Libo

关尹子 · 第2巻

周 · 关尹喜(旧题) · 第2巻 / 3

曰:人之善琴者。有悲心。則聲悽悽然。有思心。則聲遲遲然。有怨心。則聲回回然。有慕心。則聲裴裴然。所以悲思怨慕者。非手非竹非絲非桐。得之心。符之手。得之手。符之物。人之有道者。莫不中道。

曰く、琴を彈くに善い者は、悲心有れば、声音は便ち凄凄然とし、思心有れば、声音は便ち遅遅然とし、怨心有れば、声音は便ち回回然とし、慕心有れば、声音は便ち裴裴然とす。故に悲思怨慕するは、手に非ず、竹に非ず、糸に非ず、桐に非ず。これを心に得て、これを手に応じ、これを手に得て、これを物に応ず。人にして道有る者は、道に中らざるなし。

曰:聖人以有言有為有思者。所以同乎人。未嘗言未嘗為未嘗思者。所以異乎人。

曰く、聖人は有言・有為・有思の那一面を用いて、以て人と相同じくし、未曾言・未曾為・未曾思の那一面を用いて、以て人と相同じからず。

曰:利害心愈明。則親不睦。賢愚心愈明。則友不交。是非心愈明。則事不成。好醜心愈明。則物不契。是以聖人渾之。

曰く、利害の心は愈分明なれば、親人は愈和睦せず。賢愚の心は愈分明なれば、朋友は愈交往せず。是非の心は愈分明なれば、事情は愈辦成せず。好醜の心は愈分明なれば、物は愈契合せず。故に聖人はそれらを渾ねて一と為す。

曰:世之愚拙者妄援。聖人之愚拙自解。殊不知聖人時愚時明。時拙時巧。

曰く、世の愚拙の人は妄りに聖人の愚拙を援引して己に開脱を為す、知らざるなり、聖人はあるときは愚あるときは明、あるときは拙あるときは巧なり。

曰:以聖師聖者。賢人。以賢師聖者。聖人。蓋以聖師聖者。徇跡而忘道。以賢師聖者。反跡而合道。

曰く、聖人を以て聖人を師法するは、賢人なり。賢人を以て聖人を師法するは、乃ち聖人なり。聖人を以て聖人を師法する者は、痕蹟に順って道を忘掉すればなり。賢人を以て聖人を師法する者は、却って痕蹟より返回して道に契合す。

曰:賢人趨上而不見下。眾人趨下而不見上。聖人通乎上下。惟其宜之。豈曰離賢人眾人。別有聖人也哉。

曰く、賢人は上に趨向して下を見ず、衆人は下に趨向して上を見ず。聖人は上下に通達して、ただ何が适宜かを看るのみ。豈に賢人衆人を離れて、別に一個の聖人あらんや。

曰:天下之理。夫者倡。婦者隨。牡者馳。牝者逐。雄者鳴。雌者應。是以聖人制言行。而賢人拘之。

曰く、天下の道理、丈夫は倡導し婦人は随従し、牡は奔馳し牝は追逐し、雄は鳴叫し雌は應和す。故に聖人は言行を制定して、賢人はこれを拘守す。

曰:聖人道雖虎變。事則鱉行。道雖絲分。事則棋佈。

曰く、聖人の道は虎の如く變すと雖も、事は鼈の如く走る。道は絲の如く分かると雖も、事は棋子の如く布く。

曰:所謂聖人之道者。胡然孑孑爾。胡然徹徹爾。胡然堂堂爾。胡然臧臧爾。惟其能遍偶萬物。而無一物能偶之。故能貴萬物。

曰く、所謂聖人の道は、何を以てかくも孑然独立し、何を以てかくも透徹し、何を以てかくも堂堂とし、何を以てかくも美盛なるや。ただ彼が能く普く万物に匹配して、一物も彼に匹配する能わざるがゆえに、能く万物を貴重す。

曰:雲之卷舒。禽之飛翔。皆在虛空中。所以變化不窮。聖人之道則然。

曰く、雲の卷舒、禽の飛翔は、皆虚空中に在り、ゆえに変化窮まらず。聖人の道は即ちこの如し。

四符符者精神魂魄也

四符:符とは、すなわち精・神・魂・魄である。

關尹子曰:水可析可合。精無人也。火因膏因薪神。無我也。故耳蔽前後皆可聞。無人。智崇無人。一奇無人。冬凋秋物無人。黑不可變。無人。北壽無人。皆精。舌即齒。牙成言。無我。禮卑無我。二偶無我。夏因春物。無我。赤可變。無我。南天無我。皆神。以精無人。故米去殼則精存。以神無我。故鬼憑物則神見。全精者忘是非。忘得失。在此者非彼。抱神者時晦明時強弱。在彼者非此。

関尹子は言う。水は分かつ可くまた合す可く、精は人なきなり。火は膏に凭り薪に凭り、神は我なきなり。故に耳が遮蔽せられて、前後皆聴く可し——これ無人なり。智は高崇——無人なり。一は奇数——無人なり。冬は秋の物を凋謝せしむ——無人なり。黒は變ず可からず——無人なり。北方は寿を主る——無人なり。これら皆精に属す。舌は歯に就き、歯は言語を成就す——これ無我なり。礼は謙卑——無我なり。二は偶数——無我なり。夏は春の物に因る——無我なり。赤は變ず可し——無我なり。南方は夭を主る(底本「南天」は「北寿」と相対す、一説に「夭」と作るべし)——無我なり。これら皆神に属す。精に人なきがゆえに、米は殼を去りて精なお在り、神に我なきがゆえに、鬼は物に凭って神は便ち顕現す。精に全き者は是非を忘掉し得失を忘掉し、此に在るは彼に非ず。神を抱く者はあるときは晦あるときは明、あるときは強あるときは弱、彼に在るは此に非ず。

曰:精神。水火也。五行互生滅之。其來無首。其往無尾。則吾之精一滴無存亡爾。吾之神一欻無起滅爾。惟無我無人。無首無尾。所以與天地冥。

曰く、精神とは、即ち水火なり。五行は互いに生滅して、来るに開頭なく、往くに結尾なし。然らば我が精はただ一滴のみ、存亡なく、我が神はただ一閃のみ、起滅なし。まさに无我无人・无首无尾なるがゆえに、天地と冥合す。

曰:精者水。魄者金。神者火。魂者木。精主水。魄主金。金生水。故精者魄藏之。神主火。魂主木。木生火。故神者魂藏之。惟水之為物。能藏金而息之。能滋木而榮之。所以析魂魄。惟火之為物。能鎔金而銷之。能燔木而燒之。所以冥魂魄。惟精。在天為寒。在地為水。在人為精。神。在天為熱。在地為火。在人為神。魄。在天為燥。在地為金。在人為魄。魂。在天為風。在地為木。在人為魂。惟以我之精。合天地萬物之精。譬如萬水可合為一水。以我之神。合天地萬物之神。譬如萬火可合為一火。以我之魄。合天地萬物之魄。譬如金之為物。可合異金而鎔之為一金。以我之魂。合天地萬物之魂。譬如木之為物。可接異木而生之為一木。則天地萬物。皆吾精吾神吾魄吾魂。何者死。何者生。

曰く、精は水、魄は金、神は火、魂は木なり。精は水を主り、魄は金を主る。金は水を生ず、故に精は魄に由りて藏る。神は火を主り、魂は木を主る。木は火を生ず、故に神は魂に由りて藏る。水という物は、金を藏住せしめて安息せしむる能く、木を滋養して榮盛せしむる能く、ゆえに魂魄を分かつ能くす。火という物は、金を熔化銷蝕する能く、木を燔焼する能く、ゆえに魂魄を冥合する能くす。精は、天に在りては寒、地に在りては水、人に在りては精。神は、天に在りては熱、地に在りては火、人に在りては神。魄は、天に在りては燥、地に在りては金、人に在りては魄。魂は、天に在りては風、地に在りては木、人に在りては魂。我が精を以て天地万物の精に合するは、万水は一水に合成する可きに譬え、我が神を以て天地万物の神に合するは、万火は一火に合成する可きに譬え、我が魄を以て天地万物の魄に合するは、金という物は異なる金を熔かして一金と為す可きに譬え、我が魂を以て天地万物の魂に合するは、木という物は異なる木を嫁接して一木と長成する可きに譬うべし。然らば天地万物は皆我が精・我が神・我が魄・我が魂なり、孰れか死、孰れか生。

曰:五行之運。因精有魂。因魂有神。因神有意。因意有魄。因魄有精。五行迴環不已。所以我之偽心流轉造化。幾億萬歲。未有窮極。然核芽相生。不知其幾萬株。天地雖大。不能芽空中之核。雌卵相生。不知其幾萬禽。陰陽雖妙。不能卵無雄之雌。惟其來於我者。皆攝之以一息。則變物為我。無物非我。所謂五行者。孰能變之。

曰く、五行の運行は、精に因りて魂有り、魂に因りて神有り、神に因りて意有り、意に因りて魄有り、魄に因りて精有り、五行は回環して停まらず。故に我が虚偽の心は造化の裡に流転して、幾億万歳、窮盡なし。然れども核と芽は相生するも、幾万株かを知らず、天地は大なりと雖も、空中の核をして発芽せしむる能わず。雌と卵は相生するも、幾万禽かを知らず、陰陽は妙なりと雖も、雄なき雌をして卵を下さしむる能わず。ただあの我が所に来たる者は、皆一口の気を以て收摂し住せば、便ち物を變じて我と為し、一物として我ならざるなし。所謂五行は、誰かまたこれを改變する能くせん。

曰:眾人以魄攝魂者。金有餘則木不足也。眾人以魂攝魄者。木有餘則金不足也。蓋魄之藏魂俱之。魂之遊魄因之。魂晝寓目。魄夜舍肝。寓目能見。舍肝能夢。見者魂無分別析之者。分別析之曰天地者。魂狃習也。夢者魄無分別析之者。分別析之曰彼我者。魄狃習也。火生土。故神生意。土生金。故意生魄。神之所動。不名神。名意。意之所動。不名意。名魄。惟聖人知我無我。知物無物。皆因思慮計之而有。是以萬物之來。我皆對之以性。而不對之以心。性者。心未萌也。無心則無意矣。蓋無火則無土。無意則無魄矣。蓋無土則無金。一者不存。五者皆廢。既能渾天地萬物以為魂。斯能渾天地萬物以為魄。凡造化所妙皆吾魂。凡造化所有皆吾魄。則無有一物可役我者。舍肝當作舍肺。

曰く、衆人が魄を以て魂を攝するは、金有餘にして木不足なり。衆人が魂を以て魄を攝するは、木有餘にして金不足なり。魄が藏るときは魂は跟い、魂が游走するときは魄は因る。魂は白昼は眼に寄せ、魄は夜は肝に住す。眼に寄れば便能く見、肝に住すれば便能く夢を為す。見るときは、魂は本より分別析開なし。見る所を分別析開して天地と謂うは、魂が習気に纏住せられたればなり。夢を為すときは、魄は本より分別析開なし。夢を分別析開して彼我と謂うは、魄が習気に纏住せられたればなり。火は土を生ず、故に神は意を生出す。土は金を生ず、故に意は魄を生出す。神一動せば、便ち神と謂わず意と謂い、意一動せば、便ち意と謂わず魄と謂う。ただ聖人は我が本より无我、物が本より无物を知り、皆思慮計較有るに因りて有るなり。故に万物来たれば、我は皆性を以てこれに對し、心を以てこれに對せず。性とは、心いまだ萌發せざるなり。心なければ便ち意なし——火なければ便ち土なし。意なければ便ち魄なし——土なければ便ち金なし。一者存せざれば、五者皆廃す。既に天地万物を渾じて魂と為す能くせば、便ち天地万物を渾じて魄と為す能くす。およそ造化の妙なる所は皆我が魂、およそ造化の有する所は皆我が魄、則ち一物も我を役使する可きなし。(底本末句「舍肝」は「舍肺」と作るべし、校者の旁記の正文に混入せるなり。)

曰:鬼云為魂。鬼白為魄。於文則然。鬼者。人死所變。雲者風。風者木。白者氣。氣者金。風散故輕清。輕清者上天。金堅故重濁。重濁者入地。輕清者。魄從魂升。重濁者。魂從魄降。有以仁升者。為木星佐。有以義升者。為金星佐。有以禮升者。為火星佐。有以智升者。為水星佐。有以信升者。為土星佐。有以不仁沉者。木賊之。不義沉者。金賊之。不禮沉者。火賊之。不智沉者。水賊之。不信沉者。土賊之。魂魄半之。則在人間。升魂為貴。降魄為賤。靈魂為賢。厲魄為愚。輕魂為明。重魄為暗。揚魂為羽。鈍魄為毛。明魂為神。幽魄為鬼。其形其居。其識其好。皆以五行契之。惟五之數。參差不一。所以萬物之多。盈天地間。猶未已也。以五事歸五行。以五行作五蟲。可勝言哉。譬猶兆龜數蓍。至誠自契。五行應之。誠苟不至。兆之數之。無一應者。聖人假物以遊世。五行不得不對。

曰く、鬼に云を加えて魂と為り、鬼に白を加えて魄と為るは、文字の上より看ればこの如し。鬼とは、人の死して變成する所、云は風、風は木、白は気、気は金なり。風は散ず、故に軽清にして、軽清なるは天に上る。金は堅し、故に重濁にして、重濁なるは地に入る。軽清なるは魄は魂に跟いて升り、重濁なるは魂は魄に跟いて降る。仁に凭って升る者有りて、木星の輔佐と為り、義に凭って升る者有りて、金星の輔佐と為り、礼に凭って升る者有りて、火星の輔佐と為り、智に凭って升る者有りて、水星の輔佐と為り、信に凭って升る者有りて、土星の輔佐と為る。不仁に因りて沉む者有りて、木は来りて彼を賊害し、不義に因りて沉む者有りて、金は来りて彼を賊害し、不礼に因りて沉む者有りて、火は来りて彼を賊害し、不智に因りて沉む者有りて、水は来りて彼を賊害し、不信に因りて沉む者有りて、土は来りて彼を賊害す。魂魄各半なれば、便ち人間に在り。升る魂を貴と為し、降る魄を賤と為し、靈の魂を賢と為し、厲の魄を愚と為し、軽の魂を明と為し、重の魄を暗と為し、揚起の魂を羽族と為し、鈍滯の魄を毛族と為し、明の魂を神と為し、幽の魄を鬼と為す。彼らの形・彼らの居・彼らの識・彼らの好は、皆五行を以て契合す。ただ五という数が參差不一なるがゆえに、万物の多きは天地之間に充滿して、なお完らず。五事を以て五行に帰し、五行を以て五虫を做出す、説き盡す可けんや。亀甲を以て兆を占い蓍草を以て数を計るに譬えば、至誠は自然契合して、五行は便ち應和す。誠もし至らざれば、兆を占い数を計るも、應和する一處なし。聖人は物を借りて世に遊び、五行は相對せざるを得ず。

曰:五者具有魂。魂者識。目者精。色者神。見之者為魂。耳目口鼻心之類在此生者。愛為精。為彼生父本。觀為神。為彼生母本。愛觀雖異。皆同識生。彼生生本在彼生者。一為父。故受氣於父。氣為水。二為母。故受血於母。血為火。有父有母。彼生生矣。惟其愛之無識。如鎖之交。觀之無識。如燈之照。吾識不萌。吾生何有。

曰く、五者は皆魂を具有す。魂は識、目は精、色は神、見る所は魂なり。耳目口鼻心の類の此生に在るは、愛は精と為り、あの一生の父本なり、観は神と為り、あの一生の母本なり。愛と観は同じからざると雖も、皆同一の識より生出す。あの一生の生本はあの一生に在り、一は父、故に父より気を受けて気は水と為り、二は母、故に母より血を受けて血は火と為る。父有り母有れば、あの一生は便ち生出さる。ただ愛有りて識なきは、鎖の相交わるが如く、観有りて識なきは、燈の照らすが如し。我が識萌發せざれば、我が生はまた何か有らん。

曰:如桴扣鼓。鼓之形者。我之有也。鼓之聲者。我之感也。桴已往矣。餘聲尚在。終亦不存而已矣。鼓之形如我之精。鼓之聲如我之神。其餘聲者。猶之魂魄。知夫倏往倏來。則五行之氣。我何有焉。

曰く、鼓槌が鼓を敲くに譬うべし。鼓の形は、我が所有する所、鼓の声は、我が感ずる所。槌はすでに過去して、余声なお在り、終にまた存留せざるのみ。鼓の形は我が精に像り、鼓の声は我が神に像り、あの余声は便ち魂魄に像る。あの忽往忽来を知れば、然らば五行の気は、我は何か有らん。

曰:夫果之有核。必待水火土三者具矣。然後相生不窮。三者不具。如大旱大潦大塊。皆不足以生物。夫精水神火意土。三者本不交。惟人以根合之。故能於其中橫見有事。猶如術祝者。能於至無中見多有事。

曰く、果に核有り、必ず水火土の三者具備を待ちて、然る後に相生して窮まらざる能くす。三者具備せざれば、大旱・大涝・大土塊の如く、皆物を生ずるに足らず。精は水・神は火・意は土、三者は本より相交わらず、ただ人は根を以てそれらを合する能く、ゆえにその中に横に事を生出する能くす。術士祝咒の人に譬えば、至無の中に許多の有の事を見る能くするがごとし。

曰:魂者木也。木根於冬水而華於夏火。故人之魂藏於夜精。而見於晝神。合乎精。故所見我獨。蓋精未嘗有人。合乎神。故所見人同。蓋神未嘗有我。

曰く、魂は木なり。木は冬水に扎根して夏火に開花す、ゆえに人の魂は夜の精裡に藏れて、白昼の神裡に顕現す。精に合すれば、故に見る所はただ我自己のみ——精は未曾だ人有らざればなり。神に合すれば、故に見る所は人と相同じ——神は未曾だ我有らざればなり。

曰:知夫此身。如夢中身。隨情所見者。可以飛神作我而遊太清。知夫此物。如夢中物。隨情所見者。可以凝精作物而駕八荒。是道也。能見精神而久生。能忘精神而超生。吸氣以養精。如金生水。吸風以養神。如木生火。所以假外以延精神。漱水以養精。精之所以不窮。摩火以養神。神之所以不窮。所以假內以延精神。若夫忘精神而超生者。吾嘗言之矣。

曰く、この身が夢中の身の如きを知り、情の見る所に随えば、便ち神を飛起して我を作成して太清に遊ぶ可く、この物が夢中の物の如きを知り、情の見る所に随えば、便ち精を凝起して物を作成して八荒を駕馭する可し。この道は、精神を見て長く生ずる能く、精神を忘掉して生を超越する能くす。気を吸いて精を養うは、金が水を生ずるが如く、風を吸いて神を養うは、木が火を生ずるが如し。これは外物を借りて精神を延長するなり。水を漱ぎて精を養えば、精はこれに因りて窮まらず、摩擦して火を出して神を養えば、神はこれに因りて窮まらず。これは内を借りて精神を延長するなり。精神を忘掉して生を超越するに至っては、我はすでに言い曾てたり。

曰:人勤於禮者。神不外馳。可以集神。人勤於智者。精不外移。可以攝精。仁則陽而明。可以輕魂。義則陰而冥。可以御魄。

曰く、人が礼に勤むれば、神は外に馳せず、神を集む可く、人が智に勤むれば、精は外に移らず、精を攝る可し。仁は則ち陽に属して明、魂を輕減する可く、義は則ち陰に属して冥、魄を駕馭する可し。

曰:蜣螂轉丸。丸成而精思之。而有蠕白者存丸中。俄去殼而蟬。彼蜣不思。彼蠕奚白。曰:庖人羹蟹。遺一足几上。蟹已羹。而遺足尚動。是生死者。一氣聚散爾。不生不死。而人橫計曰生死。

曰く、蜣螂は糞丸を轉し、丸成れば便ち精思これを思いて、是に白色蠕蟲の丸中に存在有り、久しからずして殼を脱して蝉と成る。あの蜣螂が想わざれば、あの蠕蟲は何を以て白からん。また曰く、厨子が蟹羹を做るに、一隻の脚が几の上に遺る。蟹はすでに羹と做られたり、あの遺脚はなお動く。見るべし、生死は不過一気の聚散のみ。本より生と謂う所なく死と謂う所なきを、人は却って横に計較を生じて、生死と謂う。

曰:有死立者。有死坐者。有死臥者。有死病者。有死藥者。等死。無甲乙之殊。若知道之士。不見生。故不見死。

曰く、立ちて死する者有り、坐りて死する者有り、臥して死する者有り、病みて死する者有り、藥して死する者有り。同じく死なり、甲乙の分別なし。もし道を知るの士ならば、生を見ず、ゆえにまた死を見ず。

曰:人之厭生死超生死者。皆是大患也。譬如化人。若有厭生死心。超生死心。止名為妖。不名為道。

曰く、人の生死を厭い生死を超えるは、皆大患なり。幻化し出づる人に譬えば、もし生死を厭うの心・生死を超えるの心有らば、ただ妖と謂うのみ、道と謂わざるがごとし。

曰:計生死者。或曰死己有。或曰死己無。或曰死己亦有亦無。或曰死己不有不無。或曰當喜者。或曰當懼者。或曰當任者。或曰當超者。愈變識情。馳騖不已。殊不知我之生死。如馬之手。如牛之翼。本無有。復無無。譬如水火雖犯水火。不能燒之。不能溺之。

曰く、生死を計較する人は、あるいは死後已有と曰い、あるいは死後已无と曰い、あるいは死後亦有亦无と曰い、あるいは死後不有不无と曰う。あるいは應当歓喜と曰い、あるいは應当恐懼と曰い、あるいは應当それに任すと曰い、あるいは應当超越と曰う。變識情を越えて、馳騖して停まらず。知らざるなり、我が生死は、馬の手・牛の翅膀の如く、本より「有」なく、また「无」もなし。水火に譬えば、水火に触犯すると雖も、これを焼く能わず、これを淹る能わざるがごとし。

五鑑鑑者心也

五鑑:鑑とは、すなわち心である。

關尹子曰:心蔽吉凶者。靈鬼攝之。心蔽男女者。淫鬼攝之。心蔽幽憂者。沈鬼攝之。心蔽放逸者。狂鬼攝之。心蔽盟詛者。奇鬼攝之。心蔽藥餌者。物鬼攝之。如是之鬼。或以陰為身。或以幽為身。或以風為身。或以氣為身。或以土偶為身。或以彩畫為身。或以老畜為身。或以敗器為身。彼以其精。此以其精。兩精相搏。則神應之。為鬼所攝者。或解奇事。或解異事。或解瑞事。其人傲然。不曰鬼於躬。惟曰道於躬。久之。或死木。或死金。或死繩。或死井。惟聖人能神神而不神於神。役萬物而執其機。可以會之。可以散之。可以御之。日應萬物。其心寂然。

関尹子は言う。心が吉凶に遮蔽せらるる者は、靈鬼これを攝住し、心が男女に遮蔽せらるる者は、淫鬼これを攝住し、心が幽憂に遮蔽せらるる者は、沉鬼これを攝住し、心が放逸に遮蔽せらるる者は、狂鬼これを攝住し、心が盟詛に遮蔽せらるる者は、奇鬼これを攝住し、心が藥餌に遮蔽せらるる者は、物鬼これを攝住す。この如き鬼は、あるいは陰を以て身と為し、あるいは幽を以て身と為し、あるいは風を以て身と為し、あるいは気を以て身と為し、あるいは土偶を以て身と為し、あるいは彩畫を以て身と為し、あるいは老畜を以て身と為し、あるいは敗器を以て身と為す。彼方はその精を用い、此方は此方の精を用い、両精相搏して神は便ち應和す。鬼に攝住せられたる人は、あるいは奇事を解する能く、あるいは異事を解する能く、あるいは祥瑞の事を解する能くし、あの人は傲然自得として、鬼が己の身上に在ると言わず、ただ道が己の身上に在ると曰う。久しくして、あるいは木に死し、あるいは金に死し、あるいは繩に死し、あるいは井に死す。ただ聖人のみ神に神たる能くして神に神せられず、万物を役使してあの枢機を抓住し、會合する可く、離散する可く、駕馭する可く、日々万物に應接して、その心は却って寂然たり。

曰:無一心。五識並馳。心不可一。無虛心。五行皆具。心不可虛。無靜心。萬化密移。心不可靜。借能一。則二偶之。借能虛。則實滿之。借能靜。則動搖之。惟聖人能斂萬有於一息。無有一物可役我之明徹。散一息於萬有。無有一物可間吾之云為。

曰く、専一の心なければ、五識並び馳せて、心は専一する能わず。虚の心なければ、五行皆具備して、心は虚たる能わず。静の心なければ、万化は暗に遷移して、心は静たる能わず。専一する能くすと雖も、二は便ち来たりてこれに匹配し、虚たる能くすと雖も、実は便ち来たりてこれを填滿し、静たる能くすと雖も、動は便ち来たりてこれを搖かす。ただ聖人のみ万有を一口の気の裡に收斂して、一物も我が明徹を役使する可きなく、一口の気を万有の裡に散じて、一物も我が言動を間隔する可きなし。

曰:火千年俄可滅。識千年俄可去。

曰く、火は千年焼きて、片刻にして滅す可く、識は千年存して、片刻にして去る可し。

曰:流者舟也。所以流之者是水非舟。運者車也。所以運之者是牛非車。思者心也。所以思之者是意非心。不知所以然而然。惟不知所以然而然。故其來無從。其往無在。其來無從。其往無在。故能與天地本原。不古不今。

曰く、流動するは船、これを流動せしむるは水にして船に非ず。運轉するは車、これを運轉せしむるは牛にして車に非ず。思索するは心、これを思索せしむるは意にして心に非ず。何を以てか然るかを知らずして然る。まさに何を以てか然るかを知らずして然るがゆえに、来るに来処なく、往くに住處なし。来るに来処なく、往くに住處なければ、故に天地の本原とともに在る能く、古ならず今ならず。

曰:知心無物。則知物無物。知物無物。則知道無物。知道無物。故不遵卓絕之行。不驚微妙之言。

曰く、心に物なきを知れば、便ち物に物なきを知り、物に物なきを知れば、便ち道に物なきを知る。道に物なきを知る、故に卓絕の行為を遵行せず、微妙の言語に驚詫せず。

曰:物我交。心生。兩木摩。火生。不可謂之在我。不可謂之在彼。不可謂之非我。不可謂之非彼。執而彼我之則愚。

曰く、物と我と交接すれば、心は便ち生じ、両木相摩擦すれば、火は便ち生ず。これを我に在りと言う可からず、これを彼に在りと言う可からず、これを我に非ずと言う可からず、これを彼に非ずと言う可からず。執着して彼を分かち我を分かつは、即ち愚なり。

曰:無恃爾所謂利害是非。爾所謂利害是非者。果得利害是非之乎。聖人方且不識不知。而況於爾。

曰く、汝の所謂利害是非に仗恃するなかれ。汝の所謂利害是非は、果して利害是非を得たりや。聖人なお識らず知らず、況んや汝をや。

曰:夜之所夢。或長於夜。心無時生於齊者。心之所見皆齊國也。既而之宋之楚之晉之梁。心之所存各異心無方。

曰く、夜裡に做す所の夢は、あるいは夜よりも長し——心に一定の時なし。齊國に生るる人は、心の見る所皆齊國、後に宋に至り、楚に至り、晉に至り、梁に至れば、心の存する所各々相同じからず——心に一定の方位なし。

曰:善弓者師弓不師羿。善舟者師舟不師○。善心者師心不師聖。

曰く、射に善い者は弓を師法して羿を師法せず、船を行くに善い者は船を師法して(底本はこの字が残阙)を師法せず、心を用うるに善い者は心を師法して聖人を師法せず。

曰:是非好醜。成敗盈虛。造物者運矣。皆因私識執之而有。於是以無遣之猶存。以非有非無遣之猶存。無曰莫莫爾。無曰渾渾爾猶存。譬猶昔遊再到。記憶宛然。此不可忘不可遣。善去識者。變識為智。變識為智之說。汝知之乎。

曰く、是非好醜・成敗盈虚、造物の運轉するは、皆私識の執着有るに因りて有るなり。是に「无」を以てこれを遣れば、それなお在り、「非有非无」を以てこれを遣れば、それなお在り、「莫莫然」と説き「渾渾然」と説くも、それなお在り。從前遊びし所を再び至るに譬えば、記憶宛然——これ忘る可からず遣る可からざるがごとし。識を去るに善い者は、識を變じて智と為す。識を變じて智と為すの説を、汝は知るや。

曰:想如思鬼。心栗思盜。心怖曰識。如認黍為稷。認玉為石者。浮游罔象。無所底止。譬睹奇物。生奇物想。生奇物識。此想此識。根不在我。譬如今日。今日而已。至於來日想識殊未可卜。及至來日。紛紛想識。皆緣有生。曰想曰識。

曰く、想は、鬼を想えば心は便ち戦栗し、盗を想えば心は便ち恐怖するに譬うべし。所謂識は、黍を認めて稷と為し、玉を認めて石と為すに譬え、浮游罔象して、著落なし。奇怪の物を見れば、便ち奇怪物の想を生じ、奇怪物の識を生ずるがごとし。この想この識は、根は我に在らず。今日に譬えば、ただ今日のみ、來日に至っては、想と識はなお全く問卜す可からず、來日に等至すれば、紛紛の想識は、皆生有るに縁りて來る。これを想と謂い、識と謂う。

曰:譬如犀牛望月。月形入角。特因識生。始有月形。而彼真月。初不在角。胸中之天地萬物亦然。知此說者。外不見物。內不見情。

曰く、犀牛が月を望むに譬えば、月の形状は角裡に進入す、ただ識生ずるがゆえに、乃ち月の形状有りて、あの真月は本より角裡に在らず。胸中の天地万物もまたこの如し。この説を懂得する者は、外は物を見ず、内は情を見ず。

曰:物生於土。終變於土。事生於意。終變於意。知夫惟意。則俄是之。俄非之。俄善之。俄惡之。意有變。心無變。意有覺。心無覺。惟一我心。則意者。塵往來爾。事者。欻起滅爾。吾心有大常者存。

曰く、物は土より生じて、終に變じて土に返り、事は意より生じて、終に變じて意に返る。ただ意なるを知れば、便ち片刻これを是と為し、片刻これを非と為し、片刻これを善と為し、片刻これを惡と為す。意に變有り、心に變なし。意に覺有り、心に覺なし。ただ我が心専一ならば、然らば意は不過塵土の往来のみ、事は不過忽然の起滅のみ。我が心裡にあの大常の存在有り。

曰:情生於心。心生於性。情波也。心流也。性水也。來幹我者。如石火頃。以性受之。則心不生物浮浮然。

曰く、情は心より生じ、心は性より生ず。情は波、心は流、性は水なり。來りて我を沖犯するは、石の打出す火の一頃の如し。性を以て承受すれば、心は便ち物を生ぜず、物はただ浮浮然のみ。

曰:賢愚真偽。有識者。有不識者。彼雖有賢愚。彼雖有真偽。而謂之賢愚真偽者。系我之識。知夫皆識所成。故雖真者。亦偽之。

曰く、賢愚真偽は、認得する有り、認得せざる有り。彼方は賢愚有ると雖も、彼方は真偽有ると雖も、それらを賢愚真偽と謂うは、我が識の上に係る。皆識の成就する所なるを知る、故に真なりと雖も、これを偽と為す。

曰:心感物。不生心生情。物交心。不生物生識。物尚非真。何況於識。識尚非真。何況於情。而彼妄人。於至無中。執以為有。於至變中。執以為常。一情認之。積為萬情。萬情認之。積為萬物。物來無窮。我心有際。故我之良心受制於情。我之本情受制於物。可使之去。可使之來。而彼去來。初不在我。造化役之。固無休息。殊不知天地雖大。能役有形。而不能役無形。陰陽雖妙。能役有氣。而不能役無氣。心之所之。則氣從之。氣之所之。則形應之。猶如太虛於一碗中變成萬物。而彼一碗不名太虛。我之一心。能變為氣,能變為形。而我之心無氣無形。知夫我之一心無氣無形。則天地陰陽不能役之。

曰く、心は物を感じて、心を生ぜずして情を生じ、物は心に交わりて、物を生ぜずして識を生ず。物なお真ならず、況んや識をや。識なお真ならず、況んや情をや。あの妄人は、至無の中に執着して有と為し、至變の中に執着して常と為す。一情を以て認めば、積んで万情と成り、万情を以て認めば、積んで万物と成る。物の來るは窮なきに、我が心は却って邊際有り、故に我が良心は情に受制し、我が本情は物に受制す。これを去らしむ可く、これを來らしむ可く、あの去來は本より我に在らず、造化これを役使して、本より休息なし。知らざるなり、天地は大なりと雖も、有形を役使する能く、無形を役使する能わず、陰陽は妙なりと雖も、有気を役使する能く、無気を役使する能わず。心の到る所に、気は便ち跟従し、気の到る所に、形は便ち應和す。太虚が一隻の碗裡に萬物と變成するに譬えば、あの一隻の碗は決して太虚と謂わざるがごとし。我がこの一心は気と變成する能く、形と變成する能く、我が心は気なく形なし。我がこの一心に気なく形なきを知れば、天地陰陽はこれを役使する能わず。

曰:人之平日。目忽見非常之物者。皆精有所結而使之然。人之病日。目忽見非常之物者。皆心有所歉而使之然。苟知吾心能於無中示有。則知吾心能於有中示無。但不信之。自然不神。或曰厥識既昏。孰能不信。我應之曰:如捕蛇師。心不怖蛇。彼雖夢蛇。而不怖畏。黃帝曰:道無鬼神。獨往獨來。

曰く、人の平日に、眼睛忽然として非常の物を見るは、皆精の結する所有りて彼をして然らしむるなり。人の病日に、眼睛忽然として非常の物を見るは、皆心の歉する所有りて彼をして然らしむるなり。もし我が心が無中に有を顯示する能くするを知れば、便ち我が心が有中に無を顯示する能くするを知る。ただこれを信ぜざれば、自然神ならず。或る人曰く、あの識はすでに昏し、誰かまた信ぜざる能くせん。我は答えて曰く、蛇を捕るの師傅に譬えば、心裡に蛇を怕れず、彼は夢に蛇を見ると雖も、怖畏せざるがごとし。黄帝曰く、道に鬼神なく、独り往き独り来たる。

曰:我之思慮日變。有使之者。非我也。命也。苟知惟命。外不見我。內不見心。

曰く、我が思慮は日々に變ず、これをして然らしむる有りて、我に非ず、命なり。もしただ命なるを知れば、外は我を見ず、内は心を見ず。

曰:譬如兩目。能見天地萬物。暫時回光。一時不見。

曰く、両隻の眼睛は天地万物を見る能くするに譬えば、暫時光を回りて返照すれば、一時に何をも見ず。

曰:目視雕琢者明愈傷。耳聞交響者聰愈傷。心思元妙者心愈傷。

曰く、眼睛は雕琢を看るに、明は却って愈傷し、耳朵は交響を聽くに、聰は却って愈傷し、心思は玄妙(底本「元妙」は「元」即ち「玄」、幽深難測)を想うに、心は却って愈傷す。

曰:勿以我心揆彼。當以彼心揆彼。知此說者可以周事。可以行德。可以貫道。可以交人。可以忘我。

曰く、我が心を以て彼を測度するなかれ、應当に彼の心を以て彼を測度すべし。この説を懂得する者は、事に周遍する可く、徳を行う可く、道を貫通する可く、人と交往する可く、我を忘掉する可し。

曰:天下之理。小不制而至於大。大不制而至於不可制。故能制一情者。可以成德。能忘一情者。可以契道。

曰く、天下の道理、小は制止せざれば便ち大に至り、大は制止せざれば便ち制止す可からざるに至る。故に一情を制止する能くする者は、徳を成す可く、一情を忘掉する能くする者は、道に契合する可し。

六匕匕者食也食者形也

六匕:匕とは、すなわち食である。食とは、すなわち形である。

關尹子曰:世之人。以我思異彼思彼思異我思分人我者。殊不知夢中人亦我思異彼思。彼思異我思。孰為我。孰為人。世之人。以我痛異彼痛彼痛異我痛分人我者。殊不知夢中人亦我痛異彼痛。彼痛異我痛。孰為我。孰為人。爪發不痛。手足不思。亦我也。豈可以思痛異之。世之人。以獨見者為夢。同見者為覺。殊不知精之所結。亦有一人獨見於晝者。神之所合。亦有兩

関尹子は言う。世の人は、我が思が彼の思に同じからず、彼の思が我が思に同じからざるを以て、便ち人我を分かつ。知らざるなり、夢中の人もまた我が思が彼の思に同じからず、彼の思が我が思に同じからざるを、孰れか我、孰れか人。世の人は、我が痛が彼の痛に同じからず、彼の痛が我が痛に同じからざるを以て、便ち人我を分かつ。知らざるなり、夢中の人もまた我が痛が彼の痛に同じからず、彼の痛が我が痛に同じからざるを、孰れか我、孰れか人。爪甲頭髮は痛まず、手足は思わず、もまた我なり、豈に思と痛と同じからざるを以てそれらを排除す可けんや。世の人は、独り見る所を以て夢と謂い、共に見る所を以て醒と謂う。知らざるなり、精の凝結する所にも、一人が白日に独り見る者有り、神の會合する所にも、両

人同夢於夜者。二者皆我精神。孰為夢。孰為覺。世之人以暫見者為夢。久見者為覺。殊不知暫之所見者陰陽之碗。久之所見者亦陰陽之碗。二者皆我陰陽。孰為夢。孰為覺。

(関尹子が続けて言う:)個人が夜に同じく夢を做する有り。二者は皆我が精神なり、孰れか夢、孰れか醒。世の人は、暫見を以て夢と謂い、久見を以て醒と謂う。知らざるなり、暫見は陰陽の碗、久見もまた陰陽の碗。二者は皆我が陰陽なり、孰れか夢、孰れか醒。

曰:好仁者多夢松柏桃李。好義者多夢兵刀金鐵。好禮者多夢簠簋籩豆。好智者多夢江湖川澤。好信者多夢山嶽原野。役於五行。未有不然者。然夢中或聞某事。或思某事。夢亦隨變。五行不可拘。聖人御物以心。攝心以性。則心同造化。五行亦不可拘。

曰く、仁を好む者は多く松柏桃李を夢見、義を好む者は多く兵刀金鐵を夢見、礼を好む者は多く簠簋籩豆を夢見、智を好む者は多く江湖川澤を夢見、信を好む者は多く山岳原野を夢見る。五行に役使せられて、然らざるなし。然れども夢中に、あるいは某事を聽聞し、あるいは某事を想起すれば、夢もまた随って變じ、五行は便ち拘る能わず。聖人は物を用いて心を以て駕馭し、心を用いて性を以て收攝すれば、然らば心は造化と相同じく、五行もまた拘る能わず。

曰:汝見蛇首人身者。牛臂魚鱗者。鬼形禽翼者。汝勿怪。此怪不及夢。夢怪不及覺。有耳有目有手有臂。怪尤矣。大言不能言。大智不能思。

曰く、汝は蛇首人身の、牛臂魚鱗の、鬼形禽翼のを見るとも、汝は怪しむなかれ。これらの怪はなお夢に及ばず、夢の怪はなお醒に及ばず。耳有り目有り手有り臂有れば、怪は乃ち愈大なり。大言は説く能わず、大智は想う能わず。

曰:有人問於我曰:爾何族。何氏。何名。何字。何食。何衣。何友。何僕。何琴。何書。何古。何今。我時默然。不對一字。或人扣之不已。我不得已而應之曰:尚自不見我。將何為我所。

曰く、或る人我に問う、汝は何の族、何の氏、何の名、何の字、何を喫し、何を穿き、何の友を交わり、何の僕を用い、何の琴を彈き、何の書を讀み、身上に何の古、何の今有るか。我は当時默然として、一字も對せず。あの人は問いて已まず、我は不得已にして乃ち答え曰く、我はなお我を見ず、また何を以て我が所を當てん。

曰:形可分可合。可延可隱。一夫一婦。可生二子。形可分。一夫一婦。二人成一子。形可合。食巨勝則壽。形可延。夜無月火。人不見我。形可隱。以一碗生萬物。猶棄發可換。所以分形。以一碗合萬物。猶破唇可補。所以合形。以神存碗。以碗存形。所以延形。合形於神。合神於無。所以隱形。汝欲知之乎。汝欲為之乎。

曰く、形は分かつ可く合す可く、延長する可く隱藏する可し。一夫一婦は両個の孩子を生ず可く、形は分かつ可し。一夫一婦両人は一個の孩子と成り、形は合す可し。巨勝(胡麻)を喫すれば便ち長壽、形は延長する可し。夜に月なく火なくんば、人は我を見ず、形は隱藏する可し。一隻の碗を以て萬物を生出するは、棄てたる頭髮は更換する可きに譬えば、故に形を分かつ能く、一隻の碗を以て萬物を合起するは、破唇は補う可きに譬えば、故に形を合す能く、神を以て碗を保存し、碗を以て形を保存すれば、故に形を延長する能く、形を神に合し、神を无に合すれば、故に形を隱す能くす。汝は知らんと欲するか、汝は為さんと欲するか。

曰:無有一物不可見。則無一物非吾之見。無有一物不可聞。則無一物非吾之聞。五物可以養形。無一物非吾之形。五味可以養氣。無一物非吾之氣。是故吾之形氣。天地萬物。

曰く、一物として見る可からざるなければ、便ち一物として我が見ならざるなし。一物として聞く可からざるなければ、便ち一物として我が聞ならざるなし。五物は形を養う可く、一物として我が形ならざるなし。五味は気を養う可く、一物として我が気ならざるなし。故に我が形気は、即ち天地萬物なり。

曰:耕夫習牛則獷。獵夫習虎則勇。漁夫習水則沈。戰夫習馬則健。萬物可為我。我之一身。內變蟯蛔。外烝蝨蚤。瘕則龜魚。○則鼠蟻。我可為萬物。

曰く、田を耕す人は牛に熟習して便ち粗獷と變じ、獵を打つ人は虎に熟習して便ち勇猛と變じ、魚を打つ人は水に熟習して便ち沉む能くし、戰を打つ人は馬に熟習して便ち強健と變ず。萬物は我と成る可し。我がこの一身は、内裡は蟯蟲蛔蟲と變成し、外面は虱子跳蚤を蒸出し、腹中痞塊は便ち亀と成り魚と成り、(底本はこの字が残阙)は便ち鼠と成り蟻と成る。我は萬物と成る可し。

曰:我之為我。如灰中金。而不若礦砂之金。破礦得金。淘沙得金。揚灰終身。無得金者。

曰く、我の我たる所以は、灰裡の金の如く、然れども礦砂裡の金に如かず。礦を破りて金を得、沙を淘して金を得、灰を揚げる一輩子は、金を得る有らず。

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