Libo

中論 巻第一

姚秦 · 龙树造,鸠摩罗什译 · 第1巻 / 28

釈僧叡の序

仏家典籍

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釋僧叡序

釈僧叡の序

《中論》有五百偈,龍樹菩薩之所造也。以中為名者,照其實也;以論為稱者,盡其言也。實非名不悟,故寄中以宣之;言非釋不盡,故假論以明之。其實既宣、其言既明,於菩薩之行、道場之照朗然懸解矣。夫滯惑生於倒見,三界以之而淪溺;偏悟起於厭智,耿介以之而致乖。故知大覺在乎曠照、小智纏乎隘心,照之不曠則不足以夷有無一道俗、知之不盡則未可以涉中途泯二際,道俗之不夷、二際之不泯,菩薩之憂也。是以龍樹大士,析之以中道,使惑趣之徒望玄指而一變;括之以即化,令玄悟之賓喪諮詢於朝徹。蕩蕩焉,真可謂坦夷路於沖階、敞玄門於宇內,扇慧風於陳枚、流甘露於枯悴者矣。夫百梁之搆興則鄙茅茨之仄陋,覩斯論之宏曠則知偏悟之鄙倍。幸哉此區之赤縣,忽得移靈鷲以作鎮;險陂之邊情,乃蒙流光之餘惠。而今而後,談道之賢始可與論實矣。雲天竺諸國敢預學者之流,無不翫味斯論以為喉衿,其染翰申釋者甚亦不少。今所出者,是天竺梵志名賓伽羅、秦言青目之所釋也。其人雖信解深法而辭不雅中,其中乖闕煩重者法師皆裁而裨之,於經通之理盡矣,文或左右未盡善也。《百論》治外以閑邪,斯文袪內以流滯,《大智釋論》之淵博,《十二門觀》之精詣,尋斯四者,真若日月入懷,無不朗然鑒徹矣。予翫之味之,不能釋手,遂復忘其鄙拙託悟懷於一序,並目品義題之於首。豈期能釋耶?蓋是欣自同之懷耳。

《中論》には五百首の偈があり、竜樹菩薩(菩提薩埵の略称、覚りを求め衆生をも度する人)が造ったものである。「中」を名としたのは、それが顕そうとする実相を照らし見るためであり、「論」を称としたのは、言葉を説き尽くすためである。実相は名によらなければ悟り入ることができないので、「中」を借りて宣説し、言葉は解釈によらなければ説き透ることができないので、「論」を借りて発明する。実相がすでに宣べ出され、言葉がすでに説き清められれば、菩薩の修行についても、道場におけるあの一照についても、皆朗らかに解き開かれる。滞塞した迷いは顛倒した見解から生じ、三界(欲界・色界・無色界)はこれによって沈淪する。偏頗な覚りは厭離の小智から起こり、剛直にして褊狭がゆえに偏る。ゆえに知るべきは、大覚は照らすことが開け広いところにあり、小聡明は心量の狭さに纏わるということである。照らすことが開け広くなければ、有と無・出家と在家を一条の路に平らげるに足らない。知ることが徹底しなければ、なお中道に歩み入って生死と涅槃(煩悩が止まり、もはや生死を流転しない境地)という両辺を泯ることができない。出家・在家を平らげず、両辺を泯らなければ、まさに菩薩の憂えるところである。ここにおいて竜樹大士は中道をもって剖析し、迷いに陥った人にその玄微な指し示すところを望んで一たび身を転じさせ、また「当下即是の化」をもって収摂し、すでに玄悟した人には「朝夕の間に忽然と徹悟する」の問い尋ねすらもはや問わせない。浩浩として蕩々たり、まさに平坦の路を冲虚の階へと敷き、玄門を天下に向かって開き、智慧の風を枯枝に吹かせ、甘露を枯れた人に灌ぐというべきである。百の根柱の大厦がいったん立てば、茅屋の狭陋を嫌うようになる。この論の宏闊を見れば、偏悟がいかに浅陋で倍加するかが分かる。幸いなるかな、この一片の赤県神州に、忽然として霊鷲山が移されて依止となり、険陂の辺地の心情も余光の恵みに浴した。今より後、道を談ずる賢才はともに実相を論じ合うことができる。天竺の諸国でおのれを学者の列に居すと敢えてする者は、この論を喉と衣襟のように反芻して味わわない者はなく、筆を執って釈を作る者も少なくない。いま訳出したのは、天竺の梵志で名を賓迦羅、漢言に青目という者の作った釈である。この人は深法を信解するが、文辞は雅正適中とはいえず、その中の乖失・缺漏・煩冗なところは、法師が皆裁削し補正した。経論を貫通する道理はすでにその中に尽きており、文字に或いは左右するものはあっても、なお尽善とはいえない。《百論》は外道に対治して邪説を防ぎ、この篇は内部の滞塞を清めて流通させ、《大智度論》は淵博で、《十二門論》は精詣である。この四部を尋ねれば、まさに日月が懐に入るようで、朗らかに鑑照して底まで至らないものはない。私は再三玩味して手を放せず、ここにおいて自らの鄙陋拙劣を顧みず、一点の体会をこの序に寄せ、各品の大義を巻首に標した。どうして真に解釈し尽くせることを望もうか。ただ自分が作者と心を同じくすることを歓喜するだけである。

中論觀因緣品第一(十六偈)

《中論》観因縁品第一(十六首の偈)

龍樹菩薩造梵志青目釋

竜樹菩薩が頌を造り、梵志青目が釈を作った。

姚秦三藏鳩摩羅什譯

後秦姚秦の時代の三蔵法師鳩摩羅什が翻訳した。

不生亦不滅,不常亦不斷,

生ぜず、また滅せず。恒常でもなく、断滅でもなく、

不一亦不異,不來亦不出。

単一でもなく、差異でもない。他の処から来ることもなく、他の処へ出て行くこともない。

能說是因緣,善滅諸戲論,

仏はこのような因縁を説くことができ、善く種々の戯論を熄め滅する。

我稽首禮佛,諸說中第一。

私は稽首して仏を礼敬する――一切の説法の中で、これが第一である。

問曰:何故造此論?

問う者曰く、なぜこの論を造るのか。

答曰:有人言萬物從大自在天生、有言從韋紐天生、有言從和合生、有言從時生、有言從世性生、有言從變生、有言從自然生、有言從微塵生。有如是等謬故,墮於無因、邪因、斷常等邪見,種種說我我所,不知正法。佛欲斷如是等諸邪見令知佛法故,先於聲聞法中說十二因緣,又為已習行有大心堪受深法者以大乘法說因緣相,所謂一切法不生不滅、不一不異等,畢竟空、無所有。如《般若波羅蜜》中說:佛告須菩提:「菩薩坐道場時,觀十二因緣,如虛空不可盡。」佛滅度後,後五百歲像法中,人根轉鈍、深著諸法,求十二因緣、五陰、十二入、十八界等決定相,不知佛意,但著文字,聞大乘法中說畢竟空,不知何因緣故空,即生疑見:若都畢竟空,云何分別有罪福報應等?如是則無世諦、第一義諦。取是空相而起貪著,於畢竟空中生種種過。龍樹菩薩為是等故,造此中論。

答える者曰く、ある人は万物が大自在天から生ずると言い、ある人は韋紐天から生ずると言い、ある人は種々の条件の和合から生ずると言い、ある人は時間から生ずると言い、ある人は世性(数論派の立てる根本自性)から生ずると言い、ある人は転変から生ずると言い、ある人は自然にあると言い、ある人は微塵から生ずると言う。この類の錯誤があるがゆえに、無因・邪因・断見常見などの邪見に落ち、種々に「我」と「我所」を安立して正法を知らない。仏はこの類の邪見を截断し、人に仏法を知らせるため、まず声聞法(仏説を聞いて修行する一乗)の中で十二因縁を説き、またすでに修習して心量が大きく、深い法を受け容れられる人のために、大乗法をもって因縁の相状を説いた。すなわち、一切法は生もなく滅もなく、一でもなく異でもない等々、畢竟空であって少しの自体も得るべきものがない。《般若波羅蜜》(般若はボーレーと音し、実相を洞見する智慧を指し、世間の聡明とは別物である。波羅蜜は「彼岸に到る」の意)の中に説かれるように、仏は須菩提に告げた。「菩薩が道場に坐するとき、十二因縁を観じて、虚空のように窮尽することができない。」仏が滅度した後、後五百年像法に入り、人の根器は転じて鈍くなり、深く種々の法に執着して、十二因縁・五陰・十二入・十八界の上に決定実有の相を求めようとした――(これらの一連の名目は、後文の四縁・自性・心所とともに、論書における一組の互いに咬合する分析枠組みであって、互いに無関係な語ではない。本訳は原詞のまま用い、ある条が初めて単独で論じられる時にのみ枠組み内の位置を示し、語ごとに夾注しない。)――仏の本意を知らず、ただ文字に粘着した。大乗法の中に畢竟空と説くのを聞いて、何の縁によって空なのかを知らず、疑見を生じた。もし一切が畢竟空ならば、どうして罪・福・報応を分別できるのか。こうなれば世諦と第一義諦(世俗に随って安立される真理と、空性に就いて説かれる究竟の真理)もまた無くなってしまう。この空相を取って貪着し、また畢竟空の中に種々の過失を生じる。竜樹菩薩はこのような人のためにこの《中論》を造ったのである。

「不生亦不滅,不常亦不斷,

「生ぜず、また滅せず。恒常でもなく、断滅でもなく、

不一亦不異,不來亦不出。

単一でもなく、差異でもない。他の処から来ることもなく、他の処へ出て行くこともない。

能說是因緣,善滅諸戲論,

仏はこのような因縁を説くことができ、善く種々の戯論を熄め滅する。

我稽首禮佛,諸說中第一。」

私は稽首して仏を礼敬する――一切の説法の中で、これが第一である。」

以此二偈讚佛,則已略說第一義。

この二首の偈をもって仏を讃えれば、第一義はすでに大略説き尽くされた。

問曰:諸法無量,何故但以此八事破?

問う者曰く、法は数なく多いのに、なぜこの八事だけをもって破るのか。

答曰:法雖無量,略說八事則為總破一切法。不生者,諸論師種種說生相,或謂因果一、或謂因果異、或謂因中先有果、或謂因中先無果、或謂自體生、或謂從他生、或謂共生、或謂有生、或謂無生。如是等說生相皆不然,此事後當廣說。生相決定不可得,故不生。不滅者,若無生何得有滅?以無生、無滅故,餘六事亦無。

答える者曰く、法は数ないとはいえ、大略この八事を挙げれば、すなわち一切法を総破するのである。いわゆる不生とは、各家の論師は「生」の相状について種々異なって説き、あるいは因果が一であると言い、あるいは因果が異であると言い、あるいは因の中に先に果があると言い、あるいは因の中に先に果がないと言い、あるいは自体から生ずると言い、あるいは他から生ずると言い、あるいは共に生ずると言い、あるいは生あると言い、あるいは無生だと言う。この類の生相についての説は皆当らず、後において広く説く。生の相状は決定して求めて得られないので、不生という。いわゆる不滅とは、生がなければ、どうして滅があろうか。無生・無滅がゆえに、残りの六事もまたない。

問曰:不生、不滅已總破一切法。何故復說六事?

問う者曰く、不生・不滅はすでに一切法を総破したのに、なぜさらに六事を説くのか。

答曰:為成不生不滅義故。有人不受不生不滅,而信不常不斷。若深求不常不斷,即是不生不滅。何以故?法若實有則不應無,先有今無是即為斷,若先有性是則為常,是故說不常不斷,即入不生不滅義。有人雖聞四種破諸法,猶以四門成諸法。是亦不然。若一則無緣,若異則無相續,後當種種破,是故復說不一不異。有人雖聞六種破諸法,猶以來出成諸法。來者言諸法從自在天、世性、微塵等來,出者還去至本處。復次萬物無生。何以故?世間現見故。世間眼見劫初穀不生。何以故?離劫初穀,今穀不可得。若離劫初穀有今穀者則應有生;而實不爾,是故不生。

答える者曰く、不生不滅の義理を立て固めるためである。ある人は不生不滅を受け入れないが、不常不断を信じる。深く不常不断を求めれば、それは実は不生不滅である。なぜか。法がもし実有ならば、無に変わるべきではない。先に有って今無いのは、これが断である。もし先にすでに自性があれば、これが常である。ゆえに不常不断といえば、不生不滅の義理に入る。ある人は四種をもって諸法を破るのを聞いたが、なお別の四門をもって諸法を成立させようとする。これもまた当らない。もし一ならば、条件を作る「縁」がない。もし異ならば、相続がない。後においてなお種々に破るので、さらに不一不異を説く。ある人は六種をもって諸法を破るのを聞いたが、なお「来」と「出」をもって諸法を成立させようとする。来とは、諸法が自在天・世性・微塵などの処から来ることをいう。出とは、また本来の処所に還ることをいう。さらにいえば、万物は無生である。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。劫初の穀は別に一つの「生」があるのではない。なぜか。劫初の穀を離れれば、現在の穀が得られない。もし劫初の穀を離れてなお現在の穀があれば、それこそ生があってしかるべきだが、事実はそうではない。ゆえに不生である。

問曰:若不生則應滅。

問う者曰く、もし不生ならば、それは滅すべきである。

答曰:不滅。何以故?世間現見故。世間眼見劫初穀不滅。若滅,今不應有穀;而實有穀,是故不滅。

答える者曰く、不滅である。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。劫初の穀は滅していない。もし滅したならば、今穀があるべきではない。しかし事実、穀がある。ゆえに不滅である。

問曰:若不滅則應常。

問う者曰く、もし不滅ならば、それは常であるべきである。

答曰:不常。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不常,如穀芽時種則變壞,是故不常。

答える者曰く、不常である。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は恒常でない。たとえば穀が芽生える時、種子は変わり壊れる。ゆえに不常である。

問曰:若不常則應斷。

問う者曰く、もし不常ならば、それは断であるべきである。

答曰:不斷。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不斷,如從穀有芽,是故不斷;若斷,不應相續。

答える者曰く、不断である。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は断滅しない。たとえば穀から芽がある。ゆえに不断である。もし断ならば、相続するべきではない。

問曰:若爾者,萬物是一。

問う者曰く、もしこのようであれば、万物は一である。

答曰:不一。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不一,如穀不作芽、芽不作穀。若穀作芽、芽作穀者應是一;而實不爾,是故不一。

答える者曰く、一ではない。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は一でない。たとえば穀は芽を作らず、芽は穀を作らない。もし穀がすなわち芽で、芽がすなわち穀ならば、それこそ一であってしかるべきだが、事実はそうではない。ゆえに一ではない。

問曰:若不一則應異。

問う者曰く、もし一でなければ、それは異であるべきである。

答曰:不異。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不異。若異者,何故分別穀芽、穀莖、穀葉?不說樹芽、樹莖、樹葉,是故不異。

答える者曰く、異ではない。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は異でない。もし異ならば、なぜ分かちて穀芽・穀茎・穀葉と言って、樹芽・樹茎・樹葉と言わないのか。ゆえに異ではない。

問曰:若不異,應有來。

問う者曰く、もし異でなければ、来があるべきである。

答曰:無來。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不來,如穀子中芽無所從來。若來者,芽應從餘處來,如鳥來棲樹;而實不爾,是故不來。

答える者曰く、来はない。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は別の処から来ない。たとえば穀子の中の芽に来る処はない。もし来ならば、芽は別の処所から来るべきで、鳥が飛び来たって樹に棲まうようであるべきだが、事実はそうではない。ゆえに来ない。

問曰:若不來,應有出。

問う者曰く、もし来なければ、出があるべきである。

答曰:不出。何以故?世間現見故。世間眼見萬物不出。若有出,應見芽從穀出,如蛇從穴出;而實不爾,是故不出。

答える者曰く、出ない。なぜか。世間の現量に見えるからである。世間は眼で見る。万物は内から外に出ない。もし出があれば、芽が穀の中から出るのを見るべきで、蛇が洞穴から出るようであるべきだが、事実はそうではない。ゆえに出ない。

問曰:汝雖釋不生不滅義,我欲聞造論者所說。

問う者曰く、あなたは不生不滅の義理を解釈したが、私はなお造論の人自身がどう説くかを聞きたい。

答曰:

答える者曰く、

「諸法不自生,亦不從他生,

「諸法は自ら生ぜず、また他からも生ぜず、

不共不無因,是故知無生。」

共に生ずるのでもなく、また無因に生ずるのでもない。ゆえに無生と知る。」

不自生者,萬物無有從自體生,必待眾因。復次若從自體生,則一法有二體:一謂生、二謂生者。若離餘因從自體生者,則無因無緣。又生更有生,生則無窮。自無故,他亦無。何以故?有自故有他。若不從自生,亦不從他生,共生則有二過:自生、他生故。若無因而有萬物者,是則為常。是事不然。無因則無果,若無因有果者,佈施持戒等應墮地獄、十惡五逆應當生天,以無因故。復次:

いわゆる不自生とは、万物は自体から生じ出ることがなく、必ず衆多の因を待つことをいう。さらにいえば、もし自体から生ずれば、同一の法に二つの体があることになる。一つは「生」、二つは「能生する者」である。もしその余の因を離れて、ただ自体から生ずれば、それは無因無縁である。しかも生じてなお再生せば、生は窮尽することなく尽きない。自己のこの辺になければ、他のあの辺にもない。なぜか。「自」があってこそ「他」がある。もし自から生ぜず、他からも生ぜなければ、共生は二重の過失がある。すなわち自生に堕ち、また他生に堕ちる。もし因がなくして万物があれば、それは常である。この事は当らない。因がなければ果がない。もし因なくして果があれば、布施・持戒などの善行は地獄に堕ち、十悪五逆は天に生ずるべきである。因として決定するものがないからである。さらにいえば、

「如諸法自性,不在於緣中,

「諸法の自性は、衆縁の中に在らず、

以無自性故,他性亦復無。」

自性がないがゆえに、他性もまたない。」

諸法自性不在眾緣中,但眾緣和合故得名字。自性即是自體,眾緣中無自性。自性無故不自生,自性無故他性亦無。何以故?因自性有他性,他性於他亦是自性。若破自性即破他性,是故不應從他性生。若破自性、他性,即破共義。無因則有大過,有因尚可破,何況無因!於四句中生不可得,是故不生。

諸法の自性は衆縁の中に在らず、ただ衆縁が和合するがゆえに、はじめて一つの名字を得る。自性とはすなわち自体であり、衆縁の中に自性はない。自性がないので、自から生ぜず。自性がないので、他性もまたない。なぜか。自性に依ってこそ他性があり、他性は「他」の側においてもまた実は自性である。もし自性を破れば、すなわち他性をも破るので、他性から生ずるべきではない。もし自性・他性を破れば、共生の義理もまた破れる。無因は大きな過失がある。有因すらなお破ることができるのに、いわんや無因をや。この四句の中に「生」を求めて皆得られないので、不生という。

問曰:阿毘曇人言「諸法從四緣生」,云何言不生?何謂四緣?

問う者曰く、阿毘曇(対法、仏説を分析編排して系統とした論書)の人は「諸法は四縁から生ず」というのに、どうして不生と言えるのか。四縁とは何か。

「因緣次第緣,緣緣增上緣,

「因縁・次第縁、縁縁・増上縁、

四緣生諸法,更無第五緣。」

四縁が諸法を生じ出す。さらに第五の縁はない。」

一切所有緣,皆攝在四緣,以是四緣萬物得生。因緣名一切有為法;次第緣除過去現在阿羅漢最後心心數法,餘過去現在心心數法;緣緣、增上緣一切法。

一切あるところの縁は皆この四縁の中に収まり、この四縁によって万物がはじめて生を得る。因縁とは、一切の有為法を指す。次第縁とは、過去・現在の阿羅漢(煩悩を断尽し、もはや受生しない聖者)の最後の心と心所を除いて、その余の過去・現在の心と心所は皆これである。縁縁と増上縁は、一切法に通ずる。

答曰:

答える者曰く、

「果為從緣生,為從非緣生?

「果は縁から生ずるのか、それとも非縁から生ずるのか。

是緣為有果,是緣為無果?」

この縁はすでに果があるのか、それとも果がないのか。」

若謂有果,是果為從緣生、為從非緣生?若謂有緣,是緣為有果、為無果?二俱不然。何以故?

もし果が有ると言うならば、この果は縁から生ずるか、それとも非縁から生ずるか。もし縁が有ると言うならば、この縁はすでに果が有るか、それとも果が無いか。二種とも当らない。なぜか。

「因是法生果,是法名為緣;

「この法が果を生じ出すがゆえに、この法を縁と名づける。

若是果未生,何不名非緣?」

もしこの果がまだ生ぜざれば、なぜ非縁と名づけないのか。」

諸緣無決定。何以故?若果未生,是時不名為緣;但眼見從緣生果,故名之為緣。緣成由於果,以果後、緣先故。若未有果,何得名為緣?如瓶以水土和合故有瓶生,見瓶故知水土等是瓶緣。若瓶未生時,何以不名水土等為非緣?是故果不從緣生。緣尚不生,何況非緣。復次:

種々の縁に皆決定性がない。なぜか。もし果がまだ生ぜなければ、この時は縁と名づけない。ただ眼が縁から果を生ずるのを見るがゆえに、はじめてそれを縁と名づける。縁の成立する所以は、果に依る。果は後にあり、縁は先にある。もしまだ果がなければ、何によって縁と名づけるのか。たとえば瓶は、水土が和合してこそ瓶が生じ出て、瓶を見てはじめて水土などが瓶の縁であることを知る。もし瓶がまだ生ぜない時に、なぜ水土などを非縁と名づけないのか。ゆえに果は縁から生ぜない。縁すらなお生ずることができないのに、いわんや非縁をや。さらにいえば、

「果先於緣中,有無俱不可。

「果がもし預め縁の中にあれば、有と言っても無と言っても成り立たない。

先無為誰緣,先有何用緣。」

先に無ければ、誰の縁か。先にすでに有れば、なお縁を何に用いるのか。」

緣中先非有果、非無果。若先有果,不名為緣,果先有故。若先無果,亦不名為緣,不生餘物故。

縁の中に預めあるのは果有でもなく、果無でもない。もし預め果が有れば、縁と名づけない。果がすでに先に有るからである。もし預め果が無ければ、また縁と名づけない。それは別の物を生じ出さないからである。

問曰:已總破一切因緣,今欲聞一一破諸緣。

問う者曰く、すでに一切の因縁を総破したが、今、一つ一つ種々の縁を破るのを聞きたい。

答曰:

答える者曰く、

「若果非有生,亦復非無生,

「果がもし「有」から生ぜず、「無」からも生ぜず、

亦非有無生,何得言有緣?」

また「亦有亦無」からも生ぜなければ、どうして縁有りと言えようか。」

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