術幽く道遠し:壬学の心法
噫!術之至幽也,莫深乎課;道之至遠也,只在乎心。心既達於玄妙,課亦通乎古今。無常德兮不為卜,有正已者乃可為。占欲求夫感應,志其在乎精嚴。 心者,萬物之主,分兩節觀之。
賦文は最後に嘆じて言う:ああ、術数のうち最も幽深なるは、六壬課より深きはなく、大道のうち最も悠遠なるは、実はただ人心にあり。心すでに玄妙の境に通ずれば、課もまた古今を貫く。恒常の徳操なき人は卜問すべからず、己を正しうる人のみこの術を学ぶべし。占問して感応を求めんには、用心は全く「精厳」の二字にあり。疏解は言う:心は万物の主宰で、ここでは二層に分かちて見るべし。
求測之人,必其心正且事切,方可動問,於斯則課符實情,占無不驗,若漫然無事而戲占,難求其驗。 六壬學者,宜活達通變,隨其事而斷,不可膠柱鼓瑟。然壬學重於程式,古之人早洩盡天機,餘輩但坐享膏澤,但求“無一字無來處”,不必炫奇求巧,自為曲說。“精嚴”一字,在戒學壬之人宜尊先賢遺意,切戒穿鑿也。
第一層は測を求める人について言えば、必ず心地端正にして事急切ならばこそ、起課動問すべく、このようにしてこそ課象は実情に合して占に験なからざるなし。事なく漫然として占を以て戯とすれば、霊験を求め難い。第二層は六壬を学ぶ人について言えば、柔軟にして通変し、占う事に随って断ずべく、膠柱鼓瑟すべからず。しかるに壬学はまた極めて程式法度を重んじ、古人はすでに天機を泄し尽くし、我輩はただ前人の余沢を坐享するのみで、「一字と雖も来処なきなし」を成すを求め、奇を炫い巧を鬬わして自ら曲説を造る必要なし。賦文のいう「精厳」の二字は、まさに壬を学ぶ人に先賢の本意を尊重し、穿鑿附会を切に忌むべきを誡めるもの。一部《括囊賦》の帰宿もまた、この求測の心と用術の心の二処に落ちるのである。
