中論 巻第一
有人雖信受分別說諸法,而不墮斷常。如經說五陰無常苦空無我,而不斷滅;雖說罪福無量劫數不失,而不是常。何以故?是法因果常生滅相續故往來不絕,生滅故不常,相續故不斷。
ある人は信受して諸法を分別説くといえども、断・常に堕せず。経の上に五陰は無常・苦・空・無我と説くも断滅せず、罪福は無量劫数に失せざると説くも常にあらざるが如し。なぜか。この法は因果常に生滅相続するがゆえに、往来絶えず。生滅するがゆえに常ならず、相続するがゆえに断ぜず。
答曰:
答える者曰く、
「若因果生滅,相續而不斷;
「もし因果生滅相続して断ぜざると言うならば、
滅更不生故,因即為斷滅。」
滅してさらに生ぜざれば、因はすなわち断滅なり。」
若汝說諸法因果相續故不斷不常。若滅法已滅更不復生,是則因斷。若因斷,云何有相續?已滅不生故。復次:
もしあなたが諸法は因果相続するがゆえに不断不常と説くならば、もし滅の法がすでに滅してさらに生ぜざれば、この因はすなわち断である。もし因が断ぜば、どうしてなお相続があらんか。すでに滅して生ぜざるがゆえである。さらにいえば、
「法住於自性,不應有有無;
「法が自性に住せば、有・無は有るべきではない。
涅槃滅相續,則墮於斷滅。」
涅槃に於いて相続を滅せば、すなわち断滅に堕せん。」
法決定在有相中,爾時無無相,如瓶定在瓶相,爾時無失壞相。隨有瓶時無失壞相,無瓶時亦無失壞相。何以故?若無瓶則無所破,以是義故滅不可得。離滅故亦無生。何以故?生滅相因待故。又有常等過故,是故不應於一法而有有無。又汝先說因果生滅相續故,雖受諸法不墮斷常。是事不然。何以故?汝說因果相續故有三有相續,滅相續名涅槃。若爾者,涅槃時應墮斷滅,以滅三有相續故。復次:
法が決定して有の相の中にあれば、その時に無の相なし。瓶が決定して瓶の相の中に在るが如く、その時に失壊の相なし。なお瓶有る時には失壊の相なく、瓶なき時にも失壊の相なし。なぜか。もし瓶なければ、破すべきものなきがゆえである。この義理に因って、滅は求めて得られない。滅を離れてまた生なし。なぜか。生滅は互いに相因待するがゆえである。また常等の過失が有るがゆえに、同一の法の上に既に有りてまた無有るべきではない。またあなたは先前に因果生滅相続すると説いて、執受して諸法あれども断・常に堕せずとした。この事は当らない。なぜか。あなたは因果相続するがゆえに三有の相続有り、相続を滅するを涅槃と名づくと説く。もしこのようであれば、涅槃の時にすなわち断滅に堕すべきである。三有の相続を滅するがゆえである。さらにいえば、
「若初有滅者,則無有後有;
「もし初有が滅せば、すなわち后有なし。
初有若不滅,亦無有後有。」
初有がもし滅せざれば、また后有なし。」
初有名今世有,後有名來世有。若初有滅次有後有,是即無因。是事不然,是故不得言初有滅有後有。若初有不滅,亦不應有後有。何以故?若初有未滅而有後有者,是則一時有二有。是事不然,是故初有不滅無有後有。
初有とは、今世有と名づく。后有とは、来世有と名づく。もし初有が滅して其次に后有有れば、すなわち無因である。この事は当らない。ゆえに初有が滅してこそ后有有ると言うこと能わず。もし初有が滅せざれば、また后有有るべきではない。なぜか。もし初有がまだ滅せざるに后有有れば、すなわち同一時に二つの有有り。この事は当らない。ゆえに初有は滅せず、后有なし。
問曰:後有不以初有滅生、不以不滅生,但滅時生。
問う者曰く、后有は初有の滅するに因ってこそ生ずるのでもなく、また滅せざるに因って生ずるのでもない。ただ滅する時に生ず。
答曰:
答える者曰く、
「若初有滅時,而後有生者,
「もし初有がまさに滅するに、しかる後生有れば、
滅時是一有,生時是一有。」
滅する時に一の有有り、生ずる時に一の有有らん。」
若初有滅時後有生者,即二有一時俱:一有是滅時,一有是生時。
もし初有がまさに滅するに后有の生有れば、すなわち二つの有が同一時に俱り在る。一つの有は滅する時、一つの有は生ずる時である。
問曰:滅時生時二有俱者則不然。但現見初有滅時後有生。
問う者曰く、滅時・生時に二つの有が俱り在るは当らない。ただ現前に初有がまさに滅するに后有生ずるを見る。
答曰:
答える者曰く、
「若言於生滅,而謂一時者,
「もし生滅の上に於いて同一時と認むるを説くならば、
則於此陰死,即於此陰生。」
すなわちこの一陰に於いて死し、すなわちこの一陰に於いて生ぜん。」
若生時滅時一時無二有,而謂初有滅時後有生者,今應隨在何陰中死,即於此陰生,不應餘陰中生。何以故?死者即是生者。如是死生相違法,不應一時一處。是故汝先說滅時生時一時無二有,但現見初有滅時後有生者,是事不然。復次:
もし生時・滅時は同一時にして並びに二つの有なしと言いながら、初有がまさに滅するに后有生ずと言うならば、いま当にどの一陰の中に随って死するか、すなわちこの一陰に於いて生ずべきで、その余の陰の中に生ずべきではない。なぜか。死する人はすなわち生ずる人なればがゆえである。このように死と生と相い違する法は、同一時・同一処所であるべきではない。ゆえにあなたが先前に滅時・生時は同一時にして並びに二つの有なし、ただ現前に初有がまさに滅するに后有生ずるを見ると説くは、この事は当らない。さらにいえば、
「三世中求有,相續不可得,
「三世の中に於いて有を求めて、相続は求めて得られず。
若三世中無,何有有相續?」
もし三世の中に皆なければ、どうしてなお有の相続があらんか。」
三有名欲有、色有、無色有。無始生死中不得實智故,常有三有相續。今於三世中諦求不可得。若三世中無有,當於何處有有相續?當知有有相續,皆從愚痴顛倒故有,實中則無。
三有とは、欲有・色有・無色有と名づく。無始の生死の中に実智を得ざるがゆえに、常に三有の相続有り。いま三世の中に如実に推し求めて、得られない。もし三世の中に有なければ、どこに在りて有の相続が有るべきか。知るべし、有の相続有るは皆愚癡顛倒に随ってこそ有る。実の中にはすなわちなし。
中論巻第三
中論巻第四
龍樹菩薩造梵志青目釋
龍樹菩薩が頌を造り、梵志青目が釈を作す。
姚秦三藏鳩摩羅什譯
後秦・姚秦時代の三蔵法師鳩摩羅什が翻訳。
觀如來品第二十二(十六偈)
観如来品第二十二(十六首の偈)
問曰:一切世中尊,唯有如來正遍知號為法王,一切智人是則應有。
問う者曰く、一切の世間の尊は、ただ如来の正遍知、法王と号し、一切智人なり。これすなわち有るべきである。
答曰:今諦思惟,若有應取;若無何所取?何以故?如來,
答える者曰く、いま如実に思惟せん。もし有れば、こそ取るべきである。もし無ければ、何を取らんか。なぜか。如来は、
「非陰不離陰,此彼不相在;
「陰ではなく、陰を離れず、此と彼とは相い在らず。
如來不有陰,何處有如來?」
如来は並びに陰を有せず。どうしてなお如来があらんか。」
若如來實有者,為五陰是如來?為離五陰有如來?為如來中有五陰?為五陰中有如來?為如來有五陰。是事皆不然。五陰非是如來。何以故?生滅相故。五陰生滅相,若如來是五陰,如來即是生滅相。若生滅相者,如來即有無常斷滅等過。又受者受法則一,受者是如來、受法是五陰。是事不然,是故如來非是五陰。離五陰亦無如來,若離五陰有如來者,不應有生滅相。若爾者,如來有常等過。又眼等諸根不能見知,但是事不然,是故離五陰亦無如來。如來中亦無五陰。何以故?若如來中有五陰,如器中有果、水中有魚者,則為有異。若異者,即有如上常等過,是故如來中無五陰。又五陰中無如來。何以故?若五陰中有如來,如床上有人、器中有乳者,如是則有別異,如上說過,是故五陰中無如來。如來亦不有五陰。何以故?若如來有五陰,如人有子,如是則有別異。若爾者,有如上過。是事不然,是故如來不有五陰。如是五種求不可得,何等是如來?
もし如来が実有れば、五陰がすなわち如来か。それとも五陰を離れて如来有るか。それとも如来の中に五陰有るか。それとも五陰の中に如来有るか。それとも如来が五陰を有するか。これら皆当らない。五陰は如来ではない。なぜか。生滅の相なればがゆえである。五陰は生滅の相である。もし如来が五陰なれば、如来はすなわち生滅の相である。もし生滅の相なれば、如来には無常・断滅等の過失有る。また受者と受の法とはすなわち一となる。受者は如来、受の法は五陰。この事は当らない。ゆえに如来は五陰ではない。五陰を離れてもまた如来なし。もし五陰を離れて如来有れば、生滅の相有るべきではない。もしこのようであれば、如来に常等の過失有る。また眼等の諸根は見ること能わず、知ること能わざるべきである。しかるにこの事は当らない。ゆえに五陰を離れてもまた如来なし。如来の中にも五陰なし。なぜか。もし如来の中に五陰有れば、器具の中に果有り、水の中に魚有るが如く、すなわち異有る。もし異なれば、上の常等の過失有る。ゆえに如来の中に五陰なし。また五陰の中にも如来なし。なぜか。もし五陰の中に如来有れば、床上に人有り、器具の中に乳有るが如く、このようであればすなわち分別差異有り。上に説いた過失の如し。ゆえに五陰の中に如来なし。如来もまた五陰を有せず。なぜか。もし如来が五陰を有せば、人の子有るが如く、このようであればすなわち分別差異有り。もしこのようであれば、上の過失有る。この事は当らない。ゆえに如来は五陰を有せず。このように五種に推し求めて皆得られない。何を以てか如来と為さんか。
問曰:如是義求如來不可得,而五陰和合有如來。
問う者曰く、このように義理に随って如来を推し求めて得られざるに、五陰和合して如来有る。
答曰:
答える者曰く、
「陰合有如來,則無有自性;
「陰和合してこそ如来有れば、すなわち自性なし。
若無有自性,云何因他有?」
もし自性なければ、どうして他に因って有らんか。」
若如來五陰和合故有,即無自性。何以故?因五陰和合有故。
もし如来が五陰和合に因ってこそ有れば、すなわち自性なし。なぜか。五陰和合に因ってこそ有るがゆえである。
問曰:如來不以自性有,但因他性有。
問う者曰く、如来は並びに自性に因って有るのではなく、ただ他性に因って有る。
答曰:若無自性,云何因他性有?何以故?他性亦無自性。又無相待因故,他性不可得,不可得故不名為他。復次:
答える者曰く、もし自性なければ、どうして他性に因って有らんか。なぜか。他性もまた自性なきがゆえである。また相待の因なく、他性は求めて得られない。求めて得られざれば、他と名づけない。さらにいえば、
「法若因他生,是即為非我;
「もし法が他に因って生ぜば、これはすなわち我ではない。
若法非我者,云何是如來?」
もし法が我でなければ、どうしてなお如来ならんか。」
若法因眾緣生,即無有我。如因五指有拳,是拳無有自體。如是因五陰名我,是我即無自體。我有種種名,或名眾生、人、天、如來等。若如來因五陰有,即無自性,無自性故無我。若無我,云何說名如來?是故偈中說「法若因他生,是即為非我;若法非我者,云何是如來?」復次:
もし法が衆縁に因って生ぜば、すなわち我なし。五指に因ってこそ拳有るが如く、この拳に自体なし。このように五陰に因ってこそ我と名づく。この我に自体なし。我に種種の名字有る。あるいは衆生・人・天・如来等と名づく。もし如来が五陰に因ってこそ有れば、すなわち自性なし。自性なきがゆえに無我。もし無我なれば、どうしてなお如来と名づくと言えようか。ゆえに偈に言う。「もし法が他に因って生ぜば、これはすなわち我ではない。もし法が我でなければ、どうしてなお如来ならんか」と。さらにいえば、
「若無有自性,云何有他性?
「もし自性なければ、どうしてなお他性があらんか。
離自性他性,何名為如來?」
自性と他性を離れて、何をか如来と名づけん。」
若無自性,他性亦不應有。因自性故名他性,此無故彼亦無,是故自性、他性二俱無。若離自性、他性,誰為如來?復次:
もし自性なければ、他性もまた有るべきではない。自性有るがゆえにこそ他性と名づくがゆえである。此なければ、彼もまたなし。ゆえに自性・他性の両様ともになし。もし自性・他性を離れて、誰をか如来と為さんか。さらにいえば、
「若不因五陰,先有如來者,
「もし五陰に因らずして、先前にすでに如来有り、
以今受陰故,則說為如來。
いま陰を受くるに因って、こそ彼を如来と説く。
今實不受陰,更無如來法,
いま実に受陰なく、さらに如来という法なし。
若以不受無,今當云何受?
もし不受なるがゆえになければ、いまなおどうして受けんか。
若其未有受,所受不名受,
もしまだ受けざれば、受くる所は受と名づけない。
無有無受法,而名為如來。
並びに無受の法にして如来と名づくことなし。
若於一異中,如來不可得,
もし一・異の中に於いて如来を求めて得られざれば、
五種求亦無,云何受中有?
五種に推し求めてもまたなし。どうして受の中に於いて有らんか。
又所受五陰,不從自性有,
また受くる所の五陰は、並びに自性に随って有るのではない。
若無自性者,云何有他性?」
もし自性なければ、どうしてなお他性があらんか。」
若未受五陰先有如來者,是如來今應受五陰已作如來,而實未受五陰時先無如來,今云何當受?又不受五陰者,五陰不名為受,無有無受而名為如來。又如來一異中求不可得,五陰中五種求亦不可得。若爾者,云何於五陰中說有如來?又所受五陰,不從自性有。若謂從他性有。若不從自性有。云何從他性有?何以故?以無自性故,又他性亦無。復次:
もしまだ五陰を受けざるに先前にすでに如来有れば、この如来はいま五陰を受けてこそ如来を作すべきである。しかるに実にまだ五陰を受けざる時に先前に如来なし。いまなおどうして受けんか。また五陰を受けざれば、五陰は受と名づけない。並びに無受にして如来と名づくことなし。また如来は一・異の中に求めて得られず、五陰の中に五種に推し求めても得られない。もしこのようであれば、どうして五陰の中に如来有ると言えようか。また受くる所の五陰は、並びに自性に随って有るのではない。もし他性に随って有ると説くならば、もし自性に随って有るのでなければ、どうして他性に随って有らんか。なぜか。自性なきがゆえに、また他性もなきがゆえである。さらにいえば、
「以如是義故,受空受者空,
「かかる義理に因って、受は空、受者も空。
云何當以空,而說空如來?」
どうしてなお空を用いて空の如来を説くことができようか。」
以是義思惟,受及受者皆空。若受空者,云何以空受而說空如來?
この義理に随って思惟すれば、受および受者は皆空である。もし受が空なれば、どうして空の受を用いて空の如来を説くことができようか。
問曰:汝謂受空、受者空,則定有空耶?
問う者曰く、あなたは受空・受者空と認める。それでは決定して空有るか。
