Libo

关尹子 · 第3巻

周 · 关尹喜(旧题) · 第3巻 / 3

曰:一蜂至微。亦能遊觀乎天地。一蝦至微。亦能放肆乎大海。

曰く、一隻の蜜蜂は極めて微小なりと雖も、天地を遊觀する能く、一隻の蝦は極めて微小なりと雖も、大海の中に放肆する能くす。

曰:土偶之成也。有貴有賤。有士有女。其質土。其壞土人哉。

曰く、土偶は做り成されて、貴有り賤有り、士有り女有り。質地は土、坯もまた土——なお人なりや。

曰:目自觀目。無色。耳自聽耳。無聲。舌自嘗舌。無味。心自揆心。無物。眾人逐於外。賢人執於內。聖人皆偽之。

曰く、眼睛自ら眼睛を看るに、色なく、耳朵自ら耳朵を聽くに、声なく、舌頭自ら舌頭を嘗むるに、味なく、心自ら心を測度するに、物なし。衆人は外に追逐し、賢人は内に執着し、聖人はこの両邊を皆偽と看る。

曰:我身五行之碗。而五行之碗。其性一物。借如一所。可以取水。可以取火。可以生木。可以凝金。可以變土。其性含攝。元無差殊。故羽蟲盛者。毛蟲不育。毛蟲盛者。鱗蟲不育。知五行互用者。可以忘我。

曰く、我が身子は五行の碗にして、五行の碗は、性はただ一物のみ。同一處所に譬えば、水を取る可く、火を取る可く、木を生ず可く、金を凝む可く、土を變ず可く、その性は含攝して、元來差殊なし。故に羽蟲盛んのときは毛蟲は育たず、毛蟲盛んのときは鱗蟲は育たず。五行が互いに為に用うるを知る者は、我を忘掉する可し。

曰:枯龜無我。能見大知。磁石無我。能見大力。鐘鼓無我。能見大音。舟車無我。能見遠行。故我一身。雖有智有力。有行有音。未嘗有我。

曰く、枯亀は我なく、大知を顯現する能く、磁石は我なく、大力を顯現する能く、鐘鼓は我なく、大音を顯現する能く、舟車は我なく、遠行を顯現する能くす。故に我がこの一身は智有り力有り、行有り音有ると雖も、未曾だ我有らず。

曰:蜮射影能斃我。知夫無知者亦我。則溥天之下。我無不在。

曰く、蜮は影を射て我を射死せしむる能くす。あの無知もまた我なるを知れば、便ち普天の下、我は在らざる所なし。

曰:心憶者猶忘飢。心忿者猶忘寒。心養者猶忘病。心激者猶忘痛。苟吸碗以養其和。孰能飢之。存神以滋其暖。孰能寒之。養五藏以五行。則無傷也。孰能病之。歸五藏於五行。則無知也。孰則痛之。

曰く、心裡に憶念する人はなお飢を忘掉する能く、心裡に忿怒する人はなお寒を忘掉する能く、心裡に調養する人はなお病を忘掉する能く、心裡に激奮する人はなお痛を忘掉する能くす。もし碗を吸いてあの和を養えば、誰かまた彼をして飢えしむる能くせん、神を存してあの暖を滋すれば、誰かまた彼をして寒えしむる能くせん、五行を以て五臟を養えば、便ち傷なく、誰かまた彼をして病めしむる能くせん、五臟を五行に歸せば、便ち知覺なく、誰かまた彼をして痛めしむる能くせん。

曰:人無以無知無為者為無我。雖有知有為。不害其為無我。譬如火也。躁動不停。未嘗有我。

曰く、人は無知無為を以て乃ち无我と為すを以て勿れ。有知有為有ると雖も、彼が无我なるを妨礙せず。火に譬えば、躁動して停まらず、未曾だ我有らざるがごとし。

七釜釜者化也

七釜:釜とは、すなわち化である。

關尹子曰:道本至無。以事歸道者。得之一息。事本至有。以道運事者。周之百為。得道之尊者。可以輔世。得道之獨者。可以立我。知道非時之所能拘者。能以一日為百年。能以百年為一日。知道非方之所能礙者。能以一里為百里。能以百里為一里。知道無氣能運有氣者。可以召風雨。知道無形能變有形者。可以易鳥獸。得道之清者。物莫能累。身輕矣。可以騎鳳鶴。得道之渾者。物莫能溺。身冥矣。可以席蛟鯨。有即無。無即有。知此道者。可以制鬼神。實即虛。虛即實。知此道者。可以入金石。上即下。下即上。知此道者。可以侍星辰。古即今。今即古。知此道者。可以卜龜筮。人即我。我即人。知此道者。可以窺他人之肺肝。物即我。我即物。知此道者。可以成腹中之龍虎。知象由心變。以此觀心。可以成女嬰。知碗由心生。以此吸神。可以成爐冶。以此勝物。虎豹可伏。以此同物。水火可入。惟有道之士能為之。亦能能之而不為之。

関尹子は言う。道は本より至無、事を道に歸する者は、一口の気にして便ち得る能くす。事は本より至有、道を以て事を運轉する者は、百般の作為皆周遍する能くす。道の尊を得る者は、人世を輔佐する可く、道の独を得る者は、自己を立住する可し。道は時の拘住する能くするに非ざるを知れば、一日を以て百年と為す能く、百年を以て一日と為す能く、道は方位の障礙する能くするに非ざるを知れば、一里を以て百里と為す能く、百里を以て一里と為す能くす。道に気なくして有気を運轉する能くするを知れば、風雨を召来する可く、道に形なくして有形を改變する能くするを知れば、鳥獸を改易する可し。道の清を得る者は、物は累い住せず、身子輕くして、鳳に騎り鶴に騎る可く、道の渾を得る者は、物は淹る能わず、身子冥合して、蛟鯨を以て席と為す可し。有は即ち無、無は即ち有、この道を知る者は、鬼神を制服する可し。實は即ち虚、虚は即ち實、この道を知る者は、金石に進入する可し。上は即ち下、下は即ち上、この道を知る者は、星辰に侍奉する可し。古は即ち今、今は即ち古、この道を知る者は、亀筮を以て問卜する可し。人は即ち我、我は即ち人、この道を知る者は、他人の肺肝を窺見する可し。物は即ち我、我は即ち物、この道を知る者は、腹中に龍虎を成就する可し——本篇の用うる所の龍虎・女嬰・爐冶の類の名目は、皆内丹家が外丹藥物と器具の名を借りて、身中の精・気・神と煉養部位を指稱するにして、實に金石藥物を指すに非ず。象が心に由りて變ずるを知り、これを以て心を觀れば、女嬰を成就する可く、碗が心に由りて生ずるを知り、これを以て神を吸えば、爐冶を成就する可し。これを以て物に勝てば、虎豹降伏する可く、これを以て物と相同じくすれば、水火進入する可し。ただ道有るの士のみこれらを為す能く、また能くする能くして為さざる能くす。

曰:人之力。有可以奪天地造化者。如冬起雷。夏造。死屍能行。枯木能華。豆中攝鬼。杯中釣魚。畫門可開。土鬼可語。皆純碗所為。故能化萬物。今之情情不停。亦碗所為。而碗之為物。有合有散。我之所以行碗者。本未嘗合。亦未嘗散。有合者生。有散者死。彼未嘗合未嘗散者。無生無死。客有去來。郵常自若。

曰く、人の力量は、天地造化を奪取する可き有り。たとえば冬に雷が響き、夏に冰を造出し(底本「夏造」の下に「冰」を脱すと疑わる)、死尸は走る能く、枯木は開花する能く、豆中より鬼を攝出し、杯中より魚を釣出し、畫の門は打開する可く、土做の鬼は説話する可し。皆純碗の做する所、ゆえに萬物を化する能くす。如今情と情とは停まらず、もまた碗の做する所。而も碗という物は、合有り散有り。我が以て碗を行うは、本より未曾だ合せず、また未曾だ散ぜず。合有れば便ち生じ、散有れば便ち死す。あの未曾合・未曾散は、无生无死なり。客人は去来有り、驛站は常常なおあの如し。

曰:有誦祝者。有事神者。有墨字者。有變指者。皆可以役神御碗。變化萬物。惟不誠之人。難於自信。而易於信物。故假此為之。苟知惟誠。有不待彼而然者。

曰く、咒を誦して祝禱する有り、神を事奉する有り、墨を以て字を寫る有り、指訣を變ずる有り、皆神を役使し碗を駕馭して、萬物を變化する可し。ただ誠ならざる人は、自信すること難くして、物を信ずること易く、ゆえにこれらを借りて為す。もしただ誠なるを知れば、便ちあれらを待たずしてもまた然る能くする有り。

曰:人之一呼一吸。日行四十萬裡。化可謂速矣。惟聖人不存不變。

曰く、人の一呼一吸は、一日四十万里を走り、化は説くに甚だ速しと謂う可し。ただ聖人は存留せず變化せず。

曰:青鸞子千歲而千歲化。桃子五仕而心五化。聖人賓事去物。豈不欲建立於世哉。有形數者懼化之不可知也。

曰く、青鸞子は一千歳活きて、一千歳皆化に在り、桃子は五度官を做して、心もまた五度化したり。聖人は事を以て賓客と為し物を去掉す、豈に世上に建立有らんと欲せざらんや。有形・有数は、怕るるは化の知る可からざるなり。

曰:萬物變遷。雖互隱見。氣一而已。惟聖人知一而不化。

曰く、萬物は變遷して、互いに隱藏顯現すと雖も、気はただ一のみ。ただ聖人はあの一を知りて化せず。

曰:爪之生。發之長。榮衛之行。無頃刻止。眾人皆見之於著。不能見之於微。賢人見之於微。而不能任化。聖人任化。所以無化。

曰く、爪甲は生に在り、頭髮は長に在り、榮衛は運行に在り、頃刻の停止なし。衆人は皆あの顯著を見る能く、あの微細を見る能わず、賢人はあの微細を見る能く、然れども化に任す能わず、聖人は化に任す、故に化なし。

曰:室中有常見聞矣。既而之門之鄰之裡之黨。既而之郊之山之川。見聞各異。好惡隨之。和競從之。得失成之。是以聖人動止有戒。

曰く、屋子裡に常常見聞する有り。後に門口に至り、鄰家に至り、里巷に至り、鄉黨に至り、後に郊野に至り、山に至り、川に至れば、見聞各々相同じからず、好惡は跟って變じ、和と争は跟って來り、得と失は成就す。故に聖人は動止皆警戒有り。

曰:譬如大海。變化億萬蛟魚。水一而已。我之與物。蓊然蔚然。在大化中。性一而已。知夫性一者。無人無我無死無生。

曰く、大海に譬えば、億万の蛟魚を變化し出づるも、水はただ一のみ。我と物は蓊蓊鬱鬱として、大化の中に在り、性はただ一のみ。性は一なるを知る者は、便ち人なく我なく、死なく生なし。

曰:天下之理。是或化為非。非或化為是。恩或化為仇。仇或化為恩。是以聖人居常慮變。

曰く、天下の道理、是はあるいは化して非と成り、非はあるいは化して是と成り、恩はあるいは化して仇と成り、仇はあるいは化して恩と成る。故に聖人は常裡に處りて變を慮る。

曰:人之少也。當佩乎父兄之教。人之壯也。當達乎朋友之箴。人之老也。當警乎少壯之說。萬化雖移。不能厄我。

曰く、人の年少のときは、應当に父兄の教誨を佩戴すべく、人の壮年のときは、應当に朋友の規箴を通達すべく、人の年老のときは、應当に少壮時の説法を警惕すべし。萬化遷移すると雖も、また我を困厄する能わず。

曰:天下之理輕者易化。重者難化。譬如風雲須臾變滅。金玉之性歷久不渝。人之輕明者。能與造化俱化而不留。殆有未嘗化者存。

曰く、天下の道理、輕は化し易く、重は化し難し。風雲は片刻に變滅するに譬えば、金玉の性は久しきを經歴して改變せざるがごとし。人裡に輕にして明なるは、造化と一齊に化して停留せざる能く、大概なおあの未曾化の存在する有り。

曰:二幼相好。及其壯也。相遇則不相識。二壯相好。及其老也。相遇則不相識。如雀鴿鷹鳩之化。無昔無今。

曰く、両個の幼年相好し、壮年に等って相遇えば相識らず、両個の壮年相好し、老年に等って相遇えば相識らず。雀鴿鷹鳩の變化の如く、昔なく今もなし。

八籌籌者物也

八籌:籌とは、すなわち物である。

關尹子曰:古之善揲蓍灼龜者。能於今中示古。古中示今。高中示下。下中示高。小中示大。大中示小。一中示多。多中示一。人中示物。物中示人。我中示彼。彼中示我。是道也。其來無今。其往無古。其高無蓋。其低無載。其大無外。其小無內。其外無物。其內無人。其近無我。其遠無彼。不可析。不可合。不可喻。不可思。惟其渾淪。所以為道。曰:水潛。故蘊為五精。火飛。故達為五臭。木茂。故華為五色。金堅。故實為五聲。土和。故滋為五味。其常五。其變不可計。其物五。其雜不可計。然則萬物在天地間。不可執謂之萬。不可執謂之五。不可執謂之一。不可執謂之非萬。不可執謂之非五。不可執謂之非一。或合之。或離之。以此必形。以此必數。以此必氣。徒自勞爾。物不知我。我不知物。

関尹子は言う。古の蓍を揲え亀を灼くに善い者は、今中に古を顯示し、古中に今を顯示する能く、高中に下を顯示し、下中に高を顯示する能く、小中に大を顯示し、大中に小を顯示する能く、一中に多を顯示し、多中に一を顯示する能く、人中に物を顯示し、物中に人を顯示する能く、我中に彼を顯示し、彼中に我を顯示する能くす。この道は、來るに今なく、往くに古なし。それ高きは蓋なく、それ低きは載なく、それ大は外なく、それ小は内なく、それ外は物なく、それ内は人なく、それ近は我なく、それ遠は彼なし。分かつ可からず、合併す可からず、比喻す可からず、思索す可からず。ただそれが渾淪なるがゆえに、道と為る。また曰く、水は潛藏す、故に蘊結して五精と為り、火は飛揚す、故に通達して五臭と為り、木は茂盛す、故に開花して五色と為り、金は堅硬す、故に充實して五聲と為り、土は和柔す、故に滋生して五味と為る。常は五、變は計算す可からず、物は五、雜は計算す可からず。然らば萬物は天地之間に在りて、執着して萬と謂う可からず、執着して五と謂う可からず、執着して一と謂う可からず、また執着して非萬・非五・非一と謂う可からず。あるいはこれを合し、あるいはこれを離れ、これを以て形を必定し、これを以て数を必定し、これを以て気を必定するは、ただ自己を労苦せしむるのみ。物は我を知らず、我は物を知らず。

曰:即吾心中可作萬物。蓋心有所之。則愛從之。愛從之。則精從之。蓋心有所結。先凝為水。心慕物涎出。心悲物淚出。心愧物汗出。無暫而不久。無久而不變。水生木。木生火。火生土。土生金。金生水。相攻相剋。不可勝數。嬰兒奼女。金樓絳宮。青蛟白虎。寶鼎紅爐。皆此物。有非此物存者。

曰く、即ち我が心裡に萬物を作成する可し。心の往く所有れば、愛は便ち跟従し、愛が跟従すれば、精は便ち跟従す。心の結する所有れば、先ず水に凝成す。心裡に物を慕えば涎を流出し、心裡に物を悲しめば涙を流出し、心裡に物を愧すれば汗を流出す。短暫にして長久ならざるなく、長久にして變ぜざるなし。水は木を生じ、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、相攻相克して、数へて盡す可からず。嬰兒姹女・金樓絳宮・青蛟白虎・寶鼎紅爐は、皆この物なり。なおこの物ならずして存在する有り。

曰:鳥獸俄呦呦。俄旬旬。俄逃逃。草木俄茁茁。俄停停。俄蕭蕭。天地不能留。聖人不能系。有運者存焉爾。有之在彼。無之在此。鼓不桴則不鳴。偶之在彼。奇之在此。桴不手則不擊。

曰く、鳥獸は片刻呦呦と叫び、片刻馴順し、片刻逃散す。草木は片刻茁壯し、片刻停住し、片刻蕭疏す。天地は留め住む能わず、聖人は繋いで住む能わず、あの運轉の存在するのみ。有は彼方に在り、無は此方に在り——鼓は槌なくんば響かず。偶は彼方に在り、奇は此方に在り——槌は手なくんば敲かず。

曰:均一物也。眾人惑其名。見物不見道。賢人析其理。見道不見物。聖人合其天。不見道不見物。一道皆道。不執之即道。執之即物。

曰く、同じく一件の物なり、衆人はその名に迷惑して、物を見て道を見ず。賢人はその理を分析して、道を見て物を見ず。聖人はあの天に契合して、道をも見ず物をも見ず。一道は皆道なり、それを執着せざれば即ち道、それを執着すれば即ち物。

曰:知物之偽者。不必去物。譬如見土牛木馬。雖情存牛馬之名。而心忘牛馬之實。

曰く、物は偽なるを知れば、物を去るを必ずせず。土牛木馬を見るに譬えば、情上になお牛馬の名を存すると雖も、心裡はすでに牛馬の實を忘掉せるがごとし。

九藥藥者雜治也

九藥:藥とは、すなわち雜治である。

關尹子曰:勿輕小事。小隙沉舟。勿輕小物。小蟲毒身。勿輕小人。小人賊國。能周小事。然後能成大事。能積小物。然後能成大物。能善小人。然後能契大人。天既無可必者人。人無能必者事。惟去事離人。則我在我。惟可即可。未有當繁簡可。當戒忍可。當勤惰可。曰:智之極者。知智果不足以周物。故愚。辨之極者。知辨果不足以喻物。故訥。勇之極者。知勇果不足以勝物。故怯。曰:天地萬物。無一物是吾之物。物非我。物不得不應。我非我。我不得不養。雖應物。未嘗有物。雖養我。未嘗有我。勿曰外物。然後外我。勿曰外形。然後外心。道一而已。不可序進。

関尹子は言う。小事を輕視するなかれ、小縫は便ち船を沉むる能く、小物を輕視するなかれ、小蟲は便ち身を毒する能く、小人を輕視するなかれ、小人は便ち國家を賊害する能くす。小事に周遍する能くして、然る後に大事を成す能く、小物を積聚する能くして、然る後に大物を成す能く、小人を善待する能くして、然る後に大人に契合する能くす。天は既に必定す可き人なく、人もまた事を必定する能わず。ただ事を去り人を離れて、我は乃ち我に在り。ただ可のみ可なり、繁すべく簡すべく皆可有るなく、戒すべく忍すべく皆可有るなく、勤すべく惰すべく皆可有るなし。また曰く、智は極處に至りて、智は果して物に周遍するに足らざるを知る、故に愚を守る。辨は極處に至りて、辨は果して物を曉喻するに足らざるを知る、故に訥を守る。勇は極處に至りて、勇は果して物に勝過するに足らざるを知る、故に怯を守る。また曰く、天地萬物、一物として我が物ならざるなし。物は我に非ず、物は應ぜざるを得ず。我は我に非ず、我は養わざるを得ず。物に應ずと雖も、未曾だ物有らず。我を養うと雖も、未曾だ我有らず。先ず物に外れて然る後に我に外れると言うなかれ。先ず形に外れて然る後に心に外れると言うなかれ。道はただ一のみ、次序に按じて漸進す可からず。

曰:諦毫末者。不見天地之大。審小音者。不聞雷霆之聲。見大者亦不見小。見邇者亦不見遠。聞大者亦不聞小。聞邇者亦不聞遠。聖人無所見。故能無不見。無所聞。故能無不聞。

曰く、毫末を審諦する者は、天地の大を見ず。小音を審聽する者は、雷霆の聲を聽かず。大を見るもまた小を見ず、近を見るもまた遠を見ず。大を聽くもまた小を聽かず、近を聽くもまた遠を聽かず。聖人は見る所なく、故に見ざる所なし、聞く所なく、故に聞かざる所なし。

曰:目之所見。不知其幾何。或愛金。或愛玉。是執一色為目也。耳之所聞。不知其幾何。或愛鍾。或愛鼓。是執一聲為耳也。惟聖人不慕之。不拒之。不處之。

曰く、眼睛の見る所は、多少を知らず、あるいは金を愛し、あるいは玉を愛す、これは一種の色を執着して以て眼睛と當てるなり。耳朵の聞く所は、多少を知らず、あるいは鐘を愛し、あるいは鼓を愛す、これは一種の聲を執着して以て耳朵と當てるなり。ただ聖人は羨慕せず、拒絕せず、またその上に停留せず。

曰:善今者可以行古。善末者可以立本。

曰く、今に善い者は古を實行する可く、末に善い者は本を立住する可し。

曰:狡勝賊。能捕賊。勇勝虎。能捕虎。能克己。乃能成己。能勝物。乃能利物。能忘道。乃能有道。

曰く、狡猾は賊に勝過して、乃ち賊を捕る能く、勇猛は虎に勝過して、乃ち虎を捕る能くす。己を克する能くして、乃ち己を成す能く、物に勝過する能くして、乃ち物に利有る能く、道を忘掉する能くして、乃ち道を據有する能くす。

曰:○堅。則物必毀之。剛斯折矣。刀利。則物必摧之。銳斯挫矣。威鳳以難見為神。是聖人以深為根。走麝以遺香不捕。是以聖人以約為紀。

曰く、(底本はこの字が残阙)はもし堅硬ならば、物は必ずこれを毀壞し、剛は便ち折斷す。刀はもし鋒利ならば、物は必ずこれを摧折し、鋭は便ち受挫す。威鳳は見ること難きを以て神と當てられ、故に聖人は深を以て根と為す。走麝は香氣を留下するを以て捕捉せられず、故に聖人は簡約を以て紀と為す。

曰:瓶存二竅。以水實之。倒瀉閉一。則水不下。蓋不升則不降。井雖千仞。汲之水上。蓋不降則不升。是以聖人不先物。

曰く、瓶子に両個の孔を留めて、水を以て滿裝し、倒して瀉ぐるに、一個の孔を閉住すれば、水は便ち下らず——升らざれば便ち降らざればなり。井は千仞の深有ると雖も、これを汲めば水は便ち上る——降らざれば便ち升らざればなり。故に聖人は物に先んじて搶せず。

曰:人之有失。雖己受害於已失之後。久之。竊議於未失之前。惟其不恃己聰明而兼人之聰明。惟其無我而兼天下之我。終身行之。可以不失。

曰く、人に過失有るは、すでに失した後に受害すと雖も、久しきを過ぎて、なお私下にあの未だ失せざる前を議論す。ただ彼が己の聰明に仗恃せずして兼ねて別人の聰明を用い、ただ彼が我なくして兼ねて天下の我有るがゆえに、一輩子この如く為せば、失わざる可し。

曰:古今之俗不同。東西南北之俗又不同。至於一家一身之善又不同。吾豈執一豫格後世哉。

曰く、古今の習俗は同じからず、東西南北の習俗もまた同じからず、一家一身の善に至りてはまた同じからず。我は豈に一個の預先の格子を執着して後世を規範せんや。

惟隨時同俗。先機後事。捐忿塞欲。簡物恕人。權其輕重。而為之自然。合神不測。契道無方。

(関尹子が続けて言う:)ただ時に随い俗に同じくして、先ず機を看て然る後に事を做し、忿怒を去掉し、嗜欲を堵住し、物を簡省し、人を寬恕し、輕重を權衡して然る後に做せば、自然神の測度す可からざるに合し、道の方位なきに契合す。

曰:有道交者。有德交者。有事交者。道交者。父子也。出於是非賢愚之外。故久。德交者。則有是非賢愚矣。故或合或離。事交者。合則離。

曰く、道を以て相交わる有り、徳を以て相交わる有り、事を以て相交わる有り。道を以て相交わるは、これ父子なり、是非賢愚の外に出づ、故に長久なり。徳を以て相交わるは、便ち是非賢愚有り、故にあるいは合しあるいは離る。事を以て相交わるは、合すれば便ち離る。

曰:勿以拙陋。曰道之質當樂敏捷。勿以愚闇。曰道之晦當樂輕明。勿以傲易。曰道之高當樂和同。勿以汗漫。曰道之廣當樂要急。勿以幽憂。曰道之寂當樂悅豫。古人之言。學之多弊。不可不救。

曰く、拙陋を以て道の質樸と謂うなかれ、應当に敏捷を樂しむべし。愚暗を以て道の晦と謂うなかれ、應当に輕明を樂しむべし。傲易を以て道の高と謂うなかれ、應当に和同を樂しむべし。汗漫を以て道の廣と謂うなかれ、應当に要約急切を樂しむべし。幽憂を以て道の寂と謂うなかれ、應当に悦豫を樂しむべし。古人の話は、學べば多く弊病有り、救わざる可からず。

曰:不可非世是己。不可卑人尊己。不可以輕忽道己。不可以訕謗德己。不可以鄙猥才己。

曰く、世を非難して自己を肯定す可からず、人を卑視して自己を尊崇す可からず、輕忽を以て自己の道と當てる可からず、訕謗を以て自己の徳と當てる可からず、鄙猥を以て自己の才と當てる可からず。

曰:困天下之智者不在智而在愚。窮天下之辯者不在辯而在訥。伏天下之勇者不在勇而在怯。

曰く、天下の智を困住するは、智に在らずして愚に在り。天下の辯を窮盡するは、辯に在らずして訥に在り。天下の勇を降伏するは、勇に在らずして怯に在り。

曰:天不能冬蓮春菊。是以聖人不違時。地不能洛橘汶貉。是以聖人不違俗。聖人不能使手步足握。是以聖人不違我所長。聖人不能使魚飛鳥馳。是以聖人不違人所長。夫如是者。可動可止。可晦可明。惟不可拘。所以為道。

曰く、天は蓮花を冬に開き菊花を春に開かしむる能わず、故に聖人は時に違背せず。地は橘を洛に生じ貉を汶に生ぜしむる能わず、故に聖人は俗に違背せず。聖人は手をして走らしめ脚をして握らしむる能わず、故に聖人は自己の長ずる所に違背せず。聖人は魚をして飛ばしめ鳥をして跑らしむる能わず、故に聖人は人の長ずる所に違背せず。この如くなれば、動く可く止まる可く、晦む可く明く可し。ただ拘泥す可からざるがゆえに、道と為る。

曰:少言者。不為人所忌。少行者。不為人短。少智者。不為人所勞。少能者。不為人所役。曰:操之以誠。行之以簡。待之以恕。應之以默。吾道不窮。

曰く、話を少なき者は、人に忌まれず。事を少なきする者は、人に短を揭げられず。智を少なき用うる者は、人に労苦せられず。能を少なき逞す者は、人に役使せられず。また曰く、誠を以て操持し、簡を以て實行し、恕を以て對待し、默を以て應接すれば、我が道は窮盡せざらん。

曰:謀之於事。斷之於理。作之於人。成之於天。事師於今。理師於古。事同於人。道獨於己。

曰く、謀劃は事の上に在り、決斷は理の上に在り、作為は人に在り、成就は天に在り。事は今を師法し、理は古を師法す。事は人と相同じく、道は独り己に在り。

曰:金玉難捐。土石易舍。學道之士。遇微言妙行。慎勿執之。是可為而不可執。若執之者。則腹心之疾。無藥可療。

曰く、金玉は捨棄し難く、土石は舍掉し易し。道を學ぶの士は、微言妙行に遇えば、千萬に執着するなかれ。これらは為す可くして執着す可からず。もし執着せば、即ち心腹の疾、治す可き藥なし。

曰:人不明於急務。而從事於多務他務奇務者。困災厄及之。殊不知道無不在。不可舍此就彼。

曰く、人は急務を明了せずして、却って多務・他務・奇務に從事すれば、困厄災禍は便ち來到せん。殊に道は在らざる所なきを知らず、此を舍てて彼に就く可からず。

曰:天下之理。舍親就疏。捨本就末。舍賢就愚。舍近就遠。可暫而已。久則害生。

曰く、天下の道理、親を舍てて疏に就き、本を舍てて末に就き、賢を舍てて愚に就き、近を舍てて遠に就くは、ただ暫時なるのみ、久しければ便ち害を生出せん。

曰:昔之論道者。或曰凝寂。或曰邃深。或曰澄澈。或曰空洞。或曰晦冥。慎勿遇此而生怖退。天下至理。竟非言意。苟知非言非意在彼微言妙意之上。乃契吾說。

曰く、從前道を論ずる者は、あるいは凝寂と曰い、あるいは邃深と曰い、あるいは澄澈と曰い、あるいは空洞と曰い、あるいは晦冥と曰う。千萬にこれらに碰到して怖退を生出するなかれ。天下の至理は、畢竟言語と意思に非ず。もしあの非言非意があの微言妙意の上に在るを知れば、乃ち我が説法に契合す。

曰:聖人大言金玉。小言桔梗芣衛。用之當。桔梗芣衛生之。不當。金玉斃之。

曰く、聖人の大言は金玉の如く、小言は桔梗・芣苢(底本「芣卫」は即ち車前草)の如し。用いるに當を得れば、桔梗芣苢もまた生を救う能く、用いるに當を得ざれば、金玉もまた人を死せしむる能くす。

曰:言某事者。甲言利。乙言害。丙言或利或害。丁言俱利俱害。必居一於此矣。喻道者不言。

曰く、某件事を説く者は、甲は利と説き、乙は害と説き、丙は或利或害と説き、丁は俱利俱害と説く、必ずその一に居る。道を曉喻する者は説かず。

曰:事有在。事言有理。道無在。道言無理。知言無理。則言言皆道。不知言無理。雖執至言。為梗為翳。

曰く、事に在る所有れば、事の話に理有り。道に在る所なければ、道の話に理なし。話に理なきを知れば、然らば句句の話皆道なり。話に理なきを知らざれば、最も至極の話を執着すると雖も、も梗塞と成り、翳障と成る。

曰:不信愚人易。不信賢人難。不信賢人易。不信聖人難。不信一聖人易。不信千聖人難。夫不信千聖人者。外不見人。內不見我。上不見道。下不見事。

曰く、愚人を信ぜざるは易く、賢人を信ぜざるは難し。賢人を信ぜざるは易く、聖人を信ぜざるは難し。一個の聖人を信ぜざるは易く、一千個の聖人を信ぜざるは難し。あの一千個の聖人を信ぜざる人は、外は人を見ず、内は我を見ず、上は道を見ず、下は事を見ず。

曰:聖人言濛濛。所以使人聾。聖人言冥冥。所以使人盲。聖人言沉沉。所以使人喑。惟聾則不聞聲。惟盲則不見色。惟喑則不音言。不聞聲者不聞道。不聞事。不聞我。不見色者不見道。不見事。不見我。不音言者不言道。不言事。不言我。

曰く、聖人の話は蒙蒙たり、故に人をして聾ならしむ。聖人の話は冥冥たり、故に人をして盲ならしむ。聖人の話は沉沉たり、故に人をして啞ならしむ。ただ聾のみ聲を聞かず、ただ盲のみ色を見ず、ただ啞のみ音を發して説話せず。聲を聞かざるは、道を聞かず、事を聞かず、我を聞かず。色を見ざるは、道を見ず、事を見ず、我を見ず。音を發して説話せざるは、道を言わず、事を言わず、我を言わず。

曰:人徒知偽得之中有真失。殊不知真得之中有真失。徒知偽是之中有真非。殊不知真是之中有真非。

曰く、人はただ偽得の中に真失有るを知るのみ、殊に真え得の中にも真失有るを知らず。ただ偽是の中に真非有るを知るのみ、殊に真え是の中にも真非有るを知らず。

曰:言道者如言夢。夫言夢者曰如此金玉。如此器皿。如此禽獸。言者能言之。不能取而與之。聽者能聞之。不能受而得之。惟善聽者。不泥不辨。

曰く、道を言説するは夢を言説するに譬うべし。夢を説く人曰く、かくの如き金玉、かくの如き器皿、かくの如き禽獸。説く人は説く能く、取出して人に與う能わず。聽く人は聽聞する能く、接受して得る能わず。ただ聽くに善い者のみ、拘泥せずまた争辯せず。

曰:圓爾道。方爾德。平爾行。銳爾事。

曰く、汝の道をして円ならしめ、汝の徳をして方ならしめ、汝の行をして平ならしめ、汝の事をして鋭ならしめよ。

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