Libo

葬书 · 第1巻

晋 · 郭璞 · 第1巻 / 3

作盤ガイド: 玄空飛星の作盤, 暦注(黄暦)

内篇・気感じて応じ、鬼福人に及ぶ

風水堪輿典籍

まず読む書が形勢か理気かを見極めてから条文に入るのがよい。派を跨いだ術語の混用が、この門で最もありがちな誤読の源である。

葬書

内篇

内篇・葬は生気に乗る

葬者乘生氣也。生氣即一元運行之氣,在天則周流六虛,在地則發生萬物。天無此則氣無以資,地無此則形無以載。故磅礴乎大化,貫通乎品彙,無處無之,而無時不運也。陶促曰:先天地而長存,後天地而固有。蓋亦指此云耳。且夫生氣藏於地中,人不可見,惟循地之理以求之,然後能知其所在。葬者能知其所在,使枯骨得以乘之,則地理之能事畢矣。

安葬の根本は、先人の遺骨を大地の「生気」に乗せることにある。いわゆる生気とは、天地の間のあの一元にして運行する気である。それは天においては上下四方の六虚を周流し、地においては万物を発育させる。天にそれがなければ万物の気は資り取るに由なく、地にそれがなければ万物の形は承載するに由がない。だからそれは磅礴として造化の全体に充満し、一切の品類に貫通し、一処としてなく、一刻として運行を止めない。陶氏がそれを「天地に先んじて長く存し、天地に後れて固く有る」と言ったのは、まさにこの気を講したのである。生気は地中に蔵されて肉眼では見えず、ただ山川地理の条理に循って推求した後でこそ、それが究竟どこに聚まるかを知ることができる。葬を会する人がもしその所在を的確に捉え、枯骨をして乗受し得させれば、地理という学問の全部の本事もまたここに尽きる。

五氣行乎地中,發而生乎萬物。五氣即五行之氣,乃生氣之別也。夫一氣分而為陰陽,析而為五行,雖運於天,實出於地。行則萬物發生,聚則山川融結。融結者,即二五之精、妙合而凝也。

金木水火土の五行の気が地中に運行し、ひとたび発動すれば万物を生養する。ここで言う「五気」とは五行の気であり、実はただ生気の分身である。混沌の一気がまず陰陽に分かれ、再び析れて五行となる。それは天上に運転するが、根源は地下から出る。五気が流行し開けば万物は萌えて生長し、五気が聚まり合えば山川は融結して形を成す。いわゆる融結とは、陰陽二気と五行の精が微妙に相合して凝聚し体を成すことである。

内篇・気感じて応じ、鬼福人に及ぶ

人受體於父母,本骸得氣,遺體受蔭。父母骸骨,為子孫這本;子孫形體,父母之枝。一氣相應,由本而達枝也。考試程子曰:卜其宅兆,卜其他地之美惡也。地美則神靈安,子孫盛,若培壅其根而枝葉茂,理固然也。惡則反是。

人の形体は父母に禀受する。父母の骸骨が生気を得れば、父母の遺体たる子孫はその蔭庇を受けることができる。父母の骸骨は子孫の根本であり、子孫の形体は父母の枝條である。同じ一気から出で彼此相応し、気は根本より枝條に通達する。程頤が言った。先人のために墓地を卜擇するとき、卜するのはまさにその地の美悪である。地が美ならば先人の神霊は安穩で子孫は興盛する。譬えば土を培い根を壅けば枝葉は自ずから繁茂するが如く、道理はもとよりこうである。地が悪ならば結果は正にこれと反対である。

蔡季通曰:生死殊途,情氣相感,自然默與之通。今尋暴骨,以生人刺血滴之而滲入,則為親骨肉,不滲則非。氣類相感有如此者。則知枯骨得蔭,生人受福,其理顯然,不待智者而後知也。

蔡元定(字は季通)が言った。生者と死者は道路こそ異なれ、情と気は互いに感応して、自ずから黙々として相通ずる。いま暴露した主なき骨を尋ね出し、活人に指を刺して血を滴らせれば、血が骨中に滲み入るのは親生の骨肉であり、滲み入らぬのはそうでない。同類の気が相互に感応するのは、竟にこのほどに及ぶ。これにより枯骨が蔭庇を得、活人がここにより福を受ける道理が明白なことを知る。聡明な人が点破するを待つまでもない。

或謂抱養既成,元非遺體,僧道嗣續,亦異所生,其何能蔭之有?而不知人之心通乎氣,心為氣之主,情通則氣亦通,義絕則應本絕。故後母能蔭前母子,前母亦發後母兒。其在物則萎藪螟蛉之類是也,尚何疑焉。

疑う人が言う。抱養した子はもとより先人の遺体ではなく、僧人道士の法嗣はさらに所生に関わらない。祖墳がどうして彼らを蔭庇できようか。これは人心と気が相通ずる理を知らないのである。心は気の主宰で、情意が通ずれば気も通じ、恩義が断絶すれば感応の根本も随いて絶える。だから継母は前妻の生んだ子を蔭庇でき、前妻の墳も継母の生んだ子を発旺させることができる。物類において、蜾蠃(かからん)が螟蛉(めいれい)の子を銜え養い終に同類を成すのは、まさに同一の道理である。何の疑うべきことがあろうか。

經曰:氣感而應,鬼福及人。父母子孫,本同一氣,互相感召,如受鬼福,故天下名墓,在在有之。蓋真龍發跡,迢迢百里,或數十里,結為一穴。及至穴前,則峰巒矗擁,眾水環繞,疊樟層層,獻奇於後,龍脈抱衛,砂水貧聚。形穴既就,則山川這靈秀,造化之精英,凝結融會於其中矣。

古経に言う。生気にひとたび感応あれば、先人は便ちに福沢を生きる子孫に降し及ばせることができる。父母と子孫はもとより同一の気に属し、彼此感召して、先人の賜った福を承受するが如し。だから天下の名墓は処処に皆ある。凡そ真龍が勢いを起こすとき、迢迢として百里ないし数十里を奔馳して来り、最後に一つの穴を結ぶ。穴の前に至れば、峰巒は矗立して環に擁し、衆水は回環して纏繞し、重々の帳幕が層層に畳み起こり、後に於いて奇秀を献ずる。龍脈は環抱して護衛し、砂と水は团聚して散じない。形と穴が既に結成せれば、山川の霊秀、造化の精英もまたここに凝結融会する。

苟盜其精英,空竊其靈秀,以父母遺骨藏於融會之地,由是子孫之心寄託於此,因其心之所寄,前能與之感通,以致福於將來也。是知人心通乎氣,而氣通乎天。以人心之靈,合山川這靈,故降神孕秀,以鍾於生息之源,而其富貴貧賤,壽夭賢愚,靡不攸繫。

もしこの精英を盗み、この霊秀を竊め得て、父母の遺骨を融会の地に安放すれば、子孫の心念は便ちここに寄托する。心に寄る所有るが故に、こそ地気と感通し得て、従って将来に福沢を招来する。これにより人心は気に通じ、気はまた天に通ずることを知る。人心の霊明を以て山川の霊秀に契合すれば、神明は下降し、秀気は孕育し、悉く子孫を生養する源頭に汇聚する。子孫の富貴貧賤、長寿早夭、賢明愚鈍、一つとしてここに牽繫せざるはない。

至於形貌之嬌丑,並皆肖象山川這美惡,故篙丘嶽生申,尼丘孕孔,豈偶然哉!嗚呼,非葬骨也,乃葬人之心也;非山川之靈,亦人心自靈耳。世有往往以遺骨棄諸水火而無禍福者,蓋心與之離故也。

人の相貌の美醜に至っても、皆葬られた山川の美悪に肖似する。だから嵩山が高峻にして申伯を生み、尼丘が秀を鍾して孔子を孕育した。どうして偶然であろうか。嘆じるべきかな、葬るのは実は骨ではなく、人の一片の心を葬るのである。また必ずしも山川自体に霊があるのではなく、人心が自ら霊明なだけである。世に常に先人の遺骨を水火の中に抛棄して禍福を見ざる人があるのは、正に心が既にそれと相離れたが故である。

是以銅山西崩,靈鍾東應。漢未央宮一日無故鍾自嗚,東方朔日:必生銅山崩應。未幾西蜀果奏銅山崩,以日擯之,正未央鳴之日也。帝問朔何以知之,對曰:銅出於山,氣相感應,猶人受體於父母也。帝嘆曰:物尚樂,況於人乎!昔曾子養母至孝,子出,母欲其歸,則口齒指,而曾子心痛。人凡父母不安而身離待側,則亦心痛,特常人孝心薄而不自覺耳。故知山崩鐘應,亦其理也。

だから西の銅山が崩れれば、東の霊鐘は自ら鳴って応ずる。漢の未央宮の鐘がある日故なく自鳴し、東方朔が言った。必ず銅山の崩塌が引き起こした感応である。ほどなく西蜀が果たして銅山の崩陥を奏報し、日を按じて推すと、正に未央宮の鐘の鳴ったその日であった。武帝が東方朔に問うて何を以て豫知し得たかと言えば、彼は答えた。銅は山中より出づ。二者の気息は相感応す。人の身が父母に禀受するが如きなり。武帝は嘆じて言った。器物尚且かくの如し、況んや人においてをや。昔、曾参は母に奉養すること極めて孝し。子が門外に出で、母が彼を帰らせんと欲して、己が指を咬めば、曾参は立刻に心口痛みを作す。凡人は父母が安んぜずして自身が側に侍らざるとき、同じく心痛するものだが、ただ常人の孝心が淡薄で自ら察覚せざるだけである。山崩れて鐘応ずるも、また同一の道理であることが見える。

木華於春,栗芽於室。此亦言一氣之感召也。野人藏栗,春至,栗木華,而家藏之栗亦芽。實之去本已久,彼華此芽,蓋以本性原在,得氣則相感而應,亦獄父母之骨葬乘生氣而子孫福旺也。夫一氣磅礴於天地間,無端倪,無終窮,萬物隨時運化,本不自知,而受造物者亦不自知也。

春に樹木が花開くとき、屋裏に蔵した栗子も随いて芽を萌す。これは同じく一気の感召を講す。郷人が栗子を収蔵して春に至れば、山上の栗樹が花開き、家中に蔵する栗子も萌芽する。栗子は母樹を離れて既に久しいが、彼方が花開き此方が芽を萌すのは、本性がもとより封じて失われず、一たび気を得れば相感じて応ずるからである。これは正に父母の遺骨が葬られて生気を得れば、子孫が便ちに福沢興旺するが如し。天地の間に一気磅礴して、頭緒を尋ね出すことなく、終尽もなし。万物は時序に随いて運化し、自ら知覚せず、造化を承受する人も同じく自ら知らない。

蓋生者氣之聚,凝結者成骨,死而獨留,故葬者反氣入骨,以蔭所生之法也。乾父之精,坤母之血,二氣感合,則精化為骨,血化為肉,復藉神氣資乎其間,遂生而為人。及其死也,神氣飛揚,血肉消潰,惟骨獨存。而上智之士,圖葬于吉地之中,以內乘生氣,外假子孫思慕,一念與之吻合,則可以復其既往之神,萃其已散之氣。蓋神趨則氣應,地靈而人傑,以無為有,借偽顯真,事通陰陽,功奪造化,是為反氣入骨,以蔭所生之法也。

人が生きるときは気の聚合であり、凝結する部分が骨骼となる。人が死した後はただ骨のみ独り留まる。だから安葬とは気を骨中に返還し、以て生まれた子孫を蔭庇する方法である。父の精は乾に属し、母の血は坤に属し、二気が交感結合し、精は化して骨を成し、血は化して肉を成し、さらに神気を借りてその間を資養し、ここに一の人を生成する。死するに及んで、神気は飛散し、血肉は消融腐壊し、残るは骨のみ。上智の士は便ちに骨を吉地の中に葬ることを謀る。内には大地の生気に乗接し、外には子孫思慕の誠に憑藉し、一念が地気と吻合すれば、已に去った神を召回し、已に散じた気を聚攏することができる。神がひとたび趨向すれば気は便ちに相応ずる。地霊して後に人傑たり、無中より有を生じ、假象を借りて真機を顕す。其の事は陰陽に貫通し、其の功は造化を奪取す。これがすなわち「気を反して骨に入れ、以て所生を蔭す」の方法である。

内篇・支垅の別と蔵風得水

丘壠之骨,岡阜之支,氣之所隨。丘壠為陰,岡阜為陽。丘言其高,骨乃山這帶石者。壠高不能自立,必藉石帶土而後能聳也。岡者跡也,土山為阜,言支之有毛脊者。壠之有骨,氣隨而行則易見,支無石,故必觀者毛脊而後能辨也。然有壠而土、支而石、壠而隱、支而隆者,又全藉乎心目之巧以區別也。

高く聳える丘垅は石を以て骨とし、低平の岡阜は結びて支を成す。生気はすなわちこの骨と支に随いて行く。丘垅は陰に属し、岡阜は陽に属す。丘はその高く聳えるに就いて言い、骨は山中の石を帯びる部分を指す。垅がこのように高いのは、石に靠りて土を帯びねば聳立し得ないからである。岡は脈跡を指し、土山を阜と呼ぶ。支上に微微たる毛脊を帯びるあの類を言う。垅に石骨あれば気は骨に随いて行き、比較的見やすい。支中に石なければ、必ず毛脊を察看して後にこそ分辨できる。しかるに垅でありながら純に土のもの、支でありながら石を帯びるもの、垅ありて反って隠伏し、支ありて反って隆起するものもある。これは全く眼力と心思の巧妙に靠りて区別するほかない。

經曰:氣乘風則散,界水則止。謂生氣隨支攏體質滸,滔滔而去,非水界則莫之能止。及其止也,必得城郭完密,前後左右環圍,然後能藏風,而不致有蕩散之患。經云:明堂惜水如惜血,堂裡避風如避賊。可不慎哉!

古経に言う。生気は風に遇えば便ちに吹き散らされ、水界に遇えば便ちに止まる。これは生気が支・垅の体質に随いて滔滔と奔り去り、もし水来りて界断せずんば、それを止住せしめるものなきことを言う。それが停まる所に至っても、なお城郭の如き完密の山形あって、前後左右に環抱囲合せば、然る後に風を蔵し得て、吹散の患いに至らざるを得る。だから経にまた言う。明堂の中に於ては水を惜しむこと血を惜しむが如く、堂内に於ては風を避くること賊を避くるが如くせよ、と。これどうして慎重ならざるを得ようか。

古人聚之使不散,行之使有止,故謂之風水。高城之地,天陰自上而降,生氣浮露,最怕風寒,易為蕩散。如人深居密室,稍有躥隙通風,適當肩背,便能成疾。故當求其城郭密固,使氣之有聚也。平支之穴,地陽自下而升,生氣沉潛,不畏風吹。[缺]出在曠野,雖八面無藏,已自不覺。或遇穴晴日朗,其溫和之氣自若,故不以寬曠為嫌,但瑞橫水之有止,使氣之不行也。此言支城之取用不同有如此。

古人は生気を聚めて散らさず、奔行の気を引き住ませて止まる所有らしめ、これを以て「風水」と稱す。高垅の地は天上の陰気が上より降りて来て、生気は浮露して外に在り、最も風寒を恐れて吹き散らされ易い。譬えば人が密室に深居しても、ただ一道の縫隙が風を透して正に肩背に吹き当れば、便ちに病を生ずるが如し。だから必ず四囲の山形が城郭の如く密固なるを求めて、気に聚まる所有らしめる。平支の穴は則ち反である。地下の陽気が下より升りて上り、生気は沈潜して裏に在り、風吹を恐れず、たとえ曠野の中に処り八方遮るものなく挡るものなくとも、自ら覚えず。時に天晴日朗に遇えば、穴中の温和の気は依然として故の如し。だからその寛曠を嫌うことなく、ただ横過の水あって拦えて気に止まる所有らしめば、気は走失しない。支と垅の取用の上の不同は、正にここに在る。

風水之法,得水為土,藏風次之。支攏二者俱欲得水,高坡之地,或從腰落,雖無大江攔截,亦必池塘以止內氣,不則運河不稍遠,而隨身金魚不可無也。儻金魚不界,則謂之雌雄失經,雖藏風亦不可用。平支之地,雖若無蔽,但得橫水攔截,何嫌寬曠。故二者皆以得水為上也。

風水を講ずる方法は、「得水」を以て上とし、「蔵風」はなお次に在り。支と垅の両者とも水を得るを要とす。高坡の地は、龍或いは山腰より落ち、大江の拦截なくとも、必ず池塘あって内気を止むべし。さもなくば運河の去ること遠からずとも、貼身の「金魚水」は總じて欠くべからず。倘若金魚水が来りて界合せずんば、雌雄失経と呼ばれ、たとえ蔵風し得ても堪えて用いられず。平支の地は看るに遮蔵する所なきが如くとも、横水の拦截あらば、何ぞ必ずしもその寛曠を嫌わん。だから支と垅は共に得水を以て第一義とす。

經曰:外氣橫形,內氣止生。蓋言此也。水流土外,謂之外氣;氣藏土中,謂之內氣。故必得外氣形橫,則內之生氣自然止也。此引經以結上文得水為上之意。

古経に言う。外気は横過して形を成し、内気は便ちに地に就いて止まりて生発す。講ずるは正に上文のこの層の道理。水流は土の外に在り、これを「外気」と呼ぶ。気蔵は土の中に在り、これを「内気」と呼ぶ。だから必ず先に外来の水あって横過成形せば、土中の生気は自然に拦えられて停下来する。これは古経の言を引いて上文「得水を上とす」の意旨を收束するものである。

何以言之?氣之盛雖流行,而其餘者猶有止;雖零散,而其深者猶有聚。高壠之地,落勢雌雄,或去或止,各有[缺]作自[缺]一地可盡其力量也。而好龍多從腰落,分佈枝蔓於數十里之間,或為城郭朝樂官曜禽鬼捍門華表羅星之類,皆本身自帶不可為。彼既流行,而餘者非止也,但當耱其聚處,而使之不散耳。

何を以て見るや。気の正に盛なるときは一路流行して止まらざると雖も、その余気はなお止まる所有り。気の看るに零散なる所は、深蔵するあの一部分はなお聚合有り。高垅の地は、落脈の姿態に雌雄あり、或いは去り或いは止まり、各々作法あり、どの一処が能く整条の龍の力量を用い尽くすに非ず。好龍は多く山腰より落下し、枝脚を蔓延分布して数十里の間に在り、或いは化して城郭、朝山、楽山、官星、曜星、禽星、鬼星、捍門、華表、羅星の類を成す。これらは皆龍身の自帯するもので、勉めて作り出すことはできない。主気は仍ほ流行中にある以上、余気もまた必ずしも皆止まるに非ず。ただその聚まる処を摸り清めて、散ずるに至らせざるだけである。

平支之龍,大山跌落平洋,四畔曠闊,其為城郭,亦不過高逾數尺而已,且去穴遼遠,朝山一點,在乎雲靄之表,人莫不以八風無蔽為嫌,又豈知支戲氣隱,若零散而其深者猶有聚也,但得橫水攔截,使之有止耳。此方支攏之氣盛者如此。

平支の龍は、大山が跌落して平洋の地に至り、四面空闊なり。いわゆる城郭も、不過数尺高出するのみにして、しかも穴を離るること遠し。朝山はただ一点にして、雲気の外に隠現す。人は皆その八面来風にして遮蔽なきを嫌うも、平支の地は形跡低伏して気も隠蔵し、看るに零散の如くにして、深蔵のあの一部分は依依旧として聚まり有り。ただ横水の拦截あって停まらしめば便ちに可なり。これがすなわち支と垅の両種の龍気の盛時に各々なる情形である。

故藏於涸燥者宜深,藏於坦夷者宜淺。上句方攏,下句言支。高壠之地,陰之象也,氣在內,強剛而覺悟下,故言涸燥當深葬。平支之地,陽之象也,氣在外,弱柔而浮上,故方坦夷當淺葬。

だから高燥の処に葬るには深きを宜とし、平坦の処に葬るには浅きを宜とす。上の句は垅を講じ、下の句は支を講ず。高垅の地は陰象に属し、気は内に収められ、剛強にして沈降して下に在り。だから地勢高燥ならば深葬すべしと言う。平支の地は陽象に属し、気は外に浮き、柔弱にして上浮す。だから地勢坦夷ならば浅葬すべしと言う。

經曰:淺深得乘,風水自成。高攏之葬,潛而弗彰,故深,取其沉氣也;平支之葬,露而弗隱,故淺取,其浮氣也。得乘者,言所葬之棺,得以乘其生氣也。淺深世俗多用九星白法以定尺寸,謬也。不若只依金銀爐底求之為得。

古経に言う。深淺の拿捏得當ならば、生気に乗り得て、風水自然に成る。高垅の上に安葬するには潜蔵して顕露せず、だから深きを宜とし、沈んで下面に在る気を取る。平支の上に安葬するには顕露して隠没せず、だから浅きを宜とし、浮んで上面に在る気を取る。いわゆる「得乗」とは、葬る棺木が恰好よく生気に乗接し得ることを言う。深淺に至っては、世俗は多く九星紫白の法を用いて尺寸を定む。これは誤りで、ただ「金銀炉底」の旧法に依って求取するに如かず妥当なり。

夫陰陽之氣,噶而為風,升而且為雲,降而為雨。凡所以位天地、育萬物者,何莫非此氣邪!斯蓋因曰葬乘生氣,故重舉以申明其義。愚嘗謂能生能殺,皆此氣也。葬得其法,則為生氣,失其道,則為殺氣。如所謂加減饒借吞吐浮覺之類,並當依法而剪裁之,不致有擅殺沖刑破腮翻斗之患也。

陰陽の気は、吐き出せば風を成し、升り上れば雲を成し、降り落ちれば雨を成す。凡そ能く天地を安定し万物を化育するもの、どれ一つとしてこの気に非ざるあらんや。ここに重ねて提する所以は、上文が「葬は生気に乗る」を講じたれば、故に再び挙げて其義を申明する。我以て思うに、能く生し亦能く殺す者は、皆この同一の気なり。葬法が當を得ればそれは生気となり、葬法が當を失せばそれは殺気となる。点爪時に講ずる加・減・饒・借・呑・吐・浮・沈の類の手法は、皆法に依りて裁剪せば、こそ上衝殺、刑破、翻斗の類の禍患を犯さざるに至る。

夫土者氣之體,有土斯有氣,氣者水之母,有氣斯有水。氣本無體,假土為體,因土而知有此氣也。水本無母,假氣為母,因氣而知有此水也。五行以天一生水。且水何從生哉?生水者金也,生金者土也。土腹藏金,無質而有其氣。乾藏坤內,隱而未見,及乎生水,其兆始萌。言氣為水母者,即乾金之氣也。世人不究本源,但以所見者水爾,故遂以水為天地之始,蓋通而未精者也。

土は気の形体で、土有りてこそ気有り。気は水の母で、気有りてこそ水有り。気は本来形体なく、土を借りて体を成し、人は土によりてこそこの気有るを知る。水は本来母なく、気を借りて母と成し、人は気によりてこそこの水有るを知る。五行家は「天一水を生ず」と言うが、然るに水はまたどこより生じ出づるか。水を生ずるは金、金を生ずるは土。土の腹中には金を蔵し、形質無きと雖も其の気有り。乾金は坤土の内に隠伏して未だ顕現せず、水を生じ出づるに及んで、その徵兆は始めて萌動す。いわゆる気は水の母とは、正にこの乾金の気を指す。世人は本源を追究せず、ただ眼前の水を見て、遂に水を以て天地の開端と為す。これは大概に通じて未だ精微に至らざるなり。

經曰:土形氣形,物因以生。生氣附形而有,依而行,萬物亦莫非[缺]也。此引經結上有文有土斯有氣之意。未氣行乎地中,其行也因地之勢,其聚也因勢之止。氣行地中,人不見,其始也則因地之勢而知其行,其次也又因勢之止而知其聚也。

古経に言う。土に形有れば気に形有り。万物はそれに靠りて生長す。生気は形体に附着してこそ存在し、また形体に依りて運行す。万物は此れより来らざるなし。これは経文を引いて上文「土有りてこそ気有り」の意を收束する。生気は地中に運行し、その行走は地の走勢に取決められ、その聚合は勢の止歇に取決められる。気は地下を走りて人には見えず。ただ先に地勢に憑りて其が何処に行走するを判断し、再び地勢の停頓に憑りて其が何処に聚結するを判断するのみ。

葬者原其起,乘其止。善葬者,必原其起以觀勢,乘其止以扦穴。幾言止者,乃山川融結,奇秀之所有,非明眼莫能識也。《片玉髓》云:草上露華偏在尾,花中香味總居心。其止之謂與!或謂粘穴乘其脈之盡處為止,然則蓋倚撞安可以止雲。不知人正恐後世不識止處,故立為四法以乘之。夫蓋者止於蓋,倚者止於倚也,撞粘莫不皆然,唯觀義之所在,高低正側,何往而非止乎!

安葬は龍の起きる処を追溯し、龍の止まる処に乗接する。善く安葬する人は、必ず先に其の起勢を追溯して大勢を観察し、再び其の止歇に乗じて穴位を点定す。凡そ「止」を講ずる処は、皆山川融結して奇秀の鍾まる所で、明眼の人に非ざれば認め出づる能わず。『片玉髄』に言う。草上の露珠は偏りに葉尾に凝り、花裏の香味は総じて花心に蔵る。講ずるは正にこの「止」の字か。ある人は粘穴・乗脈尽の処のみを以て止と為すと思う。然らば蓋・倚・撞の三法は豈に皆止を談ずるに及ばざるか。知らずや、前人は正に後世が止処を認め准えざるを恐れて、こそ蓋・倚・撞・粘の四法を立てて以て之を乗取せしめた。蓋法は蓋の処に就いて止まり、倚法は倚の処に就いて止まる。撞・粘もまた然らざるなし。ただ穴情の何処に落つるかを看るのみ。高低正側を論わず、何処として止に非ざるあらん。

地勢原脈,山勢原骨,委蛇東西,或為南北。平夷多土,陡瀉多石,支之行必認土脊以為脈,城之行則求石脊以為骨。其行度之勢,委蛇曲折,千變萬化,本無定式,大略與丘攏之骨、岡阜之支略同。

平地の走勢は土脈の上に追溯すべく、山嶺の走勢は石骨の上に追溯すべし。それらは蜿蜒盤曲して、或いは東西に横走し、或いは南北に縦行す。平坦の処は土多く、陡峻傾瀉の処は石多し。支龍の行走を看るには、必ず土脊を認めて脈と為すべく、垅龍の行走を看るには、則ち石脊を尋ね出して骨と為すべし。それら行度の姿態は蜿蜒曲折して千変万化し、本来一定の格式なく、大体は前文に言う丘垅は骨を以て憑と為し、岡阜は支を以て憑と為すと一つの道理なり。

千足為勢,百尺為形。千尺言其遠,指一枝山之來勢也。百尺言其近,指一穴地之成形也。勢來形止,是謂全氣,全氣之地,當葬其止。原其遠勢之來,察其近形之止,形勢既順,則山水貴合,是為全氣之地。又當求其止處而葬之,斯盡善矣。止之一字,最謂吃緊。世之葬者,不乏全氣之地,但於止處則有味焉耳。

千尺を以て「勢」を論じ、百尺を以て「形」を論ず。千尺は遠処に就いて言い、一支の山脈の奔り来る整体気勢を指す。百尺は近処に就いて言い、一処の穴地の凝成する具体形象を指す。遠勢奔り来りて近形止まる。これをこそ「全気」と呼ぶ。全気の地を得れば、則ち其の止まる所に葬るべし。遠勢の何処より来るを追溯し、近形の何処に止まるを審察す。形と勢と既に相順ずれば、山と水は貴く相合す。これが全気の地なり。さらに進んで其の止処を找準して後に下葬してこそ、尽善と算す。この「止」の字は最も緊要なり。世の安葬する人は、全気の地に乏しからず、乏しきは止処の上に真に領会するに在り。

夫千里來龍,五足人手,才差一指,盡廢前功,縱奇峰聳拔,秀水之玄,皆不為我用矣。若得其傳,知其止,則如數二三,辨黑白,人或見其莽然可左可右可移可易,而不知中間自有一定不易之法、尺寸不可遷改者。《摜》云:立穴若還裁不正,縱饒吉地也徒然。高低深淺如葬誤,福變為災起禍懲。

千里奔り来る龍脈は、落局入手の処に到りて、ただ一指の地を偏差せば、先前の功夫は全数作廃す。たとえ奇峰高聳し秀水彎環すとも、皆再び我が用と為さず。若し真伝を得て止処を認めば、則ち一二三を数え、黒と白を分つの如く明白なり。外人のあの一片莽莽蒼蒼を看るは、髣髴として左すべく右すべく、移すべく換すべくの如しと雖も、其の中に自ら一定不移の法有り、分寸も改動を容れざるを知らず。古訣に言う。立穴若し裁定正しからずんば、たとえ吉地有りとも白費なり。高低深淺一たび葬り錯れば、福は反って災禍の頭に臨むと為る。

宛委自復,迴環重複。宛委自復,指其勢而言。或順或逆,即委蛇東西或為南北之意也。迴環重複,以其形而論。層拱疊繞,即朝海拱辰之義也。全氣□地,其融結之情如此。

龍脈は蜿蜒屈曲して自ら相回顧し、四囲の山水は層層環繞して重々相合す。「宛委自復」は勢に就いて言う。或いは順或いは逆に盤曲するは、すなわち前文「東西に蜿蜒し、或いは南北に走る」の意なり。「回環重複」は形に就いて言う。一層層に拱抱し一重重に纏繞するは、すなわち衆水朝宗し群星極に拱するの意なり。全気の地、その融結の情状は正に此の如し。

若踞而候也。如人踞然不動,而有所待然。若攬而有也。如貴人端坐,器具華陳,攬之而有餘。欲進而卻,欲止而深。上句言擁衛之山須得趨揖朝拱,不欲其口逼沖突而不遜也。下句言瀦蓄之水必得止聚淵澄,不欲其陡瀉反背而無情也。

好地の形勢は、人が蹲坐して何かを候つが如く、双手一攬すれば尽く懐中に帰するが如し。前の句が言うは、それが安然として踞坐して動かず、髣髴として待つ所有るが如し。後の句が言うは、貴人の端然として坐し、華美の器具を前に陳列し、一たび手を伸ばして攬り来ればなお綽綽たる余り有るが如し。「進まんと欲して却り、止まらんと欲して深し」。上の句は護衛の山が趨り前に揖し、朝向して拱抱すべく、逼近衝撞して恭順を失うべからずを講ず。下の句は蓄積の水が止聚して潭を成し、深澄して流れざるべく、陡然として傾瀉し反背無情なるべからずを講ず。

來積止聚,沖陽和陰。來山凝結,其氣積而不散;止水融會,其情聚而不流。斯乃陰陽交濟,山水沖和也。土高水深,鬱草茂林。水深沉則土壤高厚,氣沖和則草木茂昌。程子曰:易謂地之美?土色光潤,草木茂盛,乃其驗也。貴若千乘,富如萬金。氣像尊嚴,若千乘之貴;擁簇繁夥,猶萬金之富。

来龍積聚し止水匯合すれば、陽と陰は便ちに交衝調和す。来山凝結すれば気は積して散ぜず、止水融會すれば情は聚して流れず。これ正に陰陽交相済助し山水沖和の景象なり。「土高く水深く、郁草茂林」とは、水深沉なれば土壤高厚にして、気沖和なれば草木繁茂することを言う。程頤が言った。どうすれば地の美と算するか。土色光潤にして草木茂盛なるは、すなわち其の驗なり。「貴は千乗の若く、富は万金の如し」とは、気象尊厳にして千乗の国の顕貴に比すべく、擁簇繁密にして万金の家の富足の如きを言う。

經曰:形止氣蓄,化生萬物,為上地也。堂局完密,形穴止聚,則生氣藏蓄於中矣。善葬者因其聚而乘之,則可以福見,在昌後裔。如萬物由此氣而成,化育之功,故為上地。

古経に言う。形ひとたび止まれば気は蓄積し、能く万物を化育生養するは、こそ上等の地なり。明堂格局完整周密にして、形と穴と止聚すれば、生気は蔵蓄して其の中に在り。葬を会する人は其の聚に趁りて乗取すれば、便ちに当下に福を及ぼし後代を昌盛せしむべし。正に万物皆此の気に由りて生成し、化育の功有るが如し。だから之を上地と稱す。

地貴平夷,土貴有支。支龍貴平坦夷曠,為得支之正體。而土中復有支之紋理,平緩恰軟,不急不燥,則表裡相應。然卻有支體而得城之情性者,直如擲搶,急如繃線,謂之倒火硬木,此陽中含陰也,法當避殺,粘唇架折而葬。刻氏所謂直急則避,輻而湊簷是也。陽者為弱,本宜湊入,奈何性急,要縮下一二足,緩其急性,苟執支法插之則凶。此支龍之至難體認者,故景純謂支龍之辨,蓋言此也。

地は平坦を以て貴しと為し、土は支脈紋理有るを以て貴しと為す。支龍は平坦開闊を貴び、これこそ支の正体なり。而も土中にまた支の紋理有り、平緩柔軟にして急ならず燥ならざるは、すなわち表裏相応なり。しかるに形体支に属して垅の性情を帯びる者有り。直くして擲出の槍の如く、緊くして繃起の線の如きを、「倒火硬木」と呼ぶ。これは陽中に陰を含む。作法の上では煞気を避け、穴唇に貼りて架折して葬るべし。劉氏の言う「直くして急なれば便ちに避け、退きて檐口に湊近せよ」とは、正に此の意なり。支は陽に属して性弱く、本来湊り込みて葬るべきに、其の性の急なるに无奈、下に一二尺縮めて其の急性を緩めるべし。若し支龍常法を死守して穴を挿さば、反って凶を招く。これは支龍の裏に於て最も辨認し難き一種で、郭景純のいわゆる支龍の辨とは、説くは正にこれなり。

内篇・支を観るの法

支之所起,氣隨而始;支所終,氣隨以鍾。此言平支行度體段,原其始則氣勢隨之而行,乘其止則氣脈因之而鍾,觀勢察脈,則可以知其氣之融結矣。觀支之法,隱隱隆隆,微妙玄通,吉在其中。隱隱,有中之無也;隆隆,微妙玄通,吉在其中。其體段若盞中之酥,雲中之雁,灰中線路,草蛇蹤,生氣行乎其間,微妙隱伏而難見,然其吉則無以加矣。

支脈は何処より起きるや、気は便ちに何処より始まる。支脈は何処に尽きるや、気は便ちに何処に鍾聚す。これは平支行走の体段を講ず。其の起処を追溯すれば気勢は便ちに之に随いて行き、其の止処を乗取すれば気脈は便ちに此に由りて聚まる。勢を観てまた脈を察すれば、其の気の何処に融結するを知り得る。支を看るの法は、あの似有若無の「隠隠」と似無還有の「隆隆」に在り。其の中は微妙玄通にして、吉は便ちに裏面に蔵る。隠隠とは有中の無、隆隆とは無中の有。微妙にして言い難くして吉は其の中に在り。其の体段は譬えば盞中の凝れる酥、雲裏の飛ぶ雁、灰上に劃たる細線、草間の遊走する蛇跡の如し。生気は便ちに此の中間に運行して、微妙隠伏して極めて見え難し。然るに其の吉は再び過ぐることなき好さなり。

經日:地有吉氣,土隨而起;支有止氣,水隨而比。勢順形動,回復始終,法葬其中,永吉無凶。引經以明上文支龍行度,言平夷之地,微露毛脊,圓者如浮漚,如星,如珠,方者如箱,如印,長者如玉尺,如蘆鞭,曲者如幾如帶,方圓大小不等者如龜魚蛙蛤,是皆地之吉氣湧起,故土亦隨之而凸起。

古経に言う。地下に吉気有れば土面は便ちに之に随いて隆起し、支脈に止気有れば水流は便ちに之に随いて靠攏相依す。勢順にして形活く、首尾回環して相顧み、法に依りて其の中に葬れば、長久吉利にして凶無し。これは経文を引いて上文支龍の行度を説明する。平坦の地の上に微微として毛脊を露す。円きは水面の浮泡、星、珠の如く、方きは箱、印の如く、長きは玉尺、蘆鞭の如く、曲るは几案、衣帶の如く、方円大小等しからざるは亀、魚、蛙、蛤の如し。これらは皆地中の吉気が上に涌るが故に、土面もまた随いて凸起す。

及其止也,則如雞窠旋螺之狀,言形止脈盡而一水交度也。高水一寸,便可言山,低土一寸,使可言水,此支氣之止,與水朋比而相為體用者也。勢順形動者,龍勢順伏而不反逆,局形活動而多盤旋,砂水鉤夾,迴環重複,首尾無蔽,始終有情,依法自可扦穴。

其の止住する所に到れば、鶏窩の如く螺旋の形状の如し。言うは形已に止み脈已に尽きて一道の水横交して過ぐるを。平洋の地は、水面より一寸高ければ便ちに山と看做し得、一寸低ければ便ちに水と看做し得。これすなわち支気の止処で、水と彼此依傍して互に体用を為す。いわゆる「勢順形動」とは、龍勢が順伏して反背逆行せず、局形が靈活にして回旋多く、砂と水と勾連夾護して、層層環抱重疊し、首尾遮拦なく、自始至終情有るを言う。此の如くにして法に依れば自然に点穴すべし。

内篇・来るを乘じ廢を審し、相を擇び害を避く

山者勢險而有也,法葬其所會。山言攏也,勢雖險峻,而其中復有不險之穴,但當求其止聚融會處而葬之,則善矣。蓋高攏之地,來勢高大,落勢雄壯,結勢亦且[缺]急此[缺]之[缺]也,卻有一等以隴為體而得支之情性者,大山翔舞垂下,及至平地,變為支體,謂之下山水,此陰中含職也。

山は形勢険峻なると雖も、その中に仍ほ自ら用いるべき処有り。作法は其の止聚融會の処に葬る。此の處に言う「山」とはすなわち垅なり。勢頭険峻なると雖も、其の中に別に険ならざる穴有り。ただ其の止聚融會の處を找準して下葬せば、便ちに妥當なり。凡そ高垅の地は、來勢高大にして、落勢雄壯にして、結穴の勢も亦た來ること緊急なり。然るに又一種の形體垅に属して支の情性を帶びる者有り。大山翔舞の如く垂落して、平地に到れば便ちに支の體段と變ず。之を「下山水」と呼ぶ。これは陰中に陽を含むなり。

若不識粘葬山麓,莫不以前拖平地為璞褥,豈知其勢未往,兩邊界水隨脈而行,平平隱伏,直至堂心,其脈始盡。《天寶經》曰:凡認脈情看住絕,水若行時脈不歇。歇時須有小明堂,氣止水交方是穴。後面要金氣可乘,前頭要合水可匯。若還鑿腦而鑿胸,湊急傷龍匪融結。此定穴之密語也,故當求其砂水會處,枕流而葬。

若し粘法を用いて山麓に葬るを懂得せざれば、人は多く前面に拖出の一片平地を當てて穴前の餘氣氈褥と為す。豈に知らんや、其の勢は未だ走り盡さず、兩邊の界水は脈に随いて一路同行し、平平隱伏して、一直に明堂中心に到りて、脈こそ真に盡頭するを。『天寶經』に言う。凡そ脈の情態を認めるには其の住絶するか否かを看るべし。水なお走る間は脈便ちに歇せず。歇するは必ず一箇の小明堂有りて、氣止み水交る。あれこそ穴なり。後頭に金星的氣有りて乘ずべく、前頭に合襟の水有りて匯すべし。若し錯りて龍腦に鑿り錯りて龍胸の上に鑿れば、逼ること太も緊くして便ちに龍を傷り、融結を成さず。これは穴を定めるの密語なり。故に應當砂水交會の處に尋ね到り、水流に枕きて下葬すべし。

陰者為強,固當縮下,奈何性緩,要插上七八寸,急其緩性,名為湊交斗煞,劉氏所謂擺緩,則入據而湊膚是也。苟執法扦之,則主敗絕,此爻高隴之至難體認者。

垅は陰に属して性強く、本來下に縮みて葬るべし。无奈此の種の下山水の地は性子偏りて緩く、便ちに上に七八寸挿進して、其の緩性を緊めるを要す。これを「湊交斗煞」と呼ぶ。劉氏の言う所の「勢緩なれば便ちに其の上に進占して皮膚に貼近すべし」とは、正に此の意なり。若し常法を死守して点穴せば、反って敗絶を招致す。これは高垅の地の裏に於て最も辨認し難き一種なり。

乘者其來。言生氣之所從來,因其來而知其止,故葬者得以乘之,不使有分寸之違也。脈不離棺,棺不離脈,棺脈相就,剝花接木,法當就化生腦上,循脈看下,詳認雞跡蟹眼三文名字交牙滴斷,或分十字,或不分十字,看他陰陽配與不配,用人強弱順逆急緩生死浮沉虛實,以定加減饒借。內接生氣,處揚穢氣,內外符合,前後無蔽,始為真穴,一有不順,即花假矣,此乘生氣之要訣也。下言乘金穴土義同。

いわゆる「乘」とは、乘ずるは生氣の來る方向なり。これは生氣の何處より來るを看清め、來處に由りて止處を推知し、安葬の時こそ乘接し得上げ、分毫を差えざるを言う。脈は棺を離れず棺は脈を離れず、棺と脈と彼此貼合して、剝花接木の一般に相接するを要す。作法は應當化生腦の上より起手し、脈に順い下に察看し、仔細に雞跡、蟹眼、三叉水紋及び交牙、滴断などの形跡を辨認し、其の十字を分つか否かを看、其の陰陽の配し得るか配し得ざるかを看、再び強弱、順逆、急緩、生死、浮沉、虚實に依りて加減饒借を決定す。內裏に生氣を承接し、外面に穢氣を排去し、內外相合して前後遮無ければ、これこそ真穴なり。ただ一處不順有らば、便ちに花假の穴なり。これすなわち生氣に乘ずるの要訣なり。下文の講ずる所の「乘金」「穴土」も亦た同一の意思なり。

審其所廢。謂入首廢壞,真偽莫辨,故不得不詳加審察也。夫天真未喪,則定穴易為力,但乘其來,即知其止。卻有一等不幸為牛關踐踏,上破下崩,歲久年深,或種作開墾,或前人謬扦其旁圍牆拜壇,不無晦蝕,或曾為居基,益低損高,或田家取土,鋤掘賊,而大八字與金魚不可得而移易,但要龍真局正,水淨砂明,當取前後左右四應,證之心目,相度酌量開井,無不得矣。

いわゆる「其の廢する所を審らかにす」とは、入首の處已に損壞して、真假辨り難く、仔細に審察せざるべからずを言う。倘若天然の形貌未だ失わざれば、穴を定むるは着手し易く、ただ來勢に乘ぜば、便ちに何處に止まるを知る。然るに亦た不幸にして牛欄に践踏され、上面破損し下面崩塌する者有り。年深日久にして、或いは開墾耕種され、或いは前人に誤葬られて傍に在り、圍墻祭壇を築かれ、難免形跡を晦暗蝕損せしむ。或いは曾て屋基と作られ、低處を墊高し高處を削低せられ、或いは農家の取土に被り、鋤掘せられて七零八落す。然るに大八字と金魚水の此の兩樣は搬動し得ず改掉し得ざるもので、ただ龍真局正、水清砂明ならば、便ちに前後左右四方の應照を取りて心目に印證し、斟酌量度して井を開き下葬せば、真穴を得ざる無し。

蓋夫一氣化行支攏,隨氣而成形質,今既廢壞莫辨,故必於廢中審之,則凡所謂陰陽剛柔急緩生死浮沉虛實之理,無不了然。既得其理,則倒杖之法亦因之而定焉。

知るべし、一氣化行して支と垅と為るは、形質は皆氣に随いて成る。如今形跡既に破壞して辨り難ければ、必ず此の殘破の中に於て細細に真相を審出すべし。此の如くなれば、凡そ陰陽、剛柔、急緩、生死、浮沉、虚實の道理、清清楚楚ならざる無し。道理既に明なれば、倒杖下穴の手法も便ちに之に随いて定まる。

擇其所相。謂擇其所相輔於我者。法當於小八字下看兩肩暗翊,肩高肩低,以分陰陽作用,次視三分三合,崎急平緩,以別順逆饒減速。盡觀蟬翊之砂,蝦鬚之水,以定葬口界限,是皆左右之所相。苟失其道,則有破肋翻斗、傷龍傷穴、偽淺傷深之患,故不得不詳加審擇也。下篇言相水印木義同。

いわゆる「其の相る所を擇ぶ」とは、我が此の穴を輔助するものを挑選するを言う。作法は小八字の下に於て兩肩暗暗に護翼する形勢を察看し、肩の一高一低を看て、此に據りて陰陽作用を分辨す。其次は三分三合の水を看て、其の險急なるか平緩なるかを看て、此に據りて順逆と饒減を區別す。最後に蟬翼砂、蝦鬚水を看て、此に據りて葬口の界限を定出す。此れらは皆我を輔助する左右のものなり。若し法度を失せば、便ちに肋を破り斗を翻し、龍を傷り穴を傷り、淺きに該るに却って深く葬るの類の禍患有り。故に仔細に審擇せざるべからず。下篇の言う所の「相水」「印木」も、亦た此の意思なり。

避其所害。謂避去死氣,以求生氣也。蓋穴中之氣,有刑有德,裁剪得法,則為生氣,一失其道,則為死氣,故不得不審而避之。何以言之?避死挨生是也。如陽脈落穴,以陰為生,陽為死。陰脈落穴,以陽為生,長為死。脈來邊厚邊薄,以薄為生,厚為死。雙脈一長一短,以短為生,長為死。一大一小,以小為生,大為死。

いわゆる「其の害する所を避く」とは、便ちに死氣を避けて生氣を求めるを言う。穴中の氣に刑有り德有り。裁剪法を得れば、それは生氣なり。一たび法度を失せば、それは死氣と成る。故に審愼に避くるべからず。何を講ずるや。便ちに「死を避け生に挨る」の四字なり。例えば陽脈穴に落つれば、便ちに偏陰の一邊を以て生と為し偏陽の一邊を以て死と為す。陰脈穴に落つれば、便ちに偏陽の一邊を以て生と為し偏陰の一邊を以て死と為す。脈の來る時一邊厚く一邊薄く、薄き一邊を以て生と為し厚き一邊を以て死と為す。兩條の脈一長一短は、短きを以て生と為し長きを以て死と為し、一大一小は、小さきを以て生と為し大ききを以て死と為す。

經秀嫩光淨圓厚湧動為生,枯老臃腫破碎直硬為死。又或砂水之間,反坑斜飛,直撞刺射,皆為形煞。橫過之山如槍如刀尖利,順水可收拾為用者用之,可避去者避之,此則以眼前之所見者而論之也。又程子謂五患,劉氏謂四惡,皆在所當避也。

總じて言えば、秀嫩、光淨、圓厚にして涌動の意有るは生に属し、枯老、臃腫、破碎にして直硬無情のは死に属す。又砂と水の間に於て、反弓、坑陷、斜飛、直撞、尖刺、箭射の出現するは、皆形煞と算す。横過の山若し尖利して槍の如く刀の如くならば、其の中水に順いて來り還に收拾利用し得るは便ちに之を用い、避け得るは便ちに避くる。これは眼前の見る所の形象に就いて講ずるなり。此の外程頤の言う所の「五患」、劉氏の言う所の「四惡」も、皆應當回避の列に在り。

禍福不旋日。經曰:葬山之法若呼吸,中言應速也。禍福之感召,捷於影響,能乘能審,能擇能避,隨其所感,否則為凶應矣。大要在分別陰陽以為先務。有純陰純陽,邊陰邊陽,上陽下陰,上陰下陽,陰交陽半,陽交陰半,強陽弱陰,老陽嫩陰,各有作法。陰來則陽受,陽來則陰作,或入搪而鬥口而湊簷。

禍福の到來は一天を用いず。古經に言う。山に葬るの法は一呼一吸の如く速し。講ずるは正に應驗の速さなり。禍福の感召は影の形に隨い回聲の聲に應ずるより還に速し。能く生氣に乘じ、能く廢壞を審し、能く輔助を擇び、能く形害を避くれば、便ちに感ずる所に随いて福を得。さもなくば便ちに凶應なり。其の中最も緊要なるは先ず陰陽を分辨するに在り。陰陽に純陰、純陽有り、一邊陰一邊陽有り、上陽下陰、上陰下陽有り、陰交りて陽其の半を居り、陽交りて陰其の半を居る有り、強陽が弱陰を配し、老陽が嫩陰を配する有り。每一種各々自らの作法有り。陰脈來れば便ちに陽位を用いて承受し、陽脈來れば便ちに陰位に於て穴を作し、或いは堂に入り、斗口し、檐に湊るも、各々其の宜に随う。

又有陽噓陰吸這不同,順中取逆,逆中取順,情有蓋粘,則正口順作,情在倚撞,則架折逆受。假若陰脈落穴,放棺饒過陽達,借陽氣一噓,其氣方生。陽脈落穴,放棺饒過陰邊,借陰氣一吸,其氣方成。所謂陽一噓而萬物生,陰一吸而萬物成是也。

再び者還に陽主嘘、陰主吸の分別有り。順勢の中に於ては逆を取るを要し、逆勢の中に於ては順を取るを要す。穴情蓋法、粘法に適合せば、便ちに正穴口に對して順いて作し、穴情倚法、撞法に適合せば、便ちに架折して逆らいに受く。假如是れ陰脈穴に落つれば、棺を安ずる時陽の一邊に饒讓して、陽氣の一嘘を借りて、氣こそ生發す。陽脈穴に落つれば、棺を安ずる時陰の一邊に饒讓して、陰氣の一吸を借りて、氣こそ成就す。いわゆる陽一嘘して萬物生じ、陰一吸して萬物成るとは、便ちに此の道理なり。

苟不識裁剪放迭之法,當噓而吸,當吸而噓,宜順而逆,宜逆而順,及夫左右吐深淺不知其訣,不能避殺挨生,則生變為殺氣,縱使高下無差,左右適宜,淺深合度,猶且不免於禍,況未當於理者乎!古歌日:若還差一指,如隔萬重山。艮有以也。

倘若裁剪安放の方法を懂得せず、該嘘のを却って吸い該吸のを却って嘘き、該順のを却って逆い該逆のを却って順い、加えて左右吞吐、上下深淺皆要訣を得ず、煞氣を避けて生氣に挨ること能わざれば、生氣は反って殺氣と變ず。たとえ高低差えず左右適宜深淺合度なりと雖も、尚且免れ難き禍有り。況んや本來合理法ならざるにおいてをや。古歌に言う。若し還に一指を差えば、便ちに萬重の山を隔つるが如し。此の話は確かに來由有るなり。

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