Libo

巻六・中 動植飛走の類

宋 · 张行成 · 第3巻 / 4

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

鷹鵰之類食生,而雞之類不專食生。虎豹之類食生,而貓犬之類食生又食穀,以類推之,從可知矣。馬牛皆陰類,細分之則馬為陽而牛為陰。飛之類喜風而敏於飛上,走之類喜土而利於走下。禽蟲之卵,果穀之類也,穀之類多子,蟲之類亦然。蠶之類,今歲蛾而子,來歲則子而蠶。蕪菁之類,今歲根而苗,來歲則苗而子,此皆一歲之物也。

鷹と雕の一類はただ活物を食い、鶏の一類は専ら活物を食わず。虎と豹の一類はただ活物を食い、猫狗の一類はすでに活物を食いまた穀子を食う。この弁法に照らして類推すれば、その余もまたすなわち知りうる。馬と牛とは皆陰類に属し、再び細分すれば則ち馬は陽に属し牛は陰に属す。能く飛ぶ一類は風を喜び、上に向かって飛ぶに善し。能く走る一類は土を喜び、下に向かって走るに便なり。禽鳥と昆虫の産む所の卵は、まさに草木の果実と穀粒に相當す。穀子の一類は子を結ぶこと多く、虫子の一類もまたこのごとし。蚕のこの一類は、今年は蛾にして卵を産み、明年は卵にして蚕を成す。蕪菁のこの一類は、今年は根より苗を生じ、明年は苗より子を結ぶ——これらは皆一年を以て一世と為す物である。

天之氣運北而南則治,南而北則亂,亂久則復北而南矣,天道人事皆然,推之歷代,可見消長之理也。在水者不瞑,在風者瞑。走之類上睫接下,飛之類下睫接上,類使之然也。在水而鱗,飛之類也,龜獺之類,走之類也。

天の気運が北より南に向かって推移すれば、天下はすなわち太平す。南より北に向かって推移すれば、天下はすなわち動乱す。乱れて久しければまた転じて北より南に向かうに帰る。天道と人事とは皆このごとし——歴代の興衰を拿って印证すれば、消長の道理はすなわち看清さる。水裏に生ずるは睡る時に眼を合わせず、風中に生ずるは睡る時に眼を合わすを要す。能く走る一類は上眼睫が下眼睫に接し、能く飛ぶ一類は下眼睫が上眼睫に接す——皆物類がそれをこのようにせしめた。水裏に生じて鱗甲あるは、実は飛の一類に属す。烏亀・水獺の一類は、実は走の一類に属す。

夫四象,若錯綜而用之,日月天之陰陽,水火地之陰陽,星辰天之剛柔,土石地之剛柔。飛之走,雞鳧之類是也,走之飛,龍馬之屬是也。陽主舒長,陰主慘急,日入盈度,陰從於陽。日入縮度,陽從於陰。

四象はもし交錯綜合して運用せば:日と月とは天の陰陽で、水と火とは地の陰陽で、星と辰とは天の剛柔で、土と石とは地の剛柔である。飛類に属して走に近きは、鶏と野鴨の一類がすなわちこれ。走類に属して飛に近きは、竜と馬の一類がすなわちこれ。陽は舒展生長を主り、陰は凄緊急促を主る。太陽が盈の度数に進入する時には、陰はすなわち陽に順従す。太陽が縮の度数に進入する時には、陽はすなわち陰に順従す。

神者人之主,將寐在脾,熟寐在腎,將寤在肝,正寤在心。天地之大寤在夏,人之神則存於心。水之族以陰為主,陽次之,陸之類以陽為主,陰次之,故水類出水則死,風類入水則死。然有出入之類,龜蟹鵝鳧之類是也。

神は人の主宰である:まさに入睡せんとする時に神は脾に在り、睡り熟する時に神は腎に在り、まさに醒めんとする時に神は肝に在り、完全に醒める時に神は心に在る。天地の最大の清醒は夏に在りて、人の神は則ち常に心裏に存す。水中の族類は陰を以て主と為して陽は其次に居り、陸上の族類は陽を以て主と為して陰は其次に居る。だから水族は水を出ればすなわち死し、風族は水に入ればまた死す。ただしも水陆出入の両便なるあり——烏亀・螃蟹・鵞・野鴨の一類がすなわちこれ。

天地之交十之三。天火無體之火也,地火有體之火也。火無體,因物以為體。金石之火烈於草木之火者,因物而然也。氣形盛則魂魄盛,氣形衰則魂魄亦從而衰矣。魂隨氣而變,魄隨形而止,故形在則魄存,形化則魄散。

天と地とが相交ずる分数は十分の三を占む。天上の火は形体なき火で、地上の火は形体ある火である。火はもともと体なく、外物を憑借してはじめてその体を成す。金石の打出す火は草木の焼出す火よりも更に猛烈なるは、まさに憑借する所の物が同じからざるがゆえに。気と形とが旺盛なれば、魂と魄ともまた旺盛なり。気と形とが衰竭すれば、魂と魄ともまた随いて衰竭す。魂は気に随いて変動し、魄は形に随いて止息す。だから形体がなお在れば魄はすなわち存留し、形体が化去すれば魄はすなわち消散す。

星為日餘,辰為月餘。星之至微如沙塵者,隕而為堆阜。藏者天行也,府者地行也,天地並行則配為八卦。八卦相錯者,相交錯而成六十四卦也。夫易,根於乾坤而生於姤復,蓋剛交柔而為復,柔交剛而為姤,自茲而無窮矣。

星は太陽の余気で、辰は月亮の余気である。星の裏の極めて細微にして沙塵のごときは、墜落して下ればすなわち堆りて丘阜と成る。五臓は天の運行に属し、六腑は地の運行に属す。天地は並行して悖らざるがゆえに、臓腑は相配してすなわち八卦に対応す。いわゆる「八卦相錯」とは、八卦が彼此交錯して六十四卦と成るを言う。《易》の根柢は乾坤に在りて、生発は姤と復とに在る:剛が柔に交入すればすなわち復卦と成り、柔が剛に交入すればすなわち姤卦と成り——ここより推衍して下ればすなわち窮尽なし。

龍能大能小,然亦有制之者,受制於陰陽之氣,得時則能變化,變變則不能也。一歲之閏六陰六陽,三年三十六日,故三年一閏。五年六十日,故五歲再閏。先天圖中,環中也。月體本黑,受日之光而白。水在人之身為血,土在人之身為肉。

竜は能く大きくも為り能く小さくも為るも、しかしまたそれを制服する物あり——それは総じて陰陽の気の節制を受く。時令を得着すればすなわち能く変化し、時令が当たらざればすなわち変じ成らず。一年の閏余は六陰六陽の共に十二日で、三年に積りて三十六日と成るので、三年に一個の閏月を安ず。五年に積りて六十日と成るので、五年の内に要して再び一個の閏月を安ず。先天図の要処は全く正中のあの一点に在り——すなわちいわゆる「環中」である。月亮の本体はもとは黒く、日光の照射を受けてはじめて白色を顕出す。水は人の身上に於いて血に化し、土は人の身上に於いて肉に化す。

膽與腎同陰,心與脾同陽,心主目,脾主鼻。陽中陽日也,陽中陰月也,陰中陽星也,陰中陰辰也。柔中柔水也,柔中剛火也,剛中柔土也,剛中剛石也。鼻之氣目見之,口之言耳聞之,以類應也。

胆と腎とは同じく陰に属し、心と脾とは同じく陽に属す。心は眼を主管し、脾は鼻を主管す。陽中の陽は日、陽中の陰は月、陰中の陽は星、陰中の陰は辰である。柔中の柔は水、柔中の剛は火、剛中の柔は土、剛中の剛は石である。鼻裏の呼出す気は眼睛が見え、口裏の説出す話は耳朶が聴こゆ——皆同類相応の緣故である。

倚蓋之說,崑崙四垂而為海,推之理則不然,夫地直方而靜,豈得如圓動之天乎?動物自首生,植物自根生,自首生命在首,自根生命在根。海潮者,地之喘息也,所以應月者,從其類也。震為龍,一陽動於二陰之下,震也,重淵之下有動物者,豈非龍乎?

一種の「倚蓋」の説法ありて、崑崙山が四面に下垂して海と成ると為すも、道理に按って推究すればしかしこのようにならず:地はもと方正にして安静なれば、どうしてあの円転運動する天のごとくであろうか?動物は頭より生じ始め、植物は根より生じ始む。頭より生ずるは、性命はすなわち頭上に係る。根より生ずるは、性命はすなわち根上に係る。海潮は大地の喘息で、それが月と相応ずる所以は、同じく一類に属するがゆえに。震卦は象を竜に取り、一陽が両陰の下に鼓動す——まさに震の卦形である。深々たる重淵の底下に能く動く物あり——あれは竜ではないか?

風類水類,大小相反。天之陽在東南,日月居之。地之陰在西北,火石居之。起震終艮一節,明文王八卦也。天地定位一節,明伏羲八卦也。八卦相錯者,明交錯而成六十四也。數往者順,若順天而行,是左旋也,皆已生之卦也,故云數往也。知來者逆,若逆天而行,是右旋也,皆未生之卦也,故云知來也。夫易之數,由逆而成矣。

風の一類と水の一類とは、大小がちょうど相反す。天の陽は東南に在るので、日月はあそこに居る。地の陰は西北に在るので、火と石とはあそこに居る。《説卦》の裏の「帝は震より出で……艮に於いて言を成す」のあの一節は、講ずる所は文王八卦である。「天地位を定む」のあの一節は、講ずる所は伏羲八卦である。「八卦相錯」と言うは、八卦が交錯して六十四卦と成るを講ず。「往く者を数うるは順なり」は、天に順いて行くで、すなわち左旋で、指す所は皆すでに生成した卦なので、「往を数う」と言う。「来たる者を知るは逆なり」は、天に逆いて行くで、すなわち右旋で、指す所は皆まだ生成せざる卦なので、「来を知る」と言う。《易》の数は、まさに逆推の裏より成立する。

巻六・下 卦象蔵府と経伝雑釈

堯典三百六旬有六日,夫日之餘盈也六,則月之餘盈也亦六,若去日月之餘十二,則有三百五十四,乃日行之數,以十二除之,則得二十九日。

《尚書・尭典》は一年を三百六十六日と言う。太陽の一辺の盈余は六日なれば、月亮の一辺の盈余もまた六日である。もし日月両辺の余数の共に十二日を皆減去せば、すなわち三百五十四日を剩し——これは日行の得る所の数である。十二を拿って除すれば、毎月にすなわち二十九日を得る。

素問肺主皮毛,心脈,脾肉,肝筋,腎骨,上而下,外而內也。心血腎骨交法也,交即用也。乾為天之類,本象也。為金之類,別象也。天地並行則藏府配,四藏天也,四府地也。

《素問》に言う:肺は皮毛を主り、心は血脈を主り、脾は肌肉を主り、肝は筋を主り、腎は骨を主る。これは上より下へ・外より内へと排下来たる次第である。心は血に配し腎は骨に配するは、用いる所は交互に取法する弁法で、いわゆる「交」はすなわち「用」である。乾が象を天の一類に取るは、それの本象である。象を金の一類に取るは、それの別象である。天と地とが並行して悖らざれば、臓と腑とはすなわち相配す:四臓は天に属し、四腑は地に属す。

乾奇也,陽也,健也,故天下之健莫如天。坤耦也,陰也,順也,故天下之順莫如地,所以順天也。震起也,一陽起也,起動也,故天下之動莫如雷。坎陷也,一陽陷於二陰,陷下也,故天下之下莫如水。艮止也,一陽於是而止也,故天下之止莫如山。巽入也,一陰入二陽之下,故天下之入莫如風。離麗也,一陰離於二陽,其卦錯,然成文而華麗也,故天下之麗莫如火,又如附麗之麗。兌說也,一陰出於外而說於物,故天下之說莫如澤。

乾は奇画にして、陽に属し、性は剛健なので、天下の最も剛健なるは天に過ぐるなし。坤は偶画にして、陰に属し、性は柔順なので、天下の最も柔順なるは地に過ぐるなし——それはまさに天に順承する。震は「起」で、一陽が下に起こり、起とはすなわち動なので、天下の最も動に善きは雷に過ぐるなし。坎は「陥」で、一陽が両陰の中に陥落し、陥とはすなわち下に往くなので、天下の最も下に往くは水に過ぐるなし。艮は「止」で、一陽がここに到ればすなわち停住したので、天下の最も能く止住するは山に過ぐるなし。巽は「入」で、一陰が両陽の下に鑚入するので、天下の最も深入に善きは風に過ぐるなし。離は「麗」で、一陰が両陽の間に附麗し、卦画が交錯相間して因りて文を成して華美を顕すので、天下の最も華麗なるは火に過ぐるなし——「麗」の字はまた兼ねて附着の意を取る。兌は「説」で、一陰が外に透露して万物を欣悦せしむるので、天下の最も能く人を欣悦せしむるは沢に過ぐるなし。

火內暗而外明,故離陽在外,火之用,用外也。水外暗而內明,故坎陽在內,水之用,用內也。人寓形於走類者何也,走類者,地之長子也。自泰至否,其間則有蠱矣。自否至泰,其間則有隨矣.

火は裏面が暗にして外面が明なので、離卦の陽爻は外に在り——火の功用は外に向かって発する。水は外面が暗にして裏面が明なので、坎卦の陽爻は内に在り——水の功用は内に向かって蔵する。人はなぜ形体を走獣のこの一類の裏に寄托するか?走獣は地の生じた長子なるがゆえに。泰卦より否卦に推すには、中間に必ず蠱卦を経るを要す。否卦より泰卦に推し回るには、中間に必ず随卦を経るを要す。

天有五辰,日月星辰與天為五。地有五行,金木水火與土為五。有溫泉而無寒火,陰能從陽而陽不能從陰也。有雷則有電,有電則有風,雨生於水,露生於土,雷生於石,電生於火,雷與風同為陽之極,故有電必有風。木之堅非雷不能震,草之柔非露不能潤。

天に五辰あり:日・月・星・辰に再び天本身を連ねて共に五と成す。地に五行あり:金・木・水・火に再び土を連ねて共に五と成す。世上に温泉あって寒火なし——見れば陰は能く陽に順従して陽は能く陰に順従せず。雷あればすなわち電あり、電あればすなわち風あり。雨は水より生じ、露は土より生じ、雷は石より生じ、電は火より生ず。雷と風とは同じく陽が極処に至った産物なので、電あれば必ず風あり。木質は堅硬にして、雷にあらざればすなわちそれを震動かさず。草性は柔弱にして、露にあらざればすなわちそれを潤して透らず。

巻七 道の体用と元亨利貞

陽尊而神,尊故役物,神故藏用,是以道生天地萬物而不自見也,天地萬物亦取法乎道矣。陽者道之用,陰者道之體,陽用陰,陰用陽,以陽為用則尊陰,以陰為用則尊陽也。

陽はすでに尊貴にしてまた神妙である:尊貴なるがゆえに、能く万物を役使す。神妙なるがゆえに、功用を蔵して形迹を露さず。ちょうど「道」が天地万物を生成して自己は並びに顕現せず、天地万物はしかし皆道に取法するがごとし。陽は道の功用で、陰は道の本体である。陽は陰を用いるを要し、陰もまた陽を用いるを要す。陽を以て用と為す時にはすなわち陰を尊崇し、陰を以て用と為す時にはすなわち陽を尊崇す。

陰幾於道,故以況道也。六變而成三十六矣,八變而成六十四矣,十二變而成三百八十四矣,六六而變之,八八六十四變而成三百八十四矣,八八而變之,七七四十九變而成三百八十四矣。

陰は道に近きがゆえに、それを拿って道を比況す。六変して三十六と成り、八変して六十四と成り、十二変して三百八十四と成る。もし六六を以て相推せば、則ち八八六十四変して三百八十四と成る。もし八八を以て相推せば、則ち七七四十九変して三百八十四と成る——路径は同じからざれど帰する所は一致す。

無極之前陰含陽也,有象之後陽分陰也,陰為陽之母,陽為陰之父,故母孕長男而為復,父生長女而為姤,是以陽起於復而陰起於姤也。性非體不成,體非性不生,陽以陰為體,陰以陽為體,動者性也,靜者體也。在天則陽動而陰靜,在地則陽靜而陰動。性得體而靜,體隨性而動,是以陽舒而陰急也。

無極のまだ判れざる前には、陰が陽を包含していた。象ある已に成れる後には、陽が陰を剖分する。陰は陽の母親で、陽は陰の父親である。だから母親は長男を孕育して復卦と成り、父親は長女を生出して姤卦と成る——ここを以て陽は復卦より起こり、陰は姤卦より起こる。性は体なくんばすなわち成立しえず、体は性なくんばすなわち生発しえない。陽は陰を以て体と為し、陰もまた陽を以て体と為す。動の一面は性で、静の一面は体である。天上に在れば則ち陽は動にして陰は静、地下に在れば則ち陽は静にして陰は動。性は体を得着すればすなわち安定して下り、体は性に随えばすなわち活動して起るので、陽は舒缓にして陰は急促である。

陽不能獨立,必得陰而後立,故陽以陰為基。陰不能自見,必待陽而後見,故陰以陽為唱。陽知其始而享其成,陰效其法而終其勞。

陽は単独に立つ能わず、必ず陰を得着してそうして後に立ち得住るので、陽は陰を当作して根基と為す。陰は自ら顕現しえず、必ず陽を待ってそうして後に顕現して出るので、陰は陽を当作して領唱のと為す。陽は事の開端を知って坐してその成を享け、陰は陽の法度を仿効して到底の労苦を承当す。

陽能知而陰不能知,陽能見而陰不能見也。能知能見者為有,故陽性有而陰性無也。陽有所不遍而陰無所不遍也,陽有去而陰常居也,無不遍而常居者為實,故陽體虛而陰體實也。天地之本,其起於中乎!是以乾坤屢變而不離乎中。人居天地之中,心居人之中,日中則盛,月中則盈,故君子貴中也。本一氣也,生則為陽,消則為陰,故二者一而已矣。四者二而已矣,六者三而已矣,八者四而已矣。是以言天不言地,言君不言臣,言父不言子,言夫不言婦也。然天得地而萬物生,君得臣而萬化行,父得子,夫得婦而家道成。故有一則有二,有二則有四,有三則有六,有四則有八。

陽は能く知るも陰は能く知らず、陽は能く見るも陰は能く見ず。能く知り能く見るは「有」と算うるので、陽の性は有に属して陰の性は無に属す。陽に照顧し到らざる処あれど、陰はしかし到らざる処なし。陽に離去する時あれど、陰はしかし常住して走らず。到らざる処なくまた常住して走らざるは「実」と算うるので、陽の体は虚にして陰の体は実である。天地の根本は、おそらく「中」より発端したであろう!だから乾坤は屢々変化しても始終中を離れない。人は天地の中に処し、心は人身の中に処す。日は中天に至れば最も盛んに、月は中分に至れば最も円なるので、君子は最も一個の「中」の字を看重す。本来ただ一団の気で、生長する時にはすなわち陽と呼び、消退する時にはすなわち陰と呼ぶので、両者は実はただ一のみ。四はただ両個の二に過ぎず、六はただ両個の三に過ぎず、八はただ両個の四に過ぎない。ここを以て天を言えばすなわち地を更に言うを要せず、君を言えばすなわち臣を更に言うを要せず、父を言えばすなわち子を更に言うを要せず、夫を言えばすなわち婦を更に言うを要せず。しかれども天は地を得着してはじめて万物生じ、君は臣を得着してはじめて万化行なわれ、父は子を得着し夫は婦を得着してはじめて家道成る。だから一あればすなわち二あり、二あればすなわち四あり、三あればすなわち六あり、四あればすなわち八あり。

有意必有言,有言必有象,有象必有數,數立則像生,像生則言著彰,言著彰則意顯,像數則筌蹄也,言意則魚兔也,得魚兔而忘筌蹄可也,舍筌蹄而求魚兔,則未見其得也。

意念あれば必定に言語あるを要し、言語あれば必定に形象あるを要し、形象あれば必定に数目あるを要す。数は一たび立定すれば形象はすなわち生出し、形象が生出すれば言語はすなわち顕豁し、言語が顕豁すれば意念はすなわち明白す。形象と数とはただ魚を捕る竹笱・兎を捉る網罟に過ぎず、言語と意念とがこそあの魚と兎である。魚である。魚兎を得て笱罟を忘るるは可なり。もし笱罟を丟開して空しく魚兎を求めれば、あれは誰か能く到手するを見たことがない。

天變而人效之,故元亨利貞,易之變也。人行而天應之,故吉凶悔吝,易之應也。以元亨為變,則利貞為應,以吉凶為應,則悔吝為變。元則吉,吉則利應之,亨則凶,凶則應之以貞,悔則吉,吝則凶,是以變中有應,應中有變也。變中之應,天道也,故元為變則亨應之,利為變則應之以貞。應中之變,人事也,故變則凶,應則吉,變則吝,應則悔也。悔者吉之先,而吝者凶之本,是以君子從天不從人。

天が先に変じて人がそれを效法するので、元・亨・利・貞は《易》の「変」である。人が先に行って天が彼に回応するので、吉・凶・悔・吝は《易》の「応」である。もし元亨を当作して変と為せば、則ち利貞は応である。もし吉凶を当作して応と為せば、則ち悔吝は変である。元は吉に帰し、吉はすなわち利ありて来たりて相応ず。亨の中に凶を伏して、凶はすなわち貞を以て相応ず。悔は終に吉に帰し、吝は終に凶に帰す。だから変の裏辺に応を含み、応の裏辺に変を含む。変の裏辺の応は天道に属するので、元を変と作せば則ち亨が来たりて相応じ、利を変と作せば則ち貞を以て相応す。応の裏辺の変は人事に属するので、変ずれば則ち凶に趨き、応ずれば則ち吉に趨き、変ずれば則ち吝を成じ、応ずれば則ち悔を成す。悔は吉の先声で、吝は凶の根苗なので、君子は天に順従して人に順従せず。

元者,春也,仁也,春者時之始,仁者德之長,時則未盛而德足以長人,故言德不言時。亨者,夏也,禮也,夏者時之盛,禮者德之文,盛則必衰而文不足救之,故言時不言德。故曰。大哉乾元而上九有悔也。利者,秋也,義也,秋者時之成,義者德之方,萬物方成而獲利,義者不通於利,故言時不言德也。貞者,冬也,智也,冬者時之末,智者德之衰,貞則吉,不貞則凶,故言德而不言時也。故曰。利貞者,性情也。

「元」は春に配し、仁に配す。春は四時の開端で、仁は衆徳の首長である。この時時令はまだ興盛せざれど、徳はすでに以て人を生養するに足るので、ただ徳に就いて言うて時に就いて言わず。「亨」は夏に配し、礼に配す。夏は四時の極盛で、礼は徳の文飾である。盛んなりて極処に至れば必定に衰えんとして、文飾はそれを救いえないので、ただ時に就いて言うて徳に就いて言わず。ここを以て《文言》はすでに「大なるかな乾元」と賛嘆し、また上九に悔ありと言う。「利」は秋に配し、義に配す。秋は四時の成熟で、義は徳の方正である。万物は剛に成熟して収獲する所有れど、義はしかし利と相通ぜざるので、ただ時に就いて言うて徳に就いて言わず。「貞」は冬に配し、智に配す。冬は四時の末尾で、智は徳の衰減である。能く正を守ればすなわち吉に、正を守らざればすなわち凶なので、ただ徳に就いて言うて時に就いて言わず。ここを以て《文言》は「利貞とは、性情なり」と言う。

道生天,天生地,及其功成而身退,故子繼父禪,是以乾退一位也。象起於形,數起於質,名起於言,意起於用。天下之數出乎理,違乎理則入於術,世人以數而入術,故失於理也。

道は天を生出し、天は地を生出す。功業がすでに成れるに及べばすなわち自ら後位に退居す——まさに児子が承継して父親が禅譲するがごとし。だから後天方位の上に於いて乾は一位を退譲するを要す。象は形に由りて起こり、数は質に由りて起こり、名は言に由りて起こり、意は用に由りて起こる。天下の数は皆「理」より出づ——一たび理に背けばすなわち「術」の裏に落ち入る。世人はただ数を当作して術数に用いるので、理の上に於いて失掉了した。

天可以理盡而不可以形盡,渾天之術以形盡天,可乎?精義入神以致用也,不精義則不能入神,不能入神則不能致用。為治之道必通其變,不可以膠柱,猶春之時不可行冬之令也。

天は理を以て窮めうるも、しかし形を以て窮められない。渾天家の弁法は形体を拿って天を窮めんと欲す——行き通らんか?義理を精研して以て神妙の境に進入し、そうして後にはじめて致用を談じうる。義理を精研せざればすなわち入神できず、入神できざればすなわち致用できない。天下を治理する道理は必ず権変に通達せねばならず、琴柱に膠住するがごとく成法を死守すべからず——ちょうど春天に冬天の政令を施行しえざるがごとし。

自然而然,不得而更者,內象內數也,他皆外象外數也。天道之變,王道之權也。卦各有性有體,然皆不離乾坤之門,如萬物受性於天,而各為其性也。其在人則為人之性,在禽獸則為禽獸之性,在草木則為草木之性。

およそ自然而然にして更改するに由なきは、「内象」「内数」に属す。この外のは皆「外象」「外数」である。天道の変化は、すなわち王道が権変を行う所以の根拠である。毎一卦に各々その性あり各々その体ありて、しかし皆乾坤のこの門戶を離れず。ちょうど万物が皆天のあそこより本性を禀受して、各自に一種の性と成るがごとし:人に在ればすなわち人の性、禽獣に在ればすなわち禽獣の性、草木に在ればすなわち草木の性である。

天以氣為主,體為次。地以體為主,氣為次,在天在地者亦如之。氣則養性,性則乘氣,故氣存則性存,性動則氣動也。堯之前,先天也。堯之後,後天也。後天乃效法耳。

天は気を以て主と為して体を以て次と為し、地は体を以て主と為して気を以て次と為す。およそ天に処するのと地に処するの事物もまた、この分別に照らす。気は能く性を滋養し、性は能く気に乗駕するので、気が存すれば性はすなわち存し、性が動けば気はすなわち動く。尭以前は「先天」に属し、尭以後は「後天」に属す。後天はただ先天を效法するに過ぎない。

巻八 神と性命の学

天之象數則可得而推,如其神用則不可得而測也。自然而然者,天也,唯聖人能索之。效法者,人也,若時行時止,雖人也,亦天也。生者性,天也。成者形,地也。日入地中,交精之象。

天の象と数とはなお推算し出しうるも、それの神妙の作用に至っては、測度するに由なし。自然而然にして本自このごときは天に属し、ただ聖人のみ能くそれを探索し到る。法度を仿効して後に行くは人に属するも、しかしもし当に行くべき時には行き当に止むべき時には止めば、人より出ずるとはいえ、実はすなわち天である。万物をして生出せしむるは性で、天に属す。万物をして形を成せしむるは形で、地に属す。太陽が地中に沈入するは、まさに天地が精気を交合する形象である。

體四而變六,兼神與氣也。氣變必六,故三百六十也。凡事為之極,幾十之七則可止矣。蓋夏至之日止於六十,兼之以晨昏,分可辨色矣。庶幾乎十之七也。圖雖無文,吾終日言未嘗離乎是,蓋天地萬物之理盡在其中矣。

本体は四にして変化は六なるは、あれは神と気とを皆算え入れた。気の変化は必定に六なので、推衍して三百六十と成す。およそ事を為して一定の地步に至れば、差不多く十分の七に満たればすなわち收住すべし。夏至のあの日は日照が六十刻に止まり、再び清晨と黄昏の両段を加えて、天色はなお物色を辨出しうる——あれは差不多く十分の七である。先天図の上には一個の字もないとはいえ、我が整天講説するも従来それを離れたことなし——天地万物の道理は、全くこの一张の図の裏に包むがゆえに。

氣一而已,主之者乾也,神亦一而已,乘氣而變化,出入於有無死生之間,無方而不測者也。不知乾,無以知性命之理。時然後言,乃應變而言,言不在我也。仁配天地謂之人,唯仁者真可以謂之人矣。生而成,成而生,易之道也。

気はただ一個で、それを主宰するは乾である。神もまたただ一個で、それは気に乗って変化し、有と無・生と死の間に出入して、定所なくして測度すべからず。乾を懂得せざれば、すなわち性命の道理を懂得するに由なし。当に説話すべき時に至ってはじめて説話するは、あれは変化に順応して言を発するで、話は並びに我に由って主を為さず。能く「仁」を天地と相配するこそ人と呼ばる——ただ仁者のみ真に一個の人と称するに配す。生じてまた成り、成りてまた生ず——これがすなわち《易》の道理である。

氣者,神之宅也。體者,氣之宅也。天六地四,天以氣為質,而以神為神,地以質為質,而以氣為神,唯人兼乎萬物而為萬物之靈,如禽獸之聲,以其類而各能其一,無所不能者,人也。推之他事,亦莫不然,唯人得天地日月交之用,他類則不能也。人之生真可謂之貴矣!天地與其貴而不自貴,是悖天地之理,不祥莫大焉。

気は神の居所で、体は気の居所である。天の数は六・地の数は四。天は気を以てそれの質と為して、神を以てそれの神と為す。地は質を以てそれの質と為して、気を以てそれの神と為す。ただ独り人は万物を兼備して万物の霊と成る。譬えば禽獣の鳴叫は、各々その類に按ってただ一種を発出しうるのみ。能くする所なきなきは、ただ人のみ。別の事情の上に推してもまたこのごとならざるなし:ただ人のみ天地日月の交合する功用を得着しうるも、別の物類はすなわち能わず。人は世に生まれて真に尊貴と言うべし!天地はすでにこの份の尊貴を人に給えど、人はしかし自重せざれば、あれはすなわち天地の道理に違背して、これより更不祥なるなし。

燈之明暗之境,日月之象也。月者,日之影也。情者,性之影也。心性而膽情,性神而情鬼。心為太極,又曰道為太極。形可分,神不可分。陰事大半,蓋陽一而陰二也。

灯火に明暗の界限あるは、まさに日月の形象である。月は日の影子で、情は性の影子である。心は性に属して胆は情に属し、性は神に近くして情は鬼に近し。心はすなわち太極で、また道はすなわち太極と言う。形体は剖分すべきも、神はしかし剖分すべからず。世間の陰に属する事情は一大半を占む——陽はただ一あるのみにして陰は二あるがゆえに。

冬至之後為呼,夏至之後為吸,此天地一歲之呼吸也。以物喜物,以物悲物,此發而中節者也。不我物則能物物。任我則情,情則蔽,蔽則昏矣。因物則性,性則神,神則明矣。潛天潛地,不行而至,不為陰陽所攝者,神也。

冬至以後は天地の呼気で、夏至以後は天地の吸気である——これがすなわち天地の一年の中の一呼一吸である。物の可喜なるに因りて喜び、物の可悲なるに因りて悲しむ——これがすなわち《中庸》の言う「発して中節す」である。物を据えて我有と為さざるは、はじめて真に万物を駕馭しうる。自己の私意を任凭するは、あれは情である。情あればすなわち遮蔽あり、遮蔽あればすなわち昏暗す。物の本然に順うは、あれは性である。性を見ればすなわち神に通じ、神に通ずればすなわち明澈す。能く天に潜入し地に潜入して、行かざるも至らざるなきなく、陰陽の拘束を受けざるは、あれはすなわち神である。

天之孽,十之一猶可違。人之孽,十之九不可逭。先天之學,心也。後天之學,跡也。出入有無死生者,道也。神無所在,無所不在,至人與他心通者,以其本於一也。道與一,神之強名也。以神為神者,至言也。

上天の降下した灾孽は、十分の裏の一分はなお躱開しうる。人の自ら造出した灾孽は、十分の裏の九分は逃れられない。「先天の学」の講ずる所は心で、「後天の学」の講ずる所は迹である。能く有無死生の間に出入するは、あれは道である。神に固定の所在なく、しかしまた無くんばあらざるなし。至人の能く他人と心意相通常なる所以は、大家が本原は同一個なるに就けばなり。「道」と「一」とは、皆勉強して神に安上した名字である。直に「神を以て神と為す」と説くが、最も恰当の話である。

身地也,本靜,所以能動者,血氣使之然也。生生長類,天地成功。別生分類,聖人成能。以物觀物,性也。以我觀物,情也。性公而明,情偏而暗。陽主闢而出,陰主翕而入。

身体は地に属し、本来は静で、動きうる所以は、血気がそれをこのようにせしめた。万物をして生生して已まず種類を滋長せしむるは、天地の成就した功業である。万物を辨別して開き分門別類すは、聖人の成就した能事である。物の立場に立って物を看るは、あれは性である。我の立場に立って物を看るは、あれは情である。性は公正にして明澈し、情は偏私にして昏暗す。陽は開辟を主りて外に向かって出、陰は收斂を主りて内に向かって入る。

日在於水則生,離則死,交與不交之謂也。陰對陽為二,然陽來則生,陽去則死,天地萬物生死主於陽,則歸之於一也。神無方而性有質。發於性則見於情,發於情則見於色,以類而應也。

太陽は水裏に落ちればすなわち生じ、水を離ればすなわち死す——言う所はまさに交と不交の分別である。陰と陽とは相対して二と成るも、しかし陽は一たび来ればすなわち生じ、陽は一たび去ればすなわち死す。天地万物の生死はすでに皆陽に由りて主を為されば、然れば根柢に帰し底に帰してなおただ一のみ。神に固定の方所なく、性はしかし依るべき質地あり。性の上より発出すればすなわち情に見え、情の上より発出すればすなわち顔色に見ゆ——これは同類相応の道理である。

以天地生萬物,則以萬物為萬物。以道生天地,則天地亦萬物也。人之貴,兼乎萬物,自重而得其貴,所以能用萬類。凡人之善惡,形於言,發於行,人始得而知之。但萌諸心,發於慮,鬼神已得而知之矣。此君子所以慎獨也。氣變而形化。

天地が万物を生ずるこの一層を看れば、万物はただ万物のみ。道が天地を生ずるこの一層を看れば、天地もまたただ万物の一に過ぎない。人の貴ぶべきは、万物の理を兼備するに在り。能く自ら看重すれば、はじめて真にこの份の貴を得着し、因りて能く万類を役使す。凡人の善と悪とは、言語の上に表現し行為の上に発作して、別人ははじめて知る。しかしだた心裏に剛に萌動し念慮の中に剛に発生せば、鬼神はすでに知る。これがまさに君子が謹慎に独处する所以の緣故である。気は一たび変化すれば、形もまた随いて変化す。

人之類,備乎萬物之性。人之神則天地之神,人之自欺,所以欺天地,可不戒哉?人之畏鬼亦猶鬼之畏人,人積善而陽多,鬼亦畏之矣,積惡而陰多,鬼不畏之矣。大人者,與鬼神合其吉凶,夫何畏之有?

人のこの一類は、万物の性を具備す。人の神はすなわち天地の神である。人が自ら欺瞞するは、天地を欺瞞するに等し——どうして戒懼せざらんや?人は鬼を怕れるも、実はまたまさに鬼が人を怕れるがごとし:人が善を積めば則ち陽気多くて、鬼もまた彼を怕れ、悪を積めば則ち陰気多くて、鬼はすなわち彼を怕れず。大人に至っては、能く鬼神とその吉凶を合す——あれはまた何か怕るべきあるか?

至理之學非至誠則不至,物理之學或有所不通,不可以強通,強通則有我,有我則失理而下入於數矣。心一而不分,則能應萬物,此君子所以虛心而不動也。聖人利物而無我。明則有日月,幽則有鬼神。夫聖人六經,渾然無跡,如天道焉。春秋錄實事,而善惡形於其中矣。

最高の道理を探究する学問は、至誠の地步に至らざればすなわち家に到らず。物理の学に至っては、時に想い通らざる処ありて、強いて貫通を求むべからず。強いて貫通を求めればすなわち「我」を摻入し、「我」あればすなわち理を失掉して、下に向かって術数の裏に落ち入る。心が専一にして分散せざれば、すなわち能く万物に応付す——これがまさに君子が虚心にして妄動せざる所以である。聖人は万物に利あって私我を存せず。明処に日月が照臨し、暗処に鬼神が鑑察す。聖人の作した六経は、浑然として一体にして斧鑿の痕迹を見えず——ちょうど天道のごとし。《春秋》はただ如実に事情を記載するも、善悪は自ずからその中に顕現す。

中庸之法,自中者天也,自外者人也。韻法闢翕者律天,清濁者呂地,先閉後開者,春也。純開者,夏也。先開後閉者,秋也。冬則閉而無聲。東為春聲,陽為夏聲,此見作韻者亦有所至也。銜凡冬聲也。

《中庸》の法度:内裏より自然に中に合するは天に属し、外面より勉強に中を求むるは人に属す。音韻の法度:開口と合口の分別は「律」に属し、天に配す。清声と濁声の分別は「呂」に属し、地に配す。先に閉じて後に開くは春声で、純然として開口は夏声で、先に開きて後に閉ずるは秋声で、冬天は則ち閉合して声なし。東韻は春声で、陽韻は夏声である——これに由りて韻目を制定した人にもまたその領会あるを見る。銜・凡の両韻はすなわち冬声である。

寂然不動,反本復靜,坤之時也,感而遂通天下之故,陽動於中,間不容髮,復之義也。不見動而動,妄也。動乎否之時,是也。見動而動則為無妄,然所以有災者,陽微而無應也。有應而動則為益矣。精氣為物,形也。游魂為變,神也。又曰。精氣為物,體也。游魂為變,用也。君子之學以潤身為本,其治人應物,皆餘事也。

寂然として動かず、本原に返帰して安静に復するは、あれは坤の時節である。一たび感応あればすなわち天下の故に貫通し、陽は中間に発動して、速きこと間に髪を容れず——あれは復の意義である。動くべき迹象を見ざるに動けば、すなわち「妄」で、すなわち否塞の時に妄動するである。動くべき迹象を見てはじめて動けば、すなわち「無妄」である。しかれども無妄卦はなお旧に灾あるは、陽がなお微弱にして上頭に相応ずるなきがゆえに。もし応ありて後に動けば、あれはすなわち益卦と成る。「精気は物を為す」の講ずる所は形で、「游魂は変を為す」の講ずる所は神である。また言う:「精気は物を為す」の講ずる所は体で、「游魂は変を為す」の講ずる所は用である。君子は学問を為して自身を潤沢するを以て根本と為し、人を治理し物に応接するに至っては、皆余事である。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.

Hexagrams in this volume