附・疑龍十問
一問・抱養と僧道の嗣續は疑龍としていかに
問君葬者乘生氣,骨骸受福廕遺體。此說尚有一可疑,抱養之兒非己子。僧道嗣續是外來,如何卻也能承繼?與君詳論古人言,舉此大略非徒然。骨骸受氣蔭遺體,此理昭我不容議。卻將僧道並抱養,辨論如何同己子。此說誠然是可疑,固宜窮理細尋推。人家生出英豪子,便是山川鍾秀氣。
問うて請う。葬法は大地の生氣に乘じ接ぐことを説く。先人の骨骸が福を受ければ、遺された子孫の身に蔭が及ぶ。この説には一層の疑問が残る。抱養した子は自分の親生ではなく、僧道の法嗣はさらに外姓外來の人である。なぜ彼らも同じく祖上の福蔭を承繼できるのか。ここで古人の言を細かく論じてみよう。この大要を舉げるのは徒説ではない。骨骸が地氣を受けて後人の身を蔭庇する道理は昭然分明で疑いを容れない。しかし僧道の法嗣と抱養の子を併せ論じて親生子と同じく受蔭するという説は、確かに疑わしく、本來その理を窮究し細かく推尋すべきである。人家が英豪の子弟を生ずるのは、まさに山川が秀氣をその身に鍾聚したからである。
山川靈氣降為神,神隨主者家生人。此山此穴認為主,即隨香火降人身。古人嘗有招魂葬,招魂天人可為樣。招魂葬了祀事嚴,四百年間漢家旺。何拘骸骨葬親生,只要祀事香火明。亦有四五百年祖,棺槨骸骨化為土。子孫千百尚榮華,人指此山誰是主。此山此穴有主者,神靈只向此家住。
山川の靈氣が降りて神と化し、神はその地の主人に隨い、その家中に人を生ずる。この山この穴が某人を主と認めた以上、靈氣はその家の香火に隨って人の身に降る。古人に「招魂葬」の法があり、招魂して葬るのは樣板にできる。招魂葬が畢り祭祀を莊嚴に行えば、漢家は四百年間それによって興旺した。すなわち必ずしも親生子孫の骸骨がここに葬られる必要はなく、祭祀が廢れず香火が分明ならばよい。四五百年前の老祖墳で、棺槨骸骨はとうに泥土と化し、子孫が成百上千になってもなお榮華である例もある。人がこの山を指して問う、今はたれがその主人か。この山この穴に主人がある以上、神靈はこの一家にのみ住まうのである。
山川秀麗來為嗣,豈慮其家無富貴?山川日夜有朝迎,生出為人亦如是。乃知抱養與親生,同受生靈無以異。故人接花接果義,與此相參非與是。後母卻蔭前母兒,前母亦蔭後母子。只緣受恩與受養,如同所生並同氣。以此言之在繼承,只與香火無衰替。乃知招魂與抱子,僧道相承皆類此。
山川の秀麗の氣が來りてその後嗣を成すなら、この家が富貴を出さないと愁える必要がない。山川は日夜朝あり迎あり、生ずる人物もまたこのように氣を得て成る。これより知るべし、抱養の子と親生の子は同じくこの生靈の氣を受けて、分別がない。古人は花木・果樹を接ぎ木する道理を説いたが、これと互いに參照して是非を判定できる。後母の墳は前母の子を蔭し、前母の墳も後母の子を蔭する。彼此に受恩・受養の關係があれば、親生と同じく一氣に屬するからである。こう言えば、關鍵はすべて「繼承」の二字にあることが分かる。香火が衰えず替わらなければ、福蔭は斷絶しない。ここで明白になった。招魂して葬ること・他人の子を抱養すること・僧道が法嗣で相承えること、その道理はみな同一類に屬する。
二問・公位は疑龍としていかに
問公如何分公位,父母生時無少異。間或生時有愛憎,死後何由別榮悴?譬如一木同根生,一枝枯悴一枝榮。榮者芳□日夜長,悴者日就枯槁形。此後遂有公位議,分長分中分少位。愛憎之說起於心,榮枯之說歸於地。心有愛憎死卻無,地有肥磽此近似。東根肥即東枝榮,西枝磽雲西枝瘁。要知此說未為當,似是如非當究理。
いわゆる「公位」はどう分けるのかと問うて請う。父母が在世の間は、幾人もの子に本來さほどの分別はない。生前に偶に偏愛や嫌憎があっても、死後に何を憑ってその榮と衰を分けるのか。例えば同じ根から生じた一株の樹で、一枝が枯れ一枝が榮える。榮える枝は日夜滋長し(底本ここに一字缺く、臆補を敢えてせず)、枯れる枝は日ごとに萎縮して槁木の形となる。後人はこれにより「公位」の議を立て、福蔭を長房・中房・少房に分けた。知るべきは、愛憎は人心から生じ、榮枯は地氣に歸するということである。人心に愛憎があっても、人が死ねばなくなる。土地に肥瘠があり、榮枯の説に近い。東の根土が肥えれば東の枝が榮え、西の根土が瘠せれば西の枝が衰えると言う。しかしこの説法はまだ妥當ではなく、似是而非である。道理を追究して明らかにすべきである。
左長前中右少位,此說當初自誰起。請君來此細排詳,因別長男中少位。震為長子居左方,坎為中男坐來岡;艮為少男坐東北,乾統三男居坎傍;坤為地母西南位,長女東南中午地;兌為少女在西方,此是乾坤男女位。若以此法論陰陽,男居左傍女西廂。中子後龍中女向,自有次第堪推詳。爰自蕭梁爭公位,
左が長房・前が中房・右が少房に屬するという説は、当初誰が提出したのか。ここで細かく排比推詳し、長男・中男・少男の方位を分別せよ。《周易》八卦によると、「震」は長子で東方左側に居り、「坎」は中男で來龍の岡の北面に坐し、「艮」は少男で東北方に坐し、「乾」は三男を統領して坎位の旁の西北に位し、「坤」は地母で西南に位する。長女「巽」は東南、中女「離」は正南の午地、「兌」は少女で西方にある。これが乾坤の定める男女の方位である。この辦法で陰陽を論じれば、男位は左、女位は西廂にあり、中子は後龍に應じ、中女は朝向に應じ、各々次第があっていずれも推詳できる。公位の爭に至っては、南朝蕭梁に起きる。
卻以玉鵝埋震地。震為長子起春宮,遂起爭端謀玉器。公位之說起於斯,斷以長震中居離。少居兌位四同長,五與二位分毫釐。六與少男無差別,七與長男同共說。八與五位共消詳,九與三男排優劣。此是河圖分九宮,上遠一四七相同。中元二五八同位,下位三六九連此。後來執此為定議,只就河圖分次第。
當時一隻の玉鵝を震位に埋めた。震卦が長子で、太子の居る春宮に應じたため爭端を引き起こし、衆人がその玉器を圖謀した。公位の説はこの事から興った。長房を震に屬し、中房を離に居らせ、少房を兌に居らせると斷定した。第四房まで排せば長房と同じく論じ、第五房と第二房は毫釐の差のみ、第六房は少男と差別なく、第七房は長男と合わせて説き、第八房は第五房とともに斟酌し、第九房は第三房と優劣を排する。これは実は《河圖》に按じて九宮を分配したものである。上元は一・四・七が同じ一類、中元は二・五・八が同じ一位に居り、下元は三・六・九が順に連なる。後人はこの一套を定論として執定し、《河圖》に照らして先後次第を分排するだけである。
三問・公位の盛衰は疑龍としていかに
問君公位雖能別,或盛或衰是何說?也有先盛後來衰,也有衰盡復萌孽。此理如何合辨明,時師廖以水宮折。不知年久世成深,豈有長盛無休歇?山川之秀雖盤固,氣盛氣衰有時節。代代長盛者無他,後來接續得吉多。衰者後來無救助,年深氣歇漸消磨。凡言公位勿固執,先看其人數代祖。
再び問う。公位は分別できても、房分に興盛と衰落があるのはどう説明するか。先に盛んで後に衰えるものもあれば、衰え盡きてまた萌芽するものもある。この道理をどう辨明するか。尋常の地師は多く水法の屬する宮位だけで附會推斷し、年代が久しければ世系は深遠になり、長く盛んで永遠に歇まない道理がどこにあろうかと知らない。山川の秀氣は盤結穩固でも、氣の盛衰には自ずから時節がある。代代長く盛んな家は、他の故ではなく、後に續けて葬る吉地が多いからである。衰落する家は、後に救助する好地がなく、年深く日が経つに地氣が歇み、漸次消磨するのである。公位を談ずるには一説を死守してはならず、まずその家の幾代來の祖墳を見るべきである。
新舊數墳皆是真,新者必為舊者助。如是之家世民昌,福祿未艾不可量。是真不必問大小,積小成大最為妙。是者一墳非者多,縱有大地力分了。譬如杯水救薪火,水少火多難救禍。是多非少反成吉,譬如眾水成江河。豈無一穴分公位,不取眾墳參合議。大地難得小易求,積累不已成山丘。
新舊の幾處の墳がともに真に點じられれば、新葬は必ず舊葬に力を添える。このような家は世代昌盛し、福祿は興りて艾まず、限量しようがない。地が真であれば大小を問う必要はない。小より積みて大と成すのが最も妙な辦法である。一墳だけが對に點じられ點錯が多ければ、たとえその中に大地があっても力量は分けられてしまう。これは一杯の水で一車の柴薪の火を救うようなもので、水少なく火多くて禍を救い難い。逆に點對が多く點錯が少なければ、轉じて吉と成り、衆多の細流が江河に匯するようである。ある穴が專らある房の公位に應じることはないのか。ただ衆墳を抛いて參合せずに議論してはならない。大地は得難く小地は求め易い。積累やまなければ、終に山丘を成すことができる。
眾墳合力卻成大,人說小地生公侯。那堪大地有數穴,世世公侯不休歇。凡觀巨室著姓家,必有大地福無涯。子孫百世雖分散,內有救地多榮華。一穴大地蔭十世,小地千墳亦如是。騏驥千里迸一日,駑馬十駕亦追至。圖大不得且思次,此事當為知者議。
衆墳が力を合わせれば、同じく大局を成就できる。だから小地でも公侯を生じられると人は言う。まして一塊の大地に幾處も穴があれば、世世代代公侯を出して斷絶しない。巨室大姓の家を見れば、必ず一塊の大地があり福澤は邊なし。子孫が百世に傳わって各處に分散しても、その中に補救できる墳地が幾處かあるから、多く榮華がある。一穴の大地は十代を蔭庇でき、一千座の小地の墳を合わせてもこの分量に達する。駿馬は一日に千里を奔り、駑馬は十日走って同じく追いつく。大地を圖謀して得られなければ、一歩退いて次の等を考えよ。この事は、明白な人とともに商議すべきである。
四問・陽宅は疑龍としていかに
問君陽宅要安居,此與安墳事一如。人家無墳有善宅,宅與陰地力無珠。大凡陽宅性穴小,穴小只宜安墳妙。小穴若為輪奐居,氣脈傷殘俱鑿了。況是子孫必眾多,漸次分別少比和。一穴裂而為四五,正偏前後豈無訛?大凡陽宅要穴大,寬闊連綿又平伏。前頭橫玉面前寬,可為市井於內外。如此方為陽宅居,窄小難容君莫愛。
陽宅はどうすれば安居できるかと問うて請う。これは墳墓の安葬と実は同じ事である。人家に好墳がなくとも、好い宅が一所あれば、宅の力量は陰地と兩樣がない(底本は「無珠」だが「無殊」の訛であろう)。凡そ陽宅の地で穴性が小さいものは、その小穴は墳を安ずるにのみ適する。小穴に高大華美な屋宇を蓋えば、氣脈は傷殘され鑿盡される。まして子孫は必ず増え、漸々分家別居し、彼此和らぐこと少ない。一つの穴場が四五份に裂け、居中・偏側・在前・在後に分かれて、差錯がなくてどうしよう。だから陽宅は穴場が寬大で、寬闊連綿かつ平坦低伏であることを要する。前面に玉のような橫案があり、堂前が開闊で、內外ともに街市を容れられる。このような處に限って陽宅として住める。地方が窄小で容れられない處は、貪愛してはならない。
五問・陽宅陽地の大小はいかに
問君陰陽有兩宅,古人此事要分別。呂才詳論有成書,論己分明無別說。要知居止只要勢,水抱山朝必有氣。忽然陡瀉朝對傾,破碎斜傾非吉地。下手迴環朝揖正,坐主端嚴無返柄。縱饒小大也安和,住得百年家業盛。葬穴宜小居穴大,葬穴側立居穴寬。
陰宅と陽宅は二つの異なるもので、古人はもともと分別して見ていたと問うて請う。唐代の呂才がかつて詳しく論述して專書を成し、すでに分明に説かれているので、別説を立てるに及ばない。知るべきは、居住の地は「勢」の一字を講ずるだけだということである。水が來り環抱し山が來り朝拱すれば、その中に必ず氣がある。地勢が忽然として陡峻傾瀉し、對面の朝山が傾覆下壓して形勢が破碎歪斜なら、吉地ではない。下手砂が迴環して有情で、朝山が拱揖端正で、坐山主位が端嚴で反背倒柄しなければ、このような處は大小を問わず安和で、百年住んで家業は自ずから興盛する。要するに葬穴は小さくあるべく居穴は大きくあるべし。葬穴は側身して立つことができるが、居穴は必ず寬綽を要する。
六問・主客山は疑龍としていかに
問君主客皆端正,兩巖尖圓兩相映。主是三山品字安,客亦三山形一般。客山上見主山好,主山上見客山端。此處如何辨賓主,只將水抱便為真。水城反背處為客,多少時師誤殺人。凡觀疑穴看堂局,堂局真處抱身曲。忽然平過卻如何,即以從纏分部屬。纏送護托辨假真,朝山無從托龍身。朝山直來身少曲,真龍屈曲不朝人。
問うて請う。主山と客山がともに端正に生じ、兩側の巖峯が一尖一圓で彼此相映じる。主山は三座の山が「品」字形に安放され、客山も三座の山で形狀は一模一樣である。客山に立って主山を望めば主山がよく、主山に立って客山を望めば客山も端正である。このような處で賓と主をどう分辨するか。水を見ればよい。水が環抱する側が真主で、水城が反背して去る側が客位である。幾多の地師がここで斷り誤り、徒に人家を誤った。疑穴を見るにはまず堂局を見よ。堂局が真の處は、水が必ず穴身を抱いて彎轉する。水が忽然として平々と流れ過ぎればどうするか。隨行する纏護で誰が主で誰が從かを分辨するのである。纏送・護托から真假を辨する。人のために朝を作る山には、隨從してその龍身を托するものがなく、朝山は多く直來で身の彎曲が少ない。真龍は屈曲盤旋して、決して他人を朝拜しない。
七問・形の真假は疑龍としていかに
問君龍固有枝幹,識得枝中幹分亂。故為幹上忽生枝,枝上連生數穴隨。此是枝龍間旺氣,譬如瓜蔓始生枝。分枝枝上連生子,生子之形必相似。或如人形必數穴,禽獸之形必同列。凡為形穴必兩三,蓋緣氣類總如一。是故流形去結實,連生種類配偶匹。蛇形必定有雌雄,虎形相配無單隻。大山峽裡莫尋蛇,恐是高山腳溜斜。
問うて請う。龍に枝と幹があるのは確かだが、枝中の幹を認めてしまえば、かえって枝と幹が紛亂して理り難い。幹龍の身上に忽然と枝が生じ、枝上にまた續けて幾つも穴が結ぶからである。これは枝龍の間の旺氣の致すところで、瓜蔓が側枝を生じたばかりで、分枝の上に續けて子を結び、結ぶ果の形狀が必ず彼此相似するようなものである。だから人形の地には必ず幾つもの穴があり、禽獸の形も必ず列を成して生ずる。同一の取象に屬する形穴には常に兩三處あり、その氣類がもともと同じだからである。この故に、氣が流布して形を成してから結實し、連生する同類の間で彼此配對して偶を成す。蛇形の地には必ず雌雄があり、虎形の地も常に相配して孤單一處ではない。ただし大山の峽谷で蛇形を探してはならない。そこは多く高山の脚が溜り斜めに落ちるだけである。
若是真蛇有鼠蛤,如無鼠蛤是虛花。或是蜈蚣出面來,亦有蚰蜒為案砂。大山猛勇莫言虎,恐是朝迎為主住。重峰拜舞似虎行,若是真虎無闕屏。更有肉堆獅子案,如無此案是朝迎。凡辨真假易分判,若是假穴無真案。若是真形案必真,人形人物兩相親。獸形降伏如貪噬,禽形必有條為繫。龍形雲雷象近水,月形星案前陳起。凡是真形有真案,試以類求當識算。
真の蛇形なら、前に必ず老鼠・蛤蟆の類の案山がある。鼠・蛤の案がなければ虛花の地である。蜈蚣の形が迎面して出ることもあり、そのときは蚰蜒の形が來てその案砂を成すべきである。山勢が雄猛でも、一見して虎形と言ってはならない。それは朝迎の山を人が誤って主山としたのかもしれない。重重の山峯が羅拜起舞して虎が行くように見えても、真の虎形の前には闕樓屏障のような阻隔がなく、さらに肉堆のような獅子案がなければならない。そのような案がなければ、それは朝迎の砂に過ぎない。真假を辨するのは実は判斷し易い。假穴の前には真案がなく、真形の前の案山は必ず真である。人形の地は案が人物の象を成して彼此親近する。獸形の地は案山が地に伏して猛獸が食を貪り噬おうとするようである。禽形の地には必ず條狀の物が繩索で繫いであるようである。龍形の地は雲雷の案を配し、象は水に近い。月形の地には星案が前に陳列する。凡そ真形には必ず真案が配される。この類比の法に按じて求めれば、自然に推算の仕方が分かる。
八問・幹が作して枝が衰える疑龍はいかに
問君前經論貴賤,上是侯藩次州縣。幹龍多是生王侯,枝作幹龍亦蕃衍。此說分明尚有疑,試舉一說為君辨。前言盛衰固有為,枝上又生數條枝。節節為龍自有穴,已作未作氣自隨。胡為上作下必歇,亦有下作上必衰。既饒氣脈相連接,自有氣脈非相依。如何盛衰尚關屬,為君決此一狐疑。
問うて請う。前の幾篇で龍の貴賤を論じ、上等は侯王藩鎮を出し、次の等は州縣長官を出すとした。幹龍は多く王侯を生じ、枝龍も自ら幹龍を成せば子孫は同じく蕃衍する。この説は分明に講じられたが、なお疑わしい處がある。一説を舉げて辨明しよう。前に盛衰を講じたのには本來緣故がある。枝上にまた幾条も枝が生じ、各節が成龍して各々穴を持つ。已に結穴したものも未だ結穴していないものも、氣は龍に隨って行く。ではなぜ上が先に結穴すれば下が必ず歇み、下が先に結穴すれば上が必ず衰えるのか。彼此氣脈が相連接すると言いながら、各々その氣脈があって相依らないとも言う。では盛と衰の間に牽連があるのかないのか。この一層の疑惑を私が斷じよう。
蓋小枝龍氣脈短,又出小枝無轉換。隨龍附氣氣不長,大勢上連枝上幹。幹頭未作枝先興,枝上未作幹先榮。枝上未作幹後作,幹長枝短力難爭。恰似一瓶生數嘴,嘴小口大生水利。不從口出嘴長流,口若盡傾嘴無水。又如大樹生小枝,小枝易瘦大枝肥。大枝分奪全氣去,小枝不伐自衰贏。更看新作與舊作,年年深淺自可知。
もともと小枝龍の氣脈は短く、その身から小枝を分出しても剝換轉身がなく、大龍に隨って氣を附して行くのみで、氣は長くなれない。しかし大勢から見れば、枝は終始幹に連なっている。だから幹龍の頭上がまだ結穴しないうちに枝上が先に興旺し、枝上がまだ結穴しないうちに幹上が先に發榮する。枝上が未だ作らず幹上が後に作るのは、幹が長く枝が短く、枝の力量が爭い及ばないからである。これは一つの瓶子に幾つもの嘴が生じたようなもので、嘴が細く瓶口が大きいので、水の出る便はもともと瓶口にある。水が瓶口から出なければ嘴に隨って長く流れ、瓶口が一旦傾き盡きれば嘴の中にも水はない。また大樹が小枝を生じるようなもので、小枝は瘦せ易く大枝は肥え易く、大枝が氣力を全て奪い去り、小枝は伐らなくとも自ら衰弱する。このほか墳が新葬か舊葬か、年の深淺を見るべきで、年々自ずから見えてくる。
九問・穴に花假ある疑龍はいかに
問君前論穴難尋,唯有朝山識幸心。高低既以朝為定,真穴自可高低計。只緣前後有花假,假穴在後亦堪下。花穴多生連案前,朝山對峙亦如然。若將前相為證驗,前後花假便不偏。到此令人心目亂,更有一說與人宣。假穴斷然生在後,龍虎雖端涯必溜。穴中看見龍虎回,外面點檢山丑走。
問うて請う。前に穴の尋ね難さを論じ、朝山によってのみ真龍の用心を體認するとした。穴の高低が朝山によって定まる以上、真穴は高低で推算できる。面倒なのは前後に「花」と「假」があることである。假穴は真穴の後ろに生じ、見れば下葬できそうである。花穴は多く連綿する案山の前頭に生じ、そこは朝山が對峙する格局も同じく樣になる。前の形相で印證すれば、前の花と後の假が不偏不倚に分辨できる。ここに至れば最も人の目を眩ませ心を亂す。もう一説を人に聽かせよう。假穴は必ず後ろに生じ、そこの龍虎砂は端正でも邊沿は必ず溜瀉する。穴中から見れば龍虎は回抱しているが、外に出て檢點すれば、山脚はみな醜陋に走竄している。
花穴如何生在前,蓋緣連臂使其然。連臂為案橫生穴,案外有腳鋪茵氈。其間豈無似穴者?但見外朝尖與圓。疾師誤認此花穴,不知真穴秘中垣。前花後假人少識,此法元來秘仙籍。景純雖然不著書,今日明言不容惜。花穴最是使人迷,後龍斷妙朝又奇。如何使人不牢愛,只有一破餘皆非。案山必然向裡是,花穴無容有回勢。
花穴がなぜ前に生じるか。一雙の連臂のような砂が横に過ぎるからである。連臂が横に過ぎて案山を充てれば、そこに横に一つの穴が生じ、案外にまた砂脚が茵褥のように鋪展する。この中に真穴のようなものがないのか。ただ外から見れば朝山にも尖・圓があるだけである。粗率な地師はここを誤って真穴と認め、真穴がまさに内の垣局の中に隱祕されていることを知らない。前の花穴・後の假穴を識る人は稀で、この法門はもともと仙家の典籍に祕藏されていた。郭璞は字を景純といい、これを著錄して書としなかったが、私は今日あえて明白に講じ、吝嗇しない。花穴は最も人を迷惑させる。後の來龍の斷續が極めて妙で、前の朝山がまた奇秀に生じる。どうして人が牢牢と喜愛しないだろう。しかし一處でも破綻があれば、残りはすべて憑りて足らない。案山は必ず内に向かって回抱してこそ數えられ、花穴の案は横に過ぎるだけで回抱の勢を容れない。
朝山只有頂尖圓,定有腳手丑形隨。若登正穴試一看,呼吸四圍無不至。又有花穴無人知,龍虎外抱左右飛。蓋緣正穴多隱秘,或作釵鉗或乳垂。龍虎數重多外抱,龍上看虎左右歸。虎上見龍左右抱,或從龍虎上針之。不知止穴尚在內,凡是穴郛曲即非。曲是抱裡非正穴,請君以此決狐疑。
花穴の朝山も頂上が尖圓に生じるだけで、山脚山手は必ず醜陋の形を伴う。真の正穴に登って試しに見れば、四圍の山水が呼吸相通じ、我に朝せざるなしと感じるだろう。ほかに人知れぬ花穴がある。その龍虎砂が外に向かって環抱し、左右に飛び出す。正穴は多く隱祕で、あるいは釵形・鉗形、あるいは垂乳を成すからである。龍虎が幾重もあって多く外に向かって抱き、龍砂に立って虎砂を見れば左右が歸攏し、虎砂に立って龍砂を見れば左右がともに抱くので、人は龍虎砂上に針を下す。真に氣を止める穴はまだ内にあることを知らないのである。穴外の郛郭が一たび彎曲すれば、そこは穴ではない。彎曲する側は抱裏の砂であって、正穴の所在ではない。この一条で心中の疑惑を斷ずるがよい。
十問・博換の疑龍はいかに
問君尋龍莫失蹤,三吉自有三吉峰。前去定作貪狼體,時時回顧火星宗。及至剝入輔弼去,猶作小峰顧祖宗。如何變星剝換了,卻與前說事不同。蓋緣幹龍行千里,一剝一換一峰起。由貪入巨入祿文,次第變入廉武裡。破軍盡變入輔弼,每星十二大盤屈。蛇行鵝頂鶴爪分,失落低平駿馬奔。如此行來又數程,博換變易又前行。
龍を尋ねてどうすれば蹤跡を見失わないかと問うて請う。三吉の地には自ずから「三吉」の峯がある。龍が一路前行すれば、必ず「貪狼」の形體を作し、また時々回頭して火星の祖宗を顧念する。剝換して「輔」「弼」の二星に入って後も、依然として小峯を結んで祖山を回顧する。しかし星體が一たび變換剝落すれば、なぜ情形が前の説と異なるのか。もともと幹龍が千里を走れば、一剝一換ごとに一峯を起こす。貪狼から巨門に進み、さらに祿存・文曲に進み、順に廉貞・武曲に變入する。破軍が變盡すれば輔弼に入る。各星は十二節の大盤曲を經なければならず、その間あるいは蛇行のように蜿蜒し、あるいは鵝頂のように隆起し、あるいは鶴爪のように分張し、あるいは一片の低平の勢に失落して、駿馬が奔馳して去るようである。このように幾程も走り、一路剝換變易してまた前行し續ける。
前行直到藩垣裡,四外有山關水至。低平尚有輔弼形,此是入垣尋至止。幹龍行不問祖宗,枝上顧祖卻不同。幹上剝換節節去,枝上落穴必顧宗。幹龍一變少亦九,多者或至十二重。一星十二節始變,周而復始換頭面。貪尖巨方小臥蠶,如此周圍換盡貪。換貪若盡即入巨,亦如貪狼數節去。多至十二少九變,卻變祿星分臺去。
そのまま藩屏垣局の内に走り入れば、四外に山が關を作し水が來會する。地勢が低平でも、輔弼二星の形跡がなお見える。これが入垣して止息の處を尋ね當てたのである。幹龍は行くとき祖宗を問わず、枝龍は穴に落ちるとき祖山を回顧し、両者は同じでない。幹龍の身上は一節一節に剝換して前へ行き、枝龍が穴に落ちるときは必ず回頭して宗を顧みる。幹龍は一變ごとに少なくとも九節、多くは十二重に及ぶ。一星は十二節を經てこそ變を起こし、週而復始として面目を換える。貪狼は尖形を作し、巨門は方形を作し、小さいのは臥蠶一条のようである。このように週而復始して貪狼の形體を換え盡くす。貪狼が換盡すれば巨門に入り、貪狼と同じく若干節を走り、多くは十二・少なくとも九變する。然る後に祿存の星に變じ、臺形を分け出して去る。
祿存節數如貪巨,換了文廉又至武。博換若周即轉星,輔星三四弼起程。弼星入手必平漫,輔星入首多曲形。此是變星變盡處,變盡垣城四外迎。凡觀一星便觀變,識得變星知近遠。遠從貪起至破軍,換盡龍樓生寶殿。雖然高聳卻不同,還是尖峰高山面。一博一換形不同,豈可盡言顧祖宗?君如識得變星法,千里百里尋來龍。
祿存の經る節數は貪狼・巨門と同じである。文曲・廉貞を換えて、續いて武曲に至る。剝換が周遍すれば輔弼の星に轉入する。輔星は三四節を走り、弼星がそれに隨って起程する。弼星が入手するときは必ず平漫無形で、輔星が入首するときは多く曲折の形を帶びる。ここが變星が盡頭に至る處で、變盡した後に垣城が四外から來迎する。凡そ一顆の星を見るには、その如何に變ずるかを見よ。變星を識れば、龍の走った遠さが分かる。遠いのは貪狼から起り、一路破軍まで變じて「龍樓」を換え盡くせば、「寶殿」を生ずる。それは依然として高聳するが氣象はすでに異なり、依然として尖峰高山の面貌である。一剝一換ごとに形狀が各々同じでない。一概に皆祖宗を回顧すると言ってどうしよう。この變星の法を識れば、千里百里の來龍をみな尋ね當てられる。
誰人識得大龍脊,山正好時無腳力。裹費不惜力不窮,其家世代腰金紫。凡看變星先看斷,斷處多時星必變。如此斷絕曲屈行,高入青冥變鶴形。鶴形漸低必斷絕,斷絕復起是變星。卻從變星辨貪巨,或是廉文武祿存。只以變星逆求程,識得變星節數法。不必論程窮腳力,只從變盡至弼星。豈愁不識得垣城?
あの大龍の脊梁を真に認める者があるだろうか。往々にして山勢が正好のとき、人には山を走る脚力がなくなる。盤纏を惜しまず氣力を惜しまず一路走下去れば、この家は世世代代腰に金印紫綬を繫ぐ。凡そ變星を見るには、まず「斷」を見よ。斷える處が多ければ、星は必ず變ずる。このように斷えてまた曲折して行き、高く青冥に插入して鶴形に變ずる。鶴形が漸々低くなれば、必ずまた斷絶し、斷絶の後に新たに峯を起こす。それが變星である。ここで變星の上からそれが貪狼か巨門か、あるいは廉貞・文曲・武曲・祿存かを分辨できる。變星に順ってその走過の路程を逆推し、變星と節數の法則を掌握すれば、一程一程に脚力を耗盡して丈量する必要はない。變盡の處から弼星まで數えるだけで、垣城の所在を認められないことがあろうか。
附・衛龍篇
輔弼入垣星既曉,纏送護托皆明瞭。如何尚有傍明星,此星能明最精妙。左侍右衛形如何,此龍生處苦無多。除卻天池並夾輔,高山頂生有平波。天地之水滿則溢,侍衛之水隨龍入。深入坎井不聞聲,恰似尾閭沒無疏。道是天地又卻非,二山環合使人疑。不知龍自不央過,兩邊侍衛貼身隨。要在前侍並後衛,只有一叢貼身體。
輔弼二星が垣に入る道理はすでに通曉し、纏・送・護・托の幾種の隨行の山も辨明したのに、なぜさらに旁に顯現する一種の星があるのか。この一星を識れば最も精妙な一層である。左侍右衛とは果たしてどんな模樣を生ずるか。この種の龍は極めて得難く、生じる處は少なくまた少ない。「天池」と夾輔の砂のほかには、高山の頂上に生じる一片の平靜な水波がある。天地の間で水が滿ちれば外に溢れるが、侍衛の水は龍に隨ってともに注入する。深く坎井の中に灌ぎ入り、聲響が一點も聴こえず、歸墟尾閭のように吞納して疏泄が見えない。天池と言うには全くそうではない。兩座の山が環合して、人を大いに疑わせる。人々は知らない。これは龍自身がまだ走り盡きておらず、兩側の侍衛が龍身に緊貼して隨っているのである。要緊なのは前に侍・後に衛があり、ほんの一叢が龍の身體に貼りついていることである。
正龍高枝侍衛低,前池未滿後池繼。看來彷佛似天地,只有流泉活處低。或由田源水入次,或有幹窠如環隨。兩池相逐前後衛,兩池相夾左右同。此是貴龍親待衛,高處是首低是尾。只觀水流與不流,水若深潛是衛氣。龍身若有此真形,一百里外垣城生。分垣遠去似不顧,垣窮盡處面前橫。垣中橫水從中過,遠纏如帶五里生。
正龍の枝幹は高く、侍衛の砂は低い。前の一池の水がまだ滿ちないうちに、後ろの一池が續いて來る。見れば彷彿として天池のようだが、活泉の流動する處の地勢がやや低い。それはあるいは田間の水源に順って次々に注入し、あるいは幹龍の窠窟が圓環のように隨行する。兩池が一前一後に相追うのは前衛と後衛であり、兩池が左右に相夾するのも道理は同じである。これは貴龍の身邊に親近する侍衛で、高い端が首、低い端が尾である。水が流れるかどうかだけを見よ。水が深く潛蓄して外泄しなければ、それが衛氣である。龍身にこのような真形があれば、一百里の外に垣城が生ずる。分出した垣局は遠く走去して回顧しないようでも、垣局の窮盡する處には自ずから横山が面前に攔まる。垣中に横水が當中を流れ、遠處の纏護は一條の長帶のように綿延して五里に生ずる。
坦前外列如打圍,坦氣足時無缺破。垣前水直入垣來,曲轉東西垣亦開。卻有隨龍小溪澗,彎環抱體常低徊。橫城水繞太微勢,直朝射入紫垣氣。百源來聚天市垣,一水抱曲是天園。更有天苑內無潤,卻有大水環三邊。平洋宛然是紫氣,河中河曲是天市。關中只是天苑垣,伊洛亦合是天肆。京師華蓋是前星,東京三水入中庭。
垣局の前に外圍として羅列する衆山は、圍獵で四面が合圍するようである。垣氣が充足すれば、一圈して缺口も破損もない。垣前の水は直直に垣に流れ入り、彎曲轉折して、東西兩側の垣門もそれに隨って敞開する。このほか龍に隨って行く小溪小澗があり、彎環して龍身を抱き、常に低迴して去ることを肯んじない。横城の水が環繞するのは「太微垣」の氣勢で、水が直に朝射して入るのは「紫微垣」の氣に關し、百川の源が匯聚するのは「天市垣」、一水が彎曲を抱くのは「天園」の象である。さらに「天苑」の地は内部に水澤の滋潤がないが、大水がその三邊を環繞する。平洋の地は宛然として紫氣の鍾まる處で、河中府一帯の河水の彎曲する處が天市である。關中は天苑の垣に過ぎず、伊水洛水の一帯もちょうど天肆の象に合する。京師の華蓋の山は前星であり、東京には三条の水が中庭に流入する。
燕山最高象天市,天市碣石轉抱縈。太行之東有天市,馬耳峰上有侍衛。長江環外有三結,三結坦前水中列。中垣巳是帝王州,只是垣城氣多洩。海門環合似天市,天目天池生侍衛。萬里飛騰垣外色,海外諸峰補垣氣。盛衰長短固有時,亦是山川積氣圍。略舉諸垣與君說,更有難言誰得知?上相次相既列上,上將次將必也兩。
燕山が最も高く、天市垣に象を取る。天市の氣は碣石一帯に至って轉折縈迴して抱き來る。太行山の東にも天市の象があり、馬耳峯の上に侍衛の砂が生じる。長江の外に三處の結作が環繞し、その三處の結作はまた垣前の水中に排列する。中垣はもともと帝王の州であるが、惜しいことに垣城の氣の泄漏が多い。海門一帯は山水が環合して天市のようであり、天目山上の天池はまさに侍衛の形を生ずる。萬里の山川の飛騰の勢は垣外の氣色を構成し、海外の許多の山峯も來りて垣局の氣を補足する。國運の盛衰長短には固よりそれぞれの時があり、実は山川の積聚する氣が圍合して成したものである。ここでは垣局の數處を略舉して聽かせたに過ぎず、このほかさらに言説し難いものがあり、誰が盡く知ることができよう。三垣の中で上相・次相がすでに上位に列する以上、上將・次將も必ず雙なって分列する。
上衛次衛必居中,所論衛龍合天象。山川之氣上為星,星辰列次應出形。仰觀星象儲察理,衛龍內堅隨龍行。只是貼身不關峽,以此可見天地情。略言侍衛貼龍體,詳別流星入無底。衛山環合夾龍身,此是垣關常緊閉。屠龍不如且抵,多龍少卻成痴。大言無當下士笑,或笑或取吾何辭。
上衛・次衛は必ず中央に居る。ここに論ずる衛龍は、まさに天上の星象と相合する。山川の氣が上昇して星辰と成り、星辰が依次排列して、下に應じて地上の形勢が生ずる。頭を仰げて星象を觀察し、その中に察驗の道理を蓄える。衛龍は内部が堅實で主龍に緊隨して行き、ただ龍身に貼りつき、關峽の開合に參與しない。これにより天地相應の情實を見ることができる。ここでは侍衛がどう龍體に貼るかを略講したが、流星の種種の變化を詳しく分別しようとすれば、深くて底が見えない。衛山が環合して龍身を夾むのは、まさに垣關が常に緊閉する所以である。屠龍の高妙な技は、實實在在に用に抵えるに如かず(底本この二句は各々一字脫し文義足らず、姑く舊を存す)。龍を説きすぎ氾濫すれば、かえって癡執に流れる。大話が實際に切でなければ、淺識の士に取笑されるだけである。彼らが私を笑おうが私を取信しようが、私は何を分辯する必要があろう。
附・變星篇
疑龍盡說總無疑,直龍藏幸便宜知。識得真龍結作處,豈逃真假幹兼枝。貪狼一變巨門星,星方磊落如屏形。頓笏頓鍾如頓鼓,輔弼隨行變祿存。祿存帶祿為異穴,異穴生成鶴瓜形,鶴爪之形兩邊短,一距天然撐正身。此是祿存帶祿處,長短之穴為正形。起頂或成衣冠吏,短短低生左右臂。左臂短如插笏形,右臂短如佩魚勢。
《疑龍經》はここまで講じて、疑わしい處は已に説盡し、歸するに再び疑うべきなし。直龍がどうその用心を藏すかも、知り易くなった。真龍の結作する處を認めれば、幹龍であれ枝龍であれ、真も假もこの眼光から逃れられない。貪狼が一變して巨門の星と爲れば、星體は方正磊落で一扇の屏風のようである。あるものは笏板が頓立するよう、あるものは鍾や鼓が地に頓置されたようである。輔弼二星がその後に隨行し、再び祿存に變ずる。祿存は祿氣を帶び、結ぶのは異穴で、異穴は鶴爪の形を生成する。鶴爪の形は兩側が短く、中間に天然に一距が撐り出して正身を撐える。これが祿存が祿を帶びる處で、穴形が一長一短でこそその正體である。起頂する時、あるいは衣冠を頭に戴く官吏の象を結び、短短と低處に左右兩臂を生ずる。左臂が短く、手に笏板を插すようであり、右臂が短く、腰に魚袋を佩ぶようである。
時師至此多狐疑,卻嫌龍虎不纏衛。也有龍虎兩頭尖,左紐右紐休要嫌。也有龍虎生石觜,時師到此何曾喜。也有穴在大石間,也有穴在深潭裡。也有左長右枝短,也有左短右枝長。也有主山似牛軛,也有前案如拖槍。世俗庸師多不取,那知異穴生賢良。有如貪狼變文曲,撒網之形非碌碌。撒網之形似牛皮,不著緋衣多食祿。有如貪變破軍相,天梯隱隱如旗樣。
尋常の地師はここを見ると多く猶疑し、その龍虎砂が纏護回衛しようとしないのを嫌う。龍虎の兩頭がともに尖って、左に一度扭れ右に一度扭れることもあり、これは嫌うに及ばない。龍虎砂上に石嘴が生ずることもあり、地師はここに至ってかつて歡喜したことがない。穴が大石の間に結ぶこともあり、深潭の中に結ぶこともある。左が長く右の枝が短いものもあり、左が短く右の枝が長いものもある。主山が一副の牛軛のように生じることもあり、前案が一杆の槍を拖るように生ずることもある。世俗の庸師は多くこれらの地を取用しようとしないが、異穴がかえって賢良を生じることをどうして知ろう。また貪狼が文曲に變じて撒網の形を結ぶが、それも平庸の物ではない。撒網の形は一張の牛皮を鋪き開けたようで、主人は緋色の官服を着られなくても、食祿の分は多い。また貪狼が破軍の相に變じれば、山勢は隱隱として一道の天梯のよう、また一面の旗幟のようである。
旗山若作蓋天旗,旗下能生君與相。有如破軍變貪狼,貪狼入穴如拖槍。拖槍之穴人嫌丑,只緣纏護兩山長。貪變廉貞梳齒樣,長枝有穴無人葬。人言龍虎不歸隨,那知葬了生公相。變作輔星〔下有缺文,字數不詳〕變星篇,但是陰陽地理仙。凡遇龍神都照破,只緣心鏡已昭圓。
旗形の山が遮天の旗を作し得れば、旗下に君王と將相が生ずる。また破軍が貪狼に變ずれば、貪狼は穴に入るとき一杆の槍を拖るような形狀である。拖槍の穴は人々が皆その醜陋を嫌うが、実はただ兩側の纏護の山が伸びすぎているためである。貪狼が廉貞に變ずれば、形は一排の梳齒のようで、長い枝の上に穴があるが、肯んじて葬る人がいない。人々はその龍虎砂が歸隨しようとしないと言うが、葬った後に公卿宰相を出せることをどうして知ろう。輔星に變ずればまた如何――この下、底本にもともと缺文があり字數は考えられない。ただ照錄して疑を存するのみで、臆補を敢えてしない。末尾の數句にいう。この《變星篇》を讀通できれば、陰陽地理に精通する仙手と稱するに足る。どんな龍神に遇っても、一眼で照破できる。心中のこの明鏡がすでに昭澈圓滿だからである。
