卷之一 校勘記
諦詳所置之數,正今圖所傳有四方而元四維之數者,是誇昌已元不識圖南所以標異,特因《太玄》準《易》取於《洪範》一水、二火、三木、四金、五土,而然鑿空元故,造端老子,增立怪論,以實圖南易置二、七、四、九之位爾,然猶未嘗以九疇分配九宮也。
仔細に其の安置する所の數を審察すれば、正に今天流傳の彼の幅の只だ四方有りて四維無き圖なり。可見范諤昌は本來即ち陳摶の何の故に標新立異するかを明白せずして、只だ《太玄》の《易》に準擬して《洪範》の一水・二火・三木・四金・五土の次序を取用するに由りて、則ち憑空無故に造作し起き、尚お源頭を老子の身上に攀到して、此の種の怪論を添出し、以て陳摶の二・七・四・九の方位を移置する做法を坐實するのみなり。不過彼は尚お曾て九疇を九宫の上に分配到する無し。
究竅誇昌之取用,不過循納甲之緒餘,及五子歸庚之殊向,又謂天上八卦坎、離對中之外移,置乾、兌、坤於束,艮、震、巽於西,不謂五行之說,多起於《易》;後而反引五行以為定卦之原,此又其敢於創異之大端也。
推究せば范諤昌の取用する所は、不過納甲之法の餘緒、及び「五子歸庚」の彼の一套の別樣の取向なり。彼は又説く天上の八卦は坎・離の相對して中に居るを除くの外、其餘は皆外に移らんとして、乾・兌・坤を東方に安置し、艮・震・巽を西方に安置せんと。彼は懂得せず五行之説は多半《易》の裏より生出したるを、反つて五行を引いて以て卦を定めるの本原に充当す、此れ又是れ彼の敢えて標新立異するの一大端なり。
是宜長民不獨增以五十五圖,又因誇昌坎、離、震、兌四正之外,而以四成數同於四方,謂坎六退本卦三數,以餘三數三畫為乾;離七退本卦三數,以餘四數四畫為巽;震八數退本卦三數,以餘五數五畫為艮;兌九數退本卦三數,以餘六數六畫為坤,皆以數為畫,標為河圖,是不揣本而齊末。
難怪劉牧は不但五十五幅の圖に增畫し、尚お范諤昌を沿襲して坎・離・震・兌を以て四正の外に居らしめ、四個の成數を四方と等同して、説く:坎六は本卦の占める所の三個の數を減去して、剩下の三個の數・三畫を以て乾と作る。離七は本卦の三數を減去して、剩下の四個の數・四畫を以て巽と作る。震八は本卦の三數を減去して、剩下の五個の數・五畫を以て艮と作る。兌九は本卦の三數を減去して、剩下の六個の數・六畫を以て坤と作る——一律に數を拿てて畫と爲し、尚お標稱して之を河圖と爲す。此れ眞に根本を度量せずして、只だ末梢の上に於いて整齊を求むるなり。
夫八卦各三畫,以剛柔生爻,未聞本卦只用三畫,而以其餘畫之多,反分為別卦也。所陳之數抑配偶然,且以坎、離、震、兌為四象,則尤非也。象本在未成卦之先,故曰:「四象生八卦」也。
八卦は各々三畫有りて、剛柔に靠りて爻を生出す、從來本卦は只だ三畫を用いて、却て剩下の畫數の多寡を拿てて反つて分作して別一個の卦と爲すと聞説せざるなり。彼の排布する所の數は不過隨意に湊配するのみなり。何况彼は坎・離・震・兌を以て四象と爲せば、則ち更不對なり:象は本來成卦の前に在り、故に《繫辭》乃ち「四象八卦を生ず」と説く。
又云:洛書之九疇,本河圖自然之數,虛皇極於中,而以八疇分佈四正、四維,五行置於坎一,五事置於坤二,五紀置於巽四,五福置於離九,一以九疇之次叔,陳列於河圖之卦次。夫九疇謂禹次第之者,直自初一、次一不次三、四而以次用之也。今隨河圖十五縱橫而置之,則成亂次矣。
彼は又曰く:洛書の九疇は、河圖の自然之數に本りて、皇極を中央に虛設して、而以て其餘の八疇を四正與四維とに分布す:五行は坎一に放し、五事は坤二に放し、五紀は巽四に放し、五福は離九に放し、一概に九疇の次序に按じて、河圖の卦位の上に排列すと。可是九疇の大禹の編次する所と説く所以は、要するに初一・次二・次三・次四の此の樣に依次に取用せんと欲するなり。如今河圖の縱橫十五の格局に按じて安放し去れば、次序は則ち全て亂れたり。
未暇一一辯詁,且以初一之口五行言之。既謂五行,自當分配五方,何得以五者限萃一方?不以推行,惡得謂五行哉?以至謂火、金易位,與河圖不同,其顛倒迷繆不可訓知若此。
我れ一條一條に辨正するに及ばず、姑且第一疇の「五行」に就きて説かん。既然五行と叫ばるるは、自然應當に五個の方位の上に分配到すべし、何ぞ能く此の五者を一個の方位の上に局限聚攏せんや?其れらを推移運行せしめず、又何に憑りて「五行」と叫ばんや?以至於彼の説く火與金と位置を互換して河圖と同ならずとは、此の種の顛倒迷亂・理喻する能わざる程度は、竟て此の樣の地步に到るなり。
其後楊次公自著《洞極經》,託名於關子明,其叔本篇稱子曰:「河圖之本,七前六後,八左九右,聖人觀之以畫八卦,是故全七一之三以為離,奇以為巽;全八之三以為震,奇以為艮;全六之三以為坎,奇以為乾;全九之三以為兌,奇以為坤。正者全其位,偶者盡其畫。」而謂四象生八卦,此謬之尤者。
後來楊次公は自己《洞極經》を寫したるも、却て假托して關子明の作と爲す。彼は本篇を叙述するに「子曰」と稱して曰く:「河圖の根本は、七は前に在り・六は後に在り、八は左に在り・九は右に在り、聖人は之を觀察して八卦を畫出せり。故に七の整數の三畫を取りて離と作り、其の零餘を取りて巽と作る。八の整數の三畫を取りて震と作り、其の零餘を取りて艮と作る。六の整數の三畫を取りて坎と作り、其の零餘を取りて乾と作る。九の整數の三畫を取りて兌と作り、其の零餘を取りて坤と作る。正位に居るは其の方位を保全し、偶位に居るは其の畫數を用盡す」と。並びに説く此れ即ち「四象八卦を生ず」なりと、此れ眞に錯れること最も厲害なり。
乾、坤相索而生六子,今為男女者,反能生父母之卦邪?況泛言一不七為火,四、九為金,猶可饅所未識者。今至明言離九為七,兌七為九,是河圖一可變置矣而可乎?
乾與坤とは互相に求索して乃ち六個の子女卦を生出す、如今身を男女と爲る六子卦は、反つて能く父母之卦を生出せんや?何况籠統に二・七を火と爲し・四・九を金と爲すと説くは、尚お蒙混して懂らざる人を能くするも。如今竟て明明白白に離九を七・兌七を九と説く、此れ等しく河圖も亦た以て隨意に位置を變換する能くするを説くにして、此れ何ぞ行わんや?
又謂洛書之文,五處其中,九前一後,三左七右,四前左二,前右八後,左六後右,後世稽之以為三象,因而九變之以二十七象。今按其說,惟五處其中一語,於洛書不悖,餘悉河圖之數,而河圖之數乃因洛書以五處中,而盡失其所以為五之理爾。
彼は又説く洛書の文樣は五は正中に居り、九は前に在り・一は後に在り、三は左に在り・七は右に在り、四は前左に在り・二は前右に在り、八は後左に在り・六は後右に在りと。後世は之を考究して三象と定め、因りて九重の變化を經て二十七象と爲る。如今其の説法に按じれば、只だ「五は其の中に居る」の一句のみ洛書に於いて違背せず、其餘は全て河圖の數なり。而して河圖之數は一旦洛書に依照して五を正中に放てば、則ち完全に五の五と爲る所以の道理を喪失せり。
《書》之九疇,以皇極之五處中,固元別用,是可以定位也。至河圖之有天五,乃兼地十以為十五,其五乃四分於成數之內而合於十,豈嘗有五虛點而實置於圖之中位哉?圖之傳誤正由此五。
《尚書》の九疇は、第五疇の皇極を以て中に居るは、本來即ち別の用處無し、故に以て彼の樣に定位する能く。河圖の天五に至っては、要するに地十を兼合して十五と爲るにして、彼の五は四分して開きて成數の内に散在し・再び十に合す、何嘗五個の虛點の實實在在に圖の中央に安放せられたる有らんや?河圖の流傳して誤りを致すは、根子は正に此の五の上に在り。
次公之假設此妄例,特以蓋其所祖者,乃楊子云三方、九州島而二十七部,私以為書耳。於斯二者,固已真易置圖、書矣。而朱元晦、蔡季通反祖之,信以為關子明作也。不計子明之《易傳》精詣,豈此摹擬者比,乃循此膚臆之見,因扶其說,亦謂河圖七前六後,八左九右;洛書之文,九前一後,三左七右,四前左,二前右,八後左,六後右。
楊次公の此の一套の妄例を假設するは、只だ以て其の祖述する所の東西を掩蓋せんが爲に——其實は揚雄《太玄》の三方・九州にして二十七部の彼の一套にして、彼に私下に經書と爲るに當てられたるなり。此の兩點に就きて看れば、彼は確實に已に河圖と洛書とを完全に對調せり。可是朱熹(字は元晦)與蔡元定(字は季通)とは反つて彼を祖述し、相信して此れ眞に關子明の作なりと。其れらは想わず關子明《易傳》の何等か精深なる、豈に此の種の摹擬之作の比すべきならんや。却て此の種の淺薄臆斷の見解に順着して、進んで其の説を扶持し、亦た講じて河圖は七前六後・八左九右・洛書之文は九前一後・三左七右、四は前左に在り・二は前右に在り・八は後左に在り・六は後右に在りと。
謂《大傳》既陳五十有五數,《洪範》又謂天乃錫禹《洪範》九疇,而九宮之數戴九履一,左三右七,二、四為肩,六、八為足,正龜背之象。劉牧意見以九為河圖,十為洛書,託言出於希夷,與諸儒舊說不合;又引《大傳》以為二者皆出於伏羲之世,其易置圖、書並元明驗。
其れらは説く:《繫辭大傳》は既然五十有五之數を陳列し、《洪範》は又「天乃禹に《洪範》九疇を錫う」と説き、而して九宫之數は頭に九を戴き・脚に一を踏み、左三右七、二・四は兩肩と爲り、六・八は兩足と爲り、正に龜背の形象なりと。劉牧の見解に至っては、九を以て河圖と爲し・十を以て洛書と爲し、假托して陳摶より出づると説き、諸儒の舊説と合せず。又《大傳》を引いて兩者皆伏羲之世に出づると説き、彼の河圖洛書に對する對調は、全て明確の驗證無し。
其朱、蔡之指斥又如此,而直以圖南始標誤之洛書為河圖,而以其初正指河圖,反以為洛書,則朱、蔡實自誤而反罪長民之先誤。專己自是,張其辯說,不克自反,一至於此。
朱熹・蔡元定の劉牧に對する指斥は此の樣なるに、可他們は自己卻徑直に陳摶の當初標錯したる彼の洛書を以て河圖と爲し、反つて陳摶の起初正しく河圖と指したる彼の一幅を以て洛書と爲す。此の様に看れば、朱・蔡は實に自己錯誤を弄したり、却て反つて劉牧を怪罪して先に錯誤を弄したりと。其れらは一意孤行・自以爲是にして、自己の辯説を鋪張して反躬自省する能わず、竟て此の地步に到るなり。
惟程泰之《易原》時能理到,至鄭束卿輩尋邇依傍,一意誕饅,廣增圖說,皆非實指,徒使後之人失其真是,信其所不當信,疑其所不當疑,並與本來宗旨樊然擾亂,是其所非,而非其所是。
只だ程大昌(字は泰之)の《易原》のみ時時理の上に講到する能く。鄭東卿の一輩人に至っては、只だ近く攀附するを知り、一味に荒誕欺み、大量に圖説を增添し、全て皆實指に非ず、徒らに後人をして眞相を失わしむ:該信するを信ぜず、該疑ざるを却て疑い、本來の宗旨を連れても一倂に紛亂不堪に攪き、錯れるを正しきと爲し、正しきを錯れると爲す。
跡究其始,不過由圖南用十之一語立一圖之誤,至於為此紛紛,始猶借河圖以相因依,而為洛書之說,久則舍圖取書,又久乃遂以書為圖,荒然莫知河圖為何物,所以有圖者,寫為何事,執其五十五數以為圖,不知其五十五數其始特以誤及洛書,今及執之為圖,是圖既非興;其謂書以為圖者,書益非其書者矣。
此の一切の起點を追究すれば、不過陳摶の「十を用う」の此の一句話より一錯の圖を立て、乃ち此の樣に紛紛不休に鬧るに到る。起初は尚お河圖に借りて彼此依傍して、以て洛書之説を立つ。久しくすれば則ち河河圖を捨開して專ら洛書を取る。再び久しくすれば、竟て洛書を以て河圖と爲し、茫然として河圖の究竟何の東西なるか・當初何の故に此の幅の圖有るかを知らず。其れらは彼の五十五數を抓着して以て河圖と爲すも、却て此の五十五數は一開始只だ誤りて洛書の身上に加えられたるを知らず。如今又抓來して以て河圖と爲せば、然らば此の「圖」は既に已不是れ眞圖にして、而して彼の洛書を河圖と説成するの「書」も、則ち更不是れ原來の洛書なり。
徒自言人人,殊使學者亡羊多歧,求馬唐肆,紛如聚訟,吾誰適仄?不啻三百年於此,故推原致誤之由,疏列莘疑之妄,直以河圖本數討正之,庶幾學者見之瞭焉,會心自斷,知圖南之謂其由三陳九卦而得者,類於饅;陰腸家襲於以一、六、八白取以為起例者,流於末,若《乾鑿度》謂太一取其數以行四正四維皆合十五者。《鑿》於《緯》之拘贅,亦不盡然。
人人各々各の説を説き、徒らに學者をして歧路亡羊の如く・空店に到りて馬を買うが如く、紛紛として打官司の如くならしめ、我れは誰を聽くべきか?此の種の局面は已に不止三百年なり。故に我れは其の誤りを致すの緣由を推原し、條列して種種の可疑の妄説を、徑直に河圖の本數を以て之を訂正し、學者の一看すれば則ち明白に・會心の下に自ら判斷せんことを希望す:要するに陳摶の自己は「三陳九卦」に由りて得たりと説くは、欺人之談に近しを知るべし。陰陽家の一白・六白・八白之説を沿襲して以て起課の例と爲すは、末技に流るるなり。《乾鑿度》の謂う所の太一其の數を取りて以て九宫を行き・四正四維相加して皆十五に合するに至っては、彼れは《易緯》の拘執累贅の之處にして、亦た盡くは信ずべからず。
然從昔儒先莫不斷斷然謂非人所能偽作者,今以餘自本觀之,直謂不必它求,特以《說卦》帝出乎震一□一章,環中往復參究之,以天一至地四,地六至天九求其實體,天五與地十明其虛用,則參伍以變,參天兩地,錯綜倚數,莫不左右逢原,一皆胳合乎孔子繫《易》之初旨。
然れども自古以來の前輩儒者は、無りとて斬釘截鐵に河圖を説いて人の僞造する能くするに非ずと説かざるなし。如今我れに依りて本源の上より看れば、只だ一句を説くを須とす:必ずしも別處に向かい之を求むる無し。只だ《説卦》の「帝震に出乎」の彼の一章を拿てて、圓環に就着して往復に參究し、天一より地四・地六より天九に至るを以て其の實體を求め、天五與地十とを以て其の虛用を明らかにせば、然らば「參伍以て變」「參天兩地」「錯綜倚數」は、無りとて左右に源に逢わざるなく、全て孔子の《易》に繫する本旨に暗合す。
是之謂參。淆亂抓論,轟明;河之出圖,通古不妄,足以見《易》矣。因洞悉洛之出書,一汍疇之外,豈復有圖有數之妄作者,誠古今之一大快事也。
此れ乃ち眞正の「參」と叫ぶ。淆亂を廓清し・謬論を揭破して、道理をして豁然として顯明ならしむ:黄河の圖を出だす此の件事は、古今を通貫して虛妄ならず、以て此れに由りて《易》の本原を見るに足れり。亦た因りて徹底に洛水の書を出だすの一事を明白す、九疇を除くの外、何處か尚お別に何の圖・何の數の妄作有らんや?此れ實に古今の一大快事なり。
卷之五 校勘記
#1『平』,原作一乎』,據四庫本改。 #2『禹』,四庫本作『語』。 #3『祇』,原作一祇,據四庫本改。 #4『非特』,仰庫本誤把後文自『八疇分佈四正、四維』至『是可以定位也』一段倒置於此處之後。特此說明。 #5『太易』,四庫本作『大易』。 #6『謬』,原作『繆』,據四庫本改。 #7『不啻騙』,原作『不趨』,據四庫本改。
第一條:「平」の字、原本は「乎」と作る、今四庫本に據りて改正す。第二條:「禹」の字、四庫本は「語」と作る。第三條:「祇」の字、原本の字形に訛あり、今四庫本に據りて改正す。第四條:「非特」の一處、四庫本は誤りて後文の「八疇分布四正、四維」より「是可以定位也」に到る此の一段を、倒置して此處の後に在らしむ、特に此れを説明す。第五條:「太易」は、四庫本は「大易」と作る。第六條:「謬」の字、原本は「繆」と作る、今四庫本に據りて改正す。第七條:「不啻」の一處、原本は「不趨」と作る、今四庫本に據りて改正す。
