四庫全書総目提要
象を明らかにして諸家の得失を辨ず
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
(臣)等謹案:《易學濫觴》一卷,元黃澤撰。澤字楚望,資州人,家於九江。大德中嘗為景星書院山長,又為東湖書院山長,年逾八十乃終。故趙汸生於元末,猶及師事之,其《易》與春秋之學皆受之於澤者也。澤垂老之時,欲注《易》、《春秋》二經,恐不能就,故作此書及《春秋指要》發其大凡。卷首有延佑七年吳澄題詞。據其所言,二書葢合為一帙。今《春秋指要》亦無傳本,惟此書僅存。朱彝尊《經義考》載此書,注曰:「已佚」,則彝尊亦未及見,知為稀覯之本矣。
臣等は謹んで査考する:《易学濫觴》一巻は、元代の黄沢が撰述したものである。黄沢は字を楚望といい、四川資州の人で、後に家を江州九江に移した。元成宗大徳年間、かつて景星書院の山長(書院主講)に出任し、後にまた東湖書院山長を務め、八十を超えてから没した。それゆえ元朝末年に生まれた趙汸でさえ、なお彼に師事するに及んだ。趙汸の《周易》と《春秋》の二門の学問の造詣は、いずれも黄沢から承け継いだものである。黄沢は衰老の年に至り、もとより《周易》《春秋》の二部の経書に注を作ろうと欲したが、生きているうちに成し遂げられないことを恐れ、このため先にこの書ともう一部の《春秋指要》を著して、二部の注書の大綱要旨を先に掲示した。この書の巻首に元仁宗延祐七年の呉澄が書いた題詞がある。呉澄の説によれば、《易学濫觴》と《春秋指要》はもとより合訂して一帙としたものであった。今や《春秋指要》はすでに伝本がなく、ただこの一部の書のみが保存されている。清人の朱彝尊は《経義考》の中にこの書を著録し、下に「已佚」の二字を注している。朱彝尊でさえもかつて親ら目にしたことがないことが見え、足りてそれが極めて稀な珍本であることを知る。
其說《易》以明象為本,其明象則以《序卦》為本,其占法則以《左傳》為主。大旨謂王弼之廢象數,遁於元虛;漢儒之用象數,亦失於繁碎。故折中以酌其平。其中歴陳《易》學不能復古者,一曰:“《易》之名義”,一曰:“重卦之義”,一曰:“逆順之義”,一曰:“卦名之義”,一曰:“卦變之義”,一曰:“卦名”,一曰:“《易》數之原”,一曰:“《易》之詞義”,一曰:“《易》之占詞”,一曰:“蓍法”,一曰:“占法”,一曰:“序卦”,一曰:“脫誤疑字”,凡十三事。持論皆有根據。雖未能勒為全書,而發明古義,體例分明,已括全書之宗要。因其說而推演之,亦足為說《易》之圭臬矣。
黄沢が《周易》を講ずるは、卦爻の「象」を闡明することを根本とし、象を闡明せんとするにはまた《序卦伝》を根本とする。占筮の法に至っては、《左伝》に載る筮例を主要な依拠とする。その大旨は:王弼が象数を廃棄した結果、玄虚の一路に逃れ込んだ。漢代の儒者は象数を用いたが、またそれを瑣碎支離に失した。それゆえ彼は両家の間に折中して、持平の路数を斟酌して出した。書中は逐条に後世の《易》学が古法を回復し得ないところを列挙する:一は「《易》の名称義訓」、二は「重卦の道理」、三は「逆数順数の道理」、四は「卦名の取る義理」、五は「卦変の法」、六は「卦名の起源」、七は「《易》数の本原」、八は「《易》辞の義理」、九は「《易》の占辞」、十は「揲蓍の法」、十一は「占断の法」、十二は「《序卦》」、十三は「文字脱漏訛誤の疑難字」で、計十三件である。持する議論はみな根拠がある。この書は一応の完整的な著作を成すに至らなかったが、古人の本義を発明し、体例は清楚分明で、すでに全書の宗旨要領を包み含んでいる。彼の説に順って推演を加えれば、また足りて《周易》を解説する準縄とすることができる。
乾隆四十六年十月恭校上
乾隆四十六年十月、臣等は恭敬に校勘を畢え、皇上の御覧に進呈した。
呉澄題詞
楚望夫子之注經,其志可謂善矣。《易》欲眀象,《春秋》欲明書法,蓋將前無古、後無今,特出其所得之大概示人,而全注未易成也。每以家貧年邁,弗果速成其注為,嗟世亦有仁義之人,能俾遂其志者乎?予所不能必也。道之行與,命也!愛莫助之,永嘆而巳。延佑第七立秋之後四日,臨川吳澄書於《易學濫觴》、《春秋指要》之卷端。
楚望先生黄沢が経書に注を作る、その志はまことによいと言うべきである。彼が《周易》を解くに卦爻の象を闡明せんとし、《春秋》を解くに筆削書写の義例を闡明せんとする、その気魄の大なるは、ほとんど前人の未だ言わざるところ、後人もまた言い難いところである。今やただ自己の得たる大略を先に取り出して世人に見せるに過ぎず、二部の完整的な注本に至っては、実に成し易からざるものである。彼は常に家境の貧しさ・年事已に高いを以て、注を急いで完えんとするに及ばぬことを患えた。ああ、世上に豈に仁義を講ずる人ありて、肯んじ力を出して彼のこの一願を了すを助けんや。この一点は私敢えて断定しない。大道の世上に通行し得るか否かは、天命である。私は心に惜しむといえども、助けることができず、ただ長嘆するのみである。延祐七年立秋後第四日、臨川人呉澄が《易学濫觴》《春秋指要》両書の巻首に書いた。
象学の源流と忘象の説
說《周易》者,自漢諸儒至虞翻,是欲明象,去聖已逺,象學不易明,遂流於煩瑣,或渉支離誕漫,學者亦已厭之。故王輔嗣岀,而創為忘象之論,盡棄諸儒之說,其文高潔,足以動人。自是以來,學者宗其說,與象相忘矣。至伊川先生又據《易》以明理,理明而象數稍逺。其後說《周易》者,皆務明經,多不專守師說,晦庵之於程、張,蔡節齋之於晦庵,徐幾、劉彌劭之於節齋,皆時有異同,各出新意,比之漢魏諸儒各主一師、黨同伐異者,大不侔矣。
《周易》を解説する人は、漢代の衆儒者から三国呉人の虞翻に至るまで、本意はみな卦爻の「象」を闡明せんとした。ただ聖人の《易》を作した時代からの距離がすでに遠く、象学は講じ明らかにし難く、ここにおいて講ずれば講ずるほど煩瑣となり、あるものは支離荒誕・漫然として辺際なきにまで牽扯するに至り、読書人もまた早くからこれを厭倦していた。それゆえ王弼(字は輔嗣)が出て、「忘象」の主張を創立し、漢儒各家の説を一概に抛開した。その文辞は高簡浄潔で、甚だ人の心を打つことができた。それ以後、学者は皆彼のこの一説を尊奉し、「象」を徹底的に忘れて一辺に置いた。程頤(世に伊川先生と称す)に至り、また《周易》に依拠して義理を闡発し、義理は講じ明らかになったが、象数はかえって更に遠ざかった。此後《周易》を解説する人は、みな経義を講じ通ずることに力を致し、多くはもはや一家の師伝を死守しなかった:朱熹の程頤・張載に対し、蔡淵(号は節斎)の朱熹に対し、徐対し、徐幾・劉弥劭の蔡淵に対するは、みな時々異なる意見を有し、各自新解を提出した。漢魏諸儒の各々一位の師長を奉じ・党同伐異する風気に比べて、すでに大いに異なっている。
象學之廢,自周末至今,千有七百年。伊川雖主於理,晦庵雖主於占,然世之學《易》者,皆知《易》當明象,故雖精粹如朱程學者,終未免各悉其心志。自茲以往,象學焉知其不可復歟!
象学の荒廃は、周朝末年から算して今日に至るまで、すでに一千七百年である。程頤の《易》を講ずるは義理を主としたといえども、朱熹の《易》を講ずるは卜筮を主としたといえども、しかるに世上《易》を学ぶ人はみな《易》は本来卦爻の象を講明すべきことを明らかに知る。それゆえ程・朱二家のような精粹の学者でさえも、終にこの上に各々心思を竭くすことを免れなかった。今より以後、またどうして象学は必ず回復不可能と断定し得ようか!
澤年十七始,熟復《繫辭》,既又讀《左傳》,疑於艮之八及諸占法,蓋探索之勞積四十餘年,至今猶未有釋然者,然無所不盡其思矣。大徳三年,於《易》象始有所悟,又積十數年,大槩得其五六,由是始具藁。又積十年,乃稍得其節目。
我が黄沢は十七歳より、すなわち反復して《繋辞伝》を熟読し、続いて《左伝》を読み、その中の「艮之八」という類の筮例と各種の占法に疑問を生じた。このように苦心して探索する功夫は累積して四十余年、今日に至るまでなお解き開かれざるところがあるが、凡そ想到し得る路数はすでに想い尽くした。元成宗大徳三年、私は《易》象に就いて始めて領悟あるを得た。此後また十余年を累積し、大致十分の五六を弄通し、ここにおいて初めて手を動かして稿本を起草した。さらに十年を累積して、方にその中の条目細節を少し理して頭緒を出した。
然所悟深者,大抵不入藁而存諸心。方其勞心苦志也,若神明晝夜役使之者。及其悟也,則如天開其愚、神啟其秘。凡西漢以來至近代諸儒,鑚研而不可得者,始有芽櫱之漸。若更益以十年之功,則十可得其七八,雖未必盡能全復舊物,然比之王輔嗣創為忘象之髙談以絶後人之用心者,其得失相去逺矣。
しかるに領悟最も深きものは、大抵は稿に写し入れず、ただ心中に存放するのみ。苦心して心を用いるとき、あたかも神明が日夜私を駆使するがごとく、豁然として領悟するに及んでは、またあたかも上天が私のために愚蒙を開き・神霊が私のために秘蔵を掲開するがごとし。凡そ西漢以来近代の衆儒者が鑽研して得られざるところに至るまで、これにて始めて発芽抽条の苗头あり。倘若さらに十年の功夫を加えれば、十分の中に大概七八分を得べし。未だ必ずしも古法を完全に原様に回復し得ずといえども、しかし王弼の「忘象」の高談を創立して後人の心思を一挙に堵死せしめたるに比べれば、得失の間の相差は太も遠い。
夫小有所得而言,則失之淺;未有所得而言,則失之妄;有所得而畧不言,則失之隱;急而言之,則失之躁;易而言之,則失之玩;決意而以身任之,則失之不讓;能苦思而不能為聖經發揚,則亦失之不忠;可與言而不言,則又失之闇;著書二十年而殊無知者,則亦失之沈晦。凡此類者,當斟酌而處之。
稍々一点の心得あれば急いで言い出すは、毛病は浅薄にあり。根本未だ心得なくして口を開くは、毛病は妄誕にあり。確かに心得ありて一句も言わざるは、毛病は隠匿にあり。急匆匆として言うは、毛病は浮躁にあり。軽易随便に言うは、毛病は軽慢にあり。一意孤行し・自身を拿てこの門の学問を承当するは、毛病は不謙譲にあり。能く苦思冥想するも聖人の経書の為に発揚光大し得ざるは、毛病は不忠にあり。之と交談し得べき人に遇いて談ぜざるは、毛病は昏昧にあり。著書二十年にして竟に一人も知る者なきは、毛病はまた過度に沉埋晦暗にあり。凡そこの類の分寸に属するは、皆反復斟酌した後に乃ち決定して如何に做るべきかを得べし。
此澤之所以難乎?其為人也,且素無聲譽,而自負獨重,則人亦不復相即。若混俗無別,則人又褻而視之。斯末俗之弊,所以使人日就衰老,而此心未得暴白於世者,此非獨澤孱懦無力量之過,亦世之好古者希故爾。夫汲汲焉求知於世者,非也;窮居陋巷,而愛惜所學、深懼人知者,亦非也。蓋古之君子盡其在已,而聽其在天,故復為此卷,以為二注先容焉。
これがすなわち我が人となりの為の難きところであろうか?何况私は向より何等の名声なく、自負はまた特に重く、人家もまた肯んじ親近せず。若し随波逐流し・俗人と混同して分別なければ、人家はまた軽慢を以て私を看待す。これ正に末世風気の弊病、人をして一天天衰老せしめ、而してこの一片の苦心は始終未だ世人に向かって表白し得ざるなり。これは単に私が怯懦無力の過錯にあらず、亦当世に古学を喜好する人の太少きに因る。急切に処処人の賞識を求むるは、固然として対ならず。陋巷に窮居し、自己の所学を極宝貝と看待して人の知るを生怕するは、同じく対ならず。古時の君子は、ただ自己の分内の事を做尽すのみ、成るか成らざるかに至っては、則ち天意に聴憑す。それゆえ私はまたこの一巻の書を写し、《周易》《春秋》二部の注本の為に先に一個の引薦を做る。
《序卦》の象最大
學《易》者,當明象,此確然不易之論。但象不可明,故忘象之說興;忘象之說興,而象學遂廢,亦可嘆已。夫忘象,非王氏得已之言也。王氏不得已而言之,諸儒亦不得已而從之。使象學若可明,則諸家何苦不從,而乃從此不得已之論乎?
《易》を学ぶ人は当に卦爻の象を講明すべし、これは確鑿として動揺し得ざる定論なり。只だ象が講じ明らかにし得ざるに因り、「忘象」の説法才ただ興起す。「忘象」の説が一たび興れば、象学も亦跟着して廃掉す、これ実に嘆くべし。要して之れを暁るべし、「忘象」は王弼が心甘情願して説出せる話に非ず:王弼は不得已にして始めてこの様に講じ、衆儒者も亦不得已にして彼に跟従した。仮使象学が本来便ち講じ明らかにし得れば、各家は何苦象を講ぜずして、反ってこの句の不得已の話に順従せんや。
然自王氏以來,凡學者皆疑於乾馬、坤牛之象。雷、風、山、澤、日、月之象,大而易見;而馬、牛之象,小而難知。故學者皆深契於王氏之言,而不知《易》之為象,其說不一。凡《易》之寓象,未有《序卦》之大而要切者。世人於此,皆不深究,何乃獨病於乾馬、坤牛之傅會,快心而棄擲之哉?
しかるに王弼以来、凡そ《易》を学ぶ人は、皆「乾為馬」「坤為牛」この一類の象上に疑を生ず。雷・風・山・沢・日・月これらの象は、体量大にして容易に見え、馬・牛これらの象は、体量小にして容易に知り難し。それゆえ学者は皆深く王弼のあの句話に服膺するも、却って《易》の説く象は其の取法が本来一種に止まらざるを知らず。凡そ《易》中に寄寓する象は、《序卦伝》の示す所より宏大・切要なるはなし。世人はこの一層に対して皆肯んじ深究せず、何を以て偏々「乾馬」「坤牛」の牽強附会を挑選して毛病を挑み、痛快に整個の象学を扔掉せんや。
夫所謂《序卦》之象最大者,謂乾坤定位而物始生物,生必蒙,蒙則當教,教則必養,不得其養則爭。此《易》必首乾坤,乾坤之後,次以屯、蒙、需、訟者,為此也。自此以徃,皆以夫子《序卦》之辭觀之,則可見:上經是開闢以來經制之象,下經是人道之首,正家以及天下之象;上經是因天地以寓人事,下經是因人事以明天地之道。
所謂《序卦伝》の象最も宏大なるとは、説く所は:乾坤両卦は天地の位を確定し、万物始めて生長す(屯)。万物の初生は必然蒙昧(蒙)。蒙昧なれば即ち教化を施すべし。教化を施せば必ず養育を要す(需)。養育を得ずんば則ち争奪を起す(訟)。これ正に《周易》が必ず乾・坤を以て開頭とし、乾坤の後に依次屯・蒙・需・訟を排せる縁故なり。此より以降は、皆孔子の《序卦伝》の文辞を拿て去看れば、便ち看出し得べし:上経の講ずるは開天闢地以来典章制度形成の象、下経の講ずるは人倫之始・一家を端正するより推及して天下を治理する象。上経は天地を借りて人事を寄寓し、下経は人事を借りて天地の道を闡明す。
所以必分上、下經者,上經以象先天;下經以象後天。上經始乾、坤而終坎、離者,祖先天之意也;下經始咸、恆而終於既、未濟者,《周易》序六子之意也。自屯、蒙而同人、大有,凡十二卦,而後六子備。所以然者,天地定而日月行,聖人興而大化著,至此而後,裁成輔相之功稍著故也。
必ず上下両経に分かつ所以は、上経は以て「先天」を象徴し、下経は以て「後天」を象徴するに因る。上経は乾・坤より開始して坎・離を以て收尾とするは、取る所は先天卦位の意思。下経は咸・恒より開始して既濟・未濟を以て收尾とするは、取る所は《周易》が震・巽・坎・離・艮・兌この「六子」を排列する意思。屯・蒙より一路数えて同人・大有に至るまで、共に十二卦、六子の象才ただ算えて斉備す。此の如く安排する所以は、天地既に定まりて而る後日月運行し、聖人興起して而る後大きな教化顕明す。この歩に至りて、天地の道を裁成し・天地の宜を輔助する功業才ただ稍々顕露出るなり。
同人、大有是開闢以來最盛,所以離體居後者,蓋以其能成天地最盛之功,使光輝昭著、品類繁盛,有目者其覩,故離體居後也。乾四徳而亨,居夏,長養萬物,亦此義雲。以其當最盛之世,故大有繼以謙。聖人於此寓意深矣!然此亦姑舉其要,以見大意,其詳亦莫能盡觀者。於此引而伸之,則於學《易》,豈小補乎?
同人・大有の両卦は、開天闢地以来最も興盛の局面を象徴す。離卦の体を後面に排せる所以は、離は能く天地間最も興盛の功業を成就し、光輝照耀して万類繁盛、凡そ眼晴ある人は皆見ること能わしむるを以てなり、因此離体は其の後に列す。乾卦の元・亨・利・貞四徳中の「亨」は夏令に当たり、万物を長養す、亦正にこの意思なり。正に最も興盛の世に処するに因り、それゆえ大有の後に緊接して一個の謙卦を排し、盛極は須く謙を以て自処すべき義を取る。聖人の此処に寄托する用意は深し!不過此処も亦只だ姑く綱要を挙出して、人をして大意を看見せしめるのみ。其中の細密の処は、誰も全く看尽し得ざるなり。就ち此処より引申し開けば、《易》を学ぶに対して、豈に只だ小小の補益なるのみならんや。
夫乾馬、坤牛,學者以為難知,而不知此於象學所繫尚小。又乾馬、坤牛尚可知,唯離為牛,則最難知。《左傳》曰:純離為牛。此已不可曉,而離卦辭曰:“畜牝牛,吉”,尤不可曉矣。若益以《說卦》坤為子、母牛,又可強通乎哉?澤於此,用心雖頗極,其精微,然猶不能無惑,故述於後學。
「乾為馬」「坤為牛」は、学者は難懂を覚えるも、却ってこれが整個の象学裏に関渉する所は還た小事を算するを知らず。何况乾馬・坤牛は尚且つ講じ通じ得るに、唯独「離為牛」は最も索解し難し。《左伝》裏に「純離為牛」と説く、これ已に費解たらしむ。而して離卦の卦辞は又「畜牝牛、吉」と説く、便ち更に費解なり。若し再び《説卦伝》の坤為子母牛と説くを加えれば、豈に還た勉强して講じ通じ得べしや。我はこの問題上に於て心を用いること不可謂不極尽精微するも、却って仍お疑惑なき能わず、それゆえ之を記下来して後学に留す。
《易》者,先其大而後其小,且知其難之,蓋有所在而不專在彼焉。上經首乾、坤,次以屯、蒙等卦,是從不易處說起。及終於坎、離,亦是不易。下經首咸、恆,是從變易處說起,至既、未濟,亦是變易。變易之中有不易者在,不易之中有變易者在。
《易》を読む路数は、先ず大処を抓み・後に小処を顧り、併せて真の難点は自ずから在所ありて、併に専ら「離為牛」この一類の小象上頭に在らざるを明白すべし。上経は乾・坤を以て開頭とし、接着して屯・蒙等の卦を排すは、「不易」の这一面(恒常不変の者)より説起す。一直到坎・離を以て收尾とするに至るまで、講ずるも還た是れ不易なり。下経は咸・恒を以て開頭とするは、「変易」より説起す。既濟・未濟を以て收尾とするに到るも、講ずるも還た是れ変易なり。変易の之中に自ずから不易の者在り、不易の之中にも亦自ずから変易の者在り。
天道人道と大象の取義
天道主於變,人道主於常。天道變中有常,人道常中有變。天道變而不可違乎常,人道常而不可不知變。所謂“天道主於變”者,如月令雷乃發聲,卻亦或先或後,又有非時之雷;如治日少而亂日多,盛衰興廢常出於意料之外;又如孔子不得位,顏子不幸短命;泰伯之賢不能得國,而有文王、武王之事;仲子非嫡也,而子孫有魯國,三桓由之而盛。此皆所謂變也。
天道は「変」を主とし、人道は「常」を主とす。天道変化の之中に自ずから常則あり、人道恒常の之中にも亦自ずから変化あり。天道は変するといえども、常則に違背する能わず。人道は常するといえども、応変を懂得せざるべからず。説く所の「天道変を主とす」とは、例えば《礼記·月令》が仲春に「雷乃発声」と定むるも、実際上は却って或は早く或は遅く、還た常に時令に合わざる雷あり。又たとへば天下太平の日子は少なく・動乱の日子は多く、盛衰興亡は往々人の意料を出ず。又たとへば孔子は終身君位を得ず、顔回は不幸にして短命にして死す。泰伯(呉太伯)あの様に賢徳なるも不曾に国を得ず、後来反って文王・武王の周室を開創する事あり。魯恵公の次妃仲子は正嫡に非ざるも、彼女の子孫は却って魯国を拠有し、季孫・叔孫・孟孫この「三桓」も亦此に由て興盛す。これらは皆所謂「変」なり。
人道,則君臣、父子、兄弟、夫婦、朋友有一定之倫,上下、貴賤有一定之分,居處、飲食、耕田、鑿井有一定之法,其應事接物必隨時制宜,雖是變,然大抵終不可踰越常理。此所謂“人道主於常”也。
人道に至っては、君臣・父子・兄弟・夫婦・朋友の間に一定の倫次あり、上下・貴賎の間に一定の名分あり、居住・飲食・耕田・凿井に一定の法度あり。人が事情を応付し・外物を接待するは固然として必ず随時因勢を以て定めざるべからず、これも亦変と算すべし、但し大体上は終に恒常の理を超越する能わず。これがすなわち説く所の「人道常を主とす」なり。
《周易》卦下辭六十四,孔子釋卦辭六十四;又大象六十四,為一百九十二爻,辭三百八十四,孔子釋之,是為小象,亦三百八十四。總此五者,為九百六十,益以用九、用六及乾、坤《文言》及《繫辭》所陳十一卦、九卦與其解頥之義,又《說卦》、《序卦》、《雜卦》及《春秋》內外傳所記筮占之法,凡千有餘事。
《周易》は每卦の下に卦辞あり、共に六十四条。孔子が卦辞を解釈する《彖伝》も亦六十四条。又《大象伝》六十四条あり:この三項は合して共に一百九十二条。六十四卦は共に三百八十四爻、爻辞三百八十四条。孔子が之を加釈するは、即ち《小象伝》にして、亦三百八十四条。これらの五項を総起来すれば、共に九百六十条。再び乾卦の「用九」・坤卦の「用六」を加え、及び乾・坤両卦の《文言伝》、還有《繋辞伝》裏の陳述する所の十一卦・九卦及び其の発明義理の話、又《説卦伝》《序卦伝》《雑卦伝》を加え、及び《左伝》《国語》の記載する筮占の法、総じて一千余条あり。
自漢魏諸儒以至近代邵康節、程先生、張橫渠、朱晦庵,各以所見發明,亦已得其大畧。義理之說,最為詳備,惟象學則猶未復古焉。其間固有易知者,亦有雖難知而先儒所說已暗合,但其大體既未能明,則雖總謂之未能復古,亦非過也。
漢魏の衆儒者より、一直到近世の邵雍(号は康節)・程頤・張載(世に横渠先生と称す)・朱熹に至るまで、各人は己の見る所に依りて発明を加え、也已に大概を得たり。義理を講ずる部分は最も詳尽完備にして、唯独象学は未だ古法を回復せず。此中間には固然容易明白の処あり、亦有りて難懂なるも前輩儒者の説く所が恰好にして古義に暗合するものあり。但し既然大体上は還た講じ明らかにし得ざれば、然らば籠統に象学は未だ復古せずと説くも、亦説き過頭と算せず。
惟大象示人以用《易》之道最為易曉,然歴觀舊注,猶有數處未合,況其它乎?即如需卦之“君子以飲食宴樂”可謂易知矣,所說終未盡。蓋水在天上,卻與“飲食宴樂”又何相關?若不從乾、坤、屯、蒙解來,實解不去。
只だ《大象伝》の人を教えて如何に《易》を用いるかは、最も容易明白なり。然而遍く旧注を看るに、仍お好幾処の講じ合わざるところあり、何况別の地方はや。就ち需卦《大象》の説く「君子以飲食宴楽」を拿て講ずれば、算えて容易懂の者なれども、前人は却って終に説透せざりき。需卦は上坎下乾にして、是れ水が天上にある象、これと「飲食宴楽」とは又た何の相干あらん。若し乾・坤・屯・蒙より一路順って《序卦》に沿りて講じ下来らざれば、実に講じ通ぜず。
大抵天地開闢以來,水生物之功為大,《洪範》水數一者,亦以其物之始故也。水本在地,今在天為雲少需,然後為雨及。既為雨,滋潤百榖、草木,而後動物得所養。凡飲食,未有不出於水泉及百榖、草木者,以其生物有漸,雖非朝夕之故,然亦朝夕可待,所以謂之需,乾坤賴此以養人。故聖人取其象,以“飲食宴樂”如此解,而後胷次釋然。此《序卦》之說所以不可易也。
大体上に説けば、自天地開闢以来、水の万物を生養する功労は最大なり。《尚書·洪範》の水を五行第一位に排せるも、亦正に它是万物之始なるが為なり。水は本来地上に在り、如今天上に升到して雲と為るは、須く稍々等待して然る後に乃ち化して雨と為りて落下す。既に雨と成れば、便ち百谷草木を滋潤し、動物は这才ただ養育を得たり。凡そ人の飲食は、泉水と百谷草木より出ざるはなし。その万物を生養するは一步步の来るを以て、雖不是一朝一夕の功なるも、却って亦朝夕の間に指望し得べし。それゆれ之を「需」(等待)と叫ぶ、天地は正に這個を靠て人を養う。それゆれ聖人はこの象を取り、《大象》を「飲食宴楽」と解作す。この様に講じ下来れば、胸中才ただ豁然開朗す。これがすなわち《序卦伝》の説法は更改し得ざる縁故なり。
六十四卦大象本顯然,需之象又自明白,說者尚不能透徹,況其它乎?其大象如“君子以治厯明時”、“君子以永終知敝”,則又非造次可議。屯物始生,蒙是養,所以需是飲食之道。雨自上降,然後生萬物;草木之味,實能養人;醴醪、酒漿、籩豆、俎實,皆出於此。此需所以為飲食。
六十四卦の《大象》は本来皆甚だ顕豁にして、需卦の象は又格外明白なれども、解説の人は尚且つ講透し得ず、何况別の卦はや。至於革卦《大象》「君子以治暦明時」・帰妹《大象》「君子以永終知敝」這一類の如きは、就更不是倉促之間に議論し得べき者なり。屯は万物の初生、蒙は養育、それゆれ接之する需は即ち飲食の道なり。雨は上面より降下し、然る後に万物を生出す。草木の滋味は、実実在在に能く人を養う。甜酒・濁酒・各様の酒浆、及び竹籩木豆裏の盛る所・俎案上の陳る所の祭品食物は、皆此処より出る。これがすなわち需卦が「飲食」を取て義と為す所以の道理なり。
《易》学の復古能わざる十三事
《易》象學迷失一千有七百餘年,漢儒及近代諸儒所說頗細碎,雖不可廢,然於大體未明,終無益也。但《易》之未易明者,非直象學。蓋義理之說,至伊川、晦庵,可謂精切粹美,而《易》之大義未能復古者,亦多有之。
《易》の象学の迷失は已に一千七百余年なり。漢代の儒者と近世の諸儒の講ずる所は、皆相当に瑣碎なり。一概に廃棄すべからずといえども、大体に於いて既に講じ明らかにし得ざれば、終に多少の用あることなし。但し《周易》のうち容易に講じ明らかにし得ざるは、象学の一項のみにあらず。義理を講ずるの一路は、程頤・朱熹に至りて、精切純美と謂うべし。然れども《周易》の大義の未だ古法を回復せざる所は、仍お多し。
如漢儒說《易》有三義,今人多只說“變易”,是《易》之名義未能復古一也。太極、兩儀、四象、八卦,得康節始為之發明,而重卦之義未有說以相通,是重卦之義未能復古二也。孔子稱:“《易》,逆數”,而今之《圖》乃是半順半逆,是逆順之義未能復古三也。
例えば漢代の儒者は「易」の字に三層の意ありと講じ、即ち簡易・変易・不易なり。今の人は大多ただ一個の「変易」を講ずるのみ、これ《易》の名称義訓の未だ復古せざること、其の一なり。太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ずるは、邵雍に至りて始めて之を闡発し出だせり。而して八卦より重ねて六十四卦と為るの道理は、今に至るまで一説も之と貫通するものなし、これ重卦の義の未だ復古せざること、其の二なり。孔子は《説卦伝》に「《易》は逆数なり」と曰えり。然るに今流伝の先天図は一半順推・一半逆推なり、これ逆順の義の未だ復古せざること、其の三なり。
卦名義無相犯者,如咸是“取女”,漸是嫁女,恆是夫婦、居室,歸妹是兄嫁其妹,而說者以歸妹是嫁女、是與,咸取女之義,初無分別,甚者則以為少女嫁長男,是卦之名義不能復古四也。
卦名の取る義理は、彼此重複して衝犯することなし:咸卦は男家の女を娶る(「取女」)、漸卦は女家の女を嫁がす、恒卦は夫婦家室を成す、帰妹は兄たる者が妹を嫁がしむるなり。然るに解説する人は帰妹をも亦嫁女・「与」(女を送る)と講じ、咸卦の「取女」の義と毫も分別なからしむ。甚だしきは、帰妹は少女の長男に嫁ぐと説く。これ卦の名義の復古能わざること、其の四なり。
伏羲之時,占法簡易,故孔子曰“八卦定吉凶”,蓋比之於今之析草擲荊亦足以定吉凶得失。及為六十四卦變為三百八十四爻亦已多矣,而或以為一卦可變為六十四卦,則失之於繁,非簡《易》之道,雖漢儒有此例,然文王、周公之法本不如是,是卦變之法不能復古五也。
伏羲のあの時代は占法簡単なり、故に孔子は「八卦吉凶を定む」と曰えり。これは譬へば今の民間の草を折り・荊片を擲てて問卜するが如く、同じく足りて吉凶得失を判定す。推して六十四卦と為し・変じて三百八十四爻と為るに至れば、已に多しと算すべし。然るに或る人は竟に一卦より変出して六十四卦と為し得ると為す、これは繁瑣に失し、簡易の道に合わず。漢代の儒者にこの種の例法あるといえども、文王・周公の筮法は本來この様にあらず。これ卦変の法の復古能わざること、其の五なり。
燧人氏始修火利,未必遽有鼎也,火食既興,邑居既成,而後有井以養。而今之說者謂井、鼎名卦,古已有之,非始於文王,是卦名不能復古六也。《易》卦有自然之數,皆與《河圖》、《洛書》相通,而說者以《易》起於《河圖》,《範》起於《洛書》,執泥特甚,是《易》數之原不能復古七也。
燧人氏始めて火の利を興起せる時、あの時未だ必ずしも即座に鼎の器物あるにあらず。熟食の風興起し・城邑聚落形成するに及び、此の後に方に水井ありて居民を供養す。然るに今解説の人は偏に井・鼎両卦の名称は古已に之ありて、文王より始めて命名せるにあらずと説く。これ卦名の復古能わざること、其の六なり。《易》卦は自ら天然の数あり、皆《河図》《洛書》と相通ず。解説の人は却って硬く《周易》はただ《河図》より出・《洪範》はただ《洛書》より出と説き、拘泥すること太だ甚し。これ《易》数の本原の復古能わざること、其の七なり。
文王、周公之辭簡奧深宻,孔子懼久而學者不能明,乃作十翼以推衍其義,蓋與前聖互相補足,其或說理甚詳,是亦推致未盡之象,非與文王、周公異旨,而世之說者未能體會為一,遂以夫子所說與文王、周公不同,是《易》之辭義不能復古八也。占中有象,象中有占,象有未盡者,因占辭以補其缺。近世學者雖知分別象占,而不知占中實有未盡之象,是《易》之占辭不能復古九也。
文王・周公の繫げたる卦爻辞は、簡約深奥にして縝密なり。孔子は年代久しきに及ばば学者読み明らかにし得ざらんことを怕れ、始めて《十翼》を作して其中の義理を推衍せり、これは元より前代の聖人と互いに補足するなり。《十翼》に説理詳尽なる所有るも、是れ亦卦爻辞の未だ説き尽さざる象を推究し出だしたるのみ、文王・周公と另に宗旨を立てたるにあらず。而して世上解説の人は両者を一体に体会し得ず、ここにおいて孔子の講ずる所は文王・周公と同じからずと説く。これ《易》の辞義の復古能わざること、其の八なり。占辞の裏には象を含み、象の裏にも亦占を含む。象に説き尽さざるあれば、占辞に靠りて其の缺を補う。近世の学者は象と占とを分かちて看ることを懂得するといえども、占辞の裏に実に未だ説き尽さざる象を蔵することを知らず。これ《易》の占辞の復古能わざること、其の九なり。
卦用七八,爻用九六,自杜氏注春秋,有雜用《連山》、《歸藏》、《周易》三易,皆以七八為占之說,而晦庵《啟蒙》頗因之,是蓍法不能復古十也。春秋占法至為精妙,去古既逺,易道雖晦,然猶有此以見古法之精。而世之學者例以左氏為妄誕不之信,是占法不能復古十一也。
不変の爻は七・八を用い、可変の爻は九・六を用う。杜預の《春秋》に注して、筮の時《連山》《帰蔵》《周易》三種の易書を雑用し・皆七・八を以て占と為すの説を提出して以来、朱熹《易学啓蒙》はまた頗ろ之に沿うて用いり。これ蓍法の復古能わざること、其の十なり。《春秋》の載する占法は極めて精妙にして、古代に距ること已に遠く・易道晦暗なるといえども、尚おこれらの筮例に靠りて古法の精を窺見す。而して世上の学者は一概に左氏の記する所を荒誕と看作して肯んじ信ぜず。これ占法の復古能わざること、其の十一なり。
六十四卦上下經序次條理秩然,夫子本文之外,又得先儒推究,十有八象三十六宮,既以發其隱秘,而序次之妙,推尋猶有未盡者。而先儒或謂非《易》之蘊,晦庵以為是《易》之蘊,而非其精,是《序卦》之義未能復古十二也。
六十四卦の上下経に分列するは、次序条理井然なり。孔子《序卦伝》本文の外、また前輩儒者の推究ありて、十八象・三十六宮の説を得たり、已に其中の隠秘を幾分か掲示せり。然れども排列次序の妙は、推求するに未だ窮尽せざる処あり。然るに前輩儒者の中に或る人ありて《序卦》は《周易》の精蘊に非ずと説き、朱熹は則ち之を《周易》の蘊含なりとは認めど、其中の精微には非ずと為す。これ《序卦》の義の未だ復古せざること、其の十二なり。
文王、周公本文脫誤者少,縱有脫誤,當闕其疑。自胡安定改“鴻漸于逵”以來,晦庵於鼎卦用鄭玄說,訓渥為剭,於升卦改順為慎,於無妄以為無望,此類不一,是脫誤疑字未能復古十三也。
文王・周公の繫げたる本文は、脱漏訛誤の処甚だ少なし。縦ひ脱誤あるも、亦当に可疑の処を空きて存疑すべし。胡瑗(世に安定先生と称す)が漸卦上九の「鴻漸于陸」を改めて「鴻漸于逵」と為して以来、朱熹は鼎卦に於て鄭玄の説を採用して「渥」を「剭」(重刑)に訓じ、升卦に於て「順」を改めて「慎」と為し、无妄卦に於ては「无妄」は当に「无望」と作るべしと為す。この類の改字は一処に止まらず。これ脱漏訛誤の疑字の未だ復古せざること、其の十三なり。
凡此十有三者,特義理、文字之間而其未能復古者,已如此況,象學之微妙曠失既久,非刳心滌慮、天開其愚、神啟其秘,孰能與於此乎?其十三事,雖與象學無與,但關渉甚大,非可言盡,今卷中亦畧見其說焉。
以上の十三件は、不過義理・文字方面の事なり。然るに未だ古法を回復せざるの情形已に此の如し。何况象学は精微奥妙・失伝已久、心胸を剖開し・雑念を洗浄し、上天其の愚昧を開き・神霊其の秘蔵を啓するを得るに非ざれば、誰か能くこの門の学問の裏に参与せんや。此の十三件は象学と直接の関係なきといえども、牽渉極めて大にして、三言両語に説き尽し得べきにあらず。今この一巻の裏にも亦略微我が看法の一點を露出せり。
重卦貞悔と蓍占の法
伏羲始畫八卦時,已用之決吉凶,故大傳曰:“八卦定吉凶”。其時事簡,故不容尚煩。及稍欲求詳,始用重卦,故謂之貞悔。言三畫可矣,又以為未足,故更用三畫,謂之貞者言是正法,謂之悔者言其過也。貞悔之後又有變卦,則以本卦為貞,支卦為悔。占筮至此極矣!貞屯、悔豫又是一例。
伏羲剛に八卦を画出せる時、就已に之を拿て吉凶を決断せり、それゆれ《繋辞伝》に「八卦定吉凶」と説く。あの時人事は簡単にして、繁瑣を容れず。等到稍微詳密を要求するに到りて、才ただ開始両卦を相重ね、ここにおいて「貞」「悔」の称あり:本来三画一卦已に用に足りしも、又之を足ならずと覚え、それゆれ再加三画す。「貞」と叫做するは、説く所は它是正体・正法、「悔」と叫做するは、説く所は它是過位・変動の那一辺なり。貞悔の分ある以後、又有りて変卦、ここにおいて本卦を「貞」と為し・変出の那一卦を「悔」と為す。占筮の法は此処に到りて便ち頭に到るなり。《国語》の記する晋公子重耳「貞屯・悔豫」の筮例は、又是這一類の例子なり。
晦庵云,一朋友說有八卦之金木水火土,有五行之金木水火土。如乾為金,八卦之金也;兌之金,五行之金也;巽為木,卦中取象也;震為木,乃東方屬木,五行之木也。
朱熹曰く:ある友の講ずるに、金木水火土に両套あり、一套は八卦に属し、一套は五行に属す。比へば乾の金為るは、是れ八卦上の金。兌の金は、是れ五行上の金。巽の木為るは、是れ卦中に取るの象。震の木為るは、則ち震の東方に居り・東方は木に属するを以て、是れ五行上の木なりと。
澤謂乾為金,是以氣類推之,則金管屬乾,以其剛耳。若《易》中只是以乾為天,不曽說金,其陽爻陽位取義於金者,亦是取其剛,初非以有乾。故兌雖當為金,但《易》卦中只說澤,而未有以為金者。震當為木,然《易》中說木,乃是指意,非以震故。此不可不知。或人之說,雖非背理,然說《易》惟要精淨,不可混雜。澤嘗有詩云:“井困乾枯乾有水”,有一朋友雲以乾為金能生水,理非不通,但淺陋耳。
我が認むる所は:乾の金為ると説くは、気の類別に按じて推し出せるなり——金の一路は皆乾に帰す、ただ金性の剛健なるに因るのみ。若し《周易》本文に就いて論ぜば、ただ乾を天と当作すのみ、従来かつて乾は金なりと説かず。それら陽爻陽位に於て金に義を取るも、亦其の剛健の義を取るに過ぎず、起初乾卦の有るに因るにあらず。故に兌は五行に按じて金に属すべしといえども、《易》の卦象の裏にはただ沢と説き、兌を金と説くことなし。震は五行に按じて木に属すべし、然れども《易》中に木と説くは、乃ち意義上に就て指點するにして、震の縁故に因るにあらず。この一層は知らざるべからず。あの友の説法は道理に違背せずと算すといえども、《周易》を解説するはただ精純潔浄を求め、摻雑すべからず。我曾て詩句ありて「井困乾枯乾に水あり」と曰う。ある友の解釈して曰く、これは乾の金に属して金能く水を生ずるに因ると——この話は講じて通ぜざるにあらずといえども、ただ浅陋なるのみ。
春秋傳占法,卻只於《易》,無此之失。一卦用七八,又用九六,故《周易》每爻必係以九六者,為此也。若如杜氏說,雜用《連山》、《歸藏》之易,皆以七八為占,此恐非是。若如此,則是占者無定法。既已得卦,卻臨時兼用七八為占,是占無定據矣。晦庵《本義》遇艮之八,只當占艮六二,亦是不據六二而以七八為占。夫爻謂之六二,而乃以八為占,恐非筮法,愚不能明,終未敢從也。
《春秋》内外伝の記する占法は、却ってただ《周易》一書に依りて、この種の毛病なし。一卦の中に既に七・八(不変の爻)を用い、又九・六(可変の爻)を用う。《周易》は每爻に必ず「九」「六」の名を冠すは、正に此の為なり。若し杜預の説く所に照らして、筮時に《連山》《帰蔵》両種の易書を雑用し・一概に七・八を以て占と為さば、恐怕併に対ならず。倘も真に此の如くならば、あの占筮の人には一定の法度なからん:卦既に得たりて、臨時また兼ねて七・八を取りて断ずれば、是れ即ち占断に確定の依据なきなり。朱熹《周易本義》の「遇艮之八」に講じ及ぶに、ただ艮卦の六二爻を占すべしと説く、これも亦六二の爻辞に依らずして、八を拿て占と作るなり。既にあの爻を「六二」と叫做するに、却又「八」を用いて之を占するは、恐怕筮法に合わず。我は愚鈍にして明白にし得ず、終究敢えて跟従せず。
《周易》占變爻之法,《繫辭》中不見,獨《春秋》內外傳有十數處,然大抵古法難以盡曉。如艮之八、泰之八、貞屯悔豫皆八,最為可疑。《啟蒙》雖頗具其說,誠恐非古法也。
《周易》の変爻を占断する方法は、《繋辞伝》の裏に記載を見ず、唯独《左伝》《国語》の中に十数処の筮例あり。然るに古法は大体已に完全に明白にし難し。「艮之八」「泰之八」「貞屯悔豫皆八」この数条の如きは、最も人をして疑を生ぜしむ。朱熹《易学啓蒙》は説法を頗ろ完備に講ずるといえども、実に恐怕古法に非ざらん。
獨《啟蒙》三爻變則占本卦及之卦之彖辭,而以本卦為貞、之卦為悔,前十卦主貞、後十卦主悔,又引沙隨程氏曰“晉公子重耳筮得國,遇貞屯、悔豫皆八,蓋初與四五凡三爻變也。初與五用九變,四用六變,其不變者二、三、上,皆兩卦皆為八故。”而司空季子占之曰:皆利建侯。
単に《啓蒙》のこの一条を説かば:三爻変ずれば、則ち本卦と変出の卦との卦辞を占し、併せて本卦を「貞」・変卦を「悔」と為し、六十四卦中の前十卦は貞を主とし・後十卦は悔を主とす。它又沙随人程迥の話を引きて曰く:晋の公子重耳が国を得べきやを占問して「貞屯・悔豫皆八」に遇えり。是れ初爻と四・五爻の共に三爻変ずるなり。初爻と五爻は九に遇いて変じ、四爻は六に遇いて変じ、変ぜざる二・三・上の三爻は、屯・豫両卦の裏に於て皆八を得たり、故にこの様に説くと。ここにおいて司空季子は彼に占断して曰く、屯・豫両卦は皆「建侯に利あり」と。
據澤管見,恐程說實可疑。蓋三爻遇九六、三爻遇八,即是一卦之中,三爻變了,若依《啟蒙》法當云“遇屯之豫”,其不變者在所不必道,固已不當稱八,又安得稱貞悔皆八乎?且七、八皆不用,之爻獨不聞說七,何也?豈有之而偶不載邪?是亦可疑矣。
我が浅見に依れば、恐怕程迥のこの説法は実に可疑なり。既に三爻は九六に遇い・三爻は八に遇えば、則ち一卦の中に三爻変じたるなり。《啓蒙》の体例に照らせば、本当に「遇屯之豫」と説成すべきにして、それら変ぜざる爻は根本提起するを要せず、元より八と称すべからず、又た怎んぞ「貞悔皆八」と説かんや。再び言えば、七と八とは皆不変の爻に属す、何を以て筮例の裏にただ八を説くを聴見して、従来七を説くを見ざるや。豈に曾て有りて恰巧記下来せざりしか。これも亦可疑の処なり。
《啟蒙》又云:四爻變,則以本卦二不變爻占,仍以下爻為主,曰經傳無文,今以例推之當如此。又曰五爻變,則以本卦不變爻占,引穆姜往東宮筮,遇艮之八,史曰:是謂艮之隨。蓋五爻皆變,唯二得八,故不變也。法宜以“係小子,失丈夫”為占,大畧如此。
《啓蒙》又曰く:四爻変ずれば、則ち本卦中の両個不変の爻を用いて占し、併せて下に在るの那一爻を主とす。還た経伝の裏に明文なく、今体例に按じて推すに応当に此の如しと曰う。又曰く:五爻変ずれば、則ち本卦中のあの個不変の爻を用いて占し、併せて魯国の穆姜が東宮に遷る時の占筮・「艮之八」に遇えりしを引きて証と為す——太史曰く「これを艮之随と曰う」、是れ五爻皆変じて、ただ第二爻のみ八を得、故に変ぜず、法に按じて応当に随卦六二の爻辞「小子に繫ぐ、丈夫を失う」を拿て占すべし。其の大略は則ち此の様なり。
澤以為《周易》每爻皆稱九、稱六者,所以見遇九、遇六而後可用其爻之辭占,今若用占不變爻,則是兼用七、八矣,非經九、六之意也。但蓍法雖頗存,而變爻之法亦已闕矣,民間決疑又不可廢,故世俗相傳,因仍訛謬,以求變卦。若如《啟蒙》,則有條理可用,但若便以此為定法,不復加考索之功,則不可爾。
我が認むる所は:《周易》は每爻に「九」を称し「六」を称するは、正に九に遇い・六に遇いて、然る後に乃ちあの一爻の爻辞を用いて占すべきことを表明せんとするなり。今若し不変の爻を拿て占せんか、則ち等しく七と八とを兼用するなり、経文の九・六を標出するの本意に合わず。但し揲蓍の法は大体尚お保存するといえども、変爻の法は已に残缺せり。而して民間は事に遇い疑を決するに它なき能わず、故に世俗は輾転相伝して、錯を将にして錯に就き、此に凭りて変卦を求取す。若し《啓蒙》の弁法に照らせば、倒れて還た条理ありて依用すべし。ただ若し則ち之を定法と当成して、再び考索の功夫を下さざれば、則ち行はざるなり。
澤嘗自謂:澤之學如立的以射,立的既髙且逺,故難為功。然至於卦變之法,求之四十餘年,無所不用其思,而猶未敢確然獨有所主,倘欲於此決擇,當俟理熟,必更加數年,而後可焉。
我曾て此の様に自己を説く:我の学問を做るは好比箭靶を立てて箭を射るが如く、靶子は立てること又高く又遠し、故に功を見ること難し。卦変の法に至っては、我探求すること四十余年、凡そ想到し得るは皆想い過せども、却って仍お敢えて斬釘截鉄に自立一説せず。倘若此の上頭に於て取舍決断を作出さば、還た義理の心に爛熟するを待ち、必ず再加幾年の功夫を要し、然る後に乃ち行はれん。
朱子《繫辭》本義云:第九章言天地大衍之數、揲蓍求卦之法,然亦畧耳,意其詳具於太卜、筮人之官,而今不可考爾。其可推者,《啟蒙》備言之。由此而言,則晦庵亦已知揲蓍求卦之法不完其作,《啟蒙》亦隨所見,以備一法,讀者於此當知立言之意雲。
朱熹《周易本義》の《繋辞》を解して曰く:第九章は天地の数・大衍の数と揲蓍求卦の法を講ず、然れども亦只だ個大略を説くのみ。想来詳細の儀節は本来太卜・筮人これらの職官の所に具備せり、如今已に考証に従るなし。其中推求し得べきは、《啓蒙》の裏に皆講じ尽せり。この話に照らして看れば、朱熹自己も亦已に揲蓍求卦の法の併に完備ならざるを知れり。彼が《啓蒙》を写すも、亦不过是自ら見る所に就きて、姑且に一套の弁法を備下せるのみ。読者は此処に読み到りて、応当に彼の立言の用意を明白すべし。
