化书 · 第1巻
『化書』五代・譚峭撰
道家典籍
まず老子と荘子内篇を読み、列子・文子・淮南子へ進む。道教が「道」をどう修持として書いたかを見るには、陰符経・黄庭・参同契・悟真篇と抱朴子を読む。
化書五代譚峭撰
『化書』五代・譚峭撰
卷一道化
巻一 道化
道之委也,虛化神,神化氣,氣化形,形生而萬物所以塞也。道之用也,形化氣,氣化神,神化虛,虛明而萬物所以通也。是以古聖人窮通塞之端,得造化之源,忘形以養氣,忘氣以養神,忘神以養虛。虛實相通,是謂大同。故藏之為元精,用之為萬靈,含之為太一,放之為太清。是以坎離消長於一身,風雲發洩於七竅,真氣燻蒸而時無寒暑,純陽流注而民無死生,是謂神化之道者也。
道(老子がこの字で万物の本原と運行のあり方を指し、その自体は名づけ得ないもの)が委ね積もって、虚が神に化し、神が気(万物を構成し貫く流動するもの)に化し、気が形に化して、形が生じると、万物はそれによって壅塞する。道が用いられると、形が気に化し、気が神に化し、神が虚に化して、虚が明らかになると、万物はそれによって通ずる。だから古の聖人は通と塞の端緒を窮め、造化の源を得て、形を忘れて気を養い、気を忘れて神を養い、神を忘れて虚を養った。虚と実が通じ合う、これを大同と言う。だから蔵せば元精となり、用いれば万霊となり、含めば太一となり、放てば太清となる。このように坎離が一身の中で消長し、風雲が七竅から発泄し、真気が薫蒸して四時に寒暑がなく、純陽が流注して民に死生がない。これを神化の道と言う。
蛇雀
蛇雀
蛇化為龜,雀化為蛤。彼忽然忘曲屈之狀,而得蹣跚之質;此倏然失飛鳴之態,而得介甲之體。斫削不能加其功,繩尺不能定其象,何化之速也。且夫當空團塊,見塊而不見空;粉塊求空,見空而不見塊。形無妨而人自妨之,物無滯而人自滯之,悲哉!
蛇が亀に化し、雀が蛤に化した。あの蛇は忽ち屈曲の形を忘れて、這い回る体質を得、この雀はたちまち飛び鳴く姿を失って、甲殻の身を得た。刀斧で削ってももはや加工できず、縄尺でももう形を定められない。変化とは実に速いものだ。空を団ねて塊にすれば、塊が見えて空が見えなくなり、塊を砕いて粉にして空を求めれば、空が見えて塊が見えなくなる。形はもともと妨げないのに、人が自ら妨げる。物はもともと滞らないのに、人が自ら滞らせる。悲しいことだ。
老楓
老楓
老楓化為羽人,朽麥化為蝴蝶,自無情而之有情也。賢女化為貞石,山蚯化為百合,自有情而之無情也。是故土木金石,皆有情性精魄。虛無所不至,神無所不通,氣無所不同,形無所不類。孰為彼,孰為我?孰為有識,孰為無識?萬物,一物也;萬神,一神也,斯道之至矣。
老楓が羽人に化し、朽ちた麦が胡蝶に化するのは、無情から有情に変わることである。賢女が貞石に化し、山の蚯蚓が百合に化するのは、有情から無情に変わることである。だから土木金石にはみな情性精魄がある。虚は至らない所がなく、神は通じない所がなく、気は同じでないものがなく、形は類しないものがない。どれが彼で、どれが我か。どれに識があり、どれに識がないか。万物は一物、万神は一神、これが道の極致である。
耳目
耳目
目所不見,設明鏡而見之;耳所不聞,設虛器而聞之。精神在我,視聽在彼。跰趾可以割,陷吻可以補,則是耳目可以妄設,形容可以偽置。既假又假,既惑又惑。所以知魂魄魅我,血氣醉我,七竅囚我,五根役我。惟神之有形,由形之有疣。苟無其疣,何所不可?
目に見えないものは、明鏡を据えれば見える。耳に聞こえないものは、空の器を据えれば聞こえる。精神は我にあって、視聴はあの器にある。癒着した足指は割くことができ、陷んだ唇は補うことができる。これを見れば、耳目は妄りに設けられ、形容は偽りに置かれるものと分かる。仮にまた仮、惑にまた惑う。だから魂魄が我を魅惑し、血気が我を迷醉させ、七竅が我を囚禁し、五根が我を役使していると知る。神に形があるのは、形に疣ができたようなものだ。もしあの疣がなければ、何ができないことがあろうか。
環舞
環舞
作環舞者宮室皆轉,瞰迴流者頭目自旋。非宮室之幻惑也,而人自惑之;非迴流之改變也,而人自變之。是故粉巾為兔,藥石為馬,而人不疑;甘言巧笑,圖臉畫眉,而人不知。唯清靜者,物不能欺。
環舞をする者は宮室がみな回ると感じ、回流を俯看する者は頭目が自ら旋ると感じる。宮室が幻惑するのではなく、人が自ら惑うのだ。回流が改変するのではなく、人が自ら変わるのだ。だから粉巾を兎に変え、薬石を馬に変えても、人は疑わない。甘言巧笑に顔を画き眉を描けば、人はかえって知らない。清静な者だけが、物に欺かれることがない。
鉛丹
鉛丹
術有火練鉛丹以代穀食者,其必然也。然歲豐則能飽,歲儉則能飢,是非丹之恩,蓋由人之誠也。則是我本不飢而自飢之,丹本不飽而自飽之。飢者大妄,飽者大幻,蓋不齊其道也。故人能一有無,一死生,一情性,一內外,則可以蛻五行、脫三光,何患乎一日百食,何慮乎百日一食。
一種の方術に、火で鉛丹を練って穀食に代えさせるものがあり、言うところは必然らしい。しかし年が豊かなら飽き、年が凶なら飢える。これは丹の恩ではなく、人の誠によるのだ。これで分かるように、我はもともと飢えていないのに自らを飢えさせ、丹はもともと飽かせないのに自らを飽かせる。飢は大妄であり、飽は大幻である。道に斉一がないからだ。だから人が有無を一と見、死生を一と見、情性を一と見、内外を一と見れば、世の五行を蜕ぎ、三光を脱ぐことができる。一日に百食を憂える必要がなく、百日に一食を顧慮する必要もない。
形影
形影
以一鏡照形,以餘鏡照影。鏡鏡相照,影影相傳,不變冠劍之狀,不奪黼黻之色。是形也與影無殊,是影也與形無異。乃知形以非實,影以非虛,無實無虛,可與道俱。
一面の鏡で形を照らし、残りの鏡で影を照らす。鏡と鏡が互いに照らし、影と影が互いに伝えあって、冠剣の形を改めず、黼黻の色を奪わない。この形と影に分別はなく、この影と形に差異はない。ここから形は実ではなく、影は虚ではなく、実なく虚なく、道とともにあることができると知る。
蟄藏
蟄蔵
物有善於蟄藏者,或可以御大寒,或可以去大飢,或可以萬歲不死。以其心冥冥兮無所知,神怡怡兮無所之,氣熙熙無所為。萬慮不能惑,求死不可得。是以大人體物知身,體身知神,體神知真,是謂吉人之津。
物に蟄蔵を善くする者があって、あるいは大寒を禦ぎ、あるいは大飢を去り、あるいは一万歳生きて死なない。その心が冥冥として知ることがなく、神が怡怡然として往く所がなく、気が熙熙然として為すことがないからだ。万の思慮もそれを惑わすことができず、死を求めても得られない。だから大人は物を察して身を知り、身を察して神を知り、神を察して真を知る。これを吉人の津渡と言う。
梟雞
梟鶏
梟夜明而晝昏,雞晝明而夜昏,其異同也如是。或謂梟為異,則謂雞為同;或謂雞為異,則謂梟為同。孰梟雞之異晝夜乎?晝夜之異梟雞乎?孰晝夜之同梟雞乎?梟雞之同晝夜乎?夫耳中磬,我自聞;目中花,我自見。我之晝夜,彼之晝夜,則是晝不得謂之明,夜不得謂之昏。能齊昏明者,其唯大人乎!
梟(フクロウ)は夜に明らかで昼に昏く、鶏は昼に明らかで夜に昏い。その異同はこのようなものだ。あるいは梟が異で鶏が同と言い、あるいは鶏が異で梟が同と言う。一体、梟と鶏が昼夜を異ならせるのか、それとも昼夜が梟と鶏を異ならせるのか。一体、昼夜が梟と鶏を同じくさせるのか、それとも梟と鶏が昼夜を同じくさせるのか。耳の中の磬の音は、我が自ら聞くのだ。目の中の花は、我が自ら見るのだ。我の昼夜はすなわちそれの昼夜であれば、昼を明と言うことができず、夜を昏と言うことができない。昏と明を斉一にできる者は、おそらく大人だけだろう。
四鏡
四鏡
小人常有四鏡:一名璧,一名珠,一名砥,一名盂。璧視者大,珠視者小,砥視者正,盂視者倒。觀彼之器,察我之形,由是無大小、無長短、無妍醜、無美惡。所以知形氣謟我,精魄賊我,奸臣貴我,禮樂尊我。是故心不得為之君,王不得為之主。戒之如火,防之如虎。純儉不可襲,清靜(宋本:淨)不可侮,然後可以跡容廣而躋三五。
小人には常に四面の鏡がある。一つは璧と言い、一つは珠と言い、一つは砥と言い、一つは盂と言う。璧で見れば大きく、珠で見れば小さく、砥で見れば正しく、盂で見れば倒れて見える。あの器を見て我の形を察すれば、ここから大きさなく、長短なく、美醜なく、善悪ないことが分かる。だから形気が我を諂い、精魄が我を賊害し、奸臣が我を貴ばせ、礼楽が我を尊ばせていると知る。それで心はその君となることができず、王はその主となることができない。火を防ぐように戒め、虎を防ぐように備える。純儉は侵すことができず、清静(宋本は「浄」)は侮ることができない。そうして後に形跡を広く容れることができ、三皇五帝の列に加わることができる。
射虎
射虎
射似虎者,見虎而不見石;斬暴蛟者,見蛟而不見水。是知萬物可以虛,我身可以無。以我之無,合彼之虛。自然可以隱,可以顯,可以死,可以生而無所拘。夫空中之塵若飛雪,而目未嘗見;穴中之蟻若牛鬥,而耳未嘗聞,況非見聞者乎!
虎に似た石を射る者は、虎を見て石を見ない。暴蛟を斬る者は、蛟を見て水を見ない。ここから万物は虚にできる、我の身は無にできると知る。我の無をもって、あの物の虚に合わせれば、自然(おのずから然る、もともとそうである。「大自然」ではない)に隐ることができ、顕れることができ、死ぬことができ、生きることができて、拘碍がない。空中の塵は飛雪のようだが目はかつて見ず、穴中の蟻は牛が闘うようだが耳はかつて聞かない。ましてあれはもともと見聞のものではないのを、どうしようか。
龍虎
龍虎
龍化虎變,可以蹈虛空,虛空非無也;可以貫金石,金石非有也。有無相通,物我相同。其生非始,其死非終。知此道者,形不可得斃,神不可得逝。
龍が化し虎が変すれば、虚空を踏むことができる。虚空は無ではない。金石を貫くことができる。金石は有ではない。有と無は通じ、物と我は同じだ。生は始まりではなく、死は終わりではない。この道を知る者は、形は殺されようがなく、神は消逝しようがない。
遊雲
遊雲
遊雲無質,故五色舍焉;明鏡無瑕,故萬物象焉。謂水之含天也,必天之含水也。夫百步之外,鏡則見人,人不見影,斯為驗也。是知太虛之中無所不有,萬耀之內無所不見。則世人且知心仰寥廓,而不知跡處虛空。寥廓無所間,神明且不遠。是以君子常正其心,常儼其容。則可以游泳於寥廓,交友于神明而無咎也。
遊雲には質がないから、五色がその中に宿る。明鏡に瑕がないから、万物がその上に像を成す。水が天を含むと言えば、必ず天も水を含んでいる。百歩の外、鏡は人を照らすことができるのに、人は自分の影を見ない。これが検証だ。ここから太虚の中に有らないものがなく、万耀の内に見えないものがないと知る。世の人はただ心が寥廓を仰ぐことを知って、自分の形跡が虚空の中に居ることを知らない。寥廓に間隔はなく、神明は遠くない。だから君子は常にその心を端正し、常にその容を荘厳にすれば、寥廓の中で泳ぎ、神明と交友して咎害がない。
噦咽
噦咽
有言臭腐之狀,則輒有所噦;聞珍羞之名,則妄有所咽。臭腐瞭然虛,珍羞必然無,而噦不能止,咽不能已。有懼菽醬若蝤蠐者,有愛鮑魚若鳳膏者。知此理者,可以齊奢儉,外榮辱,黜是非,忘禍福。
ある人は腐臭の状を言うと、すぐに嘔吐したくなり、珍饈の名を聞くと、空しく唾を呑みたくなる。腐臭は明らかに虚で、珍饈は必ず無なのに、嘔吐は止められず、嚥は停められない。ある人は豆醤を蛴螬のように怕れ、ある人は鮑魚を鳳凰の膏のように愛する。この理を知る者は、奢と倹を斉一にし、栄辱を外に置き、是非を黜し、禍福を忘れることができる。
大化
大化
虛化神,神化氣,氣化形,形化精,精化顧盼,而顧盼化揖讓,揖讓化升降,升降化尊卑,尊卑化分別,分別化冠冕,冠冕化車輅,車輅化宮室,宮室化掖衛,掖衛化燕享,燕享化奢蕩,奢蕩化聚斂,聚斂化欺罔,欺罔化刑戮,刑戮化悖亂,悖亂化甲兵,甲兵化爭奪,爭奪化敗亡。其來也勢不可遏,其去也力不可拔。是以大人以道德游泳之,以仁義漁獵之,以刑禮籠罩之,蓋保其國家而護其富貴也。故道德有所不實,仁義有所不至,刑禮有所不足,是教民為奸詐,使民為淫邪,化民為悖逆,驅民為盜賊。上昏昏然不知其弊,下恍恍然不知其病,其何以救之哉!
虚が神に化し、神が気に化し、気が形に化し、形が精に化し、精が顧眄に化し、顧眄が揖譲に化し、揖譲が升降に化し、升降が尊卑に化し、尊卑が分別に化し、分別が冠冕に化し、冠冕が車輅に化し、車輅が宮室に化し、宮室が掖衛に化し、掖衛が宴享に化し、宴享が奢蕩に化し、奢蕩が聚斂に化し、聚斂が欺罔に化し、欺罔が刑戮に化し、刑戮が悖乱に化し、悖乱が甲兵に化し、甲兵が争奪に化し、争奪が敗亡に化する。その来るときは勢いが遏えられず、その去るときは力が抜けられない。だから大人は道徳をもってその中に游び、仁義をもって漁猟し、刑礼をもって籠罩し、国を全うし富貴を守ろうとする。だから道徳に届かない所があり、仁義に至らない所があり、刑礼に足りない所がある。これは民を教えて奸詐を為させ、民を使って淫邪を為させ、民を化して悖逆を成させ、民を駆って盗賊を成させることだ。上は昏昏として弊を知らず、下は恍恍として害を知らない。何をもって救うのか。
正一
正一
世人皆知莧菹可以剖鱉,而不知朱草可以剖人。小人由是知神可以分,氣可以泮,形可以散。散而為萬,不謂之有餘;聚而為一,不謂之不足。若狂風飄發,魂魄夢飛;屐齒斷蚓,首尾皆動。夫何故?太虛,一虛也;太神,一神也;太氣,一氣也;太形,一形也。命之則四,根之則一。守之不得,舍之不失,是謂正一。
世の人はみな莧菜の菹(塩漬け)は鼈を剖けることを知っているが、朱草が人を剖けることを知らない。小人はここから神は分かつことができ、気は融解でき、形は散らすことができると知る。散じて万となっても有余とは言わず、聚めて一となっても不足とは言わない。狂風が忽ち起これば魂魄が夢の中を飛び、屐の歯が蚯蚓を断ち切っても頭尾とも動いているようなものだ。なぜか。太虚は一つの虚、太神は一つの神、太気は一つの気、太形は一つの形だからだ。それらに名をつければ四、その根に推せば一である。守ろうとしても守れず、捨てようとしても捨てられない。これを正一と言う。
天地
天地
天地盜太虛生,人蟲盜天地生,營(右蟲旁)虰盜人蟲生。營虰者,腸中之蟲也,搏(有口旁)我精氣,鑠我魂魄,盜我滋味,而有其生。有以見我之必死,所以知天之必頹。天其頹乎,我將安有;我其死乎,營虰將安守?所謂奸臣盜國,國破則家亡;蠹蟲蝕木,木盡則蟲死。是以大人錄精氣,藏魂魄,薄滋味,禁嗜慾,外富貴。雖天地老而我不傾,營虰死而我長生,奸臣去而國太平。
天地は太虚を盗んで生じ、人虫は天地を盗んで生じ、営虰(底本注:営の字は右旁が虫)が人虫を盗んで生ずる。営虰は腸中の虫で、我の精気を嘬食(底本「搏」に「口旁あり」の注)し、我の魂魄を銷鑠し、我の滋味を偸んで、その生を有する。ここから我が必ず死ぬことが見え、それで天が必ず崩頽することを知る。天がもし崩頽すれば、我は何か有せよう。我がもし死ねば、営虰は何を守ろうか。いわゆる奸臣が国を盗めば、国破れて家亡ぶ。蠹虫が木を蝕めば、木尽きて虫死す。だから大人は精気を収摂し、魂魄を蔵し、滋味を淡薄にし、嗜欲を禁絶し、富貴を外に置く。天地が老いても我は傾覆せず、営虰が死んでも我は長生し、奸臣が去れば国が太平である。
稚子
稚子
稚子弄影,不知為影所弄;狂夫侮像,不知為像所侮。化家者不知為家所化,化國者不知為國所化,化天下者不知為天下所化。三皇,有道者也,不知其道化為五帝之德。五帝,有德者也,不知其德化為三王之仁義。三王,有仁義者也,不知其仁義化為秦漢之戰爭。醉者負醉,疥者療疥,其勢彌顛,其病彌篤,而無反者也。
稚児が影を弄ぶのは、自分が影に弄ばれていることを知らないからだ。狂夫が神像を侮慢するのは、自分が神像に侮慢されていることを知らないからだ。家を化する者は家に化されていることを知らず、国を化する者は国に化されていることを知らず、天下を化する者は天下に化されていることを知らない。三皇は道ある者だが、その道が五帝の徳(道が具体的事物に落ちて顕れる性能で、倫理上の品德ではない)に化したことを知らなかった。五帝は徳ある者だが、その徳が三王の仁義に化したことを知らなかった。三王は仁義ある者だが、その仁義が秦漢の戦争に化したことを知らなかった。酔った者がまた酔った者を負い、疥癬の者がまた疥癬を治そうとする。その勢いはますます顛倒し、その病はますます重くなるのに、振り返る者がない。
陽燧
陽燧
陽燧召火,方諸召水,感激之道,斯不遠矣。高視者強,低視者賊;斜視者狡,平視者仁;張視者怒,細視者佞;遠視者智,近視者拙;外視者昏,內視者明。是故載我者身,用我者神,用神合真,可以長存。
陽燧は火を召し、方諸は水を召す。感応の激盪する理は遠くない。高く視る者は強く、低く視る者は賊で、斜めに視る者は狡く、平らに視る者は仁で、張って視る者は怒り、細く視る者は佞で、遠く視る者は智、近く視る者は拙で、外に向かって視る者は昏く、内に向かって視る者は明らかだ。だから我を載せるのは身、我を用いるのは神、神をもって真に合わせれば、長く存することができる。
死生
死生
虛化神,神化氣,氣化血,血化形,形化嬰,嬰化童,童化少,少化壯,壯化老,老化死。死復化為虛,虛復化為神,神復化為氣,氣復化為物。化化不間,由環之無窮。夫萬物非欲生,不得不生;萬物非欲死,不得不死。達此理者虛而乳之,神可以不化,形可以不生。
虚が神に化し、神が気に化し、気が血に化し、血が形に化し、形が嬰児に化し、嬰児が児童に化し、児童が少年に化し、少年が壮年に化し、壮年が老年に化し、老が死に化する。死はまた虚に化し、虚はまた神に化し、神はまた気に化し、気はまた物に化する。化と化の間に間断はなく、環のように窮まりがない。万物は生きたいのではなく、生きざるを得ないのだ。万物は死にたいのではなく、死なざるを得ないのだ。この理に達する者は、虚を守ってそれを乳養すれば、神は化せず形は生ぜずにいられる。
爪發
爪髪
爪發者,我之形。何爪可割而無害,發可截而無痛?蓋榮衛所不至也。則是我本無害而筋骨為之害,我本無痛而血肉為之痛。所以知喜怒非我作,哀樂非我動,我為形所昧,形為我所愛。達此理者,可以出生死之外。
爪甲と頭髪は我の形だ。なぜ爪は割いても害がなく、髪は截っても痛くないのか。栄衛がそこに届かないからだ。これで分かるように、我本來害がなく、筋骨がそれに害を為し、我本來痛みがなく、血肉がそれに痛みを為すのだ。だから喜怒は我の作るものではなく、哀楽は我の動かすものではなく、我は形に蒙昧され、形は我に愛惜されると知る。この理に達する者は、生死の外に出ることができる。
神道
神道
太上者,虛無之神也;天地者,陰陽之神也;人蟲者,血肉之神也。其同者神,其異者形。是故形不靈而氣靈,語不靈而聲靈,覺不靈而夢靈,生不靈而死靈。水至清而結冰不清,神至明而結形不明。水泮返清,形散返明。能知真死者,可以遊太上之京。
太上は虚無の神、天地は陰陽の神、人虫は血肉の神である。同じなのは神、異なるのは形だ。だから形は霊でなくて気が霊、語は霊でなくて声が霊、醒めた時は霊でなくて夢が霊、生は霊でなくて死が霊である。水は極めて清いが、結んで冰になれば清くない。神は極めて明らかだが、結んで形になれば明らかでない。冰が化ければまた清に帰り、形が散じればまた明に帰る。何が真の死かを知る者は、太上の京城に游ぶことができる。
神交
神交
牝牡之道,龜龜相顧,神交也;鶴鶴相唳,氣交也。蓋由情愛相接,所以神氣可交也。是故大人大其道以合天地,廓其心以符至真,融其氣以生萬物,和其神以接兆民。我心熙熙,民心怡怡。心怡怡兮不知其所思,形惚惚兮不知其所為。若一氣之和合,若一神之混同,若一聲之哀樂,若一形之窮通。安用旌旗,安用金鼓,安用賞罰,安用行伍?斯可以將天下之兵,滅天下之敵。是謂神交之道也。
牝牡の道:亀と亀が互いに視るのは神交、鶴と鶴が互いに唳るのは気交である。情愛が相接するから、神気が相交することができる。だから大人はその道を拡げて天地に合わせ、その心を開いて至真に符契し、その気を融和して万物を生じ、その神を調和して兆民に交接する。我心は熙熙、民心は怡怡。心が怡怡として何を思っているか知らず、形が惚惚として何を為しているか知らない。一気の和合のよう、一神の混同のよう、一声の哀楽のよう、一形の窮通のようだ。どこに旌旗を用いることがあろう、どこに金鼓を用いることがあろう、どこに賞罰を用いることがあろう、どこに行伍を用いることがあろう。こうすれば天下の兵を統率し、天下の敵を滅ぼすことができる。これを神交の道と言う。
大含
大含
虛化神,神化氣,氣化形,形氣相乘而成聲。耳非聽聲也,而聲自投之;谷非應響也,而響自滿之。耳,小竅也;谷,大竅也。山澤,小谷也;天地,大谷也。一竅鳴,萬竅皆鳴;一谷聞,萬谷皆聞。聲道氣,氣道神,神道虛;虛含神,神含氣,氣含聲。聲氣形相道相含,雖秋蚊之翾翾,蒼蠅之營營,無所不至也。由此知之,雖絲毫之慮,必有所察;雖啾嚓之言,必有所聞。唯大人之機,天地莫能見,陰陽莫能知,鬼神莫能窺。夫何故?道德仁義之所為。
虚が神に化し、神が気に化し、気が形に化し、形と気が互いに乗じて声となる。耳は声を聴きに行くのではなく、声が自ら投じ入るのだ。山谷は回响に応えに行くのではなく、回响が自ら充満するのだ。耳は小さな竅、谷は大きな竅。山沢は小さな谷、天地は大きな谷である。一竅が鳴れば万竅がみな鳴り、一谷が聞けば万谷がみな聞く。声は気に通じ、気は神に通じ、神は虚に通じる。虚は神を含み、神は気を含み、気は声を含む。声・気・形が互いに通じ互いに含みあう。秋の蚊が翾翾と飛び、蠅が営営と鳴いても、至らない所はない。ここから、たとえ丝毫の思慮も必ず察せられる所があり、たとえ啾嚓の言葉も必ず聞かれる所があると知る。ただ大人の機は、天地も見えず、陰陽も知らず、鬼神も窺えない。なぜか。それは道徳仁義の為すところだからだ。
卷二術化
巻二 術化
雲龍
雲龍
雲龍風虎,得神氣之道者也。神由母也,氣由子也,以神召氣,以母召子,孰敢不至也?夫蕩穢者,必召五帝之氣,苟召不至,穢何以蕩?伏虺者,必役五星之精,苟役不至,虺何以伏?小人由是知陰陽可以作,風雲可以會,山陵可以拔,江海可以覆。然召之於外,不如守之於內,然後用之於外,則無所不可。
雲は龍に従い、風は虎に従う。神気の道を得ているからだ。神は母、気は子、神をもって気を召し、母をもって子を召せば、誰が敢えて来ないだろう。汚穢を蕩除する者は、必ず五帝の気を召す。もし召せなければ、穢を何で蕩すか。毒蛇を降伏する者は、必ず五星の精を役使する。もし役使できなければ、虺を何で伏せるか。小人はここから陰陽は造作でき、風雲は会合でき、山陵は抜き起こせ、江海は傾覆できると知る。しかし外に召すより、内に守るに如かない。そうして後に外に用いれば、不可ない。
猛虎
猛虎
猛虎行,草木偃;毒鴆怒,土石揭。威之所爍,氣之所搏,頑嚚為之作。小人由是知鋏可使之飛,山河可使之移,萬物可使之相隨。夫神全則威大,精全則氣雄。萬惑不能溺,萬物可以役。是故一人所以能敵萬人者,非弓刀之技,蓋威之至也;一人所以能悅萬人者,非言笑之惠,蓋和之至也。
猛虎が行けば草木がみな倒れ、毒鴆が怒れば土石がみな揭げる。威の灼く所、気の搏つ所は、頑愚の物もそれによって動作する。小人はここから長剣を飛ばすことができ、山河を移すことができ、万物を随わせることができると知る。神が全ければ威が大きく、精が全ければ気が雄だ。万の迷惑もそれを淹えることができず、万物はみな役使できる。だから一人で万人に敵するのは弓刀の技ではなく、威が極まったからだ。一人で万人を悦ばせるのは言笑の恩ではなく、和が極まったからだ。
用神
用神
蟲之無足:蛇能屈曲,蛭能掬蹙,蝸牛能蓄縮。小人所以見其機,由是得其師,可以坐致萬里而不馳。是故足行者有所不達,翼飛者有所不至,目視者有所不見,耳聽者有所不聞。夫何故?彼知形而不知神,此知神而不知形。以形用神則亡,以神用形則康。
足のない虫:蛇は屈曲でき、水蛭は身を掬いて蹙行でき、蝸牛は蓄縮できる。小人はこの機を見て、ここから師法を得、坐して万里に至り奔らない。だから足で走るのに到れない所があり、翼で飛ぶのに至れない所があり、目で見るのに見えないものがあり、耳で聴くのに聞こえないものがある。なぜか。あの人々は形を知って神を知らず、この人々は神を知って形を知らないからだ。形をもって神を用いれば亡び、神をもって形を用いれば康い。
水竇
水竇
水竇可以下溺,杵糠可以療噎。斯物也,始制於人,又複用於人。法本無祖,術本無狀,師之於心,得之於象。陽為陰所伏,男為女所制,剛為柔所克,智為愚所得。以是用之,則鐘鼓可使之啞,車轂可是之鬥,妻子可使之改易,君臣可使之離合。萬物本虛,萬法本無,得虛無之竅者,知法術之要乎!
水竇は溺れる人を下すことができ、杵糠は噎を治すことができる。これらの物は、始めは人が造ったもので、後にまた人の身に用いられた。法はもともと祖宗がなく、術はもともと形状がない。心から師法し、象から得る。陽は陰に伏せられ、男は女に制せられ、剛は柔に克たれ、智は愚に得られる。これをもって用いれば、鐘鼓を瘖にすることができ、車轂を闘わせることができ(底本「可是之斗」の「是」は「使」に作るべき)、妻子を改易させることができ、君臣を離合させることができる。万物はもともと虚、万法はもともと無。虚無の竅を得た者だけが、法術の領要を知るのだろう。
魍魎
魍魎
魍魎附巫祭言禍福事,每來則飲食言語皆神,每去則飲食言語皆人。不知魍魎之附巫祭也,不知巫祭之附魍魎也。小人由是知心可以交,氣可以易,神可以奪,魄可以錄。形為神之宮,神為形之容。以是論之,何所不可?
魍魎が巫祭の身に附着して禍福の事を言うと、来るたびに飲食言語が神のようになり、去るたびに飲食言語が人のようになる。魍魎が巫祭に附着したのか、巫祭が魍魎に附着したのか分からない。小人はここから心は相交することができ、気は改易でき、神は奪取でき、魄は登録できると知る。形は神の宮室、神は形の容貌。これをもって論ずれば、何ができないことがあろうか。
