孔丛子 · 第5巻
蓼蟲賦
蓼虫賦
季夏既望暑往涼還逍遙諷誦遂歴東園周旋覽觀憇於南藩覩茲茂蓼結葩吐榮猗那隨風緑葉紫莖爰有蠕蟲厥狀似螟群聚其間食之以生於是悟物託事推況乎人幼長斯蓼莫或知辛膏梁之子豈曰不雲惟非徳非義不以為家安逸無心如禽獸何逸必致驕驕必致亡匪惟辛苦乃丁大殃
季夏は既望、暑は往き凉は還る。逍遥して諷誦し、ここに於いて東園を経過し、周旋して觀覽し、南藩に於いて歇息す。此の茂盛なる蓼を見る——花を開き榮を吐き、猗那として風に随い、綠葉・紫莖。ここに於いて蠕虫有り。形狀は螟のごとく、群を成して其の裏に聚まり、之を吃って生存す。ここに於いて物に覺悟し・事に托して況を人に推す——小より大まで此の蓼の裏に在りて、誰か辛を知る者有らん。膏粱の子弟、豈に以て説く可からざるか。只だ是れ徳に非ず義に非ざれば、以て家を成さず。安逸は心無し。禽獸と何の分別か有らん。逸は必ず驕を致し、驕は必ず亡を致す。不只だ辛苦のみならず、竟に大殃に遭う。
與侍中從弟安國書
侍中從弟安國に與える書
臧報侍中相知忿俗儒淫辭冒義有意欲校亂反正由來乆矣然雅達博通不世而出流學守株比肩皆是眾口非非正將焉立每獨念至此夙夜反側誠懼仁弟道非信於世而以獨知為愆也人之所欲天必從舊章潛於壁室正於紛擾之際欻爾而見俗儒結舌古訓復申豈非聖祖之靈慾令仁弟贊明其道以闡其業者哉且曩雖為今學亦多所不信唯聞尚書二十八篇取象二十八宿謂為至然也何圖古文乃有百篇邪如堯典説者以為堯舜同道弟素常以為雜有舜典今果如所論及成王道雷風周公信自在俗儒群驅狗吠雷同不得其髣髴惡能明聖道之真乎知以今讐古之篆推科斗已定五十餘篇併為之傳云其餘錯亂文字摩防不可分了欲垂待後賢誠合先君闕疑之義顧惟世移名制改變文體義類轉益難知以弟博洽溫敏既善推理又習其書而猶尚絶意莫肯垂留三思縱使來世亦有篤古碩儒其若斯何嗚呼惜哉先王遺典缺而不補聖祖之業分半而泯後之君子將焉取法假令顔閔不歿遊夏更生其豈然乎不得已已貴復申之
臧は侍中に報告す——彼此は相知し、俗儒が淫辭を以て義を冒犯するを忿恨す。意有りて混亂を校正し・正に歸らんと欲す。由來は已に久し。然る可く雅達・博通の人は每世に出現するに非ず。陳規を拘守するの流學は而も比肩して皆是なり。衆口は紛紛として否定す。正は将に何れの処に立たんか。獨り此に想到る毎に、夙夜反側す。實に仁弟の道が世に取信せられずして、而も獨知に因りて愆尤と成らんを怕る。人の欲する所は、天は必ず依從す。舊章は壁室に潛藏せり。紛擾の際に於いて忽然として出現す。俗儒は舌を結び、古訓は重新して申明す。豈に聖祖の靈が仁弟をして那の道を贊助闡明し・以て那の業を開闡せしめんと欲するに非ざらんや。況んや先前は今文の學を為せりと雖も、亦た多く信ぜざる有り。只だ『尚書』二十八篇は二十八宿に取象すと聞き、以て此に至るに止まると為せり。何れか古文は竟に百篇有らんを想到せしや。『堯典』のごときは、説く者は以て堯舜は道を同じくすと為す。弟は素より以て其の裏に『舜典』を雜うと為せり。今は果して論ずる所のごとし。および成王は雷風に遇い、周公は誠信は自在す。俗儒は群起して狗吠のごとく雷同せり。其の髣彿を得ず。又た何を以て聖道の真を明白せん。以て今文を用いて古文の蝌蚪篆を讐校し、科斗を推求す。已に五十餘篇を寫定し且つ傳を作れり。其の餘は錯亂して文字は磨損して分辨す可からず。後賢に留めんと欲す。誠に先君の疑を闕くの義に合す。只だ世は移り・名制は改變し、文體・義類は愈々知り難しと想う。弟の博洽・溫敏を以て、既に理を推するに善く、又た彼の等の書に熟習す。而も尚お決意して留めて三思せざるを肯んぜず。たとえ來世も亦た篤古・碩儒有るを縱しとも、此に對して又た如何せん。嗚呼惜しいかな。先王の遺典は缺して而も補われず、聖祖の業は一半を分掉して而も泯滅す。後來の君子は将に何れより法を取らん。假に顏・閔は死せず、游・夏は再生せば、豈に此のごとくならんや。已むを得ずや已むを得ず、貴ぶ所は再び之を申明す。
與子琳書
子琳に與える書
告琳頃來聞汝與諸友書講肄學傳滋滋晝夜衎衎不怠善矣人之進道惟問其志取必以漸勤則得多山霤至柔石為之穿蠍蟲至弱木為之弊夫霤非石之鑿蠍非木之鑽然而能以微脆之形陷堅剛之體豈非積漸之致乎訓曰徒學知之未可多履而行之乃足佳故學者所以飾百行也侍中子國明達淵博雅學絶倫言不及利行不欺名動遵禮法少小長操故雖與群臣並叅侍見待崇禮不供防事獨得掌御唾壺朝廷之士莫不榮之此汝親所見詩不云乎毋念爾祖聿修厥徳又曰操斧伐柯其則不逺逺則尼父近則子國於以立身其庶矣乎
琳に告ぐ——近來、あなたが各位朋友と學問を講習し・學業を傳授し、晝夜は滋滋・衎衎として怠らざるを聞く。善いかな。人の道に進むは、只だ志向を問う。求取は必ず漸進せんを要す。勤なれば則ち多く得る能し。山間の滴水は至柔にして、石は彼に穿破せらる。蝎虫は至弱にして、木は彼に弊壞せらる。滴水は是れ石を鑿るの鑿に非ず。蝎は是れ木を鑽るの鑽に非ず。而も能く微脆の形を以て堅剛の體に陷入す。豈に積漸の致す所に非ざらんや。訓は説く——只だ學して而も尚お多からざるを知るは、履行實行して乃ち足りて好し。だから學は是れ以て百行を修飾するに用いる。侍中子國は明達・淵博、雅學は絶倫なり。話を説くは利に及ばず、事を行うは名を欺かず、舉動は禮法を遵守す。小より以來りて操守を養成せり。だから群臣と一起に參侍進見するも、崇禮を以て待せられ、雜事を供せず、獨り御用の唾壺を掌管するを得る。朝廷の士は彼を以て榮と為さざる無し。これはあなたの親眼の見る所なり。『詩經』は説かざるや——「爾の祖を念ぜ、厥の徳を修めよ。」又た曰く——「斧を操りて柯を伐る。其の則は遠からず。」遠きは則ち尼父、近きは則ち子國。以て身を立つるは、大概以て可ならん。
敘世
叙世
臧子琳位至諸吏亦博學問琳子黃厥徳不修失侯爵大司徒光以其祖有功德而邑土廢絶分所食邑三百戸封黃弟茂為闗內侯茂子子國生子卯為諸生特善詩禮而傳之子卯生仲驩為博士農守善春秋三傳公羊穀梁訓諸生仲驩生子立善詩書少遊京師與劉歆友善嘗以清論譏貶史丹史丹諸子並用事為是不仕以詩書教於闕里數百人子立生子元以郎校書時歆大用事而子元校書七年官不益故或譏以為不恤於進取唯揚子云善之子元生子建與崔義防相善長相親也義仕王莽為建新大尹數以世利勸子建仕子建答曰吾有布衣之心子有袞冕之志各從所好不亦善乎且昔與子防同志故相友也今子以富貴為榮而吾以貧賤為樂志已乖矣乖而相友非中情也請與子辭遂歸鄉里【崔義當作毅字】光武中興天下未悉從化董憲彭豐等部眾於鄒魯之間郡守上黨鮑府君君長患之是時闕里無故荊棘叢生一旦自闢廣千數百步從舊講堂坦然至里門府君大驚謂子建曰豈卿先君欲令太守行饗禮助太守誅惡耶子建對曰其然府君曰為之奈何對曰庠序之儀廢來乆矣今誠修之民必觀焉且憲豐為盜或聚或散非有堅固部曲也若行饗射之禮內為禽之之備外示以簡易憲等無何依眾觀化可因而縛也府君從之用格憲等子建生仁以文學為議郎博士南海太守生子豐子豐以學行聞三府交命委質司空拜髙第御史建初元嵗大旱天子憂之問群臣政教得失子豐乃上疏曰臣聞為不善而災報得其應也為善而災至遭時運也陛下即位日新視民如傷而不幸耗旱時運之防爾非政教之所致也昔成湯遭旱因自責省故散積減御損膳而大有年意者陛下未為成湯之事焉天子納其言而從之三日雨即降轉拜黃門侍郎典東觀事子豐生子和【史作孔僖字仲和此書葢孔氏子孫所作故不書名】大中大夫鮑彥曰人之性分氣度不同有體貌亢疏色厲矜莊儀容氷栗似若能斷而當事少決不遂其為者或性靜不與俗競氣不勝辭似若無能而涉事不顧臨危不撓者是為似若彊焉而不能勝似若弱焉而不可奪也君子觀之以表推內察容而度心所以得之也若是似類相亂如何取實乎子豐曰夫人者患在不察也人之所綜物才志也慮協於理固以守之此之謂彊知足以通變明足以破偽情足以審疑果足以必志固可以先事而成功矣即所謂寛柔內思不報無道之彊豈待形氣之助乎若乃貌厲內荏髙氣亢戾多意倨跡理不充分業不一定執志不果此謂剛愎非彊者也是故君子欲必其行由是論之彊弱之分不取於氣色明矣必也察志在觀其履事乎非定計於內而敏發於外孰能稱此彊名乎哉
孔臧の兒子の孔琳は、官は諸吏に至る。亦た博學にして好問なり。孔琳の兒子の孔黃は、德行は修めず、侯爵を失去す。大司徒孔光は彼の祖先の功德有るを以て而も邑土は廢絕せるに因りて、食する所の邑を分ちて三百戸とし、孔黃の弟弟の孔茂を封じて關内侯と為す。孔茂の兒子の子國は子卯を生み、諸生を為り、特に『詩』『禮』に善くして而も後人に傳う。子卯は仲驩を生み、博士・弘農守を為り、『春秋』三傳・『公羊』『穀梁』に善くして、諸生を訓授す。仲驩は子立を生み、『詩』『書』に善くし、少年にして京師に游び、劉歆と交好す。嘗て清論を以て史丹を譏貶せり。史丹の兒子らは皆權を當りたり。此に因りて官を為らず、闕里に於いて『詩』『書』を以て幾百人を教えたり。子立は子元を生み、郎を以て書を校す。當時、劉歆は大いに權を當りたり。子元は書を校すること七年にして官は升らず。だから或る人は彼を譏って進取を恤まざると為す。只だ楊子雲は彼を善と稱せり。子元は子建を生み、崔義と少年に交好し、長じて相親しむ。崔義は王莽の手下に於いて官を為り、建新大尹を為す。屢々世利を以て子建に官を為れと勸む。子建は答えた。「我は布衣の心有り。あなたは袞冕の志有り。各々好む所に從う。亦た好からずや。況んや昔、あなたと少年は志を同じくして交わる所以なり。今、あなたは富貴を以て榮と為し、我は貧賤を以て樂と為す。志向は已に乖離せり。乖離して而も尚お交わるは、衷情に非ず。あなたと辭別せんを請う。」ここに於いて鄉里に歸る。【崔義は当に毅字と作るべし。】光武は中興せり。天下は尚お未だ盡く歸化せず。董憲・彭豊等の部衆は鄒魯の間に在り。郡守上黨の鮑府君君長は憂慮せり。此の時、闕里は故無く荊棘は叢生せり。一日にして自ら辟開し、寬廣は千數百步。舊講堂より坦然として里門に通ず。府君は大いに驚き、子建に對して曰く——「豈に是れあなたの先君が太守をして饗禮を行い・太守を幇助して惡を誅せしめんと欲するに非ざらんか。」子建は答えた。「是れ此のごとし。」府君は曰く——「当に如何に辦ずべきか。」對答して曰く——「庠序の儀は廢すること已に久し。今、果して修習せば、百姓は必ず來りて觀看せん。況んや董憲・彭豊は盜を為し、或いは聚まり或いは散ず。堅固の部曲無し。若し饗射の禮を行い、内裏は擒獲の准備を為し、外面は簡易を顯示せば、憲等は端無く衆人に依りて來りて化を觀ずれば、以て機に乘じて縛住す可し。」府君は聽從し、因りて董憲等を擒獲せり。子建は孔仁を生み、文學を以て議郎・博士・南海太守を為り、子豊を生む。子豊は學行を以て聞こゆ。三府は交り征命す。司空に委質し、高第御史に拜せらる。建初元年に大旱せり。天子は憂慮し、群臣に政教の得失を問う。子豊はここに於いて疏を上げて曰く——「臣は聞く——不善を為して而も災は來りて報ゆるは、是れ相應を得るなり。善を為して而も災は到來するは、是れ時運に遭遇す。陛下は即位して日新し、百姓を看ること傷者を看るがごとし。而も不幸にして旱を耗す。只だ是れ時運の此のごとくするにして、政教の致す所に非ず。昔、成湯は旱に遭遇し、因りて自ら責め省察せり。だから積蓄を散じ・御用を減じ・膳食を損じて而も大有年せり。想うに陛下は尚お未だ成湯のごときの事を為さざるなり。」天子は彼の話を採納して而も聽從せり。三天にして雨は則ち降下せり。轉じて黃門侍郎に拜し、東觀の事を典掌す。子豊は子和を生む【史書は孔僖字仲和と作る。此の書は大概是れ孔氏の子孫の作せる所。だから名を寫さず】。大中大夫鮑彥は曰く——「人の性分・氣度は同じからず——體貌は亢疏・色は厲にして矜莊・儀容は冰のごとく凛栗たる者有りて、似たる能く決斷するがごとく、事に臨みて而も少決斷・能く其の為す所を遂成せざる者有り。性は玄靜・俗と爭わず・氣は辭に勝たざる者有りて、似たる能無きがごとく、然る可く事に遇えば顧みず・危に臨みて撓まざる者有り。これ是れ似たる強にして而も能く勝たず・似たる弱にして而も奪う可からず。君子が觀察するは、表より内を推し、容を察して心を度る。だから能く得るなり。若し此のごとく類に似て相亂るれば、如何にして實を取らん。」子豊は曰く——「人の患は察せざるに在り。人の綜理する所は是れ物・才・志なり。思慮は理に合し、堅定して守住す。これを強と呼ぶ。知は以て通變するに足り、明は以て偽を破るに足り、情は以て疑を審らかにするに足り、果は以て志を必にするに足る。本來以て事に先んじて而も成功す可し。即ち謂う所の寬柔・内思・道無きに報ゆる勿れの強なり。何ぞ形氣を待ちて以て幇助せんを要せん。貌は厲にして内は荏・氣は高く亢戾・意は倨傲多く・理は充分ならず・業は一定せず・志を執るも果ならざるに至っては、これを剛愎と呼ぶ。是れ強に非ず。だから君子は必ず彼の行を要す。此より論ずれば、強弱の分別は氣色に取らず。則ち明白なり。必ず志向を察せんと欲せば、彼の事を為すを看るに在り。内に於いて計を定めて而も外に於いて敏捷に發出するに非ざれば、誰か此の強の名を稱せん。」
子豐曰夫物有定名而論有一至是故有可以一言而得其極雖十言不能奪者惟析理即實為得不以濫麗費辭為賢也然而世俗之人聰達者寡隨聲者眾持論無主俯仰為資因貴勢而附從托浮説以為定不求之於本不考之於理故冗長溷殽之言而眾莫能折其中所以為口實而無得也夫論辨者貴其能別是非之理非巧説之謂也當要者訥言得理此乃辨也聽者由弗之察辭氣支離取喻多端幸較以類理不應實而聽者因形飾偽徒贊然之是所謂以巧辭多喻為辨而莫識一言之別實者也人皆欲剖析分理揆度真偽固不知所以精之如自為得其謬惑莫之甚焉是故舉多敗事而寡特之知困於群醜也夫聰者不可亂以淫聲明者不可以邪色而世人不必聰明故有氣勢者益得之半無此二者損得之半也
子豊は曰く——「物は定名有り、論は一個の極至有り。だから以て一句の話に其の極處を得・たとえ十句の話なりとも亦た能く奪わざる者有り。只だ事理を分析し・實に就着するを算得して、華麗鋪張の費辭を以て賢と為さず。然る可く世俗の人は、聰達は少なく、聲に随うは多し。持論は主見無く、俯仰を以て資本と為し、貴勢に因りて附從し、浮説に托して以て定と為す。之を本に求めず、之を理に考えず。だから冗長・混雜の話は、衆人は能く折中せず、口實と成りて而も得る所無し。論辨の貴ぶ所は、是非の理を分別する能くするに在りて、巧妙の説に在らず。要處に當りて言語は遲鈍して而も理を得る。これ乃ち是れ辨なり。聴く者は尚お察せず。辭氣は支離し、喻を取ること多端にして、僥倖して類を以て比較す。理は而も實に應せず。聴く者は形に因りて偽を飾り、徒らに贊嘆して以て然と為す。これ即ち謂う所の巧辭多喻を以て辨と為して、而も一句の話に就いて則ち能く實を分別するを識らざるなり。人は皆剖析分理・真偽を揆度せんと欲するも、而も本來精審の方法を知らず。似たる自ら得たりとするは、那の謬惑は此より甚だしき無し。だから事を舉ぐれば多く敗れ、而も少数の特出する知は群醜の裏に困る。聰の人は以て淫聲に擾亂せられず、明の人は以て邪色に蒙蔽せられず。而も世上の人は未必聰明ならず。だから氣勢有る人は多く一半を得、此の両樣無き人は少なく一半を得る。」
子豐善於經學不好諸家書鮑彥與子豐名齊而業殊故謂子豐曰家書多才辭莫過淮南也讀之令人斷氣方自知為陋爾子豐曰試説其最工不可及者彥曰君子有酒小人鼔缶雖不可好亦不可醜此語何如子豐曰不急爾彥曰且效作此語子豐曰君子樂醼小人擊抃雖不足貴亦不可賤君子舞象小人擊壌上化使然又何足賞吾能作數十曲但無益於世故不為爾鮑子於是屈而無辭
子豊は經學に善くして、諸家の書を喜好せず。鮑彥は子豊と名氣は相當して而も學業は不同なり。だから子豊に對して曰く——「家裏の書の才辭の多きは、『淮南』を超過する無し。讀めば人をして氣を喘がしめざらしむ。乃ち己の陋なるを知れり。」子豊は曰く——「試みに其の最も工にして而も及ばざるを説け。」鮑彥は曰く——「『君子に酒有り、小人は缶を鼓す。好む可からずと雖も、亦た醜しむ可からず。』此の話は如何。」子豊は曰く——「急ならず。」鮑彥は曰く——「姑且く此のごときの話を仿作せよ。」子豊は曰く——「君子は宴を樂しみ、小人は抃を擊つ。貴ぶに足らずと雖も、亦た賤しむ可からず。君子は象を舞い、小人は壤を擊つ。上の化の使たらしむる所、又た何ぞ必ず賞せん。我は能く幾十曲を作る。只だ世に益無きを以て、だから為さず。」鮑子はここに於いて屈服して話無し。
左氏傳義詁序
左氏傳義詁序
先生名竒字子異其先魯人即褒成君次孺第二子之後也【孔覇字次孺】家於茂陵以世學之門未嘗就逺方師也唯兄君魚少從劉子駿受春秋左氏傳具於講業最明精究其義子駿自以才學不若也其或訪經傳於子駿輙曰幸問孔君魚吾已還從之諮道矣由是大以春秋見稱當世【孔奮字君魚覇之曽孫】王莽之末君魚避地至大河之西依大將竇融為家常為上賔從容以論道為事是時先生年二十一矣每與其兄議學其兄謝服焉及世祖即阼君魚乃仕官至武都太守闗內侯以清儉聞海內先生雅好儒術淡忽榮祿不願從政遂刪撮左氏傳之難者集為義詁發伏闡幽贊明聖祖之道以袪後學者書未畢而早世不永宗人子通痛其不遂惜茲大訓不行於世乃校其篇目各如本第並序答問凡三十一卷將來君子倘肯遊意幸詳録之焉
先生は名は奇、字は子異。先人は是れ魯人。即ち褒成君次孺の第二子の後裔なり【孔覇字次孺】。家は茂陵に在り。是れ世學の門なるを以て、未だ嘗て遠方に至りて師を求めず。只だ兄君の子魚は少年にして劉子駿に從いて『春秋左氏氏傳』を學び、講業上に於いて最も明にして・其の義を精究せり。子駿は自ら以て才學は彼に如かずと為し、或る人は子駿に向いて經傳を訪ねば、總べて曰く——「幸いに孔君魚に問え。我は已に頭を回らして彼に向いて道を咨せり。」此に因りて大いに『春秋』を以て当世に見稱せらる。【孔奮字君魚、是れ孔覇の曾孫。】王莽の末年、君魚は地を避けて大河の西に到り、大將竇融に依附して家と為し、常常に上賓を為り、從容として道を論ずるを以て事と為せり。此の時、先生は二十一歳なり。兄長と學を議する毎に、兄長は皆彼を服せり。世祖が位に即くに及びて、君魚は乃ち官を為り、官は武都太守・關内侯に至る。清儉を以て海内に聞こゆ。先生は儒術を雅好し、榮祿を淡忽し、政に從るを願わず。ここに於いて『左氏傳』の裏の難き所を刪撮し、『義詁』を集成す。伏を發し幽を闡き、聖祖の道を贊助闡明して、以て後學の疑惑を祛除せんとす。書は未だ完わらずして而も早世して永からず。宗人の子通は彼の未だ完成せざるを痛惜し、此の大訓の能く世に行われざるを惜しみ、ここに於いて篇目を校訂して各々本來の次第のごとくし、并せて答問を序す。一共三十一卷。將來の君子は倘若肯んじて留意せば、詳細に著錄せんを願う。
連叢子下第二十三
連叢子下第二十三
元和二年三月孝章皇帝東巡過魯幸闕里以太牢祠聖師作六代之樂天子升廟西面群臣在庭北面皆再拜天子進爵而後坐乃召諸孔丈夫年二十以上者六十三人臨賜酒飯子和自陳曰臣草莽所蔽才非干時行非絶倫托備先聖嗣世名學家陛下謬加拔擢微臣蘭臺令史防值車駕東巡先禮聖師猥以餘福惠及臣宗誠非碎首所能報謝詔曰治何經對曰為詩書頗涉禮傳詔曰今日之防寧於卿宗有光榮乎對曰非所敢當也臣聞明王聖主莫不尊師而貴道今陛下尊臣祖之靈貴臣祖之道親屈萬乗辱臨敝裡此乃陛下所以崇聖也若夫顧其遺嗣得與群臣同受釐福此乃陛下愛屋及烏惠下之道所以崇徳作聖臣宗弗與於光榮非所敢承天子嘆曰非聖者子孫惡有斯言遂拜子和郎中詔隨車駕賜孔氏男女錢帛子和從還京師遂校書東觀其年十二月為臨晉令其友崔駰以其家卦林占之謂為不吉語子和曰盍辭乎【漢崔篆嘗著易林篆乃駰之祖故曰家】答曰學不為人仕不擇官所以為吉也且卜以決疑不疑何卜吉防由人而由卦林乎徑往之官三年秋八月天子巡后土登龍門子和自請從行在所天子識其狀貌燕見移時賜帛十端還而九月既望寢疾不瘳乃命其二子留塟焉二子長曰長彥年十有二次曰季彥年十嵗父之友西洛人姚進先有道徵不就養志於家長彥季彥常受教焉既除防則苦身勞力以自衣食家有先人遺書兄弟相勉諷誦不倦於時蒲阪令汝南許君然造其宅勸使歸魯奉車二乗辭曰載柩而返則違父遺命舍父而去則心所不忍君然曰以孫就祖於禮為得子無疑答曰若以死有知也祖猶有鄰宗族父獨留此不亦劇乎吾以定矣遂還其車於是甘貧味道研精墳典十餘年間防徒數百故時人為之語曰魯國孔氏好讀經兄弟講誦皆可聽學士來者有聲名不過孔氏那得成長彥頗隨時為今學【其時多為章句學】季彥壹其家業兼修史漢不好諸家之書
元和二年三月、孝章皇帝は東に巡りて魯を經過し、駕は闕里に幸し、太牢を以て聖師を祠り、六代の樂を演奏す。天子は廟に升りて面は西に朝き、群臣は庭中に於いて面は北に朝き、皆再拜す。天子は爵を進めて然る後に坐し、ここに於いて孔氏の男子二十歳以上の六十三人を召請し、酒飯を臨賜す。子和は自ら陳説して曰く——「臣は草莽に蔽われ、才は能く時に干らず、行は能く倫に絕せず。先聖の後嗣に托して、世代は學に名有り。陛下の謬く拔擢を加うるを承け、微臣は蘭臺令史を為る。車駕の東に巡るに正值し、先ず聖師を禮す。猥りに餘福を以て臣の宗族に惠及す。實に碎首の能く報謝する所に非ず。」詔は問う——「何の經を治するか。」對答して曰く——「『詩』『書』を治し、亦た頗る『禮』傳に渉る。」詔は曰く——「今日の會は、豈に卿の宗族に對して光榮有るか。」對答して曰く——「敢て當る所に非ず。臣は聞く——明王・聖主は師を尊びて而も道を貴ばざる無し。今、陛下は臣の祖の靈を尊び・臣の祖の道を貴び、親しく萬乘を屈して敝里に辱臨す。これ是れ陛下の聖を崇むる所以なり。遺嗣を顧念し、群臣と同じく祭餘の福を受くるを得るに至っては、これ是れ陛下の屋を愛して烏に及び・下に惠むの道なり。だから德を崇め聖を作す。臣の宗族は并ならず光榮に参与せず。敢て承受する所に非ず。」天子は嘆息して曰く——「聖人の子孫に非ざれば、何れの処に此のごときの話有らん。」ここに於いて子和を拜して郎中と為し、詔して車駕に隨從せしめ、孔氏の男女に錢帛を賜う。子和は從いて京師に歸り、ここに於いて東觀に於いて書を校す。其の年十二月に臨晋令を為る。其の朋友の崔駰は彼の家の『卦林』を以て占卜し、以て吉ならずと為し、子和に對して曰く——「何ぞ辭謝せざる。」【漢の崔篆は嘗て『易林』を著せり。篆は駰の祖父。だから家と稱す。】子和は答えた。「學は是れ人の為ならず。仕は官を選擇せず。だから吉と為す。況んや卜は是れ以て疑を決するに用いる。疑わざれば何を卜せん。吉凶は人に由る。豈に『卦林』に由らんや。」徑直に前往して就任せり。三年秋八月、天子は后土を巡視し・龍門に登る。子和は自ら行在所に隨從せんを請求す。天子は彼の狀貌を認得す。燕見すること移時、帛十端を賜う。歸りて來りて後、九月既望に病に臥して愈えず。ここに於いて両個の兒子をして当地に留めて安葬せしむ。二子——長子の長彥は年十二、次子の季彥は年十歲。父親の朋友の西洛人姚進先は、道有りて征せられて而も就かず、家に於いて志を養い、長彥・季彥は常常に教えを受けたり。喪を除して後は身を苦め力を勞して以て自ら衣食す。家裏に先人の遺書有り。兄弟は相勉勵して諷誦して倦まず。當時、蒲阪令汝南の許君然は彼の宅里に到り、彼らを勸めて魯に歸らしめんとし、両輛の車を准備せり。辭して曰く——「柩を載せて返れば則ち父親の遺命に違背し、父親を舎棄して離去すれば則ち心の忍びざる所なり。」君然は曰く——「孫を以て祖に就くは、禮に於いて得と為す。あなたは必ずしも疑う勿れ。」對答して曰く——「若し死して而も知有ると以為せば、祖父は尚お宗族に鄰有り。父親は獨り此處に留む。亦た太甚ならずや。我は已に定めたり。」ここに於いて車を以て還去せり。ここに於いて貧に甘んじ・道を體味し、墳典を研精す。十餘年の間、學徒は幾百人。だから當時の人は彼らの為に話を編んで曰く——「魯国の孔氏は經を讀むを好み、兄弟は講誦して皆聴く可し。學士の來る者は聲名有り。孔氏を過ぎざれば那ぞ成るを得ん。」長彥は頗る時に随いて今學を為す【當時は多く章句學を為す】。季彥は專一して家業に於いてし、兼ねて『史』『漢』を修め、諸家の書を喜好せず。
華隂張太常問何如斯可謂備徳君子季彥答曰性能沉邃則不可測志不在小則不可度砥礪廉隅則不可越行髙體卑則不可階興事教業與言俱立捨己從善不恥服人交友以義不慕勢利並立相下不倡遊言若此可謂備徳矣張生曰不有孝弟忠信乎答曰別而論之則應此條總而目之則曰孝弟忠信張生聞是言喜而書之
華陰の張太常は問うた。「如何にして以て備德の君子と稱す可きか。」季彥は答えた。「性は能く沈邃すれば則ち測る可からず、志は小に在らざれば則ち度る可からず、廉隅を砥礪すれば則ち越える可からず、行は高くして體は卑ければ則ち一級級に爬上る可からず。事を興し業を立つるは、言と一起に成立す。己を舎てて善に從うは、以て人に服するを恥と為さず。友を交えるは義を以てし、勢利を慕わず。並立の時は互相に謙下し、游言を倡せず。此のごときを以て備德と稱す可し。」張生は曰く——「孝弟・忠信無きか。」季彥は答えた。「分別して論ずれば則ち此の等の條目の裏に應ず。總べて看れば則ち孝弟・忠信と呼ぶ。」張生は此の話を聞いて、高興して記下せり。
魯人有同嵗上計而死者欲為之服問於季彥季彥曰有恩好其緦乎昔諸侯大夫同防事於王及以君命同盟覇主其死則有哭臨之禮今之上計並覲天子有交燕之歡同盟綈素上紀先君下録子弟相敦以好相厲以義又數相往來特有私親雖比之朋友不亦可乎崔駰學於太學而糧乏鄧衞尉欲餼焉而未果季彥年九嵗以其父命往見衞尉曰夫言不在多在於當理施不在豐期於救乏崔生臣父之執也不幸而貧公許賑之言既當理矣從來有日嘉貺未至或欲豐之然後乃至乎答曰家物少湏租入當猥送季彥曰公顧盻崔生欲分祿以周其無君之惠也必欲待君租入然後猥致則於崔生為贏非義崔生所不為也且今已乏矣而方湏租入是猶古人慾決江河以救牛蹄之魚之類也鄧公曰諾
魯人に同年に上計して而も死せる有り。彼の為に喪を服せんと欲し、季彥に問うた。季彥は曰く——「恩好有れば、大概緦麻を穿つべきか。昔、諸侯・大夫は一同に王の所に於いて事を辦じ、以及君命を奉じて霸主と同盟せり。对方は死せば則ち哭臨の禮有り。今、上計は一并に天子を觐見す。交宴の歡有り。同盟は綈素し、上は先君を記し、下は子弟を錄す。互相に以て好を以て相敦し・義を以て相勵す。又た屢々往來す。特に私親有り。たとえ朋友に比作するとも、亦た可ならずや。」崔駰は太學に於いて學習して而も糧食は乏し。鄧衛尉は彼を供給せんと欲するも尚お未だ實行せず。季彥は九歳。父親の命を奉じて往きて衛尉に見えて曰く——「話は多きに在らず。理に當るに在り。施は豐なるに在らず。能く乏を救うを期望す。崔生は是れ臣の父親の執友なり。不幸にして而も貧す。公は賑濟を許諾せり。話は已に理に當れり。從來して幾日か有り。嘉賜は尚お到らず。或いは是れ豊厚にして然る後に乃ち到らんと欲するか。」對答して曰く——「家裏の东西は少なし。租の入るを待ちて当に一并に送去せん。」季彥は曰く——「公は崔生を顧念し、俸禄を分ちて以て彼の匱乏を周濟せんと欲す。是れ君の惠なり。必ずあなたの租の入るを待ちて然る後に一并に致送せば、崔生に對しては則ち多余なり。是れ義に非ず。崔生の為さざる所なり。況んや今は已に乏しきに、而も尚お租の入るを待つは、猶お古人が江河を決して以て牛蹄の窩裏の魚を救わんと欲するの一類のごとし。」鄧公は曰く——「善し。」
梁人取後妻後妻殺夫其子又殺之季彥返魯過梁梁相曰此子後以大逆論禮繼母如母是殺母也季彥曰言如母則與親母不等欲以義督之也昔文姜與弒魯桓春秋去其姜氏傳曰不稱姜氏絶不為親禮也絶不為親即凡人爾且夫手殺重於知情知情猶不得為親則此下手之時母名絶矣方之古義是子宜以非司寇而擅殺當之不得為殺母而論以逆也梁相從之農太守皇甫威明問仲淵曰【即皇甫規仲淵乃季彥族】吾聞孔氏自三父之後能傳祖之業者常在於叔祖今觀連叢所記信如所聞然則伯季之後弗克負荷矣答曰不然也先君所以為業者非惟經傳而已可以學則學可以進則進可以止則止故曰無可無不可也葢惟執行中庸其於得道非末嗣子孫所能及也是以先父各取所能能仕則仕能學則學自伯祖之子孫世仕有位季祖之子孫或學或仕或文或武所綂不一故學不稽古仕無髙官文非俎豆武非戢兵不専故也皇甫曰如髙明之言是故弗克負荷矣答曰伯之子孫今其可仕季之子孫何所能任所以世得聞焉且人之才聖受天有分若如君之論則成王伯禽雖致太平皆當以不聖弗克負荷之罪乎皇甫笑曰善既而或謂仲淵曰以古人推之自可如皇甫之言爾而子矜之何也皇甫雖口與子心實不與也答曰吾其然然此君來言頗欲相侵故激至於此豈曰得道由不獲已也
梁人は後妻を娶り、後妻は丈夫を殺せり。彼の兒子は又た後妻を殺せり。季彥は魯に歸りて梁を經過す。梁相は彼に對して曰く——「此の兒子は後に大逆を按じて論處せん。禮——繼母は母のごとし。これ是れ母を殺すなり。」季彥は曰く——「『母のごとし』と説くは、則ち親母と等しからず。是れ義を以て督察せんと欲するなり。昔、文姜は魯桓公を弑するに参与せり。『春秋』は彼女の姜氏を去りて曰く——『姜氏を稱せざるは、絕して親を為さざるは、禮なり。』絕して親を為さざれば、則ち普通人なり。況んや手ずから殺すは知情に比べて更に重し。知情は尚お親を為るを得ず。則ち此の手を下すの時、母の名は已に絕えたり。古義に比照すれば、此の兒子は当に『司寇に非ずして而も擅自に人を殺す』に按じて判ずべし。以て母を殺すと作りて論じて逆と為すを得ず。」梁相は聽從せり。弘農太守の皇甫威明は仲淵に問うた。【即ち皇甫規。仲淵は季彥の族人。】「我は聞く——孔氏は三父の後より、祖業を傳うる能くするは常に叔祖に在り。今、『連叢』の記す所を看れば、信に聞くがごとし。則ち伯・季の後裔は能く負荷せざるか。」對答して曰く——「是れ此のごとくに非ず。先君の以て業と為す所は、不只だ經傳のみ——學ぶ可ければ則ち學び、進む可ければ則ち進み、止まる可ければ則ち止まる。だから曰く——可無く不可も無し。大概只だ中庸を執行し、道を得るに對しては、末嗣の子孫の及ぶ能くする所に非ず。だから先父は各々能くする所を取る——能く仕すれば則ち仕え、能く學べば則ち學ぶ。從伯祖の子孫は、世代は官を為りて位有り。季祖の子孫は、或いは學び或いは仕え、或いは文或いは武。統する所は一ならず。だから學は古を考究せず、仕は高官無し、文は俎豆に非ず、武は戢兵に非ず。是れ專ならざるの故なり。」皇甫は曰く——「高明の話に按せば、だから能く負荷せざるなり。」對答して曰く——「伯の子孫は今以て官を為る可し。季の子孫は何の能く担任する所有らん。だから世代は以て聞名するを得る。況んや人の才聖は、天を受けて分有り。若しあなたの論に按せば、則ち成王・伯禽はたとえ太平を致すとも、皆当に聖ならざるを以て負荷する能わざるの罪を承担すべきか。」皇甫は笑いて曰く——「善し。」過ぎて後、或る人は仲淵に對して曰く——「古人を以て推せば、自然以て皇甫の言うがごとくす可し。あなたは而も矜持す。何の故ぞ。皇甫は嘴里はあなたに贊同すと雖も、心裏は其の實は贊同せず。」對答して曰く——「我は大概是れ此のごとし。然る可く此の位の來言は、頗る相侵せんと欲す。だから此の歩に激る。何れの処に得道を説き上げん。是れ已むを得ざるなり。」
長孫尚書問季彥曰處士聖人之後也豈知聖人之徳惡乎齊答曰徳行邈於世智達秀於人幾於如此矣曰聖人者必能聞於無聲見於無形然後稱聖爾如處士所言大賢則能為之季彥曰君之論宜若未之近也夫有聲故可得而聽有形故可得而見若乃無聲雖師曠側耳將何聞乎無形雖離婁並照將何覩乎書曰惟狂克唸作聖狂人念思道徳猶為聖人聖人大賢之清者也賢人中人之清者也
長孫尚書は季彥に問うた。「處士は是れ聖人の後なり。豈に聖人の德は如何に齊備するを知るや。」季彥は答えた。「德行は当世を超越し、智達は人に秀出す。幾らか則ち此のごとし。」長孫は曰く——「聖人は必ず能く聲無きを聴き・形無きを見て、然る後に聖と稱す。處士の言うがごときは、大賢は則ち能く為し到る。」季彥は曰く——「あなたの論は似たる尚お未だ接近せず。聲有りて乃ち聴く可く、形有りて乃ち見る可し。聲無きに至っては、たとえ師曠なりとも耳を側けて将に何を聴かん。形無きは、たとえ離婁なりとも照を并べて将に何を看ん。『書』に曰く『惟れ狂は念を克れば聖を作す』——狂人は道德を念思して尚お能く聖人と成る。聖人は是れ大賢の裏の清なり。賢人は是れ中人の裏の清なり。」
孔大夫謂季彥曰【大夫乃孔昱字元世】今朝廷以下四海之內皆為章句內學【西漢士論以經術為內學諸子雜説為外學季彥之時方尚辭文乃以章句為內學經術為外學】而君獨治古義治古義則不能不非章句非章句內學則危身之道也獨善固不容於世今古義雖善時世所廢也而獨為之必將有患盍姑已乎答曰君之此言殆非所望也君以為學學知乎學愚乎大夫曰學所以求知也季彥曰君頻日聞吾説古義一言輙再稱善善其使人知也以為章句內學迂誕不通即使人愚也今欲使吾釋善善之知業習迂誕不通之愚學為人謀如此於義何居且吾子立論必析是非以是易非何傷之如主上聰明庸知不欲兩聞其義博覽古今擇善從之以廣其聖乎吾學不要祿貴得其義爾復以此受患猶甘心焉先聖垂訓壁出古文臨淮傳義可謂妙矣而不在科策之例世人固莫識其竒矣斯業之所以不泯賴吾家世世獨修之也今君猥為祿利之故欲廢先君之道此殆非所望也若從君言是為先君之義防於今日將使來世達人見今文俗説因嗤笑前聖吾之力此葢為先人也物極則變此百年之外必當有明慎君子恨不與吾同世者於是大夫悵然曰吾意實不及此也敢謝不敏
孔大夫は季彥に對して曰く——【大夫は是れ孔昱、字元世。】「今、朝廷以下・四海の内は皆章句の内學を為す【西漢の士論は經術を以て内學と為し・諸子雜説を以て外學と為す。季彥の時は正しく辭章を崇尚せり。乃ち章句を以て内學と為し・經術を以て外學と為す】。而もあなたは獨り古義を治す。古義を治すれば則ち章句を否定せざる可からず。章句の内學を否定すれば則ち是れ身を危うくするの路なり。善を獨りするは本來世に容れられず。今、古義は好しと雖も、是れ時世の廢する所なり。而も獨り往きて為す。必ず将に患有らん。何ぞ姑且く作罷せざる。」季彥は答えた。「あなたの此の話は、大概是れ期望する所に非ず。あなたは以て學は是れ知を學ぶか、抑も愚を學ぶか。」大夫は曰く——「學は是れ以て知を求むるに用いる。」季彥は曰く——「あなたは連日、我が古義を説くを聴き、一句の話に則ち再び善を稱す。是れ其の能く人をして知らしむるを善とす。以て章句の内學は迂誕にして通ぜずと為す。則ち是れ人をして愚ならしむ。今、我をして知らしむるの善業を放下して、往きて迂誕にして通ぜざるの愚學を習わしめんと欲す。人の為に謀劃して此のごとくするは、義の上に於いて立つか。況んや吾子は論を立てば必ず是非を分析す。是を以て非と換うれば、何の傷害か有らん。主上は聰明なり。何を以て両面皆其の義を聴かんと欲せざるを知らん。古今を博覽し・善を擇びて從い、以て彼の聖を廣大せん。我が學は是れ祿を要するに非ず。義を得るを貴ぶ。たとえ此に因りて患を受くとも、尚お甘心なり。先聖は訓を垂れ、壁中は古文を出し、臨淮は義を傳う。以て妙と説く可し。而も科策の例に在らず。世人は本來其の奇を識らず。此の業の泯滅せざる所以は、我が家の世代の獨修に靠る。今、あなたは竟に祿利の故に因りて先君の道を廢せんと欲す。これ大概是れ期望する所に非ず。若しあなたの話に依從せば、則ち是れ先君の義は今日に於いて絕え、将に來世の達人をして今文の俗説を見て、因りて前聖を嗤笑せしめん。我は此に於いて力を用うるは、是れ先人の為なり。物は極まれば則ち變ず。此の百年の外は、必ず明慎の君子有りて我と世を同じくせざるを恨まん。」ここに於いて大夫は悵然として曰く——「我の意思は實に此の一層に想到らざりき。敢て不敏を謝す。」
楊太尉【楊震】問季彥曰吾聞臨晉君異才博聞周合群籍如世不歸大儒何答曰不為祿學故也惡直醜正實繁有徒辨經説義輙見憎疾但以所據者正故眾人不能用爾免害為幸何大儒之能歸乎
楊太尉【楊震】は季彥に問うた。「我は聞く——臨晋君は異才・博聞にして、群籍を周合す。何の故に当世は大儒に歸向せざるか。」季彥は答えた。「是れ祿の為に學ばざるを以てなり。正直を厭惡し・正人を醜化する者は、實に其の徒は繁く有り。經を辨し義を説くは、總べて憎疾せらる。只だ所依據の正なるを以て、だから衆人は能く用いず。害を免るれば則ち幸なり。何れの処に能く大儒に歸向せん。」
季彥見劉公客適有獻魚者公熟視魚嘆曰厚哉天之於人也生五穀以為食育鳥獸以為餚眾座僉曰誠如明公之教季彥曰賤子愚意竊與眾君子不同以為不如明公之教也何者萬物之生各稟天地未必為人人徒以知得而食焉故孝經曰天地之性人為貴貴有知也伏羲始甞草木一日而遇七十二毒然後五穀乃形非天本為人而生也蚊蚋食人蚓蟲食土非天故為蚊蚋生人為蚓蟲生地也知此不然則五穀鳥獸之生本不為人可以無疑矣公良乆曰辨哉眾座黙然
季彥は劉公に見えた。座上は正好く魚を献ずる者有り。劉公は那の魚を熟視し、嘆息して曰く——「天は人に對して真に厚きかな——五穀を生じて以て食と作し、鳥獸を育てて以て肴と作す。」衆座は皆曰く——「誠に明公の教える所のごとし。」季彥は曰く——「賤子の愚意は、私下に衆君子と同じからず。以て明公の教える所のごとくならずと為す。何の故ぞ。萬物の生は、各々天地を禀受す。未必人の為ならず。人は只だ知に凭りて乃ち得て而も食う。だから『孝經』に曰く『天地の性は人を貴と為す』——貴ぶ所は知有るに在り。伏羲は始めて草木を嘗め、一日に七十二毒に遇う。然る後に五穀は乃ち形を成せり。是れ天が本來人の為に生ずるに非ず。蚊蚋は人を吃い、蚓虫は土を吃う。是れ天が故意に蚊蚋の為に人を生じ・蚓虫の為に地を生ずるに非ず。其の然らざるを知れば、則ち五穀・鳥獸の生は、本來人の為に非ず。以て疑わざる可し。」劉公は沉默すること久しくして曰く——「善く辨するかな。」衆座は默然たり。
永初二年季彥如京師省宗人仲淵是年夏河南四縣雨雹如棬杯大者如鬥殺禽畜雉兎折樹木秋苗盡天子責躬省過並令幽隱有道術之士各得假變事亟陳厥故季彥與仲淵説道其意狀曰此陰乗陽也貴臣擅權母后黨盛多致此異然乃漢家大忌時下邳長孫子逸止仲淵第聞是言也心善之因見上説焉上召季彥季彥見於德陽殿陳其事如與仲淵言也曰陛下増修聖德慮此二者而已夫物之相感必以類推其甚者必有山崩地震乖氣相因其事不可盡論往者延平中鄧後稱制而東垣巨屋山大崩聲動安邑即前事之驗者帝黙然左右皆不善其言季彥聞之曰吾豈容媚勢臣而欺天子乎後子逸相魯舉季彥孝防固辭不就防遭兄長彥憂遂止乎家季彥為人謙退愛厚簡而不華終不以榮利變其恬然之志見不義而富貴者視之如僕舉筆則典誥成章吐言必正名務理故每所交遊莫不推先以為楷則也年四十有九延光三年十一月丁丑卒【史稱年四十七】
永初二年、季彥は京師に到りて宗人の仲淵を看望す。此の年の夏、河南の四縣は雹を下す。杯口のごとき大きさ、大ききは斗のごとし。禽畜・雉兎を殺し、樹木を折斷し、秋苗は盡く毀れたり。天子は躬を責め過を省み、并せて幽隱に道術有るの士に各々變事を借りて緊急に緣故を陳述せしむ。季彥は仲淵と其の中の意狀を講説して曰く——「これ是れ陰が陽に乘ずるなり。貴臣は權を擅にし・母后は黨は盛んなり。多く此の種の災異を致す。而も是れ漢家の大忌なり。」當時、下邳の長孫子逸は仲淵の宅里に住み、此の話を聞き、心裏は善を稱し、因りて上に見えて陳説す。上は季彥を召し、季彥は德陽殿に於いて接見せられ、其の事を陳述すること仲淵と説くがごとくして曰く——「陛下は聖德を增修し、此の兩件の事に慮及せば則ち可なり。物の相感は必ず類を按じて推す。厲害なるは必ず山崩・地震・乖氣の相因有り。那の事は能く盡く論ぜず。往日、延平中に鄧后は制を稱し、東垣の巨屋山は崩塌し、聲は安邑を動かせり。即ち是れ前事の應驗なり。」帝は默然たり。左右は皆彼の話を喜ばず。季彥は之を聞いて曰く——「我は豈に勢臣に容媚して而も天子を欺騙せんや。」後に子逸は魯相を為り、季彥を孝廉に擧ぐ。彼は堅く推辭して就かず。後に兄長の彥の喪に遭い、ここに於いて家裏に留む。季彥は人を為して謙退・愛厚、簡にして華ならず。始終榮利を以て恬然の志を改變せず。義ならずして富貴するを見るは、彼を看ること僕役のごとし。筆を擧げれば則ち典誥は章を成し、言を吐けば必ず名を正しくし理を務む。だから交游する所毎に、彼を推して先と為し・以て楷則と作さざる無し。年四十九、延光三年十一月丁丑に去世す。【史書は年四十七と稱す。】
孔叢子卷下
孔叢子巻下
