颜氏家训 · 第5巻
精潔乎見有名僧髙行棄而不說若覩凡僧流俗便生非毀且學者之不勤豈教者之為過俗僧之學經律何異士人之學詩禮以詩禮之教格朝廷之人略無全行者以經律之禁格出家之輩而獨責無犯哉且闕行之臣猶求祿位毀禁之侶何慙供養乎其於戒行自當有犯一披法服已墮僧數嵗中所計齋講誦持比諸白衣猶不啻山海也釋四曰內教多途出家自是其一法耳若能誠孝在心仁惠為本須達流水不必剃落鬚髮豈今罄井田而起塔廟窮編戸以為僧尼也皆由為政不能節之遂使非法之寺妨民稼穡無業之僧空國賦算非大覺之本防也抑又論之求道者身計也惜費者國謀也身計國謀不可兩遂誠臣狥主而棄親孝子安家而忘國各有行也儒有不屈王侯髙尚其事隠有讓王辭相避世山林安可計其賦役以為罪人若能偕化黔首悉入道塲如妙樂之世穰佉之國則有自然稻米無盡寳藏安求田蠶之利乎釋五曰形體雖死精神猶存人生在世望於後身佀不相屬及其歿後則與前身侶猶老少朝夕耳世有魂神示現夣想或降童妾或感妻孥求索飲食徵湏福祐亦為不少矣今人貧賤疾苦莫不怨尤前世不修功業以此而論安可不為之作地乎夫有子孫自是天地間一蒼生耳何預身事而乃愛護遺其基址況於己之神爽頓欲棄之哉凢夫蔽不見未來故言彼生與今非一體耳若有天眼鑑其念念隨滅生生不斷豈可不怖畏耶又君子處世貴能克已復禮濟時益物治家者欲一家之慶治國者欲一國之良僕妾臣民與身竟何親也而為勤苦修德乎亦是堯舜周孔虛失愉樂耳一人修道濟度幾許蒼生免脫幾身罪累幸熟思之汝曹若觀俗計樹立門戸不棄妻子未能出家但當兼修戒行留心誦讀以為來世津梁人身難得勿虛過也儒家君子尚離庖廚見其生不忍其死聞其聲不食其肉髙柴折像未知內教皆能不殺此乃仁者自然用心含生之徒莫不愛命去殺之事必勉行之好殺之人臨死報驗子孫殃禍其數甚多不能悉録耳且示數條於末梁世有人常以雞卵白和沐雲使發光每沐輒破二三十枚臨死發中但聞啾啾數千雞雛聲江陵劉氏以賣鱓為業後生一兒頭是鱓自頸以下方為人耳王克為永嘉郡守有人餉羊集賓欲防而羊繩解來投一客先跪兩拜便入衣中此客竟不言之固無救請須臾宰羊為炙先行至客一臠入口便下皮內周行遍體痛楚號呌方復說之遂作羊鳴而死梁孝元在江州時有人為望蔡縣令經劉敬躬亂縣廨被焚寄寺而住民將牛酒作禮縣令以牛系剎柱屏除形像鋪設床坐於堂上接賓未殺之頃牛解徑來至階而拜縣令大笑命左右宰之飲噉醉飽便臥簷下稍醒而覺體癢爬搔隠疹因爾成癩十許年死楊思達為西陽郡守值侯景亂時復旱儉饑民盜田中麥思達遣一部曲守視所得盜者輒截手腕凢戮十餘人部曲後生一男自然無手齊有一奉朝請家甚豪侈非手殺牛噉之不美年三十許病篤大見牛來舉體如被刀刺呌呼而終江陵髙偉隨吾入齊凢數年何幽州澱中捕魚後病每見群魚齧之而死世有痴人不識仁義不知富貴並由天命為子娶婦恨其生資不足倚作舅姑之尊虵虺其性毒口加誣不識忌諱罵辱婦之父母卻雲教以婦道不孝己身不顧他恨怛憐己之子女不愛己之兒婦如此之人隂紀其過鬼奪其算慎不可與為鄰仍不可與為援宜逺之哉
精潔ならんや。名僧高行を見れば棄てて説かず、凡僧流俗を見れば便ち非毀を生ず。況んや學者の勤めざるは豈に教者の過ならんや。俗僧の經律を學ぶは士人の詩禮を學ぶと何の同じからざる有らん。詩禮の教を以て朝廷の人を格すれば幾に全行無し。經律の禁を以て出家の輩を格して、却って獨り其の犯無きを責めんや。況んや行を缺く臣は尚お祿位を求め、禁を毁る僧侶何ぞ供養を受くるに慚じんや。彼らの戒行に於て自ら犯有るべし。但だ一たび法服を披けばすでに僧の數に入り、一年の計う所の齋講誦持は白衣よりも山海に啻ならず。其の四を解釋す。内教多途にして出家自ら其の中の一法なり。若し能く誠孝心に在り仁惠を本と爲せば、須達・流水の如き人は必ずしも須髮を剃落せず。豈に如今井田を罄めて以て塔廟を起ち、編戶を窮めて以て僧尼と爲さんことを要せんや。皆爲政の節制する能わざるに因りて、纔かに非法の寺に民の稼穡を妨げ、無業の僧に國の賦算を空うせしむ。大覺の本底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたにあらず。更に一層を論ず。道を求むるは身の計、費を惜しむは國の謀なり。身計國謀は兩遂ぐべからず。誠臣は主に殉じて親を棄て、孝子は家を安んじて國を忘る。各々其の行有り。儒に王侯に屈せず其の事を高尚とする者有り、隱に王を讓り相を辭して山林に世を避くる者有り。豈に其の賦役を計算して罪人と當てんや。若し能く黔首を偕化して悉く道場に入らしめば、妙樂の世・穰佉の國の如く、則ち自然の稻米・無盡の寶藏有らん。還って田蠶の利を求めんや。其の五を解釋す。形體は死すと雖も精神猶お存す。人生在世りて後身を望むに、似たること屬せざるが如し。歿後に及べば則ち前身と老少朝夕の比なり。世上に魂神の夢想に示現する有りて、或いは童妾に降り或いは妻孥に感じ、飮食を求索し福祐を徵須するも亦少なからず。今人貧賤疾苦して莫か前世の功業を修めざりしを怨尤せざるは無し。此を按じて以て論ずれば、豈に後身の爲に地步を作らざるを得んや。子孫有るは本來天地間の一蒼生、自身と何の相干有るや。而して尚お愛護して基址を遺下す。況んや自らの神爽を、豈に頓に拋棄せんや。凡夫底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた蔽われて未來を見ず。故に彼の生と今と一體にあらずと曰う。若し天眼の鑑照して念念滅に隨い生生斷えざる有らば、豈に怖畏せざるを得んや。又君子世に處するは能く己に克ち禮に復り時を濟い物に益するを貴ぶ。家を治むるは一家の慶を想い、國を治むるは一國の良を想う。僕妾臣民は自身と究竟何の親有るや。而して彼らの爲に勤苦して德を修む。是れも亦堯舜周孔が徒らに愉樂を失うと成るなり。一人道を修すれば、幾多の蒼生を濟度し幾身の罪累を免脱せん。熟思を望む。汝ら若し俗計を顧念し門戸を樹立し妻子を棄てず未だ出家する能わざれば、但だ當に兼ねて戒行を修め誦讀に心を留めて、以て來世の津梁と爲すべし。人身得難し。虚過する勿れ。儒家の君子尚お庖廚を遠ざけ、其の生を見て其の死を忍びず、其の聲を聞きて其の肉を食わず。高柴・折像は内教を知らざるも、皆能く殺さず。此れ乃ち仁者の自然の用心なり。含生の徒は莫か命を愛せざるは無し。殺を去るの事は必ず勉力して實行すべし。殺を好む者は死に臨みて報驗し子孫殃禍有り。其の數甚だ多くて錄し盡くす能わず。且つ數條を末に示す。梁世に人有りて常に雞蛋白を和して以て髮を沐し、能く髮を亮ならしむと曰い、沐する每に二三十枚を破る。死に臨みて髮の中ただ啾啾たる數千の雞雛の聲を聞く。江陵劉氏は鱔底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを賣るを以て業と爲す。後に一兒を生みて頭は鱔、頸以下纔かに人なり。王克永嘉郡守を爲るに、人の羊を餉る者有り。賓を集めて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたせんと欲すに、羊繩解けて來りて一個の客に投じ、先に跪きて兩拜すれば便ち衣中に鑽入る。此の客竟に言わず。固に救請無し。須臾羊を宰して炙と爲し、先に客の前に送るに、一塊口に入れば便ち皮内に下りて、周行遍體して痛楚號叫し、纔かに再び説き出す。於是に羊の鳴を作して死す。梁孝元江州に在る時、人の望蔡縣令を爲る者有りて、劉敬躬の亂を經て縣廨焚かれ、寺中に寄住す。民牛酒を拿りて禮を作るに、縣令牛を刹柱に繫ぎ、形像を屏除し、牀を鋪設して堂上に坐して賓を接す。未だ殺さざる前牛解けて、徑ちに階下に至りて拜す。縣令大笑して左右に宰せしめ、飮啖醉飽すれば便ち檐下に臥し、稍く醒めて體痒く爬搔隱疹を覺え、此に因りて癩と成り、十來年にして死去す。楊思達西陽郡守を爲るに、正に侯景の亂に値い又旱儉に逢う。飢民田中の麥を盗む。思達一部曲を遣りて守視せしめ、盗者を捉えれば便ち手腕を截ちて、共に十餘人を戮す。部曲後に一男を生みて自然に手無し。齊に一奉朝請有りて家甚だ豪侈、自ら牛を殺すにあらざれば喫して美と爲さず。年三十許り病重きに、大いに牛の來るを見て、全身刀に刺されたるが如く、叫呼して終る。江陵高偉我に隨いて齊に入り、數年の裡幽州の淀中に於て魚を捕る。後に病みて每に群魚の來りて咬むを見、因りて死去す。世上に癡人有りて仁義を識らず、富貴皆天命に由るを知らず。子の爲に婦を娶りて其の生資足らざるを恨み、舅姑の尊に倚仗して、其の性蛇蝎にして毒口誣を加え、忌諱を識らず、婦の父母を罵辱して、却って是れ婦道を以て教うと曰い、己身を孝せず他の恨を顧みず、ただ自らの子女を憐れみて自らの兒婦を愛せず。此の如き人は陰間其の過を記し鬼其の壽を奪う。千萬も與に鄰と爲るべからず、亦與に援と爲るべからず。當に遠離すべし。
書證篇第十七
書證篇第十七
詩云叅差荇菜爾雅雲荇菨餘也字或為莕先儒解釋皆雲水草圓葉細莖隨水淺深今是水悉有之黃花似蓴江南俗亦呼為豬蓴或呼為荇菜劉芳具有註釋而河北俗人多不識之博士皆以參差者是莧菜呼人莧為人荇亦可笑之甚詩云誰謂荼苦爾雅毛傳並以荼苦菜也又禮雲苦菜秀案易統通卦驗圖曰苦菜生於寒秋更冬厯春得夏乃成今中原苦菜則如此也一名遊冬葉似苦苣而細摘斷有白汁花黃似菊江南別有苦菜葉似酸漿其花或紫或白子大如珠熟時或赤或黒此菜可以釋勞案郭璞注爾雅此乃黃蒢也今河北謂之龍葵梁世講禮者以此當苦菜既無宿根至春子方生耳亦大誤也又髙誘注呂氏春秋曰榮而不實曰英苦菜當言英益知非龍葵也詩云有杕之杜江南本並木傍施大傳曰杕獨貌也徐仙民音徒計反說文曰杕樹貌也在木部韻集音次第之第而河北本皆為夷狄之狄讀亦如字此大誤也詩云駉駉牡馬江南書皆作牝牡之牡河北本悉為放牧之牧鄴下博士見難雲駉頌既美僖公牧於坰野之事何限騲騭乎餘荅曰案毛傳云駉駉良馬腹乾肥張也其下又云諸侯六閒四種有良馬戎馬田馬駑馬若作放牧之意通於牝牡則不容限在良馬獨得駉駉之稱良馬天子以駕玉輅諸侯以充朝聘郊祀必無騲也周禮圉人職良馬匹一人駑馬麗一人圉人所養亦非騲也頌人舉其強駿者言之於義為得也易雲良馬逐逐左傳云以其良馬二亦精駿之稱非通語也今以詩傳良馬通於牧騲恐失毛生之意且不見劉芳義證乎月令雲荔挺出鄭注云荔挺馬薤也說文雲荔似蒲而小根可為刷廣雅雲馬薤荔也通俗文亦云馬藺易統通卦驗圖雲荔挺不出則國多火災蔡邕月令章句雲荔似挺髙誘注呂氏春秋雲荔草挺出也然則月令注荔挺為草名誤矣河北平澤率生之江東頗有此物人或種於階庭但呼為早蒲故不識馬薤講禮者乃以為馬莧堪食亦名豚耳俗曰馬齒江南嘗有一僧面形上廣下狹劉緩防子民譽年始數嵗俊悟善體物見此僧雲面似馬莧其伯父劉縚因呼為荔挺法師縚親講禮名儒尚誤如此詩云將其來施施毛傳云施施難進之意鄭箋雲施施舒行貌也韓詩亦重為施施河北毛詩皆雲施施江南舊本悉單為施俗遂是之恐有少誤詩云有渰萋萋興雲祁祁毛傳云渰隂雲貌萋萋雲行貌祁祁徐貌也箋雲古者隂陽和風雨時其來祁祁然不暴疾也案渰已是隂云何勞復雲興雲祁祁耶雲當為雨俗冩誤耳班固靈臺詩云三光宣精五行布序習習祥風祁祁甘雨此其證也禮雲定猶豫決嫌疑離騷曰心猶豫而狐疑先儒未有釋書案屍子曰五尺犬為猶說文雲隴西謂犬子為猶吾以為人將犬行犬好豫在人前待人不得又來迎如此往還至於終日斯乃豫之所以為未定也故稱猶豫或以爾雅曰猶如麂善登木猶獸名也既聞人聲乃豫縁木如此上下故稱猶豫狐之為獸又多猜疑故聴河冰無流水聲然後渡今俗雲狐疑虎卜則其義也左傳曰齊侯痎遂痁說文雲痎二日一發之瘧痁有熱虐也案齊侯之病本是間日一發漸加重乎故為諸侯憂也今北方猶呼痎虐音皆在世間傳本多以痎為疥杜征南亦無解釋徐仙民音介俗儒就為通雲病疥令人惡寒變而成瘧此臆說也疥癬小疾何足可論寧有患疥轉作瘧乎尚書曰惟影響周禮雲土圭測影影朝影夕孟子曰圖影失形莊子云罔兩問影如此等字皆當為光景之景凢隂景者因光而生故即謂為景淮南子呼為景柱廣雅雲晷柱掛景並是也至晉世葛洪字苑傍始加彡【音杉】音於景反而世間輒改治尚書周禮莊孟從葛洪字甚為失矣太公六韜有天陳地陳人陳雲鳥之陳論語曰衛靈
《詩經》に「參差たる荇菜」と曰く。《爾雅》に荇は即ち菨余にして字或いは莕と作ると曰く。先儒の解釋は皆水草と曰いて、圓葉細莖にして水の淺深に隨う。如今およそ水有る所は皆有りて、黃花蓴に似たり。江南の俗も亦猪蓴と呼び或いは荇菜と呼ぶ。劉芳皆注釋有るも、河北の俗人多く識らず。博士皆參差を以て莧菜と當て、人莧を呼びて人荇と爲す。亦笑うべき甚だし。《詩經》に「誰か荼の苦しと謂わん」と曰く。《爾雅》《毛傳》皆以て荼を苦菜と爲す。《禮記》又「苦菜秀る」と曰く。《易緯通卦驗》底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた圖の説を按ずるに、苦菜は寒秋に生じ、冬を經春を歷て、夏を得て乃ち成る。如今中原の苦菜是の如く、一の名を游冬と曰い、葉は苦苣に似て細く、摘み斷れば白汁有り、花黃く菊に似たり。江南別に苦菜有りて、葉は酸漿に似て花或いは紫或いは白、子の大きさ珠の如く、熟する時或いは赤或いは黑、此の菜は以て乏を解すべし。郭璞の《爾雅》注を按ずるに、此れ乃ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた黃蒢、如今河北は龍葵と呼ぶ。梁世の禮を講ずる者は此を拿りて苦菜に當つ。すでに宿根無く春に至りて子纔かに生ず。亦大いに誤り。又高誘の《呂氏春秋》注に榮にして實ならざるを英と謂うと曰えば、苦菜は當に英と曰うべく、更に龍葵にあらざるを知る。《詩經》に「杕たる杜有り」と曰く。江南の本は皆木の旁に大を加う。《傳》に杕は獨の貌と曰い、徐仙民は徒計反に音す。《説文》に杕は樹の貌にして木部に在りと曰い、《韵集》は次第の第に音す。而して河北の本は皆夷狄の狄と寫り、讀みも亦字の如し。此れ是大なる誤り。《詩經》に「𬳶𬳶たる牡馬」と曰く。江南の書は皆牝牡の牡と作り、河北の本は全く放牧の牧と作す。鄴下の博士責難して曰く、《𬳶》の頌はすでに僖公の坰野に牧する事を美するなれば、何ぞ必ずしも騲騭に限らんや、と。我答えて曰く、《毛傳》に𬳶𬳶は良馬の腹幹肥張と曰うを按す。其の下又諸侯六閑四種、良馬・戎馬・田馬・駑馬有りと曰う。若し放牧の意と作して牝牡に通ずれば、則ち良馬に限りて獨り𬳶𬳶の稱を得べからず。良馬は天子以て玉輅を駕り、諸侯以て朝聘郊祀を充つ。必ず母馬無し。《周禮》の圉人の職に、良馬は匹に一人、駑馬は麗に一人なり。圉人の養う所も亦母馬にあらず。頌人は其の强駿なるを擧げて之を言う。義に於て得たり。《周易》に「良馬逐う」と曰い、《左傳》に「其の良馬二を以てす」と曰く。亦是れ精駿の稱、通語にあらず。如今詩傳の良馬を拿りて牧騲に通ぜんとすれば、恐らくは毛公の意を失わん。況んや劉芳の義證を見ざるや。《月令》に「荔挺出づ」と曰く。鄭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた注に荔挺は馬薤と曰う。《説文》に荔は蒲に似て小さく根は刷を作るべしと曰い、《廣雅》に馬薤は即ち荔と曰い、《通俗文》も亦馬蘭と曰い、《易緯通卦驗》底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた圖に荔挺出でざれば則ち國に火災多しと曰く。蔡邕《月令章句》に荔は挺に似たりと曰い、高誘の《呂氏春秋》注に荔草挺出すと曰く。然らば則ち《月令》注の荔挺を以て草名と爲すは錯れるなり。河北の平澤に大都生長し、江東頗る此の物有りて、人或いは階庭に種うるも、ただ早蒲と呼ぶ。故に馬薤を識らず。禮を講ずる者は竟に以て馬莧食うべしと爲し、亦名づけて豚耳、俗に馬齒と呼ぶ。江南嘗て一僧有りて面形上廣く下狹し。劉緩底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた子民譽は年纔かに數歲にして俊悟にして物を體するに善し。此の僧を見て「面は馬莧に似たり」と曰う。其の伯父劉縚便ち呼びて荔挺法師と爲す。縚は親ら禮を講ずる名儒にして、尚お誤ること此の如し。《詩經》に「將に來らんとして施施たり」と曰く。《毛傳》に施施は進み難きの意と曰い、鄭箋に施施は舒行の貌と曰い、《韓詩》も亦重疊して施施と爲す。河北の《毛詩》は皆施施と作り、江南の舊本は全く單に施と作す。俗便ち以て是と爲すも、恐らくは稍誤有らん。《詩經》に「渰たり萋萋として、雲を興すこと祁祁たり」と曰く。《毛傳》に渰は陰雲の貌、萋萋は雲行の貌、祁祁は徐の貌と曰く。箋に古は陰陽和し風雨時にして、其の來るや祁祁然として暴疾ならずと曰う。渰はすでに陰雲なれば、何ぞ必ずしも更に雲を興すこと祁祁と曰わんや。雲は當に雨と爲すべし。是れ俗寫して誤を致す。班固《靈臺詩》に「三光精を宣べ、五行序を布き、習習たる祥風、祁祁たる甘雨」と曰く。此れ即ち證據なり。《禮記》に猶豫を定め嫌疑を決すと曰い、《離騷》に「心猶豫として狐疑す」と曰く。先儒解釋無し。《尸子》に五尺の犬を猶と爲すと曰い、《説文》に隴西は犬子を稱して猶と爲すと曰うを按す。我以て人が犬を帶びて走れば、犬は人の前に豫め跑るを好み、人を待ちて及ばずして又迎う。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた此の如く往還して終日に至る。此れ即ち豫の未定と爲す所以、故に猶豫と稱す。或いは《爾雅》に猶は麂に似て木に登るに善しと曰うを按ずれば、猶は獸の名、すでに人聲を聞けば便ち豫め木に緣る。此の如く上下すれば故に猶豫と稱す。狐此の獸又猜疑多し。故に河冰に流水の聲無きを聽きて然る後渡る。今俗に狐疑・虎卜と曰うは即ち此の意なり。《左傳》に「齊侯痎し、遂に痁す」と曰く。《説文》に痎は二日に一發の瘧、痁は熱有る瘧と曰う。齊侯の病は本來間日に一發、漸々加重せしを按ずれば、故に諸侯の憂と成る。如今北方尚お痎瘧と呼び音は皆。世間の傳本は多く痎を疥と寫り、杜預も亦解釋無く、徐仙民は介に音す。俗儒便ち其の爲に通を説いて曰く、疥に病めば人をして惡寒せしめ、變じて瘧と成る、と。此れ臆説なり。疥癬の小疾は何ぞ論ずるに足らん。豈に疥を患い轉じて瘧と成る有らん。《尚書》に「惟れ影響」と曰い、《周禮》に土圭影を測り影朝影夕と曰い、《孟子》に「影を圖りて形を失う」と曰い、《莊子》に「罔兩影に問う」と曰く。此らの字は皆當に光景の景なるべし。およそ陰影は光に因りて生ず。故に就いて之を景と呼ぶ。《淮南子》は呼びて景柱と爲し、《廣雅》に晷柱景を挂くと曰う。皆是なり。晉世葛洪《字苑》に至りて纔かに旁に彡【音杉】を加え、音は于景反。而して世間動輒りて《尚書》《周禮》《莊子》《孟子》を改めて以て葛洪の字に從う。甚だ失誤なり。《太公六韜》に天陳・地陳・人陳・雲鳥の陳有り。《論語》に衛靈と曰く
公問陳於孔子左傳為魚麗之陳俗本多作阜傍車乘之車按諸陳字並作陳鄭之陳夫行陳之義取於陳列耳此六書為假借也蒼雅及近世字書皆無別字唯王羲之小學章獨阜傍作車縱復俗行不宜追改六韜論語左傳也詩云黃鳥于飛集於灌木傳云灌木叢木也此乃爾雅之文故李巡注曰木叢生曰灌爾雅末章又云木族生為灌族亦叢聚也所以江南詩古本皆為藂聚之藂而古叢字似防字近世儒生因改為防解雲木之防髙長者案眾家爾雅及解詩無言此者唯周續之毛詩注音為徂防反劉昌宗詩注音為在公反又祖防反皆為穿鑿失爾雅訓也也是語已及助句之辭文籍備有之矣河北經傳悉略此字其間字有不可得無者至如伯也執殳於族也語囘也屢空風風也教也及詩傳云不戢戢也不儺儺也不多多也如斯之類儻削此文頗成廢闕詩言青青子衿傳曰青衿青領也學子之服按古者斜領下連於衿故謂領為衿孫炎郭璞注爾雅曹大家注列女傳並雲衿交領也鄴下詩本既無也字群儒因謬說雲青衿青領是衣兩處之名皆以青為飾用釋青青二字其失大矣又有俗學聞經傳中時須也字輒以意加之每不得所益誠可笑易有蜀才注江南學士遂不知是何人王儉四部目録不言姓名題雲王弼後人謝炅夏侯該並讀數千卷書皆疑是譙周而李蜀書一名漢之書云姓範名長生自稱蜀才南方以晉渡江後北間傳記皆名為偽書不貴省讀故不見也禮王制雲臝股肱鄭注云謂防衣出其臂脛今書皆作擐甲之擐國子博士該雲擐當作防音宣擐是穿著之名非出臂之義案字林蕭讀是徐爰音患非也漢書田肯賀上江南本皆作宵字沛國劉顯博覽經籍偏精班漢梁代謂之漢聖顯子臻不墜家業讀班史呼為田肯梁元帝嘗問之荅曰此無義可求但臣家舊本以雌黃改宵字為肯元帝無以難之吾至江北見本為肯漢書王莾賛雲紫色蛙聲餘分閏位葢謂非黃之色不中律呂之音也近有學士名問甚髙遂雲王莾非直鳶髆虎視復紫色蛙聲亦為誤矣簡策字竹下施束【七賜反】末代書似杞宋之宋亦有竹下遂為夾者猶如刺字之傍應為束今亦作夾徐仙民春秋禮音遂以防為正字以策為音殊為顛倒史記又作悉字誤而為述作妬字誤而為姤徐鄒諸家皆以悉字音述妬字音姤既爾亦可以亥為豕字音以帝為虎字音乎張揖雲宓今伏羲氏也孟康漢書古文注亦云宓今
公陳を孔子に問う、《左傳》に魚麗の陳有り。俗本多く阜の旁に車乘の車と作す。此らの陳字は皆陳鄭の陳と作るを按ず。行陳の意義は陳列に取る。此れ六書の假借なり。《蒼》《雅》及び近世の字書皆別字無く、ただ王羲之《小學章》のみ獨り阜の旁に車と作す。假令俗行するも、亦《六韜》《論語》《左傳》を追改すべからず。《詩經》に「黃鳥飛び、灌木に集まる」と曰く。《傳》に灌木は叢木と曰う。此れ本來《爾雅》の文字、故に李巡の注に木の叢生を灌と謂うと曰く。《爾雅》の末章に又木の族生を灌と爲し、族も亦叢聚と曰く。故に江南の《詩》の古本は皆藂聚の藂と作り、而して古の丛字は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた字に像る。近世の儒生因りて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに改めて、木の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた高長なるを解釋と爲す。衆家の《爾雅》及び《詩》を解するに此の如く説く無し。ただ周續之《毛詩注》は徂底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた反に音し、劉昌宗《詩注》は在公反に音し、又祖底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた反なり。皆穿鑿にして《爾雅》の訓を失えり。「也」は語已及び助句の辭にして、文籍皆之有り。河北の經傳は全く此の字を略去す。其の中に無かるべからざる有り。「伯也殳を執る」「族也に於て語る」「回也屢空たり」「風は風なり教なり」及び《詩傳》の「戢せずは戢なり」「儺せずは儺なり」「多からずは多なり」の類に至りて、倘し此の文を削去せば、甚だ廢闕と成る。《詩經》に「青青たる子衿」と曰く。《傳》に青衿は青領、學子の服裝と曰う。古者斜領下衿に連なるを按ずれば、故に領を稱して衿と爲す。孫炎・郭璞の《爾雅》注、曹大家の《列女傳》注、皆衿は交領と曰く。鄴下の《詩》本すでに「也」の字無く、群儒因りて謬りて青衿・青領を衣の兩處の名と説き、皆青を以て飾と爲して以て「青青」の二字を解釋す。失誤甚だ大なり。又俗學經傳中に時に「也」の字を須うと聞く有りて、動輒りて隨意に加上し、每に其の所を得ず。實に笑うべし。《周易》に蜀才の注有りて、江南の學士竟に何人かを知らず。王儉《四部目錄》は姓名を説かず、題して王弼と作す。後人謝炅・夏侯該皆數千卷を讀みて、皆譙周と疑う。而して李《蜀書》一の名《漢之書》に姓は范、名は長生、自ら蜀才と稱すと曰く。南方は晉の江を渡りて後北間の傳記を皆僞書と叫びて、省讀を貴ばず。故に見るを得ず。《禮・王制》に「臝股肱」と曰く。鄭注には是れ底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた衣を出でて其の臂脛を謂うと曰く。今の書は皆擐甲の擐と作す。國子博士底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた該に曰く、擐は當に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと作るべく、音は宣、擐は穿著の名にして露臂の義にあらず、と。《字林》に蕭讀は是、徐爰は患に音すと按ずるに、對たらず。《漢書》の田肯上を賀するに、江南の本は皆宵字と作す。沛國劉顯は經籍を博覽して偏りに班固《漢書》に精し。梁代は漢聖と稱す。顯の子臻は家業を墜さず、班史を讀みて呼びて田肯と爲す。梁元帝嘗て彼に問うに、答えて曰く、「此れ義求むべき無し。ただ臣家の舊本に雌黄を以て宵字を改めて肯と爲すのみ」と。元帝彼を難ずるに從う無し。我江北に至りて、本の肯と爲るを見る。《漢書・王莽贊》に「紫色蛙聲、餘分閏位」と曰く。是れ底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた黃の色・律呂の音に中たらざるを説く。近來學士名望甚だ高き者竟に王莽はただ鳶肩虎視のみならず又紫色蛙聲と説く。亦是れ誤れるなり。簡策の字は竹の下に束【七賜反】を施す。末代底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた書に杞宋の宋に像る有りて、亦竹の下に便ち夾と寫る者有り。猶お刺字の旁應に束と爲すべく、今も亦夾と作す。徐仙民《春秋》《禮》の音は竟に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを以て正字と爲し策を以て音と爲す。實に顛倒なり。《史記》又把りて悉字を誤りて述と成し妬字を誤りて姤と成す。徐・鄒諸家皆悉字を以て述に音し妬字を以て姤に音す。すでに此の然り。亦亥を拿りて豕字の音に當て帝を拿りて虎字の音に當つべきか。張揖に宓は即ち如今伏羲氏と曰い、孟康《漢書》の古文注も亦宓は如今と曰く
伏而皇甫謐雲伏羲或謂之宓羲按諸經史緯遂無宓羲之號虙字從虍【音呼】宓字從防【音綿】下俱為必末世傳冩遂誤以虙為宓而帝王世紀因誤更立名耳何以驗之孔子弟子虙子賤為單父宰即虙羲之後俗字亦為宓或復加山今兗州永昌郡城舊單父地也東門有子賤碑漢世所立乃雲濟南伏生即子賤之後是知虙之與伏古來通字誤以為宓較可知矣太史公記曰寜為雞口無為牛後此是刪戰國策耳按延篤戰國策音義曰屍雞中之主從牛子然則口當為屍後當為從俗冩誤也應劭風俗通雲太史公記髙漸離變名易姓為人庸保匿作於宋子久之作苦聞其家堂上有客擊築伎癢不能無出言案伎癢者懷其伎而腹癢也是以潘岳射雉賦亦云徒心煩而伎癢今史記並作徘徊或作徬徨不能無出言是為俗傳冩誤爾太史公論英布曰禍之興自愛姬生於妬媚以至滅國又漢書外戚傳亦云成結寵妾妬媚之誅此二媚並當作媢媢亦妬也義見禮記三蒼且五宗世家亦云常山憲王后妬媢王充論衡雲妬夫媢婦生則忿怒鬭訟益知媢是妬之別名原英布之誅為意賁赫耳不得言媚史記始皇本紀二十八年丞相隗林丞相王綰等議於海上諸本皆作山林之林開皇二年五月長安民掘得秦時鐵稱權旁有銅塗鐫銘二所其一所曰廿六年皇帝盡併兼天下諸侯黔首大安立號為皇帝乃詔丞相狀綰灋度量不歉疑者皆明之凡四十字其一所曰元年制詔丞相斯去疾法度量盡始皇帝為之皆刻辭焉今襲號而刻辭不稱始皇帝其於久逺也如後嗣為之者不稱成功盛德刻此詔於左使母疑凢五十八字一字磨滅見有五十七字了了分明其書兼為古餘被勑冩讀之與內史令李德林對見此稱權今在官庫其丞相狀字乃為狀貌之狀爿旁作犬則知俗作隗林非也當為隗狀耳漢書云中外禔福字當從示禔安也音匙匕之匙義見蒼雅方言河北學士皆雲如此而江南書本多誤從手屬文者對耦併為提挈之意恐為誤或問漢書注為元后父名禁改禁中為省中何故以省代禁荅曰案周禮宮正掌王宮之戒令糺禁鄭注云糺猶割也察也李登雲省察也張揖雲省今省詧也然則小井所領二反並得訓察其處既常有禁衛省察故以省代禁詧古察字也漢明帝紀為四姓小侯立學校桓帝加元服又賜四姓及梁鄧小侯帛是知皆外戚也明帝時外戚有樊氏郭氏隂氏馬氏為四姓謂之小侯者或以年小獲封故須立學耳或以侍祠猥朝侯非列侯故曰小侯禮雲庶方小侯則其義也後漢書云鸛雀銜三鱓【音善】魚多假借為鱣鮪之鱣俗之學士因謂之為鱣魚案魏武四時食制鱣魚大如五斗匳長一丈郭璞注爾雅鱣長二丈安有鸛雀能勝一者況三頭乎鱣又純灰色無文章也鱓魚長者不過三尺大者不過三指黃地黒文故都講雲虵鱓卿大夫服之象也續漢書及搜神記亦說此事皆作鱓字孫卿雲魚鱉防鱣及韓非說苑皆曰鱣似虵蠶似蠋並作鱣字假鱣為鱓其來久矣後漢書酷吏樊曅為天水郡守涼州為之歌曰寧見乳虎穴不入曅城寺而江南書本穴皆誤作六學士因循迷而不寤夫虎豹穴居事之較著所以班超雲不探虎穴安得虎子寧當論其六七乎後漢書楊由傳云風吹削胏此是削札牘之柹耳古者書誤則削之故左傳云削而投之是也或即謂札為削王褒童約曰書削代牘蘇竟書云昔以摩研編削之才皆其證也詩云伐木滸滸毛傳云滸滸柹貌也史家假借為肝胏字俗本悉作脯臘之脯或為反哺之哺學士因解雲削哺是屏障之名既無證據亦為妄矣此是風角占耳風角書曰庶人風者拂地塵轉削若是屏障何由可轉也三輔決録雲前隊大夫範仲公防豉蒜果共一筩果當作魏顆之顆北士通呼物一由改為一顆蒜顆是俗間常語耳故陳思王鷂雀賦曰頭如果蒜目似花椒又道經云合口誦經聲璅璅眼中淚出珠子防其字雖異其音與義頗同江南但呼為蒜符不知謂為顆學士相承讀為裹結之裹言防與蒜共苞一裹內筩中耳正史削繁音義又音蒜顆為苦戈反皆失也有人訪吾曰魏志蔣濟上書云攰之民何字也餘應之曰意為攰即是倦之耳【要用字苑雲音九偽反字見廣雅及陳思王集也】張揖呂忱並雲支傍作刀劒之刀亦是剞字不知蔣氏自造支傍作筋力之力或借剞字終當音九偽反晉中興書太山羊曼常頽縱任俠飲酒誕節兗州號為濌伯此字更無音訓梁孝元帝嘗謂吾曰由來不識唯張簡憲見教呼為嚃羮之嚃自爾便遵承之亦不知所出簡憲是湘州刺史張纉諡也江南號為碩學案法盛世代殊近當是老相傳俗間又有濌濌語葢無所不施無所不容之意也顧野王玉篇誤為黒傍沓顧雖博物猶出簡憲孝元之下而二人皆雲重邊吾所見數本並無作黒者重沓是多饒積厚之意從黒更無義防古樂府歌詞先述三子次及三婦婦是對舅姑之稱其末章雲丈人且安坐調絃未遽央古者子婦供事舅姑旦夕在側與兒女無異故有此言丈人亦長老之目今世俗猶呼其祖考為先亡丈人又疑丈當作大北間風俗婦呼舅為大人公丈之與大易為誤耳近代文士頗作三婦詩乃為匹嫡並耦已之群妻之意又加鄭衛之辭大雅君子何其謬乎古樂府歌百里奚詞曰百里奚五羊皮憶別時烹伏雌吹扊扅今日富貴忘我為吹當作炊煑之炊案蔡邕月令章句曰鍵關牡也所以止扉或謂之剡移然則當時貧困並以門牡木作薪炊耳聲類作扊又或作扂通俗文世間題雲河南服防字子慎造防既是漢人其敘乃引蘇林張揖蘇張皆是魏人且鄭以前全不解反語通俗反音甚為近俗阮孝緒又云李防所造河北此書家藏一本遂無作李防者晉中經簿及七志並無其目竟不得知誰制然其文義允愜實是髙才殷仲堪常用字訓亦引服防俗說今復無此書未知即是通俗文為當有異近代或更有服防乎不能明也或問山海經夏禹及益所記而有長沙零陵桂陽諸暨如此郡縣不少以為何也荅曰史之闕文為日久矣加復秦人滅學董卓焚書典籍錯亂非止於此譬猶本草神農所述而有豫章朱崖趙國常山奉髙真定臨淄馮翊等郡縣名出諸藥物爾雅周公所作而云張仲孝友仲尼修春秋而經書孔丘卒世本左丘明所書【此說出皇甫謐帝王世紀】而有燕王喜漢髙祖汲冡語乃載秦望碑蒼頡篇李斯所造而云漢兼天下海內並厠豨黥韓覆畔討滅殘列仙傳劉向所造而賛雲七十四人出佛經列女傳亦向所造其子歆又作頌終於趙悼後而傳有更始韓夫人明德馬後及梁夫人嫕皆由後人所羼非本文也或問曰東宮舊事何以呼鴟尾為祠尾荅曰張敞者吳人不堪稽古隨宜記注遂鄉俗訛謬造作書字耳吳人呼祠祀為鴟祀故以祠代鴟呼紺為禁故以系旁作禁代紺字呼盞為竹簡反故以木傍作展以代盞字呼鑊字為霍字故以金傍作霍代鑊字又金傍作患為鐶字木傍作鬼為槐字火傍作庶為炙字既下作毛為髻字金花則金傍作華窓扇則木傍作扇諸如此類専輒不少又問東宮舊事六色罽防是何等物當作何音荅曰按說文雲莙牛藻也讀若威音隠塢瑰反即陸璣所謂聚藻葉如蓬者也郭璞注三蒼亦云蘊藻之類也細葉蓬茸生然今水中有此物一節長數寸細茸如絲圓繞可愛長者二三十節猶呼為莙又寸斷五色絲橫著線股間繩之以象莙草用以飾物即名為莙於時尚紺六色罽作此莙以飾緄帶張敞因造絲旁畏耳宜作隈栢人城東北有一孤山古書無載者唯闞駰十三州志以為舜納於大麓即謂此山其上今猶有堯祠焉世俗或呼為宣務山或呼為虛無山莫知所出趙郡土族有李穆叔季節兄弟李普濟亦為學問並不能定鄉邑此山餘嘗為趙州佐共太原王邵讀栢人城西門內碑碑是漢桓帝時栢人縣民為縣令徐整所立銘雲士有巏務山王喬所仙方知此巏務山也巏字遂無所出務字依諸子書即旄丘之旄也旄字字林一音亡付反今依附俗名當音權務耳入鄴為魏收說之收大嘉嘆值其為趙州莊嚴寺碑銘曰權務之精即用此也或問一夜何故五更更何所訓荅曰漢魏以來謂為
伏なり。而して皇甫謐は伏羲或いは之を宓羲と謂うと曰く。諸の經史緯底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを按ずるに竟に宓羲の號無し。虙字は虍【音呼】に從い、宓字は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた【音綿】に從い、下は皆必なり。末世傳寫すれば便ち誤りて虙を以て宓と爲し、而して《帝王世紀》は誤に因りて更に名を立つ。何を以て證驗せんや。孔子の弟子虙子賤は單父の宰と爲る。即ち虙羲の後、俗字も亦宓と作し或いは再び山を加う。如今兗州永昌郡城は舊の單父の地、東門に子賤の碑有りて漢世の立つ所、乃ち濟南の伏生は即ち子賤の後と説く。虙と伏とは古來字に通ずるを知るべく、誤りて宓と爲すは較然として知るべし。太史公の記に「寧ろ雞口と爲れ、牛後と爲る無かれ」と曰く。此れ《戰國策》を刪するのみ。延篤《戰國策音義》に尸は雞中の主、從は牛子なりと曰うを按ずれば、則ち口は當に尸と爲し後は當に從と爲すべし。俗寫して誤を致す。應劭《風俗通》に太史公の記は高漸離が名を變え姓を易え、人の庸保と爲り、宋子に於て匿作し、久しくして苦を作り、家堂上に客の筑を擊つを聞きて、伎癢して言を出さざる能わずと曰く。伎癢は其の伎を懷きて腹癢むを按ずれば、故に潘岳《射雉賦》も亦「徒らに心煩いと雖も伎癢す」と曰く。如今《史記》は皆徘徊と作し或いは彷徨と作して、言を出さざる能わず。是れ俗傳寫の誤り。太史公英布を論じて「禍の興るや愛姬より、妒媚に生じて以て國を滅すに至る」と曰く。《漢書・外戚傳》も亦「寵妾妒媚の誅を結ぶを成す」と曰く。此の兩つの媚は皆當に媢と爲すべく、媢も亦妒なり。義は《禮記》《三蒼》に見ゆ。況んや《五宗世家》も亦常山憲王の后妒媢と曰い、王充《論衡》に妒夫媢婦は生ずれば忿怒鬪訟すと曰く。更に媢は妒の別名を知る。英布の誅は賁赫の爲なりと推原すれば、媚と曰うを得ず。《史記・始皇本紀》の二十八年に、丞相隗林・丞相王綰等海上に於て議す。諸本皆山林の林と作す。開皇二年五月長安の民掘りて秦時の鐵稱權を得たり。傍に銅涂鐫銘二處有り。其の一に曰く、廿六年皇帝盡く天下の諸侯を并兼し、黔首大いに安んじ、號を皇帝と立て、乃ち丞相狀・綰に詔して度量を法す。底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた不底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた歉疑する者は皆底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた之を明かす、と。共に四十字。其の一に曰く、元年制詔丞相斯・去疾、度量を法して始皇帝之を爲すを盡くし、皆辭を刻す。今襲號して刻辭始皇帝と稱せざれば、其の久遠に於て、後嗣の爲す者の如く成功盛德を稱せず。此の詔を左に刻して疑無からしめよ、と。共に五十八字、一字磨滅して、五十七字有るを見て了了分明なり。其の書は兼ねて古底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを爲す。我敕を被りて寫讀し、内史令李德林と對看す。此の稱權如今官庫に在りて、其の丞相狀の字は乃ち狀貌の狀、爿の旁に犬と作す。則ち俗の隗林と作すは對たらず、當に隗狀と爲すべきを知る。《漢書》に「中外禔福」と曰く。字は當に示に從うべく、禔は安、音は匙匕の匙。義は《蒼》《雅》《方言》に見ゆ。河北の學士皆此の如く説き、而して江南の書本は多く誤りて手に從う。文を屬する者は對偶皆提挈の意と當つ。恐らくは誤れり。或る人問う、《漢書》注は元后の父の名を禁とするに因りて、禁中を改めて省中と爲す。何を以て省を以て禁に代うるや、と。答えて曰く、《周禮》に宮正王宮の戒令糾禁を掌るを按ず。鄭注に糾は猶お割、猶お察と曰く。李登に省は即ち察と曰い、張揖に省は如今省察と曰う。然らば則ち小井・所領の二反皆察と訓すを得。其の處すでに常に禁衛省察有れば、故に省を以て禁に代う。詧は古の察字なり。《漢明帝紀》は四姓小侯の爲に學校を立て、桓帝元服を加えて又四姓及び梁鄧の小侯に帛を賜う。皆外戚なるを知るべし。明帝の時外戚樊氏・郭氏・陰氏・馬氏有りて四姓と爲す。小侯と稱するは、或いは年小に因りて封を獲るを以て學を立つるを須い、或いは侍祠猥朝侯は列侯にあらざるを以て小侯と叫ぶ。《禮記》に庶方小侯と曰くは即ち此の意なり。《後漢書》に鸛雀三鱔【音善】を銜むと曰く。多く假借して鱣鮪の鱣と爲す。俗の學士因りて稱して鱣魚と爲す。魏武《四時食制》を按ずるに、鱣魚は大きさ五斗奩の如く長さ一丈、郭璞《爾雅》を注して鱣は長さ二丈と曰く。豈に鸛雀の能く一條を勝げる有らんや、況んや三頭をや。鱣又純灰色にして花紋無し。鱔魚は長きもの三尺に過ぎず、大きなもの三指に過ぎず、黃地黑文なり。故に皆講説して蛇鱔は卿大夫の服の象と爲す。《續漢書》及び《搜神記》も亦此の事を説きて、皆鱔字と作す。荀子に魚鱉底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた鱣と曰い、《韓非子》《説苑》に及びて皆鱣は蛇に似て蠶は蠋に似たりと曰い、皆鱣字と作す。鱣を假して鱔と爲すは由來すでに久し。《後漢書》に酷吏樊曄は天水郡守と爲りて、涼州之を爲に歌いて曰く、「寧ろ乳虎の穴を見よ、曄の城寺に入る勿れ」と。而して江南の書本は穴を皆誤りて六と作す。學士因循して迷いて悟らず。虎豹の穴居するは甚だ明白の事、故に班超に虎穴を探らざれば安んぞ虎子を得んと曰く。豈に其の六か七かを論ぜんや。《後漢書・楊由傳》に「風削胏を吹く」と曰く。此れ札牘を削るの柿なり。古者書誤れば則ち之を削る。故に《左傳》に「削りて之を投ぐ」と曰くは是なり。或いは就いて札を稱して削と爲し、王褒《童約》に「書削牘に代ゆ」と曰い、蘇竟書に「昔摩研編削の才を以てす」と曰く。皆證據なり。《詩經》に「木を伐ること許許たり」と曰く。《毛傳》に許許は柿の貌と曰く。史家假借して肝肺の字と爲す。俗本皆脯腊の脯と作し、或いは反哺の哺と爲す。學士因りて削哺は屏障の名と解釋す。すでに證據無く、亦是れ妄説なり。此れ風角の占底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたのみ。《風角書》に曰く、庶人の風は地を拂いて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた塵転がり削を転がす、と。若し屏障ならば何に由りて転ぐべきや。《三輔決錄》に前隊大夫范仲公は豉蒜果共に一筒と曰く。果は當に魏顆の顆と爲すべし。北土通く物の一枚を呼びて一顆と爲し、蒜顆は俗間の常語なり。故に陳思王《鷂雀賦》に「頭は果蒜の如く目は花椒に似たり」と曰く。又道經に「口を合せて經を誦すれば聲璅璅として、眼中に淚出でて珠子底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた其の字異ると雖も其の音と義と頗る同じ」と曰く。江南はただ蒜符と呼びて顆と稱するを知らず。學士相承りて讀みて裹結の裹と爲し、言に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた蒜と共に苞一裹として筒中に放入すと曰く。《正史削繁音義》又蒜顆を音して苦戈反と爲す。皆錯れり。或る人我に問う、《魏志》蔣濟上書に「底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた攰の民」は何の字ぞや、と。我聲に應じて曰く、我以て攰は即ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた倦の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたなり【《要用字苑》に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた音は九僞反、字《廣雅》及び《陳思王集》に見ゆと曰く】。張揖・呂忱皆支の旁に刀劍の刀を作すと曰い、亦剞字なり。蔣氏自ら支の旁に筋力の力を作るを知らず、或いは剞字を借る。終に當に九僞反に音すべし。《晉中興書》に太山羊曼常に頹縱任俠・飮酒誕節にして、兗州號して濌伯と爲すと曰く。此の字更に音訓無し。梁孝元帝嘗て我に謂う、從來識らず、ただ張簡憲見教有りて、嚃羹の嚃と呼ぶ。此に從りて便ち遵承すも、亦出づる所を知らず、と。簡憲は湘州刺史張纘の諡にして、江南は碩學と號す。法盛の世代甚だ近しと按ずれば、當に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた老の相傳なるべし。俗間又濌濌の語有りて、蓋し施さざる無く容れざる無きの意なり。顧野王《玉篇》は誤りて黑の旁沓と爲す。顧博物なりと雖も還お簡憲・孝元の下に在り。而して二人皆重の邊と説く。我見る所の數本並びに黑と作る無し。重沓は多饒積厚の意、黑に從うは更に義底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた無し。古樂府の歌詞は先に三子を述べ次いで三婦に及ぶ。婦は舅姑に對するの稱。其の末章に「丈人且く安坐し、弦を調ねて未だ遽央ならず」と曰く。古者子婦舅姑に供事し、旦夕側に在りて兒女と異る無し。故に此の言有り。丈人も亦長老の目。今世俗還お其の祖考を呼びて先亡丈人と爲す。又丈は當に大と作るべきを疑う。北間の風俗は婦舅を呼びて大人公と爲す。丈と大とは誤を致し易し。近代の文士頗る三婦の詩を作りて、竟に匹嫡並耦・自ら群妻の意と當つ。又鄭衛の辭を加う。大雅の君子何ぞ其の謬れるや。古樂府の歌百里奚の詞に曰く、「百里奚、五羊皮。別れの時を憶うに、伏雌を烹り扊扅を吹く。今日富貴我を忘る」と。吹は當に炊煮の炊と爲すべし。蔡邕《月令章句》に鍵は關牡にして扉を止むる所以、或いは之を剡移と謂うと曰うを按ずれば、則ち當時貧困して並びに門牡木を以て薪炊と作す。《聲類》は扊と作し或いは扂と作す。《通俗文》は世間題して河南服底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた字子慎の造底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと作す。すでに漢人なれば其の敘は卻って蘇林・張揖を引く。蘇・張皆魏人、且つ鄭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた以前は全く反語を解せず。《通俗》の反音は甚だ俗に近し。阮孝緒又李底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたの造る所と曰う。河北此の書家藏一本にして、竟に李底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと作る無し。《晉中經簿》及び《七志》並びに其の目無し。竟に誰の制するかを知るを得ず。然れども其の文義允愜して、實に高才なり。殷仲堪《常用字訓》も亦服底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた俗説を引く。如今更に此の書無し。未知是れ即ち《通俗文》か別に有るか。近代或いは更に服底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた有るか。明かに能わず。或る人問う、《山海經》は夏禹及び益の記す所なれども、卻って長沙・零陵・桂陽・諸暨の如き郡縣少なからず。以て如何と爲すや、と。答えて曰く、史の闕文は日を爲ることすでに久しく、加うるに秦人の學を滅し董卓の書を焚く、典籍の錯亂は此に止まらず。譬えば《本草》神農の述ぶる所なれども、卻って豫章・朱崖・趙國・常山・奉高・眞定・臨淄・馮翊等の郡縣名の諸の藥物に出づる有り。《爾雅》周公の作る所なれども、卻って張仲孝友と説く。仲尼《春秋》を修めて經書孔丘卒す。《世本》左丘明の書く所【此の説皇甫謐《帝王世紀》に出づ】なれども、卻って燕王喜・漢高祖有り。汲冢底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた語は乃ち秦望碑を載せ、《蒼頡篇》李斯の造る所なれども、卻って漢の天下を兼ね海内並びに廁り、豨黥韓覆して畔りて討滅残と説く。《列仙傳》劉向の造る所なれども、贊七十四人佛經に出づと説く。《列女傳》も亦向の造る所にして、其の子歆又頌を作る。趙悼后に終るも、傳は更始韓夫人・明德馬后及び梁夫人嫕有り。皆後人の羼する所、本文にあらず。或る人問う、《東宮舊事》は何を以て鸱尾を呼びて祠尾と爲すや、と。答えて曰く、張敞は吳人、稽古に堪えず、宜に隨いて記注して、便ち鄉俗の訛謬を按じて造作せし書字なり。吳人は祠祀を呼びて鸱祀と爲す。故に祠を以て鸱に代え、紺を呼びて禁と爲す。故に糸の旁に禁と作りて紺字に代え、盞を呼びて竹簡反と爲す。故に木の旁に展と作りて盞字に代え、鑊字を呼びて霍字と爲す。故に金の旁に霍と作りて鑊字に代え、又金の旁に患と作して鐶字と爲し、木の旁に鬼と作して槐字と爲し、火の旁に庶と作して炙字と爲し、既の下に毛と作して髻字と爲し、金花は則ち金の旁に華と作し、窗扇は則ち木の旁に扇と作す。此の如き類は專擅少なからず。又問う、《東宮舊事》の六色罽底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたは何等の物、當に何の音と作すべきや、と。答えて曰く、《説文》に莙は牛藻、讀み威の若く、音は隱塢瑰反を按ずれば、即ち陸璣の謂う所の聚藻の葉の蓬の如きなり。郭璞《三蒼》を注して亦藴藻の類にして細葉蓬茸として生ずと曰く。如今水中に此の物有りて、一節長さ數寸、細茸絲の如く、圓繞して愛す可し。長きもの二三十節、還お莙と呼ぶ。又把りて五色の絲寸斷して線股の間に横着し繩して莙草に象りて以て物を飾る。即ち名づけて莙と爲す。當時紺六色の罽を以て此の莙を作して以て緄帶を飾る。張敞因りて絲の旁畏を造る。宜しく隈と作るべし。柏人城の東北に一孤山有りて古書載せず。ただ闞駰《十三州志》は以て舜大麓に納るは即ち此の山を謂うと爲し、其の上如今還お堯祠有り。世俗或いは呼びて宣務山或いは呼びて虚无山と爲す。出づる所を知る莫し。趙郡の士族に李穆叔・季節兄弟有りて、李普濟も亦學問有るも、皆鄉邑此の山を定むる能わず。我嘗て趙州の佐と爲り、太原王邵と柏人城西門内の碑を讀む。碑は漢桓帝の時柏人縣民が縣令徐整の爲に立つる所、銘に「士に巏務山有り、王喬の仙する所」と曰く。纔かに此の巏務山を知る。巏字は竟に出づる所無し。務字は諸子書に依れば即ち旄丘の旄。旄字は《字林》に一の音亡付反、如今俗名に依附して當に權務に音すべし。鄴に入りて魏收に之を説くに、收大いに嘉嘆して、正值彼趙州莊嚴寺の碑銘を作るに、「權務の精」と曰いて、就いて此のを用いたり。或る人問う、一夜は何を以て五更と爲す、更は何の訓ぞや、と。答えて曰く、漢魏以來稱してと曰く
甲夜乙夜丙夜丁夜戊夜又云皷一皷二皷三皷四皷五皷亦云一更二更三更四更五更皆以五為節西都賦亦云衛以嚴更之署所以爾者假令正月建寅斗柄夕則指寅曉則指午矣自寅至午凡厯五辰冬夏之月雖復長短參差然辰間遼闊盈不至六縮不至四進退常在五者之間更厯也經也故曰五更爾爾雅雲術山薊也郭璞注云今術似薊而生山中案術葉其體似薊近世文士遂讀薊為筋肉之筋以耦地骨用之恐失其義或問俗名傀儡子為郭禿有故實乎荅曰風俗通雲諸郭皆諱禿當是前代人有姓郭而病禿者滑稽戱調故後人為其象呼為郭禿猶文康象庾亮耳或問曰何故名治獄參軍為長流乎荅曰帝王世紀雲帝少昊崩其神降於長流之山【此事本出山海經流作留】於祀主秋【此說本於月令】按周禮秋官司冦主刑罰長流之職漢魏捕賊掾耳晉宋以來始為叅軍上屬司冦故取秋帝所居為嘉名焉客有難主人曰今之經典子皆謂非說文所言子皆雲是然則許慎勝孔子乎主人撫掌大笑應之曰今之經典皆孔子手跡耶客曰今之說文皆許慎手跡乎荅曰許慎檢以六文貫以部分使不得誤誤則覺之孔子存其義而不論其文也先儒尚得臨文從意何況書冩流傳耶必如左傳止戈為武反正為乏皿蟲為蠱亥有二首六身之類後人自不得輒改也安敢以說文校其是非哉且餘亦不専以說文為是也其有援引經傳與今乖者未之敢從又相如封禪書曰導一莖六穗於庖犧雙觡共抵之獸此導訓擇光武詔雲非徒有豫養導擇之勞是也而說文雲導是禾名引封禪書為證無妨自當有禾名導非相如所用也禾一莖六稔於庖豈成文乎縱使相如天才鄙拙強為此語則下句當雲麟雙觡共抵之獸不得雲犠也吾嘗笑許純儒不達文章之體如此之流不足憑信大抵服其為書隠括有條例剖析窮根源鄭注書往往引其為證若不信其說則防防不知一防一畫有何意焉世間小學者不通古今必依小篆是正書記凡爾雅三蒼說文豈能悉得蒼頡本指哉亦是隨代損益各有同異西晉已往字書何可全非但令體例成就不為専輒耳考校是非特須消息至如仲尼居三字之中兩字非體三蒼尼旁益丘說文居下施幾如此之類何由可從古無二字又多假借以中為仲以說為恱以召為邵以閒為閒如此之徒亦不勞改自有訛謬過成鄙俗亂旁為舌揖下無耳黿鼉從奮奪從雚【音館】席中加帯惡上安西鼓外設皮鑿頭生毀離則配禹壑乃施豁巫混經旁臯分澤半獵化為獦【音葛獸名出山海經】寵變成竉【竉音郎動反孔也故從穴】業左益土靈底著器率字自有律音強改為別單字自有善音輒析成異如此之類不可不治吾昔初看說文蚩薄世字從正則懼人不識隨俗則意嫌其非畧是不得下筆也所見漸廣更知通變救前之執將欲半焉若文章著述猶擇微相影響者行之官曹文書世間尺牘幸不違俗也案彌亙字從二間舟詩云亙之秬秠是也今之書轉舟為日而何法盛中興書乃以舟在二間為舟航字謬也春秋說以人十四心為德詩說以二在天下為酉漢書以泉貨為白水真人新論以金昆為銀國志以天上有口為吳晉書以黃頭小人為恭宋書以召力為劭叅同契以人負告為造如此之例葢數術謬語假借依附雜以戱笑耳如猶轉貢字為項以叱為七安可用此定文字音讀乎潘陸諸子離合詩賦拭卜破字經及鮑照謎字皆取防流俗不足以形聲論之也河間邢芳語吾雲賈誼傳云日中必熭注熭暴也曾見人解雲此是暴疾之意正言日中不須臾卒然便晐耳此釋為當乎吾謂邢曰此語本出太公六韜案字書古者暴曬字與暴疾字相似唯下少異後人専輒加傍日耳言日中時必須暴曬不爾者失其時也晉灼已有詳釋芳笑服而退
甲夜・乙夜・丙夜・丁夜・戊夜、又鼓一・鼓二・鼓三・鼓四・鼓五と曰い、亦一更・二更・三更・四更・五更と曰く。皆五を以て節と爲す。《西都賦》も亦「嚴更の署を以て衛す」と曰く。此の然る所以は、假令正月寅を建てば、斗柄は傍晚寅を指し天亮に午を指し、寅より午に至るまで共に五辰を歷す。冬夏の月は長短參差すと雖も、然れども辰の間隔闊にして、盈は六に至らず縮は四に至らず、進退常に五者の間に在り。更は即ち歷、即ち經なり。故に五更と曰う。《爾雅》に術は即ち山薊と曰い、郭璞注に如今術は薊に似て山中に生ずと曰く。術葉の體は薊に像るを按ずれば、近世の文士便ち薊を讀みて筋肉の筋と爲し、以て地骨に對偶す。之を用う恐らくは義を失わん。或る人問う、俗に傀儡子を名づけて郭秃と爲すに故實有るや、と。答えて曰く、《風俗通》に諸郭皆禿を諱むと曰う。當に前代姓郭にして禿を病む者有りて、滑稽戲謔せしなるべし。故に後人其の爲に象を作りて呼びて郭秃と爲す。文康の庾亮に象るが如きなり。或る人問う、何を以て治獄參軍を稱して長流と爲すや、と。答えて曰く、《帝王世紀》に帝少昊崩ず、其の神長流の山に降る【此の事本《山海經》に出づ、流は留と作る】と曰く。祀に於て秋を主る【此の説《月令》に本づく】。按《周禮》に秋官司寇は刑罰を主る。長流の職は漢魏は捕賊掾、晉宋以來纔かに參軍と爲り、上司寇に屬す。故に秋帝の居る所を取りて嘉名と爲す。客有りて主人を責難して曰く、「如今の經典は汝皆對たらずと曰い、《説文》の言う所は汝皆是と爲す。然らば則ち許慎孔子に勝れるか」と。主人掌を拍して大笑して答えて曰く、「如今の經典は皆孔子の手迹か」と。客曰く、「如今の《説文》は皆許慎の手迹か」と。答えて曰く、「許慎は六書を以て檢驗し部首を以て貫穿し、誤ることを得ざらしむ。誤れば即ち覺察する能し。孔子は其の義を存して其の文を論ぜず。先儒尚お能く文に臨みて意に從う。況んや書寫の流傳をや。必ず《左傳》の止戈して武と爲し反正して乏と爲し皿蟲して蠱と爲し亥に二首六身有るの類の如きは、後人自ら動輒りて改するを得ず。豈に敢えて《説文》を用いて其の是非を校さんや。況んや我も亦專ら《説文》を以て是と爲さず。其の中の經傳を援引するに今と乖なるは、未だ敢えて從わず。又司馬相如《封禪書》に『莖一つ穗六つを庖に導き、犧雙觡共抵の獸』と曰く。此の導は訓して擇と爲す。光武の詔に『徒らに豫養導擇の勞有るのみならず』と曰くは是なり。而して《説文》に導は禾の名と曰い、《封禪書》を引きて證と爲す。妨げず自ら當に禾の名の導有るべきも、卻って相如の用う所にあらず。禾一莖六穗を庖廚に送るは豈に文を成さんや。縱ひ相如天才鄙拙にして强りて此の語を作すとも、則ち下句當に『麟雙觡共抵の獸』と曰うべく、犧と曰うを得ず。我嘗て許慎は純儒にして文章の體に達せずと笑う。此の如き流は憑信するに足らず。大抵其の此の書は隱括して條例有り剖析して根源を窮むるを佩服す。鄭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた書に注して往往として其れを引きて證と爲す。若し其の説法を信ぜざれば、則ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた一底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた一画何の意有るかを知らざらん」と。世間の小學は古今を通ぜず、必ず小篆に依りて以て書記を改正す。およそ《爾雅》《三蒼》《説文》は豈に能く蒼頡の本旨を全う得んや。亦是れ代に隨いて損益し各々同異有り。西晉已往の字書は豈に全く非とすべきや。但だ體例成就して專擅と爲らざれば即可。是非を考校するは特に斟酌を須いる。「仲尼居」の三字の中兩字体にあらざるに至りては、《三蒼》尼の旁に丘を加え、《説文》居の下に几を施す。此の如き類何に由りて從うべきや。古に二字無く、又多く假借す。中を以て仲と爲し説を以て悦と爲し召を以て邵と爲し閑を以て閑と爲す。此の如き徒も亦改るに勞せず。自ら訛謬過りて鄙俗と成る有り。亂の旁は舌、揖の下は耳無く、黿鼉は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに從い、奮奪は雚【音館】に從い、席の中は帶を加え、惡の上は西を安んじ、鼓の外は皮を設け、鑿の頭は毁を生じ、離は則ち禹を配し、壑は乃ち豁を施し、巫は經の旁を混じ、皐は澤の半を分ち、獵は化して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた【音葛、獸の名、《山海經》に出づ】と爲し、寵は變じて竉と成る【竉の音は郎動反、是れ孔、故に穴に從う】、率字自ら律の音有るに强りて改めて別と爲し、單字自ら善の音有るに輒ち析れて異と成す。此の如き類は治めざるべからず。我從前初めて《説文》を看るに、世俗の字を看起さず。正に從えば人の識らざるを怕れ、俗に隨えば心裡其の對たらざるを嫌う。直に下筆する能わず。見る所漸く廣く、更に通變を知り、從前の執拗を補救して、將に各々半を取らんとす。若し文章著述なれば、還お稍々相影響するを選びて以て用い、官曹文書・世間尺牘は俗に違わざらんことを望む。彌亘の字は二の間に舟に從うを按ずれば、《詩經》に「秬秠を亘る」と曰くは是なり。如今底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた書は舟を轉じて日と爲す。而して何法盛《中興書》は竟に舟の二間に在るを以て舟航の字と爲す。錯れり。《春秋》は人十四心を以て德と爲し、《詩》は二の天下に在るを以て酉と爲し、《漢書》は泉貨を以て白水眞人と爲し、《新論》は金昆を以て銀と爲し、《國志》は天上に口有るを以て吳と爲し、《晉書》は黃頭小人を以て恭と爲し、《宋書》は召力を以て劭と爲し、《參同契》は人告を負うを以て造と爲すと曰く。此の如き例は大概數術の謬語・假借依附・戲笑を雜えたるのみ。轉貢字を項と爲し叱を以て七と爲すが如き、豈に能く此を以て文字の音讀を定めんや。潘・陸諸子の離合詩賦・拭卜破字經及び鮑照の謎字は、皆底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた流俗を取る。形聲を以て論ずるに足らず。河間邢芳我に謂う、《賈誼傳》に「日中必ず熭す」と曰く。注に熭は暴なり。嘗て人の解釋して暴疾の意と爲し、正に日中須臾ならず猝然として便ち過ぐるのみと説くを見る。此の解釋妥當か、と。我邢に對えて曰く、此の語は本太公《六韜》に出づ。字書を按ずるに、古者暴晒の字と暴疾の字とは相似て、ただ下面稍々異るのみ。後人專擅して日の旁を加えたり。是れ日中に必ず暴晒すべし、此の然らざれば則ち時を失うと説く。晉灼すでに詳釋有り。邢芳笑い服して退く。
音辭篇第十八
音辭篇第十八
夫九州之人言語不同生民已來固常然矣自春秋摽齊言之傳離騷目楚詞之經此葢其較明之初也後有雄著方言其書大備然皆考名物之同異不顯聲讀之是非也逮鄭注六經髙誘解呂覽淮南許慎造說文劉熹制釋名始有譬況假借以證音字耳而古語與今殊別其間輕重清濁猶未可曉加以外言內言急言徐言讀若之類益使人疑孫叔言創爾雅音義是漢末人獨知反語至於魏世此事大行髙貴鄉公不解反語以為怪異自茲厥後音韻鋒出各有土風遞相非笑指馬之諭未知孰是共以帝王都邑叅校方俗考核古今為之折權而量之獨金陵與洛下耳南方水土和柔其音清舉而切詣失在浮淺其辭多鄙俗北方山川深厚其音沉濁而鈋鈍得其質直其辭多古語然冠冕君子南方為優閭里小人北方為愈易服而與之談南方士庶數言可辯隔垣而聴其語北方朝野終日難分而南染吳越北雜夷虜皆有深弊不可具論其謬失輕微者則南人以錢為涎以石為射以賤為羨以是為防北人以庶為戍以如為儒以紫為姊以洽為狎如此之例兩失甚多至鄴已來唯見崔子約崔曕叔侄李祖仁李蔚兄弟頗事言詞少為切正李季節著音韻決疑時有錯失陽休之造切韻殊為踈野吾見兒女雖在孩稚便漸督正之一言訛替以為己罪矣云為品物未考書記者不敢輒名汝曹所知也古今言語時俗不同著述之人楚夏各異蒼頡訓詁反粺為逋賣反娃為於乖戰國防音刎為免穆天子傳音諫為間說文音戞為棘讀皿為猛字林音防為口甘反音伸為辛韻集以成仍宏登合成兩韻為竒益石分作四章李登聲類以系音羿劉昌宗周官音讀乘若承此例甚廣必須考校前世反語又多不切徐仙民毛詩音反驟為在遘左傳音切椽為徒縁不可依信亦為眾矣今之學士語亦不正古獨何人必應隨其訛僻乎通俗文曰入室求曰搜反為兄侯然則兄當音所榮反今北俗通行此音亦古語之不可用者璵璠魯之寳玉當音餘煩江南皆音藩屏之藩岐山當音為竒江南皆呼為神只之只江陵防沒此音被於闗中不知二者何所承案以吾淺學未之前聞也北人之音多以舉莒為矩唯李季節雲齊桓公與管仲於臺上謀伐莒東郭牙望桓公口開而不閉故知所言者莒也然則莒矩必不同呼此為知音矣夫物體自有精麄精麄謂之好惡人心有所去取去取謂之好惡【上呼號下烏故反】此音見於葛洪徐邈而河北學士讀尚書云好【呼號反】生惡殺【於各反】是為一論物體一就人情殊不通矣甫者男子之美稱古書多假借為父字北人遂無一人呼為甫者亦所未喻唯管仲范增之號須依字讀耳【管仲號仲父范增號亞父】案諸字書焉字鳥名或雲語詞皆音於愆反自葛洪要用字苑分焉字音訓若訓何訓安當音於愆反於焉逍遙於焉嘉客焉用佞焉得仁之類是也若送句及助詞當音矣愆反故稱龍焉故稱血焉有民人焉有社稷焉托始焉爾晉鄭焉依之類是也江南至今行此分別昭然易曉而河北混同一音雖依古讀不可行於今也邪者【音瑘】未定之詞左傳曰不知天之棄魯邪抑魯君有罪於鬼神邪莊子云天邪地邪漢書云是邪非邪之類是也而北人即呼為也字亦為誤矣難者曰繫辭雲乾坤易之門戸邪此又為未定辭乎荅曰何為不爾上先標問下方德以折之耳江南學士讀左傳口相傳述自為凢例軍自敗曰敗打破人軍曰敗【補敗反】諸記傳未見補敗反徐仙民讀左傳唯一處有此音又不言自敗敗人之別此為穿鑿耳古人云膏梁難整以其為驕奢自足不能尅勵也吾見王侯外戚語多不正亦由內染賤保傳外無賢師友故耳梁世有一侯當對元帝飲謔自陳痴鈍乃成颸叚元帝荅之雲颸異涼風段非幹木謂郢州為永州元帝啟報簡文簡文雲庚辰吳入遂成同如此之類舉口皆然元帝手教諸子侍讀以此為誡河北切攻字為古琮與工公功三字不同殊為僻也北世有人名暹自稱為纎名琨自稱為袞名洸自稱為汪名防【音藥】自稱為猲【音】非唯音韻舛錯亦使其兒孫避諱紛紜矣
九州の人言語同じからず。生民有りて以來本來此の如し。《春秋》に齊言を標出するの傳より、《離騷》に楚詞を取りて經と爲す。此れ蓋し較えて明白なるの始なり。後來底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた雄《方言》を著す。其の書大いに備わるも、然れども皆名物の同異を考うるのみ、聲讀の是非を顯さず。鄭底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたが六經に注し、高誘が《呂覽》《淮南》を解し、許慎が《説文》を造り、劉熹が《釋名》を制するに及びて、纔かに譬況假借して以て音字を證する有り。而して古語今と殊別にして、其の間の輕重清濁還お曉るべからず。加うるに外言内言・急言徐言・讀若の類、更に人をして疑はしむ。孫叔然《爾雅音義》を創す。是れ漢末の人獨り反語を知る。魏世に至りて此の事大いに行わる。高貴鄉公は反語を懂らず、以て怪異と爲す。此より以後音韵鋒出して、各々土風有りて、遞相非笑し、指馬の喩は誰か是なるを知らず。共に帝王の都邑を以て方俗に參照し古今を考覈して以て折底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた權衡を衡量するに、ただ金陵と洛下のみ。南方は水土和柔にして其の音は清擧して切至、失は浮淺に在りて其の辭多く鄙俗。北方は山川深厚にして其の音は沉濁して鈍、其の質直を得て其の辭多く古語。然れども冠冕の君子は南方を優と爲し、閭里の小人は北方を愈と爲す。衣服を換えて之と談ずれば、南方の士庶は幾句の話にて可辨。墻を隔てゝ其の語を聽けば、北方の朝野は終日分ち難し。而して南は吳越に染り北は夷虜を雜う。皆深弊有りて具に論ずべからず。其の謬失の輕微なるは、則ち南人は錢を以て涎と爲し石を以て射と爲し賤を以て羡と爲し是を以て底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと爲し、北人は庶を以て戍と爲し如を以て儒と爲し紫を以て姊と爲し洽を以て狎と爲す。此の如き例は兩邊の失誤皆多し。鄴に到りて以來、ただ崔子約・崔曕の叔侄、李祖仁・李蔚の兄弟を見るのみ、頗る言詞を事とし稍々切正と爲す。李季節《音韵決疑》を著して時に錯失有り。陽休之《切韵》を造りて特に疏野なり。我兒女孩稚に在ると雖も便ち漸々督正し、一言訛替すれば便以て己の罪と爲すを見る。品物と稱するも未だ書記を考えざれば、敢えて動輒りて名を取らず。是れ汝らの知る所なり。古今の言語・時俗同じからず。著述の人楚夏各々異れり。《蒼頡訓詁》は粺を反して逋賣反と爲し娃を反して于乖と爲し、《戰國底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた》は刎を音して免と爲し、《穆天子傳》は諫を音して間と爲し、《説文》は戞を音して棘と爲し皿を讀みて猛と爲し、《字林》は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを音して口甘反と爲し伸を音して辛と爲し、《韵集》は成・仍・宏・登を以て兩韵に合して爲・奇・益・石を分ちて四章と作し、李登《聲類》は系を以て羿に音し、劉昌宗《周官音》は乘を讀みて承の若し。此の例甚だ廣く、必ず考校を須いる。前世の反語又多加えて切らず。徐仙民《毛詩音》は驟を反して在遘と爲し、《左傳音》は椽を切りて徒緣と爲す。依信すべからざるも亦多し。今の學士の語も亦正ならず。古人又何人ぞ。何ぞ必ずしも其の訛僻に隨わんや。《通俗文》に室に入りて求むるを搜と曰い、反して兄侯と爲す。然らば則ち兄は當に所榮反に音すべし。如今北俗此の音を通行す。亦是れ古語の用いべからざるなり。璵璠は魯の寶玉、當に余煩に音すべきを、江南皆藩屏の藩に音す。岐山は當に奇に音すべきを、江南皆呼びて神祇の祇と爲す。江陵底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた沒して、此の音關中に傳えり。二者何を承る所かを知らず。我淺學を以て按ずれば、從前聞かず。北人の音は多く擧・莒を以て矩と爲す。ただ李季節に曰く、齊桓公管仲と臺上に在りて莒を伐つを謀るに、東郭牙桓公の口開きて閉ぢざるを望見し、故に説く所は莒なるを知る、と。然らば則ち莒・矩は必ず呼び同じからず。此れ纔かに音を知るなり。物體自ら精粗有り。精粗を呼びて好惡と爲す。人心取捨する所有り。取捨を呼びて好惡と爲す【上呼號反、下烏故反】。此の音は葛洪・徐邈に見ゆ。而して河北の學士は《尚書》の「生を好み【呼號反】殺を惡む【于各反】」を讀みて、一つは物體を論じ一つは人情に就く。甚だ通ぜず。甫は男子の美稱にして、古書多く假借して父の字と爲す。北人竟に一人も呼びて甫と爲す無し。亦我の解せざる所なり。ただ管仲・范增の號は須らく字に依りて讀むべし【管仲の號は仲父、范增の號は亞父】。諸の字書を按ずるに、焉字は鳥の名、或いは是れ語詞と曰いて、皆于愆反に音す。葛洪《要用字苑》に自り焉字の音訓を分つ。若し何と訓し安と訓せば、當に于愆反に音すべし。「于焉逍遥」「于焉嘉客」「焉に佞を用いん」「焉に仁を得ん」の類是なり。若し句を送る及び助詞なれば、當に矣愆反に音すべし。「故に龍と稱す焉」「故に血と稱す焉」「民人有り焉」「社稷有り焉」「始めに托す焉爾」「晉鄭焉に依る」の類是なり。江南今に至るまで此の分別を行い、昭然として曉り易し。而して河北混同して一音にして、古讀に依ると雖も、今に行うべからず。邪は【音琊】未定の詞なり。《左傳》に「知らず、天の魯を棄つる邪、抑も魯君鬼神に罪有る邪」と曰い、《莊子》に「天邪地邪」と曰い、《漢書》に「是邪非邪」と曰くの類是なり。而して北人便ち呼びて也の字と爲す。亦是れ誤れり。責難する者曰く、《繫辭》に「乾坤は易の門戸なり邪」と曰く。此れ又未定の辭か、と。答えて曰く、何を以て非とせん。上面先に問を標し、下面纔かに底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた德を以て彼を折服す。江南の學士《左傳》を讀むに、口耳相傳えて自ら凡例を訂す。軍自ら敗るるを敗と曰い、人の軍を打破するを敗と曰う【補敗反】。諸の記傳に補敗反を見ず。徐仙民《左傳》を讀みて唯一處此の音有りて、又自敗と人を敗るとの分別を説かず。此れ穿鑿なり。古人に膏粱整え難しと曰くは、其の驕奢自足して克勵する能わざるを以てなり。我王侯外戚の語多く正ならざるを見るに、亦内に賤保傅を染め外に賢師友無きに由る。梁世一侯有りて當に元帝と飮謔するに、自ら癡鈍を陳すに、卻って飔段と成す。元帝答えて曰く、「飔は凉風にあらず、段は段干木にあらず」と。郢州を稱して永州と爲すに、元帝啓報して簡文に曰く、簡文曰く、「庚辰吳入りて、竟に同底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたと成る」と。此の如き類は口を開けば皆是なり。元帝手で諸子の侍讀を教えて、此を以て誡と爲す。河北攻字を切りて古琮と爲し、工・公・功の三字と同じからず。特に乖僻なり。近世人の名暹にして自ら纖と稱し、名琨にして自ら袞と稱し、名洸にして自ら汪と稱し、名底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた【音藥】にして自ら猲【音底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた】と稱する有り。但だ音韵舛錯なるのみならず、亦其の兒孫をして忌諱紛紜せしむ。
雜藝篇第十九
雜藝篇第十九
真草書跡微須留意江南諺雲尺牘書防千里面目也承晉宋餘俗相與事之故無頓狼狽者吾防承門業加性愛重所見法書亦多而翫習功夫頗至遂不能佳者良由無分故也然而此藝不須過精夫巧者勞而智者憂常為人所役使更覺為累韋仲將遺戒深有以也王逸少風流才士蕭散名人舉世唯知其書翻以能自蔽也蕭子云每嘆曰吾著齊書勒成一典文章義自謂可觀唯以筆跡得名亦異事也王褒地胄清華才學優敏後雖入闗亦被禮遇猶以書工﨑嶇碑碣之間辛苦筆硯之役嘗悔恨曰假使吾不知書可不至今日邪以此觀之慎勿以書自命雖然廝猥之人以能書防擢者多矣故道不同不相為謀也梁氏秘閣散逸以來吾見二王真草多矣家中嘗得十卷方知陶隠居阮交州蕭祭酒諸書莫不得羲之之體故是書之淵源蕭晩節所變乃是右軍年少時法也晉宋以來多能書者故其時俗遞相染尚所有部帙楷正可觀不無俗字非為大損至梁天監之間斯風未變大同之末訛替滋生蕭子云改易字體邵陵王頗行偽字前上為草能傍作長之類是也朝野翕然以為楷式畫虎不成多所傷敗至為一字唯見數防或妄斟酌遂便轉移爾後墳籍略不可防北朝喪亂之餘書跡鄙陋加以専輒造字猥拙甚於江南乃以百念為憂言反為變不用為罷追來為歸更生為蘇先人為老如此非一徧滿經傳唯有姚元標工於楷留心小學後生師之者眾洎於齊末秘書繕冩賢於往日多矣江南閭里間有畫書賦此乃陶隠居弟子杜道士所為其人未甚識字輕為軌則託名貴師世俗傳信後生頗為所誤也畫繪之工亦為玅矣自古名士多或能之吾家常有梁元帝手畫蟬雀白扇及馬圖亦難及也武烈太子偏能冩真坐上賓客隨宜防染即成數人以問童孺皆知姓名矣蕭賁劉孝先劉靈並文學已外復佳此法翫閱古今特可寳愛若官未通顯每被公私使令亦為猥役吳郡顧士端出身湘東國侍郎後為鎮南府刑獄叅軍有子曰庭西朝中書舍人乂子並有琴書之藝尤玅丹青常被元帝所使每懷羞恨彭城劉嶽槖之子也仕為驃騎府管記平氏縣令才學快士而畫絶倫後隨武陵王入蜀下牢之敗遂為陸防軍畫支江寺壁與諸工巧雜處向使三賢都不曉畫直運素業豈見此恥乎弧矢之利以威天下先王所以觀徳擇賢亦濟身之急務也江南為世之常射以為兵射冠冕儒生多不習此別有博射弱弓長箭施於凖的揖讓升降以行禮焉防禦冦難了無所益亂離之後此術遂亡河北文士率曉兵射非直葛洪一箭已解追兵三九防集常縻榮賜雖然要輕禽截狡獸不願汝輩為之卜筮者聖人之業也但近世無復佳師多不能中古者卜以決疑今人生疑於卜何者守道信謀欲行一事卜得惡卦反令恜恜【音敇惕也】此之謂乎且十中六七以為上手粗知大意又不委曲凢射竒偶自然半收何足頼也世傳云解隂陽者為鬼所嫉坎貧窮多不稱泰吾觀近古以來尤精妙者唯京房管輅郭璞耳皆無官位多或罹災此言令人益信儻值世網嚴宻強負此名便有詿誤亦禍源也及星文風氣率不勞為之吾嘗學六壬式亦值世間好匠聚得龍首金匱玉爕玉厯十許種書討求無驗尋亦悔罷凡隂陽之術與天地俱生其吉防徳刑不可不信但去聖既逺世傳術書皆出流俗言辭鄙淺驗少妄多至如反支不行竟以遇害歸忌寄宿不免防終拘而多忌亦無益也算術亦是六藝要事自古儒士論天道定律厯者皆學通之然可以兼明不可以専業江南此學殊少唯范陽祖𣈶精之位至南康太守河北多曉此術【𣈶音豆】醫方之事取玅極難不勸汝曹以自命也微解藥性小小和合居家得以救急亦為勝事皇甫謐殷仲堪則其人也禮曰君子無故不徹琴瑟古來名士多所愛好洎於梁初衣冠子孫不知琴者號有所闕大同以末斯風頓盡然而此樂愔愔雅緻有深味哉今世曲解雖變於古猶足以暢神情也唯不可令有稱譽見役勲貴處之下坐以取殘杯冷炙之辱戴安道猶遭之況爾曹乎家語曰君子不愽為其兼行惡道故也論語云不有博奕者乎為之猶賢乎已然則聖人不用博奕為教但以學者不可常精有時疲倦則儻為之猶勝飽食昏睡兀然端坐耳至如吳太子以為無益命韋昭論之王肅葛洪陶侃之徒不許目觀手執此並勤篤之志也能爾為佳古為大博則六著小博則二焭今無曉者比世所行一焭十二棊數術淺短不足可翫圍棊有手談坐隠之目頗為雅戲但令人躭憒廢喪實多不可常也投壺之禮近世愈精古者實以小豆為其矢之躍也今則唯欲其驍益多益喜乃有倚竿帯劒狼壺豹尾龍首之名其尤玅者有蓮花驍汝南周璝正之子會稽賀徽賀革之子並能一箭四十餘驍賀又嘗為小障置壺其外隔障投之無所失也至鄴以來亦見廣寧蘭陵諸王有此校具舉國遂無投得一驍者彈棊亦近世雅戲消愁釋憒時可為之
眞草の書法は稍々留意を須いる。江南の諺に曰く、尺牘の書底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたは、千里之外の面目なり、と。晉宋の餘俗を承接して、彼此之に從事す。故に立ちどきに狼狽する無し。吾底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたは門業を承く。加うるに性愛重して、見る所の法書も多く、玩習の功夫頗る到るも、終に佳なる能わず。實に天分無きなり。然れども此の藝は必ずしも精に過ぐるを要せず。巧なる者は勞し智なる者は憂う。常に人に役使せられ、更に以て累と覺ゆ。韋仲將の遺戒は深く道理有り。王羲之は風流の才士・蕭散の名人にして、擧世ただ其の書を知る。反りて此の事に能なるに因りて自らを遮蔽せり。蕭子雲每に歎じて曰く、「我《齊書》を著し勒して一典と成し、文章底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた義自ら以て觀るべしと爲す。ただ筆迹に因りて名を得る。亦是れ異事なり」と。王褒は地胄清華・才學優敏にして、後來關に入ると雖も亦禮遇せられ、還お書に工なるに因りて碑碣の間に奔走し筆硯の役に辛苦す。嘗て悔恨して曰く、「假令我書を知らざらば、今日に至らざるべしかな」と。此に由りて觀れば、萬も書を以て自ら命ずる勿れ。此の如しと雖も、卑賤の人書に能なるに因りて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた擢せらる者多し。故に道同じからざれば相爲に謀らず。梁氏の祕閣散逸以來、我二王の眞草を見ること多く、家中嘗て十卷を得たり。纔かに陶隱居・阮交州・蕭祭酒の諸書莫か羲之の體を得ざる無きを知る。故に是れ書の淵源なり。蕭の晚年の變ずる所は、乃ち右軍年少時の法なり。晉宋以來書に能なる者多く、故に時俗遞相染尚して、所有の部帙楷正にして觀るべく、俗字無きにあらざるも大損と爲らず。梁の天監の間に至りて此の風未だ變らず、大同の末訛替滋生す。蕭子雲字體を改易し、邵陵王頗る僞字を行う。前の上に草と爲し能の旁に長と作するの類是なり。朝野翕然として以て楷式と爲す。虎を畫きて成らずして、多く傷敗する所有り。一字に至りてはただ數底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたを見、或いは妄りに斟酌を加えて便ち轉移す。此の後墳籍幾に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたべからざるに至る。北朝喪亂の餘、書迹鄙陋、加うるに專擅して字を造る。猥拙江南より甚だしく、竟に百念を以て憂と爲し言反を以て變と爲し不用を以て罷と爲し追來を以て歸と爲し更生を以て蘇と爲し先人を以て老と爲す。此の如き一にあらずして、經傳に遍滿す。ただ姚元標のみ楷に工して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた小學に心を留む。後生師從する者多し。齊の末に至りて、祕書の繕寫往日よりも好好なり。江南閭里の間に《畫書賦》有りて、乃ち陶隱居の弟子杜道士の作る所。此の人未だ甚だ字を識らずして、輕く軌則を爲し、名を貴師に托す。世俗傳信して、後生頗る誤らるる所と爲る。畫繪の工も亦精妙なり。古より名士多く或いは之に能し。我家常に梁元帝の手畫する蟬雀白底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた扇及び馬圖有りて、亦及び難し。武烈太子偏りに寫生に能くして、坐上の賓客は宜に隨いて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた染すれば即ち數人と成る。拿りて童孺に問えば皆姓名を知る。蕭賁・劉孝先・劉靈は文學以外又此の法に精して、玩閱古今特に寶愛すべし。若し官未だ通顯ならざれば、每に公私に使令せられ、亦猥役と成る。吳郡顧士端は湘東國侍郎より出身し、後に鎮南府刑獄參軍と爲り、子の庭有りて西朝の中書舍人なり。父子皆琴書の藝有りて、尤も丹青に妙し。常に元帝に使せられて、每に羞恨を懷く。彭城劉岳は橐の子にして、仕えて驃騎府管記・平氏縣令と爲る。才學の快士にして畫絶倫なり。後武陵王に隨いて蜀に入り、下牢の敗に、便ち陸底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた軍の爲に支江寺の壁を畫き、諸の工巧と雜處す。假令此の三賢皆畫を曉らず、ただ素業を運ばば、豈に此の恥を見んや。弧矢之利は以て天下に威す。先王德を觀て賢を擇ぶ所以にして、亦身を濟うの急務なり。江南は世務の常射を以て兵射と爲し、冠冕の儒生多く此を習わず。別に博射有りて、弱弓長箭を準的に施し、揖讓升降して以て禮を行う。寇難を防禦するに毫も益無し。亂離の後此の術便ち亡ぶ。河北の文士は大都兵射を曉り、葛洪一箭にのみならず已に追兵を解し、三九底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた集常に榮賜を縻す。此の如しと雖も、輕禽を要り狡獸を截るは、汝らの爲すを願わず。卜筮は聖人の業なれども、近世更に佳師無く多く中る能わず。古者卜を以て疑を決す。今人は卜に疑を生ず。何を以てや。道を守り謀を信じて一事を作らんと欲するに、卜惡卦を得て反りて恜恜【音敕、惕なり】たらしむ。即ち此れなり。況んや十中六七すれば便ち以て高手と爲し、粗く大意を知るも又委曲ならず。およそ奇偶を射れば自然一半なり。何ぞ賴むに足らん。世傳陰陽を解説するは鬼に嫉まる。坎底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた貧窮にして多く泰を稱せず。我近古以來尤も精妙なるはただ京房・管輅・郭璞を見るに、皆官位無く多く或いは災に遭う。此の言更に人をして信ぜしむ。倘若世網の嚴密なるに遇上らば、强りて此の名を負えば便ち詿誤有らん。亦是れ禍源なり。星文風氣に至りては、一概に爲すに勞せず。我嘗て六壬式を學びて、亦世間の好匠に遇上り、《龍首》《金匱》《玉鑾》《玉歷》の十來種の書を聚得す。討求するも驗無く、久しからずして亦悔いて作罷す。およそ陰陽の術は天地と俱に生ず。其の吉底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた德刑は信刑は信ぜざるべからざるも、但だ聖に去ることすでに遠く、世傳の術書は皆流俗に出づ。言辭鄙淺にして驗少なく妄多し。反支行わずして竟に此に因りて害に遇い、歸忌宿を寄せて底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた終を免れざるに至りては、拘りて忌多きも亦益無し。算術も亦六藝の要事にして、古より儒士の天道を論じ律歷を定むる者は皆學びて之に通ず。然れども以て兼ねて明るべきも、以て專業とすべからず。江南此の學甚だ少なく、ただ范陽祖暅のみ此に精して、位南康太守に至る。河北多く此の術を曉る【暅音豆】。醫方の事は妙を取ること極めて難し。汝ら此を以て自ら命ずるを勸めず。稍々藥性を了解し小小に配合して、居家以て急を救うを得れば、亦是れ好事なり。皇甫謐・殷仲堪は即ち此の如き人なり。《禮記》に君子故無くば琴瑟を撤さずと曰く。古來名士多所愛好す。梁初に至りて、衣冠の子孫琴を知らざるは號して缺有りと稱し、大同以後此の風頓に盡く。然れども此の樂愔愔として雅致有り。深味有るかな。今世の曲解は古に變ずと雖も、還お神情を暢するに足る。ただ人に稱譽有らしめ、勳貴に役使せられ、下坐に處りて殘杯冷炙の辱を取るべからず。戴安道尚お此に遭遇す。況んや汝らをや。《家語》に君子博せずと曰くは、其の惡道を兼行するを以てなり。《論語》に曰く、博弈する者有らざらんか。之を爲すは猶お已より賢なり、と。然らば則ち聖人は博弈を以て敎と爲さず。ただ學者常に精なるべからざるに因りて、時に疲倦すれば則ち偶や之を爲し、還お飽食昏睡して兀然として端坐するに勝れり。吳太子の益無しと以爲し韋昭に之を論ぜしめ、王肅・葛洪・陶侃の徒の目觀手執を許さざるに至りては、皆勤篤の志、能く此の如くなれば更に佳し。古時大博は則ち六箸、小博は則ち二煢。如今曉る無し。近代の行う所は一煢十二棋にして、數術淺短にして玩ぶに足らず。圍棋は手談・坐隱の目有りて、頗る雅戲なれども、人をして耽迷して廢喪せしむる實に多し。常に爲すべからず。投壺の禮は近世愈精なり。古者實に小豆を以てし、矢の躍起するを怕るを以てなり。如今ただ驍を求めて、多ければ多いほど喜び、乃ち倚竿・帶劍・狼壺・豹尾・龍首の名有り。尤も妙なるは蓮花の驍有り。汝南周璝は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた正の子、會稽賀徽は賀革の子なり。皆能く一箭四十餘驍す。賀又嘗て小障を作りて、壺を外面に置きて、障を隔てゝ之を投じて失する所無し。鄴に到りて以來、亦廣寧・蘭陵の諸王に此の校具有るを見るも、擧國竟に一驍を投げ得る無し。彈棋も亦近世の雅戲、愁を消し悶を釋す。偶や爲すべし。
終制篇第二十
終制篇第二十
死者人之常分不可免也吾年十九值梁家喪亂其間與白刃為伍者亦常數輩幸承餘福得至於今古人云五十不為夭吾已六十餘故心坦然不以殘年為念先有風氣之疾常疑奄然聊書素懷以為汝誡先君先夫人皆未還建鄴舊山旅江陵東郭承聖末啟求都欲營遷厝詔賜銀百兩已於州小郊北地燒磚使值本朝淪沒流離如此數十年間絶於還望今雖混一家道罄窮何由辦此奉營資費且都汗毀無復孑遺還被下溼未為得計自咎自責貫心刻髓計吾兄弟不當仕進但以門衰骨肉單弱五服之內傍無一人播越他鄉無復資廕使汝等沈淪廝役以為先世之恥故靦冒人間不敢墜失兼以北方政教嚴切全無隠退者故也今年老疾侵儻然奄忽豈求備禮乎一日放臂沐浴而已不勞復魄殮以常衣先夫人棄背之時屬世荒饉家塗空迫兄弟防弱棺器率薄藏內無塼吾當松棺二寸衣帽已外一不得自隨床上唯施七星板至如蠟弩牙玉豚錫人之屬並須停省糧甖明器故不得營碑誌旒旐彌在言外載以鱉甲車襯土而下平地無墳若懼拜掃不知兆域當築一堵低牆於左右前後隨為私記靈筵勿設枕幾朔望祥禫唯下白粥清水乾棗不得有酒肉餅果之祭親友來餟酹者一皆拒之汝曹若違吾心有加先妣則陷父不孝在汝安乎其內典功徳隨力所至勿刳竭生資使凍餒也四時祭祀周孔所教欲人勿死其親不忘孝道也求諸內典則無益焉殺生為之翻増罪累若報罔極之徳霜露之悲有時齋供及盡忠信不辱其親所望於汝也孔子之親也雲古者墓而不墳丘東西南北之人也不可以弗識也於是封之崇四尺然則君子應世行道亦有不守墳墓之時況為事際所逼也吾今羈旅身若浮雲竟未知何鄉是吾地唯當氣絶便埋之耳汝曹宜以傳業揚名為務不可顧戀朽壤以取湮沒也
死は人の常分にして免るべからず。我十九歲にして正に梁家喪亂に値う。其の間白刃と伍と爲すこと亦好幾次有り。幸いに餘福を承けて纔かに如今に至る。古人に五十を以て夭と爲さずと曰く。我すでに六十餘なれば、故に心裡坦然として、殘年を以て念と爲さず。先に風氣の疾有りて、常に忽然として去世せんことを疑う。聊か平日の懷抱を寫して以て汝らへの告誡と爲す。先君先夫人は未だ建鄴の舊山に歸せず、旅底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた江陵の東郭に在り。承聖の末都を啓求して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたし、遷厝を營まんと欲して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたし、銀百兩を詔賜せり。すでに底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた州の小郊の北地に於て磚を燒くに、正に本朝淪沒に値い、流離此の如し。數十年の間還望を絕つ。如今雖混一するも、家道罄窮して、豈に此の奉營の資費を辦ぜんや。況んや底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた都殘毁して復た孑遺無く、又被下濕して未だ得計と爲らず。自咎自責して心を貫き髓に刻す。我ら兄弟本來當に仕進すべからざるを計るに、ただ門衰え骨肉單弱にして、五服の内旁に一人無く、播越他鄉して資蔭無しを因る。汝らをして厮役に沉淪せしめて、以て先世の恥と爲す。故に顔を靦して人間に入りて敢えて墜落せず。兼ねて北方の政教嚴切にして、全く隱退する人無し。如今年老いて病侵し、倘若忽然として去世せば、豈に備禮を求めんや。一旦手を放たば、沐浴するのみ。復魄に勞せず、常衣を以て殮す。先夫人棄背の時、正に世道飢饉・家途空迫に値い、兄弟底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた弱にして、棺器簡薄にして藏内磚無し。我當に松棺二寸を以てし、衣帽以外一概に自ら隨うを得ず、牀上はただ七星板を施すべし。蠟弩牙・玉豚・錫人の類に至りては皆必ず停省し、糧罌明器は本就りて營辦するを得ず、碑志旒旐は更に話外に在り。鼈甲車を以て裝載し、土を襯して下し、平地墳無し。若し拜掃の兆域を知らざるを怕れば、當に一堵の低牆を左右前後に築きて、隨いて私記を作すべし。靈筵は枕几を設くる勿れ。朔望祥禫はただ白粥清水干棗を下し、酒肉餅果の祭有るを得ず。親友の來りて祭奠するは一概に拒絕す。汝ら若し我の心に違い先妣より禮を加えば、即ち父を不孝に陷るなり。汝ら心安んずるか。内典の功德は力の至る所に隨い、生資を刳竭して凍餒せしむる勿れ。四時の祭祀は周孔の教う所にして、人をして死せる親を忘れず孝道を忘れざらしめんと欲す。諸を内典に求めれば則ち益無く、生を殺して以て爲せば反りて罪累を增す。若し罔極の德・霜露の悲に報いんと欲せば、時に齋供、及び忠信を盡くし其の親を辱めざるは、是れ汝らに望む所なり。孔子底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた親を葬りて、古者は墓にして墳せずと曰い、自ら是れ東西南北の人にして、標識無かるべからずと曰い、於是に土を封じて高さ四尺と爲す。然らば則ち君子世に應じ道を行うも亦墳墓を守らざるの時有り。況んや事勢に逼めらるるをや。我如今羈旅にして身は浮雲の若く、竟に何の鄉か我の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた地なるを知らず。ただ當に氣絕すれば便ち埋むべし。汝ら當に業を傳え名を揚ぐるを以て務と爲し、朽壤を顧戀して以て湮沒を取るべからず。
