孔丛子 · 第1巻
孔叢子 儒家類
儒家典籍
初学は四書から入るのがよい。大学が綱を立て、論語が言を記し、孟子が展開し、中庸が収束する。続いて詩経・尚書・礼記と春秋三伝へ。荀子・春秋繁露・近思録・伝習録は、経学の外で儒学がどう語られてきたかを見る几道である。
孔叢子儒家類
孔叢子 儒家類
提要
提要
【臣】等謹案孔叢子三卷舊本題曰孔鮒撰所載仲尼而下子上子高子順之言行凡二十一篇又以孔臧所著賦與書上下二篇附綴於末別名曰連叢鮒字子魚孔子八世孫仕陳涉為博士臧高祖功臣孔聚之子嗣爵蓼侯武帝時官太常其書文獻通考作七卷今本三卷不知何人所並晁公武讀書志雲漢志無孔叢子儒家有孔臧十篇雜家有孔甲盤盂書二十六篇其獨治篇鮒或稱孔甲意者孔叢子即孔甲盤盂連叢即孔臧書案漢書藝文志顔師古注謂孔甲黃帝之史或雲夏後孔甲似皆非則孔叢非盤盂又志於儒家孔臧十篇外詩賦家別出孔臧賦二十篇今連叢有賦則亦非儒家之孔臧公武未免附防朱子語類謂孔叢子文氣軟弱不似西漢文字葢其後人集先世遺文而成之者陳振孫書録觧題亦謂按孔光傳孔子八世孫鮒魏相順之子為陳涉博士死陳下則固不得為漢人而其書記鮒之沒則又安得以為鮒撰其説當矣隋書經籍志論語家有孔叢七卷注曰陳勝博士孔鮒撰其序録稱孔叢家語並孔氏所傳仲尼之防則其書出於唐以前然家語出王肅依託隋志既誤以為真則所云孔叢出孔氏所傳者亦未為確證朱子所疑葢非無見即如舜典禋於六宗何謂也子曰所宗者六皆潔祀之也埋少牢於泰昭所以祭時也祖迎於坎壇所以祭寒暑也主於郊宮所以祭日也夜明所以祭月也幽禜所以祭星也雩禜所以祭水旱也禋於六宗此之謂也其説與偽孔傳偽家語並同是亦晚出之明證也其中第十一篇即世所傳小爾雅註疏家往往引之然皆在晉宋以後惟公羊傳疏所引賈逵之説謂俗儒以六兩為鋝正出此書然謂之俗儒則非漢藝文志之小爾雅矣又水經注引孔叢子曰夫子墓塋方一里在魯城北六里泗水上諸孔邱封五十餘所人名昭穆不可復識有碑銘三所獸碣具存云云今本無此文似非完帙然其文與全書不類且不似孔氏子孫語或酈道元誤記抑或傳寫有訛以他書誤題孔叢歟乾隆四十二年八月恭校上
【臣】等謹んで案ずる。『孔叢子』三巻、旧本は孔鮒の撰と題す。書中には仲尼以下、子上・子高・子順の言行を記して、あわせて二十一篇。さらに孔臧の作った賦と書信の上下二篇を末尾に附し、別に『連叢』と題す。孔鮒は字を子魚といい、孔子の八世孫で、陳渉の下で博士をつとめた。孔臧は高祖の功臣孔聚の子で、蓼侯の爵を嗣ぎ、武帝のとき太常に至った。この書を『文献通考』は七巻と著録するが、今の本は三巻で、誰が併合したか分からない。晁公武『郡斎読書志』にいう——『漢書・芸文志』に『孔叢子』はなく、儒家類に孔臧十篇、雑家類に孔甲『盤盂』書二十六篇がある。『独治』篇で孔鮒がときに孔甲とも称するので、『孔叢子』はすなわち孔甲『盤盂』、『連叢』はすなわち孔臧の書だと推測される。按ずるに、『漢書・芸文志』の顔師古注は孔甲を黄帝の史官とし、またある説は夏后孔甲とするが、いずれも当たらない。では『孔叢子』は『盤盂』ではない。また『芸文志』は儒家の孔臧十篇のほか、詩賦家に別に孔臧の賦二十篇を出す。今『連叢』に賦があるから、やはり儒家のあの孔臧の書ではない。晁公武はいささか牽強附会である。朱子『語類』は『孔叢子』の文気が軟弱で、西漢の文字に似ず、おそらく孔氏の後人が先世の遺文を集めて編んだものとする。陳振孫『直斎書録解題』もいう——『漢書・孔光伝』によると、孔子の八世孫孔鮒は魏の相・孔順の子で、陳渉の博士となり陳の下で死んだ。もとより漢人と数えられない。しかもこの書は孔鮒の死まで記すのだから、どうして孔鮒自身の作といえよう。この説は正しい。『隋書・経籍志』の論語類に『孔叢』七巻があり、注に陳勝の博士孔鮒の撰と称す。その序録は『孔叢』『家語』はいずれも孔氏が伝え述べた仲尼の書という。ではこの書は唐以前に出たことになる。だが『家語』は王粛の依托から出ており、『隋志』がそれを真書と誤った以上、『孔叢』も孔氏の所伝だというのは確証に足りない。朱子の疑いは根拠なしとしない。例えば『舜典』の「禋于六宗」とは何かに、孔子はいう——尊祀するものが六項あり、いずれも清潔な祭祀を用いる。少牢を泰昭に埋めるのは四時を祭るもの、坎壇で祖迎するのは寒暑を祭るもの、郊宮に主を設けるのは日を祭るもの、夜明に主を設けるのは月を祭るもの、幽禜は星を祭り、雩禜は水旱を祭る。「禋于六宗」とはこれをいう。この説は偽孔伝・偽『家語』とまったく同じで、これも後出の明証である。書中の第十一篇はすなわち世に伝わる『小雅爾』で、注疏家はしばしば引用するが、いずれも晋・宋以後である。ただ『公羊伝』疏の引く賈逵の言に、俗儒は六両を鋝とするというが、まさにこの書から出ている。すでに「俗儒」と称する以上、『漢志』のあの『小雅爾』ではない。また『水経注』が引く『孔叢子』にいう——夫子の墓塋は方円一里、魯城の北六里の泗水のほとりにあり、孔氏の丘封は五十余か所、人名の昭穆はもはや再び識別できず、碑銘三か所、石獣・石碣はいずれも残っている、云々。今の本にはこの文章がなく、どうやら完本ではない。しかしこの文章は全書と類をなさず、孔氏子孫の口調にも似ない。あるいは酈道元が誤って記したか、伝写の誤りで別の書を誤って『孔叢』と題したのだろう。乾隆四十二年八月恭校上。
總纂官【臣】紀昀【臣】陸錫熊【臣】孫士毅
総纂官【臣】紀昀【臣】陸錫熊【臣】孫士毅
總校官【臣】陸費墀
総校官【臣】陸費墀
孔叢子目録儒家類
孔叢子目録 儒家類
捲上
巻上
嘉言第一
嘉言第一
論書第二
論書第二
記義第三
記義第三
刑論第四
刑論第四
記問第五
記問第五
雜訓第六
雑訓第六
居衛第七
居衛第七
廵狩第八
廵狩第八
公儀第九
公儀第九
抗志第十
抗志第十
小爾雅第十一
小爾雅第十一
卷中
巻中
公孫龍第十二
公孫竜第十二
儒服第十三
儒服第十三
對魏王第十四
対魏王第十四
陳士義第十五
陳士義第十五
論勢第十六
論勢第十六
執節第十七
執節第十七
詰墨第十八
詰墨第十八
獨治第十九
独治第十九
問軍禮第二十
問軍礼第二十
荅問第二十一
荅問第二十一
卷下
巻下
連叢子上第二十二
連叢子上第二十二
連叢子下第二十三
連叢子下第二十三
孔叢子捲上漢孔鮒撰嘉言第一【是書之第以孔子子思子上子髙子順之言為之先後】
『孔叢子』巻上、題して漢の孔鮒の撰。『嘉言』第一。【本書の篇次は、孔子・子思・子上・子高・子順の言行の先後によって並べる。】
夫子適周見萇言終退萇語劉文公曰吾觀孔仲尼有聖人之表河目而隆顙黃帝之形貌也修肱而龜背長九尺有六寸成湯之容體也然言稱先王躬履謙讓洽聞強記博物不窮抑亦聖人之興者乎劉子曰方今周室衰防而諸侯力爭孔丘布衣聖將安施萇曰堯舜文武之道或弛而墜禮樂崩喪亦正其統紀而已矣既而夫子聞之曰吾豈敢哉亦好禮樂者也
夫子は周の都に行って萇弘(周の大夫)に会い、語らい終えて退いた。萇弘は劉文公に言った。「私が見るに、孔仲尼には聖人の仪表がある。目は長大で額骨が高く張るのは黄帝のような形貌、腕は修長で背は亀の形、身の丈九尺六寸は成湯のような体貌だ。だが口を開けば先王を称述し、身には譲りを践み、見聞は広く記憶力は強く、物に博くして窮まらない。おそらく聖人が興ったのではないか。」劉文公は言った。「今や周室は衰微し、諸侯は武力で争っている。孔丘はただの布衣であり、聖徳はどこに用いるのか。」萇弘は言った。「堯・舜・文王・武王の道は、あるものはすでに廃れ墜ち、礼楽は崩れ亡びたが、ただ彼に統紀を正してもらおうとするだけだ。」後で夫子はこれを聞いて言った。「どうして敢て当たろうか。私もただ礼楽を好む者にすぎない。」
陳恵公大城因起凌陽之臺未終而坐法死者數十人又執三監吏夫子適陳聞之見陳侯與俱登臺而觀焉夫子曰美哉斯臺自古聖王之為城臺未有不戮一人而能致功若此者也陳侯黙而退遂竊赦所執吏既而見夫子問曰昔周作靈臺亦戮人乎荅曰文王之興附者六州六州之眾各以子道來故區區之臺未及期日而已成矣何戮之有乎夫以少少之眾能立大大之功惟君爾
陳の恵公は大規模に城を修め、続いて凌陽の台を造った。まだ完工しないうちに、法を犯して処刑された者がすでに数十人おり、また三人の監工の官吏を捕らえた。夫子は陳に到り、聞いて陳侯に会い、彼とともに台に登って眺めた。夫子は言った。「この台は実に美しい。古来の聖王が城を築き台を造るに、一人も殺さずにこの効功を収めたことはかつてない。」陳侯は黙然として退き、続いてそっと捕らえられた官吏を赦免した。後に彼は夫子に会って問うた。「昔、周の人が霊台を造るときも人を殺しましたか。」夫子は答えた。「文王が興ると、彼に帰附する者は六州あった。六州の民衆はそれぞれ子が父に事えるように力を貢いだ。だから区区な一台、予定の期日にも満たずにできあがり、どうして人を殺す要があろうか。少ない人力で大きな功業を成せるのは、あなたのような方だけです。」
子張曰女子必漸乎二十而後嫁何也孔子曰十五許嫁而後從夫是陽動而隂應男唱而女隨之義也以為繢組紃織絍者女子之所有事也黼黻文章之義婦人之所有大功也必十五以往漸乎二十然後可以通乎此事然後乃能上以孝於舅姑下以事夫養子也宰我使於齊而反見夫子曰梁丘據遇虺毒三旬而後瘳朝齊君齊君防大夫眾賔而慶焉弟子與在賔列大夫眾賔並復獻攻療之方弟子謂之曰夫所以獻方將為病也今梁丘已療矣而諸夫子乃復獻方方將安施意欲梁丘大夫復有虺害當用之乎眾坐黙然無辭弟子此言何如夫子曰汝説非也夫三折肱為良醫梁丘子遇虺毒而獲療猶有與之同疾者必問所以已之之方焉眾人為此故各言其方欲售之以已人之疾也凡言其方者稱其良也且以叅據所以已之之方優劣耳夫子適齊晏子就其館既宴且私焉曰齊其危矣譬若載無轄之車以臨千仭之谷其不顛覆亦難兾也子吾心也子以齊為遊息之館當或可救子幸不吾隱也夫子曰夫死病無可為毉夫政令者人君之銜轡所以制下也今齊君失之已久矣子雖欲挾其輈而扶其輪良弗及也抑猶可以終齊君及子之身過此以徃齊其田氏矣
子張は問うた。「女子は必ず二十歳近くなって嫁ぐのはなぜですか。」孔子は言った。「十五歳で嫁ぐことを許し、それから夫に従う。これは陽が動いて陰が応え、男が唱えて女が随う道理だ。刺繍・絲帯・紡績・縫紉は女子の分内の仕事、黼黻・文章の義理は婦人が成就すべき大功だ。必ず十五歳から先、二十に近づいて、それでようやくこれらを通暁し、上は舅姑に孝し、下は夫に事えて子女を養うことができる。」宰我は斉に使いして帰り、夫子に会って言った。「梁丘拠が虺蛇の毒にあたり、三十日でやっと全快しました。斉君が大夫と衆賓客を朝会して彼を祝い、弟子も賓客の列におりました。大夫と衆賓客はまた続々と蛇毒を治す方を献じました。弟子は彼らに言いました。『方を献じるのは病を治すためだ。今や梁丘大夫はすでに癒えたのに、皆さんがまた方を献じるのは、方をどこに用いるのか。まさか梁丘大夫がもう一度蛇毒にあたるのを待って用いようというのか。』席の人はみな黙って言うことがありませんでした。弟子のこの言はどうでしょう。」夫子は言った。「お前の言は正しくない。『三折肱と為れば良医と為る』という。梁丘子が虺毒にあたって治療を得たのだから、彼と同じ病の人は必ずどんな方で治ったかを問うだろう。衆がこぞってそれぞれの方を言うのは、方を出して他の人の病を治したいからだ。およそ方を献じる者は皆自分の方が良いというのも、これを治した方の孰優孰劣を参照比較するためだ。」夫子は斉に行き、晏子が彼の館舎を訪ね、宴飲のあと私して言った。「斉国は危ない。轄のない車に駕して千仞の深谷に臨むようなもので、顛覆しないのは望めない。あなたは私の心です。斉国を游息の館舎としてくだされば、あるいはまだ救えるかもしれません。私に隠さないでください。」夫子は言った。「すでに死症であり、するべき医治がない。政令は人君の銜轡であり、臣下を制するものだ。今や斉君がこれを失って久しい。あなたは車の轅を扶えて輪を托しようとしても、実に及ばない。あるいは斉君とあなたの存する世の日を支えられるだけだ。これを過ぎてからは、斉国は田氏の手に落ちるだろう。」
齊東郭亥欲攻田氏執贄見夫子而訪焉夫子曰子為義也丘不足與計事揖子貢使荅之子貢謂之曰今子士也位卑而圖大位卑則人不附也圖大則人憚之殆非子之任也盍姑已乎夫以一縷之任系千鈞之重上縣之於無極之髙下垂之於不測之深旁人皆哀其絶而造之者不知其危子之謂乎馬方駭鼓而驚之系方絶重而填之馬奔車覆六轡不禁系絶於髙墜入於深其危必矣東郭亥色戰而跪曰吾已矣願子無言既而夫子告子貢曰東郭亥欲為義者也子亦告之以難易則可矣奚至懼之哉
斉国の東郭亥は田氏を攻めようとして、贄礼を持って夫子に見えて教えを請うた。夫子は言った。「あなたの行うのは義だが、丘はこのことをあなたと計るに値しない。」拱手して子貢に答えさせた。子貢は彼に言った。「今、あなたは士であり、地位は低いのに大事を図る。地位が低ければ人は親附せず、図りが大きければ人は忌惮する。おそらくあなたの負い切れるものではない。なぜしばらく止めないのか。一絲の荷重で千鈞の重さを繋ぎ、上は尽きることない高い所に懸け、下は測り知れない深い所に垂らせば、傍の人は皆それが断たれることを哀嘆するのに、それを行う者は危険を知らない——あなたのことを言うのではないか。馬はちょうど驚いているのに再び鼓を撃って驚かし、繋縄はまさに断たれようとしているのにさらに重くして圧する。馬が奔り車が覆れば、六条の轡も勒せない。繋縄が高い所から断たれて深淵に墜ちれば、危ないのは決まっている。」東郭亥は顔色を戦慄かせ、跪いて言った。「私は止めます。もう言わないでください。」後で夫子は子貢に告げた。「東郭亥は義を行おうとする人だ。あなたは難易を彼に告げればよいのに、どうして彼をこんなに怖がらせたのか。」
宰我問君子尚辭乎孔子曰君子以理為尚博而不要非所察也繁辭富説非所聽也惟知者不失理孔子曰吾於予取其言之近類也於賜取其言之切事也近類則足以喻之切事則足以懼之
宰我は問うた。「君子は言辞を尚ぶのですか。」孔子は言った。「君子は理を尚ぶ。広博で切要でないものは、審察すべきでない。繁辞・富説は聴くべきでない。ただ智者は理を失わない。」孔子は言った。「私は宰予に対して、彼の言が事類に近い点を取る。端木賜に対して、彼の言が事情に切り合う点を取る。事類に近ければ人を暁喻するに足り、事情に切り合えば人を戒惧させるに足る。」
論書第二
論書第二
子張問曰聖人受命必受諸天而書云受終於文祖何也孔子曰受命於天者湯武是也受命於人者舜禹是也夫不讀詩書易春秋則不知聖人之心又無以別堯舜之禪湯武之伐也
子張は問うた。「聖人が命を受けるのは、必ず天からこれを受けるはずなのに、『尚書』は『受終于文祖』というのはなぜですか。」孔子は言った。「命を天に受けるのは湯・武、命を人に受けるのは舜・禹だ。『詩』『書』『易』『春秋』を読まなければ、聖人の心が分からず、堯舜の禅譲と湯武の征伐をも分別できない。」
子張問曰禮丈夫三十而室昔者舜三十徵庸而書云有鰥在下曰虞舜何謂也曩師聞諸夫子曰聖人在上君子在位則內無怨女外無曠夫堯為天子而有鰥在下何也孔子曰夫男子二十而冠冠而後娶古今通義也舜父頑母嚚莫克圖家室之端焉故逮三十而謂之鰥也詩云娶妻如之何必告父母父母在則宜圖婚若已歿則已之娶必告其廟今舜之鰥乃父母之頑嚚也雖堯為天子其如舜何
子張は問うた。「礼は男子は三十歳で家を成すと定めます。昔、舜は三十歳で徴用されたのに、『尚書』は『有鰥在下、曰虞舜』というのは何の意味ですか。先に私は夫子が言うのを聞きました——聖人が上におり君子が位にあるときは、家に怨女はなく、外に曠夫はない。堯が天子であったのに、下にまだ鰥夫がいたのはなぜですか。」孔子は言った。「男子は二十歳で冠礼を行い、冠して後に娶る。これは古今に通じる道理だ。舜の父は頑愚で、母は嚣悌で、彼のために家を成すことを謀る者がいなかった。だから三十歳になってもなお鰥と称された。『詩経』にいう——『妻を娶るは如之何せんや。必ず父母に告ぐ。』父母があれば、父母が婚事を謀るべきだ。父母がすでに亡ければ、自ら娶るにも必ず宗廟に告げなければならない。今、舜が鰥と称されたのは、父母が頑嚣だったからだ。たとえ堯が天子でも、舜をどうすることができよう。」
子夏問書大義子曰吾於帝典見堯舜之聖焉於大禹臯陶謨益稷見禹稷臯陶之忠勤功勲焉於洛誥見周公之德焉故帝典可以觀美大禹謨禹貢可以觀事臯陶謨益稷可以觀政洪範可以觀度【謂皇極彛倫之度】泰誓可以觀義五誥可以觀仁甫刑可以觀誡通斯七者則書之大義舉矣
子夏は『尚書』の大義を問うた。孔子は言った。「私は『帝典』から堯・舜の聖明を見、『大禹謨』『皐陶謨』『益稷』から禹・稷・皐陶の忠勤の功勲を見、『洛誥』から周公の徳行を見た。だから『帝典』は美を観るべく、『大禹謨』『禹貢』は事を観るべく、『皐陶謨』『益稷』は政を観るべく、『洪範』は度を観るべく【皇極・彜倫の法度を言う】、『泰誓』は義を観るべく、五誥は仁を観るべく、『甫刑』は誡を観るべきだ。この七項を貫き通せば、『尚書』の大義はすべてここにある。」
孔子曰書之於事也逺而不濶近而不廹志盡而不怨辭順而不諂吾於髙宗肜日見德有報之疾也苟由其道致其仁則逺方歸志而致其敬焉吾於洪範見君子之不忍言人之惡而質人之美也發乎中而見乎外以成文者其唯洪範乎
孔子は言った。「『尚書』の記事は、遠く言えども迂濶せず、近く言えども局促せず、情志を尽くしても怨まず、辞気は和順でも諂わない。私は『高宗肜日』から徳には報応が速く来ることを見た——ただその道に循いてその仁を推し行えば、遠方は心を帰して敬を致す。私は『洪範』から君子が人の悪を言うに忍びず、人の美を質実することを見た。内より発して外に表れ、こうして文章を成すのは、おそらく『洪範』だけだ。」
子張問曰堯舜之世一人不刑而天下治何則以教誠而愛深也龍子以為一夫而被以五刑敢問何謂孔子曰不然五刑所以佐教也龍子未可謂能為書也子夏讀書既畢而見於夫子夫子謂曰子何為於書子夏對曰書之論事也昭昭然若日月之代明離離然若星辰之錯行上有堯舜之道下有三王之義凡商之所受書於夫子者志之於心弗敢忘雖退而窮居河濟之間深山之中作壤室編蓬戶常於此彈琴以歌先王之道則可以發憤慷喟忘已貧賤故有人亦樂之無人亦樂之上見堯舜之德下見三王之義忽不知憂患與死也夫子愀然變容曰嘻子殆可與言書矣雖然其亦表之而已未覩其裡也夫闚其門而不入其室惡覩其宗廟之奧百官之美乎
子張は問うた。「堯舜の世には一人も刑を用いずして天下が大いに治まったのは、教化が誠篤で愛心が深かったためです。竜子は一人が五刑に加えられたとしますが、この説をお尋ねします。」孔子は言った。「そうではない。五刑は教化を輔助するためのものだ。竜子はまだ『書』をよく読む者とはいえない。」子夏は『書』を読み終えて、夫子に見えた。夫子は問うた。「お前は『書』で何をしたか。」子夏は答えた。「『書』の論事は、昭昭然として日月が代々明るく、離離然として星辰が交錯して行くようだ。上は堯舜の道、下は三王の義がある。およそ商が夫子から受けた『書』は、みな心に記して敢えて忘れない。たとえ退いて河済の間・深山の中に窮居し、土室を築き蓬戸を編んで、常にそこで琴を弾じて先王の道を歌詠すれば、発憤して感嘆し、自分の貧賤を忘れることができる。だから人がいても楽しく、人がいなくても楽しい。上は堯舜の徳を見、下は三王の義を見、恍惚として憂患と死が何かを知らない。」夫子は神色を厳しくして言った。「嘻、お前はほぼ『書』を語るに足る。それでも、お前はまだその表を見ただけで、その裏を見ていない。門戸を窺って屋に入らなければ、どうして宗廟の深さ・百官の美しさが見えよう。」
宰我問書云納於大麓烈風雷雨弗迷何謂也孔子曰此言人事之應乎天也堯既得舜歴試諸難已而納之於尊顯之官使大録萬機之政是故隂陽清和五星不悖烈風雨各以其應不有迷錯愆伏明舜之行合於天也
宰我は問うた。「『尚書』に『納于大麓、烈風雷雨弗迷』というのは何の意味ですか。」孔子は言った。「これは人事と天が相応するのを言う。堯は舜を得た後、あらゆる難事で彼を歴試し、その後で彼を尊顕の官位に置き、万機の政を総録させた。だから陰陽は清和し、五星は乱れず、烈風・雷雨はそれぞれ時に応じて応え、迷錯・愆伏がなかった。これは舜の行いが天と合うことを表す。」
宰我曰敢問禋於六宗何謂也孔子曰所宗者六皆潔祀之也埋少牢於太昭所以祭時也祖迎於坎壇所以祭寒暑也主於郊宮所以祭日也夜明所以祭月也幽禜所以祭星也雩禜所以祭水旱也禋於六宗此之謂也
宰我は言った。「『禋于六宗』とは何かをお尋ねします。」孔子は言った。「尊祀するものが六項あり、いずれも清潔な祭祀を用いる。少牢を太昭に埋めるのは四時を祭るもの、坎壇で祖迎するのは寒暑を祭るもの、郊宮に主を設けるのは日を祭るもの、夜明に主を設けるのは月を祭るもの、幽禜で星を祭り、雩禜で水旱を祭る。『禋于六宗』とはこれを言う。」
書曰茲予大享於先王爾祖其從與享之季桓子問曰此何謂也孔子曰古之王者臣有大功死則必祀之於廟所以殊有績勸忠勤也盤庚舉其事以厲其世臣故稱焉桓子曰天子之臣有大功者則既然矣諸侯之臣有大功者可以如之乎孔子曰勞能定國功加於民大臣死難雖食之公廟可也桓子曰其位次如何孔子曰天子諸侯之臣生則有列於朝死則有位於廟其序一也
『尚書』にいう——『茲に予は大いに先王に享し、爾祖は其れ従りて之を享せん。』季桓子は問うた。「これは何の意味ですか。」孔子は言った。「古代の王者は、臣子に大功があれば、死後は必ず彼を廟に祀り、功績ある者を区別して忠勤を勧めた。盤庚がこのことを挙げて当世の世臣を激励したので、こう称する。」桓子は言った。「天子の臣子に大功があれば、固よりそうだが、諸侯の臣子に大功があれば、比してよいか。」孔子は言った。「労績が国家を安んじ、功徳が百姓に加わり、大臣が国難に死せば、たとえ公廟で祭を受けてもよい。」桓子は言った。「位次はどう並べるか。」孔子は言った。「天子・諸侯の臣子は、生きて朝に列位があり、死して廟に位置がある。次序は同じだ。」
書曰維髙宗報上甲微【上甲防契後八世湯之先也】定公問曰此何謂也孔子對曰此謂親盡廟毀有功而不及祖有徳而不及宗故於每嵗之大嘗而報祭焉所以昭其功徳也公曰先君僖公功德前行【或作前列】可以與於報乎孔子曰丘聞昔虞夏商周以帝王行此禮者則有矣自此以下未之知也
『尚書』にいう——『維れ高宗は上甲微に報ゆ。』【上甲微は契以後第八世、湯の先祖。底本は「微」の字を「防」と訛る。】定公は問うた。「これは何の意味ですか。」孔子は答えた。「これは親が尽き廟が毀れた後、功があっても祖廟に入るに足らず、徳があっても宗廟に入るに足らない者に、毎年の大嘗祭で別に報祭して、彼の功徳を彰明するのを言う。」定公は言った。「先君の僖公の功徳は前列にあり【一作は『前列』】、報祭に参与できるか。」孔子は言った。「丘は聞く——昔、虞・夏・商・周が帝王としてこの礼を行ったのは、ある。それ以下は、私は知らない。」
定公問曰周書所謂庸庸祗祗威威顯民何謂也孔子對曰不失其道明之於民之謂也夫能用可用則正治矣敬可敬則尚賢矣畏可畏則服刑恤矣君審此三者以示民而國不興未之有也
定公は問うた。「『周書』のいわゆる『庸庸祗祗威威顯民』は何の意味ですか。」孔子は答えた。「その道を失わず、それを百姓に向かって明らかにすること——これがその意味だ。用いるべき人を任用できれば、政治は端正する。敬うべき人を敬重できれば、賢人を尚ぶことだ。畏るべき刑を畏れれば、刑を慎んで民命を恤むことができる。国君がこの三事を審らかにして百姓に昭示すれば、国家が興盛しないことは、かつてない。」
子張問書云奠髙山何謂也孔子曰髙山五嶽定其差秩祀所視焉子張曰其禮如何孔子曰牲幣之物五嶽視三公小名山視子男子張曰仁者何樂於山孔子曰夫山者巋然髙子張曰髙則何樂爾孔子曰夫山草木植焉鳥獸蕃焉財用出焉直而無私焉四方皆伐焉直而無私興吐風雲以通乎天地之間隂陽和合雨露之澤萬物以成百姓鹹饗此仁者之所以樂乎山也孟懿子問書曰欽四鄰何謂也孔子曰王者前有疑後有丞左有輔右有弼謂之四近言前後左右近臣當畏敬之不可以非其人也周文王胥附奔輳先後禦侮謂之四鄰以免乎羑里之害懿子曰夫子亦有四鄰矣孔子曰吾有四友焉自吾得回也門人加親是非胥附乎自吾得賜也逺方之士日至是非奔輳乎自吾得師也前有光後有輝是非先後乎自吾得仲由也惡言不至於門是非禦侮乎
子張は問うた。「『尚書』に『奠高山』というのは何の意味ですか。」孔子は言った。「高山は五岳を指す。その差等・秩次を核定して、祭祀はこれに従う。」子張は言った。「礼儀はどうか。」孔子は言った。「牲幣の類、五岳は三公に比し、小名山は子・男に比す。」子張は言った。「仁者はなぜ山を楽しむのか。」孔子は言った。「山は巍然として高く聳える。」子張は言った。「高いのに何の楽しみがあるか。」孔子は言った。「山には草木が生え、鳥獣が蕃殖し、財用がそこから出て、正直で私なし。四方はみな来て材を取り、正直で私なし。また風雲を興して吐き出し、天地の間を貫通し、陰陽は和合し、雨露は潤い、万物はこれによって成り、百姓はみな供養される。これが仁者が山を楽しむ所以だ。」孟懿子は問うた。「『尚書』に『欽四鄰』というのは何の意味ですか。」孔子は言った。「王者の前に疑、後に丞、左に輔、右に弼があり、これを四近という。前後左右の近臣は敬畏すべく、其人に非ざるを任用してはならないということだ。周の文王には胥附・奔走・先後・禦侮があり、これを四鄰という。これによって羑里の患を免れた。」懿子は言った。「夫子にも四鄰があります。」孔子は言った。「私には四友がある。私が顔回を得てから、門人はますます親しくなった——これは胥附ではないか。私が端木賜を得てから、遠方の士が日々到来する——これは奔走ではないか。私が顓孫師を得てから、前に光、後に輝がある——これは先後ではないか。私が仲由を得てから、悪言は門口に至らない——これは禦侮ではないか。」
孔子見齊景公梁丘據自外而至公曰何遲對曰陳氏戮其小臣臣有辭為是故遲公笑而目孔子曰周書所謂明德慎罰陳子明德也罰人而有辭非不慎矣孔子荅曰昔康叔封衛綂三監之地命為孟侯周公以成王之命作康誥焉稱述文王之徳以成勑誡之文其書曰惟乃丕顯考文王克明徳慎罰克明徳者能顯用有徳舉而任之也慎罰者並心而慮之眾平然後行之致刑錯也此言其所任不失徳所罰不失罪不謂已徳之明也公曰寡人不有過言則安得聞吾子之教也
孔子は斉景公に見えた。梁丘拠が外から入って来た。景公は言った。「なぜ遅れたのか。」梁丘拠は答えた。「陳氏が彼の小臣を殺しました。臣は言うことがあり、これがため遅れました。」景公は笑って孔子を見て言った。「『周書』のいわゆる『明徳慎罰』——陳子は明徳と算えられよう。人を罰して相手がまだ申弁できるとは、謹んでいないのではないか。」孔子は答えた。「昔、康叔は衛に封じられ、三監の地を統轄し、命を受けて孟侯となり、周公は成王の命で『康誥』を作り、文王の徳行を称述して告誡の文辞を完成した。その書にいう——『惟れ乃ち丕顕考文王、克く明徳慎罰す。』いわゆる克く明徳するとは、徳ある人を顕用して挙げ任用すること。いわゆる慎罰とは、心を併せて考え、衆が平允とした後に施行し、刑措して用いないに至ること。これは彼が任用する所は徳ある人を失わず、罰する所は罪ある人を失わないことを言うのであって、自分の徳がすでに明らかだというのではない。」景公は言った。「寡人がもし言を誤らなければ、どうして先生の教誨を聞くことができよう。」
書曰其在祖甲不義惟王公西赤曰聞諸晏子湯及太甲武丁祖乙天下之大君夫太甲為王居喪行不義同稱君何也孔子曰君子之於人計功而除過太甲即位不明居喪之禮而幹冢宰之政伊尹放之於桐憂思三年追悔前愆起而復位謂之明王以此觀之雖四於三王不亦可乎
『尚書』にいう——『其在祖甲、不義惟王。』公西赤は言った。「晏子が言うのを聞きました——湯および太甲・武丁・祖乙は、天下の大君だ。太甲が王であったとき居喪の行事が不義だったのに、ともに君と称されるのはなぜですか。」孔子は言った。「君子は人に対して、功労を計って過失を除く。太甲が位に即くと、居喪の礼を明らかにせず、冢宰の政事を干渉したので、伊尹は彼を桐に放逐した。彼は三年を憂思し、先の過ちを悔い、起きて君位を復し、明王と称された。ここから見れば、たとえ彼を三王と並べて第四としても、よいのではないか。」
魯哀公問書稱夔曰於予擊石拊石百獸率舞庶尹允諧何謂也孔子對曰此言善政之化乎物也古之帝王功成作樂其功善者其樂和樂和則天地猶且應之況百獸乎夔為帝舜樂正實能以樂盡治理之情公曰然則政之大本莫尚夔乎孔子曰夫樂所以歌其成功非政之本也眾官之長既咸熙熙然後樂乃和焉公曰吾聞夔一足有異於人信乎孔子曰昔重黎舉防而進又欲求人而佐焉舜曰夫樂天地之精也唯聖人為能和五律均五音知樂之本以通八風夔若能此一而足矣故曰一足非一足也公曰善
魯の哀公は問うた。「『尚書』は夔を称して『ああ、我は石を撃ち石を拊して、百獣は率舞し、庶尹は允に諧す』というのは何の意味ですか。」孔子は答えた。「これは善政が万物を感化するのを言う。古代の帝王は功成って楽を作る。功業が良ければ楽は和し、楽が和せば天地でさえ応じる。まして百獣においてをや。夔が帝舜の楽正となり、実に楽を以て治の状を表し尽くすことができた。」哀公は言った。「では為政の大本は、夔より高いものはないのか。」孔子は言った。「楽はすでに成就した功業を歌頌するためのもので、政の根本ではない。衆官の長がすでに和楽熙熙として、それから楽が和する。」哀公は言った。「私は聞く——夔はただ一足しかなく、人と違うというが、本当か。」孔子は言った。「昔、重黎は夔を挙げて進用し、また人を求めて彼を輔けようとした。舜は言った——『楽は天地の精華であり、聖人のみ五律を調和し五音を均平し、楽の根本を得て八風を貫通できる。夔がもしこの一項を能くするなら、一人で足りる。』だから『一足』というのであって、『一足の脚』ではない。」哀公は言った。「よい。」
記義第三
記義第三
季桓子以粟千鍾餼夫子夫子受之而不辭既而以頒門人之無者子貢進曰季孫以夫子貧故致粟夫子受之而以施人無乃非季孫之意乎子曰何對曰季孫以為恵也子曰然吾得千鍾所以受而不辭者為季孫之恵且以為寵也夫受人財不以成富與季孫之恵於一人豈若恵數百人哉
季桓子は粟一千鍾で夫子に供給した。夫子は受け取って辞しなかった。その後、門人の中で糧食のない者に分け与えた。子貢が入って言った。「季孫は夫子が貧乏なので粟を送ったのに、夫子は受けて他人に施す。これは季孫の意思ではないのではないか。」孔子は言った。「どういうことか。」子貢は言った。「季孫はこれを恩惠としている。」孔子は言った。「そうだ。私が一千鍾を得て受けて辞しないのは、これが季孫の恩惠であり、これを栄寵とするからだ。だが人の財物を受けて、これを以て自ら富まない。季孫の恩惠を一人に与えるより、恩惠を数百人に与えるほうがよくないか。」
秦莊子死孟武伯問於孔子曰古者同寮有服乎荅曰然同寮有相友之義貴賤殊等不為同官聞諸老耼昔者虢叔閎夭太顛散冝生南宮括五臣同寮比德以贊文武及虢叔死四人者為之服朋友之服古之達理者行之也
秦荘子が死んだ。孟武伯は孔子に問うた。「古に同僚に喪服はあったか。」孔子は答えた。「あった。同僚には互いに朋友となる道理がある。貴賤の等級が同じでなければ、同官とはいえない。老聃が言ったのを聞いた——昔、虢叔・閎夭・太顛・散宜生・南宮括の五臣が同僚で、徳が比して文王・武王を輔佐した。虢叔が死んだとき、残りの四人は彼のために朋友の喪服を着た。古代の事理に通じた人はこのようにした。」
公父文伯死室人有從死者其母怒而不哭相室諌之其母曰孔子天下之賢人也不用於魯退而去是子素宗之而不能隨今死而內人從死者二人焉若此於長者薄於婦人厚也既而夫子聞之曰季氏之婦尚賢哉子路愀然對曰夫子亦好人之譽已乎夫子死而不哭是不慈也何善爾子曰怒其子之不能隨賢所以為尚賢者吾何有焉其亦善此而已矣
公父文伯が死んだ。家の中に殉死する者がいたが、彼の母は怒って泣かなかった。相室が彼女を勧めたが、母は言った。「孔子は天下の賢人でありながら、魯国に用いられず、退いて去った。この子は彼を尊びながら従うことができなかった。今死んで、内に殉死する婦人が二人もいる。このようなのは、長者には薄く、婦人には厚い。」後で夫子はこれを聞いて言った。「季氏の婦人は、まだ賢人を尚ぶことを知っているな。」子路は神色を愀然として答えた。「夫子も他人が自分を称賛するのを喜ぶのですか。子が死んだのに泣かないのは不慈であり、何がよいのですか。」孔子は言った。「彼女は子が賢人に追随できなかったのを悩んだ。だから賢人を尚ぶのだ。これは私と何の関係があるか。彼女もただこの一点でよいだけだ。」
衛出公使人問孔子曰寡人之任臣無大小一一自覩察之猶復失人何故荅曰如君之言此即所以失之也人既難知非言問所及觀察所盡且人君之慮者多多慮則意不精以不精之意察難知之人宜其有失也君未之聞乎昔者舜臣堯官不任士堯一從之左右曰人君用士當自任耳目而取信於人無乃不可乎堯曰吾之舉舜已耳目之矣今舜所舉人吾又耳目之是則耳目人終無已時也君苟付可付則已不勞而賢才不失矣
衛の出公は人を遣わして孔子に問わせた。「寡人は臣下を任用して、大小を問わず一々自ら察るが、それでも人を用いるのを失う。なぜか。」孔子は答えた。「あなたのこの言によると、これがまさに人を失う所以だ。人はもともと知りにくい。問話で問えるものでもなく、観察で尽くせるものでもない。しかも人君が考慮すべき事は多く、考慮が多ければ心意は精しくならない。精しくない心意で知りにくい人を察れば、当然に失いがある。あなたは聞かないか。昔、舜が堯の臣であったとき、官职は士人の自任によらず、堯は一々之を聴従した。左右の人が言った——『人君が人を用いるのは、自ら耳目を用いるべきなのに、人に取り信ずるのは、おそらく駄目ではないか。』堯は言った——『我は舜を挙用して、すでに耳目を用いた。今、舜が挙げた人に、私がまた耳目を以て察れば、耳目で人を察ることは永遠に終わらない。』国君がもし事を托すべき人に托せば、自ら労せずして、賢才も失われない。」
子貢問曰昔孫文子以衛侯哭之不哀知其將為亂不敢舍其重器而行盡寘諸戚而善晉大夫二十人或稱其知何如孔子曰人知其為知也吾未知其為知也子貢曰敢問何謂也子曰食其祿者必死其事孫子知衛君之將不君不念伏死以爭而素規去就尸利攜貳非人臣也臣而有不臣之心明君所不赦幸哉孫子之以此免戮也
子貢は問うた。「昔、孫文子は衛侯が之を哭して哀れまなかったために彼が乱を作ることを知り、重器を置いて行くのを敢てせず、それをすべて戚邑に置き、さらに晋国の大夫二十人と交好した。ある人は彼を智ありというが、どうですか。」孔子は言った。「人は彼を智ありと知るが、私は彼を智ありとは知らない。」子貢は言った。「どういうことかお尋ねします。」孔子は言った。「彼の俸禄を食む者は、必ず死を以て彼の事に赴くべきだ。孫子は衛君が君らしくないことを知りながら、伏して死に諫争しようとせず、平生から去就を企画して、位に尸りて利を取り、二心を懐く。これは人臣のあるべき姿ではない。臣子でありながら臣でない心を持つことは、明君が赦さないところだ。孫子がこれによって殺されずに済んだのは、彼の僥倖だ。」
孔子使宰予使於楚楚昭王以安車象飾因宰予以遺孔子焉宰予曰夫子無以此為也王曰何故對曰臣以其用思其所在觀之有以知其然王曰言之宰予對曰自臣侍從夫子以來竊見其言不離道動不違仁貴義尚徳清素好儉仕而有祿不以為積不合則去退無吝心妻不服防妾不衣帛車器不雕馬不食粟道行則樂其治不行則樂其身此所以為夫子也若夫觀目之麗靡窈窕之音夫子過之弗之視遇之弗之聽也故臣知夫子之無用此車也王曰然則夫子何欲而可對曰方今天下道德寢息其志欲興而行之天下誠有欲治之君能行其道則夫子雖使歩以朝固猶為之何必逺辱君之重貺乎王曰乃今而後知孔子之徳也大矣宰予歸以告孔子孔子曰二三子以予之言何如子貢對曰未盡夫子之美也夫子徳髙則配天深則配海若予之言行事之實也夫子曰夫言貴實使人信之捨實何稱乎是賜之華不若予之實也
孔子は宰予を楚国に出使させた。楚昭王は象牙で飾った安車を宰予に托して孔子に贈らせた。宰予は言った。「夫子はこれを用いないでしょう。」王は言った。「なぜか。」宰予は答えた。「臣は彼の心をどこに用いるかを観察して、こうなる理由を知っている。」王は言った。「言ってみよ。」宰予は答えた。「臣が夫子に侍って以来、私に彼を見るに、言葉は道を離れず、行動は仁に背かず、義を重んじ徳を崇び、清素で倹を好む。官を為して俸禄があっても、これを以て蓄積せず。合わなければ去り、退くとき心に吝惜がない。妻子は華麗な服を着ず、妾は帛を着ず、車器は雕飾せず、馬は粟を食わず。道が行えればその治を楽しみ、道が行えなければ自身を楽しむ。これが夫子が夫子たる所以だ。目を悦ばせる華麗・窈窕の淫靡の音に至っては、夫子は過ぎても見ず、遇っても聴かない。だから臣は夫子がこの車を用いないと知っている。」王は言った。「では夫子は何を欲すればよいのか。」宰予は答えた。「今、天下の道徳は寝息している。彼の志はこれを興して行わせたいと思っている。天下に果して治めようとする君主があり、その道を行えるならば、たとえ夫子を歩かせて朝見させても、彼は必ず行くだろう。どうして遠くあなたの厚賜を辱めようか。」王は言った。「今日になってはじめて孔子の徳がどれほど大きいかを知った。」宰予は帰って孔子に告げた。孔子は言った。「お前たちは宰予の言をどう思うか。」子貢は答えた。「まだ夫子の美を言い尽くしていない。夫子の徳は高ければ天に配し、深ければ海に配する。宰予が言ったようなのは、ただ行事の実情にすぎない。」夫子は言った。「言は実に貴く、こそ人を信じさせることができる。実を離れて、何を以て称しようか。賜の華美は、予の朴実に及ばない。」
