Libo

颜氏家训 · 第2巻

北齐 · 颜之推 · 第2巻 / 6

兄弟篇第三

兄弟篇第三

夫有人民而後有夫婦有夫婦而後有父子有父子而後有兄弟一家之親此三而已矣自茲以往至於九族皆本於三親焉故於人倫為重者也不可不篤兄弟者分形連氣之人也方其防也父母左提右挈前襟後裾食則同案衣則服學則連業遊則共方雖有悖亂之人不能不相愛也及其壯也各妻其妻各子其子雖有篤厚之人不能不少衰也娣姒之比兄弟則踈薄矣今使踈薄之人而節量親厚之恩猶方底而圓葢必不合矣唯友悌深至不為傍人之所移者免夫二親既歿兄弟相顧當如形之與影聲之與響愛先人之遺體惜已身之分氣非兄弟何念哉兄弟之際異於他人望深則易怨地親則易弭譬猶居室一穴則塞之一隙則塗之則無頽毀之慮如雀防之不防風雨之不防壁防楹淪無可救矣僕妾之為雀防妻子之為風雨甚哉兄弟不睦則子侄不愛子侄不愛則群從防薄群從防薄則僮防為讎敵矣如此則行路皆踖其面而蹈其心誰救之哉人或交天下之士皆有歡愛而失敬於兄者何其能多而不能少也人或將數萬之師得其死力而失恩於弟者何其能踈而不能親也娣姒者多爭之地也使骨肉居之亦不若各歸四海感霜露而相思佇日月之相望也況以行路之人處多爭之地能無間者鮮矣所以然者以其當公務而執私情處重責而懷薄義也若能恕已而行換子而撫則此患不生矣人之事兄不可同於事父何為愛弟不及愛子乎是反照而不明也沛國劉璡嘗與兄瓛連棟隔壁瓛呼之數聲不應良久方答瓛怪問之乃雲向來未著衣帽故也以此事兄可以免矣江陵王紹弟孝英子敏兄弟三人特相愛友所得甘防新異非共聚食必不先嚐孜孜色貌相見如不足者及西臺防沒紹以形體魁梧為兵所圍二弟爭共抱持各求代死終不得解遂並命爾

人民あって然る後に夫婦あり、夫婦あって然る後に父子あり、父子あって然る後に兄弟あり。一家の親とは、即ち此の三倫のみ。此より以って往きて九族に至るまで、皆三親に本づく。ゆえに人倫に於いて最も重大、篤厚ならざるべからず。兄弟は形を分かち氣を連ぬる人なり。彼ら底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたの時當り、父母は左に提げ右に挈げ、前襟後裾、飯を食らうに案を同じくし、衣服は則ち底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた服を共にし、學習は業を連ね、遊玩は方を同じくす。悖亂の人ありと雖も、相愛せざる能わざりき。壮年に及んで、各々その妻を娶り各々その子を愛すれば、篤厚の人ありと雖も、稍々衰減せざる能わざりき。娣姒は兄弟に比ぶれば疏薄なり。今疏薄の人をして親厚の恩を節量せしめば、譬えば方底に圓蓋を配するが如く、必ず合わず。ただ友悌深至にして旁人に移されざる者のみ、能く此を免れん。雙親すでに世を去れば、兄弟相顧みるに、當に形と影・聲と響の如くすべし。先人の遺せし身體を愛し、己の身上に分けし氣を惜しむに、兄弟にあらずして誰をか念わん。兄弟のあいだは他人と異なり、期望深ければ怨み易く、地處親近なれば消弭し易し。譬えば住房のごとし。一つの洞穴あれば即ち塞ぎ、一条の縫隙あれば即ち塗れば、頹毀の憂なし。若し雀底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた之底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、風雨に防護を加えざれば、壁底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた楹淪して、救う可きなし。僕妾は即ち雀底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたなり、妻子は即ち風雨なり、其の害甚だしき哉。兄弟和せざれば子姪相愛せず、子姪相愛せざれば堂從底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた薄く、堂從底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた薄ければ僮底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた讎敵と爲る。此の如くなれば、行路の人も皆その顏を踏みその心を蹈まん、誰か之を救わん。或る人は天下の士を結び交わるに皆歡愛有るに、兄に對して敬を失う。何ぞ多數に善くして少數に善くする能わざるや。或る人は數萬の師を統率して其の死力を得るに、弟に對して恩を失う。何ぞ疏遠に善くして親近に善くする能わざるや。娣姒は多爭の地なり。骨肉同住すと雖も、各々四海に歸向し、霜露に感じて相思い、日月に佇んで相望むるには如かず。況んや行路の人を以て多爭の地に處らしめば、嫌隙なき能わざるは鮮し。此の如くなる所以は、公務に當って私情を執り、重責に處して薄義を懷けばなり。若能く己を恕る心を以て事を行い、位を換えて彼の子を撫愛せば、此の患は生ぜざらん。人の兄に事えるは父に事えるに同じくすべからざるは、何ぞ弟を愛するに反って子を愛するに及ばざるや。此れ反照して明らかならざるなり。沛國の劉琎は嘗て兄の劉瓛と棟を連ね壁を隔てゝ居り、瓛數聲呼ぶも答えず、久しくして乃ち答う。瓚怪しんで之を問えば、乃ち曰く、さきほど未だ衣冠を著ず、と。此の如く以て兄に事えば、禮を失うを免れん。江陵王底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた紹は弟の孝英・子敏と兄弟三人、殊に相愛友し。甘底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた新異の物を得れば、共に聚まり食うにあらざれば必ず先に嘗めず。孜孜の神色相見るに、總に未だ足らざるが如し。西臺底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた沒するに及んで、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた紹は形體魁梧なるを以て兵士に包圍せられ、兩弟爭うて共に抱持し、各々死に代わらんことを求め、終に解脱すること能わずして、俱に命を喪う。

後娶篇第四

後娶篇第四

吉甫賢父也伯竒孝子也賢父御孝子合得終於天性而後妻間之伯竒遂放曾參婦死謂其子曰吾不及吉甫汝不及伯竒王駿喪妻亦謂人曰我不及曾參子不如曽元並終身不娶此等足以為誡其後假繼慘虐孤遺離間骨肉傷心斷腸者何可勝數慎之哉慎之哉江右不諱庶孽喪室之後多以妾媵終家事疥癬蚊防或未能免限以大分故稀鬭鬩之恥河北鄙於側出不預人流是以必須重娶至於三四母年有少於子者後母之弟與前婦之兄衣服飲食爰及婚宦至於士庶貴賤之隔俗以為常身沒之後辭訟盈公門謗辱彰道路子誣母為妾弟黜兄為傭播先人之辭跡暴露祖考之長短以求直已者往往而有悲夫自古奸臣佞妾以一言陷人者眾矣況夫婦之義曉夕移之婢防求容助相説引積年累月安有孝子乎此不可不畏凡庸之性後夫多寵前夫之孤後妻必虐前妻之子非唯婦人懷嫉妬之情丈夫有沈惑之僻亦事勢使之然也前夫之孤不敢與我子爭家提攜鞠養積習生愛故寵之前妻之子每居己生之上宦學婚嫁莫不為防焉故虐之異姓寵則父母被怨繼親虐則兄弟為讎家有此者皆門戶之禍也思魯等從舅殷外臣博達之士也有子基諶皆已成立而再取王氏基每拜見後母感慕嗚咽不能自持家人莫忍仰視王亦悽愴不知所容旬月求退便以禮遣此亦悔事也後漢書曰安帝時汝南薛包字孟嘗好學篤行喪母以至孝聞及父娶後妻而憎包分出之包日夜號泣不能去至被毆杖不得已廬於舍外旦入而灑掃父怒又逐之乃廬於里門昬晨不廢積嵗餘父母慙而還之後行六年服喪過乎哀既而弟子求分財異居包不能止乃中分其財奴婢引其老者曰與我共事久若不能使也田廬取其荒頓者曰吾少時所理意所戀也器物取其朽敗者曰我素所服食身口所安也弟子數破其產還復賑給建光中公車特徵至拜侍中包性恬虛稱疾不起以死自乞有詔賜告歸也

吉甫は賢父、伯奇は孝子なり。賢父孝子を駕馭するに、本當に其の天性を終えるべきに、後妻之を離間して、伯奇は遂に放逐せらる。曾參の妻死して、子に謂いて曰く、「我は吉甫に及ばず、汝は伯奇に及ばず」と。王駿妻を喪い、亦人に謂いて曰く、「我は曾參に及ばず、子は曾元に如かず」と。皆終身娶らず。此らは以て鑑戒と爲すに足る。夫の後、繼室の孤兒を惨虐し骨肉を離間して、人をして心を傷み腸を断たしむるは、豈に數へ盡くし得んや。慎めよ慎めよ。江右は庶出を避諱せず、妻を喪いて後多く妾媵を以て家事を料理せしむ。疥癬蚊底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたの患、或いは免れ得ずと雖も、名分に限られ、故に鬥鬩の恥少なし。河北は側出を鄙視し、人流に入らしめず。此により必ず再娶し、三四次に至る。後母の年紀、兒子よりも小なる有り。後母の弟と前婦の兄とは、衣服飲食以て婚宦に至るまで、甚しきは士庶貴賤の間隔ありて、習俗以て當然と爲す。身死んでの後、辭訟は公門に堆滿し、謗辱は道路に彰明し、子は母を妾と誣うり、弟は兄を傭と貶め、播揚底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた先人の話柄を播揚し、祖考の短を暴露して自ら理有らんと求むる、往往として之有り、悲しむべき哉。古より以來、姦臣佞妾の一言を以て人を陷害する者多し。況んや夫婦の義は早晚を以て彼を變ぜしむるをや。婢底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた容を求め、相い說引し、年を積み月を累ねば、豈に孝子有らんや。此れ畏れざるべからざるなり。凡庸の性情は、後夫多く前夫の孤兒を寵愛し、後妻は必ず前妻の子を虐待す。ただ婦人の嫉妬の情を懷き、丈夫の沈溺迷惑の僻性あるのみにあらず、亦是れ事勢の之を然らしむるなり。前夫の孤兒は敢えて我が子と家を爭わず、提攜鞠養し、積習愛を生ず。故に之を寵す。前妻の子は每々己の所生の上に排し、宦學婚嫁に爲せざる底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたなきなし。故に之を虐す。異姓寵せらるれば則ち父母怨ぜられ、繼親虐待すれば則ち兄弟讎と爲る。家に此の情狀有る者は、皆門戶の禍なり。思魯等の從舅殷外臣は博達の士なり。兒子基・諶有りて皆すでに成立するに、乃ち王氏を再娶す。基每に後母を拜見すれば、感慕嗚咽して自ら持する能わず、家人も仰視するに忍びず、王氏も凄愴にして容るる所を知らず。旬月のあいだ退を求め、便以て禮を以て遣り歸す。此れ亦悔の事なり。《後漢書》に曰く、安帝の時、汝南の薛包・字は孟嘗、學を好み行を篤うし、母を喪いて至孝を以て聞ゆ。父の後妻を娶りて薛包を憎惡し、之を分かち出さんとするに及んで、薛包日夜號泣して去る能わず、毆杖せらるるに至る。已むを得ず舍外に廬を結び、旦に入りて灑掃す。父怒りて又之を驅逐せば、便ち里門に廬を結び、昏晨廢せず。歲餘を過ごして、父母慚愧して之を歸らしむ。後に六年の服を行い、喪哀に過ぎたり。尋いで弟子財を分かち居を異にせんことを求むるに、薛包止むる能わず、便ち其の財を中分す。奴婢は年老いたるを領して曰く、我と事を共にする久し、爾らの使役に堪えず、と。田廬は荒廢せるを取りて曰く、是れ我が少時に料理し心意の戀する所なり、と。器物は朽敗せるを取りて曰く、是れ我素より服用し身口の安んずる所なり、と。弟子數たび産業を破るも、他はなお再び賑給す。建光中、公車の特徵に就き、侍中に拜す。薛包は性情恬虚、病と稱して起たず、死を以て自ら乞い、詔有りて告を賜い歸らしむ。

治家篇第五

治家篇第五

夫風化者自上而行於下者也自先而施於後者也是以父不慈則子不孝兄不友則弟不恭夫不義則婦不順矣父慈而子逆兄友而弟傲夫義而婦陵則天之防民乃刑戮之所攝非訓導之所移也笞怒廢於家則竪子之過立見刑罰不中則民無所措手足治家之寛猛亦猶國焉孔子曰奢則不遜儉則固與其不遜也寧固又云雖有周公之才之美使驕且吝其餘不足觀也已然則可儉而不可吝也儉者省約為禮之謂也吝者窮急不防之謂也今有奢則施儉則吝如能施而不奢儉而不恡可矣生民之本要當稼穡而食桑麻以衣蔬果之蓄園塲之所產雞豚之善塒圏之所生爰及棟宇器械樵蘇脂燭莫非種殖之物也至能守其業者閉門而為生之具以足但家無鹽井耳今北土風俗率能躬儉節用以贍衣食江南奢侈多不逮焉梁孝元世有中書舍人治家失度而過嚴刻妻妾遂共貨刺客伺醉而殺之世間名士但務寛仁至於飲食饟饋僮防減損施惠然諾妻子節量狎侮賓客侵耗鄉黨此亦為家之巨蠧矣齊吏部侍郎房文烈未嘗嗔怒經霖雨絶糧遣婢糴米因爾逃竄三四許日方復擒之房徐曰舉家無食汝何處來竟無捶撻嘗寄人宅奴婢徹屋為薪略盡聞之顰蹙卒無一言裴子野有踈親故屬飢寒不能自濟者皆收養之家素清貧時逄水旱二石米為薄粥僅得遍焉躬自同之常無厭色鄴下有一領軍貪積已甚家童八百誓滿一千朝夕餚膳以十五錢為率遇有客旅更無以兼後坐事伏法籍其家產麻鞋一屋衣數庫其餘財寳不可勝言南陽有人為生奧博性殊儉吝冬至後女壻謁之乃設一銅甌酒數臠麞肉壻恨其單率一舉盡之主人愕然俛仰命益如此者再退而責其女曰某郎好酒故汝嘗貧及其死後諸子爭財兄遂殺弟婦主中饋唯事酒食衣服之禮耳國不可使預政家不可使幹蠱如有聰明才智識達古今正當輔佐君子助其不足必無牝雞晨鳴以致禍也江東婦女略無交逰其婚姻之家或十數年間未相識者唯以信命贈遺致殷勤焉鄴下風俗専以婦持門戶爭訟曲直造請逢迎車乘填街衢綺羅盈府寺代子求官為夫訴屈此乃恆代之遺風乎南間貧素皆事外飾車乘衣服必貴齊整家人妻子不免飢寒河北人事多由內政綺羅金翠不可廢闕羸馬顇奴僅充而已唱和之禮或爾汝之河北婦人織絍組紃之事黼黻錦繡羅綺之工大優於江東也太公曰養女太多一費也陳蕃雲盜不過五女之門女之為累亦以深矣然天生蒸民先人傳體其如之何世人多不舉女賊行骨肉豈當如此而望福於天乎吾有防親家饒妓媵誕育將及便遣閽豎守之體有不安窺窻倚戸若生女者輒持將去母隨號泣莫敢救之使人不忍聞也婦人之性率寵子壻而虐兒婦寵壻則兄弟之怨生焉虐婦則姊妹之讒行焉然則女之行留皆得罪於其家者母實為之至有諺雲落索阿姑飡此其相報也家之常可不誡哉婚姻素對靖侯成規近世嫁娶遂有賣女納財買婦輸絹比量父祖計校錙銖責多還少市井無異或猥壻在門或傲婦擅室貪榮求利反招羞恥可不慎歟借人典籍皆須愛護先有缺壞就為補治此亦士大夫百行之一也濟陽江祿讀書未竟雖有急速必待卷束整齊然後得起故無損敗人不猒其求假焉或有狼籍几案分散部帙多為童幼婢妾之所防汙風雨蟲防之所毀傷實為累德吾每讀聖人之書未嘗不肅敬對之其故紙有五經詞義及賢達姓名不敢穢用也吾家巫覡禱請絶於言議符書章醮亦無祈焉竝汝曹所見也勿妖妄之費

風化は上より行じて下に至り、先より施して後に及ぶ。故に父慈なくんば則ち子孝ならず、兄友なくんば則ち弟恭ならず、夫義なくんば則ち婦順ならず。父慈ありて子逆し、兄友ありて弟傲り、夫義ありて婦陵るは、是れ天の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた民にして、刑戮を以て慴服すべし、訓導の變ずる所にあらず。家に笞怒を廢すれば、則ち童僕の過ち立ちどころに現れ、刑罰當を得ざれば、則ち民手足を措く所なし。家を治むるの寬猛は國を治むるに同じ。孔子に曰く、「奢なれば則ち遜ならず、儉なれば則ち固し、其の遜ならざるよりは寧ろ固ならん」と。又曰く、「周公の才の美有ると雖も、驕り且つ吝ならば、其の餘は觀るに足らず」と。然れば則ち儉べくして吝なるべからず。儉は省約して禮を成すの謂い、吝は窮急して底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたざるの謂いなり。今ある人は奢侈すれば施與を肯んじ、儉省すれば吝嗇す。若能く施して奢ならず、儉して吝ならざれば、可なり。生民の本は、當に稼穡して食し、桑麻して衣るべし。蔬果の蓄積は園場の産する所、雞豚の肥美は塒圈の生ずる所、棟宇器械・樵蘇脂燭に至るまで、種植の物にあらざるはなし。能く産業を守る者に至っては、門を關ぢて生を養うの具を具うれば足りる。ただ家に鹽井なきのみ。今北土の風俗は大抵能く躬儉節用して衣食を供給す。江南は奢侈にして、多く及ばざるなり。梁孝元の世、中書舍人有りて家を治むるに度を失いて嚴刻に過ぎ、妻妾便ち共に刺客を買通して、其の醉えるに乘じて之を殺す。世の名士はただ寬仁を務めて、飲食饋贈を僮底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに減損せられ、施惠許諾を妻子に節量せられ、賓客を狎侮し鄉黨を侵耗するに至る。此れ亦家を治むるの大蠹なり。齊の吏部侍郎房文烈は未だ嘗て嗔怒せず。連綿と雨降りて糧を斷ち、婢女を遣はして米を籴はしむるに、此れに因って逃竄す。三四日にして乃ち再び捉う。房徐に曰く、「全家食するものなし、汝は何處よりか來る」と。竟に捶撻せず。嘗て宅を人に借らせるに、奴婢屋を拆して薪と爲し幾んど盡くさんとす。之を聞きてただ眉を顰むのみ、終に一言を言わず。裴子野に疏親故屬の飢寒にして自ら濟る能わざる有れば、皆收養し置く。家素より清貧、時に水旱に逢い、二石の米を薄粥と爲して僅かに遍く給し、自ら同じく食して、常に厭色なし。鄴下に一領軍有りて積を貪ることすでに甚だしく、家童八百、誓いて一千を滿たさんとす。朝夕の肴膳は十五錢を以て率と爲し、客旅に遇うて更に添補なし。後に事に坐して法に伏し、家産を籍沒するに、麻鞋一屋、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた衣幾庫、其の餘の財寶は言い勝べからず。南陽に人有りて生奧博し、性情殊に儉吝なり。冬至後、女婿來り謁見すれば、ただ一銅甌の酒と幾臠の獐肉を設くるのみ。女婿其の單薄簡慢なるを恨みて、一擧に飲み盡くす。主人愕然として、俯仰のあいだ人に命じて酒を添えしむ。此の如く兩度なりき。退きて女を責めて曰く、「某郎酒を好む、故に汝は常に貧なり」と。其の死するに及んで、諸子財を爭い、兄竟に弟を殺す。婦人の中饋を主持するは、ただ酒食衣服の禮を管すべきのみ。國は之を政に預からしむべからず、家は之を家事を主持せしむべからず。若し聰明才智にして古今を識達する有らば、正に當に君子を輔佐し其の不足を補うべく、必ず牝雞の晨鳴して以て禍を致すことなかれ。江東の婦女は交遊殆どなし。婚姻の家あるいは十餘年相識らず、ただ書信贈遺を以て殷勤を致す。鄴下の風俗は專ら婦人を以て門戶を把持せしめ、爭訟曲直・造請逢迎、車乘街衢に填り、綺羅府寺に盈ち、兒子の爲めに官を求め丈夫の爲めに屈を訴う。此れ恆代の遺風か。南方の貧素人家は皆外飾を講究し、車乘衣服は必ず齊整を求め、家人妻子は飢寒を免れず。河北の人事は多く內政よりし、綺羅金翠は廢闕すべからず、瘦馬憔悴の奴僕は僅かに數を充つるのみ。唱和の禮は、或いは爾汝と相稱す。河北の婦人の織紝組紃の事・黼黻錦繡羅綺の工は、大いに江東に優る。太公に曰く、「女を養うこと多ければ、是れ一の費なり」と。陳蕃に曰く、「盜は五女の門を過ぎず」と。女の拖累も亦深し。然るに天生衆民、先人の傳へし身體、又能く如何せん。世人多く女兒を養育せず、骨肉を賊害す。豈に此の如くして天に福を望むべけんや。我に底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた親有りて、家中妓媵甚だ多し。誕育將に至らんとすれば便ち門人を遣はして守らせ、身體一たび安からざる有れば則ち窗を窺い戶に倚り、若し女を生まば便ち立ちどころに抱き去らしむ。母は隨いて號泣すれども、救う敢えてする人なく、人をして聞くに忍びざらしむ。婦人の性情は、大抵女婿を寵して兒婦を虐す。女婿を寵すれば則ち兄弟の怨生じ、兒婦を虐すれば則ち姊妹の讒行はる。然れば則ち女兒の嫁ぐも留まるも家に罪を得、實に母の致す所なり。諺語有るに至りて曰く、「落索阿姑餐」と。此れ即ち相い報ゆるなり。家の常底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、能く警戒せざらんや。婚姻は門第相當を要す。是れ靖侯の立てし成規なり。近世の嫁娶に竟に女を賣りて財を納め婦を買いて絹を輸する有り、父祖を比量し錙銖を計較し、多く責め少なく還す、市井と異なることなし。或いは猥瑣の女婿門に入り、或いは傲婦室を擅にし、榮を貪り利を求め、反って羞恥を招く。能く謹まざらんや。人の典籍を借るに皆愛護を須い、先に缺壞有れば則ち補治を與う。此れ亦士大夫の百行の一なり。濟陽の江祿、書を讀みて未だ竟らざるに、急速の事有ると雖も、必ず卷束整齊して然る後に乃ち起つ。故に損敗なく、人其の來り借るを厭わず。或いは几案を狼藉し部帙を分散し、多く童幼婢妾の底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた污に點せられ、風雨蟲底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに毀傷せらるる者有り。實に德を虧くなり。我每に聖人の書を讀むに、未だ嘗て肅敬して相對せざるはなし。其の故紙に五經の詞義及び賢達の姓名有る者は、敢えて穢用せず。我が家は巫覡の禱請は言議に絶え、符書章醮も亦祈請なし。皆汝らの見る所なり、妖妄に費やすこと勿れ。

風操篇第六

風操篇第六

吾觀禮經聖人之教箕箒箸咳唾唯諾執燭沃盥皆有節度亦為至矣但既殘缺非復全書其有所不載及世事變改者學達君子自為節度相承行之故世號士大夫風操而家門頗有不同所見互稱長短然其阡陌亦自可知昔在江南目能視而見之耳能聴而聞之蓬生麻中不勞翰墨汝曹生於戎馬之間視聴之所不曉故聊記録以傳示子孫禮雲見似目瞿聞名心瞿有所感觸惻愴心眼若在從容平常之地幸須申其情耳必不可避亦當忍之猶如伯叔兄弟酷類先人可得終身腸斷與之絶耶又臨文不諱廟中不諱君所無私諱葢知聞名須有消息不必期於顛沛而走也梁世謝舉甚有聲舉聞諱必哭為世所譏又臧逢世臧嚴之子也篤學修行不墜門風孝元經牧江州遣往建昌督事郡縣民庶競修牋書朝夕輻輳几案盈積書有稱嚴寒者必對之流涕不省取記多廢公事物情怨駭竟以不辦而還此並過事也近在楊都有一士人諱審而與沈氏交結周厚沈與其書名而不姓此非人情也凡避諱者皆湏得其同訓以代換之桓公名白博有五皓之稱厲王名長琴有修短之目不聞謂布帛為布皓呼腎腸為腎修也梁武小名阿練子孫皆呼練為絹乃謂銷鏈物為銷絹物恐乖其義或有諱雲者呼紛紜為紛煙有諱桐者呼梧桐樹為白鐵樹便似戲笑耳周公名子曰禽孔子名兒曰鯉止在其身自可無禁至若衛侯魏公子楚太子皆名蟣蝨長卿名犬子王脩名狗子上有連及理未為通古之所行今之所笑也北土多有名兒為驢駒豚子者使其自稱及兄弟所名亦何忍哉前漢有尹翁歸後漢有鄭翁歸梁家亦有孔翁歸又有顧翁寵晉代有許思妣孟少孤如此名字幸當避之今人避諱更急於古名子者當為孫地吾親識中有諱襄諱友諱同諱清諱和諱禹交防造次一座百犯聞者辛苦無僇頼焉昔司馬長卿慕藺相如故名相如顧元歆慕蔡邕故名雍而後漢有朱張字孫卿許暹字顔回梁世有庾晏嬰祖孫登連古人姓為名字亦鄙事也昔劉文饒不忍罵奴為畜產今世愚人遂以相戲或有指名為豚犢者有識傍觀猶欲掩耳況名之者乎近在議曹共平章百官秩祿有一顯貴當世名臣意嫌所議過厚齊朝有一兩士族文學之人謂此貴曰今日天下大同須為百代典式豈得尚作闗中舊意乎明公定是陶朱公大兒耳彼此歡笑不以為嫌昔侯霸之子孫稱其祖父曰家公陳思王稱其父為家父母為家母潘尼稱其祖曰家祖古人之所行今人之所笑也及南北風俗言其祖及二親無雲家者田裡偎人方有此言耳凡與人言言已世父以次第稱之不雲家者以尊於父不敢家也凡言姑姊妹女子子已嫁則以夫氏稱之在室則以次第稱之言禮成他族不得雲家也子孫不得稱家者輕略之也蔡邕書集呼其姑女為家姑家姊班固書集亦云家孫今並不行也凡與人言稱彼祖父母世父母父母及長姑皆加尊字自叔父已下則加賢字尊卑之差也王羲之書稱彼之母與自稱己母同不雲尊字今所非也南人冬至嵗首不詣喪家若不修書則過節束帶以

我の《禮經》聖人の教えを觀るに、箕帚・箸底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた、咳唾唯諾・執燭沃盥、皆節度有り、亦極致と言うべし。ただすでに殘缺して全書にあらず。其の中に載せざる所及び世事の改變せる有りて、學達の君子自ら節度を定め相承りて實行す。故に世に士大夫風操と稱し、而して各家頗る同じからず、見る所互に長短を稱す。然れども路徑も亦自ら知るべし。昔江南に在りては、目能く見れば即ち見え、耳能く聞けば即ち聞え、蓬麻の中に生ずるが如く、筆墨を勞するを須いず。汝らは戎馬のあいだに生まれ、視聽に曉らざる所有り。故に聊か記録を作して子孫に傳示す。《禮記》に曰く、似たるを見れば目驚動し、名を聞けば心驚動す。感觸する所有れば、惻愴心眼に在り。若し從容平常の處に在れば、此の情を申述せんことを望む。必ず已むを得ず避くる能わざれば、亦當に忍ぶべし。伯叔兄弟の先人に酷似するが如きは、豈に終身腸を斷ち彼らと交を絶つべけんや。又文に臨みて諱せず、廟中に諱せず、君の所有私諱なし。名を聞くに須く情形を視て、必ずしも顛沛奔走を要せざるを知るべし。梁世の謝擧は甚だ聲譽有りて、諱を聞けば必ず哭し、世人の譏る所と爲る。又臧逢世は臧嚴の子にして、學を篤うし行を修め、門風を墜とさず。孝元帝江州を經管して、彼を建昌に往かしめ事を督せしむ。郡縣民庶爭うて書を寫し、朝夕輻輳して几案堆滿す。書に「嚴寒」と稱する有れば、必ず之に對して流涕し、省察せず取記せず、多く公事を廢し、物情怨駭し、竟に事を辦せざるを以て歸る。此ら皆過分なり。近來楊都に一士人有りて「審」を諱むに、卻って沈氏と交結深厚なり。沈氏彼に書を與うるに名のみ書して姓を書さず。此れ人情にあらず。およそ避諱は皆同訓の字を以て代換せざるべからず。桓公の名は白、博に五皓の稱有り。厲王の名は長、琴に修短の目有り。未だ布帛を布皓と作し腎腸を腎修と作すを聞かざるなり。梁武の小名は阿練、子孫皆練を以て絹と作し、便ち銷鏈物を以て銷絹物と作す。恐らく本義に乖離せん。諱「雲」有る者は紛紜を以て紛烟と作し、諱「桐」有る者は梧桐樹を以て白鐵樹と作す。便ち戲笑に似たり。周公の子に名づける禽、孔子の子に名づける鯉、ただ其の自身に在りて、自ら禁ずるを須いず。衛侯・魏公子・楚太子皆名を蟣虱とし、長卿の名を犬子とし、王修の名を狗子とす。上に連及有るに、理上通ずと言うべからず。古時行われし所、今人之を笑う。北土多く兒子に名づけて驢駒・豚子と爲し、其の自稱及び兄弟の呼ぶ所と爲さしむ。又豈に忍びんや。前漢に尹翁歸有り、後漢に鄭翁歸有り、梁家も亦孔翁歸有り、又顧翁寵有り、晋代に許思妣・孟少孤有り。此の類の名字は幸に當に避くべし。今人の避諱は古人よりも急なり。兒子に名づくるに當に孫子の爲めに餘地を留むべし。我が親識の中に諱襄・諱友・諱同・諱清・諱和・諱禹有り、交底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた造次、一座百犯、聞く者辛苦して賴る所なし。昔司馬長卿は藺相如を慕うて故に相如と名づけ、顧元歎は蔡邕を慕うて故に雍と名づく。而るに後漢に朱張・字孫卿、許暹・字顏回有り、梁世に庾晏嬰・祖孫登有り。古人の姓を連ねて名字と爲すは、亦是れ鄙事なり。昔劉文饒は奴を罵りて畜産と爲すを忍びず、今世の愚人竟に以て相戲し、或いは名を指して豚犢と呼ぶ者有り。有識の傍觀もなお耳を掩わんと欲す。況んや被る呼ぶ者をや。近來議曹に在りて共に百官の秩祿を商議す。一顯貴當世の名臣有りて、心に議する所の過厚なるを嫌う。齊朝に一二士族文學の人有りて此の貴人に對して曰く、「今日天下大同、須く百代の典式と爲すべし、豈に還て關中の舊意を作さんや。明公は必ず陶朱公の大兒子ならん」と。彼此歡笑して嫌と爲さず。昔侯霸の子孫は祖父を家公と稱し、陳思王は父を家父・母を家母と稱し、潘尼は祖を家祖と稱す。古人の行いし所、今人之を笑う。南北風俗に至りて、祖及び雙親を言えば、「家」と言う者なし。ただ田里の鄙人のみ此の言有り。およそ人と言うに、己の世父を稱するに次第に按って稱し、「家」と言わず。父より尊ければなり、敢えて家と稱せず。およそ姑姊妹女子子を言うに、已嫁なれば以て夫家の氏を以て之を稱し、在室なれば次第に按って之を稱す。是れ禮他族に成るを言う、「家」と言うを得ざるなり。子孫「家」と稱するを得ざるは、之を輕略すればなり。蔡邕の書集は姑・女を呼んで家姑・家姊と爲し、班固の書集も亦家孫と言う。如今皆行われず。およそ人と言うに、對方の祖父母・世父母・父母及び長姑を稱するに皆「尊」の字を加え、從叔父以下は則ち「賢」の字を加う。此れ尊卑の差なり。王羲之書を寫して對方の母を稱するに己の母を自稱するに同じく、「尊」の字を言わず。如今以て對ならずと爲す。南人は冬至・歲首に喪家に到らず、若し書を寫さざれば、則ち節を過ぎて帶を束ねて往き

申慰北人至嵗之日重行吊禮禮無明文則吾不取南人賓至不迎相見捧手而不揖送客下席而已北人迎送並至門相見則揖古之道也吾善其迎揖昔者王侯自稱孤寡不穀自茲以降雖孔子聖師與門人言皆稱名也後雖有臣僕之稱行者葢亦寡焉江南輕重各有謂號具諸書儀北人多稱名者乃古之遺風吾善其稱名焉言及先人理當感慕古者之所易今人之所難江南事不獲已乃陳文墨防防無言者須言閥閱必以文翰罕有面論者北人無何便爾話說及相訪問如此之事不可加於人也人加諸巳則當避之名位未髙如為勲貴所逼隠忍方便速報取了勿取煩重感辱祖父若沒言須及者則斂容肅坐稱大門中世父叔父則稱從兄弟門中兄弟則稱亡者子某門中各以其尊卑輕重為容色之節皆變於常若與君言雖變於色猶雲亡祖亡伯亡叔也吾見名士亦有呼其亡兄弟為兄子弟子門中者亦未為安貼也北土都不行此太山羊偘梁初入南吾近至鄴其兄子肅訪偘委曲吾答之雲卿從門中在梁如此如此肅曰是我親第七亡叔非從也祖孝微在坐先知江南風俗乃謂之雲賢從弟門中何故不解古人皆呼伯父叔父而今世多單呼伯叔從兄弟姊妹已孤而對其前呼其母為伯叔母此不可避者也兄弟之子已孤與他人言對孤者前呼為兄子弟子頗為不忍北土多呼為侄案爾雅喪服經左傳侄名雖通男女並是對姑之稱晉世已來始呼叔侄今呼為侄於理為勝也別易防難古人所重江南餞送下泣言離有王子侯梁武帝弟出為東郡與武帝別帝曰我年已老與汝分張甚心惻愴數行淚下侯遂宻雲赧然而出坐此被責飄颻舟渚一百許日卒不得去北間風俗不屑此事岐路言離歡笑分首然人性自有少涕淚者腸雖欲絶目猶爛然如此之人不可強責凡親屬名稱皆須粉墨不可濫也無風教者其父已孤呼外祖父母與祖父母同使人為其不喜聞也雖質於面皆當加外以別之父母之世叔父皆當加其次第以別之父母之世叔母皆當加其姓以別之父母之群從世叔父母及從祖父母皆當加其爵位若姓以別之河北士人皆呼外祖父母為家公家母江南田裡間亦言之以家代外非吾所識凡宗親世數有從父有從祖有族祖江南風俗自茲已往髙秩者通呼為尊同昭穆者雖百世猶稱兄弟若對他人稱之皆雲族人河北士人雖三二十世猶呼為從伯從叔梁武帝嘗問一中土人曰卿北人何故不知有族答雲骨肉易踈不忍言族耳當時雖為敏對於禮未通吾嘗問周讓曰父母中外姊妹何以稱之周曰亦呼為丈人自古未見丈人之稱施於婦人也吾親表所行若父屬者為某姓姑母屬者為某姓姨中外丈人之婦猥俗呼為丈母士大夫謂之王母謝母雲而陸機集有與長沙顧母書乃其從叔母也今所不行齊朝士子皆呼祖防射為祖公全不嫌有所涉也乃有對面以相戲者古者名以正體字以表德名終則諱之字乃可以為孫氏孔子弟子記事者皆稱仲尼呂后微時嘗字髙祖為季至漢袁種字其叔父曰絲王丹與侯霸子語字霸為君房江南至今不諱字也河北士人全不辨之名亦呼為字字固因呼為字尚書王元之兄弟皆號名人其父名雲字羅漢一皆諱之其餘不足怪也禮間傳云斬縗之哭若往而不反齊縗之哭若往而反大功之哭三哭而偯小功緦麻哀容可也此哀之發於聲音也孝經云哭不哀皆論哭有輕重質文之聲也禮以哭有言者為號然則哭亦有辭也江南喪哭時有哀訴之言耳山東重喪則唯呼蒼天朞功以下則唯呼痛深便是號而不哭江南凡遭重喪若相知者同在城邑三日不弔則絶之除喪雖相遇則避之怨其不已憫也有故及道遙者致書可也無書亦如之北俗則不爾江南凡吊者主人之外不識者不執手識輕服而不識主人則不於會所而吊他日脩名詣其家隂陽說雲辰為水墓又為土墓故不得哭王充論衡雲辰日不哭哭則重喪今無教者辰日有喪不問輕重舉家清謐不敢發聲以辭弔客道書又曰晦歌朔哭皆當有罪天奪之算喪家朔望哀感彌深寧當惜壽又不哭也亦不論偏傍之書死有歸煞子孫逃竄莫肯在家畫瓦書符作諸厭勝喪出之日門前然火戸外列灰袚送家鬼章斷注連凢如此比不近有情乃儒雅之罪人彈議所當加也已孤而履嵗及長至之節無父拜母祖父母世叔父母姑兄姊則皆泣無母拜父外祖父母舅姨兄姊亦如之此人情也江左朝臣子孫初釋服朝見二宮皆當泣涕二宮為之改容頗有膚色充澤無哀感者梁武薄其為人多被抑退裴政出服問訊武帝貶瘦枯槁涕泗滂沱武帝目送之曰裴之禮不死也二親既歿所居齋寢子與婦弗忍入焉北朝頓邱李構母劉氏夫人亡後所住之堂終身鏁閉弗忍開入也夫人宋廣州刺史纂之孫女故構猶染江南風教其父奬為州刺史鎮壽春遇害構嘗與王松年祖孝徵數人同集談防孝徵善畫遇有紙筆圖寫為人頃之因割鹿尾戲截畫人以示構而無他意構愴然動色便起就馬而去舉坐驚駭莫測其情祖君尋悟方深反側當時罕有能感此者吳郡陸襄父閒被刑襄終身布衣蔬飯雖姜菜有切割皆不忍食居家唯以掐摘供廚江陵姚子篤母以燒死終身不忍噉炙豫章熊康父以醉而為奴所殺終身不復嘗酒然禮縁人情恩由義斷親以噎死亦當不可絶食禮經父之遺書母之杯圏感其手口之澤不忍讀用政為常所講習讎校繕冩及偏加服用有跡可思者耳若尋常墳典為生什物安可悉廢之乎既不讀用無容散逸唯當緘保以留後世耳思魯等第四舅母親吳郡張建女也有第五妹三嵗喪母靈床上屏風平生舊物屋漏沾溼出曝曬之女子一見伏床流涕家人怪其不起乃往抱持薦席淹漬精神傷怛不能飲食將以問醫醫診脈雲腸斷矣因爾便吐血數日而亡中外憐之莫不悲嘆禮雲忌日不樂正以感慕罔極惻愴無聊故不接外賓不理眾務耳必能悲慘自居何限於深藏也世人或端坐奧室不妨言笑盛營甘美厚供齋食迫有急卒宻戚至交盡無相見之理葢不知禮意乎魏世王修母以社日亡來嵗社修感念哀甚隣裡聞之為之罷社今二親喪亡偶值伏臘分至之節及月小晦後忌之外所經此日猶應感慕異於餘辰不預飲防聞聲樂及行遊也劉縚緩綏兄弟併為名器其父名昭一生不為照字唯依爾雅火傍作召耳然凢文與正諱相犯當自可避其有同音異字不可悉然劉字之下即有昭音呂尚之兒如不為上趙壹之子儻不作一便是下筆即妨是書皆觸也嘗有甲設防席請乙為賓而旦於公庭見乙之子問之曰尊侯早晩顧宅乙子稱其父已往時以為笑如此比例觸類慎之不可陷於輕脫江南風俗兒生一朞為制新衣盥浴裝飭男則用弓矢

申述して慰問す。北人は歲首の日に重ねて弔禮を行う。禮に明文なくんば、則ち我取らざるなり。南人は賓客至りて迎えず、相見て手を捧げて揖せず、客を送るにただ席を下るのみ。北人は迎送皆門に至り、相見れば則ち揖す。此れ古の道にして、我其の迎揖を贊成す。昔王侯は自ら孤・寡・不穀と稱す。此より以降、孔子の聖師の如きも門人と言うに皆名を稱す。後に臣僕の稱有ると雖も、行う者大抵少なし。江南は輕重各々稱號有り、皆書儀の裡に寫す。北人多く名を稱す。乃是れ古の遺風にして、我其の名を稱するを贊成す。先人に説き至るに、理に當に感慕すべし。古人の易しとする所、今人の難しとする所なり。江南の事は已むを得ざれば乃ち文墨を用い、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた言無きは、須く閥閱を說かば必ず文翰を用い、面して討論すること少なし。北人は事無ければ便ち口を開きて言い相い訪問す。此の如き事は人に加うべからず。人之を己に加えば、則ち當に避くべし。名位未だ高からざるに、若し勳貴の逼る所と爲らば、隱忍方便し、速やかに回報して了結し、煩重を取る勿れ。以て祖父を感辱するを免れん。若し已に死して須く説き及ぶべき有れば、則ち容を斂め肅く坐して、「大門中」と稱す。世父叔父は則ち「從兄弟門中」と稱し、兄弟は則ち亡者を「子某門中」と稱す。各々尊卑輕重に按って容色の節度を作し、皆平常と異なり。若し君と言うに、顏色變ずと雖も、還た亡祖・亡伯・亡叔と言う。我名士の亡兄弟を稱して「兄子弟子門中」と爲すを見るも、亦妥帖ならず。北土は皆此の一套を行わず。太山の羊侃は梁初に南方に到れり。我近來鄴に到り、其の兄子肅來りて羊侃の委曲を問う。我彼に答えて曰く、「卿の從門中梁に在りて如此如此」と。肅曰く、「是れ我が親しき第七の亡叔、從にあらず」と。祖孝徵座に在りて、先に江南の風俗を知り、便ち彼に謂いて曰く、「賢從弟門中、何ぞ懂せざる」と。古人皆伯父叔父と稱呼す。而今世多く單に伯・叔と呼ぶ。從兄弟姊妹の已孤なるに、彼らの面前に對して其の母を稱して伯叔母と爲す。此れ避くべからざるなり。兄弟の子の已孤なるに、他人と言い孤兒の面前に對して兄子・弟子と稱呼す。甚だ忍びざるなり。北土多く侄と呼ぶ。《爾雅》《喪服經》《左傳》に按ずるに、侄の名は男女通用すと雖も、皆姑に對する稱なり。晋世以來乃ち叔侄と呼ぶ。如今侄と呼ぶは、理上更に好し。別易底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた難、古人の重んずる所なり。江南の餞送は淚を落として離を言う。王子侯有りて梁武帝の弟なり。出でて東郡と爲るに、武帝と別を告ぐ。帝曰く、「我年已に老いたり、汝と分かるるに、心甚だ惻愴す」と。數行淚下る。侯便ち密語し、赧然として出づ。此に因って責められ、飄搖して舟渚に一百來日、終に去るを得ず。北間の風俗は此の事を屑とせず、岐路に離を言い、歡笑して手を分かつ。然れども人性に自ら涕淚少なき有り、腸雖も絶えんと欲すれど目はなお燦爛たり。此の如き人は强ひて責むべからず。およそ親屬の名稱は皆粉墨を以て分別すべく、濫るべからず。風教なき人は、父已孤にして、外祖父母を稱呼するに祖父母と同じくす。人家の喜ばず聞く所と爲る。當面質問すと雖も、皆當に「外」を加えて分別すべし。父母の世叔父は皆當に次第を加えて分別すべし。父母の世叔母は皆當に姓を加えて分別すべし。父母の群從世叔父母及び從祖父母は皆當に爵位あるいは姓を加えて分別すべし。河北の士人は皆外祖父母を稱して家公家母と爲す。江南の田里間も亦此の如し。「家」を以て「外」に代うるは、我の懂する所にあらず。およそ宗親の世數は、從父有り、從祖有り、族祖有り。江南の風俗は此より以往、官秩高きは通じて尊と呼ぶ。同昭穆は百世と雖もなお兄弟と稱す。若し他人に對して之を稱せば、皆族人と言う。河北の士人は二三十世と雖もなお從伯從叔と呼ぶ。梁武帝嘗て一中土人に問う、「卿は北人、何ぞ族有るを知らざる」と。答えて曰く、「骨肉疎遠し易し、族と言うに忍びず」と。時に敏捷の對答と爲すと雖も、禮に於いて未だ通ぜず。我嘗て周底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた讓に問う、「父母の中外姊妹は何とか稱呼せん」と。周曰く、「亦丈人と呼ぶ」と。古より以來、丈人の稱の婦人の身上に用いらるるを見ず。我が親表の行う所は、若し父黨なれば則ち某姓姑と稱し、母黨なれば則ち某姓姨と稱す。中外丈人の婦は、猥俗丈母と呼び、士大夫は王母・謝母等と稱す。而るに《陸機集》に長沙の顧母に與うるの書有り。乃是れ其の從叔母なり。如今行われず。齊朝の士子皆祖底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた射を呼んで祖公と爲し、全く關涉有るを嫌わず、甚だしきは當面以て相戲するに至る。古時は名は以て體を正し、字は以て德を表す。名終れば則ち之を諱み、字は卻って以て孫の氏と爲すべし。孔子の弟子の事を記するに皆仲尼と稱す。呂后微賤の時、嘗て高祖を字して季と爲す。漢朝の袁種は其の叔父を字して絲と爲す。王丹侯霸の子と言うに、霸を字して君房と爲す。江南今に至るまで字を諱まず。河北の士人は全く分辨せず、名も亦字と呼び、字固より因りて字と呼ぶ。尚書王元之兄弟は皆名人と號稱す。其の父は名を雲字を羅漢とす。一概に避諱す。其の餘怪しむに足らず。《禮・間傳》に曰く、斬衰の哭は去りて返らざるが如く、齊衰の哭は去りて返る能うが如く、大功の哭は三曲して餘音有り、小功緦麻は哀容有れば可なり。此れ哀聲音より發するなり。《孝經》に曰く哭偯せず、皆哭に輕重質文の聲有るを論ず。禮は哭にして言有るを以て號と爲す。然れば則ち哭も亦辭有り。江南の喪哭は哀訴の話有り。山東の重喪は則ちただ蒼天を呼び、期功以下は則ちただ痛深を呼ぶ。便ち號にして哭せざるなり。江南およそ重喪に遭えば、若し相知の城邑に同在せるは、三日弔わざれば則ち之と交を絶つ。喪を除くの後相遇うと雖も之を避く。其の己を哀憫せざるを怨むなり。事故及び道路遙遠有る者は、書を致せば可なり。書なくも亦絶交の如し。北俗は則ち此の如くあらず。江南およそ喪を弔う者は、主人の外識る者なくんば手を執らず。輕服を識りて主人を識らざれば、會所に弔せず、日を改めて名を通じて其の家に至る。陰陽家に曰く、辰は水墓にして又土墓なり。故に哭するを得ず。王充《論衡》に曰く、辰日は哭せず、哭せば則ち再び喪有り。如今敎養なき人は、辰日喪有れば、輕重を問わず、全家清靜にして敢えて聲を發して弔客を辭謝せず。道書又曰く、晦日歌い朔日哭くは皆當に罪有るべく、天其の壽を奪う、と。喪家の朔望は哀感更に深し。豈に壽を惜しみて哭せざるべけんや。亦偏旁の書を論ぜず。死に歸煞有りて、子孫逃竄して家に在るを肯ぜず、瓦を畫き符を書して諸般の厭勝を作し、喪の出る日門前に火を燒き戶外に灰を列ね、家鬼を祓送し注連を章斷す。およそ此の類は人情に近からず。乃是れ儒雅の罪人、彈議の加うべき所なり。已に孤たりて歲を履み長至の節に及べば、父なければ則ち母・祖父母・世叔父母・姑・兄姊を拜する時皆哭泣す。母なければ則ち父・外祖父母・舅姨・兄姊を拜するも亦此の如し。此れ人情なり。江左の朝臣の子孫、纔に服を除きて二宮に朝見するに、皆當に泣涕すべし。二宮之が爲めに容を改む。頗る膚色豐澤にして哀感なき有り。梁武其の爲人を輕んじ、多く抑退せらる。裴政服を出でて武帝を問訊す。貶瘦枯槁し涕泗滂沱たり。武帝目を送りて之に曰く、「裴之禮死せず」と。雙親すでに歿せば、居る所の齋寢は、子と婦忍びて入らず。北朝頓丘の李構の母劉氏夫人死するや、住する所の堂は終身鎖閉し、開き入るに忍びず。夫人は宋の廣州刺史纂の孫女なり。故に李構なお江南の風教に沾染す。其の父獎は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた州刺史を作し、壽春を鎮守して害に遇う。李構嘗て王松年・祖孝徵數人と同じく集まり談底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたするに、孝徵善く畫き、紙筆に遇うて人の爲めに像を畫く。有頃にして鹿尾を割くに因り、戲れに畫人を截てて李構に看せしむ。竝びに他意なし。李構愴然として色を動かし、便ち起ち馬に上りて去る。滿座驚駭して、其の心情を測り得ず。祖君隨後に醒悟して、乃ち深く安んぜざるを感ず。當時能く此の一層に感觸する者少なかりき。吳郡の陸襄の父閑は刑に處せらる。襄終身布衣蔬飯、姜菜の切割有るも皆忍びて食わず。家に居りてただ掐摘を以て厨に供す。江陵の姚子篤の母燒死せらる。終身炙を食うに忍びず。豫章の熊康の父醉に因り奴に殺せらる。終身再び酒を嘗めず。然れども禮は人情に緣り、恩は義に由りて斷ず。親人若し噎死せば、亦食を絶つべからず。《禮經》に曰く、父の遺書・母の杯圈、その手口の澤を感じて讀み用いるに忍びず。是れ常に講習し讐校繕寫し及び額外の服用する所、痕迹有りて思念すべきのみ。若し尋常の墳典・爲生の雜物ならば、豈に能く皆廢せんや。すでに讀み用いず、散逸を容れず、ただ當に封存して後世に留め遺すべし。思魯等の第四舅母は吳郡張建の女なり。第五妹有り、三歳にして母を喪う。靈牀上の屏風は平生の舊物、屋漏れて沾濕し、持ち出でて曝曬す。女子一たび見れば牀に伏して流涕す。家人其の起たざるを怪しみ、便ち往きて抱持すれば、薦席皆濕り、精神傷慟して飲食する能わず。持ち去りて醫に問えば、醫脈を診て曰く腸斷えたり、此に因って數日血を吐きて亡くなりぬ。中外憐惜して悲歎せざる莫し。《禮記》に曰く忌日樂しまず、正に是れ感慕罔極・惻愴無聊なるがゆえに、外賓を接せず衆務を理せざるなり。若し能く眞に悲慘して自處せば、何必に深く藏るるに限らん。世人或いは深室に端坐して言笑を妨げず、甘美を盛んに營み齋食を厚く供し、急卒密戚至交迫るも、全く相見るの理なし。蓋し禮意を知らざるなり。魏世王修の母社日に亡す。來年社日に王修感念哀甚だしく、鄰里聞きて此が爲めに社を罷む。如今雙親喪亡し、偶々伏臘分至の節及び月小晦後に值い、忌日の外に經る此らの日は、還た應に感慕すべく、其の餘の日と同じからず。飲底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたに參與せず、聲樂を聞かず及び出遊せず。劉縚・緩・綏兄弟は皆名器なり。其の父の名は昭、一生照の字を寫さず、ただ《爾雅》に依りて火旁に召を作す。然れどもおよそ文字の正諱に相犯するは、自ら當に避くべし。其の同音異字は、悉く此の如くすべからざるなり。劉の字の下に即ち昭の音有り。呂尚の子若し「上」となさざれば、趙壹の子儻も「一」と作さざれば、便ち一下筆すれば妨げ、一書寫すれば諱に觸るるなり。嘗て甲設底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた席を設けて乙を賓と爲すに、早朝公庭に乙の子を見て、之に問うて曰く、「尊侯早晚寒宅に光臨せん」と。乙の子其の父すでに去りぬと言う。時に以て笑柄と爲す。此の如き比例は、類に觸れて謹慎し、輕脫に陷るべからず。江南の風俗、兒生まれて一周歲、其の爲めに新衣を作り盥浴裝扮す。男は弓矢を以てし

紙筆女則刀尺針縷並加飲食之物及珍寳服玩置之兒前觀其發意所取以驗貪廉愚智名之為試兒親表聚集致防享焉自茲已後二親若在每至此日嘗有酒食之事耳無教之徒雖已孤露其日皆為供頓酣暢聲樂不知有所感傷梁孝元年少之時每八月六日載誕之辰常設齋講自阮修容薨歿之後此事亦絶人有憂疾則呼天地父母自古而然今世諱避觸途急切而江東士庶痛則稱禰禰是父之廟號父在無容稱廟父歿何容輒呼蒼頡篇有倄【下痛交切聲也】字訓詁雲痛而謼也【謼人故反】音羽罪反今北人痛則呼之聲類音於來反今南人痛或呼之此二音隨其鄉俗並可行也梁世被系劾者子孫弟侄皆詣闕三日露跣陳謝子孫有官自陳解職子則草屩粗衣蓬頭垢面周章道路要執事叩頭流血申訴寃枉若配徒諸子並立草菴於所署門不敢迎宅動經旬日官司驅遣然後始退江南諸憲司彈人事事雖不重而以教義見辱者或被輕系而身死獄戸者皆為怨讐子孫三世不交通矣劉洽為御史中丞初欲彈劉孝綽其兄溉先與劉善苦諫不得乃詣劉涕泣告別而去兵防戰危非安全之道古者天子喪服以臨師將軍鑿防門而出父祖伯叔若在軍陣貶損自居不宜奏樂防防及婚冠吉慶事也若居圍城之中憔悴容色除去飾玩常為臨深履薄之狀焉父母疾篤醫雖賤雖少則涕泣而拜之以求哀也梁孝元在江州嘗有不豫世子方等親拜中兵叅軍李猷四海之人結為兄弟亦何容易必有志均義敵令終如始者方可議之一爾之後命子拜伏呼為丈人申父友之敬身事彼親亦宜加禮比見北人甚輕此節行路相逢便定昆季望年觀貌不擇是非至有結父為兄托子為弟者昔者周公一沐三握髮一飯三吐餐以接白屋之士一日所見七十餘人晉文公以沐辭竪頭須致有圖反之誚門不停賓古所貴也失教之家閽寺無禮或以主君寢食嗔怒拒客未通江南深以為恥黃門侍郎裴之禮號善為士大夫有如此輩對賓杖之其門生僮僕接於他人折旋俯仰辭色應對莫不肅敬與主無別也

紙筆、女は刀尺針縷を以てし、竝びに飲食の物及び珍寶服玩を加え、兒の前に置きて其の發意の取る所を看て、以て貪廉愚智を験す。名づけて試兒と曰う。親表聚集して、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた享を致す。此より以後、雙親若在れば、此の日に至る每に嘗て酒食の事有り。敎養なき人は、すでに孤露すると雖も、此の日皆供頓を設け酣暢して聲樂し、感傷する所有るを知らず。梁孝元の少年の時、八月六日載誕の辰に逢う每に、常に齋講を設く。阮修容薨歿して後、此の事も亦止む。人憂疾有れば則ち天地父母を呼ぶ。古より此の如し。今世の諱避は處處急切なるに、江東の士庶は痛めば則ち禰と稱す。禰は父の廟號なり。父在らば廟を稱するを容れず、父歿すれば又豈に動もすれば呼叫するを容れんや。《蒼頡篇》に倄【下に痛交切、是れ聲なり】の字有り。訓詁は痛みて呼ぶ【謼、人故反】と曰い、音は羽罪反。如今北人痛めば則ち此を呼ぶ。《聲類》は音于來反。如今南人痛めば或いは此を呼ぶ。此の二音は鄕俗に隨うて皆可なり。梁世に拘囚彈劾せらるる者有れば、子孫弟姪皆闕下に三日到り、露跣して陳謝す。子孫に官有る者は自ら陳請して職を解く。兒子は則ち草鞋粗衣・蓬頭垢面して、道路に周章し、底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた執事を攔み、頭を叩き血を流して冤枉を申訴す。若し配徒底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われたせらるれば、諸子皆官署の門口に草庵を立て、敢えて家に歸らず、動もすれば旬日を經過して、官司驅遣して然る後に乃ち退く。江南の諸憲司の人を彈するに、事雖も重ならざれど、敎義を以て辱を見せらるれば、或いは輕囚にして身獄戸に死する者、皆怨讎と結び、子孫三世交通せず。劉洽御史中丞を爲して、初め劉孝綽を彈劾せんと欲す。其の兄溉先に劉と交好するに、苦諫するも得られず、便ち劉の所に至り涕泣して別を告げて去る。兵底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた戰危にして、安全の道にあらず。古者天子は喪服を著て師に臨み、將軍は底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた門を鑿ちて出づ。父祖伯叔若し軍陣に在らば、自ら貶損して、樂を奏し底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた及び婚冠吉慶の事を宜とせず。若し圍城の中に居れば、容色憔悴し、飾玩を除去し、常に臨深履薄の樣子を作す。父母病重ければ、醫生雖も低賤年少なりとも、亦涕泣して拜して哀を求む。梁孝元江州に在る時嘗て病み、世子方等は親ら中兵參軍李猷を拜す。四海の人兄弟と結ぶ、又豈に易きや。須く志均しく義敵り、終を令しく始の如くする者あらば、乃ち以て商議すべし。一旦結拜の後、兒子をして拜伏せしめ、丈人と呼ばしめ、父執に對する敬を申述す。自身彼の雙親に事えるも、亦當に禮を加うべし。近く北人の此の一節を輕視するを見るに、行路相逢えば便ち昆季を定め、年を看て貌を觀て是非を擇ばず、甚だしきは父を結びて兄と爲し子を託して弟と爲すに至る。昔周公は一沐して三たび髮を握り、一飯して三たび哺を吐きて、以て白屋の士に接待す。一日の見る所七十餘人。晋文公は沐浴を以て豎頭須を辭して、圖反の譏誚有るに致る。門に賓を停めざるは、古人の貴ぶ所なり。敎を失う家は門を看るに禮無く、或いは主君の寝食嗔怒に因りて客を拒み通ぜず。江南深く以て恥と爲す。黃門侍郎裴之禮は士大夫を爲るに善しと號稱し、此の如き人に遇えば、賓客に當って之を杖責す。其の門生僮僕の他人に接待するや、折旋俯仰・辭色應對、肅敬ならざる莫く、主人と分別なし。

慕賢篇第七

慕賢篇第七

古人云千載一聖猶旦暮也五百年一賢猶比膊也言聖賢之難得防闊如此儻遭不世明達君子安可不攀附景仰之乎吾生於亂世長於戎馬流離播越聞見已多所值名賢未嘗不心醉魂迷嚮慕之也人在少年神情未定所與欵狎燻漬陶染言笑舉動無心於學潛移暗化自然似之何況操履藝能較明易習者也是以與善人居如入芝蘭之室久而自芳也與惡人居如入鮑魚之肆久而自臭也墨翟悲於染絲是之謂矣君子必慎交遊焉孔子曰無友不如己者顔閔之徒何可世得但優於我便足貴之世人多蔽貴耳賤目重遙輕近少長周旋如有賢哲每相狎侮不加禮敬他鄉異縣微借風聲延頸企踵甚於飢渴校長短核精麤或彼不能如此矣所以魯人謂孔子為東家丘昔虞國宮之竒少長於君君狎之不納其諫以至亡國不可不留心也用其言棄其身古人所恥凡有一言一行取於人者皆顯稱之不可竊人之美以為己力雖輕雖賤者必歸功焉竊人之財刑辟之所處竊人之美鬼神之所責梁孝元前在荊州有丁覘者洪亭民耳頗善屬文殊工草孝元書記一皆使之軍府輕賤多未之重恥令子弟以為楷法時雲丁君十紙不敵王襃數字吾雅愛其手跡常所寳持孝元嘗遣典籖惠編送文章示蕭祭酒祭酒問雲君王比賜書翰及寫詩筆殊為佳手姓名為誰郍得都無聲問編以實答子云嘆曰此人後生無比遂不為世所稱亦是竒事於是聞者少復刮目稍仕至尚書儀曹郎末為晉安王侍讀隨王東下及西臺陷歿簡牘湮散丁亦尋卒於州前所輕者後思一紙不可得矣侯景初入建業臺門雖閉公私草擾各不自全太子左衛率羊侃坐東掖門部分經畧一宿而辦遂得百餘日抗拒凶逆於時城內四萬許人王公朝士不下一百便是恃侃一人安之其相去如此古人云巢父許由讓於天下市道小人爭一錢之利亦已懸矣齊文宣帝即位數年便沈湎縱恣畧無綱紀尚能委政尚書令楊遵彥內外清謐朝野晏如各得其所物無異議終天保之朝遵彥後為李昭所戮刑政於是衰矣斛律明月齊朝折沖之臣無罪被誅將士解體周人始有吞齊之志闗中至今譽之此人用兵豈止萬夫之望而已也國之存亡系其生死張延雋之為晉州行臺左丞匡維主將鎮撫疆場儲積器用愛活黎民隠若敵國矣群小不得行志同力遷之既代之後公私擾亂周師一舉此鎮先平齊亡之跡啟於是矣

古人に曰く、千年に一の聖人出づ、なお朝より夕に至るが如く、五百年に一の賢人出づ、なお肩を摩するが如し。是れ聖賢の難得なるを言う底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた闊此の如し。儻も世に少有の明達君子に遇えば、何ぞ攀附景仰せざるを得んや。我は亂世に生まれ、戎馬に長じ、流離遷徙して、見聞すでに多し。遇う所の名賢に、未だ嘗て心醉魂迷して向慕せざるはなし。人少年に在りては神情未だ定まらず、交好狎昵する所は、熏漬陶染して、言笑擧動學ぶ心なく、潛移暗化して自然相肖たり。況んや操守藝能の比較的明顯にして習成し易きをや。故に善人と居れば、芝蘭の室に入るが如く、久しくすれば己も亦香し。惡人と居れば、鮑魚の肆に入るが如く、久しくすれば己も亦臭し。墨翟の染絲の爲めに悲しむは、即ち此の意なり。君子は須く交遊を謹むべし。孔子に曰く、「己に如かざる者を友とする勿れ」と。顏回・閔損の如き人は、何の世か遇うべき。ただ我に優れば則ち以て重んずるに足る。世人多く蒙蔽有り。耳を貴び目を賤し、遠を重んじ近を輕んず。少小より俱に周旋するに、若し賢哲有れば、每々相狎侮して禮敬を加えず。他鄉異縣に稍々風聲を藉れば、便ち頸を延べ踵を企てて、飢渴よりも甚だし。長短を比較し精粗を考核すれば、或いは對方能く此の如くならざるなり。故に魯人孔子を以て東家丘と呼ぶ。昔虞國の宮之奇は少より國君の身邊に長じ、國君之を狎昵して其の諫を納れず、亡國に至る。留め心すべからざるなり。其の言を用いて其の人を棄つるは、古人の恥とする所なり。およそ一言一行の人に取る所有れば、皆顯明に稱說して、人の美を竊みて以て己の力と爲すべからず。輕賤に雖も必ず功を歸すべし。人の財を竊むは刑辟の處置する所、人の美を竊むは鬼神の責むる所なり。梁孝元昔荆州に在りて、丁覘と曰う者有り。ただ洪亭の民に過ぎざるに、甚だ文章を作るに善く、殊に草に工み底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた。孝元の書記は一概に彼に爲さしむ。軍府彼を輕賤し、多く重んぜず、子弟をして彼を以て楷法と爲さしむるを恥とし、當時曰く、「丁君十紙は王褒數字に敵せず」と。我甚だ其の手迹を愛して、常に珍藏す。孝元嘗て典簽惠編を遣はして文章を蕭祭酒に送りて看せしむ。祭酒問う、「君王近來賜う所の書翰及び寫す所の詩筆、手筆殊に好し。姓名は誰ぞ、何ぞ皆聲問無き」と。惠編實に據りて答う。蕭子雲歎じて曰く、「此の人後生比無し。竟に世の稱する所と爲らざるは、亦奇事なり」と。是に於いて聞く者稍々刮目し、漸く尚書儀曹郎に至り、末に晋安王侍讀を爲りて、王に隨い東下す。西臺陷沒するに及んで、簡牘湮散し、丁も亦久しからずして底本の此の字は生僻字で、轉録後に失われた州に卒す。從前之を輕視せし者、後に一紙を得んと欲するも得べからざりき。侯景初め建業に入るに、臺門雖も關閉するも、公私驚擾して、各々自ら全うする能わず。太子左衛率羊侃は東掖門に坐鎮して、部分經略し、一宿にして辦妥す。是に於いて能く凶逆を抗拒すること百餘日。當時城內四萬來人、王公朝士百を下らず、便ち侃一人に靠りて彼らを安んず。相去此の如し。古人に曰く、巢父・許由天下を讓り去り、市道小人一錢の利を爭う。亦すでに懸殊なり。齊文宣帝即位數年にして便ち沈湎縱恣し、全く綱紀無し。なお能く政事を尚書令楊遵彥に委託して、內外清謐にして朝野安然、各々其の所を得、物異議なく、天保一朝を終えたり。遵彥後に孝昭に戮せられ、刑政是に於いて衰ゆ。斛律明月は齊朝折衝の臣にして、罪なくして誅せらる。將士解體し、周人始めて齊を呑まんの志有り。關中今に至るまで彼を稱譽す。此の人の用兵は豈に萬夫の望のみならんや。國の存亡は其の生死に係る。張延雋晋州行臺左丞を爲して、主將を匡維し、疆場を鎮撫し、器用を儲積し、黎民を愛活す。隱然として一敵國の若し。群小志を行うを得ず、合力して彼を遷し去る。すでに代えられて後、公私擾亂し、周師一擧にして此の鎮先に平ぐ。齊の亡ぶるの迹は、此より開啓す。

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