Libo

中論 巻第一

姚秦 · 龙树造,鸠摩罗什译 · 第2巻 / 28

若緣能生果,應有三種:若有、若無、若有無。如先偈中說,緣中若先有果,不應言生,以先有故。若先無果,不應言生,以先無故,亦應與非緣同故。有無亦不生者,有無名為半有半無,二俱有過。又有與無相違,無與有相違,何得一法有二相?如是三種求果生相不可得故,云何言有因緣?次第緣者:

もし縁が果を生ずることができるならば、ただ三種あるべきである。あるいは有、あるいは無、あるいは亦有亦無。前の偈に説かれたように、縁の中にもし預め果が有れば、さらに生を説くべきでない。すでに先に有るからである。もし預め果が無ければ、また生を説くべきでない。先に無ければ、すなわち非縁と同じくなるべきだからである。亦有亦無もまた生ずることができない。いわゆる有無とは、半有半無に過ぎず、両辺の過失を皆負っている。しかも有と無は互いに相違背し、無と有も互いに相違背する。同一の法がどうして二種の相を持てようか。このように三種で果の生相を求めて皆得られない。どうして因縁有りと言えようか。さらに次第縁を説く。

「果若未生時,則不應有滅,

「果がもしまだ生ぜざれば、すでに滅有るべからず。

滅法何能緣?故無次第緣。」

すでに滅した法がどうしてなお縁を作ることができようか。ゆえに次第縁はない。」

諸心心數法於三世中次第生。現在心心數法滅,與未來心作次第緣。未來法未生,與誰作次第緣?若未來法已有,即是生,何用次第緣?現在心心數法無有住時,若不住,何能為次第緣,若有住,則非有為法。何以故,一切有為法常有滅相故。若滅已,則不能與作次第緣。若言滅法猶有則是常,若常則無罪福等。若謂滅時能與作次第緣,滅時半滅半未滅,更無第三法名為滅時。又佛說:一切有為法念念滅,無一念時住。云何言現在法有欲滅未欲滅?汝謂一念中無是欲滅未欲滅,則破自法。汝阿毘曇說:有滅法、有不滅法;有欲滅法、有不欲滅法。欲滅法者,現在法將欲滅。未欲滅法者,除現在將欲滅法,餘現在法及過去未來無為法,是名不欲滅法。是故無次第緣。緣緣者:

種々の心と心所は過去・現在・未来の三世に次いで生じ起る。現在の心と心所が滅して、未来の心のために次第縁を作る。未来の法はまだ生ぜないのに、誰のために次第縁を作るのか。もし未来の法がすでに有れば、それはすでに生じたのであって、なお次第縁を何に用いるのか。現在の心と心所には停留の時がない。もし住せざれば、どうして次第縁を作ることができようか。もし住すれば、有為法ではない。なぜか。一切の有為法は常に滅の相を帯びているからである。もしすでに滅したならば、再び他のために次第縁を作ることができない。もし滅した法がなお在ると言うならば、それは常である。もし常ならば、罪福の類の事がない。もし正に滅する時に次第縁を作ることができると言うならば、滅する時は半滅半未滅であり、この外にさらに第三の「滅時」と名づく法はない。さらにいえば、仏は説かれた。一切の有為法は念々に滅し、一念の停留もないと。どうして現在法に「將に滅せんとする」と「まだ滅せんと欲しない」とがあろうか。もしあなたが一念の中にこの「將滅/未滅欲」がないと言えば、自らの法を破ることになる。あなたがた阿毘曇は言う。滅する法有り、滅せざる法有り。將に滅せんとする法有り、將に滅せんとせざる法有り、と。將に滅せんとする法とは、現在法が正に滅せんとすることを指す。將に滅せんとせざる法とは、現在正に滅せんとするものを除いて、その余の現在法および過去・未来・無為法を、皆將に滅せんとせざる法と名づける。ゆえに次第縁はない。さらに縁縁を説く。

「如諸佛所說,真實微妙法,

「諸仏の説かれたような、真実にして微細な法は、

於此無緣法,云何有緣緣?」

ここには縁すべき法がないのに、どうしてなお縁縁があろうか。」

佛說大乘諸法,若有色無色、有形無形、有漏無漏、有為無為等諸法相入於法性,一切皆空無相無緣。譬如眾流入海同為一味。實法可信,隨宜所說不可為實,是故無緣緣。增上緣者:

仏の説く大乗の諸法は、有色無色・有形無形・有漏無漏・有為無為を問わず、これらの法相は皆法性に入り、一切は空で、相もなく、所縁もない。たとえば衆流が大海に匯入して同じく一味となるようである。信ずべきはこの実法であり、随宜して説かれたものは実有とすることができない。ゆえに縁縁はない。さらに増上縁を説く。

「諸法無自性,故無有有相;

「諸法に自性がないがゆえに、「有」の相もまたない。

說有是事故,是事有不然。」

「この事有るが故に、彼の事有る」と説くも、この事は成立しない。」

經說十二因緣,是事有故是事有。此則不然。何以故?諸法從眾緣生故自無定性,自無定性故無有有相。有相無故,何得言是事有故是事有?是故無增上緣,佛隨凡夫分別有無故說。復次:

経の上に説く十二因縁は、「この事有るが故に、彼の事有る」である。これは当らない。なぜか。諸法は衆縁に随って生じ、自ら決定の性がない。自ら決定の性がなければ、「有」の相がない。有の相すらないのに、どうして「この事有るが故に、彼の事有る」と言えようか。ゆえに増上縁はない――仏はただ凡夫の有無を分別するに随ってこのように説かれただけである。さらにいえば、

「略廣因緣中,求果不可得;

「略説と広説の因縁の中に、果を求めて皆得られない。

因緣中若無,云何從緣出?」

因縁の中にもし無ければ、どうして縁の中から生じ出ることができようか。」

略者,於和合因緣中無果。廣者,於一一緣中亦無果。若略廣因緣中無果,云何言果從因緣出?復次:

いわゆる略とは、和合した因縁の中に果がないことである。いわゆる広とは、一つ一つの縁の中にも果がないことである。もし略説・広説の因縁の中に皆果がなければ、どうして果が因縁の中から出て来ると言えようか。さらにいえば、

「若謂緣無果,而從緣中出;

「もし縁の中に果がないと言いながら、しかも縁の中から生じ出るというならば、

是果何不從,非緣中而出?」

この果はなぜ非縁の中から生じ出ないのか。」

若因緣中求果不可得,何故不從非緣出?如泥中無瓶,何故不從乳中出?復次:

もし因縁の中に果を求めて得られなければ、なぜ非縁の中から生じ出ないのか。たとえば泥の中に瓶がないのに、なぜ乳の中から生じ出ないのか。さらにいえば、

「若果從緣生,是緣無自性,

「もし果が縁から生ずれば、この縁には自性がない。

從無自性生,何得從緣生?

自性のないものから生じ出て、どうして縁から生ずると算えられようか。

果不從緣生,不從非緣生,

果はすなわち縁から生ぜず、また非縁からも生ぜない。

以果無有故,緣非緣亦無。」

果それ自体がそもそも無いがゆえに、縁と非縁もまた皆ない。」

果從眾緣生,是緣無自性。若無自性則無法,無法何能生?是故果不從緣生。不從非緣生者,破緣故說非緣。實無非緣法,是故不從非緣生。若不從二生,是則無果。無果故,緣非緣亦無。

果は衆縁から生ずるが、これらの縁に自性がない。もし自性がなければすなわち法がなく、法がなければどうして生ずることができようか。ゆえに果は縁から生ぜない。いわゆる非縁から生ぜないとは、「非縁」と説くのはただ縁を破るために説くのであって、実際には非縁と名づく法がない。ゆえにまた非縁からも生ぜない。もしこの両辺から生ぜなければ、すなわち果がない。果がなければ、縁と非縁もまた皆ない。

中論觀去來品第二(二十五偈)

《中論》観去来品第二(二十五首の偈)

問曰:世間眼見三時有作:已去、未去、去時。以有作故,當知有諸法。

問う者曰く、世間は眼で見て三種の時に皆「作」がある。すなわち已去・未去・去時である。作が有るがゆえに、諸法が有ると知るべきである。

答曰:

答える者曰く、

「已去無有去,未去亦無去,

「已去の中に去はなく、未去の中にも去はなく、

離已去未去,去時亦無去。」

已去と未去を離れて、去時にも去はない。」

已去無有去,已去故。若離去有去業,是事不然。未去亦無去,未有去法故。去時名半去半未去,不離已去、未去故。

已去の中に去はない。すでに去ったからである。もし「去」を離れてなお去の作業があれば、この事は当らない。未去の中にも去はない。まだ去っていない法だからである。いわゆる去時とは、半去半未去に過ぎず、已去と未去を離れない。

問曰:

問う者曰く、

「動處則有去,此中有去時,

「動作ある処に去有り。ここに正に去时有り。

非已去未去,是故去時去。」

已去でもなく、未去でもない。ゆえに去時が去るのである。」

隨有作業處,是中應有去。眼見去時中有作業、已去中作業已滅、未去中未有作業,是故當知去時有去。

およそ作業ある処には、そこに去が有るべきである。眼に見える。去時の中に作業があり、已去の中には作業がすでに滅し、未去の中にはまだ作業がない。ゆえに去時に去有ると知るべきである。

答曰:

答える者曰く、

「云何於去時,而當有去法?

「どうして去時の中に、また一つの去の法があろうか。

若離於去法,去時不可得。」

もし去の法を離れれば、去時は得られない。」

去時有去法,是事不然。何以故?離去法去時不可得。若離去法有去時者,應去時中有去,如器中有果。復次:

去時の中に去の法が有ると説くのは、この事は当らない。なぜか。去の法を離れれば、去時は得られない。もし去の法を離れてなお去時があれば、それは去時の中に去を装い入れることになり、器具の中に果を装い入れるようである。さらにいえば、

「若言去時去,是人則有咎;

「もし去時が去ると言えば、この人に過失が有る。

離去有去時,去時獨去故。」

それは去を離れてなお去時有りとなり、去時が独りで去るに等しい。」

若謂已去未去中無去、去時實有去者,是人則有咎。若離去法有去時,則不相因待。何以故?若說去時有去,是則為二;而實不爾,是故不得言離去有去時。復次:

もし已去・未去の中に去はなく、ただ去時に真実に去が有ると言えば、この人に過失が有る。もし去の法を離れてなお去時があれば、二者は相因待しない。なぜか。もし去時に去が有ると言えば、それは二つの事である。しかし事実はそうではない。ゆえに去を離れてなお去時有りとは言えない。さらにいえば、

「若去時有去,則有二種去:

「もし去時の中に去があれば、二種の去が有ることになる。

一謂為去時,二謂去時去。」

一つは去時と名づけ、一つは去時が去ると名づける。」

若謂去時有去,是則有過,所謂有二去:一者因去有去時;二者去時中有去。

もし去時に去が有ると言えば、これに過失が有る。いわゆる二種の去とは、一つは去が有るがゆえに去時が有るのであり、二つは去時の中にまた去が有ることである。

問曰:若有二去,有何咎?

問う者曰く、もし二種の去が有れば、何の過失が有るか。

答曰:

答える者曰く、

「若有二去法,則有二去者;

「もし二種の去の法が有れば、二人の去者が有ることになる。

以離於去者,去法不可得。」

去者を離れれば、去の法は得られないからである。」

若有二去法,則有二去者。何以故?因去法有去者故。一人有二去二去者,此則不然,是故去時亦無去。

もし二種の去の法が有れば、二人の去者が有ることになる。なぜか。去の法によってこそ去者が有るからである。一人なのに二種の去・二人の去者が有るとは、この事は当らない。ゆえに去時の中にも去はない。

問曰:離去者無去法,可爾。今三時中定有去者。

問う者曰く、去者を離れれば去の法がないというのは、なお可とする。今、三種の時の中に必ず去者が有る。

答曰:

答える者曰く、

「若離於去者,去法不可得;

「もし去者を離れれば、去の法は得られない。

以無去法故,何得有去者?」

去の法がないのに、どうして去者があろうか。」

若離於去者,則去法不可得。今云何於無去法中言三時定有去者?復次:

もし去者を離れれば、去の法は得られない。今どうして去の法のない中に、三種の時に必ず去者が有ると言えようか。さらにいえば、

「去者則不去,不去者不去;

「去者は去らず、不去者も去らず。

離去不去者,無第三去者。」

去者と不去者を離れて、第三の去者はない。」

無有去者。何以故?若有去者,則有二種:若去者、若不去者。若離是二,無第三去者。

去者は存在しない。なぜか。もし去者が有れば、ただ二種があるのみで、あるいは去者、あるいは不去者である。もしこの二種を離れれば、第三の去者はない。

問曰:若去者去,有何咎?

問う者曰く、もし去者が去るならば、何の過失が有るか。

答曰:

答える者曰く、

「若言去者去,云何有此義?

「もし去者が去ると言えば、この言説はどうして成立しようか。

若離於去法,去者不可得。」

もし去の法を離れれば、去者は得られない。」

若謂定有去者用去法,是事不然。何以故?離去法,去者不可得故。若離去者定有去法,則去者能用去法;而實不爾。復次:

もし決定して去者が去の法を使用するものが有ると言えば、この事は当らない。なぜか。去の法を離れれば、去者は得られない。もし去者を離れて決定して去の法が有れば、それこそ去者が去の法を使用できると談じるに足る。しかし事実はそうではない。さらにいえば、

「若去者有去,則有二種去:

「もし去者に去が有れば、二種の去が有ることになる。

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