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楞伽阿跋多罗宝经 · 第1巻

刘宋 · 求那跋陀罗译 · 第1巻 / 20

楞伽阿跋多羅寶經 卷第二 宋天竺三藏求那跋陀羅譯

仏家典籍

短いものは心経・金剛経・四十二章経・壇経から読み始められる。浄土は阿弥陀経・無量寿経・観経を見る。大乗の叙事と禅を見るなら、法華・維摩・楞厳・円覚・地蔵へ進む。

楞伽阿跋多羅寶經

楞伽阿跋多羅寶經序

楞伽阿跋多羅寶經 序

朝議大夫直龍圖閣權江淮荊淛等路制置鹽礬兼發運副使上護軍賜紫金魚袋蔣之奇撰

朝議大夫・直龍圖閣・權江淮荊浙等路制置鹽礬兼發運副使・上護軍・賜紫金魚袋 蔣之奇 撰。

之奇嘗苦《楞伽經》難讀又難得善本,會南都太子太保致政張公施此經,而眉山蘇子瞻為書而刻之板,以為金山常住。金山長老佛印大師了元持以見寄,之奇為之言曰:佛之所說經總十二部,而其多至於五千卷。方其正法流行之時,人有聞半偈、得一句而悟入者,蓋不可為量數。至於像法、末法之後,去聖既遠,人始溺於文字,有入海算沙之困,而於一真之體乃漫不省解,於是有祖師出焉,直指人心見性成佛,以為教外別傳,於動容發語之頃,而上根利器之人已目擊而得之矣。故雲門至於罵佛,而藥山至戒人不得讀經,皆此意也。由是去佛而謂之禪,離義而謂之玄,故學佛者必詆禪而諱義者,亦必宗玄二家之徒更相非而不知其相為用也。且禪者六度之一也,顧豈異於佛哉?

之奇はかつて《楞伽經》の読みにくいことと善本の得にくいことに苦しんでいた。ちょうど南都の太子太保の致仕した張公がこの經を施し、眉山の蘇子瞻がこれを書して板に刻し、金山寺の常住物とした。金山長老佛印大師了元が持ち來りて私に寄せた。之奇これに言う。佛の説かれた經は合わせて十二部、數えて五千卷に及ぶ。正法の流行する時に當たりては、半偈を聞き一句を得て悟入する人、計量すること能わざるほど多かった。像法・末法の後に至り、聖人を離るること久しく、人才は文字に沈溺し、海に入りて沙を數ふるがごとき困憊ありて、彼の一真の本體に茫然として省り解せざるを得たり。ここに祖師出でて、直に人心を指して性を見て佛と成らしめ、教外の別傳と爲したり。神色語言の間に於いて、上根利器の人は已に目擊して之を得たり。故に雲門は至りて佛を罵り、藥山は至りて人に經を讀むことを戒めたり。皆是れ此の意なり。此に從り佛を離れて禪と名づけ、義を離れて玄と名づく。故に佛を學ぶ者は必ず禪を毀り、義理を諱む者は亦た必ず玄を宗とす。二家の徒衆相非難すれども、彼此の相爲用なるを知らず。況んや禪は六度の一にして、豈佛と異ならんや。

之奇以為,禪出於佛,而玄出於義,不以佛廢禪,不以玄廢義,則其近之矣。冉求問:「聞斯行諸?」孔子曰:「聞斯行之。」子路問:「聞斯行諸?」曰:「有父兄在。如之何?」其聞斯行之,求也退故進之,由也兼人故退之。說豈有常哉?救其偏而已。學佛之敝至於溺經文、惑句義而人不體玄,則言禪以救之;學禪之敝至於馳空言、玩琦辯而人不了義,則言佛以救之。二者更相救,而佛法完矣。

之奇謂う。禪は佛に出で、玄は義に出づ。佛を以て禪を廢せず、玄を以て義を廢せざれば、則ち幾(ちか)し。冉求問う「聞きて即ち之を行わんか」と。子曰く「聞きて即ち之を行え」と。子路問う「聞きて即ち之を行わんか」と。子曰く「父兄有り、之を如何」聞きて即ち之を行う——冉求は退く、故に之を進む。仲由は人に勝るを兼ね、故に之を抑ふ。法を説くに豈恆あるや、只だ其の偏を救うのみ。佛を學ぶの弊、經文に沈溺し句義に迷うて人玄を體する能わざるに至れば、則ち禪を以て之を救う。禪を學ぶの弊、空言を馳騁し奇辯を翫好して人義を了する能わざるに至れば、則ち佛を以て之を救う。二者相救いて佛法全し。

昔達磨西來,既已傳心印於二祖,且云:「吾有《楞伽經》四卷,亦用付汝。即是如來心地要門,令諸眾生開示悟入。」此亦佛與禪並傳而玄與義俱付也。至五祖始易以《金剛經》傳授,故六祖聞客讀《金剛經》而問其所從來。客云:「我從蘄州黃梅縣東五祖山來。五祖大師常勸僧俗,但持《金剛經》即自見性成佛矣。」則是持《金剛經》者始於五祖。故《金剛》以是盛行於世,而《楞伽》遂無傳焉。

昔し達磨西方より來り、已に心印を二祖に傳え、且つ曰く「我に《楞伽經》四卷有り、亦た汝に付與せん。此是れ如來心地の要門、諸衆生をして開示悟入せしめん」と。此も亦た佛與禪と併傳し、玄與義と俱に授く。五祖に至りて始めて《金剛經》を以て相傳と易へたり。故に六祖、客の《金剛經》を讀むを聞きて、汝何處より來ると問ふ。客曰く「我は蘄州黃梅縣東五祖山より來れり。五祖大師常に僧俗を勸めて、但《金剛經》を持せば、即ち能く自ら性を見て佛と成る」と。然れば《金剛經》を持つは五祖より始めたり。故に《金剛》因りて世に盛りて、《楞伽》は傳ふる人無し。

今之傳者,寔自張公倡之。之奇過南都謁張公,親聞公說《楞伽》因緣。始張公自三司使翰林學士出守滁,一日入琅琊僧舍,見一經函發而視之,乃《楞伽經》也。恍然覺其前生之所書,筆畫宛然,其殆神先受之甚明也。之奇聞:羊叔子五歲時,令乳母取所弄金鐶。乳母謂之:「汝初無是物。」祜即自詣隣人李氏東垣桑木中探得之。主人驚曰:「此吾亡兒所失物也。云何持去?」乳母具言之,知祜之前身為李氏子也。白樂天始生七月,姆指之無兩字,雖試百數不差;九歲諳識聲律,史氏以為篤於才章蓋天稟,然而樂天固自以為宿習之緣矣。

今傳へ得たるは、實に張公の唱導より始めたり。之奇南都に過ぎ張公を見、親しく公が《楞伽》の因縁を説くを聞く。初め張公三司使・翰林學士を以て滁州を出守す。一日琅琊の僧舍に入りて、一經函を見る。發して觀れば、《楞伽經》なり。恍然として自ら前生の所寫と覺え、筆畫宛然として、神識が豫め受くる所あまりに明白なるが如し。之奇聞く。羊叔子五歳の時、乳母をして其の弄びたる金環を取らしむ。乳母之に謂ひて曰く「汝本來此の物無し」と。羊祜即ち自ら鄰人李氏の東垣の桑中に至りて之を探り得たり。主人驚きて曰く「此は吾が亡子の失へる所なり、何を以て將去る」と。乳母一一以て具に陳す。乃ち羊祜の前身は李氏の兒なるを知る。白樂天生れて纔かに七月、姆をして「之」「無」の二字を指さしむ、百を試すれども差はざりき。九歳聲律を識る。史官は其の文章に深きを天性と以爲す。是れ蓋し宿習の因縁なり。

人之以是一真不滅之性,而死生去來於天地之間。其為世數,雖折天下之草木以為籌箸,不能算之矣。然以淪於死生,神識疲耗不能復記,惟圓明不昧之人知焉。有如張公以高文大冊再中制舉登侍從,秉鈞軸出入朝廷逾四十年,風烈事業播人耳目,則其前身嘗為大善知識,無足疑者。其能記憶前世之事,豈不謂信然哉。故因讀《楞伽》新經,而記其因緣於經之端雲。

人は此の不生不滅の一真之性に乘じて、天地の間に死生去來す。經歷の世數、天下の草木を折りて籌と爲すとも、計るべからず。然れども死生に淪滯して神識疲耗し、更に記憶する能わず。唯だ圓明にして昧れざる者のみ之を知る。張公の如き高文大冊を以て再び制擧に中し、侍從に入り、樞要を掌り、朝廷に出入すること四十年餘。風烈事業は人の耳目に播れり。則ち其の前身は曾て大善知識たりしこと、何の疑ふ所かあらん。能く前生の事を記憶す、豈信ぜざるべけんや。故に新刻の《楞伽》を讀みて、此の因縁を經の首に記す。

楞伽阿跋多羅寶經序

楞伽阿跋多羅寶經 序

朝奉郎新差知登州軍州兼管內勸農事騎都尉借緋蘇軾書

朝奉郎・新差知登州軍州兼管內勸農事・騎都尉・借緋 蘇軾 書。

《楞伽阿跋多羅寶經》——先佛所說微妙第一真實了義,故謂之佛語心品。祖師達磨以付二祖曰:「吾觀震旦所有經教,惟《楞伽》四卷可以印心。」祖祖相授,以為心法。如醫之《難經》,句句皆理、字字皆法。後世達者神而明之,如盤走珠、如珠走盤,無不可者。若出新意,而棄舊學以為無用,非愚無知,則狂而已。近歲學者各宗其師,務從簡便,得一句一偈,自謂了證,至使婦人孺子抵掌嬉笑爭談禪悅。高者為名,下者為利,餘波末流無所不至,而佛法微矣。譬如俚俗醫師,不由經論直授方藥以之療病,非不或中;至於遇病,輒應懸斷死生,則與知經學古者不可同日語矣。世人徒見其有一至之功,或捷於古人,因謂《難經》不學而可,豈不誤哉!

《楞伽阿跋多羅寶經》——先佛の説かれる所、微妙第一、真實了義。故に佛語心品と爲す。祖師達磨、二祖に付して曰く、「吾が觀るに震旦の所有經教、惟《楞伽》四卷は可以印心なり」と。祖祖相傳して、以て心法と爲す。醫家の《難經》の如く、句句皆理、字字皆法なり。後世の通達する者は之を神而明じ、盤中に珠を走らすが如く、珠盤中を走るが如し。爲す所無きに非ざるなり。若し別に新意を出して、舊學を棄擲して無用と爲すは、愚かにして知らざるに非ざれば、卽ち狂妄なり。比年の學者、各々其の師を宗とし、務めて簡便を求め、一句一偈を得て、自ら已了と言ふ。乃至婦人孺子をして、抵掌嬉笑して、爭ふて禪悅を談ぜしむ。高きは名を爲し、下るは利を爲し、餘波末流、至らざる所無し。佛法衰微なり。譬へば俚醫、經論不由、直に方藥を授けて以て病を療するに、未だ嘗て中らざる無きに非ず。然れども病に遇うて應じ、臆して死生を斷ずれば、則ち經を通じ古を學ぶ者と同日に論ふべからず。世人但だ其の一中なるの功を見て、或いは古人に過ぎんとす。則ち《難經》は學ばずとも可なりと言ふ。豈誤れるに非ずや。

《楞伽》義輒幽𦕈,文字簡古。讀者或不能句,而況遺文以得義,忘義以了心者乎?此其所以寂寥於世,幾廢而僅存也。太子太保樂全先生張公安道,以廣大心,得清淨覺。慶曆中嘗為滁州,至一僧舍,偶見此經,入手恍然如獲舊物。開卷未終,夙障冰解,細視筆畫,手跡宛然。悲喜太息,從是悟入,常以經首四偈發明心要。軾遊於公之門三十年矣,今年二月過南都,見公於私第。公時年七十九,幻滅都盡,惠光渾圜,而軾亦老於憂患百念灰冷。公以為可教者,乃授此經,且以錢三十萬使印施於江淮間。而金山長老佛印大師了元曰:「印施有盡,若書而刻之則無盡。」軾乃為書之,而元使其侍者曉機走錢塘,求善工刻之板,遂以為金山常住。

《楞伽》の義理は曲折幽深にして、文字は簡古なり。讀者或いは句を絕つ能わず。況んや文字を捨てて義を得、義を忘れて心を了せんや。此れ其の寂寥にして世に廢して、僅かに存する所以なり。太子太保樂全先生張公安道は、廣大心を以て清淨覺を得たり。慶曆中嘗て滁州を守り、僧舍に至りて、偶々此の經を見る。手に入れて恍然として舊物の如し。未だ一卷を盡さざるに、夙障冰釋し、筆畫を熟視すれば、手蹟宛然たり。悲喜交至して、此に從り悟入す。常に經首の四偈を以て心要を發明す。軾公の門に學ぶこと三十年。今年二月南都に過ぎ、私第に於て公に見ゆ。公時に七十九、幻滅都盡、慧光渾圓。而も軾は憂患の中に老い、百念灰冷せり。公を以て敎ふべしと爲し、乃ち此の經を授け、且つ錢三十萬を出して、江淮間に印施せしむ。金山長老佛印大師了元曰く、「印施盡有り、書して刻板せば則ち盡無し」と。軾是の爲に之を書す。了元は侍者曉機に錢塘に趨らしめ、善工を求めて板に刻せしむ。遂に金山寺の常住物と爲す。

元豐八年九月九日

元豐八年九月九日。

楞伽阿跋多羅寶經 卷第一

宋天竺三藏求那跋陀羅譯

劉宋の時、天竺三藏法師求那跋陀羅が譯した。

一切佛語心品第一之一

一切佛語心品 第一之一

如是我聞:

如是我聞(このように私は聞いた)。

一時佛住南海濱楞伽山頂,種種寶華以為莊嚴,與大比丘僧及大菩薩眾俱,從彼種種異佛剎來。是諸菩薩摩訶薩,無量三昧自在之力,神通遊戲,大慧菩薩摩訶薩而為上首。一切諸佛手灌其頂,自心現境界,善解其義。種種眾生、種種心色,無量度門,隨類普現。於五法自性、識、二種無我,究竟通達。

一時、佛は南海濱の楞伽山頂に住して、種種の寶華を以て莊嚴と爲し、大比丘僧及び大菩薩衆と俱にあり。彼の種種の異なる佛刹より來たれる、菩薩摩訶薩は無量三昧自在の力、神通遊戲ありて、大慧菩薩摩訶薩を上首と爲す。一切諸佛、手を其の頂に灌ぎたれば、自心現境界に於て、其の義を解するに善し。種種衆生、種種心色、無量度門、類に隨て普現す。五法・自性・識・二種無我に於て——五法とは相・名・分別・正智・如如、自性とは遍計所執・依他起・圓成實、識とは八識、二無我とは人無我・法無我——皆究竟通達せり。

爾時大慧菩薩與摩帝菩薩,俱遊一切諸佛剎土,承佛神力,從坐而起偏袒右肩,右膝著地,合掌恭敬,以偈讚曰:

爾の時、大慧菩薩摩帝菩薩と俱に、一切諸佛刹土を遊歷す。佛の威神に承り、座より起ち、偏袒右肩、右膝地に著き、合掌恭敬して、以偈讚曰、

「世間離生滅,猶如虛空華,

「世間生滅を離れ、猶虚空の華の如し。

智不得有無,而興大悲心。

智に有無を得ず、而も大悲心を興す。

一切法如幻,遠離於心識,

一切法は幻の如く、心、心識を遠離し、

智不得有無,而興大悲心。

智に有無を得ず、而も大悲心を興す。

遠離於斷常,世間恆如夢,

斷常を遠離し、世間恒に夢の如し。

智不得有無,而興大悲心。

智に有無を得ず、而も大悲心を興す。

知人法無我,煩惱及爾炎,

人法無我を知り、煩惱及び爾焰(知る所)、

常清淨無相,而興大悲心。

常に清淨無相にして、而も大悲心を興す。

一切無涅槃,無有涅槃佛,

一切涅槃無し、涅槃佛無し、

無有佛涅槃,遠離覺所覺。

佛涅槃無し、覺及び所覺を遠離す。

若有若無有,是二悉俱離,

若有・若無有、是の二を悉皆離れ、

牟尼寂靜觀,是則遠離生,

牟尼の寂觀、是れ則ち生を離れ、

是名為不取,今世後世淨。」

是れ名づけて不取、今世後世清淨なり。」

爾時大慧菩薩偈讚佛已,自說姓名:

爾の時、大慧菩薩偈を以て佛を讚じ已り、自ら姓名を説く。

「我名為大慧,通達於大乘,

「我が名は大慧、大乘に通達し、

今以百八義,仰諮尊中上。」

今以百八義を以て、尊中の尊に仰問す。」

世間解之士,聞彼所說偈,

世間解たる者、其の誦する偈を聞きて、

觀察一切眾,告諸佛子言:

一切大衆を觀察して、諸佛子に告げ曰く、

「汝等諸佛子,今皆恣所問,

「汝等の諸佛子、今皆恣に問ふべし。

我當為汝說,自覺之境界。」

我當に汝等の爲に自覺の境界を説くべし。」

爾時大慧菩薩摩訶薩,承佛所聽,頂禮佛足,合掌恭敬以偈問曰:

爾の時、大慧菩薩摩訶薩は、佛の聽許する所に承り、佛足を頂禮して、合掌恭敬して、以偈問曰、

「云何淨其念?云何念增長?

「云何にか其の念を淨むる。云何にか念增長せん。

云何見痴惑?云何惑增長?

云何にか癡惑を見ん。云何にか惑增長せん。

何故剎土化,相及諸外道?

何故に刹土の化、及び諸外道の相なる。

云何無受欲?何故名無受?

云何にか受欲無き。云何名づけて無受と爲す。

何故名佛子?解脫至何所?

云何名づけて佛子と爲す。解脫は何れに至る。

誰縛誰解脫?何等禪境界?

誰が縛・誰が解脫。何等が禪の境界なる。

云何有三乘?唯願為解說。

云何にか三乘ある。惟願爲に解説せん。

緣起何所生?云何作所作?

緣起何れの所生。云何にか作及び所作なる。

云何俱異說?云何為增長?

云何にか俱異の説。云何にか增長なる。

云何無色定,及以滅正受?

云何にか無色定、及び滅正受なる。

云何為想滅?何因從定覺?

云何にか想滅。何因定より覺ず。

云何所作生,進去及持身?

云何にか所作生、進去及び持身なる。

云何現分別?云何生諸地?

云何にか現分別。云何にか諸地を生ずる。

破三有者誰?何處身云何?

破三有するは誰。何處身云何なる。

往生何所至?云何最勝子?

往生何處に至る。云何にか最勝子なる。

何因得神通,及自在三昧?

何因を以て神通得、及び自在三昧なる。

云何三昧心?最勝為我說。

云何にか三昧心。最勝爲に説き給へ。

云何名為藏?云何意及識?

云何にか名づけて藏。云何にか意及び識なる。

云何生與滅?云何見已還?

云何にか生與滅。云何にか見已に還。

云何為種姓,非種及心量?

云何にか種姓、非種及び心量なる。

云何建立相,及與非我義?

云何にか建立相、及び非我義なる。

云何無眾生?云何世俗說?

云何にか衆生無。云何にか世俗説なる。

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