽上)
艮下巽上。漸:女歸吉,利貞。女子之嫁也,猶士之仕也,皆惡不由其道也。漸之辭專以女歸為吉,女之適人,必待求而後行,納采問名,匪媒不得,漸之義莫大乎此。利貞者,所利在正也。貞者,靜而正也。女能以正行,未有不以漸者;能以漸固吉矣,然亦有漸而不正者,蓋長女少男,疑於不正,異乎咸之相感恱,故既吉又戒以利貞也。
漸卦の下體は艮、上體は巽なり。卦辞に言う。「漸、女子嫁して吉を獲、正しきを守るに利有り。」女子の出嫁は、猶お士人の出仕の如く、皆正道に循はずして行ふを惡む。漸卦の卦辞は專ら女子の嫁するを以て吉と爲す、女子の人に適ぐは、必ず對方の來聘を待ちて而る後に成行し、先行に納采・問名の禮有り、媒妁無くば成婚する能はざるを以てなり。循序漸進の意義は此より大なる無し。「利貞」と曰うは、利の在る所は正しきを守るに在るを言うなり。「貞」は即ち安靜にして正に合するなり。女子能く正道に依りて行へば、循序漸進せざる者無し。能く循序漸進すれば本より已に吉利なれど、然れども亦た循序漸進すと雖も而も正に合せざる有り、此の一卦は長女上に在り少男下に在れば、人をして不正を疑心せしめ易く、『咸卦』の少男少女の彼此感悅すると不同なれば、だから「吉」と曰ふの後に、又た「利貞」を用ゐて以て告誡を加ふ。
彖曰:漸之進也,女歸吉也。進得位,往有功也。進以正,可以正也。其位剛得中也。止而巽,動不窮也。進固多門矣:有挾術而進者,有阿其好而進者,有以邪塗進者,有假隱遁為徑而進者,莫若以漸而進為得其正,如女之歸人則吉也。進得位往有功也、進以正可以正也、其位剛得中也、止而巽動不窮也,皆進之善者也。進而得位,則可以行其志而可以大有為矣,故往有功也。未有枉尺而可以直尋者,枉道而可以事人者,亦未有身之不正而可正人者,故士之進身,其始不可不正也。進以正然後可以正,蓋一正君而國定矣。
『彖傳』に言う。「漸は循序にして進めば、だから女子嫁して吉を獲るなり。前進して正位を得れば、往けば功を建つる能はし。正道を以て前進せば、便ち以て他人を匡正す可し。九五の位は陽剛にして中に居る。內に止まり外に巽順すれば、行動便ち困窮せざらん。」身を進めて仕を求むるは本より門路多し。權術を挾持して進む者有り、君主の嗜好に迎合して進む者有り、邪路を走りて進む者有り、又た隱居を假借して終南捷徑を作して以て進む者有り。皆循序漸進に如く最も正に合する無し、譬えば女子の禮に依りて人に嫁げば便ち吉祥を得るが如し。所謂「進みて位を得、往きて功有り」「進みて正を以てすれば、以て正す可し」「其の位剛にして中を得」「止まりて巽れば、動きて窮まらず」と言ふは、皆身を進むる中の善者を説くなり。前進して應有の職位を得れば、便ち以て己が志向を施行して大有為す可し、だから往けば功を建つる能はしと曰う。從來一尺を屈曲して而も能く八尺を伸直する者無し、又た正道を歪曲して而も能く真に君主に事奉する者無し、更に自身正ならずして而も能く別人を匡正する者無し。だから士人身を進むるは、一開頭より便ち正ならざる可からず。正道を以て身を進めて、然る後に乃ち能く他人を匡正し、ただ君心一たび正しければ、國家自然安定す。
進為於世,固不可不剛健,然剛健不可過也,不可不及也。漸之六爻皆得其正,謂二四之陰而六居之,三五之陽而九居之,初上二爻雖無應而皆得陰陽之正也。九五履至尊而得中正之位,為漸之主,故云其位剛得中也。止而巽動不窮者,艮止而巽動,止者靜而動者順,以此為進,雖渉險蹈艱,何往而不利哉?
世上に於て作為有らんとするは、固より剛健ならざる可からず、然れども剛健は過ぐる可からず、亦た及ばざる可からず。漸卦の六爻は皆其の正を得るを以てし、第二・第四は陰位にして陰爻之に居り、第三・第五は陽位にして陽爻之に居ると謂ふなり。初爻與上爻は正應無しと雖も、然れども亦た皆陰陽の正位に合す。九五は至尊に登臨して中正の位に居り、漸卦の主爻なり、だから『彖傳』に「其の位剛にして中を得たり」と言う。所謂「止まりて巽順し、動きて窮まらず」――下卦の艮は靜止にして、上卦の巽は順動なり。止まる一方は安靜にして、動く一方は柔順なり。此の如きの態度を以て進取せば、縦い險阻を涉歷し艱難を踏盡すとも、又た何の處か往き得ざる有らんや。
曰:山上有木,漸。君子以居賢徳善俗。山之有木,長養而成就之,自青蔥以至合抱,必有其漸。君子以祿位處賢有徳之士,與夫化導天下之俗,使入於禮義,亦必皆有其漸而不可遽也。堯之用舜,猶歴試諸艱,以見賢徳之不可驟進也;善人為百年,可以勝殘去殺,以見風俗之不可頓革也。
『象傳』に言う。「山上に木長ずるは、これ即ち漸卦なり。君子は之に取法して、因りて賢德の士を安置し、民間の風俗を改善せん。」山上に樹木生長す、徐〻に養育して以て材を成すを得、青葱の細苗より合抱の大樹に長じ到るまで、必ず其の漸進の過程有らん。君子は祿位を用ゐて賢能有德の士を安置し、及び天下の風俗を教化引導し、人心をして禮義に歸せしむるも、亦た必ず皆循序漸進して、急遽に成を求め可からざるなり。堯の舜を任用するや、尚且つ種〻の艱難の事を以て反復して彼を考驗す、賢德の人は驟かに提拔する能はざるを見るべし。孔子に善人相繼いで國を治むる百年にして、乃ち以て殘暴に戰勝し刑殺を廢除す可しと言ふは、風俗は一朝にして改易する能はざるを見るべし。
初六:鴻漸于干,小子厲,有言,無咎。曰:小子之厲,義無咎也。漸之六爻皆以鴻為。鴻,水鳥也,能知進退者,陵陸非其所安也,江湖之上是其所棲息也。乾,水涯也,將離乎陵陸而近水涯,雖其進有漸,然猶未免矰繳之患,故其勢不得不危懼也。小子,未有所識之稱,非小人也。六以柔弱而處卦下,有小子之象,若隨之六二係小子,能隨人而巳,豈能達乎進退之幾?故危懼而不自安也。居漸之初,宜棲息以俟時可也,眾雖有言,在已無愆,何足哉?度之於義,無可咎者,故象曰小子之厲,義無咎也。
初六の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として水邊に飛落す、年幼の人危險有り、責難を招來する有れど、然れども過錯無し。」『象傳』に言う。「小子の厲は、義理の上に於て言へば過錯無きなり。」漸卦の六爻は皆鴻雁を拿りて象と爲す。鴻は水鳥にして、進退の節を懂得する能くする者なり。丘陵高地は其の安身する所に非ず、江湖水面こそ其の栖息する所なり。「乾」は水邊を指し、鴻雁は將に丘陵を離れて水涯に接近せんとす、其の前進は循序なると雖も、然れどもなほ射獵繳絲の患を免れ難し、形勢上心に危懼を懷かざるを得ず。「小子」は未だ事理に通達せざるの年輕人に對する稱呼にして、並び小人を指すに非ず。初六は柔弱の質を以て全卦の最下に居り、小子の象有り。譬えば『隨卦』の六二に「小子に繫ぐ」と言うが如く、ただ別人に隨從する能くするのみ、豈に進退の幾微に通達せんや。だから危懼して自安する能はず。漸進の開端に處りて、本應に心を安くして栖息して以て時機を等待すべし。衆人に責難の話有りと雖も、己が身に於ては並び過失無し、又た何の憂慮か有らんや。道理を拿りて衡量すれば、責怪す可き何も無し、だから『象傳』に「小子の厲、義咎無きなり」と曰う。
六二:鴻漸于盤,飲食衎衎,吉。曰:飲食衎衎,不素飽也。盤,石之盤旋於水中者,比之於乾,則離乎陵陸逺矣,故飲食衎衎,和樂而無意外之患,猶賢者進而得祿位也。二處人臣中正之位,上有剛健之主為已正應,故身安而爵祿可保也。象言飲食衎衎不素飽者,人臣遭時遇主,進而得正,履而得中,必將有以濟天下,故食人之祿則懐人之憂,衣人之衣則思人之患,豈竊位素餐以飽其身、肥其家而巳?此又聖人致其戒慎之意也。
六二の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として水中の磐石に飛落し、飲食和樂にして、吉祥なり。」『象傳』に言う。「飲食和樂は、並び徒に飯を食ふに非ず。」「盤」は水中に盤踞するの大石なり。水邊と相比較すれば、磐石は丘陵高地を離るること已に遠し、だから能く飲食和樂にして安然として意外の患無し、譬えば賢者の身を進めて俸祿官位を得るが如し。六二は身人臣中正の位に處り、上に剛健の君主有りて之と正に相應ず、だから身家安穩にして爵祿保つ可し。『象傳』に「飲食衎衎、素飽ならざるなり」と言う。臣子として好時世に遇ひ、好君主に逢へば、身を進めて其の正を得、位に居りて其の中を得れば、便ち定めて作為有りて以て天下を救濟せざる可からず。だから人家の俸祿を食へば便ち人家の爲に憂を分かち、人家の衣服を穿てば便ち人家の爲に禍患を想到せざる可からず、怎んぞ官位を竊據し俸祿を白食し、ただ己が飽食・自家富足を求めるのみに止まるを以てせんや。これ又た聖人の反復して其の戒慎の意を致すの處なり。
九三:鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶,利御冦。曰:夫征不復,離群醜也;婦孕不育,失其道也;利用御冦,順相保也。鴻隨陽往來。《爾雅》曰:髙厚曰陸。陸非鴻之所宜安也,漸進於陸,雖若可安,然非其所樂也,故以夫之征而不復、婦之孕而不育也。九三陽剛不能漸進,徵者未有不思復,孕者未有不思育,然失於急躁,不能待時而動,則二者皆不其志,不其志,凶可知矣。利用御冦者,四三相比,同心不違,故利用御冦,如蒙之上九不利為冦、利御冦,蓋為冦則眾之所違,御冦則眾之所助,與此體異而義同也。
九三の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として高平の地に飛到し、夫遠征して再び返らず、婦人懷孕して而も孩子を養活する能はず、凶險有り、盜寇を抵御するに利有り。」『象傳』に言う。「夫征して復たずは、同類を脫離するなり。婦孕みて育せずは、其の正道を失ふなり。用ゐて寇を御ぐに利ありは、上下順從して互に保全するなり。」鴻雁は陽氣に隨ひて往來遷徙す。『爾雅』に言う。地勢高くして厚きを「陸」と曰ふと。高平の地は鴻雁の宜しく安身するの所在に非ず。漸〻として陸上に進むは、看れば以て安居す可きに似たれど、實は並び其の喜歡する所に非ず、だから象を取りて夫の遠征して返らず、婦人の懷孕して育さずと爲す。九三は陽剛太盛にして、能く循序漸進する能はず。出征の人は家に歸るを想はざる無く、懷孕の人は養育せんと想はざる無し、ただ急躁に失して時機を待ちて動く能はざるを因りて、結果兩者皆其の心願を遂げる能はず。心願遂げずれば、凶險は想ひて知る可し。「盜寇を抵御するに利有り」と曰うは、九三與六四相鄰比して同心にして相違背せざるを以てなり、だから共に寇を御ぐに宜し。『蒙卦』の上九に「寇を爲すに利あらず、寇を御ぐに利あり」と言うが如く、寇を爲せば便ち衆人に背棄せられ、寇を御げば便ち衆人の相助を得――兩卦の卦體不同なれど而も義理は一樣なり。
曰夫征不復離群醜也,九三以剛陽獨進於上,離乎群眾,故往而不能反也。婦孕不育失其道也,婦以貞順為徳,生育為功,孕而不育,不能保養其子,皆欲速之咎也。利用御冦順相保者,天下之理,逆則相違,順則相保。三雖失於剛暴,言能順於義理,則可用以御冦也。黥、彭之流,逆則為敵,順則為用,卒滅項氏者,能順以相保也。
『象傳』に「夫征して復たずは群醜を離るるなり」と言う。九三は剛陽の質を以て獨り上に向ひて冒進し、群衆を脫離す、だから往きて而も返る能はざるなり。「婦孕みて育さずは其の道を失ふなり」と言う。婦人は貞靜柔順を以て德と為し、子女を生育するを以て功と為す。孕みて而も養活する能はざれば、己が孩子を保育する能はず、此れらは皆快を求めて急ぎ過ぐるの過失なり。「用ゐて寇を御ぐに利あり、順にして相保たるなり」と言う。天下の道理は、相逆すれば便ち彼此背離し、相順すれば便ち彼此保全す。九三は剛猛暴躁に失すると雖も、然れどもただ能く義理に順從せば、便ち以て彼を用ゐて外寇を抵御す可し。黥布・彭越の此の一類の人の如し、彼と爲に敵すれば便ち勁敵なり、其の性に順ひて而も任用を加へれば便ち助力と成る。最終に項羽を消滅せしは、正に漢高祖の能く其の性に順ひて之と相保せるを以てなり。
六四:鴻漸于木,或得其桷,無咎。曰:或得其桷,順以巽也。木比之陵陸,益非鴻之所安,此漸卦以鴻君子之進退,當以其漸而不可亟也。江湖,鴻之所樂處也;陵也、陸也、木也,雖愈進而愈非所安,此知幾之士所以難進易退,以避矰繳之患也。鴻漸于木,雖非所安,或得其桷,若可以棲而無患,故無咎也。桷,木枝之大者。曰或得其桷順以巽者,鴻未有棲於木者,或得其桷,非其常也。四體在巽,巽為木,三附於四,桷之也。君子立人之朝,履富貴之危機,能以巽順承上而接下,可以少安,然終非其處也,仲尼於此爻寓戒深矣。
六四の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として樹木に飛上り、或いは一根の平直の枝幹を尋得して、過錯無し。」『象傳』に言う。「或いは其の桷を得るは、柔順にして卑巽なるを以てなり。」樹木は丘陵高地と相比べて、益〻鴻の安んずる所に非ず。漸卦は正に鴻雁を用ゐて君子の進退を比喻す、應に循序にして而も急躁す可からざるなり。江湖は鴻雁の樂意に栖止するの處所なり。丘陵・高地・樹木は、愈〻上に往けば愈〻其の安適なる所に非ず――此れ正に幾微に通達するの士人の進取に難く退避に易き所以、用ゐて射獵繳絲の患を躲開するの道理なり。鴻雁は樹木に飛上るは、安身の地に非ずと雖も、若し碰巧に一根の平直の枝幹を得れば、似たり以て栖息して患無き可し、だから過錯無し。「桷」は樹枝の中の粗大平直なる一根なり。『象傳』に「或いは其の桷を得る、順にして巽なり」と言う。鴻雁は本より樹上に栖する者無し、偶〻平直の枝幹を得るも、亦た常態に非ず。六四の體は巽に在り、巽の取象は木と爲し、九三は六四の下に附著す、正に「桷」の形象なり。君子は人主の朝廷に立身し、富貴の此の危險の機括の上に踏みて、能く謙順の道を以て上に君主を承け、下に同列に接すれば、以て些か安穩を得る可し、然れども終に久留の處に非ず。孔子の此の一爻の裡に寄寓する所の告誡は甚だ深し。
九五:鴻漸于陵,婦三不孕,終莫之勝,吉。曰:終莫之勝吉,得所願也。九五君位,其進益髙,故以鴻漸于陵。大阜為陵,同人九三曰升其髙陵,言其所處最髙而不可陵也。五與二得君臣中正之位,三以陽剛而乘於二,四以大臣而比於五,二五雖應而未能遽合也,故三不孕。君臣以中正相與,茍志同道合,其孰能間之?故曰終莫之勝吉也。
九五の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として高陵に飛到し、婦人三年孕まず、然れども終に彼らに勝つ能くする無し、吉祥なり。」『象傳』に言う。「終に之に勝つ莫くして吉は、願を得て償ふを得るを言うなり。」九五は君位にして、鴻雁の進む所の處益〻高し、だから象を取りて「鴻漸〻として陵に於り」と爲す。大きの土山を「陵」と曰ふ、『同人』の九三に「其の高陵に升る」と言うは、處する所最高にして人の凌駕する能くする者無きを言うなり。九五與六二は各々君臣中正の位を得る。九三は陽剛を以て六二に凌乘し、六四は大臣の位を以て九五に親比す。二與五は相應ずと雖も、然れども一時能く順利に結合する能はず、だから三年孕まざるの象有り。君臣は中正の道を以て相交はり、ただ志同道合せば、誰か彼らを離間する能はせんや。だから「終に之に勝つ莫し、吉」と曰う。
夫君臣之交,患在不正,故近不必比而逺不必乖,特在情志之間合與不合耳。言終莫之勝吉得所願者,小人之害君子,或能阨之於始;君子之進,固自有機,時茍當進,小人雖廣設坑穽,比力合謀,莫能陷害之。小人不能陷害,則君子之道亨,而平昔之志願矣。
それ君臣の交はりは、患は正ならざるに在り、だから相距る近きは未だ必ずしも親密ならず、相隔たる遠きは未だ必ずしも乖離ならず、特に情志の間の合か不合かに在るのみ。『象傳』に「終に之に勝つ莫くして吉は、願を得る所なり」と言う。小人の君子を陷害するは、或いは能く開始の時に於て彼を困阻するを得るも、然れども君子の進用は自から時機有り、時勢若し應に進用せらるべく當れば、小人は縱い廣く陷阱を設け合力同謀すとも、亦た能く彼に加害する能はず。小人は加害する能はざれば、則ち君子の道は通行して阻礙無く、平生の志願も亦た得償せらるるなり。
上九:鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。曰:其羽可用為儀吉,不可亂也。上九,大臣之處乎髙位而不任事者,特其形容可為朝廷羽儀耳。鴻飛,弋者何慕?既出乎事外,小人莫得而害之,故吉也。上與三皆稱陸,人臣致身於極髙之位,能自卑巽,下與三同,蓋盡乎屈伸之理,所以吉也。曰其羽可用為儀吉不可亂者,其形容既足以儀表天下,則朝廷之上,百執之眾,尊卑有別,上下有等,雖群而不黨,故曰不可。
上九の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として高陸に飛到し、其の羽毛は以て儀飾と爲す可し、吉祥なり。」『象傳』に言う。「其の羽以て儀と爲す可くして吉は、朝廷の秩序紊亂す可からざるを言うなり。」上九は高位に身居して而も實際の職事を擔はざるの大臣にして、ただ其の儀容風采は以て朝廷の表率を充當す可きのみ。鴻雁は冥冥の中に高飛すれば、射獵の人は又た何の指望する可き有らんや。彼は既に事外に置身せば、小人は便ち加害するに從る無し、だから吉祥なり。上九與九三は皆「陸」と稱すは、人臣の己を極高の位に置きて、而も能く己を卑下に居し謙遜自處し、九三と一樣、屈伸の道理に透徹したりと謂ふ可きを以てなり、だから吉祥なり。『象傳』に「其の羽以て儀と爲す可くして吉、亂る可からざるなり」と言う。其の儀容は既に以て天下の表率と爲すに足れば、則ち朝廷の上・百官衆吏の間に、尊卑分別有り上下等級有り、群に合すと雖も而も黨を結ばず、だから「亂る可からず」と曰う。
歸妹卦(兌下震上)
兌下震上。歸妹:征凶,無攸利。聖人於夫婦之際,毎存終始之義,始之不慎而能克終者鮮矣。女少而說,男之所以動也;說不以正,動不以禮,則華落色衰,復相棄背,故征凶無攸利也。征凶者,以媚說而往則凶也;無攸利者,無所往而利也。漸之所以吉者,艮止巽順,以男能下女也;歸妹征凶者,兌說震動,六爻皆不當其位也。咸之相感,必繼以恆,蓋男下女則陰陽之義明,女從男則尊卑之位定,所以存鑑戒也。
歸妹卦の下體は兌、上體は震なり。卦辞に言う。「歸妹、往けば凶有り、利益する所無し。」聖人は夫婦の際に於て、毎に終始の義を存す。始めを愼まずして能く終を克くする者鮮し。女子年少にして心に喜悅を生ずるは、男子の之が爲に情を動かすの緣由なり。喜悅正より出でず行動禮に合せざれば、花殘し色衰ふるに及びて、便ち彼此背棄すらん、だから「征凶、攸に利あらざるなり」と曰う。「征凶」は悅び取りて好むに憑りて往けば必ず凶險有るを言うなり。「无攸利」は何れの處に往くを論ぜず好處を得ざるを言うなり。『漸卦』の吉利なる所以は、下に艮止して上に巽順し、男子能く己を屈して女子の下に居ればなり。『歸妹』の征凶なる所以は、下に兌悅して上に震動し、六爻又た皆其の位に當らざればなり。『咸卦』は男女相感ずるを講じ、後面必ず『恒卦』を以て接ぐ。男子己を屈して女子の下に在れば、陰陽交感の義便ち明白なり。女子は男子に順從すれば、尊卑の名分便ち確定す――聖人の此の如く安排するは、正に鑑戒を留下せんが爲なり。
彖曰:歸妹,天地之大義也。天地不交而萬物不興,歸妹,人之終始也。說以動,所歸妹也;征凶,位不當也;無攸利,柔乘剛也。乾健而坤順,陽尊而陰卑,此天地之大義也。然乾下坤上而為泰,乾上坤下而為否,若嚴其分位,則天地不交而萬物不興矣。歸妹以少女在下而長男處上為正,故其事可常而有終始也。女說而男動,陰陽感悅,所以成歸妹;若老婦士夫,則可丑矣。雖然,女子處幽閒之中,非有求焉則不往也;若說以動,則有不待媒妁之言者,故陰陽之位不可不當也,不當則所往皆凶矣。
『彖傳』に言う。「女を嫁がすは、天地間の大道理なり。天地交合せざれば、萬物興起する能はず。女を嫁がすは、人倫の終結與開始に關係す。喜悅に因りて行動せば、嫁がす所は少女なり。往けば凶有るは、位置當らざるなり。利益無きは、柔爻の剛爻に凌乘するなり。」乾は剛健にして坤は柔順、陽は尊貴にして陰は卑下、これ天地間の大義なり。然るに乾下に在り坤上に在れば却って『泰卦』と成り、乾上に在り坤下に在れば却って『否卦』と成る。若し一味に尊卑分位を死守せば、天地便ち交合せず、萬物も亦た興起する能はざらん。歸妹卦は少女下に居り長男上に居るを以て正と爲し、だから此の事は以て長久にして始終有らん。女子喜悅し男子行動し、陰陽彼此感悅し、因りて嫁娶を成就す。若し老婦の少夫に配するは、則ち羞づ可きなり。然りと雖も、女子は深閨の中に安處し、來聘する者有るに非ざれば便ち往かざるなり。若しただ一時の喜悅に憑りて行動せば、便ち媒妁の言を待たずして私に相結合するの事有らん、だから陰陽の位次は正當ならざる能はず。位次當らざれば、往く所は皆凶險有らん。
女處乎下,男位乎上,內外上下各當其位,以往則無不吉也。今二四陰爻而九居之,三五陽爻而六居之,無一當其位者,故以往則凶也。無攸利柔乘剛也,剛者,柔之所承也,而反乘之;乘者,婦陵其夫之象也。卦體兌本在下,於理為順,而爻六皆乘九,是以陰而乘陽,失尊卑之序,內無柔順之道,外失陽剛之徳,則害於而家,凶於而國,何所利哉?夫成家之道,必資於婦順,故婦順備而後內和理,內和理而後家可長久也。
女子は下位に處り、男子は上位に居り、內外上下各々其の位に當れば、此の如く往けば吉利ならざる無し。今歸妹卦は第二・第四は本より陰位にして而も陽爻之に居り、第三・第五は本より陽位にして而も陰爻之に居り、一爻として位に當る無し、だから往けば便ち凶險有らん。「攸に利あらず、柔剛に乘るなり」。剛爻は本より柔爻の應に承奉すべき所にして、今却って其の上に凌駕す。所謂「乘」は、正に妻子の丈夫を欺凌するの象徵なり。卦體に就きて言へば、兌は本より下に在り、道理に按ずれば柔順なるも、然るに爻位の上に陰爻は皆陽爻に凌乘す、これ陰を以て陽に陵するにして、尊卑の次序を失ふなり。內に於て柔順の道無く、外に於て陽剛の德を失へば、則ち汝が家を危害し汝が國を禍亂して、又た何の好處か有らん。家を成すの道は必ず婦人の柔順に依靠せざる可からず、だから婦順具備して然る後に家內和睦して條理有り、家內和睦して條理有りて然る後に家道乃ち能く長久ならん。
恆之六五曰:恆其徳貞,婦人吉,夫子凶。曰:婦人之吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。恆者,夫婦之正也,故其戒如此。然則陰之乘陽、柔之乘剛,豈非逆徳也哉?世之悍婦,以制夫為能,使不得措其手足,是猶強臣擅命,威福自專,反制其君也。漢成帝制於趙氏,唐髙宗制於武氏,中宗制於韋氏,卒至滅身亡國,何所利哉?況以帝女之尊而下嫁諸侯,車服不繫其夫,勢固足以陵其夫矣,故聖人于歸妹為戒。
『恒卦』の六五の爻辞に言う。「其の德を恒にして貞にせば、婦人は吉利にして、男子は却って凶有り。」『象傳』に言う。「婦人の吉なる所以は、一より終るに從ふを以てなり。男子は事理を裁斷すべく、一味に婦人に順從せば便ち凶有るなり。」『恒』の講ずる所は正に夫婦の常道なり、だから其の告誡此の如し。既に此の如くなれば、則ち陰の陽に凌乘し、柔の剛に凌乘するは、豈に違逆の德ならざらんや。世上の凶悍の婦人は、丈夫を制服するを以て能事と爲し、丈夫をして手足措く處無からしむ、これ譬えば強橫の臣子の擅自に號令を發し威福を專擅し、反つて其の君主を鉗制するに同じ。漢成帝は趙飛燕姉妹に受制し、唐高宗は武后に受制し、唐中宗は韋后に受制し、終に身死し國亡びたり、何の好處か有らん。況んや帝王の女の尊貴を以て諸侯に下嫁するに、車馬服飾は丈夫に隸屬せず、其の勢い本より以て丈夫に凌駕するに足る、だから聖人は『歸妹』の一卦の中に特に鑑戒を立下せり。
曰:澤上有雷,歸妹。君子以永終知敝。澤之氣能升而為雲,雷震而澤隨,此陰陽相感之義,有歸妹之象焉。男女以動悅相感,或失於不正,故昏禮將合二姓之好,必納采問名,敬慎重正,而後親之,如此然後家可長久也。聖人見微知著,見其動而說,知其不能終也;若恆以巽而動,則知其能久;漸以止而動,則知其終吉也。是道也,雖君臣朋友之間,莫不皆然,豈特夫婦哉?
『象傳』に言う。「澤の上に雷聲響くは、これ即ち歸妹卦なり。君子は之に取法して、因りて婚姻をして善終せしめ、并せて其の中の敗壞し得べきの處を豫知す。」澤中の水氣は能く上升して雲と爲り、雷一たび震動すれば澤水便ち之に隨ひて相應ず、これ陰陽互相感應の意思にして、其の中に女を嫁がすの象を含む。男女は一方の行動・一方の喜悅に因りて彼此感應し、往〻にして正ならざるに失す、だから婚禮は兩姓の好を締結するに於て、必ず納采・問名の禮を行ひ、恭敬愼重にして鄭重其の事と爲し、然る後に乃ち迎娶す。此の如くして家道乃ち能く長久ならん。聖人は微を見て著を知る。『歸妹』は動に因りて悅ぶを見れば、便ち其の善終する能はざるを知り、『恒卦』は柔順して然る後に行動するを見れば、便ち其の能く長久なるを知り、『漸卦』は內に止まりて然る後に行動するを見れば、便ち其の終に吉利に歸するを知る。此の道理は、縦い君臣・朋友の間に於ても亦た此の如くならざる無し、豈に止まりて夫婦のみならんや。
初九:歸妹以娣,跛能履,征吉。曰:歸妹以娣,以恆也;跛能履吉,相承也。古者諸侯一娶九女,嫡夫人及左右媵皆以侄娣從。歸妹以娣,女歸於人而以娣從也。九居於初,女之賢者始進而能謙,無妬忌之行,猶跛之能履,勉強而行,歩驟馳騁不敢自恣也。歸妹而能以娣往,為永終長久之道,尊卑相承,故無往而不吉也,此歸妹之善者也。
初九の爻辞に言う。「女を嫁がして妹妹をして陪嫁せしめ、跛脚の人も亦た能く行走し、往けば吉利なり。」『象傳』に言う。「歸妹娣を以てすは、常道を守るなり。跛にして能く履みて吉は、上下彼此承奉するなり。」古の諸侯は一たび娶れば九女なり、嫡夫人及び左右の兩位の媵妾は皆各々侄女・妹妹を帶びて隨嫁す。所謂「歸妹娣を以てす」は、即ち女子の別人家に嫁ぐに而も妹妹に由りて陪嫁するなり。陽爻は初位に居り、女子の中の賢德なる一個を象徵し、始めて門に入るや便ち能く謙讓して、嫉妒の行爲無し、譬えば跛脚の人の能く走路するも、勉力して行きて、快步慢步と論ぜず皆放肆を敢えてせざるが如し。女を嫁がして而も能く妹妹に陪嫁して同往せしむるは、これ婚姻をして善始善終し長久維持するの道なり、尊卑上下彼此承奉し、だから往かざるにして吉ならざる無し、これ『歸妹』卦の中の最好の一爻なり。
九二:眇能視,利幽人之貞。曰:利幽人之貞,未變常也。履之六三以陰柔而據陽位,故如眇者之能視,不足以有明也;跛者之能履,不足以與行也,故如履虎尾,咥人凶。歸妹初九、九二以陽剛而寓於陰位,此婦人之貞吉也。二又居中履正,有常貞之徳,退處乎不競之地,雖若無所能為,如眇之能視,異乎摘埴索塗、行而已,故利幽人之貞。九二得中正之位,上有六五為之正應,此又夫弱而婦強者,能自謙遜,乃不失婦人之常道也。
九二の爻辞に言う。「一目失明すと雖も而もなほ能く看る、幽靜自守の人の正しきを守るに利有り。」『象傳』に言う。「幽人の貞に利ありは、常道を改變せざるを言うなり。」『履卦』の六三は陰柔の質を以て陽位に占據す、だから獨眼の人の能く看ると雖も而も看ること分明ならず、跛脚の人の能く走ると雖も而も人と同行する能はざるが如く、因りて虎尾を踏みて、虎に咬傷せられて凶有り。『歸妹』の初九與九二は則ち陽剛の質を以て陰位に寄居す、此れ正に婦人の正を守りて吉を得るの象なり。九二は又た中に居りて正を行ひ、恒久貞固の德を具備し、人と相爭はざるの地位に退處し、看れば作為無きに似たれど、其の實は一目失明の人のなほ能く東西を看るに同じく、彼の杖を拿りて地を點し道路を摸索して昏黑の中に盲行するの人と大いに相同じからず、だから幽靜自守の人の正しきを守るに利有り。九二は中正の位を得、上に六五有りて之と正に相應ず、これ又た丈夫柔弱にして妻子強勢なるの情形なり。能く己を謙遜に居せば、始めて妻子たるの常道を失はざるなり。
六三:歸妹以須,反歸以娣。曰:歸妹以須,未當也。歸妹以說而動,常失於不正,而六三復以陰柔而居陽位,故當有待而以娣行,如此乃能合禮而無妄動之失也。須,待也。女子之嫁,固當待父母之命、媒妁之言,而三為說主,以說而動,動不以正,則非女子之行也,故曰未當也。
六三の爻辞に言う。「女を嫁がして而も等待を須とし、回頭して來りてなほ陪嫁の身份を以て出嫁す。」『象傳』に言う。「歸妹須を以てすは、處する所の位置當らざるなり。」歸妹の一卦は喜悅に因りて行動するにして、常に正ならざるに失し、而して六三は復た陰柔の質を以て陽位に居り、だから應に等待有るべく、陪嫁の禮を用ゐて出行して、此の如くして乃ち禮制に合し、輕擧妄動の過失致らざらん。「須」は即ち等待なり。女子の出嫁は、本より應に父母の命令・媒妁の言辭を等待すべし。而して六三は兌悅の體の主爻にして、喜悅に因りて行動し、行動正より出でざれば、便ち女子の操行に合せず、だから『象傳』は它を「未だ當らず」と言うなり。
九四:歸妹愆期,遲歸有時。曰:愆期之志,有待而行也。女之適人,猶士之事君,必有求焉而後往。九以陽剛而寓陰柔之位,上無正應,此賢貞之女屏處幽閒,未遇良匹而不茍然以從人者,雖過期而不悔也。懐才抱義之士,固有不遇明時而老死丘壑者,白駒之詩所為作也。
九四の爻辞に言う。「女を嫁がして婚期を愆過し、遲〻出嫁するは自から其の時候有らん。」『象傳』に言う。「期を愆るの志は、時機を有待して然る後に出行せんとす。」女子の人に嫁ぐは、猶お士人の君主に事奉するが如く、必ず來聘する人有りて然る後に往くなり。九四は陽剛の質を以て陰柔の位に寄居し、上に正應無し、これ譬えば賢良貞靜の女子の深閨に屏居し、未だ好配偶に遇はざれば便ち隨便に人に嫁ぐを肯んぜざるが如し。婚期を過ぐると雖も亦た悔ひざるなり。才華と道義を懷抱するの士人は、本より清明の時世に遇はずして山林に老死する者有り、『詩經・小雅・白駒』は正に此の如きの人の爲に作れるなり。
六五:帝乙歸妹,其君之袂不如其娣之袂良,月幾望,吉。曰:帝乙歸妹,不如其娣之袂良也;其位在中,以貴行也。史謂湯為天乙,又有祖乙。多士稱成湯至於帝乙,罔不明徳恤祀,則帝乙蓋商之賢王,非天乙、祖乙明矣。堯降二女於溈汭,嬪於虞,帝女之尊,下嫁諸侯,其來已久,至帝乙然後制為婚姻之禮,而周因之。以詩考之,天子之女下嫁諸侯,車服不繫其夫,下王后一等,故帝乙歸妹,所以為萬世之法也。漢唐公主下嫁,舅姑率北面於堂下,至於本朝神宗,始復三代之舊,屈帝女之尊而人倫正矣。
六五の爻辞に言う。「帝乙女を嫁がす、正夫人の衣袖は陪嫁妹妹の衣袖に如かずして華美なり、月將に圓ならんとして未だ滿たず、吉祥なり。」『象傳』に言う。「帝乙女を嫁がす、其の君の袂は其の娣の袂の良なるに如かず。其の處する所の位中に居り、尊貴の身を以て出嫁するなり。」史書は商湯を「天乙」と稱し、商代又た「祖乙」有り。『尚書・多士』に成湯より直に帝乙に至るまで、德行を修明し祭祀を謹愼せざる無しと言ふを以て、帝乙は商代の賢王にして、顯然として既に天乙に非ず、亦た祖乙に非ざるを見べし。堯は兩個の女兒を嬀水・汭水の濱に下嫁し、虞舜の妻子と爲せり。帝王の女の尊貴の身を以て諸侯に下嫁するは、由來已に久しく、帝乙に到りて始めて此が爲に婚姻の禮を制定し、周朝之に沿襲せり。『詩經』を用ゐて考察するに、天子の女兒の諸侯に下嫁するは、車馬服飾は丈夫に隸屬せず、ただ王后より一等を低うするのみ、だから「帝乙歸妹」は萬世の法則と成れり。漢・唐の公主の下嫁には、公婆は大抵堂下に於て北に向ひて行禮せざる可からず。本朝神宗に到りて、始めて三代の舊制を恢復し、帝女をして其の尊貴の身を屈降せしめ、是に於て人倫始めて正に歸せり。
詩美后妃服浣濯之衣,無妒忌之行,豈恃容色以爭妍取媚哉?君,嫡夫人也;娣,左右媵也。娣以容色為主,故君之袂不如娣之袂良也。六五與九二為正應,下嫁之象也。女處尊位,履順居中,盡其陰陽交配之宜,斯善之善者,豈特容服之間哉?月者,日之配也;婦者,夫之配也。月受日以為明,至望則體敵矣,體敵,盈之極也,未有盈極而不虧者。今能降尊配卑,不以滿盈自處,如月至幾望而止,婦之謙順,既不抗其夫,又能惠其下,此帝女之尊而能履中道者,故曰其位在中,以貴行也。
『詩經』は后妃の浣濯の衣を服し、妒忌の行爲無きを讚美す、豈に容貌姿色に恃みて以て艷を爭ひ媚を取らんとする者ならんや。「君」は正夫人を指し、「娣」は左右の陪嫁の媵妾を指す。媵妾は容貌姿色を以て長と爲す、だから正夫人の衣袖は却って媵妾の華美に如かず。六五與九二は正に相應じ、正に下嫁の象なり。女子は尊位に身居し、行事柔順にして中に居りて偏らず、陰陽配合の合宜の道を盡くせば、此乃ち好中の好なり、豈に止まりて容貌服飾の間に於て高下を較量せんのみならんや。月は太陽の配偶にして、妻子は丈夫の配偶なり。月は日光を承受して乃ち光明有り、望日に到れば便ち太陽と形體相當す。形體相當すれば、便ち盈滿の極點にして、從來盈滿極點に到りて而も虧損せざる者有らず。今彼女は能く尊貴を屈降して以て卑者に配合し、盈滿を以て自居せず、譬えば月の將に圓ならんとして未だ滿たざる時に到りて便ち止住するが如し。妻子たるの謙遜柔順、既に丈夫と抗衡せず、又た能く下人に恩惠を施す、此れ正に帝王の女の尊貴なると雖も而も能く中道を行ふの表現なり、だから「其の位中に在り、貴を以て行ふなり」と曰う。
上六:女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。曰:上六無實,承虛筐也。上六歸妹之終,以柔乘剛而下無其應,女之無所歸者。婦以奉祭祀為職,詩言夫人可以奉祭祀,則不失職矣。女承筐無實,何以達其誠?士刲羊無血,何以薦於幽?如是而家道廢矣,故以士女稱之,見夫婦之道不成也。卦體兌下震上,少女以說而動,動不以正,又六爻位皆不當,故不能永終而有離絶之,何以往而利哉?聖人於終爻致其戒慎之意深矣。
上六の爻辞に言う。「女子の捧ぐる所の竹筐の裡空しくして一物無く、男子羊を宰るも而も血を見ず、利益する所無し。」『象傳』に言う。「上六の所有無きは、虛筐を捧ぐるなり。」上六は歸妹卦の終點に處り、柔爻を以て剛爻に凌乘して而も下に其の正應無し、正に女子の嫁ぐ可き處無きの象なり。婦人は祭祀を奉行するを以て職分と爲し、『詩經』に夫人は以て祭祀を奉行す可しと言ふは、則ち其の失職無きなり。女子の捧ぐる筐の中に祭品無ければ、何を憑りて以て其の誠意を表達せんや。男子羊を宰るに而も血を見ざれば、何を憑りて以て幽冥の中の祖先に進獻せんや。此の如くなれば家道便ち荒廢す、だから爻辞はただ「士」「女」と稱して而も夫婦と稱せず、夫婦の道は並び成立せざるを見るべし。卦體に就きて言へば、兌は下に在り、震は上に在り、少女は喜悅に因りて行動し、行動正より出でず、加ふるに六爻の位次皆當らず、だから能く善始善終する能はずして而も離散斷絕の患有り、往かば何れの處にか尚お利有りと談ずるを得んや。聖人は最末の一爻に於て反復して其の戒慎の意を致す、用心は甚だ深し。
豊卦(離下震上)
離下震上。豐:亨,王假之,勿憂,宜日中。離、震於時為春夏,萬物豐亨之時也。王者之治,自天造草昧以至豐而亨,則太平極盛,周家之業至成王之時是也,故曰豐亨,王假之。詩云假樂,嘉成王也,以言成王能持盈守成,以致太平之功,故嘉之也。文王若日月之照臨,顯於西土而巳;如日之方中,萬物皆照,則在成王之時,故可安亨佚樂而無憂勤之慮也,故曰勿憂,宜日中也。雖然,太平之業豈可恃乎?泰之上六言城復于隍,蓋泰之極無不否者。聖人所憂,不在乎未中,而常在日之既中,能知勿憂為有憂之大,如日之升,如月之常,則可長保其治安矣。
豊卦の下體は離、上體は震なり。卦辞に言う。「豊は亨通し、君王は此の境地に達到し、憂慮するを要せず、太陽の正午に當たるが如くに宜し。」離與震は時令の上に於て春夏に屬し、正に萬物豊盛亨通の時なり。王者の治世は、天地初開・草創蒙昧より一直に豊盛亨通に至るまでは、便ち太平の極盛なり。周朝の基業は成王の時に到りて正に此の如し、だから「豊亨、王之に假る」と曰う。『詩經・大雅・假樂』の一篇は成王を讚美するにして、彼の能く盈滿を保持し成業を守住し、因りて太平の功を成就するを言ふ、だから彼を嘉許す。文王の德澤は日月の照臨に同じく、然れどもただ西方の一隅に顯耀するのみ。太陽の正に中天に當たり、萬物照を受けざる無きが如くせんと欲せば、成王の時に到るを要す、だから以て安享逸樂して而も憂勞の顧慮無き可し、因此に「憂ふる勿かれ、日中に宜し」と曰う。然りと雖も、太平の事業は豈に以て依恃す可けんや。『泰卦』の上六に「城牆傾覆して城壕の裡に回復す」と言う、泰は極處に到りて否に轉ぜざる無きを見るべし。聖人の憂慮する所は、太陽のなほ正午に到らざるに在らずして、而も常に太陽の已に正午を過ぐるの時に在り。能く「憂慮するを要せず」を懂得するは正に最大の憂慮なり、旭日東升・明月長明の如く戒慎已まざれば、乃ち以て長く治世の安定を保つ可し。
彖曰:豐,大也。明以動,故豐。王假之,尚大也。勿憂宜日中,宜照天下也。日中則昃,月盈則食,天地盈虛,與時消息,而況於人乎?況於鬼神乎?豐固不止於大,聖人以一言斷之曰大,蓋豐之時,物得極其大也。日以晅之,雷以動之,長養成就,物之所以能大也。王者之治,能體乎離震之法,明以動,故能假乎至治,然則豐亨之道,豈非聖王之所尚乎?故曰王假之,尚大也。
『彖傳』に言う。「豊は即ち大なり。光明有りて而も又た能く行動すれば、だから能く盛大なり。君王此の境地に達到するは、盛大を崇尚するなり。憂慮するを要せずして日中に宜しきは、應に天下を普照すべきを言うなり。太陽は正午に到れば便ち偏斜し、月は圓滿すれば便ち虧蝕す。天地の盈滿與空虛は、なほ尚且つ時令に隨ひて消長す、況んや人をや、況んや鬼神をや。」「豊」の含義は本より「大」のみに止まらず、聖人は一個の字を用ゐて之を「大」と斷定するは、豊の時に處れば、萬物皆其の盛大を極盡する能はればなり。太陽は來りて之を晒暖し、雷霆は來りて之を鼓動し、長養成就す、これ即ち萬物の盛大なり得る所以の緣由なり。王者の天下を治理するに、能く離與震の法則を體察し、既に光明にして又た能く行動すれば、だから能く極治に達到す。此の如く看れば、豊亨の道は豈に正に聖王の推崇する所ならざらんや。だから「王之に假る、大を尚ぶなり」と曰う。
勿憂宜日中,宜照天下也。聖人之道,如日之中,容光所及,無不徧也。蓋日之始出,則其明未盛;日之將昃,則其光巳虧,皆不能徧天下也。然則聖人可以自暇自者,其惟日中乎?日中者,治安極盛,是聖人畏無難之時也。日之中猶月之望也,既中無不昃,既望無不虧,食,虧也。天地盈虛,四時是也,其盈其虛,因時而消息之,如復卦陽息而陰消,至姤卦陽消而陰息,天地不能違也,而況於人與鬼神乎?雖然,人有盛衰,鬼神亦有盛衰乎?聖人通幽明之故,知鬼神之情狀,乾卦言天地人及鬼神,皆合而論之,其好惡一也。怪神之事,孔子不以語學者,後世猶不免依託以亂天下,況可明告之乎?此非通乎性命之理、數之妙者,曷足以究此哉?
「憂慮するを要せずして日中に宜しきは、應に天下を普照すべきを言うなり」。聖人の道は、日の中に在るが如く、容光の及ぶ所、遍からざる無し。蓋し日の始めて出づれば、則ち其の明未だ盛ならず。日の將に昃れんとすれば、則ち光輝已に虧損せり、皆能く天下を遍照する能はず。此の如く言へば、聖人の以て稍稍自寬自逸す可きは、蓋しただ日中の時のみか。所謂日中は、即ち治世安定して極盛に到るにして、而して此れ正に聖人の「天下難無き」を畏懼するの時なり。太陽の正午は、猶お月の望日の如くなり。已に正午に到りて偏斜せざる無く、已に望日に到りて虧損せざる無し、「食」は即ち虧なり。天地の盈滿與空虛は、四時の更替即ち明證なり。其の盈・其の虛は皆時令に隨ひて消長す。『復卦』は陽氣生長して陰氣消退するが如く、『姤卦』に到れば則ち陽氣消退して陰氣生長す、天地も亦た違背する能はず、況んや人與鬼神をや。然りと雖も、人に盛衰有れば、鬼神も亦た盛衰有らんか。聖人は幽明の緣故に通曉し、鬼神の情實狀貌を知る。『乾卦・文言』は天・地・人及び鬼神に講及して、皆合せて一つにして立論す、それらの好惡は一致するなり。怪異鬼神の事は、孔子は之を拿りて學生に對して講せず、後世なほ尚且つこれを假託して以て天下を惑亂するの人有るを免れず、況んや明白に彼らに告げるをや。これ通達性命の理・精於象數の妙なるの人に非ざれば、何れの處にか能く窮究し盡くすを得んや。
曰:雷電皆至,豐。君子以折獄致刑。雷之威怒,電之照耀,二者相因而至,此物豐之時也。當豐盛之時,非有以警懼察治之,則物繁事彩,奸偽日滋,有不可勝治者矣。君子體此象以折獄致刑,既明且威,人之情偽有不能遁也。豐與噬嗑皆有雷電之,而爻有升降,故其用不同:噬嗑震下離上,此制法者,故明罰勅法,王者之事也;豐離下震上,此行法者,故折獄致刑,有司之職也。
『象傳』に言う。「雷與電一同に至るは、これ即ち豊卦なり。君子は之に取法して、因りて訟案を判決し刑罰を施行す。」雷の威怒・電の照耀、兩者相因りて至る、此れ正に萬物豊盛の時節なり。豊盛の時に處りて、若し人を警懼せしめ省察整治を加ふるの物無ければ、則ち物類繁多・事務紛雜にして、姦邪虛僞は一天天に滋長し、便ち治理し盡くさざるの禍患有らん。君子は此の一卦の象を體察して以て訟案を判決し刑罰を施行す、既に明察にして又た威嚴有れば、人々の真情假意は便ち隱遁するに從る無し。『豊』與『噬嗑』は皆雷電の象有り、ただ爻位に上下升降の不同有り、だから功用別有り。『噬嗑』は震下に在り離上に在り、彼は法度を制定するにして、だから「罰を明らかにし法を勅る」と曰う、これ王者の職事なり。『豊』は離下に在り震上に在り、彼は法度を執行するにして、だから「獄を折り刑を致す」と曰う、これ有司の職分なり。
初九:遇其配主,雖旬無咎,往有尚。曰:雖旬無咎,過旬。初正應在四,以陽敵陽,非其應也,特所配之主耳。剛陽相配,明動相資,力敵而勢均,兩貴不足相使,然得無咎者,初能下之,往而有所尚也,尚者,能尊尚之也。曰雖旬無咎過旬災也,二剛相遇,未有兩存而無傷者,初能推四以為配主而往歸之,則無患矣。若恃其智力,各務盛強,過其分量,不顧滿盈之戒,則禍災之至,何所逃乎?此昧乎處豐亨之道也,故曰雖旬無咎,過旬災也。
初九の爻辞に言う。「己と相配するの主人に遇上り、彼此均等なると雖も亦た過錯無し、往けば推崇を受けん。」『象傳』に言う。「旬なると雖も咎無し、旬を過ぐれば災有り。」初九の正應は九四に在り、然るに陽を以て陽に對すれば、本より正應を成さず、不過彼此相配の主人のみなり。兩個の剛陽互相匹配し、光明與行動互相憑藉し、力量相當にして勢位均等、兩個の尊貴の人は誰も彼を使喚し動かす能はず。然れども能く過錯無き所以は、初九の能く其の下に屈居し、往きて歸附して推崇する所有るを以てなり――「尚」は即ち能く對方を尊崇するなり。『象傳』に「旬なると雖も咎無し、旬を過ぐれば災なり」と言う。兩個の剛強の人相遇へば、兩相並存して而も損傷を受けざる者鮮し。初九は能く九四を推擧して以て相配の主と爲して往きて彼に歸附せば、便ち禍患無し。假如各々己が智力に倚仗し、一味に強を爭ひ勝を好み、己が分量を超過し、盈滿損を招くの告誡を顧みざれば、則ち災禍來臨の時に還た何れの處にか逃れんや。これ即ち豊亨の世に處るの道理を明白ならざるなり、だから「旬なると雖も咎無し、旬を過ぐれば災なり」と曰う。
六二:豐其蔀,日中見斗,往得疑疾,有孚發若,吉。曰:有孚發若,信以發志也。豐之時,如大明中天以徧照天下,今但豐其蔀而已,幽闇之甚,至日中見斗,陰侵陽之也。六二居中處正,人臣之盛位,又卦體為離而處震下,為掩覆之,陽不足而陰道行。斗運四時,人所取正,以六二中正之臣而遇六五柔闇之主,可以自守而不可以有為,往則為主所疑,而眾且疾之矣。能以忠信自處,發其疑疾,如成王之悔悟,則國家安全而保其終吉矣。發者,發其蒙蔽,非忠信誠實,豈能感發之?周公其人也。
六二の爻辞に言う。「遮蔽すること十分嚴密にして、正午の時分に却って北斗を見、往けば猜疑忌恨を招來し、ただ誠信有りて以て君心を感發せば、吉祥なり。」『象傳』に言う。「孚有りて發若は、誠信を用ゐて以て君主の心志を感發するなり。」豊の時に處りて、本應に太陽の空に當たりて天下を普照するが如くすべきに、今却ってただ遮蔽物を加厚するのみ、幽暗して正午に北斗を見るの地步に到るは、これ陰氣の陽氣を侵犯するの徵象なり。六二は中に居りて正を得、人臣の顯要の位に處り、而して卦體は離に屬して而も又た震の下に處り、掩蔽せらるるの形象と成れり、陽德足らずして陰道盛行す。北斗は運轉して以て四時を定め、人々の取正する標準なり。六二の如き中正の臣子を以てして而も六五の柔弱昏暗の君主に遇上れば、ただ自守する能くするのみにして而も作為有る能はず。一たび往けば便ち君主に猜疑せられ、衆人も亦た來りて忌恨す。若し能く忠信を以て自處し、君主の疑忌の心を化解開き、周成王の終に悔悟せるに同じくせば、則ち國家安全にして、亦た能く最後の吉祥を保住す可し。所謂「發」は、即ち君主の蒙蔽を啓發するなり。若し忠信誠實に非ざれば、怎んぞ能く彼を感動啓發せんや。周公は正に此の如きの人なり。
九三:豐其沛,日中見沬,折其右肱,無咎。曰:豐其沛,不可大事也;折其右肱,終不可用也。沛,先儒皆以為斾,王弼直云幡幔,所以御盛光,程氏亦云古文作斾字。今以廣韻玉篇考其意義,作滂沛則其理不通。蓋豐之時,當顯設幡飾以稱其豐大,而九三正應在上六,以陽剛而敵陰柔,不能發揮其光明,反幛蔽之,是猶日中盛明之時而處乎重幃之內,所見者闇昧,如人慾擊搏運動而折其右肱,何所施乎?
九三の爻辞に言う。「幡幔張ること甚だ大にして、正午の時分に却って小星を見、其の右臂を折斷す、過錯無し。」『象傳』に言う。「其の沛を豊ならしむは、以て大事を做す可からざるなり。其の右肱を折るは、終に用ふ可からざるなり。」「沛」の字は、先代の儒者は皆即ち「斾」(旗幡)と爲す。王弼は直に帷幔と言ひ、用ゐて強光を遮擋す。程頤も亦た古文は「斾」の字と寫すと曰ふ。今『廣韵』『玉篇』を拿りて其の義訓を考察するに、若し「滂沛」と解せば、道理は便ち講通せざるなり。蓋し豊盛の時に處りては、應に旗幡帷飾を張設して以て其の盛大を稱顯すべし。而して九三の正應は上六に在り、陽剛を以て陰柔に對し、能く己が光明を發揮する能はず、反つて遮蔽せられて住す、これ譬えば正午陽光最盛の時に而も身重重の帷幕の內に處り、見る所一片昏暗なるが如し。又た人の奮力搏擊せんと欲して而も右臂を折斷せるに似たり、還た何か施展する能くせんや。
然得無咎者,九三以陽剛能為之才而不遇其時,其不幸也,乃所以為大幸歟?古者明智之士遇時昏亂,壊徳行或自托於瘖盲跛蹇,然後能免於禍,此折右肱所以得無咎也。人臣遇暗主,若恃其剛健,欲大有為,功成之後,鮮克自全者,唐徳宗之於陸贄是也;折其右肱者,示不可復用,如司空圖是也。九三剛健,有可當大事之才,折其右肱,終不可用,則其時可知矣。
然るに終に過錯無きを得るは、九三は陽剛能幹の才具有りて而も其の時に遇はず、其の不幸なり、乃ち以て大幸と爲さんとする所以か。古の明智の士は昏亂の時世に遇へば、寧ろ己が德行聲名を敗壞し、或いは喑啞・失明・跛足を假託して、然る後に乃ち禍患を免るを得。これ即ち「右臂を折斷して」却って以て過錯無きを得るの緣故なり。臣子たる昏暗の君主に碰上れば、若し己が剛健に倚仗して大有爲せんと欲すれば、功成の後に到りて、己を保全する能くする者鮮し、唐德宗の陸贄に對待するや即ち此の如し。所謂「其の右肱を折る」は、己が已に堪へて再び用ゐられざるを表示自己するにして、唐末の司空圖の如し。九三は本より剛健の才にして、大事を擔當するの能力を具備すれど、然れども右臂を折斷し終身任用せられざるを要す、彼の時代の情形も亦た想ひて知る可し。
九四:豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。曰:豐其蔀,位不當也;日中見斗,幽不明也;遇其夷主,吉行也。當豐亨盛大之時,雖有明主,鮮有不湛於宴安者,故六二之正、九四之剛,皆不得行其志,以不遇明主,故其皆曰豐其蔀、日中見斗也。日之中而見斗焉,闇之甚也。上有昏暗之主,有志莫伸,則下求於等夷之人,同心協徳,自相賓主,則吉無不利矣。
九四の爻辞に言う。「遮蔽すること十分嚴密にして、正午の時分に却って北斗を見、己と地位相當の主人に遇上れば、吉祥なり。」『象傳』に言う。「其の蔀を豊ならしむは、位置當らざるなり。日中に斗を見るは、幽暗にして光明ならざるなり。其の夷主に遇ふは、往けば即ち吉利なり。」正に豊盛盛大の時に當りて、縦い英明の君主有りとも、安樂に沉溺せざる者鮮し。だから六二の中正・九四の剛強も、皆能く己が志向を施行する能はず。英明の君主に遇はざるを因りて、だから此の兩爻の爻辞は皆「其の蔀を豊ならし、日中に斗を見る」と言う。太陽は正に中天に當たるに而も北斗を見るは、昏暗の甚だしきなり。上に昏暗の君主有りて、志向伸展するに從る無し、是に於て轉じて下に向ひて地位相當の同道を尋求し、同心同德にして彼此賓主を以て相待せば、則ち吉祥にして利ならざる所無し。
四與初為應,故初以四為配主,而四以初為夷主,爻有上下,位有尊卑,故所稱輕重不同,其實一也。使上有剛明之君,攬英傑以為已用,則皆立乎人之朝矣,豈止自相求而已?曰豐其蔀位不當也,以九居四,位非中正而在近君之位,故不當也。日中見斗幽不明也,日中當徧照天下,而幽暗如暮夜,此忠邪莫辨、白黑不分之,賢人君子當遐舉逺引之時也。故曰遇其夷主吉行也,以吉而行,從容而行,行則吉也。
四與初は本より相對應す、だから初は四を以て「配主」と爲し、而して四は初を以て「夷主」と爲す。爻に上下の別有り、位に尊卑の分有り、だから稱呼する所の輕重同じからず、其の實は一回事なり。假使上に剛健英明の君主有りて、英傑を網羅して以て己に用ゐらしめれば、則ち彼らは皆君王の朝廷に立身せまし、何ぞ至りてただ彼此相求むるのみならんや。『象傳』に「其の蔀を豊ならしむ、位當らざるなり」と言う。陽爻を以て第四位に居るは、既に中に居らず又た正に當らず、而も又た君主に接近するの位置に處り、だから位置當らずと曰う。「日中に斗を見る、幽にして明ならざるなり」と言う。太陽は正午に當りて本應に天下を普照すべきに、今却って昏暗して傍晚黑夜の如くなれば、此れ正に忠姦辨へ難く黑白分かれざるの時にして、亦た正に賢人君子の應に高飛遠引し退隱して世を避くべきの時なり。だから「其の夷主に遇ふ、吉行なり」と曰う。吉の把握を懷きて行き、從容不迫にして行けば、一たび行動すれば即ち吉利なり。
六五:來章,有慶譽,吉。曰:六五之吉,有慶也。人主當天下豐大之時,能屈已招來賢徳之士以文太平,庶可保其治安,則在我者必其福慶,而民譽歸之,吉無不利矣。五與二俱陰非應,然離下震上,震動而離明,明動相資,又皆居君臣中正之位。離為文章,其性炎上,茍能說而納之,則將洋洋然動其心而來矣。上有用賢之美,野無遺棄之才,邦家之慶孰大於此?聖人從而贊之曰六五之吉有慶也,以見所以得吉者,以有此用賢之慶也。
六五の爻辞に言う。「文采有るの賢才を招来し、福慶と美譽有り、吉祥なり。」『象傳』に言う。「六五の吉祥なるは、福慶有るを以てなり。」君主は正に天下豊盛盛大の時に當りて、能く己を屈して人に下り、賢德の士を招来して以て太平を潤色せば、庶幾く以て治世の安定を保住す可し。則ち己が此の一邊に於て必ず福慶を得、而して百姓の贊譽も亦た皆彼に歸向し、吉祥にして利ならざる所無し。六五與六二は皆陰爻にして、本より相應せず。然れども卦體は離下に在り震上に在り、震は行動を主りて離は光明を主る、光明與行動は互相憑藉し、しかも兩爻又た皆君臣の中正の位に居る。離は文章を象徵し、其の性質は上方に向ひて升騰す。君主若し能く欣悅して接納せば、賢者は便ち心情舒暢にして欣然而來らん。朝廷の上に賢才を任用するの美事有り、草野の間に遺棄せられざるの人才無ければ、國家の福慶は又た此より大なる有らんや。聖人因りて讚嘆して「六五之吉、慶有るなり」と曰うは、以て其の吉を獲る所以は、正に此の賢才を任用するの福慶有るを以てなるを表明す。
上六:豐其屋,蔀其家,窺其戶,閴其無人,三不覿,凶。曰:豐其屋,天際翔也;窺其戶,閴其無人,自藏也。士方居窮隱約,消聲滅跡,自樂於閒曠可也;若夫身處大位,當豐亨之時,不能躬吐握之勤以延見多士,而深自閉匿,豐其屋、蔀其家而已,則將鬼瞰其室矣,故窺其戶,閴其無人,三不覿,其凶可知。上六,大臣之不任事者,雖不任事而位則穹矣,國之存亡、民之利害,安得恝然忘情哉?
上六の爻辞に言う。「房屋を造ること高大にして、家門を遮ること嚴密にし、門縫より張望すれば、寂靜として一人も無く、三年も人影を見ず、凶有り。」『象傳』に言う。「其の屋を豊ならしむは、高きこと天際に翔るが如くなり。其の戶を窺ふに、閴として其の人無きは、自ら己を藏して了ふなり。」士人は困窮隱約の時に、聲を斂め跡を消し、閒適空曠の中に自ら其の樂を得るは、彼は可なり。高位に身居し、正に豊盛亨通の時に當りて、然れども能く周公の如く吐哺握髮して勤めて衆多の賢士を接見する如くせず、反つて深く己を封閉隱藏し、ただ屋宇を擴大し門戶を遮蔽するを知るのみなれば、則ち鬼神は便ち其の家室を窺伺せんとす。だから門縫より張望せば、寂靜にして人無く、三年人影を見ず、彼の凶險は想ひて知る可きなり。上六は實際の職事を擔はざるの大臣なり。事を任ぜずと雖も、位置は却って極めて崇高なり、國家の存亡・百姓の利害、怎んぞ漠然として之を置き、毫も動心せざるを得んや。
豐其屋,謂壯大其所居也;蔀其家,謂屛蔽其所藏也,此大臣之營私自奉者,古之愚人莫不皆然。觀周公作鴟鴞之詩曰:迨天之未陰雨,徹彼桑土,綢繆牖戶。予手拮据,予所捋荼,予所蓄租,予口卒瘏,曰予未有室家。勤勞如此,豈自營也哉?六居卦終,震動之極,失處豐之義,其荒虛閴寂,卒為狐兎之場,若鳥失其巢,去人逺矣。本乎絶物,乃以自絶;本乎多藏,反致空閴,禍災之至,咸其自取焉爾,故曰豐其屋,天際翔也;窺其戶,閴其無人,自藏也。閴其無人,陸氏以為家空人亡,如漢梁冀之徒是已。
「其の屋を豊ならしむ」は、其の居る所を壯大にするを言うなり。「其の家を蔀す」は、其の藏する所を屏蔽するを言うなり――これ大臣の私を營り自奉するの寫照にして、古來愚昧の人は皆此の如くならざる莫し。周公の作れる『詩經・豳風・鴟鴞』を觀るに言う。「天の未だ陰雨せざるに趁りて、彼の桑樹の根皮を剝取し、窗戸門洞を纏縛して好しとす。我が手は已に僵硬せり、我は白茅を采來り、我は草料を積蓄し、我が嘴は皆磨破せり、ただ我が未だ己が家を築成せざるを以てのみ」と。此の如きの辛勞は、豈に己が爲に經營する者ならんや。上六は陰爻を以て全卦の末に居り、震動の極點に處り、豊に處るの道を失ふ。其の居る所は荒蕪空寂にして、終に狐狸野兔の出沒するの場所と變じ、譬えば鳥の巢を失ひて人煙より愈〻遠ざかるが如し。本意は外物を斷絕せんと欲するに、結果却って己を斷絕す。本意は多く積藏せんと欲するに、結果却って空寂無人に落着す。災禍の到來は、全て自ら招致するなり。だから「其の屋を豊ならしむ、天際に翔るなり。其の戶を窺ふ、閴として其の人無し、自藏なり」と曰う。「閴として其の人無し」は、陸德明は家室空虛・人丁滅亡と爲す、漢代の梁冀の彼の一類の人の如し。
旅卦(艮下離上)
艮下離上。旅:小亨,旅貞吉。彖曰:旅,小亨,柔得中乎外而順乎剛,止而麗乎明,是以小亨,旅貞吉也。旅之時義大矣哉!旅者,聖賢當屯否之世,道不行而為棲棲為旅人之時也,雖處之有道,但得小亨而已。旅貞吉者,能守正則吉也。王弼以為不足全夫貞吉之道,惟足以為旅之貞吉,故重言旅貞吉也。
旅卦の下體は艮、上體は離なり。卦辞に言う。「旅、小さく亨通し、行旅の中に正しきを守れば則ち吉なり。」『彖傳』に言う。「旅の小さく亨通する所以は、柔爻が外卦に於て中を得て而も剛爻に順從し、內に止まりて外に光明に附麗す、是を以て小さく亨通し、旅正を守りて吉を獲るなり。旅卦の時與義は真に大なる哉!」所謂「旅」は、聖賢の身艱屯否塞の時世に處り、道は推行する能はざれば、是に於て奔走して定まらず旅客の一般なるの處境なり。縦い之を處するに道有りとも、亦たただ小小の亨通を得るのみ。「旅貞吉」と曰うは、能く正を守れば便ち吉利なるを言うなり。王弼はこれなほ以て盡く貞吉の道と稱するに足らず、ただ行旅の中の貞吉と稱するに足るのみと爲し、だから卦辞は「旅」の字の後に又た重ねて一度「旅貞吉」と説くなり。
麗乎外而得中則亨,止乎下而得正則吉,故彖曰柔得中乎外而順乎剛,止而麗乎明,是以小亨,旅貞吉也。六上居於五,又處二剛之間,此在旅之卦體在外,故言柔得中乎外。下艮而止,上明而麗,止而有所附麗,此處旅之善者。以孔子之聖,歴聘諸侯,然時君不能鈞用,而卒老於行,以至伐樹削跡,阨於宋衛陳蔡之間,七日不火食者,以時無剛明之君為之依歸也,況其下者乎?為旅之道,有時有義,得其時義,則其道可行,窮斯通,困斯濟矣。然則處旅之時豈易哉?故其時義為大也。
外卦に附麗して中位を得れば便ち亨通し、下體に止息して其の正を得れば便ち吉利なり、だから『彖傳』に「柔中を外に得て剛に順ひ、止まりて明に麗る、是を以て小亨、旅貞吉なり」と曰う。陰爻は上行して第五位に居り、又た兩個の剛爻の間に夾在す。これ旅卦の裡に於ては、卦體は外卦に處る、だから「柔中を外に得」と曰う。下卦は艮にして止を知り、上卦は離にして光明に附麗し、能く止まりて而も又た依附する所有り、これ旅に處るの道の中の最好の情形なり。孔子の如き聖人を以てするも、諸侯を遍訪して仕を求むるも、然れども當時の國君は能く彼を重用する能はず、終に道路奔波の中に老去し、宋國に於て桓魋の樹を伐るに遭ひ、衛國に於て足跡を削去せられ、宋・衛・陳・蔡の間に困厄して、七日熟食を食ふを得ざるに至る――これ當時に剛健英明の君主無くして以て依歸す可き無きを以てなり、況んや才德彼の下に在る者をや。旅に處るの道は、時機與義理を講究す。能く其の時を得其の義に合せば、則ち道は以て推行す可し、困窮の中も亦た能く通達し、艱難の中も亦た能く濟渡す。此の如く看れば、羈旅の時に處るは豈に容易ならんや。だから其の時與義の大たるを曰うなり。
曰:山上有火,旅。君子以明慎用刑而不留獄。山上有火,明之至也,然炎炎不已,或至燎原而玉石俱焚,君子體此以用刑,則當明慎也。明者,辨析其理而不敢輕也;慎者,哀矜其情而不敢易也。火在山上,因風而行,其勢必速,非久居也,君子體此以斷獄,則知囹圄之間、重棘之內,或有受其枉者,斷決以時而無淹延,此聖人著此以為司獄之戒也。
『象傳』に言う。「山上に火燃ゆるは、これ即ち旅卦なり。君子は之に取法して、因りて明察愼重に刑を用ゐて、案件を拖延積壓せず。」山上に火燃ゆるは、光明の極處に到るなり。然れども炎炎として已まざれば、或いは燎原の大火に蔓延して美玉と頑石を一同に燒毀するに至らん。君子は此の一卦の象を體察して以て刑を用ゐれば、便ち應に既に明察にして又た愼重たるべし。所謂「明」は、案情の道理を辨析して而も輕率を敢えてせざるなり。所謂「愼」は、犯人の情狀を哀憐して而も輕忽を敢えてせざるなり。火の山上に在るは、風勢を借りて蔓延し、來勢必ず迅速にして、久しく一處に留まらざるなり。君子は此の點を體察して以て案件を斷ずれば、便ち牢獄の中・重重の棘牆の內に、或いは冤枉を蒙受するの人有らんを知り、應に及時に判決して而も拖延を加へざるべし。これ聖人の此の一卦の象を寫下して、用ゐて刑獄を掌管する者の鑑戒と爲すなり。
初六:旅,斯其所取災。曰:旅,志窮災也。當旅之時,以陰柔而處厎下,此小人之寓旅困者也。猶屑屑也。古者豪傑之士處貧賤羇旅之間,如劉毅、馬周、李白、郭元振之徒,豪氣蓋世,夫豈若是屑屑然?則在旅而斯,其取災之道也。曰旅志窮災者,在羇旅之始,不能擴其志氣,變而易通,乃計較錐刀於僕御之間,則孰與任其腹心者?意外之患,乃其自取焉耳。
初六の爻辞に言う。「行旅の人は猥瑣にして計較す、これ即ち彼の自ら災禍を取るの緣由なり。」『象傳』に言う。「旅の中に志向窮蹙すれば、だから災を招くなり。」正に羈旅の時に當りて、陰柔の質を以て最下位に處るは、これ小人の身を旅途に寄せ困頓に陷るの狀なり。「瑣瑣」は即ち斤〻計較して猥瑣不堪なるの意思なり。古の豪傑の士は貧賤羈旅の中に身處し、東晉の劉毅・唐代の馬周・李白・郭元振の此れらの人の如く、豪氣は當世を壓倒す、豈に此の如く猥瑣ならんや。だから身旅途に在りて而も此の如く計較するは、正に自ら災禍を取るの道なり。『象傳』に「旅は、志窮すれば災なり」と言う。羈旅の初めに於て能く己が志氣を開濶し、隨機應變して以て通達を求めず、反つて僕役車夫の間に於て錐刀の末の小利を計較せば、則ち誰かなほ肯んじて心腹の事を彼に託付せんや。意外の禍患は、正に彼自ら招來する所なり。
六二:旅即次,懐其資,得童僕貞。曰:得童僕貞,終無尤也。旅也,寓也,為客之道也,非可安居者也。六二以柔得中正而上承二剛,雖無正應,可以就而安之,故能懐其資而無誨盜之失,得童僕之貞而內外之助,在旅如此,雖動而居外,夫何尤怨之有?
六二の爻辞に言う。「旅客は客舍に住み入り、盤纏を懷藏し、童僕の忠貞を得たり。」『象傳』に言う。「童僕の忠貞を得れば、終に怨尤有らざらん。」所謂「旅」は、即ち寄寓にして、客を爲すの處境にして、本より以て安居す可きに非ず。六二は陰柔の質を以て而も中を得正を得、上に向ひて兩個の剛爻を承奉す。正應無しと雖も、亦た以て就近に依靠して安頓する可し、だから能く資財を懷藏して而も炫富して盜を招くに至らず、又た童僕の忠貞を得て而も內外皆相助する人有り。羈旅の中に於て能く此の如くに做到せば、行動は外に在ると雖も、又た何の怨尤か有らんや。
九三:旅焚其次,其童僕貞厲。曰:旅焚其次,亦以傷矣;以旅與下,其義也。九三處艮之上,有峻極之勢,無柔順謙虛之徳,為旅若此,宜眾人之所不與也,故焚其次而其童僕之正危莫甚焉。二以柔順中正而安,三以髙亢自尊而厲,在旅而遇焚如之阨,非止失其所止而已,其勢必至於傷。夫初六之固足以取災,而當羇旅之際,輕財妄施以致空殫,亦失為旅之道,故剛柔皆欲適中,今二者舉過之,故曰旅焚其次,亦以傷矣;以旅與下,其義也。
九三の爻辞に言う。「旅客の客舍は燒毀せられ、童僕の忠貞をも失ひ、守持して往けば危厲有り。」『象傳』に言う。「旅に於て其の次を焚かるは、亦た以て傷損たるに足るなり。旅を以て下に與するは、理應に彼らを失ふなり。」九三は艮卦の頂端に處り、高峻險絕の勢有りて、然れども柔順謙虛の德行無し。客を作して而も此の如しは、自然衆人の肯んじて親附せざる所なり、だから客舍焚燒せられ、而して童僕の忠貞も亦た危殆極點に到る。六二は柔順中正に憑りて安寧を得、九三は高亢自大に因りて危厲に遭ふ。身羈旅に在りて而も焚毀の困厄に遇上るは、獨り安身の所を失ふのみならず、勢い必ず傷損を受くるを要す。初六の如き鄙吝は固より以て災を招くに足ると雖も、然るに身羈旅の中に在りて、輕率に財を散じ妄りに施して以て囊中洗しきが如くなれば、同じく旅に處るの道を失ふ有り。だから剛與柔は皆適中を要す。今此の兩爻は皆極端に走れり、だから「旅に於て其の次を焚く、亦た以て傷なり。旅を以て下に與す、其の義喪ぶなり」と曰う。
九四:旅于處,得其資斧,我心不快。曰:旅于處,未得位也;得其資斧,心未快也。九四以陽剛而自托於陰柔,蓋處旅之善者。士欲行其志而已,得其資斧豈足以行其志哉?旅于處,得其資斧,徒能安其居,得其資財器用而已。懐與安實敗名,旅非豪傑之所能安也。劉備、孔明不肯留吳,關羽不肯留魏,豈乏其資斧哉?使韓信無蕭何之薦,亦非漢祖所能覊縻之也。況乎聖如仲尼、賢如孟軻者,儻不處以卿相之位,使得盡行其所志,豈區區利祿所能豢養之哉?
九四の爻辞に言う。「旅客は安身の處を得、又た盤纏と利斧を得たれど、然れども我が心裡は並び痛快ならず。」『象傳』に言う。「旅に於て處有りは、なほ應有の職位を得ざるなり。其の資斧を得るは、心なほ快ならざるなり。」九四は陽剛の質を以て陰柔の位に寄托す、本より旅に處るの道の中の較べて好き者と算す可し。士人の求むる所は不過己が志向を施行するのみ、些かの盤纏斧具を得れば、何ぞ足りて志向を施行せんや。「旅に於て處有り、其の資斧を得」は、不過能く住所を安頓し、些かの資財器具を得るのみなり。安逸を貪戀するは實に名節を敗壞すること有り、羈旅の生涯は本より豪傑の士の其の中に安んずる能くする所に非ず。劉備・諸葛亮は東吳に留まるを肯んぜず、關羽は曹魏に留まるを肯んぜず、豈に盤纏を缺少するならんや。假使韓信に蕭何の薦擧無かりせば、亦た漢高祖の羈縻して留め得る所に非ざりき。況んや孔子の如き聖人・孟子の如き賢人をや、倘若卿相の位を用ゐて彼らを安置し、彼らをして盡情に己が抱負を施行せしめざれば、區々の利祿は豈に豢養して留め得んや。
六五:射雉一矢亡,終以譽命。曰:終以譽命,上逮也。旅之六五雖非君位,而有文明之徳,方以直道遇物,發無不中,此聖賢之處乎羇旅者,如射雉而以一矢殪之也。雉為文明之物,矢者器也,君子藏器於身,待時而動,動而不括矣,此處旅之最善者,譽命之來,何可御也?孔子之至是必聞其政,以溫良恭儉譲而得之。
六五の爻辞に言う。「野鶏を射るに一矢を失ふと雖も、最終に美譽と爵命を得たり。」『象傳』に言う。「終に美譽と爵命を以てすは、上位に在る者の彼を延攬し到れりを以てなり。」旅卦の六五は君位に非ずと雖も、然れども文明の德性を具備し、正に正直の道を以て外物に對待し、發出するや中らざる無し。これ聖賢の身羈旅の中に處るの寫照にして、譬えば野鶏を射て而も一矢にして之を射倒すが如し。野鶏は文采鮮明の禽鳥にして、箭は器具なり。君子は器具を身の上に藏して、時機を待ちて然る後に行動し、一たび動けば阻礙無し。これ旅に處るの道の中の最好の一爻にして、美譽與爵命の到來は、豈に擋住し得んや。孔子は一國に到る每に、必ず能く其の處の政事に與聞す、正に溫和・善良・恭敬・儉朴・謙讓の德行に憑りて得來するなり。
象言終以譽命上逮者,言為上之所逮,聖賢之寓旅困,在上者能居已而訪逮之也。易之上逮,即詩之逮下也,君能逮下以成其政,臣能歸美以報其上,故上下交譽之也。旅之上九方以髙亢自居,而此云上逮者,蓋旅人之有譽命,必有上之人能寵遇之,非必上九也,六爻取義各有所在,言豈一端而已?
『象傳』に「終に譽命を以てすは上逮なり」と言うは、上に在るの人に延及せらるるを言うなり。聖賢の羈旅の困に寄身するは、全く上に在るの人の肯んじて身段を放下して彼を尋訪延攬するに賴るなり。『周易』の言ふ所の「上逮」は、即ち『詩經』の言ふ所の「逮下」なり。君主は能く恩澤を施して下人に及ぼし、從りて其の政事を成就す。臣子は能く美名を君上に歸し、從りて君恩に報答す、だから上下彼此稱譽す。旅卦の上九は正に高亢を以て自居せり、此處に却って「上逮」と言ふは、彼は旅人の能く美譽與爵命を得るは、必ず上に在るの人の肯んじて優禮を以て相待する有るを以てして、必ずしも便ち上九を指すに非ず。六爻は義を取るに各々着落有り、説法は豈に一種のみ有らんや。
上九:鳥焚其巢,旅人先笑後號咷,牛于易,凶。曰:以旅在上,其義焚也;牛于易,終莫之聞也。鳥之巢木,猶人托跡於傳也。夫人之處乎里閭之間也,有長之序,有親戚之恩,患難相救,疾病相扶持也。方在羇旅之時,人情乖睽,惟卑順謙恭乃可自保,而上九以髙亢自居,下乘五六之尊位不遜若此,其能免乎?
上九の爻辞に言う。「鳥の巢は火に燒毀せられ、旅人は先に歡笑し後に號啕大哭し、邊地に於て牛を失ひ、凶有り。」『象傳』に言う。「羈旅の身を以て而も最上に居れば、理に按ずれば應に焚毀せらるべし。邊地に於て牛を失ふは、最後に到るまでも人の告知する無きなり。」鳥の樹上に巢を築くは、猶お人の行蹤を驛舍旅館に寄托するが如し。人は鄉里の間に住すれば、長幼の次序有り、親戚の恩情有り、患難の時は互相救助し、疾病の時は互相扶持す。正に羈旅の時に當りては、人情は乖違疎遠にして、ただ卑順謙恭のみ以て自ら保つ可し。而して上九は却って高亢を以て自居し、下に向ひて六五の尊位に凌乘し、倨傲不遜此の地步に到れば、還た能く幸免し得んや。
巢者,鳥所託以棲息者也。離為火,其於木也為科上槁,今處離上,是巢而遇焚失所棲息之也。上九以陽剛而處眾旅之上,始固足以陵物,而眾為之下,若可喜也;而為旅之道,威權不足,人終不與,將無所容,亦足悲也,故先笑而後號咷。牛之為物,健而順,且有功於稼穡,而之不能敬畏故也。莊子曰:有而為之,其易之者,皥天不宜,況於人乎?
「巢」は鳥の用ゐて以て栖息する所なり。離は八卦の中に於て火と爲し、樹木に就きて言へば中空にして上端枯槁するを象徵す。今上九は離の最上位に處れば、正に鳥巢の火の焚燒に遭ひ、栖息の所を失去するの象なり。上九は陽剛の質を以て衆旅人の上に居り、起初固より以て別人に凌駕するに足り、衆人も亦た其の下に居るを甘んず、看れば喜ぶ可きに似たり。然れども旅に處るの道に按ずれば、彼は既に足够の威權無く、別人は終に肯んじて親附せず、最後に將に容身する處無からんとす、これ以て悲哀たるに足る、だから先に歡笑して而る後に號啕す。牛の此の牲畜は、強健にして而も又た馴順、しかも耕稼に對して功有り。彼は却って牛を失ひ去れり、正に敬愼畏懼を知らざるの緣故に由るなり。『莊子』に言う。據有する所有りて恣意に妄爲し、輕忽怠慢するの人は、昊天に連ねても之を容許せず、況んや人をや。
九三以剛陽居旅而焚其次,其童僕所在外,故厲;上九以剛陽居旅,如鳥焚其巢,牛于易,所在我也,故凶。上九處卦之極,言凶則不止於危而已。言以旅在上其義焚也,為旅而處人之上,其焚巢固宜,非不幸也。牛于易終莫之聞者,人之有過,能虛已聽納,人或告以善道;上九亢陽,有絶物之,使有過咎,人孰告之?故終莫之聞也。
九三は剛陽の質を以て羈旅の中に處りて而も客舍焚せられ、其の喪失する所の童僕はなほ自身の外に在れば、だからただ「厲」と言ふのみ。上九は同じく剛陽を以て旅に處るも、然れども鳥巢の焚せられ、邊地に於て牛を失ふが如く、喪失する所は便ち己が身上に在れば、だから「凶」と曰う。上九は一卦の頂點に處り、「凶」と言へば、便ち獨り危險のみに止まらざるなり。『象傳』に「旅を以て上に在り、其の義焚むべきなり」と言う。羈旅の身を以て而も衆人の上に凌駕すれば、鳥巢の焚せらるるは本より應當にして、何の不幸たるを算せず。「邊地に於て牛を失ふ、終に之に聞く莫し」と言う。人過失有りて、若し能く虚心にして意見を聽取せば、別人はなほ還た善言を以て相告げん。上九は亢極の陽にして、人と隔絕するの心を懷き、縱使過失有りとも、誰かなほ肯んじて彼に告げんや。だから最後に到るまでも一句の規諫を聞く能はざるなり。
巽卦(巽下巽上)
巽下巽上。巽:小亨,利有攸往,利見大人。巽之為卦,二陽在上,一陰在下,惟以巽順承物,自處卑下,然後能盡巽之道。一於柔順則妾婦耳,故得小亨而已。欲其道大通於天下,蓋有逆人之所順、強人之所劣者,然挾柔巽以遊世,無往而不利。聖人又惡夫以非道而合,則近於邪佞,雖利有所往,而利見者惟大人為可。大人謂在上之二剛也。柔能順乎剛,故小者亨,小亨謂一陰也。雖然,巽之道豈止於小者而已?
巽卦の下體は巽、上體も亦た巽なり。卦辞に言う。「巽、小さく亨通し、往く所有るに利あり、大人を見るに利あり。」巽の此の一卦は、兩個の陽爻上に在り、一個の陰爻下に在る。ただ謙順を以て外物を承奉し、己を卑下に居して、然る後に乃ち能く巽の道理を盡くさん。若し一味に柔順なれば、則ち妾婦の道と成る、だからただ小小の亨通を得るのみ。巽道をして天下に大通せしめんと欲せば、便ち敢えて衆人の順從する所に違逆し、勉强して衆人の輕忽する所に爲さんとするの膽識有るを要す。然れども柔順謙遜を懷抱して以て世に周旋すれば、亦た往かざるにして利ならざる無し。聖人は又た彼の正道に循はずして人に苟合するを厭惡す、則ち邪媚佞幸に近し。だから往く所有るに利ありと曰うと雖も、然るに宜しく相見るべきはただ大人のみ乃ち可なり。「大人」は上に居る兩個の剛爻を指す。柔は能く剛に順從すれば、だから「小者亨」なり。「小亨」の説く所は正に彼の一個の陰爻なり。此の如しと雖も、巽の道理は豈にただ小者のみに限らんや。
彖曰:重巽以申命。剛巽乎中正而志行,柔皆順乎剛,是以小亨,利有攸往,利見大人。巽而重之,所以申覆其號令也。上下皆巽,故有重複之義,亦在上者能巽以與下,在下者能巽以承上也。剛或失之髙亢,柔或失之卑佞,陽剛而得中正,二五是也;九二之剛而初六順之,此在上者能巽以逮下,故其志得行也。陰柔而能承剛,初四是也;九五之剛而四順之,此在下者得所附托,故其道不終否也。
『彖傳』に言う。「巽卦は上下重叠して、反復して政令を申明するを象徵す。剛爻は中正の位に居りて志向施行するを得、柔爻は皆剛爻に順從す、是を以て小さく亨通し、往く所有るに利あり、大人を見るに利あり。」巽卦を重叠するは、正に反復して號令を申説するを爲すなり。上下兩體皆巽なれば、だから重複の義有り。亦た上に在る者は能く謙順を以て下に待ち、下に在る者は能く謙順を以て上に奉ぐるを言うなり。剛強の人は有時高傲に失し、柔順の人は有時卑媚に失す。陽剛にして而も中正を得るは、九二與九五なり。九二剛にして初六之に順從す、これ上に在る者の能く謙順を以て下人に施及するにして、だから其の志向は能く推行す。陰柔にして而も能く剛爻を承奉するは、初六與六四なり。九五剛にして六四之に順從す、これ下に在る者の依託の所を得るにして、だから其の道は始終閉塞するに至らざるなり。
二與五賴初四而後得志,初與四必待二五而後小亨,此又剛柔相因、上下相隨之義。巽入之道,無往而不利,故利有攸往也。雖利有攸往,又惡不由其道,故利見大人也。能以卑巽上承乎中正之大人,此巽之至善也。巽之六爻,四陽而二陰,則君子固已勝矣,陰又在下無能為也,此畫卦之深意也。自古君子眾而小人寡,非徒君子之道勝,小人亦因以為用矣。宇文士及、封徳彝之在唐,上有一太宗,下有房杜王魏之徒,故無能為也,不然,其佞何所不至哉?
二與五は初・四に依賴して而る後に志を得、初與四は必ず二・五を待ちて而る後に小さく亨す、これ又た剛柔互相憑藉し上下互相追隨するの道理なり。巽は「入」の意思有り、其の道往かば利ならざる無し、だから「往く所有るに利あり」と曰う。往くに利有りと雖も、聖人は又た正道に循はずして行ふを厭惡す、だから「大人を見るに利あり」と曰う。能く謙卑柔順を以て上に中正の大人を承ぐるは、これ巽道の中の最好なり。巽卦の六爻は、四個の陽爻・兩個の陰爻にして、君子の力量は本より已に優勢を占む。陰爻は又た皆下に在りて、何事か成す能はざるなり、此れ正に卦を畫く者の深意なり。自古よりただ君子多くして小人少なければ、獨り君子の道の能く取勝するのみならず、小人をも連ねて以て驅使任用す可し。宇文士及・封德彝の此の類の人の唐朝に在るや、上に唐太宗の如き君主有り、下に房玄齡・杜如晦・王珪・魏徵の此の班の大臣有り、だから彼らは氣候を成す能はず。然らざれば、彼らの諂媚奸佞は又た何か做し出さざる有らんや。
曰:隨風,巽。君子以申命行事。天之有風,如國之有號令,必相繼而至,乃能振動萬物。風至柔弱也,而善入物,君子體此柔巽之道,申覆其命,至再至三,雖頑獷難化者,無不說隨矣。無非事者,命令之出,必有事也,盤庚遷都之事、武王伐商之事,凡興大功、役大眾,非以巽言申覆其命,則播告之修,豈能曉然不匿厥哉?故申命然後可以行事也。
『象傳』に言う。「風與風相隨ひて來るは、これ即ち巽卦なり。君子は之に取法して、因りて反復して教命を申明し政事を推行す。」上天に風有るは、猶お國家に號令有るが如く、必ず一陣に一陣を接して到來して、乃ち能く萬物を振動す。風は極めて柔弱なるも、然れども萬物の中に滲入するを善とす。君子は此の柔順漸入の道理を體察し、反復して其の教命を申説し、再と説き三と説けば、縦い頑劣粗獷にして教化し難きの人なるも、悅服して隨從せざる無し。所謂「事無きに非ず」は、命令の發布は必ず具體の事情有るを言うなり。盤庚の遷都の如きの事、武王の商を伐つの如きの事、凡そ大工程を興辦し大批の民衆を役使するは、若し謙順の言辭を用ゐて反復して己が號令を申説せざれば、則ち政令を宣布するの文告は、怎んぞ能く明明白白に講じ、毫も己が意旨を隱瞞せざるを得んや。だから必ず先に教命を申明して、然る後に乃ち以て政事を推行す可し。
初六:進退,利武人之貞。曰:進退,志疑也;利武人之貞,志治也。六以陰柔處於巽初,為二剛所乘,而上無應援,欲進則不敢,欲退則不能,懐疑首鼠,莫之為計。若能以剛決自任,而以正道行之,則其疑可釋而其志定矣。武人者,剛決之。剛決或失之暴,故所利在貞也。治者,蚤正素定而臨事不惑也,故曰進退,志疑也;利武人之貞,志治也。
初六の爻辞に言う。「進退猶豫して定まらず、武人の如く正しきを守るに利有り。」『象傳』に言う。「進退猶豫は、心志疑惑するなり。武人の貞に利ありは、心志整治を得るなり。」初六は陰柔の質を以て巽卦の開端に處り、兩個の剛爻に凌乘せられ、上に又た應援無し。進まんと欲して敢えて進まず、退かんと欲して又た退く能はず、滿腹の疑慮・首鼠兩端にして、主意を拿出する能はず。若し能く剛毅果決を以て自任し、又た正道に依りて實行せば、則ち疑慮は以て消除し心志は以て安定す可し。所謂「武人」は、即ち剛毅果決の人なり。剛毅果決は有時粗暴に失す、だから宜しく在る所は正を守るに在り。「治」は即ち及早に端正し平素已に定見有りて、因りて事に臨みて惑はざるなり。だから「進退は、志疑ふなり。武人の貞に利ありは、志治まるなり」と曰う。
九二:巽在床下,用史巫紛若,吉,無咎。曰:紛若之吉,得中也。巽在床下,宜眾人之所鄙賤也,眾人所賤,其可交於神明乎?如此則人不可欺而鬼神可欺也。蓋二為陰爻,九以陽剛寓之,此陽剛之君子自退托於卑賤,能以卑遜自處,出於誠意而非偽為,故不祈於人知,而幽閒之中鬼神知之也。
九二の爻辞に言う。「謙卑して牀下に至り、祝史巫覡を任用して紛〻として彼の爲に誠意を通達せしめ、吉祥にして過錯無し。」『象傳』に言う。「紛然として來るの吉祥は、其の中に居りて位を得るを以てなり。」謙卑して牀の底下に到るは、應に衆人の鄙賤する所たるべし。衆人に賤しまるるに既に、還た能く神明と相交はるを得んや。此の如く説けば、却って人は欺瞞す可からずして鬼神は反つて欺瞞す可きと成れり。其の實は第二爻は本より陰位にして、而して陽剛の爻に由りて其の中に寄居す、此れ正に陽剛の君子の自ら卑賤に退居するを甘んずるなり。彼は能く謙卑退讓を以て自處し、真心誠意より出でて而も虛僞造作に非ず、だから並び人の知るを求めずして、而も幽隱の中に於て鬼神は自然に彼を知るなり。
世之陰柔小人,自托於尊顯之上,足以欺愚惑眾,而幽閒之中,鬼神得而誅之矣。然則九二巽在床下,雖過於卑巽,人或惡之,而其中心誠實,或可以交神明也。祝史巫覡,皆所以通其誠意,人能志誠恭巽,心非邪謟,通吾誠意者紛然而眾,雖豚魚可及、水火可蹈,而況於人乎?況於鬼神乎?床者,人之所安也,巽而大過,入於床下,反失其所安,然終吉且無咎者,人可欺而鬼神不可欺也,故曰紛若之吉,得中也。巽在床下,疑於失中,而言得中者,位在九二,處巽之中,陽剛得中,是其中心誠實,之福之多,理在不疑。
世上の彼の陰柔の小人は、己を尊貴顯赫の位置の上に安置し、以て愚人を蒙騙し衆人を迷惑するに足る。然れども幽隱の中に於ては、鬼神は終に彼らを誅罰するを得ん。然らば則ち九二の謙卑して牀下に到るは、卑屈すること過分にして人或いは彼を厭惡する有ると雖も、然れども彼の內心誠實なれば、却って以て神明と相通ず可し。祝・史・巫・覡の此れらの人は、皆用ゐて誠意を溝通するなり。人ただ心志誠懇にして態度恭順にして、心中に邪僻諂媚無ければ、則ち能く彼に替はりて誠意を傳達する者は自然に紛〻として衆多なり。此の如きの誠意は小豬小魚をも連ねて能く感動し、湯に赴き火に蹈むも亦た做到するを得、況んや人に對してをや、況んや鬼神に對してをや。牀は人の安身する處にして、謙卑すること太〻過分にして、牀の底下に鑽入せば、却って安身の所を失ふ。然れども終に吉祥にして而も過錯無きは、正に人は以て欺瞞す可し鬼神は以て欺瞞す可からざるを以てなり、だから「紛若の吉は、中を得るなり」と曰う。謙卑して牀下に到るは、看れば已に中を失ひたりと雖も、然れども彼を「中を得」と言ふは、其の爻位は九二に在り、下巽の中に處り、陽剛にして而も中に居るを以てなり。だから其の內心誠實にして、福を受くるの多きは、道理の上に於ては疑ふを要せざるなり。
周公以上公之貴、叔父之尊,事沖之主,則盡恭順之道;禮天下之士,則躬吐握之勤。觀金縢冊祝之辭,欲以身代武王之死,卒至得請於三王,則中心誠實而史巫紛若之吉者,周公其人也。鬼神之事,聖人固難言之,惟於易多稱鬼神與天地人不少異,何也?蓋易之為書,所以微顯闡幽,決斷天下之疑惑,其神明之用與蓍龜等,然則非知命之君子,曷足以語此哉?
周公は上公の貴重の身份・叔父の尊長の地位を以てし、年幼の成王に事奉すれば、則ち恭敬順從の道を盡くし、天下の士人を禮待すれば、則ち躬ら吐哺握髮の如きの殷勤を做す。『尚書・金縢』の裡の彼の冊書祝告の言辭を觀るに、情願に己が身體を以て武王に代はりて死せんと欲し、最終に竟に太王・王季・文王の三位の先王の允准を得たり。則ち內心誠實にして、而して祝史巫覡紛然として彼の爲に誠を通じて以て吉を獲るは、正に周公の此の如きの人なり。鬼神の事は、聖人は本より明言し難しと爲すも、然れども獨り『周易』の裡に於て屢〻鬼神に說及し、天・地・人を講ずると並び多少の差別無きは、何を爲めてぞや。『易』の此の書は用ゐて微妙を顯明し幽隱を闡發し天下の疑惑を判斷するを以てして、其の神妙靈明の功用は蓍草龜甲と相等しきを以てなり。此の如く看れば、天命に通達するの君子に非ざれば、何れの處にか此れらを談論するに夠格せんや。
九三:頻巽,吝。曰:頻巽之吝,志窮也。九三以剛明之才,體巽而處下卦之上,又居得其位,可以進而有為矣,今巽窮而復遇巽,頻巽也。巽以行權可也,豈可數乎?而與四宻比,阨於陰柔,不得展盡其才,卒之志氣窮索,鄙吝之甚也,故曰頻巽之吝,志窮也。
九三の爻辞に言う。「一再に謙屈すれば、憾惜有り。」『象傳』に言う。「一再に謙屈するの憾惜は、心志窮蹙するなり。」九三は剛健明達の才を具備し、身巽體に在りて下卦の頂端に居り、又た位を居ること當りを得、本より以て上進して作為有る可し。今下巽は已に盡頭に到り、接着して又た一個の巽なり、だから「頻巽」と曰う、即ち一再に卑屈するなり。謙順を用ゐて通權達變するは可なり、怎んぞ一たびして再び、再びして三たびせんや。況んや九三與六四は緊密に相鄰りて、陰柔に困阨せられ、能く己が才具を施展する能はず、最終に志氣消沉枯索し、彼の鄙陋憾惜は實に太だ深し、だから「頻巽の吝は、志窮まるなり」と曰う。
六四:悔亡,田三品。曰:田三品,有功也。易之稱悔亡,皆本有悔,以處得其道,故其悔可亡。六四下無應援,以陰柔獨處,而有乘剛之過,宜有悔也;而處上下重剛之間,承上臨下,一以柔順,處巽之善莫如此爻,故悔亡而反有也。譬之田獵,雖盡力乎驅馳,而所則歸於君而非私已也。三品謂乾豆、賓客之奉、充君之庖,舉是三者,則能及乎上下矣。君子能以柔巽徧及上下而已不私其利,如田者之三品也。蓋柔巽之人,無入而不自得,以此奉上則乎君,以此與下則乎民,巽之功於斯為盛。
六四の爻辞に言う。「悔恨消失し、田獵して三類の獵物を獲たり。」『象傳』に言う。「田獵して三品を獲るは、功勞有るなり。」『周易』の凡そ「悔亡」と稱するは、皆本より悔恨有るべきに、ただ處置其の道を得るを因りて、だから其の悔は以て消除す可し。六四は下に應援無く、陰柔の質を以て獨處し、又た剛爻に凌乘するの過失有り、本應に悔有るべし。然れども它は上下重重の剛爻の間に處り、上に君主を承け下に同列に臨み、一概に柔順を以て相待す、巽に處るの善は此の一爻に勝る無し、だから悔恨消失して而も反つて功有り。譬えば獵を打つに、自ら竭力して驅馳奔逐すと雖も、然るに獵獲する所は皆君主に歸して而も私に據爲せず。「三品」は宗廟に供へて乾肉を作るの・賓客を宴請するに供ふるの・君主の庖廚を充實するに供ふるのを指す。能く此の三項を擧出すれば、便ち上下に兼顧す。君子は能く柔順謙遜の道を用ゐて上下に遍及して、而も己は獨り其の利を占めず、譬えば獵を打つ人の獵物を分けて三品と爲して獻上するが如し。柔順謙遜の人は、何れの處に到るも皆自ら其の所を得。此の態度を以て君上に奉事すれば便ち君に忠なり、此の態度を以て下屬に對待すれば便ち民に惠なり、巽の功效は此處に於て最も昌盛なり。
九五:貞吉悔亡,無不利,無初有終,先庚三日,後庚三日,吉。曰:九五之吉,位正中也。五為巽主,當謙虛逮下,而以陽居陽,又下無應援,疑失之亢。然當上下巽順之時,若昏佞相濟,禍亂有不可勝言者,今九五獨能毅然守其剛正,不徇群邪,故能吉而其悔可亡也。履至尊而居中正之位,以柔巽為體,不失正固之徳,故無入而不自得也。
九五の爻辞に言う。「正を守りて吉を獲、悔恨消失し、利ならざる無し。開頭は順ならずして結局は圓滿なり。庚日の前の三天・庚日の後の三天に於て政令を申明せば、吉祥なり。」『象傳』に言う。「九五の吉祥なるは、位に居ること既に正にして又た中なるを以てなり。」九五は巽卦の主爻にして、本應に謙虛にして下に待つべきに、然るに它は陽爻を以て陽位に居り、下に又た應援無く、人をして其の高亢に失するを疑心せしむ。然れども正に上下一味に柔順の時に當りて、若し昏庸の君主與奸佞の臣子が互相凑合せば、釀成する所の禍亂は將に言ふに勝へざらん。今九五は偏に能く毅然として己が剛正を堅守し、衆多の邪佞の徒に遷就せず、だから能く吉を獲て悔恨消失す。彼は至尊に登臨して中正の位に居り、柔順謙遜を以て本體と爲して、而も方正堅固の德を失はず、だから何の境地に處すると論ぜず皆自ら其の所を得る能はし。
下非正應而與二睽,此過乎剛者,故無初也;上有剛正之徳,下卒聽從,發號出令,如風行草偃,孰敢違之,固有終也。蠱卦曰先甲三日、後甲三日,當天下蠱壊,欲一新其法令,故曰甲,甲者,日之始也;庚者,申命也,重巽以申命,故先庚三日、後庚三日者,聖人慾更易法令使便於民,豈易而為之哉?先三日以告教之,使通其意,故天下曉然莫敢違吾令者;後三日以申審之,使察其情,故天下莫敢犯吾令者。如此則吉孰如之?以人主之權,欲改易更革天下之政令,若無甚難者,如秦用商鞅,法雖行而民不以為便,卒至天下大亂而劉項乘之,秦遂以亡,以不得乎大中至正之道故也,故曰九五之吉,位正中也。
下に正應無くして而も二と睽違す、此れ剛強太過なるの緣故にして、だから「初無し」と曰う。然れども彼は剛健正直の德行を具備し、下に在る者は終に聽從し、一たび號令を發出せば、猶お風の吹きて草の偃るが如く、孰か敢えて之に違抗せん、だから「終有り」と曰う。『蠱卦』に「甲に先だつ三日、甲に後るる三日」と言ふは、彼は天下の積弊敗壞し、法令を徹底更新せんとするの時に當るを以てなり、だから「甲」を用ゐるなり――「甲」は十干の始なり。「庚」は則ち更改・申命の義を取るなり。巽卦の重叠は正に申命の象を取る、だから「庚に先だつ三日、庚に後るる三日」と曰う。聖人は法令を更改し、百姓を便利ならしめんと欲するに、豈に輕率にして便ち着手する者ならんや。頒行の前の三天に於て先に告諭教導を加へ、百姓をして其の中の用意に通曉せしめ、だから天下人皆明明白白にして、我が號令に違背するを敢えてする者無し。頒行の後の三天に於て再び申説審察を加へ、己をして民情を了解せしめ、だから天下に我が號令に觸犯するを敢えてする者無し。能く此の如くに做到せば、還た何の吉祥か之に比及するを得んや。君主の權柄に憑りて、天下の政令を改革せんと欲するは、看れば似たり並び甚だ難からずと雖も、然るに秦國の商鞅を任用するが如く、新法は推行すと雖も、然れども百姓は以て便と爲さず、終に天下大亂に弄到し、劉邦・項羽は勢に乘じて起き、秦朝是れに因りて滅亡す――便ち大中至正の道を得ざるの緣故に由るなり。だから「九五の吉は、位正中なり」と曰う。
上九:巽在床下,其資斧,貞凶。曰:巽在床下,上窮也;其資斧,正乎凶也。巽在床下,其失一也,九二用史巫紛若,吉且無咎,上九其資斧貞凶,何邪?九二處下體之中,為下之道也;上九以陽剛處巽之上,而下無應援,資財殫竭,威權去手,雖索為匹夫不可得,守此而不知變,凶之道也。
上九の爻辞に言う。「謙卑して牀下に到り、其の資斧を喪失し、守持して往けば凶有り。」『象傳』に言う。「牀下に巽るは、上位に居るにして而も已に窮盡に到るなり。其の資斧を喪ふは、正に凶險の所在なり。」同じく「牀下に巽る」は、兩爻の失誤は本より一樣なり。然るに九二は祝史巫覡を任用して紛然として誠を通ずれば、却って吉祥にして而も過錯無く、上九は却って資斧を喪失して正を守りて凶有り、これ何を爲めてぞや。九二は下卦の中位に處り、走る所は下に居る者の應有の路數なり。上九は則ち陽剛の質を以て巽卦の最上に居り、下に又た應援無く、資財耗盡し、威權も亦た手掌を脫出し、此の時に到りて縦い平民百姓を做せんと求むると想ふも亦た辦到する能はず。此の局面を抱住して而も變通を知らざれば、正に凶を取るの道なり。
