中論 巻第一
一謂去者去,二謂去法去。」
一つは去者が去るのであり、一つは去の法が去るのである。」
若言去者用去法,則有二過,於一去者中而有二去:一以去法成去者、二以去者成去法。去者成已然後用去法,是事不然。是故先三時中謂定有去者用去法,是事不然。復次:
もし去者が去の法を使用すると言えば、二重の過失が有る。一つの去者の中に二種の去が有ることになる。一つは去の法を用いて去者を成就し、二つは去者を用いて去の法を成就する。去者が先に成就して、それから後に去の法を使用するというのは、この事は当らない。ゆえに先に説いた「三種の時の中に必ず去者が有って去の法を使用する」という事は当らない。さらにいえば、もし決定して去有り、去者有るならば、最初の発動が有るべきである。しかし三種の時の中にこの発動を求めて皆得られない。なぜか。
「若謂去者去,是人則有咎,
「もし去者が去ると言えば、この人に過失が有る。
離去有去者,說去者有去。」
それは去を離れてなお去者有りとなり、去者に去有りと言うことになる。」
若人說去者能用去法,是人則有咎,離去法有去者。何以故?說去者用去法,是為先有去者後有去法。是事不然,是故三時中無有去者。復次,若決定有去、有去者,應有初發。而於三時中求發不可得。何以故?
もし人が去者が去の法を使用できると言えば、この人に過失が有る。去の法を離れてなお去者が有ることに等しいからである。なぜか。去者が去の法を使用すると言うのは、先に去者が有り、後に去の法が有ることになる。この事は当らない。ゆえに三種の時の中に去者はない。さらにいえば、もし決定して去有り、去者有れば、最初の発動が有るべきである。しかし三種の時の中にこの発動を求めて皆得られない。なぜか。
「已去中無發,未去中無發,
「已去の中に発動はなく、未去の中にも発動はなく、
去時中無發,何處當有發?」
去時の中にも発動はない。なおどこに発動があろうか。」
何以故三時中無發?
なぜ三種の時の中に皆発動がないのか。
「未發無去時,亦無有已去,
「まだ発動せざれば、去時もなく、已去もなく、
是二應有發,未去何有發?
発動はこの二処に有るべきだが、未去の中にどうして発動があろうか。
無去無未去,亦復無去時,
去もなく、未去もなく、さらに去時もなく、
一切無有發,何故而分別?」
一切に発動がないのに、なおこれらを分別して何をするのか。」
若人未發則無去時亦無已去;若有發當在二處:去時、已去中。二俱不然,未去時未有發故。未去中何有發?發無故無去,無去故無去者,何得有已去、未去、去時。
人がもしまだ発動しなければ、すなわち去時もなく、已去もない。もし発動があれば、二処に堕するべきである。去時と已去である。二処とも当らない。まだ去っていない時にはまだ発動がないからである。未去の中にどうして発動があろうか。発動がなければ去がなく、去がなければ去者もない。どうして已去・未去・去時があろうか。
問曰:若無去、無去者,應有住、住者。答曰:
問う者曰く、もし去なく去者もなければ、住有り、住者有るべきである。答える者曰く、
「去者則不住,不去者不住,
「去者は住せず、不去者も住せず。
離去不去者,何有第三住?」
去者と不去者を離れて、どうして第三の住があろうか。」
若有住、有住者,應去者住、若不去者住。若離此二,應有第三住。是事不然。去者不住,去未息故,與去相違名為住。不去者亦不住。何以故?因去法滅故有住,無去則無住。離去者不去者,更無第三住者。若有第三住者,即在去者、不去者中。以是故,不得言去者住。復次:
もし住有り住者有れば、すなわち去者が住するか、不去者が住するかであろう。もしこの二種を離れれば、第三の住が有るべきである。この事は当らない。去者は住しない。去がまだ停まらないからであり、去と相違するものを住という。不去者も住しない。なぜか。去の法が滅することによってこそ住が有り、去がなければ住もないからである。去者と不去者を離れて、さらに第三の住者はない。もし第三の住者が有れば、すなわち去者・不去者の中に堕する。これにより、去者が住するとは言えない。さらにいえば、
「去者若當住,云何有此義?
「去者がもし住すれば、この言説はどうして成立しようか。
若當離於去,去者不可得。」
もし去を離れれば、去者は得られない。」
汝謂去者住。是事不然。何以故。離去法,去者不可得。若去者在去相,云何當有住?去住相違故。復次:
あなたは去者が住すると言う。この事は当らない。なぜか。去の法を離れれば、去者は得られない。もし去者が正に去の相の中に落ちていれば、どうしてなお住があろうか。去と住は相違するものである。さらにいえば、
「去未去無住,去時亦無住,
「已去・未去の中に住はなく、去時の中にも住はなく、
所有行止法,皆同於去義。」
すべての行と止の法は、皆去と同一の道理である。」
若謂去者住,是人應在去時、已去、未去中住。三處皆無住,是故汝言去者有住,是則不然。如破去法、住法,行、止亦如是。行者,如從穀子相續至芽莖葉等。止者,穀子滅故芽莖葉滅。相續故名行,斷故名止。又如無明緣諸行乃至老死是名行,無明滅故諸行等滅是名止。
もし去者が住すると言えば、この人は去時・已去・未去の中に住するべきである。三処に皆住がない。ゆえにあなたが去者に住有りと言うのは当らない。去の法・住の法を破ったのと同じように、行と止もこのようである。いわゆる行とは、たとえば穀子から相続して芽・茎・葉などに至ることである。いわゆる止とは、穀子が滅すれば芽・茎・葉もまた滅することである。相続を行と名づけ、断えるを止と名づける。またたとえば無明が縁して諸行となり老死に至るまで、これを行と名づける。無明が滅すれば諸行などもまた滅する。これを止と名づける。
問曰:汝雖種種門破去去者、住住者,而眼見有去住。
問う者曰く、あなたは種々の門路をもって去と去者、住と住者を破ったが、眼には明明と去有り住有りと見える。
答曰:肉眼所見不可信。若實有去去者,為以一法成?為以二法成?二俱有過。何以故?
答える者曰く、肉眼の見るところは信ずべきではない。もし真実に去有り去者有れば、一つの法をもって成就したのか、それとも二つの法をもって成就したのか。二種とも過失が有る。なぜか。
「去法即去者,是事則不然;
「去の法がすなわち去者であるというのは、この事は当らない。
去法異去者,是事亦不然。」
去の法が去者と異なるというのも、この事は当らない。」
若去法、去者一,是則不然,異亦不然。
もし去の法と去者が一ならば当らず、異ならばこれも当らない。
問曰:一、異有何過?
問う者曰く、一であると異であると、それぞれどのような過失が有るか。
答曰:
答える者曰く、
「若謂於去法,即為是去者;
「もし去の法がすなわち去者だと言えば、
作者及作業,是事則為一。
作者と作業が一つの事となってしまう。
若謂於去法,有異於去者;
もし去の法が去者と異なると言えば、
離去者有去,離去有去者。」
それは去者を離れて去有り、去を離れて去者有りとなる。」
如是二俱有過。何以故?若去法即是去者,是則錯亂,破於因緣。因去有去者,因去者有去。又去名為法,去者名為人,人常法無常。若一者,則二俱應常、二俱無常。一中有如是等過。若異者則相違。未有去法應有去者,未有去者應有去法,不相因待,一法滅應一法在。異中有如是等過。復次:
このように二種とも過失が有る。なぜか。もし去の法がすなわち去者ならば、それは錯乱し、因縁を破ることになる。去によってこそ去者が有り、去者によってこそ去が有るからである。しかも去は法と名づけ、去者は人と名づける。人は常で、法は無常である。もし一ならば、二つとも常であるか、あるいは二つとも無常であるべきである。一であるとは、この類の過失が有る。もし異ならば、互いに相違背する。まだ去の法がないのにすでに去者が有るべきであり、まだ去者がないのにすでに去の法が有るべきで、彼此相因待しない。一つの法が滅しても、もう一つの法はなお在るべきである。異であるとは、この類の過失が有る。さらにいえば、
「去去者是二,若一異法成,
「去と去者の二つを、もし一または異をもって成就せんとすれば、
二門俱不成,云何當有成?」
この二門ともに成就できないのに、どうして成就を談じ得ようか。」
若去者、去法有,若以一法成、若以異法成,二俱不可得;先已說無第三法成。若謂有成,應說因緣。無去無去者,今當更說。
もし去者・去の法が有れば、一つの法をもって成就するにしても、相異なる法をもって成就するにしても、二種とも得られない。前にすでに説いたように、第三の成就の法はない。もし成就が有ると言うならば、因縁を説き出すべきである。去なく去者もないことは、今さらに説かんとする。
「因去知去者,不能用是去;
「去によってこそ去者が有ると知るが、さらにこの去を用いることはできない。
先無有去法,故無去者去。」
先にもとより去の法がなかったがゆえに、「去者が去る」はない。」
隨以何去法知去者?是去者不能用是去法。何以故?是去法未有時無有去者,亦無去時、已去、未去。如先有人、有城邑,得有所起。去法、去者則不然,去者因去法成,去法因去者成故。復次:
どの去の法をもって去者有りと知るにしても、この去者はさらにこの去の法を用いることができない。なぜか。この去の法がまだない時には、去者もなく、去時・已去・未去もないからである。たとえば先に人有り・城邑有ってこそ、興起する所がある。去の法と去者はそうではない。去者は去の法によってこそ成立し、去の法は去者によってこそ成立するからである。さらにいえば、
「因去知去者,不能用異去,
「去によってこそ去者が有ると知るが、さらに別の去を用いることはできない。
於一去者中,不得二去故。」
一つの去者の中に、二種の去は得られないからである。」
隨以何去法知去者,是去者不能用異去法。何以故?一去者中二去法不可得故。復次:
どの去の法をもって去者有りと知るにしても、この去者はさらに別の去の法を用いることができない。なぜか。一つの去者の中に二種の去の法は得られないからである。さらにいえば、
「決定有去者,不能用三去;
「決定有の去者は、三種の去を使用できない。
不決定去者,亦不用三去。
決定ならざる去者も、三種の去を使用できない。
去法定不定,去者不用三,
去の法は決定であれ決定でなくても、去者はこの三種を使用しない。
是故去去者,所去處皆無。」
ゆえに去・去者・所去の処所は、皆ない。」
決定者,名本實有,不因去法生。去法名身動。三種名未去、已去、去時。若決定有去者,離去法應有去者,不應有住,是故說決定有去者不能用三去。若去者不決定,不決定名本實無,以因去法得名去者,以無去法故不能用三去。因去法故有去者,若先無去法則無去者。云何言不決定去者用三去?如去者,去法亦如是。若先離去者決定有去法,則不因去者有去法,是故去者不能用三去法。若決定無去法,去者何所用?如是思惟觀察,去法、去者、所去處,是法皆相因待。因去法有去者,因去者有去法,因是二法則有可去處,不得言定有、不得言定無,是故決定知,三法虛妄,空無所有,但有假名,如幻如化。
いわゆる決定とは、本来実有であって、去の法によってはじめて生ずるのではないことをいう。去の法とは、身体の動作を指す。三種とは、未去・已去・去時を指す。もし決定して去者が有れば、去の法を離れてすでに去者が有るべきであり、住が有るべきではない。ゆえに決定有の去者は三種の去を使用できないという。もし去者が決定でない――いわゆる不決定とは、本来実無であって、去の法によってはじめて「去者」という名を得ることである――去の法がないがゆえに、また三種の去を使用できない。去の法によってこそ去者が有る。もし先に去の法がなければ、去者がない。どうして不決定の去者が三種の去を使用していると言えようか。去者がこのようであるように、去の法もまたこのようである。もし先に去者を離れて決定して去の法が有れば、それは去者によって去の法が有るのではない。ゆえに去者は三種の去の法を使用できない。もし決定して去の法がなければ、去者はそれを用いて何をするのか。このように思惟観察すれば、去の法・去者・所去の処所というこれらの法は皆互いに相因待する。去の法によってこそ去者が有り、去者によってこそ去の法が有り、この二法によってこそ可去の処所が有る。決定有とも言えず、決定無とも言えない。ゆえに決定して知る。この三法は虚妄で、空にして有るところなく、ただ仮名のみ、幻の如く化の如し、と。
中論觀六情品第三(八偈)
《中論》観六情品第三(八首の偈)
問曰:經中說有六情,所謂:
問う者曰く、経の中に六情有りと説く。いわゆる、
「眼耳及鼻舌、身意等六情,
「眼・耳および鼻・舌、身・意などの六情、
此眼等六情,行色等六塵。」
この眼等の六情は、色等の六塵に行ず。」
此中眼為內情、色為外塵,眼能見色,乃至意為內情、法為外塵,意能知法。
ここに眼は内情、色は外塵で、眼はよく色を見る。意は内情、法は外塵で、意はよく法を知るに至るまで同じである。
答曰:無也。何以故?
答える者曰く、ない。なぜか。
「是眼則不能,自見其己體;
「この眼は自らの本体を見ることができない。
若不能自見,云何見餘物?」
自らを見ることができなければ、どうしてその余の物を見ることができようか。」
是眼不能見自體。何以故?如燈能自照亦能照他。眼若是見相,亦應自見亦應見他。而實不爾,是故偈中說「若眼不自見,何能見餘物?」
この眼は自らの本体を見ることができない。なぜか。たとえば燈はよく自照しまた他を照らす。眼がもし真実に「見」の相ならば、よく自見しまた他を見るべきである。しかし事実はそうではない。ゆえに偈に言う。「もし眼が自見せざれば、どうしてその余の物を見ることができようか」と。
問曰:眼雖不能自見,而能見他。如火能燒他,不能自燒。
問う者曰く、眼は自見できないが、他を見ることはできる。火が他を焼くことができ、自焼できないようである。
答曰:
答える者曰く、
