Libo

颜氏家训 · 第1巻

北齐 · 颜之推 · 第1巻 / 6

欽定四庫全書子部十

儒家典籍

初学は四書から入るのがよい。大学が綱を立て、論語が言を記し、孟子が展開し、中庸が収束する。続いて詩経・尚書・礼記と春秋三伝へ。荀子・春秋繁露・近思録・伝習録は、経学の外で儒学がどう語られてきたかを見る几道である。

欽定四庫全書子部十

欽定四庫全書子部十

顔氏家訓雜家類一【雜學之屬】提要

《顏氏家訓》、雜家類一【雜學の屬】。提要。

【臣】等謹案顔氏家訓二卷舊本題北齊黃門侍郎顔之推撰考陸法言切韻序作於隋仁夀中所列同定八人之推與焉則實終於隋代舊本所題葢據作書之時也陳振孫書録解題雲古今家訓以此為祖然李翶所稱太公家訓雖屬偽書至杜預家誡之類則在前久矣特之推所撰卷帙較多耳晁公武讀書志雲之推本梁人所著凡二十篇述立身治家之法辨正時俗之謬以訓子孫今觀其書大抵於世故人情深明利害而能文之以經訓故唐志宋志俱列之儒家然其中歸心等篇深明因果不出當時好佛之習又兼論字畫音訓並考正典故品第文藝曼衍旁涉不専為一家之言今特退之雜家從其類焉又是書隋志不著録唐志宋志俱作七卷今本乃止二卷錢曾讀書敏求記載有宋鈔淳熈七年嘉興沈揆本七卷以閣本蜀本及天台謝氏所校五代和凝本叅定末附考證二十三條別為一卷且力斥流俗併為二卷之非今沈本不可復見無由知其分卷之舊姑從明人刋本録之然其文既無異同則卷帙分合亦為細故惟考證一卷佚之為可惜耳乾隆四十二年十月恭校上

【臣】等謹案:《顏氏家訓》二卷、舊本は北齊黃門侍郎顏之推の撰と題す。考察するに、陸法言の《切韻序》は隋の仁壽中に作られ、列挙された共同審定の八人の中に顏之推がおり、さすれば彼は實際には隋代に終わったのであり、舊本の題はおそらく著書の時によるものである。陳振孫《書録解題》に言う。古今の家訓は此の書を以て祖とす。しかし李翱の稱する《太公家訓》は偽書に屬するが、杜預の《家誡》の類は此の書に先んじて久しく、ただ顏之推の撰した卷帙が較多いだけである。晁公武《讀書志》に言う。之推はもと梁の人で、所著は凡そ二十篇、立身治家の法を述べ、時俗の謬を辨正して、以て子孫を訓えた。今此の書を觀るに、大抵は世故人情に利害を深く明らめ、能く經訓を以てこれを文飾す。ゆえに《唐志》《宋志》は俱に儒家に列した。しかるにその中《歸心》などの篇は因果を深く明らめ、當時の佛を好む習いを出ず。また字画音訓を兼ね論じ、並びに典故を考正し、文藝を品第し、曼衍して旁ら渉り、專ら一家の言を為さず。今特にこれを雜家に退くるは、その類に隨うなり。また此の書、《隋志》に著録せず、《唐志》《宋志》は俱に七卷と作すも、今本は止だ二卷のみ。錢曾《讀書敏求記》に宋鈔淳熙七年嘉興沈揆本七卷ありと載せ、閣本・蜀本及び天臺謝氏の校する五代和凝本を以て參定し、末に考證二十三條を附して別に一卷と為し、且つ流俗の併せて二卷と為すの非を力斥す。今沈本は再び見るべからず、その分卷の舊貌を知る由なし。姑く明人刊本より録る。しかるに文字すでに同異なくんば、則ち卷帙の分合もまた細故なり。ただ考證一卷の亡佚は、實に惜しむべし。乾隆四十二年十月恭し校す。

總纂官【臣】紀昀【臣】陸錫熊【臣】孫士毅

總纂官【臣】紀昀【臣】陸錫熊【臣】孫士毅

總校官【臣】陸費墀

總校官【臣】陸費墀

欽定四庫全書

欽定四庫全書

顔氏家訓捲上

顏氏家訓卷上

隋顔之推

隋朝の顏之推。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。

序致篇第一

序致篇第一

夫聖贒之書教人誠孝慎言檢跡立身名亦已備矣魏晉以來所著諸子理重事逓相模斆猶屋下架屋床上施床耳吾今所以復為此者非敢軌物範世也業以整齊門內提撕子孫夫同言而信信其所親同命而行行其所服禁童子之暴謔則師友之誡不如婢之指揮止凡人之鬭防則堯舜之道不如寡妻之誨諭吾望此書為汝曹之所信猶賢於傳婢寡妻耳吾家風教素為整宻昔在齠齓便防誨誘每從兩兄曉夕溫凊規行矩步安辭定色鏘鏘翼翼若朝嚴君焉賜以優言問所好尚勵短引長莫不懇篤年始九嵗便丁荼蓼家徒離散百口索然慈兄鞠養苦辛備至有仁無威導示不切雖讀禮傳微愛屬文頗為凡人之所陶染肆欲輕言不備邊幅年十八九少知砥礪習若自然卒難洗盪二十以後大過稀焉每常心共口敵性與情競夜覺曉非今悔昨失自憐無教以至於斯追思平昔之指銘肌鏤骨非徒古書之誡經目過耳故留此二十篇以為汝曹後範耳

聖賢の書は人に誠孝・言を慎み・形迹を檢點し・身を立つるを教える。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。名もまたすでに備わりている。魏晋以來、著す所の諸子は、道理重複し・事底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、彼此相い模仿して、譬えば屋の下に屋を架し、牀の上に牀を疊むが如し。我が今再び此を作る所以は、敢えて以て世人の法式と為し天下の規範と為さんとはせず、ただ以て門內を整齊し子孫を提撕せんとするなり。同じ一言にして人の信ずるは、その親む所を信ずるなり。同じ一令にして人の行うは、その服する所を行うなり。童子の暴謔を禁ずれば、則ち師友の告誡は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。婢の指揮に如かず。常人の爭鬪底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを止むれば、則ち堯舜の道理は寡妻の教誨に如かず。我が願う所は此の書の汝らに信ぜられんこと、なお傳婢寡妻に勝れんことを。我が家の風教は素より整密なり。昔儿童の時より便ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた誨誘し、常に二兄に隨い、早晚温凊して、規に行き矩に步み、辭を安く色を定め、鏘鏘翼翼として、嚴君に朝見するが如し。好言を賜い所好を問い、短を補い長を引くに、懇切誠篤ならざるなし。年纔かに九歳にして父母の喪に遭い、家徒離散し、百口蕭條たり。慈兄撫養し、辛苦備わり至り、仁有りて威無く、開導指示するに急切ならざりき。我は禮傳を讀み、稍々文章を愛すと雖も、甚だ常人に陶染せられ、慾を放縱し・言を輕率にし・邊幅を修めず。十八九歳に至りて稍々磨砺を知るも、習は自然の成れるが如く、終に洗蕩し難し。二十歳以後、大過纔かに少なし。常に心と口と相敵し、性と情と相爭い、夜に曉の錯を覺え、今日昨日の失を悔い、自ら哀れむ教を受けずして此に至るを。平日の志を追思すれば、肌に銘じ骨に鏤む、ただ古書の告誡の目を過ぎ耳を過ぐるのみにあらず。故に此の二十篇を留めて、以て汝ら日後の規範と為す。

教子篇第二

教子篇第二

上智不教而成下愚雖教無益中庸之人不教不知也古者聖王有胎教之法懷子三月出居別宮目不邪視耳不妄聴音聲滋味以禮節之書之玉版藏諸金櫃子生咳防師保固明仁智禮義導習之矣凡庶縱不能爾當撫嬰稚識人顔色知人喜怒便加教誨使為則為使止則止比及數嵗可省笞罰父母威嚴而有慈則子女畏慎而生孝矣吾見世間無教而有愛每不能然飲食運為恣其所欲宜誡翻奬應訶反笑至有識知謂法當耳驕慢已習方複製之捶撻至死而無威忿怒日隆而增怨逮於成長終為敗德孔子云少成若天性習慣如自然是也俗諺曰教婦初來教兒嬰孩誠哉斯語凡人不能教子女者亦非欲陷其罪惡但重於訶怒傷其顔色不忍楚撻慘其肌膚耳當以疾病為諭安得不用湯藥針艾救之哉又宜思勤督訓者可願苛虐於骨肉乎誠不得已也王大司馬母魏夫人性甚嚴正王在湓城時為三千人將年逾四十少不如意猶捶撻之故能成其勲業梁元帝時有一學士聦敏有才為父所寵失於教義一言之是徧於行路終年譽之一行之非揜藏文飾冀其自改年登防宦暴慢日滋竟以言語不擇為周逖抽腸釁鼓雲父子之嚴不可以狎骨肉之愛不可以簡簡則慈孝不接狎則怠慢生焉由命士以上父子異宮此不狎之道也抑搔癢痛縣衾篋枕此不簡之教也或問曰陳亢喜聞君子之逺其子何謂也對曰有是也蓋君子之不親教其子也詩有諷刺之詞禮有嫌疑之誡書有悖亂之事春秋有褒僻之譏易有備物之象皆非父子之可通言故不親授耳【其意見白虎通】齊武成帝子琅瑘王太子母弟也生而聰慧帝及後並篤愛之衣服飲食與東宮相凖帝每面稱之曰此黠兒也當有所成及太子即位王居別宮禮數優僣不與諸王等太后猶謂不足常以為言年十許嵗驕恣無節器服玩好必擬乘輿常朝南殿見典御進新氷鉤盾獻早李還索不得遂大怒訽曰至尊已有我何意無不知分齊率皆如此識者多有叔段州籲之譏後嫌宰相遂矯詔斬之又懼有救乃勒麾下軍士防守殿門既無反心受勞而罷後竟坐此幽薨人之愛子罕亦能均自古及今此多矣賢俊者自可賞愛頑魯者亦當矜憐有偏寵者雖欲以厚之更所以禍之共叔之死母實為之趙王之戮父實使之劉表之傾宗覆族袁紹之地裂兵亡可為靈明鑑也齊朝有一士大夫嘗謂吾曰我有一兒年已十七頗曉書防教其鮮卑語及彈琵琶稍欲通解以此伏事公卿無不寵愛亦要事也吾時俛而不答異哉此人之教子也若由此業自致卿相亦不願汝曹為之

上智は教えずして成り、下愚は教え雖も益なし、中庸の人は教を受けざれば知らず。古の聖王に胎教の法あり。身重三箇月にして出で別宮に居り、目は邪視せず、耳は妄聽せず、音聲滋味は皆禮を以て節し、玉版に書して金櫃に藏す。子生まれて咳底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、師保は固く仁・智・禮・義を以て導き習わしむ。凡庶は此の如く能わずと雖も、亦當に婴孩を撫育し、人の顏色を認め人の喜怒を知る時に便ち教誨を加え、做せと言えば做し止めと言えば止め、數歲に及んで以て笞罰を省くべし。父母威嚴にして且つ慈有れば、則ち子女は畏慎して孝を生ず。我が世の教肓なくしてただ溺愛あるのみを見るに、每に此の如く能わず。飲食はその欲する所を放縱するを為とし、誡むべきに反って獎し、呵るべきに反って笑い、知識有るに及んで以て法度固より此の如しと為す。驕慢すでに養成せられて後乃ち制すれば、捶撻するに死に至るまで威なく、忿怒日に重ねて益々怨を増し、長ずるに及んで終に德を敗す。孔子に曰く、「少成は天性の若く、習慣は自然の如し」と。即ち此なり。俗諺に曰く、「婦を教うるは初來、兒を教うるは婴孩」と。此の言まことに然り。およそ子女を教え得ざる者は、亦彼らを罪惡に陷らしめんと欲するにあらず、ただ呵怒し難く、彼らの顏色を傷つけんを怕れ、楚撻を忍びず、その肌膚を慘痛せしめんと欲せざるのみ。當に疾病を以て譬うべし。豈に湯藥針艾を用いずして救わんや。又當に彼の督訓に勤しむ者を思うべし。豈に骨肉を苛虐せんことを願わんや。實に已むを得ざるなり。王大司馬の母魏夫人は性情甚だ嚴正、王僧辯が湓城に在る時は三千人の將にして、年四十を過ぐるも、稍々意に如かざればなお捶撻す。故に能く勳業を成せり。梁元帝の時に一學士あり、聰明にして才あり、父に寵愛せられ、教義を失す。一言の說對すれば、路人に傳遍し終年稱譽せられ。一事の錯誤すれば、遮掩文飾し、其の自ら改正せんことを望む。年登底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた宦、暴慢日に甚だしく、竟に言語の檢點なきを以て、周逖に腸を抽かれ鼓に衅せらる。故に曰く、父子の嚴は狎昵すべからず、骨肉の愛は簡慢すべからず、と。簡慢なれば則ち慈孝接がず、狎昵なれば則ち怠慢生ず。命士以上は父子居を異にし宮を分かつ、此れ狎昵せざるの法なり。搔痒痛を抑え、衾枕を懸げ、箱子を收拾す、此れ簡慢せざるの教なり。或る人問う、陳亢の君子その子を疎にするを聞くを好むは、何の意ぞ、と。答えて曰く、此の理有り。蓋し君子は自らその子を教えざるなり。《詩經》に諷刺の詞有り、《禮記》に嫌疑の誡有り、《尚書》に悖亂の事有り、《春秋》に褒貶邪僻の譏刺有り、《周易》に備物の象有り、皆父子のあいだに通言すべきにあらず。故に自ら傳授せず【此の意《白虎通》に見ゆ】。齊の武成帝の子琅邪王は、太子の同母弟にして、生まれながら聰慧、帝と后甚だ之を愛し、衣服飲食は東宮と同等なり。帝常に面して稱して曰く、「此れ黠慧の兒、當に成就是有るべし」と。太子即位するに及んで、王別宮に居り、禮數優待僭越し、諸王と同等ならず。太后なお足らずと為し、常に提起す。年十餘歲にして驕恣節制なく、器服玩好は必ず皇帝に比擬す。嘗て南殿に朝見し、典御の新冰を進め鉤盾の早李を獻ずるを見て、歸りて索取するに得られざれば、大いに怒り責問して曰く、「至尊すでに之有り、我何ぞ之無き」と。分寸を齊等せざるを知らず、大抵皆此の如し。有識の人多く共叔段・州吁の如き譏評有り。後に宰相を嫌惡し、則ち詔を矯めて之を斬り、また人の來り救わんことを怕れ、便ち麾下の軍士を勒して殿門を防守せしむ。すでに反心なく、慰勞を受けて罷み、後に竟に此を以て幽禁せられて死す。人の子を愛するに、均一に能くする者少なし。古より今に至りて此の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。多し。賢俊の者は自然に賞愛すべく、頑魯の者も亦當に矜憐すべし。偏寵有る者は、厚くしんと欲するに雖も、反って此を以て之を害す。共叔の死は、實に母の致す所なり。趙王如意の戮は、實に父の之を然らしむるなり。劉表は此を以て宗を傾け族を覆し、袁紹は此を以て地裂け兵亡ぶ。以て靈底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。明鑑と為すべし。齊朝に一士大夫あり、嘗て我に謂いて曰く、「我に一子有り、年すでに十七、書底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを能く解し、之に鮮卑語と琵琶を彈くを教え、稍々通解せしめ、以て公卿に服事せしむれば、寵愛せられざるなく、亦要緊の事なり」と。我時に首を低れて答えず。怪しき哉、此の人の子を教うるや此の如し。若し此の門の學業を以て自ら卿相に至るとも、我も願わず汝らの之を為さんことを。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.